[#表紙(表紙.jpg)] 神谷美恵子日記 神谷美恵子 [#改ページ]    神谷美恵子日記  目 次[#「神谷美恵子日記  目 次」はゴシック体]   一九三九年   一九四〇年   一九四二年   一九四三年   一九四四年   一九四五年   一九四六年   一九四七年   一九四八年   一九四九年   一九五〇年   一九五一年   一九五二年   一九五三年   一九五四年   一九五五年   一九五六年   一九五七年   一九五八年   一九五九年   一九六〇年   一九六一年   一九六二年   一九六三年   一九六四年   一九六五年   一九六六年   一九六七年   一九六八年   一九六九年   一九七〇年   一九七一年   一九七二年   一九七三年   一九七四年   一九七五年   一九七六年   一九七七年   一九七八年   一九七九年   あとがき     神谷宣郎   神谷美恵子 年譜 [#改ページ] [#ここから3字下げ] 本書は精神科医・神谷美恵子が二五歳の一九三九年から六五歳で死去する一九七九年まで書きつづけた日記のなかから、夫である神谷宣郎氏が中心となって編纂、『神谷美恵子著作集10 日記・書簡集』(みすず書房)に収録したものに、新たに注、年譜を付し文庫化したものである。 原文の表記はすべて底本どおりとした。〔  〕内は欧文、医学用語等について底本の編集時に注が付されたものである。 文庫化に際して新しく付した注は、その語句、事柄の右下に数字を付し、各年の最後に記した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九三九年     (二五歳)  一月三十一日[#「一月三十一日」はゴシック体](火)  午後スカラシップ・コミッティ(1)の面々に逢《あ》いにマッコイ夫人 Mrs. MacCoyの処へ行く。三十分程待たされている間にスカラシップ授与の正式承認があった。(……)私はこの人達の期待する様な事は出来ないにきまっているのだから、こうして貰《もら》うのは罪の様な気がする。  今夜 Mission Board〔伝道委員会(2)〕で話をする筈《はず》だったので「日本に於ける平和主義」という草稿を作って置いたら延期となった。でも日本の社会状態について少ししらべる機会となってよかった。  三月五日[#「三月五日」はゴシック体](日)  ゆうべつくづくアメリカにあまり長い間いたくないと思った。easy going な空気はたしかに此の辺の人達の精神生活をも浸して居る。そしてこの辺の人達こそこの国のもっともまじめな人達なのだとすれば後はおしてしるべし。それは学問の世界でも同じ事。私は如何《いか》なる意味に於ても dilettante〔ディレッタント〕になりたくない。graduate〔大学院生〕になれないなら、必ずヨーロッパへ行こうときめた。  軋轢《あつれき》のある、神経の緊張した、なやみの多い世界でないとだらしがなくなる。より高い発育の段階に至るために生物は多くのものを犠牲にしてある特定のものを伸ばすという事をきいた。  アメリカの教育の理想は反対に完全な「全人教育」にあるらしい。そしてそれにかなり成功している。その結果は dull〔さえない〕だ!(但し日本に多い畸形《きけい》的人間にも感心出来ない。)おひるをフレザー夫人 Mrs. Fraser の処で頂く。真左さん(3)と散歩してたら拾い上げられたのだ。二人の散歩では身の上話。夜、砧《きぬた》へ手紙書き。  三月十日[#「三月十日」はゴシック体](金)  アメリカの甘い理想主義はどうも気に喰わぬ。  この頃|頻《しき》りにヨーロッパへ行く事を考えている。easy going なこの空気(ペンドル・ヒル(4)でさえ)とこの楽な生活は私を麻痺《まひ》させる。こういうような「健康な」社会が社会進歩の理想だとすると少々考えねばならない。  凡庸なる民衆を作り出す物質的にゆたかな平和な社会と、少数の優れた人を出す軋轢の多い社会とどちらがいいかと言われたら私の Sollen〔あるべきこと〕の念は前者を選び、私の野性は後者をえらぶだろう。私は出たらめの貴族主義者らしい。  三月十四日[#「三月十四日」はゴシック体](火)  ドラのクラスのかえり雨あがりの土の匂《にお》いとうららかな陽に浮き浮きして温室のそばの苗床によってみたら枯葉の中から snowdrops〔ユキノハナ〕が六、七輪みずみずしく咲いていた。思わず感嘆の声をあげてそこにうずくまり頬《ほお》を土にすれすれにして眺める。その中にどうしてもこのままでは勿体《もつたい》なくなって持っていた聖書研究の本の裏の扉に鉛筆で写生する。  三月十九日[#「三月十九日」はゴシック体](日)  朝の Peace Call〔平和集会〕に久しぶりで出席。平和問題について一種の捨てばちな気持からこのグループと遠ざかっていたのは悪かったと思う。彼等はまだ私のように幻滅していない。ナイーヴだ。しかし今はそれでいいのだ。今の状態で真剣|真摯《しんし》であればいいのだ。  人の精神的発達の速度を無理に早めたりする事は許されない事であるのに気がつく。(……)  きょうは平和主義の政治家の立場が問題になった。しかしこのグループが平和問題を単にそれ自身として扱わず根本|迄《まで》きわめようとしているのはいい。  又ミーティングにも行かずにペーパーを書く。  三月二十日[#「三月二十日」はゴシック体](月)  Report Week〔リポート・ウイーク〕開始、モートン・ブラウン Morton Brown(5) の宇宙論は美しく noble〔高貴〕だ。しかしこんな処から信仰に入る人もあるのかと思う。私には何よりも「人」が第一の問題だった。  四月二日[#「四月二日」はゴシック体](日)  一日家にいる。縫物しておしゃべり。ヒットラー英仏にいどむ。  夕方とし子(6)と寿雄《ひさお》(7)の学校附近を散歩。  父上(8)出来るだけアメリカに留まる様に言われる。両親のお淋《さび》しい様子見るにたえず。しかし父上はもういつまでもアメリカに腰をすえる御心組の由、一家ばらばら状態がいつまでつづくやら。  私はコロンビアならまだ学問的に満足行くだろうかと考え出した。久しぶりに一人部屋にあるを得て祈る。今晩は満月。戸外はすきとおる様。天国を思う。かしこにのみ第一の国籍のある事を改めて痛感、自分がそう思うからでもそう思いたいからでもない、事実なのだ。それをごまかして、この世の者らしくあろうとする事の不自然さ、無理。(……)  夕方バッハのカンタータをラジオできいて心のハイマート〔故郷〕に帰った心地がした。軽い調べの底に流れる深い悲哀、この世に関する限りこれが本当の調子であることを思う。よろこんでいる人よりははるかに数の多い人々の苦しみと悲しみと、人生そのものにまつわる悲哀とを思う。  私は自分一個のためにもう充分苦しんだ。今はもはや自分のために苦しんでいる時でも喜んでいる時でもない。  四月三日[#「四月三日」はゴシック体](月)  予定を一日のばして今日午後ペンドル・ヒル〔P.H.〕へ帰る。新しいタイプライターを買って頂いた。ワリングフォードから P.H. までの道は夕日で夢の様に美しかった。茫漠《ぼうばく》たる野の向うに立ち並ぶ数本の木は頻りに何か語っていた。じっと立ちどまって祈った。  P.H.では私の速達葉書が届かなかったので昨夜大騒ぎして心配し、エヴァン Evan がわざわざ夜道を迎えに来てくれたという。新しい部屋を真左さんがきれいに片付けて待っていて下さった。夜エヴァンと真左さんと三人で月夜を散歩すること正に四時間、月光の下の谷川の美しさ言語に絶する。  芸術でも、道徳でもない、神に従うこと、これが唯一の道。  Bouncing with God over hill & dale〔神と共に丘や谷を飛びはねる〕——三人で月光を浴びながら、丘をはね降りながら、こんな事を口ずさんだ。そうだ。神と偕《とも》にとびはねるのだ、冒険をおかすのだ、一生を賭《と》して。  この dancing lyrical movement〔叙情詩的な躍動〕こそ信仰生涯のリズムであろう。  五月十三日[#「五月十三日」はゴシック体](土)  朝から World Fair〔万国博〕見物。ママは足にはれものが出来てお留守。日本館をはじめいろいろ見る。中でも私が一番|惹《ひ》かれたのは Public Health Medicine〔公衆衛生医学〕と英国の社会事業の部だ。そうした所の前に来ると、私は吸いついた様になって仲々動かないという。その様子を帰って父上ととし子とが代る代る母上に説明した時だった。父上がふと笑いながら言われるには「美恵子は医者になるかな——君も医学にとりつかれたのだろう。それが何か運命なんだろう。いい俺《おれ》もあきらめた。俺の生きている限り応援してやるからやれ」私はどきんとした。「え? 本気で言っていらっしゃるの?」「うん、そうだよ」父上のお顔はまじめだ。あれほど保守的な、突飛な事の嫌いな父上が、そして四年前にあれほど私の志望に反対された父上が——あまりの事に圧倒されてしまった。  五月十四日[#「五月十四日」はゴシック体](日)  こうしてすべては転回してしまった。否、これがもっとも自然な成行なのだろう。自らはもうあきらめて求める事すらしていなかった事がこんなにふしぎに成った事のあざやかさについてはただ呆《あき》れるばかりだが、事の内容については何の特殊らしい感じもない。なるべき様になったのだ。  今更疑う事もない、何度念をおしても父上はたしかにこれが私の行くべき道だろうと信ずると言われる。「これほど好きじゃ駄目だと思ったよ。何しろもう顔色が変るんだもの」と。母上も「癩病のところに行きさえしなければ」と言われる。癩の事は何とも約束出来ないけれど自ら奇矯《ききよう》な事を選ぶ事はしないと言って置いた。今更何を選ぶ事が出来るか。私はもっとも自然な結核患者の事を頭に置いて予防医学に進もうと思う。(……)  ペンドル・ヒルに夕飯頃ついたらみんな手を叩《たた》いて迎えてくれた。御飯はメリーの部屋でアナ・ブリント(9)に身の上話から医者の件迄みな話す。涙をためてきいて下さった。医者になる事は大賛成 You have our blessing, Mieko と。そして、これから戦争の結果ますます沢山の病気が日本へ入って来るだろうからもしかすると日本があなたを呼んでいるのかもしれない、とも言われる。ただ祈りたい気持のみ。  五月二十日[#「五月二十日」はゴシック体](土)  朝パリから手紙で私に来て欲しい由。遠慮しながらも姉上がそれをどんなにあてにして居られるかがわかって、こうなっては行くべきだ、と直感した。直にエヴァン達の船の室をともかくもリザーヴして置くように電報し、家へ問い合せの速達を出す。戦争と経済だけが問題だ。  事件の急転に圧倒され気味。昨日迄は Penn.〔ペンシルバニア大学〕の夏期講習に出るために浦口さんと二人でこの夏はローズさんの留守宅で過す筈になりかかっていた。  七月六日[#「七月六日」はゴシック体](木)  夜、元大使館顧問で日本学者ジャン・レイ Jean Rey 氏宅へ兄様(10)と御飯に招《よ》ばれる。他の仏蘭西《フランス》人の学者、夫人、令嬢なども招ばれていてフランス人の教養あるところを見せられた。かえり十二時頃エッフェル塔の下を通ったらサーカスだの芝居小舎《しばいごや》だのインチキ見世物など並んで、水兵やごろつきが群がっていた。兄と二人で物好きに一めぐりしてのぞく。昔の二人歩きを思い出す。それからトロカデロの建物の中央にのぼってエッフェル塔の方面を望み、月夜の都市美鑑賞。帰って見ると赤ちゃんまだ産まれてないのでほっと胸をなで下す。  七月七日[#「七月七日」はゴシック体](金)  朝からエヴァンと出て、ルーヴル見物、古本あさり、等。昼御飯の時彼は国際結婚や独身問題をもち出したので、私は神のための独身などという言分にあまり感心しないこと、また人は出来る限り自分の国の人と結婚すべきだと思うこと、を強調して置く。まだ、満廿一才とは言え、この子の考えはあまりに transparent〔率直〕なのでいじらしくなる。  七月八日[#「七月八日」はゴシック体](土)  靴屋へ行っただけ。あとは例の如し。この「例の如し」の日常生活を書いて置こうか。朝八時起床、戸口に届けてある牛乳とパンをとり入れて牛乳をわかし、コーヒーを作る。光子と一夫にパンと牛乳を食べさせる。九時にマドモアゼルが来て子供等を森へ連れ出す。兄様、姉様と三人の食事が済み、九時半兄様御出勤。食後皿洗い、お掃除。大きな買物袋を下げて、買出し、市場は一週に二度。帰っておひるの支度。十二時半、子供たちがかえって御飯。一時半兄様がかえる。大人共御飯。子供達再び森へ、兄様三時出勤。姉様と二人でおしゃべりしながら赤ちゃんの編物その他、御飯仕度。六時子供達帰宅、六時半マドモアゼル帰宅。子供達御飯、御湯。八時半兄様帰宅。(四日に一度当直で九時半となる)大人御飯、子供達就床、皿洗い。大人就床十二時頃。今のところ姉様が何でもなさるので私はお客様の様。  七月九日[#「七月九日」はゴシック体](日)  野上《のがみ》御夫妻(11)、Evan、兄様、光子、私でフォンテーヌブロー Fontainebleau 行。宮殿はけばけばしすぎて大して感心しないが森はよかった。バルビゾン Barbizon にも行ってミレーの家、ゴーム〔?〕の宿屋も見物。双方ともにコローの絵があってうれし。野上|弥生子《やえこ》氏とは話が仲々よく合って愉快だった。彼女は日本の近代文学を海外に紹介する事をお頼みすると言われるし、夫君の方はギリシャ古典を翻訳する人が日本に足りない事を慨歎《がいたん》される。弥生子氏はよい家庭読物を教えて欲しいとも頻《しき》りに言って居られた。  Evan は植物園を通って地下鉄に乗る迄ついて来た。これが最後で彼は明朝八時二十分パリを出てスイス、ドイツ、イタリーを通りバグダッドへ行く。さよならの時の彼のしょんぼりした様子にあわれを催す。別れるとき小さな Cactus〔サボテン〕の鉢をくれた。これからの彼の上に御導きのあらんことを。  七月十日[#「七月十日」はゴシック体](月)  野上さんのおよばれで夜コメディ・フランセーズCom仕ie Fran溝ise でロマン・ロラン『愛と死との戯れ』R. Rolland�Le Jeu de l'amour et de la Mort�を見る。信念に殉ずる理想主義者の立場と大衆のために現実に殉ずる政治家の立場との対照をよくあらわしている。かえりタクシーの中で兄様はこの問題について「簡単には片付けられない」と言って居られた。結局、division of function〔分業〕なのだろう。兄様がどちらかと言えば政治家(そのものでなくとも)的な役目に使われる人であるらしい事は今度|逢《あ》ってますますはっきりした。誰しも真摯に己が進むべき道を求めて行けばそれでよい。どの道がより尊いと言う事はない。  しかし私は私、と言う事も今度一層はっきりした。  七月十一日[#「七月十一日」はゴシック体](火)  手紙書き。寺尾先生(12)に医学研究方針について御意見を聞く。兄様昨夜よりひどく疲れが出て、ふるわれない事おびただし。過労をおそる。  七月十三日[#「七月十三日」はゴシック体](木)  姉様お午《ひる》頃痛みはじまり夜八時頃入院。八時半頃モートン Morton がひょっこり現われ出た。五時頃パリへ着いたと言う。三十分程話して帰る。  七月十四日[#「七月十四日」はゴシック体](金)  昨夜十一時に悦子誕生。安産の由感謝。マドモアゼルが革命祭でお休みなので一日中台所と子供たちとで苦労す。午前午後共森へ行った。午後モートンが兄様に逢いに来た。  誘惑のないこと、それを感じない事が尊いのではない。それに打勝って行く処に尊さがあるのだ。  丁度波乗りの様だ。  私の波は大きいうねりだ。  その波の質も知った。幼い頃からこの波の連続だった。(……)  ブーローニュの森 Bois de Boulogne の木はコローの絵の様にあか味を帯びてくすんでいる。光をふくむこけのやわらかな陰影から生えぬいた梢《こずえ》はなよやかに美しい。それら越しにじっと淡く青い空を眺めていたら涙が出て来た。「天」との古い古い私の「えにし」と、そしてこの私の現実。  世の中はお祭騒ぎで今夜は夜っぴて街で舞いぬくとか。  七月十五日[#「七月十五日」はゴシック体](土)  午後マドモアゼルが子供たちを森へつれて行ってくれている間病院へ行って、赤ちゃんを見てくる。長い眼をしたのどかな顔。姉様はお元気。留守の間にモートンが来た事が私の置手紙への返事でわかった。  七月十六日[#「七月十六日」はゴシック体](日)  きょうは一日マドモアゼルが休み。夜通し起されていたので朝疲れてやり切れなくなり、とうとう泣き出してしまった。兄様が心配して子供たちを二時間ほど森へつれ出してその間私に寝るようにして下さる。わざわざ海を越えて来たのにこんな態《さま》ではずかしい。  私は何でも完全にしようと気張りすぎるのに気がついた。  七月十七日[#「七月十七日」はゴシック体](月)  お午飯にモートンを招ぶ。あなたにクックさせてはという彼の遠慮に対して、コールドディナー cold dinner にすると約束した。野菜ばかりの cold dinner! アーティチョークとサラダがのさばっていた。三時兄様が行かれてから一時間ほど話し、一緒に Bois de Boulogne へ散歩に出かけたら、子供たちに逢った。皆お腹を空かしていると言うのでそのまま帰って来る。夕立のやむのを待って自転車で帰ろうとする彼と下の玄関で暫《しばら》く立話。やがてやんだのでこれが多分お別れだといって彼は手をさし出した。  七月二十一日[#「七月二十一日」はゴシック体](金)  今晩の星は雨の晴れた後なので高くて清らかだ。星を仰いで居る時のみ私は私である様な気がする。兄とは話のポイントがふしぎに合う——と私は書いた。誠にそうだ。何故って彼についての話をしてるから。しかし彼は彼、私は私と言う事が今度逢って見て実によくわかった。私は私の問題をもはや彼に考えてもらおうとは思わない。だって私の問題は彼にとって問題になり得ないもの。だから彼と話すときは彼の事をのみ問題にして彼と一緒に考える。誰とでもそうすべきなのだろう。そして自分の問題は神様との間のみで決めるべきなのだ。誰にも——いいか誰にも、神様のみに聞くべき処を迄《まで》聞いてはならぬ。私はこの間ちがいを時々犯して来た。  兄は目下国際文化交換事業の事で夢中だ。私も一生何かの形でこれには力をいたさざるを得ないであろう。しかし何故それだけではあり得ないか、何故医学などやるか。  七月二十二日[#「七月二十二日」はゴシック体](土)  兄様の手伝いやパパのお仕事にやとわれる事などを本職にしないでいい様にして、本当によかったとつくづく思う。私の本領とする処がパパとも兄様ともあくまでもちがう事が実にはっきりして来た。私は人とのリレーションシップ〔関係〕、しかも最も密接な関係に於て最も私たる所以《ゆえん》を発揮する。私の創られた目的、私のオリジナリティーはどうしても其処《そこ》にある。そして人間の内面世界にひたすら目をむけて行動するなり書くなりするのが私の仕事だ。ああ、今私は「私でありたい」純然たる願いで一杯だ。かり着で生きる事だけはしたくない。  七月二十六日[#「七月二十六日」はゴシック体](水)  兄様の訳さるる事になった「殉教のすすめ」を読む。上泉秀信《かみいずみひでのぶ》「愛の建設者」をこの間うちから読んでいる。しかし本を読む事は今の処極めて稀《まれ》。おさんどんに子供の世話—奥さん生活に没頭して見て一向不自然を感じない。これが私の人生だったかも知れないと思うと一種のなつかしさがある。しかし兄様は、私は androgyneous〔両性具有的〕だし、私を統御出来る男性はいないし、だいいち不経済で惜しいと言われる。  八月二日[#「八月二日」はゴシック体](水)  ドラ・ウイルソン Dora Willson(13) がお午パリ着につき駅へ迎えに出て午後四時頃迄行動を共にする。かえりアメリカン・エキスプレス American Express へ寄って船の事をしらべたら、八月末九月始はもう何処《どこ》も一杯らしい。  八月三日[#「八月三日」はゴシック体](木)  朝、日本大使館とアメリカ大使館へ行く。午後もう一度 A.E.へ。今の処何処も空いてないが日曜日までなんとか見張っているからもう一度来いとの由。来週にでも発つ用意が出来ている事にして来たがそうなったのでは困る。  かえり疲れて倒れそうな気持がした。家へ着くなりベッドに身を投げ出す。訳もなく涙が出る。毎晩何度も起されるので寝が足りないからだろう。いやに気がめいってしまって頑張ってパリへ来た事が間ちがいではなかったかと考え込む。大した手伝いは出来ないくせに自分は疲れて却《かえ》って姉様に心配をかけてしまうのだもの。  たまに暇が出来ても疲れてて、本が読めない。子を育てる苦労を考えたら私などどんな事をしたって較べものにならない程楽をする訳だ。人生に対して相済まぬ。許されるだろうか。  八月十一日[#「八月十一日」はゴシック体](金)記  船は十八日出帆ときまった。戦争を恐れて逃げる人が多いと見えて何《いず》れも一杯で、こんな早いのをとるよりほか仕方がない事になった。それであわてて買物だの見物だの、少しずつしている。六日(日)に護郎氏(14)が見えた。昨日は兄様と二人で一度シネマを見た。ヴェルサイユとポール・ロワイヤル Port Royal 見物。かえり P.R. からサン・レミ St. Remy まで歩く。Port Royal を出た処の abbaye〔修道院〕の庭でお茶をのみながら眺めた自然、さかんに気焔《きえん》をあげながら一里半ほど歩いた田舎道。こぼれそうに咲く野花、何というすがすがしい楽しみであった事か。寿命がのびた感じ。  八月二十二日[#「八月二十二日」はゴシック体](火)  相当なしけ[#「しけ」に傍点]で沢山の人が酔っている。へさき[#「へさき」に傍点]に出てのぞけば船が後にのけぞる毎に船底が荒波の上に高くのし出ている。お午御飯の時、赤ん坊をつれたハンガリー人のお母さんが如何《いか》にも苦しそうなので、赤ちゃんをひきうけて御飯を食べさす。午後三時間ほどひるねしてお茶に出かけて行ったらギリシャ青年が話に来た。ギリシャ人を父に持ち、アメリカで生まれ、アメリカで苦学してからアテネに渡り、二年間近代ギリシャ語を学んで帰るところ。アメリカに於けるギリシャ教会経営のギリシャ学校夜学で教えるつもりだという。ところが、この青年、やせこけて病的に神経質だと思ったら立派な結核患者であることが話の中から判明、それとなく注意して生活法など教えて置いた。それにしても医者になれる事を事々に感謝せざるを得ぬ。この青年も貧民階級から出た犠牲なのだ。どんな事をしても私は下層の人々のために働こう。  病気の人の相手をして自己満足するのが私の目的ではない。病的なものには私はもう心からの嫌悪を感じる。自分がその中から癒《いや》して頂いただけに「健全なもの」を何と貴び、それに何と引力を感じる事だろう。丁度花が太陽に向う様に。だから私は人を、人の心を、体を、社会を、健全にするために一生を燃やしつくしたいのだ。  十二月七日[#「十二月七日」はゴシック体](木)  昨日は風邪気でクラスをやすみ一日中こもって悩んでいた。父上を残すこと、こんな事迄して帰って果して医学が出来るであろうかとの不安 etc.  自分をもてあます、祈る時のみ平安。  主よ私の心の混乱をどうにかして下さい。私にはもうわからなくなりました。  十二月九日[#「十二月九日」はゴシック体](土)  今、午前十時、ボストン行の汽車に乗った。別れぎわに—— 「ね、パパ、私、外交官とでも結婚して Society〔社交界〕の夫人になったらとても素敵になれるわね、外国語をいくつも話して音楽や美術をかじっていて……」 「うん、それが君のもっとたやすく有名になる方法だ」 「そうしたらパパうれしい?」  パパは暫く黙って居られたが、やがて 「だが、医者をする事によって君の国際的方面が失われるのは惜しいね」 「失われるかしら?」 「——」  たとえ失われても惜しくもない。要するに装飾的なものではないか。然しこの医者になるという事もこの初夏考えたときよりずっと complications〔ややこしいこと〕が多くなって来て、自分にはどうなるのやらさっぱりわからなくなって来た。  十二月十八日[#「十二月十八日」はゴシック体](月)  日本へ行ったら前の様にいわゆる「信仰の交り」などに本気になれない事を考えて気おくれがする。然し、ああしたものには全く我慢ならぬ。こんな処をどうやって正ちゃん等にわかってもらえよう。  十六日(土)には夜 Key Largo(by Maxwell Anderson)という芝居を見た。Paul Muni の悲哀と深みをおびた演技に、作者の意図も深さをました。現実に負けつづけた卑怯《ひきよう》(?)な、真摯《しんし》な人間が最期に無私の愛故に理想に殉じて死ぬというのだ。(……)  私も、もし私の使命と信ずる処を単なる便宜などのためにすてたら自分自身に対する respect〔敬意〕を失うだろう。否、それは自分[#「自分」に傍点]に対してというよりももっと大きなものだ。  学校をやめて以来、もっと常識的な道をと考える様につとめればつとめるほど self-respect〔自尊心〕を失って、けものの様になるより他なかった。  人の使命というものは、その人の存在意義にかかわるから、これほど大きな事なのだ。単に自分一個の幸不幸の問題ではない。  ブリンマー〔女子大〕をやめた事、従って又バーナードが駄目になった事、みんな私の信仰の弱さの故の様な気がしてならぬ。申訳ない事だ。同時に、あの時、ふと悪魔が邪魔したのかも知れないという感じがする。パパでさえ「魔がさした様に」と言われた。センチメンタリズム、弱さが大事なプランを台なしにする大敵である事をつくづくさとる。  地味に、コツコツと勉強し、生活したい。寒い処でふるえながら勉強し働きたい。家庭と仕事の間に板ばさみになるのも私らしいと思う。あまり楽な処にいると水から出た魚の様に無気力になる。  W. James の論文集を古本屋で買って来て読んでいる。サイエンスについての言葉に古典的とでも言いたい様なのがあった。この文の言う様な点が私をサイエンスに惹《ひ》く。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 津田梅子スカラシップ委員会。美恵子は当時、出身校である津田英学塾より津田梅子奨学金を授与されていた。   2 美恵子が在米中、約四ヶ月間滞在したキリスト教の一派、クエーカーが運営する学寮・ペンドル・ヒル(PH)での行事のひとつと思われる。   3 ペンドル・ヒルで知り合い、生涯の友人となった浦口真左。当時、ペンシルバニア大学で生物学の研究に従事していた(真左と同じ研究室にのちに美恵子の夫となる神谷宣郎がいた。)帰国後は普連土学園(東京)の理科教諭を務めた。彼女と美恵子との交友は『神谷美恵子・浦口真左 往復書簡集』(みすず書房)に詳しい。   4 美恵子が母・房子のすすめにより一九三九年二月から約四ヵ月を過ごした、キリスト教プロテスタントの一派、クエーカーが運営する成人のための教育機関。フィラデルフィア郊外に現存する。国籍、年齢ともに幅広い層にわたる共同体で、おのおのが独自のテーマを独自に研究する。この時の体験を美恵子はのちに『遍歴』(みすず書房)の中で詳しく述べている。   5 ペンドル・ヒルでの寮友。戦後、お互いに消息が途絶えていたが、一九七五年、美恵子が他界する四年前に文通が再開した。ブラウンは美恵子の詩篇を集めた『うつわの歌』(みすず書房)に「美恵子さんの思い出」を寄せている。   6 美恵子の末妹   7 美恵子の弟   8 前田多門(一八八四—一九六二)     内務省官僚を経て東京市助役、ILO(国際労働機関)日本政府代表。当時ニューヨーク日本文化会館館長。戦後最初の文部大臣に就任。その後日本育英会会長、日本ユネスコ国内委員会委員長等を務めた。   9 ペンドル・ヒルの寮長夫人。ギリシャ文学の研究者。仕事と家庭を両立させる姿に感銘を受ける様子が『遍歴』(前述)にある。美恵子がのちに翻訳するストア哲学の小品「ケベースの絵馬」(『人間をみつめて』所収)を贈る。   10 実兄でフランス文学者の前田陽一(一九一一—一九八七)     当時はパリ大学文学部に留学中。   11 作家・野上弥生子夫妻   12 美恵子結核療養中の主治医・寺尾殿治   13 ペンドル・ヒルでの寮友。聖書研究のクラスを開いていた。   14 前田護郎(一九一五—一九八〇)聖書学者 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四〇年     (二六歳)  二月十八日[#「二月十八日」はゴシック体](日)  人間はこうして、生涯に幾度か生物が脱皮する様に、全然過去と決別して新しい生活へ移るものなのだろうか。そして死がその最後のものなのかも知れぬ。今の自分にとって、過去との決別はまだ痛い。しかし新しき未来の光は日々いやまさりてまぶしい。十年近くもの間、苦しむために生きていた様だった。その意味は? と考えると深淵《しんえん》をのぞく心地。「苦しみ」という事は、何故、あるのだろう。今日は父上と Tevy・というユダヤの映画を見た。宗教と血のつながりの濃さをよくあらわしている。  二月二十四日[#「二月二十四日」はゴシック体](土)  やっと生活が落着いて来た。書きたい気持がむらむらと起る、又ものを考えたいと思う。然しニューヨークの生活は、ものを考える時をなくす様に出来ているらしい。  それにも拘《かかわ》らず考える事がありすぎて圧倒される。第一、自分の生活はどん底から変った。その意味や implication〔かかり合い〕がまだ全部はわからない。私には人間というものが、ふしぎでふしぎでたまらない。  今週はもうちっとも疲れなかった。こうして体力も与えられるのか!! 有難い事だ。この医学という事が、なかったら、自分はどうしていただろう。  三月五日[#「三月五日」はゴシック体](火)  今日かえしてもらった化学の試験も満点だった。科学にも向いた頭であった事を深く感謝する。一つとして偶然ではない。  生まれてから、これほど謙虚にあらゆる事を感謝出来た事はあったろうか、それだけでもしみじみと幸いを感ずる。宇宙を創り、その中に、かかる「我」を創りて置き給いし者を思うほどの深き平安はまたとあろうか。何が起ってもよいのだ。このまますべて中途半端で死んでも、あるいは長寿を全うしてこの世にいささかなりと足跡を残そうとも、根本的に大したちがいはないのだ。創られし目的に忠実に生きる、それだけだ。  四月二十八日[#「四月二十八日」はゴシック体](日)  やっと春が来た。モーニングサイドの木の芽が一斉に吹き出ている。クイズ又クイズで、今日は一日中机にかじりつき。昼父上とリヴァサイドを散歩しただけ。お気の毒だ。  時が羽を生やした様に飛んで行く。帰る迄《まで》あと一寸《ちよつと》なのにこんなに上の空で生きてていいのかと思う位勉強にばかり気をとられて暮してしまった。コロンビアにもいい友だちが出来、場所にも執着を感ずる様になった。しかし、容赦なく時は亦《また》一つ、生涯の頁を繰って行くのだろう。  人生から大したものも要求せず、ただコツコツと出来る仕事をと願い、それへと歩み出してから、上調子になって酔う事もなく、出たらめにヒカンする事もなく、別に自分を何ものかから守ろうと絶えず気を張る事もなくなった。だから、将来の事もあまり考えず、考えても以前の様に圧迫を感じなくなった。これが年取るという事であろうか。  しかし、勉強——仕事という事に於て「若さ」の泉を見出したから、あとはどうでもいい。  宇宙にちらばる偶然か、あるいは何者かの大きな意図の下にか、かかる畸形《きけい》的産物が存在して、小さな役割を果して行く。それだけの事だ。そこに限りない生甲斐《いきがい》と安心とよろこびを感ずる。  五月十七日[#「五月十七日」はゴシック体](金)  今日で学校の授業も終りだ。ひどくセンチだ。日本に待っているものに対して圧迫を感じる。かといってここに居残る訳にも行かないのだろう。勉強はトントン拍子だけれど。  楽をしたいのが人間の本音なのだろう。  何よりも一番恐ろしいのが結婚問題だ。これによって一つには医学志望がぶちこわされるのだ。しかも結婚した方がいい、そのためにも帰るのだという事実は何という皮肉だろう。  それと、近頃の世界の動きと、日本の将来、という事が絶えず頭にあってゆううつだ。日本人に生まれついたからには日本人と苦を共にしたい気持は人後に落ちないつもりだけれども。  七月八日[#「七月八日」はゴシック体](月)  横浜着。ひょろひょろの寿雄が来ていた。母上もやつれて見える。野村さんの御三人も来て下さる。父上のおやつれ様に涙を催す。  これより廿日軽井沢へ来る迄荷物整理、おみやげ整理、ごあいさつまわりと家へのお客様接待に忙殺される。浦口氏、上高井戸《かみたかいど》(野村家(1)及び叔父《おじ》様)三鷹《みたか》、寺尾先生(お家と厚生会)淑子さん、吉岡先生(2)等へ行く。医専は、十月二学期から好きな学科にだけ出ればよい事になる。  八月六日[#「八月六日」はゴシック体](火)  これから毎日あの silent worship〔沈黙礼拝〕の時を持とう。それにうえてしまった。(岩波の「図書」で三谷小父様(3)の一文を読み、今後読後感をもここに記す事とす)。一週間ほど前に、長らく読んでいたトマス・マンの The Magic Mountain〔魔の山〕を読了。いろいろな意味でよい栄養となった。(……)  ゆうべ、鶴見和子嬢訳パール・バック『この心の誇り』を再読、女主人公に通う一面を持つ者として、興味深かった。悲劇の原因が己の本質に根ざすことを知った者には愚痴はない筈《はず》。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 作家・野村胡堂(一八八二—一九六三)一家     美恵子の生家である前田家とは家族ぐるみの親交があった。   2 吉岡弥生(一八七一—一九五九)     美恵子が編入学した東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)の創立者で当時の校長。   3 三谷隆正(一八八九—一九四四)キリスト教思想家、法哲学者     内村鑑三、新渡戸稲造の指導を受け、哲学、プロテスタント神学などについて著作を重ねた。当時は一高教授。美恵子は三谷を「この世でであったほとんど唯一の師」(『遍歴』より)と仰いだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四二年     (二八歳)  五月二十日[#「五月二十日」はゴシック体](水)  きょうもかえってひるね。 『キュリー夫人伝』をもう一度よみはじめた。そして、自分のなまぬるい勉強の仕方を省みて、ざんきの念に耐えない。勉強と献身と。これは、両立し得るのだ。要は魂の問題なのだ。だから、機会と境遇に恵まれている時に、全力[#「全力」に傍点]をつくさなかったら、勉強は永久にできないではないか。  私もマリー・キュリーの何分の一でもいいから勉強しよう! やせて卒倒する位までやろう! この際、装飾的なことは何につかず、一切やめること。  私の悲しい浅薄な性質も、何とかしてためる[#「ためる」に傍点]こと。自分が夢中でやらなかったら、人の役に立つ事も絶対に出来ないのだという事を銘記せよ!  数学をもっと本気でやろう。物理学・化学を、根本的にやろう。  人間らしい、単純な、うつくしい感情、ひねくれた、グロテスクな、理くつ[#「くつ」に傍点]ででっちあげたものを痕跡《こんせき》だにとどめない心。  これが科学者にふさわしい心だ。  frommes Gefuhl〔宗教心〕も、そのままの生地のものとして持とう。  ああ神様、長い長い曲りくねった路を歩んだ果にこんなところにまいりました。人生の門出にまたまいもどったのでございましょうか。ともあれ、これから、新しく歩み出でんとするこの路に祝福を与えたまえ。  過去を悔みはしない、その中によきものを育《はぐく》んでくれた人々に感謝する。そしてそのよきものはこれからも形をかえて生かされるだろう。しかしこれからは全く新しい歩みだ。私の歩みだ。  数学がしたい心理学がしたい、と昔言っていたが、医学はそれらみなを含み、心理などに至っては、医学をせずに心理は出来ないとさえ言えるのだ。今、この道にすすめることを何と感謝したらよいのだろう。  私は時々たまらない自己嫌悪に陥ってやりきれなくなる。  しかし、自分のなすべき事についてこれからはもう絶対に遠慮や気兼ねをすまい。それで今迄どれほど、あやまったか知れないのだから。 「研究がうまく行かないで、いい結果が現われなくとも、決してヒカンする必要はないのですよ。そこから又思いがけない収穫が出て来るのですから——」—林先生のお言葉。  五月二十一日[#「五月二十一日」はゴシック体](木)  ゆうべから興奮して、けさは五時に起きて勉強。但しまだノートの復習がたまっているのでそれを済ましてからでないと何もはじめられない。学校では前原さんが『橡《とち》の実』(吉村冬彦)を貸してくれたので時間の合間によむ。こうした枯れた、淡々とした、しかも滋味と鋭い観察のある文が書ける様にいつなるだろう。一生なれないのだろうけれど。私は私なりに、生涯の終りに、ものを達観し得る様になりたいものだ。  薬物ではヂキタリス製剤。かえり研数学館で規則書をとったが高等数学は教えていない様だ。稲垣《いながき》で病理の本を買う。夜薬物ノートと、コルネリ二頁〔翻訳〕。コルネリはこれから毎日二頁|宛《あて》やって、廿九日に終了の予定。  七月二十日[#「七月二十日」はゴシック体](月)  一日汗みどろで働いた後、六時頃夕風に吹かれてかえる。戸山学校裏の坂を滑り降りるとき高い梢《こずえ》を仰ぐと水色の空が静かにのぞいていた。高原のようなすがすがしいひととき、思わず歌いたくなった。  ひるはKさんと「研究と自活」について話し、午後はSさんと「自分の趣味と合致しない人をも伸ばすために尽力すべきか」という事について話した。あの人はGさんに宗教的要素のないのを残念に思い、それ故に、私がGさんのために力を用いるのをどうかと思っているらしい。私もその事を残念に思うには変りはないけれど、しかし私は、単に自分の好みに合う人のみのためにつくし、他はかえりみずという様な事はいやだ。  ショパンやリストを愛し、ベートーヴェンや殊にバッハやヘンデルなどを理解しない彼女だ。そしてショパンやリストの音楽はただ官能的に美しいだけだ。しかしこの美しさは万人を魅了する。彼等がいなかったら音楽はどんなに淋《さび》しいだろう。もし今、目前にショパンやリストたり得る人間が居り、彼等のためにつくし得る方法があったとしたら、つくさないでいいだろうか。  たとえGさんが小ショパンや小リストにしかなり得ないにしても、私はやっぱり彼女のためにつくすだろう、そして、それを後悔しないだろう。私もまた芸術を愛するからだ。そして、また、人の中のあらゆるよきものをのばそうとする、ギリシャ的精神にどうしてもみたされているから。  純粋にヘブライ的になってしまうのはどうしてもいやだ。あらゆるものを育みそだてる母なる大地と父なる太陽こそしたわしい。  八月四日[#「八月四日」はゴシック体](火)  昨日七時頃ものすごい雷雨。亀戸《かめいど》一帯の低い土地と川にいなずまのひらめくさまを電車で見た。昨朝十時の汽車で家の連中及び志津ちゃん軽井沢に発《た》ち、私は手伝いに来てくれたSさんと二人きりになった。  無料診療もきょう一日となった。  雨あがりの朝、一人書斎のヴェランダに坐《ざ》して夢心地でこれを書いている。連日の活動に体は綿の様に疲れた。あまりに忙しく、あまりにものを考えない日々であった。明日から十日ほど、しずかに暮したく思う。魂の故郷にかえって。  八月五日[#「八月五日」はゴシック体](水)  活動だけしている人間の心は空虚なものだろうと思う。これから暫《しばら》く、外部から何の行動をも強いられぬ生活のゆるされるのをたまらなく有難く感じている。私はきょう自分の本や書きものを整理しながら、今の私のものの評価と、四、五年前のそれと何とちがうことか今更の様に驚いた。どちらがいいかわるいかの問題ではない。ただ、今ある場所に於てもまた出来るだけ深く掘り下げて行く義務を感ずるのみ。  九月十一日[#「九月十一日」はゴシック体](金)  暑い日が続く。けれども窓辺には夜な夜な虫がすだき、星の光はいよよ澄みわたる。また秋が来るのだ。 「バッハ論(1)」でまた抽象的な美辞麗句をならべたのが気になる。これからは出来るかぎり具体的に生き、具体的に書こうと考えていたのに人に自らの価値以上に思われ、したわれることを気にする中はまだ小さい。大きくなれ、つねに人のためを考えよ。  十月六日[#「十月六日」はゴシック体](火)  学校のかえりひとりでダ・ヴィンチ展へ行った。ルネッサンスと現在の日本とを強いて結びつけようとしての無理なこうとう無稽《むけい》な議論が麗々しくあちこちに掲げられているのには恐縮したが、展覧会の内容そのものには深く教えらるるところがあった。殊に、解剖の絵のところで、腕の筋肉をあらゆる角度から、また腕のあらゆるポーズに於て何度も何度もスケッチしているのには恐れ入った。もちろん解剖学そのものより、絵をかく立場からの練習であろうが。解剖学から言ってもこの部分の筋肉の描写は驚くばかり精確であった。その他草や木や花を一本一本、形態から自然の中に生まれる姿に至るまで幾枚も幾枚も描いて、大きな絵の背景に用うる下絵となしている。限りなき精進と練習、うまずくりかえすこと、——天才のダ・ヴィンチから教えられたのはこれであった。この事を深く考えつつ上野の池のほとりをのろのろと歩いて帰った。  十月三十一日[#「十月三十一日」はゴシック体](土)記  十月三十日(金)病理実習では結核。もっと沢山の時が欲しい。私は顕微鏡の眺め方がのろまと見える。  十月三十一日(土)夜ジャパン・インスチチュート関係の方々八名をお呼びするので、その用意のため午後からの報国会を休んでとし子や母上とお料理をする。うなぎ、おすし、サンドイッチ、サラダ、クッキース、おはぎ等のビュッフェ式で、大成功。  夜田辺氏が「この頃は世の中に真実というものが絶えてなくなった。まったく自分の仕事に対してもニヒリスティックたらざるを得ぬ」と歎《なげ》かれると芦田《あしだ》氏も、市役所内の質低下について同感される。皆様のかえられた後で父上とまた一くさり時世に対する悲憤|慷慨《こうがい》をやる。技術やイムパーソナルな科学に生きて行ける私は有難い、が悲しい事は同じ事だ。  武者小路実篤《むしやのこうじさねあつ》の『文学を志す人々へ』をこっそり求めて来て読んだ。  十一月三日[#「十一月三日」はゴシック体](火)  パッと花が開いた様な日和、兄様のお誕生日だ。家中で手紙を書こうと申し合せる。けさは漸《ようや》くブルンプト Brumpt の第二巻をよみ終えて宮島先生のお宅へお返しに上り、Brumpt の第一巻と太田先生(2)の御紹介状を頂いて来る。かえり木下杢太郎《きのしたもくたろう》選集欲しきものと思って東中野の古本屋に立ちよるとちゃんとあった。新本にして五円五十銭也。太田先生の全貌《ぜんぼう》(?)を知り得る心地してうれし、漢学を学ぶべきこと、特に心に銘ず。数学、物理、動物、化学等科学方面の基本的な事柄もあり、さても忙しき事なり。  それにしても、お若き頃あのように創作活動さかんなりし先生が近頃その時間がないと言わるるのは止むを得ぬ事なのだろうか。  文学と両天びんの自分の不純な心をやましくも思う。しかしやっとやっと解き放たれたこの心を注ぎ出さずして如何《いかが》せん。今日「渓流」来る、野村実先生の文章尊し。K氏の小説は小説にして小説ならず、文かったつ[#「かったつ」に傍点]なれどいうところあまりに観念的なり。基督《キリスト》教はかくも人の筆を、情意を縛るものなるや。  きょう半日コルネリのほん訳。これが済んだら(今年中に済む予定)もうほん訳なるものから、よほどの必要あるいは意義を感ぜざる限り、一切手をひきたい。  自分で書きたくてむずむずする。  十一月四日[#「十一月四日」はゴシック体](水)  齢三十に垂《なんな》んとして漸く己が進むべき道を知る。二十代はすべてこれ浪費であった、とつい口がすべりそうになる。そうではない。しかしそういう点も多かった。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、あまりにも西洋的教養にのみ偏ったこと。  一、あまりにもキリスト教をして自己の自由なる思索と感覚とを束縛せしめたこと。 [#ここで字下げ終わり]  今からでもここから脱《ぬ》け出て、新しく、自分の生命を赤裸々に投げ出す事が出来るだろうか。そんな不安と昂奮《こうふん》に駆られて今朝は早く目がさめた。ああ私は私の声で神を、人生を歌いたい!  十一月十一日[#「十一月十一日」はゴシック体](水)  仏語を教えて帰ったら大分疲れをおぼえた。  指が漸く治って来たのでひさしぶりにピアノをたのしむ。こよい、母上ととし子は新響へ、父上は小笠原《おがさわら》会とやら。ひとりあって楽しき想い、烈しき決心、心にあふる。何やら私の三十代は全く新しい世界がはじまる様だ。私のすすむべきふたすじの道をはっきり見出した。二十代の生活の重点は全くかえられなくてはならない。そして一歩一歩、はじめからきづいて行くのだ。かぎられた精力をうまく使って行こう。  かりもの[#「かりもの」に傍点]は一切かなぐりすてて、自分から生み出すこと、絶えず生み出すこと、新しい真実のものを。  十一月二十五日[#「十一月二十五日」はゴシック体](水)  太田先生の『現代の癩問題』を再びよみかえして一生これの研究に献身しようとあらためて強く決心する。癩病院へ行って働くという私の希《ねが》いには多分に逃避的な動機があり、また目に見えて献身して居るという自己満足を求める心もあった。クリニークと研究とどちらがつらいとか、尊いとかいう問題ではない。結局、自分の素質の最も向いて居る方向で用いられるのが本当なのだ。しかし私が研究者のせまい道に耐えられる者、貢献し得る者なら、敢然それに向って進むべきだ。  もはや昔のように大言壮語したり感激的な献身の宣言をする気はない。ただ、こういう大きな目的に向うからには、それ相応に犠牲の要求せらるることもあろうことを、ここに改めて覚悟する。よろしいか。経済的安定も、たのしみも、あるいは家庭生活も、こうした事に身をささげるからには、もはや、当然のこととして期待せらるるべきものではないのだ。もし与えられれば僥倖《ぎようこう》と思わねばならないのだ。  文学もあくまでもネーベン〔副次的〕であらねばならぬ。それは、このあまりにも rigoureux〔厳格〕な道を和らげてくれるものともなろう。しかし文学をして私の主使命を防げしめてはならぬ。  私は意志も弱く、迷わされやすい人間だ。けれども神様の御導きにより奇しくも八年前の願いがここに成りつつある。これからも成るだろう。神様の御力にすがって行こう。人ではなくてただ神様に御助けを乞いつつ歩いて行こう。  大いなる目的——しかも極めて具体的な目的——が成って私の毎日は、すっかり味が変った。この目的ゆえにすべてが hallow される〔神に捧げられる〕心地がする。  十一月二十八日[#「十一月二十八日」はゴシック体](土)  朝一時間半職員健康保険の講義をきいたのみであとは午迄《ひるまで》クラス会。午後は報国会で高田前大毎ニューヨーク支局長の話。大政翼賛会厚生部副部長桐原先生の話等きく。  上級生にレプラのために働こうと志しているらしい人がいて星塚愛敬団の話をした。星空の下に自転車を走らせて六時半頃帰宅、富桝氏夜御飯に見ゆ。  八時頃から寄生虫の問題をはじめて今四時迄かかってやっと五題。先学期の成績が悪かったので発奮するつもりはつもりなのだが、どうもあまりかんばしくない。私は記憶力が悪いのを痛感する。  いつでも、何かに向って、泣きそうな努力を重ねて来た私が、時々大馬鹿者に見える。その「何か」が大てい、何やら荒唐無稽なものなのだから。  でも今度という今度は、レプラという大目的があるのだから、もっとがんばれてよい訳だ。神様、お助け下さい。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 『旅の手帖より』(みすず書房)所収。   2 太田正雄(筆名・木下杢太郎)(一八八五—一九四五)     詩人、医学者。劇作家、小説家、評論家等、多彩な活躍をした。皮膚医学の権威であり、ハンセン病の病理研究を進めていた。当時は東京大学医学部教授。美恵子は東京女子医専卒業後、彼の研究室入りを希望していた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四三年     (二九歳)  二月十二日[#「二月十二日」はゴシック体](金)  放課後中西先生をお見舞する。(先生は二、三日前からお風邪)  夜ノート写しを終えてから『小泉八雲集』(父上が求めて来られた)をよみ、中の文学論のところで、文学に志す人の心がまえとして、余暇の大部分をこれにささげる用意がなくては難しいとあったのが肝に銘じた。そしてどんなに苦しくとも毎日、ある時間はこれに割こうと決心する。私に創造的才能があるとは思わないけれども、どうしても筆を通して言わなければならないものがあると信ずる。  二月十三日[#「二月十三日」はゴシック体](土)  午後前原さん来たり二時から四時半迄宗教—信仰について語る。彼女依然暗中模索しつつあるも、前より一段と進んだことを見出してうれし。神を求める他生きる道なしと自覚するはすでに救いへの一歩であろう。 「寄宿の生活は丁度動物の集りのようなものだ」と彼女は言う。私も一昨日行って見て精神的なものにうえかわいた欠食児童の集りのような印象をうけた。神を知り神によりたのむ喜びに生きる幸を持つ人の如何《いか》に少きか、それを求むる人々に対して我は如何になすべきか、を思わずに居られぬ。  川西|瑞夫《みずお》ちゃん(1)今朝四時腸チフスにて召さる。寿雄《ひさお》が助かった経験あるだけに人ごととは思えず家中大きなショックを受ける。この世に在るには勿体《もつたい》ないような美しい生涯であった。  生と死の厳かさを思うにつけ、現在のこの世での生活を一瞬もおろそかに出来ぬことを思う。  三月十一日[#「三月十一日」はゴシック体](木)  うららかな日、日中ヴェランダにも陽がさして10℃近くなる。物置から大きな箱を探して来て手紙類の整理をする。勉強は栄養と外科。  父上七度七分、昨夜風邪を召したという。  両親の先ももう決して長くは望めぬことや、私自身の身の上も、このような呑気《のんき》な時代はもうそうは続くまいことをこの頃時々考える。人生の悲しみや苦しみや戦いにぶつかることを決して恐れてはいない。いないが、今のこの呑気な日々を、その瞬間瞬間を、心のかぎり感謝し、心のかぎり味わい、心のかぎりよく用いたいと願う。若さと時と力とを大切にしたい気持がしきりに湧《わ》く。それとともに今の中に親やきょうだいに仕えて置きたいと願う。  三月三十日[#「三月三十日」はゴシック体](火)  一家|揃《そろ》って箱根へ行く。湯本で荷物を置いて小湧谷《こわくだに》まで電車、あとは徒歩で元箱根迄。全山の木々はうぶ毛の如く萌《も》え出《い》で、桜の蕾《つぼみ》は正にはち切れんばかり。一輪二輪咲きそめたのがあった。細い先が赤らんで子供の手のようなもみじ葉、小さな鈴がいくつもならんでこぼれおちるような花、枯葉の中から顔をのぞかせるすみれ——  ふじやで昼食、考古館を一めぐり、例の石内老人の説明に昔の思い出、心にうずく。  かえりは旧東海道を通って湯本へ、古杉に新しい緑の葉がふさふさとたれ古い茶色の葉と美しい対照をなしていた。つばきの花の色どりもあざやかであった。湯もとに近づく頃日が暮れそめ、全山一時に息をひそめ、あおいもやがたちこめた。その中にひとりうぐいすがほのぼのと歌い出した。  三月三十一日[#「三月三十一日」はゴシック体](水)  あふるるにまかせる湯に浸る luxury〔ぜいたく〕には驚く。雨そぼふるためきょうは午前湯本を辞して小田原で昼食、一路東京へ。  母上がどうやら風邪が治って来られて何より有難かった。明日からの禅修業にそなえて『国民の日本史』で鎌倉時代の仏教のことをよむ。政治的な権力と一切結ぼうとしなかった道元《どうげん》の風格に強く惹《ひ》かれる。  五月一日[#「五月一日」はゴシック体](土)  午後報国会をサボッて歯医者(お茶の水高等歯科医専)へ行ったらやすみだった。本郷で南江堂にギルマンの有機化学の本の代を払って来る。重い荷物とひどい風とに疲れてかえる。よるは母上とし子舞踊の会へ、父上と私は居間で相変らず『国民の日本史』をよむ。  あらゆる心身の分泌がとまってしまったかのような乾ききった感じ、よくねる。  小川正子(2)が死んだ。新聞——しかも朝日のみ——の片隅に小さく報ぜられたるのみ、感慨にふける。  五月二十七日[#「五月二十七日」はゴシック体](木)  卒業がさ来年の三月にのびるかも知れぬという。今度の専門学校長会議で定まるのだろう。そうだとすると一層それまでにせめてたまっている材料だけでもまとめたいと思う。私は今迄学生生活をのばして普通の人の「生活」の大部分をまぬがれている。それはずるいことでもあり、「損な」ことでもあったろう。「贅沢《ぜいたく》」でもあり「反自然」でもあったろう。しかし無意味なことではない、であってはならない。生活を暫《しばら》く失礼して勉強させてもらえただけそれだけ学問と芸術に負い目があるのだ。ただ道楽に今迄勉強したのではないのだ。どうやって学問と芸術に、ひいては人生に御恩返しできるか、それが私の問題だ。結婚も、これを無視したものであってはならない。それで、結婚問題も、もう一寸《ちよつと》待って下さい、と言いたい。 『竹澤先生という人』という作は垣間《かいま》見ただけでも強い印象を私に与えた。ああいう種類の書きものがあってもいいということを私に教えた。  私は頗る主観的なまた特有な bias〔性癖〕を持った人間である。故にごく限られた特殊な世界しか描けない。しかしそれを何も恐れたり卑下したりする必要はない。ある一方の方向で達し得た深さのぎりぎりまで徹して書きあらわせば、私は私なりに、人生の一面はあらわせる訳なのだ。きょう『アミエルの日記』がふとなつかしくなって繰っていたら、人間は何でも自分に欠けているものを強調する傾向があると書いてあった。観念的な人間は具体的なことの重要性を説くものだ、とあった。何だか自分のことを言われているような気がした。不得意なことを強いてやろうとしたり自分の教養にあいている孔《あな》を何もかも埋めようとしてあまりあくせくするのはもう止めようと思った。書くことも、自分の本領を、自分らしいことを書こうと思った。  六月二十日[#「六月二十日」はゴシック体](日)  朝六時。ああこの落着いた、静かな、広い、みちたりた、母の如き気分!  善良になろう、愛に於て深くなろう、あの一寸ばかりユーモアをふくんだやわらかな、弾力ある、黙々としてすべてを包んでしまう母の愛を宿そう、と今朝ほど深く強く希《ねが》ったことはない。私は自分の裡《うち》なる「女」をもっとも美しく強く生かそうと願う、それを何よりも願う。  かかる母の愛を以てあらゆる女があらゆる人を愛したら、世の中には不良児も、不良青年も、危険思想も気狂いもなくなるだろう。そして誰よりもまず女ら自身が救われるのだ。  愛情の生活ほど人間にとって根本的なものはない。フロイドのような言い方をすると胸がわるくなるけれど、彼の言う事には本当の事が沢山ある。自分の過去や Hy.〔ヒステリー?〕の人のことなど思うとつくづくそう思う。  大なる母! 私はこれをめざして行こう。アンナ・ブリントン、野村お母様、キャロライン・グレイヴスン(3)などみなインスピレーションだ。   善良になることを恐るるなかれ、   愛し過ぎることを恐るるなかれ、   むしろ右の足らないことを恐れよ。  六月二十七日[#「六月二十七日」はゴシック体](日)  一日中家にいてお客様の御接待や、隣組のことで暮した。午前中嘉治さん(4)が栄子ちゃんをつれて見え、私が栄子ちゃんと遊んでいる中にTの件望み薄の事を伝えらる。午後から森脇《もりわき》さん、淑子さん、耐ちゃん、後藤さん、見ゆ。父上に意外なる地位(5)のオファーあり、一同奇跡的だとの感に打たれる。この際勇猛心をふるい起して日本のため最善をつくされるようおねがいする。しかし私はこのために小さな愛の行いをかくれてする事が難しくなってしまったのが悲しい。何々のお嬢さんが……と喧伝《けんでん》されるようでは何もしない方がいい。しかし今はそんな自分の事を言っている時ではない。一家してあらゆる場合を覚悟して父上の新しき門出をお送りせねばならぬ。危機にある祖国のためだ。もう新聞社からうるさく言って来る。その撃退役その他で明日は学校を休むことにした。母上にも伊香保《いかほ》へ至急報で明日おかえりを願う。 「こういう事になるとつくづく人生というものを考えちゃうね——」  寿雄はこう言って夜、縫物をする私のそばで長い間|昂奮《こうふん》して話していた。父上も今夜は睡眠剤を服《の》まれた。  波は打ちよせ打ちかえす。その中に永《とこし》えに屹立《きつりつ》する巌《いわお》よ、我らを守り給え。  七月十七日[#「七月十七日」はゴシック体](土)  最後の授業。  前原さんと岡山行(6)の支度の買物をする。  夜八時八分の汽車で父上御帰京、思いの他お元気でうれし。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]   新聞記者と、電話と、   お茶と、煙草の煙と   地方行政と傷病兵と   生産拡充の話あふれる客間から   ふとぬけ出してヴェランダにたたずめば   こよいは十五夜の月   しずかにひとり照りてあり。   庭の大きな松はあゆ色のかげたゆたう中に腕をしずしずと伸ばして   あおい、白い光を   ひとつひとつ針の中にふくませている。   ずっと前、この家が悲しみとくらやみに   沈んでいたときにも、   月よ、あなたはそうしてこの松を照らしていた。 [#ここで字下げ終わり]  尾崎喜八の詩集、蓮月尼《れんげつに》の本、仏教入門の本等をもとめて来た。この頃詩心しきりに湧く。単に湧かせておかずに、少し勉強しようか。  七月三十日[#「七月三十日」はゴシック体](金)  この頃は毎日一時間位宛バッハのトッカータを勉強している。楽譜の始めに書いてある解説でさえ今迄《いままで》ほとんど読むこともせず、ただ出たらめに見境もなく弾きなぐっていた自分の幼稚さに呆《あき》れる。音楽に対しての私の態度は丁度野蛮人程度だった。この年になってやっと少し自分の受ける感じもはっきり意識するようになり従って人の意見や鑑賞にも関心をおぼえるようになった。発育のおそいのに驚くほかはない。しかし負け惜しみを言えば、こうして全く新しい未知の世界が段々と目の前に開けて行くのだから楽しいと言えば楽しい。丁度小学生のような気持で毎日胸をときめかしつつ少しずつ新しいことを教わっている。(……)  きょうは朝、外科を四十頁。夜診療から帰って来ると疲れていて動くのもいやな程であった。クリニークはおもしろいけれど、こんな事ではクリニケル(臨床家)たるは難しいかしら。  八月二十一日[#「八月二十一日」はゴシック体](土)  朝七時半、ゆうべ「愛生園見学記(7)」をノートにちゃんと書きはじめた。書く時間がもっともっと欲しい。  今朝は御飯前またベルグソンをよんだ。ここでの日課の一つ。哲学を読む事は一生止めまい。哲学は思考硬化を防いでくれる。たえず新鮮に「自分の頭で」ものを考えさせてくれる。思索のためには哲学、感性のためには詩が絶えず血液の循環を新たにしてくれるのだと思う。固定化してしまうこと——これが如何《いか》なる方面についても私のもっとも恐れるところである。  八月二十七日[#「八月二十七日」はゴシック体](金)新潟  朝十一時母上と寿雄帰京。  町を少し歩いて見る。道の幅が広く、人がのんびりしていてよい。  今村内科を一通り読む。合間にドイツの詩をたのしむ。父上のかえられる毎に縁側でお話する。夜は海からの風が庭を通りぬけて涼しい。浴衣《ゆかた》がけで芝生の上に下りると星が空一めんに輝いている。柿、梨、西洋梨に、ざくろ、はたんきょう、いちじく等が実り、なす、トマト、とうもろこし、お菜類、豆類等が育ち、さまざまの花の生うるこの庭は散歩にもまた楽しい庭だ。  気焔《きえん》をあげたあとはいつも淋《さび》しくなる。えらそうな事言っても自分は普通の女の子でしかないのです、と誰にともなく言ってかんべんして貰《もら》いたくなる。私はナイチンゲールやジャンヌ=ダルクではない。出来ることならこの使命感から解き放たれて、平凡な静かな、女としての生涯を送りたいと思う。私は昔から家にいることが好きで弟妹たちの世話したり、台所をしたり、縫物したりする生活が好きだった。そしてそうした世からかくれた女の生活の尊さを誰よりもよく知っている。  しかし——しかし——自分の生涯は自分のものではない、自分で好きな様にする訳にはいかぬ。みんなお委《ゆだ》ねしよう。  八月二十八日[#「八月二十八日」はゴシック体](土)  果してお前は耐えられるか、欲の多い、弱いお前に? こういう囁《ささや》きに対して答える術を知らない。一ばんの障害は常に自己だ。  大きな桐の葉が折紙を切りぬいたように青空に黙って風にゆれている。その向うに柳の細い葉がしだれてなびいている。山鳩が鳴いている。  朝書斎の窓からこれらのものを眺め、まだひえびえした空気の中で長島以来のことを考え続けている。私は英雄ではない。また霊感《インスピレーシヨン》はたえず続くものでもない。 「あんまり考えない事ですな、考えていると結局何もしなくなっちゃうからね」 「要するに熱意がまだ足りないんだな」  立川先生はこう仰有《おつしや》ったっけ。  一日かかって耳鼻科を一通り見た。90F[#F度]の暑さ。  夜父上にイタリヤ軒にて御馳走《ごちそう》になる。  夜は大空には星が無数にちらばって海の風に吹かれ、庭は虫の音にあふれる。ひとりおきて涼しい夜気の中で勉強しているのは楽しい。  九月八日[#「九月八日」はゴシック体](水)  ゆうべ一時に就床して今朝三時半にはもう防空訓練のために起床。睡眠不足で一日中ふらふらした。学校は朝一時間だけで、午後からの一時間をさぼってかえり少しねむった。今村内科を見る。夜浦口さんが農園のかえりに寄って下さった。長島の事をよろこんで下さる。あの人の苦労からくらべて私の生活のあまりに楽なのに勿体《もつたい》ない気がする。  だのに、例の底知れぬ自己嫌悪の念に襲われて今日は一日中生くるに耐えぬ感じで暮した。外側の出来事や行動に自己を忘れている時は要するにごまかしているのだ。私はこのあわれなる自己に面接する時、誰にも逢《あ》いたくなくなる。誰とも口をききたくなくなる。  しかし自己をもあるがままに忍ぶこと。そしてそれ以上相手にしてやらぬこと。  十月二十七日[#「十月二十七日」はゴシック体](水)  烏山《からすやま》へついた時駅で井上さんのお母さまにお逢いした。苦しみのために謙虚にせられた人の姿を見た。美しいと思った。  農場への途《みち》をひとりのらりくらりと歩いて行くと運動スカートに素足、運動靴のいでたちに如何にもふさわしく、自分が何だかいたずら小僧か何かになったような感じがして、まるで小馬のように、この秋の陽の中をかけ出したくなる。くろぐろとかえされた土、目がさめるようにあおい麦の葉、そのずっと向うに、おいでおいでをしているような白いすすきの穂の一むれ、時々かすかに、さやかに、すだく虫の声。井上さんの小母様にお逢いした故だろうか。遠いひとむかしの頃、このむさし野の秋に味わったあの味がまざまざとよみがえる。さんざんまわり途して、さんざん大人になって、そのあげくまたもとのところへかえって、もとの子供の、というより、人生の門出に立って、前に横たわるものの複雑さに目を見はる adolescent〔青春の〕なる自分にかえった様な気がする。 「コルネリ」出版の約束に答えるべく、今夜中に一通り目を通す。日本文としての完全さを期せんとすれば原文を意訳せねばならないディレンマに陥る。結局、なるべく原文のままに訳して、なるべく日本文としてみっともなくないようにと心がけて見た。しかし何ともぎこちないことだ。  十二月二十四日[#「十二月二十四日」はゴシック体](金)  ゆうべは一時頃まで父上母上とお話していたので、それから殆《ほとん》ど徹夜で耳鼻科をやった。それでもどうにか済んで今年もこれで学校おやすみ。帰って昼寝。夜も早寝、明石さん(8)から借りた有島武郎『迷路』をよみ、キリスト教から離れた当座の著者の魂の姿を見る。たとえいかにぎこちないものにせよ、人間の心はこれを統一する何等かの原理がないとめちゃめちゃに混乱するほかないのがよく描かれている。一旦《いつたん》解放の快を叫んでも、その先に待っているものはやはり屈辱にすぎない。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 スイス時代より家族ぐるみの親交があった川西実三・田鶴子夫妻の子息。『みつばさのかげに』(みすず書房)の著書を残した。川西田鶴子は三谷隆正の妹。   2 小川正子(一九〇二—一九四三)     長島愛生園の医師。体験記『小島の春』がベストセラーとなり映画化された。   3 ペンドル・ヒルで一時期同室となった英国・ウッドブルック大学教授。出会った当時すでに七〇歳近くであったが、強い存在感に美恵子は惹きつけられ、「C・グレイヴスン」と題した詩篇(『うつわの歌』所収)をあらわした。   4 嘉治真三。経済学者。元東大教授。父多門の文部大臣時代の秘書官。   5 新潟県知事・北陸地方行政協議会会長   6 美恵子は岡山県長島にあるハンセン病の国立療養所・長島愛生園に同年八月五日より一二日間滞在した。   7 『遍歴』所収。   8 東京女子医専での同級生、明石み代。生涯にわたる交友が続いた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四四年     (三〇歳)  一月二日[#「一月二日」はゴシック体](日)  Yさん昼飯に見える。Yちゃんも話に来た。午後三谷先生をお訪ねすると御|病臥《びようが》中。  昨日言ったような行動と血と涙をきょう読み終えた宮沢賢治に於て見出す。日本にかかる人物の生まれし事のうれしさ、ほこらしさ力強さ。しかも何と日本人らしい歩み方であろう。 「世界ぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」 「世界に対する大なる希願をまず起せ」 「つよくただしく生活せよ、苦難を避けず直進せよ」 「いまやわれらは新たにただしき道を行き、われらの美をば創らねばならぬ」  以上のような言葉をよみ、宮沢賢治の生活の跡を辿《たど》って自分のインチキさ、不徹底さを耐え難いほど恥しく感じた。何とかして自分のインチキ性と徹底的に戦い、「苦難を避けずに直進」出来るよう今年は努力しよう。殊に今年は卒業して、その後の道を決定せねばならないのだから重要だ。  そして宮沢先生の言うとおり、自分の精力の一滴たりとおろそかに費さぬこと。  私のわるい点——   自らを甘やかすこと、   人の前に、自分を実際よりよく見せること。   自分の主観的な感じをしゃべりすぎること。  二月十八日[#「二月十八日」はゴシック体](金)  三谷先生が逝去されたとの報せを告げるとし子の声に朝眼をさました。私の唯一の精神的恩師も遂に地上より去り給うたのか。先生よりどれだけ導かれ、先生にどれだけ御心配をおかけしたかと思って呆然《ぼうぜん》とする。昭和十年以来頂いている数々のお手紙を読み直して朝を過した。午後花を持って三鷹《みたか》のお家へ伺う。先生は、いつもよりふくよかなお顔をして静かに眠っていらした。かすかなほほえみさえ頬《ほお》のあたりにただようていた。そばに坐《すわ》っていらっしゃる小母様に向かってお辞儀をした時、 「小母様、先生にはいろいろお世話になりました。何の御恩報じも出来ませんでした事をお許し下さいませ、これから一生懸命にやります」こんな言葉が思わず涙をついて出た。そして、居たたまれなくなって、大急ぎで外へ出て来てしまった。  家の中は、先生を慕う人たちで一杯だった。去りかねて、廊下の壁にもたれて泣いている女の人もいた。学生や先生も沢山いた。先生の人格的感化はどれほど広く深いものであろう。お弟子の一人に加えて頂けた幸せを思う。たとえ先生の仰せ通りに(精神科をやらないで)結核へ行く事が出来なくとも「多気に誘わるる勿《なか》れ」とのお言葉を守って一旦えらんだその途を死守して御恩返しをしようと心に誓う。玉川上水の流れに沿うてゆっくり歩いて帰った。  二月二十日[#「二月二十日」はゴシック体](日)  小さい時からの自分を眺め直して見て、現在の自分のあらゆる芽がそこにあるのに驚く。ただ一つの Symptom〔症候〕さえ偶然にはあらわれぬのを見ると、人間の性格の構成というものの厳しさに打たれる。非常に微妙で複雑ではあるがそこには原因結果の厳密精確な法則が働いているのだ。これを完全に把握することなど絶対に人間には不可能であろうが、少しでもより精密に究めわきまえて、人の成長を助けることが出来たらと思う。  午後一時から三谷先生の告別式、矢内原《やないはら》先生(1)司会、常雄|叔父《おじ》様(2)祈祷《きとう》、守谷英次氏、南原繁《なんばらしげる》先生(3)御話。川西小父様(4)が略歴をお読みになった。三谷小母様はやせて、泣いていらした。  二月二十二日[#「二月二十二日」はゴシック体](火)  内村先生(5)が一度話に来いと仰有っている由とし子から聞く。父上御出立、戦局重大につき地上で再びお目にかかれるや知れず。  二月二十三日[#「二月二十三日」はゴシック体](水)  午前休んで内村先生に御面会し、九月に入局と決定、少々気焔をあげすぎておもはゆい。後明石さんと一緒に島崎先生(6)とお話した。先生は私の事を Philister〔小市民〕と仰せられ、後に Urmutter〔母なるもの〕と訂正された。Urmutter は私のかねてより理想とするところなれど現実は Philister だ。  運命が決定したかと思うと呆然として何事も手につかず。ああこれで私もこの世につながれてしまったのか。しかし一面、私のあらゆる力をのびのびとのばせそうな働き場を得てこの上もなく楽しく、将来の仕事の幻が限りなく湧きのぼる。おかげで今夜は眠れず、今、朝の四時だというのにまだ下にいる。酔よ、早くさめよ、試験が近づいているではないか。  二月二十四日[#「二月二十四日」はゴシック体](木)  昨日内村先生の仰有ったこと [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、家庭に入っても医学を捨てぬような方法を考え置くべきこと  一、仕事を中途で放り出さぬこと  一、少くとも二年間はアナムネーゼ〔既往歴〕とりから叩《たた》き上げること  一、臨床か研究かどちらを主にするか [#ここで字下げ終わり] 「女医一般論」らしく全体としてお話に少々とんちんかんの感あり。  三月二日[#「三月二日」はゴシック体](木)  午前授業なし、まだ空襲もうけずに、こうしてこの明るい勉強部屋に静かに机に向い居るふしぎさ。  ペンドル・ヒルで書いた�The Attitude of Christian Faith(7)�は大体に於て依然私の信仰の表白——たとえその傍らに、この信仰を客観視するもう一人の自分が存在しようとも——だと思うので、秋山さんに頼んでタイプの清書をして頂く事にした。私が衝動的に、無意識に行動している時はやはりこの信仰に立って行動しているのだと思う。そして、我にかえって、冷静にこの信仰や行動を反省し解釈し、批判するのはもう一人の自分だ。そういう時には、自分の信仰なるものも、行動も、要するに、一つの生物学的心理学的現象なりと観じ、それについて何の普遍妥当性をも論理的には[#「論理的には」に傍点](哲学的には)要請し得ないことを認める。そしてかく認めることに依て、一つの安心を得るのだ。大ぜいの人間の中に於ける自分の位置を見出し、そこに納まることが出来るのだ。こんな変な system があるだろうか。私だけだろうか、こんな分裂した意識内容で生きているのは。とにかく仕方がない、こんな風に出来てしまっているのだから。  漸《ようや》く落着いて勉強が出来るようになった。同時に、自分の中に、自分のもの[#「自分のもの」に傍点]を生み出したい衝動がうちにみなぎる。今まで勉強したこと、これから勉強すること、それらすべてを、自己の[#「自己の」に傍点]生命に依て燃焼せしめよう、女であって同時に「怪物」に生まれついた以上、その特殊性をせい一杯発揮するのが本当だった。男の人の真似をする必要もなければ女の人の真似をする必要もない。かと言って中性で満足しようとする必要もない。傍若無人に自分[#「自分」に傍点]であろう。女性的な心情も、男性的な知性も、臆病《おくびよう》な私も、がむしゃらな野心家の私も、何もかも私の生命に依て燃やしつくそう。誰に遠慮する必要あろう。女学校時代の活動的な、思いあがった、知識欲の悪鬼にとりつかれた自分、病気時代の pietistic〔信心ぶった〕な、おどおどした、この世ばなれした自分、医学修業時代の現実的ながむしゃらなそして一面文学の表現などという事に気をとられる自分、それはすべて私なのだ。私を構成するいろいろな面なのだ。それらの矛盾を気にして、徒らにその面のどれかに自分を局限しようとしてあせるのは止めよう。あんまり沢山の面を持っているから人にも自分にも不可解なのだ。が、不可解だっていいではないか。説明癖に毒されるな。自然現象の一つとしてお前はこの大地に生み出された。お前の中を流れる生命は大自然の生命なのだ。その中に蔵される複雑な 殫pigな〔うっ蒼たる〕茂みを、誰が一々分析し、解釈し得よう。まだまだお前の中には意識されずに眠っているものが沢山ある。これから先、またどんな自分の新たな面を発見するかも知れないだろう。さあ、その大なる生命のおもむくがままに、のびのびと生きよう。あのバンビのように、大自然の森の中をかけずりまわろう。そうして、たえず新たなものにぶつかっては驚き、感じ、考え、成長していこう。そうしてこの大なる生命の歌を歌うのだ。個々の行動や文学的|乃至《ないし》学問的産物は、この大なる生命の一面をとらえ、これを人間の心や頭で解釈し具体化しようとする試みに過ぎない。しかし生命そのものは、そうした固定化を拒み、これをはみ出して、どこまでも前進し、飛躍して行くのだ。  こうした自覚をはっきりさせることが出来たのは先生のおかげだ。何だかただ先生を利用しているようで申訳ない。自己弁解めいたことを言われるに至ってはこちらが恥入ってしまう、先生の御生命のために、何とかお役に立てたらと思う。先生も、あまりにいたいたしすぎるではないか。(……)  かいかぶられる私、かいかぶられるような種を与える私、悲しい事だ。そして幻滅されて苦しむのはやはり私ではないか。  ひかえ目に、ひかえ目に。自己の存在をかくすようにつとめよ。  人のこころというものは早くから一貫して私の興味の対象であったことを改めて認める。しからばこれが私の専門だったのか、と今更考えて見る。  三月十九日[#「三月十九日」はゴシック体](日)  朝眼をさましたら窓から綿のような雪をかぶった松の枝がのぞいていた。その間から青い空の一かけものぞいていた。  昨日はぼやぼやしてしまったからきょう一日で三人の先生の内科を片づけなくてはならない。だのに今、とし子の部屋に陣どって机の前にすわって見ると、窓外の雪景色の美しさと、その上に輝く陽の光のうららかさに心と眼を奪われてしまう。  どんなに人間や人生に悲しい面や汚い面があろうとも、私はやっぱりそれらの中から美しいもの浄《きよ》いものを昇華して、それを歌って行きたいとけさあらためて強く強く希《ねが》った。汚いものや悲しいものをさえ、そのままうけ入れてこれを消化して、美しく浄いものに作りかえるほどの広さと深さを持った人になれたら! 霊魂が肉体なしには存在し得ぬと同じように、善もまた悪を克服しての善でなくては力がないのだから。そして克服ということは、避けることでも拒むことでもない。受け入れて、こちらの cause〔大目的〕のために利用してしまうことだ。ミルトンのサタンのように、悪にもああいうたくましさと勇ましさがある。それをこちらのものにしてしまうのだ。所謂《いわゆる》動物的な生物的な力をも動員せずに、何が成ろうぞ。  ああ雪よ、雪よ、雪よりも白くとの昔ながらのあの希いをあわれめ。  三月二十日[#「三月二十日」はゴシック体](月)内科試験  理想に向って励んで行く勇気を致命的に挫《くじ》くものは外側のものではない。内側の確信の崩れて行くのが一ばん恐ろしい。自らおかした失敗にもめげず、その失敗の結果を雄々しく負いながら、更に高いものめざして立上って行こうとする人を誰が蔑《さげす》むことが出来ようぞ。  四月二十九日[#「四月二十九日」はゴシック体](土)天長節  久しぶりで目のさめるような陽。やっと風邪が治った。その陽を浴びつつカロッサを読み終え、その後味の持っていきどころに困ってバッハを弾く。あの世界からの呼びかけのように感ずる。  医者を業としながら、この世界に呼吸していたカロッサ(8)という人の存在が慕わしい。シュヴァイツアにないやわらかさと陰影と、詩と渋味がある。  シュヴァイツアにせよ、カロッサにせよ、自然科学者ではない。医学には専ら仁術として、人に働きかける媒介としてたずさわったのであって、学問としてこれに貢献せんとした訳ではない。それでよかったのだ。あの人たちに統計をとってもらったり実験に没頭して貰《もら》ったりして何になろう。誰がそんなことをあの人たちに期待しよう。それだけの精力と時間とは、悉《ことごと》くあの人たちの独特の精神的な使命に用いられねばならなかったのだ。二人とも、自然科学者に生まれついていなかった。しかもなお、医者として必要な資格を備うるためにどんなに忠実に勉強したか。また医者としてどんなに献身的であったか。それを思うと身がひきしまる。  臨床家として人に働きかけ、精神的な仕事は文章を以てする——こうした行き方がこの人たちには一ばんふさわしかったのだ。  須田先生に申上げたように私の自然科学者の素質は極めて乏しい。また学者としての天分も少いのではないかと思う。ただ勿論《もちろん》自分の専門に関しては能う限り勉強して行くが、新しい業績を以て学問に貢献することなど恐らくないのではないかと思う。やっぱり私は最初の動機の通り、専ら人を愛する道として医学にたずさわればそれでよいのだ。そうして私独特のものは、やはり文章を通して、恐らく文学を通して現わすべきものなのではないかと思う。  今後二年間の中に、こうした見通しが正しいか否か分るだろう。  六月五日[#「六月五日」はゴシック体](月)  登校前のひととき診断学の本を開くと常々|枝折《しおり》に使っていたスイスのシャレーの絵葉書がパラリと落ちた。拾いあげて眺めているとこの見慣れた絵が今朝はふしぎな力を以て心に迫って来て、眼頭が熱くなった。その気持を表現したくなる心を無理に抑えて家を出たが橋のあたりへさしかかると、どうしても我慢し切れなくなって再びとってかえし、疫学の講義をきいている筈《はず》の一時間我を忘れて筆を動かした。一切の時と場所とを超えた、楽しい一ときであった。ポリクリ(今村内科)に間に合うように学校に行き、二人の入院患者を割当てられて廻診《かいしん》に行く。医局員と思われて頻《しき》りに礼を言われるにはいささか赤面する。夜は神妙にクレンペルをよみ肋膜炎《ろくまくえん》について呉内科やレントゲンの本をしらべる。論文も少し。  昨日Y子さんからこの間の詩を要求されて断りながら考えた。MちゃんやY子さんたちは私の全活動が病人のためにあり、特に私の書くものがすべて病める人たちの、あるいは更に一般の人の励ましになり慰めになるべきもので当然あることを期待する。そうした期待は時に甚だ重苦しく感ぜられ、あるいはこれに対して反撥《はんぱつ》に近い心を起させる。  altruistisch〔利他的〕な衝動とともに純粋な wissenschaftliche od. aesthetische Triebe〔学問的又は美学的衝動〕が私に存することを彼女等は知らぬ。また一般にクリスチャンはこうしたものの存在を許さないしみとめない。ああしかし、私はこれらなしではちっ息する。全然目的なしに、ただ、知ることそのもののよろこび故に知を求め、美しさそのもののたのしさ故に美を追求する。そうした世界へ時折逃げ去って人の世をも、人をも一切忘れて、放棄して、生命の洗濯をすることが許されなかったら到底息が続きそうにもない。  私がもし何か研究したり、創作したりしたとしても、それは決して「人類のために」などではない。そうであって欲しくない。学問や芸術の世界に於ける活動は、極端に言えば、人生へ及ぼす影響など考慮していないでよいのだ。少くとも私は自分が書くものが人にどんな力をおよぼすか知らないし考えたくない。(それは批評家・評論家が考えてくれる。そうした意味での取捨選択は彼等に任せればよい。)人のためになろうと思って書かれた作品に、文学的価値の高いものなど何時あったか。後世の人は、ある業績に、ある作品に、人類学的な動機や意義を付すかも知れない。それはどうでもよいことだ。しかし、創る者の心は知る人ぞ知る。  真と善と美と、最高のところでは融合すべきであろう、がゆめいいかげんなところで結び合わせてはならぬ。それは各々の貴さを低めることになる。純粋に、純粋に、それぞれは追い求められねばならぬ。  しかしこんな事を下手に言ってY子さんの如き心を痛めてはならない。お前は何故そんなに Takt〔気転〕がないのだ。   愛の生活     → 善   知識の探求    → 真   芸術の創作と鑑賞 → 美  この三つを与えるには私の生命力は耐えないかも知れない。しかしこれらの存在をすべて素直に認める他ないことも段々分って来た。  六月六日[#「六月六日」はゴシック体](火)  ゆうべ床の中で「宮沢賢治素描」を読んであの人の独身をいいなと思った。人類愛と学問と芸術とに一切の力を昇華しつくしてしまおうとするゆき方は、それがあまりひどい無理や破綻《はたん》や浪費なしになされ得るものならば、そうして、そうした方面で、その人間の与えられている天賦が並々ならぬものであるならば、理想的な道の一つなのかも知れぬ。彼が Geschlechtstrieb〔性欲〕を克服するために一晩中牧場を歩きまわって来た時の態度や言葉に、一つの透徹した信念とそれに基く問題の解決を見る心地がする。彼は G.〔性〕の事についても広く読み深く考えたという。正々堂々とこの問題に取組んで、自らの態度を決したのだ。そうして人間として何等|畸型《きけい》に陥ることなく、自分のあらゆる力を使命にそそぎつくす道を歩み得たのだ。  私にもこの道を歩むことが許されたら! と思う。  七月十一日[#「七月十一日」はゴシック体](火) 「自分からこわれる、自分からこわれる」  そうつぶやきながら今にもおえつ[#「おえつ」に傍点]しそうになる唇をかみしめて私は昨日新宿の通りを歩いていた。「こわれる」とは理想のことを言っているのだった。医師となって人につくすという理想を日々具体化する夢も、現実となって見ると、やっぱりはかないものだった。まず第一にその夢をこわすものがこの自分だ。心身ともに弱すぎる自分、醜い自分——この自分から何のよきものが出よう。  理想主義を嘲笑《ちようしよう》するものはまずこの自分の裡《うち》にありと思うと泣いても泣ききれない。人の心の醜さにもこの頃いい加減悲しい思いをしている。けれどそれ以上に自分が情ない。  けれども、この傍のあじさいの花の色の清らかさはどうだ。  今弾いて来たバッハのトッカータの音の深さはどうだ。  そうしてあそこの本棚の詩集には、どれにも純粋な魂の躍動がみちみちている。  泣くな、泣くな、うなだれるな。木々の梢《こずえ》をわたる風の音もそうささやいている。  九月一日[#「九月一日」はゴシック体](金)外科試験  今朝二時間近く眠ったきりで、やっと外科上、中、下巻及び総論に目を通し終えた。最後に読んだ総論の麻酔のところをきかれて運がよかった。きょうもすがすがしい気持で帰る。前原さんのところにより注射薬を置き、山北、福島さんの卒業後の方針について相談に預り、二時頃帰宅。水風呂へ入り御飯を食べたらY子さん来り夕方迄話をきく。明石さんから電話あり。  ほら[#「ほら」に傍点]を吹かぬこと、何でも、なるべく控え目に言うこと、人から買い被られることのないように極力努めること。  真左さんの英文抄録を直しただけで床に入る。中村|星湖《せいこ》のロマン・ロランに関する文を読んだ。五十になって漸《ようや》く認められたこの人の忍従と理想に忠実な生活を尊く思う。彼がまだ無名の一青年に過ぎなかった時トルストイに手紙を出したら三八枚の返事を貰ったという。その中の言葉—— 「すべての真の職業の先要条件は芸術に対する愛ではなくて、人類に対する愛である。かような愛を以て満たされた者のみが芸術家として為すに値する何事かを為すに適するであろう」  九月二十二日[#「九月二十二日」はゴシック体](金)  昨朝東京を発《た》って夜七時新潟へ着いた。車中では松本|亦太郎《またたろう》『心理学史』を読了。最後の章で日本に「心理学界という学問的ふんい気」を作り上げる為の同氏の苦心談を最も興味深く読んだ。この著者は決して明晰《めいせき》な頭の人でも独創性のある人でもないらしいが——この本の文章の読みづらいこと、退屈なこと!——結局そういう仕事には「ねばり」さえあればよかったのだろう。だがこの人の傾向故に日本に最初にもっとも根づよく植えつけられたのは実験心理学のみだったという事になった。  幸い中耳炎もズルファミン剤でどうやら出鼻を挫いたらしく昨日から耳痛も熱も殆どない。(……)  車窓から見た三日月と金星の美しさ。  九月二十四日[#「九月二十四日」はゴシック体](日)  山のように澄んだ空。庭の松のかげの色は泣きたいほどの清浄さだ。お炊事を済ましてこの書斎に入るともう静寂と美の世界。風のそよぎわたる毎に木々のさやぎ、草のしなやかなおどりに目と耳を奪われる。「新潟疎開書籍目録」を作りながら文学の世界に浸り切っていた頃を思い出す。ラテン・ギリシャ・フランス・イギリス・ドイツの文学の本ばかりよくもこんなに読んで暮したものだ。何故あの頃ちっとも書かなかったのだろう。もちろん書けなかったからだ。あのせまい偏屈な宗教のために口も手もしばられていたからだ。漸くこれらの文学の世界にさまよう事によって自分の異教徒的な原始的な魂のはけ口を見出していたのだ。  ああ今こそ書ける! もうこれからはいくら書いてもいい! そう思って心配しないで書こう。ゲーテは言う—— 「こうして私の全生涯を通じて離れられなかった傾向が始まった。即ちそれは私を喜ばせ、苦しめ、または自分の心を働かせるその他のものを一つの形象に、一つの詩に変え、それに対する自分の態度にきまりをつけ、それによって外界の事物についての自分の観念を是正し、同時に内心を落着かせるという傾向である。かかる才能は、常に極端から極端へ奔《はし》る性情の私には誰よりも必要であった。それゆえ私によって世に告げられた凡ては、大きな自己告白の断片に過ぎない」『詩と真実』第七章。  私はゲーテではない。自分の書いたものが文学的な客観的な価値などを持とう筈もない。しかしもし書くことが、自己の成長の上に必要な過程なら、旧い段階から新たな段階へ飛躍して行くために必要な一つの�mue�〔脱皮〕なら、ひそかに、常に、書いていていい訳ではないか。自分に対して「きまりをつける」ために、許されていい事ではないか。誰に断る必要があろう。何の弁解が要るだろう。書くためにすべてを経験しているのではないか、というような感じさえ起って苦しめられるにしても、書くことが生まれながらのTrieb〔本能〕なら、それが自分の生きて行く形式の一つなら、正々堂々と書こうではないか。「小説をこしらえる」のではない。「文学する」のではない。単に呼吸するに過ぎないのだ。本気に、自分に対して責任を以て生きようとするにはどうしても書かぬ訳に行かないのだ。書くのをこらえていじいじと苦しむより書きまくって苦しむ方がいい、本当にそうだ。精神科へ入っても書くのは止めまい。たとえ「不純」に思えても仕方がない。「不忠実だ」とのそしりを自他から受けても仕方がない。何の目的もなく、ただ書かずにいられないから書くのだ。許して頂くほかないではないか。やっとこれでせいせいした。ただ時間の問題だけはどうもむずかしい。これさえどうにか出来たらと思う。  ね、つまり書く、ということを他の活動と対立したことには考えないのさ。生活の内容は精神病医としての仕事と学問が作ってくれる。書くというのはそうした生活の表現様式の一つに過ぎないのだもの。つまり「文学」という風に考えれば他と対立するけれど何も文学者になろうなんて考えをおこす訳じゃないのだからこれでいい筈だ。時間と原稿用紙の消費と空想のために生ずる absent mindedness〔放念〕さえ許してもらえば済むことだ。  何時も書くといえば、けちけちした合間を見つけて、何かに追われているように、「鬼のいない間に生命の洗濯」でもしているようにあわてて、数行書きなぐっているような書き方をする自分がつくづくいじらしく、いとおしくなった。もっとのびのびと、永遠に書いているような気持で書け、思う存分心にあることをみんな[#「みんな」に傍点]ゆるゆると書け。誰もお前をいじめていはしない。  九月二十六日[#「九月二十六日」はゴシック体](火)  他人のためにこまごました用をして、それだけで満足していられる女らしい女の人たちがうらやましい。一つ一つの自分の性癖に、悲劇的なものを自覚する。例えば、ものを書きたい衝動に駆られては一家のだんらんをおろそかにし、烈しい知識欲の為には世間話の相手をしている時間をも惜しんでしまう。我ままはためねばならぬ。しかし使命はつらぬかねばならぬ。この二つのえり[#「えり」に傍点]分けの難しさ不能さ。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 矢内原忠雄(一八九三—一九六一)経済学者     のちに東大総長(一九五一年〜五七年)を務める。一高時代に内村鑑三に深い感化を受けキリスト教に入信した。   2 母方の叔父、金沢常雄。キリスト教無教会派の伝道者。   3 南原繁(一八八九—一九七四)政治学者、元東大総長。   4 川西実三(一八八九—一九七八)内務官僚、日赤社長   5 内村祐之(一八九七—一九八〇)精神医学者     当時、東大医学部精神科主任教授。内村鑑三の子息。   6 島崎敏樹(一九一二—一九七五)精神医学者     都立松沢病院医員などを経て、四四年より東京医学歯学専門学校教授。母が島崎藤村の姪。精神医学者、西丸四方は兄。   7 「キリスト教の信仰の姿勢」(『うつわの歌』所収)   8 Carossa, Hans(独 一八七八—一九五六)作家、医者。バイエルンの医者で自伝的な『幼年時代』(一九二二)で知られる。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四五年     (三一歳)  四月八日[#「四月八日」はゴシック体](日)  ゆうべ一時頃|迄《まで》病歴を書いたりしらべたり、今朝また二時間ほどやって帝大へ。午後じゅう明日新患に出すクランケ〔患者〕を診ていた。夕方かえる時一時間桜を眺めながらさまよい、道を迷う。夜、二時まで腫瘍《しゆよう》の勉強、すべてを忘れて没頭する楽しさ! 家庭生活の労苦に悩み通しの母に申訳なく思う。  Psychopathische Pers嗜lichkeiten〔精神病質〕の多い家なのだから悩みはきりもないことだ。私はすぐ逃げ出してしまう。   深山の霧の如き   夕もやの中に   夢のようにほのかに、   におやかに、かろやかに、   ただよう桜の花びらよ   永き冬の眠りよりさめて   今咲きいでたる花びらよ、   きよくもあるかな 汝《なんじ》がはだえ   初々しくもあるかな 汝が頬《ほお》のうすあかみ   きよき処女《おとめ》よ、桜ばなよ、   みじかき、あまりにみじかき春の日を   美しく生きよ、きよらけく匂《にお》え   音もなくはらりと散りゆく日まで。  五月二十六日[#「五月二十六日」はゴシック体](土)  昨金曜は百田さんいよいよ危篤状態に陥り、その為七時頃迄医局にいて、本日実習学生に話す筈のフランス精神医学史を調べていた。八時頃帰宅、明朝三時におきて原稿を書くつもりでブロバリン四錠服用して寝につく。十時頃警報、催眠剤のため仲々目がさめず、気がついた時は数編隊とのしらせ、家の人はもう荷物を壕《ごう》の中に入れている最中であった。敵機二百五十機来襲、専ら焼夷弾を投下、折しも風勢烈しく、四方に火の手上がる。いよいよ逃げねばならぬとて壕にふとんを投げ込み蓋《ふた》をなし、ふとんを一枚かぶせ、水を注ぎ、泥を覆って一家|勢《せい》揃ぞろい、さて逃げようとしても何処《どこ》へ行ったらよいのか、どの方向を試みても途《みち》は火と煙の為に閉されている。漸く寿雄小さな露地づたいに東中野の駅に一同を誘導、駅のプラットフォームの下にうずくまって火の粉を避ける。長い夜も漸く明けかかる頃火は家のあたりに燃えうつって、三谷邸の高い屋根が堂々と劫火《ごうか》の中に崩れて行く姿があざやかに目に映った。かくて廿三年住みなれし家も焼け行くか、と一同直立したまま、天を衝《つ》く焔《ほのお》を見守る。なつかしき思い出の家の最期を送るエレジーでも歌いたくなる。  朝六時、やけ出されの一家が焼跡を見んとて駅を出る頃、丁度昨夜上京した大さん(1)に出会う、大さんは高田の馬場から生命からがら歩いて来られたところ、よくもめぐりあったとお互いに涙を浮べる。  なかなか煙のしずまらない家の焼跡に辿《たど》りついたのはそれから大分経ってのころ、見事に焼野原になった敷地に立って一同しばし呆然《ぼうぜん》、壕を開けようとすると煙がくすぶって出て来るので、再びこれを閉め、水と泥をかける。やがて雨がポツポツ降って来た。とりあえず避難を鳥居家に乞《こ》い、一同暖く迎え入れらる。直に頂戴《ちようだい》したおむすびの味に人の情が身にしみた。藪原《やぶはら》氏、神谷氏(2)、寺尾先生、金城氏等見舞に見える。今度の被害は想像以上に広範囲らしい。宮城、大宮御所までやられた由、私共がやられたのも当然であり、むしろ人並になってよかったという気さえおこる。誰も怪我《けが》しなかったことだけでもどんなに有難いことか。  五月二十七日[#「五月二十七日」はゴシック体](日)  朝おきる時体を動かすのがものうく、頭も呆然として物が考えられない。父上運輸局長に面会に行かれ明後日軽井沢へ発てることとなる。焼跡へ行き、無残にも焼けた二台のピアノの絃《げん》を眺め、長い間(十八年!)心の友となってくれたピアノのあの音とキイの触感を思い出して涙する。心に音楽を持てと言うお示しね、きっと、などととし子と言い合って見ても悲しいのはどうにもならない。このプレイエルには私の心が、涙が、悲しみや苦しみや喜びの時の無言の独語が、夢やあこがれとともに染み込んでいるのだ。私の生活からバッハを弾くという事が失せるなんてどうしても考えられない、耐えられそうにもない。  何もする気も出ず帰って鳥居家の二階の一室にごろごろねる。夕方に至り元気ついて女子医専へ保健婦講義を免除させて頂くようお願いに行く。博人〔吉岡〕先生御不在で副校長先生にお話する。福島さんを見まい御馳走《ごちそう》になりデルマ〔皮膚科〕の大塚さんにボチ〔ボールチンクザルベ硼酸《ほうさん》亜鉛華|軟膏《なんこう》〕を貰《もら》う。(一週間来顔面にひどいおできをこしらえていたのが焼け出された時の煙などで悪化し今は眼帯をしている。)死人のいる焼跡を歩いて帰れば七時。 [#地付き](五月三十日記)  八月十八日[#「八月十八日」はゴシック体](土)  西丸先生(3)と二人で外来をやる。私は再来、午後一時までかかった。  午後から一患者にスカビエス〔かいせん〕を発見。検鏡して成虫の存在をたしかめ得た。当直の夜|廻診《かいしん》の後日本医療団の渡辺氏と月の光の下でアメリカ医学の話。チャールス・ビヤースと mental hygiene movement〔精神衛生運動〕の話を雑誌に書いてくれ速記者をよこす、と言われる。  七時半頃医局へ戻ると全員がおめでとうと言う。父上が文部大臣になられた由(4)三時の放送にあったとのこと、公の意味でも個人的の意味でもうれしい。この二つの意味に同時によろこべるのがうれしい。八時頃嘉治真三氏より病室に電話あり。父上昨日より在京なりし事を知る。明日午前十一時から十二時までの間帝国ホテルに居るから来いとのこと。九時、丁度炊けた御飯を頂きながらニュースで、父上の抱負談をきく。�人文科学と自然科学を綜合して新しい日本文化を礎《きず》き上げる�大賛成! 流石《さすが》は父上なり! 十二時まで、百田氏の病歴整理。  父上が今度こそ真に力を発揮し得る時とところを得られたと思うと感謝と期待に胸があふれる。可哀相《かわいそう》だった父上もこれからは花が咲くのだ。何だか身を粉にしても御|援《たす》けしたい気がする。日本の行手を考えれば考えるほどそういう気が湧《わ》き立つ。ああ、そうして私自体が、真に人文科学と自然科学を綜合して、少しでも父上のお考えを具体的に実現せねばならぬ。  いい月夜だ。昂奮《こうふん》してねられそうもない。私はどこまで浮わついた人間なのだろう。どうしてこう誇大妄想的なのだろう。そうしてうかうかするとジャーナリズムの波に乗ってしまうおそれがある。せめて、あの逃げ出したくなる気持だけでもときどき起ってブレーキになってほしい。  十月二日[#「十月二日」はゴシック体](火)  先日来文部省の書類を英訳する役目をpart timeでひきうけていたが近頃ますます米国側との交渉頻繁となり、それでは間に合わなくなったので、十月一杯医局からお暇を頂いて今日から毎日文部省に出勤する事となった。父上への御恩報じがそのまま国家への奉仕になるのだから幸いだ。それから医学に於ける自分の役割につき暫《しばら》く元から遠のいて、客観的に眺められるのもいい。  十二月二日[#「十二月二日」はゴシック体](日) 「あなたのような人は結局男の人の中でやって行けないかも知れない」と西丸先生は言われる。Heiraten〔結婚〕すべきか否かはしかしそう簡単にはわからない。気持から言えばその中にY子さんや正ちゃんと一緒に愛生園あたりへ引込んでしまいたい気が頻りに起る。それでもなお問題を起すだろうか。  十年の独身生活は私の性格や生活態度を歪《ゆが》めてしまった。今更普通の女としての生活にうまく適応出来るか怪しい。出来たとしても、この十年間の勉強を全く犠牲にしてしまうのでは意味がない。  現在のままで行けば私と普通の人との間のギャップは大きくなるばかりで、やがて普通の社会や家庭生活から閉め出される——と言うより自ら閉め出す日が必然的に来る事はわかっている。だからごく現実的に考えても、もし近い将来に Heiraten の方に私をひっぱるものがなければ何処《どこ》かはっきりした処へ身のふり方を決めるべきであろう。  頭を剃《そ》って尼になったクリスチャンがあるそうだが私もそんな事がしたい。蓮月はそのようにして言いよる男たちを斥《しりぞ》けたと言う。私にもそれだけの強さがなくては駄目だ。宮沢賢治の女難に対する態度を学べ。皆それ相応の苦心をしてるではないか。「軛《くびき》」を運命と考えるか、恩恵と考えるか、自己の分不相応な理想と考えるか、あるいはたたかいとるべき課題と考えるか、その時の気分によってさまざまである。しかし結局は、自己の使命という積極的な方面から割出されねばならぬ事であろう。少くとも今まで自らえらびとった道と、その当然の——覚悟の上である筈《はず》の——結果について呟《つぶや》くべきではない。ただ恐ろしいのは知らず知らず人を誘惑してしまう私という人間の、構成である。男性に対するわなたる自分である。こればかりはどうしたらよいのか分らない。ただみ前にひれ伏して御許しを御導きを祈るばかりである。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 井深大(一九〇八—一九九八)ソニー創業者。次妹勢喜子の夫だった。   2 のちに美恵子の夫となる神谷宣郎(一九一三—一九九九)細胞生理学者     当時は東京大学理学部講師。大阪大学理学部教授、その後国立基礎生物学研究所教授。一九七一年学士院賞受賞。一九八一年日本学士院会員。   3 精神医学者、西丸四方。当時、東大医学部外来の責任者だった。   4 父・前田多門が東久邇内閣の文相として入閣することが決定。次の幣原内閣でも一九四六年一月まで留任した。安倍能成文相がその後を引き継いだが、美恵子はその語学力を買われ、東大精神科に勤務する傍ら、文部大臣官房の嘱託として約一年間、書類の英訳や対占領軍の通訳業務に忙殺されることとなった。この間のことは「文部省日記」(『遍歴』所収)にまとめられている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四六年     (三二歳)  一月四日[#「一月四日」はゴシック体](金)  Y子さん昨今昂奮状態にあり、夜中に何度もおこされた。彼女から分裂病の心理に就て学ぶところ多し。自分はやはり一生分裂病を中心として学問的な歩みを進めたく思う。この病気は私の存在自体と切っても切れぬ関係にあるのだから。今朝医局でホフマンの本の抄録を終えながらその事をまた強く思う。ホフマンやクレッチマーのこの病気に対する見解は私にとっては単なる学説ではない。私自身の生存形態が裏書する事実である。この人たちの研究の跡を深く辿《たど》って見たい。そしてそれらを血となし肉となした上で、更に私としての貢献が出来たらと思う。単なる頭脳の遊戯でなく、自分の全存在を挙げての貢献を。  例えば私は Genantinomie〔二律背反的性格?〕のよき例ではないか。この観念は私というものを私に納得行くように説明してくれる点で私にとって一つの救いだ。「きちがい」と言って嘲笑《ちようしよう》と嫌悪とを以て人が一気に片づけてしまう事実を私は身を以て苦しまねばならない。それだけにそれはそう簡単にかたづけられない気がする。「きちがい」の世界の中にもいろいろのニュアンスがある。それをはっきり見極めたい。またこの世界を土台にして人間を見たい。人生観を打ちたてたい。「健全」な人間の世界のみに住んでいる人には気づかれぬものが見出されそうに思う。  医局はまだ正月気分で殆《ほとん》ど誰もいない。エレクトロひとつかけ、進駐軍の医者に病室を見せ、あとは静かに机に向う。楽しい、この学問に精進出来る事がたまらなく幸せだ。  一月三十日[#「一月三十日」はゴシック体](水)  昨日と本日は先日の大臣対ダイク会見記録の新聞発表に関し Censorship〔検閲〕が発表禁止したいというのでその談判に放送会館へ数回行ったり、ゆうべはあれを翻訳するので午前二時半までおきて居り就眠したのは三時半という始末。この談判相手となったヘンダスン大尉(例の日本研究家のダイク中佐と同名異人なり)やダイク少将、ニュージェント中佐等はあの会見記がうまく出来ている、よく何もノートせずにあれだけ覚えているものだと頻りに言い、ヘンダスンは米国へ来て A.P. で働かないか、きっと新聞記者として成功する等と言う。島崎先生からお葉書有り、これにはシャルロッテ・ビューラー(1)に関して私から抄読会で何か言って貰いたかったと書いてある。  一つ一つの刺激に対して仕事欲がむらむらとおこって来る。そうして結婚生活に対する不安をよびさます。いくら頭で覚悟してもいざとなったらこの「仕事の鬼」が家庭生活を破かいしてしまわぬと誰が保証出来よう、書きたい! 研究したい! 研究発表したい……というこの燃えるような衝動はどうしたらいいのか。  二月四日[#「二月四日」はゴシック体](月)  今朝は午後二時迄大臣の会見記に費す。それから外務省の兄上のところに寄り四時近く大学へ。総廻診すでに終り、内村先生とアミタールの話。参考文献を頂き先日提出した抄録の訂正補遺を約す。  先生|曰《いわ》く「シツォフレニー〔分裂病〕の治療が一ばん大切だよ、アメリカとの事なんかより——」全くそうだ。目下薬物で製作中のアミタールが出来て来たら一つ大きな研究班をこしらえてやろうではないかとのお言葉に心が燃えた。  Y子さんのお家の前のタンボにさしかかった時はすでに日はとっぷりと暮れていた。たんぼ道の両脇《りようわき》にくろぐろとひろがる畑には、うね[#「うね」に傍点]に残った雪がいく度びか折れ曲った白い平行線を描いて放散している。遠く家の灯がちらばり、空には明るい星、そして空の一隅には細い眉毛《まゆげ》のような月がこがね色に何気なく懸っている。  また何時ものように天と地の間にたった一人の自分を見出して愕然《がくぜん》として我にかえった。例の重苦しいおののき。  そもそも私は今何処に行かんとしているのか。そのように簡単に自分が片付けられると思っているのか。もっと本質的に考えよ、本質的に。そんな声がささやく。私は頭を垂れて祈った。神よ、我をゆるし、導き給《たま》えと。  Y子さんは思いの他元気でほっとした。彼女が自分の近作やバッハを弾くのをききながら私の思いはまた深く深く「本質」へ迫って行った。私の「分裂病性気質」の病根の運命的な深さを考えると結婚という事は考えるべからざることではないかという気がしてならない。私に女性的なところも大いにあり、家庭的な事、母性的な事もやれば大いにやれ、またやりたい本能も大いにある事はよくわかっている。しかしそれなのに昨今の私の生活態度はそうした点ではまったくなっていない。それを情なく思いながらも何とも出来ないほど私の生活は時間的にも精神的にも精力的にも「仕事」に占領されてしまっている。しかもそれは「仕事」というよりもむしろ本能的に「仕事欲」なのだから恐ろしい。そうしてその欲望の対象たる仕事の内容や性質が甚だ複雑多岐なのだからなお恐ろしい。  これは「決心」や「覚悟」ではどうにもならぬ底の本能であり病気である。私は結局どうしてもまとまることの出来ない人間なのだ。常にいくつもの本能、相調和し得ない本能の間の闘争の為に八つ裂きになるべく運命づけられている人間なのだ。こんな人間の営む家庭生活は他の家族にとりどんなに迷惑なものであろう。  二月十六日[#「二月十六日」はゴシック体](土)  アメリカ大使館構内のフェラーズ准将の家は白い大理石ではりつめられた美しい邸宅であった。そこで御馳走《ごちそう》になりながらぶっつづけに通訳した。ロシヤに対して共同戦線をはってくれ、せめて日本だけでも米国に対して感謝の意を少しでも表わしてくれないか、と殆ど哀願する。日本に於ける以上にアメリカ本国にはロシヤの勢力が浸透しつつあると言う。それはユダヤ人を通しても然《しか》りという、アメリカの悩みもまた深い。フェラーズの一番希望するところは日本の若い世代が共産主義にはっきり対立して自由主義運動を起し、天皇御自らその先に立ち給う事、その為に天皇の御側近に誰か米国・西洋の事情に明るい有力な自由主義者を置く事、等である。かく言うフェラーズは頭のいいはぎれのいいがっちりした、そしてほんの一寸《ちよつと》ばかりダンディ的な homme du monde〔社交人〕的なところを持った五十代の男、全身ぴちぴちした弾力性にはずんでいる。アラーム大学で一色夫人の同級生だったと言う。おちついた応接間のほんのりとした燈《ともしび》の中で氷と水を割ったお酒とオールドーヴルを頂くのも捨て難かった。  関屋夫妻という対象もなかなかおもしろい。また関屋家の家風や家の中にもいろいろ考えさせられる。ともかく昨夜は睡眠剤の御厄介にはなったけれど cosy〔いごこちのよい〕な部屋の cosy なベッドで安眠し、今朝も、しとしと注ぐ春雨の中で、この日記を書いたり原稿を書いたりしている。ふだん privacy〔プライバシー〕のない生活をしている者にとってはまことに得難い境遇ではある。  しかしこの富をほしいままにし上流社会に腰をすえて憂国の業に東奔西走しつつ、政治や宗教や社会事業につき口角泡をとばして論ずるこの家の主婦のようになりたいかと言われれば、はっきり no! non merci! である。dilettante になりたくない! と言う私の昔からの切な切な願いは学問についても人生についても本当である。貧乏して、働いて、やっと食べ、やっと学び、やっと仕事する、そんな生活こそほんとうの味がするのではなかろうか。勿論《もちろん》こういう年をして新たにそういう生活にとび込むのは大分勇気を要する。しかし真に成長するためにはこれ以上温室生活は許されない。今まで精神的にはともかく生活的に楽をしすぎた。みんなからもてはやされすぎた。  もちろん右はみな彼を思って書いているのだ。彼の愛と理解は丁度この春の慈雨のように私の上にふりそそいでいる。それによって私のうちなるものがぐんぐんのびて行っているような感じがする。この二、三日何というあたたかさであろう。春遠からじの感が深い。ああ私の人生にも漸《ようや》く真の春が訪れんとしているのか。昨日電話で彼の声をきいたとき、この事の成るのをただただはっきりと感じた。私にこのような春を迎える権利があるのか、とただただ勿体《もつたい》ない気がする。沢山の不幸せな人々を思うとどうしていいかわからないような気がする。どうかこの事により私が少しでも成長し更にあたたかく深き愛を人に注ぐ事が出来るように!  三月二十日[#「三月二十日」はゴシック体]  本日田島さんの小父様(2)が私の部屋に「特別の満足の意を表しに」来て下さった。「美恵子さんにどうしても家を持たせなければいけない、とそう思って御両親にも言おうと思っていた、反対が出るだろうとは思ったけれどね」 「誰の反対でございますか」 「貴女《あなた》のさ。あなたには自分で学問など自分の生活をつくって行きたい考えがあるだろうからね」 「いいえ、私も最近|迄《まで》はそう思っていたのですけれど。何しろ私の人間構成が変って居りますから私の様な者でも我慢して下さる方にめぐり会うのは難しいだろうと思っていました」 「その人間構成がね、私の見るところじゃ学者のようなところが五分、家庭婦人たるべきところが五分だと思いますがね」 「私もそう思います」 「それなのにその学者の方にのみ重点を置いて来たからいけない。それだから世の中に害毒を及ぼすような事になるんだ」 「そういうつもりじゃなかったんです」 「でも事実はそうなった」 「ええそうなっちゃったんです」  それから小父様はいろいろ神谷さんの研究の事などおききになった。 「どうです、お二人の研究に一致点が見出せますか」 「さあ、医学と植物学は大分ちがいますけれど私にはあの人の研究上の抱負や意図は充分理解出来るつもりですし、また、細かいところはわからなくてもやっぱり少し理科をやったからには何か少しはわかりますし——それで出来る限り助けたいとは思っておりますの、また助けてくれとも申してます」 「そりゃいい、私はね、将来はあなたが共同研究というような処で満足されるようになるのではないかと思いますよ、これも予言ですがね」 「はあ、それでもいいと思います」 「しかしあなたも自分の専門の医学がやりたいでしょう。丁度私が財団の事をやりたいように」  アミタールの研究の話を一寸申上げる。 「ええ、どうしてもやらずにはいられないだろうと思います。でも家を持つといろいろ難しくなるでしょうから、運命が許すだけでいいと思います」 「うむ、しかしあなたはどうも天から普通より沢山のものを与えられている、与えられていないものもあるかも知れないがね、ともかく沢山あたえられている。それをいい気に図にのって冒涜《ぼうとく》的になってはいけないがそれだけに普通より多くのものを成しとげる使命がある訳だ。で私としてはあなたに処女作だけでもいいから何かあなた独特のものを一つ作りあげて欲しいと思う、一つだけでいいからね」 「さあそれも難しいのではないかと思いますが——」 「しかしともかく私からお願いしときますよ、これは私の欲かも知れないが——」  三谷先生が御在世であったらきっと頂けたであろうと思われるような性質の御励ましと祝福を受け感謝にあふれた。田島様の小父様のような方からこんなお言葉を頂けたのだから、もう何が来ても恐くないと言うような勇猛心が湧《わ》く。  四月二日[#「四月二日」はゴシック体]  次官の御長男道雄氏に注射をする為お宅へ伺い御飯を御馳走になって来たところ。温い風が吹きまくり空の星も吹きとばされそう。闇《やみ》の中に立つと低いところにたんぼがくろぐろとひろがっている。  曾《かつ》ては人の世を捨て、すべての女としての希望を捨て、この同じ天と地の間に冬枯の葦《あし》の如くたたずんでいた自分が、今は初春のいぶきに総身をはずませつつここに立っている。同じ人間が十年の間にこんなに変れるものだろうか。人間はこの世に生まれてからも何度も新生を経るものなのだろうか。ふしぎな事だ。しかし今、自分は何の矛盾も、苦しみもなくあの惨憺《さんたん》たる年月をかえりみる事が出来る。そうしてあの時はあの時として、この時はこの時としてそのまま肯定出来る。そのいずれをも感謝する事が出来る。しかし、一度ああいうところを経た人間には、何処《どこ》かちがった処がなくてはならない。一度世を捨てた人間は。  四月六日[#「四月六日」はゴシック体](土)  午後大学に於て内村先生の分裂病に関する抄読会の続きあり、クランケ〔患者〕にアミタールを〇・三g錠剤で服《の》ませているところへ行った。私の事がもう伝わっている由、伊藤先生の態度が急にほぐれて来たのは面白い。五時から私の事に関して山崎次官対内村先生会談。私はそこに黙って立会っていたがはらはらした。  山「国家の為に美恵子さんをもう暫《しばら》く拝借させて頂きたい」  内「教室の便宜等というよりも、美恵子さん自身のため否国家のために私は言っているのである。どうか国家のために美恵子さんに勉強させてあげて下さい。婦人子供の精神衛生部面を将来担当する唯一の人と私は嘱望しているのであるから、この際美恵子さんを有名女性などにして貰《もら》っては困る」  山「そんなつもりは毛頭ない。また御本人の態度もそんな風なところは少しもない」  この問答は誇大妄想狂的だ。しかし内村先生のお言葉をきいている中に深い責任に襲われた。「美恵子さんは何も自分個人の為に勉強しているのではない」「国家の美恵子さんだ」と先生は仰有《おつしや》って下さる。このお言葉を無にしてはならない。  六時半頃会談終了、私は植物教室に神谷さんを訪れた。「『国家の美恵子さん』とは僕も思っている。これに対し自分はどういう態度をとるべきか、という事をいつも考えている。しかしまだよく分らない」と彼は言う。「私にもよく分らないのです。自分がどうあるべきかについては。ですからこれもお互いの問題として一緒にその時々考えて行きましょう。私には、ただあなたに根本的な理解がある、という事だけで充分なのです」と私は答えた。終電車まで話す。  四月十七日[#「四月十七日」はゴシック体]  この頃の空気の香ばしさ、月の光の麗わしさ、ただ呆然《ぼうぜん》としてしまう。沢山の詩が念頭に浮ぶけれど形をなさぬ中に消えてしまう。男と女の愛と言うもののふしぎさ。全く未知の世界にさまよい出てただただ驚き、恥じ入り(自分に対して)、そしてしびれるような喜悦に身をおののかせている。男の人の愛に対してもう拒まなくてもいい、自分に対してもさからわなくてもいい、と言うことは何という夢のような事だろう。宣郎さんの科学者らしい素直な考え方感じ方がこういう時私にとって何といういい助けである事だろう。彼は人に対しても自分に対しても少しもてらう事をしない。そしてこのように馬鹿な状態になっている事をいい事だ、と堂々と主張する。一週間も逢わずにいて平気なようじゃ、今からこんな風じゃ先が思いやられますよ、と言う。  ああ、彼を私はどんなに愛し尊敬する事だろう。心身の全部を以て彼を愛するたのしさ。私はどんなにもして彼を幸せにしなくてはならない。  私「枯木に花が咲くということもあると言う事がこれで分かった」  母「枯木じゃないわよ、まだ……」  父「ただ冬籠《ふゆごも》りしてたって言う訳さ」  本当に今年の春こそ私の初めての真の春なのだろう。国にとっても久しぶりの平和の春、私にとっても久しぶりに「素直に自然に従える」春。  何時の間にか桜は散った。もう若葉がまぶしいほど輝いている。昨夕、私たちは夕闇の中に静かにいこう田畑の真中に立っていた。大自然のふところに抱かれたる男と女。私たちは、長い間の自然との闘争の後今、初めて神と人の許を得、自分達の全存在の肯定を得てここに「素直に自然に従える」自由のよろこびを語り合った。何たる解放であろう。そうして何たる平安。あらゆる人——殊に異性に対してのこの自由と自然さの恢復《かいふく》。そうして何よりも自己に対してのこの素直さの恢復。  五月二十四日[#「五月二十四日」はゴシック体](金)  N(3)が買ってくれた二等の切符で軽井沢へ。汽車の中から澄ちゃんに拝借のロマン・ロラン『魅せられたる魂』を読み始む、この女主人公の性格はふしぎに私に似ている。  十数年来|馴《な》れた軽井沢へ今度は全く新たな気持で来た。我ながらふしぎである。そうしてあと四十日足らずの中に再び来るときはどんな気持であろう!  五月二十七日[#「五月二十七日」はゴシック体](月)  ここへ来て以来初めての晴れた朝、林の中の輝かしさは息もつまるばかり、昨夜四時まで眠れず転々としたのも何処へやら、すがすがしい喜びにみたされる。  要するに私はここへ自分の愚さを知る為に来たようなものだ。来る時私は静寂の中に瞑想《めいそう》したいなどと考えて来た。処女としての自分とゆっくり別れを告げたいような気がしたからだ。ところが来て見て、はや古い自分は失われているのを発見した。Nの存在はこの孤独の明け暮れにも一時なりと私を離れない。そして書かねばならぬ原稿があるのに、今迄の大部分の時間を七月ここへ二人で新婚旅行に来る時の準備に費して過してしまった。きょうも朝から今(夕方五時)まで家の中の片付や掃除に過した。  七月来た時の食物の事や、ふとんの事や、そんな事ばかりで頭は一杯である。こんなに迄自分はただの女に過ぎなかったのか! と可笑《おか》しくもなりはずかしくもなる。しかしNの流儀で言えば自分もこんなに普通であってよかった、と言うべきなのだろう。これでは家庭に入ったら文化的な仕事は何も産み出さなくなってしまうのではなかろうか、とおそろしくなる。ロマン・ロランのアンネットの話もこのおそれを強くする。しかしこれは要するに私の Anlage〔素質〕とVitalit閣〔活力〕の問題である。結婚して何も仕事をしなくなるようならもともとそれだけのものしか持っていなかったのだ、と言う事になる。Nはロジェとはちがうのだから私はアンネットよりはるかに条件がよい訳だ。  あれからまだ仕事にとりかからず書類の整理などしていた。過去半生の清算をしながら人生のはかなさを思う。しかし私の半生は主として夢想に過ぎた。今こそ現実の人生が始まろうとしているのだ。  日は漸《ようや》く暮れかかり、時折ピイと鳥が鳴くのみ、かわずはもう合唱を始めている。土より生まれ土にかえる人——しかし私はもうただで土にかえる事は許されぬ。女として人を助け育《はぐく》むべく招ばれているのだ。Nの肖像が壁からほほえみかけている。彼の美しい素直なほほえみは私を勇気づける。私は私の孤独と悩みの数々を持ったまま彼の許へ行こう、彼によって人生にしっかり根をはろう。そう、土にかえる前のひとときを。  五月三十日[#「五月三十日」はゴシック体](木)  現実に Liebe と Heiraten という事に直面して私は自分の存在が根底からくつがえされつつあるように感じて不安でならない。さきほど燈を消してバルコンに出て仰向けに伏し星空を仰いだが、星は何時もと同じでも、自分はもうすっかり変ってしまった様に感じた。というよりは何時もの自己を失って途方に暮れているという感じだ。自己を失うのか! と思うと愕然《がくぜん》とする。その自己は何処へ行ったのだろう。また帰って来るのか、それとももうこれきり、私の自我というものは夫と子供のうちに吸収されてしまうのか、これきり私が自分でものを考えたり、創ったりする能力を失ってしまうのだとしたら!! と恐ろしい気がする。しかし結婚しても個性と創造力を失わぬ人もあるではないか。私の個性と生命力は結婚にも耐えるだけ強烈だった筈《はず》ではないか。もしそうでなかったなら、それも仕方がない、いやだと言ったところでどうにもなる事ではないのだ。結婚する以上は、まず第一に奉仕すべきは夫であり子供である。殊に次の世代のため子孫のため、という事は厳かな義務と責任である事を痛感する。自分の身一つをどうにでもしてよかった時代はもうこれで終るのだ。その気ままなる過去半生を清算し、自己の何たるかをもう一度よく見極める意味でここへ来たのはよかった。私はこれ以上独りであるべき人間でないこと、Nとの結婚は全く大きな恩恵である事をはっきりと見定めることが出来た。彼との結婚は chaos〔混沌《こんとん》〕なる私に秩序と統一とを与えてくれるだろう。それが私に一ばん必要な事だ。生命力の氾濫《はんらん》する私には制約が要る。たとえ身を刈り込まれる苦痛はあろうとも、すすんでいさぎよくこの制限を受けねばならぬ。まず女としてのつとめを全うし、而してのち初めて人としての資格も出来るのだろう。  新緑輝くばかりの野と林の中を今日は大分さまよい歩いた。まだ山桜が満開である。柔かい、赤味をおびた芽、芽、芽。土からのびあがったばかりの丸まった葉。白すみれ、うすいろすみれ、濃紫すみれ。この中に身をよこたえれば自分もまたこの大自然の一部であること、この大地と呼吸を共にして地上のあらゆる生物と同じ生命を共ゆうしその生命の法則に従って今結婚せんとしていることが感じられる。「自然に従うことはよいことですよ」というNの声がきこえるようだ。そう、神と人の許しのもとに自然に従うことは最善のことであり恩恵なのだろう。素直になれ、素直になれ、そう野花もささやいているようだった。ああ神様、素直にして下さい、Nさんよろしくお願いします、とそう私は他力本願な返事をした。  八月二十四日[#「八月二十四日」はゴシック体](土)  夕方、五時に帰って以来ひどい雷雨の為小一時間停電したのを除いては、ぶっつづけに Nob の論文の英訳をしてタイプに向かっていた。何時しか雨もやみ庭には虫の声が無数の銀鈴の如く響いている。しめった土の匂《におい》も夜気に香《かぐ》わしい。久しぶりであらゆる事を忘れて頭脳労働に没頭する快感を味わう。時々泣きたくなるくらいこういう時間に餓えていた。Nob が旅に立ってしまって何だかがっかりしてしまったけれど、そしてそのために今日一日中は疲れが出て何もする気がなかったけれど、でもこうしてひとりゆっくりいろいろな事を反芻《はんすう》して見て、それを日記に書いて置ける時もまた得難い機会であろう。結婚以来初めての事である。結婚以来私の最大の問題として頭をいためている事——仕事の事に就て今考えている事を書いて見たい。  九月二十二日[#「九月二十二日」はゴシック体](日)  午後三時頃まではNは例の郵便箱造りに夢中。それから二人で茶ぶ台を上北沢の運送屋へ持って行く。途中桜上水の道静かで美し。ひきつづき徳研(4)へ。この間の twisting 実験のデータのプロッティング〔作図〕を手伝う。夜十時、帰宅するのがいかにも惜しそうなNを説き伏せて徳研に留まらせ、私のみ帰宅。すすめて置きながら暗い木立の中へひとり出た時に思わず sanglot〔嗚咽《おえつ》〕が胸から喉《のど》へつきあげた。学問の世界に常住することを許されぬ悲しさと、Nをおいてひとり帰る淋《さび》しさとが重なって心を一時にへなへなとくずおれさせようとした。しかし小さな感傷が何であろう。Nは今夜「Mimi に家の雑用なんかさせて置くのは惜しいや、同じ雑用をさせるならこういう雑用をさせたい」と言ってくれた。しかしどうにもなるものではない。もちろん私も学問に専心したいのは山々だけど、それらが不可能である以上せめてNに出来るだけやって貰うのが本当だ。時々泣きたいほど勉強に専心したくなるけれど、そういう時はいつも岡本かの子のとった道を思い出す。負けて勝つことだ。もし私にも家庭以外に何か使命があるならきっといつか神様は道を拓《ひら》いて下さるだろう。この点に関するNの理解と誠意に対しても私は全幅的な信頼と希望をつないでいる。  ああ神よ、このわが最大の悩みを忍耐ぶかく負わしめ給え。  十月十日[#「十月十日」はゴシック体](木)  朝|野上弥生子《のがみやえこ》さんからコルネリの訳本が届いた。一見美しい訳文に感心する。これでは私のを出す意味はない。  久しぶりで一日中家にいて洗濯、つぎもの、料理に過し、ひるねを一時間した。気分めずらしくよく、今九時すこし前、Nのかえりを待ちながら満月の光を浴びて私の身ぬちなる新たなる生命の事を思い感慨にふけっている。今朝おきぬけによみ出した W. Stern のPsychol. d. fr殄en Kindheit〔幼児期心理学〕にはっと目をさまされたような感じが未だまざまざとしている。一ヵ月だとgr嘖serer Apfel〔大きめのりんご〕くらいの大きさだという。Uterus〔子宮〕にいる私の子供は、きっと私の救いとなるであろう。私は自分のすべてをそこにそそぎ込む事によって新たな統一と成長とを与えられるだろう。  十月二十二日[#「十月二十二日」はゴシック体](火)  午後はお米の配給をとりに松原まで雨の中を行く。ひきつづきやさい当番でびしょぬれになった。番を待ちながら宇都宮さんの奥様に S. S.〔妊娠〕の事をお話する。赤ん坊は家中大好きだから生まれてもここにいるようにと言って下さる。やさい籠《かご》をどれもあふれるばかりのかぶを運ぶのに一難儀していると、Y子さんふと視野の中に現われ出て、手伝って下さる。一昨日北海道から帰られたと。  雨の中を三度び外出して牛肉のテールを買い、夜の炊事を済ましてほっと腰を落ちつけたところ。久しぶりに日記を書きながらものを考え、考えながら書いて見たい。今外は真暗で嵐《あらし》がガラス戸をごとごと言わせている。ぬれてこごえて帰って来るであろうNを今か今かと待ちながら食卓の上で鍋《なべ》をぶつぶつ言わせているこの妻の気持、これもまだついこの間味わい初めた心だ。それなのにもうその気持をゆっくり味わう暇もなく、母という全然新たな感情と体験とが私の裡《うち》に始まって来ている。何という多事な、変化の多い一年である事かこれは。  私の体内に起りつつある変化はあまりに大きく、私の全存在を absorb〔吸収〕するに足るらしい。時々私は何も考えずに、何もせずにただ仰向けに寝て、体がひとり忙しく建設の営みをしているのに耳を傾けて見る。そうしてこの母となる過程に於てともすれば Physiologisches〔生理的なもの〕が Geistliches〔精神的なもの〕を圧倒し、ひきずりまわしがちなのも無理もないと思う。  十一月二十七日[#「十一月二十七日」はゴシック体](水)  この二、三日、二ヵ月余ぶりで気分のいい日が続く。もうつわりの時も過ぎたのかも知れぬ。ふしぎに気力を生じ、生活や仕事の設計をする気持になる。さしずめ生活の為、ほん訳仕事を始めようと思う。定収入を得るため進駐軍の方へ apply〔応募〕して見ようかと考えている。知っている人々の紹介はたやすく得られるが、この方が却《かえ》って無責任で独立的で気持がいいのではないかと思う。倹約倹約とただ消極的な生活をするより大いに収入も得て栄養その他をよくし、来たるべき出産にそなえたいと思う。最近ろくな本もよまないが(自然科学方面は別とすれば)トマス・マンの「シータの死」では大いに文学への渇きをいやされた。それから一昨日医局からロンブロゾの Das Weib〔女〕を借りて来てよんでいる。結婚してもやはり問題は Vergeistigung〔精神化〕にあった事を今にしてしみじみ悟る。私たちの人生を単に「生活すること」のみに終らせぬよう、この生活があくまでもより遠大な Aufgabe〔課題〕の為の培地であるように不断の vision と精進が必要である。真と善と美と。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 B殄ler, Charlotte (独 一八九三—一九七四)心理学者     新生児の行動研究やその社会性発達の研究で知られる。   2 田島道治(一八八五—一九六八)     初代宮内庁長官、のちに日本育英会会長。孔子の研究者でもあり、訳書にクリール『孔子』がある。父多門の友人。   3 夫宣郎のこと。後出の Nob も同。   4 当時、宣郎が研究を行っていた徳川生物学研究所。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四七年     (三三歳)  一月一日[#「一月一日」はゴシック体](水)  Nと二人で静かな楽しい元旦《がんたん》を迎えた。朝、まず父上のお写真の前に坐《すわ》り新年の祈りをささげ、これからお雑煮に向かおうとしているところへ三河(1)から小包が届いた。あけてみれば私の為の母上ご丹精の丹前を初め池田姉上からそば粉などいろいろ出て来た。神と人の愛につつまれてこの平和な新年を迎える事が出来て何と感謝してよいか、勿体《もつたい》なくて空恐ろしいくらいである。お腹の赤ん坊の上にもどうか御祝福をと心から祈る。  夕方宇都宮さんのところの賑《にぎや》かなつどいに一時間ほど顔を出す。池上さんより往診の礼に餅《もち》を頂く。  一月二日[#「一月二日」はゴシック体](木)  午後二人で田島様へ御年始に行き夕飯をごちそうになる。来たる十二日に下高井戸《しもたかいど》へお越し頂く事になった。  一月三日[#「一月三日」はゴシック体](金)  手紙かき、夕方三井牧場へ月夜の散歩美し。今日で結婚半ヵ年、恩恵あふる。  四月十六日[#「四月十六日」はゴシック体](木)  殆《ほとん》ど暑い位の晴天。庭の山吹はまばゆい程の光を放っている。昨日以来、産科の本も研究し、万一の場合を考え、例によって最悪にも処する覚悟をした。気持がひきしまり、すがすがしい。すべてを神様の恩恵と観じ何時でも頂いたものをお返しする用意をしよう。よき夫に愛さるるよろこび、彼との愛の結晶を孕《はら》むよろこび、すべて身に余る。 [#地付き]〔一九四七年四月二十日律誕生〕  五月十四日[#「五月十四日」はゴシック体](水)  律《りつ》が夜泣くので寝られず睡眠不足になっている為、ここ二、三日神経が弱って涙がこぼれて仕方がない。自分の仕事の問題や主食問題や生活問題などが妙に気にかかって心細くなる。しかし、人生の妙味は冒険と信頼にあるのだ。早く神経を強くして頂き、勇躍して新しい challenge〔チャレンジ〕に向いたい。今朝もNに言ったように私は私の運命と取組まねばならないのだ。 庭のみどりはますます輝かしい。きょうは又美しく晴れて、洗濯物もすぐ乾き、長い事|産褥《さんじよく》に使ったふとんもみなほせた。昼寝したりやすみやすみ家事をなし、時々、ちょっぴりずつ文字を読み、一針二針つくろいものなどしつつ今日も暮れた。律は大体おとなしく眠っている。顔の湿疹《しつしん》も治り、授乳後は度々|微笑《ほほえ》む。ベッドの頭の方に立つと首をあげてのばして頻《しき》りにこちらを見る。ぼんやり視覚が出て来たのだろう。夜授乳せぬ事、泣かせぬ事、これが今の課題だ。  五月十八日[#「五月十八日」はゴシック体](日)  雨が午前中はざあざあ降った。お午《ひる》頃それがやんでNは青戸《あおと》へ蚊帳《かや》をとりに出かけた。鼻がつまって昨夜から御機嫌のわるい律も午後一時頃乳をやってから眠ったので、おむつの洗濯をすまし、三河、軽井沢、野村様へ御礼状を書く。空は晴れてかなり強い風が庭の木をゆすぶり、物干竿《ものほしざお》のおむつをみんな片一方へ吹きよせてしまった。ブラウス一枚でその風を全身に浴びつつ郵便物を出しにポストまで行って来た。  今日もまた睡眠不足の故かよろず心細くてならない。育児と家事を一人でやっていて、果してそれ以上仕事をする心身の余裕があろうか。仕事と言っても私固有の仕事はもうとうにあきらめている。(少くとも当分は)しかし、生活費をかせぐ為の最小限度の仕事はどうしてもせねばならないのに、それをする余裕すらひどく制限されて来た。生活のためにNの使命をあやまらせたくない。しかし、私は妻として母として努めを全うしつつ尚《なお》収入を得る事を考えなくてはならないのだから今の日本では大分難しい事だ。  ああそれに、私の中には女としての生活と同時に自分の仕事を創造したい意欲がうつぼつとしている。いつかはこれが爆発しそうで恐ろしい。風よ吹け吹け、そしてこれらのもの悲しい想念を吹き払ってくれ。今思い悩んで見たとて何になろう。私の前には無限の食事の用意やおむつの洗濯が横たわっている。 (しかし、しかし、この沼から私はどうしても首を出して、何ものかを創り出さねばならない。運命ととっくまなければならない。)  七月二十九日[#「七月二十九日」はゴシック体](火)  連日の暑さの為律弱り気味で食欲も少なし。しかしきげんはよい。朝おきてみると大ていひとりで目をさまして小鳥がさえずるようなかわいい音を立ててひとりで遊んでいる。母の顔を見ると満面をほころばせて笑う。そのほほえみに母は一日分のよろこびとはげましを汲《く》みとる。ああ、子のおかげでどれほど女は成長する事だろう。「母」たる光栄と責任を負わせて頂けた事を神様にどんなに御礼申し上げても足りない。  夜、蚊帳の中で野上弥生子『若いむすこ』と澄ちゃんから借りたヤコブセン『愛と死』を読む。非常にリリカルな美しさ。  八月二十日[#「八月二十日」はゴシック体](水)  涼しくなって来そうなのでやっと仕事への元気が出て来た。生活の為にどうしてもほん訳仕事や個人教授などせねばならないけれど、それだけで甘んじる事は出来ないし、又甘んじてはならないと思う。どうせ毎日律を世話するのだから児童心理の勉強を律の関連に於てつづけること。それからそれと別にぼつぼつでよいから創作をする事。これはまとまった時間がないのだから短篇を書いていてもよいではないか。家の事がどんなに忙しくても毎日きまった時間は仕事にとっておくこと、という固い決心をしなくてはならない。苦しんで苦しんで仕事をしなくてはならない、ときょうは涙を以て自分に言いきかせる。私はただの「良妻賢母」にとどまってはならない。Nはそれでよろこんでくれるけれど、私は何とかして彼をよろこばせもし、同時に個人的以上の仕事をなしとげねばならない。その challenge が眼前に迫っているのだ。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 宣郎の父の生家があった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九四八年     (三四歳)  二月十四日[#「二月十四日」はゴシック体](土)  朝気温三度にしか下らない。朝から雨が降って春の雨の音をきく心地がする。日々の生活の幸福はまことに空恐ろしいまでである。その空恐ろしさが私を神へ追いやる。無教会からも私は自分を閉め出した。しかし、神は常に身近かにいます。Nも神様に近く生きている人だ。神様は私達をどうなさろうというのだろう。今朝もNと話した。この幸福は恐ろしいようだ。いつまで続く事か。しかし何が来ようと我々には感謝あるのみと。市政調査会からまた仕事をたのんで来た。  夜九時半頃Nと御飯を頂いていたら隣室からすみちゃんに呼ばれた。御上京中であった父君が御不快で「ミミをよべ」と仰有《おつしや》った由。 [#改ページ]  一九四九年     (三五歳)  三月三十一日[#「三月三十一日」はゴシック体](木)  昨年暮以来、新しい家(1)に移って以来、女中も出来たのに、何となくぼやぼや過してしまったのが残念。(……)しかしようよう、すべて片付き、また私の内職も大体きまった。四月から一つ大いに無駄なく時間と精力を生かして励みたい。私は Hausfrau〔主婦〕としても、妻としても、母としても、なるべく完全でありたいのだから大変だ。  十二月十五日[#「十二月十五日」はゴシック体]  いつの間にかこんなに日が過ぎて出産予定日まであますところわずか十二日となってしまった。大阪へ手紙を書く事が日記の代りになった為か、ここに一字も記さずに過してしまう事が多い。しかし、もうすぐ何も書けなくなるのだから今夜は一寸《ちよつと》おぼえ書を書いておこう。  Nob は今月の二日に帰京し、六日にまた下阪した。(……)  Nob のいないところでこの頃は大分心細い思いをした。その度に私は未亡人の生活を思って見る。そしてたとえはなれていても彼を与えられている身の幸いを思い知り、感謝にみたされる。あと数日で私もまたあのお産のひどい苦痛を味わなければならない。果して無事済むか、それもわからない。しかしたとえそれで死んでも私は[#「私は」に傍点]自分の一生についてただ感謝する他ない。妻として母としての悩みと喜びのすべてを味わせて頂いて full life〔充《み》ちたりた生〕を賜った私に何の言う事があろう。ただ生まれる赤ん坊や律や、そして何よりも Nob の事を思えばこそで、どうか出来る事なら無事お産を済ませてこれから先も皆に対する私の義務を果させて下さいと祈るばかりだ。  お産を目前に控えたこの頃、やっとお産の準備も済み、ユキエさんや律の病気も治り、少し静かに読んだり書いたりする時が出来た。今日は久しぶりでまたソフォクレースの先を続けたり、たまっていた科学雑誌、医学雑誌に目を通したりしていた。こういう期間がもう少し長く得られるかと思っていたので、その間に少しものを書くつもりだったが、多分もうお産は間もないだろう。そう思うとやはり落着かなくてまとまった仕事は出来そうにない。今年という年は大体妊娠と出産という生物学的な事で過ぎてしまった訳だ。来年はもう少し文化的な営みもしたいものだ。さしずめ岩波と創元社に本の約束があるし——。  女の生活というものがこういう生物学的な機能の為に如何《いか》に断片的にされるかをしみじみ思う。それだけに弾力性を以て、いろいろな時期に適応した建設的な生活を生み出して行かなくてはならないのだろう。  あと五日程すれば Nob が帰京する。どうかお産はそれ以後にして下さい、と毎晩祈りつつ寝に就く。愛情のある人にすがりつきたいようなこの妊産婦のたよりない心境は経験して見なければわからなかった。しかし安心してすがりつける夫の与えられている事は何という幸せであろう! [#地付き]〔一九四九年十二月二十四日徹誕生〕   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 戦後の住宅難のため結婚当初は知人宅の一室を間借りしていたが、この頃、目白の一軒家に転居した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五〇年     (三六歳)  一月二十日[#「一月二十日」はゴシック体](金)  Nは十二月十六日の朝突然帰って来た。こちらの事を心配して無理して来てくれたのである。そしてお産はそれから一週間も後に、二十四日午後二時三十五分にあった。ユキエさんも律も全快し、Nは在宅して万事に気を配ってくれたし、本当に有難い事であった。  お産の事や赤ん坊の事は「赤ちゃん日記」に記すからここでは省こう。Nは十五日夜下阪した。十四日には私も床上げしたが、しかし手不足のために早くから体を動かしすぎたためか、未だに血性悪露が時々少し宛《あて》出るし、少し動くと腰も痛み、肩もこる。Nが不在だと、話相手はなし、本はよめず、手仕事も大してしてはならない。その上なるべく安静にしなければならないのだから退屈で困る。それで今日はつくづく考えた。「書く」事にしたら、と。それで急に元気になった。この内容もここでは省く。もう一つ考えた事、否反省した事は、律に対する私の態度やしつけ[#「しつけ」に傍点]の問題である。徹《とおる》が生まれて以来私は——ある程度仕方がなかったとはいえ——律をなおざりに、否、殆《ほとん》ど邪魔者扱いにしなかったか。そのために律がこの頃のようにわがままを言うようになったのではないか、どうしたらこれから律をうまく導いて行けるかをよくよく考えること。  四月二十八日[#「四月二十八日」はゴシック体](金)  廿三日以来毎日Nの帰りを待って暮す。徹の肺炎も治り、アテネ(1)にも馴《な》れ、今日は初めてのサラリー四千五百円を貰《もら》って経済上にもほっと一息。来月はアテネ六千円、個人教授約六千円、その他医師会からの収入もある予定。それが大阪へ行くと(2)高い家賃、大きな家をかかえた上、内職も未定で、どうやって暮せるだろうか、とまずお金の心配。しかしNと別れての生活は一日も早く切り上げたいのだ。  この頃の生活と言えば、働きに出かけるのと家の事とで精一杯。結局、私のなし得る文化活動はただ生活のために働くという形に終始してしまうのだろうかと時々大変わびしくなる。学問や芸術やその他利他的な活動というものは経済上の安定があって初めて可能である、という事は私の場合極めて顕著である。何故なら、主婦としてのほんの僅《わず》かな余暇が、かせぐために使われてしまうならもうあとは何をする時も力も残らないのだから。大阪へ行くとこの事が一層はっきりするのだとすると、何だか怖ろしい気がして来る。  ああしかし負けてはならない。もし医学の研究をする事も許されないなら、何とかして許される範囲の事をしよう。  九月八日[#「九月八日」はゴシック体](金)  この夏は私は東大の「アメリカ研究セミナー」の通訳として大部分を過した。Nは八月廿九日に羽田を発って渡米した。それと同じ頃、南原さんから演説の英訳を頼まれ、Nの出立頃は徹夜に近いものが続いた。出立の時は九州の姉上、哲ちゃんが上京、ひきつづき家で三日|迄《まで》泊っていた。過労に過労を重ねたのがたたったのかとうとう三日前には高熱を発して臥床《がしよう》、しかしそれも今日あたり平熱になったらしい。今日はアテネの初日で行って来た。  今朝は斎藤真氏が訳稿を頼みに、また前田姉上が光ちゃんをつれて見えた。泊り込みの芳枝さんは八月卅日くにへかえり十二日に予定を一週間おくれて帰って来る筈《はず》。子供をおいて、働きに行く事についてとやかく近所でうるさい。しかしもう気にしない事にしよう。このほかどうにも暮しようがないのだから。  Nのいない淋《さび》しさ、ひとりで他人の中で子供を護り、家計をきりもりして行く事の難しさ——未亡人に比べたらまだまだ生やさしいのだろうが、これらの事が私を再び神へ追いやる。ゆうべは Readers Digest でパール・バックとカレルの記事をよんでいたく心を動かされた。また人の心のつれなさに泣き憤る気持の時、三谷先生の「強く正しく愛にみちた方向に……」のお言葉を思い出した。  私はやはり神様に行くより他ない。  すべての人に出来るだけよくしてあげること。  人のよいところだけとりあげて行くこと。  九月十八日[#「九月十八日」はゴシック体](月)  この夏の内職により家計に少しばかり余裕が出来たので初めて自分の衣類や書物を求めた。カーディガン、字引、あみものの本——そうして今日は永年のあこがれカロッサ『成年の秘密』を大枚二百三十円で入手して来た。アテネから帰った夜、コーヒー二杯で疲れを消した上、あみものしながら読む。こうしたluxury〔ぜいたく〕は何ヵ月ぶりであろう。私の心は久しぶりで俗世のわずらわしさから解き放たれ、夢幻の世界、詩の世界に遊び、歓喜の声をあげた。と同時に、眠っていた使命感、書かなくてはならぬ、という衝動がもくもくと起き上って来る。しかしそのためにはどれほどの真実さが必要な事だろう。いささかの真似事もない、正真正銘の自己を掘り出し、伐《き》り出すことの難しさ、恐ろしさ。  九月二十日[#「九月二十日」はゴシック体](水)  急に涼しくなる。  近頃は毎晩あみものをしながら書く事を考えている。ようやく芳枝さんも本当に治って来たようだからもうそろそろ私も暇が出来るだろう。秋とともに勉強と創作への衝動しきり、これをみたすためには衣食住——特に衣について費す時間をもっと少くせねばならない。  Nob からまたたよりが来た。小包を送ってくれたと。  彼のまごころに心のそこから温められる。勿体《もつたい》ない事だ。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 アテネ・フランセ。語学講師のアルバイトをしていた。   2 この前年、宣郎が大阪大学理学部教授に就任。当時は宣郎が単身で大阪に赴任していた。翌年、美恵子は二人の子供とともに芦屋市に転居した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五一年     (三七歳)  二月十三日[#「二月十三日」はゴシック体](火)  子供たち  ○夕方食事の用意が出来たのに呼んでも律がなかなか姿を現わさない。書斎へ行って見ると私の机の前で棚の上にあった父親の額入り写真を両手に持ち、じっと額《ひたい》を頬《ほお》につけるようにして見入っていた。  ○タコちゃんが便所の中へ草履の片方を落とした。律|曰《いわ》く「ね、お母ちゃん、そいじゃ草履一つだけ買ったらどう?」  ○律はこの頃字をおぼえようとする自発的意欲を現わしている。二、三ひらがなを覚えRという自分の頭文字も知っている。こちらから教え込もうとはしていない。  ○昨夜徹がマッチの軸木に塗ってある薬品をすっかりなめてしまったので皆ひどく心配したが特に律は「徹ちゃん死んじゃうよう」と言って泣かんばかりであった。  ○徹は手放しで一分余立つことと、一つの積木の上に他の積木をうまく立たせることが目下最大業績で、その時の得意満面の顔と言ったらない。  四月十日[#「四月十日」はゴシック体](火)  律と蝶《ちよう》の話。 「沢山蝶々が来るように沢山花を植えて頂戴《ちようだい》。」この律のねがいにこの春はかなり花を植えた。最初の蝶が来たとき律は昂奮《こうふん》して早速おとなりのお兄さんにとって! と叫んだ。  捕えられた蝶は傷ついて動けなくなっていた。土の上にバタバタ羽を動かしている蝶の上にかがみこんで律はひとり小声で長い間話していた。 「ごめんなさいね。蝶々さん。痛くして悪かったね。——」くりかえしくりかえしこう言っていた。その中に人に気づかれ、真赤な顔をして私のところへとんで来て膝《ひざ》の上に顔をうずめた。  六月六日[#「六月六日」はゴシック体](水)  Nの帰朝もあと二週間余となった。彼の留守中殆ど何もなすところなかったのを恥しく思う。アテネを十一月にやめてからは冬じゅう子供と自分の病気さわぎ、それから高木さんの原稿、その後は、はしかや皆の陽転さわぎ。ふとん、ミシン等の雑用に過ぎた。しかし私の心に固く刻みこまれた決心がこの期間の産物として残る。曰く、あくまでも医学研究を貫徹せんと。  十月十六日[#「十月十六日」はゴシック体](火)  この頃の鬼の荒れようは物すごく、幾度自棄的な気持になったか知れない。しかしこの中から私を救ってくれたのは九州の兄上の理解とNの限りない愛情とであった。これらに遭遇して見て、もはや自棄やひがみの気持は持ちつづける訳には行かなくなった。私は正々堂々と行くべきと信ずる道を歩んで行こう。その道は常にNと共に歩める道である事は何という幸であろう。神様、どうかお導き下さい。 [#改ページ]  一九五二年     (三八歳)  二月十二日[#「二月十二日」はゴシック体](火)  一昨日日曜には、一家で山を歩いた。早春の気がみちあふれ、陽ざしははや暖く和やかな喜びと感謝にみたされた。どんどん山道を一人でかけ下りる律。お父ちゃまと手をつないで鼻歌をうたいつつよちよち歩く徹。みな何時の間にこうして一緒に歩ける程大きくなったのだろう。私達が結婚したのはついこの間だったような気がするのに。  Nは今週から二つお弁当を持ってがんばる事となった。あのように余念なく仕事に打込めたらいい。  私はどうも疲れて困る。殊に女学院(1)を教えて帰って来るとくたくたで、何をする気力もなくなる。一つは夜、徹にまだおこされるからなのだろう。もっと体力がない事には私も駄目だとつくづく思う。  四月三十日[#「四月三十日」はゴシック体](水)  今日は久しぶりの晴で庭のつつじの色がさえて美しかった。午後、徹と律を送りに行く。それから明日登校の準備。午後はコールドパーマネントで四時までつぶれた。  子供達に紙のこいのぼりを買ってやる。和紙に手で書いた紙にしては品のよい質のよいのぼりである。何となく物悲しい気持でこれをかかえて市場から帰る途《みち》、若葉が美しかった。  五月二日[#「五月二日」はゴシック体](金)  昨日は無事、女学院の一日を終えた。図書館で借りて来たアナトール・フランス Anatole France の Le lys rouge〔『赤い百合』〕を読みながら子供達と一緒に床に入り、ぐっすりねむったら今朝は久しぶりですがすがしい。お天気もさわやかな五月の朝。ひとり書斎で事もあろうに四月の家計簿を整理しながら、つくづくああお金を儲《もう》けるためでない仕事がしたい、と心の底から叫んだ。さらに詩や思想や学問へのあこがれに胸がうずいた。毎日毎日、家事、育児、そしてその上貴重な暇は殆《ほとん》ど全部内職の語学教師稼業——この生活に私は負けそうになっている。しかし負けてはならない。そのために真理や美へのあこがれ、それを最も貴い大切なものとする心を荒らされてはならない。雑事の中で如何《いか》に心にゆとりとうるおいとあこがれと希望を持ちつづけるか、これが今の私の小さな課題である。今久しぶりに詩の本をひもときながら涙ながらにそれを祈念している。  自分の生活から雑事はとりのぞけなくとも雑草をとりのぞきたい。そのためにはH夫人の如き俗物と毎週話をしなくてはならないような条件は速かに除かなくてはならない。私はまだかかる人々に完全に超越するだけ強くないのだから。  しかし何より積極政策が必要であろう。そのために何とかして毎日祈りと聖書や詩の本を読んで心を澄ます時を確保したい。そして自分をもう一度とりもどしたい。  十二月八日[#「十二月八日」はゴシック体](月)  十一月から Canadian Academy(2)に教えに行っている。校長レフ・ノーマン Rev. Norman 夫妻が十一月三日夜、突然訪れ、ぜひフランス語を教えに来てとの話。週三日を半日にして頂いて約束した。この salary 一日二時間教えに行っただけで五〇〇〇円。一ヵ月に一万六千円から二万円となる。家計が急に楽になりほっとした。  やはりこれも十一月から阪大研究生となり神経科堀見先生(3)の御厄介になっている。今のところ金曜阪大、土曜石橋に行っている。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 神戸女学院。当時、美恵子は神戸女学院大学英文科非常勤講師を務めていた。   2 カナディアン・アカデミー。神戸にあるカナダ政府公認のインターナショナルスクール。   3 堀見太郎。当時大阪大学医学部神経科教授。東京から関西に移転した際、美恵子は東大の内村祐之教授の紹介状を携え、堀見教授の研究室に入った。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五三年     (三九歳)  三月二十九日[#「三月二十九日」はゴシック体](日)  数日前から発熱中の律は本日|発疹《はつしん》始まり、麻疹の疑い確定。折柄内田様来訪中にて何のおかまいも出来ず。九度二分。ペニシリン射す。  三月三十日[#「三月三十日」はゴシック体](月)  午後カナダ〔カナディアン・アカデミー〕。律|嘔吐《おうと》烈し、九度六分。脈一三五。カンフル。  三月三十一日[#「三月三十一日」はゴシック体](火)  徹をつれて市民病院へ行き私の血清を注射する事を頼む。午後のりちゃん〔お手伝い〕と徹と再度病院へ行っている間に、律の状態ますます悪化。喉《のど》にジフテリー様|潰瘍《かいよう》を発見。あわてて宮本先生の来診を乞う。Nも大学から急いで帰宅。先生夜八時頃見え、ジフテリーの合併は否定するも少々毒性強き麻疹なりとてブドー糖とペニシリンを打って行かる。  九度七分。あけ方まで苦しがって眠らない。すべて吐き出し、尚《なお》も吐く、脈一四〇。カンフルさす。  四月一日[#「四月一日」はゴシック体](水)  朝になって七度二分に下る。私は連日二時間も眠っていないのでフラフラ。しかし今朝もカナダ学校へ。午後かえると律八度六分で苦しがっている。しかし、六時頃から下熱、夜分気分よしと。  四月二日[#「四月二日」はゴシック体](木)  朝六度六分、午後七度一分、下痢つづくも嘔吐止む。オモユ、牛乳、スープ、白身さかななど。徹と買物へ行く途中徹自動車にはねとばされ、宮本医院で診察を受く。幸い事無きを得たらしい。律も私も疲労甚し。  五月十一日[#「五月十一日」はゴシック体](月)  今日は父上の第六九回誕生日。この日まで父上の守られた事を感謝する。今日原町では在京中の Nob も共に一同祝いに集いし筈《はず》。  その後、T、R(1)共に恢復《かいふく》。律も徹も四月末から幼稚園に通っている。しかし、Tはずっと深い咳《せき》をしつづけ、少々やせている点が心配。でも多分恢復するだろう。  Nob も久しくじんましん、咳で悩み、最近市民病院で診察を受け、何ともないと言われた。私も咳がやっと治った。  かくて毎朝二人の出た後の静けさが夢の様なこの頃。少しは私も何か出来そうな気がして来た。殊に来月からカナダもなくなるからよほど楽になるだろう、楽しみだ。希望を失わぬこと。  十月七日[#「十月七日」はゴシック体](水)  数日前、Nの pajama〔パジャマ〕をこしらえた。この頃Nも子供達もみな私のこしらえた真白な pajama を着ている。 「家じゅうの人が私のつくったものを着ているのを見るとうれしいな」と言ったら、Nは 「そして Mimi の作ったカーテンの中で勉強してね」と言った。こんなところに女の喜びがあるのだろうか。いずれにしてもこういう単純な every day life〔日常生活〕の喜びのほうが昔考えていたような教理や dogma よりもずっと�生きたもの�に感じられる。Quaker〔クエーカー〕のよいところは the spiritual〔精神的なもの〕だけを遊離せず the whole of man〔人間全体〕を考えるところだ。  十月十二日[#「十月十二日」はゴシック体](月)  昨日は山手小学校の運動会で子供たちは午前中見物に行って留守。私はひっそりした家の中でゲゼルを読んだ。午後はのりちゃんと律ふたたび行き、私と徹と留守居。Nのパジャマ第二枚目を縫う。彼のものを縫う事は私の心を慰めてくれる。きれいな秋晴の日々だ。  今日は午前中レッスン、午後RとTをつれて神戸へ行き、Rがのりちゃんに買うと言い出した birthday present の万年筆を買う。律はボールペン、徹はクレヨンを序に(?)買い七階の見晴しのいいところでアイスクリームを食べさせてやる。はるか港の沖に浮ぶ汽船や眼下の電車、自動車に歓声をあげる二人。殊に徹はめったに外に出ないので一層驚異の眼を見はる。涙ぐましい。  この二人が青年となるまで私はやはり内職でも何でもして最善をつくさねばならない。そして自分の勉強は何とかして絶えずつづける事、それはきっとむだにはならないだろう。  十月十五日[#「十月十五日」はゴシック体](木)  もう駄目だ、と絶望してしまってはそれきりではないか。そこをつききることこそ私の生甲斐《いきがい》ではないか。もし、give up すれば私はただ現実の苦しみに打負かされた、苦労でしわだらけになり身心ガタガタになった、ぐちっぽい女にならねばならぬ。ただ金のための内職に終始すればその運命は免れぬ。つまりそこには真の精神の集中、困難の克服がないからだ。ギリシャ悲劇のほん訳ならまだそれはある。次善としてやったら如何《いかが》。Gesell の本を読んでいるが、律への理解と寛容をどれだけ教えられる事か。今からでもよい母になりたいと切に祈る。神よ助け給え。  十一月十七日[#「十一月十七日」はゴシック体](火)  父上をお迎えに朝子供達と神戸港に行く。徹全快と言われてから二週間。何とすべてへの気分が変った事だろう。今はTもどんどん一人前に歩いてどこへでも行く。  十二時近くやっと�るり丸�来たり、みんなで港からそごうへ行き、子供達の注文のうなぎを頂く。好きなおもちゃ——バスと汽車——を買って頂き芦屋《あしや》に二時頃帰宅。父上入浴、ひるね。夜すきやき、と楽しい日が過ぎた。夜銀河で御帰京。ストーヴや今日来たり、父上に間に合う。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 Tは次男・徹、Rは長男・律 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五四年     (四〇歳)  三月十五日[#「三月十五日」はゴシック体](月)  二月十一日、三月一日に仲人《なこうど》も無事すみ、三月十二日には医局で初めて一時間程話をした。精神神経領域に於ける Cybernetics〔自動制御理論〕という題。この中の物理的な事についてはNが随分理解を助けてくれた。  今月二十六日には上京の予定。それまで Antigone〔アンティゴネー〕を出来るだけやる。呉先生(1)から先日催促が来ている。幸い子供達は昨今極めて健康で感謝にたえない。  今夜十二時、一人下でハイフェッツ Heifetz のひくバッハ Bach の Partita〔組曲〕をきいて胸を洗われ高揚させられた。やっぱり(after all)私は私の道を行く——この思いを深くした。世間との妥協、又「生活」との妥協—それもある程度までの事だ。「自分」と自分の道とを誰が何が変え得ようぞ。私には私でなくてはできない任務がある。  六月十三日[#「六月十三日」はゴシック体](日)  子供一日海。ノリちゃん、コー一さんと共に。夕方N岡山へ発。かえりH夫人と道で会いしゃべったのが禍《わざわい》の源となり、夜彼女のいや味[#「いや味」に傍点]が心にかかってねむれず、私は悪い母だろうかと思いつづける。  六月十四日[#「六月十四日」はゴシック体](月)  オーノー〔懊悩〕続く。出来る範囲でもっとよい母になろうと決心す。  六月十五日[#「六月十五日」はゴシック体](火)  女学院行。八時間ぶっつづけに教えた後子供達と海へつりに行く。マモルちゃん靴を片方波にさらわる。  六月十六日[#「六月十六日」はゴシック体](水)  午後大橋さんブラウスを又縫って下さってかりぬいに見えた。さらい週彼女を子供と共に訪問する事を約束。  午後レッスンの間に松本夫人にイソミタールを射しに行く。  Nから来信、明朝帰ると。  私の悩みもやっと落着いた。  アウレリウス流に分析すれば、 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、人から悪口言われるという事自体は何等顧慮に価せぬ事。  一、言われる事の内容の中から思い当る事あらば、そしてそれが改良し得るものならば、改良する事。 [#ここで字下げ終わり]  要するに子供を犠牲にして家庭外の活動をする事に対する批難なのだが、私がこんなにも苦しく感ずるのは、丁度平生一ばん気にしている急所をつかれるからなのだ。  それにしても人は何と残酷であろう。私は少くとも働く母親にはこのような事は言えない。  しかし、自分の経験しない事に就て誰が充分同情できよう。私だって自分の圏外の事に対してはこのように振るまっているかも知れないのだ。  許し、耐え忍ぶ事、そして出来るだけ子供の事をする時とエネルギーを生み出す事。  六月二十三日[#「六月二十三日」はゴシック体](水)  あれから子供のためにもっとつくそうと思って努力をつづけた。しかしこんな事を負けん気でやる事のおろかさよ。  もし今の私の道が使命と信ずるならば正々堂々とやればよい。子供のためには出来るだけの事をする。しかし、出来ない事は「運命」と考えてあきらめ、わびるより仕方がないではないか。その不幸を子供が却《かえ》って踏み台としてえらくなってくれる様に祈る他ないではないか。  Nは先週木曜日朝帰阪、今夕又岡山へ出かけた。  二十日は子供達と天王寺美術館に行き夕方同公園でボートをこいだ。  八月二十七日[#「八月二十七日」はゴシック体](金)  毎日英文直しをしているといらいらして自殺をしたくなる。人生とはしたくない事をする場なのだろうか。いつまで語学の先生をしなくてはならないのか。語学よ、汝《なんじ》は私の呪《のろい》だ。  このような事にこんなに時をとられていては、いつまでたっても精神医学者として立つ事はできない。専任をやめ講師にしてもらおうかと幾度思うか知れない。専任としての責任と家庭と学問と、この三つをどうしてやり通すか。超人間的な力が要求されている。ああ神様、いつまでもいつまでも山登りがつづく、つづいてもいいけれど、どうぞ必要な力をお与え下さい。  お金と、地位と——こんなものかなぐりすてる事ができたら!(……)  しかし、自由を得る道は、決して現在の束縛から逃げ出す事ではない。そこにふみとどまり、あらんかぎりの智慧《ちえ》と力をしぼって努力し、束縛を束縛でなくしてしまう事だ。束縛を手なずけて、踏み台としてしまう事だ。私は毎日をかしこくかしこく生きて何とかしてあまりモーロクする以前に目的を達せねばならない。私でなくてはできない精神医学上の仕事を果さなくてはならない。  八月二十八日[#「八月二十八日」はゴシック体](土)  午後梅田、ACC〔アメリカ文化センター〕、旭屋《あさひや》、阪急で用足し。午後大橋さんをお茶に招んであったので、六時頃まで話す。淋《さび》しい美しい心の人。松本夫人も相談に来る。  夜ローバックの History of American Psychology〔『アメリカ心理学史』〕耽読《たんどく》。  八月二十九日[#「八月二十九日」はゴシック体](日)  午前ヒルティをよみ、卒論をし、午後ひるね三時間! ひどい疲れほぼ回復。夕方一家とマモルチャンと芦屋川上流で楽しいときを過す。カラスウリの実を沢山とった。「動く棒」発見。水すまし、かに、etc. etc. 清流に足を浸し、夕方の初秋に心和む。子供達|嬉々《きき》として水にたわむれ、Nは一人|飄然《ひようぜん》と崖《がけ》の上を漫歩。このような時が一ばん「幸福」を感ずる。目的のみあせらず道程を楽しむ事、これが一ばん「幸せ」に近く歩む方法だろう。秋もやっと訪れて来た。今夜十一時、一人英文直しの手をやすめ、窓外にすだく虫の音をきいて心を澄ます。 「正しく、愛にみちた方向に」三谷先生のおことばがひびく。  八月三十一日[#「八月三十一日」はゴシック体](火)  八月二十九日夜から昨日一杯疲労と風邪気でぐずぐずしていた。その間に空気はすっかりひんやりし秋になっていた。昨日はのりちゃんおはりのおけいこで一日中留守。私は気分の悪いのと頭痛をかかえつつ子供のお守。  今朝は午前中Nの論文直し、午後律の昆虫標本整理手伝い。家主さん行。律の床やさん行つきそい。夜は律の最後の絵日記作製つきそい——これで一日すぎた。  そして今卒論直しをしながらモツァールトが最後に貧窮の中から書いたシンフォニーを関響が奏でるのをきいている。Nは又論文のため今夜食事も大学ですませ、まだ帰宅せず。一人虫のすだく窓で涼風をうけながら書いている。人生の詩、リリカルなもの——これを書きとめないで生きてしまうのは惜しい。たとえ何事ができずとも、私の日々の営みの中には、それ自身で価値のあるもの、美しいものも沢山ある。それを記さずに生きてしまっていたここ数年間の年月が惜しくてたまらなくなった。  科学者として何をなし得ずとも芸術家として日々生きている事はできる。ただそれは表現を求めてやまない、そう、私はそういう帳面を買ってこれから記して行こう。感銘と感慨を。  たとえば今日、私は何も自分の仕事はできなかった。しかし朝にはNを手伝う喜びと、律を戸田先生のところ近くまで送って行ったときの感慨がある。律の世間に立ちむかったときのけなげな姿——  又午後は律と二人で一生懸命図鑑をくって虫の名をしらべ、小さい紙片に記して行ったときの協同作業の喜び。ミツマメのごほうびで律をよろこばしたときのこと、等ある。皆平凡な妻、母としての喜びだが皆それぞれすてがたい。  音楽をきいていればこういうものが皆とけて流れ出す。もっともっと自由に音楽がきけたら! そしたら私はもう少しよい人間、愛すべき人間になれるような気がする。  ピアノと蓄音器とをいつの日か恵んで頂けぬものか。  ああ、あの水晶のようなモツァールトの美しさ。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 呉茂一(一八九七—一九七七)西洋古典学者、ギリシャ・ラテン訳詩家 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五五年     (四一歳)  一月二十六日[#「一月二十六日」はゴシック体](水)  女学院で朝の授業を終え田中先生と昼食を頂いていると、家から電話で〔前田〕母上三十分前に永眠との知らせ、東京原町からあったとの事。直に帰宅。阪大へ連絡。阪急で買物。大阪駅で切符を求め、夜の「明星」で発《た》つ。  噫《ああ》! ついに恐れていた事が来た。父上の事のみ気にかかる。  一月二十七日[#「一月二十七日」はゴシック体](木)  七時半頃原町の家に着く。助川の伯父《おじ》上、叔母《おば》上が居られた。父上病院より原町へ。「しっかりなさってね」と私はただ一言。目白を経て東大へ行く。母上は安らかに眠っておられた。苦しみのあともとどめずに。突然の急死は母上にとってかえって御恵みだったのではないか。枕許《まくらもと》には今朝二時間かかって書かれたという「宣郎様、美恵子様、律様」の手紙が表書きも封もして投函せんばかりになっていた。中に二十七日(明日)退院の旨喜ばしげに報告してある! 身辺の事こまごまと五、六枚にわたるこの手紙——昨今こんなに書かれた事は一度もない——にみなぎるものは喜びと感謝のみ。あとに遺った者に如何《いか》なる寂寥《せきりよう》があろうとも尚《なお》ある明るさがのこされた様だ。二十四日のおたんじょう日に私共がささやかなお祝いの言葉とものをおおくりしたのが間に合ってこのように喜んで頂けたのも何といふ御恵みか。  二十七日正午母に白衣をまとい、私共娘の手で死化粧をなし、火葬場へ行く。父上聖書朗読。詩篇九十六編、「罪」の言葉に父上のお心のうずきに触れる心地。遺骨を持って原町へ帰ると神谷母上、池田姉上、克郎氏来る。弔問客続々来る。  午後寸暇を見てアナ・ブリントン氏を訪問。彼女は今夜九時羽田を発つ。  一月二十八日[#「一月二十八日」はゴシック体](金)  午《ひる》頃N着。十二時半よりフレンドセンターにて母上の葬式。礼拝。「主よみもとに」と「ゆりの花」の歌——母上の愛誦《あいしよう》を歌い、関屋氏司式、ローズ女史の話。後者は実によかった。次で告別式。千人近い人々——中には現大臣数名もいたが、心から母を慕う人々はあらゆる階層にわたっていた。数知れぬ花に埋もれた写真は若く美しかりし母上の面影をあざやかに描き出していた。父上寒風の中に立って数知れぬ人との応待に倒れられはせぬかと案じられたがしっかりと守られ感謝にたえぬ。  二月一日[#「二月一日」はゴシック体](火)  母上の「善意に! 善意に!」という言葉がたえずきこえる。たとえだまされてもいいから人を善く見なくてはいけない、という点について私は最もよくさとされ、又さとされる必要があったと思う。X家の人は人を悪く見るからいけない、これがつねに母上の嘆きであった。母上の素朴さ。これは無類のものであった。  朝田辺氏に父上のこれからの方針を告げお願いする。昼皆で大丸下の辻留で京都料理をごちそうになり、「ハト」特二で帰阪。車中|寿雄《ひさお》にかりたモームを読む。石川達三斜め後の座席にいた。  子供元気で留守も大してこたえなかったらしい。  Nすこしかぜ気味。  二月十六日[#「二月十六日」はゴシック体](水)  父上昨夜京都へ。  東京から連絡があったので今朝四時間女学院の入試監督をした後その足で京都新聞会館の父上の講演会場に行き、ヒナ壇の上で父上の話を三十分ほどきく。父上の話ハリなく、疲労の色濃し。次で父上が夜の座談会に行かれるまでの二時間を俵屋でコタツにあたって二人で過す。父上、放心せるが如き面持。京都へ来る途中何とか川をわたる頃母上の若く美しかりし頃の幻あざやかに見えたなどと物語られる。宿の娘さんと三十分ほど語る。悲しみの心を抱いて来るにふさわしい家。  五時に父上と別れ、三十分ほど京の町を一人歩き、七時頃帰宅。疲れた。老人の淋しさには慰め切れぬものがある。Nと二人で時を同じうして死にたいものと語り合う。  三月一日[#「三月一日」はゴシック体](火)  夜Nと二人で四時間位費して明日の着るものの用意をする。終えて一時頃就寝しようとしたら徹の呼吸がいやに早い。体温を計って見ると九度一分。ついに流感! 暗然とする。しかし、明日はやっぱり出勤せねばならない。  三月二日[#「三月二日」はゴシック体](水)  徹の事をハラハラしながらのりちゃんに託してNと朝八時に出かける。手には着物一式をいれたスーツケースを持って。  新オーサカ・ホテルでポーリング氏夫妻と逢い、まず阪大理学部を一時間一緒にまわり、次で夫人と私は中島さんと共に阪急へ、らくやき。朝日ビル十階の本みやけで中食。学長、P夫妻と私がメーンテーブル。午後P氏講演会をのぞき(群衆はみ出す)夫人、府庁の高力さんと共に工芸館と文楽見物。四時半、夫人をホテルへ届け、Nの部屋で着がえ、Nは昼頃から気分わるく夕方そのまま帰宅。夜ガスビルでばんさん会、ACC館長(大阪)とも一緒になる。ACC館長に私は diplomat〔外交官〕だと言われた。  夜九時半頃友成氏の車で阪大の先生方と共に芦屋まで送って頂く。帰って見れば留守中のりちゃんも八度以上発熱、Nも臥床《がしよう》。徹は八度台、律の他全部病人。  三月三日[#「三月三日」はゴシック体](木)  おひなまつりもよそに一日中家事と看護にくれる。疲労甚し、徹平熱、お使いの時、家にいても病人ばかりなので私について来た。これがいけなかったと見え、夜、又発熱七度五分。  三月四日[#「三月四日」はゴシック体](金)  徹朝六度台、夕方七度、夜八度九分! のりちゃん七度台となる。私は疲れはてて、午後二時間ほどひるね。その間に徹の熱がまたあがり出したらしいが誰も注意する余裕なし。N今日から出勤。  三月五日[#「三月五日」はゴシック体](土)  のりちゃん一日中平熱。  午前中徹と二階で遊んで貰《もら》う。午後徹のためにぬいぐるみの兎をつくってやる。今度は私が七度五分。徹一日中七度台、最高七度六分。  姉上にコートを返す小包をやっと作って発送。  毎日余裕なくNに対して申訳ない事のみ多し。  三月十七日[#「三月十七日」はゴシック体](木)  律の組の参観日、Nに十一時まで留守をたのんで行く。律よほど落着いて見えた。こんだん会には出ずに帰宅。午後から律の友人四名来る。山程ドーナッツをこしらえたがおおかた平げてしまう。  早川加代(英文二年)さん午後一時半訪ね来たり、子供達を見ながらお相手。急に暖く子供達今日から半ズボンとなる。疲れて何も知的仕事なさず。  三月十八日[#「三月十八日」はゴシック体](金)  朝Nと子供達を送り出し、ラジオの音楽をきく。シューマン協奏曲イ短調作品54とし子と二人で焼けるまで弾いていた曲だ。生命のはんらん、きらめく光、おどる影。私の全存在がおしながされる。  酒でもあおり飲んで一時に生命を燃やし、大きな作品をつくり出して死んだらどんなにいいだろうと思わせる様な曲だ。小市民精神に対するなんと痛快な反逆! しかし、私の前には皿洗いと掃除と、整理がある!  五月一日[#「五月一日」はゴシック体](日)  Nと二人で新緑の町を古道具や歩き。神戸、大阪にわたりとりとめもなく往く。最後に松阪やで電蓄を買う。安物ではあるけれど私共としては大英断。これで私の音楽への飢えも癒《いや》されるかと思うとひとりでニコニコしてしまう。  社会福祉学会から私に話をせよと。ああ五月から勉強しよう!  八月三十日[#「八月三十日」はゴシック体](火)  T、Rをつれて病院へ(1)。レントゲンで二人とも異常なし。Rその場で採尿、検尿。これも異常なし。心もおどらん心地で阪急に戻り約束のお祝のうなぎどんぶりを御ちそうする。Nからたよりあり、早速今日の事知らせる。  これでようやくすべてが平常に復する様で(尤《もつと》も上林先生の御意見によりRは一日の式に出たあと十日ほど休む予定)ある。感謝あふる。  三田庸子「女囚と共に」読了。感心した。  やっと涼しくもなるし、Rは治るし私もほん訳だけでなく、秋から勉強したい。  九月四日[#「九月四日」はゴシック体](日)  午前中子供達をスミサン〔お手伝い〕とお弁当を持って山へやる。一時頃まで独り居を楽しむ。Nより苫小牧《とまこまい》から通信。午後から衣服の整理、あみものの予定 etc. をした以外は終日学究のごとくただ机に向う。随分時間があって、ただ訳に使うのは勿体《もつたい》ないが、いろいろな理由から今はただガムシャラにこれをやる。やりつついろいろ考えている。  今十一時半。窓から冷たい風が流れこみ私はうすいセーターを羽織った。すべてを背後におしやりただ目前の仕事に精出す。その事がまた何かへの踏み台となるだろう。こうして過去からずっと、私はいつもただやって来たのだ。  十月三十一日[#「十月三十一日」はゴシック体](月)  午前NにルスをたのみTをつれてやぬしさんへ行く。  N昼食後阪大へ。食事の片づけをしていると大橋夫人見え令息につき三時頃まで話す。  家計簿整理。  夜アナル・メディコ・プシコロジック〔フランスの医学心理学年報〕をよみながらTのセーターをあむ。  かくてこの月も過ぎた。考えると今年は何と変動の多かった事であろう。私の勉強の見通しもつかないままに暮れて行くのかも知れない。どうしても運命が道をひらいてくれないならやはり小説の道を志すべきかときょうも又考えて見る。この考えは、毎夕レコードをかけながら食事の用意をするときに考える事。  十一月十日[#「十一月十日」はゴシック体](木)  この頃毎晩八時間以上もねているのに何となく疲れがぬけない。顔はやつれつやがない。おもいなしかやっぱりガンの Marasmus〔消耗〕の初めかな、と思う(2)。きょうも一日その思いとともに過した。それならそれで方針を、心の方針をたてるつもりだ。(ただ一日も早く知りたい。)残る生命をいとおしみ、大切に生きること。夫と子供とそして自分に対して、なし得る事をなしとげて死ぬこと。やっぱり宗教が信仰がよりどころであろう。しかしそれは自分の心の底の真実なるものでありたい。他人や他人の集団にコンフォームしよう〔したがおう〕とするものであってはならない。  今朝はアナルの抄録、午後はレッスンの用意とほん訳。高橋先生から諒承《りようしよう》の手紙ありほっとした。  子供たちのはつらつと遊んでいるのを見るのが今の私の何よりの喜びだ。Nも限りなくやさしい。  十一月二十二日[#「十一月二十二日」はゴシック体](火)  Nと共に逓信病院に行き上林先生に御相談、同室の足立先生に木曜日に診て頂く事にした。帰り高島屋やそごう、大丸等へアメリカへのプレゼントを見に行く。  朝阪神ビルの下でコーヒーを、昼ナンバの中華料理やでワンタンとブタマンと、すべてこの世の名残と言った気持で味わった。  今日は一日両側の坐骨《ざこつ》神経が痛かった。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 二人の子供とも二年前に結核から回復し、経過を観察中だった。   2 この年、初期癌が発見されたが、ラジウム照射で食い止めた。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五六年     (四二歳)  一月二十六日[#「一月二十六日」はゴシック体](木)  母上の御命日。お写真のそばに大橋さんの下さったカーネーションと水仙をかざりいろいろと思う。  子供たち午後映画を見に仏教会館へ利さんと行く。その前にジフテリア予注をしに保健所へつれて行った。 「山びこ」の原稿「アンティゴネー」を終えた。  三月五日[#「三月五日」はゴシック体](月)  うららかなあたたかい日。午前中|徹《とおる》を連れて心斎橋「そごう」に行きランドセル、制帽その他を買う。二時頃帰宅。父上まもなく来宅。ユネスコのアジア会議でくたくたになられ、のどを痛めてガアガア声。vit B1を 20mg さす。  三月六日[#「三月六日」はゴシック体](火)  午前中幼稚園へ諸費持参。大原市場で買物。帰宅すると父上がもう来て居られた。  昼食にまぐろのさしみ、きゅうりとかにの三杯酢。酒粕汁《さけかすじる》、父上午後入浴、ひるね。私は又食料の買物。  父上の疲労相当深く気がかりである。  あとせいぜい二、三年で結構と言われ、ユネスコも新生活も皆やめたいと。  六月二十七日[#「六月二十七日」はゴシック体](水)  女学院。  中村先生より話あり、学長が私を再び専任にしたいとの事。再び断る。放課後田中左右吉先生と多田さんにつき会談。たんぼは田植最中で水面美し。  六月二十八日[#「六月二十八日」はゴシック体](木)  午前中|光田《みつだ》先生(1)に九枚の手紙を書き愛生園(2)で調査させて頂きたい希望を記す。午後Tの友だち潮崎《しおさき》君来り、ケーキをやいて子供たちに饗応《きようおう》。  昨日の中村先生の話のつづき。——再び専任というのは今度は専任講師とすれば教授会その他の雑務がなくて、しかも経済的には固定給ボーナスなどあって、よからんとの事であった。経済的云々の言葉はひどくこたえた。しかしやはり断るほかない。と言うのは今の際、お金よりも自由の方が大切だからだ。しかしこのお金という事で何と私はしばられている事であろう。わずかの余暇を語学教授についやしたこの十年間をかえりみると涙なきを得ない。そしてまだまだ現在もその苦しみはつづいている。ああしかし私は努力をやめてはならぬ。そして、ついには一切語学を教えないでもよいようになる日がある事を期したい。ただ純粋に医師として医学者としていそしめる日を。  ああもし愛生園へ行けたら! あそこで私は又生気をとり戻すだろう。光田先生の反小市民的な、温い、純粋な精神とあの病める人々の中で。  十月五日[#「十月五日」はゴシック体](金)  午前中夢中でほんやく、午後医局会。The role of the father in 6 cases of schizophrenia〔分裂病の六例における父親の役割〕とかいう題の抄読、そのあとで金子先生(3)と相談、大体賛成して下さったらしいので一安心。うれしくて夜中に目をさまし一人で感激、ああようやく神様が許して下さるのかと思う。一人涙す。  内職(心ならずも語学教師として)と育児にあけくれた十年の後ようやくお許しが出るのか。勇躍せざるをえず、これから体も大事にしようと思う。そして家庭をも!  十二月十日[#「十二月十日」はゴシック体](月)  光田先生に手紙を出した。文学はたしかに私のなすべき事の一つであろうが、さしあたっては研究に全力をそそぐべきである。ほんやくもすみ、乳ガンの疑いもはれ、カゼも痛みもとれたのだから、心身ともにシャンとしてとりかかりたい。  午後レッスンをすませてR、Tを伴い神戸そごうに行く。二人クリスマスプレゼントの下見のため約二時間おもちゃ売場を歩く。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 光田健輔(一八七六—一九六四)。当時ハンセン病の国立療養所・長島愛生園園長。戦前から戦後にかけて、国のハンセン病政策に多大な影響を及ぼした。   2 美恵子はかねてよりハンセン病患者のために働きたいと希望していた。この年、宣郎の勧めもあり、ハンセン病の精神医学的研究を進めるべく愛生園を一三年振りに訪れた。   3 金子仁郎。当時大阪大学医学部精神科教授。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五七年     (四三歳)  一月二十六日[#「一月二十六日」はゴシック体](土)  母上御命日なり。多田さん白百合の花束を持って来て下さる。父上からたんじょう祝に黒い上等のハンドバックが来た。午前中石橋でEの生活史をしゃべる。ゆうべ不眠で疲れた。  三月一日[#「三月一日」はゴシック体](金)  午前中精神構造調査用紙製作。  午後医局へ、金子先生にショーの原文なしと申上げたら「神谷式」をつくったらよいと言われたので勝手につくる事にした。  三月二日[#「三月二日」はゴシック体](土)  朝から夕方まで夢中で「神谷式SCT〔文章完成テスト〕」をこしらえ、又精神構造調査用紙をこしらえた。夕方印刷やへ。夜中級レッスン。  三月六日[#「三月六日」はゴシック体](水)  雪がちらちらふっている。なかなか春になり切らない。三浦先生から文献送ってくる。激励のお言葉も頂いた。  私の体がラジウムのため時よりも早く衰えてきていることだけが少々困ったことだけれど、それ以外のことは今みんなうまく行ってどうやら私のレプラの研究もはじめられそうだ。考えて見るとこれだけ多くのファクターが揃《そろ》うというのはふしぎな事で、何と感謝してよいかわからない。謙虚、忍耐、根気、勇気——こうした諸徳を願くばたまえと祈る。就中《なかんずく》Nの理解と励ましの有難さ。これができれば私は自分の使命に対しても日本のアジアに対する使命に対しても少しは気がすむだろう。塩沼先生(1)の中国視察記を見てもそう思う。  四月七日[#「四月七日」はゴシック体](日)  うららかな春の日。Rはカブ〔カブスカウト〕へ朝七時半から出かける。朝九時NとTと共に家を出、三宮《さんのみや》から出発、こんでいて先にのってくれたNが見当らず暫《しば》し弱る。Tとろくにさよならもできなかった。相生《あいおい》から日生《ひなせ》まで小さな赤穂《あこう》線の汽車。一時半日生発の船にのろうと思ったが、四時〇五分の森丸でないと出ないとの事で、運送やの土間にスーツケースをおき、その上で本をよんで暮す。五時長島着。途中なめらかな水面に夕日がさしてこの上もなく美し。のこして来た者への執着と未来の道への不安と期待がいりみだれ、ただ祈るほかなし。愛生園着後、塩沼先生と塚本氏(庶務課長)としばらく話し、次で食事。その間も塩沼先生ずっと付いていて下さる。それから光田先生のお宅へ、先生お風邪気で臥床中で、お床のそばで話す。  九月七日[#「九月七日」はゴシック体](土)  今夜から子供たちの間に寝る事にした。  終日SCTの整理、ただただ馬車馬のごとし。それとNの原稿の英訳を時折やるだけ。  こうしてやたらに追われて考えることも感ずることも表現することも、なおざりにして暮すことをもう何年つづけて来たことであろう。もういいかげんに生き方をかえなくては、たとえ目前の仕事がかたづいたところで、ほかの生き方ができなくなるだろう。  ここでどうしても失われた何ものかをとりかえさなくてはならない。  こおろぎがないている。失われたものを泣いているようにきこえる。   わが心のさやぎヒタとなげば   こおろぎよ、お前は泣いていた   いつからか知らないけれど   わが心のざわめきにかくされて   ひそかに泣きつづけていたのだろう。  九月十九日[#「九月十九日」はゴシック体](木)  金もくせい庭にふくいくたり。まだせみの声もきこゆ。  ゆうべは珍しくよく眠った。今朝はすばらしい秋晴れ。しかもなお、朝のゴールデンアワーはせんたくと律のふとん直しに全部費された。その間きいたレコードのバッハだけが慰め。しかし、しかし、美恵子よ、お前に求められている事を逃げてはならない。妻としてのつとめ、母としてのつとめ、主婦としてのつとめ、そしてお前自身のつとめ——そのどれもおろそかにしてはならぬ。しかもその上、時を永遠の相のもとに観ずることを!!  九月二十日[#「九月二十日」はゴシック体](金)  朝女学院のかえり買物の為梅田へまわる。脳談話会をサボって帰宅。子供たちの相手、家計簿整理。Aldous Huxley: The Genius and the Goddess を読んだ。ハックスレイの文と思想の力にひきずられてとうとうよみ終るまで他の事が何も出来なかった、文学とはこういう力にみちたものだ。庭の金もくせいの匂《におい》にむせる。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 当時長島愛生園医務課長だった塩沼英之介 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九五八年     (四四歳)  四月二十九日[#「四月二十九日」はゴシック体](火)  天皇たんじょう日、新緑の庭のつつじがあざやか。徹の勉強机も私の書斎に持ちこんだ。「お父ちゃんの机をおくとこある?」と徹がNに心配そうに気の毒そうに訊《たず》ねていた由。  朝大橋さんがすずらんのかわいい鉢を持って来て下さった。一日中ローゼンツワイグとNの論文、時々テレビ。夕方Nと二人で裏山を散歩。  律はこのへやで勉強がしやすいと大喜び。今朝も早くから机に向かっていた。  六月二十八日[#「六月二十八日」はゴシック体](土)  奈良で学会。  私は最後から二番目。昨日にこりて表現をうんと控え目にしたためか何の異論もなし。  かえりぼんやりしてものにつまずき杉原先生方に笑われた。夕暮の猿沢《さるさわ》の池が美しかった。  七月十三日[#「七月十三日」はゴシック体](日)  一家一日中ともに暮す。夕方律をつれて西宮へ律の帽子を買いに行く。赤堀夫人にあう。私はだれに会っても自分の生活の一部をかくしているようなうしろめたさを感ずる。ふつうの奥さんらしく——あるいはせいぜい「語学のできる奥さん」らしくふるまっているだけだから。ほんとの私はなんとふくざつな恐ろしい存在だろう。それを知っている人は殆《ほとん》どない。  八月十二日[#「八月十二日」はゴシック体](火)  今夜も又ねつけないのでのこのこ真夜中に階下へおりて来た。これからはこういう時を利用して物を書こうと考えた。まず最近感じたこと。  一、舎営手伝い(九、十日)の際Y夫人との会話でいろいろ考えるところがあった。  自分の子供たちを護ることに熱中するあまり、他《よそ》の子らと絶対に遊ばせぬ態度。  きびしく長男をとりしまるため長男が次男をいじめてばかりいること。(これは私の反省になる)  合理的能りつ的に家事を処理し余暇をタイプ、自動車運転練習に使うのは結構として、将来目標とするところは何。その一つは 「社長さんたちをしらべてみても必ずしもいい学校を出た人ばかりとは限らない。だから子供をムリにいい学校へやろうと考える必要はない」という論理の中にうかがえた。社長はこの辺の人たちの共通の目標というべきか。  一、舎営手伝いで約十八人位のお母さんたちと起居を共にしたのはいい経験だった。思ったよりみなかざり気なく気持のいい集団だったのはやはり大部分が私より十位わかい人たちだったからではなかろうか。私の年輩の人には疲れ切った老いこんだ感じの人が多く、ぼやっと何もせずにつったって人の噂《うわさ》などしている人が多かった——と言っても全体では四、五人位だったが。こういう集団の中で私は髪や服装などもやぼったく、あまり気もきかず、何一つ取柄のないように見えるにちがいない。それで私も安心なのだ。私はほんとに目立ちたくないと思う。こういう願いは卑怯《ひきよう》だろうか。何かを逃げているのだろうか。  一、人間は神なしで正しい生活が送れるものだろうか。これもその人ひとの性格によるのだろう。神との対話という形で深奥の精神生活を営む事が自然ならば、そうするのを何はばかる必要があろう。神学的にみてその神が何であろうと問題ではない。神は人間の精神の精髄であると言ってみたって一向かまわない。一つの心理的必然として神という概念があるならば、それはあくまでも必要なのだ。ただ要は自分で神を独占しているような気になって思いあがらないことだ。  夜子供たちのへやに行き、床につく前の徹を抱いて西宮の方の灯がきらめくのを見ながら星の歌をうたったときの母親としての幸福感——こういう至福の瞬間は何にもかえがたい。私は子供たちに何一つじっくりとした事をしてやれないわるい母親だが、すなおに私のあとをついてくる律と徹にはただ感謝あるのみ。   ああわが子よ   まっすぐなひとみで   母に問いかけ   母を受け入れ   母に従う子らよ   お前たちのあまりにも細い体と首は   あまりにも重い大きな頭を戴《いただ》いている   その頭の中に宿るものは   なんであろうか。   どんな成長と飛やくがその中にひそんでいるのだろうか。   それとも……   もうすぐお前たちは母を追い越し   はるか高きところから小さき母を   あわれみを以て見おろすだろう   その時にせめてお前たちの心に   うそをつかなかった母として   きざみつけられていたいものだ。   ああわが子よ   まっすぐなひとみで   母をみつめ、母に従う子らよ   お前たちの信頼の重みに   母はただたじろぐのみ。  大きな頭を細い首にのせた二人の子らの痛々しさ、そしてたのもしさ。ああどうかこの子らの成長を妨げず、少しでも助けることができるように。  一時すぎ、とよに大きな音をたてて雨が降って来た。何日ぶりの雨だろう。きいていると心もしっとりとぬれて来る。ききながらねる事としよう。  十二月二十日[#「十二月二十日」はゴシック体](土)  午前律のお相手。午後大橋サン多田サンとゴッホ展へ(京都)。迫るような緑に圧倒された。自分も表現に身をささぐべきことを改めて思った。学者としての道の閉されている事はむしろ有難いことなのだ。その暗示をすなおに受け入れねばならない。  展らん会場でも帰途の電車の中でもその事を思いつづけていた。余生をその使命にもやしつくせよ、と。ああ、その使命にとりかかるため今は一刻も早く論文をすませねばならぬ。  十二月二十一日[#「十二月二十一日」はゴシック体](日)  大橋サンが貸して下さった読売紙上高見順氏のゴッホの伝記連載の切抜をよみ、さすがは芸術家による理解だと思った。けさ食卓でNに昨日の「啓示」を語り、Nも心から同感してくれた。希望にみちてたちあがる——そんな気持だ。やっと時が来たのだ。 [#改ページ]  一九五九年     (四五歳)  一月十二日[#「一月十二日」はゴシック体](月)  私のたんじょう日だけれど論文がすむまでは一寸《ちよつと》も気分が出ないので今日は祝わない事にした。でもNが濃い桃色の桜草を求めて来てくれたのでうれしく心が和められた。  一日中面接の部の数字を出す。  三月二十六日[#「三月二十六日」はゴシック体](木)  夜三時記。桜はもう三分ほど咲き出している。今が一ばん清らかである。  庭の桜草も濃淡の紅色にたくさん咲いた。スイートピーもたくましく冬を越して背も急に伸びて来た。  朝は森市場、顔|剃《そ》り。午後子供英語、あすなろのための原稿「通信簿」をかく。女学院の新学年度の教科書もきめた。夜レッスン、カナディアン・アカデミーの校長さんから電話。明朝会う事になった。  五月十三日[#「五月十三日」はゴシック体](木)  C・A〔カナディアン・アカデミー〕の帰途、学生新聞の印刷されたばかりのを持って上ってくる日本婦人に出会い、一部|貰《もら》う。私の写真が第一面に大きく出ている。Patty の記事さらにつづまりながら尚かなり長く私の一生をカバーす。Hちゃん帰って急に疲れが出、頭痛しきり。タレント・ショーにも出ないで帰宅す。律ピンポンに友だちを大ぜいつれて来ていた。  六月二十四日[#「六月二十四日」はゴシック体](水)  堀見先生追悼の英文をかき、学位申請書類の原稿をつくり、夜は明日の話のため女性に関する精神医学上のトピックスを拾うため文献しらべ。難波先生から本の礼状と共に又専任になってくれとのお手紙来る。  父上より電話かかる。いつ上京かと。  八月十一日[#「八月十一日」はゴシック体](火)  今朝は台風一過という感じですがすがしく晴れわたり、陽の光り、緑の色すべてがきらめいている。秋冷とも言うべき大気の中でゆうべの洗たくものを干しながらこの夏はじめてと言いたい位の「新しい門出」と言った気持におそわれた。俗な利害を超えてこれからの進路を考えたい。どうか考えさせて下さいと私の神に祈る。  十一月十日[#「十一月十日」はゴシック体](火)  朝女学院へ行くとき一人山道をえらび、しいんと静まりかえった木立をすかして青い空に映える紅葉黄葉を仰ぎながら人間の生甲斐《いきがい》や意味感について考えた。ただ動物の様に生きることではまん足できず、己が存在の意味を感じないでは生きていられない人間の精神構造を思う。宗教の大きな存在理由はそこにあるのであって、フロイドやT氏がきめこむ様に、単なる恐怖の産物としてしまうわけには行かない。「イミ感について」という書きものをまとめてみたい。パトロギッシュ〔病的〕な場合もふくめて。女学院行。  十二月二日[#「十二月二日」はゴシック体](水)  お使いの途中、いちょうのまばゆいばかりの王者のごとき姿を仰いであの樹一本をゴッホの様に描き出せたら、もうそれで死んでもいいのだな、と思った。生きているイミというのは要するに一人の人間の精神が感じとるものの中にのみあるのではないか。ああ、私の心はこの長い年月に感じとったもので一杯で苦しいばかりだ。それを学問と芸術の形ですっかり注ぎ出してしまうまでは死ぬわけにも行かない。ほんとの仕事はすべてこれからだというふるい立つ気持でじっとしていられない様だ。  十二月五日[#「十二月五日」はゴシック体](土)  ほとんど一ヵ月分の家計簿をつけ、シューマンをひく。やさしい曲ばかりだが珠玉のようなリリシズムに心がふるえる。  目白(1)へ電話。  お使いに行くたびごとに晩秋の山の色のゆたかさが胸にせまる。人生の晩秋もああいうものでありうるわけだ。晩年のミルトンのように、泥にまみれたそれまでの人生でえたものをすでにおとろえた体と失明の眼であのように壮麗な作品を歌いあげることもできるのだ。  十二月三十一日[#「十二月三十一日」はゴシック体](木)  今年はよいことが多い年であった。一月は私の論文の追込みで実に悲壮であったけれども、Nの理解と愛情そして子供たちの忍耐のおかげで母上の命日にはかきあげることが出来た。Rの扁桃腺《へんとうせん》手術も無事にすみ、その後私はお金のためにC・Aへ行ったり、今後の方針に悩んでいたが、女学院から思いがけないいい条件で話が来たので専門の勉強と生活のための働きをやっと一致させうる見こみがついた。Nのプロトプラズマトロギア(2)も無事に出たし、外遊も成功|裡《り》に終ったし、子供たちは丈夫になった。  心から感謝して新しい年を迎えよう。  一九六〇年はRの受験や私の新しいつとめが待っている。又私はどうしても本をかかねばならない。一生けん命にやろう。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 宣郎母宅。   2 宣郎の主著『プロトプラズマトロギア』(一九五九年 ドイツのシュプリンガーより出版) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九六〇年     (四六歳)  一月三日[#「一月三日」はゴシック体](日)  Rは戸田君の家へ行き、御一家と共に西宮の「えびすさん」へ行った由。Tは例により一日の大半を文ちゃんと共に自転車乗り。Nと私は勉強。清水幾太郎《しみずいくたろう》『社会心理学』読了。頗《すこぶ》る面白かった。しかし社会主義革命により「個人と集団とが一つのものになり」人間の中のもやもやした願望や欲求までみな満たされてしまうという推測はあまりにも単純すぎないか。むしろ社会問題が解決したそのあとでこそ、もっとも純粋に人間の精神自体に内蔵される問題が出て来るのではないか。  一月十一日[#「一月十一日」はゴシック体](月)  一日中家にいて——と言ってもお使いには二、三度出たが——文献カードの整理と手紙の返事かき等をした。市場でえんじとピンクのさくら草の小さな鉢を求めて来て、それをかかえてあの線路の上を歩きながら、春めいてつゆを含んでいる様な山々の輪郭を眺めた。新しい生命は私の心の中にもたくさんうごめいていた。  一月十二日[#「一月十二日」はゴシック体](火)  女学院の帰途Nと神戸でおちあい、Nのカバンを物色。たんじょう祝のごちそうを頂く。ケーキを買って八時頃帰宅。ふつうでない意識状態になって、思いもよらぬことにはまりこんでしまう人々の心理がわかる気がした。ルス中子供たち二人で夕方森市場まで行ってえんじ色のシクラメンの鉢を求めてくれていた。Nからはアルパインカレンダー。去年の今日からみて今年は何というゆとりのあるたんじょう日かと思う。  一月十四日[#「一月十四日」はゴシック体](木)  午前Tのクラスの参観五分ほど(?)で帰る。ケーキを沢山やき、子供達に英語を教える。T、カッチャンたちになぐられて、まっかになりながら必死で涙をこらえてブルブルふるえている様子をつぶさに眺めて、あの子の抑えの力の強さに感嘆した。夜仏語のクラスに新しく山口サンという人が見えた。ジイド読了。藤井氏は、本当のプロテスタントならこの最後のところを出発点として成長すべきだと言う。木下|杢太郎《もくたろう》の話もでた。  ルナールの『博物誌』をよみはじめたのでマゴちゃん(1)のを貸す。夜又「生甲斐(2)」に熱中。イデー〔考え〕がこぼれ困るので一時間静かな曲ばかり弾いて子供をねむらせ自分もしずめる。過去の経験も勉強もみな生かして統一できるということは何という感動だろう。毎日それを考え、考えるたびに深い喜びにみたされている。「精神」というもの、それに仕える者の姿をなぜ島崎先生のように悲劇的にのみ考えねばならぬのだろう、精神が生命を助ける事もあろうに! また生命が精神を支えているのに!  二月十四日[#「二月十四日」はゴシック体](日)  一日中書いていた。〔『生きがいについて』〕それでも大して捗《はかど》っているわけではない。考え考えしらべしらべかいているので。ときどき自己嫌悪におそわれて困る。こんなつまらないものを出す価値があるだろうか、と。でも私は私でしかないのだ。この頃一寸もつかれない。  過去とつじつまを合わせようという grandiose Einheitswillen〔宏大《こうだい》な統一意欲〕がこの頃の私を圧倒しているようだ。過去に蓄積したもののすべてをこの本の中にぶちこんで統一したいというのだ。Chaos の克服ができるかどうか。必死なのだ。ともかくやっと書くことの許される事態と時が来たのだから。  Tヒザ(両側)の痛みこの頃ひどくなる。体重減る。リューマチかと思うので手術を考えている。  二月二十四日[#「二月二十四日」はゴシック体](水)  駅へは父上、アキ子、とし子来て下さる。車中富士が実にあざやかに雪姿を春がすみの上にあらわし私はずっと魅入られつづけた。内には火を、外には冷徹清浄|無垢《むく》な造形の美、統一の美、——大きな暗示であり啓示である。静岡あたりの石垣栽培の苺《いちご》。その先の蜜蜂《みつばち》の巣箱。みなあたたかでなごやかな風景。車中『日本のアウトサイダー』(河上徹太郎)をよむ。夕方岐阜の辺で遠く雪山が夕陽に輝き、近くには孟《もう》そう竹《ちく》が黄金の泡をたてていた。昔、レザヴァンの坂のところへ毎夕一人で自転車で来てじっとはるか下のモントルーと湖に夕日の射すのをじっとみていたときと全く同じ感じだと気がつく。八時帰宅してみると、律朝から発熱、九度七分。  三月七日[#「三月七日」はゴシック体](月)  すっかり春らしい光の感じ、Nがいたら又例の「先走った」季節感覚を表現することであろう。彼のいつも前向きの姿勢のたのもしさ、若々しさ! そして彼がアメリカで、ヨーロッパで、生々とその生命を、それにもっともふさわしい世界で展開させていることを思うのはすばらしく exciting なことだ。  庭のチューリップの芽、バラの芽、あじさいの芽、沈丁花《じんちようげ》の花の匂《にお》い、みな、生命がぐんぐんとあふれ出ている。  いろいろなフランス語の献本をよむ。ボーヴォアール、ルナールの劇。  三月八日[#「三月八日」はゴシック体](火)  うぐいすがしきりに鳴いている。一つの声ごとに新しい世界がひらける感じ。ああ今こそほんとの春だ! オバサン外出。Rは風邪で休む。  毎日ただ書いている様な気がするのに一寸も捗っていないのがふしぎだ。結局考えている方が多いのだろう。  ——「生きているのが苦しいときあなたどうするの?」——  どうもこの独語を私は家庭に入ってから屡々《しばしば》言うらしい。(しかしこの頃は言わないようだ。)独りになるとそう言っている自分にはっと気がつくことがある。そのイミを今日はじめてよく考えてみた。結婚生活の幸福の只中《ただなか》でこういう独語が無イシキから出てくる私——  三月十一日[#「三月十一日」はゴシック体](金)  父上をお迎えするための家のかたづけをしていて学位記授与式におくれて(十五分位?)参列。一ばんあとで追加的に正田総長より頂く。紅一点。かえり大阪府立病院へ行って山川先生にお目にかかろうと思ったが御不在だった。御出《おいで》になる日をきいて帰り梅田阪急コロンバンでコーヒーをのみ、考えごとにふけって払うのを忘れて出て来て女の子においかけられた!  頭に考えが沸とうして、あふれ出て困る。キャントリル『社会運動の心理学』と「精神医学」一月・二月の妄想研究を熱心によむ。すごく参考になる。今日は一日特殊なイシキ状態。父上九時頃見えた。夜はおぼろ月、一人外でめいそう。  三月二十四日[#「三月二十四日」はゴシック体](木)  律《りつ》卒業式。風寒し。雨のち晴。母上や姉上の借着で出席、律真白のセーターで謝恩会の時ニコニコして何度も私の方をみていた。入学の当時を思い出し又この六年間——とくにRの腎臓炎《じんぞうえん》のことを思い出し今日あるを感謝す。坂の上で別れるとき梶山《かじやま》先生泣いておられた。  S夫人来訪、娘サン女学院大入試不合格で夫人一週間泣いてくらされた由。はじめて「ペシャンコ」になられた由、こういう打撃にあうほうが人の心は美しくなるのだ、と又もや観察された。夜レッスン。それからバッハを沢山弾いた。  Nの小包アメリカから来る。下着の中に私への青いブローチあり。  四月六日[#「四月六日」はゴシック体](水)  律の甲陽中学入学式。一点のくもりなく晴れわたった空。桜の花のあふれるみどりの山、律の門出を祝うがごとし。和服を着て坊主頭の律と共に歩いて行く。  午後大橋サンと森市場。春の山を眺めつつ陶然として帰る。  律の学用品に名前をつける。夜 Annales をよみ明日のレッスンの準備、それからセルーヤのミスティシズム。しかしこれはずい分ずさんな本である。私の一ばん大きなギモンはミスティーク〔神秘主義者〕たちがなぜもっと客観的に自分をみられないか、という事だ。私だけそうなのだろうか。  五月十日[#「五月十日」はゴシック体](火)  Tは前々から楽しみにしていた遠足とりやめとなりがっかり。  私はゆうべヤスパースの本を十六年ぶりによんで感慨にたえず二時まで起きており、けさも六時に目をさましてしまった。人間というものを少しでもよくわからせてくれる本というものほど有難い貴いものはないように私には思われる。たとえば聖書というものがどんなに貴い真理をあかすものであるにせよ、それはやはり精神の一形態を示すだけではないか。そこにはやはり自己陶酔があるのではないか。もちろん陶酔は生きて行く上で不可欠な要素だけれど、自分の属する形態以外の形態をも理解し、多くの形態の中の一つでしかない自分の位置をも客観的に認識することこそほんとうの智慧《ちえ》ではないだろうか。精神医学はそれを可能にする筈《はず》だ。  五月二十八日[#「五月二十八日」はゴシック体](土)  午後YMCAで話。更年期主婦のオントロジカル〔存在論的〕な虚無感の訴えが一ばん心に残った。 「何をみてもおもしろくない」「何もかもしんきくさい」「何のために生きているのか分らない」「女として終りだ」女の生き方、というものについて、同類として私は考えなくてはならない責任がある。女子大生を教える上からも。更年期に女ははじめて人間として生きはじめるわけだ。その時「実存」を確立できなかったら、余生はただ「生ける屍《しかばね》」になるほかないだろう。  六月二十日[#「六月二十日」はゴシック体](月)  女学院では礼拝司会、チャプレンのおめつけの下に語るのはあまりゆかいではない。キリスト教だけが真理を握っていると考える人々の狭量さは耐えがたいものだ。キリスト自身の排他性にその根がある。講義準備が間に合わずケースワークでは学生に臨心〔臨床心理〕学会の話をさせ、精衛〔精神衛生〕ではSCT(丁度今日東京精研から到着)施行。  六月二十三日[#「六月二十三日」はゴシック体](木)  朝Nと私の論集の論文をめぐりキリスト論その他一時間半位しゃべってしまった。彼とこういう話ができるとは思いがけない発見。午前中強迫神経症の人の母O夫人相談に来る。午《ひる》頃市場へ行き大橋キヨサンのところへよったがルスなので門の格子の間からおかしを投げこんで来た。帰ってヒルネ。  愛生園の横田さんから大歓迎の旨。そして例の講義その他の依頼来る。やはりあそこに私の一ばん本当の仕事があるような気がする。  七月三日[#「七月三日」はゴシック体](日)  どこでも一寸《ちよつと》切れば私の生血がほとばしり出すような文字、そんな文字で書きたい、私の本は。今度の論文も殆《ほとん》どそんな文字ばかりのつもりなんだけれど、それがどの位の人に感じられるものだろうか。体験からにじみ出た思想、生活と密着した思想、しかもその思想を結晶の形でとり出すこと。  九月十日[#「九月十日」はゴシック体]  保健証のことで市役所へ行き、梅田へ出て岸本御母堂の見舞品選定に二時間費す。ガンの人に贈るものはどんなものだろうか。スペイン風のスタンドをやっとみつけて、それをおくらせた。私だったら死の床であのようなステンドグラスからもれるほのかな灯を夜みつめていたいと思ったのだ。それからがまんしきれずシューマンのピアノ協奏曲のLPを求めて帰る。帰り、夏からよみかけのキェルケゴールの『不安の概念』をよむ。よみ終えるのが惜しく、ちびちびと考え考えよむ。ところどころ感たん[#「たん」に傍点]の声をあげつつ。ずい分沢山の事を考えたおかげで、講義の準備はなかなか捗らない。  今夜もシューマンの音楽の洪水の中で考えつづけている。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 串田孫一(一九一五生まれ)詩人、哲学者。美恵子とは幼少時からの知己だった。   2 一九六六年に刊行された『生きがいについて』(みすず書房) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九六一年     (四七歳)  一月三日[#「一月三日」はゴシック体](火)  朝七時。今年になってけさ初めて自分の仕事部屋にすわる時ができた。一日と二日の日記をつけ、一年の初めの想いをかえりみる。今年は何と言っても本をかきあげなくてはならない。その責務が何よりも大きく、重く、心の上にのしかかっている。しかし、今までの毎日の歩みがいわばその本を書いていたとも言えるので、これまで完成がのばされたことにもイミがあるのだろう。昨日から寒さはやわらぎ、昼の太陽はあかるく、夜の月もまどかである。自然はしずかなただずまいで今年も私たちを抱いている。「死」と「虚無」をのぞきながら、私の心の深いところでしずかに、着々と、課せられたものを果して、いつでも死へ戻れる用意をしたい。  一月二十五日[#「一月二十五日」はゴシック体](水)  Rかぜの為休む。  雪ふり、めずらしく白景色となる。午前午後教え、合間は学生たちの卒論の相談でうめられ、息つくひまなし。  F321 のクラスではお別れにヴェルハーレンの La Joie〔「喜び」〕をよむ。しかし、だれにこれがほんとにわかるだろうか。裸一貫になった人間でなければこの全存在をゆさぶるよろこびはわからないのではないか。  二月二十五日[#「二月二十五日」はゴシック体](土)  何というあわただしい日々であったろう。けさやっと休みという感じで机に向かえた。そして二十日からの日記の空白をうめた。  昨夜マリーナ・セレーニ I giorni della nostra vita 〔『われらが生涯の日々』〕を読了。実にそう明な、女らしい女性だ。しかも最初から夫の逮捕という事態を予期しつつの結婚生活。そして共産主義運動という大きな目的にささげられた生活、というその背景が、この二人の生活にとくべつな切迫感と尊厳とを与えている。夫の理想を初めは理解しうるだけの知識すらもっていなかった女性がその愛ゆえにこれほどその理想と同一化し、その理想のための犠牲をよろこんで甘受し、一生をささげた、ということはおどろくべきことではないか。さいごはガンだ。あのガンで死んで行く夫とともに過した最後の数年の記ろくとともに唯物論者たちのもつすみ切った精神性を考えさせられる。  三月五日[#「三月五日」はゴシック体](日)  Nは入試のため朝から大学へ。R、Tはそれぞれ試験があるので一日中家で勉強。私は午前中「生甲斐《いきがい》」をかく。午後森市場へ行き、かえり少しぶらぶら歩く。すっかり春らしくなった。睡眠不足のため午後はかけない。それに今喪失のところをかいているせいか気がめいって仕方がない。過去の感情というものが人間の精神にいつまでも潜在しているのではないだろうか。  夜だれよりも早く九時頃就寝。キェルケゴールの伝記をよむ。女は joie de vivre〔生のよろこび〕であると。  そうだろう。そうでない女は少し変なのだ。  三月九日[#「三月九日」はゴシック体](木)  午後帰宅。赤穂《あこう》あたりから雪がふった。ずっと船の上、汽車の上を通して書いていた。今「苦しみと悲しみの意味」というところをかいているので、文字通り心血注ぐといった感じ。ああいっそ自分の血でかけたらいいものを!  烈しく悩んでいる人のすぐそばに暮していて、その人の悩みの本質について少しも知らず、悩んでいることすら知らないで、いられる人もある。そういう人はもともと鈍感にできているのだろうか。それとも、自分の主要人生目的にかなうこと以外については何も知るまい、知りたくない、と思っているため、実際に知らないですごしてしまうのだろうか。多分後者だろう。久しぶりで家に帰ったように今夜はたのしかった。Nと子供たち、みな愛《いと》し。  三月二十八日[#「三月二十八日」はゴシック体](火)  午前Rの英語をみる。  午後女学院へサラリーをもらいに行き、本のことなど始末して来た。入試の監督に対する特別手当四二〇〇円もらったのでかえり梅田で子供たちの衣類を買った序《ついで》にベートヴェン第九とバッハのパッサカリアの二枚を買う。後者は予定外だけどつい……しかし、オーマンディは甘く、安易すぎる。ちょっとしたニュアンスで、ある人のありかた全部がにじみ出してしまうとはふしぎなことだ。  四月十六日[#「四月十六日」はゴシック体](日)  本をよむことよりつくり出すことのほうが大切だ。少なくとも私には、もう後者の方をする時間しかない。オバサン外出で一日家事を多くする。私のへやもだんだん整備しつつある。「生甲斐」についてもすぐとりかかれるように、そのためのべつの机や原稿のおき場をこしらえた。NがRと共にピアノを運んでくれた。これは大へんな仕事だ。  四月二十日[#「四月二十日」はゴシック体](木)  Rのたんじょう日。月足らずの律が十四才になるとは何という有難いことであろう。しかし何一つ祝らしいことをしてやれぬほど今日は忙しかった。お赤飯をたき、カツレツ、ケーキ、アイスクリームなどを夜の食事にまに合わせた。  火、水、木と講義つづきで疲れた。ことに二十七人の卒論指導のため、休み時間には必ず学生のだれかが来ているので、息つくひまもない感じ。この忙しさのため子供を犠牲にし、又自分の本当の仕事も出来ないのではないかと時々不安になる。  六月四日[#「六月四日」はゴシック体](日)  朝六時におき朝風呂に入り「生甲斐」をかく。オバサン昨夜から外出で今日は中華料理数種こころみた。市場行二度。二度目はNとふたりでたそがれる山々を眺めながら。  今日はNとずい分「生甲斐」について語り合った。彼とこんな話のできるよろこび! あまり恵まれすぎて恐ろしいようだ。  Tは米山さんに映画で西部劇をみせて頂いた。Rも昼食を戸田サンのお宅で頂く。  六月二十四日[#「六月二十四日」はゴシック体](土)  午後からYMCA(神戸)生活部で精薄の親たちに話をするため昨日から精薄の勉強。時間が早すぎたので王子動物園に入って木の下のベンチで『プルースト』(ブロンデル)をよむ。記憶をこれほど精緻《せいち》に扱ったものを今までよんだ事はない。精薄の親は四人にすぎず、それぞれ苦悩の表出のしかたはちがうが、みな心をしめつけられるようだった。どうして私だけノーマルな子を恵まれたのだろう。律など戦争直後で早産児なのに?  夜中島夫人みえ、娘サン明るく看ゴ学院入試準備へ向かっていると。  八月二十七日[#「八月二十七日」はゴシック体](日)  けさカッシラー読了。人間存在の全般——神話、宗教、言語、芸術、歴史、科学——に対する展望、雄大なヴィスタ〔見通し〕をえて大きな昂揚《こうよう》にみたされた。まる一週間、はなれていた「生甲斐」にまた新しい力と姿勢で向かって行けそうだ。私はもっと広い立場で書かねばならぬ。とくにカッシラーの「シンボル的宇宙」ということばに深く感銘した。  九月七日[#「九月七日」はゴシック体](木)  十日間夢中でかき、今八日午後二時、一通りかきおえた。まだ二、三かきのこした節があるけれど、ともかくゲボイデ〔構格〕はできた。あとは穴をうめたり、けずったりすることだけだ。  心の中にたまっていたことがすっかり出てしまって、圧迫から解放され、それこそ levitation〔空中浮揚〕を感じてしまう。  もう今なら死んでも大丈夫という気がする。感謝のほかなし。家族の健康も私の体ももった[#「もった」に傍点]ことが何よりも有難い。私はずっと二食しか食べず、ほとんど外出しなかった。  九月十一日[#「九月十一日」はゴシック体](月)  いよいよ夏休み最後の日になってしまった。学校の用意をしながらただただ本をかくことに没頭したこの夏を思いかえした。これこそ自分の一ばん大切な仕事である事は、やればやるほど明らかになるばかりだった。このために生きて来たといえる位である。それを次第次第に発見して行くおどろきとよろこびとかしこみ! 自分の生の意味がだんだんに自分に明らかにされて行くということの可能性を私はほんとうに想像さえしていなかった。夜、星をみつめて、このふしぎさ、ありがたさを考えた。原稿手入れ。  九月二十日[#「九月二十日」はゴシック体]  柳宗悦《やなぎむねよし》の『南無阿弥陀仏と一遍上人』を授業の合間によみ、感銘あふる。日本に生まれてよかった、とはじめて心の底から思った。今までわからなかったことだ。新しい世界がひらけた。ことに「美」の世界についてのくだり。  十月一日[#「十月一日」はゴシック体](日)  T「学校で実篤《さねあつ》の『美しい絵をみるよろこび』っていう文章をよんだよ。お母ちゃんにはどういうよろこびがある?」  M「たくさんあるわ。きれいなものをみたりきいたりするよろこびも、考えるよろこびも、こうして徹《とおる》ちゃんと話すよろこびも——」  T「へえ、考えるよろこびだって?」  M「そうよ、一生けんめい何か考えていて、何か一つわかったときのよろこび。たくさんよろこびありすぎて困っちゃったな。よろこびのない人にわるくて」  T「それじゃぼくたちが少し家であばれて何かこわした方がいいね」  十月八日[#「十月八日」はゴシック体](日)  Nが一日中私の原稿をよんでいてくれた。超多忙の身で、と思うと何と感謝してよいかわからない。  RもTも運動会、私は山小〔山手小学校〕の方へ十一時頃から行って三時間ほど見物。Tがげんきで棒たおしをする姿を眺めつつ、彼が今こうして生きていることの有難さに胸が一杯になった。八年間つづいた山小の運動会も、わが家にとってはこれがさいごである。  秋晴のすばらしく澄んだ日、山のひだの色がふかぶかとゆたかで眺めていると吸いこまれそうであった。  講演依頼断る。 [#改ページ]  一九六二年     (四八歳)  一月四日[#「一月四日」はゴシック体](木)  やっと疲れがなおったようだ。日記にもはじめてむかう。朝、一家でくれに新しく求めた世界大百科辞典をみてたのしむ。子供たちとよろこびを共にできる有難さ。  今年の決心。仕事について。「生甲斐」完成。欧文で論文をかくこと。  徹と律は縁側で陽を浴びながらトランプをしている。Tは鼻うたを歌っている。小鳥のさえずりのようなその声をきいていると私の心はたのしさでとけそうになる。  夕方Nと二人で海まで歩いて行った。火の玉のような夕陽が海におちたあと、波はいつまでも赤く照りはえてゆれていた。論集用の原稿にやっととりかかる。  一月七日[#「一月七日」はゴシック体](日)  新しいみかげのお家の卓郎兄上のところへ行こうとして電話したら全員カゼとの事。シクラメンの無数のつぼみを賞《め》でて午前Nとときを過す。午後からNと二人でロックガーデン→風吹岩→岡本のコースを歩いた。子供をさそっても同行しようとしないので二人きりになった。私はずい分久しぶりで母のズボンをはいて皮のジャンパーをきて、身も軽々と出かけた。ふしぎなほどからだの調子がよくて、少女時代、スキー時代に戻ったようだった。さむい、清冽《せいれつ》な空気を胸一杯吸って山の頂上にたち、三六〇度の眺めをみわたし、新鮮な、ほんとうの新年の思いにみたされた。  一月十四日[#「一月十四日」はゴシック体](日)  一日中「婦人之友」の原稿をかいて夜十二時半にかき終えた。三度ぐらい書き直し、Nにもよんでもらった。午後ケビさん来訪、二時間で帰らる。  夕方私のたんじょう日祝とてNが白いシクラメンの鉢を森市場から求めて来てくれた。実にみごとな厚い、丸い、ふちかざりのある葉と、白い鷺《さぎ》のような花がかろやかに、きよらかに羽をひろげて飛び立っているのや、羽をたたんでじっと首を下げているのがいくつもついている。夜、この間からたんじょう日にと言って、頂いたシャンペンをとっておいたのを、家中で大さわぎしながらポンとあけてオバサンもまじえて乾杯した。そのあと、Nが写真撮影。  三月十八日[#「三月十八日」はゴシック体](日)  かぜがやっと治ったらしい。けさははじめて咳《せき》もハナも出ず耳も痛くない。市場へ行き沈丁花《じんちようげ》の株(三度目だ、今度こそ根づかせたいものだ)とアマリリスの大きな球根とパンジーの株数個を買って来て植えた。Tのための新しい机(父上のプレゼント)も来たし、市場から本箱も届けさせた。Rは四人の友だちを今日もつれて来てガタガタしている。Nはとてもたのしそうに二階で勉強。Tはヨネのところへ行った。このようにあたたかく平和なわが家は空恐ろしいようなものだ。  四月十六日[#「四月十六日」はゴシック体](月)  午後四時までまったくしずか。神戸新聞と「婦人之友」の原稿(座談会)をかたづけた。夜Nが全部目を通してくれた。  父上から俳句のおたよりが子供たちにこれで三通来た。今日のは——傘二つべんとう二つけさの雨  Tは今日初めてブラスバンドに入りトランペットを弾いた由。今日からTの友人三人(米山、潮崎、本谷)とともに英語のクラスを教える。  夜レッスンに松原とし子嬢が加わる。  五月五日[#「五月五日」はゴシック体](土)  おそろしい汽車事故。こういう世の中に無事平穏に生きているというのは勿体《もつたい》ないこと、申訳ないような事だ。  子供の日とてプディングをつくりトンカツをつくる。  父上より「愚痴」の手紙来たり、目ほとんどみえず、胃工合わるしと。大きな字で返事する。  六月四日[#「六月四日」はゴシック体](月)  午後東京から電話(とし子)父上容態悪し(心臓)と。しかし上京必要の有無については更に連絡を待てと。五時頃東京の良雄サンから電話。父上危篤と。  レッスン休む。  日航午後九時二〇分で上京。父上十一時三十七分永眠、私は一時間後に病院着。  六月十五日[#「六月十五日」はゴシック体](金)  朝二時間の授業を終えてから一寸《ちよつと》ぬけ出して梅田へ行き黒い夏服を注文し、黒いエナメルぐつを買う。来る二十五日の父上記念会の為。  教授会では長々と学生処罰論議。死の悲しみの中にある時、若い学生を罰することなどまったくよそごとのような気がしてならない。若い生命をそんなに束縛してみる必要がどうしてあるのか。学校を辞めてもっと大切な事に力を集中したいとつくづくねがう。  六月十九日[#「六月十九日」はゴシック体](火)  昨日のむしあつさ——かみなり——雨のあとけさはすがすがしい初秋を思わせる陽ざしと青空。登校の途中たんぼ道を歩いて行くと白雲がまぶしく光をはなち、孟宗竹《もうそうちく》がさやさやとみどりの雨をふらす。亡き父上の霊が今や宇宙にあまねくみちわたり私をとりまき、私にかたりかけている。父上は少しも私から遠ざかったのではなくかえって近くなられたのだ。  朝院長室で二人の学生をケンセキする会(?)に立ちあう。ダンスパーティの件である。悲しみの中にある人間にとって他人を罰するなど何とそらぞらしいことであろう。島から日比先生の速達、Mという婦人の Schizo. 〔分裂病〕についての問合せ。  六月二十六日[#「六月二十六日」はゴシック体](火)  朝九時Nは羽田を発《た》つ(1)。見送り人を頑強に拒み、二人だけで別れを惜しむ事ができた。飛行機の上に立ち、私の姿をしきりに探す彼!(私は小さくて人ごみの中にかくれてしまっていたらしい)ああ Nob よ、あなたにまたいつ、どこであえるのだろうか!!  虚脱状態になってのろのろしたバスで東京へ戻る。車上、父上葬儀参列者名簿をみる。午後二時半Nの買っておいてくれた切符で特急にのる。ヒサオ夫妻のみ見送ってくれた。夜一〇時近く帰宅。子供たちのよろこび、愛らしく、たのし。この子供たちがなかったら私はどうなっているだろう。  九月一日[#「九月一日」はゴシック体](土)  行きの汽車と舟の中で老人調査の報告書をかなり上げ、島でかきあげて午後二時速達で出す。四時におきて島へ行く。暗い朝の空気の中を歩いて行くとき、やはりこの島行は私になくてはならぬものだと感じた。船着場には横田先生、庶務課長、総婦長などいて、なんとなくいつもと様子が変っていると思ったら、父上記念寄贈のテレビ、テープレコーダーがすでに買ってあって今日はその記念撮影、記念晩さん会をする事になっているのだという。高橋氏もおられた。着いてすぐ三時間講義。それから患者サンのところへ。高橋幸彦氏(2)熱心に仕事をはじめておられて有難い。  九月三十日[#「九月三十日」はゴシック体](日)  あまりの秋らしさに惹《ひ》かれて朝ひとりお墓の上の方まで散歩。Nがいたら一日中歩くのにと思う。澄み切ってシンとするような空気、かげと光のあざやかな対照——そのかげのひんやりした中をゆっくりゆっくり歩きながら来し方を感謝し、残る未来の日々に対する抱負のようなものが身内にみなぎるのをおぼえた。一刻一刻の何と貴重なことよ。小さな、つまらぬことにこだわってはいられない。  一日中 Ps 203 精神衛生の採点でくらす。FMでベートヴェンのピアノコンチェルト No.4 をききながら。夕方多田サン白バラの花束を持って会わずに立ち去られた。慰問であろう。忝《かたじけ》なし。私はこういうまごころに値しない。R、Tの勉強相手で夜一時半まで。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 宣郎がプリンストン大学より客員教授として招かれ渡米。   2 長島愛生園の精神科医 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九六三年     (四九歳)  一月四日[#「一月四日」はゴシック体](金)  朝子供たちのおきる前にボス読了。アナリーゼ〔分析〕の理論とは無関係にフロイドのプラクシス〔応用〕ではすでにハイデッガーの現存在分析論を予想するものがあったこと、ビンスワンガーのダーザインスアナリーゼ〔現存在分析〕はハイデッガーのごく初期のかきものに拠ったもので、極めて不充分な部分的根拠しか持たぬこと、——等の点は新知見であった。子供たち例によって昼近く起床してくる。十一時すぎ皆で中華ソバを食す。午後少しばかりの賀状返礼。ヒポクラテスの論文(論集用)にかかる。使いに出て城山の下を歩く。橋の下の清水きよく、小石がきらきらと光る。Nのいない淋《さび》しさひしひしと迫る。彼がいないとすべて道化じみてくる。夜、R、Tと私の外遊についておかしな会話。カゼ気で九時に臥床《がしよう》。  一月十二日[#「一月十二日」はゴシック体](土)  四十九才になった。今日は父上からの電報はもう来ない。Nからは?  朝一人山へ歩きに行った。いつもNと二人で行った禿山《はげやま》へ行き、頂きの上から神戸港をみわたした。四国の山々がはるかにかすみ、瀬戸の海への郷愁をさそう。白亜の山々はいよいよ怪異な相貌《そうぼう》を呈し、吹きつける風は頬《ほお》を切るほど烈しくつめたい。たったひとり丘の頂上にたたずんでいると「終末論的イシキ」に身がひきしまる。論集へのさいごの論文仕上げのため帰宅。大橋サンたん生祝に美しい毛と絹の混紡地布を持って来て下さる。今二階のNの書斎に陣どりこれから論文。外は風がヒューヒュー音をたてているがガラス窓の中は温室のごとし。  夜松原サンたんじょう祝に三色菫《さんしよくすみれ》の花束と革手袋を持って来て下さる。多田サンからは仏詩!  二月十日[#「二月十日」はゴシック体](日)  Tが詩の宿題をかく暇がなくなってベソをかいているので代って作ってやった詩——      雪の旅   かぎりなく遠い空の   はてばてから湧《わ》いて出て来た雪の粉たち   そのひとつひとつをみていると   はじめからいきおいこんで   まっすぐ地面めがけて突進してくるのもある   しばらくうろうろしてから   急にななめにすべりこむのもある   まるであそびはんぶんあちらこちらを   ふわりふわり舞って行くのもある   軽いのも重いのも   小さいのも大きいのも   丸いのも角ばったのもある   それがみんなせいぞろいして   空のはてからはるばると   ぼくたちのところへやって来たのだ   けさはまるでお祝いのようだ。  三月十九日[#「三月十九日」はゴシック体](火)  ゼミの学生十二人(二人欠)につれられて旅に出る。  天王寺から阪和線で勝浦へ行き、汽船で島めぐりをし、タクシーで湯川温泉へ行き一泊。しずかなところで澄んだ硫黄の温泉があふれている。朝早くおきて又温泉に入り、散歩にでる。(二十日)朝霧の中でうぐいすが鳴く。入江は全く湖水のようで水面はさざなみ一つたたず、あちこちの岸に近いところでは湯気が立ちのぼっている。  宿屋のバスで湯川駅へ。駅は入江に真正面に面していて駅からの海の眺めが一ばんすばらしかった。春がすみの中に光る海の面、島々の優美な曲線、あふれる春の光。  四月十日[#「四月十日」はゴシック体](水)  京大精神科へ行く。午前十一時頃行ったらまだ村上先生はご診察中であったので街へ戻り古本や歩きをする。先生訳ミンコフスキー『精神分裂病』昭二十一年版をみつけて得々としていたら、昨年改訂版が出た事を先生から伺った。石炭ストーヴの暖く燃える広い明るい先生のおへやには小さな観音像や考古学の全集が、専門の本とともに並べてあった。それと印象派のような小さな油絵と。  すぐ書庫へつれて行って、雑誌類をみせて下さる。そのあと一人で単行本のカードから目ぼしいものを写させて頂き二時すぎもう一度先生のおへやに行ってお礼を言って帰る。みすずには私に二〇〇枚かかせる様言われた由。  四月十一日[#「四月十一日」はゴシック体](木)  モイセヴィッチが昨夜急死したとかで今彼のシューマンのコンチェルトをラジオでやっている。昨日からひしひしと感じている孤独がけさも身をかむ。これは自ら求めた孤独である。女学院という集団から退き、津田にはほんのかりそめの変則的なむすびつきしかない。そしてひとりで自分の道をすすもうという体制に入ったのだ。関西での委員等もすべて断ったし、東京でのそうしたものも極力断ろうとしている。そうした私の手に負えるものを手ばなし、到底手に負えそうもない、むつかしい学問上の自分の道を創りだそうとしている。バカデナカロカ——という声もする。しかし、しかし、この他に私の生きる道はないのだ。この春のさむさ、きびしさ。しかし花の芽、草の芽、木の芽、みなふきだしているではないか。昨日買ったミンコフスキー読了。  五月七日[#「五月七日」はゴシック体](火)  美しい五月晴の朝、庭のつつじはまぶしいばかり。「永遠の愛」を思う。神よ、私の認識への探求もどうかそれが愛を深めるものであるようにお導き下さい。知と愛と、この二つをして私の生のライト・モティーフたらしめよ。  一日中女学院。セミの学生用の文献を沢山運ぶ為タクシーで行く。  夜和島先生にデンワし、十四日の科別礼拝司会を断って秋にしてもらう。  ミンコフスキー抄録完了。何というリリカルな、ぞんぶんにかきなぐった本だろう!! こんな本をかいて、出版させてもらえるとは!  十一月一日[#「十一月一日」はゴシック体](金)  今週末は欠勤したのでどうやらやっと息がつける。十月後半は全くめまぐるしく東奔西走し、雑用と疲労の渦の中におちこんだようなものであった。けさ、津田への速達をすませ、オバサンを外出させ、ひとりしずかにフーコーに向かう。  体力のおとろえつつあるとき、人間はよほど注意ぶかく仕事を選択する必要がある。名誉心にとらわれてはならぬ、ましてや物質的欲望にとらわれてはならぬ。この世を去るにあたって、何を優先的になすべきか、これを常に問題にすべし。それにしても物質的に多少のゆとりを得る事ができるようになった事を何と感謝したらよいであろう。言いたいときノーと言える事の有難さ。 [#改ページ]  一九六四年     (五〇歳)  二月四日[#「二月四日」はゴシック体]  神戸女学院大学授業今日が最後。礼拝時に送別会。院長、学長、自治会長の送別の辞、花束とKC〔神戸女学院大学〕の旗の贈呈など。  十二年半立ちつづけた教壇を去るに当り、この年月の間の苦しみ、悲しみよみがえり、かくて苦しい歴史の一こま[#「こま」に傍点]が建設的に過ぎたことを感謝する。今日は卒論を持ち行き、かえりには沢山の本を持ちかえったので往復共タクシーを使った。雪がチラホラふり、さむい一日であった。  三月四日[#「三月四日」はゴシック体](水)  昨夜の雨で苗はいきいきしている。朝五時半におきて机に向かう。今日は中世紀〔「精神医学の歴史」〕。  しずかな雨の音と山鳩の声をききながらかく。  島崎先生への手紙—— 「昨日市場から両手の籠《かご》一杯に持ちかえった草花の苗をうちの小さな庭に植えましたら昨夜の雨でけさはみないきいきとしていました。毎日書いては破り書いては破りして絶望に陥りそうになるのを、これらの草の成長は救ってくれるでしょう。昨年からあらゆる暇を準備にあてて来たと思われるのにいざ書く段となるとつまらぬつぎはぎ細工しかできない自分の不才がいやになりました。私は死ぬまで何事につけても初心者でしかないだろうと思います」  四月七日[#「四月七日」はゴシック体](火)  夜一時十分前。今原稿を小包にこしらえみすずへの宛名《あてな》をかいた!〔「精神医学の歴史」(『異常心理学講座』第七巻・著作集8『精神医学研究2』)〕  雨がふっている。四十日ぶりのやすらぎ! 何という息苦しい毎日であったろうか。  六月二日[#「六月二日」はゴシック体](火)  けさ、一つの霧が晴れた。  一、二年のうちに津田を辞めて代りに島に通って医療の手伝いをさせてもらうよう、これからだんだん切りかえの用意をすることに決めた。Nも大賛成してくれた。昔からこれが私の道だったのに、しばし家庭建設に「身を貸した」ということの結果、一度出た津田に戻るようなことになってしまったのであろう。モンテーニュのいうように、人は物事に身を貸すだけで、与えてはならないのだ。あくまでも自分は自分の使命の為にとっておき、ささげなくてはならないのだ。平安とよろこびが長い暗中模索の後は今ぞ潮のごとく湧《わ》きでてくる。  七月十一日[#「七月十一日」はゴシック体](土)  昨日の疲労か朝から頭痛で半日以上何もせず。ウルフの日記をよみ、ヒルネ。Rはシケン休みで友人と六甲へ。Tはカッチャン来訪。 「ほんとうはみみが勉強できるように、ぼくがその環境を作ってやらなくてはならないのに、自分でその環境をつくらなくてはならないのだから、かわいそうだ」とNは一昨日言ってくれた。そして今後は何とかして思うように勉強しなさいと言ってくれた。ありがたくて涙がでる。  夜Nと神戸へ行き、星電社でせんたく機をみ、エスカルゴで食事。  七月二十五日[#「七月二十五日」はゴシック体](土)  暑さと蚊のためによく眠れなかったので、朝の仕事をすませぼんやりしていたところへ田島様からの手紙来る。津田辞任、著述業に専心の方針大賛成とのご意見。バッハを久しぶりで弾きながらもう一度よく考えてみた。  T午後から新聞部の人と一緒に女学院中高部へ行き座談会に出席した由。高校生殺しの話が出て共かせぎについて皆が語り合ったという。 「お母ちゃんまだつとめてるの?」 「ええそうよ。津田にね」 「なんだ、そうか。だってみんなお母さんが一日中外にいて子供と顔を合わすことがないなんて言っていたけど、ぼくのうち、お母ちゃんが家にいないことなんてあんまりないな、と思ってへんだな、と思ったんだ」  夕方Tとレコードをききながら、私は「生甲斐《いきがい》」に久しぶりで手を入れはじめた。しらべてみるとこれをかき出したのは一九五九年十二月だった!  九月三十日[#「九月三十日」はゴシック体](水)  市場への道を歩きながら、わが行くべき道について思い悩む。なぜいつまでも私はこう悩むのかと思う。意志薄弱? そうかも知れない。しかし結婚してから私は殆《ほとん》どいつも自分の本当にしたい事はできずに来たのだ。女子大学教授なんてなろうと思ってなったのではないのだ。  津田から試験答案がどさっと到着。  十一月七日[#「十一月七日」はゴシック体](土)  土居〔光知〕先生から「心」お送り頂き、更級《さらしな》日記にあらわれた無イシキについてのご論文をよむ。好奇心をそそられて律から同日記を借りてよむ。夢の一つを幻覚と土居先生は言われる。一種のエクスターゼ〔忘我〕だろう。フォティズム〔幻視〕を伴っている。  十一月二十一日[#「十一月二十一日」はゴシック体](土)  きのうNと二人で島〔愛生園〕へ行く。朝おきるや祈る。神よ、正しき道を示し給えと。  新大阪でNとおちあい、十二時すぎの電車で赤穂→日生《ひなせ》へ行く。四時の森丸で海を渡る。やや波が高く舟がゆれるのが自分の心のはずみのように感ぜられた。桟橋には橋爪《はしづめ》夫妻、田中主任(1)、庶務課の人など。清風荘で橋爪先生としばしお話の後、田中さんと食事。園長は患者のすわりこみをけいかいして二、三日ちっ居中。食後Nと二人で月の昇りつつあるなぎさを歩いて園長宅へ伺う。  十一月二十二日[#「十一月二十二日」はゴシック体](日)  昨夜は七時から十時まで高島先生(2)と話した。私は精神科医長として採用されることになった。任官は春までのばして頂く。Nと細胞学の話はずむ。先生の洒脱《しやだつ》な風格Nの気に入る。無精ひげに白いものがまじり、「燈火管制」のおへやでひとり茶をいれ、「養命酒」をのみ、研究書をよむ。遠く東京に病む夫人のそばでしずかに暮そうという誘惑にもかられるという。患者と職員が敵同志になり果てている園の現状を憂うお心にせめてもお応《こた》えしたいと思う。  お宅からのかえり満月が海にきらめき、星が高く澄んでいた。十時の舟で虫明《むしあけ》へ。帰途、Nと二人で姫路城見物。風邪のため私はバス、汽車中たえずねむる。  十二月十三日[#「十二月十三日」はゴシック体](日)  朝から家事をつづけ、今、午後二時、やっとしずかな時をみつけ居間の縁側のね椅子《いす》に坐《すわ》り、ひとりバッハのコラールをききながら硝子《ガラス》越しの陽ざしに光るサイネリアの葉の透明な色をみつめている。 「いまに野上弥生子さんのように山へこもってしまってもいい?」  さっきNに突然きいた。 「六十になったら夫妻とも停年という事にしてお互に義務も責任もない事にしようか」  Nはべつにおどろかずに例のまじめとも冗談ともつかない調子で歌うように言った。 「あなたは比えい山、私は高野山にこもったらおもしろいわね。二人でべつべつの山のてっぺんにいるなんて」  右の話の半分は冗談だが半分はまじめである。一応人間としての社会的義務を果したら、あとは「実存的」義務に専念すべきではないか。  十二月二十日[#「十二月二十日」はゴシック体](日)  昨夜帰宅してみたらシュペリ博士からウルフの論文をコンフィニアに出すように、又モノグラフィを英語でかいて外国で出したらよい。出版の世話はする、との来信。目の前が明るくなる。  Nと二人で三宮《さんのみや》へ行き、姉上からの頂きもので大きなスタンドを買い、エスカルゴで夕食。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 田中孝子     長島愛生園の看護婦長。美恵子と長年にわたり交流があった。   2 高島重孝     光田健輔のあとを引き継ぎ、長島愛生園の園長となった。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九六五年     (五一歳)  三月十九日[#「三月十九日」はゴシック体](金)  暖い日。オバサン今日は七度五分まで。Rもかぜ気。一日中VWをかくこと(1)と家事。Tはフミチャンの処へ。いつまで仕事ができるかわからない気ばかりする。オバサンがダメになれば島さえダメになるではないか。家事をしつつかくこと——それしかできないのではないかという気がして来た。島に就職するという事の非現実性を考えてしまう。しかし、もし神が許し給う事なら成るだろう。でなければさっぱりあきらめて家にひっこむ事だ。VWのペーパーの全貌《ぜんぼう》がやっときり[#「きり」に傍点]の中からあらわる。夢中でかく。  四月七日[#「四月七日」はゴシック体](水)  まださむいが美しく晴れた日。いよいよ今日昼の汽車で島への初出勤をしようとしている。R、Tはげんきに一緒に高等学校へ出かけた。(Tは入学式?)神よ、この道をえらんだことをお許し下さい。できればいつまでもつづけさせて下さい。生命の終まで、と祈る。N、R、T、オバサン、皆の健在とリカイがなければ不可能だ。  四月十三日[#「四月十三日」はゴシック体](火)  夜、盲人会の為に『心の風物誌』のふきこみを始めたが、あまりにも視覚的な内容なので、盲人たちの心を傷つけはしないかと心配になった。  夜十二時すぎ記す。新しい生活に移ってもうコーギの準備もないことだし、これからの余暇の用いかたについて考えたい。もちろん「かくこと」だが、何から? 「生甲斐」の整理と仕上げ? その他もろもろの文の? それとも新しいもの? 論文? 文学? 春雨の音をききつつ考える。あと十年、その十年をどうしたらもっともよく使えるか。ともかく自分のものをつくらねばならぬ。  五月五日[#「五月五日」はゴシック体](水)  ゆうべ使命感のところまでかいた。けさ五時前におきて喪失のところにとりかかる。ひる間R、Tのへやの掃除と市場行。  おばさんの老齢と体力不足を考えると島のつとめも前途は全くわからない気がする。結局書くことに限定せざるをえなくなるのだろう。そのためにも今のうちに、しっかり地盤をつくらねば、という思いに駆られ、ひたすら机にむかう。  六月七日[#「六月七日」はゴシック体](月)  午前十時半。今みすずから「生甲斐」を出すと言って来た……感謝!! 阪大へ電話してNに報告せずにいられなかった。  午後横田先生から長いお手紙で、島での私の仕事について、すっかり安心してよいとのご報告、先生の温いご配慮感謝のほかなし。  一日に二つも大きなよろこびが来て昂奮《こうふん》して夜疲れてしまった。  六月八日[#「六月八日」はゴシック体](火)  すがすがしい晴天。昨日の昂奮の疲れがまだある。市場へ行っただけであとは仕事の事を夢想していた。  ゆうべ、N、R、Tが出版の事を大喜びしてくれた事も忘れられない。何という有難いことだろうか。Tは「お母ちゃん小説はかかないの?」といつになく真剣にきいていた。とりあえず仕事が沢山できたからには「精神医学」への紹介文の原稿は中止しよう。まずWUS〔?〕の講演の原稿、それから異常心理学講座の原稿。それから「生甲斐!」そしてそのあとで、もしかすると、VWを日本文で論文に!!  八月八日[#「八月八日」はゴシック体](日)  朝七時。台風のあとたしかにすこし朝夕がさわやかになった。せめて朝のうちしっかり書こうとおき出して、オリズルランのならんでいる窓の前に陣どる。神よ、助けたまえ、と自然に祈りが出る。  やっと七章をけずる。しかしまだけずり足りない。自分の冗長さにはおどろくほかない。夕方Nと二人で散歩に行った。山の上にはすでにたそがれがたちこめ、涼風の中に港の光がまたたいていた。  八月九日[#「八月九日」はゴシック体](月)  六時起床。窓辺はひんやりとする。すぐ原稿にむかう。時間がない、時間がせまっているという意識にどうしてこんなに追われるのだろう。それが私の文章をズサンにするのだ。朝のセミの音にきき入りながら、もっと「永遠の時」に生きたいと願う。かけてもかけなくとも、間に合っても合わなくてもいいのではないか。ただ一生懸命生きたというだけで! たくさんの苦しみ、悲しみと、たくさんのめぐみとをうけたこの一生を?  九月五日[#「九月五日」はゴシック体](日)  ゆうべ三時まで原稿。一日中原稿(生甲斐)。「愛」のところが一ばん困る。おざなりはかきたくないし。一〇章までどうやらけずる。ありがたい事に神経痛ほとんどおさまり、今日は平熱だった。  シュヴァイツァがとうとう亡くなった。家中で七時のニュースのとき、彼のフィルムをみた。胸があつくなり涙でよくみえなくなった。  九月十五日[#「九月十五日」はゴシック体](水)  オバサン昨日外泊。今夕帰る。その間家にひとりいて、ずっと「生甲斐」かき。  Nがよしとして線を引いてくれたところはみなそのままにしておく事にした、とTに話したら「女は自己陶酔するからいかん、そこが一ばん気をつけるべきところだ」と言って私の頭を何遍もつついてくれた。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 英国の女性作家、ヴァージニア・ウルフ(一八八二—一九四一)。美恵子は彼女の病跡について研究していた。その成果は『ヴァジニア・ウルフ研究』(みすず書房)にまとめられている。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九六六年     (五二歳)  一月二十一日[#「一月二十一日」はゴシック体](金)  寒風ふきすさみ、身がちぢこむような日々。しかしここのところ「三個の男性」をおくり出したあと、ひとりしずかに机に向かえてたのしい。毎朝ボイテンデイクを訳している(「みすず」のため)が、肉体との関係についての私のテーマに非常に参考になる。サルトルもよみ直そう。  午後三時頃Rが帰宅してからは彼のために食物を作ったり受験の助けになりそうなふんいきを作ることに専心。Tが「良妻賢母」という! そういえばけさTは私が睡眠をよくとるように言ったらえらそうに曰《いわ》く「男子は仕事があるんだ」「外へ出れば七人の敵があるんだ」!  四月十二日[#「四月十二日」はゴシック体](火)  ゆうべ三時まで校正。〔『生きがいについて』〕「付記」につき昨夜から今朝にかけNと何度も相談。極度にけずった。Nの協力ありがたし。十一時半頃三校発送。かえり市場へ。柳の芽なよやかにうつくし。 「ルビコンを渡った」という感じで急に疲れが出た。  五月十八日[#「五月十八日」はゴシック体](水)  午前『生きがいについて』の荷造りと発送、一応三十部全部送った。あと三十部たのむ。午後|律《りつ》と三宮へ行きRのズボン買い、古本やあさり。『生きがい』の反響第一号来る。  六月二十七日[#「六月二十七日」はゴシック体](月)  水道路で買物していたら徳永さんの奥さんに会った。本の広告をみて大利《おおとし》〔書店〕で買ったという。  「奥さんは平生のんびりしていらっしゃるようにみえるから、あんなえらい事をする方とは思わなかった」と言われた。よっぽどのんびりしているらしい。  七月二十五日[#「七月二十五日」はゴシック体](月)  Tが二回出演する高校合同音楽会をききに午後一時—四時女学院へ行く。久しぶりの校庭、講堂、裏門の小径《こみち》の茂み。感慨無量。  Tの演奏姿をみるのもこれがさいごだろうか。時はすぎゆく。  高島先生から辞職を思いとどまる様にとのお手紙来る。  八月十二日[#「八月十二日」はゴシック体](金)  今日は午後五時の退庁船でかえるのに間にあわす為大急ぎで一日臨床。炎天下の往診は目がくらむばかり。いつも園内をこうして歩いている時宮沢賢治の「オロオロ歩キ」という詩の一節が浮かぶ。  かえり園長先生、園の車を出して下さったのはいいが、虫明—岡山間の居眠りができず弱った。三の宮まで車中ねむりつづけ、三の宮でのりかえて又眠り、住吉であわてて下りてしまって、ねぼけまなこで出札口をうろうろ出たり入ったり十時半すぎともかく家へ着く。オバサン一人無事待っていてくれた。一時就床。 [#改ページ]  一九六七年     (五三歳)  一月三十一日[#「一月三十一日」はゴシック体](火)  採点と山陽〔新聞〕のコラムかき。コラムかきのほうがずっと楽しい。かきたい気しきり。Rかぜ気とてふきげんなり。  入試をひかえてさぞ辛《つら》いだろうと思う。しかしそのような顔をするのもやめる事にした。  二月十九日[#「二月十九日」はゴシック体](日)  N昼頃から大学へ行き又夜終電車(この頃毎日)。私はイギリス精神医学の原稿をかいてしまう。  Rきげんよく夜和文英訳をみてやる。進歩格段。  三月二十日[#「三月二十日」はゴシック体](月)  午後十一時京大で村上先生にお目にかかり、ミンコフスキーの件をご相談する。結局やめる事にした。「勿体《もつたい》ないですよ」と先生は呟《つぶや》かれた。何が?  四月五日[#「四月五日」はゴシック体](木)  朝からRのもののアイロンかけなど忙し。  午後二時。今Rは東大入学のため家を出て行った。ブレザーを着、黒いボストンバッグと青い航空用バッグを下げて。どれも私のバッグ、ブレザーもこの間二人で買ったもの。 「では東京でよい生活をして頂戴《ちようだい》」と言って門で見送る。道の曲り角でふりかえっててれくさそうに一寸《ちよつと》笑い、そのまま見えずになった。  とりちらかした彼のへやへ一寸行ったが、何だかひどく疲れが出て居間へ戻り、庭をぼんやり眺める。一昨日の嵐《あらし》にも散らずにらんまんと咲く桜、雪柳、真紅のぼけの花、みな風にゆらいでいる。二月の東大受験以来の感慨がどっとほとばしり出て来た。  四月八日[#「四月八日」はゴシック体](土)  Tの学校はじまる。ここ数日Nも早寝早起で出勤。しずかな朝の時間VWの勉強にとりかかる。  現実の問題——金のやりくり、お手伝いの問題、家の改築など——はいろいろあるがやはり、一ばんなくてならぬものは勉強する事だ。Rも一応おさまり、Tも一人でよく勉強する姿勢だから、今できなくていつできよう!   ○愛生における自殺   ○VW  今日も又講演一つことわり、今月になって三つことわった。  四月二十日[#「四月二十日」はゴシック体](木)  Rたんじょう日、朝祝電を打つ。やっと雨がやんで青空が出て来たので久しぶりで森市場へ行き、おさしみなどを買う。頭痛と不眠症にもかかわらず、なすべき仕事をなし終えて死にたいと頻《しき》りに思う。神よ、力を与え給え。Nの愛といたわりに対しては言うべきことを知らない。勿体ない。トオルも健気に自分の道を開こうとしている。  六月十四日[#「六月十四日」はゴシック体](水)  オバサン外出。カーン、スワンに手紙をかく。久しぶりでくもり、わりに涼しい。FMのクラシック音楽をききながらあわただしい昨今をかえりみる。もっとしずかな時が欲しいと心から思う。私はやっぱり「行動する人」でないのだろう。それに体力が限界にきている。  ゆうべ「精神経誌」の最近号の巫者《ふしや》の研究論文をよんで研究生活へのあこがれに心うずく。経済、家庭がゆるすならば!  九月二日[#「九月二日」はゴシック体](土)  N出発の日。昼まで家で発表論文をかいて片はしからその英語を私が直していた。秘書の浜口さんは朝できた分だけとりに来て下さった。  ヒルNは残りの出来上がった分を持って阪大へ。私はNの荷物を持って夕方|伊丹《いたみ》空港へ。Nは六時半出発にすべりこみで間に合う。  夜羽田から元気な電話あり。かくて私は「未亡人」となった。  九月四日[#「九月四日」はゴシック体](月)  むしあつい。午後から雨。Rから手紙、早速小包を作って送る。東京は寒風がふきすさぶと「無名氏」はいう!  Nへ初のたよりをする。独りになると人間は内省的になる。結婚生活はきびしい思索には、あまりよくないのではないか。いろいろなことをごまかしてしまうのではないか。淋《さび》しさも思索には必要だ。  Tは今日と明日実力考査。私はミンコフスキー検討のつづき。  十一月二十一日[#「十一月二十一日」はゴシック体](火)  Nにシュプリンガーからとってもらったテレンバッハの『メランコリー』を昨夜からよみ出している。こうした勉強をしているときだけ私の心はみちたりるようだ。しずかな時間を貴重に貴重に感じる。  十二月二十八日[#「十二月二十八日」はゴシック体](木)  風邪も治り、やっと今日は正気に戻ったようだ。来年は新しい心で、新しい生をきりひらこう。そのための手がかりを与えたもうた神に、心から感謝したてまつる。雪の舞う中をマーケットへ行ってきた。寒さにあうと涙が流れるようになったのは年令のせいか。しかし、いま、私は一つの悩みから脱け出て、また新しい段階に出発する思いにみたされている。 [#改ページ]  一九六八年     (五四歳)  一月二十一日[#「一月二十一日」はゴシック体](日)  三月下旬頃のあたたかさ。ひるNにNHKの原稿をよんできいてもらう。彼はアナウンサーのまね[#「まね」に傍点]をした。  一月二十二日[#「一月二十二日」はゴシック体](月)  午後四時大阪NHK行。前田兄上のお弟子さんの鈴木というプロデューサー。一時間半かかって、何度もやり直して「病める心をみつめて」(人生読本三回分)をふきこみ。  一月三十一日[#「一月三十一日」はゴシック体](水) 「入試を終ったら勉強するよ」と今日徹がポツンと言った。「厚生保護」に出た私の「反抗する心」という文章をよんで、感ずるところがあったらしい。彼の澄んだまっすぐな眼。(たのもしいと思ってはいけないだろうか)神よ、彼をみちびき給え。原稿かき。  二月十一日[#「二月十一日」はゴシック体](日)  T卒業式。彼は優等生の一人として呼ばれ、独和辞典を頂く。中島先生と玄関先で話しあう。吉井先生、服部《はつとり》先生にも御礼申上げる。さむさにふるえながら記念撮影。幼時死にかけた彼がここまで成長したことを感謝する。宇宙人〔Nの友人〕九時間訪問。  二月十三日[#「二月十三日」はゴシック体](火)  L・ウルフ氏から手紙きたる。V〔ヴァジニア〕の発病はやはり十三才の時。クェンティン・ベル氏がVWの伝記をかいているとのこと、など。  二月十四日[#「二月十四日」はゴシック体](水)  T少しかぜ気味。二階で彼は「金剛|般若経《はんにやきよう》」をよみながら少しねていた。私もお経をよませてもらって語り合う。少しも「受験前」らしくない。  三月二十日[#「三月二十日」はゴシック体](水)  仕事に熱中しているときひとは無時間の中にいる。それは不死の時であるが、同時に、死に知らぬ間に近づいている。  ひとり者には人間の弱さがわからない。愛のゆえに人に執する弱さ。一日中フーコー。  六月十一日[#「六月十一日」はゴシック体](火)  さわやかなはれ。庭のぐみの実が今年は鈴なりで、うれすぎたので、朝行って全部とってきた。さわやかな甘い味。今夜 Nob にあげよう。今日は久しぶりに心身ともにはっきりして、けさすでにフーコーのノルマを終え、これからVWにむかう。枚数などかまわずに思い切りかこう、という気になった。  青い山、みどりの木々。もしある困難な仕事が自分の使命だと感じられたら、そのときしりごみしてよいものかどうか。  六月十四日[#「六月十四日」はゴシック体](金)  オバサン一日ムロダさんへ。かぜ気で右肩がいたみ、のどがいたく、あたまがよくないので一日中何も考えずにフーコーばかりやっていたらおどろくほど捗《はかど》った。北でも南西でも隣接地で一日中マンション建設の音が耳をつんざくようだが、ほんやくに熱中していると全然気にならない。 「あたま及び環境のわるい時期をやりすごす妙手段」である。ラテン語の辞書、文法、プチ・ロベールと首っぴきの一日であった。  九月一日[#「九月一日」はゴシック体](日)  ここ二、三日急に涼しくなった。私はまだ完全に治っていないけれども、ともかくも今日は起きて台所をしたり、皆で写真をとったりした。  地震の予告、戦争の予感、学生運動の暴走、などすべて重くるしい。病後の離人症もあって、何となくペシミスティックになる。家族一同集まったのは今夏、たった四日だった。いつだれが欠けるか、もう何回一緒に集まれるか、それもわからないが、ともかく、今まで与えられたものを感謝してゆこう。  十月三十日[#「十月三十日」はゴシック体](水)晴  Nは今朝から熊本の学会へ行く。(十一月五日夜帰宅の予定)  たった一人の時間を貴重に貴重に思う。構造主義の総説を何とかして仕上げたい。  レヴィ=ストロースの『パンセ・ソーヴァージュ』〔『野性の思考』〕をよみ、バッハを弾き、考えにふける。昔、私を泥沼から救ったあの閃《ひら》めきのことばは「自他を切って切って切りまくるのだ」ということではなかった。これはとりもなおさず、認識に余生をかける、ということだったのだ。私の実践のむなしさ、当惑、その数々のあやまち、を今にして理解する。そして、運命がもしかして、あの道を開いてくれるならば、私の踏むべき道はやはり認識にあった、ということが証明されるわけだ。  しかし一面には他人を知るためには愛を志向する実践が必要なこともたしかだろう。そのイミで、私はやっぱり愛生園で働くよりほかなかったのだ。その実践にどれほどの「愛」がふくまれていたかは疑問だが——。  つまり人間を識《し》るためには愛と知とはひきはなせないのだろう。両方要るのだろう。  今日は朝フーコーを訳し、例の原稿を四の三まですすめ、マーケットへ行き、午後フランス語のクラス。きょうは谷口さん不在、Kさん毎日育児のみにおわれてノイローゼ気味(ビネツ etc.)。  十一月六日[#「十一月六日」はゴシック体](水)  講演つづきで自己嫌悪。『仏教の思想』全集をとりはじめ、第一巻をよんでいる。梅原氏のキリスト教批判は、私にはごく自然にうけ入れられる。  十一月二十日[#「十一月二十日」はゴシック体](水) 「人と人とをつなぐもの」という題のNHK用の原稿二〇枚をけさかき上げたら急に疲れが出てひるね。むなしさの思いに駆られてそのあとお使いに行く。うす陽の下でさざんかのうす紅さした貝がらのような花がほころび、桜の葉は紅く、木にまばらであった。 「宗教の枠にとらわれぬ宗教心」というようなことをいうのは所詮《しよせん》ムリか。ああしかし私は人が人を破門したりする排他性には耐えられないのだ。 [#改ページ]  一九六九年     (五五歳)  二月六日[#「二月六日」はゴシック体](水)  N岡山へ二泊の予定で朝出発。ここ一週つづけて、毎晩終電車で帰宅であった。私はそのためね不足となり、かぜなかなかさっぱりせず、ゆうべは一晩中RとTについての悪夢にうなされた。二人のことをたえず心配しているおろかしさ。  午後フーコー、あと津田採点。デプレシーヴ〔沈うつ〕で、子供の教育にも失敗した、とばかり考え、自己嫌悪に陥っている。こういう時、レコードがききたいが、ステレオはこわれ、R、Tのくれたラジオもこわれている。たくさん眠ったら治るだろう、と夜のくるのをひたすら待つ。さむいさむい一日。  二月七日[#「二月七日」はゴシック体](金)  けさは十時まで眠っていた。Rから手紙。さいきんはぶ厚い手紙を連続三回よこした。例の革命理論をぶち、私の「思想的弱さ」をダンガイするのだが、今日のには詩が二つうつしてあり、終りのほうで自分は「闘争内でも異端者」だといい「死」が生の背景、などと書いてある。ともかく、おろかな母親とでも、これだけ話し合おうとするのだと思い、けさ一時間返事をかいてやぶり、今夜二時間かかってやぶりやぶり、三枚の返事をかいた。  けさからノドが痛いが、元気|恢復《かいふく》。久しぶりで外出し、パーマをかけてきた。今日はフーコーを少しやっただけ。  二月十二日[#「二月十二日」はゴシック体](水)  春のような日。一日中(十二時間)津田の採点。あと集計が残るのみ(夜九時半)。  採点しながらたえずR、Tのことを心配。イデオロギーとしてわかっても行動の行きすぎがないか、たえず案じている。個人のモラル、個人の責任性というものはあの考えかたの中には、くみこまれる余地がないのだろうか。もっと勉強したい。  二月十三日[#「二月十三日」はゴシック体](木)  朝七時、濃霧の中の島行、汽車二時間おくれ、タクシーで西大寺までとばしたが舟は欠航。せみぞ[#「せみぞ」に傍点]経由トラックで午後三時着。  二月二十五日[#「二月二十五日」はゴシック体](火)  Rと一緒に大阪まで。Rは上京。私は大阪NHK上田氏とともに京都NHKへ行き、岡崎氏と「この人にきく」の録音。もちろん私はきき役。かえり丸善に行き本を数冊買う。中根千枝の『タテ社会の人間関係』を読んでおもしろかった。なぜ日本に福祉の思想が育たないかがわかった。講談社からたのまれている本を何にしようか、とそればかり考えている。京都は雪であった。  三月一日[#「三月一日」はゴシック体](土)  N阪大に今晩泊まりこむとの電話夜あり、もちろん入試阻止の学生運動のため。今日午後から夜どおし京大で大乱闘。機動隊大学の要請なしで七時すぎ構内へ入る。Tはいずこ?  三月八日[#「三月八日」はゴシック体](土)  Tあさ十時頃京都へ。私は一日フーコー。一六〇頁まで(つまり今日は十二頁分清書)。いいあたまの体操になるがいいかげんバカになる。バカというのは自分[#「自分」に傍点]の思考を停止するからだ。今後ほんやくはすべきでない。今回は子供たちがいなくなった空白を埋め、学生運動による心配をまぎらすイミがあったが。  五月二十三日[#「五月二十三日」はゴシック体](金)  昨夜まんじりともねむらず。けさNから電話。三食分のお弁当をこしらえて豊中へひる頃届ける。Nわりと元気。けさ三時やっと解放され一時間位まどろんだだけの由。  十二時一寸すぎ帰ろうとした時ちょうど学生たちの内ゲバが始まっていた。基礎工学部の建物のカベすれすれにおびただしいガラスの破片をふみ、放水のしぶきを浴びながら帰る。  つかれで大した事できず、昨日からの『現象学的人間学』をよんでいる。  六月二十三日[#「六月二十三日」はゴシック体](月)  自己嫌悪に悩まされる。私という人間の悪さは、まさに死ななきゃ治らない。死よ、とく来よ、と言いたくなる。周囲の者にとって、私はどんなに重荷であろうか。書評のためヴェーユをよんで一日すぎた。純粋と短命とは結びついているのではないか。そしてヴェーユの死は、やはり一種の自殺としか思えない。N今夜徹夜で評議会。かえれず。  九月一日[#「九月一日」はゴシック体](月)  午前穂高村へ行き、鳴沢豁郎氏と三浦政市氏(大工)と共に地所の地形しらべ。萩の花たくさん咲きこぼれ、風がすがすがしく、高原の秋が身にしみて、一瞬軽井沢時代の恍惚《こうこつ》にもどった。三浦氏宅で設計図会議と昼食。それからNと暑い日ざしの中を歩いて、大糸線にのり、松本へきた。夕方の中央線の木曾川美し。帰宅したのは夜十時すぎ。  十一月十九日[#「十一月十九日」はゴシック体](水)  島へ。岡山で婦人之友のカメラマン柿崎氏と一緒になり、島で五病棟の看護婦さんたちと崖下《がけした》の海辺で写真をとられる。古籔、連ちゃん、永原さん、安仁屋君共にきたる。岩と海に光る斜の陽ざし。患者たちの小児のような姿。看護婦たちの明るいやさしい微笑。天国のごとし。〔著作集8巻頭の写真〕 [#改ページ]  一九七〇年     (五六歳)  二月十日[#「二月十日」はゴシック体](火)  朝六時におきて「天窓」にさいご的に手を入れて発送する。わずか六〇〇字にこんな苦労するとは私に「書く素質」がないことの証明だろう。  大橋先生からの質問(Ey: La Conscience の訳)に答える為に午前をついやす。Nから16〔第一六信〕きたり、とつぜん渡米の決心きまる。彼のために私は行くべきだ! とうたがえなくなった。十二時ちかくNへ電話。その晴ればれした声! ありがたし。母上にはまぎわになっていうこととする。午後千葉大大学院新井氏きたり「福祉の思想」について三時間半ほど。あとはずっとボーッとしてすごす。やっぱり渡米とは!  六月十三日[#「六月十三日」はゴシック体](土)  午前中汗だくで家中の衣がえ。そのあと「朝日ジャーナル」るす中の分をよみ、マーケットへ来週のための買物に。これでだいたい帰国後なすべき当座の事を完了。来週の島行にそなえて勉強をし、又じっくりと在米中の日々をふりかえりたい。  九月二十九日[#「九月二十九日」はゴシック体](火)  ひるまでねむりつづけた。やっとやや人心地ついて、三時半に日仏学館へ行く。ショーム館長夫妻と話しているうちにフーコー氏きたる。一時間打合わせ。彼はひどくかぜをひいていた。九月二七日に来日して十月九日に帰国するという。  フーコーが  ○構造主義を標榜《ひようぼう》した事はない  ○自著  Maladie mentale et personnalite〔『精神疾患と人格』〕  とビンスワンガー〔『夢と実存』〕への序文は  folie de jeunesse〔若気のあやまち〕だと言ったこと。 右が印象にのこっている。  通訳は冷汗ものだった。聴衆満員。百人位?  そのあとコクテールパーティで桑原武夫《くわばらたけお》、澤潟久敬、村上仁、その他の諸先生にお目にかかる。矢内原《やないはら》伊作氏とも。十時すぎショーム夫妻、フーコー氏の車で河原町駅まで送って頂く。  Nとアシヤ川駅で一緒になる。彼が今日の無事をよろこんでくれたのが一ばんうれしかった。  十月二十四日[#「十月二十四日」はゴシック体](土)  Tよる帰宅。試験やリポートなどで忙しかったらしいが例によって悠然としている。粟粒《ぞくりゆう》結核だった彼を思い出して胸があつくなり、とつぜん「あなたはやっぱり生きている必要があったのね」というと彼は「そういう解釈も可能だとしかいえないよ」と言った。  十一月二十三日[#「十一月二十三日」はゴシック体](月)  ゆうべからかぜ気で宵の口からけさまで眠る。  みすずからフーコー講演の原稿の校正きたり、すぐして出す。午後トオルが車でRと私をドライブにつれて行ってくれた。海岸から甲山まで。夕日に晩秋の山の紅や黄色燃えるごとし。Nは朝日への私の原稿を読んでいてくれた。  よる、R、Tとピアノをひく。朝日への原稿に手を入れる(第二部)。 [#改ページ]  一九七一年     (五七歳)  一月二十三日[#「一月二十三日」はゴシック体](土)  朝九時光明園(1)の迎えの車にのる。久しぶりで光明のクランケをみる。小|舞踏病《ぶとうびよう》の人は亡くなっていた。塩沼先生、菊井先生と食事。日生《ひなせ》まで舟で送って頂き、二時三十六分の汽車で帰宅。車中居ねむりばかり。日生駅からアシヤ駅までずっと雪が舞う。  二月八日[#「二月八日」はゴシック体](月)  原稿を一日中かいてくらしている。時々、疲れ切って投げ出したくなる。わけもなく涙がこぼれる。「かくこと」は若い時からの私の夢だったのに、何とそれは苦しいしごとだったことだろう。  四月十一日[#「四月十一日」はゴシック体](日)  さくらの花びらがハラハラとおちる。赤いボケが重そうな花を一杯つけている。君子蘭は今ごろやっとつぼみをのばしてきた。  腰痛のため一日|横臥《おうが》して「精神医学」誌のさいきん号十冊をていねいに読んでくらした。内村先生の連載(精神医学の基本問題)は歴史をかく上に貴重。  N一日中、学生のリポート読み。  十月六日[#「十月六日」はゴシック体](水)  午前バラの花束をもって星野先生(2)をおみまい。ふくよかなあたたかな感じ。ああいう老人になれるのはすばらしいことだと思う。  昼食を後藤安太郎氏にごちそうして頂く。心筋梗塞《しんきんこうそく》で危かった話。  午後三時半私学会館に武市八十雄氏が迎えにきて下さり、至光社へ行き、周郷博先生(3)と対談。(ひろばの為)楽しかった。  よるグリーン車と知らず、苦笑しつつグリーン車にのせて頂くことにした。Nとほとんど同時刻に帰宅。  十二月二十九日[#「十二月二十九日」はゴシック体](水)  ここ数日毎朝左肩痛し。ニトログリセリン錠をのむと治る。思えばガン以来十七年間よくも体が持ってきたものだ。これが第二の余生ならこれからは第三の余生。それはもっと短い可能性がある。一日一日を感謝して生きよう。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 ハンセン病の国立療養所・邑久光明園(岡山県)   2 星野あい(一八八四—一九七二) 元津田塾大学学長   3 「対談・生きる心」(『存在の重み』所収) [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九七二年     (五八歳)  一月二十二日[#「一月二十二日」はゴシック体](土)  けさ(午前四時)胸部痛のため目さめる。ほとんど一日中横になって立川氏の「病気の社会史」を読む。(レプラの現況不正確!)「歴史的精神医学」という本をかけぬものか、と考える。  毎晩食後何もする力がなくなる。これは気のせいか。  死後のため身辺整理をと思いつつ、果す気力なし。Nの愛|勿体《もつたい》ない。しかし窮極的には私は神の前に一人出ねばならぬ。  一月二十三日[#「一月二十三日」はゴシック体](日)  今日から新しい生活——余生を初めよう、と朝起きるなり心に誓う。自分の生活のしかたの悪いところ、心の持ちかたの悪いところ——それは私だけがよく知っている。知っていてもなかなか改革への決断はつかないものだ。  神よ、助け給え。私の意志の弱さを。  まず宿替えから、と二階へふとんを運ぶ。  三月十四日[#「三月十四日」はゴシック体](火)  けさ四時頃|心尖部《しんせんぶ》の激痛でめざめ、叫び声をあげてしまった。脈は一二〇—一三〇位。しばらく安静にしてからペルサンチンとイソミタールをのんだ。痛みは一、二分。アンギーナ〔狭心症〕の発作? 五時から眠り、十時におきてNを大学へ送り出し、午後四時まで又眠る。いま(午後七時半)まだ軽い胸痛あり。食欲は午後四時頃からふつうに出てきた。私はやっぱり身辺整理をせねばならぬ。  三月十五日[#「三月十五日」はゴシック体](水)  昨日はほとんどなすところなく臥床《がしよう》していたが、今日午後からちゃんと机にむかって歴史をかけるようになった。胸痛も午後から消失。こうして書けることのありがたさ、身にしみる。しかし、いつ狭心症がおこるか分らぬとなってみると、これまでののんきなかきかたは改めねばならないと考えた。要するにいつ死んでも、どこかまではちゃんと清書できている、という状態にしておくことだ。それで今日から、もう一度初めから清書しつつ、文献等も一々、表をつくって行くことにした。  体力ができたら買物に行って入院用の衣類をそろえ、ふろしきに包んでおくこと。私はほんとにいつ召されても、与えられた恩恵に感謝あるのみ。  六月十四日[#「六月十四日」はゴシック体](水)  美しいカラリとした日。庭の蔦《つた》は塀の上にほこらかに葉をのばし、バナナの葉はみるみるうちに一枚また一枚と赤い皮を脱いで行く。オリズルランは鉢からも地べたからもいきおいよくシューツを放射している。  胸痛なく、しずかに今日も一日勉強できるありがたさ。  十月十八日[#「十月十八日」はゴシック体](水)  しずかな朝、すきとおるばかり。南天の実いよいよ紅く、小鳥のさえずりしきり。しずかな日々のとおとさ、いとおしさ。夕べになりて明るくなるべしとのいにしえの人のことばは、生の終りになって、その真なることを示される。沢山の病める人の、ただひとりをもいやせぬ無力さも、神にゆだねまつりて残る日々をひたすら生きぬかんのみ。医師になってみても何一つ人間のことはわかっていないのを知る。これを知るための勉強であったらしい。 [#改ページ]  一九七三年     (五九歳)  一月二十二日[#「一月二十二日」はゴシック体](月)  採点やっと終了。まる八日かかった。数えてみたら八〇一名!  来年から○×式にしなくてはならぬ。  一月二十四日[#「一月二十四日」はゴシック体](水)  N仙台へ東北大学集中コーギのため出発(三泊の予定)、今月はだいたい十一日間この家をひとりで守っている。孤独は好きだがあまりに広すぎる家のお守がたまらないのでマンションなるものに移ろうか、と考えている。  五月二十三日[#「五月二十三日」はゴシック体](水)  明日からお弁当づくりをやめさせてもらうことにした。これでだいぶ時間と「気」が助かる。  NHK依頼ことわる。どれだけことわっていることだろう。放送、講演、原稿——ことわり商売だ。  花本淳子さん午後から沢山やさいとくだものを持って来訪。やさしい心に打たれた。これからしごとを手伝ってもらうことにする。  五月三十一日[#「五月三十一日」はゴシック体](木)  あじさいの花たくさん咲き出した。今日は長島へ行く筈《はず》だったが、下肢の浮腫《ふしゆ》でムリなので高橋先生におことわりした。残念だが今の私にはもう島へ行く体力の余裕がない。最低限のしごととして津田と、家事と。あとはかきものしかできない。でもこれだけでもできることを感謝する。  八月三日[#「八月三日」はゴシック体](金)  やっとふつうのからだとあたまになった。朝、自分に対しておごそかな誓いをたてる。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、しごとはできるとき、できるだけする。「ノルマ」で自分を縛らぬこと。  二、眠れないときはそのままおきていて、日中でもいつでも眠れるとき眠る。 [#ここで字下げ終わり]  右を今日以後励行のこと。そうすれば今度の病気を生かせるし、Nへの迷惑も少しは減らせる。  神様、弱い意志を助けて「あるがままに」生かせてくださいませ。  校正三回目をみて今日発送。あと三回! [#改ページ]  一九七四年     (六〇歳)  一月十四日[#「一月十四日」はゴシック体](日)  Nと二人きり。彼がめずらしく家にいてくれて安らか。甘えがでて、私は食事づくり以外は一日中ほとんどねていた。  ウルフの参考書二冊よむ。  アンドロジニイ〔両性具有性〕に関するものばかり。これもあまり強調されるといやみなものだ。  三月十二日[#「三月十二日」はゴシック体](火)  引越開始後一ヵ月、やっとゆっくりものが書けるようになった。二十日にここへ来てからも、毎日ダンボールとの奮闘で手は血を流し、ムリヤリヒルネをすることでどうにか体を持たせたが三日ほどカゼで臥床《がしよう》。しかしすべてNの限りない思いやりにより乗りこえ、今は朝日選書のため『人間をみつめて』の終り百枚を「島日記」からえらんでいる。寒さぶりかえし、ほとんど外出せず。しないですむのがありがたい。  七月三日[#「七月三日」はゴシック体](水)  今日は私たちの結婚二八年記念日。N不在なので朝一人で感謝の祈りをささげる。私のために彼がどんなに苦労したことだろう。それなのにこのごろはまたとくべつやさしい。もしかすると二人の別れが近づいているからかも知れない。彼の肺、私の心臓、どちらも病んでいるのだ。  朝六時—八時、家中を掃除。Nのワイシャツせんたくをする。あとはAWD(1)すいこう。  七月七日[#「七月七日」はゴシック体](日)  台風のため雨とくもりの交代。参院選挙にNと行ったあと二人でファミリーランドへ行った! 子ども心にかえってふしぎな動物たち(こうもり、アルマジロなど)を眺め、モノレールにも乗った。今の私には、近いところにこんな珍しいもの(動物たち)があって見に行けたのがとてもうれしく思われる。少々歩きすぎて疲れたが楽しい一日だった。  七月九日[#「七月九日」はゴシック体](火)  二日間疲れでしごとをしなかったが、今日は『ある作家の日記』の推敲《すいこう》が二〇〇枚できた。  日本評論社から「こころの科学」という講座にかいてくれとの依頼。  市川房枝さんが二位で(全国区)通ったことはうれしい。そこにこめられている人びとの願いを感じるとき。  九月五日[#「九月五日」はゴシック体](木)  七月二十二日以来、初めて日記を開いた。  八月八日—三十日宝塚ホテルにこもって『心の旅』をかきあげた。九月一日—三日Rかえり、T、Ng(2)も来たりにぎやか。三日にRは名古屋、Nは北海道へ(学会で七日まで)。私は一しごとのあとの虚脱状態をやっと脱して、けさは六時半に涼しい大気を楽しみながら清荒神《きよしこうじん》の方へ郵便を出しに行った。あと机を片づけ、次のしごとを考えているうちに、どうしても今年中に歴史をかきあげなくては、と気づいた。VWの病誌は来年になることを許してもらおう。  それと「こころの科学」の三〇枚。皆に生かされていることを心から感謝する。今年は又秋に会える。  十二月十四日[#「十二月十四日」はゴシック体](土)  ひる近く陽が照り出して室温は二十三度位になった。けさはNも私も六時におきて机に向う。気分はいいが、右下肢がはれ、とくに親指が赤くはれ痛む。ヒルネのあと、ふと痛風ではないか、と思って一時間ほど文献をしらべていた。  それから、それでもいいではないか、と思い、ねたまま窓から空の雲と青空を眺めていた。要するにガタが来たのだ。でもNは毎日やさしくしてくれ、「みみのおかげで今日の僕はあると本当に思っているのだよ。どうか大事にして生きていてくれね」と言って出かけて行く。私は仕事よりも彼のために生きて——それもふつうの精神を保って生きているよう努力せねば、とあらためて思う。自分にとって生も死も同じみ手にあると思っても、Nにとってはやはり大差があるのだろうから。みむねのままに。すべて感謝である。  朝夕川をみて、一日一日を貴重に思う。今はたそがれ、川はなめらかに流れている。私の生命も流されているのを感じる。多くの苦しみとあやまちがあったけれど、人生の終がこんな形で恵まれるとはもったいないことだ。  十二月三十一日[#「十二月三十一日」はゴシック体](火)  今池の面は鏡のように光っている。昨日で料理をすませたおかげで朝のひととき机にむかえた。今年一年をふりかえると、引越前の精神的な苦しさや、暑い夏にたまりかねて宝塚ホテルに泊まりこみ、本の仕上げに苦しんだことや、九月二十七日—十一月十三日の間脳血せんで甲南病院に入院したことなどが浮んでくる。世の中は石油不足インフレで大さわぎだが、私は痴呆《ちほう》や半身不随の近くにまで行って、ようやくすべてのものから自由になった気がしている。何よりも自分の限界をいやというほど知った、というイミで。神さまとNとみんなのおかげでどうやら半人前の生活ができるようになったことを感謝する。もうしばらくこの世におかれている間、なるべく人の迷惑にならぬように生きて行きたい。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 A Writer's Diary、ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(みすず書房)の翻訳を進めていた。   2 徹の妻、永子。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九七五年     (六一歳)  一月一日[#「一月一日」はゴシック体](水)  朝九時、まだだれもおきてこない。新しい年を、ともかく半人前ながら歩くことも、話すこともできる状態で迎えられることを深く感謝する。あと何年か知らないけれど、どうかあまり人めいわくにならずに生きることが許されますように、と何よりも先にこの祈りが出てくる。  昨日は一日Nがくるくると手伝ってくれた。というよりかれがすべてをやってくれ、私はただ食物をつくっただけ。よる律《りつ》がカゼをひいて白くなって九時ごろ帰宅。このごろ年末でどこも店がしまり三食とも自炊していたという。みこころのままに、というのが年頭にあたり、一ばんふかい祈り。もし軟化症になるならそれもうけ入れさせて下さい。  三月八日[#「三月八日」はゴシック体](土)  やっと暖い日がめぐってきた。マツリカが居間でふくいくと匂《にお》っている。沈丁花《じんちようげ》も窓の外でつぼみをふくらませている。よくこのきびしい冬を耐えてきたものだ。今年は二月に二度もかなりの雪が降ったぐらいだから。  二月二十日に私はまた倒れて、からだのあちこちに青いあざをこしらえた。永子さんに電話するのがやっとだった。一過性虚血発作だろうということで入院をすすめられたが、Nが一日おきにみまいに来てくれるというのが気の毒(彼の健康上心配)でたえられないので「執行猶予」を酒井先生に願い、それいらい月、水、金と静注にタクシーで往復している。ウルフはストップ、岩波のプラトン全集の為にポリテイアをよみ直し、今日やっと八枚の原稿をかいた。私はこの夏、この冬を果して越えられるかと、ときどき思う。  七月十日[#「七月十日」はゴシック体](木)  今朝は珍しく右下肢のビリビリも痛みもほとんどなく、気分がいい。こういう、めったにない日にはここにかく気がする。神さまへの信頼と感謝と、そしてNへのあふれるばかりのありがたさを。だんだん視力がおち、右半身不随になって行くことはわかっているけれど、痴呆になり切るまでせめて感謝の歌をたやさないようでありたい。  十一月三日[#「十一月三日」はゴシック体](月)  沈みゆく陽光のもとに河べりのすすきの穂の群が風とともにいっせいになびく。その風情はふしぎな音なき音楽のように見える。  二十八日から学会出席の為帰宅していた律が午後名古屋へ戻って行ったので、一緒に清荒神まで歩いて行った。一生のたそがれの至福——そんな思いに心が満ちた。Nは学会につぐ学会でこの連休もほとんど顔合わせることなし。私は一日の半分は眠って、症状(右下肢のビリビリ、痛み、時には右上肢の痛み、又あたまの左上の鈍痛)のないときに、少しずつウルフの「あとがき」を書いている。  再校は十一月中旬の由。「婦人之友」の校正は昨日連載のさいごを終えた。 [#改ページ]  一九七六年     (六二歳)  一月十日[#「一月十日」はゴシック体](土)  Nがたん生祝にモンブランの万年筆を求めてきてくれた。何本目か知らないけれど、私の「商売道具」だから、と言った。その「商売」をいつまでやれるかわからないけれど、ともかくありがたい。  この日記帳もNが私の入院中に買っておいてくれた。三年もあと生きていられるか、書ける状態でいられるかわからないけれど、なるべく日記もつけることにしよう。ここ二、三年、病気が悪い方に向いて行くので、日記をかく気がしなくなっていた。入院中の日記も初めの二回はよく書いたが、あとの二回はあまり書かなかった。ということはだんだんバカになって行く自分をみつめることを避けていたかったからかも知れない。でもNを初めとして徹、永子さん、律(律は名古屋にいるから時々しか会えないが)みんなにとてもとてもよくしてもらっていることへの感謝はかいておきたい。  一月二十六日[#「一月二十六日」はゴシック体](月)  昨日の疲れでほとんど一日中ボーッとしていた。腰痛、足のしびれ、むかつき、——過労の時は例のごとし。Rはおひるを食べて名古屋へ。何で生きのびたいと願うか。べつに願っているとは思わない。ただNのことを思えば、せめて家のことだけでもできる形で生きていたい、さもなくば早く召したまえ、と勝手な願いが湧《わ》いてくるのをどうしようもない。よるの教養特集で正法眼蔵《しようぼうげんぞう》のことをきいて読みたいと思った。私には源氏よりこれのほうが興味がある——少しはわかりそうな気がした。  二月十六日[#「二月十六日」はゴシック体](月)  トオルに頼んで買ってきてもらった正法眼蔵をよみはじめた。ともかく名文!  下肢痛ひどく机仕事ができない。おきていること、立っていること、あたまを使うこと、みな痛みを増す。  六月八日[#「六月八日」はゴシック体](火)  掛川さんの手紙に励まされてけさからVW執筆に向う。ああ、何度目のことだろう。それとともに、今年の初めからのデスク・ダイアリの記録を少しずつ写しとることにした。何しろ、からだの工合があまりに不安定で、日記をつける気がしなくなっていたのだ。神様、どうぞ書く体力を与えて下さい。 「精神医学」(医学書院)誌から「宗教と精神医学」の座談会に出よ、と Tel あり、ことわる。  六月二十五日[#「六月二十五日」はゴシック体](土)  このごろ私は少しも日記をつける気がしない。どうしてだろうか。からだの故障があまり次々と起って書くのもいやになるからだろうか。それとも内省能力がなくなってきたからだろうか。  六月一日——あるいは五日——に肋骨《ろつこつ》骨折をやって、この月は「痛み」の感覚にさまたげられてあまりかけなかった。よく眠ることもできなかった。でも十七日に整形で受診して治療をするようになってから、このごろ痛みはうすらぎVWをまた毎日かけるようになった。ビリビリがおこるまで毎朝二、三時間。R昨夜来て、今日セミナーハウスでの発表に行った。明日また帰ってくる。  七月三日[#「七月三日」はゴシック体](土)  Nとの結婚三〇周年記念日。よくも私をガマンしてくれた、とNへの感謝が先に立つ。すべて「み手に支えられて」乗り越えてきた三〇年。感慨無量。  けさは六時前から病誌をかいている。かけるときのしあわせ! Rきたる。  七月四日[#「七月四日」はゴシック体](日)  夕方サンヴィオラへ二人で行って、私の病院行用の夏のバッグと靴を買い、三〇周年祝に宝塚ホテルで夜の食事をした。行くときはヒルネ(夕寝!)直後のため、よろよろしてNの腕にすがりながら歩いたが、夜は元気になった。夜景が美しく、久しぶりで外界に出たよろこびを味わう。  しかし下肢痛は次第に範囲をひろげて、かかと、ふくらはぎ、ひざの裏にまで感じることがある。本も少しずつしかかけない。Nの外遊中、どんな風になっているだろうか、と時どき思う。でも、充実した一生だった[#「だった」に傍点]のだからこれ以上何も望まない。本を完成できなくても、東京へ行けなくてもいい。(むしろ東京行に対してはこのごろ尻《しり》ごみするようになった。ただ病んでいるならこの片すみでひっそりしている方がいいと思う)  九月三十日[#「九月三十日」はゴシック体](木)  昨日みすずのYさんに電話してウルフの病誌は、現在の健康状態がよくならない限り書けない、と言った。病気の説明もした。黙ってきいていてくれたことがありがたかった。そのあとささやかな記念品を小包にしてユービン局へ出しに行ってきた。金もくせいが咲き、香りを放っていたのが何よりのよろこび。 [#改ページ]  一九七七年     (六三歳)  七月一日[#「七月一日」はゴシック体](土)  六月十七日夕へやで倒れて側頭部に裂傷を負い、せいれい三方原病院にかつぎこまれて一週間。二人べやでくらした。正ちゃん、浦口さんが毎日来てくれて何というありがたいことであったろう。昨日抜糸をして頂き、昨日から水、木と毎週二回グルコキナーゼと何とかの点滴をうけることになった。昨日点滴が終ったのが、午後二時。川本さん ope〔手術〕につき一寸のぞきに行き、前のストアで買物して帰った。ひとり歩いて暑い中を帰るとき「歩けるよろこび」を感じたが、帰宅後疲れて何もできなかった。毎日が薄氷を踏む思い。しかしこれは現世についてのみ。もうすぐ解放のときがくる。  十月二日[#「十月二日」はゴシック体](日)  Nと二人で夕方サンヴィオラへ。私の新しい出発祝におさしみ定食を頂く。八月二十二日、連日の烈しいめまいのあと、豊中病院へ入院。九月三十日に退院。その間したことといえば、岩波のための小文かきと新潮社のフーコー『監獄の誕生』の書評。自分のこの三年間の症状の原因に思いあたり、今日から新しい生きかたをする決心。浜松〔ゆうゆうの里〕は九月二十九日に解約(1)。  ゆうべリフトンらの『日本人の死生観』を読みながら、森|鴎外《おうがい》の死に近いころの心境をよみ、つよく心を打たれた。私も意識を失わない限り医療を拒否してなすべき仕事を完成しよう、と決心。今日は浜松からの本や書類の整理、散歩に一層精を出した。やはり右下肢がよけい痛む。しかし発作でないのだから、休息を合間にとりつつ仕事をした。  午後サンヴィオラへ足の痛くならないような靴を買いに行った。毎日必ずマンションの五階まで歩いて昇る。岡崎にそなえて(2)。 「第三文明」からのエッセー依頼ことわる。三年間心も体も病んで空白にしてしまったのだもの。   [#ここから改行天付き、折り返して4字下げ]   1 この年、約半年間、有料老人ホーム浜松ゆうゆうの里に住む。旧友、浦口真佐も同所に入居していた。   2 この年、宣郎が大阪大学を退官し、秋から岡崎市にある国立基礎生物学研究所教授に就任した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  一九七八年     (六四歳)  一月三日[#「一月三日」はゴシック体](火)  岡崎の宿舎は勝木先生のおかげで昨年十二月二十七日に五階(エレベーターなし!)から一階へ引越すことができた。Nよる岡崎へ。  中旬に私も引越すことに決心。たとえ死地におもむくともNとともに住みたい。さいきん右足先がちょくちょく痛むだけで、一切倒れることもなし。薬をのまなくなってから!  二月五日[#「二月五日」はゴシック体](日)  やっとやっとウルフを。あらためて——ああ何度目のことか——書き出した。Nの思いやりで、すわり電気ごたつを買ってもらい、四脚に台をつけて高くしてもらっているので、この中で書いていると右足(アキレス腱《けん》のところと時にはひざ)の痛みをほとんどおぼえずに書ける。書けさえすれば何もいうことはないのだ。ありがたいありがたい。  入浴の時のためにガスストーヴも買い、台所に立っているときのために電気ストーヴをつけている。  五月二十一日[#「五月二十一日」はゴシック体](日)  気分よくNとユニーへ行って私の自転車と園芸用品を求める。ユービン局があまりに遠くて私の「社会との交通」——唯一の——がやりにくいからだ。しかし、自分の年のほど、右下肢の障害をわきまえないおろかな考えだ。少しは乗れたが、たびたびアスファルトにころんで右下肢と上肢に打ちみ、挫傷《ざしよう》をたくさんこしらえてしまった。これでNの雑事を少したすけたい気持も逆効果を生んでしまった。おろか、おろか! バカは死ななきゃなおらない。「あけぼの」へ原稿発送(一〇枚)。  六月十七日[#「六月十七日」はゴシック体](土)  今年も半分以上すぎたのにからだのことで大半のことはさまたげられた。一々かく気がしない症状がほとんど毎日。しかしRは配偶者杉戸恵理子さんをみつけたし、仕事もよくやっているらしい。Nもハラハラするほどの激務。私だけがのろのろウルフをやっている。  今日たくさんヒルネしたら珍しく足が痛まなかったので、エーワンへ買物に行った。  残された日々を大切に生きたい。しかし頭痛や足痛のあるときは全存在が痛みそのものになるのをどうしよう。  九月四日[#「九月四日」はゴシック体](月)  六時かえりて(野鳥の森にてよむ)   ほの暗き森の小みちを   わが行けばふいに開《ひら》ける   朝の光よ   かろうじてからだ支える   わが下肢《あし》よ朝来るごとに   あらたな思い     ありがとうけさなおわれを   支えゆきて野鳥の森を   歩かせし下肢よ     すいれんの花すでに枯れし   沼のほとり   再び会えん蓮《はす》の台《うてな》に    けさも四時半にめざむ。夜があけたら散歩に行こうと待ちながらここに一言。  母上逝きたまいし六五才があと四ヵ月後に迫っている。たえがたき猛暑はどうにかのりこえたが、来たる冬のあのきびしさには如何《いかが》。今冬痛み出した下肢《あし》の歩みは危からむ。命も危からむ。しかしぎっしりめぐみのつまった一生の歩み。いつなりと終えて休ませたまえ。  十月二十六日[#「十月二十六日」はゴシック体](木)  二、三日前から目ざめた時右の上肢にマヒが来つつあることがわかる。初めは小指の右側のビリビリ。次は手首の関節のいたみ。腕の関節のいたみ。そして今は、腕(下)の筋肉のいたみ。来るべきものが来た。すなおに頂こう。約束の原稿を書くかたわら、左手でかく練習をしたい。夜半。 [#改ページ]  一九七九年     (六五歳)  一月十九日[#「一月十九日」はゴシック体]  今日退院。昨夜ほとんど一睡もできず。(……)  十二時—四時ひとり眠ってようやくふつうになった。八時に Nob から Tel が来てありがたかった。入退院14回くりかえしてきた私の存在が自他ともに不幸であると考えるのも私の小さな脳の�こだわり�かも知れない。しかし、こういう体で生きて行くのは正直なところ、たいへんむつかしい。私が「キリスト者」になれない理由は、イエスが三〇才の若さで自ら死におもむいたためだ。三〇才といえば心身共に絶頂の時。その時思う理想と、六五才にして経験する病と老いに何年もくらすことは、何というちがいがあることだろう!! 私はまだしも Buddha のほうに、人生の栄華もその空しさも経験し老境にまで至って考えたことのほうに惹《ひ》かれる。  人を愛するのは美しい。しかし愛することさえできなくなった痴呆《ちほう》の意識とからだはどうなのだ? だから愛せる者よりも価値が低いと言えるか。くるしみに耐えること、ことに他人に与えるくるしみに。  七月二十四日[#「七月二十四日」はゴシック体]  Tohl, Ritz, Nob が揃《そろ》って病室に来てくれた。何というたのしさ! みんなでホダカへ八月に連れて行ってくれるという。もったいないことだ。私はありがたさのあまり笑いながら泣きそうになるのをこらえていた。二十三日にはみすず書房の欣子さんからTelで�貸金庫�〔将来、本にまとめる予定で書いたものを随時送り、貸金庫と名付けていた〕の話。沢山なら二冊にしてもよいと小尾氏がいわれるという。急にもりもり書きたくなった。それにもっと書いてあるものを出してみよう。 [#改ページ]  あとがき [#地付き]神 谷 宣 郎   妻神谷美恵子の歿後《ぼつご》程なく、みすず書房から「神谷美恵子著作集」刊行の企画について相談をうけ、その最終巻に著者の日記と書簡の一部を収録したいとの要望が寄せられた。  神谷美恵子は生前彼女の書きものに自分自身をなま[#「なま」に傍点]の形で語ることを極力避けようとした。このような事情があったことと、日記には個人的なことがらや家族の私事などが多いため、それを公表することには少なからぬ抵抗を感じた。しかし彼女の人間像や人生観、生活感性などについては、著書のみからでは想像し難い面があることも事実である。著者の歩んだ道は決して平坦ではなかった。戦後窮乏の時代に家庭をもってからは、物質的にも精神的にも酷しい試練に遭遇した。それぞれの時代、環境における著者のものの見方、思索、実践を示す生きた記録として、日記と書簡にまさる資料はないであろう。このような見地から、著者亡きいま故人の許しを乞い、また遺族としてのためらいを超えて、あえて出版社の要望に応じた次第である。  以下日記と書簡について簡単に説明する。  日記について。彼女がいつから日記をつけていたかは詳かでないが、手許には一九三九年(二五才)から一九七九年(六五才)に至る約四〇年にわたる分がほぼ揃《そろ》っている。その中で見当らないのは一九四〇年八月中旬から一九四一年末まで(東京女子医専在学時代の初期)の一年四ヵ月余の分と、別のノートに記していたと思われる在外中の日記の一部である。  一九三九年から一九四四年までの日記はあり合せの米国のノートに、一九四五年以後は当時の紙質の悪い日本のノートに記されている。一九四六年六月までの独身時代の日記はとくに克明に書かれ、分量も多い。日によっては仏・英・独語で書かれているところも散在している。一九五五年以後の本日記は博文館の三年連記当用日記を用い、記述も比較的簡単である。しかしこれとは独立に「愛生園見学記」、「文部省日記」(いずれも本著作集9に収録)、「育児日記」、「島日記」(本著作集2に一部収録)、「病床日記」、その他随想などが別のノートに記されている。また本日記と平行に、毎年の卓上日記にはメモ程度の書き込みがなされている。  日記は必ずしも毎日書いたわけではない。晩年に近づくにしたがって密度は薄くなり、一九七〇年代、とくに病を得てからは空欄が多くなる。最後の本日記は一九七九年七月二十四日(本巻収録)で、また卓上日記は同年十月十五日「みすずへ原稿発送(速達)最終の部 帰院 9.00am」で終っている。これは『遍歴』の原稿のことで他界する丁度一週間前であった。  彼女の日記にはしばしば欧文の用語や医学の専門語が使われている。そのような箇所には、みすず書房の吉田欣子氏の協力を得てなるべく注をつけることにした。後から入れた注は〔 〕に入れてある。  一番迷ったのはぼう大な日記の中から何処をとり出すかという問題であった。明らかに公表に不適当と思われる箇所、欧文で書かれた箇所、日常生活の些事《さじ》などは最初から除外した。抜粋は特別な視点に立って行ったわけではない。強いて言えば、(一)著者の人間像を反映した考え方や行動、(二)これまでの著書や訳書に関連のある事柄、(三)読んだ本に対する感想、(四)使命感と主婦としてのつとめ、内職との相克、(五)死に直面して生きた晩年の心境と生活、などをなるべく忠実にバランスよく伝えることを念願とした。しかし限られた紙面と、各年代にわたってできるだけ万べんなく拾い上げるという編集方針に沿い、抜粋に際しては出版社の意向を尊重した。  日記の中では、登場する人物の実名を伏せたり、また記述を省略した箇所もすくなくない。中略の箇所は(……)で示したが、前略、後略の場合はこの印をつけていない。かえって目障りと思われたからである。文章は原形のままであるが、旧仮名づかいを新仮名づかいにしたこと、漢字の一部を仮名にしたこと、および句読点を補った箇所があることをお断りしておく。  尚日記の中にでてくる略号などについては本文中に注を入れたところもあるが、しばしば出てくる略号は次の通りで一々注を付していない。  Nまたは Nob  夫  宣郎  R        長男 律  T        二男 徹  VW       ヴァージニア・ウルフ  ここに収録された日記は日数にして三六九日だから一九三九年から歿するまで四十年間の僅《わず》か二パーセント余にすぎない。書かれた分量の比率にしても、全日記の数パーセント程度のものであろう。  日記抄および書簡抄を収めた本巻が出版されるまでには多くの困難があった。その第一は原日記の判読である。その他欧文用語の綴りや略号の解読、用語の注解、書簡の回収、収録部分の選択など。みすず書房の吉田欣子氏は、この労力の多い、しかも高度の判断力を要する作業を引受けて下さった。ここに同氏をはじめ本書の編集・出版に関係されたみすず書房の方々に厚くお礼を申上げる。 [#地付き](一九八二年十月二日)  [#3字下げ]本書の底本である『神谷美恵子著作集10 日記・書簡集』のあとがきのうち、日記に関する部分を収録しました。(編集部) [#改ページ] 神谷美恵子 年譜[#「神谷美恵子 年譜」はゴシック体] [#ここから改行天付き、折り返して10字下げ] 一九一四      一月一二日、岡山市に生まれる。父・前田多門、母・房子の第二子。多門は内務省官僚で当時は岡山県視学官。美恵子は長兄・陽一を頭に二男・三女の長女として育つ。四月、長崎県理事官となり長崎に転居。 一九一五(一歳)  父の内務省本省勤務に伴い東京に転居。 一九一八(四歳)  父欧米各国に出張。 一九一九(五歳)  母も渡米。美恵子は妹とともに横浜の母方の祖母宅に預けられた。 一九二〇(六歳)  下落合小学校入学。父内務省を退職し、東京市助役に。 一九二一(七歳)  聖心女子学院小学部二年次に編入。 一九二三(九歳)  父国際労働機関(ILO)の日本政府代表としてジュネーヴに赴任。美恵子同市内のジャン=ジャック・ルソー教育研究所付属小学校に編入。 一九二五(一一歳) ジュネーヴ国際学校に進学。 一九二六(一二歳) 一二月末帰国。 一九二七(一三歳) 自由学園に編入。九月、成城高等女学校一年に編入。この頃からアテネ・フランセに通い始める。叔父でキリスト教無教会派伝道者の金沢常雄の集会で聖書について学ぶ。 一九三二(一八歳) 三月、成城高女卒業。四月、津田英学塾(現在の津田塾大学)本科入学。 一九三三(一九歳) 叔父・金沢常雄に伴われ、ハンセン病患者のための国立療養所、多磨全生園を訪れる。この体験を契機に医師の道を志す。 一九三五(二一歳) 津田英学塾本科卒業。同大学部に進学、予科生を教える。肺結核発病し、軽井沢の山荘で療養生活を送り、その間独学で英語科高等教員検定試験に合格する。この頃より三谷隆正の著作に傾倒する。 一九三六(二二歳) 結核再発し再び療養生活に入る。独学でギリシャ語を学びマルクス・アウレリウス『自省録』などを読む。 一九三七(二三歳) 結核治癒。津田梅子奨学金を与えられる。 一九三八(二四歳) 父新設された在ニューヨーク日本文化会館館長に就任。美恵子も家族とともに渡米し、コロンビア大学大学院ギリシア文学科で学ぶ。 一九三九(二五歳) 二月から六月までフィラデルフィア郊外にあるキリスト教クエーカー派の学寮、ペンドル・ヒルで生活する。この頃父より医学部進学の承諾を得て、九月、コロンビア大学医学進学課程で勉強を始める。 一九四〇(二六歳) 七月、帰国。 一九四一(二七歳) 東京女子医学専門学校(現在の東京女子医科大学)本科編入学。 一九四二(二八歳) エリス島で抑留生活を送っていた父が交換船で帰国。 一九四三(二九歳) 父新潟県知事に就任し両親が新潟へ。美恵子八月に長島愛生園に一二日間滞在。 一九四四(三〇歳) 秋、東京女子医専卒業。東京大学精神科医局に入局。内村祐之教授のもとで学ぶ。 一九四五(三一歳) 五月、空襲で自宅全焼。家族は軽井沢に疎開。美恵子は東大精神科の病棟に住み込み医師としての仕事を続ける。八月一八日、父文部大臣に就任。文部省で父を助け翻訳業務に従事。 一九四六(三二歳) 一月、父文部大臣を辞職。その後の安倍能成大臣に請われ引き続き美恵子は通訳・翻訳者としての仕事を続ける。 同時に東大精神科の仕事も続け、五月、内村教授の「大川周明精神鑑定書」を手伝う。七月三日、神谷宣郎(当時東大理学部講師)と結婚。 一九四七(三三歳) 四月、長男律誕生。英独仏語の講師をする。 一九四九(三五歳) マルクス・アウレリウス『自省録』翻訳、創元社より出版。宣郎大阪大学教授として赴任。一二月、次男徹誕生。 一九五〇(三六歳) 宣郎渡米、ペンシルヴァニア大学で研究生活を送る。美恵子アテネ・フランセでフランス語を教えはじめる。 一九五一(三七歳) 宣郎帰国。七月、芦屋に転居。愛真聖書学園の分校として自宅でフランス語を教える。神戸女学院大学の非常勤講師となる。 一九五二(三八歳) 大阪大学医学部神経科に研究生として入局。カナディアン・アカデミーでフランス語を教え始める。愛真聖書学園解散後、自宅でフランス語の私塾を開く。 一九五四(四〇歳) 神戸女学院大学助教授に就任(英語・英文学担当、一九五五年まで)。 一九五五(四一歳) 母房子死去。初期癌が発見されたがラジウム照射で進行を食い止める。           マルクス・アウレリウス『自省録』岩波文庫より再刊。神戸女学院大学非常勤講師としてフランス語、精神衛生を教える。 一九五七(四三歳) 四月、長島愛生園の非常勤職員としてハンセン病の精神医学的調査を始める。同時に定期診療、園内の準看護学校での講義を行う。 一九五八(四四歳) ジルボーグ『医学的心理学史』(みすず書房)翻訳。 一九六〇(四六歳) 大阪大学より医学博士の学位授与。神戸女学院大学社会学部教授に就任。           『生きがいについて』の執筆をはじめる。 一九六二(四八歳) 父多門死去。大阪大学助産婦学校で精神医学を教える。 一九六三(四九歳) 津田塾大学教授に就任。精神医学と上級フランス語担当。四国学院大学でも非常勤講師として精神衛生の講義をもつ。八月から九月、渡米。(当時宣郎がプリンストン大学で研究中)。米国、帰途立ち寄った英国、フランスで医療施設等を訪問する。フランスでミッシェル・フーコーに会う。 一九六四(五〇歳) 神戸女学院大学を辞す。 一九六五(五一歳) 長島愛生園精神科医長となる(一九六七年まで)。 一九六六(五二歳) 『生きがいについて』をみすず書房より出版。ヴァージニア・ウルフの病跡研究のため渡英。 一九六七(五三歳) 愛生園精神科医長を辞す。一九七二年四月まで非常勤医として診療を続ける。 一九六九(五五歳) ミッシェル・フーコー『臨床医学の誕生』(みすず書房)翻訳。 一九七〇(五六歳) 四月から五月、渡米(当時宣郎も渡米中)。ミッシェル・フーコー『精神疾患と心理学』(みすず書房)翻訳。 一九七一(五七歳) 『人間をみつめて』を朝日新聞社より出版。 一九七三(五九歳) 『極限のひと』をルガール社より出版。 一九七四(六〇歳) 『こころの旅』を日本評論社より出版。一過性脳虚血発作により入院。芦屋より宝塚に転居。 一九七六(六二歳) 津田塾大学教授を辞任。ヴァージニア・ウルフ『ある作家の日記』(みすず書房)翻訳。 一九七七(六三歳) 宣郎大阪大学を退官、岡崎の国立基礎生物学研究所教授に就任。『神谷美恵子エッセイ集』㈵・㈼をルガール社より出版。 一九七八(六四歳) 『精神医学と人間』をルガール社より出版。 一九七九(六五歳) 一〇月二二日、心不全により死去。 [#ここで字下げ終わり]   [#この行3字下げ]本書はみすず書房より一九八二年一一月に刊行された『神谷美恵子著作集10 日記・書簡集』の日記部分にあらたに注等を付し文庫化したものです。 [#この行3字下げ]本書の中には今日では差別的表現とされる語句がありますが、執筆当時の時代的背景を考え合わせ、底本どおりとしました。(編集部) 角川文庫『神谷美恵子日記』平成14年1月25日初版発行