食生活を探検する 〈底 本〉文春文庫 昭和五十五年十一月二十五日刊  (C) Naomichi Ishige 2001  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 第一部  サツマイモ・ジェネレーションの料理入門    庖丁一本で世界の国ヘ      アフリカ・チョンガーたちの食生活      庖  丁      カスバの味      スライスした肉      招待はナベものにかぎる    わたしの料理入門      サツマイモ・ジェネレーション      探検に行くとふとる      あとかたづけの妙案      いやしいことはいいことだ 第二部  食事文化探究の旅    南太平洋の島で      皇太子殿下のおまねき      女 の 楽 園      トンガ人のたべもの    ニューギニアの高地で      ウギンバの一日      ウドンとダニ族      ニューギニアのブタ      オバケの食器あらい    サバンナの村で      マンゴーラ村      スワヒリの食事      サバンナの狩人・ハツァピ族      ハツァピ族の食事      ダトーガ族の食事      マンゴーラの魚      アフリカの正月    砂漠のサシミ    食物とタブー      ユダヤ教徒とイスラム教徒      ブタを食ったむくい 第三部  人類にとって食うこととはなにか    第 三 芸 術      料 理 と は      舌のトレーニング      女には、ごちそうをたべさせぬこと    前衛料理のすすめ      変った食物      魚骨亭始末記      生兵法は大けがのもと      シ ロ ア リ      誰が最初にフグをたべたか      プランクトン    テーブルなしのテーブルマナー      不作法のすすめ      テーブルなしのテーブルマナー      食前の祈り      メ ニ ュ ー      スープをたべる      ナイフをとぐべし    野外料理の準備            炊 事 用 具      食  器    辛味入汁掛飯    ひとを喰ったはなし      人喰人種の迷信      人喰いの理由      人間の料理法    ひとはどれだけたべるか      大酒、大食いコンクール      食事の回数    あ と が き      章、節名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    食生活を探検する [#改ページ] 第一部  サツマイモ・ジェネレーションの料理入門

 
庖丁一本で世界の国へ    アフリカ・チョンガーたちの食生活  大きなカスバのあるようなアフリカの都市には、日本の商社の駐在員が数人はいる。たった数人だが、あつかっている仕事は大きい。ある人は、その国の自動車の五分の一を売っている。ある人は、その国へ入るラジオの半分をとりあつかっている。あとの半分のトランジスタラジオは、別の日本人が輸入している。あるいは、一国の学校の生徒の持つビニール製の手提カバンを、全部まかなっている人など。  たった数人だが、この人びとのとりあつかう商品は国のすみずみにまであふれ、一般の民衆は、ラジオや自動車を通じて日本を知っている。大きな商売をしているが、皆若い。二十代から、三十代の人が多い。独身の人がほとんどだ。結婚していても、奥さんの異国での生活の苦労、子供の教育などを考えて、単身赴任している。こんな日本人の何人かが住んでいるところなら、どこにでもアフリカ・チョンガーたちの集会場がある。いつとはなしに、誰かの家が町の日本人達のたまり場となり、自称どこそこの日本人クラブということになる。  日本人クラブには、碁盤、将棋盤、マージャン道具一式と持ち寄りの日本からの古雑誌と一年くらい前の流行歌のレコードが、かならず置いてある。日曜あるいは金曜日(回教国には金曜が休日のところがある)の午後、スコッチウイスキーを飲みながらのマージャンがひとしきり終ったあと、誰かが立ちあがって台所で食事つくりということになる。  大ナベに肉塊をほうりこんでダシをつくり、そこヘスパゲッティをぶちこみ、塩味をつけ、ネギのブツ切り、卵を入れた鍋焼きウドンのごときものは、日本人クラブ定食の一つである。味付けは、塩を基本として、貴重品の醤油は、ほんの数滴たらしこむだけである。スパゲッティは、いくら煮こんでも腰があって、シコシコとして、ウドンの舌ざわりからは、ほど遠い。  このアフリカ製鍋焼きウドンをスープ皿からすすりながら、「ああ、ケツネウドンがたべたい」と大阪人がさけぶのである。 「今朝、サルタン通りをナットウ売りが通る夢をみたぞ」と東京人がいう。そして、「ケツネウドンが、ザルソバが、ナットウが、ヒヤヤッコが食いたい」という話が長々と続くのである。  鍋焼きウドンまがいとスコッチウイスキー。何とも妙なとりあわせである。億単位の商売をしている人びとの食事としては、あまりにもわびしいではないか。このような食事風景をみるたびに、わたしは「大英帝国は粗食のうえにきずかれた」ということばを思いだすのである。  アフリカ・チョンガーたちは日常の食事は、レストランでとる。地中海沿岸のアフリカ都市でだったら、かなり味付けのよいイタリア料理、フランス料理の店がいくつもある。しかし、「洋食にはうんざりしている」のである。そうかといって、カスバのアラビア料理は、不潔そうでたべる気がしないし、あんなものがうまいはずはない、と信じこんでいるのである。また、カスバで立食いをするのは、紳士の体面にかかわることでもある。もちろん、トルコ風呂になど足をふみこんだこともない。そして日本へ帰ったらあれも、これも食おうと日本料理を永遠の恋人のようにあこがれているのである。  アフリカで調査をしているとき、たまに都会へ買物や連絡に出ることがある。町へ出て、わたしは宿に不自由をすることはなかった。「料理の先生がやってくる」というので、わたしが町に出て来るのを、心待ちにしている人びとが沢山いる。町へ出ると、在留邦人の間で、わたしのうばいあいがはじまる。「今日は、ぜひわたしのところへ泊って、ボーイに味噌汁のつくり方を教えて下さい」「いや、うちのほうへ来て下さい。酒が沢山用意してありますよ」といった工合である。  皆、わたしに日本料理をつくってもらうことが目当てなのである。わたしは、わたしで、奥地での現地食にあきて、都会でさまざまの材料を使って、ひさしぶりに、うまいものをくってやれと思って、町へ出てきているのだ。結局わたしが都会に滞在している期間は、毎晩日本料理と酒盛りにあけくれ、わたしが居候する家は、その町に住む独身の日本人達のコンパ会場と化する。わたしのあやしげな日本料理でも、アフリカまで行けば、感激してたべてくれる人びとがいるのである。  そのうちに、アフリカの日本人の間に噂がひろまって、隣りの国へ行っても、「あなたが、その料理の名人ですか」ということで、歓迎されることとなる。ある国では若手の外交官で、広壮な住宅に住んでいながら、独身のため人をもてなすことができずにいた人を助けて、各国の外交官を集めて日本料理のパーティーを開いて、社交界にデビューさせてあげる役目まで引き受けた。  ついには、めんどうになって、 「わたしは、海外在留邦人食生活改善員です」  と名乗りをあげることとした。こんな役目で日本政府が、わたしを派遣したのだと本当に信じ込んでしまった人が何人かいる。  わたしは、アフリカ在留の邦人に実にお世話になった。わたしにできるせめてものお返しは、日本人クラブでせいぜい腕をふるって美味い物をつくることぐらいである。 「今日は、ひとつ日本料理をこしらえましょうか」とわたしがいうと、「そんなこといっても、アフリカじゃ材料がありませんよ」といわれる。「いや、何とかなります」と言いすてて、わたしは材料をしこみに町を一廻りしてくる。  市場で魚と野菜を、ヨーロッパ人相手の食料品店で、マギーのソースを買ってくる。  海外では、よその家の味噌、醤油のような貴重品扱いの日本の調味料をやたらに消費しないことがエチケットである。ヨーロッパだったらスーパーマーケットで醤油も売っているが、アフリカでよその家の醤油を使うのは、気のとがめることだ。あまり知られていないことだが、マギー・アロマという食卓ソースは、塩気の強い薄口醤油とまったく同じ味がするものである。このソースは、アフリカでもたいていの西洋人相手の食料品店やスーパーマーケットで手に入る。  さて出来あがった献立の一例といえば、|潮《うしお》汁、ナマス、サシミ、テンプラ、ナットウと漬物の晩飯。  潮汁は、市場で買ってきたタイの頭に塩をふっておいてつくる。三枚におろした身はサシミにする。オロシショウガをそえる。外国では、タイは高級魚の部類に入らないので、値段もやすい。ナマスは、ダイコンとニンジンを千六本にきざんで塩もみしたのち、甘めの酢にひたしておく。西洋のサラダ用の酢を日本料理に使う場合には、砂糖、白ブドウ酒を加えて、刺激性の味をやわらげることが必要である。  テンプラは、レモンと塩でたべてよし、チーズおろしの道具を使って、ダイコンおろしをつくり、マギーソースにダシ、白ブドウ酒を加えて煮た天つゆでたべてよし。  ナットウの正体は、オクラである。オクラは、アフリカではよくある野菜だ。オクラをゆでてから、ミジン切りにする。すると、ねばついた糸をひき、まるでナットウをつぶしたようだ。味も似ている。これに、ネギの薬味をそえ、卵を入れる。あるいはマスタードを加えて、ねって熱いメシにかけてたべたら、ナットウ売りがアフリカまで出張してきたような気分になる。ギリシャやスペイン製のオクラの罐詰をあけて、そのままミジン切りにしてもよし。漬物は、ナスをこまかく切って塩もみをしたうえに、針ショウガを加えた浅づけのようなたぐい。マギーソースをかけてたべる。  アフリカでも、都市に住むかぎりは、日本料理の材料には不自由しないものである。問題は食うことに関する熱意と、工夫にかかっている。そしてまた、どれだけ料理の献立を知っているかという教養の深さによる。思い返すことのできる料理の種類が多ければ、そのなかにはかならず、その土地の材料でつくれる品がいくつかあるはずだ。    庖  丁  アフリカ・チョンガーを訪ねるとき、わたしがかならず持ちあるかなくてはならないものがある。愛用のナイフだ。ナイフといっても、エンピツをけずるのに使うような、可愛らしいものではない。短刀のような形をした刃わたり二十センチはある、狩猟用のナイフ。東アフリカでは、サファリ・ナイフと呼ばれるやつだ。  この刃物がなくては、手ぎわのよい日本料理はつくれない。日本料理といえば、ごちそうの中心になるのは魚。魚といっても、アフリカのマーケットで、サシミや切り身を売っているはずはない。七十センチくらいはあるカツオを一匹買ってきて、頭、尾を取り去り、三枚におろして、サシミ、焼物、あらだき、内臓は塩辛にする。  アフリカ流の魚料理だったら、なんでもかでも胴体をブツ切りにして煮てしまう。そこで、ナタのたぐいで切ってしまうのだが、日本風に魚を処理するには、どうしても、出刃庖丁がほしいところだ。  アフリカ・チョンガーでも、器用な人は、サシミくらいだったら、自分にでも出来るだろうと思って、魚を一匹求めてきて、ばらしかけた試みくらいはある。だが、現地で買ったペラペラのクッキング・ナイフでは、どうもうまく魚をおろすことができない。骨をたたき切るわけにはいかないし、皮をうまくはぐことができない。そんなことで、せっかく海に面した都会にいながら、サシミといったら、イカかタコしかたべたことがないという話になってしまう。おまけに、イカのサシミでも、皮をむく手間をおこたって、そのままブツ切りにしてしまうから、噛みづらいことおびただしい、汁気のあるスルメみたいな|代物《しろもの》である。  切れ味のよい薄手の狩猟用ナイフは、万能の調理庖丁となる。また、薪割りやナタの役目もするし、いざという場合の護身用の武器でもある。本来は、獲物の解体、ブッシュでの枝はらいなどに使用するようにつくられている。  日本で登山用ナイフと称して、皮製の鞘に入れて腰からぶらさげるようになっている刃物があった。近頃は、刃物がなければ殺傷事件が減るだろうという、あさはかな迷信のおかげですっかり姿をひそめてしまった。この登山用ナイフをもう少し薄身にして、刃渡りは二十五センチくらいのものが、使いよい狩猟用ナイフである。なんのことはない、日本でいったら、|匕首《あいくち》に当るかっこうのものだ。  タンザニアの首都ダレーサラムの街の鉄砲屋のウインドーで、ゾーリンゲンの使いやすそうなサファリ・ナイフを見つけた。値段は三千五百円。わたしには、高価すぎた。お役所から、わたしに渡された半年分の調査費で、八カ月現地にがんばって仕事を続けようと考えていた。すべてを切りつめなくてはならなかった。  毎日、鉄砲屋の前を通るごとに、このナイフを横目でのぞいていた。そのうちに、刃の輝きはますます光ってみえ、いかにも切れそうであった。誰か買手がついて、ウインドーから姿を消したら、わたしは落胆するであろう。とうとう、誘惑に屈して、ある日わたしは、鉄砲屋のドアを押した。わたしの東アフリカでの一番高額の買物であった。  このナイフで、シマウマの肉を切りとり、サバンナの木を切り倒した。日本へ持ち帰ったら、とたんに目をつけられて、友人にまきあげられてしまった。  愛用の狩猟ナイフの二代目は、友人につくってもらった。腕のよい機械屋の友人は、最上等の鋼棒の芯だけを使って、すばらしい切れ味のナイフをつくってくれた。北アフリカで酷使を重ねたので、ずいぶん刃こぼれがしている。それでも、桃の皮をむくことができるし、ホウレン草のオヒタシのように、やわらかなものを切ることが出来る。ニンニクの一房をミジン切りにすることだって可能だ。背が三ミリほど厚さがあるのに、刃こぼれをしないうちは、サシミをきれいに引き切ることができたのだ。ヒゲそりさえできた。刃先と|鎬《しのぎ》の間の地を削いで凹面にした友人の苦心の作のせいで、薄刃の庖丁同然に切れるのであろう。  切れ味のよい狩猟用ナイフは、本当に重宝なものだ。重量を利用して、ニワトリを骨ごとブツ切りにする。堅いスジ肉をトントンたたいて、細かいヒキ肉のようにする。  ヒキ肉など売ってないオアシスの町で、このナイフがあったばかりに、ハンバーグステーキや、ギョウザを作って、一年振りにチュウインガムのように堅い肉を噛まずにすんだと邦人から感謝された。また、十キロもある大きな肉の塊りから、関節をはずし、骨から肉を筋肉にそってはがしていく作業などにはもってこいだ。薄刃の庖丁では刃が曲ってしまう。  切り身の魚を売ってないところ、肉屋は|斧《おの》で一塊りを切りとって渡してくれるようなところでは、狩猟用ナイフは、欠くことのできない道具だ。わたしが、アフリカまで行くと料理の名人にされるのは、庖丁によるところが大きい。  むかしの家だったら、出刃庖丁、さしみ庖丁、菜切り庖丁の三種は、台所においてあったものだ。理想をいったら、この三種の日本庖丁に、ペティ・ナイフを加えた四本があったら、どんな材料、どこの国の料理でも切りさばくことが可能である。  だが、実際問題として、四本も庖丁をそろえることは、財布が許さないであろうし、その手入れもたいへんである。とくに、地金と鋼をはり合わせてつくってある日本庖丁は、やわらかな手ごたえのある気持のよい刃物だが、それだけに、使ったあとがめんどうである。水気をよくぬぐわないでおくと、翌日の料理に鉄のいやなにおいがつくことがあるし、出刃庖丁、サシミ庖丁のようにふだんあまり使わないものは、おうちゃくをしていると、いつの間にか赤さびにおおわれてしまう。  最近の女どもは、刃物はといで使うという大原則を知らない。台所に|砥石《といし》がおいてない家庭がおおい。本当によい日本庖丁は、原理的には日本刀と同じつくりなのである。武士が刀をみがくように、庖丁も、いつもとぎすましておかなくてはならないものである。本当は、毎日一度はとぐことだ。  だが、こんな説教は、いまでは、本職の板前にしか通用しない言いぐさである。家庭での常用の器物は、なるべく維持に手がかからず、それでいて、万能の機能をもつものであるのが望ましい。万能の機能をもつものは、すべての特殊化した用途の場合に、少しずつの欠陥をもつものであるが、目をつぶろう。サシミは魚屋がつくってくれ、肉は肉屋が骨や筋をとりのぞいて売ってくれる、わたしたちの国のことである。よろしい。庖丁は、一本ですますことにしよう。  ステンレス・スティール製で切っ先が三角形の刀身の西洋庖丁一つで、一応の料理はことたりよう。そのかわりに、安物だけは買わないこと。切れ味の悪い刃物を使うほど、いらだたしいことはない。庖丁は台所用品のなかで、一番ケチをしてはいけない道具である。よい庖丁を持つことが、料理上手になる秘訣である。  刃物は使いようともいう。庖丁の使いかたで、一番の原則は、やわらかなものは引き切ること、野菜のように硬いものは押し切ることの二点である。案外、こんな刃物の使い方の原理を知らない人が多いのである。ガマの油をつけると、紙も切れなくなるという、|香具師《やし》の実演のさいは、やわらかな紙に刀を押しつけるようにするのである。  サシミを押して切ったら、切り口がなめらかではないし、肉がばらばらになることすらある。手前へ引きながら一息に切ったらよいのである。ただしトウフのような生物組織のないものは例外。  キュウリやキャベツは押して切る。野菜を押し切る場合には、トントンという音が規則的に聞えるようだったら、まちがいがない。モールス信号のように、不規則な音がする場合には、厚さが平均に切れておらず、厚いものと薄いものが雑居している。こんなしたごしらえの材料を使うと、味のしみたものと、しみないもの、煮あがったものと、生煮えのものがまじりあうことになってしまう。  庖丁とマナ板は、日本ではつきもので、この二つが一つのセットを構成するのだが、アフリカの多くの場所では、マナ板のない台所が多い。材料を手に持って宙でけずりとるように切って、したにおいたナベあるいは容器に落す。ヨーロッパの家庭では、マナ板に相当するものがあっても、円形のナベブタのような可愛らしいものを使っていることが普通のようだ。中国のマナ板は、ギョウザ屋でごぞんじの通り、木の切り株のようなもの。重量感のある中国の庖丁を使うには、絶好の台であるが、これではサシミを作るのはむずかしかろう。  リビア砂漠では、マナ板にする板を手に入れるのに苦労したことであった。    カスバの味  本場のトルコ風呂をごぞんじかな。いや、もうすばらしいものだ。一度その味を知ったら、やめられない。そこで、新しい町へ行くと、また風呂屋をさがしにカスバをうろうろすることになる。  カスバといっても、アルジェの街の専売特許ではない。地中海にそった北アフリカの都市は、たいていカスバから発展したものだ。カスバとは、もともと城壁にかこまれた町のことだ。都市が大きくなると、たいてい、カスバは旧市街として残り、土着商人のマーケットとなる。カスバに鉄筋コンクリートの建物はない。昔ながらの日乾レンガにシックイをぬった家、石積みの家が軒を接してひしめいている。道は例外なく細い。自動車の通れるところはまずない。昔はラクダが二頭すれちがうことができたら道の機能が充分はたせたのだから。両側の家が二階でつながって、路地はまるでトンネルのようになっていたりする。カスバは、とてつもなく人口密度の高いところだ。  戸口をとざしているような家はない。うず高く積んだ反物にうもれて、主人の姿がみえないような呉服屋、いつもタガネの音が聞える金細工屋、宝石商、金物屋、仕立屋、パン屋、商品をならべてない家でも入口をあけて、ゴザやジュウタンのうえで、職人らしき人が何か仕事をしている。カスバは、中世のイスラム都市の繁栄ぶりが、そのまま化石になって残っているようなところだ。  さて、カスバのなかで風呂屋をさがすのはなかなかめんどうである。肉屋だったら、店先に血のしたたる羊がぶらさがっているし、八百屋だったら、トマトやキャベツがならんでいる。風呂屋だけは、商品をならべているわけじゃないし、温泉マークといった重宝な目印も、男湯、女湯と染めぬいたノレンもぶらさがっちゃいない。戸口のうえに「サルタン浴場」とか「アレクサンドリア浴場」とか書いてはあるのだが、カンナクズがダンスをしているようなアラビア文字をおぼつかなげに一軒一軒読みながらあるいたら、一日たってもカスバから出られやしない。  そこでどうしても、人にたずねなくてはならない破目になる。迷路のような、カスバの路地のことだ。一回聞いただけで風呂屋にたどりつくことは、まずむずかしい。角を曲るごとに、誰かつかまえて「風呂屋はどこだ?」とたずねることとあいなる。風呂屋は、アラビア語でハマームというが、発音が悪いと、ハトという意味のことばに聞える。聞いた相手に、ハトが豆鉄砲をくったような顔をされないように、正確に発音しなくてはならない。  さて、風呂場へたどりつくと、入口で大きな布を一枚渡される。これを腰のまわりにまきつけて浴室へ入るのがエチケットだ。重いトビラを押すと、またドアがある。二重のドアをくぐると、熱い空気につつまれる。乾式の蒸風呂だ。北欧のサウナほど熱くはない。十メートル四方くらいの部屋がタイル張りになっていて、タイルのしたからおだやかな熱が伝わってくる。部屋の中央か片側に大理石でつくった大きな台があって、この台のしたを熱気が通っている。  大理石のうえに十分間くらいすわったり、横になっていると、おだやかな熱気が身体の芯までしみ通って、じわじわと汗が流れはじめる。部屋の壁ぎわには、彫刻のほどこされた石製の鉢が、つくりつけの洗面器として並んでいる。このうえの蛇口から、湯と水が流れる。ここで身体を洗う。  三助をたのむと、たいてい相撲取りのような大男が出てきて、まずマッサージをしてくれる。レスリングの寝技みたいなことをして身体のあらゆるところを引っぱり、ねじ曲げ、ふみつける。関節は、ポキポキと音を立て、身体じゅうがばらばらになりそうだ。それでいて、苦痛ではない。大男が|渾身《こんしん》の力をこめたマッサージをうけると、その後一週間ほど身体の調子はきわめてよい。あるくときも、足が軽々とあがる。  マッサージのあと、身体を流してくれる。湯で汗を洗い流したあと、ヘチマでつくった袋を手にはめて、シャボンをぬりつけ、ゴシゴシとアカすりをしてくれる。  浴室を出るときには、三助氏が乾いた布を二枚持ってきてくれる。一枚をぬれた腰布ととりかえ、もう一枚を頭からかぶって、上半身にまきつける。湯あがりの場所は、これはまた広々としたものだ。大きな部屋の両側に十メートルもの長いマットがしきつめてある。壁ぎわには、長さ十メートルの枕。風呂から出た人々がずらりと横になって、おしゃべりをしている。寝ころぶと、番人のじいさんがすかさずシーツをかけてくれる。ぬれた身体を乾かしながら、横になって冷たい飲物を口にする。浴場によっては、湯あがり場は、ベッドを二つ三つ置いた小さな部屋に仕切ってある。こんな浴場へは得意先をつれてきて、一風呂あびてから、個室のベッドに横になりながら商談をしたりするようだ。  風呂代が大体三百円前後、三助代が二百円くらい。念のためことわっておくが、風呂屋に女性は一切いない。一週間に一日くらいの割りで、女性入浴日がきまっているが、このときは、番台から三助にいたるまで、女に交代する。  風呂で身体中から汗をしぼりだし、はげしいマッサージをうけたあとでは、腹がぺこぺこだ。食物屋をさがそう。カスバの食物は、例外なしにやすい。一九六八年、北アフリカの遊牧民の調査に出かけたとき、相棒の|谷《たに》 |泰《ゆたか》さん(同志社大学講師)といっしょにアルジェのカスバでたべたときの値段を書いてみよう。  まず、最初に立ち止ったのは鉄板焼きの店だ。道端に七輪を出して、油をひいた鉄板のうえで肉や野菜を焼いている。うまそうなにおいにつられて立ち止ってながめる。ヒキ肉、タマネギ、ニンニクのミジン切り、香りのよい草をいっしょにいためたうえに、卵を一個ポンと落してかきまわす。卵がかたまらないうちにオムレツ状になった具を鉄板のかたわらにおしやる。油をひきなおして、すき通るほど薄いチャパティを鉄板のうえに広げる。紙のようにうすく小麦粉をのばして、あぶってつくった直径三十センチくらいの円形のチャパティ。このチャパティのうえに、どろどろしたオムレツをのせて、長細い封筒のように折りたたんで揚げる。こうして、オムレツの包み焼きが出来あがる。一個三十円くらい。焼きたてを新聞紙にくるんでもらって、たべながらあるく。  食物屋をさがすのは簡単だ。鼻をヒクヒクさせながら、においのする方へあるいてゆく。路地を曲るとあった、あった。立食い専門の食堂が二軒向き合っている。片方は、オカズ専門、もう一方は、スープやアラブ風に料理したスパゲッティを売っている。  オカズ屋の前に立つと、トルコ帽をかぶったオッさんが、野球のバットほど長いフランスパンを切ってカウンターに置いてくれる。まず、イワシのテンプラ。頭をとって五センチくらいのイワシが一皿に十匹は並んでいる。カウンターのはしに、塩ツボと四つ割りにしたレモンを山盛りにしたボールがおいてある。揚げたてのテンプラに、レモンをしぼりこんでたべる。つぎは、レバーいため。ニンニクとトウガラシの味がきいていて、関西でいうホルモン焼きと変わらない。それに、トウガラシをいためたもの。欲をいえば、酒がちょっとほしいところだ。日本の一杯飲み屋のおつまみと変わらないじゃないか。ただ分量だけは、おつまみにくらべてはるかに多い。  向かいの店から、スープを取る。中華ソバのドンブリよりも一まわり大きなホーローびきのボールに、たっぷりとスープを入れて持ってきてくれる。ウズラ豆をトマトスープで、長時間煮こんだもの。ヒツジの肉も入っている。これだけたべて、お代は、二人分でなんと百四十円。  北アフリカの都市だったら、カスバのなかか、市場の近くに、かならずこんな食物屋がある。カツオのブツ切りを煮た料理とか、細いスパゲッティでつくったヤキソバなど、わたしたちの|嗜好《しこう》にあう食物を発見できるのも、こんな庶民的な店である。    スライスした肉  薄く切った肉を皿にならべて売っているのは、日本くらいのものだ。外国では肉を、塊りのまま売っている。肉二百グラムというような買物は、たいへんむずかしい。最低一ポンドとか、半キロ単位で買ってゆく。  アフリカの市場などでは、牛一頭を天井からぶらさげて、お客の注文を聞いては、ナタやマサカリで脚を半分くらいにぶった切って渡してくれる。皮ははいであるが、筋はついたまま。シチューなどだったら、そのままブツ切りにして、長く煮込んだら、何とかたべられるが、ビフテキなどにしたら、入歯の人など噛み切れるものではない。なにしろ、サバンナで、きびしい生活をしていた牛だ。筋だらけ、腱だけが発達して、脂肪などありはしない。  肉を買ってきたら、まず料理の前に、筋を全部とりのぞかなくてはならない。筋肉にそって、切れるナイフを入れて、枝肉を分けておいて、白い筋を一つ一つていねいにはがしてゆく。実にめんどうくさい、時間のかかる作業だ。いくたびとなく、こんなことをしているうちに、わたしも肉屋の小僧くらいはつとまるようになった。  アフリカでも白人相手の肉屋や、ヨーロッパの町の肉屋では、さすがに筋は取りのぞいてある。だが、薄く切った肉は置いてない。スキヤキとかシャブシャブがたべたいときには、ハムを切る機械で一番薄く切らせることだ。  まちがっても、肉屋のオヤジに庖丁で切らせてはだめだ。 「オマエサンの技術の許す限り、もっとも薄く、スライスしろ」  などといったところで、太い指をしたオッサンのことだ(どうして西洋の肉屋のオヤジは皆あんなに太り、どうしてあんなにまんまるい指をしているのだろう)。 「ダンナ、紙のように薄く切ったぜ」  と自慢そうにさしだしてくれても、厚さ五ミリは確実にある。スキヤキにしたら、肉がくるくると巻きあがることがなく、いつまでもピンとつっぱったまま、ステーキのようになってしまう。  肉屋にハム切りの機械がなかったり、骨つき肉で機械が使えないときはどうするか。切れ味のよい肉切庖丁と砥石があって、しかも、あなたの庖丁の腕がさえているのだったら話は別だが、さもなければ、肉の味が少々おちるのを覚悟のうえで、肉塊を冷蔵庫の冷凍室に入れて、カチンカチンに凍らしてしまう。  凍って堅くなった肉を、ノコギリで木を引くように、庖丁で切ったら、紙のように薄くも切ることが可能である。    招待はナベものにかぎる  ニューギニア高地のダニ族にごちそうをするとしたら、何をたべさせる? サシミだとか、テンプラは、おそらく気味わるがってたべないだろう。また、ハシやナイフ、フォークは使えない。ヤキイモをたべさせたら、まちがいはない。だが、これはかれらの常食であるから、特別ごちそうになったという気もおこすまい。  かれらの味付けに使う調味料は、塩だけ。塩は貴重品である。ときたま、もったいなさそうに野菜のむし焼き料理にふりかける。サトウキビ以上の甘味はない。砂糖をなめさせたら、甘すぎるためか、べつにうまそうな顔はしなかった。かれらは、動物性蛋白質にうえている。ブタをたべることが最上のごちそうである。  わたしたちが、ウギンバ部落のダニ族にふるまいをするときには、コンビーフと塩を使った料理をつくることとしていた。一番うけるのは、サツマイモの葉、あるいはキツネノゴマ科の一種で、かれらが食用に使う野草を入れたマゼメシをつくる。メシをたくときには、口がひん曲るほど塩を入れる。出来あがったメシのうえにコンビーフをのせる。これをナベのまま出す。すると、「ブタと塩、すばらしい」ということでもって、夢中になってたべてくれる。かれらは、ウシを見たことがないから、コンビーフもブタ肉とおもっている。もちろん手づかみだ。ごしょうばんするわたしたちには、塩味がきつすぎるのだが、そこはお客さん第一で、がまんすることとした。  ダニ族のように味にむずかしいお客さんや、イスラム教徒、ユダヤ教徒のように食物の材料にやかましいお客さんを食事に招待するときには、いろいろな配慮が必要である。だが、ふつうの外国人だったら、何も特別の料理をつくらなくてもよいではないか。  短期間日本に来た外国人は、スキヤキ、テンプラ、サシミといったたぐいの日本料理しか知らないのだから、お茶漬とか、菜っ葉のおひたしにメザシを焼いたものとか、インスタントラーメンのたぐいをたべさせたら、かえってめずらしくて、満足するかもしれない。  外国人を食事に招待するとなると、何か大変な災難が身にふりかかったように思いこみ、一週間も前から考えあぐんで、とどのつまりは料理屋へ連れていってお茶をにごすこととなる。  日本では、家庭でごちそうをするのは気のおけないお客さんであり、だいじなお客さんには料理屋でもてなしたほうが敬意を表したことになる。だが、料理屋でのごちそうは、食事料金を払ってくれただけのことであり、家庭での食事招待の心のこもったものには、およびもつかないと考える外国人が多いのである。また、家庭へ招待したあとでの、つきあいの深くなることは、いうまでもない。  商社の在外駐在員などで、こんなことはよくわかっているんだが、それでも、「今晩、ウチへメシを食いにこないか」ということばがだせないとなげくひとに何人か会った。女房がいないのでちゃんとした日本料理がつくれない。あるいは、何をたべさせたらよいのかわからないというのが、大きな理由である。  よろしい。つくるのに手間がかからず、誰にでもよろこばれるごちそうのつくりかたをお教えしましょう。水たきをつくることである。カシワの水たき、魚の水たき、チリナベ、スライスした肉を使ったシャブシャブまがいのもの、ブタナベ、ハムを材料に使った水たき、何でもけっこう。外地にいても何かしら水たきの材料はあるはずである。  醤油がなかったらマギーのソースでじゅうぶん。ダシ昆布がなくても、コンソメスープの素はどこでも売っている。これで代用なさい。野菜も手に入るものでよい。ネギ・白菜がなくては、などとかたいことはいわないこと。レタス、クレソン、キャベツ、マッシュルームなどの西洋野菜でもけっこうあう。材料をえらばぬことが水たきの特徴である。  水たきだったら、材料を洗って切るだけで準備完了。料理は各自がやってくれる。  肉、魚など主な材料と、野菜をテーブルのうえにならべる。このとき忘れてはならないのが、薬味だ。味付け用にあるかぎりの香辛料、調味料、薬味を総動員すること。塩、コショウ、トウガラシ、チリソース、ウスターソース、ケチャップ、マヨネーズ、醤油、マスタード、おろしチーズ、酢、サラダオイル、ネギのミジン切り、ダイコンおろし、ニンニクをおろしたもの、おろしショウガ、レモン……  材料はダシ汁で煮ただけで味はついていない。味付けは各自の好みにさせることがミソだ。  なかには、カシワの水たきに、塩、コショウ、サラダオイルにレモンをしぼりこんだチキンサラダみたいなものをつくって、うまいという者もでてくる。各種用意した薬味、調味料のたぐいから、お客さんが自分の責任において味付けをするのだから、主人が味付けに関してうらまれることはない。  いわば、水たきは材料だけ用意して、お客さん達に勝手に料理させるのだから一番手がかからない。自分でつくったものだから、まずいことはあり得ないという意識もはたらく。それに、手前味噌のたとえどおり、皆、自分の味付けが一番うまいと思いこんで、味自慢くらべになったりする。そして、皆、西洋料理ではめずらしいナベ料理のもつ雰囲気に満足してもらえる。 「同じ釜のメシを食った仲」ということばにあらわされるような共同飲食の連帯感がいつのまにか外国人との間でも生れてくるのである。学生のコンパは、連帯感あるいは仲間意識の再確認といった意味あいを持つものである。この場合、相もかわらずスキヤキ・コンパが多いのは、ナベもののもつ雰囲気が、ぴったりしているからであろう。  ともかく、外国人を食事に招待するとき、ナベもの料理にしたら、かならず満足してもらえる。 [#改ページ]

 
わたしの料理入門    サツマイモ・ジェネレーション  奥地といわれるような場所で数カ月くらしていると、ときどき日本の食物に対する|妄想《もうそう》をいだく。電灯もなければ、映画館もなく、デートをする相手もいなかったりするので、妄想にふける時間はたっぷりある。あれこれとうまいものをたべたときのことを思いかえしたり、日本へ帰ったら、あれをたべてやろうと考えるのである。  妄想をいだくのは、きまって食料事情の悪いときである。原住民と同じ食物だけでくらしているときとか、自炊をしていても町へ出る便がなく一カ月近く現地で手に入る数種類の材料だけで料理をつくるほかないような事情のときである。日本料理の材料はなにもなくても、バラエティーに富んだ食事を毎度つくることができたら、ヒヤヤッコもヒヤムギもたべたいとは思わない。また、ヨーロッパや香港に居て、日本料理への妄想をいだくこともない。食物の妄想は、まことに生理的なものであって、耐乏生活をしているときにだけおこるものだ。  わたしの妄想にきまってうかびあがる食物のひとつに、クジラのベーコンがある。上がふくれあがった食パン、あるいはコックのボウシのような形をして、すきとおるほど薄く切って売っているクジラのベーコン。三分の一ほどの部分が赤黒い肉で、あとは細かなセンイ質の組織のあいだに黄色い脂肪がすけてみえる。まわりは赤く人工着色してある。口に入れると、脂肪がねちゃねちゃし、二、三枚たべるとくちびるが油だらけになってしまう。ブタのベーコンにくらべたら値段も半分くらい。外国ではけっしてお目にかかれないきわめて日本的なたべものである。ただし、現在では場末の食料品店へ行かないと売っていない。  どちらかといえば粗野な味で、けっして大変おいしいものとはいえないが、わたしはクジラのベーコンに郷愁を感じるのである。ときどき、発作的にクジラのベーコンがたべたくなり、遠い店まで買いに行って、たちどころに二百グラムくらいたべてしまう。クジラのベーコンが好きな理由は、わたしの育った年代に関係している。  わたしの生れたのは、一九三七年、日華事変のはじまった年である。五歳のとき太平洋戦争がはじまる。小学校に入りたてで、家は空襲で焼かれ、その後疎開をして以来、何年もサツマイモとのおつきあいがはじまった。  わたしたちよりも、すこしばかり早く生れて、太平洋戦争のころすでにものごころついていた人びとは、戦中派だの戦後派だのといって肩をそびやかしている。だが、なにも|訳《わけ》がわからずに、カンコロイモばかりたべて、空き腹をかかえていた子供たちのほうが、かえって戦争体験の傷がふかいのではなかろうか。この世代を名づけて、サツマイモ・ジェネレーションとよぶ。  わたしが、いまだもって、クジラのベーコンが好きなのは、それが食糧事情の悪いころ、一番上等の配給品であって、子供ごころにごちそうに思えたからに相違ない。  長じても、幼年期の飢餓に対する潜在的な恐怖感が後遺症として尾をひき、大食癖が高校生のころまで続いた。わたしの中学生のころのアダ名はスカッパである。スカッパとは船の排水孔のことである。この底なし孔はまた、船員が残飯を投げこむのにも使われる。わたしの胃袋も底を知らないようであった。中学生のころ、たべおわったモリソバのセイロを自分の背の半分まで積み重ねたことがある。もっとも、そのころは背も低かったことだが。  わたしの大食癖がおさまったのは、酒の味がわかりかけてからである。わたしの酒歴は十八歳のころからはじまる。微妙なものの味の識別ができるようになるには、人間の成熟をまたなければならない。中学生が、うまいという食物と大人の食物に対する評価はちがうはずである。女性は一般的にキントンや卵焼きが好きだそうだが、これは女は味については幼児型であることをしめすのかもしれない。生理的には、ものの味を識別する能力は、二十歳くらいで最高に達し、あとはおとろえる一方であるという説がある。  しかし、味の識別能力と食品、料理に対する見識はおのずから別である。味の識別能力が生理的な次元のものであるのに対して、食物に関する知識や趣味は、教養であり、文化の次元に属することである。  わたしの場合、酒を飲みだすことによって大人の文化へ足をふみこみはじめ、それにともなって食物に次第に目がひらけてきたといえよう。子供のころは、臭いをかぐのもきらいであった川魚やシオカラのたぐいへの偏見が消え、うまいものであることを素直にみとめたのも、酒を飲むようになってからのことである。二十歳になるまでに、幼年時代のウラミがのこっているサツマイモをのぞいて、ふつうの食物できらいなものはいったんなくなった。  ところが、大学で探検部というクラブに入っているうちに、ポリネシアのトンガ王国に遠征することとなった。足のおそい貨物船で赤道をこえて、三十日間の船旅だった。この船の朝食のオカズは目玉焼きだった。防腐剤が注射してあって、臭いのする卵でつくった目玉焼きを二個皿にのせたオカズが三十日間つづいた。しまいには、皿のうえから二つの目玉ににらまれているような気持がするようになった。目玉焼きは一生食うまいと決心したことであった。  大学院に入りたてで、西イリアンの中央高地の探検に出かけた。ここでの主食は、なんとサツマイモだった。  その後、東アフリカ、北アフリカ、太平洋地域と人類学の現地調査に出かけるうちに、三十歳になるまでにアメリカ大陸をのぞく世界をひととおり、ざっと見、聞き、食いまわることができた。    探検に行くとふとる  わたしの仲間たちは、しょっちゅう外国に出かける。それも、ヨーロッパやアメリカ合衆国ではなく、いわゆる未開地に行く人がおおい。わたしのともだちの多くは、京都大学の探検部、山岳部、学士山岳会、生物誌研究会、人類学研究会のいずれかに関係している。探検、登山、野外科学の分野で活躍している人びとである。探検はもちろんのこと、登山も初登頂をねらうなら、ヒマラヤやアンデスでも、かなり奥地へ入りこまなくてはならないし、野外科学でも未知の領域の豊富なのはいわゆる未開地である。また、京都以外のともだちでも、わたしの専攻する人類学を通じてのつきあいのある人びとの多くは、未開社会での現地調査をこころがけている。  このごろでは、海外に出かけているひとのほうがおおくて、仲間たちが日本で顔をあわすことがむずかしい。しばらく見かけない友人に、アフリカの田舎でばったり会ったというような話もずいぶんある。  みんなじつに気軽に旅立ってゆく。アフリカへ一年行くのに、週末に山へ行くのとたいした変わりがないような気分で飛行機にのる。悲壮感みたいなものなぞかけらもない。そして、元気で帰ってくる。ちかごろ、やせて帰国したともだちをみたことがない。二十代の人だと、反対にふとって帰ってくる者がおおい。  みな、例外なしに、フィールドへ出かけたら、身体の調子がよいという。それはそうだろう。日本の都市にいるよりも、未開地で生活しているほうが、ずっと健康的だ。空気はきれいだし、電話もかかってこない。満員電車にゆられることもない。夜ふかしすることもなく、ランプを消して寝て、朝は早起き。身体を使った仕事をするので、食欲もおうせいになる。  未開地へ行っていたら健康体になって帰ってくるのは、あたりまえだ。しかし、若い人がふとって帰ってくるのは、これはいったいどういうわけだ。  わたしの体験からいえば、下宿、外食生活をしている若い独身男性の日本での食事が、わるすぎるのである。料理の材料も思うにまかせない未開地でつくる食事のほうが、まだ日本での学生食堂での食事よりもましなのである。未開地へ行くときには、出かけるまえから現地での食事に相当の配慮をすることがおおい。登山パーティーのようにチームを組んで一緒に行動する場合だったら、チームのなかにかならず一人食糧係がいて、いつも、うまいものがたべられるように出発まえから、現地での献立を考えて、そのため必要な食品を手配しておいてくれる。また、一人で自炊しながら現地調査をするときだったら、それだけに健康に気をつかい、食物も自分なりに工夫をこらす。そして、未開地でほかに楽しみがないだけに、食事をうまいものにしようとすることになる。自分のすきな材料を自分ですきなように料理するのだから、うまいのは当然だ。未開地でも町に出かけたときコンビーフを沢山買いこんだりして、蛋白質の摂取量も、日本にいるときよりも多くなる。たいていの場合、外国に出かけたときは、日本で下宿生活をしているときよりも、一食あたりにかけることのできる食費の金額が多く使える。  現在(一九六八年)、わたしの友人の学生や大学院学生で下宿、外食生活をしている人びとに聞くと、ふだん食事に使う金額は一食百五十円から二百円程度である。三百円以上かけた食事は、ごちそうの部類に入る。ふだんの日だったら一日の食費が五百円をこすことは、まずないのだ。一カ月に一万五千円も食費にまわせるほど余裕のある学生はまずいない。日本育英会の大学院博士課程の奨学金が、月額一万八千円だ。  百五十円程度で、いったいなにがたべられるだろう。このごろは、ドンブリ物一杯でもそのくらいの値段がする。大学の学生食堂でだったら、百五十円で、栄養学的には一応満足した献立の定食をたべることができる。しかし、大学の学生食堂は、例外なしにまずい。安い金額でビタミンやカロリーだけは充分とらせようというので、材料は安物ばかりだし、味付けなどは二の次である。だいいち、メシそのものが外米のポロポロだ。何百人分を一度にたいておき、冷えかけたメシを、プラスチックの皿に、ポンとあけて、あとはセルフサービスで持っていかせる。味や食事の情緒などにかまってはくれないのである。大学の学生食堂は、栄養中心主義でこりかたまっている。  栄養中心主義は、実は人間|蔑視《べつし》の思想とつながるところがある。ビタミン、カロリーなどが満足されたら、味はどうでもいいといった食事思想が幅をきかしているのは、もともと軍隊、刑務所、病院などだ。そこでは食事は人間の機能維持のために配給するエサであるといった考えかたが強いようだ。ある大学病院では、患者へくばる食事は食事とよばずに食餌とよんでいる。エサなのである。だが、大学食堂がまずいといってせめるのは、酷であろう。なんといっても日本の学生が貧乏すぎるのである。  栄養は不足なくとれるにしろ、大学食堂で三度の食事をとるのは、わびしすぎる。それでいて、レストランで食事をとるには財布が軽すぎる。そこで、街の学生食堂でたべるということになる。京都は東京とくらべて、学生にとっては住みやすい場所である。街のあちこちに、学生相手の食堂がある。そこで、安い値段で家庭的な食事をすることができる。それでもドンブリ一杯のメシ、味噌汁、サバの煮つけとホウレン草のおひたしの二皿をたべたら、百五十円になってしまう。街の学生食堂での食事では、どうしても栄養がかたよったり、カロリー不足になってしまう。  日本の中核をになう学生たちの食事は、かくもまずしいのである。大学へ入って親の手もとをはなれてから、結婚して奥さんの手料理にありつくまでの間は、外食をしている独身男性の体位向上はおおむねのぞめないのである。大学時代に頭へつめこむ教養はできても、胃袋へつめこむ教養はまったく身につかないのである。  フランス人は「その人の食物で人物を判断せよ」といって、食物に対する教養を人物評価の基準のひとつとする。しかし、日本では、関西の商業ブルジョワジーのあいだで食物の教養が重んじられているくらいのものだ。とくに東京を中心とする官僚文化のなかでは、食物に関する教養が人格を判断するための問題になどとりあげられはしない。もともと、明治以来東京で日本を動かしてきた官僚、軍人の文化が、下級武士の文化をひきついだものであり、趣味、教養の面では、洗練されていない、ヤボなものであった。そしてまた、官僚機構の中心を引きついでになっていく帝国大学の学生が、また、おおむね貧乏であった。そこで、バンカラや書生っぽさを強調することが称賛されることはあっても、食物に対する教養の深さは、かえって人物評価のときにマイナス点とされるのであった。ラテン世界の尺度からすれば、日本のインテリの多くは、食物に対する教養の面では「育ちの悪さ」を示している。    あとかたづけの妙案  わたしは、もともとたいへんだらしない、ちらかし屋である。自分の机に紙きれや本がちらかって収拾がつかなくなると、となりの他人の机を使って仕事をする。それも、ちらかすと、その取りかたづけをせずに、もうひとつとなりの机をちらかしてしまう。オフィスじゅうの机を乱雑にしてまわっては、みなにうらまれることとなる。  過去十一年間の京都での下宿生活のあいだに、十四回引越しをした。それほど居心地の悪い下宿にばかり住んでいたのではない。大掃除をするのがめんどうでありきらいなのである。部屋じゅうが文字どおり足のふみ場がないくらいにちらかっても、意に介さない。紙くずや本、それに小間物が部屋の床を三層くらいおおってしまい、大掃除をするほかどうしようもなくなったら、めんどうであるから引越しをしてしまうのである。部屋の大掃除をするといっても、友人たちに、なかなか助力をたのめないが、引越しということだったら、みな駆けつけてくれる。いまや、わたしは引越しのエキスパートである。いざ引越しとなっても、ちっともあわてはしない。エキスパートともなると軽々しく動いたりはしない。人を集めて、指図をするだけで、自分ではちっとも働かないのである。  七回目の引越し頃から、かならず自炊のできる下宿に住むことにした。うまいものをたべていた探検からもどってきては、また味気ない外食生活にもどることが、ほとほといやになったのである。それから五年間、自炊生活をつづけている。  関西は、独身者にとって自炊のやりやすいところである。市場では、ダイコンを半分に切ったもの、白菜を四分の一に切ったものを売っている。東京のように白菜は一個でしか売ってくれなかったら、一人ぐらしでは、数日間、白菜ばかりをたべなくてはならないことになってしまう。  この五年間のあいだ、日本にいるときも、国外でも、毎日のように自分の腕をふるった食事を楽しんできた。このごろでは、失職したら、料理で身をたてることもできそうだと自負しはじめている。  しかし、じつはちらかし屋のわたしのことである。わたしには料理人としては致命的な欠点がある。たべたあとの食器のあとかたづけ、食器洗いがいやなのである。ついめんどうくさいものだから、たべたあと食器をそのまま乱雑につみ重ねておく。そのうちに、気分ののったときに洗ったらいいさと思って、その場はお茶をにごすのだが、皿洗いをしたくなるような気分のときがあるはずもなく、いつしか皿にこびりついた肉汁にカビが生える次第となる。  紙皿というものを使ってみた。これを使いすてにしたらなんのめんどうもなく、たべたあと始末ができるはずである。しかし、どうもうまくいかない。厚いステーキが、吹けばとぶような薄い紙のうえにのっかっているのでは、料理がいっこうにはえない。審美的にはせいぜい、オードブルやサラダを盛るに似つかわしいものである。おまけに、紙とはいえ、食事ごとに新しい皿を買うのであるから、その値段もばかにならない。皿のぶんだけ、うまい材料を買ってたべたほうがましだ。  その点、トンガ諸島の食器はすばらしい。皿にはバナナの若葉を使う。葦の若芽のようにくるくる巻きこまれて、一度も外気にさらされていないバナナの若葉をとって、ひろげる。このうえに食物をならべる。衛生的でみた目もうつくしい。使いおわったら、すててしまう。毎回新しい食器を使って、それでいて|タダ《ヽヽ》だ。皿は庭に生えている。  スープのたぐいは、ヤシの殻によそうことがおおい。これも使いすてだ。皿洗いをするたびに、わたしはトンガでの生活をなつかしみ、トンガ人の主婦をうらやんだ。  日本でも、昔は柏の葉に食物をよそったりした。お盆の蓮の葉飯はその名残りである。  つぎに思いついたのは、クッキングホイルをうまく使う手だ。魚や肉を包み焼きにするときに使うピカピカの銀紙だ。皿をすっかり銀紙でくるんでしまう。木のお盆も銀紙でくるむとりっぱな銀の食器にばける。たべ終ったら、銀紙をはいで食いかすもろともに、くしゃくしゃとまるめて、ゴミ入れにポイとほうりこんでおしまい。  しかし、毎日銀の食器でたべていては、気がおちつかない。うっかり銀紙を破ってしまったら、下の皿に汁が流れだして結局は皿をよごすことになる。それに、飯茶碗と汁椀はハシでつつき破る可能性が大きいので、銀張りにするわけにはいかない。この二つを洗うのと、残りの皿洗いをするのも、いったん手をぬらした以上はたいした相違がない。  何といっても、一番手のかからない方法は、人にやらせることである。お手伝いさんをやとうほどの余裕はない。さいわい、わたしの料理はうまいという定評が仲間うちにある。そこで、よごれた皿がたまったところをみはからって、友人を夕食に招待する。ただで、うまいものをたべさせるかわりに、皿洗い、台所の整理は、招待客のなさねばならない義務である。 「ごちそうになるのはいいが、そのあとがこわい」とぶつぶついいながらも、わが家へ皿洗いにくる常連が何人かいる。    いやしいことはいいことだ  探検とか、未開社会を相手としたわたしの人類学の調査をおこなう場所には、食堂なぞありはしない。食事は、現地の人間とまったく同じものをとるか、あるいは自分でつくるかである。できれば、現地人の家に居候して、かれらと食事をともにしながら調査をすることがのぞましい。場所によっては完全な現地食主義を徹底させることが可能だし、わたしも試みたことがある。だが、サツマイモばかりで何カ月かすごせといわれたら、わたしはお手あげである。生理的にサツマイモだけでは、わたしは生きられない。イモ類のカロリーは穀物の四、五分の一程度である。ということは、メシの五倍たべなくてはならないことを意味する。事実、ヤムイモを常食とするトンガ人、サツマイモで生きているニューギニアの高地人など一度にイモを一キロくらい平気でたべてしまう。いくらわたしが子どものころ大食いであったとしても、これだけイモを一度にたべることはできない。また、無理をしてたべたところで、日本へ帰ったら胃拡張になやまされることになる。  現地で自炊をするといっても、テントや仮小屋での生活である。調理台や流しはない。現地で手に入れた材料を、梱包用の木箱のうえできざんで、焚火や携帯用のストーブで調理することになる。設備、材料ともに制約をうけている条件におかれて、いかに創意工夫をこらすかということが男の腕のみせどころである。食いしん坊のわたしは野外料理で大いに腕をみがいたのである。男が料理上手になるには、食いしん坊であることのほかに、いやしん坊であることも上達への早道である。食いしん坊であるだけだったら、食通になっても、自分で料理をつくる必要を感じないかもしれない。いやしん坊となると、ないものねだりをするのである。外国でしかたべられないものを日本でどうしてもたべたくなったり、とうてい外へ食事をしに行く金がないのに、まえにあの店でたべた料理がたべたくてしかたがなくなったり、条件が許さないにもかかわらず欲望をおさえられなくなるのだ。あさましいことである。しかし欲望がこうじてしかたがなかったら、自分でつくるほかしかたないということになる。  そこで、まえにうまかったとおもった味をおもいうかべながら、なんとかその料理を復元しようと努力することになる。こんなにして、試行錯誤の連続をくりかえすうちに、もうすこし賢くなって、うまいものをたべたときには、ついでに店の主人にそのつくりかたを聞いておく習慣ができるようになる。清代の袁枚という人は、誰かの家でうまいものをごちそうになると、あとでかならず自宅の料理人をその家の台所へつかわして、料理法をならわせ、自家の料理のレパートリーをひろげて、「随園食単」という中国料理の名著を書いた。わたしは、料理人はおろか、自分一人をやしなうのがやっとなので、主人兼コックで、聞きおぼえ、見おぼえの料理を下宿の台所でつくるわけだ。  やってみると料理をつくることも、なかなか楽しいものだ。創造のよろこびというほど大げさではないにしろ、ともかくもなにかをつくりだす楽しみがある。主婦の料理のように義務感でつくるものではない、自分の楽しみのためにするのだというところに素人の男性料理の本質がある。そして、自ら腕をみがこうという向上心が生れる。そこでわたしも思い立って、二カ月間メシと味噌汁以外は同じ献立をつくらないという原則で三食自炊することを試みたりした。婦人雑誌のフロクを参考にしたりしてである。  そんなにしているうちに、海外では料理の先生とよばれることになってしまった。わたしが、男のくせに料理に興味をもつようになった原因は、食いしん坊で、いやしん坊であることにもとめられるであろう。つまり、わたしがさきにのべたサツマイモ・ジェネレーションに属するからである。 [#改ページ] 第二部  食事文化探究の旅

 
南太平洋の島で    皇太子殿下のおまねき  海外で仕事をしていると、わたしのような若僧でも、ずいぶんえらい人びとといっしょに食事をすることがあった。大統領のレセプションに出席したこともある。レセプションというのは、肩がこるものである。ただでは、食事をさせてくれない。食事代として支払わねばならないテーブル・スピーチの内容を考えながら、ナイフとフォークをとっていると、せっかくのごちそうも味気ないものになってしまう。  東アフリカ・アカデミーの第四回シンポジュウムが、ウガンダのマケレレ大学で、一九六六年にひらかれた。各国のアフリカ研究者が集まる国際学会である。どういうわけか、わたしはこの学会へ日本代表という資格で出席することになってしまった。  このとき、学会主催の晩餐会なるものがあった。招待状に書かれた会場へ行くと学者のほかにディナージャケットに身をかためた政府の高官たちが沢山いる。末席にすわろうとすると幹事役がとんできて、オマエの席はこちらだと、メインテーブルに追いこまれた。これはめんどうなことになったぞと内心おそれをなしていたら、あんのじょう学会の会長がテーブル・スピーチをやってくれと耳うちをしてきた。特に外国代表から三人ほどえらんで、食前のスピーチをしてもらうことになったので、よろしくたのむとのことだ。  まず最初に、中共代表の演説。通訳をつれてきている。「偉大なる毛沢東主席の下にかぎりなき躍進をとげつつあるわれら中華人民共和国の人民を代表して、アフリカの同志にアイサツをおくる……」というようなことを中国語で代表がしゃべると、通訳が実にあざやかな英語に翻訳をして伝える。つぎのアメリカ合衆国アカデミーの代表のメッセージがりっぱな英語なのは、あたりまえだ。  まがりなりにも、わたしも日本代表だ。あんまり下手な演説をして、日本の学界がさげすまれるようになっては申し訳ない。しゃべる内容はなんとか形をつけることができるとしても、英語の能力では通訳氏やアメリカ代表氏にかなうはずがない。学会の公用語は英語である。植民地であった場所の常として、学識イコール英語能力ということで、人間の才能が評価される傾向がつよい。さて困ったことだ。  まあ、度胸でやってやれ。わたしは立ちあがって、下手くそながら大声の英語でしゃべりはじめた。一応のアイサツや日本での東アフリカ研究の現状のようなことをしゃべったのちに、わたしは東アフリカの人びとに対する謝辞をのべる演説の部分をスワヒリ語に切りかえてしゃべった。聞き手の大半は、アフリカ人である。また、東アフリカを研究している人びとの集まりなのだから、東アフリカの共通語のスワヒリ語でしゃべってもさしつかえないだろうと考えたのである。習いたてのおぼつかないスワヒリ語でも、皆にわかってもらえたらしい。とくに、アフリカ人の学者たちが喜んでくれた。わたしの短いスピーチに、中共代表、アメリカ代表のときよりもさかんな拍手がわいた。学会の会長も、「ベリーナイス スピーチ」といってくれた。  ほっとして、わたしは、ごちそうの七面鳥を心おきなく味わうことができた。  日本代表ということなので、わたしは学会のお客さんとしてあつかわれ、学会の会期ちゅう、わたしは宿泊、食事ともにタダであった。大学の学生寮にとめてくれたのである。食事は学生食堂でとる。昼食、夕食の内容は、スープ、肉、魚、デザートがついている、ちゃんとした西洋流のコースである。日本の大学生よりもアフリカの大学生のほうが、ずっと栄養の面ではめぐまれている。たいていの学生が、奨学生であり、学費、寮費、食費はタダである。  ところが、この学生食堂での食事が、わたしには苦痛きわまりないものであった。わたしは、学会のお客さんということなので、教授なみのあつかいである。そこで、教授たちと同じテーブルにつかなくてはならない。東アフリカの大学の先生は、たいていがイギリス人である。独身で赴任している人も多い。イギリスの寮制をとったカレッジなので独身の先生は寮のなかに部屋をもち学生の個人的指導にあたり、食事も学生食堂でとるのだ。  学生食堂には、ハイテーブルというものがある。広い食堂のなかに教壇のように一段高い場所がある。この教壇のうえに、先生がたの食卓はならんでいるのである。教壇のうえでたべる食事は、思いだしても身ぶるいするようなものだった。教百人の学生の眼を意識しながら、ナイフとフォークを使わなくてはならない。ガチャンと派手な音をたてて、ナイフを皿においたら、何百人かの視線がそそがれる。おまけに、となりあわせた教授方とは小声で和気あいあいとした会話をとりかわしながら、食事を進行させなくてはならない。ハイテーブルでの食事が一週間もつづくうちに、わたしは自分がノイローゼ性の胃潰瘍になるのではないかと心配したことだ。  とかく、えらい人といっしょに食事をするのは、かなわないことだ。大変なごちそうをいただいても、味など、うわのそらのこととなってしまう。それに料理そのものも専属のコックが献立をつくって、どこか見えない場所で調理したものがテーブルの上にならび、主人も料理については関知しない、というレストランでたべるのと同じ性質の食事になることがおおい。主婦の手料理などはまず味わえない。だが、わたしは大変えらい人の招待で、こころのこもったもてなしをうけた忘れがたい記憶がある。現在のトンガ国王の招餐に連なったときのことである。  そのむかし、タンガロア神が糸をたれて釣りあげたというトンガの島じま。瀬戸内海から任意に二百の島をえらんで、南太平洋にぶちまけて、ココヤシを植える。この星くずみたいな小さな島じまのあつまりがトンガ王国。総面積が琵琶湖ほどの大きさ。人口約七万人。ニュージーランドの北東約千七百五十キロの地点に首島トンガタプがある。  トンガの主な産物はココヤシの脂肪であるコプラだ。トンガ国民なら、男子が十六歳になったら八エーカー四分の一の農地と、村のなかに五分の三エーカーの宅地を国家から受けとることができる。トンガでは、班田収授の法が生きているのである。農地には現金作物のココヤシを植え、ヤシの木の下で主食のイモ類をつくる。たべるのに困る者は一人もいない。一年じゅうシャツ一枚ですごせる。住民は体格がよく、美人ぞろいのポリネシア民族。注意ぶかく観察したらトンガにはトンガなりのなやみがあるのだが、皮相的にみた場合は、南海の楽園というイメージを絵にしたようなところだ。  一九六〇年、わたしはトンガにいた。京都大学探検部トンガ王国調査隊の一員であった。隊長の藪内芳彦さん(大阪市立大学教授)、副隊長の藤岡喜愛さん(京都大学人文科学研究所員)をのぞいた五名の隊員は、みな探検部の若い学生たちであった。わたしは、大学の三年生。はじめての遠征であった。  わたしたちの調査隊は、現在のトンガ国王ツポウ二世——そのころは故サローテ女王のもとで皇太子兼総理大臣で、ツンギ殿下とよばれていた——に大変お世話になった。ツンギ殿下は実に英明な方である。中共とロシア以外の世界じゅうを旅行されている。それも、ただの見物旅行ではない。トンガの開発に役立つ技術を導入するための旅行である。  たとえば日本からは漁業技術を導入し、オランダでは国営会社のため汽船を買いつけるといった工合である。日本へ来たら力士で通用するくらいの体格のよい人びとが多いトンガの王さまになられた方のことである。トンガ人の代表として恥かしくない巨体をしておられる。  飛行機に乗るときは、二人ぶんのシートを占領される。大変な親日家で日本を三度訪問された。わたしたちが、トンガへ出かけるまえにも、日本へ漁船を買いにおいでになったので、京都でレセプションをもよおしたことがある。そのお返しというわけではないであろうが、わたしたちがトンガに滞在中、何度かツンギ殿下の招待をうけた。その皇太子殿下のおもてなしのひとつを記してみよう。  ある日、わたしたちはツンギ殿下の別荘に招待された。殿下の別荘は、トンガタプ島の首都ヌクアロファの町の海岸からみえるパンガイモツ島にある。十五分もあるいたら、島を一周できるような小島だが、この島全体が殿下の所有地である。  ヌクアロファの港から、宮内庁さしまわしの御用船——長さ七メートルくらいのヨット——に乗りこみ、三十分ほど珊瑚礁の海を渡る。パンガイモツ島の近くにくると、浅瀬で貝や魚をとっている人びとの一団にあう。これは、皇太子の直轄領に住む人びとが、わたしたちの宴席のためのごちそうの材料を集めているのだとのこと。  パンガイモツ島は平らな珊瑚島で、珊瑚礁がくだけてできたまっ白な砂浜がヤシ林につづいている。浜辺にツンギ殿下が出迎えられていた。  今回の招待は非公式なものだから、わたしたちにもなるべく楽な服装をしてくるようにというお達しがあったのだが、殿下のいでたちといえば、横綱クラスのお身体の頭にサイゴンで求めた|苦力《クーリー》ハット、足には長さが五十センチもあるオランダの木靴、トンガ風の腰布をまきつけたうえに、まっ赤なアロハシャツを着て、ノッシノッシとあらわれた。まるで海坊主のお化けだ(こんな不敬なじょうだんを言っても、気を悪くなさるような方ではない)。  藪内隊長以下、召使いに背負われて上陸した。わたしだけ、召使いをことわって、ヨットのへさきから浜をめがけて飛降りた。ところが目測をあやまって、海のなかにザブンとはまってしまった。ずぶぬれのまま、握手してごあいさつをすませた。  浜辺のトンガ風の家屋のなかに招じ入れられる。トンガの家は楕円形の床をしている。屋根も、壁もヤシの葉ぶきで風通しがよく涼しい。床には、パンダナスの葉で編んだアンペラが何重にもしきつめてあり、タタミよりも坐り心地がよい。一同床のうえにアグラを組んで、お話し申しあげる。貴人のまえでアグラを組んでも、失礼にはあたらない。トンガの慣習ではアグラが正式のすわりかたである。  殿下がわたしに、「ぬれたズボンを脱げ、かわかしておこう」とおっしゃる。おおせにしたがい家の外へ出て、ズボンをとろうとすると「そのまま、そのまま、苦しゅうない」とのこと。そこで殿下のまえで、パンツ一つの姿になって、ズボンを宮内大臣らしいオジさんに渡し、与えられたトンガ人のまとう腰布をまきつける。  殿下との会話はウイットと知的な雰囲気にあふれたものであった。そのときの話題のひとつ、ポリネシア民族の移動に関する最近の学説もよくごぞんじである。ポリネシア民族が海図もなしに大航海をすることができたのは、海のうえで渡り鳥の方向を常に観察して航路を定めていたのではないかとの殿下の意見をのべられた。かつての大航海民族の神聖な王の子孫である殿下は、航海に関するなみなみならぬ知識と経験をたくわえておられる。ご自身でヨットをあやつって、三百キロはなれたババウ群島まで帆走されることもあるのだ。  座談が一区切りついたところで、一同ハダシのまま浜辺に出る。殿下にならって、服を砂のうえに脱ぎ捨てて、カヌーに乗りこむ。殿下みずからカヌーをこがれて珊瑚礁を案内される。ときどき、こぐ手をやすめて、海のなかへとびこんで、一分くらいもぐっては海草を一つかみとってこられて、「日本人はこの海草をたべるか?」というような質問をなされる。殿下について、わたしたちも泳ぐ。島につくときみた貝ひろいの人びとのところへいくと、とりたてのウミウシをナイフで切ってハラワタをとりだして、海水で洗ってさしだしてくれる。海のなかでオードブルのコースがはやくもはじまったのだ。  浜辺にもどると、食事場がしつらえてある。木を切り倒して柱とし、簡単な枠組をつくったうえに、切り落したばかりのヤシの葉をのせて屋根とする。壁は大きな樹皮布をたらして、日よけにする。床にはパンダナスのアンペラをしいてある。ヤシの葉の屋根がみずみずしい。海をみながらの食事だ。  一同、からだから潮水をしたたらせながらアンペラのうえにすわり、食前のビールを飲む。皇太子妃(現在のマタッア王妃)が席につかれ、誰か料理にくわしい者はいないかと御下問になった。わたしが、名のりでると、「きょうはタコがとれたが、日本風に料理してもてなしたいので、つくり方を教えよ」とのことであった。  トンガ人もタコをよくたべる。トンガでの一般的なタコ料理は、タコの生干しのココナツソースだきである。つまり、タコの頭のなかの臓物をとり去って、木の枝に半日以上ひっかけておき、タコの生乾きの干物をつくる。これをブツ切りにして、ココナツソースでにこむのである。  わたしは皇太子妃に、「大変簡単な日本流のタコのたべかたをお教えいたします。塩を加えた熱湯でタコをゆで、タコがまっ赤になったらとり出して、スライスなさってください。これに、ライムの汁をたっぷりかけたら、日本で酢ダコと呼ぶ料理になります」とお答えした。  おつきの者の合図で料理が運びこまれる。大の男が四人でエッサエッサと料理をかついでくる。それもそのはず、今日のメインコースはあとでのべるウム料理の技法で丸焼きにした体長一・五メートル以上あるブタ二頭である。  ブタは、大きなアンペラのうえにのっている。今日、木から落したココヤシの葉で長さ二メートル以上のアンペラをあむ。このアンペラがオゼンの役をする。アンペラのうえに、新鮮なバナナの葉をしきつめて、そのうえに食物をならべる。アンペラも、バナナの葉も食事がおわったら捨ててしまう。トンガでは、人をもてなすたびに使い捨てのオゼンと皿がつくられるわけだ。  お客は長方形のアンペラのオゼンの両側に向いあって、アグラを組んですわる。たべるときは手づかみだ。イスラム文化のように、左手で食物をさわってはいけないというタブーはない。  この日のブタのほかの料理をあげてみよう。海でたべたのと同じウミウシのハラワタにライムをしぼりこんだオードブル。日本酒によく合いそうなオツな味だ。さきほど殿下が潜っては示された食用になる海草とヤサイでつくったサラダ。丸のままのニワトリをココナツソースであえてタロイモの葉でくるんで、穴のなかでむし焼きにしたウム料理。パンの実をすりつぶして醗酵させたものをタロイモの葉でくるんでむし焼きにしたもの。これは甘酸っぱい味のあるプディングだ。一つで五キロ以上の重さがあるタロイモ、ヤムイモを焼いたもの。それに、皇太子妃に料理法を伝授申しあげたスダコであった。 「ブタの丸焼きで、一番うまい部分は皮のところだ」と殿下は説明しながら、ブタの皮を大きな手で器用にはいでは、わたしたちにおすすめになる。火がよく通ったブタの丸焼きは、皮がキツネ色で、パリパリとはぐとまるでセンベイみたいだ。かむと口のなかで気持のよい音をたててくだけ、香ばしいかおりがする。北京料理の|鴨子《カオヤーヅ》では、丸焼きにしたアヒルの皮を同じように賞味することを思い出した。  殿下は、「トンガ人と日本人の胃袋の大きさを実地にくらべてみよう」と、わたしたちにたくさんたべることをおすすめになった。わたしたちは、探検部の若い学生がほとんどなので、大いにがんばって胃袋につめこんだ。しかし、一同がもうこれ以上は、とてもたべきれないと音をあげたときでも、食いつくすどころか、ごちそうの十分の一くらいしか減っていなかった。  トンガのしきたりでは、宴会での料理はお客にはとてもたべきれないほどつくることになっている。お客が残したごちそうで、宴会の準備に働いた人びとが二次会をやるのである。    女 の 楽 園  トンガの社会では、日本と同じように子供は父親の系譜をたどるし、財産の相続も父から子へとひきつがれる。結婚のときには、妻は夫のところへ嫁入りをしてくる。つまり、トンガ社会は、父系社会の原理で構成されていると、一応は考えてよい。しかし、トンガでの女性の地位は非常に高い。  おなじ家族内でも、姉妹は兄弟の上位にたつのである。年下でも、妹が兄よりも優位になる。そこで、妹の要求したことに、兄はなんでもしたがわなくてはならない。妹がほしいというものを、兄はなんとかして手に入れなくてはならない。妹がノドがかわいたといえば兄はヤシの木にのぼって実を落してやるし、自分の持物でも妹がほしがったら与えなければならない。男の子は幼年期をすぎて、十歳前後になると、姉妹と同室に住むことはできない。女の子は結婚するまで両親といっしょに母屋に住むが、兄弟は別棟で寝起きしなくてはならない。男の子のためのちゃんとした別棟のある家ならよいが、炊事小屋の片隅に少年は追いやられて寝なくてはならないような例も多い。姉妹にお客があるときには、兄弟はそばに居てはいけないし、姉妹に話しかけるときには兄弟はきちんとすわって礼儀正しくして話さねばならない、等々。兄弟は姉妹に対して、女王につかえる騎士のように対さなくてはならないのである。姉は妹よりも上であり、妹は兄よりも優位にある。  そこで、トンガの慣習によると、王の家族のなかでは、王の姉が国王よりも地位がたかく、したがって国内で最高の権力をもつ者であった。この関係は次の世代にまでもちこされ、イトコ同士にまでおよぶ。兄弟の子供は姉妹の子供には頭があがらないのである。それどころか、姉妹の子供は母親の兄弟、つまり叔父よりも優位にたつ。この関係をファフウという。甥、姪は叔父になんでも好きなことを要求できるのだ。叔父の持物を、甥、姪がねだったら、叔父はこれを拒否することはできない。そこで、王室でいえば王の姉である長女は、弟である王になんでも要求できる地位にあった。王に対してファフウの関係になる王の姪はタマハと呼ばれた。  このようなファフウの制度によって叔父が甥、姪の世話をしなくてはならないという事実は、どうやらトンガの過去に母系社会の原理が強く影響していたことを推測させる。トンガの西側に位置するメラネシアの島じまには母系社会がいくつもあり、そこではトンガと同様叔父と甥、姪の特別な関係が見出される。トンガのファフウの制度は、おそらく一番近いメラネシアの島であり、歴史的にもトンガと親密な交渉をもったフィジー諸島から伝わってきたものであろう。  このような慣習による背景をもつトンガの女性の地位は、ポリネシアで一番高いものである。男、女の労働の区別をあげてみよう。  家屋の建築、カヌーつくり、道具つくり、重いものを運ぶことなど、いっさいの力仕事は男の役目である。ヤブを切り開いて開拓すること、耕作すること、植えつけ、収穫など農業関係の仕事もいっさい男がしなくてはならない。もし、女が畑仕事をしたとしたら、その夫は近所の人びとの物笑いの種にされてしまう。もし、家族内に適当な労働力がなかったり、女がヤモメだった場合には、ファフウの制度を利用して、甥をよんできて仕事をさせるのである。  魚釣りや、航海などカヌーに関係した仕事もすべて男の役割である。  女のおもな仕事は、育児、洗濯、炊事、家庭内の整理、環礁のなかの浅瀬での貝ひろい、タパとよばれる樹皮布の製作、ゴザやバスケットを編むことなど、家事に関係した軽労働ばかりである。  洗濯は、トンガ人が輸入品の布をまとうようになってから、女につけくわわった仕事である。昔、樹皮布を腰にまとっていたころは、洗濯という仕事はなかった。樹皮布はアオイ科植物の木の内皮を水につけてからたたきのばして、ノリではりつけ、マングローブの根からとった染料などで文様を染めつけたものである。厚手の和紙みたいな布だ。洗濯のために水につけたら、ノリが溶けてばらばらになってしまう。  女が炊事をうけもつようになったのも、どうやら新しい習慣らしい。白人の手によって、金属製のナベが輸入されるようになってから、日常の食事は女の仕事になってきたもののようだ。初期の白人の航海者の記録をみると、料理人は男であったらしい。すくなくとも、人を接待したり、儀式のさいの食事をつくるのは、男の仕事であった。  トンガの伝統的な料理法は、トンガ語でウムとよばれる穴のなかでの石むし料理である。ウム料理をつくるには、まず地面に深さ五十センチ、直径一メートル程度の穴を掘る。穴の大きさは、ごちそうの量によって左右される。穴のなかに|薪《たきぎ》を入れて火をつける。薪には、コプラをとったあとのココナツの殻が使われることが多い。焚火のうえに、レンガくらいの大きさの石ころを三十─四十個のせて石がまっ赤になるまで熱する。ウム料理用の石ころは、火成岩質のものが火持ちがよいというが、珊瑚礁でできた島の場合には、珊瑚礁の塊りを割って用いる。  焼石ができたところで、薪を穴の外にはらいのけて、食物を入れる。まず、ヤムイモ、タロイモ、キャッサバ、サツマイモなどのイモ類を焼石のうえに直接のせる。文宇どおりの石焼きイモをつくるわけだ。つぎに、イモ類のうえに魚、肉や野菜などをココナツソースであえて、タロイモの葉でくるんだもの——これをルーという——をのせる。ルーのうえにココナツの殻を重ねて間隙をつくりそのうえに横木をわたしたうえに、ヤシの葉を三重、四重にかさねておおってしまう。そのうえに土をかける。盛土の厚さは十センチ以上。  つまり、地面のなかに焼石を熱源とした天火をつくって料理するのだ。二時間近くたってからとりだすと、直径二十センチもあるタロイモでもシンまで火のとおったヤキイモになっているし、ルーはタロイモの葉の包み焼きになっている。葉でくるんであるから材料の持味を逃さない。  のちにのべるニューギニアの石むし料理と原理的には、まったく同じである。ウム料理の手法は、メラネシア、ポリネシア、ミクロネシアの太平洋世界にひろがっている。根栽文化にともなう料理法と考えてよいであろう。現在でも、トンガではウム料理をつくるときには、女は手をださない。女は料理の材料をととのえるだけであり、調理をするのはかならず男である。  小乗キリスト教(太平洋の島じまでは、前近代的な戒律のきびしいキリスト教の宗派が勢力をもっていることがおおい。日曜には歌、踊りをしてはいけない、サンデー・ディナーをかならずとるとか、細かな生活規範がキリスト教によっておしつけられている)のトンガでは、日曜日にはどの家でもかならずウム料理による正餐をとる。ウム料理をつくる日曜日には、亭主か息子がせっせと炊事にとりかかり、その間に女たちは教会の女たちの祈りの集会へいくのである。もしも、女が、ウム料理をしているのをみつけられたら、島中のゴシップの種にされる。    トンガ人のたべもの  トンガ人の日常の食事に主食として使われる作物には、ヤムイモ、タロイモ、クワズイモ、サツマイモ、キャッサバ、バナナ、パンの実がある。  トンガ人の栽培している主要な植物のグループには、共通した特徴がある。それは、みな種子まきをしないでふやすことができる植物であるという点である。イモ類は、親イモを切って土に埋めておいたら芽がでてくる。キャッサバは木質の茎を三十センチほどに切って地面につきさしておけば、水もやらず、草とりもせずにほうっておいても、半年したらばイモができる。パンの実、バナナも親株から出る芽を移植したらどんどんふやすことができる。  このように栄養繁殖によってふやすことができる植物のグループを主作物とした農業を根栽農業とよぶ。根栽農業はもともと、東南アジアの熱帯から、ミクロネシア、メラネシア、ポリネシアの太平洋の島じまへひろがっていったものと考えられる。東南アジア起源の根栽農業の主な作物には、ヤムイモ、タロイモ、バナナ、パンの実などがある。現在では東南アジアからインドネシアにいたる地帯には種子繁殖による農業が伝播して、古来の農業におおいかぶさりアジアでは根栽農業の典型はみられない。ポリネシア、メラネシア、ミクロネシアの太平洋のなかの島じまにだけ、典型的な根栽農業が残っている。  根栽農業は、農業技術としては、大変原始的なものである。本来の生産用具としては、木を切り倒して開墾するための|石斧《せきふ》と、地面を掘るための掘り棒だけだ。掘り棒とは本来は、棒の先端をけずってとがらしただけの耕作具である。現在トンガ王国で一般的に使用されている掘り棒はもうすこし進歩した形式のものである。二メートル近い棒の先に、鉄の細長い刃先をつけたものだ。日本のヤマイモ掘りの道具によく似ている。鉄の刃先をつけたトンガの掘り棒は、百年くらいまえ、捕鯨船でクジラを解体するときに使う刃物をそのまま掘り棒に転用したものだという。  根栽農業では、ふつう肥料を使わない。斧で木を切り倒したあとに火をつける焼畑農業である。土地に養分がなくなったら、また別のヤブを焼きはらって畑にするといった粗放農業である。輪作と休閑を各家族の畑地のなかでくりかえすトンガの農業は根栽農業のなかでは大変進んだ段階といえよう。  根栽農業の収穫物が水分を多く含んだイモ類なので、輸送、貯蔵が困難である。イモ類は同カロリーの穀物の数倍の重量があるし、注意深く貯蔵しても、せいぜい半年しかたくわえることができない。このことは、種子農業にくらべると、大変なハンディキャップである。種子農業地帯では、生産物を中心地に輸送し、貯蔵し、再分配することによって畑で働かなくても食べていける人びと、職人、神官、官僚、王が出現した。社会的分業、階級分化、国家の発生なども種子農業であったからこそ可能であった。  根栽農業で国家らしいものが成立したのは非常にすくない。ハワイ、タヒチ、トンガくらいのものである。いずれも、大国家に発展することはできなかった。根栽農業の限界をしめすものである。あるいは、逆にいったら、トンガは根栽農業のなかで可能性の限界にまで進歩した社会であったといえよう。  トンガで一番重要な作物はヤムイモである。調査隊の一員であった植物分類学の堀田|満《みつる》さん(現在神戸女子大学助教授)によると、トンガで栽培されているヤムイモには百品種以上があるそうだ。人びとは一見しただけで多くの品種を識別することができる。赤ん坊の離乳食用の品種とか、ピクニックに出かけるときベントウにもっていく品種とか、ある儀式のときに国王に献上する品種とかいったふうに、用途別の品種の使いわけがある。自分の畑になるべくたくさんのヤムイモの品種を植えることが、農民のほこりである。現在、トンガで栽培されている作物のうちヤムイモ、タロイモ、クワズイモ、バナナ、パンノキは、もともと根栽農業の中心地である東南アジアに起源をもつ植物である。これらの作物は、ポリネシア人が南太平洋の島々へ移動してきたときから知っていた植物と考えてよいであろう。  これに対して、サツマイモ、キャッサバは南米原産の植物である。キャッサバは、白人と接触してからポリネシアにもたらされたことがはっきりしている。ところが、ポリネシアのサツマイモ栽培起源についてはナゾが残されている。白人が太平洋にやってきてポリネシアを発見するまえから、すでにポリネシア人はサツマイモを栽培していた。トンガでは、サツマイモをクマラとよぶ。となりのフィジー諸島でも、クマラであり、サモア諸島ではウマラ、マルケサス諸島ではクマアとよばれる。このように、ポリネシア全域にわたって、サツマイモをクマラに類似したことばでよんでいる。いっぽう、原産地とされる南米のケチュア語でも、サツマイモをクマラとよぶ。 「コンチキ号探検記」で有名になったトール・ハイエルダールの提出したインカ帝国の子孫たちが太平洋にイカダに乗ってやってきて、ポリネシア人の祖先となったという学説に対しては、現在の学界では、否定的な意見がつよい。すなわち、ポリネシア人の祖先はアジアからやってきたという定説をくつがえすほどの科学的根拠が、ハイエルダール説にはないというのである。しかし、南米原産の植物であるサツマイモをなぜ白人がやってくるまえからポリネシア人が知っていたか、なぜ南米とポリネシアが同じことばでサツマイモをよぶのかという点についてだけは、ハイエルダール説をうまく|反駁《はんばく》できないのである。  サツマイモの原産地を南米ではなく、アフリカや南アジアに求める説、南米からポリネシア人の先祖がきたのではなく、大航海民族だったポリネシア人が南米へ行き、そしてふたたびポリネシアヘもどってきたことによって、南米産のサツマイモがポリネシアに輸入されたのだという説などが、ハイエルダール説に反対する側からのポリネシアにおけるサツマイモの存在についての説明である。  イモ類を主食にしている民族の常で、トンガ人の胃袋は例外なしにおおきい。ほっそりとして可愛らしい十七、八の娘さんでも、食事どきになると、赤ん坊の頭くらいのおおきさのヤムイモ一個をまたたく間にたべてしまう。そこで、中年になるとトンガ人は例外なしに太りだす。成人男子の平均身長が百八十センチ近くある体格のよいトンガ人のことだ。太りだすと、とんでもなく体重がふえる。あるトンガの村でわたしたちは、村人の身長や体重のデータを集めたことがある。わたしたちは百キロまで計れる体重計を用意した。ところが、百キロを超える体重の村人が続出し、あわててハカリを二つ置いて、各々の体重計に片足ずつのってもらって、両方の目盛りを合計して測ることとした。百三十キロくらいの人はざらにいるのである。ツンギ殿下からして身長が約百九十センチ、体重百五十八キロである。しかし、殿下に謁見したときにたまたま話が殿下の体重のことにおよぶと「わたしの国には、わたしよりも体格のよい人間が沢山いる」とおっしゃられた。  イモ類、キャッサバは、もともとは焼くか、ウム料理にしてたべた。トンガ人が、ナベを使用しはじめてから、ココナツソースで水たきにしてたべることもおこなわれるようになった。  ココナツソースは、ポリネシア料理のもっとも基本的な調味料である。ソースといっても、つくりかたは簡単である。ヤシの実を半分に割る。実のなかにつまったジュースは飲むか、すててしまう。ヤシの殻の内側についたまっ白な脂肪のかたまりのような|胚乳《はいにゆう》——これをコプラとよび、ヤシ油、石けん、マーガリンなどの材料になり、トンガ最大の輸出品である——をこそぎとる。コプラをこそぎとるには、ナイフでけずりおとしてもよいが、鋸歯状のギザギザのついた鉄のおろし金のついたココナツソースをつくる専用の道具をつかうことがおおい。けずりおとしたコプラをボールに入れ、水をそそぐ。これを、ココナツの実のセンイでもんでいると、コプラがしぼり出されて水に溶けて白い液体となる。最後にこの液体をココナツのセンイでこして、コプラのカスを取り去ると、ココナツソースができあがる。  トンガ人は、すべての煮たきにココナツソースを使う。イモ類をゆでるときも、水だけでゆでることはしない。かならず、ココナツソースの水たきにする。ココナツソースで調理した食物は、洗濯石ケンくさいにおいがして、はじめてたべるときには、すこし抵抗感がある。だが、慣れると水だけでゆでたイモなど味がさっぱりしすぎていて、ものたりなくて、たべられないような気がしてくるものである。おそらく、ココナツの脂肪がイモにしみこんで、充実感のある味にしているのであろう。ココナツソースを使った料理をたくさんたべると、汗が石ケンくさくなり、トンガ人と同じ体臭になる。  パンノキはクワ料の植物である。パンノキの実、つまりパンの実という名前にまどわされて、パンと同じ味がするだろうとか、実をそのままもいだらたべられるものだと思いこんでいる人がいるようだ。パンの実は生ではたべられない。パンの実の表面はミドリ色をしていて、大きなものは、バレーボールくらいの大きさがある。中心のズイの部分以外の果肉は白色をしたパルプ質になっており、十五〜二十パーセントの澱粉と少量の糖をふくんでいる。トンガで一般的なたべかたは焼くか、ウム料理にする。熱をくわえると果肉はやわらかくなり、マッシュポテトのようなくせのない味がする。  動物質の食物にうつると、ブタ、ニワトリ、イヌそれに魚、貝がおおく用いられる。ブタ、ニワトリ、イヌも、ポリネシア人が南太平洋にやってくるとき、東南アジアから連れてきた家畜である。  ブタは口から尻まで丸太を通しておき火のうえで回転させながら丸焼きにするか、さきにのべたウム料理にする。ブタは、日常の献立というよりは宴会のときの食物である。イヌの料理法もブタとおなじであるが、イヌを食うのは野蛮であるという西洋的偏見がキリスト教といっしょにひろまって、近頃ではイヌをたべても、まわりの者に口をつぐんでいる。  ニワトリ、魚は、ウム料理にするほか、現在では、ココナツソースで煮こんでたべることがおおい。魚のうまいたべかたでは、ライムのしぼり汁、ココナツソース、海水をまぜたソースに生魚の切り身をつけておいてたべるやりかたがある。ライムの酸で、切り身の表面が白くなったところをみはからってたべる。本格的マリネードである。カヌーで海へ出て釣りをしたときなど、とれた魚をその場でブツ切りにして、海水で洗ってたべる。クジラもたべる。クジラの肉はウム料理のほかに、イモ類といっしょにココナツソースで煮こんでたべる。トンガ人はクジラを生でたべることをしない。とりたてのクジラの肉が手に入ったので、わたしたちはサシミにして賞味した。小さな島のことである。翌日には、島じゅうに日本人はクジラを生でたべたということが伝わってしまった。よっぽどゲテもの食いと思われたらしい。  環礁のなかでの貝ひろいは女の役目だ。貝殻をナイフでこじあけて、生のままでたべる。これに庭のライムの実を一つとってきて、しぼりこむと一段とうまい。焚火のなかにほうりこんで、焼き蛤のようにしてたべるし、ココナツソースで煮こむこともする。小さな島ばかりで海岸までどの家からもあるいていけるので、女たちは毎日のように貝ひろいにでかける。どの家でも、庭の片隅には、たべかすの貝殻を捨ててできた小山がある。トンガで貝塚の発掘をしようと考えていたわたしは、島じゅういたるところにある新しい貝塚と、考古学的調査が可能な古い貝塚を区別するのに大変苦労をしたことであった。  このほかに、現在トンガでは、どこの村の商店でもコンビーフを売っている。コンビーフは一種のごちそうである。キャベツ等の野菜と一緒にタロイモの葉でつつんでウム料理にもするが、そのままたべることがおおい。  アフリカやニューギニアでのわたしの調査地にくらべたら、トンガでの食生活は大変めぐまれていたといえよう。魚や貝をたくさんたべるトンガ人の食事は、日本人にとって大変ありがたかった。 [#改ページ]

 
ニューギニアの高地で    ウギンバの一日  山犬の遠吠えのようなヨーデルが谷にこだまする。それに答えて、むこうの谷からヨーデルの返事がかえってくる。モニ族たちの朝のあいさつだ。朝六時、ウギンバの谷の空は白みはじめた。家の炉の火ももえさしになり、ときとして気温は十度近くまで低下する夜明け、人びとは寒さにこごえながら起きあがり、炉に太い薪をくべる。谷間に散在する家々の屋根から、煙がたちのぼりはじめる。  モニ族の家庭では、夜間厳重に割板で仕切っていた男の部屋と女の部屋の境の戸口がはずされて、女、子供たちが男の部屋の炉ばたに集まる。主婦は、夜間女の部屋に寝かせていたブタを戸外に追いだす仕事にとりかかる。新たにくべた炉の丸木から出た煙に目をしょぼつかせながら、一家じゅうが炉ばたにすわりこむ。煙出しの設備がない家屋形式なので、煙は家じゅうに充満し、壁や屋根の隙間から逃げてゆく。前夜の雨でぬれた屋根全体が白い水蒸気でつつまれる。  炉の熱い灰のなかに、前日掘ってきたサツマイモをくべる。イモの焼けるのを待ちきれない子供たちに、主人は壁板の隙間にたくわえていた秘蔵のカエルの干物をとりだして火にあぶって渡してやる。思いがけないごちそうにありついて、子供たちは歓声をあげる。主人は、乾燥したタバコの葉をもみほぐして、パンダナスの枯葉に巻きこみ、朝の一服をする。ただし、かれらのタバコのくわえかたは独特だ。ハーモニカをくわえるようなやりかたで、タバコを横にしてすうのだ。  木を折り曲げてつくった大きなピンセット状の火ばしで熱いヤキイモを灰のなかからとりだし、主人が家族の全員に分配する。このとき、いちばんたべざかりの少年少女に最も多い量が渡される。その場で全部たべてしまう者、口をつけずに自分の編袋のなかにしまいこむ者など、同じ家族でも、てんでんばらばらだ。定期的な食事の時間というものは、モニ族、ダニ族ともに、午後に一度あるきりだ。その他の食事は個人的なものである。自分の編袋のなかにしまいこんだヤキイモを、腹の空いたときに勝手にたべる。または、腹がへったら家へもどって、自分のたべたいだけサツマイモを炉にくべるか、畑で石むし料理をするのだ。  七、八歳以上の部落のすべての男性が、一つの家屋に合宿している西部ダニ族の「男の家」では、朝六時頃になると寝室である二階の炉の火を一階の炉へうつす。するとヨシズばりの床のしたから二階へ煙がもうもうとのぼってくる。これでは人間の燻製になってしまう。いやおうなしに、朝寝をきめこんでいた男たちも、階下へおりてきて、すべての男たちが、ひとつの炉をかこむ。  もちろん、朝起きたのち洗面をすることはない。わたしたちの会った山地パプアの諸部族は身体を洗う習慣を持たないばかりか、水で身体を洗うことをもいやがるように思える。  七時すぎ、深い谷のうえにようやく太陽が顔を出す。「男の家」のまわりの広場に、部落のダニ族の全員が集まる。子供たちも母親に手をひかれたり、幼児は母親の髪をしっかりとつかんで肩車をしてもらって、人びとを見下ろしながら広場へやってくる。広場に石灰岩の露頭したところが三カ所ある。これが、ダニ族のベンチだ。早く家を出たものがこれを占領して日なたぼっこを楽しんでいる。母親のシラミとりをする子供、編物をする男女、矢づくりをする男、パンダナスの葉をぬいあわせて、雨合羽をつくる者。  モニ族も、ダニ族も、モニ語でゴサガと呼ばれるペニスケースをつけている。オチンチンにかぶせたヒョウタン一本が紳士服。女性は短い腰ミノひとつのトップレス姿だ。  高地といえども、熱帯の太陽ははげしい。ぬれた草や泥たまりから水蒸気がのぼってゆく。谷間に太陽がのぼってから一時間もすると、人びとは日なたぼっこをよして、木蔭に集まるようになる。  八時頃、モニ族はてんでんばらばらに自分たちの家族の畑へ出かける。「男の家」を中核とした団体生活をおくるダニ族は部落の広場でのだんらんの時が長く、畑へおみこしをあげるのは九時頃となる。女たちは、今日収穫する作物を入れるための大きな編袋を頭から背にぶらさげる。そのほかに、骨でつくった針、ナイフ、パンダナス製の雨合羽、クシ、首飾りや鼻飾りなど、こまごました全財産をいっさいつめこんだ編袋をもうひとつぶらさげる。赤ん坊も、編袋のなかに入れて運ばれる。編袋のなかにブナに似た木の葉をいっぱいに敷きつめ、そのうえに赤ん坊をのせる。よごれたら、オシメを洗うかわりに編袋のなかの葉を新しいものと交換するのだ。  畑へ行くときの女のいでたちのもうひとつは、長さ一メートル前後の女の掘り棒だ。除草、イモ掘り、植えつけなどの農作業が掘り棒一本でなされる。両端のとがった女の掘り棒は、いざという場合には、女の護身用の武器としても使用されるという。  一端のみがとがった二メートルにおよぶ開墾用掘り棒やオール状をした盛土用の掘り棒は、男の唯一の農具であるが、これは畑に放置されている。そのかわりに、男は畑へ行く時でも、斧と弓矢を手放さない。  南側の谷にあるダニ族の畑から歌声が風にのって部落まで聞えてくる。新しく、ウギンバ部落へ移住してきた男の家族のために、数人の男が協力して休閑地となっていた草地を畑にもどしているのだ。作業をしながら歌う耕作の歌は、みごとな男声三部合唱となっている。  南側の谷のダニ族の畑は、一つの柵でかこまれた農場的な景観の整然としたものである。この一つの柵のなかの畑の一枚一枚が所有者別になっている。しかし、畑の柵の修理、開墾、灌漑用の溝つくりなど、男の作業は、すべて部落の男性たちの共同作業によっておこなわれる。植えつけ、除草、収穫などは女の仕事である。畑をつくるまでが、男の仕事であり、作物に関する仕事は女にすべてまかせられている。女たちは、共同作業をせずに、夫から割り当てられた畑で黙々と働く。  北側の谷の斜面にあるダニ族の畑は、各戸別に柵をめぐらした家族単位の性格のこい畑である。ここでは、各戸単位の労働力による仕事がなされる。北側の谷の畑では、男たちが共同作業をすることがない。この畑ですごす時間が、ダニ族の家族に水入らずの時間を提供する。ダニ族、モニ族ともに、性行為は昼間、畑のうらの森林のなかでおこなわれる。夫婦ともに、畑から樹間に消えてゆくのだ。  午後一時頃、気温は二十五度近い。日なたの斜面の草木は乾ききっている。モニ族の男が、山を焼いている。青い煙が谷にのぼり、山頂へ這いあがってゆく焔の舌を追って、大きな木の枝をふりまわして、飛び火をふせぐ男の姿が見えかくれする。  南側の斜面から、原始林の大木を切り倒しているダニ族の男たちのふるう斧のかわいた音がこだまする。ウギンバ部落は、現在膨張しつつある。ダニ族の人口がふえつつあるのが、その原因だ。大木を切り倒したあと、ここも焼畑とされるだろう。  すべての人びとが、昼間じゅう畑で働いているわけではない。途中で家に引きかえして、ヤキイモをつくる者、畑のすみにしつらえた穴で、石むし料理をつくる者、畑へも出ずに、一日じゅう部落のなかをぶらぶらしたり、編物をする男。また、ここ一週間標高四千メートルのプラトーへ木登りカンガルーの狩に出かけている者や、ホメヨへ塩の交易に出かけている男など。  十歳くらいから子供たちも、畑仕事の手助けをはじめる。部落で遊んでいる男の子たちの一番の遊戯は、なんといっても小さな丸木弓をひくことだ。未来の戦士たちの遊びに女の子も加わって、弓矢あそびをする。また、ラン科植物の茎で文様をつくる遊びもある。  三時頃になると、ダニ族の部落でぶらぶらしていた男や子供の姿が消える。ケマブー川南岸の川原から立ちのぼる煙をめざして、ウギンバ部落のダニ族のすべての成員が集まってゆく。畑からやってくる女たちは、背にサツマイモ、タロイモ、サツマイモの葉、ササゲなどがはち切れんばかりにつめこまれた重い編袋を負って道をいそぐ。川原のダニ族の共同炊事場には、直径一メートル前後、深さ五十センチの穴が数個掘られている。ここに、野草、イモ類を入れ、かたわらの焚火のなかで熱した焼石を何個ものせたうえで、穴のうえにザルと呼ぶユリ科植物の大きな葉をかぶせて、うえに土をかける。すると穴のなかで、野草がむし焼きになる。この石むし料理の材料には、女たちがその日の収穫物を提供しあう。  モニ族は、畑から自分の家に帰り、各戸ごとに石むし料理をする。この場合には、屋外に穴をほることをせずに、屋内で樹皮製の石むし料理用のワクを使用する場合が多い。  幅二十センチくらいの樹皮を二重に巻いて、直径三十〜四十センチのワクをつくる。このワクのなかに「ザル」の葉をしきつめて、野菜、焼石を入れたうえを、さらにザルの葉で包んで石むし料理をする。  モニ族、ダニ族を通じて、調味料は塩だけである。ウギンバの塩は、西のホメヨから交易によってもたらされる。ホメヨには塩水の湧く泉がある。この泉にツル草の束を一昼夜つけておく。塩水のしみこんだツル草を薪といっしょに焼くと、灰のなかに塩の結晶がのこる。これを指でつまんで集め、水をそそいで、小石でもってつきかためる。すると灰と消炭まじりで、黒っぽい色をした石のような塩の固まりができる。これがニューギニア高地人のあいだでもっとも珍重される交易物資のひとつ、ホメヨの塩だ。  塩は貴重品であり、ふだんの食事にはつかわない。ときどき、できあがった石むし料理の野菜の葉のうえに、もったいなさそうにひとつまみふりかけるだけである。  四時頃になると、そろそろ空が雨雲でおおわれはじめる。これから日暮までが、モニ族にとっては訪問の時間である。モニ族の近所づきあいは、ふつう夕方に行なわれる。共同生活をいとなむダニ族の男たちにとっては、夕方は自分の妻子のいる女の家を訪ねて、家族と語りあうときである。  日没前の、女の重要な仕事は、日中放し飼いにしていたブタを、女の部屋あるいは女の家に入れることである。むずかるブタを追いたてたり、あるいはかなり大きなブタでも肩にかつぎあげて、女は自分の部屋にしつらえたブタの寝床に入れる。  日没後は、ダニ族、モニ族ともに遠出をすることを極度にいやがる。斜面の細道は夜間危険だし、それにもまして、モニ語でトネとよばれる妖怪、死霊のたぐいに暗闇のなかで遭遇するおそれがある。  日没後、モニ族の家では家族が男の部屋の炉ばたでひっそりとしただんらんの時をすごす。夕方やってきた近所の男が、そのまま泊っていくときもある。  ダニ族では、日没後のひとときは男たちが男の家の一階の炉ばたに集まって談笑している。そのうち、七時頃になると、女の家から女たちが子供をひきつれて、男の家へ集まってくる。これから、帰って寝るまでは、部落じゅうの女の家は、からっぽになる。交易の旅の思い出話や、男たちの自慢話がでるのもこのときであるし、男女が一緒になって合唱に興じたりする。  家族だけで夜をすごすモニ族は、ダニ族にくらべて寝る時間が早い。八時頃になると、女の部屋の炉に火が入れられ、男の部屋との境界がとざされる。寝るといっても、夜具は全くない。パンダナス、あるいは樹皮製の堅いマットのうえに裸同然のかっこうで横になるだけだ。  九時頃になると、|松明《たいまつ》を手にして、ダニ族の女たちが男の家から出てゆく。男たちは二階の寝室の炉に火をうつして眠りにつく。これから、屋外はコウモリと妖怪のうろつきまわる世界となる。たいてい、この頃になると冷たい雨が降りだして夜半までつづく。  西ニューギニアの高地人の主食は、サツマイモだ。サツマイモの葉も石むし料理の重要な材料となる。ほかに、ウギンバの畑で栽培している植物には、タロイモ、サトウキビ、バナナ(高地なので出来は悪い)、ヒョウタン、ショウガ、ササゲ、ラッカセイがある。ほかに、野生植物で食用にされるものが約二十種ある。そのなかで、われわれになじみ深いものをあげると、まず、ホオズキがある。ホオズキの実は生のままたべる。ホオズキの葉は石むし料理の材料とされる。キノコは生でたべたり、石むし料理にされる。ジュズダマは乾燥したものを生でたべる。わたしは観察していないが、ジュズダマを炉にくべて焼いてもたべるのではないかと思われる。セリ、ナズナは、石むし料理にすると、特有のにおいでわたしたち日本人にはなつかしい味だ。野イチゴもある。  家畜はブタだけ。ニューギニア島が動物分布上ウェーバー線の東側、オーストラリア区に属するため、狩猟動物の種類はきわめて少ない。キノボリカンガルー、ヒクイドリ、あらゆる鳥類、野ネズミなどが狩の対象になる。大動物のすくないこと、弓矢の有効射程範囲が十メートルくらいであり、毒矢の使用の知られていないことなどが原因して、狩はあまりさかんではない。狩猟は、肉を得るというよりは、身体装飾品に使う毛皮や羽根をとるためという意味あいが強いようである。狩は、生業ではなく、男のスポーツである。  ほかに動物性蛋白質としては、カエル、ハチの巣とハチの幼虫がある。ハチの巣は、煙でいぶしてハチを追いはらってとる。カミキリ虫の幼虫や、ゴキブリを火で焼いてたべることもある。  魚はいない。    ウドンとダニ族  どういうわけか、わたしたちはメリケン粉ばかりたくさん持っていた。十キロくらいはあっただろうか。  毎日、雨がふり湿度百パーセントのニューギニア高地のことである。周囲の森林は、モスフォーレスト(蘚苔林)だ。湿度が高いので、木の葉、幹、露出した木の根、落葉にいたるまで、ぎっしりとコケにおおわれている。コケは、水分をすって、ぬれタオルのようだ。森林のなかを半時間もあるいたら、ズボンはぐしょぬれになる。森林のなかでは、ひと休みして腰をおろす場所もない。一面びしょぬれの世界だ。  ぐずぐずしていると、そのうちにメリケン粉にカビが生えそうだった。一応、一キロくらいずつわけて、ビニール袋に入れて乾燥剤を入れてはあったのだが、油断できない。  どうしてまた、わたしたちはメリケン粉ばかり多量に持つようになったのか。ほかの食糧は、ちょっとしかないのに。  わたしたちの住んでいたのは、太平洋の最高峰、五千三十メートルのスカルノ峰(旧名カールステンツ)から北西へ三十数キロの地点、ニューギニア中央高地を東西に流れるケマブー川をさかのぼった最後の集落であるウギンバ部落であった。ウギンバの標高は二千百メートル。ニューギニア高地でも、一番知られていない場所のひとつ。アンコントロールド・エリア(未統治地域)にある。文明人といえば、数年前に、宣教師が通過したことがあるだけ。原住民同士の交易で、鉄の斧は最近ウギンバでも使われはじめたが、まだ石でつくったナイフは日常の道具として使用している。  朝日新聞の本多勝一さん、藤木高嶺さんとわたしは、ウギンバ部落に粗末な小屋を建てて住んでいた。一九六三年のことである。わたしたちは、日本とインドネシアの合同探検隊の隊員であった。この探検隊の日本側の名称は、京都大学西イリアン学術探検隊であった。この探検隊は、登山班、科学班、人類班の三つの分野から成立していた。わたしたち三人は、人類班に属していた。  途中で、わたしたちは、スカルノ峰へ向う登山班、科学班とわかれて、モニ族とダニ族の混住地ウギンバに住みつくこととなった。わかれるときに、食糧を配分することとなった。わたしたち三人は、人間の住んでいる所に残るのだから、食糧不足で飢える心配はない。なんでも、現地のものをうまく調理したらいい。だが、山登りをしたことのないインドネシア側の隊員をつれてスカルノ峰へ登るほかの隊員は大変だ。氷河のうえで食糧がなくなって、頂上へ立つことができないような破目になったら、この探検隊最大のスポンサーであるスカルノ大統領に申し訳ない。なんでも食いたいものは、持っていって力をつけて登ってくだされ。オレたちは、なんでも残ったものを食ったらいいさ。こんなことで、わたしたちウギンバ隊に残された食糧には、うまそうなものはほとんどなかったが、メリケン粉と粉ミルク、粉末ジュースだけは、膨大な量があった。  粉ミルク、砂糖少々、粉末ジュースにメリケン粉をまぜてねりあげ、バターで焼く。イチゴやオレンジの味のするホットケーキをオヤツに、くる日もくる日もたべた。コンビーフとガーリックパウダーを使ってギョウザをつくったりもした。だがメリケン粉の山はいっこうに減らない。コメが不足しかかっているし、ひとつメリケン粉を主食としてたべてやれ。手打ちウドンをつくることとした。  住んでいる小屋の外へ出て、手をまっ白にして、ウドン粉をこね始めた。「アイツら、ケッタイなことをしているぞ」というので、部落中のダニ族が総出で見物にくる。わたしのまわりに、人の輪ができて、ワイワイガヤガヤとんでもなくうるさい。ツバが粉にとびちる。ちょっと目をはなすと、こねたメリケン粉に、指のあとがつく。好奇心から、きたない指でつついてみるのだ。メリケン粉をさして、「あれは塩だ」「いや、ちがう」といった議論がはじまっている。めんどうだから、一つかみ進呈してなめさせた。よくばって口の中に粉をつめすぎて、むせかえって黒い身体に白い粉を吹きつけ塗装したりして大さわぎ。  メリケン粉に塩水を加えて、大ナベのなかで念入りにこねる。こねあがったものをとりあげて、ナベ底へたたきつける。ぺッタン、ぺッタン、たたきつけるたびに観客の歓声がおこる。なんのことはない。わたしはダニ族にショウを演じてみせているわけだ。  さて、ねり上ったものをどうやってのばそうか。麺板とか麺棒に使えるものがないだろうか。わたしたちの荷物はリュックサックにつめて運べる品物ばかりだ。平らで大きな板なぞありやしない。カンナ、ノコギリはおろか、二、三年まえまで石斧を使っていたダニ族のことだ。かれらに板を借りるわけにはいかない。  フィルム罐を麺板に使うこととした。  八ツ橋を入れるようなブリキ罐に、撮影済みのフィルムを乾燥剤とともに入れて、ビニールテープで目張りをする。そうでもしないと湿度百パーセントのニューギニア高地では、フィルムがいたんでしまう。  このフィルム罐のフタのうえで、ウドンをのばすことにした。フタといっても、長さ三十センチほどのものである。これが、わたしたちのもつ、表面のなめらかな板の最大のものであった。麺棒は、テントの支柱の余分な部分を切って間にあわせることとした。  ピカピカ光るブリキ罐のフタの上に、白い粉をパッパッとまく。ねりあがったメリケン粉をちぎって、団子状にしたものをこのうえにおく。麺棒をローラーのようにころがすと、団子がうすい板のようになる。これを折重ねて、庖丁で細く切る。粉がいつの間にか、細いヒモになってしまう。ダニ族にとっては手品をみてるようなことであったのかもしれない。作業が全部完了するまで、みな、あきずに見守るのだった。  できあがった手打ちウドンの大部分は、直射日光で乾燥して乾ウドンとして保存することとした。これで、大量のメリケン粉の消費策が一挙に解決した。  一部は、打ちたてを、テンプラウドンにしてたべることとした。テンプラといっても、活きのよいエビを仕入れるには四千七百メートルの氷河を越え、ジャングルをくぐって地図上の直線距離にして百キロ以上はなれた海岸まで出かけなくてはならない。ウギンバ産のサツマイモのテンプラでがまんすることとした。  何カ月ぶりかで、熱いウドンをたらふくたべた。あまりを、熱心だったダニ族の見物衆におすそわけすることにした。ウドンの入ったナベを手近のオバさんに手渡す。  一応「カオナ」(ありがとう)と受けとったのちしげしげとナベのなかをのぞきこんで、たべずに隣りの女に渡す。渡された女は、ナベのなかへ手をつっこんで、ウドンを一本つまみあげて、気味悪そうにながめている。まるで寄生虫をみたように、急に手をひっこめて、また隣りの男に手渡す。ナベは、隣りから隣りへとぐるぐるまわりするが、みな、ウドンをこわごわとつまみあげてはまたナベにもどして、たべようとしない。まるで、ババヌキをしているようだ。  数人の手をたらいまわしになってから、私達が説教師というアダ名をつけていた男の手に、ナベがわたった。説教師は、オシャベリだが、実行力に富んだ人柄の男である。かれがウドンをつまみあげたとき、わたしたちは、「食え!」「うまいぞ!」とダニ語、モニ語、日本語でくちぐちにさけんだ。説教師は決心したようにウドンを口に入れた。一本たべ、つぎに、また手をナベのなかに入れた。説教師が二、三本たべるのをみとどけると、いままでは敬遠してきた男達が、ナベのまわりによってきて、手をのばしはじめた。いったんウドンを口にすると、あとはもうガツガツとたべはじめ、四、五人の男達で、あっという間にナベを空にしてしまった。しかし女達はやはり気味悪いのか、男達のとりかこんだナベに近よろうともしなかった。    ニューギニアのブタ  ウオゴとは、ダニ語でブタのことである。西ニューギニア高地では、ブタは大変な財産である。ブタくらい、いくらでも増やせそうにおもえるかもしれない。しかし、ここではブタを飼う残飯はないし、森林のなかにブタの食糧となるものもない。そこで、ブタは人間とおなじく、サツマイモやサトウキビなど畑の作物をたべて生きている。だから、広い畑を持たなければ、ブタを飼うことができない。畑を耕し、ブタの世話をするのは、女の仕事である。そこで、妻をたくさん持つ者ほど、畑は広く、持つブタの頭数も多くなる。その妻をめとるには、子安貝とブタを結納にやらねばならない。これでは、堂々めぐりだ。娘一人の値段は、親ブタに換算して、三頭ぐらいである。  そんな貴重品のブタだから、親ブタの乳が足りないときなど、人間の乳を子ブタに飲ませて育てる。ブタ泥棒は、しばしば部族間の戦争の原因となる。  ブタをたべるのは、出生、結婚、葬式の人生で一番大切な儀礼のときと、一部落では数年に一度しか行なわれないブタ祭りのとき、それに、人に病気や災厄をもたらす悪霊をなだめるときだけである。約半年におよぶ、西ニューギニア山岳地帯調査のうち、わたしがブタをたべたのは、ただの一回きりであった。 「ウギンバ・ダニ、ウオゴ、ウオゴ!」  部落の背後の山に登り、地形測量をしていると、ダニ族の青年がとんできた。ウギンバ・ダニとは、ダニ族がつけてくれたわたしの名前である。ブタが盗まれたとでもいうのだろうか。若者について、山を駆けおり、川原に出ると、部落のダニ族が全員集まっていた。そこは、かれらの共同炊事場なのだ。  炊事場といっても、直径一メートル程の穴がいくつも掘ってあるだけ。その穴にザルと呼ばれるユリ科灌木の幅広い葉をしきつめ、そのうえにササゲ、ヒョウタン、セリ、サツマイモの葉などの食物を入れ、焚火で焼いた石ころをほうりこんで、むし焼きにするのだ。 「ウギンバ・ダニがきた」  わたしの姿を見て、ざわめきがおこった。ベタベタになるまで熱の加わったサツマイモの葉やササゲを木の葉にくるんだ包みがさしだされる。塩すらも使わない、調味料は一切なしの料理だが、木の葉でくるんでのむし焼きなので、材料の味が外へ逃げることがなく、材料の持味を最高にいかした、なかなかオツな味だ。  石焼き料理のコースが終ると、第五じいさんが立ちあがった。第五とは、わたしたちがつけたあだ名で、本名はカレング、推定年齢五十五歳くらい。性器から太股にかけて、ひどい潰瘍にかかっている。途中まで、わたしたちに同行したインドネシアの軍医によると、この地方には、第五性病が蔓延しているという。カレングじいさんは、第五性病の典型的な症状をしていたので、いつの間にか、わたしたちは第五というあだ名をつけてしまった。  かれが、薬をくれといって、物蔭でペニスケースをはずして、患部をみせてくれたが、見るも無残に、下腹部がただれ、今にもくずれ落ちそうだった。黄色い膿だらけで、そこへ蠅がむらがってきた。それまで五番目の性病があるなどとはわたしたちは知りもしなかったが、薬箱をかきまわしているうちに、クロロマイセチンの効能書に、第五性病の名があるのを発見した。抗生物質を素人療法で投薬するのがよいかどうか迷ったが、ほかに薬がないので、試みに飲ませてみた。しばらく抗生物質療法を続けるうちに、いくぶんは快方にむかったのだが、なにぶん症状がひどすぎ、かなりの長期投薬が必要であるし、そのうちに、薬を使いはたしたら、こちらが肺炎にでもなったときに困る。それに、部落には、他の第五性病患者がいるようであるし、われもわれもと診察に来られたら、いっぺんにクロロマイセチンがなくなってしまう。そこで途中から、第五じいさんの手当は、外用薬療法に切りかえた。軟膏を渡して、自分で塗らせるのだ。こちらが塗布してやるには、病気の種類と場所がわるすぎた。そんなわけで、第五じいさんは、患部がうずくらしく、いつも木の葉で股間をあおぎながら、大儀そうに、ガニ股であるいている。  そのかれが、別の穴のうえにかけた土をはらいのけ、そこから石焼きイモをとり出して、みなにふるまう。わたしにも四本のサツマイモの配給が終った頃、今度は穴の底から赤黒い、大きな物体をとりだした。 「あれはなんだい?」  けげんな顔つきでたずねると、 「ウオゴ、ウオゴ!」  みなが一斉に合唱する。ブタの丸焼きであった。手まね身ぶりをまじえて、何とか聞きだしたところによると、病気をもたらす悪霊をはらう為に、第五じいさんが、自分のブタを殺して、みなにおごるらしい。  じいさんは、竹のナイフをカミソリのように使って、肉を切りとっては分配する。ときどき脂肪のついた手を内股でぬぐいながら……。見ているわたしの顔には、どうこらえても、シワがよりそうになる。 「どうか、ワタシの番がきませんように」  と心で念じたとたん、 「ウギンバ・ダニ、オー」  第五じいさんの声がかかった。  かれはことさらていねいに、膿のしたたる、ペニスケースの付け根で両手をぬぐってから、ブタの頭の近くの肉を百グラム位切りとって、わたしに渡した。 「カオナ・カオナ!(ありがとう)」  といったん礼をいってから、 「オレは、さっきの野菜で腹がいっぱいだ。ブタは家へ持って帰って、晩にたべることにする」  手まねをまじえながら、逃げ口上をいう。だが、周囲の男達が承知しない。 「食え、食え!」「うまいぞ!」  わたしは観念した。ブタを食わせるのは、かれらの最大の好意だ。これを拒否して、いままでに築きあげた友情にヒビを入れてはならない。あとで予防のため、クロロマイセチンを飲んでおこう。  肉片をそっと手でぬぐい、ほおばった。どうせたべるなら、うまそうに食ってやれ。 「アベロム・ウオゴ・アベロム!(うまいブタだ)」  塩味もついていない焼肉には、第五じいさん特製のソースの奇妙な味がついていた。だが、うまそうにたべるわたしをみて、一同は本当に満足したような顔つきをしてくれた。    オバケの食器あらい  オバケ、あるいはバケとわたしたちが呼んでいたのは、本名デガーメ氏、推定年齢十八歳。かれは、チョコレート色の皮膚をしているニューギニア高地人のうちで、色が特に黒いほうだ。夜の暗闇のなかに溶けこんだら、もうどこにいるのかわからない。闇のなかから足音をしのばせて、どこからともなく現われて、気がついてみると、先ほどからわたしたちのそばにすわっている。朝、目がさめてみると、厳重に戸締りをしたはずの小屋のなかへしのびこんで、わたしたちの寝ぞうを黙って見守っている。デガーメ氏はいつとはなし、どことはなしに、足音をしのばせてやってきて、わたしたちのそばにいる。しかも、こちらが気がつくまでは、自分の存在を主張しない。いつも気がついたら、かれがわたしたちのそばに居たという現われかたをする。化物のようにスーッと姿を現わすヤツだということで、本名のデガーメを知るまえに、わたしたちは、かれにオバケというあだ名をつけていた。  口数は少ないほうで、オデコのはり出した容貌怪異な顔で、声を出さずにいつもニタニタ笑っている。もともとかれは、ウギンバの住人ではなく、四千メートルの高原をこえ、四十キロほど離れたイラガから、ウギンバにいる姉をたずねてきたよそ者である。そこで、しょっちゅう村のなかを用事なしにブラブラしている。  オバケ氏は、わたしたちがウギンバ村で最初になじみになった村人の一人だ。わたしたちが水くみに行くと、ブッシュのなかからスーッと現われてバケツを持ってくれる。いつの間にか、わたしたちの小屋の前に薪を置いてくれたりする。いつとはなしに、オバケ氏は、わたしたちの雑役係になった。かれの主な用事は、水くみ、薪集め、ナベ・食器洗いであった。報酬には、残飯の整理をしてもらう。  見なれないわたしたちの食物に対して、オバケ氏は何の警戒心をおこさずに、何でもたべてしまう。わたしたちの食物は、すべてサツマイモよりは上等なものだと信じこんでいるようだった。わたしたちの食事時間がすむ頃になると、どこからともなくオバケ氏が現われて、小屋のそばで待っている。たべ残しのメシの入ったナベに味噌汁でも、コンビーフでも何でもぶちこんで渡す。オバケ氏は、ナベのなかに泥だらけの手をつっこんで、またたく間にたいらげてしまう。食器に盛って、スプーンを与えてみても、ぽろぽろこぼして、うまくたべられない。大きなナベに入れて、手づかみでたべてもらうのが、一番よい。べつにオバケ氏はわたしたちの残飯で生きていたのではない。「男の家」でサツマイモをたらふく食って、そのうえわたしたちのたべ残しを整理する。残飯がすくないと不服そうな顔をするので、いつの間にか、わたしたちは、オバケ氏にやる分を考慮に入れてメシタキをするようになった。  本多さんも、藤木さんもナベや食器洗いは苦手のほうである。一つ、オバケ氏に洗い役をたのもうということになった。  ニューギニア高地は、食器のない文化である。食器の洗いかたを教えるのも、なかなか大変だ。  小屋の前につくった炊事用具・食器置き用の棚のそばへ連れてゆき、藤木さんが手をとって教える。 「ほら、こないしてバケツの中で洗うんや。いっしょけんめやらにゃあかんやで。きれいになったらな、フキン——これのことやで——でようふいてな、棚にならべるんや」てなことをいいながらお手本を示す。どうせ、わたしたちの一夜づけのダニ語でうまく説明することは不可能だ。バケツやフキンにあたるダニ語があるはずもない。ことばは、大阪弁でもなんでもいいので、行動で示すことが大切だ。藤木さんがやるのを見ているうちに、オバケ氏にも仕事がのみこめたらしい。やおら、バケツのなかに手をつっこんで洗い始めた。それからは、使い終った食器をバケツにつめてオバケ氏にわたすと、かれは鼻歌をうたいながら、のそのそと河へむかうこととなった。  オバケ氏に食器洗いをまかしてから、少々洗いあがりがきたないのは、目をつむることとした。だが数日たつとますます食器はきたなくなる。食器にねっとりと黒ずんだ油がしみついていたりする。  オバケ氏は、ブタがくわえて持っていってしまったといっては、新しいフキンを要求する。だが新しいフキンは、食器をふくためにいるのではない。おしゃれのためだ。オバケ氏は、何でも頭にかむるくせがある。わたしが古いパンツを森のなかへそっと捨てたのをいつのまにか発見してきて、頭のうえにパンツをはいて得意そうにしている。フキンも何度注意しても、すぐ頭にかむってしまう。しかも、かれの頭はシラミだらけ、おまけにブタの脂肪をポマードのようにぬりたくってある。髪を洗うことはなく、そのうえにつぎつぎとブタの脂肪をぬりたくるものだから、脂肪が腐敗して異臭をはなっている。こんな頭に、ボウシがわりにかむっているフキンで食器をふくのだから、せっかく洗ったものを、最後の仕上げでまたよごしてしまうことになる。  この調子では、いまに食器の中からシラミがとびだすかもしれない。そういえば、わたしは、ダニ族が何か物を洗っているのを、一度もみたことがなかった。もともと、身体を洗う習慣をもたない人びとに、ものを洗うことをたのむのが無理なのだ。わたしたちは、オバケ氏に食器洗いをさせることをよすこととした。そうかといって、三人とも食器洗いはやりたくない。  どういうわけか、わたしたちの荷物のなかには、膨大な量のトイレットペーパーがつめてあった。食器を洗うことはよしてふくこととした。食事がすんだら、お茶のあまりを各自の食器にそそいで、一つの食器についてトイレットペーパーを三枚くらい使いながら、キュッキュッとこすってふきとる。この方法だったら、河へ行くこともないし、食後の一服をしながら出来る。それでいて、すくなくともオバケ氏の洗った食器よりも衛生的であった。ウギンバ部落での生活の後半、わたしたちは食器を一度も洗うことがなくすごした。 [#改ページ]

 
サバンナの村で    マンゴーラ村  なんてひどい風なんだ。サバンナを渡ってくる烈風が、村のなかへ入ると砂を巻きあげて顔に痛いほど吹きつける。髪は砂だらけでジャリジャリ。いつの間にか、ヘソの穴まで砂でつまってしまう。人びとは、いつも風下である西をむいて小便をする。風上なんぞむいてやったら大変。身体じゅうびしょぬれになってしまう。マンゴーラの乾季は、昼夜をわかたず強い東風にみまわれる。この風のやむときが、雨の降り出す時節なのだ。  一九六七年の十一月から、六八年の二月にかけて、わたしは東アフリカのタンザニア共和国のマンゴーラ村に住んでいた。マンゴーラ村は、東アフリカの内陸部マサイステッペの東方、エヤシ湖のほとりにある。村といっても、万事大陸サイズのアフリカのこと、面積はとてつもなく広い。  マンゴーラ村は、神奈川県よりも大きいのだ。ここに住む人達は、約六千人程度と推定される。だが、野獣の数は、人口よりもずっと多いだろう。なにしろ、村のまんなかを横断して、毎夜サイが川辺まで水飲みに出かけるところなのだ。  マンゴーラ村は、一九六一年から、京都大学のアフリカ学術調査隊人類班の基地のひとつとなっていた。わたしが、いったときには、天理大学の和崎洋一さんが、調査員としてがんばっていた。わたしたちの調査は、マンゴーラの村民たちと友達づきあいをすることからはじまる。通訳は使わない。東アフリカの共通語であるスワヒリ語を、わたしたちはしゃべった。テントも使わなかった。  和崎さんは、三年前にも、マンゴーラへやってきている。このとき、かれは村のまんなかに間借りをして、寺子屋を開いた。村の子供達に読み、書き、そろばんを教えたのだ。子供たちと仲良くなったら、両親とのつきあいも深まってゆく。寺子屋へ集まる子供たちのPTAを通じて調査をすすめようというのがかれのねらいだった。和崎さんがこのまえ村を立去る前に、間借りをした家を寺子屋の教室用に拡張工事をしておいた。そこで、今度やってきたときには、逆に和崎さんの家の片隅に、家主が間借りしているようなかっこうだった。和崎さんと相談のうえ、わたしは村民のあいだを居候してまわることとなった。  わたしの調査の目的は、マンゴーラに住むさまざまの部族の生活様式を比較研究することにあった。短期間で、このような仕事をするには、ことばで聞きとるだけでは不充分である。身体をもって経験しながら知ることがいちばんである。そこでわたしは、生活様式のことなるさまざまな部族の家庭生活を体験してまわることとした。寝袋と、ノート、カメラだけを持って、ある家を訪れる。そして、そのまま最低一週間はそこに転がりこんで居候してしまう。もちろん、食事は、その家庭の人びとと同じものをたべる。畑仕事にも、放牧にもついていく。こんな居候方式の調査法で、わたしの仕事は進められた。短期間の調査では、居候方式が一番効果的である。寝食をともにしてくらしているうちに、一週間もすれば、その家の奥さんの下着の数までわかってしまう。  居候をするにしても、本や衣類などを保管しておく場所がいる。また、ときどきは居候先から、もどってきて一日昼寝をするところがほしい。そのような目的のために部屋を一つ借りることにした。つまり、下宿だ。居候はただであるが、下宿先には金を払わねばならない。部屋代、食費込みで、一カ月三千円ということになった。  下宿先にきまったのは、スクマ族のラシディ家だ。ラシディは、村で一番の酒造りの名手で、おまけに飲み助ときている。酒飲みのわたしには絶好の相手だ。あまり、いっしょにラシディ氏の手造りの酒を飲んだので、食事、酒つきの下宿代三千円では気がひけて、こちらから申し出て、下宿料の値あげをしてもらった。  スクマ族出身のラシディのように、バンツー語系の言語を話す人びとを、マンゴーラではスワヒリと一括して呼ぶ。スワヒリはスクマ族のほか、イサンスー族、イランバ族などさまざまのバンツー諸部族によって構成されている。マンゴーラのスワヒリは、すべて農耕民であり、その多くは、イスラム教徒である。マンゴーラには、スワヒリのほかに、ナイロート系の言語をしゃべる牧畜民のダトーガ族、クシティック語系の半農半牧民のイラク族、コイサン語系の狩猟採集民ハツァピ族が住んでいる。  村へやって来たはじめは、ラシディ家に下宿しながら、広大なサバンナに点在する家を、あちらこちら訪ねあるき、居候に都合のよい家の目星をつけることとした。    スワヒリの食事 「イシゲ、チャイができてるぜ」  顔を洗いおわると、ラシディがいう。チャイとは茶のこと、朝の紅茶の一杯から、スワヒリの一日の生活がはじまる。紅茶といっても上等のものではない。ヤカンに入れて、煎じないことにはよく出ない代物である。お茶には、砂糖をどっさり入れる。コップ一杯の茶にたいして、茶サジ七杯分は砂糖が入った甘ったるいものだ。だが、なれてくると、この飴湯のような紅茶を飲まないことには、朝がはじまらないような気分になる。  雨季になると、草が生えダトーガ族の牛の乳の出がよくなる。すると、ダトーガの少年が、ヒョウタンやソーダの空瓶にミルクを入れて売りに来る。毎朝、ミルクティーが楽しめるようになる。  風邪気味のときは、お茶にコショウを入れて飲むといいと言われる。なるほどコショウ入りのお茶を飲むと、身体中がぽかぽかとしてくる。ぜいたくをするときには、肉桂、ショウガ、丁字などの香料をお茶に入れる。  スワヒリが、日常紅茶を飲むようになったのは、英国植民地時代だ。その以前は、ウジという重湯のような飲物を朝に飲むならわしであった。インド植民地の茶と砂糖をアフリカ原住民に売って、白人は膨大な利益をあげた。その後、東アフリカでも、茶が栽培されるようになっている。スワヒリの家計のなかで茶と砂糖が占める割合は大きい。  ときには、茶のかわりにコーヒーが用いられる。本場のキリマンジャロ・コーヒーだ。コーヒーも、粉末をヤカンのなかで煎じて、そのままコップにあける。|澱《おり》ごと飲んでしまうのだ。  スワヒリの朝は、茶一杯でおしまい。食事は、昼、晩の二回である。昼と晩と、どちらが正餐ということはない。昼でも晩でも、同じようなものをたべる。  ラシディ家の日常の食事は、ウガリとボガである。ウガリは多くのスワヒリの主食である。これはトウモロコシの粉でつくったソバガキのようなものだ。ときには、モロコシ、キビなどのミレット類の粉やキャッサバの澱粉からもつくられる。  ウガリのつくりかた  台所部屋の三個石をならべた炉のうえに深いナベをのせる。約一リットルの水に塩少々を加え、沸騰させる。ついでトウモロコシの粉を片手いっぱいにつかんで、三、四回ナベのなかに手早くほうりこむ。すぐに、キピキチョとよばれる木の枝わかれの部分を利用して作ったカキマゼ具(図をみよ)をナベのなかに入れて、キリモミをするように回転させる。手早くしないと、粉にシンができ、生煮えの団子状に固まってしまう。      スワヒリのウガリつくり道具      上・ボ   イ、ウガリをこねるさいに、ナベが回転しないようナベおさえに使う。木の枝わかれを利用してつくる。      中・ム イ コ、さらに粉を加え堅くなったウガリをこねる木さじ。      下・キピキチョ、ナベのなかでスクリュー状に回転して、トウモロコシの粉をむらなく湯に溶かす道具、木の枝わかれを利用してつくる。  ナベのなかに、うすいノリのようなものができる。こうなったら、多量の粉を入れても、団子状にかたまることはない。ノリのなかへトウモロコシの粉をさらに、一キロくらい加えて、こねる。これをこねるには、大変な力がいる。女の仕事で、ウガリこねと薪ワリが一番の力仕事だ。力を入れた拍子にナベが炉からころげ落ちないように、ボイと呼ばれる木の叉を利用してつくったナベおさえ(図)でしっかりナベを固定し、ムイコとよばれる主婦連に貸したらよいような大きなシャモジ(図)でもって、エッサエッサとこねまくる。七分間もこねると堅ねりのソバガキのようなものができる。ナベをさかさにして皿、あるいは洗面器のうえにポンとのせる。するとナベ底の形そのままに、小山のようなウガリの一皿、約五人前ができあがる。  ボガとはおかずのことである。もともと、ボガとは、スワヒリ語でヒョウタンを示すことばであった。それが野菜や食用になる野草をも意味するようになり、転じて、また、オカズ一般を意味することばになった。  ムレンダという食用になる半野生の草のオカズは、ボガ・ヤ・ムレンダ、カンバレというナマズに似た魚の煮つけは、ボガ・ヤ・カンバレ。スワヒリ語では、肉をニャマというが、肉のおかずは、ボガ・ヤ・ニャマと呼ぶ。このように、スワヒリ語での料理の命名体系は、料理に使う材料の名でもって名づけられているようだ。  最も一般的なスワヒリのオカズは、野菜あるいは、野草からつくられる料理である。  ボガ・ヤ・クンディのつくりかた  クンディとは、サツマイモの葉のことである。サツマイモの葉のやわらかなものを集めてつくる。  まず、ナベにラッカセイ油を入れて熱する。これに、タマネギ、トマトをきざんで炒める。マナ板というものがないので、タマネギ、トマトはナベのうえでナイフでけずり落すようにする。  タマネギに充分火が通って、すきとおってきた頃をみはからって、サツマイモの葉を入れ、ちょっとかきまわす。つぎに、ひたひたになる程度の水を入れ、岩塩で味付けをする。野菜がすべてぐちゃぐちゃになるまで煮つけて、出来あがり。この料理法が、スワヒリの料理の最も一般的なものである。すなわち、サツマイモの葉のかわりに、他の野菜を入れる。あるいは、魚、ヤギの肉とか、牛肉を入れるといったふうに、材料が変化するだけで、タマネギ、トマトの油いためをベースに塩味をつけて煮るという、料理の方法そのものとしては変化がない。  ごくときたまには、店から買ってきたカレー粉を入れることもある。基本的には、調味料は塩だけ。コショウ、肉桂などの香料は、茶あるいは、さきにのべたウジに入れるが、調理用には、ふつうは用いない。  日常のおかずは植物性のものが多い。マンゴーラで手に入る野菜は、タマネギ、トマトが主であり、外に、ササゲ、ヒョウタン、ラッカセイ、キャッサバ、サツマイモ、クッキング・バナナ(果実が熟しても澱粉が糖化しないので、生食してもジャガイモを生でかじったようである。焼くか、煮て食用とする)、ニンニクである。  タマネギ、トマトのほかは、野菜よりも、野草のほうが多く、日常の食卓に供される。野草つみは女の日常の仕事の一つだ。マンゴーラのスワヒリが食用に利用する野草は三十二種類であった。  食事の際、ボガとウガリは別々の皿に盛られる。皿はゴザの上におかれ、一同アグラをかいて坐る。女もアグラを組む。まず、手を洗ったのち、ウガリを指先でつまんで団子状にする。熱いウガリを指先から手のひらにうつして、二、三度宙に放りあげるようにしながら、手のひらと指で器用に団子状にする。  ウガリを指先にもったまま、ボガの皿へ手を出して、汁に団子をひたす、あるいは、ウガリにボガをそえて、口のなかへほうりこむ。これらの動作を右手だけでやってのけるのだ。  ウガリの味はどうだって? あなたは、トウモロコシの粉で作ったパンやスイトンの味をごぞんじかな。いくら食糧難の時代でも、配給のトウモロコシ粉を日本の主婦が工夫してつくったトウモロコシのパンやスイトンのほうがうまかった。  居候方式の調査のてまえ、わたしはウガリの主食で百日近くは過しただろう。だが、スワヒリの間で長期間の住み込み調査をした和崎さんは通算すると、一年半くらいウガリをたべ続けた勘定になる。  スワヒリの祝い事のときのご馳走は、肉とメシだ。肉はヤギの肉が使われることが多い。肉の料理法は、先にのべたトマト、タマネギ、塩の味付け。  コメのたきかたは少々変わっている。コメ・水のほか塩とラッカセイ油を入れてフタをせずにメシをたく。もっとも、フタ付きのナベは、スワヒリの家庭で見たことがないが……。米の芯まで火が通ったところで、カマドから薪を引く。ついで金属製の洗面器でもって、ナベにフタをする。炉のしたの|おき《ヽヽ》火をつまんでは洗面器のなかに置く。こうして、ナベの上下から余熱を加えられる状態にして、わずかに焦げつくまでメシをむらすのだ。そこでスワヒリのメシには、ナベの上下にオコゲがある。    サバンナの狩人・ハツァピ族  サバンナの月夜は、頭上をさえぎるほど高い木々がないので、月光が大地のすみずみまであふれる。空気の澄みきった夜空は、さえた青白色のドームとなる。こんな夜には、どんどんあるきつづけて、地平線のかなたを見きわめたいような気持になる。  だが闇夜のサバンナは、少々不気味な世界だ。昼間ながめた広大な土地が闇にすっかりおおいかくされてしまうと、サバンナの自然にまだ慣れていない者にとっては、外界が敵のように思われる。野ネズミがカサッと音をたてただけでも神経をとがらせ、自分の家やテントの外へ出たがらないものだ。  そんなある新月の夜、わたしはハツァピ族の一団といっしょに、重苦しいサバンナの闇を懐中電灯の光で切り開きながらあるいていた。わたしたちは、夜の狩に出かけたのだ。  わたしが、ハツァピ族の間に住みはじめてから、友人のハツァピ族の青年の間に、新しい狩の方法が流行しはじめた。わたしの持っている強力な懐中電灯で、ブッシュの中を照らすと、ときおり光に反射して、野獣の目がキラキラと光ることがある。光線で目がくらんで、たいていの動物はしばらく立ちすくむ。そこをめがけてすばやく矢を射こむのだ。焚火のほかに、灯火のないハツァピ族にとって、これはまったく新しい狩猟法であった。  新月の前後には毎夜、わたしたちは狩に出て、クサムラカモシカや野ウサギを一、二頭殺すことができた。クサムラカモシカは、体長が一メートル以内のかわいらしい目をした動物である。これを射た場合には、毛皮をはいで敷物にする。解体して肉は、狩に参加した者にわけられる。野ウサギのような小動物は、皮はぎや解体をせずに、そのまま焚火のなかへ入れて焼く。ときどき、熱でもって膨張した内臓が破裂する陰にこもったボンという音がする。文字どおりの丸焼きができたら、|矢鏃《やじり》で切りとりながら、塩もつけずにむしゃぶりつく。  さて、懐中電灯を持ったわたしを先頭に、弓矢を手にしたハツァピ族が四人、足音をしのばせて、三時間近く獲物を求めてサバンナをあるきまわっていた。収穫なしに手ぶらで部落のほうへもどろうと、岩かどを曲ったとたんのこと。  先頭のわたしにしたら、夜目に手をのばしたらとどきそうな距離のところで、大きな赤い目玉が一対光った。思わずふりかえると、ハツァピ族達は、とっさに矢をつがえている。矢がはなたれるまえに、心臓のちぢみあがるような吠え声がしたかと思うと、大きな影が目の前をとんで、ブッシュのなかに消えた。そのまま、また物音一つしない静寂が夜を支配した。 「ニヤマ・ガーニ?」(何という動物か?)  とスワヒリ語でたずねると、 「フイシ」(ハイエナ)  と手短かに答えて、ハツァピ族達はわたしをうながして、何事もなかったようにあるきはじめた。  遠くで聞くハイエナの鳴き声は、まるで赤ん坊がむずかっているように聞えるのに、近くで吠えられると、これはまた何と恐ろしい声なんだろう。感心しながら部落の近くへたどりつくと、さっきハイエナだと教えてくれた青年が、 「実は、さっきのけだものは、ハイエナではなくヒョウだったんだ。ヒョウだと言ったら、おまえが恐がるだろうと思って、ごまかしたのさ」  と打明けてくれた。  ハツァピ族は低身で、成人男子の身長でも百六十センチをこえることはまれである。ハツァピ語は、南アフリカのブッシュマンと同じく、コイサン語族に属する。このことばは、舌を上あごや歯ぐきにたたきつけて、つづみを打つような「ポン」とか「チュッ」とかいった音を出すことが特徴だ。  ハツァピ族は、農業も、家畜を飼うこともしない。男の仕事は、シマウマをも殺すことのできる毒矢で狩をすること、女・子どもは木の実や野生の根茎を採集することである。人類史でいうと、かれらの生活は農耕、牧畜の開始以前、旧石器時代とたいして変化していない。かれらは人類最古の生活様式をいとなんでいる。ひとくちに狩猟採集民といっても、エスキモーのように高度の狩猟採集文化にくらべると、ハツァピ族の生活は、これはまた、なんとお粗末なんだろう。採集といっても、食物を集めて貯蔵することは、ほとんどしない。木の実や根茎など、食用植物をたべるときには、植物のあるところへいって、その場でたべてしまう。家へ植物性の食物を持ち帰るよりは、食物のある所へ胃袋が出張するのである。  ハツァピ族を、定着させようという試みは、英国植民地時代から何回かなされた。いずれも失敗に終っている。ハツァピ族に牧畜をやらせようとして、役人が牛を与えた。しばらくがまんをしたのち、肉の誘惑にかてずに、牛を全部殺してたべてしまい、ハツァピ族は、ブッシュのなかへ逃げこんでしまった。定着農民に仕立てあげようとして、役人がトウモロコシの種子を与えた。種子を全部たべて、ハツァピ族達は逃げ出した。  かれらは、自然の児である。サバンナを駆けめぐっているときには、実にいきいきとしている。なぜ労慟なんかする必要があるのだとかれらはおもうのかもしれない。かれらは、常に空腹である。牛が子どもをふやすまで、まいた種子が実るまで、そんなに気の長い話にはついていけないのかもしれない。腹がへっているのは、いまなのだ。  現在、タンザニア政府が、ハツァピ族を収容して、定着農民にしようと努力している。ハツァピ族の農耕民化はニエレレ大統領の直命であり、政府も本腰を入れている。どうやら、今回は成功しそうだ。それに、ハツァピ族も追いつめられている。以前は、ハツァピ族の土地であったマンゴーラに、牧畜民や農耕民がどんどんおしかけてきて、住むようになった。野獣の数は、いちじるしく減少した。食用植物の木は切り倒されて、畑となる。ハツァピ族のくらしも、自然のめぐみにたよっているわけにはいかなくなっている。ふだんは、家族単位にばらばらにわかれて、サバンナのここかしこに小屋をたてたり、岩かげに住み、獲物がとれなくなると、別の場所へ移るといった放浪の生活をしている。雨季になって、木の実がたくさん実り始めると、数家族が木の実を採集するのにつごうがよい場所に集まって、小屋をたて、集落らしいものをつくる。  住居は、雨季につくる小屋が一番りっぱである。それにしても、かれらの住居は原始的である。直径二メートルくらいの円形にそって、木の枝を地面につきさし、枝の上端を円形の内側に曲げてからみあわせる。こうしてできた半球状のわく組のうえに、まばらに草をかぶせただけのもの。文字通り、吹けば飛ぶような家だ。  例年では、マンゴーラは、十一月から五月までが雨季だ。一九六六年は、雨季の到来がおくれていた。雨季のキャンプ地に数戸の小屋がたてられたものの、水がないので、木の実のできはよくなかった。  十二月の末のある朝、突然大雨が降り始めた。ハツァピ族のキャンプは大恐慌をきたした。どこでも家中水びたしだった。雨もりなどというなまやさしいものではない。家のなかに、ザーザー雨が降り込むのだ。寝てはいられない。皆、家のなかでかがみこんで、子供をだきあげ、動物の敷皮を頭のうえにいただいて、せめてもの雨よけとしている。家のなかで合羽をきているようなものだ。寝られないので、誰かがヤケクソみたいな調子で歌をうたいだす。向うの家で、声を合わせる。雨の音と、合唱の入りまじった一晩だった。浸水がはなはだしい家では、女達が棒でもって家の床を掘って、排水溝をつくるしまつだった。    ハツァピ族の食事  ハツァピ族の生活は、おどろくべきほど簡素だ。あるハツァピ族の一家の財産全部をあげてみよう。水くみ、水のみ、ハチミツ入れなどに使用するヒョウタン製容器七個、アルミのナベ一個、タバコと滑石製の手づくりのパイプが入った皮袋一個、ナイフ一丁、弓一張、矢十二本、発火棒一本(この棒を脂の多い枯木のうえでキリモミさせて|火熾《ひおこ》しをする。現在ではライターを使う者もいる)、クサムラカモシカの皮をはいでつくった敷皮一枚、これで全部だ。ウガリこね用のシャモジすらない。ときたま、農耕民からトウモロコシを手に入れてウガリをつくる時は、ありあわせの棒を拾ってこねるのだ。  夫は、半ズボンをはき、上半身裸体。夫人は、けものの皮をなめしてつくった腰布。  直径二メートルの小屋に、家族全員が住んでいるんじゃ、居候のもぐりこむ余地はない。わたしは居候をするかわりに、ハツァピ族の雨季のキャンプ地のまんなかに、ハツァピ風の家を一軒建てることとした。労賃兼引越しのアイサツの手土産に、ヤギ一頭を約千円で買って、雨季のキャンプの全員にふるまった。ハツァピ族の友人達は、よろこんで、わたしの小屋をつくってくれた。もっとも、建築作業も簡単だ。女五人が二時間も仕事をしたら、もうわたしの家が出来あがってしまった。屋根のうえに申し訳程度に草をのせて日よけにしただけ。壁はチトセランをならべただけなのですこぶる見通しがいい。その頃、雨季のキャンプ地では、八軒の小屋が円形の広場に建てられていた。わたしの小屋は、そのまんなかにつくってもらった。そこで、壁の隙間からすべての家が何をしているか、居ながらにして観察することができた。  ハツァピ風の小屋のほかに、集落からちょっと離れた場所に、わたしはテントを張っておいた。わたしの炊事小屋であった。  わたしはなやんでいた。本当ならハツァピ族と一緒にくらす以上、かれらと食事もともにすることがのぞましい。だが、狩猟採集民のかれらの食生活は、いちじるしく不安定である。運が悪いと、ときには、二日くらい食物にありつけない場合がある。また、ハツァピ族の食事は、わたしたちにとって、決してうまいものではない。しぶい木の実、筋だらけの根茎。まずいのは我慢したらよい。二、三日くらい絶食することだってできる。だが、わたしは、原住民と同じ生活体験をするのが目的ではない。それは、手段であって、調査が目的なのだ。腹がへっては、わたしも仕事どころではなくなってしまう。それに、とぼしいハツァピ族の食物をわけてもらうのは、気がひけることだ。  ハツァピ族が飢えているのだったら、わたしが食物をわけあたえたらいいじゃないか。それでこそハツァピ族の友人ではないかという考えも成り立つ。わたしにだって、雨季のキャンプ全員三十名を一カ月くらい養うこともできたはずだ。ウガリにするトウモロコシの粉を村の商店で買っても、石油罐一杯が三百円くらいのものだ。だが、そんなことをしたら、ハツァピ族の生活様式を観察するという、わたしの仕事は、めちゃめちゃになってしまう。男は狩にでかけるのをやめ、女は食用植物の採集にいかなくなるだろう。そして毎日、わたしのところへ食物をねだりにくるようになる。友人というのは、対等の立場でつきあえるものでなくてはならない。一方的な恩恵が与えられるようになったら、友達ではなくなってしまう。  そこで、ハツァピ族のなかでくらすときだけ、わたしは自分の食糧を用意して、集落から離れたテントのなかでこっそりと炊事をすることにした。空腹の友人達に対して、後めたさを感じながら。  ハツァピ族の友人達は、遠慮して、わたしが炊事小屋にこもったときにはあまり訪ねてこなかった。だがそばを通りかかったら、まねき入れて、かれらには珍奇な料理の味見くらいはしてもらった。またわたしも、ハツァピ族の食物をひととおりは味わわせてもらった。  植物採集は、女の仕事である。男も狩やハチミツ採りに出かける途中、食用になる木の実のある所へ寄ってはたべていく。木の実は、ほとんど生のままたべる。雨季に実る、オンドシビとよばれるグミに似て少々シブ味のある木の実が一番重要な採集食物の一つだ。二十個もたべるとわたしたちには、半日くらいあとまで舌にシブさが残る。だが、ハツァピ族は一度に何百個もたべる。  この年は雨季の到来がおくれたので、オンドシビの実りが悪かった。女達は、木の枝の一端をとがらした五、六十センチの掘り棒をもって、毎日一度山ぎわに出かけて、キヨッコワという根茎を掘った。まだ、狩に参加しない十歳くらいまでの男の子も採集に連れてゆく。  キヨッコワは、三、四十センチの長さをした木の根のようなものだ。掘った場所で焚火をして焼く。焼きあがっても、まだ堅い。灰だらけになった表面の皮をはいで、サトウキビのように、かじりつく。なんと筋ばった食物だろう。少々青くさく、かみしめると甘みがある。たべ残した根茎は、各戸へ持ち帰って、狩から帰った男に与えられる。  ハツァピ族も、このごろはトウモロコシをたべる。畑を持っていないので、スワヒリ農耕民の開墾や家つくりの手伝いなどをして、その代償として、トウモロコシを手に入れるのだ。トウモロコシは貴重品あつかいである。ほかの食物のないとき、老人と子供にたべさせる。トウモロコシは、ナベで煎ってハゼトウモロコシにしてたべるのが一般的だ。  ふつうのハツァピ族には、ウスがないので、近所でひろったひらたい石のうえで、砲丸のような叩き石でもってトウモロコシをたたきつぶしては、根気よくひいて粉にする。トウモロコシの粉は、スワヒリと同じく、ウガリ、ウジにしてたべる。  京大隊の隊員として長いあいだマンゴーラで、ハツァピ族の研究に従っていた富田浩造さん(現在日本青年海外協力隊事務局、タンザニア駐在)によると、通常ハツァピ族が狩でとる獲物には、クサムラカモシカ、ヒロツノカモシカ、シマウマ、ドゲラヒヒ、イボイノシシ、ウシカモシカの六種、鳥ではホロホロ鳥、フラミンゴ鳥の二種が多いとのことだ。このほかに、私が観察した例としては、ノウサギ、ロックハイラックス、野ネズミ、陸カメ、スズメの類をたべていた。  肉の料理法には、焼く、煮るの二種類がある。アルミナベで煮てたべる場合が多い。肉は大きな固まりのまま煮る。ナベのなかで首から切りはなされた野獣の頭が、ギロリと目をむいている。  ときたま、エヤシ湖底から採集してきた塩が使われるほかには、調味料はない。文字通りの水たきだ。野菜などを一緒に煮こむこともない。けだものの腸の内容物、別の言いかたをしたならば、製造過程にあるフンが風味をそえるものとして、一緒に入れられる。腸管をしごいて、黄緑色をした内容物をとりだして、ナベのなかにぶちこむ、独特の臭みと、胆汁の苦味がまじっていて、わたしには、内臓入りの水たきは、あまりいただけなかった。  狩の獲物が小動物の場合は、狩に出た男たちでたべてしまう。男たちの飢えが一応おさまったあとで、残りはキャンプに持ち帰られる。小動物の場合は、射た者の家で消費される。ロックハイラックスのような小動物でも沢山とれた場合や、大動物の獲物がとれた場合は、均等に各戸に分配される。  一九五七年十二月二十日から、三十日までの十日間に、八戸、人口三十人の雨季のキャンプ全体で得られた動物性の食品をあげてみよう。  十二月二十日   シマウマ一頭、山奥へ毒つくりに行った二夫婦が射る。その場で二十二日まで四人でたべつづける。くわしくは第三部「食事の回数」参照。クサムラカモシカ一頭、狩に出た二人の男の属する各戸で消費。  二十一日   なし。  二十二日   シマウマの肉十キロ。二十日に得たものの残りを持ってくる。各戸に分配。  二十三日   ウシの頭と後脚一本。近所のスワヒリ農耕民のところで、病気で死にそうなウシを一頭屠殺したので、おすそわけにあずかる。各戸に分配。  二十四日   ハチミツ約二リットル。採集者の属する二家族でなめてしまう。  二十五日   なし。  二十六日   ヤギ一頭。サバンナのなかで、行きだおれになっているのをハツァピ族の一人が発見。居あわせたキャンプ中の男が手分けをして、放牧路にあたるダトーガ族やイラク族の家を訪ねたが、該当者見あたらず、ちょうだいしようということになった。各戸に分配。  二十七日   ロックハイラックス三頭。うち二頭は、狩に出た男達だけで、山のなかでたべてしまう。   一頭を持ち帰り、射手の一人の家で消費。ロックハイラックスとは、リスくらいの小動物。柄は小さいが動物学的には、象に一番近いけだものだ。   ハチミツ一リットル。狩に行く道でみつける。二戸に分配。  二十八日   ロックハイラックス五頭。うち四頭を狩に出た若者達でたべてしまう。一頭を持ち帰って、一戸に与える。   ヒツジ一頭。病死しかかったものを、スワヒリ農耕民からもらう。各戸に分配。  二十九日   ロックハイラックス二頭。射手の家へそれぞれ持ち帰る。   ハチミツ一リットル。発見した若者たちでたべてしまう。  三十日   なし。   これらの動物性蛋白質に加えて、老人、子どもにたべさせるトウモロコシと、女達が集める根茎キヨッコワの献立が加わったものが、この十日間の雨季のキャンプの食事であった。  こうしてみると、病死寸前の家畜のおもらいや、ゆき倒れの家畜のひろいものの占めるウェイトが、案外大きいことがわかる。農耕民、牧畜民がマンゴーラを占領してから野獣の数は減少し、動物、食用植物の少なくなった今日、もう、ハツァピ族の生活は、自然のめぐみだけでは、やっていかれないように追いつめられている。現在、マンゴーラに住むハツァピ族は、人口八十人くらい。かれらの狩猟採集の生活様式が消滅するのも時間の問題であろう。それは、東アフリカにおける最後の狩猟文化の終滅を意味する。  ハツァピ族の生活は、物質的にはたしかにまずしい。しかしかれらの精神は、決してみじめったらしくもなければ、野蛮でもない。わたしは東アフリカのさまざまな部族とつきあったが、そのなかで一番人なつこくて親切だったのがハツァピ族であった。  ある東風の強い晩のこと。草を枠組にしばりつけることすらせず、草をのせただけのハツァピ族の小屋でわたしは寝ていた。烈風に、わたしの小屋の屋根の草は、少しずつとばされて、木の枝の枠組だけ残った屋根から悽惨な月が、雲が流れる夜空をゆっくりとめぐるのがみえた。わたしは何度も浅い眠りからさめては、月をながめた。わたしは目をさますたびに、小さな影がわたしの小屋から遠のいていくのを知っていた。ハツァピ族たちは、夜目がさめるたびに、誰かが自分の小屋の屋根から草をひきぬいて、わたしが目をさまさないようにしのびよってきては、わたしの小屋の屋根をなおしてくれていたのだ。    ダトーガ族の食事  ダトーガ族は、牧畜民である。ウシ、ヤギ、ヒツジの群れを飼育する。最近では、役畜として、ロバも飼うようになった。ダトーガ族の家畜で、一番重要なものは、ウシである。周囲の部族から、ダトーガ族は「ウシのひと」というニックネームをつけられている。ダトーガ族の大長老では、三百頭くらいの牛を持っていることもめずらしくない。  いくら牛を持っていても、これをやたらに殺して食用にしたり、売って金銭にかえたりはしない。牛を殺すのは、儀礼のときであり、牛を売るのは税金をおさめ、ゴロレとよばれる身体をおおう一枚の大きな布などの、最低限の生活物資を買いこむためにだけである。  そこで、一度に数頭も手ばなすことはなく、ときたま、しぶしぶ牛を一頭、五十キロ離れたカラツの町で、月一度開かれる牛市に連れてゆくのである。役人も心得たものであって、牛市にはマンゴーラ村役場から収入役が出張しており、牛を売ったダトーガ族から、その場で税金をおさめさせる。  牛の大きさ、市でのセリの様子などで、牛一頭の価格は左右されるが、大体七千五百円から一万五千円の間である。牛を百頭持っていたならば、金に換算すると大金持なはずであるが、ダトーガ族の生活は、質素なものである。  のちにのべる、ギチェロ家では、十四名の家族がいる。ギチェロ家で一年間に、ウシ、ヤギ、ヒツジを売って手に入れる現金収入は、約五万円である。これで税金をはらって、十四名の生活をまかなう。ほとんど自給自足経済で暮しているのだ。マンゴーラの諸部族のうち、外界からおしよせてくる近代化の波に、最も抵抗し、伝統的な部族生活を守っているのがダトーガ族である。  口の悪いスワヒリ達は、ダトーガ族を評して、「アイツらは、牛が沢山いるのを見て楽しんでいるだけさ」という。スワヒリにしたら、牛がふえたら、どんどん売って、その金でもっとましな生活をしたらよいのにと思うのかもしれない。  しかし、牧畜民はもともと家畜を処分しないものである。牧畜民のところへいったらいつでも肉にありつけると思ったら、大間違いだ。案外牧畜民ほど、肉をたべる機会の少ない人びとはいないといった方がよい。牧畜民にとっては、家畜は、貯金の元金のようなものである。家畜を殺して、元金を食いつぶしたら、元も子もなくなってしまう。家畜の群れが大きくなったら、ほうっておいても、子どもが子どもを生んで利息がふえる。ときどき、ふえた家畜を間引くように農耕民に渡して、そのかわりに農産物を入手する。また、子どもを生む家畜の数が多くなれば、それだけミルクの量が多くなる。牧畜民の主食は、ミルクであって、肉ではない。ミルクという完全栄養食品を確保しておくためには、家畜の群れは、大きいほどよい。  乾季の終り、わたしはダトーガ族のギチェロ家に居候していた。ダトーガ族の家は、トゲの木の城壁にかこまれている。ドンベチャンダというマメ科の灌木には、長さが四、五センチもある鋭いトゲが一面に生えている。ドンベチャンダの木を伐って、高さ二メートルくらいに積み上げて、直径が百メートルくらいの垣をつくる。鉄条網よりも手ごわい垣根だ。夜、門にドンベチャンダの木をつんで、出入口をとざしてしまうと、ダトーガ族の屋敷は要塞と化する。それでも、ときには、ヒョウが家畜をおそい、ヤギを一頭くわえて垣をとびこすという。  ギチェロ家の垣のなかには、五つの家屋があった。ギチェロの母の住む家屋、ギチェロとその妻子の家屋、ギチェロの二人の弟の各々の妻子が住む家屋、それに若者の寝る家屋であった。  ダトーガ族は、拡大家族を単位として、居住する。すなわち、一つの垣根のなかには、家長の妻達とその子供の家、家長の母、夫に死別した家長の姉妹が出もどって住む家、まだ独立しない家長の弟達とその妻子、成長した家長の弟達とその妻子、成長した家長の子供とその妻子の家がつくられる。家長のギチェロは、四十五歳くらいだが、長老であった。男達のうち、長老のギチェロだけが、妻と同じ家屋で寝た。ギチェロの二人の弟は、おのおのの妻の住む家屋では寝ない。  ダトーガ族の若者組のメンバーである二人の弟達は、フーランダと呼ばれる「男の家」で夜は寝た。分家して、独立した屋敷を持ち、長老組のメンバーになるまでは、男たちは結婚しても夜は「男の家」でくらす。 「男の家」は、垣根の出入口の近くに建てられていた。「男の家」の壁には、ヤリ、楯、弓矢が立てかけられている。いったん事があれば、すぐ防衛出撃できるようにそなえてあるのだ。若者組のメンバーには、野獣から家畜を守り、昔からの敵であるマサイ族の侵撃に対して交戦する義務がある。戦士の見習い階層にある十六歳と十三歳のギチェロの息子も、母親のもとを離れて、「男の家」でくらしていた。 「男の家」はまた、応接室でもある。お客をまねき入れたり、旅人を泊めるのも、「男の家」だ。ギチェロ家でわたしは、「男の家」で寝泊りすることになった。  平屋根のダトーガ族の家屋は、天井が低い。一メートル半くらいだ。平均身長が百八十センチくらいある長身のダトーガ族は、家のなかをあるくときには、いつもオジギをしている。わたしはダトーガ族の家になれるまでは、すぐのびをしては、頭を天井にぶつけてコブだらけになる破目になった。壁は牛のフンと泥をまぜて塗ってある。だが乾ききっているので、臭いはあまりしない。「男の家」には、木の枝を組んで地上三十センチくらいの高さの大きな棚がある。このうえに、牛の生皮を敷きベッドとして寝る。生皮は、ピンとつっぱって、まるで板のようだ。大きな靴底のうえに寝るようで、じきに背中が痛くなる。なかなか安眠できないうえに、ダトーガ族は、朝が早い。寝坊のわたしには、つらいことだった。  落語にでてくる大家の息子が勘当されて、出入りの職人の二階へ居候した場合などは、のうのうと朝寝をきめこんだようだが、こちらは、出入りの職人どころではない。見ず知らずの異邦人のところへ、勝手に居候にころがりこんだのだから、居候先の生活のリズムに従うのが、エチケットというものだろう。  夜明け近くになると、ロバがいななく。あなたはロバの鳴き声を聞いたことがあるだろうか。ヒヒーンというウマのいななきでも、動物の声としてはいいかげん間がぬけたほうであるが、ロバにくらべたらずっと威厳がある。ロバの鳴き声は甲高くて、長く続く。「ヒエッ、ヒエッ、ヒエッ、ヒエー、ヒエー、ヒヒヒヒヒーン、ヒエッ」というふうに、ソプラノのウマが喘息にかかったような声でさけびはじめる。すると、牛が目をさまして、低い声でうなりはじめる。ヤギ、ヒツジが、か細い鳴き声をたてる。人間もおつきあいに起きなくてはならない。  朝起きたって、顔を洗うようなめんどうなことはしない。夜間、門につみあげたドンベチャンダの障壁をとりはらって、男たちは庭にすわりこんで雑談をしている。その間、女は、乳をしぼり、朝食の用意をする。朝日が出てから一時間もすると、食事が出来あがる。  わたしがギチェロ家へ居候した一週間の食事は、ウガリとミルク、及びサワークリームの献立であった。  ウガリにあたるものは、ダトーガ語でハミタと呼ばれる。近年、ダトーガ族にも畑を持つ者がふえてきた。しかし、経営面積は、一世帯一エーカー程度をこえず、植える作物も自家消費用のトウモロコシだけである。スワヒリは、トウモロコシを村の商店の製粉機にかけてもらって、ウガリ用の粉をつくってもらう。しかし、貨幣経済の段階に達していないダトーガ族は、自分の家で石のスリウスを使ってトウモロコシを粉にする。そこで、ダトーガ族のウガリは、粉があらく砂がまじっていたりする。出来あがったウガリをスワヒリのように皿や洗面器に入れて供することはすくない。つくったナベから手づかみでたべるか、半分に切ったヒョウタンのなかへウガリを入れてもってくる。  サワークリームは、牛乳を|攪拌《かくはん》してつくる。大きなヒョウタンを天井から皮紐でぶらさげる。ヒョウタンのなかに牛乳を入れて、前後に十分間ほどゆさぶる。するとミルクの表面にクリームが分離して浮びあがる。これを放置しておくとサージャンガという、クリームがふわふわと浮いた酸っぱいミルクができる。  牛乳は、ダトーガ語でサンシャゲーガとよぶ。朝夕、乳をしぼる前に、乳しぼり用のヒョウタンをさかさにして、くすぶっている薪をつっこむ。煙でいぶしたヒョウタンにしぼりこんだミルクは、独特の風味をもつ。  食事時間になると、この三種類の食物が、「男の家」に運ばれる。「男の家」に寝泊りする各員の所属する世帯の炉で、妻達がつくって持ってくるのだ。ギチェロの弟達の二人の妻がつくった食物、少年達の母親がつくった食物。三つの世帯から運ばれるのだ。これを、わけへだてなしに、他の世帯から持ってきた食物にも手をのばして共食するのだ。といっても、どの世帯でも献立は同じだ。三つのウガリのナベ、三つのミルク、あるいはサワークリームの入ったヒョウタンがならぶだけ。  ダトーガ族の女は、毎日の献立を考えるわずらわしさからは解放されている。乾季の終りは草がなく、家畜の乳の出が一番悪いときだ。わたしをまじえた「男の家」で食事をする五人に対して、ミルク、サワークリーム合わせて、一食に〇・六リットル程度の配給だった。牛乳が足らないので、女達はヤギの乳を飲んですます日もあった。  このほかにときどき、肉料理がついた。二週間程前にコウシが一頭、病気のために死にかかったので屠殺した。この肉を細長く短冊状に切って、屋根からぶらさげて乾肉をつくってあった。いくら乾季だからといっても、肉はすでに腐敗して、不快な臭いがついている。これを自家製のバターで煮る料理だ。  ダトーガ族の習慣では、ふつう肉は煮てたべ、焼きはしない。焼肉は、ダトーガ族の仇敵であるマサイ族の料理法だといってきらう。バターは牛乳をヒョウタンのなかで攪拌してつくる。肉料理のつくりかたは、バターをナベで溶かして、肉を入れるだけ。ときにはエヤシ湖の干あがった湖底から採集したソーダ分の多い塩を調味料に入れる。  ギチェロ家での腐った乾肉料理には、閉口した。口に入れると嘔吐をさそうような臭いがぷんとする。肉はごちそうなので、それ食えやれ食えと勧められる。ことわるのもめんどうなので、ろくろく噛みもしないで、大急ぎで腹のなかに飲みくださなくてはならない。  朝食が終ると「男の家」のメンバーは、家畜の放牧に出かける。若者はヤリをかついで牛を追い、少年はヤギ、ヒツジ、コウシの小家畜の放牧に行く。日没頃、家にもどるまで、飲まず食わずに家畜の群れを追ってあるき続けるのだ。長老のギチェロは、何もしない。長老は労働をせず、政治と儀礼をつかさどる。ギチェロと女子供は、昼食をとる。  毎食、ウガリとミルク、サワークリームの生活が一週間続くと、本当にうんざりする。ダトーガ族も、野草をたべないことはないが、その頻度はスワヒリにくらべてきわめてすくない。ダトーガ族の習慣で魚はいっさいたべない。狩猟許可証を持たぬ者に、狩が禁じられている現在、野獣が食糧とされることはほとんどない。  一週間たつと、スワヒリの野草料理が恋しくなり、ギチェロ家での調査も一段落したので、わたしはそうそうに下宿先のラシディ家へもどった。ダトーガ族の食事の単調さに、まいってしまったのであった。    マンゴーラの魚  カンバレマンバという魚がいる。カンバレというのは、スワヒリ語でナマズのこと、マンバとはワニのことだ。ワニナマズとでもいった魚か。  カンバレマンバの獰猛なことは、村人から聞いていた。なんでも、とてつもなく大きな魚で、釣糸なんか食いちぎってしまうから、めったに釣れやしない。釣針をはずそうとして、不用意に魚の口に手を持っていったら、たちまち指を食いちぎられてしまう。おまけに、味もまずい。まったく、しょうもない魚だと。  村民の一人が、カンバレマンバが釣れたといって、和崎さんの所へもってきた。和崎さんは、日本からナイロン製の太い海釣用のテグスを持ってきていた。これを村人にわけてやったところ、その糸で釣りあげた獲物を見せにきたのだ。  猛魚カンバレマンバさえも、糸を食い切ることができなかったのだ。日本の釣糸は丈夫だという評判が村中に広がり、これをわけてくれという村人達が殺到した。あまり、希望者が多いので、手でもってこの釣糸を引きちぎることができた者にやるという懸賞を出した。皆、かわるがわる渾身の力をしぼって糸を引っぱってみたが、引き切ることのできる者は一人もいなかった。  さて、釣りあげてきた、カンバレマンバの首実検に立ちあった。なんと、グロテスクな魚なのだろう。大人の腕よりも太く、一メートル近い大きさだ。ネズミ色にぬめぬめした肌。ナマズとフグの混血みたいな顔をして、それでいてユーモラスというよりは、化物ヅラだ。サメのように鋭い歯が口の奥まで連なっている。ヒレというよりは脚に近い代物が胴体にくっついている。肺魚に似ている。前時代の生ける遺物、陸水のシーラカンスといったかっこうだ。  村人にばかり釣らせていないで、わたしたちも魚釣りに行こうではないかということになった。調査の息ぬきにもなるし、ウガリと野草のボガばかりの毎日にもあきた。何カ月ぶりかにサシミを食おうということになった。わたしたち日本人が、外国で日本の食物に郷愁をおぼえるものの筆頭が、サシミとか魚のナマスのようなものである。  その頃、マンゴーラには、京都大学アフリカ研究会から参加した学生隊員として、田中壮一さんが滞在していた。和崎さん、田中さん、わたし、家主のラシディとの四人で魚釣りに出かける相談がまとまった。釣りに行くといっても、ランドローバーを駆って、道のないサバンナを横切って行く大げさなものになってしまった。  どうせ釣るなら、村の中で一番魚の多いところへ行こうという。そこで、和崎さんの寺子屋から、約十キロ離れた泉の近くの流れに釣りに行くこととなった。  ランドローバーは、英国製の、ジープのような四輪駆動のきく車である。車体が総ジュラルミンだから、重量がすくなく、泥沼や砂にはまったときに引き出すのに容易である。道路の発達していない国へ行くと、どこでもランドローバーにお目にかかる。探検家にとっては、最もおなじみ深い自動車である。  だが、その頃わたしたちがマンゴーラで使っていたランドローバーの一台は、大変なポンコツであった。持主の変わること十回くらい。転売を重ねた代物であった。  この自動車にはスターターがついていなかった。スターターの調子が悪いのでとりはずして、工学部出身の田中さんが修理を試みたが、結局は新品と取りかえねばならないことが判明した。スターターを買うといっても二百キロ離れた町のガレージまで行かなくてはならない。また、新品のスターターを買う金もなかった。  そこで、人力で押してエンジンを始動させては使っていた。途中でエンストしたときにそなえて、運転するときには、必ず三人くらいの、いざというときの押し手を乗せていた。また、エンジンをとめるときはあとで押しやすいように坂のうえに駐車させることにしていた。  おまけにわたしたちのランドローバーのエグゾーストがこわれていた。そこで、マフラーも取りはずしてあった。エンジンがかかると、まるでプロペラ式の戦闘機のようなすさまじい音がした。  わたしたちは、サバンナのカミナリ族であった。だが、村人からやかましいという文句は聞いたことがなかった。村人といっても、あちこちに一軒、はるかかなたに一軒というふうに、散らばって家をかまえている。夜、ときたま野獣の声がするほかは、森閑として物音がしない場所である。かえって、わたしたちの自動車の騒音が、村を活気づける効果をあげていたかもしれない。  その頃、わたしたちのランドローバーのほか、村には自動車が二台しかなかった。村に三軒あるなんでも屋の商店のうち二軒が商品の仕入れ用のトラックを持っていたのだ。そのうちの一台は、これまた恐るべきトラックだった。車体で原形をたもっている所が一カ所としてない。いたる所がねじ曲り、凹んでいる。ヘッドライトが片目つくだけで、尾灯はつかない。スプリングは折れており、木を伐って副木として針金でしばりつけてある。タイヤはすりへってずんべらぼう。スペアタイヤもつるつるで、トゲの木の枝を踏みつけるごとにパンクする。ブレーキはまったくきかない。よくも地上分解せずにはしっているとあきれかえるようなトラックだった。  マンゴーラ村では、わたしたちのランドローバーは、一番上等の車であった。そこで、私達の車のエンジンがかかる音をききつけると、ヒッチハイクを頼む村人が駆けつけてくる。荷物の輸送を頼まれる。いやおうなしにわたしたちはバス会社と運送屋を兼業させられていた。  釣場の近くまでのヒッチハイクのお客さんたちに、車を押させて、エンジンをかけ、一同意気揚々と釣りに出かけた。バリバリという爆音を立ててサバンナの中を車ではしると、魚釣りというよりは、戦場へ行くような高揚した気分になる。  よどんだ流れに出る。五メートルほどの川幅。乾季のサバンナが赤茶けて、背が低いマメ科の灌木におおわれているのに対して、川辺林は、常緑で、七、八メートルはあるイチジクの仲間の樹木が発達している。サバンナが見通しのよい乾いた世界なのに対して、川辺は、かげりのある隠微なところだ。  木の枝を伐って釣竿とする。棒の先にテグスを巻きつけて鈎針をつけただけ。浮き、|錘《おもり》はなし。餌は、ラシディの用意したウガリ。ウガリをちぎって小さな団子状にして鈎針につける。  おそるおそる糸をたれる。わたしは子どものとき二度ほど釣りに連れられて行ったことがあるだけだ。一匹もつれなかったので、こんな退屈なばかげたことは、一生するまいと、子ども心に決心した。魚がたべたくなったばかりに、アフリカくんだりで、生涯三度目の釣りを試みる破目となった。  何か糸を引くではないか。わたしは、あわせかたのコツもなにも知っちゃいない。乱暴にぐいと竿をはね上げる。十五センチくらいの美しい光沢をはなつ細身の魚がおどりあがる。マンゴーラでクユと呼ばれるコイ科の魚だ。  それから釣れるわ釣れるわ、二時間足らずで、わたしは十匹くらい釣りあげた。もっとも、わたしに釣りの天分があったわけではない。魚のほうが、少々鈍い連中だったのだろう。和崎さんは、餌をつけない鈎針で、魚のエラをひっかけて釣りあげるという芸当を演じていた。  四人で三十匹くらい釣れただろうか。和崎さんの寺子屋へ引きあげて、料理にとりかかった。十センチくらいの小魚は、背ごしにする。二十センチほどのものは、三枚におろして、|あらい《ヽヽヽ》をつくった。ほかに塩焼きと、和崎家の家主夫人にたのんで、スワヒリ風の魚料理——といっても例のトマト、タマネギ、塩の味付け——もつくってもらった。  このときだけは、地酒のドブロクではなしに日本酒を、ウガリのかわりに日本風のメシが欲しかった。  活魚の|あらい《ヽヽヽ》と背ごしを、ぞんぶんに|堪能《たんのう》した翌日、わたしたちは四十キロ離れたオルデアニの郵便局へ出かけた。タンザニアでは、郵便配達の制度がない。はてしないサバンナのなかを、一通の手紙のために郵便配達夫を何十キロもはしらせるわけにはいかないだろう。手紙を受け取りたい者は、郵便局に私書箱を開設して、郵便局まで取りに出かけなければならない。そこで手紙を出すには、相手の私書箱番号を知る必要がある。タンザニア全体の私書箱番号簿が、京都市の五十音別電話帳の五分の一くらいの厚さだ。  オルデアニ郵便局のわたしたちの私書箱には、|東《あずま》 |滋《しげる》さんの手紙が待っていた。東さんは、探検部の仲間であり、通称アズマザル。現在京都大学霊長類研究所の講師。以前、ダンガニイカ湖のほとりで、チンパンジーの調査に二年間従っていた。マンゴーラにもきたことがある。  手紙には、マンゴーラのどこそこの一軒家には、すらりとして美しい目をした若い女性がいるから、訪ねてみろとか、夜あるきをしていると樹上にポッと赤い光がみえることがあるが、電池の切れかかった懐中電灯だと思ってなれなれしく近づいてはいけない。片目をつぶってウインクをする習性のヒョウがいるから気をつけろとか、忠告がしるされていた。  最後に、川魚をサシミにしてたべると危険! へんな寄生虫にたかられること受けあい。御注意!! とエクスクラメーションマークが二つもつけて書いてあった。  マンゴーラで魚をたべるのは、主としてスワヒリである。スワヒリは魚釣りのほか、ヤナもしかける。ハツァピ族も、ときには魚とりをする。ハツァピ族の漁法は、水が干上ったとき手づかみにするか、弓矢で射る。牧畜民ダトーガ族、半農半牧民イラク族では、魚をたべることはタブーになっている。    アフリカの正月  スワヒリの多くは、イスラム教徒である。村のなかに、イスラム教の教会、モスクがある。  トウモロコシ畑のまんなかに、土壁草ぶき屋根の粗末な建物がぽつんと建っている。建物の入口に、水を入れるドラム罐が一つおいてある。このドラム罐の水で、手足をきよめて、人びとは建物のなかに入る。がらんとした部屋にムシロがしかれており、ここで人びとはひざまずいて礼拝する。一番奥の壁に、三日月と星をあしらったイスラムの旗がかけてある。この壁がメッカの方向であると信じられている。  中近東の都市によくあるドーム状の屋根をもつ大きな建物と、これをとりかこむ尖塔の壮麗なモスクのイメージからは、はるかに遠い代物だ。  だが、マンゴーラのモスクは信者達が、とぼしい金をよせあい、労力を出しあってつくった、まごころの建物だ。|壁龕《へきがん》に宝石をちりばめた、王侯の建てたモスクよりも、アラーはよみしたまうであろう。  ただ、マンゴーラ村のモスクに、一つだけいけないことがある。わたしが、磁石でもってはかってみたところ、人々がお祈りする奥壁の方向が、メッカをさしていないのだ。大西洋のほうを向いて、お祈りをしているのだ。  ここ数年、マンゴーラ村に、あまりいいことが起らないのは、人びとの祈りがアラーの耳にとどかぬ方向へいってしまっているからなのかもしれない。  一九六七年の十二月から、一月始めまでは、回教暦では、ラマダンと呼ばれる断食月にあたっていた。スワヒリとよばれる黒人回教徒たちは、昼間は一切飲み食いをしない。食物をとることが禁じられているほか、水を飲んでもいけない。ツバを飲み込むことさえ禁じられる。ツバがわきでたら、はきださなくてはいけない。敬虔な回教徒は、薬も飲まない。夜明けから日没までのあいだ、一切のノドを通過するものを絶つのだ。もちろん、タバコをすうこともできない。昼間性交をすることも禁じられている。ラマダンの間、病人、妊婦、子ども、旅人、軍営の兵隊のほかの、世界中の信心ぶかいイスラム教徒は、昼間のあいだ食を断ち、身をつつしむのだ。  旅人は断食を守らなくてもよいので、中近東の上層階級の回教徒になると、ヨーロッパ旅行に逃げ出す者が多いとのことだが、マンゴーラのスワヒリには、そんな不心得者はいない。まだ、断食をはじめなくてもよい小学生でさえ大人の真似をして、二、三日間だけでも自発的に断食をして、ほかの子ども達にえばってみせたりするくらいだ。  マンゴーラのスワヒリを対象として、長い間調査を続けていた和崎さんは、村民達からイディモハメディというイスラム名をもらっていた。この年のラマダンには、和崎さんもスワヒリの一員として、断食に参加した。和崎さんの経験によると、昼間の断食は、それほど苦痛ではないそうだ。だが、水を飲まないで暑い日中を過すことは大変困難である。和崎さんは、部屋の奥に水を入れた瓶をかくしておき、昼間もときどきこっそり水だけは飲んでいたようだ。回教徒になる訓練をしているわけではなく、ラマダン中でも日中も調査を続行しなくてはならないので、そのくらいのインチキをしても、さしつかえあるまい。  ラマダンがはじまると、わたしは、二日ほど断食のつきあいをしたのち、ラシディの家を出て、ハツァピ族のところへ逃げ出した。スワヒリの家に居て、わたし一人だけ昼間から飲み食いするわけにはいかない。そうかといって、断食のおつきあいをしたら、肉体的にまいってしまい、かんじんの調査の方がお手上げになってしまう。ハツァピ族には、イスラム教徒がいないので、断食月など関係なく、おおっぴらに食事が出来る。そこで、ラマダンの期間は、サバンナのただなかにあるハツァピ族の雨季のキャンプ地にとどまって、わたしは、ハツァピ族の調査をすることにした。  年末になると、和崎さんはランドローバーを駆って、エヤシ湖の西方のスクマランドの調査に出かけていった。採集植物の木の実、根茎が少なくなったので、ハツァピ族達は、獲物やハチミツを求めて山間部へ移動しはじめた。大晦日の夕方、わたしはラシディの家にもどった。  日暮近くになると庭にむしろをしいて、スワヒリの家族達は、日没を待っている。家のなかで主婦がごちそうづくりをしている煙が、草ぶき屋根の隙間からのぼる。ラマダンの晩は、昼間断食をしたかわりに、腕によりをかけたごちそうがでる。  エヤシ湖西岸の切りたった断層崖のうえに広がるセレンゲッティ大平原に夕日が沈むと、主人が合図をする。主婦がココヤシの殻でつくったシャモジでナベからウジをコップにつぐ。  ウジとは、モロコシ、キビ、キャッサバ、トウモロコシなどの粉を湯にといた重湯のようなものだ。これに、砂糖をたっぷり入れて飲む。野生のライムをしぼりこんだり、肉桂、コショウ、ショウガの粉などの好みの香料を入れて、さわやかな味付けをしてある。一日の断食が終ったあと、熱いウジをフウフウ吹きながら飲むのが、どこの家でもラマダンの晩の食事の最初のコースだ。いくらノドがかわいていても、ウジを飲まずに、まず水のガブ飲みをしたら、身体によくないそうだ。  ウジのあとには、フタリと呼ばれるラマダンのときのごちそうがでる。フタリは、ササゲ、クッキング・バナナ、サツマイモなどをやわらかく煮て、つぶしたものがおおい。たいていは、甘く味付けをしてある。断食のあとには、まずやわらかなものをたべないと、腹工合がおかしくなるとのことだ。  ウジとフタリがラマダンの晩の主なごちそうだが、ほかにナマズを煮たり、ニワトリをつぶしたり、コメのメシをたいたり、輸入品のナツメヤシをつけたり、主婦はなるべくごちそうをつくろうと苦心する。  夜十時頃、モスクに礼拝に行ったのち、またウガリの夜食をとる。翌日、力仕事をする者や、食いしん坊は、早朝、日の出前に食事をする。  一九六七年の元旦、わたしは、白のワイシャツ、白い半ズボン、白いストッキングといういでたちでマンゴーラ村のなかをあるいた。 「ジャンボ! イシゲ、今日はどうしたんだ。まるでイギリス人のダンナみたいなかっこうをしているじゃないか」 「ウン、今日は、ジャパニの国で一番大きなお祝いの日なんだ。この日は、いいかっこうをして、友達の家へあいさつをしてまわるのがしきたりなのさ。そこで、あんたの家へもよったのさ」 「ふーん。それで、お前の国のお祭りのときは、ウシかヒツジでも殺すのかね」 「ウシやヒツジはたべないけど、ほかのごちそうをうんとたべて、お酒を飲むさ」 「ジャパニのごちそうって、どんなものだい?」 「今晩、オレのところへきたら食わせてやるよ」  昼すぎから、わたしは|御節《おせち》料理のしたくにとりかかった。といっても、今回は現地食主義のつもりできたので、日本食品はほとんど持っていない。かつて食料品がつまっていた箱の底に残っていたのは、醤油とダシ昆布だけ。小さなニワトリを一匹百五十円近くで買って、羽根をむしってもらった。ニワトリを解体して、ガラは雑煮のダシとする。モチのかわりに、米をたいて、洗面器のなかで空瓶をキネとしてつきくだいてから、まるめて炉のうえで焼くと、モチとオニギリのあいのこのようなものができあがった。まあ、これでがまんしておこう。雑煮に入れる野菜は、家主の第一夫人がつんできた野草を使うこととした。  一方、ニワトリの肉は砂糖をたっぷり使って、飴炊きにする。そえものはサヤエンドウ。甘い料理は、スワヒリによろこばれる。水につけておいたダシ昆布で、村の川でとれた鮒に似た小魚の干物を巻いて昆布巻をつくる。  夕日が沈む頃、アフリカ人の友人達が数人集まってきた。居候している家の庭にゴザをしき、日が沈むのを待って、日本料理の夕べがはじまった。まず、家主夫人のつくったウジを飲んでから、雑煮をたべはじめる。一同、木の枝をけずってつくってやったハシをおぼつかなげに使いながら一口たべては首をひねる。雑煮や昆布巻の味は、あまり舌にあわないようだった。砂糖が糸をひくほど甘く煮つけたニワトリは、好評ですぐなくなってしまった。それにもまして、皆によろこばれたのは、お屠蘇用のためにと、何カ月も前から誘惑をおしのけてとっておいた、三本の罐入りの日本酒であった。  その翌年の元旦、わたしは、谷さんと一緒に、チュニジアとリビアの国境を越えるバスにゆられていた。塩づけの数の子をぽりぽりかじりながら、アルジェリア産のワインをラッパ飲みしているうちに、行手の砂漠のきれるあたり、地中海から大きな太陽がのぼりはじめた。 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砂漠のサシミ  北アフリカの遊牧民調査のときのことである。谷さんとわたしは三カ月間砂漠のなかで自炊をするつもりだった。そこへ梅棹忠夫さん(京都大学教授)も、あとから訪ねてくることになっていた。食糧は現地調達でまかなう予定だった。だが、最低限の日本食品は持っていかねばならない。やはり、ときどきは味噌汁やお茶づけの味を楽しみたいものである。国際線の航空機に無料で乗せることのできる手荷物は、二十キロまでである。トランクに、着がえや調査機具をつめると、食糧は二キロ程度しか入れる余地がなかった。  出発の前日、わたしはスーパーマーケットへ買いだしにいった。プラスチックのビンに入った〇・五リットル入りの醤油、四百グラム入りポリエチレン包みの赤味噌と白味噌各一袋、干シイタケ一袋、ダシ昆布一袋、罐入りの煎茶、昆布茶の小さな罐、七味トウガラシ、サンショウの粉、ワサビ、化学調味料、粉末になったウドンツユの素三十杯分、味付けノリ百円分、プラスチックの容器に入った塩昆布、ウメボシ、小罐入りの玉アラレ、日本茶、これだけが買物のすべてだ。千円札でオツリがくる。スーパーマーケットそなえつけの買物かご一杯にみたない量だ。  プラスチックのビン入りの醤油は、そのまま卓上ビンとして使える。ガラスビンよりも軽いし、割れる心配がない。量の不足は、はじめから明白であった。しかし、現地で手に入れるマギーソースと併用すること、主としてかけ醤油として使い、煮物には使わないつもりであった。西洋料理、中華料理などのレパートリーが広ければ、それだけ醤油の消費量はすくなくてすむ。  白味噌と赤味噌は、まぜて使うつもりで買った。そのときの気分に応じて、濃厚な白味噌と塩辛い赤味噌の配合を変えて味噌汁を楽しむ。パック入りのインスタント味噌汁という手もあるのだが、これはどうもいただけない。毎日同じ味になってしまい、あきがくる。ニューギニアで使った経験では、インスタント味噌汁のなかには、百日くらいすると変質して酸っぱくなるものがある。それに、粉末のインスタント味噌じゃ、酢味噌や味噌煮をつくれないじゃないか。少々重くても、味噌は本物に限る。ポリエチレン包装だったら、袋をやぶるまでは半年くらいおいても変質しない。砂漠のなかでは、カビも生えやしない。  干シイタケ、ダシ昆布は、ときどき、本格的な日本料理をつくるときのためのもの。軽いものだし、持っていったら重宝だ。昆布でダシをとったあと捨てるようなもったいないことはしなかった。とっておいて、次の食事のとき酢のものや煮ものの材料に使った。また、昆布を水につけておいて、もどしたあとの液をダシ汁に使う。もどった昆布を糸のように切るとナマスの材料になる。ヒツジのエサを失敬したウマゴヤシと糸コブをあえたナマスは砂漠料理のうち、好評を博したものの一つだった。  昆布茶は、飲料としてだけではなく、スープのダシにも使える。粉末のウドンツユの素は、うすくのばして|清汁《すましじる》にしてよし、煮物に使ってよし。重からず、かさばらず、醤油の不足をおぎなうには、絶好の調味料だ。  わたしたちが辛いものずきのせいもあって、七味トウガラシは、現地生活一カ月でなくなってしまった。さいわい、赤トウガラシの粉末は、アラビア料理の基本的調味料の一つなので、現地で手に入れることができた。オレンジをたべたあとの皮を二日も置けば、砂漠のこととて堅く干上ってしまう。これを粉につきくだいて|陳皮《ちんぴ》とする。白ゴマは町の市場で買ってきた。トウガラシの粉、陳皮、ゴマ、サンショウの粉をまぜて四味トウガラシをつくって代用品とした。  サンショウの粉は、七味の代用品を予想して持ってきたのではない。吸物や煮物にちょっとかけると、それだけで味がひきたち、料理が高級なものに感じられるからふしぎだ。サンショウの粉は、料理人のゴマカシの武器の一つである。中華風の揚物をしたとき、サンショウの粉を食塩にまぜたものをつけてたべると、中華料理屋の味がする。砂漠のまんなかでサシミでもないのにワサビの粉を持っていくとは、と思われそうだが、あとで種あかしをするようにちゃんとワサビの用途はあるのだ。  味つけノリ、塩昆布、ウメボシ、玉アラレは、カユ、茶づけ用の小道具である。身体の調子の悪いとき、オカユをつくるとなると、周囲の状況の見さかいなしに、塩昆布、ウメボシのたぐいがほしくなるものだ。こんなとき、日本の味が少量あると、たべる量が多くなり、回復も早い。これらは、食物というよりは、薬品としての役目で少量持っていくこととした。玉アラレを浮べてお茶づけにすると、料理屋で飲みおさめに一杯お茶づけをかきこんでいるような気分になる。  リビア王国の首都、地中海ぞいの街、トリポリで自動車を借りて砂漠へ入ることとした。ここでは重量を気にせずに、調味料、食品を大量に買いこんだ。街中探しあるいて手に入れた調味料のリストをあげてみよう。  塩、砂糖、酢、オリーブ油、バター、メリケン粉、片栗粉(ケーキつくり用のデンプン代用)の基本的な調味材料。  ソースのたぐいでは、マギー、アロマ、ウースターソース、トマトケチャップ、チリソース(タバスコ)、マヨネーズ、粉末でインスタントのソースとしては、ホワイトソース、トマトソース、オニオンソース。  香辛料は、コショウ、ガーリックパウダー、ジンジャーパウダー、シナモン、タイム、月桂樹の葉、マスタード。  チーズのたぐいで調味料としては、パルメザンチーズとドレッシングに入れる粉末になったブルーチーズ。  スープの材料として、各種のインスタントスープとコンソメの素(ブイヨン)。  飲物ではコーヒー、ココア、紅茶、粉末ジュース各種、もちろん酒を忘れはしない。そのほか、罐詰、乾物類も買いこんだ。料理のための小道具としてクッキング・ホイル、ポリエチレンのラッピング・フィルム(冷蔵庫へ保存する野菜を包むのに使われるヤツ)、石油ストーブなどを手に入れる。  トリポリから内陸へ入ること約千キロ、フエザン地方のオアシスの一つに、家屋を一軒借りて、わたしたちは住みついた。オアシスといっても植物の生えている場所は、小学校の運動場の二、三倍の面積しかない。まわりは、一面の砂と礫の海。年間降雨量数ミリ。乾燥のきわみだ。すべてが荒涼としていて、うるおいがない。砂嵐がやってくると、黄色い壁が目の前にたちはだかったようで、五メートル先のものも見えない。  こんな荒々しい自然のなかで、わたしたちは実に優雅な生活を送っていた。わたしは、三十種以上の調味料を入れたボール箱を前にして、ごきげんだった。  日記から、晩食の献立をひろいだしてみよう。  二月二十四日   ナマス——ネギ、ニンジン、ダシ昆布を糸切りにして三杯酢であえる。白ゴマをいって、きざんだものをふりかける。   芙蓉蟹——前日あけたカニ罐の残りを利用して作る。ソースは甘酢にチリソースとブドウ酒を入れて煮たてて、片栗粉を溶きこんだもので、アンカケにする。   ジャガイモの洋風煮つけ——コンビーフと拍子木に切ったジャガイモをいためたのち、ブイヨンを入れて煮こむ。   タマネギ、ニンニクのバター焼き——みじん切りにしたニンニクと輪切りのタマネギをバターをたっぷり使って焼く。タマネギの上に、粉チーズをふりかけてたべる。   ニンジンの葉のアンカケ汁——ウドンツユの素でつくった清汁に、使い残りのニンジンの葉を入れ、片栗粉を溶かしこむ。  二月二十六日   スモークド・オイスターとネギの酢味噌あえ——燻製のカキをオイル漬にした罐詰をあける。さらしネギといっしょに酢、白味噌であえる。この罐詰で、カキメシをつくってもいける。   にぎりずし——魚は地図上の直線距離で五百キロ離れた地中海か、千七百キロはなれたチャド湖にいかなくては手に入らない。トリポリで買いこんだスペイン産の干ダラをもどす。もどし加減にコツがいるのだが、呼塩を入れた水に四時間程浸しておくと、塩ぬきが終り、くせのない鯛のサシミと同じ味になる。この砂漠のサシミは鮮魚にひけをとらない。ニワトリを手に入れたときは、ササミ、スナギモのサシミをつくった。砂漠へ行くにも、ワサビが必要なわけである。この夜のニギリのネタは干ダラと、ハムであった。ハムでつくる洋風にぎりもオツである。   清汁——カキ罐の汁を利用してつくる。燻製のニオイでもって、油っこさを感じさせない。タマネギのみじん切りを浮べた、清汁とコンソメのあいのこ。  二月二十七日   オードブル盛り合せ——ハム、オクラとネギをカラシ醤油でねり合わせたものと、ウマゴヤシのオヒタシにいりゴマをかけたものを皿に盛る。   茶碗むし——砂漠でとれた松露を村人から手に入れる。にぎりこぶしほどの大きさがある。料理法をきいたところ、皮はかたいのでナイフでむく。えぐさをぬくために塩水で煮るとのこと。村人は塩ゆでしたものをそのままたべるのだが、せっかくの砂漠の幸、少々こった料理をつくることとした。      卵は、腹痛をうったえるジイサンに胃腸薬をやったお礼にもらったもの。何とちっぽけな卵なんだ。ピンポンのボールのほうがずっと大きいじゃないか。でも、ニワトリそのものが、小柄で、ガリガリにやせて骨と皮ばかりなんだから、卵が小さいのもあたりまえなのかもしれない。一人前に二個ずつ使わなきゃならない。後生大事にとっておいた干シイタケの最後の二片をもどして使う。もどした干ダラを入れ、アクヌキをしたウマゴヤシを三つ葉のかわりに入れる。ダシはウドンツユの素を使う。ナベの底に空罐をならべて、蒸器とし、プラスチックの茶碗のフタには、クッキング・ホイルをかぶせる。   タラの包み焼き——干ダラの塩分がわずかに残るところまでもどす。コショウ、タイムをふりかけ、チーズを切ってのせる。輪切りのレモンと一緒にクッキング・ホイルで包んで焼く。   オクラスープ——ブイヨンを溶かしたコンソメスープに、オクラをきざんで入れ、パプリカをきかして赤色のスープにする。  右にあげたのは、特別にごちそうをつくったときの記録ではない。毎日、砂漠のなかで、こんな料理をたべていたのだ。谷さんもわたしも、人生を楽しむすべを、いささか心得ている。わたしたちの晩食は、大体二時間くらいかかった。炊事用のストーブをはさんでちびちびと飲みながら、料理をつくりながらたべる。オアシスに定着しているときばかりでなく、砂漠のただなかを自動車で旅行して、野営するときでも、四品か五品の料理を楽しんだ。キャラバンの最中だからといって、手をぬくことはない。テントが吹きとびそうな烈風の砂漠のなかでも、暖かい食事と酒の二時間をすごしたら、昼の疲れがけしとんでしまう。こんなとき、乾パンとジャムだけで食事をすませ、あとはすることもなしに寝袋にもぐりこむなんて、考えただけでもわびしい話ではないか。荒っぼい仕事をしているときほど、食物を楽しむ余裕がほしいものである。  わたしたちは、別にゼイタクをしたわけではない。これで、一日一人の食費は四百円以下である。罐詰だって、一日一個しかあけないのが原則であった。一度に一罐全部を使わず、翌日まで残しては料理に変化をつける。食料品店のないところで生活しているのだから、少しずつ、いろいろな材料を使うことが楽しみを長く持続させる秘訣である。  罐詰ばかりで現地の食物を活用していないじゃないかと苦情がでそうだ。わたしたちのいたオアシスで手に入るものといったら、ナツメヤシとほんの少量の蔬菜だけだ。ニワトリはガリガリにやせたものが一羽千円以上もする。罐詰のほうがずっと安い。ニワトリをつぶすのは、わたしたちにとって、一番のごちそうだった。  わたしたちは、現地の村人と全く別の生活をしていたわけじゃない。村人から食事にまねかれたり、こちらが招待したこともある。現地食になじむということだったら、わたしは半月間自炊をせずに、ベドウィン族と食事をともにしたこともある。  ついでながら、ベドウィン族をふくめた北アフリカのアラビア人のあいだで一般的な料理であるクスクスのつくりかたを、紹介しておこう。  アルジェリアで一番うまいアラブ料理は何だい、と聞いたところ、クスクスだという答え。リビアで同じ質問をしたら、クスクスがリビアの代表的料理であるとの返事。ものの本を読んでいたら、モロッコの代表的料理はクスクスであると書いてあった。結局クスクスは、北アフリカの代表的料理ということらしい。  小麦粉をねって、これを手のひらの間でこすりあわせ、粟つぶ位の細かな粒にしたのが、クスクスのもと。現在では、ソウメンを細かくきざんだような機械製のクスクスの素を売っている。これを水気がなくなるまで炊くか、正式には蒸して、スープをかけてたべる。スープは、オリーブ油でタマネギその他の野菜、ヒツジ肉をいため、そこへ水を加えて、サフランのほか、さまざまな香辛料と塩を加えて作る。サフランの入ったスープをかけると、クスクスは黄色っぽくそまって、うつくしい。  これを大鉢あるいは、洗面器に入れて、右手の手づかみでたべるのだが、粟つぶのような小さなパラパラした細かい粒なので、指の間からこぼれる。うまくまるめて口にほうりこむことに失敗した場合は、顔中クスクスだらけにしたりして、なれないうちは、食いづらいことおびただしい。  アルジェリアでたべたクスクスには、おろしチーズがかけてあり、お国柄を思わせた。 [#改ページ]

 
食事とタブー    ユダヤ教徒とイスラム教徒 「エビ? だめだめ、カニもいけませんよ。トンカツもだめ。ブタ肉も、この人はたべないんだから」  ユダヤ人の学者を案内して、京の街を二日あるきまわったときのことである。学者先生は、日本料理の味がお気に召したとみえて、毎食ごとに、ジャパニーズ・ディッシュでいこうと提案する。そこで食事のたびに、くいもの屋のオカミに、わたしがダメダメづくしをしなければならない破目となった。  ユダヤ教の信者は、ブタ肉をたべてはだめ。ウロコのない魚もたべることを禁止されている。エビ、カニ、イカ、タコもウロコがないから、もちろん禁止される。ユダヤ教が日本人へ浸透しないのは無理もないことだ。まちがっても、ユダヤ教徒をスシ屋に案内してはならない。  イスラム教徒の聖典コーランには、何でも書いてある。お祈りのときの手や顔の清めかた、おヨメさんの見つけかたから、離婚のしかた、神学はもちろんのこと、法学、文学、教育学、家政学まで、なんでもかんでも書いてある。もちろん、食物についても記事がある。  コーランでイスラム教徒がタブーとされているのは、死んだけだものの肉、血、ブタ肉、邪教の神々にささげられた動物、打ち殺された動物、高いところから落ちて死んだ動物、角で突き殺された動物、ほかのけだもののたべた動物の肉などである。  要するに、イスラム教徒が刃物でとどめをさした動物なら、たべてもよいのである。崖から落ちた瀕死のけだものでも、息をひきとる前に、お祈りとともに、イスラム教徒が殺したものだったら、食用にしてさしつかえないのだ。  イスラム教徒が屠殺をするときは、口のなかで、もぐもぐお祈りをとなえたあとで、喉笛を切って殺す。血は、動脈から流れるに任す。鳥類も同じ方法で屠殺しなければならない。血を集めて、プディングやスープのようなものをつくったりはしない。すててしまうのである。中国人だったら、ああもったいないとよだれをたらすかもしれないが。  魚は、アラーがとどめをさしておいてくれるとして、生きている間に殺さなくてもよい。  わたしがイスラム文化と本格的に接触したのは一九六七、六八年の東アフリカの人類学調査のときである。  東アフリカの人びとは、だいたいにおいて動物性蛋白質の摂取量が少ない。野獣の王国にいながら動物を狩猟するのには、高い金を払って、めんどうきわまる手続きをして狩猟許可証を手に入れなくてはならないし、密猟の取締りはかなりきびしい。家畜を持っていても、儀礼のときのほかは、めったに屠殺することがない。  店に肉の罐詰を売っているところもあるが、ほとんどは輸入品である。東アフリカで商店からものを購入する貨幣経済の段階にまでひらけている人びとは、スワヒリと呼ばれる黒人回教徒だ。しかし、外国製の肉の罐詰はイスラム教徒によって屠殺された肉でつくってないので、スワヒリがたべるわけにはいかない。  そんななかで、一つだけたべられる罐詰がある。ケニア製のコンビーフだ。この工場の屠殺係は、イスラム教徒がやっている。この罐詰だったら、土地の人にも安心してたべてもらえる。  わたしたちが、数日間のサファリにでかけるときには、旅行の道案内の現地人と一緒に食事ができるよう、ケニアのコンビーフをさがしまわらなくてはならない。  コーランには、あまりにも、なんでも書きすぎてある。  そうかといって、わたしたちもイスラム教徒やユダヤ教徒をわらうわけにはいかない。わたしたちの先祖はつい百年くらいまえまで四つ足の動物をたべてはならないという、ムチャクチャな食物に関するタブーを守ってきたではないか。    ブタを食ったむくい  一九六九年、リビア砂漠のオアシスで谷泰さんとベドウィン系の遊牧民メガルハ族の社会人類学的調査をしていたときである。料理もできあがったのでランプの火を大きくして、さて食前の一杯をやるかと、酒ビンに手をのばしかけたとき、「お客さんがくるよ」と谷さんが声をかけた。なるほど、耳をすませるとエンジンの音がする。いったんとりだした酒ビンを、またボール箱のなかにひっこめる。  回教徒国のリビアでは、よきイスラム教徒は酒を飲まないものとされている。わたしたちが異邦人だからといって、人前で酒を飲むのは、つつしむべきであろう。このごろでは、若いインテリ階層の者や外国人の監督下に働く労働者の間では、リビア人でも酒をたしなむ者がではじめている。飲酒の歴史のなかったところなので、ざんねんながら酒を飲むときのマナーはあまりよくない。飲んだらかならず酔うまでグラスを手ばなさない。こんなお客さんに酒ビンをみつけられたらたいへんだ。たちまちにして、貴重な酒を空にされてしまう。  谷さんもわたしも、どちらかというと飲み助のほうだ。だが、このオアシスの調査地では、コップ一杯の晩酌でがまんしているのだ。なにしろ、酒がきれたら、買いに行くのが大変だ。一番近い酒屋まで、片道三百五十キロの砂漠のなかの道をドライブしなければならない。地中海から千キロ砂漠に入ったところにある酒屋なので、そこまでの輸送費が酒代に含まれているので、酒代もおそろしく高いものにつく。  いずれにしろ、現地人のお客さんの前ではわたしたちは、酒を飲まぬことにしていた。酒は、こっそりと飲むにこしたことはない。酒ビンをかくし、紙でもって料理におおいをする。ハエよけというよりは、そのままにしておくと、どこからともなく部屋のなかまでしのびこむ砂によって、せっかくの料理がだいなしになってしまうからだ。  客をむかえる仕度ができた頃、エンジンの音が大きくなってきた。自動車が村に近づいたら、わたしたちに、お客さんがやってきたと思っていたら、まちがいない。別に、わたしたちに用事がなくても、このオアシスへ入ってきた自動車は、かならずわたしたちの家へとまる。通りがかったついでに、日本人を観察してやろうというわけである。  ランドローバーから降りた人々の多くは、顔見知りだった。隣りのオアシスからやってきた一団であった。小学校の先生が数人と警察官、いずれも隣り村の顔役たちである。さっそく、家のなかに招じ入れて、まあお茶でも一杯ということになる。客に、お茶もふるまわないで帰しては、アラブ流のエチケットに反する。ただし、茶を煎じつめ、多量の砂糖をぶちこんで、泡をたてて、ウイスキーグラスのように小さな器につぐ、アラブ流の茶の湯の儀礼では、手間がかかるのと、道具だてが必要である。これはかんべんしてもらい、わたしたちは、お客さんには、紅茶のティバッグで接待することにしていた。  一時間ほどの茶のみ話が終って、一同が腰をあげた。今日は、先生の一人が転任になるための送別会とのことだ。わたしたちの住み込んだオアシスには小学校がないので、隣り村まで小学生はロバに乗って通う。そこで、わたしたちの村でも父兄が転任の先生の送別会を催して、隣り村の先生と顔役一同が招待されたのだ。 「ごちそうがあるし、一緒にたべにこないか?」とさそわれる。大きな食器に盛った料理を手づかみでたべるアラブ圏の宴会では、出席者が少しぐらい増えても困ることはない。めいめいの食べる分量がすこし減るだけで、あわてて盛りつけたり食器を用意しなくてもすむ。しかし、わたしたちの晩食の用意がすでにととのっているので、好意を謝して、ことわった。  皆が出て行っても、一人だけ先生が居残った。谷さんとわたしが一番苦手な人物であった。この先生は、英語ができることをハナにかけて、わたしたちが村人と苦心しておぼつかないアラビア語で話しているところへ、わざわざ英語で話に割り込んでは、話題をかき回してしまう。また、わたしはインテリでございという態度を露骨に出しては、村人をバカにするようなところがあるひとだ。かなり柄が悪くて、ずうずうしい。わたしたちは、この先生に、ひそかに、柄悪先生というアダナをつけていた。  柄悪先生は、一人だけどっかりと腰をおちつけて、しつこく話をしかけてくる。「おまえたちは、日本じゃ大学の先生だそうだが、いったい給料はいくらもらっているのか?」「ふーん、それじゃ、オレのほうがずーっと給料がいいぞ」といったぐあいに、際限なしに一人で話をおしつけて、とどまるところをしらない。  ふつうの村人だったら、わたしたちが、食事をする気配を知ったら、遠慮して帰るのだが、柄悪先生は、わたしたちよりも、アラブのエチケットを御存知ないらしい。谷さんもわたしも内心いらいらしてきた。いったい、何時になったら、メシにありつけるのだろう。早く柄悪先生が帰ってくれて、食前の一杯をやりたいんだが。ああ、腹がへった。  こんなふうに腹の底では考えながらも、そこは人類学者のことである。こちらから、追い出すようなことはせず、相手のふるまうがままに、まかせている。  冷えたスープをあたためはじめて、「さあオレたちはメシを食うぞ」という意思表示をしたが、相手はちっとも動じない。仕方なしに、 「わたしたちは食事をするが、先生もいっしょにおあがりになりますか? ただ、わたしたちの料理には、イスラム教徒の口にはあわない食物があるかもしれないので、あまりおすすめできませんが……」とたずねたところ、 「もちろん食うとも。オレは西洋人の食物もよく知っているし、ブタ肉などイスラム教徒の食ってならぬ食物は、見たらいっぺんにわかるから大丈夫だ」と主張する。  そこで、料理の皿をならべはじめた。オードブルの皿には、ウマゴヤシのゴマあえのわきに、サラミソーセージが輪切りのレモンにはさまって並んでいた。これをサカナに一杯やろうと楽しみにしていたのだが、柄悪先生のおかげで、食前酒を飲みそこねることになってしまった。おまけに、二人前の食事を、三人で食わなくてはならぬ破目となった。そんなうらみつらみがこうじていたので、谷さんもわたしも、オードブルの皿をだまって出した。すると、柄悪先生は知ったかぶりをして、 「ウン、以前オレは、これをたべたことがある」といって、イスラム教徒のもっともいみ嫌うブタからつくったソーセージをたべはじめた。もちろん、わたしたちはそれをみて、くすくす笑ったりするような不作法はしない。和気あいあいと食事をすませた。柄悪先生のずうずうしさに対しては、知ったかぶりのむくいでブタを食べてしまったせいで、すべてを見そなわす全能のアラーが、いつの日か、裁きをつけてくださることを、わたしたちは知っていたから。 [#改ページ] 第三部  人類にとって食うこととはなにか

 
第 三 芸 術    料 理 と は  たべものや料理の本を見て、わたしの気にくわないこと。「料理は芸術である」とか、「料理とは味の芸術である」とかいった表現がやたらにおおいことだ。なかには、「もてなしのこころを形にあらわしたものが料理である」などといった神秘的な文章すらある。精神活動を物質を素材として表現するということであれば、これも絵画や彫刻と同様の分野に所属させようとする意見とみるべきか。夏の暑い日、お客にまずすすめるいちばんこころのこもったもてなしは、冷たい水を一杯あげることである。コップ一杯の水は料理であり、芸術なのだろうかといったようなあげ足とりは、あまりしないこととしよう。  もし、料理が芸術であるとしたならば、毎日のお惣菜をつくる奥様方、ウドン屋のオッサンも、芸術家であるということになる。世界は芸術家にみちみちている。俳句などくらべものにならないほどの芸術家人口が存在するわけだ。大衆芸術バンザイ。  だが、ほんとうに料理は芸術なのだろうか。芸術の基本的性格は、創造にある。だが、世の奥様方は、新しい味を求めて、毎日創作活動にいそしんでいらっしゃるわけではない。板前とて同じこと。料理という人間活動のほとんどは、模倣から成立している。だから、テンプラとかカレーライスとかいった料理の名称があるのだ。毎食ごとに、新しい作品が食卓に出品され、いちいちそれらの料理に命名をしなくてはならないことになったら、たまったものじゃない。  奥様が芸術家になって、サツマイモ料理の道をきわめることに骨身をすりへらすこと無慮十年、その間亭主は朝晩サツマイモを素材とした作品におつきあいさせられるとしたら。奥様がニンジンとブタ肉を前にして、「ウーム」とうなったまま、作品の構想をまとめるまで数時間も待たされるとしたら。あるいはモダンアートばりの新しい味の創作に意欲をもやす奥様に、きょうはハイヒールの底皮の酢のもの、あすは、マッチ棒を希塩酸ソースで煮こんだものといった前衛料理をたべさせられることには、一命にもかかわってくる。  一般的にいって、料理には創造的要素がすくない。料理が模倣に終始しているから、たべられるのである。  もちろん、料理においても工夫はおおいに必要である。クッキング・ブックに書いてあるとおりの材料が全部そろっていなくては、それらしい料理がつくれないというのでは困る。ありあわせのものでも、けっこうおいしいものがつくれなくてはならない。しかし、工夫と創造は別のものである。料理での工夫はお手本がさきにあり、それに近いものをつくったり、お手本を意識しながらそれに手をくわえるといった性質のものがおおい。つまり材料、手法に変化をつけるといった技術上の問題を出ない場合がおおい。  ときとしては、全く独創的な料理がないわけではない。料理が創作である可能性はある。そこで、ファッション・デザイナーを芸術家とよぶのならば、それと同じ意味でなら料理の名人を芸術家とよんでよいかもしれない。  料理が芸術であるとしても、これはまた、まことに、はかない芸術である。作品が意味をもつのは、食卓のうえにあるあいだだけ。胃袋へ入ってしまったら、それでおしまい。また、うまいのはほんのつかの間で、皿が冷えたら、もう芸術品の価値をうしなってしまう。  また作品の鑑賞のできるのは、ごくかぎられた人数である。同じ味の料理を楽しむことができるのは、せいぜい十人程度だ。いかに名コック長がいても、百人もの宴会の料理の味がおちることは、結婚式のおよばれで御承知のことであろう。  万人に共感をよぶことができず、後世に伝えることもできないとしたならば、これを芸術とよぶことができるだろうか。むしろ、「芸」とよぶにふさわしい。  どうしても芸術とよびたいのだったら、第三芸術くらいにおしこめておくべきである。第二芸術のカテゴリーに入れたら、俳句に気の毒だ。俳人だったら、日本芸術院会員になれる可能性があるが、板前では無理だ。  専門の料理人と家庭でお惣菜をつくる奥様方とのあいだで、技法や完成した料理の味についての根本的な差異はない。なにも、料理人だけが芸術家ではない。奥様方すべてが第三芸術の作家である。一方は一日二回あるいは三回の創作活動に入るのに対して、料理人は一日じゅう作品をつくりつづけているだけのはなしだ。  そして、奥様の手料理を「塩からすぎる」とか「ウマイ」といって鑑賞する旦那様方は第三芸術の評論家である。かくして人類すべてが芸術活動に従事しているということになる。  ところで、人類にとって料理とは、いったいどんな意味をもつものであろうか。簡単にいったら、食物を洗ったり、適当な大きさに切ったり、熱処理をほどこしたり、味付けをしたりして、食物をたべやすく処理することである。つまり、人類の生存に必要な栄養摂取のための、補助手段である。  人類は料理をする唯一の動物である。ということは、とりもなおさず料理は文化の一分野であるからだ。料理の起源は、人類が火を使用しはじめたときにはじまる。その以前も肉を切ったり、食物を洗ったりする程度のことはしたであろうが、本格的な料理は、焼肉をつくることを人類が知ったときにはじまる。それから、何十万年かの間、旧石器時代には料理法の主力は食物を焼くことにあった。もしかしたら、さきにのべた太平洋でおこなわれている、容器なしで魚や野菜をむし焼きにする石むし料理の技法は、旧石器時代に開発された技法であるかもしれない。新石器時代になると土器が発明されて、食物を煮ることが可能になった。  現在では、ナイフや庖丁がけだもののキバの役を、ナベが肉食獣の強靱な胃袋のかわりをするようになった。  料理は、人類の生理的欲求を充足させるための補助手段だが、その手段の手続きは一様ではない。民族や部族、あるいは土地の自然条件や宗教などの差異によって、とりあつかう食品の種類、料理技法、味付けなどにさまざまのちがいがあらわれる。料理の多様性はだいたいにおいて、民族や部族の文化、地方文化の枠と一致する。  同じ文化集団のなかに所属する人びとのあいだでも食物に関する嗜好の差はみられる。このような個人差は、個人文化の相違とみなすことができる。うす味のすきなひと、甘いもののすきなひと、オセンベイのすきなひと、チョコレートのすきなひと、このようなちがいは、個人文化を獲得していく過程で住んでいる土地、家庭の嗜好家庭の環境、教育などさまざまの条件に個人が反応しながら、つくりあげた個人文化の|くせ《ヽヽ》である。  文化は、学習が可能なものである。十代の嗜好が変りやすいのは、学習したことがまだかたまってなく、学習過程における試行錯誤をしめす。二十代でもふつうの人はうまいものがわからないということは、まだ学習不充分であることを示すのである。しかし、四十代でものの味がわからない人は、もはや学業をまっとうすることができないであろう。    舌のトレーニング  味をことばで表現するのは、大変むずかしいことだ。食事の描写がうまく書きこなせるようになったら、一人前の小説家であるという話をきいたことがある。食物を的確に表現するのは、なんでもないようでいて、そのじつ大変教養のいることである。  とくに、味を表現することは、なかなかむずかしい。味を表現する基本的な語彙は、「あまい」「しおからい」「すっぱい」「にがい」「からい」くらいしかない。そこでたいていは、どのような味であるかを表現するのがめんどうになって、「うまい」あるいは「まずい」のひとことで料理を批評して、それでおしまいになってしまう。  だが、いかにうまいか、どういうふうにまずいかを表現できないようでは、料理の上達はのぞめない。食物に関する教養が深ければ味についての正確な表現ができるはずである。とくにあなたが不幸にして、奥様の料理に満足していなかったならば、味の表現能力をゆたかにすることが一生の大事である。 「まずい!」のひとことで、かたづけたら、事態の改善ははかどらない。いかにしてまずいか、あるいは御亭主の嗜好はどういう味であるかを、具体的につまびらかにいうことである。味噌汁ひとつをとりあげても、ダシの味がどうであるか、具が煮すぎであるか、生煮えであるか、具の材料が適当であるか、味噌の種類が嗜好にあうものであるか、濃すぎるか、薄すぎるか、味噌を煮すぎてかおりが失われてはいないかどうか、汁がさめてしまっていてうまくないのか等々、なぜ、どのようにまずいかを表現することである。  あなたは、昨日一日にたべたものを順にすべて思いだすことができるだろうか。試みてください。まちがいなく、朝食から晩食までの献立を思いうかべることができたとしたならば、あなたは合格である。食物に関して批評家になれる素質があるとみとめてよろしい。食いしん坊であり、たべることに情熱をもやす者であって、はじめて料理上手になれ、味の的確な批評ができるのである。案外、昨日のことでも、おぼえていない人がおおい。ふだんの食事は人間活動のうちもっとも日常的なものの一つなので、日常性のなかに埋没してしまい、あまり記憶にとどまらない性質のものである。  さて、いま昨日の食事を思いうかべたとき献立のひとつひとつの味をあなたは感じただろうか。昨日の味噌汁はシジミだったと思いかえしたときに、あなたの舌のうえをシジミの味噌汁の味がチラリと横切ったかどうかが問題である。  料理人にとって、技術よりもたいせつなのは舌である。味を知っていること、一度たべた味を再現できる舌をもつことである。舌の記憶がさだかでなかったら、自信のある料理をつくることができない。自分のたべたことのあるものは、イマジネーションの世界で再現できること、舌のうえに味をいつでも呼びおこすことができることが料理上手になる秘訣である。料理とは経験主義のカタマリのような技術である。ある日、さとりを開いてそのとたんから料理がうまくなったというようなことはあり得ない。すこしずつ、味を記憶していくほか手はない。  舌はやしなうことができる。ものをたべるとき、その味があますぎるか、醤油の使いすぎであるか、材料の味がおたがいになれているかどうかというふうに批判しながら味わうくせをつけたら、自然に舌は上等になり微妙な味わいかたをすることができるようになる。わからないものをたべたときは、それがなんでつくってあり、どんな味付けをしたものであるかを遠慮なく聞くことだ。なんだかしらないけどうまいものをたべたというのでは、味の再現は不可能である。分析的に味わうことだ。そのうち舌が上等になり、それだけ人生の楽しみが増すのである。そして、舌にものの味が定着し、料理の名を聞いただけで、味を舌のうえに再現できるようになる。  味が舌のうえで再現できれば、つぎは舌におぼえこんだ味を材料を使って再現することである。  もし、あなたに女房という名の専属コックがいたら、奥さんをうまいものをたべに連れていくことである。そして、コックの舌をトレーニングすることだ。うまいものをたべに連れていってもらうばかりで、家庭でうまさの再現を試みようとする努力をしない奥さんだったら、職務怠慢のかどで解雇することだ。  舌の経験がつみ重なってくると、味のイマジネーションが確立してくる。すると、料理の特徴が舌のうえで類型的に分類されてくる。味に関する図書分類目録のようなものが、できあがるのだ。すると、こんどは逆に、舌に残された記憶をたよりに、材料をどのような味の料理にも仕立てあげることが可能になる。  同じ材料を使っても、調味料にオリーブ油、ニンニク、トマトを使ったらイタリア料理風になるし、ゴマ油と八角を使って中華料理にすることもできる。イタリア料理とはこんな系統の味であるとか、中華料理の味が他の料理と区別される点を類型的に舌に記憶しておくことが可能な段階になったら、しめたものである。そうなると自由自在の境地に達する。コンニャクを材料としても、フランス料理らしき味をつくることができるようになるのだ。  味のイマジネーションができないひとは、まったく試行錯誤で料理をつくることとなる。味のイマジネーションが確立していないひとは、料理の途中で、さらに塩を加えたらどんな味になるか、この材料を入れたら全体の味がどう変わるかが、実際に手をくわえるまえに予言できないのである。わたしの知る例で、山で正月をむかえたとき、雑煮に大量のニンニクを入れて煮たひとがいる。雑煮の味とニンニクがあわさったとき、どんな味になるかということについて、かれはイマジネーションがはたらかなかったのである。    女には、ごちそうをたべさせぬこと  あなたが、職業的なコックになるつもりがないのだったら、自分が料理上手であることをふれまわってはならない。女の場合だったら、料理上手は賞賛され、そのお嬢さんなり奥さんの美点にされる。ところが、男の料理上手は、しばしば悪徳に数えられる。  女性は、本能的に男が料理することに対する嫌悪感をいだいている。人類が、料理という技術を知ったはじめから、料理は女の手にまかせられていたのであろう。男は狩に出かけては料理の材料を供給する係りであり、男にやしなってもらう女たちは材料処理である料理に従っていた。  何万年かの間女の仕事とされてきた分野に、男が割りこむことには、女はがまんできないのである。男が家庭の炊事に手出しをするのは、女性の聖域をおかすことを意味する。  いまや、洗濯は電気洗濯機とクリーニング屋にまかしたらよいこととなった。育児こそは、女の天職である。男性には、オッパイがないといばってみたところでだめである。バストの形をととのえるためにとか理由をつけて、わが子にすら乳の出しおしみをして、ミルクで育った人工栄養児が氾濫するこの頃のことである。生んでしまってからは、女はいなくても子どもは育つのである。電気洗濯機を家庭にもちこむことを主張するのも、三つ四つの頃から子どもを幼稚園にほうりこむことを主張するのも女である。あさはかな女どもは、こうしてみずからの権利を次々と放棄していったのである。  料理にしろ、軍事用に開発されたインスタント食品、罐詰を、積極的に家庭にとり入れたのは、女であり、これを拒否する役にまわるのは男であった。  ミルクを飲んでも、育見所へほうりこんでも、子どもはすこやかに成長したらよろしい。衣服は、洗濯機で洗っても、クリーニング屋へ出しても、清潔になっていたら別に文句をつけるすじあいはない。  しかし、即席ラーメンと罐詰、それにテンヤモノで毎日の食事をすませようということになったら、男性は、猛然と決起するのである。料理すらも満足にしないのなら、なぜ女房をもらう必要があるだろう?  血のめぐりの悪い女どもも、ようやく気付いてきた。いまや、料理こそは、妻に残された存在理由であり、女が男に対抗する最後の拠点なのである。そこで、料理学校が、テレビ料理が大流行をはじめたのである。なにしろ、育児、洗濯から解放された彼女らには、時間はたっぷりある。そこで、料理を習うということが時間つぶしの趣味になるのだ。だが、彼女らに、時間つぶし、道楽などといってはいけない。そんなことをいったら聖職にはげんでいると信じこみ、宗教的情熱すらかたむけている彼女らに、まなじりをつりあげて抗議されるであろう。料理は女の秘儀であり、料理学校は女の秘密結社、テレビ料理は儀式の公開通信なのである。  そんな女達にとって、料理のできる男というものは、聖なる女の儀式を|冒涜《ぼうとく》するけがらわしき異教徒であり、自分たちの存在理由を否定する危険分子である。お見合いの席でうっかり、「ボクは料理をするのがすきでして」などと口をすべらしたら、フラれること確実である。  ガールフレンドにごちそうをつくってやらねばならない破目におちいったら、ここぞとばかり、腕をふるうような軽率なまねをしてはいけない。焦げ飯を炊き、塩を一合もほうりこんで、口が曲るほど塩辛いスープをつくることだ。「あら、口ほどにもないわね。やっぱり料理は女がやらなきゃ」と優越感をもたせ、母性本能を刺激することだ。そうすればめでたくゴールインする次第となる。 [#改ページ]

 
前衛料理のすすめ    変った食物  こと食物に関しては、人びとは大変保守的である。進歩主義者でも、前衛芸術の実践者でも、母親の味をなつかしみ、伝統的な味の範囲から外へ飛び出すような冒険はしない。たべなれない材料、未知の味に対する抵抗は、ときとして、狂信的ですらある。生理学の立場でいったら、食事とは、人体の機能維持、成育に必要な栄養をとり入れることにほかならない。その限りでは、何でも食えるものをたべたらいいはずである。  ナチも、ガス部屋で処理した人体から、毛布やセッケン、人毛からつくったパンの試作まではしたが、人肉の罐詰や燻製をつくる勇気は、もちあわせていなかったらしい。もったいないことである。あるいは、人肉の味を国民が知ったときのパニック状態を予測して製造にふみきらなかったものか。  食事についての人類の文化は、偏見にみちみちている。食品の種類、味付けの方法、調理の手順、料理を口にする場合の作法、はては料理人の資格にいたるまで、やかましいルールが要求されている。これらのルールを体系化したものが、日本料理とか、フランス料理とか呼ばれるものになっているのだ。このようなルールにくわえて、食事はエサではなく、楽しみでなくてはならないという、美学が要請されている。  しかし、美学にしろ、料理自体にしろ、絶対的な価値体系をもつものではない。ある文化では、美味とされるものが、他の文化では嫌悪すべき食物とされる例はいくらでもある。人類の食事が、単なる栄養補給手段ではなく、文化の体系の一環として、各地方、各民族によって別々の性格をもつものであるとしたならば、当然、好ましい食品とか味付けは、相対的な価値の問題で判断されるものであると考えてよかろう。  おのおのの文化の個性を尊重するのもよいが、そのままでは、文化の急速な進歩は望めない。他の文化の新しい要素をどんどん取り入れて、偏見の構造をうちやぶり、新しい創造をすることによって、人類は進歩するものである。人類の進歩と調和のために、まず身近なところから試みよう。食物の偏見をうちやぶることから着手するのだったら、あなたにも文化大革命ができるはずである。  だが覚悟はしなければならない。明日の世界のために、偏見のない世界をつくりだすために戦うあなたの前途には、数多くの苦難がまちかまえている。  たとえば、ヘビをたべること。これは別に新しい試みではない。ヘビを食用にする民族は世界に沢山ある。オカウナギと呼んで、江戸時代にも食用に供されていた。文献では、日本人がヘビをたべた話はあまりあらわれないが、信州でヘビをたべる風習などは、たいへん昔にまでさかのぼることであろう。そうだからといって、あなたは、ガールフレンドにヘビ料理をつくって、たべさせる勇気をお持ちだろうか。勇敢なあなたのために、ヘビの料理法の一端を記しておこう。  マムシの首のまわりの皮を切り、これをしたにひきさくと、ピリピリといいながらファスナーを開くようにみごとに皮が全部とれる。すると、グロテスクな皮のしたから、これはまた何と美しい身が現われることだろう。ほんのりとピンク色をおびた、むき卵のような白い肌。  楊貴妃か、クレオパトラに、酒を飲ませても、こんなにきれいな肌はしないだろう。内臓をとり、背骨のついたままつけ焼きにするのが一番うまい。生のまま、背ごしにして、酢をつけてたべる者もいるそうだ。マムシの肉は、くせがなく、ニワトリの肉に似ていて、もっとあっさりして上品な味がする。ただ、小骨の多いのがヘビ料理の難点であるが、よく焼いたら、骨ごとたべられる。  青大将の肉は、少し青くさい。ショウガを加えると、くさみ消しによい。皮をむいた青大将を冷蔵庫にしまっておいたところ、他の食物に臭いがついて、困ったことがある。  ついでに、ものの本で読んだ、広東料理の傑作、三蛇会料理。材料は、毒蛇の三巨頭、コブラ、マムシ、ハブを使う。毒をもって毒を制すということで、かならず、この三種の毒蛇を同じナベのなかにほうりこむ。そこで、三蛇会料理の名がある。まず、生きた蛇の皮をはぎ、胆汁を酒にしぼりこんで、アペリティフとする。この毒蛇カクテルは、不老長寿の妙薬となる。  丸はぎにした蛇の肉を庖丁でこそぎとり、細かくきざんで、スープのなかに入れ、菊の花、支那セリ、干餅、狸の肉を入れて寄せ鍋として、数人でつつく。狸は、日本のものと違って、動物学的には穴熊の親戚に当る種類のものだそうだ。三蛇会料理の季節は、旧暦十一月から三月までの、菊花の時期にかぎられる。香港や台湾のレストランで、メニューに三蛇羹とあったら、三蛇会料理のことである。台北市でも場末のレストランでは、案外安く一客七十元(約六百三十円)で食わせるところがあった。  台湾で、わたしは連れに遠慮をして三蛇会料理を試食してみる機会を逃してしまったが、コブラ料理だったらたべたことがある。台北市に重慶飲食店街というところがある。食いしん坊なら一度は訪ねる価値がある場所だ。露店の食物屋だけが三百メートルくらいの長さの道の両側にびっしりかたまっている。ここで売っている料理をひととおり全部たべようと思ったら、毎日通っても一年くらいかかるのではないかと思われる。この重慶飲食店街で、コブラのスープをたべてみた。ドンブリ鉢くらいのフタつきの容器に直径三センチ、長さ五センチくらいのコブラの胴体のブツ切りが二切れほどと、汁がなみなみと入っており、値段は日本円にして九十円。スープには、|枸杞《くこ》のにおいがした。スープの味は良質のカツオ節でつくった清汁のようで、あっさりしていた。コブラの味はスープに溶けこんでしまい、コブラそのものは、スカスカのダシガラの味。ちょうど、ダシをとったあとのカツオ節の味だった。蛇料理の常として、小骨が多い。壁に書かれたコブラスープの効能書を読むと、血をきれいにし、肌をつややかにし、補腎、補精、胃腸病、肺病によくきくとあった。蛇料理屋へ入ってくるのは初老の男性ばかりだった。若い者がたべていると、とんだ誤解をまねきそうだ。わたしは、大急ぎでスープをたべて店をとびだした。  なお、中華料理のメニューで、龍の字がついたものは、蛇肉の料理のことである。龍鳳菜とは蛇とニワトリの煮込み、龍虎菜は、蛇と猫の煮込みである。  ただし龍蝦というのは、蛇とエビの料理ではなく、ロブスター(イセエビ)のことだから間違いのないように。  龍のシラミ、龍虱と書くのは、昆虫のゲンゴロウのことである。香港のニューテリトリーの中共との国境に近い|上水《シヤンスイ》駅のプラットホームで汽車を待っていたときのことだ。天ビン棒をかついだ物売りが、ホームを行きつもどりつしている。学校帰りのかわいらしい女学生たちが、この物売りからなにかえたいの知れないものを買っている。女学生たちと、えたいの知れないものとの両方をみるために、わたしは物売りのそばに行ってみた。天ビン棒からぶらさげた直径一メートルもあるザルのなかをみて、おどろいた。何百匹とも知れぬゲンゴロウとセミの死体でいっぱいだ。ゲンゴロウを買った女学生たちは、まるでピーナツを口にほうりこむように、楽しげにゲンゴロウをたべはじめた。人一倍好奇心の強いわたしのことである。さっそく、ゲンゴロウを買ってみた。ゲンゴロウ一匹約三円であった。ゲンゴロウも、セミも煎ってあるらしい。ゲンゴロウを一匹つまんで、ガブリとかんでみる。堅い羽根がバリバリとくだけて、口のなかにひっついて始末に悪い。すると、そばでケッタイな外人を見守っていた中国人の一人が、わたしの肩をたたいた。その人はわたしの手のなかから、一匹とって、羽根と脚をもいでくれ、身ぶりでさあたべろという。なるほどこんどは工合よくたべることができた。味はニシンの燻製に近い。ただし、魚油に似た少々むかつきをおぼえる臭いが強く、わたしにはなじめない味であった。慣れたら、洋酒のつまみによく合う食品であろう。日本でも東北ではゲンゴロウを醤油のつけやきにしてたべた地方があるそうだ。  天ビン棒のなかの何百匹ものゲンゴロウをどうやってつかまえたものか、あるいは養殖しているものか、いまだもってわたしはふしぎに思っている。  チーズにわくウジ、フランスのエスカルゴ、ニューギニアのコウモリの丸焼き、ポリネシアのイヌ料理など、日本でいえば悪食に当るものが他の民族では、ごちそうとされる。東ニューギニアのポートモレスビーの市場では、毛をむしりとった木登りカンガルーを売っていたし、ウエワクの市場では体長が四十センチもあるネズミを料理の材料に売っているのをみた。  ジェオファジー、すなわち、土を食うことは、妊娠中の女性が壁土や木炭を食うなど、異常嗜好として知られている。しかし、日常の食事のメニューに土があげられるのは、ニューカレドニア島、アフリカの一部、南米、カナダのマッケンジー川附近、中国、ジャワの一部にみいだされる。南米のオリノコ川流域に住む、オットマッグ種族は、常に土をこねた団子を焼いて食うという。ときには、魚肉、獣肉、野菜、果物などを土のなかへ入れてマンジュウとしてたべるそうだ。  土ではないが、日本でも「天狗の麦飯」とよばれる食物がある。信州の飯縄山、浅間山、黒姫山、戸隠山の砂地にできる褐色の粘質をした粒を採集してたべるのである。これは、微生物のかたまりが粒状をして集まったものだ。山伏がよくたべたといわれる。  蚊の目玉の料理をご存じだろうか。顕微鏡をのぞいて、一匹一匹針で蚊の目玉をほじくりだして、つくだににするのではない。蚊の多いところで、コウモリをつかまえる。コウモリの内臓のなかで、蚊の身体はすっかり消化されていても、目玉だけは、こなれが悪くて残っている。コウモリの腹をさいて、目玉だけを集めて調理するのだ。その料理法は聞き忘れてしまった。  新しい食物材料の開発、新しい味の発見。このような前人未到の分野にのりだす、パイオニアに、苦難はつきものである。カメレオンの生きづくり、ミミズのラーメン、火星人のタコヤキ。あなたは、世にいれられず、変人のレッテルをはられるであろう。つまはじきをうけることであろう。昔ならば、村八分、あるいは魔術師として火あぶりにされたであろう。先駆者の道は常にきびしく、前衛料理は世にいれられないであろう。だが試みよ。あなたの死後、近代料理の創始者として、ガクブチ入りのあなたの肖像が、すべてのレストランにかかげられないともかぎらない。    魚骨亭始末記  学生のころ、わたしは京都大学探検部のメンバーであった。講義には出なくても、うすぎたない探検部の部屋には、毎日のように出入りしていた。よき学生ではなかったが、よき部員ではあったろう。  そのころ、探検部員の間では、野草や昆虫のたぐいをたべることがはやっていた。べつに、ゲテモノ食いをほこっていたのではない。野生の動植物からたべられるものを見つけだし、それを識別できることは、探検、登山を志す者の教養の一つであろう、と考えていたのだ。探検部の機関誌「探検」二号には吉場健二、三号には本多勝一が、「野外動植物の食い方」という論文を書いている。  一九五九年六月、長いあいだ解散していた京都大学の学生運動の中心団体である同学会が再建され、その記念祭が京大西部構内で行なわれることとなった。同学会の加盟団体である探検部へも、記念祭でなにか催物をするようにとの要請があった。 「どないする?」 「この機会に金をもうけてくれなはれ。岩登用のザイルも買い換えんとあかんし、部費の納入状態も悪いし、探検部が破産せんよう考えてくれなはれ」と、会計係がいう。 「ほんなら、模擬店を開くこととしようか」 「元手はどないする?」 「オデンやヤキトリなんぞ高級なものを考える必要あらへん。原価がただのものをようけい使ったらええ。サワガニ、カエル、オタマジャクシ、何でもただの季節の材料をさがしてきて、料理するんや。かえって好奇心をそそって、|流行《はや》りまっせ」 「そや、そや!」  ということで、記念祭に、一杯飲み屋、「魚骨亭」を開くことにきまった。魚骨亭とは、探検部の部旗のデザインからとった名である。ロウケツ染めで紺地に白くぬいた、フグともイワシともつかない尾頭つきの魚の骨の形が、わが探検部のトレード・マークであり、世界のいたるところに、この旗をひるがえそうというのが、わたしたちの意気込みであった。  議論百出の結果、当日の献立は、次のようにきまった。  ザリガニのフライ  アメリカでは、かなりの高級料理とされるが、日本では材料費がただ。エビフライの要領でつくる。  カエルのつけやき  カエルの種類は問わない。皮をきれいにむくことが肝心。トノサマガエルくらいだったら、骨ごとたべられる。香ばしい味がする。後年、インドネシアで、カエルの塩焼きに、種々の香料をふりかけた料理をたべたが、せっかくのカエルの香味が、香料によってわからなくなってしまっていた。カエルは、あっさりとした味付けにかぎる。  タニシ、ドブ貝の煮つけ  これは、日本各地で家庭料理の献立のなかに入れられていた料理である。泥くささを消すために、ショウガを一緒に煮ることが秘訣。  オカウナギのカバヤキ  マムシ、シマヘビ、ヤマカガシ、なんでも材料はえらばない。捕獲法に工夫がいる。同じ一匹でもウナギの数倍食いでがある。  ゴジラ料理  わたしたちは、クジラをゴジラと呼びならわしていた。「ゴジラ対アンギラス」という映画があった。探検部長の四手井綱英教授のニックネームがアンギラスであった。アンギラスが探検部にいるのなら、ゴジラも存在しなくては片手落ちだ。ゴジラ役に適当な部員がいないので、わたしたちは語呂あわせで、クジラをゴジラとよんだ。  学生のことである。牛肉や豚肉はぜいたくであった。山での合宿の際などに、もっとも一般的な蛋白源としてクジラの肉が使われた。長期間山へ入るときには、クジラをいったん煮てから、乾肉にして保存に耐えるよう工夫したりした。したがって、クジラ料理は、わたしたちのお家芸であった。ステーキによし、フライによし、煮つけによし。クジラのロースは、サシミにもよい。  ホルモン焼き  関東でいう「もつ焼き」のこと。肉屋を経由せずに、屠殺場から直接買うと、当時、バケツ一杯三百円程度で、新鮮な臓物を手に入れることができた。ただし、レバーや心臓など上等のところは入っていない。牛の腸一本で、バケツが一杯になってしまう。  ツアンパ  チベットの主食である。関西ではハッタイ粉、関東では麦こがしとか、コウセンとよばれている大麦をいって粉にしたもの。そのまま、砂糖を入れて、口のまわりを粉だらけにしてもぐもぐやるのもよし。チベットで一般的なたべかたは、木椀に入れて、うえからチベット茶を注いで、舌をのばしてペロリとやる方法である。チベッタン・ティーとは、|磚茶《タンチャ》、すなわち、茶屑をむして板のように固めたものをけずって、煎じ出し、これを木や竹でつくった一メートル程の長い筒に入れて、ヤクからとったバターを多量に加えて、脂肪が水に混るまでかきまわす。これに岩塩を加えて飲む。  北アフリカのアラビア人は、麦こがしを携行食に使う。たべるときは、砂糖と塩をまぜ、水でねって団子のようにして、口に入れる。麦こがしを多量にたべると、やたらにオナラが出るので淑女は御用心。  チャパティ  小麦粉、雑穀を粉にしてこねてから、一、二ミリまで薄くのばし、直径二十センチくらいの円板状にして、かまどにはりつけて焼く。さきにのべたように鉄板に油をのばして焼いてもよい。弱火でカリカリになるまで気長に焼く。インドから中近東にかけて、西洋のパンに相当する食品として用いられている。真白な精選された小麦粉でつくると、本場のチャパティとはまるで違った味になってしまうので、小鳥屋へ行って、飼料のフスマを買ってきて小麦粉にまぜて風味をそえるのがコツ。  さて、飲み物の種類はつぎのとおりであった。  松葉ビール  部員の誰かが、ものの本でシベリアの原住民が、松葉からビール状の飲物をつくっているとの記事を読んで考案したもの。ぬるま湯のなかに松葉を多量にほうりこんで一日おくだけで出来あがり。うす緑色をおびた液体で、泡立ちはあまりよくない。少ししぶ味をおびて、かすかに松脂くさいにおいがするが、けっこう茶のかわりになる。アルコール分を含まないので、国税庁から密造酒の手入れをくらう心配はない。しかし、ビールというからには、酔がまわるようにしなくてはという意見もあり、アルコール添加をし、砂糖を少量入れて甘味もつけた。  魚骨亭カクテル  ジュースパウダー、カルピスのたぐいを適当にミックスして、ソーダ、アルコールを入れてつくる、でたらめ飲料。アルコールは、理科系の学部に所属する部員が、各自の研究室から純粋なエチルアルコールをくすねてくることとした。純粋アルコールを水でうすめただけの液体が、カクテルベースだから、くせがなく、どんな調合のミキシングにもあう。  ドブ  当時、京都では密造のドブロクを交番の前の飲屋でさえも出してくれた。わたしたちは、そんな飲屋の常連であったので、やすくわけてもらえた。飲屋でのんでもビールビン一本の量が三十円だった。これをコップ一杯十円で売れば、かなりの利益があるはずであった。そのほか、ほんものの焼酎、二級酒(合成酒)のたぐいも若干用意した。  当時の探検部ルーム日誌をみると、魚骨亭のための部員の作業分担の割当とともに、おのおのの係の任務心得書が残されている。飲食店経営の参考までにうつしておこう。  マスター  もうかるように、ぬかりなく経営の采配をふるうべし。  会計  金を取るの一念で、確実に代金を回収する。客にとってもっともスムーズな、代金支払システムを考えるべし。  料理人  腕によりをかけて独創的料理を提供するべし。人に食わせるの一念が肝要。いっぱい食わせてはいかん。  酒屋  チュウ、ドブ、清酒、松葉ビール等を容器につぐ役、情勢によっては、マスターと相談し、水ましをするべし。  給仕  愛嬌よくたちまわること。身なりはサッパリしていること。テーブルのうえに客が残したコップ、皿などを迅速に片づけ、常に店内を清潔に保つべし。  洗い屋  皿・コップを専門に洗う役。この係が手をぬくと、客は食物に手をつけずに逃げ帰る。  走り屋  ときの情勢により、材料の仕入れ追加を必要とする見込み充分であるから、常に自転車とともに待機し、市場へ、酒屋へ、ドブ屋へ走らねばならない。  ヨロズ屋  以上諸役を全般にわたり助ける。ときにはサクラになり、店内でさわいで客を集めることが必要。客が充分集まったら、外へ出て客に席をゆずること。勝手な飲み食いは厳禁。  仕込み屋  次の日曜、宇治へ行き、ザリガニ、カエル、ヘビ、貝類など、食糧採集をする。つまみ食いは許さぬ。  かくして、用意万端整い、記念祭当夜、玩具の花火を打ちあげて、魚骨亭は、にぎにぎしく開店した。料理は一皿三十円均一、清酒、焼酎、カクテルがコップ一杯三十円、ドブ、松葉ビール、アフガン酒は一杯十円であった。テント張りの店は常に客でいっぱいで、材料の追加に、走り屋が駆けまわるありさまであった。売りあげは、七千二百五十円に達した。しかし、あとで純益を計算してみると、たったの七百四十円とは、一同首をひねったことであった。連日の予行演習で、店開きをする前に、売上分をすでに部員たちで、飲み食いしてしまったのである。  魚骨亭はその後、毎年、京大十一月祭に開店している。部員が海外へ行くたびに、新しいメニューが追加され、いまでは、ニューギニア、アフリカ、南米など、世界各地の珍しい料理が居ながらにして味わえるようになっている。どうぞ一度お越しのほどを。    生兵法は大けがのもと  わたしの仲間たちが野生の動植物をよくたべるのは、ゲテモノ食いとは意味がちがった理由による。べつに奇をてらって、人のたべないものを試みて、バンカラな勇気をほこっているわけではない。  探検に出かけて、食糧がなくなったとき、野生の動植物を採集して、飢えをしのぐために平素から訓練をしているのだろうか。そうでもない。食糧が欠乏するような探検は、落第作である。探検の食糧計画は、現地で入手可能な食糧を確認し、そのうえにたって持参するべき食糧のしっかりした計算にもとづいておこなわれる。  人の住んでいる場所が対象だったら、小人数のパーティーならば食糧なしに出かけることもあり得る。しかし、この場合には、完全な現地食主義に徹底することができる覚悟をまず養っておくことが大切だ。期間が延びたり人数が少々増えたりしたくらいで、食糧不足になやまされるような探検は、素人の立案によるものである。わたしたちの仲間で、探検中飢餓に悩まされた例はない。  気まぐれな自然にたよって、野生動植物に依存した探検の食糧計画をたてることは、危険である。探検という近代的事業を、旧石器時代の狩猟採集民と同じレベルまで引きさげることはあるまい。また、見知らぬ土地の野生植物のうちから、食用になるものを見つけだすのは、困難である。熱帯降雨林の植物などは、よっぽど熟練した植物分類学者でなかったら、現地の植物のどれが日本の同じ科の植物に属するかどうか判断もつきがたい。へたに野生植物をたべて中毒死したということにもなりかねない。  では、なぜわたしたちは野生動植物をたべるのか。こう問われたとき、「趣味ですな」と答えるのがいちばん無難であるが、その趣味をもう少し説明してみよう。  わたしたちの仲間には、自然に対する一種の素朴なアニミズムがあるようだ。わたしたちは、自然を人間に対する敵対物であるとして、自然を征服することによって生きがいを発見する西洋的な自然観とはちがう情念をもっている。自然は、わたしたちをやさしく包んでいるものであり、わたしたちの心に常に同調するなにか精霊のような力を放射しているものである。わたしたちは、自然を心情で理解できるものとしてうけとめているらしい。自然と人間という対立はなく、自然のなかの一員としてのわたしたちがあるというのが、仲間の感覚らしい。  そこで、ある野生の植物がたべられることを発見したときに、そのことによって、自然をまたすこし理解できたという、うれしさを感じるのである。  じつは、日本での野生植物のたべかたについては、わたしたちの発見はほとんどなく、再発見ばかりである。野生植物の食用になるものについての知識は、古代の人びとのほうがずっとくわしかったにちがいない。|蔬菜《そさい》にあたる栽培植物が少なかった古代には、オカズにあたる青物は、山野に自生しているものを採集によって得ることが多かった。昔、蔬菜の少なかったのは日本ばかりでない。十二世紀のイングランドで一般的に使用された疏菜はエンドウ、インゲン、サトウダイコン、ニラの四種であったという。  野菜と蔬菜は、今日では同義語のようになってしまっているが、もともとは、野菜は文字通り、野の菜を示すことばであった。万葉集に「若菜つむ……」などと草つみのことがでてくるが、このころには野生植物の採集は日常の食生活にそれほどめずらしいことではなかったであろう。そのうち「若菜つみ」は中国での「踏青」とむすびつき、宮廷行事として形式化してしまったが、植物採集の伝統は、現在でも正月の七草粥に伝えられている。  蔬菜が多くなってから野生植物は、救荒用の食糧としてあつかわれるようになる。天明、天保の飢饉のころ、米沢藩主上杉鷹山が野生食用植物の利用法テキスト「かてもの」を刊行したが、これと同じような本が、太平洋戦争の後半から何冊か発行されたことは、記憶にまだ新しいことであろう。  野生の動植物を食用にするときには、正しい知識が必要である。新しいものを試みるとき土地の人に聞くなりして、食用になるものであることを確かめることが必要である。これをおこたって、ひどい目にあった話を書こう。  宝島。スティブンソンの小説の題名ではない。日本にも宝島と呼ばれる島がある。行政的には鹿児島県鹿児島郡十島村に属する。十島村といっても現在は、屋久島の南、奄美大島の北に南北に連なる島々、|口之《くちの》島、中之島、|臥蛇《がじや》島、|諏訪之瀬《すわのせ》島、|平《たいら》島、|悪石《あくせき》島、宝島の七つの島からなりたっている。これらの島々を吐喇列島という。お読みになれただろうか。中国の史書に現われる中央アジアの地名のような感じの名前だが、これをトカラ列島とよぶのだ。  わたしの訪れた一九五九年当時で、七島あわせての人口が二千五百人程度であった。臥蛇島には十一戸しか島に住みついている人びとはいなかった。それからどんどん人口の流出がはげしくなるいっぽうであるから、現在では、無人島に近くなっているところもあるかもしれない。島の中学校を卒業したら、ひとり残らず島を出て、進学なり、就職をしてしまう。島を離れた若者達は、内地で(と島の人はいう)結婚をして、島へはもどらない。そこで、島は老人だけになってしまい、島で子どもが生れることも、まれになってくる。一九五九年で、宝島の青年団員の最年少者が三十歳を越えていた。むしろ中年団員とでも呼ぶべきであろう。当時の宝島の人口が約五百人、一九六八年夏に宝島を訪れた友人の話では、二百七十人に減っていたという。  十島村の村役場は中之島にあるが、村会を開くときには、村営の汽船十島丸が各島を回って議員を収容し、鹿児島市で村会が開かれる。さまざまの便を考えると、このほうがずっと都合がよいのだが、村外で村会が常時開催されるところも、ほかにないだろう。  宝島は、トカラ列島の最南端に位置している。どうして宝島という名がついたのかはわからない。一説には、この島のどこかに海賊キャプテンキッドの財宝が隠されているという。  一九五九年の夏わたしは、宝島に行った。別に宝さがしに行ったのではない。京都大学探検部の宝島パーティーというのに参加していたのだ。  そのころ、わたしたちは、日本の離島の調査にやっきになっていた。わたしたちは、いつか、ニューギニアの探検をしようと考えていた。だがニューギニア探検にのりだすには、わたしたちは力不足だった。そこで、まず、日本の離れ島から手をつけようということになった。日本の島を知らずして、いきなりニューギニアのような大島へ乗り出すのは、おこがましいではないか、という論理であった。この論理が当をえたものであるかどうかは少々疑わしい。世界で第二の大島ニューギニアと二時間もすれば島を一周できる宝島が、ただ大陸ではないというアナロジーでつながるかどうかは、あやしいことだ。  しかし、わたしたちは、本気であった。探検部から日本の離島調査のパーティーがいくつも出された。その次の段階として、南太平洋のトンガ諸島、スンダ列島のチモール島、インド洋のマルディブ諸島へと探検部の学生たちが出かけていった。そして、ついに念願のニューギニアへも踏みこむこととなったのだ。  前おきが長くなりすぎた。宝島の話にもどろう。  さて、宝島でわたしたちは青物の欠乏に悩まされた。当時、島では蔬菜が非常に少なかった。もともと、野菜を植えてある耕地面積が非常に少ない。村の農協では、鹿児島から移入した野菜を売っているくらいだ。わたしたちは、一行七名であった。わたしたちが野菜を買いまくったら、島の人びとがたちまち困ることになるだろう。わたしたちは、青物を手に入れることをなるべくひかえていた。  ある日、仲間の一人が、宿舎にしていた小学校(中学校も同じ所にあり、村長、先生は兼任だった)の裏山に、サトイモが自生しているのを見つけたと、とんできた。念のために、島の人びとに聞いても、そんなところに、サトイモを植えた者はいないという。持主がないものだったら、ちょうだいしよう。ただし、イモの部分は掘るのを遠慮して、イモが育つように葉と茎の部分を植物の生育にさしつかえない程度に少しずつとって野菜として使おうということになった。早速、もいできたサトイモの葉と茎を、大ナベに入れてカマドの灰を一つかみほうりこんで、|灰《アク》ヌキをした。これを煮つけと味噌汁の具にして昼食がはじまった。  味噌汁を一口味わって、 「灰ヌキがうまくいってないぞ!」  といいながら、サトイモの葉をかみしめかけているうちに、猛烈にいがらっぽくなった。 「こりゃ食うたらあかん!」  といおうとしたら、舌がうごかない。舌が硬直したようで、舌の根本から一枚の板になってしまったようだ。口は麻痺してしまい、意味のある音声はでずに、ただやたらにヨダレが流れる。見まわすと、一同すべてロレツがまわらず、アワアワいいながら、ヨダレをたらしている。もう、口がしびれてメシを食うどころではない。われ先に、ウガイをしに部屋をとび出した。  口の麻痺状態は半日続いた。  島の人は、たぶんクワズイモにあたったのだろうと言った。  栽培植物学の権威、大阪府立大学教授の中尾佐助さんに聞いたところ、クワズイモではなく、野生のサトイモにやられたのだろうとのことだ。クワズイモのひどいのだったら、へたしたら一命にかかわるものもある。植物の形からいっても、サトイモのたぐいであるらしい。九州から南にはクワズイモをふくめたサトイモ科の野生化したものが、自生しており、現在の栽培種とは比較にならないほど強い毒性を示すという。    シ ロ ア リ  世界的な霊長学者として知られている伊谷純一郎さん(京都大学理学部)は、仲間うちでは、新しい食物の探究者——悪くいえば、ゲテモノ食い——の親分格とされている。前衛への探究の熱心さのあまり一度などは、一命を落しかかっている。  伊谷さんが友人の研究者と、さる大先生の三人で九州の田舎をあるいていたときのこと。ギボシに似た野草がうまそうだったので、採集して宿へ持って帰った。料理しようとすると、土地の人が、それは食えないという。いや、食えるはずだと、伊谷さんと大先生は、がんばった。大先生は世に名高い理学博士、伊谷さんも、その友人も生物学者である。京都からやってきた先生方三人に束になってかかられては、土地の人もひっこまざるをえない。  さて、野草を料理して珍味珍味とたべてしばらくすると、三人とも七転八倒の苦しみ。ついには、胃の内容物をぜんぶ庭にはきだしてしまったそうだ。三人の嘔吐物をめがけて、宿のニワトリが数羽よってきて、早速つつきだした。すると、こはいかに、ニワトリが皆白眼をむいて、ばったばったと倒れだし、ついに宿のニワトリは全滅した。さあ、大変なことになったというので、三人はほうほうのていで夜逃げしたという話が、仲間うちに伝わっている。  伊谷さんと、同じくサルの研究者|東滋《あずましげる》さんが、タンガニイカ湖畔のキャンプで、野生チンパンジーの調査をしていた。ある夕方、ランプの光をしたって、羽根のついたシロアリがたくさんむらがってきた。それっというので、二人で捕虫網をふりまわしてつかまえ、空罐のなかに入れて振りまわしたり、ちょっと火であぶって羽根を落した。つぎに、フライパンにうつして、ふうふう吹いて羽根をとばし、砂糖と醤油で煎って料理した。こうばしくて大変うまかったという。生きたまま羽根をもいで、口に入れ、ゆっくりかみしめると、甘くて、生卵の黄身のような味だったそうだ。  東アフリカのサバンナには、いたるところにシロアリの巣がある。それは、地面から、にょきっと持ちあがった高さ一メートル前後の塔のようなものだ。その表面は、コンクリートでかためたように堅く、シャベルでたたくと、カンカン音がする。  伊谷さんの話を聞いて、わたしも一度そのシロアリ料理を試みてやろうともくろんでいたのだが、ついにその機会がなかった。おそらく、シロアリの羽化するシーズンにあたらなかったのだろう。シロアリの巣をこわして、なかからアリをつかみだすのは、かまれたら痛そうなのでやめた。  人類の祖先は、現在のサルのように、草食性——果実、タケノコの類なども含めて——の動物であったにちがいない。どうして、人類の祖先は、雑食性の動物に移行していったのであろう。サルの段階から、人への進化のうちで、草食性から雑食性への移行は、重大な意義をもっている。狩猟の起源、それにともなう道具の製作と使用、さらには、火の使用にいたるまで、人類の雑食性化にかかわりをもってくる。  どうして雑食性になったかということについては、さまざまの説がある。たとえば、はじめはカモシカの類の生れて間もないコドモをつかまえて、肉食をしたとか、いや最初に魚をつかまえてたべたのだとか。  シロアリがうまかったからかどうかは知らないが、伊谷さんは雑食性について、シロアリ説とでもいうべき仮説を提出した。すなわち、はじめから狩猟や|漁撈《ぎよろう》を考えなくてもよい。シロアリのようなものを食うことが仲介となって、人の祖先はしだいに動物性蛋白をとるようになり、肉食もするようになってきたのだという考えかたである。  一九六五年、伊谷さんとその調査グループの一人、鈴木晃さんは、タンザニアの奥地の調査地で、チンパンジーがシロアリの巣に棒きれをつっこんで、これにシロアリがむらがったころをみはからってとりだし、たべているのを観察した。同様の例はタンガニイカ湖畔でチンパンジーの観察をしているグドール女史にも確認されている。  これで、野生チンパンジーの段階ですでにシロアリ食の認められること、道具使用の萌芽的現象のみられることが明らかにされた。  巣をこわして手づかみでシロアリをつまみだそうと考えたわたしよりも、チンパンジーのほうが、数等かしこそうである。    誰が最初にフグをたべたか  フグを食べるのは、日本人と中国人である。「河豚は食いたし、生命は惜しし」ということわざが、一六四五年刊行の「毛吹草」第二巻にある。これが、フグが有毒であることをのべた、日本で最古の文献だそうだ。豊臣秀吉の朝鮮征伐のさい、各藩の軍勢が下関に集結した。産地のことゆえフグは、魚売りから簡単に求められる。料理法を知らないで内臓まで煮てたべては、中毒死する者が続出した。そこで、町の辻々に高札をだしてフグの絵を描いて、「この魚食うべからず」というふれをだしたという。  江戸時代のものの本になると、フグ中毒の話は枚挙にいとまがない。フグの毒にあてられたら、スルメをかじったらよいとか、会津産のロウをたべるべきであるとか、砂糖をなめたらよいとか、さまざまの解毒法が記されている。  一八二五年刊の「兎園小説」によれば、旅籠屋でフグ料理をしたとき、すてたフグの骨と内臓を小犬と猫がたべて中毒し、口から泡をふいて七転八倒し、犬はそのまま死んだ。猫は、よろめきながら座敷にあがって、ちょうど、座敷の壁紙をはるためにおいてあった、ツノマタのノリをたべたところ、たちまちにして中毒がなおったという。ツノマタとは海藻の一種で、これを乾かして壁土用のノリに使うものである。  フグの毒は、テトロドトキシンとよばれ、日本の学者によって研究が進められた。たいていの毒物と同じく、適量を使えば、フグ毒も薬になる。現在では神経痛、喘息発作の薬に使われている。フグ中毒の初期症状は、嘔吐をもよおすことである。フグ毒の動物実験の結果でも、猫は特に嘔吐しやすいため死ぬことはないとされている。末広恭雄氏は、経口的に毒を与えた場合、前記の話で犬が死んだのに、猫が生きのびたのは、ツノマタのせいではなく、猫は毒をはいてしまったからだろうと考えている。  フグとナマコを最初にたべた英雄は誰だろうという話がよくでる。  日本人がフグをたべはじめたのは、文献にもあらわれない遠い昔のことである。日本各地の縄文式時代の貝塚からフグの骨が発見される。しかも、その大部分は、トラフグである。フグには、さまざまの種類があるが、トラフグが一番うまく、現在でも一番高価である。縄文式時代にも、フグのうまさを知っていたのであろう。  日本では、古代ほどサシミ、ナマスの類にして魚類の肉だけをたべ、内臓をたべなかったと思われるので、フグ中毒もそれほど多くはなかったのかもしれない。それにしても試験をうけて、「フグ調理師」の免許を持つ板前の手で、安心して、|てっさ《ヽヽヽ》や|てっちり《ヽヽヽヽ》がたべられるようになるまでは、次郎長一家のフグ中毒のように、多くのギセイ者が首だけだして、土中に身体を埋められたり、ロウソクを飲まされたりして苦しんだにちがいない。  赤嶋長安がフグ食いを、「暫時の口味に|泥《なず》んで身命を賭にするのは、密淫をする者の心持、その趣一なり」といっている。重ねて四つにされるのを覚悟で、不義の恋に生きるそのスリルと、あたることを知りながらフグを食うのも同じことという意味であろう。  フグの料理は、栄養摂取の手段としての食物と、異状嗜好との限界にあたる食物であろう。そしてまた、享楽としての食事のきわまったところといえよう。  フグの味を知らない外国人にとって、フグ料理は、明らかに異状嗜好のカテゴリーに入れられる。  ある英国人と食物の話をしているうちに、「ところで、われわれ日本人は、グローブ・フィシュをはなはだ好む」  と説明したところ、フグのグロテスクな姿しか思いうかべることができないらしく、フーンといった顔で、フグが毒魚であることを知らないらしい。そこで、 「日本人が好んで食べるグローブ・フィシュの一種は猛毒で、一尾の臓器だけで、三十人以上を殺すに足る毒をもっているのである」  てなことを言ったら、肩をすくめて、 「おまえら日本人は、なんとクレイジーなことよ」  とのたまった。  ところで、ナマコには骨がないので、貝塚では残らない。日本でナマコのあらわれる一番古い文献は「古事記」である。    プランクトン  蚊の目玉よりも集めやすく、しかも膨大な未開発の食糧資源、プランクトン。漂流した人びとは、水はあっても、魚をつかまえる手だてがなくて餓死することがある。プランクトンをたべることを知っていたら、プランクトンが、海面のいたるところにいることを知っていたら、助かったろうに。  こまかくて目にとまらないような、この生物も、その正体は小さなエビやカニの仲間や海藻類なのだから、栄養満点の食品である。プランクトン・ネットがなくてもシャツをひきさいて、適当な工夫をした網でつかまえることができる。女性のナイロンストッキングは、絶好のプランクトン採集具として使えるだろう。  ポリネシアの海で、小舟の後にプランクトン・ネットをひきずっていた。細かい目の捕虫網の枠に引き網をつけた吹き流しのようなものである。袋の先についた金具のネジをゆるめると、網で海水をこしてたまったプランクトンが、どろどろと流れ出すようなしかけになっている。フォルマリンの入ったビンへプランクトンを移す寸前に、ちょっと待ったと手をのばし、標本の一部を横取りして、口に入れてみた。ズルズルとして、舌にはたよりがないが、のみくださずにかんでみると味はよい。もずくのような磯のにおいがした。酢のものにしたらオツな料理になるだろう。  「コンチキ号探検記」によると、小さなエビジャコの類のプランクトンは、キャビアやカキのような味がするという。  また、伊谷さんと東さんのはなし。夜二人がかりで、タンガニイカ湖のプランクトンを集めた。一人が石油ランプを持って水のなかをあるく。光をしたって集まってきたプランクトンは、ランプが移動するにつれて、これについて動く。もう一人が絹の捕虫網でもって、プランクトンの群れをすくう。岸を三十メートルもひくと、捕虫網の底に五合はたまったそうだ。ショウガ醤油で煮ると、アミのつくだにの味になる。いや、日本のアミのつくだによりもうまいとのことだ。  タンガニイカ湖畔で二年間をすごした東さんによると、プランクトンにも、|しゅん《ヽヽヽ》があるそうだ。雨季のはじめが、プランクトンの|しゅん《ヽヽヽ》である。  プランクトンのように、すばらしい食糧資源がほとんど利用されていないのは、ふしぎである。採集も簡単であるのに、目にとまらないというだけの理由で、人類の食卓から無視されつづけていたのだ。もっとも、プランクトンを乱獲して、魚が少なくなっても困るので、プランクトンの宣伝はひかえめにしておいたほうがよいかもしれない。  伊谷さんや東さんが、いつもゴキブリやゲジゲジ虫のたぐいばかりたべていると思われたら気の毒なので、ご両人にかわって弁明しておこう。お二人とも、家庭では実にうまい奥さんの手料理を楽しんでいるのである。  たとえば、マドリッド大学に留学していた東夫人は、日本における数少ないスペイン料理のエキスパートだ。東家でたびたびごちそうになった献立のなかから、わたしが伝授をうけた手軽にできるスペイン料理三種のつくりかたを紹介しよう。  ガスパッチョ——火を使わない野菜スープ。  南スペインの料理である。昼のあついときに、食欲をそそるによい。  材料——トマト、キュウリ、ピーマン。  トマト、キュウリ、ピーマンを薄く切る。パセリのみじん切りを加えてもよい。コップに氷を入れて、そのうえに切った野菜をのせておく。大きな容器に人数分だけの水を入れ、これに塩と酢を同量入れて味付けをする。味付けをした水に、コショウ、好みによってはガーリックパウダーをふりこみ、サラダオイルを数滴入れ、味をととのえてかき回す。冷たいスープのことゆえ、サラダオイルの量が多いと、表面に浮んでギラギラと油ぎって、しつこい感じがするようになるので御用心。  刻み野菜と氷の入ったコップに、この味付けした水を入れて、レモンの輪切り、パンの小片(クルトンではなく生パン)をうかしたら、それでおしまい。あとはたべるだけ。  野菜をミキサーにかけて、ポタージュ風にすることもある。このスープは、野菜の量の配分でもって味がいろいろと変化する。氷が溶けるので、味付けをいくぶん濃い目にする必要がある。冷たいものなので、多量にたべると腹がガブガブになって、あとの料理が入らなくなるから、コップ一杯が適量である。  不精者向きの、なんとも手のかからないスープである。  トルティーア・ディ・バタタ——ジャガイモのオムレツ。  材料——卵、ジャガイモ。  皮をむいたジャガイモを手で持ち、宙でもってそぎ切りにする。そのあと、水にちょっとさらして、あく抜きをする。フライパンのうえにひろげたとき、底面いっぱいにしきつめるくらいの量のジャガイモが一回ぶん。  油をフライパンにたっぷりひいて、ジャガイモをいためる。油をケチしたら、ジャガイモがフライパンにひっつくので御用心。塩をふりながら、弱火で十分から十五分くらいかけて、ジャガイモのしんまで火が通るよう炒める。  できあがったジャガイモが、フライパンいっぱいにひろがるようにして、このうえに卵に塩を入れてかきまぜたものを流し込む。  ジャガイモの量が多いので、かなりボリュームのある食物である。ピクニックの弁当などによく使われるそうだ。スペイン以外の国では、トマト、グリーンピースを入れたオムレツを、スパニッシュ・オムレツと称しているが、東夫人によると、スペインでは、そんな料理を見たことがないそうだ。  ポィヨ・コン・リモン——ニワトリのレモン煮。  材料——骨つきのニワトリの股あるいは手羽、レモン、タマネギ、ニンニク。  骨つきのニワトリのブツ切りに塩をふっておく。フライパンに油をひいて、ニンニクのミジン切りをいためたのち、ニワトリを入れて、皮がカリカリになって、焦げ目がつくまで焼く。  厚手のナベにレモンの汁をしぼりこみ、タマネギのミジン切りを加え、ここへ焼いたニワトリを入れて煮る。水は一切使わない。レモンの果汁と、タマネギから出る水だけで煮るのだ。四人分で、レモン一個を使う。ナベにはフタをして、弱火で十分から十五分程度煮るが、その途中で一度ニワトリをひっくりかえす。レモンのにおいが肉にしみて、それでいてあまり酸っぱくない。プレーンな味の料理である。だいたい、西洋料理でのニワトリの使いかたは、見てくればかりで、味の点ではどうかと思う皿が多いが、このニワトリのレモン煮は傑作である。 [#改ページ]

 
テーブルなしのテーブルマナー    不作法のすすめ  外交官のタマゴに、テーブルマナーを教えるときの課目のひとつ。フォークでオレンジをつきさして宙にもちあげたまま、ナイフでもって皮をむく。指でオレンジに直接ふれてはいけない。こんな曲芸を聞いたので、一度ためしてみた。どうも、うまくいかない。ナイフに力をこめると、オレンジがストンと落ちてしまう。さればとて、フォークをぎゅっとさしこんだら、オレンジの身がくずれてしまう。  こんなむずかしい芸当をして、デザートをたべている外国人を、わたしは見たことがない。もっとも、わたしの外国人の友達は、素性いやしい連中ばかりであり、わたしの入った西洋人の食堂は、安飯屋ばかりであるからかもしれないが、友人の谷さんによると、イタリアの大学食堂では、まれには気取って、ナイフとフォークだけで、これ見よがしに、オレンジの皮むきをする学生もいるそうだが。  オレンジの皮は、手でむくべし。将来、大使になって、エリゼー宮の晩餐会に招待されるくらいの大人物になる自信がある人だったら、オレンジの皮むきの練習に、せっせとはげむのもよいでしょう。もっとも「オレンジはきらいじゃ」といって、手をつけずにすます手もある。  ミッション・スクールのオールドミスのように、テーブルマナーを頭の底に意識しながら食事をしたらば、せっかくの味に没頭することができなくなってしまう。食事作法の大原則は、ものの味を楽しめるようにたべることにある。いかに、エチケット読本のマナーどおりにたべていても、それが身についたものでなかったら、ギクシャクして、かえって見ぐるしい。自己流のたべかたでも、ほんとうに身についているものだったら、けっしておかしなことはない。  もっとも、あまりにも自己流に徹底するのは、どうかと思う。  たべかたのくせで、うまいものからさきにたべる人と、うまいものを最後までとっておいてたべる人がある。どちらにしても、これが極端になると、幼児の食事をみているようで、はらはらしなくてはならない。「あの人は、いつになったら、あのオカズをたべるのだろうか」とか、「あの人は、オカズを全部さきにたべてしまって、メシを食うときどうするんだろう」と一緒にたべている者としても、気がかりでならない。  友人で、メシだけさきにたべてしまい、コメツブがなくなってから、ようやくオカズに手をつけるくせの人がいる。  かれが、カツ丼をたべるときにはどうするか。丼のうえにならんだカツのすきまから、したのメシだけをほじくりだしてたべ、最後に丼の底までずり落ちたトンカツを、さもうまそうにたべるのである。  意地悪をして、かれにカレーライスを注文して、さあどう処理するだろうと、悪友一同見守っているのをつゆ知らず、スプーンでメシのうえにかかっているカレー汁と肉を皿のすみによせて、やっぱりメシからはじめたので、一同おそれいったことであった。  食事の作法というと、まず頭にうかぶのは西洋料理のたべかたらしい。「どうも、洋食は肩がこっていけませんや」といってしりごみをする。刃物や熊手のたぐいが、何本もものものしくならんでいるので、一種の強迫感にとらわれるらしい。だが、パーティーではなしに、ふつうの西洋人の家庭での食事のときは、たいていナイフとフォーク一本ずつで、すましているようだ。  わたしたちは、スープは音をさせないでたべろとか、ナイフ、フォークは外側から順々に使ったらよいとか、ある程度の西洋料理のたべかたの作法を聞きかじっている。だが、外国人で日本料理の作法を知っている者がどれだけいるだろう。日本人と中国人は、棒切れで、食物をつまみあげるそうだってなことくらいしか知らない。  わたしたちは外国人が日本料理をたべるとき、わざわざナイフとフォークをそえてやるくらいの寛容さをしめしてやっているのだ。逆に外国旅行に出るときは、銀のハシでも持ってゆき、ビーフステーキをハシでたべるくらいのことをしてもよい。笑うヤツがいたならば、「オマエは日本へ来たらば、日本流に日本料理をたべられるか」と、どやしつけたらよい。  スキヤキとかテンプラなどの一品料理しかたべたことのない外国人を、家庭のお惣菜が数皿ならんだ食卓のまえにすわらせたら、いったいどうやってたべたらいいのか、とほうにくれて、絶望的な顔をされる。こんなとき、わたしはハシの使い方を示し、料理をつまむ順序は無視してもよいこと、酒が出ている場合だったら、食事中のタバコは自由であることを教えて、あとは勝手にたべさせることにしている。  わたし自身のたべかたがそうなのである。日本の食事作法では、迷い箸、さぐり箸、さし箸、もぎ箸、移り箸、とかいって、ハシの使い方だけでも、いろいろな作法がある。オカズからオカズへ、すぐハシを移したり、どれをたべようかと、ハシを食膳のうえでまよわせるようなたべかたは、古風なひとにとっては、たいへんに不作法にみえるかもしれない。  膳や盆のうえに、調理ずみの料理を一度に何種類ものせてもってくる会席風になった料理屋の日本料理や、食卓に何種類もの皿を一度にならべる家庭での料理に、むかしながらのコースをまもって、一皿ずつ順番に空にしていく必要はないと、わたしはおもうのである、あっち、こっち、つつきちらしながら、サカズキを口にはこぶ。これが、わたしの日本料理の楽しみかただ。  正式の日本料理を作法にかなってたべようとしたらば、その手続きのやっかいさは、洋食の比ではない。膳の置きかた、膳のうえへの皿のならべかた、食事の進行の順序、酒をのむタイミングなど、実に複雑なきまりがあるうえに、小笠原流などというエチケットがつけくわえられる。三汁七菜などという、膳を五つならべる正式料理の作法にいたっては、聞いても気の遠くなるような話である。  江戸時代から、料理屋での会食には、芸者がつきものとなってくる。室町時代、足利幕府のもとで形式化した日本料理の配膳が町人の世界まで入りこむようになったのはいいが、あまりにも、食事の手続きがめんどうになったので、食卓の進行係として、芸者を連れてこなくてはならぬようになったのではないかと、わたしはにらんでいる。    テーブルなしのテーブルマナー  テーブルマナーは、西洋料理や日本料理のときだけ気にかけるものではない。テーブルの存在しない場所でも、まもらねばならない食事作法はある。  たとえば、アフリカの回教徒の多くは、手づかみで食事をする。手づかみで食事をするとき、けっして左手を使用してはならない。左手は回教徒にとって、不浄の手である。ものの受け渡しのときも、左手で人に品物をつきだしてはならない。食事のとき左手も使って、とがめられないのは、パンを引きちぎるときぐらいである。これすらも、右手だけでやってのける者もいる。大きな肉の塊りの料理から、骨をはずすにはどうしても二本の手がいる。右手だけでどうするのか。敬虔な回教徒は、隣りの人に引っぱってもらうのである。一人が肉をもち、もう一人が骨をもって、右手だけを使って、引っぱり合うのだ。  食事の前後には、必ず手を洗う。北アフリカだったら、家庭で食事をするとき、洗面器とヤカンがつきものだ。上流の家庭では、真鍮製の手洗専用の水差しと水盤がある。洗面器のうえに手をさしだすと、隣りに坐った者がヤカンからちょろちょろ水をかけてくれる。シャボンを使ってよく手を洗ったあと、洗面器を隣りの客にまわし、今度は、こちらがヤカンで水をかけてやるのが作法だ。食事中、手洗用のヤカンから水を飲むことは、不作法ではない。また、食後、手を洗うとき、ヤカンからそそがれる水を右手のくぼみにうけて、口をすすいだのち、洗面器にうがいをした水をはき出すのも、マナーの一つである。  北アフリカのベドウィン系の遊牧民のごちそうの一つは、スパゲッティだ。スパゲッティを二、三センチに折って肉を加え、トマトソースでたきこんだ、一種のにこみウドン風の料理をつくる。スパゲッティをたべるときは、スプーンを用いることが多い。こまかく折ってあるので、フォークで巻きつけるわけにはいかない。スプーンを使うので、手がよごれることはないのだが、それでも食事の前後には手を洗わねばならない。    食前の祈り  西ニューギニアの山奥でのこと、二日間、湿った森のなかをあるきつづけて、宣教師のいる部落へ着いた。といっても、宣教師に用があったわけではない。宣教師のところへ定期的に物資補給にやってくるセスナ機に便乗して、海岸の町まで行こうという魂胆だった。  西ニューギニアの中央高地から、海岸に出るには、外国人宣教師の組織するセスナ機による交通網を利用するか、あるいは、一カ月以上徒歩でジャングルを突破し、ついで、イカダを組み川を下る探検行をしなくてはならない。わたしのような大探検家になると、足であるくようなはしたないまねはあまりしないので、もちろん文明の利器を使う。ニューギニア高地には、赤道直下で四〜五千メートルの氷河を持つ大雪山山脈がつらなり、セスナは、そんなに高度をとれないので、山々の谷あいをぬって飛び、スリルは満点である。  西ニューギニア高地に人間が住んでいるのが発見されたのが、一九三〇年代である。戦後になってからは、まだ世界に残された唯一の神の福音を知らぬ人びとがいる場所であるということで、世界中の教会組織がニューギニア奥地への進出をはかった。なるべく早く、奥地へ教会をたててしまい、布教の縄張りをつくろうということで教会による陣取合戦がはじまり、探検家よりもさきに、坊主どもが未探検地区に入りこんでしまった。宣教師たちが宣教よりも、教区の分捕りあいの宗教戦争に熱心になったので、ときのオランダ植民地政庁が宗教会議をひらいて、カトリック系とプロテスタント系の二つに教会を編成し、おのおのの教会連合で小型飛行機を共同利用させることとした。  サツマイモのほか、手に入るものがない場所なので、宣教師の使う日常雑貨、食品の一切が、定期的に教会連合のセスナ機で運ばれてくる。ほかに、公営、民営の航空会社がないところなので、西ニューギニアの奥地では、宣教師のセスナが唯一の交通機関となっている。  カトリック系の教会連合の運営するセスナに乗ると、オランダ人の黒い衣を着た坊主が操縦桿をにぎっているし、プロテスタント系のパイロットは、朝鮮でミグとわたりあったというヤンキーである。  さて、プロテスタントのアメリカ人宣教師のいる部落へ着いてみると、あと三日しなければ、飛行機がこないとのこと。飛行場にテントをはって待つことにした。夕方になると、ビヤ樽のように太った牧師夫人が、飛行場を横切って、わたしのテントにやってきた。飛行場を横切るというと遠そうだが、セスナが一機やっと離着陸できるように、草が刈ってあるだけの凸凹な滑走路のことだ。横切っても十メートルくらいだ。牧師夫人はディナーにこいとわたしをさそいにきたのだった。二カ月間、サツマイモとサツマイモの葉の食事でうんざりしていたところなので、二つ返事で招待に応じることとした。  西部開拓時代の丸太小屋のような牧師館のテーブルには、湯気の立つ料理がならんでいた。ついでに、牧師先生夫妻と、その子ども達もならんでいた。  この晩の献立は、インスタントの野菜スープ、飛行機で海岸から運んできたひき肉を使ってのハンバーグステーキに目玉焼きをそえたもの、レタスのサラダといった簡素なもの。しかし、日本からもってきたベーコンを宝物のようにたべたほかには肉にほとんどありつくことなく、野菜もサツマイモの葉くらいしかたべてなかったわたしには、何カ月ぶりかの御馳走だ。  席について、一寸した雑談のあと、牧師先生が、 「|さあ《レツツ》、|はじめよ《スタート》う」  といったので、待ちかねてましたとばかりに、わたしは、スープを口に運んだ。二さじ三さじ口に入れてから、はてどうもようすがおかしいぞとようやく気がついた。  みな、スプーンに手をふれないで、じっとうつむいている。牧師先生は、何やら口の中でもごもごいっている。はじめようと言ったのは、食前のお祈りをはじめようということだった。 「天にましますわれらの父よ。きょうも日々の糧をおさずけくださって、ありがとうございます」てな、ミッションスクールの女の子が申しわけにするようななまやさしいお祈りではない。  さすがに本職のこと、実に長ったらしい文句だ。おまけに、「きょう、われらのもとにおみちびきになった遠い国からの旅人に、恩寵をおさずけになり、かれの海岸の町への飛行が安全であるようにお祈りいたします……」とか、  さらには、「飛行機の出る日が晴れますように」、はては、妊娠中である「パイロットの奥さんが安産するように」と思いつくほどに、お祈りの文句はとどまることを知らない。  口にしたスプーンをあわてて皿にもどし、バツの悪い思いでしたをむいていたわたしには、冷汗の出る実に長い時間であった。  お祈りのおわったときには、スープはさめていた。    メ ニ ュ ー  わたしは、ひどくつかれていた。長い旅だった。トラックの荷物の間に身体をおしこんで、身動きならずに、ゆられっぱなし。五十度に近い気温。道のない砂漠の夏をゆくキャラバン。運転手は、砂の海のなかで、十トンローリーをまるで戦車のように使いこなしながら、悪魔にとりつかれたように、休みなしに走らせる。  食事も一日一回しかたべないときが多い。あとはゆられながら、ナツメヤシの実をかじるほかない。夜は、砂のうえにゴロ寝で、三時間くらいしか眠るいとまがない。家のあるところへ、井戸のあるところへ、一刻も早くたどりつかなくてはならない。水のない場所で、車が故障したら、積みこんだ水がなくなったら最後、ミイラになってしまう。直径五十キロメートルのリングワンダリングをしたり、山賊にライフルでどやしつけられたり。こんな砂漠横断のトラック・キャラバンをのりかえて、わたしは、地中海から、アフリカの心臓部、チャド湖のそばの、フォール・ラミーの町へたどりついた。一九六八年、リビア砂漠での調査がおわったので、冒険をもとめておこなった二十日間の一人旅。  熱さで、頭はぼけていた。身体も少々弱っていた。金もとぼしかった。  国土に海に面している部分がなく、すべての品物を輸入にたよるチャド共和国の、首都フォール・ラミーの物価は、おそるべきものだった。たとえば、食料品店で、コカコーラ一本百円以上。バーで飲んだら、三百円近くとられる。  ここへ着いた最初の晩は、野天で寝た。おそるべき蚊の大群。翌朝、ホテルをさがしにあるいた。冷房のついた部屋は、一泊四千円くらいする。外国人で冷房のない部屋に泊る者はいない。平均最高気温四十一度の月だった。  奇蹟的に冷房のない部屋が一つだけあるフランス人経営のホテルがあった。一泊二千円、物置きのような部屋、ここに落ちつくことにした。このくらいの部屋だったら、カイロでは三百円で泊れたのに。三十分ごとに、コップで水をコンクリートの床にまく。すると、いくぶん涼しくなったような気がする。これが唯一の労働で、あとは何もする気力もなく、ベッドに横になって、ただ熱さとたたかうだけ。  朝食はたべず、昼食は、アフリカ人マーケットへ行って、やすい焼肉や魚を買ってきて部屋でたべ、金を節約する。  そのかわりに、晩飯はおもいきりゼイタクをした。ブドウ酒をとり、フルコースにもう一皿くらいつけたしてたべた。ホテルの食事は、ブルターニュ生れの三重あごをした体重百キロはあるオバサンが、黒人を指揮してつくった。けっして高級な料理ではない。日本でいったら家庭のお惣菜といったところだが、材料にとぼしい土地がらを考えると、実に苦心をしてつくってある、みごとなフランス料理だった。  夜の涼しいときと、食事のときがやってくるのが一日中待ち遠しくてならなかった。中庭のブーゲンビリアの木の下のテーブルにつくと、オバサンが、「ムッシュー」と声をかけながら、メニューをもってくる。メニューをおもむろにながめて、さて今晩は何にしてやろうと考えるとき、このときが、わたしのフォール・ラミーでの日々の一番充実した時間なのであった。フランス語の辞書を持ってきて、わからない料理の名を一々たしかめる。その間も、オバサンは気長に待ってくれる。料理の名だけでは、どんなものかわからないものがある。わたしが片言のフランス語でたずねると、オバサンは、わたしにのみこめるまで、ゆっくりと、その料理の材料やつくりかたを説明してくれる。  注文をしてから、はたして思ったとおりの料理がでてくるだろうか、それともやはり別の皿にした方がよかったのではないかと思いなやむ時間、これが、また楽しいものだった。そして期待がうらぎられることは、まずなかった。  メニューにわからない料理があったら、遠慮なく、ボーイに聞くことだ。また、その店で、その日、うまいものをたずねるとよい。けっして、お客のほうがボーイに気がねをして、あてずっぽうに料理をきめたりはしないこと。メニューを渡されたら、腹工合や、その前にたべた食事の内容、財布との相談などを考えながら、ゆっくりながめて注文するべき皿をきめるべきである。そばに立っているボーイがいらいらするようだったら、酒でも注文していったんボーイを引きさがらせて、じっくり考えること。  ラテン系の民族は、メニューをながめる時間が長いようだ。二、三人連れだと、あれがいい、これにしようってなことで、なかなか相談がまとまらず、メニューをのぞきこんで、十五分くらいはたってしまう。もっとも、日本のようにサービスが機敏ではないので、店へ入ってから、メニューを持ってくるまで待たせる時間も長い。注文してから、皿が出てくるまでの時間も長く、食事がすんで勘定書を渡されるまでの時間も、べらぼうに長い。  パリのレストランで、三十分で食事をすまそうなんてことは、夢にも思わないことだ。さもないと、食事の途中でテーブルを立つか、ランデブーをすっぽかす破目になる。    スープをたべる  スープをたべるとき、音をさせてはいけない、というのが西洋料理のテーブルマナーでいちばん注意されることだが。  スプーンを、くちびるのはしにあてて、液体をすいこもうとするから、チューチュー、ズルズルという音がするのである。スプーンを半分ちかく口のなかにまでおしこんで、柄でもって、液体を口のなかにおしあけるようにしたら、けっして不作法な音はたてないものである。  口のなかにあけたスープを、しばらくふくんでから、のどに流しこむ。こうしたら、スープのうまさが味わえるのだ。スプーンのはしから、バキューム・カーのように吸いだしたら、そのいきおいでもって、液体は、舌の上を素通りして、食道へ直通してしまう。これでは、せっかくの味が楽しめない。  スープは吸うもの、あるいは飲むものではなく、たべるものである。ヨーロッパのことばでは、スープを飲むとはいわず、スープをたべるという。  もともと、スープは肉、野菜をごった煮にした、なかみが多くて汁が少ないものであった。つまり、ロシアのボルシチ、イタリアのミネストラのようなものだったから、スープはたべるものなのだ。そのうち、だんだん、なかみだけを、別の皿にもるようになったり、なかみをつぶして、ウラゴシにかけてなめらかなポタージュのようなものをつくることになった。汁気が多いスープが一般的になったのは、十九世紀からといわれる。  飲むのではなく、たべるつもりになって、スプーンを使ったら、音をたてることがなくなる。  スプーンにあふれるばかりに、スープをすくって、こぼれやしないかと、心配しながら、皿のうえでおじぎをしながらたべる人が多い。スプーンを胸の高さまでもっていって、こんどは、口をスプーンのところまでさげていき、液体を口にうつしたのち、重力の法則にしたがってスープがノドもとを通過するように首をもちあげる。なんのことはない、ひとすくいごとにスープ皿にむかっておじぎをしているのだ。これだけは、みられたざまではない。食事のときには、背をしゃんとのばし、スプーンやフォークを口の高さまで運ぶべきである。  太宰治の小説に、貴族出のオバサマが、スプーンを口に対して直角にもっていってスープをたべる——つまり、スプーンのワキバラではなくて、ハシから口に入れる——話があったと記憶している。スプーンを口の高さまで運んで手首をてまえに折って、スープをたべるスタイルは、いかにもレディーにふさわしいマナーである。というような話を谷さんからきいて、さっそく、グリーンピースのポタージュをつくって実験してみた。  なるほどかっこうはよいが、ときどきスプーンから、スープをこぼしては、シャツをよごした。実験場は、リビア砂漠のまんなかの調査地。イスやテーブルはなく、アラビア風に土間に敷物を置いて、そのうえにアグラを組んでの食事。ヒザの下においた、スープ皿から口まで、七十センチの高さがあるので、こぼすのもむりもないことであった。  貴婦人風のスープのたべかたは、スプーンのくぼんだ部分が円形をしているものであったら容易である。ティースプーンを大形にしたような、くぼんだ部分の先端がとがっているスプーンで試みる場合は、不器用な方には、イタリアでスパゲッティをたべるときのように、ナプキンをヨダレカケ式に、首からぶらさげることをおすすめする。もっとも、こんなかっこうでは、どんなにスープをたべる手つきがよくても紳士の食事とはいいかねるが。  なお、スープをたべるさいに、スプーンを手前からむこうへおしやって汁をすくうべきか、むこうから、こちらへ引くべきか、などという愚劣なことにこだわる必要はない。また、汁が少なくなってから、すっかりさらうためには、皿の手前をおしあげて、向側に汁をためてすくうべきか、その逆か。こんなエチケットに、こだわる必要はない。西洋人でも両方やっている。だいたい、汁を皿に盛るのがまちがっているというべきであろう。  ついでに、リビア砂漠で、わたしがよくつくった野戦料理の一つ、グリーンピースのポタージュのつくりかたを紹介しておこう。グリーンピースの罐詰は、世界のどこでも手に入る食品の一つである。リビア砂漠でも、ちょっとした商店のあるオアシスでなら売っている。  タマネギを細かくきざみ、ニンニク少々を加えて、バターあるいは、ラクダの脂肪でいためる。これをインスタント食品のうちもっとも重宝なものであるコンソメスープの素でつくった、スープのなかに入れる。一方、グリーンピースの罐を開けて、なかみをカップにうつして、懐中電灯の柄、あるいは、薬の空ビンなど手頃の突き棒になるもので、ドンドンとたたきつぶす。スープの中に、ぐちゃぐちゃになったグリーンピースをぶちこんで、一度沸騰させたらハイ出来あがり。遊牧民から、ヒツジのミルクからつくったバターオイルをわけてもらえたときには、これをとかしこむと、一層風味がよい。    ナイフをとぐべし  よく切れない食卓用ナイフで、堅い肉と皿のうえで格闘するときほど、いらいらとすることはない。切れないナイフに、渾身の力をこめて、ようやく肉片を無理やりにひきちぎったとたんに、ちぎれた肉は床のうえにとんでいってしまい、それまでの重労働は水のあわで、おまけにバツの悪い思いをしなければならない。へたをすると、むかいの人の胸にソースのついた肉片がとんでいって、ひらあやまりをしなくてはならぬ破目になる。  食卓用ナイフが切れすぎて、そそっかしい人が指を落すようでもこまるが、このごろレストランのナイフでも、やたらにメッキが光るだけで、まったく刃附けのしていない、桃の皮をむくのもむずかしいようなものをおいてあることがある。刃物はといで使うべきである。  ただし、切るというよりも、魚肉をほぐして、フォークにのせるヘラのような使いかたをする魚用ナイフは、刃がついてなくてもさしつかえない。  日本の洋食屋で、お茶づけにするのと同じ炊きかたをしたメシを「ごはん」というとわざわざ、「ライスですか」と聞きかえすのも、耳ざわりなことであるが、そのライスをナイフでもって、フォークの背中にのっけて口に運ぶ曲芸は、無器用者の多い外国人には、おそらくできないであろう。ライスには、スプーンを、あるいはハシを、そえるべきである。フォークでたべるとしたら、右手で持ちかえて、フォークの腹ですくうようにしてたべたらよい。  つけあわせにでたグリーンピース、これを一粒ずつ追っかけては、フォークの先でつきさして、口にほうりこむ気長な人をときどきみかける。このときこそ、ナイフとフォークの背で豆をつぶして、フォークの背にのっけて口に運んだらよい。  西洋の古代には、食卓には、肉切りナイフが一本おいてあるだけで、これでもって主人が食物を切り分けて分配した。食物を口に入れるのは、手づかみであった。ナイフ、スプーン、フォークの食卓用セットが出そろい、各地で一般的に使われ始めたのは、十八世紀頃からである。  日本では、古墳時代からハシが使用されていたようだ。「古事記」のヤマタノオロチの話でも、上流からハシが流れてくるのをスサノオノミコトが見つけて、川上に人家のあることを知ったとある。 「魏志倭人伝」では、倭人は手食をするという記事があるので弥生式時代には、ハシの使用はまだ一般的ではなかったのかもしれない。古代のハシは、現在の二本の棒が対になったものではなく、一本の棒を中央から折り曲げた、ピンセット状のものであった。  刃物と、熊手のような野蛮な道具で食物を運ぶよりも、西洋料理もはじめからたべやすいように、切れ目を入れて供して、トンカツのようにハシでたべられるようにならないものか。その場合、外国人には、古代のピンセット式のハシを使わせたらよい。 [#改ページ]

 
野外料理の準備    火 「わたしは、あなたとカマドをともにしたい」というのが、スワヒリの男が娘にプロポーズするときのいいかたである。スワヒリのカマドは、高さ三十センチくらいの石を三個置いてつくる。石のうえに泥をぬりつけて、ナベのすわりをよくしたりもする。一度にナベを沢山かける場合は、ナベの数だけ石をさらにふやしておいたらよい。  三日間続くダトーガ族の結婚式の最後は、新婦が女たちと石をとりに行き、それを新居の台所へすえることによって、式のすべてが終り、新しい夫婦の生活がスタートする。ハツァピ族、イラク族など、マンゴーラ村に住む部族のいずれもが、石を三つ置いた形式のカマドを使っている。熱の効率とか燃料費の節約など考える必要はない。|薪《たきぎ》は、女たちがブッシュの中へはいって集めてくる。  わたしたちが、野外で料理をするときにつくる炉もこの石を三つならべた形式のものであることが多い。一番簡単なカマドであるが、どの方向から風がきても、大丈夫であるという利点をもつ。風がはげしい場合には、風の方向に石を二列にならべたコの字形の長い炉をつくる。カマドの焚口とナベをかける場所に、適当な距離をおかないと、火があらぬ方へ逃げてしまう。奥壁をきずいて、カマドのどんづまりで、炎が奥壁にそってうえに這い上るようにする。  カマドをきずくのを見ていたら、その人の登山歴や野外生活の経験のほどが判断できるという。その場に応じて風向きを考慮に入れる、風よけの物蔭の利用のしかた、石の積みかたなどに、経験がにじみ出るのである。使いやすく、よく火が燃えるカマドをつくる人は、大体においてよいアルピニストである。  火のたき方も、なかなかむずかしいものである。マッチ一本だけで火をおこせること、雨のなかでも焚火のできること、こんなことは、ピッケルやアイゼンの使いかたにもまして、登山者にとって大切な修練であろう。  雨降りのとき、焚火をする方法を伝授しよう。一番いいのは、雨のかからない屋根のなかで火をもやすことである。屋根がなかったら、屋根をつくることだ。木の枝の間に合羽とかテントのグランドシーツを張って屋根をつくる。あるいは、葉のついた枝を集めて木立にくくりつけて屋根をつくって点火する。  屋根がつくれなかったら火はおこらないか。そんなことはない。雨のなかでも、烈風のふきさらしのなかでも、焚火はできる。人によってさまざまの流儀があるが、一般的な方法としては、薪を井桁に組むことである。薪は大体同じ長さに切りそろえておく。まず、地面に二本を平行におく。そのうえに直角交差するように次の二本をのせて正方形をつくる。次々に二本ずつをたがいちがいにのせて、薪でもってヤグラを組む。なるべく高く組みあげることがコツである。基礎がしっかりしていないと、ヤグラがくずれてしまうから御用心。ヤグラのなかには、枯葉、枯枝のたぐいをつめておく。適当な火つけ用のたきつけがない場合には、燃えやすそうな木をナイフでけずって、アイヌのイナウのようにササラを沢山つけたものを使ったらよい。組みあがったヤグラのうえに新聞紙を二、三枚、屋根としてかぶせる。新聞紙は、雨つぶをふせぐ吸取紙の役をするし、熱を外に逃がさないおおいになる。したからたきつけに火をつけると、新聞紙の天井との間に熱がこもって、ヤグラの薪が乾いて、もえはじめる。  焚火のもえさしをとって、タバコに火をつける。一番うまいタバコの火のつけかたである。    炊 事 用 具  山へ行くといったら、どうして皆リュックサックのサイドポケットに後生大事にハンゴウを入れるのだろう。近頃の山用のリュックサックのサイドポケットは、やたらに大きい。ハンゴウが入るように、サイドポケットが大きくなったのだという話を聞いたことがある。  リュックサックそのものが横に広がる形になったうえに、両側のポケットが張りだしたので、バスのドアにつかえる、汽車のデッキで身動きがとれなくなり、後に続くお客さんにめいわくをかけることとあいなる。  片方のポケットに、空のハンゴウを入れたら、荷物の重さがかたよってバランスがとりづらいのではないかと、ひとごとながら気になる。一日に三度しか使わないものだし、ハンゴウをとりだすときは、肩の荷物をおろすときなのだから、リュックの本体のなかに入れたらどうだろうと思うのだが。  だいたい、ハンゴウは使いづらいナベである。携行性の便のために調理用具としての機能が無視されている。ハイノウにつけて、持ち運びの便がよいように、あのように片面が凹んで薄い形になっている。もともと、調理用をかねた兵隊の弁当箱である。木の枝からぶらさげて、焚火のうえにつるすのにはよいが、底面積が小さいので、火のうえに置くには適さない。近頃の山行では、石油燃料のプレッシャー・ストーブが炊事用の火に多く使われている。ストーブのうえにかけるには、熱の利用が不経済きわまる代物だ。  メシたきにはよいが、オカズつくりには深すぎて、使いづらい。数人でパーティーを組んで山行をする場合に、みながみなハンゴウを一つずつぶらさげて行くのは、芸がなさすぎる。手分けをして、使いやすいナベを各自のリュックサックにつめてゆくべきだろう。  山行の炊事用具に、コッヘル・セットというものがある。大ナベのなかに、中ナベが入り、中ナベのなかに小ナベが入り、小ナベのなかに、ヤカンが入っているといったふうに、炊事道具が入れ子のセットになっている。おまけに、大ナベのフタはフライパンにもなるといった、一見いかにも重宝なものである。かさばらないし、アルミニウムでできているので軽い。  だが、携帯の便利さは、炊事用具としての機能を犠牲にしてつくられたものである。入れ子にするために、ナベには、把手がない。ナベをおろすときには、いちいち専用のナベつかみではさまなくてはならない。薄手のアルミニウムでつくってあるので、手荒に使うと、凹んでしまう。また、鉄ナベに比べて、保温性にかける。オカズが全部できて、いざたべようというときには、さきにつくったオカズは冷えきっている。それにまた、コッヘル・セットのヤカンのなんと使いづらいこと、ナベにはまりこむように、無理をして円盤状のヤカンをつくってあるので、注ぎづらいことおびただしい。荷物の重量やカサをへらして、山そのものをアタックする目的には、コッヘル・セットも重宝なものであろうが、野外での生活を楽しみ、快適な炊事をする道具としてはいただきかねる。  結局のところ、携帯に便利で、しかも炊事用具本来の機能をもそこなわないナベの類は、いまのところないようだ。では、いったい野外での炊事用具には、何を使ったらいいのか。わたしの答は、こうだ。もし、重量やカサに神経質になる必要のない場合だったら、ふつうの家庭の台所にあるようなナベのたぐいで、一番使いやすいものを持っておいでなさい。  一九六七、六八年の京都大学大サハラ学術探検隊の炊事用具セットを紹介しよう。この探検隊は、自動車キャラバンで砂漠を移動することとなっていた。そこで、炊事用具の重量については、それほど神経質になる必要はなかった。ジープ一台に一セットずつ、数人用の炊事道具セットをつみこんで走る予定だった。  わたしたちは、京都の中央市場へナベのたぐいを買いに行った。市場には、料理道具の専門店がいくつかある。ここへ買いに来るのは、料理屋など営業用の料理人が多い。板前の使う、使いやすくてしっかりした道具を売っている。しかも、デパートで売っている品物よりも安い。わたしたちが手に入れた炊事用具は次のとおりである。  大ナベ——厚手の深ナベで両耳つき。メシたき用。  中ナベ——大ナベと同じ品物で一まわり小さい。大ナベのなかにすっぽりはまりこむ。汁つくり用。  手ナベ——深ナベで、注ぎ口がつく。木の把手がついているが、待ち運びのときは把手をはずして、中ナベのなかに入れ子にする。煮物用。  支那ナベ——棒状の把手がついたナベ。  フライパン——支那ナベで一応の用はたりるのだが、目玉焼きやベーコンを焼くときには、小形のフライパンも用意しておいたほうが便利である。  ヤカン——二リットル入り。  魚アミ——料理屋で使う太い針金で作った大形で頑丈なもの。バーベキュー用にもなる。  庖丁——ステンレス・スティールの西洋庖丁の一番切れ味のよさそうなものをえらんだ。  このほかの小道具としては、茶こし、オロシ金、オタマジャクシ、メシシャモジ、罐切り、センヌキ、タワシ、食器あらい用スポンジを用意した。これらの道具をプラスチック製の衣裳箱に入れ、箱のすき間には、フキンをつめこんで、大サハラ探検隊のキッチン・ボックスが完成。現地で五カ月使った経験でもこの炊事道具で、必要かつ充分であったと信じている。  これだけの道具で、できなかった料理はない。ナベを二つ重ねたら、オーブンになるし、深い中ナベの底へ空罐をならべて、そのうえに皿をのせて材料をならべると、|蒸器《むしき》にもなった。また、余分な道具をもってきたと後悔したものもなかった。    食  器  曹洞宗の雲水が持つ個人用の食器で応量器というものがある。これはヒノキ製ウルシ塗りの鉢の中に椀、皿のたぐいが入れ子になって四個入った食器セットである。一番大きな鉢には、主食を盛り、二番目の大きさの椀には味噌汁を入れるといったように、各々の食器の用途もきまっている。これは近頃山の道具店で売っているプラスチック製の食器セットのさきがけをなすものである。  わたしは、半透明のプラスチックでつくった山用食器セットなるものが、大きらいである。ふにゃふにゃのお椀なぞ、どうもたよりがないし、味噌汁がすけてみえるのはいただけない。食事は、栄養摂取の手段だけではなく、楽しみでなくてはならないという、わたしの趣味からすると、もう少し美的なものを使いたいところだ。  だいたい山関係の品物はすべて、実用一点ばりで美的なところがない。軍隊の行軍ではなく、楽しみのために山へ行くのだったら、もっと楽しいデザインをしたらどうであろうか。わたしが金持になったら、ウルシ塗りの携帯用食器セット一式をあつらえて、仲間たちをおおいにひがませてやるつもりである。  いつも移動するキャラバンや山行には、いくら美的であっても、こわれやすい瀬戸物の皿や、茶碗を持っていくわけにもいかない。プラスチック食器のできるまえは、野外用の食器といえばアルミニウム製のものだった。アルミニウムの椀に熱い味噌汁を入れて、ヤケドしそうになって椀をとり落してしまった頃から考えれば、プラスチックの食器セットの出現はたしかに進歩である。硬質プラスチックで、装飾的な携帯用食器セットが、もうそろそろ市販されてほしいものである。いまのところ、給食用の硬質プラスチックの皿や椀を個別に買ってくるほか手がない。  軽いこと、丈夫なこと、かさばらないことが携帯用物品の必要条件である。海外遠征の食糧係が、いつも首をひねるのがウイスキーをどうやって運ぶかということだ。ガラスビンは重たいし、割らずに遠距離を運ぼうとすると、詰物でとてつもなくかさばってしまう。罐詰のビールや日本酒はあるが、罐入りのウイスキーとかブランデーは聞いたことがない。  あるヒマラヤ遠征隊では、キャラバンのさいに、ウイスキーを全部ポリエチレンのビンにうつしかえてしまったそうだ。キャラバンが続くうちに、ポリエチレンの成分がアルコールに抽出され、とんでもない悪臭のするウイスキーになってしまい、とても飲めたものじゃなかったそうだ。  ウイスキーは、重くとも取扱いに注意してビンのまま運ぶにかぎる。各メーカーが意匠をこらしたガラスビンにはられたレッテルをながめながら、ちびちびやるのがよい。プラスチックビンにつめかえられたりしたら、何を飲まされるのか気がかりで、いっこうに気分がでないだろう。  食器は、硬質プラスチックのものでがまんするとしても、酒を、お子さまのミルク飲みみたいな柄つきのプラスチックコップから飲むのだけは、ごめんこうむりたい。わたしは、どこへ出かけるときでもウイスキーグラスだけは、ガラス製のものを用意する。  ウイスキーの大ビンからの口飲みは、西部劇スタイルじゃないと、板につかないが、ミニチュアビンだったら、グラスなしでもけっこういける。一九六八年、北アフリカでの調査がひとかたづきしたあとリビアから、アフリカ中央部のチャドへの砂漠横断キャラバンに加わってやろうと決心したとき、わたしがまず準備をしたのは、トリポリの町の酒屋にとびこんで、ウイスキーのミニチュアビンを買いあさることであった。ミニチュアビンだったら、口飲みができて手軽だし、第一、危険の分散になる。大ビンで一本割ってしまったら、被害は甚大であるが、一ダースのミニチュアビンが一度に全部割れるような事故は、まず考えられない。また、飲み助のわたしのことである。大ビンから飲んだら、つい度をすごしてしまい、あとになってから酒がきれて、淋しい思いをしなくてはならないが、一日にミニチュアビン何本という割当てを自分に課したらだいじょうぶだ。ふだんは、一日に二本、五十キロ以上も旅程がはかどった日には、それだけ酒屋のある目的地、フォール・ラミーに近づいたのだから、割当てをオーバーして、三本飲むことを自分に許す。こんなふうにして、二十日間の旅を続けたのだった。 [#改ページ]

 
辛味入汁掛飯  軍隊用語で|辛味入汁掛飯《からみいりしるかけはん》とは、カレーライスのことである。一世代前の人は、ライスカレーと呼ぶことが多い。カレーライスとライスカレーの差異は何かということが、よく論議の対象となったが、つまるところ家庭および一膳飯屋でつくる辛味入汁掛飯がライスカレーで、レストランでたべるのが、カレーライスということであるらしい。  一世代前の人びとには、カレーライスはハイカラな洋食で、ごちそうであるという観念がある。これが、山でのごちそう、カレーライスといった現状にまで、ひきつがれるのだろう。  ところで、日本のカレーライスは、実はフランスのカレーオリとも、インドのカレーともちがった、日本独特の発達をとげた日本風洋食である。  フランス料理では、メシはカレーのそえもの程度の少量であり、盛りつけのさいカレーソースの池をめぐる堤のようにメシをあしらったりする。インド風だったらスープはさらっとしており、粉を入れてねばりをだすことはない。日本のカレーライスは、皿いっぱいのメシにトロリとしたスープをかけ、そのなかに入っている肉は、わりと少なく、そえものに、紅しょうが、福神漬、ラッキョウがつき、ウースターソースをだぶだぶとついで食ってもよろしいということになっている。  男たちがメシをつくろうとするとき、まず考える献立が、カレーライスである。山登りのパーティーや、海外での探検調査隊など、料理人のいない男ばかりの生活に参加するとなると、二日に一食は、カレーライスを食わされる破目になるのがふつうだ。  食物に無頓着な人ほど、カレーライスですまそうとする傾向があるようだ。  南太平洋で調査をしていたとき、友人の植物学者が、一人で隣りの島ヘ一週間ほどの調査旅行に出かけた。そのあと調味料を調べてみると、カレー粉がごっそりなくなっている。いったい、こんなに多量のカレー粉をなにに使うんだろうといぶかしみ、植物学者氏が帰ってきてから、たずねてみると、「あれは全部使っちゃったよ」との答え。よくよく聞いてみると、肉であれ野菜であれ、なんでもかでも、カレー汁にしてしまい、朝、昼、晩ともカレーライスで一週間暮していたという。  カレー粉の強烈なにおいと刺激性の味で、ものの味を一切消してしまい、うまいのか、まずいのかわからないたべものにしたてあげるのは、料理のめんどうな人がよくやるごまかしの手だが一週間毎食カレーで暮した剛の者は、インドで暮している人以外にあまりいないだろう。  だが、本当はカレーも、ものの味を生かす補助役のソースであるべきである。もともとカレーとは、インドのタミール語でソースを意味することば“カリ”からきているとのことだ。  世のなかには、コショウの実から、コショウがとれるように、カレーの木というものがあって、そのカレーの実をつぶすと、あの黄色い粉末ができると信じている人がいるようだ。  日本や西欧では、カレー粉といったら、罐入りや袋入りの即製品が一般的で、各食品メーカーとも、各種香辛料の調合の割合は、社外秘のものものしい処方箋になっている。しかし、インドから東南アジア、東アフリカなど、インド商人の進出している地域では、カレー粉は、好みの調合で買えるようになっている。  インド人の乾物屋の店先は、大きな袋や樽に入れた各種のトウガラシ、白コショウ、黒コショウ、ジンジャー、シナモン、丁字、ターメリック、タイム、クミン、サフラン、ニクズクなどの香料がところせましと並んでいて、刺激性のにおいでみちみちている。ここで、粉末にした各種の香料を、薬研堀の七味トウガラシよろしく、店員に調合してもらうか、あるいは、粉末になっていない香料を買ってきて、家庭で好みの割合に香料を混ぜて、石臼でつぶして粉末とする。そこで、おのおの、わが家自慢のスペシャルカレーが出来あがるわけだ。カレー粉の黄色は、おもにターメリックの色だ。ターメリックはウコンともいい、その強烈な黄色は、昔は染料にまで使われた。市販のタクワンを黄色にそめるときに使われている。好みによっては、ターメリック、サフランを入れぬ、黄色くないカレーライスもある。トウガラシの多い、赤いカレーに、お目にかかったこともある。  インドでのカレーライスのつくり方は、みたことがないので、東アフリカに多く住む、インド人商人の家庭での料理法を記しておこう。  東アフリカのインド人は、前世紀に英領植民地経営の労働者として連れてこられた者が定着したケースが多く、国を出てから三世代くらいたっているので、あるいは本場のカレーとは違っているかもしれない。  まずヒツジ肉を骨つきのまま、ブツ切りにする。日本の肉屋のカレーライス用徳用肉のごとく、サイコロのように切ってある牛肉などは使わない。肉片の一つ一つが、骨つきステーキとして、皿のまんなかで、いばった顔をして置けるくらいの大きさに切る。ジャガイモは、皮をむいただけで、けっして切らない。ニンジン、タマネギなど野菜をやたらに入れることはしない。  深い鍋に、ヒツジ肉とジャガイモを入れて煮る。味付けは塩だけ。肉が充分やわらかくなった頃、好みの香辛料をミックスして家庭でつくったカレー粉を入れる。香辛料のなかでも、一番量が多いのは、何といっても、トウガラシである。このまま、弱火で二時間くらい煮こんで、カレー汁ができ上る。長時間煮こんで、さまざまの香辛料がよくなれあって、一体となった味を出すのがコツである。ヒツジ肉のほか、皮つきのトリ肉のブツ切りも使う。ヒンズー教徒は、牛をたべないので、ビーフカレーはない。  カレーライスにするときは、メシがいるわけだが、ライスは、これはこれで独立した一皿の料理である。コメは、丁字、あるいは肉桂の香料と油を入れてたく。たべるとき丁字はそのままたべ、木片のような肉桂は、皿のはしによせておく。  カレーライスにするほか、カレーには、チャパティをそえることが多い。簡単なチャパティのつくり方は、小麦粉をよくこねて、団子状にした一塊りをとって麺棒で円盤状にのばせるだけ広げて、紙のように薄くする。フライパンに油を少量ひいて、片面に焦げ目がつくかつかぬ程度に焼く。  カレーをたべるとき、カレー汁は深い皿に入れてスプーンをそえて出す。カレーライスのときは、スプーンで、ライスの皿に好きなだけ汁をかけて、手づかみでたべる。油入りのポロポロしたメシに、さらりとしたカレー汁をかけたものを、手づかみで口に入れるのは、熟練を要する。下手をすると、口ヘもっていくまでに指の間から、メシツブがこぼれてしまう。  チャパティで、カレーをたべるときは、チャパティを引きちぎって、これを指先で折り重ね、中央の折目に人差指をさし入れて、親指と中指で両端をささえたもちかたをして、チャパティをスプーンのように使い、汁をすくいあげるようにして、口に入れるとたべやすい。肉は、骨つきの塊りのまま、むしゃぶりつく。  カレーのそえものとしては、タマネギ、ニンジン、トマトを生のまま薄切りにした小皿が出る。これに塩をかけ、ライムをしぼりこむか、酢をかけて、サラダとしてたべる。ちゃんとしたごちそうの場合には、マンゴーのピックルスがそえられる。これは、思い出しただけでも、つばのでるほど酸っぱい代物である。  ナイロビの町など都会の西洋人向けの高級カレー料理店では、カレーを注文すると、マンゴーのピックルスのほか、ココヤシの脂肪をすりおろしたもの、バナナの輪切り、タマネギ、ニンジン、トマトのみじん切り、種々の酢漬野菜など十数種のそえものを出してくれる。このなかから好みのものを小さじでとってカレーライスのうえにかけてたべる。  東アフリカのバンツー系農耕民の間でも、一種のカレーライスがある。これは、アラブ風料理の影響をうけて、最初に肉、野菜を油いためして用いる。その地方で入手できる野菜の種類によってことなるが、タマネギ、トマト、クッキング・バナナなどが用いられる。何種類かの野菜を油いためにして、つぎに肉を入れて、さらにいためる。これに水をそそぎ、塩味をつけたうえに、トウガラシの粉、その他の香料をほうりこむ。インド人のカレーのように、多種の香料をミックスすることはない。ときには、スワヒリ語でビンザリと呼ばれる市販のカレー粉を入れることもある。  肉をいためないインド風カレーは、汁にうまみが残り、最初肉をいためておく料理法では、いためられた肉の表面からエキスが逃げないので、肉のうまさが味わえる。  さて、手軽につくれるトロリとした日本風カレーの上等品のつくり方。ニンニク、ショウガなしに、とくにニンニクなしに、トロリとしたカレーのうまいものはつくれない。ニンニク、ショウガ、タマネギをみじん切りにして、深いナベを用いて、油をたっぷり使っていためる。次に、ここに、ニワトリの骨つき肉、あるいは、牛肉、ブタ肉を入れて、肉に焦げ目がつくまで焼く。肉には、あらかじめ、塩、コショウをしておく。肉が焼けてきたら、水を加え、大きく切ったジャガイモ、ニンジンを入れ、インスタントスープの素を溶かして煮こむ。できれば、これに月桂樹の葉を一枚ほうりこむ。ニンジン、ジャガイモは、肉といっしょにいためておいてもよい。  熱したフライパンに小麦粉を入れ、ハシで手早くかきまわし、狐色になり香ばしいにおいがでてきたところで火を止めて、カレー粉を加えてかきまぜ、カレー粉と、炒った小麦粉のミックスをつくる。あるいは、バターで小麦粉をいためて、火を止めてからカレー粉を入れたルーのようにしてもよい。ここに、ナベのスープを少しずつ入れて、よくかきまぜ、ツブツブができないようにしてから、またナベにもどす。  こうして、出来あがったカレー汁で気長に煮こんだあと、塩、コショウを入れて味をととのえる。粉チーズをふりこむか、固形チーズを薄く切って加えると味に深みがでる。ナベをおろすちょっと前に、カレー粉をふたたび、ぱらぱらとふりかける。インド式に強烈な香辛料を石臼でくだいて使う場合には、長く煮ても、香りがおとろえないが、機械で細かな粒子に|搗《つ》いてある市販のカレー粉を使うときには、長く煮るとどうしても気がぬけた香りになってしまう。そこで、最後にまたカレー粉を入れなおすことが大切だ。このとき、好みの辛さに仕立てあげるのだが、あなたが痔疾ではなく、また、子どもに食わせる必要がなかったら、カレーは思いっきり辛くしてたべることだ。  野外で手軽に、カレーをつくるためには、あらかじめ、カレールーを用意しておくことだ。簡単なルーのつくり方は、ラードあるいはヘットをたっぷり使って、ニンニク、ショウガをいためたうえに、小麦粉を入れ、泡立ったところヘカレー粉を入れて火を止める。また、塩、コショウをした肉をいためて、最初からルーにほうりこんでおいてもよい。動物性の油脂を使っているので、涼しい季節ならすぐかたまる。これをポリ袋にでも入れておき、いざ料理というときに、材料をスープ煮したうえに溶かしこんだらよい。  山行のときなど、長期にわたる肉の保存に、カレーを使うのもよい。塩をした肉に、カレー粉をたっぷりまぶして、多量の油でいためるというよりは、油で煮こむようにする。ときどきカレー粉をおぎなって、肉が小さく縮み、カラカラになるまで火にかけておく。このとき、カレー粉をこげつかせると、毒ガスのように刺激性の煙がでて、これにやられるとセキ、ナミダがひっきりなしにでるので御用心。火からおろしたら、紙のうえにならべて油をすいとり、半日くらい干すとよい。このようにしておいた肉は、一カ月くらいおいても味がかわらない。そのまま、つまみにかじってもよく、カレーライスにほうりこんでもよい。  カレーライスにだけカレー粉を使うのが芸じゃない。このスパイスのかたまりのようなものを上手に応用すると、いくらでも平凡な料理を、手をかえた味でたべさすことができる。たとえば、魚のムニエルをつくるとき、小麦粉にカレー粉を加えるとか、魚、貝をフライにするときに、カレー粉を小麦粉にまぶして使うとよい。  カレー粉は、皮の青い魚によくあい、その生ぐささを消す。サバの皮をむき、生ずしのようにつくったものを、酢と塩でしめておき、サラダオイルにカレー粉、化学調味料をかきまぜたものをかけて、しばらくおくと、うまいマリネードができる。  また、フレンチドレッシングにカレー粉を入れるのもよい。だいたいにおいて、西洋料理風の料理にカレー粉を使うときには、カレー粉の量をひかえ目にして、辛くするというよりは、香りをつけるためにカレーを使うようにしておいたら、まちがいがない。 [#改ページ]

 
ひとを喰ったはなし    人喰人種の迷信  アフリカやニューギニアの奥地へ行くと、いまでも人喰人種がうようよしていて、不運な探検家は、捕えられたら、釜ゆでかバーベキューにされてしまい、骨までかじられてしまうという迷信がいまでも存在する。これは、ヘルメットをかぶった探検家が焚火のうえにかけた大きな土ガメから首を出しており、その前で土人が鼻の障子に骨飾りをつきさしてヤリを持って踊っている漫画に由来することが多い。  ニューギニア高地の未探検地域で、現地人に試みに、 「あんたがた、人間を食うことがあるかね?」とぶしつけな質問をしたところ、実に軽蔑するような表情で、 「オマエさんたちは、人間を食うのかね?」  とやりかえされた。  もともと、人喰人種といわれてもしかたがないほど、人肉を日常の食卓に供する民族や部族は、世界でもきわめてまれな例であった。まじないや儀礼のために、まれにやむを得ず人間の|犠牲《いけにえ》の肉をたべねばならない場合がある部族や、宗教上の目的で、ほんの一部の者がたまに人肉をたべたことがあるだけでも、後進国の人びとはおおげさに人喰人種というレッテルをつけられてしまう。  現在の文明国の歴史をみても、人をまったくたべた者がない国民は存在しないだろう。日本でも、「日本書紀」欽明記に、飢饉のとき「人々相喰う」との記事がみえ、太平洋戦争のときを不問にふしても、西南の役のときですら、人肉をすき焼きにしてたべたことがあるらしい。イギリス人もフランス人でも、飢饉のさいや、異状嗜好の持主が人を食った話が残っている。  なんでも食ってやろうという精神が旺盛な中国人は、実によく食っている。料理法もさまざまで、人間のシチュー、乾肉、むし焼き、刺身、はては、きざんで塩とコウジにまぜ酒にひたしてツボに密閉し一種の塩辛をつくるような手のこんだこともする。孔子の弟子、子路が殺されて塩辛の材料にされたことは論語にも出ている。市場で人肉が公然と売りに出されたこともまれではない。  故桑原隲蔵博士は、「支那人間に於ける食人肉の風習」という論文で、中国での人喰いの総まとめをしている。人を喰ってやろうという者にとっては、必読の教養書である。この論文によると、八八二年から九二二年の四十年間に、「|資治通鑑《しじつがん》」一書に記録された人喰いの記事だけで、十七件に達している。だがそんな歴史があっても、文明国民を人喰人種とはよばずに、未開民族で、たまたま人肉を食った一例だけを聞いて人喰人種と呼ぶのは、未開民族にとって失敬な話である。  たとえば、わたしの知るニューギニア高地のダニ族は、決して人喰いの習慣を持っていない。それだのに、異常な状況のもとに、人間をたべたかのごとく思われる一例をもってして、ダニ族を人喰人種ときめつけ、「人喰人種の谷」と名付けられた本が、アメリカで出版されている。だが、ダニ族が人をたべているのを見た者は、誰もいないのである。  最後にまで残っていた人喰人種の名所、西ニューギニアの南海岸地方でも、一世代前に食人の風習はやんでしまった。現在の世界には、もはや、人喰人種はほとんどいない。 「食われないように気をつけろよ!」てな別れのことばを探検家に言ったら、ゲラゲラ笑われますぞ。    人喰いの理由  生物界でも、同種間のとも食いは、めったに起らない現象である。種全体としての存続を維持するのが、生物の第一の目標であるから、同種の個体間での殺しあいは、なるべくさけあうのが、生物界のルールである。このルールやぶりをして、戦争などという大量殺人をしている間は、人間は生物としては、まだまだ未完成の種であるといえるかもしれない。  戦闘でやっつけた者を全部食肉にしてしまうというのだったら、まだ戦争は意味あるものであろうが、人を殺すことは平気でいても、いざ食う段になったら、大変な抵抗感をもつのは、一体どうしたことであろう。  実際は脳活動がストップしたならば、死んだ人間の大部分は、肉であるはずだ。これを、あえて食肉とみなさないのは、人間の肉体に附着した霊魂のたたりを怖がるとかいった、死しても生前の人間活動が、人間のからだに残っているかもしれないという素朴な霊魂崇拝に負うことが大きい。  死者を食うのは、大変残酷で野蛮なことであるとする考え方が一般的である一方、ヘロドトスの「歴史」では、古代スキタイのマガーテ族では、死者を|悼《いた》むあまりに、身内の者が集まって、死体を食ってしまうとされている。  人肉をたべることに抵抗感がある以上、それでも人を食う理由は何であろうか。その動機や目的をちょっと考えると、五つのカテゴリーに分類される。  1 医療用まじない用  この場合は、人体を食品として完全利用することは少ない。身体の特定の部分のみをたべるし、料理としての味付けなどは考慮されない。業病をなおすため人の生血を飲む、生胆をとるために殺人をおかす話は、昔の伝奇小説でおなじみのところである。  中国では父母が難病にかかったとき、子どもあるいは嫁が股の肉を割いて、たべさせるのが一番の療法とされていた。自分の肉を切って父母に勧めるのは、孝行の最高のものとされ、このような孝子には、お上の表彰があった。  ところが、われもわれもと親に自分の肉を食わせては、売名をしようという者が出たので、明、清代には、そんなことをしても賞はやらないぞという禁令を出さなくてはならなかった。  この場合は、股肉の一部をそぎ取るだけなので、生命に別状ない。  2 宗教的意味から  神にささげる最大の犠牲として人間を殺し、神と共食することによって、神と人間のコミュニケーションを行なう。つまり、動物犠牲のうちの最高のものとして、人を殺して食う。あるいは、人をたべることによって、死者が生前もっていた霊魂や力を食った者にのりうつらせようとする目的。メラネシアでは、超自然的な力を獲得しようとおもって、戦争のあと特に敵の勇士や酋長の肉がたべられた。トラファルガーの海戦のあと、ネルソンの遺体がくさらぬように、ラム酒の樽に入れておいた所、水兵達が遺骸を漬けた酒を皆飲んでしまったという話も、似たような動機のものであろう。  3 復讐、憎しみのあまりにたべる  フィジー島では、「オマエを食っちまうぞ!」ということばが、最大のにくまれ口であった。漢文では|敵愾《てきがい》心をあらわす文章に、「彼の肉を食わん」という表現がたびたびある。  憎いヤツの肉を食ってしまった話は、歴史にもあらわれるところである。「続十八史略」でも、明代に、李自成が洛陽を攻めて陥落させたとき、福王常洵を殺し、王の肉を鹿肉とまぜて煮て、この料理に福禄食という語呂あわせの名まえをつけて、食っちまったことがでている。また、たべないにしろ、敵将の頭蓋骨を酒杯に使う話は、日本の戦国時代にもある。マゼランの航海記によると、ブラジルのある部族は、敵の肉を一族の間で分配し、各自一塊ずつ切りとって家にもち帰り燻製にする。そして仇敵のことを忘れないため、これから一切れずつ切りとって、八日目ごとにほかの食物といっしょに焼いてたべたという。  また逆に、愛するあまりたべちまったということもある。「あなたをたべちゃいたいほどかわいいの」といわれたら御用心。  4 蛋白源として  大飢饉や城が敵軍にかこまれたり、難船漂流のときなど食物に困ったさいに、人を食った例は、いくらでもある。この段階ではじめて人肉は食品として認められる。また、東ニューギニアのクククク族の食人の理由の一部は、かれらは動物蛋白源を人間にたよらざるを得ない状態にあるからだという。  5 嗜好品として  さまざまな理由で人の肉の味をおぼえると、禁断の味だけに、人肉に対する異常嗜好がおこり、人を食わないと気がすまないということになる。次にのべるフィジー諸島での、十九世紀初頭における食人は、人肉に対する異状嗜好の流行を示す例である。    人間の料理法  太平洋で食人のもっとも盛んであったのは、ニューギニア、ソロモン群島、ニューヘブリデス諸島、フィジー諸島などのメラネシアである。さきにのべたように人間にのりうつった超自然力に対する畏敬の念が強いこと、この地方に盛んな祖先崇拝や、秘密結社の儀礼に人間犠牲がむすびつくこと、さらには、ブタおよびイヌのほかの家畜がなく、漁撈のできる海岸民のほかは、動物性蛋白資源にとぼしいことなども原因となって、メラネシアが食人の本場となったのである。  メラネシアのなかでも、とくに人喰いの盛んであったのは、フィジー諸島である。フィジーでは、人肉に対する異常嗜好が集団的現象としておこった。儀礼や宗教的な理由のために、人肉をたべるというよりも、食うために人を殺したのである。  しかし、フィジーで人肉嗜好が盛んになったのは、フィジー人が殺伐であったというよりも、ヨーロッパ人と接触してからあとの大きな社会変動の結果である。  太平洋に探検家がのりだしたあと、続いてこの新たな海域を荒しまわったのは、捕鯨船と商船であった。いずれにしろ、海賊と大して変らないような|一攫《いつかく》千金をもくろむ連中のことである。酒と鉄の道具でもって原住民をたぶらかし、鉄砲でもっておどかす。なかには、現地の大酋長に鉄砲を多量に売りつける者もあらわれるし、脱走水兵たちが、数挺の鉄砲でもって、一つの島を乗っ取るようなこともおこる。  石器を使用していた人びとの間に、酒と鉄砲が移入されると、紛争が絶え間なく起り、しかも大量殺人が可能となる。また、紛争のかげには、利権をめあての白人のあとおしがある。ヨーロッパの国家が、部族間戦争の当事者の一方に力をかして、軍隊を送って島民をたくさん殺してしまったりする。また、抵抗力のない新たな伝染病が、白人からもたらされる。太平洋諸島のどこでも、白人と接触してから急激な人口の減少がみられる。  荒くれ男たちがさんざん悪いことをしたあとになって、宣教師がやってくる。そして、自分たちの同類が教えた酒を禁止したり、何も悪事をしているとは考えていない人びとに、「悔い改めよ」と説いてまわる。裸が恥かしいと思ってみたこともなかった原住民に、着物を着せてまわっては、結果的には、白人商人のお先棒をかつぐこととなる。おこった現地人が、もののはずみで宣教師を殺したりしたならば、さあーしめたものだ。白人の背後にある国家から、軍艦が派遣され、膨大な額の賠償金をよこせとせまってくる。貨幣経済を知らなかった島民たちには、とうてい賠償は不可能である。すると、金のかわりに土地を割譲させる。このようにして、十九世紀末までに、トンガ諸島をのぞいた全太平洋諸島が植民地とされてしまった。  フィジー諸島は、南太平洋の航海路のカナメのような場所に位置するために、白人との接触による社会変動が特にいちじるしかった。十九世紀初頭になると、かつて島を政治、宗教の両面から支配していた王制も、名目だけのものとなり、各地の大酋長が、てんでに内戦をはじめる。酋長たちの顧問役として、ならず者の白人たちがついては、鉄砲でもって加勢する。  こんな状態のもとで、十九世紀初頭に、フィジーでの人肉嗜好は頂点に達した。一八四〇年に死んだウンドリウンドリ大酋長は、同僚のワンガレブ酋長とともに、人間一人をたべたら石を一個置いて心覚えにした。酋長をたべたときは、大きな石、庶民をたべたときには小さな石を置いて、石の列をつくった。これらの石を後に白人が数えたら、八百七十二個あったそうだ。ウンドリウンドリ大酋長は、食いきれないほど死体が手に入ったときは、人間の塩漬にして保存したという。  また、ある白人の記録によると、フィジーのマティバタ王は、人間のローストが出来あがるのを待ちかねて、鼻先だけ三つ切りとらせて、焼石のうえにおいて手ずから焼きはじめたという。最初の二切れは、むちゅうでむさぼり、三切れ目に手をのばしかけたとき、筆者と目があって大いにまごつきながら、 「あなたがいらっしゃるのが目にとまりませんで、お先に失礼いたしました。でも、このほうがよく焼けていますよ」  といって、しぶしぶ三切れ目の焼肉をさしだして、たべるようたのんだという。  このころフィジーのことわざに、「どんな親友であっても、二人っきりで山のなかへ行くな。帰りは一人だけになってしまう」というのがある。一人は腹のなかへおさめられてしまうからだ。  フィジーの庶民は、昔は人肉をたべなかったという。王や酋長にしか許されなかった食物である人肉が、鉄砲を使用する内戦がさかんに行なわれるようになった十九世紀になってから、死者が沢山でて、庶民の口にも、人間の肉が入るようになった。それまでの戦争は、棍棒によるなぐり合いであった。  さて、フィジーでの人間の料理法を、少しくわしく書いてみよう。  材料の入手  中国では、市場で人肉を切り売りしていたこともあるが、商業や貨幣経済が発達していなかったフィジーのこと、買物に出かける訳にはいかなかった。  材料を入手する一番の機会は戦争であった。遠い部落へ攻めていった大きなカヌーに死体を満載してもどってきては、大宴会が開かれたという。また、捕虜として、生きたまま自分の部落へ連れてきて、しばらく太らせたのちに殺すこともあった。戦争がないときには、遠い部落と談合して、食用の人間を送らせたりしたという。 「オレは人間を数えきれないほど食ったことがあるぞ!」というのが、誇りであり、人をたべることで酋長は、近隣の部族や部下たちをおそれさせ、従わせていた。そこで、食用の人肉を常に供給できるよう酋長たちはいつも気にかけていたという。  難破船の漂着者も、料理の材料とされた。フィジーでは、よそ者が漂着してくると、かならず殺してしまう習慣があった。昔、漂着者を大事にしてやって、自分たちと同じように取りあつかって部落に住まわせたところ、図にのってよそ者たちがクーデターを起して、酋長を殺し、その妻をうばったことがあるという。また、よそ者によって伝染病がもたらされたりした。以後、よその島の者が流れついたら、殺してたべることになったそうだ。  だいたいにおいて、食用に供する人間は遠い部落の住民とか、敵にあたる者が多かった。しかし、なかには、自分の妻たちのうちから一番の悪妻を一人殺して身体の半分を食ってしまい、食い残りの部分を家の前の木からぶらさげて、他の妻たちへの見せしめにした、あっぱれな亭主もいたという。  よい肉のみわけかた  子どもの肉が一番うまい。酋長の最上のごちそうは、子どものローストである。女の肉のほうが、男よりもやわらかくておいしい。白人の肉は、塩からく、タバコのヤニくさくて、まずい。白人の船の下級船員によくやとわれていた中国人の肉は白人にくらべたらましだそうだ。一番うまいのは、フィジー人の肉である。  人体で一番うまい部分は、ヒジと肩のあいだと、腰と膝のあいだの肉である。ニワトリの手羽肉と股肉がうまいのと同じだ。  人間の肉だけは、新鮮さがたっとばれない。むしろ、くさりかかったものが好まれた。遠い戦場から何日もかかって運んできて、緑色っぽく変色して、形のくずれかかった死体も平気でたべた。腐ってくずれた人肉は、タロイモの葉に包んでむしてプディングにしてたべた。  したごしらえ  フィジーの首都、ヴィティレブ島のスバの町の博物館の入口に、キリング・ストーン(殺し石)なるものが置いてある。人の肩の高さをした、ずん胴の石柱だ。この石柱のてっぺんに、人の顔面がすっぽりとうずまるくらいのくぼみがある。このくぼみのまわりには、黒ずんで古いよごれが附着している。  博物館所蔵の石器の調査に、二週間通ううちに、仲よしになった現地人の館員が、わたしの肩をおさえて、顔をくぼみにおしあて、後頭部を棍棒でなぐるまねをして、「オレの先祖は、こうやって殺したヤツを食ってしまったんだぜ」と、オーストラリアなまりの英語で教えてくれた。  捕虜を殺すまえには、食物を沢山つめこませて、肉をつけてから料理する。タロイモ、ヤムイモなどのデンプン質で太りやすい食品が主食の島のことだ。閉じこめて、運動をさせずに、ブロイラーのように食えるだけ食わして太らせる。捕虜のなかから、今日はどいつをたべてやろうと選択するとき、クシャミをした者はたべない。クシャミをするのは、臆病者のしるしであり、臆病者の肉は、たべなかったのだそうだ。  また、病死した者の肉もたべない。食用に供するのは、殺した者に限る。  死体として運んできた肉、あるいは料理寸前に殺した材料を使うのがふつうである。ときには、捕虜に日本でいう正座の姿勢をとらせたまま、がんじがらめにしばりつけ、生きたままバーベキューにする場合もあった。この場合には、下ごしらえは不要である。 「七人が殺されて、七頭のブタと化した」という表現からもうかがわれるように、人間は殺された瞬間から、食肉とみなされた。  さて、料理の下ごしらえは、毛焼きからはじまる。焚火のうえに死体をかざして、前後にずらし、うらがえしをして、体毛をすっかり焼きとる。そのあと、鋭い貝殻の腹縁部でもって、体の表面をこそいで、つるつるにしてしまう。ときには、皮つきのままでは料理せず、皮膚をすっかり剥いで、下ごしらえとする。  表面をきれいにととのえたのち、腹を裂いて、ワタぬきをする。頭部も切り落すことが多い。ふつう臓物、頭はたべずに捨ててしまう。ただ心臓、肝臓は、土中に埋めて保存食としておき、掘りおこしてたべた。  土ガメで煮る場合には、手足をばらして、カメのなかにおさまるようにする。竹のナイフあるいは貝殻でもって関節部から切りはなして、上膊、下膊、上腿、下腿と胴体の五つの部分にばらばらにして、下ごしらえはおしまいとなる。手首、足首から先の部分はちょん切ってしまう。  料理法  人間の料理技法には、三種類ある。ボイル(煮ること)、グリル(焼肉)、ロースト(むし焼き)であり、フィジーでは生食はしなかったようである。  フィジー諸島では、金属製のナベを使いだすまえは、土器の壺、カメで食物を煮ていた。フィジーの土器は素焼きであるが、さまざまの器形に富み、装飾も豊かで、メラネシアの土器文化のもっとも発達した段階をしめしている。焼きあがった土器に余熱の残っているうちに、樹脂の塊りで土器の表面をこすると、熱で溶けた樹脂が、ラッカーをぬったように器体の表面をおおう。そこで、土器は赤褐色に光沢をはなち、まるで|釉薬《うわぐすり》をかけたような効果をしめす。  炊事用具として土器を使用するときには、砲弾状の形をした厚手の素焼きの台を三つ、五徳のようにならべ、このうえに土器の底をのせ、したから火をたく。フィジーの博物館には、高さが一メートルはある大形の煮沸用の壺やカメがならんでいるが、このような土器で、人間も料理したことであろう。  人間料理にかかせないそえものとして、ボコラ、マラワシ、ボラディナの三種類の木の葉がある。始めの二種は野生の木であるが、ボラディナは栽培植物であり、ボラディナの植えてある場所で、よく人間が料理されたという。人間の肉を、そのままたべると、むかつきをおぼえたり、食後二、三日間便秘をするという。この三種の木の葉をそえて料理をしたら、消化がよいそうだ。  さて、人肉をボイルするときは、これらの野菜と解体した身体を土器のなかに長時間入れて煮る。土器のフタには、タロイモなどの大きな葉をかぶせて、しばっておく。煮えたぎって土器から湯気の音がしてくると、「亡霊がナベのなかで口笛をふいてやがる」と表現したそうだ。肉がよく煮えて縮みあがって、バラバラにした手足のはしの骨がぬけるまで火にかける。こうすると、肉から骨を容易にはずすことができるのは、かしわの水たきでも、御承知のことだろう。  グリルは、焚火のうえにかざす、あるいは焼石のうえに置いてつくる。人間のバーベキューだ。 「オレは生焼き」「メディアムにしてくれ」とかいろいろ好みによって、うるさい注文がでたことであろう。  ローストは、南太平洋独自の石むし料理方法でなされる。地面に大きな穴を掘る。穴のなかに焚火のなかで真赤に焼けた石ころをしきつめて、このうえをバナナ、タロイモなどの葉でおおう。このうえに人間をのせて、葉をまた何重にもかぶせて、焼石をのせ、そのうえに土をかぶせて、熱が逃げないようにする。いってみたならば、地面と焼石を利用して、巨大なオーブンをつくり、このなかで人間の包み焼きをするのだ。  ブタの丸焼きでも、早くて三時間はかかるのだから、人間のローストは半日はたっぷりかかるであろう。一日かかってローストをつくり、翌日になってから、人間をコールドミートにしてたべているのをみたという記録もある。また人間が生焼けのまま、ハーフローストでとりあげると保存用によいとされたそうだ。  人間の姿焼きも、ローストの方法でつくられた。これは五体そろったまま、ワタぬきだけをして、からっぽになった腹のなかに焼石をつめて、ローストにする。こんがり焼けた人体をとりだしたら、これに衣裳をつけ、頭にはカツラをのせ、顔は赤く顔料でぬりたくり、手には棍棒を持たせ、生ける戦士のようなかっこうをさせる。このようにした人間の姿焼きは、特に友人へのプレゼントとして用いられた。姿焼きにした人間をかついで通るときなどは、生きている人間と見間違うほどであったという。  たべかた  宗教的意味をもって人間をたべた昔の習慣が尾を引いて、十九世紀になっても、人間を口にするまえには、司祭の長ったらしいお祈りを聞かねばならないこともあったようだ。ほかの食物は手づかみなのに、人間を食べるときだけは、三叉あるいは四叉のフォークを使用した。フォークは木または人骨でつくられる。人肉を手づかみでたべると、皮膚病にかかると信じられていた。フィジーの博物館には、人喰用のフォークが飾ってある。  南太平洋の宴会の常として、ごちそうのまえにまず坐るのは、酋長クラスの者で、かれらが一番うまい部分をたべてしまう。一番えらい人びとが退席したあとに、次の位の高い者たちが座についてたべる。そこで、庶民は、あとで人間の骨をしゃぶることが多かったようだ。もう食うところがなくなった骨は、木の枝からぶらさげられたという。  人肉の味は、ブタに似て、もっとうまいといわれた。「人の肉のようにやわらかい」というのは、フィジー人にとって、よく料理された食物への最大の賛辞とされていた。なお、使われた調味料は塩だけである。 [#改ページ]

 
人はどれだけたべるか    大酒、大食いコンクール  ひとは一昼夜に何回、息をするかごぞんじかな。ムジナとタヌキの区別は御承知だろうか。一つの胴体の両端におのおの頭のある蛇の絵をみたことは?  文政八年に、新潟県で井戸を掘ったところ、石油を掘りあててしまった。これを見物しにきた、ヤギヒゲをしたヒゲ医者というあだ名のお医者さんが、チョウチンをさし出したとたんに、石油に引火して、自慢のヒゲをもやしてしまったことからはじまる油田の火事騒動を聞いたことがおありだろうか。  こんなことを知りたかったら、「兎園小説」をごらん下さい。たとえば、息の数については、古来、一昼夜に一万三千五百回という説から、三万六千五百回という説まである。しかしながら筆者が、五人について実験したところによると、一番息の長い人で、一万八千六百回、一番息の短い人で、三万四千七百四回であるといった工合に書かれている。本文には、もっとくわしいデータが列挙されている。 「ものの本」とはどんなものであるかを知りたかったら、「兎園小説」を一見することだ。滝沢馬琴、山崎北峯などが発起人になって、当時の文化人十二人が正会員のクラブをつくり、文政八年(一八二五年)の正月から十二月まで、毎月一回例会を開いたときの記事を編集したのが「兎園小説」だ。クラブ例会には、会員各自が見聞した珍しい出来事や、風俗、あるいは考証学的論文を各々筆記して持ちより、席上読みあげて発表しあった。いまなら、さしずめ、ディレッタント学会のレジメ集とでもいうべきものが「兎園小説」である。 「兎園小説」第十二集というと、十二月例会に発表された記事であるが、これに江戸でおこなわれた、大酒飲み、大食いの競技会の記録がある。  文化十四年(一八一七年)の三月二十三日、両国の柳橋にある|万《よろず》屋八郎兵衛方、略して万八楼で大酒大食いの会が催された。このときのレコードから、めぼしいものをひろいあげてみよう。  まず、酒組から。  チャンピオンは、芝の鯉屋利兵衛さん。年齢三十歳。三升入りのサカズキで六杯半というから、一斗九升五合を飲みほしたことになる。飲み終ったとたんその場に倒れたというから、壮烈な飲みっぷりだ。そのまま長い間寝こんだのち、目をさましてから、酔いざめの水を、茶碗で十七杯飲んだとのこと、二位が一斗五合だから、よほどの開きがある。  三位の金杉の伊勢屋伝兵衛さん四十七歳は、三合入りのサカズキで、二十七杯だから、八升一合だ。一位、二位が飲み終ったらひっくりかえったのに対して、伝兵衛さんはなかなかしっかりしている。酒を飲んだあと、メシを三杯食い、茶を九杯のんでから、いい気持になって、甚句を踊ったという。  酒量はそれほどでもないが、酒品のよいのは、山の手の六十三歳のサムライだ。藩中之人とだけ記されているのは、姓名を公けにするのをはばかったからに相違あるまい。一升入りのサカズキで四杯ほど飲んだあと、東西の謡をうたい、一礼して直ちに帰る、とある。  そのほか、二、三升の酒を飲みほした者は三、四十人ほどあるが、ものの数には入らないので記録せずとある。  菓子組の方はというと、八丁堀の伊予屋清兵衛さん六十五歳は、マンジュウ三十個、鶯餅八十個、松風センベイ三十枚をたべたうえに、タクアンをまるのまま五本かじったそうだ。御老体なのに丈夫な歯をしていたとみえる。  麹町の佐野屋彦四郎さん二十八歳は、米マンジュウ五十個、鹿の子餅百個をお茶五杯でたべた。  丸山片町の安達屋新さん四十五歳は、今坂餅三十個、センベイ二百枚、梅干一壺、茶を十七杯、の記録だ。五つ子の母親の|悪阻《つわり》でも、これだけの梅干をたべることはまずあるまい。  大メシ喰いコンクールの部では、普通の茶漬茶碗によそったメシを何杯たべられるかということで判定がなされた。オカズは万年味噌と、香のものだけで、お茶漬にして流しこむこともよしとされた。  横綱格になったのが、三河島の三右衛門さん四十一歳で、メシを六十八杯、スペシャルオーダーのオカズとして醤油二合でたべた。  第二位が、浅草の和泉屋吉蔵さんで、七十三歳のお年寄のくせに、からいものが大好きで、トウガラシ五十八個をオカズに、五十四杯たいらげた。  第三位の小日向の上総屋蔵平衛さん四十九歳は、メシを四十七杯。  その後、十四年たった天保二年(一八三一年)九月五日にも、天保大食会として知られるコンクールが行なわれた。会場は前会と同じく万八楼。参加者百六十二名、会場受付で住所、氏名、年齢、職業を記入したうえ、次の間に通ると、ここで第一次予選が行なわれる。飯一合五勺入りの茶碗山盛りにしたメシ十五杯を味噌汁五杯でたいらげて、予選をパスしたのち、競技に出場することとなる。出席者は全員予選通過。本番の大食コンクールは、自由形で好きなものをたべられる。選手一同を円形にならべて、記録係三人、審判係三人、計算係三人を前にして、一同たべるわたべるわ。この時の大食記録保侍者を何人かひろいあげてみよう。  テンプラ三百五十個(ただし、四文揚とあるがどのくらいの大きさかは、わたしにはわからない)    新庄主殿家来  田村彦之助  大福餅三百四十個    永井肥前守家来  辻貞叔  丼飯十八杯    追手風弟子  宮戸川新蔵    とあるのは相撲とりだろう。  変ったところでは、  梅干二樽    深川霊岸寺前石職  京屋多七    このときの一樽は三百個入りとある。  タクアン二十本    葛西村百姓  藤十郎  ミカン五百五個    桜田備前町料理屋  太田屋嘉兵衛  油揚げ百五十枚    下谷御成道  建具屋金八  トウガラシ三把(但し一把七、八十房ある)    神田小柳町車力  徳之助  醤油一升八合    谷中水茶屋  神屋伊兵衛    これはたいしたものだ。ふつうの人なら醤油を一升も飲むと一命にかかわる。  塩三合    清水家家来  金山半三郎  生豆三合水一升    両国芸人  松井源水    腹のなかでふくらまそうという魂胆だ。  前回にくらべると、全体に記録がのびているようだ。    食事の回数  ニシキヘビなど一度にカモシカ一頭を丸のみして、あと何十日も食わずにとぐろをまいているということだが、もし、人間も食いだめが可能だったら、さしずめ給料日に、一カ月分を腹につめこんで後顧のうれいをなくするのだが……そのかわりに、おそらくは、料理の発達も、味を楽しむ習慣もなく、食物はエサとしての意味しかもたぬものになってしまったであろう。  人間の消化器官は、毎日食事をとらなくてはいけないように出来ている。日々の|糧《かて》をいかにして得ることができるか、という問題をめぐって展開してきたドラマが、人類史の主流なのである。もし、途方もない食いだめができたら、人類の進歩もなかったかもしれないのである。  人間は、毎日食わねばならないが、一日に何度食わねばならないといったことはない。腹に食物を長時間ためることができぬ乳呑児であっても、別に一日何回乳を飲ませなくてはいけないということはない。乳児には、一日七回哺乳すべきだ、いや五回だとかいって大騒ぎをしている育児ママをよそ目に、子どもは育っていくものである。たいてい、赤ん坊はオッパイが欲しくなったら泣くものであり、授乳時間の間隔を一定にしたら、その間は腹がもつだけの量を吸いとるものである。そのうちに、赤ん坊が大きくなるにしたがい、授乳時間の間隔が長くなり、乳以外の食品も与えられるようになって、いつの間にか一日三食で済ますようにしたてあげられる。してみると、われわれが一日三回食事をとるのも、学習の結果である。文化とは学習によって伝達されるものという、文化の定義の一つの側面によれば、一日の食事回数は、文化によってさだまるといえよう。  さきにのべた、東アフリカ狩猟採集民のハツァピ族では、一日の食事の回数、食事の時間はきまっていない。いつでも、食物が手に入った時、たべられるだけたべるのである。そして、腹がへったら、またたべるのだ。  だが、狩猟、採集の生活は、いちじるしく不安定なものである。獲物が獲れないとき、ハチミツや果実がみつからなかった場合は、食物を求めて二日も三日も空き腹をかかえて、サバンナのなかを放浪してまわるのだ。  潜在的飢餓状態にあるかれらは、大変な大食いでもある。  わたしが、ハツァピ族のなかで暮していたときのことである。ある朝、集落の長老夫婦とその息子夫婦が連れだって、毒矢の毒つくりに山へ行ってから二日も帰って来なかったことがあった。毒つくりとは、毒の木を伐って、なかのパルプ質に含まれる樹液をしぼり出して、これをぐつぐつ煮つめて、コールタール状の毒をつくるのだ。  毒の木のそばで一泊くらいして毒つくりをすることもあるが、二日も帰ってこないのはおかしいと、人々も少々心配しはじめた。  三日目になって、長老のジイサンを先頭に、大きくふくらんだ腹をなでながら、ようやく四人がもどってきた。あとに従う息子は、肩に、シマウマのモモ肉の十キロくらいの塊りをかついでいる。  話を聞いてみると、毒の木の生えている山奥へ行く道すがら、シマウマの群れに出会ったので、息子が近寄って毒矢で一頭たおしたとのこと。そこで、もう毒つくりに行くのはよしにして、シマウマを殺した場所に野宿することとした。三日間、シマウマの肉を食いあきたら寝て、起きたらまた食って巨大な肉塊と格闘していた。とうとう四人で食い尽しかけたので、ようやく腰をあげ、集落への土産の一塊りを持って帰ってきたとのこと。  わたしたちの仲間で、ハツァピ族を二年間調査していた、富田浩造さんは、ライフルの名手である。かれが村人にたのまれて、畑荒しをするカバを一頭倒したら、うわさを聞いて、ハツァピ族が八人集まってきて、カバの肉にとりついたという。そして、三日間食い続けに食って、二トンもあるカバを骨だけにしてしまったそうだ。  おすそ分けにあずかったシマウマのモモ肉は、大変やわらかく、馬肉のようなクセもない。ハツァピ流に焚火の煙くさい焼肉にしてよし、塩、コショウをして、ステーキによし、ハツァピ族同様、肉にうえていたわたしには、最上のごちそうだった。  世界の多くの場所で、近世になるまで、一日、二回の食事が普通であった。  中世のことわざでは、「天使は日に一度だけ、人間は二度、動物は三度かそれ以上食事をする必要がある」といったそうだ。天使が食事をするというのは、はじめて知ったことであるが、天使の献立というのは、なんであるかを、多くの人に訊ねたが、いまだもってわからない。  日本では|朝餉《あさげ》、夕餉の二回が正式の食事であった。もっとも、職人など重労働に従っていた者は、昼もたべたとみえるらしく、清少納言は、大工が|中食《ちゆうじき》をしているのをみて、さもさもめずらしげに、「たくみの物くふことこそいとあやしけれ」と書いている。  現在では、食事は一日三度で、オカズも多いので、都会の人間の一食に消費する米は一合が標準とされるが、江戸時代には、ところによっては二合五勺入りの升が米びつにそえられ、これが一人一回のメシの標準量とされていたという。武士の社会でサラリーの単位となる一人扶持とは、一日五合の|扶持《ふち》米を給与することにあった。この五合を朝夕二回にわけて、二合五勺ずつ食べた前代の名残りが、江戸時代にも伝えられたのであろう。  民俗学の教えるところによると、現在でも田畑へ持って出てたべる昼食をヒルマと呼ぶ地方があるという。もともとは、田植えなど特別な日に、戸外へもっていってたべた昼食が、日常の生活のリズムに定着して、ヒルメシとして、家のなかでたべる食事となったのであろう。  日本人が、日に三回食事をするようになったのは江戸時代からのことである。 [#改ページ]

 
あ と が き  わたしにとって、料理をつくることは、遊びにすぎない。たべるために生きている人間ではないのである。また、料理の専門家でもない。わたしの本業は、あくまでも野外科学であり、人類学である。  自分の表芸のことを書くならともかく、遊びでしてきたことを本にするのは大いに気がひけることである。遊びとしても、たいした修業をしていないことである。師匠についたことも、料理学校へ通ったこともない。必要にせまられて、見よう見まねで庖丁をふるってきただけのことである。人前にだすには、たいへん恥かしい技量なのである。  ただ、わたしたち野外科学や探検のような仕事をめざしている人間のとりえは、柔軟なあたまをしているということにある。鉄砲がなかったら、木を伐って弓矢をつくって代用するのである。クッキング・ブックどおりの材料がなかったら、料理ができないのでは困るのである。あるものを工夫して、なんとかそれらしいものをつくるのである。  こんなわたしの野戦料理でも、アフリカくんだりへ行くと、たいへんよろこんでくれる人びとがいる。アフリカあたりで働いている日本の技術者や商社の駐在員は、たいてい単身で赴任している。台所つきの部屋を借りて自炊したり、召使いに食事をつくらせている人もおおい。聞いてみると、献立のレパートリーは数種類以上にのぼることはまずない。毎日のように同じ料理をつくるか、メシだけたいて罐詰をオカズに食事をするのである。あるいは、自炊してもうまいものをつくれないと、はじめからあきらめて、ホテル住いをして、レストランで洋食をたべては、生活費が高くつくとこぼしている人。いずれにしても、みな食事に大変な不満を持っているのである。  これらの人びとに「アフリカ・チョンガーのための料理読本」を書いてくれと要請をうけたことがある。もちろん酒のうえのはなしだ。きっと書きますとも、と安うけあいをしたが、さまざまないきさつがあって、本当に書かねばならない破目になってしまった。  はじめは、具体的な料理のつくりかたを書くつもりだった。たとえば、世界じゅうどこでも手に入る食品のひとつ、コンビーフを使った独創的料理三十五種類とかいったたぐいの実用記事である。ところが、どうも書き手としては、いっこうにおもしろくない。料理学校の先生役なんぞつまらない。読まされる側としても、つまらないにちがいない。そこで、アフリカ・チョンガーたちには申しわけないが、勝手気ままなエッセーをならべた本にすることとした。  じつは、どんなに立派なクッキング・ブックでも、そのまま役に立つことはまれなのである。材料がそろわなかったり、道具がなかったりして、本のとおりの料理をつくれる状態にあることは、日本にいても、まれなことに属するのだ。クッキング・ブックはヒントを得るためにながめたらいいものだ。ましてや、海外で生活している独身男性の台所にクッキング・ブックどおりのごちそうをつくるおぜんだてがそろっているはずはない。  本文にも書いておいたように、料理上手になる秘訣は、食物に対する意欲と創意、工夫をもつことである。意欲、創意、工夫、これらは、男が女に優っている資質である。女の料理はだいたいにおいて、教条主義的である。女はクッキング・ブックどおりにしかつくれないのである。クッキング・ブックが通用しない場所でうまいものを工夫してつくりだすこと、これが男の腕のみせどころである。  ただ、料理にも心得ておくべきいくつかの原則がある。たとえば、日本料理では魚は皮から焼き、ニワトリは身から焼くといった工合のことがらである。これら技法の原則を参照する目的と料理のレパートリーをひろげるためのヒント集として、クッキング・ブックも一冊持っていたほうがよい。ただし、高い料理全集のたぐいのものを買う必要はない。婦人雑誌のフロクでじゅうぶんである。  この本を書いているうちに、わたしは自分の本業である人類学の立場から、料理や食事を考えてみることが、さまざまの文化や社会を理解するための大変有効な手段になることに気がついた。その研究方法にはさまざまのやりかたがあるが、いまわたしが考えているのは、料理の名称や台所用品の名称を手がかりとして研究していく方法である。たとえば、日本料理では、鍋ものと、汁ものと、煮もののちがいはどこにあるかということを、具体的な料理名について意味論的な分析をして、相違点をあきらかにするのである。同じような操作を日本料理の他のカテゴリーについてもおこなう。そのうえで、分析し抽象化された料理についての概念群を再構成してみる。すると、日本料理という体系のパターンをはっきりさせることができるであろう。いわゆる、コンポネンシアル・アナリシスという手法である。  おなじことをスワヒリの料理の名称についておこなったら、別のパターンになるかもしれない。このパターンのちがいは、日本文化とスワヒリ文化の相違の一部を形にして示すものである。同様に、東北と九州の地方文化のちがいを、料理の名称を手がかりに、示すことも可能であろう。  文化の相違というようなことは、感覚的にのべたり、歴史的に説明されるが、はっきりした形のうえで比較することがなかなかむずかしい。食事という行為は、世界じゅう普遍的な現象であって、しかも調査のやりやすいことがらである。そこで、文化の比較研究などには、もってこいの手段となり得る。料理人類学という分野を開拓してみてもよさそうだ。  この本にあらわれた、いくつかの地域でのわたしたちの調査については、一般むきの報告書がでているものがある。その代表的なものをあげておく。 藪内芳彦「トンガ王国探検記」角川新書 一九六三年 本多勝一、藤木高嶺「ニューギニア高地人」朝日新聞社 一九六四年 今西錦司、梅棹忠夫編「アフリカ社会の研究」西村書店 一九六八年 山下孝介編「大サハラ」講談社 一九六九年  一九六九年四月 [#地付き]石 毛 直 道 ・本書に登場する方々の肩書は執筆当時のものである。 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     食生活を探検する     二〇〇一年八月二十日 第一版     著 者 石毛直道     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Naomichi Ishige 2001     bb010802