[#表紙(表紙.jpg)] 密室事情 神崎京介 目 次  プロローグ  第一章 熱いふたり  第二章 君といつまでも  第三章 夫婦と家族  第四章 ふたりとひとり  第五章 殺意の部屋  エピローグ [#改ページ]   プロローグ  悲鳴を聞いた者はいなかった。  殺人は計画どおり、宿泊客やホテルの従業員に気づかれることもなく、実行に移されたということだ。  雷鳴がとどろいた。  稲光が部屋を、青白く染める。  雨が窓ガラスを打ちつける。  伊豆の先端に位置する下田から見える小さな島。オーナー夫婦とふたりの娘で切り盛りしている小さなホテル。定員二〇名。フランスのプチホテルのような洒落《しやれ》た雰囲気。そこで事件は起きた。  フロントの脇にある広めのプレイルームの奥に据えられたビリヤード台と壁との間にうつ伏せの状態で男性が倒れていた。  このホテルのオーナーだった。  鋭利な刃物で首筋の動脈を切られていた。失血死だろうか。おびただしい出血だった。  他殺だ。現職の刑事であるわたしにはすぐにわかった。  第一発見者は自分だ。  言うまでもないが、わたしは犯人ではない。休暇でやってきて偶然出くわしたのだ。被害者を発見した時にはまだ、出血はつづいていた。その情況から推して、犯行が行われたのはわたしがプレイルームに入った午後一〇時ちょっと前だ。  刑事として自分がすべきことはすべてやった。所轄の警察に連絡したし、警察が到着するまで現場をそのままにしておくために、プレイルームのドアに鍵《かぎ》をかけさせた。  季節外れの低気圧のために、海は時化《しけ》ている。雨と風だ。警察は来られないだろう。  初動捜査がいかに重要か、わたしは知っている。だからこそ、警察が到着するまでの間、オーナー夫人とその娘、そして宿泊客に訊《き》いて回った。が、やるべきことはまだたっぷりと残っていたということだ。  宿泊客は四組だ。  自分を除けばいずれもカップルで、二〇代半ばの男女もいれば、いかにも曰《いわ》くがありそうなふたり連れもいる。  オーナー夫人によれば、夜九時にはホテルのすべての出入口に鍵をかけたという。犯行時間が午後一〇時ちょっと前だとすると、このホテル全体が密室ということになる。  それがいったい,何を意味するか。  このホテルにいる宿泊客四組、そしてオーナー夫人と娘のいずれかが犯人だということだ。この嵐の中、散歩に出かける者はいないかもしれないが、それでも念のために、わたしは刑事という立場から、全員に外出禁止を命じた。 [#改ページ]   第一章 熱いふたり     1  部屋を出ていった刑事の足音が聞こえなくなるまで、岩田修治《いわたしゆうじ》はドアの前で耳を澄まして立っていた。  刑事は隣の部屋のドアのノックをはじめた。自分たちに言ったように、彼は隣の宿泊客にも「外出をしないでください。この嵐ですから、そんなことはしないでしょうけどね」と命じるつもりなのだろう。その後、階段を下りる音がかすかに聞こえてきたところで岩田は、ベッドルームに戻った。 「わたし、怖いわ」  掛け布団を目元までかぶっていた平井由子《ひらいゆうこ》がくぐもった声を洩《も》らした。瞳《ひとみ》を覆っている潤みに微《かす》かにさざ波が立っていた。ドアをノックされる前まで、たっぷりと時間をかけて愛撫《あいぶ》をつづけていた名残だ。  岩田はバスローブを脱いで裸になると、掛け布団の下に潜り込んだ。 「ぼくらには関係ないことだよ」  ベッドサイドの明かりを落としながら、由子の耳元で囁《ささや》いた。  長い髪がわずかに乱れ、由子のすっと通った美しい鼻にかかっていた。それを指先でやさしく梳《す》き上げてやると、耳たぶを舌先で軽く舐《な》めた。  右手を伸ばし、彼女の左側の乳房にあてがった。硬く尖《とが》っていた乳首は、刑事とやりとりしていたほんのわずかな間にすっかり萎《な》えていた。乳輪の迫《せ》り上がりも低くなっていて、張りも緩んでいた。  乳首の先端を指の腹で撫《な》でる。乳輪の凹凸がつけ根からよじれる。二五歳の肌の張りは顔だけではない。仰向《あおむ》けになっているが乳房は美しい形を崩していないし、脇腹のほうにもほとんど流れていない。  由子の頬が赤みを帯びてくる。息遣いが荒くなる。瞳を覆う潤みも厚くなってきた。目尻《めじり》に滴となって溜《た》まりはじめた潤みが、オレンジ色の明かりに染まっている。細かい皺《しわ》に淫靡《いんび》な翳《かげ》が宿り、整った美しい顔に妖《あや》しい艶《つや》が漂いはじめる。  半開きにしているくちびるを舌先で拭《ぬぐ》うと、細い声を洩らした。 「犯人がまだこのホテルにいるかもしれないでしょ。わたし、眠れそうにないわ」 「いるわけないさ」 「そうよね」 「たとえ犯人がいたとしても、このホテルには刑事がいるんだ。部屋に鍵をかけていれば安心のはずだ。そのうちに警察もやってくるよ。天気予報によると、明日は朝から晴れだそうだからね」 「修治さん、ずっとそばにいてね」 「もちろん、そうするよ。そのために、東京からやってきたんだからね」 「今、何時かしら」 「一二時ちょっと前だよ。眠くなっちゃったのかい」 「ふふっ、まさか」  由子が半開きの口元に笑みを湛《たた》えながら、左手をあげ、首に巻きつけてきた。同時にふっくらとした枕から後頭部をあげて、くちびるを寄せてきた。  舌を絡める。いつになくせわしげだ。無我夢中といった雰囲気さえ感じられる。互いに舌先を尖らせ、突っつきあう。唾液《だえき》を流し込むと、由子もお返しをするように同じことをしてくる。唾液が口いっぱいに溜まる。意識的に喉《のど》を鳴らして呑《の》み込んでみる。今までならば、そうした濁った音は妖しく響いたはずなのに、どうしたことか、寒々とした気持にさせられてしまう。  岩田は乳房にあてがっているてのひらを動かした。腋《わき》の下から胸の中央に向かって円を描くように揉《も》んだ。それを繰り返しながら、くちびるを乳房がつくる谷間に向かわせた。  湿り気を帯びた谷底に舌を這《は》わせる。  滲《にじ》んでいる汗と唾液のおかげで舌先が気持よく滑っていく。頬が乳房の張りつめた嶺《みね》に当たる。顔を左右に振ると、頬と乳房の嶺がくっついては離れる。そのたびに、乳房全体が細かく揺れ、息遣いの荒さが増していく。 「ああっ、わたし、変な気持」 「どうして?」 「だって、怖いのに気持がいいの」 「心は怖がっているけど、躯《からだ》が快感に酔いはじめているということかな」 「そんな風に分析されると、どう応《こた》えていいのかわからなくなっちゃう……」 「何も言わなくても、いいよ。すべてわかっているから」 「そうなの? ねえ、そうなの?」  由子がうわずった掠《かす》れ声をあげた。  冷静な分析ができたわけではない。彼女よりも一〇歳も年上の男だという自覚のおかげだ。こんな時こそ、しっかりしなくちゃいけない、彼女を守ってあげられるのは自分しかいないんだから、と刑事が去った後の足音を聞きながら自らに言い聞かせた。  彼女の両足の間に、太ももを差し入れた。拒まれることはなかった。それどころか、両足を広げて迎え入れているようでもあった。岩田は太ももに力を込めて筋肉を硬くすると、膝《ひざ》の少し上のあたりを彼女の陰部にじわじわと押しつけていった。 「あん、だめ……」 「すごく溢れているじゃないか」 「いや、そんなこと言わないで、お願い」 「それじゃ、これで止めて、素直にふたりで寝てしまおうか」 「意地悪」 「どうして欲しいんだい」 「怖いこと、忘れさせて」 「どうやって?」 「修治さん、すごく意地悪」  由子がうっとりとした声を放った。豊かな乳房を誇るように上体をのけ反らせた。ベッドサイドの明かりに乳房が照らし出された。いつの間にか、萎えていた乳首が硬く尖り、乳輪の迫り上がりもはっきり見て取れた。     2  雨足が強まったようだ。  掛け布団の下から顔を出すと、窓ガラスを打つ雨音が大きくなっていた。岩田は額から噴き出す汗を拭いながら、由子に寄り添って仰向けになった。  けだるさが拡がった。ひと休みするつもりではなかったが、彼女の下腹にあてがっていたてのひらを離し、息を長く吐き出した。東京から慌ただしくやってきたせいで疲れが出たのかもしれない。 「ねえ、どうしたの」  由子が愛撫のつづきをねだるように甘く囁くと、肩口に顎《あご》をくっつけてきた。生々しい匂いとともに、湿り気の強いねっとりとした空気が布団の中から吐き出されてくる。岩田は腕を上げ、彼女に腕枕をした。 「ちょっと休憩だ」 「意地悪のつづきなのかしら。それとも意外なことが起きたせいで、その気がなくなっちゃったの?」 「その気は十分さ」 「それなら、ねっ、いいでしょ」 「喉が渇いたな」  腕枕している二の腕を軽く上下させて、冷蔵庫から水をもってくるように由子をうながした。掛け布団がめくられた。冷気が入り込み、瞬時に下腹から陰部にかけて気持いいくらいに火照《ほて》りが冷めていった。二の腕に張りついている彼女の長い髪が離れ、ベッドが微かに揺れた。  由子が裸のままベッドサイドに立った。  背中を向けているせいか、恥ずかしがる素振りは見せていない。  お尻のふたつの丘は張りつめている。日焼けしていないそこは、薄闇の中でも肌理《きめ》の細かさがはっきりと見て取れる。張り出した腰骨からくびれたウエストにかけての見事な曲線、華奢《きやしや》な肩にいたるまでの美しい稜線《りようせん》、背骨のあたりの凹《へこ》みに宿る翳……。彼女の肢体が織りなすラインと陰翳《いんえい》に陰茎が鋭く反応していく。  ふたつの丘がつくる浅い谷に目を遣《や》りながら、太もものあたりに視線を移した。数本の陰毛の茂みの先端のあたりが垣間見《かいまみ》えた。太ももの間から見えてしまうと考えていないからか、それとも、見られていないと安心しているからか、そこからはいやらしさや妖しさは感じられなかった。  由子がミニサイズのペットボトルを二本持って戻ってきた。ミネラルウォーターについては無料ということだった。肩をすぼめながらそそくさとベッドに潜り込んだ。背中を見せている時は視線を気にしていなかったのに、乳房の側を見せることになって急に、恥ずかしくなってしまったらしい。  乳房を隠すように肘《ひじ》を立てながらうつ伏せになった。 「冷蔵庫を開けている時にね、入口のドアの向こう側から何か物音が聞こえたの。わたし、怖くなっちゃった」 「気にすることないよ。きっと刑事さんが頑張って何か調べているんじゃないかな」 「そうかしらねえ……。どう見ても、あの刑事さん、一生懸命に仕事をする雰囲気ではなかったわよ」 「仕事ができない刑事だからこそ、頑張っているのかもしれないな」 「どうして?」 「今夜は嵐だし、警察を呼んでも来ないだろうって言ってたよね。彼にとっては、ここで見事に犯人検挙につながる仕事をすれば、今までの名誉|挽回《ばんかい》になるって考えるんじゃないかな」 「あっ、そういう考え方もあるわね」 「あの刑事が実は犯人だったら面白いな」 「いやあね、面白いだなんて。こんな夜遅くまで頑張っている人に悪いわ」  由子が笑みを湛《たた》えながら、ペットボトルに口をつけた。くちびるの端からわずかに水がこぼれた。透明な水がオレンジ色の明かりを映し込みながら、一条の帯となって顎から首筋に向かって落ちていった。鮮血が流れ出したような気がして、岩田は腹の底がブルブルッと震えるのを感じた。 「それにしても、このホテルのオーナー、そんなに悪い人には見えなかったのになあ。愛想がよかったじゃないか。チェックインの時に応対してくれたオーナーの顔って、すごく人なつっこそうだったのにな」 「わざわざ恨まれようと思っている人なんていないでしょ? 自分で気づかないうちに恨まれてしまうのよ」 「経験があるような口ぶりだね」 「女の子同士って、そういうところがあるから……。わたし、女子ばっかりの中学から高校にいって、おまけに大学まで女の子だけだったの。ねたみとか嫉妬《しつと》というのが、ほんのささいなことをきっかけにして起きるものだってことくらい、わかるわ」 「怖そうだな、女の園での嫉妬とかねたみっていうのは」 「そうよ……」  由子がうつむいた。岩田は胸の奥にチクリと痛みが走るのを感じた。話の展開がまずいところに向かっているようだと思ったのだ。  こんな風に一泊旅行に出かけた時だけでなくて、たとえば、一緒に食事したり、映画を観たりするだけでも、妻に対して悪いことをしているといったことを由子は洩《も》らしていたからだ。そうして必ず、わたしの存在を知られたらきっと、恨まれちゃうだろうなと言ってはせつなそうに笑みを浮かべた。 「わたし、ちょっと心配」  枕に顔を埋《うず》めながら由子がくぐもった声を洩らした。 「何が?」 「明日も嵐がつづいて船が欠航したら、修治さん、帰れなくなっちゃうでしょ」 「明日は快晴だって、天気予報で確かめたじゃないか」 「それだけじゃないの。事件に巻き込まれたわけではないけど、外出を禁止されたりしているでしょ。船が定刻どおりに出航するとしても、あの刑事さんがそれを許さない可能性だってあるわけだし……」 「彼にそんな権限はないと思うよ」 「明日は朝一番の便で東京に戻りましょ。わたし、あなたを早く帰してあげたくなってきちゃったの」  由子が枕から顔をあげた。ミネラルウォーターを口にふくんで二度、三度と喉を鳴らした。それから口に蓄えたまま、胸板に顔を寄せてきた。  小さな乳首に、由子がくちびるをつけた。冷たい水の感触が拡がる。口の中で水が動いているのを感じる。女性の乳首の勃起《ぼつき》と同じように、小さいながらも少しずつ硬くなっていく。さすがに乳輪が迫《せ》り上がることはないが、胸の奥から火照りが生まれ、それが陰茎のつけ根に向かう。  舌先もまたひんやりとしていた。  尖《とが》らせた舌で、小さな乳首を転がす。乳輪の外周をなぞる。そのふたつの愛撫《あいぶ》を繰り返した後、乳輪全体を覆って吸い、そのままの状態で乳首を弾《はじ》く。  陰茎に細い指が伸びてくる。  下腹に沿って屹立《きつりつ》しているそれの幹を握りしめる。強く握っては緩める。皮をつけ根に向けて引き下ろす。先端の裏側で際立っている敏感な筋を指の腹で撫でる。 「すごく気持がいいよ」 「わたし、修治さんのうっとりとした顔、好き。真剣に仕事をしている時の表情とまったく違うでしょ。そのギャップに、わたし、痺《しび》れちゃうの」 「ぼくの気持のいいところを、由子がよくわかっているからだよ」 「自然とわかったの。きっと相性がいいんだと思うわ」  由子の頬の赤みが濃くなっていた。部屋の明かりのせいでそんな風に映っているのではない。陰茎を握ったまま、空いているほうの手を伸ばしてペットボトルを掴《つか》むとまた、口をつけた。  陰茎が垂直に立てられた。  薙《な》ぎ倒されていた陰毛の茂みが、ほんのわずかだがざわめくように揺れた。幹に浮き上がるように節や血管が見える。張り出した笠《かさ》と幹とを隔てる溝が赤黒くなる。先端の細い切れ込みから透明な粘液が滲《にじ》み出て、ギラリと鈍い輝きを放つ。  先端の笠にくちびるがつけられた。薄い上くちびるがめくれ、分厚くなった。  ひんやりとした。  彼女の口の中にはまだ、冷たいミネラルウォーターがたくさん残っている。そう考えた瞬間、陰茎が大きく跳ねて、先端の笠が彼女の口から外れた。 「だめよ、あん、だめ」 「勝手に動いちゃったんだ。気持が良すぎるんだよ」 「うれしい……」  由子が呻《うめ》くように濁った声を放った。幹を握り直して垂直に立てると、深く息を吸い込み、つけ根までふくんだ。  陰茎全体がひんやりとする。もちろん冷え切ってしまうことはない。幹の芯から火照《ほて》りが表面に出てきて、冷えた皮を温めるのだ。 「由子、素敵だよ」  彼女の前髪を梳《す》き上げてやりながら、岩田はやさしく声をかけた。思いがけない刺激と快感だった。妻にこんなことをしてもらったことはないし、奔放な由子にも初めてやってもらうことだった。     3  由子にはこれまでにも何度も思いがけない快感を与えてもらった。  快感の記憶は躯《からだ》に刻まれているだけでなく、自分の欲望のひとつとなっていた。それが彼女への執着となっていたし、別れられない理由でもあった。  彼女に内緒にしていることがある。  実はこの旅行を、彼女との最後の逢《あ》い引きにするつもりでいたのだ。  理由は簡単だ。妻が気づきはじめているようだったからだ。わたしが気づかないように帰ってきてくださいね、と由子とラブホテルで交わって深夜一時過ぎに帰宅した時、眠そうな気配などいっさい見せずに無表情のまま言われたのが最初だった。その後も何度かそう言われたことがあった。  家庭生活を壊して由子と一緒になろうというつもりはなかった。妻の我慢も限界まできているだろうとも感じていた。だからこそ潮時だと思い、踏ん切りをつけるために無理を押して旅行を計画したのだ。でも、由子が社内の子でなければ秘密の関係をつづけようと考えたかもしれないし、上司の紹介で妻と出会わなかったとしたら別れを意識しなかったかもしれない。  陰茎の芯がカッと熱くなった。  深々とくわえ込んだところで、由子がつけ根をきつく締めつけてきたのだ。ひんやりしていた舌先がすぐに温かくなった。鼻息が陰毛の茂みに吹きかかった。わずかにそよぎながら、生々しい香りが拡がった。  絶頂の兆しが強まる。このまま由子の口の中で昇っていきたい。それを呑《の》み込ませることで、彼女の心が今も自分に向けられていると確かめたい。別れを決意して旅行にやってきたはずなのに、それとはまったく逆の想いが、一瞬にして岩田の胸の裡《うち》に満ちた。もちろん、この機会を逃すと、由子と本当に別れられなくなってしまいそうだという怖れにも似た気持も抱いていた。 「ねえ、どうしてわたしと旅行をする気になったの?」  陰茎から口を離すと、由子が顔をあげた。長い髪が頬に張りついていた。表情は穏やかで、妖《あや》しさも溢《あふ》れていた。別れるためのきっかけにしたいという思惑が隠されているなどとは考えてもいない風だった。 「いつだったか、一緒に旅行にいきたいってねだったじゃないか」 「そうね、そう言ったわね。ふたりのことを誰も知らない土地で、思いっきり、恋人同士になりたいって思っていたから……」 「デートしていても、誰かに見られているんじゃないかって、ぼくもなんとなく落ち着かなかったから、由子の気持がよくわかったんだよ」 「ほかには理由はないの?」 「どういうことだい」 「わたし、不吉な予感がしたの。別れたいと思っているんじゃないかとか、奥様に気づかれてしまったのかもしれないって」 「妙なことを言うんだね」 「今日は接待ゴルフだったはずでしょ? それをキャンセルしてくれたことを、わたし、営業部の親しい女の子から教えてもらって知っていたんです。仕事優先のあなたが、そんなことまでしたなんて、何かほかに理由があるんだろうと想像して当然です」 「そうだね」  岩田は短く応《こた》えた。別れ話をするつもりでいたが、彼女のほうから切り出してくれるとは思ってもみなかった。  しかし、まだ早い。  朝まで別れ話を延々とするのも辛《つら》い。絶頂に昇った後に切り出したかった。ひと寝入りした後、性欲も眠気もすっかり失《う》せたところで切り出そうという予定だったからだ。 「心配性だねえ、由子は」  はぐらかすように朗らかな声をあげると、岩田はゆっくりと手を伸ばして彼女の頭を押さえ込んだ。途中で止めていた陰茎をくわえて欲しいと無言で伝えたのだ。それを察した彼女が、ふうっとため息をつき、長い髪を耳にひっかけると、顔を伏せた。 「いつもより、元気みたい」 「旅行に出かけると、気分が変わるからかな。いや、そうじゃないな。由子がいつもよりずっと奔放だからだよ」 「恥ずかしいわ、わたし」 「奔放なところも、恥ずかしがるところも、とっても魅力的だ」 「ほんと?」 「今さら、嘘をつく必要はないだろ」  陰茎をくわえ込んだまま、由子が上目遣いで視線を送ってきた。黒目の下側がはっきりと浮き上がり、充血している白目まで見えた。瞳《ひとみ》を覆う潤みの厚みが増している。さざ波が何度も起こり、そのたびに、妖艶《ようえん》さが深まっていく。  舌先で笠の裏側の敏感な筋を弾《はじ》く。それを何度か繰り返した後、先端の小さな切れ込みに沿って舌を上下させる。いったんくちびるを離すと、笠と幹を隔てる溝に沿ってくちびるをあてがい、強く吸い込む。そうしながら幹を包む皮をつけ根に向けて引き下ろしたり上げたりする。 「我慢できなくなりそうだ」 「いいの、いって」 「そんなことできないよ」 「どうして、いきたいんでしょ?」 「由子にも満足して欲しいからだよ。自分ひとりだけ昇っていってもつまらない。それに一度昇ったら、明日の朝まではできないかもしれないからね」 「いいの、それでも。旅行に連れてきてもらっただけで、わたしは十分、素敵なプレゼントをもらったと思っているから」  岩田は腹の底がブルブルッと震えるのを感じた。彼女の深い情愛のようなものを感じ取ったからだ。うれしかったが、同時に、恐怖も感じた。彼女の言うとおりにしてしまったら、この後、のっぴきならない情況になりそうな気がした。そんな風に思わせるだけの迫力が伝わってきたし、普段のあっさりとした雰囲気はなかった。  てのひらを上下させて陰茎をしごくのと同じように、由子が頭全体を使って、幹をしごきはじめた。  是が非でも、口で受け止めたいといった強い意思のようなものが伝わってきた。ムキになっている気配さえあった。太ももの内側を撫《な》でたり、つけ根と太ももの境目を指先で掃くように這《は》わせた。  頭の芯《しん》が痺《しび》れはじめた。  陰茎全体がヒリヒリしてきた。  ふうっと岩田は胸の裡でため息をつきながら、どうして彼女がこんなにも口で絶頂を迎えることを願っているのだろうと訝《いぶか》しく思った。今までならば、陰茎への愛撫は、ふたりの交わりにつなげるための前戯という域を出たことがなかったからだ。  岩田は彼女の頭を軽く二、三度押した。  足の間に入って坐《すわ》り込んでいた由子が顔をあげた。  前髪が垂れ下がり、表情は読みとれなかったが、躯の向きを変えて欲しいんだ、どれだけ由子が高ぶっているか知りたいんだよ、うるみがきっとすごく溢れているんじゃないかい、指先で確かめられるところまで躯の位置を変えてくれないかな、と岩田はうわずった声を意識的につくりながら囁《ささや》いた。  由子は素直に従った。  陰茎をくわえ込んだまま、右の脇腹に膝《ひざ》をくっつけるようにして坐り直した。岩田は指先を彼女のお尻《しり》に回した。正座を崩した坐り方をしてくれたおかげで、割れ目に容易に辿《たど》り着くことができた。  そこはうるみが溢れていた。 「ねえ、すごいでしょ」 「自分でもわかるんだね。くわえているだけで、こんなに興奮するんだ」 「そうなの、わたしって、そんな女だったの。でもね、あなたのことが好きだから、とっても好きだから、こうなるの」 「わかっているよ」 「ああっ、うれしい……」  幹を締めつけていたくちびるが緩んだ。唾液《だえき》がこぼれ落ち、幹をつたって流れた。それはつけ根だけでなく、太ももとの境目までも濡《ぬ》らした。 「いって、ねえ、いって」  由子がうわずった声をあげた。  その時だ。  彼女の声がだぶって聞こえた。  部屋に反響しているのかと思った。  岩田は訝しく思って、高ぶっていながらも耳を澄ました。  由子の荒い息遣いに混じって、確かに女性の声が耳に入った。  隣の部屋からだった。  絶頂を迎えている時の嬌声《きようせい》かと思ったが、そうではなかった。  相手の男をなじる怒鳴り声だった。     4  屈《かが》み込んでいた由子が顔をあげた。  息を詰めたまま乳房を揺らしながら勢いよく上体を起こした。浮かし気味にしていたお尻をベッドに落とした。  割れ目のあたりが窮屈になる。彼女のお尻に、てのひらから手首まで押し潰《つぶ》され、無理に曲げられる。  岩田は仕方なく、うるみにまみれている指先を離した。張りつめているお尻がブルブルッと震えた後、キュッと引き締まった。 「何、今の音は」  くちびるを半開きにしたまま呆然《ぼうぜん》としていたが、由子の表情に不安げな色合いがジワジワと滲み出てきた。先程まで妖艶さを醸し出す効果を放っていたベッドサイドのわずかな明かりが、彼女の不安や怯《おび》えを掻《か》き立てる薄闇をつくっているように思えてきた。 「隣の部屋からだよ」 「ほんと? 獣の遠吠《とおぼ》えのようだったわ」 「女性が怒鳴っていたみたいだ」 「こんな夜中に喧嘩《けんか》しているのかしら」 「どうかな、それは。怒鳴っていると言ったけど、雨音が大きいから、ぼくが聞き違えたのかもしれないな」 「ほんと? わたしを怖がらせないように、嘘ついているんじゃないかしら」 「どっちにしても、ぼくたちには関係ないよ」 「もし怒鳴っているとしたら、かわいそうね」 「どうして?」 「リゾートホテルまでやってきて、夜中に怒鳴り合うなんてことは、考えなかったはずでしょ。隣の女性だって、わたしと同じように旅行を愉《たの》しみにしていたはずだもの」  彼女の瞳に怯えのようなものが浮かび上がった。それが高ぶりによる潤みのさざ波に見え隠れした。 「危うい関係だったのかな」 「わたしたちみたいに、不倫とか?」 「離婚寸前の冷めた結婚生活を送っているふたりかもしれないし、もともと別れ話をするために、このホテルにやってきたのかもしれないしね。殺人事件の犯人が隣の男性で、それに気づいた連れの女性が驚いて怒鳴ったのかもしれない」 「いろいろと考えられるわけね」 「だけど危うい関係と考えるのが、いちばん自然かもしれないな。何かの弾みで壊れる方向に向かったんだ。微妙な均衡で成り立っている関係だとしたら、いったん壊れはじめると、当人たちの意思とは関係なく壊れていくだろうしね」  岩田はそこまで言ったところで黙った。調子に乗って、言わなくてもいいことを言ってしまったと気づいた。  危うい関係とは自分たちのことでもある。由子もそのことに気づいたらしく、惚《ほう》けたような表情がいきなり険しいものに変わった。眉間《みけん》に縦皺《たてじわ》が浮かび、半開きのくちびるがきつく閉じられた。両腕で乳房を隠すようにすると、顔を伏せた。 「ねえ、岩田さん」  由子が低い声で呟《つぶや》くように言った。  長い髪が乱れたまま垂れているのに整えようとしない。荒い息遣いがいつの間にか消えている。部屋には雨音だけが響き、静けさが際立つ。  岩田は応《こた》えなかった。その代わりに、短く咳払《せきばら》いをすると、腰をゆっくりと突き上げ、ゆっくり落とした。ベッドが微かに揺れ、それが二五歳のみずみずしい肢体にも伝わった。  陰茎をくわえて欲しいとうながしたつもりだったが、彼女は気づかないようだった。けれども高ぶりがおさまってしまったわけでもなさそうだった。  乳房を染めている鮮やかな朱色は変わっていなかった。いや、それどころか、滲《にじ》んだ汗がオレンジ色の明かりを反射していて、艶《なま》めかしさが増していた。乳輪の迫《せ》り上がりも変わっていないし、硬く尖《とが》った乳首が萎《しぼ》んでしまうこともなかった。 「ねえ、岩田さん」  由子が先程と同じ言葉を囁くと、肌が触れ合わないように意識的に距離をとって横になった。彼女が高ぶっている時に漂ってくる甘さの濃い生々しい匂いに包まれた。 「もっと近くにおいでよ」 「いやっ」 「どうして」 「だって、なんだかとってもいやな気持になってきたから……」 「このまま寝ちゃったほうがいいかな」 「そうね」  戸惑いがちに由子が応えた。小さくため息をつくと、掛け布団を首筋までひきあげた。瞼《まぶた》を開いたまま表情を変えずに、うっすらと見える天井を見つめていた。  いやな気持になっている理由について訊《き》くべきかと思ったが、岩田は無視した。そんなことをしてしまうと、ふたりの不倫関係のことにいきなり話が展開しそうな悪い予感がしたからだ。 「怒鳴り声はあれきり、聞こえないね。ちょっとした痴話喧嘩しただけだよ、きっと」 「そうだといいわね」 「今度聞こえてくるのは、女性の別の呻《うめ》き声かもしれないよ」 「わたしたちもいつか、怒鳴り合ったりすることになるのかしら」  由子がぼそりと呟いた。  岩田は息を呑んだ。このままいっきに、別れ話になだれ込むには絶好の機会だという思いと、凶悪な事件が起きた晩だということで彼女も興奮しているから、とりあえずは、様子を見るべきだという気持が交錯した。  岩田はてのひらを伸ばし、彼女の腕の下で隠されている乳房に指を這《は》わせた。 「隣のことは気にしないで、ほら、こっちにおいでよ」 「そうね、わたしたちは別よね。とってもうまくいっている関係よね」 「もちろん、そうさ」 「よかった……」  由子の表情がようやく和らいだ。  心の底からホッとしたというより、凍りつきそうになっていた雰囲気を変えるためだけに無理矢理つくった表情のようだった。彼女の配慮なのか、性欲がそうさせているのかわからなかったが、岩田は彼女がつくったこの雰囲気に乗った。  こんな時、女性の気持をはかろうと思ってキスをするのはよくない。ためらいがまだ強いからだ。顔をそむけて、キスを拒むかもしれない。そのうちに、ほぐれかけている気持がまた逆戻りになることだって十分に考えられる。  岩田は乳房から指先を離すと、今度はそこに鼻先をねじ込んだ。  おずおずと腕が解かれた。  乳房の稜線に沿ってくちびるを滑らせた。乳輪の迫り上がりも低くなっていないし、乳首の幹も硬さを保っている。  乳房の下辺から腋《わき》の下に舌を這わす。肩口に回り込み、首筋に向かう。そうしながら、陰毛の茂みに指をあてがい、拒みそうかどうか彼女の気配を読みながら、割れ目の端にある敏感な芽を探る。  拒む様子は感じられない。  隣の部屋から聞こえた怒鳴り声の恐怖が薄らいだのかもしれない。躯《からだ》の奥底に沈めていた欲望に火がついたのか、ふたりだけになって愉しもうというこの一泊旅行の当初の目的を思い出したのかもしれない。  乳房をあらわにするように、由子が上体をのけ反らした。割れ目に指を導こうとするかのように、太ももを開いた。瞼《まぶた》を閉じ、口を半開きにして、くちびるの周りを自ら舐《な》めはじめた。  割れ目の端に辿《たど》り着くと、敏感な芽はすぐに見つかった。  突出しているそれを撫《な》でる。指の腹がうるみで濡れる。芽の先端を軽く押し込むと、由子が荒い息をはじめた。部屋に響いている雨音が少しずつ消されていく。 「あん、だめ」 「すごく濡《ぬ》れているよ」 「大きな声で言っちゃだめ。隣の人たちに聞こえちゃうわ」 「仲良くしたほうが愉しいってことを、隣のカップルに教えてあげてもいいじゃないか。ホテルというのは、こういう使い方が正しいってこともわかって欲しいしね」 「ふふっ、それがいいかもしれないわね」  妖《あや》しい含み笑いが由子の半開きのくちびるから洩《も》れた。  ためらいが吹っ切れたようだった。  表情が和らいだ。  太ももの開きが広くなり、息遣いの荒さも増した。全身に快感が拡がっているかのように、下腹が時折、プルプルッと震えた。  萎《な》えかけていた陰茎の芯《しん》が硬くなる。笠《かさ》が張り出し、裏側の筋が際立つ。それを彼女の太ももになすりつけ、 「由子が欲しいんだ」  と囁《ささや》いた。もちろん、別れ話のことを忘れたわけではなかった。自分の本心がどこにあるのかわからなくなりそうな気がして、頭の芯が痺《しび》れた。 「わたしも、あなたが欲しかったの。今夜だけはあなたを独占できるのね」 「ふたりきりだからね」 「ああっ、うれしい」  由子が細い呻き声を放つと、陰茎に指を伸ばしてきた。幹を包む皮をしごきはじめた。そうしながら、敏感な芽への愛撫《あいぶ》を求めるように腰を突き上げてきた。うるみが溢《あふ》れ、粘っこい音があがりだした。     5  携帯電話が震えている……。  硬く尖った敏感な芽を舐めながら、岩田はうっすらとそう思った。耳を澄ましてみたものの、そんなことはないと考え直した。  携帯電話はクローゼットの中に吊《つる》したジャケットの内ポケットに入れてある。振動音など聞こえるはずがなかった。  由子が足をさらに開いた。それにつられるように、陰毛の茂みの面積も左右に広がった。割れ目の厚い肉襞《にくひだ》からうるみが流れだしている。それがまるで、振動音に連動した流れに思えてならなかった。めくれ返っている肉襞がうねり、甘さの濃い生々しい匂いが鼻腔《びこう》に入り込んだ。  風が強まっている。窓を叩《たた》きつける雨音が部屋に大きく響くたびに、ベッドサイドの明かりが揺れるような気さえする。  振動音が止まった……。  聞き違いかと思ったが、どうやらそうではなさそうだ。間断なくつづいているそれが途切れたことに気づいたことで、確かに響いていたのだと納得した。  いったいこんな時間に誰なのか。  午前零時を過ぎている。  岩田は訝《いぶか》しく思いながらも、由子の敏感な芽を弾《はじ》いたり、舐めたり、うるみをすくい取ったりして愛撫をつづけた。  妻からだろうか。  ほかに思い当たるフシはない。緊急を要する仕事などないし、要職に就いているわけでもない。知らず知らずのうちに、舌の動きがぎこちなくなる。割れ目を目の前にしているというのに、気もそぞろになる。 「ねえ、どうしたの、かしら」  仰向《あおむ》けになっている由子が首を折るようにして視線を送ってきた。  潤みに覆われた瞳が艶《つや》やかに輝いている。上気しているのが見て取れる。潤みが目尻《めじり》に溜《た》まっていて、そこの輝きがひときわ深く濃くなっている。 「ごめん……」  岩田は短く言うと、彼女に気づかれないように深く息を吐き出した。それが彼女の陰毛の茂みに吹きかかり、かすかにそよいだ。  今朝、見送ってくれた時の妻がどんな表情をしていたのか思い出そうとしてみた。まだ陽が射していない時間だった。パジャマにカーディガンを羽織って腕組みをしていた。眠そうな目をしていたが、接待ゴルフに出かけるということに疑いを抱いている気配はまったくなかった。  妻でなかったら、いったい誰だろうか。  ワン切りといった類《たぐい》の迷惑電話かもしれないと思った。が、これまでそういった迷惑電話で何回もコールがつづいたことがなかったから、その可能性は低い。  やはり妻か……。  でも、今朝の表情から推して、不倫相手と旅行に出かけるなどと疑ってはいないはずだ。  緊急の用事かもしれない。  胸の底のあたりがざわつきはじめた。親族に不幸でもあったのか。だがそれなら、実家から連絡が入ってもよさそうだ。一度きりの電話でお終《しま》いだとしたら、不幸があったとも思えない。  由子が愛撫を求めているのを知らせるように腰をわずかに上げて落とした。  割れ目から滲《にじ》み出ているうるみがオレンジ色の明かりに染まる。外側の厚い肉襞がお尻のほうから敏感な芽に向かってうねる。めくれた肉襞の内側に、薄い肉襞が立ち上がっていて、それがヒクヒクと波打つ。 「やっぱり気になるのね」 「何が?」 「だって気もそぞろって感じでしょ。それとも手抜き?」 「まさか」 「なんかイヤな感じ」  口元に笑みを湛《たた》えながら声を投げてきた。冗談めかしているが、細い声が震えている。瞳が不満げな色合いを帯びる。 「手抜きをしているわけでもなければ、何かに気を取られているということもないよ。とんでもない事件があったからかな」 「そうね……。無理しないでいいのよ。誰だって怖いわ、殺人事件なんだから。隣のカップルだってきっと、事件があったせいで興奮して、怒鳴り合っていたのかもしれないわ」 「異常事態に遭遇した時、その人の根性や心の器っていうものがはっきりと見えるのかもしれないな」 「岩田さんはすごく立派だわ。わたし惚《ほ》れ直しちゃったかもしれないな」 「立派って、どうして?」 「刑事さんに、まるで犯人かのように言われてもカッとしなかったから。わたし、頭にきちゃったのよ」 「仕方ないさ。彼にとってはたぶん、この凶行は、千載一遇のチャンスなんだよ」 「そうね、岩田さんの言うとおりだわ。手柄を立てたいのね。見るからに、うだつがあがらないタイプだから、いろいろな人に馬鹿にされているんだわ。それで頑張っちゃっているのね」 「そうさ、きっと。だから詰問口調になっているんだよ」 「犯人、見つかるかしら」 「そんなことは彼に任せようよ。高ぶっている気持が薄らいじゃうからね」 「ふふっ、そうね」  由子の顔にまたしても淫靡《いんび》な表情が滲み出てきた。  閉じ気味にしていた太ももが開きはじめた。  肉襞がうねる。大きく息を吐き出す。仰向けになっていても形の崩れない乳房が上下する。乳首がプルプルと震える。それに連動するように、割れ目の外と内の肉襞が波打つ。陰毛の茂みの横幅がわずかではあるが、広がったり狭まったりを繰り返す。  風雨がさらに強まりだした。  窓ガラスに当たる雨音が大きくなる。荒れ狂う鉛色の海と由子の割れ目の奥で渦巻いている欲望とが、同じ激しさのように思える。  耳の奥がジンと痺《しび》れ、鳴り響いた。  いや。  痺れではなかった。  携帯電話が震えている音だと、数秒経って気づいた。  上体を起こし、由子の足の間で正座する恰好《かつこう》になった。耳の奥まで響く携帯電話の振動音はつづいている。     6  岩田は裸のまま、入口のドアに近いところにあるクローゼットの前に立った。  ジャケットの内ポケットに手を入れると、携帯電話の振動が伝わってきた。  液晶画面には,自宅の電話番号が映し出されていた。ほんのわずかに顔をベッドのほうに振り、目の端に由子の姿を入れた。仰向けになっていたが、今はうつ伏せになって毛布にくるまっている。トイレに行くと言ったことを信じてくれたようだ。  受話口に耳を当てながら由子に背を向ける。バスルームのドアを開け、ごく自然に洗面所に入ってドアを閉める。  ──わたし、です。そちら、お天気大変でしょう。  確かに妻の声だ。  心なしかうわずっている。浮気を問い詰めるつもりなのか、別の理由があるからなのか、それとも夜中の電話ということで緊張しているからか。いずれにしても、身内に不幸があったという類の電話でない。 「こっちの天気は最悪だよ。明日のゴルフはダメかもしれないな。そうしたら観光でもして帰ることになるはずだよ」  ──あなた、靴、忘れたでしょう。 「靴?」  ──ゴルフシューズ。下駄箱に入っていたのよ。わたし、さっき気づいたの。 「夜中なのによく気づいたね。ゴルフバッグに突っ込んでいるかと思ったよ。しかし、どうしようもないな」  ──靴が汚れていたから、磨こうと思って下駄箱を開けたの。 「そう……」  岩田はそこで言葉を切った。  妻が靴磨きを夜中にするのはたいがい、気持が不安定になっている時だ。たとえば夫婦|喧嘩《げんか》をして仲直りしないまま夜中になった時とか、仕事で失敗して帰ってきた後とかだ。今夜のそれはきっと、自分への疑念が募った末のことなのかもしれない。 「夜中に靴磨きか」  ──何も考えなくていいでしょ、靴磨きって。それにきれいになるから、気持がとっても安らぐの。 「眠れそうかい? いや、違うな。ゆっくり寝て欲しいな」  ──さあ、どうかしら。あなたの声を聞けば落ち着くと思ったけど、やっぱり無理みたいね。 「落ち着かないんだね。それはこっちも同じだよ。ひどいことがあってね、帰ってから詳しく話すけど、殺人事件があったんだ」  ──あなたを信じていますから。 「どういうことかな、いきなり。まさかぼくが関わっているとでも思ったのかい」  ──そんなことは考えません。あなたにそういうことをしてしまうだけの執着心というか激情があるとも思えませんから。 「ははっ、ひどいことを言うなあ」  腹の底がムカムカしたが、岩田はそれでも茶化すように声をあげた。由子の目を盗みながら、妻と言い合いなどできない。それに妻のそれが、まるで誘導尋問のようにも思えたのだ。乗ってはいけない。みぞおちのあたりをさすって、気分を切り替える。  この旅行の目的は由子と別れるためなのだ。それを忘れてはいけない。電話で妻と喧嘩するためではない。浮気を疑っている妻の疑惑を晴らすだけでなく、今後、心配させないためにやってきたのだ。 「まあ、心配することないよ。嵐が過ぎてしまえば天気は良くなる。雨降って、地固まる。ちょっとたとえが変だな。でも、まあいいや。ゴルフはできないかもしれないけれど、その分、早く帰れるはずだよ」  ──よかった、電話して。 「安心していいよ」  ──はい。帰ってきてくれるのね。 「もちろんさ。ほかに行くところなんかないんだからね」  ──よかった。  妻がほっとしたようにため息をつくのが耳に入った。ぎこちない会話だった。他人がもしも聞いていたら、何を話しているのかわからなかっただろう。暗号めいたやりとりだったが、妻と十分に通じ合った。  世間話を一、二分して電話を切った。トイレに入って、水を二度流した。由子の耳にそれが届くことを予想してのことだ。水流が小さくなったところで岩田は、気分を切り替えるために短く咳払《せきばら》いをするとバスルームのドアを開けた。  ベッドに戻る。うつ伏せになっている由子の様子はわからない。バスルームでの会話を聞かれることはないと思ったが、彼女の表情を見て確かめるまではその心配は拭《ぬぐ》えるものではない。  毛布の下に入った。  湿ったぬくもりが吐き出される。由子の背からお尻《しり》にかけての美しい曲線がオレンジ色の明かりに染まる。腋《わき》の下あたりには、押し潰《つぶ》された乳房の膨らみが見て取れる。 「あっ、戻ってきたのね」  眠たげな声を由子が洩《も》らすと、わたし、いつの間にか寝ちゃったみたい、と囁《ささや》いた。それから気だるそうに仰向《あおむ》けになると、視線を絡めるようにして見つめてきた。  目尻にうっすらと涙が滲《にじ》んでいた。ドキリとした。電話に気づいたのか。それとも、旅行の目的を悟ったのか。ただ単に眠いせいで涙腺《るいせん》が緩んだのか。岩田は気づかないフリをして、彼女に寄り添うようにして横になった。  萎《な》えた陰茎が彼女の太ももに触れそうになり、腰を引いた。溝でとどまっている弛《たる》んだ皮が笠を覆いそうになっているのに気づき、さりげなく皮を根本に引っ張り下ろした。そのまま右手を彼女の太ももにあてがうと、腰骨をさするように愛撫《あいぶ》しながら下腹部を這い、乳房に向かった。  量感を湛《たた》える乳房をてのひらで包み込むように、下辺からすくいあげていく。しっとりとした肌だ。雨で湿気が多いせいか、てのひらに吸いつくような感触が以前よりも強い。  由子の瞳《ひとみ》がキラキラと輝いた。  高ぶりを表している瞳の表情ではない。どちらかというと、哀しみを帯びている風なのだ。いつの間にか、赤く染まっていた肌が薄い桜色になっていた。 「奥さん?」  ポツリと由子が呟《つぶや》いた。  どういう風に応《こた》えていいのか迷っていると、彼女がつづけて声を洩らした。 「隠すことないわ。あなたが結婚していることを承知でおつきあいしているんだから」  瞼《まぶた》を閉じる。  瞳の輪郭が浮き上がる。  天井を凝視しているようだ。輪郭は少しも動かない。  潤みが目尻からかすかに溢《あふ》れた。  胸が締めつけられた。  声をかけられない。息をするのがぎこちなくなる。鼻から気道を通り肺に達するまでの呼吸音がはっきり聞こえてくる。 「奥さんに気づかれたの?」 「そんなことないと思う……」 「夜中一二時過ぎに、電話をかけてくるなんて不自然だわ」 「ゴルフシューズを忘れたんだよ。それを教えてくれたのと、天気のことを聞かれたくらいかな」 「わたし、いやだわ」  それまで抑制のきいた低い口調だったのに、いきなり声が尖《とが》った。彼女のみぞおちのあたりにあてがっている手を、岩田は思わず離した。 「せっかく朝まで一緒にいられると思ったのに、夜中に奥さんに割って入られてしまったみたい」 「ごめん、ぼくが携帯電話に出なければよかったんだ」 「わたし、気づかなかったわ」 「偶然だよ……。クローゼットの前まで歩いていったところで気づいたんだから」 「夫婦って、離れていてもわかりあったりするものね」 「そんなことがあるはずないだろ? 考えすぎだよ」  由子がこくりとうなずいた。その拍子に、目尻に溜まっていた滴が、涙となって流れ落ちた。彼女のせつなさが胸に響いてくる。毛布の中で宙ぶらりんの状態の手を、自分の腰のあたりに戻した。  慰めの言葉は見つからなかった。  一気|呵成《かせい》に、別れ話に突き進むべきかと考えたが、そんなことをするのももったいないと自分を諫《いさ》めた。  セックスの後にすればいい。  このままではあまりに中途半端で終わってしまうぞ。  陰茎は萎えているが、性欲は全身に満ちている。狡《ずる》いかもしれないが、そのほうが彼女にとってもいいことだと思った。  わずかに開いた由子のくちびるから息が洩れる。乳房が揺れる。誘っているような妖《あや》しさが表れる。毛布が動く。閉じている足を開いているようだ。指先を誘っているのか、それとも交わりたいとねだっているのか……。  彼女の陰部に手を伸ばした。  陰部に指を這《は》わせる。  陰毛の茂みの地肌を滑らせる。先程よりも湿り気が強まっている。しっとりしているためか、茂み全体が薙《な》ぎ倒されたように足元に向かってなびいている。 「わたし、いやだわ」  由子が同じ言葉を繰り返した。  今度のそれは、愛撫を拒もうとしているのだと容易にわかる。それでも岩田はかまわず指を割れ目に向かわせる。  うるみは溢れてなどいなかった。  緊迫した情況に置かれているのだから、当然なのかもしれないが、岩田は少しばかりがっかりした。不倫関係なのだから、どんな時でも、欲情していて欲しいし、一度うるみが溢れたらずっとそれがつづいていて欲しいのだ。  もちろん、それが現実離れしていることだとはわかっている。しかしそういう女性こそ、不倫相手の理想像ではないかと思うのだ。  岩田は毛布を剥《は》ぐようにしながら起き上がった。 「しんみりしちゃったな……。由子、いいかい、ぼくたちは愉《たの》しむために旅行にやってきたんだからね」 「現実を忘れろってことね」 「ぼくたちの関係そのものが、非現実的ともいえるじゃないか。そこに現実を持ち込むと奇妙なことになるんだよ」 「わたしはそれを承知であなたの胸に飛び込んだのね。だめね、わたしって」 「由子はちっとも悪くないよ。ぼくのほうこそいけないんだ。せっかく非現実の世界に漂っていたのに、現実に引き戻すきっかけをつくってしまったんだから……」 「わたしたちって、おかしいわ。互いに、自分が悪いって言い合ってる」 「気が合うんだね、きっと」  彼女の強張《こわば》っている気持がほぐれるのを察して、岩田は笑みを湛えた。  視線を絡ませた後、乳房に目を遣《や》り、陰毛の茂みから割れ目まで見下ろしていった。萎えたままだった陰茎の芯《しん》に火照《ほて》りが生まれ、弱々しいながらもピクッと跳ねた。それがきっかけとなって、笠《かさ》が張り出しはじめた。     7  由子の躯《からだ》を覆うように躯を重ねた。  乳房を胸板で潰した。  豊かなそれが胸元まで迫《せ》り上がった。乳首が一瞬に尖るのを感じ取った。眉間に深い縦皺《たてじわ》をつくっているが、その溝に妖しい翳《かげ》が宿ったようだった。  下腹部同士が擦《こす》れ合う。陰毛同士はひとつになっている。呼吸のたびに互いの下腹が上下し、触れてはわずかに離れる。それを繰り返すうちに、ふたりの肌がじっとりと汗ばんでくる。 「わたし、決めていたの」  由子が両手を広げながら上げた。それからゆっくりと背中に下ろした。指先に力を込めると爪を立てた。  痛みが微《かす》かに走った。  愛撫《あいぶ》の延長上のことかもしれなかったが、そこに復讐《ふくしゆう》の気持が少なからずあるように思えた。だからこそ岩田は、痛みを堪《こら》えて笑みを湛えていたのだ。 「何を決めていたんだい」 「きっといつか、あなたと別れる時が訪れるだろうとは思っていたわ。それでね、その時になったら、わたし、決めていることがあったの」 「いったい、何かな、それは」 「わたしからお別れを言う時と、あなたからそれを切り出された時では、決めたことが違っているの」 「そうかい……」  岩田は口ごもって語尾を濁した。  交わる寸前だというのに、なにやら物騒なことを言い出しそうだ。冷静そうな表情を浮かべているが、内心はまったく違うのかもしれない。  腹の底がゾクッと震えた。  どうしたことか陰茎は鋭く反応し、彼女の陰毛を押し潰すようにして二度、三度と跳ねては戻った。  由子が瞼《まぶた》を開いた。  一条の涙は乾いているが、流れた痕《あと》がほかの肌の色合いと違って見える。  眼差《まなざ》しに力があった。迫力のある表情だ。意識的にそんな顔をつくれるはずがないと思って、岩田はまたしても腹の底が痙攣《けいれん》を起こしたように震えるのを感じた。 「決めたこと、聞きたい?」 「聞きたいけど、今は止めておくよ」 「どうして……」 「愉しむ時は愉しむべきだよ。それにふたりの関係が切羽詰まった悪いものになっているようには思えない……」 「そうかしら」 「そうさ」  岩田はそう言うと、腰を突いた。  由子の下腹部に硬く引き締まった陰茎の幹が埋まった。二五歳のしなやかな肌は、呼吸の時の上下の動きとは関係なく、すぐさま押し返してきた。  腰をずらして、幹の裏側で迫り上がっている嶺《みね》を割れ目の端にあてがった。  敏感な芽が当たるのを感じる。うるみが溢《あふ》れ出しているのがわかる。それが嶺を濡《ぬ》らし、ふぐりの皺にまで入り込むのも感じる。 「あん、だめ」  呻《うめ》くような声を洩《も》らした。先程の厳しい口調が緩んでいる。足の開きも広がっていく。割れ目の外側の厚い肉襞《にくひだ》がめくれはじめるのを、引き締まったふぐりで感じ取った。甘く生々しい匂いが湧き上がり、体中にまとわりついてくる。 「きて、ねえ、きて」 「やりたかったんだろ?」 「いやよ、そんな言い方。わたしは、あなたの心が欲しいの」 「ぼくだって、由子の心もぼくのものにしたいと思っているよ」 「嘘よ、そんなの」 「ほんとさ」 「電話をする前のあなたと、終わって戻ってきたあなたでは違っていたわ。わたしにははっきり、それがわかったの」 「考えすぎさ、そんなのは。今、この瞬間、心のすべてを由子に向けているんだよ。それがわかってもらえないんだね……。とっても寂しいよ」  彼女の耳元でそう囁《ささや》きながら、腰を前後に細かく動かしつづける。左手で上体を支え、右手で乳房の下辺にあてがう。 「やっぱり、わたし、話しておきたいわ」  由子が顎《あご》をあげ、背中を反らした。陰茎全体が下腹に埋まった。彼女の息遣いや内臓の動きまで、陰茎を通して読みとれる気がした。  なぜこうも急に、態度が変わったのだろうか……。  訝《いぶか》しく思いながらも、ややこしい話を早く打ち切ることのほうが先決だと思い、敢《あ》えて口にしなかった。  唾液《だえき》が口に溜《た》まる。  岩田は喉《のど》が鳴らないように気をつけながら、唾液を呑《の》み込んだ。乾いたくちびるを舌先で湿らせながら、おずおずと囁いた。 「いいよ、言わなくても」 「あなたがあまりにも、口先だけの調子のいいことを言うから」 「そんなことないよ、心の底からそう思っているんだから」 「言いたいの」 「どうしてそんなにムキになるんだい」 「冷静よ、わたし」 「たった一本の電話があっただけじゃないか。せっかくふたりきりになって、朝まで一緒にいられるんだから、さっきまでの甘い雰囲気の由子に戻って欲しいな」 「そうだけど……、やっぱり言っておきたいの、どうしても」  しつこいくらいに言い張るのを遮るように、陰茎の先端を割れ目にあてがった。これまでに何度も交わってきただけに、すぐに肉襞がつくる溝を探り当てられた。  笠に絡みつくように肉襞が動く。  溢れたうるみが、笠と幹を隔てる溝に流れ込む。ふたりの陰部の湿り気が増し、熱気も強まっていく。 「わたしね……」 「何も言わなくていいよ」 「言わせたくないのね」 「心と躯《からだ》をひとつにしようとしているんだから、ほかのことは考えたくないよ」 「狡《ずる》いわ、結婚している男の人って」  岩田は黙ったまま曖昧《あいまい》にうなずいた。噛《か》み締めたくちびるが緩まないように努めていないと、おまえはそういう男がいいと言ったじゃないか、勝手なことばかり言うなよ、自分だって愉《たの》しい思いをしてきたじゃないか、それを棚に上げて……、といった言葉を吐き出しそうな気がした。 「すごく濡れている」 「躯が勝手に反応しているだけだわ」 「自分の考えたことを言い切らないと、心は戻ってこないってことかい」 「さあ、どうかしら」 「入るよ」 「仕方ないわね」  由子が口元を微かに歪《ゆが》ませるようにしながら微笑を湛《たた》えた。諦《あきら》めたような表情にも、痛烈な皮肉を表情に込めたようにも、男の性欲に呆《あき》れたようにもとれた。  岩田は下腹に力を入れると、シーツを足の指で掴《つか》んだ。  腰をゆっくりと差し込む。  笠《かさ》が埋まる。うるみにまみれた厚い肉襞が、割れ目の内側に戻りはじめる。陰茎を奥に引き込むような動きだ。  由子の頬を染める桜色が一瞬にして、鮮やかな朱色に変わった。ベッドサイドの明かりを浴びて色合いを深めていく。 「ううっ……」  由子がわざわざ半開きだったくちびるを閉じてから、喉の奥で呻くような音をあげた。快感が生まれていることを悟られないようにしている風だった。  頬の朱色が喉から肩、そして胸元にまで拡がっている。快感が全身に満ちていることはよくわかった。  こうなれば話をする必要はない。  岩田はそう思いながら、腰を勢いよく突き込んだ。  笠が最深部に到達した。  クチャクチャという粘っこい音が、重ねているふたりの陰部からあがった。  割れ目の奥の襞が波が押し寄せるように動く。笠全体が襞にくるまれる。そのいくつかは、先端の細い切れ込みに入り込み、また別の襞は裏側の敏感な筋を際立たせるように絡みつく。  胸板で潰《つぶ》している乳房の張りが強まる。乳首の硬さが増しているのもはっきりと感じ取れる。  形の美しい由子の顎《あご》が上がったり、下がったりを繰り返す。それでもなお、くちびるを閉じている。荒い鼻息を吐き出しながら、呻く音を響かせる。 「いろいろと困難なことがあるものさ。ひとつひとつ乗り越えていけばいいじゃないか」  岩田はそう言った後、これは由子とつきあいはじめた当初に考えていたことだったなと思い出し、こういう言葉をさらりと囁けるものなんだと感心した。     8  岩田は昇り詰めた。  短い交わりだった。  それでも幹のつけ根の奥に溜まっていた欲望をすべて吐き出したという満足感が胸いっぱいに拡がっている。  窓を打ちつける雨音に混じって、由子の荒い息がつづく。 「いったのね」  由子が仰向《あおむ》けになったままうっすらと瞼《まぶた》を開いた。  視線を絡めてくる。  瞳《ひとみ》の距離は五〇センチもないから、視線を外すことはできない。  岩田は黙ってうなずいた。  これまでは、由子とともに昇っていくことを心がけていた。が、今しがたの絶頂ではそんなことを考えなかった。自分が昇りたいから昇る。自分の快楽だけを求めた。由子の高ぶりのことなど意識しなかった。 「あなた、もう少し、このままでいて」 「いっちゃったよ」 「わたし、まだなの」 「うわずった声をあげていたから、一緒にいったものだとばかり思っていた……」 「ほんとにそう思ったの?」 「ごめん、わからなかったよ」  白々しいと思いながらも、岩田はそう応《こた》えた。彼女とはこれまでに何度も躯を重ねているから、どんな風にして昇っていくのかということはわかっていた。  陰茎が萎《な》えはじめた。  それを察したかのように、厚い肉襞《にくひだ》が大きくうねる。快感を欲しがるように何度も陰茎を締めつけてくる。熱いうるみが陰茎にまとわりつく。 「ねえ、まだ抜かないで」 「そうしたいけど、無理みたいだよ」 「だめよ、そんなの」  由子が甘えたような声で囁《ささや》いた。陰茎の芯の硬さが緩んできているのが、彼女にもわかったらしい。  岩田は彼女の声に非難めいた響きが混じっているのを聞き取った。だが、それには気づかないフリをして腰を引いた。  彼女に寄り添うように仰向けになった。  汗ばんでいる彼女の躯に、腕や太ももが触れる。寄り添っている恰好《かつこう》を崩さないように気をつけながら、火照っている彼女に触れないようにそっと腕や太ももを離す。  しばらくの間、ふたりの息遣いだけが響いた。岩田は自らの額に手をあて、うっすらと浮かんでいる汗を拭《ぬぐ》ったり、短く咳払《せきばら》いをしてはふうっと息を吐き出した。  部屋の空気が張りつめる。  別れ話を切り出したわけではないのに、ピリピリとした空気に変わっていく。  ひとりで昇っていったことで、男心の機微に人一倍敏感な由子に、別れたいという気持が伝わったようだ。だからこそ、絶頂に昇っていっていないにもかかわらず、そのことへの不満を言わずにじっとしているのだ。  由子が抑揚のない声をあげた。 「わたし、ずっと前からこの旅行を愉しみにしていたの。あなたにわかる?」 「ぼくだって、愉しみだったよ」 「ほんとかしら。だったらなぜ、ふたりで愉しもうとしないの?」 「意味がよくわからないな」 「自分ばっかり……。わたしのことなんかちっとも考えていなかったくせに」 「ぼくが先に昇っていったことを、そんな風に責めなくてもいいじゃないか。どんな時でも同時に絶頂までいけるなんてことはできないよ。体調だって関係しているんだから」 「そうかしら?」 「そうだよ」 「嘘ばっかり」 「まいったな、まったく」  うんざりしたというように、息を吐き出すと、手の甲を額にあてがった。言いがかりをつけられている気がして、不快感が募った。額にあてがっている手に力を入れた。そうやって意識を別のところに向けていないと、不快感が全身に巡っていきそうに思えた。 「いつかくると思っていたけど、殺人事件があった日に、別れが来るなんて、わたし、想像もしなかったわ」  由子がいきなり核心を突くように言った。  聞かなかったフリができず、岩田は彼女のほうに顔を向けた。 「やっぱり、だめだったみたいね」 「そんな風に決めつけなくてもいいじゃないか。これからは友人としてつきあっていくことだってできるんだから」  岩田は言いながら、狡《ずる》い別れ方だと思った。自分から別れを切り出したわけではなかったからだ。話の流れを彼女につくらせ、それに乗るようにしていただけなのだ。しかしこれがもっとも穏便な別れになるだろうという気もした。  その時だ。  風雨がまた強まった。  窓ガラスを強い雨足がたたきつけた。  ふたりの息遣いがかき消された。雨の音がひときわ大きくなった。ふたりが部屋にいる気配が薄らいでしまう程だった。そのせいかどうかわからないが、雨音がしているのに、部屋が静まり返っているように思えた。  隣の客室から、男の怒鳴り声がかすかに聞こえてきた。  それが耳に入った途端、由子が躯《からだ》を硬くした。わずかに顎をあげ、耳を壁のほうに向けた。長い髪が火照った額や頬にべたりとへばりついた。 「隣のカップルも、喧嘩《けんか》しているみたいね」 「怒鳴り声からすると、どうやら、仲直りしていなかったようだ」 「わたしたちの声も聞こえているかしら」 「それはないと思うな」 「だといいけど……」 「どうしてだい? ぼくたちは静かなものじゃないか。触れ合っている時に、ちょっとだけ色気のある声をあげた程度だよ」 「そうね……」  由子が頬に張りついている長い髪を梳《す》き上げた。それからゆっくりと顔を横にして、視線を送ってきた。 「わたし、我慢できない。やっぱり、言っておきたいわ」 「うん?」 「さっきのこと」 「なんだったかな」  岩田はとぼけた。  別れ話を切り出されたら言おうと思っていたことがある、とつい今しがた、由子にそう言われたのだ。愉《たの》しい話ではないと容易に察しがついたから、敢《あ》えて聞かなかった。 「わたしね、あなたから別れようと言われたら……」 「聞きたくないな、その先は」 「いや?」 「君とこの部屋でふたりきりでいるのが、今でさえ辛《つら》くなっているんだ。まだ夜は長いからね。どうせ一緒にいるなら、安らかな気持で過ごしたいな」 「逃げるのね」 「大人の知恵と言ったほうがいいな。由子にとっても、ふたりの関係にとっても、そのほうがいいんじゃないかい」 「そんなことないわ。わたしね、あなたから別れを切り出されたら……、あなたの幸せな家庭を、どんなことがあっても滅茶苦茶《めちやくちや》にしてやろうと心に決めていたの」 「うっ……」  岩田は息を詰まらせた。  思いがけなかった。  由子がそんな残忍な想いを抱きながらつきあっていたとは信じられなかった。  不快感が腹の底から迫《せ》り上がってきた。腹筋に力を込めても、それはすぐさま全身を巡り、怒りとなって毛穴のひとつひとつから噴き出してくるようだった。 「バカ言うんじゃないよ」 「何がバカよ」 「だってそうだろ? お互い、納得ずくでつきあってきたんじゃないか。ふたりだけの問題じゃないか」 「奥さんだって関係あるわ」 「ないだろ、それは」 「あるわよ……。奥さんがいなければ、わたしは幸せになれたし、あなたと愉しい日々を送れたはずなのよ」 「ふざけんな」  岩田は吐き捨てるように言った。  寄り添うようにして横になっていたが、勢いよく上体を起こし、由子を睨《にら》みつけた。  視線がぶつかった。  彼女から視線を逸《そ》らすことはなかった。  不快感が一瞬にして、憎悪に変わった。関係のない妻を巻き込むなんて。ひどい女だ。ふたりの問題をどうしてふたりだけで解決できないんだ。  由子が嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。  細い首がかすかに動いた。  耳障りな嗚咽だ。どうすれば止められるか。岩田は全身に憎悪が巡るのを感じながら考えた。 [#改ページ]   第二章 君といつまでも     1  ベッドの端に坐《すわ》っている三沢博子《みさわひろこ》が怯《おび》えた表情を浮かべた。  早野雄治《はやのゆうじ》はそれに気づき、不思議な陶酔感が全身を巡っていくのを感じた。さらに彼女を怖がらせようと思って拳《こぶし》を握りしめた。  肘《ひじ》を上げ、拳を直線的に伸ばした。  鈍い音があがった。  博子が身をすくめた。ベッドがかすかに揺れ、彼女の華奢《きやしや》な躯《からだ》がわずかに揺れた。  博子を殴ったわけではない。  壁に拳をぶつけたのだ。  予想をはるかに上回る痛みに、雄治はくちびるを噛《か》み締めた。ここで痛がったりしているところを見せたら、彼女に対して恰好《かつこう》がつかない。 「乱暴は止めてよ」  博子が恐る恐る言うと、蔑《さげす》むような眼差《まなざ》しを送ってきた。雄治は自分の顔の前に、壁にたたきつけた拳を上げて、指を広げたり曲げたりを繰り返した。 「どうしてなんだよ」 「隣にもお客さんがいるのよ。こんな夜中にそんな大きな音を立てたら、びっくりさせちゃうでしょ。それでなくても、殺人事件が起きているのよ、わたしだけじゃなくて、泊まっている人たちはみんな、ビクビクしているはずだもの」 「そんなことを話しているんじゃないよ。おれは、どうして別れなくちゃいけないのかって訊《き》いているんだ」 「またその話……」  博子が背中を丸め気味にしながら、うつむいた。首のつけ根のあたりまでしっかりと隠すように、浴衣《ゆかた》の襟に手を遣《や》った。  雄治は自分がどうして怒っているのかわからなくなりそうなくらいの猛烈な怒りを感じた。目が潤む。全身が熱くなる。窓を打ちつける雨音が聞こえなくなり、自分の呼吸音だけが響いてくる。  人間というのはこんな風にして理性を無くしてしまうのか。二七歳の男の齢《よわい》なりにそんなことを思ううちに、雄治はいくらか冷静さを取り戻した。 「ごめん……」  深呼吸をひとつすると、博子の横に腰をおろした。彼女がピクッと躯を震わせ、怯えた表情が濃くなった。雄治は自己嫌悪に襲われ、それがさらに理性を呼び戻すきっかけをつくってくれた。  すぐにカッとなってしまうところが、彼女は嫌いなんだろうな……。  雄治はベッドに仰向《あおむ》けになった。  間接照明の淡い光に照らされている天井が見える。浴衣に包まれた博子の背中が細かく震えている。肩までの髪はまだ乾ききっていないのが見て取れる。  罪悪感が拡がる。  このホテルのオーナーを殺したのはきっと、ぼくのようにカッとなった末の行動ではないだろう。完全犯罪になるように、最初から綿密に行動を考えていたはずだ。 「ねえ、雄治君、いいかしら」  博子がベッドの縁に坐ったまま上体をよじって顔を向けてきた。浴衣の襟に隙間が生まれ、胸元の青白い肌が垣間見《かいまみ》えた。  彼女も冷静さを取り戻したようだ。  いや、そうではなく、怯えに全身が染まってしまったのかもしれないと思ってもう一度彼女の表情を見ると、口元には確かに穏やかそうな笑みが湛《たた》えられていた。  彼女の顔から険しさが消えた。怯えや不安の中に混じっていた高ぶりも鎮まった。  気が晴れたのか?  別れ話を切り出してきたのは、むしゃくしゃしていただけだからか。  いずれにしろ、今しがたまでの険悪な雰囲気はすっかり消え失せている。嵐の去った後のような静けさすら感じられる。  三人兄妹だからだろうか、彼女は喧嘩《けんか》上手だ。責める時は大胆に責めるし、退《ひ》き際はとてもあっさりしている。感情の起伏が大きいだけと言い換えることもできなくはないが、遺恨を残さない退き際のよさは、幼い頃から兄妹喧嘩をすることで培った間合いのようなものに依《よ》っていると思えた。  それに加えて、彼女が三歳も年上だということも,喧嘩が尾をひかずに済んでいる理由かもしれない。 「ねえ、どうして別れたいなんて、言い出したんだい」  雄治は手を伸ばすと、浴衣に覆われた彼女の背中に指を這《は》わせた。丸め気味の背中が一瞬、ピクッと震えた。  ぬくもりが伝わってきた。それがすぐに強い火照《ほて》りに変わった。  乾ききっていなかった後頭部のあたりの髪がサラサラとした艶《つや》を放つ。指先で背骨の凹《へこ》みを撫《な》でるうちに、その艶やかな輝きが増していく。くびれたウエストがよじれ、それが妖《あや》しさを醸し出す。 「ねえ、別れたくないのに、どうしてそんなことを言ったんだい」 「だって、雄治君、お金返してくれないんだもの」 「またそのことかい。借りたお金は返すさ。四〇万くらい、すぐに返せる金額じゃないか。たったそれくらいで、別れ話になるなんておかしくないかい」 「でも……」 「うん?」 「はっきりさせたかったの」 「何を、かな」 「わたし、あなたにとっての都合のいいお財布になっているんじゃないのかなって思ったから」 「まさか」 「でも、これまでにお金を貸しても一度も返してもらったことがないでしょ? きっと返してくれるだろうと信じているけど、それが揺らぐ時があるのね。あなたにとって都合のいい女になっているだけだとしたら、わたし、絶対にいや」 「気持はわかるけど、そんなことしないし、これからもするつもりはないよ」 「よかった」 「今は無理だけど、お金は返すよ、当然のことだからね。博子には誠実でありたいと思っているんだよ。ぼくはごく普通のサラリーマンだよ、ワルじゃない」 「よかった」  穏やかな笑みが博子の顔に拡がった。  彼女の背中にあてがっている指を、くびれたウエストまで滑らせた。うっ、という粘り気のある呻《うめ》き声があがった。やわらかいベッドに半分程埋まっている彼女のお尻《しり》が左右に小刻みに揺れた。  借金の話はこれでお終《しま》いにできるだろう。  これまでにも三度、別れ話と借金話をセットにして責めてきたことがあった。しかし言うだけ言ってしまうと気がおさまるらしく、すっと穏やかになった。  彼女の二の腕を掴《つか》んだ。  糊《のり》の利いた浴衣がしっとりしていた。博子が振り返り、笑みを湛えながら睨《にら》みつけるような表情を浮かべた。 「だめ、わたし、騙《だま》されないから」 「騙されるって?」 「わかっているくせに」 「博子が望むことをしてあげようって思ったんだけどな」 「嘘よ、そんなの。自分がやりたいだけなんじゃないかしら」 「たっぷり可愛がってあげるよ」 「そんなこと言っても、わたし、騙されないから……」  言葉とは裏腹に、博子の表情はうっとりとしたものに変わっていた。浴衣の襟が広がり、乳房がつくる深い谷間の入口まで見渡せた。  陰茎が膨脹する。  いや、そうではない。  ベッドに坐《すわ》った時から、つまり、借金のことで彼女に責められている時からすでに、膨脹して硬くなっていた。  雄治は床につけている足を浮かし、ゆっくりと広げた。  浴衣の裾《すそ》が乱れる。  グレイのボクサータイプのパンツが見えはじめる。下腹に沿って屹立《きつりつ》している陰茎が跳ねるのがパンツの上からでもわかる。 「こんなになっちゃっているよ」  腰を浮かし気味にしながら、硬く尖《とが》っているそれを見せつけた。  博子の喉元《のどもと》がわずかに上下した。  乳房がつくる谷間が汗で滲んでいるらしく、間接照明を浴びて鈍く輝いた。三〇歳とはいえ張りを十分に保っている乳房が前後に大きく動く。上体をよじっているために、正面の時よりも乳房がたっぷりとして見える。その迫力に性欲が刺激され、幹を包む皮が痛い程張りつめる。 「元気なのね……。借金のこと、ほんとにわかっているのかしら」 「反省したからこそ、こんな風になっているんだ。頭を切り替えているんだ。せっかく博子とこんなに素敵なホテルに泊まっているんだからね」 「嘘っぽいな」  あきれたような表情を浮かべながら、博子が笑みを洩《も》らした。それからゆっくりと、陰茎に細い指を伸ばしてきた。     2  博子が屈《かが》み込んだ。  浴衣の上から陰部に這わせた指先で、じわじわと浴衣を剥《は》いでいく。焦《じ》らしているわけではないだろうが、雄治にとっては愛撫《あいぶ》がひどく遅く感じられた。  雄治は背中を反らして陰部を突き上げた。床に下ろした足をゆっくりと上げ、指を曲げたり伸ばしたりして彼女の愛撫をうながした。  すぐさま博子が細い指を下腹につけるようにしてパンツに潜り込ませてきた。湿り気を帯びた火照りが吐き出され、新鮮な空気が入り込んだ。  彼女の性格がやさしいからか、それとも三歳年上ということが理由なのかもしれないが、思いどおりの愛撫をしてくれる。  細い指の腹が張りつめている幹の皮に触れてきた。  皮を摘《つま》むようにしてゆっくりとしごく。つけ根まで引き下ろしたところでいったん動きを止め、そのままの状態で硬くなっている幹をグリグリと揉《も》みほぐすような愛撫をしはじめる。 「殺人事件があったホテルでこんな風におちんちんを触っているなんて、妙な気分」 「興奮しているんじゃないか」 「確かにそうかもしれないわね。刑事さんが部屋を訪ねてきて、取り調べのようなことをしていったせいよ」 「敏腕風の刑事だったな」 「わたし、彼が部屋にいる間ずっと、躯《からだ》が震えていたの。でもね、すごく変なんだけど、とっても興奮していたの」 「どこが、だい?」 「あん、意地悪」 「わからないな、ぼくには。どこが興奮していたんだい」 「あそこ」 「どこ……」  雄治は思わず上体を起こすと、彼女の浴衣をめくって下腹に指を這《は》わせた。ぴたりと合わせている太ももに指先をねじ込むと、下腹部全体が前後に大きくうねった。  白色の小さなパンティだ。  陰毛の茂みのあたりがこんもりと盛り上がっていて、すでにそこの生地はすっかり湿り気を帯びていた。  パンティの上からでも、割れ目に深い溝が生まれているのが感じられる。うるみが溢《あふ》れ出ていて、木綿の生地はすっかり濡《ぬ》れきっている。指の腹で押し込むと、押し潰《つぶ》されている陰毛が擦《こす》れ合い、シャリシャリという音をかすかにあげるのが耳に入る。 「節操がないな、博子のこのいやらしいところは……」 「そんなこと、言わないで」 「人が死んだっていうのに、こんなに濡れているんだからな」  博子が首を振った。  その拍子に、博子の肩から浴衣が滑り落ちた。  素肌があらわになる。豊かな乳房が剥《む》き出しになる。湯上がりのためにしっとりとした肌から、温泉特有の香りが漂ってくる。  乳房を見つめながら、白色の小さなパンティの上から陰部を撫《な》でる。  博子の顔が上気している。  割れ目から溢れ出たうるみがパンティをぐっしょりと濡らしている。真っ白の生地が灰色がかった色合いに変わっている。 「怖いわ、ほんとに」 「何言っているんだい。殺人があったことを言っているのかい?」 「ええ、そう」 「人と人のつながりは怖いものさ。殺し合いをする関係もあれば、こうしてイチャイチャする関係もあるからね」 「最初から、殺すつもりでつきあっていたわけではないわ」 「そういうことさ。だから博子の言う怖さを理解しているつもりだよ。どこかで歯車が狂ったのか、ボタンの掛け違いがあったのか。それとも単に金銭的なもつれなのかもしれないけど、どんな理由にしろ、どこかで何かがおかしくなったはずだよ」 「人間って怖いわ」 「そんなこと言われたら、おれなんか、怖がられちゃうな」 「変なこと言わないでよ」  博子が怯《おび》えたような表情を浮かべた。尖った乳首と乳輪がその瞬間、縮こまったように見えた。  彼女が四〇万円という大きな額のお金を貸していなかったら、こんな表情をすることはなかったはずだ。雄治はそんなことを思いながら、たったそれだけの金額で博子に何かしようなどということはないのに……、おれはまるきり信用されていないぞ、と胸の裡《うち》で呟《つぶや》いた。  陰毛の茂みのこんもりとした部分を通り抜けると、割れ目の溝に指の腹をあてがった。めくれ返った肉襞《にくひだ》がへばりついているのを感じる。溝に沿って指を這わすと、肉襞が応《こた》えるように、お尻《しり》のほうから下腹に向かってゆったりとうねる。そのたびに、うるみが滲み出てきて、指先が濡れる。  こんなにも濡れているのに、どうして彼女はおれを信用してくれないのか……。  濡れた割れ目のことを考えていたはずなのに、ついつい、博子の先程の怯えた表情が蘇《よみがえ》ってくる。それは身の危険を感じたとしか思えない表情だった。  不快感が迫《せ》り上がる。腹立たしい。  何度か彼女に手をあげたことはあったが、それは愛情表現のひとつといった程度で、危害を加えようというものではない。  雄治は思わず、割れ目にあてがっている指に力を込めた。 「痛い……。乱暴にしないで」 「このくらい平気だろ?」 「敏感なところなの」 「わかっているけど、痛いのを我慢してくれるのも、愛情だと思うけどな」 「わたし、痛いのって苦手」 「やさしくしてもらうことだけが、いいんだな」 「そんなことないわよ。そんなこと言われたら、まるでわたしが、わがままな女みたいじゃないの」 「すごくやさしい女性だと思っているさ。ごめんな、痛くしちゃって」 「そう言ってもらえれば、もういいの」 「よかった……」 「せっかくふたりきりなんだから、ねえ、雄治君、愉《たの》しみましょ」 「そうだな」 「やさしくしてね」  博子が甘えたような眼差《まなざ》しを送ってきた。剥き出しの乳房を強調するように、背中をのけ反らせた。  パンティの股《また》ぐりのゴムに指を潜り込ませる。それを脱がさずに、割れ目を愛撫する。外側の肉襞にまばらに生えた陰毛が指に絡みつく。指の腹にはうるみがまとわりつく。 「溢れてきているね」 「あなたの指がいけないの」 「怖いことを言われたことで、躯が反応しているんじゃないのかな」 「ううん、違う。ぜったいに違う。わたし、痛いのだけじゃなくて、怖いのも苦手。本当のこと言うと、このホテルから逃げ出したいくらいなんだから」 「ぼくがそばにいるじゃないか」 「わたし、雄治君だけが頼りなの。だから、怖いこと言わないでね」  雄治は黙ってうなずいた。彼女の恐怖は演技ではないし、お金を取り戻そうとするためにしていることでもなさそうだった。  雄治は指先に込めている力をすっと抜き、割れ目を掃くように撫でた。     3  雨が強くなっている。  窓ガラスに当たる雨の粒も大きくなっているようだ。風が時折、部屋の中で吹き荒れているかのように鳴る。そのたびに、博子が身をすくめる。  雄治は仰向《あおむ》けになっている彼女に寄り添うように横になった。そばにいるんだよ、という意思表示のつもりだった。だがその程度では博子の怯えはおさまりそうになかった。  鳥肌が立っている。  赤みを帯びていたはずの肌がいつの間にか、青白く染まっている。  守ってあげたいという思いが迫り上がる。それと同時に、ボディガードの代わりをしているのだから、借金を棒引きしてくれてもよさそうだよな、という気持もわずかに芽生えていた。 「わたし、眠れそうにないわ」 「ぼくもそうだよ」 「今、何時?」 「夜中の一二時半過ぎかな」 「何か、お話してくれるかしら。でも、怖い話はやめてね」 「そりゃ、そうだ」 「あなたって、わたしの知らない話をたくさんしてくれるでしょ。いつもすごく愉しいの。それに男の人の気持も教えてくれるから、楽しみにしているのよ」 「任せてちょうだいね」  雄治はくだけた調子で応えたが、愉しくなるような話題を咄嗟《とつさ》には見つけられなかった。  脳裡《のうり》に浮かぶのは、オーナーが殺されていたプレイルームのことや、あんな温厚そうな顔立ちの人がどうして殺されなければいけないのかとか、きっと金銭が絡んだことで恨みを買ったに違いないといったことだった。そのどれを話題にしても、博子を怖がらせるだけだというのはわかりきっていた。 「博子は推理小説好きだったよね」 「いやよ、今そうした話をするのは」 「どうして?」 「だって、行き着くところは、今夜の事件のことに決まっているでしょ」 「いいじゃないか」 「このホテルの中に犯人がいるのよ。推理ゲームなんかしていられないわ。現実に起こっていることなんだから」 「だからこそ、犯人について考えたほうがいいじゃないか。刑事に任せておけばいいのかもしれないけど、彼が犯人を当てられるとは限らないしさ。もしかしたら、おれたちは、何か見たり聞いたりしているんじゃないかな」 「やっぱり犯人当てをしたいのね。亡くなっている方がいるのに、不謹慎だわ」 「そうかな。犯人を見つけるために知恵を絞ろうって言うんだよ。喜んでくれると思うけどな」  博子が少しずつ、その話題について話してもいいという雰囲気を醸し出しはじめた。推理小説を読むことが趣味という彼女の気持の中に、好奇心が芽生えたのだ。それを雄治は見逃さなかった。すかさず、彼女が興味を抱きそうな話題を口にした。 「オーナーが応対してくれた後、そう言えば博子は『商売をしているのに、ずいぶんと辛《つら》そうな顔ね』と言ったじゃないか。あれ、どうしてなんだい」  雄治はそう言うと彼女の顔を覗《のぞ》き込むように顔を動かした。  ホテルにチェックインした時、そんなことを博子が呟《つぶや》いたのだ。  奇妙なことはそれだけではなかった。  刑事による聞き込みがあった時、彼女はそのことについて何も話さなかった。忘れていたわけではなくて、敢《あ》えて話さなかったという感じだった。雄治はそんな風に感じたからこそ、刑事にその件を教えなかった。 「忘れていたわ。わたし、そんなこと言ったかしら」 「とぼけるのかい」 「ううん、本当に忘れていたの」 「そう……。それなら、どうしてそんなことを言ったのか、その時のことを思い浮かべてみてくれないかい」  仰向けになったまま、博子が黙ってうなずいた。あらわになった乳房が大きく上下しながら揺れた。  下辺のあたりが豊かな乳房の場合、乳首の動きが少し遅れ気味になる。そのために、乳首が意思を持っているような動きになる。彼女が何か隠していることを、乳首が表していると見ることもできそうなのだ。  雄治はさっと乳房の下辺にてのひらをあてがった。真実を掴《つか》むかのように、手でしっかりと包み込んだ。  しばらくそのままじっとしていた。  沈黙がつづく。  てのひらが触れているあたりの乳房だけ、青白さが消え、ほんのりと桜色に染まっている。雄治にはそれが、真実の重さを訴えている気がしてならない。 「あのね……」  部屋に響く雨音に混じって、おずおずと、博子が声をあげた。乳房の揺れが小刻みになった。荒い息遣いを抑えようとしているのがそんなところから伝わってきた。  そこで口がまた閉じられた。  沈黙の重さが増した。  雄治は指先に力を込めた。乳房の形が変わった。指の間から、やわらかい肉が溢《あふ》れるようにして出てきた。真実が吐き出されてくるような気がした。 「途中で言いよどむなんて変だよ。何か知っているんだね」 「今日、この島の船着き場につく寸前、オーナーを見たの」 「それはそうだろう。ぼくたちを迎えにきてくれたんだから。あの小さな船着き場にいて当然だと思うけどな」 「誰かと話していたの」 「ぼくは見ていないよ、そんなの」 「わたしもそう……。でも、ぜったいに誰かと話していたはず。最初は笑顔を浮かべていて、その後、くちびるを動かしたから。その相手が誰かはわからない。チケット売り場の小屋の陰に立っていたと思うの」 「ぼくたちが、今日ホテルにチェックインした最後の客だったよね」 「そうね、オーナーがそう言っていたわね」 「ということは、ぼくたち以外の全員に、犯人の可能性があるということだね」 「絞れないの。だからわたし、刑事さんに言わなかったの。だって怖いでしょ、あまり有意義な情報でもないのに……。犯人がその目撃情報を知ったら、顔を見られたと思うかもしれないでしょ」 「確かにそうだね」 「怖いわ、わたし」 「ぼくも今、背中がゾクッとしたよ」  確かに全身が痺《しび》れるような刺激が走り抜けた。背中だけでなく、全身に鳥肌が立つのがわかった。乳房に伸ばしている腕は、細かい粟粒《あわつぶ》が張りついたようになっていた。  恐怖心は伝染するものらしい。  博子もそれを感じ取ったようで、両手でみぞおちのあたりを守るように重ねた。  膨脹していた陰茎が萎《な》えかけている。  幹の膨らみが失《う》せ、張りつめていた皮がたるみはじめた。笠《かさ》と幹を隔てる溝を皮が埋める。それがさらに萎えてしまうことに拍車をかけるような気がする。腹筋に力を入れて堪《こら》えてみるが、抑えられそうになかった。  雄治は乳房に顔を寄せた。  左の乳首を口にふくんだ。  勃起《ぼつき》をうながそうというより、自分の心に巣くいはじめた恐怖から逃れようという気持のほうが強かった。  乳首を舌で転がす。  硬さが消えたそれは、根本から容易に曲がる。幹の皺《しわ》が増えている。お湯の中に長い時間|浸《つ》かっていたかのように、乳首全体がしんなりとしている。張りつめている時に薄らいでいた乳輪の凹凸が大きくなっている。  右手で包み込んでいる乳房の下辺を、吸い上げるように揉《も》んだ。 「だめ……。雄治君、ちょっと止めて」 「どうして」 「そんな気分ではなくなっちゃったから」 「いやなことは忘れようよ。せっかくここまでやってきたんだ、忘れて愉《たの》しんだほうがいいじゃないか」 「そうだけど、やっぱり、わたし、だめ」  博子が細い声で応《こた》えた。  だが、雄治は応じなかった。乳首から口を離すと、彼女の口を覆った。  舌を差し入れると、彼女の唾液《だえき》を吸った。舌を絡ませた。舌の痺れがやってくるのを望んだ。そんな風にして彼女の躯《からだ》に没頭することで、恐怖から逃れられると思った。そしてそれから逃れたことを、博子にも伝えられると考えたのだ。  雨音だけが響く部屋に、クチャクチャという粘っこい音があがる。淫靡《いんび》で妖《あや》しい音のはずなのに、雄治の耳には、そんな風には聞こえてこなかった。     4 「強引なんだから……」  博子がわずかに顔をあげた。  厭《いや》がっても聞き入れてもらえないとわかったらしく、諦《あきら》めたような表情を浮かべながら吐息をついた。  セックスが大好きなはずだぞ。愉しむことを何よりも優先させようとしてきた女性だろう。愉しみたいからこそ、金を貸したということを、博子は自分自身で気づいていないのか。  彼女と視線を絡めながら、雄治はふっとそう思った。  だから女は狡《ずる》いんだ。  どんなことでも自分に都合よく解釈していくんだからな。  博子から視線を外すと、乳首にまたくちびるをつけた。  雨が降っていて湿気があるせいだろうか、先程|舐《な》めた時の唾液がまだ残っている。生温かさを舌先ではっきりと感じ取れる。  乳首は尖《とが》ったままだ。  乳輪の凹凸も大きさを保っている。  乳房がつくる谷間に唾液を流し込むようにしながら舌を這《は》わせる。  みぞおちから下腹部に舌を移す。そうしている間も、彼女の性感帯に指を這わしつづける。割れ目と乳房のほかに敏感なところは、腰骨から太もものつけ根にいたる斜めのライン、腋《わき》の下の数センチ下側からウエストにかけての部分、背骨が走っている背中の凹《へこ》みだ。  雄治はそれらを丹念にひとつずつ愛撫《あいぶ》していく。そうするうちに、彼女の躯の緊張も少しずつ解《ほど》けていくのがわかる。 「ああん、だめ」 「したいんだ。こういう時だからこそ、もっと博子を感じたいんだ」 「ほんとに?」 「博子もそうしたいだろ? そのほうが今夜の怖さから遠ざかれるんだから」 「わたしのために、したいというの?」 「ぼくだって怖いからさ、ぼくのためでもあるんだ」 「おかしいわね」 「どうして」 「怖いなんて言葉、こんな風にはっきり雄治君の口から聞かされるなんて思わなかった」 「そうかい?」 「怖いモノなんて何もないっていう顔しているんだもの。ううん、それだけじゃないわ。いつだって自信たっぷりだから、そんな弱音を吐くなんて考えられなかったの」 「人間臭くていいじゃないか」 「新鮮よ、とっても」 「ということは、足止めを喰《く》わせられているこの嵐と殺人事件に感謝しないとな」 「嵐のことはいいけど、事件のことは持ち出して欲しくないわ」 「うん、そうだね」  雄治は素直にそう言うと、それまで指先で愛撫していた腰骨から太ももにかけてのラインを舌でなぞった。  高ぶりが強まっていく。  陰茎のふくらみが時折、ぐっと強まる。それをきっかけにしてふぐりが縮こまり、下腹全体に熱が拡がっていく。  博子の下腹が上下した。  扇型の陰毛の形が広がったり、元の形に戻ったりを繰り返す。鼻息が荒くなる。足を揃えていられなくなったらしく、何度もベッドの上で足先を上げては落とす。  甘い香りが割れ目から漂ってきた。  指先で確かめなくても、粘液が溢《あふ》れ出ていることがわかる。博子の躯のことだけを考えるようにしていくうちに、恐怖心が少しずつ薄らぐ。  博子もまた同様だった。  強張《こわば》っていた表情が緩んでいた。躯の強張りよりも、顔のほうが後にほぐれるものなのかと、雄治は妙なところに感心した。  雄治はいったん顔を上げた。  にっこりと笑った。  その時だ。  博子がふいに、首を折りながら上体を起こした。 「その顔よ」  そう言うと、いきなり指を突きつけてきた。  いったいどういう顔だというのか。いやらしい顔とでもいうのか。けれども怒ることを忘れていた。あまりに突然だったので、彼女の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んで、どういう意味があるのか知ろうとする気持のほうが勝っていた。 「その顔だわ」 「何だい、いきなり。顔がどうしたっていうんだよ」 「あなたのその顔と同じ表情をしていたの」 「えっ、何」 「だから、オーナーよ」 「博子が見かけた時っていうことかい」 「そうなの。建物の陰にいる誰かと話しているって言ったでしょ。くちびるが動いていただけだと思っていたけど、今、思い出したの。オーナー、たぶん無意識だろうけど、わたしたちが乗っている船のほうに顔を向けて、にっこり微笑んだのよ」 「話をしていれば、笑うことくらいあるのが当然じゃないか」 「そうだけど、違うの」  雄治は上体を起こした。博子があまりに興奮しているので、陰毛の生え際に沿って舐めるという次の愛撫を取りやめたのだ。興奮をおさめないと、せっかく漂ってきた妖しい雰囲気が台無しになってしまう気がしたからだ。  仰向《あおむ》けになっている彼女に寄り添うようにして横になった。 「落ち着いて話すんだ」 「ええ、わかってる」 「深呼吸をしてごらん。話しはじめる前にまずは落ち着かないと」 「うん」 「震えているじゃないか」 「わたし、すごいことに気づいちゃった」 「オーナーの笑顔がヒントになった? それともぼくの笑顔のほうかな」 「茶化さないで」 「わかっているさ」  雄治は彼女の細い指をてのひらで包み込むと、二度三度、揺すった。それから仰向けになっているのにわずかにしか形の崩れていない乳房に手をあてがった。  揉んだり乳首を摘《つむ》むためではない。  それもまた彼女の興奮を鎮めるためにしたことだった。  二分程、そうやってじっとしていただろうか。その間、雄治は窓をたたく大きな雨音を聞いていた。  興奮がおさまってきた。乳房の上下動が緩やかになってきた。 「何がわかったんだい。できるだけ、ゆっくりと、落ち着いて話すんだ」 「うん、そうする」 「手を握っていてあげるから」 「ありがとう。でも、もう大丈夫」  そこでいったん彼女が深呼吸をまたひとつした。瞼《まぶた》を閉じると、くちびるを動かしはじめた。 「あのね、オーナーはね、あなたが見せた笑顔と同じくらい、うれしそうな表情をつくっていたの」 「うん、それで?」 「そういう表情って、ほら、男同士だと、絶対に見せないでしょ」 「つまり、建物の陰にいたというのは、女性だったということ?」 「うん、そう」 「島の女性と一緒に話をしていただけかもしれないじゃないか」 「この島にはこのホテルしかないはずでしょ?」 「そうだったな」 「その時に話をしていた相手が犯人だとしたら? 今まで絶対に男性だと思っていた犯人が、実は、女性だということになるでしょ」 「仮定の話ではそうなるな。でも、建物の陰にいた人物、つまり、オーナーが話をしていた人物が犯人だという根拠はないよね」 「うん」 「考えすぎだよ」 「わかっている……。でも、ねえ、雄治君、こんな時間で悪いんだけど、あの刑事さんにこのこと、話してきてくれるかしら」 「もう一時近いからなあ、きっと寝ているよ」 「ううん、そんなことないわ。今しがた、わたしの手を握ってくれている時、廊下を歩いているような音が耳に入ったの」 「そう? ぼくには雨音しか聞こえなかったけどな」 「それじゃ、犯人?」 「そういう風に考えるのはやめよう。怖さがまた戻ってきちゃいそうだ」 「ねえ、お願い」 「そうだなあ」 「だめ?」 「朝でもいいじゃないか。ひとりで行くのはイヤだな」 「怖いの?」 「そうじゃない。博子をひとりにさせたくないんだ。いくら鍵《かぎ》をかけたからといって、そんなことはしたくないな」 「その気持はうれしいけど……」  博子の表情に迷いが浮かび上がった。  雄治はしかし、動かなかった。  深夜に彼女をひとりにすることへの不安があったのは確かだ。もちろん、それだけではない。事件と関わることを避けたかった。  朝になって嵐が静まり、定期船が欠航しなければ、この島を離れてしまう。いわば通りすがりの者なのだ。事件に首を突っ込むというと大げさかもしれないが、普段抱かない正義感をかざして何になる。  得とか損とかではない。  それは事件解決のためではなく、自分が満足するためにしているだけのような気がしたのだ。雄治はそうしたことを博子と話している時に直感的に考えたからこそ、彼女の願いを聞こうとしなかったのだ。  怖がっているけれど、博子はこの情況を愉《たの》しんでいるに違いない。首を突っ込むことで、さらに恐怖を募らせ、同時に愉しみも増幅させたい。そう考えている気がしてならなかった。 「事件解決の糸口になるかもしれないからね、朝食の時にでも博子の口から伝えたらどうだい」 「それでは遅いわ」 「どうして」 「わたしがもし犯人だとしたら、朝食なんて食べずにチェックアウトするわよ」 「もしかしたら、それを教えたことで、足止めを喰《く》うかもしれないぞ」 「そんなこと、できるの?」 「今夜だって全員に外出禁止を命じているからね」 「そうね、確かに」 「でも彼にそんな権限はないと思うな。彼、東京からやってきたって言っていたじゃないか。ということは警視庁だろ?」 「そうね」 「伊豆の下田沖のこの島は、たぶん、静岡県警が管轄だよ。彼もぼくら同様、通りすがりの者でしかないんじゃないかな」 「そんな言い方、失礼だわ」 「ほかに言いようがないじゃないか」 「事件を解決するために、今もまだ寝ずに頑張って捜査しているのよ」 「まあ、そうだね」 「通りすがりのわたしたちにもできることがあるはずよ。見て見ぬフリをするなんてこと、できないわ、わたし」  雄治は黙ってうなずいた。この話の流れからすると、捜査に協力しない自分のほうが悪者になってしまうと察しがついたのだ。  どうしようか……。  雄治は上体を起こすと、彼女を覆うようにして乳房に顔を押しつけた。  彼女の正義感が伝染してきそうだった。  警察が嫌いだという思いが、それをなんとか食い止めた。  博子に言ったことはないが、高校生の頃、万引きで一度、補導されている。  警察官に蕩々《とうとう》とされた説諭、つまりお説教を今でも時々思い出す。金がないわけでもないのに何を考えているんだ、甘えるのもいい加減にせいよな、これから保護者を呼ぶがいいか覚悟しておけよ、泣かれるからな、おまえのやったことをどれだけ情けなく思うか、わかっているか? ヘラヘラ笑っていると反省の色がないってことで本当に起訴するからな、そうなったら前科がつくんだ、この若さで前科者になるんだぞ。雄治は背中を丸めながら心を震わせていた。  純真な高校生が一瞬の気の迷いで罪を犯しただけだった。雄治は今でもそう思っている。それなのに、あまりにもひどいことを言われた。反省することよりも先に、説教をした刑事への憎しみのようなものが胸の奥底に溜《た》まった。 「舐めたいんだ」  左右の乳房がつくる深い谷間に顔をうずめながら、くぐもった声を洩《も》らした。  だが、いったい自分が何を舐めたいのかよくわからなかった。乳房や乳首なのか、それとも途中で止めた陰毛の生え際なのか。うるみが溢《あふ》れ出している割れ目や敏感な芽を舌で弾《はじ》きたいと思ったのか。  蘇《よみがえ》ってきた過去を振り払いたかった。今までずっと忘れていたことだったから、雄治自身、戸惑っていたのだ。 「もうすぐ午前一時ね」  博子が独り言を呟《つぶや》くように言った。首を折るようにしてこちらに上体を起こそうとしていた彼女が、頭をベッドに落とした。 「仕方ないわね」 「そうだ」 「して、雄治君、して」 「いいのかい」 「うん、諦《あきら》めるわ。わたし、ちょっと興奮していたみたい」 「推理小説好きだから、しようがないよ」 「あん、また、そんなこと言って、いやね」  博子の声色が変わった。  キンキンして耳に響く声の調子ではなくなった。肌を重ねる時の、低くて掠《かす》れ気味の、甘えた調子になっていた。  彼女と交わった後、すぐに眠ってしまえばいいんだ。  そうすれば今日とは違う明日がくる。  雄治は勢いづいた。  乳房の谷間から舌をみぞおちに滑らせた。それから下腹を通り抜け、陰毛の茂みをさっと掃くようにして舐めると、割れ目の端に向かった。     5  割れ目から顔を離した。  口の周りに粘度の高いうるみがべたりとくっついている。手の甲でそれを拭《ぬぐ》うと、割れ目に向かって細い息を吹きかけた。  陰部に溜まっていた甘さの濃い生々しい匂いが湧き上がるようにして拡がる。鼻腔《びこう》にそれが入り込み、胸の奥まで染み込んでくる。  雄治はいったん上体を起こして部屋を見回した。  ひどい嵐になっている。  窓に大粒の雨が当たっている。  金属音にも似た音が部屋に入り込んでいる。それが亡くなったこのホテルの主人の叫び声のような気がして、雄治はゾッとした。博子に気づかれないように、ふうっと吐息をついた。  窓に付着している雨粒が条《すじ》となって流れ落ちている。  何かの紋様のように思える。  レースのカーテンを引いておかないといけないなと思っていると、いくつもの条が重なるうちに、殺されたオーナーの顔の輪郭を形作っていくように見えた。  雄治は瞼《まぶた》を閉じると、これは見間違いだ、まさか幽霊となって現れたんじゃないか、と胸の裡《うち》で呟いた。  瞼をきつく閉じる。  瞳《ひとみ》の奥が痺《しび》れる。  そのうちにわずかではあるが、冷静さを取り戻した。  待てよ。  もしも幽霊だったらどうなんだ。  殺した人物を捜し出し、警察に突き出してくれと彼が願っているのではないか。その想いを訴えるために、姿を変えて現れたのではないか。  そうだとしたら……。  厭《いや》なものを見てしまったと思った。  責任を押しつけられた気がした。彼の遺志だとすれば、博子と自分のふたりで犯人捜しをしなければならない。  警察に協力することは我慢できるだろう。万引きした時の屈辱は、はるか昔のこととして水に流すことはできる。だがもしも、犯人捜しをしているうちに、博子に危害が及ぶ危険性がある。犯人はこのホテル内にいるはずなのだ。  オーナーを目撃したことから推理した博子の犯人像は女性だ。それが当たっているとしたら、さほど怖れることはないかもしれない。乱闘になったら、たとえ凶器を持っていたとしても、取り押さえることができるはずだ。腕っぷしには自信がある。 「ぼうっとしちゃって、おかしいな、雄治君。どうかしたの?」  仰向《あおむ》けになっている博子が、太ももをすり合わせながら囁《ささや》いた。太ももが動くたびに、陰毛の茂みがゆらゆらと動いた。しんなりとしていたそれはいつの間にか、立ち上がっていてこんもりとした森になっていた。 「信じられないんだ」 「何が?」 「ぼくに正義感があったなんてね」 「どういうこと? あっ、そうか。犯人を捜そうという気になったのね」 「まあ、そういうことかな」 「おかしいな、やっぱり」 「何がだい」 「だって警察、嫌いだって言っていたでしょ。それなのに協力するつもりなのね」 「仕方ないよ。ここに泊まったのも何かの縁なんだから」 「あれえ、そんなこと言って……。さっきまで、通りすがりの者だって、自分のことを言っていたでしょ?」 「見方を少し変えただけさ。通りすがりの者には違いないけど、出くわしてしまったのは偶然ではなくて、縁と考えることができるじゃないか」 「そうなの、そこなの。縁があってここに泊まったのよ、わたしたちは。だっていくらでもホテルなんてあるのに、なぜか、ここを選んだんだもの」 「他のホテルを選んでいたら、この事件のことは知らなかったよな」 「そうでしょ。わたしが港にいるオーナーを見かけたのもやっぱり縁だわ」  雄治はくちびるを噛《か》み締めながらうなずいた。  もうちょっとのところで、窓ガラスに滲《にじ》み出てきたオーナーの顔のことを言いだしそうになった。腹の底に力を入れ、首筋の筋肉に意識を集中した。  腕を伸ばして、割れ目の溝を指先で掃くようにして撫《な》で上げた。  厚い肉襞《にくひだ》がうねる。うるみが指先に絡みついてくる。尖《とが》っている敏感な芽が揺れ、さらにぷくりと膨らむ。  博子が自分の指を口に運んだ。  細い指に舌を絡ませながら、粘り着くような低い声で囁いた。 「ねえ、きて」 「うん」 「わたし、すごく興奮しているでしょ」 「溢《あふ》れ出ているな……。いや、そうじゃない。噴き出していると言ったほうがいいかもしれないくらいだ」 「あん、そんな……」 「博子はやっぱり、スケベなんだな」 「ううっ、そんなはしたない言葉、聞きたくない」 「でも、好きだよな」 「ええ……」  ためらいがちに応《こた》えると、恥ずかしそうに顔を横に向けた。  年上の女性ではあるが、羞恥心《しゆうちしん》を煽《あお》る言葉をかけると、少女のような表情を浮かべる。愛らしさが募る。陰茎の先端から透明な粘液が滲み出る。それが彼女の向こう臑《ずね》にくっつく。彼女の火照《ほて》りやぬくもりが陰茎から感じられ、それが高ぶりを強める刺激となる。  太ももの内側を舐《な》める。  間接照明を浴びて、条となった唾液《だえき》が浮かび上がってくる。朱色に染まった肌が艶《つや》やかに輝く。  雄治は上体を起こした。すると仰向けになっていた博子もまた起き上がった。 「今度は雄治君が横になって」  博子が掠《かす》れた低い声で囁いた。恥じらいが失《う》せ、妖《あや》しい表情になった。  うながされるまま、雄治はベッドに仰向けになった。  屹立《きつりつ》している陰茎が陰毛の茂みを押し潰《つぶ》しながら下腹に沿うように水平になった。腹筋に力を込めなくても、先端がひくつき、わずかに上下して下腹を打った。  博子が躯《からだ》をずらす。  陰茎に腕を伸ばしてきて、細い指が幹の裏側で迫り上がっている嶺《みね》を撫でる。笠《かさ》の裏側の敏感な筋から、つけ根にへばりつくようにして縮こまっているふぐりまで、ゆっくりと撫で下ろす。浮き上がっている血管や節を丁寧に撫でられることで、それらの凹凸をはっきりと感じ取れる。  幹全体をてのひらで包み込まれた。  強く握られた。  先端に向かう血流とつけ根に向かう血流に分かれる。血流が快感を生み出すものだと知り、雄治は腹の底がブルブルッと震えるのを感じた。  博子がくちびるを開く。  長い髪を指先で梳《す》き上げて耳に留めると、陰茎にゆっくりと口を寄せてきた。  いきなりくわえ込んだりはしない。  焦《じ》らしているわけではない。  彼女なりに、くわえ込む時の手順というものがあるようなのだ。  幹の裏側を突っつくようにして舐める。迫《せ》り上がっている嶺の稜線《りようせん》に沿って舌を這《は》わせた後、嶺の両側に唾液を丹念に塗り込んでいく。  彼女の舌がふぐりと太ももとが接するあたりに進みはじめる。  雄治はうっとりとして、瞼を閉じた。 「ふふっ、可愛い、雄治君」 「うん?」 「ひくひくしている……。このあたりも気持がいいところだったのね」 「そうだよ、知らなかったのかな」 「なんとなくわかっていたつもりだけど、今日はすごく敏感」 「いろいろなことがあったからかもしれないなあ」 「恥ずかしがらずに、声をあげてもいいのよ。わかった? 雄治君」 「そんなことできるわけないだろ」 「どうして?」 「男だからな」 「あなたが男らしいことはわかっているの。声をあげたからって女々しいとか、なよなよした男だなんて思わないわ」 「まあな」  博子がふふっと妖しい笑みを洩《も》らした。それからお尻《しり》に近づくようにしながら、ふぐりを舐めていった。  快感が内臓を貫いていく。  瞼《まぶた》を閉じているのに、火花なのか花火なのかわからないが、とにかく、鮮やかな閃光《せんこう》が瞬いては消える。  ふぐりの皺《しわ》の溝をすっと舐められた。  瞼の裏側全体に、大きな火花が散った。  全身が快感に包まれた。  その瞬間、窓ガラスにオーナーの顔がくっきりと浮かび上がった。     6  オーナーに求められているんだ……。  ふっとそう思った。  考えないようにしていたが、瞼を閉じるたびにオーナーの顔が浮かんだ。  警察にやはり協力しないといけないのかもしれない。  オーナーはそれを求めて、おれの前に現れているんだ……。  胸の底からそうした想いが迫り上がった。  博子が陰茎の幹をてのひらで包み込んだ。  湿り気をはらんだそれにしごかれる。張りつめた皮がつけ根まで下ろされると、笠の裏側の敏感な筋が細かい血管を浮き上がらせながらひきつれる。  てのひらが笠まで上がってくると、笠と幹を隔てる溝に皮が集まる。それだけでなく、笠に血液もいっせいに昇っていくらしく、膨脹したそれが赤黒く変色する。 「口の奥深くまで、くわえてくれるかい」 「ええ、そのつもりよ」 「うれしいな」 「ふふっ、素直ね、とっても。雄治君が素直になっている時って、可愛いわ」 「まあな」 「あん、また素っ気なくなっちゃった。無理に男らしくしなくてもいいの。素直な気持のままでいて」 「無理しているわけじゃないさ。子どもの頃からずっとこうだったんだからな」 「ずっと突っ張ってきたのね」 「そういう言い方もできるかな」 「可愛いなあ」  うっとりとした声で博子が囁《ささや》いた。長い髪をもう一度、指先で梳き上げて耳に留めると、瞼をゆっくりと閉じた。  てのひらに包んだ陰茎を垂直に立て、くちびるを寄せた。  口を半開きにする。  荒い鼻息が陰毛の茂みに吹きかかる。  先端に透明な粘液が、ひと粒の滴となって留《とど》まっている。鼻息が吹きかかり、その滴がかすかに震える。  博子が舌を差し出した。震えつづけているその滴を、すっと舐め取った。  上体を起こし気味にしながら、笠の外周に舌を這わせる。それを二度三度つづけると、裏側の敏感な筋の両側に舌を滑らせる。さらにくちびるで、敏感な筋を突っついたり、吸ったりする。そうしている間も、つけ根を握っている右手は動きつづける。マッサージをするように揉《も》んでいるが、一定の調子ではなく、強く握ったり緩めたりを不規則に繰り返す。  くちびるが大きく開いた。  博子の頭が少しずつ下がり、陰茎の姿が先端から消えていく。  尖った舌で、幹の裏側で迫り上がっている嶺を弾《はじ》くように舐める。くちびるをきつく閉じて、幹を締めつける。  空いている左手で、ふぐりをお尻のほうから持ち上げるようにして揉む。もちろんきつく揉むのではなく、皺が伸びるかどうかといった程度の強さだ。  気持がいい。  快感が瞼にまで拡がってくる。  オーナーの顔が薄れてはまた現れる。  博子に言っておいたほうがいいかもしれないな……。  頭の芯《しん》が愉悦に染まるのを感じながら、雄治はそう思った。 「気持がいいよ、すごく。いつもより、すごく丁寧な気がするよ」 「ふふっ、そうかもしれないわ。興奮しているせいかもしれないわ」 「今夜のこの情況のおかげかな? それとも久しぶりにくわえ込んだからかい」 「さあ、どっちかしら」  陰茎をくわえ込んだまま、博子がくぐもった声でとぼけた。  くちびるがめくれている。普段の整った顔がたったそれだけのことで、妖《あや》しく淫《みだ》らなものに見える。 「くわえたまま、話をしたいな」 「どんな?」 「警察に協力するっていう話」 「また? そうするっていうことで、決着がついたじゃない」 「あのさ……」 「なあに」 「博子に話していないことがあるんだ」 「えっ」  博子がくちびるを大きく開いた。めくれていたそれが元に戻った。粘度の低い唾液《だえき》が幹をつたって流れ落ちた。  陰茎を離しそうになるのを察して、雄治は腰を突き上げた。先端の笠《かさ》が口の奥の肉の壁にぶつかった。さらに左手を彼女の頭頂部に伸ばして押さえつけた。 「ごめんなさい……。驚いて、お口から離しそうになっちゃった」 「ずっとくわえていて欲しいな」 「ほかに好きな人でもできたの?」 「違うよ」 「よかった……。それじゃ、なあに」 「今夜の事件のことだよ」 「何か気づいたことでもあるのかしら」 「食事の後、博子を部屋に残して、ひとりで大浴場に行っただろ」 「そうだったわね」 「大浴場からすぐに部屋に戻ろうと思ったけど、あまりに躯《からだ》が火照《ほて》るから、涼もうと思ってプレイルームに行ったんだ」 「オーナーが殺された場所ね」 「うん」 「それで」 「見たんだ」 「何を?」 「オーナーをだよ」 「えっ……」  膨脹している陰茎を口にふくんだまま、博子が顔をあげた。  驚きを表すようにいくらか大げさに目を見開き、くちびるを広げた。堰《せ》き止められていた唾液が幹をつたって落ちた。陰毛の地肌を濡《ぬ》らすものとふぐりと太ももが触れ合う部分に流れていくものとに分かれた。 「その時間は、たぶん、午後九時頃だったかしら」 「時計を見たわけじゃないから、よくわからないな」 「わたしは覚えているわ。あなたが部屋を出ていった直後に友だちから携帯電話にメールが届いたの。それで時間を見たから」 「午後九時頃だとすると、きっと、オーナーはその直後に殺されたんだな」 「たぶん、そうね。ほかに誰か見たの?」 「見ていない……。いや、見たかな。うーん、見たと言えるかな」 「よくわからないわ。雄治君、詳しく説明してくれるかしら」 「博子がくわえていてくれるなら、話してもいいかな」 「そんなの……」 「いやだったら、言わない。刑事さんに直接、話すだけさ」 「あん、意地悪ね。わかったから、ゆっくり話してくださいね」  雄治はうなずくと、ベッドの端に除《の》けておいた枕を掴《つか》んで頭の下に入れた。上体をわずかに起こしたことで、陰茎をくわえている博子が眺めやすくなった。 「急いでいるようだったな。ぼくを小走りで追い越していったんだ。いくら急いでいても、客のぼくに挨拶《あいさつ》くらいしてもいいだろうと、ちょっと不快になったからね」 「それで?」 「プレイルームに入っていったよ。姿が見えなくなったんだけど、彼の声がしたんだ。ほかの客がクレームを入れて、それで慌てていた感じだったな」 「声をかけたのは、女の人だった?」 「どうかな、わからない」 「話し声が聞こえたんでしょ?」 「オーナーの声だけだった。聞き耳を立てていたわけじゃないから、何と言っていたのか聞き取れなかったな」 「そう……」 「でも、謝っているような声だったのは確かだよ」 「クレームの処理をしているような声に聞こえたんですものね」 「うん、そうなんだ」 「クレームではない可能性もあるわ。たとえば、待ち合わせをしていた時間に遅れてしまっていたとか、渡したいものがあってプレイルームに行ったけど、それを忘れてきちゃったとか」 「事件が起きた後、そういうことも考えたよ。でもさ、その時間はまだ客が遊んでいても不思議ではないよ。オーナーがプライベートで誰かと会うために、客がいつ入ってくるかもわからない場所を指定するなんて不自然だからね。まっとうな神経の経営者だったら、そんなことはしないはずだけどな」 「まっとうではなかったとしたら?」 「切れ者という感じだったけどな、オーナーは。公私混同するような人ではないと思うけど、どうかな」 「そうね、確かに」 「だろ?」 「やっぱり、今夜泊まっている客の誰かと会ったのかしら。もっとはっきり言うと、客の誰かが犯人ということね」 「そうだね」  雄治はそう応《こた》えると、腰をゆっくりと突き上げた。  話は終わりだ。     7  博子が陰茎を掴んだまま四つん這《ば》いになった。  舌が幹に絡みつく。  つけ根まで呑《の》み込む。くちびるを締めつけたり緩めたりしながらつけ根の太い筋から快感を引き出そうとしている。  頭が動くたびに、長い髪が揺れる。毛先が下腹部を撫《な》でたり掠《かす》めたりを繰り返す。くすぐったいような痒《かゆ》いような感覚に、彼女のべたりと張りつく舌先の刺激が混じる。  ふぐりの奥が熱くなった。  絶頂の兆しだ。  いきたい……。  でも、今はまだ昇っていきたくない。 「ちょっと、そのまま」  雄治はうわずった声を投げた。腰を引き気味にして、つけ根までくわえ込まれている陰茎を笠《かさ》のあたりまで戻させた。  博子の舌は動きつづける。  先端の細い切れ込みを、尖《とが》らせた舌先で舐《な》める。左右の肉襞《にくひだ》を押し広げるようにしながら、舐め入れてくるのだ。  彼女の肩を指先で軽く突っついた。  もう十分だ、という意味を込めたつもりだったが、舌の動きは止まらなかった。 「博子、だめだよ、もう。このままだといっちゃうよ」 「ううん、いいの。このままいってもらってもいい」 「そうか? いやがっていたじゃないか、これまでずっと」 「あなたが生まれ変わったから。だからこそ、呑んでもいいなって思ったの」 「生まれ変わった?」 「そうよ、あなたは変わったの。警察のことを毛嫌いしていたのに、協力するってとても素直に言ったでしょ」 「確かにそうは言ったけどな」 「わたしの話もよく聞いてくれるようになっていたから……。きっとこの事件があって、あなたは自分の心にしまい込んでいた正義感を出したんだと思うの」 「縁を感じたからだよ。それだけのことさ」 「そう? わたし、うれしかった。正義感を思い出してくれたってことはきっと、わたしが貸したお金も返してくれるってことだと思うの」 「借金のことを結びつけるってわけか」  亡くなったオーナーのことをダシにして、借金のことを言い出すとは……。  この女、ひどいことを言いやがる。  不快感が胸に拡がった。  やめた、警察に協力なんてするものか。  借金も踏み倒してやる。  博子の思いどおりになんて、なってやるものか。  不快感が拡がるにしたがって、彼女がひどく憎らしくなった。  腰を引いた。  陰茎が彼女の口から離れた。垂直に立てられていたそれは、勢いよく下腹に当たり、粘度の低い唾液《だえき》が細かい粒となって飛び散った。  躯《からだ》を重ねたいという欲望と、胸に満ちる不快感がせめぎ合っている。  どちらの気持に正直になるべきか。  四つん這いのまま呆然《ぼうぜん》としている博子を眺めた。  乳房が重力にしたがって揺れている。  見事な逆三角形だ。乳房がつくる谷間は深い。その向こう側に、こんもりとした陰毛の茂みが垣間見《かいまみ》える。 「借金、返すのいやになっちゃったな」  雄治はあっさりと言った。  自分でも思いがけない言葉を口にした気がして、驚いた。借金を返すことと事件のことは別ものだ、と言うつもりだったのだ。  呆然としている博子の妖《あや》しい表情が一変した。上体を起こすと、くちびるを締め、睨《にら》みつけてきた。 「何を言い出すの、いきなり」 「博子が妙なことを言うからだよ」 「だからって、どうして借金を返さないということになるの?」 「身勝手な理屈だとわかっているさ」 「そうよ、雄治君、勝手な言いぐさよ。自分でもわかっているでしょ? それとも、わたしを困らせてみたいという子どもっぽい嘘ってこと?」  とりなすような愛想笑いを浮かべながら、博子は横になった。瞳《ひとみ》はしかし、笑ってはいなかったし、穏やかでもなかった。  雄治は博子の憎悪を垣間見た気がした。  単に怒っている程度のものではなく、たとえば手元に刃物を持っていたら、情動に突き動かされるように斬《き》りつけてきてもおかしくないだけの迫力があった。  ほんの今しがたまで彼女にくわえてもらっていた陰茎の芯《しん》から力が抜けそうになる。雄治はそれを察して、下腹に力を込めて堪《こら》える。陰茎のつけ根の太い筋が鋭く反応し、ビクンと跳ねるのを見て、気持がふっと楽になる。  博子にバカにされてたまるか……。  彼女が年上だからといって、そんなのは関係ない。おれに向かって「子どもっぽい」などと言うなんて、たとえ冗談だとしても許せない。  よし、決めた。借金はやっぱり何が何でも返すのはやめよう。  バカにされた仕返しの方法はこれしかないと思ったが、彼女の怒りを煽《あお》ることになるのが目に見えていたので口にしなかった。 「博子が言うように、ぼくはどうやら、子どもっぽい身勝手な男だね」  雄治は素っ気なくそう言うと、仰向《あおむ》けになったまま腰を二度三度と突き上げた。下腹に沿いながらなんとか膨脹を保っている陰茎の芯に脈動が走った。 「自分のことを認めたんだから、ご褒美が欲しいな」 「話を変えるのね」 「そういうつもりじゃないさ。子どもっぽい身勝手さが出ただけだよ」 「そんな風に自分のことを卑下しないで。わたし、子どもっぽさのある雄治君のことが好きなんだから」 「だったら、もっとして欲しいな」 「欲張りな人……」  博子が口元にぎこちない笑みを湛《たた》えた。長い髪を梳《す》き上げると、ふうっと長いため息をついた。  怒りがおさまったらしい。  女性特有のヒステリックな怒りに対しては、下手にでることが肝心だ。彼女の場合、とりわけそうだ。そうやってやり過ごしながらなだめていくうちに、怒りや憎悪を忘れてしまうからだ。  年上の女性だという自覚があるからだろうか、本当に何事もなかったかのような表情をつくると、陰茎に細い指を伸ばし、屈《かが》み込んできた。 「もうよしましょ、変な話をするのは」 「ぼくが悪かったんだ」 「いいのよ、わたしのほうこそ悪かったわ。せっかく正義感の話をしていたのに、途中で話を変えちゃったんだから」 「くわえてくれるかい」 「ふふっ、欲張り」 「博子だってそうじゃないか」 「さあ、どうかしら」  博子がとぼけた表情を浮かべながら、ゆっくりとくちびるを開いた。耳にかけている長い髪が落ち、下腹に触れた。  くちびるが陰茎に触れる。  彼女の頭が下がりはじめる。  長い髪が揺れ、下腹をくすぐる。  先端の笠がくわえ込まれる。ぬくもりを感じて、それを笠の外周がうねって応える。幹の芯に硬さが戻ってきて、脈動が勢いよく駆け上がっていく。  博子が頭を上下に動かし、張りつめた皮をしごきはじめた。  幹に塗り込まれた唾液が、浮き上がっている血管や節に沿ってつたい、つけ根に落ちてきた。それはすぐさま縮こまったふぐりの深い皺《しわ》に流れ込んだ。  いきそうだ。  このまま彼女の口の中に放ってしまおうか……。  雄治はその誘惑に駆られたが、くちびるを噛《か》み締めて堪えた。  彼女の割れ目をまだ味わっていなかったからだ。口の快楽と割れ目がもたらしてくれる愉悦には当然、違いがある。その両方を味わったうえで、どちらかの方法で白い樹液を放ちたい。 「したくなってきたよ」 「わたしも」  陰茎をくわえ込みながら、博子が二度うなずいた。そのたびに陰茎がつけ根から曲げられた。痺《しび》れに似た痛みが生まれ、それが性的刺激につながった。  博子が口から笠《かさ》を離した。  くちびるの周りが唾液《だえき》で濡《ぬ》れている。  妖しさと淫《みだ》らな感じと、金に執着する心根の卑しさが混じり合った表情に思えて、雄治は腹の底がぞくりと震えるのがわかった。     8  博子が仰向けになった。  乳房は重力に負けてわずかに脇に流れてはいるが、それでも美しい曲線は保っている。彼女が荒い息遣いをするたびに、やわらかみのあるそれは、乳首を頂点として波紋が広がるように小刻みに揺れる。  互いに向かい合うようにして横になった。  博子の瞳からは憎悪の色合いは消えている。厚い潤みが拡がっている。部屋のわずかな明かりを映し込んで艶《あで》やかに光り、まばたきをすると輝きが微妙に変わる。  割れ目に指を差し入れた。  うながさなくても太ももを開き、指が動きやすいようにして誘ってきた。  割れ目の外側の厚い肉襞《にくひだ》はすでにざっくりと割れている。陰茎をくわえ込んだ時からそうなっていたのか、膝《ひざ》を上げて太ももを開いた時にそうなったのか、よくわからない。  うるみが太もものつけ根からお尻《しり》に向かって流れ落ちている。粘度の強いそれは、指を動かすたびにグチャグチャという粘っこい音をあげる。窓を打つ大粒の雨の音にそれはかき消されることはない。  雄治は割れ目に意識を集中した。いや、そうではない。割れ目に差し入れている指に、感覚を集中したと言ったほうが正確だろう。  肉襞の細かいうねりや襞がつくる浅い溝、うるみの流れていく方向などを、指先ではっきりと感じ取る。 「ああっ、いい」 「何がいいんだい?」 「あらためて、そんなこと訊《き》かないで。あん、わかっているのに、言わせないで」 「恥ずかしいかい」 「これでもわたし、年頃の女なのよ」 「成熟した女であることは間違いないな。こんなに溢《あふ》れているんだから……」 「いやっ、恥ずかしい」 「指に絡みついてくるよ」 「そんなこと、ああん、していないわ」 「無意識に襞が動くんだね」 「ううっ、わからないわ、そんなこと」  粘度の高いうるみが、指をつたいながら股《また》のところにとどまった。手を動かしていると、それはてのひらにまで流れ込んできた。それは彼女の火照《ほて》りと自分の体温によって、粘り気が増している気がした。  彼女が手を伸ばしてきた。  水平の状態で硬くなっている陰茎をてのひらで包み込んだ。その動きは快感を引きだそうというものではなく、硬さを確かめるためのようだった。 「きて」  せつなそうな表情を浮かべると、博子が甘い呻《うめ》き声を洩《も》らした。  てのひらで包み込んでいる皮をいっきにつけ根まで引き下ろした。痛みと快感が生まれることを承知したしごき方だった。  陰茎から手を離し、仰向《あおむ》けになった。  膝を立てると見せつけるようにしながら足を開いた。  我慢する必要ないよな……。  雄治は胸の裡《うち》でそう呟《つぶや》くと、上体を起こした。  彼女の太ももの間に躯《からだ》を入れる。  腰を操る。割れ目の溝にあてがうように陰茎を動かす。彼女もお尻を浮かし気味にして導こうとする。  先端の笠が割れ目の溝を見つけた。  なんて熱いんだ……。  舌先で感じた時とも、指で襞をめくるようにして触った時とも、笠の感触は違った。  とろけそうだ。  熱気が笠の芯《しん》にじわじわと染み込んでくるような気がする。先端の細い切れ込みに、粘度の高い彼女のうるみが侵入してくるように思えてならない。  これがほんのついさっき、ヒステリックに怒った女性なのかと不思議な気がした。憎悪など、彼女の瞳《ひとみ》にも表情にも乳房にも、そして割れ目にも表れていなかった。 「怒りはおさまったかい?」 「えっ……」 「さっき、すごく怒っていたじゃないか」 「雄治君って、意地悪なんだから。忘れたわ、わたし、そんなこと」 「忘れていないこともあるだろ?」 「借金のことね。わざわざ、今、それを切り出さなくてもいいのに」 「そうだね。気持よくなることだけを考えないといけないな」 「そうよ、今日は特別な夜だもの。殺人事件があったんだから。ふたりでぬくもりを確かめ合って、恐怖と闘うっていうのが、美しい関係だと思うわ」 「ふたりが被害者と犯人らしき人物の影を見ているんだよな。考えようによっては、ちょっと怖いことだな」 「どうして?」 「もし、だよ。このホテルにまだ犯人がいるとしたら、ぼくたちに目撃されているかもしれないと考えるんじゃないかな」 「それって、どういうことかしら」 「推理小説好きなら、わかるんじゃないかい?」 「わかるけど、わかりたくないわ」 「どうして」 「だって怖いもの」 「感情に流されて、現実をしっかり見ないのはよくないよ。ぼくたちは、もしかしたら、犯人に狙われているかもしれないんだから」 「その可能性はないことはないわね」 「だろ?」 「でも、明日の……、いえ、もう今日になっているけど、朝まで部屋にいれば大丈夫よ」  雄治は黙ってうなずいた。  そんな話をしても陰茎は萎《な》えていない。割れ目から放たれている熱気が笠の芯に到達し、それがつけ根にまで拡がっている。殺人事件のことよりも、笠の痺れや快感のほうが現実感があった。 「ふたりで恐怖と闘いたいの」 「大げさだな」 「そんなことないわ。突然、犯人に押し入られるかもしれないのよ」 「そうだね」 「闘いましょ」 「どうやって」 「きて」 「セックスで恐怖から逃れるってわけか」 「下品な言い方しちゃ、いやっ」 「だってほんとだろ?」 「そうだけど……」  彼女の困ったような顔に淫靡《いんび》な翳《かげ》が宿った。それまでの艶《つや》やかな表情に深みが加わり、妖艶《ようえん》さが増した。  雄治は太ももの筋肉に力を入れた。足の指を突っ張るようにしながら、息を詰めた。  腰を突いた。  笠《かさ》が割れ目に埋まった。  雨音に混じって、半開きにしている博子のくちびるから呻き声が響いた。  長い髪が乱れるのもかまわず、頭を左右に振る。鼻息が荒くなる。乳房が大きく揺れ、硬く尖《とが》っている乳首が震える。割れ目の奥の襞が、笠や幹にへばりついてくる。笠の裏側の敏感な筋を際立たせ、両側から押し上げるように圧迫してくる。熱いうるみが襞の動きとともに、割れ目の中で移動するのがわかる。  これが博子の闘い方なのか?  肉の快楽に溺《おぼ》れることで、恐怖を忘れることなどできるのか。  それならば……。  雄治は腰を前後に動かしながら、本当に彼女が快楽に溺れるものなのかどうか確かめようと思った。  割れ目の最深部まで突き入れた。そこの肉の壁に笠をこすりつけたり、えぐるようにして幹を操ったりした。  博子の喘《あえ》ぎ声が大きくなった。  赤く染まっている肌の色合いが鮮やかなものに変わりはじめた。 「わたし、いきそう……」 「ぼくもだよ」 「頭が痺《しび》れて、真っ白になっている。ああっ、すごい、雄治君、すごい」 「気持いいよ、博子」 「もうちょっとよ、もうちょっと。自分の躯じゃなくなりそう」 「いく時は一緒にいくんだよ」 「うれしい。わたしたち、ふたりで闘っているのね」 「もちろんさ」 「ああっ、受け止めたい……。雄治君を受け止めたい」  雄治は踏ん張ったまま腰を突いた。彼女もタイミングを合わせてお尻《しり》をあげた。恥骨同士がぶつかり、痛みと快感が同時に生まれた。 「いって、わたしも、いくわ」 「すごく気持がいいよ」 「わたしも。雄治君のすべてを受け止めたいのよ」 「借金もだね」  そう言った瞬間、博子の荒い息遣いが止まった。閉じていた瞼《まぶた》が開き、交わってからは見られなかった憎悪の光が放たれているのがわかった。 「なんてこと言うの、こんな時に」  博子は吐き捨てるように言った。  割れ目の奥の襞《ひだ》の動きがすっと止まった。襞に突き放された気がした。 [#改ページ]   第三章 夫婦と家族     1  オーナー夫婦の部屋に、遺《のこ》された妻と子どもがひとりいる。  子どもは娘がふたりだが、姉のほうは偶然にもこの島を離れていた。いくつかの家具の入れ替えを計画していて、東京に出向いて留守だった。  沈黙が十分近くつづいている。  妻も娘も無表情のまま、青白い顔をしている。それはそうだ。ホテル経営の大黒柱であり、夫、そして父親でもある栗田幸二《くりたこうじ》を失ってしまったからだ。  窓を打つ雨が激しさを増している。  嵐の中にいると高揚感が膨らむのだが、ふたりとも今はそんな風な気持にはなっていなかった。  娘の洋子《ようこ》が沈黙を小声で破った。 「死んじゃったのね、お父さん」 「ええ、そうね」  うつむいたまま、妻の文恵《ふみえ》は短く応《こた》えた。幸二にそっくりの顔立ちの洋子を見たくなかった。もしもこの子が短髪にして暗がりに立っていたら、夫と間違えるかもしれない。  洋子が顔をあげ、洟《はな》をすすった。  憔悴《しようすい》しきった表情だ。白目が充血し、目元も真っ赤に腫《は》れている。ふっくらしているはずの頬が落ちくぼみ、やつれて見える。 「信じられない。お父さん、夕方まであんなに元気だったのに……」 「そうね」 「痛かったでしょうね、きっと」 「ええ」 「わたし、ものすごく悲しいのに涙がもう出てこないの。お母さん、わたしっておかしいのかしら。それとも薄情なの?」 「わたしだって、そうよ」 「お父さんって、わたしが小さい頃、『不死身だからな、なんでもできちゃうんだ。それに怖いものもないんだぞ』って言って、胸を張っていたでしょ?」 「そんなことがあったわね。あなたがまだ小学三年生くらいの時じゃないかしら」 「わたし、ずっと信じていたの。お父さん、不死身ではなかったの?」 「そんなこと、言わないで」  妻の文恵が低い声で呻《うめ》くと、堪《こら》えきれずに嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。  沈黙が部屋を包む。  文恵の嗚咽だけが生々しく響く。  いったい誰が……。  文恵は自分の指先を見つめながら、最愛の夫を殺した犯人のことを考えた。  宿泊客の中に犯人がいるというの?  警視庁の刑事さんだけがひとりでの宿泊で、ほかの四組の皆さんはカップルだ。パートナーの目を盗んで、人を殺《あや》めることなんかできるはずがない。  刑事さんは、このホテル内にまだ、犯人は居残っていると、自信満々におっしゃっていた。彼の言うことが正しいとすると、いったい誰が?  宿泊客以外でこのホテルにいるのは、わたしと洋子だけ。  まさか洋子が?  実の父親を殺めるなんてことは絶対にあり得ない。第三者がホテルに入り込んだのだ。そうして夫を殺めた後、この嵐に乗じて、どこからか逃げてしまったのだろう。  ドアをノックする音が響いた。 「誰かしら、こんな時間に」  洋子がいぶかしげな表情を浮かべるとひとり掛けのソファから立ち上がった。  ドアのそばまで歩み寄ったところで、どなたですか、とドア越しに立っている人に声を投げかけた。 「警視庁の山田です」 「あっ、刑事さんですか」 「用心されるのは大変けっこうですが、このドア、開けてもらえないでしょうかね」 「ごめんなさい、今、開けますから」  洋子は苦笑混じりに応えると、ドアを開けて刑事を招き入れた。  彼の声を聞いた途端、ホッとして緊張の糸が切れそうになった。頭が真っ白になって、ドアを開けるでもなければ母のもとに戻るわけでもなく、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くしていたのだ。  文恵は居ずまいを正し、刑事が部屋に入ってくるのを待った。こういう時、母親のわたしがしっかりしなくちゃいけないのよ、文恵、頑張りなさい、泣くのはもうおしまいにして、夫を殺した犯人を捜すことに全力を傾けるのよ。胸の裡《うち》で言って弱り切っている心を鼓舞すると、刑事をソファに坐《すわ》るようにうながした。 「何かわかったんでしょうか」 「さあて、どうでしょう」 「ずいぶん濡《ぬ》れていらっしゃいますけど、外に出られたんですか」 「ちょっと調べたいことがありましてね。そうだ、勝手に傘をお借りしましたよ」 「いいんですよ、そんなことは。で、こんな夜更けに、何のご用でしょうか」 「変わったことはありませんでしたか?」 「いえ、べつに」  文恵が応えると、刑事は立ったままの洋子に顔を向けて同じ質問を投げかけた。  眠気に襲われていたのだろうか。  洋子は自分が訊《き》かれているとは思わず、ぼんやりとしていた。 「洋子さん、しっかりして。刑事さんがお訊きしたいことがあるそうよ」 「わたしに?」 「ええ、そう。何か変わったことに気づかなかったかですって」 「何もありません。この嵐ですから、物音も聞こえませんし……」  山田刑事はうんうんとうなずいた。  文恵は深いため息をついた。  警視庁の刑事が泊まっていたこの偶然に感謝したいところだけれど、本当にこの刑事はやり手なのだろうか。初動捜査が肝心だとかなんとか言っていたけど、この人にそんな大切なことができるのかしら。風体がさえないことについては目をつぶるとして、瞳《ひとみ》に輝きがないのが心配だ。  やり手と評される男はたいがい、目に力があるし、瞳の奥から強い光が放たれているものだ。  夫がそうだった。  昨日も、そして殺される一時間程前に廊下ですれ違った時も、そうだった。  ふうっ。  この刑事に事件を解決できるだけの能力があるのかどうか。  とにかく不安だ。  刑事という職業に就いている人ならば持ち合わせているはずの眼光の鋭さもない。この人に任せるしかないけれど、それでも彼が、間違った方向で初動捜査をしていないだろうかという不安が離れない。 「奥さん、もう一度、お訊きしますが、ご主人と最後に顔を合わせたのは、いつだったんでしょうか」 「そのことなら、もう何度もお伝えしましたが……」 「それがですね、さっき、雨の中を外に出た時に、メモした手帳が濡れちゃいまして、奥さんにお訊きしたあたりのページが、読めなくなっちゃったんですよ」 「まあ、そんなことがあるの?」 「いつもなら油性のボールペンを使うんですが、今日はたまたま、水溶性のものしか持っていなかったんですよ。ほんとに申し訳ない。水溶性のものなんか持っていないはずだと思ったんですけどねえ」 「仕方ありませんね」 「で、いつ?」 「夜九時頃だと思います。わたしが調理場から出たすぐ後です。主人は大浴場の脱衣場の整頓《せいとん》を終えたところだったと思います」 「そうでした、わたし、思い出しました。確かにそうおっしゃっていた」 「顔色とか表情とか、しぐさについてもお訊きになるんでしょうから、先に言いますね。普段と変わりなかったですよ」  刑事は呆《あき》れたような顔をした後、照れ笑いを浮かべると、今度は洋子のほうに同じ質問を投げかけた。 「わたしはダイニングルームでお給仕をしていました。父を最後に見かけたのは、九時過ぎだと思います」 「そういうことだったですね。確か、お客さんが誰もいなくなったので、トイレに行こうと思って廊下を歩いている時、チラッと見かけたということでしたね」 「疲れた顔をしていました。ちょうど今の刑事さんのように……」 「わたしのことなど、お気になさらなくてけっこうですよ。いや、どうもありがとうございました」  刑事はそう言うと、腰をあげた。  部屋をゆっくりと見回すと、ドアのほうに歩きはじめた。一瞬、鋭い眼光を放ったように見えたが、すぐにまたこれまでどおりのくすんだ目の色に戻った。 「あの刑事、大丈夫かしら。ねえ、お母さん」  洋子が不安げな声をあげた。文恵は黙ってうなずくと、屈《かが》み込んでソファの肘掛《ひじか》けに頬を寄せた。     2  刑事が部屋のドアを閉めた。  風雨の激しい音に混じって、刑事の荒々しい足音が廊下から聞こえた。  洋子はドアに向かうと、内鍵《うちかぎ》をかけた。振り返って母に目を遣《や》ると、ソファの肘掛けにまだ頬をつけたままだった。  泣いているのかしら。いくら涙を流しても父は戻ってはこないのだから、これからどうやってホテルを切り盛りしていくのかを考えるべきではないの? 泣いている場合ではないんじゃないかしら。  殺されたということを知られたら、いや、それを知られなくても、とにかくホテルは休業しなくてはならない。  初七日まで? それとも四十九日の法要が済むまで? 一カ月以上も休業したら、このホテルはおしまいだわ。  堪《こら》えていた涙が溢《あふ》れ出てくる。  洟《はな》をすすると、もう一度母を見遣った。  うつむいたままだ。  さすがだわ、母は……。  刑事の前で気丈に振る舞ったことに感心したのではない。父について、最小限のことしか話さなかったからだ。  洋子は薄々気づいていた。  両親は不仲だった。  仕事上の会話は交わしていたが、プライベートではほとんど話をしなかった。そんな状態が、かれこれ三年くらいつづいていただろうか。  姉の裕美《ひろみ》はそんなささくれだった雰囲気が嫌で、何かと理由をつけては出かけてばかりいた。今回の家具の買い付けも、必要ないと言えば必要ないことだった。  父は不倫していた。  確かな証拠はない。  女の勘だ。いや、娘としての勘といってもいいかもしれない。いずれにしろ、母との不仲は決定的に思えた。毎日一緒に暮らし、働いていると、目に見えない空気を敏感に感じ取れるものだ。  不倫関係のもつれから殺人事件が起こったという可能性だってあるはずだ。  そういう情報を刑事に伝えなかったのは、父やホテルの体面を考えてのことかもしれないが、隠し事をしている場合かと思った。今はとにかく、犯人を捕まえてもらうことが先決であって、そのためには知っていることをすべて話すべきなのだ。 「洋子、どうしたの? そんなところにボーッと突っ立っていて」  母が顔を上げた。ずいぶん長く泣いていたせいで、目元が腫《は》れていた。自分も同じかもしれないと思い、これ以上は泣きたくないなと感じた。  それにしても……。  母は何に対して泣いているのだろう。  最愛の夫を殺されたという悲しみではないと思うからだ。殺されてしまったというショックのせいで涙が止まらないのか。不倫を問い詰められなかったことへの悔しさか。それとも、曲がりなりにもこの家の、このホテルの大黒柱を失ってしまったという不安に涙が引き出されているのか。 「お母さん、そろそろ、寝たほうがいいんじゃないの? 今は気が張っているだろうけど、躯《からだ》はすごく疲れているはずよ」 「そうね、ありがとう。洋子もそうじゃないかしら」 「わたしもすごく疲れた。もう一時だわ、そろそろ寝るわね」 「洋子、部屋に戻っちゃうの?」 「そのつもりだけど……」 「ねえ、今夜だけは、一緒の部屋で過ごしたほうがいいはずよ」 「そうね、ふたりでいたほうがいいかもしれないわ。刑事さんの推理したように、ホテルの中にまだ犯人がいるとしたら、わたしたちも狙われるかもしれないし……」 「お願いだから、そんな怖いこと、言わないでちょうだい」 「だって本当だもの」 「わかっているわ。でもね、言葉にはっきりと出されると、不安は強まってしまうものなのよ」  母の心細そうな顔を見て、洋子は自分の部屋に戻るのをやめた。  リビングルームの奥に、両親のベッドルームがある。滅多にそのドアを開けることはなかった。  最近で記憶に残っているのは、一年くらい前のことだ。その時は、夜中に腹痛を起こした女性客の対応に困ってしまい、仕方なく部屋に入った。  ツインのベッドが部屋の中央にあったが、ふたつのベッドの間隔が二メートル近く開いていた。客室のツインベッドの間隔は八〇センチ程で、それを見慣れていたから驚いた。  夫婦関係が冷めていることを目の当たりにした気がして、気持が暗くなってしまったことをよく覚えている。  母に先にシャワーを浴びてもらった。その間に洋子は洗面所で化粧を落としたり、歯磨きなどを済ませた。  ふたりがベッドルームに入ったのは、それから三〇分程経ってからだった。  パジャマに着替えた母がためらいがちに声をかけてきた。 「今夜だけは、わたしがお父さんのベッドを使わせてもらいますね」 「そうね、そのほうがお父さんも喜ぶわよ、きっと」  母が父のベッドに入った。  それを見届けてから洋子は母のベッドの掛け布団の下に潜り込んだ。  母の匂いがした。  ふうっとため息をつくと、全身から力が抜けていくのがわかり、そこで初めて、ずっと緊張していたのだと気づいた。  サイドテーブルの明かりを消した。  ベッドルームが闇に包まれる。  雨足がいちだんと強まっている。窓を打ちつける雨粒も大きくなっているようだ。  闇の中に雨音が響く。  洋子は父のことを想った。  不死身だって言っていたのに、どうしちゃったのよ、お父さん……。  涙が溢れた。仰向《あおむ》けになっているために、頬になかなかつたっていかなかった。自分の涙の量が減ってしまったのではないかと思ったくらいだ。  瞼《まぶた》を開き、そしてまた閉じた。その拍子に涙が両頬をつたっていった。自分はまだ悲しんでいるんだと、その涙を感じて安心するとウトウトしはじめた。  どのくらいの時間が経っただろうか。  何がきっかけで目が覚めたのかわからないが、洋子はふいに瞼を開いた。  闇の中でじっとしていると、時間の経過がわからない。眠気は感じなかった。洋子は母のほうに顔をわずかに向けると、 「ねえ、起きてる?」  と、囁《ささや》くような声を投げかけた。  母からの返事はなかった。  眠ってしまったのだろうか。  それとも話をしたくないのだろうか。  洋子はもう一度声をかけようとしたが、思いとどまった。頭を元に戻していると、母が寝返りを打ち、声をかけてきた。 「起きているわよ、どうしたのかしら? 洋子ちゃん」 「ねえ、お母さん」 「なあに?」 「どうしてお父さん、殺されたのかな」 「わからないわ」 「そうね」  洋子はそこで言葉を呑《の》み込んだ。女性関係のもつれではないかとか、闇金融からお金を借りているのではないかとかいったことを訊《き》きたかったが、そんなことはできなかった。 「お母さん、本当は何か知っているんじゃないかしら」 「知っているって、何を?」 「だから……」 「うん? 言ってみなさい。これ以上、わたし、驚くことなんてないから」 「だったら訊くわ。お父さん、女の人がいたでしょ」 「どういうこと?」 「わかっているくせに」 「そんなこと、知らないわ。お父さんとの仲はあまり良くなかったけど、だからといって、お父さんがほかに女の人をつくっているなんてあり得ないわ」 「そう?」 「そうよ」 「わたし、何度も電話を取っているの。お客様ではないわ、お父さんのことを名指しで呼び出していたから」 「同じ女性?」 「そう」 「仕事の関係の人でしょ、きっと。そんな女性がいたら、携帯電話にかけるに決まっているもの」 「そう言われてみれば、そうね」  洋子はそこで言葉を切った。  母に軽くかわされてしまったと思い、これ以上、何も訊きだせない気がして、瞼を閉じた。     3  この子はいったい何を知っているの?  闇の中にうっすらと浮かぶ洋子の寝姿を見ながら、文恵は躯を硬くした。  それにしても、我が子とはいえ、こんなにも変わり身が早いとは……。  洋子は絶対に父親を憎んでいたのに、亡くなったと知らされた瞬間から、父を慕う娘を演じるようになったのだから。  演じているというのは不謹慎な言い方かもしれない。彼女にとって精一杯の気持の表現と温かく見たほうがいいだろう。  それにしても洋子がなぜ、不自然なまでに変わったのか。  憎しみは愛情の裏返しだという言葉があるから、亡くして初めて、父を敬愛していることに気づいたのかもしれない。  洋子は芯《しん》の強い子だ。たとえ敬愛していたとしても、それをいきなり表すとはとても思えない。彼女の変わり様をもしも他人が見たとしたら、自然な感情の移ろいととるだろう。  わたしはそうは思わない。  我が子だからこそ、手塩にかけて育ててきた娘だからこそ、そう思うのだ。 「洋子……」 「なあに、お母さん」 「本当のことを知りたいんだけど、話してもいいかしら」 「本当のこと?」 「あなた、お父さんのこと、憎んでいたでしょ。わたしにはわかっているのよ」 「そんなことないわ」 「あなたはあの時から変わったの」 「あの時?」 「そう、あの時……」  文恵はそこまで言うと、ふうっとため息を闇の中に吐き出した。  二年前のことだ。  洋子が恋人を伴って、この島にやってきた。  髪を茶色に染めた男だ。  今となっては名前も思い出せない。  単なる恋人ならば問題はなかったが、洋子はその男と結婚したいと切り出したのだ。  夫は猛反対した。  当然だった。  大学に行っているということだったが、よくよく訊いてみると、ロックバンドをやっていて、留年を重ねているということだった。嘘か本当かわからないけれど、大学七年生と自嘲《じちよう》気味に自己紹介したのを覚えている。  反対したのは夫だけではない。  文恵も同じだった。手塩にかけてきた子どもを、夢だけに生きている男になど渡せるはずがなかった。 「あの時って、ヒロ君とのつきあいをやめなさいと言われた時ね」  洋子がきっぱりと言った。寝返りを打ち、こちらに顔を向けてきた。 「あれからだわ、あなたがお父さんに距離をとるようになったのは」 「お父さんだって、昔はバンドをやっていたってことを聞いていたのに、なぜ、わたしがつきあっちゃいけなかったのかしら」 「娘の将来を考えたのよ。その彼、デビューできたの?」 「だめだったみたいね。時々、小さなライブハウスに出演はしているみたいだけど」 「お父さんの目は正しかったのね」 「どうかしら、それは」 「貧乏が目に見えていたから、苦労させたくなかったのよ」 「その気持はわかるし、ありがたいとも思う。でもね、わたしは貧乏よりも夢のない暮らしのほうが辛《つら》かったの」 「そんなこと言っても、今はお父さんに感謝しているでしょ?」 「どうして?」 「結婚を反対したからこそ、こうして今の暮らしができているんじゃないの。貧乏は辛いわよ。あなたはそんな経験をしたことがないから、わからないだけなの」  文恵はそう言うと、瞼《まぶた》を閉じた。  洋子の恋人のことで夫と激しく口論した時のことが脳裡《のうり》にくっきりと浮かんだ。  夫は黙っていた。  反対はしているけれど、心の奥底ではさほど反対していないのがわかり、文恵はそれがひどく不愉快だった。 [#ここから1字下げ] ──いいじゃないか。洋子の好きにさせれば。ぼくたちが、彼女の一生の面倒を見てあげられるわけでもないんだから。好きになった男と一緒になればいいんだよ。 ──あなたは娘たちに、本当に甘いのね。言い方は悪いけど、どこの馬の骨かわからない男に持って行かれるなんて、わたしは絶対にいやよ。 ──ぼくが悪者になるしかないのか。 ──そうよ、あなたにしかできないの。洋子はわたしの言うことなんか聞く子じゃないから。あなたがビシッと反対してくれたら、あの子も聞くと思うの。 ──気が進まないな、やっぱり。 ──どうしてなのよ。子どもの将来を考えれば、反対するのが当然なのに。 ──とてもそうは思えないな。 ──どういうこと? ──好きな相手と結婚するのがいちばん、幸せになると思うんだよ。 ──それはまるであなたが、好きな相手と結婚しなかったみたいな言いぐさね。 ──今さら、そんなことを言わなくたって、わかっているだろ、君も。 [#ここで字下げ終わり]  そんなやりとりが何日もつづき、結局、夫が悪者になって反対することに渋々ながらも承諾してくれたのだ。  洋子はそのことを知らない。だからこそ、『結婚するなら、勘当だ。絶縁する』と父親に宣言されて以来、父親を避けるようになり、相談事があると、わたしにだけするようになったのだ。  父に対する洋子の態度はひどかった。あからさまに不快な表情を平気で見せたし、まったく口をきかないということを何日もつづけた。  もしもこの事実を知ったとしたら、わたしに対する憎しみは夫へのものの数倍にもなるに違いない。 「ねえ、お母さん」  洋子の声が雨音に混じって聞こえてきた。先程の高ぶった声からすると、ずいぶんと落ち着いたものになっている。 「わたし、彼とまだつづいているの」 「本当なの?」 「ええ……」 「別れたって言っていたじゃないの」 「あの時は別れたわ。でもね、いつだったか彼からライブハウスに招待されたことがあって、それ以来、またおつきあいをするようになったの」 「どうやって? その人、ヒロ君って言ったわね、彼は東京でしょ? あなたはたいがいここにいるじゃないの」 「彼が時々、来てくれていたの」 「このホテルに?」 「まさか。いくらなんでも、そんなことするはずないじゃない」 「わたしたちの目を盗んで、あなたが下田に渡っていたの?」 「ええ、そうなの。それとね、ほら、この島の船着き場の近くに一軒、空き家があるでしょ。そこに彼が来ていたのよ」 「あんなところで会っていたなんて……」 「場所は関係ないわ。すごく幸せな時間を過ごせたもの」 「洋子……」 「何? お母さん」 「どうしてそんな話を打ち明けてくれたのかしら。わたしが反対しないとでも思っているみたいね」 「だって、猛反対していたお父さんが今はもういないから……。それに男手が必要よ、このホテルをやっていくためには」 「まるで結婚して、ここでそのヒロ君が働くみたいな口ぶりね」 「そうよ」 「何、言ってるの。冗談でしょ」 「そのつもりなんだけど」  洋子があっさりとそう言った。  娘がいつ、その男とそんな話をしたのだろうか。  夫が亡くなることを前提に話をしていたとしか思えないわ……。  文恵はふっとそう思った。  身震いした。  夫を殺したのは娘?  そのヒロ君という男?  文恵はまたしても身震いした。瞼を開けると、唸《うな》るようにして咳払《せきばら》いをした。  もしそれが本当ならば、悪夢だ。  そして夫が反対していたのではなく、わたしのほうだと知ったら……。  文恵は息を呑《の》んだ。そして、今度は先程よりも大きな身震いをした。     4  風が弱まったらしい。  嵐は峠を越えたのかもしれない。  洋子も寝付けないらしく、何度も寝返りをうっている。  文恵は何度目かの寝返りをうつと、窓に当たる雨音に耳を澄ました。  夫の顔が瞼にすっと浮かぶ。けれども語りかける間もなく消えていく。  これからどうしたらいいのか……。  ホテルをどうやって切り盛りしていくべきなのだろう。洋子が言ったように、おつきあいを反対したヒロ君に手伝ってもらったほうがいいのかもしれない。  ドアの向こうから電話の呼び出し音が聞こえてきた。  こんな深夜に電話?  胸騒ぎがした。  夜中の電話にいい知らせはない。  東京に家具の買い付けに出かけている裕美が事故でも起こしたのかもしれない。  父親の死を知らせていた。けれども今夜は嵐だし、帰るための足がないから、帰ってくるのは明日でいいと言っておいた。  どうしよう。  洋子よりもずっと頼りになる裕美にまで、何かが起きていたら……。  胸騒ぎが強まり、息をするのも苦しい。  電話は鳴りつづけている。  出たくない。  不幸なことがこれ以上つづいたら、心がもたない。  文恵はぐったりしながらも、ベッドを下りた。洋子の様子をうかがったが、うつらうつらしているからか、呼び出し音に気づいていないようだった。  静かにドアを開けると、洋子を起こさないようにするために素早く閉めた。  キッチンの脇に置かれている電話機に足早に向かう。  呼び出し音が胸に迫ってくる。助けを求める音に思えて、受話器をとる前に深呼吸をひとつした。  裕美の声が受話器から聞こえてきた。  よかった……。  胸騒ぎはしかし、まだつづいている。娘が無事かどうか、彼女の口から聞くまでは安心できない。 「裕美、大丈夫?」 「わたし? ちょっと眠いけど、元気よ、とっても。それより、お母さんは大丈夫なの?」 「洋子がいてくれたから、なんとかなっているけど……。そんなことより、裕美、今どこにいるの?」 「下田まで戻ってこられたわ」 「いったいどうやって。あなたに連絡したのは一〇時を過ぎていたでしょ。そんな時間にレンタカーなんて借りられないんじゃないの」 「そうなの、どこもやっていなかったの。それでね、東京にいる友だちに頼んで、車を出してもらったのよ」 「そのお友だちが車の運転をしてきたのね」 「ええ、そう。東京から下田まで、ひとりで運転させちゃった。わたし、お父さんのことで動揺しているから、運転しないようにしたの」 「雨はどうなの?」 「ひどい降りだったけど、今はそうでもないかな。わたし、このまま車で朝を迎えるわ。この時間じゃ、宿に泊まれるわけないから」 「裕美、訊《き》きたいことあるんだけど、いいかしら」 「何?」 「洋子のことなんだけど……。あの子がヒロ君っていう男性とつきあっていたこと、あなた、知っていたの?」  すぐに返事があるのかと思ったが、受話器から裕美の声は聞こえてこなかった。電波状態が悪いせいだろうか、それとも返事を意図的にしていないのか、どちらなのか文恵にはよくわからなかった。 「ねえ裕美、聞こえるの?」 「そんなに大きな声を出さなくてもよく聞こえているわ」 「だったら、どうして応《こた》えないのよ。わかった、それで。もう十分、答になったわ。知らなかったのは、わたしとお父さんだけだったのね」 「ううん、違う」 「何が違うの?」 「知らなかったのはお母さんだけ」 「えっ……」 「洋子がヒロ君とこっそりとつきあっていることは、彼女から打ち明けられたの。それをわたしが、お父さんに教えたの」 「どうして。なぜわたしにだけ? わたしだけ除《の》け者にしたのね」 「反対したからよ、お母さんは」 「お父さんよ、反対したのは」 「そうじゃないでしょ? わたし、お父さんから、本当に反対しているのはお母さんのほうだって打ち明けてもらったの」 「そんなことを……」 「お母さんは意外に思うかもしれないけど、これでもわたし、お父さんとは仲が良かったんだから」 「そうだったの。反目しあっているように見えていたけど、わたしには」 「家族でも、夫婦でもわからないものね」 「がっかりだけど、そうみたいね」 「ところで、洋子は今、どうしているの?」 「わたしのベッドで寝ているわ」 「そうなの? ということは、ヒロ君もそこにいるのね」 「どういうこと?」 「えっ。いないの、そこにヒロ君は」 「いるわけないでしょ」 「今日、そっちに渡るっていうことを、洋子から聞いていたんだけどな」 「そんなこと、聞いていないわ」  文恵はそう言いながら、洋子がヒロ君との逢《あ》い引きのために使っていたという廃屋のことを脳裡《のうり》に浮かべた。彼はあそこで待っているのだろうか? ということは、洋子はわたしが寝るのを息をひそめて待っていたのかもしれない。わたしが寝入った後、ホテルを出て、彼に会いにいくつもりだ。 「あなたはまさか、この島にいるなんてことはないでしょうね。ほんとに下田にいるのね?」 「もちろん、そうよ。どうやってこの嵐の中、島に渡れるの?」 「そうね、そうよね。裕美、今夜はもうどこにもいかずに、そこでじっとしていなさい。朝になれば天候も回復するということだから、船が出るはず」 「言われなくても、そうするつもり」  裕美とのやりとりはその後、互いに励ましあったところで終えた。  文恵は受話器を置くと、ソファまでやっとの思いで歩いていき、躯《からだ》を投げ出すようにして横になった。  考えることがたくさんあって、何から先に整理していいのかわからない。  ため息を何度かついたが、息苦しさが増していくような気がして呼吸することへの意識を逸《そ》らした。  ヒロ君は、あの廃屋にいるのだろうか。いや、この嵐だ。まさか、いるはずがない。  今すぐにでも洋子を起こして問い質《ただ》したほうがいいかもしれない。いや、彼女のことだから、そんなことをすれば怒りだしかねない。  ヒロ君がホテルの手伝いをしてくれるようになった時のことを考えると、今は波風を立てないほうが得策かもしれない。  そんなことを考えるうちに、思いもよらないことが脳裡を掠《かす》め、文恵は横になりながら大きく身震いした。  夫を殺したのはヒロ君だったのか?  あの刑事は、この島にいるのはホテルに滞在している客だけだと思っているはずだ。ヒロ君がもし、犯人だとしたら、刑事には犯人を見つけだすことはできない。  ヒロ君のことを刑事に話すべきだろうか。  それはできない。  わたしにはできない。  彼とのつきあいについて大反対したという負い目がある。娘の幸せを願うならば、そんな密告めいたことはできない。それにホテルを手伝ってくれることになるかもしれない男性なのだ。  その時だ。  寝室のドアが開いた。  文恵は驚いて上体をさっと起こした。  洋子だ。  パジャマから外出着に着替えを済ませていた。 「わたし、ちょっと出かけてきます」 「出かけるって、こんな時間に。行くところなんてないでしょ」 「いいの、気にしないで。お母さんは心配しないで寝ていてちょうだい」 「ヒロ君に会いにいくんじゃないでしょうね」 「ははっ、まさか」  洋子が気色《けしき》ばみながらも口元に笑みを湛《たた》えた。顔がひきつっていた。  文恵は何も言わなかった。どう言っていいのかわからなかったのだ。  洋子が部屋を出ていく。  文恵は彼女の後ろ姿を震えながら見守るしかなかった。     5 「遅かったなあ。もう、来ないかと思ったよ」  窓際に据えられた簡易ベッドに横になったまま、今井浩志《いまいひろし》が声を投げてきた。  洋子はドアを閉めると、レインコートを脱ぎ、雨粒を拭《ふ》き取った。それから浩志の元に足早に寄っていった。 「ごめんなさい、遅くなっちゃった」 「この嵐だから、来られなくても無理もないって諦《あきら》めてたんだ」 「いろいろなことがあって、大変だったの」 「親父さんとまた喧嘩《けんか》でもしたのか?」 「ううん、違うの」 「今、何時かな。携帯電話の充電が切れちゃったんだ」 「腕時計は?」 「急いでいたから、下田に駐《と》めた車に置いてきちゃったんだ」  洋子は腕時計に目を遣《や》った。  午前二時ちょっと前だ。  小雨になったかと思ったら、今度は強風が吹きはじめた。海岸に臨むこの家は直接、強烈な風が当たる。窓が音を立てて揺れる。家全体がミシミシと不気味な音をあげる。  両親はこの家を廃屋だと思っているが、実は洋子と裕美で金を出し合って、二カ月程前にリフォームを完成させていたのだ。外観は今までどおり廃屋に見えるようにしておき、その内側だけを徹底的に改装した。両親にはもちろん内緒にしていて、業者にも口外しないように頼んでいた。  部屋は二〇畳程の広さのワンルームだ。キッチンもシャワーブースも備えてある。ヒロ君のたっての希望で、中古品ではあるけれど外国製のスピーカーとアンプもセットしてあった。 「おいでよ、こっちに」  ヒロ君がまた手招きすると、屈託のない微笑みを湛えた。 「ごめんね、ヒロ君。今夜はとてもそういう気分になれないの」 「寂しかったんだぞ……。洋子の体温だけでも感じさせてくれないかな。一二時間以上も待たされたんだからな」  洋子は曖昧《あいまい》な笑みを浮かべながら、小さくひとつため息をついた。  父が殺されたことを話してしまったほうがいいかもしれないと思ったが、その想いをぐっと呑《の》み込んだ。  一時間程したら、彼をここにひとりきりにすることになる。朝まで一緒にはいられないからだ。殺人犯がこの島にいるわけだから、そんなことを話せば怖がるに決まっている。ホテルで夜を明かしたいと言い出されたら困ってしまう。  そうなったら自分だけでなく、ヒロ君も困るのが容易に想像がついた。  刑事は今もきっと犯人捜しに血眼《ちまなこ》になっているはずだ。そんなところに、ホテルの宿泊客以外に、この島にいた人物として彼を連れていったら、犯人にされてしまう。ひとりきりでいたのだから、アリバイを証明する人はいない。  ヒロ君はわたしとのつきあいや結婚を父に反対されている。父を憎んでいたと言われても反論できない。  実際、彼は父を憎んでいた。何度か『おまえのお父さんがいなくなったら、おれたちもっと堂々とつきあうことができるんじゃないかな』といったことを口にしたこともあった。  洋子はそんなことを考えるうちに、ギクリとして躯がこわばるのを感じた。  ヒロ君が父を殺した?  そんな……。  恋人の父親を殺すなんてことがあるの?  彼は突拍子もないことをすることはあるけど、世間一般の常識を備えた社会人だ。息苦しさが増して、肩で大きく深呼吸をした。  気分が悪くなってきた。  ベッドに坐《すわ》った。  空気を充填《じゆうてん》する簡易ベッドが揺れた。 「何かあったのかい、洋子」  不機嫌だった表情を変え、ヒロ君が楽しげな声をあげた。耳が隠れるくらいの長さの髪を指先で掻《か》き上げると腕を伸ばしてきた。  手首を握られた。  指もてのひらも冷たかった。殺人鬼の手のような気がして、洋子は咄嗟《とつさ》に手を引っ込めた。 「何があったか知らないけど、機嫌直して欲しいよなあ。はるばる東京からやってきたんじゃないか。会うのだって、二カ月ぶりだよ」 「わかってるけど……」 「まったく、しようがないなあ」 「ねえ、ヒロ君、今日、何していたの?」 「何って?」 「この港に着いてから今まで……」 「次のライブで発表する新曲の練習ってとこかな」 「ずっと? そんなに練習好きだったかな」 「ははっ、ひどいこと言うな」 「ねえ、どうなの」 「午後からひどい雨になって、どこにも出かけられなくなったからさ、仕方なく暇|潰《つぶ》しに練習していたよ」 「どこかに出かけた?」 「出ていないよ」  洋子はヒロ君の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。  嘘をついているような光はなかった。ライブハウスの公演の終盤、放心状態になっている時の澄んだ瞳に似ていると思った。  ヒロ君は嘘をついていない。  躯からこわばりが解けていく。緊張の糸が切れる気がして、洋子は倒れ込むようにしてベッドに横になった。ヒロ君がつづけて横になると、肩に腕を回してきた。 「ごめんなさい、ヒロ君……。ほんとに今夜はその気にならないの」 「いいじゃないか」 「ホテルでね、ごたごたがあったの」 「どうせ喧嘩でもしたんだろ?」 「あの……、驚かないで」 「言ってみなって。驚くかどうか、聞いてから決めるから」 「変な言い方しないで。とっても深刻なことなんだから」 「わかった、よし、言っていいよ」  ヒロ君が深呼吸をひとつした。じゃれあっている時のやわらかい表情から一変した。  彼はお調子者だけど、心は純粋で素直だ。こういう時、さっと気持を切り替えられるところがいい。上っ面だけではなく、心の底から気持を切り替えられる柔軟さがあるのだ。 「お父さんが……」 「どうした」 「死んじゃったの」 「えっ」 「殺されたの、誰かに」 「誰に」 「わからない。夜一〇時前後らしいの。偶然、警視庁の刑事さんが泊まっていて、犯人について調べてくれているんだけど、まだ捕まっていないの」 「この嵐だから、島からは出られないんじゃないかな」 「そうなの、だから犯人は今も、島のどこかにいるはずなの。ホテルのお客さんの中の誰かなのか、それとも、父に恨みのある人がこっそりと上陸していたのかもしれない……」  洋子はそこまで言うと、嗚咽《おえつ》を洩《も》らした。  涙なんかもう出てこないくらい泣いていたのに、そんなことはなかった。ヒロ君の顔が滲《にじ》んだと思ってまばたきをしたら、大粒の滴が溢《あふ》れ出た。 「わたし、怖い」 「うん」 「強く抱いて」 「かわいそうだったな、お父さん」 「ああっ、そんなこと言わないで。わたし、涙が止まらなくなっちゃいそう」 「ごめん」  洋子はうなずくと、彼にしがみつくようにして腕を絡めていった。恋人と一緒にいる瞬間だけでも、悪夢のような現実から逃れたいと思った。     6  ヒロ君の顔が近づく。  彼のくちびるに吸い寄せられていく。  洋子は瞼《まぶた》を閉じると、彼にしなだれかかるようにして上体をあずけた。  くちびるが重なる。  小雨だったとはいえ、雨に打たれてきたせいで、くちびるがひどく冷たい。彼のぬくもりが伝わってきて、ホッとした。  くちびるだけでなく、冷えきった心もほぐれていく気がして、躯《からだ》の芯《しん》の緊張が解けていくようだった。  舌を差し入れてくる。  唾液《だえき》を吸われる。  舌を吸ってくる。くちびるをこちらの口の中にまで入れて吸引する。一二時間以上も待たせていたせいで、ヒロ君のキスはいつもよりも情熱的だ。  彼の陰部に手を伸ばした。  待たせてしまってごめんなさい、という意味合いを込めた。  パジャマ代わりとしてこの部屋に置いてあるチノパンを穿《は》いていた。股間《こかん》の部分が盛り上がっている。皺《しわ》のできているそれを、指先ですっと撫《な》でる。 「洋子、しようよ」 「今日はやめておきましょ」 「そうだな、やっぱり」 「我慢できる?」 「そう思うかい、洋子は」 「できないわよね、きっと」 「まあ、そういうことかな……。でも、洋子はしたくないんだよね」  洋子は黙って微笑みを湛《たた》えた。  右手ではズボン越しに陰茎を摘《つま》んだり、撫でたりをつづけていた。  このまま何もしないというのもかわいそうだから、ヒロ君を気持よくしてあげよう。  陰茎を一度強く握った後、ファスナーを下ろした。ズボンのボタンを外すと、パンツに指を入れた。  股《また》ぐりのほうから指を差し入れる。  火照《ほて》りと湿り気が湧き上がってくる。陰茎はすでに硬く尖《とが》っていて、ふぐりも縮こまっている。 「今日はずいぶんと大胆だね」 「待たせちゃったから……」 「そんなところから手を入れたら、窮屈じゃないか」 「たまにはいいでしょ? こういうのも」 「東京からやってきた甲斐《かい》があるよ」 「あん、元気。おちんちんも喜んでる……」  陰茎がパンツの中で何度も大きく跳ねる。これ以上硬くならないだろうと思って握っているのに、てのひらの中でさらに膨脹していくのをはっきりと感じる。  長いつきあいをしているから、セックスの時もあけすけなのだ。それは時として妖《あや》しい雰囲気を壊すことになるのだが、今夜は敢《あ》えてそんな会話をつづけた。妖しさだけになってしまうと、父のことを思い浮かべてしまいそうだったからだ。  洋子は陰茎から手を離した。そしてパンツのゴムに指をかけ、いっきに引き下ろした。  蛍光灯の明かりを浴びても、陰茎は淫靡《いんび》な色合いに変わりはなかった。赤黒く染まっていて、ぬめりを湛えている。あと少し刺激を加えたら、そのまま白い樹液を放ってしまいそうに思えるくらいの張りつめ方に見えた。  ヒロ君が腰を二度三度と小さく突き上げた。それからゆっくりと足を開き、そこに入ってくるように黙ってうながしてきた。 「時間をかけて舐《な》めて欲しいな」 「露骨な言い方はしないでったら」 「ずっと待っていたんだから、それくらいは勘弁して欲しいな」 「ごめんなさいね、ほんとに」 「よりによって、おれが来る日に、そんなことが起きるなんてなあ」 「ヒロ君とは関係ないわ」 「まあ、そうだろうけど、愛《いと》しい洋子に会える時間が少なくなっちゃったんだから、おれは犯人を恨むよ」 「わたしもそう。これからどうやってホテルを切り盛りしていいのか、わからなくて。お母さんは頼りないから」 「そうかな……。おれを見る目ったら、厳しかったのになあ」 「気に入らない相手にだけ、厳しいの。本当は自分に甘い人なのよ」  洋子はため息をひとつ吐くと、陰茎を垂直に立てた。火照りが強まっている。幹の芯に脈動が駆け上がっていくのをてのひらではっきりと感じ取れる。  陰茎を口にふくんだ。  ヒロ君の欲望が、陰茎の先端からはっきりと伝わってくる気がする。この人はとにかく、白い樹液を放ちたいのだ。そうしなければ冷静な判断もできないし、親身になって話もできなくなっている。  口の奥深くまで陰茎を呑《の》み込んだ。  幹の裏側で迫《せ》り上がっている嶺《みね》を弾《はじ》きながら、つけ根を握っている指先に力を込める。それをつづけた後、顔を上げて笠《かさ》の裏側の敏感な筋に舌を這《は》わせる。笠にくちびるをあてがい、細い切れ込みをめくってくる。 「すごくいい気持だ、洋子」 「わたしもそう……。ヒロ君、ずっと一緒にいてね」 「もちろんそうするよ。それにしても、犯人誰なのかな」 「ヒロ君、誰か怪しい人を見なかった?」 「ずっとここにいたからな。でも、ちょっと待てよ」 「何?」 「何時だったかな、親父さんが酷《ひど》いことになったのは」 「刑事さんによると午後九時から一〇時までの間だろうってことなの」 「おれさ、その時間、たまたまだけど、ホテルに行ったんだ」 「ほんと?」  洋子は思わず陰茎を離した。  ヒロ君は何かを目撃したのか。 「洋子は来ないし、連絡もつかない。しかもすごい嵐だ。孤立したと思って、心細くなったんだ。それで助けを求めるつもりで頑張ってホテルに向かったんだ」 「ホテルに入ったの?」 「玄関の前まで辿《たど》り着いたけど、ちょうど、親父さんの後ろ姿がガラス越しに見えたんで、入るのを止めたんだよ」 「何時のこと? 正確に時間はわからないかしら」 「玄関の正面に大きな柱時計が置いてあるだろ? あれがチラと目に入った」 「ねえ、何時だった?」 「一〇時一五分くらい前だったかな」 「ということは、父はその時間は生きていたということね。誰かと一緒だったの?」 「たぶん……」  洋子は身震いした。  玄関ホールの突き当たりを右に折れた先にプレイルームがある。ヒロ君はもしかしたら、生前の父の姿を見た最後の人かもしれない。 「たぶん、とはどういう意味?」 「その時の様子がね、誰かを追いかけているような気がしたんだ。手招きをするように、右手を上げていたんだよ」 「誰だったの、相手は」 「わからないな、それは。追いかけている相手はちょうど、廊下の角を曲がった後だったみたいだからさ」  洋子は父とすれ違った時のことを思い返した。手招きされてもいないし、背中に声をかけられてもいなかった。  母だろうか?  母かもしれない……。  いや、母に違いない。  洋子はまた身震いをひとつした。  恐怖が肌に張りついた気がして、息を詰めた。母が父を殺したのか……。  母はホテルを廃業したいと何度かこぼしていた。それを父が断固、つづけるということで説得していたのだ。でもまさか、そんなことが動機になるのだろうか。  そこまで考えてきたところで、母はずっと我慢していたんだと気づいた。ホテル経営のこともそうだし、父の浮気についても我慢をつづけていた。我慢すべきことが重なり、ついに今夜、爆発したのかもしれない。  帰って母を問い詰めよう。 「ごめんなさい、ヒロ君。わたし、帰るわ。どうしても帰らないといけなくなったの」 「おれの話で何か気づいたのかい」 「そうよ」 「おれも一緒に行こうか」 「だめ、あなたは。犯人にされかねないから。今夜はここにいて。わたしが迎えに来るまで絶対にホテルに来ないでね」  洋子はきつい口調で言った。  簡易ベッドから下りると、スカートの裾《すそ》を直して玄関ドアに向かった。     7  部屋のドアが閉まる音が、寝室で横になっていた文恵の耳に届いた。  洋子、やっと帰ってきたわね。いったいこの娘はどこに行っていたの……。  胸騒ぎにも似た高ぶりが全身に拡がる。  寝返りを打って、ベッドサイドの置き時計に目を遣《や》った。  午前二時半過ぎだ。  寝たふりをすべきなのか、それともリビングルームに顔を出したほうがいいのか、文恵は迷った。  この風雨の中を外出することは考えられない。とすれば、彼女は空いている客室にでも行っていたのだろうか。それとも、夫の遺体を安置しているプレイルームで、彼女は父親としばらく一緒にいたのだろうか。いや、それは考えられない。家族の誰よりも怖がりの洋子が、いくら父親とはいえ、亡骸《なきがら》とともに過ごすとは思えなかった。  やはり、出迎えよう……。  文恵は起き上がって背筋を伸ばすと、乱れた髪を指先で掻《か》き上げて整えた。そしてドアの向こう側にいる洋子に聞こえるように大きな咳《せき》を二度三度してから立ち上がった。  ドアを開けた。  ソファに坐っている洋子が目に入った。  出かけた時の服装のままだ。  頭をバスタオルでくるんで髪を乾かしているようだった。  ホテルを出たのか……。  文恵は頭がクラクラとした。可能性が低いこと、いや、そんな可能性などないと思っていたことだった。 「あっ、お母さん、起こしちゃった?」 「おかえり……。洋子ちゃん、こんな時間に、どこに行っていたの?」 「うん、ちょっとね」 「そんな風に言われたって、今夜だけは引き下がりませんから」 「どういう意味、それは」  洋子の口調に挑戦的な響きがこもっている気がして、文恵は臆《おく》しそうになった。彼女が本気で怒ると怖いことはわかっていたからだ。だからといって、このまま引き下がるわけにはいかなかった。  文恵の心には、一家の大黒柱になったのだからしっかりしなくてはいけない、自分が家族をまとめていかなくては……、といった自覚が芽生えていたからだ。 「母親に向かって、なんていう口のきき方をするの。お母さん、怒りますよ。洋子、どこに行っていたの、言いなさい」 「わたしはもう、二五歳なの。自分の行動には責任を持っているつもりよ。お母さんに迷惑をかけたりもしないわ」 「答になっていません」 「そんなに訊《き》きたい?」  バスタオルを頭から取ると、洋子が念を押すように言った。  頬が紅潮している。  怒っている顔だった。  瞳《ひとみ》を覆っている潤みが波立っていた。興奮すると涙目になるのが娘の特徴だとわかっていたが、それでも彼女の気持を鎮めようとはしなかった。 「当然です、そんなことは。それにあなたにだって、正直に話す義務があるんです」 「義務? お母さんたら、お父さんがいなくなったからって、ちょっと肩肘《かたひじ》張り過ぎているんじゃないの? わたしのことより、自分の心配をしたほうがいいはずよ」 「はぐらかさないで」 「わかったわ……」 「正直に言いなさい」 「わたし、ヒロ君と会っていたのよ」 「えっ」  文恵は絶句した。  頭が混乱した。彼女がどこかに行ったとは思っていたが、まさか、ヒロ君と逢《あ》い引きしていたとは考えていなかった。  洋子の洋服の濡《ぬ》れ具合からして外で会ったみたいだけれど、船着き場の空き家で本当に会っていたというのか……。そんなことが一瞬にして脳裡《のうり》を巡った。全身が熱くなった途端、胸がムカムカしてきて、吐きそうになった。咳払いをひとつした後、唾液《だえき》を呑《の》み込み、吐き気を抑え込んだ。 「あなたたち、ふたりでいったい、何を企《たくら》んでいるの」  文恵は自分の声がうわずっているのがわかった。  目眩《めまい》がした。  膝《ひざ》が震え、床についてしまいそうだった。腰にあてがっている両手に力を入れ、膝に向かっている意識を変えて、ようやく立っていることができた。 「人聞きの悪いこと、言わないでちょうだい。実の娘をまるで犯人扱いして……」 「まあ、犯人扱いだなんて。わたし、そんなこと、ひと言も口にしていないわよ」 「企んだのはお母さんのほうでしょ?」  洋子のふてぶてしいまでの目つきに、文恵はゾッとした。不自由させずに育ててきた娘に、冷ややかな視線をぶつけられるとは思ってもみなかった。  涙が溢《あふ》れそうになる。  くちびるを噛《か》み締め、文恵はそれを抑える。目頭が熱くなり、そちらに意識が向かうと、膝の震えが大きくなった。立っていられなくなり、洋子と向かい合う位置に据えられているソファに腰をおろした。 「お母さんが戸惑うのも無理ないわ。彼がなぜ、この島にいるのか、教えてあげるわ。それに、彼が目撃したこともね」  ソファの背もたれに寄りかかると、不敵な微笑を浮かべた。  洋子が抑揚のない声で語りだしたので、文恵は黙ってあらましを聞いた。  港の近くにある廃屋をリフォームして使っていたとは驚きだった。そんなことを自分にも夫にも知られずにやり遂《と》げられるとはすぐには信じられなかった。それに、ヒロ君が暴風雨の中、ホテルにやってきたことにもびっくりした。  驚くことが多かった。涙ぐんでいたのをすっかり忘れ、洋子の口元を見つめていた。 「これでおしまい。お母さんに隠していることは、もうないわ」 「ヒロ君は今、あの廃屋にいるの?」 「ホテルに来たいと言っていたけど、わたしが止めさせたの。こんな時間にのこのこ出てきたら、犯人扱いされちゃうと思ったの」 「賢明だったわね」 「そうだ、あとひとつ、言い忘れたことがあるわ」 「何?」 「ヒロ君がホテルにやってきた時、玄関のガラス窓から、お父さんの後ろ姿を見ているの。しかもそれを目撃した時間が、どうやら、事件の起きる直前だったみたいなの」 「彼、お父さんのほかに、誰かを見たの?」 「残念ながら、見ていないんですって。でもね、誰かがいるという気配は感じたそうよ」 「気配?」 「誰かわからないけど、廊下の角を曲がったところだったみたい。その人に向かって、お父さん、手を振ったというの」 「目に浮かぶわ。お父さん、よくやったじゃない、そのしぐさを……」 「でも、お客さんにはしなかったわ。わたしの知る限り、一度もそんなことをしなかった。ということは、廊下の角を曲がっていったのは、お客さんじゃないのよ」 「家族の誰か、ということ?」  洋子の目つきが鋭くなった。猜疑心《さいぎしん》に満ちた光を放っていた。  犯人扱いされている気がした。  実の娘にそんな風に見られたのに、なぜか怒りは湧かなかった。それよりもなぜか、文恵はせつなさが胸の奥から迫《せ》り上がった。  家族といえども、脆《もろ》いものなのだ。  娘に頼られるだろうと思っていたのに、犯人扱いされるなんて……。  涙が溢れそうだった。  洟《はな》をすすった。脱力してしまい、ソファから立ち上がれなかった。 「泣かないでよ、お母さん。話はまだ終わっていないんだから」 「ええ、そうね」  洋子が背もたれから上体を起こした。バスタオルを横に置くと、真顔で視線を絡めてきた。 「お母さん、わたしのこと、信じている?」 「もちろんよ、あなたは事件には関係ないし、ヒロ君だってきっと、関係ないわ」 「当然よ。わたしが言っているのは、そんなことじゃないの」 「だったら、何?」 「真実を話して」 「なんのことかしら」 「お母さんでしょ、お父さんが追いかけていた人は……」 「なんてこと言うの。刑事さんにも伝えたけど、わたしは事件が起きた時刻には、厨房《ちゆうぼう》にいたはずだから、あの人とすれ違ったのは、その一時間程前。それが最後だったのよ」 「秘密にしておくから、わたしにだけは、真実を話してください」 「今話したことが真実よ」 「そう……」  洋子が呟《つぶや》くように言った。  あっさり引き下がったと思った。彼女らしくなかった。だが、彼女の目には先程浮かんだ猜疑心は失せていなかった。  夫を殺すはずがない。  それなのに、実の娘に疑われるなんて……。  せつなさが込み上げてきて、涙が目尻《めじり》からポロリと落ちた。     8  ヒロ君が目撃したという父の姿を、洋子は自らも追体験するように脳裡に思い浮かべた。  廊下を曲がる人物がいる。  父はその人物に手を振る。バイバイの意味を込めたのか、それとも、こっちに来なさいと声をかけながらのしぐさだったのか。  洋子はそこまで考えたところで、バイバイではないと思った。もしそうなら、父がその人物を追いかけるようにして廊下の角を曲がるはずがないと思ったからだ。  もしその推理が正しければ、やはり、顔見知りということになる。  母は自分ではないと断言した。  わたしだってそうだ。  洋子はソファに坐《すわ》ったまま、このホテルにいる人物で、父と親しい人がいるかどうか、お客様を含めたうえで、あらためてチェックしてみた。  答はすぐにわかった。  家族だけだった。  姉はこの島にいないから、自分と母のふたりだけなのだ。  ヒロ君?  愛《いと》しい恋人の顔がふっと瞼《まぶた》に映った。  まさか。  彼にはアリバイがない。  けれども、彼が犯人であるわけがない。  いくら結婚を反対されたからといって、恋人の父親を殺《あや》める程、ヒロ君はバカではない。そんなことをしても、幸せな結婚生活が送れると考えられる人などいないはずだ。  ヒロ君は夢を追いかけつづけている素敵な男性なのだ。ちょっとくらいの困難があったからといって、短絡的な行動をするタイプではない。  そうだとしたら、いったい、父が追いかけていたのは誰?  わからない。  まったく想像がつかない。  そうだ、その人は、わたしにはとても想像もつかない人なのだ。 「洋子ちゃん、何を考えているの?」  細い泣き声を洩《も》らしていた母が、洟をすすりながら顔を上げた。  白目が充血し、鼻全体が赤くなっていた。それでいて、げっそりとこけてしまった頬は、青白い色に染まっていた。 「お父さんが追いかけていた人のこと」 「わたしも考えていたのよ」 「お母さん、見当つかないかしら」 「あなた、それ皮肉?」 「違います。そんなつもりで言ったんじゃありません。わたしは純粋に、誰なのか知りたいんです」 「わたしだって、同じ気持よ」 「だったら、心当たりがあったら教えてください、お母さん」  洋子は立ち上がると、母の側に寄っていった。  その時だ。  天井から音が響いてきたような気がして、足を止めた。  雨漏り?  そうじゃないわ。  上の階は201号室。  東京からのお客さんの部屋。  洋子は天井を見上げながら、結婚を目前に控えた、人の好《よ》さそうなカップルが泊まっていることを思い出した。確かふたりとも三〇歳と、宿帳には記入していたはずだ。  災難だったわね、あのカップル。  洋子はホテルの従業員の立場だということを久しぶりに思い出した気がした。  父はこのホテルを愛していた。家族の誰よりも愛していた。それこそ、父が教えてくれた大切なもののように思えた。  洋子は母のすぐ側に腰をおろした。 「わたしには、心当たりがないの。今日のスケジュール帳を見ても、お客さん以外、この島を訪ねる予定だった業者はないの」 「でも、誰かいるはずよ」 「そうね、確かに」  母もまた顔を上げ、音が響いてくる天井の隅のほうに目を遣《や》った。  音がするのはちょうど、ソファのあたりだ。こんな夜中に何をしているのかしら。結婚を目前にして、熱々ならいいけど……。  洋子はそんなことを考えながら、ため息をついた。  その時、ドアをノックする音が響いた。  ぎくりとした。  ふたり同時に、ドアのほうに目を遣った。 「いったい、こんな夜中に、誰?」  疲れた表情を浮かべながら母が呟くように言った。それでも応対するためにわずかに腰を浮かした。 「わたしが出るから、お母さん、そのまま坐っていて」  母を制すると、洋子は素早く立ち上がってドアに向かった。  深夜三時を過ぎている。たとえ刑事だとしても、こんな時間に訪ねてくるなんて非常識よ。そんなことをブツブツと呟きながら、ドアの前に立った。  相手を確認するために、ドア越しに声を投げると、思いがけない声が耳に入った。  ヒロ君だった。  洋子は慌ててドアを開けた。  ずぶ濡《ぬ》れになったヒロ君が震えながら立っていた。  やっぱり……。  彼が来るかもしれないと思い、調理場のドアの鍵《かぎ》を開けておいたのだ。 「ごめん、洋子。約束したのに、ホテルに来ちゃったよ」 「どうして……。あんなに言ったのに。わたし、何があっても知らないわよ」 「窓ガラスが割れたんだ。たぶん突風が吹いた拍子に、流木でも飛んだんじゃないかな。屋根の一部も飛ばされたみたいだ。雨は入ってくるし、寒いし。どうにも我慢できなくなって、来ちゃったよ」 「仕方ないわね。さっ、入ってちょうだい」  洋子はヒロ君を招き入れた。  腰のあたりから足元にかけてびしょ濡れになっていた。躯《からだ》を縮めながら震えていた。かわいそうだった。 「お母さん、ヒロ君でした。彼があの廃屋から来たんです」  母がよろよろと立ち上がった。それから丁寧に礼をすると、 「いつぞやは、失礼しました。あなたたちの交際がつづいているとは思いもよりませんでした。今しがた、洋子から事情を聞いたばかりですの」  と、弱々しい声で言った。  母がどんなことを言うのかと思って、最初はヒヤヒヤして聞いていたが、こういう大人の会話をするのだから安心だと思い、バスタオルを取りに洗面所に向かった。  さすがに接客業をつづけてきた母だけのことはある。ヒロ君の顔など見たくなかったかもしれないのに、そういう表情は少しも見せずに歓迎してくれた。それはきっと、わたしへの配慮もあったのだろう。 「お母さん、お久しぶりです。突然の訪問、失礼しました。きちんとした形でお会いしようと思っていましたけど、まさか、こんな風にして再会することになるとは」  凍えているせいか、舌がよく回っていないようだった。とつとつとした口調になったことで、母に好印象を与えられた気がした。 「わたしは休ませてもらいます。ヒロ君でしたわね、わたしもそう呼ばせていただいてかまいませんよね」 「もちろん、です」 「あなたたちは、わたしのことは気にせずに、一緒に休んでくださってけっこうよ。それではこれにて……」  ヒロ君に向かって軽く会釈をすると、母は夫婦の寝室に入っていった。  洋子は驚いた。ヒロ君とひとつの部屋で寝ていい、と言ったのだ。そんなことは絶対に言わない厳しい女性だったはずだ。  ふたりのことを認めてもらった気がしたが、その一方で、母が気弱になっていることがはっきりとわかり、寂しいような悲しいような複雑な気持になった。 「洋子の部屋で寝ていいって言っていたけど、まずいだろ、それは」  ヒロ君がバスタオルで濡れた髪を荒っぽくごしごしと掻《か》きむしるように拭きながら言った。洋子はあっさりと、 「いいんじゃないかしら」  と言うと、ヒロ君の表情がいくらか元気を取り戻したように輝いた。 「部屋はどこにあるんだい?」 「洗面所の前のドア。両親の寝室とは少し離れているわ。行く?」 「そうさせて欲しいな。今夜はもうぐったりだ、早く眠りたいよ」 「そうね、そうしましょ」  洋子はそう言うと、彼を案内するように半歩先を歩きはじめた。     9 「ああっ、やっと躯が温まったよ」  浩志《ひろし》は髪を乾かし終えてバスルームから出ると、ホッとしたような表情を浮かべた。  それにしても、激しい嵐だったな……。  浩志は窓のほうに目を遣った。  外は闇だった。  小降りになっているらしく、雨音は聞こえなかった。  洋子が不安げな表情を浮かべた。  風呂《ふろ》に入る前と同じ場所に、同じ姿勢で彼女は坐《すわ》っていた。ということは、バスルームに入ってから出てくるまでの四〇分程の間、彼女はベッドに横になることもなかったことになる。 「ねえ、どうして来ちゃったの? 信じられない、自分がいかに危うい立場なのかわかっていないのね」 「さっきも説明したけど、朝まであの廃屋にいたら、凍えちゃっていたよ」 「朝になったら、刑事さんに紹介するわ。そうしたら、あなた、この島に来た時から夜中までの行動を説明してくださいね」 「やましいことなんてないんだから、大丈夫だよ」 「あなたがいくらそう言っても、刑事さんが納得するかどうか別でしょ? 警察を舐《な》めてかかると痛い目に遭うわよ」 「わかっているって……。それよりも、洋子、そっちに行ってもいいかな……」  洋子のそばに歩んでいくと、彼女と並ぶようにベッドに坐った。  大丈夫だよ、おれは本当に何もしていないんだから、と呟《つぶや》くように言うと、パジャマに着替えた彼女の太ももに左手をあてがった。  パジャマ越しに彼女のぬくもりが伝わってくる。太ももの内側のやわらかい部分に指先を這わせる。  陰茎は萎《な》えたままだ。それでいい。リビングルームを挟んだ部屋に彼女のお母さんが寝ている。勃起《ぼつき》するわけにいかない。 「お父さんは今、どこにいるのかな」 「プレイルーム。あそこが事件の現場だったんだけど、刑事さんがね、朝になって警察が来るまでそこに安置しておきなさい、と言ったの」 「洋子、どうするんだい、これから先」 「何が?」 「ホテルのことだよ。お母さんとふたりの姉妹だけでやっていけるのか?」 「わかっている……。ごめんなさい、今は、そういったことは話したくないの」 「わかるけど……」  太ももからてのひらを離すと、浩志は彼女の手を強く握った。そんなことで彼女の心細さや不安といったものが薄らぐとは思わなかったが、そうせずにはいられなかった。 「洋子がさっき訪ねてきたくれた後、おれなりに考えたんだ」 「何?」 「バンド、やめようかなって」 「えっ……」 「そろそろ、現実社会に生きることを考えてもいい頃合いだなって思ったんだ」 「どういうこと? わたし、理解できないわ」 「このホテルで働こうと決めたよ。それがいちばんいいと思うんだ。洋子のためでもあるし、家族のためにも、このホテルのためにもなるんじゃないかな」 「よくわからない……。あなたはあなたなのよ。ホテルのことを考えたからって、自分の夢を捨てるなんておかしいわ」 「洋子はおれのことをずっと応援してきてくれたからね、そう言うだろうとは思っていた。でもさ、もういいよ、応援は。今度はおれが洋子を応援する番だ」 「そんなことを考えてくれていたんだ」 「いい齢《とし》して、食うや食わずの生活をしているのもカッコ悪いしさっ」  浩志は意識的に大げさに笑った。それから彼女の手を握りしめ、覗《のぞ》き込むようにしながら彼女の瞳《ひとみ》を見つめた。  洋子がうなずいた。それから瞼《まぶた》をゆっくり閉じると、くちびるを半開きにした。  浩志は左手を離すと、彼女の肩に回した。  顔を寄せる。  洋子の薄いくちびるは開いたままだ。  頬が赤く染まる。  目尻《めじり》にはうっすらと潤みが溜《た》まっている。瞼に浮き上がった瞳の輪郭がせわしなく動く。掠《かす》れ気味の吐息が洩《も》れる。  くちびるを重ねた。  その瞬間、彼女の肩を引き寄せると、きつく抱きしめた。呻《うめ》くような濁った音が、彼女の喉《のど》のあたりからあがった。その後すぐ、洟《はな》をすするような音がつづいた。  舌を絡める。  洋子がそれに応《こた》える。突っついてきたり、舌を引き込もうとしたり、唾液《だえき》を送り込んできたりする。快感を引き出そうというのではなく、自分の高ぶりをぶつけているようだ。  ベッドに仰向《あおむ》けに倒した。  洋子と会った時に必ず漂ってくる甘い香りがベッドカバーからも匂ってきた。彼女を抱きしめているのに、彼女に包み込まれているような気持になった。  彼女がくちびるを離す。  顔だけでなく首筋まで赤く染まった肌、輝きを放っている。  美しいと思った。  愛《いと》しさが込み上げてきた。  これまでずっと精神的にも金銭的にも助けてきてもらっている。今こそ、自分が彼女を助ける時なのだ。浩志は意を強くした。 「お母さんも、きっと、喜ぶわ」 「ひとつ、秘密の話があるんだ」 「えっ、何?」 「おれね、お父さんと約束していたんだよ」 「父と?」 「交際を断られた後にね、お父さんから電話がかかってきたんだ」 「わたし、ぜんぜん知らなかった」 「だから秘密の話だよ。こんなことを洋子に話していいのかどうか迷うところだけど、おれはお父さんと約束したんだ」 「どんなこと?」 「音楽のこと。『好きなことをやるのはいい。それで好きな女と一緒になれるなら、なおいい。成功してから交際を申し込めとは言わない。成功する足がかりさえないのに、娘が欲しいなんていうのは、虫がよすぎる』って言われたよ」 「父らしいわ。とても冷静で、客観的に情況を判断できる人だったから」 「三年と言われたよ。足がかりがつくれるかどうか『三年待つ』とね。『洋子が待ちきれなかったら、それはそれで、縁がなかったと考えてもらいたい』とも言われた」 「まだ二年しか経っていないじゃない」 「でもね、おれのキャリアはもう一〇年だ。あと一年経ったからといって、劇的に変化するとは思えないんだ」 「今の生活に疲れたの?」 「違う」 「それなら、わたしのため?」 「一年前倒しにするだけさ。そして新しい夢を追うんだ」 「それ、何?」 「このホテルを手伝う、ということだよ」 「だめ、そんなの。自分が見つけた夢ではないでしょ?」 「いや、そうとも言えない。お父さんにこう言われたんだ。『もし自分の夢にケリをつけることができたら、今度はぼくたちの夢の実現のために、一緒にやらないか』と。そして、おれは約束した」 「父とそんな話をしていたのね」  浩志は彼女をまた強く抱きしめた。そしてくちびるを噛《か》み締めながら、『ホテルをもっと素敵なものにしたいんだよ。でも、この夢に終わりはないんだ。それにね、妨害されたり、いやがらせを受けたりもする。今だって、足を引っ張られているんだ』と言った親父さんの言葉を呑《の》み込んだ。  事業のことで、親父さんが恨まれていたなんてことは、洋子には教えてはいけないと浩志は思った。 [#改ページ]   第四章 ふたりとひとり     1  わたし、もう、我慢できない……。  藤井里美《ふじいさとみ》は頬にてのひらをあてがいながら、ベッドで大の字になってふて寝したフリをしている落合孝男《おちあいたかお》をチラと見た。  ひどいことをする男だ。  頬骨のあたりがズキズキと痛む。  自分の思いどおりにならないからといって、女に手を上げる男なんて最低だ。  殺されたこのホテルのオーナーには申し訳ないが、殺人事件があってよかったかもしれない、と里美はため息をつきながら思った。  事件が起きなければ、彼と喧嘩《けんか》をすることもなかったはずだ。ということはつまり、彼が女に平気で手を上げる男だということもわからなかったはずなのだ。  里美はベッドから下りて窓際に立った。  強い風雨は峠を越したようだ。  いくつもの滴が、窓ガラスに付いている。外を眺めても闇が深くて何も見えない。時折、風が唸《うな》るように鳴り、風圧で窓が震える。 「嫌味だな、里美」  彼の不機嫌そうな声が背中に飛んできた。  やはり眠ってはいなかった。  嫌味なことなど言っていないけれど、彼にとっては黙ったまま背中を向けているというだけでもう、嫌味ということになるのだ。  深読みをする彼が鬱陶《うつとう》しい。  頬を叩《たた》かれて、愛想良くすることなどできるはずがない。そんな簡単なことが、彼にはわからないのだ。 「何考えてんだよ……。そうやって黙りながら、おれを非難して、何が愉《たの》しいんだ? 言いたいことがあるなら、はっきり言えばいいじゃないか」  口調がきつくなっている。不機嫌さが増しているのを、彼に背中を向けていても察することができる。  頬がズキズキと痛む。  口惜《くや》しくて涙が溢《あふ》れそうになるのを、くちびるを噛《か》み締めて堪《こら》える。  絶対に彼の前で泣きたくなかった。  情けない姿を晒《さら》してしまうと、自分が自分でなくなってしまいそうな気がした。  瞼《まぶた》を閉じると、彼の言葉が蘇《よみがえ》ってくる。  子どもができた? 嘘だろ。狡《ずる》い女だな、まったく。そうやって愛情を確かめようとするなんてな、最低の部類の女だぞ。もし、ほんとに妊娠していたとしても、おれの子どもかどうかなんてわかりゃしない。どうせ、おれのほかにもつきあっている男がいるんだろうからな……。  彼のひどい言葉を遮って、別れましょう、という言葉を叩きつけてやろうかと思った。けれども、生理が遅れているだけならいいけど、もしも妊娠していたら、今ここで別れを切り出すのは不都合がありすぎる、とカッとなりながらも判断して、脳裡《のうり》に浮かんだ言葉を呑《の》み込んだのだ。 「わたし、もう寝ます」 「そっちから話を切り出しておきながら、寝るはないだろう」 「今、あなたと話したくないんです」 「勝手にしろ、おれは寝るからな」  彼が大の字のままくちびるをきつく締めながら瞼を閉じた。眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていて、寝ようとしているとはとても思えなかった。  里美はベッドに入った。  明かりは点《つ》けたままにした。部屋を暗くしてしまうと、悪いことが忍び込んできそうな気がしたのだ。  頬が痛い。  明日になったら、きっと、青あざになっているのだろう。  サングラスを持ってきているけれど、そんなものでは隠せない。憂鬱だ。目を閉じても、頭が冴《さ》えるだけで、眠るどころではない。  彼はわたしの心細さや不安といったことが想像できないのだろうか。そうでなければ、怒るはずがないし、ましてや頬を張ることもないはずだ。  悔しい。殴られたこともそうだけれど、そこまで思い遣《や》りのない男を選んでしまったことが悔しい。  別れよう。  こんな男とは金輪際、別れてやる。  里美は自分の意志を胸に刻みつけるつもりで瞼をきつく閉じた。 「寝たか? 里美」  雨音に混じって、彼が声を投げてきた。  二〇分は経っただろうか。  威圧的だったけれど、先程までの怒声ではなかった。怒りがおさまってきたようだ。里美は恐る恐る言葉を返した。 「何?」 「おれ、ちょっと反省しているんだ」 「いいんです、もう。わたし、寝ます」 「まだいいだろう。話は終わっていないんだから」 「それじゃ、ちょっとだけ」 「言い過ぎたし、手を上げたのはやり過ぎだと思っている。今夜はホテルで殺人事件があったし、里美から突然告白されたから、おれ、パニックになっていたんだ」 「そうですね、きっと」 「反省しているんだ。里美が嫌いになったとか、憎らしいとかといった気持じゃないんだ。それだけはわかって欲しい」 「もちろん、わかっています」 「突き放すような言い方じゃないか。ほんとにわかっているとは思えないな」  彼の声の調子がきつくなってきた。怒りはまだ本当にはおさまっていないようだった。彼は自分の思いどおりにならないと、カッとなってしまう男なのだ。そういうことが、今夜初めてよくわかった。 「嫌いだったら、わたしを旅行に誘ったりしないはずです。しかもわたしの旅費まで払ってくれたんですから」 「そういう丁寧な口調が気に入らないんだよ。心を閉ざしています、と言っているようなもんじゃないか」 「すみません、気をつけます」 「こっちに来いよ」 「えっ?」 「もっと仲良くなりたくて、旅行に誘ったんだからな。今のところ、おれの思惑とはまったく逆になっているけどな」 「そうですね」 「昨日の夜だって、誘ったのに、里美は拒んだだろ?」 「それについては説明したつもりです。来るべきものが来ないんですから。もし妊娠していたら、セックスするのはよくないでしょ?」 「よくわからないな。とにかく、こっちのベッドに来いよ。頑《かたくな》な態度をつづけていたら、さっきみたいにパニックになって、何をしでかすかわからないぞ」  里美は渋々うなずいた。  上体を起こした時、ふっと、パニックになって自分を見失う男なら、殺人を犯したとしても不思議ではないと考えた。刑事が何度か部屋に来て、事件があった時間のアリバイについて訊《き》いている。  わたしはその時間、彼とは一緒にいなかった。彼が犯人かもしれない。パニックになった末に、オーナーを殺したのかもしれない。  掛け布団の上に大の字になっていた彼が、ベッドをいったん下りた後、素早く布団に入った。里美もわずかに遅れて、彼のベッドに潜り込んだ。 「素直に言うことを聞けばいいんだよ」  彼の口調がいくらか穏やかになった。表情もわずかではあるが、こわばりが薄らいだ。  この人は、自分の思いどおりになっている時にはやさしいんだ……。  里美はゾッとした。  落合のそうした性格が、アルコール中毒気味の父とダブった。  父は酒を飲んでいない時は寡黙な人だった。物静かで、存在感が薄かった。家にいるのかどうかわからないくらいだった。  酒を飲むと、饒舌《じようぜつ》になった。  話好きというのではない。悪口を言いつづけるのだ。それはたとえば、総理大臣に対しての悪口であったり、負けつづける巨人軍であったり、役所に勤めている隣のおじさんに対してだったりした。  そうしたことはしかし、長い時間はつづかなかった。酒量がある一定量を超えてしまうと、暴力を振るうようになるのだ。  母はよくぶたれていた。  実のところ、酔っぱらいの父の平手打ちは俊敏ではなかった。避けようと思えばできそうだったが、母は一度もそうしなかった。避けてしまうと、怒りは倍増し、一度の平手打ちでは済まなくなることを知っていたのだ。  ああっ、いやだ。  父のような男性とだけは、つきあいたくないと思っていたのに……。  彼が微笑んだ。  穏やかな表情に変わったようだったが、瞳《ひとみ》は凶暴さを秘めた光が放たれているように思えた。     2  横になった里美は、落合と向かい合った。  黙ったままだ。  彼の瞳からは相変わらず、鋭い光が放たれている。反省の色はまったく見られない。それにもかかわらず、彼が腕を伸ばしてきた。  彼の表情だけでなく、指先にもためらいは見られなかった。  抱きしめられた。  里美は抗《あらが》う様子を見せないようにした。ほんの少しでも厭《いや》がる素振りや表情をしたら、きっと、彼は怒り狂ってしまうからだ。  頬を張ってきた時のように、彼は怒りだすと、感情のコントロールが利かなくなってしまう。手がつけられなくなる。  彼にはもう二度と、殴られたくない。  こんな悔しさは二度と味わいたくない。  くちびるが近づいた。  どういうつもりなんだろう?  不快感が胸に拡がる。  頬を張ったことを忘れたのか。あれからまだ二〇分程しか経っていないというのに……。  くちびるが重ねられた。  里美はしかし、口を開かなかった。かといって、怒りを買わないように、くちびるを閉じて拒むということもしなかった。  乳房に手が伸びてきた。  浴衣《ゆかた》の上から二度|揉《も》むと、直接、乳房にてのひらをあてがってきた。 「気持のいいおっぱいだね」  落合が猫なで声にいきなり変わった。  反省したのか、それとも、セックスしたいために下手に出ているのかのどちらかだとしか思えない。  厭な男……。  里美は眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せた。せめてもの抵抗だ。 「里美も気持がいいんだろ?」 「ごめんなさい、わたし、さっきも言ったけど、いろいろあって、とてもそういう気にならないの。わかって……」 「そうはいっても、躯《からだ》は反応しているんじゃないか」  乳房にあてがっていた手を離すと、浴衣の裾《すそ》を割って陰部に差し入れてきた。  パンティの上からだったが、いきなり、陰部に触れられた。敏感な芽を掠《かす》め、割れ目の溝に沿って押し込んできた。  これまでの落合の愛撫《あいぶ》とは違っている。丹念さなどまったくないし、指先からはやさしさも伝わってこない。興奮しているからというより、焦りとか苛立《いらだ》ちによるものに思えた。 「やっぱり濡《ぬ》れているじゃないか」 「温泉の火照《ほて》りよ、きっと。今でもまだ躯がポカポカと温かいから」 「感じているくせに、どうして素直に言わないのかな」 「だって、いつもの落合さんらしくないんだもの。もっと時間をかけて、たっぷりと愛してくれるでしょ?」 「里美の躯に触れたのは、もう、二カ月以上も前だからな」 「だから、忘れたのかしら? どういう愛し方をしたのか」 「おれはいつでもしたいのに、求めつづけているのに、里美がそれを拒んでいるんじゃないか。まるでおれがいけないような言い方はしないで欲しいな」  彼の指がせわしなく割れ目の溝を動いている。時折、敏感な芽に触れ、体中に快感が走り抜ける。彼と視線が合いそうになるのを避ける。快感が強まる程、彼に対する不快感が募っていくような気がする。  割れ目がじっとりと濡れはじめる。  里美は自分でもそれがわかる。彼の乱暴な愛撫に反応してしまう躯が憎らしい。  パンティから指が離れた。  彼が自信たっぷりな笑みを洩《も》らした。  里美は彼に背中を向けようと思って、仰向《あおむ》けになった。自分の思惑とは裏腹に、彼の指がパンティの内側に素早く潜り込んできた。 「あっ……」 「ほらみろ、やっぱり濡れているじゃないか」 「ほんとにやめて」 「いやだね」 「いやがっているのを無理矢理するつもりなの? そんなのって、どうかしているわ。わたしのことを大切にしてくれているとはとても思えないもの」 「どうかしているのは里美のほうだ。旅行にきて、ずっと拒みつづけるなんて……。おれの気持を弄《もてあそ》んでいるとしか思えないぞ、まったく」  落合が怒気をはらんだ声をあげた。  これ以上拒んだら、本気で怒りはじめてしまうと感じて、こわばらせていた躯から力を抜いた。  女は弱いものだわ……。どんなに突っ張っても、最後には男の言いなりになるしかないのか。妊娠についての不安な気持をぶつけることもできないなんて……。  胸の裡《うち》でいろいろな想いが巡った。  けれどもそういったことを考えていられるのもわずかな間だけだった。  彼の指が陰部を這《は》いはじめた。  彼の指にうるみが絡みつくのがわかり、確かに濡れているのだとわかった。  割れ目の溝に指を滑らせながらうるみをすくい取ると、それを敏感な芽に塗りつけるようにして撫でる。  荒々しさが快感につながっていきそうになり、里美はくちびるを噛《か》み締めて堪《こら》える。気持よくなってしまったら彼の思うつぼだと自分に言い聞かせる。厭だと思っているのに、躯が勝手に反応をはじめているのがわかる。割れ目の肉襞《にくひだ》がうねり、めくれ返る。うるみが溢《あふ》れ、お尻《しり》に向かって流れていく。  腰が自然と動いた。  彼の愛撫を、躯が欲しがったのだ。  その時だ。 「やめた……」  指の動きを止めながら、あっさりと言った。パンティから指を抜き取ると、名残惜しい素振りをまったく見せずにため息をついた。 「意地悪なんだから……」 「何が、だい?」 「わかっているくせに」 「もっとして欲しいんだな」 「ええ、そう」 「だったら、そう言えばいいじゃないか。黙っていたってわからないからな。里美、何が欲しいんだ」 「意地悪。どうにかして、わたしに恥ずかしい言葉を言わせたいのね」 「恥ずかしくなんかないだろ? それとも自分の欲望を表すことが恥ずかしいことになるってわけか?」 「あなただって、久しぶりだから、したいはず。あなたこそ、はっきりと自分の性欲のことを口にしたらどうかしら」 「やりたいよ、おれは。ずっと言ってきたはずだ。里美の割れ目の奥まで、挿したい。硬いものを突き入れて、里美を悦《よろこ》ばせてあげたいんだよ」 「自分の欲望のためでしょ? わたしのためなんかではないはず」 「そんな身勝手な男ではないさ。おれは里美のことを一番に考えている愛情の深い、素直で純な男だ」  冗談めかして言ったのがわかったけれど、里美は笑えなかった。そういうところからも、彼の身勝手さが透けて見えた気がした。  こんな男を好きになっていたなんて……。  男の選び方に自信があるとは言えなかったが、それでも、落合ならばきっと自分を幸せにしてくれるだろうという期待を抱いてつきあいはじめたのだ。それがたった四カ月で、期待が失望に変わってしまった。 「こういう特異な情況だと、やっぱり、興奮するな」 「どういうこと?」 「だってさ、殺人事件があった当日に、泊まっているんだ。こんなチャンスは滅多にあるもんじゃないからな」 「ひとつ、訊《き》いてもいいかしら」 「何だよ、改まって……」 「あなたはさっき、どこに行っていたの? わたしがお風呂《ふろ》から戻ってきた時、部屋にいなかったでしょ。大雨の中、散歩するはずもないでしょ。温泉に入りに行ったのかなって思っていたんだけど、そうじゃなかったし……」 「警視庁の刑事にも訊かれたけどさ、おれ、土産物を何にしたらいいのか、フロントの横の土産物コーナーでウロウロしていたんだよ」 「何も持たずに部屋に戻ってきたわね」 「それはそうさ。チェックアウトする時に買えばいいんだからね」 「そうね、確かに」  里美は納得しなかったが、素直にうなずいて見せた。これ以上追及したら、彼は怒りだすはずだ。     3  落合との出会いは、一年程前になる。  大学の同級生の友人の結婚式の二次会だった。披露宴の時には気づかなかったが、パーティ会場のイタリアンレストランでタキシードを着こなしている彼の姿を見かけて、ひと目で魅《ひ》かれてしまった。  その時、彼とつきあおうと決めた。  彼の性格についてはわからなかったが、心がそれを望み、里美はそれに従った。  慎重派だと思っていただけに、自分でもそんな風に決めたことが驚きだった。そしてその驚きが自分を変えるきっかけになるのではないかと期待もした。  今にして思えば、披露宴の興奮を二次会までひきずっていたのかもしれない。いや、それまでつづけてきた不倫の関係が行き詰まっていたからかもしれない。  落合は素敵な男性だった。  会社にいる上司や同僚の男たちとは明らかに違っていたし、不倫していた中年の男とも違う雰囲気があった。  品が感じられた。裕福な家に育ったことが、モノにさほど執着しないという性格からうかがえた。彼のちょっとしたしぐさには、男っぽい荒々しさと、きちんとした躾《しつけ》を受けたことが感じられるしなやかさがあったのだ。  里美は彼に夢中になった。  不倫の辛《つら》さを忘れるためにも、彼に没頭した。つきあいはじめて一カ月足らずで、結婚のことを考えるようになった。それはちょうど、不倫相手との関係が泥沼状態に入った頃だった。 「まさか、おれが殺人事件に関係しているとでも疑っているんじゃないだろうな」  乳房にてのひらをあてがいながら、落合がふいにうわずった声をあげ、乳首を摘《つま》んでいる指の動きを止めた。  育ちのいい男だと思っていた落合が、怒りの表情を浮かべている。里美は瞼《まぶた》を閉じたふりをしてやり過ごすことにした。  彼は怒りだすと、手がつけられなくなる。普段は物静かで穏やかな男ほど、逆上してしまうと抑えが利かなくなるというが、まさに、彼がそうだった。 「おれを犯人扱いして、何が愉《たの》しいんだ? おい、里美、どうなんだ、答えろよ」 「わたしに乱暴したから……」 「それは、おまえがいきなり、子どもができたなんて嘘をついたからだ。おれの気持を確かめるにしても、あまりにも稚拙だったからだ。不愉快極まりなかった」 「だって、それは……」 「嘘だろ?」 「ええ、まあ」  嘘ではないとは言えなかった。彼の怒りを増幅する気がした。嵐のような怒りをやり過ごした後でなければ、冷静な話などできそうにないと判断したのだ。  生理は実際、きていなかった。  医学書を読んでわかったけれど、生理がこなかった時にはすでに妊娠三カ月になっているということだった。あれから二ヵ月近く経つ。ということは、今妊娠四ヵ月を過ぎたことになる。 「妊娠しているとわかって、セックスを求める程、おれはひどい男じゃないからな」 「よかった……」 「あっ」 「何?」 「昨日の夜、求めたのに拒んだのは、妊娠のことを本当っぽく思わせるためだったのか? もしそうだとしたら、ずいぶんと用意周到だな」 「そんなつもりではありませんでした」  落合が顔を歪《ゆが》ませるようにして、ひどく不快そうな表情をつくった。  しかしそれでも彼は、乳首から指を離さなかった。指先に力を入れたり緩めたりを繰り返し、性感を引き出そうとしていた。  女は雰囲気に酔うものだということを、彼は知らなすぎる。乳首を愛撫《あいぶ》されたからといって、それだけで心から快感に浸れるはずがないのだ。  ホテルのプレイルームにはまだ、遺体が安置されたままだ。しかも刑事がホテルにいるすべての人を犯人扱いしながら、うろついているという情況なのだ。  躯《からだ》はしかし、高ぶっていた。  自分でもはっきりとわかるくらい、割れ目からはうるみが溢《あふ》れ出ていた。濡《ぬ》れたパンティが割れ目の襞《ひだ》にべたりと張りついた。 「そういえば……」  落合が指の動きを止めた。  こちらに視線を送ってきた後、口元に笑みを湛《たた》えながらいぶかしげな声をあげた。 「おれが部屋にいなかった時、里美は風呂に行っていたのか?」 「そうよ」 「おれの記憶では、髪が濡れていなかったようだけどな」 「躯を洗うためではなくて、温泉を愉しむために露天風呂に行ったのよ」 「ほんとか?」 「そっか、わかったわ、今度はあなたがわたしを犯人に仕立てようというのね」 「刑事が言っていたじゃないか、このホテルにいる全員が容疑者になるって」 「まさか本気で、わたしを疑っているの?」 「灯台下暗しと言うからな」 「信じられない……。冗談で言うならまだしも、本気で言っているなんて」  里美はがっかりしたことを意図的に表すために深くため息をついた。  恋人を疑うなんてかわいそうな男だ。恋人なのだから、どんなことがあっても信じつづけるのではないのか。それなのに、誰よりも真っ先に本気で疑うなんて……。  彼にぶたれた頬がズキズキと疼《うず》いた。こういうことを、踏んだり蹴《け》ったりと言うのだ。  それなのに、高ぶっている。  自分の躯が恨めしい。  目を閉じていたが、目尻《めじり》に涙の滴が溜《た》まるのを感じた。このまま瞼を開いたらきっと、涙が溢れてしまうだろう。里美は悲しみと躯の高ぶりが鎮まるまで、目を開かずに横になっていようと思った。  彼が浴衣《ゆかた》の帯を解きはじめた。  乳房はすでにあらわになっている。パンティだって剥《む》き出しだ。  帯が引き抜かれる。衣擦《きぬず》れの乾いた音が響いたところで、雨足が先程よりもずいぶんと弱まっていることに気づいた。  足止めも今夜までだ。  明日になれば、東京に戻れる。  東京に着いたら、彼との関係を考え直そう。  里美は静かにため息をついた。  絶対に別れてやると思っていた気持が、いくらか落ち着いてきたようだ。彼に犯人扱いされたことで、冷静さも呼び起こされたようだった。  浴衣を脱がされる。  半身になりながら、彼の手助けをしてやった。冷静さが戻ってきたことで、躯の高ぶりに心が占領されていくようだった。  欲しい……。  今はこの人が欲しい。  快感に埋没して、これまでの厭《いや》なことをすべて忘れてしまいたい……。 「えっ」  里美は驚いて短く声をあげた。  乳房を愛撫してくれるのかと思ったのに、彼の手はいきなりパンティに伸びてきた。  自分の想いの迫《せ》り上がりとともに、快感に没入するまで愛撫してくれることを彼に期待したのだ。  パンティの上から敏感な芽を撫《な》でられる。陰毛の茂みを押し潰《つぶ》すようにてのひらをあてがったり離したりする。  太もものつけ根に触れる。  股《また》ぐりに沿って爪をすっと滑らせる。  繊細さと荒々しさが混じった触り方だ。それが彼の今の気分なのだ。頬を殴ったかと思ったら、急に慈しみに満ちたやさしい表情に変わったりする。  こんなにも気性が激しい人だと知っていたら、おつきあいをしただろうか……。  ふっとそんなことが脳裡《のうり》に浮かんだ。そういうことを考えること自体、すでに彼のことが嫌いになっている証拠ではないかと思う。  彼を睨《にら》みつけるように強い視線を送った。  それを察知したのかどうかわからないが、彼の指の動きが急に穏やかになった。  パンティのウエストのゴムの下に、てのひらが入ってきた。  陰毛の茂みをかき分ける。しんなりとした茂みがざわつく。湿り気をはらんだ生々しい匂いがパンティから噴き出していく。  里美は足をおずおずと開いた。  彼の指を迎え入れるためだ。  自分の期待どおりの愛撫をしてくれるとは思わなかった。が、それでもとにかく、彼の愛撫に没頭しようと思った。  今のこの不安定な気持から逃れたかった。  何か別のことに心を移さないと、眠ることもできない気がした。     4 「里美、家族|風呂《ぶろ》に行かないか」  落合がパンティから指を引き抜きながら言った。  誘っているというより、命令に近い口調だった。こんなところに気性の激しさが表れているのかと思い、またしても、里美は気分が重くなった。  どうしてこんな時間に誘うのかしら。あまりにも非常識すぎるわ。それとも何か魂胆でもあるのかもしれない……。 「どうしてこんな時間に……。雨だってまだ降っているみたいなのに」 「嵐の中で温泉に入るなんて面白そうじゃないか。それに、ふたりでまだ一緒に入っていないしな」 「いやだわ、こんな夜遅くになんて」 「このつづきを、家族風呂でやりたいんだよ……」  落合が腕を伸ばし、パンティの上から指先を陰部に押しつけてきた。  下卑た笑い声を洩らした。  それが何を意味しているのか、里美はすぐに理解した。  気持がわずかに動いた。性的好奇心が胸の奥底から迫り上がってきた。拒んでいたはずなのに、躯が彼の誘いを受け入れようとしていた。それが悲しかった。理性ではどうすることもできなくて、結局、嫌々ながらという雰囲気を漂わせながら家族風呂に向かった。  彼に寄り添って歩く。  パンティに染みたうるみが乾きはじめているのを歩くたびに感じる。  本館から五〇メートル程の渡り廊下を歩いたところに家族風呂があった。女性用の大浴場がその先にあって、男性用はさらにその先の別棟にあった。  家族風呂の引き戸を開ける。  もわりとした湿った空気が噴き出てくる。  彼が内鍵《うちかぎ》をかけた。  家族風呂が密室になった。家族風呂用の露天風呂につづくドアは閉まっている。  里美は肩のあたりに冷気を感じて、ぞくりとした。  彼の視線が背中に刺さっていた。  里美は瞬時に、冷気と感じたのは彼の殺気だったのではないかと思った。それはしかし、確かめようのないことだった。  彼がまったくそんなことに頓着《とんちやく》することなく裸になり、脱衣カゴに浴衣を乱暴に投げ入れていくのを見て、神経質になりすぎていると思った。  浴衣を脱ぐ。  彼の後を追う。  怖いという意識がありながらも、家族風呂での妖《あや》しいひと時に期待してしまう。 「おいでよ、早く」  彼の声は反響してくぐもって聞こえてきた。それが彼の高ぶりを表している気がして、さらに期待が膨らんだ。  彼は気性が激しいだけに、性的に一度高ぶると、その勢いが長くつづく。そんな時の彼に抱かれると、圧倒的な快感に浸れるのだ。  温泉の流れる音が響く。  引き戸を開ける。  大浴場の広々とした浴槽と違って、家族風呂の内風呂はさすがにこぢんまりとしている。四人一度に浸かったら窮屈に感じるだろう。  タオルでふっくらとしている下腹部を隠して浴室に入った。  彼はすでに湯船に首まで浸かっている。だが、湯煙が立ちこめていて、彼の輪郭はぼんやりとしている。  里美は浴槽の縁に立った。  大浴場と同じ白く濁った湯だ。  彼の陰茎が見えなくてよかったと思う。それなのに、性的な高ぶりが強まっているのを感じる。矛盾した感情だとわかったが、どうすることもできない。 「夜中に家族風呂に入るなんて、ちょっと刺激的ね」  里美は自分の声が浮き立っているのを感じた。浴室にそれが反響し、はしゃいでいるような声となって耳に入ってきた。  かけ湯をして湯船に浸かった。  彼と向かい合う。  どちらかが足を伸ばせば触れられる。そうしたい気持と、殴られた口惜《くや》しさもあって触れたくないという気持が交錯する。 「このホテルは穴場だな、本当に」 「肌にやさしい温泉があって、料理もおいしいし、それになにより、こぢんまりとしているというのもいいわ」 「インターネットで検索できちゃうから、ちょっと心配だな」 「何が心配なの?」 「こういう小さなホテルは、良さがわかる人にだけ来てほしいじゃないか。安くてお得感があればどんなホテルでもいいと思っている連中が大挙してやってきたら、この雰囲気がなくなっちゃう気がするんだ」 「殺人事件が起きたことで、客足が遠のかなければいいけど……。ちょっと心配」 「里美もそういうことを考えるんだ」 「それ、どういうこと?」 「自分がどうすれば快適に暮らせるかってことについては考え抜くけど、ほかのことになると、興味をまったく抱かなくなるタイプだからな」 「まあ、失礼しちゃうわね」  てのひらですくい取ったお湯を、彼の顔に向かって投げつけた。  怒ったからではない。親しみを込めてそうしたのだ。彼にその気持が伝わり、穏やかな笑みを浮かべた。 「露天風呂のほうに行ってみるかな」  両手に湯をすくった彼が、ごしごしとこするように顔につけた。  立ち上がった。  湯の波が押し寄せてきた。熱めの湯がさらに熱く感じられた。  彼が入口とは正反対の位置にあるガラス戸に向かう。その先に、小さな露天風呂がある。  形のいいお尻《しり》……。  湯に濡《ぬ》れた躯《からだ》が艶《つや》やかに光っている。  里美は温泉に浸かっている火照《ほて》りとは違う熱気が躯の芯《しん》から生まれるのを感じた。  彼がガラス戸を開けた。  冷気が入り込み、立ちこめている湯煙が揺れて吸い出された。  内風呂にひとりきりになった。  なんて気持がいいのかしら……。  大浴場の湯船にひとりで浸かっているのとは違うのんびりとした気分になる。  背筋を伸ばしながら吐息をついた。  浴室に満ちた湯煙がわずかに揺れた。  気持が落ち着くと、思い出したくないことが脳裡《のうり》を掠《かす》めた。  オーナーのこと、そして殺人現場のことだ。  プレイルームはきっと、血の海になっていただろう。オーナーは苦しんだに違いない。助けを求めてもがいているうちに、意識が遠のいていっただろう。そうしたことが、まるで自分が経験しているかのようにありありと浮かび、実感できた。  怖いわ……。  オーナーが蘇《よみがえ》り、この場に現れるかもしれないと思った。  想いを残して死んでいった人は、それを果たすため現実の世界に戻ってくる。ホラー映画の中だけのことだと思っていたが、いざ、そうした情況になってみると、里美はひどくリアリティを感じたのだ。  ひとりでいたくないと思った。  勢いよく立ち上がった。  湯が躯を滑り落ちていく。  乳房の曲線に沿って、湯の滴が流れていく。  乳首は尖《とが》っていた。湯の滴のいくつかは、そこにほんの一瞬とどまった後、滴り落ちていく。  彼の後を追ってドアを開けた。 「ああっ、よかった」  里美は安堵《あんど》の声をあげた。 「どうしたんだい?」 「ちょっと怖くなったの。あなたがどこかに行っちゃって、わたし、ひとりぼっちにされたんじゃないかなって……」 「ぼくがそんなことするはずがないじゃないか」 「だって、ひどいこと、されたから」 「殴っちゃったこと、まだ言うのか?」 「ううん、ごめんなさい。やっぱり殺人事件が起こったことで、気持が高ぶっているみたいだわ」 「ぼくだってそれは同じさ。殴るつもりじゃなかったのに、そんなことをしちゃったのも、事件が起こったせいかもしれないな」  里美は黙ってうなずき、露天風呂に入った。雨風をしのげる庇《ひさし》はない。だが、幸いにも、今しがたまでの強い雨から、霧雨のような細かい粒の雨に変わっていた。  今度は彼と並んで湯に浸かった。  漆黒の闇だ。  本館の明かりが右端のほうに見える。人影くらいは見えるかもしれないが、向こう側から覗《のぞ》かれる心配はない。家族風呂の場所のほうが高いのだ。  晴れた日だったら、どんなに眺めのいい景色が見えるかしら……。  里美はのびをしながら、闇の中に視線を送った。  どんな景色が眼前に広がるだろうかと想像した。  本館との位置関係を思い浮かべた。  その時だ。  呻《うめ》き声をあげそうになった。  温泉に浸かっているというのに、全身に鳥肌が立った。  殺人事件が起きたプレイルームが覗ける位置関係にあることに気づいた。もしかしたら、事件をここから目撃している人がいたのではないかと思った。  霧のような細かい粒の雨が少しずつ大きなものに変わりはじめた。  雨足がわずかではあるが強くなってきた。それもしかし、三〇秒程でまた変わり、雨がやんで生暖かい空気に包まれた。  落合が立ち上がった。  火照《ほて》った躯は引き締まっていて、闇の中でも際立っている。陰茎は湯の中に沈んでいたために、さすがに、硬さを失っているようだ。  平らな岩に腰を下ろしていた落合が、上体を前方に投げ出すようにした。何かを覗き込んでいるようだった。 「明かりが点《つ》いているぞ」 「えっ?」 「プレイルームだよ。部屋の中まで見えるぞ」 「そうなの?」 「こっちに来て見ればわかるよ」 「遠慮しておきます。人が殺されたところでしょ、わたし、いやだな、そういうところを覗くなんて」 「あっ……」 「何?」 「人がいるぞ」 「まさか」 「確かに今、人影が映った」 「こんな夜更けに?」 「あのぼんくらの刑事じゃないか」 「大変ねえ、あの人も。プライベートの旅行でやってきたはずなのに」 「人がよさそうだから、仕事、できないよ、きっと。ここは密室だとか、自分に課せられた仕事と思って解決してみせるなんて、恰好《かつこう》いいこと言っていたけど、実際問題、無理だと思うな」 「悪いわ、そういう言いかたって」 「この場所のこと、わかっているのかな。教えてやったほうがいいだろうな」 「どうして?」 「事件が起きた時、今ぼくが坐《すわ》っているこの場所に、誰かがいたかもしれないじゃないか。犯行を目撃していることだって考えられるんだから」  確かにそうだ。  ふたりとも同じことを考えているということは、刑事が気づかないはずがない。  いや、気づいていない。  犯行時間に何をしていたかとは聞かれたが、風呂に入っていたかどうかまでは、聞かれなかった。  ふうっ……。  里美はため息をついた。  雨が強くなった。  髪が濡れてしまう。  里美は立ち上がり、落合を残して露天風呂からあがった。     5  内風呂まで戻ったところで、落合に追いつかれた。 「ちょっと待てよ、話はまだ終わっていないじゃないか」 「だって、あなたが気味の悪いことを言うからよ」 「そうだな、確かに。そういう時の女っていうのは、男に甘えたりするもんじゃないのかな」 「怖いわ、なんて言って抱きつけばいいってこと? いくら家族風呂だからって、そんなことできないわ」 「里美は本当に甘え上手じゃないんだな」  落合は呆《あき》れたように言うと、いきなり躯《からだ》を寄せてきた。  陰茎が屹立《きつりつ》していた。  こんな情況で勃起《ぼつき》する彼の気がしれないと思い、それが下腹部に触れないようにわずかに腰を引いた。  甘えるのが下手というのではない。彼に殴られてから、まだ小一時間しか経っていないのだ。両親にも殴られたことがないのに、なぜ、落合に頬を張られなければいけないのか、どうにも納得ができなかった。そういうことがあったからこそ、甘えなかったのだ。原因はあなたにあるのよ、と里美は言ってやりたかった。  だが、もちろんそんなことは言わない。カッとなると何をしでかすかわからない性格だとわかったからだ。  彼が背中に腕を回してきた。  その拍子に、躯に付いている温泉の滴が流れ落ちていった。  陰茎が大きく跳ね、下腹を掠《かす》めた。  彼が腰を突き出してきた。 「大人の男と女が家族風呂に一緒に入って何もしないっていうのは不自然だよな」 「そうかもしれないけど、今は、そんな気分じゃないの」 「気味が悪かったかもしれないけど、こうして抱いていることまでいやがることはないんじゃないかな」 「ごめんなさい、ほんとにいやなの」 「いいじゃないか」 「やめて、お願いだから」 「セックスしなくてもいいから、熱くなっているおれのものを鎮めて欲しいな。それくらいはいいだろ?」  彼のしつこさに里美は負けた。  内|風呂《ぶろ》にふたりで入ると、彼を檜《ひのき》風呂の縁に坐らせた。里美は胸元まで湯に浸かったところで、彼の足の間に入った。  膨脹した陰茎が目の前に跳ねる。  幹の血管や節が浮き上がっている。暗めの明かりのために、それらに翳《かげ》が生まれていて、妖《あや》しさと生々しさが宿っているように映る。  両手で陰茎を捧《ささ》げるようにして握った。  彼の腹筋にいくつも瘤《こぶ》が浮き上がった。生命力に満ちたそれを見て、プレイルームで安置されているオーナーのことが脳裡《のうり》を掠めた。  屹立している陰茎を水平に折り曲げる。  笠《かさ》の外周がうねる。  敏感な筋を滴がつたっていく。それが温泉の湯なのか、透明な粘液が流れ落ちているのか、どちらなのかわからないまま、里美はくちびるを寄せた。 「そうだよ、素直にそうやってくわえてくれればいいんだよ」 「わがままなのね、あなたって」 「里美のほうがわがままなんだよ」 「どうして?」 「温泉宿に一緒に来たんだ、男ならそれだけで期待するじゃないか。それなのにまったくその期待に応《こた》えてくれなかったじゃないか」 「理由は伝えたでしょ?」 「妊娠のことなら聞いたけど……。とってつけたような理由だから、信用できるはずないじゃないか。それにさっき、違うって言っただろ?」 「さっきは、そう言うしかなかったの」 「本当なのか」 「わたしだって、信じたくなかったわ。でもね、妊娠検査薬で二度試して二度とも、陽性反応がでたの」 「お腹の肉は、太ったからだろ?」 「いやな言い方……。どうせもともと、お腹のまわりにお肉がついていましたからね」 「もう一度|訊《き》くけど、本当なんだな」 「嘘はつかないわよ」 「そっか。そういうことだったら、いろいろと考えないといけないな」 「ありがとう、落合さん。ようやくわかってくれたのね」  これまでつきあってきた彼らしさの表れたやさしい言葉だった。そして彼はつづけて、それだったらセックスなんてできないよな、よくわからないけど、妊娠初期というのは流産しやすいんじゃないか? セックスするのは諦《あきら》めるよ、と呟《つぶや》くように言った。そして、殺された人もいれば、生命を授かった人もいるんだからなあ、巡り合わせといっていいのかどうかわからないけど、人生、いろいろなことがあるもんだ、と感心したように言った。  里美はくちびるを陰茎に寄せた。  先端の笠の外周がうねる。  温泉に浸かっていたせいか、それは赤みが濃くなっていて、艶《つや》やかさも増している。裏側の敏感な細い筋が、くちびるをつける前だというのに震えている。 「ほら、くわえるんだよ」 「お願いだから、そんな風に命令口調で言わないで」 「言うことを聞かないから、苛々《いらいら》するんだよ。ひどい言い方をしたら里美が反発するとわかっているのに、抑えられないんだよな」 「ごめんね、わたしがいけないのね」 「そうだ、里美が元々、いけないんだよ。こんな風にぼくが苛つくのは、君が原因をつくっているからなんだよ。その自覚がないみたいだな」 「仕方ないわ、わたしはこういう性格だから。あなたに受け止めてもらうしかないと思っています」 「できるかな、おれに」 「えっ……」  彼の思いがけない返事に、里美は驚いて、指先の力が緩んで陰茎を離しそうになった。こんな風に直接的に、性格を受け入れられないなどと言われたのは初めてだ。しかもそれが、好きと告白してきた男から。 「里美は、おれのことが好きかな」 「どうして今ごろ、そんなことを訊くのかしら。わかっているでしょ? 嫌いな男と旅行になんか来ないわ」 「それならいいんだけど……」 「わたしが何か、あなたの気に障ることでもしたの?」 「いや、そうでもないけどな」 「回りくどい言い方しないで、はっきりとわたしにわかるように言ってください」 「それじゃ、言わせてもらうよ」 「ええ、どうぞ」 「中年の男とつきあっているだろ?」 「えっ」  里美は絶句した。  何を言い出すのかと思ったが、そんなことだったとは……。  彼の瞳《ひとみ》を覗《のぞ》き込んだ。冗談で言っているのではなさそうだとわかり、頬をこわばらせながら微笑を湛《たた》えた。 「見たんだよ、渋谷《しぶや》の道玄坂を中年の男と一緒に歩いているところを……」 「人違いじゃないの?」 「間違えると思うか、おれが」 「でも、わたし、心当たりないわよ」 「しらを切るんだな」 「ううん、そうじゃない。本当に何を言っているのかわからないのよ」 「浮気をしている男の鉄則と同じだな。バレたとしても認めずに、しらを切り通すのは」 「言いがかりだわ、そんなの。わたし、本当にわからないんだもの」 「妊娠したって言われた時に、おかしいと思ったんだよ。おれは避妊には十分すぎるくらいに気をつけていたからな。絶対に安全だって言われても、心配だから生でしなかったじゃないか」 「それでも、妊娠しちゃったのよ」  里美は短く応えた。  妊娠したというショックを彼に支えてもらおうと思っていたのは、どうやら、間違いだったらしい。  うんざりだ。もういやだ。こんな風に責められているんだから、彼のものを握っている必要なんかないわ……。  里美は指から力を抜いた。  陰茎は硬度を保っていて、水平状態から勢いよく垂直方向に戻っていった。下腹に二度当たった。笠についている湯の滴がその拍子に飛び散った。 「舐《な》めて欲しいな」 「そんなこと言われて、やってあげる女なんていないわよ」 「それでもして欲しいんだよ。それだけが、浮気をしなかったという証《あかし》になるんじゃないかな」 「都合のいい話だわ」  里美は顔をそむけ、陰茎を視界から外した。いったいどうすればいいの、彼が欲しがっているのは、おちんちんから生まれる快感だけだわ、彼の言うとおりにくわえても、絶対に何の解決にもならないわ。そんなことを胸の裡《うち》で呟きながら、二度目のため息をついた。 「やっぱり、だな」 「何?」 「その男を裏切れないというのが、よくわかったよ」 「もしも、わたしがそれを口にくわえたら、自分の見たことが勘違いだったと言うつもりなの?」 「そういうことだ」 「いい加減ね、ずいぶんと。わたしを試しているだけみたい」 「試しているさ。里美がおれを試しているようにな」 「わたし、何もしていないわ」 「妊娠したって言ったじゃないか。男にとってはそれが試されていることになるんだよ」  里美は、顔を元に戻した。くわえてあげるだけで、話がすんなりとまとまるなら、やってあげよう。心の中で呟くと、垂直に尖《とが》っている陰茎をまた握った。     6  陰茎を口にふくんだ。  こうするだけで揉《も》めている話にケリをつけられるなら、いくらでもするわ……。  里美は瞼《まぶた》を閉じながら、胸の裡でそう呟いた。  口の奥深くまでくわえる。  先端の笠《かさ》が最深部の肉の壁にぶつかる。里美はその苦しさに没頭しようと思って、意識的に頭を押し込んだのだ。  息苦しさが募る。  喉《のど》に近いあたりで笠がひくついているのを感じる。きっと透明な粘液が喉まで流れ込んでいるんだわとチラと思ったが、頭の芯《しん》が痺《しび》れはじめていることもあって、何の感慨も抱かなかった。 「そうだよ、そうやって素直に言うとおりにすればいいのに……」 「そうね、確かに」 「女は素直で誠実であって欲しいな」 「気をつけるわ、これから」 「気持が悪いくらいに素直だな」 「反省したんです」 「抑揚のない口調だな、ずいぶんと。ほんとに心からそう思っているのか?」  里美はうなずいた。  全身がカッと火照《ほて》った。  もちろんそれは、陰茎をくわえている性的快感によるものではない。彼のふざけた言いぐさに腹が立ったのだ。  陰茎を噛《か》み切ってしまいたくなった。  そうすれば、二度とこんな強引なことを言うこともなくなるだろう。女の気持を無視する男なんて大嫌いだ。  舌を動かしながらも、里美は腹の底でそんなことばかりを考えていた。  息苦しさが耐えられなくなり、陰茎をいったん口から離した。呼吸を整えた後、彼の太ももを両腕で抱えるようにしながら顔を再び近づけた。  今度は陰茎ではなく、ふぐりにくちびるをつけた。  縮こまってつけ根にへばりついているそれをくちびるですっと撫《な》でる。湯と透明な粘液に濡《ぬ》れたそこは、何の抵抗もなく滑っていく。ふぐりの奥の肉塊が上下するのもくちびるで感じ取れる。ふぐりの厚い皮は動いているが、肉塊のほうは一センチも動いていないはずだ。くちびるはそのちょっとした変化さえも感じ取っている。ひどいことを言う男のものでも見極められることが恨めしい。  肉塊のひとつを口にふくんだ。  痛みに敏感なことは承知しているから、慎重に舌を動かす。そうしながら、指先でお尻《しり》との境目のあたりを撫でる。  彼の膝《ひざ》が震えはじめる。それはすぐに、見た目でもはっきりとわかる揺れに変わった。 「あんまり強く舌を動かすんじゃないよ。すごく痛いんだから」 「わかっています」 「くちびるも慎重にするように。ちょっとの刺激でも卒倒するくらいに痛いことがあるんだ。女にはわからないだろうけどさ」 「やめたほうがいい?」 「いや、このままつづけて欲しいな。気持がいいんだ、すごく」 「男の人の快感って、不思議だわ」 「なぜだい?」 「痛みと隣り合わせなんだもの」 「そうだな」 「殺されたオーナーも、快感を味わったのかしら」 「えっ?」 「刺し殺されたんでしょ? おちんちんをくわえられている時の痛みなんか比べものにならないくらいに痛かったわけよね。それってもしかしたら、信じられないくらいの快感に包まれていたかもしれないわ」 「訳のわからないことを言うな」 「痛いだけで死んでいくなんてかわいそうだなって思ったの。せめて、最期くらいは気持よさに浸って欲しかったわ」 「怖いことを言うなよ」 「女はいざとなると、平気で大胆なことをするのよ」 「くわえられたままで、そんなことを言われると、恐怖を感じるよ」 「噛み切ったりしないから、安心して。でもね、きっと痛いと感じる寸前までものすごい快感のはずだから」  里美はそう言うと、緩んだくちびるから陰茎に流れ出ている唾液《だえき》をすすった。  雨足がまた強くなってきたようだ。  露天|風呂《ぶろ》に湯が注がれている音に、雨が当たっている音が混じりはじめている。  妊娠したら味覚が変わるというけど、男の人のものをくわえることは嫌いにならないのね……。  舌の痺れが全身を巡る快感を増幅させる刺激になっているのを感じて、里美はうっとりとした。  くわえることが好きなのだ。  それも本気で嫌がっているにもかかわらず、無理強いされるのが好きなのだ。彼はそれがわかっている。だからこそ、陰茎から口が離れないように後頭部を両手で押さえ込んできているのだ。  舌の痺れが強くなっている。  唾液が溢《あふ》れ出てきて、呼吸が自由にできない。苦しさが募る。酸素が不足してきているのだろうか、頭が白く霞《かす》みはじめている。彼はそんなことにかまわず両手を緩めず、腰を突き出してくる。そのたびに、口の最深部に笠が当たり、ごぼごぼっという音があがる。自分がどこまでも落とされていっている気になり、それが快感につながる。 「ねえ、きて」  里美はくぐもった声で言った。  割れ目に挿して欲しいという想いからではなく、呼吸の苦しさから逃れるためだけにそう言ったのだ。 「もう一度、言ってごらん」 「わたしの中に入って」 「妊娠しているんじゃなかったのか? もしそうなら、セックスしないほうがいいと思うけどな」 「やさしいのね」 「それはそうさ、新しい生命には何の罪もないからな。その生命に危害を加える権利はおれにはないよ」 「認めてくれるの?」 「何をかな」 「あなたの子どもだってこと」 「そんなことは、おれはひと言も言っていないじゃないか。誰の子どもであっても、新しい生命は尊重すべきだと思うからだよ」  里美は瞼を閉じた。  目頭が熱くなり、このまま瞳《ひとみ》を開けていたら涙が溢れてしまうと思った。  彼の心根のやさしさが伝わってきた。  中絶しろ、と彼は一度も言っていない。  もしも、そんなことを言われたら……。  頭に血が上って、見境がなくなっていただろう。陰茎を噛み切ったかもしれない。いや、その程度ではおさまらずに、もっと過激なことさえやったかもしれない。  里美はくちびるを引き締め、ほんのわずかではあるが、くわえ込んでいる幹の中程のあたりに歯を立てた。すんなりと陰茎を離すのは少しばかり癪《しやく》だったからだ。  陰茎が鋭く反応した。  笠《かさ》が膨らんだ。脈動がいっきに駆け上がり、ふぐりがひくついた。やはり、快感と痛みはほとんど同時に生まれるものだ、と里美は自分の想像が当たっていたと思って安堵《あんど》した。そしてゆっくりとくちびるを緩め、陰茎から口を離した。 「やってくれるよな、里美」  彼が歯が当たったあたりの幹を自ら指先で撫でた。 「食い千切られると思ったの?」 「形相がその時だけ変わったから、こいつ、本気だと思った」 「そんなことするわけないでしょ。愉《たの》しませてもらっているものなのよ」 「そうだろうけどな、カッとなると何をしでかすかわからないじゃないか」 「わたし?」 「いや、女性全般のことだけどね」 「そうね」 「だからさ、おれはね、このホテルのオーナーを殺した犯人は、絶対に女だと思っているんだ。痴情のもつれってやつだよ」 「どうしてそう思うの?」 「オーナーを恨んでいたのは間違いない。包丁で何度も刺しているそうだからね」 「もう少し、あなたの推理を聞いてみたいけど、わたし、お風呂出たいわ」  里美は立ち上がった。  躯が火照《ほて》っていた。  彼をチラと見てから、檜《ひのき》の湯船からあがった。     7  家族風呂を出た。  風が強くなっている。  横殴りの雨になる。  浴衣《ゆかた》が濡《ぬ》れてしまう……。  渡り廊下が雨に晒《さら》されているのが見えた。その次の瞬間、里美は凍りついた。 「誰かいるわ、あそこに」  里美は並んで歩いている落合にしがみつくようにして腕を絡めた。  今はたぶん深夜三時頃だろう。こんな夜中にいったい誰がうろついているのか。 「確かに人だな、あれは」 「怖いわ」 「あっ……」 「何?」 「わかったよ」 「えっ……」 「刑事だよ、あのしょぼくれた人影は。さっき、ほら、プレイルームにいるのが見えたじゃないか。彼、プレイルームの次は、大浴場を調べるんだよ」 「たぶん、そうね。ああっ、よかった。人殺しがあったばかりだから」 「心配するなよ、もしもあの男がおれたちを襲ってきても、里美は守るから」 「ほんと?」 「それが男の役割だからな」  里美は黙ってうなずくと、彼の肩に頬を寄せた。男らしい一面を垣間見《かいまみ》て、彼が頼もしく思えた。けれども冷静に考えてみると、それはやさしさに培われた強さではなく、カッとなりやすいという性格の延長上にあるものではないかと思った。  彼が半歩前を歩きながら、渡り廊下を歩く。  人影との距離が縮まる。  浴衣の裾《すそ》が雨で濡れる。  ほのかな照明が刑事の姿を照らし出し、ようやく顔が確かめられた。  よかった、本当に刑事さんだ……。  偶然とはいえ、このホテルに警察の人がいたことに、里美はあらためて驚いた。  刑事が近づいてきた。  背中が丸まっていて頼りなさそうだ。髪は薄くて、顔に精気がない。昨夜《ゆうべ》から同じ恰好《かつこう》をしている。殺人が起きてからは温泉に入っているゆとりなどないのだろう。  プライベートの旅行でやってきたというのに、かわいそうな人……。  里美は努めて笑顔を浮かべると、 「ご苦労様、刑事さん」  刑事が立ち止まり、話しかけたそうな表情を浮かべた。けれどもそれに気づかないかのように、落合は通り過ぎようとして、歩みを止めなかった。 「落合さん、でしたよね。こんな夜更けに、いいですね」  刑事が嗄《しやが》れた声をあげ、落合の足が止まった。里美は彼の背後に躯を移し、肩越しに刑事を見遣《みや》った。 「何か用ですか。ぼくたちが知っていることはもう、すべて話したと思いますよ」 「そうでした、わかっていますとも」 「それじゃ」 「ちょっと待ってもらえますか」 「用はないんでしょ?」 「落合さん、あなたたち、あそこに見える別棟の家族|風呂《ぶろ》に行っていたんですよね。ほかにお客さんはいましたかね」 「家族風呂ですから、ほかに入っている人はいませんでしたよ」 「ということは、わたしがプレイルームからチラと見た人影は、あなたたちだったわけですね」 「刑事さん、おれたちのこと、覗《のぞ》いていたんじゃないでしょうね」 「そういう趣味はないんですよ、わたしには。プレイルームに行って、仏さんの顔をもう一度拝んだ後、窓に目を遣ったら、別棟の明かりが見えたんですよ」 「あそこはね、大浴場ではなくて家族風呂。刑事さん、あそこの露天風呂からプレイルームを見下ろしてきたらいいよ」 「家族風呂なら、わたし、入りましたよ」 「ひとりで?」 「妙でしょ?」  刑事が頭を掻《か》きながら照れ笑いを浮かべた。それから鋭い視線を送ってきたが、落合は気づかなかったようだった。  遣り手の刑事だわ、この人……。  落合はバカにしていたけれど、里美にはとてもそうは思えなかった。仕事のできない人の眼光ではなかったからだ。 「どうして、家族風呂にひとりで入ったんですか?」  落合の肩越しから、里美は刑事に声をかけた。刑事の目から鋭さが失《う》せていた。はにかんだような笑みを浮かべると、頭をまた軽く掻いた。 「大浴場って落ち着かないんですよ。家族風呂だと鍵《かぎ》もかけられるから、他人の目を気にしないで、ほんとにのんびりできるから好きなんですよね」 「面白い使い方をするんですね」  里美は微笑を湛《たた》えながら応《こた》えた。そして、早く帰りたいという意味を込めて、落合の背中を軽く突っついた。  刑事は話をつづけ、里美は軽く相づちをうった。 「いやあ、ほんとはねえ、美しい女性と入りたいっていうのが本音かな。相手がいないから、仕方なく、ひとりで入っているんですよ、ははっ」 「刑事さんの使い方を真似させてもらって、わたしも今度、ひとりで入ってみますね」 「いいもんですよ、ひとりでいるとね、見えないものが見えたりしますから……。機会があったら、試してみてください」  落合が代わりに短く応えると、おやすみなさい、と声をあげて話をまとめてくれた。  刑事と別れると、里美は落合に腕を絡めながら部屋に戻った。  刑事が後を尾《つ》けてくるような気がして、途中まで何度も振り返ってしまった。もちろん刑事の姿はなく、雨に濡れた渡り廊下にふたりのスリッパの痕《あと》が見えるだけだった。 「ふうっ」  ベッドにお尻《しり》をどすんと落とすと、落合が大きな吐息をついた。  刑事とのやりとりで疲れたのか、それともほかの理由があるからなのかわからない。もしも苛立《いらだ》っているとしたら、怒りをこちらに向けてくるかもしれないと思い、里美は彼と顔を合わせないようにしながら洗面所に入った。  時間をかけて肌の手入れをした。  洗面所に二〇分以上はこもっていたのに、落合は眠っていなかった。家族風呂での交わりが中途半端だったからだろうか、それとも話をしたいのか。  ふたつのベッドのうち、窓に近いほうのベッドに、里美はごろんと横になった。浴衣の裾がはだけたのに気づき、さりげなくそれを直した。こんな夜更けに、彼の性欲のために躯《からだ》を動かすのはいやだと思ったのだ。 「起きていたのね、寝ちゃっているかと思っていたわ」 「ほんとに長いな、里美の肌の手入れは」 「趣味みたいなものですからね、わたしにとってのスキンケアは」 「あのさ……」 「なあに?」 「頭にきたよ、あの刑事には」 「どうして?」 「まるで犯人扱いしていたじゃないか」 「そうかしら」 「鈍いなあ」 「ちっとも気づかなかったわ」 「あいつの疑ぐり深そうな目。ほんと、頭にきたな」 「それはわかっていたけど、わたしたちのことを犯人と思っているとかとは関係ないんじゃないかしら。あの鋭い目をするのは、一種の職業病よ」  里美はそっけなく言った。だが、実際には彼と同じように感じていた。不快だったけれど、彼に同調しなかった。そんなことをしてしまうと、やさしい一面が失せ、激高するという彼のもうひとつの一面が表れるだろうと思ったのだ。 「眠くなったわ、わたし」 「里美はすごいな。おれなんかよりもずっと、肚《はら》が据わっているよ」 「えっ?」 「おれは眠れそうにないな。人が殺されたんだからな」 「死ぬべき人だったかもしれないわよ」 「そういう考え方もできるか……。つまり、寿命だったというわけか」 「それに、刺された時、痛いだけじゃなくて、気持よかったかもしれないでしょ」 「すごいな、やっぱり里美は」 「通り魔に殺されたんじゃないから、諦《あきら》めもつくんじゃないかしら」 「近親者が犯人だと思うわけだな。オーナーは近親者に最期をみとってもらったということになるわけだ」 「そうね……」  里美は目を閉じたまま短く応えた。オーナーの顔が瞼《まぶた》に浮かんだ。苦痛に歪《ゆが》んだ顔の奥に快感がひそんでいたと想像してみたが、イメージできなかった。 [#改ページ]   第五章 殺意の部屋     1  何だろう、あの声は。  怖い。  女性の声のようだわ。  悲鳴が大きくなっている。  助けなくちゃ。  どうしよう、わたし、動けない。  指一本すらも動かない。  どうすることもできない。  これは金縛り?  それとも、夢なのかしら……。  また悲鳴が聞こえてきた。  今度は違う声。  何が起きているの?  また違う悲鳴。  怖い。  いくつもの悲鳴が重なる。  唸《うな》るような声が耳の中でこだまするように響きつづける。  助けなくちゃ。  救いを求める声が聞こえる。  でも、躯《からだ》が動かない。指すら動かない。自分が呼吸している感じもしない。  怖い……。  川口《かわぐち》かずみは息を呑《の》んだ。  夢だと思っていた。  そのまま呼吸することを忘れているうちに息苦しくなり瞼《まぶた》を開いた。  すべてが夢の中のことだったと思い、かずみは安堵《あんど》のため息をついた。  夢だったのかしら?  自分に言い聞かせるように胸の裡《うち》で呟《つぶや》くと、ベッドに仰向《あおむ》けになったまま部屋をゆっくりと見回した。  洗面所の照明を点《つ》けたままドアを半開きにしていたから、部屋にもその明かりが洩《も》れていて、部屋全体がぼんやりとではあるけれど見ることができた。  何も変わっていて欲しくないと思っているのに、何かが変わっていて欲しいという気もした。それは夢とはとても思えない生々しい悲鳴のせいだった。今もまだ耳に残っている。夢の中だけのこととは考えられなかったからだ。  部屋の様子はしかし、彼におやすみを言って眠りについた時と変わりはなかった。納得したところで、かずみはまた吐息をつき、窓のほうに目を遣《や》った。  昨日からの嵐もいまだにつづいているようだ。大粒の雨が窓に当たる音が部屋に響いている。耳を澄ましてみても、その音と隣で眠っている彼のいびきしか聞こえない。  悲鳴が聞こえた気がしていたけれど、あれが夢でなければ、雨音かそれとも風が鳴る音だったのだろう。  隣で仰向けになって眠っている彼を起こさないように、かずみは慎重に上体を起こした。  彼を見遣る。  五十嵐《いがらし》利彦《としひこ》。  やすらかな寝顔だ。  美男子とはお世辞にも言えないし、生活に疲れているのが顔に刻まれてきている。けれども、わたしにとっては最愛の人なのだ。  顔を撫《な》でてあげたい。そうすることで、少しでも現実の辛《つら》さを減らしてあげたい。わたしに魔法が使えたら、彼からお金の苦労をなくしてあげるのに……。  悲しみが胸に拡がる。  涙が溢《あふ》れてくる。  泣き声を出さないようにくちびるを噛《か》みしめる。吐息のような呻《うめ》き声のような細い声が部屋に響く。悲しみに満ちた自分の声が耳に入り、それによってさらに悲しみが増幅する。  ああっ、涙が止まらない。 「ううっ……」  嗚咽《おえつ》を洩らし、かずみは慌ててベッドにうつ伏せになった。くちびるを枕に押しつけ、抑えきれずに洩れる嗚咽が部屋に響かないようにした。  ベッドが揺れた。  彼を起こしてしまった?  かずみは躯を緊張させ、洩れている嗚咽を喉《のど》の奥で抑え込んだ。そして枕に顔を押しつけたまま、彼の気配を探った。  寝息が聞こえる。  目を覚ました様子はない。  よかった……。  かずみは枕に向かって吐息をついた。  今はいったい何時なのだろう。  三時? それとも四時? 窓の暗さから推して、五時ということはないはずだ。  このままもう一度、眠ってしまおう。眠っている時だけが、厭《いや》なことを忘れられる。わたしはもう疲れ果てた。眠ろう。ずっと眠りつづけてもいい。すべてを忘れて眠ってしまおう……。かずみはそんなことを考えるうちに眠りに落ちていった。  悲鳴がまた聞こえた。  階下から湧きあがってくるようだった。  切羽詰まった声は野太くて、男性の叫び声だと思った。  また同じ夢を見ているんだわと、かずみは夢の中で思った。悲鳴に雨音が重なる。耳をそばだてて聞いていると、そのうちに、雨音だけになっていった。  ねえ、どうしたの、喧嘩《けんか》でもしたの?  かずみは悲鳴の聞こえてきた方角に向かって声を投げた。声をかけたら、何かが自分の身に振りかかりそうな気がしたけれど、悲鳴の消え方があまりにも突然だったし、救いを求めているように思えたのだ。  返事はなかった。  雨音だけが聞こえた。しかし、それだからこそ、何かが起こったことを意味しているように思えて胸騒ぎがした。  息苦しい……。  深く呼吸をしようと思った時、かずみはまた目を覚ました。枕に顔を埋《うず》めていたのに、いつの間にか、仰向けになっていた。  夢だったんだわ……。  眠りについてから、さほど時間は経っていない。窓は黒い闇に塗り潰《つぶ》されていて、夜明けを感じさせる気配はなかった。 「目を覚ましたみたいだね」  彼の囁《ささや》き声が聞こえてきて、かずみは驚いて全身を緊張させた。  どうして起きているのかしら。やっぱりわたしが呻き声をあげたりしたことがいけなかったんだわ。そんなことを胸の裡で繰り返しながら、ゆっくりと彼のほうに目を遣った。  眠そうな顔だった。  疲れが顔に出ていた。普段は四〇歳とはとても思えない若々しい顔なのに、疲れのせいだろうか、五〇歳、いや、六〇歳といってもおかしくないくらいにやつれて見えた。 「苦しそうに唸っていたよ。悪い夢でも見ていたみたいだな」 「それで起こしちゃったの?」 「いや、もともと寝つけないまま、ウトウトしていたからね。なにしろ、夜中の二時過ぎに刑事が部屋に来たじゃないか。あれがいけなかったな」 「わたし、気づかなかったわ。刑事さんが部屋に入ってきたの?」 「いや、廊下で話をしたんだ」 「深夜に何を訊《き》きにきたのかしら。わたしたちのこと、疑っているの?」 「ぼくたちのことより、家族|風呂《ぶろ》に興味を抱いていたようだよ」 「どういうこと?」 「何時くらいに家族風呂に入ったかと訊かれてね、『入っていません』と答えたよ」 「そんなことを、わざわざ、なぜ訊きにきたのかしら」 「どうやら、事件が起きたプレイルームが家族風呂についている露天風呂から丸見えだったみたいなんだ」 「目撃できたということ? そうだとしたら、刑事さんに真っ先に知らせているわよね」 「ぼくもそう言ったよ」 「あの刑事さん、わたしたちのことを信用していないみたいじゃない。いやな感じだわ。あなたの眠りを平気で妨げるなんて、普通の神経じゃないわね」 「仕方ないさ、仕事に忠実なだけさ。かずみが怒ることはないよ」 「あなたは平気?」 「まあね、仕事に忠実な男に対しては敬意を払うべきだと思うからね。ぼくみたいに、仕事で失敗した男は、彼のことを非難してはいけないと思うな」 「自分をそんな風に卑下しないで」 「卑下じゃない。謙虚になっているだけさ。自信もちょっとだけど失っているけどね」 「あなたは大丈夫。必ず巻き返せるから。借金のことだって、これからもわたしが協力していくつもりだし……」 「ありがとう。もう十分に尽くしてもらっているんだから、いいんだよ」 「なんだか、いやな言い方」 「これ以上、迷惑をかけたくないんだ」 「わたしが自分から望んでやっていることよ」 「心配しないでいいよ、ぼくはまだ死んではいないから。今が踏ん張り時なんだ。人生、いい時ばかりじゃないってことがわかっているからね。人間の真価は、困った時にどういう行動をするかによって決まってくると思うんだ」 「頼もしいわ……」 「おいで、かずみ」  彼がこちら側を向いて躯《からだ》を横にすると、右手を伸ばしてきた。背中に回された手に引き寄せられた。  彼のぬくもりが、浴衣《ゆかた》を通して伝わってきた。火照《ほて》っているはずなのに、指先には熱気が感じられなかった。自信を取り戻したようなことを言っていたが、そうではないと、指先が物語っているように思えた。     2  彼の腕に包まれる。  こんなに穏やかな気持になれたのは、いったい、いつ以来だろう……。  このホテルに泊まっていることは、自分たち以外、誰も知らない。借金の取り立ての電話はかかってこないし、ドア越しにがなりたてる怒声に怯《おび》えることもない。  彼が好きだ。  莫大《ばくだい》な借金を背負ってしまったのは、彼に仕事運がなかっただけなのだ。そのことと彼個人のこととをごちゃまぜにして考えたくない。彼の魅力が借金によって消えてしまうこともないのだから。  彼が顔を寄せる。  くちびるが自然と開く。  この感触。  わたしがどんなに不機嫌でも、どんなに腹を立てていても、どんなに落ち込んでいても、このやわらかいくちびるに触れた瞬間、すべてを忘れられる。  わたしにとって、魔法のくちびるだ。  舌を絡める。  彼の舌先が口に入り込む。  タバコの味を真っ先に感じる。けれどもそのうちに、彼が興奮した時に感じられる甘くて生々しい味が口に拡がりはじめる。  鼻息が荒くなっていく。頬にそれが当たり、まつ毛がかすかにそよぐ。  陰部に手を伸ばした。  陰茎はすでに硬く尖《とが》っていた。  やっぱり、彼はすごい人だわ……。  借金で首が回らなくなっていて、東京にはとてもいられない情況だというのに、陰茎はそんなことにはまったく関係なく屹立《きつりつ》している。出会った頃の陰茎よりも、幹に浮き上がる血管や節の凹凸が大きくなっているようにも感じられる。  彼が舌を引っ込め、くちびるを離した。慈しむような温かい眼差《まなざ》しを送ってくる。  心が和む。ピリピリと張りつめていた神経が緩みはじめる。  ずっと見つめてもらっていたら、彼の連帯保証人になったせいで、一生かかっても返せない額の借金があることを忘れられそうだ。 「眠くないかい?」 「すごく、しあわせよ、あなた」 「あなた、かあ。久しぶりにそう呼んでくれたね」 「ごめんなさい、あなた。ゆったりとした気持になることが、東京にいる時はほとんどなかったから……」 「仕方ないさ、それは。ぼくがすべていけないんだ。連帯保証人になってくれなんて頼んでしまったんだから」 「いいの、そのことはもう。あなたのために何かをしてあげたかったの。結果的に、レストランは潰れちゃったけど、青山にお店を出したという栄誉は、わたしの心にずっと生きつづけるんだから」  かずみはそこまで言うと吐息をつき、青山通りの裏手に二年前にオープンした彼の無国籍料理の店を思い浮かべた。  オープン当時は、客が集まった。  雑誌に紹介されたし、テレビの情報番組でもユニークなレストランということで、一度だけだけれど紹介もされた。  かずみは自分の店のように、毎日、彼の店に通った。彼の恋人であることも誇らしかったし、厨房《ちゆうぼう》で汗を流しながら働いている彼を見ているのも愉《たの》しかった。  彼が追いかける夢が、自分の夢になっていた。夢を現実のものにするためなら、どんなことでもやってあげようという覚悟もあった。 「何を考えているんだい」 「青山のお店のこと」 「もう忘れたほうがいいな」 「苦労もあったけど、愉しい思い出もたくさんあるの、あの店には」 「できないだろうな、もう、おれには」 「そんなことないわ。今の借金を返しちゃえばいいんだから」 「そんなに簡単に言うなよ。返済できるあてがないんだから……。東京にいられないところまで、追いつめられているんだ。新しい店を持つなんてのは、現実離れした夢だよ」 「今度はもう少し小さなお店から始めたっていいでしょ? 最初から大人数のお客さんが入る店ではなくたっていいんだもの。ねっ、がんばりましょ」 「かずみには悪いんだけど、できない。もう、ぼくには、店を起《た》ち上げるだけの気力がないから」 「いいわよ、弱音を吐いても。わたしにだけだものね、そんなことを言えるのは……。利彦さん、何でも吐き出して」 「泣きたいけど、泣く気力すらないよ」  彼が細い声で言った。  本音なのだろう。  愛《いと》しさが胸の奥底から迫《せ》り上がった。  自分の弱さをけっして出すことのなかったこの人が、今夜、初めてそれを見せたのだ。  この人だけではない、わたしだって泣きたい。だけど涙はもう出ない。泣いて泣いて泣き尽くして、涙は涸《か》れ果てた。  彼が横になったまま腰を動かし、膨張した陰茎を太ももに押しつけてくる。  じわじわとではあるが、性欲が躯に拡がりはじめる。久しぶりの感覚だ。借金取り立てのプロの人たちが部屋のドアの前で騒ぐようになってからというもの、性欲はどこかに消えてしまっていたのだ。  彼らの取り立てのことは、テレビなどで観たことがあったが、実際に自分がその立場になると、生きた心地がしなかった。電話に出ないと、五分おきにかかってくる。電話に出たら「借金返せ、人に金を借りて返さないのは人間のくずだ、そんなことじゃいい死に方はしないぞ」などと、恫喝《どうかつ》と受け取れるが恫喝にならない言葉をつないで連呼するのだ。  かずみがいくら気が強くても、そんな彼らのやり方に心はずたずたになった。  性的欲望がなくなった。ホルモンのバランスを崩して体調を悪くしたり、髪が抜けて円形脱毛症になったり、食べたものをすぐに戻してしまうようになった。  伊豆半島の突端の小さな島にやってきて、心と躯が少しは癒《いや》されたようだった。その証拠に、微笑が自然に顔に表れるようになったし、割れ目にうるみが滲《にじ》むようにもなったのだ。 「したくなってきたわ」 「できそうかい?」 「ええ、久しぶりだからちょっと怖いけど、あなたを迎えられそうよ」 「よかった……。東京を離れて気分が変わったんだろうな。もっと早く、旅に出ればよかった」 「きっと、刑事さんがこのホテルにいるということも、わたしにとっては、安心できる材料のひとつかもしれないわ」 「そうだね……。あの刑事、胡散臭《うさんくさ》そうな雰囲気だったからさ、てっきり、取り立て屋かと思ったよ」 「わたしも、そう思ったわ」 「それが刑事だっていうんだから、おかしなもんだ」 「このホテルの経営、大変そうだわね。刑事さんがそんなことを言っていたでしょ?」 「繁盛しているように見えたけど、内実は火の車だなんてなあ。それを聞いて、他人事《ひとごと》とは思えなかったよ」  彼の手が陰部に伸びてきた。  浴衣《ゆかた》の裾《すそ》が割られ、太ももに指が這《は》う。  温泉に浸かったおかげで、数時間経っているのにまだ躯《からだ》がポカポカとして温かい。  かずみは自ら、ゆっくりと太ももを大きく開いていく。  パンティの上から陰部を撫《な》でられる。割れ目の溝に沿って、指を押し込みながら滑っていく。うるみが滲み出てきて、すぐさまパンティに染み込む。割れ目の溝に合わせてパンティが張り付き、くっきりと浮き上がるのがわかる。  指の動きに性急さがない。ゆったりとした動きで、丁寧な愛撫《あいぶ》になっている。  東京にいる時には、愛撫のひとつひとつまで焦りが出ていた。それでも性感帯のツボを外すことがなかったから気持はよかったが、指の動きの慌ただしさに、彼の心のゆとりのなさを感じてしまい、心から快感に浸ることなどできなかった。 「利彦さん、ちょっと待って。わたし、パンティ、脱ぎますから」 「ぼくが脱がしてあげるよ」 「ううん、いいの。パンティに染みをつくっちゃっているみたいだから、恥ずかしいの」  かずみは腰を浮かしてパンティをさっと脱いだ。それにつづいて、裾がめくれあがっている浴衣を剥《は》ぎ取り、腰に巻き付いている細い帯を抜き取っていった。  全裸になった。  掛け布団をかけていないと、少し寒い。  寒いと感じることに小さな喜びがあった。追い立てられるうちに、人間としてのごく普通の感覚がひとつずつどこかに消えてしまっていたからだ。 「きれいだよ、かずみ」 「あなたも裸になってください」 「うん」  彼も浴衣を脱いだ。  膝立《ひざだ》ちした。  ずいぶん痩《や》せてしまっていた。  一年程前までは違っていた。  シティホテルのベッドの上で彼は、この腹の贅肉《ぜいにく》には金がかかっているんだから、もったいなくてダイエットできないんだ、と冗談めかして言っていたことが脳裡《のうり》に浮かび上がった。  今はそんな贅肉はまったくなく、痩せてやつれていた。  貧乏神がとりついてしまったんだろうなと思ったが、そのうちに、彼そのものが貧乏神かもしれないという気になった。     3  雨足が強くなった。  窓に雨が当たる音が部屋に忍び込む。  規則的な音が、彼の荒い息遣いに重なる。  かずみは瞼《まぶた》を閉じた。  痩せてやつれた彼の躯を見たくなかった。  彼が足の間に入る。  太ももを左右に押し広げられる。  割れ目を覆っている肉襞《にくひだ》がめくれているのを感じる。膨らんでいるそれが、波打つように何度も小刻みに震える。  雨音に混じって、悲鳴のような音が耳に入ってきた。風が強まっているのだろうが、人間の生々しい金切り声のように聞こえた。 「まただよ……」  彼が低い声で言うと、陰部に顔を近づけようとして屈《かが》み込んでいた上体を起こした。かずみは瞼を開き、窓のほうに目を遣《や》った。 「またって、どういうこと?」 「悲鳴だよ」 「えっ?」 「悲鳴がまた聞こえたんだ。かずみには聞こえなかったかな」 「聞こえましたけど、風が鳴っている音でしょ?」 「そうだろうけど、ちょっと不気味だなと思ったんだ」 「どうして?」 「殺された人の魂がさまよっていてさ、この世に対する未練を風を鳴らすことで表しているんじゃないかなって……」 「怖いこと、言わないで」 「かずみは眠っていたかもしれないけど、そうだな、ぼくは今しがたの悲鳴を含めると二回は間違いなく聞いているよ」 「そう……」 「まさか、第二、第三の殺人事件が起きているんじゃないだろうな」 「このホテルには、警視庁の刑事さんがいるのよ。そんなことするわけないわ」 「そりゃ、そうだな」 「泊まっている人を次々と襲うとなると、無差別な凶行ということになるわけでしょ? そんなこと、あり得ないわ」 「確かにかずみの言うとおりだ。わかった、もうこの話はおしまいにしよう」  彼が粘っこい声で言うと、正座の恰好《かつこう》のまま背中を丸め、陰部に顔を寄せてきた。  湿った息が吹きかかる。  割れ目に性感が走る。ここ数カ月、性的なことから遠ざかっていたし、精神的にも不安定だったから、このまま自分は性的なこととは無縁の躯になってしまうのだろうと不安に思っていただけに、性的な悦《よろこ》びが割れ目から湧きあがってくるのを感じて本当に安堵《あんど》した。  こんなにも長く、彼と一緒にいたからだ……。  かずみはそう思った。  この人でなければ、わたしの不安を拭《ぬぐ》うことはできないし、わたしの躯に性の息吹を送り込んでくれる人はいないのだ。  割れ目に舌が這う。  鋭い快感が全身を巡る。  乾ききっていた心と躯に、潤いが戻ってくる。うるみが溢《あふ》れ出るだけでなく、乳房に張りが蘇《よみがえ》っているし、かさついていた肌がしっとりとしてきている。  割れ目の端で突出している敏感な芽を舐《な》められた。  お尻《しり》の筋肉が自然と収縮したり、緩んだりを繰り返す。それにつられるように、めくれ返った厚い肉襞が波打ち、さらにその内側の薄い肉襞がプルプルと細かく震える。 「すごくきれいだ」 「いやん、そんなこと、言わないで」 「生きているんだな」 「素敵な言葉だけど、今はちょっと怖いわ」 「どうしてだい?」 「殺人事件があったんだから……」  かずみはそこまで呟《つぶや》いたところで、言葉を呑《の》み込んだ。  彼の苦悩が、ふいに心に響いてきた。  東京にはもう帰れない。彼はそう考えているようだった。金がつづく限り、街を転々としていこうとしている気持が見え隠れしていた。わたしにしたって同じ気持だった。  流浪の民のようなことを一生つづけることなどできない。それはわかりきっていることだった。金にゆとりもなかった。宿のランクを抑えたとしても、長くて一カ月、短くて二週間で金は底をつく。  そうなったら……。  かずみは躯《からだ》を震わせた。  頭に浮かんだ残された道は、ひとつしかなかった。  心中……。  いやよ、そんなことは絶対に。  やりたいことはたくさんある。愉《たの》しいこともたくさんある。それに故郷で元気に暮らしている両親に先立ったとしたら、どんなに悲しむか……。  言葉にしてみると、心中が現実に迫ってくる気がして、かずみはゾッとした。  悪いことを考えはじめると、最悪の事態まで想像してしまう癖がある。心中はあくまでもイメージだ。現実にそれを実行するなんてことは考えたくない。それでいて、自己破産ということはあまりに現実的過ぎて、考えるのが辛《つら》かった。自分の行く末をイメージする場合、自分が小さな存在になってしまうことのほうが、死よりも残酷な気がした。 「どうしたんだい?」  股間《こかん》に顔を埋めていた彼が顔を上げた。  目の下にクマができていた。彼の苦悩がそこに凝縮しているように見えた。かずみは彼と視線を絡ませたが、そんな彼を見ないようにするために、気持いいような表情を浮かべて瞼を閉じた。 「久しぶりにうっとりしちゃったから……」 「そうかな? 心ここにあらず、といった感じだったよ」 「ううん、そんなことないわ。わたし、こんなにゆったりできるのって、本当に久しぶりなんだから」 「躯は正直だな」 「えっ?」  屈み込んでいた彼が上体を起こした。口の周りが濡《ぬ》れていたが、それが彼自身の唾液《だえき》なのか自分の大切なところから滲《にじ》み出たうるみなのかわからなかった。  濡れていないのかしら……。  このホテルにやってきたことで、心のほうはゆったりとしたつもりでいたけれど、躯は東京にいる時のような緊張状態がつづいているのかもしれない。高ぶっているようでいても、躯は快感に没頭していなかったのだ。いや、それとも、心中を考えたことが躯に影響を与えてしまい、それまでの高ぶりがいっきに醒《さ》めたのかもしれない。いずれにしろ、自分の心と躯が離れ離れになっていることに違いはない。 「眠いのかい?」  彼がやさしい言葉をかけてくれた。  苦悩に満ちた表情からは想像できない穏やかな声の調子だった。無理にそう言っている風ではないし、セックスをしたいためだけの言葉とも思えなかった。  かずみはすぐに返事ができなかった。  彼の気持がどのように変わったのか、見極めがつけられなかったからだ。  彼が好きだし、彼をこれまでどおり支えていきたい……。  かずみは胸に向かって呟いた。そんなことを言いきかせなければならないくらい、今の心境は複雑なものになっていた。  彼の気持が読めないのだ。  これまでは、心がいつも触れ合っているという実感があった。それが彼を支えていこうという勇気につながっていたし、借金取りに怯《おび》えながらも充実感があった。  彼が遠くに離れていったと感じた瞬間、彼が他人になってしまったように思えた。彼のためにやってきたことがすべて無になってしまったようだった。心細さと悲しさが胸いっぱいに満ちて、頭がクラクラした。 「ねえ、わたしの横にきてください」 「やっぱり、眠いんだね」 「強く抱きしめて欲しいの」 「つながりながら、抱きしめてあげるよ。そのほうがいいんじゃないかい」 「あなたのぬくもりだけでいいの、今は」 「抱きあって眠るとするか。今日は間違いなくチェックアウトできるだろうからね」 「どこに行くつもり? 今日は」 「船で下田に戻ったら、そうだな、バスで西伊豆のほうを巡ってみようか。東伊豆よりもひなびていて、人目につくことも少ないだろうからね」 「わたしたち、こんな風にして、日本中を転々とすることになるのかしら」 「ほとぼりが冷めるまでだよ」 「どのくらい?」 「一カ月というところかな。明日、弁護士さんに連絡を取って、自己破産の手続きをしてもらうつもりだ」 「いつ、そんなことを考えたの?」 「一生逃げつづけるなんてことは不可能だと、このホテルにやってきた時から考えていたんだ。ようやく、踏ん切りがついたよ」 「わたしはどうすればいいの?」 「ぼくと同じようにして欲しい。かずみが借金をすることになったそもそもの原因は、ぼくにあるんだからね」  足の間に入っていた彼が寄り添ってくれた。腕枕をしながら、強く抱きしめてくれた。それでも、離れていったと感じた彼の心が戻ってきたとは感じられなかった。     4  ドアをノックする音がした。  今、何時?  かずみは躯を硬直させた。  けたたましく打ち鳴らす音に心も躯も怯えてしまう。まさかこんなところまで借金取りが追いかけてくることはないだろう。  ベッドサイドに置かれている彼の時計に目を遣《や》った。  朝の五時ちょっと過ぎだった。  あまりにも非常識な時間だ。眠気に不快感が混じり、顔をしかめながら、すぐ隣で横になっている彼を見遣った。 「利彦さん……。こんな時間だけど、出たほうがいいわよね」 「朝の五時じゃないか。応対することないんじゃないかな。眠っていて気づかなかったということにすればいいんだから」 「緊急だとしたら、よくないわ」 「それじゃ、かずみ、出てくれないか」  かずみは渋々うなずいた。不快感が胸の中でグルグルと渦を巻くのを感じてはいたが、自分からそう言ってしまった手前、仕方なくベッドを下りた。  浴衣《ゆかた》を着ると胸元まできっちりと隠した。洗面所で髪の乱れを直した後、ドアに向かった。 「どなた、ですか」  ドア越しに、おずおずと声をかけた。  気配を探る。  誰かわからないまま、ドアを開けるなどという不用心なことはしない。借金に苦しめられるようになって、そうした警戒心が培われてきたのだ。  雨音が部屋に入ってきてはいるが、廊下にいるのがひとりだということはわかった。 「刑事です、ちょっといいですか」 「このホテルに泊まっている警視庁の方ですか?」 「昨日から何度かお目にかかっている山田です。声の様子からして、あなたはかずみさんですよね。こんな時間に申し訳ありません。泊まられている皆さんに、確認をして回っているんです。ぜひとも、ご協力していただきたいんです」 「何でしょうか……」  かずみはためらいがちにドアを開けた。  夕食の時に見かけた顔からすると、目のあたりがひどく落ち窪《くぼ》んでいるようだ。こんな時間まで捜査をつづけていたからだろうが、刑事というのは睡眠を削ってまで仕事をするものだろうか。この事件は静岡県警が調べることになっていると、この刑事の口から聞いている。管轄外のこの初老の刑事がなぜここまで頑張るのか不思議だ。 「ごめんねえ、こんな時間に。どうしても訊《き》いておかなくちゃいけないことがあったんですよ」 「何でしょうか」 「あなたは、海人という名前に聞き覚えはありませんか。海の人と書いて、かいと、と読むんです」 「かいと……。知りません。今時の名前ですね。友だちのお子さんがそんな名前だったような気がします」 「親戚《しんせき》にもいませんか?」 「ええ、そうですね」 「一緒に泊まっている男性にも、もちろん起きていたらでけっこうなんですが、訊いてもらえないでしょうか」 「ちょっとお待ちくださいね」  かずみは頭をちょこんと下げると、いったんドアを閉めて、ベッドに向かった。  彼は起きていた。刑事との話を聞いていたらしく、目が合うなり、「おれも知らないよ、そんな名前。親戚にもいないからな……。その男が有力な容疑者というわけか」と不機嫌な声で応《こた》えた。  かずみは黙ってうなずくと、ドアのほうに取って返した。ドアを細く開けて、刑事を見遣った。穏やかな表情だった。好々爺《こうこうや》といった雰囲気のせいか、不快感は少しずつ薄らぎはじめていた。 「残念ですけど、彼もその名前は知らないそうです。その人が犯人なんですか」 「亡くなったオーナーの日記を、ようやく、見せてもらうことができたんです。几帳面《きちようめん》な性格の方だったみたいでね、細かい文字でびっしりと書かれていました」 「そこに海人という名前もあったんですね」 「びっしりと書かれた日記の中で、海人という二文字だけ、一ページ全部を使って書いてあったんです」 「へえ……」 「日記の日付は、今から三週間程前なんですけどね」 「わたしたち、その頃はまだ、このホテルの存在すら知りませんでした」 「オーナーのことは、ここに泊まって初めて知ったわけですね」 「ええ、そうですよ」 「チェックインの時の短い間に、何か話をしましたか?」 「オーナーさんがね、わたしたちを庭に案内してくれたんですよ。船着き場のほうを指さしながら、将来、ここを一大ヨットハーバーにしたいなんてことを言っていました」 「ご家族からはそういった話は出ませんでしたねえ。オーナーの個人的な夢だったんでしょうか」 「わたしにはわかりません。そういった話があったという事実をお伝えしているだけですから」 「自分が海の人でありたい、という意味を込めて、日記に海人と書いたのかな」 「夢を持っている人だなってことは、すごく伝わってきました」 「ふたりの娘さんに、海の人であれ、といった想いを込めて書いたのかな」 「オーナーが殺されたことと、その名前は関係があるということですね」 「ほかにこれといった手がかりがないもんでね、あっ、これも捜査上の秘密です。ご内密に願えますか」 「もちろんです」 「ところで、嵐がおさまってきたので、今日はもう船が出ると思うんですが、あなたたちは東京に戻るんですか?」 「いいえ、西伊豆のほうに向かうつもりでいます。連絡が取れるようにしておきたい、ということですね。宿はまだ決めていませんから、決まり次第、昨晩教えていただいた刑事さんの携帯電話にかけてお伝えしますよ」 「わかりました、どうも、本当に助かりました。こんな時間に申し訳ない。それじゃ、おやすみなさい」  刑事がぺこりと頭を下げた。  落ち窪んでいた目のあたりにわずかに赤みがさしていて、興奮しているような雰囲気が伝わってきた。  犯人がわかった?  刑事の変わり様に気づいて、チラとそんなことを思った。が、今の話が手がかりになったとはとても思えなかった。  刑事が背中を向けた。  かずみは好奇心に駆られ、彼の背中に思わず声を投げかけた。 「あの……」 「えっ?」  刑事が立ち止まって振り返った。 「今の話、役に立ったんでしょうか」 「そうですね、たぶん」 「犯人、わかったんですか」 「さあ、どうでしょうかねえ」 「笑顔に余裕がありますね、刑事さん」 「ははっ、そうですか? あなた、表情から心が読み取れたということは、わたしなんかよりもずっと名刑事だ」 「冗談でしょ」 「ははっ、どうかなあ……。それじゃ、わたしはこれにて」  刑事がにっこりと微笑を浮かべた。  かずみは確信した。  刑事は犯人がわかったのだ。  いったい誰?  海人という人物?  刑事にはそれが誰なのか、察しがついたのだろう。そうでなければ、訪ねてきた時の顔と別れ際の顔で、あんなに違いがあるはずがない。  かずみは自分が興奮しているのがわかった。居ても立ってもいられなくなり、彼の元に走って戻った。 「犯人、わかったみたいよ」 「まさか、あの老いぼれ刑事にそんなことができるはずないじゃないか。それに、ぼくたちには関係ないことだから、どうでもいいじゃないか」 「オーナーさん、いい人だったでしょ。それに奥さんだって素敵な人だったから、犯人が捕まって欲しいって思っていたの」 「余裕だね、かずみは」 「どういうこと?」 「他人の心配をする余裕があるなんて、いいなあと思ったんだ。ぼくは、今日をどう過ごすかということで頭がいっぱいだからね」 「余裕はないけど、それとこれとは話が別でしょ?」 「別ではないな、ぼくにとっては。他人の心配をするゆとりがあるなら、もう少し、自分たちのことを考えるほうに、エネルギーを向けたらどうだい」 「わたし、精一杯やっています」  かずみは興奮がおさまっていくのを感じた。  彼の顔をじっと見つめた。  レストランが順調にいっている時なら、そんことは言わなかったはず。お金に困るうちに、心まで貧しくなってしまったのね……。  かずみは悲しくなり、ベッドに倒れ込むようにしてうつ伏せになった。涙が溢《あふ》れ出てきた。彼に気づかれないように背中を向けた。こめかみを伝う生温かい滴を感じて、さらに悲しみが深くなった気がした。     5  海人かあ……。  素敵な名前だわ。  かずみはチェックインする時に応対してくれたオーナーの顔を思い浮かべた。  彼はすごい人だ。  無人島を買い取り、自力でホテルをはじめたということを聞いた。伊豆の先端の小さな島とはいえ、そんなことができるのは並大抵の男ではない。  島まで買って事業をする男がいるというのに、隣で眠っている男は小さなレストランの経営にさえ失敗してしまったのだ。  男の器の違いなのだろうか。それとも持って生まれた才能や才覚といった、努力ではどうしようもないことに違いがあるからなのだろうか。  五十嵐のいびきがはじまった。  同じベッドで寝ている相手に気を遣っているかのような控えめなものだった。が、一分もしないうちに破裂音の混じるけたたましいものに変わった。部屋のどこにいても聞こえそうなくらいに大きく、そして不快な音だった。  出会った頃は、彼のいびきが愛らしいものに聞こえた。それは彼が青山に出した店の経営が立ち行かなくなるまで変わらなかった。  今はしかし、そうは思わない。  かずみは吐息をついた。  寝られないわ、これじゃ……。  かずみは気持が少しずつ、ささくれてくるのがわかった。いびきをかくのは仕方がないことなのに、それさえ、彼の才能や才覚のなさといったことに関係していると思ってしまいそうだった。  口を開けて眠っている彼の顔がマヌケなものに思えてきて、彼の鼻を摘《つま》んだ。  開いているくちびるが苦しげに歪《ゆが》んだ。そのすぐ後、「ぷしゅー」なのか「ぷわあ」「ぷしゅわー」とも聞こえる破裂音をあげながらくちびるを震わせた。  このホテルのオーナーも五十嵐のように苦しげな表情をしたのだろうか……。  そんなことを考えた瞬間、かずみはゾッとして鳥肌が立つのがわかった。  オーナーの苦しみを想像したからではない。このまま五十嵐の鼻と口を塞《ふさ》いだら、オーナーと同じような顔になるかもしれないと思ったのだ。  指を離した。  彼の小鼻がひくつき、開いていたくちびるが閉じられた。それでも彼は目を覚まさないし、寝返りをうったりもしなかった。  彼が今、ここからいなくなったら、どうなるのかしら……。  かずみは胸の裡《うち》で呟《つぶや》いた。それは、東京を逃げるようにして離れた時からずっと考えていたことだった。いや、そうではない。実は、借金の返済が滞るようになった時から、薄々ではあるけれど思っていたのだ。  だが、それをずっと胸の奥底に抑え込んでいた。彼のためになれば、彼のことが好きだから借金をしたのだから、恨んではいけないと自分に言いきかせた。そういう風に思ってはみても、借金取りがアパートに押しかけてくる苦しい生活に入ると、彼に対する恨みは募った。  彼がもし、もう少し経営に才覚があったら、もう少しおいしい料理を出せたら、もう少し店の悪い評判を素直に受け止めていたら……、といったことをひとりで考えたのだ。  そのうちに、彼がいなくなってくれたら、この借金は消える、保険金が入ってくるから借金は棒引きだ、そうなれば自分ひとりで一から出直せる、といったことに考えが発展していった。  かずみは吐息をつき、頭を振った。  こんなことを考えつづけていたら、本当に実行してしまいそうな気がした。不安に駆られ、彼の寝顔から視線を外して窓を見遣《みや》った。  夜が明けはじめている。  白々とした空気が見える。嵐は過ぎ去ったようだ。窓ガラスを打ちつけていた雨はすでに止んでいる。ガラスについた雨粒は落ちずに、時折吹きつける風に震えながらとどまっている。  海人かあ……。  刑事が教えてくれた名前を口にした。  珍しい名前ではあるけれど、今時の名前だというのは確かだ。男の子を産んだら、こんな名前もいいかもしれない。  かずみはふっとそう思った。  次の瞬間、オーナーの日記に書かれていた海人という名前は、友人知人の名前でも、犯人の名前でもなく、これから生まれてくる彼の子どもにつけようとしていたものではないかと思った。  かずみは宿泊客の女性の顔を順番にゆっくりと思い出した。  乳飲み子を連れている女性はいない。それどころか、子ども連れの客もいなかった。  いや……。  客の中に確かにいた。  確信はないけれど、女性客のひとりはふっくらとしていて、妊娠しているように見えた。お腹が目立たないようにざっくりとしたワンピースを着ているように思えた。 「ねえ、起きて」  いびきをかきはじめている彼を揺り動かした。指先が震え、興奮のために、腹の底がうねった。 「ううん、何だよう」 「ねえ、とにかく起きて。オーナーを殺した犯人がわかったの……」 「そりゃ、よかったな。まだ夜が明けていないじゃないか。眠らせてくれよ」 「すごいことだと思わないの? わたしの話を聞いてよ。あなたが起きるまで、ずっと、躯《からだ》を揺らしつづけるわ」  かずみはそう言うと、彼の肩を勢いよく揺すった。ベッド全体が波打ち、スプリングが鈍い音をあげた。  彼がゆっくりと瞼《まぶた》を開いた。  不機嫌な顔のまま大きくあくびをした。マヌケな顔だった。無理矢理起こしたのだから仕方ないが、表情のどこにも緊張感が漂っていなかった。  彼の顔を見ても、今までそんな風に感じたことがなかったから、かずみは戸惑った。  愛情が薄らいだわけではない。いや、そう断言できるだけの自信がないことに気づき、戸惑いに驚きが加わった。  彼は起きるといきなり、タバコに火をつけた。つづけざまに三服|喫《す》った。朝のすがすがしい空気に包まれた部屋に、臭いタバコの煙が漂った。 「やっと頭が動きはじめたよ。で、話って何だったかな」 「今、言ったばかりなのに……。言うのがいやになっちゃうじゃないの」 「話してごらんよ。せっかく起きたんだからさあ」 「驚くわよ、きっと」 「目が覚める話かい?」 「あのね」 「もったいぶるなよ」 「オーナーを殺した犯人が、わたし、わかったのよ」 「名探偵だな、かずみは」 「茶化さないで」 「刑事がきていたけど、彼から教えてもらったのかい?」 「海人っていう名前のこと、覚えている?」 「オーナーの日記に書かれていたっていう名前だったよな。そいつが犯人なんじゃないか?」 「あのね、それはこれから生まれてくる子どもにつけようとしていた名前なの」 「どうして、そうだと断言できるんだ?」 「刑事さんが言っていたもの、オーナーの友人や親戚《しんせき》に、その名前の人はいないって」 「だから犯人ということになると思うんだけどな」 「日記は、びっしりと細かい文字で書かれていたそうよ。それがね、海人という文字だけは一ページを使って、丁寧に書いていたそうよ」 「自分の子どもって、どういうことかな」 「きっと、不倫していたのよ」  かずみはそう言うと、なぜオーナーが殺されたのかわかった気がした。  彼にはふたりの娘がいる。チェックインした時、そんなことを話してくれた。  息子が欲しかったのだ。  そうだ、そうに違いない。不倫の相手が妊娠した。そしてその子の性別が、男の子だと判明したのだ。けれども、その女性は子どもを渡したくない。彼はしかし、自分の息子として育てたいと言った。そのあたりから、ふたりの関係はぎくしゃくしだし、ついには殺人へと発展していったのだ……。  彼がタバコを灰皿に押しつけた。フィルターぎりぎりまで喫っていた。そんな喫い方は健康のためによくないと何度も注意していたが、今はそれを見ても、ケチ臭いと思うだけで、何とも思わなかった。 「かずみは想像力が豊かだな、やっぱり。つきあいだした頃から、空想することが好きだったものなあ」 「空想ではないわ」 「自分で調べたわけじゃないだろ? だったら空想だよ」 「そうかもしれないけど……」 「話はわかった。その話、自信があるなら刑事に話してきたらどうだい。おれは寝る。タバコを喫っても、眠気がとれないや」  ベッドから下りた彼がトイレに向かった。  後ろ姿がわびしかった。  どうしてこんな男について来たんだろうと思った。他人事とはいえ、泊まっていたホテルのオーナーが殺されたのだ。それについての話に興味を示してもよさそうではないか。自分の考えや推理を、どうして真剣に聞いてくれないのか……。  どうして、こんな人を好きになってしまったんだろう。かずみはそんなことを考えながら、自分を追いつめているのは彼だと思った。  このままでは、自分の一生が台無しになってしまう。心の中でそんな呟《つぶや》きが聞こえてきて、どきりとした。 [#改ページ]   エピローグ  徹夜をしてしまった……。  嵐はいつ通り過ぎていったのだろう。  朝陽のキラキラとした光が眩《まぶ》しくて、わたしは充足感を味わいながら瞼《まぶた》を閉じた。  ふうっ。  吐息をつくと、ロビーのソファに沈みこむようにしながら上体をあずけた。  プライベートの旅行中に泊まったホテルで殺人事件が起きるなんていう偶然はいったいどれくらいの確率なのだろうか。見て見ぬフリをすればいいものを、またしても、お節介の虫に動かされてしまった。こんなことをしているから、ゆったりと休暇を愉《たの》しむことができないんだ。  わたしは腕時計に目を遣《や》った。  午前九時二〇分。  さてと……。  そろそろ、このホテルにいる人たち全員がロビーに集まってくるだろう。  オーナー夫人の文恵がきた。つづけて娘の洋子と、ヒロ君と呼ばれている青年も一緒だ。 「刑事さん、何があったんですか?」  真っ先にオーナー夫人が不安げな顔で声をかけてきた。 「ご主人を殺害した犯人の目星がついたんです。それで、このホテルにいる人たち全員に集まってもらおうと思いましてね」 「いったい、誰なんです。このホテルに泊まっている人の誰かなんですか?」 「奥さん、お気持はわかりますが、まあ、焦らないで」 「もったいぶること、ないじゃありませんか。それに、全員を集める意味も、わたしには理解できません」 「集まってもらったほうがいいんですよ。おっつけ静岡県警もくるでしょうからね。それまでの間、全員で一カ所にいたほうが都合がいいですからね」 「犯人につながったのは、やっぱり、主人の日記だったのでしょうか」 「そうですね、海人という名前です」 「わたしにも娘の洋子にも心当たりがなかったんですが、刑事さん、その人は誰だったんでしょうか」 「この世には存在していないんです」 「その人も亡くなったということですか?」 「いや、そうじゃなくて、これから世の中に出てくるんです」 「よくわかりませんが、それはつまり、これから生まれてくるということですか……」  オーナー夫人がためらいがちに、おずおずと訊《き》いてきた。これだけの立派なホテルを切り盛りしている女性だけのことはある。わたしの言葉にピンときたようだった。  娘の洋子が固唾《かたず》を呑《の》んでいる。彼女の緊張が伝わってくる。わたしは短く咳払《せきばら》いをすると、三人の顔をゆっくりと見つめて言った。 「ご主人はきっと、ホテルの将来に不安を抱いていたのでしょう。結婚してこの島を離れていくかもしれない娘さんがいるだけですからね」 「借金のことで思い悩んではいましたが、将来のことについては割り切っていました。自分の代でこのホテルをたたんだとしても悔いはないって、口癖のように言っていましたから……」 「娘さんをこのホテルに縛りつけてはいけないという親心だったんでしょうね。だから、そういう風に言っていたのだと思います。もしかしたら、自分を納得させるために言っていたのかもしれません」 「ええ、確かにそうですね」 「そんな時にですよ、もしも、男の子が、自分の息子が生まれてくると知ったらどうでしょうか」 「つまり、主人が浮気していたと?」 「知っていたんじゃないですか? いや、はっきりとは知らなくても、薄々、感づいていたんじゃないですか」 「子ども連れのお客さんはいませんよ」  そこまで言ったところで、オーナー夫人が言葉を呑み込んだ。表情を曇らせたかと思ったら、頬がプルプルと震えはじめ、青ざめていった。 「落合さんと同宿している、里美さん、妊娠していますよね」 「ほんとですか?」  オーナー夫人の横で聞き耳を立てていた洋子が驚いた声をあげた。わたしは自信たっぷりとうなずいてみせてやった。  腕時計に視線を落とした。  午前九時四五分。  宿泊客はまだ誰も、ロビーに顔を出してこない。遅くなるにしても、尋常ではない。  訝《いぶか》しく思っていると、由子が現れた。つづいて博子、そしてかずみの顔があった。それぞれが一緒に宿泊している男性は誰もまだ現れなかった。  里美も姿を現した。  わたしはそこでふうっと吐息をついた。  よかった……。  里美が間違いを犯してしまうことが唯一の心配だったからだ。  女性の宿泊客は全員揃った。皆、一様にくすんだ顔をしていた。嵐が過ぎ去った後のすがすがしいまでの光に包まれているというのに、彼女たちの表情は暗く淀《よど》んでいた。 「で、そのことは本人に確かめたんですか」  オーナー夫人が里美の名前を出さないようにしながら訊いてきた。  わたしは深々とうなずき、そしておもむろに里美に目を遣った。  その時、階段に里美と一緒に泊まっていた落合が現れた。  そこでもまた、わたしは安堵《あんど》した。  彼女が苦し紛れに、第二の犯行に及ぶかもしれないという不安を抱いていたからだ。 「どういうことなんですか、里美さん。わたしに説明していただけますか」  オーナー夫人が目に涙を溜《た》めながら、里美に声をかけた。 「ごめんなさい……。ほんとうにすみませんでした。わたし、取り返しのつかないことをしてしまって……」 「何があったんですか、主人との間に」 「子どもを……、これから生まれてくる子どもを認知して、引き取るって……。わたしが拒んだら、落合さんにバラすって……」  里美が泣き声をあげた。言葉をつづけられる情況ではなかった。  由子もすすり泣きをはじめた。  彼女につられるように、博子とかずみも涙ぐみはじめた。  何か様子が変だ。  わたしは咄嗟《とつさ》に奇妙な空気を感じ取った。  もらい泣きをするにしても、由子も博子もかずみも事情を知らないはずだった。  大人の女性がもらい泣きをするからには、そこにはなにがしかの共感がなければいけない。  泣き声がしだいに大きくなっている。まるで、犯した罪の大きさに気づいた犯罪者のそれに似ていた。後悔と不安と戸惑いが入り交じった泣き声だった。長年犯罪者の取り調べをやってきたからこそ聞き分けられたのだ。  まさか……。  彼女たちと同宿している男性たちはどうした?  なぜ姿を現さないんだ?  わたしは背中に冷たいものが走るのを感じた。鳥肌が立ち、一瞬、目眩《めまい》がした。  オーナー殺しがあったこのホテルで、第二、第三、第四の犯罪が起きたのか? そういえば、断末魔のような呻《うめ》き声を何度か聞いている。セックスの時の声かと思っていたが……。  わたしは恐怖を感じながら、彼女たちが泊まっている部屋に向かって走り出した。 角川文庫『密室事情』平成19年4月25日初版発行