七胴落とし 神林長平 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ <例> 七胴落《しちどうお》とし |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 <例> 一|口《ふり》の日本刀 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 <例> [#改ページ] -------------------------------------------------------     誕生日おめでとう [#改ページ]       1  日ごとに太陽の高度が高くなって、予備校のコンクリートの表面は熱くなり、乾いて老朽化する。コンクリートは完全に乾くとおしまいだという。人間の肉体と同じだ。  この予備校はまだ湿っている。燃える日射しから逃がれてなかに入りこむとひんやりする。地下墓室を連想させる。ぼくは西洋式あるいは古代古墳のような地下墓室におりた経験はないが、たぶんそこはいつも冷たくて気持がよいにちがいない。とすると予備校は墓ではない。居心地はよくないし、歴史もなければ、魅惑的な副葬品が埋められているわけでもない。ただ外界より少しすずしいというだけの、巨大な容器だ。心地よさとは無縁のコンクリートの箱。  予備校が太陽に熱っせられて融けてしまうことなく形を保っているというのは不思議な現象だ。太陽はなまぬるい二十度か三十度の行火《あんか》ではなく数千度の発熱体なのだから、地表のすべてのものはその温度まで熱くなって融ける権利をもっている。冷却手段を封じ込められたらすべてが一瞬のうちに蒸発する。性的な快感を覚える空想。  むろん最大の効率でもって太陽が地上を熱くしようとしても、太陽の表面温度と同じまで上昇しないことをぼくは承知している。熱の一部は仕事をしない。エントロピーによって消失する。  予備校のなかではこれと同じことがおこっている。予備校に注がれるエネルギーはなにも生産しない。予備校という容器に入れられた少年たちをもっぱら秩序正しく保つだけで、なんら有意な仕事を生まずに存在する。  時限開始のブザーがなる。すると予備校生たちは囚人の群れのように時間に追われて教室におさまる。そして時間が過ぎるのをただひたすら待つ。そこには罰や更生のための教育や、脱獄の楽しみ、その他囚人たちが受ける恩恵はなにひとつない。予備校は監獄ですらない。そういう意味では墓に似ている。ここから出るには大人にならねばならない。  きょう、予備校仲間の一人が墓から出ていった。中川というその男はぼくと同じ高校出身だった。高校時代にもとりたてて親しくはなかったが、同窓のよしみというやつで、なんとなく身内という心安さがあって、ときおり精神会話をかわしていた。  中川が大人になったのは文学の授業中だった。授業内容にはなんの意味もなかった。文学といぅ名目で、その時間は大人の作家たちが排泄した精子や血だらけの死んだ卵のような言葉の化石を、ひっくりかえし、つつき、さてこの作者はなぜこれを生んだのかなどと教師は生徒に問いかけて、それで時間を腐らせる。言葉で組み立てられる小説や詩は腐った積木細工に似ている。大人たちが使う言葉はゲームの駒と同じだ。なぜ小説を書くか、だって? 答は簡単、暇つぶしのためだ。大人たちの世界は暇をつぶすことで成り立っている。そんな大人たちが書くものは、だから暇つぶし以外のなんの実用性もない。ぼくは「まだ大人になりきれないでいる少年」の残した作品なら信じてもいい。精神を、そのままホログラムにして密閉したような世界なら共感を受けるかもしれない。そんな作品を分析するのは、生体を解剖するような衝撃があるにちがいない。しかし現実には精神観念を完璧に封じ込める手段はこの世界には存在しない。当然なのだ、精神は固定するにはあまりにもろく、流動的で、実時間でやりとりされなければ腐って死んでしまう。もし精神をそのまま記録したものがあるとすれば、それは一個の人格をそなえて存在し、独立した生物そのままに息づいていることだろう。肉体をもたず、永遠に年をとることなく、生きつづけるのだ。それはわずらわしい身体制御から解放された脳のようなものだろう。もし精神が脳に宿っているならばだが。  教師の言葉はぼくの灰色の脳を素通りする。脳細胞を破壊もせず励起することもない。精神感応遮断環帯を頭にはめているので精神雑波も脳には入ってこない。しかし脳みそが灰色だなんて、だれが言ったろう。エルキュール・ポアロか。いやそれを言うならクリスティだろう、彼女は実際に見たことがあるのかもしれない。脳外科医が頭蓋骨にドリルで複数の穴をあけ、糸鋸を穴に通して引き、タイルをはがすように切れ目にメスをつっこんでそれをてこがわりにしてぐいと力を入れ、頭蓋の一部を開く。あら灰色じゃないのね、とクリスティは言う、なんてきれいなピンクでしょう。いや本当は白いのだけれど、とマスクをした外科医は言う、この脳は化学汚染されていてこんな色なんですよ。フーン、そうなの。そうですとも。ではピンク以外の色の脳もあるわけ? 老人の脳は老化色素《リボフスチン》のために汚ない黄色ですよ。ほかには? ま、さまざまでね、灰色なんてのは珍らしいくらいで、そうそう、子供たちの脳みそは紫外色ですよ。紫外色って、なに色ですの? 私たち大人には見えないんですよ、見えないものにメスは入れられないのでね、私たちには子供の脳手術はできないのです。まあ、それは無責任ね。ですから、いちおう手術の真似はするわけですな、うまくいくときもありますがたいがいは失敗する。失敗すると、頭にきますでしょうね。そりゃあ、もう、いらいらしますな、で、スプーンをつっこんで食べてしまうことにしています。するとその子は死んでしまうのですか。とんでもない、と脳外科医はにっこりと笑う、脳を食われた子供はちゃんと大人になりますよ。なるほど、では子供の脳みそは食べてしまうにかぎりますね。そのとおりですよ、私たちはもっぱら子供の患者に対してはスプーンを用意することにしています。どんな味ですの? 濃いポタージュのようで、うまいですよ、脳は見かけよりやわらかい。この患者の脳を味見させていただけませんか。だめです、これは大人ですから。だれです? あなた自身ですよ、と脳外科医が言う。  ぼくは頭につけた環帯を手でおさえて、教師を見やる。彼は老眼鏡のレンズに眼を描き、眠っているのを生徒に悟られないようにしている。手にはチョークではなく白い骨製スプーン。教師は頭蓋をはずして脳をスプーンですくい、それを黒板になすりつける。生徒たちからの拍手がないので、教師は自分の脳を食べてみせる。食べつづけると教師の顔がだんだん土気色になり、しわがより、急激に老化してゆく。  中川が突然せきばらいをして席を立ったのはもう授業時間の大半を消化したころだった。教師は自分の一人芝居にけちをつけられた三文役者のように、泣き笑いの表情で中川をたしなめようとした。教師は芝居を中断して、立ちあがった中川を見た。 「どうした。質問かね」と教師は言った。「きょうはしかし時間がもうないが」  中川はぼくより前の席についていたので表情はわからなかったが、なにがおこったのかそのときぼくは瞬間的に知った。中川は質問などという遊びをするような男ではなかった。ぼくはとっさに頭の環帯をはずした。精神の波が打ちよせてくる。教師の、とまどいと不安と苛立ちの精神波。中川の頭も同じように混乱していた。彼の脳みそのなかでそれまで温められていた腐敗虫の卵がいっせいに解り、ブンブンと羽音をたてて爆発的に増殖しはじめている。中川はその混乱を自分でおさめることができない。彼は自分の精神を操る力をその虫に食われてしまう。ぼくの心の呼びかけに応答することができない。彼にはぼくの心はもう感じられない。 「気分がわるいのか」  教師は中川が感応力を失ったのを、勝ちほこった気分でうけとめる。 <そうか、そうか、きみもわたしらの仲間入りをしたか。それはめでたい> 大人の思考内容は直接的にはわからない。感応力者どうしが環帯をとって伝心しあうような明瞭さはない。それでも長年精神波を観察していると、表情を読むのと同じくらいに心の変化をとらえることができるようになる。教師はまるで自分の子宮から押し出されてきた赤子をなめるような気づかいを中川に示した。 「心相室にいきなさい」  授業中の声とは正反対の力強さで教師は言った。この初老の男は、子供たちがこうして墓から出てくる瞬間にエクスタシーを感じるようだった。ただそれだけのために教壇に立ち、この瞬間があるから、退屈な時間に耐えていられるのかもしれなかった。  中川は操り人形のようにぎくしゃくと教室を出ていった。 「きょうの講義はこれまで」  奴隷の前で演説をぶつ地主の調子で教師が言った。その態度は、自分の手を汚さずに憎しみを完成させた小心者という感じだった。 <ほら、おれが言ったとおりの結果になっただろうが> 中川が感応力を失ったのは、この教師の思いとはまったく関係のない、自動的なものだ。それを自分の手柄のように感じている教師をぼくは軽蔑する。  生徒たちが椅子を鳴らしてばらばらと立った。労働をおえて疲れはてた奴隷のように、肉体を操るのも面倒だ、というように。  昼休みになったので時間があった。胃に食物をいれるのは、出欠簿に印をつけるのと同じ儀式的習慣だったので、それを破るのは簡単だった。食う以外のことができればむしろ嬉しいくらいだった。普段は、退屈しきった気分をまざらわすために、座りつづけで空腹も感じない胃にむりやり昼食をいれて、胃がそれを拒否する重さにほとんど快感を覚えながら時間をつぶしているのだ。学食がうまいと思ったことは一度だってなかった。学食が一流料亭だったとしても感激などしないだろう。舌はそれで満足するかもしれない。が、ぼくの心は舌にはなかった。  売店のあるホールは学生ホールと呼ばれている。学食も学生食堂の略らしかった。予備校に通っている人間は生徒と呼ばれているのだが、この建物の中のここだけに学生という名がついているのは統一を欠く。予備校は高校でも大学でもなく、そこに収容されている人間は生徒でも学生でもない、そのへんからこんな混乱が生じているのだと思えば理解もできる。公立予備校生が公的にどんな名がつけられているのかぼくは知らない。おそらく、公立予備校生と長ったらしく呼ぶのが正式なのだろう。ここでは生徒や学生という言葉は本来の意味とは無関係に使われる。ここには真実の言葉などない。言葉に真実があるとも思えないが、ここで教師たちが教えるのはまさにそれ、言葉を信頼せよということなのだから、笑わせる。大人たちは、教師たちは、予備校食堂と言うべきところを学食などと、言葉の規則を無視して使う。信じよと言われてもこれでは白痴のような微笑でもうかべているほかに返答することもできない。それともぼくには理解できない複雑な大人の規則があるのだろうか。それを知るには言葉によるしかなく、それを考えると底のない桶で水を汲んでいる気分になる。感応力を使えば一発で汲みとれるというのに。  売店では、定食やラーメンなどの食券のほかにも、すぐに食えるパンなども売っていて、一人の男子生徒がパンの問に黄色の食券をはさんで売子の前で食べてみせていた。売子の中年女はそんなことには慣れていて、別段これといった反応も見せなかった。無表情といえば食っている生徒のほうも同様だった。しかし彼は環帯をしていなかったから、ぼくには彼の気持がわかった。かなり空想力に富んだ男で、彼は食券の味をエビフライに変換しながら口を動かしていた。ぼくはそれだけで腹がいっぱいになった。 <この食券はエビフライに変わる> 彼はぼくの意識に気づいてそういった。 <直接これを食っても同じことだ> <その理屈でいくと、紙幣を口にいれるだけでフルコースでもなんでも食えるわけだな> <それもやったことがある。お札を食って女を抱いた気分になったこともあるさ。おれは舌を通じて官能を満足できるんだ。ちょっと珍らしいタイプだ。そうは思わないか> <人はさまざまさ> <そうだな。脇田、おまえは食わないのか>  自分の名を告げられて、ぼくは少したじろぐ。そういえば同じクラスの男だと気づいて、それならぼくの名を知っていても不思議ではないと納得するが、感応力での接触は初めてだったので見知らぬ人間から肩をたたかれたような緊張は消えない。この男の名はたしか、赤井だ。名簿で一番だから記憶にあった。 <なにをそんなにびくついているんだ> と赤井はぼくを見ずにいった。 <追いつめられたネズミのようだ。ネズミを水に浸けて殺したことがあるか? おもしろいぞ。ネズミは自分の死を信じようとしない。死んでも生の残り火のようなものが水中に泡のように浮かんでいて、実際そいつは感応力ですくって味わうことができる。電気のような味だ。それを感じたくて子供のころはよくやったものだ。魂を食う気分さ。どうしたんだ? 熱っぽい乱れた精神波だな。歯をむきだしているような——刃物のような——しかし鋭くはない——心相室へ行くのか? そういえば張り紙があったな>  ぼくはうなずく。ホールには掲示板があり、生徒あての伝言などが張られている。「脇田三日月、心相室へ行くこと、保健課」と書かれた張り紙をはがす。日付はもう二週間も前だが保健課と心相室の主はぼくが根負けして出向いてくるのを罠をしかけた者の無関心さで待っている。二週間と少し前、保健課が実施した心理検査でぼくは要再テストとなったらしかった。心相室でもっとくわしい心理分析をやるのだろう。自分の不安が立証されるのがこわかったので行かないでいた。はがしとった紙をおりたたんでポケットにつっこみ、ホールを出る。軽蔑の波が赤井から放たれて、ぼくの心をゆさぶった。ぼくは返事をせず、赤井のちょっかいにのることなく心をとざして心相室に向かった。中川がいるはずだった。  心相室のドアは少し開いていて、内から心相医の饒舌が漏れ出ていた。それを意味ある言葉としてとらえるのはむつかしかった。奇怪な呪文のように聞こえた。 「きみもまともな頭になったというわけだ……悩み多き青春も……やっかいな病気のようなものだからね……きみももうここに通う必要はないんだ……いつでもこの学校を出てゆけるわけだが……今後のことは教務のほうで……進路相談課へゆくのもいいだろう……」  ぼくは聞いているうちにむかついてきた。そんなことを言われている中川に心から同情したが、その念を受けとめるべき中川の心はどこにもなく、同情は宙にうく。中川は完全に感応力をなくしていた。つい数時間前には伝心しあっていたというのに。ぼくは頭に手をやり、環帯がないのを何度もたしかめてなお、中川との間に生じた壁の存在が信じられなかった。  中川は心相医の「おめでとう」という言葉に送られて室から出てきた。それはたしかに中川のはずだった。だが廊下に立ち、心相室のドアを閉め、こちらを向いたその顔は、写真を見るように頼りなく、立体感に欠けていた。その男を中川だと認めるには、頭のなかにある彼の顔形を思い出す努力を必要とした。モンタージュ写真をつくっている気分になる。  中川はぼくに気づくと、パックをしている女の無表情さで、やあ、というような声を出した。ぼくは返答することができない。  まるで音はするが絵の出てこないテレビと相対している感じだった。形はたしかに元のままなのだが、肝心なものが欠けている。完全に形を崩しているならこうももどかしくはないだろう。  この気特を伝える言葉がみつからない。ぼくは数瞬口ごもったあげく、自分でもばかばかしいと思うことを言っている。 「どんな気分だ?」  こんな問いを口から発したのは初めてだ。 「うん、まあ」と中川は上目づかいで天井を見あげた。たぶん中川が見たかったのは天井ではなく自分の脳みそだったろうとぼくは思ったが、よくわからない。「どうということもないようだ」と中川はこたえた。ぼくが見るかぎり、その言葉のとおり、どうということもないようだった。中川は平然としていた。もっと狼狽すべきだとぼくは思った。 <なぜ、そう血色のいい顔で立っていられるのだ?> 返事はなかった。中川がどんな気特でいるか、「大人」になった感想をきいても、中川は口ではうまく説明できない。伝心しようとしても、すでに大人になった彼には、雑念のなかから適切な意識を紡いで強力な想念を織りあげ、相手に向かって発信するという、ぼくがなんの苦もなくやっているそのことが、もはやできないのだ。彼の精神波の指向性は失われ、その波も彼の意志とは無関係の無意識の流れとなり、動物的なうなりのようなものになりはてている。それでもぼくはしつこくきいた。 「どんな気持だ? 感応力がなくなるっていうのは、どうなんだ? たのむから、想ってくれよ、伝心してくれ」  無理な要求だ。声帯を失くした者にその気分をしゃべってきかせてくれ、と言っているようなものだった。  ちょっとひきつるような波が中川から放たれた。が、意味はなさない。 「耳鳴りがする」と中川は言った。「気のせいかもしれないが」 「環帯をしているのとはちがうのか」 「うん……うるさいかんじだな」  精神波動を受けて感応していた分の注意が、耳から入ってくる音を聞く方にまわされているのかもしれない。どうであれ、ぼくには経験できない。 「これからどうするんだ」 「さあ」  中川はほとんど表情を変化させなかった。いや、困惑の表情をうかべていたかもしれない。ぼくにはしかし、よく読みとれなかった。こんなに無表情な男ではなかったとぼくは思い、中川の豊かな表情は顔の変化ではなく心の波だったのだと気づく。 「ここにいてもしかたがないからな」と中川は言った。「親父の仕事でも手伝うかな。土建屋もわるくない」 「大学はどうするんだ。進学専門予備校へいけばまだまにあうだろう」 「心相医にもそう言われたよ。しかしもう少し遊んでいたかった。大学へいって遊びなおすという手もあるが、受験勉強を思うとめんどくさい気もする」  中川は笑った。顔の形をつくっていた小さな白い虫がいっせいにぞわっと動いたような笑いだった。見るまにその虫がみんな崩れて、あとにはまったく表情を変えない髑髏があらわれる。 「おまえも、三日月、こいよ」 <こい? どこへ? 大人になれというのか> 「なんだか夢から醒めた気分だぜ。うん、そんな気分だ。感応力か。どうやって伝心していたのかな。不思議な気がする」 「ついさっきまで伝心しあっていたじゃないか」  ぼくの声はたかくなる。中川はかすかに首を横にふった。 「そんな気がしていただけかもしれないぜ、三日月。おれとおまえは、感応力で話しあうという遊びをやっていたんだ。つまり、お互いに伝心したつもりだったんだけど、実は伝心していたのはおまえとおれではなく、それぞれ自分自身と話しあっていたんだ。テレパスごっこだよ。おれが目で合図する、するとおまえはうなずく、そしてお互いに感応力で伝心しあっている気分で、しかし実際は自分のなかのもう一人と幻会話している——そうなんだよ。もう遊びはおわりだ。おれはもともと、おまえや他人と伝心していたわけではなく、自分の生んだ幻と話をしていたんだ。おまえもそうなんだぜ、きっと。一種の分裂病なんだ。病気なんだ。心相医もそう言ってた。おまえも早く治れよ」 <ばかな> ぼくは心のなかで絶叫する。 <おまえは大切なものを失ったんだ>  暗い廊下を通りかかった二人の女生徒が立ち止まってぼくらを振り返った。 <いまの話、きいたか?>  ぼくは二人の女生徒に問いかける。 <ほっときなさいよ> 二人はそういった。 <大人になった男の言うことなんて信じられないわ> そういって、去った。 「……どうしたんだよ、三日月」 「なんでもない」 「顔色がわるいぜ。やっぱり病気なんだ」 「ちがう」 「狂ってるよ。まともじゃないんだ。でも時間が解決してくれるさ。長くとも二十前には治る。みんなそうなんだから」 「心配してくれるのか」  こいつはまるで心相医のような口をきく。そうなんだ、こいつはもうぼくとは異なる種類の人間になったのだ。 「そうさ」  中川は再び笑顔をつくった。そう、つくった、という感じだった。大人の技術だ。腐敗の虫はみごとに中川の肉体を支配し、操りはじめていた。こいつはこの先、その虫に徐徐に食われてゆくのだ。やがて筋肉はぼろぼろになり、肌にはしわがより、しみができ、髪は抜け、それをなんとも思わなくなる。感応力を失うと同時に急激な老化がはじまる。決してくいとめることのできない浸蝕だ。 「友だちじゃないか」中川は言い、ぼくの肩をたたいた。「ま、ときどき遊びにこいよ」 <おまえを友だと思ったことは一度もない>  ぼくの心の声は通じなかった。中川は笑っていた。微妙な筋肉のふるえは見られず、その笑いは固定されて動きがなかった。仮面のようだ。乾ききったコンクリートの顔は崩壊から逃がれることはできない。中川は大人になった。こいつはもう仲間じゃない。  ぼくは中川が立ち去るのを黙って見送った。  放課後、ぼくは心相室へ行った。ぼくだけが憂鬱だなんて不公平だ。心相医にもうつしてやりたい。 [#改ページ]       2  典型的な五月病だと心相医は言った。  心相医というのがなんの略語かぼくにはよくわからなかったが、医というからにはたぶんこの男は医者なのだろう。ぼくは医者を信じたり頼りに思ったことは一度だってなかった。子供のころ熱にうなされ、かけつけてきた小児医の一本の注射で正気をとりもどしたときも、医者の行為を喜んだのはぼくの母親であって、ぼく自身ではなかった。母は何度もその医者に礼を言ったが、ありがたがるならば、薬と薬に反応したぼくの肉体にすべきなのであって、医者に頭を下げることなんかこれっぽっちも必要ない。しかしぼくは母の心はわかっていた。母は、もしその注射が効かなかったらそれを打った小児医をうらもうとまちかまえていたのだ。薬を相手に抗議したところでうっぷんばらしはできないのだし、ましてや薬をうけつけずに熱のひかないわが子の肉体に怒りをぶちまけるような母ではなかった。母が礼を言ったのは、そんなうらみの裏返しなのだった。小児医は横柄に母の礼を受け入れる。そんな医者の態度は子供心にも馬鹿にうつった。薬が効くというのは偶然だ。必然的に使用される薬などこの世には存在しない。医者は偶然を必然に見せかける才覚がなければやっていけない。薬を選択することが医者の仕事ならば、そんな仕事は電子機械にまかせたほうがよほどうまくいくだろう。いちばん効果的なのは患者が薬を選ぶことだ。彼に薬を選ぶ能力があれば、だが。そう、ぼくにはあった。たとえば、熱のあるときなどにはサルチル酸の白い結晶が実に魅惑的に感じられた。他のときには単なる白い粉が、そのときはまるで意志あるもののように語りかけてくるのだ。 <あなたにはわたしが必要だ> というように。結晶が踊りだし、虹色に輝き、あるいは蜜のように姿を変え、甘い匂いを放ち、それはぼくの注意を引くためにあらゆる手段で必要を訴える。その結晶が理屈好きならこういうだろう、 <わたしはあなたの視床下部の体温調節中枢に働きかけ、その異常興奮を抑制する> と。幻覚でもなければ錯覚でもない。ぼくにはその白い結晶が、発熱する肉体によって痛めつけられている精神を、その苦痛から解放されるのを、たしかに感ずる。肉体のため必要だというのではない、重要なのは精神であり、つまり、薬を探しだす能力は肉体とは無縁のところから発揮されるにちがいない。こんなことは大人たちに言ってもわかってもらえない。子供の言うことなど大人たちは信用しない。大人たちにはぼくのような能力はないのだ。それは、この世に医者がいるという事実が証明している。子供の言うことなど大人には、もっとも近い存在である母親にでさえ、信じてもらえないということをぼくはほんのものごころがついたころから意識していた。信じてもらえない相手を信ずることなんかできっこない。 「フェノバルビタールはありませんか」  とぼくは心相医に言った。  心相医は、突然なにを言いだすのかという表情でぼくを見た。理解に苦しんでいるようだったのでぼくは教えてやった。 「フェノバールですよ、アンプルにはいったやつ。その注射で眠れるようになる」 「いや、そんなものは必要ないね」心相医は首を振った。「習慣性のある、強力な催眠剤じゃないか。まさかきみは」心相医は言葉を切って、疑わしそうにぼくを観察した。  ぼくは腕を見せて、注射などやってないことをわからせてやった。 「睡眠薬をやっているのかね」心相医はおだやかな口調できく。 「ハイミナールとか」 「いいえ」ぼくはかぶりをふる、「そんなもの、効きませんよ、五月病には。五月病なんでしょう?」 「フム」あいまいに心相医はうなずく。「そうだね。時期がたてばおちつくさ。この時期はみんながそうなんだよ。不安なのはきみだけじゃない」  心相医は椅子をならして立ち、窓ぎわにより、ブラインドをあげて外をあごでしゃくり、ぼくにも見るように言った。ぼくは長椅子から腰をあげて心相医の机をまわり、彼のわきにより、外を見やった。校庭が見おろせる。夕方の光がすべてをオレンジ色に染めていた。テニスコートで遊んでいる生徒が三人。他に人影はなかった。コートをはねる球には生気が感じられない。テニスをやっているわけではないのだ。時間の殺し合いをしているだけだ。 <不安なのはきみだけではない>  この言葉は心相医が好んでつかう台詞だ。そのとおり他人にはそれぞれの悩みがあるだろう。そんなのはあたりまえだ。あたりまえのことをきかされて、どんな慰めが得られるというのだ。この心相医はなにもわかっていない。  ぼくがこの室にきたのは慰めてもらおうと思ったからではなかった。ぼくは医者に期待をかけたことなんかない。幼いころも、いまでも、だ。 「五月病ですか」 「ああ」心相医は外をながめたまま生返事をした。「うん」 「病気なんでしょう。薬はいらないんですか」 「薬?」心相医はぼくに視線をうつす。「なぜだね」 「病気だと言ったじゃありませんか。それに、不安なのはぼくだけでない、とも言った。中川はどうだったんです」 「彼はもう治ったんだ。大人になればみんなよくなるんだよ。深刻になることはない。大人直前期の若者はみんなそうなんだ。自分こそ悲劇の主人公と思いたがるものだ」 「五月病って、なんですか」ぼくは心相医とは目を合わさずに、少しおどけた調子で言ってやった。「きょうは五月二十四日ですが、来週になったら、六月病になるわけですか。七月になれば七月病かな。生徒にとって心理的に不安定な時期は五月だ。それから三月。四月に十二月。一月と十一月に、七月。九月と二月、十月に、八月と六月。他に残っている月はありますかね。それとも、この病気になったら、五月で時間がとまるんですか。そうならいいのですが」 「五月症候群というのを、きみも知っているだろう。きみはそれにあてはまるんだよ」  心相医は、ぼくが冗談を言っているのか真面目なのかきめかねた様子で慎重に言った。 「知りません」そっけなく、ぼく。「なぜ知っていなくちゃいけないんですか。それはあなたが知っていればいいことだし、仮にぼくがあなたの言う五月症候群にあてはまる症状をあらわしていたところで、なんの解決にもなりはしない。あなたはそれで満足かもしれないけれど。でも症候群というのはいい表現だと思うな。シンドロームっていうと、語感も新鮮だ。あいまいなところが正直な感じですからね。五月病とはっきり病名をつけるより、五月症候群とぼやけさせたほうがあなたも気が楽でしょう。病名をはっきりさせると、それだけの責任も負わなくてはならないのですから」 「五月病などという病気はないんだ」 「五月になるとぼくのようなのが多くなるというだけのことですか。でもぼくのは五月とは関係ないと思うな。はっきり病名を言ってくれませんか。鬱病とか」 「鬱なんかじゃないよ」 「そう[#「そう」に傍点]ですか」躁状態か、という意味。 「そう[#「そう」に傍点]さ」鬱病ではないという意味か、躁だと言ったのか、両方まとめたこたえなのか、不明。  心相医は室の白い壁にかかっている丸時計を見、それから自分の腕時計にも目をやって、ぼくを室から追い出しにかかった。 <もう勤務時間はすぎたんだがね、きみもそろそろ帰ったらどうだい> 心相医は身体全体でそういっていた。腕時計を見やるためにうつむいた心相医の額に、整髪した長めの頭髪の一部が一筋乱れて、かかった。彼は無意識にその髪をはらい、それから顔をあげると今度は意識的に髪をなでつけた。心相医の関心は勤務をおえた後のことにうつり、もはやぼくは邪魔もの以外のなにものでもなくなった。男は窓のブラインドをおろした。天井の螢光灯の不自然なスペクトル光のせいで心相医の顔色が病的になった。ただ髪の色つやはほとんど変わらなかった。かつらかもしれない。顔の色とつりあわない若い印象の髪だ。ぼくはその髪が、かつらのようにずるっとむける様を想像した。髪がなくなってもこの男は腕時計を見るとき、額にかかる幻の髪をかきあげるような仕草をするにちがいない。彼にとっては、この小部屋にはいってくる患者はその幻の髪と同じなのだとぼくは思った。患者だけではないのだ。彼をとりまくすべてのものがそうなのだ。この男には妻がいるだろう。どんな女なのかぼくにはわからない。子供があるだろう。おそらく小学生前後の年ごろの。どんな妻子だっていいのだ。ぼくには興味がない。そしてたぶん、彼にしたところで、どうでもいいのだ。額にかかる髪が、自分の毛であろうとかつらであろうと、あるいは存在しないとしても、この男はそれを整えるだろう。妻があれば夫になり、子があれば父、患者には医師になる。偶然そうなるにすぎない。この男からは、必然的にそのようにしなければならないという強い意志はまるで感じられない。この男が妻になにか問題を見いだしたときは、妻症候群と名づけ、それが子供なら小児期症候群、ぼくは五月症候群で、他の生徒たちをひっくるめて思春期症候群として片づける流儀でいけば、ぼくに言わせたらこの男は大人症候群の典型的な例だ。必然的に生きていると感じさせる大人など、ぼくのまわりには一人もいなかった。 「もういいですか」とぼくは言ってやった。 「ああ」と心相医は言って、机にもどり、ぼくの症状をかきつけた書類をそろえた。「あー、脇田くんか。名まえは三日月、ミカヅキというんだね。変わった名だな、フム。うー、明日またきなさい、うん、いつでも相談にのるからね、いつでも悩みを聞いてあげよう。しゃべるということはいいことだよ。心が軽くなる」  心相医、というのはどうやら心配事相談医師の略らしかった。ぼくの心配はぜんぜん消えなかったが、どのみち、相談したからって不安がなくなると期待していたわけでもない。  心相医はあくびをした。ぼくがこの室にこなかったなら、この男は退屈しのぎに髪をなで、鼻毛なんぞを抜いて時間をつぶして、それでちゃんと給料だけはもらうのだ。 「五月病なんですね」 「それはまた明日にしようじゃないか」  心相医はいかにも面倒くさそうにこたえた。  ぼくは結局のところ、この男の退屈しのぎの相手になってやったわけだ。ぼくも時間がつぶせたからおあいこだが、立場はちがう。この男は時間が過ぎてゆくのを意識はしていないだろう。ぼくは時間を失うのがこわかった。ぼくが時間をつぶすのは、その間は時を意識しないですむからだった。その時、ぼくは肉体が崩壊してゆく感覚、精神が檻にとじこめられる予覚を忘れることができた。だが暇つぶしの楽しい時間がすぎて、われにかえるとき、時間の力が確実に生気を奪いとっていることを意識せずにはおれなかった。心が疲労し、陰鬱が精神をつつみこんでしまう。  ぼくは五月病なんかではない。ぼくは自分の不安の源をちゃんととらえていた。そして、それからは絶対に逃がれられないということも。ぼくは誕生日がこわかったのだ。時がすぎるのが。ぼくはもうじき十九になる。十九になることを止められる医者などいない。薬もないだろう。この心相医に相談したって無駄なことだ。ほんのちょっとだけ、この男の手を煩わせてやったという些細な満足が得られただけだった。  ブラインドのおろされた室内は白い穴蔵だった。穴蔵の主が帰り仕度をしている。その姿は実験空間で飼われている白ネズミのようだった。なにが楽しみで生きているのだろうとぼくはいぶかった。帰りに一杯やるだろうか。そしてまた別の穴蔵へと帰るわけだ。明日はそのねぐらからまたここへきて、そうやってこの男の生命はすりへってゆくのだ。いずれぼくもそうなる。そう考えるとたまらない。 「さようなら」とぼくは言った。 「気に病むことはないよ」心相医は調書を棚におさめる手をとめて、無表情に言った。「さようなら」  ぼくは室を出た。廊下はがらんとしていた。両側に部屋があるので廊下は昼でも照明されている。階段の踊り場から外光が差しこんでいて、金色の光にあふれている。  心相室にはもう何度も出入りした気がするが、それは錯覚で、きょうがはじめてだった。多くの部屋に分割された予備校の未知だった空間のひとつがこれで消えたわけだ。この建物のなかでまだ一度も入ったことのない部屋があるだろうかとぼくは歩きながら考えた。もちろん、ある。知らない部屋のほうが多いくらいだ。それがぼくを不安にさせた。建物の端から端まで駆けて、ドアのひとつひとつを開けてみたいという衝動にかられたが、そんなことをしても意味がないと自分をおさえつけて階段をおりた。  少し先に保健室があった。のぞきこむと、保健婦はいなかった。まだ帰ったわけではなさそうだった。照明がついている。ぼくは室にだれもいないのを確かめて、薬棚に近よった。ガラスの扉に鍵はかかっていなかった。バファリンとかフェナセチンとか、重曹とかの箱のわきに、薬名標のついていない罐があった。ぼくはそれをとって、開けた。おやつの盗み食いをしようとしている子供の気分だった。罐のなかにはパック包装されたうすみどりの錠剤がはいっていた。薬名はわからないがいかにも心安らぐ雰囲気が伝わってくる。精神安定剤だ。バランスかコントールだろう。鎮静催眠剤ではない。三錠をとり、ポケットにいれて、罐のふたを閉め、元にもどした。保健婦の姿はなかった。保健室を出て、だれもいない廊下でぼくはみどりの錠剤を一錠のんだ。  手に本を持っていないのに気づいた。どこで忘れたろう。あってもなくてもいい使い古しの教科書だ。鞄なんかにいれない、むきだしで持ってきたやつだが——心相室だ。まずいな、とぼくは思った。あの室にはもう二度と行く気はなかったのだ。いまひきかえしたところで、もう鍵がかかっているだろう。かまいはしない。あんな本などなくたっていい。ここには暇つぶしにくるだけなのだから。  予備校を出る。見かけは高校だが、ここは大人になっていない少年を収容する、一種の監獄だ。校庭には桜が植えられている。少しまえまでは透明にさやいでいた薄い葉が、いまでは緑も濃く、不透明になって、外界のあらゆる有害な意識から自身を守っている。なぜこんなふてぶてしい樹を植えるのだろう。一年で枯れる、たおやかな草こそこの庭にはふさわしいというのに。  空は五月晴れだった。仰ぎながら歩くと、底のない虚空に吸いこまれるようだ。予備校前のバス停で、ぼくは空に落ちてゆくような不安定感でバスを待った。バス停にはだれもいなかった。黄昏の匂いがした。平和な子供時代を思い出させる香りだ。やがてくる夜の予感のものさびしさは、しかしいまふりかえってみれば、とても平和だった。子供のころには、黄昏に感じた不安は決して実現しなかった。いまはちがう。時間は悪意をむきだしにしてぼくを先へ先へとおしながすのだ。  バスがきた。よどんだ空気のなかに乗りこむと、生きながら葬られた気がした。  家には固有の臭いがある。ぼくの家には祖父から発散される老人臭がしみついている。母はその臭いを嫌った。ぼくの家は線香の煙がたえることがない。母は外で働いていた。洋装店の女主人の母は、家に帰るとまっさきに仏壇へいき、香が消えていれば自分でたいた。香で老人臭を浄化するのは住み込みの女中の役目だった。  線香は消える直前に異様な煙を立ちのばらせる。灰におおわれてくすぶるとき、いやな臭いをだす。老人臭によくにている。母はその臭いに顔をしかめる。そしてあらたな香がたかれるのだ。女中の佳子は、母はその香の異臭を老人臭と思いこんでいるのではないかしらん、とぼくに言ったことがある。祖父の身のまわりの世話を一日中やっている佳子には老人の臭いなどもう慣れてしまって感じないのかもしれない。佳子に近づくと祖父の臭いがした。彼女の体臭の一部になっているかのようだった。でも佳子は老人ではなかった。脇田家の家事一切をひきうけるその身は二十五をこえてはいない。ぼくは雑事から解放されたときの、佳子の本当の匂いを知っている。その隠された匂いは、もしかすると父も知っているかもしれない。そう疑うとき、佳子のその匂いはまるで燃えつきる線香のごとく、異臭となってぼくの胃をむかつかせた。  広い家のどこにも、落ち着ける場所はなかった。ぼくの部屋は小学生のころから自分のものだったが陰気な臭いはここにもしみついていてどうしようもなかった。畳の上に万年床を敷いているのはなにもかもが面倒くさいという理由とは別に、自分の体臭をこもらせて少しでも襖の向こう側の雰囲気を遮断したいからなのだが、さほど安心感は得られなかった。ここにはぼく自身の不安がこもっている。臭いが物にとりつくのと同じように、強い感情は部屋にしみつくものだ。畳、襖、壁、万年床、机、本棚、あらゆるものがぼくの心のままに陰鬱だった。部屋は、主であるぼくを呪うかのように、やりきれなさをぼくに返してくる。そのやりきれなさは過去にぼくが放射したものだった。それを部屋はちゃんと記憶している。そんな部屋の声を聞くのは、それが恐怖であれ悲しみであれ喜びであれ、心地よいものだ。自分には部屋が吸収した感情を読む能力がある、それを確かめることができるのだから。もうじきぼくはその能力を失うだろう。部屋は沈黙し、もはや決して語らなくなるだろう。中川のようにはなりたくない。強い不安が部屋に突き刺さる。何重にも積った焦りで部屋は重く、いまにも崩れてきそうだ。  こんな部屋では精神安定剤などぜんぜん効かない。  ポケットから精神安定剤をだして、机の上に放った。机に敷いた厚いガラス板にあたると冷たい音をたてた。ガラス板の下には時間割とか試験日程表とか年間行事予定印刷物とかをはさんである。それら白い紙片におおわれて、机面の本来の色はきれぎれにしかでていない。その貴重な地の部分も、ちょっとした光のかげんでガラスの反射光のために見えなくなる。その冷ややかな表面におちたフィルムパックの二錠の安定剤は、一瞬机面全体をみどり色に染めた。うすみどりの錠剤が粉末になって散ったかのようだった。白い現実をみどりに変え、予定表を隠して未来を忘れさせてくれる。だがその効力はほんの瞬間的なものでしかなかった。あっというまに部屋全体の不安の圧力に負け、うすみどりの雰囲気は収縮し、もとどおりの錠剤にもどった。ガラス敷が硬い光を放った。目を閉じても心に突きささる。安定剤でなく催眠剤なら消せるだろうとぼくにはわかっていたが、それを手に入れることはできなかった。  ぼくは椅子に腰かけてガラス敷の下のカレンダーを見た。七月七日に赤い印がつけてある。誕生日だ。ぼくはもうじき十九になるのだ。その赤い印はぼくの息を止めるほどの、たしかに息を止めてしまいかねない強い感情を放っている。まるで死刑執行日のようだ。  しかし誕生日はむろん死刑執行の日でもなければ、それ以外のなにか特別の日でもなかった。カレンダーの赤い印を境にして突然自分が変容するというものではない。それでもこの二、三年、一つ年をとるごとに自身の感受性、感応力がわずかながら低下してゆくのをぼくははっきり感じていた。夏至すぎの昼がゆっくりとしかし確実に夜の闇に侵食されてゆくように。そしていずれは、ぼくの感応力は成長という名のもとにあとかたもなく消されてしまうだろう。劇的に、ある日突然それはやってくる。それは誕生日とは関係ない。が、感応力をもったまま二十歳の誕生日をむかえる人間はまずいない。  昨年の誕生日はどうやってむかえたろう。ぼくは目を閉じて机に頬づえをつき、ふりかえる。ぼくはこの一年間なにもしなかった。ぼくはなにもしなかったが家ではいろいろなことがあった。家族みんなが苛立っていた。教員の父は職場の人間関係で、母は店のやりくりで、そして疎外された祖父はついに自己の精神を破滅させて長年積り積った怒りを噴出させた。祖父が赤ん坊のようになったおかげで父や母の苛立ちは倍加した。ぼくはそんな家族の自我にこりかたまった心が放つ精神波を感じることができた。硬い仮面のような家族の表情だったが、放たれる精神波は刻刻と変化し、万華鏡をのぞくようでぼくを飽きさせなかった。昨年のぼくの誕生日はそんな状態で過ぎた。ぼくはまだ自分の感応力がさほどおとろえていないのに安心していた。  今年はどうだろう。ぼくには感応力がなくなるなんてどうしても信じられない。感応力を失うことが大人になるということなら、ぼくは大人になんかなりたくない。感応力を失うことは成長の結果じゃない。老化だ。  目を開いて、安定剤を手にとり、しばらく見つめて、ひきだしのなかへ放り込んだ。ひきだしを閉じるとき、安定剤は小さな悲鳴をあげた。この部屋にとじこめられた安定剤は効力を失うだろう。今度それを口にするとき、ぼくは安定剤ではなく不安剤を飲むことになる。ばかげた話だ。役にも立たないものをとっておく必要なんかない。もう一度ひきだしを開き、安定剤をとった。  襖ごしに女中の佳子の声がした。ひどく疲れた声だった。紅茶をいれたが、と佳子は言った。飲みたい、とこたえると、佳子は部屋に入ってきて、ぼくの机の上に盆をおいた。紅茶が二つ。佳子はぼくのカップを机におき、自分のをとって、すすった。すすりながら、ぼくが屑箱に捨てようとしていた精神安定剤に目をとめて、なんの薬かときいた。 「安定剤だよ」ぼくはそれを机の上におき、紅茶皿のレモンをカップにすべりこませた。紅茶が色を変える。「精神のさ、安定剤。コントールだと思う」 「勉強疲れね。買ってきたの」 「いや。保健室からかっぱらってきたんだ」 「どうしてそんなこと」 「どうして?」レモンをつまみあげ、しゃぶり、皮ごと食べる。「うん、なんでもよかったんだ。赤チンでもなんでもさ。盗ってみたかったんだ」 「無意味だわ」 「そうだな。きみには無意味だろうさ、ぼくはあなたのために盗ったわけじゃないんだから。保健室へ行くまえに、心相室へ行ったんだ。くだらなかった。しらけるだけだった。心相医は、ぼくの悩みなんか無意味だと言うだけだ。大人たちは、ぼくや他の子供が大人の精神スペクトルを感じられるという事実から目をそらしているみたいだ。無視すればそんな能力など子供たちから消えてしまう、とでもいうように。大人たちは自分の子供のころのことは覚えていないのかもしれないな。あなたは、どう? 感応力のあった時代のことを覚えているか」 「わたし? そうねえ」佳子はカップを唇でとめ、首をかしげ、それから、「ずいぶん遠い昔のことだから——思い出してる暇なんかないもの」 「昔だって? つい四、五年前だろう。六、七年か。でも、そんなものかもしれないな。大人には、子供たちの身の上になにがおこっているか、自分がかつてどうだったかってことをふりかえる暇がないんだ。暇がないというより、感受性が失われるんだ。ぼくは死んでしまいたいくらい、大人になんかなりたくない。眼がつぶれるよりぞっとするよ。白痴になりつつある自分を感じるほど残酷な責めはない」 「三日月さんはほんとに、天才的な繊細な心をもっているものね。わかるわ」 「わかる? いや、きみにはわからないさ。きみがわかっているのは、ぼくの悩みが無意味だってことだけなんだ。ぼくは天才じゃない。天才でないことを惨めに思うほどの馬鹿でもない。ぼくは、おそろしく鈍感で馬鹿でしかも天才だったらと思うよ。だけどぼくは平凡な、ただの、どこにでもいる若者という分類のなかの、一つの要素にすぎないんだ。心相医にとっては、ぼくの悩みも他の生徒の苦しみも、同じ次元の出来事なんだ。ぼくが大人になろうと死のうと、彼にとってはサンプルの一つが消えたというのにすぎないのさ。ようするにぼくの悩みはぼくから分離することはできない。大人に渡すことはできないんだ。心臓の肉を切り取るようなものだものな」 「わたしには、三日月さんの悩みの原因がわかるような気がする」  ぼくは紅茶を一口飲んで、佳子を見つめた。  佳子は照れたように、ほつれた黒髪、項にかかる髪を左手でなでた。シャツブラウスの袖をまくりあげた、家事をたくましくこなす肥めの腕が、とても女っぽく見えた。 「なんだというんだ」 「自意識過剰よ」  ぼくは紅茶を飲みほす。「吐き気がする」 「お砂糖はいれなかったわよ。わたしも甘いのはだめなの。でも奥様は甘党でしょう、お料理の味付に苦労するわ。ほんとに甘ったるい味は吐き気がする——あ、これは奥様にはだまっていてね」 「砂糖のことじゃないよ」 「あなた自身のことね? だから言ったでしょう、自意識過剰だって。わたしは心理相談医じゃないけど、そのくらいのことはわかるわ」 「心相医って、心理相談医の略なのか」 「なんだと思ってたの」 「心配事相談医」  佳子はぼくの脳みそをかきまわすような笑い声をあげた。「心配事相談、はよかったわね」 「似たようなものさ。どっちにしろ役立たずだよ」吐き捨てるように言った。「どうしてこんなところで油を売っているんだ。いまごろはいちばん忙しい時間じゃないか。さっさと仕事にかかったらどうだい。怠けてると、くびになる。ぼくのせいにするなよな」 「あら、わたしのこと、心配してくれるのね」 「これだから大人はいやになる。口で言わなきゃわからないんだものな。出ていってもらいたいのですが、佳子さん。紅茶をどうもありがとう。とてもけっこうな紅茶でした。あなたのいれる紅茶は最高です」  佳子はぼくの空になったカップを盆にもどし、自分の紅茶もごくりとのどをならして胃に流し込んで、それからそのカップを両手で回しながら、ぐずぐずしていた。ぼくは佳子のそのカップをひっさらって盆にたたきつけた。 「出ていけったら」  佳子はふてぶてしい猫のようにぺろりと唇をなめて平然としていた。出ていけ、という言葉はまったく無力だった。自分の吐いた言葉が佳子には通じない。それとも <出ていけ> という言葉には他の意味もあるのだろうかとぼくは狼狽した。ぼくは盆を手にとり、佳子におしつけた。 「ぼくはいま、『出ていけ』と言ったよね」 「そうね」佳子は盆を受けとってうなずいた。 「よかった」 「なにが」 「そう言おうと思っただけで、口には出さなかったのかなと自分を疑ったんだ。言葉にはなんの力もないんだな。『出ていけとぼくは言った。すると女中は出ていった』というわけにはいかないんだもの」  佳子は、ぼくは神様のように傲慢だと言って笑った。「うらやましいわね、若いってことは、ほんとに」そしてふと表情をくもらせた。「わたしだって息ぬきしたいことだってあるわ。さっきのさわぎ、三日月さんにはわからなかったのね」 「さわぎ?」 「大旦那さまと奥さまがね、やりあったのよ」 「おふくろと爺さんが、またか。おふくろ、もう帰ってきていたのか」  ぼくは佳子を見た。佳子の持つ盆がふるえ、紅茶カップが音をたてて四散し、佳子の顔が紫色になり、奇妙にゆがんだかと思うと腐ったトマトのようにつぶれて汚物が障子や襖にとび散った。ぼくは頭を振り、あらためて佳子を見なおした。佳子はつぶれていなかったし紅茶カップも無事だった。佳子の抱いていた不安がぼくの部屋の不安と共鳴して幻出させた精神波像は、ぼくを笑わせた。ぼくは笑いながらもう一度佳子を凝視した。佳子の身体を包む服、シャツブラウスやエプロンやジーパンや下着が燃えあがり、白い裸身があらわになった。皮膚はすぐに溶けおち、灰色のあばら骨が出現し、その下の腹部に赤黒い蛇のような臓物がうねった。骨はばらばらになった。内臓は支えを失って畳の上にこぼれ落ちた。頭だけがまともで、佳子は笑い狂うぼくを無表情に見つめていた。ぼくは佳子の、崩壊した構成物をパズルのように組み立てるのに熱中した。佳子はもとどおりの裸身にもどった。硬くもりあがった乳房、つんと上をむいた乳頭、ひきしまった腹、石榴のようにわずかに紅い舌をのぞかせて膨張している恥丘、痙撃してひきつる内股。これに彼女の労働服を着せてやった。下着をつけてやるのを忘れた。かまうものか。必要なら自分でつけるだろうさ。 「なにがおかしいのよ」佳子は怒った声をあげた。「三日月さん」  ぼくはわれにかえる。「別に。あなたにはわからないよ。笑いというのは個人のものだから」  佳子はため息をつき、大旦那さまがね、と言った。「下着を奥さまに投げつけたのよ。ただの下着じゃないわ。自分の垂れ流した汚物で汚れた。パンツよ」 「へえ」ぼくは椅子の背もたれに寄りかかった。「で、そのパンツ、おふくろの顔にあたったのかい。そいつはけっさく。みものだったな。おふくろも余計な世話をやくからだ。いつもは爺さんに寄りつこうともしないくせに」  祖父は、母のことを冷たい嫁だと言ってずっと嫌っていた。理性を失くしたいまでも積年の憎しみは消えず、かえって包まれることなく出てくるのだ。汚物を投げつけられた母がどんな表情をしたかと思って、ぼくはにやにや笑いを殺すことができない。背もたれがキイキイと笑った。 「おしめでもあてとけばいいじゃないか」 「そんなこと。大旦那さまは寝たきりではないもの。少少惚けておられるとはいっても、下のほうはしっかりしてるわ。大旦那さま、あの普段の痴呆めいた態度は、もしかしたらみせかけじゃないかしらん」 「みせかけだって。演技だっていうのか」  佳子は盆を机において、うなずいた。「ねえ、三日月さん、あなた大旦那さまの頭の状態、感じられるでしょう。思考内容は直接読めないにしても、精神が正常かどうか、わかるんじゃなくて。感応力があるのだもの」 「ぼくは心相医じゃないからな。大人なんてみんな異常さ、ぼくに言わせれば。まともなのは、心と心で直接意志伝達ができる仲間だけだ。大人たちの言うところの、「まだ大人になりきれない中途半端な少年たち」だけだよ」 「そうかしら」佳子はちょっと首をかしげて、ぼくの瞳をのぞくようにみた。「ね、三日月さん、本当にさっきの修羅場、感じられなかった?」そしてつと手を伸ばしてぼくの額に触れた。「環帯はしてないわね。精神感応遮断環帯。頭にしてなかったでしょう、あのときも。なのにあの憎しみ合いの火花がわからなかったってことは」佳子は言葉を切って、一息ついてから続けた、「三日月さんもだいぶ大人になりつつあるのね」  ぼくはぎくりとして佳子の手をふりはらった。発作的に自分の頭に触れる。たしかに環帯はなかった。心相室に入る前に外したのを思い出した。ズボンのポケットに丸めて突っこんであったのをとりだす。柔軟なヘアバンドの形のそれは、髪の油と汗でうす汚れている。頭にはめてみる。絶対零度の冷たさに血の気も凍りつく。すべての物体が息づき振動していたというのに、環帯をはめたとたんに静まりかえってしまう。環帯はぼくを一時的に殺してしまう。  ぼくの顔や手は霜でおおわれたかもしれない。頬に触れた佳子の手が熱い。 「どうしたの、三日月さん。わたし、なにか気にさわること言ったかしら」 「言葉にはなんの力もない……この環帯のせいさ……こんな息のつまるような毎日なんだな、大人の世界は。どうしてこんな閉塞世界で生きていられるんだ? まるで犬になったみたいだ」 「犬に?」 「犬は色が見えないんだろう。濃淡だけの世界だ。ぜんぜん生気がない」 「あら、わたしには見えるわよ、赤や青や——わたしは犬とは違うわ」 「視覚じゃないよ。犬の眼は単なる譬喩さ」 「わかってる。ちょっと言ってみただけ。わたしが犬なら三日月さんは魚ね。紫外域までみえるってわけ。で、紫外線って、どんな色なの?」 「やめろ、取らないでくれ」  佳子は、ぼくの頭を孫悟空のあの嵌金花輪のようにしめつけている環帯に手をやって、荒っぽくむしりとろうとした。おもしろがっているようだった。佳子の態度は童貞の少年から下着をはぎとり、貪欲に精を吸いとろうとしている中年女を連想させた。佳子の腕をつかむまえに、環帯は伸びて、ぼくの髪を乱して佳子にとられた。ぼくは息をつめた。 「犬からもどった感想はどう?」  そう、ぼくは魚にもどった。躍動する佳子の精神波が、心臓の鼓動のように力強くぼくの心に伝わった。静まりかえっていた部屋に、水面に絵の具をおとしたように感情痕が浮きあがった。まさに窒息寸前に水にもどされた魚の気分だ。 「なあに? そんなにこわい顔をして。犬はいやだと言いながら『環帯を取らないで』とはどういうことなの」  説明しても無駄だから説明しなかった。言葉は真実を伝えない。ぼくは言葉を信じない。  環帯をする前と比べてどこか感応力に翳が生じていないか、目を閉じて精神を統一した。環帯を取る瞬間はいつも手が震えるほど緊張する。環帯をしている間に感応力が失せてしまっていて、それを外してもなんの変化もなく——大人になっていたら、どうしよう。  ぼくは深く息を吐いた。捨てるつもりだった精神安定剤の一錠を飲んだ。残りの一錠を屑箱に投げこもうとして、精神安定剤に集中している佳子の心を感じとった。ぼくは佳子のエプロンの大きなポケットにいれてやった。 「よくこんな家で働けると思うよ。やるよ、精神安定剤」  ありがとうと佳子は言い、盆をとった。身体を曲げて、盆ごしに顔を寄せ、窮屈な格好でぼくの首筋にくちづけた。それから、「早く大人になりなさい」と言って、出ていった。  早く大人になれ、だって?  机の上の小さな鏡をとる。顔をねじまげて、首筋を見た。血の色のキスマークがついている。吸血鬼に血を吸われた気がした。仲間を増やそうとしている吸血鬼に。ぼくは戦慄する。  朝、鏡を見ると、佳子に吸われた跡が小さな赤紫の痣になって残っていた。そのキスマークは <この肉体はわたしのもの> という烙印のようだった。  佳子は上機嫌だった。精神安定剤が効いたのかもしれない。予備校へ行くぼくを玄関で見送るという、この家の主人にするようなことまでした。ぼくはシャツの襟を立てた。この仕草に佳子の心が敏感に反応したのを、環帯をしていないぼくは見逃がさなかった。 「いってらっしゃい」と佳子はにこやかに手を振った。「道草せずに早く帰ってらっしゃい」  佳子はシャツの襟に隠れた、自分がつけた印を強く意識して「早くね」とくりかえした。  ぼくは放牧される牛になった気分で家を出る。 [#改ページ]       3  英語の女教師が教室に入ってくる。  六月になったがなにも変化しない。変わったことといえば六月になったことくらいだ。それでも心相医はぼくを五月病だと言うだろか。あの室へは二度と行きたくない。  ぼくは中川の言葉を思い出している。「おまえは病気なんだよ、三日月。おれもそうだった。だけどもう治った。おまえも早く治れ。感応力なんて幻想なんだ。そんなもの、どこにもありやしない」嘘だ。そんなはずはない。  ぼくは中川の言葉にまどわされはしない。ぼくをまどわせようとする彼の言葉は奇怪でおぞましく、忘れられない。あの中川の豹変ぶりは衝撃だった。その日の朝までは感応力でぼくと精神会話を交していたというのに、その力を失ったとたんにあれは幻だったなどと平然と言う。裏切りを犯してしまった者の言い訳にしてはあまりにも不遜な言葉だ。言葉とはそういうものだ。口ではなんとでも言える、というのは正しい。真意を含む必要はない。含むことなんかできはしないのだ。  感応力を失った直後の中川でさえ感応力は幻だと言いきったのだ。世の大人たちが感応力を認めず、子供たちは集団的な病にかかっているのだと信じているらしい理由がこれでわかる気がする。大人になると自分の子供時代のことは忘れてしまうのだ。あなたにも感応力をもっていた時代があっただろう、だからこのぼくの悩みもある程度は理解できるはずだ、などと言ったところで大人には通じない。前世は犬だったのだ、と言われたようにとまどう。怪しげな祈祷師でも見るような目つきをし、うす笑いをうかべて。  ぼくは中川の裏切りに嘔吐に似た復讐心を抱く。だがあのうす笑いの仮面を思いおこすと気分がなえてしまう。あの仮面をはぎとるのは不可能だ。その下にはなにもないだろう。血や脂を噴き出させることはできない。仮面はひからびていて、手をかければなんの感触もなく崩れて灰になるにちがいない。  女教師が出席をとりはじめる。  ぼくは環帯をしていない。いまはみんなの心のささやきや感情の流れが、大人たちの制御されない低級な精神雑波でさえ、心地よい旋律となってぼくを落ち着かせる。子供たちは環帯を強制的につけさせられる。歯列矯正のブリッジをはめさせられるように滑稽だ。これをしていないと、たとえば試験のときなどカンニングのしほうだいなのだが、大人たちはそれをおそれるのではなくて、まさに歯列を矯正するのと同じように、子供たちの分裂した頭をまともにしたいからつけさせているようだった。予備校ではしかしさほどやかましく注意はされない。もうじき抜け落ちてしまう歯を矯正することはないというつもりか。  女教師が赤井猛の名を呼ぶ。  ぼくは教室内に走る強い精神波を感ずる。だれか二、三人が退屈を破る遊びをはじめようとしている。 「はい」と女の声がこたえる。ぼくのすぐとなり。  女教師が名簿から顔をあげる。眼鏡の奥の牛のような眼が生徒をねめまわす。そして言う、 「赤井。欠席ですね」 「わたしはここにいます」と赤井でない、女生徒がこたえる。「耳がおわるいのね。聞こえなかったのですか」 「ふざけるのはよしなさい」 「ふざけてはいません」 「そうですか」女教師はそっけない口調で言った。「ではあなたは赤井なのね」 「いいえ、わたしは村崎です。村崎麻美」 「では、村崎麻美、出席しているなら返事をしなさい」 「はい、先生」  女教師はよろしいというようにうなずく。そしてもういちど、赤井を呼ぶ。平気な顔で村崎麻美が、かわいい無邪気な幼児の声で、はいとこたえる。  女教師の感情の波がわずかに乱れる。 「どちらか一方に決めなさい。どちらにするの」 「赤井くんはわたしの頭のなかにいます。肉体がここにないからといって、この場にいないときめつけるのは間違いだと思います。先生もその重そうな肉と脂をどこかにあずけて、心だけで授業なさったらいかがですか。ああ、できない相談ですわね、あなたは大人ですから」  女教師が眼鏡を指であげて、赤井の欠席を宣告する。 「なぜですか先生。返事をしています。返事をしていても欠席にされるなんて、おかしいと思いますが」 「赤井がここにいないのは明らかです。返事があるかないかは出欠をとるための一つの方法なのであって、返事があるから無条件に出席だと認めるわけではありません」 「先生が欠席だと言ったら、欠席になるわけですか」 「ここにいなければ欠席になります」 「先生に赤井くんが感じられないからという理由で欠席にするのは客観的でないでしょう。出席しているのに先生の主観で欠席にされるなんて、わたしたちの権利を無視することだと思います」 「代返をする権利はありません。あなたにはそんな大口をたたく権利などありませんよ」 「なぜですか」 「大人でないから。そういう口は一人前になってからきくのね」 「大人っていいですわね、一人前の口がきけて」麻美の精神波がふるえる。たかぶって、それはまるで無数の極小の鈴が彼女の頭からわきでるようだ。「口をきくだけでなくて、浮気もできますし。先生の彼氏って細いのね。骨がきしんでいたみたいですけれど、大丈夫でしたの」  女教師が教卓の上で大股をひらいて自慰をはじめる。生徒たちの視線に気づいて肥った女は言う。 「あなた、環帯をしていないわね。つけなさい。あなたには関係のないことです」 「ゆうべ、あのラブホテルにわたし、出席していました。先生には見えなかったでしょうね。わたしは欠席ですか?」  女教師が苛立つ。怒りの精神波は快い。村崎麻美はうっとりとその精神波を食う。麻美に刺激されて女教師は蜜を吐きつづける。 「みんな環帯をなさい」女教師が声高に言った。「授業をはじめます」 「出席をとってください。先生の感情で欠席にされてはかなわないわ」  麻美はしつように食いさがる。麻美はヘアバンドを頭につける。女教師は麻美との間に不透明な壁ができたのを信じて気をゆるめる。どっぷりとくつろぐ中年の女。化粧をおとし、服を脱ぎ、足を広げて仰向けになり、たるんだ腹の脂肉をつかんでゆさぶると、巨大なイモムシになる——ぼくの印象ではない、麻美のものだ——ぼくはおどろく、麻美は環帯をしているのに、どうして彼女の心がぼくに伝わるのだろう。こたえはひとつだ。麻美の環帯は大人たちから与えられたものとはちがう、偽物。  女教師が赤井の次の名を呼ぶ。 「赤井くんは欠席ですか」と麻美はこだわる。 「当然でしょう」  女教師はもう麻美を相手にしようとはしない。馬鹿な子供は無視するにかぎるという態度。 「先生の主観などあてにならないわ。大人にはわたしたちが見えないのよ。ゆうべのことをふりかえればわかるでしょう、先生。あなたにはわたしが感じられなかったわ」  女教師は出席をとりおえて名簿をとじる。そして麻美を見て、せせら笑う。その笑いはしかし赤井[#「赤井」に傍点]が席を立って、おれはここにいると言うと、顔面のひきつり運動にかわってしまう。 「先生、赤井はここにいます。ぼくは赤井ですが、なぜ欠席なのですか」 「返事をしないのがいけないのよ」女教師はとうとう感情を言葉に帯びさせる。「返事をしない者は欠席です」 「返事は村崎くんが何度もしたではありませんか。それに先生はさきほどなんとおっしゃったかもうお忘れですか。『返事のあるなしは直接出欠には関係ない』ということでしたが。ぼくはここにいる。なのに欠席とは、へんではありませんか。大人のやることは筋がとおっていない。滅茶苦茶だ。それでよく生きていられるな」  ぼくの気持を代弁してくれた赤井の言葉だ。  女教師がせせら笑いをとりもどす。大人はこういうときのための殺し文句をもっている。 「あなたもいずれ大人になるのよ、赤井くん」  大人が平然としていられるのはこのためだ。  女教師はだぶつく肉体をゆすって授業をはじめる。自分の醜悪さなど気にもとめず、生徒の前で痴態を演ずるのもなんとも思わない。  女教師が唾をとばして授業をはじめる。腐臭がただよう。大人は腐りくずれてゆく肉体に気づいていない。どろどろに溶けてゆく。白骨の死体のほうがずっと清潔だ。ぼくは悪臭から逃がれるために環帯をはめようとする。  その手をとめる者がいる。ぼくのとなりの女生徒。麻美だ。 <なにをびくついてるの、三日月くん> <びくついてなんかいない> <好きよ。あなたのその深刻ぶっているところが>  ぶってなんかいない。ぼくは深刻に悩んでいるのだから。麻美は笑いの精神波を放つ。透明な雪どけのせせらぎのような波動だ。こんな笑いは初めてだ。 <赤井くんからきいたわ。中川という人、お友だちだったんでしょう。残念ね、お友だちがこの世から消えてしまって。わたしたちといっしょに遊ばない? いいえ、わたしたちじゃなくて、わたしと>  赤井や麻美や、ほかにどんなやつがいるかぼくは知らないが、そんな不良たちと遊ぶ気にはなれない。こいつらは、残り少ない時間を自分たちで食いつぶしている。なにがおもしろいのだ。やけくそになっているだけだ。こいつらは悩んではいない。暴走するだけだ。こういう連中と悩みを分かちあえるとは思わない。くそったれめ、おまえたちにぼくの苦しみがわかってたまるものか。 <あら、それはちょっとひどいんじゃない?> <ぼくの心をのぞきみしたな。汚い>  また麻美の精神笑波。澄みきった、まじりけのない、きらめく、純粋な、無垢の。快い波。こんなに単調な精神波に心ときめかされたのはいままでにない。麻美のその笑いには生臭さがまったくなかった。金属的な冷たさと輝き。腐るものとは無縁の清《さや》かな印象。 <腐ることはなくても、錆びることはあるわね> <腐るも錆びるも同じことだ> ぼくは心をより深く解放して、印象を麻美に送る。 <人間は錆びつつ腐ってゆく>  女教師が顔を赤くする。赤から鉄錆び色へ変わる。錆が成長して全身をおおいかくす。女教師は腕をかく。爪に傷つけられ、錆びた腕に一筋の切れ目がはいる。その細い切り口から黄色の膿が噴きだす。 <やめてよ。悪趣味なんだから。吐き気がする>  女教師は瞬間、真っ白に凍りつく。身体の内側から爆発し、肉体は白い粉になって吹きとぶ。教室に銀の雪が舞い散り、雪は空中で動きをとめて、やがて静かに沈降しはじめる。生徒たちの頭や教卓や床や机に女教師の白い粉がふりつもる。  ぼくは思わず上を仰ぎ、手で頭をはらっている。女教師がちらりとぼくを見る。ぼくはあわてて顔を伏せる。女教師は黒板に向かうとキーキー音をたててチョークで文字を書く。白い文字だ。自身の灰を集め固めて書いているのかもしれないな、と思う。 <汚い精神像はよしてよ。もっと楽しいことに使ったらどうなの。独りで殻にとじこもってるからろくな想像しかできないんだわ> <ぼくの勝手さ> <なにをそんなに悩んでいるの? 悩みなんかじゃないわね。あなたはただ怯えているだけだわ。怯え、というのは自分で創りだす幻よ。ばかげてる。あなたはなにを創ったの?>  ぼくは殻をとじようとする。が、麻美の心が殻の割れ目に突き刺さり、こじあける。ぼくの悩みを読まれてしまう。 <誕生日ですって?>  再び麻美の精神笑波。こばむことができない、奇跡的な、真夏に降る雪の妖しさ。 <男の子も誕生日が気になるものなのね。わたしの友だちにいたわ。十八になりたくなくって、自殺したの。拒食症だって心相医は言ってた。その女の子はね、肉体を放棄したの。自殺じゃないわね。命を棄てたわけじゃない> <結果は同じだろう。ぼくは死にたくはない> <それはできない相談だわよ。そんな悩み、さっさと棄てなさいよ。でなければ、さっさと身体を棄てたらどう。死んじゃいなさいよ。いらいらしてくるわ。消えちゃいなさい>  麻美の快い精神波が、ホワイトノイズのように変化してぼくの脳みそをかきまわす。ぼくはその雑精神音のなかから、麻美もまた彼女自身の肉体に対する絶望的な嫌悪感を拾いあげる。 <他人のことはいえないだろう。きみはなぜ生きているんだ> <遊ぶためよ。感応力でいろんな遊びができるわ。あの女教師をからかってみたり>  女教師が、シックスと言う。「セックス、に近い発音です」女教師の感情の波が彼女自身の言葉で変化する。女教師は紫色の舌で唇をなめる。 <あの女は独身なの。だからどんな男と寝ようと平気なわけだけど、いまの男に捨てられたくないと思ってる。抱かれていても、捨てられるんじゃないかしらという不安がわいて、それで彼女は絶対に絶頂感を得られない。その意識の流れはおもしろいわよ。みていて飽きないわ>  麻美はぼくに、彼女の机の上を見ろといった。麻美は机に目を伏せて精神を集中している。その机の上に靄がかかる。靄はやがて固まって、像をつくりだす。人形の館のような、室のミニチュアがあらわれる。ダブルベッド。その上に二匹の白いなめくじがからみあう。 <こっちが、あの女教師。こちらの細いのが彼女の恋人>  麻美は指でさして教えてくれる。白いなめくじに麻美の指先が触れると、なめくじはつつかれた蛆のように身をくねらす。 <もっとリアルな像を出せというの? いやだ、これが本当なのよ、あの教師の実体はこんなものだわ>  肥ったほうの蛆の胴のなかほどに黒い小さな穴があいて、その穴から細いほうの蛆をのみこもうとする。細い蛆は硬直して、拒む。硬くなったそれは胴から無数の針を出して肥った相手に突き刺す。針からすべてを吸いつくそうとする。肥ったほうは相手をのもうとし、細いほうは吸いとろうとする。そのうちに両方とも、のまれ、吸いこまれて、区別がつかなくなる。溶けあって一匹のなめくじになる。汗のような汁がにじみでてきて、なめくじは融けはじめる。ベッドの上に茶色のしみだけが残る。  ぼくはまばたきした。まばたきしてもその人形の館は消えない。ぼくは手をのばして館の壁に触れた。たしかな感触がある。ベッドの茶色のしみにさわると、ねばつく。ぼくはその指の臭いをかぐ。生臭かった。これはおどろきだった。これはたしかな現実だ。 <こんなのを見るのは初めてだ。どうやればできるんだ?> <あら、こんな遊び、だれでもやってるわ>  ダブルベッドの上に女教師のミニチュ了があらわれる。横たわっているそれを麻美はつまみあげる。ぼくは教卓のほうを見る。麻美がつまんだ女教師は、講義をつづけるそれと同じ服装をしている。暑くるしい茶系のスーツに、黄のブラウス。麻美は女教師の足をつまんで逆さにして、服をむきはじめる。黄色の裸体がむきだしになる。麻美はそれをぼくに放ってよこす。 <あげるわ>  蛆をさわるような感触だった。皮の下にどろっとした流動する内容物。ぼくはぞっと嫌悪感におそれれて手をはなす。手からはなれたそれは長い時間をかけて机にむかって墜ちてゆく。墜ちるにつれて色を失い、机につくまえに透明になり、消えてしまった。麻美のほうを見やると人形の館もなくなっている。 <こんなのはいつだってやれるわ。ね、二人でやれる遊びをしましょうよ。キツツキって知ってる?> <知らない>  不良のやる遊びなど興味はなかった。しかし幻の人形の館の印象は衝撃的だった。この女はぼくの知らない世界を楽しんでいるようだった。遊んでみてもいいとぼくは思う。退屈しのぎにはなる。 <教えてあげるわ。わたしの心にいまなにがあるか見える?> <ああ。暑いイメージだ。陽炎のたつ道路だ> <あなたはキツツキ。わたしの心をつついて心の奥に隠したものを探るの。さあ、わたしの積みあげた遮蔽イメージを崩すのよ。単純な遊びだわ>  ぼくは麻美の心にある神秘的な印象にひきよせられる。 <さあ、きて>  麻美の心にはいる。力強く構築されたイメージ風景だ。道路がある。遠くの景色が、形のはっきりしない灰色の靄が、熱い陽炎にゆれている。なのに、すずしい感覚。なぜこんなにさわやかなんだろう。ふっと道路の両側に緑の並木が出現する。影がおちる。光と影の対比が美しい。さわやかな樹樹。小枝が風にさやぐ。葉が鈴のように緑色に鳴る。  瞬間、暑いイメージは失せる。暑いイメージはカムフラージュだ。ひとつバリケードを崩した。重要なのは樹だ。大きな樹。樫のように雄大だ。雄大? ちがう。勇気や威容を誇る印象は麻美が隠した中心イメージとは関係ない。麻美が隠したものはなんだろう。  樹。緑。木枝。葉。葉か。無数に風に鳴る木の葉。これだな、これが重要だ。やわらかで、やさしい。この葉はなんに変身するのだろう。 <そんなに大きなものじゃない> 麻美が助け舟を出す。 <そうよ、手のひらにのるもの>  ぼくは小人になって麻美の白い手のひらに乗る。やわらかい。ふっくらとしたまるみの、重い果実を見つける。 <果実? ちがうわ。まあ形のいい、その乳房、だれのなの?>  ぼくは沈黙する。 <もう、こんな子供だましやめて、愛しあわない? あなたの精神波パターンはとってもセクシーだわ>  ふとぼくは、麻美の心にそれを見た。やわらかい曲率、淡い緑、手のひらにのるやすらぎのもと。トランキライザー。精神安定剤の錠剤だ。なぜこんなものがいるんだろう。湿っている気持。陰鬱。いつトランキライザーを飲む? 規則正しい振り子時計の音。くり返しくり返しやってくる波。湿っている。濡れている。敗北感。小さいころだ。子供。幼児が泣き叫んでいる。  ぼくはふっと息を吐く。 <きみは生理痛が原因でトランキライザーを飲んだことがある> <そうよ> <でも、もうひとつのイメージはそれとどうつながるんだ。子供。まだ幼いころ。夜尿症かな。ほんとか> <だれでもそうよ。赤ん坊のころは。だけどもう赤ちゃんじゃない>  生暖かい。つたう。色は? 赤。そうか。 <わかって?>  ぼくは麻美が隠した言葉をつきとめる。 <初潮だ> <当たり。あなたの初めての射精はいつ?> <精通か。覚えがない> <だから男は無責任なんだわ> <それはどうかな。もし精子が血のように赤かったら、強烈な印象でおぼえているかもしれない。反対に、血が白か透明だったら、きみは初潮のことなんか、大人の身体になったなんて、自覚しなかったかもしれない> <その話はやめましょう。いずれなくなってしまう、いまを楽しむだけ楽しむべきよ>  その後はどうするんだと訊いたぼくは、冷えきった麻美の心からあわてて退く。  逃げきれなかった。麻美は透明な水になり、爆発した。熱い波になってぼくを包む。波は銀糸のレースのような網に変わって、ぼくはそれにからめとられてしまう。  ぼくの心は麻美の網のなかで銀の魚になってはねまわる。はねるたびに興奮が高まる。痛いほどの快楽だ。痛い。 <痛い?> 麻美の疑問波。  網が消えてしまう。ぼくの快感の魚は窒息して死んでしまう。どんな快感だったろう? 思い出せない。 <なにをしたんだ> <知らないの? おどろいた。精神性愛撫の経験のない人なんて珍らしいわ> <不良じゃないからな> 「まあ」と麻美は呆れ声を出した。  女教師が顔をあげる。麻美だと知ると眉をつりあげた。麻美は肩をすくめておとなしく目を伏せる。 <楽しむことがどうして不良なのよ。あなたこそ不良だわ。不良品よ。いままでいったいなにをしてきたの? さっさと死んでしまえばいいんだわ> <死ぬのはいやだ。精神性愛は精神の暴走さ。危険だ。危険を危険と感じないのは鈍い人間だ。ばかなんだ> <あなたはばかじゃないってわけ? あなたみたいなお利口な人、ほんとに初めてよ。あなたは精神的童貞よ。わたしが教えてあげるわ>  官能的な香りにぼくは包まれる。動物的な汗や腺の匂いとは異質な、もっと軽く、しかし芳醇だった。すべての感覚が嗅覚をそなえたかのようにふるえた。香りが白くつややかに見え、低い蜂の羽音のように聴き、肌ではなめらかに感じ、そして少し甘く、かすかに塩辛く、相当に苦い味がした。幸福な香味だった。ふりはらうことができない。  ぼくは机に額をつけ、身を硬くした。そうしてこらえていないと手足が意味もなく動き出しそうだった。自意識もなにもかも溶かしてしまうほどの歓喜の予覚がある。突然、ぼくは激しい怒りに似た不安で、醒める。 <よく途中でやめられるわね。信じられない> <自分を失うのがおそろしい> <遊びというのはね、自分を消すためにやるものよ。ときには他人をも>  それはそうだ。しかしこいつらの仲間になりたくはない。こいつらはまともじゃない。  麻美は笑う。笑いながら、服を脱ぐ。 <さあ、よく見なさい。わたしの髪、わたしの唇、わたしの耳朶、瞳、乳房、その先端、ね、紅いのがわかる?> <不良め> <なにも知らずに大人になるの? あなたが怯えているのはまさにそのことなんだわ。遊びたいのに、危ないからできない、できないことに腹をたて、そんな自分を認めたくないのよ> <ちがう>  ぼくは麻美の乳房に手を伸ばす。手が蛇に変わる。 <いいわ、もっと近づいてきて>  麻美の髪がうねって、メドゥサのように、蛇となってぼくの手をさそいこむ。ぼくは挑発にのりかけた。が、麻美がそれを断ち切った。ぼくの蛇がのたうちまわる。 <あら、ごめんなさいね。赤井くんがね、みんなでもっと楽しもうっていってきたの。彼、わたしたちを妬いてるのよ。クリームをやらないかって。キツツキも知らないのだから、わからないでしょうね>  麻美はその遊びを伝心する。一種の乱行パーティだ。 <そうじゃないわ。みんなで輪になって、となりの人を精神愛撫するの。自分はとなりの人から愛撫を受けるのよ。つまり愛撫のリレーだわ。愛撫の炎がつぎつぎにバトンタッチされて輪を走るの。乱れてはいけない。わかる? 三日月さん> 一対一で愛しあうよりずっといいと麻美はいった、 <快楽がだんだん速度をましながら輪をまわるの。おしまいにはなにもかもが溶けてしまって、いいところだけが抽出されたクリームになるの。たまらないわ……それでも回転はとまらないの。だれかが疲れはてて輪から脱落し、輪が切れてしまうまでつづくの。どう、やる?>  麻美の髪は長く伸びてぼくの肉体に入りこみ、神経にからんでいる。宿り木のように寄生してぼくの意志を吸いとっている。もし、やらないとこたえればその髪から生命を吸いあげようとでもいうように。ぼくは環帯をつけようとするが手が動かない。やる、というしかなかった。 <やる> とぼくは伝心した。  麻美は参加する仲間に番号をつけた。全部で五人いた。先頭が麻美で最後がぼくだった。  ぼくらは精神の場で手をつなぎあって輪になった。 <さあ、はじめよう> 麻美がいう、 <あなたのイドを解放しなさい>  麻美のわずかにひらかれた唇のあいだからなにかが吐き出された。飛び魚のようだ。翼を広げてとなりの男にむかって飛ぶ。その男は手で受けとめようとする。銀の空飛ぶ魚はひらりと身をかわす。つかまえようとした男は鋭利な魚の翼に手を切られる。傷口が金色に輝いて、輝きが野火のように全身に広がって、彼は黄金の網になる。飛び魚はみんなを水晶や炎や骸骨に変えて、ぼくのところにきた。そいつはもはや魚なんかではなかった。大きな眼は魚のものではなく、猫だった。ずるがしこそうなそれはぼくの胸にかみついた。尾には逆刺がついていて、身は鱗におおわれている。虹色の鱗の猫だ。甘えるように身を丸めてぼくの胸のなかに入ってくる。温もりを求めている猫。ごそごそ、ごそごそ、ぼくのなかで、ぼくをくすぐる。逆刺がわき腹をなでるたびにぼくはぞくっとくる。 <だめよ三日月さん、独りで楽しんでいては。さあ、わたしに渡して>  ぼくはしぶしぶ猫を麻美にむけて放りだす。それはみごとな竜になっている。こうして快楽が一巡する。麻美はぼくの竜に愛撫され、三つ首の石竜子《とかげ》を生む。受け渡しの速度があがる。二巡、三巡、もうわからなくなる、快楽のマスコットは百眼の白馬や巨大な蝿やもはや名のつけられぬ奇怪な、奇怪で妙に美しい抽象の色彩パターンへと形を失ってゆく。それは一回転してもどってくるたびに予想もつかない形に変容した。変化は変化を生み、いったん火のつけられた快楽は、そのものが生命をふきこまれて自動的に輪を走りはじめるのだ。空間がねじまがる。もう麻美の姿もひっぱられたゴム人形のようにひきのばされている。ぼくは地面すれすれを超高速で突っ走っているような感覚に酔う。もっと速くと望む。もっと。快楽のフラッシュはもはやまたたかず、高周波で発振してうなり、そしてぼくらはクリームのように溶けてしまう。超高速で回転する集団性愛空間だ。  研ぎすまされた刃のようなレールの上を高速ですべっている。レールの下方は奈落だ。もっと速く。より高く。レールが上下に、左右に、うねり、ぼくはその刃に身をまかせてすべってゆく。身をすっぱりと切られないように、下へ落ちないように、突っ走る。緊張感がたまらない……快感というよりは至福感だ。ぼくは透明になる。風になる。レールの刃に衝撃波が発生して、その波もまた鋭い剣になり、後方へ超スピードで伸びてゆく……  その剣が輪を断ち切った。だれかがぼくの強力なイメージに耐えられなくなった。快楽振動が突然乱れて、輪はばらばらにちぎれた。  肉体の感覚が精神の空間になだれこんでくる。机におしつけている頬の感触だった。回転するクリームはこの感触で吹きとばされる。快楽が一瞬にして泥のような疲労に変わってしまった。  ぼくは口から垂れている涎を手の甲でふいて、姿勢を正した。教科書がぬれている。となりの麻美を見やると、彼女はうつろな目を正面にむけている。 <よかったわねえ>  麻美はうつろなのではなかった。うっとりしているのだ。深く息を吐いて正気にもどる。  女教師が腕時計を見る。ぼくらの遊びにはぜんぜん気づいた様子はない。 <もっといけそうだったのにな> <そうね……最高だったわね>  ぼくは緊張した首の筋肉を動かして教室を見回す。ふと机に突っ伏したままの赤井に目をとめる。赤井の頭の上あたりにうすい靄がかかっているように見える。 <赤井くんがいちばん楽しんだようね。最期の高まりでわたしを焼きつくそうとしたわ>  麻美は長い舌をだして赤井の上の靄をすくいとって、食べた。 <最期だって?>  女教師がチョークを捨てて、教科書をとじる。 <そう。うらやましいわね、大人にならなくてすむんだもの> <そんな——彼、あのまま>  女教師がきょうの授業はこれまでと言う。  ぼくは赤井の精神波を探った。どこにもなかった。赤井はそこにいたが、なんの波も放っていない。それは物だった。赤井は死んでいた。 <助かったかもしれないじゃないか。きみは赤井の残り火のような精神活動を消したな> <殺したのはあなたよ。信じられないくらい強いのね。好きよ、あなたが> <ぼくが殺した? 嘘だ> <心配することはないわ。わたしたちはだれにも言わないから。言っても大人には理解できないわよ、どうせ>  ぼくはふらりと立つ。赤井は動かない。  女教師が教室を出てゆく。赤井の死体に気づかないまま。しかし生徒たち、環帯をしていない者はそれを知っていた。彼らはぼくを無表情に見ていた。  ぼくは赤井猛を殺した。 [#改ページ]       4  赤井猛の死は予備校内になんの波紋もなげかけなかった。予備校の大人たち、教師や保健医や心相医たちは、赤井の死を後期思春期におこる原因不明の突然病死として処理したようだった。精神的なものではなくて、肉体的な異変だと考えたらしい。いわゆる青春期ポックリ病だと。  しかし予備校生たちは赤井の死の真相を感じとっていた。精神感応遊びの事故だってことを。  村崎麻美にいわせるとそれは事故ではなく、それこそが目的なのだということになる。麻美は赤井をしあわせだといった。目的を達したのだから。  直接的にはぼくが原因なのだ。ぼくが殺した。麻美はいいことをしたとぼくを讃えた。讃える? ぼくのやったことをか。異常だ。麻美やその仲間たちはどうかしているとぼくは思った。やつらは不良だ。だがぼくはもはや麻美たちと縁を切ることはできなくなった。麻美たちはぼくが赤井を殺したことを知っている。  麻美はあれ以来、ぼくになれなれしく近づくようになった。肉体的には離れていようと、ぼくが環帯をとっている状態のときに心のなかに割り込んできた。麻美の呼びかけの精神波は電撃のように唐突で、研ぎすまされたナイフのように鋭かった。ぼくはできるだけそれを無視しようとした。が、麻美はしつようだった。ぼくの生命を吸いとろうとでもするかのように。彼女はぼくの精神感応力のまださほどおとろえていないことに魅力を感じていた。ぼくを殺そうとするのではなく、ぼくに赤井のときと同じように快楽の極致をひき出させようとした。自殺行為だ。それを麻美はゲームだといった。ただの遊びなのだ、と。たしかにそういう麻美の心に偽りはなかった。大人には決して理解できないだろう。赤井の死は病的なものではなく単なる遊びの結果だなどとは思いつきもしないのだ。  大人になる直前の、見かけはもう立派な大人といっていい少年の多くがこうして死んでゆくのだ。大人は首を傾げるばかりだ。しかしぼくは知った。麻美と出会って初めて知った……  麻美はにやにや笑ってぼくに近づく。まるで死神だった。赤井が死の直前にどんなに快楽に酔いしれていたかぼくにはわかっている。たぶん麻美のいうとおり、しあわせだったろう。しかし生き残ったぼくはたまらない。いっそぼくもあのまま生命の糸を断たれてしまえばよかったのだ。クリームのように溶けてしまえば。  ぼくは死にたくはなかった。なによりも他人を殺したくはなかった。不良たちにぼくの能力を利用されるなんてまっぴらだ。しかし麻美はぼくをとらえてはなさなくなった。仲間から抜けようとすると麻美はこういってぼくをおどした。 <警察の少年課刑事に言うわよ。あなたが赤井くんを殺したってことを>  こうしてぼくをおびえさせることも麻美の遊びなのかもしれない。真剣な遊びだ。 <刑事は信じるものか。やつらは大人だ。クリームという精神場遊びのことなんか理解できはしないよ> <少年課刑事には注意したほうがいいわよ。やつらかぎまわってる>  予備校に刑事がきたらしい。ぼくにはわからなかったが。 <おどかしても無駄さ。かりにぼくのことを刑事がかぎつけたとしても、なんにもできない。ぼくが赤井を殺したっていう証拠はなにもないんだ> <あなたはやつらのしつこさがわからないのよ。甘く考えていてはだめ。子供を捕まえるのに証拠なんかいらないんだから。秘密警察のようなものよ。訊問はきびしくて、捕まった友だちのなかには狂った娘もいるわ> <狂う?> <そう。ショックで一気に大人になるらしいの。洗脳されたみたいに大人しくなるんだから。まともな大人じゃないわ。無表情で無感動な、生きている屍よ。あなたもそうなりたいの?> <……いいや>  麻美から屍のイメージを受けとったぼくはもう麻美に逆らうことができなかった。その麻美のいうことは、彼女の創りだした幻の世界かもしれなかったが、ぼくには幻と現実を判別することができなかった。麻美のいうことを偽ときめつけて、 <刑事に言えるものなら言ってみろ、おまえたちに利用されるのはごめんだ> などといって真偽を確かめてみる勇気はぼくにはなかった。麻美はそのイメージで、逃がれがたい強力な精神の網で、ぼくをからめとった。ぼくを捕えにくる刑事の冷たい眼、ぼく自身の顔がだんだんこわばって、しまいには無表情の石膏の仮面に変化してゆく様子。麻美が心で見せるその劇は、確実に実現する未来のように鮮やかだった。ぼくは自分自身のデスマスクを見せられて悲鳴をあげていた。こらえきれずに声にまで出る叫びだ。 <ぼくは大人にも不良にもなりたくない>  転校生がきた。いつきたのかよくわからない。二、三日前、ふと気がつくと、前にはいなかった人間がクラスに入り込んでいた。転校生なんて、めずらしい。  その転校生は女だった。卵形の顔に長い髪で、無表情だった。年齢不詳のあやしさがあった。二十歳すぎの女がわざと幼い雰囲気をつくろうとしているような不自然さをぼくはいぶかしんだ。彼女はひっそりといちばん後ろの席についていた。ぼくも後ろにいた。ぼくがクラスの人間とまったく独立して自分の殻に閉じ込もろうと努力しているように、その女もまたクラスの生徒たちから遠く離れて、周囲を無視しているようなところがあった。  見なれない転校生がきたというのに、クラスの連中はその女を気にかけてはいなかった。予備校生たちは、自分とあるいは自分のおさまっている世界、それ以外の出来事には無関心だ。だからみんなが、その女がそこに存在しないかのように彼女を無視するのは薄情でもなんでもなかった。よくあることだ。  だがぼくはこの女が妙に心にひっかかった。彼女はまるで幽霊のように存在感が薄かった。その顔や身体にしても、予備校の教室で見ているときはたしかにこういう顔で、美人だなと思うのだが、つと目をそらすとどんな顔だったか具体的に心のなかで描くことができない、とても奇妙な、つかみどころのない女だった。彼女はほとんど口をきかなかった。まったく口をひらかないと言ってもよかったが、たぶんそれはぼくの思いすごしだろう。そう思って、ぼくは授業の始めに教師が出欠をとるとき、その女が返事をするところをたしかめようとした。がいつも失敗した。失敗したと思いたかった。なぜなら、ぼくが注意しているかぎりでは、彼女は返事をしなかった。つまり、その女はクラス名簿にのっていない。そんなはずはないから、ぼくは彼女が返事をするとき、いつもなにか精神的なマスキングをかけられて、彼女の声を聞きもらしているらしかった。どういうわけかわからない。心相医に相談したほうがいいかもしれないと本気で思ったりしたが、あの心相室へ行くなんて思っただけでも気が重い。  ぼくは授業中はしっかりと環帯をはめて、麻美や他の仲間たちから心を干渉されないようにしていたのだが、その薄気味わるい女のことを他の連中がどう思っているのかを知りたい誘惑に負けて、あるとき麻美に精神感応で訊いた。 <女?> と麻美はこたえた、 <どの女よ>  ぼくは二つおいたとなりの席の女を見る。前方の席にいる麻美がふりかえって、女を見た。ぼくは息をつめて待った。もしかしたら麻美には見えないかもしれないと疑ったのだ。 <ほら、その女さ> <ああ、新入ね> と麻美はいった。  ぼくはほっとした。なんだかよくわからないが、安心した。幽霊じゃないということが証明された気分だ。 <きれいな女ね。すごく大人びているわ。あの女、大人じゃないかしら>  そういって、麻美はぞっとするようなイメージをつくりあげた。 <あれはもしかしたら少年課の刑事かもしれなくてよ>  そして麻美は笑いの精神波を伝えた。単調で快い連続パルス波。快い? ぼくは必死に麻美の心がぼくの心に入ってくるのを拒み、環帯を頭にはめようとする。 <このごろつきあいがわるいじゃないの、三日月さん。ねえ、クリームやらない? いえ、一対一で愛しあおうよ。あなたの精神波はとてもセクシーだわ> <やめてくれ>  吐き気をおぼえた。できることなら麻美とその仲間たちをこの世から消してしまいたい。麻美はまったく魅惑的な蜜をあふれ出してぼくを誘惑する。甘い蜜だ。あまりに甘くてぼくののどや胃や身体全体を、そしてぼくの心を、全存在を、焼こうとする。ぼくは麻美を嫌悪する。その嫌悪感が、麻美にはたまらない快感となるのだ。 <その調子よ、三日月さん。もっと近づいてきて>  環帯を握る手に力をこめて、腕をもちあげ、麻美の心に逆らって環帯をはめる。机にがっくりと額をつけて、肩で息をする。ぼくは精神を物理的にブロックしてしまう環帯というものを嫌ってきたが、でもこのごろはこれをありがたいと思っている。麻美は悪魔的な力をもっている。環帯がなかったらぼくは赤井だけでなく何人も殺しているにちがいなかった。ぼくの精神力は兇器となるのだ。  それでもぼくは大人にはなりたくない。環帯をとって、周囲の精神場の変化する様子を受けとめる感性を失いたくはなかった。それは失うには惜しい力だ。たとえば、さやぐ木の葉のきらめきをながめ、その風の動きや色を見るのは大人にはできない。人人の放つ精神波が互いに干渉しあって思いもつかないパターンに変容してゆくのを観るのは、万華鏡をのぞくよりも心ときめく経験だ。  麻美から逃がれるためにはぼくは環帯をはめて、この精神場から出ていなくてはならない。これではまるでもう大人になったも同じではないか。ぼくは麻美を呪う。死んでしまえ。消えてしまえ。ぼく以外の力で殺されればいい……この呪いはぼくの環帯を突きぬけるほど強力なものだった。麻美はうっとりと、ぼくにすりよってくる……  どうしていいかわからない。多律に背反する状況だ。罠につかまってぼくの心はのたうちまわる。大人になりたくない、麻美は邪魔だ、邪魔にするとますます麻美は近づいてきて、ぼくは環帯をはずせない、そうこうしているとぼくは大人になってしまうだろう、残された時間は少ない、麻美さえいなければ……しかし殺すなんていやだ、麻美のいう少年課の存在が本当ならぼくは捕まって、大人にされてしまう……どうにもならなくて、動きがとれない。  ぼくはこのまま大人になってしまう。そう思うとやりきれない。屠殺される豚になった気分だ。いや……屠殺される豚はこんなに思いわずらったりはしないだろう。ぼくは豚よりみじめだ。  ぼくは転校してきた女のことを麻美や他人の力を借りて知ろうとするのはやめた。だが女の正体を知らないまま、彼女を無視することはできなかった。  もしかしたらその女は麻美のいうように少年課の刑事かもしれないとぼくはおそれた。  その女のことが頭からはなれなくなった。予備校から出てもどこからか彼女に見張られている気がした。天井の板目がその女の顔に見えるときもあった。目をつぶってもはなれない。ハイミナールを手に入れて、ぼくはそれで眠りを得ようとした。よく眠れない。ハイミナール中のジメチル・トリオルトトリルキナゾロンの作用で酔っぱらう。酒より簡単に酔える。薬が手に入らなくなると強い焦燥におそわれた。ぼくは環帯をはめたまま、ふるえながら眠った。  予備校の入口で登校証明のカードをタイムレコーダに差し入れて、ぼくは思った。彼女もこのカードを持っていて、時間を記録しているだろうか? 教務課へ行けばわかるかもしれない。しかしその女の名も知らないことにぼくはそのときはじめて気づいた。教務課に調べに行っても意味がない。そもそもこのカードからして無意味だ。登校の時間と下校の時間を記して、その時間はとにかく予備校内に収容されていて、大人の世界に出てはいなかったという証拠になるだけだ。たぶん予備校はそれだけのために存在するのだろう。授業などどうでもいいのだ。受講の証明は教師がとる、あのいいかげんな出欠印だけだ。タイムカードだってそれ以上にいいかげんだが、ともかく大人たちはそれで満足している。  ぼくは授業中、ひんぱんに女の方を見るようになった。こんなことは小学生のころ幼い恋心で好きな女の子を無意識のうちに見つめていて、少し年をへてからあれは初恋だったんだなと思った、それ以来のうかれた熱っぽい状態だ。いまは恋とは無縁だ。しかし目をそらすと不安になる。  女はずっと無表情で生気がなかった。頭には環帯が、環帯には見えないごくさりげないヘアバンドとしてロングヘアをおさえていて、表情と同じように心も閉ざされていた。服は印象が薄い。初めてのときはどんな服装だったかぼくはどうしても思い出すことができない。でも注意するようになってから、彼女は純白のごくあっさりとしたデザインのワンピースを、制服だとでもいうように着てきた。が、どうも同じワンピースなのではなさそうだった。毎日、かすかだが青みがかかってきていて、その変化はだんだんと、はっきりわかるようになった。純白だったワンピースがたしかに青く染まりつつある。とはいえスカイブルーとかコバルトブルーとかいうのではなく、もっと淡い——そのかすかな青のせいで純白にも見えるといった程度なのだが。ぼくは、そのうちに彼女のドレスは徐徐に濃くなってゆき、ミッドナイトブルーになり、そしてついには黒になるだろうという確信めいた予感を抱いた。そのドレスの色の変化は、まるで幽霊が現実世界で肉体を作りあげてゆく様子を連想させた。初めて彼女を見たときはその首だけで胴体はなかったのではなかろうか。  ぼくは女をぶしつけに観るようになった。そして彼女のドレスがパールブルーになったとき、彼女が動いた。それまで無感動にじっと前を見たまま機械的にノートをとったりしていただけの——その動きはカムで制御されたもののように、不気味なほど機械的だった——彼女が、ぼくの方に顔を向けたのだ。  人形がいきなり生臭い血を吐いたようなおぞましさだった。ぼくは目をそらすことができなかった。女はぼくをまっすぐに見つめ、それから唇をちょっとつりあげるように動かした。笑う練習をしているアンドロイドみたいに。 <きみは……何者だ?>  ふるえながらぼくは訊く。  女はゆっくりと頭の環帯をとった。そして頭をひとふりして髪をととのえ、ぼくに微笑んだ。生生しい微笑だった。生命をふきこまれた人形のような変化だ。 <わたしはあなたをよく知っているわ>  ぼくは心臓をつかまれた気分になる。ぼくは環帯をしている——でもきこえるのだ。女の精神声が。ばかな。こんなことがあっていいものか。 <刑事なのか? 刑事は特殊な能力をもっているのか? 環帯をしているのに……どうして精神会話ができるんだ> <わたしは刑事なんかじゃないわ、三日月>  静かだった。よどみなくつづく教師の声にすべてが眠っている。そんななかで女の精神だけが覚醒していた。ぼくは、ぼくと女だけが存在する世界に閉じ込められた。ぼくは環帯をとって現実の世界にもどろうと手を頭にやったが、とることはできなかった。悪夢のなかで、それが夢だと知りながらどうしても夢から醒めることができないのに似ていた。 <あなたは環帯はとりたくないのよ。とる必要はないわ。こうしておはなしができるのだもの。必要ならわたしが仲立ちしてあげる。麻美と精神会話したいなら、彼女の心を中継してあげてもいいわよ、三日月。でもあなたはそれを望んでいない> <なぜ、なぜぼくの名を知っているんだ。きみはだれだ。きみの名は?> <わたしは月子>  ぼくは心で笑う。 <なんておかしな名なんだ。月子だって?> <あなたの名はどうなのよ> <そうだな、おかしな名だ。じいさんがつけたんだ。じいさんは刀を趣味にしていてね。家にも一|口《ふり》の日本刀がある> <知ってるわ。あなたの名はたぶん、国宝の三日月宗近の号からきている> <ぼくは自分の名前がきらいだ。じいさんの趣味でつけられた名なんて、腹が立つ。子供は大人たちに勝手にいじりまわされて、なすがままだという象徴がぼくの名だよ。おもしろくない。がまんできない。しかしどうしようもないんだ> <でも骨喰藤四郎とか小狐丸なんて名前でなくてよかったじゃないの> <そりゃあ、まあ、そうだけど>  ぼくはぎくりとする。ぼくは祖父の書斎で刀関係のおびただしい蔵書の一冊を見ていたとき、同じ感想を抱いたことがある。「昔、大友の薙刀なり。骨喰と申す仔細は、たわむれに切る真似をいたすにも、先の者、骨くだけ死する故に名付く。段段不思議なること数数あり、のちにこれを脇指に直す……」これが名物骨喰藤四郎の見るからに鋭利な姿写真の説明で、ぼくはこんな名をつけられなくてよかったと思ったものだ。それを、なぜこの月子という女が知っているのか。 <きみは刑事じゃないって? なんなんだ? どうしてぼくのことを知っている> <わたしはあなたと同じよ> <予備校生ってことか。ちがうな、ちがうよ、きみは……人間じゃない……ような気がする。きみはぼくの家、ぼくの部屋にきたことがあるんじゃないか? 夜、ふと気づくときみの姿が見えたことがある……幻じゃなかったんだな> <あなたが望んだんだわ。あなたが呼んだのよ。わたしをずっと見ていたじゃないの。わたしに気があるのね。わたしはあなたの望みに従っただけよ> <迷惑だ> <そうかしら。ね、三日月、自分の心に素直に従いなさいよ。手伝ってあげるわ。わたしには力がある。あなたがやりたいと思っていることに力を貸してあげる——わたしはあなたの味方よ> <よせ。ぼくはだれも信じないぞ> <自分自身も?> <どういうことだ> <あなたはわたしのことをよく知っている。知っているのに、それを認めないんだわ。あなたにはわたしが必要よ。だからわたしのことをずっと観ていたんじゃないの?> <もしかしたら> とぼくは思った、 <きみは……ぼくが生み出した幻なのか>  月子はいつのまにか前を向いて人形の動作をつづけている。頭に環帯をして、ぼくにはなんの興味も示さずに。  月子がぼくの生んだ幻だって? いや、そんなはずはない。麻美は月子を見て、 <ああ、あの子ね> といったではないか。みんなが月子という女を実際に見ている。幻なんかじゃない。月子はたしかにここにいるんだ……  月子はぼくの力になるといった。どんな力になるというんだ。ぼくはいまなにをやりたいのだろう。ぼくにはわからない。自分がなにをしていいか。  もうじき誕生日だ。確実に近づいてくる。ぼくは大人になろうとしている。いままでぼくはなにをしてきたろう。なんにもしていない。ただ苦しんでいるだけだ。なんの意味もない苦しみだ。ぼくは苦しんでさえいないのだ……そして大人になるのだ。意味もなく。  誕生日にいったいどんな意味があるというのだ。なぜ祝う。誕生日を何回祝ったかなどというのにどんな価値がある。腐ってゆくだけだ。腐ってゆくのが人生だ。大人たちにはそれがわからない。ぼくはやつらに思い知らせてやりたい。おまえたちは腐っているぞ、と。しかしそれも無駄なことだ。大人にはぼくの声はきこえない……  昼休みになる。ぼくは席を立ち、廊下に出た。教室を振り返る。月子は腰かけたまま動こうとしない。突然、ぼくは月子から逃げたい衝動にかられた。学生ホールには行かずにそのまま予備校から出た。外は暑い。湿った熱気は息苦しい。  バスを待っていると、ますます息苦しくなるにやにや笑いが近づいてきた。村崎麻美がぼくのわきにきて並ぶ。 「どうしたの、三日月さん」  ぼくは目をそらしてこたえない。 「環帯をとりなさいよ。気分がわるいなら治してあげるわ。心相医なんかおよびもつかない方法で。ね、どうしたの。顔色がよくないわよ」  麻美はぼくの頭に手をのばしてぼくの環帯をやさしくはずした。傷ついたペットをいたわるような仕草でぼくの髪をなでる。精神雑波が、雲間からのぞく日光のようにきらめきながらぼくの心に入ってくる。ぼくはため息をつき、環帯を麻美から受け取ってポケットに入れた。 <まだ誕生日のことで悩んでいるのね> <月子だ……きみはあの女をどう思う。気味がわるくないか。何者だろう> <あの女、月子っていうの。あなたの姉か、双子みたいね> <わるい冗談だ……ぼくは薄気味がわるくてしかたがない> <邪魔ならやってしまいなさいよ> <なに?> <あなたならできるわ。一対一で遊ぶのよ。あなたなら勝てるわ> <赤井猛をやったようにか……やめてくれ。ぼくは人殺しじゃない。ぼくはこわい。すべてがおそろしい。ぼくをとりまくすべてのものが。空気が水のようだ。肺が水びたしになって息ができない気分だ……ねっとりとしたものがまとわりついて身動きがとれない>  麻美は小さなショルダーバッグからハンカチを出してぼくの額の汗をふいた。 <やめてくれ……ぼくにかまわないでくれ。ついてくるなよ> <あら> 麻美はかすかな侮蔑をこめて笑った。 <わたしはあなたを追いかけて出てきたんじゃないわ。あなたって、周りのものがみんなあなたを中心にして回っていると思っているのね。あなたなんか、その他おおぜいのなかの一人にすぎないわ>  ぼくはひょうしぬけして麻美を見た。 <じゃあ、なんでこんな時間に予備校を出てきたんだ> <早紀のところへ行くの。きょう休んでるでしょう> <早紀? そんな生徒いたかな> <同じクラスじゃない。いつも顔を合わせてるのにわからないなんて、あなたらしいわ>  バスがきて、焼けた道を走りだす。タイヤが溶けないのが不思議だ。乗客はぼくら以外はみんな大人で、とろんとした眼をしている。熱を加えられた卵のようだ。ぼくは遠ざかってゆく予備校の道に月子がいないのをたしかめて、息をつく。 <早紀……そうか、あの娘か。おとなしい仔羊という感じだ。色白の、しとやかな女……あんな真面目そうな娘がきみらの仲間なのか> <ばかにしないでよ。はなもちならないいいかたね。それがあなたのいいところなんだけれど。そうよ、早紀は真面目よ、あなたと同じくらいに。だからおもしろいの。わたし、彼女の身体をつかって遊んだことがある。彼女の身体をわたしが操って、男とデートするの。見かけは早紀なんだけれど心はわたしなのよ。それでね、彼女、妊娠しちゃったらしくて。そのショックできょう休んだんだわ> <なんてことをするんだ> <これも遊びよ。ゲームだわ。弱いものを狩り立てて殺す。これがゲームの語源なのよ。知らなかった?> <妊娠してるって?> <三週間くらい。大人の女にはわからないわ。でも感応力があるから、子宮のなかの異質なものをとらえることができる。でも早紀の場合はね、想像妊娠なの。彼女は本気だけど> <きみが……そうさせたんだな?>  麻美は顔に笑みをうかべて、心をとざした。 <きみの目的はなんだ> <わたしはあの男が憎いの。尾谷というインテリぶった男。いつか破滅させてやる>  バスが市の中心街に入る。 <ここで降りない? 家に帰って一人で自分を慰めるなんて時間の浪費よ。降りましょう>  麻美の精神感応には妙に催眠的な力があって、ぼくは逆らえない。麻美のいうとおりだ、あんな陰気な家にもどって部屋にとじこもってなんになる、と思う。  街はそうぞうしい。なぜこんなにたくさん人間がいるのか。シャベルでさらってどこかに捨ててやりたい。 <あなたもこのなかの一人じゃないの>  麻美はぼくの心を盗み読んで皮肉った。 <ぼくは思っているだけさ。きみのように現実に切り込んだりはしない>  市民公園へ足をはこぶ。昼休みのサラリーマンがキャッチボールで汗を流しているのをながめる。見るからに暑い。市民館前の広場の噴水はすずしそうだ。でもコンクリートの照りかえしが白くまばゆい。そこで高校生か中学生か、ローラースケートで遊んでいる。 <あれは大人よ>  麻美のいうとおりだ。やつらは大人だ。高校生の年齢で感応力を失った者たち。くったくなく遊んでいる。そのなかの一人がぼくらを予備校生と見抜いたように軽蔑の精神波を放つ。ばかな連中だ。軽蔑されるべきはやつらのほうだ。しかしぼくの心は連中には通じない。 <おちこぼれのくせに> <そうかしら。あなたよりずっとまともだわ> <きみよりも、な> <わたしは子供でいるのに飽きてきてるの。肉体だけの存在になるのは不安だけど、大人になるってことに興味がないわけじゃない。あなたとわたしとはちがうわ> <じゃあさっさと大人になっちまえよ> <まだ感応力で遊んでいたいわ。わたしはあなたみたいにくよくよ悩んだりはしない。感応力がつかえるうちに、やりたいことをやるの> <赤井を殺したようにか> <彼を殺したのはあなたよ>  ぼくらは公園のなかの木陰のベンチに腰をおろす。 <そうしむけたのはきみじゃないか> <他人のせいにするのはよしなさいよ>  麻美はバッグからシガレットケースをとり出し、煙草を一本くわえ、細身のライターで火をつけた。 <あなたもする?> <いや。煙草は感応力を弱める。きみはよく平気で吸えるな。早く大人になりたいのか?> <子供なのね、三日月さん>  ぼくはむかっときて麻美の吸っている煙草の先端を指ではじきとばした。麻美は肩をすくめてあらたな一本をケースから出した。それをくわえて火をつけようとしたとき、中年の女がぼくらの前に立って、言った。 「あなた、未成年でしょう」  麻美は煙草を口にしたまま上目づかいで女を見る。 「そうさ」とぼくがかわりにこたえてやる。  麻美は無表情に火をつけて、吸い、大量の煙を中年女に吹きつけた。 <この女、少年課刑事かな> <まさか。ただの補導員でしょう。ご苦労なことだわ。ばかみたいねえ、これで子供より高等だと思っているんだわ。ほかに自分の存在価値を示す手段を知らないのよ。「ごめんなさい、わるかったわ」っていう台詞を子供に言わせるのを楽しみにしている、あわれな大人よ>  麻美はバッグから身分証を出して中年女に見せる。 「わたしは十九よ。煙草は十八から吸っていいはず。わたし、そんなに子供っぽく見えるかしら」 「予備校生の喫煙は禁じられていること、知っているわね」 「どうしてわたしが予備校生だってわかるのよ」 「あなた方、ずっと黙っていたじゃないの」 「おどろいた。だから、予備校生だっていうの? ほら、身分証よ。予備校のじゃないわ。わたしはあそこで働いているの」  中年女は身分証をとって、それから麻美の指さすビルをふり仰いだ。そしてもう一度身分証に目をやった。 「尾谷法律事務所ですか」 <尾谷って、例の男か? 早紀の相手の> <わたしの、よ。彼に身分証を作ってもらったの。もらってるのはそれだけじゃないけど。生臭い男だわ。チャンスがあればどんな女だってものにするっていう男> <ようするにきみはそいつにかこわれているってわけか。信じられないな> 「わかったらそれを返してくださらない? わたし、忙しいのよ。あなたも忙しいんじゃなくて。まだ疑うなら電話をかけたらいいわ。たかが煙草くらいのことであなたもたいへんですのね」 「ごめんなさいね」  中年女は身分証を返した。麻美はバッグに放り込む。 「ごめんなさいね、か。子供ばかり相手にしているから口のきき方までそうなるのね。あなた、お名前は? ほんとに補導員の資格をもってらっしゃるの?」  中年女はむっとした表情になったが、すぐにつくり笑いでごまかした。 「申し訳ございません。めったにまちがえたりしないのですが」 「煙草を吸ってもいいかしら」 「どうも失礼いたしました」  女は一、二歩あとずさって、歩み去った。麻美は煙草を足下におとし、踏みにじった。 「わるい子供だな」ぼくは麻美の冷たい横顔に言う、「きみこそ少年課の刑事に捕まればいいんだ」 「わたしは子供じゃないわ。捕まるようなへまはしないわよ」 <子供じゃないって? 大人でもないだろう> <わたしは女よ> 麻美は立って、うんと伸びをした。「アイスクリームでも食べようか。子供っぽい恋人どうしみたいに。おごったげる」  ぼくの返事を待たずに麻美は公園を抜けて通りにあるアイスクリームショップへ行く。 <どんな男なんだ、尾谷って> ぼくはベンチに腰かけたまま訊く。 <——フムン、いい男なんだな> <頭はよくないわ> <頭がわるくては弁護士にはなれないだろう> <記憶力はいいわ。それだけよ。記憶力だけではせいぜい三流の弁護士にしかなれない。記憶力だけが重要なら、コンピューターのほうが頼りになる。——なにがいい?> <え?> <わたし、ナッツの入ったのにする。ストロベリーにしようか> <なんでもいい>  ぼくはベンチに腰かけたまま麻美を待った。手で顔をあおぐ。暑い。酸素が不足している。頭がぼんやりしている。木陰を街の騒音がふきぬけてゆく。気のはやい中元商戦の音、レコード店の歪だらけの曲、人人の声の重なり、車の排気音。精神雑波。それから、選挙宣伝らしい人名の連呼。市長選だ。ぼくには関係ない。予備校生には。 <こっちにこない?> <うん>  ぼくは腰をあげる。木陰から出たところで、テレビ局のインタビュアーが市長選について取材しているのに出くわした。なにやら不正事件で前市長がリコールされたあとの熱い選挙だってことは、ぼくも知ってはいた。でも興味はない。大人たちのやることだ。だれが市長になろうと薄汚さは変わるものか。  ハンディ・カメラを肩にしたカメラマンを従えた男性インタビュアーが広場を通りかかった若いカップルをつかまえてあれやこれや訊いていた。ぼくはそのカップルの精神波がお互いに同調していないのに気づいて、足を止めた。 「ご夫婦ですか」とインタビュアー。 「そうよ」と女。  夫婦だって? 赤の他人どうしよりも感覚的にずれているじゃないか。この二人はそのことに気づいているだろうか。 「どう思われますか、今回の市長選を」インタビュアーがマイクをカップルの方に向ける。「保革一騎うちとなりましたが」 「さあ」と男が言う。「開けてみなくてはわからないな」 「新市長に望むことは」 「たいして変化はないと思うね」 「奥さまはどうですか」 「奥さま?」女が照れたように口元に手をやって笑う。「初めてだわ、奥さまって言われたの」 「ご新婚で? そうですか。新しい生活をはじめるにあたって、新市長にこれをやってほしいという要望があると思いますが」 「そうね、物価は高いし……福祉に重点をおいてもらいたいわ、ね、わかるでしょう、もしこの夫《ひと》が死んじゃったら困るわ、わたし、そうでしょ、女ひとりっていうのは不利なのよね、いまの世の中って、夫に先立たれたら困るわ、とっても、わたし生きていけないじゃない」 「はあ」  インタビュアーは洪水のような女の言葉に生返事をして、女が一息ついたところでさっとマイクをひき、ありがとうございましたと言って逃げた。ぼくは立ち去ろうとしたが、まにあわなかった。インタビュアーはぼくを見つけて、ほっとしたように近づいてきた。あのおしゃべり女から逃げ出せるなら、ぼくでなくてもだれでもよかったんだ。男はぼくをつかまえて、言った。 「きみたちはどう思うかな」 <きみたち?> ぼくは麻美がわきにいるのかと思って、背後を見る。 <——月子。いつのまに?>  月子がぼくのすぐわきに立っていた。ぼくは寒気を感じる。膝のへんが冷たくなる。月子はぼくの行くところ、どこまでもついてくるだろう、まるで背中におぶさった貧乏神のように。そんな気がした。  インタビュアーはぼくが表情をこわばらせたのをマイクをつきつけられて緊張したのだと思ったらしい。男はぼくを見下した精神波を出し、マイクの向きをぼくから月子のほうにかえた。マイクを見せびらかして。これさえあればだれもが自分に従うにちがいないとでもいうように。  月子はしかし、口をひらかなかった。黙ったまま突っ立ち、インタビュアーを無表情に見つめる。  インタビュアーはちょっとたじろぎ、マイクを握りなおした。 「市長選のことだけど。きみたち、予備校生か」  そうだとぼくは言いかけて、やめた。なんだかむしょうに腹がたった。このインタビュアーは虫がすかない。こいつの傲慢さは、子供など人間ではないという大人特有のものだ。 「いや」とぼくは言った。 「選挙権は」 「煙草は吸えるさ」 「予備校生だろう。そんな気がするけどな。市長選には興味はないね?」 「大人たちのばかさかげんには興味ある」  ぼくは自分が吐いた言葉に自身でおどろく。 「ほう、たとえば」 「そうだな、そうさ、さっきのあの若奥さんのこととか」  インタビュアーはぼくに報道につかえるようなこたえは期待していなかった。マイクをおろし、テープレコーダを気にしている。そろそろひきあげてアイスコーヒーでも飲みたいといった様子だった。何様のつもりだ、こいつ。 「ああ、あのひとね」 「利己的な大人の見本のような女だ」 「どうして。市長選についてのこたえにしては少しピントがずれてはいるが、福祉充実は正論じゃないか」 「あの女」とぼくは言ってやった、「自分は死なないと思っている。夫よりも自分のほうが長生きするって信じて疑わないんだ。いつ死ぬかわからないってのに、夫の死んだあとのことを心配をするなんて笑わせるよ。命を保証してほしいと市長に頼むべきなのにさ」 「フム、しかしきみ、人はだれだって、自分は生きつづけると仮定しなければ——」 「あの女、自分が夫より先に死ぬってことがわかったらどんな顔をするかな。見ものだ」 「なにを言っているんだね、きみは。そんなことはだれにもわからないじゃないか」 「そうかな。あの女、長くはないよ」  ぼくは笑った。自分の笑い声にぎょっとする。 「なんだって?」インタビュアーが真剣になる。「亡くなるとでも?」 「知るもんか」 「きみには予知能力があるのかい」 「予知能力なんかぼくは信じないね。予備校生にだってそんな力はない。あなたはそんなものを信じるのか? 失せろよ。時間どろぼうめ。アイスクリームがとけちまう」 「アイスクリーム?」  ぼくは麻美の姿を探しに、公園を出ようと歩きだす。そのときだった。公園出口の近くで悲鳴があがる。車の急ブレーキの音かもしれない。一瞬風がやみ、真空に放り出された気分になる。周囲の精神雑波が凍りついたようにパターンが固定される。ぼくの頭がかっと熱くなった。  インタビュアーがはっとわれに返りマイクをとる。ぼくのことなどもう忘れて駆け出してゆく。だれか、車にはねられた。あの女だ。ぼくは確信する。  事故現場はせまい裏通りだった。キャブオーバーバンが道を斜めにふさいで止まっている。ロックしたタイヤのブレーキ跡が黒黒と路上についている。五メートル以上はなれた歩道にあの若妻がいた。まだ息はあった。だが長くはないだろう。歩道の鋭い敷石の角に打ちつけられた頭部が裂けて、白いものが露出している。血生臭くはなかった。なんだかとても滑稽だった。夫がぼうぜんと妻を見下ろしていた。見かけはそうだったが、心は暗算している状態に似た忙しさだった。男は後悔していた。損得の計算だというのがわかる。宝くじを買いそこねたときと同じ種類の悔しさだ。この夫は妻の死を悔んでいるのだが、悲しんではいない。彼はこう思っていた。  生命保険をたんまりかけておけばよかった。 <そうね、あの男がそう思っているのはまちがいないわ>  麻美だった。とけかかったピンクのアイスクリームをぼくは受けとった。 「びっくりしちゃった。いきなりなんだもの」  ぼくはアイスクリームの甘さに吐き気をおぼえる。 <麻美、きみはこの事故を見たか。おきるところを> <ええ。あの女、だれかに突きとばされたみたい> <だれかに、殺された?> <——月子っていう、あの転校生に似てたわよ。気のせいかな。幻みたいに消えちゃったもの> <……幽霊のように姿が薄くなって消えた?> <ばかねえ、いまのは精神感応イメージよ。車が突っ込んできて、動きがとまって、それで周りを見たんだけど、月子に似た女はもうどこにもいなかったわ> <その女は月子だ> <どうしてわかるの> <さっきぼくのそばにいたんだ> <じゃあ、そうなんだわ。どうでもいいじゃない。行きましょうよ。ばかげたショーだわ>  ぼくはさきほどのインタビュアーが人混みのなかからぼくを捜している精神波を感じて、そこをはなれた。 「いやなものを見ちゃった」  麻美はそう言いながらアイスクリームをなめる。ぼくは公園の植込みにアイスクリームを投げ捨てる。 「あら、せっかくのプレゼントなのに」 <月子が殺した。きみはなんとも思わないのか>  足早に公園ぞいの道を表通りへ歩く。麻美は小走りに追いかけてくる。 <関係ないじゃないの。あんな大人の一人や二人、感応力で殺すのはわけないことだし、月子だって捕まったりはしないわよ。なまいきな大人なんか、わたしだって——> <殺してるのか> <わたしならそんなことはしないな。殺したっておもしろくもなんともないもの。——どうしたのよ、なにをこわがってるの?>  ぼくは心を麻美に読まれまいとしたが、心をとざす集中力がわかない。 <あの女は月子が殺した。たぶん、月子にそうさせたのは——ぼくなんだ>  麻美はぼくの腕をとり、ぼくをまじまじと見つめながら、ぼくの心を探った。 <月子って、あなたの分身かもしれないわね> <ちがう……きみにも見えるし、インタビュアーも見ている。幻であるはずがない> <わたしには経験ないけど、そういう幻を生む能力のある感応力者がいるっていう噂をきいたことがあるわ。たとえばね、あそこに歩いている二人づれ>  麻美は目で大通りの人の波をさす。十七、八の娘が幼い女の子のようなドレス姿で手をつないで歩いている。 <彼女たちの一方は実在しない人形かもしれないわ。感応力で生んだ幻かもしれない> <そんなことはない……二人ともはっきりと独立した精神波を出している> <もし月子があなたの生んだ幻なら、ばかな若妻を殺したのはあなたってことになるわね> <やめてくれ>  ぼくは事故現場の方に心を向けた。はねとばされた女の精神波がまだ感じられた。  どうしてわたしが? 死にゆく女の精神波はそう問いかけているようだった。その波がだんだん快楽波に似たものに変化してゆく。 「死ぬのって、気持よさそうね」  麻美はそう言ってアイスクリームをなめ、ぼくに差し出した。 「好きよ。あなたが」 [#改ページ]       5  ぼくはテレビを見ている。大きいテレビ、小さいテレビ、色さまざまの、乱れた虚構世界に向いたガラス窓。長椅子に腰かけているぼくの身体は、テレビに照らされて青や黄や赤になる。電気屋の奥のここはうす暗い。麻美がくれたアイスクリームの甘さがまだ口に残っている。麻美はどうしたろう。思い出せない。テレビがうるさくて。音声は消してあってとても静かなのだが、でもうるさい。テレビセットの内部から出る高周波音だ。キーン、とも、チーとも聞こえる、二〇〇〇〇ヘルツに近い音。おとろえた聴覚では聞こえないだろう。でもぼくには聞こえる。かなり大きなレベルの音だ。人の声くらいの周波数だったら耳をふさがなくてはがまんができないほどに。聞こえないからといって安心してはいけない。感じられないものは存在しない、というわけではない。そんなことがこの世にはたくさんある。あたりまえのことだ。たとえば、大人の立場での感応力。大人には感じられない。大人は感じられないものは無視しようとする。このテレビセットの高周波雑音のように。ぼくには聞こえる。この音は鋭い剣のような指向性をもっていて、ぼくの頭を貫こうとする。ぼくは頭を振る。するとたくさんのテレビセットがいっせいに宙に浮いて踊るようだ。  ぼくはテレビを見ている。キャブオーバーバンにはねられた女が映ればいいと思う。月子に突きとばされた女の姿が。ぼくが求めているのはしかしその女ではない。月子だ。月子はぼくには感じられた。麻美にも。でも、テレビカメラはどう反応したろう。レンズも幻を感じるだろうか。  ぼくは月子を感ずる。感ずるからといってそれが現実だとはかぎらない。よくあることだ。錯覚。坂を上ってゆく球、つかめない三次元実像、テレビのなかの生活。  テレビの前に月子が立っている。テレビから出てきたように。重なって、おおぜいの月子。目をしばたたくと一人の月子になる。  並ぶテレビの明るい壁に月子の姿がミッドナイトブルーの影になってうかびあがる。ぼくは長椅子から隈をあげて月子のうしろに近づき、腕をとる。 「どうしてぼくにつきまとうんだ」  月子が振り返る。ちがう。ちがう女だ。おびえた表情でぼくを見つめる。ぼくはあわててその女の腕をはなし、あやまる。 「すみません。人ちがいでした。よく似ていたものですから」  女は立ち去る。ぼくは息をつき、テレビを見るために長椅子にもどろうと振り返る。  月子はそこにいた。ブルーのワンピース姿にテレビの色をうつして。足を優雅に組み、煙草を吸っている。一瞬、麻美かと思う。 <わたしは月子。麻美じゃない>  テレビの方を見て月子はそういった。 <月子……きみはあの女を殺したのか> <いけなかった? あなたが望んだとおりのことをしてあげたのよ。どうして怒ってるの?> <怒ってなんかいない。ぼくは怖いのさ。麻美もきみもどうかしてる。人殺しじゃないか> <あなたも、ね>  月子はゆっくりと頭をめぐらせて、顔の正面をぼくに向けて、ぼくを見すえた。ぼくはその視線に吸い寄せられる。長椅子にもどって、腰をおろす。月子は煙草を持つ手を灰皿に伸ばした。ぼくは月子の腕に触れる。腕はたしかにあった。女の肉の感触が。 「なんの真似?」煙草を捨てて月子が言った。 「刑事なのか? 少年課の」 <刑事は人殺しはしないのではなくて?> <フム。そうか> <人を殺すなんて、どうということはないわ。怖がることなんかないわよ。刑事が人を殺さないのは、彼らが大人だからよ。大人には完全犯罪はできないわ> <つまり……ばれるから殺さないっていうのか? 見つからなければ殺してもかまわないと?> <そう。立証できない犯罪は犯罪にはならない。それが彼らのルールよ。五官で感じられないものは存在しないとする、そういう世界だわ。もちろん、そうなのよ。そうでなければ社会はとっくの昔に消えてる> <でも、ぼくには感じられる。きみはあの女を殺した> <あなたは赤井くんを> <あれは事故だったよ> <あの女も交通事故だったわ>  ぼくは黙る。 <大人にとっては> と月子はいった。 <赤井くんのことも例の女のことも、彼らの現実内で処理するわ。あなたが信じていること、あなたやわたしが人を殺したということは、彼らにとっては幻想世界の出来事よ。異次元の事件といってもいいわ。彼らにとっては現実はひとつしかない> <現実はひとつだ> <いいえ> <いいえ? おかしいよ、現実はひとつだ> <あなたは優等生だわ。よく教育されている。現実はひとつだと思い込ませるのがいまの教育なんだわ。そのほうが大人にとってつごうがいいからよ> <大人たちにとって現実はひとつだっていったな> <そう。言葉によって成り立つ世界。言葉があるから大人たちは存在できるのよ。地域や社会や国や世界は言葉があるから崩れずに保たれている。それらの組織を支えているのは人間じゃない。言葉よ。人間なんか必要ないわ。人間がみんないなくなっても、言葉さえあれば大人の世界は成立するわ> <それは……どうかな。言葉は人間がしゃべるものだから、人間がいなくなれば——> <言葉を生む機械だってあるわ。人間がいるから言葉があるのではない。言葉があるから人間がいるのよ> <言葉は神だと?> <言葉は寄生虫のようなものだと思うわ。もしかしたら異星生物かもしれない。侵略虫かも。言葉は大人という宿主を操って、彼らにつごうのよい現実を創っているんだわ。その現実からはみだしている、子供の世界は認めないの。言葉がなくなれば、たぶん時間も空間も消えてしまうと思う。あとに残るのはなんにもないか、多元の現実か、どっちか。感応力をもたない大人にとっては無になり、感応力者にとっては自在に生きられる多次元の世界になる> <フムム……そういうことはぼくも考えたことはあるけど> <大人は言葉に操られているあわれな生き物よ。あなたはそうではない。あなたは大人が決めた現実の殻に閉じ込められることなんかないのよ。いい、三日月、子供というのは、感応力者は、全部まとめてひとりなんだわ。つまり、あなたもわたしも、みんな私よ> <ぼくの意識は……ぼくのものだ> <そんなの錯覚だわ。言葉のない世界では�あなた�も�わたし�もないのだし、ぼくのもの、などというのもない。あなたが自分のものにできるのはなにひとつない。自分のもの、などというのは宇宙の原理に反する。それは言葉が生んだ錯覚よ。大人たちは言葉に操られて、自分のものと他人のもの、自分とその他を区別させられているんだわ。本来そんなものはないの> <信じられない——証拠はあるのか> <証拠ですって?>  月子は声をたてずに笑った。精神波をふるわせて笑う。その高い振動は、言葉というものでがっちりと構築された現実にくいこんで、現実と現実の間につまった埃を追い出すかのようだった。月子がぼくの手に手を重ねた。ふっとぼくと月子の手がひとつになる。 <わたしはあなた自身なのだし、あなたは、そう、麻美でもあるの。麻美の精神波を捕まえた。同調してみようか>  ぼくはテレビを見ている。テレビの輝度がまして、まぶしさのなかにぼくはとけこむ。  わたしは三日月くんと別れたあと、早紀の精神パターンを心のなかで思い出し、強くそのパターンを放射する。早紀に会いたい。あの娘の魅力はいまにもこわれそうな繊細な心だ。ちょっと刺激するとゼリーのようにふるえる。食べてしまいたいくらいにかわいい。  早紀はいつもびくびくしている。十九をすぎてからいっそうひどくなった。早紀が十九になったとき彼女の家族は盛大に祝った。もうすぐ大人になるからという理由で。早紀が感応力を失って大人になったなら、彼女の家ではもっと大きな祝いをやるだろう。女として一人前になったとき以上に喜ぶだろう。だけど早紀はその日がくるのを怖れ、おののいて、わたしに頼り、わたしとつれそい、忘れようとしている。大人になることを。わたしには早紀の気持がわからないでもないけれど、びくびくしている彼女を見ていると、とてもかわいそうで、抱きしめてやりたくなる。いずれだれだって大人になるんだわ。わたしは怖くなんかない。早く大人になりたい。子供っぽいのはいや。  早紀はいじめがいのある仔羊だ。彼女はいじめられるのを快く思っている。わたしがそっけなくするほど彼女はますますわたしを離そうとしない。ああ、かわいい早紀。いつかあなたを悩みから永遠に解放してあげるからね。あなたが絶望で自殺しちゃう前に。  わたしは精神波を弱めて、電話をさがす。郵便局の前のボックスに入って、早紀の家にかける。早紀が出た。 「はい?」と早紀。 「わたしよ」とわたし。 「なあに、麻美。 <どうして電話なんかでわたしを?> まさか麻美、あなた、大人になったんじゃ」 「そう思う?」 <麻美、麻美、返事をして> 「あなたの精神声なんか聞こえない」 「そんな——いつ大人になったの……いやだ、麻美、 <いじわるなんだから> 」 <ばかねえ、早紀、泣かないで> <麻美と精神会話ができなくなったら、あたし……どうしていいかわからない> 「もう長くはないわ。予感するの」 「うそでしょ」 「早紀、出てこない。家にとじこもっていては身体に毒よ」 「そうね。いま、どこ」 「合歓《ねむ》で待ってるわ」強姦のイメージ。 「わかった。すぐいく」  わたしはボックスから出てぶらぶら歩き、喫茶・合歓の階段を上がる。重いドアをひらくとコーヒー豆を妙るいい香り。ふかふかのソファに身をしずめて、早紀を待つ。紫檀のテーブルがシャンデリアのきらめきを映している。  早紀はすぐやってきた。わたしは煙草をすすめる。早紀は首をふる。 「どうして吸わないの?」 「感応力がなくなるといけないから」 「三日月くんみたいなことを言ってるわ」  ウェイトレスに、「エスプレッソ」と早紀は注文して、 「三日月くん?」 「ええ。おもしろい人だわ。純で、あなたみたい。でも三日月くんは男だものね、妊娠はしないわ」 「わたし……どうしたらいいかしら、麻美」  いつまで処女でいるつもりかと言って早紀をそそのかし、尾谷の相手をさせたのはわたしだ。わたしはそのとき、早紀とテレコイッスをしていた。ぬけがらになった早紀の身体は尾谷にもてあそばれた。それはただ肉だった。尾谷は早紀の精神のない身体を曲げたりひっくりかえしたりして、満足したようだった。あの男は屍体とでも満足するだろう。 「身体のことなんか心配しないほうがいいわよ。なるようになるんだから」  早紀は妊娠している。でも早紀が孕んでいるのは赤ん坊ではない。早紀のなかにはメランコリイの種が育っている。植えつけたのはわたしだ。だんだん大きくなっていて、もうすぐはじけとぶ。 「でも、麻美」  わたしは尾谷に大人の遊びを教えてもらった。なんてささやかな楽しみなのだろう。大人の快楽なんて。尾谷がへたなんだわ。もうあんな男は飽き飽きだ。あんな男にまだ価値があるとすれば、死の直前の恍惚感だけだろう。でもあの男の恍惚感なんてうすぎたない。わたしは早紀のほうがいい。 <麻美……あなた、どうしてあたしにやさしいの> <あなたの女神になってあげたいの。満月の夜にあらわれ、大人になりたくないメランコリイ娘の頬に、やさしくキスする。翌朝娘は全快しているの> <冷たい骸になって?> <メランコリイから解放されるの>  アップルパイをつつく。ラムをちょっぴり入れたシロップをかけて。早紀はエスプレッソ。ブラウンのガラス窓の下を雑多な精神波が通りすぎてゆく。 <ね、麻美、さっきからあたしたちの方を探っている男がいるの、知ってる?> <ええ。外を見ていなさいよ。若い男なんかほっときなさい。つき合っても面白くないもの>  わたしは早紀の肩ごしにうかがう。浪人ではない若い高校生が三人、談笑している。平然と仲間と話しながら、頭では早紀を犯している。若い。強い精神波だ。ねっとりとしたいやらしい波を早紀にからませているのがわたしにはよく感じられる。早紀の感応力はそれをはねのけるだけの力がもうない。  餓鬼のくせになまいきだわ。わたしは手元の煙草をとり、一本くわえて火をつけ、それをポイと彼らの方にほうり投げる。一人が振り返った。リーゼントヘアの、でも似合わないむさくるしいにきび面がこちらを向いた。わたしは燃える怒りをそのうすぎたない頭にたたき込む。針のシャワーが彼の精神中枢に命中するのが見える。視覚ではないのだが。虹のシャワー。つっぱり高校生は腰をうかせて腹をおさえ、茶色の液体を吐いた。わたしは手かげんはしなかった。じっと見つめて、もう一撃。坊やは床につっぷした。白目をむいて床のカーペットをかきむしる。息ができないのだ。わたしの怒りは彼の意識をつきぬけて本能層に達する強烈なものだった。自律神経が麻痺してずたずたになる。仲間の二人の高校生は蒼い顔で犠牲者を助け起こす。ウェイターがやってくる。大丈夫ですか、とウェイターが腰をかがめて様子をみる。高校生仲間のひとりがわたしをうかがう。わたしはウィンクしながら、白目をむいてもがき苦しむ餓鬼にとどめの一撃。ごぼ、といういやな声といっしょに彼は泡を吹く。 「早紀、出ようか」  わたしは早紀をさそって、立った。わたしがいためつけた坊やは身を硬直させていた。そのわきを通りぬける。高校生の仲間が道をあける。ウェイターが救急車を呼ばなくては、などと迷惑そうな声で言う。 「自分の顔を見てひきつけをおこしたんじゃないの、この子。ほら、あなた」わたしは突っ立ったままなにもできないでいる仲間のひとりに声をかける、 「友だちの口になにかかませないと舌を噛み切って死んじゃうわよ。もう息が止まっているかも」 「あんたが……やったんだ。死んだらどうするんだよお」 「あたしの友だちじゃないもの。関係ないわ。あたしがなにをしたっていうのよ。ばかにつける薬はないわね。言いたいことがあるなら頭でいってごらん。なにもできないくせに大きな口をたたくと、頭が爆発しちゃうわよ」  気の弱そうな少年は頭をおさえて後ずさる。  わたしはレジへ行く。店内の大人たちはなにが起こっているのかぜんぜんわかっていない。癇癪もちの少年が突然発作をおこして倒れた、ただそれだけのことでしかないのだ。結局のところ、大人たちには真実なんて見えっこないんだわ。誰かが言ってたっけ。真理は、表現することはできても知ることはできない、と。この言葉を吐いた人間は真実を知っていた。少年かもしれない。でなければ最高の感応力をもっている少年に匹敵する感受性の持主。現在《いま》そんな大人なんかいるわけがない。だから口をぽかんとひらいて騒がしい方を見るだけで、わたしに注目しようとはしない。彼らにはわたしが見えないのだ。  この世には異なった二つの世界が同時に重なって存在している。大人たちに見える世界と、大人にとっては識閾下にあるわたしたちの世界。子供は成長すると、それまでとは異なる世界へと移行するのだ。空間的には同じ場所でも、大人と子供は別別のものを見、別別のものを聴き、別別のものを感ずる。大人と子供は別の生物なんだわ。子供はそれを疑わない。だけど大人になるとそれを忘れてしまうらしい。本当に忘れてしまうのだとすると、子供のほうが視野が広く賢いようにあたしには思える。  でも、それがどうだというの。わたしは愚かになるかもしれないなどと不安になったりはしない。早く大人になりたいといつも思っている。予備校生だね、と子供あつかいされるのはたまらなく嫌だ。大人になったらいままで見えていたことが感じられなくなる。それがもし馬鹿になることだったとしても、わたしは馬鹿な自分に腹をたてたり嘆いたりはしないだろう。わたしはどうなろうとあたし自身なのだもの、唯一の自分を受け入れる他になにができるというの。早紀にはこういうわたしの気持が理解できない。あまりに純だから。他の世界を受け入れるほど寛容にはなれないのだ。大人になるということがとても素敵なことだったとしても、早紀は同じ態度をとるかもしれない。彼女は変化を恐れる。いつまでも同じでいたいと思っている。かわいそうな早紀。あなたの願いをかなえる方法はひとつしかない。  いいわよ、早紀。わたしはあなたの女神になってあげるわ。あなたが大人にならないうちに。  わたしは早紀の分も払って合歓を出る。 「電話、しようか」 「え?」と早紀。 「電話よ。尾谷に。もう一度会うといいわ。あなた肉体を嫌悪してるからだめなのよ。慣れればよくなるわ。メランコリイも治るわよ」 「だって、わたし——」 「いいことを教えてあげようか。尾谷はね、パイプカットしてるの。妊娠するわけないわ。それとも他の男としたの?」 <……いいえ……どうしていままで心をひらいて教えてくれなかったの> <教えたじゃないの。尾谷に会わせる前に。ちゃんといったわ。でもあなた、妊娠するはずがないとわかっていながら、自分の肉体を破滅させたいばっかりに、妊娠を信じたんだわ。あなた、どんな子を生むつもり? しわくちゃの老婆?> <やめて、麻美> 「尾谷に会いなさい、早紀。メランコリイを治してくれるわ、あの男。とてもうまいもの。セックス療法はよく効くわよ」 「だけど……いやよ、やっぱり」 「無理にとはいわないわ。わたしはどっちでもいいの。ね、三日月くん、知ってるでしょう、あのひと、わたしに気があるみたい」 <どういう意味よ……麻美、わたしを捨てるつもりなの?> <捨てる? どうしてよ。わたし、あなたを拾ったおぼえはないわ。拾わないものを捨てることはできないでしょ> <尾谷と会えば……機嫌をなおしてくれる?> <わたしはいつも上機嫌よ。ね、早紀、あなたもいつまでも聖少女ではいられない。脱皮しなくちゃ。練習するには尾谷はいい男よ>  わたしは尾谷のところへ電話をかける。尾谷はすぐにのってくる。ばかな男。七時に、豆の樹で。いいよ、と尾谷は言う。 「大丈夫よ、早紀、わたしがついていてあげるから」  じゃあね、といって別れる。  わたしの部屋は紅い。深紅の絨毯に朱のカーテン、ピンクのベッドカバー。天井は白いのだけれど、照明をつけると赤くにじむ。  六時前、厚いカーテンを引き、明りをつけてベッドに腰をおろし、本棚を見つめる。詩集、漫画、絵本、教科書、文芸書、文庫本。みんな幼稚だ。知りたいことはなにひとつ書かれていない。男と女のこと、恋と別れ、経済学、心理学、数学、分子生物学、ギャグ漫画、アクション、スリラー、サスペンス。大人の世界がもしもここに書かれてあるとおりなら、大人になったほうが生きるのには易いだろう。だけど本当にこのとおりであるわけがない。言葉ではなにもわからない。心に直接わたしに大人の真実を伝えてくれるものはなにもない。大人になれば感応力はなくなるのだし、子供には大人のことはわからないのだから。  それでもひとつだけ本にも使い道がある。好きな色、模様のカバーをかけて、壁いっぱいの本棚に並べ、モザイク模様をつくること。いまの模様は蝶だ。本棚に大きな蝶が一匹、羽を広げている。金、銀、青、緑、黒。基調はやっぱり赤。鱗粉をきらめかせて、いまにも飛び出してきそう。  父や母はわたしのこの部屋を悪趣味だ、なんとかしろ、と言う。まともな娘の部屋ではないと言う。だけど、大人たちにとって、感応力の失せていない娘がまともであるはずがないのだ。わたしが大人をよく理解できないのと同じように、父や母もわたしを理解できるはずがない。理解できる、自分の娘だから娘自身よりも娘のことはよく知っている、知らなくてはならないと、思い込んでいる両親の姿は気の毒なくらい不様だ。  早紀は、わたしの部屋はいかにもわたしらしい、という。直接この部屋を早紀に見せたことはない。精神視覚で早紀や赤井くんや仲間たちにわたしの城を紹介してやったことはある。肉眼の視界とはちがう。わたしがみんなにこの部屋のことを伝えるとき、現実以上にこの部屋はわたし自身のものになる。わたしの心、わたしの願い、わたしの望み、わたしの理想、それらが付加されて、わたしの真実がみんなに伝わって、みんなはだから、この部屋を素敵だというのだ。わたしを理解し、わたしの心を美しいと感じる人間は、わたしの心を通したすべての雰囲気を快く受け入れる。  早紀の部屋を同じ方法で見せてもらったことがある。彼女の部屋も、たしかに彼女らしい。さわやかな緑の印象にあふれている。触れればもろく崩れてしまうような。触れるのがためらわれるほど繊細だ。すきとおるようにやわらかい若葉の向こうに朝日があって、みずみずしくゆれている。きらめく水滴がつと葉を伝って、わたしの唇におちてくる。若葉はだけど、不透明なたくましい緑、太陽を直に浴びてもびくともしない厚い色にはなりたがっていない。朝日が高くなり、強い光の圧力を放射するようになるのを、早紀はおそれて、ふるえている。かわいそうな早紀。いとおしく、純な早紀。だからわたしはあなたが好き。  早紀の部屋は華麗だ。疲れきって、うめいているような分裂的な華やかさがある。猫や小型犬や熊ちゃんやネズミがいる。ぬいぐるみたちはみんな生きている。とりわけ早紀が気に入ってるのはカモメのぬいぐるみだった。早紀のカモメには翼がない。早紀のもとから飛んではいかないという証しに、カモメが自らの翼をおとした。だから早紀はこのカモメを大切にしている。このカモメは雌。ジャスミンという名まえ。ほんとに、早紀らしい。  わたしは早紀をからかって、狸のぬいぐるみをプレゼントしたことがある。二個のボンボンがちゃんとぶらさがってる、あれ。早紀はありがとうと言い、受け取ったけれど、あとで見せてもらったら、ちゃんと雌狸に変身していた。きっと、狸自身が早紀の心を察して性を転換したにちがいない。  わたしの部屋には猫が一匹いる。物を言わない猫。もともと猫は物を言わない。でもわたしのぬいぐるみのボールドウィンはよくこういう目つきをする、麻美、ぼくはきみがこわいよ。なにをいってるのよ、ボドワン、あなたのほうがずっとたくましくて、奔放でやりたいほうだいやれるくせに。  ボールドウィンは赤い猫だとみんなは思っている。だけど肉眼で見るそれは黒い。マンガチックに誇張された形ではなく、まるで剥製のように猫そのものだ。青い澄んだ義眼が美しい。  ボドワン、おまえはいつ黒豹に変身してあたしに襲いかかってくるつもりなの? わたしはベッドに仰むけになって猫を顔の上に抱きあげる。ボドワンはだらりと四足を垂れて、返事をしない。おびえたように。わたしは抱きしめてやる。毛がふわふわであたたかい。本物の猫の毛皮かもしれない。  わたしがボールドウィンとたわむれていると、ドアを気弱にノックして母が入ってきた。  母はわたしをまぶしそうに見つめ、目をしばたたいて視線をそらした。母はいつも締麓だ。だけどいつもやつれた表情をしている。なにを楽しみに生きているのだろう。わたしにはよくわからない。 「なにか用?」 「少しは部屋をきれいにしたらどうなの」 「汚れてるかしら」 「部屋にとじこもってばかりいないで手伝いでもしてちょうだい。いつまでも子供なんだから」 「いつでも出ていくわ。引きとめてるのはお母さんじゃない。いてくれって言うからいてあげてるの」 「口ばかり一人前なんだから」 「お父さんは?」 「え?」 「お父さん。きょうは早く帰ってくるの?」 「わからないわ。忙しそうだから」 「振袖でも買ってあげようかってこないだ言ってた。知ってる?」  母はちょっと眉をあげ、わたしを見つめ、いいえ、と言った。わたしはベッドに身を起こしてキャンデーボックスからウィスキーボンボンを出して、母にどお、とすすめる。母は小娘のようにありがとうと言い、ひとつつまんだ。 「腰をおろしたら?」 「夕飯の仕度をしなくちゃ」 「あるものですましておけばいいじゃない」 「夜出歩くのはやめなさい、麻美」 「どうして。お父さんに、おまえの監督がなってないって叱られるから?」 「男は勝手だわ。わるいことはみんな女のせいにしてしまう」母はボンボンをかみくだいて、「振袖ですって?」 「うん」 「娘のご機嫌をとるのはうまいんだから。わたしにはそんなことをしてくれないわ。なんだと思ってるのかしら。どなりちらすだけ。割に合わないことばかり」 「ようするに子供なんだわ。お母さんを頼りにしてるのよ」 「冗談じゃないわ。わたしから吸い取るだけ吸い取って、あたりまえの顔をしている。若いころはそんなものかと思っていたけど」 「別れちゃえば」 「そうね。若さを返してもらえれば。あの人はわたしの上にあぐらをかいてきょうまでこれたのよ。ここにきて放り出すなんて許せないわ。絶対に。あの人はそれでいいでしょうよ。でもわたしはどうなるの。お金で片がつく問題じゃないわ。ここで離婚だなんて、それじゃあわたしはなんのために生きてきたかわからないじゃないの」  母の口調はだんだん熱をおびてくる。いつもそうだ。わたしを相手にうっぷんをはらすことでかろうじて精神の安定を保っているのだ。何度同じことを聞かされたろう。父への、母にとっては夫という男への、不満、愚痴、苛立ち。母は、夫に面と向かってそれをぶちまけることができるような性格ではなかった。わたしからみればそれが歯がゆいのだけれど、母は古い時代の女だ。じっと耐えて、自分さえ耐えれば家庭は平和だ、だからがまんしなくちゃいけない、そう教え込まれた時代に育ち、嫁いだ。一生を耐えて生きることが女の本分だということに疑いをもたなければ、それなりにしあわせだったろうに。いまはだけどそんな時代じゃない。わたしは母のようにはなりたくない。母の苦悩は母のものであって、わたしのものじゃない。親の苦しみを分かち合うのはたくさんよ。わたしは母とはちがう人間なんだもの。 「夕食の用意をしなくちゃ。きょうも遅くなるのかしら。遅くなるなら電話くらいかけてよこせばいいのに。わたしの手間なんか当然だと思ってるんだわ」 「手伝おうか」 「子供のころのように?」  ウフン、わたしは笑う。「いまでも子供よ」 「ありがとう。助かるわ」  母の話し相手になるのは疲れるのだけれど、他にやることもなかった。今夜は遊びに出てゆけない。七時に、精神場で早紀に会うんだもの。早いところ夕食をすませて、部屋でリラックスしていたい。ぐずぐずしていては母だけでなく父の相手もしなくてはならなくなる。それを考えるとたまらなくうっとおしい。母の機嫌をとって、さっさと部屋に引きこもるにかぎる。  台所にいく。母が、おいしそうでしょ、とボウルを指す。はまぐり。砂を吐かせて、今夜はこれ? 「どうするの。はまぐりの潮汁? スープ? 酒蒸し? 直焼きにするの?」 「土手鍋にしようか」 「土手鍋なら、かきのほうがいいじゃない」 「そうかしら」自信なさそうに、母。 「そうよ」  意地わるくわたしは言ってやる。母はいつも他人を、夫や娘の言葉を、気にする。自分の意志などないみたいに。 「一家がそろわなくちゃ鍋物をやってもしかたないじゃないの」 「遅くなるのかしら、あの人」  あの人、なのだ、いつも。お父さん、なんて言ってたのは昔のこと。この二人はもうとっくに夫婦であることをやめている。 「どうする? お父さんは魚や貝は嫌いでしょう」 「あの人には豚肉の角煮にしようかしらと思って」  シチュー鍋でもう煮込んである。わたしも、どちらかというとこのほうがいい。好きというより、面倒くさくなくて。でもちょっぴり母に同情する。母はわたしと、好きなものを食べたがっているのだ。わたしを味方にしようとしているのかもしれない。娘を夫の側に近よせたくないのかもしれない。母はいつもこう言った、あなたはわたし一人の手で育てたようなものだわ、いちばん手のかかる時期に父親らしいことはなんにもせず、なによ、いまごろになって娘のことをちやほやするなんて、勝手すぎるわ、と。わたしにはどうでもいいことだ。一人で大きくなったような顔をしてなどと両親は世の親たちが言う決まり文句をときおり口にするけれど、一人で大きくなったというのはまさにそのとおりだ。親がなくとも子は育つわよ。他人の手で育てられたも同然なのだ、感応力をもった子供たちは。両親は自分とは別世界の生き物なのだということを子供たちはみんな自覚している。かつては父も母もそうだったろうに。二十年も三十年も生きているうちに忘れてしまうらしい。覚えていたとしても、親という面子がそれを認めさせないのかもしれない。 「そうだ、牛乳煮にしようか、はまぐりで。バターをたっぷり入れて」  母はちょっと眉をしかめたけれど反対はしなかった。いいわと言った。 「料理は麻美のほうが上手だものねえ」  わたしは母ほど自信なく生きている女を知らない。自分を犠牲にして生きることが楽しみなんじゃないかと疑いたくなる。決してそうじゃないのが悲しい。 「はまぐりの潮汁を作ってあげようか。昆布でだしをとって。わたしはトーストを焼くわ」 「いいわよ、同じもので」  正直なところ、わたしもクリーム煮なんて食べたいとは思わなかった。さっぱりしたおすましか、お茶漬にしたい。 「やっぱり、はまぐりの潮汁をつくったげる。いいでしょう」 「そうね」  母はほっとしたような笑みを浮べる。嬉しいのだ。精神波がそういっている。  昆布でだしをとる時間はなかった。やろうと思えばできたのだけれど、のんびり料理を楽しんでいる時間はなかった。鍋でだし汁をつくる。化学調味料で。強火にかけてはまぐりを放り込み、煮立つのを待つ。母は冷蔵庫から、わかさぎを出した。天ぷらにしようと言う。 「あ、あたしがやったげる」  水でわかきざを洗って、母は卵をといて、小麦粉を加え、衣をつくる。わたしはたまねぎを薄切りにして。そろそろはまぐりの鍋が沸騰しそう。火を弱めなくちゃ。鍋のふたをとって、あくをすくい、えーと、ワインはどこかな、いいえ、お酒のほうがいい。鍋にお酒を少少。塩をひとふり。はまぐり、口を開いたかな。先にわかきざの天ぷらをやればよかったかしらん。 「何年ぶりかしらねえ、麻美がこんなことやるの」 「何年ぶりなんて、ひどいわよ、こないだもつくったじゃない」 「そうだった?」  しまった。あのときは父しかいなかった。夜遅くなった父に、ありあわせの野菜とツナ罐をあけて、サラダをつくってやったんだ。母は寝ていたから知らない。 「そうよ」とわたしはとぼける。「だいぶまえだけど、何年もまえじゃないわ」  揚げ油に、小麦粉をちょっと振りおとして、温まり具合をみる。そろそろいいみたい。母はわかさぎとたまねぎを衣にからませて、油にむぞうさに入れる。だめよ、そっと、すべり込ませなくちゃ。形がくずれてしまうじゃない。ま、いいわ、はまぐりの方を見なくちゃ。うーん、いい調子。うす口のしょう油を少少。ここで味見。いいお味。 「かきあげの、天つゆはある?」 「おしょう油でいいでしょ」 「だめよ。だし汁にみりんを足して、ちゃんとつくらなくちゃ。お母さん、潮汁のほう、もういいわ。煮すぎるとおいしくないから。熱いうちにいただきましょう」  お椀にはまぐりを入れて、形をととのえ、熱い汁をそそぐ。わかさぎとたまねぎ、春菊のかきあげも揚がりたて。おいしそう。  さて、いただきます、というところで父が帰ってきた。おちついて食べかけると、その安らぎを邪魔するかのように帰ってくる。いつもそうなんだから——母は苛苛した精神波を放った。父はだるい表情で台所に顔を出す。母は腰をあげようともしない。 「麻美、いたのか」  まるでいるのがわるいような口調だ。会社の部下かなにかにしゃべるような調子に、わたしは腹が立つ。なによ、ろくに仕事もできないくせに、家に帰ってきたときだけ大きな顔をするんだから。 「うまそうだな」 「ええ、とっても。だけどお父さんは嫌いでしょ」 「あなたにはお肉があるわよ」と母。 「なんでもいい」と父。  ふてくされたように父はネクタイをゆるめ、棚からウィスキーボトルとグラスを出し、どっかりと椅子に腰をおろして、「麻美、氷を出してくれないか」 「自分でやりなさいよ」でなけりゃ、あなたの妻に言えばいい。せっかくのはまぐりの潮汁がさめてしまうわ。「これはあたしの」わたしの皿に手を伸ばす父の手をはらいのける。そして、急におかしさがこみあげてきた。なんて子供っぽいことを。父が父なら娘も娘だわ。わたしは笑う。 「いいわ。よかったらあげる。お母さんが揚げたのよ」  母は角煮の鍋を火にかけている。 「うん、うまい」つまみ食いして、父。  うまいですって? という母の精神波。母はたぶんこう思っている、父に背を向けて、表情を見られないように、嫉妬に似た苛立ちをこらえている、 <麻美の前だから、うまい、などと機嫌をとるようなことを言うんだわ、わたしに言っているわけじゃない。麻美がいない二人きりのときは黙って食べるくせに。はりあいがないったらありゃしない。なのに、どお、麻美にはいい顔しちゃって>  わたしは腰をあげる。 「どこへ行く」 「部屋よ」 「食べないのか」 「おなかへってないもの」 「じゃあ食べなくていいからもう少しここにいろ」 「なんで?」 「学校のこととか、話すことはいくらでもあるだろう」 「なぜ。なぜ話さなくちゃならないのよ」 「心配しているのがわからないのか」  不機嫌に父はグラスをかたむける。なぜ不機嫌なのか。わたしのせいではない。会社でもうまくいかず、自分の思うようになることなどひとつとしてなく、そうして積り積った欲求不満が、わたしの反抗的な態度をきっかけに噴き出してくるのだ。  父は中堅企業の中間管理の地位にいた。社内の合理化計画がすすんでいる今、父は微妙な立場に立たされている。合理化の一環として部課も再編成されることになり、父はこの機会にもう一段高い地位に出世できるだろうとふんでいた。しかし実際は父の思惑どおりにはいかなかったようだ。父は新設された調査室の室長になった。父は満足していない。  おそらくその室は、再編成で浮いた人員をおさめる受け皿なんだ。それだけならまだよかった。父の不満は自分の能力を無視されたことだけでない。ほんの一期早く入社した、ただそれだけのことでいつも自分にこそふさわしいと思っているポストを奪ってきた男、その目の上のこぶの存在が父を苛立たせる。新入社員でもあるまいし、父の苛立ちは客観的にみるとばかげている。実力があれば入社時期なんか問題じゃないだろうに。勤続二十数年のいまになって、そんなことをくどくどともらしている父は、負犬よ。でも、それに気づいていない。気づいていても認めない。人のせいにして、うっぷんを晴らすために酒を飲み、妻と娘にやつあたりする。このまま室長でおわるなんて許せないぞ、と思いながら、すべてを呪う。だれを許せないって? だれを呪うというの。そんなものはどこにも存在しやしない。だから父の不満はそのままどこにも吸収されず父自身に返ってゆく。それで怒りはますます増大し、そのとばっちりが家族にふりかかるのだ。わたしはそんな父の犠牲にはなりたくない。わたしは妻じゃない。天使でもない。冗談じゃない。  父は、母の言うように親らしいことはなにひとつわたしにしなかった。父が心配しているのは近所の目、わたしの外観、わたしが世間にどう評価されるかという、わたし自身から分離した二次的な虚像だけだ。わたしの本質、わたしの心、わたし自身がどうなのかなんて、まったくどうでもいいことなんだ。父にはわたし自身が見えない。見えないものだときめつけて見ようともしない。こんな父に、きょう一日の出来事を話してなんになるだろう。虚像の行動を話しても無駄だ。それなら作り話をするのと変わらない。暇があったら物語を語ってやってもいい。だけどわたしはそこまで父の面倒をみるつもりはない。語ったところで父の役に立つでもない、喜ぶわけでもない、話をしたからといって、ありがたい忠告が返ってくるのでも、精神的な支えになってくれるでもない。母は正しい。父は、自分の平和を得ることだけが重要なのだ。平安を与えることなど思いつきもしない、いつも自分だけが割に合わない立場にいると思い、慰めてもらいたがっている。慰めを求めている人間が他人を思いやることなどできるものか。ときおり、ふと思いついたように振袖を買ってやろうか、などと言い出す。気に入らない。わたしが欲しいものがなんなのか、父にはわかっていない。これからも、永久に、わかりはしないだろう。  わたしは席を立つ。父はあきらめたように声もかけない。母がいそいそと父の食事の用意をしている。二人の無言の食事がはじまる。二人は死んだように黙っている。死んでいるのかもしれない。  部屋にもどってドアを閉ざすと、わたしの世界。赤い部屋。ここが一番おちつく。ボールドウィンがわたしを見つめる。抱き上げてくれ、というように。よしよし、かわいいボドワン、早紀からなにかいってきた?  時計はまだ七時前だ。十五分前。あと十分。早紀はもう豆の樹にいるだろう。わたしはベッドに横になる。ボドワンを抱きしめて。温かくて気持がいい。目を閉じる。心安らかに。  脳をマッサージされるような優しい予覚がある。早紀が呼んでいるんだわ。わたしは知りつつ、じらしてやる。五分前きっかりに、心を開く。精神がつながる瞬間はスリリングだ。ちょっとした火花が散って、がっちりと結ばれる。まるでショートするような一瞬。早紀の心が進入してくる。赤ん坊が母親を求めるみたいだ。 <ああ、麻美、よかった。忘れないでいてくれたのね> <忘れるわけがないじゃないの>  早紀の心は不安でふるえている。不安だけだ。未知なものへの好奇心なんてまるでない。  早紀が肉眼の視覚をわたしに渡す。豆の樹の店内の様子は、昼とはがらりと雰囲気がちがう。夜のほうが渋いおちつきがあって、店の格が一段上がったかのよう。客筋が昼間とは異っているせいもある。子供はあまりいない。疲れきった恋人たちが、ひそやかな声で別れ話をしている。いかにもそんなムード。決して声を荒げたりはしない。男が一言、別れよう、と言う。女は煙草のフィルターについた口紅を見つめて、けだるく、そうね、とこたえる。そのまま二人は黙り、コーヒーが口をつけられないままさめてゆく…… <麻美、おかしな想像はしないでよ。ね、もうすぐね。ほんとにくるの?> <だれが> <いやだ、彼よ。尾谷> <さあ。ほんとをいうとあたし、あの男のことよく知らないの。あの男とは身体をくっつけあっただけ。ろくに話もしてないの> <こないでもらいたいな> <早紀、あなた、なぜ豆の樹にいるの> <いじわるなんだから、麻美のせいじゃないの。もう帰ろうかしら> <いい子だからもう少しお待ちなさいって>  早紀はわたしの強い制止に、浮かせかけた腰をおろす。早紀はわたしに命令されるのを喜んでいる。豆の樹にきたのもそのためだ。きたくはないし、尾谷となんか会いたくもない、だけどわたしに従うのは嬉しい。早紀はそういう娘だ。 <さあ、ブレンドをお飲みなさい> <うん>  早紀はちらりと腕時計を見る。七時二分すぎ。膝をそろえて、早紀はコーヒーを飲む。少し膝頭がふるえている。 <こわいことなんかないって。なるようになるんだから> <ええ> <お化粧でもなおしたら?> <うん……だれか入ってきたわ>  わたしは早紀がとらえた男の姿を感じる。尾谷に似ている。こちらを向く。そうだ。  早紀の眼をとおして見ると、早紀の感覚、処女を奪った男に対する微妙な心が新鮮だ。わたしも初めて会うみたいに心ときめく。尾谷が、店内をきょろきょろと見回す。 <手を挙げて振るのよ、早紀>  手を挙げて振る。尾谷は早紀を認めて、一直線に近づいてくる。早紀の視野に大きくなる顔。にこやかな表情。わたしには見せたことのない表情。 「村崎くんといっしょ?」 <いいえ、とこたえなさい、早紀> 「いいえ」と早紀。 「村崎くんに呼ばれてきたんだがな」 <あたしが麻美よ> と早紀に言わせる。 「あたしが麻美よ」と早紀は言った。 「きみが? そうか、おもしろそうなお遊びを考えるものだ。心と身体を入れ換えたのか」  おもしろそうな? おもしろいのよ。あなたの低次元な会話につきあうのはとてもおもしろい。わたしは絶対優位にいる。彼の考えがほぼ読める。安全なところから弄んでやる。 <出ましょう> とわたし。 「出ましょう」と早紀、 <でもどこへ行くのよ、麻美> 「どこへ」と尾谷がにやついて言う。 「どこか、スナックかパブにでも。ディスコっていう雰囲気じゃないもの」早紀はうつむく。 「それから、レジャーホテルへ」 <いいわ、その調子よ。ホテルに入ったら、彼にまかせればいい。いやなら、肉体から離れなさい。わたしが助けてあげるわ。大丈夫、尾谷はなにもできないわ。大人はあたしたちの心には絶対に干渉できやしないのだから。さあ早紀、行きなさい>  早紀はわたしにうながされて席を立ち、「行きましょう」と言った。少し声がふるえた。  それから先は、早紀のぬけがらの肉体は尾谷のものに、早紀の身体の感覚はわたしのものになった。早紀の身体はわたしの意志で動いた。早紀の心はわたしの中にある。わたしの身体のなかでふるえている。  スナックで早紀の身体はプラッディ・ムーンを飲んだ。尾谷が、麻美と同じものを飲むんだね、と言った。 「わたしは麻美」と早紀の身体が言った。  尾谷はぎょっとした顔をした。早紀の仕草、声の出しかた、口調が、豆の樹にいたときとはがらりと変わって、わたしそのものになっていることに尾谷は気づいたようだった。 <ねえ麻美、なんだか酔っぱらったみたい>  酔いが早紀の精神集中を崩し、ふっと早紀はわたしの心からはなれて彼女自身にもどる。わたしの負担はその分軽くなる。尾谷の精神波もとらえにくくなった。でも彼がなにを考えているかはだいたい見当がつく。尾谷は早紀を観察している。この娘はいったいだれなんだろう、と。  早紀はチャーミングとはいえなかったけれど、容貌はわたしよりも冷たく整っていて、そう、一言でいえば、美人だった。心はとっても幼いのに、外観は大人そのものだ。尾谷はあきらかに早紀の姿にひきつけられていた。彼はもう七面倒なことは考えずに、早紀をものにしてしまいたいと思っていた。こんなとき男は、少なくとも尾谷は、自分が男であること以外のすべてはどうでもよくなるようだった。尾谷はそのようにしてわたしを抱いてきたし、後悔してなかった。きょうは……後悔させてやる。  早紀の腕を支えて尾谷は夜のネオン街へ出た。夜はまださほどねちっこい雰囲気じゃない。ホテルも空いているでしょう、ねえ、尾谷さん?  スナックを出て御休息の宿へ。尾谷はホテルと名のつくところ、それからベッドや、洋式の風呂をきらった。畳にしかれた布団、檜張りの天井、障子、襖、そんなものにあこがれに似た想いを抱いている。彼の家は和風じゃない。寝室はどこかのモーテルを思わせるごたごたの色と飾りで塗りつぶされている。わたしは尾谷の寝室など見たことはない。彼がそう言ったのだ。たぶん本当だ。尾谷の奥方の趣味でそうなったのだろう。その女の性向がよくわかる。そんな女の言いなりになっている尾谷の性格も。  早紀はたった一杯のアルコールでふらついていた。尾谷にブラウスを脱がされたあと、布団の上にうつぶせに身を投げ出す。冷たい感触が気持いい。そして、ブラック・アウト。 <早紀、早紀、早紀、起きなさい。起きなさいってば>  わたしは優しく、だんだん強く、しまいには怒って、早紀を呼ぶ。だけど、早紀は眠り込んだまま起きない。正常な眠りなら起こせるのだけれど麻酔がきいているようないまの早紀には通じない。わたしはあきらめて、ため息をつく。 「まったく弱いんだから。ねえ、ボドワン」  黒い猫が笑う。わたしはボールドウィンを放り出し、腕を組む。ベッドの上で仰向けになって、赤い部屋に身をひたす。赤い色がわたしの身体、心にしみ込んでくるよう。この感覚が好きだ。わたしは部屋と一体になり、家と一体になり、夜と一体になり、星空と一体になり、一瞬のうちに月にまで飛んでゆける。わたしは銀の光になってすべてを包み込み、冷たく凍らせて、氷の炎で焼きつくしてやる。大人にはこの感覚がわからない。わたしにはほんとにそうするだけの力があるのだということも。もっとも大人は、彼自身が焼かれてもそれに気づかないだろう。  わたしは目を閉じる。心は開いたまま。早紀が気がつくのを待つ。じっと。心を澄まして。  胸をまさぐられて、はっとする。早紀が覚めた。尾谷が早紀の背後から抱き起こす。湯上がりの匂いがする。早紀はちょっと逆った。身体をねじったところを唇を奪われる。 <麻美、麻美> <やっと目がさめたのね>  早紀のお尻に、下着の上を、尾谷の細くてしなやかな指が這う。くすぐったい。早紀の感覚では、くすぐったい。わたしとは感じ万がまるでちがう。わたしは早紀の身体の反応を興味ぶかく味わう。おもしろいったらありゃしない、わたしは自分の身をよじって、くすぐったさに笑う。尾谷は早紀を布団におしたおしてブラジャーを両手で上にずりあげようとしている。いい感触じゃなかった。わたしだったらブラなんかさっさと自分で外しているだろう。早紀はぜんぜんだめ。感触を性的な快さに変換する能力が早紀の脳の中にはない。まだ学習されてないってところかな。かたくなに、快さを拒んでいるみたいだ。  だけど、犀谷が早紀の裸の腰に手をまわして、まるで指圧するように刺激すると、ショックだった。わたし自身の体がびくんとはねるくらいに、感じた。思わず声が出たほど。 <わあ、早紀、よかった——そうか、わたしが感覚を横どりしちゃったものねえ。ごめん> <いいの、麻美、いまのままでいい。早くすんでしまえばいい> <なによ。もったいないじゃない>  わたしは早紀の心から少し退く。二人の行為が遠くなる。  早紀は肉体を信じていない。大人になりたがっていない。大人には肉しかない。だから大人を、自分の身を含めて嫌悪する。その醜いはずの肉体が、わたしとのテレコイッスで喚起される電撃のような精神快楽に似たパルスを発するのを、早紀は信じようとしない。神経の途中で減衰してしまう。そのエネルギーはどこへ消えちゃうのだろう。たぶん、熱と汗に。あるいは涙に。 <麻美、いやよ、もう。くたびれちゃう>  脱皮した蛇のように早紀はやわらかい肌をさらす。白くて綺麗だ。尾谷の筋肉が早紀の身体を蹂躙する。痛い。その瞬間、早紀はたしかに感じた、が、早紀の心ではその刺激が怒りと悔しさとなって爆発する。早紀は泣く。 <早紀、泣かないで> <もう、たくさんよ。こんな身体、捨ててやる>  あたしは早紀の突発的な怒りの波を受けて、自分のベッドから転げ落ちた。びっくりするほど、強烈な精神波だった。 <早紀。やめなさい。やめて>  早紀は狂ったような笑いのパルスをわたしの心に注ぎ込んできた。 <麻美、ほんとにあなたはやさしいひと> <早紀、しっかりして。あなたは酔ってるのよ>  早紀は犀谷の抱擁から逃がれて、自分のバッグに手を伸ばした。 <ねえ麻美、遊びましょ。マリンガをやろうよ、ね>  自殺ごっこをやるって? わたしは止めようとする。でもできない。わたしの身体は起き、机のひきだしからカッターナイフをとり出している。早紀の手に、バッグから出した、小さいが鋭利な、化粧用レザーが握られる。 「なにをする気だ」  犀谷が顔色を変える。早紀は笑いながらレザーを手首に近づける。 「死ぬの」 「なんだ?」 「犯されて、悔しさのあまりに自殺するの。逃げてもだめよ。みんな、あなたのせい。あなたを呪って死んでやる。世間に知らせてやるのよ、あなたの汚れた姿を。すべてを失うがいい。おまえを生きながら殺してやる」  わたしはひそやかに笑みをこぼす。早紀の言葉のおしまいのほうはわたしが言わせたのだ。わたしの身体、腕、手首、指に、早紀の意志が入り込んでくる。あたしは、早紀のレザーを持っている腕に精神を集中する。 「やめろ。やめないか」  尾谷が早紀のレザーを取り上げようとする。そうはさせるものか。わたしは早紀の腕に熱い思いを込めて、完全にわたしのものにしようとする。早紀の腕は硬直し、常人のものではない力を発揮した。尾谷は早紀のレザーをとりあげることはできない。  わたしは左手首の冷たい感触で早紀から一瞬退いた。その瞬間、早紀の腕は弾かれたように宙に弧を描いた。尾谷は一閃したレザーに顔を切られて悲鳴をあげる。早紀が笑う。尾谷の顔は、危ういところで切られることはまぬがれた。運のいい男だ。わたしが早紀のほうに注意をそらしている間に、早紀はわたしの腕を彼女の支配下においた。わたしの手首が、自分の右手のナイフ、早紀の操るナイフに切られる。すっと引かれて、一筋の鮮血が手首に走る。そして、より深く。わたしはあわてて早紀の意志を妨害して、早紀のレザーを操る。  わたしは本気になった。頭が興奮で熱くなる。いいわ、最高の、遊び。 「よせ。どうしたんだ。やめろったら」  犀谷にはあたしたちがやっている遊びがわからない。彼は精神感応力を失っていない時代にこんな遊びをやったろうか。たぶんやってない。こんな遊びがあることさえ知らずにさっさと大人になったにちがいない。おしあわせな男だこと。安穏な青春をすごした者に、わたしたちの心、気持、欲求、真実が、わかるはずがない。決して。彼はもはや永久に知ることはできないのだ。青春をとりもどすことは不可能なのだから。いいえ、彼は無為にすごした青春を、感応力を失ったとき同時に無くしてしまった魅惑的なもの、その価値の大きさに、気づくことなく死んでゆくのだ。なんてばかな男。そんな大人たちのいかに多いことだろう。  わたしはふと三日月くんのことを思い浮べた。彼も、そういうタイプの人間だ。わたしが教えてあげなければ、尾谷のような屑人間になってしまうだろう。でも、なぜ三日月のことなんか。わたし、あの子が好きなのかな。  注意をそらしたせいで、わたしの手首から血がほとばしった。いけない、早紀に注意をもどさなくちゃ——早紀、早紀、早紀? どこにいるの? わたしはとり乱す。 <早紀>  ナイフを放り投げて早紀を呼ぶ。鮮血が赤い絨毯にしたたった。早紀はどこにもいない。 <早紀……あなた、いっちゃったのね>  どこへ。たぶんちがう世界へ。気を失ったのか、大人になったのか、それとも彼女が望んでいた彼方へと。あっけない。終末とはそんなものだ。  わたしは身を起こし、しばらく赤い部屋に立ちつくした。それからのろのろとファーストエイド・キットから包帯を出し、口で一端をくわえて左手首をぐるぐるまきにした。白い包帯がまぶしいくらい。でもじきに赤く染る。 「ボドワン、早紀が消えちゃった。早紀が」 「悲しいかい?」 「いいえ。これでよかったのよ。早紀は身体から解放されたんだから」 「でも麻美は、いやなんだろう、早紀のような生き方は」 「死に方よ」 「きみが殺したんだ」 「あたしが?」ボールドウィンを抱きあげて黒い鼻にキスしてやる。「ちがうわ。あれはゲームだったのよ。マリンガ。あたしは早紀に勝った。ただそれだけのこと」  ボールドウィンは黙った。わたしはベッドに黒猫のぬいぐるみを投げる。裸になって、黒いレオタードを着て、ひきずるように長い深紅の巻きスカートをつけ、顔を白く、頬を茶に、唇は紫に、緑のアイラインをひき、黒いシャドウをつけ、髪を左右に分けて金のリボンでとめ、髪にひとすじシルバーストリークを描き、朱のスカーフを首に巻き、その上パープルの皮ジャンをはおる。  悪趣味の見本のような女が鏡の向こうで微笑む。さあ、出かけよう。夜の世界へと。  さよなら、早紀、今夜はあなたのために踊ってあげる。  ぼくはテレビを見ている。  テレビだって? いや、そうじゃない。いまのはいったいなんだったんだ……麻美の世界か。  めまい。視野がせまい。光が見える。トンネルから出るように視野が回復する。  夜だ。夜の風がすずしい。きらきら輝いているのはテレビ画面ではなかった。市民公園の噴水のへりにぼくは腰をおろして水面を見ているのだ。噴水はとまっている。照明もない。月の光が水面に映っていた。  いつこんなところにきたのかぼくにはぜんぜんおぼえがない。月子をさがしたが、どこにもいない。感応力で探っても月子はどこにも感じられなかった。  立ちあがって、埃をはらった。自分の身体がなんだか他人のもののように頼りなかった。ぼくはぼくの体をぼく自身だと認めるのに、噴水池の面に顔を映してみなくてはならなかった。ぼくはどうやらほくらしかった。  早紀はどうなったのだろう。ぼくは池の水で手を洗いながら記憶をたどった。麻美の心と同期してしまっていたのなら、さっきまで感じていた麻美の世界は現実に起こったことで、幻覚ではないはずだ。すると早紀は死んだのか。いや、麻美に殺されたんだ。おそろしい遊びだ。マリンガとかいった。  手はいくら洗ってもなんとなくねばついていて気特がわるかった。電気屋からこの噴水の前まで歩いてきた記憶がないのが不安だった。だが時間の経過の異和感はなかった。この時間、ぼくの心はやはり麻美の心といっしょだったのだろう。麻美は早紀を殺した。ぼくは彼女の秘密をつかんだことになる。麻美は秘密でもなんでもないというかもしれない。それはでも、ぼくが赤井を殺したことと同じ次元の秘密だ。これで麻美とぼくとは対等になれるだろう。  ハンカチがなかったのでジーンズのすそで手をふいた。テキストの入ったバッグがすぐ足元におちている。拾いあげて公園の出口に向かう。そこでぼくは尾谷にばったりと出会った。  初めて見る顔だった。自分の眼では。麻美のイメージとは少しちがう。麻美が感じているよりもうす汚れた男だ。水に浸けられる直前のネズミのようだ。せかせかとした足どり、その小心な態度に自分自身頭にきているのだが、こらえることができないのだ。  どうしてこの男がこんなところにいるのかとっさに理解できなかった。 「尾谷さん」とぼくは言った。  尾谷はぎくりと足をとめた。 「早紀はどうしました」 「きみは——だれだ? なぜ知っている。そうか、村崎麻美に聞いたのか」 「じゃあ、現実だったんだな。あんた逃げてきたのか?」 「知らんな」尾谷はネクタイのないシャツの襟首に手をやって、ネクタイをゆるめる仕草をした。「知らん。きみはなにを言ってるんだ?」 「ネクタイを忘れてきたようですね」  尾谷は叫びをこらえるように自分ののどをつかんだ。 「……のぞき屋め」尾谷はうめいた。「わたしは知らんぞ……関係ないんだ」 「なにをそんなにびくびくしているんです?」 「びくびく? フン」  尾谷は汗にまみれた顔をてのひらでぬぐった。そして薄笑いをうかべた。その変化はまるでのっぺらぼうの、こんな顔だったかいという劇的なものを思い起こさせた。ぼくは急に寒けを感じてあとずさった。 「予備校生め。おまえもどうせろくな人間じゃないだろう。わたしがその気になれば——そうとも、おまえなど警察に捕まって、感応力を吸いとられればいいんだ。こい、くそう、逃げるか、まて」  こいつは吸血鬼だとぼくは思った。身をひるがえして、逃げる。大人は、大人という仲間をふやしたがっているようだ。感応力を失った死人を。 [#改ページ]       6  早紀は死んだ。赤井猛のときとはちがって、早紀の死は新聞やテレビで報道された。ぼくは新聞でそれを知った。歓楽街のレジャーホテルの一室で予備校生の少女Aが不審な死をとげた、とあった。自殺とも事故とも他殺とも断定はできず、警察ではAと一緒だった男を捜しているという内容だった。すると尾谷は出頭していないのだ。名のりでるつもりはないらしかった。あくまでも逃げる気なのか。  ぼくは早紀の死の原因を知っている。麻美が殺したのだ。というよりも、あれは遊びなんだ。命をかけた遊び。麻美はさらに、早紀にもわからないもうひとつのゲームを楽しんでいた。尾谷をトラブルに巻き込もうとして、意識的に早紀を死に追いやったのだ。弱い者を狩り立てて殺す、それがゲームなのよ、三日月さん、と麻美はいっていた。ゲームだ。  ぼくは麻美の遊びの片棒をかつごうとは思わない。もし尾谷の名を、のこのこと警察に出かけていって告げたら、どうしてそんなことを知っているのかと尋ねられるだろう。そんなのはごめんだった。ぼくらの遊びなど理解してもらえないだろう。赤井のことが知られたら、ぼくはほんとに不良というレッテルをはられてしまう。麻美も尾谷のことは当局には告げないだろう。尾谷がびくびくと毎日を送るのを遠くからうす笑いを浮かべてながめて、楽しむにちがいない。ぼくには麻美の心が自分のもののようにあざやかに感じとれた。まるでぼくの心のなかにもうひとりの麻美が引越してきたかのようだった。ぼくは麻美が感じているだろう、尾谷が狼狽している様を想像して感じるエクスタシーを自分でも楽しんだ。ぼくと麻美は溶けてひとつになりつつあるようだった。おぞましい感覚だった。だが分離することができなかった。肉体の一部を、たとえば心臓を半分切りとることができないのと同じで、ぼくの心に入り込んだ麻美を追いだすにはぼくの我[#「我」に傍点]のほとんどを犠牲にしなくてはならないだろう。そうなったら、麻美はぬけがらになったぼくの心にもう一度入ってきて、ぼくの身体を完璧に彼女のものにしてしまうだろう。ぼくはどこにもいなくなるのだ。ぼくは傷口に触れず傷なんかないと信じて痛みを忘れるように、麻美のことはできるだけ無視した。いつまでそうしていられるかわからないが。麻美から完全に逃がれるにはひとつの方法しかなかった。感応力を失うこと。ぼくが失うのではない。それではもともこもなくなる。麻美だ。彼女の感応力が消えてしまえばいいんだ。あるいは彼女の全存在が。そう考えると電撃のようなショックがぼくの心に走った。苦しかったが、いやな感覚ではない。快感といってもいい。殺意に酔うなんて、まともじゃなかった。麻美の感性だ、これは。麻美はこんな気分で早紀を殺したにちがいない。  いや、ぼくもひとりそうやって殺したかもしれない。あの女だ。夫よりも長生きすると信じて疑わなかった若妻だ。月子はたしかにこういった、 <あなたの望んだようにした>  月子は、ぼくから分離したぼく自身かもしれなかった。  ぼくにはなにがどうなっているのかわからない。  若妻がキャブオーバーバンにはね殺された事故のことも報道されていた。新聞やテレビではくわしいことはわからない。事故として処理されているようだったが、運転手の証言では、まるでだれかに突きとばされたようだった、とある。運転手は過失致死として現行犯逮捕されたが、彼は必死でこう訴えたがっているようだった。あの女は後ろのだれかに突きとばされたんだ、殺人なんだ、でなければ自殺だ、よけきれなかったんだ……  しかし運転手は制限速度をかなりオーバーしていた。彼には不利なことに、彼が主張する他殺の線はどう洗っても出てきっこないのだ。しあわせいっぱいの若妻を殺す動機のある人間など捜し出せるはずもないし、ましてや自殺だなんて。彼女の夫が多額の保険でも妻にかけていればまたちがうのだろうが、なにしろやつは後悔していたほどだ。 <かけておけばよかった> と。彼こそ逮捕されてしかるべきだ。ぼくにはわかる。しかし警察は人の心はのぞけないし、法律もまた表面上の出来事しか裁くことができない。  しかし……ほんとにそうだろうか。  ぼくは予備校で目に見えない影に追われるのを感じた。予備校に、部外者が入り込んでなにかを探っているような気配がある。気のせいかもしれない。あるいはこの強迫感はぼく個人のものではなく、予備校生全員が感じている集団的な不安なのかもしれなかった。  だけどその不安はぼくから切り離すことはできなかった。不安の源がぼくの内部から発生したものかどうかなどもはや問題ではなかった。ぼくの心に巣くった不安の虫はぼくをおびえさせ、憂鬱にさせた。  赤井の死の原因を少年課が捜査しているのかもしれない。彼らは、心相医をたずね、ぼくのカルテを調べ、こいつなら赤井を殺すだけの強い感応力をもっていると知り、そして、予備校生たちにそれとなくぼくの素行をききだして容疑事実をかためているのかもしれなかった。 <注意しなさい三日月>  月子はあいかわらず授業に出席していて、ぼくのとなりのとなりくらいのつねに少しはなれた席につき、ぼくにそう忠告しつづけた。 <大人になんかに負けてはいけない>  月子の精神波はとても強力で、環帯をしていてもきくことができた。やっぱり……彼女はぼくの心のうちに巣くっている存在なのか。でも、どうすればそれがたしかめられるだろう。たしかめる必要があるだろうか。彼女はぼくの味方だといい、たしかにそのようだった。月子の精神波は麻美のものとはちがって、ぼくを現実から引き離して、つかのまだったがぼくを勇気づけた。赤井や若妻や早紀を殺したことなどごく些細なことで、ぼくには関係ないのだと思わせてくれるのだ。その感覚はちょうど、年間の交通事故による死亡数は数千人だとか、今年の夏は猛暑のため水による事故は増加しそうだとか、そういった無味乾燥な客観的な分析をきくのに似ていた。  追われている感覚は予備校を出てからもついてまわった。街を歩くとどこからか監視されているような気がしてならない。  もし監視されているのが本当だとすると、二つのことが考えられた。一つは、尾谷がぼくのことを調べているということ。早紀の関係で。もう一つは、交通事故死した女のこと。警察かあるいは、あの放送局のインタビュアー連中だろう。ぼくはあの若妻の死を予告した結果となったから、彼らがそのことを疑問に思ってぼくを探しているだろうことは十分考えられた。  麻美は、早紀を殺したときぼくが麻美のなかにいたことを知っていた。ぼくにそんな能力があるのを麻美は喜び、身体は離れていてもぼくにつきまとうことをやめようとしなかった。環帯をしていれば逃れられるのだが、月子がなかに割って入ると環帯はまったく無力となった。 <大人に対抗するには、あなたたちがいっしょになっていたほうがいい>  月子はそういって、麻美の心をぼくに割り込ませた。拒むことができない強力な力だった。麻美のような刹那的な生き方は好きになれなかったが、ぼくは追われている不安をまぎらわすためには月子のいうとおり、麻美のように不良になるのがいちばんだと思うようになり、そう思っている自分を知って、がくぜんとする。ぼくに不良になれとすすめているのは麻美というより月子かもしれない。麻美はただの不良娘だ。しかし月子は次元をこえた、不気味な存在だった。消せるものなら月子を消すべきだ。月子は人間じゃない。ぼくは本気でそう信じるようになり、すると、彼女を消すことは絶対にできないだろうという絶望感におそわれた。その絶望感はむしろ快かった。自分の力ではどうしようもない、一種の運命にあやつられて、もはやなにも考えずに流されてゆくのは楽だ。月子に逆らわないかぎり、目に見えない追手に捕まることはないだろう。ぼくはそう思う。  麻美はある日、ぼくの母が洋裁の店をやっているのを知ると——ぼくの心を読んだのだが——ぼくの意識に隠れて、ぼくを母の店に向かわせた。麻美の身体はついてこなかった。  ぼくは母の店の前に立ち、どうしてこんなところにきたのか自問して、はじめて麻美のせいだとわかった。 <よけいなことをしないでくれ> <あら、楽しそうじゃない。ね、入ってよ>  ぼくは頭に手をやって、環帯がないのに気づいた。周囲を見て、月子がいないのをたしかめ、ポケットをさぐり、環帯を出してはめる。麻美は消えた。月子は干渉してこなかった。  母の経営する店は地味で小さい。裏通りにあり、間口も狭かった。  母はいなかった。棚にさまざまな生地、スタイルブックの並ぶ作業室で二人の針子がしゃべっている。手はあまり動いていない。 「あら、三日月くん」  この店には長い、チーフがぼくを見て笑う。 「おふくろは」 「ちょっと出ています。またお小遣いですか」  若いほうのもう一人の娘がなまいきなことを言う。彼女は三年ほど前から店にいる。だけど、年齢は二十一までいっていない。ぼくとほんの二つくらいしか違わない。それなのに、ずっとかけはなれた存在に思えてしかたがない。この女たちはぼくの知らない別世界の人種だ。口で話し、たしかに会話はできるのだが、なにも伝わってこず、なにも伝えることができず、彼女たちのことはだからなんにもわからない。言葉は不毛だ。決して真実は伝達できない。言葉には魔力なんかない。くそったれな嘘っぱちを生むだけだ。 「なにを縫っているんだい」ぼくは訊く、「イブニングドレス?」 「ローブデコルテ」とチーフ。 「どこかのキャバレーのホステスさんの。生地を持ってきてね、仕立ててくれっていうの。いいわねえ」と若いほう。  深紅のドレス、生地が美しい。「ジョーゼットだね」 「残念でした。シフォンよ」 「当たったらわたしがお小遣いをあげたのに」  年増が笑う。叔母かなにかのような口をきく。 「もう一度チャンスをくれないかな。お聖姐さん、あなたは綺麗だ。当たりだろう?」 「しかたないわね」  にこやかに紙幣を一枚くれる。金なんか別段欲しいとも思わない。これは遊びなんだ。もちろん、遊ばれたんだ、ぼくが。紙幣を返すことも、この場で破ることもできる。だがそんなことをしてなんになるというのだ。より面白がられ、なめられるだけだ。 「先生になにか用だったの?」 「小遣いがもらえればそれでいいんだ。だれからもらおうとそんなことは関係ない。では、おじゃまさま」 「かわゆくないわねえ」冷笑。  鳥肌が立つ。かわいいと言われているのだ。ぼくはガラス扉を開ける。磨かれたガラス。透明だけどたしかにそこにある。たしかにそこにあるけど透明だ。だいぶ前、近眼の女客が派手にぶち当たったことがある。その場にいたぼくは腹をかかえて笑った。こんなばかな女が現実にいるなんて、と。ガラスにはひびが入って女客は額を切った。その血の赤さがまた笑いの発作をおこさせたものだ。あとで母からこっぴどくしかられた。人の不幸を笑うなんて、なんて子なの。ぼくは正直に感情を表現したまでだったのだが。不幸と笑いは一番密接に結びつくものだ。ぼくはいま背後の二人の女に笑われている。不幸だ。  ガラス扉が後ろで閉じ、チリンと音を立てる。パチンコでもしよう。一枚の紙幣などあっというまに消えてしまうだろう。やったことはない。ぼくは人の集まるところは嫌いだ。学校も。学校が最も行きたくないところだったし、いまだって行きたくはない。予備校はパチンコ屋と同じかもしれない。能がなくなったら追い出される。  煙草の煙と玉のはねる音が充満する店内で、どういうわけかぼくの受皿に銀の真珠が吐き出されて止まらない。バージン・ラックというやつだ。いらいらしてくる。早くなくなればいいと思っているというのに。母の弟子たちの笑いのように玉が出てくる。最後の一球が落ちて底の小さな穴に吸い込まれるのを見つめて、みじめな気分になりたい。やっていればそのうち玉の出も止まるかもしれないという思いは裏切られる。心で悔しさに泣き、自分の馬鹿さかげんを笑う。ついてないときというのはこんなものだ。  ぼくは箱いっぱいの玉をそのままにして台を離れる。たぶんだれも手を触れないだろう。けとばしたかった。本当にけとばしたかもしれない。後ろから肩をつかまれなければ。 「トイレかい、三日月」  振り向く。ぼくを知っているやつらしかったが、だれなのかわからない。警察かと疑って、ぼくは緊張する。いや……どこかで見た男だ。そしてようやく思い出す。 「……中川か。変わったな」 「そうか?」  中川は黒い皮のジャンパーをこの暑いのに着込んで、べつに汗も流している様子もなく、少しうつむきかげんで目だけはぼくを見つめる。二ヵ月前に彼が予備校を出ていってから一度も会ったこともなければ、その後の様子をきいたこともなかった。中川の世界はぼくとはちがうのだと納得できるその変わりようだ。中川は老けた。 「おまえはぜんぜん変わらないな」  と中川は言って、ぼくをじろじろとながめた。家畜を品評するような無遠慮な目つきだった。大人の子供に対する態度を、中川はこの二ヵ月ですっかり身につけていた。かつて親しい精神会話をかわした中川はもはやどこにも存在せず、ここに立っているのは二ヵ月前に墓から生まれたまったく別の男だ。その別人が、なれなれしくぼくに口をきき、『ぜんぜん変わらないな』などと、さも昔のぼくをよく知っている風に言うのは、おそろしく気味のわるいことで、ぼくは冷房で冷やされる以上のさむけに鳥肌が立った。 「顔色がわるいじゃないか、三日月。おまえまだ病気なんだな」 「病気だって?」 「まだ予備校がよいなんだろう。予備校生はみんな病気さ」 「じゃあな。病人は失敬するよ」 「待てよ、気をわるくしたんならあやまる。バイクがあるんだ。おくってやるよ」 「いや、いい」 「ここから出るなんて、嘘だろう。あれだけ玉を出してるんだ。おれから逃げるつもりなのか」 「逃げる?」  中川は冗談を言ったわけではなさそうだった。こいつ、なにを考えているんだろう。 「玉なんかどうだっていいんだ。ほしけりゃやるよ」  台と台の間の狭い空間をすりぬけるように歩いてトイレに入る。入念に手を洗った。そなえつけのロールタオルはつかわず、ハンカチを持っていなかったから手をふって、しばらくそのままぼんやりと手の乾くのを待った。髪の短い男が入ってきて無言で用をたし、手も洗わずまた騒音のなかへ出ていった。  中川に会いたくない。よく知っていた人間の、感応力を失くしたのちの、魂のぬけた殻は、黒いリボンをかけた写真のなかに封じこめておくべきだ。なのにそれは動きまわり、口を利き、そして追いかけてくる。悪夢だ。  パチンコ屋を出て、書店になんかに立ちよったのがいけなかった。中川はぼくの居場所を、探索スキャナーかなんかを持っているかのような正確さでつきとめた。中川とは、二ヵ月前までは精神場でつきあっていた仲だから、ぼくの行動も見当がつくのだ。やつはまだぼくを忘れていない。しかしなぜだ。ぼくは中川なんか忘れていたし、かえって忘れられてさっぱりしていたというのに。こいつはぼくになにを求めているのだろう。  ビデオテープの並ぶコーナーに立っていたぼくに近づいて、中川はあらためて、「久しぶりだな」と言って、二、三枚の札をぼくのポケットにねじこんだ。 「なんだ、これ」 「玉さ。両替したんだ。金に換えたんだよ。手数料をもらったぞ。いいだろう?」 「ああ」 「ほんとに久しぶりだ。どうしてた。あいかわらずか」  なつかしそうな笑顔を見せられて、ぼくはとまどう。おまえのことなど思い出したくもないと言ってやりたかったが、こらえた。 「おれはまともな経理学校になんとか入れた。いまはやりたいことをやってるよ。こないだなんか、おれに喧嘩を売りつけた環帯不良族とやりあったぜ」 「ひどいめにあったろう?」ぼくは尾谷のことを思い出してそうきいた。「どうだった」 「ぜんぶ、たたきのめしてやった。相手は四、五人いたかな。おれが殴ったのはそのくらいだ」 「背後に十倍はいるぞ。精神的につながっている仲間が」 「みんな病気さ。そう思っているだけだよ。やつらおれの精神波を読みとってうまくたちまわろうとしたらしいが、そんなもの、役に立つものか。喧嘩は理屈じゃない。殴られたら殴りかえす。最初の一発はな、相手に出させるんだ。こっちから手は出さない。あとはもう、殴られる前に殴るだけだ」 「帰るよ」 「じゃあ、おくっていこう。借りもののナナハンだけど」 「いや、いい」  すると中川はぼくの腕をとって、言った。 「刀だ。持っていたよな。真剣を。前に見せてくれたやつ」 「それがどうした」  中川が言っているのは祖父の日本刀だ。いまは父の名義になっている。 「貸してくれないかな」 「おまえはなんでも借りるんだな。バイクに、それに刀だ? ごめんだな。刀はぼくのじゃない。爺さんのだ」 「そこをなんとかたのむ。おれがたたきのめした相手だが、やつら予備校生の甘ったれのくせにやることは残忍だ。なにを考えているかおれにはわからない。正直言って、少しおそろしいんだよな。やつら正気じゃない。狂っているんだ。それを治すのは時間だけときてる。悠長に待ってはいられない。やつら近いうちに仕返しにくるかもしれない」 「なにをやったんだ、おまえ」 「暴走族のつもりだろう、やつら。夜ひとりで走っていたらからんできたんだ。ちょうどおれもむしゃくしゃしてたところだからな。歯、鎖骨、肋骨をへし折ってやった」 「信じられないな」 「いい気特だった。しかしやつらは頭にきたんだな。なにやら相談しているらしい。おととい、おれのマシンに火をつけたよ」 「つぎはおまえの身体に火をつけると、そう思ってるのか?」 「やりかねないな」 「それで刀でたちまわるつもりか? 冗談じゃない。つきあってられないよ」 「ちゃんと返すよ」 「貸すとは言ってないぜ」 「近いうちにとりにいくぞ。じゃあな」 「くるな」 「住所は知ってる」  くそ、なんてやつだ。中川はぼくの腕を離して、出ていった。こっちのつごうなどおかまいなしに。あいつまでがおれを追いかけるのか。熟が出そうだ。帰って、眠りたい。  家はあいかわらず香の匂いが重い。佳子がはなれから玄関間に出てきて、顔色がよくないと言った。佳子は手に持った洗面器を床においてぼくの額に手をあてた。 「熱はないようだけど」  ほんとは少し熱い気がする。環帯がうっとおしい。ぼくは佳子の手をはねのける。つと足を出したら洗面器をけとばしてしまった。水が、湯だった、こぼれた。 「あらあらあら、いやだ」佳子はあわてて肩にかけていたバスタオルを広げる、「仕事をふやしてくれる天才だわねえ」 「爺さんの身体をふいてやったのかい」  濡れた靴下を脱ぎ、玄関の三和土でしぼる。 「よこしなさい、洗っとくから」 「風呂に入れるだろう、寝たきりじゃないんだから、爺さん」 「ふいてくれっていうんだもの。これも仕事のうちなのよ」 「自分でふけって言えばいい」 「年をとると依怙地になるの。いやなんて言ったらうらまれるわ。被害者意識というか被害妄想というか、こりかたまってるのね、下手なことは言えないわ。『おまえ、おれに早く死んでほしいんだろう』なんて言い出されると手に負えないから。子供がだだをこねるのよりしまつにおえない。子供ならひっぱたくこともできるんだけど」 「早く死ねばいいと思っているんだろうと言われたら、そうだとはっきりこたえてやればいいさ。甘やかすからつけ上がるんだ。殴りかかってきたら殴り返せばいいよ。佳子のほうが強いにきまってる」  床をきれいにふき、洗面器にしぼった水を広縁から庭に捨てた佳子は、ぼくに微笑んだ。 「若いわねえ、三日月さん。うらやましいほど」 「うらやましい?」 「世の中のこと、なんにも知らないんだもの。知らなくても生きてゆける年代なのよね」 「えらそうなこと言うなよ。環帯を外せばあんたよりいろいろ見えるんだ」 「自分の心はどうなの。あなた、妬いているんじゃなくて?」 「妬く? だれを?」 「大旦那さまをふいてあげるのが気に入らないんでしょう?」 「どうしてさ」 「胸に手をあてて考えてみたら?」  艶っぽく佳子は笑った。ぼくは立ちつくす。佳子が蛇になってぼくに巻きつく。 「おなかへってるんでしょ。お茶にしようか。いらっしゃい」  自信に満ちた声だった。なぜこの女はこんな態度がとれるんだろう。年上だから? おふくろにぼくの面倒をみるように言われてるからか? まるでぼくは肥やされている餌のようだ。 「あんまりぼくをなめると、おふくろに追い出されるぞ」 「あら、なめられてるの? いやだ、わたしは一度だって三日月さんを軽くあしらったことはないわ。機嫌をなおして。ね、お願いだから」  そして佳子は真剣な表情でこう言った。 「愛してるわ、三日月さん」  耳を疑う。言葉はたしかに聞こえたがぼくには意味がわからない。 「環帯をとってごらんなさい……わたしの心を見て」 「——いやだ」  愛していると言われて悪い気はしない。ぼくの肉体はたしかに佳子に愛され愛していたかもしれない。だけど心までは渡したくはなかった。佳子は大人だ。ぼくは大人を信じない。遊ばれるのはたくさんだ。ぼくは危うく佳子の巧妙な心理的な罠におちるところだったのかもしれない。罠なのかどうか、しかしわからなかった。佳子の気持は読めない。環帯をとればはっきりするかもしれないが、それでも混乱したぼくの心では真実をつかめそうにない。自信がなかった。こんな衝撃ははじめての経験だ。自分の心がわからないなんて。 「最初はそうじゃなかったのだけれど」 「なにが、そうじゃないって?」  ふっと佳子は表情を和らげた。「冗談よ。びっくりした?」  ぼくはふるえる。どうしようもない、怒りか悔しさか恥ずかしさか、得体のしれぬ昂ぶりにふるえた。 「ほら、だから言ったじゃないの。三日月さん、あなたはまだ子供なのよ。わたしの心なんか絶対に読めないわ。——早く大人になってね」 「ぼくはあんたのように汚れたくはない。大人なんてただの肉の塊だ。うす汚い、言葉をしゃべる糞だ」 「言うことはそれだけなの」 「言い足りないさ、もっと言ってやろうか」 「よしたほうがいいと思うわ」 「どうして」 「どうして、ですって」佳子は一歩近づき、ぼくの瞳を見つめて言った。「あなたもいずれ大人になるのよ」  手がとどけば殴っていたかもしれない。でも足を踏み出して殴りかかることはできなかった。  ぼくは回れ右して、部屋に入り、本を投げ出し、床に身をつっぷして、唇をかみしめる。  ぼくは追われている。いちばんの敵は時間だ。忘れていた。誕生日はもうすぐなんだ。  頭のなかを小さな虫が飛び回る。虫は理性に卵を生みつけ、不安の蛆をかえらせる。麻美と月子の影、母の弟子たちの笑い、止まらないパチンコ玉、ねっとりとした中川の言葉。みんな、ぶった切ってやりたい……佳子の真剣な目つき、嘲笑、忠告。消えちまえ、どうして消えないんだよ、発狂しそうだ。  ……あなたも大人になるのよ、三日月さん。  どのくらいそうしていたろう。  気がつくと家がなんとなく騒がしい。ぼくを呼ぶ佳子の声が聞こえる。ような気がした。だけどぼくは動かなかった。家が火事になっても動きたくない心境だった。ぼくは布団にうつぶせになったまま身動させずにじっとしていた。目を閉じるとまぶたの血の色が赤い。心臓の鼓動とともに緑の光がまたたく。疲れている。疲れた。あと何日だろう。十日。どんな気持でその日をむかえることだろう。考えるのがうっとおしい。うっとおしい。忘れてしまいたい。誕生日のことなんか。  いつしか眠り込んだらしい。半ば失神状態だった。襖が開く気配でぎくりと目覚める。 「佳子か……なんの用」 「紅茶を持ってきてあげたわ」 「紅茶か。コーヒーのほうがいいな」 「じゃあ、いれてきてあげる」 「いいよ。おいといて」 「クーラーをいれなさい。ひどい汗だわ」  佳子は勝手に入ってくる。ぼくはうす目を開けて見ている。はちきれそうなジーンズのヒップを向けて佳子はクーラーをつける。それから盆の紅茶とケーキを勉強机においた。 「もうじき奥さまが帰ってくるわね」  佳子はぼくの枕元に正座して、ぼくの髪をなでた。ぼくはその手をふりはらう。 「出ていけよ」 「お母さんに知られるのがこわいの?」 「そんなんじゃない……おふくろか。きょう店に行ったんだ。また、お聖から小遣いをもらったことをガミガミ言われそうだな」 「なんに使ったの。そのお金」 「女を買えるほどの金じゃなかったさ」 「なまいき言っちゃって。なにかあったのね。元気がないわ。女の子にふられたの」 「どうでもいいじゃないか」 「恋人、いるの?」 「あなたにはわからないさ。心をのぞけない……いやだ、ぼくは感応力を失いたくない」 「かわいそうに。でも……みんななくなるのよ。あなただけじゃないわ」 「いやだ。汚く染まるくらいなら死んだほうがましだ」 「年をとると逆になるわ。どんなに汚れても生きていたいって。大変だったわ、聞こえたでしょ、さっきの騒ぎ」 「また糞を投げつけたのか、爺さん」 「刀よ。最近ね、刀を見たいと言い出されて。日に二度三度と、止めるのに苦労だわ」  祖父の刀は、祖父の生きがいだ。しかしぼけた老人に刀を振り回されたんでは危ないからと、親父が鍵のかかる戸棚へ隠してしまった。以来、祖父の痴呆はいっそうすすんだみたいだ。 「どうするんだ、それで」 「どこにあるかわからないって、言うのだけれど」 「それではだめだろうな」 「だめ。仕方ないから、今夜旦那さまが帰ってきたら見せてあげるって約束して、なんとかおさえたけれど」 「夜になれば忘れてるよ」 「約束を守っても、刀をしまったとたんに忘れてしまうわ。見せても見せないでも同じよ」  ぼくは身を起こす。佳子はカップをとり、さめてしまったわと言いながらぼくの手に持たせる。いい香りだ。 「それで、いま刀はどこにある?」苦い紅茶だった。「七胴落とし」 「書斎の戸棚よ」 「鍵は」 「どうして」 「なんとなく。見てみたいと思って」  頭が痛い。中川は本気で取りにくるだろう。親父に見つからずにやれるだろうか。祖父もわるい時期に見たい気をおこしたものだ。 「危ないわよ。でも�七胴落とし�だなんて、おかしな名ねえ」 「もっとおかしな名のついた刀だって珍らしくない」  七胴落とし、か。その祖父の日本刀は長さ二尺三寸弱、刃文は見る者を冷やかに見返してくるような直刃。先反りで、切先は異常なほど鋭い。銘はたたきつぶされている。祖父は村正だと言っていた。たしかではない。しかし村正だという言葉がまんざらはったりではないような、美術品というより、いかにも切れそうな実用的な雰囲気をもった刀だ。  作者の銘はなかったが、試し銘は切ってあった。七ツ胴落。七胴を重ねて切り落としたというのだ。眉つばものだが、七体はともかく一人の人間を一刀のもとに両断するくらいはできたろう、そう思わせるすごみがあった。実際に七胴を落としたかもしれない。腕の立つ試し人が、刀の柄に分銅をつけ、二階から飛びおりざまに刃筋を誤ることなく、たたき切ったかもしれない。本当に、七胴を。 「鍵はどこ」 「文机のひきだしよ。だめよ、触っちゃ」 「どうして」 「旦那さまにしかられるもの」 「親父はこわいか」 「ええ。くびにされたくないもの」 「不良は親父なんかこわくないって言うそうだ。ぼくも不良だな」  佳子はぼくの手からカップを優しくとって、残りを飲む。 「佳子。親父を知ってるのか」 「なにを?」 「身体」 「ばかねえ」  カップを手で回して盆におき、佳子はぼくの頬を両手で包み込む。 「うれしいわ、三日月さん。わたしを自分だけのものにしておきたいんでしょう」 「ぼくは不良だ」 「どうして?」 「真面目な顔をしているけど、だれよりも不良なんだ」  万年床の上にあおむけになる。佳子がぼくを見おろし、顔を近づけ、耳もとでささやく。 「そんなことはないわ。あなたは大人の世界にちょっぴり足を踏み入れて、とまどっているだけよ。悪いことは言わないわ。幼稚な人とだけはつき合っちゃだめよ」 「幼稚な人って」 「まだ大人になってない、ほんとの悪い子たち。環帯がとれてるかどうかは関係ないわ。年をとっても幼稚な人間って、いるじゃない」 「たとえば、親父のようにか」 「それはちがうと思うけど」 「わからないな」  佳子がぼくの環帯を外す。官能をくすぐる精神波がどっとなだれ込んでくる。ぼくは唇をふさがれる。 「やめてくれ」  佳子をおしはなして、勉強机につく。 「慰めてあげようと思ったのに」 「慰みものにされるのはごめんだ」  佳子はぞっとするほど明るい笑い声を出した。「男じゃないの。慰みものにされるだなんて、おかしいわ」 「どうしてだよ。なぜぼくにまとわりつくんだ。頼みもしない、頼みもしなかったのに」 「そうね。きょうはもう奥さまが帰ってくる時間だし。ごめんなさいね、相手をしてあげられなくて」 「親父も帰ってくるさ。きょうは早いだろう。見つかったら、くびだもんな。出ていけよ」 「あら、旦那さまなら大丈夫よ」 「え?」  佳子はちょっと肩をそびやかし、紅い唇をなめた。微笑をたたえて。ぼくを愛しそうに見つめる。 「なんて言ったんだ?」 「大丈夫よって」  佳子の微笑が勝ちほこったような笑顔に変わる。ぼくは……しびれてしまう、身体も頭も。見つめられたまま、動けない。やっとしぼり出した声はかすれる。 「あなたは……いくらもらっているんだ。ぼくとの関係で」 「不良とつき合ってはいけませんよ、三日月さん」佳子は真顔にもどって言った。「旦那さまに心配かけてはいけないわ」 「出ていけ……ぼくは肉の塊なんか大きらいだ」 「どうしたの? もうすぐ大人になろうって人が、なぜそんな子供っぽいことを言うの」  佳子は動けないでいるぼくの頬を愛撫し、ひきよせ、唇を吸った。そして猫のように落ち着きはらって部屋を出ていった。  ぼくには信じられない。父は、ぼくが性的な欲求不満から麻美のような不良と精神場で遊ぶことを防ぐために、佳子という玩具をぼくにあてがっていたのだ。嘘だと思いたい。しかし佳子は否定はしなかった。言葉でも、精神波でも、態度でも、そうではないとはいわなかった。こんなことはぼくの理解をこえている。父はどうやって佳子に頼んだのだろう。佳子は仕事だと割り切ったのだろうか。祖父の面倒を看るのと同じことだ、と。佳子がどういう気持で承知したのであれ、しかしそんなことはぼくにはどうでもよかった。ぼくはけっこう楽しんだし、その点では佳子に感謝してもいい。しかし父のやり方には腹がたった。きたない。もっと頭にくるのは、ぼくがそんな父の精神波を読みきれなかったことだ。なんて巧妙な父のやり方だろう。  許せない。なにもかもが。 <そうでしょうとも>  月子がいった。姿は見えなかったがすぐ近くにいる気配がある。襖の向とうか。ぼくははねおきて、襖をいきおいよくあけた。一瞬、月子の紺色のドレスがひるがえったようだった。が、月子はいなかった。うすぐらい廊下の空気がゆらいだだけだ。 <みんな切ってしまいなさい、三日月。大人なんてうすぎたない。消すべきよ>  月子は七胴落としを使えといった。ぼくは急にその刀のことが身近に感じられるようになった。武器としての刀だ。美術品ではなく。  ぼくは月子の影を追うように父の書斎に入り、そこで、祖父が七胴落としを手にしているのを見て立ちつくした。祖父は鍵を見つけたのだろう。それで棚の扉を開き、日輪に収まった七胴落としをとりだして鞘をはらい、垂直に立てて刃身に見入っていた。痴呆老人の顔ではなかった。いや、別の意味で、やはり狂っていたかもしれない。殺気立っていた。ぼく自身の殺気の反映とは思えない、異様な雰囲気にぼくは圧倒される。 「よこせよ」ぼくの声はふるえる。「それはもう爺さんの刀じゃない」  祖父はぎろりとぼくをにらんだ。そのまなざしは、幼いころぼくがおそれた、かつての厳格な祖父を思い出させた。一瞬、ぼくは、この幽霊のようによみがえった過去の力関係に屈伏しかけた。が、屈伏しつつ ある自分に気づくと頭に血がのぼった。 「うすぎたないくせに。なんであんたは生きているんだ。そんなに汚れてまで。さっさとくたばってしまえ」  突然、しゅん、と風がなった。ぼくはとびすさる。障子にもたれかかり、ぼくは大きく目を見開く。七胴落としが風を立てた。刃が一閃したのが目に焼きついている。そいつは振りおろされ、ほぼ水平にぼくの首を横切っていた。 「……爺さん?」  首がむずがゆい。手をやる。血だ。首は皮一枚残して落とすのが作法だという。ぼくは皮一枚切られただけだった。不作法かもしれない。少なくとも祖父はそう思っていた。無念がっていた。  本気で、ぼくの首をおとす気だったのだ。 「斬る気だったのか——ほんとに?」  運のいいやつだと祖父は言った。言葉はよく聞きとれないが、たしかにそう言った。精神はおそろしく澄んで、その鋭さは、やはり正常とは思えなかった。まるで七胴落としに魂を売ったかのようだ。 「おまえは運がいい。いつまで続くかわからんぞ、三日月、強くなければ年をとることはできん」  生きているということは一種の奇跡だ、祖父はそう言いたかったにちがいない。運がわるければ、この年までは生きられん、老化は運のよいことの証拠だ——そういう意味だ。祖父はそれを実証しようとしたのだ、ぼくを斬って。  祖父の手の七胴落としがもういちど、すっと上がった。ぼくは動けなかった。 「くたばりぞこないめ」  祖父とぼくは同時に同じことを言った。祖父のかまえに力がこもり、上段で七胴落としが静止する。刀は人を斬るためのものだ。祖父はそのことに初めて気づいたかのように喜喜として、斬るべき者を見すえた。 「去《い》ね」七胴落としの刃がきらめく。「痴れ若め」  ぼくはあやうく横にとんで逃がれる。  玄関へ走り、スニーカーをつっかけて外にとび出した。みんな狂っている。  ぼくの家は化け物屋敷だ。 <おちつきなさい、三日月>  月子の声がする。ぼくは立ちどまる。住宅街が燃えるように赤く、熱くゆらいでいる。月子はブルーのドレスですぐ目の前に立っていた。手をのばしてぼくの首に触れ、その指をなめた。 <あなたの血よ。あなたのお爺さんはあなたではなく自分の腹を切るべきだと思わない?> <……まさか、祖父にあんな真似をさせたのはきみではないだろうな。そうなのか?>  月子は無表情のままこたえない。 <爺さんも、親父も、まともじゃない。おふくろだって自分勝手で異常だし、佳子もぼくをもてあそぶ。麻美はぼくの心をむしばみ、中川のやつまでがぼくの生活をかき乱そうとする。いったいどうすればいいんだ>  すると月子は平然とこういった。 <やられたらやり返せばいい。自分の心に素直になるのがいちばんよ。邪魔者は消しなさい、三日月。消される前に消すがいい> [#改ページ]       7  七月になった。誕生日までもうわずかだ。  公立予備校には夏期休暇はおろか、土日も休みではなかった。土、日曜は授業はなくて、自習やクラブとなっているのだが、登校を強要されるのだから平日とたいしたちがいはない。  ぼくは休まず予備校へ行った。老人臭と香の煙と家族の乱れた精神波のなかにいるよりはずっとよかった。予備校の毎日はまったく変化がなく、腰をおろして講義の声を聞いていると、昨日の時間の中にいるのだという錯覚にとらわれた。沈滞した時間は鎮静剤の効き目があった。  しかし予備校を一歩出れば、そこには大人たちの決めた時間が流れていて、そのあまりの勢いにぼくは溺れそうになる。時間だけは消せなかった。ぼくはもうすぐうすぎたない大人の時間に飲み込まれてしまう。  祖父はますますおかしくなって、夜中に家を徘徊するようになった。教師だった祖父は、いまだに現役の教師だと思い込み、これもまた教師であるぼくの父に、おまえの教育理念は伝統を無視したものだなどとおそろしく理性的な声で言い、緊急の呼び出しがあったから学校へ行かなければとふるえる手でネクタイなどをしめはじめて、父をあわてさせた。 「お父さんは偉いのだから、動かなくていいんです」  と父は祖父に言いきかせた。名門私立高校の創立者ということになった祖父は、佳子を秘書にして、自分でなければ解決できない学内のもめごとをもってくる客を待つようになった。そうした客には自慢の七胴落としを披露すべく、書斎の戸棚の鍵をネックレスのように首からぶらさげた。その鍵は偽物で、祖父の手では戸棚のなかの日本刀をとりだすことはできなかった。ときおりぼくは夜中に、書斎のほうでネズミが柱をかじっているような物音で目をさましたが、翌日見ると、戸棚には祖父の無念さを示すようなひっかき傷がついているのだった。祖父はやるせない気持からか、障子の紙をやぶり、ちぎって、それを食った。ぼくは夜、その場面にでくわしたが、祖父の顔は狂っているようには見えず、それがかえって異様だった。それは紙だよ、と言うと祖父はわかっていると平気でこたえた。食べてはいけないと止めると、わしはなにも食べとらんと言いながら口を動かしつづけた。そして、佳子につれられて部屋にもどった。  佳子は祖父に生きがいを与えるべきだと言い、七胴落としの管理を祖父にまかせたらどうか、それができなければ自分の責任で祖父にその刀を毎日見せてやりたいのだがと主人である父に申し出た。が、父はとんでもないの一言でしりぞけた。父にとって日本刀なぞ大きな包丁にすぎなかった。父は祖父の趣味を理解しなかった。おそらく祖父が死んだら、祖父が何十年にもわたって集めた資料や本ごと、七胴落としも売り払われるにちがいなかった。父は子供のころに、祖父の買った安い刀をいたずらしていて足の甲に深い傷を負い、その痛みと祖父の激怒を同時に味わって、以来刃物恐怖症となった。父は電気シェーバーを使うのもおっかなびっくりのようだったし、グラスなどが割れるとヒステリックに叫び、それで指など切って血が流れようものならいまにも死にそうな声を出した。父は他人の血を見るのもきらいだった。だからもしもぼくの首の横に一直線に引かれた傷あとが七胴落としによるものだと知ったら、父は祖父の死ぬのを待たずに刀を処分しただろう。  ぼくは二センチ弱のその傷あとを、蚊に刺されてかきやぶったからということにしてバンドエイドで隠していた。祖父に七胴落としを持たせてはいけないという父の意見にはぼくも反対はしなかった。夜、祖父が徘徊している物音をきくと、あの鋭利な七胴落としがいまにも振りおろされるのではないかと身を硬くした。そんなとき、ぼくは麻美の家を思った。陰鬱という点ではぼくの家とたいしたちがいはなかったが、麻美のところにはしかし夜な夜な徘徊する幽霊はいなかった。まだ死んでいない幽霊は。ぼくが麻美を思うとき、実際に麻美の心に入っていたかもしれない。  たとえば家族と顔をあわせなければいけない食事のときなど、手では飯を口にはこびながら、麻美の部屋でぬいぐるみの猫とたわむれたりした。黒い猫は麻美の両腿にはさまれて、金色の瞳でぼくを見つめた。その眼が祖父のものになって、ぼくはそうそうに食卓からはなれるのだ。  麻美はぼくの不安をよく知っていた。七胴落としもぼくの眼からちゃんと見ていて、セクシーな輝きだといった。麻美はぼくの夢によく出てくるようになった。夢ではないかもしれない……  わたしは枕元にあの鋭い透明にも見える刀身をおいておけないのを悲しむ。七胴を落とせると公認されたあの日本刀を、白い鞘に収めたまま眠らせておける人の気がしれない。七胴落としは白い鞘に収められて、うめき声をあげている。彼には血が必要だ。吸血鬼が血を求めるように、流れる血を吸わなければそれは死んでしまう。三日月くんがなぜ黙っているかわたしにはわからない。お爺さんがこわいなら、それで斬ってしまえばいい。いいえ、お爺さんを殺すには刀なんかいらない。あれを奪ってしまえばいいのだ。とりあげてしまえば老人は生きてはいないだろう。  抜き身の刀を手に下げて、老人が近づいてくる。ほら、三日月くん、首を落とされるわよ。注意しなさい。その襖の向こうに立っているわ。とりあげなさい。七胴落としはあなたのものよ……  ぼくは襖の前で目をさました。夢遊状態の自分に気づいてぞっとする。クーラーをとめた部屋は暑く、汗びっしょりだった。環帯は頭にはまっている。麻美の夢を見たのか、現実なのかよくわからない。月子かもしれない。月子は近くにいる。いつもだ。月子のドレスはだんだん濃くなっていき、いまではミッドナイトブルー、窓の外の闇にまぎれて肉眼では見えない。 <消されるまえに消してしまえ>  月子の声だ。ぼくの内なる声かもしれない。ぼくはクーラーを最強にして、厚い布団を押入れからひっぱり出し、それにもぐりこむ。  月子がぼくの幻想なのかあるいはただの女なのか確かめてみるべきだと思うようになった。  月子は執拗にぼくの心に入り込み、なぜ行動しないのかと問いかけた。 <あなたは宙ぶらりんな状態におかれていると思ってるけど、実際はそうじゃない。無重力にいると思ってはいけない。あなたは自由落下している、はてしなく落ちつづけている、それに気がつかないだけよ。あなたはもうじき底に衝突する。もう時間がない。なぜやりたいことをこらえているのか>  やりたいことなどなにひとつないとこたえると、月子は麻美の心をぼくにふきこんだ。  麻美はごくあたりまえの平静さで、 <人はだれだって、感応力をもっている期間中に人殺しをやっているものよ。ゲームに勝ち残った者だけが大人になるんだわ。なんにもやらないなんて卑怯よ> といった。  そういわれてみれば、そうかと思いたくなる。そういう考え方は案外みんなに認められている一般的な常識なのかもしれない。父もそのことを知っていて、ぼくをその常識から目をそらさせ、危険におちいることのないように、佳子という遊び道具をおしつけたのかもしれない。そうだとしたら許せない。ぼくは父によって、青春の一時期にとぎすましておくべき牙を抜かれてしまったのだ。父は卑怯だ。血を見ると失神してしまうような腰ぬけだ。そんな男が、息子に牙をむかれないようにあれこれ方策を立てるのも当然だという気がした。  ぼくは祖父に切りつけられた首の傷を指で触れながら、不安が激しい怒りにかわってゆくのを感じた。なぜ幽霊に身をおびやかされなければいけないのか。幽霊など、もはやこの世では必要のなくなった、消えさるべき役立たずだ。そんなものにこの家を徘徊する権利などない。ましてやぼくに斬りかかるなんて、許しがたい。この世はぼくのものだ。ぼくのためにある。生きている者のために。  ぼくの怒りはだけど、なにやらぼくから分離独立したもののようで、それに気づくと気味がわるかった。ぼくは自分を分裂症ではないかと本気で疑った。月子はもうひとりのぼくで、ぼくの分裂を立証する幻覚かもしれなかった。妄想にあやつられて怒りをはらすような真似はしたくなかった。  だから月子の正体をなんとかしてつきとめなくては、ぼくの怒りが正当なものなのかどうかわからないから、やってみる必要がある。  どうやればいいだろう。  予備校でそれを考えていると、いつのまにか近くの席にきていた麻美にさっと環帯をとられて、精神を隠すまもなく読まれてしまう。  麻美の狂ったような高い波長の精神笑。 <怒りが自分のものかどうか確かめる、ですって? 自分で感じたものが自分のものではないというの? ばかげてるわ>  ぼくは麻美の手から環帯をとりもどし、頭にはめた。麻美は声をたてずに笑いつづけた。  月子はぼくと麻美など目に入らないかのように無関心に講義を聴き、ノートをとっていた。横顔は白く、唇にも血の気がなくてほとんどうすむらさき色にも見えたが、病的な風ではなかった。その顔はまるで新流行の化粧をたんねんにほどこしたような人工的な美しさがあった。いまにも透明になりそうな、ものすごく薄く焼いた白磁の仮面に内側から照明を当てているような、無機質の清廉感がただよう。この女は腐りも錆びもしないだろう。とても人間とは思えない。  この女がこの世のものでないのなら、とぼくは考えた、磁気テープ上になんの変化もおよぼせないにちがいない。  あの日市民公園でのテレビ局の取材で、あのテレビカメラは月子をとらえていただろうか。ぼくは撮られていたようだ。月子はどうだろう。それを思い出して、ぼくは別のことに思いあたった。ぼくはあのとき若妻の死を予言した。あの局のインタビュアーが、ぼくの予言に不審をいだいているのはまちがいない。もしぼくをカメラマンが撮っていたとすると、ぼくの顔は記録されている。彼らは必死になって捜しているかもしれない。なぜ予知したのか、なぜあの女が事故にあうことがわかったのかと彼らは訊くだろう。そして、真相をつきとめる。きみは予知したわけではないのだ、殺人の予告をしただけだ、あの女はおまえが殺したのだ、と。ぼくはちがうと言う。やったのは月子だ。月子だって? いったいだれだね、それは。ぼくは取材されたときのビデオテープを見せられる。ぼくの背後に映っているはずの月子はどこにもいない……  ぼくは頭を振って妄想をうち消した。そんなはずはない、月子はぼくの生んだ幻なんかじゃない、ぼくは狂ってはいない。 「ひどい汗よ、三日月くん」  麻美がほんとに心配そうな声でささやいた。 「少し暑い」 「こんなに冷房がきいてるのに? 出たほうがいいわ。早退したら? とにかく保健室にいきましょう。熱があるのかもしれなくてよ」 「寒くはないんだ。熱なんかないさ」 「異常低体温症かもしれないわね。感応力を失う直前の徴侯のひとつの」 <ばかな……ちがう>  ぼくの精神声は環帯にさえぎられて麻美にとどかなかった。ぼくは一瞬、ついに感応力をなくしたのだという衝撃にうちのめされた。麻美はぼくにもう一度手をのばして環帯をとり、ぼくの腕をとって教室から出た。教師はちらりとぼくらを見たが、とがめだてはしなかった。ぼくはよほどひどい表情をしていたのだと思う。 <大丈夫よ、三日月くん。ちょっとおどかしすぎたみたいね>  そういって麻美は心で笑った。ほんとに楽しそうに。残酷な笑いだ。  麻美はスポーツヘアバンドみたいな派手な環帯をしている。にもかかわらず精神会話ができるというのは、ぼくらの間に月子が割り込んでいるからか。 <なにをいってるのよ、これは偽物よ。偽の環帯。知ってるはずじゃない。ほんと、しっかりしなさい。あなたにはまだ大人になってもらいたくないもの> <どういう意味だ>  ぼくは麻美に殺されるかもしれない。早紀のように。 <早紀の事件はどうなった>  保健室へ歩きながらぼくは訊いた。 <さあ。警察はあれこれ調べているみたいね> <尾谷はあの室にネクタイを忘れていた。あのネクタイが尾谷のものだと密告すればあの男は参考人として警察に引っぱられるだろう。きみはあの男をきりきりまいさせたいのだろう、なぜやらないんだ> <ネクタイなどなんの証拠にもならないわ。警察はね、たとえ尾谷を見つけ出すのに成功したとしても、あの男を捕まえたりはしないわ> <なぜ> <警察は、早紀の死を感応遊びの結果だと知っていると思うわ。動いているのは少年課よ。彼らはわたしを捜しているにちがいない> <なんだって? じゃあ、尾谷は安全なわけか> <安全とはいえないでしょう。早紀と関係していたことが公になったら社会的な信用をおとすもの。せいぜいびくついているがいい> <きみは安全か? よく平気でいられるな。もし少年課に捕まったら、どうなるんだ> <さあ。たぶん、感応力を消去されるんじゃないかしら。薬か、手術か、方法はよくわからないけれど。やられた友だちを知ってるわ>  感応力を消去する? 大人はそんな手段をもっているのか。知らなかった。大人たちは子供を子供でなくする力を隠しているのだろうか。前にも麻美はそういっていたようだが。 <でも……もしそんな力があるのなら、なぜ予備校生にそれを使わないんだ? 子供たちみんなに。大人にとって、子供、感応力は敵だろう。少なくともやつらは、ぼくらを病気だと思っている。なぜやらないんだ?> <さあ> 麻美は首をかしげた。 <そういわれてみればそうだけど。きっとその手術は危険なのか、でなければわたしたちの知らない大人のつごうってものがあるんじゃないかしら>  麻美はうす暗い廊下で白い歯を見せて健康な笑い顔をぼくに向けた。 <わたしは捕まるわけにはいかないわ。わたしはね、三日月くん、あなたとやってみたいのよ> <早紀とやったようなゲームをか> <そう。それがだめなら、わたし、あなたが大人になるのを感応力で観ていてあげる。きっと、とてもセクシーだと思うわ。死んでゆく人間の精神波よりもずっと官能的じゃないかしら> <やめろよ……きみは魔女だ> <あら、ありがとう>  真面目な顔になって麻美はそういった。  ハイミナールがほしかった。だが保健室へ行ってもそんな薬は出してもらえそうになかったから、ぼくは予備校を出た。 <酔っぱらいたいの? どこかで飲もうか> <酒はきらいだ。それにまだ日は高い> <薬ならいいの?> <薬は純粋だからな>  バスにゆられながら、早紀はほんとにいい娘だったと麻美が言った。 <きみが殺したんだ> <わたしがあのゲームで負けていたら、三日月くん、早紀にそういった? 早紀、きみが麻美を殺したんだ>  ぼくはこたえられない。心を隠しながら、早紀には麻美は殺せなかったろうと思う。麻美は、いつものようにほんとに快いマッサージのような精神の笑いをぼくに送ってくる。 <あなたは、わたしを消したがっているんだわ>  わたしは三日月くんの殺意を快く感ずる。早紀よりずっと遊びがいがある。早紀のお葬式に行ったとき、彼女の父親が泣きじゃくっていたのを見て、わたしはぞっとした。早紀はわたしとやっているときだけ自分自身で、感応力を使っていないときは父親の人形にすぎなかった。焼香をして、早紀の両親に頭をさげようとしたとき早紀の母親はものすごい目でわたしをにらみつけた。わたしは微笑んでやった。この女は感応力をもっていた時期にはわたしと同じような不良だったにちがいない。早紀よりはこの女と勝負したかった。でも彼女は大人だ。ゲームはできない。急激に心臓神経を乱して殺すこともできたけれど、それでは公平じゃないし、だいいち、おもしろくもなんともない。安全を保障されているゲームなんかゲームじゃない。三日月くんは刀のような精神波をもっている。やりがいがあるというもの。わたしが勝ったら、三日月くんの家に香をあげに行こう。彼の両親はわたしのことに気がつかないだろう。眠っているような目でただ頭をさげるだけだ。そんな大人にはなりたくない。わたしは三日月くんが感応力を失いたくない気持がよくわかる。ただ、女中の佳子という女は、三日月くんが感じているよりはしたたかだ。あの女はわたしよりも自由に遊んでいたような気がする。三日月くんは佳子には勝てないだろう。 <勝てないって? なにをばかな>  ぼくは麻美の心から出て、憤る。 <女の勘よ。あなたが精神をどんなに集中しても、あの女の肉体はおろか、精神にかすり傷さえ負わせられないわ。彼女はたぶん、感応力を失ったいまでも、本能的に精神ストレスから心を守る力をそなえているんじゃないかしら。感応力をもっていた時代につちかったのよ。わたしもあの女のような大人になりたいな。子供たちの顔色をうかがったり、子供には感応力なんかないと無視したり、子供は病気だなんていってさげすんだり、そんな大人にはなりたくない。そんな弱い人間には> <佳子は強いとは思わないがな。ぼくがいやだと言えば、くびにできる。家を追い出せばそれでおわりさ> <ほんとに三日月くんてナイーブなんだから。幼稚なのよね> <佳子は……ぼくを愛していると言った> <それは案外本音かもしれなくてよ> <ごめんだな。願い下げだ。ふってやる> <ふる?> アハハと麻美は口をあけて笑った。 <できないかも。佳子からは逃げられないんじゃないかしら> <そんなことあるもんか> <やってみれば? 協力してあげるから>  ぼくは黙る。どいつもこいつも、どうしてぼくにつきまとうのだろう。  麻美はぼくの腕をとって、喫茶・合歓へつれていった。二階の大きな偏光ガラスの窓ぎわの席に腰をおろす。にぎやかな暑い街が、海の底の世界のように冷たく見えた。外の音は聞こえない。精神雑波がかきまわした水中の泡のように立ち、消えては、また浮かぶ。 「早紀もその席が好きだったのよ。皮の感触がいいでしょう」  死んだ早紀の感応力がまだ残っていて、ぼくはそれに包まれている気分になる。メランコリイ。麻美はシガレットケースを出して煙草を一本くわえ、細い銀のライターで火をつけ、一吸いすると、灰皿においた。吸口が血のように紅い。 <紅? 紅くなんかないわ。わたしルージュはつけてないもの。早紀の幻でしょ。たとえばね、コロラドの#13、早紀は熱烈な赤が好きだったわ。動脈の血の色のような>  灰皿のわきに口紅のケースが出現する。キャップが消えて、ケースが回転すると、紅い舌のような口紅が出る。舌は炎にかわり、金や銀の粉をまきちらして消えてしまう。ぼくは口紅の消えた空間に手をやって、首を振った。 「早紀はもっとおとなしかったさ。熱い赤が好きなのはきみなんだ。いまの口紅の幻視像はリアルだった。きみの使っている口紅だろう」 「あたり」 「いまの幻の口紅で実際に唇にぬることができるかな」 「あら、おもしろい考えね。やってみようか」  麻美は真剣な表情で、てのひらを出してそこに視線を集中した。コロラド#13、溶ける直前の鉄のような、オレンジに近い紅のケースがぼんやりと浮かびあがり、ピントが合うように細部がはっきりしてくる。麻美はその幻をこわさないようにそっと右手でとりあげ、キャップをはずしてそれをテーブルにおき、そして紅を唇にあてた。麻美の唇が血の色に染まった。 <どう?> <赤いよ>  ぼくはテーブルにある幻のキャップに手を伸ばし、触れた。金属の冷たい感触がつたわった。それをつまもうとした瞬間、消え失せる。 <だめだわ。幻を保っているのは疲れる。もう弱くなっているんだわ> <らしいね> <あなたはまだ大丈夫じゃないかしら。ほら、見てごらんなさい>  麻美は窓の外を指した。まぶしくはなかった。清澄な風景画を見るようだった。街全体が化石化したように静かだ。雑多な色彩のあふれたブティックや旅行代理店やレコード屋やゲームセンターやデパートのつらなる通りに、強力な光をあててすべての色をとばして、その上に減光フィルターをかけたようだ。白い印象。ユトリロの描いた白の時代の街を思いおこさせる。そのなかに、場ちがいなほど派手な黒衣の女がいた。いや、黒ではないだろう、あれは濃いブルーだ。月子が貴金属店の前でショーウィンドウをのぞいている。金のネックレス、ダイヤの指輪、ルビーをちりばめたブローチ、そしてあの二つの輝点は、月子の瞳。ウィンドウに反射した月子の視線。 <キャッツアイじゃない? 月子の瞳じゃないわ。でも彼女がこっちをうかがっているのはたしかね。あなたの分身よ。でなければわたしたちがここにいること、どうして知ってるの> <ぼくではなくて……きみの分身だとも考えられる> <わたしの感応力はとてもあんな実像を幻出させる力はない> <幻ではないかもしれない。そうだ、カメラで調べようと思ったんだ。ビデオカメラで撮れば、きっとわかるさ。幻はカメラでは撮れないよ。幻出された像は、頭のなかで像になるんだ。実際にはないんだ。客観的なカメラアイでは映らないと思うな。カメラに脳みそがあれば別だけど。やってみようと思うんだ。コンパクトビデオカメラを借りて」 「無駄だと思うわ」  麻美は紅茶をシナモンスティックでかき回しながら言った。 「どうしてだ。いい考えだと思うけど。きみがさっき幻出したリップスティックだって、ビデオに撮ればなんにも映らないよ」 「コーヒー、さめるわよ」 「冷たいよ。アイスコーヒーだ」 「そう?」  ストローで吸いあげたコーヒーが熱い。ぼくは思わずストローを指ではじきとはす。それからおそるおそるグラスに唇をよせて、すする。アイスコーヒーだ。熱いわけがない。 「錯覚か……きみの悪戯だな」 「そう。悪戯。でも錯覚じゃなくてよ。瞬間温度計ではかれば実際に沸騰してたのがわかったはずよ」 「信じない。幻のリップスティックは、感応力のない者には見えないし、感応力で水を沸かすことはできない」 「力があればできるわ」  麻美はシナモンスティックで紅茶をすくって、一滴テーブルに落とした。紅茶の水滴は落下途中で水蒸気になって消えてしまう。 「幻だ。感応カイメージだ」 「信じない人になにを見せても無駄ね。だから言ったのよ、無駄だって。でも、いいわ、実験してみせてあげようじゃないの。電気屋さんへ行って、実演してあげる」  実演というと、手打ちそばの実演販売とかストリップのショーとか、いかにも即物的で麻美らしかった。 「よし、行こうじやないか」 「月子もくるわよ、きっと。賭けようか」 「賭けにはならないさ」ぼくは席を立った。窓の外に月子が見える。「ぼくも月子はついてくると思う」  量販の電気店に入る。二階の生テープ売場で麻美はコンパクトビデオのテープを買って、ビデオカメラの展示してあるコーナーへとぼくをさそった。いろいろな種煩のカメラが並ぶ。マイクロ・カセットをカメラに装填するコードレスのハンディ・タイプが主流だがぼくの家にはそれを再生する機械がない。客が常時手にとって試すことのできるカメラがいくつかあって、麻美はそのひとつを指さした。 <このタイプのなら三日月くんの家でも見れるわね。アダプターを使えば再生できるわ>  コンパクトビデオに買ったテープを装着して、麻美はカメラのコードがデッキにつながっているのを確かめる。重量感のある黒いカメラを麻美はぼくに手渡した。新品の緊張した匂いはなく、黒い色も少し埃っぽい。手垢でよごれているというわけでもないのだが、遊び半分でもてあそばれたカメラはいかにも頼りなくて、電池が切れて動かない展示用のプラスチック玩具を連想させる。  スイッチを入れてファインダーをのぞくとちゃんと見えた。電子ビューファインダーは白黒、オートフォーカス、フルリモコン。 <用意はいい?> <どこを撮るんだ?> <ここよ>  麻美はデッキの上の空間を、毬をなでるように手を動かした。 「それじゃあだめだよ」  デッキのおいてある向こうにオーディオコーナーがある。ピントはそっちに合う。 「オートフォーカスが働いて、そんななんにもないところにはピントが合わない。フォーカスロックはどれだ?」 「オートのままにしておきなさいよ。いま幻を出すから。出した幻がカメラにも見えるならオートフォーカスが効くわ。そうでしょ?」 「フム。じゃあ、やってみろ」  ぼくはカメラのトリガーを引いて、デッキが録画状態になったのを見とどけ、麻美のいう空間を狙った。麻美が息をつめる気配。  白い霧が出現した。二十センチくらいの球形に霧が集まる。白い霧がピンクがかってき、球形がひょうたんのようにくびれ、上部が肌色になる。色がついてる?! 上部から黒い煙がにじむように出た、と思うまもなく、煙はつややかな細い糸となって、伸びる。髪だ。卵のような灰色の球体に凹凸ができ、アーモンド型の黒い眼の穴、とおった鼻すじ、唇は小さく怒ったようにもりあがり、ぽっと赤く染まる。白いボウタイのついたブラウス、赤いプリーツスカート。急速にピントが手前に移動する——レンズが回転し、止まる。ミニチュアの早紀が出現した。ぼくはファインダーから目をあげる。鮮やかな早紀の像が空中で微笑んでいる。そっと手を伸ばすと、像の周りに透明ゼリーのような抵抗感をもつ層がある。麻美が触れられるのを拒否している。早紀の像は三次元像で、カメラを動かすとちゃんと横顔が見えた。が、長くは形を保ってはいない。ドライアイスで作った人形のように、頭から形を崩してゆく。灰色の煙が重く下に流れて、消える。レンズの焦点が自動移動する。店の奥のオーディオ・アンプ群にピントが合う。ぼくはカメラをおろす。  麻美はふっと息を吐き、血の気の失せた顔をぼくに向ける。 <疲れるわ。早紀……ほんとにきれいね。見たでしょ> <いまはもう砕かれた骨の屑さ> <そうじゃないわ。ちゃんとあらわれたじゃないの>  ぼくはカメラをおいて、テープを巻きもどした。ディスプレイのスイッチを入れて再生してみる。早紀は、麻美のいうとおり、ちゃんと映っていた。麻美の出現させた幻は、カメラもだますことができるのだ。 <信じられないな……このディスプレイ画面にはほんとはなにも映ってなくて、ぼくは心で早紀の幻を再生しているんじゃないのか。早紀は幻だ。ここに出るはずがない> <これが幻だってことは認めるわ。わたしの心が生んだのよ。でも三日月くん、幻の実像っていうのも存在するのよ。ちゃんと触れればそこにあったでしょう。これは触れることのできる幻よ。カメラも認めているわ。たしかにいたって> 「じゃあ」とぼくは声に出して言った、「このテープを大人が見たら、大人もこの幻を見れるのか」 「もちろんよ」 「感応力が生んだ幻を大人が見れるわけがない」 「だから、ね、そのテープをあげるから、家で佳子さんとごらんなさい」 <きみはこのカメラを感応力で操ったんじゃないのか? 感応力で幻の像を電気信号に変えて記録したんじゃないのか。それなら大人も見れる> <ばかなこといわないで。撮っていたのはあなたよ。わたしは早紀を思い出すのに必死だったわ。それにわたし、そんなカメラでどうして物を映せるのか不思議でしょうがないっていうのに、電気信号ですって? 頭が光り出しそうな気分よ> <ぼくもだ> 「あ、あれ見て」  麻美はぼくの肩ごしに視線をやった。ぼくは振り返る。パーソナルコンピュータの売場があり、デモ用のコンピュータの前に一人の女がコンソールキーを悪戯半分のような調子でたたいている。長い髪、白い顔、ミッドナイトブルーのワンピース。月子だ。  麻美はビデオカメラをとって、撮る。 <あれも幻よ、三日月くん> <ちがう。早紀は小さいけど、あれは——> <幻の大きさなんかどうにでもなるわ>  麻美は撮りつづけながら、精神を集中した。  月子の手前に、一瞬、等身大の早紀が見えた。はにかんだような笑顔で、ふらりとぼくらの前に一歩足をふみだして、かき消すように見えなくなる。早紀の亡霊。  麻美はカメラをおいて、コンパクトビデオ・テープをデッキから出し、ぼくに差し出す。 「あげるわ」  月子をうかがう。月子はこちらには無関心のようだ。見向きもしない。ぼくは麻美からテープを受けとった。 <あの早紀の幻も……撮れているのか> <当然>  月子から逃げるように電気店を出る。麻美はついてこなかった。が、心は離れない。 <こんなばかなことってないよ……月子は大人にも見えるんだな——ビデオにも映っているだろう。あれは実在する。彼女は人間だ。幻じゃない……確かめようがない> <抱いてみたら? いっしょに寝てごらんなさいよ> 麻美はせせら笑う。 <たぶん、あなたが抱いたことのある女と同じ感触があるわよ。あなたの経験した女の。あの女はあなたの生んだ幻よ。実在する幻> <この街を歩いている人間たちの……いったいどのくらいが本物なんだろう>  ぼくは額の汗を腕でぬぐって、にぎやかな通りを見た。サラリーマン、店員、高校生、主婦、老人、赤ん坊、ごたまぜの、人間放牧場のような世界だ。みんなそこにいる。しかし幻と本物の区別がつけられない。この街の本当の姿はどうなっているんだ。 <この人間たちのすべてが、ぼくの生んだ幻かもしれないな> <タルムードにあったじゃない。『人はだれでも、この世は自分のために創られたと信ずる権利がある』と。この世はあなたのために創られた幻だって信ずる権利はあるわ。でもあくまでも信じる権利、なのであって、真実はそうじゃないってことよ。なにを信じようとあなたの勝手よ。でも現実は、あなたがいようがいまいがたいしたちがいはないわ> <きみが死んでも、な。感応力だけが本物だ。絶対にそうだ> <すると、大人たちの世界と大人の人間たちは、感応力をもっているわたしたち全員が共同して創りあげている、実在する幻かもしれなくてよ> <大人は幻か>  そうかもしれないとぼくは思った。コンパクトビデオ・テープを握りしめて歩きだす。 <テープをよく見るのよ、三日月くん。わたしが出現させた早紀と、月子と、どちらもちゃんと映っていて、幻かどうかの区別なんかつけられないわ。わたしに力があれば早紀を月子のように現実世界で動かしつづけることができる。あなたはほんと、おそろしいほどの感応力がまだある。もしかしたら、大人全部を消せるんじゃない?> <消してしまえ>  月子の精神声がきこえたように思う。月子がぼくの分身なら、その声はぼくのものだ。ぼくは大人を消したがっているのか? ぼくは自分がどこに在るのかわからない。  大人は、幻か。人間は感応力を失うと死んでしまうのかもしれない。死んだあと、身近かな感応力をもった子供たちに幻の肉体を与えられる。そして実在する幻から子供が生まれ、感応力で世界を創りつづけてゆくのだ。  ぼくは分裂している。心相医に相談すべきかな。いや、どうせあれも幻なら、なんの役にも立たないだろう。 <ね、三日月くん、テレコイッスをやろうよ。大人になったらできなくなるもの。いやだ、深刻ぶっちゃって。楽しまなくちゃ損だわ。あら、その乳房だれの? そうか、佳子なのよね。三日月くん、幻を相手にしてたほうがいいの? 注意しなさい、あの佳子って女、あなたを捕まえて放さないから。ね、三日月くん。聴いてるの?>  ぼくはこたえない。環帯をポケットから出してはめようとしたとき、目の前の景色がゆらぎ、街が白くかすんで消えはじめる。ホワイト・アウト。麻美め。ぼくの心を盗んだな。  わたしは地下街が好き。昼間でも夜の雰囲気を味わえる。人工の滝が流れ落ちる地下広場のベンチに腰をおろして、人工照明に照らされて金色になった人人が通りすぎるのをながめる。滝のしぶきが虹を生んで涼しそう。  滝の前に環帯をきちんとした女の子が二人、口でしゃべっている。予備校生だ。お上品な娘たち。この娘たちは感応力をもっていることを恥ずかしいと思っている。そんなものもっていないわ、というような顔をして、決して精神会話はかわさず、四六時中環帯をしている。彼女たちは、キツツキもマリンガも、クリームもテレコイッスも、なんにも知らない。まるで、自分が女であることを確かめることなくただ男が自分を抱くから女なのだろうと漠然と信じている中年女にそっくりだ。なんのために生きているのかわたしにはわからない得体の知れない人間、この娘たちはそういう女になる。三日月くんにいわせたら、この娘たちは幻だ。自分のセックスに指を入れて子宮口があることを確かめるように、精神の微妙な感覚を自らの意志で目覚めさせなさい。なぜやらないの? いましかできないというのに。だけど環帯をしているこの娘たちにはわたしの心は伝わらない。環帯をして、すべてを拒否して心を閉ざし、中年女と同じくだらない会話で時間をつぶしているこの娘たちはなにも感じない。この娘たちは白痴だ。わたしは同情もしなければ憐れみも感じないし、気の毒だとも思わない。わたしはただ軽蔑する。自ら白痴になった人間に同情する理由などない。  通りゆく人間の精神雑波がわたしの心をマッサージする。とても心地いい。わたしは心を開いて精神雑波を受け流す。強力な精神波がある。孤独な逃亡者、三日月くん。彼は精神雑波をきき流すことができない。あまりに感受性が強くて、それで傷つく。雑波をみんな分析しようとする。どれが本物で、どれが幻なんだろう、現実はどれなのか——わたしにいわせたら、そんなことを考えてなんになるの。無駄だわ。それより遊んだほうがいい。  三日月くんの精神はもう良い子を演ずることができなくなってきている。彼は崩れる。崩壊するイメージは、たまらなくスリリングでいい。わたしは感動する。早紀が消滅する瞬間を思い出して、わたしの心はふるえ、肉体にまで感動の寒気を感じてしまう。  三日月くん、ほら、もう誕生日はすぐそこよ。  わたしは腰をあげる。滝のしぶきの立つそばで、人工の滝つぼをのぞきこむ。娘が二人、黒い髪を水中に咲かせて、人魚のように踊っている。滝の水流にゆられ、かきまわされ、泡を吹いてしゃべっている。水のなかでいつまでもそうしていなさい。  わたしは人工滝をはなれる。背後で通行人の叫び声。駆けてくる警備員とすれちがって、わたしは上に出る。まばゆい七月の光にわたしは目を細める。  三日月くん、あなたは決して逃げられない。あなたは自分自身に消される。月子に。 [#改ページ]       8  気がついたとき、ぼくは家の前に立っていた。腕時計を見ると七時まえだ。どうやって家に帰りついたのか、まるで覚えがない。コンパクトビデオ・テープはなかった。かわりに紙袋をぼくは持っている。開けてみると、例のテープと、家庭用ビデオ用のアダプターが入っていた。ぼくはどこかでアダプターを買ったらしい。麻美が買わせたのだ。  よくもまあ、どこにもぶつからずに歩いてこれたものだと他人事のように感心する。半ば酔ったような、酔いざめの気分でぼくは家に入った。あいかわらず抹香くさい。  はなれをうかがうと広縁に祖父がロッキンチェアにゆられて庭を見ていた。蝉の声が冷たいシャワーのようだ。祖父は早い夕食を食べさせてもらったらしく、おとなしかった。ぼくは声をかけずに佳子を捜す。  佳子は台所でお茶を飲んでいた。佳子がこの家にきてから食堂兼用に改装された台所は広く明るい。クッキーをつまんで休んでいる佳子の姿は女中というより、なんの心配事もない優雅な若妻の印象だった。 「おかえりなさい」佳子はお手伝いさんの顔にもどって、腰をあげた。「幽霊みたいにこっそり入ってくるんだもの、びっくりしたわ。食事にする? 今夜は旦那さまも奥さまも遅くなるんですって。ゆっくりと二人で食事しようか」  ぼくは返事をせずに佳子を見つめる。化粧気のない顔、髪をむぞうさに後ろで束ね、ピンクのTシャツにジーンズ、大きなポケットのついた花柄のドレスエプロンをつけている。ピンクの似合う女はめったにいない。佳子の白い肌は朱鷺色に近いピンクによく映える。普通なら淡い色に負けて肌がうすよごれて見えるところだ。 「どうかして?」  佳子は指についたクッキーの粉をはらって、ぼくを探るように見た。三日月さん、あなたいつになったら大人になるの、と言いたそうな目で。ぼくは目をそらして、夕食はいらないと言った。 「どうして」 「食べたくない。勉強がある」 「では、がんばりなさい」 「なぜ化粧しないんだ」 「いきなり、なあに」 「予備校の女に心を盗み読まれた。その女、きみがきれいだといってたよ」 「それは感激ね。三日月さんの心がきれいだからそのように伝わったのね、きっと」 「もったいないと思うな、こんな家で働いて年をとっていくなんて」 「お仕事だもの」 「爺さんが死んだら出ていくのか。それともぼくが大人になったら、か」 「先のことはわからないわ」 「なにが楽しみだ。なにが楽しくて生きている。なんでこんな陰気くさい家にいるんだ」  佳子は飲みかけのお茶をテーブルからとって流しに捨てる。気分を害したのかと思ったが、怒りの精神波は伝わってこなかった。刺刺しい感情波はなく、おだやかで満ち足りた、ゆったりとした波が感じられる。幸福のなかにいるというのではない、それとは少しちがう佳子の心だ。佳子はなにかを待っているようだった。楽しみがもうじきやってくるから、いまはがまんしよう、そんな雰囲気が佳子にただよっている。彼女はなにを待っているのだろう。脇田家を出てゆくときをだろうか。 「いずれ結婚するんだろ」 「三日月さん、もらってくれる?」  なごやかな精神波だ。からかわれているのか真面目にうけとるべきか、ぼくにはわからない。  むろん、冗談なのだとわかっているのだが。佳子は精神波を乱さずに冗談が言えるのだ。この女は、大人のなかでも最も強力な幻かもしれない。だれがこの幻を生んでいるのだ? <たぶん佳子自身よ>  ぼくは頭をめぐらす。月子の声だ。精神声だった。だけど肉声のように生生しかった。 「どうしたの?」 「なんでもない」  紙袋をテーブルにおいて、コンパクトビデオ・テープをとり出す。茶の間のビデオのセットに、アダプターをつけたテープを入れて、スイッチをオン。早紀がよみがえる。ぼくはくり返して何度も見た。早紀はそこにちゃんと映っていた。 「なにを見てるの?」佳子が緑茶をいれてくれる。「ポルノ?」 「いかがわしいやつさ。これ、佳子にも見える?」 「どういうことよ」 「これさ」ぼくは画面の、空中に出現した早紀を指す。「感応力で出した像だ」  佳子は湯呑をぼくにすすめ、画面に目をやった。そして、あらおもしろいわね、と言った。 「感応力でこんな人形が作れるの? 最近の子供たちっておかしな遊びをやるのねえ。あら、消えちゃった」 「幻なんだ。人形じゃない」  画面が乱れる。今度は月子だ。月子の前に等身大の早紀。一秒くらいで消える。 「まるでトリック撮影ね」 「大人ならそう思うだろうな」  カメラがズームイン、コンピュータを操作している月子の背が大きくなる。コンピュータ・ディスプレイ面に文字が映し出されているのに気づいた。 <わたしが幻なら、三日月、あなたも幻。注意しなさい。あなたは追われている。幻なのは大人のほうよ。彼らはあなたから生気を吸いとって形を保っている。もっとも身近にいる大人に気をつけなさい。佳子に。彼女の生気はあなたの感応力で支えられている。吸いつくされたらあなたも幻になる> 「これ——」ぼくは画面のなかのコンピュータ・ディスプレイ画面、その文字を指さして、佳子にきいた。「信じるか?」 「え?」佳子は首を傾けて、「——わたしコンピュータのことはよくわからないわ」とこたえた。 「そうじゃなくて、この字だよ、この」と、もう一度画面を見たぼくは、文字が変わっているのに気づく。 [#ここから2字下げ] Program labyrinth (input,output); var i,j,k,l,m,n,x,z:integer; begin [#ここで字下げ終わり] 「これは……おかしいな」  テープを巻きもどし、月子の操作しているコンピュータ・ディスプレイに目をこらした。さっき出ていたメッセージはどこにもない。 「なにがおかしいの? よく撮れてるわ。この女の人だれなの。なんだか貧血ぎみの蒼い顔ね」 「月子」 「月子? ほんと、青い月のような顔色だわ。冷たい感じで。お友だち? 三日月さんに月子か。ぴったりね」 「……幻だ。ぼくは狂いつつある」  ビデオを切る。テレビ放送に切り換える。ニュースはおわって、天気予報をやっていた。 「きょう地下街で予備校の女の子が二人、人工滝にとび込んで死んだんだって」と佳子はテレビを見ながらそう言った。「仲のいい娘たちが心中したのかしらん。わからない年ごろなのよね」  自殺じゃない。ぼくは叫びそうになるのをこらえた。麻美がやったんだ。ぼくかもしれない。どちらでも同じようなものだ。こんなに簡単に人間が殺せるなんて、思ってもみなかった。ごく簡単なんだ。蚊をひっぱたくほどの気安さだ。ひねりつぶされる蚊のほうがわるいんだ。環帯などして、まったく無防備でいるから危険にぜんぜん気がつかない。麻美の、噴き出る嫌悪の精神波に。殺されて当然だ……あの娘たちは生きている価値がない。 「ぼくがやったんじゃない……ぼくじゃない」 「なにが?」 「——きょう雨を降らせなかったことさ」 「あたりまえじゃないの」  ぼくはコンパクトビデオをとり、立った。 「部屋にコーヒーをもってきてくれないか」 「かしこまりました、おぼっちゃま」 「よしてくれ。気持がわるいな」 「早く大人になってね」佳子はテレビを消して言った。「わたしはそれが楽しみよ」  そして笑った。唇を曲げる笑顔はおそろしい。  部屋は冷房がきいていてすずしい。寒いほどだ。コンパクトビデオを机に放る。テープには真実はなかった。ぼくは畳の上に身を投げ出して天井を見上げる。疲れていた。麻美と別れてどのくらい歩いたのかわからないが足が痛い。肉体の疲れは本物ではない気がする。精神だけが本物だ。身体の痛みなど現実とは思えない。肉体、大人、言葉、すべて幻。瞳に映っている天井がにじんで灰色になる。抹香の匂い、感じない。音、聞こえない。床におちた冷気、畳の感触、自分の身体、みんな偽物だ。時の流れも。凍りついた時間。  うとうとしていると、刀で斬られる夢を見た。おそろしく鋭利な精神刀だ。まるでレーザーのように位相のそろった攻撃的な精神波がぼくを指向して伸びてくる。ぼくの心は過大入力を受けとめることができずに、拒否反応をおこして空自になる。  背の畳は体温で熱く、上を向いた腹部は冷房の風で冷たい。精神呼び出しを感ずる。夢の刀は本物だった。麻美の、ぼくを呼ぶ声だった。 <テレコイッスをやらない?> <もう少し待ってくれ>  麻美はぼくの心を読みとって沈黙する。ぼくは佳子を待った。  佳子が廊下をやってくる。コーヒーは持っていない。足音が止まる。佳子が襖ごしに訊く。 「なにが欲しいの、三日月さん」  ぼくはこたえない。佳子は襖をひそやかに開けて部屋に入ってきて、後ろ手で襖を閉める。 「なにが欲しいのか、声に出してはっきり言いなさい。大人には思っているだけでは通じないのよ」 「なにがある」  ぼくは腕枕をしたまま見上げて珊く。 「そうね」  佳子はエプロンをとって、たたみ、畳におとした。 「なんでもあるわよ。あなたの欲しいものはなんでも。さあ、言ってごらん坊や。あげるから」  いつもいつも、こうして始まるのだ。こちらから誘っているつもりがいつのまにか誘われていて、奪うつもりが奪われている。 <注意しなさい三日月。この女はあなたの生命を奪いとってる>  月子の声がよみがえる。 「あなたが欲しい」  ぼくは声に出してはっきり告げる。佳子はフフンと鼻をならしてTシャツを脱いだ。束ねた髪をほどく。長い黒髪が白い豊かな肌に流れおちると、たくましく家の雑事をこなす性をもたないただの労働力の源だった肉の塊を、たしかに蠱惑的でさらに猥褻なものに変えてしまう。佳子は脱皮するようにジーンズを脱ぎ捨てる。ぼくは虫がさなぎから出てくる様を観察する気分で見つめる。 「おそかったじゃないか」 「じれた?」 「いいや」 「大旦那さまよ。またあれを見たいと言いだされて」 「あ? きみの、それ?」 「ばかねえ」  佳子は下着姿でぼくの目の前で正座した。 「あれ。七胴落としよ」 「またか。あれは刀だ。実際に切れる。高性能の武器だ。爺さんに持たしたらほんとに気違いに刃物だ。この傷を見ろよ」  ぼくは佳子の手を引きよせて首に触れさせた。七胴落としの刀傷がひっかき傷のようにかすかに一直線の跡になって残っている。 「どうしたの、これ」 「むずかゆいよ。思い出すと激痛になる。斬られそこなったんだ」 「ほんと? いつ。どうして黙ってたの」 「言ったら傷が治るというわけでもないだろう。言葉は無力だ。感応力のような力はない。みんな幻さ。どうってことないよ。この傷だって本物かどうかわかったもんじゃない」 「わたしはどうなの」  佳子はぼくの腕をとり、乳房に導いて、ブラジャーのフロントホックをはずさせた。 「わたしはちゃんとここにいるわ」 「いるさ。でもきみとの遊びは幻だ。快楽も過ぎてしまえば思い出せない。ほんとに快感だったかどうかもあやしいものだ。実際は苦痛なのかもしれない。爺さんはなんで生きているんだろう。死んだほうが楽だってのに」 「あっさり死ねればだれも苦労はしないわ」 「それで、七胴落としを見せたのか」 「さっき見たばかりです、と言ったら、納得したようだったわ。でもほんとに大丈夫なの、三日月さん。どうして斬られたの。だめよ、大旦那さまを怒らせては。危ないわ」 「親父には黙っていてくれ。いいんだ。これは爺さんとぼくのゲームなんだ。今度刀を見せるときほ気をつけたほうがいいぞ。あの刀には妖しい力がある。思わず切れ味を確かめたくなるんだ。最高の美術品、芸術品と言ってもいいな。ただの刃物とはちがう。あの刀は血の味を知っているんだ。人間の血を吸っている。まちがいない。見せかけの飾りじゃない。真の芸術には血が流されるものさ」 「女はいつも血を流しているわよ。男はそのかわりに芸術を生んだのかもしれないわね」  佳子は身をかがめて、ぼくの唇を吸った。長いくちづけ。佳子は唇をずらしてぼくの首の傷跡に触れて、ささやく声でくすぐる。 「危なかったわね。素敵だわ、生きているのは。七胴落とし……玩具じゃないのね」 「名の由来を知っているだろう」  佳子を抱き、万年布団に転がして、ぼくは立ち、佳子の裸身を見下ろしながら服を脱ぐ。 「おかしな名前だとは思うけど、どういう意味なの?」  ぼくは説明してやる。その昔、あの刀が七胴を重ねて落としたであろう話を。首を落とすくらいは簡単だってことを。佳子は瞳を輝かせて、両手を広げ、ぼくの肉体を受けとめる。これもこの女の仕事のうちなんだ。 「いい名前ね」 「試し斬りは屍体をつかうんだ。屍体を斬っても自慢にはならない。あの刀は生きた胴を狙っているんだ」  佳子は豊かな乳房にぼくの頭をうずめさせる。ぼくは乳房をわしづかみにする。指の問から佳子の乳頭が紅く立つ。 「そんな話をきくとぞくっとくるわ」 「血の臭いのする刀さ。新鮮な血じゃない。屍体の腐ったどす黒い血のイメージがある。爺さんにふさわしい。大人にふさわしい。きらめく若さはどこにもない。あの刀は死にかけている。ぼくの首の血を吸いそこねて、怒りのためにうめいている」 「うめいているのはあの刀だけじゃないわ」  ぼくは佳子の恥丘に手をすべらせて、高まった肉をつかむ。ねっとりとした恥毛がからむ。 「もっと……やさしくよ、三日月さん。せっかちなのはいや……教えてあげたじゃない」  そんなこと、知るもんか。ぼくはすぐにもいきそうになる。佳子はぼくの熱いものを握りしめ、まるで機械のレバーを操作するように、硬くそそり立つそれをぐいと倒す。すると肉体の高ぶりが嘘のように失せて、ふりだしにもどってしまう。強制的に性感を醒めさせられたぼくは欲求不満になる。むりやり突進しようとするぼくを佳子は身をずらして上になった。いつも同じだ。佳子はぼくの肉体をいいようにあつかう。浅く導き入れて、ぼくの性急な攻撃を腰の動きで封じてしまう。もっと深く一体になりたいというのに、いつもじらされる。力ずくで佳子をぼくの身体でおさえつけて犯すことができないわけじゃない。やったことだってある。嘲笑われるだけだ。おわってしまった快楽などみんな忘れてしまう。ならば少しでも長く味わっていたほうがいいじゃないの、と佳子は言う。そうかもしれない。じらされる不満も結局のところ射精で精算されてしまう。男は単純だと言いたげな佳子の態度だ。でもそれはちがう。単純なのは肉体だ。ぼくの心は佳子との行為では満たされない。肉による快感は本物じゃない。  ぼくは佳子の下になったまま、抱きしめて、そして佳子に翻弄されるままになった。まるで人形のように。性のないただ硬いというだけの肉を佳子は好きなように使う。それでいいんだ。ぼくの意識は肉体をはなれる。勝手にやればいい。ぼくは真実の世界で遊ぶ。肉体の感覚が遠くなる。佳子の肉体の感触、動き、匂い、湿り、温もり、高ぶる声、みんな薄れて消えてゆく。幻が……  ボールドウィン、あなたはとってもたくましい黒猫ね。さあ、いらっしゃいな、待っていたわ。わたしはボールドウィンの爪にベッドにおさえつけられる。白い牙が光り、赤いざらついた舌がわたしの肉をそぎ、ボールドウィンはわたしの身体をむさぼる。でたらめに食べてはいない。注意深く解剖し、肉と血と脂肪をよりわけ、銀糸に似た繊細な感覚線を見つけようと金色の瞳で探っている。そこよ、そこ、ボドワン、ほら、わたし待ちきれなくて震えているでしょう? わたしはボールドウィンを抱きしめる。黒い猫が融けてゆく。わたしの切り裂かれた肉の間から、わたしの快楽の中枢へと侵入してくる。わたしはその勢いに抵抗して七色の蜘珠の糸を指先から噴き出す。最初は青い糸、そして最後は赤。融けたボドワンはそれをみんな吸収して、赤い糸にからまった瞬間、いっきにまばゆい白に変わる……わたしの肉体は蒸発する……三日月くんのむき出しの快楽中枢に直接触れる……  佳子の動き。止まっている。ぼくは焦点の合わない目で、佳子のとまどいを感じている。いい気分だ。佳子、ぼくはあんたのものじゃない。  佳子は両手を枕元について上半身を起こす。 「三日月さん……どうしたの」  ぼくは目を閉じて顔をそらす……麻美、麻美、きみはとてもセクシーだ……  佳子はだしぬけに、ぼくがなにをやっているかに気づいた。小さな悲鳴をあげてぼくからはなれた。 「だれ」佳子が叫ぶ。「だれ、だれ、だれよ、だれとやっているの」  頬をひっぱたかれて、ぼくは麻美とからみあっていた精神場から返る。目の焦点が合う。  視野いっぱいに白い靄が広がる。ぼくは頭を振った。シーツだった。手ではらいのけると、女中の姿にもどった佳子がいた。佳子はまだ熱いぼくの肉をシーツで手荒くふく。 「いけすかない子ねえ」 「痛いじゃないか」ぼくは薄笑いをうかべて佳子の仮面のような表情を見つめる。「あなたにいたぶられて痛い。初めてのときのように。満足したかい、あなたの身体は? 出ていけ雌犬め。おれは肉の塊なんか大嫌いだ」  佳子はシーツを両手にからめとりながらぼくを悲しそうに見下ろす。 「わたしを無視して遊んで、楽しかった?」 「ああ、とっても。あなたとやるよりよほどいい。あんたはただの肉だ」 「なんにもわかってない。あなた、まったく子供なんだから。わたしをこんな気特にさせて、おもしろがってるなんて」 「出ていけ。この家から」  ふと佳子は表情を和らげた。 「肉の塊っていうのはあなたのことじゃないの。あなたはようするに餓鬼よ。早く大人になりなさい、三日月さん」 「あんたとはもう遊ばない」  佳子は自信たっぷりの態度でうなずいて、こう言った。 「わたしもよ。もう子供と遊ぶのなんかごめんだわ。あなた、子供どうしでままごとをして遊んでなさい。子供に愛だの恋だのという話をしてもはじまらないもの。せいぜいお医者さんごっこでもしてらっしゃい」 「お医者さんごっこ? ままごとだって?」 「そうよ。くだらない遊びだわ。最低よ」 「最低なのはあんただ」ぼくは叫ぶ。「幻め」 「ああ、かわいそうな三日月さん」  佳子はまるめたシーツをこわきにはさみ、動けないでいるぼくの顔を両手で包み込むように身をかがめて、やさしくぼくの唇を吸った。それから立って、精神性愛は危険だからやめるように強い調子で言った。そして落ち着きはらって出ていった。いつもと同じように。  ぼくはみじめな苛立ちを感ずる。まただめだった。佳子にはどうしても勝てない。なんてことだ。いつもと同じだ。ぜんぜん変わらない。 <だからいったでしょう、三日月くん、あの女はしたたかだって。あなたは負けたのよ> <ちがう。負けてなんかいない> <うわあ、セクシーな精神波> <からみついてくるな。ぼくは佳子もきみもきらいだ。ほっといてくれ。ぼくの心を食うのはやめろ。これはぼくのものだ。ぼくの。だれにもやらない。みんながぼくの心を、生命を吸いとろうとする。やめろ。消えちまえ>  ぼくはズボンをたぐりよせて、環帯をポケットから出して頭につけた。燃える怒りが頭から炎になって噴き出す。ズボンをはき、机の上の鏡を腕ではらいとばした。鏡は柱にあたって砕け散り、畳の上で無数の光に分かれた。その衝撃音と光景がぼくに火をつけた。机のガラス数をこぶしで打ち、ガラスが悲鳴をあげつつしぶとく割れないのを、とりあげてかたわらの冷房にたたきつけた。ガラス片が顔にとんできた。ガラス敷の下の予定表やカレンダーを引き裂き、机を転がし、やりたりなくて、力をこめて腰まで持ち、そのまま支えて窓に突進してぶち破った。襖をけり倒してぼくは廊下に駆け出た。なにもかも壊してしまいたい。七胴落としを使え。月子がそういっている。煙草のやにと古本の臭いのしみついた書斎が電灯の光の下に黄色く浮かびあがる。なにもかもが古い。爺さんと同じく年をとっている。戸棚は鍵がかかっている。それがどうした。金庫じゃない。文机の上の大理石の文鎮で扉をたたき壊す。開いた穴に手を突っ込み、白鞘に収っている日本刀をつかみ出す。  鞘をはらうと奇跡のように澄んだ光が走った。熱い頭が急に醒めてゆく。七胴落としはぼくの激昂をあざ笑っているかのようだった。  ぼくは首の傷跡をおさえる。なにか異様な力が働いて、過去の傷から新たな血が噴き出すのではないかとぼくはおそれた。七胴落としの、その腕に伝わる重みは、「七ツ胴落」という異名がただのはったりではないと感じさせる。角度を変えると刃紋の反射光が変化し、一瞬黒く、そして赤く染まるように見える。そしてふと透明になり、また現われる。  静止させていても、現になにかを斬りつつ動いている。刀のまわりの空気が凍結してきらめきながら落ちていき、時の層となって積もってゆく。この刀は死んではいない。こいつは生きている。  人の気配に振り返ると、いつのまにか祖父が入口に立っていた。祖父はぼくの手の七胴落としの刀身から目をそらさずに、返せ、それはわしのものだ、と言った。怒りをおしころしたような、低い、力のこもった声だった。祖父はこの刀に憑かれている。人間じゃない。  ぼくはおそれのために動けなかった。が、刀は自分の手にあり、祖父に斬られることはないのだということに気がつくと、刀の力はぼくに味方し、もはや祖父は無力となった。 「この刀はもう爺さんのじゃない」ぼくは噛んで含めるように言ってやる。「わかるかい。これはあなたの刀ではない。所有名義も変更されているんだ」  祖父はなにやら意味不明の声を出した。吠えているようだった。つかみかかってくる。ぼくはその気迫に思わずあとずさり、戸棚にぶつかった。祖父が突進してき、刀を持ったぼくの腕にむしゃぶりつく。おそろしい力だ。とても老人とは思えない。ぼくの腕ごと七胴落としをもぎとろうとでもするかのような滅茶苦茶なやり方だ。刀身が踊る。きらきらと光を放ちながら。楽しそうに。 「やめろ」ぼくは叫ぶ、「返すから」  本気で祖父を突きとばす。力いっぱい、肩で。祖父は障子に身をぶつけ、腰をぬかして黄色い畳に尻もちをついた。ぼくは七胴落としを下げ、大きく息をつく。  刃が触れていれば障子や襖なんか抵抗もなく切り落とされたろう。祖父の身体だって似たようなものだ。かさかさの、枯れた、紙のような祖父の身など、刃が当たるだけで裂けるにちがいない。  ぼくは七胴落としを抜き身のまま下げて書斎を出ようと足を出す。 「爺さん、起きろよ。邪魔だ」  祖父はへたりこんだままだ。ぼくは舌打ちして左手で祖父の腕を支えてひき起こそうとする。 「立てったら」  祖父はすねたように動かない。ぼくは祖父の腕をはなす。祖父はすとんと尻をつき、そして人形のように畳にくずおれた。 「爺さん?」  呼びかけに祖父はこたえず、二度と起きそうになかった。廊下を佳子が駆けてくる。ぼくは七胴落としの鞘を素早く拾いあげて、刀を鞘に収め、手に下げ、書斎を出る。ぼくは祖父との遊びには勝ったようだ。  夜は甘くはなかった。闇のなかに熱い夜気が充満している。ぼくは上半身裸で暑い夜を駆けた。ざわめいている密集住宅の道に、ちらちらまたたく白い光が見える。電話ボックスだ。ぼくはポケットをさぐり、硬貨を握りながらボックスの扉を開けた。七胴落としは離さなかった。電話の送受器を左手ではずして肩とあごで支え、左指でプッシュボタンを押す。中川の電話番号だ。中川の姉らしい女が出た。ねぼけた声だ。ぼくはいらいらしながら中川を呼んだ。中川はいた。 「おれだ。だれだ」 「脇田。三日月だ。刀がある。遊ばないか」  中川は短く口笛を吹く。「どういう風のふきまわしだ? 今夜は三日月夜かい」 「満月さ。どうする」 「行く。どこにいる。刀は袋に入れてあるの? ちがう? まずいな。よし待ってろ」 「シャツをもってきてくれ。なんでもいいから。裸なんだ」 「なにをおっぱじめたんだ? 晒しでも腹に巻くか。パンツははいてるか、おい」 「三丁目のテンストアの裏に取り壊し中のアパートがあるだろう。以前火事になった」 「知ってる。わかった。すぐ行くからな」  電話ボックスを出て、できるだけ暗い裏道を通って、待ち合わせの場所に行く。コンビニエンス・ストアはまだ開いていたが静かだった。駐車場にも車はない。裏口が開いていて、店員がダンボール箱の整理をしていた。照明をさけて、ぼくは雑草の茂る空地に入った。木造アパートの陰にまわる。この冬に半焼したアパートは、焼けた傷口をべニア板でふさいでしばらく住んでいる人間がいたのだが、いまはそのべニアもなく、窓ガラスは抜かれ、あとはブルドーザーでいっきに引きたおすまでになっていた。ぼくはがらんとしたアパートの内に入った。床板はなく、むろん畳もなかった。くずれた壁のモルタルが足元に散乱していた。土の湿気を吸って、かびくさかった。土台のコンクリートをまたいで、奥に行き、裏の非常口らしい出口の土台横木に腰をおろして、ぼくは息をついた。ドアを外された部屋をのぞきこむ。人間が住んでいた証しがひとつ、床の抜けた土の上に転がっていた。鏡のない、壊れた鏡台が、ひきだしを半分出して倒れている。どんな女がその前に腰をおろしたのか。あの鏡台は化粧をおとした女を見ていたのだ。どんな顔だろう。化粧をおとし、皮をおとし、脂を、肉をおとし、そしてその下にはなにもなかったかもしれない。女は素顔を知られた鏡台を殺したのだ。引き抜かれかけたひきだしは鏡台の内臓のようだった。  その部屋の奥からだれかが近づいてくる気配。ぼくは腰を浮かせて両手で七胴落としを握りしめ、身がまえた。そしてそのまま動けなくなった。  鏡台は倒れてはいなかった。鏡も磨かれている。赤いスツールに腰かけた女が鏡台に向かって髪をすいていた。黒衣の女。顔は月のように蒼く、まるで首だけが宙に浮かんでいるかのようだ。 <あなたは死にかけている>  女がゆっくりと顔をこちらに向ける。 <おまえはいったい何者なんだ?> <感応力が薄れてゆく。大人たちに精神エネルギーを食いつくされる> <ぼくはまだ大丈夫だ> <誕生日はもうすぐよ。一週間もないわ> <やめてくれ。忘れているのに> <あなたは決して忘れない。あなたはもうじき消える。ほら、わたしのドレスの色をごらんなさい。もう黒いわ>  ぼくは精神をとぎすました。月子のドレスが青くなる。真夜中に出現した空の色だ。その空から別次元へと飛び立てそうだ。だが空色はすぐに暗くなり、黒にもどってしまう。 <消えろ> <消えてもいいの?>  月子はスツールから立った。壊れた建材の散った地面を音もなく歩いて近づいてくる。月子は——地面に足をつけていなかった。まだ床がそこにあるかのように、見えない床を、空中を、歩いてくる。 <くるな>  ぼくはあとずさった。七胴落としを左手で腰にかまえ、柄を握る右手に力をこめた。 <近づくな。斬るぞ> <あなたには斬れないわ。あなたが斬りたいのはわたしではなく、大人でしょう>  月子はとまらず、ぼくのいる廊下のほうに出てきた。非常口から月の光がさしこんでいる。月子の影がおちている。幻じゃない。  右腕が衝動的に動いた。七胴落としが意志あるもののように鞘からとび出し、弧を描いた。軌跡が薄い銀の円盤になった。  どしんという音がした。月子が倒れていた。 「やめろ、三日月」  女の声ではなかった。ぼくは七胴落としを持つ手の力を抜く。 「……中川か」  中川が出口で尻もちをついている。ぼくは刀を鞘におさめた。あごの先から汗がしたたる。全身汗まみれだった。月子はどこにもいなかった。部屋を見ると、鏡台は再び捨てられた姿にもどっている。中川は壁に手をついて立ちあがり、埃をはらった。黒い皮のつなぎを着ている。 「くそ暑いのに、よくそんな格好ができるな」 「皮はけっこうすずしいんだぜ。どうしたんだよ、三日月。満月で狂ったか。いきなり刀なんか振りまわして。寿命が縮まったぜ」 「おまえの命など幻さ」 「なにか言ったか? ほんとに大丈夫かよ。まだ病気なんだな、三日月。早く治れよ」 「ごめんだな」  幻になどなりたくない。感応力をもっている子供たちに蔑まれる大人なんかにはなりたくない。大人は生きてはいないんだ。屑だ。生命の燃殻だ。腐りかけた血と肉と脂の塊以外のなにものでもない。 「一種の分裂病なんだぜ、三日月。おまえはいまは予備校と家を往復しているだけの生活だろう。考えることといったら、自分の頭のなかのことだけだ。おまえは監獄にとじこめられているも同然なんだ。自分の心で創った世界にひたっているんだ。大人になれよ。おまえには本当の世界が見えていない。もっと行動しろよ。バイクでも買ったらどうだ。毎日毎日が退屈だろうが。本物の気違いになっちまうぞ」 「おまえはいいやつだよ」  そう、中川はいいやつだ。汗をふけとスカーフを投げてよこしたし、長袖のトレーナーも持ってきてくれたし、それに、中川はぼくの感応力を吸いとろうとはしなかったから。  巨大なバイクが空地に駐められていた。中川はぼくから七胴落としを受けとると、持ってきた竹刀の袋におさめて袋の口をむすび、キャリアにしばりつけた。中川は予備のヘルメットをつけるようにと手渡した。 「ではナイトツーリングにでかけようか。国道を通って海に出よう」 「あんなに遠くまで?」  中川は同情の目つきでぼくを見た。 「すぐそこだぜ。百キロもない。三十分で行ける。まだ夜は長い。行こう。今夜は満月だ。喧嘩相手も集まりそうな夜だぜ。おまえ、ほんとに狭い世界で生きているんだな。身体によくかびが生えないもんだ。おまえはこの街から出たことがないんじゃないか? ま、病気だからな、しかたがないか。うろうろしてると少年課に職質されるものな。大人はいいぞ。がらりと世界がひらける。さあ、乗れよ。とばすからな、しっかりつかまってろ。へたに身体を動かすなよ。曲がるときは素直に体を倒せ。いいな?」 「ああ」  中川はバイクを始動させた。低い排気音が腹に重い。ハロゲンのヘッドライトが夜を裂いた。その裂け目に落ち込むかのようにバイクが急発進する。ぼくは中川の腹に必死につかまった。夜の郊外へと続く国道は、車が調子よく流れていた。だが車の群れは止まっているかのようだ。しばらくゆくと中川は止まりそうなほどに速度をおとした。メーターを見るとそれでも制限速度を十五キロほどオーバーしている。中川はぼくを気づかったのか。  行く手に丘陵地が黒い蛇のように、水平線を盛り上げて横たわっていた。ずいぶん遠いように見えたが、十分ほどでゆるやかな上り勾配になって、砂丘地帯に入ったのがわかった。国道はカーブしながら海岸線と平行になり、なだらかにうねる砂地の畑を分けて、帯のように延びた。付近には民家はなかった。海側は防砂林が壁のように続いていた。陸側はきれいだった。畑のように視界をさまたげるもののないところからは、眼下に広がる夜の平野が見えた。街の灯、点在する明かり、黒黒とした田園、のんびりと動いている自動車たちのヘッドライト。それらを広大な一枚板に張りつけて、見やすいようにぐいとこちらに傾けたようで、まるで模型のように現実感がない。人間が住んでいるとは思えなかった。機械仕掛の世界に見えた。  バイクは国道をそれた。防砂林を抜ける。白い防波堤が刑務所の壁のように浮かびあがった。中川はエンジンを切った。波の音がした。背後でニセアカシアの林がざわざわと鳴っている。 「ひと泳ぎするか、三日月」  中川はバイクを降りてメットをとった。 「三十分ではつかなかったな。もっととばすかと思ったけど」 「刀を持ってるのを思い出したんだ。サツに見つかったらヤバイだろう」  足元は砂地だ。やせた浜の雑草が頭を低く、へばりついている。なに気なく、茎を抜こうとしたが、強靭だ。  中川は堤に立てかけてある木のはしごの方へ行って、三メートルほどの高さのコンクリート堤の上に出た。 「こいよ。すずしいぜ」  堤の上に頭を出すと、びゅうと風を感じる。堤の上は平らで六十センチほどの幅があって、道のように延びている。下はかなりの高さがあり、テトラポットが波に洗われていた。テトラポットの作る空間に海水が流れこみ、行き場のなくなった空気がごぼっと鳴る。テトラポットがげっぷをしているようだ。 「ここでは泳げそうにないな。あのテトラポットに足がはさまったら溺れちまうよ。だいたい、ここからは下りられない」 「海水浴場はもっと先にある。泳ぎたいのならそっちへ行こう」 「いや、いい」  中川はコンクリート面にあおむけにねそべると足を立て、組んだ。そのまま無言で夜空を見上げた。黒い、人間ではない、なにか怪物のように見えた。話題も見つけられなかったからぼくも黙っていた。かすみがかかった空に明るい星だけが見えた。  ぼくは時間をもてあまして、堤をおりた。中川はまだすずんでいるつもりらしかった。バイクの七胴落としをとり、袋から出した。鞘をはらって、林に近づき、息をつめ、枝にたたきつける。細い枝だったが切ることはできず、刀が食い込んでしまう。今度は力をこめ、刀筋をまっすぐに、引くように切る。あっさりと落ちる。月夜に刀をかざして見た。刃こぼれなどなかった。かすかに浮んでいた錆がおちて、月夜に刀身がはえた。トレーナーの裾で刃をぬぐう。切っ先の鋭い力だ。  遠くで雷のような音がした。中川がむっくり起きて耳をすました。 「三日月、くるぞ。病気の不良集団だ。やつら、おれがいつもここにくるのを知っているんだ」  林のなかの細い道に光が二条、三条とちらついて、音が大きくなる。ぼくは七胴落としを砂上に刺し、環帯をとった。中川の緊張した精神波。それをとらえてはなさない、複数の能動精神波が感じられる。  中川は堤に腰をおろして、足をぶらつかせ、ぼくのほうを見ていた。  不良集団と中川のいう連中が姿をあらわした。全部で六人だ。みんな中川ほどのビッグマシンには乗っていなかった。エンジンを吹かして、中川のバイクを中心にして回りはじめる。五、六周したところで中川のマシンが倒された。中川は声を出さずに見下ろしていた。その態度はまるで、餓鬼の相手などばからしくてやっていられないという風だった。 「やめろ」ぼくは叫んだ。  不良連中はぼくに気づいた。バイクを止めてぼくのほうを見た。  中川が堤からとびおりる。「三日月、相手にするな。こいつら病気なんだ」  不良の一人が火炎壜のようなものをとり出して、ライターで火をつけた。中川が顔色を変えたのがわかった。火のついた壜を中川のマシンに投げつけようとした男に、ぼくは七胴落としを引き抜き、投げた。刀は男の足元に突き刺った。中川が駆けて、身体ごとぶつかってゆく。火炎壜が割れ、砂地に火が走った。中川はとびおきる。マシンに走り、起こそうとする。火炎壜を投げそこねた男が、背に火をつけて砂地を転げ回っていた。仲間たちは怒りを中川に集中した。激怒の感応波がオレンジの炎になって中川にふりそそぐのが見えた。中川はバイクを起こしかけた姿勢でぐっと息をつめた。呼吸ができないのだ。バイクから手をはなし七胴落としのほうに転がった。息を止められたままはねおきて、砂に刺された七胴落としを手にすると、一番近い不良に向けて振った。衣服の裂ける音がした。斬りつけられた男は悲鳴をあげてとびすさった。感応力の攻撃が弱まる。火炎壁の炎がみんなの顔を紅く染めた。とりわけ中川の顔は赤鬼のようだった。 「予備校の病人どもめ。メダカのように群れやがって。どうした。かかってこい」  中川は楽しんでいた。腕の筋肉がひきしぼった弓のように力をためて震えていた。七胴落としが炎に照らされて、光の剣になった。  不良集団は肉体の勝負には出なかった。中川をとりかこみ、離れたところから中川の精神のもろい部分を探って、中川の内部から彼の肉体を麻痺させ、動きをとめようと、精神を集中しはじめた。中川の身体の周囲に銀色の靄がかかった。ネズミとりにかかったネズミだ。不良たちは罠にかかった中川を水に浸けようとした。目に見えない、酸欠空間にひきずりこもうとする。不良たちの精神波は竜や虎の像となり、無防備な中川に襲いかかった。  ぼくは中川に同情したり、守ろうとは思わなかった。不良たちの戦闘的な精神波は美しい。ぼくはその美しさを無慈悲にサディスティックに破壊したい欲求にかられたのだ。七胴落としに心を集中し、その鋭利なイメージを増幅させる。刀を包む青い円盤が出現する。土星の環のように。急速に大きくなり、回転する円のカッターが不良たちの肉食獣を切断した。不良たちは中川のことは忘れた。ぼくに向かってくる。 (中川は一人の男に刀をつきつけた。男は動かなかった)  月が降りてくる。黄色の月がすぐ頭上に、全天のほとんどをおおいかくすまでに大きくなった。闇は消え、世界はクリーム色に光る。クリームのようにやわらかな地面だ。はてしなく水平線までクリームになった。 (中川は舌打ちすると刀をおろし、左手で男を殴った。男はあっさりと倒れた。その男は肉体を捨てている。中田にはそれがわかっていない)  ぼくは黒猫になった。不良たちは、ねばつくクリームに足をとられたぼくを、黒い禿鷹になって頭上から鋭いくちばしで反復攻撃をしかけてくる。左の眼に激痛。眼をやられた。ぼくは本気で怒りを爆発させた。黒猫に羽を生やして、月に向かって飛ぶ。口を開くと、銀の牙の間から唾液がしたたるのを感ずる。 (中川は倒れた男を殴りつづげ、前歯の何本かを折った。それから男の胸ぐらを放し、七胴落としを手にしたまま、男に向かって唾を吐いた)  一羽の禿鷹が牙にかかった。爪でがっちり押さえこみ、鷹の首を噛み切った。熱い血がほとばしった。血は白かった。クリームの地面にしたたり落ちた瞬間、地がぱっと赤く変化した。 (中川は七胴落としの鞘を拾いあげ、刀を鞘におさめた。そしてバイクを起こした。帰るぞ三日月、と中川は言った)  禿鷹たちは集まり、一匹の奇怪な動物に変身した。大蛇の頭、天馬の胴、虎の脚に狐の尾。ぼくは笑ってしまう。月に意識を集中する。墜ちてこい。こいつらを地球ごと吹き飛ばしてしまえ。怪物が頭上を振り仰ぐ。巨大な質量が接近してくる。白熱する月。十文字にひびが入り、砕ける。 (中川がエンジンを始動して、なにか叫んでいる。三日月、行くぞ。なにをしている? 早く。おいてくぞ)  月が無数の火の球に分かれた。クリームの地面が凹面鏡のようにへこむ。怪物はその大きなクレータに落ちる。透明な圧力に負けて身を薄くひしゃげさせて。地面は荒涼とした火星のような岩場となる。巨大なクレータの上のへりにぼくは立って、いまは人間の形にもどった不良たちが地獄の底、クレータ中心の煮えたぎる赤い火口へと転げ落ちてゆくのを、勝利の笑顔で見下ろしている。 (中川がマシンを発進させた。林の中の道ではなく、どこかちがう、林にそった方向だ。なぜ道を走らないんだ。ぼくはサイレンの音を聞いたように思う)  すっと月が上がって、天高く、小さく変わる。正常な月。ぼくは精神場から返る。不良たちが倒れていた。火炎壜の炎はおさまっていた。だれかが消火器を使っている。ぼくは頭を振って、なにがおきたのか知ろうと周囲を見る。  車が止まっていた。屋根に赤い旋回灯。覆面パトカー? ぼくはあとずさり、林へ駆けこもうとした。このぼくを、だれかが腕をとって制した。がっちりした体の、地味な背広の男だ。 「放せ」 「おまえは、フム、脇田三日月だな」 「あんた、だれだ?」 「特殊少年課の若林だ。きみにはいろいろと訊きたいことがある。同行してもらおうか」 「いやだ」 「任意出頭がいやなら、強制権を発動させてもいいんだぞ」  若林と名のった男は背広の胸ポケットから身分証を出してぼくの目の前につきつけた。 「きてもらおうか」  ぼくは膝のあたりに冷たいものを感じて、砂の上に脚をおってひざまずいた。若林という男に立てと命じられて、ひきずり起こさせられる。 <麻美、麻美……捕まっちまったよ……麻美、聞こえるか> <わたしには関係ないわ、三日月くん。わたしはあなたみたいにドジじゃないもの> 「救急車を呼べ」  若林が消火器を使っている同僚に声をかけた。同僚の私服警官はうなずいて、倒れた不良たちをちらりとながめると、車にもどり、無線でなにやら連絡をとった。 「脇田、おまえは死神だぞ。何人殺したら気がすむんだ?」 「ぼくじゃない。ぼくはだれも殺してない」 「乗れよ。夜食はなにがいい? なんでも出前をとってやるぞ」 「腹はへってない」 「そのうちへるさ。しばらく署に泊まってもらうことになるだろうからな」  若林はそう言って、ぼくをぐいと押した。  ぼくは砂の上に転んだ。「ぼくはなにもやってない」叫びながら、ぼくは月子を見た。コンクリート堤の上に立ち、ドレスの裾を風にひるがえしている女を。月子はすっと堤から浮くと、海側へ姿を消した。 「落ちた——人が落ちたよ」 「立て。何をわめいているんだ、こいつ」  ぼくは若林にひきたてられて車におしこめられた。涙が流れた。悔やしさか。不安か。 「くそ、くそ、ぼくじゃない……みんな月子がやったんだ。ぼくじゃない」  消えちまえ、とぼくは思った。おまえなんか幻だ。若林という男が心臓のあたりをおさえる。それから、すごい形相でぼくをにらむと、こぶしでぼくのみぞおちを殴った。ぼくは気を失った。 [#改ページ]       9  小さな部屋でぼくは目覚めた。硬いベッドだ。ぼくは目をしばたたいた。目脂がたまっていた。身を起こす。シーツのかかっていないマットのしかれたベッドは、壁から鎖でつられていて、はね上げ式で壁に収納できるようだった。室の壁は灰色で、かびかしみか、茶色に汚れている。窓は小さく、磨硝子がはめごろしにされていた。外は見えなかったが、白い。昼だ。天井は低く、石綿かなにかやわらかそうなものが張りつけられている。黒い天井だ。圧迫感がある。床は鉄錆色のリノリュームだった。磨かれていて、光っていた。  ベッドのわきに木の机と、椅子が二脚おかれていた。出口は二つだ。窓の対面に鉄の扉、もうひとつのドアはベッドのある壁の、窓に近い側にあった。その木製のドアは西部劇の酒場の入口の扉のように上下がかなりあいていて、ノブはなかった。立ってのぞきこむと、トイレだった。  取調室というよりは独房のようだった。ぼくは脚のないベッドに腰をおろして、頭をふった。宿酔いのようにずきずきと痛む。なにがあったのかよく思い出せなかった。  精神をすまして周囲をさぐった。が、精神雑波は感じられない。環帯をとって麻美を呼ほうと頭に手をやって、ぼくは環帯がないのを知った。血の気が引く。環帯はしていない。それなのに精神雑波が感じられないのだ。ぼくは——感応力を失ったのか。  鉄の扉にかけよってノブを回す。回らなかった。たたく。音は響かない。あとずさる。椅子にぶつかった。椅子が倒れた。それを持ちあげて、窓に投げる。バンという音がした。だが磨硝子には傷ひとつつかなかった。窓に顔をつけて外をのぞこうとしたが、まぶしいだけでなにもわからなかった。額を磨硝子にあてて、ぼくは外界の精神世界を感じとろうと息をつめた。なにも聴こえない。ぼくは震えた。ぼくは……警察に感応力を吸いとられたのか。  ぼくは床に尻をぺたんとつけて窓の下の壁に寄りかかった。涙が流れた。ぼくはいったいきょうまでなにをしてきたろう。なにもない。ただ家と予備校を往復していただけだ。やりたいことがたくさんあったはずだ。やりたいことというより、やれたことが。なんにもしなかった。ぼくは無為にすごしてきた過去を惜しみ、無為であろう未来を悔んだ。 <だまされてはいけない>  ぼくは、はっと頭をあげる。この精神波はなんだ? <月子か……どこにいる> <この部屋は大きな環帯よ。感応力を封じ込める部屋なの> <月子……おまえは幻だ。ぼくは狂っている。もう放っておいてくれ>  放っておいてくれ。そう月子を拒否しながら、ぼくは自分の顔に笑みが刻まれるのを意識している。そうだ、だまされてはいけない。ぼくはまだ感応力を失ってはいない。これは大人の仕組んだ巧妙な罠だ。ぼくをあきらめさせようとしている。 <その調子よ、三日月。ここから出る方法を考えるがいい> <どうやって出るんだ>  ドアには鍵がかかっている。窓は割れない。割れたとしても中央警察署の建物の高いところにちがいない。 <自分で考えなさい。考えついたら手伝ってやるわ>  ぼくは月子の力の限界を感じた。ここから出る方法を月子は知らないのだ。かまうものか。自分の力でなんとかしてやる。  膝をかかえて、うとうとしていた。鉄の扉が錆びたきしみ音をたてて開いたとき、ぼくの頭痛はおさまっていた。  ぼくを捕まえた若林という男が灰色の背広姿で入ってきた。若林はぼくが窓の下にネズミのようにうずくまっているのを、猫のような無表情な眼で見下ろし、手に持っている厚い書類を机に投げると、ぼくが倒した椅子を起こして、腰かけた。鉄の扉は廊下にいた婦人警官が閉めた。ちらりと見えた廊下は病院のように白い清潔な光があふれていた。扉が閉ざされると清潔感は消えて、汚れた独房の密閉感がもどった。 「ここに腰かけろ」  と若林は言った。若林はあの夜よりも若く見えた。三十を少しすぎたくらいか。あるいはもっと若いかもしれない。髪は短く、彫りの深い顔は目に焼けて、髯は薄かった。警官という役人風のねばっこい感じはなく、まだ学生のような、世間知らずの、背広よりスポーツジャケットが似合う雰囲気だった。しかしそれは見かけだけだ。ぼくは若林が入ってきたとき、まっさきに彼の精神波を探った。精神波は感じられた。感応力を失ってはいないという安堵感と同時にぼくは、若林の殺気に近いするどい精神波を感じて青ざめた。ぼくは追いつめられた逃亡者だった。この男は多くの感応力者をしとめてきたにちがいない。若林は自分の精神波がぼくに感じとられるのを知っているはずだが、それを気にしている様子はまったくなく、自信に満ちていた。若林はこう思っているのだ。 <予備校生など屑だ。こいつらは人間じゃない>  その態度はちょうど、なまいきざかりの幼児に対するものと同じだ。しつけられていない餓鬼は人間じゃない。びしびしひっぱたかなくてはいけない——子供は人間じゃない。 「気分はどうだ」  冷ややかに若林は言った。ぼくがのろのろと起きあがって、若林の対面に腰かけるまで、腕を組んでじっと見ていた。 「いいわけがないだろう」 「もっとていねいな言葉をつかえ。おまえは社会のお荷物だ。食わせてもらっている身だ。それを忘れるな」 「ぼくには憲法で保証された人権がある」 「税金も払っとらんくせに、なまいきなことを言うな。権利の上に眠れる者は保護しない、これが法律の精神だ。おまえは義務をはたしていない。おとなしく予備校生活をおくるという義務を忘れているくせに、いまさら権利を主張するなど、笑わせるな」 「出せよ、ここから」 「もう一度言う。言葉づかいに注意しろ」 「言葉づかいが悪いとどうなるんだ」 「おれは親切心から忠告しているんだ。早く出たかったらおれの言うことをきいたほうが利口だ」 「言葉はていねいに、か。ぼくは言葉など信じません、若林さん。言葉は嘘をつくためにあるのです。わかりました、おっしゃるとおりにします」 「よろしい」 「嘘でもいいということか」 「おまえが嘘を言っているか真実を吐いているかは、おれが判断する。おまえはなにを言おうとかまわん。好きなようにこたえろ」 「そんなのは滅茶苦茶だ。それではぼくは犯人にされてしまう。あんたがぼくを犯人だと思っているなら、ぼくがどう否認しても罪をかぶせることができるってことになる」 「ほう」  若林は書類の一枚をとりあげ、ぱんと手ではたき、ぼくを見た。 「犯人か。なんの犯人だ? 罪を認めるんだな? あの事件の罪を」 「あの事件? あんたはなんの嫌疑でぼくをひっぱったんだ」 「なんの嫌疑? ほほう、いくつかあるんだな、脇田三日月。心あたりの事件がいくつかあるのだろう? 並べてみろ」  ぼくは黙った。口をきけばきくほど不利になる。 「黙秘か」と若林は無表情に書類に目をおとした。「いいだろう」取調用紙を机に広げると、ペンをとり、なにやら書き込んだ。「黙っているのは容認と判断する」 「ばかな」  ぼくは叫ぶ。どうころんでも追いつめられるのだ。ぼくは尻をとろ火であぶられているような焦燥を感じて、唇をかんだ。 「ばかな、だと? おれを侮辱するような言葉は許さんぞ」 「あんたをばかだと言ったわけじゃない」 「フム。ではなんだ」 「この——この状況だ、ぼくが捕まるなんて——なにもしてないのに——ばかげていると、くそ、どうしてこんな目にあわなくちゃいけないんだ」 「おまえは警察をばかにしているのか? それとも社会か」 「そんなことは言ってない」 「言っているじゃないか。くそったれめ。口のきき方を知らん餓鬼だ。できそこないめ。親の顔が見たいものだ。え? もう一度訊く、おまえ、警察をなんだと思っているんだ。甘く見てるな? ばかげている、とはなんのことだ。こたえろ」  ぼくはこたえられない。うつむく。 「教えてやろうか」若林はからかう口調で言った。「ばかなのはおまえさ。おまえは自分自身に腹を立てている。おまえはおれをばかにしてはいないし、警察をなめてはいない。ばかなのは自分自身だ。そうだな」  若林は手を伸ばしてぼくのあごをぐいとあげて、そうだな、とくりかえした。ぼくはうなずいている。 「よし、おまえはばかだ。さて、そのばかやろうが、なにをしでかしたか、こたえてもらおうじゃないか」 「ぼくは……なにもしていない」 「おまえは本当にばかだ。自分のしでかしたこともわからんとは。ではおれから言おう」  若林は厚い書類ファイルを開き、指で机をトントンと耳ざわりにたたきながら、朗読するように言った。 「脇田三日月、本年六月四日、公立予備校生赤井猛を殺害した」若林は顔をあげる。「認めるな?」 「認めない」 「なにを認めない。脇田三日月であることをか。日付か。殺した相手か」  なにもかもだ。とりわけ、この男を認めたくない。こいつは幻だ。この部屋も幻覚かもしれない。幻にやりこめられるなんて不合理だ。目が覚めれば、ぼくは自分の部屋の万年床で寝ている自分を感じるにちがいない。これは夢だ…… 「ぼくは殺してはいない」 「では赤井猛を殺したのはだれだ」 「赤井は殺されたんじゃない」 「そうか。なぜ殺されたのではないと言うんだ? 知っているんだな。説明しろ」 「あなたこそ、なぜ赤井が殺されたなんてきめつけるんだ」 「質問しているのはおれだ。こたえろ」 「ぼくは……不利な立場にいる。一方的に追いこむなんて卑怯だ」 「小利口ぶるのはよせ。不利だと? 犯罪をおかしておいて不利もくそもあるか。卑怯なのはおまえだ。潔く認めろ」 「なにを証拠に、ぼくが赤井を殺したというんだ」 「暑いか? 冷房はきいてるぞ」  若林はせせら笑った。ぼくはわきの下や額に汗がふき出しているのに気づいた。ぼくは汗はぬぐわなかった。 「おまえはばかだ。自分のしたことも覚えていない。いいか、赤井猛は、感応力遊びの途中、おまえに殺されたんだ」 「立証できないさ。あんたたち大人には」 「よろしい。その調子だ。認めるんだな」 「仮にそうだったにせよ、あれは事故なんだ。バイクをぶっとばしてどれだけ速くカーブを曲がれるかっていう遊びと同じさ。死ぬほうがわるいんだ」 「わかった。おまえは赤井と一緒に遊んだことは認めた。おまえの感応力は兇器に等しい。コントロールできなかったのはおまえの責任だ。そうだな?」 「ぼくの感応力はそんなに強くない」 「おまえが自分をどう評価するかなど問題じゃない。おまえの感応力は強力だ。きのうの夜、おまえはおれの心臓を止めようとしたではないか。これは客観的事実だ」 「なにが客観的なものか。あんたの心臓の不調など、ぼくの知ったことじゃない。あんた、自分の体の異常までぼくのせいにするつもりか」 「おまえの異常な精神力は、武井医師も認めていることだ」 「武井? だれだ、それ」 「予備校の心相医さ」  若林はまた指で机をコツコツたたきはじめた。単調な時計のように。心臓の鼓動のようだった。だんだんゆっくりになる。心臓が止まるような不安にとらわれる。 「心相医なんか嫌いだ。役立たずだ。ぼくの不安を増大させるだけの男だ」 「なにが不安だ、脇田三日月。そう、知っているぞ。おまえは誕生日恐怖症なんだな。調べはついている。その不安をまぎらわすために何人殺した?」 「殺してはいないよ」ぼくは両手を広げて机をたたく。「その指でコツコツやるのはやめてくれ」 「時間はすぎてゆく。だれにも止められん。あしたがどんな日か知ってるか。七夕だぜ。そうさ、おまえの誕生日だ。おれからもなにかプレゼントしよう。なにがいい? 赤井の骨粉で作ったケーキなんかどうだ?」 「やめてくれ」 「証拠を出せとおまえは言った。よかろう、証人がいるんだ。聞かせてやろうじゃないか」  若林は指を鳴らした。天井から、ガサガサとネズミが走り回るような音がして、ゴツンという雑音のつぎに、女の声がおちてきた。 「そうなの。赤井くんを殺したのは脇田くんよ」  それだけ言って、プツンと音をたてて切れ、静かになった。 「麻美。 <くそ、裏切り者め> 嘘だ。彼女がそんなこと——会わせてくれ。部屋から出してくれ。 <いや……あの声は麻美じゃない。おちつけ……これは罠だ> いまのは……だれだ」 「麻美、とおまえ叫んだではないか。そのとおり、村崎麻美だ。彼女はおまえよりずっと大人さ」 「彼女もあのときいたんだぞ。ぼくじゃない。どうしてぼくだけ捕まるんだ。いまの声は麻美じゃない。会えばわかる。会わなくても、この部屋から出れば……出してくれ」 「腹がへったか? 心配するな。なにか食わしてやるさ。取調がすんだらな」  言葉は魔物だ。ぼくの知らないところで、せっせと言葉が積まれてゆき、ぼくはそれに囲まれて身動きできなくなる。虚構の世界だ。若林は幻の空間にぼくをひきずりこもうとしている。 「おまえは赤井猛を殺した。証人もいる。おまえも認めた」 「ぼくは、やったとは言ってないぞ」 「いや、言ったさ」ほら、と若林は調書をぼくの方に回して、ペンで指した。「おまえはこう言った。『あれは事故なんだ』それから、『あのとき麻美も一緒だった』と言った。麻美はこう言ってる、『赤井を殺したのは脇田だ』このとおりちゃんと言っているじゃないか。ねぼけるのもいいかげんにしろ」 「あれは事故なんだ」ぼくは調書を突き返した。「ぼくが殺したんじゃない」  若林は調書を手元にひきよせて、再びペンで書き込んだ。書きながら若林は言った。 「おまえに殺意があったかどうかを訊いているわけではない。いまは、赤井を殺したのがおまえだというのを確認しているだけだ。おまえは殺す気はなかったかもしれんが、だからといって、おまえが殺したのではない、というわけではない。おまえは『ぼくが殺したのではない』と言っているが、それは『自分には殺意はなかった』という意味なんだ。わかったか?」  若林は面をあげてぼくを刺すような目で見た。ぼくは暗示にかかったようにうなずいていた。若林の言葉は理屈にかなっているようで、ぼくには反論することができなかったからだ。しかしうなずいたあとで、財布を落としたのに気づいたときの、落としたことはわかっているがどこでだったか思い出せない、そんなもどかしさを感じた。どこか変だ。だがぼくにはどこがおかしいのかわからない。あわてて首を横に振る。 「ぼくはだれも殺してない」 「そうびくつくなよ」  若林はそれまでの厳しい顔を急に和らげ、親しそうな笑顔をつくった。 「おまえが赤井に殺意を抱いていたわけではないってことは、おれにもよくわかっている。あれは事故だろうさ。が、事故を起こしたのはおまえだ。赤井を死に追いやったのは、な。それは認めるだろう?」 「……そうかもしれない」 「かもしれないではなく、そうなんだ。な?」  ぼくはうなずいた。「やったさ。クリームという遊びだ。でも——」  若林は笑顔をひっこめた。「赤井を殺す気だったのか。殺す気だったんだな」 「ちがうよ。ちがうって、さっき、あんた、知ってると言ったじゃないか」  ぼくは腰を浮かせかけた。若林はさっと立ち、ぼくの肩をつかみ、椅子におしつけた。 「わからんやつだな。いいか、さっきは、おまえが赤井の死に関係したかどうかを訊いたんだ。いまは、おまえに殺意があったかどうか、それをおまえに訊いているんだ。おれの推量ではなく、おまえ自身はどうだったかってことだ。おまえに殺意があれば、あれは事故ではなくなる」 「事故だ。殺す気なんかなかったさ。あたりまえじゃないか」 「赤井を殺す気ではなかった。なるほど。では、だれでもよかったのか」 「そんな。ちがうよ。予想外の出来事だったんだ」 「そうかな。なぜゲームをやるんだ? スリルを味わうためか。おまえはうっぷんをはらしたかったんだ。だれかを殺したかった。いや、殺そうとは思わなかったかもしれないが、死人がでてもかまわないと思った。そうだろう? 未必の故意による殺人だよ」 「……ちがうよ」 「どうちがう。どこがちがうのか説明してみろ。おまえは赤井猛を死に追いやったことを認めた。赤井でなくてもよかったんだ。だれでも。殺意は抱いていたんだ」 「殺意なんかなかった」 「殺意がないならゲームはやらないさ」 「あんたは」ぼくは腹がむかついてきた。「ぼくの心が読めるような口をきいてるけど、いいか、ぼくが殺意なんかないと言っているんだ、心も読めないくせに、知ったような口をきくな。ぼくの言葉をなぜ信じないんだ」 「おまえの言葉など信用できん」  若林はポケットから煙草を出し、椅子の背によりかかって、一服した。 「おまえは最初に、自分で言っただろう。言葉は嘘をつくためにある、と。そのとおりさ。おまえは自分の心を言葉にあらわすことができない。だからおれが助けてやっているんじゃないか。手を焼かせやがって。仕事でなければ張り倒しているところだ」  若林はこれまたポケットから、アルミの灰皿を出し、机にたたきつけ、そしてふっと力を抜いて煙草の灰をおとした。 「赤井猛をおまえは殺した。これは事実だ。おれが知りたいのは、おまえが赤井を狙っていたのか、それとも、だれでもよかったのかってことだ」 「事故だ」 「そうか」  若林はうなずいた。ファイルを開き、細かい表のある用紙のチェック欄に次次と印をつけて、ファイルを閉じた。くわえていた煙草を灰皿におしつける。 「どうなるんだ。赤井の件は」とぼくは訊いた。「事故か?」 「事故さ」こともなげに若林はこたえた。「おまえ、そう言ったじゃないか」  鉄の扉が開いた。婦人警官が持ってきた岡持からカレーライスを出して机におき、出ていった。 「食えよ」と若林はスプーンをとりあげて皿にそえて、ぼくにすすめた。「もう夕方だ」 「夕方? 何時だ。もう日が暮れるのか」  若林の顔が赤い。ぼくは窓を振り返った。外が火事ではないかと思うほど紅い。きっとうだるような暑さにちがいなかった。明日も晴れるのだろうな。  丸一日なにも食べていないと知ると、にわかに空腹をおぼえた。カレーは嫌いだった。ぼくはカレーでもシチューでも、どろりとしたものは嫌いだ。なにが混っているのかわからなくて不潔な気がする。スプーンをとり、飯をすくう。冷えていた。カレーはピリッとからくて、かすかにすっぱい味がした。うまくなかった。若林は書類を整理したあと、無言で、ぼくが食べるのを見ていた。  ぼくは少し残してスプーンをおいた。あくびがでた。 「きょうはこのへんにしよう」  若林は書類の上にカレーの皿を重ねて持って席を立ち、鉄の扉を足でたたいた。鉄の扉が開かれ、若林は出ていった。扉が閉まった。  窓が濃い青に変わってゆく。部屋には照明がなかった。ぼくはベッドに身を投げ出し、明日はどうなるだろうと心細く思った。若林の言うことをすべて認めたら、ぼくはどうなるのだろう。ぼくは特殊少年課などというのが警察にあることなど知らなかったし、捕まったという少年の話も聞いたことがなかった。ここが警察かどうか、あやしいものだ、ふとぼくはそう思った。警察というよりも保健所の仕事かもしれない。邪魔な犬を集めてきて殺すように、ぼくを捕まえて感応力を奪おうとしているのかもしれない。感応力がなくなるまでここにとじこめておく気なのかも。  なんとかして出る方法はないものか。ぼくは頭をしぼろうとした。だがうまくいかない。体がひどく重い。あのカレーだ。薬が入っていたらしい。薬殺されるのだ。突然そう感じた。ベッドから起きようとしたが、身体が動かない。意識がすっと遠くなる。不安だけがとりのこされて、空気がカレーのように辛くなった。  まぶしい。窓の外が明るい。同じ部屋だ。どのくらい眠ったのか見当がつかない。寝足りない感じだが、窓の明るさからすると夜が明けてからだいぶたっている。七時か。八時か。昼に近いかもしれない。  トイレから出ると、若林が部屋に入ってきた。紺色の背広だった。そのほかはきのうとまったく同じ雰囲気だ。 「腰かけろ」  そう命じて若林は机につき、取調用書類をめくり、調書を広げ、キャップをとっていないペンで机をたたいた。  頭がはっきりしない。ベッドでぼんやりしていると、若林がぼくの胸ぐらをつかんで引きずりおろし、足でベッドを壁にはね上げた。腰かけろ、と若林は命じた。ぼくはのろのろときのうと同じ位置、窓を背にして、若林と向かい合った。 「さて」と若林は言った。「きょうは、伏見の件だ」 「伏見ってだれだ」 「伏見早紀。知らんとは言わせん」若林は新聞の切り抜きをぼくの目の前においた。「同じクラスの女だ」 「……知ってる」頭が痛い。「麻美が殺したんだ。そうだ、そうだった、麻美がやったんだ。マリンガさ。相手の肉体の一部を乗っ取るゲームだ。それで死ぬと、自殺にみえる」 「なるほど。しかしやったのは麻美じゃない」 「麻美じゃないって? すると」冷房のききすぎではない。生理的な悪寒。「——ぼくがやったって言いたいのか?」 「そうさ。きょうは素直ではないか。いいぞ、そうでなくてはな」 「ぼくじゃない」悲鳴になる。「あれはぼくじゃないぞ」 「あれは、ね」  若林は別の新聞の切り抜きをとりあげ、空中で手をはなした。切り抜きがはらりと落ちる。地下街で二人の女子予備校生が心中。 「では、それはどうだ。それならおぼえがあるんだな」 「ぱかな。ばかげてる。なんのうらみがあるんだ」 「また、ばかな、か? いいだろう。きょうは証人をつれてきている」 「麻美か? きてるのか。会わせろ」 「なぜ彼女にこだわる? 彼女に罪を着せる気か? 無駄だな。おれは知ってるんだ。おまえがやったってことは、何人もの人間が見ているんだ」 「嘘だ」 「おれは嘘は言わん。おまえは嘘つきだ。きのうおまえはそう宣言した」  若林はそう言うと、背後を振り向いた。鉄の扉が開いて、一人の中年男が突き出されるようにして入ってきた。鉄の廉が閉まった。 「どうも御苦労さまです」  若林は立つと、男のそばに行って、ぼくを指さした。 「この男ですね」  中年の男は、というより初老といっていい男は、うなずいた。 「嘘をつけ」ぼくは叫ぶ。「ぼくはこんな男、知らんぞ」  白髪のまじった髪を男はかいた。フケが散るような、不潔な感じの男だった。灰色の作業着がうす汚れている。不健康な黄色の眼をしょぼつかせて、おどおどと、ぼくの気迫におされるようにあとずさった。 「心配いりません」と若林は男を元気づけるように言った。「あなたにはなんの御迷惑もかけません。この男ですね、あなたが見たのは」 「そ、そうです。地下街の虹の滝で、二人の女の子をつぎつぎに突き落として、溺れさせました。止める暇はなかったんです。たちのわるいふざけっこかと思ったもので。追いかけようとしたのですが、あっというまにいなくなって——どうしようもなくて——」 「いいんですよ、あなたの責任ではなかったのですから」  ぼくは椅子を倒して立ち、机を回って男につめよる。 「なにを言ってる。どうしてぼくを罪人にしようとする」 「わ、わたしは見たとおりのことを——」 「やめろ」  若林がぼくを男から引きはなした。椅子のところまで引っぱり、椅子を起こし、力ずくで腰をおろさせた。その間に鉄の扉が開かれて、男は逃げるように出ていった。 「きたないぞ」  ぼくは肩で息をする。若林は悠然と席にもどった。 「でっちあげだ。ぼくは虹の滝なんかに近づいたこともない。あれは麻美がやったんだ」 「ちがう。やったのはおまえだ。ちゃんと顔も見られている」 「……麻美だ……麻美がぼくの姿を感応力で生み出したんだ……麻美のせいだ」 「いいかげんなことを言うな。おまえは赤井を殺し、早紀を殺し、二人の予備校生を殺し、そしてきのう——おととい、暴走族の男を一人殺した」 「暴走族? おととい 火炎壜で焼け死んだのか?」 「そうじゃない。火傷を負ったやつは助かったさ。別の一人だ。心臓を止められていた。赤井猛をやったときと同じだ。おまえは五人の少年少女を殺した」 「早紀はちがう。二人の娘もちがう。ぼくじやない」 「時間はたっぷりある。思い出すまでここにいるがいい。そうだ、言い忘れていた。誕生日おめでとう。早く大人になっていれば罪を犯さずにすんだのにな」  ぼくは身を硬くした。こんな状況で誕生日をむかえるなんて、予想もしなかった。ぼくは残り少ない感応力を、ここで無意味に失おうとしている。 「伏見早紀のことも、確証があるんだ。密告があってな。おまえだと言っていた」 「だれだ。そうか、尾谷だな。あの男は汚いことをやっている。あの晩、早紀と一緒にいたのは、尾谷という男だ。なぜ捕まえない。あの男が殺したんだぞ」  早紀の死んだ夜、ぼくは尾谷と顔を合わせたのを思い出した。尾谷はぼくに噛みつきそうな形相で、おまえなぞ少年課に捕まって感応力を吸いとられればいいんだと言った。少年課はたしかにあった。ぼくは感応力を吸いとられようとしているんだ。 「尾谷だ。尾谷という男を調べろ」 「調べたのは尾谷法律事務所なんだ。あそこは探偵屋のようなこともやっていてな。早紀の死に不審を抱いた人間が、調査を依頼したんだ」 「麻美と早紀の関係が浮かんだはずだ」 「そうさ。調査を尾谷に依頼したのは村崎麻美だよ」 「なんだって?」  ぼくは言葉を失った。唇が震えた。 「おまえが早紀を殺した。その調査結果を通報してきたのは麻美さ」若林は一枚の書類をとって、ぼくの目の前でふってみせた。「おまえ、麻美になにをした? 女のうらみはおそろしいぞ」 「麻美が……くそ、彼女、自分を守るためにこのぼくを——」 「妄想だ。おまえ、頭は大丈夫か」  麻美はぼくのいまの状況を遠くから楽しんでいるにちがいなかった。ぼくは両手を握りしめ、机をたたき、うなだれる。 「くそう……あの女」  ここから出たら——殺してやる。 「ぼくが……容疑を全部認めたら、どうなるんだ。裁判か?」 「これが裁判だ」若林は冷酷な声で言った。 「そんな法律、知らないぞ」 「おまえが知っていようがいまいが、そんなことはどうでもいいことだ」 「有罪になったら——感応力を強制的に消されるのか」 「消したくはない。若者の力は偉大だからな。しかしおまえが感応力を誤った方向につかっていて、これからもそうだとなれば、治療する必要がある」 「薬づけで廃人か? 感応力を吸いとる機械でもあるのか」 「ま、一種の電撃療法だな」 「そんな方法があるなら、予備校生全部を療法にかけたらいい」 「感応力を無理に消すことはない。自然のままがいいんだ」 「副作用があるんだな」 「そうじゃない」 「じゃあ、なんで、いますぐ消さない」 「感応力は大人にも有益なんだそうだ。おれはそのへんのことはよく知らん」  消されてたまるか。ぼくは歯ぎしりする。どうしてもここから出たい。麻美と勝負したい。あの裏切りの、利己にこりかたまった女にいいようにされてたまるものか。 <大人は幻。幻に負けてはいけない>  月子の精神声が聞こえる。ぼくは深呼吸する。若林がそんなぼくを見て言った。 「きょうでおまえは十九になった。もうじき感応力は自動消滅する。それまでここにいたければいろ。認めたほうが利口だぞ。療法を受ければ自由の身になれるんだ。よく考えることだな」 「薬をくれないか。きのうのカレーでもいい。あのカレーには大量の鎮静剤が入っていただろう。わかるんだ」 「妄想だ」若林はうんざりしたように首を振った。「おまえは強制入院させるべきだったかもしれんな。いまからでも遅くはない。知事に申請して措置入院にするか」 「そのほうがましだ」 「あまり手をわずらわせるなよ、三日月。大人をからかうものじゃない。親に心配かけて、おもしろいか?」 「心配なんかしてないさ。ここにきたか?」 「言うまいと思っていたんだがな。おまえの爺さんがたおれたんだそうだ。それで大変らしいぞ。女中におまえの着替えを持ってこさせるそうだ」 「爺さんが。そうか」  ぼくはにんまりと笑う。 「なにがおかしい」 「あれこれ理屈をこねて、ようするに警察にやっかいになってる息子などに会いたくないんだ。恥をさらしにきたくないんだ」 「そうかもしれん」と若林は言った。「あの親にしてこのばか息子あり、さ」  書類を整理して若林は立ち、椅子を机にきちんとつけて、認める気になったら呼べと言い、出ていった。  若林の姿と声と匂いと精神波が消えてしまうと、部屋の時がとまった。なにも動かず、なにも変化しなかった。  ぼくは椅子をずらし、磨硝子の窓を見て、眼を細めた。白い光。まぶしい。外の景色はまったく見えない。影もなかった。ここがどこなのか、わからない。時間もはっきりしない。頭はぼんやりとしている。  壁にはね上がっているベッドをおろして、マットに腰かけた。きょうが、あれほどおそれていた十九の誕生日だ。まだ感応力は失せていない。だがもう長くはないだろう。どんなに長くてもあと一年はもたない。次の一瞬にも消えるかもしれない。  さほど不安はなかった。それよりも、ここからなんとかして出たいという思いが強い。すぎてみれば誕生日など、どうということもなかった。この無感動な心は、感応力が薄れた証拠かもしれない。消えないうちに——ここから出なければならない。麻美を殺してやる。それが最後の望みだ。  しかし、大人はぼくを捕まえておきながら、なぜすぐに感応力を消さないのだろう。感応力を消す方法があるなどというのは、はったりなのかもしれない。いかにも大人の考えつきそうな罠だ。だがはったりならぼくも負けはしない。感応力がつかえるかぎり。  ぼくは精神を集中した。  うす汚れた壁に黒いしみが浮かび上がった。しみの上にぼんやりと白い影がゆれる。 <出てこい、月子>  黒衣の女が壁にレリーフとなってはりついている。ぼくはさらに心をとぎすます。月子が壁からはなれて、立体になる。月子は足をふみだす。ワンピースの裾がひるがえる。月子がぼくの前に立つ。 〈ぼくはおまえを認める。おまえはぼくの分身だ> <わたしはあなた自身であり、あなた自身ではない> <どうでもいい。おまえはぼくの味方だろう> <そうね> <大人のことだけど> ぼくは月子のとらえどころのない、なにを考えているかわからない無表情の白い顔を見つめた。 <なぜぼくの感応力をすぐに奪わないんだろう。子供の感応力を> <大人は幻よ> <そうだな。大人は、大人になると死んでしまうんだ。あいつらは幽霊だ> <彼らは子供なしでは生きられない。大人は子供たちの感応力で生かされている。子供たちがいなくなったら彼らは存在できない。大人は子供の感応力を守らなければならない。大人と子供は共生関係にある> <そうか。だから、やたらとぼくの感応力を消すことはできないんだな>  人間は変態するんだ。子供はありあまる生命力で大人の生命を保っている。感応力は生命の素だ。大人は、子供たちの感応力を吸いとって生かされている。吸いとる能力が低下すると老化して、消滅する。 <大人は幻だ> と月子がいった。 <感応力をもった子供がいなくなれば消えてしまう。彼らは、だから、感応力者どうしが殺し合いをするのを見すごすわけにはいかない。それと比べたら、大人の死など問題ではない。あなたが大人を殺したとしても、彼らはあなたを捕まえたりはしない。大人は感応力が生んだ幻。幻を生んでいる子供がその幻を消したところで罪になるわけがない>  これまでどれだけ多くの大人が感応力で殺されたろう。そうだ、気に入らない幻など消されて当然だ。 <捕まったのはまずかったな。ぼくはここから出たい。ぼくは幻などに用はない。麻美だ。もう一度麻美と接触したい> <チャンスはある。手伝ってあげるわ、三日月。幻に負けてはいけない>  月子はふいに姿を消した。ぼくはどっと疲れを感じてベッドに横になった。チャンスはある。どんなチャンスかはわからない。月子がいうのだからまちがいないだろうと思う。ぼくは目を閉じて脱獄の方法を考える。うきうきした気分で。  ぼくが捕まったのは、大人にとって貴重な感応力者を殺したためだ。しばらくたって、きょう二度目の珊問にやってきた若林に、ぼくはそれを確かめてみた。 「ぼくはもう一人殺しているんだ」ぼくは若林をまっすぐに見すえて言った。「知ってるか」 「ほう?」  若林は意外だという顔で、調書を広げ、ペンを握る手に力をこめた。 「早紀が死んだ日の、昼だ。市民館の前で交通事故があった。一人の若い女が車にはねられて死んだ。その女を車の前に突きとばしたのは、ぼくさ。殺意はあった。死んでしまえ、そう思ってやったんだ」  若林は緊張した面もちで、「たしかなんだな、脇田三日月」と言った。「しかし、なぜそんなことを言う気になった」 「あんたには立証できない。だからさ」 「からかってるのか」 「いいや」 「おまえ、自分の言っていることがわかっているのか? 自分で自分の首をしめているようなものなんだぞ」 「それはどうかな。大人を殺すのは簡単だ。こんな事件は日常茶飯事さ。犯人のすべてを捕まえようとすれば、子供はみんな刑務所行きだよ」 「……どうやって殺した。突きとばした、だと? しかし周りの人間は気がつかなかったのだろう、突きとばしたりしたら、すぐにわかる」 「感応力をつかったんだ。ぼくは分身を生むことができる。それにやらせたんだ」 「いいかげんなことを。おれを混乱させようとしても無駄だぞ」 「あんたがあわてることはないだろう。あんたは感応力をもっている少年の死について調べる仕事をしているんだ。関係ないさ」 「知ったような口をきくんじゃない」  若林はぼくの胸ぐらをつかんだ。ぼくはひきつった若林の顔の熱い体温が感じられるほど近くで言ってやった。 「もっとくわしく話してやろうか。その分身はテレビ局の報道ビデオに写っている。CCN局さ。ぼくの殺意もそれに記録されている。借りてきて見たらどうだ。局の連中もあの事故のことは調べているはずだ」 「その言葉、忘れるなよ」  若林はぼくを押しもどした。ぼくは椅子の背にもたれて、笑った。 「おまえなど」若林は立って、ぼくを見おろした。「感応力を消して、刑務所にぶち込んでやる」 「信じるのかい、ぼくの言葉を。ぼくは嘘つきだぜ」  若林は書類を手にして、あとずさった。 「局の報道部へ行っても」とぼくは言ってやった。「肝心なテープなんか見せてもらえないかもしれないぞ。あったとしても、合成された偽画像さ。テレビのニュースなんてみんなそうなんだ。嘘ばかりさ。みんな感応力者が生んだ幻なんだ。あんたも幻だ。少年課なんていうのは存在しないんだ。あんたは幻の仕事をしているんだ。仕事をやっているような気がしてるだけさ。なんの役にも立っちゃいないよ。あんたはなにも創造していない。大人はなにも生み出すことはできない。この世は感応力をもった子供が創っているんだ。主役はぼくだ。あんたはぼくのおこぼれで生かされている寄生虫さ。出ていけ。目ざわりだ。消えちまえ」 「おまえのその自信は、いったいなんだ。薬でもやったのか」 「消えろ」  部屋がばっと赤くなった。ぼくは窓ぎわに立ち、赤い磨硝子を見た。この窓は外に通じてはいない。この夕焼けは本物ではないのだ。精神を窓に集中する。バシッという衝撃音がして、窓の外は一瞬にして夜になった。この窓は窓ではない。照明パネルだ。  若林は鉄の扉をたたいた。扉が開かれるとまばゆい光が部屋にさし込み、若林の姿が逆光で黒くなった。影が伸びる。 「なんてやつだ」若林の声はかすかに震えていた。「おまえは人間じゃない」 「ぼくは子供さ」  若林は出ていった。鉄の扉が音をたてて閉まった。窓が明るさをとりもどした。  ぼくはベッドに身を投げ出した。この部屋は時間感覚を狂わせるようにできているのだ。きょうはおそらくまだ七月七日ではない。何日もたったように感ずるのは錯覚で、実際は中川と別れてから数時間なのかもしれない。たぶんそうだ。  七胴落としはどうなったろう。中川が持っていったが、どこかに捨てたろうか。祖父が生命のように大切にしていた刀だ。  身体が火照っていて、のどが渇く。睡眠途中で何度も起こされた気分だ。トイレに立ち、手洗い用の水をすくって飲んだ。  鉄の扉のきしむ音がする。若林ではなかった。よく知っている匂いが入ってきた。香と老人臭と、そして女の匂い。おちつきはらった精神波。ぼくはトイレから出て、佳子と向かい合った。 「少しは大人になった?」と佳子が言った。 「少しも。まだ感応力はあるさ。大人になるのに少しもへったくれもあるものか」  佳子は肩をすくめて、部屋を見回した。 「ひどいところね」 「家よりましだ」 「着替えを持ってきたわ」佳子は紫の風呂敷包みをベッドにおいて、結びをといた。「着替えなさい。下着だけだけど」 「ここで」 「そうよ」 「いま?」 「そう。ここには私物はおいといていけないんだって」 「よく面会が許されたな」  ぼくは裸になって、白いパンツをはいた。 「だいぶ待たされたわ」 「どのくらい」 「二時間くらいかしら。よほど着替えをおいて帰ろうと思ったのだけれど、会わずに帰ったら奥さまになんて言われるかわからないし」 「顔色を知りたいなら、おふくろが自分でくればいい」 「大旦那さまがね——」 「聞いたよ。まだ生きてるのか」 「ええ。旦那さまはおろおろしているし」 「おやじはまるで幼いからな。おふくろを母親とまちがえてるんじゃないか。そうだろう? 『おやじが死にそうだというのによく放っておけるな。三日月だ? あれは佳子にまかせておけばいい』ちがうか?」 「お父さんのことを悪く言ってはいけないわ」 「ぼくはあんな男にはならないさ」 「そうかしら」  佳子はぼくの脱ぎ捨てた下着をとって、風呂敷に包んだ。 「もう帰るのか」 「心細い?」  ぼくは佳子の腕をとろうと手を伸ばした。佳子はつとぼくからはなれた。逃げるというのでも、ぼくをさけたふうでもなく、ぼくの手が見えなかったかのように、ぼくの手を無視した。佳子は女中の顔で言った。 「ほかになにか用がありますか。なにか奥さまに伝えることでも?」 「いいや。——きょうは何日だ」 「あら、ごめんなさい。うっかりしていたわ。三日月さん、お誕生日おめでとうございます」 「嘘だ。そう言えと若林に言われたんだな」 「いいえ。なぜそんなことを?」  再び頭に霧がかかったように精神が鈍る。  きょうほ本当に七月七日なのか。あの窓は本物なのかしらん。カレーには薬など入っていなかったのか。月子は幻覚なのだろうか。 「ここはどこなんだ」 「どこって?」 「病院か? 精神科の」 「ならよかったのに。警察よ」 「どこの」 「中央署。赤十字支社の近くの。さて、行かなくちゃ。ねえ三日月さん、いつ出られそうなの」 「知るもんか。爺さんの葬式には出られないかもしれないな」 「縁起の悪いことを言わないで。大丈夫よ。すぐによくなるって、往診のお医者さまも言ってらしたし」 「刀はどうした」 「そうよ、三日月さんが悪いのよ。七胴落としを大旦那さまからとりあげるんだもの。ちゃんと戸棚に返しておいたわ」 「あったのか。中川が窓から投げ入れていったんだな」 「どういうこと? お部屋はちゃんとお掃除しておきました。もう二度とやらないでね。大変だったんだから。窓はめちゃめちゃだったし」 「あれはきみのせいだ」 「あなたのせいよ。ね、三日月さん、早く大人になって」 「なぜ」 「こんな三日月さんなんて見たくないもの。早くまともになってもらいたいのよ。わからないの、わたしの心が」 「わからないな」 「環帯をとっているのに」 「大人はみんなうす汚いよ」 「まだまだ子供なのね」 「爺さんによろしくな」 「謝ったほうがいいわね、直接会って。早く出られるように祈ってるわ」 「……わかったよ。爺さんに万一のことがあったら知らせてくれないか」 「そうね。そうするわ」  佳子は風呂敷包みをとり、ぼくを見つめた。いままで見たことのない哀しい眼だった。出ていけ、とぼくは言った。こんな眼でいつまでも見つめられては、自分がみじめな負け犬におちぶれてしまう気がする。佳子が出てゆくと、ぼくは笑みをこぼした。ぼくはここから出る方法を見つけた。  心をすます。 <月子、月子、いまの佳子の話をきいたな?> <きいたわ> <チャンスだ。爺さんを利用できる。実につごうよくぶったおれてくれたよ。わかるだろう?> <もちろん、よくわかるわ、三日月。それで、あなたわたしになにをしてもらいたいの>  ぼくは探呼吸して、いった。 <爺さんを殺せ>  それで、ぼくはここから一時的にせよ、出られる。月子の精神笑がカンフルのようにぼくの心を熱くした。爺さんは七人目。つぎは麻美。なんてハッピーなバースデーだろう。  ぼくはベッドに横になって、爺さんの死を待った。 [#改ページ]       10  明るい光に目が覚めた。窓がまばゆく光っている。照明かどうかわからない。どうでもいいことだ。久しぶりにゆっくり眠れたのだから。身体が軽い。  屈伸運動をしていると若林が部屋に入ってきた。若林はしばらくぼくの体操を見ていたが、ぼくが動きをとめてうんと伸びをすると、ぼくの晴れやかな顔をいぶかしむような表情でぼつりと言った。 「爺さんが危篤だそうだ」  ぼくはトレーナーの袖で顔をふき、そうか、とこたえた。なるようになったと思った。 「なぜ平然としている、三日月」 「なぜって?」  若林は手にはなにも持っていなかった。机にも近づかずに、鉄の扉の前でぼくを見ていた。近よりたくない、とでもいうように。 「身内の人間が死にそうなんだぞ。爺さんがいなければおまえはこの世にはいない。他の人間とはちがう。おまえにとっては重い生命だ。いま、死のうとしている。おまえにはその死がどういうものかわからないのか」 「生んでくれと頼んだ覚えはないね」 「おまえには生きるということがどういうことなのかわかっていない」 「死んでないってことさ」 「おまえは死というものを忘れている。死がわかっていない者は生きているとはいえん」 「あんたは生きているのか」 「ああ」  ぼくはトレーナーを脱ぎ、トイレの水で顔と身体を洗った。トレーナーで身体をふこうとすると若林がハンカチを投げてよこした。あまりきれいとはいえなかったが、ぼくはそれでふいた。返そうとすると若林はそれを無視して、ポケットから環帯を出して、つけろと命じた。ぼくはハンカチをポケットにしまい、環帯を受けとった。 「つけるんだ」 「わかりましたよ、若林さん」  若林は深く息を吐き、鉄の扉を開けた。 「出ろ、脇田三日月」 「釈放か」 「いいや」 「病院送りか」 「そうしたいところだが」若林はぼくに近より、環帯をちゃんとしているか確かめるようにぼくの頭に手をやった。「おまえを家につれてゆく。家族の死に、おまえは無感動ではいられないはずだ」 「それで、ぼくが改心して立派な大人になるとでもいうのか」 「そう願いたいな。そうすれば爺さんの死も生きるというものだ」 「罠だ」 「なにを言い出すんだ?」 「あんたたち、爺さんを殺したな」  若林はかっと頭に血をのぼらせて、ぼくのあごをつかんだ。殴られると思ってぼくは身を硬くしたが、若林はふと力を抜くと、ぼくから手をはなした。 「おまえはどうしようもないばかだ。つける薬はないようだ。死ななければ治りそうにない」  若林は扉の外に出た。ぼくはもたもたしていてはとじこめられると怖れて、あわてて後を追った。  廊下は病院のように清潔だったが、活気はなかった。ひっそりとしている。エレベーターの前で若林は立ち止まり、ボタンをおした。 「この階は特殊少年課の留置所なのか。あまり使われていないようだな」 「留置所じゃない」と若林は言った。「更生室だ。そうさ、ここに入れられる少年はめったにいない。よほどのばかでないかぎりな。おまえはそのめったにいない、ばかだよ」 「それは光栄だな」 「自慢にはならん」 「その他おおぜいのなかの、いてもいなくてもいい人間よりはましさ」 「自分は他人とはちがう、特殊な、つまはじきにされた者だと感じて不安になったことはないか」 「別に。みんなと同じだなんて、まっぴらだ。ぼくはいつもぼく自身でいたい。十把ひとからげにされるのはごめんだ」 「同じ人間などこの世には一人としていない。それなのに不満なのか」  エレベーターの扉が開く。小さな箱に入る。下降する。 「長いものに巻かれるのはいやだ」 「長いものとはなんだ」 「それは——大人たちだよ」 「おまえにはなにもわかっていない」 「あんたもさ。大人は汚い。精神的にも肉体的にも」 「おまえがそう思っているのなら、そうだろうさ。おれにも言わせてもらおうじゃないか。おまえが、大人をうす汚いと毛嫌いするように、おまえ自身もまたその醜悪な存在の一人だということにおまえは気づいていない。勝手なものだ。おしあわせな餓鬼だぜ」 「そんなことは承知してるよ。ぼくは自分のいやらしさをよく知ってる。でも大人は自分が醜いってことを忘れているんだ。それこそが醜悪でなくてなんだ?」 「忘れているわけじゃない。おれはおまえなどには想像できないほど毎日毎日それこそいやというほど味わっている。しかしそれをいちいち気にとめていられるほど暇じゃない。食わなければならない。女房もいるし、腹をすかせた子供もいる。おまえは暇すぎるんだ。子供など予備校に入れずに、さっさと働かせればいいんだ。甘やかしすぎさ。税金の無駄づかいだ」 「あんたは公立予備校に行ったか」 「いや」  エレベーターを出る。夏の熱気がどっとおしよせてきた。暑い。街の騒音が聞こえる。廊下では、制服警官が部外者らしいおどおどした男に行き先を教えていたり、書類を手にした女子職員が小走りに駆けていったり、セールスマン風のアタッシェケースを下げた男が勝手知ったる商売場所という感じで大股に通りすぎたりしていた。  若林は署の裏口から外に出た。中庭だった。丸く花壇がつくられている。高い木は植えられていない。真紅のサルビアが鮮やかだ。  高い建物をぼくは見あげた。どこがぼくのとじこめられていた部屋かわからなかった。小さな窓が並んでいる。窓のない階はなかった。あの窓は照明パネルなどではなかったようだ。  若林はぼくをうながし、別棟の建物に入り、地下への階段をおりた。駐車場だった。パトカーではなく、若林のものらしい車のドアを開き、若林は乗り込んで、助手席のロックを外し、ぼくに乗るように言った。エンジンをかけ、駐車場を出る。 「予備校には行かなかったのなら」とぼくは若林の横顔を見た。「ぼくの気持はわからないだろうな。大人はみんなそうだ。ぼくの不安などだれにもわからないんだ」 「おれが環帯を捨てたのは高校一年か二年のときだ。はっきり覚えちゃいない。こんなものか、そう思っただけだ。初めての女と寝たときと同じ気分だ。こんなものか、さ。女の顔もよく思い出せない。十八の夏だ。化粧品の売り子だったよ。おれは奥手のほうだったが、ひょんなことでわりと早く経験したんだ。化粧した顔はきれいだった。きれいだったというのは覚えているんだ。化粧をおとさずにやったんだ。素顔は見たことがなかった。五、六度会ったんだが。尻に汗疹があってな、そこは化粧してなくて、おかしかった。それはよく覚えているよ。しかし感応力を失ったときのことは、ぜんぜん記憶に残っていない。たいしたことじゃなかったんだ。初めて女を抱くことよりも、どうという変化じゃないんだ」 「あんたは鈍感なんだ」 「早く一人前になりたかったのさ。のんびり遊んでいるより、一刻も早く親父と対等な口をきけるように稼ぎたかったんだ。親父のところに後妻にやってきた女はおれにいろいろ気をつかってくれたが、かえって煩わしかったよ。高校を出ると、おれは家から独立した。大人になったと感じたのはそのときだ。感応力が消えたときじゃない」 「なだめたり、すかしたり、御苦労なことだ」 「ほんとに苦労さ。欠陥人間の相手をするのは疲れる」  片道三車線の大通りの信号に止められる。銀行の電光時計の数字が9:58。十時間店の店が多い。問屋からきたトラックが目立つ。書店の前では投げ出された梱包を店の中へ運び込んでいる。デパートのシャッターが開く。商店街の暑い一日がはじまる。  信号が青になる。となりの商用車が青を待たずに発進していった。若林はゆっくりと車を進める。 「腹がへったよ」 「急がないと死に目にあえないぞ」 「なら、もっととばしたらどうだ」 「制限速度を少し越えている」 「パトカーでくればよかったじゃないか」 「おまえをつれ出したのはおれの裁量だ。会えるだけでもありがたいと思え」 「腹がへった。どうせ帰ってもおちおち食ってはいられないだろうな」 「よく食う気になれるな」 「爺さんはもう死んでるさ」 「どうしてわかる」  ぼくはカーエアコンの吹き出し口を顔のほうに向けた。 「ぼくが殺したんだ」 「そうか」と若林は言った。「邪魔者あつかいして、早く死んでしまえと思っていたんだろうが。気の毒な爺さんだ」 「そういう意味じゃない。実際に手を下して、殺したんだ。早紀や赤井のときはそうじゃない。あれはゲームだ。ぼくは大人しか殺していない。市民公園前で一人の女、そして爺さんだ」 「感応力老どうしが感応力を使って殺し合えるというのは事実だ。年間何人もの若者がばかばかしく死んでゆく。しかし大人を殺せるとは思えん」 「あんた、おれに心臓を止められそうになったことを認めたじゃないか」 「ごく少数の感応力者のなかには、そういう能力をもった者もいるらしいが、はっきりしない。研究はやられているだろう。だが研究内容が公開されることはまずあるまい」 「CCN局には行ったか」 「行ったさ。おまえが写っているテープも見た。それだけだ。残念ながらおまえの言葉を裏づけるような内容ではなかった。どっちみち、おまえが大人を殺したとなれば、これはおれの担当ではない。一般の刑事事件だ」 「子供どうしの殺し合いはそうじゃないんだな」 「少年を保護するのがおれの仕事だ。まだ先のある若者がくだらないことで命をおとすことのないように見張ってる」 「勝手にやらしておけばいい」 「ときどきおれもそう思う。あまりひどいんでな。おまえのような人間こそ刑務所にぶちこむべきなんだ。大人を殺して平然としているやつこそ捕まえるべきだ」 「立証できないだろう。状況証拠だって薄い。ぼくは現場にはいない。分身がやるんだ。CCNのテープにも写っていたろう。月子が」 「あの女が、そうなのか」若林はちらりとぼくを見た。「——信じられんな」 「月子だ。同じクラスにいる女だ」 「おれはおまえのクラスを徹底的に調べたが、、そんな女はいなかった」 「いるんだ。この街なかを歩いている人間のうちの何パーセントかは幻だ」 「寝ぼけたことを」 「ぼくは早紀と地下で溺れた二人の女は殺していない。あれは麻美がやったんだ」 「ちがうな」 「なるほど」 「なにがなるほど、だ」 「警察は犯人を捕まえるけど、その犯人が罪を犯したかどうかなどどうでもいいんだ」 「ナイーブな考えだ。幼稚なことを言ってる」 「いや、犯人は犯人だろうさ。あんたたちは優秀だもの。誤認逮捕なんてめったにないだろうな。犯人は罰せられる者だ。しかしかならずしもその人間が罪をおかした者である必要はないんだ。それが大人の世界なんだ。真実が見えない者の集団さ」 「見えていないのはおまえのほうだ。安心しろ。もどったら、迷い多き世界から救ってやる。警察病院でゆっくり療養するがいい」 「腹がへったな」 「うるさいやつだ」  大通りをそれて、車は狭い小路に入っていた。一方通行だ。車が一台やっと通り抜けられるほど狭い道の両側は、古い木造の建物が軒をつらねている。 「月町だ。月町、花町、雪町。かつての遊郭さ」  格子のある家。こんな狭い路地も舗装されている。ぼくは車の窓を開けた。焼けた道路の匂いがした。殺菌済のようで、生活感がまるでなかった。道の両側の溝はコンクリートで蓋をされていて、どぶの悪臭もなかった。昔なら生活排水が流れて、雨など降ればあふれそうになり、板の香りがして、下駄の歯にはさまった石をとっている男がいたり、通りにまで伸びた庭木の落ち葉を掃除している女がいたにちがいない。 「こんなところにきたのははじめてだ」 「だから言ったろう。おまえはなにも知らん。自分の街のことも」  若林は車を止めてエンジンを切り、キーを抜く。 「環帯をとるなよ。パンを食わしてやる」  若林は車を降りて、少し先の駄菓子屋に入っていった。昔ながらの店だ。アイスキャンデーの箱がおいてある。かき氷の旗が出ている。十年以上昔にもどったようななつかしさで、ぼくは車を出た。古い家並だ。が、ふと仰ぐ屋根の上に、七月の光を浴びる白い高層ビルがそびえていた。この町もやがては時の流れに消されてゆくだろう。ここで客を引いていた女たちの亡霊も出る場所を失って、永久に消えてしまう。  若林はすぐにもどってきた。車の屋根ごしに紙袋を投げてよこした。 「乗れよ。行くぞ」  コーラのカンが二つ。若林がひとつを開けて、のどに流しこみながら車に乗る。ぼくは紙袋を探る。あんパンが三つ。ぱくつく。甘い。子供のころのやつほどはうまくないような気がする。 「早く乗れ」  うながされて車に乗り込む。窓を閉めろと言われた。若林が車を出す。路地を歩くような速度で進める。 「昔の人間も感応力があったんだろう?」 「あったろうさ」 「遊女のなかには感応力で男を殺したのもいただろうな。でも捕まったりはしなかった。時代が進むとぼくみたいな不合理な目にあう人間も出てくる。昔は感応力がどうのこうのとさわいだりしなかったみたいだな」 「科学のせいさ。感応力は幻じゃないってことが確かめられて、環帯が発明された」 「よけいなことをしたもんだ。環帯があるせいで、大人も子供も感応力の存在を意識せずにはいられなくなった」 「しかし、そのおかげで殺されずにすんだ人間は多い。放っておいたら、この五十億もいる人口過剰な世界など、憎しみの感応力で滅びてしまうだろう」 「自然がそれを望むならやらしておいたほうがいいんじゃないかな。滅びたほうがいい」 「おまえ、死ぬか?」若林はぼくに死ね、と命じる口調で言った。「隗よりはじめよ、だ」 「そうか、だからだれも言い出さないわけか。いいぜ。やってやろうじゃないか。環帯を外させてくれ」 「だめだ」 「どうして」 「おまえはもう殺す側にはいられない。おれはおまえを殺される側に立たせてやる。おれと同じ立場に。おまえが殺したがっている、大人の世界に引きずりこんでやる。若いから許されるという立場にいつまでもいられると思ったら大まちがいだ。まったく、おまえのような育ってない餓鬼を見ると胸くそがわるくなってくる。それこそおれに感応力があれば、証拠も残さずにやれるなら、おまえなど殺したいくらいだ」 「本音を言っていいのかい」 「本音だと思うか?」  ぼくは若林を見つめた。若林はハンドルを握り、前を見ていた。この男はいったいなにを考えているのだろう。ぼくには大人がわからない。  見慣れた道だ。家が近い。テンストア、火事で半焼したアパート。電話ボックスを過ぎる。家の前に車が駐まっている。  若林はその車の後ろで停車した。ぼくは降りた。 「あんたはどうするんだい」  若林は車から出て、車体に寄りかかって煙草に火をつけた。 「待ってるさ。逃げても無駄だぞ、三日月」 「いつまで待ってる。爺さんが死ぬまでか」 「一時間だ。長くとも一時間半。一時におまえを警察病院につれてゆくことになっている」 「強制的に大人にするわけか」 「おまえのような人間は永久に大人になれないかもしれんな」 「感応力がなくなれば大人さ」 「そういうところが、いかにも青いんだよ、三日月。これから苦労だぞ。おまえが思っているほどこの世は単純じゃない」  ぼくは頭に手をやって環帯をとった。若林は目を細めたがなにも言わなかった。ぼくは家の玄関先に立ち、環帯を捨てた。若林がくわえ煙草でゆっくりと近づいてき、土の上の環帯を拾った。ぼくは心をすまして、家の中の精神場を探った。父と母の精神波が感じられる。佳子が近づいてくるのがわかる。しかし、祖父の精神波はどこにもなかった。 「爺さんはいない。死んだんだ」 「そうか」と若林は言った。「ご愁傷さま、と伝えてくれ」 「あんたには関係ないだろう」 「おまえはどうなんだ」若林は環帯を手でもてあそびながらぼくを探るように見つめた。「どんな気分だ」 「生きてればいつかは死ぬさ」 「おまえはいつ死ぬ?」 「知るもんか」  佳子が出てきた。 「遅かったわ、三日月さん」と佳子が言った。  香の匂いはなかった。家は静まりかえっていた。陰鬱な精神波が重い煙のように暗い家内を這っていた。背伸びをしたい感じだった。空気は酸欠のように息苦しかった。  台所へ行く佳子のあとにぼくはついていって、冷蔵庫から冷たい水を出して飲んだ。佳子は湯沸器のコックをひねって洗面器に湯を汲んだ。 「いつ逝った」 「ついさっきよ」  佳子はぼくを責める目で見た。涙をためて。 「なにが悲しい。大往生だ。めでたいじゃないか」 「そうね」  湯を持って佳子は台所を出た。  祖父は書斎で最期をむかえた。白布のかけられた祖父の枕元に、七胴落としが置かれていた。祖父はあの刀で人を斬ることなく死んだ。七胴落としは妖気ただよう刀だ。いったん鞘から出したらなにかを斬らずにはおさまらない気にさせる。それをすんなりと鞘にもどせる者は、よほどの克己心の持ち主か、でなければ刀が人を斬るための道具だってことを忘れている人間だ。祖父はそうではなかったろう。祖父は陶酔したにちがいない。あのおそるべき切れ味を誇示している鋭利な刀を鞘にもどすとき、祖父は刀を完全に自分の支配下においたという征服感よりは、自虐的な快楽を味わったにちがいない。試し斬りをせず、しかしやりたいという欲求を、鞘におさめる動作で殺す。それは異様な快感ではなかろうか。祖父はたった一度だけ、七胴落としの意志に従った。はたすことはできなかったが。ぼくは自分ののどをおさえる。傷はもう触れてもわからない。危ないところだったのだ、ほんとに。祖父は本気だったんだ。ぼくは身震いして、白布をかぶった祖父から目をそらした。  祖父をいれて七人いた。  脂ぎった顔の医者は佳子の持ってきた湯で手を清めていた。供の看護婦は、こんな場にはもう何千回も立ち合っているといった風にてきぱきと手を動かして帰り仕度に余念がなかった。  母は、どっかりとくつろぐように正座していた。その精神波はかつてぼくが感じたことのないほど安定していて、ぼくをおどろかせた。ときどき、でも、罪を意識した電撃的なパルスが母の頭から放たれた。たぶん、医者が祖父の死を宣告したときに生じたショックの余波だろう。その波もだんだん弱く、間隔も長くなっていて、すっかり平滑化されるのにさほど時間はかかりそうになかった。  父はぼくが照れくさくなるほど混乱していた。表面ではこらえていたが、精神波は乱れ、うろたえていた。そんな父は別にめずらしくもなかった。仕事がうまくいかなくて母に八つ当たりし、母に相手にされずに「そんなのはわたしには関係ない、わたしも忙しいのよ」と言われたときと同じだ。父は常に、よりかかることのできる相手を必要とした。ぼくは将来、年とった父によりかかられるかもしれないと思って、ぞっとする。  書斎には、かすかだが強い異臭がたちこめていた。障子、硝子窓、板戸はみんな開かれていたが、臭いは消えなかった。ときおり新鮮な暑い夏の風が吹きこんだ。すると書斎にしみついた陰気くささがはらわれるようで、部屋にいる一同は無意識のうちに、肺を洗おうとでもいうように深く呼吸した。そしてすぐに息をつめた。その臭気は、あたかも薄い膜になって顔に張りついたかのようで、逃がれようがなかった。死臭だ。祖父はたしかに死んだ。ぼくは祖父の生前にもこんな臭いをかいだことがあるような気がする。きっとそのときから祖父は生きてはいなかったのだ。  佳子は白いエプロン姿で、タオルを医者に手渡した。それから、動こうとしない母のもとににじりよって、なにごとかささやいた。佳子は若林のことを言っているようだった。おそらく、家の前に立たせておくのは失礼だから客間にでもあがってもらおうか、とでも言ったのだろう。母はうつろな目でちらりとぼくを見やり、そしてうなずいた。佳子は中腰で、父と母の後ろに座ったぼくのところにきて、ぼくの頭を軽くたたいて——うちひしがれて顔をうなだれていなくちゃいけないわよ、とでも言いたげな仕草だ——書斎を出ていった。  若林を家に入れるなんて、とんでもない。環帯をはめられるかもしれない。若林はなぜ環帯を外すのを見すごしたのだろう。祖父の死を確かめさせるつもりだったのか。たしかに、祖父の死は、精神波が出ていないことからよくわかった。その死はしかしぼくになんの感慨も抱かせなかった。祖父はぼくを殺そうとした。ぼくは自分の身を守っただけだ。若林にはそれがわからない。だれにもわからないだろう。大人には。  このまま大人にされてたまるものか。  ぼくは静かに祖父の枕元によると、白布をあげて死顔を見た。唇を噛みしめて、苦しそうだった。七胴落としを使いこなせなかった恨みが出ている。ぼくは枕元の七胴落としをとり、部屋のすみにひきさがった。だれも止めなかった。祖父の死によって開けられた心の空洞が、あきらめや解放感で埋められてゆくのを待っているような、そんな弛緩した精神波が部屋をおおっていた。吐き気がするほど退屈な雰囲気だ。  ぼくは正座して七胴落としを膝の前に置き、麻美の精神波を探す。どこにも感じられない。麻美の基調精神波を思い浮べて、ぼくの能力いっぱいに増幅して空間に放つ。はねかえるように返事がきた。 <三日月くん。いまどこなの> <楽しんだか? ぼくが捕まってさ> <心配していたわ。あなた狂っちゃうんじゃないかと思って> <まともでいられたのはきみのおかげさ>  麻美はさっとぼくの心に入ってき、疾風のようにかき乱した。麻美に精神をつつかれると、若林に捕まったときのことや、あの部屋のこと、訊問の様子などが、ぼくの心のなかで鮮やかに再生された。そして、麻美への殺意も。 <素敵よ、三日月くん。わたし、もうあなたはだめになったのかと思ってた> <きみにだけは、だめにされたくない> <やろうか> <いいだろう。用意はできてる> <ちょっと待ってね>  麻美は予備校にいた。昼前の授業は英語だ。女教師のつぶやきが麻美の耳を通して聞こえる。 <月子はいるか> <さあ。近ごろ見ないわ。また転校したんじゃないかしら。あなたが追っぱらったんでしょ? 心配してたのよ、月子が消えたってことは、あなたの感応力がなくなったんじゃないかと思って>  そういったわたしは、ふととなりの席に人の気配を感じる。空席だったはずなのに。いつのまにか月子がいた。月子は蒼い顔をわたしに向けると、わたしの腕をとった。冷たい手だった。月子は剃刀をわたしに握らせると、さあ、といった。いままで見たことのない月子の表情だった。瞳は熱っぽくうるんでいて、以前の理性的なおちつきはなかった。この女は三日月くんの心の一部なんだわ。いいわ、相手になったげる。わたしは剃刀を手にとる。この剃刀はわたしのものだ。いつもバッグに入れておく。月子が笑った。残忍な笑いだ……  ぼくは七胴落としを抜く。だれも振り返らなかった。刀身は自ら光を放っているようにまばゆかった。素手で刀の中ほどを握る。なめらかな刀身がぴたりと手に吸いついた。氷のように冷たかったが、火傷しそうに熱くもあった。もう離れない。  わたしは剃刀を手首に近づける。近くの同級生がわたしがやろうとしていることに気づいた。その真面目な女生徒は、息をのみ、それから、ガラスを爪でひっかくような声をあげた。予備校生たちはその女生徒を見つめた。だれも動かなかった。いきなりおかしな声を出す生徒などめずらしくなかった。女生徒は立ち、震える手でわたしを指《さ》した。英語の女教師がけげんな顔で授業を中断し、教壇をおりて近づいてくる…… 「なにをするの」と女教師が言った。「やめなさい、村崎さん」  女教師が麻美の剃刀をとりあげようとする。ぼくは麻美の腕に心を集中して、それを拒んだ。麻美の腕の筋力が鋼のように硬くなった。ほとんど同時に、麻美もぼくの七胴落としを握る手の神経を探りあてていた。ぼくの刀をとった腕が、不随意にぴくりと動き、鋭い刀の先がぼくの腹に向いた。  わたしの剃刀が、女教師の腕ごと、ずいとわたしの左手首に近づいた。わたしの左手首は冷たい刀が当たるのを予感してかすかに震えた。 「やめなさいったら」女教師が叫ぶ。「だれか、やめさせて」  予備校生たちは静まりかえり、だれも動こうとしなかった。わたしは周囲のことは忘れた。三日月くんに負けたくない……  七胴落としがじりじりと腹に近づいてくる。腕は無感覚になった。ぼくは腹をへこます。麻美の感応力は想像以上に強力だった。ぼくの目に汗が入る。目を閉じて、麻美の剃刀を必死に操る。先にやってしまわねばならない。七胴落としの動きをとめるには麻美を殺すか失神させるしかない。  七胴落としはもはや麻美に操られているのではなかった。こいつは意志ある生き物のように、ぼくの血を求めてにじりよってくる怪物だ……祖父がのりうつったかのようだ。  剃刀が左手首に触れる。早紀とやったときの傷跡のすぐ上だ。女教師がわたしをゆさぶり、わたしの身は椅子ごと床に倒れる。剃刀は離れない。女教師はやっと事態に気づいたようだ。テレゲームね? だれか、環帯を。わたしは環帯をしている。偽だけど。環帯をしめられたらせっかくの勝負が中断される。でもそんなことにかまってはいられなかった。剃刀は手首の肉を圧迫している。少しでも引いたら皮が裂かれて、刀が肉に食いこむだろう。血が噴き出すのだ。だれかが環帯を女教師に手渡したようだ。女教師はそれをわたしにつける。三日月くんとの精神場はでも消えなかった。この環帯も偽物だわ。きっと月子だ…… <早紀よりもいいわ、三日月くん>  ぼくはこたえられない。身を守るのにせいいっぱいだ。麻美が精神で話しかけてきたそのわずかなすきに、ぼくは麻美の剃刀を一段深く食いこませるのに成功した。心で歓声をあげる。こんなに真剣に遊ぶのははじめてだ。麻美は熱い血を感じて、その赤い色で、能力のすべてを解放したようだ。七胴落としが腹に触れる。腹筋が七胴落としに刺されることにおののく。腹の力を抜けば七胴落としの切っ先が食いこむだろう。ぼくの息は浅く、速くなる。心臓がひきつる。あごを伝った汗が一滴、七胴落としの刀身に落ち、玉になって散る。  背後にだれか立っている…… 「三日月さん。やめて」  佳子だ。ぼくは母の悲鳴を遠くに聞いた。目は開いていたが、色が見えない。白黒の……赤っぽいモノクロームの世界だ……母がゆっくりとした動作で近づき、七胴落としの柄に手をかけて、引いた。ぼくの刃を握る手から血がほとばしった…… 「やめろ。指が落ちるぞ」  若林の声だ。まるで綱引きをするように七胴落としを引っぱる母を、父が引き放したようだ……  もう少しだ。もう少しよ。わたしは三日月くんの手に精神力のすべてを注ぎこむ。わたしの左手首はまっ赤に染まっている。教室のなかに白衣の人間が入ってくる。保健婦か。強力な鎮静剤のアンプルと注射器を持ってきたにちがいない。その前に、やってやる…… 「マリンガだな。くそ、なんてやつだ。環帯は——車においてきたんだ。だれか——」  佳子がとびだしてゆく。若林がぼくの七胴落としを持つ腕にむしゃぶりついて、引き放そうとする。無駄だ。感応力に支配された筋肉はものすごい力を発揮する。ぼくは命をかけたゲームに酔う。最高だ。環帯で中断させられてはならない。七胴落としが腹部に浅く突き刺さる……  視界に白い靄がかかる。白い闇のなかに無数の青い輝点が散り、踊っている。頭が熱い。麻美の笑いの精神パルス。かん高い。  もうひと息。  ぼくは力をふりしぼって、麻美の剃刀に意識を集中した。なにもかも忘れて。頭のなかで、血管が爆発したような衝撃を感じた。眼球に血が噴き出したみたいに視野が赤くなり、狭くなる。一瞬気が遠くなる。  勝った。  光がもどった。部屋は凍りついたように静まりかえっていた。大人たちは動かなかった。石になったようで、生気がない。七胴落としが手から放れて、落ちた。腕から激痛が伝わった。麻美は死んだ。ぼくは危いところで逃げきったのだ。  ……しかし、そうだろうか。静かだった。心臓の鼓動が聞こえるほどに。 「麻美……麻美……返事をしてくれ」  なにも聞こえない。麻美は返事をしなかった。静かだった。とても静かだ。耳鳴りが聞こえるほどだ。シン、シン、シン……  ぼくは事態を悟って、左手で頭を探った。くそ、環帯をはめられたぞ。だが、手にはなにも触れない。こんなばかな。いったい、なにがおこったんだ? 環帯はなかった。血の気が引いてゆく。  麻美が死んだわけではないのだ。  だれも動かず、だれもなにも言わなかった。静かだった。白布をかけられた祖父はなにも言わず、物体となって転がっていた。そしてまた、石のように動かない大人たちも、そうだった。心が動いていない。精神波を放っていない。祖父と同じだ。白布をかけられた祖父と。祖父と、ぼくを見つめている大人たちと、いったいどこにちがいがあるというのだ。ぼくには区別がつけられない。  ぼくは発作的に七胴落としをとると、ふりかぶった。 「どうしてみんな黙っているんだ。なにか言ってくれ」  自分の声とは思えなかった。ぼくの内部に仕掛けられた自動機械が発声しているようだ。  ふと祖父の顔の白布が動いた。吹きこんだ風のせいか。いや、祖父が笑ったのだ。 「おまえたち……よく平気な顔でいられるな……気がつかないのか」ぼくの声は震える。背に悪寒が走った。「気がつかないのか?」  得体の知れない生き物たちが、ぼくを見つめる。 「死んでるぞ」ぼくは叫ぶ。「おまえたち、みんな死んでる。なぜそれに気づかないんだ」  七胴落としを畳に突き刺し、それを支えにしてぼくは立った。刀身がゆれ、刀についた血が刀身を伝って畳に小さなしみをつくった。 「おまえたちはみんな死んでる。そして……このぼくも」  若林が立って、煙草に火をつけた。無言でぼくを見つめ、深く煙を吐くと、書斎を出ていった。死体には用はないというように。  ぼくはふらりと廊下に出た。  佳子が廊下を小走りにやってきた。手に環帯を持って。佳子はぼくを見ると立ち止まった。佳子は、ぼくが死んでいることを一目で見抜いた。環帯が佳子の手から落ちる。  佳子は環帯を踏んで近よってきた。ぼくのもとにひざまずいて妖しい微笑をもらした。そしてぼくの傷ついた手をとり、血のしたたる傷口に唇をよせると、やさしく吸った。 〈やっと一人前になったわね、三日月さん〉と佳子がいった…… [#改ページ]    解説 [#地付き]大野万紀    海の向こうでフィリップ・K・ディックがヴァリス(あるいは天国)へ行ってしまったころ、わが国では神林長平がディックを思わすような、異様に復合した現実を描く作品を書き続けていた。  神林長平がはじめてわれわれの前に現われた時、その印象はもう少し違ったものだった。「雪風」シリーズに代表されるメカニックなディテールの正確な描写とストーリーを生き生きと語る現代感覚あふれた文章は、新しいハードSF作家の誕生を印象づけていた。ハードSFといういい方が適当でないとすれば、眉村卓氏が第一短篇集『狐と踊れ』の解説で書かれたように、�重SF�といった方がいいかも知れない。�SFっぽさや、SFとしての手続き、SF的世界観そのものがメインテーマになっているもの�である。こういってはなんだが、ここ十年ばかりの日本のSF界は、いわゆる�浸透と拡散�現象によって、このようなSFらしいSFが数少なくなっていたために、よけいに強くそう印象づけられたのかも知れない。SFらしいSFは、神林長平とだいたい同時期に出現して来た日本SFの新鋭たち——大原まり子、水見稜、谷甲州といった人たちの作品にも共通して見られる一つの指向性でもある。  さて、そういった本格SFや、ユーモラスで軽快なハードボイルド・タッチのSF——たとえば「敵は海賊」。これは傑作だ——などによって印象づけられていた神林長平の作風だが、実はもう一つの流れ——そして、どうやらこちらが中心らしい——があったのである。それはデビュー作「狐と踊れ」ですでに現われていた、異様なイメージをもつ�もう一つの日常�を描こうとする方向である。  そこではハードSF的なアイデアやメカニズムの科学的な重みづけ、あるいは背景説明などといったことには、あまり重点がおかれない。読者はいきなり、奇怪に変容した、それでいてわれわれの日常と妙にパラレルな世界へと引きずりこまれる。彼の簡潔で読みやすい、巧みな文章が、そのことを容易にしている。その世界は細部までわれわれの世界によく似ているのだが、何か根本的なところで大きくずれた悪夢の世界を思わせる。そこには人間と、人間によく似た人間でないもの(シミュラキュラ)が共存しており、しかもその区別は当人にすらあいまいなのである。その中心的なモチーフは、「踊っているのでないのなら、踊らされているのだろうさ」——『狐と踊れ』——という言葉に象徴される、主観性、あるいは自由意志への不信と、さらにおそろしいことには、客観性の否定——なぜなら客観とは、結局主観と主観のコミュニケーションによってしか成り立たないのだから——というものである。早い話が、小説の中の登場人物たちに自由意志などないのだ。——「きみはマリオネット。わたしが操る」(「言葉使い師」)  このような世界は、フィリップ・K・ディックの描く世界と大変よく似た印象を与える。ディックの作品では、いつも主人公である中年のセールスマンが朝起きて顔を洗うところから話がはじまる、というジョークがあるが、それがこちらの世界と違うのは、歯ブラシや石けん(のシミュラキュラ)が、主人公と口げんかをはじめるからである。そして、自分の信じている世界が虚構であるかも知れないという強い疑惑があり、それを裏づけるように、自分たちと大変良く似ているにもかかわらず根本の所でコミュニケート不能な異者(アンドロイド)の存在がある。そして、物語が進むにつれて小説世界自体も変容してくる。  こういった要素は、しかし先に述べた�重SF�から離れるものではない。重SFの中でも、SF的世界観そのものがテーマとなっている、という作品群に属するものであり、その意味ではやはりSFらしいSF、重SFなのである。とくにSF的[#「SF的」に傍点]世界観などと呼ぶのは、一般の不条理文学と違って、その不条理性の来たるところを、SF的論理でもって裏づけてゆこうとするからである。このことはとりわけ神林長平において明確であり、たとえば言葉というものへの対し方を見ても、作家的直観によってそれを云々するのみならず、いったん抽象的なレベルへもち上げて、たとえば情報科学的な議論を加えてから、SF的な一種の言語理論をつくり上げるといったところが見られるのだ。もっとも小説自体は、必ずしもその理論の応用問題となっているわけではないが。ディックの場合、この理論構築が最終的にヴァリス的な神学となっていったといえるだろうが、神林長平の場合は、今のところわりあい科学的な範囲に留まっており、よりSF的だといっていいかも知れない。いいかえれば、小説世界に不条理感覚をもちこむ源となる現実認識のレベルで、神林長平は、いわば理科系の発想をしているのだ。 [#ここから2字下げ] ——現実というのはひとつだけじゃなく、ぼくの見た現実は人と違うかもしれない、そういうのを書いていきたいと思いますね。動物にも心はあるし、機械にも意識があると。現実はひとつだけだとは思う。それがブラックボックスの中に入っていく過程でアウトプットがそれぞれ違ってくる。たまたま人間は言葉を介してコミュニケーションできるし、ある程度感情移入ができるから、現実をひとつの統一した世界で見られるわけで、そういうコミュニケーションのない世界では、現実はひとつだけの世界じゃないと思う。 [#ここで字下げ終わり]  S・Fマガジン八二年九月号のインタビューで、神林長平はこう述べている。ここに見られるのは、人間の認識をブラックボックスとしてとらえ、外界とのインターフェースを考える情報科学的、あるいは脳生理学的アプローチからの認識論である。こういう理工的アプローチのおそろしい点は、文学的アプローチと違って認識主体といったややこしいものはひとまずブラックボックスに入れ、その入出力に注目して考えることから、個人の認識論にとどまらず、日常的な世界への応用さえ可能となるところにある。すなわち、現実はひとつだけじゃないというような非日常的な認識が、大衆化され得るのだ。フレデリック・ポールの『マン・プラス』では、自分の目に見え、手に触れ、耳に聞こえる現実が、本当の現実ではないというような認識が、きわめてあっけらかんと、何の異和感もない日常的なレベルで扱われている。それは、主人公である火星用サイボーグが機械と結合されていて、外界からの入力はいったんそこで編集されるからだが、それが読者に受け入れられるのは、コミュニケーション・メディアに編集された情報によってしか世界を知るすべがない、われわれの現に今おかれている状況を、それが反映しているからである。  本書に見られる、言葉によるコミュニケーションへの不信は、そこからほんの一歩のところにあるといっていいだろう。世界は自分と真のコミュニケーションが可能な�仲間�と、それが不可能な�他者(アンドロイド)�とに分けられる。本書では、感応力のある�子供�と、言葉しかもたない�大人�がそれに当たるが、これは世代間の断絶というひと昔前にはやったテーマを思い起こさせる。内向の七〇年代に生きざるを得なかった同世代の読者には、おそらくSFという枠を離れても共感するところが多いだろう。同じ言葉を話す親密な小サークル。その中だけで通用するうちわ[#「うちわ」に傍点]言葉と特殊な概念。これを自閉的と非難することは許されない。なぜなら、感応力のない大人には理解できない、もうひとつの現実があるのだから。  神林長平は前述のインタビューで、本書について「凄くネクラな話でして」と語っているが、なるほど確かに、大人になることの恐怖、老いることの恐怖、さらに同世代間でもコミュニケートできない、あるいは自分自身が本当には理解できないことの不安が描かれており、暗い話であることは間違いない。しかしながら、この暗さは絶望的な出口のない暗さではなく、未知への不安からくるものであって、自己保存的な居心地の良い暗さだともいえるのである。もう一ついえるのは、言葉への不信、言葉によらないコミュニケーションを、結局は言葉によってしか表現できないという矛盾である。もし読者にも感応力があるなら、また違った世界が見えてくるだろうに。  神林長平は、しかし読者にこの感応力を与えることに、ある程度成功を収めている。なぜなら、�大人はわかってくれない�という叫びは、われわれの多くにとって共感し得るものであり、主人公たちの暗い情念も理解できないものではないからである。実際、感応者たちの危険な遊戯の描写などには、思春期の不安定な心理が投影されており、ぞっとするほど魅力的だ。  また本書には、コミュニケーションの問題の他にも、�大人�と�子供�の違いは何なのかという、SF的なテーマが見られる。それは完全には解明されないが、提出されたアイデアは大変にユニークなものだといえる。  そして——七人の胴を重ねて切り落とすという妖剣�七胴落とし�の冷たい刀身は、べたべたしたコミュニケーションを断ち切り、不安なもやもやを切り捨て、母なる大地にしばりつけられた悩める風船のひもを切り放すのだ。ふわりと空に浮かんだ風船は、いったいどこへ行くのだろうか。 [#改ページ] 底本 ハヤカワ文庫  七胴落《しちどうお》とし  一九八三年二月二十八日 発行  一九九五年五月三十一日 五刷  著者——神林《かんばやし》長平《ちょうへい》