笹倉明 遠い国からの殺人者  プロローグ  いやな風が吹く季節になったわ。  劇場を出て街を歩きだした渚《なぎさ》は、心の中でそんなつぶやきをこぼした。薄手のコートを羽織るようになってまだいくらも経たない秋の暮れ——、身体のどこかに空いた隙間をぬって沁《し》みわたるような風が吹く。博多湾から、そのむこうの玄界|灘《なだ》から、那珂《なか》川にそって吹き上げてくる。今年もあっという間に暮れていくんだと、わびしいような思いにひたりながら、足はいつもの店に向いた。 「おばさん、お酒ね。いつもの」  裸電球に照らされて、六十の坂を越えた女将《おかみ》が一人、言葉すくなに座っている。五人も入れば満席になる、戸や窓が格子に組まれた障子紙貼りの風流なつくりの店である。  中洲川端にあるそこへは毎日のように、といっても十日足らずの間だったが、楽屋に寝泊りする仲間の踊り子を連れて飲みにきていた。博多に来ると、渚にはそれがひとつの楽しみなのだ。仲間といってもほとんどが年下で、おねえさんと呼んで慕ってくれる娘《こ》にかぎられる。その日は、誰もが次の出演地を目ざして散っていくために、ゆっくりできる子は少ない。なかでも親しくつき合ったホワイト・レディは、明日からは鹿児島。三回目の出番を十一時にすませると、夜行列車�かいもん�に乗るために駅へ急いだ。 「明日から、またしばらくお別れね」  と、お酒を差し出した女将に渚はいった。 「お次は、どっちのほうへ行きんしゃっとね」 「名古屋よ。朝一番の飛行機で」  だから今夜は楽屋ではなく、空港ちかくのビジネス・ホテルに泊ることになっている。 「それはご苦労なこったいねえ」  女将は、眼差しに思いやりをこめて、「気いつけて行きんしゃい」  いつものおっとりとした声音でいう。 「旅には馴《な》れてるつもりだけど、何だか、このごろは億劫《おつくう》でね」  渚は、息をついて手酌した。冷たい地酒�白花�が疲れた身体にじわりとひろがっていく。  いつまで踊っていられるだろう。  四十八歳という年齢を意識して、彼女は独り思う。  ひと月余り前、長崎の劇場ではじめてのキャンセルを食らった。容色の衰えはいつのまにか身体ぜんたいにゆき渡ってしまったようだ。厚化粧で覆いかくそうとしても隠しきれるものではなく、男たちの視線に野次が混じることがある。意地悪な客のなかには、開脚《オープン》ショーにわざと視線をそらす者もいる。屈辱を味わってまで踊っていたくはないけれど、ひとり息子の貴広はまだ小学生だ。子供の世話をしてくれている母親の面倒も見なければならない。  店の女将は、母親と歳《とし》格好が同じであった。髪に白いものが目立ち、穏やかな丸顔に刻まれた皺《しわ》は人生のながい込み入った航跡を感じさせる。女将には、三年前にはじめて来たときから踊り子の境遇を話せた。北海道の炭鉱町に生まれ、落盤事故で父親が生き埋めになったのが十八のとき——、以来、手にした補償金も借金の返済に消えて路頭に迷った母親と、まだ小中学生の弟妹を支えていかねばならなかった。若い娘にできることといえば限られていた。裸踊りがいちばん稼ぎになる、と大人から知恵を授けられ、まだ男性《おとこ》も知らない身で札幌へ出た。ドサ回りの芸人を多く抱えたプロダクションに所属し、�あい渚�と名づけられ、キャバレーのフロア・ショーで初舞台を踏んだのが十九の終りころ。たいして恥ずかしいとも感じず、先輩の踊り子に教えられた振付《ふりつけ》どおりに身体をうごかすのが精一杯だった。それから、すでに三十年ちかく踊ってきたことになる。  いろんなことがあった。本当に、いろんなことが……。  渚は、思いにふけった。このごろ、お酒が入るとすぐに昔のことになる、と苦笑しながら、いくつかの男性遍歴を辿《たど》ってみる。男には苦労をさせられたと、つくづく思う。貴広が生まれて間もなく、相手の男は認知もせずに去っていった。東京にいる現在の彼にしても、旅に出ている間は何をやっているのやら。達也、と呼び捨てにする年下だけに、あまりうるさくいうのもはしたない。あんな男でも、いないよりはマシ。別れる元気もなく、さすらいより定着を求めつつある。これこそ歳をとった証拠。やはり、踊り子としての限界が近づいているのだろう。  渚は、そんなことを考えて、小さく頭を振った。肘《ひじ》を張り、肩をいからせて猪口《ちよこ》を重ねる。胸の底からやりきれなさがこみ上げて、知らずと涙が滲《にじ》んでいた。 「おにいさん、ちょっと見せてね」  そういって照明室へ上ってきたのは、ラモーナ・カンナだった。  綿谷《わたや》四郎は、右手にピン・スポットを握ったまま軽くうなずいた。  新宿スター劇場の舞台と照明室は目と鼻の先である。たったいま舞台|袖《そで》から飛び出して最初の一曲を踊りはじめたマリー・レイの表情は手にとるようにわかるし、少し大きな声を出せば言葉を交せるほどだ。  マリーの振付は、ひと頃よりずっとよくなっている。軽快なポップスにのせて巧みにステップを踏み、笑みをふりまき、レースに縁どられた深紅のドレスをひるがえして素早いターンをくり返す。若さにあふれた踊りだった。本舞台から客席へ向って突き出した花道にやって来ると、照明室とはいよいよ近くなる。 「じゃ、行くからね」  と、四角形にくりぬかれた照明室の窓から、ラモーナが声を張り上げる。「しっかり踊るんだよ」 「はあい。おねえさんも気をつけて——」  マリーが列車でも見送るように手を振り、小造りの顔を泣き笑いのようにゆがめる。と不意に、ステップを乱してバランスを崩した。 「ほらほら、しっかり踊って」  笑いを飛ばしながらラモーナは叫び、可愛い子だよ、と独りごちた。  こんどいつ会えるかわからない。半年先かもしれないし、二年後かもしれない。どこかの劇場で偶然顔を合わせて再会を喜びあうまで、それぞれ一人の旅をする。そのことが楽日の別れを少なからず感傷的なものにしているのだった。 「カンナちゃんは、明日からはどこだっけ」  綿谷は、本舞台へ去ったマリーへピン・スポットを絞りながら尋ねた。 「楽屋に幽霊が出ることで有名なところよ」  埼玉県の山奥にぽつんとあるS劇場だった。階段を上っていると、後から足首をギュッとつかまれて身動きがとれなくなったという踊り子もいる。過去に一度、楽屋泊りの踊り子が火事で焼け死んだことがあり、そのせいだというのがもっぱらの噂《うわさ》だ。 「行きたくないよ、あんなところ。ひと頃はこっちからキャンセルしてやったもんだけどね」 「昔は、踊り子が劇場を選んでいた」 「そう。そんな時代がなつかしくなっちゃ、おしまいだね」  ラモーナは、じゃ、また会うよ、と綿谷の肩をそっと叩いて背中を向けた。  真白なツーピースに身をつつんだ彼女は、三十をとうに過ぎたとはいえ、まだ充分なまぶしさを留めていた。踊りも華麗でダイナミックだ。新宿スター劇場の所属なので、三ヶ月に一度は戻ってくる。そして、十日間、一日おおむね三回、踊り子の少ない週は四回の舞台をつとめて、また旅立っていくのだ。  綿谷は、彼女に好意を抱いていた。どうにもならない恋だ。他の水商売の戒律《おきて》と同じく、照明係が踊り子といい仲になるわけにはいかない。  東北の雪深い町から出稼ぎ人に混って上京して十余年、やがて三十三歳になる。コメディアンを志し、漫才師の付人《つきびと》をしたり劇団に所属したりして成功を夢見てきたが、甘くはなかった。いまの仕事にしても、女の裸が見たくてはじめたわけではない。投光が主な仕事だが、たまには舞台に立ち、幕間に寸劇《コント》で笑いを提供できることが頑固な夢の一角を支えていた。  マリー・レイの踊りが終り、二曲目に入った。春風をテーマにしたピアノ・ソロだ。いったん退いて、淡いブルーのスリップ姿で再登場したマリーは、花道の先端にある丸舞台に寝そべった。壁のボタンを押すと、それが十センチほどの外枠を残してゆっくりと回りはじめる。周囲から視線を集めて性行為の演技《まねごと》をはじめたマリーへ、場内スポットの赤とブルーと紫を選んで投光する。照明係の仕事は、そこで一段落だ。あとはラスト・ミュージックがかかるまで、客が踊り子に手を触れたりすることがないかどうか、見張っていればよかった。  マリーは、股間に赤いマニキュアの指を伸ばし、肩と頭を支えにして身を反らす。ながい黒髪が丸舞台の縁まで乱れ散り、起伏の豊かな色白の肌がライトを吸いこんで、いかにも妖《あや》しげな雰囲気をかもした。ピアノのクライマックスにあわせ、指を震わせてのぼりつめていく。やがて、ぐったりと全身の力を抜いた。いっとき静かに息をついてから身を起こす。  次は、彼女の得意芸だ。秘部をつかって煙草を吸ってみせたり、小さな玩具のラッパを鳴らして客を驚かす。そして最後は、軽快な歌謡曲と拍手にのせられて、右へ左へ脚を開きヒールを掲げてみせる。客と戯《ざ》れあいながら三分余り、いかにも愉快げに照明係まで笑いの渦に巻きこんで過ごすと、マリーは退いた。  その後、時を移さずに飛び出した女へ最初のピン・スポットを投じた綿谷四郎は、なごりの笑いを消した。その舞台になるときまって、泡立つように起こる不快さのせいだ。マリーの舞台が天真|爛漫《らんまん》といえるものであったから、よけいに心のうちが翳《かげ》ったように感じたのかもしれない。  彫りは深いがほとんど無表情の、見事なプロポーションをした黒のアミ・タイツ姿。長い手脚をディスコ・ダンス風にうごかしながら、本舞台から花道へと進み、そして引き返す。はげしいロックにしてはおざなりの、単調な、むしろ気怠《けだる》いような動きだ。  南米、コロンビアから来た女であった。  四分余りの曲が終った。女がいったん退いて、場内は暗転した。ひと頃は、そこで何人かの客が立ってジャンケンをはじめるのが常だった。勝ちをおさめた者が舞台に上り、再び現われた女と実際の性行為をやってみせる、いわば売買春を見せ物にするショーが行なわれたものである。新しい法の下で規制がきびしくなって以来、そういった露骨な光景は影をひそめているが、それは表向きの話だった。公然のものが|密室へ《ヽヽヽ》と舞台を移したにすぎず、異国からの踊り子の仕事の中身は少しも変るところがなかった。  やがて、女がネグリジェに着替えて再登場すると、綿谷四郎は気の重さを吐息で振り払い、スポットを点《つ》けた。  第 一 部     1  警視庁の通信指《ツー》令本部《ホン》へ、女の声で一一〇番通報があった午前十一時過ぎ、楠木《くすき》克宏巡査部長は新宿署刑事課強行犯捜査係のデスクで、ある強盗事件の報告書をまとめて一息ついたところであった。  指示を受け、石波巡査とともに現場へ急行した。  西新宿六丁目×番×号所在のマンション〈コーポ・レインボー三〇二号室〉。  女からの通報の内容は、ただ、男の人が倒れている、というものだった。場所は地番まできちんと教えたけれど、言葉には奇妙なクセがあり、名前も告げずに切ってしまったという。  マンションの玄関ドアは開いていた。入ると、すぐ右手に管理人室がある。初老の男がガラス窓から顔をのぞかせ、刑事の話に目を見張った。デスクの引出しの中をひっかきまわして合鍵《あいかぎ》をつかみ、エレベーターで三階へ——。  黒い鉄製扉へのノックに、応答がなかった。即座に開けて踏みこむと、楠木部長刑事は直感的に死の匂いを感じとった。六畳程度のダイニングをざっと見て、次の間への襖《ふすま》を引く。  瞬間、管理人が短く叫んで棒立ちになった。ぎょろりと目を剥《む》いたまま言葉もない。  男が、ベッドの脇に仰向けに転がっていた。投げ出された右腕の手指には、|狩 猟《ハンテイング》用らしい大きなナイフが握られている。すでに死後硬直が全身に及んでいるのだろう、肘を少し折り曲げた腕を取ってみると、針金でも通されたようにそのまま持ち上った。 「応援を頼む」  楠木部長刑事は、同行の石波巡査に命じた。  死体は、それほど無残な状態ではない。負傷部位は心臓付近であるらしく、長袖のアンダーシャツの胸部から脇腹にかけて、べっとりと赤黒い血糊《ちのり》が付着して畳にも血溜《ちだま》りをつくっている。その他の部分には、傷はなさそうだ。下はブリーフ一枚きりで、青白く、むくんだような肌が寒ざむしい。身長は、百七十センチ程度か。筋肉質の身体つき。南東向きのベランダ側を頭にし、ベッドにそって天井を見上げる形で、左の腕は半ばベッドの下へ潜《もぐ》っている。両の脚はやや開いて、わずかに膝《ひざ》の関節が折れ曲がり、これもまた固く硬直していた。わずかに歪《ゆが》みを帯びた面長の顔は、どこか拗《す》ねた少年の表情を思わせる。ゆるんだ唇の隙間から、かるく舌を挟んだ黄色い歯並みが見えた。 「この人がわかりますか」  部長刑事が尋ねると、管理人はやっと我に返ったように、 「この部屋の借り主だす。いやあ、何と何と何と……」  つよい訛《なま》りのあるだみ声でいった。 「名前は」 「キヤマ・ヒロシさんだす。木の山に浩、サンズイに告げるという字だす」  楠木は、手帳にボールペンを走らせた。いずれ改めて事情聴取することになるが、とりあえず問い続けた。 「同居人は——」 「契約に来たときはいませんですたが、入居して間もなくですたか、女が出入りをはじめたようですたな」 「どんな女性でしたかね」 「金髪だったす。ありゃ、まんず西洋の女《おな》ごだすべな」 「顔立ちのほうもあちらの?」 「んだす。大きな目をしてだす。美人《びずん》だったすな。いやあ、それにすても、何と何と……」  木山浩が部屋を借りたのは、今年の冬、二月半ばのことであったという。部屋代は、管理費込みの十万八千円。契約時、身分は学生ということだったが、家賃は月々滞りなく振り込まれていた。このごろは贅沢《ぜいたく》な学生がいるもので、実際、親元はたいそうな実業家らしいと、管理人は興奮のままに喋《しやべ》り続けた。  楠木は、鋭い眼差しで部屋を眺めた。八畳の和室である。  壁際にセミダブルのベッド、部屋のほぼ中央に小さな四角いテーブル、その上にラジカセ一台ほか、煙草の灰が付着した空の灰皿、飲みさしのワインボトル、食卓塩。ベッドと反対側の壁際にスタンド式の細長い姿見。整理|箪笥《だんす》のようなものはなく、長さ一メートルほどのスチール製の洋服掛けが一つあるきりだ。ほかに、家具といえるものはない。部屋の隅に乱雑に積み重ねられた漫画や週刊誌の類。こげ茶色の布製ショルダー・バッグ。その他、若干の日用品があるにすぎない。  全身を映す姿見やピンクのベッド・シーツからして、管理人のいう女性の出入りは確かだろう。いや、常時住んでいたといったほうが当っているかもしれない。そして、いまはその女が姿を暗ましている、と部長刑事は考えた。あたりに女性特有の匂いを残しながら、香水や化粧品類がどこにも見当らないのだ。洋服掛けにも、女物は一着もない。ジャケット、ズボン、ブルゾンなどの数着は、すべて男ものであった。 「その女性は、どのくらいの割り合いで出入りしていましたか」  楠木部長刑事は、背後の管理人を振り返った。ゴマ塩頭の小柄な男は、血の気をなくした唇をしきりに舐《な》めながら未だ落ちつかない。 「さて。わたすとしても、四六時ちゅう見張ってるわけでもねえすから、くわすぐはわからねえすな。だども、出かけるのは昼どきが多かったようだすな。夜の勤めの女《おな》ごのようでありながら、何と真っ昼間の変った時間に出かけていぐのをよく見かけますたが……」 「服装については——」 「それは普通であったすな。とくに派手な印象もなぐて」 「帰ってくる時間帯は?」 「それがわからねえす。出かけるところだけだしたもんで、目にしたのは……」  管理人は、首をかしげたまま続けた。「たとえば、わたすのいなぐなる七時さ過ぎてから来て、そのまんま泊って、次の日の昼になったら出ていぐといった、まんずそんなところでねかったすかな」 (もうここへは戻ってこないだろう)  楠木は、確信した。同居人の女性が死亡者と深く係わっていることは間違いがない。ハンティング・ナイフを手にしているとはいえ、それでもって自分の心臓を刺すというのはほとんどあり得ない。まだ断定はできないが、�他殺《ころし》�の線が第一に考えられた。  やがて、続々と捜査陣が駆けつけてきた。機動捜査隊、捜査一課の面々、新宿署強行犯係の刑事たち。直ちに現場保存の処置がとられ、鑑識が活動を開始する。現場写真が部屋の周辺から死亡者まで綿密に写しとられ、指紋や微物《びぶつ》等の採取がはじめられた。  楠木部長刑事が管理人鮎沢彦一の話をもとにざっと経過を報告する。 「至急、家族を呼んでくれ」  柳原警部補がいった。  若い小川刑事がそれに応え、管理人とともに階下へ降りていった。 「同居人の女は金髪だったか」  峯岡《みねおか》警部が床を見つめて独りごちる。  姿見の前に、それは容易に見つかった。やわらかな長い髪だ。ベッドの枕元にも何本か、鑑識課員が見つけた。確かに金色の艶《つや》がある。  台所には、冷蔵庫と食事用テーブルのほかは家具らしいものがない。そこが死亡者の負傷現場であることは、床を見れば一目瞭然であった。血糊を拭《ふ》きとろうとして消しきれていない大小さまざまな跡が点々と残っている。それは、冷蔵庫のそばから次の間へと続いており、何者かに刺された後、歩いていくか、運ばれていったものと推定された。  二脚の椅子《いす》が向い合う円形の食事用テーブルの位置は正常で、林檎《りんご》が三個入った籠《かご》とポータブルのテレビがのっているだけだが、白いクロスの一部に黒い焦げ跡があり、何かを燃やした際についたにちがいなかった。流しには、洗っていない食器類が乱雑に積み上げられている。木製のマナ板が、その流しの一隅を覆う形で置かれてあった。 「鋭利な刃物で、おそらくひと突きですね」  鑑識課員が告げた。  ここにきて、他殺であるとほぼ断定され、凶器の発見に捜査員の目は光った。  ほどなく、流しの底から一本の果物ナイフが出てきた。血液らしいものの付着が肉眼でかすかに認められ、そのまま鑑識へ回された。  死亡者が右手に握っているハンティング・ナイフも押収された。ナイフの刃先には、ほんのわずかだが乾いた血痕が付着しているのが認められる。刃渡りは約十五センチ、切れやすそうな曲線を描き、最大の身幅が三センチ余りもある。太くて握りやすい、丸いレザー・ハンドルの、刃と逆の甲にギザギザのついた立派なナイフであった。握っているとはいっても、ハンドル部分をかるく包んでいる状態で、ゆるんだ指が赤く血に染まっていた。  指紋の採取は、至るところで可能だった。重要参考人と目される金髪の女性が、旅行者ではない在留外国人であって、市もしくは区役所に外国人登録をしていれば、たちどころに国籍、姓名等が割り出せるだろう。指紋原紙や外国人登録証への指紋押捺が義務づけられているからだ。 「どうも、怪しげな女のような気もしますが」  と、楠木部長刑事が指紋からの割り出しに疑問を投げた。 「怪しげな女か」  柳原警部補が苦笑して続ける。「確かにこの辺には、わが国にそういう登録制度があることさえ知らない連中がわんさといるからな」  花模様のカーテンのかかった窓が開け放たれた。南東に向いたベランダは、やっと洗濯物が干せる程度の狭いスペースしかなく、一本通された紐《ひも》には、ピンクと赤の洗濯バサミがいくつか付いている。視線を高く転じると、真昼の太陽に無数のガラスがきらめく高層ビル群の威容が迫ってきた。すぐ眼前に隣合う三井ビル、住友ビル、その向うの野村ビルなどが青天井の下で折り重なるようにして連なっている。見ていると、こちらに向って倒れてきそうな、そのため不意に身体のバランスを失ってしまいそうな感覚があった。 (またしてもこの街での殺しだ。密室……)  一年ほど前、大久保のラブホテルQで起きたゆきずり殺人のことが、ふと楠木の脳裏をかすめた。六ヶ月に及ぶ懸命の捜査にもかかわらず、被害者の身元すら割り出せないまま捜査本部は解散した。いまはわずかな専従員が捜査を継続しているだけだ。  楠木は、奥に窪《くぼ》んだ鋭い目をいっとき気弱な色に染めた。山形に盛り上った太い眉。高い頬骨に見合った急|勾配《こうばい》の鼻、尖《とが》った顎《あご》をもつ引き締った口元。四十代もあと一年と少しを残すだけの、どこか野蛮な雰囲気も漂うダーク・スーツ姿は、まさしくブチョウ・ケイジの名にふさわしい。階級は、巡査部長、強行犯捜査係の部屋では、日常的に、楠木長、長さん、もしくは主任、制服と区別する意味で一般的には刑事、とりわけ部長刑事と呼ばれる捜査の第一線である。 「すごい場所だな」  柳原警部補がそばに来てビルを見上げた。温厚そうな丸顔に皺と白髪がめっきりふえた新宿署のベテラン刑事だ。いつも近くで眺めているが、こういう部屋から見ると改めて圧倒されるという。 「あえてこういうところに住む人間は、何らかの事情があるんだろうな」  背後でやはりビル群を仰ぐ捜《い》査一課《つか》の峯岡警部がいう。楠木は、その下ぶくれのした不敵な面構えを振り返って、 「同感ですね。歩いて職場との間を往復できることだけが魅力だったんでしょう」 「水商売かね?」 「まず、間違いなく」  確信ありげに、楠木部長刑事は答えた。     2  被害者の母親木山澄代とその姉の神崎喜代が現場に姿を見せたのは、死体発見から二時間半余り後のことだ。神奈川県平塚市から喜代の運転でまず新宿署へ、そこから署員の案内で現場へやって来たのである。  絶句して立ちつくす母親を、姉が抱きかかえるように支えた。死体は司法解剖に回すため、すでにタンカの上にあり、肉親が浩であることを確認すれば直ちに運びだす手はずが整えられている。 「どうして、こんなことに……」  澄代は、細くつぶやいた。被害者の母親にしては若すぎる。やや頬の窪んだ色白の顔は、どう見ても二十代にしか見えない。その姉も、面長のすっきりと整った顔立ちをしている。姉妹ともにいかにも湘南《しようなん》の明るさが似つかわしい女だったが、被害者とあまり年齢が違わないために、どこか不自然な印象を拭《ぬぐ》えない。  やがて、台所のテーブルで即席の事情聴取がはじまった。  案の定、澄代は継母だった。浩が十五歳のとき、その実母の死後まもなく、二十二歳で木山家に後妻として入った。以来、七年間、名目上の養母であった。  浩には十歳上の実姉が一人いるが、とっくに結婚して九州へ行ってしまったので、実質的には一人っ子のように暮していたという。 「浩くんは、どういう仕事をしていたんですか」  柳原警部補が問い続けた。 「存じません。去年、大学をやめてしまってからのことは、わたしたちにもよくわからないんです」 「大学をやめたといいますと……」  警部補の問いを受けて、姉妹は浩の大学中退の原因について話しはじめた。  その大学で、彼は空手部に所属していた。格闘技のさかんなことで有名な学校だが、同時に下級生へのシゴキもすさまじく、過去に死亡事件を起こしたこともある。浩がほとんどリンチといってよい殴打を受けたのは、二年生のときだった。練習をさぼって女の子と映画を観に行ったことから、平素のたるみを責められたのだという。病院へ運びこまれ、生命に別状はなかったものの、頸部のムチ打ち、打撲傷など、全治三ヶ月だった。傷が癒えた後も大学へは戻らず、ふぬけたような日々を送っていた。  ふらりと東京へ出たまま、何日も音沙汰がなかったり、たまに帰ってくると、お金をねだっては競輪に出かけてすってしまう。東京で何をしているのかも話さない。とくにこの何ヶ月かは、その行動がまるでつかめなかったという。  建設会社社長である父親の心配と落胆はいたましく、ましてこの事態を知ったらどういうことになるか。澄代は、そんなことを話しているうちに、ようやく涙ぐんだ。 「管理人によると、この部屋には同居人がいたということですが、お心当りは——」  と、峯岡警部が尋ねる。 「いいえ」 「金髪の女性で、西洋人ではないかと管理人はいっておるのですが」 「そんなことはひと言も……。だいいち、浩くんがこんな部屋を借りていたことさえ知らなかったんですから」  澄代は、いかにも意外そうに姉と顔を見合わせた。喜代がその目を見つめ返し、強張《こわば》った表情で首を振る。 「ところで」  柳原警部補が腰を浮かしていった。「ご足労ですが、これから署までご同行願います。息子さんについて、もう少しお尋ねしたい」  初期の現場観察も、そのころにはあらかた終っていた。  生活用品の少なさに加えて、新聞もとっておらず、無記名の郵便受けにはチラシや無料配達のタウン紙などが三通ほど押しこまれていて、都会生活者のなかでもとりわけ孤独な影を感じさせた。遺留品と思われるもののうち、女性ものではただ一点、持ち去るのを忘れたと思われる白いロー・ヒールのサンダルが備え付けの下駄箱に残されていたにすぎない。  新宿署に特別捜査本部が設けられたのは、その日の午後四時過ぎであった。�西新宿マンション殺人事件特別捜査本部�と墨書された張り紙が掲げられ、マスコミもそれを報じた。 〔若い男性刺され死ぬ 同居外国人女性姿消す?〕  記事の内容は比較的簡単なもので、警視庁と新宿署は、現場から姿を消した謎《なぞ》の金髪女性の行方を追っている、と記された。  事件は当初から、女の身元割り出しにさえ手こずる様相を見せていた。  指紋からの割り出しは、まず、外国人登録をしている在留外国人、および前科者が洗われ、さらに念のために女が日本人である可能性を考慮して、一般日本人の登録指紋まで照合された。が、結果は、いずれにも「該当者なし」であった。従って、被害者の同居人は、やはり不法に在留している外国人である可能性が濃くなった。たかだか三ヶ月の観光ビザで入国した一時滞在の旅行者がマンションで男と暮していたとすれば、不法残留《オーバー・ステイ》しか考えられない。  被害者の事件現場に至る足取り、および同居女性の現場からの足取り調査、マンションと周辺住人への聞き込み、被害者の交遊関係の洗い出し、科学班《かそうけん》による毛髪、血痕等の鑑定、それに重要参考人が外国人であると推定されるため、羽田、名古屋、福岡など若干の国際線をもつ空港、および大阪空港と成田空港での出国者チェックを含めて、七十人体制で臨む初動捜査は多岐にわたっていた。  押収された果物ナイフからはルミノール反応が現われ、その血液型が被害者のものと一致したことによって凶器と断定された。また、ナイフの柄から採取された指紋が、台所のテーブルやグラスなどに多量に付着していたものと一致したため、おそらく同居女性のものであろうと推定された。つまり、その女が被害者を殺害した犯人である可能性が出てきたわけだが、未だ断定までには至らなかった。  被害者の右手に握られていたもう一つのハンティング・ナイフについては、その刃先に付着した血痕が被害者のものではないことがわかり、本件犯行との関連が見出せなかった。一体、刃先の血痕は何を語っているのか。また、指紋もいくつか——、木山浩の指紋が左右合わせて十一個、凶器の果物ナイフについていたものと同一人の指紋(同居女性のものと思われる)が三個、さらにはまったく不明のものが二個採取されたが、何を意味しているのか。疑問は残されたままだった。  凶器の果物ナイフは、刃渡り十二・二センチのどこにでも売っている平凡なもので、それからの手がかりは望めそうにない。検死結果から、死亡推定時刻はその日の早朝、午前四時から六時の間。女の声で、男の人が倒れている、との通報があったのが午前十一時過ぎであったから、それから六、七時間前の出来事ということになる。  楠木巡査部長は、本庁からの朝森賢一警部補と組んだ。朝森は二十九歳で楠木より二十歳近く若いにもかかわらず、階級は一つ上だ。が、年齢や階級は刑事捜査の上ではあまり問題にならない。むしろ、朝森警部補のほうが経験豊かな�部長刑事�に敬意を表していた。  地取りは、歌舞伎町が中心であった。西新宿と大久保の一部を含めて一区から十区までに分けられ、十組の刑事が担当区に散って足を棒にする。ギャンブル、遊戯場関係、レストラン、スナック関係、クラブ、キャバレーその他の風俗営業関係、マンション、アパート関係など、それぞれ担当の地域のあらゆる職域に踏み入って、被害者および同居女性の足取りを追うローラー作戦が展開されていったのである。  手がかりは、母親から提供を受けた木山浩の写真だけだった。土地鑑からしてかなり歌舞伎町|界隈《かいわい》をうろついていたであろうから、その線から洗ってみようというわけである。 「被害者《がいしや》は、ゲームや賭け事が好きだったということですね」  朝森警部補がいった。二日目の午後、お上りさんらしい大勢の観劇客が列をなすコマ劇場前の路上である。 「パチンコ、雀荘、ゲームセンター、ビリヤード、ここではそんなところか」 「そうですね」 「同じ店に何回も運ぶことにならないでもらいたいな」  楠木は、返した。家族から聞きだした浩の交遊関係のうち、友人である竹沢正典がそう証言したのだ。従って、聞き込みもその関係を重点的に当ることになるが、一度訪ねるだけで割れるとはかぎらない。 「歌舞伎町のカブキには、ふざけた振舞い、異常な風俗といった意味があるようです。よくぞ名づけたりですね」  警部補がそういって苦笑する。仲間うちでは小柄だが、四角ばった顔の意志的な目にいかにも粘り強い性格が表われているようで、身のこなしにも無駄がない。いい相棒だと楠木は思っていた。  同じ日の午後、刑事たちの出払った捜査本部の一室へ、鑑識から一つの報告がもたらされた。現場から採取された金髪についての鑑識結果である。 「何、染めていた?」  キャップの峯岡警部が頓狂な声を上げた。捜査本部長である本庁刑事部長の下にいる彼が、実質上の総指揮官である。 「もっとも、水商売の女にはよくあることですが」  柳原警部補が答えた。彼は、デスクの主任として居残り、出払った刑事たちの指揮系統を担当している。 「すると、もとは黒髪かね」 「その通りです」 「というと、西洋人という推測は成り立たなくなるか」 「さあ、それはどうでしょうか。向うの人間でも黒髪の女はいると思われますが」 「ふむ」  峯岡千策は、腕組みをしてうなった。  その鑑定結果は、当然、捜査会議で取り上げられた。同居女性が元来は黒髪であった事実と、西洋人のように見えたという顔立ちとの関連について、各証言の再検討が行なわれたのだった。  顔立ちが西洋人ふうであったと話しているのは、マンション管理人だけではない。周辺住人の何人かも同様に、いかにもその通りだと証言していた。が、金髪であったからそのように見えたとも考えられるし、単に彫りが深くて日本人離れしていれば、大ざっぱに西洋人といってしまいそうなところが日本人の感覚にはある。そんな意見が交され、結局、髪を染めていたという一点のみでは、捜査に何の進展ももたらすことはなかった。顔立ちと髪の色との関連について一定の法則があるわけでもなく、明快な判断はどの捜査員も下すことができなかったのである。     3  楠木部長刑事は、食後の一服に火を点けた。三日目も昼どきになり、通りがかりの牛丼屋のカウンターで朝森警部補とふたり、早々とすませたところだ。 「女のほうにも、金髪が唯一の手がかりであることがわかっていれば、また黒髪に戻すことも考えられますね」  と、朝森がお茶をすすりながらいう。 「そういうことだな」 「とすると、若い外国人女性を路上で見かけると片っぱしから職務《しよく》質問《しつ》しなければなりませんね」  相棒の冗談を、部長刑事はしかたなしに笑った。  確かに、外勤警察官の活躍がこのところ際立っている。挙動不審者の職務質問がきっかけの逮捕だ。交番で、たちどころに指名手配の有無や前科前歴がわかるシステムになってから、そういったケースが増えたのである。 「当分は、雲の中を泳ぐしかなさそうだな」  楠木は、そういって腰を上げた。ねばり強さがいつの場合も捜査の基本的な信条だった。  区役所通りを職安通り方面に向って、刑事たちは歩いた。雀荘、ゲームセンター、パチンコ店などにとくに念を入れ、しらみ潰《つぶ》しにあたっていく。まだ、水商売関係の店が開くには間があるが、五時ごろになればそちらへと重点を移すことになる。やわらかな日差しが街を照らし、街路樹の葉末を光らせて、秋らしいすがすがしい一日であった。 「ヒロシじゃねえか」  写真を一目見てそういったのは、ある雑居ビルの二階にあるゲームセンターの従業員だった。二十二、三か、ひょろりと背が高く、長めの髪をオールバックに撫《な》でつけている。 「名字は——」 「キヤマでしょう」  楠木は、身を引き締めた。慎重に事件内容を伏せて尋ねていく。殺しだというと、にわかに口が固くなる恐れがあるのだ。 「去年の秋、ちょうど今頃まで勤めてましたかね」  出てきたマネージャーがいった。奈柴と名のる、下腹のせり出した小柄な中年男で、縞《しま》模様のYシャツに蝶ネクタイをつけている。テレビゲーム機の前の腰掛を刑事たちにすすめてから、やや警戒の面持ちで続けた。 「確か、十月いっぱいでやめたはずです。うちにいたのは、ほんの半年くらいの期間でしたか」 「やめた理由は?」  朝森警部補が手帳にペンを走らせながら尋ねる。 「さあ」  マネージャーが首をひねる。「やめたいというので、そうかといっただけですから」 「やめてから、顔を見せたことは」  楠木が尋ねると、先ほどからそばで話を聞いていた従業員が口をはさんできた。 「ありますよ、何度も。外国人の美女を連れてね」 「女を連れて」  楠木は、緊張した。「その女の髪の色は——」 「金髪でしたよ」 「ああ、それならおれも見たことがあるな」  と、マネージャーが受けた。  間違いない。やっと手がかりをつかもうとしている。刑事たちは、相手の顔色を窺《うかが》いながら、一歩ずつ前進していった。  若い従業員は、中尾と名のった後で、 「おれたちに見せびらかすようなところがありましたね」  と、嘲笑するようにいう。「わざと女の髪を撫でてみたりして、キザな野郎だと思いましたよ」 「女が日本で何をしているか、聞かなかったですか」  朝森警部補が肝心の点を尋ねる。 「さあ、それは……」  と、マネージャーは考えこんだ。 (そろそろ事件の中身を話してもいいだろう)  楠木は、そう考えて、実は浩が殺された、と告げた。男たちは目を剥き、悲鳴に近い声を上げた。次には、好奇心を丸出しにしていろいろと尋ねてくる。  概略だけを答えて、あとは問い続けた。 「水商売には違いないでしょうが、ただ職種となるとねえ」  と、マネージャーがなおも首をかしげる。 「あれは、外国から日本へ稼ぎにきた女じゃないのかな」  中尾がいった。「最近多い、じゃぱゆきさんのような」  捜査陣にしても、それは予想しないことではなかった。 「その根拠は——」 「浩がここのアルバイトをやめちまったことですよ。それからもけっこう遊び回っていたようだし、いま聞けばマンションにまで住んでいたというんでしょう」  中尾は、得意げに自説を披露した。「やつが女に食わせてもらっていたことは間違いない。つまり、あの女にはそれだけの稼ぎがあったということです」  それはどうかな、と楠木は思った。男を養えるほど稼ぎのあるじゃぱゆきさんが、そうざらにいるとは思えないからだ。それはさて置き、 「浩が遊び回っていたというのは、どんな場所かね」 「ディスコとか、パチンコ。それに、のぞき部屋なんかへも出入りしてたみたいですよ」  そのとき、店の自動扉が開いて、長身の若者が入ってきた。グリーンのTシャツに派手なチェックのジャケット、下は肌に密着する銀色のパンツという出立ちだ。細身のわりに顔はまるく、愛嬌のあるチョビ髭《ひげ》をたくわえている。三時から勤務の山岸昇という従業員で、浩については中尾より詳しいかもしれないという。  やがて、Yシャツに蝶ネクタイの制服に着替えてくると、座に加わった。 「あんなことやってるから、殺されるんだよ」  山岸は、ぶっきらぼうにいった。たいして驚きもせず、前髪をかき揚げながら当然といった顔つきをする。 「あんなこととは——」 「あの女をのぞき部屋で働かせて、客をとらせていたんです」  ギラと目を光らせる刑事たちに、山岸は苦笑いを浮べて、「おれも誘われたことがあるんですよ。何を考えてるのか、やつの頭を疑ったもんです。自分の恋人を元の同僚に抱かせようってんだから」  有力な情報だ。楠木は、胸の躍る心地がした。首尾よく女が勤めていた店の名前と場所を聞き出した後で、その出来事のあった時期を尋ねる。 「つい二週間ほど前でしたよ」  答えに迷いがなかった。浩が殺される十日余り前ということになる。 「主任!」  朝森警部補がいうと、 「よし」  楠木部長刑事がうなずいた。  本部の峯岡キャップに報告し、慎重にやれとの指示を受けてから、楠木、朝森両刑事はその店へ急いだ。  歌舞伎町歓楽街のど真中だ。〈のぞき部屋クリスタル〉とビル五階の壁面に粒状のネオンが流れていて、街路へも遠慮のない宣伝文句がスピーカーから流れだしている。二千円のほかには一切お金はいりません、というのがその店のキャッチ・フレーズらしい。  刑事たちは、少し奥まった一階ロビーからエレベーターに乗った。朝鮮焼肉の店、美容室、雀荘、パブ、ナイト・クラブなどが各階にひしめく、まさに雑居ビルである。  踏みこんで、朝森警部補が受付の男に警察手帳をのぞかせる。支配人を呼ぶようにいい、その場で待った。  ひと昔前、ここは確かノーパン喫茶という風俗営業の店だったはずだ、と部長刑事はある殺人事件捜査との係わりで思い出す。周囲がすべてガラス張りの空間を、ウェイトレスがハイヒールの靴音を響かせ乳房を揺らしながら歩いていた。シャンデリアが壁、床、天井に跳ねかえり、ギラギラと目を射るほどに眩《まぶ》しく、肌色のストッキングにギャザーのミニを着けただけの姿態を追う男たちが、少なからず哀れにうつったものだ。時代はめまぐるしく移り変っていく。関西から火の点いたそのブームがあっけなく去ると、今度は個室の小さな窓から女の裸身を眺めさせる商売が流行《はや》りだしたのだ。いまではそれも少しずつ趣向を変えていくらしく、黒いカーテンのかかったビデオルームなるあやしげな待合室と、いくつもの個室を持つ廊下の陰気な雰囲気が、のぞき趣味の域を越えた安っぽい売春宿を思わせた。  出てきた男は、Yシャツに赤いネクタイを着けた女のような撫肩《なでがた》の細身で、端正すぎて逆に印象に乏しい顔立ちをしていた。 「マネージャーの藤代です」  と、へりくだりながらも挑戦的な色を隠さない。  案の定、そんな女は知らない、ときた。 「ちゃんと証言者がいるんだ」  楠木は、凄《すご》むようにいった。「これは殺しだ。風営関係じゃないから安心しなさい」  藤代支配人は、妙な具合に相好を崩した。厳格な改正風俗営業法に照らすまでもなく、やましいことの一つや二つはあるのだろう。こちらへどうぞ、と客の目をはばかって廊下へ出、従業員控え室へ通した。壁の一面が姿見になっている狭苦しい部屋で、女のバッグや小物が無造作に置かれた細長い化粧台があるにすぎない。  藤代は、折畳椅子に刑事たちを座らせて向い合うと、 「あの子は、一時的に預かっただけなんですよ」  うわずった調子で答える。「知り合いの劇場の社長から」 「劇場——」 「ええ。彼女、もともとはストリップ劇場の踊り子でしてね」  楠木は、太い眉毛をピクリとさせた。  問いつめて、女が�新宿スター劇場�に所属していたことを吐かせた。ふだんは劇場専門だが、たまに空きの週(十日間)ができると、内職《シヨクナイ》でうちへ来ていたというのである。 「すると、木山浩については——」 「そんな男は知りません」 「ここを根城に売春|斡旋《あつせん》をしていたそうじゃないか?」 「まさか。うちは健全な店ですよ」 「そうかな」  警部補が、鋭く相手をにらみ据えて、「その点についても証言者がいるんだがね」 「脅かさないでくださいよ、刑事さん」  へつらうような口調で、藤代はいった。「その浩とかいう男のことは、本当に知らないんですから」  女の国籍についても、聞いたことがないという。知らないで使っていたのかと問うと、そんなことは必ずしも重要なことではない、と答える。しらばくれているのか、事実なのか、刑事たちは判断しかねていた。ゲームセンター従業員、山岸昇とともにマークすることは当然だが、いまは深追いしないほうがよさそうだ。 「やっぱりカブキ町だな。まったくもって底が知れない」  エレベーターに乗りこむと、朝森警部補が毒づくようにいった。  追えば追うほど闇の奥深くへと迷いこんでいく……。以前にも経験したことのあるいやな感覚が、楠木部長刑事をつつみこんでいた。     4  いずれ取り壊される古ぼけた七階建ビルに、その他は酒場ばかりのテナントの中で唯一、異彩を放つフロアがあった。四階の全部で、エレベーターの扉が開くたびに、ビルを上下する人々の目にけばけばしいヌード看板が飛びこんでくる。なかには顔をしかめる者もいて、とくに四階より上の酒場は、その芳しくない環境のせいで商売に少なからずの影響を被《こうむ》っているという苦情を、ずっと昔に劇場をテナントとして認めた家主にもたらしていた。  折から、業界は斜陽久しい。風俗営業の多様化にともない、客足は減る一方だ。一つの目新しい演《だ》し物《もの》にビル一階までの階段と、さらに二百メートル、路上に客が連なったという伝説のある、いや実際にそうであった全盛期はいまや夢ものがたりだった。しかも、そのビル自体が跳梁《ちようりよう》する地上げ屋の攻勢にあい、立ち退き話がもち上っているため、劇場の余命もそうながくはないはずだ。 (そろそろ、おれも転職するか)  ブレーカーを上げて、�新宿スター劇場�のネオンが点いたのを確認すると、綿谷四郎はそのままぼんやりと窓の外を眺めた。ストリップ劇場から世に出ていくのがコメディアンの常道であった時代はもう終っている。丸鼻がデンと座った大造りの赤ら顔は、喜劇役者にぴったりだと自分では思うが、どうにもならない。あきらめて出直すなら、いまのうちだろう。  ともりはじめた街の灯が、昼間の薄汚れたコンクリート群を闇にとかしていく。前方に歌舞伎町中心街、その向うにプリンスホテル、さらに大ガードの彼方に林立する高層ビル群——。  手に負えない都会《まち》だ、と綿谷は心の中でつぶやいた。ましてや一人の異国の女にとっては、はじめから太刀うちできる街ではなかったのだ。一体、彼女はどこにいるのだろう。まだ、この国のどこかに潜んでいることだけは確かだ。隠れて暮すことに馴れているとはいっても、こんどばかりはわけが違う。助けを求められるとすれば、自分をおいてないはずなのに、一向に音沙汰がない。そのことが、彼には不満であった。 「どうだ、入りのほうは」  不意に背後から声がした。振り返ると、社長の古塚芙左次《こづかふさじ》である。どこかで好きなビールでも引っかけてきたらしく、よく肥《こ》えた丸顔がうっすらと赤い。汗と脂《あぶら》の沁みた薄茶色のベレー帽を禿げかけた頭にのせていて、劇場の中でもめったに脱ぐことはない。パクられ社長、と悪しざまに呼ばれる、本当の経営者の単なる防波堤。劇場の|こづかい《ヽヽヽヽ》だと、自分で自分を皮肉ってもいる。すなわち手入れの際にはいさぎよくブタ箱行きを引き受け、隠すべきはかくし、適当に喋《しやべ》って戻ってくると、勾留期間中に相当するお疲れさまのボーナスが出る。かつて綿谷も一度、共犯の照明係として、そのつとめを果たしたことがあった。  社長のすぐ後から、二人の男がエレベーターを降りてきた。 「いらっしゃいませ」  と、綿谷は迎えた。 「いらっしゃい、どうぞ!」  やや遅れて、古塚社長も調子のいい声をかける。  二人の男は、そのまま真っ直ぐに切符売場のほうへ歩き、背広の内ポケットから取り出した手帳を窓口へ示した。 「刑事《デカ》だ」  社長があたふたと綿谷の腕を抑えた。即座に、非常階段のほうへ身を隠す。 「合わせておくことはないか」  声をひそめていった。 「社長は、現場を見なかったことにするんですか」 「そうしてくれ。浩のことも、よく知らないで通そう」 「彼女のこともあまり喋らないほうがいいでしょう」 「もちろんだ。君もそばにいて調子を合わせてくれ」  それだけ話すと、社長は小肥りの身体をゆっくりと運んだ。切符売場の元踊り子、鈴恵ねえさんが慌てふためいたようすで刑事たちにロビーのソファをすすめていた。  二枚の名刺が差し出された。先の一枚は�警視庁刑事部捜査第一課 警視庁警部補 朝森賢一�とあり、あと一枚は�警視庁新宿警察署刑事課 強行犯捜査係 主任 警視庁巡査部長 楠木克宏�とあった。 「われわれが訪ねてきたわけは、もうご存知かと思いますが」  と、部長刑事が切りだした。探るような目で向い合った二人の顔を交互に見る。 「手入れかと思ったんですが、そうではないようで?」  古塚社長が猪首《いくび》をすくめるようにして、とぼけた口をきく。 「手入れならもっと大勢駆けつけるでしょう」  いって鋭くにらみ据えたのは、本庁の朝森警部補だ。まだ若いにもかかわらず手強い刑事であることが、綿谷にはその一言でわかった。 「ここに所属している外国人の踊り子が、先ごろ西新宿で起こった殺人事件の重要参考人になっている。こういえば、おわかりですかな」  楠木部長刑事が穏やかにいった。ここで二人とも大いに驚いて見せなければ、事件を知っていることになる。 「実は、わたしらも困ったことになったと思っていたところなんですよ」 「ここを探し当てるまで、ずいぶん苦労しましたよ」  朝森警部補が非難めいた調子で返す。部長刑事がすぐに後を受けて、 「こういう場所の特殊性は、このさい度外視してご協力願いたいものですな。風紀との関連で警戒されそうですが、それとはまったく関係がないとお考えいただきたい」 「それは、よくわかっております」  社長が恐縮するように頭を下げる。ついでにベレー帽を持ち上げ、頭を一つ撫でてから被《かぶ》りなおした。  二人連れの客が入ってきた。それぞれ切符売場で三千円を払い、その先のもぎりで券を半分にちぎってもらってから、ぶ厚い観音開きの扉を引いて場内へ入る。それまで小さくこぼれていた音楽がどっとロビーへ煙草にけむった空気とともに溢《あふ》れ出て、いっとき話を妨げた。演歌、ポップス、映画音楽などのBGMが踊り子のショー内容を変えながら流れていく。お疲れさまでしたァ、と出番を終えた踊り子が華やいだ声を掛けながら、深刻な表情で額をつき合わせた男たちのそばをバスタオルを胸に巻きつけただけの姿で通り過ぎた。楽屋口は切符売場の隣にあって、ドアを開け放っても中が見えないように、ながい緋色の暖簾《のれん》が掛けられている。 「ところで、その踊り子の国籍をお伺いしたい」  部長刑事が改まった口調で尋ねた。 「アメリカです」  と、綿谷が答える。そばで社長が相槌《あいづち》を打ってみせた。 「というと、どちらの州の?」 「確か、カリフォルニアではなかったでしょうか」  社長がいったん席をはずし、楽屋と隣合う事務所から一冊のノートを携えてきた。 〔サリー・ブラウン。二十二歳。百六十五センチ。サイズ・八七、五九、八八。アメリカ〕  そう記載された部分を社長は示した。姓名から国籍に至るまで、極めていいかげんな代物だ。 「写真を見せていただけますか」  と、部長刑事がいう。 「生憎《あいにく》、わたしどものところには……」  口ごもると、社長はまたベレー帽を持ち上げて薄い頭髪を撫でた。 「写真の一枚もないんじゃ、ほかの劇場へ売りこむにも売りこみようがないでしょう」 「いや、それは狭い業界のことですから何とかなるんです」  社長は、逃げ続けた。あくまでもやっかいごとは避けて通りたいというわけだろう。事務所のデスクの中には、多くの踊り子に混ってサリーの写真も何枚かしまってある。それを差し出すことが最大の捜査協力ということになるのだろうが。 「彼女のような踊り子の来日に至る事情というのはどうなっているんですか」  部長刑事が質問を変えた。答えにつまった社長を、綿谷がカバーする。 「ロスにそういう踊り子を送りこんでくるブローカーがいるんです」 「ブローカー」 「あちらに住む日系人です」  ロス・コネクションである。が、どこの誰とどういう話がついているのか、社長の古塚芙左次にもわかっていない。それは劇場の経営者である元大物芸人が雇っている相談役で、�あすなろ芸能�の社長、有田誠吾だけの知るところだ。  有田の存在はしかし、口が裂けてもいってはならなかった。いくつかの風俗営業に係わって××組に暴利をもたらしている名うての若頭である。  だが、その点について、刑事たちはそれ以上追及してこなかった。 「ところで、木山浩とサリー嬢の関係について」  部長刑事が尋ねる。「あなたがたは、どのように見ておられたのですか」 「踊り子が外で恋をするぶんには、口出しはしておりませんので」  と、社長が受けた。「そういう男がいたという程度のことしか知らんのですよ」 「恋をするぶんにはといわれたが、二人はつまり恋仲だったと?」 「平たくいえば、ヒモですよ」  気色《けしき》ばんだ笑いをこめて、社長が続ける。「女に寄生してメシを食う連中と、この業界の女は縁がありましてね。切っても切れないヒモですから、切れるときは当然血が流れることを覚悟しないといけない。それが殺しにつながることはよくあるケースですから、わたしらはとくべつ驚きもしなかったわけで……」  刑事たちは、眉《まゆ》をひそめた。しばらく思案するように黙っていたが、やがて部長刑事が口を開いた。 「木山浩は、彼女を使って売春までさせていたようですが?」 「それは初耳ですな」  答えた社長に合わせて、綿谷は首をひねった。 「浩が働いていたゲームセンターの同僚が誘われたそうです。のぞき部屋を根城にやっていた。彼女をあの店に紹介したのは社長さんだそうですね」 「はあ」  たじろぎながらも、社長は弁解した。「あれは、本人の希望だったんですよ。たまには休ませるために空《あ》きの週をつくっているんですが、サリーの場合はその間も埋めてほしいというんで、あそこを紹介したんです。働き者というか、仕事熱心な娘でしてね」 「というと、あの店を紹介した社長さんにも何らかの係わりというか責任がある」 「とんでもないですよ。わたしは、ただ紹介しただけなんですから」  社長が身をのけぞらせて首を振る。汗にむれるのか、とうとうベレー帽を脱いでテーブルに置いた。  二人の刑事は、再び眉をひそめて黙りこんだ。以前より険しいものが表情にとりついている。部長刑事が問い続けた。 「サリー嬢の交遊関係のようなものは——」 「踊り子以外にはおりませんな。それも、親しい者はいなかったように思います」 「同じ国からの女性にもいなかったんですか」  言葉につまった社長をみて、綿谷が口を添えた。 「アメリカからの子はごく少ないものですから」 「踊り子にはどこの国籍が多いんですか」  と、朝森警部補が口をはさんだ。 「フィリピンが圧倒的多数派です」  追及を逃れられた気楽さからか、社長がひょうきんな調子で、「次に、コロンビア、チリなどの南アメリカが続いて、あとはたまにヨーロッパ、アメリカがいますな」 「で、彼女はアメリカ人だったわけですか」 「そうです」 「舞台は、どんな名前で?」 「ミス・サリーといいました。ミス何とかというのが、馬鹿の一つ覚えみたいな名前のつけかたでしてね」 (逮捕されれば、彼女は自分の国籍を何と答えるのだろう)  心の隅で、綿谷四郎は意識する。やはり、アメリカ人サリー・ブラウンと答えて、本当の出身を隠そうとするのではないか。そういうことにして、劇場の客をだましてきたように。アメリカ人として売り込んでいたあすなろ芸能の手前、一応、警察に嘘《うそ》をついているが、果して彼女にとって最善なのかどうかはわからない。 「で、ミス・サリーの舞台は、どういう内容のものだったんですか」  部長刑事が問い続けた。 「普通のストリップです。日本人のものと大差ありません」  答えた社長に、警部補が、 「そういう嘘を平気でつかれると、ここへお邪魔したかいがなくなる」  いって、ギラと光る目でにらみ据えた。「外国人の踊り子が過去どういうことをしてきたかくらいは、風営関係でなくても把握していますよ。いまのところは控え目にしているようだが、いつ何どき元通りにならないともかぎらない」 「いや、彼女の場合は別格だったんです」  と、うろたえた社長を綿谷がかばった。「アメリカ人というのは、ほかの子と違うんです。プライドが高いというか、皆と同じようには見させない。ただ、裸になるだけで商売になる、そういう自信を持っていて、実際、彼女の場合はそれだけで充分な魅力がありましたから」  社長がそばでしきりにうなずいてみせた。  アメリカ人と告げたことがこんなところで役に立っている。綿谷は、困惑した刑事たちを見て苦笑をこぼした。 「最後にお聞かせ願いたい」  部長刑事が迫るように尋ねた。「女の立ち回りそうな場所で、何かお心当りは——」 「さあ、わたしらのところへは、もう来るはずがないでしょうし、かといって身を寄せるような場所も思い当りません。どこにいるのやら、まったく困ったもんですな」  社長がもって回ったいいかたをして、刑事たちを失望させた。 「予想通りのガードですね」 「まったくだ」 「写真の一枚もないとは考えられませんよ」 「ヘタに突っこむと証拠|湮滅《いんめつ》をはかる恐れがある。今日のところは、あのくらいでいいだろう」 「家宅《ガ》捜索《サ》をやりますか」 「今夜の会議にかけてからだが、まあ、それは慎重にいこう」 「アメリカ人か……」 「それも臭いな。今日の話は、いちいち疑ってかかる必要がありそうだ」  暮れきってネオンの賑々《にぎにぎ》しい新宿の街を、二人の刑事はそんな言葉を交しながら署へと戻っていった。     5  その家は、平塚市の住宅街の中でもとくに立派な木造二階建で、檜《ひのき》造りの門構えからして堂々たる風格を見せていた。神奈川県下有数の、さすがに羽振りのいい建設会社社長宅といったところだが、表玄関の高張提灯とブロック塀にそって並ぶ供花の列を見れば、誰しもいっとき足を止めて、その不幸の中身を覗《のぞ》いてみたくもなるだろう。  あの木山家の息子が……、外人の女に殺されたんだって? 何てことだろうねえ。わからないもんだねえ。……おごそかな焼香の儀式のうちにも、あからさまにそんなささやきが聞こえてきそうなくらい、参列者の表情はおおむね悲しみよりも怒りや驚きに彩られて見えた。  蔭山茂美が、そうした参列者の一人となったのは、その日、午後一時過ぎ、告別の儀式もたけなわのころであった。勤めが休みの土曜日で、天気もよかったので、のんびりと買物でもしようと最寄りの商店街へ向っていた、その道すがら木山家の前を通ったのである。  彼女の足を止めさせたのは、好奇心ではなく、浩が幼馴染みであったからだ。一緒に遊んだ憶《おぼ》えがあるのは小学生の低学年のころで、中学生になるとほとんど口も利《き》かなくなっていたから、事件を知ったときも驚き以上のものは湧いてこなかった。ただ、こんなことになったいま、お焼香くらいはしてあげよう、と考えたのだった。  門を入り、玉砂利の間の飛び石づたいに正面玄関の方へ、参列者の間を縫って進む。都合よく、濃い紺のワンピースを着けていた。傍目《はため》には小肥りの身体に少しばかり窮屈そうだが、大きめの襟に白い刺繍《ししゆう》が施されていて、いかにも二十歳を越えたばかりの愛らしさがあった。  読経の続くなか、掌を合わせて一礼し、花に埋まる壇上の写真を見つめた。  と、そのとき、彼女の内側で不意にひらめくものがあった。それは、小さな炎が点火するように脳裏を照らし、数瞬の後には、胸が激しくうずきはじめていた。——あの日、目元まである大きなマスクにサングラス。グラスの奥の目はまったく映らなかった。が、平べったい額と短く刈りこんでかけたパンチ・パーマの形だけは、しっかりと瞼《まぶた》に焼きつけたのだった。 (まさか、彼がそんな……)  焼香しながら、蔭山茂美はうろたえた。一笑に付そうとして首を振る。が、最後にもう一度その面長の顔を見つめてみると、腕や背中に粟《あわ》粒のような鳥肌が立った。  こんな髪と額の若者はいくらでもいるだろう。何とか犯人を見つけだしたいとの願いから、錯覚を起こしているのかもしれない。そう考えてもみるのだが、第六感というのか、ほとんど本能的なまでの何かが、彼である、といい切っていた。  焼香を終えて背中を向ける。ふらつく足で、のろのろと歩いた。その場から走って逃げだしたいような、それでいて自身の受けた被害を誰彼となくぶちまけたいような奇妙な気分にさいなまれながら。  けれども、たとえ彼であるとわかったところで、どうなるというのだろう。彼はすでに死んでいる。……  通りへ出ると、商店街とは逆の方向へ足が向いた。もはや、のんびりと買物をする気分になどなれそうになかった。十分も歩けば海沿いを走る国道一三四号線へ出る、その途中のケーキ屋をかねた喫茶店の扉を押した。住宅街の一角にあって、腰をおろした窓際の席からは、木山家へ向うらしい喪服姿がちらほらと見うけられる。が、そんなことより、そこから数メートルと離れていない路上、比較的広い住宅街の通りからほんのわずかに逸れた小路で、つい一ヶ月半ほど前に起こった出来事が、再び茂美の中によみがえってきた。  あまりに突然の事故——。声が出せなかった。全身が震え、かつ凍りついた。襲った相手が幼馴染みの女と知って、よけいに愉《たの》しかったか。  未だに、誰にも話していない。たいていのことは話せる姉や母親にさえ。警察へ訴え出ようかとも考えたけれど、世間の目と誤解を恐れた。実際、どんな噂やデマがひろがるか知れたものじゃない。黙っていることが最善であるとは思わなかった。話すべきときが来れば、迷うことなくそうしたい気持に変りはない。いま、それをすべきだろうか。でも、一体、誰に……。  コーヒーをすすりながら、茂美は考え続ける。  同じ被害を被った他の女性たちは、どうしているのだろう。勇気をもって警察に訴えて出たA子、B子。新聞社に電話をかけて、二人が誰であるかを教えてもらい、彼女たちと話し合おうとでも?  どのみち、空《むな》しいだけかもしれない……。  茂美は、気弱につぶやいた。いまごろ騒ぎ立てたところで、相手を罰せるわけでなし。結局は、このまま沈黙を続けるほかはないのかもしれない。  彼は殺された、充分な罰を受けている。そう思うことで、蔭山茂美はかろうじて自分を慰め、再びうずきはじめた胸の痛みに、いやもっと奥の背骨を貫いて走るような痛みに、じっと目を閉じて耐えた。     6  カセット・デッキに選り抜きのジャズを収めたテープをセットし、カウンターへ向き直った瞬間、岩上龍一は店の扉がドンと押し開かれるのを目にとめた。  飛びこんできた一人の女に、歓迎の言葉を口にしようとして口ごもった。ひと目で異国人であると知れたことと、その息の弾みようにただならぬ気配を感じたからだ。  アルバイトの香も、四人いる客もいっせいに注目した。じろじろ見るのはマナーに反することくらい心得ている連中だったが、それまでの話題はぷっつりと途切れてしまい、妙に緊張した空気につつまれた。  襟ぐりのゆったりした山吹色のTシャツに、ラインストンがあしらわれたデニムのジャケットとミニ・スカートの組み合わせは、派手ではない程度の華やかさがある。黒いストッキングの形のいい脚をパンプスが支えていて、百六十センチはありそうだ。茶の縁のファッション・グラスがよく似合う彫りの深い顔、さして明るくはない店の灯にも金色の光沢が際立つ、やや縮れぎみのパーマをかけた豊かな髪。扉を閉めた後はグラスをはずし、そろそろと歩を進めた。  岩上は、奥のカウンターに腰かけた女に目顔で注文を聞いた。 「ビール、ください」  と、女はしっかりとした日本語でいった。  岩上がうなずき、栓《せん》を抜いて差し出すと、 「|と《ヽ》うもありがとう」  濁音が少しばかり苦手のようだった。抑揚やアクセントにも強い癖がある。 「走ってきたのかい?」  挨拶《あいさつ》がわりに、岩上は問いかけた。女は、ビールを手酌した後で、まだ少し息を弾ませながら、 「ヘンな男、追いかける」  と、いった。 「どんな男——」 「知らない。た|ぷ《ヽ》ん、ヘンタイ」 「どこで会った?」 「そと」  扉の向うを指し示すように、女は目をうごかしてみせた。  女が飛びこんできたときから、曲がはじまっていた。マイルス・デイビス。岩上が学生のころ、すでに二十年近く前から馴染んできたジャズ・ナンバーだ。たまには古典もいい。彼にとって、感傷は憂鬱とは無縁の何かだった。  塗装のない、古びた木のままのカウンター。壁際に四人掛けの、これも木目の露《あらわ》なテーブル席が二組。〈ロフト〉と店主の岩上龍一が名づけて七年前にはじめた。小ぢんまりとしたジャズ・バーである。  女にビールを注いでやると、肩をすぼめるようにして受けた。知らぬふうを装っているが、しばしば磁力に惹《ひ》かれるように注意が向いて、細部まで観察してしまっている。大きな瞳やきりりとした眉はほとんど黒に近い。そのために、金色の髪とのかねあいがややちぐはぐな感じもするが、それほど気にはならなかった。  どこの国の女だろう。  岩上は、とりあえずの疑問を口にした。 「当てなさい」  悪戯《いたずら》っぽい目で、女は返した。あまり上等とはいえない革のハンドバッグからセブンスターをつまみ出し、ルージュの濃い唇に挟む。  岩上は、当てずっぽうに遠いところから、 「スペイン」 「ちがう」 「ギリシャ?」 「ノー、ノー」 「イラン」 「イラン?」 「アジアかヨーロッパか、ヒントがほしいね」 「ヒントない」  女が返して声を立てずに笑った。きれいな歯|並《な》みの笑い顔が愛らしい。 「わからない」 「わからないでかまわない」  首を振っていい放つと、唇を細めて煙草のけむりを宙へ向けた。身体のどこかに投げやりなものが巣くっているようだ。何ものかに怯《おび》えてでもいるのか、ときおり視線をドアのほうへ走らせ、耳を澄ませるようなそぶりをした。  閉店時間の午前一時になった。客のノリによっては延長することもあるのだが、その夜は微妙なところだった。勘定書きを客の前へ差し出して、無言のうちに閉店を告げるいつもの方法をとるには、女の存在が重すぎる。とりあえず、アルバイトの香を帰すことにして、客の反応を見た。年配の一人は間もなく帰ったものの、若い三人組は自分たちの話題を続けながらも、女に対する好奇心からだろう、いつまでもぐずぐずしそうな気配だ。  三十分が過ぎた。女はといえば、一向に席を立つようすを見せない。いっそう腰を据えてしまったような観さえあって、肌の浅黒さを化粧でやわらげた顔が酔いにほんのりと染って見えた。国籍を当てそこねてからは、これといった話題もない。  二時近くになって、きりをつけた。勘定書きをまず三人の前へ、そして女の前へも置いた。 「おしまい?」  心細そうな声音で女が尋ねる。  岩上は、小さく肩をすくめた。いたければ、もう少しいてもかまわないという意味だ。女は、物憂げにバッグを手にし、中の財布から千円札を二枚引き抜いた。おつりの三百円を受け取ると、それを無造作に放りこむ。  出ていけるなら、出ていけばいい。そう思って見ていると、倒れこむようにうつ伏せになった。金髪がカウンターに散り、ぐったりと上体の力が抜けて見えた。  男たちは、新たな好奇心を抱いたようだったが、 「さあ、終ろう」  店主に促されて、しぶしぶ腰を上げた。彼等がわざとのように賑やかに帰っていく間も、女は身動き一つしなかった。  追いきれずに女を見失った高林道範巡査は、一つ舌打ちをして苦笑した。その気になれば、近辺の酒場へ飛びこんだはずの女を探し出すことなどわけがない。  だが、係官を動員して当るほどのことではなく、かといって一人で一軒ずつ訪ねてみる意欲は湧いてこなかった。 (どうせ街娼か、でなければ不法残留者だろう)  考えると、いよいよ追う気が失せた。あれほど死にもの狂いで逃げる女だ。捕まえてみたところで、何のために摘発し取り調べるのか、疑問の一つも感じないではすまされないというのがこれまでの例だった。  あれはいつだったか。  高林巡査は、ゆっくりと自転車で街を流しながら思い出す。もう五年以上前のことだ。今回の女のように、不意の出合いがしらに慌てて身体の向きを変えるという些細《ささい》な動きをとらえて、一人の男を呼びとめたのだった。  その顔つきや物言いから日本人ではないと知ると、直ちに外国人登録証の提示を求めるのが常識である。男は、瞬間、観念したように両手を広げ、肩を落とした。家に忘れてきたと言い訳をしたものの、法は不携帯でも現行犯逮捕を認めている。署へ連行し、取り調べるうち、忘れてきたのではなく、はじめから無登録であることがわかった。しかも、ビザ切れで、不法残留者であることがわかり、出入国管理法違反(当時)および外国人登録法違反容疑で起訴され、裁判にかけられた。  男は、まだ二十代後半のアフガン人だった。ソ連のアフガニスタン侵攻に抵抗するイスラム教徒で、ソ連軍と戦うゲリラたちのためにいくばくかの資金援助をしたいというのが来日の動機だと訴えた。いわゆるアフガン難民であった。が、形式犯としての罪は逃れようもなく、懲役一年執行猶予二年の判決を受け、外国人犯罪者の通例として横浜入国者収容所に収監された。  救援団体が動き、かろうじて強制送還はまぬかれたものの、一年半余りにものぼる収容生活を余儀なくされたのだった。難民条約の発効によって、どうにか在留が認められるようになるまで、男にとっての貴重な時間が失われたのだ。  その端緒をつくった逮捕について、高林巡査はとくに胸の痛みを覚えるということはなかった。自己の職務を遂行したまでのことであり、その結果まで頓着するのは警察官として不適格者であることを自覚していた。ただ、後味はやはりよくはなく、職務に忠実であればあるほど避けがたく起こるこの手の問題にはどうにも割りきれないものが残ってしまう。  今日の女にしても……、と高林巡査は思った。世界は、狭い日本の階級社会にいる自分には手に余る。思いもよらないさまざまな事実の前に呆然《ぼうぜん》とさせられるばかりだ。理解を越えた世界は眺めているだけでたくさん。外国人のことは入管に任せておけばいい。  池袋警察署東口派出所へ戻ると、高林道範巡査はいつにない疲れを覚えてデスクに腰を落とした。そして、一人の泥酔者の処置をしに苦情の電話主のもとへ出掛けていくまで、ゆったりと煙草をふかした。     7 「どこへ帰るんだい」  半ば目を閉じて頭を上げた女に、岩上龍一はカウンターの中から尋ねた。やっとあと片付けも終えて、一服つけたところだ。  女は、ゆるゆると首を振った。金色の繊維の束が乱れて唇のあたりにほつれかかっている。酔いも少し回っているようだが、緊張の反動から力が抜けてしまっているのかもしれなかった。 「帰るところ、あるけど、ないの」  わけのわからない口をきいて、ふて腐れたように唇をまげた。  岩上は、何度か問い返して、今夜はどこかホテルに泊るつもりだけれど、まだチェック・インもしていない、という意味であることを知った。 「あなた、いいニホンジン?」  唐突に尋ねてくる。ただ苦笑を返して、岩上は煙草をふかし続ける。 「いくつ?」  女がぽつりと尋ねた。これも突然すぎたので、すぐには応えられないでいると、 「ハウ・オールド・アー・ユー?」  英語で問い直されて、意味がはっきりした。 「三十八。そっちは、まだ、二十……」 「ドクシン?」  相手の言葉を無視して問い続ける。 「ああ。まだシングルだ」 「ナマエは?」 「リューイチ」 「リューイチ。聞いたことあるナマエ。マンションにひとりいるの?」  岩上は、思わず笑った。見つめ返す女の目がもとの大きさを取り戻していた。  沈黙が続く。女は、グラスに半分ほど残っている気の抜けたビールをちびりと飲んだ。漂う色気が改めて岩上をとらえた。やみくもにセックスを意識した若いころのものではない。女の背景を思う気持が半ばする、奇妙な昂《たかぶ》りを感じていた。  新しいビールを抜いた。サービスだといって差し向けると、女はとまどったようすでグラスをつかんだ。 「あなた、やさしい。ロマンチスト」  ビールを受けながら、女がいって微笑する。少しズレているが、かまわない。  岩上は、自分のグラスを女の傍らに置いてから、回りこんだ。そばへ行く間に、女がぎこちない手つきで、だがちゃんと左手を添えて注いでくれた。  何とはなしにグラスを掲げあう。 「はじめて」  と、女がいった。「ニホンジン、サービスされたの」 「サービスしてばかりという意味かな」 「そうそう」  女は、大きく首を縦にして、「|た《ヽ》から、お礼、しなくちゃね」 「お礼」 「はい。……わたし、マンション、連れていく」  いって、女はそっと上体をもたせかけてきた。  岩上は、黙っていた。肩に女の重みを受けたまま、ビールを口に運ぶ。 「連れていきなさい」  と、次には命令口調でいった。  瞬間、それまで小さく流れていたジャズ・ピアノがやんだ。カセットが切れて静寂が訪れ、そのためにいっそう女の存在が濃く浮び上ったように感じられた。 「連れていくにしても」  岩上は、いった。「君がどこの誰なのか、少しは聞かせてくれないとね」  女が上体を離した。グラスを手にして一口だけ飲み、やがて、目にかぶさる髪を振り払うと、思いきるように、 「ストリップ・ショー、あなた、見たことある?」 「ある。ずっと昔」 「わたし、ストリッパー。ニホン|コ《ヽ》で、オドリコというの」  肩をすくめ、不安げな顔つきで、「見える?」 「どうりで美人だ」 「それでね」  岩上が冷静に受けとめたので安心したのか、女はそれからは声を弾ませた。「街、ふらふら歩くの、|タ《ヽ》メといわれているの。髪のいろ、かお、みんな|カ《ヽ》イジンだから。けど、歩きたいよ、たまにはね。買物する、大好きフライド・チキン食|ぺ《ヽ》たいよ。だから、劇場出て、気をつけて歩いた。けど、ウン悪かったね。やっぱり、ケーサツ見つかって、追いかける、わたし逃げる、走って走って、ここまで来た、あなたの店」 「じゃ、劇場へ帰らなければ」 「いいの。今日はおしまい」  要領は得ないが、その種の顛末《てんまつ》だったか。  岩上は、決めた。女の事情につき合うことによって抱えこむ何かを恐れるほど、いまの自分に失うものがあるわけではない。青春のほとんどを音楽活動に費やし、トランペット奏者としてプロを目差したものの、結局、それで生計を立てるまでには至らなかった。それでも、常に音に囲まれた暮しを求め、相続した長野県の土地を半ば処分して得た資金でこの店を手に入れたのだった。以来七年間、さまざまな出来事を経ながら過ぎて、今夜のことはなかでもいちばんの事件《ヽヽ》といってよかった。女が突拍子もなく口にしたロマンチストに、久しぶりに戻ってみるのもいい。どんなことに対しても警戒心のかけらさえ抱かず、ときにはこっぴどい目にもあった日々の……。 「荷物はどこ」 「コイン・ロッカー」 「池袋駅の?」 「はい。あした、取る。ストリッパーのシ|コ《ヽ》ト、だからドレス少し」  冗談をいう余裕をみせて、女はファッション・グラスをかけ、バッグを引き寄せた。 「名前は?」 「ビリー」 「いま、自分でつけたのかい」 「じゃないよ。ほんとのナマエ」  女が少しむきになったのを見てとって、嘘だな、と岩上は思った。が、それ以上はいわなかった。  扉を開いて先に女を出し、電気を消した。  非常階段から裏通りへ出た。  腕をからめ、頬を肩先に押しつけるようにして、女は歩を進めた。二十分は歩かねばならない。北口へのガードをくぐり、西口へ出て、さらに通りを要町の方角へ向う。途中で左へ折れると、比較的静かな住宅街だ。岩上のマンションは、その界隈の路地をいくつか折れていった先にあった。  最上階の四階へ、エレベーターがないため、歩いて階段を上る。上りきると、まずまずの眺めがひらけた。建って間がない高層ホテルがはるか前方にそびえ、最近にわかに増えはじめたモーテル、大衆酒場、デパートほか、西口界隈のネオンの断片が静かな光を放っている。周囲はアパートあるいは一戸建の人家が多く、四階から見れば低い建物が点々と連なる街灯に薄ぼんやりと浮んでいた。     8  謎の金髪女性が劇場の踊り子であると知れて、捜査本部はにわかに活気づいた。  楠木、朝森両刑事の報告を受けて、翌日、再び劇場の社長古塚芙左次ほか従業員からの事情聴取が行なわれた。  捜査強化によって、古塚社長は恐れをなしたのか、当初はないといい張っていた写真の提供に応じた。二枚あり、うち一枚はポラロイド写真で、深紅のワンピースを着けてやや斜にかまえた全身、もう一枚は丸舞台に横臥《おうが》して頭を肘で支えた腰から上の裸身であった。  重要参考人手配がこれで徹底された。まず、潜伏している可能性の強い首都圏の各警察署および駅、空港、タクシー会社、盛り場、銭湯など人の多く集まる場所へ、顔写真と特徴を印刷したチラシが配布された。状況は、ほぼ犯人であると名指していたが、女を捕えてその指紋等の照合から確証を得られない以上は、まだ断定できず、従って重要参考人として手配されたのである。  だが、姓名と国籍の特定については、なおもあいまいであった。一応、劇場の踊り子名簿に記載されている通り、アメリカ人サリー・ブラウンとされたが、但し書きに、国籍偽称かつ偽名使用の可能性大、とつけ加えられた。また、頭髪についても、染めた金髪で本来は黒い、と記された。その他、身長・百六十〜六十五センチ、年齢・二十五歳前後、肌の色・浅黒い、歯・白く歯並びがよい、等々。  捜査は、手配の一方で多面的に展開された。全国の劇場に対するローラー作戦もその一つで、どこかに出演もしくは潜伏しているおそれもないとはいえず、また踊り子をはじめとする関係者からの情報提供を期待して、道府県警の協力のもとにおし進められた。  対象となる劇場は、百五十七軒余りにのぼった。東京都や千葉、神奈川、それに愛知のそれぞれ十数軒を筆頭に、十軒に満たない北海道、大阪、兵庫、福岡から、青森、岩手などの二軒、島根、山形などの一軒、といった少数の県まであった。それぞれの劇場に七人ないし八人、少なくとも四、五人の踊り子が出演していることからすると、その人数もかなりのものである。  だが、ミス・サリーを知っているという者は一向に現われなかった。ただ、出演させたことがあるという劇場は、関東に数軒あったが、それも一週、十日間で去っていく一踊り子にすぎず、有力な手がかりにはなり得なかった。  それにしても、写真で示されたミス・サリーを知る踊り子が誰一人としていないというのは、考えられないことだった。知ってはいても、協力を拒んでいるものと考えられた。平素から警察には苦い思いを味わっている者が少なくない。公然ワイセツでパクられた子も少なからずいる。およそ不法に残留して資格外の活動をしている外国人の踊り子にとってはなおさら、警察は恐怖以外の何ものでもない。逮捕歴はなくても、ケイサツと聞いただけで敬遠するのが誰しもに共通した感覚であったろう。  それは、捜査の最大の壁であった。容疑者の検挙には市民の協力が必要であるのに、一枚の写真入手にも手こずらされるほど、警察には係わりたくないという業界で起きた事件であることが、ここにきてタチの悪い意味をもってきたのだった。  事件発生後二週間が過ぎて、捜査陣に焦りが生まれていた。歌舞伎町以外の盛り場へも聞き込みの枠を拡げて足を棒にする刑事たちは、連日、空振りに終り、捜査会議の席上でも有効な手段は打ち出せなかった。  十一月も中旬に入ったある日の午後である。  捜査本部に一本の電話がかかってきて、柳原警部補が受けた。女の声で、ミス・サリーをよく知る同業者だという。身分や名前を告げることは拒んだ。話の中身は、�あすなろ芸能�というところを調べれば何かがわかるかもしれない、との情報提供《タレコミ》だった。ミス・サリーは、その芸能プロダクションの所属であったという。 「新宿スター劇場の所属ではなかったのかね?」  と、警部補は問い返した。  ——一応、そういうことになっていると思います。  若くはない、しわがれ声が続けた。というのは、踊り子はコースというものを劇場側に組んでもらっているんです。十日ごとに、今週はここ、来週はどこそこというふうに。つまり、劇場がプロダクションを兼ねて、踊り子が所属するケースが多いのはそのためなんです。 「なるほど」  柳原警部補は、受話器を肩で耳に押しつけてペンを走らせた。  ——ところが、それは日本人の踊り子の場合なんです。外国人の場合は、そういうコースを任せるために所属する劇場と、もう一つ実際に身を預けている事務所があるんです。これは、呼び屋を兼ねていることが多くて、あすなろ芸能もその一つです。 「つまり、外国人の場合は、所属の仕方が二重構造になっていると?」  ——そうです。 「そこを調べてみよという理由は」  ——それは、わたしの口からはいえません。 「聞かせてもらいたい。どんな話でもいい。……」  ——事務所は大久保にあって、社長はその筋の有田という人です。では……。 「待ち給え」  柳原警部補は、あわてて制止した。「われわれは、情報源については秘密を厳守する。絶対にあなたの名前は明かさない。だから、こちらから派遣する捜査員に……」  ——申し訳ありません。  女の声が断定的にさえぎり、次の瞬間、切れる音がした。  やむを得なかった。芸能プロが係わっていることがわかっただけでも収穫だ。そこに女をかくまっている可能性がある。でなくても、女の所在くらいはつかんでいるかもしれない。 (どいつもこいつも、しらばくれおって!)  柳原警部補からの報告を受けたキャップの峯岡警部は、毒づいて拳《こぶし》をテーブルに打ちつけた。     9  すでに昼近くなっていることが、覚めたばかりの目にうつる厚い灰色のカーテンの明るみようからわかっていた。時間的にはいつも通りだが、疲れの取れぐあいがまだ充分ではない。その原因が昨夜の出来事にあることを、しだいにはっきりと意識する。  ベッドに横たわったまま、上体を折り曲げてリビングのほうへ目をやった。ソファの背もたれの端から、わずかにブロンドの髪がのぞいている。やはり現実にあったことなのだと心の中でつぶやいて、岩上龍一はぼんやりと昨夜の記憶を辿ってみた。  部屋へ入ると、女は道すがらのような身の寄せかたはしなかった。ソファの隅に腰をおろし、両の腕をかき合わせて背中を丸めるようすは、それまでよりも緊張の度合を増したように見えた。やはり見ず知らずの男の部屋に転がりこんだことの不安だったか。こちらはごく自然に振舞いながら、缶ビールで飲みなおした。女も少しつき合ったが、店で見せた口数の多さといくぶんかの朗らかさは影をひそめていた。目をあわせるときまって微笑んでみせるのは、感謝していることの精一杯の表現だったか。  何を話したのかは、ほとんど覚えていない。会話といえるようなものは交さなかった。部屋へ入ってからの女には、どこか人を寄せつけない雰囲気があって、ソファの端と端との距離はいつまでも縮まりそうになかった。傷つき、怯え、途方にくれた抜けがらのような顔。疲れ果てていて、声も出せないような状態だったのかもしれない。ときおり、丸めた上体を伸び上らせるように大きく息を吸っては吐いた。  そのままソファに横になれば、一晩くらいどうということはない。女がそうしたいといったので、厚手の毛布一枚と、都合よくクリーニングから戻ってきたばかりのガウンを出してやった。あとはシャワーを浴びるなら浴びるようにと、その使いかたを教えてから、自分は十畳の間に引き上げてベッドに入ったのだった。  いま、その洋間から、襖を取り払ってある八畳のダイニング・キッチンが見通せるのだが、一部は死角になっていて、女の髪がのぞくソファの背も半ばしか見えていない。選りすぐったオーディオ機器が洋間のおよそ四分の一を占め、あとはセミダブルのベッド、整理箪笥、テーブル、それに本棚やレコード収納棚が壁にそってある。以前よりもひと回り広いところを求めて、最近、引っ越してきたのだった。  パジャマをジーパンとTシャツに着替えてから、岩上龍一はキッチンへ行った。そっと忍び足で入り、ソファを見る。女は、横向きになって眠っていた。やや膝を折り曲げ、顎を胸元へ埋めるようにして目をつぶっている。身体のラインを浮き上らせる毛布の形が思ったより小さく、やはり女だな、と思う。水道の栓をひねる。その音で、女が動いた。薬缶《やかん》に水を入れ、ガスを点《つ》ける。振り返ると、たったいま目覚めたとは思えないほど大きな目を開けていた。 「起きていたのか?」  うなずくように瞼を閉じてみせた。頬までかかっていた毛布を押しのけて、おはよう、という。ジャケットを脱いだだけで衣服は着替えておらず、化粧も落としていない。ゆっくりと起き上った女に、コーヒーを飲むかどうか尋ねた。 「薄いの、飲みたい」  かすれ声で答える。髪をかき揚げて広い額を出し、両腕を前でかき合わせて背中を丸くする。昨夜も見せたその格好のまま、岩上のすることを眺めていた。  湯が沸いて、ドリップ式のコーヒーをいれにかかった。ブルーマウンテンが基調のブレンドをいつもより多めに入れ、薬缶の熱湯を落とす。朝昼を兼ねる食事は、ふつうパンで簡単にすませるのだが、その日の胃の具合からすると、あと二、三時間は何も要求しないだろう。女も、食欲がないといいたげに胸をさすって首を振った。  コーヒーをすすり、煙草に火を点ける。女にも一本すすめた。何か言葉らしい言葉を交そうと思うが、話題が見つからない。ビリーと告げられた名前からして、かりそめに呼ぶにも抵抗を感じてしまう。コーヒーが底をつき、すっかり目もさめると、さてこれからどうするのか、話は自然とそこへ行かざるを得なかった。 「わたし、ハウス・キーパー。あなたのメイド」  女が力をこめていった。とっくに用意してあった言葉のようだ。  そんな予感がしていた。駅のロッカーに預けた荷物を明日とりに行く、と話したときから、女が望んでいることをうすうすは感じとっていたのだ。  拒む理由は、思いつかなかった。どれほど得体の知れない女であっても、窮鳥であることに変りはない。何か姦計《かんけい》をめぐらしている恐れなどみじんもない。そして、気楽な独身ぐらしを少しくらい邪魔されてもこの娘となら我慢できるだろう、そう思える基準に適っていた。 「店を手伝ってもらうかな?」  岩上が提案すると、 「お店は|タ《ヽ》メ。ハウス・キーパー」  即座に首を振って返した。やっと昨夜の、彼女らしい口調が戻ってきたようだ。  岩上は、引きさがった。衆目にさらされてする仕事は避けたいというわけだろう。 「せんたく、そうじ、|た《ヽ》いじょうぶ」 「料理はどう」 「ラーメン、ヤキニク、サカナ、かん|つ《ヽ》め、……」  少し明るい顔になっていう。 「スーパーで買物したことはあるのか?」 「ときどき」 「よし。これから出かける」  口調まで相手に影響されて、岩上はいった。「駅のロッカー、荷物をとる、それから、買物する、オーケー?」  女が背中を伸ばして微笑する。ほっと安堵《あんど》の溜息がその唇からもれたように見えた。 「女の人、来ない?」  念のために尋ねたのだろう。岩上は、笑ってうなずいた。  実のところ、たまに気まぐれのようにつき合っている女はいた。が、こちらから誘わなければまず来ることもない、その程度の距離を保った関係だ。この十年来、結婚まで約束していた長年の恋人が去ってからというもの、それほど深くつき合った女はいない。いつのまにか気楽な独身生活になじみ、異性関係じたいを面倒なことの一つに数えてしまっていた。が、その面倒も場合によっては受け入れる余裕が残っていたというわけだ。 「一つだけ、正直に答えてほしいな」  置く条件として、岩上はいった。「君は、誰かに追われているんだろう」 「どうして」 「わかるさ、それくらい」 「………」  女は、うつろな目を宙に向けてしばらく黙り、つぶやくようにいった。「いろいろあったからね」  微笑したあとで、目もとを不意に哀しげな色に染めた。根はめっぽう明るいはずの女が何らかの事情で弾みきれないでいるのはわかっていたが、そんな顔を見るのははじめてだった。 「もう二度と劇場には帰りたくないような?」 「はい。そう」  それ以上は聞かずに、岩上は首を縦に振った。無理に詮索して得るものは、おおむねそれよりも大事なものを壊してしまうものだ。  まず、池袋駅へ向った。通りへ出て歩きはじめると、昨夜のように肩を寄せてくる。恋人のようにしていたいのだな、と岩上は思う。そのほうが人目を逃れられると考えているらしい。道すがら、岩上の左から右へと位置を変えたのは、前方左手に交番があるからだとわかったとき、やはりその関係で怯えているのだと察せられた。  駅構内の大型コイン・ロッカーだった。女が追加料金を入れ、鍵を回して扉を開ける。取り出すのが難儀なほど、物でふくれ上った黒い布製バッグだ。肩にかけると、一瞬バランスを崩しそうになったが、すぐに立ち直り、歩きだす。女の全財産が納まっているらしかった。途中で岩上が持ってやると、女はもう片方の腕に腕をからめた。かすかな後悔が胸をかすめた。バッグの重さそのもののような負担が、この先ふりかかってくるような気がしたのだ。  いったん部屋へ戻り、改めて出かけた。こんどは店の買い出しを兼ねてスーパー・マーケットへ行き、女の指示するものをあれこれと籠に納めた。何をつくるつもりなのか、よくわからない。インスタント食品が主なその選び方からすると、とうてい料理などは期待できそうになかった。  スーパーを出たところで、短い立ち話を交した。電話については、三度鳴らしていったん切り、また掛けるという合図を取り決める。ガスと火のもとには気をつけるようにという。その他、ドアの外に誰が来ても一切応えなくていいというと、女は意を得たようにうなずいた。そして、合鍵を手渡した。 (これで最終的に同居を認めたことになる)  小さく手を振って背中を向けた女を見送りながら、岩上は胸でつぶやく。軽率かもしれない自分の行為に苦笑しながら、だが、およそ男というのはこんなふうに女を受け入れるものだと開き直り、五時過ぎにしてすっかり暮れなずんだ街を店へ向って歩きだした。     10  あすなろ芸能の地番は直ちに割り出された。指示を受けたのは、被害者の浩がしばしば足を運んでいたという新宿二丁目で聞き込みを続けていた楠木、朝森両刑事であった。  新宿職安通りに面した七階建雑居ビルの三階。ドアのガラスに黒文字で社名が記されていて、�株式会社�が頭に付いていた。  有田誠吾の名は、警視庁捜査四課によってマークされている。前科十一犯の四十七歳、京都府出身、暴力団××組幹部として新宿ほかを根城に暗躍しているが、その活動の一つには確かに芸能プロがあった。主にキャバレー、クラブ、温泉旅館、ヘルスセンター等へのドサ回りタレントをかかえ、メンバーは踊り子、歌手、手品師、色もの(漫談・漫才など)の芸人、それにテレビや映画の仕出し(エキストラ)など多方面にわたっている。まだ世には出ていない二流三流のタレントがほとんどで、明日はヒノキになろうといった意味の社名がいい得て妙だ。最近では、日本への出稼ぎ女性を多数所属させているらしく、ミス・サリーなる踊り子もその一人であることは間違いがなかった。  十坪ほどの部屋である。受付のようなものはなく、衝立《ついたて》の向うにデスクがいくつか並んでいて、二人の刑事が顔をのぞかせると、骨と皮に痩せた若い女が応対に出た。 「お通しして」  正面のデスクから、男がぶしつけな声を放った。  有田ではなかった。�専務取締役 広旗良三�の名刺を差し出し、社長の代理であるという。いつかは刑事が来ることは承知していたらしく、いささかも動じるところがない。茶の三ツ揃《ぞろ》いで決めた痩身の四十がらみ。髪をスポーツ刈りできちんとセットし、すこぶる血色のいいエラの張った四角い顔に、やたらと光る金縁の眼鏡をかけている。  ソファに刑事たちを座らせ、ぼんやりとした事務員にお茶を持ってくるよう叱《しか》りつけるように命じてから、おもむろに着席した。 「社長はめったに顔を見せませんのでね」  広旗は、気色ばんだ口調でみずから切り出した。「何しろ忙しい人で」 「今日はどちらのほうへ」  朝森警部補が尋ねた。 「さて。大阪の方じゃないでしょうか。このところ、よく往き来しているようですから」 「大阪での所在は——」 「わかりません。ここはわたしに任せっきりで、たまに連絡が入る程度ですので」  広旗専務は、卓上ライターで煙草に火を点けた。けむりを遠慮なく刑事たちのほうへ吐いて、ところでご用件は、と問う。 「改めてご説明するまでもないと思いますが?」  部長刑事に毅然と返されて、広旗は苦笑ぎみに首を振った。 「まったく、とんだ事件を引き起こしたもんです。まさかサリー嬢があんな男に深入りしていたとは、思いもよりませんで」 「おたくには、彼女はどういう形で所属していたんですか」 「ご承知のように」  広旗は、煙草の灰をしきりにはたきながら、「踊り子の場合、劇場側にゲタを預ける形をとっておりますので、わたしどもは日常的にはほとんどタッチしておらんのですよ」 「聞くところによると、彼女はアメリカ国籍ということですが?」 「はい」 「しかし、それはただの触れこみとか」  と、朝森警部補が後をついで口調をきびしくした。「逮捕すればどうせわかることですよ」 「いや。わたしはただ、アメリカ国籍のサリー・ブラウンとしか聞いておりません」  広旗が真顔で返した。「社長からそのように聞いておりますので、間違いはないはずです」 「その社長は、どこから彼女を連れてきたんです?」 「ロスです。ロスの日系人の仲介であると、わたしは理解しておりますが」 「理解している?」 「ええ。向うからの踊り子は、ほとんどがロス経由で来るものですから」 「経由というと、アメリカ以外の土地から来ていることになる」 「いえ。彼女の場合は、確かテキサスの出身でしょう」 「やはり、有田社長から聞かされてそのように理解していると?」 「そうです」 「さっきから聞いていると、とてもおたくに所属していたとは思えない、まったく他人事《ひとごと》のような言い草ですな、専務さん」  楠木は、低いドスを効かした声音で割って入った。「劇場の踊り子は、最近ではヨーロッパやアメリカから来る女はほとんどいないということですよ。お宅がかかえている出稼ぎ女性にしても、豊かな国からの女は一人もいないはずですがね」  広旗が、わずかに目をうろたえさせた。短くなった煙草のけむりに顔をしかめ、困惑したように手指で顎をもむ。事務員がお茶を運んできて、それぞれの前に湯呑を置く間、妙に張りつめた沈黙が流れた。  やはりそうか、と楠木は思った。これまでの捜査で、女はアメリカ国籍ではないことがほとんど確実視されている。しかも、関係者への聞き込みの結果、本来の黒髪を金色に染めているのは、コロンビア、チリ等の南米からの女であることが判明したのだった。  そのことが報告されたのは、先日の捜査会議の席上であった。膠着《こうちやく》状態が続く捜査の中では、犯人逮捕と直接結びつくわけではない間接的情報にも意味があった。本庁からの若い一捜査員は、いった。「劇場関係者の話によりますと、黒髪を金色に染めて舞台に上るのは、南米からの女であるということです。なぜ、そのようなことをするかといいますと——、チリやコロンビアの女の顔立ちは非常に彫りが深く、西洋人に近い面影をもっているにもかかわらず、もともと髪や瞳が十中八九、黒い。これは、彼女たちのほとんどが原住民のインディオと西洋人、主にスペイン人との混血であるためですが、その黒髪を金色に染めさえすれば、確実に西洋のイメージを提供できるわけです。従って劇場サイドもこれを歓迎、奨励し、髪を染めたコロンビア人やチリ人にかぎって、西洋人なみに優遇するそうです。このような背景に、さらにこれまでの目撃者証言を加えて判断すれば、女が南米人であろうことはほぼ間違いないものと思われます」  その報告は、かなりの説得力をもって捜査員たちをうなずかせたものである。 「同じアメリカでも南のほうではないのかね」  部長刑事に迫られると、広旗は苦笑しながら煙草を灰皿に押しつけた。 「おっしゃる通りかもしれませんな」 「かもしれないというのは——」 「われわれには、暗黙の了解というものがあるんですよ」  広旗専務が開き直ったように声を高くした。「アメリカ人であるといわれて実際にそういうふうに見えさえすれば、そうかということになるんです。社長の有田が彼女はアメリカ人のミス・サリーだといえば、わたしも含めてみんなはそれで納得するんですよ」 (クソッ。得体の知れない野郎だ)  楠木は、腹立たしさを抑えて問い続ける。 「で、劇場では、彼女はどこの出身であると考えられていたんです?」 「先ほどのお話のように、南アメリカだろう程度のことはわかっていたと思いますが」 「ロスに、そういう踊り子を仲介する業者がいるわけですか」 「ええ。ほかにもいろんなケースがあるんですが、うちと関係があるのはそうです。たとえばコロンビアですと、ボゴタ、ロス、東京というコネクションですね」 「すると、彼女もそういうルートで来日したと考えていいわけで?」 「いいと思います」 「コロンビア人であると?」 「はい」  うなずくと、広旗はおもむろにお茶をすすった。  未だ釈然としないが、そういった議論はやはり捜査の最重要課題というわけではなかった。あくまでも周辺の事実であり、そこから肝心の女の逮捕へと結びつくには相当の距離がある。両刑事は、一応の納得をして、ぬるくなったお茶をそれぞれ一口だけすすった。  次が本題だ。女の行方について心当りがないかどうか。 「正直いって、何も存じません」  一瞬のためらいもなく、広旗専務は返した。「わかっておれば、もちろんご報告申し上げたいところです。そのほうが彼女のためでもあるでしょう」  こうまできっぱりといわれてしまうと、言葉の接ぎ穂が見つからなかった。刑事たちは、ちらと顔を見合わせ、かすかな吐息をついた。  朝森警部補がいった。 「彼女がコロンビア人であるということは、その本当の名前があるということですね」 「そういうことでしょうな」 「何という名前ですか」 「わたしは、存じません。彼女は、先ほども申し上げましたように、あくまでもアメリカ人サリー・ブラウンとして登録されているものですから」 「しかし、パスポートというものがあるでしょう」 「わたしは、見ておりません。うちは何もかも社長が取り仕切っておるものですから」  広旗は、いい切った。まったくもって、呆れるほどとぼけてくれる。が、最後の台詞だけは、妙に実感がこもっているように楠木には感じられた。  その夜の捜査会議は、しばらくぶりに活気を取り戻した。二点の新しい事実がもたらされたからである。  一つは、女の出身国についての楠木、朝森両刑事の報告で、捜査陣の予想通り南アメリカのコロンビアであるらしいこと。そして、もう一点、柳原警部補が告げた。 「本日午後、池袋警察署の高林巡査から、非常に参考になる情報が寄せられております。それによりますと、つい一週間ほど前、同巡査が東池袋を巡回パトロール中、手配書の女とよく似た不審な外国人を発見し、ただちに呼び止めようとしたところが、女は一目散に逃げだし、路地の奥へ、おそらく密集する酒場の一軒へと駆けこんでしまったということであります。単なる不法残留者であると考えて、とくに捜査には及んでいませんが、女はストリート・ガールのようにも見えたということです」  柳原警部補がボードに発見現場の略図を描いていく。 「被疑者は、街娼になっている可能性があるというわけですか」  と、一人の捜査員がいった。 「おそらく、そうだろう」  峯岡警部がうなずいて、ゆっくりと続ける。「昨今、不良外人がとみに増えているが、職にありつけない者のやることは決っている。窃盗《せつとう》、強盗、それに娼婦だ。社会と関係を持たずに生き延びていく手段は、その三つくらいしかない。被疑者の場合は、とくに手配中の身であることを自覚しているだろうから、売春といっても組織には入っていけない。路上の一匹狼になるしかないわけだ」  警部が話し終えると、柳原警部補が指示棒で女が発見された地点を指した。  超高層ビル�サンシャイン60�に向う大通りの中ほどを北へ折れ、明治通りへ向って百メートルほど入った地点。そこから女はさらに三十メートルほど北へ走り、西へ折れ、それから先はどの方向へ入りこんだかわからないが、その近辺の酒場であることは間違いがない。  従って、今後は女が発見された地域への聞き込みをはじめ、盛り場のパトロール強化が捜査のポイントになる。逮捕は時間の問題だろうが、この大東京のこととて楽観は許されない。会議はめずらしく予定を延長して、峯岡警部の指揮のもと、一気に女を追いつめるべく、それぞれの刑事の分担と目標が綿密に検討されていった。     11  店が閑《ひま》なので早めに閉めて、女が待っているはずの部屋へ帰っていく、その足取りがおのずと速くなっていった。途中、公衆電話からいつものやり方で電話を入れてみたが応答がなく、少し心配になったせいでもある。出ない理由はいくつか考えられた。トイレに入っている、シャワーを浴びている、ちょっと煙草でも買いに出かけている。……  四日目の夜だ。まだ、新しい環境になじんではいない。岩上自身にしてもそうだった。自分の留守の間も女が部屋にいると考えるだけで、なぜか落ちつかないのだった。メイドになるとの言葉通り、よく立ち働いてくれることは最初の一日でわかっていたが、それで万事よしというわけにはもちろんいかない。女の素姓がはっきりしないのと同時に、ここにこうして居座る目的がつかめない。そのことのもどかしさ、ふっきれなさが胸につきまとう。一体、女はいつまでいるのか、この先どうするつもりなのか、そして、自分に対しては何を求めているのか、そういったことがまるでわからないのだった。そのうち、はっきりさせなければならないだろう。いや、時間が経てばおのずと明らかになってくる。そんなふうに気楽に考えてもみるのだが。  通りから見えるベランダ側の部屋には、明りがついていなかった。ドアの前に来て、キッチンの窓も暗いことから、岩上は不審を抱いた。眠っているのか、と唯一の可能性を頭に置いて、壁のスイッチを押した。女が昨夜もそこで寝たソファには、クッションが二つのっているばかりだ。奥の部屋をすかし見たが、女の姿はなかった。押し入れにでも隠れていて驚かすつもりかと、子供じみた想像をしてみたが、その気配もない。  出ていったのかと疑ったのは、ほんの一瞬だった。キッチンの隅に置いてある黒い大きな布製バッグ。それを目にとめて、岩上は笑みをこぼした。やはり、近くへ用足しに出かけたのだろう。風呂場をのぞいてみると、空気が生暖かくタイルが濡れていて、女がシャワーを浴びた後で出ていったことがわかった。  飲みながら待った。いまにも足音がマンションの外階段を上ってくる。そう思いこんでいた。が、一向に女は戻ってこない。素面《しらふ》がウィスキーの水割りを重ねるうちに火照りを帯びて、再び首をかしげること頻《しき》りになった。時計を見る。もうすぐ午前二時だ。普段でもそろそろ店から帰ってくる時間で、女もそのことはわかっているはずだった。 (しかたのないハウス・キーパーだ)  愚痴りながら、同時に、女がどこへ何をしに出かけたのかという疑問を改めて抱いた。街を歩いて警察官の職務質問にあい、不良外人の疑いをもたれて連行されていったのではないだろうかと、そんな心配までもする。実際、あり得ないことではない。女が何者なのかがはっきりしない以上、どんなことでも起こり得るような気がしていた。  午前二時になってようやく足音が聞こえ、ドアのチャイムが鳴った。  開けてやると、すぐには入らずに立っていた。肩をすくめて顔をしかめるようすは、帰りが遅くなって叱られることを承知の娘のものだ。いつもなら一歩違いで女のほうが早かったかもしれず、そのつもりで急いで帰ってきたことが息の弾みようから推測できた。 「どこへ行っていた?」  岩上は、やんわりと聞いた。 「ちょっとね」  あいまいに答えて、玄関へ身を入れる。パンプスが遠出を語っていた。 「ちょっと、どこへだ」 「ちょっと」  女が唇を曲げる。あとが続かない。嘘の用意はしてこなかったようだ、と岩上は思いながら相手を観察した。  入ってきたときから、香水の匂いがしていた。化粧もかなり濃い。店へ飛びこんできた最初の夜とほとんど同じ装い。ジャケットの下がブラウスに変っている程度だ。岩上の中で、直感的にひらめくものがあった。 (やはり、その種の女だったか)  胸のうちでつぶやき、苦笑する。こちらが留守の間に商売に出かけ、適当に帰ってきてそ知らぬ顔をしていたのではないか。今夜はたまたま予定の時間を過ごしてしまい、秘密の行動をさとられてしまったというわけだろう。が、女の当惑顔を見つめていると、失望や怒りの感情は湧いてこなかった。しょうがない女だと舌打ちをした後は、この際、少し話を進めてみようという気持になっていた。 「お金をくれる男と会ってきたのか?」  単刀直入に、岩上はいった。グラスを女のためにもう一個、テーブルに置く。 「しかたないね」  と、女はあきらめたような弱々しい口調で、「わたし、お金ほしい。|た《ヽ》から……」  岩上は、落ちつき払って水割りをつくった。いまや女の事情に立ち入る資格ができたというものだ。 「お金がほしい理由《わけ》は、自分の生活のためだけじゃない。そうだね」  ゆっくりと言葉を選んだ。水で割ったウィスキーを箸《はし》でかきまぜ、テーブルをすべらせる。女は、黙ってグラスを受けとると、ちびりと口をつけた。 「国の家族のためじゃないのか?」  見つめ返す女の顔が、なぜわかるのかと問いたげだ。岩上は、微笑を返した。自分ひとりが食うために異国へ渡ってストリップ劇場で働くような女ではない。それくらいのことはわかっている。  女がぽつぽつと問いに答えた。父親、祖母、それに五人の弟妹——、妹、弟、妹、妹、弟といる。母親は、すでに亡く、父親は働かない、というより身体が弱くて仕事ができない。それだけ聞けば、ぼんやりと境遇の輪郭が見えてくる。その先へは、女の国をはっきりさせないと進めなかった。 「暑い国なんだろう」  間接的に問いはじめる。 「みんな、びんぼう」  と、女が返した。 「南のほうか」 「ニホンよりもね」 「島かい、それとも大陸かい」 「わたしの国、カタチ?」 「そうだ」  女は、唇を突き出すようにして肩をすくめると、 「どうかなあ。小さいかなあ、大きいかなあ」  気色ばんだ調子で、横着なまでにとぼけてみせた。  なぜだ。岩上は、苛立《いらだ》ちを抑えながらグラスを口に運んだ。どうして自分の出身国くらい、素直にいえないのか。それを聞けば、こちらの態度ががらりと変ってしまうとでもいうのか。  女が何をやってきたのか、あるいはどんな目にあってきたか。それを岩上は考える。犯罪——、まず第一に、思いついた。追われる身であれば、相手を警戒して素姓は隠すだろう。ここへ転がりこんだのは、ただの羽休めであって、そのうち飛び立っていくのであれば、容易には気を許さないこともうなずける。 「どんな目にあってきた」  手がかりを求めて、岩上は尋ねた。 「メ?」 「ひどい目にあうとか、そういうメだ」 「わかる」 「劇場を出て、町を歩いていると、警察に見つかって逃げてきたという、そんな簡単な話じゃわからない」 「わからないでかまわない」  独特の言い回しで、女は突き返した。しばらく黙りこみ、それから拗《す》ねたような声で、 「何も話さない、|タ《ヽ》メなら、わたし、出ていく」  いって、顔をそむけた。そのままソファの背に頬を押しつけ、息をつめる。  こうまで徹底して自分を隠すのは、たとえ犯罪者であったとしてもそれだけでは説明がつかないような気もした。バッグの中をどれほど引っかき回したところで、身元を証明するものは探しだせないにちがいない。そう確信させるほどに、女の態度は頑《かたく》なだった。 「今夜、客は見つかったのか?」  ながい沈黙の後で、岩上は話しかけた。女が上体の力を抜いて、ゆっくりと振り向く。見ひらいた瞳が、潤《うる》んで黒さを増していた。 「いくらか、稼いできたのかい」 「歩いて、疲れた。それだけ」 「一人もか」  女がひねるように首を縦にする。そのようすが子供っぽくて、岩上はふっと笑いをこぼした。  女の得体の知れなさに対する恐れだけは、いまもない。女は、ただの女だった。名前も国籍もまとうことのない、いわば裸の女。そのような存在に逆に魅せられている自分を、岩上はつよく意識した。実際の裸に触れてみたいという、これまでになかった欲求が湧き上ってくる。 「ここに一人、客になりそうな男がいる」  かるい調子でいった。女が驚いたような顔をする。  岩上にしても、お金でどうこうしようなどと本気で考えたわけではない。素直に思いを告げることができない者の、照れと逃げだった。冗談だと笑い飛ばすならいまだ。が、それをためらっているうちに、女が行動を起こしていた。  ソファに座り直す。ジャケットを脱ぎ、足を組んで新しい水割りをつくると、乾杯をするように掲げてみせた。一息に半ばを空け、熱い、誘いこむような目で相手を見つめる。その眼差しが岩上の中の欲望に火を点け、酔いを倍にして我を忘れさせた。  口づけた髪の底が黒かった。  それを目にとめた瞬間、岩上はふと動きをにぶらせた。ほんの一センチばかりの新しい生え際の黒さに、女の黙して語らない何かを垣間見たような気がしたのだ。ベッドの枕元のほの暗いスタンドにも、金色と黒の違いは鮮やかなほど境を際立たせていた。  女の顔をのぞきこむと、目を開いて見つめ返す。底の髪と同じ色の瞳が、どうしたのかと問いたげに光った。額にかかる髪を岩上の手がかき揚げると、そこにも、黒い部分がややグロテスクな感じで、きれいな生え際をなしていた。パーマをかけてボリュームを出しているために、ふだんは目立たなかったのだ。  女が岩上の手をそっと払いのけた。見ないで、とでもいうように掌で目をふさぐ。岩上は、かわりに顔に触れた。浅黒い、だが、いくつかある黒子《ほくろ》はくっきりと素肌に浮いて見えるほどで、何かしら精巧な彫り物にさわっているような感触があった。唇をかさねると暖かな舌をからめてきて、いったん萎えていた力が戻ってくる。が、それからは、熱した身体にいくらか水を差されたような思いで女を抱いた。肉体そのものの輪郭もよりはっきりと意識した。外観から想像していたほどの豊かさがなく、乳房でさえも意外に張りと瑞々しさに乏しい。むしろ痩せ衰えているといってもいいくらいで、乾き擦りきれてきた歳月を感じさせずにはおかなかった。 「頭の髪」  ベッドに身を並べてしばらく経つと、岩上はいった。「もとの黒に戻したほうがいいんじゃないかな」 「………」 「そのほうが奇麗になると思うよ」  女は、なおも黙っていた。息づかいだけが静かに伝わってくる。沈黙の後で横顔をのぞいてみたが、何の反応もみせなかった。  岩上は、目を閉じた。にわかに夜が深くなった。そばで女が眠っていることさえ実感できなくなっていく。かといって、すぐには寝つけそうにない。一人のときには感じることのない奇妙な孤独が、かすかな金縛りのように身体を包みこんだせいだ。     12  舞台が暗転した。  綿谷四郎は、ピン・スポットのスイッチをONにして天井隅に絞っておき、踊り子の登場を告げる声をマイクに通した。続きましてのステージ、ミス・メリー嬢によりますタッチ・ショー。客に大きな拍手を促す。レッツ・ゴゥ! ミュージックのプレイ・ボタンを押す。ディスコ・ダンスにふさわしいロック調の曲に英語の女性ヴォーカルがかぶる。  と、女が舞台袖から歩みだした。黒いスキャンティに胸の大胆に開いた黄色いTシャツ姿。踊りはじめた本舞台の中央へスポットが投光され、ステージ・ライトが目まぐるしい点滅をくり返す。少しウェーブがかかった肩までの黒髪、大きな瞳とよく通った鼻筋、整った胸。丸顔の浅黒い肌がいかにも南国フィリピンからの娘を思わせる。  踊りの振りは小さい。というより、まっとうに踊る意志がないといったほうがいいだろう。ときおり挑発的に身をくねらせて男たちの視線を集めながら、右へ左へ前へ後へとステップを踏む。  一曲目の踊りは四分余りで終り、女はいったん袖へ退いた。  曲が変る。一転して穏やかなテンポのアメリカン・ポップスが流れだすと間もなく、女がこんどは淡いピンクのスリップ姿で現われた。本舞台から花道へ進み、その先端の丸舞台まで来ると、膝《ひざ》を折った。携えてきた小さな青いビニールの手下げバッグを開け、中から紙おしぼりを二つ三つ取り出す。それから、ゆっくりと衣装を落とした。太陽の下でなら輝くはずの裸身がどこか寒ざむしく紫煙にけむるライトに浮び上った。  さて、というようにざわつくまわりを眺め、しばらく迷ってみせる。やがて、なかでも熱心に誘いかける最前列《カブリツキ》を選ぶと、するりと身をあずけた。男たちの腕に抱かれたまま、いくつかの掌を順に拭く。とくに指先を念入りに拭いてから、そのタッチを受けた。  綿谷は、いつもの手順で三種類のライトを一定の光量にセットし終えると、煙草に火を点けた。女は、適当に客をからかい笑みを振りまきながら、胸や腰へ集まる愛撫に嬌声を上げる。それだけでは欲望を燃焼しきれない男たちが、のちほど、場内奥に用意された個室、一畳と少しの湿っぽいセンベイ蒲団を敷いただけの別室へと舞台を移す、その前ぶれとしてのタッチ・ショーだ。 (ミス・サリーもこんなふうだった)  綿谷は、思い出す。スリムなアミ・タイツ姿で踊った後は、短いネグリジェに着替えて現われた。鮮やかな金髪を振り乱し、熱心な舞台をつとめた後は、客をとった。一つの身体ではとてもさばき切れずに、何人もの男たちが欲求不満のまま放置されることにもなったのだ。  いつだったか、楽屋に寝泊りする彼女を、劇場がはねた後で飲みに誘ったことがある。コロンビア人としての本名をそっと尋ねたのはそのときだ。彼女は、驚いた。その何ともいいようのないとまどいようは、いまも忘れられない。なぜ、そんなにうろたえるのか、疑いたくなるほどの狼狽《ろうばい》を見せたものだ。  だが、教えてはくれた。紙片にスペルを書き記し、黙ってよこしたのだった。  パトリシア・アルマンサ、と読めた。確か去年の秋のことだから、まる一年が経つ。 (いよいよ、退《ひ》きどきだな)  綿谷は、相変らずの舞台を眺めながらつぶやく。  感情的にしっくりいかなくなったのは、外国人の踊り子がこの世界に送りこまれてきて以来だ。斜陽の業界がそのテコ入れに、あの手この手の演《だ》し物《もの》を競うなか、七、八年前、八〇年前後から大挙してやってきた外国人の踊り子をつかって、舞台の上での性交を見せものにするまでにエスカレートさせていったのだった。日本人の踊り子の世界ではとてもここまでは行きつかない、想像すらできなかったことを流行《はや》らせはじめたのである。法改正で売春の舞台が裏へと回っても、現実には変りがない。もう退きどきだと思うのは、喜劇役者としての才能の限界の自覚と同時に、そうした感情のシコリが消えないためでもあった。  不意に、断わりもなしに男が照明室へ上ってきて、綿谷の隣に背中を丸めて立った。 「どうだ。うちのピンコロはちゃんとやってるかね」  女が所属する事務所のマネージャーである。三十代の半ばだろう。派手なタートル・ネックに白いブレザー姿。天井の低い狭い空間だけに、まきちらすオーデコロンの匂いがひどく息苦しい。 「やってますよ」  ややぶっきらぼうに、綿谷は答えた。 「あれはずる賢い子だからね。よく見張ってないと、すぐに手抜きするんだ」  にがにがしげな調子で、「この前は客と喧嘩《けんか》して、持ち時間をずいぶんと残して舞台を降りちまった」  こんどやらかしたら焼きを入れてやる、とマネージャーはいって気味悪く笑った。  女が男たちの腕から解放されて丸舞台へ戻った。汚れた紙おしぼりをまとめてビニール袋に詰めこみ、器用に先を結ぶと、 「おみやげ!」  叫んで、ポイと客席へ放り投げた。その後で、 「チキチキこれから、あなた、だいじょうぶ?」  まわりの客に向って自分を売りこんだ。誰がいいはじめたのか、どこか滑稽《こつけい》な響きを帯びたチキチキというのが彼女たちのセックスに関する隠語であった。  踊り子ミス・メリーがラスト・ミュージックの軽快なリズムにのって開脚《オープン》ショーをやっているころ、岩上龍一はスーパー・マーケットでの買いだしを終えて店へ向う途中であった。  十一月も半ば、晩秋の日は短く、街はすでにネオンに染っていた。  西口から東口へ、いつもの道を辿る。駅ビルの角に交番があり、女と出歩くときはいつも迂回して通るのだが、その理由がたとえば窃盗や売春の後ぐらさ程度のものではないことに、その日突然行き当ることになろうとは、夢にも思わなかった。表の掲示板に張り出された尋ね人や手配者の顔写真。めったに眺めたりはしない。が、その日は、何気なく目をやった。女は追われているとの意識が、そうさせたのかもしれない。  瞬間、岩上は歩調をにぶらせた。まさか、と半ば笑って近づいてみると、脚《あし》が凍りついた。 (この女性を知りませんか?  先ごろ西新宿マンションで起きた殺人事件の重要参考人です)  名前は違う。が、写真の顔や特徴は寸分違わない。髪の色についての注意書きといい、国籍、姓名等の偽称の可能性といい、どの点からも疑いの余地はなかった。  出てきた制服と目が合い、一瞬、こちらの顔をさとられたかと恐れたとき、直ちに女を突き出すつもりがないことを岩上は自覚した。  さり気なく、その場を離れた。膝頭がかすかに震えていた。  すぐそばまで捜査の手が迫っていることは確かだ。聞き込みの刑事が近々やって来る。女を部屋に置いて十日余り、そのうち何かあることは覚悟していたが、これほどのものを奥に秘めていたとは……。  とりあえず、店へ向った。これからどうするべきか、冷静に考えたかった。知ってしまったことをいきなり女に告げるわけにもいかないだろう。  開店し、アルバイトの香にいくつか指示を与えて後をまかせると、岩上はマンションへ引き返していった。  ドアを開くと、台所で洗いものをしていた女は、髪を手で払いざま振り向いた。いまは黒髪に染め直して、見違えるようになっている。彼女本来の自然さを取り戻したのだ。瞳と眉の黒が同じ色の髪と融け合い、肌色とのかねあいにも無理がない。以前の神秘さは薄れたけれど、愛らしさの面では比較にならなかった。 「どうしたの?」  いきなり戻ってきたことに不審を抱いたようだ。  岩上は、ソファに腰を沈めた。知らずと急ぎ足になったせいで、息が少し弾んでいる。何とはなしに次の間へ目をやると、テーブルに置いた二つの小さな燭台に蝋燭《ろうそく》の火がともっている。おや、という顔をして女に視線をやると、バツが悪そうに肩をすくめた。 「お祈りをしていたのか?」  さりげない調子を心がけた。女は、小首を傾けて応えると、探るような目で見つめ返した。 (こんな燭台を持っていたのか)  岩上は、思う。こちらが留守の間に荷物の中からこっそり取り出して、火を点けていたにちがいなかった。真鍮《しんちゆう》の燭台で、少し離して立てた共に五センチほどの蝋燭の間に水の入った湯呑のような器と聖母マリアの御絵《ごえ》が、その手前にはポケット聖書と握り拳ほどの石が置いてある。表面のキメが粗い、灰色の自然石だった。それを手にし、蝋燭の炎を見つめていると、背後に女が立つ気配を感じた。 「病気ない、ケガない。いいイシよ、それ」  問うまでもなく、話した。無病息災のまじない石。日本へ来るとき、国の祖母が持たせてくれたのだという。  石を置いて振り向くと、上体をあずけてきた。ながい無言の抱擁《ほうよう》が、これまでの何倍も多くのことを語ってくれたように岩上は感じた。  最後の晩餐《ばんさん》にならないともかぎらない。冷蔵庫からあれこれと取り出してテーブルに並べ、店から運んできた飲みさしのウィスキー・ボトルを置いた。  女は、すでに何かを察しているようだった。わずかに顔を蒼《あお》ざめさせながらも、あり合わせのつまみを盛りつけていく。十分後には、ウィスキーを水で割ってぎこちなくグラスを掲げ合った。女にいつもの微笑が見られなかった。かつて劇場で使っていたにちがいない更紗《さらさ》のワンピース姿。少し寒いのか、いつになく震えるように両の腕を合わせた。  岩上は、その秋、二度目のヒーターを入れた。 「何を祈っていたのか、教えてくれないか?」  穏やかに切りだした。頭を振って瞼を閉じる相手に、同じ意味の言葉を重ねる。  女は、そこでようやく顔を上げ、 「わたしのこと、わかったんでしょう」  震える声でいった。グラスを掌に包んで膝の上に置き、それへじっと視線を注ぐ。 「わたし、悪いオンナ」 「………」  岩上は、理由を尋ねなかった。立ってステレオのある次の間へ歩き、ビリー・ホリデーを選んで針を落とした。深い質感のある黒人歌手の歌声が海波のように流れはじめる。 「君と同じ名前の歌手だ」  ソファに戻ると、いった。女の頬が苦笑にゆがんだ。 「なぜ店から帰ってきた、わかる」 「………」  やっと目を合わせたが、どこか焦点が定まらない。 「わたし、悪いオンナ」  一息に吐きだした。「人、殺した。この手……」  握りしめた手を見つめ、それから視線を宙にさまよわせた。  岩上は、落ちつき払ってうなずいてみせた。女のほうから告げてくれたことで、高い垣根を一つ越えたような心地がする。こんどは、こちらが何かをいう番だ。 「わかったのは、今日の夕方だった。駅の交番に写真が出ていた」  さり気ない調子を心がけた。「これからどうするか、話し合おうと思って帰ってきたんだ。何とか切り抜けようと思う。君をこのまま警察へ渡すつもりはない。それだけは信じてくれていい」  岩上は、ひとつ息をついた。言葉のすべてが理解されているとは思えないが、大まかな意味は伝わっているだろう。 「どうして」  ややあって、女が問い返した。「わたし、人、殺した……」  言葉を探した。グラスを口に運び、氷の音を立てて間を埋める。マニキュアを落とした細い手指へ、おのずと目がいった。 「とてもその手で人を殺したとは思えないからだ。本当にそんなことをしたのかどうか。……たとえ本当でも、なぜ殺したのか。そういうことがわからない以上……」  言葉がさらに込み入ってきたようだ。わからない、といいたげに女は首を傾けてみせた。 (知らないほうがいいのかもしれない)  岩上は、ふと思う。いまここで半端な話を聞きだしたところで、どうなるものでもないだろう。それよりも、自首をすすめることのほうが先なのではないか。どうせ逃げきれないのなら、そうすることが彼女にとって最善なのでは……。 「弁護士は、ぼくが紹介する」  解《げ》せない顔つきの女に、ベンゴシの意味を英語でくり返す。 「ローヤー?」 「そう。近くにいるんだ」 「………」  女の目がおろおろと動いた。 「お金の心配はいらない。罪を軽くするために、力になってくれると思う」  赤間愛三という、学生時代からの気心の知れた友人だ。岩上は、いい含めるように言葉を重ねた。  女は、それでも黙っていた。グラスを空けて押し殺した溜息をもらすと、新しいウィスキーを注ぐ。氷を放りこんだ後は、ぼんやりとグラスをのぞいていた。 「子供がいるの」  やがて、ぽつりといった。 「子供……」  問い返したきり、岩上は黙った。一言で、すべてがくつがえってしまったような気がした。  女は、立って奥の部屋へ行き、蝋燭のともっているテーブルの上から聖母マリアの御絵を手に戻ってきた。額を裏がえし、重ねて入れてある一枚の写真を取り出してみせる。 「六歳」  女は、いった。低声《こごえ》で、もうすぐ、とつけ加える。  男の子だった。黒の勝った円《つぶら》な目に真っ直ぐに見つめられて、岩上はうろたえた。母親の彫りの深さをそのまま小さめに写しとった顔立ち。何やら絵柄の入ったオレンジ色のTシャツから伸びる腕をきちんと前のテーブルに置き、カメラを見上げる形で微笑んでいる。 「結婚していたのか」  やっと吐いた言葉にしては陳腐すぎた。女は、しかし、意外にも首を振った。 「していない?」 「そう。別れた。好きのまま」 「恋人のまま、子供を産んだのか」 「はい」  岩上は、方途を見失った。時間は容赦なく流れていく。ビリー・ホリデーの歌声が�奇妙な果実�を切りだしたところで盤《おさら》を変えた。あまりに情緒に訴えすぎる歌声だ。ここは軽快なテンポのジャズ・ピアノあたりがふさわしい。ジーン・ハリスを引き抜いて針を置いた。やわらかな一種愛嬌のある即興《アドリブ》がダイヤトーンを震わせる。 「君の国は、カトリックの国だね」  岩上は、沈黙をのがれるために尋ねた。無言でうなずく。 「スペイン系かい?」 「そう」 「じゃ、名前もたとえばマリアとかつくわけだ」 「とてもたくさん、わたしの名前」  いって、少し笑った。目がたっぷりと潤みを帯びて笑いを裏切っていた。  岩上は、その種の問いにピリオドを打った。自分の本当の出身を明かすことにこれほどのこだわりを持つ女がいるという事実の前に、いさぎよく屈服すればいい。それだけの背景が女の内側にあることを知るだけで、とりあえずいいではないか。 「これからどうしよう」  ふり出しに戻って、岩上はいった。「ぼくが友人の弁護士《ローヤー》を連れてくる必要があるかどうか」  女は、遠くの景色でも眺めるような目で岩上を見つめ、宙をにらみ、手元のグラスに視線を落とした。やがて、一つ頭を振り、息をつくと、つぶやくようにいった。 「疲れたね、もう。わたし、人、殺した、わかったら、しかたない。はじめから、リューイチのところ、最後《さいこ》と思ってた。……あした、ケーサツ行くよ、わたし」  声が震えた。涙が頬を伝い、顎から膝元へしたたり落ちた。  岩上は、言葉を失った。そんなつもりでいるのであれば、もう少し時間を引き延ばしてもいい。なにも、明日さっそく警察へ行くこともないではないか。だが、それを口にすることはできなかった。  残された時間、彼女を失うことを前提として、どんな過ごし方があるだろう。三杯目の水割りを口にしながら、岩上は考える。  そのとき、不意に電話のベルが鳴り響いた。  香からだった。もしもし、マスターですか、とせわしなく切り出す声を聞いた瞬間、いやな予感が走った。 「どうかしたのか?」  ——いま、警察のかたが見えているんですけど……。  案の定だ。岩上は、受話器を握りしめた。 「それで?」  ——先日、ここへ飛びこんできた女の人のことで、お尋ねになりたいそうです。 「ほう。どういうことについてだ?」  岩上は、とぼけた。女をここに匿《かくま》っていることは誰にも話していない。  ——何か手配中の女の人らしくて、マスターから直接、お話をお聞きしたいと……。よければ、マスターのところへ出向いていくとおっしゃっているんですけど。 「いや、これからすぐに行く。そこで待っててもらってくれ」  ——わかりました。  晩餐はお預けだ。今夜くらいは何とか切り抜けたい、と思う。女には、ただ大事なお客が店に来ているので一時間ばかり出かけてくる、と告げた。  玄関で靴をはいて振り返ると、すがりついてきた。岩上が離れようとしても、巻きつけた腕をなかなか解こうとしない。やっとほどいた後の眼差しがいかにも何かをいいたげだったが、聞いている暇はなかった。 「四郎ちゃん、ちょっとだけ、上《ヽ》、行かない?」  照明室へ顔をのぞかせ、猪口を傾ける仕草をしながら声をかけたのは、渚ねえさんである。三回目の出番がたったいま終り、バスローブ姿で引き上げてきたところだ。  上とは、五階の酒場だった。酒の好きな彼女は、よくそうやって従業員や踊り子を誘って出かけるのだが、その夜は終演を待ちきれなかったのか。最後の出番が回ってくるのはまだ二時間も先だ。  綿谷は、もう一人の若い照明係にあとをまかせると、洗いざらしの木綿のワンピースを着けて楽屋から出てきたあい渚と連れだって出かけた。渚ねえさんが相手なら、誰も見咎《みとが》めたりはしない。新宿スター劇場所属の古株、姐御《あねご》的存在の彼女に敵はいなかった。敵といえるものがあるとすれば、彼女の登場を潮に席を立つ客くらいのものだろう。  広びろとした酒場だった。座敷あり、テーブルあり、カウンターありの凝った造りで、料理や酒も和洋折衷である。流行《はや》りのカラオケのない、飲み語るには最適の落ちついた雰囲気の店だ。  二人は、腰を据えてしまうわけにもいかず、多くの客に背中を向けることになる奥のカウンターにとまった。 「わたしは、お酒、冷やで。四郎ちゃんは?」  渚は、綿谷が思案する間に三つ四つ、つまみを選んだ。ウェイトレスが結局ビールにするという綿谷にうなずいて踵《きびす》を返した後で、 「北海道で聞いたよ、あの子の事件」  改まった調子で渚ねえさんがいった。誘いだされた理由がそれでわかった。 「一週間ぐらいで刑事が来た。日本の警察は、やっぱりたいしたもんだよ」 「で、どうだったの?」 「社長が例の調子でね、あんまり協力しなかった。家宅捜索されそうになって、写真だけは渡したけれども」 「知ってるんでしょう、彼女がどこにいるか」  探るような渚の眼差しに、綿谷は大きく首を振った。 「おれは、頼りになる日本人とは見てもらえなかったようだ」 「何がいいたいの」 「もしいま、彼女がおれに助けを求めてくれば、うまく匿って日本脱出のための手助けをするだろう、ってことさ」 「好きだったのね、彼女が」 「恋愛感情とか、そういうものじゃなくてね。何というか、ピン・スポット一本でつながってきたようなものがある」 「ピン・スポのつながりねえ。洒落《しやれ》たこというじゃない」  と、渚ねえさんがからかうようにいう。うなずいて、「実際、照明係のお陰で舞台がつとまってるのよね、われわれも。ハダカ以上の無防備はないからさ。……開演に先立ちまして、一言お客さまにお願いがございます。踊り子さんの衣装ならびにお肌には、特別ショー以外、ゼッタイにお手をお触れにならないよう……」  気取った口上をそっくり真似されて、綿谷は微苦笑した。 「もう酔いが回ったようだね」 「でも、寝たんでしょう、一度くらい」 「誰と」 「彼女とさ」 「まさか」 「じゃ、だめよ。弱いよ、ピン・スポ一本のつながりくらいじゃさ」  いい放ち、しゃがれ声で渚ねえさんは笑った。酒がグラスで届いて、口をつける。  彼女とは結局、そういう関係にはなれなかった。綿谷は、渚にビールを注がれながらふり返る。客に弄ばれる彼女へライトを当てる者の心情は、踊り子に手をつけることのご法度《はつと》以前の問題だった。一度だけ飲みに出かけて本当の名前を尋ねた夜を除けば、何ごともなかった。関係は結局、仕事の範囲を越えることなく、客の過ぎた素行を見張ること以外に照明係としてできることは何もなかった。そのくせ、過分の気づかいが飲み物やフライド・チキンの差し入れで示されたものだ。彼女がとくに綿谷を�おにいさん�と呼んで慕っていたことは、あい渚も知っていた。 「ところで、あすなろ芸能からは何かいってきた?」  渚が酒グラスを口に運びながらいう。 「ああ。コメントはできるだけ控えろってね」 「あたし、警察にタレ込んでやったよ。あそこを調べてみるように、ってね」 「いい度胸だ、ねえさんも」 「どうってことないさ」  フンというように、渚ねえさんは鼻で笑った。「最近、あんまりあくどいんで少しこらしめてやろうと思ってね」 「あそこのことは、ねえさんのほうが詳しい」 「つぶれちまえばいいのさ、あんなところ」  あすなろ芸能のマネージャーで、達也と呼ばれる男があい渚の彼氏であることを、綿谷は知っていた。十歳ほど年下の、かつては彼女の�衣装引き�をやったこともある男だった。舞台袖に控えていて、脱ぎ捨てられた衣装を袖から引いて片付ける役をいうのだが、よほど踊り子に惚れていないとできない仕事を渚ねえさんの彼氏はやっていたのだ。どこかスッとぼけたところのある人当りのいい男で、どこやらの町でゆきずりに知り合ったまま、旅に同行させたのが十余年前。まだ男が二十代、渚ねえさんが三十代のころだったという。踊り子としての魅力に欠けていく彼女から、男がしだいに遠ざかりつつあるフシもなきにしもあらずだった。  その彼氏の話題になって、渚はいった。 「妙な仕事をしてる、って話を聞いたよ。売れない歌手のマネージャーやっててもラチが明かないって、じゃぱゆき係になったとか」 「というと、また劇場にも出入りするわけだ」 「こないだもフィリピンへ行って、女の子のオーディションをしてきたらしいよ」 「踊り子のかい」 「そうとは限らないさ。観光ビザが十七名、芸能ビザが十三名だったかな。総勢、三十人の登録をしてきたとか」 「劇場へは、そのうち、人がよくてだまされやすい子を送りこんでくる」 「そんなことやめなさい、っていったんだけどね。人がよすぎて善悪の判断もつかないような人だから」  渚は、溜息をついた。「別れようかな、とも思うんだけどね。人には説教できるけど、自分のこととなると、なかなかね」  肩が心なしか落ちた。ゲンキ印のねえさんらしくもなかった。 「おれは、この業界から足を洗おうと思ってる」  と、綿谷は運ばれてきた鶏のから揚げに手を伸ばしながらいった。 「それがいいね。あんまり見すぎないほうがいいよ、汚いものは。人間、だめになるよ、こんなとこに長くいると」 「意外だな、そういう台詞《せりふ》をねえさんの口から聞くのは」 「わたしだって転職のこと考えてるもの」  いって、照れるように肩をすくめた。  二人は、しばらく無言でグラスを傾け、煙草を吸った。カラオケがないかわりに、音響のいい有線の歌謡曲が流れていた。 「どこにいるんだろうね、あの子」  渚が沈黙を破った。「このまま逃げ続けるのも、なんだかかわいそうな気がしてね。あすなろ芸能のことを警察に教えてやったのも、早く決着をつけてほしい気持があったからなんだよ」 「パトリシア・アルマンサか……」  独りごとのように、綿谷はいった。 「パトリシア?」 「パティというのが彼女のニックネームらしいよ」 「それ、誰から聞いたの?」  渚ねえさんは、思いがけなかったようだ。この点では、自分のほうが一歩リードしていた、と綿谷は思った。 「一度、飲みに出かけたことがあってね、彼女と。そのときに聞いたんだ」 「すると?」 「教えてくれたよ、本当の名前を。ずいぶんあわてていたけれども」  綿谷は、やはり意外そうな顔をする渚を見つめて、 「ねえさんも、彼女がアメリカ人じゃないってことくらい、わかっていたんだろう?」 「そりゃ、わかっていたさ」  と、渚は返した。「当り前じゃないの。アメリカ人だなんて誰が信じていたの」 「客は信じていたよ」 「照明係がそういうふうに紹介していたからでしょう。アメリカからやって参りましたとかいってさ」 「それはそうだ」  綿谷は、苦笑した。 「もっともアメリカ人といってもいろんな人種がいるわけだから、別に無理な嘘じゃなかったわけだけど」  いって、渚は冷や酒のお替りをするためにウェイトレスを呼びつけた。新しい煙草をくわえて火を点ける。目鼻の整った大造りの顔は、若いころの美貌を思わせるけれど、目もとや顎のあたりに厚化粧でも隠しきれない小皺が刻まれ、首筋にもたっぷりと肉がついている。最近とみに目立つ下腹部のたるみは、踊り子にとってやはり深刻な問題だ。 「なかなかいい娘《こ》だったよ、美人を鼻にかけないね」  二杯目も早いテンポで空けながら、「外国人の踊り子には、最初は反感を持ったものだけどね。自分たちの仕事をおびやかされるような気がしてさ」 「たいていは、そうだね。南米の子にはまだしも、フィリピン人に対しては陰湿なイジメをやる子が多い。いつだったか、トイレもシャワーも満足に使わせてやらないという集団イジメには参ったね。十日間、泣き続けたよ、その子」 「そう。だけど、あたしはだんだんそうでもなくなってきたね。いろんなことで話相手になってあげようと心がけてきたくらいだよ」 「苦労してるもの、ねえさんは」 「似てるのよね、境遇が」  目の高さに掲げたグラスを見つめて、渚はいった。「とくに彼女は、わたしの生い立ちとそっくり」  綿谷は、意外な気がした。渚ねえさんがミス・サリーと同じ舞台に立ったことは何度かある。所属が同じ新宿スター劇場なので、顔を合わせる機会も他の踊り子と比べると多かった。そんなときに、いろいろと話を聞き出したのだろう。 「ねえさんの生い立ちは聞いたことがない」 「聞かなくていいよ、そんなもの」  一蹴《いつしゆう》して酒をあおると、ややしんみりとした口調で続けた。「ただ、昔はね、いまみたいに、パッと脱いでマスコミの話題になって、海外旅行したり、お金をためこんだりするような時代じゃなかった。まだ日本は貧しかったし、高度成長なんてはじまる前でさ。……フィリピンやコロンビアの踊り子を見ていると、そのころの、踊りはじめたばかりの自分を思い出してね。……とにかく生きていかなきゃいけない。何としても、どんな目にあってもさ、親兄弟を食べさせていかなきゃいけないって、歯を食いしばって踊ったもんだよ」  笑って吐息する渚ねえさんの目に、きらりと光るものがあった。 (彼女の逮捕を潮どきにしてもいい)  やめる時期について、綿谷は考える。どこまでも逃げ続けるつもりのようだが、それにも必ず限界がくる。そのときは自分もこの仕事にケリをつけよう、と彼は心に決めた。そのことを渚ねえさんに話した。 「踊り子と照明係は共犯だよ」 「ねえさんも、彼女がやらかしたことは舞台と関係があると思っているんだ」 「当り前じゃないの。ああいう舞台を照らしてきた四郎ちゃんが、すっきりしない気持を持つのは、まだまともな証拠。いい時機だよ、やめる」  綿谷は、苦笑した。まともだといわれると、そうだろうかと疑いたくなってくる。いつのまにか馴らされ、擦《す》りきれてきた何かがあるのを自覚できるうちは、まだしも救いようがあるのかもしれないが。 「パティか」  二杯目を飲み干すと、ぽつりと渚はいった。「可愛い名前じゃないの」     13 「驚きましたね」  岩上龍一は、懸命に芝居をはじめた。「十日くらい前でしたか。ここへ逃げるように飛びこんできた子です」 「それで、どうしましたか」  細面にメタルフレームの眼鏡をかけた刑事が、テーブルに身を乗りだすようにして尋ねる。本庁の巡査部長、荒戸義行だ。隣のもう一人は、比較的小柄だが歳はいくぶん若く、三十五、六といったところか。新宿署の巡査で平《ひら》刑事の、高取孝三であった。 「変な男に追いかけられているということでした」  平静な口調を心がけて、岩上はいった。「看板までここで飲んで、それから出ていきましたが」 「その女性とは、どんな話をしたんですか」  荒戸部長刑事が問い続ける。 「ほとんど何も喋りませんでしたね。黙って、何か考えごとをしているようすで」 「出ていったのは、看板になってからですね」 「そうです」 「素直に出ていったんですか?」 「ええ。勘定を払ってから、しかたなさそうに」  そのとき、店の扉が開いて、客が一人入ってきた。カウンターに腰かける。と、高取刑事がさっと立ち上って客のそばへ行き、手配書を示した。予想外の行動に、岩上は面くらった。 「あッ」  と、客が叫んだ。「これ、この前の子じゃないの」  刑事たちは、色めき立った。岩上の頭が不意に揺れた。幹原という貸ビデオ・ショップの店員で、そういえばこの前、最後まで居残っていた三人組の一人だ。 「この女が店へ飛びこんできたとき、偶然ここにいたんですよ」  得意になって、幹原はいった。「あれから、てっきりマスターがモノにしたんだと思ってましたがね」 「あれから、とは——」 「おれたちが引き上げるときも、カウンターにうつ伏せになって寝てましたから」  刑事たちは、黙って岩上を見つめた。疑い深い、探るような目だ。  岩上は、なぜか自分の顔を強烈に意識した。どんな異性に見つめられても、こんなことはなかった。やや黄ばんだ浅黒い顔。整髪に頓着しないバサついた頭。奥まった目から鼻にかけての彫りが日本人にしては深い、どちらかといえば面長の顔立ち。それが、いまはいびつに歪んで感じられた。 「モノにしようとしたことは、認めますがね」  岩上は、防戦した。全面否定はかえってまずいだろう。「しかし、逃げられたんだからしかたがない。はじめから人を寄せつけないようなところがあったけれど、その理由がいま読めましたよ」 「素姓もわからない女性を、よくモノにしようと思いましたね」  高取刑事が切り返した。  岩上は、苦笑を返しただけだった。額に、知らずと汗が滲み出る。それが刑事に悟られてはいないかと不安になった。  女の出ていった時間を、荒戸部長刑事が聞く。午前二時過ぎだったと思う、と岩上。 「君は、その日は何時まで店にいたの?」  こんどはカウンターの中の香へ、高取刑事が聞いた。まだ十九歳の専門学校生で、愛くるしい顔をしているが、ダイエットによる痩せすぎがかえって魅力を減じている。 「わたしは、最後までいません。一時ちょうどに帰りました」 「すると、彼女が出ていくところは見なかったの?」 「見ていません」 「お客さんから見て、その女性はどんなようすでしたか」  と、部長刑事が客の幹原に問いを戻した。彼は、まだ酒を注文していない。これは営業妨害だ。岩上は、腹が立ってきた。  肩の落ちただぶだぶのスーツを着た、まだ二十歳そこそこの幹原は、いよいよ興奮の色を露《あらわ》にして、 「静かでした。マスター以外は誰とも口を利かずに。美人だったもんで、こっちは見とれてばかりで」  刑事たちがうなずいて、またもちらと岩上を見る。 「マスターのお名前は——」  書きとめると、ついでに香の名前も三村姓とともに控えた。 「お住まいは——」  畳みかけられて、岩上は腹を据えた。匿っているとの証拠はない。あんまり嘘をつくとまずいだろう。 「西池袋三丁目のマンションなんですが、番地がちょっと……」  とりあえず逃げた。「引っ越してきたばかりで、正確な住所は覚えていないんです」 「マンションの名前を一応——」 「暁ビレッジといいます」  何号室かと聞かれて、四〇三号、と正直に答える。  いつ引っ越しをしたのか。本当は三ヶ月前だが、三日前、と答える。切り抜けられるかどうか、綱渡りをしている心境だった。 「一応、本籍をお聞かせ願います」 「本籍ですか?」 「被疑者と接触した人物として、今後ともご協力いただきたいと思うものですから」  と、高取刑事がいった。「念のためにお聞かせください」  岩上は、長野県の本籍地を告げた。続いて、香が南池袋の住所や目白にある栄養専門学校の名をいった。 「いや、ご商売のお邪魔をしてしまいました」  部長刑事が最後に丁重にいった。「今後、何か変ったことがありましたら、署のほうへご連絡ねがいます」  頭を下げると、二人の刑事は素早い動きで背中を向けた。扉の閉まる重い音が、岩上に新たな不安を呼び起こした。これから、刑事たちはどこへ向うのだろう。西池袋へ捜査員を派遣し、マンションを不意打ちするようなことはないだろうか。  仕事どころではなくなった。かといって、店を閉めればよけいに不審がられる。客の幹原は、好奇心を丸出しにして話題に花を咲かせようとするが、それをまったく無視するわけにもいかない。  十分余りが経過して、一計を案じた。店の煙草を切らしているのに気づいたことから、とりあえずそれを取りにパチンコ屋へ出かけることにしたのだ。 「店を頼む。一時間もあれば充分だろう」  香に告げ、ブルゾンを手に背中を向けた。  まずは、隣のスナックへ入った。開けたばかりで客はいない。カウンターの中の顔見知りの女の子に、店の電話が故障だといって借りる口実にした。三度鳴らしていったん切るやり方でダイアルする。二回目は一度のコールではずれた。  スリラーの恐いテレビを見ていた、と女はいった。 「テレビを消して、部屋を真っ暗にして、寝ていなさい」  ——マックラ……? 「そう。すぐにそうしなさい」  ——冗談いってる? 「いう通りにしなさい」  岩上は、口調をきびしくした。  ——はい、わかった。  不安げだが、素直な声が返ってきた。リューイチ、と訴えるように呼びかけ、返事をすると、女は黙った。たいした用はないらしい。できるだけ早く帰ると告げて受話器を置くと、女の子に礼をいって店を出た。  男がビルから出てきた。道路へ踏みだす前に、そっと左右を眺め回す。それを認めて、聞き込みに当った高取刑事が楠木部長刑事に告げた。 「主任。やつですよ」  部長刑事は、ぴくりと太い眉を動かした。ビルと小路を隔てた建物の陰である。 「思ったより早いお出ましだな」  隣の朝森警部補がつぶやいて、先に男をつけはじめる。同僚を見失わない程度の距離を置いて、楠木が続いた。荒戸、高取両刑事は、そのまま店を見張るために残った。香というアルバイトの女性の動静にも配慮する必要があるからである。  男が後を振り返った。やはり、尾行が気になるのか。目当ての行き先があるようにもないようにもとれる。池袋駅の東口へ向い、西口へのガードを潜《くぐ》っていく。マンションへ帰るつもりか。それとも、どこかで女と接触するのか。この時間に店を放りだして街へ出たことで、疑いはいよいよ濃厚になったというべきだろう。うまく言い逃れたと思っているのかもしれないが、聞き込み捜査員の勘はそれほど鈍くはない。 (クソッ。早くシッポを出さんか!)  楠木は、毒づいた。中肉中背だが、どこか上体が傾《かし》ぐような歩きかたをする男だ。頬骨の高い、目の奥まった顔はまだ三十代だろう。  どうしてこうも日本国民は警察に非協力的なのか。お陰で、こっちの靴も精神もよけいにすり減るというわけだ。こんな時間まで小娘探しに振り回される。  男がまた振り返った。五メートルほど後からついて来る男が気になるらしい。手ぶらのダーク・スーツ姿は、一応、刑事ではないかと疑ってみるのが自然だ。ところが、相手に確信はない、そこが付け目なのだ。朝森警部補は、わざと疑わせている。そのうち、その疑いがすっかり解けるはずだ。時機を見て、みごとに解いてみせることになるだろう。  西口へ出ると、男はパチンコ屋に入った。自動玉売機で三百円ぶんの玉を買って、奥へ進む。それを見て警部補が入り、少し間を置いて部長刑事が続いた。それぞれ百円ぶんの玉を買い、男と同列の台と背中合わせの台に適当な間を置いてついた。男が台に腰を落ちつけ玉を出しはじめたのを確認してから、朝森警部補はそっと立ってトイレへ消えた。  店は混んでいた。電動式なのでハンドルを固定してしまうと、百円ぶんなどたちどころになくなってしまう。あまり玉を弾かずに時間を費やすのは、かなり骨の折れる仕事だ。楠木がもう百円ぶんの玉を手にしたとき、朝森警部補がトイレから現われた。ダーク・スーツ姿が黒いビニールのブルゾン姿に変っていた。顔にはサングラスをかけ、一見ヤクザのおにいさんといった風情である。手には、スーツの上着をまるめて入れたビニール袋を下げている。ブルゾンとビニール袋は、畳めば内ポケットに納まる薄手のものだ。すばやく路地や物陰でやることもあるのだが、パチンコ屋に入ってくれたので世話はなかった。  警部補は、そうして再び男に張りついた。こんどは堂々と、台を一つ隔てるだけの至近距離にいて相手を視野におさめた。  岩上は、表情を変えなかった。玉は快調に出ている。スロットマシーン式にラッキー7が三つ並び、途切れなく放出してたちまち二箱ぶんの玉が溜った。  二十分ほど経って腰を上げた。玉はそのままにして、景品交換所のそばの赤電話にとりついた。視界の隅で一人の男が動くのを見たように思った。それが刑事かどうかはわからない。ただ、尾行されていたことはほとんど確かだ。いまもこの店のどこかでこちらの動きを見張っているにちがいない。 「ああ、おれだ。どうだい、店は」  と、電話口に出た香に岩上はいった。「……そう。いま調子よく出ているから、もう少し頑張ってみる。……チョコレートか、わかった」  続いてマンションの部屋へかけてみたかったが、危険を感じてやめにした。そのままパチンコ台に戻った。プラスチック製の大箱二個を景品交換所へ運び、チョコレートをいくつか選ぶ。あとは、すべて煙草に替えた。  出ると、すぐのところに公衆電話があるのが目に入った。再び、思いとどまった。いっそうの不審を招いてしまう。このまま店へ引き返すのがいちばん安全だろう。  だが、あるいは……と、岩上は反問した。実のところ、尾行などされていないのかもしれない。自分の勝手な思いすごしでないとはいいきれないではないか。  しばらく歩き、思いきって振り返ってみる。……いない。パチンコ屋に入るまでは間違いなく後についていたはずのダーク・スーツ姿が消えている。やはり、神経が過敏になりすぎているのだろう。  ほっとする思いで歩を早めた。足は自然と自宅マンションへ向いている。女を逃がしてやらねばならない。今夜中に別のところへ。いま、逮捕はさせたくない。本人は自首するつもりになっているのだ。  駅前の大通りをしばらく行くと、何度か左右に折れて、青白い街灯だけに照らされた住宅街へ入った。十時過ぎ。まだ、人通りはちらほらある。念のため、もう一度振り返ってみたが、やはり以前の男はいない。  階段を二階まで上ってはじめて、岩上は自分以外の足音を聞いた。四階の部屋の前まで来ると、凝然と立ちつくした。紺のブルゾンにサングラスの男。すぐ後からもう一人、がっしりとした三ツ揃いのスーツ姿が現われた。 「どなたですか」  声が喉《のど》につかえた。 「新宿署の楠木といいます」 「………」 「いるんじゃないんですか、この中に彼女が」  と、刑事は顎で扉を指した。 「どういうことでしょうか」  岩上の声がさらにかすれた。 「ドアを開けなさい」  刑事が低い声に威厳をこめた。  岩上は、黙った。門灯の薄明りに浮ぶ刑事の微苦笑が自信のほどを伝えてきた。 「早く開けなさい!」  と、変装したもう一人の刑事が鋭く命じる。先ほどまですぐ隣を歩いていた男だ。岩上は、不意に気づいて身を凍らせた。  観念した。ポケットから鍵《かぎ》を取り出し、震える指で鍵穴へ差し込んだ。回す。が、回らない。逆に回すと、鍵がかかった。予感が走った。再び回して扉を引く。刑事たちが岩上を押しのけて踏みこんでいった。  すばやく電気のスイッチを探り当てて明りをつける。部屋がガランとして見えた。  間一髪だったにちがいない。ヒーターの温もりがまだ残っている。忘れ遺していった物はなさそうだ。大きな布製バッグ一つにすべての荷物をつめこんで、女は姿を消していたのだった。     14  東京無線グループF交通勤務の木村洋平は、明治通りを新宿へ向って走っていた。次々と入る無線連絡の中に、不意に奇妙なメッセージが混ったのは、もう間もなく女の指定した新宿駅東口界隈に入ろうとするころだった。  木村は、耳をそばだてた。犯罪人に使われる極秘の暗号文。どこか闇の彼方から響いてくるような機械的な声だ。「センターから……」ではじまるその無線を聞くたびに、またこの都会で犯罪が発生したのかと寒ざむしい気分に見舞われる。客を物にたとえ、それを拾った時間と場所、そのものの種類、形など、ゆっくりと棒読みの調子で伝えてくるのだった。  どきりとした。……くり返します。……西池袋。午後十時半ごろ。……きれいな外国製品で、形は女もの。色は、金色もしくは黒。……間違いない。その物《ヽ》は、いま自分の車の後部座席に|ある《ヽヽ》。バックミラーで女をぬすみ見て、木村洋平は確信した。  いい女だ、と彼は思った。とても殺人のような大罪を犯したとは思えない。が、どこか怯えたようにじっとうずくまっている、そのようすが痛々しくもあった。 (こんなときはどうすればいいのだ?)  木村洋平は、思案した。その種の無線は常に一方的であり、応答するのは客を降ろしたとき、と定められている。犯人を乗せたまま下手に応えると、運転手に危害がおよばないともかぎらない。協力者を窮地に陥れることは、絶対にあってはならないからだ。  明治通りを靖国通りへ右折してから、少し渋滞ぎみになった。  警察に協力するか、しないか。胸一つだ。二度の交通違反で、あとわずかな点数しか残っていないことに思い当る。よく空いた直線コースでのスピード違反取り締り。そのときの苦い思いがよみがえった。感謝状の一枚などもらってもしかたがない。こちらは妻子の生活がかかっているのだ。  木村は、ミラーの中の女へときおり目をやりながら、警察に対する反感の思いをつぶやいていた。 「ここで、お願いします」  不意に、女がいった。木村は、車をゆっくりと端へ寄せた。 「おつり、いらない」  女が千円札を二枚、肩先へ押しつけてくる。  ドアを開けた。女が飛び出した。重そうなバッグを引きずりおろし、肩にかけ、人混みの中を駆けていく。路面を打つヒールの足元が不安定に揺れた。ちょうど信号が青に変った横断歩道を渡って区役所通りのほうへ消えていく。そのあまりに懸命な姿を、木村洋平はフロントガラス越しに呆然と見送っていた。  楽屋の電話が鳴った。若い踊り子が出る。渚ねえさん、お電話——。  ワンピースの裾をはだけて寝そべり、週刊誌の芸能人ゴシップ記事を読んでいたあい渚は、部屋の隅へ足を運んで受話器をとった。 「もしもし、お電話替りました」  ——おねえさん、わたし。誰、わかる? 「………」  叫び声を上げそうになって、渚は声を呑んだ。 「いまどこにいるの」  ——劇場そば。テレフォン・ボックス。 「よかったわ。わたしが旅から帰っていて」  渚は、つとめて平静にいった。「ちょうど最後の出番を終ったところなの。電話ボックスの場所は?」  ——フライド・チキンの前。わかる? 「わかるわよ。そのまま中にいなさい。三分で行くわ。誰かと話しているふりをして、そこを動かずにいるのよ。いいこと。わかったわね」  渚は、念を押すようにいい、相手がうなずくのを待ってから受話器を置いた。  照明室にいる綿谷四郎に話そうかとも考えた。もし自分が旅に出ていていなければ、彼をかわりに呼び出すつもりだったことは間違いない。だが、思いとどまった。いまは知らせないでおこう。それに、四郎ちゃんは警察にマークされている恐れがある。  それよりも……と、渚は考えた。達也に協力させよう。あんな男だけれど、いないよりマシとはこんなときのため? 急ぎ身仕度を整えながら、渚は苦笑した。  きっかり五分後、渚は目当ての電話ボックスに駆けつけた。扉を開いて、一緒に狭い空間におさまった。 「しばらくね」  笑いかけ、さっそく受話器を手にダイアルする。まず、達也と共同出資で借りている新宿五丁目のマンションへ。留守。次に、歌舞伎町の台湾クラブ〈麗《リー》〉へ。いない。行きつけの雀荘へ。そこで、やっとつかまえた。  その夜だった。  厚生年金会館の裏手にある有名なマンション・チェーンの一戸、三階の部屋へ、ようやく達也の足音が近づいてきた。電話で早く切り上げて帰るようにいっておいたのに、日付が変って二時間半も過ぎている。酒はあまり入っていないようだが、くたびれた表情は麻雀に負けたせいだろう。垂れ目がいっそう力なく垂れて、血色の悪い唇が妙にひんまがって見えた。肩に引っかけただけの背広に緩んだネクタイ、ズボンからはみ出しぎみのYシャツ。貧相なくらいに小柄な彼は、渚より十キロ余り軽い。  女客が一人いるのを見て、おッ、と声を上げた。次には目を見張った。 「ひょっとして、サリー……」  渚は、そっと人差指を唇に押し当てた。あすなろ芸能の関係者として、彼女のことはある程度知っているのだ。  背広を脱いで腰をおろした達也に水割りをつくってやりながら、渚は手短に事情を話した。  寝室は狭いが、リビングは十畳くらいある。低い三角形のテーブルのまわりにクッションをたくさん置いてゴロリとなるのが、怠け者の達也のくつろぎかただ。先ほどまでやっていたテレビ映画も終って、最後のコマーシャルが流れていた。 「パスポートを都合してほしいの」  頃合いを見はからって、渚は切りだした。 「偽造か」  達也が手にしたグラスを揺らしながら問い返す。 「できるって話じゃないの」 「どこのがいいんだ。アメリカ方面のものはちょっと大変だよ」 「どこの国のならできるの?」 「台湾、フィリピン、タイ、ってとこかな」  渚は、彼女を見つめた。話に聞き入っている顔が不安げにこわばっている。 「台湾は、正式な国交のない国が多いから心配だし、タイはちょっと遠すぎるわね。フィリピンがいいんじゃない。どう?」  と、渚が同意を求める。彼女は、小さくうなずいてみせた。 「すぐに動いてちょうだい」 「写真はあるのかい」  予備にパスポート用のを二、三枚持っているという。  問題は、お金だった。ふつう、斡旋料が五十万、先方に支払うのが同じく五十万で、計百万円。こちらの取りぶんはナシとしても、五十万は要る。長期滞在を得るための擬装結婚の斡旋手数料とほぼ同じ額が、一冊のパスポートにも必要なのだった。  彼女の手持ちは、三十万と少しだった。これは航空運賃その他の経費で取っておかねばならない。 「いいわ、わたしが出す」  渚は、いさぎよく決めた。「ただし、できるだけ値切ってちょうだい」 「これだからな。金がたまらないわけだ」  達也が呆れた。その顔には、なぜそれほどまでして彼女を助けるのかといった疑いがありありと浮んでいる。渚自身そうしなければならない理由がはっきりとあるわけではない。あくまで気持の上で、彼女を逃がしてあげたいと思うのだった。 「おねえさん……」  気の毒そうにいうのを、渚はさえぎった。 「いいんだよ。ときが来たら、何かで埋め合わせしてくれれば」 「わたし、ケーサツ行く」  つきつめた声でいう。「おねえさん、めいわくする。わたし、悪いオンナ」 「馬鹿だね。何のためにここまで逃げて来たのさ」  相手をにらみ、叱りつけるように渚は一蹴した。「逃げるんだよ、このまま。いいも悪いもないの。帰ってやりな、国で待ってる子供のところへさ」     15  蔭山茂美は、自身が未だもやもやした気分でいる理由が何なのか、よくわからないままに日々を過ごしていた。木山浩の葬儀から、はや一ヶ月が経っているのに、犯人が逮捕されたという報せはない。そのことのせいでもない。殺人犯とはいえ、むしろ捕まらないでいてくれたほうがいいと思っているくらいだった。  にもかかわらずすっきりしないのは、犯人が百パーセント彼であると確信できる証拠がないためかもしれなかった。彼はもうこの世の人ではない。確証を得たところでどうなるものでもない。そういい聞かせる一方で、やはり、しっかりとした証拠を得て、改めて相手を呪わずにはいられない、そんな思いが半ばしていた。  とくに自分を鏡に映してみるとき、可愛いと思える姿かたちが不意に曇って、とても惨めな気持になる。まして裸のときは、|その部分《ヽヽヽヽ》を見るのに耐えきれなくて鏡から思わず目をそらしてしまう。将来めぐり合うはずの異性を意識すると、いよいよ暗い気持に陥るのだった。  その日、東京都内にある銀行勤めを終えた彼女は、帰宅途中の公衆電話から、ついに新聞社へ電話を入れた。事件が神奈川新聞の三面記事に四段抜きで報じられてから、もう二ヶ月以上になる。  社会部のデスクへ電話が回されて、若い男の声が受けた。茂美は、勇気をふるって、事件の被害者としての立場を告げ、できればA子とB子に連絡をとる方法を教えてほしいと頼んだ。  それを聞いてどうするのかと、記者が問い返してきた。 「わたしなりのやり方で確かめてみたいんです」  ——というと、犯人の目安がついたというのですか。  記者が少し急《せ》きこんで尋ねる。 「いえ。まだ不確かなんですけど、そうじゃないかな、と」  ——じゃ、ぼくが協力しましょう。秘密は守りますよ。  待ち合わせの約束を取りつけようとする相手に、茂美はあわてて、いまのところは一人でやってみたい、と返した。  ——わかりました。  男は、やや落胆したような声を出した。が、翌日、もう一度電話を入れたときには、A子とB子の住所と電話番号を調べ上げてくれていた。  それから三日目の夕方だった。待ち合わせた藤沢駅前のデパートをはじめとするビル街にある喫茶店へ、当人たちがやってきた。  A子は、鳥居成子、十九歳。東京の大学へ通っている。B子は、村野民子といい、二十二歳の家事手伝い。両名とも藤沢市に住んでおり、同日の夜に、前後して被害を受けていた。村野民子が先に訴え出、鳥居成子が続き、新聞記事として扱われたのだ。蔭山茂美が襲われたのは、その六日前、九月十日のことである。  電話では、犯人らしい男を発見したので、そのことについて話し合いたい、とだけ告げていた。詳しいことは会ってから、と故意に何かを匂わせて呼びつけたのだった。 「訴えようかどうか、迷ったのよ、本当は」  おかっぱ頭のボーイッシュな村野民子がいった。「でも、悔しいじゃない。あんなことをする男を黙って放っておくなんてさ」 「わたしもォ」  鳥居成子が相槌を打った。「生きてる心地、しなかったもの」  こちらは長いストレートの髪をしきりにかき揚げながら、ちょっと舌足らずな話しかたをする。 「わたしは、本当に殺されると思ったわ」  と、茂美は同感の相槌を打った。  だが、そんなふうに話しはじめて間もなく、実際には二人ともたいした傷を負ったわけではないことを知った。鳥居成子は、倒されたときに頭を路上にぶつけてコブをつくり、村野民子は、膝頭を擦りむいて少し出血した。運がいいとしか思えない。されたことはまったく同じなのに……。 「男を罰したいと思うでしょう?」  茂美は、彼女たちがわりあい明るい感じでコーヒーを飲むことに焦りを覚えながらいった。 「それはもちろんよ。いま、この瞬間にも、わたしたちと同じ目にあってる女性がいるかもしれないんだし」  シー、と語尾を引っぱる喋りかたで村野民子がいうと、鳥居成子が大きくうなずいた。 「たぶん、それはないと思うのよ」  茂美は、慎重に本題に入っていった。「というのはね、……犯人は、どうも死んだらしいの」  二人が同時に素っ頓狂な声を上げた。  殺人事件のことは、話すつもりがなかった。どうやって死んだのかは、このさい問題ではない。彼女たちが木山浩の名を、先月新宿で起きた殺人事件の被害者として記憶しているとも思えない。大事なことは、彼女たちが犯人の顔をどの程度まで覚えているかであった。 「わかんないなあ」  と、鳥居成子がすげなくいう。 「わたしも、よく見てないわ」  村野民子が重ねた。 「顔写真を見てもわからない?」  二人とも首をかしげた。鳥居成子は、はっきりと、見てもわからないと思う、と答える。 「村野さんは?」 「わたしも、顔をそむけて目を閉じてしまってたから……」  訴えていったにしては頼りないわね、といいたくなった。いまとなっては、あまり係わりあいになりたくないようなフシもある。それでも、最後に聞いた。 「パンチ・パーマをかけていなかった?」 「さあ……」  ともに思案するのを見て、茂美は肩を落とした。大きなマスクにサングラスをかけていたことは覚えているけれど、頭髪までは注意がいかなかったという。しかも、暗い路地裏。男の着衣さえもよく覚えていない、と。  いわれて、自分の記憶まであいまいになっていくような心地がした。これまでにしよう、と茂美は思う。場合によっては二人に、かつてクラス・メイトだったと偽って、写真が飾ってあるにちがいない木山家へ線香でもあげにいってもらおうと考えていたのだが、その必要もなくなった。 (しかたがないわね。こんどこそ駄目みたい)  茂美は、つらい胸のうちで、あきらめのつぶやきを刻んだ。     16  飾りらしい飾りとてない二十坪余りのその部屋には、いまのところ客はいない。まだ夜が浅いせいだ。決して殺風景でないのは、ボックス席のそこここに、着飾った女たちがもの静かに控えているからである。歌舞伎町にある、九割がた酒場で占められた巨大な雑居ビルの七階。花模様の木彫のほどこされた重厚な扉が奥の秘密めいた空間を思わせる。  台湾クラブ〈麗《リー》〉だった。女たちはほとんどが台湾からだが、タイ人も二、三人混っている。客が来ればホステスとなり、電話で呼び出されればホテルやマンションへも出向いていく、置き屋をかねたナイトクラブだ。  永谷達也は、いつもより一時間早く出勤したその店のマダム、劉美郷《メイチン》と奥のボックス席で向い合っていた。  頬が痩《こ》けているくせに肉感的な唇をした劉は、いかにもこの手の組織の仕事のために生まれてきたような女だ。生い立ちはおろか、出身さえも中国大陸なのか台湾なのか定かでない、謎めいた五十女だったが、ほぼ自由に日本語をあやつる語り口は気さくで、よく笑う。近年、新宿を舞台に暗躍する台湾の犯罪秘密結社、いわゆる台湾マフィア�Cグループ�の、ナンバー2といわれる男の正妻であった。  彼等の資金源はいうまでもない。東南アジア各地から大挙してくり出す女たちの存在がなければ、とても日本で生きていくのは不可能だ。××組とまだしも折り合いをつけて共存していけるのは、麻薬や女性のからむ商売上の接点があるためであり、ビジネスはさまざまな分野に広がっていた。従来からある日本人男性との擬装結婚斡旋はもちろん、数ヶ月の滞在ではとても満足できない女たちのために、日本語学校への入学など、あの手この手の滞在延長手段が講じられ、その中で金が動く。ビザ切れのパスポートを捨て、新しい偽造旅券で犯罪人の烙印を押されることなく帰国するという、最近になって流行《はや》りだした手段もその一つだった。  金ですべてが解決するというのが劉美郷の口癖で、いまも達也は、一冊三十万に値切って了解を得た後で、それを聞かされた。カネある、モンダイないね、と奇妙な抑揚をつけていい放つのだ。 「入国の日付は?」  具体的な話に入って、劉がメモ用紙を引き寄せる。 「一ヶ月前くらいでどうだろう」 「というと、十月の二十日ころ?」 「それでいい」 「タイプする名前は?」 「これだ」  達也は、メモしてきた紙片を見せた。 �ロードラ・E(母方の姓エマノ)・ヴィラリアル�とあった。彼女が決めた名前だった。昔、知り合ったフィリピン人の名前を拝借したという。  組織には、台湾はじめ、タイやフィリピンに関しても、出入国スタンプはもちろん、ビザ・スタンプ、写真割印スタンプやビニール・コーティングなど、あらゆる小道具がそろっていて、本物そっくりの、ときには政府役人から|袖の下《ワイロ》と引き替えに入手された本物の真っさらな一冊に、必要事項を記していくのだという。ひところ、偽造団は現地にいて、必要なときには出かけていったり、郵送したりしていたのだが、いまでは何でも東京《トキオ》で出来るのだと、マダム劉はいってのけた。 「たいしたもんだな、話には聞いていたが」  と、恐れ入るように達也がいった。 「これからはネ、好きなだけニホンいる、好きなときクニ帰る。それ、できるようになるよ」  いうと、劉は大きく首を縦に振りながら、「それがほんとの国際|交際《ヽヽ》ってものよ。そうじゃない?」  そんなふうに言葉を重ねて、店じゅうに響き渡る甲高い笑いを飛ばした。  その週も二十日で終って、次は福島県の郡山へ向うはずだったあい渚は、古塚社長に無理をいってコースを変更してもらうことにした。新宿から通える範囲という条件で、上野T劇場へ、仲のよい踊り子の了解を得て差し替えてもらったのだ。  彼女を部屋に置いてかれこれ一週間になるが、達也に世話を任せて旅に出るわけにはいかない。自分が見張っていなければ、思わぬドジをやらかしてしまいそうな気がした。来週にはパスポートが手に入るだろうから、それまでじっと我慢しているようにと、彼女にはいってある。十二時の開演なので午前十一時には部屋を出て一回目の出番に間に合わせるのだが、帰りは夜遅くなるので、長い時間、彼女はおおむね一人で部屋にいることになる。五度鳴らしていったん切る電話以外は出ないことはもちろん、ドアのノックには決して応えないこと、どうしても買物に出たいときはサングラスをかけ、出来るだけ短い外出ですませることなど、いい含めてあった。  彼女は、よくそれを守った。そして、ついにその日が来た。深夜、渚がマンションへ帰ってみると、一冊のフィリピン・パスポートが彼女の手に握られていた。夕方、達也が帰ってきて、置いていったという。 〔PILIPINAS PASAPORTE〕  渚は、それに触ってみた。日本のパスポートよりひと回り小さく、焦茶の表紙が真新しい。まだ紙の匂いがするほどで、まさしく本物に見えた。 「やったわね」  渚は、興奮のままにいった。開いてみると、ロードラ・E・ヴィラリアルと右の隅にサインした写真はもちろん、マニラ国際空港出国のスタンプや成田入国の日付入りスタンプがきっちりと押され、在マニラ日本大使館発行の観光ビザもしっかりと有効期限内で記載されている。  髪の色・ブラック。瞳・ブラック。身体の特徴・なし。  多民族国家らしいそんな記載が日本のパスポートとは違うところだった。 「ありがとう、おねえさん」  上気した顔で声をつまらせた。 「飲もう。乾杯しよう、ロードラ」  渚は、微笑んだ。自分自身が脱出行へと向うような気分だった。  前祝いの用意ができたころ、達也が帰ってきた。いつになくそわそわしている。 「事件だ」  いきなりテーブルの上に夕刊を投げ出した。「劉漢城が撃たれた」 「劉?」 「パスポートのことで世話になった男だ」  渚もその名は聞いたことがある。達也は、テーブルの前にあぐらをかいてネクタイをゆるめた。 「対立するグループの犯行らしい。台湾マフィア同士の出入りさ」 「殺されたのは、劉だけなの?」 「いや。襲ったほうの一人が返り撃ちにあったらしい」  その日の昼だという。渚は、あわてて夕刊を広げた。 (短銃で襲撃 二人死ぬ 台湾人グループ秘密結社の抗争か)  大久保にあるマンションでの出来事だった。劉漢城は、部屋を出たところの廊下で倒れており、住人の通報で近くの病院に収容されたが、間もなく死亡。もう一人は、部屋の中で靴をはいたまま倒れていることから、外部から侵入して返り撃ちにあったグループの一人と見られる、云々。警視庁捜査一課と四課が動きだし、新宿署との合同捜査がはじまったという。 「で、どうだっていうのさ」 「急いだほうがいいってこと」  達也は、水割りをあおって続けた。「これで、あすなろ芸能がらみの事件が二つ続いたことになる。警察は本気でやるだろうよ」 「明日だね」  と、渚はいった。「さっそく航空券を手配しなければ」 「あさって。明日は、ムリと思う」  ロードラ・ヴィラリアルがいった。  そうかもしれない。明日、予約して、あさってに飛ぶ。それがいいところだろう。  渚は、焦りを抑えた。「フィリピン航空は何時発かしら?」 「十時、毎日。日曜日、一時五十五分。木曜だけ、二時五十五分ある」  すでに調べていて、メモした紙を見ながらいった。 「あさってというと、木曜日?」 「はい。だから、二時五十五分のフライト」 「十時にしなさいよ」  と、渚はいった。「十時発は、毎日あるんでしょう?」 「はい。でも、二時五十五分」 「どうして。少しでも早いほうがいいじゃない」  渚は、主張した。十時発なら、仕事に支障なく見送りに行けるからだ。 「はい」  答えたものの、煮えきらない。やや沈んだ表情になったのが、渚は気にかかった。が、問いつめるほどのことではなかった。 「明日の朝には、ここを引き払ったほうがいいな」  と、達也がいう。「もし、警察がおれに狙いをつけるとやばい」 「そうね。船橋に連れていくわ」  しばらくぶりに母親や貴広にも会いたい、と渚は思った。いつもは、東京へ戻ってくると、半分は千葉の船橋にある家で過ごしている。数年前にローンの終ったその小ぢんまりとした一軒家が、息子に残せるせめてもの財産になるだろう。 「成田にも近いしな。大脱走の成功を祈るよ」  水割りで濡らした口を洞穴のように開けて、達也は笑った。  この人は、いつも、何ごとがあっても楽観的だ、と渚は思う。伊豆の温泉町で知り合って、はや十年以上になる。別れ話が持ち上るたびにあいまいに流してきたのは、彼のそんな性格にもよるのだろう。まさに腐れ縁だけれど、やっぱりいないよりはマシ。渚は、自嘲の笑いをこぼしながら、久しぶりに高揚した気分でグラスを重ねた。     17  その日、二人が成田空港へ着いたのは、午前八時半であった。十時発に間に合うように出かけたのだった。ところが、空港へ着いてチェック・インをする段になって、やはり二時五十五分発にする、と彼女がいい出した。実は、昨日、新宿の旅行代理店で予約したのは、その便であるというのだ。手にしているチケットを見ると、確かにそうなっていた。フィリピン航空PR四三五便——。 「なぜ?」  渚は、空港ロビーで立ちつくした。 「ごめんなさい」  と、彼女は頭を垂れた。「待つ人、いるの」 「……待つ人?」 「ごめんなさい。わたし、嘘ついた」  唇をかんで目を伏せる。渚は、かすかに苛立ちながらも承知した。人にはいえない何かがあるとしても、それはしかたがないこと。この際、何時間か出発が遅れたとしても、たいした違いはないはず。彼女のいうとおりにしてあげよう。 「おねえさん、シ|コ《ヽ》ト行って」  と、彼女は気づかった。「わたし、ひとり大丈夫」  渚は、思案した。確かに、劇場に穴をあけるわけにはいかない。これまでの踊り子生活の中で、一度もミスをおかしたことがない。そのことだけは自負している。  だが、ここまで来て彼女を置いていくのは心残りだった。何とかして最後まで見届けたい。考えて、一案を思いついた。遅くとも十一時には、劇場従業員が出勤してくる。出番がトップの踊り子も開演の十二時少し前にはやってくる。都内の劇場の何ヶ所かに電話をかけて、知り合いの誰かを探し出し、掛け持ちで上野へ走ってもらおう。きっと、時間的に重ならない子が見つかるはず。年の功をこんなときに生かさなくては。 「いてあげるよ、このまま一緒に」  渚は、いった。「二回目の出番には間に合うから」  首を振る相手に、さらに言葉を添えた。上野まで、ここから一時間ちょっとで行けるんだから、と。  ロビーの隅のできるだけ人目につかない場所を選んだ。空港へも手配書が回っているかもしれない。出国審査にパスできるかどうかが分かれ目だろう。黒髪に戻って化粧も薄くした彼女は、以前とはかなり違っているから大丈夫だろうけれど……。  人の呼び出しや出発便と到着便の案内アナウンスがひっきりなしに流れ、時は刻々と過ぎていく。あり余る時間も入れ替り立ち替りする雑踏の中では消耗が早かった。だが、待ち人あり、といったにしては、いつまで経っても相手の現われる気配がなかった。もう一度問いただしてみたが、彼女はあいまいに首を振るばかりだ。  渚は、引きさがった。この期《ご》に及んで彼女の事情にいちいち立ち入る必要もない。  順に電話をかけていった。六軒目で、やっと捕まえた。一年ほど前、博多で一緒だったホワイト・レディが池袋にいたのだった。中洲川端の馴染みの店へ、毎日のように連れていった可愛い娘だ。池袋M劇場での出番は二番手、終って上野へ飛んでいけば五番手の渚の舞台に充分に間に合う。おねえさんのためなら、と快く引きうけてくれ、上野T劇場も了承した。二十歳以上も若い代役なのだから、劇場側も文句はいわなかった。  一時半になって、チェック・インがはじまった。便はじゃぱゆきさんの乗客が多いらしく、いまも何人ものフィリピン女性が笑顔の中にもどこか疲れを感じさせる表情で出国手続カウンターに居並んでいる。周囲は宛先を書きなぐった荷物の山で立錐の余地もない。中にはみかん箱の五、六倍もありそうな、はちきれんばかりのダンボールも見うけられた。  やがて、ロードラ・ヴィラリアルの番がきた。パスポートとチケットを差し出し、荷物を預け、空港税を払う、一連の作業が滞りなく進むのを、渚は固唾をのんで見守った。大きな布製バッグ一個がベルトコンベアで運ばれていく。カウンターに背を向けた彼女の手には、|搭 乗 券《ボーデイング・パス》がしっかりと握られていた。  渚は、彼女をかばうようについて歩き、その先は見送り人が行けないエスカレーターのところまで来た。別れを惜しんでいる余裕はなかった。向き合って、手をとった。そのまま上体をあずけてくる彼女を、渚はそっと抱きしめた。離れ、見つめ返し、そして、ためらうように背中を向ける。エスカレーターから一度だけ振り返って手を振る彼女の表情が、ほとんど泣き顔に近かった。  ジェット機は、定刻より十分ほど遅れて動きだした。送迎デッキで、渚はその瞬間を快哉《かいさい》を叫びたいような思いで見つめた。ゆっくりと人が歩くような感じで滑走路へと向う、ボディにフィリピン・エアラインと英文字で記された機。空には雲一つなく、白い金属が陽光をはね返して眩《まぶ》しいかぎりだ。緑地帯を貫いてのびる滑走路がはるかな地平線を思わせる。風は冬の到来を告げるかのような冷たさで、さえぎるもののない広びろとした平野の空高くで鳴っていた。  もうすぐ、機は滑走路に到着する。そう思ったとき、渚は妙な不安に陥った。それまで休みなく進んでいたジェット機が、不意に停止したのだ。どうしたのだろう。いや、大丈夫、すぐにまた動きだす。つぶやきながら、そのときを待った。一分、また一分、そして三分が経った。まだ動かない。変だな、と思った瞬間、空港の隅から動きだしたものがあった。タラップ車だった。いま機が辿ったのと同じコースを素早い動きで突き進んでいく。それは、まぎれもなくフィリピン航空のジェット機を目ざしていた。  第 二 部     1  取調室に女を入れ、犯行を認めさせてはじめて、楠木巡査部長は一息つける気分になった。いまなお、逮捕までのシーソー・ゲームが余韻を引いていて、思いだすたびに冷汗の出る心地がした。あやういところだった。空港長の命令で飛行機を緊急停止させることができなければ、国際刑事警察機構《I・C・P・O》をつかって捜査を展開しなければならなくなり、手続き上やっかいな事態になっていただろう。事件発生からおよそ一ヶ月と十日ぶりに、逮捕にこぎつけたのである。  女は、拘束された瞬間は蒼《あお》ざめうろたえた。が、すぐにあきらめたように物静かに従った。刑事たちに誘導され、タラップを降りると、そのまま空港ビルへと運ばれていった。  取り調べは、一夜が明けて本格的にはじめられた。  まず、国籍である。 「アメリカ」  答えた女を、朝森警部補はにらみ据えて首を振った。 「正直に答えないといけないね。君が劇場ではアメリカ人といって働いていたことは知っているが、それは本当の話じゃない」  女の目がおろおろと動いた。 「どうして隠すのかね、そんなことを」  警部補がいって、テーブルを握り拳でコツコツと叩《たた》く。女は、いっそう上体を強張らせて黙り続けた。  女の所持品の中には、どうしたことか、身分を特定するものが何一つなかった。手持ちのフィリピン・パスポートは偽造であることがわかっているし、来日のときのパスポートは紛失してしまったという。逃げる途中に失ったということだが、これも眉ツバものだった。外国人登録証のようなものも無登録ゆえにもちろんない。 (よけいなエネルギーを使わせやがる)  楠木部長刑事は、傍らで取り調べを見守りながらつぶやいた。本庁の警部補を立て、みずからは一歩退いて立ち会っている。口出しはほとんどしないのが原則だ。 「名前についても、同じように嘘だってことがわかっている」 「………」  女が当惑ぎみに頭を揺らし、小さく息をついた。 「アメリカ人というのが嘘なら、サリー・ブラウンというのも違う。もちろん偽造パスポートの名前は問題にならない」 「………」 「名前だ、ネーム!」  と、朝森警部補が苛立《いらだ》った。「それをいわなきゃ、先に進めないじゃないか。一年も二年も、いわないでずうっとこうしているつもりかね。こっちも、およその調べはついている。しかし、それを君の口からいってもらいたいんだよ」  女は、それでも黙っていた。取り調べに先立って黙秘権が告げられているから、女の沈黙をとことん非難するわけにもいかない。 「アメリカはミナミがつくんだろう。南アメリカのコロンビアだ、君の国は。そうじゃないのか?」  誘導的な問いも、やむを得ないところだったろう。女は、警部補のせっつきにやっと反応を見せ、ゆっくりと顔を上げて、 「そう。コロンビア」  つぶやくようにいった。 「コロンビア人としての名前は——」 「パトリシア。……パトリシア・アルマンサ」  朝森警部補は、部長刑事と顔を見合わせると、苦笑を浮べて息をついた。  どの程度の日本語を話せれば、外国人の被疑者に通訳をつけずにすませられるかの明確な基準はない。およその日常会話を喋ることができれば、必要はないとみなされる場合が多い。被疑者が犯行を否認して自白の任意性などが争われるような事件であれば、慎重を期してつけることも検討されるが、本件の場合、そこまでは必要がない、と判断されたのだった。  生年月日は、一九六一年八月十日、当年二十六歳。職業は、ダンサー、と答えた。  それからの供述は、おおむね順調であった。たまに沈黙を交えることはあっても、出入国状況、来日後の生活、とくに劇場関係の仕事については、かなり詳しく素直に答えていく。  問題は、被害者木山浩と出合った昨年の十月末以降の成り行きであった。しかし、ここで取調官は一つの壁につき当る。女の日本語では、男女の感情の推移と細かな心の襞《ひだ》までを描き出すことがむずかしいことだった。調書には従って、しだいに様がわりしていく男と、それにつれて揺れうごく女心の、大ざっぱな経緯が記されただけであった。  二日目、三日目と、取り調べは続けられた。  同時に、改めて関係者からの事情聴取が行なわれた。なかでも新宿スター劇場の社長、古塚芙左次と、あすなろ芸能社長、有田誠吾からの聴取に重きが置かれた。  まず古塚社長だが、パトリシア・アルマンサの供述中、浩を殺害した後、助けを求めた人物として登場する。この場面を問いただされると、確かにその日の早朝四時半過ぎ、彼女から電話を受けて現場のマンション〈コーポ・レインボー〉に赴いたことを認めた。やって来たときには、浩はすでに死んでおり、自分で一一〇番をするようにといい置いて、帰っていったという。そのときの彼女の様子については、すっかり動顛《どうてん》していて、前後不覚の状態であったと話した。これらは被疑者の供述と矛盾する点がなく、一応、納得のいくものであった。ただ、女の国籍については、アメリカ人というのが単なるうたい文句で、実際はコロンビア人であると察しがついていたことを認めた。  有田誠吾に対する事情聴取は、六日目、被疑者に対する警察段階の取り調べがおよそ終るころに実現した。大阪から帰ってくるという日を待って自宅のマンションを訪ね、任意同行させたのである。  新宿署ではこれより先、警視庁捜査一課および四課を加えた別の捜査班によって、新宿区大久保のマンションで起こった台湾マフィアの発砲事件に関する捜査が進められていた。その事件が起こらなければ、本件の犯人逮捕も実現しなかったにちがいない。犯罪秘密結社�Cグループ�の大物、劉漢城が射殺されたことで、従来から噂のあった黒い活動が明るみに出、その妻である劉美郷の供述から、あすなろ芸能マネージャー、永谷達也の名が旅券法違反容疑に関して浮び上ったのだった。  劉(本姓=謝)美郷は、ひた隠しに何かを隠匿しながら、一方でさかんに媚《こび》を売った。最近、永谷達也の依頼で、フィリピン人、ロードラ・E・ヴィラリアル名義の偽造パスポートをつくったこと。さらにそのときに手渡された女の写真は、後になって気づいたのだが、例の殺人事件、日本人青年を刺殺した容疑でうちにも手配書が回ってきた女にそっくりだったと喋《しやべ》ったのである。そうやって別の事件に協力することで、少しでも自分の罪を軽くしてもらおうという魂胆だった。捜査本部は、スワと動きだし、都内の旅行代理店や航空会社への一斉調査により、ロードラ・E・ヴィラリアルの航空券予約の事実と便名を突きとめたのだ。それが出発当日の午後二時過ぎのことであった。  有田誠吾に対する取り調べは、その発砲事件に関しても行なわれたが、関与を否定していた。  ベンツ、リンカーン、それに高級日本車をマンションの駐車場に置き、内縁の妻との暮しを贅沢《ぜいたく》に送る男だ。最近は、部屋を高価な熱帯魚で飾りつけるなど、暮しぶりがとくに豪勢になっていたが、その原因が、数年前から本格化した一つのビジネスにあることは間違いがない。従来の密輸品の取り引きに加えて、人間の輸送に力を注ぐようになっていたのだ。当局も正確な数字はつかんでいないが、少なくとも百名にのぼる女性があすなろ芸能に所属していると見られている。その国籍は東南アジアを主に多岐にわたっているが、なかには思いもよらない国からの留学生も含まれていた。 「まあ、いうたら、人間の輸入がいちばん罪がないのと違いますか」  有田は、その九十キロ近い巨体を傲然とそらしていった。 「罪がね」  聴取に当った楠木部長刑事は、皮肉な調子で、「これまでの専門分野と比べればな」 「貿易の不均衡を人間の輸入で解消してまんのや。これでも大学の経済出てますよってに、それくらいのことはようわかっとります。わたしらのしてることは、世界経済のためにええことや」  違いますか、長《ちよう》さん、と内部の人間同士のように気やすく口をきく。互いの商売がら、顔を合わせるのも一度ならずだった。 「あんたと女たちの関係の不均衡はどうなるのかね」 「それはまた別問題で」 「いまは、その話をしているんだよ」  のらりくらりと話の核心を逸《そ》らす相手に、辛抱強いはずの楠木もいささかうんざりしていた。 「彼女をアメリカ人、サリー・ブラウンとして売り込んだ理由は、ただギャラの問題だけなのかね」  有田が顎《あご》をさすりながら、にやりと笑った。 「そういうことです」 「コロンビア人であると知りながら、そういうふうにしたのかね」 「まあ、そういうことでええんと違いますか」  面倒臭げにいうと、喉《のど》元へ手を差し入れてネクタイをゆるめた。顎から首筋にかけての肉がシャツの襟足をはみ出し、ぶよっと盛り上っている。不機嫌そうに眉を寄せると、いかつい顔つきが陰険さを加えて、いかにも筋ものといった印象だ。 「あんたのところでは、コロンビア人は全員アメリカ人として売り出しているのか」 「そんなことありません。コロンビア人はコロンビア人です。みんな毛染めて、西洋人ということになってますけど」 「というと、彼女だけなのかね、アメリカ人ということにしたのは」 「そういうことですな」 「理由は——」 「ちょっとしたプラス・アルファをつけさせてもろうただけです」 「ギャラの面でか?」 「そうです。けど、ふつうはコロンビア人もアメリカ人もたいして変りませんな。彼女の場合は美人ですよってに、どこの劇場でもたいていは色つけてくれましたけど」  パトリシア・アルマンサがあすなろ芸能に所属したのは、彼女自身の供述によれば、二度目の来日のときである。はじめて来たのは一九八二年のことで、そのときは関西の劇場が主だった。香港や韓国へ一時出国してビザを取り直しながら一年ほど働き、いったん帰国したが、八五年には再び日本に来て、やはり大阪を中心にまわっていた。有田誠吾の目にとまったのは、その二度目の来日から一年余り後のことだった。 「いわばスカウトですな。東京へ連れていったら、もっと稼げるとにらんで引っこ抜きましたんや」 「それまでは、どこかに所属していたのかね」  楠木が尋ねると、大阪市南区にあるSOプロの名を有田は口にした。 「うちとは兄弟関係にある呼び屋です」 「すると、以前、おたくの広旗専務から聞いた話はでたらめだったというわけだ」  楠木は、いった。「ロスの日系人ブローカーとの間で取り引きがあったという」 「そういうケースも確かにあるんです。わたしの説明不足で、そんなふうに思いこんでたのと違いますか」 「彼女がはじめ所属したプロダクションというのは、どういうルートで彼女を来日させたのかね」 「さあ、それは聞いておりませんな」  呼び屋によってそのやり方は違っている、と有田は話をぼかした。  楠木は、煙草を灰皿に押しこむと、ボールペンを握り直して問い続けた。 「スカウトには、当然、金が動いたんだろうね」 「札束が飛ぶような取り引きはありませんな、人間相手の場合は」  有田は、ぼそぼそと気味悪く笑って、「本人の人権いうもんもありますよってに、そない無茶なこともできませんし、ま、適当なとこで手を打って預かったようなわけで」 「適当なところとは——」 「そうですな」  と、有田は相変らずのらりくらりだ。「彼女の場合は、向う半年間、捕まらんと働けたとして、なんぼになるかで決めたと記憶してます」  額はいわなかった。正式な移籍は、昨年の九月初め。SOプロからあすなろ芸能へ、大阪から東京へやって来たことが、日本における彼女の大きな転機とみなしてよさそうであった。 「のぞき部屋〈クリスタル〉もあんたの傘下だね」 「そうです」 「浩がその店を根城に彼女を使って売春をやらせていたのは、知っているね」 「勝手にやってたんでしょう。うちとは関係ありません」 「大事な秘蔵っ子を、浩のような男の勝手にさせていたのか?」 「旦那」  と、有田は開き直った。「なんぼわしらでも、女と男の関係までは立ち入れまへん。男好きになるなとか、つき合うたらあかんとか、そら殺生《せつしよう》でっしゃろ」  苦笑して答えない相手に、有田はドスのきいた関西弁で畳みかけた。 「そらハラ立ちまっせ。あんな野郎に大事な娘が手ごめにされよったんですから。けど、そこまで管理するのは人権侵害ちゅうもんでっしゃろ。まさか切った張ったの話まで、あの野郎とうちの娘が発展していようとは考えてもみませんでしたよ」  それは有田のいう通りかもしれない、と楠木は思った。実際の仕事の上では、劇場側にゲタを預ける形をとっていたのだから、細かな行動まで目が行き届くはずもない。  古塚芙左次と有田誠吾からの事情聴取は、結局、事件の背景としての、巷に巣くう薄闇のような世界をぼんやりと映し出したにすぎなかった。     2  起訴前の勾留中の被疑者への面会は、ふつう短時間に制限される。本件のような一般人の接見禁止の場合は、家族でも差し入れ程度がせいぜいだ。弁護士だけが、可能であった。 「十五分ということでしたね」  その日、新宿署を訪れた赤間愛三は、担当官にそう念を押されて接見室へ入った。警察での取り調べが終り、検察庁の段階に入っているため、接見時間は被疑者が署の留置場へ戻される午後遅くが指定されていた。  しばらく待たされた。一坪足らずの狭い部屋で、スチール製の椅子が一つあるきりだ。やがて、仕切りの向うのドアが開いて、暖色を配したセーター姿がゆっくりと入ってきた。ドアのそばまでは係官が付き添ってきたが、入室はしなかった。 「パトリシア・アルマンサさん、ですか」  赤間弁護士は、通声《ヽヽ》孔を通して首をうなだれる女に穏やかに話しかけた。 「はい」 「今回の事件で、あなたの弁護をするようにと、岩上龍一に頼まれて来ました。弁護士の赤間です」  相手は、そこではじめて顔を上げた。 「リューイチ」 「ええ。ぼくとは学生のころからの友人でね」  にわかに相手の表情がなごんだ。唇にかすかな笑みさえ浮び、目も輝きを増したようだ。  時間は有効に使わねばならない。携えてきたアタッシェ・ケースを開いて、弁護士はノートを取り出した。  当年二十六歳の生年月日を確かめた後で、出身地を聞く。 「ボゴタ」  と、彼女はいった。コロンビアの首都である。  来日に至るまでの経歴について、警察や検察の取り調べでも話しているだろうが、できるだけそれよりも詳しく話してほしい、と赤間はいった。  六人兄弟の長女だった。五人の弟妹は、歳が離れていて、十九歳の妹から十歳の弟までいる。七年前までは、母親が一家の生活を支えていた。父親が病弱で仕事がなかったために、果物などの行商人として働きづめに働いたという。が、その年、母親の突然の死によって生活は一変した。それまで看護婦をめざして学んでいた病院付属の専門学校をやめ、父親、弟妹、それに祖母の一家七人を支えるために、昼夜の勤めに出た。昼間は薬局の店員、夜はディスコ・クラブのダンサーとして。  子供が生まれたのは、それから間もなくのことだった。相手とは結婚しておらず、しかも生活能力がないために援助は期待できなかった。そのようなことがなければ、そして、ちょうどその時期に仕事仲間が心をそそる情報をもたらさなければ、彼女は日本へ来ることなどなかったかもしれない。ただでさえ貧しい暮しが、出産によってさらに苦しくなった折りから、日本へ行ってダンサーとして働けば大きな金になる、と聞かされたのだ。  彼女の決心は早かった。人の紹介で斡旋人と連絡をつけた。簡単な面接で、即座にオーケーが出た。渡航費用は立て替えておく、とのことだった。彼女にとって、日本でひと月に稼げると知らされた額は、目がくらむほど天文学的な数字に思えたという。  子供の世話は、家族にまかせた。出産からまだ一年も経たない、一九八二年十月のことである。  大阪のS劇場が拠点だった。主に関西、たまに九州方面の劇場を回っていた。三ヶ月でいったん香港へ、すぐに引き返し、再び三ヶ月いてソウルへ、そんなことのくり返しでおよそ一年。不法残留をする踊り子が多いなかで、彼女は香港へ二度、韓国へ一度出国することによってそれを避けた。かなりの稼ぎにはなったが、何よりも仕事そのものがつらくて、帰国後は、再び行きたいとは思わなかった。以前のように薬局やディスコ・クラブで働きながら、ぎりぎりの生活に耐えた。 「約束したとき、ヌードで踊るだけといわれました」  おぼつかない発音で、だが、一語ずつ確かめるように彼女は話した。「けど、来てみてわかった。|た《ヽ》まされた。来るとき、借金ある、いやだけどしかたない」  そのはじめての来日では、舞台で身体を売っていたという。一日|概《おおむ》ね三回の舞台で、それぞれ二人ないし三人の客を上げた。ホンバン・ショーといって、外国からのダンサーはほとんどそれをやらされていた、と。  そして、また一年余りが過ぎた。子供は三歳になって、前より手がかからなくなっていた。考えが変ったのは、ながく日本にいて帰ってきた知人の娘が家族のために立派な家を建てた話を聞いたときである。警察もしくは入管に捕まりさえしなければ、ビザ切れ後も働き続けることができるのは知っていた。運がよければ二年も三年もいられる。たとえいつか逮捕されても罰金のみであり、それまで稼いだお金を没収されることもない。知人の娘の帰国でそのことを確認した彼女は、もう一度やってみよう、と思い立った。 「おとうさんの病気、よくない。弟、妹、また上の学校《かつこ》、行く。子供のこと、いろいろ考えた」  今度は、つらい仕事を承知で来日したのである。  言葉を交していくうち、赤間愛三の中には、弁護に必要な心の素地が固まっていった。友人の頼みとはいえ、仕事となると別の要素もからんでくる。とくに刑事事件の場合は、弁護料を度外視して取り組んでも悔いのない何かが見出せるに越したことはない。まだ、フタを開けたばかりだが、それに相当するものが本件にはありそうな気がしてくるのだった。  弁護士の職にありながら、人を殺した人間に会うというのは、どこか危険な場所に赴くような緊張感がともなうものだ。かつて知り合いの弁護士と共同で担当した殺人事件で、被告人の中年男性に面会に出かけたときも、ある種の先入観が頭から離れなかった。それが、いざ会ってみると、まったく別の思いにとらわれたものである。——どうしてこんな人が殺人のような罪を犯したのか。そうした思いが、いまはより強く弁護士の心に萌《きざ》していた。 「日本で親しくしていた人は——」  最後に尋ねた。「誰でもいい。劇場の人でも、仲間のダンサーでも」  首をかしげる相手に、どうしても、と強いるように赤間はいった。 「照明のおにいさん」  やっと一人、意外にも男性の名を教えた。シローといい、新宿スター劇場にいるという。赤間は、その名をノートに書きとめた。  そのとき、ドアが開いて、係官が顔をのぞかせ、 「時間です」  と、告げた。     3  師走に入って二週間が経っていた。外気は冷たいが、新宿駅東口の地下構内にはムッとするような異臭とほこりっぽい空気が滞っている。時節がら、人の流れがいっそう密でせわしない。スキー・シーズンの到来で、信州方面へ向う若者が地下通路にあふれ、構内アナウンスが息つく暇もないほど頻繁だ。  岩上龍一は、赤間との待ち合わせ場所を改札口にしたことを悔いていた。  約束の時間より三十分が過ぎてようやく、前頭部がやや後退して元の丸顔がそうでもなくなった男が、人の間を縫って改札口へ近づいてきた。紺の背広に暖かそうなグレーのオーバー・コート姿。ふくれた頬と丸い目とあぐら鼻の造作には独特の愛嬌がある。背がない上に最近は少し太りぎみだが、黒いレザーのアタッシェを携えて歩く姿はやはり弁護士だ。ラフなブルゾンを着こんだ岩上とは、違いがありすぎた。大学を卒業してからの十五年を越す歳月が、二人を異なる人種に分けていた。弁護士と酒場の店主——。音楽にうつつを抜かした季節が過ぎた後、一念発起で生涯の資格をものした男と、夢をつぶした後も音|漬《づ》けの暮しを選んだ男。それでも半年に一度は会って、近況を語りあう仲だった。 「すまん。今日はおれが持つ」  はやくも飲むつもりで、赤間愛三が遅刻を詫びた。 「国選弁護料くらいの金しか払えないが、それでいいか」  正式に引き受けるとの答えを聞いてから、岩上はいった。 「はじめての慈善事業だと覚悟していたんだがね」 「慈善事業か」  岩上は、何となく笑えた。  あの日、間一髪で彼女が姿を消した後は、新宿署への問い合わせを欠かさなかった。逮捕の報に接するや、次の日には神楽坂にある赤間法律事務所を訪ねていた。弁護士から署へ電話をかけさせ、その後、接見指定書によって、面会の日時が取り決められたのである。  その際、彼女がコロンビア人でパトリシア・アルマンサということも知らされた。意外だったが、とくに驚かなかった。むしろ何の感想も湧いてこないことにとまどいを覚えたほどだ。その国についての知識が乏しかったせいでもあるだろう。スペインによる植民地化が徹底して行なわれた結果、言語はもちろん、あらゆる面でスペインの影響が濃く、先住インディオの築いたものは破壊され、片隅に追いやられたこと。万年雪と氷河に覆われた海抜五千メートル級の高地から灼熱のカリブ、太平洋沿岸地帯まで、気候、風土の変化に富んでいること。東西および中央のアンデス山系とふかい渓谷が交互に走る国土は、首都ボゴタが海抜およそ二千五百メートルの高地にある点に見られるように、気象条件のいい内陸部を中心に開けていること。そして、人種は、スペインとインディオの混血が約半数を占め、次に白人、インディオ、黒人、その他の少数民族となっていること。それらを百科事典から引き出してみたものの、付焼刃の知識でしかなかった。  岩上は、警察署での面会の結果を聞いた。その話題で、目当ての劇場までの十五分間が埋まった。 「四郎ちゃんは、やめましたけど」  指の爪を切っていた切符売場の女が顔を上げていった。「ほんの一週間ほど前に」 「どこへ行かれたんでしょうか」  赤間弁護士が尋ねた。 「さあ、どこかしら。この仕事はもうやらないといってたから」  二人は、気抜けがしたように立ちつくした。ながらく住んでいた劇場に近い百人町のアパートも引き払ったようだという。 �年忘れ特別大公演�とあるポスターによれば、男一人と女三人によるヌード・アクロバットがその週十二月十日までの主な演《だ》し物《もの》らしかった。十一日からはじまる次週は�金粉ショー�とあり、全身金色に光らせて踊る女の写真を配したポスターが何枚も壁に貼られている。 「お疲れさまァ。今日のお客はおとなしいわねえ」  一人の踊り子が狭い通路から現われて、切符売場の女に声をかける。脛《すね》が寒々しい短めのローブを無造作に着け、赤いスリッパをはいている。髪を高くアップにした首筋が白く細い。 「ちょっと、カンナちゃん」  と、爪を切る手をとめて女が呼んだ。「四郎ちゃんは、どこへ行ったか知らない?」  香盤《こうばん》には、ラモーナ・カンナとあった。アイ・ラインとシャドーが崩れた細面の大きな目を二人の客に向け、首をかしげてみせる。三十をとうに過ぎているのだろうが、目もとに少女のような愛らしさを残した女だ。  岩上が事情を話し、弁護士がそばから補足した。 「そういうことなの。へえ、あの事件のねえ」  と、驚いたようにいってから、ラモーナは肝心の問いに答えて、 「免許があるから、トラックの運ちゃんでもやるんだっていってましたけど」 「どこか運送会社へでも?」 「たぶん。でも、聞かなかったわ、そこまでは」  ラモーナがいうと、切符売場の女が口をはさんだ。 「仲のよかったカンナちゃんがわかんなきゃ、誰にもわからないよ」 「そんなことないわよ。あと、わたし以外に親しかった人といえば……」  踊り子は、額に掌を押し当ててしばらく考えこむと、 「渚ねえさんがいるじゃない」  と、少し声を高くした。 「旅に出てるよ、いまは。確か、九州」 「あい渚、って人でね。ミス・サリーのことは四郎ちゃんより詳しいかもよ」  ありがたい話だった。綿谷四郎にはいまのところ会えそうにないが、意外なところから証言が得られるかもしれない。 「博多と連絡をとってみたらいかがですか」 「ぜひぜひ」  と、赤間弁護士がいった。  切符売場の女がその劇場の電話番号を調べ、メモして弁護士に手渡した。博多の中洲にあって、三ヶ月に一度くらいの割でコースを組んでもらっているという。 「北海道出身のくせに、九州が好きな人でね」  と、きれいな歯並みを見せて、ラモーナ・カンナは笑った。  礼をいって、二人は辞した。まだ夜が浅い。飲む時間がたっぷりと残されている。  どうせなら自分の店にしようと、岩上はいった。これから当分は、安い弁護料を補うためにも大いに振るまうつもりだ。弁護士の自宅が西武池袋線沿線にあるために、帰路に立ち寄らせるにも好都合であった。     4  その日の夕刻だった。楠木部長刑事は、検察庁から戻ってきた被疑者を取調室に入れると、彼としてはめずらしくテーブルを叩いて怒鳴りつけた。 「どこまでわれわれをだますつもりなのかね、君は一体!」  鋭い声に、相手は上体をびくりとさせた。頬が引きつりゆがみ、肩先の震えているのがはっきりと認められる。 (何たる失態だ)  楠木は、やり場のない憤りを覚えた。警察での取り調べが一応完了し、検察庁の段階に入っていよいよ起訴というときに、思いもよらない事実が露見したのである。  ひょっとすると大使館筋の誤報かもしれない、と楠木は一抹の疑いを抱いていた。彼地にそういう人間が住んでいた形跡はないし、パスポートやビザが発給された記録もない、と念のために行なわれた身上照会に対する回答を聞いても、にわかには信じられなかったのだ。  だが、それを指摘して被疑者が萎縮したことで、楠木は確信した。 「君の国は、コロンビアなんかじゃないだろう」  もう一つ、デスクを叩いた。「そんなことをごまかしてどうなるというんだね。え?」  やがて、朝森警部補が本庁から駆けつけてきて、再度の取り調べに当った。彼は、かつて自分の誘導でコロンビア人、パトリシア・アルマンサであるといわしめたことを後悔していた。そのために、なおさら苛立ちを隠しきれず、これまでにない鋭い調子で被疑者に向った。 「フィリピン」  ようやく答えが返ってきた。かろうじて刑事たちに聞こえて、耳を疑わせた。 「何だって」  警部補が問い返す。いまや自称にすぎないパトリシア・アルマンサは、同じ言葉をつぶやくようにくり返した。 「もっと大きな声でいいなさい」  頭ごなしに警部補はいった。「嘘ではありませんとはっきりいいたまえ!」  すると、頭を心もち上げて、 「シエラ・ラウロン。ほんとの名前。国は、フィリピン」  やや声を張って、ようやくいったのである。 (この時期にわかって、まだしもだった)  楠木は、怒りを抑えてつぶやいた。なぜ、こんなことが起こったのか。にわかには理解できそうにない。朝森警部補も、しばらく呆然と狐につままれたような面持ちで被疑者の顔を眺めていた。  だが、幸いなことに、取り調べを一からやり直すほどのことではなかった。国籍、姓名の変更にともなって、たとえば出身地のボゴタをセブ市に変えたり、ロス経由の入国経路をマニラ・大阪と変更するなどの手を加えるだけで、その生い立ちや家族構成、来日の動機、出入国状況などにはさわる必要がなかったのである。もっとも、母親の死後、勉学を断念したのはセブ市にある病院付属の看護婦養成学校であり、その後、働きに出たのは首都マニラであること、そしてそこで日本へ行く機会を得たことなど、細かくいえば追加変更しなければならない点がいくつかあったのだが。  そのことは、取調官を奇妙な思いにさせた。コロンビアをフィリピンに置きかえても、一人の女の環境や境遇について、たいした矛盾を生じなかったのだ。同じスペインの支配を受けたローマ・カトリックの国、原住民との混血、よく似通った国民の姓名などを思えば、それはむしろ当然といえるだろう。  だが、被疑者がなぜ身分関係について、そのように証言を転々させたかの理由については、ほとんど追及されなかった。その点について彼女が口を閉ざしたせいもあるが、犯罪そのものの立証とはあまり係わりがないと判断されたためである。  古塚芙左次と有田誠吾の供述についても同様の変更を加えねばならなかった。古塚社長は、事実を「知らなかった」といい張り、有田誠吾は、「えらいすんまへん」と謝るばかりで、こちらもなぜそんな嘘偽りを述べたかについては一言も喋らなかった。  被疑者および参考人の供述調書は、従って、必要最小限の変更にとどめられて、記録となったのである。     5  朝、高田馬場で一つ用事をすませてから、赤間愛三は山手線に乗った。  西日暮里まで行き、そこから地下鉄千代田線に乗り、北千住で東武伊勢崎線に乗り替えて一つ目の小菅駅で降りる。通い馴れたコースを、その日も辿った。  ホームから、澄みきった冬空の下、監視塔のそびえ立つ灰色の建物群が見えた。荒川沿いの一角。東京拘置所である。そこには、主に未決囚が収容されている。若干の既決も含まれているが、大多数がまだ裁判を待つ、あるいは公判中の被告人であった。  赤間のすぐ傍らを爺さんと中年の女が、保釈金の工面についてあれこれと話し合いながら歩いていた。ヤクザのものらしいグリーンの外車が悠々と通り過ぎる。ミンクのコートを着た若い女が濃い香水の匂いを振りまいて擦れ違う。かと思えば、人目をはばかるように肩をすぼめた地味な装いの年増がとぼとぼと先を行く。人生のある種の縮図のようなものがその界隈にはあった。  石門をくぐり、金属探知機による所持品のチェックを受けてから、弁護人専用の控え室に入った。一般控え室の隣、枯れた芝生の花壇に面しており、弁護士会の女性が受付に腰かけている。赤間は、接見弁護士記録帳に、氏名と所属弁護士会名、それに入口で受け取った番号札の番号を書きこんだ。部屋には、先着の四名が四角いテーブルを囲んで週刊誌や文庫本を読みながら順番を待っている。  部屋の右手奥にある白い布カバーのかかった長椅子に腰をおろした。底のバネが壊れていて、座り心地はよくない。目の前には古ぼけた木の丸テーブルがあり、やがて、受付の女性がお茶を運んできてくれた。  煙草のけむりに煤《すす》けて無機的な匂いのする部屋だが、そこで接見の番を待つ間が、赤間にとってはさまざまな考えをめぐらすのに都合のいい時間であった。みずからの職業を否応なしに自覚させられる場所でもある。  テレビなどに出て意見を述べるような弁護士はごく少数であるし、その派手さも見かけだけだ。遅目のラッシュ・アワーに電車に揺られて事務所に向い、デスクで書面と取り組み、笑いを忘れた依頼人と会い、いかにも殺風景な法廷にでる。地味な仕事——、赤間愛三は、心底そう思っていた。  三十分ほどして、看守に番号で呼ばれた。  女性に対する弁護人接見室へは、高いレンガ塀を左手に見ながら、中庭に敷かれたコンクリートの通路を歩き、塀にうがたれた鉄扉をくぐらねばならない。造りは一般の面会室と大差なく、閉ざされた狭苦しい空間をいくつもの通声《ヽヽ》孔をもつプラスチック製のボードが仕切っている。  向う側のドアが開いた。うつ向き加減に身を入れ、自分でドアを閉めて振り向いたパトリシア・アルマンサ改めシエラ・A(母方の姓アルゲリアス)・ラウロンは、ゆっくりと歩を進めた。椅子に腰をおろすと、ボードを挟んで文字通り目と鼻の先になった。  弁護士は、健康状態を尋ねることからはじめた。元気、と答えるけれど、顔色がやや黄ばんで生気がない。深い黒い瞳は相変らず魅力的だが、どことなく輝きが失せて見える。拘置所の食事を気づかうと、何とか「食べられる」というが、まずい思いをしていることに変りはないだろう。  三日前、リューイチが来てくれた話になって、やっと笑みを浮べてみせた。いま着ているセーターも、彼の差し入れであるという。淡いオレンジ色の暖かそうなタートル・ネックのセーターだ。衣類や日用品の入った布製バッグだけが飛行機に乗ってフィリピンへ行ってしまい、戻ってくる望みはない。おそらくセブ国際空港で持ち主不在の荷物として適当に処理されたにちがいない。従って、岩上龍一が当初からあれこれと運んでくれなければ不自由この上ないところであった。  赤間の彼女についての知識は,いまは格段に増えている。起訴後に提供される記録の閲覧を昨日までにすませていたからである。取り調べの途中で姓名・国籍事項に変更があったことを知らされたときはいささか驚いたが、その曲折が事件の何たるかを語っているような気がしたものだ。警察、検察におけるシエラ・ラウロンの供述調書、果物ナイフ、着衣等証拠品押収目録、殺害現場の実況見分調書、関係者の供述調書など、裁判に提出される予定の証拠書類一式を|事前に《ヽヽヽ》見ることによって、事件の輪郭をつかむ。そのうえで被告人から直接話を聞きながら、弁護の作戦を立てていくのがふつうの手順だ。 「浩と出合う前に、誰かとつき合ったことはあるの?」  弁護士は、ゆっくりとくだけた口調で問い進めた。 「はい」 「何人くらい」 「二人」 「どのくらいつき合ったの?」 「二ヶ|月《けつ》くらい、二人とも」 「そんなに早く」 「はい」 「どうして別れたの」 「わたしの仕事きらいだから。劇場ですること知って、逃げたの」  赤間は、ノートにペンを走らせた。事件と直接的な関わりがないように思えることであっても、ある事実や状況の裏づけとなることが往々にしてある。 「浩も、あなたが劇場でしていることがいやだった?」 「はい」 「ところが、彼は前の男と違って、逃げていかなかった」  どうしてだったのか。赤間は、穏やかに問いかける。  シエラは、組んだ手指に視線を落とすと、そのまま目を閉じた。やがて、一つ肩で息をつくと、 「ヒロシ、やさしいところ、あったからと思う」  つぶやくようにいった。  予想外の言葉だった。いまでは、浩との関係を美化して見ようとするところが彼女にはあるのではないかとさえ思えてくる。だが、たとえそういう一面が彼女にあるにしても、まったくの嘘偽りというわけではないだろう。二人の感情は、相当にもつれている。時間を費やし、曲がりくねった会話の中から要点を拾い上げ整理する、そういう方法で少しずつ解き明かしていくほかはなさそうであった。  シエラ・A・ラウロンと木山浩には、幸福な一時期があった。  二度目に来日した彼女があすなろ芸能にスカウトされ、大阪から東京にやってきて三ヶ月近くが経ったころ、つまり浩と出合って約一ヶ月後の十一月下旬、その月第三週目(十日間)の休みを利用して沖縄旅行に出かけている。沖縄本島から石垣島まで、四泊五日の旅だった。彼女にとって、あとは不特定多数の客に身をまかせることになるのだから、その楽しさが格別のものであったのは当然のことだろう。  ただ一枚の写真が残されていた。黒く風化した石灰岩の石垣を背に、揃《そろ》いと思われる赤と白の横縞《じま》のTシャツにブルー・ジーンズ姿の二人が肩を組み合っていて、背景の海と空の透き通った青がまぶしい。写真で見るかぎり、浩はこれといった印象のない平凡な若者だ。吊りぎみの目と上向きに反った細い顎が特徴といえばいえたか。ちりちりのパンチ・パーマをかけた頭のまるみが鋭角的な顔立ちをいくぶんやわらげている。身長は、百六十二センチの彼女より少し高い程度だが、盛り上った肩や腕の筋肉はいかにもスポーツで鍛えた男のものだった。  だが、そういう睦まじい旅の中にあっても、彼女の心には、一つの翳《かげ》りが差しはじめていた。  彼女は、浩にいっている。せめて一人ぶんの交通費くらいは出してほしい、と。そのときはじめて、二人の間にちょっとした言い争いがあったようである。 「全部、シエラが払ったの?」  赤間が尋ねると、 「ヒロシの煙草も」  いって、ぽとりと目を伏せた。  旅から帰ると、現実が待っていた。その月の故国への仕送りは、いつもの三分の一も確保できなかったという。休暇をとった上に旅費が予想以上にかさんだためだった。  彼女は、悩みはじめる。浩がいなければ、これまで通りお金の要らない劇場の楽屋に寝泊りするはずだった。だが、最後の出番近くになると、浩は必ず電話を入れ、あるいは迎えに来て、誘いだす。そして、ホテル代その他、すべて彼女の支払いであった。  出費を抑えなければ、と、日ごとに彼女は思いつめていく。日本で三年は頑張るつもりだった。が、いつどこで逮捕されるかわからない。運がなければ明日かもしれない。その不安が、焦りに輪をかけた。  年があけて二月に入ると、彼女は自分の部屋を持つ。売れっ子の彼女は東京近辺の劇場がほとんどであったから、通える都心に部屋を借りれば、浩としばしばホテルに泊るより安くつくと考えたのである。高層ビル群を見上げる西新宿六丁目、五階建の賃貸マンション〈コーポ・レインボー〉三階の一DKで、法にふれる身の彼女自身は表に出られるわけがなく、木山浩が形だけの名義人になった。  だが、最初の期待はやがて裏切られることになる。生活をはじめてみると、ある程度部屋を整えるだけでも、思いがけないほど出費がかさんだ。それに、定宿を得た浩は、北新宿にあった自分の四畳半のアパートまで引き払ってしまい、神奈川の親元へもたまにしか帰らなくなった。金をせびりはじめたのも、このころのことである。  彼女は、再三、頼みこむ。平塚の家へ帰るか、自分の部屋を持ってほしい、と。別れるのではないから、時どきは遊びにくればいい。自分が日本へ来たのは国の家族を養うためなのに、このままでは満足な仕送りができない。以前は、月に千ドルほど送金できていたのが、いまは五百ドルにも満たない。苦しい立場をわかってほしい、と。  浩が彼女を殴りはじめたのは、そうした争いがきっかけだった。顔を腫らして舞台に上がることが一度や二度ではなくなっていく。 〔……お客さんとセックスするときは少しも快感は得られませんでしたが、浩とは全身が震えるような喜びを覚えました。けれども、浩がわたしの苦しい立場をわからずに暴力を振るうたびに、浩とのセックスも味気ないものになってしまいました。……〕  検面調書(検察官の面前での調書)には、そんなふうに記されている。  別れるチャンスは、一度だけあった。この春、五月はじめのことだ。  深夜、仕事から帰った彼女は、部屋に寝そべってラジカセを聞いている浩に、ささいな注意を口にする。音が大きすぎる、と。すると、浩は突然顔色を変え、ラジカセを蹴《け》飛ばして、なぜこんなに帰りが遅くなったのかと咎《とが》めたてた。仲間の踊り子に誘われて、パブで少しビールを飲んでいた。話しても聞かず、殴りつけ、男と遊んでいたんだろう、と罵《ののし》った。  それまでどうにか耐えてきた彼女も、その夜ばかりは黙っていなかった。向ってくる浩に、爪を立てて抵抗した。突き飛ばされると、台所の食器を投げ、椅子を蹴った。ひるんだ相手に、彼女はさらに追いうちをかける。目につくものを手当りしだいに引っ掴《つか》み、武器にして、ついに浩を部屋から追い出してしまったのである。  その後、彼女はマンションの鍵をつけ替え、無記名だった郵便受けのネーム・プレートには別人の名を書いて引っ越しを装った。  二度と浩には会わない。故国の家族だけを思って働こう、と心に誓う。そして、浩からもそれからしばらくは音沙汰がなかった。  話を聞きはじめて、ゆうに二時間が経っていた。赤間は、さすがに疲れを覚えた。弁護人接見に制限時間はないけれど、今日のところはこれくらいにしておこう。 「ヒロシのお母さんに、あやまる手紙、書いた」  シエラは、最後にいった。  いつも神に祈っている、と聞いてはじめて、赤間は彼女の胸にある金色のペンダントが十字架であることに気づいた。     6  冷たい、どしゃ降りの朝である。  妻とまだ幼い二人の娘に見送られて大泉学園の自宅を出た赤間愛三は、傘を手に用心深く歩いた。神楽坂の急な上り道で,足に馴染まない新しい靴が滑ってあやうく転びそうになった。�赤間愛三法律事務所�と記された郵便受けをのぞいてから二階へ上る。坂道を小路へ数メートル入ったところにある四階建の古いオフィス・ビルだ。背後に料亭街を控える静かな界隈にあって、中小の商事会社、広告会社、それに鍼灸《しんきゆう》の治療院などが入っている。  まだ暖房の効きは充分ではなかったが、事務員の真崎和美がいれてくれたお茶をすすっているうちに身体は暖まった。 「昨日の夕方、佐藤さんという方からお電話がありました」  和美がメモを見ながら報告した。「次の週は、あいにくまだ九州で、このぶんだと東京へは当分帰れそうにありません、とのご伝言です。一度、お電話をいただきたいとのことでした」  赤間は、うなずいた。佐藤なにがしというのが、あい渚の本名らしい。博多と連絡をとったのが三日前のことだ。あすの中日《なかび》を過ぎれば次の出演地が決る、ひょっとすると東京へ戻れるかもしれないので、それまで待ってほしいということだった。  駄目か……。赤間は、湯呑を手にしてつぶやいた。関係者からの話は、彼女一人に期待するしかない状態だ。新宿スター劇場の古塚社長などは、知っていることはみんな警察に話してあるといって剣もほろろだし、綿谷四郎の所在は依然としてつかめない。 「どういう方なんですか、その博多の人」  と、和美が尋ねてきた。 「君には遠い世界の人だよ。宇宙人のようにね」 「そんなことないですよ」  和美は、不満そうに唇をとがらせる。「わたしだって、ここの仕事終ったら何やってるか、先生知らないでしょう」 「怖《こわ》いことをいう」 「同じ女性のやることですからね。たいていのことでは驚きませんよ」 「そうかな」  赤間は、からかうように、「ぼくは、同じ男のやることでわからないことがいくらでもある。生活環境の違いと人種の違いが縦横にからみあうと、民間航空機と人工衛星くらいの差が出ることもあるんだ。互いに絶対に見えないこともある」 「興味あるなあ、そんなふうにいわれると、よけい」  肩をすぼめて笑うと、自分のデスクに戻った。午前中に仕上げねばならない内容証明があり、ワープロの前に座ってキーを叩く。身体つき同様ほっそりとした横顔が、形のいい彫りを見せている。半年前職安を通して面接に来た数名のうちから、接客のさわやかさを第一の条件にして選んだ娘だ。短大を出て商社勤めをやっていたが、失恋して故郷の三宅島へ、いったんは帰ったものの、二年も経つと東京が恋しくなり、再び上京してきたところだった。化粧をして着飾ってくることもあれば、ラフな格好で素顔《スツピン》に眼鏡をかけてきたりする。たまにはコンタクトに疲れた目と化粧でいじめられた肌を休めてやるためだという。島の娘の素朴さがさっぱりとした物言いや態度に隠しがたく現われているが、いうことは現代っ娘《こ》らしく翔《と》んでいたりもする。  赤間は、さっそく博多にある劇場の電話番号をプッシュした。二度のコールで、女の声が受けた。  ——楽屋です。  取り継ぎを乞うと、待つ間もなく本人が出た。  福岡空港からの道は空いていた。  御笠川を渡ると、間もなく博多駅で、中洲はもう目と鼻の先だった。目印として教えられた櫛田神社のそばで車を降り、あとは歩いた。  冬の日は、早くも暮れかかっている。鮮やかさを増しつつある街の灯が薄墨を流したような那珂川の水面に映えて、ある種幽玄な趣を呈していた。  その劇場は、川に面した通りから一歩入った三階建ビルの二階と三階だった。一階がラーメン屋で、その脇の狭い急な階段を上っていくと、客待ち顔の年増が入っている切符売場があり、くの字に方向を変えて上りきると、もぎりと場内への扉があった。 「いま、ちょうど出番ですたい」  と、もぎりに腰かけていた初老の男が、そばの壁に貼りつけてある香盤を見ながらいった。出演順に踊り子の名前と持ち時間、演《だ》し物《もの》の内容などが記されたそれと、腕時計を見比べてから、 「もう十分ほどで終りますけん、楽屋に上って待っといてくんしゃい」  楽屋は三階だと、さらに上へ通じる階段を指した。  赤間はしかし、もぎりのそばの古ぼけた長椅子に腰かけて待つことにした。  十二月も第二週目の楽日前《らくまえ》とあって、客の出入りにどことなくあわただしさが感じられる。�灼熱のヌードで今年も見納め�と朱書されたポスターによれば、ヌード・フラメンコなるものがその週のメインらしかった。フラメンコも踊りようによってはこの種の商売に使えるのか。およそ踊りという踊りがその資格ありというわけだろう。  もう何年もこういうところへは来たことがない、と弁護士は思う。学生のころ、仲間と信州へスキーにでかけた際、温泉街の小さな劇場に入ったことがあるのが最後だろう。若いといえる女はひとりもおらず、内容にしてもただ一枚ずつ脱いでいくだけの、しごく穏やかなものだった。幕間にやるコメディアンの寸劇のほうがよほどおもしろかった記憶がある。 「この曲が最後ですけん」  もぎりの男がいった。扉の奥からにわかにヴォリューム・アップしたテンポのいい歌謡曲が流れはじめていた。  大部屋であった。二十畳はある畳敷きで、鏡が壁にはめこまれた化粧前《けしようまえ》が部屋の三方に一定の間隔を置いてある。踊り子たちがいっせいに、ある者は鏡の中から、大いにとまどい気味の腕にコートを抱えたスーツ姿を見た。  部屋の中央には、広いスチール製のテーブルが置かれていて、ひと目で外国人とわかる女が出前ラーメンを食べている。白地にピンクの縦縞が入ったシャツ・ブラウスを着けただけの姿態で、横に流した太腿から細いくるぶしまでの脚線が見事だ。片方の足首にはよく光る金の輪をはめていて、やや浅黒い肌に映えている。箸をつかう手つきが幼児のようにぎこちない。マニキュアと足指のペディキュアはいずれもショッキング・ピンクだ。はだけたシャツの胸もとから豊かな乳房をこぼれさせながら、髪をかき揚げかき揚げ麺《めん》をすくい上げている。  ストレートにしたブロンドの髪は、本物に見えた。とても染めているとは思えないほどの光沢がある。顔立ち自体はシエラと比べれば見劣りするけれど、より西洋的で、肌の色も薄かった。  あい渚は、間もなく戻ってきた。すでに気楽なワンピースに着替えていて、小さな銀のスパンコールが無数に縫いこまれた舞台衣装は小脇にかかえていた。化粧台の前に膝を折ると、「どうも」と「すいません」を弾む息と息の間にいった。わざわざこんな遠方まで来てもらって申し訳ないという。 「仕事にかこつけて、ぼくもあちこち旅するのが好きなんですよ」 「儲《もう》かりそうな仕事でもないのに、よく」 「そのぶん、ほかの事件《けん》で稼いでますから」  笑ってすませると、赤間は改めて事件を担当する弁護士としての目的を告げた。 「わたしが知ってるかぎりのことは、みんなお答えしますよ。どれだけお役に立てるかわかりませんけど」  濃い色気があった。ブルーのアイシャドー。光沢《つや》出しで光らせた赤い唇。だが、化粧を落とせばシミの一つや二つは現われるかもしれない。その身体つき同様、造りの大きい顔立ちは舞台ばえするにちがいない派手さを備えていた。 「別れたんですよねえ、いったん」  物思うような口調でいう。煙草に火をつけると、姐御肌の雰囲気が際立った。 「浩と縒《より》を戻したときのこと、ご存知なんですか」 「一緒に乗ってたんですよ、あの子と」  弁護士が首をかしげると、渚は笑って、 「乗る、っていうんです、この世界では。劇場に出ること」  やはり、来て正解だったようだ。切符売場を手穴《てけつ》と呼んだり、花道の先の丸舞台をデベソと呼んだり、独特の呼びかたがいろいろあるという。  赤間は、拘置所でのシエラの話や検察庁の記録を思い浮べながら話題を継いだ。  この五月、耐えかねて浩を追い出した後、ネーム・プレートを別人のものにし、部屋の鍵までつけ替えてやり直そうとした彼女だったが……。 「確か、六月ごろでした。……」  渚は、記憶をたぐり寄せるように話した。  渋谷の劇場だった。それまでの彼女にはとくに変ったところが感じられず、トリとしての舞台も普段どおりこなしていた。が、心の中は違っていたのだろう。その日、不意に浩から楽屋へ電話がかかってきたときの取り乱しようは、そばで見ていて唖然とするほどのものだったという。  ——どこにいるの、いま。え、渋谷のどこ。え?  叫ぶようにいった、そのときの口調を、渚は真似た。 「わたし、すごく痩せたよ、って。あなたと楽しかったこと、思い出してばかりいる、ってね」  渚は、煙草のけむりを苦笑まじりに宙へ向けた。会いたいといってくる相手に、  ——あなた、変ってくれる。ほんとに変ってくれる。変ってくれる。……  何度もくり返し確かめていたという。  受話器を置いたとき、彼女の顔はすっかり上気して、涙が頬を伝っていた。  ——別れたんじゃなかったの。  咎めるようにいったものだと、渚はいう。あの子とは別れたほうがいい、恋人ならほかの人を探しなさい、と。  だが、彼女は耳をかさなかった。次の出番までには必ず戻ってくるといい置いて、小走りに楽屋を飛び出すと、浩と待ち合わせた渋谷駅近くの喫茶店へと道玄坂を下っていったのである。  外国人の踊り子が出番の準備をととのえて、階下へ降りていった。南米、チリからの女だという。髪について尋ねると、オキシドールのようなものですっかり脱色してから染めるので本物のブロンドに見えるのだと、あい渚は話した。  舞台でやることは同じだろう。一度見ておきたい、と赤間はいった。 「あんまりいいものじゃないですけど。参考までにということなら」 「いい機会ですから、ぜひ」  渚は、少し当惑ぎみだ。入場料を支払うと赤間はいったが、その必要はないと、楽屋からの通路へ招き入れ、ちょうど暗転した場内へ導いてくれた。 「普通なら、恋人のああいう舞台を見ると、男のほうから去っていくでしょうね」  考えにまとまりがつかないまま、赤間はいった。  見てきた舞台の光景——、スクリーンが客席との間にかけられ、その向うでジャンケンに勝った客と女の姿が黒い影絵となって映し出された。露骨ではないかわりに、まぎれもない行為が逆に生なましく、ネガフィルムのように脳裏に残像をとどめている。  渚は、煙草の灰をアルミの皿に落としながら、 「それを彼の場合は、嫉妬して突っかかっていったんですよ」  劇場へやって来て、彼女が従業員と少しでも親しくするのを見ると、それだけで仲を疑うほどだった。個室サービスの内容もわかっていたけれど、甲斐性《かいしよう》のない浩には、かといって彼女に仕事をやめさせるわけにもいかなかったのだ。 〔出合った最初のころほどの喜びは感じませんでしたが、浩がいい人になると約束してくれましたので、ある程度の快感はありました。……〕  縒《より》を戻してからのことについて、検面調書にはそんなふうに記されている。検察官の尋問のしかたは、性的な面から男女の心の動きを辿ろうとするものだ。少し雑な感じがしないでもないが、そういうやり方ができない弁護士には参考になった。  いい人になるという浩の約束はしかし、すぐに破られた。もとの木阿弥、いや今度はよりいっそう悪辣《あくらつ》なヒモになったといってよい。遊ぶ金をせびる、聞き入れられなければ殴る蹴るの乱暴を働く、そればかりか、ある脅しをちらつかせて無理を押し通した。彼女の不法滞在と劇場でやっていることを警察に|密告する《ヽヽヽヽ》というものだ。  だが、そういう浩に対しても、百パーセント愛想をつかしたわけではない。彼を進んで受け入れる気持がなくなって、セックスは一方的で強制的なものになってしまったけれど、 〔まだ少しは快感を覚えました〕  そして、行為の後は、 〔何となく浩を許してあげたい気持になりました〕  そうやって、ずるずると日を過ごしていくのだった。 「浩のいうことは何でも聞かざるを得ない状態になっていたんでしょうね」  赤間は、いった。「売春の強要にしても、ノーとはいえなかった」 「売春?」 「ええ。のぞき部屋を舞台にやっていたとか」 「のぞきといっても、店によっては小部屋があって、その中でお客にサービスするらしいんです。だから、内容は劇場と変らなかったんじゃないかしら」  すると、ニュアンスは少し違ってくる、と赤間は思った。劇場と同様の舞台は、のぞき部屋にも用意されていたことになる。問題は、それに浩がどのように係わっていたかだ。調書には、浩に強要されていたとあるが、お金を無理やりせびられることと同義であるのかもしれない。  季節は、秋になっていた。  十月の第二週目——、新宿のM劇場から次に|乗る《ヽヽ》ところが決らず、十日間が空白になった。たまにあることで、普通は休暇に当てる。が、例によってのぞき部屋〈クリスタル〉でその間を埋めることになった彼女は、夕方の四時から深夜二時までめいっぱいに働いた。 〔劇場よりも疲れました〕  彼女は、検察官の前で答えている。 〔……帰宅は午前三時で、疲れきって帰ってくると、浩がいつもゴロゴロしていました〕  そんなある夜、浩は彼女にわずかな思いやりを示したことがある。 〔「目をつぶってごらん」とそのとき浩はいいました。わたしが目を閉じると、封筒を膝の上にのせ、「プレゼントだよ」といいます。中を見ると、三万円が入っていました。そんなことは以前に一度もありませんでしたので、わたしは半信半疑ながらも、「ありがとう」といって受け取りました。……〕  それまでさんざん金をせびってきた浩の�プレゼント�がわずか三万円であっても、彼女には嬉しかった。彼が反省して、以前の約束どおり、変ってくれるのではないかとの期待があった。  だが——、それは浩の単なる気まぐれでしかなかった。皮肉なことに、それが最後には殺人への|引き金《ヽヽヽ》になってしまったのである。  赤間は、音信不通だった浩から突然渋谷の劇場へ電話がかかってきたときの様子をもう一度尋ねた。 「それまでの淋《さび》しさが、いっぺんに爆発したような感じでしたよ」  渚の口調がしんみりとなった。「何ていうか、張りつめていたものがプツッと針を刺されて爆《は》ぜてしまうみたいに」  あとは、話題が定まらなかった。まだ聞き出さねばならないことがあるはずだが、何をどう尋ねていいのかわからず、言葉も途切れがちになった。  長居をしては悪いと弁護士がいうと、はるばる博多まで来てもらって、何をおっしゃいますかと、恐縮するように渚は返した。 「どうせ暇なんですよ」  そして、次の出番まで一時間半もあるので、 「お茶でもご一緒してください」  と、すでに腰を浮かせながらいう。  赤間は、喜んでそれを受けた。     7  渚は、ワンピースの上からぶ厚い毛皮のコートを羽織った。ちょっと出かけてくるよ、と隣の若い踊り子に声をかけ、素足にハイヒールのサンダルをつっかける。と、ふと思いついて引き返し、鏡の前で口紅だけを拭い落とした。そうして、どぎつい顔をいくぶんなごませてから、先に立つ弁護士を追って階下へ降り、冷えこみはじめた川沿いの道を肩を並べて歩きだす。 (まだ話は終っていない。大事なことをいい残している)  心の中で渚はつぶやきながら、なおもどうしようかと迷っていた。  はじめ考えていたコーヒー専門店の前まで来ると、彼方に中洲川端の灯が見えて、 「コーヒーにしますか、それとも……」  川向うの飲屋の連なりを指していう。 「どちらでも」  と、いいながら、酒のほうがいいと思っている弁護士の顔色を見てとって、渚は、あっち、と踊りのターンをするように身体の向きを変えた。 「最近は、お酒を飲んで舞台に上る悪いクセがついちゃって」  笑いながら、「酒でも飲まなきゃ、やってられるかってね」  いつもの三坪ほどの店に客はいなかった。まだ開いたばかりで、カウンターの向うに仕込みをしている老いた女将がいるだけである。腰をおろすと、渚はしきりに手をすり合わせながら、白花、冷やでとりあえず二本、と赤間の同意を得てから女将に告げた。メニューを手にして、さっぱりしたものと温かいものをいくつか選んだ後で、 「さっきから聞こう聞こうと思っていたんですが……」  と、渚は迷いながらも切りだした。「彼女は、警察で自分のことを何ジンだっていってるんでしょうか」 「何ジン?」 「ええ。どこの国の、という意味ですけど……」 「はじめはアメリカ人だといっていたそうですが、実は南米のコロンビアであるといい、さらについ最近、フィリピン人であることがわかったそうです」  弁護士は、のぞきこむように渚を見つめ返して、 「そのことについて何か?」  と、尋ねた。 「やっぱり、わかりましたか」  渚は、心の緊張をときながら、組んだ手指に視線を据えて、「パトリシア・アルマンサで通すわけにもいかなかったんですね」 「というと、知っていたんですか、彼女の本当の国籍を?」  渚は、うなずいた。これまで当人の国籍には触れず、また、名前についても「彼女」とか「あの子」とだけ呼んで本名を避けてきたのだったが、もうその必要はない。 「髪を染めているのは南米の子と相場が決っているから、警察も最初はそう信じてしまったんでしょうね」 「彼女の身上を特定するものが何もなかったようですし」  弁護士の顔に、つよい関心がみなぎった。「もし、コロンビア大使館に身上照会することを警察が怠っていれば、いまもそのままでしたよ」 「パトリシア・アルマンサというのは、実はシエラが自分でつけた名前なんですよ」  差し出された銚子を手にして、渚はいった。どんな人の前でも、このことだけは隠し通してきた。どんな話の中でも、決して相手に悟られないように気をつかってきたものだ。 「日本でいえば佐藤恭子というほど平凡な名前だそうです。佐藤恭子というのはわたしの本名ですけど」  少し笑い、気分をほぐしてから続ける。「たぶん、どこかの劇場で知り合ったコロンビア人の名前を借りたんでしょう」 「というと、彼女は劇場で働いていたときは、コロンビア人と見られていたんですか」 「そうですね」  渚は、うなずきながら「アメリカ人という触れこみは、いわば二重のカモフラージュだったんです。そうしておけば、まさかフィリピン人だと悟られることもないだろうと……」 「誰も彼女の本当の国籍を知らなかったというんですね」 「あすなろ芸能の内部でさえごく限られた人間しか知らなかったでしょうね。踊り子では、わたしくらいのものじゃないかしら」  話してほしいと弁護士にいわれて、渚は気が重くなった。女将の差し出した酢の物をつまみ、酒を口にしながら、しばらく考えを整理する。  話は、大阪の時代からはじめねばならなかった。  その年、いまから五年ほど前、彼女がはじめて日本にやって来て、関西の劇場を回っていたころのことだ。渚は、三度ばかり彼女と、�ミス・ナタリー�と、一緒になった。一年余りの間に、三度も会うというのはよほど縁があるといっていい。その当時の彼女は、黒髪のきれいな、とても可愛い女の子だった。髪は、染めていなかった。フィリピン人なら誰でもそうであるように。いや、彼女のような場合を除いて、というべきだろう。知っている範囲では特殊なケースだけれど、一概に例外とはいえないかもしれない。  一度は帰国したという彼女と再会したのは、昨年の九月半ば、浅草の劇場だった。はじめ、それが誰なのかを思い出せず、けれども、どこかで見たことがある、と思っていた。顔が少し老けたのと髪が金色に変っていたことで、イメージがずいぶんと違っていたのだ。が、やがて記憶が戻ったとき、ナタリーじゃないの、と思わず叫んでいた。その時の彼女のなんともいいようのない表情はいまも忘れられない。怯えたような、恥ずかしさで身の置き場をなくしたような、こちらが気の毒になるほどの顔つきをしたものだった。そして次には、懸命なお願いをはじめていた。どうか黙っていてほしい、誰にもいわないでと、くり返しいって掌を合わせるのだった。  渚は、事情を察して承知した。心配しなくていい、と慰めもした。フィリピン人ミス・ナタリーは、アメリカ人ミス・サリーとして舞台に上っていたのだった。  聞けば、この秋口、大阪のSOプロから東京のあすなろ芸能へ移ったばかりだという。しかも、所属は同じ新宿スター劇場である。渚は、驚いた。あすなろ芸能といえば××組の傘下にあり、達也もヤクザではないが、そこのマネージャーとして働いていたからだった。その彼でさえ彼女の本当の国籍を知らなかったくらい、この事実は極秘にされていた。雇われ社長の古塚芙左次にも知らされていなかった。ボスの有田誠吾、広旗専務ほかごく少数の幹部だけが、密かに彼女の売り出しかたを定めたにちがいない。彼女の器量なら、髪を染めさえすればいける。南米からのどんなコロンビア人やチリ人にもひけをとらないはずだと——。  SOプロからの引っこ抜きは、そういう魂胆から行なわれたにちがいなかった。 「ネットが二倍も違うんです」  と、渚はいった。ネットとは業界用語でギャラのことだと説明してから、「フィリピン人は、コロンビアの半分なんですよ」 「どういうことですか」  問い返す弁護士の目がけわしくなった。  フィリピン人がふつう日建て二万五千円、コロンビア人が五万。それが昔からの相場だと、渚は話した。たとえば、新宿スター劇場の場合、一回の舞台につき二人の個室客をとるので、一日四回かける二、つまり八人の客を取ってそれだけだ。一万五千円を事務所がピンハネするため、彼女たちのもとには一万円しか残らない。タッチ・ショーの舞台をつとめ、しかも個室で八人の客をとって一万円だった。かつて、舞台に上る客は入場料以外には不要であったが、いまの個室客は別に、フィリピン人の場合は三千円、コロンビア人の場合は六千円を支払う。従って、ノルマ以上の客をこなせば一人当り若干のバックがある。フィリピン人は千円、コロンビア人は二千円というふうに。 「それが現実ですか」  頭を垂れて、弁護士がいった。  渚は、やりきれない思いで酒を口に運ぶ。やめていった綿谷四郎の例を出して、自分もまた、所属の劇場が安っぽい売春宿に落ちぶれてしまったことを嘆いている、と話した。 「綿谷さんは、彼女のことをどこまでわかっていたんでしょうか」 「アメリカ人というのが嘘だってことまではわかってましたけど」 「彼も信じていたんですか、コロンビア人だと」 「パトリシア・アルマンサという名前を彼女に教えられたのは、彼なんです。その話を聞いたときは溜息が出ましたよ」  渚は、いまも吐息をつく。彼女の逮捕をきっかけに転職するといっていた、その通りにした彼が早くもなつかしくなりかけている。どこにいるのか、連絡くらいくれてもよさそうなものなのに……。 「あすなろ芸能の有田誠吾は、どうして警察の事情聴取に本当のことをいわなかったんでしょうね」  赤間弁護士が話題を変える。 「うしろ暗い思いがあったからじゃないでしょうか。人を右から左へ動かして、しかも出身を偽らせてまで荒稼ぎをしていた。そういうことをあえて警察にいう必要もない、と」  それにしても、と渚は思う。髪を染めて西洋人を装えというあすなろ芸能の方針に、彼女はどういう思いを抱いたのだろう。ただギャラが二倍も違うという理由だけで、喜んでそれに従ったのだろうか。大阪時代の知り合いに見抜かれたときの取り乱しようは、何だったのか。渚の中に、未だ釈然としないものがわだかまっていた。 「木山浩は、そのことを知らなかったのでしょうか」 「さあ、どうだったんでしょう」  渚は、ふと胸の突かれる思いがした。それを考えてみるのは、いまがはじめてだ。自信がないままに、いった。「やはり、コロンビア人と思っていたんじゃないかしら」 「とすれば……」  弁護士は、頭をかかえた。何かを捉えようとしながら、それができないでいる焦燥が表情に浮んでいる。  渚は、手酌し、弁護士の猪口《ちよこ》へも注いで二本目を空けた。相変らず、よく入る。が、酔いはひところよりもずっと早くなったように感じた。  偽造のフィリピン・パスポートがうまく手に入ったときの高揚した気分を渚は思い出す。何も知らない達也は、いったん他国へ逃亡して、そこからさらに故国へ向うものと思っていた。最後まで、二人だけの秘密だった。あと一歩だったのに。午前十時の便で飛んでいれば、脱出は成功したかもしれないのに。台湾マフィアの発砲事件のお陰で、すべてが水の泡。パスポートにかけたお金は戻ってこない。そんな話題で、ときを埋めた。 「彼女の本物のパスポートは、あすなろ芸能が預かったままになっているはずですよ」 「有田は、その点でもしらばくれている」 「彼等の常套《じようとう》手段なんです。いやだといってもすぐには逃げて帰れないように、日本へ来ると取り上げてしまうんです」 「彼女の場合は、そのことがもう一つの役割を果した。フィリピン人を証明するパスポートのようなものは、かえって邪魔になるという……」 「皮肉ですね。そのことが自分の隠れ蓑《みの》になったなんて」 「彼女が本当の自分を偽った理由は何だと思いますか」  弁護士が口調を改めて尋ねた。「事件が起こるまでは、いまの話からある程度わかります。しかし、逮捕されてからも取調官に嘘をついたわけは何だったんでしょう」 「それは、わたしも疑問に思ってました。でも、当然のような気もするんです」 「どういう理由で?」 「シエラは、逃げている間にいろんなものを捨てたようです。たとえばマニラで撮った写真や、英語の本や、その他、自分の背景がわかるようなものを。捨てないで隠していたのは蝋燭《ろうそく》を立てる燭台や子供の写真くらいのもので……」  それらは、マンションに彼女を匿《かくま》っている時期、二人だけのときに話してくれたことだった。 「積極的にそういうふうにしたわけですか」 「そうですね。どういうつもりでそんなふうにしたのかは、わたしにもわかりません。でも、あすなろ芸能や業界のやり方が、彼女をそれほどまで複雑にしたことは確かです」 「木山浩との関係もからんでくる」 「だから、素直になろうにもなりようがなかったんじゃないでしょうか」  渚は、新しい銚子を傾けた。沈黙の後で、続ける。 「大阪時代は、まだしもだったんです。舞台で客をとるようなつらい仕事をしながら、けっこう明るくて、国のことなんかもよく話してくれました。お母さんは、何年か前にひどい熱病にかかって死んでしまったとか、兄弟は何人いて、お父さんは病気だから働けない、だから、わたしガンバル、とかね」 「彼女は、セブ島の出身なんですね」  と、赤間弁護士が独りごとのような調子でいう。 「わたしにくれた住所にも確か」 「あの日、二時五十五分発の飛行機は、セブ経由マニラ行きだったんです」 「セブ経由?」 「はい。今年の夏から木曜日の午後には、その直行便があるそうです」  渚は、目を閉じた。待つ人がある、と彼女がいっていたのは、現地で待つ人の意味だったか。  ながい沈黙があった。シエラの話題はほとんどつきたようだ。  ことしの暮れは、たぶん釧路にいる。しばらくぶりに入ったキャバレーのフロア・ショーだが、場末の二流どころで、ショーの中身は劇場とたいして変らない。北海道は自分の故郷といえども広すぎて、知らない土地へのひとり旅はわびしい。そんな話を、訪れた酔いに陶然となりながら渚ははじめていた。かつて、大晦日《おおみそか》をショーの終った後で出かけた居酒屋で、ぽつねんと過ごしたときのさびしさは口では表わせない。ゆきずりの男でもいいと思うのはそんなときだ。 「踊り子の宿命のようなものでしょうか」  苦笑を交えて、「大勢の男の前でハダカをさらした後は、誰か定《き》まったひとに身をあずけることがなければ、とても救われない気持になるんですよ。まるで病気みたいにそうなってしまうんです」  相手が夫であろうと、ヒモみたいな男であろうと、そばにいてくれる一人《ヽヽ》が必要《ヽヽ》なのだと、渚は何ごとかを説き明かすようにいった。     8  新しい年が明けていた。  赤間愛三は、東京拘置所への四度目の訪問を終えて池袋まで戻ってくると、岩上龍一の店に立ち寄るつもりで東口へ出た。  その日は氷雨が午後から雪になり、夕方には都心で十センチほどの積雪があった。街の輪郭がまるみを帯びて、けばけばしいネオンさえ潤いを得たようになごんでいる。  前に何度か来たことがある、サンシャイン中央通りの居酒屋に入った。一階は黒光りのする木のカウンターとテーブル、二階が座敷になっている店だ。岩上の店へ行く前に、しばらく一人で飲みたい気分になったのだった。  赤間は、アタッシェ・ケースをカウンターの椅子に置き、コートを脱いで背後の壁に掛けた。腰をおろし、熱カンを頼んで、主人に差し出された熱いオシボリで顔を拭った。  淋しさの爆発……。浩からの突然の電話に応対するシエラについて話したあい渚の言葉を思い起こしながら手酌した。事件の底に、踊り子のさびしさがあるとは考えもしなかった。金銭欲であり、色欲であり、怨恨であり、あるいはそれらの複合であるといったことしか念頭に置いていなかったのだ。そのさびしさを、宿命とまで渚はいった。浩との関係を最後まで断ち切れなかったことと、それは重なりあっているにちがいない。  赤間は、舌に沁《し》みこませるように酒を飲んだ。事件の経緯を頭の中でもう一度なぞってみる。考えれば考えるほど、さまざまな細部がこれまでとは違った意味をもって立ち現われてくるような気がした。  その夜、といっても午前四時になっていたから、朝といったほうがいいだろう。仕事がいつもより長びいて、一時間ほど遅れて帰宅した彼女は、先に帰っていた浩の機嫌がひどく悪いのを一目で感じとった。その日は給料日で、それを当てにして待っていたからである。 「金を見せろ」  開口一番に、浩はいう。  彼女は、やりきれない思いで、もらってきた三十二万円をベッドの上に並べてみせた。のぞき部屋とは名ばかりの一坪に満たない個室へ招いた客に、十日間、種々のサービスをして得た報酬だった。  その中から、浩が十五万円を抜き取った。彼女は、愚痴をこぼす。残り十七万から家賃を払い、二人の生活費を差し引くと、いくらものこらない。今月も国へ充分な仕送りができない、と。  いつもの不満だったが、浩は態度を変えた。十五万の取りはそのままにして、「金を返せ」と、突然いいだしたのである。 「三万円、返せといいました」  拘置所でのシエラのとつとつとした口調がよみがえる。それは以前、浩が彼女に�プレゼント�してくれた三万円であった。  そこで、赤間は尋ねたものだ。その三万円はもともとあなたのものではなかったのか、と。その通りだった。 「別れてやる。そのかわり金返せ」  浩は、いいつのる。 「なぜ?」  彼女が問い返す。浩は、引かなかった。金返せ。なぜ。押し問答がくり返された。そして、結局は彼女が折れる。十七万円の中から、さらに三万円を�返した�のである。  すると、浩は——、 「オーケー、帰る。お前とはもう会わない」  帰ろうとして腰を上げる。そのまま黙って行かせておけば、おそらく何ごともなかったはずだった。が、彼女はあわてて後を追う。浩の前へ回りこみ、 「怒らないで、お願い。帰らないで」  いって、腕にすがりついた。  お願いをくり返す彼女を、浩は張り飛ばす。ふっ飛んだ彼女を打ち捨てて、そのまま出ていってくれていればよかった。倒れた彼女へ、もう一度手を上げようとしたとき——、 「帰って。やっぱり帰って。もう来ないで!」  叫んでいた。  瞬間、浩の目の色が変った。背中を向け、奥のベッドルームへ走りこむ。  それからの話を、赤間はごくりと何度も唾《つば》を飲みこみながら聞いた。  浩が、こんどはナイフを手に戻ってきたというのだ。驚いて起き上ろうとする彼女にのしかかり、ナイフを頬に押し当てた。切るぞとばかりに頬から顎へ刃をすべらせ、次には胸を裂きはじめた。下から上へと、トレーナーを刃先に引っかけて裂き、さらに突き上げるようにブラジャーを切ると、そのまま襟首近くまでゆっくりと布を切り裂いていった。殺される恐怖にかられた彼女は、無我夢中で相手を突き飛ばす。逃げる彼女を、浩が追いかける。台所の隅へ追いつめ、その襟首をつかみ、流しのそばにある冷蔵庫の扉へ押しつけていった。 「どのくらいの力で?」 「つよい。手の指、首に入る」 「そのとき、ナイフは?」 「顔に当てた。切るつもり」 「浩はそのとき何かいっていた?」 「笑うだけ。とても怖い」 「浩の指は、だんだん首に食いこんできたんだね」 「はい。苦しい。とても」  検面調書には、このあたりの経緯は詳しく記されていない。彼女自身は、話したというが、ナイフで脅されたり衣服を切られたりした証拠がなく、信用してもらえなかったのか。それとも、検察官が故意に無視したのか。そのときの状況については、〔浩に殴られ突き飛ばされて、台所でもみ合っているうちに……〕といった程度のことしか記されていないのだった。  実況見分調書の写真が示すように、死に絶えた浩の右手にはナイフが握られていた。しかし、検察側は、それを単純に被告人に有利なように解釈するはずもない。それについては、〔私は自分の罪が少しでも軽くなるように、浩を殺害した後でわざと握らせたものです〕と記されていた。鑑定書によると、そのハンティング・ナイフの柄の部分から彼女の指紋が採取されたことは確かであり、ナイフを握らせた動機等について大きな疑問を持たれたのである。このことは、ナイフの刃先に付着していた血痕と、やはり誰のものかわからない二個の指紋とともに、未解決要素として放置されたままだった。  ふと彼女の目に入った果物ナイフ——。それが、たまたま流しのマナ板の上に置いたままになっていなければ、一瞬の激情も通りすぎたかもしれない。あるいは、首を締められながら伸ばした手がナイフに届かなければ、それまでだったろう。  ひと突きであった。  果物ナイフは、刃渡り十二・二センチ、木製の柄が八・五センチのごく平凡なものだ。検死によれば、〔右胸から胸中央付近を左斜め下方内側に約十一・五センチ入り、右第四肋骨および第四肋間筋肉をほぼ正鋭に刺入して、右胸腔内へ、ついで心臓の前面右側寄りから心臓へ達した〕とある。  正当防衛——。  赤間は、それを思い描いていた。彼女の行為は保身のためにやむなくとった防衛行為であるし、ナイフを突き立てたときも殺意はなかった、と弁護人としては考えたいところだ。殺してやるといった感情はなかったと彼女もいっている。結果的に死に至らしめたとしても、行為の違法性は問われない。|急迫かつ不正の侵害に対抗したまでのこと《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》ではないのか。  だが、浩がハンティング・ナイフを持ち出して異常な行為に走ったという事実は、どうすれば立証できるだろう。彼女の着衣、つまり、切り裂かれたトレーナー、アンダーシャツ、ブラジャー等は、その朝、紙袋に包んでゴミ捨て場に捨ててしまったという。清掃車が早々とさらっていったとすれば、出てくる見込みは皆無だ。浩を殺害した瞬間、その手から床に落ちたハンティング・ナイフを|部屋を出ていく前に拾い上げ《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|もとのように握らせておいた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》という彼女の言葉を保証してくれるものは何もない。  弁護の方針はしかし、着実に固まりつつあった。検察側の「殺人罪」による起訴に対して、かつては「傷害致死」を主張しようと考えていたけれど、いまは違った。「無罪」で闘うつもりであった。  赤間は、二本目の銚子を空けた。そろそろ岩上の店へ行かねばならない。去年の暮れに博多から帰って、まだ何の報告もしていないのだった。  扉が開いて、弁護士が入ってきた。来るはずの時間に遅れているので気になりかけていた岩上龍一は、その顔色を見て苦笑した。どこかで一杯引っかけてきたことは問うまでもない。  雪道に革靴、しかも路面が凍りはじめているので、駅から五分のところを三十分ほどかけてやって来たのだと、赤間はアルバイトの香に向って冗談をいう。これしきの雪で都会人がコロコロと転ぶのは何かしら暗示的だといいながら、水割りに口をつけた。  雪のせいで、店は閑古鳥がないている。岩上は、弁護士の隣に自分も薄い水割りをつくって腰をおろすと、話題を継いだ。 「こういう些細《ささい》な環境の変化にさえうまく対応できない。人間は、少しも進化した動物とは思えないね」 「雪など見たことのない人間なら、なおさらだ。ひとかけらの雪も降らない国からの人間がこういう環境に暮していることを思うと、何かしら哀れだな」  赤間がいって、話は急に展開した。昨年暮れ、九州へ飛んで一人の踊り子に会ってきたのは知っているが、その成果についてはまだ聞いていない。  かつて、彼女の国籍について変更があったと聞いたとき、岩上は自分でも意外なくらいに冷静に受けとめたものだ。本来は黒髪であると知ったときから、アジアの女かもしれないとは感じていた。香港、シンガポール、フィリピン、タイ、マレーシア、そのあたりが頭に浮んでいた。はっきりと特定できなかったのは、後にコロンビアと聞いてもピンとこなかったように、それぞれの国についての知識が乏しかったせいだろう。フィリピンと聞いて、岩上の中に鮮明によみがえってくるものがあった。蝋燭の炎。ポケット聖書。聖母マリア。無病息災を祈願する自然石。現地言語《セブアノ》の影響だろう、濁音の不完全なクセのある喋り。そういえば、会話にしばしば英語を交えた。それは万国共通の意味合いもあるために気にもとめなかったのだが、なるほどとうなずけることの一つだった。  弁護士は、ゆっくりと時間をかけて、あい渚から聞いた話を伝えていった。彼女がシエラの置かれていた立場と真相を知るに至った経緯について。あすなろ芸能のやりかたについて。……  話に一応の区切りがつくと、岩上はいった。 「あの頃は、そろそろ髪を染め直さないといけない時期に来ていた。正直いって、黒髪が生えてきているのを見たときはゾッとしたよ。いくら隠そうとしても隠しきれないものが後から後から追いかけてくる、この子は、そんなふうに日本で暮してきたのだろうと思った。その通りだったな」  流れはじめたキース・ジャレットのピアノが沈黙を埋めた。香がかるくスキップしながら二人の前へ足を運び、水割りのお替りをつくる。その後で、カウンターの隅にぽつねんといる客に呼ばれて去ると、赤間が話題を続けた。 「浩がそういう彼女の背景をどこまでわかっていたのか。ひょっとすると、そこに事件を解き明かす一つの鍵があるような気もするんだよ」 「木山にも国籍を隠していたというのか?」 「少なくとも最初のうちは、そうだろう」 「問題は、最終的にどこまでわかっていたかだな」 「渚ねえさんは、やはり最後までコロンビア人だと思っていたんじゃないかといっているんだが」 「こみ入ったことは、いずれ裁判で明らかにすればいい。しっかりした通訳のつく法廷でね」  通訳と聞いて、赤間は思う。裁判にかけられる以上、やはり本当のことを隠し通すわけにはいかなかったのだ。コロンビア人のままでいれば、スペイン語の通訳が用意されてしまうだろう。 「ご苦労だな、思いがけず手間のいる事件で」  恐縮ぎみに、岩上はいった。 「やりがいのある事件は、たいがいそうだ」 「そういってくれると助かる」 「しかし、おれの大変な活躍で、たとえ無罪を勝ちとっても、彼女が日本の娑婆《しやば》の土を踏むことは二度とない。いずれにしても強制送還だよ」  岩上は、うなずいた。不法に日本に暮した経歴からして、それはやむを得ない。はじめから過分な期待をしているわけではなかった。 「人は、人をそんなに簡単に殺せるものかね」  手にしたグラスを見つめて、岩上は話題を変えた。 「そういうやつも中にはいるだろうが、普通は殺さないね。毎日のように報道されているけれども、人口の比率からいえばやはり少ない。弁護士になっても、殺人事件など一生に一度も担当しないで引退していく人はいくらでもいるよ」 「だから、たいていは、殺すとなるとよほどのことだ。逆にいえば、よほどのことがあれば誰だって人を殺す」 「彼女を無罪にしてみせるよ」 「無罪?」 「我ながら思いきりがいい」  と、赤間が少し笑って続けた。「しかし、傷害致死ではおさまらない気持があってね。傷害致死なら、二年以上の懲役だ。殺人罪に比べれば格段に罪は軽いし、闘いやすいのは確かだが、本件の弁護人としては納得がいかない」 「勝算はあるのか」 「負けを承知のイクサはやらんよ」  そのためにも、何とかして綿谷四郎を探し出したい、と赤間はいった。あい渚は現役であるため、あすなろ芸能や所属の劇場の手前もあって法廷で証人に立つことを渋ったからだ。それだけは勘弁してほしい、踊れなくなってしまうと、別れ際に懇願したのである。  従って、いまは業界を去っている元照明係の証言がどうしても必要になってきた。青森県弘前市の出身であることしかわかっていないが、就職したと思われる都内の運送会社をシラミ潰しに当ってみる、その役目を岩上が引き受けた。 「それと、浩が持ち出したというハンティング・ナイフだ。それについても、不明の点を何とかしたいものだな」  一月下旬の初公判まであと二週間余り、残された課題を思えば、決して充分な時間とはいえなかった。     9  淡い日差しが青空を縁どるビル街をななめに走り、歩道の多くは影だ。先週末に再び降った雪が冬枯れた枝を拡げる街路樹の下に残っている。  警視庁を右手に見ながら、赤間愛三はゆっくりと桜田通りの歩道を歩いた。左手前方には、手前の古めかしい法務省とはまるで違う、白い巨大な裁判所ビルがそびえている。  完成して四年余りになる、その十九階建の新庁舎は、東京高裁、同地裁、同簡裁などが入っている合同庁舎である。近代的な巨大なばかりのそれが、赤間は気に入らなかった。かつての、薄緑の壁が色あせた地裁ビル、その並びのくすんだ煉瓦《れんが》色の高裁庁舎のほうがはるかに風格があり、ある種の暖かみさえあった。それが、階段も使う機会のない、無機的な、密閉された空間に閉じこめられてしまった。新しい床に滑ってころび、腰を痛めた老弁護士などは、赤間以上に新庁舎をのろっていた。  中央合同庁舎と外務省の間から国会議事堂が見える交差点を左へ折れると、間もなく裁判所の第二南門があった。植え込みをあしらった花壇を左右にもつ石段を上る。扉を押し、すぐにもう一つある開いたままの扉を過ぎると、通路が真っ直ぐ南北のエレベーター・ホールへと続いていた。  赤間は、エレベーターの前に来て腕時計を見た。十時の開廷まで、あと十五分ある。ちょうどいい時間だ。  東京地方裁判所刑事庁舎第四二五号法廷——。  重厚なチーク材の造作がまだ新しく、塗料《ワツクス》がかすかに鼻をついた。各テーブルには座席の数だけのマイクが備えつけてあって、声量のない者には好都合であった。  赤間は、弁護人席に腰をおろした。対面には検察官の土川勇が控え、風呂敷に包んで携えてきた書類を広げるところだ。細い色白の顔がひ弱な感じのする、赤間よりだいぶ若い公判立ち会い検事である。  正面脇にある被告人出入口の扉が開いた。  手錠をかけられたシエラ・A・ラウロンが伏目がちに入ってくる。すぐ後に、腰ひもを握る女性刑務官、そして男性刑務官と続く。弁護人席の前まで来ると手錠がはずされ、被告人を真中にして腰をおろした。映画館のようなシートが四列ある傍聴席には、暗く不機嫌な被害者の親族が数名、少し離れて岩上龍一、そしてもう一人、赤間の見知らぬ男が控えていた。  その男が、弁護士と目を合わせると、かすかに頭を下げてみせた。ふと、赤間の胸が騒いだ。綿谷四郎ではないか。青森県の実家まで探し当てて現住所を求めたのだったが、母親、姉妹夫婦とも、東京の新しい引っ越し先は知らなかった。ついに探しきれず、残念しごくに思っていたのだったが……。  立って傍聴席へ歩み寄った。  やはり、そうだった。一昨日、あい渚と出合って裁判のことを聞かされたという。もちろん彼女には公判の日程を伝え、もし綿谷四郎と連絡がつけば弁護士が証人に立つことを望んでいる旨、伝えてほしいと話してあった。どうにか間に合ったのだ。赤間は、うなずいて身を引き締めた。  やがて、法廷の時計が十時を指すと、黒衣に身を包んだ三名の裁判官が次々と現われ、裁判長の岸辺淳三が開廷を告げた。  外国人の裁判の通例として、まず雛壇《ひなだん》下に控える通訳人の宣誓があった。 「良心に従い、公平にして正しい通訳を行なうことを誓います」  もと日本の放送局に勤務していた日系二世のアメリカ人女性で、在日二十余年、当年五十歳のベテランであった。東洋的な雰囲気のある丸顔は温厚そうで、パーマをかけた栗色の髪にはわずかに白いものが混っている。 「被告人は前へ——」  裁判長が命じると、即座に通訳人が英語に直した。  シエラが陳述席に歩み寄る。紺のスラックスにタートル・ネックのぶ厚いセーター姿。毛先の少し荒れた黒髪が、以前より伸びて背中を覆っていた。  手順に従って、人定質問が行なわれた。 「被告人の名前は?」  通訳人が英語に訳すと、 「シエラ・アルゲリアス・ラウロン。……」  被告人が答える。それを通訳人が、 「シエラ・A・ラウロンです。母方の姓、アルゲリアスは省略してかまいません」  と、日本語に直した。 「生年月日は」 「一九六一年八月十日です」 「というと、現在は二十六歳ですか?」 「そうです」 「あなたの国籍は?」 「フィリピンです」 「職業は何をしていましたか」 「劇場のダンサーをしておりました」  やりとりは、ある程度日本語のわかる被告人の語学力を度外視して、すべて通訳人を介して行なわれた。時間は、そのために通常のおよそ二倍を要することになる。 「では、検察官、起訴状の朗読を——」  岸辺裁判長がいった。大柄な体躯にふさわしい、ふとい声だ。左右に若い二人の陪席裁判官を従えて悠然とした物腰である。外国人のからむ重大事件を過去に何件か裁いてきたことで知られ、その熟練のバランス感覚を高く評価する人が多い。  検察官の土川勇が、立って起訴状を朗読した。  ——起訴状。公訴事実。  被告人は、昭和六〇年六月二六日に本邦に入国後、その滞在期限を越えて不法に在留しながらストリップ劇場等に出演していた者であるところ、  翌同六一年一〇月末ころ東京都新宿区内のディスコ「A」において木山浩(当時二十三年)と知り合い、ほどなくして深い関係を持つようになり、翌同六二年二月一五日ころから同都新宿区西新宿六丁目×番×号所在のマンション「コーポ・レインボー」三〇二号室において同人と同棲するようになったが、同年三月ころより同人が被告人に対し冷淡な態度で接するようになり、かつ多額の金員を脅しとるなどしたことから深く恨みを抱くに至り、同六二年一〇月二一日午前四時半ころ、同人と金銭上のトラブルがもとで口論となり、右同所六畳台所内で争いもみ合ううち、激昂のあまりとっさに同人を殺害しようと決意し、流しのマナ板の上に置いてあった刃体一二・二センチの果物ナイフを手にし、同所において同人の右胸部をめがけて力まかせに突き刺し、よって同人をして心臓刺創にもとづく失血により死亡させて殺害したものである。罪名及び罰条、殺人、刑法第一九九条。  検察官が腰をおろすと、裁判長がいった。 「いま読み上げられた起訴状の事実について、間違いはありませんか? 但し、ここで念のためにいっておきますが、あなたは質問に答えたくなければ答えなくてけっこうです。ただ、あなたがこの法廷で述べることは有利にも不利にも証拠として採用されますから、そのつもりで答えるように」  黙秘権についての裁判長の言葉が話しかけるような砕けた響きを帯びた。 「およそ間違いありません。しかし、ヒロシを殺すつもりはありませんでした」  シエラは、真っ直ぐに雛壇を見上げ、小声ながらしっかりとした口調の英語で答えた。  起訴状に対する意見を述べるために、赤間は立った。 「弁護人は、被告人の本件行為は正当防衛にもとづくものであって、無罪であると考えます。また、被告人には被害者を殺害する意思はなかったものであります」  最後までいい終らないうちに、土川検察官が顔を上げた。何をいうのかといいたげに、見開いた目が非難の色を帯びる。 「弁護人の主張の詳細は,追って明らかにいたします」  口早にいって、赤間弁護人は着席した。 「被告人は、弁護人の前の席へ座りなさい」  裁判長が命じ、通訳人の言葉を聞いて、シエラは陳述席を離れた。腰をおろす瞬間、不安と緊張のこもった目でちらと弁護士を見る。左右に付き添う女性と男性の刑務官が少し腰をずらして席を空けた。 「では、検察官、冒頭陳述を——」  この裁判官の言葉も通訳人は英語に訳した。逐一、裁判の進行を被告人に知らせるためであった。  証拠調べに入る前に、検察官が証拠によって立証しようとする具体的な事実関係や量刑事情を明確にしていくのが、いわゆる「冒陳」である。  検察官の冒陳が、読点の少ない文体そのままに長々と続いた。  その内容は、弁護士がこれまで調べてきた事実の範囲内におさまるものであった。故国での生い立ち、来日の動機からはじまって、入国経路、入国回数、被害者木山浩との出合い、同居の動機と形態、いったん別れて縒《より》を戻す経緯、そして犯行に至る状況と殺害の瞬間までを、第一から第九の項目に分けて読み上げられた。  最も重要な殺害の瞬間については——、 〔被告人は、襟首をつかんで台所の冷蔵庫のドアへ押しつけてくる被害者に対して、離して離してといいながらもみ合っているうち、もう顔も見たくないという気持になり、とっさに流しのマナ板の上に置いてあった果物ナイフを手にし、殺意をもって……〕云々と、起訴状にそった表現で描かれていた。  検察官は、冒頭陳述を終えると、携えてきた書類のうちから、「証拠申請書」を提出した。冒頭陳述の内容を裏づける証拠の提出によって、本格的な証拠調べがはじまることになる。  赤間は、廷吏によって運ばれてきた書類にざっと目を通した。甲乙二種類の「証拠関係カード」で、証拠番号、標目(供述者、作成年月日、住居、尋問時間など)、立証趣旨、および備考に分かれている。それぞれの証拠について、弁護人は、書証については同意、不同意を、さらに物証については、その意見を告げねばならない。  やがて、赤間は立って裁判長に向い、被告人の供述が記載してあるすべての調書を「不同意」とした。つまり、取り調べ段階において、適正な通訳人をつけずに自白調書が作成されていることから、|自白の信用性《ヽヽヽヽヽヽ》を争うとの趣旨である。自白がみずからの国語で行なわれたのではない以上、それが正確に表現されたかどうかについては疑わしい。しかも、捜査段階で被告人の姓名、国籍等が変更されていることから、公判において詳しく検討しなおす必要がある、とつけ加えた。その他については、「同意」した。劇場の社長やあすなろ芸能社長などの調書は、疑問点が多々あったものの、犯罪事実と直接には関わっていないし、とくに被告人に不利益になるものでもなさそうだ。不同意にして検察側の証人として引っぱり出し、反対尋問を行なったところで、しぶしぶ出廷する人間が真相を話しそうもない。  凶器等の物証については「異議なし」とした。ただ、押収品目の中の、ハンティング・ナイフについてのみ、意見を述べた。 「そのナイフについては、実況見分調書にありますように、被害者の右手に握られていたものであります。ところが、ナイフの刃先についていた血痕が誰のものであるのか、あるいは採取された指紋のうち、まったく不明のものが二個あるなど、謎の部分が多いわけですが、弁護人はそのナイフにこそ重要な意味があるものと考えております」  赤間は、一応、そんなふうに裁判官に告げて注意をうながした。  次に、同意された書証につき、検察官による要旨の告知が行なわれて、第一回公判は終った。  綿谷四郎は、一足先に廊下へ出て、岩上と並んで弁護士を迎えた。額の後退した大造りな面にダンゴ鼻がどっかりと居座っている感じのピエロ的な顔立ちは、どこか自分に似ていると思った。が、濃紺で決めたスーツ姿は弁護士然としていて、ふだんの彼には馴染みのない人種である。  挨拶もそこそこに昼食に誘われた。 「やっと来てくれましたね」  と、弁護士はいった。 「それがまったくの偶然でして……」  綿谷は、歩きながら話した。久しぶりに新宿へ飲みに出て、通りがかりの劇場の出演メンバーに目をやると、あい渚の名前が飛びこんできた。で、ちょっと楽屋へ立ち寄ってみようという気持になったのだが、裁判の話を聞き、弁護士がそれほどまで自分を探していると知ってあわてた。彼女が捕まったのは、警察が改めて古塚社長から事情聴取したことで知ったけれど、その後のことは気になりながらも新しい仕事に追われて日をやり過ごしてしまっていた。 「それにしても、驚きましたよ」  一階へ降りて弁護士会館側の出口へ向いながら、綿谷はいう。彼女の姓名、国籍についての話だった。 「劇場で働いていても、わからなかったんですか」  岩上龍一が尋ねる。 「知りませんでした」  てっきりコロンビア人だと思っていた、と綿谷は話した。まさか、あすなろ芸能がそこまでの仕掛けをほどこしているとは考えてもみなかった。未だに頭が混乱ぎみで、どうしてこんなことが起こったのか、考えるのに少し時間がかかりそうだ。  南国の料理でも食べに行こうと赤間が提案して、ほかの二人の同意を得ると、有楽町までタクシーを拾った。都合よく、午後の予定は何も入っていない。綿谷もちょうど休みの日で時間は充分にあり、この際、証人尋問の打ち合わせをしてしまいたいという弁護士の提案を二つ返事で受けた。  高架線に近い裏通りにあるタイ料理店に入った。猛烈に暑いか寒いか、どちらの気候でも辛い料理は合うもので、赤間弁護士は夏と冬によくそこを訪れる。狭い階段を上っていくと、扉を押すまでもなく香辛料の芳しい匂いが漂ってきた。  四人掛けのテーブルに腰をおろした。深紅のサロンを腰に巻いたタイ人のウェイトレスが注文を取りにきて、お任せするとの綿谷の言葉に従って、赤間が適当に選んだ。魚介類のいため物、スープのトムヤンクン、ヤム・プラー・ムックなる烏賊《いか》サラダ、ビーフンなど。  ほどなく昼の休み時間になって、OLや会社員で満席になり、なお空きを待つ列ができた。エスニック料理はいまやブームらしく、狭い店では近辺のファンさえもさばき切れないようである。 「法廷では、まず彼女の劇場での仕事について話していただきたい」  赤間弁護士が話しかけた。 「こちらも荒削りの知識は得ていますが、まだまだ細かい点があるはずです。それらを包み隠さず話してほしいんです」 「わかってます。ぼくは、もうあの業界には戻りませんから」  綿谷は、さばさばした口調でいった。 「ほかにも二、三人の証人候補がいるけれど、実をいえばそれほど大きな期待はかけられない。あなたが頼りなんです」  赤間弁護士は、かつて警察署ではじめて彼女と面会し、日本で親しくしていた人を教えてほしいといったとき、ただ一人、シロー、と告げたことを話した。 「渚ねえさんのことを黙っていたのは、本当のところを知られていたからでしょうね」  綿谷は、目をしきりにしばたたいて、「そうですか、ぼくのことをそんなふうに見てくれてましたか」  料理が次々と運ばれてきて、話は一時中断した。  三人は、しばらく事件から離れて食べることに精を出した。弁護士が初体験の二人を気づかった。辛さに悲鳴を上げる岩上を笑い、うまいという綿谷にうなずきながら、フランス料理を愛《め》でてこういう料理を軽んじることの非を力説する。 「それにしても、大変だったでしょうね、自分の本当の国籍を隠し通すのは」  と、岩上龍一が話題を戻した。 「フィリピンの子は、ほとんどがクリスチャンですから、いつも楽屋の化粧前《けしようまえ》に蝋燭を立てていましてね」  綿谷は、ビールで口の中の火照りをなだめながら話した。「自分の出番がくると、その蝋燭に火をともして出ていくのが彼女たちの習慣でした。聖母マリアとか聖書が一緒に置いてあって、その前で十字を切ってから飛び出していくんです。舞台で客に接している間、あるいは個室で客をとっている間、楽屋では蝋燭の火が燃えている。……そうすることで彼女たちはどうにか救われているんだと思ってました。せめて、そうすることで。……ところが、そういうことさえも彼女はできなかったということです。コロンビアの子は、同じローマ・カトリックでもフィリピン人のようにはしませんでしたからね。ただ、十字架のペンダントや聖書を持っているだけで」 「そういうことだったんですか」  岩上が目を伏せていった。 「それが楽屋裏なんだな」  赤間弁護士がうなずく。  その種のことはほかにもある、と綿谷は話し続けた。 「劇場というところは、途中で穴を開けることが許されないんです。ところが、女性の生理というのはきまって来る。そのときは、握り拳くらいの海綿《スポンジ》を入れて客をとるんです。一回の舞台につき義務として最低二人の個室客をとるんですが、生理の期間は惨めでしたよ。使い古して黒っぽくなった海綿が、化粧前に無造作に投げだしてあったり、見せてくれる子もいました。痛いらしいです。ぼくらにはわからないけど」  あの日もそうだった。綿谷は、彼女と二人で飲みに出かけたときのことを思い出した。  確か、楽日の夜だった。三日前から生理がはじまっていて、海綿を入れるのを痛がる彼女を見かね、ノルマを一回の舞台につき一人にしてごまかしてやろうとしたところ、客が騒ぎだしたのだ。社長にあたり、その社長からの連絡を受けたあすなろ芸能の広旗専務がすっ飛んできて、彼女の横づらを殴りつけた。ちゃんとやれ、と広旗は鋭く叱り、驚いた社長が止めに入らなければ、さらに一発、こんどはもう片方の頬にくれていたはずだ。結局、ノルマどおりの客をとり、血の気のない顔になった彼女は、楽屋泊りの子を除いてほとんどの踊り子が去っていった後、延べた蒲団の上に脚を崩してしょんぼりと座っていた。ながいこと鏡の中の自分を見つめてぼんやりとしている子はよくいるけれど、その夜の彼女はふ抜けたように身動き一つせずにいた。その後姿へ、飲みに行くか、と声をかけたのだった。  彼女は、二つ返事で仕度をした。ワンピースにカーデガンを羽織り、サンダルをつっかけて、少し重たげな足取りでついてきた。通りへ出ると腕をからめ、頭を肩にあずけるようにして歩いた。寒い寒いと、まだ秋なのにつぶやいた。居酒屋に入った。サンマの塩焼きをうまそうに食いながら、ビールをちびちびと日本酒を飲《や》るように飲んだ。たまにはホテルに泊りたい。そういって彼女が身を寄せてきたとき、誘われていることがわかっていた。へとへとに疲れているはずなのに、抱かれることを望んでいたのだ。迷った。踊り子と従業員の越えてはならない一線を冒《おか》し、このまま自分のアパートへ連れていってやろうかとも考えた。月のものが残っている日に八人余りもの客をとった事実に対する抵抗と、そんなことはどうでもいいという思いの間で揺れていた。コロンビア人としての本当の名前は何かと尋ねたのは、そのときだった。すっかり狼狽《ろうばい》してしまった彼女は、それからは誘うことをやめ、ビールもつまみもあまり口にしなかった。その理由が、いまになってわかったのだ。広旗専務の暴力も、思えば、彼女がフィリピン人でなければ説明のつかないことだった。コロンビア人に対する態度にしては粗暴すぎることに敏感に気づいていれば、あるいはもっと早く真相を知ることも可能だったかもしれない。  彼女が木山浩と新宿のディスコで出合ったのは、それから間もなくのことだった。  食後のデザート、ランプータンが運ばれてきた。香辛料に火照った口へ冷えた果物を運びながら、綿谷はにがい悔いの残る思いで記憶を掘り返していた。 「さて、これからじっくりと話を聞かせてもらおう」  弁護士がいった。まず適当な喫茶店へ、その後は、静かに話せる酒場へでもつき合ってほしい、と。     10  検察側の証拠調べが終了するまで、結局、三回の公判を要した。凶器の果物ナイフや被害者の着衣などの物証を被告人に提示、確認し、さらに不同意にされた被告人の検面調書に関して、刑事訴訟法第三二二条に基づいて証拠調べ請求をし、その朗読による取り調べを行なうために、第二回公判期日とさらにもう丸一日、午前と午後が集中的に当てられたのである。これは裁判をできるだけ急ぎたいと考える赤間弁護人の要請によるものだったが、通訳人を介して時間がかかるために、裁判としては普通の進行であった。  弁護側の冒頭陳述および証拠調べ請求は、第四回公判からはじまった。  冒頭陳述において、赤間弁護人は、シエラが被害者にナイフで脅され衣服を切られた顛末をこまかく述べ、結局、やむを得ない防衛行為であった状況を描きだしていった。  弁護側の証拠調べ請求の主なものは、証人の召喚である。綿谷四郎が現われたことにより、赤間は急ぎ一名を追加した。  竹沢正典。被害者の高校時代からの最も親しい友人。被告人の存在を聞き知っていたことから、二人の交際状況を明らかにするため。  白瀬由佳。被害者がつき合っていたもう一人の女性。新宿二丁目のクラブ〈麻耶〉のホステスであり、被害者の異性ならびに金銭関係を知るため。  山岸昇。被害者が勤めていたゲームセンターの従業員。盛り場における被害者の行状と被告人との交際状況を明らかにするため。  綿谷四郎。被告人が所属していた新宿スター劇場の元従業員。現在はスーパーの配送関係の仕事に就《つ》いているが、被告人の置かれていた立場や日本における生活状況を知るため。  検察側の意見は、竹沢正典、綿谷四郎については、然るべく、と同意したものの、山岸昇と白瀬由佳については、不必要、とした。山岸はあきらめても、白瀬由佳は困る。竹沢正典の話の中から、浩の意外な側面が現われてきたのだ。  赤間は、即座に立った。 「被害者と被告人の金銭関係のトラブルが事件の大きな要素であることは、検察側も認めるところであります。その意味で、証人の白瀬由佳は欠かすことができません」  熱心な弁護人に押しきられる格好で、裁判官は採用を決定した。  赤間は、彼等を二日間にわたって尋問する予定であった。     11 「ただいま弁護士と替ります。——先生、お電話です」  和美が衝立の向うから声をかけて、それまで書面と取り組んでいた赤間愛三は顔を上げた。相手方を尋ねたが、何だかよくわからないという。  プッシュ・ホンをスピーカーにして、受け応えた。  ——こちら白金商事というものですが、例の殺人事件があったマンションの件、一体どうなっているんでしょうか。  がさつな男の声が唐突に響いてきて、赤間はスピーカーを切って受話器を耳に当てた。 「どうなっているとは、どういうことですか」  ——うちとしてもですね、あんな事件があった後だから、そう簡単に借りる人が出てこないと思ってそのままにしてあったんですがね、そのうち自由にしていいといっておきながら刑事さんからはちっとも連絡がないんで、こちらから文句をいったところ、こんどは弁護士さんに聞いてみてくれというんですよ。もういい加減にしてもらわないと、年が明けてだいぶ経ったことだし、営業上、たいへんなマイナスになるんですよ。こっちの身にもなってもらわないと! 「要するに、家財道具その他を早く処分してくれと、こういうことですか」  相手に好きなだけ喋らせた後で、赤間はいった。  ——それも今月中にお願いしたいんですよ。三月からは壁でも塗り替えて人を入れようと思ってるもんでね。 「なるほど」  赤間は、承知した。二、三日のうちに処分に出向くことを約束して話を終えると、和美に命じて木山家へ電話をかけさせた。  電話口に出たのは、母親の澄代だった。やや鼻にかかった声がまだ若い。そういえば、被害者の身上の中で、母親は継母であると記されていた。  ——浩くんのものなんか一つもないはずですから、どうぞ、そちらの勝手にしてくださってけっこうです。  冷やかな調子に、赤間は反発した。 「一応は立ち会ってもらわないと、後で、あれはどうのといわれても困りますから」  ——そんなことは申しません。信用してくださってけっこうです。 「あの部屋は、お宅の息子さんが契約者だったんです。それを当方が勝手に処分したとなると、問題ですよ。ちょっとだけでも立ち会ってもらって、処分を取り決めさせてもらえませんか」  相手に、いっときの逡巡《しゆんじゆん》があった。  ——わかりました。誰かを行かせましょう。  赤間は、スケジュールを確かめてから、明後日はどうかと持ちかけてみた。  ——誰をやるかを決めてから、ご返事します。  澄代は、感情に乏しいのっぺらぼうな声を返した。  その日の午後、赤間は事務員の和美を連れて〈コーポ・レインボー〉を訪れた。思いついて、カメラを持たせてあった。この機会に、調書の写真ばかりでなく、弁護人としての目から現場を再見分してみようと考えたのだ。  管理人室で待つこと十分余りにして、木山家側からは母親澄代の姉である神崎喜代がやって来た。高級車でさっそうと現われた喜代は、挨拶《あいさつ》はもちろん、弁護士の顔へ一瞥《いちべつ》もくれず、管理人の鮎沢彦一に対してのみ軽く頭をさげた。豪華なウルフの毛皮を着こみ、金の鎖付きバッグを肩から掛けている。髪を高くアップにして、端整な細面を際立たせていた。  管理人が三〇二号室のドアを開けた。 「空気がたまると気色悪くなるがら、窓を開けておいだす」  いうだけあって、中へ踏みこんでもたいしたニオイはなかった。  ざっと見渡したところ、もう現場を保存する必要がないことは、弁護側からもいえそうであった。実況見分調書にある通りの部屋の造り。ただ、床には生なましい血痕の跡が残っていて、おのずと気分を滅入らせる。 「やはり、こちらが必要とするものは何もないようです」  五分も経たないうちに、神崎喜代が管理人に向っていった。「すべて、そちらで処分してくださってけっこうですから。わたしは、これで失礼させていただきます」 「んだすか?」  と、管理人が問い返す。「もう、帰ってすまいますか」 「たいしたものはなさそうですが、若干、換金できるものについてはどうしますか」  赤間が尋ねると、 「ご勝手に」  そのときはじめて弁護士をちらと見て、「ここにあるものはみんな、そちらが弁護されてる人殺しのものばかりでしょうに」  いい捨てて、背中を向けた。そそくさと靴を履いて出ていく相手を、赤間は黙って見送った。いやな人、と和美がそばでつぶやく。 「何とまあ、きつい女《おな》ごだすな」  管理人もいささか驚いて、ゴマ塩頭をひねった。  聞けば、敷金が三ヶ月分あるという。返ってくるかと一瞬期待したが、いままで借りていたことになるからとっくに帳消しになっているというのが周旋屋の主張らしい。  セミ・ダブルのベッド、冷蔵庫、テーブル、ラジカセ等、若干の金になりそうなものは古道具屋に来てもらうことにした。その他の諸々についてもその際に引き取ってもらうことにして、あとは細かなゴミ出し用のものをまとめにかかった。台所の食器類、空びん、空カンなど、まとめるとけっこうな量になりそうだ。 「先生、何でしょうか、これ」  奥の部屋を整理している最中に、和美が声をかけた。見つけたものを手にし、振り向いた赤間へ差し出す。四つ折りにした新聞だった。見ると、神奈川の地方紙である。 「週刊誌と漫画ばかりの中に、こんなものが……」  と、和美がいう。崩れていたのを積みなおしているときに目にとめたらしい。  なるほど妙だ。彼女たちは、新聞は購読していなかった。こんな地方紙が一部だけ紛れこんでいる。それも三面記事を開いたまま四つに畳んである。  赤間は、視線を落とした。四分の一の紙面の中ではよけいに扱いの大きさが目立つ、ある事件の見出しが否応なしに目に飛びこんできた。 (深夜の連続通り魔 女性の胸切り裂いて去る 悪質な愉快犯 変質者の犯行か)  赤間は、瞬間、背筋をぞくりとさせた。記事は四段抜きであった。 (十六日深夜一時ごろ、……の長女A子さん(一九)が会社から帰宅途中、……近くを歩いていたところ、突然、何者かに後ろから飛びかかられ、ガムテープで口をふさがれたうえ、路上に押し倒された。……犯人はナイフを手にし、A子さんの顔に押し当てて脅したうえ、ワンピースの胸元を切り裂いて逃走した。……幸いA子さんは負傷もなく無事。……これより一時間後、さらに二百メートル余り離れた路上で、……B子さんも同じ手口でTシャツを胸中央にそって縦にざっくりと切られており、やはり無傷であったものの、その間の恐怖は口では表わせないと怒りに体を震わせている。……犯人の年齢、身長等は不明。大きなマスクにサングラスをかけていたという。……犯行の性質上、一見、強姦魔のようでもあり、被害を受けながら届け出ない女性もいるものと見られる。……××署では、物盗りの形跡がないことから、極度におびえる女性を眺めてたのしむ、悪質な愉快犯と見て捜査を始めている。)  流し読みして、赤間は宙の一点をにらんだ。手口……。胸を裂く手口、と心の中でくり返す。新聞を持つ手が知らずと震えていた。 「何かあるんですか?」  と、弁護士をのぞきこむように見て、和美がいった。 「よく見つけてくれたね」  和美の顔に驚きの色がよぎった。「ちょっと見せてください」  管理人もそばから顔を近づける。  赤間は、シエラが拘置所で話した犯行時の状況について説明した。 「すると、木山浩がこの通り魔事件の犯人だったのすか」  と、管理人が目をまるくして舌をもつれさせた。 「これからです」  赤間は、ここに第三者の管理人がいることを喜んだ。「われわれが意図的にこの新聞をデッチ上げたのではないことは、わかってもらえますね」 「ここさいて見たなだから、間違いねえ」  と、大きく首を縦にして、管理人はいった。  赤間は、写真を撮るように和美に命じた。管理人にその新聞をかざしてもらい、何カットか収める。その新聞があった週刊誌や漫画本の溜りも撮った。その後で、管理人から一筆とらせてもらった。捜査終了後、この部屋を開けたのはいまがはじめてであること、そして、弁護士とその助手と共にこの新聞を発見した旨の供述調書を作成し、今後に備えることにしたのだった。  サッシを開け放って、ベランダへ出た。未だに掛かっている明るい花模様のカーテンが赤間の胸を突いた。こんなものも、彼女がいう思いがけない出費の一つだったか。見上げると、高層ビル群の威容がすぐ眼前から迫ってきた。やわらかな冬の日差しだが、無数の窓ガラスに反射して目を射るようにくらませる。 「わたしは、こんなところには住めないわ」  と、同じく摩天楼を仰ぎながら、和美がいった。     12  第五回公判の一週間前であった。証人尋問に先立ち、どうしても会っておかねばならない女を訪ねて、赤間弁護士は新宿二丁目へ足を向けた。  造りがマンションに似たビルの二階、〈麻耶〉と扉に装飾的に記された金属製の扉を開けると、リビングのようなフロアが奥へ伸びていた。ホーム・バーふうの円形カウンターがあり、レザー張りのソファと白いテーブルがいくつか並んでいる。  カウンターに腰かけ、五人ほどいる女性の中から目当ての子を呼び、自己紹介をして反応を見た。一応、電話連絡はしてあったが、顔を合わせるのははじめてである。 「何を話せっておっしゃるんですか」  案の定、白瀬由佳は突っかかってきた。二十三、四か。襟元にレースをあしらった黒いブラウスは、内側の肌が透けて見えるほど薄い。首をよじって見つめ返す切れ長の目がどこか冷やかだ。 「竹沢さんの話では、浩はかなりあなたに夢中になっていたということだが?」 「勝手にね」  由佳が水割りをつくりながらぶっきらぼうに答える。「わたしに責任はないわ」 「責任問題を話しにきたわけじゃない」  赤間が返すと、由佳は煙草をくわえた唇をゆがめた。火を点け、思いきり煙を吸いこむと、顔をそむけるようにして吐いた。 「プレゼントもくれたそうだね」  赤間は、切りこむようにいった。これも浩の友人、竹沢正典から聞いた話だ。二人で飲んだときは、三万前後の支払いであったという。 「その金がどこから出ていたか、わかっていたんでしょう」 「知らないわよ、そんなこと」 「国の家族のために出稼ぎに来て、血のにじむ思いをして稼いだ金だ。それを被害者は容赦なく巻き上げて、君の歓心を買うために費やした」  相手の機嫌を取るつもりがなくなって、言葉がおのずと挑戦的になっていた。由佳は、しきりに煙草をふかしながら黙《だんま》りを決めこんでいる。ママらしい和服姿がにこやかに会釈してそばを通る。ほかに客が三組ほどいて、女の子たちはいずれも愉快げに、忙しく立ち回っているが、彼女だけは弁護士の前から動こうとしない。その気になれば無視することもできるのに、そうはしないのだった。 「相手がそういう人だとは、思わなかったわ」  由佳がやっと沈黙を解いた。先ほどのぞんざいさが少し改まっている。「月に百五十万も稼ぐ踊り子だって、あの子、いってたもの」 「それで?」 「それだけよ。あとは聞かないわ。外国人だから、ギャラが高いんだっていってた」 「その外国がどこかは聞かなかったのかい」 「聞かなかったわ。そんなことに関心はなかったもの」 「ただ、浩がそいつのヒモで、金を引きだして店へ運んできてくれる。それで充分だったわけだ」 「優越感はあったわね」  平然と、由佳はいってのけた。「どうせアブク銭みたいな大金を稼ぐ女から出ているんだと思っていたし。あの子とはいつまでも続けるつもりなんかなかったし。それに可愛いものよ、プレゼントっていっても、一、二万の洋服を買うのがせいぜいだったもの」  年配の客がカラオケをはじめた。二十年も前に流行った演歌をまずいリズムと冴えない声で、ボリュームだけはやたらと出してがなり立てる。  由佳がトマト・ジュースを缶ビールで割った。 「百五十万円なんて、ホラ吹きだと思っていたけれど、本当だったのね」 「額面はたしかにそれくらいになる。そこからいくら差っ|引《ぴ》かれたかは別問題だが」 「というと?」  赤間は、一つ首を振った。ここでそんな話をしたところではじまらない。 「君はさっき、どうせアブク銭なんだから、貢がせておけばいいというふうな意味のことをいったね」 「あのときは、そうとしか思えなかった。だって、あの子のこと、たいして好きでもなかったし、その好きでもない子のつき合ってる女なんか、どうだっていいと思っていたし」 「彼女には会ったことあるのかい」 「一度だけ、見たことがあるわ。どこの人、って聞いたら、アメリカ人だって答えたわ」  由佳が涼しい顔で証言をひるがえした。つい先ほどは、どこの国の女かは聞かなかったし、関心もないといっていたのだ。 「それがいきなりフィリピン人だなんていうじゃない。一体どうなってんのよって、笑ったことがあるわ」 「………」  赤間は、相手を真っ直ぐに見つめた。由佳が続ける。 「おれはだまされていたって、そのときは大変な怒りようだったわ」 「それは、いつ」 「わたしと会って、まだ一ヶ月くらいだったから……」  去年の七月ごろだったと思う、と由佳はいった。事件の起こる三ヶ月余り前だ。  赤間は、これまでの知識を寄せ集めて、そのころの浩とシエラの関係を考え続けた。 「ほんといって、彼女を気の毒に思いはじめたのもそのころだったわ。フィリピン人と知ったときから、あの子、人が変ったもの」 「どういうふうに」 「ただのワルが二重マルのワルになっていったわけ」  由佳が空になったミネラル・ウォーターの瓶《びん》を手に席をはずした。水なんかどうだっていい、と赤間は心の中で焦《じ》れた。  新しい水割りをつくりながら、やっと由佳は続ける。 「だまされていたことにこだわって、わたしの前でさんざん罵るのよ。フィリピン人のくせに、西洋人づらして分不相応なギャラをせしめてやがる。あんな女からは徹底的に絞り上げてやるんだ、って」  赤間は、黙りこんだ。胸の奥に消化の悪いものがつかえたような感覚がある。水割りを流しこみ、しばらく目を閉じた。 「浩が彼女の本当の国籍を知るきっかけになったのは、どういうことだったか、聞いたことがあるかい」 「国へ出す手紙か何かをこっそり見たことがあるらしいわ」  赤間は、席を立った。カウンターの隅に置いてある電話にとりついて、ダイアルする。まず、山岸昇の勤めるゲームセンターへ。いつも通り九時に勤務が終るというので、その足で〈麻耶〉に立ち寄ってほしいと告げた。九時十五分過ぎには着ける、ということは、三十分と待たなくてすむ。次に、下高井戸のアパートに住む竹沢正典に電話を入れると、こちらも三十分程度で行けるとの返事が返ってきた。  席へ戻ると、赤間は飲むペースを抑えて腰を据えた。山岸と竹沢からはある程度話を聞いているが、この際、由佳を含めて三人同時に話を交してみたいと考えたのである。 「あのとき別れていればよかったんだ」  先日、竹沢正典に会って話を聞いたとき、彼はそんなことをいった。あのときとはいつなのか、問い返すと、 「二人で沖縄へ行ってきたと話していたころだから、一昨年《おととし》の終りころですか。浩は、いってました。あんな商売の女はいやだ。本当はあいつと別れたいんだけれど、別れ話を持ちだすたびに、一緒にいてほしいって泣きついてくるんだって」  思いがけないことを聞いたように思った。彼女が以前につき合った男と同様、浩もまた早々と彼女から去ろうとした時期があったのだ。 「彼女のほうから別れてくれといっていたことは?」  尋ねると、 「かなり派手な喧嘩をしたらしくて、とうとう別れてしまったとかいってましたが」  ところが、それからしばらくして、浩に新しい女ができた。それが白瀬由佳だった。由佳に惚れこんでいるはずの浩が、やがて再びシエラに電話をかけるのである。 「どういうつもりなんだと聞いても、はっきりと答えない。しかし、それからの浩は最悪でしたよ。由佳っていう女も女だ。結果的には浩と組んで金を巻き上げていることを、何とも思っていなかったんだから」  金ヅルを掴むために縒《より》を戻した男と、異郷のさびしさに耐えきれず特定の一人を求めた女……。電話にとりついて涙を流しながら、男が変ってくれることを願い、くり返しその返事を確かめ、そして、待ち合わせた喫茶店へと道玄坂を下っていったのだ。  それが、あい渚の話では、昨年の六月半ば。確かに、浩が由佳と出合った時期に符合する。 「本当は、気の小さい男なんです。それがどうしてこんなふうになるのかと、ぼくも半ば見放したようなわけで」  あまり時間はとれなかったが、新宿駅ビルの喫茶店で、竹沢は包み隠すことなく話してくれたのだった。  山岸昇が先にやって来た。隣の雑居ビルに入ってウロウロしてしまったというが、予定より五分過ごしたにすぎない。浅黒い丸顔にチョビ髭《ひげ》をたくわえた細い長身の男だ。 「この前でおよそのことは聞かせてもらったけれども」  赤間は、いった。「飲みながら話すと、また見えてくるものがあるかもしれないと思ってね」 「はあ」  由佳が山岸にビールを注いだ。  彼から聞き出したことは、あまり多くはない。浩はゲームセンターをやめてからも彼女を連れてよく遊びにきていたが、そのようすはどこか見せびらかすような自慢げな態度だった。その際、ヨーロッパ人かと尋ねると、そうだと答え、ヨーロッパのどこだとさらに聞くと、想像にまかせると答えたという。だが、そのうちばったりと来なくなった。再び現われたときは、チンピラふうの身なりで、景気はどうだ、といった横柄な口をきいた。女を世話してやろうかと浩が持ちかけたのは、そのときだ。山岸が、どんな娘だと尋ねてみると、以前に連れてきた女だという。よく覚えていた山岸は、その後、浩とはどうなったのかと思い、好奇心を抱いた。聞けば、明日からのぞき部屋で働くという。よければ行ってみろ、おれの紹介だといえばサービスがいいはずだ、などといい置いて帰っていく浩に、唾でもひっかけたい思いだったと山岸は話したのだった。  そんな話を確認しているうちに、竹沢正典がやって来た。他の客に席を詰めてもらい、弁護士を真中にして並んだ。  由佳が気まずい顔をして目を伏せた。が、立ち去るようなことはしなかった。 「ぼくには、コロンビア人だといってましたよ」  竹沢は、ロックにしたウィスキーを手に赤間の問いに答えた。 「途中で、実はそうじゃなかったとか……?」 「どういうことですか」 「まだ、君には話していなかったな」  赤間は、気が重くなった。が、説明しないわけにはいかない。彼女の国籍にまつわる顛末が事件に少なからずの関わりを持つ以上は。  一応の説明を終えた後で、いった。 「由佳さんは、最初はアメリカ人と聞かされた。山岸君にはヨーロッパ人をにおわせた。そして、竹沢君にはコロンビア人であると……」 「みんな違ってたわけですか」  竹沢が呆れたようにいった。 「しかし、竹沢君には、少なくともある時点までは本当のことをいっていた」  赤間は、カウンターを見据えて続けた。「本当のことというより、自分がそうだと信じこんだこと、といったほうがいいだろうね。浩は、去年の七月ごろまでは、彼女をコロンビア人であると思いこんでいた」  赤間は、この前の拘置所での話を改めて思い出す。二人が新宿のディスコではじめて会ったとき、彼女は浩に対してやはりアメリカ人、サリーと告げている。ところが、劇場に出入りをはじめた浩の知るところとなり、綿谷四郎に対してそうしたように、コロンビア人を装うことにしたのだという。浩が竹沢に対してコロンビア人だといったのは、友人にだけは正直に話したということだろう。  果たして、竹沢はいった。 「確か、パティ、って呼んでました。しかし、七月以降もやつと会っているのに、実はフィリピン人だったとはいいませんでしたよ」 「わたしにはそういって、さんざん罵っていたのに」  由佳がいった。 「それにしても、まさか染めた金髪だとは……」  首をひねりながら、竹沢がいった。「きれいな髪をしていると褒めると、コロンビア人といってもドイツ系だから、とかいってましたよ。ぼくには、コロンビアという国の知識なんかまったくなくて、はじめから金髪は本物だと信じていたんですがね」 「やりきれないね」  赤間は、溜息を抑えこんだ。もはや改めて証人尋問の打ち合わせをする必要はない。これまでの話を問いに従って正直に答えてくれるようにと希望をいい、山岸に対しては、せっかく証人に立ってもらう約束だったのに、申請が却下されて実現できなくなった旨を告げた。  最後に尋ねることが残っていた。 「君たちは、浩がハンティング・ナイフのようなものを持ち歩いているのを見たことはないか」  三人ともに首をかしげた。竹沢がいった。 「それがどうかしたんですか」 「何か性格的に異常というか、ナイフでもって女性の衣服を切りつけて愉快がるような性格が彼になかったかどうか」  これには、誰もが一様に驚いて首を振った。とくに由佳の顔が蒼ざめて見えた。間違えば自身に降りかかっていたかもしれないことを思うのか、ワルだったけれどそこまでするような男には見えなかったと声を荒立て、身震いするように嘆息をくり返した。     13  いったんはスワと勇み立った赤間弁護士だったが、その後は慎重にかまえた。事件はプライバシーに関わることであったし、マンションの部屋での新聞の発見とシエラの証言だけでは不充分すぎた。警察に事情を話すにも、時期尚早だ。とりあえずは、新聞社あたりから探りを入れてみようと考えたのである。  そして、A子B子の連絡先を知り、電話をかけてみたのだったが、二人とも犯人の顔を覚えておらず、いったんは落胆した。  だが、その際、A子、鳥居成子は、もう一人の被害にあった女性から、去年の十一月ごろに呼び出しを受け、犯人らしい人を発見したようなことを聞いた、と話した。名前は、カゲヤマとしか名乗らなかったが、平塚市に住んでいることは確かだという。その人はどうも身体の一部を傷つけられたらしく、かなりのこだわりかたであったと聞いて、弁護士は希望をつないだ。  さっそく平塚市の電話帳を取り寄せ、カゲヤマ姓を片っぱしから調べることにした。弁護士の赤間と名乗り、ある事件のことで是非お尋ねしたいことがあると前置きして、二十歳前後の若い女性の有無を尋ね、もし有りであれば本人に取り次ぎを乞う、その作業を和美に命じてあった。  その日、むずかしい和解に決着をつけて事務所へ戻ってきた赤間に、彼女は声を弾ませて報告した。 「今朝《けさ》、本人がつかまりました。銀行にお勤めの方で、今日は休日の土曜日だそうです。呼んでくださればどこへでもお伺いするとのことでした」 「ご苦労さん」  赤間愛三は、デスクに腰をおろすと、即座に電話を入れた。  三度のコールで、直接本人が出た。どこかうわずったような声で弁護士の問いに答え、より詳しい事情を聞き出そうとする。  ——こんなことって、あるんですか。  信じられない、と興奮を抑えきれずにいった。 「犯罪に対して、あきらめずに闘ってきたからですよ」  ——あきらめてました。  赤間の耳に、涙ぐんだ声が滲《にじ》むように響いた。  三日後、蔭山茂美は神楽坂にある弁護士事務所へ、丸の内にある銀行がひけてから向った。 「お待ちしておりました。こちらへどうぞ」  事務員の女性がにこやかに迎えてくれた。  衝立を隔てた隣の部屋に通され、テーブルに向い合って腰をおろす。遠いところをわざわざ、と弁護士がねぎらうようにいった。お茶を運んできた事務員を紹介され、彼女がこんどの発見のそもそものきっかけをつくったことなど、今日に至るまでの経緯の説明を受けた。その後で、赤間弁護士は本題に入った。  このあいだの土曜日——、実は茂美との電話を終えた後で新宿警察署へ出向き、事件を担当した部長刑事で、強行犯捜査係の楠木巡査部長に会ってきたという。死体発見時、被害者の浩がハンティング・ナイフを握っていた事実について尋ね、その刃先にはわずかながら乾いた血痕がついていたこと、ところが血液型は、被害者のものでも加害者のものでもなかったこと、そして、ナイフからは、被害者と加害者の指紋のほかにも不明の指紋が二個採取されたことなど、鑑定書にある通りのことを確認した。が、その際、巡査部長は妙なことにこだわりを見せた。  それは、ナイフから採取された指紋のうち、二人の指紋は、つまり被害者と加害者のものは柄の部分についており、もう二個の不明のものは、|刃の部分に《ヽヽヽヽヽ》ついていたという点についてだ。そんなことはたいして重要ではないと見逃していたのだが、言われてみるとなるほど、その付着していた場所まで注目すべきではないかという気がしてきた。この第三の指紋については、刃先についた血痕と同様、誰のものかまったくわからずじまいで、巡査部長自身、なぜか心に引っかかったままだという。  楠木巡査部長はさらに、ハンティング・ナイフの革ケースが現場にあった浩のショルダー・バッグの中から発見された事実を話した。それも検察庁に送っておいたというが、必要ないとの判断から公判未提出証拠として保管されてあるのだろう。ケースのほかに何かなかったか、と弁護士は尋ねた。が、期待したマスクやガムテープやサングラスのようなものはなかったという。ナイフだけを持ち歩いて、あとの小道具は平塚の家にでも隠し持っていたのかもしれない。それらが見つかっていれば相当に決定的な状況となるのだが、残念だ。  そんなことを確かめるように話して、赤間弁護士はお茶をすすった。 「あなたに尋ねたいことは、もうわかるでしょう」  賭けに挑むような弁護士の調子に、茂美は緊張した。 「そのナイフについていた血と、わたしのものが一致するかどうかですか」 「その通り。まずはABO型の区別で一致しないと先へ進めない」 「何型だったんですか」  と、茂美はおそるおそる尋ねた。 「Bです」 「………」  肩が落ちた。落胆の色がその顔に広がっていく。 「そうですか」  弁護士も残念そうである。「あなたは……」 「ABです」  つぶやくように、茂美は答えた。 (ということは、自分のほかにもまだ被害を受けた人がいる、もっとたくさん胸を傷つけられた人が。はげしく抵抗したか何かして、きっと血があふれ出て、ナイフを染めずにすまないような……) 「聞きにくいことだけれど」  と、赤間弁護士が沈黙を破った。「あなたが切られた胸の傷はどの程度なのかな」 「はい」  答えて、しばらくためらった。「三センチほどで、深さはそんなにはありません。切られたときは、あまり痛みは感じなかったんですが」 「血が噴き出すほどじゃなかった」 「ええ」 「いまも傷は残っていますか」 「はっきりと」 「どういうふうに?」  聞かれて、顔が赤くなった。話さないわけにはいかない。 「こっちの、このへん」  と、茂美は青いブラウスに覆われた右乳房の谷側を指で差し示し、縦に三センチほどすべらせた。  赤間弁護士がうなずいて、 「木山の犯行である可能性が極めて高いのですが、ただ、捜査当局や裁判所を納得させるだけの充分な証拠がない。さっきの血液型の不一致などがネックになりそうです」  茂美は、さっきから懸命に、頭が痛くなるほど考えこんでいた。弁護士が警察で聞き込んできた、もう二つの、刃の部分についていたという指紋についてだった。 (誰のものだろう。被害者のものだろうか。けれども、あのような状態では、女性がナイフにさわることなどできやしない)  弁護士に意見を求めた。 「それを売っていた店の店員のものかもしれないし、あるいは、それを借りた人のものかもしれない。いろんな場合が考えられるでしょう」  腕組みをしたまま、弁護士は続ける。「ただ、被害者の女性のものであるとすれば、どういう状況が考えられるか。迫ってくるナイフを押しのけようとして、思わず手を伸ばした。それが偶然、刃の部分に触れた」 「あんな状態では、万に一つ、あるかないかだと思います」 「万に一つなら、ないのと同じだね」  茂美の頬がおのずとゆがみを帯びた。頭の芯がうずいた。いくら考えても、もう二つの指紋の謎は解けそうにない。 「新聞がマンションの部屋にあったことや、誰かの血のついたナイフが実際にあるというだけでは駄目なんですか」  すがるように、茂美はいった。「湘南に、あんなことをする男は二人といないと思うんです」  なるほど、同じ時期に、同じ手口でもって女性を襲う男はまずいない。そう断言したいところだけれど、完璧な証拠とはなり得ない。いるかもしれない可能性を否定できない以上は。  弁護士は、そんなことを話した後で、 「あなたの証言が加われば、かなりの状況証拠はつくれるでしょうが」 「わたしはかまいません。証人に立ちます」  茂美は、いい切った。 「そのとき切り裂かれた衣服は持っていますか?」 「はい。ちゃんと取ってあります」 「そういう配慮が、被告人にもあればよかったんですがね」  赤間弁護士が残念そうに言葉を続ける。「あなたは傷ついているが、シエラは傷ついていない。あなたは切り裂かれた服を持っているが、シエラは捨ててしまった。シエラがそうやって脅されたとすれば相手は浩しかいないが、あなたを襲ったのが彼であると断定するには、さっきの血液型の不一致がネックになる」  もし、被告人が切り裂かれたトレーナーを残してさえいれば、二人の女性の同じ証言と証拠|物《ヽ》が揃うことになって、浩を犯人として指し示す充分な証拠になるというのだった。 「うまくいかないもんだな」  弁護士が目を閉じて溜息をもらした。 (ここまできた以上、ゼッタイの証拠がほしい)  祈るような思いで、茂美はつぶやいた。九十パーセントは、木山浩を指している。それでも残りの十パーセントを埋めるものがほしいのだ。  やがて事務所に次の来客があって、茂美は腰を上げた。今後、細部を積み重ねていけば百パーセントといってよい状況がつくれるだろうから、まだ望みは捨てないでほしい、と別れ際に弁護士はいった。     14  裁判は、第六回公判を迎えていた。  十日前の第五回公判では、白瀬由佳、竹沢正典の二名の証人が、かつて赤間弁護士と酒場で交した通りの内容を証言し終えていた。  その日は、最も頼りとされる綿谷四郎の出番である。  三月に入って間もない、いまにも雨の降りだしそうな低い雲が垂れこめた朝、彼は新しく越した江戸川区葛西のアパートを出ると、いつもの地下鉄東西線に乗った。勤め先がある茅場町はやり過ごし、途中、大手町で丸ノ内線に乗り替えて霞ヶ関へ向った。仕事は、その週は暇で、午後から出ればいいことになっている。  裁判所などというところは、ふだんは馴染みがなかった。手入れで逮捕されて踊り子や社長とともに十日間の留置を食らったり、劇場の広告ビラ貼りで警察に捕まったりして罰金を取られたことはあっても、裁判にかけられたことはない。ましてや誰彼のために証言に立ったことはなく、前夜から妙な緊張の連続であった。  手続きに従って、裁判長の人定質問に答えていく。  住所が以前の新宿から葛西に変っているだけだった。あとは、当年三十四歳の生年月日、昭和二十八年十月三十日と、スーパー・マーケットの配送係としての職業を告げると、宣誓書の朗読を行なった。  シエラ・A・ラウロンは、その日も弁護士の前の席で男女二名の刑務官に付き添われて静かに腰をおろしていた。弁護人と証人との一問一答も英語に訳して伝えられるため、どのような審理が行なわれているか、よくわかっているはずである。  宣誓を終えると、赤間弁護士が質問に入った。  まずは、被告人との関係について答えるうち、綿谷は落ちついてきた。彼女が舞台や個室でどのようなことをしていたのかを話し、さらには、そのようなショーが七、八年前、つまり出稼ぎ女性が大挙して日本へ来るようになった八〇年前後からはじまり、改正風俗営業法の下で罰則が厳しくなってからは、表向きは控え目を装っているが内実はあまり変りがないことなど、かなり具体的な説明を加えていった。  さて、と弁護人が話に本腰を入れた。十時の開廷から、三十分が過ぎていた。 「証人が被告人とはじめて会ったのは、いつでしたか」 「一昨年の九月はじめです。わたしがいた新宿の劇場に所属することになったんです」 「そのときは、被告人は一人でやって来たのですか?」 「いいえ。被告人のマネージメントをやっているあすなろ芸能の専務が連れてきました」 「広旗という人ですか」 「そうです」 「そのときに、劇場側とプロダクションの間で、ギャラについての条件がとり決められたのですか」 「はい。彼女の場合、コロンビア人の相場より五千円を上乗せして、一日五万五千で売り込むことになっていました。うち十パーセントを所属の劇場に納めるというものです」 「すると、新宿スター劇場は被告人を所属させて他の劇場に売り込んだ場合、一日五千五百円のマージンが入るということですか」 「そうです」 「すると、残りは四万九千五百円ですが、それがあすなろ芸能へ支払われたわけですね」 「はい。その週ごとに、つまり十日ごとに集金されておりました」  所属の踊り子が出演している劇場へ、楽日になると従業員が出向いていってギャラの十パーセントを踊り子本人から集金するのが慣例であるが、被告人の場合は、全額がまずプロダクションに支払われ、その中から給料として手渡されていた。 「被告人のギャラは、すると、あすなろ芸能を通して支払われていたのですか」 「そうです」  綿谷は、気を引きしめた。ここからは、弁護士の依頼によって、この一週間で改めて調べ上げたことを尋ねられるはずだ。 「証人は当時、被告人がその四万九千五百円の稼ぎの中から、いくらもらっているか知っていたのですか?」 「知っているというより、予想がついていたといいますか、コロンビア人の場合、劇場以外に呼び屋などが入っていても、ふつう二十パーセント、多くても三十パーセントがマネージメント料でしたから、彼女の場合もその程度だろうと思っていました」 「たとえば、二十パーセントとすると、約一万円のマネージメント料ですから、踊り子の一日の手取りは四万近いということになりますね」 「はい」 「被告人は、それだけのギャラを得ていたのですか?」 「いいえ。わたしが調べたところ、彼女の手取りは一日一万円でした」  弁護人は、そこで一呼吸の間合いをとると、それはどういうわけかと語調を強くした。 「被告人はフィリピン人としての扱いしか受けていなかったからです」  通訳人が訳す。シエラは、じっと身を固くしてフロアへ視線を落としたままだ。 「しかし、あすなろ芸能は彼女をアメリカ人として売りこんでいたんじゃないんですか」 「その通りです。彼等はそのようなことを仕組んで、被告人に強制的に命令に従わせながら、ギャラはそれだけしか渡さなかったのです」 「すると、被告人を使って大儲けをたくらんだということですか」 「そうです。黒髪を金色に染めさせ、少なくともコロンビア人と同様のふりをさせることで、ギャラを吊り上げていたのです」  赤間弁護士は、そこで二度三度うなずいてみせた。鼻先を指でさすりながらテーブルのメモ用紙に視線を落とし、改めて続ける。 「証人から見て、被告人はそのようなことをどう受けとめているようすでしたか」 「その当時は、実はわたしもそういう事情を知りませんでした。アメリカ人というのは嘘で、コロンビア人というのが本当であると信じていたんです。あすなろ芸能が通常の五万というコロンビア人のギャラに五千円の上乗せをするために、アメリカ人という名目にしているんだとばかり思っていました。せいぜい、その程度のことだろうと。いま、本当のことを知った上で当時のことを思い出しますと、被告人は自分の本当の姿が人に知れるのを非常に恐れていたふしがあります。これは、彼女のことをよく知る日本人の踊り子からも聞いた話ですが」  そこで、綿谷はいったん言葉を切った。裁判長が通訳人にとりあえずそこまでを訳すように指示し、それを待ってから彼は続けた。 「被告人は最初は、関西の劇場をフィリピン人として回っていたそうです。それをあすなろ芸能がひき抜いて東京へ連れてくるわけですが、その際に、かなりの金が動いたと聞いています。外国人の踊り子の場合はよくあることで、要するに、人身売買のようなことが行なわれているのです。ですから、被告人としては、プロダクションの方針にいくらいやでも逆らえなかった。それどころか、絶対に本当の国籍や名前を明かしてはならないと、脅しをかけられていたようです」  綿谷は、シエラが涙を流しているのに気づいていた。裁判官に向って答えるために顔は正面へ向けていたが、横へ視線を流すと、うなだれて息を乱している彼女の姿を視界に入れることができるのだった。 「被告人の話では、当初はヌードで踊るだけという条件で来日したところ、実際はお客とセックスをさせられるというので、びっくりしたということですが、そういうペテンにかかって来日する踊り子は多いのでしょうか」 「ほとんどがそうだと思います。日本へ来るのは、もちろん貧しい家庭の子なんですが、最悪のクラスというのではなく、被告人のように看護婦をめざして勉強していたというような子はザラにいます。中には本当の看護婦や学校の先生をしていた大学出もいて、本当に驚いたことがありました。彼女たちの大部分は、少なくともハイスクールを卒業していて、ある程度の教育を受けています。そういうわけですから、日本へ来てやらされることに抵抗を見せるのは当り前だと思います」 「証人は、そういう踊り子を何人も見てきているわけですね」 「はい。はじめて舞台へ上る子を何度も投光したことがありました」 「そういう場合、彼女たちはどのような反応を見せるんですか」 「もちろん、いやがります。しかし、マネージャーが必ず付き添ってきて、脅したり宥《なだ》めたりして説得するわけです。舞台の袖から力まかせに突き出される子もおりました」 「突き出されて、しかたなく客の前へ出るわけですか」 「はい。彼女たちは、はじめての舞台では例外なしに泣いておりました」 「客の前で泣くんですか」 「そうです」 「客は、そういう場合、どうするんですか」 「関係なしに思いを遂げるのがほとんどでした」  泣く子を前に、できずに引きさがる客をひとりだけ見たことがある。が、客の権利をまっとうし、周囲の拍手を受けながら舞台を下りるのがふつうの光景だった。はじめての来日では、おそらくシエラもそうであったにちがいない。  だが、四日目ともなると、泣くことをやめるのが常だった。金貨や十字架のペンダントを背中へ回し、決然とした顔で客を迎え入れる女たちの姿が、綿谷の脳裏に未だに鮮やかだ。  弁護人が質問を変えた。 「証人は、木山浩という人を知っていますか」 「知っています」  はじめて会ったのは、一昨年の十一月はじめ、彼が被告人を訪ねて劇場へやって来たときである。そのときの印象を弁護人に問われて、生意気な男だと思った記憶がある、と綿谷は答えた。 「どういうことから、生意気にうつったのですか」 「木山は、そのときまで彼女が劇場でどういうことをやっているか、知らなかったようです。それを知って驚いた彼は、わたしに食ってかかりました。ここじゃこんなことをやらしているのかと怒り顔でいうので、わたしもカッときて、小僧が生意気なことをいうんじゃないと言葉を返したことがあるんです」 「すると、木山はどういったのですか」 「すごい目でにらみ返しただけでした。それ以上は何もいわずに、彼女の舞台が終るのを待っていました」 「一昨年の十一月というと、被告人が浩と沖縄旅行へ出かける月なんですが、そのことは知っていましたか」 「はい。彼女がめずらしく十日間の休暇をとるというので、どうしたのかと聞くと、そういうことでした」 「それは、木山浩がはじめて劇場を訪ねてきて、先ほどのような態度を見せた後のことですか」 「そうだったと思います」 「証人は、被告人が休暇をとって旅行に出かけたことと、浩が劇場でやっていることに意見したこととは、関係があると思いますか」 「大いにあると思います。旅行は、木山から誘ったらしいんですが、彼は彼女が劇場でやっていることを恨んで、というか、嫉妬して、強引に連れ出したようです」  だが、旅行から帰ってくると、彼女は再び舞台に上る。被害者の友人である竹沢正典の証言を弁護人はここで重ね合わせて、彼女の仕事をきらって別れたがっているような浩の態度を見たことがあるかどうかを尋ねる。 「それは直接には感じとれませんでした。わたしは、彼女とは二ヶ月に一度くらいの割でしか会いませんでしたから、二人の間の詳しい成り行きまではわかりません。ただ、彼女が他の劇場から戻ってきたときは、よく楽屋に来てゴロゴロしていましたから、木山のほうも馴れっこになっていったのではないかと思います」 「彼女の仕事について、以前のような嫉妬とか反感を持たなくなっていったということですか」 「そう思います。それよりも、彼女の金を目当てにするようになったようです」 「お金のために目をつぶるということですか」 「そうです」  答えて、綿谷はそっとシエラをのぞき見た。一時の感情の昂《たかぶ》りは収まっているが、涙に荒れた顔はうつろだった。弁護人がその肩越しに問い続ける。 「しかし、お金を目当てにするといっても、先ほどの話からすると、月に三十万円程度しか彼女の手には入らなかったわけですね」 「はい。ノルマ以上の個室客をとった場合は、もう少し多くなりますが」 「その中から、木山はお金をせびっていたわけですから、生活費を考えると、充分な仕送りができなかったのも無理はないと思うのですが?」 「その通りです。彼女がときどき舞台がないように取り計らってほしいと劇場の社長に頼みこんでいたのは、いまから思えば、そうやってのぞき部屋へ内職に行くほうが実入りがよかったからです」 「国への仕送りぶんをそういう無理をして稼いでいたということですか」 「そのようです」  弁護士との打ち合わせでは、そろそろ尋問の終りが近い。 「証人から見て、被告人はどのような女性でしたか」 「平凡ないいかたですが、このような仕事をしているのが不思議に思えるくらい、純粋で、心のやさしい女性でした」 「その彼女の舞台を証人は投光していたわけですが、どういう思いで仕事をしていたのでしょうか」 「仕事とはいえ、何をやっているのかと絶えず疑問に思っていました。また、いくらお金を払っているとはいえ、客も客だと思うと、ジレンマに陥って、仕事をやめることを考えていたところ、今回の事件が起こって決心がついたのです」 「終ります」  弁護人が腰をおろし、通訳人が最後の言葉を訳し終えた。  いっときの沈黙の後で、 「検察官の反対尋問は——」  と、岸辺裁判長がうながした。  検察官の土川勇は、やや気後れしたような渋い面持ちで、ゆっくりと腰を上げた。 「証人は、先ほど、被告人が得ていたギャラについて、一日一万円であったといいましたが、それは確かなのですか」 「確かです」 「しかし、被告人が苦痛な思いをしてまで髪を染めて舞台をつとめていたからには、もう少しアップされたのではないんですか」 「そう考えるのが普通でしょうが、実際はそうではありませんでした」  土川検察官は、そこで立ち往生するように長い間を置いた。何をどう反対尋問すればいいのか、はっきりした考えが持てないのだろう。 「それにしても、月に三十万という額はフィリピンでのお金の価値にしますと、大変なものですね」 「そう思います」 「すると、そのこと自体は不当に過ぎるということはないんじゃないでしょうか」 「そういう考えは、搾取を正当化するための言い訳にすぎないと思いますが」  検察官は、困ったような表情でテーブルに視線を落とした。証人をやりこめる意志というのがあまり感じられない。 「フィリピンでは、ふつうのサラリーマンの月給が日本円にして一万五千円前後だそうですが、それから考えても三十万というのは膨大な額であるわけですね」 「はい」 「つらい仕事をしているのだから、当然の報酬ともいえるのでしょうが、被告人にとっては法外なお金であるために、気の緩みというか、気持の上での落ち度というのがあったんじゃないでしょうか」  それはあったかもしれない、と綿谷は思う。そのあたりにも、浩のような男につけ込まれる隙があったことは間違いないだろう。果たして、検察官は触れてきた。 「じゃぱゆきさんの給料は、たとえばふつうのホステスの場合、月に四万から八万程度、高くて十万円前後です。それでも大きな額なのですから、三十万ともなると物凄い大金です。被告人は、被害者にお金をせびられたといっているのですが、被告人自身に金銭感覚の麻痺というか、ルーズな面があったんじゃないでしょうか」 「それは、ある程度認めるほかないと思いますが」  と、綿谷は答えて続けた。「だからといって、被告人が咎められる理由はないと思います。弱味につけ込んだのは木山浩であり、芸能プロです。あすなろ芸能が被告人を酷使して、月に百二十万円もの暴利をむさぼっていたことはどうなるんでしょうか」  検察官の土川は、ふっつりと黙りこんだ。あとは、おざなりの問いをいくつか投げてお茶を濁すと、尋問の終りを告げた。  裁判長と陪席裁判官が、日本における被告人の仕事の内容とギャラについていくつか再確認の質問をした。その後で、裁判長がいった。 「これで証人尋問を終ります。証人はご苦労さまでした」  やがて、十二時になろうとしていた。  赤間弁護人は、立って裁判官に向い、弁護側冒頭陳述の補充を行なった。それは本件に先立って起こったある種の犯罪と被害者木山浩の隠された性向が結びついている事実を申し述べるものだった。そして、その立証のために、蔭山茂美なる銀行員を証人として召喚したい旨の申請を行なった。  検察官は、不必要、と答えたが、弁護側は、侵害行為と防衛行為との関連で必要不可欠である、と訴えた。裁判長は、採用する意向を見せて、それに要する時間を尋ねる。 「次回の被告人質問に先立って、一時間程度いただきたい」  と、赤間弁護人は告げた。  結果、第七回公判は、八日後、午前中いっぱいと午後の一時間があてられることになった。  廷吏による起立の掛け声で全員が立ち、頭を下げる。シエラは、みずから両腕を合わせて女性刑務官の前に差し出し、手錠を受け、腰ひもを巻かれた。追い立てられるように背中を向ける、その瞬間に綿谷四郎へ一瞥を投げた。かつて客に弄ばれながら照明室へ投げてよこした視線とくらべれば、はるかになごんだ眼差しのように感じられた。     15  もし、速やかに浩を病院に運んでいれば一命を取りとめたかもしれない、という考えかたはできそうになかった。突き立てた一撃が運よく心臓をはずれていたなら、傷害ですんだことも考えられるけれど、「右胸部刺創による心損傷をともなう心タンポナーデ」との検死結果では、病院へ運んでいる暇はなかったはずだ。  だが、即死というわけでもない。  岩上龍一は、その日、間近に迫った第七回公判にそなえ、より詳しい話を聞くために拘置所を訪れていた。弁護士が接見するのとはまた違った何かが得られるかもしれないということで、安否を尋ね差し入れをする以上の目的があった。三十分という制限時間の一般面会であり、看守の立ち合いはあったものの、支障なく言葉を交すことができた。  話は、殺害のときが重点だった。  その瞬間——、浩はうめくように、 「ああ、パティ」  と、口にする。ニックネームは最後まで変らなかったのかと尋ねると、シエラはうなずき、パトリシアという名はフィリピン女性にもよくある名前だという。コロンビア人を装うためにその名前を選んだのは、そういう共通性があるからだった。  浩は、その呼び声と同時に手からハンティング・ナイフを落とすと、よろよろとベッド・ルームのほうへ歩いていった。やがて膝を折り、そのままベッド脇に横転する。  激情は、狼狽《ろうばい》に変った。彼女は、果物ナイフを放り捨て、浩に駆けよると、 「どうしたの、ヒロシ、どうしたの」  揺すっては声をかけ、「ごめんなさい」をくり返す。 「ジューゴー」  消え入りそうな声で、浩が口にした。ジューゴー。喉の奥から絞り出すように、そればかりをくり返したと、シエラは話した。  岩上は、メモを取る。概《おおむ》ね、すでに弁護士の聞き出していることと重複する内容であったが、この話ははじめてであった。どういう意味なのかと尋ねると、彼女は頬をゆがめて首を振った。いくら浩の口に耳を近づけてみても、ジューゴー、としか聞きとれなかったという。 「いまも考えるけど、わからない」 「英語だろうか」 「た|ぷ《ヽ》ん。けど、ジューゴーの英語ない」  息も絶えだえに発したのだから、ちゃんとした発音をなさないのは当然だったろう。それがもし英語であったなら、どういう類似の音が考えられるか、シエラは考え続けているのだった。  やがて、その浩の声も絶える。狼狽は、きわみに達した。壁に向って泣き、壁を背にして泣き、果物ナイフを拾って自分の首を刺そうとまでしたけれど、死ぬことはできなかった。  時刻は午前四時を回っている。こんな時間に、助けを求められる人がいるだろうか。手帳をくって探した。一人だけ、自宅の電話番号が控えてあった。劇場の社長、古塚芙左次であった。 「ヒロシ、たいへん、助けて」  血を流していると聞いて、古塚はしぶしぶ目をさまし、マンションへ向う。電話をかけて一時間後、ようやく到着した社長に、浩がどうなっているか見てほしい、と頼んだ。 「社長は、浩を見て、何といったの?」 「死んでる。ケーサツ、電話しなさい。わたし、助けて、逃げる、どこか行く」 「すると?」 「タメだ、行くな。逃げたら、タイヘンになる」  古塚社長は、とにかく一一〇番をするようにとくり返した。自分で回して、自分で話せと命じ、その後で彼女の手帳を取り上げ、世田谷の自宅の電話番号が記してあるメモ欄を切り裂いてポケットに入れた。 「おれがここへ来たこと、ケーサツ話すな」 「それから?」 「助けて、一人にしないで」  お願いをくり返す彼女を、古塚は振り切った。おれのことを警察に話すと承知しない、と最後に釘を差して。  社長が帰っていった後、いまはその死がはっきりした浩のそばにひざまずき、胸を覆う血糊を拭った。長い時間が経った。これからどうするか、迷った。一一〇番をしようかどうか。だが、そうはしなかった。逃げると決めて、準備にかかった。必要なものだけをバッグに詰めて、残りはゴミに出した。とくに証拠を残さないようにと神経をつかったわけではない。ただ、できるだけ身のまわりの整理をつけて出ていこうとしたのだった。  まず、上野へ出た。行ったことのある街で、しかも新宿からなるべく離れたところ、さらには東京を出て遠くへ行くこともできるという条件にかなっていた。上野に来てはじめて、一一〇番を入れた。こちらの名前は告げず、ただ、男の人が倒れている、と告げてその場所を教えたのだった。そして、逃げ続ける。捕まらないでいたいと願い、夜の街に立ち、ときにはホテルのロビーで客を探した。故国への送金を絶やさないためにも、また、お金さえできれば、この国を脱出する方法も見つかるかもしれないと考えていた。布製バッグ一個に収めた荷物は駅のロッカーに預け、客の見つからない日は、楽にチェック・インのできるビジネスホテルに泊った。  上野に十日余りいて、それから池袋へ出た。一つの街にあまり長く留まると、誰かに見咎められるような気がしたからだ。いろんな目にもあっている。ある客は、入管職員を騙《かた》って脅し、料金を踏み倒した。それでも最も安全な場所は路上であり、警察にだけは細心の注意を払って、さまよい続けた。  日ごとに疲労がたまっていった。その夜は、とくに注意が散漫になっていた。交差点に不意に現われた警察官に気づくのが、一瞬、遅れた。目が合い、うろたえて背中を向け、しばらく歩いて振り返った。それがいけなかった。自転車に乗った制服が向ってきた。駆けだした。そばの角を曲がると、次の角を目ざした。背後で警笛が鳴った。路地へ折れ、さらに折れて走った。振り返ると、制服姿は見えない。とっさにそばのビルへ飛びこんで二階へ駆け上ると、酒場が廊下の両側に並んでいた。考えている暇はなかった。階段のすぐ斜向いの〈ロフト〉の扉を反射的に選んでいた。  それらはすでに赤間弁護士が聞き出していることであり、岩上が改めて辿る必要はなかった。ただ、追跡のそもそものきっかけになった出来事と彼女との出合いが結びついていることに、皮肉なものを感じないではいられなかった。  時間が残り少なくなってきた。弁護人接見のように無制限というわけにはいかない。何かしてほしいことはないかと、岩上は最後に尋ねた。 「手紙、フィリピンに送ってほしい」 「書いて出しているんじゃないのか?」 「ノー」  シエラは、小さく頭を振った。「事件のこと、知っているか、知りたいの」  気がつかなかった。彼女には、住所がない。いや、厳密にいえば葛飾区小菅の東京拘置所ということになるのだろうが、それを記して手紙を出すことを拒んできた。故国の家族は一向に来なくなった便りを待ちわびているにちがいないという。 「たぶん、国の家族には知られていないよ」  岩上は、おぼつかない推測をいった。  彼女が逮捕された時点で、 (コロンビア人ダンサー逮捕年下の日本人男性刺殺を自供)  と、金銭関係のトラブルが原因のようであると報じられてから、続報はなかった。実はフィリピン人であったとの訂正は、どこの紙誌にも扱われていない。次々と起こる重大事件が本件を古い過去のものとして置き去りにしたのだった。  だが、コロンビア人であるとされた際に大使館を通じて身上照会が行なわれているのだから、フィリピン人であることがわかった時点でもその真偽が確かめられていることは間違いがない。おそらく、いや相当に高い確率で彼女の故郷へも伝わっているはずだ。 「セブは、とてもいなか。話、いかない」  自身にいい聞かせるように、彼女はいった。  岩上が提案した。手紙は彼女が書いていったん彼のところへ送りつけ、それを改めてエア・メイルで投函する。家族から返事が来れば、それを拘置所へ送るか、あるいは持ってくる。その方法で、一度やってみることになった。但し、検閲があるためスムーズに通過する英文で書くよう、国の家族にもいっておかねばならない。  これまで、手紙は常にこちらからの一方通行で、返信はなかったという。手紙が来れば本当の国籍を知られてしまう恐れから、住所を報せなかったからだ。たまに国際電話をかけて家族の安否を確かめていた、とシエラは話した。  刑務官が、時間だと告げた。岩上は、折畳椅子を引いた。ボードの向うの彼女も腰を上げる。刑務官にうながされ、背中を向けた彼女へ、岩上ははじめて、 「シエラ」  と、声をかけた。  午前中に拘置所での面会を終えた岩上龍一は、同じ日の夕方、神楽坂の料亭街の一角にある小料理屋へ向った。  午後からちらつきはじめた季節はずれの雪が、店に続く小路の石畳を覆いはじめていた。水っぽい大粒の、本格的な降りである。 「愛ちゃん——」  品のいい四十がらみの女将が、赤間のことをそう呼んで、「お友達がお見えになりましたよ」  こちらです、と女将の娘があとを引き受けた。  短いカウンターと、衝立によって二手に仕切られた座敷があるだけの小ぢんまりとした店だ。岩上は、奥のほうの座敷へ案内されて、弁護士と向い合った。やっかいな相続問題の依頼者とつい先ほど打ち合わせが終り、折よく先方が辞した後だという。  日本酒をくみ交しながら、岩上はとりあえず面会の報告をした。 「無罪なんだ、彼女は。家族もいずれそのことを知るだろう」 「強気だな、相変らず」 「裁判は戦いだよ」  赤間は、そういって手酌し、刺身へ箸を伸ばした。やや後退して広さを増した額にはすでに赤みがさして、ほてい腹のようにてかてか光っている。 「ジューゴーか」  話を聞いて、赤間がうなるようにいう。「何とかして、その意味を知りたいもんだな」  岩上は、銚子を空けてお替りを求めた。まだ十九なのに落ちついた感じの女将の娘が、着物の袖を片方の手で押さえて空いた鉢皿をさげると、運んできた新しい銚子を手にお酌をする。腰付明障子の横額部分が引き上げてあり、ガラス窓から庭に降る雪が見えた。 「暖房がよく効かなくてごめんなさい」  いって、娘は障子の窓の外を見やり、今夜は積りそうですね、と微笑する。 「こんな寒い国にゃ、来ちゃいかんのだよ」  脈絡もなく、赤間が独りごとのようにいった。 「え」  と、娘が不意をつかれて返事をする。 「麻美ちゃんは、どこだったかな、国は」 「沖縄です。何べん聞いたら覚えてくれるんですか」  赤間は、そこで短く叫んで、 「そうだった。踊り子の多いところだ」  と、いった。 「踊り子?」 「ストリッパーに多いと聞いたよ、沖縄出が。暑いから脱ぎたがるんだと」 「失礼ねえ」 「ところが北海道にも多い。こちらは、寒いが大らかだから脱ぐ」  鼻に皺《しわ》を寄せて肩をすくめると、女将の娘は席をはずした。  赤間の顔のとくに目のあたりに濃い赤みがさしている。酔いが回ると、彼は饒舌《じようぜつ》かつ磊落《らいらく》になるのだった。 「沖縄で思い出したが、フィリピンでも美人が多いのは南のほうだそうだ。北部の人間から多分に偏見を受けてきたにもかかわらず、本物の美人が実はそこに多いというのはいいことだな。セブやその周辺の島は、ビサヤ地方と呼ばれていて、スペイン人、中国人、マライ族、それらの見事な混血を生みだした」 「勉強してるな」 「ニック・ホワキンというフィリピンの作家が書いている」  赤間が少し得意げにいって続けた。「綿谷証人の反対尋問で検察官も触れたように、確かにビサヤの女は人のいい浪費家が多いそうだ。浩はそこにつけ込んで絞り上げたわけだが、愚かにも限度というものをわきまえなかった。フィリピン人については、何かと水牛にたとえて論じられることがあって、たとえば、大らかで働きものの水牛も酷使の限界を越えると角《つの》の一撃が待っている、とか。実に暗示的じゃないか」  雑談が続く。障子の横額には、さらに密に降りしきる雪が映っていた。 「こんな国へは来ちゃいかんのだよ、本当は」  赤間が話題を戻した。「どんなに生活が苦しくても、その貧しさは、みずからの場所で引き受けなきゃいかんのだよ。自分たちの場所で、豊かになるように闘わなきゃいけないんだ」  岩上は、黙って手酌しながら相手の演説を聞いていた。 「ところが、そう理想通りにはいかないことも確かだ。スペインにはじまる植民地支配があの国にいかに根深い禍根を残したか、それはもう想像を越えた現実だよ。一握りの裕福な支配者とその他多数の貧民という植民地時代の構造は、政権が変ったいまも変りようがない。変らない以上、貧しい人間は豊かな国を目ざす。とにかく、何としても来る。法律で締め出そうが何しようが、ありとあらゆる手段をつかって、極端にいえば密航船を繰り出してでも日本へ来るよ。これはもう、はっきりしているんだ。行かなければ、家族が飢える。生き死にの問題だよ。父親はアラブへ、娘は日本へ、とにかく国を出る。それが、あの国の現状だ。いまの日本からは考えられないくらい遠い世界の……」 「行ってきたのか」  岩上が、ぽつりと口をはさむ。 「黙って行って、悪かったかな」  とぼけた調子の答えが返ってきた。  スケジュールをやり繰りして空けた、三泊四日の短い旅だった。セブで一泊、マニラで二泊した。セブでは、シエラの一家A・ラウロン家を訪ねている。事件のことはやはり役所からの身上照会の際に知っていて、弁護士の訪問に一家は大慌てであったが、妹たちが何かと世話をやいてくれた。セブ市郊外、車で海沿いに十五分ほど北へ走ったところにある村の、周囲の粗末なニッパ・ハウスと比べればはるかに見てくれのいい、一部コンクリートをあしらった高床式の木造家屋で、家族のみならず親族が寄り集まって暮していた。事実は、ほとんど彼女の話にある通りだったが、この親族のことは意外だった。稼ぎのいいじゃぱゆきさんを出した家へ、叔母や従兄の一家までもが頼ってきていたのだった。このことが彼女により多くの仕送りを迫る原因にもなったようで、浩に絞られるたびに、焦り、追いつめられていったことを納得させた。  彼女がマニラへ出る以前に、一時働いていたというディスコ・クラブへも行ってみた。ただヌードで踊るだけの娘たちも、舞台を降りれば、ときとして娼婦になる。マニラで働いていたというナイト・クラブは、流行《はや》りのカラオケのある典型的な連れ出しシステムの店だった。首都圏《メトロ・マニラ》の下町、パサイ市のアパートで従姉とふたり暮していた彼女は、そのときすでに身体を売る出稼ぎ女性だったのだ。  岩上は、話を聞きながら呆然としていた。弁護士の熱心さに呆れ驚いたのだったが、無罪を勝ちとるにはこれくらいのことをして当然だと軽くいなされた。  拘置所の彼女にはいわないでおこう、と赤間はいう。家族は、これまで彼女が送り続けたお金で当分は安泰だ。子供も元気でいる。よけいな心の疲れは与えたくないという意見に、岩上は同意した。 「人間は誰しも豊かさの奴隷だ。貧しさはそれ自体が罪悪だ。シエラも国境を越えて金の湧く滝壺へ身を投げた女の一人なんだろう」  自分の言葉にうなずき苦笑しながら、赤間は酒を口に運び続けた。  話題にひと区切りついたところで、岩上が身を乗り出した。酔いに重くなりかけた頭の中で、一つの思いつきが形をとりつつあったのだ。 「古塚という劇場の社長をどうして証人に立てないんだい」 「麻酔でも打って法廷へ運んでいけっていうのか」  赤間が笑い、とても無理だと一蹴する。 「しかし、彼は現場の第一発見者じゃないのか」 「それはそうだ」 「彼女がもし木山にナイフで衣服を切られたとすれば、現場へ駆けつけた社長は、その切られた服を着たままの彼女を見ているんじゃないのか」 「………」  弁護士の顔色が変った。岩上が勢いづいて続ける。 「確か、トレーナーだったね。胸を縦にざっくり切られた、と」 「そうだ」  叫んで、赤間は宙をにらみ据えた。「切られたトレーナーのままであれば、社長がそのぶざまな格好を見ているはずだ。どうしてそんなことに気がつかなかったんだろう」 「木山を殺してしまって興奮状態にある彼女が、冷静に服を着替えるとは思えない」  赤間は、ごくりと酒を飲み下した。 「さっそく明日だ。シエラが捨ててしまった服を見ている人間がいたとは」 「一緒に会いに行こう」  岩上の申し出に、赤間は大きくうなずいてみせた。  店から借りた傘をさすと、ポトポトと雪の落ちる音がした。すでに十センチは積っている。このまま降り続けば、明日の交通は麻痺状態になるだろう。  飯田橋から地下鉄で池袋へ向った。店で一杯やっていかないかと岩上は誘ったが、赤間は断わった。この雪では帰るのがだんだん億劫になりそうだという。しかも、その日は三歳になる次女の誕生日だと気恥ずかしげにいうのを聞いて、岩上は相手を解放した。  店へ、高層ビルからの強風にあおられる雪をまともに受けて歩いた。マニラのころに、すでに娼婦だったか。つぶやいて、その姿を脳裏に描いた。顎まで毛布にくるまって動かずにいる独房の女は、ショーフという言葉のイメージからは遠くかけ離れていた。     16  第七回公判期日、午前十時——。予定通り、被告人質問に先立って、蔭山茂美に対する証人尋問がはじまろうとしていた。  その前に、赤間弁護人は立って裁判長に告げた。 「弁護人は、本日の公判廷で、蔭山茂美証人のほかにもう一名、被告人が働いていた劇場の社長、古塚芙左次を証人として認めていただくよう申請いたします」  裁判長が理由を問うような目を向けた。赤間は、その立証趣旨を述べる。 「犯行当時、被告人の着けていた衣服の状態について明らかにしたいと思います」  検察官がぎょっとしたように目を剥《む》いて赤間をにらんだ。裁判長が意見を求める。土川検事は、即座に立って、 「不必要と考えます」  返されて、赤間は再び立った。却下されるようなことがあれば、ごねるつもりだ。場合によっては、裁判官忌避もあり得る。 「裁判長——、被告人の犯行当時の状況については、その事実関係に争うべき点が多々あるものと思われます。古塚社長は、被告人の犯行直後に現場へ出向いており、証言者として非常に重要であると考えますので、ぜひ採用していただきたい」  岸辺裁判長は、しばし考えこむようすを見せると、 「証人は在廷しているのですか」  と、尋ねる。望みどおりの問いだった。 「来ております。蔭山証人の後、三十分程度で充分かと思います」  裁判長は、左右の陪席にそれぞれ顔を振り向けて意見を求めると、 「採用しましょう」  と、いった。  赤間は、胸を撫でおろした。闘いの意志がさらに固まっていく。  傍聴席の最前列に控えていた蔭山茂美は、廷吏にうながされ、人定質問用紙に、氏名、生年月日(昭和四十二年三月二日)、年齢(二十一)、職業(銀行員)、本籍地(神奈川県平塚市××町)、住居(同右)を記入してから証人席へ歩み出た。  宣誓書を手渡され、何ごとも隠さずに真実を述べる誓いを立てる。声が細く震えるように響いた。丸いふくよかな顔には緊張がみなぎっている。この前、赤間が会ったときよりも大人っぽい、グレーのシャツ・ブラウスに黒のスーツ姿、身体つきに似合ったやや太めの脚がミニ・タイトの裾から黒い中ヒールまで伸びていた。  傍聴席に姿を見せていた古塚芙左次が証人控え室へ退廷させられた後で、 「それでは、弁護人——」  裁判長にうながされて、赤間愛三は立った。  前置きとして、三人兄弟の末っ子で、上に兄と姉がいること、木山浩との関係、すなわち同じ町に生まれ育った幼馴染みであったことなどを確かめる。ながい間、没交渉ではあったが、今回の事件には驚いたこと、葬儀の日に、たまたま木山家のそばを通りかかり、お焼香くらいはしてあげようと思ったこと、そして、献花に埋もれた木山浩の写真を見上げた瞬間、自分が被害者である、ある事件の犯人ではないかと、その髪と額の形から直感したこと。このあたりから、赤間は質問に本腰を入れた。  ある事件とは、何か。昨年、九月十日木曜日のその日のことを、蔭山茂美は克明に話していく。自宅まであと二百メートルほどの薄暗い路地裏。深夜十二時ともなると、人っこ一人いなくなる静かな住宅街。犯人は、背後から飛びかかるように襲い、瞬間、ガムテープで口をふさいで引き倒すと、そのまま馬乗りになった。 「手にはナイフを持っていたのですね」 「はい」  赤間は、そこでマンション〈コーポ・レインボー〉の部屋から出てきた神奈川新聞とそれを掲げもつ管理人鮎沢彦一の写真を新たな証拠として申請した。検察側に異論を差しはさむ余地はない。裁判所は、物証としてそれらの採用を決定した。  赤間は、ハンティング・ナイフをポリ袋に入ったまま手にして証人席の蔭山茂美に歩み寄った。公判未提出証拠であったその狩猟用ナイフについては、証拠調べ請求が第四回公判における弁護側冒頭陳述の後で行なわれ、裁判所はそれを採用していた。 「このナイフに見覚えがありますか」 「はい。そのようなものでした」  犯人は、無言でナイフを頬に押し当てる。それから顎を伝って首筋へ、さらに胸を撫でながら下へ、次にブラウスの腹部を刃先に引っかけると、こんどは逆に胸元へ、布を切りながら押し上げていった。その間も無言。大きなマスクにサングラスの顔が眼前にあった。もちろん目鼻立ちはわからず、パンチ・パーマをかけた髪型だけを憶えこんだ。一瞬、痛みが走った。ブラジャーを切る際、刃先が肉を裂いたのだ。が、それも恐怖の前にかき消された。近づく刃先が喉元を突きそうになった。そのとき——、  茂美は、一瞬、顔色を変えて小さな叫びを上げた。 「そのとき、思わず相手の腕を押さえました」 「腕を?」 「はい。殺さないでと、思わず相手のナイフを持った腕をつかんだとき……」  茂美の声が不意に震えて、「いま、思い出しました。相手がうるさいとかいって、わたしの手を払いのけたんです。そして、ナイフで、パシッと手を張りつけて」 「そのナイフは、あなたの手のどの部分を張りつけたのですか」 「指です。指先に当りました」  茂美が叫ぶようにいって、泣きだした。身体の中に溜ってきたものを吐き出すように、うめき、頬をゆがめてすすり上げ、肩を揺らした。  赤間は、うなずきをくり返しながら間を置いた。法廷でよみがえった記憶の細部に、刃の部分についた二個の指紋の謎をとく鍵が……? 自分から触るのではなく、ナイフのほうから触れてきても指紋はつく。調べてみないことには断定できない。が、彼女の一縷《いちる》の望みにかけて流す涙は、少なからずの可能性につながっているように思えた。 「証人は、そのとき切り裂かれたブラウスを持っていますか」  茂美の興奮がおさまってから、赤間は問い続けた。 「はい、今日、ここに持ってきてあります」 「それを見せてくれますか」  赤間がいうと、茂美は踵《きびす》を返し、傍聴席の隅に置いてあった紙袋の中からそれを引っぱり出した。証人席へ戻り、広げて裁判官に見せる。丸首、後ボタンの少しクリーム色がかった綿のブラウスで、腹のあたりから縦に襟首の手前まで裂かれていた。 「この裂け目のあたりに黒っぽいシミがついていますが、これは何ですか」 「ナイフで胸を切られたので、血が滲んだのです」 「その切られた胸をここで見せてくれませんか」  打ち合わせなしの依頼だ。蔭山茂美はしかし、ためらいもなくシャツ・ブラウスの胸ボタンをはずした。三つほどはずすと、ブラジャーに手をかけて、その部分が裁判官に見えるように少し引き下げる。ちょうど膨らみのつけ根のあたりに、三センチほどの傷が縦に走っていた。肌が白いだけに、虫でも這《は》ったように黒ずんでいる。  赤間は、ブラウスもまた証拠として申請した。裂かれた衣服の形状は、後々のためにしっかりと留めておかねばならない。  弁護人席へ戻ると、改めて問い進んだ。  浩が犯人ではないかと直感してから、新聞社に問い合わせて、同じような被害にあって警察に届け出たA子B子に会ったこと、彼女たちは残念ながら犯人の顔をまったく覚えておらず、しかも無傷だったので、自分とはかなり立場が違うと感じたことなど、彼女は過不足なく答えていった。 「ところで、証人にとって、幼馴染みの木山浩はどういう人間にうつっていたのですか」 「思い出すと、彼にはそういう暴力的なところがあったような気がします」 「といいますと?」 「すぐに思い浮ぶのは、中学時代、彼は野球部にいたんですが、下級生をバットでしごいて重傷を負わせたことがありました」 「それは事実ですか」 「当時の彼を知る人に聞いてもらえばわかります。彼の家はお金持ちなので、父親がお金で解決したということです」  その浩が大学へ入ると逆にリンチを受け、あっけなく中退してしまう。本来の加虐的なものが鬱屈し、それが深夜ひとり歩きの女性へ、シエラへと向けられたと考えることができるのではないか。殴る蹴るの暴力も、警察への密告をはじめとする脅しも……。  赤間は、もう問うべきことが残っていないかどうか、しばらく思案してから尋問の終りを告げた。  続いて、土川検察官が立った。弁護人による主尋問の間、深刻そうな顔で成り行きを見つめていた、そのままの表情で問いはじめる。 「証人が最初、犯人が木山浩であると判断したのは、髪型だけですか」 「髪型と額のひらべったい感じです」 「それだけでそういう判断を下すのは無理があると思いませんか」 「確かにそれだけでは充分な証拠にならないので、いったんはあきらめていたんです。ところが、弁護士さんからお電話があって、手口のよく似た別の事件と関係がありそうだということで、やっぱりと……」 「しかし、被告人が木山浩にそうやって脅されたという証拠はないでしょう」 「わたしが彼にそうやって服を切られたことは確かです」 「どうして確かなのですか」 「指紋を調べてみてください」  と、茂美は訴えた。「ナイフについていたもう二つの指紋です。刃のところについていたというその指紋は、わたしのものかもしれません」  検察官は、そこで言葉に窮し、しばらく考えをめぐらしていたが、 「終ります」  告げて、腰をおろした。この件については、追って指紋照合の結果を待つほかはないのだから、検察側としてもこれ以上追及するわけにはいかなかったのである。  蔭山茂美が傍聴席に残り、次なる証人が傍聴人出入口から現われた。ずんぐりとした背の低い小肥りの中年男、古塚芙左次は、その眼差し同様に落ちつかない足取りで証人席へ進み出ると、必要以上に高い声で宣誓書を朗読した。  無罪を勝ちとれるかどうか、すべては社長にかかっていると口説いて、ようやく引っぱり出したのだ。質問事項についてはほとんど打ち合わせていない。何をどう尋ねられるのか、社長にはわからない。それもまた一つの作戦であり、賭けだった。  犯行当日、午前四時半ごろ彼女から浩が血を流しているとの電話を受けて、しかたなく現場へ赴いたこと、そのとき、彼女から、浩がどうなっているか見てほしいと頼まれて、その死を確認したことなど、いくつか尋ねてから、赤間は本題に切りこんでいった。 「証人が到着したときの彼女の状態についてなんですが、身に着けていたものがどういうふうであったか、覚えていますか」 「どういうことでしょうか」  つっけんどんな調子で、古塚社長は返した。 「被告人はそのときトレーナーを着ていたのですが、どこかに乱れがあるとか、奇妙な感じはなかったでしょうか」 「そりゃ、大喧嘩したんだから、破れていたのは当り前でしょう」 「破れていたとは、どういうふうにですか?」  古塚は、被告人席のシエラをちらと見て、 「胸がはだけてました」  赤間は、そこで弁護人席を離れて証人のそばへ行き、先に証拠として提出ずみの蔭山茂美のブラウスを手にして問い続けた。 「このように首へかけて縦に割れていたのではありませんか」  古塚は、それを見てはじめて重大な証言を求められていると気づいたらしく、にわかに襟を正して答えた。 「そういえば、そんな破れかただったと思います。胸元だけがはだけて、乳房が見えるほどでした」 「襟首はどうでしたか」 「襟首はまだくっついていたと思います」 「証人は、それを破れだと思ったのですか」 「そうです」 「どうして破れだと判断したのですか」 「確かに、トレーナーの生地は強いので、ただの破れにしてはおかしいと思います。しかし、そのときはたいして気にもとめなかったもので……」 「証人は、それが刃物によるものだとは思いませんでしたか」 「いまから思うと、そうです。ナイフで切られたのだったら、納得がいきます」 「証人が弁護人とその話をするのは、いまこの法廷がはじめてですか」 「そうです」  赤間は、二度三度うなずきをくり返した。 「証人が木山浩の死を確認したとき、浩の手にナイフが握られていましたか」 「いいえ」 「部屋のどこかにハンティング・ナイフのようなものを見ませんでしたか」 「気がつきませんでした」  やむを得ないだろう、赤間は、これで引きさがることにした。  検察側の反対尋問がはじまった。土川検事は、古塚証人をにらみ据え、いきなり迫るように問いかけた。 「証人は、その部屋にどのくらいの時間、いたのですか」 「二、三十分程度であったと思います」 「二、三十分といえばかなりの時間ですが、その間に、ハンティング・ナイフのようなものはまったく目に入らなかったのですね」 「はい」 「証人は、被告人のそのときの衣服の状態について、最初の記憶は非常にあいまいでしたね」 「はい」 「この法廷で、弁護士に指摘されてはじめて、ナイフで裂かれたような状態であったというのですね」 「そうです」 「証人は、あいまいな記憶を弁護人に誘導されて、被告人に有利になるような証言をしているんじゃないですか」 「そんなことはありません」 「しかし、被告人が証人の認めたような衣服の状態にあったとすれば、最初から、はっきりと印象にあるのが普通じゃないでしょうか」 「わたしもそのあたりを疑われると弱いのですが、本来、物事に敏感なほうではないように思います」 「物事に鈍感な証人であってみれば」  と、検察官はつめ寄った。「最初、喧嘩をしたのだから衣服が破れているのは当然といった、その程度の言葉から一歩も進めないんじゃないですか。弁護人に誘導され、先の証人、蔭山茂美の衣服を見せられてはじめて、そのような状態であったと認めるのは極めて正確性に欠けると思うのですよ」 「わたしの言葉に誤りがあるとは思いませんが」  古塚芙左次は、小さな声で答えた。 「証人はかつて公然ワイセツの罪で警察に逮捕されたことがありますね」 「はい」 「従って、平素から警察当局には反感をもっていましたね」 「罪は罪ですから、甘んじて受けとめてまいりましたが」 「そうはいっても、証人は、捜査段階において、重要参考人を追う警察にまったくといっていいほど協力しなかったじゃないですか。それどころか、わかっていながら嘘をつき、混乱を招くようなことさえいっている。そうでしたね」 「申し訳ございません」 「そのようにいい加減な、重大犯罪にもかかわらず平気で嘘をつく人ですから、いま申し立てたような証言にも偽りがないとは、にわかに信じるわけにはいきませんね」 「………」 「証人は、被告人の着衣に関して、記憶のあいまいさを認めざるを得ないんじゃないですか」  追いつめられて、古塚は頭を垂れた。手指を額に押し当ててしばらく考えこんでから、 「やっぱり弁護士さんに話したほうが正しいと思います。あんなトレーナーの破れかたは普通では考えられないことですから」  検察官は、いかにも怪しむように首をかしげてみせると、 「終ります」  怒りを帯びた声音で告げた。  続いて、裁判長がいくつか検察側と同様の質問をくり返し、古塚証人の答えに変りがないことを確かめた。赤間は、最後に一点のみ聞いた。 「証人は当時、被告人に対して特別な感情を持っていましたか」 「といいますと?」 「とくに可愛がっていたとか、好意を持っていたとか」 「それはありません。業界では踊り子を荷物にたとえて、うちの荷物が着いたとか、着かないとか、いうことがあるのですが、そのような一人として見ておりました」 「荷物というのは、日本人の踊り子に対しても使うのですか」 「踊り子一般に使われております」 「終ります」  続いて、被告人質問へ移る前に十五分間の休憩がはさまれた。     17  傍聴人は、これまでで最も多い十人余りで、被害者の関係が半数を占めているようだった。蔭山茂美は、奥の隅に残っていたが、古塚社長は姿を消している。シエラがどんな供述をするのか見届けようという気持もないようだった。  きっかり十五分後に裁判官が戻ってきた。被告人シエラ・A・ラウロンは、審理の再開を告げる裁判長の言葉に応じて陳述席へ歩み寄り、壇上へ向き直った。長くなるようなので腰かけて答えてもいいと裁判長はいったが、彼女は立って答えることを選んだ。表情は険しく緊張ぎみだが、怯えたり、気おくれしたようすは見られない。  赤間は、質問事項を整理したメモに目をやりながら、ゆっくりと問いに入った。 「まず、被告人が被害者の木山と出合ったときの話からはじめますが、一昨年の秋、新宿のディスコで会ったのでしたね」 「はい」 「そのディスコへは、仕事が終った後で出かけたのですか」 「そうです」 「ひとりで出かけたのですか」 「はい。たまには、劇場を離れて思いきり踊りたくなったのです」 「木山浩はそのとき、職業を尋ねたあなたに、どんな仕事をしていると答えたのですか」 「コンピューター会社の社員だといいました」 「それがまったくの嘘であると、あなたが知ったのはいつですか」 「二、三日後です。ゲームセンターで働いていることを知りました」 「本当のことを知って、被告人はどう思ったのですか」 「とくに、何とも思いません」 「それは、どうしてですか」 「その程度の嘘なら、わたしのほうもついていたからです」  シエラは、一語ずつ確かめるように答えていく。通訳人を介して、一問一答はゆっくりと進んだ。  どこから来たのかという浩の問いに、ただ、アメリカとだけ答え、後に|南の《ヽヽ》アメリカと訂正する。かつて弁護士に話した通りの内容を、彼女はくり返した。 「被告人は、どうして自分の出身国を正確にいわなかったのですか」 「本当は、偽るつもりなどなかったのです。劇場では、お客さんに対してはアメリカ人、従業員やほかのダンサーにはコロンビア人を装うことにしていたので、ついヒロシに対してもアメリカと答えてしまったのですが、気持が通い合うようになれば、本当のことをいうつもりでした。けれども……」  シエラは、そこでいったん言葉を切り、伏目がちに続けた。 「とうとうその機会が来ませんでした。だんだん、本当のことをいう勇気がなくなってしまったのです」 「それは、どうしてでしょうか?」 「わたしの金髪を本物と思いこんでいたからです。それをまわりの人たちに自慢していることを知って、自信をなくしました」 「まわりの人たちといいますと?」 「友達とか、ゲームセンターで一緒に働いていた人たちです」 「あなたはしかし、後にはコロンビア人であると訂正していますね」 「はい」 「それは、どういう経緯からですか」 「ヒロシが、誰か劇場関係の人から、髪を染めて西洋人になっている南米の女性のことを聞いてきて、わたしもそうじゃないのかと尋ねるので、そのときこそ本当のことを答えるチャンスだったのですが、どうしてもいえずに、南アメリカと答えてしまったのです」 「実は染めた金髪であることは、そのときにわかったのですね」 「そうです」 「そのとき、そういうことがわかってしまったのだから、もう一歩進んで、フィリピン人であるとまで正直に答えればよかったというのですか」 「はい。けれども、勇気がありませんでした」 「どうして勇気が持てなかったのですか」  シエラは、しばらく黙っていた。ほどなく、抑揚のある声に感情をこめた。通訳人のアメリカ人女性がそれを穏やかに、着実に日本語に訳していく。 「わたしは、最初からヒロシには本当のことを知ってもらいたいと思っていました。けれども、もし、それを彼に打ち明けたなら、劇場の人たちや仲間のダンサーに知られてしまうかもしれない、ヒロシが秘密を守ってくれなかったらどうしようとか、いろいろ考えると、どうしてもいえなかったのです」  赤間は、ここであすなろ芸能についての話を引き出してしまうことも考えたが、混乱を避けるために後まわしにした。一呼吸おいて、問い続ける。 「ところで、木山浩があなたをコロンビア人だと信じこんだのは、いつですか」 「沖縄旅行から帰ってきて、間もなくだったと思います」 「すると、一昨年の十一月下旬ころですね」 「そうです」 「そのころから、浩の態度に何か変化はありませんでしたか」 「ヒロシが別れたいという話を持ち出したのが、そのころだったと思います」  シエラは、いまではどこまでも正直であろうとしている。これでいいのだ、と赤間は思った。男女の感情については、偽りの話で格好をつけるのはよくない。このほうが後々の供述にも真実味を与えるはずだ。 「その理由は、あなたが劇場でやっていることが原因だったのですか?」 「はい。それがいちばんの理由です」 「あなたは、別れたいという浩に何といったのですか」 「わたしのそばにいてほしいといいました。ひとりにしないで、と」 「で、浩はあなたの願いを聞き入れたのですね」 「はい。しぶしぶ承知したようです」 「それからの浩は、何か態度に変ったところが見られましたか」 「お金のせびりかたがひどくなりました」 「どのようにひどいのですか」 「わたしがそんなにたくさんは駄目というと、暴力を振るうようになったのです」  彼女が別れを拒んだ時点から、すでに浩の態度は変っている。赤間は、心の中で確認して問い進めた。 「そういう浩に対して、あなたのほうから別れようとはしなかったのですか」 「最初は、わたしのほうが別れないでとお願いしたので少しくらいあげてもいいと思ったのですが、その後、あんまり持っていかれるので、国への仕送りが充分できなくなって、わたしのほうから別れてほしいといいだしました」 「それは、いつごろのことですか?」 「新宿に部屋を借りてからです」 「あなたが別れたいというと、浩は何といったのですか」 「いままで一緒にいてくれといっておきながら、いまごろになって別れてほしいというのは通らないといいました」  赤間は、一歩ずつ先へ進んだ。五月、いったんは別れることに成功したものの、六月、浩からかかってきた突然の電話に飛びついて縒《より》を戻す、そのあたりの経緯については、あい渚の話などから知り得た内容と少しも違わなかった。  だが、浩のほうは、そのときすでに白瀬由佳という女のところへ通っていたことについては、シエラはまったく知らなかった。まさか浩が自分から巻き上げた金で女に会いに行っていたとは思いもよらなかったという。それらの点を確認すると、浩との関係はひとまず区切りをつけた。  ちょうど十二時になって、昼休みに入った。法廷はいったん空っぽになり、再び全員が揃って午後の審理がはじまったのは、一時ちょうどであった。  赤間は、気分を改めて被告人に向った。 「あなたは、午前中の供述で、自分がフィリピン人であることが劇場関係者に知られるのを恐れたといいましたが、それはどうしてですか」 「わたしの所属していたプロダクションから、絶対に知られないようにしろと命令されていたからです」 「それについて、具体的にどうしろというふうな話があったのですか」 「はい。フィリピン人ではないかと疑われるような振る舞いをしたり、その疑いが持たれるような物を人前に見せたりしてはいけないということでした」  この問答を皮切りに、赤間弁護人はあすなろ芸能のやり方を綿谷証言の内容にそって暴いていった。はじめての来日で所属した大阪のSOプロでは、ミス・ナタリーという名でフィリピン人として出演していた話から、一度帰国して再来日し、やはりSOプロに所属していたことを確かめた後で、引き抜きの話に移った。 「どういうふうに話があったのですか」 「突然でした。ある日、プロダクションの人が劇場へ来て、旅の準備をしなさいというのです。聞くと、今後は東京で働くようにとのことでした」 「それは命令ですか」 「はい。新しいプロダクションの人と一緒に東京へ来たんです」  香盤はトリであった。持ち時間は、劇場によってまちまちで、二十分から三十分程度、一日三回から四回の舞台をつとめる。そして、これも劇場によってシステムは違っていたが、たとえば所属の新宿スター劇場の場合、一回につき義務として最低二人の個室客をとる。二人まではギャラに含まれていたが、それ以上になると一人につき二千円の歩合がついた。これは芸能プロとは関係なく、コロンビア人なみの扱いをした劇場側から直接支払われた。客が支払う六千円の個室料の中からである。綿谷証言を補足するとすれば、この点に関してであり、国籍を偽称することによって多少は実質的な利益もあったということだ。  舞台でのタッチ・ショーの内容を聞いた後は、ギャラについてさらに問い続けた。綿谷四郎が、彼女はフィリピン人としてのギャラしかもらっていなかったと証言したことと関連させて——、 「ところで、あなたはミス・サリーとして舞台に上るに際して、いくらのギャラをとっていたか、知っていたのですか」 「いいえ。わたしは、自分がいくらで出演しているのか、知りませんでした」 「それはどういうことですか」 「大阪のプロダクションにいたときは、一日二万五千円でそのうちの一万五千円を事務所にとられて、残り一万円が自分のものになるというシステムを知っていましたが、東京の芸能プロに移ってからは、いくらなのか教えてもらっていません。ただ、一万円のギャラは大阪時代と変らなかったので、不満をいうこともないと思っていたのです」 「しかし、あなたは髪を染めて西洋人を装えと命じられているのだから、当然、ギャラのほうも高くなっているとは思わなかったのですか」 「それは少しは高くとっているはずと思っていましたが、いくらかまではわかりませんでした」 「コロンビア人と同じ程度のギャラをとっているとは思わなかったのですか」 「そういうことは考えないようにしていました。もし五万円以上もとっていることを知れば、不満が強くなって、やっていけなかったと思います」 「木山浩は、あなたが実際にはそれだけの手取りしかもらっていないことを知っていたのですか」 「彼は、コロンビア人のギャラを知っていましたし、劇場側がわたしをコロンビア人と同等にみていたこともあって、大いに誤解していたように思います。わたしが、もらってきたお金をどこかに隠しているのではないかと疑っていたようです」 「あなたは、自分が正式なギャラとしては一日一万円しかもらっていないことを正直に話さなかったのですか」 「話したことはありますが、ヒロシは頭から信じませんでした。信じてもらうには、自分の本当の姿を打ち明けねばならないので、あきらめていたのです」  シエラは、肩を落としてうなだれた。赤間は、そこで少し間合いをとってから質問の角度を変えた。 「髪を染めて別の人種を装うように強要されて働くことについて、被告人はどのように感じていたのですか」 「本当の血を隠して仕事をするのは、楽しいことではありませんでした。でも、その点ではわたしのほうにも責任があると思います」 「責任とは、どういうことですか?」  赤間が意外な思いで尋ねると、シエラはしばらく黙った。考えを整理するように宙の一画を見つめ、やがていった。 「わたしは、日本へ来て劇場で働くようになってから、同じ外国人のコロンビア人に嫉妬していました。彼女たちのほうが二倍もギャラが高いことを知っていたからです。舞台でやることは同じなのに、どうしてこんなに違うのか、と。髪の色だって、本当はわたしたちと同じなのにと……」 「そういう嫉妬の感情が、コロンビア人を装うように命じられたときに抵抗を弱めたということですか」 「あったと思います。わたしの曾祖父は、スペイン人です。コロンビア人もスペインとの混血、メスティーソです。どうしてわたしたちのほうが低いのか、いくら考えてもわかりませんでした。それに……」  不意に、シエラは言葉を切った。通訳人がそこまでを訳しにかかったが、そのために一呼吸置いたわけではなかった。彼女は、ためらっていた。赤間は、それを察知して、ほかに理由があるのかどうか、答えを強いるように尋ねた。  と、やがて思い切るように、シエラは続けた。 「劇場やプロダクションの人たちの中には、わたしたちのことを特殊な言葉で呼ぶ人がいたのです。フィリピンのピンを使ってつくられた呼び方なのですが、それがどれほどわたしたちをさげすむ言葉であるかは、日本へ来て間もなく知りました。コロンビア人に対してはそういうことはいわないのに、どうしてわたしたちにだけ、そういう侮辱的な言葉が口にされるのか、わからなかったのです。そんなことから、髪を染めて別の人種を装うことで、ある種の逃避というか、安らぎを覚えたこともありました」  通訳人が淡々と訳し終えると、法廷にかすかに溜息の気配が流れた。蔭山茂美が頬を濡らしているのが、弁護人席からはっきりと認められる。彼女たちはある部分で同じ悔しさを味わっているのだと、赤間は思った。 「しかし、そのことが同時に苦痛でもあったわけですね」 「はい。こんなことがわかれば、人からどんな扱いを受けるか、それに自分自身どれほど恥ずかしい思いをしなければならないか、考えるだけで身がすくむ思いでした」 「そういう思いが、木山浩に対しても作用して本当のことがいえなかったというわけですね」 「その通りです」  赤間は、そこで腕の時計を見た。予定の三時まであと十分あるが、区切りのいいところで今日のところは置くことにして、その旨を裁判官に告げた。  次回期日の調整が行なわれた。二週間後を裁判官はいってきたが、赤間はもう少し急ぎたかった。提案した十日後は裁判官が駄目で、結局十二日後の午前十時ということに決った。検察官は、もちろん本件の専任であるからいつでも了解である。 「次回はどのくらいかかる予定ですか」  と、裁判長が尋ねた。あらかじめ時間の配分を確認しておくのが通例である。 「午前中と午後の一時間程度いただきたいと思いますが」  赤間が答えると、裁判長はこんどは検察官に向い、午後の残り二時間余りで反対尋問が可能かどうか尋ねる。 「充分かと思います」  土川検察官が中腰になって答えた。  あと二回の公判、被告人質問の残りと論告・求刑および最終弁論期日で審理は終る。犯罪そのものに関しての次回第八回公判が、弁護側の正念場であった。     18  前半の被告人質問期日の三日後、岩上龍一のもとに拘置所から手紙が届いた。  彼宛ての手紙と、すでに家族への宛名を記したエア・メイルの入った一通であった。いずれにも、東京拘置所で検閲ずみを示す、桜マークの中に「東」の文字が入った検印が押されていた。  自分に宛てられた薄いエア・メイル便箋を、岩上は遅い昼食をとりながら読んだ。  親愛なるリューイチへ、からはじまって、いつも面会に来て差し入れてくれることを感謝していると書いた後で、家族への手紙をよろしく、とあった。  しばらく風邪をひいて仕事を休んでいるため、仕送りができないけれど許してほしい。いまはだいぶよくなって、日本の友人のところに世話になっていると書いたようだが、嘘であることは故国の家族にすぐにわかるだろう。弁護士がすでに海を渡って親族に会ってきていることは未だに知らされていなかった。  読み進むうち、ふと岩上の目を引く英文が飛びこんできた。ジューゴー(JEUGO)の文字が含まれた一文である。  赤間弁護士に何とか解き明かしてほしいといわれて、今日まで考え続けてきたけれど、ようやくそうではないかと思われる意味を見つけた。当っているかどうかは、もちろんわからない。いまは自信がないので、もう少し考えさせてほしい、とあるのだった。  受話器をとり上げ、赤間法律事務所の番号をダイアルした。  事務員の真崎和美が出た。いつもの親しみ深い調子で受け応え、いま弁護士にかわります、という。  ——それはよかった。明日あたり、さっそく行ってこよう。  赤間は、即座に決めた。その後で、こちらも報告することがある、という。前回公判の際に弁護側から請求していた蔭山茂美の指紋照合の結果について、  ——今朝、検察庁から連絡があってね。二個とも彼女の右手のものとピタリと一致したよ。中指と薬指の二個が生きていたんだ。 「感激しただろう、彼女」  ——もちろんだ。彼女の勝利がこちらにも波及するぞ。  赤間の声がいつになく興奮ぎみだ。一人の女の怨念が刃《やいば》に沁みついたまま消えることなく、ついに犯人を指し示したのである。  薄手のブルゾンを引っかけて、岩上は部屋を出た。  空が高い。きれぎれに浮んだ白い雲も晴れ渡った空の高みを強調している。まだ少し肌寒いが、四月に入って雪の気配はすっかり失せていた。  郵便局へ立ち寄り、エア・メイルを預けた。マニラなら四、五日で着くけれど、その他の地方はどれくらいかかるかわからない、と窓口の女はいった。  しばらくぶりにパチンコ屋に入った。  弾ける玉を見つめながら、シエラを匿《かくま》っていたころのことを思い出した。コロンビア人ともフィリピン人とも意識せず、ただの女——、何の衣もまとわない一人の女と暮していたころがなつかしい。実のところは込み入ったいくつもの衣をまとっていた、その事実が未だに信じられないような気持になる。  ふと、これまで思いもよらなかった一つの仮定を脳裏に描いてみた。かつて、プロ演奏家の夢がついえると同時に一人の女とも別れて以来、ちらとも考えたことのない非現実的な、かつロマンチックにすぎる仮定だった。やがて、現実に戻って、苦笑をこぼした。何の魂胆もなかったはずなのに、妙な未練をひきずっている。たとえこちらがどれほどの楽天家ぶりを発揮しようと、相手はこの国そのものと拘置所の壁のような隔たりをつくってしまっているだろう。それを越えてくることは、もうあり得ないのではないか、と岩上は思った。  赤間愛三は、岩上との電話を終えると、卓上のペーパー・ナイフを手に、パシリと自分の指をはたいた。その刃の部分にはくっきりと、鮮やかすぎるほどの渦が描かれていた。     19 「それでは、この前の続きを尋ねていきます」  赤間弁護人は、切り出した。第八回公判、午前十時二分過ぎである。  前回同様、シエラは陳述席に立ったまま、答えていく。六月の半ばに縒《より》を戻してから、浩はいい人になるとの約束を違えていくのだが、それが決定的になるのは、やはり七月に入ってからだった。以前は、暴力を振るっても、お金さえ与えればやさしくなったけれど、七月ごろからは、ただ脅してお金を巻き上げるだけになったこと、その際、警察や入管に密告して、彼女を逮捕させるといい、本当にダイアルするので、しかたなくいうことを聞いていたこと、などを引き出してから、赤間は肝心の問いに入った。 「先の白瀬由佳の証言によると、そのころ木山はすでに被告人がフィリピン人であることを知っていたということですが、そのことを示すような態度は見せなかったのですか」 「見せませんでした」 「あなたは、浩がそういう事実をその時期に知ったきっかけは何だと思いますか」 「わかりません」 「白瀬由佳の証言では、被告人が書いた手紙を密かに見たということですが?」 「そういうことがあったかもしれませんが、わたしは気がつきませんでした」 「あなたは、ふだん手紙は英語で書くのですか」 「英語やフィリピンの共通語であるタガログで書くこともありましたが、ふつうは自分たちの言語のセブアノで書いていました」 「セブアノで書くときもアルファベットを使うのですね」 「そうです。主にセブアノで書いても、英語やタガログを交えることがよくあります」 「その文字や宛先を見て、浩があなたの本当の国籍を知ることは充分に考えられますね」 「はい。もし手紙を見られたのだったら、コロンビア人のつかうスペイン語ではないことからして、すぐにわかってしまうと思います」  赤間は、慎重に問い進めた。 「すると、木山浩がその時期から、あなたに対する態度をますます悪質なものに変えていく、その理由がわかってくるのではありませんか?」 「何よりも、わたしがフィリピン人と知って態度を変えたのだと思います。わたしが出身国を偽って生きていることを知ったことによって……」  シエラの口調が不意に乱れを見せ、髪に覆われた横顔にこれまでにない動揺の気配が揺れた。赤間は、できるだけ口調をやわらげて続けた。 「あなたは、木山浩があなたの本当の国籍を知っていることに気づいていましたか」  シエラは、通訳人の言葉を聞くと、ためらうように間を置いて、 「ひょっとすると、知っているかもしれないと思ったことはあります」 「そう思った根拠は、どういうことですか」 「先ほどもいったように、わたしに対する態度がひどくなったことです」 「知っているかどうかは、確かめなかったのですか」 「確かめませんでした」 「どうしてですか」 「そうすることが恐かったからです」  赤間は、その点での質問は終りにして先へ進むことにした。  事件当夜——、被告人がのぞき部屋での仕事を終えてマンションへ帰ってきたところから、おのずと質問に熱が入った。もらってきた給料を見せろといわれ、三十二万円の中から十五万円を抜かれて愚痴をこぼしたことからはじまった口論。以前に浩がプレゼントしてくれた三万円を返した経緯。そして、帰るという浩を追いかけてすがりつき、突き飛ばされ、さらに殴りつけようとした浩に、やっぱり帰って、もう来ないでと叫ぶ。と、浩の顔色が変り、やおら背を向けて奥の部屋へ走ると、ショルダー・バッグの中からナイフを取り出し、引き返してくる、そして、倒れたままの彼女にのしかかり、ナイフを頬に押し当てる。そこまでを順に辿った後で——、 「浩は、それからナイフをどうしたのですか」 「トレーナーのおヘソのあたりから上へ突き上げるように切ったのです」 「布を切ったのですか?」 「はい。アンダーシャツも一緒に切りました。それから、だんだん上へナイフを押し上げて、首のすぐそばまで来たので殺されると思って必死に突き飛ばしたのです」  赤間は、その脅しの手口をくり返し確認した。ナイフを徐々に上へ移動させ、その間、恐怖に震える彼女を見つめて薄く笑っていたこと、ブラジャーも切られたこと、襟首近くまで切られた、その瞬間に相手を突き飛ばしたこと。そして——、 「立ち上って逃げたのですが、ヒロシはすぐに追いかけてきて、わたしを台所の冷蔵庫のところへ追いこみました」 「そのとき、ナイフはどうしていましたか?」 「やはり顔に近づけて、いまにも切りつけるようなそぶりをしました」 「ナイフを持たないほうの手は、どうしていたのですか」 「トレーナーの襟をつかんで、首を締めつけていました」 「どのくらいの力で締めたのですか」 「つよい力でした。ぐいぐいと絞り上げるように……」 「そうやって首を締めながら、ナイフを頬に押し当てたのですね」 「そうです」 「そのとき、あなたはどういう気持になったのですか」  シエラは、一つ大きく息をつくと、堰《せき》を切ったように続けた。 「本当に殺されてしまうと思いました。恐ろしくて顔をそむけた瞬間、そばのマナ板の上にある果物ナイフが目に入ったのです。わたしは、われを失いました。懸命に手を伸ばして、その果物ナイフをつかむと……」  なおも話そうとするシエラを、赤間はいったん制止した。殺害の前後は、克明に描き出さねばならない。通訳人が日本語にした後で、 「あなたが果物ナイフをつかんだとき、浩はどの位置にいたのですか」 「すぐ目の前です」 「浩は自分のナイフをどうしていたのですか」 「よく見えませんでした。わたしは、果物ナイフをつかむと夢中で突いたのです」 「相手を殺してやろう、という気持は起こらなかったのですか」 「殺してやりたい、と思った憶《おぼ》えはありません。ただ、これまでのいろんなことが頭にあふれて、自分を見失ったと思います」 「ただ夢中でナイフを突き立てたのであって、殺してやろうとは思わなかったのですね」 「はい」  赤間は、そこで陳述席へ近づいていった。証拠物として裁判所に提出されている果物ナイフを手に、その瞬間の体勢について問い続ける。 「あなたは、どちらの手でこのナイフを手にしたのですか」 「左手です」 「どういうふうに握ったのですか」  陳述台をマナ板に見立て、彼女の指示どおり刃先を手前に向けて置くと、赤間は実際にナイフを握ってみせた。木製の柄の部分を鷲《わし》づかみにし、そのまま引き寄せる。そして、相手へ身体ごとぶつかるように突き立てる。 「相手の心臓をめがけて突いたのですか」 「いいえ。目をつぶって突きました」 「それが、相手の右胸の中央付近から心臓を貫いたわけですが、起訴状にあるような、心臓をめがけて突き立てたということはないんですね」 「とくにどこを狙ったということはありません」 「あなたの利き腕は、どちらですか?」 「右利きです」 「右利きだけれども、右手ではナイフは取れなかったのですね」 「そうです」  これには充分な根拠があった。実況見分調書にある台所の見取図、冷蔵庫と流しの位置から、いち早くナイフを手にするためには左手でないと無理であるし、また、ナイフの柄からは、親指を除く四指すべての指紋が採取されている。 「利き腕ではない左手で、しかも目をつぶって必死にナイフを突き立てたということですね」 「はい」 「突いたのは、一度だけですか」 「そうです」 「もう一度、突こうという考えは起こらなかったのですか」 「起こりません。一度で、ヒロシは自分のナイフを落としてしまったので、それ以上刺す必要はありませんでした」 「というと、浩が危害を加える危険がなくなりさえすれば、それ以上の攻撃を加えるつもりはなかったということですか」 「はい」 「ひと突きして、相手がナイフを落としてあなたから離れるとき、果物ナイフは手から離さなかったのですね」 「そうです」 「握りしめたままでいると、胸から抜けたのですか」 「はい」  だが、彼女はすぐにナイフを放り捨てる。そして、血を流しながら隣の部屋へ歩いていった浩が膝をついて倒れる場面を目撃すると、あわてて駆け寄っていく。上体を抱き起こし、ごめんなさい、をくり返す。揺すりながら何度も声をかける彼女に、浩がいった言葉�ジューゴー�について、赤間は尋ねていった。 「被害者の息が絶えだえであったために、そのようにしか聞こえなかったのですね」 「はい」 「それがどういう意味か、被告人はわかったのですか」 「いくら考えてもわかりませんでした。けれども、最近になって、思いついたことがあります。ジューゴーは、ユーゴーではなかったか、と」 「といいますと?」 「ユー・ゴー、つまり、逃げなさい、という意味です」 「ということは、被害者の浩は自分の死を予測して、あなたが捕まらないで逃げることを望んだのでしょうか」 「わかりません。そうではなかったかと思うだけです」  いって、シエラは目を伏せた。この前は、拘置所で、きっとそう、と確信ありげにいったのだったが、まだ揺れているのだろう。  赤間は、問い続けた。狼狽し、古塚社長に助けを求めて電話をかける。そして、やって来た社長に、浩がどうなっているか見てきてほしいと頼んだことを確かめる。犯行後の状況としては、ここが肝心な点だった。 「あなたは、浩が死んでいるかどうかわからないから、古塚社長に見てもらったといいましたね」 「はい」 「ということは、まだひょっとしたら生きているかもしれないと思っていたのですか」 「もう駄目だとは思っていました。けれども生きていてほしい、と祈っていました」 「それは、殺すつもりなどなかったのに、という思いからであると考えていいでしょうか」 「異議があります」  検察官の土川が立った。それまでは一度も介入せずにいたのだが、たまりかねたように裁判長に告げる。 「弁護人は、故意に被告人を誘導する質問をしております」  裁判長は、視線を弁護側に移して、 「弁護人は、質問のしかたを変えてください」  と、型通りにいった。法廷の壁時計がやがて十二時を指そうとしている。赤間は、彼女に殺意がなかったことをもう一度確認してから午前中の尋問を終えた。  午後の審理は、一時五分過ぎにはじまった。  古塚社長の冷淡な態度にあい、一人残された彼女は、今度こそ誰も頼りにできないことを思い知る。社長が帰ったのが六時ごろ、彼女が部屋を出ていくのが十時過ぎ、その四時間余りの間、何をしていたのか。 「ながいことヒロシのそばでぼんやりしていました。警察に行こうか、それとも逃げようかと迷いながら」 「その後、浩の胸や床の血糊を拭ったりもしていますね」 「はい」 「浩を刺した後、床に放り投げた果物ナイフはどうしたのですか」 「拾い上げて、自分の首を刺そうとしましたが、できなくて、台所の流しへ投げ捨てました」 「指紋を拭きとろうとしたり、刃についた血を拭ったりはしなかったのですか」 「していません」  赤間は、そこでしっかりとうなずいてみせると、もう一点の重要な質問に移った。 「浩を刺した直後にその手から落ちたナイフはどうしたのですか」 「テーブルの下に落ちたままにしていましたが、逃げると決めて、床から拾い上げ、倒れたヒロシの手に握らせておきました」 「どうしてそんなことをしたのですか?」 「わたしは、ヒロシを殺してしまってから、悪いことをしたと謝る気持と、一方で、悪いのはあなたなのといいたい気持がありました。あなたがこんなふうに脅すから、こんなことになってしまったのと、訴えたい気持でいっぱいだったのです。だから、逃げる前に、いつか捕まって裁判にかけられることになれば、そのことを主張したくて、そういうことをしたのです」 「その際、ナイフに自分の指紋をつけてしまうことまでは注意がいかなかったのですね」 「はい。そのことから疑いを持たれることになるとは、考えてもみませんでした」  そして、まず上野へ行き、そこから、男の人が倒れているとの一一〇番をかけた。その理由について、シエラはいう。 「わたしが黙っていると、何日も発見されないと思ったからです。早く見つけられて葬られるようにという気持からです」  赤間がふた呼吸ほど言葉を途切らせると、裁判長が割って入った。 「逃走中は、どういうことを考えていたのですか」 「自分の犯した罪に対する懺悔《ざんげ》と、それから国の家族のことを思っておりました」 「国の坊やは、いくつになるの?」 「六歳になりました」 「いまは、誰が面倒を見ているのですか」 「祖母です。弟や妹たちも見てくれていると思います」  裁判長は、納得したようすでうなずくと、介入尋問をやめた。  だが、ここまで来ると、赤間にも聞くべきことはあまり残っていなかった。 「あなたは、木山浩との沖縄旅行の写真を台所のテーブルの上で燃やしていますね」 「はい。社長が帰った後、灰皿の中で燃やしました」 「それは、どうしてですか」 「自分はいま、ヒロシが死んでしまっても生きているのに、どうして別れて一人になることができなかったのか、腹立たしくてそんなことをしたのだと思います」 「一枚だけ残して持ち歩いていたのは、どうしてですか」 「よくわかりません」 「終ります」  赤間は、着席した。額にじっとりと汗が滲んでいることに、そのときはじめて気がついた。  ひき続き、土川検察官が反対尋問に立った。やや重たげに腰を浮かし、上体を伸ばすようにして息をつく。色白の丸顔がどことなく蒼く、追いつめられた思いを隠しがたく表わしていた。 「被告人は、取り調べ段階では、被害者にナイフで脅されたということはいっていないんじゃありませんか」 「いいました。ただ、信じてもらえなかったのです」 「それは、あなたが納得のいくような説明ができなかったからではないのですか」 「そのときのわたしは、気持がとても動揺していて、詳しく思い出せなかったことはあるかもしれません。それに、ヒロシが手にしていたナイフを後で拾って、もとのように握らせておいたことが理解されなかったようです」 「どうしてそんなことをしたのかという先ほどの弁護人の問いに、あなたは自分に都合のいいように答えていますが、本当はそうではないんじゃありませんか」 「わたしは、嘘はついていません」 「あなたは、浩がそういうナイフをショルダー・バッグの中に持っていることを知っていて、脅されてもいないのに作為的に話をつくり上げようとしたんじゃないんですか」 「そんなことはありません。服を切られて脅されたことは、以前、古塚社長が証言してくれたことで信じてもらえるはずです」 「いまは社長の証言など問題にしているんじゃありません。その証言をも含めて作為的なものがある可能性だってあるんですから」  検察官は、疑いをこめていうと、しだいに口調を厳しくした。 「ところで刃渡り十二・二センチの果物ナイフが、胸に十一・五センチほども入っているということは、相当に強い力で刺したと考えていいと思いますが、どうですか」 「どうしてそんな力が出せたのかわかりません」 「殺してやるという強い意思がないと、そんな力は出せないのではないですか」 「殺してやると思った憶えはありません」  検察官は、不審げに首をかしげてみせてから質問を変えた。 「あなたは、浩を刺した後、どうして病院へ運ばなかったのですか」 「あまりに動揺していて、冷静な考えが持てなかったのです」 「救急車を呼ぼうという気持すら起こらなかったのですか」 「わたしは、ヒロシがジューゴーと口にしなくなってから、恐ろしいことをしてしまったと後悔ばかりして、そういう気持の余裕がありませんでした」 「被害者が倒れて血を流していても、あなたは病院へ運んだり、手当てをしたりする気持を起こさなかった。それはつまり、あなたには浩を殺害する意思があったと取らざるを得ないんですが?」 「違います。電話をかけると飛んできてくれる車のあることは、後になって知りました。もし知っていれば、古塚社長に助けを求める前にその車を呼んでいたと思います」 「殺害の瞬間についてですが、心臓の近くを刺せば死ぬかもしれないくらいのことはわかっていますね」  土川勇は、検事の面子《メンツ》にかけて執拗に問いを重ねた。少なくとも、�未必《みひつ》の故意�があったことを主張するつもりのようだ。  ややあって、シエラはいった。 「ヒロシが死ぬ死なないについては、まったく考えませんでした」 「しかし、ナイフを相手の心臓に向って突き立てたということは、場合によっては死んでもかまわないと思って刺したんでしょう?」 「いいえ、そんなつもりはありません」 「しかし、心臓の近くを刺せば死ぬかもしれないと思うのは当り前じゃないですか」 「………」  検察官の追及に、シエラが疲れた面持ちでうなだれた。根気よく反論していく力をなくしてしまったのか。赤間は、弁護人席で不安になってきた。 「もう顔も見たくない気持になったと、あなたは取り調べ検察官の前でいっていますが、つまりは相手の死まで予測した上での行為だったと解釈せざるを得ないんですが」  土川検察官はいい、沈黙したままのシエラを見つめて充分な間合いをとる。 「あなたは、本当にナイフで脅されたのですか?」 「衣服を切られて脅されました」 「もしかりにそういうふうに脅されたとしても、殺害の直前はどうだったか。つまり、被害者があなたを冷蔵庫の扉のところへ押しつけていったときは、あなたが衣服を切られた後のことですね」 「そうです」 「であれば、あなたが衣服を切られたからといって、その脅しがかならずしも殺害のときまで継続していたとはかぎらない。そうでしょう」 「どういうことか、よくわかりません」 「つまり、被害者が冷蔵庫のところであなたと揉《も》み合っていたときは、被害者の手にナイフは握られていなかったのではありませんか?」 「いいえ、それは手にしたままでした。わたしの顔に刃を押しつけてきて、顔をそむけた瞬間にマナ板の上の果物ナイフが見えたのです」 「それは、あなたにとって都合のいい、つくり話ではないのですか」 「本当のことです」  こんどは、検察官が言葉をとぎらせた。険しい顔つきでテーブルの上のメモに視線を注ぐと、改めて切りこんでいった。 「あなたは、どうして逃げたのですか?」 「国の家族に事件のことを知られたくなかったことと、送金を続けるためでした」 「最後は、偽造パスポートまでつくって逃走をはかっていますね」  検察官が畳みかけた。シエラは、無言で首を縦にする。 「偽造パスポートをつくること自体が犯罪であることは知っていますね」 「はい」 「あと一歩のところで逃走に失敗するわけですが、逮捕されてからも、あなたは姓名、国籍等について捜査官をあざむきましたね」 「はい」 「どうしてそういう嘘を並べたてたのですか」 「やはり、国の家族に自分のことが伝わるのを恐れたからです」  シエラは、萎縮して小さくいった。  これについては案外単純な理由だったと、弁護人席の赤間は思う。もっともそういう嘘偽りを述べて捜査官をあざむくことを可能にした背景は、それ以前にあすなろ芸能や劇場関係者によって形成されていたわけだが。  土川検察官が質問を変えた。 「あなたは逃走中、何をしていたのですか?」 「………」 「先ほど、逃走したのは家族への仕送りを続けるためであったといいましたが、では、そのお金はどうやって稼いでいたのですか」 「それまでの仕事と変らないことです」 「というと?」 「街に立って、客を探しておりました」  つぶやくように、シエラはいった。 「つまり、売春行為をしていたのですね」 「はい」 「被害者の死体を放置して逃走したことといい、お金を稼ぐために違法な売春行為に走ったことといい、偽造パスポートをつくって逃走寸前までいったことといい」  検察官は、きびしい非難の口調で続けた。「被告人の行動は、自己の行為を反省したり悔いたりするものではなく、あまりに利己的に過ぎると思うのです。そういうエゴからして、本件殺害に関する当法廷でのあなたの供述も多分に自己本位的なところがあるように思うのですが、どうでしょうか」 「嘘はいっていませんが、自分はエゴイストだったと思います」  シエラは、素直に返した。  土川検察官は、テーブルに視線を落としてしばらく黙っていた。予定の尋問は一応すませたようである。いくぶん口調をやわらげて、 「被告人が最終的に被害者と別れられなかった理由は、警察への密告を恐れたからでしょうか?」 「それもあります」 「ほかには、どんな理由からですか」  通訳人がシエラの答えを聞きとった。それまで淡々と機械的に訳していたアメリカ人女性は、そのときめずらしく感情をこめて日本語に変えた。 「ヒロシにどんな目にあっても、この国でひとりぼっちになるよりはいいと思ったからです」  検察官は、意をくじかれたように黙り、数瞬の後、 「終ります」  と、告げた。  かわって、裁判長が被告人に向い、 「最後に、一つだけ確認させてください」  と、いった。それは殺害のときについてだと前置きしてから、 「被害者の木山浩は、被告人の襟首を締めつけながらナイフで脅したということですが、浩はどちらの手でナイフを握っていたのですか」  不意の問いに、シエラは返答に窮した。記憶を呼び戻そうとするようにしばらく宙をにらんでから、ようやくいった。 「右手だったと思います」 「右手でナイフを握り、左手で襟首を締めつけたのですか」 「そうだったと思います」 「木山浩の利き腕はどちらでしたか」  シエラが再び黙った。眉根を寄せて首を傾け、やや苦しげに息をついてから、 「よく覚えていません。というのは、彼は字を書くときは右で、お箸などを持つときは左というふうに、まちまちだったからです」  裁判長は、かすかに笑みを浮べて、 「よく思い出してください。自信を持って、右手であったといい切れるのですか」  赤間には、裁判長の意図がわからなかった。浩が左右どちらの手にハンティング・ナイフを握っていたか、殺害前後の状況においても、そんなことは重要な問題ではないはずだが……。 「やはり、右手だったと思います」  短い沈黙の後で、シエラはいった。 「間違いないですね」 「はい」  答えたシエラに、裁判長は小さくうなずいてみせた。  赤間は、とくに不安を感じなかった。検察官の土川のようすもごく平静であるし、二人の陪席裁判官も表情を変えていない。大丈夫、たいしたことではない。ハンティング・ナイフからは、浩の左右両方の手の指紋が検出されているのだ。 「では、次回期日はどうされますか」  裁判長が弁護側へ顔を振り向けた。次回は、検察側の論告・求刑および弁護側の最終弁論である。十三日後の午前と午後をまるまるあて、一日ですませることを取り決めると、裁判長は淡々とした調子でその日の審理の終了を告げた。     20  検察官の論告は、弁護人の主張しようとする正当防衛に対して、強い反駁《はんばく》を示すものとなった。  起訴状や冒頭陳述にそった内容を処罰されるべき理由として挙げながら、土川検事は通訳人のために適当に段落を入れながら朗読する。問題とされるハンティング・ナイフと犯行時の状況について述べるくだりになると、それまでの平板な口調に熱をこめた。  ……たとえ木山浩がナイフで女性を脅す性向を内在させていたとしても、そして、実際に被告人の衣服を裂くという行為を行なったとしても、そのことが直ちに殺害のときにおける脅迫の証明にはなり得ない。しかも、被告人が犯行後に、みずからナイフを手にして被害者の右手に握らせておいたという事実の意味するものは重要である。すなわち、|殺害の直前は被害者にナイフで脅されていないにもかかわらず《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》、|あたかもそのように見せかけ主張したいがための作為《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》であったと考えざるを得ない。  検察官はさらに、被告人質問における反対尋問で行なった問答をもとに、逃走行為、偽造旅券作成、国籍および姓名の偽称など、あれこれと見ていくと、とうていその公判供述は信用のおけないものであり、取り調べ段階における供述こそ、作為のない、より新鮮な記憶をもとにした心情が表われていると主張し、被告人の自己中心主義をきびしく非難した。  そして、求刑は——、 「懲役六年に処するを相当と思料する」  そう結んで、検察官は腰をおろした。  弁護側の最終弁論は、昼休みをはさんで行なわれた。やはり通訳人を介すため、段落ごとに区切って進められ、その要旨は終始無罪の主張で貫かれていた。  シエラ・A・ラウロンの公判供述には前後の矛盾がなく、かつ、弁護人が無罪を主張しているにもかかわらず罪を逃れようとの態度が見られないことからも、その供述は充分に信用できるものであること。警察および検察庁における取り調べは通訳をつけずに行なわれており、その信用性は当法廷での供述に比して低いこと。それら検察側と真っ向から対立する主張を前提として述べた後で、赤間弁護人は本題に入っていった。  ……被告人は、フィリピン国セブ島セブ市に、一九六一年八月十日、母ルース・アルゲリアス、父エドウィン・ラウロンの長女として生まれ、当地のハイスクールを卒業し、さらに看護婦養成専門学校に看護婦をめざして入学するころまでは比較的幸せな環境の下で生活していた。ところが、一九八〇年十月、母親を熱帯の流行病で喪《うしな》い、生活がにわかに苦しくなったことから、それまで通っていた看護専門学校をやめるのやむなきに至り、以来五人の弟妹、病気がちで仕事のない父親、祖母の一家全員を支えるために、昼間は薬局店員、夜はセブ市のディスコ・クラブでダンサーとして働いた。やがて、より収入のよい仕事を求めて首都マニラへ出、ナイトクラブでホステスなどをしながら家族への仕送りを続けていた。マニラで暮すうち、フィリピン男性と恋愛し子供をもうけたが、正式な夫ではない上に収入の乏しい子供の父親には頼れず、生活はいっそう苦しくなった。そんな折りも折り……。  来日の動機や出入国状況を描いた後は、舞台を日本へ移し、これまで何度も確認してきた事実を逐一辿っていく。そして、最大の焦点である殺害のときへと、弁論書の朗読は続いた。  ……被告人の行為は、一見、男女の痴話喧嘩に端を発しているかに見えるが、実のところ、そうではない。被告人がわが国において経験した事柄を見れば、いかに悲惨な現実に身を置いていたかは明らかであり、たとえば綿谷四郎の証言——、月百五十万円余りの収益中三十万円の手取りしかなかった事実に見られるように、社会的には芸能プロから、また個人的には木山浩から、いわば二重の搾取を受けていたという背景なくしては考えられない。経済的な面のみならず、あすなろ芸能の策略によって精神的な強制と圧迫を加えられ、その咎められるべき事実、すなわち不法残留や資格外活動には相当しない理不尽な仕打ちを受けてきたことは、看過できない最大の情状である。その意味では、被告人は先進国を自認するわが社会の裏面における被害者というべきであって、以下に述べる殺害の状況を鑑みれば、被告人に対する科罰性はないものと判断されるべきである。……  赤間は、あらかじめ弁論書のコピーを手渡されている通訳人が英語に訳すのを待つ間、やや高ぶった息を整えた。二人の関係の曲折を被害者の態度の変遷に照らして辿り、犯行時までを克明に描いた後は、その解釈であった。  検察官は、神奈川県下における連続通り魔暴行傷害事件が木山浩の犯行と結論づけられた事実を軽視しすぎている。前後に矛盾がない被告人の供述に照らせば、|殺害の瞬間まで浩の被告人に対する脅迫は連続していた《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》と見るのが自然であって、殺害時のみ浩がナイフを手離していたとは考えにくい。被告人の当法廷における供述こそ、その詳細かつ矛盾のなさから信用されるべきものであって、唯一、検察側が疑惑をもつ、ナイフを被害者の手に戻しておいた行為についても、被告人の心情、すなわち脅迫の事実を後々主張したいがゆえであったとの供述は充分に納得のいくものである。  また、本件殺害行為における注目すべき点は、果物ナイフによる「ひと突き」であったという事実にある。それは、果物ナイフが日常的に使用するものであり、計画的な凶器の準備を窺わせるものではないことに加えて、もし殺害意思があれば、ひと突きではなし遂げられないとして何度も突き刺すという行為が見られるはずである。しかるに、被告人はそうした残忍性をいささかも見せておらず、直ちにナイフを放り捨て、倒れた被害者にかけ寄って謝罪の言葉を口にしているのである。被告人がその意思に反して浩を刺殺してしまったのは、そのときたまたまマナ板の上に果物ナイフが放り出されていたという偶然性にもよるのであって、検察側が主張する右胸部をめがけて突き刺したというようなことはあり得ない。  しかも、被告人は右利きであり、左手に握ったナイフをちょうど心臓を貫くような角度で刺すということは、偶然でなければ考えられないのである。  要するに、被告人の行為は、突然浩がナイフを持ち出して被告人の衣服を切り裂き、逃げようとする被告人を追いかけて捕まえ、冷蔵庫のドアへ押しつけナイフを頬に押し当てるという、恐るべき急迫不正の侵害に対して、とっさにみずからの身を守ろうとしたにすぎない。必要、かつ相当の防衛行為であって、ナイフによる侵害に対し、ナイフでもって防衛する意思および行為が生じたとしてもやむを得ないというべきである。しかも、ひと突きであったことは、残忍性がないことの証明であると同時に、真に正当防衛であることを裏づけているのである。  それはまた、犯行後の被告人の心理状態および行動からも充分に立証できる。すなわち、被告人は……。  逃走もまた保身のためのやむにやまれぬ行為であったことを、赤間はその屈折した心情を描きながら力説する。逃走後まもなく、被告人は一一〇番をして犯行現場を報告していること、および重大な物証である凶器を現場に残していったことは、被告人の心情を知る上に重要である。つまり、被告人には自身の罪を抹殺しようとの意思がなく、大いに罪を感じながら逃げたのであって、この点、検察側の自己中心主義という主張は必ずしも当らない。  最後の総論では、被告人の日本における孤独の深さについて述べた。  被告人が日本で受けた数々の仕打ちは、通常考えられる隔たり、つまり異国の中で当然受け入れるべき異文化といったものではなかった。すなわち強制的に髪を染め西洋人を装わされたときから、被告人は依って立つべき自身の誇りを失ったのである。同国人の踊り子たちからも孤立し、淋しさをつのらせ、国籍偽称の発覚を恐れて誰にも真相を打ち明けることのできない、苦しい不安定な状況に追いこまれていた。そのように被告人を追いつめていった原因の多くがわが日本社会にあったという事実は、本件を扱う裁判所に大いに考慮されるべきであり、いずれにしても被告人に対しては無罪の判決をもって臨むべき事案であると思料する。以上。  赤間が朗読を終えて腰をおろすと、裁判長は被告人を陳述席に呼び寄せていった。 「これで審理を終りますが、被告人は最後に何かいっておきたいことがありますか?」  シエラは、視線を落として考えこむようすを見せたが、やがて顔を上げ、真っ直ぐに壇上をみつめた。喋りはじめた声は、つぶやくような、それでいてきびきびした響きがあった。 「子供のころから、日本はわたしにとって憧れの国でした。けれども、こんな仕事をするために来ることになろうとは、夢にも思いませんでした。劇場の仕事をしている間、自分はきっと悪い夢を見ているのだといい聞かせてきました。これは夢なのだから、目が覚めると故郷のベッドで眠っているにちがいないと、いい聞かせてきたのです。いま、わたしにわかることは、そういうふうに自分自身を偽って生きてきたことが、こんな事件を起こしてしまったいちばんの原因だということです」  通訳人がそのように訳した後で、再びシエラは続けた。 「けれども、一つだけ、感謝したいことがあります。こんな事件を起こしてしまってはじめて、わたしは、この国にもフィリピン人を低く見ない、暖かい人がたくさんいることを知りました。裁判を受けている間も、日本へ来てはじめて、日本人と同じように、一人の人間として扱われていると感じてきました。これからは、自分のおかした罪を神に祈り、謝罪するつもりです。……本当に申し訳ないことをしてしまいました」  通訳人の最後の言葉を聞くと、裁判長はかすかにうなずいてみせた。そして、すべての審理の終りを告げた。あとは一ヶ月後に定められた判決の日を待つばかりとなったのである。  シエラは、みずから両手をそろえて女性刑務官の前へ差し出し、手錠を受けた。静かに前方をみつめる眼差しには、かつてのうつろさがなく、意志的な光に満ちている。裁判もいよいよ終りにきて、精神的に相当な変化をとげていることを窺わせる表情であった。     21  五月も末のその日、かわいた風が快晴の空を渡る朝——、赤間愛三は自宅から直接霞ヶ関へ向った。判決言い渡しは、午前十時に行なわれる。少し急いで、五分前、裁判官を除く全員の揃った法廷へ入った。  傍聴席の最前列には被害者の親族関係が四人ばかり顔を揃えていた。奥の隅には岩上龍一と綿谷四郎、それに折よく東京に戻ってきたあい渚の姿もある。蔭山茂美も仕事を休んで駆けつけていた。  およその視線が、手錠を解かれて腰をおろしている被告人に注がれていた。ゆったりした紺のスラックスに、グリーンが基調のセーターはごく薄手のもので、その春らしい色彩が廷内によく映えた。顔は上気したような赤みを帯び、素顔だがはじめて会ったときの乾いた黄土色のような肌とは比較にならなかった。新しい本当の髪が伸びたため、頭頂部にとくに光沢のある黒髪は、ひっつめ束ねてポニーテイルふうにし、その彫り深い顔立ちをくっきりと見せていた。  裁判長と二人の陪席が入廷した。判決公判はとりわけきっかりとはじまるのが常で、その日も時報のように正確だった。 「被告人は前へ——」  岸辺裁判長が命じた。通訳人が即座に英語にすると、シエラは立ち上った。陳述席へ、五歩六歩、そして身体の向きを変えた。雛壇を見上げる。 「シエラ・ラウロンですね」 「はい」 「あなたの殺人被告事件について、これから判決を言い渡します」  裁判長は、被告人を見つめてそういうと、手元の判決書に視線を落とした。 「主文——。被告人を懲役三年に処する。  但し、この判決いい渡しの日から五年間、右刑の執行を猶予する」  シエラは、通訳人の声を聞いた瞬間、震えるように上体を揺らして瞼を閉じた。  傍聴席の被害者の親族関係者の間に判決を非難するざわめきが起こった。が、やがておさまって、裁判長の「理由」の朗読がはじまった。  判決要旨は、大筋で弁護側の主張を認めながら、唯一、殺害時について、つまり、被害者にナイフで脅され首を締められたという場面について、裁判所独自の判断を示すものとなった。  ……鑑定書によると、ハンティング・ナイフから採取可能であった被害者の指紋は、左手のものが七個(親指二個、人差指一個、中指一個、薬指一個、小指二個)そして、右手のものが四個(親指を除く四指それぞれ一個ずつ)の計十一個であったことが明らかである。これをつぶさに観察すれば、一見、左右いずれの指紋もついているために問題なきがごとく見えるものの、……。  赤間は、耳を澄まして裁判長の朗読に聞き入った。やはり、何かあったのか。  問題は、左右の指紋が付着した順序にある、と裁判長は続けた。……ナイフの柄についた右手の四個の指紋には、いずれにも血が付着していた旨の付言がある。これは裁判所がナイフの柄の部分を観察して再度確認したのであるが、この血染めの指紋の意味するものは重要である。すなわち、被告人は、被害者が右手でハンティング・ナイフをもって脅しつけたと主張するけれども、もしそうであるなら、刺される以前の、つまり血のつかない右手の指紋が採取されるべきであるのに、そのような指紋は発見されていない。ほかはすべて左手の指紋であって、右手の四指はその上に|かぶさる形で《ヽヽヽヽヽヽ》付着しているのである。このことは、被害者が右手で血の溢《あふ》れる胸をかばいながら倒れた後、その血のついた右手に被告人がナイフを握らせたことを明快に語っている。  当法廷における被告人の右の点に関する供述には、重大な疑問がある。すなわち、殺害直前の場面でも被害者がナイフを手にしていたという点については、被告人の供述は信用できない。  一方、被告人が被害者によってナイフで脅され衣服を裂かれたことについては、古塚、蔭山両証人の証言ならびに連続通り魔暴行傷害事件が被害者の犯行であることが神奈川県警の再捜査で明らかにされたことから信ずるに足るものであり、当時、侵害行為があった事実は認めることができる。しかしながら、そのときと被害者がナイフをもって被告人を脅していたという殺害行為時との時間的連続性については、弁護人の主張によれば矛盾がないように見えるものの、以上に述べたようなナイフに付着している指紋という明白な物的証拠によれば、やはり被告人の供述はにわかに措信《そしん》できないといわざるを得ない。……  赤間は、呆然とした。裁判長の発見は、弁護側の油断と不完全さを鋭く突いていた。ナイフの刃の部分に付着した二個の指紋。その謎の解明に骨身を砕き、ついに真相に辿《たど》りついた、その喜びに浮かれて、まさかもう一つ、同じく指紋についての重要な問題が隠されていようとは考えてもみなかった。シエラが果物ナイフをどちらの手で握ったかの重要性ばかりに気をとられて、被害者がナイフを左右どちらの手に握っていたかにまでは注意がおよばなかったのだ。  それにしても、と赤間は思う。裁判長の最後の補充質問に対するシエラの答えは、やはり彼女の思い違いだったのではないか。ナイフを握らせておいたのが浩の右手であったがために、彼女の記憶に狂いが生じたのではなかったか。その可能性があることは裁判長にもわかっていて、だから慎重に念を押すように尋ねたのだろう。  無罪をいま一歩のところで逸した、その悔いが残った。指紋というのは、|人の特定のために《ヽヽヽヽヽヽヽヽ》証拠とされるものとの観念から脱することができなかったのだ。ナイフを握らせた指に血がついていたというような特別な状況の下では、刺殺前後の|時間的隔たりを明らかにする《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》証拠にもなり得るとは……。  裁判長は、補足的に、採取された指紋のうち、血の付着していない被害者の指紋がすべて左手のものであったことから被害者は左が利き腕であったと思われる旨を述べ、であれば、右手の指紋がつきにくいことは自然にうなずけるとして、右手の血染めの指紋の意味するところを補強したのである。そして結論として、相手の心臓に向けてナイフを突き立てるまでの必要性があったかどうか、すなわち、ナイフを所持せずに行なわれたと認めざるを得ない侵害行為に対して、心臓付近を刺すというのが客観的な相当性を有するかどうかは疑問であり、正当防衛が成立すると判断するわけにはいかない、とされた。被告人の過剰防衛、とみなされたのである。  赤間はしかし、いさぎよく脱帽することにした。裁判長の洞察。ほんのささいな気配りと発見。それをまっとうするのは意外にむずかしいことを思い知らされたのである。万全の詰めを怠ったがゆえに、そこを巧みにつき、正当防衛の主張を崩した裁判長の目が一段高かったというべきだろう。評価すべきは、左右のとり違えのみをもって侵害行為のあるなしが判断されたわけではないことだ。もしそうであるなら、衣服が切り裂かれた際も左右どちらであったかを問題にし、その事実まで疑わなければならなくなる。「信用するに足る」あるいは「にわかに措信できない」と表現されているのは、従って指紋証拠以外の証言や供述とのバランスが考慮されてのことだった。結局は、密室における事件の限界を突き破ることができなかったといえるのかもしれない。  ただ、その他の彼女の供述については、実況見分や検死結果に照らしてもほぼ信用するに足るとし、事件の背景にも充分な理解と同情を示し、最大限の情状が酌量されたのが救いであった。  検察官は、弁護人以上に納得のいかない判決であったにちがいない。が、土川検事も裁判官が判決ではじめて述べた指紋の証拠には驚いているようであった。論告では、侵害行為の時間的連続性についての疑問を呈しただけで、その理由づけをするには至っていなかったのだ。裁判長によって無罪という検察にとっての最悪のケースをかろうじて免れたともいえるのである。これが日本人の事件であれば、控訴ということも考えられるけれど、そこまですることはないだろう。  朗読を終えると、岸辺裁判長は被告人に向って穏やかに話しかけた。 「あなたが日本で経験したことは、非常につらいものだったということはわかります。しかし、いっておきたいのは、あなたの経験した日本がこの国のすべてではないということです。あなたは、故国での生活の苦しさから逃れることのみを目的としてこの国に来たために、思いがけない落し穴、つまり、日本の冷酷な部分に利用され陥れられてしまったのです。その意味では、あなたにも落ち度がある。そのことをよく考えて、これからの人生を生きてください」  噛んで含めるように、いいですね、と裁判長はいった。通訳人がそれを英語に訳すと、シエラは、はい、とはじめて日本語で答えて頭を垂れた。  日本人ならここで自由の身になれるところだが、彼女の場合はそうはいかなかった。いったん拘置所へ戻り、身の回りを整理した後は、入管の車が出迎えているはずである。懲役三年にして執行猶予をつけた裁判所の判断とはまったく別の法が、こんどは法務省入国管理局によって行使されるのだ。不法残留ほか、出入国管理及び難民認定法違反容疑により、日本から追放されることになる。  横浜入国者収容所——。  そこが、強制送還までの仮の宿であった。     22  一向に届かなかったシエラの故国からの手紙が、六月も半ばを過ぎて、ようやく岩上龍一のもとに配達されてきた。それを目にしたとき、なぜか、やっと彼女がフィリピン人であることを確認できたような、不思議な思いにとらわれたものだ。  次の日、さっそく横浜本牧にある収容所を訪ねることにした。  送還の日は、まだ決定していないが、もう間近であることは確かだった。入管の取り調べは、すでに終っているはずだ。あとは、飛行機の便が決定されると、それを待つ時間だけが残されることになる。これまで二度ばかり会いに出かけていたが、いずれのときも彼女はしごく静かな物腰で、ともすれば感情に乏しい、手応えのない面会であった。  一週間ぶりに訪ねるその日は、朝から雨模様で、降ったり止んだりの空が、根岸駅に降り立った午後遅くにも変らなかった。駅前から本牧車庫行のバスに乗り、よく空いた車内の最後尾の席に腰かけて、乗降客のない停留所を次々と素通りして走る車窓の、石油精製工場などが連なる海沿いの無味乾燥な景色を眺めていると、岩上は自身もまたこの国の一人の異邦人のような気がしてきた。この何ヶ月か、事件にとらわれていた自分の中には、一人の女に対する思いとは別に、意外と居心地のいい時間が流れていたような気がする。日本人が日本人としての場所を離れて、まったく別の世界を漂ってきたような、そして、そのことに快さを覚え、いまも余韻を引いているような……。  だが、本牧市民公園前でバスを降り、かつてはその麓《ふもと》まで海の波が打ち寄せていたという切り立った断崖《だんがい》の上に、低く垂れこめた灰色の空に溶けこむ収容所のコンクリート壁を見ると、気楽なエキゾチシズムは一笑に付さねばならなかった。そこには、不法滞在や資格外活動など出入国に関する法に触れたか、あるいは何らかの理由で在留資格に問題があると判断された外国人が、ある者は強制退去の日を待ちながら、ある者はその退去先さえもない無国籍者として、収容されていた。  崖を上る。石段を方向を変えながら上りきると、横浜入国者収容所と彫りこまれた石門がすぐ前方に、なだらかな上りの坂道に面してあった。前庭を辿り、玄関へ入るとすぐ右手にある窓口へ、身をかがめるようにして面会を申し込む。買ってきた菓子類を預かってもらうための差し入れ用紙、それに面会申込み用紙に、面会目的(安否)や被収容者との続柄(知人)など必要事項を記入して差し出すと、玄関ロビーの受付と向い合った小部屋で待つことになる。 「この人、まだいるのかな」  と、制帽の男がいって、岩上はどきりとした。 「まだ、送還の日は決っていないはずですが」 「いや、それは急に決るんでね。ちょっと待ってくださいよ」  一坪あるかないかの、木製ベンチとアルミの灰皿があるだけの待合室だ。岩上は、落ちつかない思いで待った。うかつだった。送還日については、こちらの都合など何ら考慮する必要がない、当局の勝手なのだ。  だが、十五分余り後に現われた係官が、どうぞ、と声をかけて、岩上は胸を撫でおろした。と同時に、これが最後の面会になる、と感じた。  面会室は、玄関から廊下を左手へ入ったすぐのところにあった。ドアを開けて、湿っぽい薄暗い部屋に入る。拘置所とは違って、太い鉄格子が四畳ばかりのスペースを二手に仕切っていた。まさしく監獄を思わせる造りで、壁には何条かの面会心得が英語と日本語と中国語で記されていた。  折畳椅子を広げて、岩上は腰をおろし、向う側の扉が開くのを待った。こんな場所で最後の挨拶を交すことになろうとは、苦笑したいような、腹立たしいような思いであった。せめて空港で別れを惜しむ程度の場面が提供されてもよさそうなものだが、それは望めない。確かに送還したことを見届けるために、しっかりとガードして搭乗口まで見送っていくのは入国警備官だ。  やがて、扉が開いて、シエラが係官に付き添われて入ってきた。白のブラウスにブルー・ジーンズ姿。岩上を認めて鉄格子に近づく動きに、これまでとは違う差し迫ったものがあった。その予感通り、三日後、であった。 「何時だ」 「朝、ここ出て、二時五十五分」  と、シエラはいった。  セブ経由マニラ行きだった。かつて、それで逃亡しようとして果たせなかった二時五十五分発だ。  部屋の隅に控えて二人の会話を聞き書きしている係官には、この際、影響されたくはない。ろくな舞台ではないが、別れのときくらいはそれらしくしたいと思う。  手紙を取り出した。シエラがふと緊張の表情を浮べた。差し出し人を見て、すぐ下の妹からだという。 「昨日、来たばかりだ」  と、岩上はいった。係官に、格子の間から渡してもいいかと尋ねると、駄目だという。いったん差し入れ物として窓口を通さねばならないというのだった。  むしろ、そのほうがよかった。国の家族が、すでに事件について知っていることについては、未だ伝えていない。故国からの返事が遅れていたのは、この前の手紙で家族に嘘をついている彼女にどう答えていいかわからなかったためだろう。だが、赤間弁護士は判決後、家族宛てに、執行猶予つき判決を得て、近々、帰国できることになった旨の書面を送っている。現地で歓待され世話になったお礼をかねてだ。おそらく、手紙の文面は、弁護士が訪ねてきたことや、すでに判決の内容も知っていることが記されているだろう。これまでは黙っていたが、この際、話しておいたほうがいい、と岩上は判断した。 「実は、ずっと前、赤間弁護士がセブへ行ってきた」 「………」  シエラは、一瞬首をかしげ、真意を問うような眼差しを向けてきた。さらに言葉を添えて、弁護士が彼女の家族に会ってきたことを告げると、その顔がゆがんで凍りついた。宙へ向けた焦点の定まらない目に涙がたまっていく。 「しかし、家族は、事件のことをその前から知っていた。君が確かにフィリピンのこの地の出身かどうかを確かめに来た政府の人が知らせたそうだ」  目を伏せると、一滴、頬に転がり落ちた。それを慌てて指で拭う。 「やっぱりね」  つぶやいて一つ息をつくと、それ以上は取り乱すこともなく、岩上を見つめ返してかすかに微笑んでみせた。  赤間弁護士が見てきた家族の話で、しばらく過ごす。判決の内容についても弁護士のほうから手紙で知らせてあり、無罪と同じことだと書いてあること、今日の手紙はその知らせを受けて、彼女の帰国を待ちわびる家族の思いがしたためられているはずであること。そんな話をするうちに、三十分の面会時間も残りわずかになった。 「赤間先生に、よろしく」  と、シエラはいった。「ありがとうと伝えて。フィリピン帰っても、忘れない」  岩上は、最後の言葉を探した。柄でもない、歯の浮くような言葉でもいい。われながらよく出来たといえるような台詞だ。  故国のベッドで思うぞんぶん眠って目が覚めたら、日本での出来事はみんな夢だったと思えばいい。  そんなことを、いった。  再び、雨が降りはじめていた。崖を降り、大通りのバス停留所へと歩く。背後を振り返ると、低い細長い建物が暗さを増した空に覆われて、形を留めないほどおぼろに見えた。     23  収容所での別れから七十時間余りが経った午後二時半過ぎ——、昨夜の飲みすぎがたたってまだベッドの中にいた岩上龍一は電話のベルで目を覚ました。リビング・ルームへ立って受話器をとると、赤間の声が話しかけてきた。  ——さっき、空港から電話があったよ。これから飛行機に乗るそうだ。リューイチによろしく、といっていた。 「この前は、赤間先生によろしくといっていたな」  岩上は、笑い声で返した。いよいよだな、と思う。もう、何ごとも起こらない。話を終えようとすると、まだいうことがある、と赤間が引きとめた。  ——飛行機には、綿谷四郎が乗りこんでいるそうだ。 「何」  岩上は、心底、驚いて返した。  ——今日の昼、渚ねえさんから電話があってね。航空券はぎりぎり間にあったそうだ。 「どういうことか、よくわからんね」  ——とにかく、送っていきたかったそうだ。もし向うで国外犯罪者として再び逮捕されるようなことがあれば、自分が証人に立って力になりたいとかいっていたそうだよ。それに、彼はその筋の人間ににらまれていたようだ。嫌がらせがひどかったらしい。彼の証言がきっかけでもないだろうが、その後、劇場が徹底的な手入れを食ったそうでね。大損害をこうむらせたのは、彼のせいもあるというわけだろう。ほとぼりが冷めるまで、しばらく日本を離れるといっていたそうだ。 「なるほど」  ——渚ねえさんがいっていた。ピン・スポ一本のつながりは案外なものだった、と。どういうことか、われわれにはピンとこないがね。  受話器の向うで弁護士のさばけた笑い声が響いた。 「もう、ないか?」  ——ああ、もうない。 「本当に、もういうことはないか」  ——ない。ついでに弁護料の請求もなしにしよう。 「それは助かる」  待っていたようにいい、かわりに向う五年間の〈ロフト〉での飲み代をロハにする、と告げた。  ——彼女の執行猶予期間かね。 「そういうことだ」  電話を切ると、岩上はベッドにもどって身を投げだした。  彼女のことを本当に思いやっていたのは、綿谷四郎だったのではないか。かつて聞かされた舞台裏の話や法廷での証言態度を思い返すと、そう思えてくる。かすかな嫉妬が胸をかすめたが、とるに足りなかった。  窓の外からジェット機のものらしい轟音が聞こえてきた。身を起こし、ベランダの窓を開けてみる。雨上りの曇った空がのっぺりと広がっているばかりだ。これですべて終ったという思いだけが、それほど空しくもない心を満たしていた。  赤間愛三は、岩上との電話を終えると、和美のいれてくれたお茶をすすった。一つの事件が片づいた後に覚える、いつもの悪くはない感慨があった。  連続通り魔暴行傷害事件が木山浩の犯行と断定されて神奈川新聞が大きく報じて以来、被害者が次々と名乗りを上げ、その数十余名となっていた。全員が湘南の、藤沢、辻堂、平塚などに住む若い女性で、その年の夏から秋口にかけての被害である。負傷した者は、蔭山茂美のほかにもう二名あった。うち一名は、抵抗して肩に刺し傷を負っており、ナイフの刃先に付着した血痕の血液型と一致した。それほどの傷を負いながら、なお世間の誤解を恐れて被害届を出さなかった一人の独身女性の心理に、赤間は少なからず驚かされたものだ。強姦罪がほとんど報道されることのない事実と、それは表裏の関係であるような気がした。  彼女たちは被害者として団結し、木山家につよい抗議を申し入れていた。結果、建設会社社長である父親は、見舞金として相当の補償をすることを約束したが、まだ回答は出ていない。木山家にとっては、金額の問題よりも世間体の失墜が大きく、豪邸はいつのまにか空き家となっている。  和美が茶菓子を運んできた。このあいだ、蔭山茂美がきれいなリボンをつけて贈ってくれたものだった。こうばしい味が口いっぱいに広がっていく。  シエラは、いつかまた日本へ、別の顔をしてやって来るかもしれない。どこか酒場のようなところで、目を疑うような不思議な再会をしそうな気がする。……  赤間は、お茶をすする唇に苦笑を浮べた。もう来ないだろうという思いの一方で、そんな考えもまたつきまとうことが、空恐ろしく、うすら寒い、だがそれほど暗くもない、事件の余韻といえるのかもしれなかった。 単行本 一九八九年四月文藝春秋刊 底 本 文春文庫 平成四年四月十日刊