日本文化論 石田英一郎 [#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)] 目 次[#「目 次」はゴシック体]  序 章 文化と民族  第一章 日本人とは何か  第二章 日本民族の形成  第三章 日本文化の源流  第四章 日本国家の起源  第五章 日本文化の特質  第六章 日本と西洋 [#改ページ]   日本文化論 [#この行4字下げ]本書は、一九六五年秋、成城大学主催「柳田国男先生記念特別公開講座」において行なわれた連続講義に基づくものである。 [#改ページ]   序 章 文化と民族 [#改ページ]  日本文化論のテーマ[#「日本文化論のテーマ」はゴシック体]  私は戦前から長年にわたって故柳田国男先生の謦咳に接してきた世代に属し、先生の学問から多くの恩恵を受けて育ちました。しかし、柳田先生の日本民俗学そのものに対する私の勉強は、まだきわめて浅いものです。それに、学問の方向や専門分野もやや違っているので、この先生の記念講座(成城大学主催・柳田国男先生記念特別公開講座)で正面切って、「日本文化論」を論ずるだけの十分な準備はととのっていません。できれば、あと一、二年あるいは三年ぐらい先に、もう少し自分が成長してからと思っていましたが、一応、現在の考えを整理する意味で、ここでお話しすることにしました。  私は東北大学の日本文化研究所で、日本文化を中心に勉強しており、「日本文化論」というテーマで講義もしています。  いま、日本民俗学とは何を目的とする学問であるかを考えますと、一言でいえば日本文化論であるということになると思います。日本民俗学の対象と目標は、要するにわれわれ日本民族の自己認識の学ということになるでしょう。自己認識といっても、とくにわれわれの伝統的な、しかも今日に生きている文化というもの、あるいは文化的な特質、民族性、国民性、こうしたすべてのものがその対象になると思います。したがって、日本民俗学、即、日本文化論といえるでありましょう。  それなら私ごとき、日本民俗学の学会からいうとやや周辺の、よそもの的な存在が、ここで日本文化論についてお話しする意義はどこにあるのでしょうか。また日本民俗学とはどう違った立場でこの話をするのか。こういうことを最初におことわりしておきましょう。日本民俗学にとっても、今後問題として残されることはいろいろあると思えますし、私のほうでも、今後の日本民俗学のあり方、進む道についての疑問をいくつかもっています。たとえば、東北大学に来ていたドイツの哲学者カール・レーヴィットの東洋と西洋の相違に関する短い論文のなかに、こういうことばがあります。 [#ここから1字下げ] ——古代のギリシャ人は、�他国民�とか、あるいは近東の隣接諸民族と自分たちが違っていることに気がついたときに、はじめてギリシャ人としての自覚をもった。われわれはつねに何か異なる他者と区別されるときに、はじめて自己の生活様式やみずからの特性を自覚する。だから、未知の他国の人と接触をもたぬものは、自己の本性、本質を知らない……。 ——このような区別の上に立つ対比は、必ずしも両者の差異の解決を意味しない。むしろ両者の対決を促す。みずからと何か異なったものに対比させることは、同時に自己の批判ともなる。自己に対して盲目であるのは、他人の別のあり方を知らないからである……。 [#ここで字下げ終わり]  この問題は同時に日本民俗学、あるいは日本文化論にも、同じようについてまわるものではないかと思います。私の理解するかぎりでは、柳田先生がこういう学問を、明治以来、大正・昭和にわたって展開されたその背景には、明治の文明開化という、この西洋との対決の問題が大きくひかえていました。そして、西洋という他者が目の前にあって、はじめてあの滔々たる文明開化の流れのなかで、いわば流れに抗して、自己を改めて見つめぬこうという気持が、あの先生の学問を育くんだのではないでしょうか。こういうふうに私は理解しています。日本民俗学による日本文化論のあり方が、これからどうなって行くかということも、改めて考える必要のある問題だと思います。  私はどちらかというと、日本の外の方について学んできました。私は明治の生まれですから、『東西抄』(筑摩書房刊)にも書きましたように、西洋というものが子どものときから、非常に大きな他者として目の前に立ちはだかっていました。西洋をたえず意識しながら、西洋の学問をやり、ついで西洋に学び、結局はその他者との対決において自分自身を内省し、自分の姿が何であるかという日本文化論の関心へ戻ってきたわけです。  民族の個性の形成[#「民族の個性の形成」はゴシック体]  私は最初から、文化史、ことに古代へさかのぼった文化史についての関心が強かったのです。だから自然この「日本文化論」にも、日本文化や日本民族の起源、日本国家の起源などという題目がふくまれ、何か日本の古い歴史を述べるような印象を与えるかもしれません。しかしここに取り上げている日本文化は、いったいいつの日本文化なのかと問われるならば、それは現在の、われわれの所有する日本文化、すなわち日本民族の文化のことです。そしてこの文化の性格やパターンを明らかにするために、こういう日本民族、日本文化がいったい、いつ、どこで、どうして形成されたのかという問題を明らかにしたいのです。  ある一つの文化のライトモチーフともいうべき基本的な特質が、いつできたのかという問題を、個人のもつ個性にたとえて考えてみましょう。かなり多くの心理学者や人類学者は、個人の一生を通じて変わりにくい、いわばコア(核心)になるようなパーソナリティーは人間の幼少年期に形成され、そしていったん形成されたコア・パーソナリティーは、その個体の死にいたるまで存続するといっています。私も人生の体験を通じて、その見方はかなりあたっているような気がします。子どものころには、大人というものは、自分たちと違って、長い人生経験を積んだえらい人たちで、大人と子どもの差異は非常に大きなもののように考えています。少青年時代までその考えは続きます。それが壮年時代をすぎ、半世紀以上の人生の経験をもつと、子どものときにできた基本的な性格は、還暦すぎた老人になっても少しも変わっていないことを、自分の身近にいる人についてよく感じるようになります。たとえば気の短いかんしゃくもちの人は、年とともに少しは人間ができてきますが、やはり気が短くかんしゃくもちという性格そのものは老人になっても変わりません。おっとりしてなかなか腹を立てないような人は、子どものときにもそうだったな、と思うことがあります。  それを民族の文化にあてはめてみても、それぞれの民族の基本的な、個人のコア・パーソナリティーにあたるような特性、つまり民族の個性の形成は、やはりその民族が民族として形成された特定の時代の状況にまでさかのぼって、理解すべきものではないでしょうか。  私はそういう意味で、日本文化の起源論をやっていますが、日本民族の起源と、現在の日本人の民族性、あるいは現在の日本文化の特質、この二つがどこでどう結びつくのかということを考えています。漠然たる一つの仮説として、いまいったような変わりにくい連続を考えていますが、その中間関節を一つ一つおさえて、歴史の流れのなかにその連続性・固執性を証明したいというのが、私の一つの夢であり、野心でもあります。今の段階では、単に問題の提起という限界にとどまるにせよ、それだけでもけっしてむだなことではないでしょう。  これから若い人々が、その問題を追って研究を進めてゆけば、いま私のわからないようなことでも、やがて十年先、二十年先には解決され得る見込みがあるのではないでしょうか。 [#改ページ]   第一章 日本人とは何か [#改ページ]  文化の共通性と差異[#「文化の共通性と差異」はゴシック体]  話のいとぐちとして、何か身近な問題、最近の新聞記事からいくつかをとりあげてみましょう。  先年、朝日新聞の夕刊に連載されていた「アラビア遊牧民」というルポがあります。これを書いた本多勝一氏は、前に、カナダのエスキモー、それについで、ニューギニアの山地のモニとかダニとかいう未開山地民の間に、カメラマンとともにはいりこみ、いっしょに生活した体験を新聞に連載しました。それはすでに二冊の本になっています。一つは『カナダ=エスキモー』、もう一つが『ニューギニア高地人』で、この二冊とも大いに興味のある書物であり、そのなかには自分の体験や観察が非常にいきいきと出ております(『極限の民族』として一冊にまとめられている)。そしてそこには生きた人間が描かれています。極北の狩猟民であるエスキモーや、ニューギニアの隔離された奥地でごくプリミティブな農耕をいとなむ種族、こういうものがわれわれと同じ人間として、きわめて身近に感じられます。この同じ著者が、最近アラビア遊牧民のなかにはいって、その体験をつぶさに報道していますが、さてこのルポといまの日本文化論は、どういう関係があるのでしょうか。  この著者は、未開野蛮といわれているエスキモーや、人喰い土人などといわれているニューギニアの高地人のあいだで、人間は未開と文明とを問わず、けっきょくは同じものだ、人間とは何とたがいに似ているものであろうと、そこにわれわれと共通した人間性を強く感じて、非常に親しみを覚えたことを書いています。そして、三回目には、アラビア遊牧民のなかにはいりました。アラビア人は古い歴史をもち、また社会慣習としては非常に複雑な礼儀作法を発達させています。席にすわるにしてもお互いに長いあいだ譲り合ったり、客人をもてなすときの親切さの表現にも洗練されたものがあります。彼らの祖先は、あの偉大なサラセン帝国とその文明をうち建てました。ところが、このアラブ民族のベドウィンという遊牧民のなかにいると、人間とは何と違うものだろう、民族が違い歴史が違うと、これほどまで相互の理解が困難なものであろうか、こういうことを本多氏は痛感したのでした。  実は、私はそこに日本文化論へのいとぐち[#「いとぐち」に傍点]を見いだしたのです。たとえば本多氏は、リヤドという町のホテルのカウンターで、部屋の鍵を渡されました。部屋に行ってその鍵であけようとしたら、あきません。見れば鍵の番号がちがっています。そこで、再び受付に戻って鍵の番号を見せ、「部屋にはいれませんでしたよ」と、日本人らしい、相手を責めぬ心づかいで軽く微笑しながら言ったとたん、まったく予期しない「あなたが間違った番号をいったのです」という答えがはね返ってきたというのです。  日本人だったら、「どうもすみません」とか、「いや、これは失礼しました」というただの一言ですんでしまうところを、アラビアでは、「それはあなたの方が間違った番号をいったからだ」という弁解がまっ先に飛び出すのです。これには唖然としたものの、それまでベドウィンとの交渉のなかで、一種の略奪文化ともいえるような、遊牧民のがめつさ、たとえばいったん手にした金は当然返すべきものでも、あらゆる口実を設けて絶対に返さないといった、食うか食われるかの苛烈な砂漠の自然のなかで養われた、一種の異質的な文化をさんざん体験してきていました。だから次の瞬間には、なるほどこれがベドウィン的というものか、と思いあたったというのです。  和辻哲郎博士の有名な『風土』のなかにも、文字どおりドライなこういう�砂漠的人間�の文化を�思惟の乾燥性�ということばで特徴づけています。  本多勝一氏の発見[#「本多勝一氏の発見」はゴシック体]  ここで私にとって重要なのは、筆者の本多氏が書いている次の発見なのです。 [#ここから1字下げ] ——自分の失敗を認めること。それは無条件降伏を意味する。そんなことをしたら「人間はすべて信用できない」(あるアラビア人のことば)のだから、何をされようと文句はいえない。  かつてアラビア近くまで攻めこんだモンゴル人は、無条件降伏すれば助けるといっておいて、降伏した敵を一人残らず殺し、死体の上に板を敷いて祝宴を開いた。(そういえば彼らも遊牧民の出身か。)(と本多氏はいっていますが、もちろんモンゴルは純粋の遊牧民族です。) ——たとえ何か失敗しても、断じてそれを認めてはいかん[#「いかん」に傍点]のだ。一〇〇円の皿を割って、もし過失を認めたら、相手がベドウィンなら弁償金を一〇〇〇円要求するかもしれない。だから皿を割ったアラブはいう。——「この皿は今日割れる運命にあった。おれの意思と関係ない」  さて、逆の場合を考えてみよう。皿を割った日本人なら、直ちにいうに違いない——「まことにすみません」。ていねいな人は、さらに「私の責任です」などと追加するだろう。それが美徳なのだ。しかし、この美徳は、世界に通用する美徳ではない。まずアラビア人は正反対。インドもアラビアに近いだろう。フランスだと「イタリアの皿ならもっと丈夫だ」というようなことをいうだろう。  私自身の体験ではせますぎるので、多くの知人・友人または本から、このような「過失に対する反応」の例を採集した結果、どうも大変なことになった。世界の主な国で、皿を割って直ちにあやまる習性があるところは、まことに少ない。「私の責任です」などとまでいってしまうお人好し[#「お人好し」に傍点]は、まずほとんどない。日本とアラビアとを正反対の両極とすると、ヨーロッパ諸国は真ん中よりもずっとアラビア寄りである。隣りの中国でさえ、皿を割ってすぐあやまる例なんぞ絶無に近い。ただしヨーロッパでは、自分が弁償するほどの事件にはなりそうもない些細なこと(体にさわった、ゲップをしたなど)である限り「すみません」を日本人よりも軽くいう。この謝罪は、ベドウィンの「親切」のように単なる慣習である。  だが、日本人と確実に近い例を私は知っている。それは、モニ族(ニューギニア)とエスキモーである。モニ族は、私のノートをあやまって破損したときでも、カメラのレンズに土をつけたときでも、直ちに「アマカネ(すみません)」といって恐縮した。こうした実例を並べてみると、大ざっぱにいって次のような原則のあることがわかる——「異民族の侵略を受けた経験が多い国ほど、自分の過失を認めない。日本人やエスキモーやモニ族は、異民族との接触による悲惨な体験の少ない、ある意味ではお人好しの、珍しい民族である」  基本的な「ものの見方について」考えると、ベドウィンの特徴、ひいてはアラブの特徴は、日本の特殊性よりもずっと普遍的なのだ。私たちの民族的性格は、アラビアやヨーロッパや中国よりも、ニューギニアにより近いとさえ思われる。探検歴の最も豊富な日本人の一人・中尾佐助教授(栽培植物学)に、帰国してからこの話をすると、教授は言った——「日本こそ、世界の最後の秘境かもしれないね」  私たちが帰国してまもなく見た『朝日新聞に』「もう泣き寝入りすまい」という投書が載っていた(一九六五年九月一八日朝刊「声」欄)。交通事故で、自分が悪くないのにあやまったりしては大損だという体験談である。アラビア人があれを読んだら、そのあまりにも日本的現象に驚いて唖然とするだろう。彼らなら、たとえ一〇〇%自分が悪い場合でも、いうことは常に決まっている——「一〇〇%お前の責任だ!」 [#ここで字下げ終わり]  こういうふうに結んでいます。  日本人の国民性と他の国民性[#「日本人の国民性と他の国民性」はゴシック体]  私がこの記事を最初にひいたのは、私自身の生活体験からいって、これらはだいたいあたっていると思うからです。アメリカで車を運転していた日本人が、どっちの過失ともいえない状態でほかの車とぶつかったときに、うっかり、メExcuse meモ といいました。その一言のために、彼は自分の過失を認めたという証拠にされて、裁判で負け、賠償金を取られる理由になったことがあります。  ところでまた、西洋のべつの国で、こんどは直接体験した日本人からきいた話があります。自分の車が、ある女性の運転する車に追突された。これは明らかにむこうの過失だったそうですが、その婦人がまず最初にいったことばは、「これは私の過失ではありません。」——自分が悪いのではないということばが何よりも先に出る、その神経に日本人はムッとしたというのです。  日本でも最近のマイカー族の若者の生活感覚は、だいぶ昔とは変わっていることと思います。しかし、明らかに自分のあやまちで車をぶつけたようなときに、相手にむかってとっさに「おれが悪いんじゃない」と言いきれる日本人がどれだけいるでしょうか。  私はベドウィンとは接触した経験はありませんが、中国やヨーロッパ、またアメリカで暮らした経験があります。私の体験からいうと、西洋的な文化のパターンのほうが、たしかに日本文化のタイプよりも、一般的、普遍的なようです。そうしなければ負けになるというときは、あくまでも自己の主張をつらぬくのが当然とされているわけです。  もちろん西欧文化というものは、ベドウィンなどよりはずっと洗練されたものであり、日本人とくらべても、ある一面ではずっとリファインされているところがあります。人と話をしているときにちょっとセキをしても、必ず メExcuse meモ と反射的にいいます。そして、特殊な利害関係の衝突がないかぎり、もちろん他人に対して非常な親切を示しますし、個人と個人との深い友情は一生変わりません。  人間同士のことですから、そう何からなにまで異質などということはありません。しかし、日常の市井の生活では、自分の失敗を認めたら、こんどは何をされても文句がいえなくなるという、非常にきびしい人間関係を感じるのです。  ヨーロッパ人との取引きで食うか食われるかのかけ引きになると、相手のしぶとさ、しつこさ、そのタフな神経に、日本人の商社マンは太刀打ちできず、まったく打ち負かされてしまうそうです。そして、彼らの顔は緊張にゆがみ、態度は卑屈に見えるほどおどおどするか、あるいは逆に、必要以上に肩をそびやかすようになるそうです。これはほんの一例ですが、われわれ日本人を、このような他との対比において考えたいと思っています。つまり、日本文化の特質、日本人の国民性を、他国の文化、他国人の国民性との比較という角度から考えてみたいのです。  人種的特徴による分類は可能か[#「人種的特徴による分類は可能か」はゴシック体]  そこでまず、日本人とは何かという問題にはいるわけです。いったいわれわれが日本人、あるいは日本民族と呼ぶのは、何を基準としてそう呼ぶのでしょうか。もちろん、日本人というような概念は、日本人以外の人間の存在を前提としています。地球上の人類が全部日本人で、ほかの民族は一人もいないというのでしたら、今日われわれの所有している日本人という概念は生まれるはずがありません。われわれが日本人あるいは日本民族ということばを使うのは、やはりほかの人間とくらべて、日本人として類別されるある一群の人間の存在を意識するからだろうと思います。  それでは、何を基準にして他と類別が行なわれるのでしょうか。この問題は簡単な常識のように見えて、答えるのはなかなかむずかしいのです。だれでも、ひと目見て日本人か日本人でないかは顔かたちでわかると思うでしょうが、事実はけっしてそうではないのです。  私はつい先日韓国に旅行しましたが、着いた翌日、韓国の首都のソウルから東南にあたる、日本海沿岸に近い古代新羅の首都慶州に、一人で汽車に乗って行きました。それは七十人乗りの客車で、乗客はほとんど全部韓国人だったと思いますが、その人たちの顔かたちをじっと見ていて、もしこれが日本のどこかを走っている汽車であったなら、このなかで、日本人ではないという感じをもつ顔かたちが、いったい何パーセントあるだろうか——と考えてみました。  これはもちろん、自分がいま外国にいるという意識から完全に解放されなければならないと、意識的に努力しながら観察してみたのですが、その結果、日本人でないと思われる顔は、わずか一〇パーセントにも足りませんでした。  反対に同じことを日本で、日本人ばかりの列車のなかで観察したとします。日本人と思いこんでいる、その先入主を一切ぬきにして、日本人か日本人でないかということだけ考えてみたとしたら、あれは韓国人かまたは中国人かもしれない、と思うような顔に何人もぶつかるだろうと思います。  そのような、人類学でいう人種的特徴——顔かたち、頭の形、髪の毛の形状と色彩、皮膚の色、目の色と特徴など、測定するいろいろな基準があります——の基準によって、人間の分類を人類学者は行なうのですが、そのような分類は可能かというと、多くの人類学者は、さじを投げてしまいます。つまりどこに境い目をつけてよいかわからないというのです。人種など存在しないという学者さえいます。しかし、そこまでいわれると、私はまたそれに反発して、色のまっしろな白人と、まっくろな黒人の違いは人種じゃないのかと聞きたくなります。すると、極端と極端とはわかるが、たとえば白人と黒人との中間の混血のばあいなど、アメリカでも、ひと目見て白人と全然変わらないのに、社会的には黒人として差別されている人が、いくらでもいるではないかというのです。  民族の形成と国家的統一[#「民族の形成と国家的統一」はゴシック体]  私は人種が存在しないなどとは考えていないが、人種という概念と、民族という概念が一致しないとすれば、民族を民族として識別する基準はどこにあるのでしょうか。ここに、人種とはべつに、国民ということばがあります。ある一つの国家を形成して、その国籍に属している人びとを指します。たしかに法的には日本の国籍をもっているものが日本人であるから、そういう法的な用語としては、政治的単位としての国民は、民族としての何々人というものと無関係とはいえません。  しかし、歴史も現実も、民族と国民とが一致していないことを示しています。英語の nation ということばを民族と同じような意味に使う場合もあるし、national character というのを国民性と訳して、われわれのいう民族とほとんど同じに使う場合もありますが、少なくとも日本語でいまいった意味の国民と民族はどうも一致しません。現に同じ民族でありながら、南北に分断され二つの国家に分れるという悲劇がわれわれの目の前にある。ポーランド民族などは、過去の歴史において、何度となく他の列強によってべつべつの国民として引き裂かれてきました。これに関連して、ヨーロッパに、ポーランド人の民族意識の根強さを語るジョークがあります。  ある雑誌社が、「象」という題で懸賞論文をつのりました。ドイツ人は「象の生態学的研究序説」という百枚ばかりの大論文を寄せてきました。フランス人は、象の恋愛に関する軽妙なコントを書いてきました。ところがポーランド人は、何と、「象とポーランド民族自決問題」を書いたというのです——あらゆる問題がポーランド民族の自決、統一の悲願につながるというのです。お隣りの中国にも、五族共和ということばがありました。一つの国家が、漢民族とか蒙古民族とかチベット民族とかの、五つの大きな民族共和になるという理想です。いまの北京政府も、大きな民族研究院をつくって、そこに中国各地から、せまい意味の中国人以外の少数民族の学生を集めて教育をしています。  ソ連国民も同様、非常に多数の民族から形成されていて、それぞれの民族の自治を認めた多くの民族共和国を単位として、社会主義ソビエト連邦をつくっています。このように、国民と民族という概念はやはり一致しません。しかし、前の同一人種のばあいも同様ですが、日本人のように単一の国家による政治的統一のなかに、非常に長い期間共同の生活をつづけることは、やはり一つの民族を形成する有力な条件にはなりうると思います。  またアメリカ合衆国のような例を見ても、あの合衆国としての国家的統一が、何か新しい民族をうみ出す非常に大きな力として働いているのではないか、という感じがするのです。われわれは今日、アメリカ人というが、アメリカ民族ということばはまだ使いません。しかし、今日のアメリカ人は、われわれのいう民族の概念に近いところまできているのではないでしょうか。少なくともこれから一世紀二世紀先には、おそらく彼らは民族という概念でみずからを意識するようになると思います。  もとより現在の状態は、人種的に見ても、実に多種多様です。ヨーロッパから、そしてアジアから、さまざまな違った人種、違った民族がはいりこんでいます。アフリカから奴隷として連れてきたネグロの子孫である黒人が、またアメリカの非常に大きな問題になっています。異なった人種、異なった民族のるつぼのなかから、同じアメリカ英語を話し、同じようなアメリカ的生活様式が生まれていきます。ものの考え方、感じ方、身ぶり、態度、そして国民としての性格にいたるまで、たとえば祖先のヨーロッパ人とくらべても、ちょっと見ただけで、あれはアメリカ人だと、感覚的に区別がつくほど変わってきています。  そういうものが、やがて民族[#「民族」に傍点]としてのアメリカ人を形成するのではないでしょうか。その際に民族形成の要因が、合衆国という国家的統合と無関係であるとはもちろんいえません。しかし、先ほどからのべているように、単一の国家的統一が、直ちに一つの民族の形成に導くとはかぎらないということは、歴史の教えるところです。  宗教あるいは言語による民族的結合[#「宗教あるいは言語による民族的結合」はゴシック体]  すると、そのほかにどういう要因が考えられるでしょうか。たとえば宗教があります。たしかにユダヤ教のような非常に性格の強いものになると、同じ宗教を信仰することが一つの民族としての結合をもたらすように見えます。  エジプト、バビロニア、あるいは世界の隅々に散在していても、同じユダヤ教という宗教によって、一つの民族的結合が保たれているようです。しかし、日本人などの場合には、宗教と民族との相互の有機的連関はきわめてうすいものです。伝統的な神道的信仰をもっているかと思うと、われわれの家庭では神棚と並んで仏壇をおいています。神社もおがめば仏寺にも詣でるというぐあいです。結婚式では神主に祝詞をあげてもらうかと思うと、死ねば坊さんの世話になります。そういう国民性も珍しいですが、宗教的信仰と民族という意識とは、日本などのばあいにはきわめて関連がうすいようです。  キリスト教、あるいはイスラム教をとってみても、それが世界宗教的になればなるほど、宗教的信仰の単位は個々の民族的結合の単位と一致しなくなります。したがって、宗教という要因をとりあげたところで、民族を民族として形成する基本的なものは、なかなかつかめません。そうなると、民族とは何かという定義をくだすことは大変むずかしくなってきます。  ただ一つ、私がかねがね考えているのは言語の問題です。同じことばを話す民族が、二つ以上の違った民族に分かれていく、こうした例はたしかにあるでしょう。もともと基本的には同じ言語を話していたイギリス人とアメリカ人は、民族としては、いろいろな条件によって二つに分かれようとしています。このような現象は、歴史上ほかにも多くの例をあげることができます。  しかし、一つの民族としてわれわれが同定し、類別するもので、異なったことばを使う二つ以上の集団からなる例が、現実にもまた歴史の上にも見出せるでしょうか。その適切な例をあげることは、ほとんど不可能であるといえます。  共通のことばを話すことは、民族を民族として形成するもっとも基本的な要因ではないでしょうか。そういう仮説をたてて私は問題を考えています。一つの民族がその固有なことばを失い、べつのことばを話すようになるとき、それは民族としての存在がそこで終わり、べつの民族になるという気がするのです。トルコ共和国は、第一次大戦後に独立した非常に民族意識の強い国です。自国の歴史を紀元前の太古にまでさかのぼらせます。旧約聖書にヘテ人として出ているヒッタイト族は、いまのトルコ共和国の中心である小アジアに王国をつくり、ファラオのエジプトとも対抗する大勢力でした。今日のトルコ人はこのヒッタイト王国まで、トルコ民族の過去の祖先の栄光として顕揚しています。これは学問的には無理なことです。といいますのは、ヒッタイト族の使っていたことばは、印欧語で、トルコ語はいうまでもなくアルタイ語の系統に属しています。ですから、同系の言語とはいえません。トルコ民族の出現と古代のヒッタイト王国とのあいだには大きな断層があります。  しかし、漢民族となると問題が違います。紀元前千数百年にさかのぼる殷の時代に、すでに今日の中国語が話されていたことが、だいたい確実と考えられます。殷墟の甲骨文字から、今日の漢字のもとの形も数多く明らかにされています。中国人は六億をこえる世界最大の人口をもっていますが、民族としても、もっとも長く持続した生命をもっています。  二つの新聞記事から[#「二つの新聞記事から」はゴシック体]  ことばと民族の関係について、私がこのような説を発表した後に、これを裏書きしてくれるいくつかの新聞記事があったのでそれを紹介しましょう。まえに随筆に書いたことがありますが、一つはサンパウロ市でブラジル野村貿易の社長をしている一世の古谷綱俊氏が、自分の体験に即して朝日新聞(一九六四年五月十三日)に寄せた「愛国心と母国語」と題する感想です。 [#ここから1字下げ]  私は昭和十二年に、大学の卒業証書をもらったばかりでブラジルに移住し、いまではブラジル国籍の二世の子どもたちの親となっている。こんな私がこのごろつくづく考えるのは、私たちが何げなく口にしている、日本人ということばの意味なのだ。日本ということばは、たしかに国家という名の組織体の名称には違いない。それでは、日本人という意味は日本の国籍をもっている人という意味だろうか。日本の国籍をもっていても、日本人と呼ぶにふさわしくない人たちもたくさんいるし、日本の国籍をもっていなくても、真に日本を愛し日本に住みついた多くの外国人を、私たちは知っている。また日本人を顔立ちや髪の毛の色できめることも納得できないことは、私のように二世の子どもをもっている親には、身にしみてわかることなのだ。私の子どもたちはたしかに日本人の顔立ちをしているけれど、どうも日本人と呼ぶにはしっくりしない。つまり私がいいたいのは、国籍とか人種とかが日本人をきめる決定的な要素ではないということなのだ。それでは何がきめるのだろう。私はそれを文化のつながりだといいたい。文化の中心はことばなのだから、いいかえれば日本語こそ日本人を性格づけるきめてだと思う。  だれでも自分を成長させていく一つのことばをもっている。それを私は第一言語、あるいは母国語というのだが、この第一言語は、第二言語、外国語とはっきり区別されて考えられなければならないと思う。どんなに多くのことばを流暢にあやつる人でも、その人は必ず一つの母国語をもっている。もし二つの母国語をもっているという人がいるならば、私はその人は一つの母国語さえもっていない人といいたいのだ。その母国語こそ、人と人とを結びつける文化圏なのだ。私は、日本人とはこういう日本語を母国語としている、日本文化圏に属する人々だと思っている。 [#ここで字下げ終わり]  個々のことばについては、やや訂正を要するところもありますが、だいたい私がここで述べようとしますことと、非常に近い意見を古谷氏は述べております。そしてつづけて、 [#この行1字下げ] 人間は十五歳ごろから大学を卒業する年齢ぐらいまでの間の環境で、その人の母国語が決定されると思う。これにはやや問題があるかもしれない。もっと幼年期ではないかという考え方もあり得るわけである。この時代をアメリカですごした人は、その人の国籍や顔立ちがどうであろうと、その人の母国語はアメリカ語であり、アメリカ文化で自分を育成していく人である。私はこういう人をアメリカ人と呼びたい。私の子どもたちには、ブラジル語こそが母国語であり——厳密にいえばブラジル語とポルトガル語とは非常に近いわけであるが、その間には、ちょうどいまのクイーンズ・イングリッシュ、アメリカン・イングリッシュとの違いぐらいの差異ができている。スペイン語の場合も同じである。それで、ここではブラジル語といっているが——したがって、ブラジル人である。この子たちに日本語を教えるときは、あくまで外国語として教えるべきだと私は思っている。私の場合は母国語を決定する年代を日本ですごしたために、私には日本語以外のことばが母国語にはなりえないのだ。私を育成してくれるものは日本語であり、日本文化なのである。 と述べています。  海外で何十年かすごし、二世の成長した子どもをもっている日本人。自分は日本人だが、自分の子どもは日本人ではない。それはアメリカのカリフォルニアでもハワイでも、多くの一世の人たちのもつ実感です。そこにいろいろ悩みもあるわけです。これはまた単なる国籍の問題ではありません。国籍よりも、より深い、ことばというものを媒介とした文化の問題であり、民族の問題であります。  また、評論家の江藤淳氏がやはり朝日新聞に「アメリカ通信」を寄せています(一九六五年六月)が、「国家、個人、言葉」というその連載の通信の中で、同じ問題をプリンストン大学におけるべつの体験に即して述べています。 [#この行1字下げ] ——習慣と努力によって、私は自分の不完全な英語をかなり完全なものにすることが出来るかもしれない。今ですら必要に迫られて、私はしばしば英語でものを考えている。しかし、リチャード・ブラックマーが沈黙の言語と呼ぶところのもの——思考が形をなす前の淵によどむものは、私の場合あくまでも日本語でしかない。そして言葉はいったんこの�沈黙�から切りはなされてしまえば、厳密には文学の用をなさない。なぜなら、この沈黙の部分を通して、私は日本語がつくりあげて来た文化の堆積につながっているからである。  江藤氏はこう表現しています。こういうことこそ、私が考えてきたこと、書いてきたことと一致する考えだと私は思っています。  言語は民族形成の基本的要因である[#「言語は民族形成の基本的要因である」はゴシック体]  そうしますと、共通の言語ということが、一つの文化共同体としての民族をつくりあげる唯一の要因とはいえないまでも、非常に基本的な、あるいは決定的な要因ではないか、ということが考えられます。同時にまた、この考え方は、ことばと文化、あるいは一つの文化の中におけることばの役割、という非常に大きな学問的課題にもつらなっています。つまり、最近言語と文化との関係についての研究が人類学において大きくクローズアップされてきています。このことは日本民俗学にとっても大きな示唆になると考えられます。  柳田先生はすでに早くから、何々習俗語彙という、あの厖大な語彙集を編集されました。われわれがふつうの辞引ではひくことのできない各地方の方言まで網羅した、日本人の生活語彙の集大成です。あの習俗語彙を日本文化の文脈《コンテキスト》の中でどう生かすか、日本文化の分析にどう使うかという問題も、おそらく日本民俗学の今後の大きな課題の一つになると私は思っています。  日本語の文法構造やヴォキャブラリーを、日本文化の特性との相関関係において処理していくというのは大変むずかしいことです。しかし、何とかこの仕事をやってやろうという野心的な学者が、もっと現われてもいいと私は思います。及ばずながら私も、可能な条件さえ与えられれば、そうした研究をやってみたいと思っています。  では、日本人とは何か、あるいは日本民族とは何かという定義を与えてみよといわれますなら、いま述べたことは、日本語を母国語として、日本語のなかに育ち、日本語を媒介として日本文化を身につけた人々が日本人である、ということになると思います。そういう日本人が生まれるには、相当の期間、同じ地域で共同の生活を営むことが前提となります。最初から全然はなれた土地に暮らしているものが、一つの民族になるようなことはありえません。もっとも同じ地域といっても、一つの村における face to face(対面関係)の生活だけとはかぎりません。少なくとも直接間接に、同じ文化を共有しうるだけの近接性が必要です。同じような生活様式をもち、共通の言語をはなし、共同の歴史と伝統に生きることが必要です。あるいは運命を共同にする集団であるといっていいでしょう。  一つの国家的単位に統一されることとか、同じ人種に属するということも、民族としての結合を強化する条件になります。まっしろな人種とまっくろな人種とが一つの民族になるということは、同じような顔かたちをしている人種が、一つの民族になるよりむずかしいでしょう。しかし、多くの民族を見ていると、必ずしも人種の同一ということは、それを形成する最終的な要因にはなっていません。人種、あるいは国籍とかかわりなく、民族は形成されていきます。そこで文化という問題が大きく出てきます。文化のなかでも、もちろん広くいう風俗習慣ばかりでなくとくに言語の共同が非常に大きな力となって民族は形成されると考えていいでしょう。  われわれはこうした尺度から客観的に民族の分類をしますが、有力な民族になればなるほど、こんどは主観的に、われわれ日本人、われわれドイツ民族などという、いわゆる we-feeling——共通の集団帰属感情、同類意識が形成されてくるのがふつうです。それはけっして人種とか国民とか、あるいは同じ宗教の信徒といった要因だけから生まれるものではありません。以上のような考察から、ほぼ、日本人とは何かという答えも与えられるのではないかと思います。  もちろん、鹿児島県人と青森県人が純粋の方言ではなせば、コミュニケーションができないのではないかという疑問をもたれる方もあると思いますが、われわれが一つの民族として類別している集団は、必ず共通語を持っています。方言の差異はどこにでもあります。アメリカでも、ニューヨークあたりで南部の方言をはなしたら、日本人の英語よりもわかりにくいのです。  しかし、われわれは日本語というものをどう規定すればいいでしょうか。これは方言の差異をこえて、コミュニケーションの可能な標準語の通用する範囲をさすものでしょう。中国語でも日本語以上に南と北ではコミュニケーションにおける断絶があります。しかし、その文法構造は中国語として共通しています。印刷された文字も共通しています。ただ発音その他に非常に方言差がありますが、だいたいマンダリーンとか北京官話とかいわれることばを標準語として、広東と北京の人がいくらでも話し合います。同じ中国人として同じ中国語の出版物を読みます。そういうものをわれわれは民族と呼びます。方言の差をのりこえた共通語の通用する範囲は、すべて一つの言語として類別しています。その例外になるような事実はないと思います。  いままではいわば空間的に、どの範囲を日本人と呼ぶのか、その規定の問題を述べましたが、こんどは時間をさかのぼって、いったいどのあたりからいまいった意味の日本人、日本民族がわれわれの歴史において確認できるか、時間の深さにおいて問題を考えてみましょう。そこで、日本民族の起源という問題が出てきます。これは先ほどの私の定義からいいますと必ずしも日本国家の起源とは一致しません。日本国家と日本民族がどういう関係になるかということはまた別個の問題です。ここでは日本民族の起源の問題からはいって、この二千年の歴史をもつ日本人の基本的な性格、民族性——これが同時に私どものいう日本文化のパターンになるのですが——そういう日本文化の特質を、周辺のアジアの諸民族、あるいは明治以来の日本人の前に大きく立ちはだかってきた西欧という巨大な文化との対比において考えていきたいと思います。 [#改ページ]   第二章 日本民族の形成 [#改ページ]  「日本人」の定着[#「「日本人」の定着」はゴシック体]  ここで問題にする、日本民族の形成、日本人の起源といったことは、この日本列島の上に住んだ人間のはじまりという意味ではありません。それは、われわれが日本人、あるいは日本民族として識別し、同定している民族が、いったい時間的には、いつごろから日本人として確認できるのか、また、どういうプロセスを経て、それが形成されたものであるのか、という問題なのです。もちろんそういうことを学問的に完全に解明することは、今日の知識では不可能でしょう。ただ、われわれのおよぶかぎりの知識を総合すれば、どの程度までのことがいえるか、考えてみたいのです。  ところが、こういう問題になると、何々学といった一つの専門の知識だけでは、とうてい解決できません。たとえば、日本民俗学だけにたよってこの問題を解くことはできません。また比較民族学だけでも解けません。考古学、歴史学、その他いろいろな学問の到達した知識の総合が必要になります。これらの知識の上に、文化史といった、総合的な一つの学問分野があっていいと思います。私は民俗学についてきわめて知識が浅く、また、考古学、歴史学についても同様です。しいて専門といえば文化人類学ですが、むかし、民族学に比較的長く首をつっこんだというだけで、それも専門といえるかどうかわかりません。  こうして、非常に雑駁な知識を持ちながら、いろいろな学問の成果の総合という夢をいつも頭に描いてきたものですから、一つの専門を深く掘り下げることができないままで今日にいたりました。しかし、そういう見方で文化史を構成してみようとする学問的な方法にも、また大いに意義があると私は考えています。  さて、日本民族の形成と起源の問題ですが、よく戦前までは、日本民族の起源の問題を論ずることはタブーとされていたといわれています。私も書いたことがありますが、これは必ずしも正確な表現ではありません。民族の起源について、私は小学校の一年生から教えられました。また、五、六年の日本史では、日本および日本人のはじまり、つまり日本民族や国家の形成という問題を教わりました。まず、天照大神が高天原におられて、日本列島は自分の子孫が住むべき土地である、という神勅を下し、天孫ニニギノミコトを派遣された。それが日向の高千穂の峯に降臨し、そのご子孫が、アマテラスオオミカミの詔を奉じてこの国土統一をとげた。ことにハツクニシラススメラミコト、神武天皇という日本最初の天皇が、日向を発し瀬戸内海を通って西日本を平定し、大和に都された。そして、その前から住んでいたクニツカミ、出雲のオオクニヌシノミコトに代表されるクニツカミの勢力が、前に統一していたその国土を、高天原からくだってきた天孫の勢力に献上して、国土の統一ができた。  これが国ゆずりの神話で、それから徐々に、歴代の天皇、四道将軍などを派遣して日本を統一していったというのであります。  このようにはっきりと私どもは日本民族や国家の形成と起源の問題を、学校でおそわってきているのです。けっして日本民族の起源や形成がタブー視されていたのではありません。  ところが、戦後の教育では、そういう神話は、日本の支配階級が勝手につくりだした虚構の歴史であって、科学的に何の価値もないということで、まるで事情は違っていると思います。戦後に教育を受けた人は、たぶん縄文時代、次に弥生時代というふうに歴史を教えられてきたと思います。  つまり考古学上、日本の島には最初に縄文式文化の時代があり、これが弥生、古墳時代になり、やがて奈良・平安の時代へ移ってゆくわけです。その後まもなくプレ縄文といって、縄文式文化以前に日本に人間が住んでいたことがわかりました。無土器文化の存在が、群馬県の岩宿あたりの発見に始まって、北は北海道から南は九州まで、さらには朝鮮においても確認されました。いまの日本歴史の教科書はプレ縄文から始まっています。これが科学的な日本民族の起源についての学問であるといわれています。  しかし、戦前の日本でもこのような考古学的な研究は弾圧されませんでした。弾圧の対象となったのは、津田左右吉博士の『神代史の研究』、『古事記及日本書紀の研究』といった実にすぐれた文献考証の書物です。博士はその著作が国体明徴の精神に反するという理由で起訴され、著作は発禁になりました。  このように神話の研究はさかんに弾圧されましたが、考古学者の発掘報告はどんどん出版されていたのです。  戦後の教科書にあらわれた解釈[#「戦後の教科書にあらわれた解釈」はゴシック体]  ところで、戦後の科学的と称される日本歴史の教科書、概説書では、日本列島においてはじめて痕跡を残した人間が日本人であるとされています。このはじめて痕跡を残した人間が、日本列島の中だけで生活様式をかえ、生産力の発展と共に階級社会をつくり、やがて古墳時代にはいると天皇家の勢力が支配階級として日本を支配するようになります。つまり、プレ縄文の太古から、現在の日本人の祖先が日本列島のなかで生活様式を変化させ、生産力を発展させ、国家を形成するにいたるわけです。こういう解釈が大部分の教科書で採用され、それが科学的であるとされています。  ところが、プレ縄文といっても、最近、芹沢長介氏が大分県の早水台で発見した石器になりますと、その古さにおいて、これまで発見されたプレ縄文どころのさわぎではありません。世界史における前期旧石器時代のずっと初期にあたるほどの古さ、何十万年ものむかしです。しかも、その石器の形式は、たとえば北京の周口店で発見された、シナントロプス・ペキネンシスのそれに対応するほどのプリミティブなもので、まだ化石人骨は発見されていないにせよ、その時代に今の日本列島の地に人間の遠い祖先が住んでいたであろうという推定は、ますます確実になりつつあります。そうすると、いまの単位でいけば、日本民族の祖先は、縄文時代人どころでなく、それ以前の、何十万年もさらにさかのぼったシナントロプスとか、ピテカントロプス、あるいはさらにもっと古い時代の人間であるということになってきます。  しかし、そのような人類は、いまの現世人類と同じ種、つまり、ホモ・サピエンスとして分類される段階まできていません。ホモ・サピエンスへの進化の途上のどこかに位置づけられる人類です。その位置づけも学者によってまちまちですが、とにかくそういう人類が何十万年も前に日本列島に住み、石器を残したのです。すると、その人類が日本人の祖先だといえるでしょうか。  このように祖先をさかのぼるなら、けっきょく日本民族の祖先は、かつて樹上の生活を行なっていた高等の霊長目に属する、ある動物だということになります。それはべつに間違いではありませんが、私がここで日本民族の形成を論ずる際にいおうとしていることは、そんなことではありません。  かりにいま、中学なり、高等学校なりの先生が、この種の教科書か概論書によって日本の歴史は縄文時代、あるいはプレ縄文期から始まると教えたとします。私が生徒なら、まず次のような質問をするでしょう。 「先生、それでは縄文時代人というのは、いまの日本語ばかり話していましたか。」  この質問にはどんな大学者を連れてきても、答えられないはずです。もし、その先生がわからないと答えたならば、それは正直な答えだと思います。しかし、 「もちろん日本語を話していたはずだ。」 と答えたとすれば、生徒の私は、 「先生、それでは何を証拠にして縄文時代人が日本語を話していたことがわかりますか。」 と質問するでしょう。  それで腹を立てるような先生なら、もうともに語るにたりません。だが、まじめな良心的な先生ならば、 「なるほど、その証拠というものはちょっとなさそうだ、自分もよく考えてみなければいけない。」 と、生徒に答えるでしょう。それが先生として正しい態度であると思います。  私も学問的に、縄文時代人がいまの日本人の直接の祖先であると断言しうる自信はもちろんないし、そういうことを平気で書いている学者の書物を見ると、すぐ、いまいったような意地悪い質問を出したくなります。進歩的といわれる考古学者が、縄文時代の日本人は母系氏族制の組織をもっていたが、弥生時代に農耕がおこり、職業の分化や階級の対立が進むにつれ父系氏族に移っていった、あるいは氏族社会のなかに家族がはじめておこったといったことを学術書のなかに書いています。  考古学でつかめる遺物、土器、石器、あるいは住居址といった証拠だけで、そこに住んでいた人間は母方の血筋で血縁関係を規定したといったことがはたしてわかるのでしょうか。こういう疑問を投げかけた上、いまの人類学の知識では、氏族制時代などということばはどういう意味と限界において使いうるのか、またそれと考古学による時代区分とはどういう関係になるのでしょうか。日本歴史の書物で、とくに何の証拠もあげないで、縄文時代人がそのまま弥生時代の文化にかわり、それから古墳時代、歴史時代と、ただ発展段階でつづいているということを、まるで自明の前提のようにして書かれているのを見ると、私はつねに右のような疑問を抱かざるをえません。それで、しじゅうにくまれ口をたたいてきたのですが、学問的な証拠をあげて私のにくまれ口に堂々と反駁する学者はまだ一人もおりません。  日本人の起源についての私の考え[#「日本人の起源についての私の考え」はゴシック体]  では、ここで、私が日本人の起源について考えていることを述べておきましょう。私がいいたいのは、前章に述べた意味の日本民族、日本人がどうしてできたかということと、この日本列島の地にはじめて人間が住むようになったのはいつ頃で、それがどういう種類の人間であったかということは、それぞれ別個の問題なのです。後者は日本人の起源ではなく、人類の起源の問題です。  こういう問題角度から考えますと、考古学でいうプレ縄文、弥生、古墳といった時代区分が、そのまま日本列島のなかだけの内的発展、一線的・単系的な進化により、悠久のむかしから同一の民族のへてきた文化の発展段階として規定できるかどうかは、非常に疑わしくなってきます。  もとより、そのようなことも人間の歴史にあり得ないことではありません。しかし、ユーラシア大陸の文化史全体の大勢のなかに日本列島を位置づけた、もっと巨視的な目でみると、日本列島は、文化史的にみて、西方にひかえたユーラシア大陸文明のちょうど袋小路のようなもので、大陸におこったさまざまな新しい文化の波は、最近においても、過去においても、何度もおしよせてきています。そして、東が太平洋にさえぎられているため、この島を通り抜けることはできず、おしよせてきた文化はここに堆積されて、今日見るような日本文化ができていきました。これは歴史時代、あるいは近世の歴史についてもいえることですが、過去の先史時代の証拠もそれをものがたっています。  それでは、日本には最初から日本人というものが住んでおり、そこへ、文化だけが、郵便物のように海を渡ってやってきた。そして、そこに住んでいた日本人が外の文化を受け入れた——こういう解釈はどうでしょうか。  私の考え、そして多くの人類学者の考え方によれば、大陸におこった文化が、大陸よりも時代をへだてて日本に次々と現われているのは、文化だけが、人間を媒介としないで海を渡ってきたものと解釈することができないことをあきらかにしています。  明治以降の西洋文化の摂取の仕方とそのプロセスはわかっています。その前の奈良朝以後の歴史において、外敵の侵入とか、征服とかいった大きな外来民族の移住がなかったことも、歴史の事実としてわかっています。ところが、歴史以前の弥生時代、さらにその前の縄文時代のこととなると、確実な証拠をつかむのが非常にむずかしいのです。むずかしいけれども、主として考古学の材料をたどってみますと、ある新しい文化をたずさえた人間の移住というものを前提としなければ、解釈できない問題が、次々におこってきそうです。縄文時代のはじまりについても、カーボン14による測定の結果、今から一万年ぐらい前という答えが出てきたりして、日本の土器の歴史は、これまで日本の考古学者の考えていたより、ずっと古いものになってきそうです。さらに、縄文時代から弥生時代への変化発展は、いかにして行なわれたかという本章の中心問題があります。これまでの概説書や教科書の多くにのべられているように、縄文時代人が新しい農耕の技術——とくに水稲栽培の技術——を受け入れたか、あるいはつくりだしたのか、とにかく縄文時代人の手によって、彼ら自身が新しい農耕文化へかわっていったのだという説明の仕方だけではかならずしも納得がいきません。  私がさっき述べたように、アジア大陸、あるいはユーラシア大陸の文化史とにらみあわせて、いつの時代にどういう文化の波が、どのような民族に運ばれ、どのような経路で大陸から日本にはいってきたか、こういう問題提起の仕方で過去の文化史を見る、これは人類学的な学問をしている学者の大部分がとっている態度だと思います。  そうかといって、歴史民族学とよばれる学問が、現代日本の民間にあるいろいろな伝承や風俗、および日本の周囲の民族、たとえばメラネシアや東南アジアの各地に残る民族誌的な資料を比較して、かくかくの文化要素または複合体は、縄文時代のいつごろ日本にはいってきて、それがいまこのように残っているとか、それ以前にはまたどういう文化の複合がはいってきたとか、日本に到来したいくつかの文化の層を民族学だけの材料から分類して、太古の文化史を復元しようとする試みも受けいれ難いのです。それがもし学問的に可能であれば非常におもしろいことだし、私もまた、かつてそのような方向をめざして努力しました。しかし、いまでは、私自身、その方法自体にすっかり自信を失っています。つまり、その方法は学問的な有効性を持たないのではないかと思っているのです。したがって私自身は今後、そのような方法をとろうとは思っていません。すると、けっきょく考古学上の手がかりを優先的に重んじ、新しいところにくると、文献史料を最大限に利用するという態度になってきました。過去にさかのぼって、わからないことはやはりわからないとして問題を残しておく態度です。これが現段階ではもっとも妥当な学問的態度であると考えています。  日本民族はいつごろ現われたか[#「日本民族はいつごろ現われたか」はゴシック体]  前おきが長くなりましたが、それでは、いったいいつごろから、日本民族としてわれわれの識別しうる民族集団が現われたのでしょうか。歴史時代、たとえば奈良朝時代には、明らかに文献がのこっていますし、この時代のことばが今日の日本語とつらなることも、その当時の日本人が今日の日本人の祖先であることも、疑う人はいないと思います。しかし、もっとさかのぼって、どこまで、日本人の祖先、前章でいった意味の日本民族として識別できる民族の存在が確認できるか、という問題にはいると、私は考古学者のいう弥生式文化の時代を一つの大きな手がかりとして考えています。この時代の文化を残し、水稲栽培の農村生活を行なっていた人々、これが今日の日本人の祖先である、と断定してよいと思っています。つまり、それだけの学問的証拠がそろっていると思うのです。  したがって、日本民族の形成という問題は、弥生式文化の形成の問題になります。この弥生時代がいかにして始まったか、弥生時代人がどのようにして日本列島にひろがるようになったか、が問題です。それがあきらかにされたところで、それ以前の縄文時代と呼ばれる時代の文化および人間との関係が、あらためて検討されるべきでしょう。  まず、この弥生時代は、内輪に見つもって、紀元前二百年ごろから、ほぼ紀元後三百年ぐらいまで、約五世紀の長さを占めています。われわれがこの時代に確認できる大きな事実は二つあります。その第一は日本民俗学でも中心問題になっている稲作農耕です。まず稲作農耕をはじめとして、最近の電化時代にはいる直前までの日本の農村生活を支えていた基礎的な生活技術は、ほとんどすべてこの弥生時代のあいだに完成しています。  第二は、前にもふれたことばの問題です。この時代の人々の話していたことばは、奈良朝時代から今日までつづいている日本語と同じことばであると考えられます。  以上の二つの根拠に基づいて、私は弥生時代には、ほぼ確実に、今日の日本人と同じ日本人として識別しうる民族が日本列島に住んでいたと言えると思います。  まず第一の水稲栽培を根幹とする社会という面について考えてみましょう。この時代の住居址から黒コゲの米やモミガラ、つまり炭化した稲が発見されています。また土器の底などに、栽培された稲のモミガラの圧痕が発見されたという例がたくさんあります。おそらく粘土のまだかたまらぬものを、モミガラの上においたためにできた圧痕でしょう。さらに、縄文時代にはみられなかった農具の類が現われてきています。鍬、鎌といった農具としての用途をもっている石斧、あるいは穂づみぼうちょうと呼ばれている、穀物の穂の部分だけをすっと刈り取れる半月形の石ぼうちょう、といった石器がこの時代にあらわれてきます。こうした発掘品によって、この時代に稲作農耕が行なわれていたことを推定できます。  それから、土器の形式も縄文式土器と非常に異なった特徴を示すものが出てきます。いわゆる弥生式土器です。これは用途の点でも、穀物を蒸す甑《こしき》の用に適した形態の土器です。底に穴をたくさんあけた壺を穴のない壺に重ねて下の壺で熱湯をわかせば、穀物をふかすことができるという装置の土器です。つまりこれは、穀物を煮たきした証拠として考えられるのです。  また、静岡県の登呂遺跡のように、明らかに水田耕作を行なった証拠の認められる集落址が発見されています。杭を並べてあぜをつくった跡、かなり大きな規模の水田の跡が発見されています。一九六五年の夏、ここでさらに灌漑用の水路の跡が発見されています。これらの証拠から考えて、弥生時代に稲作農耕が行なわれていたことは疑えない事実である、といえるでしょう。  私が重要視するのは、なにも稲作農耕という単独の文化要素一つを重要視するのではなく、そういう稲作農耕を行なった人々の日常生活の技術がどういうものであったかということです。稲作農耕はもちろん弥生時代の生活技術の基礎となるものでしょう。ただ、稲作農耕すなわち弥生式文化であるというのではありません。稲作農耕を中心とし、根幹としながら、どのような生活体系が形成されたか、これが重要なのです。  弥生時代の生活技術・経済[#「弥生時代の生活技術・経済」はゴシック体]  この弥生時代に特徴的な遺物の上に成り立つ生活技術を推定しますと、陶工や木工をはじめ、前に述べました石ぼうちょうや石斧といった石器にかわる、鉄、銅、あるいは青銅などの器具をつくりだす専門の鍛冶屋のような職業が分化して現われています。  それから、土でつくった紡錘車が発掘されています。真中に穴をあけた、円い、あるいは円錐形のおもりに細い棒を通し、その重さでくるくるコマのように回転させ、その棒にひっかけた綿ににた繊維が、回転によって糸によられていくというしくみの紡錘車です。今日の紡績工場におけるスピンドルと同じ原理です。その棒にあたる部分につけた土のスピンドル・ホイール(紡錘のつむぎ車)がこの弥生時代のある時期から大量に現われてきています。  こういう糸のつむぎ方は、今日でも世界の各地域で行なわれており、西アジアにおいてもたくさん見られます。私どもが調査のため、ラテンアメリカ、アンデス、メキシコなどのいなかを歩いていますと、女たちが家の外でおしゃべりをしながら、綿をぐるぐる糸につむいでいるのにしばしば出あいました。そして、それを手製の機で織るのです。こういう生活が現在でも行なわれているのです。世界中のどこでも、機織りのおこったところには必ずこうした糸つむぎの技術が普及したと考えられますが、日本では、弥生時代に紡錘車がはじめてあらわれています。  さらに、その糸を織機にかけて布に織ったという証拠もあらわれています。非常に緻密に織られた手織の布が特殊な条件のもとに保存され、残っているのです。また、土器の表面に細かな布の圧痕の見出される例は、籠などに布をかぶせ、その上に粘土をかためて土器をつくったことを示すものでしょう。日本の農村でも、明治から大正近くまでは家庭の主婦が、手織りの機で家族の衣服を織っていました。最近では紡績工場の製品が普及して、こういう風景はもう見られなくなりました。こういった糸をつむぎ、はたを織る技術もやはり弥生時代の農村に始まったことです。  さて、それでは、弥生時代の人々はどんな家に住んでいたでしょうか。竪穴の住居址、洞窟に住んでいた跡などが発掘されていますが、柱のあとだけが残っている程度では、家の形までは復元できません。博物館などでよく復元の模型をみかけますが、あれが正確であるかどうか、私にはわかりません。しかし、考古学上から見たこの時代の村落の日常生活の形式は、その後の歴史時代を通じて、近代にいたるまでの日本の稲作農民の生活と、基本的には大差のないものであろうと私は考えています。もちろん、稲作以外に漁村もあったろうし、稲以外の植物栽培が行なわれたこともすべて前提とした上での話です。  また日本の農村には稲米儀礼という伝統的な風習があります。稲作にともなって、種蒔きから田植、収穫にいたるまでの農作に関した各種の儀礼、年中行事のことです。これらの儀礼、行事の背後にある農民の伝統的な世界観、精神のありかたといったことになると、これは考古学上の遺物と直接につなげることはできません。こういう習俗が日本ではいつから始まったのか、なかなか確認できません。  沖縄、江南の稲作地帯から中国西南部にいたるさまざまな種族、それから東南アジア、インドネシアなどの、とくに水田農耕を行なっている地域の習俗と非常に近い習俗が日本の農村においても見られます。このことから、いつ日本でこういった習俗が始まったのか推定できるでしょうか。文献や考古学上の手がかりもありませんが、プロバビリティーからいうと、稲作農耕そのものが明らかに確認される弥生時代、つまり西暦紀元前後の時代にこのような日本人の伝統的な精神生活が始まったと考えられます。  私は、比較民族学の材料を過去にさかのぼらせることには懐疑的です。しかし、過去といっても弥生時代ぐらいまでならプロバビリティーは比較的大きいでしょう。ことに文化の構造論的理解という立場が一般原理として定着するようになれば、弥生時代の人間の精神生活もより明らかになると思います。すなわち、稲作農村においてこれだけの要素が複合体としてそろうならば、宗教・精神生活においてもこれに対応する性格の文化が存在したであろうという一種の推定が、学問としてなされることもむりではないと思います。これが第一の技術・経済という面から今日の日本人の存在が確認できる手がかりとしての弥生時代の特徴です。  弥生時代には日本語が話されていた[#「弥生時代には日本語が話されていた」はゴシック体]  もう一つの大きな問題は日本語であります。ここで、なぜ私が弥生時代に日本語が話されていたと考えるのか説明しましょう。これは技術・経済の面におけるほど確固とした証拠はありません。しかし、弥生時代末期、つまり西暦紀元三世紀ごろ、九州あたりの西日本人の生活について書き記された記録が、中国の正史に存在するのです。魏書の東夷伝のなかの倭人伝がそれです。倭人伝の中に、その頃の日本語として解釈できる発音の記録がいくつか見出されます。このことが、弥生時代の言語を今日の日本語と連続させて考える根拠になっているのです。  ところが、この魏志倭人伝がどこまで信憑できるかについてもまたいろいろな説があるわけです。たとえば、当時の日本以外の土地についての中国人の知識や伝聞が、あやまって記述されてはいないかという疑問です。しかし、この疑問に対しては有力な反証があります。朝鮮半島の南から対馬海峡の対馬・壱岐、それから九州の松浦など、その後の地名に対比しうる地名が明らかに出てくるのです。そこにはまた、倭人の国とか小さな地方勢力が、三十くらい点々として、対馬・壱岐から西日本にかけて、さまざまな名称で分立していたことが記されています。しかも、それぞれの国の官名が漢字で書かれており、ときには人名も出ています。その官名のなかには、その後の日本語に対応する日本語の名詞、形容詞が出てきます。あるいは形容詞がきてから名詞がくるという語順がはっきりわかります。それを証拠だてる文字がいくつか出てきます。たとえば、ヒコとかヒナモリといった文字です。日本語の男性を表わすヒコ、つまりヒメに対するヒコが出ています。その後の官制に出てくるヒナモリも見られます。これは当時の日本人の発音を、当時の漢字で表わしたものでしょう。多くの学者はそう解釈しています。そのほか、どこまで確実であるかはっきりしませんが、ナカトミ、シマコ、ヒトコ、タマ、あるいはミミナリなどといった名称が見られます。これらは倭の官名として書かれているものです。したがって、中国語でないことはたしかで、中国人がこれらを倭人のことばとして漢字で音を表わしたのです。これらの記録のなかには、奈良朝以後の日本語と連続するものがいくつかたどられます。乏しい材料ですが、これが一つの、あるいは唯一の証拠なのです。耶馬台国、卑弥呼といった名称も、中国語でも朝鮮語でもありません。おそらく日本語として解釈して誤りはないでしょう。これらの解読が正しければ、その意味、および語順といった構造的なところまで奈良朝以後の日本語につらなるものであることになります。  そこで、おそらく弥生時代の日本人、少なくとも西日本に住んでいた倭人というものは、すでに今日の日本語を用いていたと考えられます。  結局、弥生時代の日本人はその後の歴史時代の日本人と大差のない水田耕作を基礎にした農村生活を営み、かつ日本語を用いていたと考えていいでしょう。この二点については、はっきりした事実であると断言してよいでしょう。それ以上に、この時代にはじめて家族が発生したとか、親族構造は父系制であった、あるいは母系制であったとかいったことになると、私はそれについていけません。どういう証拠によってそういえるのか質問したくなります。  魏志倭人伝の記録[#「魏志倭人伝の記録」はゴシック体]  ところで、魏志倭人伝をくわしく調べてみますと、倭国の風土とか、倭人の生活とかについてのいろいろな手がかりが出てくるのです。  岩波文庫にはいっている魏志倭人伝には、漢文と日本読みの書下し文の両方が出ており、若干の字句の解説も出ております。このなかから、この論を進める上で手がかりになり、また興味ある材料をいくつかあげてみましょう。  たとえば、倭の土地は非常に温暖で、冬も夏もなまの野菜を食べている、といった記述が見られます。これは北日本にはあてはまりませんが、西日本から南の土地については通用する観察です。また、倭の人は好んで水の深いところにもぐり、魚やアワビをとるとあります。今日の日本各地でみられる海人と同じような生活があったわけです。さらに農村についていえば、稲と麻を植えると出ています。蚕を飼って糸をつむぎ絹をつくり、細い麻糸、木綿などもつくるとあります。こう見てくると、歴史時代のわれわれの生活のほとんど主なものを網羅しているように思えます。  しかし、家畜については、その地に牛馬虎豹羊鵲なしと書いてあります。この記述の信憑性について、日本列島に虎や豹はいなかったといってもよいでしょう。羊はどうでしょうか。中国大陸では、漢和辞典をひくと羊という項目の文字が非常に多いことからもわかるように、羊は経済生活の主要な基礎になっていました。しかし日本で羊の牧畜が行なわれたのは、おそらく明治以後でありましょう。それでは、牛や馬はどうかというと、その骨はいくつか発掘されています。しかし、考古学的にみて、日本の農村生活で、牧畜に依存する程度は非常に少なかったようです。それから、この時代には、まださかんに戦争をしていたようですが、騎兵は存在していなかったと考えられます。この牛馬がいないという倭人伝の記述は、農耕と牧畜との関係という点において、私の日本文化論の根本的なモチーフになります。  次に、習俗について考えてみましょう。日本の神社にいまでも残っている亀卜の法という占いがあります。骨を火に焼いて吉凶を卜し、その占いの結果を告げます。それから、火によってできた骨のさけ目を見て、善兆を卜するのです。これは中国の殷の時代に行なわれていた骨占いと同じです。牛や羊の肩甲骨、亀の甲などを使って行なわれていたようです。その占いの仕方はというと、まず、骨や亀の甲に、今日の漢字の原型である甲骨文字とよばれる文字をいろいろ書いて火にあぶると、熱によってひびがはいります。そのひびと文字の関係によって国家の大事、つまり、王様の旅行、政治、戦争の是非を占うわけです。これは中国起源であるかどうかわかりませんが、北アジアの諸民族に広く分布している習俗です。  また、民族学的にいいますと、現在シベリアから北アメリカにかけて、トナカイなどの骨で吉凶を占う骨占い、英語でスキャプリマンシアと呼ばれる習俗があります。スキャプラとは肩甲骨を意味し、骨占いのことをスキャプリングと呼ぶわけです。ロバート・ローウィという学者などが、その分布についての論文を古く発表しています。  日本でもこの習俗は古くからあったと考えられます。たとえば、『古事記』にこれについての記述がみられます。アマテラスオオミカミが岩戸がくれをされたとき、ヤオヨロズの神々がアメノヤスノカワラにカムツドイツドイして、そこで会議を開きました。そして、どうしてこの太陽の女神であるアマテラスオオミカミを天の岩戸から導き出すかという相談をしたときに、この骨占いを行なったと解釈できる記事があるのです。 [#この行1字下げ] アメノコヤネノミコト、フトダマノミコトをめして、天香久山のマオシカの肩を打ち抜きに抜きて、天香久山のアメノハハカをとりて、占いまかなわしめて、天香久山のイホツマサカキをネコジニコジテ…… という部分がそうです。天香久山のアメノハハカ、朱の桜という字で伝えられていますが、桜の木を燃やし、その上で天香久山の牡鹿の肩甲骨を切り取ってあぶって占ったと解釈できます。日本の神社には中国系統の亀卜の方法が伝えられていますし、日本の周辺民族には、北のほうに骨占いの習俗が広く分布しています。この南・西日本の倭人がすでに亀卜、ないしは骨占いを行なっていたという記録は、文化史的に非常におもしろいと思います。  倭人伝に出てくる倭人の習俗は、南アジア、東南アジアに連続する習俗がほとんどですが、このスキャプリマンシアだけは北アジアの方につながっています。おそらくこれは、弥生時代に金属器その他とともに、大陸から伝わってきた中国文明の影響ではないかと考えられます。こういった魏志倭人伝の記事は、相当信憑性の高いもののようです。  ところが、そのほかに、われわれの民族学上の知識では中国の南、東南アジア、または西太平洋といった地域に見られる習俗が、この倭人伝のなかに倭人の風習として多く書かれています。  たとえば、男子は大人も子どももみな顔や体に入れ墨をしているとあります。この文身《いれずみ》という習俗は、中国人の目に非常にめずらしく映ったようです。南蛮、揚子江以南の土地にも入れ墨の習俗があったので、論語や孟子には、えびす[#「えびす」に傍点]の習俗として、日本の倭人もみな入れ墨をしていると書かれております。  この入れ墨の風習は、前に倭人伝に出てくると述べた倭の海人と密接な関係があります。魚やアワビ、ハマグリを海にもぐってとる際に、入れ墨をほどこして大魚や水鳥をよけると倭人伝に記されています。そしてこの入れ墨はサメのような大魚や大きな鳥に襲われるのを防ぐため、あるいはまじないのためにほどこされたが、後には装飾の用だけになったということも書かれています。  倭人の服装についての記述には、男子は冠をかぶらず、木綿の布を頭にかぶるとあり、衣服は、幅ひろく織った横幅の布をただ結びあわすだけで、縫いあわせないとありますが、この記述からだけでは、その形態ははっきりわかりません。また、女子の髪は、ざんばら髪か、髷にむすぶかで、その衣服は、ただ一枚の布の真中に穴をあけて、それに頭を通すとあります。これが世界中に広く分布しているいわゆる貫頭衣です。これは南米のインカの子孫などは、いまでもポンチョといって、ヤーマやアルパカなど、ラクダ科の動物の毛で織った布地を派手な模様に染めて、頭からかぶり外套にしています。この貫頭衣は東南アジアにひろがり、日本にも用いられていたのです。これは倭人伝の記事だけでなく物質的な証拠もあるようです。  以上のような倭人伝の記述には、いろいろな解釈ができます。ある学者は、必ずしも日本列島だけのことをいっているのではなく、中国南部、東南アジアの習俗を含めての記述であるといっています。あるいは、日本の九州だけではなく、ずっと南まで倭人がひろがっていると中国人は考えていたとか、倭人以外の風俗を誤って伝えているかもしれないとかいった説がよく聞かれます。  また、倭国の位置についても、現在の南シナ海の海南島あたりという記述があります。それから、「その道里をはかるに、まさに会稽東治(冶)の東にあるべし」といった記述があります。会稽東冶というのは揚子江の下流の南の方になりますが、この揚子江下流の東の方に倭国があるというのです。これはかならずしもあたらぬことではありません。九州の南のはしと揚子江の河口とはほぼ同じくらいの緯度になっています。倭国は、揚子江下流のずっと東の方にあると中国人は考えていたことが、倭人伝のこの記事から推定できます。そして倭人の風俗が非常に南方的なものであったことは前に述べた通りです。  以上のことから、もしこの倭人に関する記述が、九州西方の倭人の姿をそのまま伝えているとするならば、弥生時代の末期の西日本の生活と、今日の東南アジア一帯のいろいろな農耕民族の生活とは、かなり共通したものがあったのではないかと推定されます。  それからまた、魏略という本があります。これは逸文として断片的にほかの書物に残っているだけですが、この魏略の逸文のなかに、倭人のクナコクという国において、「その旧語を聞くに、みずから太伯の後」ということばが伝えられています。旧語とは伝説のようなものでしょう。倭人は江南の地に国を建てた呉の祖の太伯を祖先としているという伝承が倭人のなかにある、という意味に解されます。これは断片的ですが、日本民族の起源という問題を考える上で、かなり重要な記載ではないでしょうか。 「日本民族の形成」と銘打ってお話しましたが、まだ形成の問題は終わっていません。次の「日本文化の源流」とあわせて、日本民族の起源という問題についての私の見解を述べたものと解釈して下さい。 [#改ページ]   第三章 日本文化の源流 [#改ページ]  生活革命は世界的な関連をもつ[#「生活革命は世界的な関連をもつ」はゴシック体]  さて、前章までで、考古学や文献を使う歴史学、民俗学、あるいは神話などから、種々の史料を集めました。その結果、考古学者が弥生式文化と名づけた文化を基盤とした稲作農耕が、日本列島にひろがっていった時期が、その後日本人と呼ばれる民族と、中国の歴史書で倭人と呼ばれるものとが同一であるという根拠を述べてきました。つまり、日本人の形成は弥生時代におこなわれたという推定の根拠を述べてきたのです。  ところで、水田稲作農耕の新しい生活技術を基盤とした弥生式文化という一つの文化複合体は、外の世界とはまったく無関係に日本列島のなかだけで生まれたものでしょうか。もしそうであるならば、弥生時代以前に日本列島に住んでいた縄文時代人が、日本のなかで稲作農耕を発見し、その後の日本の農村生活の基盤になった一連の生活技術をも発明したということになります。しかし、そのようなことは、われわれの世界史的な常識からみてはたして可能でしょうか。それが可能であると考える学者もたくさんいるかもしれません。それはちょうど近世の産業革命が、日本やロシアをはじめとする世界の各国で、西ヨーロッパとは無関係にすすんで、それぞれの民族の手により同時にはじめられたというのと共通した考え方になります。日本人は日本人の独自の文化の発展によって蒸気機関を発明し、ロシア人はロシア人、イギリス人はイギリス人で独自に発明したということと同じことになります。そのようなことも、もちろんあり得ないことではありません。しかし、世界の歴史は、産業革命がそのような過程でおこったものでないことを証明しています。これは二、三百年前の話ですから、文献史料やわれわれの身近な言い伝えによっても、産業革命はイギリスに始まり、やがて地球全域を席捲するようになったということをわれわれは知っています。  そして、穀物を栽培する農耕技術は、世界の歴史において、産業革命以前の一大生活革命なのです。人類学者はインダストリアル・レボルーションということばに対して、アグリカルチュラル・レボルーション、つまり農業革命ということば、あるいはフード・コレクティングの経済に対するフード・プロデューシング・レボルーションということばを使っています。このように稲作農耕栽培技術の採用は、産業革命以前の人間の生活史において、非常に大きな、決定的な転換を意味する時期なのです。さらに、この農業革命以前で、この転換に匹敵する段階があるとすれば、それは人間が人間以前の段階から、道具をもち、その道具を用いて意識的、計画的労働により、野性の動植物を狩猟し、捕獲する段階にはいった何十万年もむかしの時期でしょう。アグリカルチュラル・レボルーションに対して、ハンティング・レボルーションということばで呼ぶことができます。ある学者はヒューマン・レボルーションということばでこの時代を呼んでいます。この時期に人間は、人間以前の段階から、はじめて人類という動物への進化をとげたと考えられています。  さらに、産業革命以後、これらに匹敵する生活革命がもしあるとすれば、それはおそらく、現にわれわれが経過しつつある核時代、原子力時代がもたらした生活革命ではないでしょうか。現在、われわれは、未来の歴史家がニュークレア・レボルーションとでも呼ぶような時代にはいりつつあります。  こう考えてくると、人間が人間になってから、いくつかの大きな決定的な生活の転換期があったことがわかります。これが三回あったとすれば、最初のハンティング・レボルーションからアグリカルチュラル・レボルーションにいたる時期は、何十万年、あるいは百万年以上と考えられます。しかし、ひとたび農業革命が完成したあと、近世の産業革命にいたる期間というのは、人類史の長さからみると、まったく一瞬のあいだです。われわれには数千年という年月は大変な長さに思えますが、紀元前六、七千年ごろから紀元後の十八世紀にいたるこの一万年という年月は、数十万年、百万年という有史以前の年月に比較すると、またたくまであると考えられます。  そしてこの間に、どの地域においても、穀物栽培の農業革命を基盤として、古代都市文明がおこっています。そして、古代文明社会の発展のなかで、近世にいたり産業革命とよばれる生活革命がおこったわけです。さらに、産業革命から、ニュークレア・レボルーションとでもいうべき原子力時代にはいるまでの期間はきわめて短かく、二百年そこそこで大転換期を迎えています。こうしてみますと、人間の文化、とくにテクノロジーの領域における人類文化の発展の仕方は、幾何級数的な要素があるように感じられます。これは余談として、とにかく、日本の歴史を考える上にも、世界史的な発展段階という見方で、弥生式文化とか稲作農耕というものをとらえてみる必要があるのです。  要するに、われわれの生活にとって非常に決定的な意味をもつ農業革命が、西暦紀元の初期をはさんで日本におこった、これはひとり、穀物栽培という農業においてばかりでなく、それにともなう一連の生活技術全般にわたる革命なのです。この農業革命は紀元前六千年あるいは七千年ごろに、メソポタミアに始まりました。それがエジプト、インドのインダス流域、中国の黄河流域では、紀元前三千年ごろにおこりました。  こうして、ユーラシア大陸全般についてみますと、日本における農業革命に匹敵する革命は、日本よりもすでに二千年、三千年のむかし、一ばん古いところでは数千年前に、すでに完成していたことになります。  日本における弥生時代のはじまりは、中国では漢の大帝国が勃興した時代にあたります。その高度に発達した漢の文明は、そのころすでに朝鮮半島にまで浸透していました。こういうアジアの大勢からみて、縄文時代人がアジア大陸とはまったく無関係に、自己の生産力の発展によって採取狩猟の経済から農耕経済に移ったのであるとし、これで日本の歴史が科学的に解釈できるという説を、私はどうしても肯定することができません。結論をいえば、穀物栽培、水稲栽培およびそれに伴うもろもろの新しい生活技術は、すでにアジア大陸において完成していたものが日本にはいってきたのだと私は考えています。水が高きより低きに流れるごとく、文化とか文明というものも、高いところから低い方へ次々に浸透していきます。これが世界史の大勢なので、すぐ隣の中国、朝鮮などに完成していた文明が日本に流入したからこそ、稲作農耕という大きな生活革命がおこったとみるのが、学問上の常識であろうと私は考えています。  稲作農耕の渡来の経路を探る[#「稲作農耕の渡来の経路を探る」はゴシック体]  ところで、縄文時代人は文字をもっていませんでした。神代文字が存在したという主張もあったようですが、それはある神官のいたずらであったとその人自身が話しているといいます。とにかく、縄文時代人は文字をもっていませんでした。それでは、文字をもたない縄文時代人は、大陸の新技術をどのようにして受け入れたのでしょうか。今日でしたら、本を郵送してもらい、それを読んで新技術を覚えたり、テレビやラジオを通じて新しい知識をうることも可能です。しかし、当時の状態から推して、知識だけが海をわたって日本にはいり、稲作がはじまったとは考えられません。そこで当然、新知識を持った、つまり稲作を行なった大陸の人間が縄文時代人と接触したということが前提とされなければなりません。  では、いったいどの方向からそのような新しい生活技術が日本に渡来したものでしょうか。北方ではもともと水田耕作は行なわれていないので、寒冷な北アジアから、新しい生活技術が渡来したとは考えられません。弥生時代以前に、水田耕作の行なわれていたことが証明できる土地といえば、日本列島より南の方角、とくに前からたびたび問題になった揚子江の南につらなる地域、いわゆる江南、湖南といった地域です。もちろんそのもっと南の、いまの北ベトナムあたりとか、あるいは中国の北方が問題になる場合もありますが、もっとも問題になるのは、直接には南朝鮮、さらに一歩さかのぼれば江南の地域といった近接地域が問題になってきます。  つぎにその渡来の経路ですが、これは南朝鮮から北九州にはいったという説が有力です。これに対して、浜田耕作氏は稲作技術は、北支(もとの満洲)から朝鮮半島の北をへて南日本に渡来したという説を述べておられます。考古学的にみて前に述べた穂づみぼうちょうの分布が、北の方へひろがっていることから、稲作は北方から渡来したというわけです。  しかし、北シナでむかしから水田耕作が行なわれていたという有力な証拠はありません。中国の新石器時代である仰韶《ヤンシヤオ》文化に、米のあった形跡があるといったわずかの手がかりがあるだけです。だいたいにおいて歴史時代から最近にいたるまで、北支は同じ穀物栽培地域であっても、主に麦の栽培地域なのです。  ところが、これに対して、江南地域はむかしから水田耕作を行なっていました。いわゆるモンスーン地帯と呼ばれる地帯が東南アジア、南シナにひろがっていることからもわかるように、江南は稲、華北は麦と、文化圏が古くからわかれているわけです。北支の穂づみぼうちょうも、麦の穂をつむためのものであったと考えた方が自然でしょう。そして、江南に分布している、同じような穂づみぼうちょうが稲の穂をつむためのものであったと考えられます。さらに、そのような半月形の、石斧でない新しいいろいろな農具の類は、北の方よりもむしろ南朝鮮、それから中国大陸の南へかけてずっとつらなっています。したがって稲作農耕の北方渡来説にはかなりの疑問があります。  ここで柳田国男先生の「海上の道」(『定本柳田国男集』第一巻所収、筑摩書房刊)についてお話しましょう。先生は南の方から日本列島に流れこむ海流を重視されました。沖縄を経て日本海へはいる対馬海流と、日本列島の東海岸を北上する黒潮、つまり日本海流、の二つがそれです。この二つの海流にのって南方の島々のさまざまな文化が日本に漂着しています。  柳田国男の解釈[#「柳田国男の解釈」はゴシック体]  ただ、日本に農業革命をもたらした稲作民族の渡来について、南方の民族が沖縄経由のルートで日本に渡ってきたのだとする先生の説を、私はそのまま受け入れることができません。柳田先生の説を私が批判することは、柳田先生の偉大さ、柳田先生の学問のある大きさを少しもそこなうことにはならないと思います。どんな学者の説でも、後進がそれを全的にそのまま金科玉条として受け入れるだけでは、学問の進歩というものはありえません。どんな偉大な学者の説でも、徐々に、新しい材料によって修正され発展させられていかなければなりません。それが学問の進む道なのです。  ことに、柳田先生は、縄文時代人が純粋に日本のなかだけで新しい技術を発明し、採取狩猟の経済から農耕の段階へ移ったというような非常に素朴な一線的・単系的進化の考え方に立ってはおられません。そして、この日本民族の起源に思いをひそめるときに、先生はつねに南方の稲作民族の沖縄を経た渡来ということを、詩人的な直観で最後まで頭に描いておられた、と私は理解しています。しかしその場合、先生は考古学者のあげる証拠に対して、非常に否定的な態度をとっておられました。その点に問題があるのではないかと私は思っています。  十数年前のことですが、東大ではじめて文化人類学の専門コースを開いたとき、私は駒場の教養学科の文化人類学専攻の学生たち十数人を、成城の先生のお宅まで連れていき、学生たちに先生のお話をきく機会を与えたことがあります。そのときにも、先生はこの海上の道の議論を非常に熱心に語られました。  考古学者のいうことは信用できない。土器の底にモミガラの圧痕がついているといっても、それは偶然のことなので、なにもお米のほうからわざわざ土器へ近寄ってきてつくはずのものではない。たまたま何かの拍子でモミガラがくっついていたからといって、それが稲のはじめにあたるという理屈はないじゃないか。日本の文化を考えると、稲の古さは弥生時代よりももっともっと古いものであろう。  こういった意味のことを熱心に先生は語られました。先生のこの考えは著作でもはっきり示されています。  ところが、考古学の材料が集積すればするほど、縄文時代に稲作農耕が行なわれていたという事実はとうてい考えられなくなりました。かりに、縄文の土器にも稲の圧痕のあるものが発見されたとしても、それは縄文時代人の住んでいる末期の時代に稲作がはいってきて、新しい弥生時代のはじまりを予告するものであろうと私は考えています。弥生時代は、あらゆる材料から考えて、その前の縄文時代とは、少なくとも西日本においては、非常に異質的な転換を、生活の全面にわたってとげています。  それを日本民族のはじまりの手がかりとするならば、弥生時代の文化に相当する考古学上の材料が、日本周辺においては、どういう地域と連続するかということがやはり大きな問題になってきます。  私は考古学の専門家ではありませんが、私の理解するかぎりにおいては、日本の弥生式文化が沖縄から日本にはいってきた、だから沖縄に日本文化の古い原初的な形がいまでものこっているのだという解釈は、考古学の上からはどうも取りにくいのではないかと考えています。それよりもむしろ、日本において先に弥生式文化が形成されて、それが南の沖縄へひろがっていったのではないかと考えています。そのゆえに沖縄には、日本列島ではすでに非常な変化をとげた古い習俗、古い信仰がかえって保存されてのこったと考えられます。この考え方が、もっと考古学上から検討されなければならないとも思っています。  稲作農耕は南朝鮮から伝わった[#「稲作農耕は南朝鮮から伝わった」はゴシック体]  そうしますと、考古学上、一ばん弥生式文化に接近して、日本に弥生式文化の始まる前に、弥生式文化に対応する稲作農耕の文化圏の形成された地域は、どこであるかが問題になります。その地域は、朝鮮半島の南半、いまの韓国の地域、南朝鮮であると考えざるをえません。あるいはその時代には、南朝鮮と西日本とが一時、ほとんど一つの密接な文化圏を形成していたとも考えられます。しかも、日本における稲作農耕のはじまりよりも、南朝鮮の方が、二世紀ぐらい古いのではないかということが、いまの考古学の証拠の上からは考えられるようです。以上のようなことを勉強したくて、一九六五年私は韓国を訪れ、博物館の陳列品をはじめ、いろいろ新しい発掘物を見てあるきました。あちらの学者と意見を交換する会合もたびたび開いてもらい、資料もたくさん手に入れてきました。  さて、いままで日本では、弥生式土器だけを取り上げていろいろと論議されてきました。そして、日本の考古学者のあいだでは、弥生式土器に対応する土器が南朝鮮ではまだまだ確認できないし、日本の弥生式土器は非常に日本独自の特徴が多く、ことに縄文式土器と継続した特徴が多いから、弥生式文化というものを土器の面からみて南朝鮮と結びつけることは尚早であるという考え方が支配的でした。しかし、最近、ソウルの近くを流れている漢江流域で発見されたカラクリ遺跡の遺物で、弥生式土器と寸分違わぬ形の土器が出ています。朝鮮で赤色無紋土器といわれる系統の土器がそれです。これはまだ日本ほど大量に、系統的な分類や位置づけは行なわれていませんが、これからは、土器の面においても弥生式文化と南朝鮮との関連が、いままで以上にわかってくるものと思います。  さらに、われわれが文化史という見地に立てば、単なる土器の形式だけが問題ではなくて、弥生時代に行なった人間の生活技術、その一連の生活様式が問題になります。つまり、稲作とか土器とかいった個々の文化要素ではなく、相互に関連して人間の生活全体を形成している文化複合、文化そのものの全体が問題になります。そういう意味から、紀元前五百年ごろから紀元前後にかけての南朝鮮におけるその当時の基本的な農民の生活というものは、日本の弥生時代の農民の生活と非常に多くの点で共通していると考えざるをえません。  しかも、朝鮮においては、どの技術も日本より一歩先んじてひろがっています。おそらく中国大陸の文化圏の影響が、地理的に日本よりも中国に近い朝鮮半島に早くはいったのでありましょう。金属加工、紡織、あるいはさまざまな木工技術、さらには縄文式土器にはなかった非常に高い熱を要する土器製作の技術、これらのものもみな日本よりもはやく朝鮮にはいっています。沖縄にはこれに対応するだけの考古学上の証拠はそろっていません。  以上であきらかなように、弥生式文化が直接どこからはいってきたのか考えるとき、南鮮の稲作農耕地帯が西日本と一連の文化圏をなしてつらなっていたことを前提とせざるをえません。先ほど述べた朝鮮で発掘されたさまざまな農具、あるいは木工のために使われたと思われる新しい磨製石器などにも、非常に日本と共通したものがあります。さらに、古墳時代の前期、中期にかけては、先に朝鮮におこったものとほとんど寸分違わぬものが、日本でも発見され、出土しています。  さて、学習院大学の大野晋氏は『日本語の起源』(岩波新書)において、この考え方をことば[#「ことば」に傍点]という側面から証明しようとしておられます。大野氏はこの本のなかで、弥生時代の稲作農耕とともに、日本にひろがった日常生活の基礎的な技術や工芸に関する日本語の単語と、朝鮮語の単語との対応関係を指摘されています。つまり、日本語と朝鮮語における農耕に関する「はたけ」とか「くわ」とかいったような単語や、農村における生活技術に関する「きぬ」とか「はた」とかいった単語の音の対応を、ずっと列挙されています。一部の学者からは、その例のあげ方が適当でないという批判も出ていますが、少なくとも大野氏のあげたいくつかの例は、どの学者も認めるところだと思います。  そこで、日本における稲作農耕、したがって日本民族の基盤になった弥生式文化の渡来の経路として私が考えているのは、中国北部、東北部、それから朝鮮をへた経路というのでもなく、柳田先生の「海上の道」における考え方ともちがいます。しかし、稲作農耕はどこから南朝鮮へはいったのかという問題になると、私の考えは柳田先生の考え方に非常に近くなってまいります。  それを考えるとき、いちばん大きな問題になるのはやはり江南の地域です。私は稲作農耕の南朝鮮への渡来経路として、揚子江の河口地域から東シナ海を通り、山東半島を多少かすめて南朝鮮へはいったと考えています。これは多くの学者の考えているところで、これまでもいろいろ根拠があげられています。  現在の日本米の野生種が日本に存在するとか、あるいは存在したという証拠があげられれば、日本で稲作農耕を発明したと考えることもできるのでしょうが、いままでのところ、日本に稲の野生種があったという証拠をだれもあげていません。オリザ・サーティバ・ジャポニカという日本米が、弥生時代以後今日にいたるまで日本で作られている稲の種類なのだそうですが、その原産地は中シナ、南シナの東海岸地方にあったと考えられています。このことは柳田先生とともに「稲の話」をやっておられた安藤広太郎博士のような専門家が考証しておられるところです(『稲の日本史』筑摩書房刊)。  また、慶応大学の松本信広博士は、むかしから言語の比較、あるいは稲作に伴なうさまざまなフォークロア、祭祀、習俗などの比較から、弥生式文化と東南アジア、南シナとの連続性を強調しておられます。  日本の「いね」ということばの語源についてもいろいろな説がありますが、このNに関する音は、中国語の発音であると考えることはできません。「ネップ」「ニ」「ヌン」といった相似の例が見出されるのは、中国の南から東南アジアにかけての、いわゆるインドシナ系の言語である、ということもその証拠にあげられています。  こういった考古学上のあらゆる面からの材料は、南朝鮮、西日本一帯にひろがる稲作農耕文化——稲作そのものではなくて、稲作を基礎とした一つの文化複合体は、南朝鮮に伝わる以前の段階では、漢民族がまだ南蛮と呼んで異民族視していた江南地域に住む人々の文化であったと推定されます。  弥生式文化は以上で述べたように、江南から南朝鮮を経て日本にわたった稲作が、日本にもたらした農業革命をその土台として形成されました。ちょうど明治以後の日本を、西欧の産業革命の波が急激な勢いで席捲したのと同じような現象が、この弥生時代に始まったのです。こうして、弥生式文化はまず西日本にひろがり、やがて徐々に日本列島を東北にむかって浸透していきました。これはあらゆる学者の説の一致するところでありましょう。それで、東北地方の弥生式文化は、西日本にくらべ、ずっとおくれて始まることになります。北海道では、明治になるまで、稲作農耕はほとんど行なわれていなかったと考えられます。  ここまでで、私は、弥生式文化の形成を、日本に農業革命をもたらした新しい人間の渡来ということを前提として考えてきました。異質な文化圏の人間の日本への渡来、ないしは彼らとの接触をぬきにして弥生式文化の形成は考えられません。そこで、ではその人間はどのような人たちであったのだろう、ということが問題になります。  日本に稲作農耕をもたらした人々[#「日本に稲作農耕をもたらした人々」はゴシック体]  弥生時代に大きな民族移動が日本におこり、前代の縄文時代人を駆逐してしまったか、あるいは吸収しつくしてしまったのだろうか。そして、その大きな民族移動をとげた民族のことを、当時の中国人が倭と呼んでいたのではないか、という考え方もできるでしょう。しかし、かるがるしく断定はできません。とにかく弥生時代のはじめというのは、紀元前二世紀ないし三世紀といった時代で、この時代を理解するためにここで少し、その当時のアジア大陸について述べておきましょう。  そのころのアジア大陸は、ちょうど周末、秦漢の時代から漢の統一へはいる時代、杜牧の「阿房宮の賦」で、「六王終わって四海一なり、蜀山兀《しよくさんごつ》として阿房出づ」とうたわれた阿房宮と万里の長城を築いた、秦の始皇帝が天下を統一したころであります。やがて秦の大帝国が乱れほろび、漢楚軍談の時代にはいりますが、漢の高祖と楚の項羽が争って、高祖が天下を統一しました。そして漢帝国の文明がアジア一帯に浸透してきます。これが紀元前三百年から以後の時代です。周末の全国の混乱期がその前につづき、中国の縁辺の諸民族の間にも大きな動揺がおこりました。また、民族の移動が漢民族の周辺にもおこっています。  北方の遊牧系民族、騎馬民族の活躍も、この時代の歴史においてしばしば伝えられており、匈奴の活躍などよく知られているところで、江南の地域における民族移動も、たしかに周末の混乱と関係があったに違いありません。したがって、民族の移動にともない、江南地域から、中国、東シナ海をわたって南朝鮮へ、稲作農耕を基礎とした文化をたずさえた、民族の移動があったのではないかということは十分考えられます。  そして南朝鮮でどういう民族の変化、形成が行なわれたかはくわしくわかりませんが、とにかく南朝鮮から対馬海峡をわたって日本へ、稲作文化を伝えた一連の民族移動の波がおこったのではないか、ということも当然考えられます。  ところで、ここで問題になるのが縄文時代人です。縄文式文化というのは、どちらかといえば西日本より東日本のほうに、比重がかたよっていた文化です。そしてこの縄文式文化は、もともと川岸や海岸に沿ったサケ・マスの漁撈、貝類の採取、山中でのシカ、イノシシの狩猟といった採取狩猟経済の上に、かなり安定した定住生活を営なんでいたと思われる人間のつくった文化であることはほぼ確実です。定住集落でいなければ、とうていあれだけ複雑な、手のこんだ装飾をほどこした縄文式土器など、つくれるものではありません。転々と居所を変えて移動して歩く狩猟民族とか、遊牧民族は、土器はつくらないのが原則です。  遊牧民族は家畜の皮で容器をつくり、それに水や食物をたくわえ、また狩猟民は木の皮で容器をつくります。いまでも北方アジアでは、白樺の皮などを容器に使いますが、土器はつくりません。  縄文時代の後期には稲作以外の植物栽培、たとえば、イモ類などの栽培があったかもしれません。しかし、縄文式文化の大きな特徴はあくまでも、採取、狩猟、漁撈といったフード・ギャザリングの生活によって支えられていたというところにあります。そして、縄文時代は、採取経済の技術段階の最高のところまで発展した文化であろうと、縄文式土器を介して推定できます。  もちろん、貝塚の大きさなどもそのことをものがたるかもしれませんが、いちばんわれわれにとって関心の深いのはあの縄文式土器です。  文化史的、美術史的にみてあれほど高度の技術と美をそなえた土器をこしらえた縄文時代人は、その後の日本民族、日本文化の歴史のなかでどうなったであろうかということが問題になるのです。縄文式土器をのこした人間が、弥生時代以後に消滅してしまったとは、とても考えられないからです。  ことに弥生式文化が、日本列島を西から東へひろがっていくにつれて、縄文から弥生への変化は急激な質的転換ではなく、むしろ縄文の伝統をふまえた弥生式土器の特徴が濃厚になってきます。したがって、東北の考古学を研究している学者は、縄文から弥生への移りかわりはレボルーション(革命)ではなく、エボルーション(進化)であると主張しています。縄文時代人がそのまま弥生式土器をつくり、稲作農耕を行なったと考えるわけです。少なくとも東日本については、この考え方はそれ相当の根拠があるといえます。ともあれ、定説のようなものをここでお話するのはむずかしいが、以下、有名な一、二の説を紹介してみます。  人体についての人類学を専門に研究している金関丈夫博士が、西日本の弥生の遺跡から発見された、かなり多数の人骨を測定し、周囲と比較した結果、次のような事実を発見して発表されました。それは、少なくともその遺跡のあった地の弥生時代人の平均身長は、その前の縄文時代人にくらべて、いったん急激に高くなっています。ところが、それからあとになると平均身長は次第に低くなり、もとの縄文時代人の身長と大差のないところまで低下してきた、こういう数字が出てきたのです。金関博士はこれをこう解釈しています。つまり、最初に現われた弥生時代人の平均身長が、その土地の縄文時代人にくらべて急にのびているのは、南朝鮮から身長の高い人種が、稲作農耕という新技術をたずさえて西日本に移動してきた、そしてその影響が、あるいはその人たちの骨にあるのかもしれない。少なくとも縄文時代人の平均身長というものが、その人たちの影響によって一時急速に高くなった。ところが、移ってきた人の人口量は、土着の縄文時代人にくらべてはるかに少ないものであった。そしてやがてその長身の特徴というものが、在来種の縄文時代人のなかに混血によって吸収され、やがて失われてしまったのであろう。  これは特定の地域についての調査の結果からの推定ですが、金関博士はこういう解釈を下しておられます。  もしこの推定が正しいとすれば、言語の面においても、のちに倭人として知られた西日本の民族の話していたことばのなかに、その土地の、つまり西日本の縄文文化人のことばが非常に大きな比重を占めることになります。稲作という新しい生活技術をもった異民族は、混血によって在来の縄文時代人に吸収されてしまうほど少数のものでした。そして、弥生時代人のことばは、縄文時代人のことば[#「ことば」に傍点]と、その言語構造において根本的な相違はありません。それで縄文時代人の話していたことばが、その後の日本人のことばの基幹となったと考えられます。こうして時代をさかのぼればさかのぼるほど、推定はむずかしくなり、その根拠は薄弱にならざるをえません。  言語学からの考察[#「言語学からの考察」はゴシック体]  他方、前にもその説を引用しました、言語学の大野晋氏はやはりいまいったような経路で、稲作文化を日本に伝えた人種が出現したと考えています。そして、中国の混乱期に稲作文化をになって江南地域から移動してきた民族の言語を、一つの仮説の前提として考えています。大野氏の仮説を結論的にいえば、次のようになります。  まず江南の方から南朝鮮へ移動してきたある民族の言語が、南朝鮮において北方系のアルタイ語系統の言語に同化された。それがいまの朝鮮語の祖型、むかしの韓人のことばとほぼ同じことばである。そういう言語を話す民族が、こんどは新しい弥生式文化とともに西日本にひろがっていった。ところが、西日本には、日本列島の先住民である縄文時代人が根をおろしていた。そして日本にひろがってきた民族である韓人の話していたアルタイ語系統の構造をもつ言語と、従来の縄文時代人の話していたものとの混淆した言語が形成された。それが倭人のことばであり、現在の日本語の原型であろう。こう大野氏は述べています。だから、倭人と韓人というのは非常に近い民族であり、ことにその生活様式はほとんど共通していながら、言語の系統はすでにその時代からかなり大きく分かれて、中国人も韓人と倭人の二つの民族として識別していたのではないか、ということになります。  大野氏の説によりますと、日本語の文法構造は、アルタイ語系統のものであろうということが一応前提になっていますが、日本へ稲作をたずさえてきた民族自体が、すでにアルタイ語系の文法構造をもったことばを話しており、その外来民族のことばがその後の日本語の基礎的な構造を決定したということになります。  そして、大野氏は従来の縄文文化人の話していたことばは、北方のアルタイ語的な特徴よりもむしろ、単語がすべて母音で終わる南方的なアウストリッシュ系統の特徴をもったことばであるとしています。この母音で終わることばを話す民族は、南太平洋からずっと南の方へひろがっていって、たとえば、ポリネシア語、ハワイアンなどがそのような特徴をもっています。ですから大野氏の説によれば、現在の日本語は南方系統のことばを話した縄文時代人の言語の上に、新しくできた混淆語が、アルタイ語的な構造を与えていったことばである、ということになります。  もちろん、この大野氏の仮説に対しては、専門の言語学者の間からいろいろ反駁が出ていますから、大野説と同時にその反論も読んで理解しなければならないと思います。ここで私が人類学者の金関氏の説に並べて大野氏の説をあげたのは、大野氏の仮説は、金関説以上に、量質ともにさらに大きな比重をもった民族移動が、弥生式文化を日本にもたらしたということを強調しているからです。  このように、この時代については、確実な証拠というものをなかなかあげることができません。ことに言語の起源をつきとめることは非常にむずかしい問題です。服部四郎博士は従来の正統的な言語学の上に立って、二つの言語が混合して新しい一つの言語を形成することは、法則的にはありえない、二つの違った言語が接触し、混合するとき、その結果はどちらか一つの言語が他の言語を征服もしくは駆逐するのが通常であって、両者の混合の上に第三の新しい言語が形成されることはありえないと、大野氏の説を批判しておられます。  しかし、大野氏に聞いたところによると、従来の言語学者の理論は、非常に強大な征服力をもったインド・ヨーロッパ系民族の言語を基準として組みたてられているそうです。なるほど、印欧語族の征服するところでは混合語は生まれていません。いつでも征服民族である印欧語族のことばによって統一されています。けれども、印欧語族以外の民族接触の歴史において、混合語が生まれえなかったかどうかということは、まだ証明されておらず、これから証明されるべき問題だ、と大野氏は語っています。  印欧語族の征服の歴史をみますと、たとえば、アーリア人がインドにはいり、従来の民族を征服したときには、ヨーロッパ諸国と同じ系統のアーリアの言語が、インド人の言語を支配しました。また、アメリカ大陸においても、インディアンを征服した白人の言語が支配的な言語となっています。ラテンアメリカではスペイン語とポルトガル語が、また北アメリカでは英語が、それぞれ支配的な言語になっています。メキシコあたりの農村に行きますと、バイリンガル(二言語常時使用者)がたくさんいます。たとえば、アステカやマヤのことばを、スペイン語と使いわけて話す人がたくさんいるのです。しかし、二つのことばを話す人はいても、その二つのことばが混合して新しい第三の言語が生まれたという例はありません。以上でもわかるように、言語の接触の歴史において、混合語の成立を証明するのは大変むずかしいようです。しかし、言語以外の文化とか、体の形質などにおいては、混血がさかんに行なわれました。宗教においても(イスラム教などでは非常に少ない例でありましょうが)日本などでは神仏混合ということが非常に早くから、いとも簡単に行なわれています。ですから、言語という文化要素だけがひとり混合を許されないかどうか、これはまだ未解決の大きな問題であります。  日本民族形成期としての弥生時代[#「日本民族形成期としての弥生時代」はゴシック体]  しかし、大野説には、まだいろいろ疑問の点があります。たとえば、縄文式文化という何千年にもわたる文化が、単一の民族によってになわれたものかどうかという点であります。いくつかの異なった系統の民族が、同じような形式の採取生活を行ないながら日本列島のあちこちに住んでいた、ということもありうることでしょう。また、明治時代には、アイヌが縄文時代人であるとほとんど定説的に考えられていましたが、これも疑問です。アイヌはもっと新しいものであって、縄文時代には存在しなかったのではないか、ということも考えられないことではありません。  いまの人類学者はまた、縄文時代人がアイヌでないならば、すなわちアイヌでないものはいまの日本人であると考えていますが、これはどうして証明できるでしょうか。  さらに縄文時代にも、その時期によって民族や文化の渡来、影響、その混合ということがありえたかもしれません。これらはすべてわれわれの文化史にのこされたナゾであり、これから究明できるものは究明できるであろうし、わからないものは、あるいは永久にわからないかもしれません。しかし、いずれにしても、この日本列島のほとんど全域に、かなり豊かな生活のあとを残している縄文時代人の文化、言語というものは、倭人、つまり歴史時代のわれわれ日本人、日本民族の形成、あるいは日本文化の源流、こういうものにかかわりがないはずがないと私は思うのです。  民族学の立場から歴史の復元を試みる学者で、縄文時代の日本では、南方にひろがっている日本のサトイモにあたるタロイモというイモ類の栽培が行なわれていたのではないかと考えている人がいます。現在でも、日本の特定の地方に、十五夜その他の農村の祭りで、イモにまつわる行事が点々とのこっています。それは縄文時代の稲作以前の習俗が、のちにひろがった稲作農耕によってもたらされた稲米儀礼に寸断されて、西日本あたりの山間僻地にあとをとどめているのであろうという考え方です。そのような可能性も、もとよりありえます。しかし、イモが、弥生時代に米といっしょに日本にはいってきた、あるいは弥生時代以後にはいってきたとも考えられます。考古学上の証拠がないからこう考えることもできるのです。さらに、もし弥生時代、あるいはそれ以後にイモの栽培が日本に伝えられたとしても、日本の稲作にあまり適しないような山間僻地に、イモの栽培だけが、稲作のあいだを縫ってひろがっていくという可能性も十分考えられます。そうしますと、そのような地域では、稲ではなくて、イモの儀礼が断続的に行なわれるということもありうるでしょう。これは非常に意地の悪い論理ですが、これが妥当でないという論理が出されなければ、私のような考え方に慣れているものは納得しないでありましょう。  私自身としては、この種の臆測はこの講義では一応ひかえます。そして、少なくとも縄文時代人の文化が、その後の倭人のなかに大きな伝統をのこしていることは否定しません。それと同時に、縄文の美というものが、日本民族の美術史のなかにその伝統をひき、しばしばある時代においてこの系統の美の再評価、強調が行なわれているという事実も見落してはいないつもりです。  しかし、私が最初にあげたような定義で客観的に日本民族と名づけうる民族が、はじめてこの島に形成されたのは、あくまでも稲米の水田耕作を基盤とする一連の技術革命をもたらして、人口の飛躍的な増大をみた弥生時代であります。縄文から弥生に移って、日本列島の人口が非常に増大したことは、考古学上の遺跡から、多くの学者がすでに論じているところです。  とにかく、農業革命が日本におこり、人口が急激に増大し、中国の史書にすでに日本語を話すと推定しうるような民族の存在が記されるようになった時代、つまりわれわれが日本民族としてその存在を識別しうる民族の存在した時代が、西暦紀元のはじめをはさむ弥生時代である、というのが私の結論であります。  日本人の民族性とか、あるいは日本文化の基本的な特性、日本文化のパターンズというものも、その源をさかのぼればおそらくこの弥生時代に求めうるのではないか、と私は考えています。  これはきわめて大づかみな見方ですが、私としては比較的むりのない見方であって、これ以上のことがわかるという論には学問的な説得力がないように思えます。しかし、いままで私が述べてきたことは、現在の段階で学問的にはっきり認められてよいと思っています。  この弥生時代はやがて古墳時代へと発展していきます。そして、耶馬台国の女王卑弥呼の時代が、弥生時代の末、あるいは前期古墳時代ではないかと私は考えています。  そして、この古墳時代とよばれる時代のある時期に、今日の皇室の祖先である大和朝廷の、国土統一という歴史的事実がおこったであろうこともほぼ確実です。このことについては「日本国家の起源」として、次章でお話いたしましょう。 [#改ページ]   第四章 日本国家の起源 [#改ページ]  村落共同体を管理するもの[#「村落共同体を管理するもの」はゴシック体]  日本文化の源流という問題についで、「日本国家の起源」という問題を考えましょう。ここでは民族と国家とを別個の概念として類別し、民族起源と国家起源をべつべつに扱います。しかし、ひろい意味の日本文化論、日本文化の形成、日本民族の国民性および民族性という問題を総括的に論ずる場合には、この国家起源の問題も、また民族起源、文化起源の問題の一部に包括されるべきだと思います。その意味で私は、日本民族の源流にさかのぼって問題を考えるというところにだいぶ時間を割きました。  前章で述べましたように、西暦紀元のはじめをはさんだ、考古学者のいう弥生時代、中国の古書にかかれた倭人の時代が、われわれがさかのぼって、日本人の祖先を識別しうる最初の証拠のそろった時代です。この時代の全期を通じて断続的に、大陸の高い文化が朝鮮半島を経て続々と日本に伝わっています。もちろんこの時代にはじまる金属器の知識、金属加工の技術なども、当然大陸から伝わったと考えられます。  考古学上の遺物、遺跡からみられるこの時代の特徴は、一般に軍事的色彩が非常に少ないという点にあります。墳墓の副葬品にしても玉とか鏡とか祭祀的なものが多く、剣や鉾も、実用の武器というより祭祀の目的に使われたものが多いのです。集落遺跡にも、防衛のための濠とか城壁をめぐらしたものは少ない、つまり、文化の性格が、いちじるしく平和的、農耕的、祭祀的であるということが一つの特徴ではないかと思われます。  生活の細部については不明ですが、この時代を通じて小さな村落共同体が、最初はあちこちに点在していたのでありましょう。やがて農耕生活が発展するにつれて、小さな村落が純粋の自給経済をいつまでも保つことがむずかしくなったと考えられます。これは世界史の全体を見わたしたときに、はっきりいえることです。穀物栽培による農業革命がひとたび達成されると、定住農村の社会では、村落と村落とがいろいろな意味で、共同の仕事によって結ばれてきます。ことに水田地帯における灌漑の仕事などは、技術が高度化すればするほど、一つの孤立した村落でできるものではありません。そこには必然的に、いくつかの村落を通じた水路の共同管理といったことが要請されてきます。さらに、宗教の、村落共同体を共同の目的のために結集するある指導力、というようなものが生まれてくると考えられます。はじめは、軍事的な指導者ではなく、宗教的、祭祀的な指導者が村落共同体の共同の管理のために生まれたのでしょう。そうした時代の定住農村の段階において、いくつかの村落共同の宗教儀礼のようなものを行なったのではないかと思われるかなり大きな建造物が、いろいろの国で見られます。今日においてもなお、メソポタミア、エジプト、アンデス、あるいはラテンアメリカといった地域に、石や粘土で造られた大きな建造物がたくさんのこっているのです。しかし、この時代の日本には、建築資材の関係からでしょうが、そうしたセレモニアル・センターにあたる巨大な建造物の存在は確認できません。そのかわり、相当の労働力を動員しなければでき上らないような、土を盛りあげた古墳の形式があらわれてきます。これは私のいままで述べてきた推論のプロセスを裏づけるものと考えられます。  宗教的共同体から軍事的共同体へ[#「宗教的共同体から軍事的共同体へ」はゴシック体]  やがてそのうちに、世界史一般の大勢として、宗教的な祭司が、同時に経済や政治制度の指導にあたるようになります。こういう状態のもとに、あちこちにあった祭祀的なセンターが、小さな神政的小国家に発展して、地方勢力を形成していきます。やがて地方勢力のあいだに利害の対立が生まれ、だんだん軍事的な色彩が与えられていきます。これは日本で証明できると同時に、他の定住農村から古代国家へと発展の道をたどったあらゆる社会、ことに古代文明発祥の地域においては、いずれもこうしたプロセスが、遺跡や遺物からうかがわれます。つまり、平和的、宗教的な色彩をおびた共同体から、だんだん軍事的な武器とか、防塞といったものをそなえた共同体へと発展していくのです。これが、古代世界史の一般の通則であろうと私は考えています。  日本においても、古墳時代にだんだん移行していく時期、おそらく魏志倭人伝に描かれた紀元三世紀ごろの倭の諸国の状態などは、そういう段階ではなかったかと思います。倭人伝に記されている耶馬台国とか、クナ国とか、大小三十いくつかの倭人の諸国は、おそらく弥生時代の末、あるいは古墳時代のはじめには、神政的な体制がようやく軍事的な色彩を加えてきた段階にあったといえましょう。  例の耶馬台国の女王卑弥呼が擁立された過程にしても、倭人伝の記すところによれば、倭国乱れ、相攻伐すること歴年、というようなことばが書いてあります。そのあとで、ともに一女子を立てて王となしたといっています。しかし、この女王卑弥呼の性格も、非常に神政的な祭祀的なものであったようです。鬼道につかえ、あるいは鬼道をこととし、よく衆を惑わすといったことが書かれています。そこで、卑弥呼は一種の魔術的な機能をもった女王、つまり、神政的な政治の頂点に立った存在であろうと想像されます。  また、卑弥呼の亡くなったあとでは、奴婢百余人を殉葬し、そのために大墳墓がつくられたとあります。これがどれほど誇張した記事であるのか、あるいは正確な事実が伝えられているものか、いまになってはわかりません。しかし、おそらく古墳時代の前期ぐらいの倭国の状態では、少なくとも墳墓が、権力者の墓としてああいった形でつくられたり、また殉葬ということも行なわれたのではないかと推定されます。  卑弥呼のような権力者が死んだあと、また国中、不服、こもごも相誅殺し、千余人の死者が出たという記載がありますから、この時代にはあちこちで、小地方勢力間の戦争があったのではないでしょうか。いわゆる群雄割拠のような状態が想像されます。  ところで、本論の日本国家の起源でありますが、ふつうに想像しうるところでは、このような群雄割拠という小地方勢力間の争いの中から、倭人の諸国が西日本のあちこちにできて、その割拠闘争のなかから、倭人伝に記されている耶馬台国のような勢力が、まず西日本を統一したと考えられます。これが歴史に伝えられている大和朝廷の国家です。そして、耶馬台国というのが大和であって、ここに大和朝廷が成立したのだと、日本の歴史が解釈できるならば、ことは大そう簡単です。しかし、なかなかそうは簡単に解釈できません。  古墳時代の性格と区分[#「古墳時代の性格と区分」はゴシック体]  また、事実、古墳時代として考古学者の区分する時代のなかでも、その前期は、後期弥生時代と規定する学者もあるように、祭祀的な弥生時代の文化的性格の連続であると考えられます。その連続性は、遺跡や遺物の上からも明らかです。  いま、私は古墳時代の前期ということを述べましたが、古墳時代を前後二期にわける説と、前中後の三期にわける説とがあります。従来多くの書物に三期の分類がなされているので、ここでかりにその説にしたがいますと、この前期は墳墓、高塚古墳のはじまる三世紀から四世紀の移りかわりのころから、ほぼ四世紀の後半にいたる、一世紀たらずのあいだになるでしょう。この四世紀にはいる時代を前期とよんでいます。それが、弥生時代の伝統の非常に顕著な時期なのです。後期というのは、五世紀後半のなかごろから、七世紀の飛鳥時代にいたるかなり長い時代ですが、あとはずっと歴史の文献のある時代にはいったわけです。これはあきらかに歴史にいう大和朝廷の政権確立後の時代です。したがって、後期の古墳が、おそらく大和朝廷を中心とした王侯であるとか、地方豪族などの墳墓に代表されるものであろうということ、これもおそらくどの学者も異議ないところだろうと思います。  ただ、三区分の場合の中期なるものが、ここで非常に問題になります。いままで日本史家が考証を重ねた結果、ほぼ定説としてうけとってよいと思われる解釈では、だいたい四世紀の末から五世紀のはじめをはさむ半世紀間が、古墳時代の中期にあたります。これは歴史に伝わる実在の天皇である応神、仁徳の時代にあたります。このような考証は、中国の史書における倭の国王の名前と、『日本書紀』が伝える天皇の名前との対応を考証して、ほぼ四世紀から五世紀へかけての期間が、応神、仁徳の時代にあたると考えられます。さらに、中国の史書に出てくる固有名詞との対応関係が証明できるところから、年代もほぼこの時期において考えられているようです。  ちょうどこのころから、考古学のほうでは古墳時代の前期から中期への転換がおこるようです。またこの時期には、古墳の副葬品が、従来の鏡、玉、剣のような弥生時代以来の伝統である祭祀的、宝器的なものから、実用的・軍事的な武器とか馬具、石製模造品の日用用具の類に変るという、大きな変化がみられます。この変化は、四世紀の末にはじまり、五世紀になるとはっきりあとづけられるようになります。  これは、この時期に何か異質なものが日本にあらわれ、文化の性格が祭祀的なものから軍事的なものへと転換していったと考えられます。  しかも、これらの武器とか、馬具、また服飾品の大部分は、漢の大帝国の崩壊以後にあらわれてきます。漢の崩壊した三世紀から五世紀ごろにかけて、中国の周辺民族のあいだに混乱と動揺がおこります。これは東洋史の通則のようなもので、いつでも見られることですが、漢の帝国の崩壊以後、例の五胡十六国の時代には、中国の北辺に遊牧民系統の民族が次々に小国家をつくります。これらの諸国が中国の文明を大量にとりいれながら、自分たちの伝統的な騎兵の生活、騎馬の戦術を守っていました。いわゆる胡人の活躍が中国の北辺にさかんにみられるのがこの時期です。  ちょうどこの時代に、胡人の系統の文化が伝えられたものと思われるさまざまの副葬品、武器、馬具の類が、日本にあらわれてきます。  これらのものは、もちろん日本にあらわれるずっと前に、朝鮮にもあらわれています。朝鮮の博物館の馬具、服装、当時の武人の服飾品などをみ、それと日本の古墳時代中期以後のそれらとをくらべてみると、われわれにはまったく区別のつかないものがあります。つまり、北辺の騎馬民族の系統の文化が、朝鮮半島を経て日本にはいってきたということが、一見してあきらかなのです。かぶりものから靴にいたるまで、金色燦然たる大陸の王侯の姿そのままの服装品が、日本でも、このほぼ五世紀以後の古墳のなかにみられます。これは考古学者の小林行雄氏も書いていることです。  この時期の朝鮮半島では、こういった騎馬民族の文化をもった高句麗であるとか、扶余などが、北から南下してきて国を立てました。これらの民族に非常に騎馬民族的色彩が強いことは、歴史家がみとめています。他方、日本ではこの時期に、応神、仁徳陵のような、底面積がエジプトのピラミッドよりも大きいといわれる未曾有の壮大な陵墓の築造がはじまりました。  やがて、埋葬の形式にも、大陸系と思われる種々な特徴があらわれるようになってきます。横穴式の古墳であるとか、最近九州でさかんに発見され問題になっている彩色壁画をほどこした石室などは、あきらかに朝鮮から北方へつらなる系統の文化の影響下にあります。このような変化が、古墳時代の前期から中期への移行を代表する、大きな特徴なのであります。  移行の事実をどう解釈するか[#「移行の事実をどう解釈するか」はゴシック体]  これだけの変化があるという事実そのものは、どの学者も否定しないでしょう。ただ、これをどう解釈するかによって、学者の説はいろいろに分れるのです。まず一つの解釈としては、純考古学的な見地に立って考えると、倭国以来、倭人というものが、中国の史書によれば、西日本、あるいはもっと南方につらなっていたかもしれませんが、朝鮮半島の南のほうも占めていたと解釈することもできます。この解釈は、つぎのような考え方に基いています。  西日本から南朝鮮の一角にまで、倭人の勢力圏があったとする。そうした日本人のなかの一つの地方政権、ある地方勢力が、高句麗、扶余以来だんだん半島を南下してきた北方系の騎馬民族の文化と接触することによって、あるいはその系統の文化をとり入れることによって、にわかに強大な軍事的勢力となり、軍事的国家をそこにつくり、日本を統一した。これが日本国家の起源である。  こういった解釈も考古学上の材料の範囲内では、素直に受け入れることができるでしょう。  しかしまた、この解釈だけでは説明のつきかねる、不思議な事実も少なくありません。どうしてもいくつかのナゾがのこります。そしてこのナゾ解きの仕事が文化史家にのこされるというわけです。こういった事情から、これから紹介する江上波夫氏の騎馬民族説が唱えられるのです。  私はいままで述べてきた農耕民族説と同じように客観的に騎馬民族説についてお話します。どちらの説が学問的な説得力があるかということは、読者のみなさんの判断におまかせします。  戦後まもなく一九四八年に、私が司会役をつとめ「日本民族文化の源流と日本国家の形成」というシンポジウムがひらかれました。その記録が翌年の『民族学研究』に発表されてから、「騎馬民族説」として大いに学界で問題になりました。多くの日本の歴史学者や考古学者は、この説に対し否定的な態度でのぞみ今日にいたっています。しかし、これを正面から反駁、反論し、くつがえしたという議論には、不幸にしてまだお目にかかっていません。ただ態度としては否定的であるというのが一般の傾向のようです。このシンポジウムの記録は、その後平凡社から『日本民族の起源』というタイトルの単行本になって刊行されています。  さらに去年、東北大学の日本文化研究所で、ふたたび江上波夫氏、井上光貞氏、小林行雄氏、伊東信雄氏、関晃氏の五氏と私をいれた六人で、「日本国家の起源に関するシンポジウム」をひらきました。最近、この記録は角川新書として刊行されました(『日本国家の起源』)。  これには江上氏の「騎馬民族説」が、前のシンポジウムで展開されていらい受けたいろいろな批判に対する回答もふくめ、より詳しく展開されています。江上氏はほかにも、最近の氏の考えを非常に総括的によくまとめた「日本における民族の形成と国家の起源」という論文を、東京大学の一九六七年度の東洋文化研究所紀要に発表されておられます。  さて、私はここでは、騎馬民族説によらなければ解釈できない、と江上氏の考えておられる根拠を五つか六つに分類してご紹介するにとどめます。  騎馬民族説の根拠[#「騎馬民族説の根拠」はゴシック体]  まず西暦四世紀、五世紀のころといいますと、いまの歴史家の通説にしたがうかぎり、ようやく日本民族が国家統一をとげたばかりの時代です。大和朝廷が統一国家をつくったばかりの状態で、この四世紀という時代に、大陸の騎兵の制度などを、とりいれたという痕跡は、古墳の遺物のなかにもまだあらわれていません。ところが、朝鮮側の記録である有名な高句麗の好太王の碑文によりますと、この時代の倭人は、後の倭寇のように朝鮮半島でかなり規模の大きな軍事行動をおこしています。規模の大きなということは、好太王の碑だけからはわからないかもしれません。しかし、日本側の記録である八世紀以後の『日本書紀』によりますと、神功皇后の朝鮮征伐といった記事が見られます。日本から大和朝廷が積極的に朝鮮の征服にのりだし、朝鮮半島で軍事行動をおこし、それ以後大量の帰化人がぞくぞく日本にはいってくるというふうに書かれています。これは八世紀のはじめ、大和朝廷のなかで編纂された記載であって、その軍事行動がどういう性質のものであって、はたして事実であるかどうか、大いに疑う余地があります。しかし、すくなくとも北方に、好太王の碑文という、時代の推定しうるものがのこっていて、そこに倭の軍事行動の記事があるとすれば、四世紀の末ごろにそのような事実があったことは否定できません。  これが大和朝廷のおこした軍事行動だとすれば、もうすでにその当時の朝鮮半島には、北方の、それこそ胡人の風をとりいれた騎兵の制度がすでに確立していたはずです。  そこで、騎兵の制度がすでに確立し、日本よりも先に、軍事的にも優秀な中国の軍制、あるいは北方騎馬民族の武器などが伝わっている朝鮮に、まだ騎兵の戦術をもたない、日本の歩兵だけが武器をもって攻め入り、征服活動などがはたして行なえるのかどうか、世界史の常識から考えてもこれは疑わしいことです。  あの漢の大帝国の軍事力をもってしても、北辺の騎馬民族のためにしばしば悩まされているのです。中国の史書に、漢の高祖が匈奴の大軍にかこまれて、命からがら白帝城を逃げたという記事すらあります。それ以前の戦国時代、紀元前四世紀の末ごろでも、北狄の騎者の征といい、馬に乗り強い弓を馬上から射る騎馬民族の活躍がありました。それにくらべ、中国では、四世紀の末ごろまで騎兵の制度がなかったと文献にあります。そのころの中国には騎兵は存在せず、ギリシャ、ローマのチャリオットを思わせる二輪の戦車の上に、馭者と弓を射る戦士がのり、二頭あるいは四頭の馬にひかせて、非常なスピードで活動したのです。これが騎兵の大軍と対決するのです。騎兵の方は、どんな地形でも縦横無尽に適応できます。戦車は平原の戦闘には行動力をもっていても、ちょっと山嶮の地勢にかかると、騎兵のためにやっつけられてしまいます。  それで、有名な趙の武霊王が、紀元前四世紀の終りになり、みずから進んで中華の古風をすてて、「われみずから胡服騎射して、もって百姓《ヒヤクセイ》を教えんと欲す」、つまり、衆がみな自分を笑っても、自分は断乎として中原の地を守るために、胡人の戦闘技術を採用するのだといっています。この胡服というのは、乗馬に適した筒袖の上着とズボンです。いまの洋服や中国服も、この胡服の系統だと思いますが、その胡服をつけ、馬にのって騎兵を編成して闘うというのです。この胡服騎射の制を非常な反対をおしきって採用した趙の武霊王の記事が、非常に興味ある筆で、司馬遷の『史記』や『戦国策』には書かれています。騎兵の戦術に対抗するには、あの春秋戦国時代の中国の軍団をもってしても、むずかしかったのです。  それを、ようやく国家的統一をとげるかとげないかという段階で、しかもまだ騎兵の存在しないおくれた民族が、海をわたって、すでに騎兵制度の発達している国へ侵入し、それを征服することが、はたして可能であったろうか。これはたしかに大きな疑問です。  疑問はまだあります。後の歴史において、日本の大和朝廷は、朝鮮半島の拠点を次々に失ない、ついに朝鮮半島を放棄することになります。それにもかかわらず、大和朝廷はすでに失なってしまい存在しない朝鮮半島における国名を列挙して、こうした諸国に対する日本の主権を承認せよと、執拗に中国の朝廷にむかって主張している記録がのこされています。  この時代にはすでに、三国の百済の王などは、倭王よりも早く中国に朝貢しており、南朝の宋という国から、鎮東大将軍百済王という称号を叙せられていました。それをこんどは倭の国王が中国にむかって、百済も倭の主権下にあるべきだと主張しているのです。大和朝廷が中国に対して、倭、百済、新羅、任那、秦韓、慕韓、六国諸軍事、安東大将軍、倭国王、こういう称号を認めろと強談している事実があるのです。これをどう解釈すればよいのか、不可解なナゾであります。このナゾをどう解くかということも、歴史家の仕事でしょう。倭は中国から離れた東のいなかもので天下の大勢を知らず、ただからいばりしてみせたのだ、というだけのことでは解釈がつきません。固有名詞をならべて自分の主権を主張するには、過去に何かそれを主張しうる根拠があるからだという考え方も出てきます。  日本と朝鮮の建国神話の一致点[#「日本と朝鮮の建国神話の一致点」はゴシック体]  第三の疑問は、『古事記』、『日本書紀』にある日本の建国神話、とくに天孫降臨のものがたりのなかに、古代朝鮮の開国神話の内容や地名とぴったり一致するものがあるということです。  私は前にも述べましたように、神話のなかには、過去の歴史的事実の反映があるとする学問的な立場にたっております。つまり、神話のなかに、歴史的事実と関連するものがあるとすれば、その関連を証明することが科学的態度であると考えています。  ところで、日本の建国神話と朝鮮の建国神話とのあいだに、非常に多くの一致点があることが問題になっています。日朝両国の建国神話のモチーフには似たものがたくさんあるのです。たとえば、日の光に感じて父なくしてうまれた子が王朝の始祖になったという日本の説話にある要素が、朝鮮の説話にもあるのです。具体的に、朝鮮の三国その他の国々の建国神話として伝えられているもののなかに、神が天上から垂直に天くだって、ある特定の土地に国を建てるというモチーフがあります。たとえば、任那にあたる伽羅国の建国伝説には、日本の天孫降臨の神話と、形式の一致がみられるばかりでなく、日本の建国神話にある|※[#「木+患」、unicode69f5]触之峯《クシフルノタケ》、日向の高千穂嶺|※[#「木+患」、unicode69f5]触《クシフル》とかいう、クシとかフルといった地名が(伽羅国の建国伝説にも)たくさん出てくることが、学者によってしばしば指摘されています。フルは韓国で村をあらわします。クシというのは、いまの駕洛国記に出ている亀旨《クシ》という地名と一致します。書紀においては、この|※[#「木+患」、unicode69f5]触《クシフル》というのが、ソホリと発音する文字で書かれていますが、これは百済の都がソフルであり、いまの韓国の首都のソウルであることを考えると、みな王の都を意味する、朝鮮語の系統のものであると考えられます。  また、この国はわが子孫の君たるべき地なり、なんじ皇孫ゆいて治めよ、といった、国土を支配せよという天神の命令、神勅をうけて空からくだり、その国を治めるという点でも一致がみられます。さらに、記紀には真床追衾《マトコオウフスマ》という、ふとんとかふすまといった布のようなもので包まれて皇孫が地上にふわりとおりるという事が記されており、駕洛国記のほうには、紅の布のようなものに包まれておりるという記事があります。いずれも布に包まれて落下するというモチーフが共通しているのです。これなども、北方の王位継承の際の習俗との類似を指摘して、江上波夫氏が論じているところです。  このように、日朝両国の神話には、地名の一致があり、これが偶然であるとは考えられません。  こういう建国神話における一致点の存在はどう解釈すればよいのでしょうか。もし大和朝廷がもともと日本列島のなかだけで、朝鮮半島とは全然なんの関係もなく国土統一をとげたとするならば、こうした後の史書に断片的にのこされた両者の一致の理由を解釈するのに非常に苦しみます。はたして、これらはみな偶然の一致でしょうか。この疑問もなんとか解決しなければなりません。  二大勢力の対立と帰化人の渡来[#「二大勢力の対立と帰化人の渡来」はゴシック体]  第四の疑問として、日本の神話には一貫して、大和朝廷による国土統一の過程において、つねに二つの対立勢力があったということです。これは明治以来、いろいろな学者がすでに指摘しているところで、天孫系と出雲系とか、あるいはアマツカミとクニツカミであらわされる二つの勢力の対立であります。二つの勢力のあいだには、血みどろの闘争とか征服といったことはなかったようです。最初に国土を治めていた出雲のオオクニヌシノミコトという大勢力が、天孫の勢力に国ゆずり、すなわち政治的妥協という形で支配権を譲渡することによって、天孫系の大和朝廷の国土統一が成り立つというプロセスが、日本神話のライトモチーフのように、いたるところにあらわれます。そして、神話の構成において、この二つの勢力は親縁関係にあるようにみえます。たとえば、スサノオノミコトがアマテラスオオミカミの弟であって、スサノオノミコトの子どもか孫が出雲のオオクニヌシであるといった記述があります。しかし、もともとは出雲系の勢力が日本列島を治めていたところへ、天孫の勢力が高天原からはいってきて、在来の出雲系の勢力とのあいだに、政治的妥協による国土統一をとげたと解釈できるように記紀の神話は書かれています。  そればかりではなく、ここでもまた、この両勢力ともに、朝鮮半島との往来、もしくは密接な関係があったことが、断片的にではありますが、たびたび出てきます。  たとえば書紀の一書に、「このときスサノオノミコト、その子イソタケルノカミを率いて新羅の国に至りまして、ソシモリのところにいましき」とか、「すなわちことあげして、この国はわれおらまくほりせずとのりたまいて、ついに埴土をもちて舟をつくり、乗りて東に渡り、出雲の国の簸《ひ》の川上なるトリカミノタケに至りましき」といった記載があります。韓《から》の国にいって、また出雲に戻ってくるという朝鮮半島との往来の記事です。それから、ニニギノミコトが筑紫の日向の高千穂嶺にあまくだったという『古事記』の一節に、「ここにのりたまいしく、この国は、韓《から》くにに向かい、カササの岬にまきとおりて、朝日のたださす国、夕日の日照る国なり。ゆえに、この地ぞいとよきところ」といったように、たえず朝鮮半島との関係がくりかえし出てきます。  そのほかにも、いろいろな人物が朝鮮との関係において、日本神話に出てくることはいうまでもありません。とにかく二大勢力の対立と妥協という構成、それから朝鮮半島との往来関係が密接であったという記述が、記紀の一つの特徴です。八世紀の朝廷が日本神話を純粋に政策的に創作したのであるならば、このようなことを書きのこす必然性や必要性はありません。なにか古くからの言い伝え、あるいはさまざまの書物にすでに書かれていた記録のなかにこのような材料があって、これを無視しては記紀の編纂ができなかったということをやはり考えないわけにはいかないのです。  第五の疑問としては、大和朝廷の政権確立の後に、この半島あるいは大陸から、主として半島経由ですが、新しい技術をたずさえた帰化人が大量に日本へ移住してきて、大和朝廷のもとで非常に優遇されたということがあります。それらの帰化人の住んだ地域が今日まで地名の上にあるいは血統の上にずっとのこっている、ということが多くの学者によって指摘されています。四、五世紀の日本側の記録によれば、四世紀の神功の軍事行動のあとから、応神朝、仁徳朝の時代に大量の帰化人がはいったとあります。その後も帰化人の渡来はずっとつづきます。そのことに関する歴史学者のくわしい考証もなされており、こういう帰化人の大量渡来も、大和朝廷の統一とただちにくびす[#「くびす」に傍点]を接しておこっています。もし朝鮮とまったく関係なしに大和朝廷が成り立ったものであるとすれば、これをどう解釈すればよいでしょう。それまでの関係が浅いものであったならば、これほど密な関係において人口の流入はおこりえないのではないか、という疑問も出てきます。  ところで、ここに五つほど疑問をあげましたけれど、このような諸点をもし日本の歴史という枠のなかだけで個々ばらばらに解釈するならば、それぞれには、なんとか解釈のつく可能性があるかもしれません。しかし、いまあげたような疑問を、全体としてアジアの当時の歴史のコンテキストのなかにおいて考察すると、これを倭人だけのなかで、大陸と隔離しておこった現象として解釈しうる可能性の範囲は、非常に限定されてくるのではないかと考えられます。  つまり、江上氏の騎馬民族説というのは、日本史の枠内でこの疑問を説こうとするのではなく、当時のアジア史、ないしは世界史の全体の脈絡のなかで、日本国家の起源を考察しようとする立場です。  こういう考え方に立てば、いまあげた五つの疑問、それから考古学でいう前期古墳から中期古墳への大きな質的転換という事実も、すべて明快に解釈できるのではないかという意味の仮説だと思います。  騎馬民族説の有効性[#「騎馬民族説の有効性」はゴシック体]  喜田貞吉博士は大正年間に『日鮮両民族同源論』という著書を刊行されました。江上氏はこの喜田氏の考え方をふまえて騎馬民族説をたてた、と自分でも述べておられます。一言でその結論を要約すれば、大和朝廷による日本国家の建国は、朝鮮における扶余、高句麗につづき、百済、新羅など三国の建国と、時間的にも地理的にも連続した関係があると、東洋史のコンテキストのなかでは考えざるをえないということです。またその建国の形式も、非常に近似している。そしてその政権の主体を構成したものは、中国大陸の動揺期に朝鮮半島を南下して移動してきた、東北アジア系統の騎馬民族の一つではなかったか。弥生時代以来、倭人と韓人とは一応識別され、言語その他はわかれていたが、その後の韓人と倭人のあいだよりも接近していて、おそらく対馬海峡をはさんだ一つの文化圏が構成されていたのではないか、という考え方です。私はそういう予想をいだいています。つまり、騎馬民族が南朝鮮から西日本にまたがる倭韓連合国というような一つの勢力の主権者であったと考えられると思うのです。日本よりはむしろ南朝鮮を基盤として、倭人と韓人を支配する勢力ができたのではなかろうかと考えられるのです。その勢力が朝鮮半島における他の国家の成立発展によって、半島からしめ出され、最後には日本列島だけを支配するという過程になります。そのあいだに、強大な政治勢力が存在していない日本列島の倭人の地域へとその勢力の中心を移していったのでありましょう。そして四世紀から五世紀ぐらいのあいだに、大和に大きな政治的中心ができるのですが、まだ当時は朝鮮半島にまたがる主権を確保していたのではないでしょうか。  それがやがて後の史書においても完全に無視され、朝鮮半島から後退したのは天智天皇の時代以後ということになっています。それ以後には、さらに日本の建国に関する観念もまた大きくかわってきました。そして奈良朝時代になると、こんどは朝廷は、日本国土は悠久のむかしに創設された伝統的な王朝であるということを主張する政治的な意図をもつようになりました。八世紀のはじめに編纂された『古事記』、『日本書紀』の体系は、日本国土における伝統的な王朝であることを正当化するための、政治的意図をもったものであるといえます。その点で江上氏の考え方は、津田左右吉博士の解釈と近くなってきますが、その前の神話の解釈になると、津田博士の説とは非常にちがい、むしろ喜田貞吉博士の指摘した点を大いに活用しているようです。  この騎馬民族説と俗にいわれる仮説によれば、私がいまあげた五つの点の疑問、それから考古学上の古墳時代の前期と中期のあいだにみられる文化の断層ということが、かなり明快に説明できます。つまり、むかしは主として朝鮮半島を支配していた倭王が、その支配の重点を日本列島へ移したのちも、なお中国にむかって、自分の南鮮における主権の正統性を、強いことばで主張することの意味が理解できます。朝鮮半島との神代以来の交通、接触、あるいは応神朝以後の帰化人の大量渡来ということも、これを征服王朝的な大和朝廷の建国の過程とあわせて考えれば、非常に解釈しやすいというのが江上氏の主張です。  たとえば、モンゴールの元の大帝国が北京に都した後に、紫髯緑眼の人と唐以来よばれている、トルコ系とかイラン系の目の色のかわった、いわゆる西域の色目人がぞくぞくと元の朝廷に招かれ、新しい技術を西方からもたらし、中国に帰化してしまうのと同じわけです。かれらの子孫は、中国語をはなす回教徒としていまなおのこっています。つまり、同族同類の後続部隊のごときものであろうと解釈されるわけです。  したがって、この江上説をくつがえすためには、江上氏が論拠とされた五つの点、考古学上の断層を加えれば六つの点を、完全に反駁しなければなりません。相互に相関連した疑問点、その問題の一つや二つを、そうでないかもしれないというような言い方で反駁したのでは、反駁にはならないのです。私は、あらゆる学問の分野を総合した、ひろい歴史観に基いた騎馬民族説に対する批判が出なければならないと思います。  ところが、これまでの騎馬民族説の否定者から、この種の総合的な反論をきくことができないのは、非常に遺憾なことです。しかし、最近公平な歴史家のあいだでは、この騎馬民族説の論拠を、いろいろちがった形で、肯定さるべき点は肯定すべきであるという態度も出てきています。たとえば井上光貞氏の『神話より歴史へ』(『日本の歴史1』中央公論社刊)とか『日本古代国家の研究』(岩波書店)などにおいても、まっこうから騎馬民族説を否定するような態度はとられていません。細かな厳密な文献考証を重ねてみますと、応神朝というような確実に実在したと考えられる王朝は、九州から大和へ移ってきた、強大な征服王朝的な性格のものではないかと考えられます。大野晋氏の『日本国家の起源』(岩波新書)にも、このような考え方がみられます。  再び国家統一と民族形成について[#「再び国家統一と民族形成について」はゴシック体]  ここで最後に注意しておきたいことがあります。大和朝廷によって国家の統一ができたことは、疑うべくもない事実です。最初は西日本にその勢力が確立し、やがて九州から東北にいたるまでの日本列島が、一つの統一国家として結ばれるようになりました。この事実は、日本語であるとか、あるいは日本文化を統一していく一つの枠組のようなものをそこに与え、日本人に一つの同類共同意識による民族的結合をもたらしたにちがいありません。国家と民族とは別概念であるということも、はじめにはっきり申しあげました。しかし民族の形成に、国家という政治的な枠組が大きく作用する例は、世界史にしばしばあることです。しかし、どんなに強い国家の枠組をもっても、民族の統一が不可能のばあいがあります。日本は日韓併合のさい、朝鮮語まで禁じましたが、もちろん、そんなばかなことは成功しませんでした。このような例はどこにもあります。しかし、アメリカ合衆国のような国家的統一の枠組が、一つのアメリカ民族という新しい民族を、あのるつぼのなかから形成するという、こういうプロセスはおそらく現にわれわれの目の前で進行しているのではないでしょうか。とにかく大和朝廷による国家統一が、日本民族の形成と切りはなせない問題であることは、認めなくてはいけないと思います。  また、日本語がアルタイ語に近いと考えている学者が多いようですが、一応それを認めたとしても、奈良朝以後の日本語が、大和朝廷の成立のときにはじめて天皇家を中心とした新しい支配層によってもたらされたものとは考えられません。このことは前にも述べましたが、弥生時代以来の倭人の言語が、すでに今日の日本語であったということはたしかでしょう。それがアルタイ語系の言語であるとすれば、弥生時代人はアルタイ語系のことばを話していたと解釈すべきではないでしょうか。  そうすると、征服国家的な国家の成り立ちと、現在の日本語との関係はどのように考えられるでしょうか。おそらく、たとえ大和国家の建設者が外来の征服民族であったとしても、それは当時の東洋史のいたるところにみられるように、主として男子からなる、比較的少数の機動性に富んだ軍事的勢力にすぎません。そして政治的には倭人の国々を完全に把握し統治しても、言語ないし文化という面においては、ちょうど漢民族を征服した征服王朝の場合にしばしばみられるように、かえって被征服民族である倭人のなかに、言語的、文化的、あるいは人種的に同化吸収されてしまったと考えられます。こういうプロセスがあるからこそ、八世紀に編纂された記紀の体系は、征服王朝的な性格の記録をいたるところにとどめながら、しかも本来の日本国土の正統的な統治権を、天の神から与えられた使命であるとしているのでしょう。そして最初から日本国土のなかにそのような国ができて、それが応神朝の前後に朝鮮半島にむかって大きな征服活動をおこしたという順序で、日本の歴史が八世紀には体系づけられていったと一応解釈されるわけです。  とにかく騎馬民族説の当否のいかんにかかわらず、先に私が述べた日本文化の形成、日本文化の始源的な形態というものは、やはり弥生時代にこの国にひろがった稲作農耕を基盤として形成されたものであろうという、この考え方はかわりません。純粋の倭人の勢力のなかから大和朝廷がおこって、国土を統一したにしても、あるいは倭人とはやや異質的な——おそらく北方系統の、ことばもアルタイ語系ではあろうが——倭人のことばとはかなりちがった言語をもった軍事勢力であったとしても、けっきょくその勢力に統一された日本民族というものは、それ以前の弥生時代以来の、稲作農耕文化を基盤として生活してきた倭人の伝統、言語文化というものはそこに根ざしていて、政治的な征服とか統一とかによって、根本的にくつがえるということはありえなかった、という結論になります。江上氏もそのような考えだと思います。  外来文明の受容と文化の源泉[#「外来文明の受容と文化の源泉」はゴシック体]  よく、騎馬民族説が誤解されて、日本語そのものが、アルタイ語系統の騎馬民族によってもたらされ、征服王朝の言語がすなわち現在の日本語になったのだと解釈されたことがありましたが、それは公平にみてあたっていないのです。もちろん、江上氏自身は日本語の系統論についても、大野氏などとはまたちがった可能性のありうることを考えておられるようです。しかしいまいったアルタイ語的構造という問題は、やはり私のいったようなことになると思います。  そして、大和朝廷のもとに、仏教をはじめとして、中国の文物がさかんに輸入され、日本文化はこれらのアジア大陸の影響のもとに成長をとげていったということは周知の事実です。しかし、日本文化の源泉を、これら国家統一以後に大陸からはいってきた文明にもとめるという考え方を私はとりません。こういう考え方は、ゲルマン民族の文化の起源はキリスト教にあるとか、あるいは現在の西ヨーロッパ文明の源泉をギリシャ・ローマの文明に求めるといった解釈と共通していますが、その説明の仕方は必ずしも妥当ではありません。  なるほど、キリスト教とか、ギリシャ・ローマの文明が、現在の西ヨーロッパの文明と切ってもきれぬ関係にあることは、現在の日本文化が、仏教、あるいは中国大陸の漢民族の高い文明ときりはなすことができないのと同じ関係にあると思います。  しかし、そういった外来文明を受容する以前に、日本独自の文化がなかったかというと、けっしてそんなことはありません。また、ギリシャ・ローマの文明が紀元後になって北ヨーロッパに伝わる以前に、すでにゲルマン民族は、古くインド・ヨーロッパ語族の系統の独自の文化をもっていました。北ヨーロッパ人が今日も保持しつづけてきた一つの民族性、あるいはドイツ人がGerm穎ent枸 などというものは、キリスト教以前、あるいはギリシャ・ローマ文明のはいる以前に、そこに一応主体としてすでに確立しています。その伝統が、やはり文化の基盤として今日に生きているのです。こう解釈するのが正しいと私は思っています。  日本民族のばあいにも、仏教とか大陸文明が流入して、はじめて日本の民族文化が形成されたとは考えられません。それらの文明は日本民族の文化を育てあげ、これを教育してくれた教育者です。その意味において、日本文化論から大陸文明を除くことはもちろんできませんが、そういった外来文化に教育される以前の日本人が、一つの民族としての個性をもってすでに存在していたのです。日本人ないし日本民族の核心となって、民族が民族として存続するかぎり、容易にかわりえない民族の個性が形成されたのは、大陸文明を輸入する以前、あるいは国家統一以前の弥生時代の稲作農耕民の生活のなかから生まれたものであろうと私は考えています。  この関係を、つとに本居宣長などは、「からごころのさかしら」ということばに対する、「やまとごころ」ということばで、醇乎として純なる日本民族の固有の生活というか、民族的な個性といったものの存在を主張しています。そして、宣長はその伝統を『古事記』の世界のなかに求め、その姿を発見しようとしているわけですが、もう少しこれを厳密なことばにいいかえて、今日の学術用語でいえば、弥生時代以来の稲作農民の社会の伝統が『古事記』の世界のなかにもさまざまな形でのこっていると私は考えるわけです。要するに大陸の高文化を受容する以前の日本民族の文化の基本的な性格が、そこに横たわっていたのではないかと考えます。  それから今日、日本人の民族性、国民性を論議するばあいに、国民性の原型といったものを、まず農民のパーソナリティーのなかに求めるという考え方が一般的です。これもいま述べた根拠からいえば、十分理由のあることでしょう。こういう見方から、次には日本文化の特質、日本人の民族性という現在にまたがる問題を、以下の二章で論じてみたいと思っています。  こういう民族の形成、文化の形成の源流にさかのぼって、このような形成の過程をもった日本人を、他の大陸民族、あるいは遠くヨーロッパ文明の諸民族と比較してみると、日本人の特徴がみいだされるのではないでしょうか。その現在みられる日本人の特徴は、民族の幼年期につちかわれた、個性的なある特性と、当然歴史的に連関していはしないだろうか、というのが私の一つの仮説なのです。  この仮説は、とうていここで学問的に証明できるとは考えていませんが、それを証明したいという夢を、私は前途にもっているのです。 [#改ページ]   第五章 日本文化の特質 [#改ページ]  文化の地理的境界線[#「文化の地理的境界線」はゴシック体]  これまでは、主に民族文化の起源を論じてきました。われわれ日本人の民族性、ないし日本文化の特質とかパターンは、日本人そのもの、日本民族そのものの形成と、当然関係があるだろうというのが私の仮説です。そして、日本民族の特質の真の中核になるものが、いついかにして形成されたか、という問題を考えてみました。それを日本民族の形成と重なる問題として、学問的に証明してみたいというのが私の念願でもあります。遺憾ながら、ここではあらゆる疑問を解決するというわけにはいきません。したがって私がこれから述べることも、問題の提出にとどまる点が多々あると思います。のこされた問題は、今後、多くの方々の研究によって究明されることと思います。  ここで使う日本文化ということば[#「ことば」に傍点]は、説明するまでもなく、私が最初に定義した意味の日本人の現在もっている文化です。したがって、日本以外の民族の文化とのあいだに一線を画して、その特質を考えようとするわけです。そこでまずはじめに、日本文化と西洋文明との比較の問題にはいる前に、その地理的な境界線について、いくつかの考え方がありうるということについて説明しておきたいと思います。  日本民族と他民族の、地理的な第一の境界線として大きな問題になるのは、玄界灘、対馬海峡の線ではないでしょうか。もちろん沖縄も考えようによってはひとつの独自の文化圏でありますが、われわれの意識のなかには、沖縄民族が日本人とちがった民族であるという意識はありません。むしろ言語的、文化的に本来の意味の日本民族として意識しています。したがって沖縄は、この日本列島、いまここでいう日本文化の圏内にはいります。ただしこの対馬海峡の線はひとつの問題になります。  それから、西洋の立場からみた、西洋と東洋という古来の分け方が第二の問題になります。ヨーロッパ人は、地中海、ボスポラス海峡という線から東の地域を、東洋という観念で意識しています。これは世界史的な文化圏の分け方において、当然ひとつの問題になります。ただ、いまの日本文化論の立場からいうと、西洋からみた東洋なるものは、けっして一様なものではありません。ことに西洋からみて近東といわれる西南アジア地域の文化と、東アジアのモンスーン地帯の稲作農耕民である日本人の文化とは、非常に異なります。これは最初に、アラビアのベドウィン族のなかでの経験の記事を紹介したことでもおわかりだと思います。日本人からみると、むしろこの近東の諸民族、いまのイスラム圏の諸民族は、ヨーロッパ人と一括して対置できるような文化の性格として考えられます。したがって、ヨーロッパから東をみた境界線とはべつに、日本から西をみた境界線として、どのへんからわれわれは西洋を意識するかというならば、多くの日本人の実感としては、ビルマとインドの境がひとつの大きな境界線になるようです。第一は対馬海峡の線、第二はボスポラス海峡と地中海の線、第三はビルマ、インドをよこぎる南北の線、この三つの境界線上に見いだす問題点が、すくなくとも私には非常に多くのヒントを与えてくれるのです。  対馬海峡の線[#「対馬海峡の線」はゴシック体]  第一の対馬海峡の線のことですが、私の昨秋の韓国滞在中に、自分の実感や見聞にそくして、まず旅行者の視覚にふれた、あるいは聴覚にふれた印象というものを二、三あげてみたいと思います。私はある日、ソウルから日本海岸に近い、釜山の北にある慶州という、むかしの新羅の都を訪ねました。この付近には朝鮮では非常に古い遺跡がたくさんあり、この街の東方に、仏国寺という寺があります。新羅時代からの寺で、むかしは九つの階層のある塔が立っていましたが、上の六つがこわれ、いまは三重の塔になっています。その塔の四角い基壇の四隅に、それぞれ四方を睥睨している唐獅子ににた石像があります。それは王城鎮護のためのものらしく、それぞれ形はちがっていますが、ひとつは日本の方をむいてぐっとにらんでいます。なかの一頭の上半身は、よく日本海を南へ下ってくるオットセイの形の彫刻でした。日本人も北の海からやってくるオットセイを当然知っていたはずですが、日本の彫刻にオットセイのような海獣の姿をみた記憶が私にはありません。やはりこれは異質な文化だという感じをうけました。またソウルの街の北にある昌徳宮のような、むかしの李王朝の王宮建築や彫刻の類を、美しい公園のなかを歩きながらみていると、象の彫刻などに出あいます。日本でも、象という獣は、南蛮人によって徳川時代に長崎に連れてこられたことがあり、将軍吉宗の時代に長崎から、江戸まで歩かせてきて、大評判になった記録があります。  ソウルその他の博物館をみて歩くと、日本の古墳時代にあたるころからの土器のなかに、平壺とかいた特殊な形態をしたものがあります。小さい水口があって、ちょうど湯たんぽをやや平べったくしたような胴のふくらんだ土器です。その形はほかにもいろいろありますが、それらは日本のむかしの土器にもまた現在のものにもあまりみられないような形をしています。今日の済州島の島民の生活のなかにも、やや形を変えてはいますが、その系統の土器がクドクという名で呼ばれて使われています。ところが、この土器の形態、およびクドクということばそのものが、実は大陸の遊牧民族のなかにあるのです。前に述べたアルタイ語系の牧畜民は、本来、土器をつくらず、土器の代りに羊や牛の皮を丸ごとはいで、酒や乳を入れる容器をつくります。一カ所だけ水を注ぐ口をつくって、あとはぴったりぬい合わすのです。したがって、獣の身体のような格好をした大きな皮袋になります。むかしからこういう種類の皮袋は中国の北辺、中央アジアの西方で用いられてきました。聖書にも「新しき酒は新しき皮袋に」とあります。そのようなものが遊牧民の系統の容器で、アルタイ語系の諸民族はそれを、フドクとかクドクという系統のことばでよんでいます。そのような系統の形をもつ土器をさすフクトクということばが中国の書物に出ており、この発音が今日の済州島でフドクとよばれているものとおなじ系統のものであろうということは容易に考えられます。またその考証もなされています。これが朝鮮半島では、新羅の時代から現代につらなって、生活のなかにかなり深くはいっていたと思われます。  日本ではその系統の容器が用いられなかったかというと、そうではありません。古墳の、須恵器の時代にやはりその系統のものがいくつかつくられており、和名抄でホドキということばでよばれています。このホドキということばも、やはりアルタイ語系からきたものですし、その土器の形も朝鮮のヘンコ、中国の古書にあるフクトク、フトクの系統のものであろうということは、すでに学者によって考証されているところです。しかし、われわれの古墳時代以後の生活には、この形態の土器ははいっていません。その普及はやはり対馬海峡の線で、一応きれたような印象をうけるのです。  また韓国の博物館には牛の角のような形をした容器、土器が非常にたくさんあります。これも日本においてはあまりみかけません。多少はつくられたかもしれませんが、非常に少なく、一般的ではありません。ところが朝鮮では、それが古代から生活における容器として長く用いられてきたようです。また、朝鮮では西洋式の角盃も用いられていたようです。ソウルの街角でも、一輪ざし風に角を細工して売っている風景をしばしば見かけました。これも日本ではあまり普及していません。角盃ははるか古代にさかのぼって、ユーラシア大陸をまたいでヨーロッパの方まで広く用いられています。コウニュウ・コピアということばをきかれたことがあると思います。これは、神が角盃のなかに大地の実りをいれて、これを手に捧げていることを意味します。このような神像が、西洋では非常に多くみられます。有名なものでは、南フランスのロセルという遺跡から出土した、学者が旧石器時代のヴィーナス像と呼ぶ太った裸婦が右手に牛の角を持った浮ぼりの彫刻があります。角はよほどむかしから、魔術的・運命的な観念とむすびついていたものと考えられます。このような角にまつわる文化も、日本にははいらなかったようです。  「鍵」の文化圏[#「「鍵」の文化圏」はゴシック体]  それから私は、「鍵」という問題を考えています。西洋の生活をみていると、ホテルでもどこでも、鍵というものが絶対の条件になっています。ヨーロッパを旅して中世の古い家、博物館、あるいは古代の建造物ののこっているものをみると、実に厳重な鍵によって各部屋がしきられる仕組みになっています。鍵の発達には、実に驚くべきものがあります。この鍵でしきるという文化が、私は西洋の文明を非常に特徴づけていると思います。ことにヨーロッパにおいて、一家の主婦の権利をシンボライズするものは、実にこの鍵なのです。ヨーロッパの田舎の結婚式には、その地方のきれいな服装をした花嫁が腰のまわりに鍵を下げるという風習があります。また鍵を返すということは、主婦権を放棄することを意味しました。ローマの十二銅板法にも、離婚するばあいには夫に鍵を渡すという条文があります。夫が亡くなったとき、屍体の上に鍵をおくことは、その妻が相続権を放棄したことを意味し、それは、借金を払う義務も放棄することになるのだそうです。要するに、鍵は主婦権の象徴としてヨーロッパではひろく知られてきました。  ところが、中国の生活においても、やはりこの鍵の文化が広くみられます。中国でも主婦のことを鍵をもつ人、タイヤオシーデ(帯鑰匙的)といいます。鍵の実物そのものが残っているのはもっとのちのようですが、鍵を用いた文字、記録は、周、漢の文献にもみえており、やはり中国もこの鍵の文化という圏内に分類してよいでしょう。こういうふうにみてきますと、鍵が朝鮮の農民の生活のなかにどこまで浸透しているかまだ調査してはいませんが、だいたいの見聞によりますと、日本よりはおそらく中国文化圏として、朝鮮半島あたりまでが、いわば鍵文化圏内にはいりそうに思われます。  それでは、日本の生活においてはどうでしょうか。もちろん正倉院御物などに調度品としての鍵はあります。これは中国からはいったものです。また、日本の城その他で鍵の使用がみとめられるところがあります。それでは一般の市民、とくに農村生活においてはどうでしょう。いちいち家や部屋に鍵をかけるという観念は、私の乏しい知識では日本の農村においては非常に少ないようです。ヨーロッパのように発達した鉄の鍵は、日常生活ではそれほど使用されていません。ことに部屋と部屋の仕切りがふすまと障子の生活においては、鍵というものは用いられません。このような特徴の差異がみられるのです。日本でも主婦権の象徴として、ヨーロッパと同じように鍵をわたすといったことばが使われる地方があるということを、文献で見たことがあります。しかし日本ではほとんど全国にわたって、杓子がヨーロッパの鍵に対応する形で、主婦権の象徴になっています。佐渡の民謡に「添うて六年、子のある仲だ。嫁に杓子をゆずらんせ」という歌もあります。  また、飛騨においては、一家の主婦権を嫁にゆずる場合、主婦である�かかさ�が、もう年とってそろそろ余生を気楽に送ろうと決心したときには、その年の除夜の晩に、家族一同がそろって年とりの膳についたときをみはからい、嫁にむかって「あねえ、みんなのご飯もらっしゃい」といいます。これが杓子渡しで、�かかさ�が�嫁さ�に主婦権を譲渡する宣言なのです。日本ではこのような風習が、ヨーロッパの鍵とちょうど対照的に行なわれています。こういう鍵の文化圏と、ふすまや障子に象徴される文化圏との境目を、対馬海峡の線に考えてはどうかということを私は感じたのです。  キリスト教、儒教の浸透度[#「キリスト教、儒教の浸透度」はゴシック体]  そのほか汽車で韓国の田舎をすぎていくと、どんな小さな村や町にも実に立派な、十字架のそびえた教会の建築がみられるということです。日本の田舎の町や村では、とてもこれだけの教会をみることはできません。キリスト教は、朝鮮半島までは非常に浸透しているように思えます。これは、植民地民族として日本の圧政のもとにあった民族のなぐさめを、こういう世界宗教にもとめたという事情があったのかもしれません。あるいはもっと根源的な文化の性格として、文化の特性のなかに、日本よりも、キリスト教のような宗教を受け入れやすい条件なり基盤なりがあるのではないかということも感じました。それから儒教も、やはり朝鮮では日本よりも深く民間の生活のなかにはいっています。朝鮮には日本とはちがった儒教的な感覚が存在しています。たとえば、田舎へ行くと、親孝行といったことが非常にやかましくいわれているようです。私が個人的に接触した人との雑談から受けた印象でも、朝鮮には深く儒教文化が浸透しているようにみえました。  日本でも儒教は、四書五経の教育を通じて、少数の武士の生活のなかにはいっていました。しかし、一般の町人、とくに農民のなかには儒教的な倫理とか世界観の影響はほとんどみられません。  最近、岩波書店から大航海時代叢書の一環として、スペイン人、ポルトガル人などの当時の東洋に関する記録が、非常に厳密な註をつけて、刊行されはじめています。そういった有名なヨーロッパ人のみた当時の日本の記録というものは、われわれが日本文化史を理解する上で非常に貴重なものになります。私も比較文化論のためにそれらを利用しています。とくに、儒教的な教養を身につけた当時の朝鮮の知識階級に属する人が日本にやってきて、日本の生活について書いたものは彼我の文化を対比するうえで実におもしろく、また重要な資料でもあります。日本の町での銭湯のありさまを、「男も女も銭湯のなかでお互いに談笑して羞恥するところなし、真に禽獣なり」と描写しています。当時の日本人が禽獣かどうかはべつとして、とにかく儒教的な文化が、対馬海峡をこえて日本の民間の生活にははいっていなかったということが十分証明されています。その後の朝鮮、中国、あるいはアジア大陸の諸国の人たちも、日本へ留学して、日本の風俗習慣のなかでなじめないものがいくつかあったと思います。  対馬海峡の線を渡って日本の北まで浸透し、大陸ではすでになくなったものが日本にのこっているというような例がたくさんあると同時に、朝鮮半島の南端まできて、対馬海峡を一歩こえて日本にはいらなかったものが歴史的にも数多くあります。これは非常におもしろい問題だと思います。  日本にはいらなかった宦官制度[#「日本にはいらなかった宦官制度」はゴシック体]  もうひとつ、中国の王室で用いられた宦官制度の問題があります。歴史家は、宦官が中国の政治にどのような役割を演じて、どんな害毒を流したか、ある国の滅びるときに、宦官のわざわいがどうであったかなどということだけに興味を示して記録しますが、私ども文化史とか人類学の関心をもってみると、宦官という制度がいったい旧大陸にどんな分布を示していたか、なぜ対馬海峡を越えて日本にはいらなかったのかということに大きな興味を抱きます。このことについてはアルフレッド・クローバーなどの人類学者が、古代エキュメネに関する論文のなかで他の問題と関連させて書いております。ただ私は、アジアの牧畜民族は動物の雄を去勢するという知識を牧畜技術として有しており、それと中国の宦官制度は関係があるのではないかと考えています。また紀元前、まだイスラム以前のペルシャ王宮が宦官を用いていたことを、ギリシャのヘロドトスが書いております。ギリシャの商人が宦官を提供していたというのです。古代オリエントのエジプトでもメソポタミアでも、王宮では宦官制度を採用していました。中国では、文献によりますと、春秋から戦国、秦、漢、と各時代に宦官の記録があります。学者によれば、すでに殷墟の甲骨文字のなかに、宦官の存在を象徴したような象形文字がみられるといいます。確証をうることはむつかしいでしょうが、可能性は十分ありうると思います。  とにかく、非常に古い時代にユーラシア大陸の古代文明圏に、宦官制度はひろがったようであります。キリスト教の時代にも、東ローマ帝国のビザンチン帝国の王宮に多数の宦官がやしなわれていました。さらに、イスラムの時代になると、東はインドのムガール帝国から二十世紀のオスマントルコにいたるまで、イスラム諸国の王宮はそれこそ何千という宦官をかかえていたという歴史があります。また、西ヨーロッパには、王室にこそ宦官制度はありませんでしたが、宮廷の合唱隊に宦官的な男子がいました。これは十九世紀になって、法皇庁が廃止するまで、西ヨーロッパにつづいていました。  中国では、二十世紀のはじめまで北京の朝廷には宦官がおり、朝鮮では李朝の宮殿に、やはり宦官がさかんに用いられました。現在でも、李王朝の最後の宦官で生きのこっている人がいます。それから、ソウルの近くに、王宮に宦官を提供した特定の村があるそうです。こうして、ユーラシア大陸をまたいで西ヨーロッパまでひろがった宦官制度は、朝鮮半島にはありましたが、ついに対馬海峡をこえて日本にはいることはありませんでした。これも文化史的にはたいへんおもしろい現象ではないかと思います。これをどう説明するかはべつとして、とにかくこの対馬海峡の線というものが、日本の文化を日本以外の民族と対比する、一つのめやすと考えうるのではないでしょうか。  東洋と西洋という区分は可能か[#「東洋と西洋という区分は可能か」はゴシック体]  つぎに、ヨーロッパ人の観念としての東洋と西洋の境界線であるボスポラス海峡と地中海をむすぶ線が問題となります。イスラムの世界とキリスト教世界との対立の時代にはいってから、ここに大きな一線が画されたということは文化史的にも十分理解できます。十字軍の遠征時代のヨーロッパ人にとって、オリエントとは、アラビアンナイトに出てくるようなイスラム的世界、それから、神秘なヴェールにつつまれたインドなどでした。それが、元の時代、マルコ・ポーロの時代になり、東西交通が発達するにつれ、中国、日本までがすべて東洋ということになってきます。しかし日本人のわれわれからみると、アジアを一括してオリエントなどということはとうていできません。アジアの文明の多様性にくらべれば、西洋ないしヨーロッパの文明は、たしかにひとつの単位にまとめて考えられるでしょう。  フィノウゴール系言語といった、印欧語とは系統のちがった言語が、孤島のようにフィンランドやハンガリーにありますが、大部分のヨーロッパ諸国は、印欧語族によって征服されたひとつの文化圏であって、たどりえないほどの古いむかしに、多くの民族にわかれたわけではありません。東はイランからインドに、西は地中海からヨーロッパにかけての地域が印欧語族に支配されるようになった歴史は、そう古いものではありません。印欧語族共通の古い文化の層を、ヨーロッパ諸国は共有しています。そこへ、ヘブライズムの流れとしてのキリスト教がはいり、ローマ帝国を介したギリシャの古典文明が伝わり、近代ヨーロッパ文明の原型をつくりました。このように、ヨーロッパの文化構成はアジアのそれにくらべ、はるかに均質であり、西欧ということばで概括しうる十分な理由があります。このような意味において、東洋ということばでアジアを概括することは不可能です。日本・中国・インド、この三つの国を比較してみただけでも、アジアがいかに異質な文化要素の集合であるかが、はっきりします。第一にことばの系統が、それぞれの国によって、まったくちがいます。かりに日本をアルタイ語系としますと、中国語はアルタイ語系の言語とはまるでちがった言語構造をもっています。インドはインド・ヨーロッパ系の言語が支配し、地方には無数の古い土語がのこっています。また、宗教にしてもけっして一様ではありません。たとえば、こんな笑い話があります。日本のある理科系の大学の先生が、インドからきた留学生の口述試験に立ちあって、 「あなたはお寺にはよく行きますか。」 と質問したのだそうです。インドの留学生は何のことやらわからず、きょとんと鼻をつままれたような顔をしたというのです。インドは仏教国ではありません。インドでオシャカ様が生まれたから、インド人は仏教徒だと思っているのは日本人くらいのものです。アジアで仏教徒が多いのは日本、中国、東南アジアといった地域です。それでは、中国が仏教国だから、日本と同じような文化をもっているかというと、これも大いにちがいます。中国の仏教と日本の仏教とでは、その伝来後の質も、民間への浸透の工合も非常にちがったものであります。中国の農民の精神生活を大きく支配しているのは、むしろ道教に代表されるような、あるいは道教がそこから生まれたような信仰の基盤です。さらに、三国の民族形成の過程をくらべてみても、それぞれその歴史的条件は異なります。中国やインドの文明が、朝鮮や日本へ伝えられたことは疑う余地がありません。だからといって、アジアはひとつであるとはいえません。ひとつの文化圏として、東洋を考えることは無意味です。  私は西洋という概念は成り立つと思いますが、同じような意味における東洋、つまり地中海、黒海という線をひいてユーラシア大陸を地理的に二分しての東洋という概念は、学問的にはほとんど無意味であると思います。それでは、われわれが東からみて、いったいどこに西を意識するでしょうか。これは前にも書きましたが、日本から旅をして、東南アジアまでは、生活様式も水田の稲作農耕のうえにきずかれ、人種的にもモンゴロイド的な特徴が支配的であり、われわれとなにか同質なものを肌に感じさせます。しかし、ビルマの国境をこえてインド、パキスタンへはいると、異国へきたという異質なものを感じさせます。こういうことを、私の同学の中根千枝氏なども、『ジャパン・クォータリー』に書いておりました。また、社会学を専攻したスエーデンのインド大使であるミュルダル女史も、インドからビルマ、タイと旅行して日本へやってきたとき、インドから国境を越えてビルマにはいったとたんに、そこに東洋を感じたという経験を述べています。これは前にもいったいろいろな文化要素や文化の系統論で、容易に証明のつく問題でしょうが、東洋人および西洋人のこうした共通の実感は、この境界線が、ひとつの大きな問題点であることを、証明していると考えてよいでしょう。  比較文化論からのアプローチ[#「比較文化論からのアプローチ」はゴシック体]  これまでわが国では、日本文化論とか、日本文化の特質について書かれたものは、非常にたくさんあり、ことに最近の論壇では、いわゆる文明批評家がさかんに日本文化について語っています。ところがヨーロッパ人は、自分の民族について、たとえばフランス人がフランス文化について、イギリス人がイギリス文化について意識して論じることは、日本にくらべはるかに少ないようです。日本では、明治以降、日本文化についてさかんに論じられています。これもやはり、日本のおかれた歴史的な特殊事情のせいでありましょうか。たとえば、明治四十年に冨山房からでた文学博士芳賀矢一著の『国民性十論』という本の目録をみますと、次のような項目が列挙されています。  一、忠君愛国。  二、祖先を尊び家名を重んず。  三、現世的、実際的。  四、草木を愛し、自然をよろこぶ。  五、楽天洒落。  六、淡泊瀟洒。  七、繊麗繊巧。  八、清浄潔白。  九、礼節作法。  十、温和寛恕。  以上が日本の国民性の特徴として並べられています。まことにいいことずくめです。日本人は、実に立派な民族だというわけなのでしょう。芳賀氏はこのひとつひとつについて材料をたくさんあげて論じています。もちろんこれらがまちがっているとは、私は考えてはいませんが、ただ日本人、日本文化の特質を、一、二、三、四と、これまでの多くの書物のように並列したところで、どうも学問的に満足できません。  私はこれからの東西文明の対立が激化する国際環境のなかにおいて、日本的とか日本人の民族性とかいわれるものがどう変化するか、あるいはその変化は肯定すべきなのか否定すべきなのかといった問題意識で、日本文化を考えたいと思っています。芳賀矢一先生もすでに明治の時代に述べています。日本は西洋文明が滔々としてはいって、いまや東西の文明はたがいに相影響しともに融和しつつある。なかんずくわが国において両者の混和がもっとも明白に実行せられつつある。わが国民性ははたしていつまでも保存されるであろうか。またいかように変化されるであろうか、またいかように変化さすべきであろうか、こういう問題の提起を行なっています。また、神さまに対しての敬礼を承知しない国民も出てきたし、財産の争いにおいて父母を訴える子どもも出てきた、いまの家庭にはまれには神棚をまつらないところもあり、夫が妻に対してさんをつけて呼ぶところもあると書いています。そして、「ああこの過渡の時代、仏が出るか鬼が出るか」と慨嘆しています。さらに、真に傀儡師の手箱のような感がある。およそ個人としても、その人の長所はただちに短所である。わが民族の美徳の底には、また必ずその欠点のひそんでいることも知らねばならない。世界の舞台に出た以上は、またそれだけの覚悟が必要である。変えるべきところは変えねばならぬ。守るべきところは守らねばならぬ。こういうふうな問題意識が全体を貫ぬいています。芳賀氏は、当時としてはすでにヨーロッパについての知識もあり、世界の大勢にも通暁した立派な学者であったと思います。私も結局は芳賀氏の『国民性十論』と共通した意識をもっているわけです。しかし、私は、比較文化論の立場からアプローチします。そして、日本民族の形成、日本文化の起源と今日の日本人のもっている文化的な特質とのつながりを、学問的に究明していきます。また、今後、日本文化は一体どうなっていくのかという問題も提起したく思っています。ただ私には、私の考えをうらづけるために必要な日本民俗学の知識、ないし材料が不足しています。もし民俗学者の方々が私と同じ問題意識をもって、日本の常民のなかに伝統的に見いだされる文化の性格とか、農民のパーソナリティーといった問題を掘り下げて究明してくだされば、そのもつ意味は大きいと思っております。私がとりあげたアプローチの方法もまた、民俗学のひとつひとつの目標として、当然とりあげられるべき課題ではないかと思っているからです。  ここで私は、いままでわれわれが感じ、また多くの人が指摘しているような日本文化の特質が、起源的、歴史的にどういう条件と関係があるかを考えたいと思います。それから一見べつの特質のように並列されうるもののあいだに、なんらかの構造的な連関があるかどうかということも、考えてみたいと思っています。たとえば、民俗学の調査をするとき、ひとつの村なら村、町なら町、あるいは日本全国を対象にしてもよいのですが、そこからいくつかの伝統的な要素をひきだし、記録します。そのとき、家族制度、神、信仰、伝説、昔話といったそれぞれの文化要素相互のあいだの連関性、構造関係を究明するという角度から日本民俗学を追求することが、ひとつの大きな課題になると思います。私がはじめに、日本民俗学の目的対象についての注文を述べたいといったのは、こういうことなのです。そこで、日本文化の特質、その西欧文明との比較において、問題を考えていこうとするさいに、こんどは文化史的であると同時に文化構造論的でもある、二つの手がかりを頭にえがいているので、それをお話してみたいと思います。  稲作文化圏という特質[#「稲作文化圏という特質」はゴシック体]  手がかりのひとつは、起源論以来たびたび述べたように、われわれの文化が、水田耕作を行なう稲作文化圏という特質をもっていることです。これは最初から最後までついてまわる、基本的な問題ではないかと思っています。だいたい水田耕作の行なわれる地帯は、いまではニューギニア近くまでひろがっていますが、インドネシア一帯、東南アジア、インド、中国南部、沖縄、日本、南朝鮮といった地域であります。歴史的には中国南部が中心です。以上のような、非常にあたたかく湿潤な空気が季節的に雨をふらす、いわゆるモンスーン地帯とよばれる特殊な地帯を中心として、稲作農耕がひろがったことは、歴史的に証明できます。もちろんそのモンスーン地帯からはみでて、若干の稲作が、中国北部にも東北部にも最近はいっています。技術がすすめば、風土的な条件はそれだけ克服できるからです。北海道でも水田をつくっていますが、本来の日本民族の水田耕作地帯はだいたいモンスーンの圏内にあります。これが日本文化の性格と無関係ということは、とうてい考えられません。このことは誰もがみとめるところです。  モンスーン地帯の住民が、共通にもっている特質として、稲作技術を基礎とした一連の生活技術、およびそれにともなう稲に関する農耕儀礼、あるいは生命現象として森羅万象を意識するといったアニミズム的な観念があげられます。また、モンスーン地帯の住民の感覚が、きわめて湿潤性にとむということもはっきりいえます。和辻哲郎氏の『風土』において、つとにこのことは指摘されています。そしてこれらの諸要素が、日本文化と深い関係にあるといっても、おそらくまちがいないでありましょう。  それから、私はよく農耕文化とか遊牧文化ということばを使いますが、農耕文化は、非常にひろく世界に分布しています。アフロ・ユーラシア大陸というこの大きな地域をとって考えてみると、小麦、大麦といった麦の栽培圏は、西はヨーロッパのほとんど、東は中国、朝鮮、中国東北部におよびます。この麦の栽培地域の広さにくらべ、水稲栽培の地域はモンスーン地帯に制約されてきます。ですから、おなじ農耕文化圏でも、麦文化圏と米文化圏と、大きく二つに区別できるかもしれません。  同時に、おなじ水稲栽培を生活の基盤とするモンスーン文化圏においても、前に述べた対馬海峡にひかれる線が問題になるわけです。このことは、日本国家成立以後の、中国やインド、あるいは朝鮮の高い文明の流入ということと、どのような関係にあるのでしょうか。弥生時代、古墳時代などの時代においては、対馬海峡をなかにはさんで、南朝鮮と西日本は、長いあいだほとんどひとつの文化圏として類別できるような性格を、われわれは考古学の上から考えます。しかし、その後の歴史においてはっきりこの対馬海峡の線で、朝鮮民族と日本民族とのあいだに大きな線がひかれるようになったということには、いまいったような歴史時代の条件と、歴史時代以前の条件、つまり縄文文化人というものの伝統が、大きく関係しているのではないでしょうか。これは言語の上からは当然考えられることですが、文化の生活の上からも考えられます。  したがって農耕文化圏というような非常に大づくりの、主としてユーラシア大陸の南縁に沿ってずっと発展した一連の農耕文化圏に、日本文化は属します。さらには、この農耕文化圏のなかのモンスーン地帯における、水田耕作を行なった一連の地域の民族文化に、日本文化は属します。このとき、インドとビルマとの線が問題になります。インドにも水稲耕作はかなり古くからはいっているかもしれませんが、とにかくこの辺に問題の線はひけると考えられます。第三に、日本文化の特質として限定されるものは、やはり対馬海峡の線で区別される、日本民族の住んでいる地域の文化ということになるだろうと思います。これらの面から、つまり生活の基盤としての日本農業、およびその農民の生活と今日の文化の特質との関連を考えることが第一の手がかりになります。  日本文化の「封鎖的安定性」[#「日本文化の「封鎖的安定性」」はゴシック体]  第二の手がかりは、前に述べた、大和朝廷の成立にいたるまでは、大陸の高い文化が、すくなくともその文化をたずさえた人口とともに、西日本の方からこの日本列島に何回もはいってきました。弥生時代の稲作農耕文化、古墳中期における北方の騎馬民族の文化、これまたなんらかの人口の移動とともにはいってきているということが予想できます。このような外との接触が、どこまで騎馬民族説でいうような、大規模な征服活動であったかということはまだわかりません。しかし外の民族の移動、あるいは征服ということもじゅうぶん考えられます。ところが少なくとも奈良朝以後、千何百年かの歴史においては、大規模な外からの民族移動、あるいは外敵の侵入、それによる征服などの経験をへずに、この日本列島のなかで日本民族は、ますますひとつの同質的な文化を育てていきました。日本歴史がこのようなものであることは、だれも異存はないと思います。  こんどの大戦において、はじめて外国軍隊の占領という経験をしましたが、それ以前、少なくとも日本国家成立以後、そのような経験は一度も味わったことがなかったのです。これは日本という特殊な地理的条件に規定されて、たびたび朝鮮まで侵入してきた軍事力が、この対馬海峡の線で停頓しているということにほかなりません。日本海あたりへのちょっとした侵入は歴史にのこされていますが、日本の一画を占領してそれを持ちこたえたというような占領行為、あるいはまた征服行為もありませんでした。元寇というフビライ汗の侵入も、日本を占領することなしに、北九州へ上陸したくらいで、いわゆる神風に破れてひき返しています。こういう歴史は日本の文化に、桑原武夫氏のいう「封鎖的な安定性」をもった性格を与えています。この千年以上のあいだに日本の民族は、地域差はいろいろあったにしても、ひとつの国家的結合のなかで外国との接触というものを経験せずに、日本人同士だけの生活を営んできました。最近雑誌『日本』に増田義郎氏が「日本文化の純粋性」という論文をのせ、純粋性ということばで日本文化を規定しています。よく評論家が雑種文化などということばを使いますが、われわれも日本文化の構成は実に複雑多岐である、ヨーロッパ文明にせよなににせよ、容易に受け入れて、日本文化というものがさまざまな異質的な要素からできているという見方をします。またそのような見方にも根拠はありますが、それとは逆にそういう異質なものを受け入れながら、ヨーロッパ諸国とくらべると、日本人は驚くべき同質性を古代から維持している、外のものを受け入れてもケロリとしてすましていられるという意味で、ほかにはみられない珍しい例です。  ヨーロッパなどをみると、たびたびアジアからの大きな侵入にみまわれていますし、ヨーロッパ同士でも、ローマ帝国が全土を統一したと思えば、北方のケルト族があらわれたり、ゲルマン民族があらわれたりして、しばしばローマへ進攻したり、ヨーロッパへはいったインド・ユーロピアン系統の民族が、あちこちに国を建てたりします。また、その国と国のあいだ、民族と民族のあいだに、千年、二千年近い対立抗争の歴史がくりかえされています。征服とか占領とかは、もう日常茶飯のことで、ヨーロッパの諸民族は、外から文化を強制され、それに反発する、といったことのくりかえしでした。そのような西洋文明とくらべるならば、日本文化は侵略、征服という痛い目にあわずに、むしろぬくぬくと育った文化です。だから、戦国時代においても西洋文明がちょっとはいれば、珍しいもの、自分に役に立つものはなんでも、いま金があるから買っておけばいつか役に立つというような態度で、どんどん自分のものにして摂取していきます。さっき述べました、当時のスペイン人の宣教師の記録によっても、太閤秀吉の時代に、キリシタンでもない日本人までが、キリスト教の礼拝に用いるロザリオを装身具のように手に持ち、南蛮のビロードの洋服を着たり、十字架を飾ったりしていたことがわかります。つまりそれらを流行として受け入れ、十六世紀からこのような現象がみられるのです。現代の日本人がヨーロッパへいって「西洋でもクリスマスツリーを飾っている」といって感心したという笑い話がありますが、日本人の特徴は、戦国時代にはっきり、そのような形で出ているのです。むかしから、日本人は外の文化に対し敏感で、それをすぐ摂取していたわけです。そのエネルギーが、日本人のどこから発揮されるのかということについては、私にはまだ答える準備ができていません。  族内婚的伝統と民族の生命力[#「族内婚的伝統と民族の生命力」はゴシック体]  ただ、「封鎖的安定性」とか「純粋性」といった問題は、外来文化の急激な摂取にもかかわらず、日本文化の大きな特徴として考えなくてはならない問題だと思います。またそういう封鎖性、純粋性があるからこそ、なんの心配もなく、外来文化をどんどん摂取できるのだとも考えられます。  たとえば、人類学でエンドガミーということばがあります。ひとつの集団、村、あるいは血縁集団でもいいのですが、ある人間集団が内部同士で配偶者をえらぶという制度を族内婚とか内婚制とか日本ではいっていますが、それを英語でエンドガミーというのです。これを日本にあてはめますと、日本という国、日本人という集団自体が、おそろしくエンドガマスな民族なのです。民族としてエンドガマスであり、文化としてもエンドガマスに成長してきているのです。ただほんとうに血族結婚的なエンドガミーだけで終始すれば、民族の生命力、民族の活力というものはだんだん衰えていくのが一般的な傾向です。ところが、日本民族はそうではありません。文化の面はエンドガマスであり、民族としてもエンドガマスでありながら、外の新しい文物は急速に摂取するという、一見矛盾した不思議な特徴があります。そのために、民族の生命力の若さといったようなものが、保たれているのだと考えられます。  アメリカのボガーダスという人がつくった、ソーシァル・ディスタンス・スケールというアンケートの形式があります。十一ばかりの質問項目を並べて、ちがった人種、異なった民族とのあいだの心理的距離感を、統計的に処理する方法です。そのアンケートに、何民族、何人種は、家庭に招くか、友だちとしてつきあうか、いっしょに同じ部屋に泊っても平気であるか、という質問があります。その質問項目の最後に、「あなたの妹さんが特定の異民族、特定の異人種と結婚するというときに、反対しますか、しませんか」という一項があります。東大の文化人類学の大学院の学生が、修士論文のために、この形式をとりいれた調査方法で、日本人が世界の各民族に対してどう思っているかを、日本の現在の学生層を対象にして調査しました。その結果、いまの学生は、他民族といっしょに食事したり、交際することは平気で、どの民族に対しても近接感をもっていることがわかりました。ところが、ひとたび結婚という問題になると、ノーの答えが圧倒的に多くなります。日本の学生層の異民族、異人種との国際結婚に対するネガティブな数字をうわまわるものは、アメリカの白人がニグロと結婚するかとの問いに対する否定的な答え、この数字だけです。外国人と接触する機会が多くなり、国際感覚が発達したといわれる現代の日本の若い世代において、なおかつ異民族との結婚という問題には大変消極的なのであります。このような現象は日本民族全体が、族内婚的な伝統のなかにあることをあますところなく語っています。それにはさまざまな原因が考えられますが、日本が島国であり、大陸からはなれていたということがまずあげられます。大陸つづきの欧州諸国であれば、国を異にしても、王家と王家、王室と王室などはみなお互いに親類つづきのようになっていました。そのような国の数字とくらべると、アジア諸国に関する調査資料がでていないので、西洋文明諸国との比較だけになってしまいますが、日本人は異民族との国際結婚についてたいそう消極的です。それがはっきり若い世代の調査にでているわけです。これは西欧的文化圏とは対照的な特徴であるといってよいでしょう。  西欧的論理と日本文化の根底[#「西欧的論理と日本文化の根底」はゴシック体]  以上のことからも日本民族の一面として、首尾一貫した論理を追って問題を追求していくとか、徹底的なところまで問題を掘り下げ、つきつめることをしない、むしろ徹底的にすることをよしとしない傾向が日本人にはあるということがわかります。日本人は合理的でないとよくいわれますが、日本人の従来の感覚からいうと、合理的であることが価値が高いとはかぎらないのです。合理的とか非合理的とかいうことに価値づけを行なうようになったのは、明治以後に、西洋文明の基準がわれわれの生活のなかにはいってきてからのことです。本来の日本人の感覚は、むしろ非合理性とか、超合理性とかいうものに価値をおくような点があります。さらに、ものごとを区分する、類別するという西欧的な論理の前提を日本人は重視しません。善と悪、自と他、主体と客体、人間と自然、生と死、というようにものを類別化し、対立させることによって概念をくみたてるということをしない思考形式に、日本人は慣らされています。  したがって、桑原武夫氏がいうように、日本では論理学、修辞学が発達しませんでした。日本人は西欧流の論理学や修辞学を発達させる必要に迫られなかったのです。非常にエンドガマスな社会で、お互いに話せばわかるではなくて、話さなくてもわかるという日本的な感覚によって、コミュニケーションが行なわれてきたのです。日本の政治家は、いまでも腹芸とか以心伝心といった伝達方法をよしとします。要するに論理を追って相手を説得する、あるいは相手を感動させることばをつらねて、一般の国民に訴える修辞学とか雄弁術というようなものを、日本人は重んじないのです。むしろ、雄弁家というとなにか軽く、軽蔑するような感じをもちます。  大学にはいまでも弁論部があり、弁論大会が行なわれています。しかし、いわゆる政治家の雄弁はあまり重んじられないためか、いまの政治家の演説をきいても、われわれは聴覚的に少しも魅力を感じません。ところがヨーロッパでは、ギリシャ・ローマ時代から弁論ということは、一般の知識人の、とくに政治家には欠くべからざる資格とされています。政治家が広場において一般の市民を前に自分の主張を訴え、相手を説得するということが、デモクラシーの前提になっています。  そういうところからまた一面、デマゴーグの発生する機会も多いわけです。あのヒットラーのような独裁者でも、大衆に訴えるためには、ドイツの一流の舞台俳優を先生にして、発声学からすべて練習しました。ひとつの演説をするにしてもその文句から、抑揚にいたるまで練りに練ったといいます。それにくらべると日本では、議会政治は発達したとか、民主主義の時代になったとかいわれても、弁論はヨーロッパにくらべてはるかに劣っています。自由民権運動の時代とか大正デモクラシーの時代には、尾崎行雄氏のような西欧的な意味で雄弁家といわれる政治家が出ましたが、そのような伝統は、現代においてはほとんど失なわれているようです。いまの政治家から、魅力を感ずるような演説を聞いたことがありません。これらも、日本文化と関係のあることだと私は思います。  そこで前に述べた日本語の問題、日本語そのものが日本文化と密接な関係にあるということも、ここでエスノリンゲスティックスの領域において学問的に分析できると考えられます。たとえば、私はよく「何なになのだが」といいます。この「が」という、みなさんもよくお使いになる助詞が問題になるのです。日本語の構文では句と句のあいだ、文と文のあいだを「が」でつなぎます。この「が」を英語に訳すとき、but としたらおかしいし、and としてもそのほんとうの感じがでません。他のどの西欧語をとってみても、日本語の「が」という接続助詞の意味をそのまま伝えることはほとんど不可能です。  日本においては、独特であいまいな、論理学のなかにはいらないと思われるようなことばの使い方が、日常行なわれています。またその使い方で、日本の人間関係が保たれているともいえるでしょう。たとえば、日本人のご亭主が奥さんにむかってもし「きょうは映画にいこうか、芝居にしようか」というと、日本の女の人だったらほんとうは映画にいきたくても「自分は映画に行きたいんだけど」と、あとに余韻をのこし、相手に判断をゆだねるようないい方をします。ところが西洋人だったら、「自分は映画にゆきたい」あるいは「ゆきたくない」というように、イエスかノーをはっきりこたえるでしょう。西洋人からみて日本人が不思議なのは、イエスとノーがはっきりしないところです。日本人は心のなかで何を考えているのかわからないと西洋人はいいます。また、おかしくもないのにニヤニヤする、いわゆるジャパニーズスマイルが西洋人には不可解なのです。なぜおかしいのかと不思議な顔をしてたずねる西洋人もあるくらいです。このような、日本人と西洋人のあいだにある感覚のズレも、文化の構造の問題と大いに関連のあることです。これらはすべて学問的分析の対象になる問題です。ことに日本民俗学のような学問をする人間は、ただ農村の行事がどうだとか、山の神と田の神がどういう関係にあるかというようなことだけを調べて、こと足れりとするわけにはいきません。それらをふまえながら、いまいったような民族の文化の根底にあるもの、それを学問的にどうとらえ、構造的にどう分析するかといったことが、これからの学問的課題になるだろうと思います。  さて、次章では主として西と東、東といってもとくに日本に限定して、それと西欧ないし西欧文明圏というものとの対比に問題をしぼって、いまふれた問題をもう少し展開してみたいと思います。 [#改ページ]   第六章 日本と西洋 [#改ページ]  西洋観の変遷—明治維新と敗戦[#「西洋観の変遷—明治維新と敗戦」はゴシック体]  さて、いまさらいうまでもなく、明治維新につづく文明開化の時代は、われわれの父祖の世代にとって、ヨーロッパないし欧米、西洋というものが非常に大きな関心の対象でした。要するに、当時は、西洋列強に伍して、その文明においつくことが、日本民族のいわば死活の問題だったのです。当時、西洋はあらゆる意味において、日本からみれば先進国、文明国であり、それにくらべ日本は、はるかにおくれたアジアの後進国でした。またわれわれの父祖が自国は後進国であるという意識のもとに、急激に西洋文明をとり入れたこともあきらかでした。とくに技術面において、わずか一世紀のあいだに、西欧で五世紀かかって達成した技術革命に追いついたという事実は、日本民族として、当然そうせざるをえなかったということを物語っています。  明治初年の日本人にとって、ヨーロッパ文明が自分たちの模範とすべき文化であることは、まぎれもない事実でした。この伝統的な西洋追随意識は、大正、昭和にも根強くひきつがれ、ある意味では現代にまでつづいているといえます。  たとえば、ベルツ博士が明治九年に書いた手紙のなかに、「なんと不思議なことには現代の日本人は自分自身の過去についてはもうなにも知りたくはない、それどころか教養ある人たちはそれを恥じてさえいる」とあります。そして日本人のことばとして、「いや、なにもかもすっかり野蛮なものでした、と私に言明したものがあるかと思うと、またある人は私が日本の歴史について質問したとき、きっぱりと、われわれには歴史はありません、われわれの歴史はいまからやっと始まるのです、こう断言した」と記されています。こういう日本人の意識が、あれだけのスピードで明治の文明開化をうながし、日本における文化革命、生活革命を急速に達成した、ということになります。  ところが、第二次大戦の経験をへて、西洋文明との接触がさらに密になった最近の日本では、明治以来の西洋観と非常に対照的な西洋文明論が次々に現われるようになってきました。たとえば、ビルマ戦線で、イギリス軍のもとに捕虜生活を二年おくり、現在京都大学の西洋史の教授である会田雄次氏の西洋文明論も、その代表的なもののひとつです。会田氏は『アーロン収容所』(中央公論社刊)にはじまる一連の論文において、西洋ヒューマニズムの限界、生活と生存、ヨーロッパ文化と日本文化の歴史的基盤の考察といったような、西洋史家の立場からの傾聴すべき説を次々に発表しています。『アーロン収容所』を読んだ方はおわかりのように、会田氏はイギリスの捕虜としての自己の体験にもとづき、自分のハダで感じたイギリス人、ないしはイギリスを介した西洋文明というものに対して、従来の西洋文明一辺倒の日本人の感覚とは正反対の、その長所も弱点もともに見ぬいた考察をしています。会田氏は個人的な感情としては、非常に強い憎しみを、イギリス人に対して抱いています。会田氏は、もしこの地球上からイギリス人というものがなくなれば、どんなに住みよい世界がくるだろうという感じを、捕虜生活のあいだに受けたとさえ書いています。  ベルツにむかって話した日本人とはまるでちがった感じを、西洋文明に対してもつ日本人がでてきたわけです。また、ドイツ文学を専攻した評論家の竹山道雄氏は、西洋文明の基調をなしているキリスト教そのものに対して、鋭い分析をしています。竹山氏は、ヨーロッパはいったいどういう意味で、キリスト教国といえるのであろうかという疑問から出発して、ナチスのガス室に象徴されるような惨劇は、むしろキリスト教そのものと深い関連をもっていると考えています。さらに氏は、聖書などの詳細な分析にもとづき、西洋文明における�ユダヤ人に罪あり�という伝統的なアンチ・セミティズムを指摘しています。  「ドイツに戦中派はなかった」[#「「ドイツに戦中派はなかった」」はゴシック体]  それから最近では評論家の村上兵衛氏が、ヨーロッパを旅行したときの印象として、ヨーロッパ、とくにドイツというものに対して自分がはだで感じた一種の文明論として、ヨーロッパ文明に対する日本人の感覚の反発するところを忌憚なく表現しています。  私はここで、たくさんの材料を紹介する余裕がないので、村上氏の観察と私の考えをかみあわせてみたいと思っています。村上氏の論文には「ドイツに戦中派はなかった」という表題が付されています(中央公論、一九六五年十二月号)。また、「戦中派とは日本にのみ特有な感傷主義であろうか、東西文明の源にさかのぼりその相違の意味をさぐる」というサブタイトルがついています。そして「はだにしみる東西文化の断絶」というみだしから始まり、村上氏がヨーロッパでもっとも知りたいと思ったのは、日本で戦中派といわれている自分たちの世代、およびその世代のもつ独自の感覚にあたるものが、ちょうど日本とおなじ状況のもとにあるドイツの知識層のあいだにおいても見られるであろうか、ということであったと述べています。そして村上氏は、自分と同世代にあたるドイツの戦中派というものの存在をたしかめたいというひそかな希望をもって行ったところが、次第に肌からしみてくる東西文化の相違、ないしは断絶というものに自分はすっかり考えこまされてしまったといっています。  日本における「戦中派」ということばは、戦争責任という道徳的な問題から触発されて生まれました。戦争への自己の協力、抵抗はともかく、戦争中の自己のギリギリの体験が、戦後になってみると、すべてむなしいむだなことであったということになった。それまで鬼畜米英といっていたかと思うと、八月十五日以後は一億総ざん悔ということになり、あるいは広島の原爆記念碑に「過ちは二度とくりかえしません」と記されるようになった、そういった日本人の非常に急激な転換ぶり、戦争はまちがっていた、したがって戦争協力もすべてあやまりであったという、このむなしさを身にしみて感じ、同時に、まちがいであったときめつけられることへの懐疑とか、憤懣、反省といったものがすべて内向し、ひとつの生活感覚となっている世代。現在の四十歳から五十歳ぐらいの人たちのことを戦中派と日本では呼ぶ。ドイツではとくに戦争に敗れたというだけでなく、ナチスによる六百万人のユダヤ人の虐殺という恐るべき現実が暴露されている。それを目にしたインテリのやりきれない気持は、日本以上に深刻な戦中派的階層をうみだしているだろう、こう予測して日本のインテリがドイツへ行ってみると、あにはからんやそうした戦中派的な意識などは、ドイツ人のなかにほとんど見られないという現実につきあたった、と村上氏はいうのです。何千年というあいだヨーロッパの土地のなかで、国と国、民族と民族とが互いにその自己の生存を主張しあって血みどろの闘争をくりかえした、その歴史を背景にしているヨーロッパ人の思想、感覚のすべては、国家を守るために武器をとることは、国民の義務として当然のこととされているというのです。戦争に協力した責任などといいだせば、なにが責任だ、戦争に協力するのが国民として当然である、と反論されるわけです。戦争についてドイツ国民が一枚岩の感情を持ちつづけたという事実に、まず日本人が奇異の感じを抱くのはもっともなことでしょう。  これはドイツ人特有のものではなく、ヨーロッパ全体における支配的な考え方です。それは結局、ヨーロッパ文明というものが自己の立場、主張、権利、要するに自己の存在の基盤を守ろうとするはげしい本能のあらわれであり、それがヨーロッパのナショナリズムを支えているのだと村上氏は主張しています。日本において同じナショナリズムということばを使っても、そこには大きな質の差異があることがまず感じられるというわけです。  ヨーロッパ人の責任感[#「ヨーロッパ人の責任感」はゴシック体]  そこで、いろいろな例を村上氏は挙げています。たとえば、日本では北海道に旅行して、稚内から宗谷岬の突端までいってみると、ここに日本最北端の地というような碑が立っている。ところが、まだ日本は正式の条約で樺太を放棄していない。だが北海道の北端が日本最北端の地であるというのは、日本人にとっては条約に先んじて、既成の事実として石碑にまで彫られている。広島では「過ちは二度とくりかえしません」とあり、北海道の北端では「日本最北端の地」とある。  ところがドイツに行ってみると、東ドイツなどということばは西ドイツでは使わない。西ドイツでいう東ドイツとは、とうの昔にドイツ領でなくなっている現在の東独のもっと東にある、東プロイセンをふくむポーランド領のことを意味している。テレビの天気予報でも、むかしのままのドイツの版図が映され、全ドイツの天気が予報される。また第一次大戦以後につけられた土地の名称は、けっして現代の書物に出てこない。みな旧独領時代の名称を使っている。アフリカや太平洋の地名まで、むかしのドイツ領の名称がそのまま踏襲されている。日本人のお人好しぶりと非常に対照的に感じられた、と村上氏は書いています。  それから、ドイツにおいても当然、戦後に価値の転換というものがインテリのあいだにおこったであろう。したがって、われわれ日本人、とくに日本のインテリの体験しているような、戦前と戦後との断絶、あるいは挫折という感覚がドイツをはじめとするヨーロッパのインテリにもあるだろうと思ったところが、そういうものは結局、日本人の感傷にすぎなかったようで、彼らには日本人とおなじ質の挫折感は見いだされない。ヨーロッパ文化には、そういう意味の責任感というものが存在しない。このようなことを感じて、村上氏はヨーロッパから日本に帰ってきたようです。  またこれまで、個人を単位とした近代的な責任の倫理は西洋の近代において発達したもので、日本では個我の覚醒がおくれていると同様に、責任の倫理が確立されていないとわれわれは考えてきましたが、それとは逆のことを村上氏は考えるようになったといいます。たとえば、前にも述べたことですが、ヨーロッパに行ってみると、いかにそれが自分の不注意によってひきおこされた事故であっても、絶対にその非を認めようとしない。自分の不注意よりも、それ以外のありうべき原因を、実に奇想天外と思われる条件までならべて堂々とまくしたてる。現地の商社などでは、ドイツ人を多く使っているが、彼らの一ばん不愉快な点はそれだと異口同音にいう。しかし彼らにしてみれば、自分たちの伝統的な道徳にしたがっているだけで、罪は証明されなければならないし、証明には論理が伴なわなければならない。こういうことも村上氏は指摘しています。  さらに村上氏はベネディクトの『菊と刀』を例にしていいます。ベネディクトは、はたのひとにどう思われるかということを行動の基準にする日本人の特性を、恥の文化と名づけました。それにくらべて、唯一絶対の神に対する罪という意識を道徳律として行動の基準とする西洋文明、キリスト教文明のことを罪の文化と呼びました。しかし村上氏はいいます。  いったいヨーロッパ人の道徳とか罪とかいう表現を、ヨーロッパ人の行為に即して考えてみると、彼らが何かのあやまちを犯したばあい、それを自分の罪という形でただちに感ずるかどうかは非常に疑問だ。反射的に彼らに訴えるものはまず自己を防衛せよという声であるにちがいない。自己防衛、自己の存続ということが、まずまっ先の問題になる。また日本人の場合には、その所属するグループに対する忠誠心から反射される罪の意識が濃厚である。また相手に責任はあるが、自分も不注意だったというような、相互の心理的なバランスをとることが、日本人同士のばあいには重要な解決の方法とみなされるが、ヨーロッパ人はまず白か黒か、オール・オア・ナッシングでことを運ぶ。責任に対する考え方、感じ方に大きな差異があることを認めなければなるまい、と村上氏はいいます。  村上氏はいろいろな文学作品を例にひいて、さらにつづけます。  日本人は相手が自己の責任をどのように行為によって償うかという以前に、「ごめんなさい」という責任を感じていることをあらわすことばを、情緒をふくめて重要視する。しかしヨーロッパ人は実行の伴なわない責任の存在などには、まったく無関心といえる。このようなことも村上氏は述べています。  ヨーロッパ人の力に対する信仰[#「ヨーロッパ人の力に対する信仰」はゴシック体]  さらに村上氏は論をすすめます。  その一面、ヨーロッパ人には力に対する信仰、力に対する畏怖感というものが本能的にしみついている。その典型的な例は子どものしつけにあらわれている。日本の子どもはしつけがなっていない、親が甘やかすために子どもの方は実に乱暴に、勝手気ままなふるまいをする、こんな国は世界にない、欧米諸国では子どものしつけが実にきびしい。日本もそれを見習わなければいけないといわれる。私もある点ではもちろんそう考えている。日本の子どものしつけがいまのままでいいとはけっして考えていない。西洋の子どもは、実に小さな紳士といっていいほど行儀がいい。それこそ文字どおり大人しい。しかしそれは大人の目が光っているかぎりにおいてであって、日本人の家庭に遊びにきて、日本人が子どもに甘いとみると、もうなめてかかって、その子どもは性格が一変したように乱暴になる。日本の主婦たちは口をそろえて、ドイツの子どもたちのそういった偽善はたまらないという。おもちゃを次々にひっぱり出して夢中になる、日本人の親が片づけるようにいってもききはしない、うまい菓子をもらうともっとくれといじきたなくせがみ、はては台所の戸棚まであけてとりだす。こういう乱暴な一面があるということも問題であると、村上氏はいい、さらに、その理由は簡単であるとのべています。  子どもたちのしりには両親、とりわけ母親の、たきぎのように頑丈な掌の痛みがやきついているというのです。つまり力による訓練が、ヨーロッパ人のしつけだというのです。ヨーロッパの街角では、母親が泣きわめく子どもの耳たぶを、グイグイとひっぱっていく光景がしばしば見られる。この肉体的なしつけというものは、伝統的に西洋社会ではきびしい。ヨーロッパ人の子どもたちを律しているものは、ほとんど肉体的な痛みと恐怖心であろう。したがって、大人の機嫌やおそろしさの程度を読みとるのもすばやいし、いったん相手がくみしやすいとなめてかかれば、もう本能を制御するものはなにもないのであると村上氏は結論します。  また、村上氏は評論家ですから、観察が学者とちがっておもしろいところにむけられます。たとえば、こんなことをいっています。ヨーロッパの街を歩いていて、一ばん目をひくのは犬を連れた人々だ。とりわけ婦人の姿が多い。中には猫にひもをつけて散歩しているおばあさんもいる。そしてその動物たちが、実によく馴らされているのにまた感心する。街角ですれちがう犬が人間に吠えかかることはおろか、犬同士吠えあうというような光景もめったに見ることがない。あったとしても、主人のただひと声によって静まってしまう。こういう動物を訓練することにかけての実に発達した文化を、この犬たちの姿をながめながら、これがヨーロッパ人自体の姿だと、しばしば思った。動物をしつけるには根気がいる。肉体的な恐怖感と、目先のほうびを与えることをしつこくくり返して、それを条件反射、慣習にまでたかめる。動物をしつける上での見事さは、子どもに及んでいるばかりでなく、それは大人の社会についてもしばしばいえることである。村上氏はこういう観察をしています。  氏はまた次のようなヨーロッパと日本との比較をしています。  日本とくらべてヨーロッパでは、野菜や果実がきわめて貧弱である。それにつけても思うのは、日本人が植物を育てることに長じているということである。植物を育てるには、相手の心になる、相手と同化する気持が必要だ。それにくらべて動物をしつけるのは、自分の意志に相手を屈伏させ従わせることである。日本人とヨーロッパ人との特性、価値観の差はおそらくそういうところからくるともいえるだろう。だから道徳というような概念にしても、一般にヨーロッパ人には、日本人がいっているような意味での道徳は存在しないのではないか、という仮説に達した。つまりヨーロッパには自発的な道徳が存在しない。ヨーロッパに三年いた友人は、カントが道徳は自律的でなければならないといったというのも、周囲を見まわして、あまりにもそれが欠けていたからであろうといっている。しかし、ヨーロッパには自発的な道徳こそ希薄ではあるが、彼らの社会における慣習はおそろしく根強く、いったん確立した慣習には絶対的に従う。たとえば、ヨーロッパにおいてはテーブルマナーズ、乗物のなかで婦人に席をゆずる、といった慣習が確立しており、それに従って生活の秩序を保持していくという面では実に徹底している。こう村上氏は述べています。  ドイツ人の戦争に対する反省[#「ドイツ人の戦争に対する反省」はゴシック体]  さらに村上氏は、戦後に暴露されたナチズムの残虐行為に対しても、大多数のドイツ人は、ほんとうの意味での道徳的責任を感じていないのではなかろうかという、非常に重大な発言をしています。そして、このような文化的風土には、戦中派というような思想的、あるいは情緒的な世代感覚を育てる湿度がないと、村上氏はいっています。  村上氏はさらにつづけます。  日本はモンスーン地帯で非常にウェットな、湿度に富んだ国であるが、ヨーロッパは、和辻哲郎博士の『風土』において、「牧場」と風土的に規定されているように乾燥した環境であり、日本的な情緒的な湿度が感じられない。それゆえにまた、権威や財力というようなものがその額面のままに畏怖され、尊敬される率は日本よりもはるかに高い。それは電話のかけ方ひとつをとってみてもわかる。たとえばある教授夫人が電話をかけるとする。もし日本人の奥さんだったら「わたくしは何なに教授夫人であります」といわないだろうが、ドイツ人の奥さんはかならず夫の称号を全部ならべる。ドクトルの称号があれば、その本人はもとより奥さんまでも、手紙や電話に必ずそれをつけていう。この慣習は、英国やアメリカではなくなっているようだが、ヨーロッパ大陸ではまだ根強くのこっている、これも日本人の感覚とはずいぶんちがう。日本人は権威主義だといいながら、そういう面においてはばかに遠慮して、しりごみ、謙遜してみせるのが一種の美徳になっている。「何なに事務官の妻でございます」などといえばはたから笑われもする。ところがドイツにはそういう感覚はみじんもない。したがって、「わたくしはかつてドイツ国民がヒットラーの指導のもとに易々としてユダヤ人虐殺におもむいた社会構造の謎が少しずつ解けてくるのを感じた」と村上氏は書いています。  村上氏の論文はまだつづきます。  ドイツ人が戦争について、いやナチスについてさえ、なんら反省していないという観察は、周囲の国々でひろくなされている。それは東西ドイツを問わない。ヒットラーはもっとも早く共産主義の脅威に気づいていたというヒットラー弁護論を西ドイツできいたことがあるが、これは極端すぎるかもしれない。だからといってそういう感情が意外にひろい範囲でひそんでいないとも断言はできない。これはDeutschland 歟er Alles !(世界に冠たるドイツ)という伝統的な思想につながるものがある。プラーグであったあるユダヤ系の知識人は、東ドイツの政府首脳だってヒットラーは少しまちがったのだくらいに考えているのではないかなと笑っていた。東欧諸国で肩で風を切るようにして歩いているドイツ人の姿を見ると、そのことばもうなずけるような気がする、と書いていた人がいる。これは、私が戦争前にはナチスを支持していたという、親しい友人と会ったときにも感じたことである。正面切って話題にはしないが、その心の底には、ユダヤ人に対するナチスの行為を後悔するどころか、もっとやっつけてやればよかったという感情をもっていることを、学者の友人にも感じることがある。  こういえば、ドイツの最高の知識人であるハインリッヒ・ベルやホーフフートらが、その問題を追求しているという反論が出るかもしれない。しかし彼らはその問題を、人類共通の課題として提出しているのである。たしかにそれは、人類共通のテーマであるにちがいない。しかしそれ以前に、ドイツの国民性から導かれた要素もたくさんあるはずだ。少なくとも私はこんどの旅から、そのにおいを浴びるほどかいだ。デリケートに自分の傷を調べることなく、いきなり人類一般の課題にたちむかう、その粗大な精神構造そのものに私はドイツ人を感ずる。日本人の肌あいからいえば、それはまたヨーロッパ文明のひとつの帰結という感じもする。形はかなりちがうが、今日のアメリカのゆく手に私が懸念をいだくのも、彼らがまたヨーロッパ文明の子だからである。  そこで百日の旅を終えるころ、ドイツで私は携帯していった『世界の青春』という書物にあらためて目を通してみた。そこでドイツの青年たちは、絶望と神の不在をくりかえし述べている。しかし祖国の戦争目的と自己との乖離に苦しむ言葉は、ついに一行も発見することができなかった。戦場の悲惨のまことに即自的訴えか、でなければ世界についての極度に抽象的な思念がそこにはある。もちろんそれだけでも十分に青春の悲惨たりうる。しかしやはり私はベルリンで会った田中路子さんが、ドイツ人は戦前、戦中、戦後を通じて少しも変っていないといったことばを、想起せざるをえなかった。私がかつて日本でこの本を読んだとき、とりわけドイツの青年たちの遺稿に感動したのは、結局自分の「戦中派的感傷」の反映にすぎなかったようである。  村上氏は論の最後でこう結論をくだしています。村上氏の考え方は、私がこれまで述べてきた理論と矛盾することなく合致すると思います。あるいは会田雄次氏や竹山道雄氏らの考え方とも、一致するだろうと思います。村上氏の一文に書かれている限りにおいて、私がこのようなことをいうのはまちがっていないと思っています。  牧畜文化と稲作農耕文化の相違[#「牧畜文化と稲作農耕文化の相違」はゴシック体]  最初から伏線のように、私はアラブの遊牧民のあいだで体験した日本人記者の、人間はこうもちがうものかというその体験を紹介しました。そのなかの、日本とアラブを両極端とすれば、ヨーロッパはずっとアラブよりだということばも紹介しました。それからまたいま村上氏の一文のなかから、私は意識的にヨーロッパ人が家畜を飼いならすことにたけているということを紹介しました。そのヨーロッパ人にくらべて、日本人は湿潤な環境のなかで、高い技術と強い根気で稲を育てあげてきた民族です。つまり、日本民族は湿度の高い、しかも植物的な文化を形成してきたのです。しかし、魏志倭人伝にも、その地に牛、馬、羊という家畜がない、と書いてあるように、日本の生活のなかには牧畜というものは定着していませんでした。もちろん肉は食べたでしょうが、生活の基礎として、食糧資源としての牧畜が行なわれるようになったのは、明治以後になってヨーロッパ文明が日本にはいってからのちのことです。すなわち、日本人の伝統的な生活のなかには、牧畜という要素が非常に欠如しているのです。私はこれが日本文化を理解する上で、大きな手がかりになると思っています。  これと対照的に、ヨーロッパでは牧畜が非常にさかんでした。また中国大陸においても、日本にくらべればはるかに高いパーセントで牧畜は太古から行なわれていました。さらにユダヤ人やアラブ人のようなセム語系の民族も、さかんに牧畜を行なってきました。インド・ヨーロッパ語族においても、稲作民族にくらべ、牧畜を生活の基礎としてはるかに強く重んじてきています。これらの諸民族の遊牧民族的文化は、三千年、四千年という時間をへだてても、なおその基本的な性格を変えてはいません。したがって西洋文明には牧畜民的な感覚が色濃くにじんでいるわけです。西洋ではもちろん農業も行なわれてきましたが、牧畜に依存する程度のほうがはるかに高いのです。たとえば、ホメロスの『イリアッド』を読むと、トロヤ戦役の戦闘を描くさいに、「黒い羊、白い羊がかくのごとく乱れて混入した」とか、「羊の大群のように軍隊が動く」とかいった比喩が用いられています。それにくらべ日本の軍記物には、「雲霞のごとく」というように、雲や霞が比喩として使われています。湿度の高い日本の風土においては当然のことであるといえるでしょう。また、諸橋轍次氏の大漢和辞典などで中国の漢字を調べてみますと、家畜をあらわす羊という文字を構成要素にした非常に膨大な数にのぼる文字が出てきます。中国文明は同じモンスーン地帯にあっても、それほど稲作文化と異なっているわけです。  日本のことばを、そのような角度から分析してみると、動物ないし家畜、とくに家畜というもののはいったことばは、きわめて少ないのです。そのかわり、植物に関することばは実に豊富です。そして、このような私の考え方からいうと、西洋文明と日本文化とのあいだに感じられる根源的な相違は、牧畜文化と農耕、とくに稲作農耕文化との相違に起因していることになります。これは私の個人的な考えですが、大きな誤りはないと思います。その二つの文化は、とくにその世界観という点においてどう違うか、ということについては、私はすでにたびたび意見を発表しているので、ここではあまりふれません。ただ、その主な違いを指摘するにとどめます。  ここでは宗教について考えてみましょう。ヨーロッパに早くから浸透したキリスト教、その母体となったユダヤ教、それからさらに連続しているイスラム教、この三つの宗教はだれが考えても三つとも一神教です。しかもそれら三つの宗教の神は、共通して、宇宙のなかにある神ではなくて、宇宙の上に存在する絶対の唯一神です。そして、宇宙はすべてに先んじて存在する絶対者の創造になるものであり、絶対者の摂理のもとに動いているという世界観も、この三つの宗教に共通しています。このような世界観を生み出す文化的な基盤は、私のみるところでは、乾燥した草原地帯にひろがった遊牧民の文化圏のなかに見出されます。そして、このような世界観を基礎としてこれらの世界宗教ははぐくまれ、ヘブライズムの流れとして、ヨーロッパ文明を構成するひとつの重要な根幹をなしています。  現代ヨーロッパ文明を構成するもうひとつの基盤として、ギリシャ・ローマ文明が考えられます。ギリシャ・ローマ文明には、エジプトあるいはエーゲ文明といった農耕的文化の伝統が流れていますが、文明そのものをつくりあげ、になったのはアーリア人です。つまりインド・ヨーロッパ系の民族なのです。ですから、現代のヨーロッパ文明には、ギリシャ・ローマ以来の伝統として、インド・ヨーロッパ系の民族のもつ共通の文化的生活が流れています。そして、ローマ帝国を北から征服した戦闘的な、強靱な生活力をもったゲルマン民族が、今日の西ヨーロッパ文明をになう諸民族の祖先でありましょう。  このように世界史をたどると、二千年、三千年にわたる歴史的な経験とあわせて、さらにそうした歴史の根源にひそみ、コアになる文化の差異ということが問題になることがわかります。そして、このような観点から、日本文化のコアを考えてみると、それは前にも述べましたように、やはり弥生時代の稲作農耕であり、日本人は稲作農耕文化を伝統として受けついでいます。そして、私はいままでいろいろ例をあげて、ヨーロッパと日本の文化の違いを比較してきましたが、結局、帰するところは、両者の文化のコア・パーソナリティーが異なっているということを指摘したかったということになります。  ヨーロッパ文明の理想主義[#「ヨーロッパ文明の理想主義」はゴシック体]  さて、そこで最後に将来への問題として、読者のみなさんにもいっしょに考えていただきたいと思う問題は、以上のようにヨーロッパ文明と日本の文化との相違をみてしまうと、東と西のあいだには、うずめることのできない絶望的な断絶が残されたままになってしまうのではないか、という問題です。しかしまたそこまでいくと、こんどは、はたしてそうなのだろうかという疑問を、かさねて提出せざるをえなくなります。たとえば、私は村上氏が先の一文で述べていることに、根本的な間違いがあるとは思いません。私自身が肌で感じた西洋文明というものの一面を、村上氏は評論家の、あるいは文人の感覚で鋭くえぐり出しています。とくにドイツ人について指摘していることは、そのかぎりにおいて正しいと思います。しかし、これも私自身の体験ですが、欧米の親しい友人たちとの深い心の交わりというようなものが、それだけ違った文化の背景を持ちながら、これまで成り立ちえたというのは、もし村上氏のいう断絶があるならば、考えられないことではないかと思うのです。私はその断絶の存在を認めながらも、なおかつ人間と人間との接近という事実そのものを、体験的に否定することができません。  さらに、道徳とか徳性といった問題においてもこのことはいえます。恥の文化と罪の文化の問題にしても、あるいはキリスト教の問題にしても、村上氏が述べているような面だけを見れば、なるほどヨーロッパ文化のなかには、われわれが感じているような責任もなければ、美徳というものもその生活の中には存在しません。仮借なき力、強烈な自己主張、それを支える慣習の強さというようなものによって、人間の生活が維持されているという一面はたしかにありますし、私もそれを否定しようとは思いません。  しかし、それならヨーロッパには道徳とか責任が存在しないのかという疑問を追求していくと、他の一面において、実に深いものが存在することもまた否定できません。この問題は、将来時間があれば具体的に論じてみたいと思っています。  思うに、宗教とか道徳とかいうものは、自分たちの文化に欠けているものを、逆に強調するというパラドクスをもっているのではないでしょうか。第一章で朝日新聞に本多記者が連載した「アラビア遊牧民」からいくつかのエピソードを紹介しましたが、最後にやはり同じ記事から、面白い話をご紹介しましょう。本多氏が、アラビアに何年か住んで日本とは正反対の自然と人間に神経を痛めつけられた日本人と話したとき、その人は本多氏に、「『月の沙漠』なんて歌を作った男のツラあ見てえもんだ」といったというのです。そこで本多氏は実際に「月の沙漠」の作者をたずねて、どうしてその歌をつくったのかと聞きました。するとその人は、アラビアはおろか外国へは一歩も行ったことがない、ただ月の光のふりそそぐ砂漠を、王子さまと王女さまが金と銀の鞍をおいたラクダに乗って行く、という光景を想像してかいたのだ、と話したというのです。そして、この記事の最後には対照的に次のようなことが書かれていました。  リヤド市のある学校で、低学年児童の描いた絵が壁にたくさん並べられていた。ほとんどが緑したたる木や涼しげな水郷の絵であった。それは水と緑の豊かな日本でこそあたりまえの光景だが、ちょうど月の砂漠の光景が日本では考えられないように、これはアラビアでは考えられない光景なのだ。それからまたコーランのなかにも、せんせんと流れる河が楽園として描かれている。これは砂漠の町メッカに生まれたマホメットが、常に説き聞かせた天国の風景である。つまり自分たちに欠けているものが強烈な憧れ、強烈な理想として描かれるという一面が、遊牧民の文化のなかに強く存在するのではなかろうか、と本多氏はいうのです。  また、これは遊牧民ではありませんが、同じような例があります。それは、メキシコ市の東北約五十キロ、自動車で一時間とかからぬところに、テオティワカンという有名な古代の遺跡があります。非常に大きな宗教都市の遺跡で、紀元前後にさかのぼる不思議な文明のあとですが、そのテオティワカンの一角のはずれに、テパンティトラという神殿のあとがあり、その神殿の地下室の壁面に、のちにトラロックと呼ばれるアステカ時代の雨の神さま、水の神さまの神像が描かれています。またそこには、その当時のテオティワカンの人々が頭に描いた楽園の風景が、じつに美しい色彩で描かれています。メキシコ高原は海抜二千数百メートルの乾燥地帯ですが、その壁面に描かれた楽園の光景は乾燥地帯ではみられない、メキシコ高原より東のメキシコ湾付近の熱帯の光景です。ゴムの木が青々と茂り、花さき、鳥うたい、豊かな水がせんせんと流れる楽園の光景なのです。これをみても、すべての民族が、自分に欠けている遠いものを憧れ理想とするといえるでしょう。乳と蜜の流れるカナンの地にしても、コーランに描かれるせんせんと河水流るる楽園にしても、そのまぎれもない例証であるといえます。  それだからこそ、食うか食われるかといったはげしい自己主張をしなければ生活できないような遊牧民族の社会のなかにあってこそ、かえって愛の宗教というようなものが生まれるのではないでしょうか。自分たちの生活感覚とまっこうから矛盾するような「汝の敵を愛せよ」とか、「人もし右の頬を打たば左の頬をさし出せ」とか、「神は愛なり」とかいった教理をもつ、極端な愛の宗教というようなものが、遊牧文化を基盤とする民族のなかから生まれる必然性も、これらのことからわかることと思います。ヨーロッパ、インド、ゲルマン諸民族は、このセム族の宗教にほとんど完全に征服され、いまや欧米の文化圏というものは、キリスト教文化圏になっています。  竹山氏がヨーロッパに行って、一体ヨーロッパはどういう意味でキリスト教国といえるのであろうか、あのベルリンを東西にへだてる壁、あの鉄条網、有刺線の街のどこに、山上の垂訓のあとがあるのか、といったことを感じるのは、つまり、自分たちに欠けているものを強く求めるという、理想主義がヨーロッパ文明にはあるからでしょう。この理想主義をヨーロッパ文明から除外して、ただその表面上、日本人が肌で感じた体験だけから西欧文明を論ずるのでは、やはりそこにひとつ足りないものがあるのではないでしょうか。  東と西の間をうめるもの[#「東と西の間をうめるもの」はゴシック体]  ヨーロッパ人と生活して感じられる肌ざわりにしても、感覚にしても、たしかに村上氏のいうように、日本人の感覚とは異質のものです。反対にヨーロッパ人からいえば、日本人とはなんと不思議な民族であろうということになります。ヨーロッパ人は、こんな異質なものは世界でもめずらしいと感じるだろうと思います。ですから、さまざまな文化の流れの合流のうえに築きあげられた西欧文明というものを、ただ一概に道徳も責任もない、力と力の世界だけであるといってしまっては、やはり学問的な客観性がそこなわれるといえるでありましょう。  また、日本人には、ヨーロッパ文明を完全に理解することはむずかしいかもしれません。同時に、ヨーロッパ人が、完全に日本文化の真の理解に達することもむずかしいといえるでしょう。しかし、なおかつわれわれの学問的立場としては、そのような所与の条件のすべてを考慮に入れて、相互の文明を考えなければいけないと思います。そうしてこそ、はじめて東西文明の相互理解が可能になると思うのです。いまいったような日常市井の生活体験、政治、戦争、軍事等における現実の資料を検討することとあわせて、これまでヨーロッパを支配してきた宗教、哲学、芸術等の思想史的な伝統、それを代表する個々のエリートの研究がこれからますます必要になると私は思います。さらに、親しい友人から感じる人間的なあたたかさとか、すぐれた美徳といったものも考慮に入れることが必要でしょう。私の「愛と憎しみの文化」という一文を見たヨーロッパの友人が「それはその通りだけれども……」とちょっと照れくさそうにして「西洋文明というものは愛と憎しみではなくて、愛を求める文化なのだ」といいました。その友人は、ヨーロッパ文明は現実に欠けている愛をつねに求める文化である、というのです。これもまた、先ほどの私の考えからいえば真理ということになります。  ヨーロッパにおける私の体験では、たしかに愛と憎しみの境界ははっきりしています。日常の生活において、あれは敵か味方かというようなことを、学者同士でも意識し、平気で口にします。日本人は意識していたとしても、人前ではにこにこして、対立意識を見せないのが美徳であると考えています。ヨーロッパではそんなことはありえず、好悪の感情をはっきり表わします。そこでまたわれわれが西欧の文学を読むとき、憎しみに徹すると同時に、愛に徹するという面においても、ヨーロッパ人の精神の深さ、たくましさ、はげしさ、といったものを感じることができます。これまた西欧文明を理解するうえで、忘れてはならないことでありましょう。  要するに私のいいたいことは、明治時代のわれわれの父祖が西欧文明に対して抱いたイリュージョン、西欧のものはすべて立派で進んでおり、日本のものはおくれているといった劣等感を、いまなお抱く必要は毛頭ありません。しかしまた、その反動として逆に、西洋は道徳のない世界であるといった観察だけで、今後の東西の接触が行なわれたら困ります。そのすべての条件を考慮にいれたうえで、問題を考えねばならないだろうということなのです。 石田英一郎(いしだ・えいいちろう) 一九〇三年、大阪に生まれる。一九三九年、ウィーン大学哲学部民族学科修了。法政大学、東京大学、東北大学、埼玉大学の教授を歴任の後、日本民族学会会長、多摩美術大学学長。日本における学問分科としての文化人類学を確立し、その該博な知識から独自の日本文化論を展開した。一九六八年歿。『河童駒引考』『人類と文明の誕生』『文化人類学ノート』『桃太郎の母』『文化人類学序説』『東西抄——日本・西洋・人間』『マヤ文明——世界史に残る謎』『人間を求めて』など多数の著書がある。 本作品は一九六九年五月、筑摩書房より刊行され、一九八七年五月、ちくま文庫に収録された。