目次 青春の蹉《さ》跌《てつ》 解説(青山光二) 青春の蹉《さ》跌《てつ》 一  裏街の小さな居酒屋の、土間に置いたテーブルを囲んで、彼《かれ》等《ら》はいつものように安い酒を飲みながら、三時間以上も議論をした。そういう店が居心地のいい場所であったし、そして彼等には(身分相応)でもあった。四人とも法律を勉強している大学生で、理《り》窟《くつ》っぽい青年たちだった。だから彼等のはてしない議論はほとんど抽象的で、観念的だった。社会がどうの、政治がどうの、そしてまた人生がどうの、革命がどうの……。  議論の根柢《こんてい》にある想念は、青春の明るい希望にみちたものではなくて、むしろ絶望的なものだった。三《み》宅《やけ》は左翼学生であったから、来たるべき革命の日を、情熱をこめて語っていた。けれども革命を待望する彼の気持は、現在の社会に対する絶望にほかならなかった。未来の革命を信じるよりほかには、今日を生きることの意味がなかったのだ。  とにかく資本主義を倒すことだ。そのためには革命的青年を育成しなくてはならない。つまり社会革命の前に、まず人間革命が必要なんだ。  人間革命は誰《だれ》がやるんだ。  それは教育だ。教育だけしか無い。  その教育は現在の資本主義政治のもとで行われることになる。従って強権の弾圧も当然覚悟しなくてはならない。  人間革命はいつになったら出来あがるんだ。二十年か。三十年か。もっとかかるだろう。簡単なことじゃない。  では五十年か。つまり俺《おれ》たちが生きている間には革命はおこらないわけだ。資本主義がそれまで続いて行く。死んだあとで革命がおきて立派な共産社会ができたにしても、それは吾々《われわれ》とは関係ない。  関係はあるさ。吾々が革命の基礎を造っておいてやるんだ。おれたちがやらなかったら、誰もやる者はない。  僕《ぼく》は本質的なところで疑問をもっている。ロシヤ革命の実例を見ても、共産社会というものは人間性を無視している。反自然的で反人間的だ。自由の否定、私有財産の否定……。  人間性などというものは一定不変のものじゃないよ。だから人間革命が必要なんだ。  言葉、言葉、言葉……。言葉だけがからまわりしていた。現実の社会はまだ彼等から遠いところにある。彼等は本を読み、人の話を聞き、頭で考えて、社会と革命とを手探りしているのだった。革命の流血も混乱も、人民の苦難も、観念的な一つの美として感じられているばかりだった。殊《こと》に左翼学生三宅の頭の中では、戦争を描いた大きな壁画が一つの美術品であるように、革命のなかに巨大なそして惨酷《ざんこく》な美を幻想していたようであった。  革命によっておれたち《・・・・》の新しい社会を造るのだと、三宅は言った。現在の社会は(おれたち)のものではなくて、他人の社会として感じられているのだった。彼は他人の社会で生きている居心地の悪さに、腹を立てていた。そして大部分の民衆がすべて彼と同じように、居心地のわるい思いをしているものと信じていた。  民衆のために革命は絶対必要だと、三宅は言った。しかし本当は民衆のためではなくて、彼自身のために必要なのかも知れなかった。社会というものは……。  社会というものはいつの時代にも、大人たちのものだった。大人になりきらない青年たちにとっては、一種の違和感がある。肌《はだ》になじまない窮屈さがある。三宅はそれを政治のためだと考え、資本主義が悪いからだと論じていた。裏街の居酒屋で酒を飲んでいる時でさえも、そのことを誰かに咎《とが》められはしまいかという警戒心があった。つまりこの街が民衆の街ではなくて、(資本主義の街)だからだと三宅は思っていた。しかし本当は彼等青年の街ではなくて、(大人の街)であったから、そのために、居心地が悪いのかも知れなかった。  十二時を過ぎて、江《え》藤《とう》は友達とわかれ、ひとりで電車に乗った。電車は高いところを走っていた。ひろい夜の街が低く窓の外をながれて行く。夜がふけて、街の灯の色に一日の疲れが見えた。疲れておりながら、まだ何かに耐えている姿だった。  窓から見える範囲に、何十万という人が住んでいる。それを江藤は眼《め》を据《す》えて見ていた。電車がどこまで走っても、無数にひろがる家々の灯は終りにならない。そこにもまた何十万という人が住んでいる。人間で埋まった曠《こう》野《や》、人間の顔と体とをぎっしりと敷きつらねた生臭い平原。……その夜景から、江藤は一種の圧力を感じていた。彼等の意志、彼等の要求、彼等の怒り、かなしみ、嘆き、そして彼等の闘い。  これが社会だと、彼は思った。愚劣な社会、低俗な社会、そして猥雑《わいざつ》な社会だ。しかし彼自身、現にこの社会に住み、これから先の何十年をこの中で生きて行かなくてはならない。それは先天的な宿命であり、彼に与えられた一つの地獄だった。常識的に考えて、彼の住む土地はどこにも用意されてはいない。経済生活を支えるための収入は、激烈な闘いによってのみ獲得される。資本主義社会は弱肉強食を当然とする社会でもある。  だから、この街に住む無数の人間は、ことごとく江藤の敵だった。味方はひとりも居ない。その敵の大群から、彼は漠然《ばくぜん》とした圧力を感じていた。しかしこれらの敵は、敵そのものが分裂している。森の中の木立のように、彼等はみな孤立している。彼等が孤立しているということが、江藤にとって一つの救いだった。そこに伐《き》り込んで行ける隙《すき》があるに違いない。  けれどもこの社会はまだ、彼にとって直接的な加害者ではなかった。あと二年たてば大学を卒業する。いわゆる社会人となる。その時から本当の闘いが始まる筈《はず》だった。準備期間は二年しかない。そのあいだに社会人としての資格をつくり、実力をたくわえ、狡猾《こうかつ》さと図太さとを身につけなくてはならない。 (革命なんか来やしない)と彼は信じていた。三宅は来ると思っている。それは予想ではなくて、単なる想像にすぎない。おそらく社会はまだ五十年も六十年もこのままで過ぎて行くだろう。絶望的な、悪い社会だ。しかし絶望的であろうが無かろうが、社会がこういうものであるのならば、この社会の中で生きて行く方策を立てなくてはならない。人生は空想ではないのだ。……  夜ふけの電車に乗っている人たちは、みな何かしら姿勢が崩れていた。しどけなく疲れている人、窓にもたれて眠っている人、酔っている人。一日の終りの弛《し》緩《かん》した時間をのせて、電車はまだ街の上を走っていた。江藤賢《えとうけん》一郎《いちろう》も酔うていたが、酔った頭のなかでまださっきの論争を続けていた。 (君の者え方は若気の至りだな)と彼は三宅にむかって言った。(生きるということは即《すなわ》ち妥協することじゃないか。君は現実と妥協することの意味を誤解している。現実を否定し、現実の社会を敵にまわそうとしている。しかし君、一体現実を否定するって、どんな事だ。そんな事が可能なのかい。君がいくら否定したって、現実は眼の前に厳然として存在しているじゃないか……  君は革命家になるつもりらしいが、おれたちはまだ学生だよ。現実の社会なんて、本当はまだ体験されてはいないんだ。……革命というのはね、被害者がやることだよ。ところが君はまだ被害者でも何でもない。もっと現実を体験する必要があるよ。自分で働いて、安月給で貧乏暮しをして、社会の下積みにされて、被害者になって、それから革命を考えればいいんだ) (お前は現実主義者の妥協主義者だ) (あたり前さ。現実以外に何がある。君の言うことは左翼観念論だ。観念をいくら捏《こ》ねまわしたって、何も結論は出て来ないよ)  三宅に指摘されるまでもなく、江藤は自分を現実主義者だと思っていた。そして観念的革命主義者の敗北を信じ、自分の勝利を信じていた。革命運動そのものを否定するのではない。それは人類の救済のために貴重な活動であるかも知れない。けれども革命家の多くは悲惨な生涯《しょうがい》を送るに違いないのだ。現実主義は卑怯《ひきょう》だと三宅は言った。卑怯であるかも知れない。しかし江藤賢一郎はたった一度しか経験し得ない自分の人生を、悲惨な生き方をしたくはなかった。幸福はどこにでもある。それを合法的に手に取ることは俺の自由だ。  生きることは闘争だ。平和なんかどこにも有りゃしないと、彼は思っていた。平和を叫ぶやつの大部分は敗北者だ。勝利者たちは人を押しのけ、打ち倒し、奪い、自分の場所をつくり、場所をひろげ、それから安全な砦《とりで》を築き、その安全な場所にいて、平和論者の悲痛な叫びを、微笑をうかべながら静かに聞いている。それが現実であり、その事実はどうすることもできない……。  江藤は野心にみちた青年であった。三宅のような革命的野心ではなくて、個人的な野心を胸一杯にもっていた。容姿に自信があり、健康に恵まれ、学業成績も優秀であった。したがって電車の窓の外の広大な夜景から感じられる一種の圧力に対しても、敗北感や絶望感はなかった。彼は法律を専攻していた。その学問が、これから後、社会の巨大な渦潮《うずしお》のなかを巧みに乗りきって生きるために、充分に役に立つ筈だった。彼はその学問を個人的な生活の武器として、身につけなくてはならないと考えていた。  電車を降りて駅の外に出ると、冷たい冬の風が吹いていた。駅前から続く貧弱な商店街はみな灯を消し戸を閉ざしていた。戸は閉ざされているが、その奥に人の気配がある。家ごとに、男が居《お》り女が居り、そして子供が居《い》る。そこに家庭があり、人間の生活がある。その生活の上に、まるで黒い雲のように、国家の法律が重く掩《おお》いかぶさっているのだ。  江藤は煙草《たばこ》をくわえ、高い足音をひびかせてこの街を歩きながら、眼に見えない法律の重さを考えていた。街の人たちは眠っている。眠っている間にも法律は彼等を拘束している。一体どれだけの法律が彼等の行動を規制しているだろうか。商法の中のたくさんの条文、有限会社法、手形法、商業登記規則、それから彼等にとって最大の悩みの種の税法。民法の方では地上権に関する法律。債権債務に関する法律。親族法と相続法。婚姻法と戸籍法。借地借家法。義務教育法。行政法の方では道路法、道路交通法があり、建築基準法があり、さらに業種によっては薬事法とか医師法とか、公益質屋法とか食品衛生法とかの取締りを受け、そのうえ経済関係の無数の法律が彼等の生活にからんで来る。おそらく一軒の商店の主人の、生活と営業とに関連をもつ法律条文の数は、一万条、一万五千条にも達するに違いない。  けれども彼等民衆の大部分は、ほとんど法律を知らない。知らない法律によって彼等は拘束される。したがって彼等は法律というものに幼稚な敵意をもっているらしい。法律は民衆を保護するものではなくて、民衆に損害を与えるものだとしか思っていない。  それは彼等の無知、あるいは怠惰から来たものだと、江藤賢一郎は思っていた。法律がなくては民衆統治は不可能だ。法律は統治の基準であり、社会の秩序である。いわば地上につくられた道路のようなものだ。この道路にしたがって行けば、百里の道も易々《やすやす》と行ける。しかし法律を知らない民衆は、道路のない所を歩こうとして、崖《がけ》にぶつかり谷に落ちこみ、自分で四苦八苦しているのだ。  地上の道路を知り尽すように、法律を知りつくした者は、法律を味方につけることができる。法律を味方につけたものが、人生の勝利者となるのだ。三宅は革命を志している。彼はみずから現行法を敵に廻《まわ》そうとしているのだ。法律は彼の行為を許しはしないだろう。内乱に関する罪、公務執行を妨害する罪、逃走の罪、騒擾《そうじょう》の罪、爆発物取締規則、破壊活動防止法。……国家はあらゆる準備をととのえて、革命行為を弾圧しようと、網を張って待っているのだ。  三宅はあの革命への意志を抛《ほう》棄《き》しない限り、生涯その住所を定め得ず、安定した職業をもつこともできず、常に陰謀をめぐらし、常に逃げまわり、いつも貧乏で、家族との団欒《だんらん》の時もなく、痩《や》せて、とげとげしい眼つきをして、人を疑い、人を裏切り、あげくの果ては刑務所の独房に入れられて、ようやくそこで安定した日常を過すことができるというようなことになるだろう。  三宅は聡明《そうめい》で俊敏な男だった。彼が革命家となることをやめて、一般社会で生きることになったら、(おれはあいつに叶《かな》わないかも知れない)と、賢一郎は思っていた。だから三宅が左翼運動をやっている限り、江藤はこの競争者について、安心して見ていることができるのだった。  郵便局の角をまがると、道は急に暗くなり、そこからは住宅街だった。角から二軒目は町田歯科。母が治療に通っているところだ。その隣は大《おお》谷《や》石《いし》の塀《へい》をめぐらして、庭木の茂った、平野という家。どこかの重役で、毎朝大きな外車が彼を迎えに来る。向いの柳井の息子は中学まで同級だったが、高校の試験に失敗してから不良化して、どこかへ行ってしまった。  柳井から一軒おいて松本。小さなけち臭い家。この家の娘も同級生であったが、去年の春私生児を産んだ。なぜ産児制限の手術をしなかったのか。理由はわからない。法律的には私生児とは言わないで、(母の子)と言う。変な言い方だ。それでは嫡出《ちゃくしゅつ》の子は(父の子)と言わなくてはならない。松本の娘はちかごろ見かけなくなった。子供といっしょにどこかへ雲がくれしたらしい。その向いの河田は三年ほど前に火事で焼けて、前よりも大きな家を建てた。四ツ角の野島は一昨年だったか、夫人が睡眠薬自殺をした家だ。……これが(世間)というものかも知れない。  この平凡な住宅街でも、いろいろな事件がおこっている。生きることの悩みと、生きることのむずかしさ。事件はおこっても、みんな気を合わせて、一日も早くそれを忘れようとしているらしい。或《ある》いは忘れたふりをしているのか。結局、人間が仕出かす事件などというものは、すべて有り来たりで平凡で、無数の前例がある。だから事件の善後処置もちゃんとやり方がきまっていて、誰もがその仕来たりに従う。法律規則と、かねと、習慣とで、何もかも無事におさまって行く。まっ白い猫《ねこ》が、まるで幻のように音もなく、ひらりと彼の足もとを流れて、生垣《いけがき》の穴に吸いこまれて行った。  松本ゆみ子にはちょっと心をひかれたことがあった。赤っ毛で、色の白い、すこし下がり眼の、そばかすの多い娘だった。恋をしたというのではなくて、いたずらをしてみたかった。そういう風な誘惑を感じさせる娘だった。江藤が結局なにもしなかったのは、彼に経験が無かった為《ため》だった。つまり彼女を誘惑する手順や方法を知らなかった。もう一つは、誘惑してから後の処置に自信がなかった。女に喰《く》い下がられたら、出世のさまたげ《・・・・・・・》になるに違いないと思われたのだ。それを誰かがやってしまった。彼は一つの可能性を取り逃がしたと思っていた。  良い機会に、女を経験する必要がある。それがどんなものであり、どんな行為であるかは、ほとんど解《わか》っていた。つまり知識として知っていた。体験は無い。現実の社会がまだ遠いところに在ると同じように、女も遠いところに居た。女は社会の中に居る。けれども女は社会の裏だけに住んでいるのかも知れない。それとも女は男の生活の裏面に住んでいると言うベきだろうか。歩きながら、彼は女を幻想し、幻想の女を存分に手さぐりしていた。夜の暗さが幻想を助けてくれるようだった。  体が冷えると、却《かえ》って酒の酔いが頭の方にあがって来る。結婚はまだ、ずっと先だと、彼は思っていた。寝静まった街は表面だけは平和だった。つまり生存競争がひと休みしていたのだ。  時計は一時になろうとしていた。母は炬《こ》燵《たつ》にはいって、自分の着物の縫い直しをしていた。手は針を動かしながら、頭の中では三時間ちかくも息子の帰りを待っていた。かつてはこのようにして良人《おっと》の帰りを待ち続けたものだった。男というものは良人であろうと息子であろうと、生涯女を待たせておいて、どこかをうろつき廻るものであるらしかった。  彼女は良人を待ちながら十七年を暮した。それから今度は息子だ。待つということの永い永い習慣が、彼女の性格をかたちづくって来たのかも知れない。心の奥ふかい所に、男に対する恨みが、果物の堅い種のようになってしこ《・・》っている。けれどもこの恨みが果して憎《ぞう》悪《お》であるかどうかは解らない。恨みの深さが愛情を培《つちか》い、執着を深めて行くという作用も持っているのだ。  流行おくれの古風な小紋の着物。またこれを縫い直して着ようというのは、生活との闘いだった。着物によって自分を飾りたいという女の慾念《よくねん》を捨てた気持だった。やがて五十になる。賢一郎が一人前になるまでに六七年。それから後に自分の老後をむかえる。生活との闘いは死ぬまで続くだろう。彼女は毎日計算をくり返していた。将来を手さぐりし、推測して、推測の上に立って生活の計算をするのだ。頼りない計算であった。だから毎日計算しても何の結論も出て来ない。結論の出せない計算を、彼女は死ぬまで繰り返すことになるかも知れない。  炬燵の上に板をのせて、裁縫道具をのせて、その向うの隅《すみ》に一通の手紙が置いてある。うすい水色の角封筒に赤い線のはいった速達郵便で、江藤賢一郎様……大橋登美子と、癖のある字で書いてある。文字の癖は幼稚な気取りだった。  この娘を母は知っていた。ずっと前、一年ほどのあいだ、賢一郎がアルバイトの家庭教師に行っていた家の娘だ。それがいまだにつきあいが続いていて、ちかごろはときおり恋文をよこすようになった。それだけでも母は腹立たしい。教師と教え子との恋愛。世間では無数にある、平凡な事だった。母は一度だけ登美子と口を利《き》いたことがある。行きずりの挨拶《あいさつ》に過ぎなかったが、女の眼から見て、嫌《いや》な娘だった。  嫌だったというのは、母の嫉《しつ》妬《と》であったかも知れない。その時から母は、この娘に賢一郎を奪《と》られてしまうのではないかという風な、直感があった。落ちつきのない娘だった。十七か十八の若さで、子持ち女のような豊満なからだつきをして、変に愛想がよくて、その愛想というのが口先ばかりで、笑った時の口のかたちに品がなくて、学生のくせに女優のまねをして、長く伸ばした髪をわざと結ばずに、両方の肩にばさりと垂らしていて、母はこの娘から、何かしら一種の不道徳さ、身持ちの悪さ、娼婦性《しょうふせい》のようなものを、ぴんと感じたのだった。  賢一郎は悧《り》口《こう》だから、まさかあんな女にうつつを抜かすことはあるまいと思いながら、しかし母は、あの娘のどこか崩れた感じが恐ろしかった。あの子には男心を迷わすような何かがある。……  亡《な》くなった賢一郎の父も、あんな風な女に迷って、一度失敗したことがあった。まじめな良人であったが、まじめな男というものは不思議なことに、そういう崩れた女に迷いこむことがあるものらしかった。彼女は絶望し、本気で死のうかと考えた。大橋登美子という娘には、あの時の女の生れ変りみたいなところがあった。嘗《かつ》て良人を奪おうとした女が、生れ変って来て今度は賢一郎を彼女から奪おうとしている。……そんなような気がした。堅気の女というものはいつでも、男を中にはさんで、身持ちの悪い恥知らずな女たちと争いながら、生活の足場を守って行かなくてはならない。いつだって、防禦《ぼうぎょ》する側だった。  かすかな足音に母は気がつく。待つということの永年の習慣から、夜更《よふ》けとともに、犬のように聴覚が冴《さ》えて来るのだった。炬燵から膝《ひざ》を抜いて、立ちあがる。そのとき呼鈴が鳴った。玄関は空気が冷えていた。扉《とびら》の外から大きな影がうつっている。五尺八寸二分。見上げるほど背丈の高い息子だ。(私の産んだ子だ……)この子を産んだということに、母は生涯、ひそかな誇りを持ち続けているのだった。気立てがよくて、勉強家で、やさしい良い顔をしていて、(どこの子と比べたって負けやしない)……そういう堅い信念が、彼女の生活の支えであり、幸福の基盤でもあった。その息子に恋文が来るということが、母にとっては心外でもあり、驚きでもあった。  鍵《かぎ》をあけてやると、冷たい夜風が吹きこむ。息子といっしょに、一種の不幸が飛びこんで来たようでもあった。 「ただいま」 「遅いねえ。何時だと思ってるの」 「一時前だろ。大したこと無いよ」 「いま頃《ごろ》まで、どこをうろついてるんだろうねえ。いい加減におしよ」 「うろついてやしないよ」 「じゃ、何してたの」 「友達と議論してた。面白《おもしろ》かった」 「お酒が過ぎるよ。お父さんはお酒で体をこわしたんだからね。お友達づきあいもいいけど、酒は気をつけなくては駄目《だめ》ですよ。おとといも飲んで帰ったじゃないか」 「解ってるよ」 「解ってるだけでは何にもなりゃしない。お風呂《ふろ》はやめて置きなさい。毒だからね。手紙が来てるよ。大橋登美子って、あの人《・・・》だろう。お前はずっとつきあっているらしいけど、好きなのかい」 「教えた子だよ」 「そりゃ解ってるけど、好きなのかい?」 「別に何とも思ってないよ。頭が悪いからね」 「そんなら、おつきあいをやめた方がいいんじゃないの。永くつきあってると、面倒な事になるよ。あの人はお前のお嫁さんになれるような娘さんじゃないからね。一度しか会ったことは無いけれど、恰好《かっこう》からして何だか不まじめな人だろう」 「うるせえなあ。解ってるよ。誰《だれ》もあれ《・・》と結婚するなんて、言ってやしないじゃないか」息子は母の忠告をふり切るようにして、大股《おおまた》に奥へはいって行った。  炬燵板の上の女からの手紙を、掻《か》っ払うように手にとると、 「おやすみ……」  そして後をも見ずに廊下に出て、賢一郎は重い足音をたてて、階段をあがって行く。古い階段の板がきしむ。母は置去りにされる。三時間以上も待たされて、その揚句に息子から置去りにされて、母は縫物をかたづけにかかる。亡くなった良人からも、全く同じ仕打ちを、何十回されたか知れなかった。  何十回おなじことをされても、彼女はやめられなかった。やめる訳に行かない。(あの人の為を思って言っているのだ……)という、献身から来た一種の自信があるために、女の心はゆるがなかった。良人はそれを嫌がって、賢一郎と同じことを言って怒ったものだった。 (解ってる、うるさいな)  賢一郎も父と同じ言い方をするようになった。よく似ている……と母は思う。それだけ息子は成長したのだ。成長して、男らしいわがままを見せるようになって来た。母の言うことを聞かなくなった。しかしそんな態度をされることが、母はあまり嫌ではなかった。あの子はきっと父よりも傑《えら》くなるに違いない。頭は良いし、丈夫だし、スキイがうまくてテニスが巧《うま》くて、そのうえ友達と議論をしても誰にも負けないらしい。魅力があって、人づきあいが上手で、礼儀正しくて、努力家だ。あの子が出世しない筈《はず》はないと、母は堅く信じていた。  だからこそ、賢一郎が大橋登美子みたいな、あんな娘とつきあうことが心配だった。良い嫁を持たせなくてはいけない。男は女房で変ると言う。それが母は気がかりだった。彼女には自我はない。彼女に自我があるにしても、自分ひとりのためのものではなく、息子に奉仕し、奉仕することによって自分を支えるというようなものだった。それは古風な、封建時代からの伝統的な女の生き方であった。彼女は良人に奉仕して、十七年を暮した。ところが良人は酒のために健康を害して、この次の総会で重役になるという直前に、死んだ。妻の奉仕は裏切られ、妻の献身的な自我は対象を失った。そのむなしさの中で、今から後は子供を無事に育てあげること以外には、自分の人生は無いものと感じた。  結局、ひとりでは生きられない女だった。子供に奉仕すると言いながら、その子供を自分の支えにしていた。けれども賢一郎はやがて結婚して母から離れて行くに違いない。子供を育てる努力は、遠からず自分が置き去りにされるための努力だった。その矛盾を、知らなくはない。解りきっているがどうすることもできない。やがて老衰が来て死が来ることを知りながら、その日その日を生きて行くのと同じだった。前途には、どうしようもない絶望がある。絶望にむかって、毎日を生きて行く。生きられる日々を、何とか仕合せに生きるより、仕方がない。仕合せとはその程度のものだとしか、考えられなかった。鉄瓶《てつびん》の湯を湯たんぽ《・・・》に入れる。そして冷たい寝床にはいる。寝つくまでのあいだ、彼女はからだをちぢめて、また頭の中で計算をしてみるのだった。しかし毎月物価が上がって行くので、計算のしようがない。何もかも、あきらめるより仕方がなかった。  女から手紙が来たのを母に知られたということに、賢一郎は若い羞恥《しゅうち》を感じていた。自分が女性について或る種の意慾をもっている、その意慾の内容を母に知られたような気がして面《おも》映《は》ゆかった。できることなら母に、自分の正体を知られたくない。自分の精神内容や慾望の在り方や、女との交渉のいきさつなどは、一切秘密にして置きたかった。  彼は特に、性格的な秘密主義という訳ではなかった。自分の未完成や、自分の世間知らずがわかっているだけに、自分をあからさまに知られることに自信がなかった。同じ未完成の友達同土ならば、何を知られてもかまわない。しかしはるかに完成度の高い大人たちに対しては、秘密を守っておきたかった。それは一種の警戒心であり、自衛的な心理でもあった。  母は手紙の内容については、何も知りはしない。従って母の警告は、抽象的で概念的な一般論にすぎなかった。大橋登美子についても、たった一度、それも僅《わず》か二分ほど、街で立話をした程度だ。暑い夏の午後だった。母は二分間で一人の人間を知り尽したようなつもりになっている。それは母の思い上がりではないか。乃《ない》至《し》は一種の嫉妬ではないか。  母はこの八年か九年か、ずっと未亡人の生活をしてきた。しかし四十八歳の母の肉体はまだ若くて、みずみずしい。母に嫉妬の感情が無いとは言えない。大橋登美子にくらべれば、母の方がずっと熟した体だ。登美子はまだ性の経験を持たない……だろうと思う。母は十七年の経験を持っている。その経験が、母の感覚によみがえって来て、彼女自身を悩ますようなことはないだろうか。……  煙草《たばこ》をくわえて、寝床に腹ばいになる。赤い笠《かさ》のスタンドをともす。天井に明るい輪が動く。輪の大きさは笠の上の穴の拡大された寸法だ。夜更けの風が古びた雨戸に音をたてる。  手紙の封をひらく。登美子の顔が眼にうかぶ。若いくせに、天性の媚《び》態《たい》をもった女だ。話をしていながら、何となく肌《はだ》の体温を男に感じさせるような女だ。登美子から手紙が来たことを、賢一郎は誇らかに思っていた。男の己《うぬ》惚《ぼ》れ、男の自負心、そしてひそかな幸福感……。すこし癖のある登美子の字体は、彼女の気取りと幼稚さとを表わしているようだった。彼女からはおそらくもう三十通ちかい手紙が来ていた。しかし彼はまだ一度も、彼女に手紙を出したことはなかった。 (賢一郎様……このあいだはどうも有難うございました。凄《すご》くうれしかったわ。わたし案外うまいでしょう。おどろいた? ……この次は私が御案内するわね。芝のボーリングでも赤坂のボーリングでも、ちょっと顔が利《き》くのよ。  あのあと、わたし、あんなに沢山食べたりして、御免なさいね。あなたの貴重なお小遣いを減らしちゃったわね。男の人の前で沢山たべる女は男から軽蔑《けいべつ》されるって、本当かしら。あれから今日まで、そのことでわたし、凄く自己嫌《けん》悪《お》なの。でもあなたと御一緒だと、何もかもおいしくって、思わず沢山食べてしまうんです。愛してるのかしら……)  馬鹿《ばか》な女だなと、賢一郎は思った。そして、向うが愛しているらしいのに、こちらは全く冷静だということに、一種の優越感があった。  この女には自分の危なさが解っていない。おれは一度も愛の意思表示をしたことはないし、手紙も書いていないのだ。登美子の一方的な求愛だ。おれが策略を用いて愛を擬装すれば、登美子は自分から罠《わな》に落ちて来るに違いない。……そういう想像は、それ自体が誘惑的だった。賢一郎はこの女を罠にかける段取りや、女が罠に落ちて来たときの妖《あや》しい姿などを幻想してみた。楽しい幻想だった。すると体が男らしく火照《ほて》るような気がした。 (……あのときちょっと、スキイの事が話題になったでしょう。いつ《・・》っておっしゃったかしら。一月のなかばだったら、わたし絶対に行きたいの。学校なんかもちろん二の次よ。四月におニューの靴《くつ》を買って、まだ一度もはいていないの。凄く行きたいわ。雪山の魅力、自然の魅力。東京なんか、帰りたくなくなって、雪の中に自分をとかしてしまいたいような気がします。わたし巧いのよ。ウェーデルンだって少しぐらい出来るわ。知らないでしょう。見せて上げるわ。あなた程ではないけれど……。ほんとに、きっと誘って下さいね。独りで行ってしまったりしたら、断《だん》乎《こ》絶交よ。蔵《ざ》王《おう》でも志賀でも八方尾根でも、あなたの行く所ならどこだっていいわ。げんまん《・・・・》ね。きっとよ。白いふかふかの雪の山で、あなたと二人きりになってみたいの。ショッキングだわ。もしそうなったら、あなたの私に対する本当のお気持が、わかるんじゃないかしらというような気がします。私と二人きりのとき、どうかするとあなたの顔の上を横切る、雲の影のような暗いもの……あれが何であるのか、私は凄く知りたい。あなたは私の謎《なぞ》よ。もっとも男なんて永遠の謎かも知れないわね。  きっときっとお返事を、ね。待っています。日取りはいつだっていいわ。それからもう一つ。お酒を飲み過ぎないようにしてね。さよなら。……あなたの誠実なる、登美子)  あいつは知っている……と賢一郎は思った。決して聡明《そうめい》な女だとは思わないが、聡明さとは別の、一種の動物的な直感力によって、彼女は危険を予知しているらしかった。しかも危険を感じておりながら、二人きりで雪の山へスキイに行こうというのだ。  それは矛盾のように見えて、矛盾ではない。登美子が求めているものは、おそらく危険そのものであるだろう。危険とは何か。……ある女はそれを単なる危険と感じる。登美子がもしもその事に激しい魅力を感じているとすれば、その危険が、彼女にとっては願望であるかも知れない。要するに登美子は肉体的な自制心の乏しい女なのだ。……というよりも、肉体的な要求が自制心を突き破っていると言うべきだろう。  その事に賢一郎は、自分の方で危険を感じていた。登美子のような女は、もしも二人の間の境界線を取去ってしまえば、やみくもに男に武《む》者《しゃ》振《ぶ》りついて来るような事になるかも知れない。母が、おつきあいをやめた方がいいと言ったのも、それを警戒しているのだ。第一、恋愛ならば、男の方が主動者でありたい。女から押しつけられた恋愛なんて、ちっとも面白くないと、彼は思った。  読み終った手紙を、彼はこまかく裂いて屑《くず》かごに投げ入れた。これまでに登美子から来た三十通ちかい手紙の、どの一つとして手もとに残ってはいなかった。何日か経って、もう一度手紙を読み返し、更にふかく女の心を読み取ろうというような、まじめさ、誠実さを、彼は持たなかった。  要するに彼の心には恋愛がなかった。この女に執着する心がなかった。本当はどうでもいいのだ。それは賢一郎の自負心と己惚れから来たものであった。(誰があんな女を、まじめに相手にするものか)と思っていた。本気で恋愛をするのならば、もっとすばらしい女がいるような気がする。どこに居るか、それは解らない。おそらく彼女はつつましく、物静かで、しかも照り輝くような美《び》貌《ぼう》をもち、近寄り難《がた》いほどの上品さと、優しくひらめくような才《さい》智《ち》とをもった、最高級の女性なのだ。そして二人きりの夜の部屋では、夜来香《イエライシャン》のようにいきなり香《かん》ばしく肉体の花を咲かせる、永遠に未知の妖女《ようじょ》……。そんな女性が居る筈《はず》はないが、もし万一にもそういう女に出あったとすれば、恋のために身をほろぼす事さえも美しい。だからいま、大橋登美子などと本気で恋愛をする気にはなれなかった。  彼女からの手紙を裂いて捨てたのは、後日の証拠を残さない為《ため》だった。彼女とつきあいがあったという証拠を残すことが嫌だった。これまで登美子にあてた一通の手紙をも書かなかったのも、それだった。第三者のための証拠ではない。登美子自身に、彼の愛の証拠らしいものを握らせない為だった。彼の方から用がある時は電話ですませる。……  いうまでもなく、それは彼のエゴイズムだった。あるいは臆病《おくびょう》さ、または狡猾《こうかつ》さ、そして小さな賢明さでもあった。そのような彼の性格を母は、(あの子はしっかりしているから……)という見方をしていた。それは母親らしい買いかぶりであったかも知れない。  左翼学生の三宅たちと親しくつきあっておりながら、賢一郎が決して左傾しなかったのも、それだった。思想的に彼が(健全)であったからではなくて、左傾することが危険だからであった。  理想をかかげて現在を批判することは良い。しかし批判だけで生活は豊かにはならないのだ。  新しい時代は来なければならぬ。けれどもそのことと、今日を如何《いか》に生きるかということとは、別だ。自分の生涯《しょうがい》を社会のために犠牲にするのは、志士の仕事、革命家の仕事だ。自分は革命家ではないし、革命家でなくてはならぬということもない。資本主義社会のなかで立派に生きる方法もあり、正当な手段で自分の幸福を築く方法もある。貧しい革命家、捕えられ、牢獄《ろうごく》につながれ、しかも屈しない革命家。彼《かれ》等《ら》は自己満足とヒロイックな自負心と、スリルとをたのしむことが出来るであろうが、その代りに生涯の貧困と不幸と、不安定な生活とが彼等に約束されているのだ。  そして、それだけの犠牲をはらっても、革命が成功するという保証はどこにもない。積みかさねたトランプを何人かでめくって行きながら、たった一枚のジョーカーに自分の勝負を賭《か》けるのと同じことだ。成功率はまことに少ない。のみならずジョーカーは敵の手に渡ってしまうかも知れないのだ。  幸徳秋水《こうとくしゅうすい》はいわゆる大逆事件によって刑死し、大杉栄《おおすぎさかえ》は憲兵の手で暗殺された。左翼作家小林《こばやし》多喜二《たきじ》は特高警察によって虐殺《ぎゃくさつ》され、文芸戦線や戦旗の執筆者たち、左翼演劇の仲間はほとんどすべて牢獄を経験させられた。日本の敗戦後、社会党や共産党の幹部となった人たちの大部分は、みなこのような(前科者)であった。短くても二三年。徳田球一《とくだきゅういち》の如《ごと》きは実に十八年も牢屋につながれていた。  彼等の支払った犠牲は巨大なものだった。日本の社会主義運動がはじまって以来、この六七十年のあいだに流された血と、失われた命とは、どれほどのものであったろうか。そしていま、敗戦後二十年たって、まだ革命は成功していない。のみならずますます遠ざかりつつある。資本主義は一層その足場を強固にし、資本主義政党は民衆大多数の支持を得ている。かつて彼等若き革命家たちが流した血、失った命は、無駄《むだ》ではなかったか。  しかもなお彼等は革命の成功を信じて闘いつづけている。野《の》坂《さか》参三《さんぞう》、宮本《みやもと》顕《けん》治《じ》、蔵原惟《くらはらこれ》人《ひと》。(革命は彼等にとって、永遠に美しい幻影ではないだろうか)江藤賢一郎が左翼へ行かないのは、彼の思想ではなくて、利害を打算した結果だった。このせち辛い時代に、打算を忘れた者は人生の敗北者になるにきまっているじゃないか……と彼は思っている。  彼は法科の学生であったから、国家の法律がどんなに重く人民の上にのしかかり、どれほど厳しく人民を拘束しているかを、充分に知っていた。革命を志すということは、この法律を敵に廻《まわ》すことだった。それはほとんど、(蟷螂《とうろう》の斧《おの》をふるって竜車《りゅうしゃ》に向う)という諺《ことわざ》に似たようなものだ。彼等の人生は予定通りに行かない人生、予定を立てることさえも不可能な人生、したがって躓《つまず》きの多い人生であるに違いない。躓いたら損をする。またそこから出直さなくてはならない。つまずかないように前以《まえもっ》て用心し、正確な足どりで、安全な道をえらんで、危なげのない歩き方をすることが絶対に必要ではないか。……江藤賢一郎の考え方はどこまでも実利的だった。  実利的な見地に立っているから、彼は大橋登美子の思わせぶりな求愛の態度に対しても、冷淡だった。冷淡であるのは彼の打算だった。しかし打算は頭の中で考えることだ。彼の心は冷淡であったが、登美子を無視しているのではなかった。あんな女につきまとわれたら、俺《おれ》が損をするだけだと解《わか》っておりながら、彼女の誘いかけるような魅力を無視することはできなかった。つまり、自分がその気になりさえすれば、機会《・・》は得られるだろうという予想に、みずから惹《ひ》かれていた。  そのような自分の矛盾を、彼は知っていた。知っていたが、矛盾を整理することはできなかった。女に惹かれるのは肉体の自然であり、用心ぶかく打算的であることは、現実の社会に生きて行くための必然的な条件であった。その二つが矛盾しているのは、(おれが矛盾しているのではない、現実そのものが矛盾しているのだ)……その矛盾を、自分が損をしないように、どんなに巧《うま》く処理して行くか。問題はそれだ、と彼は思っていた。 二  友達からアメリカ映画のはなしを聞いた。登美子も週刊雑誌でそのストーリーだけは読んでいた。不倫の恋の物語だった。 「キッス・シーンが良《い》いわ。素敵よ。それからベッド・シーンが凄いの。まるで裸よ。わたし、頭が痛くなっちゃった。渡辺さんとふたり並んで見ていたらね、渡辺さん慄《ふる》えているの。ほんとに、ぶるぶる慄えてるの。純情ね。呆《あき》れたわ」  そのはなしにそそのかされて、登美子はひとりで見に行った。そして渡辺悦子とおなじように、彼女も映画を見ながら慄えたのだった。その慄えはどこから来るのか解らなかった。脊《せ》骨《ぼね》からのようでもあり、胃腸から来るようにも思われた。彼女が慄えているというよりも、筋肉や内臓が勝手にふるえているようであった。映画の主題も製作者の意図も、解っていなかった。彼女はただ刺《し》戟《げき》的な場面を見に行き、それを見て来ただけだった。そしてそれだけで充分に満足し、終って街へ出たときにはぐったりと疲れていた。  あと二日で年が終り、新しい年を迎える。商店街は赤と白の幕を軒のあたりに引きまわし、福引券付大売出しをやっていて、賑《にぎ》やかだった。街をぬけて登美子が帰ったのは午後六時。もうまっ暗だった。  玄関をはいると、沓《くつ》脱《ぬ》ぎに見馴《みな》れない靴があった。父の靴ではないが、見覚えはあった。またあの人だと、彼女は思った。栄子が出て来た。電灯がほの暗いので、栄子の化粧の白さが浮きあがって見えた。 「お帰んなさい」 「誰《だれ》か来てるの」と彼女は咎《とが》めるような言い方をした。 「寺坂さんが来てるわ。すぐ御飯よ」 「またお酒飲んでるのね」 「そうよ。だって、お客さんにお酒を出すのは当り前でしょ」  登美子は鍵《かぎ》をあけて、玄関のとなりの四畳半にはいった。この部屋はせまくて暗い。前には二階の六畳が彼女の部屋だった。三尺の廊下をへだてた八畳が父と栄子との寝室になっていた。登美子はそれが嫌《いや》だったから、六畳を弟にやって玄関脇《わき》の四畳半に降りた。  栄子はもともと父の妾《めかけ》だった。前身は何であったか知らない。いつも濃い化粧をするところから見れば、どうせ何か水商売であったに違いない。この家の中に化粧の濃い女が居るということだけでも、登美子は神経がいらいらした。栄子と口を利くだけで、頭に血がのぼるような気がした。彼女は多分、登美子の母が生きているうちから、父の妾だった。母は晩年は不幸であったに違いない。  登美子は栄子に関する限り、潔癖で容赦のない娘だった。彼女は自分の四畳半だけを、この家の中でたった一つの神聖な場所にして置きたかった。だから唐紙《からかみ》に自分で鍵をとりつけて、栄子を一歩もはいらせなかった。つまりこの家の家族から、自分を隔離していた。 「あなたは秘密主義ね」と言って栄子は笑った。「あなたの部屋にはよっぽど沢山の秘密がしまってあるのね、きっと……」  登美子は部屋の壁に、額に入れた母の大きな写真を飾っていた。おそらくは不幸の中で死んだ母と娘と、この部屋の中で、二人きりの水入らずで暮したかった。彼女にとって、母だけが無条件に神聖であった。  寺坂は父の会社の営業部につとめていた。年は登美子より十も上だった。髪をべっとりと油で固めて、黒の蝶《ちょう》ネクタイをして、いつも真白なワイシャツを着ていた。その身だしなみの良さを、登美子は却《かえ》って不潔なものに感じていた。理由ははっきりしない。ただ、寺坂の生活のなかから女の匂《にお》いを嗅《か》ぎ出していた。それはけだもののような直感であった。どこかに女がいる。すくなくとも寺坂の私生活には女の手が加えられている。……その直感によって登美子は寺坂を、不潔な男と思いさだめていた。  それがどんな女であろうと、登美子には関係はない。彼女は寺坂とどんな関係をももちたいとは思わない。完全に赤の他人であるのだが、しかも彼女は寺坂に何かしら腹を立てていた。父が彼を週に一遍ぐらいずつ連れて来ては、酒と食事を共にする、その事だけでも腹立たしかった。  父がたびたび寺坂を連れて来ることには、父の計算があり、何か魂胆のようなものがあるらしかった。登美子はそれを感じていた。彼女は父が妾を持ったということで、父を許さなかった。それは娘らしい潔癖さであり、母への同情であり、父への嫉《しつ》妬《と》でもあった。それらが彼女の感覚のなかで入りまじって、(お父さんなんか、大嫌《だいきら》い……)という単純な感情に帰着していた。父は大嫌いだから、口も利《き》きたくなかったが、彼女はやはり父の家に住み、父の扶《ふ》養《よう》をうけ、小遣いをもらっていた。その事の矛盾を登美子は自分でわかっていた。だから、できるだけ早く父と別れて、ひとりで暮したかった。  母が死んで僅《わず》か半年にしかならないのに、父は栄子をうちに連れて来た。 「登美子、これからこの人がお前たちのお母さんになるんだからな、そのつもりでな……」  つれて来た父も父、やって来た栄子も栄子だと彼女は思った。彼女は二階の六畳から玄関わきの四畳半に移り、この家のなかで孤立の生活をしようと覚悟した。彼女は父と母との関係には何の疑いをも感じなかったのに、父と栄子との関係にはなまなましい性を感じて、からだが慄えた。栄子の化粧の濃い顔を見ると、まるで不潔な性の姿をまともに見せられた気がして、唾《つば》を吐きたかった。  登美子はそのようにして、家庭のなかでいつも性を意識していた。四畳半の部屋に孤立していても、頭の中はいつも父と栄子との気配を感じることによって、刺戟されていた。その嫌《けん》悪《お》すべき性と、外国映画で見る愛慾《あいよく》場面の感動的に美しい性と、どこがどんなに違うのか、十八歳の登美子にはよく解らなかった。しかし性はいつも、身近なところにあった。栄子に対する彼女の憎悪は、あるいは羨《せん》望《ぼう》の感情を裏返しにしたようなものであったかも知れない。そして彼女の憎悪の強さは、彼女の肉体の成熟を早め、肉体の成熟がさらに栄子への憎悪を強めるというような、一種の悪循環をつくっていたようであった。  彼女は閉めきった部屋のなかで、ひとりで煙草《たばこ》をすった。未成年者の喫煙だった。  唐紙の外に栄子の足音がちかづいて来た。煙草をくわえたままで登美子はその気配を聞いていた。 「登美子さん、御飯ですよ。おなかがすいたでしょ」  変に優しい口調だった。その優しさに彼女は反撥《はんぱつ》する。 「いま、食べたくないわ」 「あら、どうして? ……お父様が待っていらっしゃるわ」 「あとで食べるわ」 「そんなこと言わないで、いらっしゃいよ。一緒にたべた方がおいしいわ」  父と寺坂と、栄子と、一緒にたべる食事がおいしい筈《はず》はない。登美子は黙っていた。あの女がこしらえた不潔な飯なんか、食べたくないと思っていた。腹はすいている。 「おつゆが冷めますからね、早くいらっしゃい」  栄子は行ってしまった。それが栄子の弱さだった。産みの親ならば叱《しか》り飛ばしてでも連れて行くだろう。栄子にはそれができない。遠ざかって行く栄子のうしろ姿が唐紙をとおして眼《め》に見えるようだった。ひどい撫《な》で肩。だらしなくぶら下がったような尻《しり》の肉。あの女が知っている男は父だけではあるまい。ほかの男の体臭がまだ彼女のどこかに残っているようだ。父がなぜあんな女を選んだのか……。  登美子は立ってコートを着た。鍵をあけて部屋を出る。足音を忍ぶようにして玄関へ行き、靴《くつ》をはいて外に出た。冬の夜の空気が淀《よど》んで、喉《のど》に重かった。重くて冷たい。四ツ角をひとつ曲ればうらぶれた商店街だった。大売出しの景気付けの音楽が聞えていた。やかましいばかりで何の面白《おもしろ》味《み》もない音楽だった。  その街を登美子は怠惰な歩調で歩いた。そば屋は古めかしい細格《ほそごう》子《し》、中華食堂は窓々を原色の赤と金とで塗り立て、鮨《すし》屋《や》は紺ののれ《・・》ん《・》、大衆食堂は白ののれんに大きな文字を染め出し、喫茶店はモダンなガラス張り、パン屋の店はパンと洋菓子で一杯、つくだ煮屋の前には買物のおかみさんたちがひとかたまり立っていた。登美子はコートの襟《えり》を立てたまま、食堂にはいった。 「親子丼《おやこどんぶり》ちょうだい」  店の土間に置いた石油ストーヴが紫色のきれいな炎をあげており、店じゅうが石油くさかった。父は怒っているかも知れない。しかし父には弱味がある。栄子をうちに入れたということだ。それ以来父は娘に対して強いことが言えなくなった。登美子はそれを逆用し、父に対してわがままになった。それが正当な彼女の権利であり報復であるような気がしていた。  父は五十二。栄子は三十六。その年齢の差を登美子は不潔だと思っていた。父は肥《ふと》り過ぎている。食べ過ぎるからだった。毎晩酒を飲みながら、食卓の上にあるものを全部たべてしまう。あとは仕事のことばかり。二人の子供の教育には何の関心もなく、子供への愛情も有るか無いかわからなかった。登美子は父から愛されたという記憶がない。そのことも父に対する恨みの一つだった。  棚《たな》の上のテレビが歌をうたっている。街の大売出しの騒音がそれと二重になる。崩れた鶏卵の黄色、固い鶏肉《とりにく》、青白い葱《ねぎ》の幾《いく》重《え》にも楕《だ》円《えん》形をかさねた切り口。登美子はひとりきりで、何の興味もなしに丼の飯を食べた。怠惰な食慾《しょくよく》……。自分の近い将来に漠然《ばくぜん》とした不安を感じている。父と闘わなくてはならない。栄子はもちろん許すべからざる敵だ。しかし自分が父に依存して生活していることの矛盾。父の家をはなれては生きて行かれないことは解っている。遠からず父は登美子にむずかしい問題を提起して来るに違いない。……多分、結婚問題だ。  父は自分で造った印刷工場の社長だった。工員事務員あわせて三十四人。美術印刷の下請け仕事が大部分だった。ひところ父は景気がよかった。いくらでももうかって、嬉《うれ》しくてたまらなかった。ハワイへ遊びに行き、栄子に妾宅《しょうたく》を持たせ、酒を飲んで肥った。それから小型自動車を買って仕事に飛びまわった。  しかし中小企業の好景気は石鹸《せっけん》の泡《あわ》のようにはかないものだった。企業そのものが親会社の運命に左右される。のみならず親会社は不況の犠牲を下請け会社に転《てん》嫁《か》する。日本中のかね詰りはどこよりも先に中小企業を叩《たた》きのめした。手形の支払期限がどんどん引延ばされる。借金がふえる。利息の支払いに追立てられる。父は泥沼《どろぬま》の泥と闘うような立場に追込まれた。同業者が倒産する。銀行の貸出しが厳しくなる。労働賃銀はますます上がる。母が亡《な》くなったあと、父は妾宅の経費を節約する必要を生じた。だからたった半年ののち、栄子を本宅に入れてしまった。  父はひとりきりだった。心からの協力者は誰もいない。登美子の弟はまだ中学生だから、使いものになるのは十年以上も先だ。父は寺坂の才能を見込んで、彼を味方につけようと考えている。だから毎週彼をつれて来て酒食を共にし、家族的な待遇をしている。しかし彼はまだ他人だ。本心は何を考えているか解らない。犬や猫《ねこ》じゃあるまいし、酒と食事だけで一人の人間を本当に買収することなんて、出来るはずはない。  父は寺坂を徹底的に、絶対に父を裏切ることのない味方にしてしまうために、彼を登美子の婿《むこ》にしようと考えているらしい。登美子はそれを知っていた。栄子が一度、それらしいことを洩《も》らしたのだった。 「ねえ登美子さん、あなたに一度きいてみたいと思っていたんだけど、寺坂さんをどう思う? ……しっかりした、とてもまじめな、良い人だと思わない? ……あんな人、あなたのお婿さんにほしいわね。あなたももう十八だし、考えてみてもいい頃《ころ》よ。お父さまもそんな事、望んでいらっしゃるらしいわ」 「嫌よ、あんなひと……」と彼女は叩きつけるような言い方をした。「私のことは放《ほ》っといてちょうだい。自分のことは自分で考えるわ」  本当はもうひとこと、言ってやりたかった。(あんたは余計な口出し、しないでちょうだい。あんたなんか、他人じゃないの)……しかしそこまでは言いきれなかった。父は登美子の味方であるよりも、今ではもう栄子の味方なのだ。それだけに、登美子は孤独だった。  父と寺坂との食事は、まだ続いているらしかった。登美子は足音を忍んで自分の部屋にもどった。母の写真が壁にかけてある。母は裏切られた女だった。しかし父は何を裏切ったのだろうか。母の愛か、母の信頼か。それとも母の肉体を裏切ったのか。男が女の肉体を裏切るというのは、どういう事なのか。登美子にはよく解《わか》らなかった。  寺坂との結婚は、学校で歴史の時間に習った昔の人の政略結婚とおなじことだ、と登美子は思った。愛のない結婚。愛のない結合。……それが自分の肉体を裏切るということかも知れない。  唐紙の外に聞き馴《な》れない足音がちかづいて来た。足音がとまると、 「登美子さん……登美子さん」と言った。寺坂だった。「登美子さん、ちょっと話があるんです」 「話って、何ですか」登美子は机に坐《すわ》ったままで言った。 「開けていいですか」 「駄目《だめ》よ」 「ちょっと、お渡ししたいものがあるんです」  彼女は鍵をはずし、唐紙をあけると、一歩外に出て、うしろ手に唐紙を閉めた。この男には部屋の中をのぞかせることさえも嫌だった。 「お勉強ですか。お邪魔しましたね」  寺坂はあまり酔ってはいない。上着をぬいで、白いワイシャツ一枚だった。 「御用って、何ですか」  向いあって立つと、男の方がずっと丈が高くて、男の圧力のようなものが感じられた。登美子は自分を防禦《ぼうぎょ》する気持になっていた。 「これ、おみやげです」 「何ですか」 「大した物じゃないけど、宝石函《ほうせきばこ》です。取っておいて下さい」 「要らないわ。わたし宝石なんて持ってないの」 「宝石でなくても、何か大事なものを入れて置けばいいですよ。とても綺《き》麗《れい》なんです」 「だってわたし、頂く理由が無いわ。理由なしに他人から物を貰《もら》えませんから……」 「いや、理由はありますよ。僕《ぼく》はいつも社長から大変お世話になっていますから……」 「だったらお父さんにお礼なさったらいいわ」 「そんなに言わないで、まあ取っておいて下さい。別に意味はないんですから……」 「意味がないから頂けないのよ。折角ですけど……」 「困ったな。……あのね登美子さん、正月のお休みにどこか遊びに行ってみませんか。江ノ島とか、箱根とか」 「わたしいろいろ予定があるんです」 「そうですか。一日ぐらい都合して下さいよ」 「折角ですけど、わたし駄目なんです。頭が痛いから、失礼するわ」  登美子は追っ払うような言い方をすると、部屋の中にはいり、寺坂の目の前でぎっちりと唐紙に鍵をかけた。心臓がどきどき鳴っていた。机の上に、今日の午後見た映画の解説の紙がひろげてあった。寺坂へのこの拒絶と、あの映画の愛慾の姿の美しさへのあこがれと、二つのものが、自分の心のなかで、どういう関係になっているのか。それは登美子にはまだ理解し兼ねることだった。  不安定な浅い眠りは、ながくは続かなかった。駅にとまるたびに眼をさまして、江《え》藤《とう》は曇った窓《まど》硝子《ガラス》を指でぬぐい、駅名をたしかめ、(あと何時間……)という計算をしながら、煙草をすった。列車は千数百人の眠りを乗せて懸命に走っていた。網棚はリュックサックとスキイで一杯になり、乗客は席にあふれて、通路にまで踞《すわ》っていた。  向いあった席で、窓に頭をもたせかけて、大橋登美子が眠っていた。赤い毛糸編みの子供のような帽子、白いスエーターに空色のスラックス。今は何も考えていないだろう。彼女の感情も感覚も、何もかもが眠っている。赤い細い血管に包まれたいろいろな女の内臓までも眠っているに違いない。江藤はチョコレートの包み紙で窓ガラスの湯気を拭《ぬぐ》う。ほのかな白い縞《しま》が窓の外の闇《やみ》のなかをながれて行くのか見えた。そろそろ雪国にはいるところだった。  スキイ旅行の予定は四日間。法律の勉強に没頭して来たこの数カ月の、疲れ休めという口実を江藤は自分に与えていた。しかし体は旅に出ても、頭脳は法律を考える習慣から解放されはしない。眼《め》にふれるものことごとく、法律問題であり、法律の対象になって見えた。窓の外をながれて行く雪国。この地方を統治するのは地方自治法三百十九個条。自治法施行令二百二十四個条。それから地方財政法があり地方公務員法があり、その他思い出せないほど多数の法律。さらに行政法のなかの、たとえば都道府県警察法、道路交通法、河川法、公共用地の取得に関する措置法。……  この列車は国有鉄道法によって運営されているが、鉄道の建設のときには行政法のなかの土地収用法が適用された筈だ。(土地を収用し又は使用することのできる公共の利益となる事業は、左の各号の一に該当するものに関する事業でなければならない。……道路法、河川法、砂防法、運河法、……日本国有鉄道法第何条の業務の用に供する施設、鉄道建設公団が設置する施設、地方鉄道法による軌道施設、港湾施設、放送法による施設、電源開発のための施設、消防施設、水防施設、学校施設、公園施設……)  しかし(土地)とは何だ。地球の一部分にすぎない。河川や海、空気や日光と同じような自然物である。自然物であるところの土地を個人が排他的に所有するということ自体が、便宜的なものであり、その土地を収用して国が所有するということだって、便宜的なものだ。土地は売買される。しかし同じ自然物でも川や海、日光や空気は経済行為の対象になってはいない。……いや、必ずしもそうとは言えない。東京の賃貸しアパートでは、日光のよく当る部屋は高くて、北向きの部屋は安い。日光はもはや経済的価値に換算されているのだ。  それが経済的価値をもつようになったのは、人口過剰のためだ。この列車だって同じではないか。隣の二等車は座席指定になっている。自由に坐れるほど席が空《す》いていた時分には、座席に価値はなかった。ところが今では通路に踞るほど客を乗せておいて、国鉄は別に座席指定の車輛《しゃりょう》をつくり、特別料金を取っている。本来から言えばそんな料金を取るということの法的根拠は無い筈《はず》だ……。  となりの座席にいた青年が立ちあがったので、登美子は眼をさました。顔を両手で掩《おお》いながら小さく欠伸《あくび》をし、窮屈に曲げていた体を伸ばし、足を伸ばす。その足が江藤の足にふれたとき、彼女はうすく笑った。笑いのなかに、二人だけの秘密をたのしんでいるらしい彼女の情緒を、江藤は感じていた。 「何時、いま……」 「六時まえだ」 「何時に着くの?」  これは女の会話だった。時間の観念がないというよりは、旅の予定をすべて男にまかせているのだった。信頼しているというほどはっきりした感情ではない。いわば女の怠惰であり、怠惰を楽しんでいるようでもあった。  この旅行について、江藤賢一郎は登美子とのあいだに、何の約束もしてはいなかった。ただ旅行の目的と目的地をきめて、その打合せ通りに出て来ただけのことだ。それ以外の約束はしなかったし、約束することを避けようとする気持もあった。  正直なところ、彼が興味をもっているのは大橋登美子ではなくて、登美子が女であるという、その事だけだった。彼女が女であることには、抵抗し得ないような誘惑を感じる。けれども大橋登美子という人格が、邪魔だった。だから彼は今日まで一度も愛の告白や愛の誓いを与えなかったし、一通の手紙をも書かなかった。鳥や獣の性が自然であり自由であるように、人間の性も元来は自然であり、自由であった筈だ。人間の性関係を拘束するものは、人間の人格であり、人格と人格とのあいだの関係を規律する法律と道徳である。それさえ無ければ江藤は、もっとずっと前に、登美子とのあいだに深い関係をもっていた筈だった。  登美子は窓のふちに載せてあった蜜《み》柑《かん》をとって、食べはじめた。 「すこしおなかが空《す》いたわ」  蜜柑をたべる女の赤い唇《くちびる》を、江藤は黙って見ていた。一房の袋が破れて果汁がスエーターの胸にこぼれる。登美子は急いでハンカチをとり出し、胸を拭《ふ》く。ふくらんだ丸い胸。拭くたびに水枕のように揺れ動く。その下のくびれた胴。スラックスの中に一ぱいになっている腹と腰。スラックスの足の岐《わか》れ目の布の皺《しわ》。おれはまだこの女と何の約束もしてはいないと、賢一郎は思っていた。女はゆっくりと蜜柑の袋をしゃぶる。憂《うれ》いなき姿だ。なぜそんなに安心しているのか。彼はその事が不思議だった。自分の方が却《かえ》って危険を感じる。(これが女の罠《わな》ではないだろうか……)  夜明けが近づき、車輛の中はいくらか寒くなり、眠っていた若いスキイヤーたちがもぞもぞと動きだす。窓の外にかすかな明るみが流れ、もはや一面の雪野原だった。今夜はこの女と二人きりだと、賢一郎は思っていた。それまでに、あと十五六時間ある。 「わたしねえ先生……」と登美子は顔を近づけてささやいた。彼女はときどきそういう言い方をした。その呼び方は、彼が家庭教師であった頃からの習慣だった。「わたしね、いま、縁談があるのよ。おかしいでしょう」  そして相手をそそのかすように笑った。 「縁談? ……ふむ、そりゃあまあ、当り前だろうな」と賢一郎は皮肉な言い方をした。 「あら、どうして笑うの」 「笑わないよ」 「笑ったじゃないの。失礼ね」 「それで、君は行くつもりかい」 「誰《だれ》が行くもんですか。わたしまだ十八よ」 「早い方がいいよ、忠告しておくけど……」 「嫌《いや》な言い方ね。凄《すご》く嫌だわ。わたし絶対行かないわよ」 「だって良い人なんだろう」 「政略結婚よ」 「ふむ。古風なはなしだな。すると相手はよほどかね持ちなんだね。贅沢《ぜいたく》ができて、良いかも知れんよ。サラリーマンの女房《にょうぼう》になったって、一生贅沢なんか出来ないからね」  結婚というのは、二人の性的結合の形式だ。それだけの事なら、相手が誰であろうと、大した違いはない。しかし人間の場合にはそれから後に、何十年と続く二人の生活がある。それが問題だ。そしてその生活を支えて行く原動力となるものが、二つある。一つは経済力。もう一つは愛情の支え。経済は眼に見えるもの、具体的なものではっきりしているが、二人の愛情の在り方となると、生涯《しょうがい》の謎《なぞ》だ。謎だから面白《おもしろ》いが、人生のあらゆる苦悩もそこから生ずる。  してみれば、愛情という捕えがたいものを基準にして結婚を考えるよりも、経済という具体的なはっきりしたものを基準にして結婚を考える方が、賢明でもあるし間違いが少ない。登美子は金もちの青年を選んで結婚する方が得だし、(おれだってブルジョアの娘を見つけて結婚する方が得だ)と賢一郎は思っていた。  こういう考え方を、世間の純情な人間は一概に軽蔑《けいべつ》する。尾《お》崎《ざき》紅葉《こうよう》の金色《こんじき》夜《や》叉《しゃ》のヒロインの思想だと言う。明治時代はまだ物慾《ぶつよく》を軽蔑していられた。しかしこの行き詰った現代において、誰が物慾を軽蔑することができるだろう。人民は平等だと云《い》う。貴《き》賎《せん》貧《ひん》富《ぷ》の差別はないと云う。そんなことは美辞麗句にすぎない。現実の社会では貧富の差ははっきりしているし、その差が即《すなわ》ち貴賎の別でもある。むしろ明治以来、貧富の差がもっとも大きくなっているのが現代ではないだろうか。  富める者だけが安心して暮していられる。貧しい者は自分の命を支えるだけで四苦八苦しなくてはならない。(埴生《はにゅう》の宿もわが宿、玉の装いうらやまじ……)そんな暢気《のんき》な考え方は現代には通用しない。  われわれは資本主義の社会に生きているのだ。国家の政治も法律制度も経済機構もすべて資本主義的に構成されている。それが良いか悪いかは別として、厳然たる事実なのだ。このような社会の中で、できるだけ摩擦の少ない生き方をしようとすれば、自分自身も先《ま》ず物質的な実力を持たなくてはならない。左翼学生三宅はこうした資本主義社会に、正面から闘いを挑《いど》もうとしている。三宅の敗北は眼に見えている。まことに勇壮ではあるが、悲劇的、乃《ない》至《し》は喜劇的な男だと、賢一郎は思っていた。 「そうじゃないのよ。私はね……」と登美子は彼の方にかがみこんで囁《ささや》いた。「お婿《むこ》さんを貰えって言われてるの。それが貧乏青年なのよ。……問題にならないわ」  この旅行に出てくる前の晩、登美子は父が栄子を相手に酒を飲んでいるところへ行って、 「スキイに行くんだから汽車賃と宿賃とちょうだい」と、説明抜きで用件だけを言った。 「スキイか。勉強の方はかまわないのか」 「大丈夫よ。……三万円あればいいわ」 「誰と行くんだ」 「お友だち七八人で行くの」と彼女は嘘《うそ》をついた。 「ふむ……男の人も行くのか」 「お友達のお兄さんと、弟も行くんでしょう」と、また嘘をついた。  父は栄子に言いつけて紙入れを持って来させ、盃《さかずき》の酒をひと口飲んでから、 「お前に相談があるんだ」と言った。「折入っての相談だ。ひとつ、お父さんの頼みを聞いてくれんか。なあ……おれは今までお前に、無理なことは一度も言ったことはない。また、お前を不幸にするようなことも、決して考えてはおらん。わかるか……?」 「寺坂さんの事でしょ」と登美子は先廻《さきまわ》りして言った。「その事だったら、絶対おことわりするわ」  父は面白くない顔をした。それから静かな口調でしつこく言い続けた。いま直《す》ぐというわけではない。婚約だけして置いて、あとは適当な時期まで仲良くやっていてくれればいいのだ。あの男は非常に見込みがある。第一誠実だし、心の温かい人間だ。仕事は実に良くできる。あんな男はいまどき珍しい。それでいて決して威張ったり偉ぶったりする所がない。私はあの男を手離したくないんだ。寺坂をお前の婿に迎えることができれば、宝の山を一つ掘り当てたようなもんだ……。  父の言うことは通俗で、父の身勝手ばかりだった。 「私はあの人は嫌《きら》いなのよ。見ただけで嫌いなの。嫌いなものはどうしようも無いわ」  そして登美子は父と口論した。私の結婚は私の自由だとか、お父さんのお世話にならないとか、若い女の感情で口から出まかせなことまで言ってしまった。父は激怒し、スキイの旅費なんかやるものかと言い、娘に盃を投げつけた。  登美子は自分の部屋に逃げこみ、唐紙《からかみ》に鍵《かぎ》をかけてから、泣いた。口惜《くや》しさと憤《いきどお》りとで、やけくそになっていた。この家をとび出して、自分で働いて生きて行くことも考えた。しかし何よりも先ず、江藤賢一郎とスキイに行く約束が実行できなくなったのが、一番辛《つら》かった。洋服や小型テレビや写真機を売り払っても、三万円になるかどうか解《わか》らなかった。  三十分以上も経《た》ってから、忍びやかな足音がきこえた。それから二枚の唐紙のあいだにかすかな音がして、一万円紙幣が外から一枚ずつ差しこまれた。 「登美子さん、これ、スキイのおかねよ。気をつけて、行っていらっしゃい」  それは栄子の好意だった。しかし登美子はそれさえも、栄子が父と共謀して自分を懐柔しようとしているのだと感じた。けれども彼女はそれを受取ることの屈辱を意識しながら、我慢して、そのかねを受取った。何よりも何よりも、江藤と二人きりでスキイの旅に行きたかった……。    列車を降りてから乗合バスで一時間半。屋根に積った雪に押しつぶされたような見すぼらしい温泉町。軒から下がった長い氷柱《つらら》。凍った道。凍った干し大根。着ぶくれた田舎町の女たち、子供たち。ゲレンデはスキイをかついで、更に坂道を二十分もあがった所だった。  積雪二メートル。曇り空で、風があった。粉雪が縞《しま》になって視野を流れる。ここまで来て、賢一郎は登美子を愛していた。それは一時的な愛であるかも知れない。しかし異性に対する男の愛とは、本来一時的なものに過ぎず、また一時的であってもいいのではないかと彼は思っていた。それは男のエゴイズムだ。しかし人間はもともとエゴイストであって、エゴイストであることは普通なことに過ぎない。愛と自己犠牲とは別のことだ。愛は心の衝動であり、自然発生的なものであり、それ自体が一つのエゴイズムであるに違いない。愛と道徳とは別のものであり、愛が道徳的でなくてはならないという理由はない。……  登美子は思ったよりスキイが上手だった。雪に抵抗し、スキイと一体になって滑るために、若いしなやかな女の体は緊張し、彎曲《わんきょく》し、跳躍し、無限に変化する姿態を見せる。肉体の運動にともなって彼女の感情は昂進《こうしん》し、しきりにしゃべり、笑い、そして大胆な滑降や旋回をこころみ、転倒し、雪まみれになった自分をよろこんでいるのだった。  危険な時間がちかづいて来る。冬の日は短く、粉雪の夕方はさらに暮れるのが早い。賢一郎は滑って行く登美子の中腰になったうしろ姿を追うて、自分もゆっくりと滑りながら、この女は自分の危機を知っているのかしらと思った。知らないでいるとすれば感受性の不足であり、知っているにしては、まるで恐れを見せない。一番悪く解釈すれば、もはや幾度かの体験をもっているのかも知れない。登美子の性格と不用心な態度から考えれば、そういうことも無かったとは限らない。しかしまだ十八だ。むしろ原因は彼女の無知であると考えてもいいだろう。  無知であるとすれば、登美子は恐れ、騒ぎ、抵抗するかも知れない。もしそうであれば、何事もなくて済むと、賢一郎は思った。それで自分も助かる。……実を言うと彼自身、こわかったのだ。登美子は自分にとって一つの罠だ。その罠に、やみくもに自分を投げこんでみたい思いと同時に、この誘惑から無事にのがれたい気持もあった。  リフトに乗って、彼《かれ》等《ら》はゲレンデの頂上まで行った。そこは急傾斜で、二筋の尾根が並んで走り、その間は深い谷になっていた。ゲレンデは谷の下の平地まで続く。いきなり強い風が吹きおこり、それと同時に横なぐりの雪が来た。突然に襲ってくる山の吹雪だった。ほとんど数メートル先も見えない。 「おい、これは危ないぞ」と江藤は強い声で言った。「すぐ降りるんだ。いいか。俺《おれ》の言う通りにしろよ。先が見えないから全制動をかけて、ゆっくり、まっ直ぐに行くんだ。離れるなよ。眼鏡ははずせ。君先に行け。右は谷だからな。谷側へ行くんじゃないぞ。さあ行け。一番下まで、ゆっくり行くんだ……」  まだ三時すぎであったが、吹雪の厚みの下ではほとんどうす闇《やみ》のようだった。雪の粒は大きくて、激流の泡《あわ》の中に巻きこまれたようだった。視界はゼロ。スキイヤーの姿はひとつも見えず、山も谷も森も空も、一切が消え去って、この見知らぬ山の奥に、賢一郎と登美子と二人だけが閉じこめられていた。いま登美子は緊張し、押し黙って、命がけで滑っていた。言われた通りの全制動姿勢で、スラックスの股《また》をひらき、腰をおとし、頭を下げ、肩を上げて、必死だった。賢一郎は彼女のななめうしろに居てそれを見守りながら、いまはこの女を愛していた。それは一時的な愛、衝動的な感情であったかも知れない。けれども彼は自分の衝動的な愛に心の充足を感じていた。  吹雪は頬《ほお》を打ち、眉《まゆ》をぬらし、襟首《えりくび》につめたく流れこみ、呼吸は切迫していた。いまどこまで降《くだ》って来たのか、まるで見当もつかなかった。……いきなり登美子が雪の中にべったり坐《すわ》ってしまった。 「どうしたんだ」と彼は叫んだ。 「待って、ちょっと待って、足が折れそうなのよ」  賢一郎の顔を見上げて、女は泣いていた。顔がくずれ、唇が慄《ふる》え、雪まみれの肩が喘《あえ》いでいた。全制動姿勢がもう続けられなくなったのだ。賢一郎はそのとき自分の命の危険を悟った。このままでは死ぬと思った。彼は手袋をしたままの手で女の頬をしたたかに打った。 「ばか。立て。死んでもいいのか……。ほうって置いて行くぞ。……立て」  登美子はまた立ちあがった。彼女の顔に恐怖の色があった。そしてよろめきながら滑りはじめた。そのとき賢一郎はこの女の素直さと必死に努力する心とを、愛していた。ひとりの女を彼は支配していた。ひとりの女がこれほど従順に彼の命令にしたがったのは、始めてだった。それが女の罠であるかも知れない。この愛は一時的なものだ。ゲレンデの下まで辿《たど》りつき、無事に宿に帰れば、それっきりで過ぎてしまう幻のような愛の姿だ。けれども彼は女を愛し、女を助けなければならないと思っていた。  それは義務感ではない。ただ一つの心の衝動であった。東京をはなれるまで、彼は登美子を愛したことは一度もなかった。それが彼の本心であり、現在の愛は愛ではなくて、歪《わい》曲《きょく》された異常心理であるかも知れない。 「もっと左……もっと左だ」と彼は叫んだ。  登美子は傾斜にしたがって右に下がろうとしていた。右は谷だ。谷の吹きだまりに踏み込んだら、出られなくなるに違いない。彼は右の腕で女の左の腕をとらえ、左の方に連れもどした。そのとき僅《わず》かばかりの吹雪の切れ目が通り過ぎた。  その数秒間の切れ目によって、これから降って行く先の地形がおぼろに見すかされ、リフトを支える鉄柱の列が見えた。鉄柱の列に添うて行けば、一番下に二三軒の食堂があり、下の町に降りる坂道の上に出られる筈《はず》だった。 「よし、もう大丈夫だ。ゆっくり行こう」と彼は言った。肌《はだ》着《ぎ》が汗でびっしょりとぬれていた。僅か十二三分であったが、彼は命の危機をくぐり抜けた疲労の重さを感じていた。  夜になっても吹雪はずっと続いていた。廊下の雨戸の細い隙《すき》間《ま》で風が鳴っていた。新雪は朝までに六七十センチも積るに違いない。灯を消した部屋の空気の冷えて行くのが解るようだった。  賢一郎は思いがけない自分を感じていた。自分でない自分、新しい別の自分を感じていた。あれは一体何であっただろうか。平凡なことだし、最も自然なことでもある。ただ自分は最初の経験におどろいているだけのことだ。始めて酒を飲んだ人は、酒の味におどろく。始めて飛行機に乗った人は、空を飛んでいる自分におどろく。……それだけの事だ。  それだけの事には違いないが、感情は乱れていた。そういうものが有るに違いないとは思っていたが、現実に感じたものは予想をはるかに越えていた。そして彼は改めて、あれが自分にとって避け難《がた》い罠《わな》であることを知った。避け難いからこそ、避けなくてはならない。いまは自分が大事だった。  だが、あれは果して何であったろうか。あの事に一体どれほどの意味があるだろうか。意味なんか有りはしない。人間がその事に特殊な意味を考え、特殊な約束をつくっているだけのことだ。時を経て、両方がその事を忘れてしまえば、それっきりのことだ。それを一々覚えていなくてはならないという理《り》窟《くつ》はない。誰も知らないことだ。知っているのは二人きりだ。おれだってもう二十二。当然経験すべきものを経験したというだけのことだ。  何かを乗り越えてしまった。確かに乗り越えたのだ。そのためにこれから先、自分がどうなるという訳のものではない。けれども、今まではただ類型だけしか知らなかった。類型だけをあこがれていた。あるいは実体を知らないので類型を通して実体を空想していた。その実体を、いま知ってしまったのだ。あれは一体何だ。ほとんど人間を超えたもの、はるかに想像を超えたもの、そして眼《め》が眩《くら》むような不思議なものだった。……  自分のことなら解っている。また自分を基準にして、一般に人間というものをも理解していた。しかしその理解が、どんなに幼稚なものであったかということを、賢一郎は改めて知らされた。女性というものはまるで想像もつかない、奇怪なものだった。その奇怪さに、彼はまだ呆然《ぼうぜん》としていた。あれは一体何であっただろうか。人間というものを、彼は輪郭によって知り、輪郭にふれて知っていた。しかしあれは輪郭ではなかった。もっと別のもの、もっと内部のもの、もしかしたら内臓であったかも知れない。直接に眼で見ることのできない、最も深く内に秘められたもの、そして生涯《しょうがい》人の眼にふれることのない、人間の内臓、女性の内臓であったような気がする。  彼は後悔を感じていた。なぜそれが後悔であるかは解らない。何か本能的な後悔であった。そして自分の体がもはや元の清潔さに戻《もど》ることのできない、絶対的な穢《けが》れを受けてしまったような気がした。いまは、登美子を愛してはいない。むしろ彼は嫌《けん》悪《お》を感じていた。しかしそれは登美子の責任ではなかった。登美子はただ、生れた時からそのような存在であった。そして女というものが、そのような存在であることが、彼は恐ろしかった。  翌朝、吹雪はやんで、うす曇りの静かな日であった。二人はスキイを担《かつ》いで坂道をのぼって行った。江藤は自分を元気づける為《ため》に口笛を吹いた。つまりあの事の意味をできるだけ小さく評価しようと努力していた。新雪は五十センチも積り、登り坂は歩きにくかった。  責任を回避しようというのではない。登美子は彼のうしろから息を切らしながらついて来る。事実はどこまでも事実だ。責任はどこまでも責任だ。しかし一体あの事にどんな責任があるというのか。一つの花が咲き、花が花粉を散らす。他の花が花粉を受け、そこに実を結ぶ。自然界に責任という言葉は存在しない。そして人間もまた自然界の一部分に過ぎない。人間の牡《おす》があり、人間の牝《めす》がある。その両者のあいだに結合がおこる。それが責任と呼ぶべきことであろうか。  責任とは、人間が造った観念にすぎない。責任という言葉によって、利害関係を調節しようとするのだ。しかし牝と牡とのあいだに本質的な利害関係と呼ぶべきものが有るだろうか。要するに責任とは、性関係と経済関係とが結びついた場合のことだ。純粋なる性関係はむしろ自然現象であって、自由であり平等であり、そしてまた極めて平凡なことだ。ゲレンデに人はすくなかった。リフトは二人を乗せて、新雪に埋められたきれいな斜面の上をからからと登って行った。頂上に近づいたとき、左手の谷に降る急な坂の下の方に、十五六人のスキイヤーがかたまっているのが見えた。何か事故があったらしかった。  賢一郎はいま、独りきりになりたかった。自分に責任があるとは思えないが、どこまでもついて来る登美子が、暗黙のうちに彼の責任を追求して来るように思われて、憂鬱《ゆううつ》だった。昨日までの彼ならば、嫌《いや》だと思ったらいつ何時《なんどき》でも、登美子を振り放し、置き去りにしてしまうことができた。つまり赤の他人だった。しかしいまは、それができなかった。なぜか、それができなかった。そのとき賢一郎は、自分が既に罠《わな》に足をからまれてしまったことを知った。それは責任感というべきものなのか。執着というようなものなのか。それとも、自分ではそうとは思えないが、人情とか愛情とかいうべきものなのか。愛情ならば、喜びが感じられる筈だ。しかし彼は憂鬱で、登美子の姿を見るのが嫌だった。  リフトを降りると、眺望《ちょうぼう》は大きくて、そこだけ日の当っている遠い山脈が、白く光って見えた。賢一郎は足踏みして、「さあ、行くぞ」と言った。女を振り捨てるような言い方だった。振り捨てても振り捨てても、あの強烈な経験から逃れることはできそうにもなかった。  新雪は柔らかくてスキイは埋まり、回転する踵《きびす》のうしろから雪けむりが舞上った。彼は雪と闘っているようだった。同時に登美子と闘っていたのだ。負ける訳には行かない。負ける理由もない。……降って行く右手の谷の斜面に十人あまりのスキイヤーが集まっていた。誰かが怪我《けが》をしたらしい。賢一郎は急旋回して谷に向った。そこは新雪がさらに深いようであった。ふりかえると少し遅れて、用心ぶかい滑り方で登美子があとをついて来るのが見えた。  そのあたりはかなり急な斜面で、谷筋の森が黒く茂っている、すぐ上だった。新雪は吹きたまって七十センチを越えている。人々の輪のなかに、倒れている人の姿があった。怪我人ではなくて、凍死者である。その人はなかば雪に埋まっていたので、発見した人たちがまわりの雪を掻《か》きのけたらしかった。従って男の体は雪の穴の窪《くぼ》みの中にうつ伏せになっていた。  その男の体の下に、赤いアノラックを着て、水色の毛糸編みの帽子をかぶった女の体があった。雪にまみれた顔ははっきりとは見えないが、まだ若くて小《こ》柄《がら》だった。彼女は膝《ひざ》を折り、肱《ひじ》を曲げて、雪の上にうつ伏せに小さく屈《かが》まり、彼女の背には男の脱いだアノラックが掛けてあった。そして男は両腕で女の背を抱きかかえるようにして、折り重なっていた。昨日の夕方のはげしい吹雪に方角を見失い、谷筋に迷い込んだものと思われた。  二メートルと離れない所に、彼《かれ》等《ら》のスキイが雪に突き刺してあった。それは男が捜索者のための目印に立てて置いたものに違いない。彼は死を覚悟していたのだ。男のスキイが二本。そして赤く塗った女の短いスキイは一本しかなかった。おそらく女は過って片足のスキイを谷に流してしまい、吹雪のなかから脱出することが出来なくなったのだ。  そのとき男は死を決意し、自分のアノラックを脱いで女に着せかけ、更に女の背の上に自分の体を伏せて、いくらかでも女の体温の喪失を防いでやろうとしたものであろう。二人の年齢ははっきりとは解らないが、男は三十五六、女は二十二三。妻というよりは、妹か、愛人か。その関係は知る由《よし》もなかった。死顔は新しい雪の底で、すこし黒ずんで見えた。  登美子は江藤のそばに肩を寄せてくると、小さな声で、 「心中なの、先生……」と、ばかなことを言った。  こんな心中があるものか。女は自分ひとりで死んでいる。男のために何もしていないし、この姿から、男に対する愛情のひとかけらも察することはできない。そして男はあの吹雪の中で自分のアノラックを脱いでいるのだ。自分ひとりならばこの谷から脱出することも出来たに違いない。しかし彼はなぜかそれを敢《あ》えてしなかった。女は男を死にみちびき、男は覚悟して、みずから女のために死んだのだ。……  賢一郎はその場をはなれて雪の斜面をのぼりながら、心に衝撃を受けていた。死は、あまりに遠くて、自分には無縁のことのように思われていたが、それがいま急に、切迫した自分の事として感じられた。恐らくはあの男にとっても、死は無限に遠いものであったに違いない。その死が、吹雪のなかで突然襲ってきた。たった一つの小さな原因は、女があやまって片足のスキイを流してしまったという事であった。あの女が男を死にみちびいた。そして男は何という素直さで死を受け容《い》れたことか。けれども彼の場合、死ははたして正しい事であっただろうか。……その事が賢一郎にとっては一番大きな疑問であった。  彼のうしろから登美子が喘《あえ》ぎながら登ってきた。 「ちょっと待って。待ってよ。ねえ先生、わたしショックだわ。凄《すご》いショック。だってあの人、ほんとに愛していたのね。すばらしいじゃない? ……あの女のひと、幸福だわ。もし私があんなになったら、先生どうする?……私と一緒に死んでくれる? ……死なないでしょう。一人で逃げるでしょう。……ねえ、どっちさ」 「おれはね、先《ま》ずあんな事になる前に、ちゃんと用心するよ」  それは答えになっていない。登美子は直感的に男の心の冷たさを知っていた。江藤には登美子と一緒に死ぬ気はない。彼女のために自分のアノラックを脱ぐつもりは無かった。だいたいあの男は、なぜ死ななくてはならないのか。死ぬことにどれだけの意味があったのか。彼が死んだことによって女が救われたというのならば、話は別だ。彼が死んでも、彼が助かっても、女は死んだに違いない。してみれば男の死は犬死ではなかったか。  それはただ連れの女を見捨てないというジェスチュアのようなものだった。おそらく彼は中世の騎士道のようなもの、命をすてて婦人のために尽すという、古風でロマンチックな美を心に描いていたに違いない。彼は美のために死んだ。美のために生涯を犠牲にした。それはあの男の自己満足に過ぎなかった。登美子はそれを女性の立場から賞讃《しょうさん》している。ひとりの男が自分のために命をささげてくれたということは、女にとっては最大の満足であるだろう。けれどもそれは同時に、女というものが持つ最も凶悪な慾望《よくぼう》であり、最も大きな残忍さであるかも知れない。  おれは死なない。死んでたまるものか……と江藤は思っていた。おれの命は、登美子ひとりを助けるために死んでもいいような、そんな安っぽい命ではない。おれには無限に大きな未来がある。おれは多くの人たちから将来を期待されているのだ。母はおれの未来にすべてを賭《か》けている。父の遺言によっておれに学費を出してくれている伯父も、おれの将来に期待をかけている。もしかしたら伯父は、彼の三女の結婚の相手としておれを考えているかも知れない。父の異母兄にあたる伯父は製陶会社の社長で、数億の資産をもっている。……  この夏から秋にかけて、彼は司法試験を受ける予定だった。合格すれば判事検事にもなれるし、高級官吏にもなれる。大学に残って教授の地位につくこともできる。その自負と野心とが彼をエゴイストにしていた。登美子のような平凡な女のために死ぬことなどは、考えられないほど愚かなものに思われた。昨夜のあれは、ただあれだけのことだと、彼は強《し》いて自分を抑えていた。女の罠にかかってはならない。  谷の斜面を登りきったところで、彼はゲレンデを進んで来る六人の一群を見た。スキイヤーではなかった。輪カンジキをつけた警官と、検《けん》屍《し》の医者と、四人の人夫とであった。人夫は二つの小さな雪橇《ゆきぞり》を曳《ひ》いていた。凍死者の体を収容する警察の人たちであった。 「下まで行って、何か飲もうか」と彼は言った。「君さきに行け」  登美子は腰を曲げてストックを突くと、器用にすべりはじめた。江藤はそのあとから、新雪の上のゆるやかな回転をたのしみながら、やはりあの凍死者のことが頭から離れなかった。  あの男は女を愛していたらしい。愛のために身をほろぼしたのだ。しかしあの男の愛はどこへ行ったのか。その愛はひとりの女まで行き、それが行き止りだった。何の発展もない愛。愛が彼を犬死させ、愛が彼を破滅させてしまった。愛もまた彼等とともに凍死したのだ。その愛は二人を結びつけ、二人の心を充《み》たしたかも知れないが、しかしそれだけで終っている。  そんな人生があってもいいだろうか。社会のためにも、自分の生涯のためにも、大《おお》袈裟《げさ》に言えば人類のためにも、何の役にも立たなかった愛。むしろ彼の人生を破壊してしまった一つの愛。愛におぼれた結果が、あのみじめな死だった。  女が罠ではない。女への愛が罠だ。女を求める意慾は否定し得ない。しかし愛とは一体何だろうか。そんなものがなぜ肯定されなくてはならないのか。社会を紛糾させるもの、社会の秩序を破壊するものの大部分は、人間の愛ではないだろうか。……  登美子はオレンジ色の派手なアノラックを着て、ゆるやかな斜面をすべっていた。滑りながら、彼女もあの凍死者から受けた心の衝撃から離れ得なかった。彼女にとってはあの二人の死の姿は、この上もなく崇高なもの、むしろ神秘的なものにさえ思われた。愛は死を超えるという、その事実を彼女は眼《ま》のあたりに見たのだった。見たものは、信じないではいられない。登美子は彼女の愛の理想を具体的に見てしまったのだ。  彼女は家庭的に行き詰っていた。父に対する絶望、父の妾《めかけ》との同居、そして父の利害関係から出た彼女の縁談。……家庭のなかで登美子は孤立無援のすがただった。昨夜、雨戸の隙《すき》間《ま》で唸《うな》る吹雪の音をききながら、みずから望んで江《え》藤《とう》に身をまかせたのは、愛というよりはむしろ一つの脱出行為であったかも知れない。家庭生活の行きづまりからの脱出、自分自身からの脱出……。自分の力だけでは脱出できないので、江藤賢一郎の力を借りて脱出を試みたもののようであった。  それは性的行為であると同時に、救いを求める行為、人生の新しい展開を期待する行為、女らしい無数の計算を含めた行為であった。彼女は計算を意識してはいない。むしろ本能的な聡明《そうめい》さというべきものであった。けれども本能的な聡明さというものは、自分を知って相手を知らない。自分の計算はあるが相手の心を計算する術《すべ》はもたない。登美子はあの二人の凍死者の姿から、死を越える愛、極限の愛の理想の姿を見ていたが、江藤賢一郎は同じ凍死者の姿から、愛のむなしさと愛の苛《か》酷《こく》さと、そして自分の前に立ちはだかる恐るべき愛の罠とを見たのだった。  その二人の心の喰《く》い違いは、このままで進んでいけば、いつかは必ず破《は》綻《たん》を招くようなものであった。賢一郎は今からそれを警戒していたが、登美子はまだ気がついてはいなかった。 三  二月のはじめ、学生たちのストライキが起った。大学は学年末の試験期であった。左翼系の学生たちはわざとその時期を覘《ねら》って、試験をボイコットし、学校当局を窮地に追込もうという作戦を立てたものらしかった。名目は授業料値上げ反対、学生自治権の拡大要求、大学の資本主義的運営反対……というようなことであった。  ストライキの第一日目。江藤賢一郎は授業がないので、自宅から一歩も出なかった。第二日目、試験を受けるために登校。しかし左翼学生たちは試験場の入口に机や椅子《いす》を積みかさね、バリケエドを造り、学生を一歩も中に入れてくれない。学生と学生との押し問答、小さなこづきあいが至るところで起った。それに対する大学当局の処置はきまらない。うやむやのまま半日を過す。  江藤は図書館にはいって独りで勉強した。  第三日目。前日と同様。大学側は貼紙《はりがみ》の掲示をして、試験は予定通り施行すると言明したが、試験場は左翼学生に占領されて、先生たちも入ることができなかった。学生側の首脳部は団体交渉を要求していたが、総長以下、大学側は応ぜず。一日を無駄《むだ》にすごす。江藤賢一郎はこの日も図書館にこもった。  学生は総数約二万。そのうち騒いでいる者は約一千名。他の大学からの応援学生約一千名。二万のうちの一千は二十分ノ一だ。二十分ノ一が二十分ノ十九の意志を奪い、彼等の受験を妨害しているということが、江藤には納得できなかった。それは政治で言えば専制政治であり、暴力政治であると思っていた。図書館の外を赤旗をかかげた学生たちが走りまわっていた。葉のない銀杏《いちょう》並木、凍った池、拡声器で叫ぶ学生の単調な怒号。一度、三《み》宅《やけ》の姿を見かけた。髪をふり乱し、ジャムパーの前をはだけ、無精《ぶしょう》ひげを伸ばし、両手をポケットに入れて、学生の群れをかき分けながら、大股《おおまた》に濶《かつ》歩《ぽ》していた。そのとき江藤は三宅の胸中をはっきり見たような気がした。左翼的ヒロイズムと悲劇的ジェスチュア。わざと大げさな身ぶりをする一種の演技。役者は三日やったらやめられないと云《い》う。左翼運動にもそれと似たような、奇怪な魅力があって、あの学生たちに命がけの演技をさせてしまうのではないだろうか。  四日目。大学当局の要請によって警視庁から特別機動隊約五百名出動。そして流血事件がおこった。江藤はいつでも試験が受けられるように、図書館の中で待機していた。その閲覧室の大きな窓越しに、彼は警官と学生との乱闘を充分に眺《なが》めた。そして、こういう事件というのは一体何だろう、と彼は考えていた。窓ガラスの砕ける音、倒れる学生、顔から血を流している警官、逃げる者、追う者……。  江藤は窓越しにそれを見ていながら、孤独を感じていた。おれはなぜ闘わないのか。なぜ黙って見ているのか。……しかし彼には闘う理由がなかった。孤独は已《や》むを得ない。そして孤独は生涯《しょうがい》自分について廻《まわ》ることだろう。これはエゴイズムか。しかしおれは他人の利益を侵害してはいない。従って、たとい是《これ》がエゴイズムであったにしても、非難される理由はないのだ。……幌《ほろ》をかけた護送車に、学生たちが次々と押しこまれる姿を、江藤は黙って見ていた。その中に三宅も居るのではないかと思われたが、彼の姿は見当らなかった。  午後三時、暴動は一応おさまったが、試験は行われなかった。左翼学生はまだ教室の入口にピケを張っていた。散乱する紙屑《かみくず》、プラカードの破片。踏み乱された芝生。江藤は正門前の喫茶店で中河と古田と小林と、四人で珈琲《コーヒー》をのんだ。そして三宅が捕まったという話を聞いた。 「三宅は首謀者だからな」と古田が言った。 「しかし、いったいどっちが正しいんだ」 「どっちって、誰《だれ》と誰だ」 「警官隊と学生さ」 「警官隊は問題じゃないよ。あの連中は命令で動いているだけだからな」 「しかし、よく命令だけで動けるもんだね。あれだって一応命がけだからな」 「兵隊と同じさ。兵隊だって自分の意志で殺したり殺されたりする訳じゃないよ」 「つまり闘う機械だな」 「学生と学校側だよ。問題はね。どっちが正しいんだ」 「時岡が理事になったというのが問題なんだ。時岡は一億円寄付して理事になった。あれは資本主義のかたまりだからね。それが学校の運営に影響を及ぼすということは、当然考えられるよ」 「要するに大学にかねが無かったからだ」 「大学が資本家に身売りしたという訳だ」 「では君はスト派の学生を正しいと見るのかい」 「しかしあんなやり方が正しいと思えるか。あんな方法しか無いとは僕《ぼく》は思わんね」 「少なくとも当面の敵でもない警官隊と血みどろの闘争をするというのは、手段としても拙劣だね。相手は学校当局なんだ」 「その当局者が警官の出動を要請したのが怪《け》しからんよ」 「警察というのは何だい。一応中立だろう。大学内部の問題に関しては、どっちの味方ということは無い筈《はず》だよね。それがなぜ大学の味方について学生と闘うんだ。その事が先《ま》ずおかしいじゃないか」 「おかしくないよ。警察は資本主義政府の下部組織なんだ。大学だって資本主義政府の認可を受けたり、補助金をもらったりしているんだ。要するに一連のものだよ」 「資本主義政府としては共産党の活動を極力押えたいんだからね。学生運動は党活動の一種だと見ている訳だ。事実その通りだからね」 「だから学生の方が悪いということになるかい。党活動は公認されているんだ。合法政党だからね。学生だって左翼運動をやっていけない訳じゃないんだ」 「あの連中はね、始めから今日の大学制度というものを認めていないんだよ。資本主義機構の一つだと見ているわけだ。卒業した者はみな資本主義社会に奉仕するんだから、大学そのものを否定するという考え方だよ。それはそれで筋が通っているじゃないか」 「しかし、それならなぜ彼《かれ》等《ら》は大学の学生であるんだい。否定しながら、その大学に籍をおいて、ブルジョア的な学問を勉強してきたというのは、おかしいじゃないか」 「おかしくないよ。敵を倒すためには敵の内状をくわしく知って置かなくてはならんからね。つまり彼等が学校に籍をおいているのは一種の謀略だよ」 「どっちが良いとか悪いとかいうことは、言えないと思うな」と江藤賢一郎は、友人たちの無責任な議論に結着をつけるような言い方をした。「その前に先ず、何を基準にして良い悪いを決めるのか。学校側の考え方を基準にすれば、左翼学生は不《ふ》逞《てい》の徒《と》だと云うだろう。学生の考え方を基準にすれば、大学は資本主義的人材を育成する機関だから、ぶっ潰《つぶ》してしまえということになる。  それだけ考え方が根本的に喰《く》い違っているんだから、団体交渉をしたって素直に結論が出せる筈はないんだ。まあ、せいぜいのところで歩み寄りとか妥協とか、要するに彼等の主張を何割かずつ引っこめるということでもしない限り、納まりは付かないね。  思うに大学は大学で自分の正義をもっているし、学生にも学生側の正義はある。つまり正義と正義とが喧《けん》嘩《か》をしているんだよ。正義なんていうものは一つだけじゃない。無数にあるんだからね。極端に言えば一万人の人間には一万の正義があるんだ。正義なんて言ったって、要するに自分の立場ということだからね。  ところが今度の場合、大学も学生側も、自分だけに正義があって相手は不正だと考えている。それが根本的な問題だよ。相手にも正義があるんだという考え方がない限り、話しあいなんか出来る筈がない。戦争の原因だってたいていそんなもんだ。自分の方にだけ正義があるという態度が清算されない限り、どんな種類の紛争だって解決はつかんね。家庭のなかの親と子の紛争、政府与党と野党との闘争。みんなそれだよ」 「理《り》窟《くつ》はその通りだよ。だからどうすればいいんだ」と古田が言った。 「解決方法ということになると、問題はいろいろ有るだろうね。常識的に言えば、大学側でもなく学生側でもない、一般的見解というもの……これも実際は曖昧《あいまい》なんだが、そんなところに基準を置いてみるという考え方もあるだろうね。  資本主義には欠陥も多い。しかし現在の日本は全体として資本主義的秩序によって成立っている。その秩序に従って解決方法を考えるというのが、先ず先ず世間の大勢だろう。しかし一方では、機会ある毎《ごと》に資本主義的な秩序を訂正して行こう、或《ある》いは改革して行こうという考え方がある。考え方としては悪くない。しかし改革のやり方に問題がある。左翼学生の要求は一刻の猶《ゆう》予《よ》もなく、いま直《す》ぐに改革をやってしまえというようなやり方だ。そのために法的秩序を紊《みだ》すという事態がおこって来る。悪法も亦《また》法也《なり》。とにかく現在の社会では、ブルジョア的であろうが何であろうが、現行法というものが有るんだからね。法秩序を紊した者は国家の犯罪人にされてしまう。一つの正義がもう一つの正義に敗北したということになるんだ」 「君は現状維持派だな」と古田がまた言った。 「いや、現状を維持するとは言わない。変るべきものは変った方がいい。しかし腕ずくで変えようとしたって駄目だと言うんだ。三宅は良い男だし、僕はあのロマンティシズムは好きなんだが、自分たちの能力を過信していたように思うね」 「三宅に何か、差入れでもしてやった方がいいんじゃないか」と中河が言った。  友達と別れて帰る道々、江藤は三宅のことを考えていた。聡明《そうめい》で積極的で、しかも理想主義者で、気持の良い青年だった。普通に大学を卒業するとすれば、江藤にとっては恐るべき競争相手になるであろうと思われた。しかし三宅は多分、今度の学校騒動を契機として、大学を離れるのではなかろうか。自分は学問を続けるつもりでも、学校側が退学処分にするかも知れない。あいつは道を踏みはずした、と江藤は思っていた。  おそらく彼は正式に共産党員となって、今後は党活動に専念するようなことになるだろう。むしろ三宅にはそれが一番適しているかも知れない。それと同時に三宅と江藤とは、完全に別の世界の人間になってしまうのだ。そして、もはや俺《おれ》は競争相手として三宅を恐れる必要はなくなった、と彼は思った。  日本の共産党について江藤は深くは知らない。しかし彼の感覚から言えば、ソ連や中国の共産党とは違って、日本の共産党は一つの抽象世界に過ぎないという気がした。彼等は日本の政治のなかに強い足場をもたない。日本の経済の中にも足場をもたない。ただそれは理論的に存在し、党組織という抽象的なものの上に存在しているだけではないのか。つまり共産主義はまだ日本の土壌《どじょう》の上に(生活)の根を持ってはいないのだ。  われわれの日常生活は、現実の社会を足場にして行くより方法はない。抽象世界の上に日常生活を築いて行くことはできないのだ。資本主義が良いにしろ悪いにしろ、吾々《われわれ》の日常生活をその資本主義社会から切り離すわけには行かない。三宅は共産党のなかでも眼立《めだ》った活動をするに違いない。彼は遠からず党の幹部にあげられ、行く行くは書記長とか委員長とかいう地位を得ることになるかもしれない。しかしながら共産党という抽象世界に在っては、書記長も委員長もことごとく抽象的な存在であって、現実の具体的な日本の社会のなかでは一種架空の地位、子供の遊びのなかの王様とか王女さまとかいうものと同じような、根も葉もない存在に過ぎないのではないだろうか……。  現実の社会にしっかりと足をつけて、着実に生きてゆくことだ、と彼は思った。三宅の理想主義は美しいかも知れない。しかし彼は眼のまえにある現実を否定することばかり考えている。一体ここにあるこの現実を否定するとはどういう事だ。それは彼自身が現実の社会から否定されることに過ぎない。社会の進歩は螺旋状《らせんじょう》にしか進まないと或る学者は言っている。三宅はそれを直線的に押進めようとしている。それは不逞すぎる野心というべきものではないだろうか。  おれは学校騒動には加担しない。現実を大事にし、自分の立場を大事にしなくてはならない。これはエゴイズムではない。社会人としての当然の義務でもある。とにかく今年のうちに司法試験に合格することだ。そこからおれの未来は開ける。そしてこの資本主義社会のなかに一つの足場を築くのだ。そこで始めておれの発言権が認められ、社会を動かす実力が備わってくる。この考え方は現実主義者だと言われる。しかし現実のなかで着実に生きた者だけが、本当に理想主義を説く資格があるのではないだろうか……。  学校騒動のために、延び延びになっていた学年末の試験がようやく終ったのは、二月の末であった。そのあとで江藤は喫茶店で大橋登美子と落ちあい、軽い食事をしてから、盛り場の裏手にある簡易旅館へ行った。ひと間きりの部屋に、年じゅう寝具をのべてあるような旅館だった。ふたりとも、一月のスキー宿の夜の記憶を、もう一度現実に引きもどしたいというような意《い》慾《よく》に駆られていた。登美子には罪悪感がなかった。そして賢一郎の感じている罪悪感は、相手の女に対する罪の意識ではなくて、自分自身についての反省だった。こんな事を続けていると、罠《わな》から足が抜けなくなるかも知れないという、利害の計算のような反省だった。  登美子は男の腕のなかで、少しかすれたような声で、言った。 「わたし、聞いて貰《もら》いたい事があるのよ。どうして宜《よ》いかわからなくて、困ってるの」 「何だ」 「この前、ちょっと言ったでしょう。父の会社の営業部にいる寺坂という人のこと。……このあいだ父から正式に、婚約をとりきめるからそのつもりでおれって、言われたの。だって、十も年が違うのよ」 「いいじゃないか。年齢の違いなんか、何でもないよ」 「あら、変な人ね。その人と結婚しろって言うの?……そしたら私たち、どうなるの?」 「そりゃあきまってるじゃないか。君が結婚したらさようならだよ」 「そんなこと、先生、平気?」 「仕方ないだろう。日本の法律は一夫一婦制を要求しているんだ」 「そう……あなたって、本当は私を愛してくれていないのね。解《わか》ったわ。でもわたし、寺坂なんていう人と、絶対に結婚しません。顔を見ただけでも嫌《いや》だわ。……私は父に言うつもりよ。私には好きな人が居るんです、その人と結婚します、って」  江藤は腹《はら》這《ば》いになって、煙草《たばこ》に火をつけた。その短い時間のあいだに、彼の対策を考えていた。はっきりとした自分たちの方角を、今のうちにきめて置かないと、先になってから問題が紛糾してくるに違いない。  女は花の蕋《しべ》のように粘着力をもっている。女は好きな男を見つけると、直《す》ぐに結婚したがる。女は海岸のいそぎんちゃくのように、自分の体を堅固な岩の上に定着させることを望んでいる。定着させてしまえば、どんな荒い磯波《いそなみ》にも耐えて、生きて行くことができるのだ。それが女性の望む結婚であり、法律的には一夫一婦制である。そしてそれだけが合法的な性関係であり、それ以外の性関係は法的に認められないもの、乃《ない》至《し》は非合法的な性関係である。  江藤賢一郎は自分の中にある矛盾を知っていた。登美子と結婚するつもりは無い。しかしさし当って現在の関係を打ち切ろうとする意志もなかった。常識的には結婚という形式に落着すべき関係を、中途半端なままで持続させようとしていた。そういう自分勝手な態度には、何か理論的な根拠らしいものがなくてはならない。それによって相手を納得させなくてはならない。…… 「君の気持もわかるし、君が困っている立場というのもわかる。……君を愛していないと君は言うが、僕は愛していない訳ではないんだ。ただ、愛ということについて、僕は僕なりの考え方をもっている。君は無条件に愛情を信頼して、愛情さえ有れば、あとはどうでもいいというような気持でいるらしいが、吾々現代人はもっと愛というものを知的に考える必要があると僕は思う。  日本の法律のなかに、愛という字は一字もないよ。もともと男と女との愛というものは、理由のない感情なんだ。謂《い》わば本能的な要求であって、客観的に第三者を納得させることのできるような理由は、何も無い。したがって非常に不安定な感情であって、Aという愛人があるのに、Bが好きになったり、またCという人に心をひかれたりすることもある。それは不自然な不合理なことではなくて、むしろ自然な変化なんだ。だから激しい恋愛ののちに結婚した人たちが、二三年で離婚してしまうというような例は無数にある。ある方が当り前なんだ。  僕は君の愛情を信じる。今は信じるが、一年さきのことは解らない。同時に僕は一年ののちにもやはり君を愛しているかどうか、約束はできない。愛とは本来そういうものなんだ。永遠の愛の誓いというのは、言葉としては美しいが、実はほとんど不可能なことだよ。人間が人間に対して誓うということは、恐ろしいことだ。本当はそんなことは出来やしない。キリスト教の聖書を読んだことがあるか。マタイ伝の中に書いてある。一切誓うな、天を指さして誓うな、地をさして誓うな……。人間というものは自分の髪の毛の一本だって、白くすることも黒くすることも出来やしない。……僕が君に誓っても、君が僕に誓っても、たしかにその誓いを果すだけの能力というものを、おれたちは持っていないんだよ。だからキリストは、(一切誓ってはいけない)誓うことは即《すなわ》ち詐《いつわ》ることだと言っているんだ。  僕は君を愛する。しかし愛情によって君の自由を束縛してはいけないと思う。愛は愛、自由は自由。その二つをごっちゃにしてはいけない。過去の、殊《こと》に封建的な時代の愛情は、互いに相手を束縛するものだった。ところが愛は本質的に不安定なものだ。愛情の続くあいだは愛しあうのが自然だが、やがて愛のさめる時がくる。その時にはお互いに別れて行くのが自然であるし、また賢明でもある。愛情がなくなった後までも相手を束縛しようとすると、そこから愛の悲劇がおこってくる。……解るだろう?  僕は君を束縛しない。僕は君を愛しているが、しかし君は自由だ。また僕も自由でありたい。束縛することが愛ではないんだ。互いに相手の自由をみとめ、相手の自由な成長を願うことが本当の愛じゃないか。そして、こういう愛情には悲劇はおこらない。したがって最も明るい、最も美しい愛情をたのしむことができる筈だ。  君はもしかしたら僕と結婚することを考えているかも知れない。或《ある》いはそういうことも起り得るだろう。しかし僕は結婚の約束はしないよ。約束というのは即ち一つの誓いだ。そんな、守れるかどうか解らない誓いは、僕にはできないんだよ。それが僕の良心だ。……わかるだろう?」  彼は情熱をこめて語り聞かせた。話しているうちに、彼はこの詐術《さじゅつ》に充ちた論理にみずから満足を感じ、自分の話術に自分で没入して行った。それが登美子にはむずかしくて、よく解らなかった。よく解らない理論は高遠で深刻なものに思われる。登美子は不満を感じても、それを口にすることができなかった。彼女には反駁《はんばく》するだけの自分の理論が無かった。反駁することは争うことであり、賛成することは合意することである。彼女は感情的に、江藤の言うことには無条件で賛成したい気持だった。しかし今の場合、賛成することは同時に、この愛人との結婚をあきらめることになるらしかった。彼女は矛盾した二つの理論の綾《あや》に足をからまれて、どう言っていいか解らなくなっていた。 「それじゃ、あなたはもう、会ってくれないの?……」と登美子は見当違いなことを言った。 「そうじゃないよ。いくらでも会うよ。会ったっていいんだ。お互いに会いたいんだからね。しかし出来もしない先の先の約束なんかしたって駄目《だめ》だって言うんだよ。生活事情も違うんだし、考え方も違うし……それは仕方がない事なんだ」 「そう……それじゃ、いいわ」  登美子はよく解らないながらも、とにかく妥協しなくてはならなかった。賢一郎の勝ちだった。彼は勝ったと思っていた。ともかくも女から一応の言《げん》質《ち》はとったのだ。結婚の約束はしなくて済む。そして媾《あい》曳《び》きは続けられる。要するに無責任な位置に自分を置いて、気の向いた時だけ女をたのしむことができる筈《はず》だった。  これは男のエゴイズムだろうか、と彼は考えてみた。しかし女の要求にしたがって、心にもなく婚約をしたとすれば、それは女の側のエゴイズムということになるに違いない。つまりは一種の力関係であって、必ずどちらかが他方のエゴイズムを受け容《い》れることになるのだ。受け容れなければ闘いの状態になるか、別れの結末になるか、二つに一つしか無い。  彼は自分のエゴイズムを知っていた。しかしだからと言って、それが直ちに悪い事とは言いきれない。謂《い》わば一種の正当防衛であるとも考えられる。女性関係の一つ一つについて、そのたびごとに相手に対して誠実を尽していたら、男の世界は内部的に崩壊するに違いない。現代は生存競争の域をはなれて、ほとんど戦争状態にちかづいている。生残って自分を栄えさせる為《ため》には、或る程度のエゴイズムはむしろ正当であると考えなくてはならない。おれは今後も登美子との関係をつづけて行くだろう。それは生活の潤《うるお》いとして必要だ。しかしおれは登美子に被害を与えはしない。二人の関係が結婚にまで進まないからと言って、女の方が被害者だと考えるのは間違いだ。第一、登美子自身が関係の継続をしきりに望んでいるではないか。それは彼女の自由意志だ。自由意志による行為によって、彼女が被害者になるという論理は有り得ない。……  一つの難関を何とかうまく越えた、と賢一郎は思っていた。そして、その事によって新しい自信を得たような気持になっていた。  数日ののち、賢一郎は伯父の招きを受けてT……ホテルへ行った。この贅沢《ぜいたく》なホテルにはいるのは始めてだった。伯父は食事のために小ぎれいな部屋を取っていた。伯父の次女と三女とが来ていた。長女はもう嫁いでいる。伯父には男の子が無かった。  伯父が何のために特別に一室を取って、賢一郎に御馳《ごち》走《そう》をしてくれるのか、目的はおよそ解っていた。次女の豊《とよ》子《こ》にはもう婚約者がある。三女の康《やす》子《こ》はまだ学生だった。伯父は康子の配偶者として賢一郎を考えているらしかった。いわばこの夜の食卓は、正式に康子と賢一郎との交際を認めるためのものであった。  席がきまるとフランス風に、食前のチンザノ・ヴェルモットが出た。 「お前は酒はどうだ」と伯父は言った。 「まあ、人並みにはやれます」 「お前の学校はこのあいだ、だいぶ騒いだようだが……お前もやったのか」 「いえ、僕はやりません」 「どうしてやらなかった」 「僕はあの騒ぎに賛成できないんです。あれは大体共産系の学生がやったんですが、何と言いますか、理論が一方的で、自分勝手なんです。学校当局の立場を全く考えていないんですから、話にならないんです。要するに資本主義を全面的に否定するという根拠に立って、学校側に抵抗しているんですが、資本主義否定というのは現在の日本の社会を否定するということですから、従って自分たちはその社会の外に居なくてはならない訳です。しかしそんなことは理《り》窟《くつ》だけでして、彼《かれ》等《ら》が現在の社会の外に出るなんていうことは、不可能なんです。つまり始めから立場が矛盾しているんです」 「なるほど。しかしその位の理窟はあの連中にだって解るだろう」 「いや、解っていないと思います。つまり共産主義の理論ばかり追及して行って、現実から浮いてしまっているんです。要するに生活が無いんだと思います」 「学生はとかくそうなり易《やす》いものだ。しかしお前はひどく現実的だな」 「はあ。友達も、お前は現実主義者だと言います。けれども僕は、本当に現実に徹してから後に、始めて理想を説くべきだと思うんです。現実をあまり知りもしないで理想を追及したって、そんなものは架空の理論じゃないでしょうか」 「もっと面白《おもしろ》いお話をしましょうよ」と豊子が言った。「お料理が喉《のど》につかえそうよ」  年齢はほとんど同じであるのに、娘たちと賢一郎とでは興味のもち方がまるで違っていた。大学の男の仲間ならば、こういう理窟を何時間しゃべっていても飽きることはなかった。しかし豊子や康子はまるで興味を示さなかった。彼女等は社会というような漠然《ばくぜん》とした大きなものを、自分の人生と対立するものとして考えることができない。彼女等の興味は自分一個について、自分と直接の関連をもつ一人の男について、更に自分の子供について……という風な、私生活の範囲に限られているようであった。豊子の抗議を聞いたとき、賢一郎は石に躓《つまず》いたような気がした。恐らくは永い人生のあいだに、男たちが何十回となく経験しなくてはならない、男と女とのあいだにある一種の違和感であった。 「ところでお前は、司法試験を受けるそうだが……」と伯父は言った。「自信はあるのか」 「解りません。まあ、多分大丈夫だろうとは思っています」 「それで、卒業したら何になる」 「まだ迷っています。やはり判事がいいだろうかと考えてはいるんですが……」 「いや、お前は私立大学だから、判検事とか法務省とかいう役人の道に行くのは損だよ。官庁はどうしても官学閥に押されるからね。……学者は嫌なのか」 「嫌じゃありません」 「そんならお前、大学院に残って博士コースをやったらどうだ」 「やれればやって見たいんですが、しかし僕は早く独立して母を養わなくてはなりませんから、あまり贅沢な望みをもつ訳には行かないんです」  すると伯父は持っていたフォークを置いて、そんなけちな事を考える必要はないと言った。お前のお母さんはまだ若いし、元気だ。学資はいままで通りに続けてやるから、やれる所までやってみろ。お前にそれだけの能力があるものならば、能力の限りを発揮するのが正しい生き方というべきだ。お母さんだってきっと喜んでくれるだろう。おれの兄弟はみな実業家ばたけに入ってしまって、江藤の家に学者は一人も居ない。兄弟の息子たちも同様だ。江藤一家から一人の法学博士を育てるというのもなかなか意義があると私は思う。第一、弁護士になるにしても大学に残るにしても、学位があると無いとでは、将来大ちがいだ。そのために三年や四年スタートが遅れたって、永い人生から見れば何でもないんだ……と、伯父は叱《しか》るような励ますような強い口調で言った。 「決心をきめて、一つやってみろ」 「はあ……」 「やるか」 「考えてみます」 「考えることは無いよ。お母さんにはおれから話してやる」 「しかし、あまりいつまでも伯父さんに御迷惑をかけるのが、辛《つら》いんです」 「おれが宜《い》いと言っているんだ。おれの方からお前にすすめているんだ。余計な心配をすることはない。……まあ、あまり急に言ってもいかんだろうな。二三日中に、電話でいいから返事をよこしなさい」  賢一郎はこの伯父から、それほど大きな期待をもたれているのだった。伯父の期待は、康子の良人《おっと》に学位を取らせるという一種の打算をも含んでいた。それは打算ではあるが、賢一郎を娘の良人に選ぶということに、親としての希望をも託しているのだった。 「すてきじゃないの。やりなさいよ」と豊子が口を出した。「だけど法学博士なんて、何だか怕《こわ》いみたいね。康子さん、どう? ……怕くない? ……朝から晩まで法律ばっかり考えていて、頭の中は法律だらけの男なんて、愛情が無くなってしまわないかしら」  妹はまだあどけない顔に笑いをたたえて、 「お姉さんて、わりあい馬鹿《ばか》ね」と言った。もはや賢一郎を自分の対象として承認しているような口調だった。  食事を終って、伯父とその娘たちと別れて帰るみちみち、賢一郎は自分の将来のことを考えていた。彼の思考は現実的で打算的だった。彼の打算と伯父の打算とがうまく調和すれば、あの話は円満に実行される。  伯父の打算はわかっていた。伯父は末娘の康子を溺愛《できあい》していた。彼女を手放してしまえば、三人の娘がみな居なくなって、老夫婦だけが家に残る。その時の耐え難い淋《さび》しさを、伯父も伯母も予想していたに違いない。伯父はそこで異母弟の息子の賢一郎を康子の配偶者として想定した。賢一郎ならば生れた時から知っている。氏素姓《うじすじょう》も性格も、何もかも解《わか》っていて、不安はない。そして康子は江藤一家から外へは出て行かないことになる。結婚した後にも半分は実家に残っているようなものだ。そのことによって伯父夫婦は、老後の孤独から救われることになるだろう。  康子にはいい良人を捜してやりたい。それも伯父の願いだった。そこで伯父は賢一郎に学資を与えて、彼を康子のための理想の良人に育成することを思いついた。実業家らしい思いつきだった。賢一郎に博士課程をやれとすすめたのは、賢一郎の将来のためというよりは、康子の結婚生活を華やかなものにしてやるためだった。それもこれも、みな解っているが、伯父の提出した条件は賢一郎にとって、損なはなしではなかった。本当を言うとあの食事の席で、とび上がって喜んでもいいくらいの好条件がそろっていた。彼がそれをしなかったのは、腹の中を見透かされたくないという自制心からだった。  三宅は学校騒動のあと、退学処分をうけた。競争者の一人は脱落した。法学博士の学位をとれば、官庁にはいっても官学出身者にひけは取らない筈《はず》だ。彼の大学の教授のなかにも法学博士は二人しか居ない。社会のどの部門に進むにしても、学位は一種のパスポートとなって、あらゆる人生の難関をなめらかに通過して行くことが出来るに違いない。  これで俺《おれ》の将来はきまった、と賢一郎は思った。あとは努力して法律を研究することだけだ。研究については自信をもっていた。修士課程と博士課程とで五年はかかる。おそくとも三十代の始め頃《ころ》には学位が取れるだろう。人生は華々しくおれの前にひらけて来る。三宅は資本主義社会を否定したが、おれは資本主義社会のなかに自分の生活の足場を築く。資本主義を擁護するというのではない。ただ、この現実の社会から外に自分の生活は有り得ないのだ。水の中に住む魚は鰓《えら》で呼吸するより他《ほか》はない。魚は水を否定することはできないではないか。資本主義の弊害はおれも知っている。しかし共産主義のなかにも無数の弊害はある。人間の造った社会、人間の造った制度には、弊害のないものはない。弊害をすくなくし、制度の欠陥をおぎなうために、法律が制定される。法律の重要さはそこにある。個々の条文ではなく、立法の根本精神を確立することだ。しかしその法律は国会がつくる。遠い将来のことになるが、おれは国会議員になることを考えてもいいのではないだろうか……。  電車は満員で、人いきれがしていた。吊革《つりかわ》につかまって賢一郎は立っていた。周囲にいる百人以上の人たちが、今夜はみなくだらない凡俗どもに見えた。貧乏でけち臭くて通俗で、何の取《とり》柄《え》もない人間のように思われた。いまはそれは空想にすぎないが、六七年後には本当にそうなるだろう。そのとき彼はもはや電車ではなく、自動車に乗る身分になっている。そして家庭に帰れば若い妻康子が待っているのだ。  康子とはこれまで直接に二人だけでつきあったことはない。特に美人ではないが、いかにも清潔で聡明《そうめい》な、良家の子女という感じの娘だった。豊子ほどおしゃべりではないが、ときおりひらめくような才《さい》智《ち》を見せる。肥《ふと》ってはいないが、娘らしいふくらみのあるからだつきをしていて、眼《め》が冴《さ》えている。眼が愛情を求めている。ひたすらな眼つきだ。一筋に愛に没入して行く女の眼だった。  あの女と結婚するのは三四年先になるだろうか。伯父はもっと早く結婚させたがるかも知れない。康子はいくらかの財産を持って嫁に来る。伯父が亡くなった時には、おそらく何千万という遺産が康子に与えられる。それは法律的には康子の財産であっておれのものではないが、その財産によって家が建てられ、生活の基準がきまるに違いない。学位をもち財産をもてば、少なくとも現在の資本主義自由主義の社会にあっては、或《あ》る程度の個人的幸福は保証されるのだ。  康子がおれの妻になる……と彼は考えていた。彼が知っているのは康子の容貌《ようぼう》と声と体の輪郭とだけだった。本当はどんな女であるか。内容はまだ解らない。彼女の皮膚、乳房、彼女の腿《もも》。多分彼女の恥部は可愛らしくて清潔で、フリージヤの花のような香《かお》りをたたえているに違いない。それがほんの少しの恥毛の下に恥ずかしそうにかくれているに違いない。そしておれを受け容れる。羞恥《しゅうち》のヴェールに掩《おお》われたういういしい情熱によって、おれを受け容れる。伯父がおれにそれを求め、康子がおれにそれを求める。しかも代償として学資と彼女の財産とが保証されている。この幸運は絶対に手放すわけには行かない。  したがって、あの通俗な大橋登美子などは問題にならないと、賢一郎は思った。それは彼の打算であり、エゴイズムでもあった。しかし同時に生活上の正当防衛であるといってもいい筈だ。登美子に義理をたてて、伯父の希望を拒み康子との結婚をことわるという訳には行かない。それほどの義理は無いのだ。二人は愛を誓ったこともないし結婚の約束をしたことも無かった。肉体関係はあったが、それは飽くまでも自由人としての自由な行動にすぎなかった。 (それによって拘束を受けなければならぬような法的根拠は、どこにも無い……)  登美子は一つの罠《わな》だ、と賢一郎は思っていた。康子も罠であるかも知れない。しかし登美子は彼を殺す罠、康子は彼を生かす罠だと思われた。女性関係という点では同じであっても、その性質が違っている。けれども康子との結婚までのあいだ、一時的な、そして自由な関係が、やはり彼はほしかった。登美子の存在意義は、その程度のものだと思っていた。 四  司法試験の期日が迫っていた。五月一日はメーデー、二日が日曜日、三日は憲法記念日、五日が子供の日。その(連休)のあとの九日に最初の(短答試験)がおこなわれる。それに合格すると七月に論文の試験。更にそれに合格した者だけが九月の面接試験を受けることになる。  江《え》藤賢一郎《とうけんいちろう》は最初の試験が心配だった。過去に実施された試験の問題は一切公表されていない。したがって見当がつかなかった。そこで彼は五月二日の日曜日をえらんで、小野精二郎を訪ねてみることにした。小野は母の姉の子で、賢一郎の従兄《いとこ》であった。  世田谷の裏町の、さらに横丁にはいった所の三軒長屋の一つに、小野は家族とともに住んでいた。大学を出てから法律関係の出版社に、嘱託のような形でつとめていたが、二階が六畳下が六畳という彼の住居は、畳がささくれ窓《まど》硝子《ガラス》は壊れ、唐紙《からかみ》も穴だらけというみすぼらしさであった。二階に案内されて対《たい》坐《ざ》してみると、専門の法律書すらも不足しているのが解った。机を置いた窓の外の軒下には子供の襁褓《むつき》が干し並べてあった。小野はもう三回も司法試験を受けて、不合格になっていた。 「どうもねえ、おれみたいな落第生が君に教えるなんて恥ずかしいじゃないか。合格したのならば大きな顔をして教えてやれるんだがね。……そうか。とうとう君と一緒に試験を受けるのか。もう一度だけやってみるつもりなんだ。今年だめなら、諦《あきら》めるよ。諦めて田舎へ帰って、高校の先生でもしようと思ってるんだ。東京じゃ暮して行けない。おれみたいな凡才は家族をかかえて、とてもやって行けないからね。だから今年は一かばちかだ。  ところがね、見てくれよ。参考書も何も古本屋へ売ってしまって、調べたい事が出てくると図書館へ行ったり、勤め先で本を捜したりだろう。これじゃ君、まともな勉強はできないんだ。なさけなくなるね。君なんか独りもので自由だから、羨《うらや》ましいよ。学生時代に猛勉強して合格して置くことだな。その点、おれは失敗したと思ってるよ」  小野精二郎は大学時代にいくらか左傾していたようだった。体格の良い、髭《ひげ》の濃い、明るい青年であった。優秀な成績で官立大学にはいったが、一年あまり経ってから、学内で起った一教授の弾劾《だんがい》事件に加わって活躍し、その運動が学生側の敗北に終るとともに、官学を嫌《きら》って私学に移った。その腹《はら》癒《い》せもあって、小野は在学中に司法試験を取ろうと思い立ったようであった。しかしそれとほとんど同時に彼の恋愛事件がおこった。恋愛は傷心の小野にとっては一つの救いであったかも知れない。彼はまるで自制心を失ったような形で、その恋愛のなかに落ちこんで行った。  小野はまだ二十七。無精ひげを伸ばして、膝《ひざ》のすり切れたズボンをはいていた。彼の妻は色のさめた半袖《はんそで》のスエーターを着て、スカートはしみだらけだった。四歳と一歳と二人の子供がいて、下の子供は健康が悪いのか、泣いてばかりいた。それが小野精二郎の恋愛と結婚との結果だった。小野は痩《や》せて、三十七八とも見られるほどうす汚なくなっていた。  賢一郎は従兄のそうしたみじめな姿などにかかわりなく、短答試験について小野の経験を聞いた。それを聞くことだけが今日の訪問の目的であって、小野の境遇に同情したり、感傷的になったりする必要はないと思っていた。小野は劣敗者だ。彼は青春の恋愛によって生活につまずいてしまったのだ。女が罠であった。劣敗者は劣敗者の人生を辿《たど》るより仕方がない。彼は今年も試験に失敗するかもしれない。失敗したら(都落ち)して田舎の高校の教師になるだろう。そして生涯《しょうがい》それで終るだろう。おれとは何の関係もないことだと、賢一郎は思っていた。  短答試験の範囲は憲法、民法、刑法となっていた。憲法と刑法とはどうにかなりそうだ。しかし民法は複雑で内容は多岐にわたっている。 「僕は民法が心配なんですがねえ。施行法なんかとても覚えきれませんよ」 「施行法はあまり出ないと思うな」 「去年は何が出ました?」 「とにかく沢山あるんだ。民法では相続法があったし、先取特権からも出ていたね。それから遺言の効力の問題。施行法では抵当の問題があったな。それより僕は憲法で困ったよ。憲法はかなり観念的な原則をきめたものだからね。もの《・・》によっては色々な解釈があり得るわけだ。第九条にしたってね。……それで参ってしまった。頭が悪くなったなあ。貧乏暮しをしていると頭が悪くなるようだね」 「第九条なんか、法文の純粋な内容と政府の解釈と、喰《く》い違っているでしょう。国家試験だからって、政府の解釈を正しいものだという訳には行きませんね。どうしたらいいんです」 「それはもしも面接試験でやられたら、一番困るところだね。向うとしては、困らせておいて受験者の人物を見るということになるかも知れんがね。……しかし僕はまだ面接をやったことはないんだ。もっと前に振り落されてしまってね」と小野は笑った。「……煙草《たばこ》一本、もらっていいか」  一本の煙草が小野の生活の窮迫を象徴していた。父も母も二人の子供も、いまは(生きる)ということにせい一杯のようだった。父の乏しい収入は、(生きる為《ため》には先《ま》ず何が必要か)……という判断にしたがって消費されて行く。その判断は厳粛なものであって、冗漫な支出は一切ゆるされない。小野精二郎は一日に十本の煙草をすう。彼の妻は良人《おっと》の喫煙を黙って見つめている。彼女の心の中に怒りがひそんでいるか、悲しみがかくされているか。小野は孤独な気持で自分の罪を感じながら、煙草をすう。賢一郎の煙草をもらって火をつけたとき、それは小さな解放感であったに違いない。家計にひびかない煙草だった。 「何時だい」と彼は言った。  本棚《ほんだな》の上に置時計はあるが、止っていた。五月の夕方の陽《ひ》はうすれていて、賢一郎の腕時計は六時ちかかった。 「君、かね有るか」 「少しは有りますが、何ですか」 「おれな、正直なところ、もう四カ月も一滴も酒を飲んでいないんだ。二三日まえの夕方ビヤホールの前を通って、みんなが生ビールを飲んでいるのを見たら、急に君、ぐっと腹わたがねじれて来るような気がしたよ。すまないが君、あれを一杯御馳《ごち》走《そう》してくれんか。ついこの先にビヤホールが有るんだ」  江藤賢一郎はそれを聞いたとき、この従兄と自分との間に遠い距離を感じた。おそらくこれから先、小野を訪ねて来ることはもうあるまい。彼に会うことは自分にとって、マイナスにはなってもプラスになることは無いだろうと思った。一杯の生ビールは経済的には問題ではない。しかしそれを従弟にせびって、四カ月ぶりに酒を飲もうとする小野精二郎の心のみじめさが不愉快だった。この男は今年の試験にも落第するに違いない。筆記試験には合格しても、面接の試験官は小野の精神の卑屈さを見落す筈《はず》はない。  小野の妻が食事をして行くようにとしきりに止めたが、賢一郎は辞退して、小野と二人でその家を出た。この家庭の食事は喉《のど》を通らないような気がした。彼自身、伯父から学資をもらっている身分ではあったが、そんな事は一時的なものだと思っていた。伯父は有り余るほどの資産をもっている。それを利用させて貰《もら》うのは伯父の資産を生かして使うことでもある筈だ。博士課程を終え、学位をとり、大学の教授になり、あるいは官庁にはいって部長、局長となれば、伯父の好意には充分に報いることができる。その事が同時に、伯父の娘の康《やす》子《こ》の仕合せにもつながる。伯父は娘のために彼に投資しているのであり、自分は投資の対象にされるだけの才能をもっているのだ……。  彼にはそういう不《ふ》逞《てい》とも言うべき自負心があった。自負心は彼の母と伯父と、伯父の娘たちと、学友たちの間とで次第に培《つちか》われて来たものだった。それが彼の野心となり、更にエゴイズムにもなっていた。立身出世は自分に当然約束されているもののように思っていた。  街のビヤホールは若い人たちで賑《にぎ》わっていた。その店に坐《すわ》ると、小野はいらいらし、そして相好を崩した。もともと酒好きな男なのだ。初夏の、ビールには一番適した季節だった。小野は大きなコップを息もつかずに飲み、二杯目もたちまち飲み干し、三杯目になって眼に涙をうかべた。 「江藤君、勘弁してくれ。今日はかねを持っていないんだ。学生の君にたかったりして、みっともないな。解ってるんだ。解ってるんだが、どうにもやりきれなかったよ。おれはまだ二十七だ。当然、まだ独身でいい筈なんだよ。それが君、子供が二人も居て、生活に追われて、なさけないね。子供なんて、早く持つもんじゃない。三十過ぎてからで沢山だ。女房《にょうぼう》も三十過ぎてからでいいんだ。おれは後悔はしないよ。しかし君、恋愛なんて、要するにあんなものは何でもないんだ。必要なのは恋愛じゃない。生活だよ。おれは生活に負けてしまった。生活というのは、辛いもんだ。君にはまだ解らん。学生生活は生活じゃないからね。……生活に負けたら勉強なんか駄目《だめ》になる。おれは司法試験に自信を失ったよ。女房と子供とがおれを駄目にしてしまった。要するに身から出た錆《さび》だ。……わかるかい君。結婚は青年の地獄だよ。本当に地獄だ」  小野は酔って来たようだった。酔うと、日ごろから鬱積《うっせき》していた心の不満が一度にあふれて来たようであった。そのだらしのない告白を聞きながら、賢一郎はますます小野を軽《けい》蔑《べつ》していた。  八時ちかくなって、まだ試験勉強が残っているからという口実で、賢一郎は従兄と別れた。別れたあと、小野の心のみじめさばかりが印象に残っていて、不愉快だった。彼の妻は多分すばらしい美人であっただろう。しかし今は見る影もない姿だった。身づくろいもなく身だしなみも忘れ、家事と育児のための痩《や》せた女奴隷だった。それが彼女の恋の結末だった。そして小野は才能を失い自信をうしない、干し大根のようにしなびているのだった。高校時代の小野は短距離競走の選手で、精気のみなぎるような青年であったのだ。  結婚は青年の地獄だと小野は言った。それが耳に残っていた。解《わか》りきったことだと彼は思った。解りきった愚行に小野がはまり込んで行った原動力は、恋愛であった。つまり恋愛に負けたのだ。あるいは性慾《せいよく》に負けたのだ。あの男がなぜ負けたのか、むしろその事が賢一郎には不思議に思われた。恋愛とは一つの情緒に過ぎない。情緒に溺《おぼ》れることは罠に落ちることなのだ。おれは大橋登美子などに溺れはしないと、彼は思った。  登美子はしきりに彼の愛を求めていた。スキイに行った先の宿で深い関係になってからは、それが一層はげしかった。女としては当然であるかも知れない。しかし賢一郎は溺れなかった。その後幾度か二人の情事は重ねて来たが、心の愛情と愛の行為とをはっきり区別していた。登美子からは週に一度は必ずくだくだしい手紙が送られて来たが、彼は一度も返事を書かなかった。それが賢一郎の処世の方針であった。自分が結婚する相手は康子だと思っていた。  登美子は女の直感で、男の心をつかんでいない自分の不安定さを知っていた。だから必死になって彼を求め、会うたびに情事を重ねることを望んでいた。それが罠であることを知っているので、江藤はさらに警戒し、用心ぶかくなっていた。そして会うたびに、心の愛の不安定を説き、純粋な愛と結婚とは別のものでなくてはならないと言い聞かせていた。  十日ばかり前の夕方、彼は登美子に会った。どこかで食事をしようという話になったとき、登美子は弾んだ甘い口調で言った。 「ほら、あそこへ行きましょう。この前一緒においしいすき焼を食べたでしょう。渋谷の坂の上の、あなたが連れて行ってくれた……」  江藤は考えたが、思い出せなかった。すると登美子はすこし狼狽《ろうばい》して、 「あれは、違ったかしら。学校のお友達だったかしら……」と言った。  そのとき江藤は奇怪な疑いを感じた。登美子は誰か自分以外の青年と、二人ですき焼を食べたのではないか。登美子はおれ以外にも愛人を持っているのではないだろうか……。  しかしその疑いを江藤は口に出さなかった。それを問い詰めてみても、何の得るところもない。また彼は問い詰める権利を持ってはいないのだ。彼は女を愛していない。愛を誓ってもいない。互いに自由でなくてはならないと、いつも女に言い聞かせているのだった。従って登美子は自由であり、彼以外の愛人をもつことに不都合は無い筈だった。  けれども彼の心の一つの疑いだけは、小さな傷になって残った。(登美子にはおれよりほかの愛人が居るかも知れない……)  しかし、それが事実ならば、どうだというのだ。別に何の不都合もない。むしろ賢一郎としては好都合だと考えることもできる。愛していない女、そして今後は多分、これまでよりも一層わずらわしくなって来るであろう女を、上手に第二の男に引渡してしまえば、事件は円満に終りになる。女の心に恨みも残らない。そして二人の情事は永久の秘密として葬《ほうむ》り去られる。従って、二人ですき焼の夕食をたべたという、その相手の男について、登美子を問い詰めては却《かえ》って損だ。何も気がつかなかったような顔をしていなくてはならない。  それは江藤の狡猾《こうかつ》な打算であった。打算が悪い筈はない。打算とは生活の智恵《ちえ》であり、計画である。小野精二郎は若き日の恋愛におぼれて、打算を抛《ほう》棄《き》した。その結果が今日のみじめな姿である。結婚は青年の地獄だと、彼は悲痛な告白をした。いまになってそれを悟ったのでは、もう手遅れだ。必要な時に必要な打算をしなくてはならない。  大橋登美子とはなるべく早く、なるべく円満に別れなくてはなるまいと、江藤は思った。それが彼にとっては必要な条件であった。彼は母の期待に添わなくてはならないし、伯父の期待にもこたえなくてはならない。その事が同時に康子との結婚を実現させる条件でもある。したがって彼が法学博士の学位を取ることとも関連があり、ずっと先になって妻康子が伯父の遺産を相続することとも結びついている。慎重に、この予定された筋道を自分の人生のうえに実現して行かなくてはならない。  これを一概に、打算と言ってしまうことができるだろうか。学問をすることも才能を磨《みが》くことも、それが今後の人生計画であるという意味では、打算の性質をもっている。大橋登美子と別れることも彼の人生計画の一部だった。(あの女はおれの人生のプラスにはならない)……プラスにならないものを切捨てる勇気と決断とが必要だった。その事が甚《はなは》だしく不道徳であったり犯罪であったりする場合はともかくとして、それ以外の場合、余計な人情は足手まといになる。  登美子と別れることが不道徳になるとは、江藤は思わなかった。もともと女の方から持ちかけられた関係であった。責任があるとすれば共同責任であって、一方的に男だけが責任をとらなければならない理由はない。男女が平等であるならば、愛も別れも平等でなくてはならない。二人のあいだには充分な愛情関係が成立しなかった。従って別れは自然ななりゆきであると考えていい筈だ……。  そういう考え方は、理《り》窟《くつ》としてはどこまでも正しいと江藤は思っていた。少しばかりエゴイズムの匂《にお》いはある。しかしこれは正当なるエゴイズムと云《い》うべきものではないだろうか。先《ま》ず自己を愛せよ。しかる後に他人を愛するのだ。まず自分が或《あ》る地位にのぼらなくてはならない。それまでの過程においては、生存競争を懸命に闘うことだ。それが当り前ではないかと、彼は思っていた。  五月九日の司法試験は全国八カ所で同時に行われた。東京ではC—私立大学の全校舎を借切ったかたちで、そこに一万人にあまる受験者が集まった。午後一時から四時までの三時間。問題は憲法、刑法、民法、各二十問ずつ、合計六十の問題が提出されていた。すべて択一式になっていて、四つか五つかの項目の中から正解を捜し出すという方式だった。したがって一問については三分しか時間が与えられていない。  試験というものは、惨酷《ざんこく》で狡猾なものだった。人間の知識を人間がためすのだ。知識は性格を反映し才智を反映する。知識はその人の関心のふかさを現わすけれども、人間の関心は必ずしも円満な成長をするとは限らない。それによって将来の職業がわかれて行き、一つの職業の中でもさらに専門がわかれて行く。同じ弁護士でも刑事や民事の専門家がいたり、民事の中でも債権債務にくわしい人とか親族相続法にくわしい人とかに岐《わか》れる。ところが試験は一律に課せられる。しかも当りはずれがある。それは運命のようなものだった。小野精二郎は試験運に見放されていたのかも知れない。  江藤賢一郎に指定された試験場は、三百人も坐《すわ》れるような小講堂だった。試験がはじまると、この小講堂には一種すさまじい雰《ふん》囲気《いき》が立ちこめていた。三百人の青年たちが息を殺し、ほとんど物音も立てず、机にかがみ込んで、必死に答案を書いていた。その三百の若い頭の中で、日本の法律が摸《も》索《さく》され、こねまわされ、ずたずたに引裂かれ、次第に熱気をおびて、妖《あや》しい陽炎《かげろう》のような精気が立ちのぼるのだった。何という青春の浪費であろうか。  江藤はほとんど中央に近い机をあたえられ、六十の問題に直面していた。この関門がすなわち彼のための立身出世の関所だった。この関門を通過することが、伯父の信頼を得る道であり、伯父の娘を妻にむかえるための必要条件であり、博士課程にすすむための重要な通路でもあった。合格すれば栄光の門となり、落第すれば絶望の門ともなる。彼の現実的な生き方、打算的な生活態度も、合格すればそれが正当化されるに違いない。社会の関所は常に権威ある者にむかって門をひらき、権威をもたない者にむかっては厳しくその門を鎖《とざ》してしまうのだ。  江藤は三百人の受験者を無視した。これは一定の人数を選抜する採用試験ではない。一定の成績を取りさえすれば合格するのだ。従って一万人の受験者は競争者ではない。この試験は自己との闘いだった。  彼は記憶力に自信があった。六十問のうち四十六問までは、一時間以内に解答ができた。まだ二時間残っている。これで合格は確実だと、彼は思った。監視員が十五六人も居て、それが絶えず机のまわりを歩いていた。自分が監視されている。悪事を働く可能性のある人間として監視されている。その事に屈辱感があった。試験とは一種の人間侮辱の制度である。侮辱に耐えなくてはこの関門は通れない。実際の社会は侮辱に満ちているのだ。その中に法律が、海藻《かいそう》のように揺れ動いている。法律を味方につけた者が社会の勝利者になり得る。彼はその困難な関門を、いまくぐり抜けようと必死に努力しているのだった。  規定された時間の終りまで、江藤は机に坐っていた。頭の中は疑惑にみちていた。自分の知識、自分の才能に対して、これほど深刻な疑惑を感じたのは、はじめてだった。学問について、知能についての日《ひ》頃《ごろ》の自信を、自分でことごとく掘り崩して行くような気持だった。何が確実な知識であるのか。何が確実な理解であるのか。……平素は整然と頭のなかに納まっていたあらゆる法律知識が、すべて疑わしいものに思われて来るのだった。絶対にまちがいないと考えられた解答さえも、次第にあやふやなものに見えて来る。確信がゆらいで来る。最後はただ自分との闘いだった。平素の知識を疑ってはならない。それは敵の謀略に落ちることだ。自分を疑うことは敗北への道につながる。確信をもて。確信をもて……。  試験の時間が終って外に出たとき、江藤は一種の虚脱を感じた。受験生たちは数人ずつ集まって、どれが正解であるかを話しあっていた。喜ぶ者、舌打ちする者。呆然《ぼうぜん》としている者。……江藤は彼等を見捨てて校門の外に出た。まだ陽《ひ》があたっていた。すんでしまった試験のことを話しあってみても、何の意味もないと彼は思っていた。結果はいずれ発表される。  彼は冷たいビールを飲みたいと思った。そして従兄《いとこ》の小野精二郎を思い出した。小野もどこかの試験場に居たに違いない。多分彼はまた落第するであろう。今日の受験者およそ一万人。そのうちの七千人か八千人は落第するのだ。  江藤は合格を信じていた。六十問のうちの五十四問までは確信があった。七千人の落第者たちを乗り越えて、(おれは社会の勝者となるのだ)面接試験を終って最後に合格する者は、たいてい五百数十人であるだろう。全国八個所の試験場を合計して、およそ一万六千人が落第し、最終的に五百人が合格する。歩《ぶ》止《どま》りは三十二対一。その五百人は社会のエリートだ。その五百人が社会の上層部にのぼり、指導層となり、支配階級となる。  街に降りて、彼は一杯のビールを飲んだ。それは自分自身にささげる小さな祝盃《しゅくはい》であった。試験そのものは明らかに人間に対する侮辱である。しかし法務省が多くの手数をかけて司法試験を施行したということは、無名の青年たちの中から将来の支配階級となるべき人材を捜し出そうという意図にほかならない。要するに法務省自身が合格者を以《もつ》て社会のエリートと認めることでもある。つまり日本政府が公認したエリートであるのだ。  さっきの試験問題はまだ頭の中に残っていた。街を歩いても電車に乗っても、彼は何かしら足もとの定まらない気持だった。初夏の暖かい夕方。女たちの服装が軽やかで美しい。彼は大橋登美子を思い出していた。そして肉体的な誘惑を感じていた。しかし合格したら、あの女とははっきり別れなくてはならない。それまでは中途半端な関係を持続しておきたい気持だった。  家では母が待っていた。試験の様子を聞きたくて、そわそわしていたようだった。 「お手紙が来ているよ」と母は言った。  白い角封筒の裏の署名は、大橋登美子ではなくて江藤康《やす》子《こ》と書いてあった。康子から受けとる最初の私信だった。  翌々日の午後、江藤はひとりで街に出た。康子が指定して来た場所は有楽町にちかいホテルのロビイだった。大橋登美子と約束して会うときとは、場所柄《がら》からして違っていた。登美子と康子との生活の差、階級の差がおのずから現われていた。 (試験はもう終ったことと思います。御つかれさまでした。合格を信じています。ロードショーの切符を同封します。面白《おもしろ》そうだから行ってみませんか。もし御都合わるかったら誰《だれ》かにさし上げて下さい)  康子の手紙は短くて、愛情らしいものの匂《にお》いはどこにも無かった。映画に誘っておきながら、はじめて二人きりで会うことに、息をはずませている様子も感じられない。切符は二枚はいっていた。一枚だけ送って来れば用は足りる筈《はず》である。二枚を同時に送って来たのは、一切を男の判断にまかせようという、しおらしい女ごころの表現のようでもあるが、(あなたが行かなければ私も行かない)という風な一種のわがままも感じられるのだった。  登美子の手紙とはまるで違っていた。康子には気位の高さがある。男を誘っておりながら、男の気持を迎えようとする妥協の色は見せていない。それが江藤には少しばかり不満だった。彼女にしてみれば、(父から学資の補助を受けている貧乏学生)として、江藤を見くだしている気持もあるに違いない。なにも江藤にたのみ込んで、どうしても映画に行きたいというのではない。嫌《いや》ならやめます。切符は誰にでもやるがいい。八百円の指定席券二枚。そんなものは惜しくない……というわがままな気持が察しられた。  賢一郎はこの女に反撥《はんぱつ》するものを感じた。しかしそれは前から解っていたことであり、彼としては計算ずみでもあった。学資の補助を受けているのは事実であり、伯父の家と彼の家との間に貧富の差があることも明白だった。現状をもって両者を比較すれば、賢一郎の側に勝ち目はない。  彼の計算は将来のことだけしか無かった。だからこそ司法試験に合格する必要があり、博士の学位をとることも必要であった。そこで始めて伯父の家と自分との均衡がつくられ、康子と自分との位置が対等になってくる。それまではあらゆる屈辱に耐えて行かねばならない。  多分あの女と結婚したのちの、家庭の幸福に多くを期待することはできないだろう。康子は自分が江藤に恩恵を与えているような態度と、気位の高さとを以て、終生良人《おっと》を軽視し続けるかも知れない。しかし江藤には別の打算があった。家庭的には妻からの屈辱に耐えて行かねばならないにしても、世間的には彼自身が確かな地位を保ち、支配階級の一人としての社会的な名誉があたえられるに違いない。  革張りの大きな腕《うで》椅子《いす》を置きならべた、豪華なホテルのロビイにはいったとき、賢一郎は自分が場違いな人間であるような引け目を感じた。そういう引け目に、自分で反撥し、抵抗しなくてはならなかった。約束の時間を十数分過ぎても、康子は姿を見せなかった。自分から誘って置きながら遅れてくる、その事にも彼は女のわがままを感じていた。  二十分も遅れて、康子はホテルの玄関をはいって来た。白いブラウスを着て、唐草《からくさ》模様のマフラで頭を包み、自分の家へ帰って来た時のような気楽さで、ハンドバッグをぶらぶらさせていた。賢一郎が立って迎えると、 「こんにちは。お待たせしたかしら」と言った。それからロビイの奥を指さして、「お茶でも飲みましょう」と言い、先に立って歩いた。奥に喫茶室があることを、何度も来て知っているらしかった。  賢一郎は一歩立ち遅れたという気持だった。喫茶室は中庭に面していて、静かだった。池があり、菖蒲《あやめ》が咲いていた。康子は自分でテーブルを選んで、先に坐った。始めから、男の指示に従うような気配は全く見られなかった。賢一郎は鋭敏にその事を感じていた。  冷たい飲みものを註文《ちゅうもん》してから、彼女はまっすぐに賢一郎の顔を見て、かすかに笑った。 「あなたと二人きりでお会いするの、これが始めてね」 「これからはたびたび、会ってほしいな」と彼は先手を取返すようなつもりで言った。 「そうね。……でも、その前にわたし、少しあなたとお話ししてみたかったの。映画なんか、本当はどうでもいいのよ」 「話って、何のことです」 「つまりね……ざっくばらんに言った方がいいわね。あなたは私と結婚するおつもりなの?」  結婚という話に触れながら、羞恥《しゅうち》の表情は見せなかった。聡明《そうめい》な眼が青く澄んで、相手の真意を探り出そうとするように、鋭く見据《みす》えていた。賢一郎は迂《う》濶《かつ》な返事はできなかった。 「父があなたに、何かそんなことを言いましたか」 「いや、伯父さんから直接には何も聞いていませんよ。豊子さんが何だか、そんなような口ぶりをしたことはあったけど……」 「その事でね、はっきりさせて置きたいのよ。父にはあなたと私と結婚させたい気持があるのよ。だけどそれは父の勝手な考えで、私とは何の関係もないの。私は自由よ。私たち婚約もなにもしていないんですからね。そんなことを父が勝手にきめてしまうのは、嫌なの」 「するとあなたは、誰かほかに結婚したい人が居るというわけ……」 「そう思われるの、一番嫌だわ。そんな人、誰も居ません。はっきり言うわ。ただ、私の意志を無視して父が勝手に話をきめるという事が、嫌なのよ。それだけよ」 「解りました。しかし、その事とは別に、僕はできたら、あなたと結婚したいな。あなたがもし、全く自由な気持で、賛成してくれるならば……」 「そう。有難う。だけど……それ、何なの。どうして結婚したいと思うの。……それ、あなたの愛情? ……それとも何か、もっとほかの事を考えているの? ……たとえば私の父に対する義理とか……」 「義理はあります。たくさん有りますよ。しかしそれと是《これ》とは少し違うから……」 「少しじゃないわ。全然関係ないことでしょう。あなたは父に義理があったにしても、私には何も無いでしょう。第一、義理なんかで結婚するんだったら、死んだ方がいいわ」 「僕はそんなことは考えていないな。結婚はやっぱり純粋に愛情でありたいと思うから……」 「だってあなた、愛情があるの? ……ある訳ないでしょう。二人きりでお会いするのは、今日が始めてよ。私たち年に一度も会っていないわ。私だってあなたを嫌《きら》いじゃないわよ。だけど別に愛してもいないと思うの、今はね。……つまり白紙でしょう。これからの問題でしょう」 「そう。これからの問題です。しかし僕の気持は完全に白紙じゃないんだ。愛していると言ったら誇張かも知れないけど、気持の準備はできているんだ。いつでも踏出して行けるという気がしていますよ。これは義理も何もない、あなたが赤の他人であっても同じことですよ。僕たちは今までチャンスが無かったというだけで、本当はお互いに愛して行けるんじゃないかなあ」 「何だか嫌だわ」と康子は小さな声で言った。「何だか、あなた無理してるみたいな気がするわ。やっぱり義理があるのね。……父に対する義理って、おかねでしょう。おかねの事は先になってから、おかねで返したらいいのよ。私はその義理に、気持が躓《つまず》くんです」 「僕は義理という気持を完全に棄《す》て去ることはできませんよ。もちろん伯父さんに対してね。しかしあなたに対してはもっと違う気持です。あなたが躓く気持はわかるし、僕もその事に躓くね。しかしお互いにもっと深い愛情がもてるようになったら、そんなこだわりは乗り越えて行けると思うな」 「そうね。……だけど私はいま、積極的にそうなりたいとも思ってはいないの。本当に白紙なのよ。その事、解ってもらいたいわ」 「わかりました。だけど、ときどき会っておしゃべりをするのは、かまわないでしょう」 「愛していなくても、会うんですか」 「普通の友人関係はみんなそうでしょう」 「そうね。……試験はどうでした?」 「多分、大丈夫だろうと思います。しかしまだあとがあるから、安心できませんよ」 「わたし今からちょっと、行きたい所があるの。今日はこれで失礼するわ」 「ほう? ……映画の切符はどうするんです」 「あなたお友達でも誘って下さい。わたしはあんまり見たくないの。人がいっぱい集まる所って嫌いなのよ」  大橋登美子とほとんど同じ年であったか、康子は言葉も感情もませ《・・》ていて、何かしら心に鋭い刺《とげ》をもっていた。父の前ではつつましげに見えた娘が、独りになると意外にぴしぴしと、容赦のない話しぶりだった。江藤を置去りにして、ロビイを横切って行く女のうしろ姿は、男を無視していた。むしろ孤独にさえも見えた。  江藤は取残されて、もう一度ロビイの椅子に坐《すわ》り、煙草《たばこ》をくわえた。手の中に二枚の切符がある。彼はこの切符に一種の屈辱を感じていた。康子ははじめから映画を見る気はなかったのだ。してみれば切符は江藤をここまで誘い出すための餌《えさ》であった。誘い出しておいて、言いたいだけのことを言って、それで康子は目的を達したのだ。何という我儘《わがまま》な女……。  江藤は自分のみじめな姿がわかっていた。しかし今は仕方がない。康子は伯父の娘であり、社長の娘である。その事自体、空《くう》疎《そ》な地位にすぎないが、康子はそれが空疎であることを知らないのだ。彼女の思い上がりはすべて父の威光を背景にしただけのものだった。ひとりとひとりとで対立すれば、康子などは物の数でもない。彼女を支えている自分自身の力というものは、何も有りはしないのだ。  しかし今は仕方がないと、彼は思っていた。必要なことは、なるべく早く婚約を正式なものにすることだ。要するに江藤自身が彼女の良人としてふさわしい社会的条件を身につけることだった。あの女には一種の虚栄心がある。康子の手きびしい会話の根柢《こんてい》にあるものは、彼女の虚栄心だった。その虚栄心に価《あたい》する地位と名誉とを江藤が身につけたとき、彼女ははじめて婚約を承諾するに違いない。  ともかくも映画を見ておこうと考えて、彼はホテルを出た。そのあとで映画の所感を手紙に書いて送るのだ。しばらく康子との接触を続けて行こう。しかしあの気位の高い女は、なにか機会を見つけては男を軽蔑《けいべつ》しようと考えているらしい。軽蔑されないためには、威厳をもって接することだ。当分のあいだ、求愛の言葉などを用いてはならない。  これも一つの闘いだった。そして賭《か》けだった。伯父の信頼を得ることは何でもないが、康子の心に愛を培《つちか》うことはむずかしい。しかし本質は大橋登美子とおなじ一人の女に過ぎないと、江藤は思っていた。要するに野性の猿《さる》を餌《え》づけするように、自分から、自分の意志で近づいて来るように仕向けて行くことだ。  母を利用すること。伯父を利用すること。それから彼女の姉の豊子を利用すること。……これは一つの打算である。打算ではあるが、他人に被害を与えるような行為ではない。むしろ母を喜ばせ伯父を喜ばせ、そして自分にも利益をもたらす、一石三鳥の策だ。非難される理由はなくて、むしろ賞讃《しょうさん》に価するものではないだろうか。  バスの中で、江藤はふと思い当るような気がした。気位の高い女は一般に嫉《しつ》妬《と》ぶかい女だ。それは大学の女子学生を見ていれば解《わか》ることだった。康子は嫉妬心の強い女であるだろう。それを逆用することも考える必要がある。彼女が江藤をホテルまで呼出して、あのような(宣言)をせずにはいられなかったというのは、実は江藤に関心をもっていることの証明であるかも知れない。関心をもちながら、彼女の虚栄心がそれに反撥していた。つまりは彼女の内心の闘いと矛盾との表われではなかったろうか。……  映画はもう始まっていた。  試験の結果が発表されたのは、梅雨の季節にはいってからであった。江藤賢一郎は合格の通知を受けた。そして小野精二郎は落第だった。  江藤は何かしら虚《むな》しいものを感じた。試験という制度は、それ自体完璧《かんぺき》なものではない。出題の方法にも疑問の余地はあるし、受験者の側の運不運もある。けれども司法試験は国家が実施するものであって、司法試験法という法律にもとづいて行われる。それが法律によるものである限り、たとい不完全なものであっても、完全なものと同様の効力を有する。  したがって合格者には国家がそれだけの資格をみとめ、社会もまたそれを認める。認められたという事だけが真実であって、それ以外に社会的な真実は有り得ない。国家試験にくらべれば国会議員の選挙は、もっともっと不完全であり、欺《ぎ》瞞《まん》と策謀に充《み》ちている。しかし当選したものだけが議員として国家から認められ、社会もそれを認めざるを得ない。  人間の社会は古今東西を通じて、常にそのような欺瞞と妥協とによって運営されて来たのだ。してみれば社会の一般常識に妥協することだけが、生きて行くために必要な条件であるに違いない。試験に合格したものには地位が与えられ、学位を取ったものには世間の名誉が与えられる。その事の意味を疑ってみても何の役にも立たないのだ。  小野精二郎は今年かぎりで受験をあきらめるだろう。そして地方の小都市の高等学校の教師として、一生を終ることになるだろう。一つの試験が彼の人生の転機となった。あの優れた秀才は、試験という関門に躓いたことによって、生涯《しょうがい》の華やかな希望を失った。彼を躓かせたものは、二十二歳のときの恋愛と結婚とであった。要するに彼は女に躓いた。ひとりの女を得て、そのほかの総《すべ》てを失ってしまった。  江藤の合格は、法学部の学生たちの間にたちまち知れわたった。 「おい、良かったな。このあとは何だ。論文か。いつだい。八月か」 「七月はじめだ」 「もうすぐじゃないか。頑《がん》張《ば》れよ。自信あるかい」 「無いね」 「大丈夫だ。やれやれ。お前は合格するよ。……なんて、無責任なことを言やがる」 「どうだ、前祝いに一杯やるか」 「勘弁してくれ。まだ早いよ」 「くよくよするな。大きな気持でやれ。勝負は時の運だ」  学生仲間からの祝辞や激励の言葉には、いつものふざけたような口調が多かった。江藤は彼《かれ》等《ら》にとりかこまれた中で、一種の優越を感じていた。優越はまだ完成してはいない。しかし秋になって正式の合格がきまった時には、この学友たちと彼との間には画然とした差ができる。彼ひとりが、国家によって認められたエリートとなる筈《はず》だった。  傘《かさ》をさして、蒸し暑い雨の中を歩きながら、江藤は確信にみちた気持だった。華やかな人生の扉《とびら》が彼にむかって開かれようとしている。地位と名誉と富と。……自分は当然それに価する人間であるような気がした。ぬれた鋪《ほ》道《どう》で行き交う多勢の人たちに対しても、彼はひそかな優越を感じていた。(君たちは何も知るまい。知らないのがあたり前だ。しかし君たちがいま見て通ったこの青年は、遠からず判事検事となって、君たちを裁くだけの資格を与えられようとしているのだ。今のうちは君たちと同列の人間だが、あとほんの少しで、君たちとの間に大きな差が開いてしまうのだ……)  帰ると母が待っていた。彼の机の上に細長い書留の小包が置いてあった。大橋登美子からだった。開いてみると紙函《かみばこ》の上に(御祝)と書いてあって、きれいなネクタイが二本はいっていた。紺と臙《えん》脂《じ》と。その色とななめの縞《しま》とが登美子の好みであるらしかった。  さし向いで食卓についたとき、母はしばらく黙っていた。何か言いにくそうにしていた。それから一つ決心したように、重い口調で言いはじめた。 「あのひと……大橋登美子さんとか言ったね。お前はどういうつもりでおつきあいしているの?」 「別につもり《・・・》も何も無いよ」 「そう……。お前はそうかも知れないけど、向うの人は何かしら、お前をあて《・・》にしたりしているんじゃないの?」 「そんなことは無いよ」 「ないと、どうしてはっきり言えるの?」 「ちゃんと話してあるんだ。お互いに先の約束みたいなことは一切考えないという話になってるんだよ。だから何も心配してくれなくてもいいんだ。……ちゃんとしてるよ」 「そんな約束が、役に立つだろうか。約束なんて、口先だけのことだからね」 「約束がだめなら、どうすればいいんだ」 「だからね……」と母は言いさしてためらった。  母には女の気持がわかっていた。そして息子の稚《おさな》さが歯《は》痒《がゆ》い気がした。学問にかけては大学でも指折りの秀才であるらしい。けれどもまだ女ごころの機微は解ってはいない。その稚さが歯痒くもあるが、可愛くもあった。この子は自負心の強い子だ。何でも自分の思うようにやれると考えている。その自信の強さが、却《かえ》って躓《つまず》きの石になるかも知れない。母はそれが怕《こわ》かった。 「何を送って下すったの?」 「ネクタイ。お祝いだってさ」 「その人の御両親は、御存じかしらね」 「どうだかな。安もの《・・》だから、自分の小遣いで買ったんでしょう」  その言い方が、相手の女を軽蔑している口調だった。その女に対して、誠実さは無いようだ。誠実さのない二人のつきあいが危険なものであることを、母は知っていた。もしかしたらそのひととの間の関係は、ずっと悪いところまで進んでいるかも知れない。母は箸《はし》を止めて息子の顔をじっと見つめた。そしてこの子が、もう一人前の(男)になってしまったのではないかという疑いを感じていた。 「康子さんの事もあるんだからね……」と母はさらに言った。「いい加減なことはできませんよ。伯父さんは大学に残って博士課程をやってみろって言って下さってるんでしょう。わざわざ私にまで手紙を下さったのよ」 「そりゃあ解ってるよ。だけどそれとこれとは話が違うじゃないか」 「違いやしませんよ。伯父さんは康子さんの事があるから、お前に学資を出して下さるんですよ」 「それが違うと言うんだ。お母さんは何も知らないんだよ。第一、結婚ということが学資を出してくれる事と、交換条件になるという考え方が、おかしいでしょう。僕はもともと伯父さんとそんな約束をした覚えはないんだよ。結婚は僕の自由意志だし、康子の自由意志だからね。結婚の自由意志を認めないということになったら、それは憲法違反でね。婚姻は両性の合意のみに基づいて成立するというのが、憲法二十四条だよ」  母は嫌《いや》な気がした。何だか、法律知識をまなんだことによって、この子はだんだん悪くなって行くのではないかという不安を感じた。法律を味方につけ、法律を楯《たて》にとって、他人の愛情も善意も踏みにじって、自分の慾望《よくぼう》を合理化し合法化しながら、世の中を押しわたって行こうとしているのではないかと思われた。大橋登美子さんという人についても、相手をうまく言いくるめ、法律的な逃げ手《・・・》をつくって置いて、上手に瞞《だま》しているのかも知れない。もしそうだとしたら、これは大変なことだと母は思った。 「それじゃお前は、康子さんと結婚するのは嫌だというの?」 「そんなこと、言ってやしないよ。学資と結婚とは話が別だというんだよ」 「だからさ、お前は康子さんを貰《もら》いたいと思うのか思わないのか……」 「別に嫌じゃないよ。だけど向うの意志だって有るでしょう。向うが嫌だって言ったら、それっきりの話だからね」 「康子さんはお前に、嫌だと言ったの?」 「嫌だとは言わない」 「そんなら良《い》いんじゃないの」 「嫌だとは言わないが、おやじが何を考えていようが、それは私の知ったことじゃないって言ったよ。要するに今のところ、結婚なんかする意志は無いというわけさ。ただそれだけ」 「では、断わられたという訳でもないんだね」 「まあ、一種の強がりみたいなもんだな。強がりか、虚栄心か。……インテリ女に共通な一種の虚栄心だろうな。女の自由だとか自主性だとか、そんなものをちょっと振り廻《まわ》してみたいんだね。解るような気がするよ」  その説明を聞いて、母にも康子の気持というのが解るような気がした。しかし同時に、康子の性格を解説する賢一郎の言葉には、康子に対する彼の誠実さが含まれていないように思われた。母はこの大切な息子が、なにか道を踏み外しているのではないかということに、いま始めて気がついたのだった。  二人きりの淋《さび》しい食事が終っても、母は席を立たなかった。何かしきりに悪い予感があった。賢一郎が嫌がることは解っていたが、これは言わない訳には行かない。 「お前ね、私は本気で言うんだから、ちゃんと聞いておくれよ。……大橋登美子さんとはもう、おつきあいをやめなさい。お前はそんなつもりは無いだろうけれど、向うの人がもし本気になったら、のっ引きならない事になるよ。悪くすると、それこそお前の出世のさまたげにだってなるかも知れませんよ。  今のうちなら、何でもなしに、おつき合いをやめることができるでしょう。間違いがあってからでは困るからね。あの人は第一、私の見たところでは、お前の結婚の相手になれるような人とは思われませんよ。結婚は一生のことだからね。  悪いことは言わないから、いまのうちに黙っておつきあいをやめなさい。品物を送ってもらったりしていると、また義理ができたり、向うの気持に曳《ひ》きずられたりして、決して良い結果にはならないのよ。お前の口ぶりから考えたって、お前は本気で結婚するようなつもりは無いんだろう。……そんなら今のうちに別れることですよ。第一、それが向うの人に対しての親切でもあるんだからね。いい加減引っぱり廻して、それからさようならでは、向うの人だって裏切られた気持になるだろうしね。  お前のような男なら、向うの人から見れば、結婚の相手として不足はないんだからね。学問ができて、風采《ふうさい》が良くて、性質も良いし、まもなく司法試験がとれて、博士にもなるというんだったら、それこそ三国一の花婿《はなむこ》さまですよ。女の人はどうしたって本気になるわ。だからこそお前は気をつけなくてはいけないんですよ。つまり、先廻り先廻りして用心しなくてはいけないの。こっちはそんなつもりではなかったと言っても、向うの人は本気になるからね。  できるだけ早く、大橋さんとはおつきあいをやめなさい。本当を言うと、あのお祝いだってお返しした方がいいかも知れないけど……困ったねえ」 「わかってるよ、うるさいなあ」  賢一郎は夕刊をひろげたままぶら下げて立ちあがり、自分の部屋にあがって行って、机の上の灯をともした。窓の外にはまだ雨が降っていた。その鬱陶《うっとう》しさが、母の言葉のうるささと一緒になって、一層やりきれない気持になった。  大橋登美子と別れなくてはならないことは、彼自身、充分に知っていた。母は何も知りはしない。母は間違いのないうちにと思っているが、間違いは既に犯されている。別れることは何でもない。しかし別れたあとには肉体の孤独がくる。大橋登美子という女自体は何ものでもない。しかし彼は登美子に接することによって、そのたびに自分の心のなかに一種の自信を築いているのだった。女についての自信は、社会に立ち向うことの自信にも通じていたかも知れない。彼がほしがっているものは、女を通じて培《つちか》われてゆく自分に対する自信だった。  新聞を読みかけてみたが、記事の内容が頭にはいらない。不快なものが胸につかえていた。おれの事はおれが処理する。知りもしないでおれの生活に干渉するのはやめてほしい。おれが何を考え、何を望み、何を計画し、また努力しているか。母なんかに解りはしないのだ。母は今でも息子が自分の手の中で生きていると思っている。ところがおれの世界は母の世界より十倍も広いのだ。……  だいたい母親というものは何のために存在しているのだ……と彼は思った。  けだものならば仔《こ》が育って自由に餌《えさ》をとることができるようになれば、その時を境として、母の存在意義はなくなってしまう。人間の社会では経済関係が複雑だから、子供が経済的に自立したときを境として、母と子の関係は断絶する。すくなくとも母と子の関係を継続すべき必然性は失われる。それから後の母は子にとって一つの重荷にすぎない。  その重荷に彼は縛られているのだった。民法は扶《ふ》養《よう》の義務を彼に課し、刑法はその義務を怠った者に遺棄罪という罪を定めている。尊属に対する遺棄罪は懲役六月以上七年以下という重罪である。母が生きている限り彼はその義務を負いつづけて行かなくてはならない。しかしその母はもう彼にとって無用の存在であった。母が死んでも父の遺産はあるから、当分の生活には困らない。  二十数年まえに、母はおれを産んだ。産んだという事実に母はいつまでもこだわっている。母はおれに忠告することを義務だと考えているらしい。あるいは母の愛情だと信じているのだ。  しかし義務も愛情も、おれにとってそれが必要であった期間はとっくに過ぎている。いまとなっては母の愛情はわずらわしいばかりだ。母は自分の思考の範囲だけに固執して、そこからおれに忠告する。おれの精神生活の内容も活動の範囲も、はるかに母の世界から外にひろがっている。従って母の忠告は忠告の意味をなさない。その無意味な忠告が、おれを不快にするのだと彼は思った。  秋になったら司法試験の結果がわかる。合格すれば、学校の卒業を待たずして司法官吏の資格が与えられ、経済的にも独立の能力がそなわる。母はますます無用の存在になる。やがて康子を妻にむかえる。その時から後は、母は無用の存在から更に眼ざわりな存在にまで後退して行く。  母というものの宿命的な悲劇だ。おれは母を遺棄することは無い。しかし母の存在によっておれの生活を歪《ゆが》められることは承知できない。母は独りで静かに生きて行けばいいのだ。子供には子供で、新しい別個の生き方がある、と彼は思っていた。いまは、母を愛する気持よりも、煩《わずら》わしく思う気持の方が強かった。それは彼が秘密にしている女性関係に母が口を出したからだった。しかしその事とは別に、やはり大橋登美子とは別れなくてはならないと、ひそかに考えていた。 五  七月一日から五日間にわたって、江藤賢一《えとうけんいち》郎《ろう》は二度目の試験を受けに行った。場所はこの前と同じ大学であったが、試験場は小さい教室に変っていた。  今度の試験は前回と違って、論文式であり、出題は広範囲であった。憲法、民法、商法、刑法のほかに、選択によって課せられるものが三科目あった。試験は午前二時間、午後二時間。それが五日間つづくのだった。梅雨期の終りに近く、降る日と照る日とが入りまじり、蒸し暑い日々であった。 (憲法・第一問。……日本国憲法第七十六条二項に、行政機関は終審として裁判を行うことができない・とあるが、これが規定されている理由を説明せよ) (商法・第二問。……手形・小切手上の法律関係は、証券上の記載が抹消《まっしょう》されている場合に、どのような影響をうけるか)……  論文用紙は罫《けい》を引いた紙が八枚ずつひと綴《つづ》りになっていて、その用紙の範囲内に答案をまとめなくてはならなかった。受験者はみな必死だった。六十人の青年たちが六十の机に平たくかがみこんでいる。そしてみな孤独だった。他人のことを考えている者はひとりも居ない。すべてみな自分との闘い、自分の頭脳との闘いだった。八人の監督者が机のあいだをゆっくりと歩いていたが、その監督者に眼を向ける者も居なかった。このとき、彼等はみな一種のエゴイストであったに違いない。試験という人間審判の方式は、受験者をエゴイストにしてしまう。彼等は外の世界から断絶され、知人友人肉親から隔離され、しかも無言の冷たい眼で監視されながら、まるで実験動物のように頭脳の中の能力をテストされているのだった。  この苛《か》酷《こく》で無残なテストを通らなければ、社会のエリートとして選び出されることはできない。江藤賢一郎もまた必死だった。いまは母もなく康子もなく、大橋登美子もない。そのような身辺の繁雑なものはすべて振捨てて、完全な一個のエゴイスト、むしろ純粋で透明なエゴイストになりきっていた。  (刑事政策。……死刑廃止論と死刑存続論との論拠を比較し、その得失を論ぜよ)……  この問題にぶつかったとき、賢一郎は胸が躍った。この一年ばかり、世間では死刑廃止論がしきりに新聞雑誌に掲載されていた。ある死刑囚に対する再審査請求の事件もあり、実在の死刑囚の事件が映画に製作されて話題を呼んだこともあった。  江藤はそうした世上の動きから、死刑廃止論にからんだ出題を予想し、充分に研究して置いた。その予想が的中したのだった。  彼はそこで心にゆとりができた。この論文はすらすらと書ける筈《はず》だ。これまでの手ごたえから考えて、今度も合格できるような気がする。何かが自分に幸いしているようだ。彼は落第した小野精二郎の顔を思いうかべた。かわいそうな、憐《あわ》れな従兄《いとこ》。……しかしあれは小野自身がえらんだ道であった。没落して行く者に心をひかれる必要はない。彼は急に、一本の煙草《たばこ》がすいたくなった。  (論拠の比較)  死刑廃止論  死刑廃止論の論拠は、大要次の三つに分類し得る。  一、人道主義的立場からの廃止論。これは(人が人を殺すということは神の道に反する)というキリスト教的思想から出発したものである。従って廃止論の論拠として最も古く、それが現在まで根強く残っているものである。現実的な発想としては、(死刑は惨酷《ざんこく》である)ということ、或《ある》いは、(人間は人間を殺す権利をもたない)というような形をとって現われて来る。  二、誤判を理由とする廃止論。裁判も人間の行為である以上、誤判が絶無であるとは言いがたい。また上告審で原審判決がくつがえされる例も少なくない。この場合、死刑執行後では取返しがつかない。したがって、(誤判が絶無であることを前提としなければ、死刑は行われるべきではない)という主張が、廃止論の一つの論拠となっている。  三、被告弁償の面から見た廃止論。前記一および二の廃止論は加害者たる犯人を中心として論じられているが、これは反対に被害者の立場を考えての廃止論である。つまり加害者たる犯人を死刑にしてしまっては、被害者の遺族へのつぐないを誰《だれ》がするのか、むしろ加害者を無期懲役にしておいて、その余生を通じて被害者への弁償方法を講じさせるべきだ……というのが、この論拠となっている。  死刑存続論  死刑の存続がなお必要であるとする側の論拠は、大体次の三つに分類される。  一、「死刑は一つの法的確信である」という意味からの存置論。すなわち(人を殺した者は、彼も亦《また》生命を奪われねばならないとすることは、一般人民の法的確信である)というのが、この論拠である。その立場から言えば多分に、死刑を応報的なものとして理解されている。つまり最も原始的ではあるが、また最も根強い刑罰思想がここに含まれている。  二、威《い》嚇《かく》的効果を期待しての存置論。死刑は言うまでもなく極刑であるが、極悪犯罪者の絶滅を期し、またそのような犯罪の誘発を防止するためには、たとい必要悪であっても死刑を存置しなければならないというのが、この論拠である。要するに死刑という制度を存置することによって、威嚇的な効果をあげ、逆に、死刑に相当するような極悪犯罪を減少せしめ、法益保護の目的を達しようとするのである。  三、完全隔離という面からの存置論。社会の安寧秩序を維持するためには、犯罪者を一般社会生活から隔離する必要がある。殊《こと》に極悪犯罪者はこれを完全隔離しなければならない。死刑は完全隔離の手段として存置されなければならない、というのがこの論拠とされている。  (存廃論の得失)  以上述べた存廃論を比較する場合には、多角的な観点からの考察が必要である。理念として優れていても、現実の刑事政策としては直ちに採用し難《がた》い場合もあり得るからだ。  一、廃止論の得失。  人間社会の基本的理念として、(人が人を殺す)という、制度としての死刑の存置が望ましいものでないことは明らかである。廃止論はこの根本理念としては決定的な強味をもつ。  けれども前記の、誤判を理由とする廃止論は、或る意味では裁判そのものに対する疑惑、否定にもつながるものである。またたとえば、誤判の結果無期懲役となった被疑者が、永い刑務所生活ののちに死亡し、その後になって誤判が発見されたという場合、その被疑者の受けた永年の苦痛は死刑と比較して、いずれが惨酷であるとも言い難い。誤判の問題は死刑の場合だけとは限らない。従って廃止論の決定的な論拠とはなり難い。  被害弁償の意味の廃止論は、合目的的考慮の面では秀《すぐ》れているし、合理的でもある。しかしながら具体的な弁償効果は多くを期待することはできないだろう。  以上のように、廃止論は理念としては美しいし、政策論としては合理的でもあるけれども、現実の社会感情や、刑罰の効果という面から考えれば、問題を残している点もすくなくない。  二、存置論の得失。  理念として死刑を存置すべしとする主張は、少なくとも現在では影をひそめているようである。したがって死刑存置の主張は専《もっぱ》ら政策論の場において論じられているものと考えられる。  死刑が、人間に加え得る最大の刑罰であるが故に、その威嚇的効果、極悪犯罪の発生を抑止する効果については、否定し得ないものがある。しかしながら是《これ》に反して、完全隔離を論拠とするところの存置論は、それ自体、ある意味では行刑の無能を暴露するに等しいという考え方も有り得る。  したがってその点から言えば、被害弁償を論拠とする廃止論の方が積極的であり、行刑への熱意と進歩とを期待させると言うべきであろう。  三、結論。  結局のところ、廃止論はその理念において決定的な強味をもっている。社会の理想としては当然廃止せらるべきものであり、政策論としても積極性をもつ。  しかしながら直ちにこれを廃止するためには、社会の実状がなお整っていないという憾《うら》みがある。一般社会が倫理的に進歩をとげ、個人的な道徳がさらに高揚された後には、当然死刑は廃止せらるべきものであり、それは世界一般の動向でもある。死刑廃止の完全実施も、論理的には(時間の問題)と言い得るであろう。 (賢一郎様 もう試験もすんだ頃《ころ》かと存じます。今度はいかがでしたか。日本中の悧《り》口《こう》な青年たちが集まっていることでしょうから、大変ですわね。  私ども一昨日から当地へ来ています。朝晩は肌《はだ》さむい程で、街の散歩にも毛のスエーターを着て行くくらい。東京の暑さの中で暮している人たちをお気の毒に思います。父は忙しいので週末だけしか来られません。女ばかりで少々心細いので、賢一郎さんが遊びに来てくれればいいのにと、母が申します。わりあい部屋数もあるので、何日でもお宿は致しますそうです。でも勉強のお邪魔だったら、むりにとは申しません。  このあたりは街から少し離れた山裾《やますそ》で、今朝はリスが遊びに来ていました。ときどき雉《きじ》も姿を見せます。鶯《うぐいす》が鳴いているし、ホトトギスも鳴きます。でもおいしい物があまりないのと、遊ぶところが少ないので、私も姉もいささか退屈しています。ゴルフでもやって見ようかなどと、相談しているところです。  気が向いたらお出かけ下さい。軽井沢にて 康《やす》子《こ》)  試験が終った翌日の午後、賢一郎はこの手紙をうけとった。読み終って一番強く印象されたことは、康子と自分との生活の差、階級の差であった。康子は賢一郎にむかって、高い所から物を言っているようだった。彼女は経済的な苦労というものを感じたことが無い女のように思われた。そのことに彼は一種の反感をもち、憎しみを感じた。  三《み》宅《やけ》が彼の立場にたてば、この憎《ぞう》悪《お》を階級闘争という行動に持って行き、団結の力でブルジョア階級に打勝つという手段を考えるに違いない。そして康子のような女を吾《われ》等《ら》の敵だと主張するだろう。その闘いは勝利の日を予定し得ない、空想的な闘争だと賢一郎は思っていた。  彼は現実主義者であったから、三宅のような遠いはるかな理想にあこがれたりはしなかった。彼は階級闘争を計画する代りに、自分自身がブルジョア階級にはいって行くことを考えていた。現在の社会を支配しているものがブルジョア階級であることは確実だし、この支配関係がさらに四十年も五十年も続くであろうこともほぼ確実だ。  現在の時点においては、康子は敵であり、賢一郎自身は被支配的プロレタリアであるかも知れない。だからこそ康子を味方につけ、彼女を妻にむかえることが必要なのだ。けれどもいまさし当って、彼女の手紙にさそわれて軽井沢の別荘へ居候《いそうろう》に行くことは、望まなかった。それは彼の誇りが許さない。貧乏学生ではあったが、それだけの意地はもっていた。  康子がブルジョア階級に安住していられるのは、彼女の父が資産家であるという、それだけのことだ。彼女自身は特に何の価値ももたない一匹の牝《めす》であるに過ぎない。その無価値さを思い知らせる為《ため》には、賢一郎自身が司法官史の資格をとり法学博士の学位をとることだ。……それが江藤賢一郎の計画している階級闘争であり、復讐《ふくしゅう》でもあった。団結の力も借りない、他人の協力をも求めない、ひとりと一人との階級闘争であった。 (康子様 お手紙有難う。  軽井沢へのおさそい、とても魅力があります。第一、涼しいところで、さぞや気持よく勉強できるだろうと、羨《うらや》ましい気がします。しかし僕《ぼく》は僕で、快適な夏を過すことが出来るだろうと思っています。暑さは好きな方ですから、食慾《しょくよく》も旺盛《おうせい》です。幸い市民体育館が近いので、週に一二度はプールへ泳ぎに行きます。大学の仲間が葉山に合宿しているので、そのうち海へも行くつもりです。雉も鶯も居ませんが、新鮮な魚を仲間の手料理で食べる楽しさは、また格別です。岩礁《がんしょう》のあいだに潜《もぐ》ってさざえを取り、石で叩《たた》き割って、海の水で洗って生のままで食べる、あの旨《うま》さは東京のどんなレストランにも無いもの、そして庶民だけの知っている、庶民の味です。あなたはそういう仕合せを知っていますか。  試験は昨日終りました。蓋《ふた》をあけて見なければ結果はわかりません。しかし何とか合格できたのではないかと思っています。試験を受けるという緊張感は案外気持のいいものです。答案がすらすらと書けるときの優越感のような一種の状態は、僕にとってはむしろ生《いき》甲斐《がい》のようでもあります。しかし、まだ先がありますから、安心はできません。  ところで軽井沢には、ずっと八月一杯滞在するのですか。ときおり東京の濁った空気を吸いに帰って来る気はありませんか。旨いアイスクリームを食べさせる小さな店を発見しました。毎日でも御馳《ごち》走《そう》しますよ。  伯母さまと豊《とよ》子《こ》さんによろしく。……よ《・》ろしく《・・・》という言葉はほとんど無意味みたいですね。だけど、どうぞよろしく。 賢一郎)  彼には解《わか》っていた。康子の手紙は二人に関する一番大事な問題を、わざと避けている。そして彼の返事もまた当り障りのない書き方で、大事な問題からわざと距離を置いているのだった。おそらく康子は賢一郎との間に一定の間隔を保ちながら、しかし或《あ》る程度の接触をも保ちながら、様子を見ようとしているに違いない。つまり賢一郎が司法試験に合格するかどうか。それを見定めた上で自分の態度をきめようとしているのではないかと思われた。  それは女の打算だった。康子の虚栄心からうまれた打算だった。賢一郎が自分と結婚できるだけの社会的な資格を取るかどうか。資格がとれなかった時には、父が何と言おうと、自分には拒否権がある。……  こういう推察が当っているとすれば、賢一郎としては、いま直接に求婚するというのは最も拙劣な方法だった。だから今のうちは当り障りのない交際をしながら、黙って実力を蓄えるべきだった。試験に合格したときには、正々堂々と求婚する。正式に母から伯父に話を通してもらう。愛の言葉も、愛の手紙も必要ではない。資格と均衡と手続きとだけがあればいいのだ。あの尊大な、虚栄心の強い娘は、愛の言葉では気持を崩されはしないが、階級と地位と名誉とには抵抗力を持たない。その弱点をつかまえることだと、彼は思っていた。  八月の残暑のころ、大橋登美子の父の経営していた印刷会社が、倒産した。倒産は突然のことだった。父はこの八月の不況の時期を何とかうまく游《およ》ぎきる自信をもっていた。来年のカレンダーの色刷りものの仕事が多かった。寺坂は父の片腕になって、主として外廻《そとまわ》りの仕事に走りまわっていた。  父を倒産に追込んだのは、彼が誰よりも深く信任していた寺坂自身だった。八月の暑さの中でも蝶《ちょう》ネクタイをしめ、きちんと上着を着た洒落《しゃれ》者《もの》だった。ある日、彼は夜になっても帰って来なかった。印刷物を納めた先からの集金二百二十万円を持っている筈《はず》だった。   父は警察に捜索願を出し、寺坂のアパートに連絡してみた。しかし寺坂はその前々日にアパートを引払っていた。翌日、手がかりなし。翌々日、寺坂は馴染《なじ》みの女を連れて逃亡したらしいことが解って来た。  そのかねは直ぐに銀行に預け入れて、それで手形の清算ができる筈だった。父のかねぐりの予定は崩れ、手形は不渡りになった。債権者は一度に押しかけて来た。父は行方をくらまし、五六日家に帰らなかった。そのあいだに何か画策したらしかったが、すべて不成功に終った。  七日目に、父は憔悴《しょうすい》して帰って来た。父の妾《めかけ》の栄子は妊娠していた。倒産した父と、妊娠して醜くなった栄子とを見くらべて、登美子は良《い》いきび《・・》だと思っていた。 「登美子、今度のことはお前のせいだぞ」と父は憎悪をこめて言った。「……寺坂があんな事を仕出かしたのは、お前のためだ。お前が結婚を承知すれば、あいつはこんな事をする筈はないんだ。お前が承知しないもんだから、あいつはやけくそになったんだ」 「冗談じゃないわ」と娘は反抗した。「そんな理《り》窟《くつ》、あるかしら。あの人はそういう人なのよ。私はちゃんと解ってたわ。だから断わったんじゃないの。あの人は泥棒《どろぼう》するような人なのよ。それを信用したのはお父さんが馬《ば》鹿《か》だからよ。私は何も関係ないわ」 「おれの会社がつぶれても、お前は関係がないというのか。あしたからどうやって暮して行くんだ。学校なんか、やめろ」 「やめるわよ、いつだって……。その代りわたし、家を出るわよ」 「どこへでも行ってしまえ」 「そう。……お父さんはそれでいいのね。自分の妾は養っても、自分の子供は養いたくないのね。立派なお父さんを持って、わたし仕合せだわ」  父は手にしていた番茶の茶碗《ちゃわん》を投げつけた。登美子は自分の部屋へ逃げこんで、中から鍵《かぎ》をかけ、机の上にうつ伏せになって泣いた。そして、この家を出る決心をした。  決心はしても、家出の具体的な方法は考えつかなかった。やみくもに家を飛出すほど軽率でもなかった。その時になってはじめて、生きて行くという事のむずかしさが実感となった。決心を実行することよりも、妥協することの方が、ずっと容易だった。  江藤賢一郎は論文の試験にも合格した。あとは九月末の面接試験だけだった。彼は大学の友人たちに無言の優越を感じていた。しかし友人の大部分は休暇で郷里へ帰っていた。  小野精二郎から手紙がきた。住所は青森になっていた。青森は彼の父の郷里だった。 (いま当地に来ています。青森県下の高校に職を捜すためです。うまく行けば九月の新学期から勤めることになるでしょう。家族はまだ東京に居ます。こちらはもう秋風どころか、今日は雨で肌寒いくらいです。  司法試験はあきらめました。もっと早くあきらめるべきだったかも知れない。柄《がら》にもない野心をもったことが、今となっては恥ずかしい。出世栄達の望みをすてて、生《しょう》涯《がい》を高校の先生で暮す気になってみると、却《かえ》ってさばさばとして、久しぶりに自分の心を取戻《とりもど》したような気分です。君には負惜しみのように聞えるかも知れません。しかしこれは僕の実感です。  人間、何のために出世栄達を望まなくてはならないのか。何のために名誉と富貴とを争わなくてはならないのか。東京の生存競争の渦巻《うずまき》の中から、わずか五六日はなれていただけで、僕は何だか新しい人生というものに眼《め》がさめたような気がしている。僕の都落ちは君の立場からは哀れに見えるだろう。僕は否定しない。しかし人間の幸福は出世栄達以外のところにも有り得るのだという、そんな単純なことにやっと僕は気がついたのです。  これからは東北の田舎町の、十六七の青二才どもを相手にして、彼《かれ》等《ら》の良き友となり良き教師となって、静かに生きて行こうと思う。閑暇あれば清流に糸を垂れ、また泰西の名曲に耳をかたむける、降る雪の音を聞きながら一杯の地洒に酔いを求め、豚児の平凡な成長をたのしむというのも、或いは恵まれた平和な生き方であるかも知れません。  みんなそうやって暮しています。そしてそれが特に不幸だとは思われない。あくせくしているのは東京の連中ばかりです。スモッグを呼吸し、騒音に悩まされ、交通事故の恐怖に耐えながら、危ない綱渡りのような一日一日を……)  賢一郎はそれから先を読む気がしなかった。手の届かない葡《ぶ》萄《どう》の房を、あれは酸《す》っぱいのだと罵《ののし》ったのは、イソップ物語の中の狐《きつね》であった。小野精二郎は狐の負惜しみをくり返しながら、自分の敗北の言訳をしているのだとしか思われなかった。  彼の心境は、五十を過ぎた男ならば納得できる。小野はまだ三十にもなっていない。要するに小野は人生の未来の可能性を失ったのだ。今の彼としては、この手紙のような心境になることが、自分のための救いであるに違いない。それ以外には救いのない、失意の状態にあるのだと、賢一郎は思った。  これで、あの哀れな従兄《いとこ》とも縁が切れる。これからは全く別々の人生を歩いて行くことになるだろう。そのことに、彼は何の感傷もなかった。  数日ののち、彼は大橋登美子と会った。登美子の方から会いたいと言って来たのだった。彼女は袖《そで》なしのブラウスを着て、小《こ》肥《ぶと》りの白い腕をむき出しにしていた。疲れた顔をしていた。束《たば》ねていない長い髪が両方の肩に垂れさがり、それが男の眼には暑苦しく見えた。  十時に、二人は新宿から箱根湯本行きの特急電車に乗った。日帰りで箱根へ行ってくるつもりだった。賢一郎はこの機会に上手に別ればなしをきめてしまおうと考えていた。そろそろ本気で別れる事を考えなくてはならない。司法試験に合格してしまうと、別れがむずかしくなると彼は思っていた。  多摩川の長い鉄橋をわたると、人家がすくなくなり、稲田や芋畑が見えて来た。窓ぎわに坐《すわ》っていた登美子が男の肩に自分の肩を寄せて来て、まじめな口調で言った。 「あなたのお母さん……こわい人?」 「うちのおふくろかい。……別にこわくはないよ。何だってそんなことを訊《き》くんだ」 「わたし、何だかこわい人みたいな気がしたの」 「どうしてそんなことを思ったんだ。近ごろ会ったことも無いくせに……」 「ええ。でも、私たちの事、解ったら叱《しか》られるわね」 「解りゃしないよ」 「あなたは大事な大事なひとり息子でしょう。あなたの未来のお嫁さんの事なんか、お母さんは今から考えていらっしゃるんでしょう」 「考えているらしいな。母親なんて、うるさいもんだよ」 「私のこと、解ったら大変ね」 「君は心配することは無いよ」 「でも、お母さん、もしかしたらもう御存じかも知れないわ」 「どうしてそんなに、おふくろにこだわるんだい」 「こだわりゃしないわ。でも息子の愛人なんて、母親から見ると、憎いもんだって言うわね。息子を取られるような気がするんだってさ」  その時は、さほど深い意味もないような会話だった。しかし賢一郎はほとんど全部の会話を、なぜか覚えていた。この女との媾《あい》曳《び》きを今日限りで終りにしようというような、下心を持っていたためかも知れなかった。 「父が破産したの」と登美子はいきなり言った。「外交の方の主任をしていた寺坂という人が、おかねを持逃げして、そのために破産したの。わたし、学校をやめるかも知れないわ」  それが言いたくて、今まで我慢していたような言い方だった。  破産……と賢一郎は思った。民事訴訟法のなかの破産法。厄介《やっかい》な法律だ。(第一条・破産ハ其《そ》ノ宣告ノ時ヨリ効力ヲ生ス)から始まって、およそ三百九十条。破産債権、破産の効力、否認権の問題。取戻権と別除権、相殺権。破産管財人の規定と監査委員の規定。破産と配当の関係。それから強制和議に関する条文。免責と復権。……  しかし彼の場合、選択科目の関係上、破産法の問題は出ない筈だった。 「わたしお父さんと喧《けん》嘩《か》したのよ。お父さんは怒って、出て行けって言ったわ。だから私も、うちを出るって宣言してやったの。……うちを出たら、もう学校どころじゃないわ。どうせいつかはこうなるだろうと思っていたんです。お妾《めかけ》さんがうちに一緒に居るんだけど、わたし口も利《き》かないのよ。お父さんはもうおかねが無いでしょう。借金だらけで、お妾さんを置くような身分じゃないわ。そのひと、いま妊娠してるの。私は家を出なくても、もう学資なんか出してもらえないと思うの。どこかで働かなくては生きて行けないわ。  わたし痩《や》せたでしょう。碌《ろく》に食べていないの。父やお妾と一緒に御飯をたべるのは嫌《いや》だから、変な時間に勝手に台所へ行って、その辺に有るものを何か食べるの。まるで泥棒猫《どろぼうねこ》みたい。悲しくなっちゃう……。  もう父からお小遣いだって、貰《もら》えないでしょう。写真機を売ったり置時計を売ったりしてお小遣いをこしらえているの。みじめだわ」  そのみじめな話を、江藤は遠い気持で聞いていた。登美子の父という人は見たこともない。その人の破産は彼には何の関係もない事件だった。破産に関する法律はたくさん知っているが、その事の具体的な悲劇に直接触れたことは一度もなかった。彼が知っている破産は経営上のつまずきであり、登美子の経験している破産は生活の崩壊であった。 「持逃げをした寺坂という人は、お父さんがとても信用して、よくうちへ連れて来ては一緒に酒を飲んだりしていたの。その人、私と結婚したかったのよ。だけどわたし、あなたとの事があるから、断然ことわってやったの。……それで絶望して、おかねを持って逃げたらしいのよ」 「ふむ、そうか。それではお父さんが破産した原因は君だということになるね。三段論法風に言うと、そうなる訳だ。しかし君はその寺坂という人と結婚した方が、八方無事におさまって、良かったかも知れないな」 「あら……わたし怒るわよ。どうしてそんなことを言うの。先生、私が嫌《きら》いになったのね」  江藤は煙草《たばこ》をくわえたままでうす笑いをうかべていた。しかし頭の中では、(あなたとのことがあるから断然ことわった……)という登美子の言葉を考えていた。登美子は二人の関係について男に責任を負わせようとしているらしかった。寺坂との結婚をことわった事にさえも、江藤に責任があるような言い方をしているのだった。  自分に何程の責任があるだろうか……と彼は考えてみた。法律は二人の間に愛情関係があったか無かったかということについて、全く関与しない。二人のあいだに性関係があったかどうかという事すらも、問題にしないのだ。つまりその事自体は法律的責任とは別個のことであり、私的な心情、私的な行為にすぎない。要するに法律的責任以前のことであるのだ。したがって登美子が彼に責任を負わせたいような気持になったにしても、それは彼女の身勝手な感情だけのものだ。……  それは女の身勝手ではあるけれども、登美子がそういう気持になって来たというのは、危険な状態だった。やはり別れなくてはならない時が来たのだ。これ以上現在の状態を持続して行けば、別れはますます困難になってくる。云《い》うまでもなく、破産した印刷屋の娘と法学博士とでは、結婚などということをまじめに考える訳には行かないのだ。……  電車は晴れた郊外の野山の明るい風景を突っ切って、走りつづけていた。丹沢の山なみがちかづき、富士もときおり見えた。一体この女とおれと、どういう関係があるのか……と江藤は考えていた。登美子はチョコレートを食べていた。銀色の箔《はく》を剥《む》く彼女の手つきは子供のように幼くて、ふっくらとふくらんでいた。  その手つきの幼さと、彼女の肉体の成熟とが、何かしらちぐはぐだった。江藤の知っているあの女、あんなに強い要求をもち、あんなに恥知らずな姿を敢《あ》えてした、あの女と、この幼い手つきとのあいだに、一種の不均衡なもの、片《かた》端《わ》なものが感じられた。まだ本当に大人になってはいないのだ。その幼稚さを、江藤はすこしばかり扱いにくく思った。 「君はときどき手紙をくれるだろう」と彼は顔を近づけて小声で言った。「……それからネクタイを送ってくれただろう。僕はそのたびにおふくろから叱られるんだ。まだこれから何年も勉強しなくてはならない者が、そんなことでどうするかって言うんだよ。  まあ、理《り》窟《くつ》はいろいろ有るがね……。……僕のいとこに小野って言うやつが居るんだ。それが君、二十二ぐらいで学生結婚してね。もう子供が二人も居るんだ。年は二十七かな。だから碌な収入もなくて、貧乏暮しでね。あわれなんだよ。とうとう東京に見切りをつけて青森の方へ行ったらしいが、そういうのをおふくろは見ている訳だ。自分の姉の子だからね。立派な物的証拠だよ。  だから僕のことも心配してね。絶対に小野みたいなことにならないように、(大橋さんという人にはお気の毒だけど、今のうちに綺《き》麗《れい》にさよならしなくてはいけませんよ、あちらのおかたに気の毒なことになるから、よくお話しして、解って頂かなくては駄目《だめ》ですよ……)  だから僕はね、大丈夫だって言ってるんだ。僕たちの間ではちゃんと話がついてるんだ、ってね。つまり僕も大橋さんも利害打算みたいな事は一切考えていない、純粋な友情関係に過ぎないんだ、相手に責任を背負わせるとか、遠い先の約束をするとか、そんな風に相手を束縛するようなことは一切していない、お互いに完全に自由なんだ、決して変なごたごたなんか起しゃしないから、安心してくれ。……  僕はそう言って説明するんだが、母親なんて心配するのが商売みたいなもんだからね、今までの事はそれでいいけれども、今後のために、大橋さんによく納得してもらって、おつきあいをやめて貰《もら》いなさい。……そう言うんだよ。  まあ、それも、一理あるよ。一理あるけれども、気持の整理はそう簡単にも行かないからね。それが問題なんだ。解るだろう?……」  いかにも巧妙な、悧《り》口《こう》な言い方だった。別れの責任をすべて母に押しつけて、登美子の反対や不満を間接的なものにしてしまうというやり方だった。彼自身は相手の反撥《はんぱつ》する力から上手に身をかわしたかたちだった。登美子は賢一郎にむかって怒ってみても始まらない。……そういう自分の狡猾《こうかつ》さを、彼は自分の聡明《そうめい》さだと思っていた。そのことのエゴイズムを自分で知らない訳ではなかったが、彼はそれを(正当防衛みたいなもの)だと考えていた。(だってこの女は、おれの女房《にょうぼう》になるような資格は有りゃしないんだ……)  彼はそういう思い上がった気持だった。登美子と結婚したら自分が大きな損をしなくてはならない。伯父の娘の康《やす》子《こ》だって、もしも彼女が江藤を見下すような生意気な態度をとるなら、こちらから結婚をことわってもいい。おれが学位をとれば、どんなに良い家からだって妻を迎えることができる筈《はず》だ。……  電車は箱根のふもとの終着駅についた。二人はバスに乗りかえて、芦《あし》ノ湖《こ》の岸までいった。このせまい町は夏の行楽の客で賑《にぎ》わっていた。空は頭の上に大きくひろがり、水面は黒々と遠くまで続き、沢山のボートがうかび、小型のモーターボートが白波の尾を曳《ひ》いて走っていた。  彼《かれ》等《ら》は湖畔の食堂で簡単な食事をしてから、貸ボートを湖上に漕《こ》ぎ出した。彼等にできることはその程度の贅沢《ぜいたく》しか無かった。やがて司法試験をパスし、数年ののちには法学博士になろうという江藤も、その気位の高さに反して、現在は貧乏学生にすぎなかった。そういう現実のかたちんばな生活に、なおしばらくは耐えていなくてはならないのだった。  ボートの上で、大橋登美子は何も言わずに、ひっそりと泣いていた。理由は、聞かなくても解っていた。賢一郎は他《ほか》のボートから少し離れた方に舟を漕いで行った。慰める必要はないと、彼は思っていた。泣いているうちに、女は諦《あきら》めがつくだろう。どうせ別れは悲劇にきまっている。この位の悲劇は仕方がない。黙って通り過ぎてしまえば、それで済むだろうと、簡単に考えていた。 「あなたのお母さん、私がお嫌いなのね」  うつ向いた、小さな声だったから、江藤はよく聞きとれず、聞き返した。 「私がおきらいなのね。そうなのね……」  言い終ると登美子の眼から涙が噴き出すようにあふれて来た。 「好きとか嫌いとか、そんな事じゃないんだよ。解らないなあ。……君だってまだ学生だろう。僕もまだあと六七年は勉強しなくてはならないんだ。つまりはっきり言えば、女のことなんか考えている暇はないんだ。女に対して責任を持つようなことはできないんだ。それでは結局君に対して悪いことになるから、今のうちに別れた方がお互いの為《ため》だというんだよ。おふくろもそう言うし、僕もそれは仕方のないことだと思うんだ」 「わたし、責任をもってくれなんて言ったこと、ないわ」と登美子ははね返すような言い方をした。 「それじゃ、君はどうしようって言うんだ」 「わたし何も言ってないわ。私の方からどうしたいなんて言ったこと、一度もないのよ。本当はあなたと結婚したいわ。それは当り前でしょう。だけどあなたはそれが嫌なのよ。愛情は純粋に愛情だけの方がいいとか、愛情に責任なんかない筈だとか言ったでしょう。あなたは冷たいのよ。解《わか》ってるわ。  だけどあなたが嫌なんだから、私は何も言わないで、あなたの好きなようにしていたのよ。そしたら急に別れるって言うんでしょう。お母さんが心配するから別れるって言うんでしょう。本当はあなたが、もう私なんかどうでもよくなったのね。もう飽きたのね。そうでしょう。はっきり言ってくれてもいいのよ。私はどうせこんなつまらない女ですから、あなたは物足りないのよ。だけどわたし、何かあなたに悪いこと、したことがあったかしら。……  私はなんにもしないし、なんにも言わなかったつもりよ。悪いことなんかしなかったつもりよ。どうして私と別れなくてはならないの? ……どうして今のままで居られないの? ……あなたは誰《だれ》かほかの人が好きになってもいいわ。誰かと結婚したっていいわ。なんにもわたし、言わないわ。だったら、どうして別れなくてはいけないの。どうして私をそんなにいじめるの? ……あなたは自分のことしか考えていないのね。私のことなんか本気で考えてくれたことはないのね。一度もないのね。  ねえ、お願い。今のままで居て。……わたしなんにも言いませんから。あなたを困らせるような事は決してしませんから。ねえ、今のままで居てちょうだい。それだけでいいわ」  賢一郎はゆっくりとボートを漕ぎながら、遠くまで続く水面と、遠い水面に映る濃い山の影とを眺《なが》めていた。そして女に、ここまで言わせてしまったことの失敗を感じていた。ばかな女、と彼は思っていたが、そのばかな女の裸の心を、むき出しに叩《たた》きつけられてしまうと、予想しなかった強い迫力に圧倒されていた。言い返す術《すべ》がなかった。  登美子は最後の線まで後退し、譲歩できる所まで譲歩していた。その最後の線での抵抗は、背水の陣のようだった。彼女自身、理窟も何もなしに、もうこれ以上は譲歩できない、したくともできないという所に追いつめられていたのだった。だから彼女の最後の要求は、要求というよりは嘆願であった。命がけのような哀れな嘆願であった。  男の立場から見れば、それが却《かえ》って腹立たしかった。何という解らず屋だろうという気がした。しかし女を解らず屋と言うこと自体、男のエゴイズムであることも、解っていた。賢一郎は生れて初めて、女というものに足をからまれた感覚を知った。ぬきさしならぬ、網の中に捕えられた感覚だった。そして今にして始めて、小野精二郎の失敗の本当の意味がわかったような気がした。それだけに、是《これ》は何としてでも逃げなくてはならないと思った。同時に、女から逃げることの困難というものを、始めて現実的に知らされたのだった。  湖畔には土産もの屋、食堂が建ちならんで小さな町をつくっており、町をとりかこんで幾十軒の旅館がある。賢一郎はボートからあがると登美子をさそって、町はずれのみすぼらしい旅館の二階にあがった。西《にし》陽《び》が山々を明るく照らしているが、ここではもう初秋の風が吹き、すすきの若い穂が白く波打っていた。  宿にさそったのは、二つの矛盾した気持からだった。一つは青年の単純な慾望《よくぼう》であった。別れると言いながら、それとは別に気持をひかれていた。登美子という女性には何の未練もないが、別れる前にもう一度だけ、智恵《ちえ》の木ノ実の魔性の味をたのしんでみたかった。蛇《へび》の誘惑だった。女の中に蛇がいて、彼を誘惑して已《や》まなかった。登美子自身の知ったことではない。彼女の存在そのものが彼にとっては誘惑であった。宿命的な誘惑であり、その誘惑に負けることもまた宿命のようであった。  彼は心の中で、これを最後にしようと思っていた。これ以上つづけてはいけない。いまにして彼は母の執拗《しつよう》な勧告の意味が身にしみた。母は知っていたのだ。母には体験があったに違いない。女というものが男にとってどんなに危険なものであるかを、母は体験として知っていたのだ。母は女でありながら、今は息子の味方になって、息子を女の危険から守らねばならないと考えていたのだ。母は女を裏切り、女を敵にまわしてまでも、息子の安全を守ろうとしていた。  登美子は現状維持を求めている。(ほかの人が好きになってもいいわ。誰かと結婚したっていいわ。だから、お願い、今のままでいて……)それが反道徳的であろうが無かろうが、彼女は知ったことではない。道徳などは眼中になかった。現状維持が彼女にとってはせい一杯の譲歩だった。  しかしそれこそ女の最大の策略であったかも知れない。現状を維持して三年も経過すれば、女は三年の実績を身につけてしまう。それから後に男の方から別れを求めたとすれば、女は三年の実績を楯《たて》にとって厖大《ぼうだい》な要求をもち出すことができるに違いない。現状維持こそ最も巧妙な謀略であり、男にとっては一番陥り易《やす》い罠《わな》であった。だから、登美子が何と言おうと、今日限りではっきりと別れてしまわなくてはならない。この最後の抱擁は、別れの儀式、別れの挨拶《あいさつ》だと、賢一郎は思っていた。  それから、その事のもう一つの意味は、登美子の抵抗を封じるための、眼つぶしのような、麻酔薬のような作用があるということだった。肉体の陶酔が精神の弛《し》緩《かん》をさそい、彼女にとって絶望が信じられないものとなり、まだ先に希望が残っているような気持になって、その分だけ、何もかもうやむやになってしまうのではないだろうか。つまり登美子の心に油断ができる。これは女を油断させるための行為であった。表向きは愛に似て、実は愛を裏切るための行為だった。  その策略を、登美子は知らない。彼女は絶望から這《は》い上がろうとして、自分から男の策略のなかに身を投じて行った。  陽がかげった頃《ころ》、彼等はバスに乗って山を降りた。小田原の街はもう夜の灯をともしていた。今日一日の二人の闘いは、終ったようでもあり、まだ終ってはいないようでもあった。  東京へ帰る電車の座席にならんで、彼等はサンドイッチを食べた。パンが少し乾いて反りかえっていた。二人とも何も言わなかった。現状維持という登美子の最低の要求は、承認されていたようでもあった。言葉で約束された訳ではなかったが、(あの事)が承認を約束したものだという風に、彼女は解釈していた。しかしそれは自分勝手な解釈であったから、心細い気持が残っていた。彼女は顔がすこしむくんで見えた。  電車の座席はほとんど満員であった。一日の行楽に疲れて、眠っている人が多かった。江藤はサンドイッチを食べ終ると、煙草《たばこ》に火をつけた。そして、現状維持とは一体どうする事なんだ……と考えてみた。  今のままで居てくれと登美子は言った。自分はそれを承認もしないし、約束もしなかった。しかし一つの行為が暗黙のうちに、それを承認したような結果になっていることは解っていた。女は自分で、そう解釈しているに違いない。  それは女の身勝手な誤解だと言って、争ってみても始まらない。必要なことは、何とかして上手に別れてしまうことだった。それには少しばかり時間をかけて、徐々に女をあきらめさせるより方法は無いらしい。むしろさし当っては、女の誤解を逆用して、現状維持が続いて行くように思わせておきながら、実質的な別れに誘いこんで行けばいいのだ。  現状維持とは言っても、格別はっきりした形がきまっている訳ではなかった。時おり会うというだけの不確実な関係にすぎなかった。その媾《あい》曳《び》きの間隔を二倍に延ばし四倍に延ばし、やがて十倍に延ばしてしまえば、その時間の長さだけ二人の関係はうすれ、それと共に女の愛も男への期待もうすれて行って、つまりは元の他人に還元してしまうに違いない。急激な変化は悲劇をもたらすかも知れないが、緩慢な変化にはいつの間にか、それに応ずる心の準備もととのえられて、格別のいざこざもなく別れられるに違いない。……  賢一郎はそういう聡明な対策を考えていた。登美子の横顔を見る眼《め》にもはや愛情はなくて、智恵の実を食べてしまった後には、宿命的な誘惑も無意味だった。誘惑とは結局、相手にあるのではなくて、自分の情感の中にあるものだった。  しかし賢一郎は登美子について、一つの事を考え忘れていた。彼女は父に絶望し、家庭に絶望していた。しかも父は破産し、生活の危機が迫り、学校もやめるかも知れないという所まで追いつめられていたのだ。彼女は口では言えなかったが、江藤に身ぐるみの救いを求めていた。江藤はその事に気が付かずに、ただひたすら彼女と別れることばかりを考えていたのだった。 六  待ち望んでいた秋が来た。希望の門のひらかれる秋であり、または絶望にたたきのめされる為の秋でもあった。どちらの道が彼の為に与えられるか。人生の大きな分岐点であった。  人生に、そのような人工的な分岐点がつくられているということ自体が、不幸なことであった。しかし今は彼にとって、それを批判すべき時ではなくて、それを突破すべき時だった。  午前九時起床。十時、大学に着いて、図書館にこもる。授業は一日に一二時間だけ出席するが、それ以外はずっと図書館で夕方までの時間を過す。六時帰宅。夕食。八時まで休息。八時から翌朝午前二時まで勉強。 「からだを壊さないようにしなさいよ。試験も試験だけど、からだを壊したら元も子もないからね」  賢一郎は必死だった。この一カ月が彼の一生を左右する運命のわかれ目だった。勉強の日程表はおどろくほどの早さで過ぎて行った。大橋登美子から手紙が来たが、彼は眼もくれなかった。東京の街のことも、映画のことも、政界の動きも、何も知らなかった。孤独な闘いの日々。……その闘いの相手は巨大な社会であり、社会機構であり、民衆そのものであった。勝つか負けるか。  彼は食慾をうしない、痩《や》せて頬骨《ほおぼね》がつき出てきた。母は心を配って彼の好きな物を食卓にととのえてくれたが、彼は頭に血がのぼっていて、胃が働いてくれないようだった。  九月の末、最後の口頭試験の時がきた。最初全国八個所で試験をうけた一万六千五百人の受験生は、論文試験のときには二千二三百人となり、口頭試験に残った者は五百五十人ほどになっていた。率から云《い》うと、三十人のうち二十九人までが落第しているのだった。  口頭試験は代々木の近くの青少年綜合《そうごう》センターという新しい建物を使って行われた。二十の部屋にわかれて、二人ずつの試験官が、受験者を個々に呼び入れて、十五分から二十分ぐらいの時間をかけて、たたみかけるように質問をして来るのだった。憲法、民法、商法、刑法、民事訴訟法、行政法、経済原論……。論文試験のときの課目の中から、何が質問されるかわからない。冷酷で、意地のわるい二十分であった。  試験官の一人は老人で、もう一人はこんな若い人が……と思うほど若い男だった。その男が絶え間もなく、揚げ足をとるようなかたちで江《え》藤《とう》に質問を浴びせて来た。  江藤はそれを受けて、まっすぐに相手の顔を見ながら、明快に答弁した。時に微笑をうかベ、時には多少の身ぶりを交え、役者のように爽《さわ》やかに質問に答えて行った。彼はよく知っている問題については詳細に時間をかけて説明した。そうすることによって、他の質問の数を減らすことになるだろうという計算をしていた。  試験場に入ってから出るまでに二十七分かかっていた。普通の人よりは永い時間だった。 その時間の大部分を彼はしゃべり続けていた。終って外に出たとき、がっくりと疲れて、眼が眩《くら》んだ。  十月一日、司法試験の合格者の名が官報に発表された。約五百三十名。その中に江藤賢一郎の名前もはいっていた。  彼はまる一日寝て暮した。母は却って心配して、何度も彼の部屋を見に来た。伯父から祝電があり、大学の友人からも祝電がとどけられた。それからまた、はるか遠くはなれた青森県の高等学校の先生になった小野精二郎からも、祝電がきた。(合格、ばんざい、君の洋々たる前途を祝す、精)  夜、彼はひとりで銀座の街に出て、ビールを飲んだ。学友を誘って、彼《かれ》等《ら》からの祝いの言葉を聞いてみたい気もしたが、彼等の言うことは聞く前からみな解っていた。それよりは独りきりで自祝の盃《はい》をあげる方が、すっきりとして気持がよかった。今はもはや大学の仲間たちとの間に、社会人としての資格において格段の差ができていた。この資格は国家がみとめたものであり、従って社会一般が承認するものであった。特別に大きなつまずきが無い限り、社会の下積みの人間に落ちるようなことの無い、公認された一つの地位であった。  多少の酔いを感じながら、彼は豪華な飾りつけをした街のウィンドウの前を、ただ意味もなく歩きまわった。人の流れは絶えず彼の横を流れて行く。知った人はひとりも居なかった。賢一郎はひとりきりでいながら、心は温かく充《み》たされていた。街の風景がいつもとは違って見えた。宝石店も毛皮屋も贅沢《ぜいたく》な家具調度をならべた店も、いつもよりは身近なもの、やがては自分にも手のとどくもののように思われた。鋪《ほ》道《どう》を流れて行く多勢の人たちが、彼の合格を誰ひとり知っていない、その事を嘲笑《ちょうしょう》してやりたいような気持だった。  それからまた洒落《しゃれ》た小さなレストランに入ってビールを飲み、焼肉を食べた。彼は冷静であった。少なくとも態度はゆったりとしており、口数は極端にすくなく、全体にもの静かであった。  しかし彼は現在の自分を誇らしく思うばかりで、客観的な冷たい眼で自分を反省する気持はもっていなかった。そのことに一つの誤りを犯していた。  彼が合格したのは司法官吏や弁護士となるための資格試験であった。試験の内容はほとんど全部が日本の法律に関する問題であった。彼が合格したということは、彼が日本の法律だけについては多くの知識をもち、深い解釈までも知っていることが認められたという、それだけのことだった。法律以外のことについては、彼は凡庸《ぼんよう》な青二才に過ぎなかった。文学、美術、理化学については何も知らない。商業、工業、医学のことはもとより、日本の地理歴史も詳しくは知らない。宗教に関しては何の知識ももたない。さらに人格的、道徳的な方面ではまことに未発達なひとりのエゴイストに過ぎなかった。  そのことについての反省を、賢一郎は考え忘れていた。法律の試験に合格したことを、全人格的な合格のように感じ、そのことに満足し、そしてそのことの危険を考え忘れていた。  三日目に、伯父の娘の康《やす》子《こ》から速達の手紙がきた。 (とうとう試験に合格なさったそうですね。父が大よろこびで知らせてくれました。おめでとう。本当は、きっと合格なさるだろうと信じていましたから、あまりびっくりしなかったんです。でも父には、びっくりしたような顔をして見せました。その方が父はうれしいだろうと思って。  母はただにこにこしています。そして私には、(当り前じゃないか、私はそう思っていたよ)と言いました。姉が一番冷静です。父は一度お祝いに、うちへお招きして御馳《ごち》走《そう》をしようと言っています。しかし姉は、うちの御馳走なんかつまらないから、フランス料理のうまい所へ行こうと提案していました。要するに賢一郎さんの合格にかこつけて御馳走を食べようという計略です。それはそれでいいけれど、私はみんなとは別に、賢一郎さんと二人きりの静かなお祝いの会を開きたいと思っています。賛成して下さい。六日の夜の六時半、T・Pホテルのロビイでお会いしたいのです。それから、お祝いですからもちろん、費用のことは私におまかせ下さい。  実は何か記念品を、と思って考えたんですが、見当がつかないの。六日までに一生懸命さがして見ます。どうぞおたのしみに……)  賢一郎はこの娘について、あまり良い印象をもってはいなかった。この五月、康子に呼出されてホテルのロビイで会ったとき、彼女は貧乏学生を見下すような言い方をしたものだった。その言葉を賢一郎ははっきりと覚えていた。(あなたは私の父に義理があったにしても、私には何もないでしょう。義理なんかで結婚するんだったら、死んだ方がいいわ。……私たちのあいだに愛情があるの? ……有るわけ無いでしょう。年に一度も会っていないのよ……)  あの時の固い、人をはね返すような康子の態度と、今日の手紙の態度とでは、まるで違っていた。両親とは別に、特に二人きりでお祝いの晩餐《ばんさん》をしようというのは、どういう心境の変化であろうか。  その理由を、彼は自分と結びつけて考えた。自分の存在が女の心境を変化させたと思うことは、愉快だった。  おれが合格したもんだから、あいつはとたんに気持が変りゃがった。たった五カ月のあいだに、まるで手のひらを返すように気持が変るなんて、それ以外の理由がある筈《はず》がないんだ。おれが落第したら知らん顔をしていたに違いない。いままで黙って試験の結果を見ていたんだ。畜生め、まだはたちにもならないのに、計算高い女だ。(私たちの間に愛情があるの? ……有るわけ無いでしょう)……愛情のないやつが、何で二人きりでお祝いをするんだ。おれが合格したら、いきなり愛情が湧《わ》いて来たのか。ふん、あいつの悧《り》口《こう》さなんて、その程度のもんだ。要するに康子はおれという人間ではなくて、肩書を愛してるんだ。つまり打算的ということだ。……  そういう康子の打算に、気がつかないふりをして、彼は六日の夜の六時半に約束の場所へ行くことにしていた。康子との結婚は、賢一郎の野心の、ひとつの完成であった。司法試験に合格することは、社会的な地歩を固めることであり、康子との結婚は、生活上の足場をかためることであった。その二つが互いに微妙に関連しあっていた。  自分の方から彼女に求婚するのは、得策ではないと彼は考えていた。求婚は一つの冒険である。そして求婚には責任がともなう。黙っていても伯父の方から話が来るだろう。向うから希望されてこちらが承諾するという順序になれば、責任の大部分は向うが負うことになる。その分だけこちらは有利な立場だ。拒否権をもつということは同時に、要求をもち出す権利を有するということでもある。  そこで、康子と二人きりで会ったとき、彼女に対してどういう態度をとるのが一番いいか。それが当面の問題であった。できることならば女の方から愛情を告白させるように仕向けて行くことだ。こちらは言《げん》質《ち》を与えたり、責任を問われるような行為をしてはならない。しかし女の愛情を受け容《い》れるような姿だけは見せなくてはならない。……そういう計算をしてみることが、賢一郎にとっては非常な楽しみであった。闘いの楽しさだった。そして、必ず勝つという自信をもっていた。司法試験に合格したということが、自信の裏付けになっていた。  ところが康子との約束の前日の夜、大橋登美子から速達の手紙が来た。母が受けとって、黙って賢一郎に手渡した。何も言わないことが、息子への非難を意味していた。賢一郎ははっきりと別れを宣言したわけではないが、もう登美子とは会わないつもりでいた。事実、一カ月以上も会っていなかった。 (賢一郎様 すみません。お手紙をさし上げることは、あなたから止められているのを、忘れてはいません。またお母様から叱《しか》られますわね。御免なさい。でも、どうしても一度お会いして、御相談しなければならないのです。私の一身上のことです。先生にも関係のあることです。  あなたはもう私には用が無いのかも知れません。それは解っています。あなたは司法試験をパスして、傑《えら》い人になるわけですから、私とはつりあいがとれなくなったのだと思います。私はあきらめなくてはいけないのだと、自分に言い聞かせていました。けれども今度だけは、どうしてもお会いして御相談しなくてはならないのです。手紙では書けないような事です。すみませんが六日の午後五時ごろ、いつもの喫茶店まで来て下さい。お願いします。この問題が解決しなければ、私は破滅です。賢一郎様、私はいまも変ることなく先生を愛しています。あなたの誠実なる、登美子)  賢一郎はいきなり足もとの石に躓《つまず》いたような、言いようもなく不愉快な憤《いきどお》りを感じた。そしてこの女が憎かった。  六日の午後五時、約束の喫茶店に、登美子は先に来て待っていた。ヴァイオリンの静かな音楽が流れていた。棕《しゅ》櫚《ろ》竹《ちく》の鉢《はち》植《う》えのかげの席で、二人はさし向いになった。 「ごめんなさいね。お手紙を上げたりして……」  登美子はやつれて汚ない顔をしており、卑屈な暗い眼つきになっていた。 「僕《ぼく》はひとと約束があってね、あまり時間がないんだ。話って、何だね」  賢一郎の言い方ははじめから冷淡だった。その冷たさが登美子の気持を押し歪《ゆが》めた。彼女は素直さを失い、意地わるくなった。 「早く言ってくれよ。僕はいそいでるんだ」 「そんな言い方って、嫌《いや》だわ」 「何が嫌なんだ。相談があるって言うから、こうしてわざわざ出て来たんじゃないか」 「そんならもっと親身になって聞いてくれたらいいじゃないの。あんまり事務的だわ」 「だって何の話だか解《わか》らんじゃないか。……だから言ってみろよ」 「そんな、簡単に言えることじゃないわ」 「じゃ、何の事だい。君のお父さんが破産したことかい。学校のことかい。……それとも僕に関係のあることかい」 「関係のあることよ」 「つまり君の縁談のことかい。そうだろう」 「違うわ。そんな話なら、何もあなたに手紙なんか出さないわ」 「それじゃ何だよ。言わなくては解らんじゃないか。勿体《もったい》ぶらないで、あっさり言ってみろよ」 「あなたって、そういう人だったのね。私の事なんか本気で考えてくれたことは無いのね」  これではどうしようもないと、賢一郎は思った。問題の中心を示さないで、脇道《わきみち》のジャングルの中に二人で迷い込んで行こうとしているような具合だった。彼は腕時計を見た。それからテーブルの上の珈琲《コーヒー》を一息に飲んだ。この女のために康子とふたりの祝宴を抛《ほう》棄《き》するわけには行かない。これは過去に振りすてた女、康子は未来につながる大切な女だった。彼は煙草《たばこ》の箱とライターとをポケットに入れて、立ちあがる姿勢を見せた。すると、 「わたし、おかしいのよ」と、うつ向いたまま登美子が言った。 「何がおかしいんだ」 「からだ具合がおかしいの」 「ふむ……病気かね。道理で何だか疲れたような顔をしていると思った。胃が悪いのか」 「そうじゃないわよ」 「まさか癌《がん》でもないだろう。それとも胸か」 「わたし本気で言ってるのよ」 「だからさ、どこが悪いんだ」 「赤ちゃんじゃないかと思うの」  賢一郎は黙って女の顔を見つめていた。そしてこの女がやはりあたり前の女であったことを、事新しく感じていた。それと同時に、嘘《うそ》をついているな、と思った。彼を手離さない為《ため》の、最後の謀略を用いようとしている。わかりきった手だ。そんな手に乗るものかと、彼は思った。 「医者へ行ってみたか」 「いいえ」 「それじゃ解らんじゃないか」 「わかるわ」 「どうして解るんだ」 「いろんな事で解るのよ。あなたに言ったって解らないわ」 「僕は信じないね。そんな筈、ないじゃないか。君だって知ってるだろう」 「知っています。だけど、そうなったらしいのよ。どうしてだか解らないわ」 「とにかく医者へ行ってみるんだね」 「だって、恥ずかしいわ」 「そんなこと、言っていられる場合じゃないだろう。医者へ行って、本当かどうか、確かめて貰《もら》うことだ。それがはっきりしないうちは問題にならない」 「もし本当だったら、どうするの」 「どうするもこうするも無いだろう。処置をつけて貰うんだ」 「あれ、するの?」 「あたり前じゃないか」 「わたし……産んでみたい」 「冗談じゃないよ。君は何を考えてるんだい。君はまだ学生だぜ。僕も学生で、ひとから学資をもらってるんだよ。子供を養えるような身分じゃないじゃないか」 「そりゃあ解ってるけど、だけど……」と言いさして、登美子は笑うようなほのかな表情をうかべた。「かわいいわ。……先生だって、可愛いでしょう?」  それを聞いたとき賢一郎は、重い鉄の鎖に足をからまれた気がした。これが女というものだ。永遠に男の足にからまりついて放れない、女というものなのだ。従兄《いとこ》小野精二郎の実例を彼はまざまざと思い出していた。どんなことがあっても、今はこの罠《わな》から脱け出さなくてはならない。 「今日は時間が無いから、僕は行くよ。君はあした直《す》ぐにお医者を捜して、行ってみるんだ。いいね。……九日の午後五時、またここで会おう。そのとき医者の診断を聞かせてくれ。わかったな」  康子との約束のホテルへ行く時間は、充分にあった。彼は雑沓《ざっとう》する街の鋪《ほ》道《どう》を、しばらく独りで歩いた。おれの子供……そんなものは考えたこともない。はるかに遠い物語を聞くような気持だった。もともと愛の行為は子供を産むための行為だ。そんなことは解っている。愛の行為と子供とを、別々に切りはなして考え、切りはなして要求するという不自然な生活は、行き詰った近代社会から生じた病的な現象だ。病的とは云《い》いながら、そうするよりほかに道はない。病的な要求がむしろ当然の要求になっているのだ。それを原始的な形のままで受け容れてしまったのが、小野精二郎の場合ではないか。小野はお人《ひと》好《よ》しで、責任感が強くて、義理堅い男だった。だから何もかも一度に背負いこんで、身動きならなくなって、結果的には妻子までも不幸にしてしまった。登美子の子供は、何が何でも処分してしまわなくてはならない。しかし多分、妊娠はまちがいだろうと、彼は思っていた。そう思いたかった。  革張りの大きな腕《うで》椅子《いす》を置きならべたホテルのロビイで、江藤は十五六分も康子を待っていた。外人の老夫婦が静かに並んで坐《すわ》って何かを待っており、人を捜す英語のアナウンスがときおり聞えていた。この場所で、数カ月まえの午後、康子から侮辱的な宣言を受けたときのことを、江藤は忘れてはいなかった。いまは多少事情が変ってきた。女の方から夕食を共にしたいという申入れが来ているのだ。  彼は康子を妻という位置において、考えてみた。結婚は可能になって来たらしい。あとは彼自身の意志だった。妻とは何か。何十年もいっしょに生活して行く女のことだ。それは一つの忍耐であるに違いない。職業が忍耐であるように、結婚もまた忍耐である。その忍耐に見合うだけの、何か別の価値があるならば、その結婚に耐えて行かなくてはならない。  康子は製陶会社社長の娘という地位をもち、父から受け継ぐべき資産が約束されている。 彼女自身は特に数えあげるべき価値もない普通の娘だ。むしろ欠点の多い娘でもあるが、彼女に付随した価値を評価しないわけには行かない。大橋登美子にはその付随した価値というものが全く無いのだ。つまり忍耐に見合うべき価値をもたない。そのことは大橋登美子の罪ではない。しかし世間では価値あるものを尊び、価値のないものを捨て去るのは当りまえのことだ。  登美子が身ごもったということは本当かも知れない。事実ならば、江藤にとっては重大な事件だった。そのことが伯父に知れたら、康子との結婚はもちろん解消されるであろうし、博士課程にすすむこともあきらめなくてはならない。彼が失うものの大きさは計り知れないほどであった。しかもその子を養い、その母を養うという重大な負担を背負わされる。まさに小野精二郎の失敗をそのまま繰返すことになるのだ。  康子がはいって来た。こまかい花模様のついた絹地のワンピースを着て、背丈は特に高いという程ではないが、上品なきれいな姿をしていた。恵まれた環境の中で育ってきた体つきだった。大橋登美子にはいくらお洒落をしても、この上品さは出て来ない。江藤は立って彼女を迎えながら、彼女の上品さに満足していた。 「お待たせしたかしら」 「少しね」 「とにかくお芽出とう。一度でパスするなんて傑《えら》いじゃないの。うちではとても評判が良いわ」 「そう。それは有難《ありがと》う」 「まあちょっと坐りましょう。あのね、今晩は私の言う通りにしてね、わたし、ちゃんと考えているんだから……」 「何を考えているんです」 「だから、何も言わずに、黙ってまかせてくれるのよ」 「ああそうか。いいよ。まかせるよ。まさか蛇《へび》だの蛙《かえる》だのを食わせるわけでもあるまい」  康子は楽しそうに笑った。笑うと、意外なほど可愛い笑《え》窪《くぼ》ができた。  それから彼女はお祝いだと言って、リボンをかけた小さな包みをさし出した。開けてみると男持ちのきれいな腕時計だった。名の通った外国の一流品である。学生の持つような物ではなかった。その贈り物から、康子の生活を支えている財力が思われた。大橋登美子にはできることではない。 「さ、行きましょう」と言って、康子は立ちあがった。外はほとんど日が暮れていた。  結婚は忍耐だ、と賢一郎は思っていた。この女は彼にとって、好きな女ではない。愛している女でもない。分類すれば、むしろ嫌《きら》いな女にはいるかも知れない。しかし必要な女であるように思われた。その必要を充《み》たすためには、忍耐を覚悟しなくてはならない。つまり彼は結婚を目的《・・》としてではなく、一つの手段として考えていた。あるいは康子自身も賢一郎を愛していたのではなくて、条件のそろった有資格者として考えているのかも知れなかった。  タクシーでしばらくどこかを走った。そして大きなレストランにはいった。そこには舞台がついていて、踊りと曲芸と歌とがあった。食事は高級な、手のこんだものだったが、賢一郎は却《かえ》ってもの足らなかった。  一時間ほどでそこを出てから、ボーリング場へ行った。彼はこれが二度目だった。彼は大きなボールを投げる時の康子のうしろ姿を見つめていた。そして彼女の裸の体を想像していた。その裸体を彼は、登美子を基準にして、登美子と比較しながら想像するのだった。彼が知っている女体は登美子だけしか無かった。  そこから歩いて二三分の距離のところに、キャバレーがあった。康子は馴《な》れた態度ではいって行き、ボーイたちに向って馴れた口調で用事を言いつけた。こういう場所に彼女はたびたび出入りしているらしかった。その事に賢一郎は反感をもった。ステージの上でジャズが演奏され、裾長《すそなが》いドレスを着た化粧の濃い女たちが、複雑な照明のあるほの暗い部屋のなかを半透明のようになって静かに歩きまわった。 「こんなところへ、君はたびたび来るのかね」 「二三度来たわ」 「誰《だれ》と来るんだね。どうせ独りじゃないでしょう」 「お友達と……」 「どんな友達さ。男だろう」 「踊りましょうか」と康子は言った。 「僕はダンスはできない」 「やってみればできるわ。何でもないのよ」 「ダンスって、愛人同士で踊るんだろう」 「まあ、そうね」 「僕はまだ、君の愛人ではないらしいからな。ダンスは苦手だよ」 「愛人に、なりたくないの?」 「君の気持次第だ」 「卑怯《ひきょう》ね。……あなたの気持はどうなの」 「ちゃんときまってるよ」 「だったら、その通りに言ったらいいでしょう」 「言わせて置いて、断わるつもりだろう」  康子はちょっと黙ってから、急に立上り、 「踊りましょう」と言った。  本当は、学生主催のパーティで、二三度だけダンスの真似《まね》をしたことはあった。決してうまくはないが、見当はついていた。賢一郎は康子の体にはじめて手を触れた。彼女の指はつめたくて、すこしぬれていた。彼女の背は登美子にくらべて、肉が薄くて固い手ざわりだった。妻という概念とこの女の感じとが、うまく結びつかない気持だった。康子という女からは性格とか神経とかいうものだけが感じられて、肉体が感じられないような気がした。  しかし結婚は手段であり、また忍耐であると賢一郎は思っていた。ダンスそのものに興味はなかったが、自分の腕の中で女の体が動いているという感覚は、刺《し》戟《げき》的だった。彼は一つの冒険を試みようと思った。だから女の耳もとでささやいてみた。 「僕がもし、君に求婚したら、君は承知してくれる?」 「そんな、もし《・・》なんていう言い方、嫌だわ。返事できないわ」  なるほど、気位の高い女だと、賢一郎は思った。 「しかし僕はいま、伯父さんから学資をもらっているんですからね。君に正式に求婚できるような身分じゃないんだ。わかるでしょう?」 「それとこれと、関係あるの?」 「有ると思うな、やっぱり」 「すると、あなたは学資というおかねに縛られているのね」 「縛られていますよ」 「何だか変だわね。父があなたに学資を出していたら、あなたは私に求婚する資格が無くなるの? ……もしかしたら私はそのために幸福を失うことになるかも知れないのよ。つまり父が学資を出したことが私を不幸にする……ということになるかも解らないのよ。そんな変なことって有るかしら」  頭の良い女だと、賢一郎は思った。それから更に揚げ足をとるような言い方をしてみた。 「僕たちが結婚したら、あなたは幸福になれると思いますか」 「そんなこと、解らないわ」 「僕はまだ三四年は結婚どころじゃないと思うんです。勉強しなくてはならんし、経済的にもね」 「あなたはわりあい、おかねの事にこだわるのね」 「こだわるんじゃない。僕の責任ですよ。責任はちゃんと果したいからな」 「まじめなのね」と康《やす》子《こ》は言った。「まじめ過ぎるわ。もう少しでたらめをしてもいいんじゃないの。……もっとも、まじめだから試験を一度でパスしたのね。仕方がないのかしら。 ……あなた、ガール・フレンド有るの?」 「そうさね。普通の意味のフレンドなら何人も居ますよ」と賢一郎は上手に焦点を逸《そ》らすような返事をした。「学生仲間でね」 「もっと深い関係のひとは……?」 「そういうのは無いね」  ダンスを終って片隅《かたすみ》のテーブルに戻《もど》ると、康子はボーイを呼んでコニャックを註文《ちゅうもん》した。 賢一郎にとっては始めて味わう芳醇《ほうじゅん》な酒であった。照明が暗いので、水の底に沈んでいるような気持だった。 「あなたは博士課程をやるつもり?」 「やるつもりです。伯父さんが折角すすめて下さるんだから……」 「父がおすすめしなかったら?」 「もちろん、やれる筈《はず》はない。そんな学資はないからね」 「じゃ、博士課程をやっているあいだは、私に求婚しないつもり?」 「僕《ぼく》の方からは言い出せないな。だって、そうでしょう。もし伯父さんが僕以外の誰かをあなたの候補として考えていたとしたら、僕は伯父さんの御好意を裏切ることになるんだ」 「もしも父が希望したら、あなたは承諾するっていうわけね。つまり父の方から先に言わせるということね。………卑怯だわ」 「どうして卑怯なんです」 「あなたは自分で望んでいることを、自分で言うまいとしているんじゃないの。狡《ずる》いわ。他人がどう思おうと、自分がやりたいようにしたらいいでしょう」 「やれる事ならやるさ。しかし伯父さんには義理がある。博士課程を終って、学位をとって、それからなら言えるが、それ以前には言えないな」 「気の永いはなしね。それまでにはわたし、誰かと結婚してるわ」 「そうだね。好きな人が見つかったらね」 「いくらだって見つかるわ」  そういう康子の荒っぽい言葉は、女の怒りだった。本当はいま直ぐに求婚してもらいたい。彼女はそれを予定して今夜の約束をしたのだ。だから伯父に義理を立てる賢一郎を歯《は》痒《がゆ》がっているのだった。歯痒さは後悔にも通じる。こんな貧乏学生のどこが良いのかという、反撥心《はんぱつしん》もおこって来る。康子は舞台の華やかなショーを見ながら、物を言わなくなった。このままで別れては事がむずかしくなると、賢一郎は思った。だから彼女の耳もとに顔をちかづけて、優しくささやいた。 「ねえ君、解っておくれよ。僕はどこまでも伯父さんには義理を立てる。そのことは絶対変らないんだが、公式ではなしに、非公式に、君と僕と二人きりの、内証ばなしと云うか、秘密の約束だけはして置きたいんだ。何年も君を待たせるのは申訳ないが、君は若いんだからな。三年ぐらいすぐ経《た》つよ。三年経てば何とか事情も変って来ると思うんだ。ね。君ひとりで、この事だけ覚えて置いてくれないか。僕は口で言うわけには行かないが、決心はきまってるんだ」  康《やす》子《こ》はほの暗い中でじっと男の顔を見た。(自分の男)をこまかく確かめて見ようとする眼付《めつ》きだった。それから重い溜息《ためいき》をついた。色々な意味を推察できるような溜息だった。テーブルの下で、賢一郎は女の手を握ってみた。意志を失ったように、何の反応もなかった。それが康子の、気位の高さだった。 七  約束の九日、賢一郎は大学の図書館を出て、ノートや参考書を入れた鞄《かばん》をぶら下げて、バスにのった。彼と入違いに三十過ぎの重そうな腹をした妊婦が、用心ぶかくバスを降りて行った。人類は女によって繁殖する。女たちは十億年も二十億年も繁殖をつづけて来たのだ。彼女等《ら》は百兆人の子を産み、千兆人の子を産んだ。それは女の意志ではない。いわば、自然の意志、自然の節理だった。キリスト教徒は神の意志というだろう。聖母マリヤは聖霊によって身ごもった。聖霊とはすなわち自然の意志ではないだろうか。マリヤのみならず、あらゆる女性は聖霊によって身ごもるのだ。彼女等に良人《おっと》があろうと無かろうと、大して変りはない。  大橋登美子は妊娠しているかも知れない。しかしそれは登美子の意志ではなかった。おれの意志でもない。登美子は聖霊によって身ごもったのだ。聖霊によって身ごもった子は登美子の子でもないし、おれの子でもない。いわば神の子であり、自然の子であるに違いない。女の産んだあらゆる子供は、神の子であり自然の子である。つまり繁殖ということ自体が、一つの自然現象のようなものだ。  自然現象に価値があるだろうか。日光が照り、雨が降り、草木が茂り、嵐《あらし》が来る。洪水《こうずい》がおこり、噴火があり、地震があり、空に虹《にじ》が出る。しかしその事には何の意味もなく、何の価値もない。価値とは人間の身勝手な計算にすぎない。そして、人間の子供が生れるということもまた自然現象であるならば、生れて来る子供に価値があろう筈はない。法律は人間の生命に関しては最大の価値をみとめている。しかしそれは人間が考え出した社会秩序の一つの方式に過ぎない。……  バスはごたごたした商店街を通っていた。夕方の買物に出てきた女たちが右往左往していた。子供の手を曳《ひ》いた母親、幼い子を抱いた女、店の中で働いている女。おびただしい女の数だった。その女たちがことごとく繁殖する。男たちの行為が、男たちの精子が、まんべんなく女たちに配給される。あらゆる女たちがその配給を受けて繁殖をくり返す。これが自然現象でなくて何であろう。大橋登美子もまたその中の最も平凡な一人に過ぎないのだ。  しかし現実の社会においては、法律と習慣と道徳とが、自然現象を人為的な現象として取扱うことにしてしまった。人間の子供はさかのぼって、その出生の根源を追求され、出生の原因となった父と母とに、あらゆる社会的責任を負担せしめる。殊《こと》に父はその母から責任を追及され、さらにその子からも責任を追及される。(刑法第二百十七条・老幼、不具又ハ疾病《しっぺい》ノ為《た》メ扶《ふ》助《じょ》ヲ要ス可《べ》キ者ヲ遺棄シタル者ハ一年以下ノ懲役ニ処ス)(第二百十八条の第一項・老者、幼者、不具者又ハ病者ヲ保護ス可キ責任アル者之《これ》ヲ遺棄シ又ハ其《その》生存ニ必要ナル保護ヲ為《な》ササルトキハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス)  大橋登美子は約束の喫茶店に、先に来て待っていた。かなり早く来たらしく、テーブルの上の珈琲《コーヒー》カップは空になっていた。灰皿には三本のすいがらが押し潰《つぶ》してあった。人造革のジャムパーを着て、結んでいない髪が両方の肩に垂れ、白い額をかくしていた。上眼づかいに江《え》藤《とう》を見る眼が、男を恐れていた。あるいは男を疑っていた。その眼つきから、江藤は事態が好転してはいないらしいことを直感した。  煙草《たばこ》に火をつけ、珈琲に砂糖を入れ、すこし時間をおいてから、彼はつとめて静かな口調で訊《き》いた。 「あれから、どうしたね」 「え? ……」 「お医者さんへ、行ってみたか」  女はうつ向いたまま、動かなかった。 「行ってみたか」  すると静かに首を振った。長い髪がばさりとゆらいだ。 「行かないのか。……どうして行かないんだ」 「だって……」 「だって、何だい」 「嫌《いや》なのよ」 「嫌はわかってるよ。しかし嫌ですむ事じゃないだろう。手遅れになったら処置がつかなくなるんだよ。早ければ早いほどいいんだ。わかりきったことじゃないか」 「すみません」 「すむとか、すまないとか、そんな事と違うだろう。何も考える必要はないんだ」 「だけど……何だか……」 「だけど、どうしたって言うんだ」 「違うかも知れないの」 「何が違うんだ」 「まだはっきり、そうときまった訳じゃないのよ。そうかも知れないと思っただけなのよ」 「だからさ、それをはっきりさせる為に医者へ行ってみるんじゃないか。何でもなかったら問題ないさ。もしか本当だったら困るから、今のうちに手を打つんだ。こんな簡単なことが、どうして解《わか》らないんだ」 「解ってるわ」 「解ってるなら、早く行ったらいいじゃないか」 「行くわ」 「いつ行くんだ。今から行こう。僕もいっしょに行ってやる」 「いやよ。独りで行くわ」 「今から行くか」 「二三日うちに行きます」 「ほんとに二三日うちに、行くか」 「行くわ。……だけど、嫌だなあ。みんな調べられるんでしょう。死んだ方がいいわ」 「何を言ってるんだ。医者なんて赤の他人だよ。必要なときに利用するだけのことじゃないか。向うだってそれが商売なんだ。患者のことを一々覚えている訳じゃあるまいし、何も嫌がることはないんだ」 「だって嫌なものは嫌よ。あなたには女の気持なんか解らないのよ」 「気持の問題じゃないって言うんだ」  彼は次第にいら立っていた。どうして女というものは、こうも筋道が通らないのだろうと思い、腹が立った。いろいろな感情が無秩序に動いて、必要な行動をはばみ、泥沼《どろぬま》にはまり込むことが解っているのに、女はそれを避けようとしない。ひとくちに言って、ばかだとしか思えなかった。馬鹿《ばか》野郎としか言いようがない。嫌であるとかないとか、そんなことは二の次の問題だ。彼は怒りを押えるために、溜息をついた。そして、なぜこんな馬鹿な女と交渉をもつようになったのかという後悔を感じていた。 「あさっての夕方、もういっぺんここで会おう」と彼は言った。 「いいか。それまでに君は医者へ行って、はっきり診断をしてもらうんだ。わかったね。五時だ」 「あさって……だめかも知れないわ」 「どうしてだめなんだ」 「お父さんが病気なの。破産したでしょう。そのあと、何だか苦労したらしいのね。一週間ほど前からずっと寝ているんです。頭の血管が何とかしたんですって。右手が動かなくなって、うまく物が言えないのよ。お医者が毎日来てるわ。だけど入院するだけのおかねが無いらしいのね。お妾《めかけ》さんが握っていて放さないんじゃないかと思うの」 「だからどうなんだ」 「だから私も全然お小遣いをもらえないの」 「だからどうなんだ」 「お医者さんへ行くおかねか無いのよ。わたしいろんな物を売ったわ。カメラだのラジオだの。……もうわたし学校もやめなくてはならないと思うの。お父さんは治っても急には働けないでしょう。どうしたらいいか解らないのよ」  江藤は嫌な気がした。何か重い大きな物に突当ったような気持だった。登美子はかねの話をしている。どうしてここで、かねが問題になるのか。しかし明らかにそれを何とかしなくてはならないのだ。問題がここで転換した。情事のあと始末をすることが、かねの問題にすり替えられたのだ。人間関係の始末はどうにでもなる。考え方を変えること、相手を説得すること、理論的に割切ってしまうこと。……  しかしかねはどうにもならない。江藤賢一郎は伯父から学資をもらっている身の上だった。余分のかねが有ろう筈はない。アルバイトをして稼《かせ》ぐと言っても、それでは育って来る胎児の処分には間に合わない。一体かねとは何だ。経済生活を支える交換価値。単純に言えばそれだけのものだ。しかしそのかねが人生の紛糾の原因になる。そして問題解決の有力な材料にもなる。情事のあと始末にはかねが無くてはならない。かねが無かったらどうなるのか。紛糾したものがさらに紛糾して行くばかりだ。ところがかねは大人のもの、社会人のもの、生産者のものであって、学生という消費者のものではない。一体どれだけのかねが有れば、登美子の始末をつけることができるのか。彼にはその見当がつかなかった。  とにかく医者へ行かせなくてはならない。初診料と診察料。もしも妊娠が本当ならば、それから何日か入院して、手術だ。五万円ではとても済まないだろう。七万円か、十万円か。そんなかねは賢一郎の手では、どうにもならなかった。売るもの……古本しか無い。母には言えない。伯父には勿論《もちろん》言えない。人間と人間との愛情が、愛の行為が、どうしてかねと関係があるのか。……それが何としても納得できない気持だった。  しかし多分、女とはそういうものであったのだ。未発達な原始社会では、子供の生れることは自然現象のようなものであり、人々は素直にそれを受け容《い》れ、そして祝福した。社会の文化程度が進むにつれて、道徳、社会制度、貞操、法律等々の人為的な考慮が加えられ、したがって生れて来る子供も自然現象ではなくなって来た。生れることに対する親たちの拒否、性行為と出産との分離。そういう反自然的な行為を敢《あ》えてするためには、かねというものの力を借りなくてはならなくなった。  女とはそういうものであったのだ。その事に彼はようやく気がついた。女とは繁殖するものであり、繁殖するための女であったのだ。繁殖が自然現象であるのだから、それを拒否するためには不自然な努力が要る。そしてその目的を達成してくれるものが、かねだった。  江藤は小野精二郎のあわれな家庭生活を思い出していた。彼の恋愛は学生時代であった。もちろんかねは無かった。彼にもしかねが有ったとしたら、恋愛は恋愛だけで終り、子供は生れていなかったかも知れない。そしてみじめな家庭生活におちいることなく、二年も前に司法試験に合格して、もうそろそろ司法修習生の時代も終って、判検事になったり弁護士を開業したりする頃《ころ》であるだろう。かねが小野精二郎の前途を鎖《とざ》してしまった。それと同じ事件がいま、自分の身にも迫って来たのだ。  江藤は自分の腕時計を見た。安物で、毎日七分ずつ遅れる。売ってかねに替えられるような品ではなかった。 「お医者へ行くのに、どのくらい有ればいいんだ」と彼は低い声で言った。 「わからない。大したこと無いでしょう」 「医者にもよるだろうな。国立病院は安いんだよ」 「だって、国立病院がそんなこと、してくれる?」 「診察だけならいいだろう」 「それからあとは……?」  江藤は返事ができなかった。そして腹が立って来た。しかしその怒りはどこに向けていいのか解らないようなものだった。 「わたしもう、売るものが無いのよ、スキイやスキイ靴なら売れるかしら」 「そんなもの、中古じゃないか」 「じゃ、どうしたらいいの?」  いつの間にか、全部の責任が自分にかぶせられて来たようだった。江藤はあせっていた。  それからまる二日のあいだを、賢一郎は重苦しい気持で過した。身のまわりの物のなかで、何を売ったらかねになるだろうかと考えてみたが、貧乏書生の身辺には役に立ちそうな物は無かった。思い悩んだ果てには、登美子はあんなことを言っているが、あれは女の策略ではなかろうかと考えてみたり、妊娠する筈はないのだと思ってみたりするのだった。つまりは追詰められた立場から一寸逃れにのがれようとする卑怯《ひきょう》な気持だった。  二日過ぎて、彼《かれ》等《ら》はまたいつもの喫茶店で落ちあった。ほかの話題は有る筈もなかった。 「どうした?」 「あのこと?」 「そうさ。行ってみたか」 「行ったわ。恥ずかしくて恥ずかしくて、もうあんな所、絶対いやだわ。死んだ方がいいくらい……」 「それで、医者は何と言った」 「やっぱりそうだって。三カ月を過ぎて四カ月目にはいったところだって言われた」 「おかしいな。どこの医者へ行ったんだ」 「でたらめに歩いて行って、何町って言うのかしら。知らないお医者さんにいきなりはいって行ったの。小さな病院……」 「どうして国立へ行かないんだ。そんな医者、信用できないよ」 「大丈夫よ。まちがいありませんって言ったわ。それからね、もし御希望なら始末をして上げてもいいです、いまのうちなら何とか出来ますよって、そう言ったわ。だから、やっぱり本当よ」 「怪しいな」と江藤は言った。「そんなことを言うのは怪しいよ。手術料をかせぐために、妊娠でないものを妊娠だと言うようないんちき医者があるらしいからな」 「そうかしら。まさか……」  登美子とひそひそ声で話をしながら、賢一郎は何かはぐらかされたような気持になっていた。登美子は真剣そうな表情をしていながら、ともすれば微笑が顔の上にうかび上がって来る、それを強《し》いて抑えているような様子だった。この女は嬉《うれ》しがっているのか……と彼は思った。それでは歩調が合わない。それでは計画がうまく運ぶはずが無い。 「もう一度、国立病院へ行ってみろ。その話はどうもおかしい」と、彼は言った。 「何がおかしいのよ」  三カ月を過ぎて四カ月にはいったところだと、そんなに精密に解るものだろうか。解るとすれば、受胎の時期は、いまから逆算して六月末か七月のはじめ頃、彼が論文試験で眼の色を変えていた頃だということになる。ところが江藤はそろそろ登美子と縁を切らねばならないと考えていたので、その頃は二人の交渉を絶っていたのだ。妊娠がまちがいないとすれば、五カ月以上六カ月、または二カ月あまりでなくてはならない筈《はず》だった。 「君、嫌だろうがもう一度、国立へ行ってみてくれ」 「行けないわ。だっておかねがないのよ」  登美子がかねのことを言ったのは、これで二度目だった。 「かねの事は何とかする」と賢一郎は強くうなずいて言った。「必ず都合するよ。だからもう一度、国立病院へ行ってみてくれ。いいだろう?」  さし当ってかねを作る予定はない。しかし何とかしてこの急場を凌《しの》がなくては、重大な事になる。大切な時期だった。いわば彼の将来の運命がこの事にかかっている。 「わたし嫌だわ。あんな所、二度と行きたくない。あんな思いをする位なら、死んだ方がいい」 「何を言ってるんだ。恥ずかしいなんて言うのは単なる感情に過ぎんじゃないか。どれほど恥ずかしくても、やらなくてはならんのだ。そのくらいの事、わかってるだろう」  それは男の言う理《り》窟《くつ》だった。登美子はうつ向いて、しばらくためらってから、 「本当を言うと、わたし産んでみたいの」と言った。「……ねえ、産んだらいけない?」  そのとき賢一郎の眼には、登美子のすこしやつれた顔が、妖怪《ようかい》じみて、化けもののように見えた。人間ばなれのした、理解し難《がた》いものに思われた。  この女は病院に行くことを嫌《きら》って、二度も三度も、(死んだ方がいい)と言った。しかも一方では子供を産みたいと言うのだ。その矛盾に自分では気がついていない。それとも、命を産むことができる者は、命を軽蔑《けいべつ》することもできるのであろうか。男にとっては許し難い矛盾だ。しかし女の心には何の矛盾もないらしい。死と生とのあいだを楽々とわたり歩いているのだ。それは男の眼からは軽薄さとしか見えない。しかし女にとっては真実であり、自然でもあるようだ。その真実さに、男は太刀打ちできない。そしてその真実が、男を譲歩させてしまうのだ。  小野精二郎の失敗は、ここで女に一歩を譲ったことである。それが彼の生涯《しょうがい》の失敗になった。譲歩してはならない。どこまでも押切ってしまわなくてはならない。賢一郎は固く決心した。 「君は何べん言っても解らんのだな。産みたい気持は解るが、産んだらその後はどうなるんだ。君が育てることができるかい。君は学生だよ。僕《ぼく》も学生だよ。自分ひとりの生活だってやれやしないじゃないか。  君が産みたいというのは我儘《わがまま》な感情に過ぎないんだ。具体的な生活の裏付けはどこにも無い。産むというのはね、その子の生活を保証し、幸福を保証するという確信があって始めて許されることなんだ。何の具体的な保証もなしに子を産むのは、犬や猫《ねこ》のすることだ。人間のする事じゃない。解ってるだろう。僕の言うことを聞きたまえ」  彼は子を産むということについての大義名分を説いていた。誰《だれ》も反対することができないような大義名分であった。しかし実は大義名分を楯《たて》にとって登美子を説得し、人知れず情事の跡始末をつけ、自分が不利な立場に落ちこむことから巧みに逃れようとしているのだった。  三日ののち、また同じ所で会う約束をして、彼は登美子と別れた。もはや一週間ちかい日数が空費されている。その間にも胎児は育っているに違いない。それはその子供の生命力だ。育つということの残忍さ、育つということのエゴイズムが、江藤賢一郎を日一日と追いつめて来るようであった。父と母とが何を苦しみ、何を悩んでいようとも、その胎児は存分に母体から養分を奪い取って、あくまでも自分勝手に育ってゆく。すでにそれは人間の闘いであった。そして江藤賢一郎にとって、この胎児は敵であった。いまのうちに彼をほろぼしてしまわなければ、時期を失う。やがて江藤自身が巨大な被害を受けるようになる筈だった。自分の子供がいまは加害者だ。そして親子関係というものは多かれ少なかれ、相互に加害者であり被害者であるというような関係であるかも知れないのだ。  彼は参考書を買うからと言って母からかねを出してもらった。 「英国の法律の本なんだ。洋書は高いよ。これから洋書をいろいろ買わなくてはならんのだ」と彼は弁解がましく母に言った。  それから不要の本を売った。そしてようやく一万円のかねを用意した。これだけではまだ足りない。かねを持たない者には見す見す不幸が来るのであろうか。その事が彼には腹立たしかった。たとえば伯父の家には何百万円というかねが、さし当り何の目的もなく蓄えられている。それは巨大な力をもっている筈だ。しかしその力はむなしく眠らせられているというのに、自分はその力を利用することができなくて、産む必要のない子を産み、小野精二郎と同じ轍《てつ》を踏み、おなじようにみじめな立場に追込まれようとしている。富の偏在。それが貧しいものに不幸をもたらし、彼等をますます貧窮の底に叩《たた》きおとして行く。どうすればいいのだ。……  約束の三日目。かねはまだ足りない。彼は自分の体を重たく感じながら、いつもの喫茶店へ行った。一時間待っても、一時間二十分待っても、登美子は来なかった。彼は女の裏切りを恐れた。  もしもあの女が、本当に産む気になって、わざと賢一郎に会うまいと考えるようになったとすれば、もはやどうすることもできない。子供は女が産む。産むということの主動権は登美子にある。登美子の意志が変らない限り、男は手を拱《こまぬ》いて、自分の運命を待つよりほか、道はない。彼女を説得するには会わなくてはならない。しかし自分から登美子を訪ねていくわけにはいかなかった。  彼は喫茶店を出て、街角の公衆電話にはいった。いまはこうするより仕方がない。応対に出たのは女だった。例の、父のお妾さんという女らしく、気取った切口上だった。 「どなた様でございますか。……登美子は風邪をひいて休んでおりますが、どんな御用でいらっしゃいますか」  彼は舌打ちした。この大事な時に、また何日かを空《むな》しく過さなければならないのだ。……  食卓をととのえて、母はぽつんと独りで待っていた。棚《たな》の上に、リボンをかけた立派な果物籠《くだものかご》が置いてあった。 「遅かったわね」 「うん、ちょっと寄り道してた」 「直《す》ぐ食べられるわ」 「じゃ食べる。……立派な林《りん》檎《ご》だね」 「いただいたの。伯母さんがいらしてね」 「どこの伯母さん?」 「康《やす》子《こ》さんのとこの伯母さんよ」  あの気位の高い伯母が、手みやげを持って向うから訪ねて来たというのは、何か特別な用件だと賢一郎は直感した。話があるから来いと、向うから呼びつけられるのが普通だった。康子の気位の高さは伯母の性格を受け継いだものらしかった。 「珍しいね。伯母さんは何の用だって?」 「あんたの事よ」 「僕が、どうしたって」 「康子さんのおはなしさ。伯母さんもようやく決心がついたんだろうね。司法試験もすんだことだし、この辺で一つ正式に話をきめたいと思うけど、どうだろうって言う御相談よ」 「ふむ。そう来るだろうと思っていたよ。要するにあの試験の結果を待っていたんだ。僕が落第したら、それっきり。合格したら縁談を進めよう。……まあ、それが当り前かも知れんな。世間なんてみな計算高いからね」 「それは仕方がないね。向うにしたって大事な娘だからね。うちに女の子が居たら私だってそう考えるよ」  食事をはじめながら、 「それでお母さん、何て返事したの」と息子は言った。 「本人ともよく相談いたしまして、御返事申上げますって、言っておいた」 「ふむ、まあ、そんな所だろうな」 「お前はどうお返事するつもり?」 「とにかく、まだ早いよ」 「だからね、早いことは解ってるけど、今のうちに話だけまとめて置きたいって、伯母さんは仰有《おっしゃ》るの。つまり近いうちに内祝言《ないしゅうげん》みたいな事をして、正式に婚約だけさせて置きたいんだって。もちろんお前はまだ勉強もあることだし、二年とか三年とか、式は先のことになるだろうけどね。こちらさえ承知なら、十一月中にでも内祝言をしたいようなお話だった。まあ、ほんの内輪だけのことだろうと思うがね」 「面倒くさいな」と彼は言った。「三十ぐらいまでは独りで居たいもんだな」 「だって、折角のおはなしをお前、いい加減に考えてはいけませんよ。伯父さんがこれから先、ずっと後押しして下さることになるんだから、どれだけ心強いか知れやしない」 「わかってる」 「伯父さんにしたって、そういう下心があったからこそ、これまでの学資だって……」 「わかってるわかってる。つまり僕に投資していたんだ」 「じゃ、有難《ありがた》くお受けしますって、お返事しておいていいのかい」 「康子って女、お母さんどう思う?」 「いまさら何を言ってるの」と母は腹立たしそうな言い方をした。 「しかし、どうだろうな、結婚というものさ。良いことも有るだろうが、男にとってはマイナスが多いような気がするな。小野精二郎のうちへ行ってみて、つくづくそう思ったよ」 「あの子はまた早過ぎたのよ」 「僕だって早いよ。あと六七年は独りで居たいな」 「だけどね……」と母は声を低くして言った。「うちはお前ひとりなんだからね。兄弟が多勢いるところならそれもいいだろうが……。私はね、できることなら早く孫の顔が見たいよ」  そのとき母の顔に一種妖艶《ようえん》な、はにかみのような微笑がうかんだ。  孫……その言葉を聞いたとき、賢一郎はぎくんと何かに躓《つまず》いたような気がした。孫は生れようとしている。このまま放って置けば、あと六カ月ぐらいで生れてしまうのだ。それを知ったら母は狼狽《ろうばい》するに違いない。登美子の産んだ子ならなぜいけないのか。それだって確かに母の孫だ。母は嘆き悲しむだろう。登美子の産んだ孫は母を悲しませ、康子の産んだ孫は母を狂喜させる。その違いは何だ。孫は明らかに孫であり、その孫自体には何の差別もない。  差別はその孫を産んだ母の家系にあり、その母と父との関係にあり、そしてどちらの孫がより多く(将来有望)な立場にあるかということだった。すべては世間的な打算や、孫自身が置かれている位置の関係である。原則的にはそのような差別がある筈はない。しかし現実の社会では巨大な差別が与えられている。第一、登美子の産んだ孫は、江藤が認知しない限り、江藤の姓を名乗ることもできないし、江藤の財産を相続する権利もない。  しかもその孫は、彼の存在が知れわたった時には、江藤と康子との縁談は破棄され、伯父からのあらゆる援助は停止され、その分だけ江藤は大きな被害を受ける。まだ生れないうちから、彼はそれだけの破壊力を持っているのだ。伯父も伯母も、まだ何も知らない。いまのうちにあれ《・・》を処分しなくてはならない。それにはどうしてもかねが要るのだ。 「そうすると……そうだな、その時は多少は体裁ということもあるだろうな。僕は学生服ではちょっと拙《まず》いね。こっちはいいが、向うが困るだろう。洋服を一つ造るかな。どうせ要るんだからね」と彼は言った。 「そうね。急いでこしらえた方がいいわね。どのくらいするかしら」 「いま高くなったよ。このあいだ友達が造ったのが四万円って言ったな」 「いいわ。早く註文《ちゅうもん》しなさい」と母は答えた。  四万円のうち、一万円ぐらいはごま化せるだろうと、彼は思っていた。この偽りの行為は、母を不幸にしない為《ため》にも必要なことなのだ。一日も早く登美子を入院させなくてはならない。いまは手段を選んではいられないのだ。彼はしきりにあせっていた。  八日目になって大橋登美子から手紙が来た。八日間が空費された訳だった。 (先日はすみませんでした。待ちぼうけをさせてしまって、怒らないでね。かぜを引いて寝ていました。肺炎になりかけたらしいんです。三十九度二分の熱で、何も食べられなくて、おかげでとても痩《や》せてスマートになったわ。あなたの事を思って、気が気ではなかったの。でもまだ外出は止められています。学校もずっと休んでいます。父は半身不随で、怒ってばかりいます。何だかだんだん不幸になるみたい。  先生にお願いがあるの。一生のお願いです。毎日寝たままで考えていました。あなたは反対するだろうと思うけど、でも、もう一度だけ私の気持を聞いて下さいね。私たち、まだ学生で、生活力がない事もわかっているわ。だけど、その気になりさえすれば何とかなるんじゃないかと思うの。実際にやっている人も居るんだから、私だって働いて、やれないことはないと思います。だからわたし、思いきって結婚したいの。もしもあなたが、いますぐでは嫌《いや》だと思うのだったら、二三年は秘密にして置いたって、かまわないわ。父や母は頼みにならないから、子供は託児所にあずけてでも、私は働いて、何とかして待っています。  いまはそれだけが私の望みなのよ。あなただけが私の唯一《ゆいいつ》の希望の星です。星よ輝け。いくら考えてみても、私にはほかに生きる道はないの。先生に見捨てられたら、私は死ぬわ。本当に、死んだ方がいいと思うの……)  そこまで読んで賢一郎は、怒りのために自分の顔が熱くなるのを感じた。女の愚かさ、女の裏切り。あれほど筋道を立てて説き聞かせたことが、何の役にも立ってはいなかったのだ。自分のエゴイズムは解っている。しかし今はそうするよりほかに道はない。エゴイズムというよりは正当防衛でもあるのだ。現実の世界に生きて行くためには、冷酷な闘いも必要だ。人情などに負けてはいられない。人情に負けたための敗北者の見本は、小野精二郎だ。  何が何でもあの女を医者に連れて行って、これまでの関係の処分をつけてしまわなくてはならない。実行力が必要だ。一日の躊躇《ちゅうちょ》が人生崩壊のもとになる。人生、これからの永い人生、希望にみちた人生。この人生をあの女ひとりの為に台なしにする訳には行かない。  死んでくれればいいんだ、と彼は思った。登美子は事ごとに死んだ方がいいと言う。本当に死ぬ気があるか。あいつが死んでくれさえすれば何もかも解決する。しかしあいつが死を口にするのは、男に対する脅迫の手段であるに違いない。こっちはそんな脅迫に負けて結婚を承諾するわけには行かないのだ。しかし胎児は登美子の胎内に居る。その子を楯《たて》にとってあいつはおれを脅迫しているのだ。先《ま》ず何よりも先に、あいつを医者に連れて行こうと、彼は思った。万事を押切って、実行するよりほかは無い。  しかし登美子を呼出して会うまでに、彼はあの手紙の日から四日を空費した。そのあいだに賢一郎は洋服をこしらえるために母から四万円を出してもらい、洋服屋には二万九千五百円で註文をしておいた。そうしてまた一万円あまりの内密のかねを用意した。かねさえ有れば、情事のあと始末はできる筈《はず》だった。  登美子はやつれた顔をしていた。眼《め》が濁って、唇《くちびる》が乾いていた。そして口をあけて息をしていた。この女は変ったと、賢一郎は思った。 「すみません。勘弁ね。だって熱が高くて、どうしようも無かったの。先生怒っていたんじゃない?」  腹は立っていたが、怒って済むようなことではなかった。何よりも大事なことは、この女を納得させることだった。彼は昨日の午後、ここから遠くない街を二時間以上も歩きまわって、登美子を入院させる産婦人科病院を物色しておいた。 「君、ひとつ今日は、僕の言う通りにしてほしいんだ。いいか」と彼は言った。 「何のこと……?」 「とにかく君にまかせて置いたのでは、事がちっとも運ばないからね。今日は僕の言う通りにしてくれ」 「だから、何のことよ」 「いまから僕と一緒に病院へ行こう」 「病院て、なに? ……また診察するの?」 「君の気持は解《わか》らなくはないが、今はどうしても産む訳には行かないんだ。それだけは諦《あきら》めてもらいたい。感情的には解るが、感情に負けてはいられない。お互いに大事な時だからね」 「それじゃ、手術するの? ……だって、入院するんだったら、いろいろ支度が要るわ。パジャマだの何だの、持って行かなくては駄目よ」 「それは明日でもいい。とにかく今日は医者と相談して段取りをきめるんだ。君の親たちには五六日旅行するようなことを言っておいて、明日から入院すればいいじゃないか。そうしてくれ。頼むよ」  登美子はうつ向いて煙草《たばこ》に火をつけた。その顔には男に対する不信がありありと浮んで見えた。女にとって、自分がみごもった子を男から否定されるということは、それまでの二人のあいだのすべての愛が否定されることであったに違いない。賢一郎は自分の罪を感じていた。しかし今が大事な時だった。この罪の感覚を、眼をつぶって踏越えて行かない限り、自分には破滅が来る。それは解りきったことだった。みすみす破滅におちいって行くか、それともこの罪を敢《あ》えて踏越えて行くか、二つに一つだった。  登美子はハンカチを出して鼻を押えた。まつ毛に涙が見えた。賢一郎は危険を感じた。これ以上逡巡《しゅんじゅん》してはいけない。彼は立って喫茶店の勘定を払い、もう一度席にもどって、 「さ、行こう」と言った。  しばらくためらってから、登美子はしぶしぶ立ちあがった。  商店街を通り抜け、ゆるい坂を下り、更に坂をのぼって行った角に、木造洋館のような小さな病院があった。秋の日は急速に暮れて、玄関には灯がついていた。入口の扉《とびら》を押して、賢一郎は登美子を中に押しこんでから、受付の窓口へ行った。 「あの、診察して貰いたいんですが……」  受付の若い女は小窓の中で首をかしげて、 「外来のかたは午前中なんですけど……」とぶっきら棒な言い方をした。正面の階段の上が入院患者の病室になっているらしく、生後間もない嬰《えい》児《じ》の泣き声がきこえていた。  江藤は時間外で申訳ないが、ぜひ今日のうちに診察をしてもらいたいと、低い声でしつこく交渉した。受付の女は一度奥へ行って来てから、どうぞお上がり下さいと言った。  待合室には誰《だれ》も居なかった。三十過ぎの看護婦が階段を降りてきて、登美子だけを診察室に招き入れた。賢一郎は煙草をくわえて長《なが》椅子《いす》に坐《すわ》り、壁に貼《は》りつけてある図画をながめていた。牛乳と人乳との栄養比較、一カ月のうちの妊娠日と非妊娠日の図表、花柳病の統計図表、胎内に於《お》ける胎児の位置と姿勢の説明図。……ここは女だけの場所、女だけの世界だった。女の精神とは無関係に、女の肉体だけが診察を求めて来るところだった。そして男の肉体のための専門病院というのは、どこにも無い。  いま、登美子は赤の他人であるところの医者によって、診察を受けている。江藤はその姿を想像すると、胸のなかが砂でざらざらになったような、嫌な気がした。あの女のからだはおれだけしか知らない。そのかすかな誇りが、医者によって蹂躙《じゅうりん》されているようだった。しかし登美子の肉体に、もはや何の執着も持ってはいなかった。うまく始末がつけられれば、それっきりで縁を切る予定だった。  二十分ほどたってから、いきなり診察室のドアが開いて、さっきの看護婦が顔を出した。そして、どうぞこちらへと言った。江藤は医者に会うつもりはなかった。必要な話は登美子がするだろうと思っていた。しかし呼ばれたのを断わるわけにも行かないので、その部屋へはいって行った。何百人何千人という女がおのおのの恥部をさらして、次から次へと診察を受ける、その為の特別の部屋というものを、江藤は始めて見た。平凡な診察室であったが、一種凄惨《せいさん》な空気を彼は感じた。登美子は片隅《かたすみ》に立ってスカアトのホックをはめていた。それが男の眼にはなまなましい姿に見えた。  医者は半白の肥《ふと》った背丈の低い男だった。彼は壁にとりつけた洗面台で手を洗っていた。なぜ彼は手を洗うのか。江藤の眼には何もかもが刺《し》戟《げき》的であり、無数の謎《なぞ》をかくしているように見えた。部屋の中の五分ノ一を仕切るように白いカアテンが垂れている。そのかげに何かがある。高い足のついた照明台。琺瑯《ほうろう》びきの四角な盆にならべられた銀色の器具。不思議な形をした器具。彼には用途がわからないような器具類だった。 「さあ、どうぞ、おかけなさい」と医者は明るい口調で言った。「やはり、おめでたですな」  江藤は固い姿勢でまっ直《す》ぐに立っていた。医者は手を拭《ふ》いてから自分の机に坐り、煙草をとり出した。 「先生、お願いがあるんですが……」と彼は言った。「あの、明日でも、手術をしてもらえませんか」  医者はマッチをすって、炎の明るさに眉《まゆ》をひそめたまま、 「いや、駄目《だめ》です」と言った。江藤の願いは前以《まえもつ》て知っていたような言い方だった。 「あの……だめなんですか」 「だめですな。こんなに大きくなってしまったら、産むより仕方がありませんよ。なぜもっと早く来なかったんですか。前から解っていたでしょう。……お見かけしたところあなたがたは学生さんのようだし、結婚もしておいでにならんのでしょう。つまり生れてはお困りなんでしょう。……それならばどうしてもっと早く医者に相談しなかったんですか。早いうちなら、何とでも処置がつけられるんだ。その位のことは知っているでしょう。今となってはもう駄目です。……どうですか、あなた、もう動くでしょう。動くのが解りませんか」  登美子は部屋の隅に立っていたが、医者に問われると小さくうなずいた。 「本当なら、もう帯をしなくてはならんのですよ。実際若い人たちは乱暴だねえ。自由恋愛も結構だが、用心すべきものはちゃんと用心しなくてはだめですねえ」 「先生、何とかできないでしょうか。……お願いします」と賢一郎は頭を下げて言った。  いまは見栄《みえ》も誇りもない。ただ一筋にこの医者に頼むよりほかに道はなかった。少しぐらい無理な手術でも何でもいいから、やって貰《もら》いたい。しかし苦しむのは登美子であって彼ではなかった。彼は自分のエゴイズムを充分に知っていた。犠牲を払うのは女の方だ。彼自身は金を払うだけのことだった。 「いや駄目です。あんたが何と言おうと駄目です。断わって置きますが、どこの産婦人科へ行ったって、引受けてはくれませんよ。そんな事をしたら僕《ぼく》は引っくくられて、刑務所行きだ。そういう法律があるんですよ。あんたは何科の学生さんだか知らんがね」  そういう法律があることを、江藤はちゃんと知っていた。この医者にくらべれば十倍も二十倍も、法律には詳しいのだ。(刑法第二百十四条・医師、産《さん》婆《ば》、薬剤師又ハ薬種商婦女ノ嘱託ヲ受ケ又ハ其《その》承諾ヲ得テ堕胎セシメタルトキハ三月以上五年以下ノ懲役ニ処ス。因《よつ》テ婦女ヲ死傷ニ致シタルトキハ六月以上七年以下ノ懲役ニ処ス)  医者は立ちあがって扉の方へ歩きながら、 「まあ、そういう訳で、折角ですが、もうどうにもなりませんな」と言った。「医者にできることは、今からあと、無事に生れるように、やって上げることだけですよ。うちへ帰って御両親と、よく相談してみなさい。ねえ、無理をしちゃいけないよ。若いんだからね」  彼は扉をあけた。帰れという合図だった。登美子の方が先に診察室を出た。江藤にとっては絶望的なことが、登美子にはそれほどの事ではなかったように見えた。  外はもうすっかり夜になって、風が冷えていた。街灯のすくない住宅街を、二人は黙って歩いた。行く先をきめないで、足の向くままに歩いていた。  一つの事の結論が出たと、賢一郎は思っていた。もはや胎児の処置をつけることはできなくなった。いわば最悪の事態だった。あと五カ月以内に子供は生れてくる。その事を伯父に知られずにすませられるとは思われない。康子との縁談は破棄される。博士コースはあきらめなくてはならない。そして遠からず登美子とその子とを背負いこむことになる。小野精二郎と全く同じコースだった。しかしなぜこの女が身ごもったのか。そんな筈はないと彼は思っていた。しかも五カ月というのは計算が合わない。もしかしたら胎児はもっと育っているかも知れないのだ。事態は思ったよりもよほど急迫しているらしかった。  登美子が彼女の腕を賢一郎の左腕にからんで来た。肩をつけたまま、歩調をそろえてゆっくりと歩く。歩きながらうつ向いて、 「ねえ、もうどうすることもできないわね」と言った。「いま直ぐでなくてもいいから、結婚しましょうよ。ねえ。……それまでわたし、何としてでも独りでやって行くわ」  暗い中で、彼は歯ぎしりする程の怒りを感じた。とうとうこの女は正体を見せたのだと、彼は思っていた。何もかも、女の仕掛けた罠《わな》だった。その魅力的な肉体も、妊娠も、そしてわざと医者へ行く時期を遅らせたことも、みんな計画的に男をからめ捕るための罠だった。その罠に、まんまと引っかかってしまったのだ。 「嫌だよ」と彼は言った。思わず口調がはげしくなっていた。「結婚なんかしないよ。始めからの約束じゃないか。だから僕はあれほどしつこく、早く医者へ行こうと言ったんだ。手遅れになったのは君のせいだ。産むなら勝手に産め。僕は知らん」 「怒らないで。ねえ、私が悪かったわ。あやまります。ね、お願い……」 「あやまって済むことじゃない。とにかく結婚なんかできる訳はないんだ。みんな君の責任だよ。自分でどうでもするがいい。僕は知らんよ」  登美子は彼の腕につかまって歩きながら、片手で顔を掩《おお》うて泣いた。しばらく歩いてから曇った声で、 「じゃ、先生、教えて。わたし今からどうしたらいいの? ……あなたが言う通りにしますから、どうしたらいいか、教えて」と言った。  どうしたらいいか。……それが解っているのならば、賢一郎はすぐにもその処置をとっていた筈だ。どうにもならない窮地に追いこまれたからこそ、無茶苦茶に腹を立てているのだった。登美子の言い方は、それを万事承知の上で、さらに男を追詰めようとしているようでもあった。 「わたし、もう、どうしていいか解らないわ。……死んだ方がいい。先生と二人で死にたいわ。それができたら、幸福……」 八  大学は秋の体育祭で、授業は休みだった。しかし江《え》藤賢一郎《とうけんいちろう》は図書館にこもっていた。机の上に法律書を開いてはいるが、この数日、勉強はまるで頭にはいらなかった。事態は急迫しているが、解決の道はつかない。彼は自分の力の弱さを思い知らされたような気がした。もしも伯父のようなかね持ちならば、何百万円かを女に渡して、それで問題を解決することもできるのだ。  しかしながら、解決とは、解決にすぎない。それは父としての責任を逃れるという方法にすぎないのだ。けれども父とは一体何であろうか。民法の条文の中に(母の子)という言葉はあるが、(父の子)という字句はどこにも無い。うまれた子の父が誰であるかは母だけしか知らないことだ。時としては母にすらも解らないこともある。もしも彼が、登美子の産んだ子の父であることを否定したら、問題はどうなるか。民法第七百七十四条には、(夫は、子が嫡出《ちゃくしゅつ》であることを否認することができる)と規定されている。法律上の夫でさえも否認権はあるのだ。それほどに父という立場は不確実なものにすぎない。法律的には赤の他人であるところの彼が、登美子の産んだ子を否認することは、当然あり得る筈《はず》だ。  登美子の側でもしもその事に不満があれば、民法第七百八十七条によって認知の訴えを起すことになる。必要とあれば裁判所は人事訴訟手続法第三十一条二項の規定にしたがい、職権を以て証拠調べをすることもできる。しかし、証拠が見つかるだろうか。二人の情事は二人だけしか知らない。そして情事とは一時的な行為にすぎず、行為はそれが終った瞬間から、まぼろしのように過去の中に消えて行ってしまう。  そもそもの事の起りは、彼がアルバイトの家庭教師をしていて、大橋登美子を知ったということだった。二人の間に慾望《よくぼう》があった。慾望は人間の自然であり、情事もまた自然の慾求であった。その結果として登美子が妊娠したのも極めて自然ななり行きに過ぎない。このまま二人が結婚してしまえば、彼《かれ》等《ら》の在り方と社会秩序との関係に何の矛盾もなく、紛糾も起らない。……そこで問題の根拠はすべて明らかになった。結婚を拒否しているのは江藤自身であり、その拒否は、より有利な条件でほかの女と結婚するためである。要するに彼自身の苦悩の根源は、彼自身のエゴイズムから発したものであった。登美子に罪はない。  しかし江藤は登美子が憎かった。彼女が妊娠したということが憎くてたまらなかった。彼女を愛してはいない。始めから愛はなかった。なぜ愛のない情事までが妊娠と結びつくのか。そういう風に造られている女の生理そのものが、愚劣なものに思われてならなかった。  閲覧室のなかに学生の数はすくなくて、静かだった。装飾のある窓の外に立ちならんでいる銀杏《いちょう》の葉が、もうすこしばかり色づいていて、秋の深さが感じられた。この部屋のなかに、現実の社会は無い。ここは学生たちが現実の社会にはいって行く前の、準備期間をすごす場所であった。しかし江藤賢一郎は登美子の妊娠という事件によって、はからずも現実の社会と直面し、その複雑な機構に足をからまれているのだった。  午後二時、江藤は図書館を出て、校門の近くの学生食堂へいった。一杯のどんぶり飯、里芋のみそ汁、わかめと大豆とこんにゃくとの煮込み。貧しい食事だ。この貧しさに耐えて来た年月の永さ。貧しさが肉にしみこみ、骨にまでしみ込んでいるような気がする。  食堂を出て、バスに乗る。行く先は豪華なホテルだった。康子は彼を誘うとき、いつもそうしたホテルを指定して来る。ホテルの豪華さを借りて、江藤に彼女の地位を誇示しようとするのかも知れない。古ぼけた学生服を着て、かかとの磨《す》り減った靴《くつ》をはいて、このホテルにはいって行くとき、江藤は一種の劣等感を意識した。  広い喫茶室、革張りの大きな椅子《いす》、見事な菊の花の鉢《はち》植《う》えをならベ、華麗なシャンデリヤが高い天井から下がっている。康《やす》子《こ》は絹のワンピースを着て、胸に紫のすみれの花束をつけていた。二人のためにボーイに飲みものをたのんでから、手提げ袋の中から小さい紙包みをとり出した。それを、さし上げるとは言わないで、 「開けてごらんなさい」と言った。  また贈り物だ。進物用にリボンが結んである。江藤がひらいて見ると外国ものの立派な万年筆とシャープペンシルのセットだった。貧乏学生に買えるような品物ではない。彼は自分と康子との住んでいる世界の違いを感じた。その違いは持っているかねの量に過ぎない。その人間の本質とは何の関係もない。けれども階級といい地位と言い、現実の社会では人間の本質よりも持っている富の量が決定的な意味をもつ。康子自身は何者でもない。しかし彼女の身についている富を軽視するわけには行かないのだ。その富は、江藤が彼女と結婚することによって、或《あ》る程度は江藤の富になり得る筈だった。 「わたし毎週一度はここへ泳ぎに来るのよ。運動のために。……人が少なくて、水がきれいで、とても良《い》いの。さ、行きましょう」  プールは外に張出したテラスの向うに、明るい半球形の屋根で掩《おお》われていた。水は温度が調節されており、そのまわりには熱帯性の観葉植物が植えこまれていた。江藤は更衣室で水泳パンツ一つの姿になってプールの岸に出た。そして婦人更衣室から出てくる康子を待った。  康子は黄色の水着になって出てきた。それが康子であると解るまでに、彼は多少のとまどいを感じた。胸を掩う布と腰を包むパンツとの間に細いしなやかな胴がむき出しになっていた。この女の裸は登美子とくらべて、豊かさは足りないが、どこかしら上品だった。豊かな家庭で大切に育てられた女の、繊細なたおやかさを持っていた。康子は自分の裸形を見せるために、それを江藤に誇るために、わざわざ彼をここへ誘ったのかも知れない。これもまた一つの罠だった。しかしこの罠は登美子と違って、富と栄誉とに飾られている。彼はまだ成熟していない、いくらかほっそりとした康子の体を、まぶしいものに感じた。何年か後の自分と康子との関係を考え、そしてその女の体に期待をもった。  プールの中での康子は、泳ぎを楽しむというよりは、自分の体を他人から見られることを楽しんでいるのではないかと思われた。水にはいっている時間よりも、水のふちを意味もなく歩きまわったり、籐《とう》椅子《いす》に坐《すわ》って冷たい飲物を飲んだりしている時間の方が多かった。毎週プールに来るというのも、その事の楽しみのためかも知れなかった。孤独な悦楽。そしておそらく女にとっては本能的な虚栄心でもあるに違いない。  賢一郎にはそれが解《わか》るような気がした。これもまた彼女の慾情の幼稚な表現である。彼女の気位の高さと彼女の慾情とが、あの若い肉体のなかでどのようなバランスを保っているのか。それは彼がこれから解明しなくてはならない一つの謎《なぞ》だった。そして彼は自信をもっていた。条件はそろっている。三年も四年も待つ必要はない。もしも二人の間で既成の事実がつくられてしまえば、結婚はもっと早く実現させることができるだろう。  その場合には、小野精二郎とは条件が違っている。康子もまた一つの罠だ。しかしこの罠は賢一郎にとってあらゆる好条件をそなえている。多くの利益はもたらすが、被害はほとんど考えなくてもいい。大橋登美子はすべての悪条件を備えている。絶対に拒否しなくてはならない。けれども康子との結婚は、早い方が得だと、彼は計算していた。  プールから上がって元の服に着かえても、彼は康子の洋服の下にかくれている白いからだが眼に見えるような気がした。康子は機《き》嫌《げん》がよくて、いつになくおしゃべりだった。そのホテルのグリルへ行って食卓についたときにも、訳もなく楽しそうに見えた。 「御馳《ごち》走《そう》をたべましょうよ。ね、うんと高いものを食べない? ……あなた何か飲むんでしょう。おさけは強いの? ……ウィスキーでもコニャックでも頼んでいいわよ。白《しろ》葡《ぶ》萄《どう》酒《しゅ》はどう? ……一本取ってみましょうか。あなた葡萄酒、わかる? ……イタリーの何とか云《い》うの、面白いわね。瓶《びん》をわらで包んであるのよ」  江藤は何も知らない。彼にとっては無縁の世界だった。そして彼は康子を、自分の婚約者というよりは、彼女に飼われている獣のような風に自分を感じていた。彼女は大きなセパードの首に綱をつけて、その犬に曳《ひ》かれて行く。実力は犬の方が何倍も強い。しかしセパードは飼主に抗《さから》うことができないのだ。高級な洋酒、酒の肴《さかな》にフランスの蝸虫《かたつむり》、アラスカの鮭《さけ》。それが飼主から与えられたセパードの餌《えさ》だった。彼は康子の機嫌の良さに抵抗を感じ、多少の反感をもった。しかしこれは我慢しなくてはならない。我慢することが自分の利益のためだった。我慢することが、消極的な意味の、裏返しにしたエゴイズムのようなものだった。 「ねえ、ねえ、わたしねえ、一つだけあなたに聞きたいことがあるのよ」と康子は盗むような表情を見せて言った。「……父は近いうちに内祝言をするって言ってるでしょう。だからその前にわたし、一つだけ、どうしてもあなたに聞いて置きたいの」 「何ですか」 「あなたね、本当のことを言って。……ガール・フレンド居るでしょう」  康子は狡《ずる》い顔をした。そういう話題をもち出した時の鋭い微笑が彼女の頬《ほお》にうかんだ。微笑のなかに小さい笑《え》窪《くぼ》がある。冗談のように見せながら、女が、一番真剣な気持になっている時だった。 「え? ……そんなもの、居ないな。第一、そんなひまはなかったもの」 「そうかしら。信じないわ。あなたはわりあい女から騒がれる方だと思うわ。大学に女子学生、たくさん居るでしょう」 「文科にはたくさん居る。法科は二三人ですよ。それもね、法律をやろうなんていう女性は、どっちかと言うと、まあ、失礼させて頂きたい方だな」 「わたしね、本当のことを聞きたいの。私たちが結婚して、それから後で、あなたに愛人が居たことが解ったりしたら、わたし自殺するわよ。そんな侮辱を我慢するくらいなら、わたし死ぬわ。わたしエゴイストなの。いい加減な気持で結婚なんか、したくないわ。あなたは男だから、どうせ何か経験はあるだろうと思うの。それは仕方がないわ。私は父だって、その点では信じていないのよ。父は不潔。……どこかにお妾《めかけ》さんを囲っているらしいの。  わたし、そういう事、許せないの。愛情については、貪欲《どんよく》よ。絶対にゆるせない。……だからもしあなたに愛人が居るんだったら、ちゃんとそう言ってちょうだい。わたし今日限りあなたとお別れするわ」  気位の高い娘の、わがままな口調だった。女としては当然であるかも知れない。江藤は追いつめられた気がした。しかしこんな小娘の追及に負けてしまうほど純真ではなかった。彼は狡く微笑して、「愛人は、居るよ。康子さんと言ってね、すてきなお嬢さんだ」と言った。  康子は眼を伏せ、小首をかしげて、黙っていた。信じていない表情だった。何分もたってから、そっとフォークを置いて、 「わたし何だか変な予感がするの。虫が知らせるみたいな。……あなたはきっと何か、私にかくしているわ。……こわい」  そういう女の直感の鋭さは、江藤の胸に突きささって来る刃物のようだった。それはほとんど理由のない直感であった。理由がないから、江藤としては彼女の疑惑を解明する方法がわからない。筋道を立てて相手を納得させることはできないので、上手にごまかすより仕方がなかった。 「なぜ僕をそういう風に疑《うたぐ》るのかなあ。……まあ、正直に言って、僕は伯父さんにはずいぶんお世話になっているんですよ。その伯父さんの娘さんと結婚しようというのに、その人を裏切るようなことが、できると思う? ……人間というのはね、何よりも大事なのは信義ということですよ。誠実さということですよ。それが人間関係の根本じゃないかねえ。僕の誠実さが疑われるということは、端的に言って、僕自身が否定されるということだな。そうでしょう。……それでは結婚なんて、とても駄目だな」  江藤は逆手に出た。こういう話術の巧みさに自分で微笑していた。しかし女はまだ満足しなかった。 「それじゃ、もう一遍念を押すわ。あなたはいま、愛人は居ないのね」 「居ないよ」 「絶対、ほんとね」 「嘘《うそ》なんか言いませんよ」 「あとで変なことが解ったりしたら、わたし本当に自殺するわよ」 「大丈夫。信じてもらいたいな」 「もう一つ聞くけど……私を愛してくれてるのかしら」 「愛していなかったら結婚なんかしないよ」 「私のどういう所を愛して下さるの?」 「解らないね。全体だろうな。愛情って理《り》窟《くつ》じゃないからね。その人の在り方全部じゃないだろうか」 「私のどんな所が嫌《きら》い?」 「さあ……ちょっと憎いところがあるね。つまり僕にくらべて君が物質的にゆたかだということだな。しかしそれは僕のひがみで、君自身の欠点という訳ではないだろうな。本当はこの食事の支払いだって、僕は自分でやりたいよ。今はまだ出来ないがね」  康子はほっと溜息《ためいき》をついた。男の答えに満足したかどうかは解らないが、自分の緊張に疲れたという風であった。そして江藤は康子の鋭い追及を何とか無事に切抜けたと思った。  切りぬけたのは彼の話術にすぎなかった。言葉のあや《・・》だ。つまり架空の誓いを立てたことであった。そしてさし当っては、一つの難関を切りぬけたけれども、架空の誓いに対しては、やがて現実の証明を求められるに違いない。要するに大橋登美子という女の存在を、永久に康子に知らせてはならないのだ。その事が江藤に義務づけられてしまった。  しかし大橋登美子の存在をどうやって抹殺《まっさつ》するか。数カ月ののちには子供が生れる。生れる子供を前以《まえもつ》て処置することはもはや不可能になった。その子が生れれば、登美子は彼の責任を追及してくるに違いない。愛情というような抽象的なもの、捕えがたいものではなくて、人間の子供という現実が彼の前につきつけられる。愛人の存在は否定することができても、生れてしまった子供を否定することはできない。その子と自分との関係を否定して、法廷で争うことはできるにしても、法廷で争うこと自体が、すでに康子に対する裏切りになってしまう。  途中で康子と別れるとき、二人ははじめて握手をした。握手をした時の女の顔は、さらに固い誓いを江藤に求めているようであった。女は錐《きり》のように、男の心の隙《すき》に食いこんで来る。それは女のエゴイズムであり、同時に女の魂そのものでもあった。女の美しさも醜さも、すべてその中にある。もはや康子の気持のなかには、江藤に対する愛が育っているらしかった。気位の高い康子は、用心ぶかく江藤を詰問することによって、自分の愛の安全性をたしかめたかったのだ。江藤にはそれが解っていた。そしてその事が一層彼の心の負担を重くするようであった。  日曜日の午後、母は伯父に呼ばれて伯父の家へ行って来た。用件は内祝言の日取りの打合せと接待客の顔ぶれの相談とであった。日取りは十一月十八日。場所は都心にあるホテルの小宴会室。招待客は両家をあわせて二十三人の予定だった。  伯父は何も知らない。母も何も知らない。伯父も伯母も母も、みんな喜んでいる。彼等の喜びはそのまま、賢一郎を責め立てる鞭《むち》のようであった。どうすればいいのか。  円満解決のためのたった一つの方法は、何百万円かのかねを登美子に渡して、それを代償に、生涯《しょうがい》の縁切りを誓約させることだった。しかしそんなかねはどこにも無い。またそれとても、個人的契約に過ぎないものであって、法律的にはあまり効果はない。何年も経ってから後に、登美子から認知訴訟が提起されることまでも防ぐことはできないのだ。  内祝言の日までに、何とか処置をつけてしまわなくてはならない。賢一郎はいら立っていた。ところが翌々日になって大橋登美子からの速達郵便がとどいた。母は何も言わずにその手紙を賢一郎の机の上に置いた。小野精二郎が追いつめられて行った気持が、賢一郎には始めて解ったような気がするのだった。人間関係……それこそ一つの地獄だった。 (江藤賢一郎様……あれからどうしているのかしらと、毎日考えています。いくら考えても、私にはどうしたらいいのか解らないわ。おなかの子供はよく動きます。変なときにいきなり動いたりすると、びっくりしちゃうの。元気な赤ちゃんです。だけど、この子が生れたらどこへ連れて行けばいいの? ……そして誰が名前をつけてくれるの? ……うちに居る父のお妾さんが、おとといの朝私に言ったわ。《あなた少しおかしいんじゃない? ……おなかの方が何だか肥《ふと》ったみたいね。どうして何も食べないの?》  私は一生懸命ごまかしました。でも来月になったらもうだめだわ。産《うぶ》着《ぎ》だの何だの、支度もしなくてはいけないでしょう。賢一郎さま、お願いです。結婚して下さい。もうそれしか無いわ。二人でこの子を育てましょう。私たちは子供によって永久に結ばれたのよ。私はつまらない女だけど、でも一生懸命いい奥さんになります。お願いです。結婚して下さい。始めの約束と違うようなことになって、本当に先生には悪いと思うけど、もう仕方がないわ。もしもあなたが絶対にいやだと言うんだったら、わたし死ぬわ。だってそれよりほかに解決の方法は考えられないんですもの……)  死んでくれ、たのむ、それが一番いいんだ……と江藤は思った。あいつが自分で死んでくれさえすれば、おれは助かる。今となってはそれしか無い。登美子は何かにつけて(死ぬ)と言う。もう三度も四度も聞かされた台《せり》詞《ふ》だ。それを実行してくれさえすれば、一切が解決する。……しかし登美子が自分から実行するとは思われない。登美子にそれを実行させるためには、どうすればいいか。その最後のところに、最後の問題が残っていた。  あくる日の夜、母はきちんと正《せい》坐《ざ》し、正面から賢一郎の顔を見据《みす》えて、ひどくゆっくりした口調で言った。 「きのう、大橋さんという人からまたお手紙が来ていたわね。お前は私と約束した筈《はず》よ。あの人とのおつきあいはやめる筈だったでしょう。もう直《す》ぐに内祝言をあげるというのに、どういうつもりなの。伯父さんに対しても康子さんに対しても、それでは済まないだろう。人間というものはね、時には悪いこともする、まちがった事もする……しかし何より大事なことは、誠実さということよ。一方で内祝言をあげながら、もう一方でほかの女の人とおつきあいしていたんでは、言訳はできないわね。どういうつもりなの? ……」 「大丈夫だよ」 「大丈夫って、どういう意味?」 「僕《ぼく》はちゃんとけり《・・》をつけているんだよ。だけど向うの方がうるさいんだ」 「うるさくされるのは、それだけの事があったわけね。まさかお前、結婚のお約束なんかしてるんじゃないだろうね」 「冗談じゃないよ。それほど馬鹿《ばか》じゃない」 「そんならなぜちゃんと訳を話して、義理のある人の娘さんと結婚することになっているからって、おつきあいをやめてもらうことが出来ないのよ。お前から言いにくかったら、お母さんがその人に会ってあげようか」 「自分のことは自分で始末するよ」 「あたり前だわね。……大橋さんという人も話の解らない人だね。お前にも悪いところがあったんだろうけど、とにかく正式に内祝言をするんだから、そういう事はきちんと処理して置かなくては、後で問題がおこりますよ。康子さんにしても、あそこの伯母さんにしても、そういう点ではやかましいからね」 「わかってる」 「ほかの事と違うのよ。自分ひとりの勝手では事は済まないわ。お前が変なことをしたら、伯父さんや康子さんにまで御迷惑をかけることになるんだからね。……それができないんだったら、康子さんの事は今のうちに、ちゃんとお断わりしなくてはならないのよ」  母は古風な縞《しま》の着物をきて、髪は自分でひっ詰めに結う。化粧も何もしない。ただ一筋にひとりの息子を守って、未亡人の暮しを立てて来た生真面目《きまじめ》な女だった。華美な大都会の時代の流れとは縁のない生き方をしていた。息子とは生活の世界が違う。彼女の存在が賢一郎にとっては少しばかり眼ざわりでもあった。母の今夜の訓戒は、聞かなくても解っている。しかし改まってそれを言われると、やはり無視するわけにも行かなかった。  どうすればいいのだ。彼は窮地に立っていた。助けてくれる者はひとりも無い。胎児は日ごとに育ってくる。内祝言の日はどんどん近づいて来る。かりそめの情事が、動かし難《がた》い現実の問題をつきつけて来たのだ。と言って見す見す康子との縁談をことわって、大橋登美子と結婚するのはあまりに馬鹿々々しい。生涯のプラスを捨てて生涯のマイナスを取る馬鹿はないのだ。しかし、どうすればいいのだ……。  十一月十六日。午後七時半。江藤は大橋登美子に電話をかけた。 「僕だよ。元気かい。……あのね、いろいろ相談したいんだ。あした、出て来られる? ……午後一時、新宿駅。……相談? ……わかってるじゃないか、僕たちの事さ。僕たちの? わかってるだろう、結婚の事さ。……そうだよ。嘘《うそ》を言うわけないだろう。ばかだなあ。だって、仕方ないじゃないか。……じゃ、いいね。遅れないように来てくれよ」  登美子の声は受話器のなかで慄《ふる》えていた。彼の言葉を疑いながらも、慄えるほど嬉《うれ》しかったのだ。江藤は自分の罪のふかさを感じていた。彼はかつて康子にむかって言ったことがある。(人間というものはね、何よりも大事なのは信義ということですよ。誠実さということですよ……)それと同じことを数日前に、彼は逆に母から聞かされた。(しかし何よりも大事なのは、誠実さということよ)……  彼はいま、結婚のことについて相談があるからと言って、登美子に呼出しをかけた。登美子はそれにさからうことができない。結婚の相談……登美子にとってこれ以上の罠《わな》はないのだ。自分から喜んで罠の中に跳込んでしまうだろう。したがってこの罠は、最も悪辣《あくらつ》だった。絶対に失敗することのない罠だった。江藤は電話をかけてから、自分の罪のふかさを知った。それと同時に罠の成功を信じていた。まるで釣《つり》師《し》が、魚の最も好む餌のなかに鉤《はり》を仕掛ける、あれと同じだった。  その夜、江藤は眠れなかった。眠れないのは彼の良心の苦悩であった。しかし良心とは、良心に過ぎない。良心は立身出世の役に立つものでもなかったし、生存競争の場に在って彼を有利にするものでもなかった。むしろ良心をどうやって閉じこめてしまうか。その事の方が大事だった。良心とは要するに自己満足にすぎない。小野精二郎の失敗は、彼が良心的であったということだ。この追詰められた立場に在って、良心はむしろ人生の失敗への道をさし示す役に立つばかりだ。……  あくる朝、賢一郎は平素と同じように家を出た。母は何も知らない。玄関で彼は、 「晩飯、いらないよ。友達のところへ寄るからね」と言った。  大学のある街の近くで、彼は薬局にはいり、睡眠薬を一函《はこ》買った。小さな白い錠剤。それが人を眠らせる。眠るということの恐ろしさ。みずから求めた夜の眠りは平凡だが、もしも自分が希望しない時に、不意に眠りがやって来たとしたら、それは危険なことだ。危険な薬をポケットに入れたまま、彼は大学へ行った。一時間だけ教室に出て、学友たちと顔をあわせた。これも一つの必要な行動であった。  それから図書館にはいり、カードを調べ、三冊の法律書を借り出すために、用紙にはっきりと署名し、年月日を書入れた。こうした手続きにどれだけの意味があるか。どれだけの価値があるか。それは後になってみないと解らない。とにかく彼はあらゆる場所に、自分を助けるための救助網を張って置こうと考えていた。  昼は大学の近所の学生食堂で、珈琲《コーヒー》とパンを取った。食慾はなかった。頭の中が疲れてがんがんしていた。それから新宿へ行き、大きな映画館の窓口で切符を買った。この映画は数日前に見て、内容は知っていた。もしも人から問われたら、すらすらと答えることができる。戦争を諷《ふう》刺《し》的にとり扱ったフランスのものだった。彼は買った切符をポケットに入れて、そのまま駅へ行った。  大橋登美子は先に来て待っていた。江藤は遠くから彼女を見つけると、太い円柱のかげに立ってしばらくその姿を見ていた。紺色の花模様のついたマフラで頭を包み、学生らしい紺色のうすいコートを着ていた。空虚な表情は何を意味しているのか。妊婦に有りがちな表情だった。あるいは自分の子宮の中で動いているものに心を奪われていたのかも知れない。布製のやや大型のバッグを腕にかけて、平たい学生靴《ぐつ》をはいていた。中途半端な姿。彼は登美子に近づいて行くことがこわかった。しかし登美子の人を捜している顔がこちらを向き、彼の姿を見つけた。そして表情が崩れた。他人に見せる顔ではなかった。女が、特別な関係にある人だけに見せる、地味な、目立たない、そして相手だけに解《わか》る、ふと眉《まゆ》の力を抜いたような表情だった。二人は自然に両方から歩み寄った。  それから江藤は登美子をそこに待たせておいて、二枚の切符を買ってきた。 「どこへ行くの?」 「箱根へな、もみじを見に行こう」 「あら、また箱根……」と登美子は言った。この夏の小旅行のときのことを思い出しているらしかった。  電車に乗ると江藤は黒いサングラスをかけた。会話はすくなかった。登美子はしきりに話しかけたがったが、賢一郎はゆうべの睡眠不足を理由にして、眼をつぶっていた。 「ねえ、私たちのことを、あなたのお母さんはどう思っていらっしゃるの?」 「なかなか賛成してくれないんだ」 「やっぱりそうなのね。……どうすればいいかしら。あなたはひとり息子でしょう。別居する訳には行かないわね」  特急電車は途中の駅を無停車で走り過ぎた。沿線に柿《かき》の実が赤くみのっており、おだやかな晩秋の日光が明るかった。東京の街が遠ざかると西の山々が近く見えてきた。 「このあいだ、デパートへ行ってみたの」 「何しに?」 「赤ちゃん用品の売場。何でもそろっているのね。でも、恥ずかしかったわ。いそいで通り過ぎたの。おかねさえ出せば直ぐにも支度はできるのよ。父のお妾《めかけ》さんがね、気がついたらしいの。おとといの晩だったかしら、そんなようなことを言われちゃった。その人も正月ごろ生れるらしいの。それで、(あんたどこか悪いんじゃない? ……何だか様子が変よ)って、私のからだをじろじろ見ていた。もう学校なんか、とても行かれないわ」  江藤は神経を尖《とが》らせて、女のおしゃべりを聞いていた。そして、この女はいま幸福なんだろうかと考え、人間の幸福というもののはかなさを思った。  箱根湯本から彼《かれ》等《ら》はバスで芦《あし》ノ湖《こ》の岸に出た。そしてボートを借りて湖上に出た。紅葉を見るには少し遅く、空気はつめたかった。沖まで出ると江藤は、 「君、漕《こ》いでくれ」と言ってオールを登美子にわたし、自分は舳《へさき》に身を横たえ、腕を曲げて顔をかくしてしまった。  それを登美子は、男の優柔不断な姿だと見たようであった。結婚の相談をすると云《い》いながら、まだ決断がつかないのだろうと思った。それが彼女には腹立たしかった。 「ねえ、わたし何も、いま直ぐに結婚してくれなんて言わないわよ」と彼女は、ゆっくりオールを動かしながら言った。「あなたが就職するまで待つわ。そりゃ、いま父が病気したりして、私だって辛《つら》いけど、一年や二年、どうにかするわ。誰《だれ》だってやってるのよ。……ねえ、だからそんな憂鬱《ゆううつ》な顔、しないでよ。約束が違うことも知ってるわ。だけど約束した時は、子供のことは考えていなかったでしょう。仕方ないじゃないの。私だってそんなつもりじゃなかったのよ。……まだ決心がつかないの?」  賢一郎は腕を曲げて顔をかくしたまま、別のことを考えていた。もはや登美子が何と言おうと、それは問題ではない。舳の下で水が鳴っていた。水の音が耳にひびいて来る。彼はこの湖の水の深さを考えていた。この淀《よど》んでいる水は、どこへ流れて行くのか。もともと火山湖であるから、底は深い筈だ。底の水は動かない。物体は浮くか沈むか。海水とくらべて沈む率は高い筈だ。しかし海と違って沈んだ物体はその位置を変えないだろう。……  彼は頭を上げて湖上を見た。小さなモーターボートが二隻《せき》、白波をうしろに曳《ひ》いてこちらに走ってくる。水上はさえぎる物もなく、どこまでも見通しが利《き》く。太陽が西の山の肩に沈もうとして、虹色《にじいろ》の光の縞《しま》が水面に流れていた。もうすこし経《た》てば日が暮れる。しかし登美子は岸にむかって漕いでいた。 「もっと沖の方へ出ろよ」 「だってわたし、寒いのよ。日が暮れるわ。ぼつぼつ帰りましょう」  彼は決断がつかなかった。ポケットの中に睡眠薬がある。キネマの切符がある。しかしまだ決心はつかなかった。頭のなかで血が脈打っているのが解った。ここではどうすることもできない。  岸にあがってから二人は茶店にはいり、紅茶をのみ菓子をたべた。モーターボートが湖岸に帰って来る。小田原行きの乗合バスが出て行く。水の上は急にうす暗くなり、あたりの山々がまっ黒になった。夕焼けだけが僅《わず》かに西の空に残っていて、空気は冷えてきた。 「東京へ帰りましょうよ」と登美子は言った。「帰って、何か温かいもの、食べたいわ」  帰ったらどうなるというのか。状況は日一日と悪くなるばかりだ。あしたは康子との内祝言をすることになっている。それまでに何とかしなくてはならない。彼はのっぴきならない所まで追詰められていた。  茶店を出ると、登美子はバスの乗場の方へ行こうとした。江藤は彼女の腕に腕をからみながら、曇った声で、 「もうすこし歩こう」と言った。  女は彼の顔を見た。不満な、いぶかしげな表情だった。彼はかまわずに歩いた。湖畔の小さな町はすぐに終って、終るといきなり山の風景になった。古い木立。しめった土。苔《こけ》のにおい。自動車の通る道をしばらく歩いてから細い道に曲ると、そのあたりには徳川時代の(箱根八里)という言葉がまだ生きているようだった。 「先生が困っている気持、わかるわ。ほんとに悪いと思うの。御免なさいね。だけど私も、どうにもならないのよ。そりゃわたし、もっと早くお医者へ行けばよかったと思うけど、それまで、本当のところ、私にも解らなかったのよ。まさかと思っていたしね。……だから、御免なさいね。私だって辛いわ」  江藤は聞いていなかった。細い山道は二人が並んで通るのもむずかしいほど狭くて、両方から伸びた草を踏分けて行くようだった。ところどころに杉《すぎ》や檜《ひのき》の古木が枝をひろげており、その下はもう夜になろうとしていた。人の気配は全く絶え、湖水の岸からもやや離れていた。 「ねえ、どこまで行くのよ。こんなところ、こわいわ」  彼は答えなかった。すこしうつ向いて、自分の心と対決しているような気持だった。彼はいま、自分が歩いているということすら、忘れていた。一刻一刻が恐ろしかった。しかしまだ本当の決心はつかなかった。むしろ、自分が決心をすることを、恐れていた。 「わたし、良い奥さんになるつもりよ。そりゃあなたは学問もあるし、私なんか本当はあなたの奥さんになる資格、ないかも知れないけど、でも一生懸命やるつもりよ。あなたの愛情さえ信じられれば、何だってやれるわ。……ねえ、どこまで歩くの」  江藤はしっかりと女の腕をかかえていた。道は細くなり、彼は雑草を踏みながら歩いていた。山道は刻々に夜の色が濃くなり、霧のような、靄《もや》のような、白いものが木立の下を流れていた。どこにも灯は見えず、人家からは遠かった。登美子は急に彼の胸にたおれかかり、片手で彼の首に抱きつき、顔をすり寄せて来た。彼は両手で女を抱きしめ、捻《ね》じるように女の顔をあお向けて、接吻《せっぷん》をした。  それは愛の行為だった。登美子は顔を離そうとしなかった。彼女はもっと激しい愛《あい》撫《ぶ》を期待していたかも知れない。男がこんな場所に彼女を連れて来たのは、そういう行為を彼女に求めるためだったのだと、誤解したかも知れない。彼女は息をはずませ、身を投出していた。むしろ男からの荒々しいまでの愛のしるしを期待していたようだった。  しかし接吻を終ると江藤は女をまっすぐに立たせ、さっきのように女の腕をかかえこんだ。愛の行為はそれだけで終りだった。登美子は黙っていた。そして江藤は一種の裏切り、一種の自己分裂を感じていた。彼はどうしても決心がつかないのだった。  急に、枝を鳴らして風が吹いてきた。冷たい凍るような山の風だった。女は立ちどまった。 「寒いわ。もう帰りましょう」  江藤は腕を放さなかった。 「ねえ、遅くなるわ。こんなところ、怖いじゃないの」  彼は固い姿勢で突っ立っていた。何かを決心しようとして、自分と闘っている姿だった。 「ねえ、どうしたのよ。帰りましょう」  登美子はふり向いて男の手を引いた。すると逆に、はげしい力で引きもどされた。  そのとき彼女ははじめて何かを直感し、恐怖を感じたようだった。物も言わずに男の腕から自分の腕をふり放そうとした。足もとの草を踏みつけ、腕を突っ張り、男の手から逃れようとした。 「放して……放して……放して……どうするのよ」  そして何かをわめいた。ひと声、ふた声ばかりわめいた。意味を成さないような叫びだった。その声が江藤の行為に火をつけた。彼はまだ決心がきまっていた訳ではなかったが、決断の時を待ってはいられなくなった。満身の力で女を引倒し、うつ伏せになった女の背の上にのしかかり、両手の力でうしろから女の首を絞めた。抵抗する女の力を全身の重みで押えつけ、マフラを巻いた女の後頭部に自分の頭を押しつけ、必死の力で首をしめた。その首は両手にあまり、いくら絞めてもまだ十分には絞まらないようだった。彼は喘《あえ》ぎ、顔から汗がしたたり落ちた。  その折重なった姿勢のままで、彼は耳を澄ました。あがいていた女の足が動かなくなっており、彼の重みに抵抗していた女の力が消えていた。あたりはほとんど夜の色にぬりこめられ、細い青い月の光でうつ伏せになった登美子のぼってりとした姿が黒く見えるばかりだった。  もはや後へは引けない。この行為を貫くより仕方がなかった。彼はからだを起し、女の頭のマフラを取って女の首に巻いた。二重に巻き、力一杯に絞めてから、その端を首のうしろで結んだ。作業はそれだけで終った。たったそれだけだった。登美子はなかば草に埋もれたかたちで、うつ伏せに寝ていた。孤独な、おとなしい姿だった。江藤は立ちあがって、登美子の姿を見おろしていた。何かしらむなしく、はかない気がした。この女との、幾度かの愛の行為。あれは一体どういう意味であっただろうか。彼はこれが(死)であるとは、信じられない気がした。同時に、死というものがこんなにあっけないものであることが、意外でもあった。踏みしだかれた草の匂《にお》いがした。よもぎ《・・・》か何かのような匂いだった。  女を殺したという実感はなかった。この女は明日になれば、平気で東京の街を歩いているのではないかという気がした。しかし殺したのは事実だった。けれども彼は自分が殺人犯人であるとは思えなかった。昨日まで平和に暮していた自分が、いま一足飛びに殺人犯人になってしまったとは、どうしても信じられなかった。  暗くなった小道を彼は引っ返した。今度はひとりきりだった。東京からずっと一緒に来た女は、もうここに居ない。女はあの草むらに、うつ伏せに倒れたままだった。彼は孤独だった。そして登美子をこわがっていた。  おれはあんなことをしたくはなかったのだと、彼は思った。自分の意志ではなかった。自分の意志とは違うことをやってしまった。周囲の者が寄ってたかって、自分にあれ《・・》をやらせたのだ。一つの暴力行為。暴力のなかに自分の意志があったかどうか。意志という捕えがたいものが、暴力という行為になった。登美子は多分もう死んでいる。命というあいまいなもの、架空なもの、無形のものが、暴力という行為によって、なぜ終りになるのか。……女の命。愛し、悩み、慾望《よくぼう》し、嘆き、笑っていた、あの女の命はもう無くなった。温かい肉体、みずみずしく生きていた肉体、汗をしたたらせ、血をたぎらせ、涙をながし、彼を見つめていたあの女は、もはや笑わず、慾望もせず、泣きもしない。そして女と一緒にその胎児も死んだ筈《はず》だ。何もかもこれで終った。死んだ女の体は死んだ魚と同じように冷たくなり、やがて腐り、崩れ、流れ、風化して、原素に還《かえ》り、土に還り、箱根の雪に降り埋められて、春までには跡かたも無いものになってしまう。彼女は人生から救われ、人生から脱出し、脱落し、自然に帰った。それだけのことだ。登美子には誤算があった。男の愛情だけを期待して、男の暴力を計算に入れることを忘れていた。……  小道が終ると自動車道路に出た。彼は立止ってうしろの暗がりを見ていた。そこから登美子が彼を追いかけて来るのではないかという気がしてならなかった。(待って! ……待ってちょうだいよ。私を置去りにしないで……)  あたりに物音はなく、耳の奥の自分の脈搏《みやくはく》が聞えるほど静かだった。いまから引返して、あの女を生かしてやることが出来るだろうか……と彼は考えてみた。しかし草の上に倒れて死んでいる登美子の姿を、もう一度見るだけの勇気はなかった。  彼は足音を忍ぶようにして町の方へ戻《もど》った。観光客が居なくなって、町はもうひっそりとしていた。その町にはいって行くことが彼は恐ろしかった。町が敵に廻《まわ》ってしまったようだった。町の秩序、町の約束から、彼は締出されていた。町の人々が彼の罪を知っており、叫びあって彼を捕えるのではないかと思われた。茶店は表の戸を締めようとしており、土産物屋はもう店を締めていた。  彼はタクシー会社の前に立って、車を洗っている男に、湯本の駅まで行ってくれるように頼んだ。車はすぐに用意された。中年の運転手が乗っていた。  鋪《ほ》装《そう》された真暗な道を、車はなめらかに走って行った。江藤は眼を閉じて、あの屍《し》体《たい》からどんどん遠ざかって行く自分を感じていた。いまは自分を誰にも見られたくない。しかしいまこそ本当の闘いだと彼は思った。この罪からどうやって逃れきるか。(それこそおれの意志だ)と彼は思っていた。  湯本の駅から新宿行きの電車に乗った。客は少なかった。サングラスをかけたまま、彼は眼立《めだ》たないように、居眠りを装うていた。時間が経つにつれて、自分の立場の困難さが痛感された。まるで陥《おと》し穴に落ちてしまったような気持だった。ほんの数十日前、司法試験に合格したとき、日本の法律は彼の味方だった。彼は法律を思うがままに駆使して、その事によって出世栄達を望むことができる筈だった。しかしいま、その法律は彼の敵に廻ってしまったようであった。法律が彼を捕えに来る。法律が彼を処罰する。(刑法第百九十九条・人ヲ殺シタル者ハ死刑又ハ無期若《もし》クハ三年以上ノ懲役ニ処ス)簡単な条文だ。量刑はその犯罪の性質による。おれの罪は何年に該当するだろうか。  逃げなくてはならない、と彼は思った。逃げなければ、あの女を殺した事の意味は失われてしまう。どんなことがあっても逃げなくてはならない。今からが本当の闘いだ。アリバイは出来ている。あとは自分の意志だ。証拠はどこにも無い。(刑事訴訟法第三百十七条・事実の認定は、証拠による)それから三百二十八条まで、証拠、証拠能力、証明力に関する条文が続く。しかし一切を否認してしまえば、検察側の証拠はそろわないだろう。今から後が本当の闘いだ。警察との闘い。検察庁との闘い。そして法秩序そのものとの闘いだ。自分のすべての犯罪行為を知っている者は、大橋登美子だけだ。登美子が生返らない限り、証人はどこにも居ない。  やがて車窓の外の灯の数が次第にふえてきて、東京が近くなった。彼は新宿の人ごみの中に身をかくそうと思った。所詮《しょせん》、他人の眼から自分をかくしてしまうことが不可能であるならば、無数の他人の中に自分からまぎれ込んでしまうより、方法はない。無数の他人とは、人間が居ないのと同じだった。誰も他人を見てはいない。誰《だれ》も他人の存在を意識していない。新宿の人ごみは、無人の荒野と同じだと思った。  電車が新宿につくと、彼はサングラスを外して群衆の中にはいって行った。それから行きつけの小さな居酒屋へ行ってビールを註文《ちゅうもん》した。顔なじみの店の女にむかって、 「映画を見て来た。面白《おもしろ》かったよ」と元気に話しかけ、映画の筋をはなして聞かせた。それは彼が箱根へ行くまえに切符を買った、あの映画のはなしだった。そしてまたここに一つのアリバイをこしらえた。更にそこから友達の下宿に電話をかけて、明日は学校へ行かないから、K先生の講義をノートして置いてくれと頼んだ。 「いま新宿で飲んでるんだ。出て来ないか。まだ早いだろう」  しかし相手の学生は、いま仲間と麻雀《マージャン》をやっているからと言って、彼の誘いをことわった。  江藤は車をひろって自宅へ帰った。帰るみちみち、登美子の首をしめた時の手のひらの感触が思い出されて、苦しんだ。たとい罪はまぬがれても、この記憶からは生涯《しょうがい》のがれることはできないだろうと思われた。  その夜ふけて、近所に火事があった。賢一郎はそれまで眠れないで輾転《てんてん》としていた。午前三時にちかかった。母が階下からあわただしく彼を呼んだ。彼はいそいで服をきかえ、ジャムパーを着て外に出た。  百メートルほど離れたところにある木造二階建ての古びたアパートが、もう半分ちかく炎に包まれていた。屋根瓦《がわら》のあいだから煙を吹き、まもなくその煙が火《か》焔《えん》に変り、ガラス窓のなかで炎の渦《うず》巻《ま》くのが見えた。焼け出された人や消防手の走りまわるのを避けて、江藤は四ツ角の道路をへだてたところにある邸《やしき》の石の門のそばに立って、火焔のすさまじさを見ていた。壁の崩れる音、棟《むな》木《ぎ》の落ちる音、暗い夜空に吹きあがる火の粉。自分の胸のなかまで火が燃え移って来るような気がした。登美子、登美子……と彼は喉《のど》の奥でつぶやいていた。  若い男が幼い子供を横抱きにして、炎に照らされながら走って来た。彼の横に二十四五と見える女が寄りそうていた。彼等は江藤の立っている場所まで来ると、ふりかえってそこに立止った。子供はおびえて泣いており、男もその妻もはだしだった。妻は白い布で包んだ物を持っていた。ようやくそれだけを持出して逃げて来たものらしかった。女は片手で良人《おっと》の腕にすがり、声をふるわせて泣いた。 「どうすればいいのよ、わたしたち、何もなくなったじゃないの。あしたから、どうしたらいいのよ……」 「泣くな」と良人は、炎の音に消されないために大きな声で言った。「焼けたものは仕様がないじゃないか。またやり直すんだ」 「だってあなた……」 「大丈夫だよ。心配するな。どうせ大した物は有りゃしないんだ。みんな新しくなるよ」  江藤はその男を見た。無精髭《ぶしょうひげ》の生えた、頬《ほお》骨《ぼね》の高い顔だった。気の立った、短い会話。その会話のなかに深い信頼と愛情とがあった。また始めからやり直すと、彼は言った。新しくもう一度、二人の家庭生活を築こうというのだ。焼け出されて、愛が純粋になり、相手の存在を唯一《ゆいいつ》絶対のものに思っているらしかった。この良人の心にエゴイズムは無い。妻のために全部を与えており、妻は良人だけを純粋に頼っていた。そして良人は子供を抱いたまま、燃え落ちる自分たちの部屋のすさまじい炎を直視しながら、揺るがぬ決意を見せていた。決意とは、妻子のためにどのような犠牲をも払おうとする姿勢だった。生きる為《ため》の努力と、生きることの苦しさとの拮抗《きっこう》。その拮抗の緊張が、美しかった。  江藤はこの若い夫婦の横に突っ立ったまま、彼等の在り方に感動していた。彼等はどのようにして、どんな方法で、それだけの愛と信頼とを築くことができたのだろうか。……登美子! ……多分彼女はまだ芦ノ湖の岸の草むらに倒れたまま死んでいるに違いない。おれたちはなぜ、この焼け出されの夫婦のような信頼と幸福とを見つけることができなかったのだろうか。炎の火照《ほて》りで熱くなった彼の頬を、涙がながれていた。 九  十一月十八日、江《え》藤賢一郎《とうけんいちろう》はあたらしい背広服を着て、母と二人で約束のホテルに行った。からだの調子はどこかが狂っており、昨夜は火事のためもあって、寝つかれずに輾転とした。夜明けちかくなってから、睡眠薬があったことを思い出し、数錠を飲んだ。しかし眠りは浅くて、不安定であった。彼はもう一度箱根へ行って、登美子の屍体がどうなっているかを、自分の眼で見たくてたまらなかった。いまもまだあの深い草の中にうつ伏せになっているとすれば、昨夜の山の寒さで彼女の体はことごとく凍ってしまったに違いない。腕も、乳房も、唇《くちびる》も、恥部も、そして胎児も……。  正当防衛ということを彼はしきりに考えていた。登美子が生きていれば、自分は今から彼女とその子とを養わなくてはならない。そんな義務があるだろうか。そんな義務を自分に課する権利が、彼女にあるだろうか。登美子を殺さなければ、自分はその犠牲から逃れられない。そして今後の人生に量り知れないほどの不利益を受ける。その不利益を拒否することもまた、正当防衛とは言えないだろうか。 (刑法第三十六条・急迫不正ノ侵害ニ対シ自己又ハ他人ノ権利ヲ防衛スル為メ已《や》ムコトヲ得サルニ出《い》テタル行為ハ之《これ》ヲ罰セス……防衛ノ程度ヲ超エタル行為ハ情状ニ因《よ》リ其《その》刑ヲ減軽又ハ免除スルコトヲ得)……自分の行為は防衛の程度を超えていたかも知れないと、彼は思った。  ひとの眼《め》が恐ろしかった。他人の行動がどれもこれも、ひそかに自分を監視し、自分を覘《ねら》っているのではないかと思われた。いまでは世間がことごとく、彼に敵意をもっているように見えた。母は言葉数がすくなかった。母も何かを察しているのではないかという気がした。  しかし内祝言《ないしゅうげん》の宴席では、彼は快活で多弁だった。康子は華やかな真白のドレスの胸にカトレヤの花をつけて、彼の隣に坐《すわ》っていた。親戚《しんせき》の人たちおよそ二十人。年の行った人が多かった。シャンパンの乾杯があった。豪華な料理が次々とはこばれて来た。 「法律というものは面白《おもしろ》いですな」と彼は伯父にむかって言った。 「つまり法律というものは人間のあらゆる慾求を、正当な慾求と不正な慾求とに分類している訳ですよ。たとえばこのお料理ですね。こういう上等の料理をたべたいという慾望は誰だって持っています。その慾望を満たすためにかねを払った人間は、法律がちゃんと保護しますが、かねを持たなかったら忽《たちま》ち無銭飲食という罪に問われますよ。行為は同じなんです。ですから法律は行為の性質を問うわけではなくて、もっと別のところから、正当な行為と不正な行為とを区別するんですね。要するに法律なんて、案外いい加減なもんですね。その時々の社会事情により、経済事情によって、法律はどんどん変るんですからね。永久不変の法律なんていうものは無いんですよ。考えてみればばかばかしいですな」  伯父は固い表情をしたまま、何も答えなかった。  心のいら立ちを押えきれずに、彼はしきりに酒を飲んだ。それから、指名もされないのにいきなり立ちあがって、言った。 「ひとこと、御挨拶《あいさつ》をさせて頂きます。今夕は僕と康子さんとの為《ため》に、こんな立派な宴席をもうけて頂き、また皆さんの祝福をいただきまして、有難《ありがと》うございました。僕はまだ御覧の通りの貧乏学生で、今後何年か勉強しなくてはなりませんが、さいわい今年の司法試験に合格することができまして、何とか将来の見通しは立っております。婚姻ということは……」  不意にめまいを感じた。酒に酔ったのだと彼は思った。それから少し間をおいて、 「婚姻は法律的には……」と言った。「要するに紙きれ一枚ですむ事でありますが、実際には人と人とが、生涯の約束をするということであります。一つの約束を三十年、あるいは五十年続けるということは、たいへんに苛《か》酷《こく》な、ほとんど非常識のようなものでありまして、それにはずいぶん大きな努力が必要であろうと考えられます。むしろそういう努力が、本当の意味の婚姻ということではないかと思います。今日から僕と康子さんとは……」  再びめまいが来た。そして耳が聞えなくなった。あたりは静かになり、眼の前がまっ暗になって、意識がうすれた。彼はまだ何かを言っていたようであったが、何を言ったかは自分にも解《わか》らなかった。誰かが自分の体を持ちあげてくれたようであった。それから無感覚な時間があった。  意識を恢復《かいふく》するまでにどのくらいの時間が経《た》ったか解らなかった。気がついてみると彼はソファに横たえられており、母がそばに坐っていた。そして宴会はまだ続いていた。伯父が何か面白そうな話をして、皆を笑わせていた。  彼は眼を閉じたままでそれを聞いていた。そして伯父なんか、かねが有るだけで、ただの瀬戸物屋で、通俗な男で、何も知りはしないのだと思った。康子だって気位が高いばかりで、女としての能力、女としての価値という点から言うと、案外くだらない女ではないかと思った。それから不意に、おれは大橋登美子と結婚した方が幸福だったかも知れないという気がした。あの女は平凡で通俗で、学問も才能も何もないが、おれを愛し尊敬していた。康子よりは何倍もおれを愛しており、そして献身的だった。生涯の妻としては康子よりも登美子の方が、ずっと良かったのではないかと思った。すると涙が流れてきた。しかし冷たいタオルのようなものが額と眼の上にのせられていたので、彼の涙は母にも解らなかった。伯母がふり向いて何か言った。母がそれに答えて、 「はい、大丈夫です。このところずっと勉強ばかりで、疲れていたんだろうと思います。ゆうべもまた近所に火事があったりして、夜明けごろまで起きていたようでしたから……」と言った。  めまいは治っていたが、起き上がる機会を失って、彼は宴会の終るまで横になっていた。  宴会が終ってから、賢一郎は母と二人で車に乗った。あの事件以来の張りつめていた気持が崩れて、もうどうでもいいという気になっていた。彼は疲れていた。何よりもむずかしいのは、自分の心を支えて行くということだった。 「僕は飲み過ぎたのかなあ」と彼は独りごとのような言い方をした。車は広い大通りを走っていた。  母は答えなかった。そのことが彼は気がかりだった。昏睡《こんすい》のうちに、何か変なことを口走ったかも知れなかった。しかしそれを母に問うことが怕《こわ》かった。  あくる日は何事も起らなかった。あれからまる二日が無事に過ぎた。彼は大学の授業に出席して国際法の講義を聞き、政治学の講義を聞いた。登美子の屍《し》体《たい》がいまどうなっているか、それが知りたくてたまらなかった。大学の帰りに駅で二種類の夕刊を買い、残る隈《くま》なく調ベてみたが、あの事に関する記事は何もなかった。  その夜、寝る前に、母がひとことだけ、変なことを言った。 「お前は、康子さんとの結婚のこと、あまり気が進まないんじゃないの。……どうしても嫌《いや》ならお断わりしてもいいんだよ。大橋さんという人がそれほど好きなんだったら、私は無理にとは言いませんよ」  もう手遅れになってしまった。しかしいまさらながら、登美子の方が良かったという気がしてならなかった。なぜおれはあんな事をしてしまったのか。結局自分のエゴイズムの為だった。それは解っているが、何かもっと他《ほか》の方法は無かっただろうか。根本にあるものは、情事の責任を取ろうと考えたことだった。自分に義務があると感じ、自分か何とかしなくてはならないと考えたことだった。もっと自分が無責任な人間で、義務感の稀《き》薄《はく》な人間であったとしたら、登美子が子供を産もうと、その為に彼女の立場が苦しくなろうと、全く無関心で居られたかも知れない。そういう人間は却《かえ》って罪を犯さなくて済むだろう。責任感や義務感をたくさん持っている人間は、その責任を負いきれなくなったとき、罪を犯してしまう。要するに善良な人間は罪に陥《お》ち易《やす》く、悪質な人間は罪をさえも犯さない。……  これは不合理ではないかと、彼は思った。犯罪とは結果に過ぎない。刑法はその表面にあらわれた結果だけを処罰するように出来ている。犯罪者が自分の責任を感じ義務に苦しんだ、その過程はほとんど考慮に入れないで、愛人を殺したという結果だけを追及する。そこに法律というものの根本的な通俗さがあるようだ。自分がもっと悪辣《あくらつ》な男ならば、登美子の子供のことなど歯牙《しが》にもかけないで、平然として康子と結婚する。何年かのちに登美子から子供の認知を請求されても冷淡に拒否し、そのために康子が腹を立てて離婚を要求したら、さっさと離婚してやる。……ああおれにはそういう不敵な大胆さが無かったのだと彼は思った。自分がそういう不敵な恥知らずな男であったら、あんな罪を犯す必要はなかったのだ……。  三日目の朝はやく、母が彼を起しに来た。 「賢一郎、起きなさい。お客さまですよ」  母の声はおちついていた。 「起きなさい。お客さまだよ。学校の関係のひとで、村田さんというお人だよ」  彼ははっ《・・》となった。学校の関係の人がこんな朝はやく、学生の自宅を訪ねてくるということは、考えられなかった。彼は半信半疑で着物を着かえ、玄関に出てみた。三十前後の、体格の良い、四角な顔をした男が茶色のコートの前をはだけた姿で立っていた。誰かもう一人の男が玄関の外にいるらしかった。 「どうも早くからお邪魔します」と男は低く押えた声で言った。「江藤賢一郎さんですね。警察の者ですが……」  そして黒い表紙の小さな手帳を胸のポケットから出して見せた。 「少しお訊《たず》ねしたい事がありまして、今から一緒に来てもらいたいんですが……」 「はあ……何の事でしょう」 「それは向うへ行ってからお話しします」 「僕はどうも、連れて行かれるようなこと、何も心当りが無いんですがねえ」 「そうですか。それなら直《す》ぐに帰ってもらえるでしょう。とにかくちょっと来て貰《もら》えませんか」  言葉は叮重《ていちょう》であったが、決して後へは引かないという気配があった。 「僕《ぼく》はまだ朝飯を食べていないんですよ」 「ああ、そんなことは御心配いりません」と相手は言った。  学生服に着かえるために、彼は一度自分の部屋にはいった。母が黙って彼を見ていた。 「何だか解《わか》らんが、ちょっと行ってみるよ」と彼は弁解のような言い方をした。  母は低い声で、 「たくさん着て行きなさい」と言った。  外に出ると刑事は二人だった。街角には二台の車が止っており、更にもう二人の男がいた。目立たない普通の車だった。車が走り出しても、誰《だれ》もものを言わなかった。座席の中央に彼は坐らされ、二人の男がぴったりと左右に席を占めていた。そのとき江藤は(逮捕された)という気がした。晩秋の弱い朝日が照りはじめ、街にはまだねむ気が残っているようだった。  いまからが本当の闘いだと、彼は思った。絶対に自白してはならない。アリバイはそろっている。おれの人生の一番大きな分岐点だ。負けてはならない。……彼は右側にいる刑事にむかって笑い顔を見せて、言った。 「僕はいま、どういう事になっているんですか。逮捕されたんですか、勾引《こういん》されているんですか。それとも出頭命令ですか。何です。……逮捕ならば判事の逮捕令状がある筈《はず》だし、勾引のときは勾引状を被告に見せなくてはならないと、刑事訴訟法の七十三条だったかに書いてありますね。それとも出頭命令ですか」  刑事は正面を向いたままうす笑いを洩《も》らして、 「向うへ行けば解るよ」と、突っ放すように言った。  警察署は新しく建直したものらしく、黄色いモルタル塗りの明るい建物だった。彼を乗せた車は裏口から中庭にはいって、止った。二人の刑事は両側から江藤の腕をしっかりとかかえ込んで、細長い廊下にはいった。 「何だか変だなあ。僕はまるで犯罪人みたいじゃないですか」と彼は強《し》いて笑った。  刑事は何も答えなかった。そして廊下の片方の狭い扉《とびら》をひらいて、彼を押しこんだ。窓に鉄格《てつごう》子《し》のはまった小さな部屋で、入口に事務机が一つ、奥の方に小机と椅子《いす》が一脚。小さな電気ストーヴが置いてあり、何かしら寒々としていた。  名目は勾引であろうと任意出頭であろうと、事実上彼は逮捕されていた。逮捕とは何か。 それを彼は身にしみて味わっていた。もはやここから勝手に出ることもできないし、学校へ行くこともできない。喫茶店にも映画館にも行かれないし、勝手に女に会うことも許されない。昨夜まで彼にあたえられていたすべての自由が一度に失われ、自由を主張する権利さえも失われていた。(憲法第十一条・国民は、すべての基本的人権の享有《きょうゆう》を妨《さまた》げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる)(第十三条・すべて国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については……)  しかし刑法は憲法に優先するのだ。国法を犯した者に対しては、憲法が保障する自由も権利も、すべて停止される。要するに彼はいま、憲法が保護してくれる人民の範囲から逸脱して、被疑者にゆるされる最小限の権利だけしか与えられない立場になってしまったのだ。  刑事が番茶をついでくれた。それから彼は煙草《たばこ》に火をつけて、電気ストーヴの前に股《また》をひろげたかたちで腰をかけた。態度はにこやかで、むしろ楽しそうでさえもあった。 「まあお茶でも飲めや。……君は江藤賢一郎だな。大学生だろう。学校は面白《おもしろ》いかね」  刑事は人定訊問《じんていじんもん》のように原籍、現住所を聞き、生年月日を聞いて、それを紙に書いた。 「ところで早速だがな、十一月十七日に君は箱根へ行ったようだね。箱根で君を見たという人が居るんだがね」 「箱根ですか。僕はもう何年も箱根なんか行っていませんよ」 「そうか。するとその日、君は何をしていた?」 「十七日ですか。ええと……十七日というと火曜日ですね。学校へ行きましたよ」 「ふむ……学校で授業に出たのか」 「授業にも出たかなあ。たいてい図書館にいたと思うんです。法律の本を借り出していますから、その日のカードを調べてもらえば、僕が図書館にいたかどうか解りますよ」 「なるほど。……しかし一日中図書館にいたという訳でもあるまい」 「そりゃそうですよ。腹がへりますからね。おひるをかなり過ぎてから外へ出て、何か食べたと思うんです」 「何を食べた?」 「忘れましたね」 「食べてからどうした」 「食べてから、ええと、火曜日ですね。……そうだ、映画を見たんです、新宿で」 「何という映画だった」 「フランス映画です。戦争もので、フランスがナチスを、ちょっと皮肉に扱ったような、面白いものでした」  江藤はポケットのあちこちを捜す仕草をしてから、紙屑《かみくず》のようになった入場券の片端をとり出した。それには入場税徴収のための日付印が捺《お》してあった。 「ああ、これですよ。十一月十七日の判が捺してあります」  刑事は永いあいだその紙片を見ていた。江藤のアリバイはこれで成立する筈だった。彼は強いて快活な口調になって、 「映画のあと、新宿の本屋を歩いて、それから運動具店でスキイをひやかしたりして、あの辺の何とかいう食堂でランチみたいな物をたべたりして、夜になってからちょっと一杯やったんです。そこから松岡っていう友達を電話で呼んだんですが、向うは麻雀《マージャン》をやってるから行かないって、断わられたんです」  刑事は眼を据《す》えて彼の顔を見つめ、 「よくそれだけ覚えているなあ」と言った。「たいていはそんなにはっきり覚えているもんじゃないんだよ」  彼はこめかみのあたりで脈搏《みやくはく》ががたんがたんと鳴っているのを感じた。虚偽を真実につくり替えることのむずかしさが、胸を圧迫してくるようだった。刑事は落ちついた手つきで机の抽《ひき》出《だ》しから中型の封筒をとり出した。中には七八枚の写真がはいっていた。彼はそれを何も言わずに、いきなり江藤の眼の前の小机に投出した。  江藤は息を呑《の》んだ。ふかい草の上にうつ伏せに倒れている女の写真。その遠景。女の顔のクローズ・アップ。首に巻かれたマフラ。登美子はやはり死んでいたのだ。死んで、写真をとられ、こまかに全身を調べられ、所持品によって身もとが調査されたに違いない。 「これは、何です。殺人現場ですか」と、賢一郎は辛《かろ》うじて言った。 「お前、声が慄《ふる》えているようだな」と刑事は押しかぶせるように言った。「それはお前がやったんだろう。どうだ」 「冗談じゃ、ありませんよ。僕が何を……」 「その女はお前の愛人じゃないか。よく見ろ。大橋登美子だ」 「そんな女、僕は知りませんよ」 「知らん筈はない。お前がアルバイトの家庭教師で教えた女だ。それから後もずっとつきあっていたんだ。証拠を見せようか、証拠を。……これは郵便局が書留小包を受付けた時の受付証だ。いいか。発送人は大橋登美子。受取人は江藤賢一郎とちゃんと書いてあるじゃないか。日付は今年の六月。それでもお前はこんな女は知らんというのか。……これが女の机の中から出て来たんだ。おい、正直に言え」  彼は写真から顔が上げられなかった。人間の死というものをこれほど恐ろしく感じたのは始めてだった。登美子は死に、あの草の中に夜通し横たわっていたのだ。彼は両手の手のひらに、女の首をしめた時の感触がよみがえってくるような気がした。 「ああ、そうですか。思い出しました。是《これ》が大橋登美子ですか。それで僕が嫌《けん》疑《ぎ》を受けているんですね。やっと解りましたよ。……そう言えば大橋登美子から小包をもらったことがありました。しかしそんな事は証拠にはなりませんよ。僕はこの人とは何の関係もないんです。ずっと前にちょっと教えたことがあるだけで、向うは一方的にいろんなことを言って来ましたけど、僕は相手にしていなかったんです。もちろん一緒に箱根になんか行きゃしませんよ。第一、僕にはアリバイが有るじゃないですか。その日は新宿で映画を見ていたんですよ」  江藤は必死だった。今後の人生はこの一瞬にかかっている。負けてはならないのだ。頭の中の血が沸き立っているようだった。 「それじゃ近頃《ちかごろ》はその女とつきあってはいなかったと言うんだね。嘘《うそ》をつくと為にならないよ。こっちはね、ちゃんと証拠をもっているんだ。ひとつお眼にかけようか」  刑事はまた机の抽出しから白い封筒をとり出して、江藤の眼の前にさし出した。 「中身を読んで見ろ。それが被害者の机の中から出て来たんだ」  意外なことには、その手紙は彼の母から大橋登美子に宛《あ》てたものであった。内容は、いろいろ事情がありますので、どうか今後は賢一郎とのおつきあいはやめて頂きたい、申訳ないけれども私からお願いする……という意味の文面であった。江藤はからだじゅうが熱くなった。母の裏切り……母が、せっかくのおれの苦心のアリバイをぶち壊してしまったのだ。母はおれに黙って、登美子にこんな手紙を出していた。おれを犯人にするために、わざわざ有力な証拠をこしらえてくれたのだ……。 「どうした、おい、がっかりしたろう。お前がこの女とずっとつきあっていたことは、そのお母さんの手紙で以《もつ》てはっきり証明されたわけだ。そうするとお前がさっきから言っていることは、みんな嘘だな。この女を知らないだとか、つきあっていなかっただとか、全部うそだな。……何のためにそんな嘘をつくんだ。  お前は汗を掻《か》いてるな。この寒いのに、どうしたんだ。え? ……苦しいのか。嘘をついているといつまでも苦しいぞ。本当のことを言ってしまえ。その方がお前のためだ。やってしまった事は仕様がないじゃないか。……その写真を見ろ。可哀そうに。その女はお前を愛していたんだろう。妊娠していたこともお前は知っていたんだろう。結婚してくれって言われてお前は困ったんだな。そうだろう。……だからって何も殺すことは無いじゃないか」 「僕じゃないです。僕は絶対にそんなことしません」と彼は必死になって叫んだ。「僕は箱根なんか行った覚えはないんです」 「行ってる」と刑事はぴしりと言った。  わざと間を持たせるように、相手は番茶をすすり、煙草に火をつけた。その落ちつき払った仕草は、まるで猫《ねこ》が捕えた鼠《ねずみ》を殺しもせずになぶっているような恰好《かっこう》だった。その残忍さが彼にとっては一種の優越感であったかも知れない。江藤には抵抗し得ない残忍さであった。やられ放題にやられている立場だった。こういうことになるだろうとは、彼は予想していなかった。何もかも誤算だった。眼がくらみ、耳がきこえなかった。しかも刑事の言葉だけががんがんと鳴りひびくように聞えてきた。 「お前は大橋登美子と二人で箱根へ行った。お前が連れ出したわけだ。夕方になって元箱根の町で、茶店にはいった。そして二人で紅茶と乾《ほし》葡《ぶ》萄《どう》のはいったケーキを食べた。その時の売上げ伝票も残っている。茶店の女がちゃんと覚えていたんだ。殺された女の人は学生さんと二人連れでしたと、はっきり言っているんだ。女が殺されたのはそれから三十分乃《ない》至《し》四十分。解剖の結果、被害者の胃の中にはまだ消化されていないケーキが残っていた。被害者は草の上に突倒され、うしろから両手で首を絞められた。両手の指のあとが女の首に残っていた。よほどお前は力まかせに絞めたと見えて、指のあとが紫色になっていたよ。……そのあとで女のマフラを取って更に首をしめた。……どうだね。その通りだろう」 「そりゃ間違いです」と江藤は青白い顔に歪《ゆが》んだ笑いを浮べて言った。「だって、学生なんか日本中に何十万人もいるじゃないですか。加害者が学生だから、それが即《すなわ》ち僕だなんて、それでは論理が飛躍していますよ」 「お前だよ」と刑事は言った。「学生は何十万人でも居るが、大橋登美子を殺す必要があったのは、お前ひとりだ」 「そりゃあなたの想像です。そんな風に勝手に想像して、僕を犯人扱いされるのはとても迷惑です。だってほかにも大橋登美子を殺すような理由をもった人が居たかも知れないでしょう。それから単なる泥棒《どろぼう》というか、強盗の目的で殺すということだって有るでしょう。第一僕はその日、箱根なんか行っていませんよ。ちゃんとアリバイが有るじゃないですか」 「アリバイは有るようだね」と刑事は静かな口調で言った。「しかしそれならば、なぜ大橋登美子なんていう女は知らないと言ったんだ。なぜ近頃つきあっていなかったなどと嘘をついたんだ。なぜ逃げようとするんだ。なぜそんなに青い顔をしたり、ひや汗を流したりするんだ。……  もういい。解った。犯人はお前だ。いまから晩まで暇をやるから、ゆっくり独りで考えてみろ。自分がやった事を静かに考えてみるんだ。可哀そうに、お前を愛して、お前の子までみごもっていたのに、お前はその女を邪魔にして、殺してしまったんだ。お前のような立派なインテリが、どうしてそんな残酷なことをしたんだ。自分の良心に問うてみるんだな。……言っておくが、早く自白する方が身のためだぞ」  賢一郎は身体検査をされ、ポケットの中のものはすべて取上げられ、ズボンのベルトまで取られ、靴《くつ》も脱がされた。そして廊下の奥の鉄格《てつごう》子《し》をあけて、さらにその奥の留置場に入れられた。そのとき刑事は現場写真四枚を彼に手渡し、 「この写真をよく見て、お前のやった事をもう一度考えてみるんだ。いいか。何か用があったらおれを呼んでくれるように、そこの人に頼むんだ。わかったな」と言った。  留置場は三メートル四方ほどの広さで、奥の壁に高窓があり、廊下に向いた方は太い木の格子になっていた。いま、江藤に許された自由の範囲は、この三メートル四方に過ぎなかった。土も空も日光も奪い去られ、人民に与えられた自由と呼ぶべきものはほとんど何一つ残ってはいなかった。多分、学生生活のたのしさはもう永久に戻《もど》っては来ないだろう。康子との婚約も当然解消される。伯父は何と言うだろうか。そして母はこれから先、どうやって生きて行くだろう。司法試験に合格したことは全くの無駄《むだ》だった。むしろ落第していたら、おれは伯父から見棄《みす》てられ、登美子と平凡に結婚して、あの焼け出された若い夫婦のように、貧しくても幸福な生活ができたかも知れない。しかし是《これ》は、どこから来た誤算であったか。なぜこんな大失敗をしてしまったのか。……  もはや彼は自分を支えて行くことが不可能になったことを知っていた。嘘というものは、嘘に過ぎない。嘘というものの虚弱さを、彼は身にしみて知った。嘘を積み重ねて自分を支えようと試みてみたが、嘘というものには筋道が立てられないのだ。到るところにほころびができ、穴があき、一つの穴によって全体の虚構が暴露されてしまう。彼はまだ自白をしてはいない。しかし結果は自白したと同じだった。  壁にもたれて板張りの冷たい床に踞《うずくま》り、眼を閉じる。膝《ひざ》の前には殺人現場を写した大きな写真がある。あの時はもう暗かったが、写真はきわめて明るく写っていて、女の顔に乱れている雑草の一本一本まではっきりと見えていた。眼《ま》ぶたの裏に登美子の生きていた頃の俤《おもかげ》がうかぶ。彼女の笑顔、羞恥《しゅうち》の表情、そして忘れもしない彼女の裸形、愛《あい》撫《ぶ》した彼女の肌《はだ》。すぐに汗をかく女だった。それから彼が始めて経験した人間の内部。……  女とは一体何であったろうか。なぜ女のあらゆる皮膚、あらゆる動作が、男にとって誘惑であるのか。登美子は妊娠した。もし彼女が妊娠さえしなければ、おれは殺す必要もなかったし、従っておれの人生を滅《め》茶《ちゃ》々《め》々《ちゃ》にすることもなかった。ところが女とは妊娠するように造られており、それが本来の使命でもあるのだ。そしてその事が、登美子の命取りになったというのは全くの不合理だ。何かが狂っている。何が悪いのか。要するに登美子の妊娠ということが、二人の生活を破壊する悪条件になっていたのだ。なぜそれが悪条件なのか。現代の高度に発達した文化社会は、女の妊娠ということと根本的に矛盾する何かを持っているに違いない。端的に言って妊娠はしばしば彼《かれ》等《ら》の不幸の原因であり得るのだ。  登美子は純情な女だった、と彼は思った。ほかに是と言って取《とり》柄《え》はなかったが、彼女の愛情はただ一筋なものだった。その一筋な気持が、あの時には却《かえ》って負担に思われたが、それは自分のエゴイズムや貪欲《どんよく》さのためであって、登美子を責める訳には行かない。康子には思い上がりがあり、一種の打算があった。江藤が司法試験に合格するかどうかを黙って見ていて、合格ときまると手のひらを返すように好意を示して来た。それは愛情でも何でもない、彼女の計算された好意にすぎなかった。自分はそれを万々承知の上で、登美子を捨てて康子と結婚しようとした。康子の打算よりももっと大きな打算をやろうとした。しかも登美子を殺してまでそれをやろうとした。それが自分に生涯《しょうがい》の破《は》綻《たん》をもたらしたのだった。……  こうなったら、自分も死ぬのが当然かも知れないと、賢一郎は思った。登美子の屍《し》体《たい》は草に伏し、露にまみれ、片方の靴は脱げて草むらに転がっている。この女のひたむきな愛はどこへ行ったのか。どこへ消えたのか。彼女の愛が彼女自身を裏切り、その愛のために彼女は命を失ってしまった。命を充実させるための愛が、命を破壊したのだ。江藤は膝の前に置いた現場写真を見ながら、涙を流していた。  正午ごろ、例の刑事が留置場にはいって来た。手に小さな風呂《ふろ》敷《しき》包みを持っていた。 「さっき、お前のお母さんが来てな」と彼は言った。「これはお前のお弁当だってさ。かわいそうにお母さんは、まだ何も知らないんだよ。お前のやった事が解ったら、どんなに泣くだろうなあ。親ひとり子ひとりだろう。親不孝だなあ。お前も……。  だんだん証拠がはっきりして来たぞ。元箱根の町から湯本までお前を乗せた運転手も見つかった。一人でハイヤを雇ったりして生意気な学生だと思ったそうだ。それからお前は伯父さんの娘と婚約したそうだな。そっちの娘と結婚するために、大橋登美子が邪魔になったんだろう」  刑事は彼の前に腰をおろして、じっと彼を見ていた。相手のあらゆる素振り、あらゆる動作から、真実を探り出そうとする苛《か》酷《こく》な眼だった。 「ひとつ頼みがあるんです」と彼は言った。 「何だ」 「六法全書が有ったら貸して下さい」 「ふむ……六法全書を、どうするんだ」 「僕はいま、こんな不当な取扱いを受けているんで、これに抗議するための法律手続きを、ちょっと調べて見たいんです」  刑事はしばらく黙って彼の顔を見ていたが、やがて重い口調で言った。 「お前は法科の学生だったな。……そんならお前は解《わか》っている筈《はず》だ。法律というものは善良な庶民の味方だ。しかし、犯罪人の味方なんかしてくれやしないよ」  法律のことならこの刑事より江藤の方が、十倍もよく知っている。けれどもいま彼は、ひとことの反論も抗議もできなかった。  母が差入れてくれた弁当は、とても食べる気にはなれなかった。賢一郎は腕を組み眼を閉じて、石のように動かなかった。坐《すわ》っている板張りの床はつめたくて、体温がだんだん下がって行き、頭がしびれてくるのが解るようだった。彼は現在の自分がどうなっているのか、それが知りたかった。自分の位置、自分の可能性、自分に与えられるであろう世間の評価、自由の範囲……それが解っているようでありながら、納得できなかった。少なくとも昨日までの江藤賢一郎と、いまは全く違う人間になっていた。  おれはおれでなくなり、登美子は登美子でなくなった。登美子はもう女ではない。彼女の乳房はもはや乳房ではないし、恥部は恥部ではない。彼女は石灰質と水と蛋白質《たんぱくしつ》とに還元してしまった。生きていた時の登美子はおれを愛していた。おれを最大の味方だと思っていた。そのおれに殺されたというのは、登美子にしてみれば何よりも心外な事であったに違いない。  若い人生の挫《ざ》折《せつ》。まだ四十年も五十年も生きられる命だった。生きて、五六人の子を産み、その子が更に孫を産み、そのようにして女の生殖を楽しむことができる筈だった。それが或《あ》る一人の男の意志によって断絶させられた。登美子はおれを愛していた。しかし彼女の愛は男の心のなかまでは浸《し》み込むことなく、男の体の外側でから廻《まわ》りしていたのだ。なぜおれは殺さなければならなかったのか。たとえば二つの無害な物質がある。それが化合して有害物質となることがある。おれと登美子とはそういう宿命を背負った二つの物質であったかも知れない。おれたちはそれを知らなかった……。  彼は疲れきって、踞《うずくま》ったまま眠ったようだった。眠りは浅くて、幻影に充《み》ちており、眠っているあいだも頭脳が恐怖に慄《ふる》えているようであった。幻のなかに、大学の図書館の閲覧室がうかび、司法試験の面接の場面がうかび、箱根のたそがれの山道を登美子の腕をかかえ込んで歩いていた時のことが思いうかべられた。浅い不安定な眠りの中で、彼は自分が発狂するのではないかという気がした。それからまた、逃れる道はある、必ず有る、おれにはアリバイが有るのだと思った。大学院へ行き、康子と結婚し、博士の学位をとって、あの刑事に復讐《ふくしゅう》してやろうという考えも浮んだ。  格《こう》子戸《しど》のあたりで音がしたので、彼は幻想の世界から眼《め》ざめた。錠前をあけて、例の刑事がはいって来た。晩秋の日はもう暮れたらしく、廊下に小さな電灯がともっていた。 「おい、どうした」と刑事は立ったままで言った。「お前のお母さんがまた来てな、晩飯を持って来てくれたぞ」  江藤は母のことを聞きたくなかった。 「母に、もう弁当は要らないって、言って下さい」 「もう帰ったよ。食べたらいいじゃないか。それから是も持って来てくれたよ。お母さんて、有難《ありがた》いもんだなあ。そうは思わんか」  ボール函《ばこ》にはいった新しい毛布と、毛糸編みのスエーターとを届けてくれたのだった。彼は母の苦しみが胸に沁《し》みるような気がした。  刑事は直《す》ぐには出て行かずに、江藤の前の床に大きくあぐらを掻《か》いた。また訊問《じんもん》をするのだなと彼は思った。もはや彼は自分を支えきれなくなっていた。何か言われたら、いきなり全部を自白してしまいそうな危険を感じていた。 「おい、江藤、お前はな、何だか飛んでもない間違いをしていたらしいなあ」と刑事は変に打解けた口調で言った。  彼はうつ向いたまま答えなかった。 「お前が殺した大橋登美子はな、事実をたしかめるために解剖されたんだ。……ほかの事はもうみんな解っていて、問題はないんだが、お前は自分の血液型を知ってるだろう。何型だ」 「O型です」 「うむ。大橋登美子を知ってるか。A型なんだ。ところがな、解剖の結果わかった事なんだが、登美子のおなかに居た子供の血液型は、AB型だ。……わかるかい。O型とA型の両親から、AB型という子供は絶対に生れないんだ。つまりだよ、登美子のおなかの子供はお前の子供じゃなかったんだ。これは学問上まちがいの無い事なんだよ。  だからさ、お前は登美子が妊娠したんで、その処置に困って、あわてて殺してしまった。……飛んでもない間違いだったなあ」  江藤は両眼を大きくあけて刑事の顔を見た。しかし相手の顔は逆光線のなかにあって、まっ暗だった。彼は唇《くちびる》を歪《ゆが》めて、少し笑った。 「ふん……そりゃ、医者のまちがいですよ。僕《ぼく》の子です。僕は覚えがあるんだ」  しかし彼の頭のなかにひらめくような疑問の影があった。登美子を診察した二人の産婦人科医の診断と、江藤の記憶とのあいだに喰《く》い違いがあったこと……。彼の記憶からすれば登美子は妊娠七カ月ぐらいになっているか、それとも三カ月あまりであるか。そのどちらかでなくてはならない筈だった。ところが事実は六カ月未満であった。その喰い違いと、胎児の血液型とは、何を意味しているのか。  江藤は茫然《ぼうぜん》として、頭がしびれたようになっていた。だって登美子はあんなにおれを愛していたのだ。有り得ない事ではないか。……しかしまた、ずっと前に彼が感じた小さな疑いが、記憶の片隅《かたすみ》から浮びあがって来た。たしか四月の末ごろだった。登美子と会って、二人で食事をしようという話になったとき、彼女は言った。(ほら、あそこへ行きましょう。このまえ一緒においしいすき焼をたべたでしょう。渋谷の坂の上の、あなたが連れて行ってくれた……)  江藤には記憶にない事だった。そのとき彼は不思議な疑いを感じたのだった。登美子は人違いをしたらしい。彼女には彼以外の愛人が居るのではないかと思った。しかしその時はそれだけの話で終った。むしろこの女をその男がどこかへ連れ去ってくれれば、こちらは助かるだろうとさえも思っていた。その男、名も知れず姿も見せなかったその男が、いま彼の前に巌《いわ》のように立ちふさがって来たような気がするのだった。  彼は眼を閉じて、自分の想念を否定するかのように、ぐらぐらと頭を動かした。それから唇を慄わせながら嘲《あざけ》るような笑いをうかべて、 「あんたは何のために、そんな事まで僕に知らせる必要があるんですか」と言った。「……第一、何のために女を解剖して、胎児の血液型まで調べる必要があるんですか。それは、死んだ女を侮辱することじゃないですか。犯罪捜査の名に於《お》いて、刑法百九十条の死体損壊の罪を犯していることじゃないですか。血液型が何だって言うんです。そんなこと、何も関係ないじゃないですか。余計なことだ」 「そうかね」と刑事はもの静かに応じた。「余計なことか。つまりお前は前から知っていたという訳か。すると大橋登美子という女は、お前ともう一人の男と二人を、上手に操っていたんだな。不良女学生だな。それでお前は嫉《しつ》妬《と》に駆られて女を殺したのか。うむ。解った。……お前、その男に会ったこと、あるのか。知ってる人か。友達か」  その男を、江藤は知らなかった。その男の姿を想像したことすらもなかった。江藤が七月はじめの論文試験で血まなこになっていた頃《ころ》、登美子はその男の子をみごもったのだ。おそらくその男との関係は一度や二度ではなかった。四月には二人で渋谷の坂の上のすきやき屋へ食事に行っている。しかもその後になって登美子はしきりに江藤に愛を求め、結婚を要求していたのだ。彼女は胎内の子がその男の子であることを、知っていたに違いない。妊娠してから医者の診察を求めることを、幾度も躊躇《ちゅうちょ》したのは、それによって月日の勘定が合わないことが暴露するのを恐れていたのかも知れない。もしかしたらその男は、数回の情事ののちに、巧みに身をかわして登美子から離れて行ってしまったのだ。彼女は胎児の始末に困って、それをすべて江藤の責任にしてしまおうと考えたに違いない。それが登美子の求愛であった。それが登美子のしつこい求婚の理由であった。そうしなくては彼女には人生の辻《つじ》つまが合わせられなかったのだ。そしてその策略が、その巧みな計算が、彼女に死をもたらした。思いがけない蹉《さ》跌《てつ》であった。  江藤は床の上に両手をついて、頭を垂れた。もはや彼には自分自身を支える力はなかった。彼がみずから描いた未来の人生構図も、そのために今日まで積み重ねてきた努力も、野心も、自負も、希望も、ことごとく崩れ去って跡形もなかった。残るものはただ屈辱と暗黒の未来ばかりだった。彼は床に倒れ、冷たい床板に額を打ちつけながら泣いた。泣いたというよりは叫んでいた。絶望の叫び、悔恨の叫びだった。床板に打ちつける彼の頭の音が、静かな留置場のなかに重く無気味にひびいた。いまこそ、彼は死ぬべきだった。しかしながら彼の悔恨も絶望も、その本質は、自分が出世栄達の道を失ったことについての悔恨であり、とりも直さず彼のエゴイズムそのものであった。罪への悔悛《かいしゅん》ではなくて、やり直しの利《き》かない失敗を嘆いているだけであった。  これまでの江藤の命を支えて来たものは、明日への希望、未来への期待であった。しかしいま、彼の未来はことごとく失われた。未来を持たない生命のむなしさ。しかもそれが突然にやって来たのだ。  彼は登美子に対して腹を立てる資格がないことは、解っていた。愛情もなしに女に接し、女を犯し、愛を装うて彼女をおびき出し、出世栄達の道のさまたげという利己的な心によって、彼女を絞殺《こうさつ》した。罪ある者は彼自身であった。  けれども、純情を装い誠実を装うて、まんまと彼を裏切っていた、あの女の純情づら《・・》が憎かった。もう一人の男の子をみごもりながら、それがその男の子であることを知りながら、妊娠を口実にして彼に結婚を迫った、あの裏切りは許せないと思った。今こそ心から、登美子を殺したかった。二度でも三度でも、あの女を殺してやりたかった。  彼は登美子を殺し、彼女の未来を奪った。しかしそれと同時に江藤自身もまた、自分の輝かしい未来を奪われていた。それが女の復《ふく》讐《しゅう》であった。彼女が死んだあとになって、彼女の巨大な裏切りが暴露された。つまり江藤は不必要な殺人をやってしまったのだ。それが女の仕掛けた罠《わな》であった。それが殺された女の、命がけの復讐であったのだ。  冷たい石のように押し黙っていた刑事が、手をあげて江藤の肩を静かに叩《たた》いた。 「もういいよ。解ったよ。できてしまった事は仕方がない。お前も可哀そうな男だ。何とか早く気持を入れかえて、立直ることだな。それしか無いだろう。諦《あきら》めが肝腎《かんじん》だな」  この男から、こんな慰めの言葉をかけられようとは、思いもかけないことだった。しかし江藤は自分が立直ることができるとは思っていなかった。彼は死にたかった。死ぬこと以外にどんな希望も残ってはいなかった。けれども死ぬ前に、どうしても諦めきれない口《く》惜《や》しさが残っていた。  それはあの男のことだった。あの《・・》男は登美子に対して、江藤と同じことをした。しかも登美子の腹にAB型の胎児まで残して、口を拭《ぬぐ》ってどこかで平穏に暮しているに違いないのだ。江藤を殺人の罪におとし、彼の未来をことごとく奪い去ったのは、むしろその男だった。……江藤は床に両手をつき、とぎれとぎれに言った。 「僕は、頼みがあるんです」 「うむ……何だね」 「あの男に、会いたいんです」 「あの男……誰《だれ》だ」 「大橋登美子を妊娠させた、その男です。捜して、会わせて下さい」  刑事は彼をあわれむように、しばらく黙っていた。それから、 「そりゃな、お前の気持はわかるが……大橋登美子が生きていれば、そっちの方から捜し出すこともできるだろう。しかし警祭の力でその男を捜すわけには行かんね。そうだろう。その男は何も悪いことをした訳ではないんだからな」と言った。 解説 青山光二   この作品の主題は、シオドー・ドライサーの『アメリカの悲劇』を想い出させる。米国社会派作家のこの長編は二度映画化され、二度目の映画化作品は、『陽《ひ》の当る場所』という題名で上映されて評判になったから、読者の記憶にも残っているのではないかと思うのだが、アメリカの平凡な青年が、富豪の令嬢と結婚することによって“陽の当る場所”に出ようと考え、邪魔になる愛人に殺意を抱《いだ》いた結果、湖上でボートを転覆させて彼女を死なせてしまうというのが、ドライサーの原作ならびに映画化作品の、ごくおおざっぱな筋である。そして、この犯罪は発覚して青年は破滅する——。石川達三氏のこの長編『青春の蹉《さ》跌《てつ》』にも、主人公の江《え》藤賢一郎《とうけんいちろう》が、邪魔になってきた女友達大橋登美子を箱根へ誘い出し、芦《あし》ノ湖《こ》へ漕《こ》ぎ出したボート上で、ここで殺そうかどうしようかと考えるような場面がある。江藤は登美子を湖上では殺さず、湖畔の木立の中で絞殺《こうさつ》することになるのだが、筋立ての基本がよく似ている。江藤賢一郎も、資産家の伯父の望むままに、その三女康《やす》子《こ》と結婚することによって“陽の当る場所”に出たいと考えるのである。  が、似ているのは筋立ての基本だけだ。石川氏の『青春の蹉跌』は、このような事件を想定し、きわめて独自な手法でそれを描くことによって、日本の現代社会の歪《ゆが》みをみごとに照射した、創意あふれる快作である。さらに言えば、この作品が、まっすぐ指さすように現代社会の歪みを照射する効果をあげえているのは、主として、主人公の性格が、というより主人公の精神の不具のかたちが、現代において必然的なものとして造型されているからである。  法律学生の江藤賢一郎は、現実主義的合理主義的な生活態度を基本的に身につけているが、そこから打算的なエゴイストという重要な一面が出てきている。賢明さと同時に臆病《おくびょう》な狡猾《こうかつ》さを併《あわ》せ持っている。このような青年は、現代の特産物として無数にいるのだが、作者が江藤に与えた特異性は、さらに、成績抜群の優秀な頭脳をもちながら、彼が、専攻の法律以外の分野にはまったく無知で、人格的道徳的には未発達きわまるところがあるという点にある。この点が特に現代的であるところの、以上のような特徴をそなえた主人公の性格設定が、全編の構想を規定して行くというのが、この作品に一貫した仕組である。  この作品の主題や登場人物の配置は、扱いようによっては、短編小説として処理しうる性質のものである。げんに作者は、スケールの大きいロマンやノベルを、ここで、書こうとは意図していない。スケールから言えば、少しばかり分量の嵩《かさ》ばった中編といったかたちの長編小説である。それだけに、単一な構成が主題をぐんぐんと強力に押し出していて、読後感は、このうえもなく鮮明である。  この作品は、毎日新聞(昭和四十三年四月十三日〜四十三年九月三日)に連載されたものであるが、山あり谷ありといった波瀾万丈《はらんばんじょう》のプロットの展開をそなえているわけでもなければ、そこに現代風俗の目あたらしい描写が見られるわけでもない。いわば、おおかたの新聞小説の通念は完全に無視され、作者は、読物的風俗小説としての配慮などもいっさい拒否して、主題の達成へと最短距離を着実にあるいて行くおもむきである。その筆には無《む》駄《だ》というものがいっさいなく、必要な経過だけを的確に追って行く。  人物描写なども、風貌《ふうぼう》・服装など外面的なことについては、最小限にしか触れられていない。例えば、主人公の江藤賢一郎は、身長が五尺八寸二分で、容姿に自信があるという叙述がはじめの方にあるだけで、どんな顔をしているのかは読者の想像にまかせられている。登美子と最後に箱根へ行くときの彼は学生服を着ているのだが、その個所では、学生服を着ているという描写はどこにも見られない。少し前に、康子との内祝言《ないしゅうげん》のために背広をつくるという(母親との)会話があり、箱根での犯行の翌日、ホテルでの内祝言に、その新しい背広を着て行くところがある。そして、その背広のほかには学生服しか江藤が持っていないらしいことが、前の母親との会話から察しられるので、総合判断して読者は、犯行の日の主人公が学生服を着ていたらしいと知ることができるのである。事件発覚後、元箱根の茶店の女の、被害者は学生さんと二人連れだったという証言や、湯本まで主人公を乗せた運転手の、一人でハイヤーを雇ったりして生意気な学生だと思ったという証言も、江藤が学生服を着ていたと読者が推定する根拠になる。背広を着ていれば、学生だかどうだかわからないわけだから——。  この長編をうずめる文章のかなりの部分が、すべてを論理的に考えて行動する主人公の、そのときそのときの、理屈っぽい思考を綿密に写すことについやされている。むろん、作者の主観によって照射・分析された思考であるが、作者は、そのような内面を写すことに主力を置き、内面描写の効果をあげるために、そのぶんだけ、外面的な描写を手控えしているかとさえ思われる。写されている主人公の思考内容は、大部分が、ストーリーの展開には直接に関係がない。殊《こと》に、法律キチガイと言いたくなるほど法律に膠着《こうちゃく》している主人公の思考には、事ごとに法律の条文がとび出してくるのはおもしろく、読みどころでもある。つまりは、現代という時代の中で、イビツに発達した、あまりにも現代的な頭脳をもつ青年の悲劇を描くにあたって、(その悲劇は彼の思考の歪みからこそ出てくるものであるがゆえに)その歪んだ思考の実態を写すことに比重を置くのが、この人物のリアリティを泛《うか》びあがらせるのにいちばん確実な方法だと、作者は考えたのであろう。きわめて独自な手法が採られているとさきに書いたのは、以上のような事柄《ことがら》を指《さ》して言ったのだが、ここに見られる手法は、独自であるばかりでなく、真の意味で独創的でもある。  そして、この作品におけるこのような手法は、ほんらい、作者石川達三氏においてこそ、もっとも高い成果を期待しうべきものであった。石川氏自身が合理主義的、論理的な思考形式の持主だからというだけではない。この作品において問われているのは、根本的にはモラルの問題であり、モラリストである精《せい》緻《ち》な分析家として石川氏の右に出るものはないからである。事実、モラリストふうな内面分析に主眼を置くという独自な手法を駆使したこの作品を読んだあとにのこる主人公のイメージは、眼《め》に見えそうにコンクリートなものである。  万事論理的に考えて行動する主人公が、肉体関係のある女子学生の登美子と、ずるずるべったりに切れなくなり、しだいに窮地に陥って行く過程は、論理の水《みず》洩《も》れといったていたらくとして、ごくしぜんに描かれているが、同様に、主人公が登美子を殺す件《くだり》も、成り行きからいって、殺人の論理は明確なものであるはずなのに、現実の行為としては、不決断のまま、追いつめられたようにして犯行に到達する。この辺が、日本の現実に即しているという意味でも、いかにもリアリスティックである。  日本の現実に即している、といま私が書いた意味は、こうだ。“モール・ロジック”という言葉がある。論理的な死という意味のフランス語だが、知識人の自殺の場合などにあてはめられ、第二次大戦後フランスなどに実例がある。“モール・ロジック”があるなら、“アサッシナ・ロジック”(論理的な殺人)もあっていいはずである。文学作品でいえば、ドストエフスキーの『罪と罰』の主人公ラスコーリニコフの老《ろう》婆《ば》殺しなどが、ほぼこれに該当するのではないか。石川達三氏のこの作品は、現代日本を舞台に、“アサッシナ・ロジック”のようなものを描こうとした力作であるとも私は解したいのだが、現実的には、“モール・ロジック”も“アサッシナ・ロジック”も日本では、まだいまのところ、ありえないように考えられるのである。乃木《のぎ》大将や芥川龍之介《あくたがわりゅうのすけ》や近《この》衛《え》文麿《ふみまろ》の自殺が“モール・ロジック”であったとは言えないだろう。わずかに、三島由紀夫の自決は“モール・ロジック”であったかと思われるが、判断はなお後日に俟《ま》たねばならない。  登美子の妊娠がわかってから、胎児の月が合わないのに不審を感じながら、別な相手の子だと主人公が気づくに至らないのも、(登美子に別の男友達がいるのを、おおよそ主人公が察しているだけに)論理の水洩れというほかはないが、この辺が、法律以外は何も知らない、世間知らずの学生らしい周章狼狽《ろうばい》ぶりでもあろうか。  主人公の出世主義に照明を与えるための対極として設定された従兄《いとこ》小野精二郎や、箱根での犯行から帰った夜、近所の火事で焼け出された若い夫婦(その信頼し合うすがたの美しさを見て主人公は感動する——)など、必要な人物だけを最小限にしぼって効果的に登場せしめた、老巧練達な作者の手腕の冴《さ》えが注目される。  主人公の母親も、とりわけみごとに造型されている。息子をいちばんよく知る者は母親だという定説を地で行く具合に描かれ、彼女の眼に映じた主人公の像やその解釈が、主題の進展や説得力を側面から助長している。  この作品で、石川氏は、『風にそよぐ葦《あし》』『人間の壁』など、特に社会的問題意識の明確な系列の作品とも、また、『四十八歳の抵抗』『悪の愉《たの》しさ』などの社会派風俗小説の系列ともちがった、一つの新生面をひらいた。実験的なおもむきも感じられる格調高い作で、清新な読後感は争えぬところである。そして、そのような清新さは、やはり、つねにかわらぬ鋭敏な時代感覚に乗せて、氏の本領がここでぞんぶんに発揮されているからこそのことであろう。 (昭和四十六年五月、作家)  この作品は昭和四十三年九月新潮社より刊行された。