TITLE : 武 漢 作 戦 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年一月二十五日刊 (C) Yoshiko Ishikawa 2001  〈お断り〉 本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。 また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉 本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 目  次 武 漢 作 戦 上海の花束 敵 国 の 妻 五人の補充将校 章名をクリックするとその文章が表示されます。 武 漢 作 戦 武 漢 作 戦 武漢戦以前  介石《しようかいせき》の抗日容共政策をやめさせるために日本政府はあらゆる外交工作を尽《つく》してもみたし多額の費用をも使ったが、結局なんの利益をも齎《もたら》さなかった。支那は日に月に抗戦準備をととのえ民衆の団結も強くなっていた。戦争は必至の状態であった。日本がドイツ、イタリーと防共協定を結んだのはソヴィエトと共に支那を孤立の状態に導き戦争の場合の日本を有利な立場に置くための準備でもあった。  戦争は北京《ペキン》と上海《シヤンハイ》とで終るべき性質のものではなかった。しかし南京《ナンキン》を占領した時、日本の認識は多少の誤りを見せた。  日本人の潔癖な常識から云えば、首都を奪われたことは明確な敗戦を意味していた。駐支ドイツ大使が、この時ひそかに介石にむかって和平交渉をすすめたのは、日本の戦勝意識を反映したものであった。将軍はこの和平交渉を拒絶し、最後の勝利を確信すると放言した。  こういう支那の態度に憤然として日本の発した声明がすなわち十三年一月十六日の「政権を相手とせず」であった。日本はこれほどの大戦争をしたくはなかったが今では事情が変って来た。漢口《かんこう》、広東《カントン》までも攻め落さなくてはならない。……南京に駐屯して和平交渉の不成功に帰するまで一カ月以上も休養し退屈していた兵士たちは、改めて荷物を梱包しゲエトルを巻きなおして第二段の戦闘に向わなければならなかった。徐州《じよしゆう》へ!  しかし徐州は最終的な意味をもった戦場ではなくて、武漢《ぶかん》作戦の前哨戦でしかなかった。徐州の大包囲を完成すると同時に東方に殲滅戦を展開して行った飯塚(元の加納)、津田の諸部隊にあとを委せて、五月末から続々と大部隊が廬州《ろしゆう》に集結された。  この中には隴海《ろうかい》線遮断で勇名をはせた沖津部隊も居た。転戦数百里、蚌埠《ぼうふ》に部隊を集結してから西北蒙城《もうじよう》に激戦を交え、広漠たる麦畑を三十里も突っ走って、この部隊に配属されていた岩仲戦車隊が不意に徐州の西十里の地点で隴海線を襲った。……ついで徐州を占領してから津浦《しんぽ》鉄道に沿って敵を追いながら南下して来た。すると追われて逃げる敵の大部隊の正面が、蚌埠から北上して来た吉沼部隊に突き当り、友軍に相当の被害を生じてしまった。  それからこの両部隊は南下して懐遠《かいえん》に行き更に西南の城西湖《じようせいこ》にちかい寿県《じゆけん》と鳳台《ほうだい》とを占領し、大別山《たいべつざん》の北を迂回して漢口作戦に参加する予定であった。このとき黄河《こうが》決壊の大洪水は広漠百里の沃野をひたし尽して、西肥河《せいひが》と潁水《えいすい》と淮河《わいが》との両岸にあふれはじめた。霖雨《りんう》にたたかれてささくれ立った黄濁の水は秒速一メートル時速一里にちかい速さでやがて寿県と鳳台とに迫って来た。敵軍にも弾丸にも逃げたことのない吉沼、沖津の部隊も後退せざるを得なかった。介石の洪水戦略はこの時にはたしかに有効であった。後走三十里、彼等は水に追われて東方の田家鎮《でんかちん》に行き更に廬州に下って、ここで武漢作戦の他部隊と合した。  そのほか、南京、浦口《ほこう》、蕪湖《ぶこ》などにも幾つかの部隊が待機して遡江《そこう》命令を待っていた。南京碼頭《まとう》には大小無数の軍用船が長江を埋めて碇泊し、桟橋では荷上げの苦力《クーリー》が雨にぬれそぼって米麦の叺《かます》をかつぎ醤油樽をかつぎ、河岸の倉庫という倉庫は弾薬と糧秣とで一ぱいになっていた。去る十二月、幾万の支那兵の血と屍《しかばね》とを呑んだ揚子江《ようすこう》は、更に貪慾な表情を以て遠からずまた多くの血と屍とを呑もうとしていた。 作戦基地安慶  武漢攻略戦は前線と後方連絡との関係から三つの段階に分けて考えられていた。第一段は湖口《ここう》を含む九江《きゆうこう》の占領まで、第二段は田家鎮要塞を突破して江北春《きしゆん》の占領及び江南陽新《ようしん》の占領である。これらの都市は兵站《へいたん》輸送の関係から見て最も重要な地点であり、そこを占領することによって始めて大軍を前方に送り出すことが出来る事情であった。そして最後の段階は武漢三鎮《さんちん》の攻略戦である。  九江攻略に先立つものは江北にあっては安慶《あんけい》、江南にあっては馬当鎮《ばとうちん》と湖口とである。安慶は安徽省《あんきしよう》の省城として人口七万、江岸に迫った堅固な城壁をもち更にそのまわりと下流とに無数の陣地やトーチカを築いている。昔から安慶を失うものは長江を失うと言われた枢要地《すうようち》で、江の北岸地区を制圧して進むためには先ずこの地を確保して兵站線を造らなければならない。またその上流四十キロの南岸にある馬当鎮は江岸の小さな部落にすぎず、上流と下流とに迫った山が良い陣地というだけで一見重要な場所とは思えないが、後方にひらけた平地をもち、江岸をつたって湖口に達する平坦な道路もあって、兵站の輸送路としては見落すことの出来ない地点であった。  六月初旬、軍本部は遡江部隊にむかって準備命令を発した。蕪湖の下流四十キロの沖に、八日の夜から続々と集結して来た艦船はおびただしい数であった。宮森、高橋その他の陸軍部隊と、海軍陸戦隊岡本部隊などが、雨にけぶる長江の沖に碇《いかり》をおろしてただひっそりと濁流に浮んでいた。  十一日、艦隊長官は谷公使と日高上海総領事とを通じて、蕪湖と湖口との間にある第三国の艦船に即時退去を要求した。そしてその夜遡江部隊にむかって攻撃命令がくだった。駆逐艦と水雷艇とがこれらの船群を護衛して行った。  雨はまだ降りつづいていた。上流漢口から江口上海まで二百里にわたる雨雲が空を罩《こ》めて幾日となく降りつづいている雨であった。水は満々と両岸の草をひたし水速は一時間六、七ノットもあった。午前一時半、闇のなかで船は中流に止った。安慶城の数哩《マイル》下流である。上陸部隊は雨にたたかれながら手さぐりでタラップを下り小舟に乗り移った。  上陸開始、たちまち両岸から敵の機銃が鳴りはじめ、駆逐艦は砲火をもって応戦した。武漢攻略戦の最初の戦闘がひらかれた。上陸部隊は二手に分れて江の両岸にかけ登った。  安慶には敵の第二十師を率いて総司令楊森《ようしん》が居た。六月十二日の未明、日本軍が上陸したという通知が彼を愕《おどろ》かした。そして正午には城内至るところに砲弾が落ち始め、城外にある古塔の下の辺りで激しい戦闘がはじまっていた。城内の高い家屋から見ると水量の増した揚子江のうえ、極く近いところに日本の軍艦のマストが高々と見えていた。  楊森は午後はやく城外に撤退した。日暮れごろから城内には火災がおこり、支那軍は北門からなだらかな丘陵地帯にむかって退却をはじめ、日本軍は東門を占領して陸戦隊が先ず城内になだれ込んだ。  翌十三日、宮森部隊は敵を追うて西北六キロに進み陸戦隊は江上を遡江しつつ二十キロ上流の華陽鎮《かようちん》にせまった。  安慶占領の報告をうけるとすぐに鋤柄《すきがら》兵站部隊が全速力で蕪湖から乗りこんだ。彼等は市街の中心にある官庁の建物を占領してここに本部をおき、先ず付近の民家を整理し学校を掃除して負傷兵の収容にとりかかった。兵站病院の開設。兵は手分けして民家の寝台を集めて来た。工兵廠の兵は砲弾で穴のあいた屋根と壁と床とを繕《つくろ》い、軍医は傷兵の手当をする一方、城内にある全部の井戸水の検査をして歩かなくてはならなかった。コレラ菌やチフス菌を投げこんであるかもしれない。また野戦砲兵廠は安徽《あんき》省政府の堂々たる建物を占領しその前の広場に敵が棄てて行った野砲迫撃砲機関銃などを百何十台も持って来てならべた。これらの鹵獲《ろかく》品の上から大門の両方の柱に掲げられた抗日標語が皮肉な言葉をあびせていた。——革命尚未成功・同志仍須努力!  安慶の大通りは立派に舗装されていて鈴掛《すずかけ》の並木が夏の街にひろい葉を茂らせていた。戦火が遠ざかると共に街々は異常な静けさに沈みはじめた。すると至るところの民家を占領して宿営している兵隊たちは銃器の手入れをしながらさびしがって歌をうたうのであった。——いくさする身と空とぶ鳥は、どこの野末で果てるやら……いくさする身と空飛ぶ鳥はどこの野末ではてるやら。——彼等にとってそれは悲しみの歌ではなくて、思いを郷土に絶ち愛着を妻子に断ったのちの飄々《ひようひよう》として枯淡な心境であった。  安慶の陥落を待って南京や蕪湖に待機していたあらゆる部隊が続々と船をつらねて遡《さかのぼ》ってきた。  特務機関がきて難民の生活状態をしらべ宣撫工作をはじめた。飢えたものには米や麦を与え病気のものには薬をあたえ家の無いものには家をあたえなくてはならない。また有能の士を探しだして自治委員会を組織するという仕事もある。憲兵もきた。これは友軍の軍紀風紀をとりしまると同時に難民にまじっている敗残兵を発見し処分を決しなくてはならない。  兵站《へいたん》衣糧廠が大変な荷物とともに岸に着いた。前線へ送るためのおびただしい米麦の叺《かます》と味噌醤油の樽と、木箱に詰めた塩鮭、乾燥野菜、牛肉と魚の罐詰、一週に一回配給すべき煙草と酒とビールと、一カ月に一度ずつ配給する便箋、歯ブラシ、手拭、チリ紙、褌《ふんどし》などをまとめた包み、それから服と帽子と靴とシャツと。川岸の城壁に沿って食糧品は山を築いた。  野戦郵便局がやって来て大通りに旗をかかげた。街は賑《にぎ》やかになりはじめた。さらに唐沢自動車部隊の一個中隊が何十台の自動車を船に積んで上陸してきた。灰黄色のトラックが活動を始めた。衣糧廠から糧食をうけとり、砲兵廠から弾薬をうけとって、雨がはれると同時に黄塵のすさまじくなった城外の道を前線部隊まで日に幾度となく運んで行くのである。  前線は日々に進んでいた。北方の廬州から桃鎮《とうちん》、舒城《じよじよう》を経て南下してきた部隊は、安慶の陥《お》ちた翌《あく》る日桐城《とうじよう》を占領してなおも南下をつづけていた。宮森部隊は高河埠《こうがふ》のあたりでこの南下部隊をむかえ、そのまま西に転じて潜山《せんざん》を攻めはじめたのである。潜山を抜ければそれから江の流れに沿うて西南に、太湖《たいこ》、宿 松《しゆくしよう》、黄梅《こうばい》、広済《こうせい》。少なくとも広済の占領までは二百キロにわたる後方兵站線の大動脈を支えるものとして安慶は唯一の心臓の働きをしなくてはならない。北岸の運輸の道路はただこの一路だけしかない。楊森の軍が安慶と潜山との線を死守することなしに短い戦闘で安慶を見すてたことは非常な失策であった。安慶を制したるものは長江を制するのだ。南京から上流にむかって、引きもきらずに輸送船がのぼって来た。安慶へ、安慶へ! 毎日後続部隊が珍しそうな顔をならべてぞろぞろと川岸にあがって来た。毎日、弾薬と糧食とが船から積みおろされた。六月十七日、敵を追うこと五日にして宮森部隊は潜山を占領し、さらに太湖にむかった。  そのころ安慶の川岸に着いた船からはおびただしいガソリンが積みおろされた。唐沢自動車隊のために。しかしそれはほんの一部分で、大部分は航空機用のガソリンであった。安慶飛行場が出来あがろうとしていた。空色の襟章《えりしよう》をつけた将校と兵隊とが街に見えはじめた。やがてこの街は武漢空襲の基地となろうとしていた。 馬当鎮まで  安慶のつぎに確保すべき兵站基地は江南の馬当鎮である。川筋の北岸は大方平坦地で要害の地は少ないが南岸はずっと低い山が迫っていて至るところに陣地がありトーチカがあり少なからぬ守備兵も配置されている。江を遡る艦船はこれらと戦いながらのぼって行かなくてはならない。しかしこのあたりの敵を徹底的に追いまくって守備兵を駐屯させてみたところで、それは武漢作戦に大きな効果をもたらしはしない。後方連絡の輸送路として不必要な場所であるからだ。安慶の対岸に上陸した高樹部隊その他は江岸の敵を追いながら上流にのぼって行ったが、これもただ多少の威嚇をあたえるにすぎなかった。先ず馬当鎮をとることだ。  安慶を基地にした海軍の掃海艇は濁流に沈む機雷をさがしながら一間、二間と江をさかのぼって行った。掃海艇といういかめしい名をもっているが長さ三十尺あまりの小発(小型発動機船)にすぎない。乗組はたった○人、それに機関銃が○梃《ちよう》しかついていない。かなしきものは掃海艇の乗組である。敵は川岸の山に煉瓦でかためたトーチカをもち、四角な銃眼のなかから野砲と迫撃砲とをうって来る。水に突っこむ砲弾のすさまじさ、鈍い地響きをたてて水のなかで炸裂《さくれつ》すると、水柱がまっしろに空にひろがってばさりと艇員の頭のうえに落ちてくる。はじめは機銃で応戦をやってみたが、砲と銃とでは戦いにならなかった。無駄だと悟ってから、艇員はうつことをやめた。ただ黙って撃たれながら掃海作業をやるのだ。すると抑えられた闘志が機雷の方にむかってゆく。機雷が憎くてならなくなる。非常な熱心さで機雷をさがしはじめる。しかし、悲しみはさらに癒《い》えない。機雷を発見し、危険な操作をして水面に浮び上らせ、機銃でうちまくって爆破させる。むなしき爆発が六丈の水煙を吹きあげる。けれども機雷は敵兵ではない。敵に何のいたでをも負わせてはいない。敵兵は健在で岸から砲をうちまくっている。木の上の烏を憎んでいたずらにがりがりと爪で土を掻く犬のようなもどかしさが艇員の心をいら立たせてゆく。しかも誤って艇が機雷にふれようものならば一瞬にしてあとかたもなく全滅してしまわなくてはならない。 「まあ、鉄瓶を引っくりかえして、灰《はい》神楽《かぐら》が立ったようなもんだなあ。空から灰が降って来たみたいに、エンジンだろうが人間だろうが、一番大きな塊で二寸四角かな?」  しかも艇員は進んで行った。 「掃海艇出発!」  岸で叫ぶ隊長の声が船のなかに聞えて来ると、「出発!」とくりかえして立ちあがり、岸につないだ綱を解き、舳《へさき》を川上にむけて一本の煙草を咥《くわ》え、煙を肩からうしろへなびかせながらだまって出かけて行くのであった。  彼等の心を慰めるものはただ一つ、……いまに見てろ! 掃海がすんで軍艦があがって来たら、トーチカだろうが掩蓋《えんがい》銃座だろうが、一ぺんにふっ飛ばしてくれるから……そういう希《ねが》いであった。  敵の馬当鎮守備は安慶の比ではなかった。部落の下方でずっと川幅がせばまっている。その南岸に立派な陣地をつくりあげ砲を据《す》えて待っていた。ここを通る船はひとつ残らずうち沈めようというのだ。しかも安慶が占領されたと知るとすぐに、七、八隻の汽船に砂利を満載して、まるで橋をかけたように一列にならべて沈めてしまった。激流のうえには汽船のマストが海苔をとる粗朶《そだ》のように立ちならび、その間には黒い煙突が傾いて水面に突きでている。航行は完全に遮断された。  ここまで遡ってくるともう掃海艇には手におえない仕事であった。海軍遡江部隊はここで非常な苦心をした。駆逐艦をもって敵陣地を攻撃しながら小艇を閉塞《へいそく》船にちかづけ、沈んでいる船の爆破作業をやらなければなるまい。それも昼間はとても出来ないから夜間の作業だ。水流は霖雨に一層はやくなって時速七ノットもある。ほとんど不可能にちかい難作業である。  さらにこの作業に当って問題になるのは、閉塞船の付近にも機雷が多数に沈めてあるかどうかということであった。それさえ無ければ何とかなる。機雷があっては手がつけられない。数日の苦心探索ののち、挺身決死隊が数隻の小発に分乗して閉塞船を爆破し水路を開くことができた。そこには一個の機雷も敷設《ふせつ》してはなかった。  こうして水路さえひらけてしまえば、もはや馬当鎮のまもりは恐るべきものではなかった。下流の劉家宅《りゆうかたく》に敵前上陸した陸軍の高橋部隊と江上の海軍部隊の攻撃によって、六月二十七日の夕方、目ざす部落に突入した。霖雨の去ったあとの、百度を越える炎暑の日で、敵兵の新しい血を吸った山や川岸の土はたちまちのうちに乾いて赤茶けた色の砂塵をまいていた。  馬当鎮さえとってしまえば、南岸に沿うて上流の彭沢《ほうたく》も占領できるし、それから陽湖《はようこ》の入口を扼《やく》する湖口まではひと走りだ。このあたりには支那軍の五十三師、百十六師、百十七師などがうようよとかたまってはいるが、大して恐るべき敵でもなかった。そして南岸を制圧してしまいさえすれば、湖口までの川筋は敵の攻撃をうけることなしに悠々として掃海作業がやれる。北岸は湖沼地帯で敵の守備はほとんどないからだ。  馬当鎮の小部落はにわかに重要な拠点となった。輸送船が次々と上って来ては部隊を上陸させ、部隊はただちに西南彭沢にむかって出発して行った。ここには瀬田兵站部隊がはいって、糧食と弾薬と軍馬とを川岸一杯に荷上げした。安慶へ行った唐沢自動車隊の三島中隊が兵站配属として上陸した。それから病馬廠の押川部隊の一部がやってきて、川岸の楊柳のかげに馬欄《ばらん》をつくった。この部隊には工兵隊が配属されていないので、獣医将校の指図にしたがって兵隊は自分たちで馬欄や馬小舎をつくり病馬の手当もしてやらなければならなかった。  いま、当面の目標は彭沢である。海軍は馬当鎮のブーム閉塞線を啓開するとすぐに掃海遡江をつづけ、毎日のように機雷○○数個を発見爆破していた。航空隊は彭沢と湖口とを空襲して砲塁を破壊した。そして陸軍部隊は南岸にそうて戦いながら進んだ。  彭沢は川岸のほんの小さな部落にすぎない。戸数は八百もない。しかし北方は江の濁流に面し他の三方は急な山にすっかりかこまれて、その山の峰から峰へ、古風な胸壁がぎざぎざの多い曲線をつらねて、片意地に外部からの侵入を拒んでいる。山を越えて入るよりほかには道のない部落だ。陸軍部隊は山岳戦にかかっていた。 襲われる兵站線  馬当鎮の三島自動車隊が昼飯を食っているとき、兵站本部から至急の命令があるから来いという通知があった。 「何だろう。輸送かな?」  三島中隊長は牛肉罐詰に箸を入れてかきまわしながらみなの顔を見た。みなシャツ一枚になって熱心に丼飯を食っていた。 「野口伍長、行ってみてくれんか。俺の車を出させてな」 「はあ、行きます」  伍長はもう四十ちかい年齢で立派な頬髯と顎鬚をはやしていた。彼は一種の発明家で航空機用の照明器具を発明し、工場を造ってそれを製造している男であった。彼は箸を置くと土間に長靴を鳴らして戸口ヘ立ち、左手の茶碗から湯をすすりながら外の空地を見まわした。車廠には三、四十台のトラックや乗用車が烈日に焼かれてならんでいた。 「当番居るか。当番!」  壊《こわ》れた壁のかげからひょろりと丈の高い兵が出て来て、鉢巻の手拭をとって直立した。 「中隊長の車をな、すぐ用意させてくれ。すぐだぞ」  兵が走って行こうとすると伍長はおいおいと呼び止めた。 「お前だったかな、このあいだマラリヤをやっていたのは」 「はあ、自分です」 「すっかり治ったか」 「治りました。まだ少し疲れます」 「薬のんどるか」 「飲んでおります」 「お前、あまり丈夫そうでないな」  伍長は鬚のなかでにっこり笑った。兵ははあと言って侘《わび》しそうに笑い、車を用意させますと復命し、踵《かかと》を踏みつぶした靴を引きずって去った。  それから三十分ばかり経って兵站から帰って来た野口伍長は歩兵の曹長を一人つれていた。 「帰りました。やはり輸送です。彭沢の手前にいる部隊まで。糧食がなくなってるそうです。トラック八輛ばかり出せばいいでしょう」  曹長はその部隊から至急糧食補給を求めるためにかけつけて来たのであった。戦闘部隊が今夜の食糧も半分しかない、明朝は一粒の米も残らないというのである。  三島中尉はテーブルに肱《ひじ》をつき、番茶にたかる蠅をおいながら片手で頬をなでていた。 「途中の道路は、ずっとトラックで行けるかね」 「はあ、道は大丈夫です」 「敵の状況は? 道路付近に居るかね」 「多少居ります」と曹長はひどく簡単に答えた。  中隊長は入口の外に腰をおろして風に吹かれながら煙草を喫っている男にむかって叫んだ。 「秋岡少尉。君ひとつ行ってくれんか、トラック八輛だ」 「はあ、行ってみましょう」  少尉はシャツの胸をぴたぴたと叩きながら答えた。まだ二十七にしかならない、若くて綺麗な顔をした青年であった。短く刈った頭が青々として、光った眼が若さをたたえ、どちらかと云えば気の弱そうなやさしい顔だちであった。彼は二、三歩外へ出て行くと大きな声で向うの水際にある楊柳の方へさけんだ。 「小峰、小峰!」 木陰の低い土堤下から肌ぬぎで、ズボン一枚の男が立ちあがってぽかんとこっちを向いた。 「小隊集合!」と少尉は叫んでおいて隊長のところへ戻ってきた。 「今から行けば夜になるな。ぶん取りの軽機をもって行きたまえ。用心した方がいいよ」  三島中尉がそう言うのを聞きながら小隊長はがちッと刀を腰に引っかけた。 「十五キロぐらいのもんでしょう。明るいうちに帰れるかもしれません」  まもなく小峰上等兵が入口に立って、第一小隊集合しましたと言った。秋岡少尉はみなが整列している車廠の広場へ出て行った。日向《ひなた》は焦げつくほどはげしい日光であった。彼はそこで出発すべき八輛を指名し、その受持ちの兵に出動準備を命じてからさらに軽機について三名の兵を指名した。 「全員銃をもて。鉄兜も持つ方がよかろう。それから一食分の弁当。十五分以内に用意!」  少尉は将校室に戻ると上着のうえから拳銃のついたバンドをぎちぎちと締めあげた。すると急に耳のあたりからたらたらと汗が流れはじめた。彼は心配そうに顎をつき出して歩兵の曹長にむかって言った。 「戦況はどうです」 「大丈夫です。明日は彭沢へはいれます。……山地でしてな、多少困難はありますが。敵は三千ぐらいのもんでしょう。砲をやられたとみえて、今日はおおむね手榴弾《しゆりゆうだん》とチェコ機銃ですな」  痩せ形のきらきらと眼の光った精悍そうな男であった。秋岡少尉は彼を見ながら、歩兵というのはどこか張りきっているなあと思いはじめた。  それから二十分ばかりして八輛のトラックが出発した。秋岡少尉は最後の車の助手台に乗った。半裸体の兵隊たちが黙って出発を見送った。  走り出して半町も行かないうちに先頭の車がとまって二人の兵が飛び降り、一散にもとの部隊へかけ戻って行った。後の車もやむを得ずにとまった。運転手は窓から首を出してかけ戻って行く兵に向ってさけんだ。 「何だ!」 「弁当のおかずを忘れた」と彼は走りながら笑って答えた。  ところが、やがて戻って来た二人を見ると機銃弾の箱をひっかついでいた。弁当のおかずというのは銃弾のことであった。秋岡少尉は苦《にが》い顔をして、そんな事で戦闘できるかと叱った。叱られた兵は元のトラックまで戻って来ると苦笑しながら呟いた。 「おかずを忘れて弁当が食えるか!」  それから車は砲弾や空爆で穴のあいた道をがたがたと揺られながら兵站本部へ行き、糧秣弾薬を受けとる手続きをしてから今度は衣糧廠の集積場へ行って米や粉味噌や罐詰類を積みこみ、更に砲兵廠の集積場へ行って弾薬を積みこんだ。いよいよ前線へむかったのはもう三時を大分すぎていた。しかも部落をはなれてから間もなく、烈日に焼けたエンジンの水が煮えあがってきて、クリークの水を注ぎこんだりするのに大分ひまをとられた。日暮れまでには帰れないばかりか行きつくことも怪しくなりはじめた。  ちょうど部落を出てから十キロちかく進んだときであった。山裾に沿うて道が右に曲っている。左もずっとなだらかな山地である。その山から急に機銃の攻撃をうけた。  最初の車に乗っていた野口伍長は隊長の命令を聞こうとして助手台の窓からうしろを見たが間に他の車がはいっていて見えなかった。 「突っ走ってしまおう!」と彼は運転席にいた上等兵に言った。車は速力を出して山鼻を右にまわった。彼はもう一度うしろを見た。すると続いて来るのはただ一台きりであった。ぴしりとエンジンのカヴァを銃弾が貫いた。「こらあいかん、ストップだ」  車は茂った薄《すすき》のかげへ駆けこんでがたりととまった。二人は頭をかがめて車のかげに飛び下りた。すぐうしろへ今一輛も来てとまった。 「うしろはどうした!」と伍長は呶鳴った。 「わかりません。応戦するらしいです」と向うの米俵の間から下りた兵が叫びながら銃をとりなおした。彼等が背にしている赤土の崖に弾丸がぷすぷすと突きささり、そのたびに土塊がぽろぽろと道にとび散った。ぱんと鋭い音がして運転席の硝子《ガラス》に穴があいた。 「出るな、出るな!」と野口伍長は鬚だらけの顎を振って兵隊たちを制した。  秋岡隊長は四番目の車にいた。彼は襲撃をうけるとすぐに停止を命じたのだが、前の二輛には命令がとどかなかった。六輛に乗っていた二十人の兵はすぐに下車して応戦をはじめ、軽機は手頃な岩を見つけてその上に米俵を積み、そのかげからせい一杯の応射をやっていた。弁当のおかずが大変に役に立った。  敵は大した部隊ではなく、弾丸の来工合から見ると百人か百五十人くらいであるが、絶え間なく撃ってくるのでこちらは身動きもならなかった。前面はやや展《ひら》けた傾斜地でその上の岩の多い小松林にかくれているのだ。突撃は中間にある平地をわたらなくてはならないので向うにもこちらにも不利であるが、それとてこのままトラックで駆けぬけるには弾丸の来かたが多すぎた。秋岡少尉は前の二台のことばかりを気にしていた。車のかげに立ってじっと前方を見つめながら、山鼻のむこうの様子に耳をすましていた。彼はうろうろと落ちつかない眼つきになり、無意識に刀の柄を掴んでははなし掴んでははなししていた。それからついうしろの車の下にもぐりこんでしきりに撃ちまくっている谷川一等兵の足をたたき、車の下をのぞきこんで言った。 「おい、前へ行った二台なあ、お前這って行って見て来い」  谷川は車の下に鉄兜をぶつけながらもぐり出てきた。 「這って行ってな、どうしているか、見えるところまで行って見い。もしちかくに居たら、車はいいから人間だけ戻って来いと言え」  谷川一等兵はすぐに出かけようとして車のかげから駆け出す隙をねらいはじめた。その緊張した背なかを見ると、若い少尉は思わず、気をつけろ! と言った。 「待て待て、行っちゃいかん!」と叫んで、次の車のかげにいた歩兵の曹長が半ば膝をついてにじり寄って来た。 「隊長殿、こりゃ無理です。行かれませんよ。とても行けません。やめた方がいいです」  一等兵はふり向いて不安な眼で曹長の精悍な顔をながめた。 「向うへ二輛行ってるんだ。どうしてるか分らんからな、何とかして様子を見たいんだ」と少尉は一層心配そうに言った。 「それは分ってますが、これでは到底行かれません。あの曲り角は掩護《えんご》物がまるでないです。あそこで必ずやられましょう。行けるもんじゃありません」  曹長は断固として反対した。その言葉には近接戦闘に馴れきった歩兵の強い信念があった。秋岡少尉は舌うちして、しまったなあ、しまったなあ、と言いつづけた。谷川一等兵はまたぞろぞろとトラックの下へ銃をかまえて這いこんだ。 「むしろこれは後退した方がいいです」と曹長が言った。すると少尉は憤然として叫んだ。 「馬鹿な事を云え! 前の二台をおいて帰れると思うか」 「そうですなあ、困った事になりました」と曹長は土の上に腰をおろした。  山のうしろに陽がかくれて行き敵のいる松林のなかは暗くなりはじめた。左腕を貫通された兵が一人あるほかはまだ負傷兵はなかったが、車には大分傷がついていた。米俵がこわれて白い米がぽろぽろと道にこぼれていた。弾薬箱が心配であったが、箱のまわりには米俵をおいてあるので何とか防げそうであった。  そうしてあたりがほの暗くなってきたとき、突然うしろの方でだだんと砲をうつひびきがした。少尉はぱッと立ちあがって、こりゃいかん! といった。敵が砲を持って来たのだと思った。しかしその瞬間、前面の松林のなかで砲弾が見ごとに炸裂した。まだ明るみの残っている空に吹きあげられた敵兵の手足をひろげた姿が黒くはっきり見えた。二十人の兵隊たちは思わずわあッと叫んで立ちあがった。砲兵が来てくれたのだ、この付近を警備している部隊が敵襲を知ってかけつけてくれたのであった。砲は二門か三門しかないらしく、弾丸の音はとぎれとぎれであったが、兵隊たちはしばらくのあいだ銃をうつのもやめてにこにこ見物していた。  しかし敵は案外に頑強で、砲撃をうけながらも自動車隊の方へはどんどん弾丸がとんできた。  そのうちにすっかり日が暮れてしまった。暮れてしまうと今度はうしろの崖に突きささる敵弾のかすかな音が不気味に耳につきはじめた。  秋岡少尉は一人の兵をつれて前へ行った二輛をさがしに出かけた。左手に拳銃をもち、右手はいつでも刀を抜けるようにして、暗い道に背をかがめながら出発した。何町さきにいるのか、あるいはあのままずっと前線部隊までかけ抜けて行ってしまったのか、それもわからないのだ。  二人は這うようにして五百メートルばかり進んだ。そのとき兵は少尉の腕をつかんで立ちどまった。 「人が居ます」  二人は息をひそめてじっと道傍にうずくまった。少尉は静かに刀を一尺ばかり抜き、拳銃を前方にさしむけた。しかし闇のなかには何も見えなかった。 「どこだ?」と彼はささやいた。兵はすれすれに近づき肩と肩をふれあいながら左手をずっとさしのばした。 「何か、黒いものが動いています、あ、動かなくなった!」  少尉の胸はどきどきと動悸がうちはじめた。彼は兵の肩をおさえて地に平たくならせ、自分は刀をぬき拳銃をかまえたまま犬のように土に這い、それから思いきって叫んだ。 「野口伍長じゃないか!」  すると、見えない闇のなかから、おう! と叫ぶ声がした。 「隊長ですか? 野口です、野口です!」  彼の姿はまるで見えなかったけれども、喜びに躍りあがっている様子が声の調子にあふれていた。すぐばたばたと走る足音がして、少尉の眼の前に立った大きな黒い姿は、これも大刀をぬきはなっていた。いい年をしたこの鬚の伍長は、ああよかった、よかったと言って、若い少尉の腕を抱いて女の子のように喜んだ。 「兵隊どうした、負傷ないか」 「一人やられました」 「やられた? 死んだのか、誰だ」 「いや、ほんの少し、足の先、指の股を貫通されてます」 「うむ、その位ならまあよかった。車は走れるか」 「大丈夫です。ついこの先、二百メートル程の所に居ます。みんな心配してねえ、隊長の方どうですか」 「大丈夫だ。ひとり負傷があるが……」 「どうします。引返しますか」 「うむ、引返してもいいが、糧食をとどけんと向うが困ってるからな。どうだ前面に敵は居るか」 「前面はいないようですが、しかしまだ五キロは充分ありますよ」  暗闇のなかで彼等は土に寝そべったままそういう相談をした。それから引返して曹長とも相談してみた。曹長はこれから先の道路はよく知っているし、もう敵はいない筈だから一つ行ってみてくれないかと言うのであった。後退するにしても馬当鎮までは十キロある。まだ砲兵はうっていたし敵弾もまばらではあるがひゅうひゅうと唸っていた。きらきらと細かい星が光りはじめ夜風が汗の肌に急につめたかった。 「出発!」と少尉は大声で言った。「ライトは点けてはいかん、間隔をつめて十メートル位に。速力はなるべく遅く。暗いから先頭気をつけて行け。七、八キロの速力で走って見い」  闇の道をのろのろと部隊は走りだした。そして一時間ののち、敵襲をのがれて無事に前線部隊に到着し、トラックの上で一夜をあかした。  翌日、歩兵部隊は彭沢のまわりの山と胸壁とを越えて部落をひと揉《も》みになだれこんで占領した。同時に海軍も川岸を奪取して上陸した。  自動車隊は昨日とおなじ道を引返して午前中に馬当鎮についた。三島隊長は昨夜ひと晩じゅう心配して寝ずに待っていたと、赤い眼をしばたたいて言った。 廬山を望む  それから数日ののち、彭沢をぬいた宮森、高橋の部隊は四十キロの道を長駆して湖口を占領した。途中には敵の三個師が待っていて側面から攻撃してきたし、後方彭沢を逆襲されたこともあったが、両部隊は川岸にそうてひた走りに湖口を覘《うかが》った。敵は橋をこわし道路に深い見事な戦車壕をほっていたが、部隊は二日の午後流斯橋《りゆうしきよう》をぬき三日は朝から湖村《こそん》、陳村《ちんそん》を攻撃突破し、一気に湖口の裏山にある梅蘭山《ばいらんざん》にせまった。そして翌七月四日の夕方、湖口背面の岩山を越えて水際の街へ駈けくだった。湖口に残っていた敵の約一千名は三十隻のジャンクに乗って陽湖の奥ふかく逃れようとしたが、進入軍の猛射をあびて二十九隻まで沈没してしまった。揚子江はまた一千の同国人の血と屍とを呑みつくした。  海軍がもうここまで来ていた。この勇敢な遡江部隊は安慶から上流だけでも二百五十に達する機雷を発見爆破した。上海から湖口まで四百四十浬《かいり》のあいだ、揚子江は軍艦旗のなびく下を不平そうな不逞な表情で流れていた。  湖口は陽湖の入口から揚子江まで少しはみ出したような水際の城市で、戸数一千、うしろはすぐに岩山を背負うたせまくるしい細長い土地であった。兵隊は此処まで来てひさしぶりに綺麗な陽湖の水を見た。湖水のむこうにはるかに廬山《ろざん》の連峰が突兀《とつこつ》として見えていた。半ば白雲にいただきをかくしている。「ああ、あれが廬山か」と兵隊は両手をぶら下げて眺め入るのであった。するとあの山の上で作戦会議をひらいたという介石の、よく新聞で見る写真の顔をふッと思い出すのであった。  前面には二キロの水をへだてて対岸の大王廟《だいおうびよう》の森が見えている。敵はそのあたり一ぱいに陣地を構築していて、砲弾がときおり飛んできた。大王廟を征伐してしまわないうちは湖口占領部隊は夜もひるも落着けなかった。陸軍の航空隊が一日に何度もそのあたりを爆撃して湖口の兵隊をやすませてくれた。  湖口を占領してしまえば、もはや馬当鎮は重要なところではなくなった。瀬田兵站は急に暇になった。そして新しく友田兵站部隊が南京から遡江して湖口に入った。それからこの狭い街とその付近とには続々と部隊が集まって来たし、船も次からつぎとのぼってきた。岩山の上には電信隊が陣取って、小ざっぱりとしたアンテナを張った。湖水と川とのあいだに突き出たこの一郭は、まさに作戦基地としての活気にあふれはじめた。この一郭を占領してしまえば九江の陥落はただ時期の問題であった。それはまるで鎧《よろい》を引き剥《は》がれて裸身をさらしているような状態であった。  航空隊が湖口のうえを越えては九江市街をおびやかしていた。しかし九江はあまりひどく市街地を破壊しないで占領したい軍の方針であった。というのは、この地こそは武漢にせまる大軍の後方基地として将来もっとも活用されなくてはならぬ場所であり、部隊の集結、本部その他の部隊本部の設置、兵站病院と兵站宿舎との設置、糧秣の集積、慰安所の設備等のためにたくさんの建築物を必要とするからであった。さらに遠い将来のことまでも考えるならば、さし当っては兵隊の酒保をひらきそれをのちには日本居留民の足だまりとして民族発展の一助にもしなくてはならない。空爆は市街地にむかっては手控えられ、江岸にびっしりと並んだトーチカ群や市外の陣地などに多く向けられていた。またそればかりではなく、九江には教会、商館、学校その他の外国権益も相当にあり、空爆によって国際的な事件を、ひきおこすことをおそれた点もあった。遠からず九江が攻撃されるときには、安慶や湖口では見られなかった戦争の複雑きわまりない一面が展開されるであろうことは覚悟しなければならなかった。 占 領 地 区  長江作戦部隊は九江攻略にそなえるためにほとんど二十日ちかくも湖口に待機準備していて前進をしなかった。わずかに江上掃海艇が活動していたのと、遠く南昌《なんしよう》、漢口の方までも航空隊が毎日のように飛んで行っていただけであった。  しかし、前線の進まないあいだにも後方部隊は活動をつづけ、さらに上海以西の占領地区は日々に整備されつつあった。  いまでは遠く後方になってしまった上海、ここでは戦争の記憶ももう一年のむかし話になっていた。日本人街虹口《ホンキユウ》一帯は戦前よりも居留民の数はずっとふえて五万三千に達し、さらに便船ごとに新しく海を越えて来る人々で賑わっていた。その大部分は商業者で、多少の資本をもって大きな儲けをもくろんでいた。「支那へ行けば儲かる」という疫病のような言葉の魅力に憑《つ》かれて長崎の港から遠い海をわたるのであった。妻と子供とを連れて、三等の船鎗めいた暗い室にうずくまって、明日は着くであろう上海を黄金の唸っている無人の山のように楽しく幻想しているのだ。船の夜、東支那海の荒波のしぶくデッキで、寝そびれた女の子を背負うたシャツ一枚の父親は、子守唄をうたいながらスリッパを鳴らして歩きつづける。見事な星空がマストの上でゆるやかに傾きかたむく。女の子の髪は潮風に吹きなぶられて眠りながらも二つの手はしっかり父の肩をつかまえている。大海の夜半の胸にしみるさびしさのなかで、波の音ばかりが父親の幻想をかき立てる。(支那へ行けば儲かるぞ、一カ月で五千円、二カ月で一万円、一年間辛抱すれば六万円、ああ六万円!)  そうして上海にあがって見ると、もう街は同じような利慾の鬼たちで一ぱいであった。良い街通りもうまい仕事もすっかり占領されてしまっていた。まだ辻々に陸戦隊の歩哨が立っており、ガーデンブリッジは警戒厳重で、閘北《ざほく》の方は破れた家々のすがたが一年前のたたかいのすさまじさを語ってはいるけれども、ここ虹口はネオンのとりどりな色に彩色されて浴衣がけの男たちが下駄を鳴らして通り、飲食店のラジオと蓄音器とが街にながれ、キャバレエやダンスホールがあくどい色彩の看板をはりめぐらし、もうすっかり出来あがった繁華な都市であった。  日本は楊樹浦《ヤンジユツポ》から呉淞《ウースン》にかけて、大都市を建設する計画を立てここに巨大な港を設計して英仏租界《そかい》の繁華をうばい、現在は田畑となり荒野となっているところを上海新市街にまで造りあげる方針ができているという。それが実現するならば商業者にとってはまた新しい利権が生ずる。上海は発展するであろう。事変の結果として要望されている大陸進出は少なくとも上海にあっては満足すべき成果をもたらすに違いない。しかしここはもはや作戦上の策源地でもなく重要地でもない。  ここで活動しているのは宣伝機関としての軍報道部、諜報機関や政治工作をつかさどる軍特務部である。維新政府とのあいだに種々な画策がなされ建設がなされている。報道部は放送局を造って対日本放送、対支那放送をやっている。また上海全市で発行されるあらゆる新聞原稿を検閲し、積極的に漢字新聞「新申報《しんしんほう》」を発行して対支宣伝機関として戦後工作につとめている。  上海では戦争は終っている。破壊は遠いむかしの事で、今はひたすらに建設がはじまっている。事変が終らないうちに和平条件もきまらないうちに、上海は着々として建設されつつある。  呉淞沖の濁流のなかに、南京陥落前後にはびっしりと碇をおろし船首をならべていた数十隻の軍用船は今はもう一隻も見えない。上海を素通りして南京へ行き、安慶へ行きそれから湖口までのぼって行く。そして利慾をもとめる商人たちもまた、上海に失望してさらに汽車に乗り南京まで行って見る。  汽車の沿道いたるところ、ひろびろとした田畑、縦横にクリークをめぐらしたかつての日の戦場はトーチカや塹壕のあともなく、畦《あぜ》に横たわる白骨もなくて、満目みどりに茂った稲田に働く支那人たちの姿がある。その平和な風景は汽車で過ぎる人々の眼にむしろ不思議でさえもある。しかしここでは戦争は一年前のことであった。その後、汽車で通過する兵隊はあっても一発の銃声を聞くこともなくて、戦争がどこで行われているかも、農民は知らないでいるのだ。  南京は多少事情がちがっていて、必ずしも平穏とは云えなかった。紫金山《しきんざん》の裏の方から東南にかけて、城外数キロのところに敵がいる。敵兵の数は十数万と言われていた。警備兵は城外に駐屯して襲撃にそなえている。  しかし城内はもう物資も豊富になり日本人の商店街も中央では賑わっていた。南京はもう復興できまいと言われたほど破壊しつくされたこの街も、バラック風な料理屋や酒場からはじまって、悽惨な焼跡も整理され、街には黄包車《ワンポーツー》をひく支那人があふれ、とも角も人の住む街のすがたになっていた。  ここには同仁会の病院がひらかれて、支那人たちの治療にあたっていた。最初は敵国の医術を信用する者はなかったが、永い努力がむくいられて今では城外二十支里の遠くからはるばると患者を連れてくる支那人もあった。東京帝大その他の一流の医術が完全な設備のもとに活動している。これは宣撫工作のある重要な部門をうけもって、住民のなかに無形の親日心理をきずきつつあった。しかし困難は意外なところにあった。  夏をむかえて南京城内の衛生対策として同仁会病院は支那人小学校の生徒たちにチフスやコレラの予防注射をしてやろうとした。そこで小学校に交渉して注射の日どりを定め、生徒全部をあつめて貰うことにしておいた。約束の日医者が用意をととのえて行ってみると学校には一人の生徒もいなかった。校長は困ったような微笑をつくって言うのである。 「今日は教師が休みまして、授業が午前中にすんでしまったものですから、生徒はみな帰りました。またいつかほかの日にお願いしましょう」  そして次の約束の日も生徒は居なかった。調べてみると、米国人経営の慈善病院が、校長を買収して生徒をかえらせてしまい、同仁会の邪魔をしているのであった。そこで同仁会は校長の手を経ることを断念し、沢山のキャラメルを用意して子供たちの機嫌をとりながら狩り集め、ようやく予防注射をすることができた。ここにもまた戦いがあった。薬と注射針とメスとによるたたかいが、博愛と慈善との名によって音もなく戦われていた。しかし外国人病院は薬品その他の補給が充分でなく、同仁会は四月以来五万の患者を治療して、隠然たる信頼を住民のなかに築いて行きつつあった。  維新政府がここに移ってから南京は中支政治の中心となり、特務部と報道部とが忙しくなってきた。中支軍報道部は本部を市街の中央において鎌田大佐の指揮のもとに漢字新聞を発行し、放送局をつくり宣伝戦につとめていた。そして城外の下関《シヤカン》碼頭は前線に行く部隊と帰る兵士とで賑わい糧食弾薬が幾つもの山を築いていた。沖には大小何十隻の軍用船が煙をはいており、川岸の碇泊場本部には船員たちがしきりに出入りして命令をうけていた。係りの将校は兵站の要求にしたがって船の運航を司令する。 「第三○○丸は安慶へ行ってもらおう。今日の午後四時出帆だ。少しいそがしいね。積荷は衛生材料とガソリンだ。それから兵隊が二百名ほど乗ります。この方は午後二時から乗船させるから、安慶には明日の午後三時までに着けてほしいな。大丈夫だね?」  それから積荷がはじまる。支那人の苦力《クーリー》たちがほゥほゥとかけ声をかけながら倉庫の荷物をかつぎこむ。二時になると兵隊たちが背嚢と鉄兜とを背負い汗にまみれてタラップを上ってくる。四時に出帆し、濁流をついて黄昏《たそがれ》ごろに蕪湖につきここで一泊する。  翌日は朝はやくからまた遡江をはじめる。やがて大通《たいつう》のあたりにさしかかる。すると前方を行く船から無電が来る。  砲数門を有する敵、左岸より本船を攻撃中、警戒あるべし。  すると船室にはいっていた警備砲兵が笑い興じていたトランプを投げすて、将棋の駒を抛《ほう》り出して立ちあがる。 「よし来た! そろそろおいでになったな」 「待ってました!」  彼等はゲエトルも巻かない身軽なシャツ一枚で、手拭を頸にまきつけたまま上甲板に出る。そこには八センチ位の野砲が一門おいてあった。砲弾もそろっていた。  船長は眉に皺をよせて前方の川岸にせまった小山を眺め、伝声管にむかって叫ぶ。全速力!  だンだンと撃っている音がきこえはじめる。船員はデッキを走って警備兵以外は上甲板へ出ないようにと叫んで歩く。そのうちにきりきりとマストを越える砲弾の音がして、右舷で水煙が高く立つ。年老《と》った船長はじっと前方を見ながら静かに右手をのばす。舵手がそれに従って楫《かじ》を右にきる。流れの屈曲にそうて船首がめぐる。不意に船体を鳴りひびかせて備砲がうち出される。左の小山の肩で灰色の煙が炸裂し土と松の枝とが空にたかく飛び散る。五百メートルとは離れていない。敵弾が七つ八つと船のまわりに水柱をあげる。船は急流を切って大急ぎでかけのぼる。備砲がしきりに打ちだされる。 「狙わんでええぞ、何でもええから撃て。撃ってさえ居れば何とかなるわ!」  砲兵は笑いながら砲弾を煙の詰った砲腔に押しこむ。無電室では技師が忙しく発信する。  ——ただいま本船にむかって敵弾集中す。遡江の船警戒を要す。  そうして危険地帯を突破する船長は汗を拭って一等運転士と交替する。 「あの位ならまあいいです。この前はひどかったですからな」 「うたれるのは御免だ」と老船長は舌うちしてつぶやく。「この前みたいに怪我人が出られちゃ、かなわん」  安慶につくと船長はすぐに川岸の碇泊場本部へ到着の報告に行き、さらに次の行動の命令をうける。すると温厚な係りの将校が船長に言う。 「第三〇〇丸、君は御苦労ですがねえ、今から兵隊を六百人ばかり乗せて、明朝湖口まで行ってもらいたい」 「ええ……湖口ですか?」 「ああ、湖口だ、ひとつ頼みます」 「それは行きますけれど、機雷は大丈夫なんですか」 「いや、大丈夫でない。今日も小発が一つ馬当鎮の沖でやられた」 「こわいなあ」 「怖いけれども、どうも仕方がない。兵隊輸送をいそいでいるんでね。気をつけて行ってくれたまえ」  軍用船の船員たちはそうして機雷と砲弾とをかいくぐりながら月に幾度となく長江をのぼり下りしているのであった。長江の水路は霖雨で水量が増すとそのたびごとに変って、航海図によって進路をきめることもできず、僅かに波の立ち方や水流の工合をブリッジから眺めて、熟練を唯一つのたよりにして深そうなところを探りながら濁流を分けて行くのであった。それ故に航行中は船長はずっとブリッジに立ち通しで、交替することも出来ない程である。老船長はほとんど神経衰弱になるほど疲労しきっていた。  ある夜、彼はふと眼をさまし、ベッドに横たわったままじっと耳を澄ませていた。碇泊した筈の船が動いているような気がしてならない。  彼は寝間着のままでデッキヘ出てみた。暗黒の夜でよくわからない。水流が急なために一層確実でなかった。彼は自分が神経衰弱になっているのではないかと疑ってもみたが、気になるので一等運転士をおこしてみた。  船は動いていた。碇《いかり》は入れてあるのに船が流れている。底が泥で碇がきかなかったのだ。二百メートル下流には他の船が碇泊している。衝突したら大変なことになるのであった。船は一分間に五尺か六尺の速力で流れていた。それを寝ていて感ずるほど老船長の神経は鋭敏になっていた。  船の乗組は軍人ではない、ただ船が軍用船の指定をうけるとともに、軍の輸送に従事しているだけだ。しかも彼等は命令をうければあらゆる危険をおかし、馬当鎮を越えて湖口までも行くのであった。  湖口にはいま部隊が集結しつつあった。来たるべき九江攻撃のために、江南作戦のあたらしい発展のために、あらゆる準備がすすめられていた。そしてこの最前線の作戦を自由ならしめるために、上海以西の長江筋一帯は、さらに遠く長崎、門司、宇品までの軍の輸送路一帯は、全関係者の不休の努力によってがっしりと支えられていた。  このころ江北戦線は、廬州、潜山などに待機してしずかに戦備をととのえつつあった。 九江は混乱せり  江南作戦のうちでもっとも重要な拠点として考えられていた九江は、敵軍にとっても断じて死守すべきところであった。九江はいま支那の軍隊で一ぱいになっていた。  崩れ残った古い城壁をもったこの街はむしろ城外の旧英租界の方が繁栄していた。九江の繁栄をまねいた者は外国人であったかもしれない。フランスの天主堂や孤児院や学校や病院が物静かな一郭をつくり、さらにアメリカ人経営の婦幼院とか生命活水院という慈善団体があった。彼等は神の口をかり慈善の温容をたたえながらこの厖大《ぼうだい》な国土を蚕食《さんしよく》してゆく。九江の街には欧州風の匂いが建物の形や色や街路の切り方にもにおうていて、安慶あたりとは違った近代的な生活がにじみこんでいた。英国やフランスの商館が川岸に沿う閑静な街通りに幾つもならんで、街路樹の古い幹に蝉がなき、枝は道一ぱいに緑の陰をちらちらさせていた。上海以西のどこの戦場よりも九江の住民には外国依存の観念が強くしみこんでいた。人口五万五千、むかしは白楽天と陶淵明とによって名を知られた潯陽《じんよう》の都には、いま張発奎《ちようはつけい》を司令官とした十数個師団の兵が郊外の道々に土けむりの渦をまきおこしながらなだれこんで来た。  はじめ、外国人の教会や天主堂は日本軍の進入から住民を守ってやるという名目で信者の家々の扉口に外国の旗を描き、さらに何々国人所有家屋という文字を書きしるした。その家々は日本軍の占領後には厄介な邪魔物になるであろうし、問題を紛糾させれば日本軍を牽制する一助となるかもしれない。のみならず某国商館にあっては堅固な煉瓦塀を利用して防空壕をつくりそこに某国の旗を大きく空にむけて描いた。  ある夜九江守備の数個師団が不意にこの街を襲うた《ヽヽヽ》。それは襲うたというべきであって到着した《ヽヽヽヽ》というべきではなかった。なぜかといえば、住民は兵隊の宿舎としてその家屋を提供し、寝具と糧食とを提供し、さらに彼等みずから妻と子供たちとを連れて街へ出て行かなければならなかったからである。  家を追われた数千人の住民は川岸の木陰や郊外の草むらで明けやすい夏の一夜をすごした。明日は家に帰れるかもしれないというかすかな望みを抱いて食物もない落着かない一夜であった。ようやく眠り足らぬ夜が明けたとき、彼等の眼にうつったものは郊外の赤土道に馬の蹄を鳴らし砲車の轍《わだち》をとどろかせながら、幾筋もの流れとなって九江に入ってくる数千の軍隊のほこりにまみれ、凶暴な表情に疲れた姿であった。軍隊は家をうしなった住民が道ばたにうずくまっているまえを靴をならしながら通過して街へはいって行った。改めてまた幾千の住民が家を追われて難民の群れに加わった。  その夜がふたたび暮れ落ちたとき、食に飢えた数干の難民は大きな群衆となり市街の大通り太中路《たいちゆうろ》を一ぱいになって歩いて行った。われらに食を与えよ、我等に家を与えよ。今では兵隊の街となって一軒の商店もない大通りを道傍の砲車と馬とを避けながら彼等は群れて行った。このときになって彼等が頼ろうとするものはフランスの天主堂でありアメリカの慈善病院であった。神の慈悲によって、神のみおしえによって我々は救って貰えるであろう。夜更けて寝静まった天主堂の表門は聖なる十字架の光った頑丈な鉄柵をとざし、高く天にそびえたゴシック風な幾つもの塔のうえにはベツレヘムの空に嘗《かつ》て輝いていたような恵みふかい星が沢山に光っていた。  群衆の先頭は大きな手荷物をかかえ眠りこけた幼児を抱いてこの鉄門の前に殺到した。彼等は飢えに疲れた声をふりしぼって叫びつづけた。「開門《カイメン》、開門!」  やがて信者たちがいつも見つけているフランス人の坊さんが、顎鬚にあふれるほどの温容をたたえて鉄門のうえに顔を出した。 「開門、開門!」  僧は静かに顎を振って答えた。「不行《プーシン》、不行」  難民は鉄柵にとりすがり必死な声を放って叫んだ。金ならあります、いくらでもさしあげます。彼等は手に手に財布をとり出し頭の上に高くさしあげじゃらじゃらと振りまわしながら哀願しつづけた。しかし神に仕える僧は利慾には縁を絶って行い澄ましていた。彼はいま一度顎を振り微笑をたたえて言った。 「銭不用《チエンプヨウ》」  住民の心にふかく根をおろしていた外国への信頼はこの窮迫の場合にいたってみごとに裏切られた。クリスト教国家の慈善団体はあさましくもその馬脚を現わした。数千の難民を収容して聖なる教会を踏み荒されることは神の許し給わぬところであった。住民はふたたび街にちりぢりになり軒下と川岸とに眠り郊外の草むらに眠らねばならなかった。一部のものは戦火から遠ざかるために瑞昌《ずいしよう》へ行き、星子《せいし》へ行き、または南潯《なんじん》鉄道にそうて徳安《とくあん》の方へ行った。しかしそれは無駄な努力であった。至るところ、兵隊は街と部落とを占領し、いたるところに家を失った難民は飢えさまようていた。  こういう場合にも富裕な階級は逃れる道を知っていた。九江の沖には、数回にわたる日本の退去勧告にもかかわらず、アメリカの砲艦モノカシーと英国の砲艦ククチャファーの二隻が碇泊していた。艦長は住民保護の名のもとに街でも有力な富裕な人物のみを選んで艦内に逃げてくることを許容した。平和克復の日、彼等は外国人の味方となって日本の進出に抵抗してくれるに違いない。また更に他の富裕階級は住民保護の名によってその財産とともに支那軍の内に収容された。軍隊はどこまで後退して行ってもこの良民を手放しはしない。そして彼がその財産をすっかりつかい果してしまったとき、彼は軍の恐るべき保護から即座に解放されるのが以前からのならわしであった。  難民のうちの若い男たちは軍夫として職を与えられた。職は労働奉仕であって報酬を契約されてはいなかった。彼等は陣地の構築に使役されまた上流から下ってくる船の兵糧弾薬の荷上げをさせられた。彼等の逃亡にそなえて軍は一定の宿舎をさだめここに歩哨を立てた。辛うじて屋根のある家が与えられた。  しかしその他の老人と女と子供とは家と食とを求めて街にあふれ、外国人の教会や慈善病院に裏切られた怨みを口々に呟いていた。彼等を怨むのは今も尚彼等にたよっている証拠でもあった。かの美しき鬚をもった天主堂の僧やアメリカの慈善病院は一度難民を拒んだことを後悔しはじめた。平和克復ののちに難民はもう天主堂を尊敬しなくなるかもしれない。そこであらためて彼等を収容しはじめた。聖なる神の御堂も民衆の信頼をうしなうよりはその土足に汚される方が得策であった。また支那の赤十字社ともいうべき紅卍《こうまんじ》会病院などに収容されたものもあった。  しかし九江の難民は日に日に殖えて行った。下流馬当鎮や彭沢や湖口の方から追われたものが段々に江をさかのぼって九江にはいって来るのである。おびただしい数の民衆が平和をもとめ安らぎの土地をもとめて逃げまわっていた。しかし上流漢口から下流湖口のあたりへかけて、さらに占領地区をとりまく支那軍の駐屯地一帯にかけて、民衆のやすらぎの土地がどこにあろう。 自従出了老介   閙得地覆天又翻…… 親愛同胞遭禍災   大戸人家財産尽 小戸人家変砲灰   叮叮叮…… 損失数目実難猜   公敵就是介石 難民不尽滾々来   無衣無食無遮蓋 生活艱苦実難挨…… 呼和平快到来!  しかも支那軍はさらに多くの難民をつくった。九江の対岸小池口《しようちこう》の下流あたりで、軍夫を使役して長江の堤防を切ったのである。霖雨ののちに満々とたたえていた濁流はたちまちはげしい勢いで北岸に流れこみ、感湖《かんこ》と太白湖《たいはくこ》とを継ぎそのあたり一面の平地をひたしつくしてなおも北にのびついに黄梅の街にさえも迫って行った。黄河の堤防を切ったときの成功を思い、今一度あのときの策略を用いようとしたのだ。そのためにこのあたり一帯に住んでいた農民たちは漸く伸びてきた稲田を見る見る湖の底に沈められ、家をうしない道をうしない土地を失って、ここにまた数千の難民の群れとなって放浪しなければならなくなった。堤防を切ったものは軍夫になっている九江の難民である。難民がさらに難民をつくりはじめたのだ。  もはや九江の支那軍は狼狽していた。湖口には日本軍が続々と集結している。数日のうちに九江は襲われるに違いない。たのみとするところは堅固な陣地以外にはない。彼等は軍夫を追いつかって至るところに陣地を築いた。川岸の土堤上にある民家はその床の下をくり抜き川に面した土台を堅固な煉瓦でたたみここに銃眼をひらいた。上陸しようとする部隊をここで食い止める。船着場の川岸は数町のあいだ全部をトーチカに造りあげ江上から船がちかづけないようにし、更にその前に機雷を無数に沈めた。しかもトーチカの背後にある家屋の屋根には一つ残らず英国米国の国旗を空に向って大きく描き、トーチカを空爆しようとすれば、外国の旗が邪魔をするように造りあげた。英国商館に交渉してその厚い煉瓦塀に銃眼をつくり裏は防空壕にして外国権益の建物の中からでも戦えるような装置にした。  それから日本軍を上陸させないように湖口の対岸一帯に鉄条網を張りめぐらし四通八達の壕をほりまわし、九江に至るまでの山地にはあらゆる頂《いただき》に無数の陣地をこしらえた。数万の兵はその配備につき弾薬は充分に用意された。最後に、増水によって九江飛行場わきの川が氾濫して湖になり、しかも湖面が飛行場よりも高くなっているのを利用して、この堤防を破壊した。いうまでもなく逃げる時の用意であった。飛行場はまたたく間に六尺の水底に没してしまった。彼等はどうせ九江を棄てて逃げなければならないことを承知のうえで、ともかくも一応はふせいで見るつもりであった。  いよいよ万端の戦備がととのうと今度は、南潯鉄道のレールをはずして後方に運び、枕木は一本残らず湖水のなかに投げこんでしまった。退却するときには歩いて行かなければならないことになった。 船 舶 部 隊  漢口戦線は南北二路にわかれ、六安《ろくあん》、商 城《しようじよう》、固始《こし》から京漢《けいかん》線をつき、又は大別山を越えて麻城《まじよう》の方から漢口に迫ろうとする北部戦線の数個部隊は東久邇宮《ひがしくにのみや》殿下が司令官として統率せられていた。そして揚子江に沿う南方戦線一帯に配備せらるべき数個部隊は○○本部が統率した。そのほか部隊に編入されていないものが幾つもあった。戦闘部隊としては戦車隊とか重砲兵隊とか特殊な機械化部隊とか特殊な工兵部隊などが軍直属部隊として○○本部の命令下にあり、戦況によって適当な部隊に配属を命ぜられながら転戦することになっていた。この方面には賀陽宮《かやのみや》殿下もその一員として本部に加わって居られた。また兵站部隊、病馬廠なども軍直属部隊としてその直接命令によって動いていた。自動車隊、衣糧廠、砲兵廠、工兵廠なども軍直属部隊ではあるが、兵站部隊に配属されてその指揮下におかれていた。  いま、武漢にせまる長江作戦中の花ともいうべき九江攻略をまえにして、湖口は○○本部のめざましい活動の舞台となっていた。  北と東とに揚子江と陽湖をめぐらし、星子、九江、大王廟をつなぐ三角地点は水の中に突出した半島の形をなしている。攻撃は先ず敵前上陸から始められなくてはならない。この時の上陸作戦に選ばれたのは宮森部隊と杉浦部隊との二つであった。両部隊は集結命令をうけて彭沢から湖口あたり一帯に続々と集結し待機していた。宮森部隊は○○出身の部隊で国防上の必要からふだんでも敵前上陸の訓練を積んでいるので、この場合には一番都合のよい部隊であった。  友田兵站は後方参謀の命令によって大量の弾薬と糧秣とを集積した。部隊が敵地に上陸したらすぐそのあとを追って弾薬を補給し食糧を送らなくてはならない。そのために更に沢山の船を下流から集めた。  これらの船舶輸送に当っている者は軍人でも軍属でもなく、軍夫として出征している漁師や船員たちであった。彼等の仕事が相当に危険の多いものであることから九江占領後になって全部を軍属として扱うことにされたが、当時はまだ軍夫の待遇しか与えられてはいなかった。ふだんから海で鍛えられているこの人たちは勇敢で向うみずで荒っぽい仲間ではあったが、船を愛することと船の扱いとにかけては軍人よりも優れていた。大部分の乗組は船が徴発命令をうけたときに船と一緒に徴集された人たちで、日本で扱い馴れた船にそのまま乗り込んでいるのであった。中には全身の見事な刺青《いれずみ》を青々と光らせながら鼻唄まじりで甲板を洗うものもあった。  この集団のあいだでは他の軍人たちとは違った義理人情の世界があって、指揮に当っている下士官や若い将校を悩ますのであった。しかし一梃の銃も短剣も持たない軍夫たちは、あるときは敵前上陸にも参加し、また機雷網をくぐって航行しながら、その不敵の魂の強さと日常生活の明るい元気な態度とにかけては軍人に劣らないほどたのもしい者であった。  船の乗組はやはり戦地でも一つの世帯をつくっていて、炊事も寝泊りもみな船の上であった。顎鬚を生やした濁声《だみごえ》の舵取りの男があった。もう四十ちかい漁師出のおやじで、水夫の青年と二人で青菜を樽に漬けこんでいた。青年はおとなしく青菜をならべては塩を振っていた。菜は多すぎて樽に一ぱいになった。すると鬚の男はやッと掛け声をかけて地下足袋のまま樽の上に跳びあがり、両足でぎしぎしと青菜を詰めこんだ。若い水夫はにやりと笑ったばかりで黙って見ていた。やがて漬物ができたとき、地下足袋の底に蹈《ふ》みにじられた青菜を彼等は気にもかけずに食おうというのであった。  湖口にはこうした船が何十隻となく集結してちかづいて来た出発命令を待っていた。対岸からはときおり砲弾がとんで来てこの狭い街を鳴りとどろかした。友軍の爆撃がくりかえされていたが、敵は一向に後退しなかった。爆撃の効果には一定の限度があって、敵の全線を後退させてしまうほどの威力は期待できないもののようであった。最後には歩兵の突撃によって日章旗を突っ立てなくてはならない。空襲は大王廟から陽湖の岸一帯にくりかえされていたが、一地点に集中することなしに全線に爆弾をばら撒いていた。それは敵前上陸に予定している地点を敵に感づかせないためであった。  船舶隊の軍夫たちは湖口の岸から空襲のすさまじさを遠く眺めながら船べりに踞《うずくま》って仲間の男に叫ぶのであった。 「おうい、今夜のおかずは何にしよう」 「何と何とあるんだ。それからまず申上げろ。無い物は食えんじゃねえか」  船の台所は兵隊よりも豊富であった。徴発品の豚肉と生きている家鴨《あひる》が二羽と鶏が三羽、鶏は籠に入れたまま水の上へ吊してあった。甲板に置けば糞を垂れて困るのと、水をやる世話が面倒だからであった。 「家鴨をやってしまおうか」  家鴨は足に紐をつけられて水の上を游《およ》いでいたが、船頭に紐を手繰られると羽をばたばたさせながらさかさまになって上って来た。男は家鴨を脇の下にかかえ込むと出刃を持ってすぱりと首を落し、赤い血を湖面にたらたらとしぼった。暮れかかって黒ずんだ水面にはたちまち無数の鮠《はや》が集まって、流れる血をすすり浮んだ首をつつきはじめた。さらにこの貪欲な魚たちを喜ばせたものは臓腑と羽毛がついたままの皮であった。羽毛は揚子江を吹きあげてくる夕方の風に吹かれると、無数の小さな帆掛船のように群れになって水面をはしりだし、敵の守る大王廟の岸にむかって軽々と滑って行った。隣りの船の男は臓腑と血とに集まって来た鮠の群れのなかへしずかに釣針を沈めていた。  本部が予定した上陸地点は、対岸大王廟から数キロほど陽湖にはいったところにある殷家胡庄《いんかこしよう》であった。空軍の偵察によればここにも敵は密集し陣地を築き、湖岸には数段の鉄条網をも張りまわしてある。かなりの激戦は覚悟しなくてはならない。しかし此の地点を選んだ理由は、上陸が成功すれば湖口正面の敵がたちまち側面を衝かれて後退を余儀なくされるということにあった。ただ参謀が一番心配したのはその付近の湖中に機雷を沈めてはないかという点であった。上陸部隊をのせた船が岸につく前に爆沈してはたまらない。参謀は海軍にむかって意見を訊いてみた。海軍でも確実な返答はできなかったが、種々な点から考えて多分機雷はないであろうと思う、という返事であった。  作戦計画は成り準備はととのうた。岸に集結した船舶隊は上陸部隊を追うてすぐに荷揚げするために糧秣や弾薬を満載した。またある船には野砲を解体して積みこんだ。小型戦車や装甲自動車やトラックを積んだ船もあった。  軍艦は揚子江のすこし下流に碇をおろして、進撃がはじまれば上陸部隊の掩護射撃をしようと待ちかまえていた。その上流には軍隊を上陸させるために、特殊な装置をした沢山の船が集結されていた。これは船舶工兵の今坂部隊で、事変がはじまって以来、敵前上陸に参加すること十数回という熟練した隊であった。事変が始まって間もない八月に北支に兵を上げてから、杭州《こうしゆう》湾の上陸、間庄《かんしよう》のクリーク戦を終えて、十一月には揚子江に来て白茆口《はくぼうこう》に大部隊を上げ、クリーク伝いに蘇州《そしゆう》から太湖をわたり湖水の向う岸に大軍を上陸させて奇勝を博し、鎮江《ちんこう》に転戦して部隊を北岸にわたし、翌年の一月には再び青島《チンタオ》へまわって海軍と協力もした。そのころ広東攻撃の計画があって某地に待機を命ぜられたが、計画中止とともにまた中支へもどり、今度は九江攻撃に参加することになった。謂わば母国には何の名誉をも伝えられない部隊で敵前上陸の歩兵隊の華々しさのかげに黙々として船を操り、戦捷の報道のかげで静かに満足している栄えない部隊であった。しかし名声によって酬いられることの少ないこの部隊や輜重隊や衛生隊の兵士たちには、飛行隊や歩兵たちには見られない一種の平和な感情があるようであった。彼等はその果して来た仕事の意義を自分たちだけで知り自分たちだけで満足しているという風な、いわば名利をほしがる事を断念した者のもつ諦《あきら》めに似た落着きを示していた。 「内地の新聞は俺たちの事は何も書いてはくれねえな。いかにも山一つ取ったじゃなし、トーチカ一つ壊しもしねえが、俺たちだって苦労はしているんだぞ。不公平だな」  時にそんな不平を洩らす者もあるが、 「新聞記者に不平を言ったって始まらねえや。文句を言うな、文句を。俺たちの事は隊長が知っててくれらあ」  仲間のものはそう言って慰めてくれるのであった。 敵 前 上 陸  七月二十二日、廬山の連峰は終日雲のなかにかくれて麓の方だけしか見えなかった。真夏の炎熱がこの日はすこしくうすらいで、曇りがちな一日であった。おそらくは明日から雨がくるだろうと思われた。  突然、本部からの命令が宮森部隊長のところに通達された。「出発準備、全員乗船せよ」  参謀将校たちは明るい星空の下で行動することの不利を思うて天気の悪くなるのを待っていたのだ。  晩飯を早目に食いおわるとすぐに、宮森部隊は戦闘準備をととのえ、弾倉に一ぱいの弾丸を押しこみ、携帯口糧を腰にむすびつけて今坂部隊の鉄舟にどかどかと乗りこんで行った。すると歩兵たちはやがて始まるであろう戦闘と自分たちが獲得しようとしている名誉とを思うて昂然となり、または緊張に唇を堅くして銃を撫でまわしなどしながら船の中に膝を抱いてびっしりと踞った。工兵たちは自分たちも同じ危険を冒《おか》して岸までは行かなくてはならないが、それから先の奮戦と名誉とを遮断されている立場をつまらなく不自由なものに思い、黙って歩兵たちを眺めはじめるのであった。  船は幾十隻となく岸に群れたままで夜が更けて行った。空には全く星かげもなくて、揚子江は闇の底に水音ばかりをひびかせ、時おりちらちらと走る波頭が不気味に白く見えた。十二時をすぎる頃から暗い雲のなかに稲妻がひらめきはじめた。雨になるかもしれない。幾千の兵隊を積んだ船団は人一人もいないほど静かに江岸に息をひそめていた。今のうちに眠っておこうとして銃をかかえたまま膝の上に頭を垂れて眠っている者もあったし、もう腹をへらして携帯口糧を齧《かじ》っている兵もあった。  しばらくして川岸に懐中電燈の光がちらついて数人の将校がやって来た。準備完了の報告が部隊ごとにひと声ずつ暗いなかで叫ばれた。二十三日の午前一時四十五分であった。 「煙草を喫うものは今のうちに喫っておけ、行動をおこしたら絶対に喫煙してはならん」  岸の暗い草むらから将校らしい声がした。すると急にあちこちでマッチをすりはじめた。ほのかな光のなかに今まで見えなかった無数の緊張した顔が浮んでは一瞬にして消えた。船べりから小便をする者がつづいた。決死の戦闘を寸前にひかえて彼等のしなくてはならないのはそれだけのことであった。  午前二時、今坂部隊長は部下の隊長たちにむかって命令した。 「第一中隊から順次出発。一列縦隊」  突然、闇のなかで数十のエンジンが鳴りはじめた。まもなく、指揮官をのせた○○艇を先導にして一隻ずつそのあとに続いた。船列は江と湖との境をめぐって南に方角をかえ、そのまま湖口の街の寝静まった姿を左に見すごしてまっすぐに走って行った。船のなかの兵士たちは間もなく右岸からまきおこってくるであろう銃砲火を期待しながらお互いに肩を組み肱をからんでじっとしていた。夜半の湖上の風は冷えて戦友のからだの温かみがしみじみと胸をあたためるようであった。ときおり稲妻が右手の空の雲の奥からひらめき、そのたびに廬山の雲をかぶった姿が黒々と空に浮んでは消えた。エンジンの音をひそめ、速力をおとして船列はまっすぐに南へむかって行った。  右岸の敵陣は静まりかえってまっ暗な夜の底に眠っていた。まだ気がつかないでいるに違いない。前を進む船の残してゆく波の白さばかりが冷えびえと胸にしみて、兵士たちは気味のわるい反省をさせられるのであった。郷里のこと、家族のこと、転戦して来た自分のときおりの姿、まだ生きていることの奇妙なおそろしさ。しかしこういう反省を彼等は味わいたくなかった。もう幾度か同じようなせっぱ詰った感情を強いられ、その苦しさが今ではただ愚かしい未練や愚痴にすぎないことをよく知っていた。ぶつからなくてはならないものは早くぶつかって来てほしかった。その時には何もかも忘れて戦い抜く。敵陣を突破して凱歌をあげたとき、そのときこそ明るい晴ればれとした気持で故郷の思い出や家族のおもかげに向って万歳を絶叫することができる。  兵士たちは船底に腰をおろし、背と肩とをお互いにもたせかけたまま、静かに弾丸を装填《そうてん》し、またはかすかな音をたてて安全装置をはずした。一瞬間、満天の密雲を光らせて稲妻がひらめくと、ひろい湖面とまわりの黒い山々のうねりとが襲いかかるような恐ろしい形をしているのが見え、幾十となく一列にならんだ船のはしってくるのが妖しい幻のようにふッと浮んでは消えた。その一瞬の明るさの中で兵士たちは、静まりかえった自分の船にいた戦友たちが意外に大勢であることを感じ、誰もみな銃を握りしめ眼を見張って右岸を凝視している姿を見た。敵陣はまだ気がついていないようであった。ときおり淡い光が見えたり消えたりするのは夜の巡回をする兵の懐中電燈であるらしい。うまく行けば大して撃たれることなしに上陸できるかもしれない。  先頭の○○艇の眼のまえに黒い小島が迫ってきた。それは水路の中央に浮いた岩だらけの小島で頂《いただき》に寺が一棟《むね》だけ建っていた。ここまで来ると先頭は急に直角に右へ回った。 「右旋回!」の命令がひと声ずつ前の船からうしろの船へ叫ばれた。一列縦隊はここで一列横隊になった。岸までは一キロばかりしかない。このまま岸にむかって並行にぶつかって行こうとするのだ。右にも左にも戦友をのせた船がいた。ひたひたと水はふなべりに鳴りゆるやかに船は傾きながら進んだ。  左の船から叫ぶ声がきこえた。 「着け剣!」  するとこの船の指揮官はまた右隣りの船にむかって叫んだ。 「着け剣!」  兵はみな腰をさぐっで剣をぬき、がちッと銃のさきにはめた。もはや、数分のうちに戦闘ははじまるのだ。  B18号艇は船列のほぼ中央にいた。この船の機関手をつとめている笹元上等兵は長い鼻髭を生やした痩せて頬骨の尖《とが》った男であった。彼は激戦を寸前にひかえた物おそろしい沈黙にその魂をゆすぶられ、エンジンの傍に片膝をついて向うを睨《にら》みながら段々に興奮しはじめた。一瞬の稲妻が雲のなかに火柱を走らせて消えた。岸までは三百メートル位しかないのが見えた。笹元上等兵は船首に造った銃眼のあいだに機銃を据えてねらいをつけている一人の歩兵の背を稲妻のあいだに見てとった。再び闇が濃く湖面をかくした。笹元は隣りに坐っている見知らない歩兵の腕をぐっとにぎった。 「歩兵さん、やってくれよ、やってくれよ! 勇敢にやってくれよ」 「やります」と歩兵が声をひそめて答えた。  ひと筋の光った弾丸が長い尾を曳いて船列の頭のうえを越え、だあン! という胸を叩くような響きが水面に反響して鳴りわたった。それが敵陣の攻撃合図であった。発見されたのだ。稲妻が船の位置を見せてしまったに違いない。船の中の歩兵たちは一度に背をまるめて腰を浮した。攻撃姿勢である。  たちまち向いの岸からは猛烈な射撃がはじまった。機銃の火が点々と狐火のように一列にならんで光った。迫撃砲が不気味な唸りをたてて頭上を越えて行った。鉄舟に当る弾丸が鋭く短い音をたてた。すると船列の左の方から「全速力!」の号令が叫ばれ、次々と右端の船まで伝えられた。笹元上等兵はエンジンに飛びついた。船列は急にごうごうと唸りをあげ船首から高く飛沫《ひまつ》をとばして走りはじめた。しかし機関銃手は舳《へさき》に伏したまままだ撃たなかった。船は非常な勢いで火を吐きつづける敵のなかへまっしぐらに進んだ。誰も物を言わず、誰も呼吸さえしていないようであった。ほとんど身じろぎする者もなかった。赤く光った弾丸の尾が船底に伏している歩兵たちの丸い沢山の背をほのかに照らしては通過した。  船首の機銃が一斉にうちはじめた。うちながら船はひどい勢いで岸にむかって走った。あと百メートルもなかった。敵は手榴弾をなげはじめた。すると岸の水ぎわは炸裂の火であかあかと見えた。戦列のうしろから水ぎわにむかって迫撃砲をうってきた。これまた岸の草のなかで作裂し、丈の高い夏草を燃やしはじめた。岸は火薬の光と火花とで仕掛煙花《はなび》をかけたように壮観華麗をきわめた。この炸裂する火花にむかって船列は気違いのように突っこんで行った。四十メートルから三十、二十とせまり、不意に船底はがりがりと砂礫《されき》の音をさせた。歩兵たちは銃をつかんで頭をあげた。船首は岸につきあげ草むらを折りひしいで止った。その衝撃で一度よろめいた歩兵たちは次の瞬間ふなばたを跳《おど》り越えて一度に草と水とのなかに散らばった。 「後退!」と艇長のさけぶ声があちこちで聞えた。草むらまで乗りあげた船はふたたび船底に砂礫の音をさせながら素早く岸をはなれた。着いてから出るまで実に十秒とはかからない程に早かった。炸裂の火花で見ると数百メートルにわたるこの岸に突きあげた船列が再び全速力で岸をはなれるのが、映画を一齣《ひとこま》ずつ切りはなして映写するようにひろい闇のなかできれぎれに見えた。  B18号艇の笹元上等兵は後退する船のふちにつかまって、いま置いて来た歩兵たちの動きをじっと見つめていた。炸裂弾はそのあたりに殊にひどいように思われ耳を聾《ろう》する音は山も湖もが底の底からゆらぎはじめたかと思われるほどであった。鉄鋏をもった兵が鉄条網をきりひらいているのが、逆光のなかにそれらしく眺められた。大きく肩を振って手榴弾を投げたらしいシルエットも見えた。しかしそれも刻々に遠ざかって、やがて人影の見えなくなった岸に炸裂する火光ばかりが見事な夜景を見せるだけになった。笹元上等兵は左腕をまくりあげて肱の下あたりを堅く口で咥《くわ》え岸の方を眺めながらぼろぼろと涙をながしていた。彼が歯でかみしめている腕の肉のなかには、さっき岸についた時に敵弾が穴をあけていたのだ。船群は再び縦列をつくり、全速力で湖口にむかって引返して行った。銃砲火もその響きも次第に遠くなって工兵たちの心は疲れ切った弛緩《ちかん》に沈みはじめた。船はようやく小さなカンテラをとぼし、うすい光のなかで艇長は人員の故障をしらべた。上陸まぎわに負傷した数名の歩兵をのせて帰る船もあった。笹元は戦友に包帯をしてもらった。 「痛いかい」  すると彼は沢山の血を飲みこんだあとのしわがれた声で笑った。 「なんの、これしき、歩兵をみろ、歩兵を」 「顎の血を拭け」と艇長が言った。その声は部下の負傷を思うかなしみにふかく沈んでいた。  船列は湖口にちかくなってから二十隻ばかりの船団とすれ違った。それはいまの上陸地点にむかって砲と砲弾と糧秣とを運んで行くのであった。デッキに馬をならべた船もあった。夏の夜が早くもあけようとして、湖の水がにぶく光りはじめ、空を掩うた雲の厚さが見えて来た。輸送船は黒い煙をのこしてうすい闇のなかに遠ざかって行った。  湖口につくと工兵隊の船はふたたび杉浦部隊全部を対岸にわたすために乗船させた。出発のときにはもうすっかり朝になっていた。笹本は包帯の腕をまくりあげ同じ船にのりこんでいた。何のこれしき! と彼は歩兵たちにむかって昂然と笑った。船列の頭のうえを越えて五台の飛行機が敵陣を爆撃しに飛んで行った。  歩兵も第一回の上陸部隊がもう行っているので、ずっと気持も楽々として彼の元気な話を聞きながら煙草を喫っていた。あの湖岸はもう占領されていると皆が信じ、誰も疑うものはなかった。 九江掃蕩戦  馬当鎮にいる瀬田兵站に属する部隊は退屈な日々をすごしていた。湖口が占領されてからは糧秣や兵員の輸送も警備隊だけの少数なもので、患者は南京に後送した残りの軽傷者とマラリヤ患者だけだし、病馬廠の馬たちも元気をとりもどしていた。兵隊は裸になって魚を釣ったり銃をもって食糧の徴発に出かけるほかはする事もなくて困っていた。酒もビールも煙草も船でとどけられ部落のなかを酔って歩いても何の危険もないほどに平静な日々であった。  湖口から対岸への敵前上陸が敢行されたという噂が下りの船でもたらされた直後、後方参謀からの命令が兵站本部にとどいた。 「占領とともに九江に前進すべし」  九江はまだ陥ちてはいない。しかし陥ちることを予定しての前進命令であった。そして兵站隊長もまたこの命令に何の疑問をも抱きはしなかった。兵隊たちにしても、「今度は九江だぞ」と話しあいながらそれを当然のことと思っていた。誰ひとりとして「九江が陥ちなかったらどうする?」と疑ってみる者はなかった。攻撃すれば必ず陥ちると、最高幹部から一兵士にいたるまで信じており、陥ちないかもしれないと疑う気もなかった。日本の作戦は戦線が進んだときのことしか考えてはいなかった。恐らくは、支那軍の参謀は戦線が退いたときのことしか考えないであろう。上海戦以来、敵は壕をほりトーチカを築くことばかりをくりかえし、日本軍はトーチカをこわし壕を占領することのみをくりかえしてきた。戦いのつづく限りこの二つの立場はまもられるに違いない。 「漢口をとったら次には広東もとるんだろうか」 「勿論広東はとるさ。それで終りにするんだろうね」 「いや、分らん。重慶《じゆうけい》まで行くかもしれん」  兵隊はそんな話を誰でもがしていた。敵が幾十万居ようとも、どれほど堅い陣地があろうとも攻めさえすればどこだって陥ちると思っていた。戦争というものは進むだけのものだと思っていた。「九江へ前進!」という命令をうけると、瀬田兵站の各部隊は、まだ陥落もしない、のみならず敵が機雷とトーチカと砲弾とで必死にかためている九江へ行くために、まるで週末の旅行にでも出かけるように気軽な鼻うたをうたいながら沢山の荷造りをはじめるのであった。  陽湖の岸に上陸した宮森部隊とそのあとにつづいた杉浦部隊とが九江を占領するまでには三日かかった。その途中は低い小山や丘がいくつとなく並んでいて、戦闘は夜昼ぶっとおしに続けられた。湖口対岸の大王廟から獅子山《ししざん》砲台の方の敵は上陸部隊に後方を遮断されることを恐れて戦意をうしない、さらに第三回目の上陸部隊に押されて江岸にそう街道を九江にのがれ去った。  この激戦の三日間は湖口にある友田兵站の一番いそがしい時であった。湖岸から前線へ輸送に行ったトラックが帰りには傷兵を載せて来る。それを船がうけとって、湖口へ連れてくる。すぐに病院に収容して手当をしなくてはならない。数万の兵にむかって弾薬と糧秣とを対岸におくるだけでも湖口の岸壁は大変なさわぎであった。苦力《クーリー》が足りないといえばそれもかり集めて来なくてはならない。そこへ前線から遺骨がかえってくる。これは一室に安置して名札をつけ原隊へ報告もしなくてはならない。足りなくなった物資は後方へ注文して早くとり寄せねばならない。そこへ内地から郵便が山のようにくる、それを区分して前線へ送る仕事もある。すると今度は新しい部隊がくる、九江がおちたらすぐ入るために憲兵隊が来たし歩兵部隊もきた。それらには宿舎の世話もし食事も給与しなくてはならない。陽湖の水を濾過して湖口の街にいる兵隊全部に飲料水を配給してやるという仕事もある。 「こう忙しくてはたまらんねえ。早く九江が陥ちてくれればいい。そうすると暇になるだろう」  髪に白毛のまじったもう五十六、七になる友田部隊長も事務室で部下にそう言って笑っていた。数百の部下を指揮して大軍の後方任務をゆるぎなく支える人とは思われないほど、いつも微笑をたたえいつも温厚な機嫌のいい将校であった。彼は部下の一准尉にさえも、「それは御苦労でしたねえ、今日はもうゆっくり休んで下さい」という風に敬語をつかう人で、若い将校などはふと郷里の父親を思いだすような気にさえなるのであった。  しかしその忙しさも四日目にはばったりと暇になった。九江占領の報知が湖口にいるあらゆる将兵の心をほっと安らかにさせた。  九江への突入は海軍の方がひとあし早かった。軍艦が二十五日の朝はやくから港岸にせまって砲撃のつるべうちをあびせ、空軍もまた水ぎわにびっしりと並んだトーチカの群れを充分に破壊しつくした。そしてこの日の夕方、陸戦隊土師《はじ》部隊が小艇をもってまだ機雷のたくさんにある江岸にのりつけ川岸一帯の陣地を占領した。陸軍はちょうど裏側からせまって城門を攻撃している最中で、砲声は江岸までとどろきわたっていた。戦闘は夜を徹してつづけられ、七月二十六日の早朝陸軍が城門を突破してはいった。市街地の掃蕩は三時間で終った。露地から露地をかけまわって敗敵を追う兵士の耳に、遠くちかく、幾度となく万歳の声がきこえてくるのであった。それは戦友が何か重要な建物を占領したとか敵の砲を鹵獲したとかいう合図ともきかれた。敵を追う兵士たちは銃剣をかざし砲弾の穴をくぐり、あたりに油断なく眼をくばり、または逃げようとする敵の背から胸にかけて力まかせのひと突きをあびせながら、味方の万歳がきこえてくるたびごとに、血のしたたる銃剣をかざし、二人か三人かの仲間と一緒に万歳を叫んでむこうに答えては走りまわるのであった。どうかすると塀の穴からとびこんだ建物の庭にまっかなカンナの花が朝の日に咲き群れていたりした。殊に大きな向日葵《ひまわり》の花が多かった。妙に褪《あ》せた青色の朝顔が荒地のいたるところに咲いていた。栴檀《せんだん》かなにかの茂った街路樹の下にうつ伏した敵の死体からは舗道に吸いこまれない血がながれて、乾かないうちに青蠅がたかっていた。敵を追うて横道へかけこむと不意に静まりかえって青々とした湖水の岸に出たりした。湖水のむこうには晴れた空に廬山が堂々とした全姿をさらしていた。この山が美しければ美しいほど、国ほろびて山河ありというような無常観が占領の歓喜をふとさびしくさせるのであった。  全市いたるところに外国旗を門扉にしるした家があって兵士たちをむかむかさせた。外国家屋の大きな鉄柵をめぐらした見事な芝生の庭をかけ抜けて行く敗敵の背なかをも幾度か見た。  こうして九江は陥落した。武漢作戦の第一の要衝というべき九江は皇軍の手におちた。しかし本当の武漢攻略戦は九江を起点として始められるべき状勢であった。困難はむしろ占領以後にあった。 難民とコレラ  戦闘部隊に次いで最初に九江に乗りこんだのは憲兵と衛生兵とであった。  憲兵部隊は江岸に上陸するとすぐそのあとを追うて敵の弾丸をくぐりながら日本刀と一梃の拳銃とだけをたよりに上陸した。掃海を終っていないこの川岸には機雷がいくつあるかわからなかった。憲兵が上陸して間もなくその一つが爆発した。引っ掛ったのは今坂船舶工兵隊の鉄舟で、乗っていた五人の工兵と堂大尉を隊長とする数名の兵とが、川岸の街路樹の二倍も高く吹きあげられた。  憲兵は上陸まえの命令にしたがって五名ずつの一団となって街にはいった。彼等に与えられた任務は友軍の軍紀風紀のとりしまりもあるが、外国権益に対する処置が主たるものであった。まだ占領しないうちから漢口憲兵隊というものが組織されていた。彼等はそのなかの九江分隊という肩書きをもっていた。  海野軍曹の引率する一団は川岸から旧英租界にはいった。早朝の冷気がまだ残っていて、新しい死体の下の土が夜露で黒々とぬれていた。いくたびか彼等は敗敵にぶつかった。原伍長は蒼ざめた顔のまだ若い青年であったが、敵を見つけると唇を反《そ》らして恐ろしい早さで迫った。しかし隊を離れないために途中から帰って来た。一度、彼は露地の角で袈裟がけに斬ったが、片手薙《な》ぎで力が弱かった。敵はふりむいてがむしゃらに刀を握った。原伍長がぐっと刀を引くと四本の指がぽろぽろと土に落ちた。ちッ! と唾を吐いて彼は血刀をぶらぶらさせながら苦々しそうに軍曹のところへ戻って来た。あちこちの道裏から歩兵たちの叫ぶ万歳がきこえて、一郭々々と掃蕩ができているのが察しられた。  彼等は門扉に外国旗を描いた家を見つけると鉄柵や土塀をのり越えて調べて行った。本当の外国人の家には、皇軍入るを禁ず、と白墨で書いて行った。中には住民が十人以上もかたまって慄《ふる》えたり拝《おが》んだりしている家もあった。敗敵がかくれていない限り一応はそのままにしておいて、後日調べあげてから敵産として没収すべきものは外国旗の有無にかかわらず没収することにした。彼等を一番怒らせたものは外国旗をつけた家屋の塀に銃眼が造られトーチカができていることであった。  海野軍曹の一団は途中で出あった青山憲兵少尉たちと一緒にフランス天主堂へ行った。豪壮な高い建物のなかに街の難民が一ぱいに群れて砲声におののき首をちぢめて踞っていた。青山少尉はかの美髯《ぜん》をもった僧に向って言った。 「日本軍がこの街を占領した。ついては難民の処置は当方で決したいから全部を引きわたして貰いたい」 「戦勝をお祝い申します」と僧は慇懃《いんぎん》に言った。「しかし難民はお渡しできません。当天主堂でもって保護いたして居ります」  日本軍の手から民衆を守っておくことが即ち民衆に信頼をうることであった。僧はその国の威厳をもって拒んだ。 「それは困る。難民のなかに敗残兵が居るかもしれない」 「いや、一人も居りません」と僧は笑って髯《ひげ》を振った。 「たとい居たところでそれは私の保護しているもので、今後は敵対はしないでしょう」 「どうしても難民を引き渡さないというのか」と少尉は怒って言った。 「そうです。私が保護しております」と彼はまたくりかえした。  難民たちの不安におびえた眼に見送られて憲兵たちは天主堂を出た。野砲の五、六門もならべてこの教会をこなみじんにこわしてやりたい気持であった。いかに多くの外国が日本を憎んでいるか、いかに彼等が支那を良い餌食として、日本の進入をきらっているか。憲兵たちは心がさびしくなるほどそれを九江で感じさせられた。日本がただひとりの憎まれっ児で、みなから虐待されながら懸命になってひとり生き抜こうとする姿が思われて、胸が堅くなる気持であった。  天主堂からほど近い大通りの石造りの銀行を占領し、彼等はここを漢口憲兵隊九江分隊の本部とした。玄関まえの塀には抗日宣言が二尺四方くらいの大文字で書かれてあった。  無防空即無国防。抗戦到底。滅殺漢奸! 信頼委員長。徹底三民主義。  市街地の掃蕩が終るとすぐに衛生隊が上陸した。まず負傷兵を適当な建物に収容して手当を加えなくてはならない。それから市内の衛生状態をしらべて疫病の流行をとりしまらなくてはならない。  占領したその夜からあちこちの部隊であやしい患者が出てきた。はげしい吐瀉《としや》と下痢だ。患者は一時間もたたないうちにげっそりと衰えてしまう。二時間もたつともう昏睡におちる。コレラだ! 衛生隊員たちはぞッと身慄いを感じた。患者は一夜のうちに二十名を越え三十名に達した。隔離と消毒とが夜を徹して行われた。  その翌朝、彼等は市中のいたるところに打ち倒れている難民の姿を見た。吐瀉物と汚物とのなかに倒れ、夏の烈日に照りつけられながら、青蠅と砂ほこりとの立ちまう底に横たわり、うつろな眼をひらいて大空をすぎる飛行機の群れを眺めている。それが大通りや露地うらや至るところに、まだ片づけられない死体と並んでころがっている。ああコレラだ! コレラがいま九江の市街を不意に襲うたのだ。  衛生兵は憲兵隊をたずねて海野軍曹に会った。 「捕虜が居りますか」 「居ります」 「二、三人の捕虜に面会させて下さい」 「どうするんですか」と肩のずんぐり肥えた軍曹は不審な顔をして言った。 「敵軍の衛生状態について訊問《じんもん》したい事があるんです」  軍曹は捕虜収容所まで彼を案内した。途々《みちみち》、いくたりかの難民がコレラでうちたおれている傍を通らなければならなかった。  捕虜の答えによって、敵の九江にいたあいだは一人のコレラ患者もなかったことが明らかになった。コレラは日本軍の進入とともに不意にこの街を襲うた。その原因はわかっている。  九江には水道がない。市民は揚子江の水を汲んで使うかまたは井戸を使っていた。どの井戸にも清水がたたえられていて、兵隊も難民もがぶがぶと飲んだ。井戸のある家の門には赤い大きな字で井と書いてあった。その文字は新しくて、書いてから三日と経ってはいなかった。退却するまぎわになって敵兵がこの井戸にコレラ菌を投げこんで行ったのだ。それは日本兵をも冒した。しかしそれ以上に九江の難民を冒した。一昼夜を出でずして九江全市はコレラ菌で充満した。  衛生部隊は緊急のしかも思いきって断固たる処置をとらなければならなかった。彼等は憲兵隊と各戦闘部隊の隊長とにむかって、部隊全部を市外に撤退してもらいたいと厳重な注文を発した、この街から日本兵を隔離すること、それから難民の患者を全部始末すること。それよりほかに全市にみちたコレラと戦って勝ち得る戦法はなかった。  コレラ菌に追われて大部隊はぞろぞろと市外に出て行った。そこには寝る家もなく休む木陰もない。兵は草いきれの赤土の原にテントを連ねて何日かをすごさなくてはならなかった。九江はがらあきになり、死体と難民とコレラとが全市を占領した。衛生隊はこの街のなかで充満したコレラと戦った。彼等はごく小人数であり仕事はどうにもならぬほど忙しかった。  病院では患者が続々と死んで行った。難民は街のいたるところに古くなった死体と枕をならべて死んでいた。苦力《クーリー》を使って一々焼かなくてはならない。しかし翌日はもうその苦力《クーリー》が道に倒れていた。そして何千万とも数知れぬ蠅が発生し、道を歩くと砂ほこりのように無数の蠅が腰のまわりにとび立った。兵隊と難民とに強制的な予防注射が行われたが、小人数の衛生兵にはどうにもならなかった。  憲兵隊の海野軍曹たちは衛生兵といっしょに再び天主堂をたずねて行った。 「難民を当方に収容してコレラから隔離し予防注射をしたいから引きわたしてもらいたい」  僧は前と同じように頑強に拒んだ。外人経営の病院によって予防や治療をするからいいというのであった。しかも天主堂の聖母像の足もとにはコレラ患者が倒れてうめいていた。  もはやコレラに対する方策はつきていた。衛生材料も不足し人数も不足している。最後のときがきたならば全市街のまわりから火をつけて九江を焦土と化してもコレラを絶滅しなくてはならない。衛生隊はそれほどの事までも考えなければならなくなっていた。  南京の同仁会病院から七人の医師が急をきいてかけつけてくれたのはそういう時であった。彼等は大量のコレラワクチンとともに死を決して疫病の巣窟にはいってきた。その表情は緊張に蒼ざめ、その瞳は神聖な光にぬれていた。死と疫癘《えきれい》の街九江は屍の腐臭が街々にただよい、あらゆる生あるものに迫る死のひややかな感触が辻々にながれていた。  コレラとの戦いは、夜を日につぎ、連日にわたってつづけられた。川岸の一郭に難民区を設定したのはこのときである。この区画のなかを先ず大消毒をしておき、予防注射のすんだ支那人だけをここに隔離した。  はじめ、難民の中には不安な流言があった。注射をして支那人をみな殺すのだ、と。彼等は医者を見るとにげかくれて容易に注射をさせなかった。衛生兵が彼等をかり立ててきた。医師たちは頭から靴まで消毒薬の霧でびしょぬれになりながら食事をする暇もないほど注射をつづけ、その数は八千本に達した。その効果はたちまち現われて、難民区にはいった支那人のなかからはその後は一人の患者をも出さなかった。  しかし、困ったのは天主堂の難民である。コレラは続々と出てくるが衛生隊は手がつけられない。ここをこのままにしておいては九江のコレラは絶滅できない。難民も今では天主堂にいることの危険を感じている。この機会に衛生兵は彼等にむかって言った。 「天主堂を出て来たものには治療をしてやる」  しかし大部分は出てこなかった。最後には僧の方がコレラに手をやいてしまい、あらためて難民の治療をしてくれるようにと頼んで来た。衛生兵は溜飲《りゆういん》のさがる思いであった。彼等が治療のために天主堂へ行ったとき、正面の大きな鉄門がいくら押しても開かなかった。見ると死人とコレラ患者とが地面一ぱいにたおれているために開かないのであった。鉄柵のあいだから手足を出してたおれている彼等の惨憺《さんたん》たるありさまは文字通り正視するにたえないものであった。  こうして九江の難民のなかにはびこったコレラは僅々二週間で絶滅することができた。日本医学の勝利はまた日本軍の勝利でもあった。九江を救ったものは七人の医師のはたらきであった。そして難民たちは難民区に家を与えられて住むことになり、一時郊外に退去していた軍隊は市街にもどって各々の本部をもうけ宿舎をつくった。  これよりまえ、衛生兵の上陸後まもなく、馬当鎮に居た瀬田兵站部隊が上陸し、新たに編成された九江特務機関もきた。難民区を設定したのは特務機関で、難民の衛生に関すること以外はみなこの機関の仕事であった。ここには軍人以外に十数人の軍属がいた。彼等はみな支那事情に精通しまたは支那語の巧みな人たちであった。  難民の一部は日本の保護をきらって外国の病院や教会に収容されていたが、特務機関はこれらに交渉して難民を一人のこらず収容することにした。ある病院では難民が二百人いると云いながら実際にうけとってみると八十人しかいなかった。病人が出ると裏門から道路へ追いだしていたのである。  また、難民に給与する米が不足だと文句を言ってくる男もあった。養われていながら不平を云うのはおかしいと考えてしらべてみると、外国の教会が彼等を一人あたり数十円の金をとって収容し、裏門からひそかに難民区へ追いこんだものであった。難民は金を払ったのに待遇が悪いので不平を言うのだとわかった。特務機関の人たちはこういう外国のやり方に呆れて顔を見あわすばかりであった。  ここに収容された難民ははじめ四千に足りなかったが、廬山や地方に逃れていた住民が戦争のすむのを待ってもどって来たのでやがて五千人ちかくなった。さて、これらを養ってやらなくてはならない。苦力《クーリー》を使って毎日粥をこしらえて配給したこともあった。一日に四十俵の米が難民のために消費された。みなはるばると上海なり内地から船で送って来た貴重な米である。これでは養いきれないので、各自に食糧を買わせることとし、一週に二回ずつ米と塩とを安く売り、また対岸とのあいだに二隻の船を指定して難民区に野菜や肉などを売ることを許可した。  やがて難民のなかから知能の優れたものを選んで委員制をもうけ、半自治の形式ができあがったのは九月のはじめ、九江占領後一カ月以上もたってからであった。  ある日、二人の特務機関員がぶらぶらと難民区へはいって行った。家々には栄養不良の子供たちや老いしなびた老人たちがみちていて、難民区の主といわれる二人に丁寧な挨拶をした。二人は支那服をきてピストルも刀ももたない気軽な姿であった。冗談を云いあったり生活や健康のことを訊いたりしながら歩いて行くと、ふとある家でこっそりと饅頭を売っている男をみつけた。今までは一軒の店もなかったし、誰も遠慮して商売をしなかったのである。横井というこの軍属はそれを見るとすぐ、難民たちの日本を恐れているいじけた気持を察したので、ポケットから、二、三枚の小銭を出して笑いながら二つの饅頭を買い、店先で一つずつ立ち食いをした。店の主人はよだれを垂らすほど喜んでお世辞を言った。その翌日、横井は難民区へ朝の散歩に行って、不意に胸を叩かれたように愕きを感じた。あらゆる家々が一斉に扉をひらいて一夜にして商店街と化していた。饅頭、あげ物、野菜、散髪屋、衣服修繕、等々々。どの店でも道を通る横井にむかって昨日より何倍か明るい声で朝の挨拶をするのであった。 「難民は苛《いじ》めて云うことをきかせたって駄目だ。やつ等が何を求めているか、それを察してやらなくては」彼は事務室へもどってしみじみと同僚に語った。  やがて市中の整理がつくと難民のなかの働けるものは荷上げや街の清掃や道路修繕などの苦力《クーリー》に使われ三十銭の日給をもらうことになった。  支那軍の九江にはいったこととコレラ菌を撒《ま》いて去ったことは市民たちの気持を全く介石から隔離してしまった。対岸の堤防を切ったために田畑を失った農民は日本軍の九江入城とともに最も親日的な感情を示してきた。さらにコレラは欧米依存の気持を住民の心からとりのぞいた。こうしてあたらしき九江が再建の第一歩をふみだした。外国軍艦に逃れた金持ちたちは、遡江部隊の厳重な抗議のために九江下流に下って碇泊している艦のなかから一歩も上陸できないままに、毎日を賭博にくらしているという話もあったが、もはや彼等は再建せらるべき九江とは縁のない人々であった。 飛行場設置  九江占領の翌日、江北部隊は潜山から山岳戦をつづけて太湖をおとしいれた。英山《えいざん》の方に集結していた敵が反撃してくるらしく見えたので、これは空軍にその出鼻をたたきつけてもらい、あくる日にはもう十五キロばかり南方の涼亭河《りようていが》の部落を襲うた。潜山に待機すること一カ月、充分な休養と糧秣弾薬との準備をおえて、進撃をはじめれば脱兎《だつと》の勢いをもってつきすすむのがこの伊沢部隊の癖であった。  涼亭河から二路にわかれ、一路は三日のあいだに十キロの山地を越えて二郎河《にろうが》をぬき、他の部隊は八月一日に宿松を手に入れた。そしてこの両部隊はそのあくる日には二方から早くも黄梅に突入して完全に占領してしまった。太湖を奪取してから六日目、七十キロにちかい急追であった。  このあいだ、安慶にある鋤柄兵站と輸送の重任を負う輜重《しちよう》兵との努力は大変なものであった。安慶から黄梅まで百五十キロ、山と河とを越え敗敵と戦いながら大量の物資をまもって往復することの困難は言語に絶した。トラックの行けるところはまだいいが、悪路や山道にかかると輓馬《ばんば》輸送をするより他はない。酷熱の山地、水を飲めば馬でさえも胃腸をいためるという場所である。しかし道を急がなければならない。ひと休みしていれば前線はそれだけ遠くまで行ってしまう。あまりの輸送の困難さに前線も黄梅以上はすすむわけに行かず、ここでまた激戦六日の疲れを休め物資の到着を待たねばならなかった。  宿松をぬきそのあくる日に黄梅まで走ったときなどは流石の兵士たちも急追と酷暑とに閉口して戦わずに逃げて行く敵がむしろ怨《うら》めしかった。 「どこかで戦争はないかなあ。敵が撃って来さえすれば休めるんだがなあ」  そういう不平をならべながら、遂に黄梅まで辿りついてこの街を占領し、後方輸送がつづかないばかりにしばらく休めることになった。 「当分輜重兵がこなければいい」と彼等は笑いあった。  このとき、兵站線は新しい輸送路を発見した。九江の対岸小池口付近で敵軍が揚子江の堤防を切ったために、その北方に水路がひらけて小池口、黄梅のあいだに連絡がついたのである。すると、困難な陸路百五十キロを安慶から輸送しなくとも、汽船で九江まで物資を送ればいいことになった。部隊は新しい生命の泉を得た。そして安慶の兵站部は急にその重要性をうしない、太湖、宿松あたりは今後の前進の兵站線として用事のないところになってしまった。支那軍の洪水戦術はこの地方の農民を親日的にした事とともに、ここでは大変な失敗をやったのである。  江北部隊の兵站線が安慶から九江にかわるとともに、九江は一段とその重要性を加えた。しかも江南戦線はここを起点として末ひろがりに拡がって行くべき地勢であり、長江作戦はすべて九江を基地とする状態になった。瀬田兵站のいそがしいことは大変なものであった。  敵は九江を奪回せよという本部の厳命をうけてこの方面に大軍を集中した。また残り少なくなった飛行機を駆って空爆にもきた。湖口にあった病院船○○丸付近に爆弾が落ちたが傷病兵は乗りこんではいなかった。日本の航空隊も安慶以西に基地をもたなくてはならない。  九江を逃げるまえに敵が水底に沈めた飛行場を海軍が復活させることになった。広大な水面に廬山をうつしているこの飛行場を海軍はポンプで水を汲みはじめた。その作業は十日以上もかかったが、とうとう深さ六、七尺の水をすっかり出してしまって再び元の飛行場が出来あがったのは九月にはいってからであった。新鋭をほこる優秀機がやがて群れをなしてここに到着し、九江の空はつねに警備されることになった。  陸軍もまた八月のはじめに付近に適当な土地を見つけ住民に金を渡して広い用地を手に入れた。そこは敵兵の駐屯しなかった場所で住民は一人も逃げてはいないし、元のままの生活をしていた。従って空家というものは一軒もない。工事は進み荒地と棉畑と粟の畑とを地ならしして飛行場はできあがろうとしているのに兵員は寝るところがない。そこで住民を小学校にまとめて入れたり広い家に数家族住ませるようにしたりして何軒かの家を手に入れた。ところが住民が少しも兵隊を恐れないで野菜や鶏や卵を売りに来るので、飛行場の設備その他の防諜関係はひどく都合が悪かった。高射砲陣地をまわりに造り、さらに少し前には観測部隊を出して警備はしていたが、敵兵はたびたび覘《うかが》ってくるのであった。  さて陸軍機もきて兵員もふえたが、このあたりには林がないので薪炭《しんたん》に困った。破壊された家がないし、壊すわけにも行かない。やむなく楊柳を切って炭焼きをやることとし、竃《かま》を六つも築いてやってみた。兵員の中には本職の者がいるので炭はうまく出来たが、楊柳の炭は火持ちが悪くていけなかった。桑の老木が多いのでこれを焼いて見ようということになったが、やってみるといい炭が出来て、ようやく飯を炊《た》けるようになった。 「桑は勿体ないな。日本だと先ず箪笥か鏡台になるものをなあ」  兵隊は齒獲品の青竜刀で桑の木を割りながら笑いあった。  このあたりの部落は支那大陸の平和な農村のすがたをそのままに見せてくれた。字は一字も読めないという老村長が訪ねて行った兵隊たちをもてなし、皇軍歓迎だと笑って生きた鵞烏を二羽もくれた。兵隊は食ってしまうのも惜しいというので足に長い紐をつけてクリークに游がせ、自分は岸の楊柳のかげに坐って半日も魚を釣っていた。 戦況発展す  九江の川岸、かつては敵のトーチカがびっしりと並んでいたところへ、工兵隊がいくつもの桟橋をこしらえた。下流からは大きな船がのぼってきて桟橋へつけるようになった。兵隊もきた。糧秣弾薬もきた。これらは江岸の倉庫に集積された。ほどなく大部隊の戦闘が開始されるであろうことは倉庫の物資の量から察しられるのであった。  ある日、馬を積んできた船があった。内地で○百頭の馬をのせ、船底の馬欄につないだまま、二十日ちかくもかかって九江へきた。そのあいだ一歩も自由にあるかせてもらえない馬たちは、病気になり、疲れ、運動不足に衰え、船底の蒸《む》れた空気に弱って、死ぬものも幾頭かあった。こうしてこの船は開戦以来もう○○頭の軍馬を大陸へ運んだ。馬の世話をするために百人の兵が乗りこんでいて、一日じゅう馬の世話で汗だくになっていた。彼等は九江からすぐに帰国してまた軍馬の補給をしなくてはならない役目をもっていた。 「実際自分らはつまらんですよ。勿論これも軍務だから誰も文句を云おうとは思わないです。しかし同じ召集をうけたものならやはり戦線へ出たいですなあ」  馬の体臭で蒸れた船室で、兵隊は船のボーイにむかって熱心に語った。 「知りあいの者が隊へたずねて来てこう云うんです。あんた方は内地の勤務だからええですなあ……それを聞くと口惜しくって涙がこぼれるです。あんまりひどいですよ。内地勤務だからええと思っている者はおそらく一人も居りません。それでいて夜あけから夜更けるまで眼の回るような忙しさですよ。そういう所へ急に戦線へ出ろという命令でも受けようもんなら、そいつはもう泣いて喜ぶです。あんたは内地勤務だからええですなあと云われるのはあんまり兵隊の気持を知らんですよ」  しかも彼等は九江へつくと眼のまえに戦線を見ながらまたすぐに内地へ帰らねばならなかった。兵隊は口惜しがり悄然《しようぜん》として揚子江を下って行くのであった。  この船はある時は馬欄をはずして○○名の兵を乗せた。そのときの混雑は大変なもので船長も運転士もへとへとになってしまった。兵は上へ向いて寝られないほど一ぱいで、夜半に便所へ立ったものが帰ってみるともう畳がみえないほど人がびっしりと寝ていた。戦友を両方へ掻きわけて五寸ほどの間をあけると沢山の足や腰のあいだへ頭をもぐりこませて寝なくてはならなかった。  兵が上陸する時、朝食を食わせてから昼と夜と二食分の弁当を持たせることになった。合計三千人分の食事を一度に用意するわけである。炊事当番は前夜から六個の釜を炊きどおしに炊き、食事のときには十名の番兵を立てて混乱をふせいだ。  船員は激務のつかれと水が悪いのとで続々と脚気になり、痩せ衰えないものは一人もいなかった。しかもこれらの輸送船は黙々として後方任務をつとめ、大通のあたりではきっと敵のゲリラ戦術の砲撃をうけながら長江を幾十度となく遡って行くのであった。九江の川岸では疲れた船員たちの短い散歩をたのしむ姿が絶えず見られるようになった。  そうして船のつくたびに倉庫は物資を豊富にし弾薬を充《み》たした。九江市内の秩序は回復し兵員の補充もでき、さらに長江作戦の本部が乗りこんで来たし軍報道部も事務所をもうけた。準備は完成し戦線展開の時期は迫った。  敵は広済、武穴《ぶけつ》、瑞昌、徳安をつなぐ線をもって東部抵抗線とし、さらに英山、水《きすい》、陽新の線を第二線とし、麻城、鄂城《がくじよう》、通山《つうざん》の線を最後の抵抗線として戦備をととのえ、武漢防衛総司令陳誠《ちんせい》はこれを指揮するために田家鎮《でんかちん》に司令部をもうけていると伝えられた。また南方星子から徳安、渓《じやつけい》方面には張発奎の率いる十個師団があって、廬山を含めて守りを固めていた。江南の山地、暑熱は尚《なお》去らず、夏草の茂みごとに、敵は土民を追いたててトーチカを隠し壕を掘りまわしていた。追いつめられるものにはいつも不安がつきまとい、無用な壕までもただ滅茶滅茶に掘って行った。あるいは使うかもしれないからというので予《あらかじ》め掘っておくので、使わないままにすて退く壕が大部分であった。空爆の飛行機から見ると、揚子江から徳安、渓に至る間の山という山は幾段もの壕のために赤くなって見えていた。  八月の末から武漢作戦は急に活動期にはいり、十月末の武漢陥落まで休みなしに戦闘がつづいた。  八月二十一日に星子が陥ち二十四日には瑞昌が占領された。このとき北方部隊が行動をおこして、かつて黄河決壊の水に追われた沖津部隊が二十八日に六安を手に入れ倉林部隊その他は三十日に霍山《かくざん》をおとした。沖津部隊はさらに急追をつづけて三十一日に洪家集《こうかしゆう》、翌九月一日に葉家集《ようかしゆう》と進み、ここで富金山《ふきんざん》、八百高地の激戦に引っかかったが、友軍はなおも進んで九月六日に固始県城を突破した。富金山、八百高地は激戦十日に及んでようやく占領することができたが、沖津部隊も損傷が多くてそのまま追撃をつづけられなくなり、友軍と交替して葉家集に駐屯した。  固始を抜いた部隊はついで張治中《ちようじちゆう》のまもる光州《こうしゆう》にむかったが、このとき忽然として光州の北に友軍が現われた。それは八月末まで蚌埠にいた部隊であったが、かつて沖津部隊を寿県、鳳台から追うた黄河の氾濫を利用し、正陽関《せいようかん》から東湖《とうこ》、西湖《せいこ》を船でわたり、洪水を乗りきって不意に光州の北に上陸したものであった。光州をぬけば信陽《しんよう》まで二十五里、京漢線遮断も遠いことではなくなった。そのあいだに南方では九江から南潯鉄道にそい廬山の西をまわって九月一日公嶺《けいこうれい》、三日馬廻嶺《ばかいれい》をおとし、黄梅にいた伊沢快足部隊は、敵の東部絶対抵抗線の北端広済をおとしいれた。九月六日であった。瑞昌の陥落とともに東部抵抗線はもはや存在しないものになってしまった。 星子付近の激戦  星子を占領したのは陽湖から廬山の下へ上陸して機会を待っていた津田、飯塚、大島などの部隊であった。飯塚部隊は元の加納部隊で、上海戦で隊長をうしなってから転戦して南京に入り、さらに徐州東方の大包囲戦を終えていま江南戦線に参加したのである。もう上海戦当時の兵員は半ば以上も顔が見えなくなって、今では上海戦を知らない補充部隊の方が人数が多くなっていた。  八月二十日の夕方から、これらの部隊は廬山の裾野をめぐるただ一本の星子街道を南にむかい、深い戦車壕になやみ真赤な砂ほこりにまみれて星子を襲うた。廬山は道にちかく暗鬱な岩だらけの肌をさらし、その岩壁の下の傾斜地に幾段にも建てならべられた軍官学校の兵舎が月のひかりに灰色な屋根を見せていた。追撃は夜を徹してつづけられ、明けがたになって星子県城東門の古びた褐色のひくい城壁が見えた。  海軍陸戦隊土師部隊がこのとき南門に上陸した。南門は湖岸に迫った高い城壁をもち、水ぎわから城門までわずかに十メートルほどしかない。この十メートル四方の地面を確保するためには決死の上陸がなされた。城門の上から投げつける手榴弾にやられて扉にすがったまま五名の兵員が斃《たお》れた。  南門と東門とが同時に占領されると、敵は北門から徳安街道にむかって退却しはじめた。そうして美しい陽湖をめぐらし瀬戸内海に似て小松の生えた明るい幾つかの岬をもった星子とその近郊とが占領された。住みふるされて平和な生活があったであろうこの小さな城市はいま一人の支那人の姿も街には見られず、古風な寺々や彫刻の見事な石門には抗日宣言の大文字のみがむなしくもいかめしく肩を張っていた。  星子の陥落によって九江、星子のあいだの湖岸は一応は占領されたが、街道のうえに迫る廬山にたてこもる敵ばかりは追撃するわけにも行かなかった。彼等は夜ごとに山賊のように山から下りて来て、備えが少ないとみると戦いを挑むのであった。しかしこの街道筋だけはどんな事があっても確保しておかなくては星子へはいった部隊が孤立になり包囲されてしまう。  星子占領の翌夜一度山に逃げた敵が降りて来た。警戒線には一人の伍長と四名の兵とがいて、一梃の軽機をもっていた。月のいい夜であった。 「おい、来たよ、来たよ」  見張りの二人の兵が壕の中でねむっている他の三人を揺りおこした。みると小松のまばらに生えたなかを這ってくる二人の敵が月光の下に黒々と見えた。銃手は軽機についた。 「まて、まだ撃つな。うんと近づけてから一度にやってしまおう」と伍長が言った。  じっと待っていると這ってきた敵はそのまま退いて行って見えなくなった。しかしそれから十分ばかり経つと、今度は五人になって這い寄ってくるのが見えた。銃手は狙われているとも知らずに近寄るのをじっと待った。 「よし!」と伍長が低く言った。軽機はたちまち夜空にこだまして眼の前の敵をたおした。  這ってきた敵は愕いて一斉に立ちあがった。すると、それは五人ばかりではなく、凡そ五十人ばかりも居た。愕いたのはこっちの五人であった。伍長以下みな小銃をもって応戦した。敵はさかんに手榴弾を投げはじめた。そのとき軽機が故障した。 「こりゃ駄目だ、後退しよう」と兵が言った。しかし伍長は厳然としてそれをとめた。 「退っちゃいかん。軽機修繕しろ。うしろには碌《ろく》に銃もない大行李がいる、あれがやられたら大変だ。早く修繕しろ!」  銃手は手さぐりで修繕をはじめた。ときおり眼の前で炸裂する手榴弾がただ一つのあかりであった。小銃だけになると敵は勢いづいてきた。伍長は突撃を決心した。そのとき軽機が直った。しかし、五分と撃たないうちにまた故障した。銃手はふたたび懸命になって修繕をはじめた。  伍長のとなりで小銃をうっていた上等兵はこのとき急に伍長の銃が鳴らなくなったのを知った。彼は壕の中に膝をついたまま銃身のうえに顔をふせていた。頭部を貫通されたのだ。しかし上等兵は黙っていた。機銃の修繕が出来るのを一刻でも遅らせないために誰にも知らせないでただ撃ちつづけていた  やがて軽機はなおった。銃手は耳元で鳴る銃声に声を消されそうなので伍長の肩をたたき、「なおりました!」と叫んだ。それに答えるように伍長のからだはどさりと銃手の膝にたおれて来た。銃手は伍長の重いからだを膝にのせたまま黙ってうちまくった。軽機の弾倉は三十発しか入らない。弾倉をとりかえるのに三十秒、いくら急いでも二十秒ばかりかかる。その二十秒がいら立たしかった。そして弾丸はもうなくなってしまった。 「たまをくれ、たまをよこせ!」彼は呶鳴りちらして五発ずつの小銃弾をもらっては詰めて撃った。三十分ばかりにわたる激戦であった。敵が襲撃を断念して退いたとき、彼等はあと十二発の弾丸しかもってはいなかった。  一人の兵は報告と弾丸を補給してもらうためとで本隊まで帰って行った。残った三人の兵は月光に白く静まった伍長の死顔を膝に抱いて壕の底にうずくまり、帰った兵が早く戻ってくればいいと待っていた。弾丸は十二発しかない。彼が弾丸をかついで戻ってくるまではどうか支那兵が襲わないでくれればいいと、それのみをねがう気持であった。  九江からの星子街道はいつもこういう不安に晒《さら》されていた。軍官学校を占領して小部隊がここに駐屯し街道の警備にあたることになったが被害はなくならなかった。星子とその前線とに向う兵や砲車や輜重車が日に何度となく通っているのであるが、夕方になると敵は不意に山から降りて街道を襲うた。あるときは数十台の自動車輜重が朝はやく九江から走って行ったが、途中のわずか三間ほどの木橋が焼き落されていて、半日以上も戦闘隊形をとって橋の修繕を待たねばならなかった。またあるときにはT映画会社の撮影班がのったトラックが襲われて、カメラマンが行方不明を伝えられたこともあった。  占領後まもなく湖口にいた友田兵站部隊が星子に移ってきた。前線はもう星子の街から西方へ進み、廬山の麓にそうて隘口街《あいこうがい》から徳安を襲おうとしていた。ここでは激戦が予想された。地形が全く敵の注文どおりで友軍にはほとんど戦略を立てる術《すべ》もないような場所であった。兵站部はその激戦にそなえなくてはならない。友田隊長は水路をまわって物資の輸送をすることにし、湖岸に船つき場をつくりそこから街の近くまで丘のうえに新しい道路をつくった。兵站配属の工兵隊が炎天の下で赤土のほこりにまみれながら小松林をきりひらいて道路にした。それから砲兵廠を上陸させて衣糧廠をも開設した。命令をうけて水路から 陽湖にはいってきた衣糧廠部隊は湖岸からの砲撃がはげしいために、山かげに船をとめたまま三日間も進めなかった。星子はいわば敵の包囲のなかへ頭を突っこんだ形で、どちらを向いても敵の陣地であった。  徳安にすすむ戦線は廬山の麓をはしる赤土の一本道で、山のうえには敵が重砲すらも運びあげていた。道路を進む友軍は狙いうちをされなくてはならない。しかもこのあたりは軍官学校の演習地で敵にとっては馴れきった地形であった。友軍はまず道路の右にある廬山を攻めながら左の湖岸に小高くなっている東孤嶺《とうこれい》を占領しなくてはならない。  東孤嶺は岩肌に小松の生えた小山であるが、岩は自然のトーチカをなしていて壕も銃座も造る必要がなかった。友軍の砲撃はいたずらに岩を砕き小松をたおすばかりであった。  しかし執拗な攻撃は撓《たゆ》まず続けられた。まいにち野砲隊をもって東孤嶺をうってうってうちまくり、陸軍航空隊は連日の空爆をつづけ、永い戦闘ののちにはじめて占領することができた。  東孤嶺がおちて戦線はやや進んだ。しかし右手の廬山連峰から街道にむかってうちおろす敵の砲を何ともできない有様であった。峰々は頭のうえに高く連なり、山をのぼることもできず砲撃もほとんど効果がなかった。  麓に秀峰寺《しゆうほうじ》という寺があり、そのうえに直下三千丈、九天より落つるかと云われた滝が清らかな水を落していた。滝のうえには日本にも詩名をうたわれた香炉峰《こうろほう》が高くそびえている。飯塚部隊はこの山の中腹を横に進んでいて、隊長戦死の不運に見舞われた。部隊は山を下って麓の秀峰寺に隊長を葬り、新たに布施部隊長をむかえた。  星子を占領してから休みなしの戦闘をつづけること三十幾日、戦線はわずかに二里半しか進まなかった。早く徳安をおとして廬山の敵の後方連絡を絶たなくては、九江と星子とが絶えず敵襲の危険にさらされなければならない。しかし東孤嶺は占領しても右前方には金輪峰《きんりんほう》、硝爪船《しようそうせん》などの高い山々がある。隘口街付近も敵の要害の地である。殊に金輪峰は山の肩の小高い突起のうえに一基の喇嘛塔《ラマとう》が建っており、これが敵の観測所になって友軍の陣地の動きを見おろしている。したがって敵の砲撃もなかなか正確であった。  攻撃部隊本部は街道にちかい藁屋を占領し、その近処の小舎にはN新聞社が出張所をこしらえた。砲弾は毎日そのあたりに飛んできた。ある日N新聞社の庭に迫撃砲がおちた。記者たちは昼食を終って雑談しているところであった。炸裂した断片は三人の記者を傷つけ、従軍服は赤黒い血にまみれた。  残念ながら敵の砲弾はどんどんくるのに友軍の砲弾は充分にとどかなかった。敵陣が高い山の上であるのと砲の口径が小さいためとである。陸軍の西田航空隊はこの戦線をうけもって絶えず山々の尾根を爆撃してくれた。爆弾の灰色の煙が峰にいくつも立ちのぼるのが見え、山と谷とにとどろく音が雷のように友軍の陣地まで聞えてきた。しかし砲兵陣地はなかなか飛行機からも発見しにくかった。飛行機のいるあいだは撃たないでじっと息を殺している。西田隊長はそこで日のあるうちは絶えず敵の空に一機だけを飛ばせておくことを考えついた。常時一機在空と彼はこの戦法を命名した。それで砲兵の活動を抑制しようとするのである。 「敵の空軍が来たらこんな事はできんが、敵が来んから何とかやって居れるんだ。隊長から感謝して来たぞ」  彼は部下の飛行将校たちににこにこと語っていた。  常時一機在空は効果はあった。高い山の肩のあたりを白い翼をかたむけながら円を描いている飛行機は戦いつかれた兵士の眼に有難かった。しかし砲弾の数を制限する効果はあっても、ごつごつの岩肌を攀《よ》じのぼることもできない山々をどうすることもできなかった。  この膠着《こうちやく》状態を打開しはやく隘口街まで達するために、全山総攻撃の命令が下った。その前日、後方は総攻撃準備に忙しかった。夕方から星子を出発した砲兵隊は、真赤な砂ほこりに隊列も見えなくなるような道を馬と砲車と弾薬車とを連ねて進んで行った。大口径の砲が到着したのだ。明日は敵の陣地に数百の弾丸を叩きつけることができる。前線の歩兵たちの歓迎をうけながら砲兵隊は夜にまぎれて街道と山裾とに放列を敷いた。  星子郊外の衣糧廠では夜のうちに歩兵たちに配るための携帯口糧や米や罐詰などの積みだしにいそがしかった。兵站自動車隊の平野隊が十数台のトラックをもってその輸送をやっていた。砲兵廠は夜を徹して弾薬を前線へ送りだすために苦力《クーリー》をいそがせて弾薬車に重い箱を積みこませていた。馬たちは蹄の下にたちのぼる赤いほこりのために、あと足の見えないような道を夜通し往復しつづけた。馬の口をとる兵隊は夜更けた空に輝く星あかりに道をすかし見ては馬を急がせながら乾麺麭《かんパン》をかじって晩めしの代りにした。これで明日の朝から総攻撃がはじまれば、弾薬はなお一層の速力をもって、水の流れのように前線へおくり続けなくてはならない。  また北門のそばの広場では戦車隊が勢ぞろいして明日の出動準備をしていた。街道にも脇道にも戦車壕がたくさんに掘ってあるので明日になって使えるかどうか行って見なくてはわからない。しかし彼等は何とかして行くつもりであった。それから戦線から一里ばかり後方にある野戦病院もまた明日の準備をととのえて待っていた。この病院は六、七軒の民家の一群を使っているので、七十人ばかりの傷兵が土間にむしろを敷いて今日まで寝ていたが、明日は沢山の傷兵が朝から次々と後送されてくるに違いない。そのために星子の兵站病院へ送れるものだけを送って藁の寝床を明日の傷兵のためにあけておいた。包帯と担架を用意した。それから専属の磨工はメスと注射針とを細い蝋燭の下で一生懸命に砥いだ。傷兵への手当がすこしでも痛くないように。  西田飛行隊は明日の早朝から空襲に参加するために、出動機を指名し機の点検を明るいうちに終り、爆弾を翼の下に装備し、ガソリンを充たして待機した。しかし敵機の来襲はもう予想されないほどに制圧しつくしているので、出動将校も下士兵もむしろ特別な緊張もなしに楽しみにしていた。  星子に支局をおいている新聞記者たちは明日の早朝の総攻撃開始にまにあうために前夜から戦線へ総動員し、鉛筆を削り無電機の用意をととのえ、あすの朝食と昼弁当との用意をしてから、夜通しまばらに聞えてくる銃砲声によって、馴れた耳でその戦況を察しながら藁をかぶって眠った。  砲兵陣地の前の小高い丘のうえには夜にまぎれて新しく小さな壕が掘られ、兵は短剣でもって小松の幹をたたききり、壕のまわりを掩蔽《えんべい》し、明日の戦闘本部をこしらえていた。そのあたりには敵の死屍がまだいくつも藪陰に残っていて、松を切りに行く兵が幾度かつまずいた。木を切る音は夜空に不気味な音を響かせ、倒れる枝の音は襲われるような恐怖を唆《そそ》った。電信兵がずっと前方の観測所からここまで電話線を曳きながら、夜道を走り、さらに後方の放列まで線を張った。六、七本の電話線が松の枝から枝をつたってこの本部に集まり、携帯電話機は石英と雲母とが星の光を映してごろごろしている山肌にじかに置きならべられた。  星子の岸には昼ごろから海軍の砲艇隊がきて静かに碇泊していた。明日の総攻撃に参加して、湖岸にちかい山地や街道筋の敵陣を砲撃するためであった。  こういう種々な準備が一斉にととのえられて、あとはただ明日の夜明けを待つばかりになっていた。  この夜、津田部隊の欠員を補うために内地から派遣された四人の少尉が星子に着いた。彼等ははじめて参加する戦闘に勇み立って、是非とも明日の朝の総攻撃に間にあいたいというのであった。  もう夜であったが、星子から前線まで二里半のあいだを自動車隊の平野隊長が送りとどける役目を友田部隊長から言いつかった。平野隊長はもう四十をすぎる年輩で、少し白髪のまじった顎鬚をふさふさと生やしていた。東京の実業界では名のある人でアルマイト会社の社長や郊外電車会社の重役をしていた。出征すると同時に酒をぴったりやめて、部下が酔って談笑する中に坐ってサイダーを飲んでいる人であった。 「俺が部下をもっているかぎり酒は飲めないよ」と言って誰のすすめる盃もうけなかった。彼の誇りは転戦五カ月のあいだ部下に戦死傷がひとりもないという事であった。それだけに部下を危険な眼にあわせないためには細かく気を配る人であった。 「まあ俺たちの隊長ぐらいわかった人はちょっと無いな」兵隊たちはみな平野隊長を自慢し自分たちは仕合せだと言っていた。  この夜、二台の乗用車で隊長は補充将校たちと一緒に出発した。夜の十時ごろであった。  前線は一点の火光もなくてどこが何やらわからなかった。時おり道傍に砲車があり馬が居るのがわかるだけであった。静まりかえった新戦場の不気味な暗さがみなの胸をつめたくした。そうして位置の分らないままに二台の車は最前線の歩哨線を越えて敵陣のつい前まで行ったのを知らなかった。十一時ごろであった。  不意に道の前にバリケードが現われた。 「来すぎたな!」と隊長は運転している兵に言った。「戻ろう。車をまわせ」  運転手は一度二度と車を前後させて狭い道のなかで回した。もう一度カーヴをきれば走れるというとき、突然耳もとちかくですさまじい機銃が鳴りはじめた。弾丸はばらばらとまわりの藪をたたき車の屋根をうった。乗っていた者は一斉にとび降りて藪のなかに這いこんだ。敵の射撃はすさまじく、距離は百メートルもなさそうであった。手榴弾が二つ三つ藪のまえで炸裂した。四人の将校と平野隊長とは運転していた四人の兵をつれて藪のなかをこっそりと這いはじめた。ここで戦ってみても何にもならないし、補充将校はまだ隊長に挨拶もすんではいないのだ。静かに、後退するのが一番いいと平野隊長は考えた。  藪のなかは尖った枝や切株があって隊長は頬を引っかかれ手首を突つかれながら、みなで犬のように這った。這いながら敵の射撃目標となっている場所からずるずると後退した。全く息のつまるような気持であった。竹の葉をうつ弾丸の唸りが頭の上をすぎ、幹を割る鋭い音がぱーんぱーんとあちこちで響いた。凡そ百メートルを後退するに一時間ばかり、そのあいだ這いどおしであった。  彼等はようやく土堤のかげに下りて敵の銃声がすっかり止むのを待った。それから四人の兵は車をとり戻すためにまた這って行った。隊長たちは永い二十分を経験した。たった百メートル先にある車ではあるが、部下を失うくらいなら車をすてた方がよかったと彼は後悔しはじめた。  真暗な石ころ道に、ライトもつけられないで、車は負傷兵のようによろよろと戻ってきた。また銃声がはじまった。将校たちをのせて前の見えない道をさぐりさぐり引返すまでは容易なことではなかった。  津田部隊長はもう眠っていたが補充将校に会うために起きてきた。そして平野隊長が顔から手首を血だらけにしているのを見て笑った。 「大変な眼にあったね。思わぬ決死隊だ。おかげで偵察報告ももらったし、将校斥候というところだね」 「いやもう沢山です」と平野隊長も血を拭きながら笑った。彼が星子の部隊へ帰りついたのはもう四時ちかくであった。 総 攻 撃  九月二十六日午前六時、この前線に総攻撃命令が発せられた。その直前に、特に参謀将校からの訓辞が布告された。 「——ただ今より総攻撃を行う。少中尉は屍《しかばね》を廬山に晒す覚悟をせよ。上官と雖《いえど》もその死体を収容するに及ばず、そのために一兵をも戦線から退かせてはならぬ。本部隊はその出生地から云えば鎌倉武士の流れを掬《く》むものである。宜《よろ》しく奮励努力せよ!」  そういう意味の痛烈きわまる布告であった。  午前六時、戦闘本部の小山の上には、五十すぎの痩せた井田部隊長が、日に焦けた皺の多い顔に双眼鏡をあてていた。参謀将校たちがじっと時機を計っていた。新聞記者たちがそのうしろに腰をおろし、膝を抱いて煙草を喫っていた。後方の砲兵陣地は静かに命令を待っていた。廬山の連峰は朝日の光を横から受けると谷々を黒く浮び上らせ、尾根はみな紫に艶やかな光を放ち、浮雲を峰にまとうて、朝の冷気のなかに冴えざえと美しい姿であった。  遠くの空から爆音がきこえはじめた。三機ずつの編隊をした西田飛行隊の来援である。参謀将校は隊長と何かを囁きかわすとすぐに電話機を取った。この山に日が当ってきて石英と雲母とがきらきらと光りはじめた。 「砲兵隊、撃ち方はじめ!」  そして参謀が受話器をおいたとたんに大口径砲の第一弾がはなたれた。全山一瞬にして呼びさまされ、朝空の冴えた空気を引きちぎる砲弾のうなりがきりきりと空間に穴をあけてはるか遠くに消えると、前面に高い金輪峰の喇嘛塔の下に炸裂の煙があがった。  歩兵前進!  戦車隊前ヘ!  重砲各個に撃て!  飛行機は連山の肩あたりで爆撃の急降下をはじめた。硝煙は山容をかくし砲声は全山の樹木をざわめかせて鳴りつづけた。  前線の観測所から電話がかかってくる。 「ただいま撃っているところから左三分角ほどの所、谷が四つならんで黒く見えています、その一番右の谷に敵がかなり密集しております」  参謀はその報告をうけるとすぐ電信兵に言った。 「砲兵隊長を呼び出せ」  電信兵はしばらくしてから受話器を持ったまま呼んだ。 「安藤参謀殿、砲兵隊長出ました」  安藤参謀は前線から知らせてきた位置をくりかえして砲撃を命じた。するとまた前線から別の電話がくる。 「硝爪船の下方、図上イの地点から舌山《ぜつざん》高地にむかって戦車隊進んでいます。歩兵も登っております」 「どれどれ」と部隊長は双眼鏡をとって参謀とならんだ。はるかの小山のあいだを登ってゆく戦車が三つ四つ前後して見えた。 「あ! 歩兵がのぼっています。日章旗をもったのが、ほら、松林のなかを、さかんに登っています」  参謀は嬉しそうであった。さっきの谷間を撃つ砲弾がつぎつぎとこの小山の上を越えて行き、そのたびに頬をなぐられるような空気の動揺がきた。  今一人の参謀は、戦況を見ながら土に坐って新聞記者が書いた通信原稿を急いで閲読していた。検閲が終ると記者はすぐに連絡員に原稿をわたす。 「おい、頼む、急いでな! それから帰りに水筒へ茶を入れてきてくれんか」  連絡員は横っ飛びに松林のなかをがさがさとかきわけて走って行く。するとこの山かげの半壊の家のなかに無電機を据えて通信技手が待っていた。 「これ、大至急です」  技手はうけとって、蜘蛛の巣だらけの室の片隅でカタカタと無電機を鳴らしはじめる。 「南京……南京……南京。○○部隊通信部。唯今ノ戦況。……今朝六時ヨリ前線総攻撃ヲ開始セル津田、布施、大島等ノ諸部隊ハ新タニ参加セル重砲隊ト海軍砲艇隊ト更ニ西田飛行隊協力ノモトニ敵ガ要害ヲホコル金輪峰ヲハジメトシ続々重要陣地ヲ攻略シツツアリ。要衝隘口街マデ僅カ二五キロ、皇軍ノ意気スデニ徳安ヲ呑ミ、敵ハ算ヲミダシテ西方ニ潰走シハジメタリ」  無電は南京から福岡、さらに東京と送られて一時間ののちにはもう戦況ニュースが輪転機で印刷されるのであった。しかしこのニュースはすこしく誇大の言辞を弄したかたむきがなくもなかった。隘口街までは十三日、徳安を占領するまでには部隊はさらに一カ月の攻撃をつづけなければならなかったからである。  この朝、星子の部隊本部で眼をさました平野自動車隊長は膏薬《こうやく》だらけの顔をして丘のうえに立ち、水をへだてて総攻撃の様子を見物していた。重砲の遠いとどろきが絶えず聞えてきて、入り乱れて飛ぶ飛行機の活動もはっきりと見えた。 「いい気味だ。しっかりやってくれえ!」と隊長は顎鬚《あごひげ》をなでながら笑った。 「海軍が撃ちだしたな。ずっと左だ。ほらあんな所に煙が上った」  兵隊たちは演習を見るような長閑《のどか》な気持で眺めていた。秋に入るころの蕎麦《そば》の花が丘の畑にまっしろく咲きみだれ、鵲《かささぎ》が風に乗って飛びまわっていた。  その夜、隊長は命びろいをした祝いに部下の下士官たちに酒をふるまい、コンビーフの罐詰をあけて牛鍋をこしらえた。将校室には慰問袋から出てきた芸者や女優の写真がはりまわされ、紙風船や折紙の鶴まで天井からぶらさがり、野戦部隊の将校室とは思われない砕けた風景であった。 「少し女気が多くなりすぎたな。半分ほど剥がして兵隊に分配しようじゃないか。鶴はもう二つ三つあってもいい。加賀曹長、また二つばかりこしらえてくれよ」  酒をのまない隊長は鍋の世話をやきながらそんな事を話していた。窓の外では東孤嶺のあたりに青く冴えた月が出て、昼の激戦を記憶すべき風景はどこにもなかったが、遠雷のような重砲の音はまだときおり鈍い幅ひろいひびきをつたえてきた。  その翌日、星子難民区に自治委員会ができた。九江から派遣された特務機関の星子班五名のはたらきで九月初めにここにも難民区ができていた。彼等の大部分は廬山ににげこんでいたもので、寒さと飢えのためにいられなくなり、死んでもいいつもりで山を降りてきた。城内は意外に静穏で、日本軍はまた意外にも難民区に収容し残飯を給与してくれた。働けるものは苦力《クーリー》になって日給をもらうことさえもできた。百人あまりにすぎない難民たちはすぐに平和な良民になった。  自治委員会発会式は特務機関の前の庭でひらかれた。玄関には日章旗が大きくひるがえり、簡単な式が終ると十二名の委員たちは日本酒の御馳走になった。 「これはいい酒です。支那酒より上等です」  廬山にかくれていた間は予想もしなかった酒をのまされて、委員たちは上機嫌であった。  支那語の達者な部員が酔った元気で庭の石段の上にたちあがり、青竹の杖をふりまわしシャツ一枚の胸をぴたぴたと叩きながら日支親善について一場の演説をやった。なにか呶鳴りつけるような言葉、難民たちにしてみれば考えたこともない位の理想と抱負とにみちた夢のような言葉であった。演説が終ると彼等は拍手して親善を誓いあった。  その日もまた総攻撃はつづけられ、砲撃のひびきはめでたい発会式式場までもきこえていたが、もう誰も砲声におびえているものはなかった。 傷  兵  星子が陥落した翌日から瑞昌の攻撃がはじめられた。ここでは城門にちかづいてから敵の反撃がくりかえされ、十時間にあまる戦闘ののちにはじめて城壁を奪取することができた。八月二十四日の午後、烈日の下の汗と血とほこりとにまみれて城内に入った兵士たちはまたそれから夜どおし市街地の掃蕩をしなければならなかった。  戸数一千ばかりのこの小さな街は道幅がせまく暗く、家という家は破壊されつくして、衛生兵は傷兵を収容する家にも困るような始末であった。路地の両側の長屋を病室に充てて一応収容はしたものの、天井には穴があいて星も見え夜露もおりる。扉も何もないので表通りの砂塵は傷にくるしむ兵士の顔のうえを流れた。トラックは遠慮なく砂塵をまいてすぎる。轍の地ひびきすらも傷のいたみを増した。衛生兵は包帯や薬品をもってこの長屋を一軒々々あるいて行くのであった。兵隊は健康なものでも血便をしていた。栄養の不足と過労とそれに水が悪いので胃腸をそこなわない兵はいないと云ってもいいほどであった。衛生兵は便所をさがしては石灰を撒いて歩いた。  しかし衛生兵は手が足らなかった。一人が三十人を引きうけて治療や世話のできるうちはまだよかった。戦闘の直後になると一人で七十人から九十人の世話をすることさえあった。これでは到底手がまわらない。 「看護兵どの、包帯をかえて貰えませんか」  鬚づらがほこりにまみれて斑点になっている兵隊が板張りの寝床のうえから呼びかける。しかし衛生兵はそれがしてやれなかった。一人の包帯をかえれば担任の七十人をみなかえてやらなくてはならない。それでは半日以上もつぶれてしまって、食事の世話に手がまわらない。  寝床を与えられないものさえあった。寝せようにも家が破壊されていて近処には寝せる家もないのだ。彼等は入口の石段の上に担架のまま寝せられ、または運んできたトラックのうえに五人ならべられたままで看護をうけなくてはならなかった。  夜が更けると、どこかにかくれていた野良犬たちが血のにおいをしたってうろつきまわり、トラックの下をがさがさと歩いた。昼のあいだの暑熱が刻々に冷えて、トラックの上の傷兵は肩口の痛みをこらえながら毛布を手さぐりで引っかぶる。満天の星は風のなかにきらめき、薄《すすき》の穂が闇のなかでざわざわと鳴った。 「看護兵どの、看護兵どの」  弱々しい呼び声がとなりのトラックの上から聞える。それは呼び声というよりも苦痛を忘れるための呟きのようでもあった。夜間巡回の看護兵はさっきまわって行った。あと一時間以上もたたなくては次の巡回の時間は来ない。  はるかに遠くで、前線の撃ちあう音がきこえてくる。たたたたた、たたたた……。しかしここは寝しずまって物音ひとつない滅亡に似たくらやみである。不意にややちかくの川土堤から歩哨の鋭いさけびがきこえる。 「誰か! 誰か!」  答えはなくてふたたび静寂がきた。野犬が歩いたのかもしれない。土民が食物をあさって戻って来たのかもしれない。深夜にひそかな食欲のみが貪婪《どんらん》な眼をひからせてうろついているのだ。昼は道一ぱいに飛びまわって頬にぶつかり足にまつわる幾万の青蠅もいまは敵の死体と馬の死体とのうえに群れたまま眠っている。草むらにほの白い天幕を張って疲れた兵士たちは夜風のなかに安らかな鼾《いびき》をたてている。トラックのうえの傷兵はまだ眠れないでいた。 「看護兵どの。看護兵どのう!」  節ながく喉のかすれた声を曳いて、不安に焦立ちおびえているようであった。なにか懸命な努力をもって、せい一ぱいに叫んでいるようでもあった。しかし衛生兵の宿舎まで聞えるほどの大きな張りのある声ではなかった。穂薄を吹く風のなかにさえも消されてしまうかぼそい声であった。傷のいたみに眠れない傷兵たちはトラックのうえに又は家の戸口の石段のうえに横たわりながらその叫びを聞いていた。しかし答えてやるには彼ら自身が貧血のためにもう気力をうしなっていたので黙って聞いているばかりであった。 「看護兵どのう!」  最後の声は望みをうしなってすすりなくようにかすかであった。それは他の傷兵たちの胸に不安を感じさせた。彼等は動けない姿勢のままで耳を澄まし、次の声をきこうとした。しかしなかなか聞えては来なかった。それが一層不安なおそろしさを唆った。もう一度叫んでくれればいいという期待が彼等の頭をもたげさせた。しかし野犬の歩きまわる足音と秋虫のなきしきるこえと穂薄を吹く風のほかにはもう何もきこえては来なかった。ふし長く語尾を曳いた声の記憶ばかりが傷兵たちの胸をいたくした。  それからしばらくして看護兵がまわってきたときは、夜明けのうす青い色が雲のうえにあらわれ、地面がほのぼのと浮びあがって見えるころであった。遠くで砲をうつ音がどおん、どおんと空にこもってひびいていた。一人の傷兵が頭まで毛布をかぶった顔をトラックの上からのぞかせた。 「看護兵どの」 「何だ」 「ここの一等兵がさっき死にました」  衛生兵はタイヤに足をかけて半身を車のうえからのぞかせ、うす闇のなかに蒼白く浮いて見える戦死者の顔をすかして見たが、黙って車を降りると次のトラックの方へ巡回して行った。  傷兵は自分の肩から毛布をはずして死んだ男の頭からすっぽりとかぶせてやった。  やがて二人の衛生兵が壊れた家の門からこのトラックにちかづき、一方の框《かまち》をがたりとはずして戦死者を引きおろし、彼が乗ったままで死んだ担架を両方から持って、死体の重みにたわたわと足をしなわせながら、火葬にしてやるためにどこかへかついで行った。担架の上には彼の銃も背嚢もいっしょに載っていて、まるで引っ越しをしているようであった。戦死者から毛布を返してもらった同じトラックの傷兵は黙って彼を見送り、それから他の傷兵たちの分と四つの飯盒《はんごう》をもって片足でトラックを下りた。川土堤のあちこちで朝の飯を炊く火が赤く燃えはじめている。  彼は四つの飯盒を両手にがたつかせながら、関節をうち砕かれた左足を痛めないように片足でぴょんぴょんとクリークの岸まで跳ねて行った。水は褐色の藻に掩われ、藻をかきのけると水面には赤く焼けた朝の雲がうつり、浅い水底に棄てられた飯の粒が白く沈んでいた。彼は傷ついた片足をいたわりながら四つの飯盒の米をとぎにかかった。日が当ってくると飯の落ちこぼれた水の岸ではおびただしい青蠅がとびはじめた。 病  馬  瑞昌が占領されてから戦場は急にひろがって行った。  九江からは廬山の東と西とに沿うて南下した二路と瑞昌への道と三方に進んでいたが、瑞昌からはさらに四路にわかれた。南潯鉄道に並行して南田舗《なんでんほ》の方へ下った杉浦部隊。その右を西南に渓の方へ行った保科部隊。この部隊は機械化装備の完成した隊でその戦果は期待されていたが、ながいあいだ部隊の行動は一切秘密にされていたので、本部以外にはどこへ行ったのか誰にも知られない時期があった。事変のはじめには北支に駐屯していたもので、蘆溝橋《ろこうきよう》事件で第一発の砲弾をはなったのがこの部隊であった。転戦一年三カ月ののちいま江南作戦の惑星となって、登場したものである。  また、西方陽新には陽湖岸に敵前上陸した宮森部隊がすすみ、宮森部隊と保科部隊とのあいだを抜けて粤漢《えつかん》線を突こうとするのが吉沼部隊、すなわち徐州戦のときに蚌埠から北上する途中で沖津部隊に追われた敗敵と正面衝突をした、あの部隊がまわってきていた。  作戦の大局から見れば北方戦線の信陽にせまるものを最右翼とし南方粤漢線を遮断するものを最左翼として、武漢三鎮にむかって半球形の包囲陣ができあがる筈ではあったが、江南戦線だけを九江を中心として見るならば、陽湖と揚子江とにはさまれた三角形を、九江から放射状に攻め進むような形になっていた。この形は作戦家のもっとも嫌う戦略で、進むにしたがって戦線はひろがり兵の数は減って行くことになるから大変にやりにくい。外部から敵を包囲した形になって行くのが常道であるが、この場合には敵の包囲のなかから戦って行こうとする形になった。この作戦は東と北とを水に囲まれた地形上已《や》むを得ない手段ではあったが、そのためには大部隊を動員しなければならず、前線後方ともに非常な困難を経験することになった。  前線では食糧にこまることが多かった。平地には赤い良い芋があって、暇さえあれば兵隊は芋をほってきた。朝のみそ汁も芋、ひるは芋を煮たもの、それから三時ごろの焼芋と、戦争のひまな時には芋ばかり食っていたが、進軍がいそがしくなると芋を茹《ゆ》でるひまもなくなり、生芋をかじり生米をかじらなくてはならなかった。水の悪いために腹工合のおかしい兵隊たちは生芋生米をかじるようになると続々と胃腸をこわした。痩せて鬚ばかりが目立ってくると、急に顔の日焦けがうすれて蒼白い色になるのであった。馬でさえも食糧が乏しかった。山地へはいると小松が生え雑木があるばかりで草も少ないし、藁もなく水もとぼしい。馬はみな腹がほっそりとして腰骨がみるみる尖ってきた。次には肋骨が縞をなして浮いてきた。顎の骨がとびだしてきた。しまいにはひょろひょろとして小石にも躓《つまず》き、なかなか立ちあがらなくなってしまう。  後方の輸送路は船で運ばれた物資を九江の碼頭にあげて集積し、それからまた小船に積みかえて水のあふれたクリークづたいに洗脚 橋《せんきやくきよう》まで行く。ここには家が五、六軒あるばかりで兵站部の兵隊がたくさんの荷物をまもって野原に立っている。土堤の上に物資をあげると兵站自動車隊のトラックで瑞昌の兵站まではこぶ。ここからは道が悪いし山坂が多くなるので輓馬輸送で行かなくてはならない。速力は遅く能率はあがらない。馬は激労にやせほそり、肩や腰にはふかい鞍傷《あんしよう》ができ真赤な肉が膿をもち、すぐに蛆がわいてくる。もうこれ以上つかえなくなった馬は後方へ送られて、また新しい馬が前線に補充されてゆく。尻の肉が丸くたっぷりとあって首の強い筋肉が張りきった馬たちを見ると兵隊は珍しがって立ち止るのであった。 「お! こいつ、近ごろ来た馬だな」  しかしそれも一カ月たたないうちに尻の肉はおち毛は艶をうしない肋骨が縞目になって、他の馬と区別がつかなくなり、肩のあたりに傷をこしらえてしまう。  使えなくなった馬は何十匹も列をなし、砂塵の道に首を垂れて数十キロもとぼとぼと歩いて九江まで帰される。砲弾で負傷したために歩けなくなったのや病気で弱っている馬はトラックの上に框をつくって四頭ずつ乗せられる。この馬には部隊の兵が三頭に一人ぐらいずつついて帰ることになっていた。隊長はマラリヤをやって弱っている兵や胃腸をわずらって蒼白い顔をしている者を選んで馬と一緒に帰ることを命ずる。 「お前たちは馬について九江へ帰り少し休養してくるがよかろう。馬が回復したらそれまでには丈夫になってまた部隊を追及してこい」  彼等は馬の手綱をとって戦線をはなれ、烈日に照らされながら何日かの徒歩行進をつづけて九江へ戻ってくる。九江には押川病馬廠部隊が郊外に本部をかまえ、ひろい牧場と完全な設備とをもって帰ってくる病馬を待っていた。しかし帰ってくる弱々しい兵隊を休養させるためには何の用意もしてはなかった。のみならずついて来た兵はその馬の世話をするのが規則であった。兵隊は休むどころではなく未明から夜まで馬の世話に働きどおしであった。殊に兵員の不足している部隊からは兵隊をかえしてくれと言ってくるので病馬廠はいつも手不足であり、弱い兵隊たちは馬が治療をうけているあいだ、自分も病院にはいっている者が幾十人もあった。  押川部隊は昨年の十月に出征してからほとんど○○○○頭の傷病馬を収容し、その九十パーセントまでは治療して原隊へもどしてやった。この回復率は世界各国の軍隊に比して第一等の成績であり、ここにも日本医学の実力をしめしていた。  九江では当時○○○頭の傷病馬を収容していた。建築隊の配属されていないこの部隊では兵員がみな馬繋場《ばけいじょう》をつくり屋根をこしらえ水飲み場を設備し放牧場の柵をめぐらし、それから馬糧と寝藁と治療と一切の世話をやいてやらなければならないので、一日じゅう眼のまわるような忙しさであった。また装蹄《そうてい》自動車をもってあちこちの部隊からの要求にしたがって蹄鉄《ていてつ》をうちに出張することもあった。馬について来た兵員には宿舎をあたえ食事の給与もしなくてはならない。忙しい時には一人の獣医将校が一日に三百頭の治療をうけもったことさえあった。  一番多いのは鞍傷であった。よく合わない鞍を間にあわせに使ったために出来るのもあるが大部分は鞍下の毛布が雨にぬれたまま何日も輸送をさせられたような事が原因であった。腰の方の傷は早く治るが、肩の傷は皮を破り肉をうがって肋膜までとおっているのがあった。腺疫という流行病のものもあった。蹄葉炎という蹄の病気になってまるで歩けないのもいた。栄養不良と過労とのために腰がひょろひょろになったのも多かった。小銃弾をうけたのは少ないが砲弾をうけたのはかなり多かった。獣医はレントゲンをかけて弾片の位置を見さだめてから切開摘出《てきしゆつ》する。徐州会戦のころには弾片はかなり大きいのが一つか二つはいっているだけで治療は簡単であったが、江南作戦がはじまってから弾片が小さくて十個も十五個もはいっていた。手術にも治療にも数倍の手数がかかる。これは支那軍が最近になって外国製の砲弾を使いはじめたからだと思われた。外国とはソヴィエトであるか英国であるか又はフランスであるか、いずれにもせよ彼等の裏面工作が軍馬の治療のうえにまで反映していたのである。  獣医将校はある日一頭の不思議な馬を診察した。外傷もないし内臓の故障もない。病気というべきものはどこにも見られないが、しかも立つことさえできないのである。いろいろな検査ののちに血液と筋肉とをしらべてみて原因がわかった。体力の根元ともいうべきグリコーゲンがこの馬の体内には全く見あたらなかった。彼は糧秣と弾薬との輸送のためにあらゆるエネルギーの最後のものまでも消耗しつくしていたのである。  この獣医大尉は北海道で開業していた人でまだ足も立たない嬰児《えいじ》のときから五十一歳の今年まで馬と一緒に暮してきたというほどの馬好きでもあり、一生を軍馬の改良にささげると口ぐせに言っている人であったが、この時ばかりはあまりにも悲しい馬の性格をまともに見せられた思いがして口が利けなかった。 「俺は、あの馬の顔が、気の毒で、見て居れん!」  彼は唇をふるわせて傍の兵隊に言った。  そして全力をあげてこの馬の回復に骨折った。傷病馬の治療はまず腹を肥らせることであった。腹さえ肥ってくれば半ば成功である。それから草地に放牧して体力をつける。治療費が一日一頭につき二円平均もかかり、二カ月くらいで大方は全快し原隊へもどされて行く。軍馬は原則として牡馬をつかうことになっていたが、江南戦線ではもう牝馬がたくさんに配給されていた。  まもなく押川部隊は瑞昌と星子とに病馬支廠を開設した。 戦 後 経 済  九江の市中には軍票が通貨として流通していた。しかし物資がない。九月末ごろから酒保が一、二軒ずつひらけて酒ビール罐詰を売り、写真屋ができたり時計修理所ができたりしたが、部隊の炊事当番は野菜と肉類とを手にいれることに苦心していた。九江市中から近郊まで歩いても一個の鶏卵も見つからないほどであった。遠くまで出て行けば手に入るけれども小人数で出かけるのは危険であった。  対岸の二套口《にとうこう》あたりには鶏や豚や野菜が多少あった。兵隊たちは部隊の命令で船で揚子江を渡って徴発に出かけた。ここの住民は戦火をあびていないので何でも気持よく持ってきてくれたが、軍票はうけとらない。支那紙幣でさえも要らないという。紙幣をもっていても買う物がないというのであった。彼等の日常生活は全く自給自足で、江をわたって九江へ行ったことのない者が多かった。兵隊はやむなく豚と野菜とのかわりに米と塩とを与えて帰るのであった。憲兵隊の方針としては物々交換はしてはならない。軍票の価値を保持するために物資はすべて軍票を支払って徴発せよということになっていたが、二套口の憲兵出張所さえも米を与えて鶏を手に入れるより方法はなかった。牛肉の罐詰に飽きあきし、乾燥野菜のとぼけたような味にいや気がさしている兵隊は、一日がかりで江をわたって対岸へ行き、新鮮な鶏肉と青菜のばりばりした水々しいのを手にいれて、肩をそびやかして帰るのであった。  戦後経済の通貨対策はいろいろと微妙な問題をふくんでいて扱いにくいものであった。軍票が思うように用いられなかったのは南京でも徐州でも、その他占領地区のどこでも経験してきたことであった。  政権を駆逐するためには国民政府につながる法幣を駆逐すべきである。法幣が紙屑同様なものになってしまったときには、国民政府そのものの不信用ともなる。支那民衆は私有している法幣の価値が下らないことを望み、それ故に国民政府の存在をのぞむことにもなる。法幣が紙反古《ほご》になってしまえば民衆は国民政府と縁が切れてしまう。そういう因縁があるので、支那民衆は軍票の流通をよろこばなかった。  また軍票はその流通範囲が日本人との取引きにしか用いられないということも一つの原因であった。  法幣も南京陥落ののちまでは上海で対日百十円の相場をたもち、敗けた国の紙幣が戦勝国のよりも高いのはどういうわけかと、ある代議士が衆議院で憤慨したという事件もあったが、夏の末からは八十四、五円まで下落していた。連戦連敗一年あまりにしてはじめて二十五円の下落を示したのである。  しかしこの事はまた他の方角に影響をもっていた。  北支の臨時政府は法幣を駆逐するために新たに紙幣を発行し、法幣と同価値で交換することを宣言した。しかしその交換成績はあがらずいたずらに二種の紙幣の流通をまねいて困っていた。  ところが上海で法幣が対日八十五円まで下ると、上海の紙幣が続々と北支に流入し始めた。臨時政府の新紙幣と交換するためである。この新紙幣は日本の円と同価値で交換されることが宣言されている。上海で八十五円に匹敵する法幣が北支へ行けば百円になるという奇怪な現象を呈した。そこで北支は通貨の大膨張にくるしむことになった。  原始的な物々交換をしている二套口あたりの民衆は法幣につながる縁がないだけに国民政府の安全を望む必要もない。そのためか一般に日本の軍人に対して親しみやすく善良な性格を示していた。憲兵隊はこの付近の物資の窮乏をきたすことを恐れて九江から徴発に行くことを厳禁した。九江はふたたび青菜と鶏とに欠乏しはじめた。兵士たちは十人十五人と隊をくみ銃をもって豚をさがしに四里も五里もあるところまで出かけなくてはならなくなった。しかしどこの部落でも支那兵に掠奪されたあとへ日本兵が徴発に行っているので、鶏は小さな雛しか居らず、豚も犬の仔のような骨だらけな仔豚ばかりで食うところはなかった。  兵隊は雛を取ってきて宿舎の庭にあそばせ、残飯をやって飼いはじめた。ときおり捕えては胸のあたりを探って「大分肉がついたぞ。今晩殺《や》ろうか」と笑うのであった。  九月末から商人たちが続々と入りこんで酒保をひらいた。野菜や果物に飢えている兵隊たちは蜜柑の罐詰を争って買った。羊羹とキャラメルとビールがよく売れた。商人は五百箱から千箱の荷物を陸あげして店をひらくと、一週間以内でその全部を売りつくし、店を閉めておいて南京や上海までまた買いこみに戻って行くのであった。  二カ月も前線の酒保をひらいて一万円の純益をもたない商人はないと言われていた。ここでは家賃も宣伝費も装飾や電燈料も一切の経費が不要で、日中五、六時間店をあけておくだけであった。しかも品物は五十、七十と束になって売れてゆく。まるで卸売のようであった。  ここで売っている牛肉の罐詰は脂と筋と切れっぱしの堅い肉とが詰っていた。脂は石鹸のにおいがした。味はただしおからいばかりであった。羊羹はほんの小さな包みになっていて南京○○屋特製とあった。○○屋の商標が信用をもっているので十五銭も高いとは思われなかったが、中の羊羹は不思議に醤油のにおいがしていた。兵隊は一口齧って吐きだした。彼が心を熱くして包み紙をめくったときの故国へのあこがれは、この悪辣《あくらつ》な羊羹によって裏切られ淋しくさせられた。  しるこ屋ができた。これは兵隊たちにとっては飛んでもない出来ごとであった。手榴弾が束になって飛んできても食いに行かないではいられなかった。大通りの角のしるこ屋は出る兵と入る兵とでごったかえしていた。しかし一杯十五銭のしるこを終りまで食いきるものはなくて、半分も食うとぱらりと箸を投げ出した。これはしるこではなかった。ただ墨色に濁ったうす甘くて臭い汁であった。  前線から帰ってきた兵は給料の使いみちがなかったので金は沢山もっていたし、楽しい食物には飢えていた。商人はそこを覘った。十八銭で仕入れたビールを七十銭で売った店すらもあった。それでも五十本六十本と箱詰めのままで売れて行った。この商人たちは皇軍に寄生する壁蝨《だに》であった。兵士の困苦欠乏につけこむ吸血虫であった。商人の取締にあたっている兵站本部もこれには困っていた。彼等は手をまわして県知事とか代議士とかの紹介状をもって来る。頭から営業を許可しない訳にも行かず、兵隊には豊富に物資を買わせてやりたい。あまり商売が悪辣なので兵站では後になってから物品に定価をきめた。ビール二十八銭、サイダー十七銭という風に。  商品見本は一々兵站部に提出され、それによって営業の許可をうける。しかし見本と商品とは同じではなかった。 「あんなええ物を売っていては商売はもうかりまへんわ」と関西出の商人たちは平然とうそぶいていた。「わてらやかて危険を冒して商売に来とるんやで、少しはぼろい儲けをさせて貰わんことにはどもなりまへんでなあ」  こういう思想のなかには貪慾な商人の心理があった。売国的ドル買問題をおこし敵国の軍隊に武器と塩とを売りかねまじき不逞な心理があった。  前線の兵隊たちは言っていた。 「九江へ帰ったらおしまいじゃ。財布はすっからかんになるわ。徐州戦のときに財布は一ぱいになったのになあ、南京に半月居たらもうからになったよ」  しかし甘いものとビールとに飢えた兵隊は酒保の開く前から朝の街に一町も列をつくっていた。兵站病院から腕を三角巾《さんかくきん》で吊った傷兵が出てきて、酒保の開くのを毎朝待っていた。床から起きられない戦友たちの絶ちがたい望みをはらしてやろうとして羊羹やキャラメルを買いにくるのであった。しかし羊羹をうけとった傷兵はほうほうと喉を鳴らしてひと口かじって見て、さびしい諦めを感じなければならなかった。 「前線の羊羹なんて、こんなもんだろうなあ」  九江の碼頭では補充部隊をのせてきた船から商品の箱が毎日千も二千もおろされ、そのかわりに傷病兵がのせられて後方へ送りかえされた。立つこともできない傷兵たちは担架のままで小雨のふる桟橋にずらりと並べられ、やがて船の上から積荷につかうウインチが網をおろして病兵を二人ずつのせては空高く吊りあげて行った。兵隊は吊りあげられた空間で、後送されてゆくさびしさに涙をながしていた。沖には軍艦が何隻も碇泊していて、下流からのぼってくる駆逐艦がこれらの間を縫ってゆきながら手旗信号をおくっていた。  ツツオトニキョウモクレタリソコウタイ  信号は俳句であった。尖鋭な姿をした艦は灰色の平たいデッキと錯雑した輪郭とに闘志を見せてしずかに遡ってゆく。すると碇泊中の艦からも手旗信号が送られた。赤と白との旗がこまかく美しくひらひらした。  チョウコウハイツカスムランアメノアキ  桟橋ではまだ傷病兵の吊りあげがつづいていた。 武穴への進軍  九江を占領してからのちの遡江作戦には二つの難関があった。その一つは武穴と対岸の馬頭鎮《ばとうちん》とに築かれた堅固な要塞を突破すること、第二は田家鎮と半壁山《はんぺきざん》とで江を挟んで戦備をととのえている場所をどうやって占領するかということであった。  馬頭鎮は武穴の対岸からすこし下流にあって部落と云ってはほとんどないが、岸にせまった山々が一つひとつ立派な要害をなしていて、ここに据えた砲台と濁流に沈めた機雷とはがっしりと遡江部隊を拒んでいた。ここを占領することは瑞昌から陽新にむかって進む部隊の後方輸送路として、九江からの道程よりも安全であり短距離でもあった。陸軍部隊は瑞昌から一週間にわたる山岳戦をつづけ、武山《ぶざん》、筆架山《ひつかざん》、郎君山《ろうくんざん》と激戦をくりかえして馬頭鎮の裏山にせまった。また海軍陸戦隊土師部隊も下流に上陸してから七日にわたる江岸進撃をつづけて要塞をおそうた。敵は山腹の横穴にかくれて空爆をのがれながら頑強な抵抗をしていた。空襲はくりかえされたが敵陣を脅威する役には立っても実際の損害をあたえることは少なかった。空襲は、列車や駅や建築物に対するほどの効果を、この戦線に対しては与えにくいものであった。  九月十四日の朝、馬頭鎮は陥落した。日本の戦術はいつの場合でも、一都市一部落を占領し終るとすぐに、ひと息つく間もなしに敗敵を追うてこの占領地から数キロ乃至十数キロを離れてしまうという方針をとっていた。それは占領地を防備するために絶対に必要な手段で、防禦の最良なるものは攻撃であるというやり方であった。陸戦隊の一部はその日のうちに馬頭鎮から上流四キロの苗家祠《びようかし》まで進んでここを占領し、陸軍は正午までに西方五キロの関帝廟《かんていびよう》まで進んだ。馬頭鎮は要するに半径数キロの外郭までひっくるめて占領された。  揚子江の岸に立ってみるといまは完全に要塞化された武穴の街が直ぐ対岸にかすんで見えていた。江の北岸のまもりとしては安慶から上流ではここがはじめてであった。戸数は二千戸ばかり、川岸にびっしりと並んだ家並みがあって、石だたみの古い街がその後方にもりあがっていた。  武穴をとれば広済にいる伊沢部隊はここを兵站線として直接に物資を手に入れられる。いままでは九江の対岸小池口から小舟で途中まで送り、それから陸路を唐沢自動車隊によって黄梅を経由して供給されていたが、武穴をとればここから陸あげした物資をトラックで一、二時間以内にうけとることができる。江北進撃部隊が今後の戦線をすすめて行くためには是非とも確保しておかなくてはならない兵站要地である。  もはや、伊沢部隊の一部は南にむかって広済を出発した。馬頭鎮が陥ちると同時に本部の至急命令がこの部隊に通達せられたのだ。 「江南部隊と協力、水陸より武穴を攻撃占領すべし」  さらにそれと同時に○○科参謀は安慶にいる鋤柄兵站部隊にむかって至急命令を発していた。 「占領と同時に武穴に前進」  そして一方では蕪湖にいた池田兵站にむかって、鋤柄部隊が出発したあとの安慶に前進すべしという命令が発せられていた。鋤柄部隊は一夜のうちに大量の荷物を梱包し船につみこむために兵員は夜どおし駆けまわった。明早朝船は遡江をはじめ、九江まで行って武穴の陥落を待つことになっていた。  この夜のうちに海軍の艦艇はひそかに馬頭鎮のちかくまで遡江して行った。明日からはじまる武穴総攻撃に参加し、陸戦隊をあげてやらなくてはならない。  こうした日本軍の配備が武穴の敵陣に感じられないわけはなかった。十五日の夜があけるとすぐに、街の下流の防備陣営からは野砲をもって川越しに馬頭鎮を攻撃してきた。ここでは川幅約三千メートル、野砲の射程としてはちょうどいいし、敵陣は見えているのだから直接照準でうてる。土師陸戦隊はすぐに応射をはじめた。海軍陸戦隊とは言っても陸軍とまるで同じで野砲ももっているし、馬頭鎮攻撃のときには幾つかの山岳戦もやっている。砲弾は両岸から川のうえを越えてさかんにうち交わされた。  武穴の街は川岸にある家々がすっかり煉瓦でたたまれ、一軒々々がトーチカをなして水のうえに機銃をさし出していた。また街はずれの倉庫めいた大きな建物がそのまま要塞化されていた。街から下流につづく長い土堤のかげにはずらりと掩蓋銃座ができており、土堤の中をくりぬいて通路がとおされていた。しかも水ぎわには幾重にも張りまわした鉄条網があって、敵前上陸の脅威にそなえていた。また街の裏側にある小山には要塞砲までも備えてあった。  こうして十五日は一日じゅう両岸からの砲撃をつづけた。明日は陸戦隊が北岸に上陸しなければならない。広済を出発した伊沢部隊の一部はもう栗木橋《りつぼくきよう》を越えて南下をつづけている。急がなくてはならない。敵前上陸をやるためには今日のうちに掃海作業を終えておく必要がある。掃海が終れば軍艦が遡江してきて掩護射撃がやれるという順序であった。 「掃海艇出発!」  目的の掃海水面はいま彼我の砲弾の真下になる江上である。そこでは機銃弾さえも易々とうちこまれる。しかし掃海艇は別れも告げずに出発した。すると、たちまち土堤の陰からうちだす敵弾が水面に並行にひゅうひゅうと唸りはじめた。友軍の野砲と後方江上にある軍艦の砲とはつるべうちに敵陣をうって掃海隊の掩護につくした。飛行機がやってきて市街の上空で輪を描いて飛んだ。やがて武穴の街には火災がおこった。晴れた初秋の空のまひるの明るさに、黒煙が勢いよく立ちのぼって行った。艇は敵の岸ちかく黙々としてのぼり下りしている。  やがて夜がふけたならば敵の岸に上陸すべき命をうけている続木陸戦隊の兵士たちは南岸の水ぎわに立ってじっと掃海作業を眺めていた。自分たちの航路を安全にするために働いている戦友にむかって何と感謝していいかわからない気持であった。あとの戦闘は引きうけるぞ、と叫んでやりたいような焦立たしさであった。  翌九月十六日、大別山の北へ回った部隊はこの日商城と光州とを同時に占領した。そして武穴戦線では続木部隊の敵前上陸が決行され、広済から南下した部隊は武穴まで二里のところに迫ってきた。  上陸は未明に敵の不意をついて決行され、小艇が土堤下に突きあげるまでは一発の弾丸をもうけなかったが、岸につくとすぐに手榴弾戦が開始され、それを合図に今日の砲撃も両岸からはじめられた。上陸地点は武穴のずっと下流で、その付近は敵が堤防を切ったために濁流が北の畑地や村落にむかって滔々と流れこんでいた。上陸部隊の進路は両方を水にひたされた土堤の道ひとすじばかりで、ずっと真すぐに武穴の街まで続く高さ七、八尺の草土堤であった。昨夜の月見草の黄色い花が凋んでおり、土民がすてて去った四ッ手網と網小舎とがあちこちに残っていた。敵兵は土堤のうえを背を丸くして西に走り、陸戦隊は砲撃をさけて土堤を這うようにして追った。馬頭鎮の部落や軍艦の上から双眼鏡で戦闘の様子がありありと見えた。武穴の市街は今日もまた燃えている。  海軍機がきて市街地や川岸の銃座に爆撃をはじめた。軍艦の砲弾もしきりに土堤のうえで炸裂する。続木部隊はずるずるとひと筋の帯になって土堤の陰を這いすすんだ。  このとき敵は市街の上手でまた堤防を決壊し、いよいよ逃げる支度をはじめた。堰を切られた水は白波をたてて田畑のうえに流れこみ、武山湖と黄泥湖《こうでいこ》とをつなぎ、武穴の街の裏側をすっかり水びたしにしてしまった。村の家々は白壁に濁流をうけて半ば崩れ沈み、道路は沿道の楊柳の枝々だけを見せて水底に没した。武穴は湖に浮いた小島のようになり、水をわたらないではどこへも行かれないことになった。濁流が充分に田畑をひたして水面の波立ちが静まると、小さな土蔵の形をした農民の墓が水のうえあちらこちらに屋根だけを浮べていた。巣を失った鴉と鵲とは砲弾のとびかう水の上の空に飛びまわってさわがしく啼いた。  続木部隊はその夜のうちに武穴の街の東端を占領し、翌る朝はやくから市街戦にうつった。対岸から砲撃をつづけていた土師部隊が全速力で江を横断して続木部隊の加勢に行った。北から攻め進んできた陸軍部隊は水にはばまれてこの市街戦に参加できなかった。  市街の低地は川岸一帯の街という街がもう洪水に洗われていた。突入した部隊は浅い水のなかをかけまわらなければならなかった。近処の家々の家具類、紫檀の椅子や戸棚や机の抽斗《ひきだし》や小箱などが流れている濁流の街に、敵の死体が幾十となく浮いていた。兵隊はこれらの死体をかきわけ押し流して市中の掃蕩をやった。  水が引いて行くにつれてこれらの死体は次々と川へ流れて行った。揚子江はまたしても多くの血と屍とを呑み去った。しかしそれからは雨天がつづいて街のなかの水は急にはなくならなかった。占領した兵士たちは急いで街の道々に板をわたした仮橋をつくり、どこへ行くにもその狭い板のうえに靴を鳴らして歩いた。  武穴の掃蕩が終るとすぐに、まだ機雷の危険があるのを冒して九江に待っていた鋤柄兵站部隊が到着した。それから特務機関が来て難民の調査にあたった。船舶工兵の今坂部隊が湖口から艇をつらねて遡江し、本部を武穴に移した。それはやがて始まるべき田家鎮攻撃やその後の作戦やまたは陽新攻撃に参加するためであった。  もはや、漢口、武昌《ぶしよう》のまもりは随分あやうくなってきた。田家鎮を抜けばあとは急追ができるような地勢であった。それに従って、あらゆる部隊が上流へ上流へと遡江しつつあった。陸海軍の飛行機はほとんど一日に一度は漢口を空爆しに飛んで行った。市中はもう幾度かの火災にいたみ爆弾に壊れ、住民もおおかたは逃げ去っているらしいと伝えられた。そして江南の戦線はもはや陽新にちかかった。武漢攻略戦はいよいよ最後の攻撃準備にとりかかるべき時期であった。 敵は黄梅を奪還した!?  広済と武穴とのあいだの兵站線となるべき道路は堤防破壊のために半ばは水にひたされてしまった。兵站線は小型発動機船をもって武穴の街から途中まで運び、そこからトラックに積みかえることになった。小発が九江から何十隻も呼びよせられた。さらに数千トンの大型汽船が兵と糧秣と弾薬とをのせて続々と遡ってきた。普通の年ならばこういう大型汽船は九月になるとなかなか遡れないほど揚子江は減水する筈であった。十月になると水は夏に比べて二十尺くらいも減ってしまう。作戦本部では輸送の関係から考えて武漢攻略は九月末迄には終らなければならないと前から予定してはいたが、戦果を急げば犠牲が大きくなるので困っていた。しかし今年は八月に比して九月末の水量は二尺くらいも増えていた。これならば大型汽船の輸送も差支えない。日本軍のためには大変な天佑であった。殊に例年は九月になると西の風が吹いて、江の水は風に押されると見る見るへって行くのであるが、今年に限って東の風がずっと吹きつづけているので、水は逆に押しかえされるかたちで減水しないのであった。船員たちはこれこそ神風だろうと話しあっていた。  つい近日まで敵の銃眼が無数に造られていた武穴の川岸は、いまはこれらの大小数十隻の船の出入りで賑わい、船夫たちの乱暴なさけび声が裏通りまでもきこえていた。  占領後まもなくコレラが発生した。九江のときほど猛烈な流行はしなかったけれども、兵隊のうちにも五、六十人の患者ができ、半数はその犠牲となった。敵のにくむべき戦略であった。特務機関はこのときに難民を隔離して難民区をつくった。貧民と病人とばかりが二百人ほど逃げ残っていたのである。  傷病兵は民家を幾十戸も占領してそこに収容された。しかし水びたしの市街では設備も思うようにはならず、僅かに板張りの牀《とこ》をこしらえて兵隊を寝かせはしたが、その牀の下には泥水がたまっていたし、衛生兵は板を渡した橋をわたって家から家へ回って行くような工合であった。じめじめとした家の中の空気と泥水の悪臭とで、この野戦病院は不快きわまるものであった。  自動車輜重隊も到着したが、ついて見ると武穴という街には自動車の通れる道がまるでなかった。細い路地と石段とからできた街で、自動車というものはこの街に入った歴史がないのだ。しかも郊外はすっかり水びたしになっている。自動車隊は車を陸あげしたまま次の命令がくるまでただ遊んでいるばかりであった。  遊んでいる兵隊は堤防決壊の激流のなかに網をひたして魚をとっていた。一尺あまりもある鯉や日本では見かけない名の知れぬ魚が流れてきていくらでもはいった。石油罐に二杯もとると竹の棒でかついで帰り、炊事当番をよろこばせるのであった。ひげ《ヽヽ》蟹に似た蟹もたくさんにいた。  このころ、七月末に占領した太湖や宿松にはもう敵兵が入っていた。夜になって部隊のラジオに聞えてくる敵のデマ放送を聞いていると、 「吾軍はすでに太湖を奪還し宿松をも奪還せり。また昨日は黄梅の日本軍を西方に追うてこれをも奪還せり。広済にある日本軍は既に吾軍の包囲下にあり、後方兵站線を遮断せられたる敵軍はいまや意気沮喪《そそう》し吾軍に降を乞うもの続々とある有様なり」  というようなことを得々として放送していた。実は太湖も宿松も兵站線として不必要になったので後方にすててしまい、警備兵をも置いてはいなかったのである。さらに武穴から広済への輸送路ができると黄梅もまた不要な土地になり、警備兵をおくだけ不便が多いので、ここもまたすっかリ引きあげてしまった。敵兵は占領したと称してこれらの空巣へはいって行ったのであった。それにつれて北岸部隊の兵站基地としての武穴がいまでは重要な地位を占めることになってきた。 田家鎮炎上  武穴のつぎは田家鎮だ。九江から漢口までのあいだで一番むつかしい陣地を築いていたのはここであった。北方の山地には完全な砲台が築かれ、前面は揚子江がずっと狭くなって対岸に半壁山要塞がある。隠蔽された砲台がいくつかあって遡江部隊も絶対に近づけない。この山は江の南岸に一つだけぽつりと立った小山で八方見透しであるから、攻撃部隊は近づかないうちに射撃をうけなくてはならない。  陽新の街の岸を洗って東に流れている富水《ふすい》はちょうど半壁山の裏をながれて揚子江にそそいでいる。この合流地点に富池口《ふうちこう》の小部落があった。南岸部隊がまず攻略すべき地点はここである。富池口を奪取すれば陽新を攻撃する宮森部隊や吉沼部隊に送る兵站線は、瑞昌や馬頭鎮から長い陸路をへなくとも富水をさかのぼって易々と輸送ができる。輸送路を考慮に入れないでは作戦計画を立てることはできない。やがて陽新が陥落したならば、それからは大冶《だいや》をぬけて武昌へ、または真西にむかって粤漢線の遮断に進撃して行くであろう一線部隊のために、陽新は大変に重要な兵站基地となる筈であるが、陽新の兵站部を豊富にするためには富水を確保し富池口を確保しておかなければならない。さらに富池口は眼のまえの三角州に半壁山を見る位置にあるので、富池口を占領しておかなくては半壁山が攻められず、従って田家鎮が攻められないという地形であった。  富水はいま揚子江の増水があふれこんで、川というよりは長い湖水であった。ひろいところは田畑をひたし村落をひたして川幅四千メートル位もあった。富池口は裏に小高い山をひかえた二百戸ばかりの小部落で、川岸やクリークのあたりは水面に毛が生えたように蘆が水びたしになっており、そのなかに鉄条網が張りめぐらされてあった。  陽新攻撃部隊は九月二十二日の夕方、木石港《ぼくせきこう》を占領した。それから山岳地帯を突破して北にすすみ、富水の南岸の大部分を制圧した。富池口は十七日から攻撃をはじめた陸軍部隊の七日にわたる雨のなかの泥まみれな戦闘によって、秋季皇霊祭の二十四日の午後に占領された。進撃をつづけているあいだはずっと雨にたたかれ、すると秋冷が急に肌にしみて眠ることもできない数日であった。  広済にいる伊沢部隊の一部はもう田家鎮への進撃をはじめていた。敵は至るところの山々に陣地をつくって抵抗し、さらに後方遮断を計画して側面からせまってきた。部隊は進んでいるうちに急に後方広済とのあいだに逆襲をうけ、前後に敵をひかえて進退に窮した。兵糧も弾薬も乏しくどこかに血路をひらかなくてはならない。しかも一方は洪水に洗われる村落で連絡も思うようには行かない。ほとんど全滅を覚悟しなくてはならなくなった。  そのとき武穴に待機していた今坂船舶工兵隊は連絡命令をうけて鉄舟を洪水地帯にすすめた。湖口で左腕を貫通された笹元上等兵もそのなかに加わっていた。包帯はまだとれてはなかったが元気は元のままであった。彼等は洪水のなかに進路をさがしながら包囲された友軍をもとめてさまよいあるき、二日目にようやく連絡をとることができた。部隊は糧食と弾薬の補給をうけると、忽ち活気づいてさらに南下をつづけた。もし敵が堤防を切っていなかったらこのときの連絡がとれなかったかもしれない。 「介石は気が利いとるぞ」と工兵たちは任務を果した喜びにみちて帰ってきた。  田家鎮の攻撃は空襲と軍艦とそれから富池口の砲兵とによって開始された。  半壁山砲台は飛行機でいくたびか襲撃したが、敵は相かわらず撃ってきた。砲はこわされないのだ。堅固なベトンで固めた砲台が巧みに隠蔽されていて、空軍は空からその位置をたしかめることができなかった。爆弾は幾十となく落され、そのたびに灰色の煙といっしょに岩片や土くれが空たかく吹きあげられる。しかし空軍が飛び去ってしまうとまた砲弾が遡江部隊にむかって絶えず飛んできた。  このときの掃海作業は全くの決死隊であった。彼等は出発命令をうけると黙って白鉢巻をしめた。鉄兜でもない、戦闘帽でもない、もう敵の弾丸をよけようとする気持すらもなかった。一つ二つの弾丸をよけて見たところで、狙いうちにうち出される無数の弾丸をさけることはできない。避けることのできない弾丸であるならば、むしろ鉄兜にはかない望みを託するよりも白鉢巻に決心を託する方が安心ができるのであった。  掃海艇の一群は母艦をはなれるとすぐ、全速力をもって江の中流をさかのぼって行った。母艦の司令塔のあたりには艦長以下の将校たちが集まって双眼鏡をかざしたまま掃海艇の行動を凝視《ぎようし》していた。艇は見るみる敵弾の水けむりのなかに包まれながらしかもまっすぐに江をのぼって行く。半壁山の下を越えて田家鎮の岸ちかくまで行くのであった。見ていると将校たちは水面にあがる一つ一つの水煙に胸をいためられ、息苦しいほどの思いであった。  敵弾は甲板をうち舷側をつらぬき兵員をたおす。しかし一発の応射をもしない。応射しても堅固なトーチカの中にいる敵をどうにもできはしない。飛行機と艦載砲との攻撃に一切をゆだねて、ただ黙々として掃海作業をつづけていた。白鉢巻に…………た艇員の表情は、全く…………人間の顔ではなかった。たとい弾丸が彼の肉を切り裂いても肉は痛みを感じなかったであろう。突然、物凄い底響きが水を伝わってきて小艇をずしんと揺すった。砲弾をうけたのかと思われる動揺。素晴らしい水柱が、天にむかって落ちて行く滝のように吹きあげた。見あげる空に飛び散った破片がばらばらと水面をうち他の小艇のデッキに落ちてくる。しかし艇員は身じろぎもせずに水面を見つめていた。彼の心臓は脈をうたず彼の肺は呼吸をしてはいなかった。  母艦のうえから眺めていた将校たちは、涙がながれて艇が見えなかった。双眼鏡が曇って艇はうるんでしまった。艦載砲が敵の砲台をうちつづけた。やがて、一隻だけどこまでも流れてくる艇が発見された。艇員は一向に作業をしていないように見える。濁流のなかを横にむきうしろをむきながら流されてくる。エンジンをやられたのかも知れない。下流の軍艦からはあらたに小艇が派遣せられ、近づくのを待って艇を寄せてみると乗員はみなその持場についてはいたが、白鉢巻をしめ……………ままで、全部戦死していた。  夕方、掃海作業を終了して、戦傷者と戦死者とをのせた小艇は下流に待つ母艦にもどってきた。操舵機に血はしぶき甲板に弾片がおち散らばり、夕暮れの江上に鬼気のせまる姿であった。ある艇には弾痕が百七発と数えられた。  田家鎮は九月二十九日の正午ちかく、皇軍の手におちた。北方から山地をぬいて南下した志摩部隊の連日の苦闘と、敵前上陸に成功した続木、土師の陸戦隊とが占領の栄誉を得た。陸戦隊は山砲を背負ってはげしい山岳戦をやった。急斜面をもった象山《ぞうざん》その他の山上の砲台からの敵の攻撃はすさまじいものがあった。中腹には何個所も穴がほられ、その穴ごとに十名十五名の敵兵が機銃と手榴弾とをもってはいっていた。彼等は穴から一歩も外へ出られない、出ればまともに射撃をうける位置であった。穴の中の兵士たちは最後まで戦い、戦いつくしてみな穴のうちに斃れた。これが兵を後退させないための敵軍の残酷きわまる戦略であった。彼等の塹壕はそのまま彼等の墓場となった。その戦闘は壮烈勇敢なものであったが、その勇敢さは自分の身の安全を計ろうとするためのものであって、身をすてて進撃する兵の勇敢さとは根本的に性質の違うものであった。  象山の敵は最後に猛烈きわまる射撃を向けてきた。後退するときに弾薬のすべてを使いはたして身軽になろうとするためかもしれない。猛撃は突然にぴったりと止み、するとこの山と谷とは恐ろしいほどの静寂に沈んだ。敵は足音さえも忍ぶようにして後方へさがって行った。土師部隊は谷々を伝って山にのぼった。死体のある谷あいの静けさはいままで奮戦をつづけた兵士たちを却ってぞっと戦慄させた。落葉や小枝を踏む足音が木の間に反響して、不気味な物おそろしさがま新しい戦場を一層悽惨なものにした。  山の裏面へ下りようとした兵士たちは、ここにもまた沢山の穴を見つけた。しかし攻撃はうけなかった。彼等は銃剣をかざして赤土の穴のなかをのぞいてみた。するとそこには田家鎮の住民たちがみんな息をひそめてかくれていた。町が母国の兵隊たちに占領されたとき、家を去った住民はみな山に逃れてこの穴にひそんだのであった。  母は子をふところに抱き、子は飢えに泣く力もなく、老女は穴の奥に横たわったままで起きあがる気力すらも失っていた。彼等が市民生活を楽しんでいたころに愛していたであろう数匹の犬たちも、飢えに疲れて横ざまに寝ころんだまま舌を垂らして喘《あえ》いでいた。彼等が住んでいた田家鎮の街々は眼の下にちかぢかとひろがり、敵が退却するときに放火して行った火事のためにいま数カ所から黒煙をあげて燃えつづけている。難民はこの山の穴に踞って、燃えおちてゆく自分たちの家を呆然とながめていたのである。  兵隊は握り飯をもっていた。 「小孩《シヤオハイ》、来々《ライライ》!」  子供がひょろひょろと立ちあがる。すると良い年の老人から女たちまでが何か呟いては手をさしのべてきた。兵隊は一個の握り飯を子供の手にわたした。すると、彼等の飼犬が牙をむいて子供を襲いその手から飯を奪おうとするのであった。兵士たちはここでもまた改めて戦敗国のみじめさに胸をいためられた。   大戸人家財産尽、小戸人家変砲灰……   難戸不尽滾々来、無衣無食無遮蓋……  事変一周年を記念して上海の支那人の間でうたわれたこの歌は、為政者に対する無限の怨みをたたえていた。「呼和平快到来!」平和よ速やかに来たれ。しかしいま田家鎮は炎のうちにあり、南方陽新もまた砲火のうちに包まれている。更に武漢三鎮と南支広東との大都市も同じように連日の空爆に崩壊しつつある。 「公敵就是介石!」けれども彼はなお漢口フランス租界に身の安全を保ちながら前線に命令し、ソヴィエトと英国とフランスとにむかって最後の勝利を傲語し長期抗戦を誓っている。難民は更に滾々《こんこん》として来たり平和はいつの日に迎えられるかわからない。ただ占領地区だけに平和がよみがえりつつあった。次の作戦地区は新しく血と火との痛烈な洗礼をうけてからでなくては平和はむかえられないようであった。 徳安戦線進まず  徳安街道の戦況は依然として膠着状態を脱しられなかった。星子を占領してから四十日、戦線はまだ三里しか進めなかった。金輪峰は二度も三度も取ったりとられたりしてから漸く確保されたが、硝爪船はまだ陥ちない。三段に放列を敷いた砲兵陣地はおとといも昨日も八千メートルを撃っていた。今朝もまた、隊長が電話機の傍から号令をかけた。距離八千、左三分角。前線がちっとも動いてはいないのだ。砲兵たちは文句を言う。  十月がくるというのに、晴れてくると日本の真夏と違わない日照りであった。砲兵はシャツ一枚になり、水筒の水をがぶりと含みながら黒光りした砲弾を押しこみ薬莢《やつきよう》をおしこむ。 「分隊長照準検査……」と隊長が節ながく言う。  分隊長は照準器をしらべてからまた節ながく答える。 「照準ようし!」  射手が砲のわきに立って言う。 「準備ようし!」  小隊長がうけて、準備ようしと叫ぶ。すると中隊長がさらに命ずる。 「第一分隊より、各個にうてえ」  小隊長がそれと同じ言葉でくりかえす。 「各個にうてえ」  声だけをきいていると、長々と語尾を曳いて、のどかでもありねむたげでもある。砲手がさっと右手を引く。土地も畑も竹藪も引っくるめてずしんと揺れうごき、菱形の大きな炎が投網のようにひらめいて消えると、きりきりと空気をつき破る音が空たかく消えて行き、廬山に反響した音がどうどうと鳴りひびいて帰ってくる。砲腔からは煙に包まれた薬莢が焼けただれてずるりと辷《すべ》りだしてくる。次の砲弾を右手で力一ぱいに押しこむ。  戦闘本部から電話で文句を言ってきた。 「砲兵隊、シャツ一枚で作業してはいかん。白いものは敵の目標になるぞ。上着を着るか裸になるかせい!」  砲兵たちはえいと叫んでシャツを引き剥ぎ草むらに丸めてたたきこむ。あとは汗にまみれた若い肉がぎらぎらと光る半裸体である。  竹むらの陰に敵が残して行った死体はもう糜爛《びらん》しつくしているのに、それだけの日数を同じところに砲を据えているのだ。距離八千。いつまで八千をうちつづけているのか。金輪峰は一度二度、歩兵の挺身隊が岩壁を攀じのぼって占領したが、裏側にいた敵の大部隊の逆襲にあうと忽ち五丈もある岩壁からころげおちてきた。まだ二、三人はあの岩の上にしがみついているらしい。しかし砲兵は射撃命令をうけた。二、三の戦友が五百の敵に囲まれているところを撃てというのだ。戦友をよけて敵だけをうて! しかし砲兵陣地は小山のかげになっていて金輪峰は見透せない。第一望遠鏡で見てもわからない戦友の位置をどうやって避けたらいいのか。  砲兵は峰のうえに立っている喇痲塔をうちまくった。塔の中ほどから折れて崩れてふっ飛んだ。戦友よ、許してくれ。この黒光りした美しい砲弾にむかって砲兵は心をこめて言い聞かせる。 「戦友にあたるなよ! 敵だけを殺すんだぞ」  弾丸は空をつんざいて飛んでゆく。このたまが従順な忠実な部下であるような気がする。うまく喇痲塔をたたきこわしたたまは素直な子供のように何か可愛い。おおよしよし、よく働いてくれた! と言ってやりたい気持だった。  金輪峰はとれたが硝爪船はまだとれない。  きのうは井田部隊長が負傷した。戦闘本部にたまが命中し炸裂した。迫撃砲のからうなりするやつであった。雲母と石英とのまざった赤土を掘り飛ばして、弾片が隊長の顎から頸筋までもぐりこんだ。隊長はしばらく立てなかった。それから参謀と電信兵とが山の下までかかえておろした。電話で呼ばれた衛生兵が三人、山の下の蕎麦畑の白い花むらを踏みにじって大股に走って行った。  隊長は包帯所で正気づくと半身をおこして衛生兵たちを呶鳴りつけた。 「馬鹿! 井田は廬山に骨を埋める覚悟でいるのだぞ。誰が俺をここへ連れて来たか」  しかし喉を貫かれた声はいたずらにかすれて、胸が波うち血が傷口にあふれるばかりであった。もう五十幾歳の老人で、手も頸も枯木のように細っていた。 「隊長、はやく治られてまた指揮をとって下さい。吾々は隊長の部下です!」  すると老人は黙って横になった。 「参謀を呼べ。ここへ電話を引け。俺は死ぬまで指揮をとる」  しかし隊長は出血に衰えていた。弾片はほとんど頸骨に達し、老人の気力を刻々に失わせた。  きょう、隊長は戦闘本部にいない。するとこの戦線全部がやはり何か足りない気がしてならなかった。命令は昨日と同じに電話で刻々につたえられ、部隊は昨日と同じに忠実に動いている。しかしやはり頼るべきものを失った気がする。校長の居ない運動会のような、親たちが外出したあとの家庭のような、上から抑えてくれるものの重さの不足が感じられてならなかった。  砲兵たちは夕方がくると急いで飯盒の飯を炊いた。日が暮れてしまうと火の赤さが敵の射撃目標になるから暗くならないうちに炊いてしまうのである。その頃から後方の兵站部隊が続々と前線にはいってくる。砲弾を積んだ輜重車が埃でまっ白になり、兵は燻《いぶ》されたような黒光りした顔でここまで辿りついてくる。この男たちは出征してからもう何百里歩いたろうか。重い足の運びがいまでは鉄の轍《わだち》のようにしっかりとして規則正しい。来る日もくる日もただ歩きどおしに歩きつづけている輜重兵たちを見ると、砲兵が珍しそうに眺めつづけるのであった。「男」という気がするのだ。男というものの無限に強くたくましい、その姿の見事さがかなしくてならないのだ。輜重車は幾十となくつづき、明日一日の弾薬と糧食とをたっぷりと置いて行ってくれる。しかし砲兵はまたこうも思うのだ。 「ああ、明日もここで八千メートルを撃ちつづけるのか!」  と。  輜重車と入れ違いに包帯所からは傷兵を後送するトラックが出発する。野戦病院までは一里半。傷の痛みをこらえながら凸凹《でこぼこ》の石ころ道を揺られて行かなくてはならない。  しかし野戦病院もまだ安全なところではなかった。背後にせまる廬山につづく山々にはまだ沢山の敵がひそんでいて、頻りに蠢動している。星子も襲われるだろうと云われている。そして星子九江街道には一昨夜も襲撃があった。トラックが狙われて、全速力で後退した。九江へもちかいうちに廬山の敵が下りて行くだろうと云われていた。  この日の夕方、星子の友田兵站部隊長に突然報告が入った。衣糧廠のうえの山地から約二百名の敵がこちらへ下りて来たというのである。隊長はすぐに兵站警備兵の配置を命じた。衣糧廠には食糧がいくつもの山を築いているし、その隣りの砲兵廠には弾薬の山が築かれている。野戦病院が前方に孤立している。自動車部隊の車廠が城外の広場にある。これらをやられたら忽ち明日の戦線を給与することができなくなる。  日の暮れないうちに警備兵は配置につき城門はかためられた。勤務のない兵も出動準備だけはしておけ。小銃弾と手榴弾とを分配せよ。衣糧廠は前方二百メートルまで歩哨線を出しておけ。晩飯は三食分一ぱいに炊いておけ。不寝番に下士官一名ずつを加えよ。馬の鞍ははずしてはならん。歩哨は城内にいる支那人の行動に注意せよ。  十一時ごろ、衣糧廠の前の歩哨線から銃声が鳴りわたった。警備兵は稲田のなかをがさがさと掻きわけながら走って行った。哨兵が二人、土堤のかげに腹這いになっていた。 「五人ばかり来た。敵の斥候らしい。暗くてよくわからんが一人は斃れたと思う」  警備兵はむこうの山にむかってだんだんと五、六発ぶっぱなしてから山の下まで進んでみた。腹を貫かれて呻《うな》っている敵がひとりいた。それきりであとは襲撃してはこなかった。弾薬の乏しい敗残兵であったらしい。  午前二時ごろ、もう一度別の方角に忍び寄ってきた敵があったがこれも撃退された。眠りを妨害された城内の兵たちは腹をたてた。 「野郎ども、腹をへらしているな。泥坊描みたいなやつらだ!」  翌日、井田隊長は九江の兵站病院まで後送された。硝爪船はまだ陥ちない。砲兵はやはり八千メートルを撃ちつづけた。 輸送重大任務  九江の病院には馬当鎮からずっと瀬田兵站に配属されている自動車輜重の三島中隊長も入院していた。マラリヤにかかって高熱が出はじめるとそれに釣られて古い盲腸炎が再発したのであった。  十月にはいって間もない日、中隊長代理をつとめている秋岡少尉が病院を見舞った。陸軍戸山学校の軍楽隊が病院慰問にきていて、裏の広場で管弦楽をやっていた。独歩患者たちは白衣をきてずらりとならんで聞いていた。三島隊長の室には久しぶりに晴れやかな音楽がきこえてきて、音楽好きの秋岡少尉をうっとりさせた。 「渓《じやつけい》が陥ちたって本当かね」 「本当です。昨日おちたそうです」と秋岡少尉は言った。「それでね、兵站部では僕らの隊をあっちへ移動して貰うかも知れんと言っていましたよ」 「いつごろだい」 「まだ確定している訳じゃないようです」 「そうか、渓もおちたか」三島隊長は出征してからの日数をかぞえるような感慨をこめて言った。  渓は五日に保科部隊の手におちた。瑞昌から武寧《ぶねい》街道にそうて西南にすすんで以来、二十日にあまる苦闘の戦線であった。どこまで行っても小山がつづく大陸の起伏ばかりで、どの山もみな敵の塹壕で真赤に見えた。こういう地勢では兵站輸送も馬ばかりだから思うような速力は出ず、糧秣も弾薬も不足つづきであった。砲兵はひと山ごとに砲を分解しては組み立て、担《かつ》ぎあげては担ぎおろした。敵は精鋭をもって徳安戦線から渓方面をまもり、一つの山をとるごとに何十回となく逆襲してきた。渓の手前の白水街《はくすいがい》、その西の麒麟峰《きりんぽう》などの激戦では広部部隊長をはじめ六人までも指揮官をうしなった。 「渓の方へ行くとすれば、今度こそは命がけです」秋岡少尉は若いつややかな顔を緊張させて言った。 「それまでに治るかなあ」 「無理ですよ。まだ十日くらいはここにいなくては」 「また兵隊が死ぬなあ」  隊長は戦死した部下たちのことを考えて涙ぐみながら言った。彼は死んだ兵隊のことばかりをいつまでも気にしている人であった。 「戦死した者のことを思うと俺はもう日本へ帰りたくないよ。なあ秋岡君、中隊長という職務は辛いぞ。部下は死んで俺は生きているんだからねえ、言いわけが出来ない気がするんだよ」 「そう気が弱くなっちゃいかんですよ。それは已むを得んことだもの」 「だけど秋岡君、俺はもう帰りたくないな。汽車が君、停車場へつくだろう。芽出たい凱旋だというんで家族はみんな出迎えるよ。そのときになあ、凱旋してこない戦死者の遺族がきっと迎えに来てるんだ。それは悪意では勿論ないよ。生前厄介になりましたと丁寧に礼を云われてね、それから戦死当時の模様をきかせてくれだよ。壮烈な戦死であればあるほど話ができるもんじゃないよ。全く責められている気持だね。あれを思うともう凱旋したくないよ。俺はそのうちどこかで戦死するよ」  秋岡少尉が隊へ帰ってくると下士官たちが風呂へはいっていた。中隊長のいないあいだは少尉が三人いるだけであとは下士官ばかりであった。風呂は兵隊が板をさがしてきてこしらえたもので五、六人一度にはいれるほど広かった。下士官はみな洗面器をもってはいって行く。湯を汲みだして見ると白い洗面器のなかにはちぢれた短い毛が十本ばかりも漂うているが、彼等はまるで気にも止めないのであった。 「ああいい湯だ。こんな立派な風呂場はちょっとこの辺にはないな、天宝《テンホー》だな」  風呂の中ではやはり饒舌《じようぜつ》になるのが人間の通有性らしかった。 「鉄道をどんどん修理しとるが、あれはどこまで通じるんだ」 「徳安の方へ行くやつさ。まだ枕木が入れてないだろう」  鬚の立派な野口伍長も大きなからだを流し場にどしりと据えて頸筋をこすっていた。 「支那の鉄道も枕木は栗の木かい」 「栗の木って支那にあるかなあ」 「有るさ、天津《てんしん》甘栗って云うじゃないか」 「ああそうか。甘栗っていうのは木にあるときから甘栗かい」 「そうだろう」 「そうじゃないよ。砂糖か何かつけて沁《し》みこますんだ」 「そうすると木は日本の栗と同じかい。違うんだろう」 「一体に木が小さいようだな」 「甘栗を沢山たべると小便が甘い匂いがするぞ」 「うそをつけ」 「いやほんとだ」 「台湾のポンカンな、あれを沢山食うと小便がポンカン臭いよ」 「西瓜を食うと西瓜くさい汗が出るものな」 「酒のみの小便が臭いのと同じ理屈だ」  そういうくだらない話の最中に秋岡少尉が将校らしい真白いからだをさらして入って来た。 「ああ、お先に」と野口伍長が挨拶した。 「ああどうぞ。湯は熱いかね」 「兵隊が焚きゃがるんで、煮えかえっていますよ。水だ水だ」 「隊長はどうでした」 「隊長は病気して気が弱くなったなあ」と秋岡少尉は答えた。「部下を殺したからもう日本へ帰りたくないなんてな。戦死したいって言っとったよ」 「そんな事を言ったら部隊長はみな凱旋できませんよ」 「退院したらまた元気になるよ」  賑やかな無駄ばなしを終って湯からあがると、兵站本部から命令がきた。瑞昌から武寧街道を行って渓の西北にある田家荘《でんかそう》まで糧秣と弾薬とを運搬せよというのであった。  出発は大急ぎだ。渓を占領した保科部隊のうちの一部はそこに残って、先発隊がすぐに西北に転じ、瑞昌から西にむかった吉沼部隊の南をまっすぐに辛潭舗《しんたんほ》に突いて出ようという作戦である。しかしいま保科部隊は糧秣も弾薬も欠乏しているし兵站輸送はうまく行っていない。軍本部はこの部隊の活動に多大の期待をかけているだけに、いま充分な物資を送ってやらなくては今後の全般の作戦が狂ってくる。  そこで、先発部隊が渓から山を越えて進撃をはじめたとき、その通路が武寧街道と交叉するところ、すなわち田家荘で待っていて弾薬と糧秣とを何日分も持たせてやろうという計画であった。ここで充分に物資を補給しておかなければ、それから先は山越えで道もないところを辛潭舗まで行くあいだは兵站との連絡をとる場所はなかった。  これは重大な任務であったから、秋岡中隊長代理は自分が指揮をとらなければならない。出発は午後八時、それから夜道をかけて行けというのだ。それまで三時間あまりしかない。  秋岡少尉は全部隊の集合を命じ、出発すべき人員には全部三日分の食糧を分配した。小銃弾も配布し敵から鹵獲した三挺の機銃も持たせた。鉄兜も全員持って行け。三十分以内に車輛を整備せよ。留守に残る兵は積荷の手伝いをするために集積場までトラックに乗って行け。  不意に部隊宿舎は大変な忙しさにまきこまれた。湯をわかせ、飯を食え、罐詰をあけろ、外套を巻くから手伝ってくれ、お前は先に車廠へ行って車にガソリンを入れておけ、俺は腸をこわしてるからちょっと便所へ行ってくる、明日この手紙を出しておいてくれ、あと五分しかないぞ、早くゲエトルを巻け、しまった水筒に入れる湯がない!  そうして車が出発したのはもう日暮れに近かった。それから砲兵廠の集積場へ行って多量の弾薬をつみこみ、衣糧廠の集積場へまわって米と麦と罐詰と乾味噌と粉醤油とをぎっしりと載せた。次に数台のトラックは兵站の宿舎まで走っていって補充部隊の兵士たちを一ぱいに乗せて戻った。そのころにはもう九江の街はすっかり日が暮れて、揚子江のうえに十二日ぐらいの歪《ゆが》んだ月がのぼった。  午後八時、秋岡少尉は先頭に立って出発を命令した。トラック六十輛に達する大行進であった。それに押川病馬廠から装蹄トラックが一台加わった。これは田家荘で保科部隊が一休みしているあいだに、蹄をいためた馬たちの蹄鉄をとりかえてやろうというのであった。自動車隊は無事に目的地で物資をわたしたら、帰りには数日にわたる激戦で生じた傷病兵を収容してもどれという命令もうけていた。そのために八名ばかりの看護兵も兵站病院から派遣されてこの一行に加わっていた。兵站の話ではつれ戻すほどの重傷者が○○名くらいもいるらしい様子であった。  田家荘まではほぼ八十キロ、夜道ははかどらないから明日の朝でなくては着かれない。月があるから八キロから十キロで行けるかもしれないが、雲が出たりすると五キロぐらいの速力しか出せない。しかも始めて通る道で案内もわからない。  九江の街をはずれると洪水でできた湖水のふちをわたって行った。工兵が修理してようやく通れるようになった凸凹の道である。瑞昌まではまず安全だが、それから先はどこに敗残兵の大部隊がいるかもわからなかった。水びたしになった芋畑で芋の葉の露が光っていた。車列のなかには日章旗を闇にはためかしている車もあった。補充部隊の兵士たちは車のうえに踞り銃を抱いたまま眠りはじめた。浅いきれぎれな眠りであるが、明日からはいつ眠れるかもわからない大事な睡眠であった。小声で歌をうたいはじめる者もあった。肩を寄せあい腕をからみあわせて歌う軍歌であった。戦線へ、第一線へ! 彼等は緊張し勇んでいた。やがて泥まみれになり血まみれになる男たち。やがて草むらに斃れ、水の岸に死のうとする男たち。安慶を占領したときに兵隊がうたっていた歌の文句がここではそのままに当てはまった。いくさする身と空とぶ鳥はどこの野末に果てるやら……  先頭の車は洗脚橋をわたった。月がクリークのうえに砕け、物資輸送の小発はこの岸にいくつもつながれ、乗組の兵士たちは船のなかで眠っていた。月光は草の葉と兵士の銃と土堤の雲母とを光らし、車輛の下からまきおこる砂ほこりは夜目にも白くもうもうと道を掩うた。この橋を越えこの砂けぶりをぬけて、物資を満載した重いトラックは次からつぎへと永いあいだわたって行った。蜿蜒として一キロにあまる長い行列であった。 隘口街・春の陥落  渓の陥ちた翌十月六日、大別山の北を迂回した部隊は信陽の南方柳林鎮《りゆうりんちん》のちかくで京漢鉄道線を突き、レールを爆破し駅を占領した。信陽と漢口との連絡は絶たれ、北方部隊は急に武漢一番乗りの有力な候補者になった。長江作戦部隊もいつの間にか一人々々が気をあせらしはじめた。半壁山とその後方につらなる馬鞍山《ばあんざん》、曹家湾《そうかわん》、呉家湾《ごかわん》、黄金山《おうきんざん》などの堅固な要塞を一つひとつ攻撃占領し、ようやく富池口から富水をさかのぼって水路づたいに宮森部隊の方に物資の輸送ができるようになった。武穴にいた今坂工兵隊○○艇は水路偵察の命をうけて富水にのり入れ、北の岸から小銃弾をうけながら陽新のちかくまで行って帰った。すっかり安全とは言えないが物資の輸送は可能である。  すると、湖口にいた市村兵站部隊がすぐに富池口の小部落にのりこんできた。船群をまとめて江を遡ってゆく有様は、誰の眼にも武漢陥落がもう近いと思わせるものであった。九江や馬頭鎮や武穴にいる部隊はその堂々たる船群の濁流をきってのぼる姿をみると、俺たちも行かなくてはならんと思いはじめる。取り残されて武漢に入るのがおくれはしないかという心配であった。こうなってみれば誰もかれもが漢口ヘ行くことよりほかは考えていなかった。揚子江には敵があたらしく流してよこす浮流機雷が絶えなくて、毎日一隻二隻と小発がやられていたし、ずっと下流の安慶の方でさえもまだ機雷の処分が必要であった。しかし九江を出てゆく船は日々に多く、数千噸《トン》の汽船が何隻も武穴の沖に碇泊していた。  掃海艇はもう半壁山から十キロばかりも上流まで作業を終えた。南岸の敵は陽新と大冶とにむかって後退しはじめた。半壁山付近の要塞をうしなっては日本軍を支え得ないことがあまりにも明らかであったのだ。  北岸は田家鎮を占領してから敵の戦意が急におとろえを見せた。介石みずから武漢は明けわたすと声明してしまっては、将兵すべて戦意を失わざるを得なかったものであろうか、田家鎮をしりぞいた敵は春《きしゆん》の市街に永くはとどまらずに、ずるずると後退してしまった。  この隙をねらって志摩部隊の一個中隊は、独断で行動をおこし、するりと春にはいり、ここを占領してしまった。一兵をも失わず一滴の血をも流さない不思議な入城であった。  ここははや揚子江の要塞地帯をぬけた平地である。遡江作戦は最後の急追に入るべきコースの出発線に立った。峠を越えたのだ。葛家店《かつかてん》・陽邏《ようら》のまもりはあるにしても、あとは山をかけ降りるように武漢に向ってひた進むばかりであった。春の街は武穴の二倍ほどもある。掠奪のあと、城内に物資は何ひとつ残されてはいないが、住民は五千人ちかくも残っていて、家屋もあまり壊れてはいなかった。  遡江作戦の最後の兵站基地として日本軍の方では最初から重要視されていた春、街はひろく川幅もひろがっていて船をつけるに便利だし、土地は平野になって物資の運搬にも部隊の集結にも工合のいいこういう街を、いくら守り難い土地だからといっても無血入城をゆるすという敵の戦法は、理解しがたくてむしろうす気味わるいものであった。春に物資が集積され部隊が集結され終ったとき、武漢は最後の危機に直面しなくてはならない。  入城が終るとすぐに遡江部隊は掃海にとりかかり、春水道をぬけて上流十三キロまでの水路をひらいた。さらに偵察任務をおびた快速艇は駆逐艦に劣らないほどの早さをもって敵が両岸からうちまくる弾丸のあいだをすりぬけながら遡江した。剽悍《ひようかん》な水すましのような船はその日春から上流二十八キロ、武漢まで直線距離百キロというところまで突っ走って、大冶の溶鉱炉のある石灰窰《せつかいよう》のちかくまで行って帰った。  武漢はちかいぞ、漢口はもうすぐだぞ! という気持が一様に兵隊の胸に熱いものを感じさせはじめた。  春占領の日、待望の硝爪船がついに陥落した。標高八百メートル、廬山連峰の最後の高峰がようやく布施部隊の手におちた。  後方の重要地渓を保科部隊に占領されてからこの方面の敵陣は動揺しはじめた。渓の攻撃をいそいだのはこの方面の戦局を進展させるための参謀部の計算であった。  敵は硝爪船から崩れおちて、隘口街はいま退却部隊と守備兵とでごったかえしている。西田部隊の偵察機がその様子をはっきりと見てきた。ついでに爆弾もおとしてきた。その隘口街はもう見えている。苦戦につぐ苦戦の一カ月半、中支作戦のうちの最も困難をきわめた戦闘はいま終ろうとしている。  歩兵突っこめ! 戦車全速力!  砲兵、前へ出ろ、射程をのばせ!  戦闘本部、移動だ。電話線を引きなおせ、電信兵駈け足!  工兵隊何をしとるか。戦車壕を埋めろ、地雷を掘りだせ、鉄条網を切れ、突撃路をひらけ。  輜重車前進、弾薬を前へ出せ。  歩兵はただ滅茶々々に走りだした。四十五日の口惜しさが癒されるとき、兵隊は泣きながら戦っていた。汗も涙もただひと筋に流れた。重砲は一時間ごとに射程をのばした。九千をうっていると司令部からきびしい文句がきた。 「撃ち方やめい! そんな近い所をうっちゃいかん。友軍の眼の前へおちとるぞ」 「一万一千!」と砲兵隊長がふし長くさけぶ。 「おいしょ!」と兵隊はかけ声をかけて照準器をなおし、くりかえして答える。 「一万一千、準備ようし!」  戦況がひとたび崩れはじめると、もはや止むべき力はなかった。布施、津田、大島などの部隊は三路にわかれて夜どおしの戦闘をくりかえして、翌九日の朝はやく隘口街に突入し、占領した。  占領して見ると隘口街というところは民家が二十軒ばかりしか建っていない部落にすぎなかった。ふりかえれば金輪峰も東孤嶺も硝爪船も、いまは姿をかえてその側面と背面とが眼のまえにあった。  占領と同時に、新しく徳安にむかっての進撃命令がきた。まだこの道は平坦になったのではない。駄嶺《だれい》、潘家山《ばんかざん》などの要害をふくむ山々の起伏が徳安街道の両側にせまっていて、激戦の幾十日がまたここにくりかえさるべき状況であった。 杉浦部隊包囲さる!  ○○軍本部から西田飛行隊にむかって至急電話がかかってきた。 「徳安の西方十五キロ、南田舗の付近において、杉浦部隊が敵の包囲のうちに陥ち、後方連絡が絶たれているという通知が入った。すぐに偵察してもらいたい」  隊長は受話器をおくとむッとして叫んだ。 「おい、偵察!」  天幕張りの飛行隊本部は草のうえにテーブルを置きならべ、大きな地図をひろげて石ころを重しに置いてあった。地図のうえはプロペラの砂ほこりでざらざらしている。隊長は一ときも手放さない煙草を咥えたまま地図を撫でて徳安の西方十五キロを押えた。 「ここだ!」  シャツ一枚の将校たちがぐるりとテーブルを囲んだ。 「杉浦部隊が包囲されとる。後方連絡がないそうだ。偵察、すぐ出してくれ」  天幕のなかには新聞記者が二人来ていた。ここは偵察任務をもっているだけに各地の戦線の現在のニュースがなま《ヽヽ》のままで入ってくる。隘口街付近、馬廻嶺付近、渓方面まではこの部隊のうけ持ち範囲で、そのあたりの戦況ならば三十分以内にみなわかっていた。謂わば軍本部よりも早くニュースが集められる。新聞記者の詰めていなくてはならない仕事場であった。  杉浦部隊包囲さる!  記者たちは椅子から立ちあがった。しかしすぐに、これは今すぐには発表できないな、と思った。 「どうして包囲されたんですか。まずい事をやったもんですな」  隊長はうんと腹をつき出して籐《とう》椅子に坐り、広い草地でエンジンを回している爆撃機をじっと眺めた。他の将校たちはサイダーのコップを持ったまま地図のうえにかがみこんでいた。 「突っこみ過ぎたな」と一人が呟いた。その地点には渓から崩れて行った敵の大部隊がいる筈で、昨夜から今朝にかけて急に突っこんだものらしく思われた。  出発命令をうけると他の天幕にいた飛行将校はすぐにパラシュートの黄色いバンドを肩から腿に巻きつけ、帽子をかぶりながら隊長の前へ出てきた。下士官ともで四人いた。 「出発します」 「地点はわかっとるな」 「わかって居ります」 「爆弾はつけとるか」 「五十キロをつけとります」 「充分に見てきてくれ」  四人はそろってぴったりと右手をあげて敬礼し、のそりのそりと飛行機の方へ歩いて行った。軽爆一機、偵察一機。それに二人ずつ乗りこんだ。  しばらく、エンジンのすさまじい音響があたりの空気に蓋をしたようになって、話もできなかった隊長はスリッパをはいて天幕の外に立って見ていた。友軍の危急と作戦上の危機とがこの場所にいる人々の気持を緊張させ、飛びだして行く二機の姿がそれ故に精悍きわまりないものに見えた。二機は翼をまわしてスタートにつき、滑走した。凛々として闘志のみなぎる姿であった。飛行場を半分も行かない中に車輪の下から出る砂塵がなくなり、地を離れた。南へ。翼を傾けて旋回したとき、翼の下につけた黒い爆弾がきらりと光って見えた。  ふりかえった隊長は記者たちの緊張した無言の表情を見るとにこにこと笑った。 「心配することはない。予定の行動だ。サイダーでも飲みながら待っていたまえ。一時間ちょっとで帰ってくる。そしたら様子がわかるだろう」 「予定の行動ですか」記者はこの一点をのがさなかった。  隊長は話しずきで、暇さえあれば記者たちと雑談をしている人であった。四十四、五の日にやけた丸い顔が精気にあふれて、政治を論じ、国家を論ずるときは国士の風貌があり、魚釣りの話になるとまるで一変した好人物のおもかげがあった。  予定の行動と言っては少しく違うが、最悪の場合には敵の包囲におちるかも知れないということは軍参謀部では承知していた。しかも杉浦部隊をふかく敵地に突入させた作戦というのは、隘口街戦線を早く進展させようとする考えであった。激戦四十余日に疲れはてている布施、津田その他の部隊に活気をあたえるとともに遠くから敵の後方を突いて崩そうという腹であった。この方面に敵の主力を引きつけてこれに徹底的の打撃を加えようとする計画であった。計画は成功し、敵の主力は移動し、隘口街は占領された。そしていま杉浦部隊は敵の重囲におちた。しかしこの犠牲によって隘口街から友軍が進めば馬廻嶺にある部隊と連絡がとれる。廬山のうえに今もなお残っていて星子街道をおびやかしている討伐困難な敵の一万余の部隊ははっきりと後方を遮断され、山の上で孤立におちいる。そこで、江南作戦は後方を心配することなしに武昌にむかって進撃することができる。そういう複雑な戦略であった。  記者たちはこれを聞くと、作戦というもののもつ残酷な一面を考えないではいられなかった。全体の戦線を有利にみちびくためには、時に最後の策として一個の部隊の全滅をさえも予定して出動させなくてはならない。参謀将校の苦痛な表情が浮ぶ。部下を死の道に進める者のみの知る沸《たぎ》り立つような愛情の苦しみが思われる。杉浦部隊を包囲のなかに進めようとするとき、実際に包囲されたという通知をうけとったとき、作戦本部はどれほどの苦痛にみちたものであったろうか。  偵察機がもどるまでのあいだ暇になった西田隊長はまた話をはじめた。 「僕はね、やまめ《ヽヽヽ》と鮎とにかけては、まあ日本でも一流だね。釣りというものは、考えてみると一種の処世哲学だな。時にしたがい変に応じて行くんだ。咋日釣れたからと云って同じ方法でやって今日釣れるもんじゃない。天候とか時間とか温度とか水量とか、それらの状況によって作戦計画がみな違う。魚を釣るためには釣師が我儘をしちゃいかん。相手次第で常に素直に方法をかえて行くんだな。融通無碍《むげ》、円転滑脱でないといかんな。そんな事を僕はいま陣中の閑をみて少し書きかけているんだ。凱旋したら一つ君の新聞社で出版しないか」 「いまは釣りの本はよく売れますからどこだって出版しますよ」 「そうか。……戦争も同じだな、無理しちゃいかん。政治でもそうだ。日本の政治家は我儘でいかん。殊に政党がいかん。こんにち大戦争をしなければならんのは、政党政治の積弊の結果だ。政党政治が嘗《かつ》て軍縮なんどをやりおったために、今になって慌てる事になる。毎年の軍事予算を削っておいて、いま急に四十八億の事変予算をくれたって、軍の整備はそんなに急にできるもんじゃない。軍部は政治の失敗したあとの尻拭いだ。つまらんな。こんな事を新聞に書いちゃ困るぞ。西田隊長がこう云ったなんて書いちゃいかん。しかし俺の云うことは本当だよ。軍縮と同時に外務省予算を四十パーセントも減らした事がある。あのころは吾々は電車に乗っていても蹴とばされたもんだった。外交は何もできやせん。外交が常におくれとるから軍部が先に立たなくちゃならん。そうすると外国との関係が円満に行かんちゅう事になる。おう、一つ帰ってきたな」  帰ってきたのは隘口街戦線で常時一機在空をやっている偵察機が交替してもどったのであった。搭乗員は降りてくると隘口街付近の戦況が徐々にすすんでいることを報告して自分の天幕へ帰って行った。 「そこでだ」と隊長はまた煙草を咥《くわ》えなおして語りつづけた。「戦争は支那の方がうまいな。日本は勿論強いが、国民に対する宣伝なんか成っとらん。支那は抗日の已むを得ざる理由を滔々《とうとう》と述べ立てて国民を団結せしめている。日本は抗日をやっつけると言う事はしきりに云われてるが、なぜ抗日がいけないか、その理由はちっとも言わん。一体君、支那には諸外国が権益をもっとる。日露戦争直後なんか、日本でなくては夜も日もあけん時代が支那にもあった。それがなぜ今になって日本だけを目標として排斥するか。それは日本の外交がまずいからだ。支那を扱う方法を誤って東洋の盟主としての貫禄を示してやらなかったからだ」  新聞記者が口をはさんだ。 「遠交近攻の策をやって、先ず近い日本からやっつけようというんじゃないですか」 「うむ……」と隊長はひと声うなり、次にすぱりと云ってのけた。 「介石は馬鹿だ!」  偵察から帰った将校の報告によると杉浦部隊は包囲されてはいるが、何しろ大部隊のことではあり、直径数キロの範囲を保っているので、一両日のあいだに危険がせまることもあるまいと思われる。しかし部隊はみな谷間の低地にあり、敵はまわりの山地を占領しているので状況は非常に悪いというのであった。  軍本部はこの偵察報告をうけるとすぐに渓にいる松尾部隊にむかって、「直ちに行動を開始し杉浦部隊の包囲線を西方より突破、連絡をとるべし」という命令を発した。しかし両部隊の距離は山岳地帯で十キロあまりもあり、敵の防備もできていた。連絡のとれるまで数日のあいだ、杉浦部隊は糧秣と弾薬とに欠乏し戦闘力をうしなう危険がある。  翌日から西田飛行隊は物糧投下をうけもつことになった。飛行機は五十キロ爆弾のかわりに翼の下に物糧投下筒をとりつけ、五十キロずつの米や弾薬の筒を一度に○個ずつ運んだ。 「佐々木中尉、みんなにそう言ってなあ、みんなの所持品を寄付しろと。罐詰でもタバコでも何でもええ。一つ集めてくれ」  西田隊長は米や弾丸ばかりでなく、敵の重囲におちている戦友たちに何かしら楽しいものを投下してやりたかった。空の遊撃隊である飛行隊の楽しさは、どんなに困っている部隊にでもすぐに連絡ができ、すぐに援助をあたえ得ることにあった。それは地上部隊の知らない喜びであり幸福であった。食糧と弾丸とを投下された部隊の歓喜をおもえば、どんなにでもして豊富に物資を落してやりたかった。  やがて佐々木中尉の奔走で二十分ばかりのあいだに種々な品物が隊長のテーブルのうえに集められた。一、二杯飲んだばかりのウィスキイがある。隊長は手にとって、 「おう! これさえあれば勇気百倍じゃ」と笑った。  カルピスの瓶がある。牛罐がある、タバコが六十本。羊羹三本。千人力飴。キャラメル。サイダー二本。赤玉ポートワイン。  よしよし、と隊長は喜んで、墨をすって瓶や箱のレッテルに手紙を書き添えた。 「これから毎日投下します。もはや援軍出動せり。困苦お察し申す。御健闘を祈る」 「食糧少なくて残念なり。目下準備中。続々投下の予定。御健闘を祈る」  これらの物資はみな米のなかに埋めて、投下したときに壊れないようにし、小型のパラシュートをつけた。  飛行機は翼の下に○個の物資をつけて離陸して行った。揚子江から南にむかうと、小さい山の起伏がどこまでもつづいて、雲は低かった。下界はうす曇り、大空は快晴である。白い雲のうえに落ちる機影は翼のまわりに丸い虹の輪をかざって、玩具のように美しかった。南潯鉄道を修理している友軍の姿が見える。それを越えるとやがて馬廻嶺の友軍陣地だ。右へ。翼が傾くと、それにつれて大陸の地図がゆるやかにめぐる。まもなく修水《しゆうすい》の流れが灰色に光って見える。  煙を曳いた弾丸がひとつ、尾翼のうしろの方へまっすぐに昇ってきた。曳痕弾だ。もう敵陣のうえである。一つ、また一つ。煙花《はなび》を見ているような軽い気持。高度千二百。白い雲がきれぎれに地上にういて見える。山と谷との屈曲の多い土地。ひと筋の細い道がうねっている。そのあたりに部隊のいるらしい無数の黒点があった。  旋回下降。千。八百。七百。五百。手を振っている友軍がみえた。白い物のうごくのは旗であろう。包囲せられた戦友の空にむかって旗を振る意味は、万言にまさる悲痛な思いが託されているようだ。  偵察将校が右手をたかくあげ、力をこめて投げおろした通信筒。革づくりの丸い小筒は五色の紐をひらめかしながらさッと後方へ流れる。軍本部からの連絡書だ。  ついでもうひとめぐり、機翼をぐっと傾けて谷間をねらって下降。高度二百。雲の下へくぐった。限の下の細い道に、砲車がいる、馬がいる。民家の屋根が三つばかり。兵隊の走りまわるのがひどくのろくさくあわれに見える。投下!  身を機上から乗りだしてみると、翼をはなれた投下筒が○個順次にかたむきながら小さくなり、すぐにパラシュートがまっ白く開いた。美しい空の水母《くらげ》。急転してそのまわりを回りながら落ちて行くさきを見ていると、地上を走る兵隊が一斉にその方へながれていた。ぐんぐん小さくなる水母たち。道にちかい山の中腹に一つ、二つと落ちて行った。小松の生えた山道をかけのぼる兵士たち。まだ旗を振っているのも見える。機上の将校は喜びに眼が熱くなる。あんなに喜んでいるのに、何と少ない食糧であろう!  再び上昇。雲をくぐって出ると大空はまた快晴である。南昌か徳安あたりへ爆撃に行くらしい六機が遠く右手に見えた。中支の空に敵機はいない。中支の雲の上は日本のものだ。日本の空を飛んでいると同じように安全で快適でのびやかな気持であった。ただ支那大陸は地上の眺めが日本ほどに美しくもなく親しみもなかった。しかし、地上に百万人の血は流されても、大陸の空は太古のままの秋の色であった。  物糧投下はそれから四日、五日とつづけられた。しかし敵の包囲はまだ解けない。杉浦部隊からの悲痛な通信が飛行隊にとどいた。 「連日の御援助感謝にたえず。されど、食糧は定量の三分ノ一にすぎず。士気ますます盛んなれども、窮状お察しを乞う」  援軍に行った松尾部隊は包囲線の西方で大部隊の敵と激戦をつづけているのであった。 絶望の一群  水《きすい》がおちて長江作戦には大きな動揺がおこった。ここは何と云っても長江筋の最後の兵站基地である。物資を急速に充実させなくてはならない。また漢口の陥落を待ってすぐに入って行かなければならない任務をもつものはみなここまで来て待機することにもなる。漢口特務機関、漢口憲兵隊、漢口報道部などがそれである。  武穴に本部をおいていた今坂船舶工兵隊は一部を富池口に近い入江に残して、何十隻の船をつらねて溯江した。濁流に船列をととのえ、曇天の江上に煙をなびかせながら上流に消えて行く風景はたのもしいものであった。この部隊の遡江は、これから実行される敵前上陸作戦に参加するためであった。上流にはまだ石灰窰があり鄂城と黄州《こうしゆう》があり団風《だんふう》があり陽邏がある。最後には漢口から漢水《かんすい》をわたって漢陽《かんよう》に部隊をあげるべき任務をももっていた。しかも武漢を占領してからも戦いはつづくものとすれば、岳州《がくしゆう》、洞庭湖《どうていこ》までも、敵前上陸作戦の行われるかぎりこの部隊はついて行かなくてはならない。  武穴の江岸は船舶工兵が遡江してしまうと急に船の数がすくなくなり、淋しくなった。そのさびしさは、最前線であった武穴がもはや後方に押しさげられてしまったことの、緊張から弛緩してきた気持であった。あらゆるものが武穴を去って上流へ行こうとしていた。江岸では屋根から軒をつたって張りまわされてあった黄色い電話線が、電信兵たちによってとりのけられ巻き納められていた。電話線は砲弾で壊れた屋根をすべりおち、水のなかを濡れながら引きずられて見るみるうちにまきとられてしまった。遠からずこの電話は春に、または 水に、張りまわされるのである。  街のなかも今では水が引いて、洪水のあとの板橋のみがそのままに残り、苦力《クーリー》が壊れた道に煉瓦や屋根瓦を敷いて修理していた。この歩きにくい道に、傷病兵がぞろぞろと出てきた。長屋めいた町の家々に分宿して、床の下に泥水の音をききながら療養していた兵士たちである。病院も、こんな前線では白衣も行きわたらず、みな軍服のままであった。  彼等のうちの歩けない者は軍服を胸の上にかけたまま担架で江岸にはこばれ、独歩患者は、各自の背嚢を背負い水筒を肩にかけ、慰問袋や日用品の包みなどを腰のまわり一ぱいにぶらぶらさせながら通りへ出た。後送されるのである。鋤柄兵站部隊は漢口が落ちるまで待たないで前進することになっていた。前進するときになって傷病兵をつれて行くことはできない。 「独歩患者は各自の所持品を携帯して乗船せよ」  そういう通告が一軒々々の病室に通知されたとき、傷兵たちは何とも云えない絶望を感じて顔を見あわせた。 「軍医どの、軍医どの!」 「何だ」と白い診察着の軍医は道からふり向いて、半身を牀に起した傷兵を見た。 「自分はもう五日もたてば全快します。もうすこしここへ置いておいて下さい」 「いかん」 「それでは今から原隊へもどして下さい」 「いかん」 「軍医どの、自分は走れます。銃もうてます」 「軍医どの、自分もです!」 「いかんと云ったらいかん! お前たちのからだは俺が責任をもっておるんだ。お前たちの勝手にはさせられん」 「はあ……」  軍医はまた一歩家のなかに戻って、今度はやさしく言ってくれた。 「漢口へ行きたいのはお前たちばかりではない。みんな前線へ出してやりたい。が、お前たちの健康はまだ充分でない。あわてる事はない。戦争は漢口で終りゃせん。ゆっくり後方で養生して、また来い。漢口ヘ入れないのは徳安の戦線の兵隊だって同じことだ。軍務に変りはない。いいか!」  兵隊は黙って身のまわりをかたづけ、食い残したキャラメルをポケットにしまい、久しぶりに重い軍靴《ぐんか》に足を入れた。それから街に出て大勢の後送患者たちと行列をつくって乗船場へ行った。血のにじんだ包帯に腕をかけたもの、頭の包帯で帽子をかぶれないもの、竹で造った松葉杖にすがったもの。服の胸は古い血でこわばり、ズボンの膝に穴があき、シャツは垢と泥にまみれて、見るかげもない惨憺たる行列、足ののろい、肩の傾いた、風にさえも吹き倒されそうに見える弱々しい行列であった。一個の鶏卵もなく、一滴の牛乳もなく、一片の肉きれにさえも不自由な前戦病院の生活のために傷の回復もはかばかしくはゆかず、僅か三十日まえにこの武穴に突入してきたころは凜々として元気にみちていたものであったが、いまは貧血に痩せ衰え、蒼白な顔に鬚ばかりのびて、澄んださびしい眸が大きく見ひらかれた兵士たちの群れであった。 「軍医どの」と一人の兵は蒼白い頬を緊張させ、不自由な足を一歩すすめて、行列のそばに立っている軍医に訊くのであった。 「軍医どの。漢口は、いつ頃おちますか」  軍医は兵の気持を察していた。彼はもう何十人の傷兵から同じ質問をうけていた。傷のなおらないうちに漢口はもう陥ちると噂にきくことの焦立たしさである。漢口はなるべくゆっくり陥ちてくれる方がよかった。軍医は柔らかくほほえんで答えてやった。 「まだまだだ。十一月半ばかな」 「きっとですか?」 「それは分らんよ。俺の推察だ」 「それで、自分等は九江へ行くんですか」 「多分そうだろう」  沖には大型の病院船が煙をはいていて、重傷患者は小船からウインチで空たかく巻きあげられていた。十月の江上にはもう寒い風が吹きはじめて、急に晩秋の景色が感じられた。独歩患者たちは衛生兵に助けられながらタラップをあがり、船員にむかってもう一度訊いてみた。 「自分は九江で降りるんですか」  船員は兵の気持も知らずに本当のことを知らせてしまった。 「この船は九江へ寄らないでまっすぐに上海へ下るんです」  漢口入城ばかりをただ一つの生き甲斐にして戦いつづけてきた数カ月の望みを失って、傷兵たちは船室のベッドに横になるとただ黙って眠ろうとするのであった。 平和を盗む  春はおちて江北部隊の戦備はととのうた。陽新はまだ陥ちない。  吉沼部隊は十月二日に排市《はいし》を占領して陽新の南から西に迂回しつつある。宮森部隊は富水を裸で泳ぎわたり対岸の敵をおいながら陽新の東から北にむかって迂回しはじめている。陽新は東と南と西との三方から包囲されてわずかに逃れる道は西北にむかう大冶街道ばかりしかない。しかし陽新はまだ陥ちない。  江北の伊沢部隊は春を占領するとまもなく引きあげて行った。江岸に沿うて進もうとはしないで再び広済に引きあげ、その付近一帯に部隊を集結しつつある。じっとして動かなくなった。この部隊が行動をしていないあいだ、全戦線は期待にみちた恐ろしさをもって眺めていた。動きだしたら急速な行動をやるのが特色である。今度動きはじめたらどこにむかって突っ走るか、それが恐ろしかった。手柄を先に取られるかもしれない。  伊沢部隊が広済から動きはじめない中に、江南部隊は陽新をとってしまいたい。ところが命令はなかなか来ない。陽新に突入せよとひとこと言われればどんな無理をしてでも占領して見せようと思うのに、大部隊は黙々として遠くから包囲をちぢめているばかりで、急激な戦闘をはじめてはくれない。  陽新の川ひと筋をへだてて対岸の大舗《だいろうほ》にはもうずっと前から日章旗が立っていた。川は氾濫して富水とつらなり、長い大きな湖水になってしまい、元は陽新に歩いて行けた道路も水の底にひたされ、橋は支那軍にこわされてしまって、渡るにはまた敵前上陸をしなくてはならない。  本隊はここから渡河する作戦をとらないで遠く陽新の裏に迂回して行き、ここには砲兵と歩兵と戦車隊とが少しずつ残っていた。二キロの水面を越えてむこうに陽新の街は水に沿うて平たく並んでいる。点々と白壁が見えている。  砲兵は毎日大きな巨砲をうちまくっている。丘も沼も砲の轟きにざわめきたっている。濃緑色の観測気球が二つ、朝になると山の麓からあがって行き、夕方になるといつの間にかなくなって、そのあとに美しい金星が輝きだす。  そういう風景をもう十日も見続けていた。歩兵と戦車隊とは閑で仕様がない。毎日芋をほって茹でて食い、毎日沼で魚を釣って暮した。敵の砲弾がときおり飛んでくる。陽新の街が火災をおこして燃えるのがよく見えている。しかし小銃も戦車も使えない部隊は魚でも釣るよりほかにする事もない。最前線に於ける閑日月であった。  十月十二日、大別山を北からまわった部隊はとうとう信陽を占領した。すると大舗の戦車隊は日向の石に何人もならんで腰をかけ、怠惰な煙草をくゆらしながら、ああ信陽もおちてしまったかと思うのであった。あれから京漢線にそうてまっすぐに下ってくれば、漢口まではひと筋の坦々たる道だ。あの部隊に先を越されてしまうかもしれない。しかしまだ陽新に突入せよとの命令はこない。  同じ日、遡江部隊は春から上流の掃海を終えて南岸に敵前上陸を決行した。春の対岸あたりに煙幕を張って、そこから上陸するように見せかけ、敵がいきり立って撃ちまくっているあいだに、それよりもずっと上流の韓源口《かんげんこう》に陸軍と陸戦隊とを上陸させてしまった。石灰窰へ、大冶へ!  大冶がおちてしまえば陽新の敵は退路をうしなう。いやでも陽新は陥落すべき情勢になった。戦わずして占領できるかもしれない。  しかし兵隊は不満であった。友軍はもう大冶に迫っているというのに、陽新の対岸で一体おれたちは何をしているのか。 「俺たちは魚を釣りに支那へ来たんじゃないぞ」 「芋を掘りに来たんでもないぞ」 「日なたぼっこをしに来たんじゃないぞ」  ときおり鋭い銃声がぱんぱんとまぢかの山から聞えてくる。しかし兵隊はふりむきもせずに舌打ちして云うのであった。 「また豚をとりやがった」  やがて豚をぶら下げた棒を二人の兵がかついで埃だらけの道に血をたらしながら帰ってくる。すると日向ぼっこの兵隊は腕まくりして料理にとりかかる。 「あああ、毎日々々豚の料理だ。俺達は豚を料理しに支那へ来たんじゃなかったのになあ」  料理をしている沼のむこう岸では砲兵がうっている。大きな弾丸が頭のうえを越えて陽新の街のもっと後方まで飛んで行く。しかも歩兵は悠々として豚の皮を剥ぎ臓腑をつかみだし火をもやして飯盒の飯を炊いていた。  十月十三日、渓から急行してきた保科部隊は排市のちかくの辛潭舗をも占領した。山岳の激戦数日、西進の要路辛潭舗がおちて、西方の通山を攻めおとせば間もなく粤漢線を咸寧《かんねい》のあたりで遮断できる情勢になってきた。 「みんなやっとるのう!」と歩兵たちはさびしい歎息をもらした。 「俺たちは武漢へ行かしてもらえないのかい」  その日の夕方、友軍の飛行機が一台飛んできて、低いところからビラを撒いて行った。兵隊は笑いだした。 「俺たちを敵だと思って降服をすすめに来やがった」  ところがビラを拾って見ると彼等の失望は一層はげしくされた。それは九江の軍報道部から撒かれたビラで、昨十二日我が軍は南支バイアス湾に大挙上陸、広東にむかって進撃しつつあるという意味のものであった。  この部隊に従軍して十日あまりも退屈しきっていた新聞記者たちはビラをかこんで政談をはじめた。九月三十日に宇垣外務大臣が辞職した。彼は親英派で宇垣クレーギー会談のときに南支は攻撃しないという言質《げんち》をとられていたから彼が大臣のあいだ広東は攻撃できなかった。だから宇垣がやめると同時に行動をおこしたのである、と。  永いあいだの懸案になっていた広東も攻撃がはじまった。南北の戦線幾百里、ひた押しにおし進んでいるというのに、ここでは沼の岸にならんで十何人の兵隊が魚釣りをしていた。今日もまた緑色の気球がぼんやりと空に浮いている。魚釣りの兵のそばに一人の支那軍の正規兵が帽子もかぶりゲエトルも巻いて、素足にゴム靴をはき、石油罐をもって現われた。捕虜になってそのまま苦力《クーリー》に使われている男であるが、つかまってもまだ正規兵の服装をしているのが何とも云えないほど憫《あわ》れであった。彼は沼の水をざぶりと掬む。風呂を沸かそうというのだ。釣りをしている兵隊は水を動かされるので腹を立てた。 「おい《ニイ》! 漫々的《マンマンデー》。無茶しやがると飯を食わせんぞ」  この捕虜は三十里もむこうから連れて来たもので、もう用がないからどこへでも行けと云われても、連れて行ってくれと泣きついてどこまでもついてきた。考えて見ればそれも道理で、解放された所が自分の村でもないし、食にも飢えなくてはならず、滅多なところを歩いていれば他の兵隊に敗残兵として捕えられ、いつ死刑を執行されるかもわからないわけであった。むしろ敵軍の苦力《クーリー》であることが彼にとっては最も安全な生存方法であったのだ。  兵隊はみな荒れはてた民家の土間にむしろを敷いて寝ていた。夏がすぎると急に寒くなって夜半は寝つかれなかった。壁は落ち扉もない土間には、ときおり飢えた野犬が死肉をさがして迷いこみ、兵隊の腹のうえまでのっそりとあがって行った。裏の山にはまだ死体がいくつもころがっていた。  何を思いだしたのか、真夜中に砲兵が一斉射撃をはじめた。すると弾道の下にある小舎はぴりぴりと慄えあがった。歩兵は眠れないのに腹を立てて叫んだ。 「砲兵、うるせえぞッ! 明日にせい、あしたに」  その翌る日から富池口のちかくにいる今坂工兵隊の船が三、四隻やってきて、陽新の街のついちかくを白波を立てて走りまわった。行ったりきたりしている。敵はあわてて機銃の総攻撃をはじめたが、船はそのなかを走りつづけていた。B18号艇の笹元上等兵もこの中にいた。弾丸が水面に斜めにつっこみ、水面はささくれ立って夕立のようになる。鉄の船腹をガンと貫く。 「なんの、これしき! はッはッはア」  鼻の下の髭が立派に伸びて、上唇は髭のなかにかくれ、赤い下唇だけがげらげらと笑っていた。歩兵や戦車隊の兵士たちは、こちらの岸からぼんやりと眺めていた。 「あいつら、何をしてるんだろう」 「ちっとも応射していないじゃないか」  一時間ばかり走りまわると船は大舗の岸に戻ってきた。 「お前たち、何しに行ったんだ」と岸で釣りをしている兵隊が言った。 「陽導に行ったんだよ」 「陽導? 陽導って何だ」  髭の上等兵は陽導の意味を説明してきかせた。敵前上陸をやる気配を見せて主力を川岸におびき寄せ迂回している吉沼部隊などが後方から楽々と突入しようという作戦である。そうするともう陽新のおちるのも間もないという事がわかったが、それと同時にこの岸から水をわたって突入はしないのだろうかという疑問が起った。  いま水にひたっている道路と壊された橋とのうえに仮橋をつくるために、丘のむこうにいる工兵隊は一日じゅう架橋材料の杭や板を削っていた。兵隊の宿舎というよりは電信工夫の溜り場のような風景であった。しかし夜がくるとこの工夫たちは急に兵隊になり、闇にまぎれて最前線の歩哨線から出てゆき、二千メートルの浅い湖水のうえに橋をかけようとしていた。橋は岸から四町ばかりはもうできあがり、その先の方を手さぐりや星明りをたよりにして、水の中に杭をうち板をわたしていた。夜半に砲兵が射撃するのは、敵が架橋作業部隊に機銃をうちこんでくるときの掩護であった。  十月十六日、移動準備が隊長から命令された。 「ほう! 俺たちが動くんだとよ。珍しい事もあるもんじゃ」  兵隊はもう拗《す》ねていたが、動けるのはやはり嬉しかった。移動の理由はあとから分った。石灰窰が陥ちたので陽新の敵が動揺しはじめたのである。  長江の流れに沿いうしろに低い山々をつらねた鉄のまち、溶鉱炉のまち、石灰窰。ここに陸戦隊がクリークを渡って突入した。漢口まで水路七十七浬《かいり》、直線距離にして二十里しかなくなった。陽新はもうずっと後方になってしまった。  北部戦線は信陽を占領してから京漢線の西へ出て、まだいくらも南下してはいない。山地で引っかかっているのだ。北岸の伊沢部隊は全戦線の注視をあつめながら部隊を集結したまままだ動きださない。糧秣と弾薬とを一ぱいに積んだ船がしきりに武穴から広済に向って行く。補充部隊も到着した。そのあいだに南岸部隊は石灰窰へ突入した。陽新も大冶も後方部隊にまかせて突っ走って行けば、この部隊が最初に武昌に達することになりそうだ。  こういう羨むべき各地のニュースを聞きながら大舗の砲兵たちは夕飯を炊いていた。敵の砲兵は後退したと見えて、砲弾はとんで来ない。もう兵隊はろくにいないのだろうと彼等は噂していた。どこかの畑で唐辛《とうがらし》の葉を見つけてきて、石油罐で煮て食っていた。塩鮭を焼くにおいが沼のうえまで流れた。石油罐を火にかけてみそ汁もつくっていた。立派な珈琲《コーヒー》茶碗があり、火のそばには紫檀の椅子もある。この椅子も薪がなくなれば焚かれるかもしれない。ここでは物の価というものがない。必要欠くべからざるものが大事なもので、金指環よりも一個の焼芋の方が貴重であった。  徳さん《ヽヽヽ》という兵隊が裏の丘の藪の中から小さな植物を掘り出して来た。棕櫚竹だというのだ。葉のつき工合、芽の太さ、日本ならば立派に一流のものだという。 「そんなものどうするんだい。明日は移動だぞ」  その兵隊はにこにこしながらそのあたりを駈けまわっていたが、やがて赤土を木箱に入れてかかえてきた。 「どこを探しても植木鉢がない」  そして赤土を水でこねて植木鉢を造りはじめた。 「おい徳さん、お前どうかしてやせんかい。砲車に積んで漢口まで持って行く気か」 「そうだよう」 「お前植木鉢を造ったって、三日ぐらい陰乾しにしてから焼かなけりゃ割れてしまうぞ」 「そうかい」 「酔狂なものだなあ徳さん。戦争がひまになると兵隊が植木屋にならあ」  徳さんはにこにこ笑いながら赤土をこねていたが、そのうち不器用な植木鉢の形になりはじめた。やがて観測気球も降り金星が出てあたりはすっかり暗くなってしまったが、徳さんは焚火のちろちろするあかりで一生懸命に鉢をこしらえていた。出動命令が下ったら一抹の未練をのこしてここへ置いて行くつもりであった。彼がいないあとで棕櫚竹がひとりで育って行けばそれでいい。ただ征戦一年あまりにすさみ果てたこの男の心はこれほどの小さな平和の片影にさえも飢えていたのであった。  砲兵たちのいる小屋からすこし離れて戦車隊の歩哨の小屋があった。日中は誰もいないが夜になると五、六人の兵がここに来て土間で焚火をしながら夜通し起きていた。交替で二人ずつ二十台ばかりの小型戦車を置いてある広場へ哨兵に出てゆくのである。戦線のすすまないあいだに戦車の無限軌道には錆がきて、ここへ来るまでの銀のような光は見られなくなった。  歩哨小屋の土間では太い柱材が三本までもちろちろと燃えつづけ、炎のあかりのなかで交替兵たちは退屈しきって、小豆《あずき》を煮て食おうという話をはじめるのであった。小豆はどこかの支那家屋で見つけてきたのが本部の炊事場にあった筈だ。 「よし、一つ決行しよう。鍋があったかな」  と下士官が言った。 「鍋はあります。少し穴があいてたかも知れんが、釜です。支那釜のこんなでかいのが」 「うん。お前その釜をもって来い。野々川上等兵、あずきを取りに行け。木島一等兵は飯盒に一杯砂糖を徴発してこい。直ちに出動。小豆は帰りにちょっと洗ってこいよ」  上官はこういうことにまで軍隊流の命令をくだした。兵は直ちに入口の蓆《むしろ》をくぐって外の闇にむかって出動した。  まもなく三人が帰ってくると、天井の梁から荒縄で釜をつるし、小豆を煮はじめた。ついさきほど、工兵隊は架橋作業に出かけたようであった。沼のむこう岸にいる砲兵たちはまた射撃準備をはじめている。やがて兵隊たちの夢を破って一斉射撃が行われるであろう。しかしここでは焚火の燃えさかる煙のなかで、四人の兵が小豆の煮えるのをうつらうつらと居睡りしながら待っていた。  平和に乏しい血腥《ちなまぐさ》い戦場にあって、彼等はこうして短い平和を盗み取っていた。勤務のあいだに、進撃の途中に、待機のひまに、短い子供っぽい平和が器用に発見され盗みとられていた。戦争がはげしくなれば、敵の歩兵線まで駈けこんでぐるぐる回りをしながら機銃をうちまくるという、とんでもない任務をもった小型戦車の兵士たちが、小豆の煮えるあいだ蓆のうえに寝ころんで、同じ郷里の兵隊と郷里の村の話をなにくれとなく語りあい、しみじみとした平和に心をあたためるのであった。砲兵が一斉射撃をはじめ、夜半の山々は鳴りとどろく。しかし、この小屋の兵隊は支那釜をかきまわして小豆の煮え加減を見ているのであった。  心の平和とは一体何であろうか。それは愛情が静かに心に充ちている状態であるということができるならば、戦線に在る兵士たちの心は謙譲につつましくて、それ故に愛情はほんの小さな数滴でさえも彼等の心を充たすに足り、彼等は敏感にまた易々と大きな平和を感じまた味わうことができるもののようであった。 陽新ようやく陥落す  十月十七日、上陸五日にして南支作戦部隊は広九《こうきゆう》鉄道を遮断し香港《ホンコン》と広東とを切りはなした。そして中支戦線では永いあいだ敵の包囲のうちに苦戦していた杉浦部隊が、西方から包囲線突破に成功した松尾部隊に助けられて後方連絡を回復し、それと同時にまわりの山々にいる敵にむかって反撃しはじめ、西田飛行隊の苦心もまた報いられた。さらに星子から隘口街を進んだ諸部隊もいよいよ徳安にちかづいた。中支南支とも戦局は活気づいた。  陽新の街から水を隔てた大舗で退屈していた部隊にも忙しい日が来ようとしていた。この日、歩兵の隊長は今坂船舶工兵隊の○○艇に乗って水路偵察に行った。部下の下士官三名兵三名をつれたばかりで、この快速艇は陽新の岸からわずかに二百メートルのところまで近づいた。石灰窰を占領され、大冶も危うくなったのでもう敵兵は居ないかも知れないと思ったのに、意外にもすさまじい機銃の攻撃をもって迎えられたが、銃弾を通さない鋼鉄張りの小艇は水路を充分に見きわめ、上陸地点までも探して戻った。  陽新へ西から迂回して行った吉沼部隊ももう市街のなかへ野砲をうちこめる位置まで近づいていた。  こういう状況はすぐに後方部隊に影響して行った。富池口にいる市村兵站部隊は、この夜のうちに荷物をまとめにかかった。明日は落ちるかどうかもわからないのに隊長のこういう命令が伝えられた。 「明朝午前八時乗船、陽新に前進」  馬頭鎮から陸あげしていた沢山の物資は、その夜のうちにまた別の船に積みかえられ、陽新で陸あげするために明朝はやく富水を遡ることになった。また武穴や馬頭鎮あたりで待機していた憲兵や特務機関も出発用意をしはじめた。それにつれて九江にいる商人のなかにも陽新へまっ先に行ってうまい商売をしようとする者があって、便乗願を碇泊場本部へ出しに行った。  翌日、待望の陽新は陥落した。迂回して行った部隊が後方から突入し、それに応じて歩兵隊は今坂工兵隊の船にのって未明に洪水地帯を渡った。敵の主力はもう逃げたあとで、戦闘は花々しいものではなかった。市街は永いあいだの砲撃と空爆とで見るかげもなく荒れはてていた。  敵が武漢防衛の第二陣として水から陽新を結ぶ線に堅い防備をつくしたのも、いまその総司令部陽新を失って、武漢はもはやなかば死命を制せられることになった。今後の南方作戦の根拠地として水陸交通の便をもったこの街は、たちまち兵站部隊が上陸し小発が何十隻となく岸に群れてきて、硝煙のなお散り切らないうちに破壊から建設への急速な転換が行われて行った。  しかし、陽新の陥落はあまりにも遅かった。武漢攻撃の直接の兵站基地としては、今はもう役に立たなくなって、僅かに粤漢線を襲い通山の方へすすむ諸部隊のための後方基地であるにすぎなくなった。もはや南岸部隊は石灰窰を占領して大冶にせまり、さらに上流黄石《こうせき》港の攻撃をはじめているのである。武漢への距離が一番近いのはこの部隊と歩をそろえて進んでいる遡江部隊とである。京漢線を南下しようとする江北部隊は激戦をつづけてやや遅れており、北岸の伊沢部隊もずっと後方である。  しかし陽新陥落の十八日、春を占領してから永く待機していた伊沢部隊は広済から西方にむかって前進しはじめていた。武漢まで、湖沼地帯を迂回して行けばどうしても百八十キロ、四十五里ばかりの道であったが、快速伊沢部隊の動きはじめたことは全戦線の期待と注目とに価するものであった。 原隊を追及して  漢口の陥落がちかいと聞くと、南京の兵站病院に入院していた塩田一等兵は矢も楯もたまらない気持になって、軍医室へ出かけて行き無理やりに退院を願いでた。まだ治りきらない足の傷もなるべく跛を引かないようにして足ぶみもしてみせた。軍医は笑って退院をゆるしてくれた。そうして彼は原隊追及のひとり旅に出たのである。  兵站本部で聞いてみると原隊の位置はわからんという。九江で聞けばわかるだろうと頼りない返事をしてくれ、一夜だけ宿舎へ泊めて弁当も持たせられた。  次の日、南京の下関碼頭から彼は九江行きの小さな船に乗りこんだ。百トンばかりの船で、商人や国防婦人会の人たちや九江放送局へ行く軍属などが乗っており、ほかに沿岸警備の砲兵が八人ばかりで船室の片隅を占領していた。江上に出ると冬のような寒風が吹いて、夏シャツに夏服しか貰っていない塩田は慄《ふる》えあがってしまった。 「砲兵さん、吉沼部隊はどこへ行っておるか知らんですか」  砲兵たちは痩せこけて顔の蒼い弱そうな一等兵を不思議そうに見つめた。 「知らんな。九江で聞けばわかるだろう」 「大冶を攻めておるのは吉沼じゃないですか」 「あれは宮森部隊だろう。○○の部隊かもしれんなあ」  塩田一等兵は砲兵たちの話によって南岸の黄石港と大冶の総攻撃がはじまっていることを知った。彼の気持はおだやかでなかった。  黄石港の位置はよく分らなかったが石灰窰よりもむこうで、武昌へは十五里くらいしかないときいた。  彼は出征してからもう一年。最初は左肩の鎖骨の上を貫通されて一カ月入院し、また戦線へ出て行くと、今度は腹のまん中へびしりと敵弾をくらった。腹をやられたら助からない。しまったと瞬間に思ったが体は何ともなかった。敵のガスマスクを道で拾って前にかけていたのが身がわりになって壊れていた。そして三度目には、左の太腿の肉を貫通されて、南京の軍官学校のまえにある病院で一カ月をすごした。二度も死にそこなった命ならもうあまり惜しくもないから武漢に突入する原隊に遅れたくないと彼は思っていた。黄石港がやがておちる。遡江の陸戦隊もそこまで行っている。間にあうだろうか。  ところが船は昼すぎに蕪湖につくとエンジンも止めて悠々と岸につながれてしまった。上流大通のあたりで南岸の敵がさかんに砲をうつので日中は江をのぼって行けないというのである。つい四、五日前には弾薬と衛生材料を積んだ船が弾丸をくらって火を発し、弾薬は破裂しはじめるさわぎに遂々北岸の浅瀬に突きあげて、乗っていた者だけ辛うじて逃げた。又その前には船室に弾丸がとびこんで新聞記者五人も一度に負傷し一人は死亡した。 「どうして討伐しないんだい、君」と塩田が云うと、警備砲兵は「……………………」と笑って答えた。  そういう作戦とも知らずに敵はいい気になってうちまくっていた。  その夜、日が暮れてから彼等の船は大通の沖を全速力で遡って行った。左手には敵が放列をそろえて待っている。右の岸では敵の見張りの者がいるらしく数カ所で発火信号をやっていた。闇のなかにちかちかと電気の光が明滅した。船はまっくらに灯を消してのぼっていた。するとエンジンの過熱から煙突の煤《すす》に火がついて燃え始めた。火の粉は花火のように空に吹きあげる。すると忽ち左の岸から砲をうち込んできた。警備砲兵が応射する。他の者は川の水を汲んで煙突にぶっかける。船は速力が出せない。大変な騒ぎであった。  翌日安慶について塩田一等兵は、北岸の伊沢部隊がもう水の攻撃をはじめたことを知った。大冶がおちそうになったことを知った。遡江部隊はもう黄石港を占領するであろう。  翌々日、彼が九江についた時、昨日大冶が陥落したと聞いた。それがきっと自分らの部隊であろうと彼は思った。  瀬田兵站は船のつく江岸にあったので跛の塩田は歩かないで済んだが、吉沼部隊の位置はここでも分らなかった。 「陽新まで行って見ろ。むこうで訊けばわかるだろう」  彼は午後の便船ですぐに武穴にむかった。小さな発動機船で、デッキには二十人ばかりの兵隊と武穴へ行く五人の女たちとが乗っていた。この国防婦人会の女たちはまだ二十四、五の若さで占領した市街が平穏になるとすぐに兵隊の慰安に乗りこんでゆき、部隊のあとを追うてどこまでも前進してゆくのであった。六時間ののぼりの船のなかで彼女等ははじめは人目をさけるようにして踞り、次には小声で兵隊と話し始め、やがて一緒に軍歌をうたい、最後には肩にもたれて居眠りをはじめるのであった。十月末の川風は冬のような寒さで、塩田一等兵は女たちの肩の陰に坐って慄えどおしの六時間であった。荒れはてた黒く艶のない肌の色が彼女等の生活のすさまじさを想像させた。併し彼女等は前線の傷病兵に対しては献身的な親切さと忠実さとを示し、その存在を光輝あるものにしていた。そういう奉仕の生活によって彼女等の道徳的なさびしさを自ら慰めていたのかもしれない。  武穴についたのはもう日暮れ方で、陽新へゆく便船はなかった。塩田一等兵は重い背嚢を背負い銃をかついで、ひとり暗い街のなかを兵站部をさがして歩きまわった。駐屯部隊も大方は前方へ行ってしまい、傷病兵も後送されたあと、武穴はひっそりとしてしまって、破壊と火災との跡が今さらながらすさまじく静まりかえっていた。  壊れかかった家に板の床を張り蓆を敷いて、それが兵站宿舎であった。ここには部隊を追及してゆく兵や後方連絡に帰る兵が集まって、一夜の宿を共にし、一緒に飯盒を炊いて食うのであった。  塩田は同宿の兵隊たちに吉沼部隊の位置をきいてみたが、正確に知っているものはなかった。陽新へ行ってみなくては分らない。焦立たしい気持であった。間にあうだろうか。  伊沢部隊はもう《き》水の総攻撃をはじめている。市街は川筋のむこうの平野のなかにたいらに城壁をひろげて居り、敵は橋梁を爆破したために東岸に残った敵はもう退路をうしない、追いつめられると濁流のなかに飛びこんで下流へながされて行く。水の陥落まではあと数時間という形勢であった。川筋にそうて春からのぼって行く部隊は石灰窰の対岸にある蘭渓鎮《らんけいちん》にむかっている。そして昨二十日、南岸部隊は鄂城のちかくまでのぼって行った。  そういう活気づいた戦況をききながら塩田は太腿をまくってまだ癒えきらない傷にひとりで手当をした。それからうすい外套を引っかぶってほの暗いランプの光のなかで眠った。原隊と一緒ならば土のうえでも壕の泥のなかでもとも角も満足して眠れるのであったが、部隊をはなれて独りで眠る夜は、とり残されたような淋しさが文句なしに胸をいためた。  明くる朝、彼は陽新へ行く小発に便乗して武穴をはなれた。そして彼は二つのニュースを船のなかで聞いた。一つは昨日の朝伊沢部隊が水県城を占領、人口二万の都市を完全に手に入れてそのまま西にむかったというのである。そして今一つの愕くべきニュースは広東の陥落であった。  戦況はいま最高潮に達しようとしていた。揚子江のうえに翼をつらね美しい編隊をして西に飛ぶ飛行機の群れが、次から次へと頭上をすぎて行った。武漢空襲はいよいよ急調子になってきた。そしてこの小発と前後して上流にむかってゆく船は眼に見える範囲だけでも二十隻を下らなかった。  広東おち、水おち、大冶もおちた。鄂城はいま戦いの最中である。間にあうだろうか? 塩田一等兵は刻々におちつかない気持になってきた。江上では遡江する船群のあいだをすり抜けるようにして、海軍の○艇や○○艇が早い速力でぐんぐんと川を上って行った。鄂城へ行くのかもしれない。対岸の黄州を攻撃するのかもしれない。いや、そのあたりはもう占領されていて、もっと上流まで行くのかもわからない。これだけの沢山の船がのぼって行くのに、一隻の下り船も見えないのが何か恐ろしくすさまじかった。武漢へ、武漢へ! 大軍はいま武漢にむかって三路四路からひたひたと押し進んでいる。島帝国日本が大陸の奥ふかくまで突きすすんでいる。これらの船群を追いたてるようにして、東から西への風が、晩秋の冷たい風が吹きまくる。岸の丈のたかい葦や、穂の出た薄が一斉に西方にむかってざわめき靡く。武漢ヘ! いまやあらゆるものがただひと筋に武漢にむかって殺到しつつあった。  塩田一等兵の乗った小発は、もうすっかりさびしくなってしまった富池口の船つき場から、今では砲声も絶えてひさしい半壁山の裏をまわって富水の満々たる水のなかへ曲って行った。揚子江をはなれると本道から外れたようで気がかりであった。しかし富水も今ではのぼりの船が絶えなかった。陽新へ。あらゆる物資が続々と陽新に送りこまれていた。武漢戦以後の南方策源地として、陽新はやはり重要拠点であった。この満々と水をたたえた洪水地帯には、元の本流の道筋だけに枝のついた竹を立てて航路を示してあった。小発は竹の枝から枝をさがしてジグザグのコースをとりながら進んだ。陽新の岸についたのは午後二時すぎであった。何とか間にあうかもしれない。  塩田一等兵は跛の足で一番はやく岸にとび上った。するとそこの道路にトラックが幾台もならんでいた。立派な顎鬚をはやした体の大きい伍長が、トラックに積荷している兵を監督して立っていた。塩田はさっそく彼にむかって訊いた。 「伍長どの、吉沼部隊はどの方角へ行っておるか、知っておいでですか」  それは九江の瀬田兵站にいた三島自動車部隊の野口伍長であった。前進を命ぜられて秋岡少尉の引率のもとに陽新へ来ていたのである。 「知らん」と彼はにこやかな顔をむけて答えた。「俺達はおとといここへ来たばかりでな。……お前は、原隊を追及するのか?」 「そうであります」 「兵站で訊いて見ろ。吉沼は多分西だと思うがな」 「はあ、西というと、武昌にむかっていますか」 「わからんなあ。迂回して行くのかも知れん」 「は、兵站で訊いてみます」と一等兵は銃をかついだまま頭を下げて歩きだした。跛をひく彼の後姿を野口伍長はじっと見送っていた。それはどこの戦場でもよく見かける或るさびしい風景であった。重い銃と背嚢との下に押しすくめられたような弱々しい兵のただひとりでさまようて行く姿、戦場のすさまじさのなかからぽつりとかけ離されて、誰からも相手にしてもらえない、遊び仲間から忘れられた子供のようにさびしい後姿であった。 「おうい、一等兵」と野口伍長は叫んだ。「お前、いまから兵站に行くのか」 「行きます」と彼は遠くから答えた。 「トラックに乗って行け。すぐに出発するから」  一等兵は素直に戻ってきて伍長のそばに立った。 「お前、ちんば《ヽヽヽ》を曳いとるな」 「は……」 「全快したのか」  一等兵は片頬に影のような笑いをうかべた。 「もう二、三日すれば全快します」 「今までどこの病院にいた」 「南京にいました」 「うむ。……無理せん方がいいぞ」 「はあ……」 「南京は賑やかになっとるか」 「はあ、もうカフェでも何でもあります。ネオンサインがついとります」  伍長はかすかに笑って、大声で叫んだ。 「終ったか。終ったら出発!」  兵隊たちはトラックの荷物のうえや運転台にとりついた。伍長は塩田一等兵の足をいたわるために助手席の兵をおろしてそこへ乗せてやった。  兵站本部は市中を縦横に流れているクリークの、楊柳の茂った岸にあった。一等兵は門のまえで野口伍長にわかれてひとりで事務所へ行った。そこには眼鏡をかけた年よりの下士官がテーブルを据えて、珍しい日本煙管にホマレを突きさして喫っていた。  塩田一等兵はテーブルに近づいて言った。 「自分は吉沼部隊の植田部隊を追及して来たのですが、……」 「宿泊か?」 「いや、部隊が近い所にいるならば早く復帰したいですが……」 「もう遠いなあ」下士官は煙管をはたいた。 「どこまで行っとりますか」 「ちょっと待て」  下士官は立ちあがると両手をポケットに入れて妙に跨《また》をひらいた歩き方で次の室へはいったが、やがて「植田部隊はなあ」と云いながら出て来てどかりと椅子に坐った。 「植田部隊は西だ」 「西というと、武昌に向っておりますか」 「まっすぐ西だ」 「まっすぐ西と云いますと、どこへ出るんですか」一等兵はいらいらして訊ねた。 「方角は咸寧だ」  咸寧という場所は一等兵にはわからなかった。彼はさらに訊いた。 「そのかんねえ《ヽヽヽヽ》から武昌へ行くんですか」 「作戦の事はわからん。多分粤漢線を遮断するんだろうな」  一等兵はぼんやりとして、門の外のクリークが夕方ちかい日光にひかっているのを眺めた。 「もう大分遠いですか」 「そう、三十五キロぐらいかな。山岳戦をやっとる」 「はあ」 「明日の朝からここへ来て待っていればトラックか何かの連絡があるだろう。宿舎へひと晩とまれ」  塩田一等兵はだらしなく気持がくずれて返事をするのも厭であった。宿泊券をもらって事務所を出ると、ただ何となくクリークの岸に立ってみた。水は秋に澄み、美しく日光を反射して、楊柳の枝のしげった陰に兵隊が何人も坐って鮠《はや》をつっていた。その長閑《のどか》な風景が不思議に彼を裏切った。南京以来はりつめてきた気持がもろくも崩れた。本隊は武漢にむかってはいないという。陽新という街の何というのどかさであろう。置きざりにされてしまった気持がはげしくて、山岳戦をやっているという原隊の遠い姿さえも、彼を裏切るもののように思われてさびしかった。徐州戦が終ってからというもの、武漢を占領することばかりをただ一つの楽しみにして戦ってきた。その気持の崩れが堪らなかった。いうまでもなく戦線は数百里にわたり、他の戦場にいる兵も多い。軍務に注文をつける気は毛頭ないが、南京からひたすらに道を急いできた気持の張りが失われて、どうにもならない落胆であった。  しかし一面から言えば、陽新ののどかな風景こそは戦線のすばらしい進展を意味していた。失望して跛をひきながら宿舎をたずねてゆく彼の気持のなかには、陽新さえももうこれほど平和になっているのかという大きな愕きがなくはなかった。すると彼は置きざりにされた孤独のなかに甦ってくるある満足感と、戦友たちのたのもしさとで心が温まってくるのをおぼえるのであった。彼一人の存在を無視してどんどん進んでいる部隊の強力さを讃美し、無視された自分の小ささに満足しようとするつつましい気持であった。 民族躍進せり  九江の川岸にある並木のなかに鉄柵をめぐらした艦隊報道部では、十月二十二日の午後五時にいつもの通り新聞記者たちが集まってくると、信陽から南下している部隊が山地を進んできたことと、鄂城の陥落とを発表した。  ——海軍陸戦隊は今朝陸軍部隊と協力、鄂城下流の某地点に敵前上陸を決行、正午先頭は鄂城に突入、零時半完全占領せり。さらに部隊は西南方高地にむかって進撃中。  発表係の神谷少佐は壁に貼りつけた大きな地図のまえに立ち、赤鉛筆で印をつけ矢印を書いた。地図にはもう進撃のあとが赤と青とで幾度も書きこまれて、川筋は真赤になっていた。 「今日の発表はそれだけですか」と記者たちは鉛筆を従軍服のポケットに刺しながら立ちあがった。 「それだけだ。それからな、いよいよ戦況が活溌になってきたんで、午後五時の発表だけでは間にあわんからな、明日以後は、午前九時から各社一人ずつずっと詰めていて貰いたい。階下に控室を用意しておくからそうしてくれたまえ」 「随時発表ですか」 「そうだ。夜は八時までにしよう」 「弁当つきというわけに行かんですか」 「そうは行かん」 「残念だなあ。海軍の飯はうまいからなあ」 「近頃はうまくないぞ」と少佐は笑った。「罐詰ばかりだ。陸軍と同じさ。ゆうべは揚子江の蟹で一杯やったがなあ……」 「あれはうまいです」と不精ひげの記者が叫んだ。  翌日は朝から連絡員をつれた記者たちが、控室に待機して、ボール紙に線を引いた上で将棋をさしながら発表を待っていた。窓のすぐまえに見える揚子江ではのぼり下りの船が絶えず横切って、船につけた日章旗が川風にちらちらしていた。鉄門のまえに歩哨がひとり、鉄兜の緒をしめて立っているが、そのいかめしい姿もここでは却って珍しいくらいに戦争の記憶も遠かった。  第一日発表、午前九時半、大別山を越えた北軍はとうとう山地をかけ下って麻城の平野にちかづいている。陥落は一両日のうちであろう。  記者たちは地図のある壁に走り寄った。すると思わず歓声があがった。一昨日伊沢部隊は水を陥落させて西進しているが、水と麻城とは武漢までほぼ同じ距離である。案外この北方部隊が武漢一番乗りをやるのではあるまいか。  各社の連絡員は原稿をうけとると自分の社の支局まで自転車をはしらせて行った。そして彼等が使いをすませて戻って来ないうちに第二回の発表があった。  信陽から京漢線の西を回って南下している部隊は今朝すでに応山《おうざん》県城にちかづいた。  応山は漢口まで三十里、人口四万の都会、ここを突破すれば水や麻城から武漢への距離と同じくらいになる。 「これだ、これが一番はやい!」と新聞記者たちは同音に叫んだ。鉄道線に沿うて南下すれば道は必ずあるから速力が出せるというのである。神谷少佐は記者たちの云い争ううしろでにこにこと笑っていた。 「一番乗りの競走じゃ。どれでもええから早く行ってくれ」  しかしそれから午後まで発表はなかった。記者たちは昼食を支局からとり寄せて食い終ると怠惰な居睡りをはじめた。  午後二時半、当番兵が発表をつたえに控室へ来た。一同が三階の発表室までどかどかとあがって行くと、大机のまえに坐って長剣を杖にしていた神谷少佐は、おい発表だ、と云って立ちあがった。 「すばらしいぞ。いいか。……昨二十二日夕刻団風水道を通過したる海軍江上艦艇は本日朝黄州の上流約二十浬に進出!」 「二十カイリ? 行ったなあ」 「そうだ、二十浬。葛家店下流に迫り敵前掃海を敢行せり。漢口までの水路三十浬なり」 「敵はその辺には居ないですか」 「居るさ!」と少佐は憤然として言った。  葛家店から陽邏までのあいだは敵の長江防衛の最後の一線であった。ここには無数の機雷を沈め岸にも野砲や重砲をあるかぎり据えつけてあった。しかし敵はもはや防禦の意気をうしない、航空隊の絶えまない空爆に悩まされて、上流にむかってジャンクで退却をはじめていた。戦いもここまで来ればもう一種の惰性のようになって、退くものは追われないうちに退き、進む方は危険も何も考えてはいないように見えた。  夕方までの形勢では江上艦艇が一番ちかく武漢にせまり、他の三路は遅れていた。一番乗りは陸戦隊の手におちるかもしれない。神谷少佐はほくほくと喜んでいた。  ところがその夜八時、記者たちが引きあげようとしているときにまた発表があった。このときに神谷少佐は、 「おい、諸君、大変だ。陸戦隊の強敵が現われたぞ」と言った。 「どの部隊ですか」 「伊沢だ」 「伊沢か、あの部隊はやるなあ。どこへ行ったです」 「本日午後三時、淋山河《りんさんが》を突破。それからなあ、午後六時にはもう新州《しんしゆう》を完全占領した!」 「凄いなあ」 「うちの飛行機が見てきた。万歳を叫んでおる上を旋回して戻ってきたそうだ。三十分ほど前に帰ってきた飛行機の報告だ」  少佐は地図のうえに長い赤線を引いて、今日一日の戦果を驚歎して跳めている記者たちに、 「明日の朝はもっと良いニュースがあるかもしれんぞ」と言って事務室へはいった。一人の記者が追っかけて少佐を呼びもどし、いよいよ陥落の時には武漢へ記者たちが急行するので軍艦に便乗させて貰おうという話をはじめた。少佐は、 「よし、明日の朝返事をする。それまでに相談しておこう」と答えて、せかせかと引っこんで行った。  翌二十四日の朝、記者たちが待ちかねて早くから控室につめかけて行くと、神谷少佐が自分で控室へはいってきた。 「昨日の便乗の件だがな、各社二名ずつ許可することにきまった」  すると記者は文句を云いだした。 「二名では困るですよ。無電機を積んで行きますからな、技師やなんか連れて行かんことには仕事にならんです」 「そうか。無電も行くのか」 「四名ぐらいにして下さいよ。交渉できませんか」 「うむ……ではこうしよう。原則として各社とも二名ずつ。無電係の人員は無線電信機の付属品と見なす」  記者たちはこの名判決に声をあげて笑った。 「但しだな」と少佐はつけ加えて言った。「その付属品はあまり多くてはいかんぞ。付属品は各社とも二個までとす。ええだろう」 「合計二人と二個だ」と記者はまた笑った。「それで乗るのはいつですか」 「今晩または明朝」 「ええ! 陥落はそんなに早いですか」 「明日または明後日というところだな」  状況はそこまで切迫していた。もはや水も信陽も陽新も、あらゆる占領地が後方になってしまい、半球形を描いた武漢包囲の陣形が急激に引きしぼられて行くところであった。  京漢線沿線ではこの日応山を占領した。大別山を越えた部隊は麻城の周囲に迫った。そして長江の南岸に沿うて西進している部隊は福田快速部隊と平田部隊とを先頭にして武昌街道をひた進み、武昌まで八里の地点まで追いつめて行った。遡江艦艇は陽邏の防禦線を突破してあとはもう濁流をのり切って行きさえすればいいところまで達した。  江北伊沢部隊は藤本戦車隊を先頭にして走りどおしに走った。朝のうちに李家集《りかしゆう》に殺到してそのまま西に突っ切り、ほとんど三十キロを走りつづけて午後四時には黄陂《こうは》を占領し、さらに夜道をかけてまっすぐに漢口ヘ八里の道を進撃しはじめた。まるで競走場のカーヴをまがって走る運動選手のようにすさまじい進撃であった。もはや後方連絡も兵站線確保も一切をうしろの部隊にまかせて、獲物を追うて山裾をかけ抜ける猟師のようでさえあった。大別山一帯から後方遮断をおそれて退いて行く敵の大群は、戦車隊ほどの早さをもたないので、武湖《ぶこ》の北岸ではまるで道の両側に掻きわけられたような工合であった。広済を十八日に出発してからわずかに六日目、百八十キロを突破して、先頭はこの夜のうちに漢口の遠い火事あかりを南の空に見るほどの距離にまで迫ったのである。  飛行隊は朝からひっきりなしに地上部隊の応援にとびまわり、武漢の空は一日じゅう日本軍の飛行機で占領されていた。九江にちかい陸軍飛行場は大方から《ヽヽ》になっていた。海軍の飛行場ではあの鋭い「神風型」の快速機が濛々たる砂塵のなかからとびあがりとびあがり、十五機十八機という大編隊をなして西にむかって行った。  艦隊報道部では神谷少佐が指図をして兵隊を八方に走らせ、長い白布をどこからか手に入れてきて、「祝武漢陥落」と大書した。これは陥落と同時に窓から外へ吊す用意である。  新聞記者たちはその夜のうちに用意をととのえて遡江する軍艦に便乗し、夜道をかけて機雷の危険を冒してさかのぼって行った。それでももう間にあうかどうかわからないと云われたほど全軍の進撃は早かった。長江は夜道をかけてのぼって行く船の灯があちこちに見えつらなっていた。漢口へ、漢口ヘ!  聖戦一年四カ月、広漠数万方里の大陸を席巻しつくして、いま武漢は陥落しようとしていた。支那四百余州は急所の止めを刺されようとして、炎々と燃えあがっていた。焦土作戦のきわまるところ、自国民をさえも戦争以上の苦難にたたき落して、家を焼き橋を焼き私財を焼き尽そうとする地獄図絵であった。大戸人家財産尽、小戸人家変砲灰! 介石はこの惨憺たる風景を見すてて最後の飛行機にのり、火焔にけぶる漢口の空から奥地に向って飛び去った。  武漢へ、武漢ヘ!  南岸にそうて、北岸にそうて、南から北から、または長江の水をさかのぼって、さらに大陸の空一ぱいに翅《はね》をきらめかして、日本軍はひた押しに武漢にせまっていた。武穴も九江も安慶も南京も上海も、支那大陸にいる数百万の日本人の心は、ただ一筋に武漢にむかっていた。日本民族の躍進。三千年の歴史に一度もないほどの大軍をもって、嘗てなかったほどの広漠たる地域に戦火をおしひろげ、大陸の奥ふかくこれほどに進んできたことは、東洋における日本民族の躍進というべきものであった。  二十五日、漢口はおち、二十六日武昌は占領され、二十七日には徳安も陥落した。この六月、武漢作戦の火蓋をきって安慶の攻撃をはじめたそのときから、やがてかくあるべきことは予定されていた。日本は攻めるところは必ず取るという不思議な軍隊をもっているからである。けれどもいま現実に武漢三鎮を余燼《よじん》のうちに占領したときになって、痛切に将兵の胸をうつ共通の感情は、子々孫々ののちまでも戦争にだけは負けないでほしいと希う心であった。 最 後 の 章  武漢が陥ちたとき他の戦線はみな一抹のさびしさに襲われた。死物狂いになって戦ってきた大きな目的の果されたのちの、緊張から眼の醒《さ》めたようなさびしさであった。  日本の全国は都も農村も引っくるめて歓呼の声にわきたち、大陸のあらゆる占領地区は皇軍大捷《たいしよう》の喜びにどよめいた。上海では黄浦江《こうほこう》に美しい煙花《はなび》をあげて祝盃をくみかわし、南京では官民合同して新政府主催の祝賀会が開かれた。  一台のトラックが南京中山路《ちゆうざんろ》を江門《ゆうこうもん》の方にむかって走っていた。トラックには三人の傷兵が横たわり、一人の衛生兵がつきそっていた。街々は日章旗と五色の新政府の国旗に飾られ、祝大捷の貼紙がいたるところの窓々に喜びをたたえていた。  傷兵は凸凹の舗道に揺られながら走っていた。これから船にのって、日本へ送還されるのである。青く晴れた空は晩秋に澄んで彼等の眼に眩しかった。  やがてトラックは軍報道部の前にさしかかった。するとその大きなビルディングの屋上からは黄色いアドバルーンが空高く斜めにうかんでおり、赤い文字がバルーンの下でひらひらしながら、「祝武漢陥落」と読まれた。  一人の傷兵が仰向けに寝かされたままその文字を読んだ。すると急に彼の両頬に涙が流れはじめたのである。  衛生兵は身をかがめて言った。 「おい、河上、どうしたんだ。どうしたのかい」  河上という傷兵は顔をそむけて一層はげしく泣きながら、包帯した手を歪めて涙を拭いた。 「どうもしねえ。漢口が陥ちたのが悲しかったんだ」 「悲しい事はねえじゃねえか」  衛生兵はそう言って、慰めたつもりであった。しかし彼は傷兵の心を知らなかった。河上は自分に言ってきかせるように呟いた。 「俺は漢口へはいって死にたかった!」 「死ぬことはないよ。生きていればまた面白いこともあるんだ」 「俺は漢口で死んだ方がよかった」  河上はそう言って一層はげしく泣いた。丸顔のまだ若い小柄な兵隊であった。 「そんなひねくれ《ヽヽヽヽ》を言うもんじゃない」  衛生兵はもうとり合わないで、今一度空たかくなびいているアドバルーンを見あげた。彼の健康な肉体は武漢陥落を喜ばずにはいられなかった。彼は河上の気持を掬《く》んでやるためにはあまりにも健康で仕合せであった。  いま、漢口はおちた。河上のただ一つの望みは早く全快して漢口へ攻め入ることであった。しかし彼の右足は絶望を宣告され、武漢は陥落した。望みを失ったいまになって、傷ついた自分が自覚された。一生を不具になって不自由に暮さなければならない自分のことが考えられた。白衣の勇士と言われて日本に帰還することが何の喜びであろう。名誉の負傷と言われることが何の幸福であろう。河上一等兵はむしろ漢口で戦死したかった。日本の忘れ易い国民がこの大戦争のすさまじさを忘れるときが来たならば、残るものはただ彼の傷ついた不自由なからだばかりである。日本に捧げた吾が身から、自分ひとりの吾が身に戻ったとき、彼はこの大きなさびしさに耐えられなかった。衛生兵はそれをひねくれ《ヽヽヽヽ》た心だと言った。それが河上だけの気持ならばひねくれ《ヽヽヽヽ》でも済むが、傷兵たちの多くが同じ気持になっていたとすれば、ひねくれと言いすててしまうことはできない筈であった。  いま、広東はおち、武漢はおちた。復興おぼつかなしと思われた南京も上海ももはや復興し、栄えはじめている。漢口も九江もまた栄えてゆくであろう。長江は永く日章旗のもとに流れ、大陸は新たなる皇国の栄光のもとに耕されるであろう。戦はやがて終り、兵はやがて帰還するであろう。そして国民はそれまでに迎えたほどに多くの新たなる傷兵を迎えなければならない。彼等傷痍《しようい》軍人のうえに生涯の平和と幸福とが甦《よみがえ》ってくる日まで、戦捷の完全な喜びは保留さるべきものであった。 上海の花束  遠い火事あかりが南京《ナンキン》の空を赤くして夜明けが来るのかと思われたが、電燈のない下関《シヤカン》車站のフォームはまだ真暗で、「便乗者はここへ乗れ!」と命令されて乗り込んだ貨車の中は馬糞の匂いが紛々としているのに人数も数えられないほどの暗さであった。  ひと声の汽笛もなしに貨物列車は駅を離れてがたがたと走りだした。中央にたった一輛だけつないである客車には負傷兵が白い病衣を着て乗りこんでいた。戦線を離れ本隊をはなれて後送される兵士等の表情には深い侘《わび》しさが見えた。  便乗者に与えられた貨車の片隅に藁屑にまみれて私は丸くちぢかんで横たわった。兵舎に泊っていたあいだの七日七夜をストーヴの石炭の煙で燻《いぶ》されてすっかり喉《のど》をいため風邪を引き多少は熱もあるようであった。それに夜明けの寒さが背筋に沁みとおる。貨車はスプリングの装置がないと見えて柔げられない振動が硬く顳《こめかみ》を叩くが、この汚なさを超越してしまえば足を伸ばし背を伸ばせるだけ内地の三等車よりは楽な旅かもしれない。  二枚の鉄扉をしめてしまえば車の中はまひるが来ても闇の世界だ。一尺ばかり開けたままにしてある扉のあいだから水色の微光が射して、夜明けの冷たい風が流れこみ靄の下りた田畑の暗い風景が流れて行く。ときおり、レールの脇の草の中や楊柳の生えた土堤の斜面や水草の浮いたクリークの中などに朽ち凍った支那兵の死体が残っていて、そのいたましい姿をただ一瞬のあいだだけちらと見せて過ぎて行く。  私はリュックサックを枕にして永いあいだ眠った。これらの悽惨な風景もいまは見馴れてしまって私の心を痛めてはくれない。野犬はその肉を喰うがいい、鵲《かささぎ》はその眼をついばむがいい。私たちは勝つべき権利をもち勝つべき義務を負う。これらの死体に対し責を負うべきものは支那でありその為政者である。私は上海《シヤンハイ》まで眠って行けばいいのだ。  昼が来ると私は兵隊から貰って来た乾パンを齧《かじ》り水を飲んだ。それから一枚だけあったチョコレートを三人の兵隊たちと分けあって食い、また背を丸めて眠った。  南翔《なんしよう》まで来ると日が暮れ、真如《しんによ》車站についたころには大きな赤い月が昇った。月光は細めに開けた貨車の鉄扉のあいだから真横に射しこんで、一番隅にうずくまった私の顔をまともに照らした。赤く大きな月、なにか暖かそうな月であった。南京の月は冷たく冴えて人気ない戦場のすさまじさに充ちていたが、ここで見る月には上海に雑沓する人間の体温が感じられる気がして、人里に帰った気持が強かった。  上海北停車場は荒廃した家屋の残骸にかこまれて真暗であった。駅員がカンテラをつけてレールの上を渡って来たが、私たちの貨車をちょっとのぞきこみ「これは馬だね」と呟いて立ち去った。同車した兵隊たちは一度にどっと笑って、人間だ人間だ! と叫んだ。  駅を出ると虹口《ホンキユウ》まで行く兵隊たちは一団になって歩きだした。案内に詳しい一人の兵が先に立って露地を縫って歩き、砲弾で崩れた壁の穴をくぐって近道を辿った。乍浦路《チヤポロ》、呉淞路《ウースンロ》。ここはもう燈火管制も解除された繁華の街だ。私は一度に深い疲労を感じて、十日前に泊った旅館の玄関にころげこむようにして入った。  顔を覚えていた宿の女中が、あら? と高く叫び、手を突いてお帰んなさいましと言い、さらに「おきつ《ヽヽヽ》うござんしたでしょう?」と言って重いリュックサックを背から下してくれた。私は随分ひさしぶりで人のなさけを受けたような気がして急に自分が可哀そうになってしまった。  何にも増して有難く嬉しく思われるのは若い女たちが戦火なお近い上海の街に居て、健康な働きをしていることであった。ここでは母国日本の伸びて行く先端が感触される。平和に乏しく危険に充ちたところ、善良な居留民の命が一個の銃弾と交換されるところ。しかも若い女たちが宿の階段を両手に膳《ぜん》をさげたまま鼻唄まじりで下りて行く。前線から要務を帯びて上海に戻って来た兵士たちがこの宿にとまるひと夜二夜に、戦場で疲れ傷んだ心をどれほど慰められることであろうか。まことに彼女等は上海の花束である。彼女は血色の良い白い頬をかしげて玄関に膝をつき、埃《ほこり》にまみれた靴を脱ぐ兵士のうしろからきっとやさしく声をかけるのだ。 「おきつ《ヽヽヽ》う御座んしたでしょう?」  それを聞くたびに兵士たちは胸の底が熱くなるほどの心で思い出すのだ。「懐しの日本よ!」しかし日本はいま海のむこうである。  この夜私はひさしぶりの風呂にようやく人心地をとり戻し、平和と贅沢《ぜいたく》との有難さをしみじみと感謝しながら新鮮な魚の刺身を食い香りの高い吸物をすすり、更に一合の酒をたのしんだ。この八日のあいだ苦しめられた兵舎のまずい味噌汁と南京米の粥のような飯とに比べればまさに王侯の食卓であった。しかし、兵士等は今夜もまたあの喉を通らないような食事に満足して眠ることであろう。私は何の権利によって贅沢をしているのか。柔い寝具の中に横たわりながら私は解決のつかない錯乱を感じた。  古い友だちが上海の新聞社に居たことを思い出し、電話をかけて見ると突然彼が電話口に出て来て、呆けたように何度も訊きかえした。私が上海に居るとは夢にも思わなかったのだ。彼は勢いづいて叫んだ。 「ようし! 風呂へ入ってすぐ行くぞ」  私は楽しくなって早速外出の仕度をはじめた。まもなく若塚はよれよれのレインコートを着て同じ新聞社の平岡という若い記者と二人でどかどかと廊下を踏み鳴らして入って来た。 「なんだなんだその顎鬚《あごひげ》は! ええ、どこまで行って来たんだい」  それが半年ぶりの挨拶であった。以前は東京の文学青年でいつも金もないのに街をぶらついている無口な男であったが、同じように痩せては居ても今は戦火のすさまじさに煉り上げられたのか颯爽と丈が高く見えた。 「上海を案内しろよ。英租界の方へも行こう」と立ち上ると、 「今日はもう遅い。ガーデンブリッジが渡れなくなる。明日行こう。今日はまあ乍浦路あたりで我慢したまえ」と若塚も立ち上った。見ると彼のレインコートは破れているばかりではなしにひどい血の汚点がついていた。 「何でもないよ。友達が喧嘩をしてな、そいつを介抱した時につけられたんだ」 「勇ましくていいじゃないか」と私たちは笑った。  外は細い雨になっていて、三日ばかり暖い日が続いたあとのきびしい寒さがはじまっていた。街々の暗がりには陸戦隊の歩哨が黒い影のように身じろぎもせずに銃剣を握って立っていたが、呉淞路は夜が来てもまだ買物に歩く人たちがショウウィンドーをのぞいて居り、乍浦路では喫茶店もおでん屋も酒場も前線から戻って休養している兵隊の明るい元気な声で一ぱいであった。私たちはロシヤ女の裸ダンスのビラを貼りつけた映画館の三階にある酒場へ上って行った。  酒場はほとんど満員でうまい商売をあてこんで新しく九州あたりから渡って来た商人たちと二、三の軍人とが各々テーブルをかこんで談笑し、煙草の濃い煙と酒の匂いとの渦巻くなかで和服の華やかな袖をひらめかしながら二人の女が踊っていた。事変の前まではダンスホールにいた女たちであった。 「今晩は、平岡公司《コンス》」  勘定場の中から紅い唇に支那煙草を咥えた洋装のマダムが顔をのび上らせ言った。 「こんばんは、おばさん公司《コンス》。お客さんを連れて来たんだ。サーヴィスしろよ」 「あいよ」とこのマダムは気軽に立ち上った。  それから私たちは盛んに飲みはじめた。勇ましいのは平岡で顎からだらだらと首筋まで酒をこぼしながら訥々《とつとつ》とした口調で、しかも兵士たちの壮烈な戦闘ぶりを感激にみちた言葉で語りつづけるのであった。彼は蘇州《そしゆう》、無錫《むしやく》の戦闘に従軍して第一線の塹壕の中を這いまわって来たのである。 「無錫でな、肩をやられた兵隊だ。担架に乗せられて後送されながら、途中で以て、看護兵二人を相手にして、掴みあいの大喧嘩だ。病院へ入れられるのは嫌だって言う。どうしても今一度前線へ行かせろ。戦友の仇をとるんだ! ちゅうてな。行かせろ、行かせんで、しまいに看護兵が怒っちゃって、勝手にしやがれ! すると、よし勝手にするぞ……左手で鉄砲つかんで戻って行った。とんでもない野郎だ」  若塚はマダムと散々に踊りまわり君も踊れ踊れと誘った。 「よし、勝って来るぞをかけてくれ」と私も立ち上り、軍歌のレコードに合わせて歌いながら踊った。酔った二人の兵士がテーブルを叩きながら一緒に歌った。虹口一帯の夜はもうほとんど盛り場であった。辻々に、または壊れ落ちた橋の袂に、崩れた煉瓦塀のかげに、戦死した陸戦隊の勇士たちの小さな墓標はまだ白木の色も褪《あ》せないが、戦火が遠ざかって行くとともに上海は兵隊たちの唯一の安らぎの街、かすかながらも母国の俤《おもかげ》をたのしむことの出来る場所になった。  十二時をすぎ一時ちかくまで私たちは飲みつづけ、慷慨の極ついに足許も危うくなりながらしかも乱れた舌で軍歌を歌い止まぬ平岡公司をようやく階段下までかかえおろし、若塚と明日の約束をして別れることにした。  宿はもう扉を閉めていたが、幾度となく叩いているとやがて下働きの丈の高い支那人が起きて来て錠をあけてくれた。  遅く起きて朝食を済《す》ませたところへ女中が入って来た。 「済みませんです。お客さまお二人お願い申します」  声の下から二人の若い洋服男が帽子をとりながら済みませんと入って来た。各々手に一升壜の酒を二本ずつ持ってその他に風呂敷の大荷物をかかえている。内地の宿ならば相客などさせられる事は珍しいが戦時下の上海ではどの室も相客である。勢い私は先客でありながら片隅へ退いて彼らの話を聞く立場になった。 「領事館の方、まず電話かけておくか?」 「そうだな。午後になってから行った方がよくないか。電話では失礼だろう」 「それもそうだ。その時に土産も持って行くか?」 「一度会ってそれからでもいいだろう」 「それは最初がいいよ。重いな。車で行くか。車、あるだろうか」 「うむ。……ちょっと片付けたら街を見ておいた方がいいぞ。どんな商品が豊富でどんな物が欠乏しているか、どんな店が一番多いかな、調べておこう」 「あの福助足袋の支店長な、あの人は君、相当やってくれるぜ」 「話のしようではな」 「うむ、相当乗気だったろう」 「しかし君、こっちは洋服が多いからな、数はきまってるだろう」 「酒は随分来たな」 「来てるな。ちょっと遅いな」 「先ず店だよ。店を見つけてなくては、話にならん」  話の工合ではたったいま船から上って来たばかりの商人に違いなかった。砲火の音がほんの少し遠ざかるとすぐに商人たちはこうして渡って来る。実業界の第一線部隊だ。利慾にあさましいというよりはこの場合むしろ私は賞讃したかった。砲弾で荒された戦場のあとを地ならしして、草を植え木を植えて、吾家の良き畑とする者はこれ等の利慾に飢えた商人たちの挺身隊であるのだ。  彼等は、宿の褞袍《どてら》に着かえると果物籠の蜜柑を出して剥《む》きながら、私の方へも一ついかがですと同宿のよしみを示した。 「有難う、ではひとつ……」  私は久しぶりに内地の蜜柑の味をなつかしんだ。  午後になると彼等は領事館の知人に電話をかけたようであったが、やがてその相手の男が宿ヘ二人をたずねて来た。すると話は具体的になって、どこかによい店の空いたのがあったら知らせて下さい、一つ大いにやって見たいからと切り出され、客の方は上海もいいが南京も今からは中々有望だ、上海はもうすっかり商人の手が廻っているから良い店は少ないというような返事をしていた。  私は退屈して、外出しその夜は若塚のところへ泊りこみ翌朝帰って見ると室のなかには相客も居らず荷物もなくなっていた。それでは良い店を見つけたのかと思って女中に訊いてみると、 「今朝はやく南京へお発ちになりました」という返事であった。  私は商人の大胆さと機敏さとに呆れる思いであった。利を見ればどんな危険の中へも入って行ける商人の度胸というようなものにひどく心を打たれた気がした。  北四川路《きたしせんろ》の空爆の跡の物凄さと歩哨のいるバリケードの向うに群れて呆然とこちらをながめたまま入れないでいる支那人たちを見物して帰って来ると、前を行く四、五人の女学生においついた。 「君たち女学校?」と私は声をかけた。この戦禍の街に女学生の通学姿を見ることはあまりにも平和すぎる風景、血と泥との中に投げられた一束の花のように思われて美しかったのだ。少女たちは汚く顎鬚を生やし黒い垢《あか》だらけのジャンパーを着た私の異様な風体に愕《おどろ》きながら「ええ」と答えた。 「いつから始まっているの?」 「正月の八日からです」  私は今一度つくづくと少女たちを眺めた。かかる動乱の街にあって、家事裁縫料理音楽などを習うことのできる彼女等の心が何か嬉しかった。ふてぶてしさというよりも、親か学校かまたは母国か、それとも人間性の善良さか、それ等の何ものかを信頼して安らかに在る姿であるに違いない。  それから私は乍浦路の映画館に入った。内地から来た戦争ニュースを映していた。客の九割までは半額入場の兵士たちでまるで慰安会という風景であった。彼等の何分の一かはニュース映画の中にいる自分を発見して不思議な感慨を味わったことであろう。  ニュースが終ると照明が変ってロシヤ女の全裸にちかい踊りがはじまった。いかにも流れあるいてきたと思われる疲れが肉つきにも皮膚にもたるみを見せて、まるで踊りにならない踊り、ただ徒らに煽情的な動作をして見せるばかりのものであったが、しかし贅沢な批判の余地をもたない兵隊たちは一種の群集心理で弥次をとばしながら盛んに喝采《かつさい》した。喝采に気をよくした踊り手は舞台の端に出てきて、手近にいた兵隊の咥《くわ》えている煙草を取って喫って見せ、また彼の肩にしなだれかかって見せるのであった、館内は割れるような弥次と笑いとに充ち、からかわれた兵隊は赧《あか》くなって汗を拭いた。それは何ともほほえましき情景であったが、しかし踊る女の方に私ははげしい憤りを感じた。男をすっかり軽蔑し切ってその弱点を擽《くすぐ》りうまく喝采を博そうとするずるい計算の底がひどく腹立たしかった。 「マダム公司《コンス》」が英租界の方を案内してくれるというので若塚や平岡と一緒に私たちは日暮れ前のガーデンブリッジを渡った。左、領事館の前の川岸には軍艦出雲が灰色な錯雑した巨体をうかべていた。舳《へさき》の菊花御紋章が残光の中に輝いて見えた。橋の上は日英警備区域の境界になっていて、橋の中央に両国の歩哨が肩を並べて立っていた。  橋を渡ると外国へ来た感じだ。避難したまま家へ帰れなくなった支那人たちがうようよと道傍に立って、上海戦の惨状を写した絵葉書を売っていたり軒下で慄えたりしている。私は危険の近さに肩を緊張させて歩いた。  マダム公司は言うのである。「私について来さえすれば大丈夫だよ。外人は女に親切だしね。何しろ私は四つの年から上海育ちなんだからね。マニラで生れて上海で育ち、内地は知らない。帰りたくないね」  若塚公司の話によればマダムの亭主は先年の上海事変のとき支那人に叩き殺されたそうである。一人の娘は神戸の兄弟の家にあずけてある。彼女はひとりぼっちでダンスホールを切り廻していた出来ぶつ《ヽヽヽヽ》であるそうだ。そう思って見れば居留民らしい図太さが身についていて栗鼠《りす》の毛皮の厚い外套にヴェールをつけた帽子なども何か男を恐れないきびしい態度にふさわしく見えた。  例の手榴弾事件はここだよという進々公司の前の支那料理屋に上って小室の中に席がきまると老酒と料理とで食事をはじめた。するとにやにやとずるい笑いをたたえたボーイが入って来て、「女の子、呼びますか?」と日本語で言った。  平岡は共同社の女を呼ぼうと主張した。その女というのは食事や酒の席にも侍し散歩の連れにもなり外泊もするという便利なものだというが、支那語では話にならない。英語の話せるのを呼んで呉れと若塚が注文すると、英語の出来るのは一人もいないという返事だ。やがて臙脂《えんじ》色の支那服の若い女が入って来て、楊媛媛と書いた名刺を出し席についた。  マダム公司は面白そうに話しているが吾々には一向分らない。若塚も平岡も支那語は甚だ貧弱で問題にならない。却って索莫たるものであった。年は十六で学校へは行かない、そんな事をマダムの通訳で知り得たばかりであった。  虹口で見かけた日本の女学生と比べて見て、この女もやはり事変のすさまじさから隔離された心をもっているらしい。母国支那を信じ上海の治安を信じているのだろうか。しかし私は別のものを感じた。女の不感症、国家や政治からかけはなれた心、一個の女性であり女性以外の何でもない鈍感な心ではなかろうか。いや、それ故にこそ事変の惨禍から独立した小さな花束であり得るのかも知れない。  食事を終って女を帰すと私たちはあるダンスホールヘ行った。時間が早かったので踊っている客はなくて、みな脇のテーブルでビールを飲んでいた。私は兵隊靴の堅い鋲《びよう》で床を踏みならしながらマダムと二人きりで踊った。日本人と見て白い眼を向けている支那人のダンサーたち、長袍を着た青年たちの注視のなかで、垢だらけのジャンパーを着た私の姿が、どんなに異様に見えたであろうか。  マダムは踊りながら手を上げてバンドのトランペットを吹いている男に挨拶を送ってから、私の耳元に囁いた。 「事変前までうち《ヽヽ》のホールにいたフィリッピン人よ。ここに来てるのね」  マダム公司は多少の酒を飲みやたらに煙草を喫い踊りもする。男まさりの乱暴さというほどのものは見えないが一脈の強さがどっしりと来る感じである。これが世界の魔都でダンスホールを営む女の図だ。 「ひとり暮しは気楽でいいさ」  顎を反《そ》らして紫烟を吐くそういう口の下から私には孤独な四十女の行方を失った生活のさびしさが覗き見られる気がしてならなかった。 「博奕《ばくち》をやろうよ博奕を。わたし大好きなんだ」  元気よく先に立って廊下へ出ると、博奕というのはそこにある子供の遊び道具めいたからくりで、五セントの白銅を入れてハンドルを引くと弾かれた鉛玉が盤面を走って、うまく入れば五十セントも出て来る。下手に行くと飴ちょこが一個出てくる。 「ね、今度はうまく行くよ、ね!」  一生懸命になって白銅貨を入れてはハンドルを引いているマダム公司の姿は、上海暮しの三十幾年に老いて来た孤独な女の、わびしくもまた愛すべき童心のおもかげではなかったろうか。  平岡公司は又してもホールの酒に酔いはじめ、若塚をつかまえては従軍談をしゃべり出すのであった。夜が更けてホールの客も多くなった。 「さ、平岡、帰ろう。ガーデンブリッジのバリケードが閉まるぞ」  彼はがぶりとコップの酒をあおって立ちあがった。マダム公司は博奕の疲れであろうか、テーブルに頬杖をついて眼ぶたのたるんだ眼を閉じていた。  朝から夜半まで、兵隊や兵器をはこぶ灰黄色のトラックが街を走りまわり、そのたびごとに幅のせまい呉淞路は通行止めの混乱をくりかえしている。今ここは戦争の策源地となったのだ。そして戦禍のあと復興のめざましい速さだ。  来る船ごとに流れ入る内地の物資と商人、次々と新しい店が開かれて行く。「明日開店します松尾洋品店」「二十三日開業坂上理髪店」等々の貼り紙がとられると、半年ぶりで鉄格子がウィンドーから取れて店に電燈がつく。市場の魚屋も、ただ一軒しかない本屋も日ごとに品物が増えて行く。軍事行動のあとに経済行動が目ざましく続いて行く。街では蛇の目傘をさした襟白粉《えりおしろい》の濃い芸者の姿も何人か見られた。やがて銭湯が開場した。高い煙突が雨に澄んだ空に重い煙を吐く。長期抗戦がいつまで続けられるか、商人たちにとってはそれは問題ではない。平和の恢復した土地にむかって洪水のように浸して行く商業者の貪慾な触手! かつて兵隊で満員であった旅館はいまや商人がとって代った。彼等は白昼から妓を呼んで酒宴をひらき鼓腹歓楽をつづけている。毒の草が刈りつくされたあとに薔薇が花を開くのだとこれをたとえようか。雨の午後、彼等のうたう軍歌と民謡との合唱が私の室に響いて少なからずうるさい。  この日、好漢平岡は新聞社の命をうけて突然に杭州《こうしゆう》へ行くことになった。出発は夜半の二時、一度社へ行って社長と同道し、未明四時に南市《なんし》の停車場から出発するのだという。 「社長のやつ、杭州でもって利権を獲得しようと思ってるんだ。うむ、分ってるんだ。そうでなくて杭州なんか用事があるもんか。店を買い占めてひと儲けするとか、口実を造って土地を手に入れるとか、な! 俺ぁその手先につかわれて、うめえ酒もしばらくは飲めん。月給とりは嫌だ。北支新政府顧問か何かになって、蒙古《もうこ》開発でもやりたいぞ。なあおばさんコンス!」  するとマダムはウィスキイのグラスを器用にあおって言うのである。 「まあ余り気を落しなさんな。そのうち私が見舞いに行ってあげるわ。家鴨《あひる》のおもちゃでも持ってね」  家鴨というのは平岡の別名であるらしかった。  マダムは彼の送別のために特に私たちだけには午前二時まで酒を飲ませてくれた。若塚も私もかなり酔って、帰りにはわざわざマダムに表の鉄扉をあけさせて外に出た。  静まった夜半の街に人影はなくて、灯の少ない暗がりに光りながら細い雨が落ちていた。今からすぐに社へ行くと平岡は言うのだが、見たところ彼は二十日くらいも杭州へ行くというのに一つの荷物ももってはいない。仕度は? と私が問うと、酔ってふらふらする足許で水たまりに踏みこみながら、何もないよとぶっきら棒に答えた。帽子をかぶらない彼の頭に雨の粒が光っていた。  広い四ッ辻に出ると向うの角の歩哨がじっと私たちを睨んでいた。 「じゃあ行くかい」若塚が後から声をかけた。 「行くよ」 「まあ、気をつけて行けよ」 「おう」  彼は黄色いレインコートをばさりと自分の肩に投げかけて、変に股をひらいた歩き方をして遠ざかって行った。彼のさびしげな後姿は街燈の下の明るみを過ぎると突然かき消すように消えてしまった。  若塚は平岡と同じ室に寝起きしているのであったから、今夜から当分はひとり暮しだ。すると彼は急にさぶしげに肩をそびやかして歩きはじめた。 「今日、君のところへ泊ろうか」と私は言った。宿へ帰ってもまた叩き起さなくてはならないし、遠く東京から来た私が、孤独な彼の室に一夜を明かすこともまた楽しく思われた。  彼は急に元気づいてふり向いた。 「うむ、泊れよ、そうしたまえ。朝飯、困るけどな。まあ泊れよ」  そして道々彼はその住居について語るのであった。 「支那人の家にね、平岡と二人で入ってるんだよ。きび《ヽヽ》が悪いぞ」  要するに住み心地がよさそうだから住んでいるというにすぎない。宿についていては高くてやり切れないし、独り者を下宿させてくれる家がある筈もない現状に在っては、かかることもまた已むを得ない生活方法であったのだろう。 「ゆうべはなあ、表の戸をあけて入ったとたんに、足許から真黒な猫が飛び出しやがって、ぞっとしたぞ。まわりはみんな空家だからねえ。近ごろの猫は人を食っているから怖いよ」  真暗な露地に入ると彼は先に立って、そこに砲弾の穴があるから気をつけろ、そこの下水の板は踏むと落ちるぞと一々注意して案内した。露地の奥まで幾曲りして、闇を手探りに扉をあけると、中は一層ふかい闇であった。若塚は手さぐりで入って電燈をつけた。まるで塵箱の中のように乱れた室が現われた。  二人は木の階段に靴を鳴らして二階に上り一番奥の一室に入った。そこが彼等二人の住居で、五室ぐらいあるこの家の一室だけを自分たちに住みよく造り他のところは荒れるがままに委せてあった。洗面器、壺、汚れた衣類、食器、紙屑に埋もれた室々。冷えて湿って暗く静まって鬼気に充ちた室。ここにただ二人で住む彼等の生活がなにか奇怪な妖気を帯びて感じられる。彼等の室ばかりはかすかな人肌の温さをたたえて、汚れた蒲団のベッド、灰皿、電気コンロとアルミの湯沸かしなど、生活の形をととのえていた。 「隠れ家だね」と私は笑った。 「隠れ家だよ。茶でもいれようか」 「茶があるのか」 「茶だけあるんだ」  彼は床の上の電気コンロに火をつけて椅子に腰をおろした。私はこの男の淋しそうに聳《そび》やかした肩の形があわれでたまらなくなってきた。東京にいたころの彼の楽しそうな笑いの影をその表情中に探そうとしたが、彼の顔はただ自嘲に似た淡い苦笑の中に沈んで動かなかった。  やがて彼は血にまみれたレインコートを脱ぎ上着をとると垢で真黒になったタオルの寝間着をつけて、曇ったコップに香りのない番茶をいれてくれながら呟くのであった。 「ひとり切りでいると、こんな雨の夜はとても淋しいんだよ」 「そうだろうなあ」 「室が暗いと余計にさびしいからね、正月前ごろだったか大きい電球をさがして来てつけたんだ。夜中に街の巡視の兵隊が窓の下から電燈を消せ! と怒鳴るんだよ。あわてて消したよ。その時分は九時すぎたら街なんか出られなかった」  私は鉄格子のベッドに入れてもらい、彼はソファに背を丸くして横になった。灯を消して眼を閉じると、物音ひとつないあたりの静けさが胸に沁みて、隣りの室や下の室に眠っていた前住の支那人の怨みがましい魂が欄間のあいだから静かに迷うて来るような不気味な気持であった。  翌日、雨。顔を洗う道具もない。  私たちは階下におりて、いずれは残敵掃蕩のために穿《あ》けられたものであろう壁の穴を潜って隣りの空家に入って見た。そこには僧が住んでいたものであろうか、経本が積み上げてあり香炉に線香の灰が縞をつくって冷えている。僧衣は床に投げちらされ礼拝に使ったらしい一管の笛がころがっていた。人気ない埃くささの中に私は血の匂いを嗅いだように思った。  私の宿まで行って朝の食事をすることにして二人はこの家に錠をかけて外に出た。それから傘もなしに肩に細い雨をうけてぬれながら、彼は道々ひとつのエピソードをはなしてくれた。  つい二、三日前のこと、朝はやくしきりに戸を叩く者があるので出て見ると一人のフィリッピン人の青年が立っていた。実は私は事変までこの家に下宿していた者ですが、私の持ち物の中で少しほしいものがあるので、持って行かせて頂きたいというのであった。若塚は承諾して彼を中に入れた。すると彼は二階の室に散乱している荷物を悲しげにうち眺め、塵埃《じんあい》の中に膝をついて丹念に十枚ばかりの写真をさがし出し、一つひとつを若塚に示しては、これは僕の母です、これは兄と妹です。これは僕の亡くなった許婚者ですと説明しては、両眼に涙をたたえてかすかに笑って見せるのであった。それからこの写真をひと包みにして、済みませんがどうかこれだけ持って帰らせて下さい、他の物は何も要りませんからあなたが使って下さいと言った。若塚はあまりのいたましさに、君は事変には何の関係もないのに飛んだかかりあいになって大変気の毒だったねえと言うと、彼は明るい表情になり強く首を振って、いやいや、自分は日本に対して何の悪い感情も持ってはいません。已むを得ない災難です。早く平和になってくれればいいと願っていますと答え、静かに彼に一礼して、写真の包みを大事そうに胸に抱いて帰って行った。 「南京路《ナンキンロ》のダンスホールでドラムを叩いていますから是非遊びに来て下さいと言っていたよ。一度訪ねてやろうかな」  若塚は彼の善良さをなつかしむように顔をかしげてそう呟いた。  おばさん公司が急に一週間ばかり神戸へ帰ってくるというので同船することになった。若塚は今日もまた雨に煙る淮山碼頭《わいざんまとう》まで二人を見送りに来てくれた。私は彼の侘しい生活のいたましさに、南京で食べ残した罐詰や一、二枚の肌着、それにもう要らなくなった一枚の毛布などを何かの足しにもと彼の手に残して来た。もしも彼の母や兄弟たちが彼の今の生活を見たならばどんなに胸をいためられるだろうか、そればかりが思われてならなかった。男とはこのように強いものなのか、それともこの男が強いのか。戦線で弾丸の下をくぐる勇気はあっても今の若塚の生活をやれる勇気のある者は少ないに違いない。しかもこの男は痩せた蒼白い頬を微笑させていうのである。 「上海はこれからが面白いんだ。政治と経済のからくり、利権屋の策動。実際複雑だよ。うんと調べあげて一つ良い小説でも書こうかな!」  船は軍人と将兵慰問の帰り客とが大部分であった。おばさん公司はハンドバッグ一つの気軽な旅で、口を開けばぶつぶつと日本のつまらなさばかり呟いていた。 「冬の日本はいやさ。寒くってねえ。戸も障子もガタガタよ。いくらストーヴを焚いたって暖まりゃしないんだからねえ。二、三日で帰ろう。永くは居られやしない」  私の船室に三人で腰をかけて熱い紅茶をすすりながらそんな話をしているうちに出帆ちかい銅鑼が鳴った。そのとき若塚はただひとことだけ、弱い言葉を吐いた。 「ああ、俺も帰りてえなあ!」  私は涙が出そうになった。この地味な表現しか持たないどこか不器用な男の心の中で、永いあいだ燻っていたであろうノスタルジアのあふれ出たものがこの短い溜息に似た言葉、微笑のうちに包まれた沸るような望郷の感情であったのだ。  時間が迫ると彼はまた傘もささずに血のついたレインコートの肩をそびやかして突堤に下りて行った。同居していた平岡も杭州へ行ってしまって、今夜からは彼はひとりきりで酒をのみ、ひとりきりで夜更けにあの不気味な支那家屋へ帰って眠るのであろう。しかも彼は蒼白い頬に癖のような淡い笑いをたたえて私とマダム公司とを見送るためにぎこちなく右手を振るのであった。  船は纜《ともづな》を解かれ、突堤とのあいだは開きはじめた。そこに淀んだ汚い黄浦江《こうほこう》の水の上に細い雨足が丸い波紋をつくりはじめた。そのとき若塚は突堤の端まで来て顎をのばして上向きに言った。 「君い、また来いよなあ、二、三カ月うちにでもなあ!」  船は動きだし、突堤に立つ若塚の姿は細雨の中にかすんで行き、やがて両岸には兵火に焼けただれて見るかげもなく壊れつくした楊樹浦《ヤンジユツポ》と浦東《プートン》との惨憺たる風景が流れはじめた。 敵 国 の 妻  昭和十三年七月の末、皇軍が九江《きゆうこう》を占領したとき、部隊を追うて上陸した衛生隊があった。彼等はさっそく野戦病院をひらくために市外の小高い丘のうえにある民家を占領した。  一人の若い軍医がこの占領家屋のなかへつかつかと入って行った。室のなかは戦いのすさまじさを見せて散乱しつくしている。将校は病室にあてるべき室を見まわし、ここに三人、ここに五人と計算しながら、やがてせまい階段をあがって二階へ行った。  そのとき、彼はふと意外なものを感じて、ある室の入口で足をとめた。この室は他の室と違って少しも掻《か》き乱されていない。華やかな色のとばりを引いた紫檀《したん》のべッド、掃除の行きとどいた板張りの床、窓硝子は空爆のあおり《ヽヽヽ》を喰って粉々にこわれてはいるが、きちんとならべた椅子やテーブルには何か家庭のあたたかみが残っているようにさえも思われた。壁のうえには一枚の支那婦人の写真がかけられている。 「これは主婦の室だ」と将校は思った。好奇心がそろそろと頭をもたげて来た。彼はゆっくりと室のなかへはいった。  窓際の机のうえにはペンとインク壺とが正しく置いてあり、一冊の赤い表紙のノートがいま頁を閉じたという風にのせてあった。ちらとその表紙に眼をやったとき、将校はふと不思議なものを見た。  ——日記・洪秋子。表紙にはそう書いてあった。  日本の女だ! 軍医は胸のしびれるようななつかしさにあわててノートを手にとってみた。はたして、中に書いてある文章は仮名まじりの日本文であった。  この建物の二階は野戦病院の将校室にあてられ、階下は病室になった。そしてその翌日から、かの若い軍医は日記を発見したあの華やかなべッドに寝起きすることになった。彼は暇を見つけては例のノートを第一頁から丹念に読みはじめた。  最初の頁は洪という支那人の留学生に対する秋子というこの女性の恋愛の記録であった。場所は東京で、洪青年は秋子の家に下宿していたものと思われる。愛情は熱烈なものであったが、そのあいだあいだに女の絶えざる不安が黒雲のように流れているのが察しられた。 ——決心がつかない。もう三晩、寝ずに考えてみたけれども、どうしても決心がつかない。私の愛情が足りないからだろうか。そう思えない。思いたくもない。洪さんがずっと日本に居てくれるならば問題はないけれど。明日はそのことをはっきり訊いてみよう。伯母はいった、何を好んで支那人の妻になることがあろうか、日本に男がないわけではなし。……そんな事はわかっている。しかし愛情は国境をこえる、私にはそうとしか思えない。伯母はまたこうも云った、支那人は二十前に結婚するそうだから洪さんも国許には奥さんが有るに違いない、と。あの人は私には独身だと云った。しかしそれで欺《だま》された人もあるそうだ。妾なんか嫌だ。その点ももう一度たしかめて見よう。ああ洪、わたしを欺さないで! わたしは信じたい、あなたの誠意と愛情とを信じたいのです。はやく真実な愛の手に私を抱いて頂戴。  こういう彼女のねがいに対して洪青年の返事は誠意あるものであった。卒業したらすぐに南京へ帰る。家は裕福で彼はそのあとつぎでありまた独身でもある、決して心配することはないというのであった。愛情とは信じようとする心である。彼女は伯母や親戚の反対をひとりで押しきって洪と結婚し、それから三カ月後に連れだって日本を出発した。 ——希望にもえる旅よ、支那とはどんなところだろう。洪は南京《ナンキン》の繁華な話をしてくれる。紫金山の美しさ、玄武湖《げんぶこ》の蓮の花のみごとさ。その湖に舟をうかべて月見の宴を張るのだという。洪は私に親切にしてくれる。大変に気の弱いところがあるかと思うとひどく気むずかしい所もある。彼の性質をよくのみこまなくてはならない。ときおり私はまた不安になる、金持ちの後つぎは支那では十八、九歳で結婚するのだという。洪は本当に独身だろうか。もし正妻が居たりしたら、私はその場で自殺してしまいたい。そのうえ生きて辱をさらすことは日本人全体に対してもすまないと思う。ああ! 他国人と結婚することは何というつまらない不安の多いことだろう。私はひどく疲れているようだ。……明日は上海《シヤンハイ》につく。平穏な航海であった。今夜は春のおぼろ月がうつくしい。洪はデッキでビールをのんでいる。  その翌る日、二人は上海に上陸した。街には外人と支那人とがあふれ、華美で贅沢で賑《にぎ》やかであった。秋子は上海の賑わいに気がうき立ち、前途にある不安も忘れて二、三日をすごした。そこで洪は彼女に立派な支那服を買ってくれた。 ——私は西洋風に髪をカールし支那服と靴をはいた。洪は翡翠《ひすい》の耳かざりを買って私の耳にはめてくれた。こうして見ると鏡にうつる私の姿は自分でもおどろくほどすっかりこの国のものになっている。ああ、私は支那人と結婚したのだ。私の良人は南京に住み、私も骨を江南の土にうずめるのだ。これから先の生活が安らかであってくれるように。ひたすらに洪の温かい心に頼るばかりだ。洪! 私のたよりに思うのはあなただけです。  こう書きつけている秋子の気持に若い軍医は胸の痛む思いがした。見知らぬ人ばかりの他国に一人で嫁して行く女の愛情の大胆さに愕《おどろ》きあわれむ心であった。彼はこの将校室になっている室の壁にはられている女の肖像写真を今一度つくづくと眺めた。それは全く支那人の服装をしてはいるが、おもざしは日本人であるようにも思われる。殊に写真の女の耳にある翡翠の耳かざりは日記の中の文字と符合する。これが秋子の残して行った写真であるに違いない。眉のきりりとした、どこかに性格の強さをうかがわせるしっかりした顔だちであった。  いま、この女はどうしているのだろうか。軍医はだんだんに彼女のことが気にかかりはじめ、急いでそれから読みすすんだ。  上海の上等の旅館に滞在して彼女等は五日をすごした。そのあいだに洪は秋子にむかって支那語を一つ二つと教えてくれた。南京へついたならば父と母とに上手に挨拶してくれるように、家族とも早く親しんでくれるようにという彼の希望であった。秋子にとって今は支那語を習うことも一つのうれしいつとめであった。  六時間の汽車の旅を終えて彼等は南京下関《シヤカン》車站に降りた。そこには一人の召使いが自動車で迎えに来ていた。そして城内に入って太平路《たいへいろ》にあるという彼の店の方へは行かずに屋敷街にある住宅の方へ行った。家は半ば洋風を加えて庭にはひろい芝生があり大きな小鳥の家が建っていて色々の鳥がさえずり交わしていた。  父と母とが玄関に立って待っていた。二人は秋子をにこやかに迎えてくれた。彼女のことは前から知らせてあるようであった。そして、彼女が永い不安をもって考えていた疑いがようやく正体を示した。洪には正妻があったのである。 ——あわてる事は止そう。いたずらに悲しむことはやめよう。落ちついて今後の身のふり方を考えなくてはならない。  彼女は立派にこう日記に書きつけている。今さら泣いても始まらない。これが自分の選んだ道であったのだ。覚悟はできていた筈だ! 彼女はみずから鞭《むち》をあげて、 「秋子! いまこそしっかりしなくてはいけない」と叱ってもみた。しかし崩れかかる心をどうしようもなかった。 ——洪! あなたは私を裏切った。あなたは愛情と誠実とを踏みにじった。あなたはもう私に服従を強《し》いることも貞淑を求めることもできない筈。私はもう束縛されない。死は私の自由だ。伯母さん、お母さん、許して下さい。支那人は信じられない人種、洪は愛するに足りない偽善者でした。御忠告にそむいた罰は私が自分でうけとります。  彼女は良人にむかって自分をだましたことをはげしく責めた。すると洪はこう言うのであった。 「だましはしない。君は立派に僕の妻なんだ」 「第二夫人というのは妾と同じではありませんか」 「そうではない、妻だ。妾ならば他の家に住んで親達のいる家庭にははいらせない。君は立派に妻だ」 「いいえ、欺したのです。あなたは独身ですかと訊いたとき、独身だと返事をしたではありませんか」 「それはそう云わなければ日本の女は第二夫人になることを嫌うからだ」 「勿論です。日本では正妻以外はみな妾です。私はそんな地位にいることは御免です」 「それはいけない。支那へ来たら支那の習慣にしたがってくれなくては困る。僕は君を手放したくなかった。君を欺したのは君を愛するからだ。解ってくれたまえ」  洪はそう言って秋子を抱こうとしたが、秋子はその手を逃れて自分の室へかけこみ、錠をかけて堅く入室をこばんだ。  第一夫人というのは纒足《てんそく》をして着飾った気位の高い女で、痩せた鋭い顔をしかめ、斜に秋子をじろりと見ては軽蔑した表情を歪《ゆが》めて微笑し、ひとことも口を利かなかった。秋子はそういう女と同じ屋根の下に住むことに耐え難い侮辱を感じた。けれども彼女は自殺はしなかった。 「いそぐ事はない。死ぬのはいつでも出来るのだ。静かにこういう生活を眺めてみよう。そのうえでどうするかを決定すればいい」  そうして幾日かをすぎた。しかし死ぬのはいつでも出来ることではなかった。日が経つにしたがって、憤りと悲しみとが次第に静まりはじめ、死のうとする心のはずみが失われてゆき、次におこって来た気持は、どうすればこの家の中で生きて行けるだろうかという考え方であった。もはや自殺は困難なことになりはじめた。そして彼女は生きて行く方法を辛うじてみずから発見してゆくのであった。 ——私は生きて行こう。やはり生きることが正しいことなのだ。この家の中の、さげすまれた地位にあって、日本の女がどれだけ立派に生きて行けるものかを試みてみよう。第一夫人の立場は厳然として動かすことの出来ないものだ。しかし私は第二夫人として生きながら実際には第一夫人の権威と誇りとを握ることが出来なくはないと思う。彼女は教育がない。学問も教養もない。ただ誇り高い様子と美貌と化粧と媚《こび》とをもっているだけだ。いわば贅沢な玩弄《がんろう》物であるにすぎない。私は教育をうけている。私は男の玩弄物ではなく、洪と対等な妻としてもっと高い地位を占めて見せたい。そうだ、私の生きる道はこの一路だけだ。私は必ず洪とその家族とを独占して見せよう。  軍医はここまで読み来ったときに涙があふれてならなかった。思わずノートを閉じてそのうえに両手を置き、日本女性のけなげにも強い心に打たれてしばらくはじっと壁間の肖像を凝視していた。自殺してしまったならば彼女は第一夫人に負けたことになる。どこまでも戦って勝とうとしたこころ、勝って日本の女性の価値を洪一家に知らしめようとしたこころ。軍医は胸のなかで、よく死なないでくれた、よく生きてくれた、と喝采をおくる気持であった。  日支事変がおこったのはそれから間もなくであった。はじめのうちはせめて上海だけで戦いは終るものと思っていたところが、秋の末ちかく上海の包囲が完成すると日本軍は激流の堰《せき》をきったように幾手にもわかれてどっと南京にむかって攻め寄せて来た。戦争は簡単には終りそうにも見えなくなった。そして秋子の立場は苦しいものになりはじめた。軍医はそれから先の日記を大きな興味をもって読んだ。いま、敵国人の妻となった女がどんな気持でこの日記を書こうとするであろうか。彼女は数々のまよいの後に、見事にもこう書きしるしてあった。 ——決心がついた。私はいつまでも洪の家にふみ止まろう。いま洪と別れて帰国してもそれは何の足しにもなりはしない。ただ自分の立場と自分の身とを安全なところへ逃がすというだけのことだ。それよりも私は奥地へ逃げて行く洪一家とともに、日本軍に追われて逃げて行こう。そうして、この家の中にあって、この家の人たちに日本の立場や戦争の意味をはっきりと知ってもらい、日本を敵とする心をこの人たちからのぞくこと、これが私のつとめであるに違いない。  私は漢奸《かんかん》と呼ばれるかも知れない。洪もまた危うい立場に立つかもしれない。しかし一度は自殺を決心した私だ、漢奸と呼ばれ死刑に処せられることに不服はない。けれども、ああどうか早く戦争に終りが来ますように、新しい平和が来て日本と支那とが温かく手をとりあう日が早く来ますように……。  洪一家は裕福な暮しをしていたから、日本軍よりもまず支那軍の暴虐をおそれなければならなかった。十二月がちかづくと日本軍はもう鎮江《ちんこう》、句容《くよう》の方までも迫って来た。南京は毎日戦備で大変なさわぎであった。唐生智《とうせいち》の軍隊がぞくぞくと南京に入りこみ、街のいたるところで金持ちたちが掠奪をされはじめた。「ああ、何という国家、何という国民。外に敵が迫っているのに中で相たたかう、これが同胞であり同じ血をわけた支那民族であるのだろうか」と秋子は歎いている。  彼等は十一月の最後の日南京から船で安慶にのがれた。洪は秋子を愛していた。彼は自分の身に危険があってもかまわないからどこまでも秋子をつれて逃げると云った。第一夫人は冷やかな笑みをこめて彼女を横眼で睨《にら》んでいた。  秋子が嘗《かつ》て心に期したことは実現されはじめていた。すなわち洪はすっかり第一夫人の存在を忘れて秋子を愛し、父母もまた彼女が気に入って、このやさしい気立ての良い親切な嫁を可愛がりはじめていた。彼女の家庭に於ける地位はすでに第一夫人よりも高かった。戦争さえなければ彼女は平和な洪家の主婦として楽しい生涯にはいることができたであろう。しかし安慶の生活も永くはつづかなかった。徐州《じよしゆう》が陥落すると、間もなく、日本海軍の溯江部隊は安慶にもせまって行った。 ——九江ヘ! 明日は船出だ。私はどこまで逃げるのか。しかしそれが何であろう。日本軍よ、勝って下さい。偉大な戦勝ののちにこそ、大きな平和がこの大陸におとずれて来るでしょう。その時をまつのだ。そのときこそ本当に支那全土に夜が明けるのです。いまは闇、まっくらな闇の世界。  洪一家は秋子とともに九江へさかのぼって行った。三日にわたる永い航海も船底にかくれるようにして暴逆な軍隊の目をのがれながら。九江、ここは大きな都会であった。美しい二つの湖水が街の裏手に緑の水をたたえ、彼等は湖を見下す丘のうえの家を手に入れてそこに住むことにした。しかしこの街にいつまで居ることが出来ようか。戦局が進展すればやがて一家は漢口《かんこう》ヘ、重慶《じゆうけい》へとのがれて行かなくてはなるまい。  六月、安慶が陥落したというニュースが九江の街にひろまった。そして七月四日、つい下流になる湖口《ここう》の街が日本軍の手におちた。もはや九江は逃れられない運命であった。街には兵隊がみちあふれ、住民は家と家財とを奪われて烈日の巷に抛り出されはじめた。市中いたるところでは漢奸を殺せ! というビラが貼り出された。洪一家は再び奥地へ、漢口にむかって逃れて行くことになった。——そして日記は最後の頁になって、こう書かれてあった。 ——いよいよ漢口に行く。眼ざましき皇軍の活躍よ。やがてこの九江は日章旗のもとに平和をむかえるであろう。そのころ秋子は漢口でその輝かしい便りを聞くことができるだろう。しかし漢口まで無事に行けるだろうか。  昨日の夜、三人の兵隊がずかずかと入って来て言った。 「この家に日本人の女が居るか?」  どうして兵隊に知れたろう。誰が密告したろう? 洪と母親とは出て行っていろいろと弁明し、兵隊に大分の金をやって帰したらしい。そして今朝、昨日の兵隊がまたやって来た。 「この家に日本人の女がたしかにいるそうだ。家捜しをする!」  洪は出て行ってそんな女はいないと云った。そのとき奥の室から第一夫人が出て来て叫んだ。 「日本の女がいます。この二階の右手の室にいます。連れて行って殺して下さい!」  洪は大きな拳をふりあげひと打ちに夫人を床にたたき伏せてしまった。それから兵隊にまた沢山の金を与えたようであった。洪の母親は、そんなに金をとられてはたまらないから秋子をつき出した方がいいと後で洪にひそひそと語っていた。密告者は第一夫人である。ああ、私の最期は迫った。漢口まで行けるだろうか。行けたにしても第一夫人の嫉妬があるかぎり私の身の安全はのぞまれない。覚悟をきめよう。支那兵の刀の下で命をおとす位ならば、日本の女はみずから命を断つ方法を知っている。郷里の伯母さま、お母さま、秋子はもう生きられなくなってしまいました!  日記はこれまででぽつりとと切れていた。彼女は無事に漢口へのがれて行けたであろうか。そうして漢口にもまた陥落のせまっている今日どこまで逃れつつあるだろうか。軍医は日記を閉じてふかい物思いに沈んだ。彼女が永いあいだ書きしるした日記をこの机の上に残して行ったのは、これが日本の軍人の手にはいることを期待していたのかもしれない。敵国の妻となって母国の軍隊に追われて行くうら若い女の姿が軍医の眼の底にのこって消えぬ幻をつくりはじめていた。軍医は日記と彼女の写真とを軍用行李の奥ふかくしまいこんだ。  それから十日ばかり経ったある月の夜、軍医はひとりでぶらぶらと廬山《ろざん》の夜景を賞しながら水の清らかな甘棠湖《かんどうこ》の岸へ散歩に出て行った。風流な兵隊が湖水の土堤に坐って尺八を吹いていた。なつかしい郷土のうた、松前追分のむせぶようなメロディが湖水をわたって嫋々《じようじよう》とふるえていた。その歌のなつかしさに惹《ひ》かれて土堤のうえをちかづいて行くと、尺八を吹いている兵隊が背をもたせかけている一本の棒杭がふと眼をひいた。それは地上四尺ばかりの高さで四角な白木の杭である。軍医は月の光りでその文字を読んだ。 「おい、兵隊。これは何だね。君はこれを知ってるのかい」  兵隊は尺八をやめて軍医の顔をあおぎ、 「はあ、知って居ります」と微笑をみせて言った。 「新しい墓だね」 「はあ」 「どういう人なんだ?」すると兵隊はとぎれとぎれにこう語った。 「城内を掃蕩してから自分たちの宿舎をきめて、ほっと落ちついたところでこの湖水の岸へ出て見ると、支那人の女の死体が浮いているんです。はじめはよくある事だと気にも止めなかったのですが、ふとその面ざしが気になって戦友と三人で引きあげて見ました。美しい支那服をきた女でしたが、何かしら日本人めいた顔つきでした。からだには傷は一つもなくて、明らかに投身自殺かまたは溺死《できし》ですが、しらべて見るとポケットの奥ふかくから出て来たのが写真です。写真を抱いて自殺したんですね。それを自分は今も持っていますが、日本人の一家族の写真です」  兵隊はポケットの手帳の間から皺になった写真を出してみせた。水にひたされて紙もささくれてはいるが明らかに日本人の家族である。 「左から二番目のが死んでいた女です。自分たちはどういう女かは知らないですが、いずれは戦争のとばっちりを喰って生きて行けなくなった者だろうと憫《あわ》れに思って、此の墓を造ったんです」  墓には墨色も新しく拙い字で「日本無名女性の墓」と記してあった。そして写真の女はたしかに洪秋子の東京にいた頃のものであった。 「軍医殿はこの女のことを何か御存じでありますか?」兵隊は尺八を撫《な》でながら言った。 「知っている」と彼は静かに答えた。「むしろ立派な死に方だ。敵国の妻として、母国のために最善をつくしたと、ほめてやりたいくらいの女だ。……おい、花をそなえてあげよう。お前もすこし手伝ってくれ」  軍医と兵隊とは月あかりの土堤の上で雑草の花や野菊の花を、夜露に手をぬらしながら摘《つ》みはじめるのであった。 五人の補充将校  南京《ナンキン》が陥落して間もない正月の二日、私たち便乗者をのせた軍用船は前線に送る器材を満載して呉淞《ウースン》の沖に着いた。この船はもう船齢から言えば解体しなければならないほど古くて、玄海を通った元日の朝などは天井も床もぎしぎしと軋《きし》み、便乗者一同八名が高級船員たちとデッキに並んで旭日を迎え、東天を拝して皇国の万歳を叫ぶあいだにも、波のうねりと風のはげしさとに、まるでよろめいているような航海であった。  呉淞沖について見るとそこには大小幾十隻の汽船が揚子江《ようすこう》の中流に碇《いかり》をおろしていて、左手には呉淞砲台のあった跡らしく破壊された構築物が見られ、種々な形の飛行機がひっきりなしに江岸から飛び立っていて、戦場に来た感じが強かった。早く上陸して見たい気持がしきりに焦立っていた。  ところが船は沢山の碇泊している船のあいだに入って同じように碇をおろした。楊樹浦《ヤンジユツポ》の碼頭《まとう》が船で一杯になっているので黄浦江《こうほこう》へは入れないから、今夜はここでとまるのだと船の事務長が説明してくれた。私たちは上陸準備を解いて夕食のテーブルについた。  この貨物船には船客というものはなくて、ただ八名の便乗者があるだけであった。上海《シヤンハイ》放送局の事務のために技師一名をつれて来たA中佐、従軍記者としての私、その他の五人は野田部隊の補充将校として南京に行く人たちであった。私の希望している方面も南京であったから、この五人の将校たちは向うまで同道してはどうかとしきりにすすめてくれた。  夕食が済むとA中佐や高級船員は自室へ引きとって、食堂に残るのはいつもの通り五人の将校と私とであった。きまって蓄音器を持ち出すのが坂倉少尉で、(激戦常にあるところ、雄々しき姿よ、香る勲《いさお》よ、これぞ栄えある祖国の決死隊)という歌をかけては一緒にうたっていた。航海の四日のあいだにこの歌もほとんど覚えられていた。山岡少尉というまるで子供のように元気な若い将校は、(進軍喇叭《らつぱ》きくたびにまぶたにうかぶ旗の波)をうたいながら、演芸会のようにそのゼスチュアをして見せる愉快な青年であった。西塚少尉と坂下少尉とは物静かな人たちであったが、西塚少尉はどちらかと言えば文句の多い性格にも見えた。しかしどこか性格の強さが幅の広い肩にあらわれているようでもあった。この四人は南京についたらすぐに小隊長になる筈であった。  今一人の阿部中尉はもう四十をすこし越した位の年齢で、酒ずきなにぎやかな田舎のおやじさんという風であったが、どこか利かぬ気のはげしい所があった。それは郷里で運送屋をしていて、多勢の労働者を扱っていたという生活から生れた性格であったかも知れない。夕食のあとではきっと私と碁をうち、 「さあ、一つ勝たして頂きましょうかなあ」と言いながら煙管《きせる》に刻煙草を詰める人であった。彼は本隊に到着したらすぐに中隊長をつとめる筈になっており、この一行の指揮官という立場であった。  その夜おそくまで碁をうってから、寝る前にデッキヘ出て見ると、西風が吹きまくって行く江上の寒さに、見わたす限り暗々として一点の明るみもない空であった。今にも敵機の空襲がありそうな恐怖がこの夜を悽惨なものに感じさせた。一緒にデッキに出ていた坂倉少尉は寒さに足ぶみして歩きまわりながら、不意に、いかにも胸からあふれ出たという風な言葉つきで私に言った。 「早くあがりたいですなあ」 「そうですねえ。船も飽きますねえ」 「吾々は早く野戦に行かんと駄目ですね。こうして暢気《のんき》にしていると却って落着きません」  たびたび感じた気持のくい違いを私はまた感じなくてはならなかった。戦場を見に行く私と、戦いに死をかけて行くこの人たちとの気構えの差が私を叩きのめした。船は飽きると言った贅沢な平和な立場を私は済まなく思った。  次の日も、その次の日も、船は濁流のなかに浮いたきりで動こうともしなかった。陸からの命令がないから出発できないというのである。A中佐の仕事は急を要するので陸に無電を打って、小船を迎えによこすようにと注文してあったが、機動艇も発動機船も足りなくてなかなか廻しては貰えないという次第であった。  便乗者たちはすっかり退屈してする事もなくレコードをかけていた。私は阿部中尉と碁をうって暮した。坂倉少尉は決死隊の歌をすっかり暗記して、あとは流行歌を歌っていた。  五人の将校たちのうちで一番私の関心を惹いたのは坂倉少尉であった。まじめな生一本な人で、肩を怒らしては早く野戦へ出たいと口癖に言っていた。この人はきっと兄弟のなかの長男であろうと思われた。率直な素直な性格が気持よい青年であった。  遂に正月五日になってA中佐のために小艇が迎えに来たので、退屈しきっていた五人の補充将校と私とは同行させて貰うことになった。  冬の日暮れの早い午後、私たちの乗った小艇は船長以下の人々に見送られて船をはなれ、黄浦江にはいって行った。右手には軍工路《ぐんこうろ》とその付近との破壊しつくされた新戦場が見え、左には外国人経営の石油会社のタンクなどがあり、到るところに小さい日章旗が立てられていた。この河に浮ぶ船という船がみな日本のものであることが吾々を愕かし却ってすさまじいものを感じさせた。  市場《いちば》碼頭に上陸して、そこから吾々はA中佐と別れてトラックに便乗した。殆んど日の暮れた楊樹浦から虹口《ホンキユウ》に入るにつれて、破壊され尽した家屋のあいだに人影を見、さらに日本人の姿を見た。将校たちは日本人の女が夕方の買物に歩いている姿に愕いていた。  その夜、私は五人の将校たちと一緒に林館という宿についた。宿は軍人で一ぱいであった。私たちは八畳の間に六人で泊ることになった。  宿につくとすぐにみなは甘いものを食いたいと言いだし、女中を走らせて餅菓子を買ったが、山岡少尉はさっそく手づかみで十ばかりも食った。すると間もなく腹が痛いと言いはじめた。 「僕ぁね、虫が居るんですわ。蛔虫がね。時どき薬を飲まんとあかんですわ」と言って、また女中を薬買いに走らせた。子供のように乱暴もので元気なこの人がやはり子供のようなからだをもっているのが滑稽であった。  夕食のあとで皆は宿の褞袍《どてら》にふところ手をして乍浦路《チヤポロ》のあたりを歩いてみた。厳重な燈火管制をしかれた街は全くの闇で、戦場の近さが思われて物凄かった。建物の凹みには陸戦隊の歩哨が銃剣を抱いて凝然《ぎようぜん》と立っており、ほとんど人通りも無かった。  宿で酒をのみながら、坂倉少尉は弁解めいてこう言った。 「さあ、今日が最後だ。明日からは野戦だからな。今日は一つ酒を飲んでも許してもらいましょう」 「南京でも酒はありますぜ」と酒好きな阿部中尉はにこにこと笑った。「酒と米だけは有りますぜ。まあ念のために僕は水筒に酒を詰めて行こうかなあ」  この夜、五人の将校は遅くまでかか って郷里の人たちや郷里の部隊に手紙を書いていた。明日南京へ出発すれば、今度は手紙も日数がかかるであろうし、危険も多いこと故、これを一つの区切りとして念入りな手紙を書き送る気持になったに違いない。あるいはこうしていつが最後になってもいい気持で郷里へ手紙を書くたびごとに、彼等の感情も戦士としておのずから鍛えられて行くものであったかも知れない。  あくる日の午後一時、私は五人の将校たちに従って上海を発った。北停車場あたりの破壊のあとは言語に絶する物凄さで、これから行こうとする戦場のすさまじさが思われた。汽車は貨車ばかりを五、六輛つないだもので、兵隊と食糧とが満載されていた。将校の乗った貨車は天井に穴があって、蓋をひらけばすぐに屋根の上に機銃座が出来るようになっていた。恐らくは占領品であろう。鉄道省から派遣されて来ている乗務員は大刀を腰につけて、託送された郵便物などを整理していた。駅につくたびに沿線警備の兵隊が二、三人ずつ乗り降りした。沿線の広野は楊柳の枝もさびしく、棉の畑が赤枯れて、朔風に乗って飛び交う鵲《かささぎ》がいかにも人気なき戦場の風景であった。  この時になって阿部中尉の水筒に入れてある日本酒は有効であった。なぜならば汽車の中は凍るような寒さで、木のベンチに腰かけていると膝頭ががたがたと慄えるほどであったから、一杯の酒の有難さが身にしみた。  私の隣りには坂下少尉がいた。このやや猫背になった温厚な青年は殆んど人目をひく事はなかったが、私には却って頼母《たのも》しく思われてきた。いかにも育ちの良い、豊かな生活をしている人という風であったが、それだけに坂倉少尉ほど心を焦立《いらだ》たせることなしに素直に戦場の空気にはいって行ける人のように見えた。西塚少尉は鉄格子の入った小窓から外を眺めては、死体がありはしないかと探していた。  私は一つの杞憂をもっていた。それは船の中にいた時からの考えであったが、彼等が行こうとする部隊は既に幾度の戦闘を経て南京占領の重要な一翼をつとめた部隊である。この実戦の功名に輝く部隊に、いま突然内地から渡支してきた五人の補充将校が加わって、兵隊の指揮をとることには何か感情的な齟齬《そご》がありはしないだろうかという事であった。  しかしいま汽車のなかで軍刀を杖にして静かに来るべき戦場を幻に描いているようなこの五人を見ていると、船の中や上海の宿で見たときとは多少違ったものが感じられるのであった。彼等の居る場所が戦場のすさまじさを加えてくるに従って、彼等の肩幅が拡がってくるように見えた。彼等の服装や態度が次第にこの環境に適合しはじめるようであった。  このような印象はその夜蘇州《そしゆう》について一層ふかめられた。汽車はまだ夜を行くほどに安全ではなくて、日が暮れるとそこで夜明けを待つのであった。私たちは蘇州の城内で朝を待つために汽車を降りた。駅の当番兵は一行を案内して城内に定められてある将校宿舎まで連れて行ってくれた。案内の兵が照らす懐中電燈のおぼろな光りのなかに、私は茶褐色の高い城壁と、そのまわりをとりまくひろい濠とを見た。城門の衛兵はからだの輪郭も見えない深い闇のなかに立ち、きらりと銃剣を光らせて銃を捧げた。  将校宿舎は元は医者の住居であったという大きな中庭をもった邸宅で、バルコニーに出ると西空にきらきら光る三日月が昇っていた。物音一つないこの占領都市は不気味な夜の底にまっ暗に沈んでいた。  五人の将校は装具をとき、心細い蝋燭《ろうそく》の下で当番兵のこしらえてくれた食事をした。寝台は支那風のダブルベッドで私は坂倉少尉と二人で三枚の毛布にくるまった。 「拳銃だけは持って寝ましょうかなあ」と阿部中尉が言うと、ほかの四人もそれにならい、軍刀をも枕許に置いた。蝋燭が短くなってじりじりと鳴る音が異様な静寂を感じさせた。  この時になって私は、船の中や上海の宿で感じていた、一種彼等に対する心細さを忘れ、却って頼母しい気がして来た。それは現在私自身が無防禦の立場にあるから彼等を頼りに思うということもあったではあろうが、それよりも彼等自身が、いよいよ第一線に近づいてきた事によって緊張した心構えを示しはじめていたのではないかと思われた。少なくとも坂倉少尉は決死隊の歌をうたわず、山岡少尉は軍歌のゼスチュアを見せはしなかった。もはや軍歌によって自分の気持を引き立てるまでもなく、その環境が充分に緊張したものであったのだ。暢気者の阿部中尉でさえも、 「明日の起牀は五時ですぜ」と皆に言ったときには、一種厳然たる隊長の声音があった。  翌朝は未明に起きた。五人は甲斐々々しく装具を身につけて宿舎を出た。黎明《れいめい》の寒風が頬に痛いほどであった。  駅へ行く道々、私は五人のうしろからリュックサックを背負って歩きながら、彼等が今はもうすっかり郷土から絶縁された気持でいることを感じた。彼等はもう誰の子でもなく誰の親でもなくて、唯一人の将校になり切っているらしいことを思うた。はじめて、私は心から頭を下げて感謝したい気持になった。霜のまっしろい道に彼等の靴は重々しく鳴り、彼等の肩は凜然《りんぜん》と聳えていた。彼等の腰にした大刀にも拳銃にも、いまはじめて血がかよいはじめ、生命をもってきたように私には思われた。私は次第に謙譲な気持になりつつあった。  その日の汽車は昨日よりも一層寒かった。私は毛布をひろげて坂倉少尉と二人で足や腰を巻いて見たが慄えは已《や》まなかった。常熟《じようじゆく》、無錫《むしやく》のあたりで昼飯を食ったが、飯は凍り、水筒の湯はすっかり冷えきって、内臓までも何の温かみも無くなりそうであった。  阿部中尉と西塚少尉とは刀を杖にして居眠りをし、私と坂下少尉とは沿線にまだときおり見かける支那兵の凍った死体や馬の白い肋骨のある畑などの曇った風景を眺めていた。坂倉少尉はしきりに日記らしいものを手帳につけていた。すると山岡少尉がこう言った。 「坂倉君、君はよく日記を書くなあ」 「うむ……忘れるからなあ」 「また見るときがあると思うのかい」  彼等にとっては平凡な会話であったかも知れない。しかしそれは大変な意味をもっていた。恐らく、私は思うに彼等とてもこういう重大な意味を充分に反省することなしに言っていたのではなかろうか。生還を期しない、死を迎えるのだという一つの固定した概念がこういう言葉となって現われるばかりで、死ぬ事の重大な意味を一々反省していたとは思われない。死に対する一種の麻痺した神経があったろうと私は考えるのであった。大事なことはこの神経の麻痺である。僧が読経して葬式を司《つかさど》る時に死者に対するふかい感情を持たなくなっていると同じように、彼等にあっては自己の死に対する正当な恐れがもはや棄て去られていたのではないかと思われる。国家に忠ならんとするために、軍人としての本分に進むために、先ず彼等は死の恐れを忘れる事が必要であった。そして見事に忘れきっている姿をここに私は見たと思った。坂倉少尉にあっても決して生きて再び日記を開こうと思って書いているのでなく、死にむかう自分の生命の経過を記しておきたいと思っただけであろう。  鎮江《ちんこう》について汽車は三十分ほど停車していた。そのあいだに私は駅の近くにいる兵隊から水筒に一杯の湯をもらうことが出来た。  この熱い湯が五人の将校にどれほど喜ばれたか知れなかった。まるで凍ってしまったような体が漸く温められ、体温が復活して来たような気がした。凡そ二週間以上も彼等としたしみながら、私が彼等のために為し得たところは、ただこの一杯の熱い湯を手に入れたことだけであった。  日が暮れてから、私たちは南京の下関《シヤカン》車站につき、粉雪の吹きすさぶ暗黒の市中をトラックで一時間も彷徨《ほうこう》してから、ようやく部隊の駐屯している市政府を尋ねあてることができた。  市政府の正門には衛兵が立っていて、すぐ門の内にある衛兵所では焚火が真赤に燃えていた。トラックを降りて、案内の兵に連れられて正門を入って行く五人の将校の後姿を、私は門に立って見送っていた。改めて私は自分の杞憂を拭き消すことが出来た。彼等はたしかに兵を指揮するに足る青年将校に、いつの間にかなっていた。その歩き方にもそのからだつきにも、確信と威厳とがすっかり備わっていた。  阿部中尉がふりむいて一人の兵に言った。 「あのトラックにある荷物をな、おろして衛兵所に積んでおいてくれ」  衛兵所の兵が二、三人でトラックに駆け寄った。阿部中尉はもう中隊長になり切っているように見えた。  その夜から私は部隊付きの通訳の室に寝せて貰うことになった。高橋通訳はまだ二十二歳の愉快な青年で、一人の支那人を自分専用のボーイに雇っていた。寡黙な張青年は垢だらけの少し壊れたべッドを私にゆずって、自分は床の上に蓆《むしろ》を敷いて寝るのであった。夜半にこの青年が起きあがって何か不逞なことをしはしないかという気がして、最初の夜は安心して眠れなかったが、高橋青年はこの敵国人の同居している室で悠然と鼾《いびき》をかいていた。翌日の夜からは私も安心して眠ることが出来た。私は煙草をやって彼を懐柔し、支那語を彼から習うことによって一層親しくなった。彼は穴のあいたストーブにどんどん石炭を投げこみ、室じゅうを煙だらけにして平然としていた。私は数日のうちにすっかり喉をいためてしまった。  南京では毎夜のように火事があった。消す人もなく見る人もない火事は人気のない市街のまん中で燃えるだけ燃えては自然に消えて行った。人ひとり立って見てもいない真夜中の火事というものは一種悽惨なもので、火が生きて暴れているように思われた。  夜明けの星空を飛行機がごうごうと飛び交うことがあった。それは敵とも味方とも知れなくて、ただすさまじい音響につれて、翼の下の青い燈火だけが流星のように流れていた。  ある朝、坂下少尉と西塚少尉とは最前線にむかって出発した。二人は南京から南へ七里ばかり先に討伐に行っている第一大隊の配属になったのである。そこでは毎夜のように敵の夜襲があり、休む間もない戦闘がくり返されていた。  出発の直前、私は二人を衛舎の庭で見送った。二人ともきっちりと外套の襟をしめ装具をつけて、刀の柄を握っていた。 「どうですか。一つ僕等の隊へも視察に来ませんか。本当の戦争が見られますよ」と西塚少尉は私に言った。その本当の戦争をしようとする彼の表情にはもはや犯し難い精神の強さがみなぎっていた。それに反して坂下少尉はすこし猫背になった穏やかな顔に笑いをうかべて、いかにも人なつかしそうに、 「毎日トラックが往復していますからな、一度是非来て下さいよ」と、まるで山の温泉へでも誘うような平和な調子で言った。  私は却って坂下少尉の物柔かな調子に打たれた。この人は戦いに出て行くこの時になってさえも、その心にもその顔色にも何の硬張りをも見せてはいない。あまりにも自然でむしろ気味がわるい程であった。  間もなく二人はトラックに乗って市政府の門から出て行った。坂倉少尉と私と二人だけが楼門の下に立って見送った。  坂倉少尉はたびたび通訳室へ訪ねて来てくれた。彼は小隊長として市中警備の任についていたので、日に二度ぐらい市中を巡視して歩くのであった。夜になってから私の室で一杯の支那茶をすすり、 「これから巡視です」と言って、きちんと敬礼し、懐中電燈を握って出て行ったこともあった。彼は如何にも規律正しい忠実無比な青年将校ではあったが、私は彼に接しながら一種の息苦しさをいつも感ずるのであった。むしろ坂下少尉の平和な物やわらかい態度の方にゆとりのある息づかいが思われた。しかし或る日、巡視のかえりに私の室へ立ち寄って「中正路《ちゆうせいろ》の××百貨店の二階へ上って見ましたか。女の死体がありましたよ。退却するときに支那兵が惨殺して行ったんですな。裸でね、ひどいもんだった。僕は傍にあった蒲団をかけて来ましたよ」と言う話をしてくれたとき、この人も立派な将校なのだと私は思った。なまじっかに正義を説いたり虚無を語ったりしないで、ただ蒲団をかけてきたとだけ告げるところに、この人もこれから先の激戦にむかって、良い将校としてやって行く人であると思われた。彼は戦闘帽の顎紐をくびれるほどしっかりと頬にしめ、白い手袋をきっちりとはめ、いつも遠くの砲撃に耳を澄ましているような顔色で低い声で話をした。  山岡少尉はまるで面白い事件を探しまわっているように元気で、いつも大きな声で話をした。 「今朝はねえ、江門《ゆうこうもん》のそばの池へ行ってね、ぶんどり品の手榴弾を抛りこんでね、漁をやったよ漁を。こんな鯉がいますね! 二、三日うちにまた一緒に行かんですかあ!」  私は上海の宿で蛔虫に苦しんだ彼を思い出して笑わざるを得なかった。 「僕等はもう近いうちに移動するらしいですわ。行く先ですか。絶対秘密ですわ。僕等にもわからんです。あなたも一緒に行きますか。もう二、三カ月一緒に進軍せんですかなあ!」  あるいは五人の補充将校のうちでこの人が一番単純な率直な性格をもっていたかも知れない。恐らく戦死するとしても、最後までこのままの大声で話をするのではないかと思われた。  ある日、私は坂倉少尉と二人で少しはなれた水西門《すいせいもん》の近くの部隊へ行っている阿部中尉を訪問した。  中尉は民家を中隊本部にして、支那風の大きなダブルベッドと紫檀のテーブルのある室に陣どっていた。 「やあ、よう来てくれましたなあ。ビールでも御馳走しましょうかなあ。何でもありますぜ。何でも好きなものを御馳走しますよ」  言葉をきくと船の中で碁をうっていた阿部さんに違いないが、こうして当番兵を置いて陣どったところは立派な中隊長であった。  私たちはビールを辞退して、近くの水西門とその付近とを案内して貰った。中尉は城門の衛兵の挨拶に軽く答えて、城壁の上へあがって行った。そこはまだ壕が掘りめぐらしてあり、市中が一目に見わたされた。紫金山《しきんざん》は市街のむこうに立派な山容を示していた。中尉は軍刀を杖にしてこの付近の戦況を説明しながら城壁の上を歩きまわった。こうして戦場に立っている阿部中尉はもはや郷里の運送屋の主人でもなく、暢気な酒好きなおじさんでもなくて、どこから見ても堂々たる中隊長の貫禄であった。  私は砲弾に破壊された城楼の屋根瓦を一枚思い出に持って帰ることにした。扇面の形をした中に、二匹の竜が玉を争う図が、幼稚なうき彫りになっていた。  数日ののち、私は山岡、坂倉両少尉に別れを告げ、高橋通訳に途中まで見送られて上海にむかった。五人の将校たちとはそれ以後一度も会う機会はなかった。  帰国してから間もなく、私は坂下少尉からの手紙を受けとった。彼等の部隊は大移動をやっていた。「——十日、紀元の佳節の前夜、小生の小隊は本隊を離れて先発、当○○に到着しました。河北の空漸く春暖を覚え、砂塵が吹きまくって居ります。付近は毎夜敗残兵の出没多く……云云。」という文面であった。私は早速返事を書いて新刊の雑誌二、三冊をまとめて送った。  それから半年ののち、八月の暑いころ、私は不意に山岡少尉からの葉書をうけとった。住所は和歌山県のある温泉旅館になっていた。 「——その後御ぶさた致して居ります。お変りありませんか。あれから北支へ派遣せられ、このたび徐州《じよしゆう》戦にて傷つき唯今表記にて療養致して居ります。同行せし阿部中尉も一緒です。坂下少尉は徐州にて腹部貫通銃創のため戦死致されました。西塚、坂倉両君は健在の由。一日も早く退院して再び行きたいものと思って居ります」  文面はこういう短いものであった。私は愕いてすぐにもっと詳しくお知らせ願いたいと申し送った。坂下少尉の戦死は殊に私の心をうった。南京で別れた時の、人なつかしげな彼の面影が忘れられなかった。彼の死は恐らくは物静かなものであったろうと思われた。  山岡少尉からは二度目の手紙が来た。それによると阿部中尉は左胸部貫通銃創でもう全快も近いと言い、「私は左下腿骨折貫通銃創で、左足が三つに折れました。元通りにはなれないと諦めて居ります。徐州の金郷《きんきよう》、魚台《ぎよだい》の戦いで随分やられました」とあった。  彼の手紙で見ると、精神的にいま苦悶を感じているらしい事が察しられた。元のからだにはなれないと言いながら、その前の葉書には「早く全快してまた出かけたい」と言っている、そこに彼の苦しみがあるように思われた。傷ついた身は、内地で療養しているよりも戦場に在る方が心安らかなものがあるのではないかと思われて、私は暗然たる気持であった。 「負傷して寝ころんでいる時、どんどん弾丸が飛んでくる、体は動かない、どうもならん、弾丸は遠弾、近弾、近接弾と、だんだん弾丸にはさまれてくる気持、今度目か今度目かと死を待っていた気持、実に何とも言えません」  この文面を読みながら私は露営の歌をうたいゼスチュアをして見せた彼と、蛔虫で苦しんでいた彼と更に、手榴弾で鯉をとったと喜んでいた彼とを一連の插絵として思い浮べ、男児の一生という風な感慨を抱くのであった。また、左胸部貫通の傷も治った阿部中尉が、もう元の暢気なおやじさんに戻って酒をほしがっているであろう図を考えて微笑せざるを得なかった。更に、今も健在で徐州から大別山《たいべつざん》にむかいつつあるという坂倉、西塚両少尉の、百戦に鍛えられた将校ぶりも頼母しく想像された。  それから間もない頃であった。或る朝、新聞をひらいた私は坂倉少尉の戦死を知ったのである。  彼は中尉になっていた。恐らくは勇敢な凜々乎《りんりんこ》たる若い中隊長であったに違いない。中支から北支へ、さらに徐州を経て中支へ、戦線の往来にも馴れて彼はどれほどか逞しい立派な将校になっていたであろうと思うにつけても、あの軍用船の中の退屈まぎれに決死隊のうたを覚えていた彼の俤《おもかげ》が偲ばれてならなかった。「激戦常にあるところ、雄々しき姿よ」と言う歌の文句は、そのまま今は彼のために捧げらるべき言葉であったろう。  こうして、私が永い道連れとして馴れ親しんだ五人の補充将校のうち、二人は傷つき二人は戦死した。激戦はなおも中支の山野にくり返され、武漢《ぶかん》もやがて陥落したが、西塚少尉の消息ばかりは杳《よう》として知り得なかった。 文春ウェブ文庫版 武 漢 作 戦 二〇〇一年六月二十日 第一版 二〇〇一年七月二十日 第二版 著 者 石川達三 発行人 堀江礼一 発行所 株式会社文藝春秋 東京都千代田区紀尾井町三─二三 郵便番号 一〇二─八〇〇八 電話 03─3265─1211 http://www.bunshunplaza.com (C) Yoshiko Ishikawa 2001 bb010603