心に残る人々 〈底 本〉文春文庫 昭和五十一年七月二十五日刊  (C) Yoshiko Ishikawa 2000  〈お断り〉  本作品を「文春ウェブ文庫」に収録するにあたり、一部の漢字が簡略体で表記されている場合があります。  また、差別的表現と受け取られかねない表現が使用されている場合もありますが、作品の書かれた当時の事情を考慮し、できる限り原文の通りにしてあります。差別的意図がないことをご理解下さいますようお願い申し上げます。 〈ご注意〉  本作品の全部または一部を著作権者ならびに(株)文藝春秋に無断で複製(コピー)、転載、改ざん、公衆送信(ホームページなどに掲載することを含む)することを禁じます。万一このような行為をすると著作権法違反で処罰されます。 [#改ページ]    目  次    心に残る人々    出世作のころ      章名をクリックするとその文章が表示されます。 [#改ページ]    心に残る人々 [#改ページ]      心に残る人々

        1  牛込余丁町という所は、今はどうなったか解らない。牛込という地名も無くなった。余丁町一帯は戦災でまる焼けになったと思うから、訪ねて行ってももはや見当もつかないだろう。新宿から若松町へ行く電車が、西向天神を過ぎると余丁町の停留所であった。菅原道真は九州太宰府へ流されたので、天神様はすべて東向きに建てられているのに、あそこだけが西に向いた天神様であるらしかった。つまり江戸まで来れば御所は西だという理窟であろう。  その余丁町の停留所で降りて、右の細い道が余丁町で、そこからほんの二三軒目の左側に坪内逍遙の家があった。黒塗りの古風な門構えで、いつも静まり返っていた。さらに二百メートルばかり行くとごたごたした商店街に出る。そのとっつきの炭屋の二階が、岡山から上京したばかりの私の、東京に於ける最初の下宿だった。  余丁町の停留所のそばには、亡くなった作家大鹿卓の家があった。実は彼の姉夫婦の家で、その義兄は社会党の河野密であった。私は一度だけ、中山義秀とつれ立って大鹿を訪ねたことがある。大きな古い家であったが、あれも焼けたかも知れない。  炭屋のおやじはまだ三十代の美男子で、元気の良い男だった。たしか萱沼とか言った。女房に死なれて独りきりであったから、彼が出かけると、二階の下宿人である私が、来客の応対までしなくてはならなかった。Aという質屋だが炭を三俵とどけてくれとか、Bという中華料理だが煉炭をとどけてくれとかいう用件だった。  主人が男世帯だから、私は自炊生活だった。八畳の間に兄と二人の下宿で、兄は陸軍砲兵少尉、砲工学校の学生だった。独り者の炭屋は女房がいないので、ブレーキの壊れた車のように、止め度もなく暴走していたようである。深夜一時二時まで外で酒を飲んで帰ったり、昼間から私たちの居る隣の部屋に仲間を五六人あつめて花札賭博をやったりしていた。軍人の兄はそれを嫌って、下宿を移ろうと考えていたようだった。  炭屋は三度の食事をほとんど外でしていた。時おり近所の洋食屋の女がカツ・ライスなどの出前を持って来た。この女はひそかに炭屋の後妻にはいることを考えていたらしかったが、炭屋の方が取り合わないような様子だった。  そんな訳で炭屋の店は見る見る左前になり、私が早稲田高等学院に入学して間もなく、商売をやめることにしたから転居してくれという通告が来た。私たちは若松町に転居した。そのあとで萱沼は店を叩き売ってしまったようだった。半年以上も経ってから、何かの機会に例の洋食屋の出前の女に会った。すると彼女はせき込むようにして、 「萱沼さんはあのお店を売ってから、まるきり様子がわからなかったんですよ。それが近頃人から聞いたところによると、何だか屋台店を引っぱって歩いているんですって。可哀そうねえ。あの店をまじめにやってれば良かったのにねえ……」と、いかにも残念そうな言い方をした。  それっきり消息は知らない。生きていればもう七十四五にもなる筈だ。  炭屋の近所にコロッケ屋があって、夕方になると店のおやじが油の大鍋でコロッケを揚げていた。或る日私は兄から、「魚のフライを食べたいな。お前、魚屋へ行って鰺をひらいて貰って、それをコロッケ屋でフライにして貰って来いよ」と言われた。  そんな旨い訳に行くだろうかと疑ったが、私はともかく鰺をひらいてもらい、それをコロッケ屋へ持って行った。店のおやじのその時の表情を、私は未だに忘れない。相手が女なら断ったであろうが、相手は釣鐘マントを着た貧乏学生で、自炊暮しと一眼で解る。大柄なおやじは苦笑して、魚にパン粉をつけて揚げてくれた。いくら払ったか忘れたが、おやじは困った顔をして、五銭ぐらい請求したように思う。あんまり旨い話だから、私は一度だけしかやらなかった。あのコロッケ屋も戦災で焼けたろうと思う。  私たちが転居したところは、現在の第一国立病院の近処で、二階の八畳は日当りがよくて静かだった。階下は初老の夫婦と、夫人の妹とかいう二十六七のうす汚れた娘との三人暮しで、主人はどこか官庁の雇員のような仕事だった。貧乏くさい一家で、三人とも年じゅう顔や首筋に|おでき《ヽヽヽ》が出来ていた。梅毒の気があったのかも知れない。不思議なことに夜になると二人の女が居なくなって、主人ひとりが留守番をしていた。女たちは私と兄とが寝たあとで帰宅する。しばらく経ってから兄が、「下の人たちは夜店でもやっているらしいなあ」と言った。  その推察が当っていた。女二人が神楽坂かどこかに夜店を出しているのだった。商品は何だか知らない。そのうち兄が学校を卒業して宇都宮砲兵聯隊へ行ってしまった。私はひとりで八畳の間代は払えないので、隣の三畳を一カ月三円で借りた。押入れが無かったから寝牀は敷きっ放しであった。大阪朝日新聞が短篇小説の懸賞募集を発表したので、ひとつ書いてやろうかと考え、学校から帰ると万年牀の上に坐って原稿を書いた。(それが一年後に当選して、賞金二百円をもらい、私の生涯の運命の転換になった。)  或る冬の朝、学校へ行こうとして階段を降り、奥の部屋にむかって、行って来ますと声をかけると、奥から女房が私の名を呼んだ。唐紙は半分開いていて、女房が牀に寝ているのが見えた。薬の注射が強すぎたとか言って、二三日牀についているのだった。 「この寒いのに、学校なんかやめなさいよ。ここに来て、私と一緒に寝なさい。さあ……」と言って女房は蒲団の片端をまくった。こんな直接的な誘惑を受けたのは、冗談にしても始めてだった。しかしこの女はいかにも不潔だった。注射が強すぎたというのも六〇六号をやったのではないかと思われる程だった。その家には一年ぐらい住んでいた。  すぐ近処に、同じ早稲田の学生たちが二人下宿していた。或る朝私が登校の道すがら、彼等を誘いに行って見ると、彼等は別の友人と三人で花札賭博をやっていた。 「何だ、朝っぱらからバクチか」と言うと、 「徹夜でやってるんだ。お前も学校なんかやめて、仲間にはいれ」と相手は言った。  私は鞄を投げ出して仲間にはいった。そして始めて花札というものを覚えた。それから彼等と一緒に何度か徹夜もした。その下宿にいた一人は商科の学生で藤田と言った。後に朝日新聞社にはいり、論説委員を最後に停年退職したと思う。もう一人は水田という医大の学生で、多分岡山の郷里へ帰って医者になった筈だ。  或るとき私は藤田のところへ行き、鞄の中から二羽の生きた鳩を包んだ紙包みを出して、下宿の小母さんに、 「これを料理して下さい。みんなで食べるんだから……」と言った。小母さんは、 「これはどこの鳩ですか」と問うた。  早大の隣に今でも穴八幡という神社がある。虫封じのお札を売っているらしい。神社の鳩が友達の下宿の軒に遊びに来ていたのを、私が手づかみにしたのだった。 「いけませんよ。神様の鳩を食べたりしたら罰が当りますよ」と小母さんは拒絶した。  私は学校の教室で鳩を放して遊んだ。それから窓をあけて逃がしてやった。もう四十年も昔のことである。 [#改ページ]         2  大阪朝日の懸賞短篇小説の当選発表は、昭和二年の三月末であった。当選者の中に平林たい子が居り、秋山正香がいた。それから花田歌子という女性がいた。この人は後に国民新聞の婦人記者になった。新大久保に自宅があって、後藤俊子という人と二人で住んでいた。後藤俊子は最近はたしか自由民主党の婦人部の顔役になっていたと思うが、器用な人で、その頃は人形造りで生活していたらしかった。  秋山正香とはその後三十年も交際がつづいた。埼玉県行田の足袋工場の何代目かの社長であったが、日本人の服装が和服から洋服に変るにつれて、工場は不景気になり、小説にうつつを抜かしている社長では業務の転換も円滑には行かず、とうとう工場も家屋敷もことごとく小説修業の犠牲にしてしまった。そして昨年の暮あたり、貧窮の果てに病歿した。六十三歳ぐらいだった。  彼は遂に無名作家ではあったが、郷里の方に取材した長篇「泥沼」の著書があり、晩年には津軽切支丹の史実を詳しく調べた長い小説がある。私はその原稿を読まされたが、彼に終生ついて廻った一種の泥くささと冗漫な描写癖とで、どうすることもできなかった。  彼は二十四五歳のころからもう足袋工場の社長で、子供も二人ぐらい居た。行田の町の郊外に木立に囲まれた立派な家があり、二階の書斎には朱塗の本棚に和漢洋の本を並べていた。早稲田実業学校の卒業で、学歴はそれだけだったが、独学でフランス語を学び、二三の短篇の翻訳などもある。私が始めて彼の家を訪ねた時は、私のような貧乏書生とは比較にならないブルジョアで、庭で弓を引き、鯉のあらいで冷たいビールを飲み、それから鰻の蒲焼きという御馳走であった。幼い娘には振袖の着物をきせていた。夫人は彼を呼ぶのに(旦那)と言った。  秋山は五尺九寸もありそうな痩せて背の高い男だった。酒を飲むのが早く、飯を食うのが早く、下駄を鳴らして道を歩くのが早かった。それほどせっかちなのかと思うと、実は田舎の人らしく馬鹿に悠々とした所があって、私の方がいらいらすることもあった。私は永いあいだその性癖が理解できなかったが、或るとき急に全部が解った。彼は足袋の売り込みのために年に何回か東北地方の問屋を廻り歩いていた。大阪朝日の当選小説は「好色道中双六」という題で、そういう旅にからむ物語を書いたものだった。  そうした旅行は一人旅だ。そして田舎町の商人宿に泊まりあるく。旨くない飯を食い、独りきりで酒を飲む。その味気なさが秋山の身に沁みこんでいて、自分の家で飯を食い酒を飲むときにさえも、ひとり旅の商人宿で、(飲んで食って寝てしまえ……)というような飲み食いをするらしかった。これは飽くまでも私の推量であって、秋山の旅の現場を見たわけではない。しかし近頃になって、若い頃は散々に行商の苦労を|嘗《な》めたという水上勉と酒席を共にして、彼が秋山正香と同じような飲み方食べ方をするのを見るに及んで、私は自分の推察が誤りでないことを知った。秋山は売り込みの独り旅の味気なさが骨身にしみていたのだ。  彼が二十七八歳のころ、溺愛していたたった一人の男の子がジフテリーで死んだ。彼は一枚の葉書に、(息子が血|へど《ヽヽ》を吐いて死にやがった)と書いてよこした。私は秋山の、父としての悲しみよりも、もっと大きな怒りを感じた。  その時は私は、秋山の怒りだけしか感じなかったが、実は彼の心には怒りよりももっと大きな虚無感があった。持って行き場のない怒りは絶望感、虚無感に変る。その時以来、秋山の作品には一種のニヒリズムがつきまとうて、終生はなれなかった。生活態度にもそれが現われ、先祖代々の工場が潰れたときでも、家屋敷を叩き売った時でも、うす笑いをうかべて酒を飲んでいるような姿があった。  娘たちが各々結婚して、家庭に夫婦だけが残されるようになると、彼の妻は虚無的で投げやりな良人と生活の歩調が合わなくなり、娘の婚家の方へ行ってしまった。ひとり残された秋山は潰れた工場の事務所の二階に自分の居場所をこしらえて、世捨人のような孤独な暮しをしながら、やはり小説を書いていた。読書家で、博識だった。外国文学も日本の古典もよく知っていて、知識のひろいことでは私など足もとにも及ばなかった。  一度だけ、彼は傑作を書いた。「蕗の葉」という五六十枚の短篇で、すっきりとした歯切れの良い作品だった。私は早速手紙を書いて、激賞してやった。しかし傑作はたった一つだった。良い意味でも悪い意味でも、(ディレッタント)という言葉をそのままに生きたような男だった。 [#改ページ]         3  大学英文科にすすんだ頃、私は学資がなかったので、叔父の家の居候をしていた。叔父は陸軍中将で、教育総監部砲兵監という、砲兵の元締みたいな役についていた。後に予備役にはいってから北白川宮家の別当職などもつとめたが、居候の私を、まるで兵隊を教育するような態度で教育しようとした。私はそれがたまらなくなって叔父の家を逃げ出し、友人を語らって市外長崎町並木という所に小さな家を借りた。これは親の許しを得ない単独行動で、この時を境に私は親から独立した。経済的にも南米旅行のとき以外は、親や兄の仕送りは一切受けなかった。  市外長崎町は多分豊島区長崎という風な名前になって、立派な町並になっているらしいが、当時は池袋も田舎駅で、豊島師範学校から外は至るところに大きな野原や荒地がひろがって居り、練馬大根の畑がつづき、武蔵野の|悌《おもかげ》がふんだんに残っていた。私たちの家は八畳四畳半三畳で、野原のはずれにあった。  家を借りるとき、私は友人の林と二人で差配の植木屋を|だまくら《ヽヽヽヽ》かした。(僕たちは学生ですからね。学資はきまっただけきちんと来るんです。しかし敷金というのは困るんですよ。間違いなく家賃は払いますから、敷金は勘弁して下さい。)人の良い差配は私たちの弁舌にごま化されて敷金を負けてくれた。それから後、払ったり払わなかったりして、とうとう一年ちかくも居据った。その間に払った家賃は三カ月分ぐらいであったろうか。遂に差配の方が音をあげて、今までの分はもういいから、出来るだけ早く出てくれと言った。私はその間に大学を中退し、職さがしなどやっていた。  同居の友人は林冬雄と言って、私と同じ中学の卒業生だった。築地小劇場の(其他多勢)の役をやったこともあるという演劇青年で、すこしばかり左翼だった。私は左翼の青年を始めて友人に持った。そして労働歌を覚えたり、左翼的な物の考え方を教わったりした。それから演劇と日本の劇団とについて多少の知識を得た。横光利一、川端康成、片岡鉄兵が新進作家として活躍した時代であり、新感覚派の時代であった。そして芥川の自殺したのもこの頃だった。  林は短躯、まことに風采の上らない男で、とても役者にはなれそうもなかったが、ひとり息子で、何とも言えない人の好い男だった。真夜中の一時二時というのに、いきなり大きな声を張り上げて台詞の稽古をはじめる。稲毛という林の友人もころげ込んで来て、私と稲毛とが相手役をつとめる、という有様だった。しかも台所には一粒の米もなく、瓦斯は止められているというのに、明日のことを思い|煩《わずら》う者は無かった。私の性格にはバガボンドの血は無いが、私は林によってバガボンドの生活の自由さを味わい知ることが出来た。  林は友人の家から仔犬をもらって来た。雑種の駄犬である。私たちは協議して、この犬にドン・ホセという名をつけてやった。しかし自分たちの食う米もないので、犬に餌をやるわけには行かなかった。犬は隣の市電の運転手の家で残飯をもらって暮していた。飼主がバガボンドであれば、犬もバガボンドとなるより仕方がなかった。  この生活のなかで私は、米というものの大切さを知った。米さえ有れば、あとは何もなくても安心だった。つまり生きていられる。それ以上の慾は何もなかった。せっぱ詰ったときは二三冊の本を池袋の古本屋へ売って、米の一升買いをした。それを|粥《かゆ》に伸ばして食べた。その事のみじめさを考えたことは一度もない。それは青年時代の有難さだった。社会に生活の根をおろして居ない者にとって、生きているということは何でもないことだった。誰かがかねが入れば、先ず米を買う。五升もあれば十日は安心だった。それから刻み煙草を買う。これも生活の必需品だ。さらに金が有れば風呂へ行く。これは一つの贅沢だった。  差配に立ちのきを請求される前に、稲毛は別れて去った。その後の消息は全くわからない。気の弱い、すこしばかり虚無的なところのある男だった。私たちは差配の立ちのき請求をしおに、西大久保の下宿屋へ二人で転居した。|賄《まかない》つきの下宿屋へ行けるようになったのは、私が雑誌社に就職して五十円の月給をとるようになったからだった。  立ちのきの朝、ホセは置いて来た。多分運転手の家の犬になったであろう。私と林とが転居の荷物を持って、前の原っぱを歩いて行くと、新聞配達の青年が追っかけて来た。転居するのならば新聞代を払ってくれという。三カ月ぐらい溜っていた。彼は苦学生であるらしかった。 「僕のもうけは宜いですから、新聞の原価だけ払って下さい」と彼は言い、私たちは無けなしの財布から、請求分より少し多く払った。彼が礼を言って去ったあとで、林は、 「あいつもプロレタリヤだからな。あいつから搾取する訳には行かんよ」と言って笑った。  林はその後、郷里岡山市へ帰って母校の中学の先生になった。戦後は学制が変ったので、自動的に高校の先生になったが、何を教えていたのか私は知らない。昭和三十五六年ごろ病歿したらしいが、その事も私は最近まで知らないでいた。 [#改ページ]         4  市外長崎町の私と林冬雄との仮住居から、すこし郊外の方へ散歩に出ると、|欅《けやき》や杉のむら立ちが大根畑のあちこちに残っていて、そのあたりに小さな赤瓦の、いわゆる文化住宅が点々と建っていた。そして貧乏画家がたくさん住んでいた。  太平洋画会の美術青年の巣窟に、私たちはよく遊びに行った。彼等と私たちとの共通点は貧しさとバガボンドということだけだったが、それだけで何となく気が合った。私は始めて画家を知り彼等の生活を知った。画学青年は文学青年よりも明朗で、行動的で、それだけに底の浅い気がしたが、だから無意味につきあうのには気楽だった。  河合という青年が林と中学の同級生だった。彼等の小さな家には画学青年が四五人いて、共同生活をしていた。四人になったり五人になったりした。一人だけが妻帯者で、夫人は元モデル女だった。クリスマスの夜、遊びに来いというので林と二人で行って見ると、先輩画家の鶴田吾郎氏が酔って踊っていた。どんちゃん騒ぎだった。そういう騒ぎ方は画家に特有なもので、文士も文学青年も決してやらない。それだけ文士という人種は内攻的なのか陰気なのか、それともとり乱さないのか。職業の差がそこに出ていた。作家は思考し、画家は行動する。  美術評論家たちは絵画について理窟っぽいことをしきりに言うが、元来絵というものに理窟は無いのだと私は思う。理窟があるとすれば、無数の理窟がある。つまり無いと同じだ。そうでなくては、あれだけ多種多様の美術の形式が共存し得る筈がないのだ。  画学青年たちの巣窟から遠くない所に、高橋季輝と荻郁子とが同棲していた。高橋は左翼演劇の仲間で、弾圧でつかまったこともあるらしい。左翼劇団の文芸部の人で、なかなかの美男子だった。荻郁子は舞台女優もやったし、昔の日活映画でスタンド・インもやったという、魅力的な美人で女丈夫だった。  二人とも物凄い貧乏をしていた。ぼろぼろの丹前を着て、食うや食わずだった。どうかすると二人連れで私と林との家へ、おい飯を食わせてくれ、と言ってやって来たりした。こちらも食うや食わずだから、首吊りの足を引っぱるようなものだった。  しかし、貧民は容易に共産化する。所有する物が乏しければ乏しいほど、隣人との垣根は易々ととり払われる。そうしなくては生きて行けないのだ。私と林が連れ立って高橋の家へ飯をたべに行ったこともあり、炭を貰いに行ったこともあった。それが当然のことだという一種の貧民道徳があり、不文律があった。私はいつも荻郁子の美貌に見とれていた。こんな美人をこんな|陋巷《ろうこう》に住まわせて置くことが勿体なくて仕様がなかった。  彼等は二年以上も家賃を払っていなかったので、家主から追い立てを喰った。すると彼等は借家人組合に提訴して応援を求めた。当時はそんな組合があった。いずれは左翼的なものであるが、借家人たちが連合してプチ・ブル家主たちに対抗しようというのだった。私はそのとき始めて借地借家法という法律があることを知った。これは多分現在も生きている法律で、当時としては珍しく貧民を保護するような性格のものだった。これが後には悪い店子に利用されて、家賃を踏み倒したうえ立退き料をふんだくる事の、法的根拠に使われたものであるらしい。  提訴を受けた組合からは高橋の家に、同居人という青年を派遣して来た。実は名目だけであって、同居人は自分の表札を玄関にとりつけて帰って行った、すると、たとい高橋が家主から追い立てられて立ち退いても、同居人だけは居残る権利があるのだった。それでは追い立てが何の役にも立たなくなる。家主は泣き寝入りだった。  やがて差押えがあり、高橋の家財には封印が貼られた。と言っても家財は数えるほどしかない。それから執達吏が古道具屋を連れて来て、封印した道具を買わせた。そのあとで荻郁子は古道具屋に交渉して、その場で道具類を買い戻してしまった。道具屋は一物をも動かさずに鞘だけ稼いで、帰って行った。だから競売は無意味なことに終わった。家主の手にはいったかねは、せいぜい二十円ぐらいだった。私はこのいきさつを見て、社会と法律との不思議なからまり合いを感じた。この場合は法律の方の負けだった。借地借家法が今でも昔のままであるならば、戦後の今日もまだこんな事がくり返されているかも知れない。  私が就職して、林と二人で西大久保に転居したのち、高橋夫妻との交遊は中断した。その後更に三年ばかり経って、私は渋谷の方で兄夫婦の家の二階に同居していた。ある真冬の夜、十二時を過ぎる頃にいきなり来客があって、叩き起された。寒い月光を背にして外に立っていたのは高橋季輝だった。人力車が待っていた。  見ると高橋はステッキを突き、腕にも足にも白い繃帯を巻いていた。帽子をとると頭にも怪我をしていた。 「いや、どうも済まん。勘弁してくれ。実はやくざの連中と喧嘩して、|覘《ねら》われてるんだ。逃げなくちゃいけないんだが、怪我をしてしまってね……」  だから三円でも五円でもいいから貸してくれという話だった。私はおどろいて、すぐに五円を持って来て渡した。それっきりで、また彼の消息は絶えた。  その後さらに二三年たって、私は高田馬場に近い下宿屋に転居した。そして荻郁子が近処に飲み屋(のんべえ)を開いていることを知った。大提灯をぶら下げた汚い店だった。土間の中央に囲炉裏があって、太い薪が一日中くすぶり、天井まですすけた店だった。そしていつも目刺しを焼いたあとのようなにおいがしていた。ずいぶん乱暴な投げやりな店だったが、荻郁子がどういうかね算段をして店を出したのか、経緯はわからなかった。  彼女は綿入れのちゃんちゃんこを着て、髪をいぼじり巻きにして、長煙管で煙草をすっていた。化粧などはしたこともない女だったが、前よりも少し肥って、抜けるほど色が白くて、|瑞々《みずみず》しい肌をしていた。私が訪ねて行くと、 「おやおや、珍しい動物がはいって来たね。生きてたかい」というのが、彼女の歓迎の辞だった。乱暴ではあるが、親しみもあった。 「高橋さんは元気ですか」と問うと、 「知らねえよ」という返事だった。「ふん、あいつ、怠け者で仕様がねえから、叩き出してやった」  昔はずいぶん惚れあった夫婦であったが、永年の貧乏暮しが彼等の関係を崩してしまったのかも知れなかった。私は高橋季輝の訪問を受けた話をした。彼女は笑って、 「へへえ、お前さんも被害者かい。あいつはその手で友達をたかって廻ってるんだよ。怪我なんて嘘の皮さ。ははゝゝゝ」と言った。  それから更に十何年の空白があって、もう一度私は荻郁子に会った。戦後四五年たった頃であったろうか。高田馬場時代に独身だった私も三児の父になって、世田谷九品仏に住んでいた。ある日いきなり荻郁子から手紙が来て、借金を申し込まれた。養子をとって何とか暮しているが、小さいアパートを建てて経済的に安定したいから、五万円貸せという話だった。  数日後、彼女は私を訪ねて来た。昔と違ってべらんめえ口調は少しも出さず、きちんと洋服を着て、一応の淑女になっていた。さすが昔は女優であっただけに、どんな女にでも化ける手を知っていた。ただ悲しいことには流石の美貌がすっかり衰えて、中老のばあさんになっていた。そして借金の理由を述べるのにも羞んでいた。  それっきり、荻郁子の消息はわからない。一度だけ年賀状が来た。アパートは建てたのか建てなかったのか。私も行って見ないので、どちらとも解らない。自分で期限をつけた返済の時期から、もう十年以上も過ぎている。私ははじめから、返して貰えるとは思っていなかった。長崎町の貧乏暮しの頃には、飯を食べさせてもらったこともあり、七輪に焚く炭を貰いに行ったこともある。いわば一宿一飯の恩義があるのだから、その時のお礼のつもりだった。向う様はどう受け取ってくれたか解らないが、もしも彼女に昔ながらの元気があるならば、(かまやしねえよ、あいつはいま別に困ってやしねえんだ……)と言って笑い飛ばしてしまうだろう。そういう時の荻郁子の女ばなれのした歯切れの良さが、私には何とも言えない魅力だった。 [#改ページ]         5  昭和六年か七年ごろ、私は雑誌社につとめながら小説の勉強をしていた。書いた原稿は中央公論社のアンデパンダンと言う新人発見のための原稿募集に持ち込んだり、兄がつとめて居た関係で国民新聞の学芸部長に見てもらったりしたが、結局日の眼を見たことは一度もなかった。  私は業を煮やして、こんな先の解らない仕事のために青春を失ってしまうより、もっと手っ取り早く野心(?)を充たす方法は無いかと考えた。そういう考え方自身がまことに怪しげなものではあったが、そこは若気の至りで、やればやれるんだという気持になっていた。そして映画俳優になってやろうと思った。当時の映画界では松竹が最も華々しい仕事をしていた。蒲田撮影所時代で、栗島すみ子が全盛の頃だった。  早稲田時代に少し知っていた岡田熟という学生が松竹の宣伝部か企画部かの仕事をしていた。私は彼に橋わたしをしてもらって、俳優岡田宗太郎の弟子ということにして貰った。岡田宗太郎の名は今では忘れられてしまったが、当時は脇役としては名優と言われていた。  私は蒲田撮影所に自由に出入りすることを許され、自由にスタジオや控室にはいることができた。けれども岡田宗太郎は本当の弟子のように私を教育したり走り使いをさせたりは、一切しなかった。まるで個人的な客を扱うように叮寧な態度だった。あるいは始めから、こいつは|もの《ヽヽ》にならないと見当をつけて居たのかも知れない。  私は映画撮影の現場をたびたび見た。女優栗島すみ子がカメラの前で演技をしていた。監督池田義信が演技に注文をつける。すると女優の方が文句を言った。 「いやよ、そんなこと出来ないわ。おかしいじゃないの」そして自分勝手な動きをする。すると監督の方は、 「そうか……まあ、それでもいいや」と言った。  何のことはない、池田監督は粟島すみ子の良人だった。つまり家庭の延長でキネマをつくっていた。私はそれを見てばかばかしくなった。そして映画俳優になろうという夢が破れた。それからもう一つは映画撮影における(待つ)ということだった。扮装をつけたままで、セットの準備ができるまで何時間でも待たされる。あの空白な時間に耐えることは、とてもやり切れないと思った。更に、俳優の仕事にはほとんど自分の創造の余地は無いように思われたこと、それがまた一層私の失望を深めた。  蒲田撮影所には前後十二三回も通ったであろうか。岡田宗太郎は|閑《ひま》が多くて、ときおりお茶を御馳走したりしてくれた。おだやかな、人柄の良い人であった。私はもう俳優志願の夢はとっくに棄てていたが、それを岡田氏に言うのが辛かった。それで手紙を書いて、やはり私は元に帰って小説の勉強をしようと思うからと、ことわりと一緒にお礼を述べてやった。岡田宗太郎からは待っていたように叮寧な返事が来たが、その古い手紙はどこかに失ってしまった。  岡田氏はその後数年たって、何だか急に病死してしまったが、池田義信氏には二十何年も間をおいて何度か会った。彼は映画連合会事務局長という職にあり、白髪まじりの好紳士になって居た。私は当時文芸家協会理事長として、小説家の原作を映画に提供する場合の、原則的な団体協約を結ぶための、折衝をしに行ったのだった。池田氏はむかしむかし、スタジオの片隅に佇んで黙って撮影を見ていた青年のことなど、覚えている筈もなかった。  岡田熟はその後大映に移って企画か何かの仕事をしていたが、昭和三十年ごろ就寝中にガスが洩れたとかいうような、変な事故によって急死した。友人たちはその事故にも何か別の疑いをもっていたらしかったが、結局はそのままで終った。裏に女出入りでもあったかも知れない。そういう事もありそうな、ちょっと魅力のある大柄な、良い男だった。  映画に望みを断ってから、私は「新早稲田文学」という同人雑誌に加わっていたが、その雑誌と親しくしていた劇団に、ちょっと足を突っこんだことがある。 劇団員になったという訳ではなく、客員でもなく、今から思えばひやかしみたいなものであったが、演劇というものに或る程度の関心はもっていた。それより数年前、市外長崎町で林冬雄という演劇青年と同居した、あの時に林から得た芝居についての多少の知識が、私のそうした行動の下地になっていたのかも知れない。  太陽座という研究劇団で、座長は竹中荘一と言った。神楽坂の途中の汚い貸席を借りて稽古をしていた。座員というのはたいてい学生で、もちろん赤字だらけの劇団だった。  座員の中に、当時の帝大の独文科の学生がいた。太陽座が公演をするということになって、その学生が主役に指名された。題名は忘れたが、「青春」という風な題の、甘い翻訳ものだった。主役の青年の名はハンス。あとは何も覚えていない。公演の場所はどこか学校の小講堂のような所だった。  ハンスの演技はぎごちなくて、生まじめではあるが、いかにも素人だった。あんな芝居ならおれの方が旨いと、私はひそかに思っていた。その青年が戦後になると立派な映画俳優になってしまって、今では映画でもテレビでも、押しも押されもしない名優になった。それが山村聰である。「新早稲田文学」は創刊三周年をむかえたとき、日比谷公会堂の下の小劇場で、講演と演劇の夕べを催した。その時の演劇は太陽座の無料出演で、山村聰も出ただろうと思うが、私は覚えていない。講演の方は当時の新進作家を無料でたのんで廻った。私が当時もっとも活躍していた龍膽寺雄を訪ねると、彼は都合がわるいからと言って、阿部知二を紹介してくれた。講演の顔ぶれは阿部知二と久野豊彦(この人は後に株屋になったという話だった)その他は記憶にない。舟橋聖一も居たかも知れない。謝礼はなしで、みな車で送り迎えをしただけであった。  私が友人と二人で龍膽寺雄を訪ねたのは朝の十一時で、彼は起きたばかりでガウンを着ていた。その時の彼の昂然たる弁舌を私は今でも覚えている。 「君たちはこれから純文学をやるのかね。ふん。純文学で食って行けると思うのかね。当代第一流と言われている横光利一でさえも、月収は三百円を出ない。……それでも君たちは純文学をやる決心があるのかね」  まるで私たち文学青年の熱意に水をぶっかけるような台詞だった。その龍膽寺雄氏は中途で文学をやめて、サボテン作りになったという話だった。なぜ彼が文学を投げ出してしまったのか、それは私には解らない。  ところで講演と演劇の会は、みなで手分けして切符を売って、終ったあとの帳尻は三十円ほどの黒字になった。この種の催しとしては大成功だった。しかし一つだけ手落ちがあった。講演会だけならば税はかからないが、演劇が加わっていたので徴税令書が私のところへ来た。私が会の名義人として届け出てあったのだ。税額は十五円ぐらいだった。  私は竹中荘一に、どうしたらいいかと相談した。すると竹中は、「そんなもの、踏み倒してしまえ」と言った。太陽座はいつの公演だって、税金なんか払ったことは無いというのだった。私はその言葉に従って、何度督促状が来てもほったらかして置いた。  しまいには延滞料が加わって十七円ぐらいになっていたが、それでも応じなかった。一度、税務署の人が私の同居していた兄の家まで訪ねて来たが、私は遂に頑張って一銭も払わなかった。そのうち督促状は来なくなった。多分徴収不能ということで処理されたものであろう。私が日本政府に勝ったような気がしたのは、その時が最初で、申し訳ない事ながら、少々嬉しかった。自分のもうけの為ではない。みんな同人雑誌の経理のための苦労だった。 「新早稲田文学」はその後半年あまりで潰れた。竹中荘一は終戦前後は長野県の方へ行っていたが、今はまた東京へ帰って、竹中荘吉という名前になって、やはり研究劇団をやっているらしい。もう三十年も会っていない。年は七十にもなったかも知れない。 [#改ページ]         6  私が早稲田に通ったのは、高等学院の二年と大学の一年と、合計三年だけであった。その間に学んだ学問としては、何ひとつ系統的に身につけたものは無い。しかし学問の香気というようなものだけは充分に嗅ぎ取った。学問の香気といっしょに、もっと深く私の心に滲みたのは、早稲田の先生たちの如何にも学者らしい人柄から発する、ひとりひとりの異った香気であった。  |謦咳《けいがい》に接する……という古い言葉があるが、私は文字通り先生たちの謦咳に接して、どれほど貴重なものを得たか知れない。私が早稲田の三年間に得たものは、いわゆるスクール・ライフの独特の味わいと、これらの先生たちを知り得たことと、その二つであった。  国文学者山口剛氏はいつも和服で、横縞のある凄い袴をはいていた。そして手ぶらで教室にはいって来て、ノートもなくテキストもなく、チョーク一本あれば一時間の授業が事足りた。それでいて古事記、万葉、古今集などを流れるが如くに語り聞かせてくれた。それは講義ではなくて、|語り聞かせ《ヽヽヽヽヽ》てくれるのだった。万葉の味のふかさ、古事記の意味のふかさ、その時代に生きていた人々の生活様式から生活感情まで、まるで時代の温い肌に手をふれるように話して聞かせてくれた。私は万葉も古事記も読んでいなかったけれども、これらの古典の匂いだけは充分に嗅がせてもらった。そして、山口教授の頭のなかにいっぱい詰っているであろう日本古典文学の重さを感じ、尊敬|措《お》く能わぬ気がしたものであった。この先生はすこし耳が遠かった。  英文学者矢口達先生。この人のことも忘れられない。婦人画報社の元編集長矢口純君は先生の息子さんである。大変な酒好きで、昼食時間にさえ学校の近処のレストランでウイスキイの瓶の三分ノ一は飲むと噂されていた。そのためか胃潰瘍になって数カ月休んだが、治るとまた直ぐに飲みはじめたようだった。翻訳者としては相当に有名な人だった。  矢口先生はD・H・ロレンスの短篇を集めたテキストを造っていた。おそらく日本にロレンスの短篇を紹介したほとんど最初の人ではなかったかと思う。長篇「虹」は訳されていたようだが、短篇は誰も知らなかった。ずっと何年も後になって「チャタレー夫人……」が訳されたが、私はチャタレー夫人よりも、ロレンスは短篇の方がずっと優れていると今でも信じている。  痩躯鶴の如く、いつもにこやかで、早慶野球戦のときには授業を途中やめにしてくれた。私たちがクラスの同人雑誌「薔薇盗人」をこしらえたとき、何となく支援してくれたのも矢口先生であった。  私たちのクラスには明治文壇の硯友社時代の作家石橋思案の息子がいた。私は一二度、伝通院の近くの彼の家へ遊びに行ったことがあった。古風な大きな家で、植込みのある広い庭がついていた。或るとき、友人の部屋の窓に腰かけて庭を見下していると、離れ座敷の白い障子にはめられたガラスを透して、その中の机に坐って本を読んでいる枯れた姿の老人を見つけた。それが石橋思案氏の老後の面影であった。大正十五年ごろのことである。  その頃から作家志望であった私は、しかし実際の作家という人間を見たのはこれが始めてであった。そして、作家の生活と、作家が年老いたらどうなるかという実例を、石橋思案氏において始めて見たような気がした。  大学には一年しか行けなかったが、その頃の教授たちの俤も忘れ難い。仏文学の吉江喬松、英詩の繁野天来、英文学の横山有策、宮島新三郎、文学史を講義していた詩人日夏耿之介、哲学の金子馬治。ひとりひとりが言葉に言いあらわせない一種の風格をもっていた。その風格は、政治家などによく見かける他人を意識した姿勢ではなくて、むしろ他人を忘れて自分の勉強に没頭した果てに、いつの間にか作られてしまった人格のようなものだった。  金子馬治氏は教室への行き帰りにも、自分が歩いているのだということを忘れているような歩き方、風に吹かれているような歩き方をしていた。私は何度か立ち止って、先生のうしろ姿からこぼれ落ちてくる学者らしい香気に感心したものであった。  繁野天来はミルトン研究の第一人者と言われていた。背丈のひくい風采の上らない人であったが、詩文に賭ける烈々たる精神には襟を正す思いがした。英国近代詩を講じながら、それをミルトンと比較し更にミルトンと漢詩を比較し、(菊を東籬のもとにとり、悠然として南山を見る)何万の英詩をもって来ても、この漢詩の一節に及ぶものは無い……と喝破したものであった。結局東洋人にとっては東洋の詩が血肉に通ずるものであって、西洋の詩心は肌あいの違うものなのかも知れない。エドガー・ポーの詩を訳したりしていた日夏耿之介先生も、老後は完全に東洋の詩文に戻ってしまった。  日夏先生の文学史は、ゲルマン民族の古い生活を語り、ニーベルンゲンの伝説を論じ、形容詞のゆたかな、しかも流麗な語調で、まるで美しい講談を聞いているようだった。私たちはノートの手を休めて先生の語り口に聞き惚れていたが、一時間が終って先生が行ってしまうと、頭の中には美しい語調だけしか残っていなかった。  そのころ坪内逍遙はもう教授でも何でもなかったが、ときおり特別講座としてセキスピヤの講義をしていた。何科の学生でも自由に聞けることになっていた。六七十人しか坐れない小さな教室で、白髪白髯の老先生が教壇に坐っており、学生たちはうしろの壁ぎわから窓の外の廊下までびっしり立っていた。先生だけが大きな声で台詞をしゃべり、原文の意味を語り、その韻律を論じていて、学生たちは物音ひとつ立てなかった。  この講義は早稲田の名物で、それを聞くことができるというのが早稲田の学生の特権のようなものだった。その日の講義の内容はどうでもいい。理工科や商科の学生には縁もゆかりもない。しかし坪内先生の講義を聞いたということが、それだけで誇らしいことであった。  もう一度私は同じ教室で、尾崎咢堂の演説を聞いたことがある。行きずりに立看板を見て、咢堂の雄弁なるものを聞いてみようと思ったのだった。行ってみると教室は満員で、私は窓の外に立っていた。坪内先生のときとは違って、(何々に於ける何々を論ず)というふうな、演題を書いた長い紙がかかげられていて、壇上には白い長い髭を生やした背丈の低い、眼つきの鋭い咢堂が立っていた。  私はいわゆる雄弁というものを始めて聞いた。立板に水という形容詞にそっくりで、言葉と言葉との区切りも何もなく、まことに流れるが如くにしゃべっていた。文章で言えば丸も点もない、句読点をつけ忘れたような語調であって、一体どこで息を継ぐのかと思うほどだった。しかも美辞麗句がつらなり誇張された形容詞があとからあとからと続き、それに一種リズミカルな抑揚がついていて、むしろ音楽的でさえもあった。  しかしあまりに音楽的で、しかも形容詞がいろいろはいって来るので、語っている論旨そのものは巧く頭にはいって来ない。要するに当時の雄弁とは、聴者の感覚を麻痺させるような一種不思議な作用をもっていたようであった。  秋になると運動会があった。当時早稲田の選手には織田幹雄がおり高石勝男がいた。高石が高等学院に入学したので水泳プールが出来たのだと言われていた。  運動会では対部競争があった。私たちは高等学院二年で、文学部の応援団を組織した。しかし応援の費用はない。そこで誰かが言い出して、先輩から寄付をもらうことになった。  ちょうど秋には文学部会という卒業生たちの会があって、会場は大隈会館であった。私たち幹事数人は会場の入口に立っていて、集って来る文学部の先輩たちをつかまえようという手筈にしていた。どんな人が来たか、今は記憶にない。ただその中の二人だけははっきり覚えている。  新国劇の創始者沢田正二郎がやって来た。顔色の悪い人だった。私ともう一人の友人とが進み出て、寄付を頂きたいという主旨を説明した。沢正は説明を聞くとすぐに、 「五円でよろしいですか」と言った。  五円は大金であった。彼はすぐに紙入れから紙幣をとり出した。有難かったけれども、悪いことをしたような気がした。  沢正に会ったのは前にも後にも、この時だけであった。それから一年経つか経たないかで、彼は中耳炎が悪化して急逝した。 (どこやらで |囃子《はやし》の音す 耳の患)  これはもはや中耳炎にかかって、絶えず耳鳴りがしていた時の、沢正の句である。無季句であろうか。おそらくは彼の最後の句であろう。それを金屏風に自分で書いている。その金屏風を私はたしか演劇博物館で、二度ぐらい見たように思う。そして、その句を見るたびに、あの時の顔色のわるかった男を思い出し、寄付をもらったことをそこはかとなく後悔するのである。  もう一人は作家岡田三郎であった。和服の上にインバネスを着て、痩せた人だった。私たちはまた寄付を頂きたい旨を説明した。 「三円ぐらいでいいですか」と彼は言った。「いまちょっと持ち合わせがないんで、取りに来てくれませんか」  私たちは作家という人たちが案外貧乏であることを知らされたような気がした。寄付帳には三円也と書いてもらったが、結局もらいには行かなかった。  その頃の岡田三郎氏は新進作家というよりは、そろそろ中堅であった。今では文学全集にもほとんど作品を見ることはないので、世間から忘れられているが、当時はいわば流行作家であった。作風は私小説系の手堅いもので、早稲田文学、中央公論などにも度々作品を発表していた。私たちから見ると、あこがれの作家でさえあった。自然主義の末期の人。そして左翼文学の台頭期にあって、日本文学の伝統に拠った人であった。  その後十年も経ってから、私も駆け出しの作家になることができて、時おり岡田氏と顔をあわせることがあった。しかし寄付をもらいそこねた話は遂にしなかったように思う。  そのうち岡田三郎氏は家庭の内部に紛糾を生じ、夫人と離別するようなことになった。その間の事情を克明に書いた小説を読んだことがある。それから愛宕山の近処のお宅へ、たしか丹羽文雄と一緒に訪問したことがあった。  そのとき岡田氏のそばには若いきれいな女性がいた。離婚事件の原因になった女性であったらしい。たしか江尻さんとか言った。  岡田氏と徳田秋声氏とは大変に親しかったが、徳田さんは街へ出るとよく喫茶店へ寄った。私もお伴をしたことがある。銀座の表通り五丁目か六丁目の、二階にある何とかいう喫茶店であった。江尻さんという人はそこに勤めていた女性だった。彼女と岡田三郎とは二十以上も年齢が違っていた。一度私はぶしつけに、どうして君はずいぶん年の違う岡田さんが好きになったのかというような質問をした。すると江尻さんはあけすけに、 「だって、私の処女を捧げた人ですもの」と言った。こちらは二の句が継げなかった。  それから後、岡田三郎は急速に衰えて行った。作家としても衰弱し、健康もおとろえたようであった。もともと狭い作風の人で、自分の仕事を新しく飛躍させるというようなことはできない人だった。それでも早稲田派の作家と言えば、正宗白鳥、広津和郎、そして岡田三郎、尾崎士郎、横光利一、片岡鉄兵……と数えられるのが普通だった。  その後さらに何年か経って、どういう用事であったか忘れてしまったが、また丹羽文雄と同道して岡田三郎を訪ねたことがあった。その時はたしか目白の街はずれ、椎名町の方であったと思う。   この時の面会が最後だった。岡田氏は見る影もないほど年をとって、ひどい貧乏暮しをしていた。丹前の袖がすり切れて綿がはみ出し、家の中は汚れ放題であった。若く美しかった江尻さんもひどく汚くなっていて、口ぎたなく良人の無能を罵ったりしていた。これがあの文壇を騒がした恋の末路かと思うと、私は居たたまらない気がした。小さい子供がいたように思うが、はっきりしない。  二年ばかり経って、私は岡田三郎の死を聞いた。病気は結核であったと思う。いくつになって居ただろうか。六十にはまだ間があったと思う。 [#改ページ]         7  私の叔父石川六郎は早大を出てから徳富蘇峰の国民新聞に永くつとめていた。馬場恒吾が編集局長で叔父が次長をしていたが、事情あって局長と次長とが連袂辞職した。その後馬場恒吾は迎えられて読売へ行き、叔父は朝日の学芸部長、校閲部長を歴任し、停年退職した。私が貧乏学生の時代に叔父は学芸部長をしていた。  その頃の朝日には、今で言うアルバイト学生を準社員のようなかたちで雇い入れ、仕事を覚えさせ、学校を卒業した後に、成績が良ければ正社員に採用するというような制度があった。  叔父は貧乏学生の私にそれを説明して、週刊朝日の編集長に話をしてやるから、一度会って頂くがよかろうと言った。そこで私は某日、朝日新聞社へ出かけて行った。叔父は週刊朝日の編集長を紹介してくれて、自分は応接間から出て行った。  編集長の名は翁久允。後に知ったところによると永くアメリカに居て苦学をした人らしく「道なき道」という自伝風の小説、その他何冊かの著書がある。四十過ぎの物静かな人だった。  面接はどんな会話だったか、全く覚えていない。ただ一つ、近頃どんな本を読んでいるかと訊かれて答えたことだけははっきり記憶している。私は日本の作家のもの、翻訳されたフランス文学の名など幾つか挙げたが、それだけでは足りないような気がした。あたかも左翼文学が激しい勢いで台頭している時だった。文芸戦線とか戦旗とかが読まれていた。そして革命ロシヤの革命文学が日本にもはいっていた。  そういう作家を全く読んでいないとすれば、作家志望の者としても、ジャーナリスト志望の人間としても怠慢と言わなくてはならない。だから私は思い切って、言った。 「それから、コロンタイの赤い星、赤い恋というのも読みました」  これには註釈乃至は感想を付け加えた方がよかったかも知れない。翁氏から感想を求められれば私は何か言っただろうが、感想は何も訊かれなかった。コロンタイ女史はソ連の流行作家でありながら外交官で、たしかどこかの国の大使となって行ったりした、当時最も華やかな存在であった。作品は共産主義者の恋愛の在り方を書いたもので、日本でも評判になっていた。  数日ののち、叔父から連絡があって、私は不採用になったと知らされた。 「翁君は、あの人はロシヤの小説なんか読んでいるようですな、と言っていたが、お前はそんなことを言ったのか」と叔父は言った。  それで不採用の理由ははっきりした。私は少しも後悔しなかった。コロンタイを読んだのは事実だし、むしろ読むのが当然だと思っていた。私がそれを読んだからと言って、ただちに私が左翼学生であるように考えられた、その相手の軽率さの方がばかばかしい気がした。  不採用となって、私は経済的な安定は得られなかったが、そんなことは何でもなかった。しかし、もしもあの時に採用されて居れば、私は早大中退ではなしに、英文科卒業生になっていたかも知れないし、卒業後は朝日新聞社員になって、無事つとめて居れば今ごろは重役にもなっているかも知れない。それとも新聞記者として失敗していたであろうか。だからそれが私の為に良かったか悪かったか、何れとも解らない。ただ、あれが私の人生の、一つの岐路であったということだけは言えるだろう。  翁久允氏は今も金沢か富山の方で御健在であるらしい。私は氏に、生涯にたった一度だけお会いした。その間わずかに十五分。そしてその十五分が私の人生の岐路であった。それは一つの奇縁というべきものかも知れない。しかし別の考え方をすれば、翁氏は私の人生の曲り角に当って、それを歪めることなしに、素直な道に行かせてくれた人……であったかも知れない。  だから、あの当時は少々腹を立てていたが、今はむしろ懐しい気がしている。第一、その時から四十年の年月が経っているのだ。 [#改ページ]         8  学費が続かなくなって、早稲田大学英文科は一年だけでやめた。休学にして置いて、機会があれば復学したいと思っていたが、結局休学のままで終った。私が中退したと言ってやっても、親たちは賛成とも反対とも言っては来なかった。そういう親たちだった。  私は自活の道を考えなくてはならないので、新聞の採用広告を見ては履歴書を送った。しかしいずれも梨の|礫《つぶて》だった。或る朝、編集記者募集・昭文閣書房という広告を見つけた。履歴書だけでは反応がないのに腹を立てていたので、巻紙に毛筆の手紙を添えた。乱暴な宇で、小生は仕事にかけては人後に落ちない自信があると言うようなことを書きまくって、ポストに叩きこんだ。すると翌々日、いきなり速達がきた。何か書いたものがあったら持って来いという文面であった。  私は小説の原稿を持って出かけた。昭文閣書房は虎ノ門の近く、琴平神社の裏通りのような街の中で、小さな二階建ての木造家屋に、大きな看板が出ていた。隣は提灯屋で、肥ったおやじが雨傘の油紙を貼っていた。  二階の事務室で私は社長という人に会った。原稿をさし出すと、これは何ですか、と言う。小説です。ほう、小説を書くですか、というやりとりが有って、地方なまりのある口調で、 「あんたにね、来て貰おうと思っとるですわ。あんたの手紙を見ましたがね、一字のまちがいも無いし、字は巧いでね。どうですか、明日から来んですか。まあ、少し仕事をして見んと、お互いに解らんでね。一日二円ということで、しばらくやって見んですか。それで両方が良しということになったら、はっきりきめようじゃないですか」と、せっかちな言い方をした。  これは私としても最も好都合な話であったから、即座に承諾して、翌朝から出勤することにした。仕事は国民時論という実業雑誌の編集記者の仕事だった。この社長が竹内文平という人物で、言葉のなまりは名古屋地方のものだった。   私はこの社長の下で、社員として約三年、社外社員として更に三年ばかりも仕事をした。私が学校を中退してから芥川賞をいただいて、何とか作家の暮しができるようになるまでの六七年を、生き馬の眼をぬく東京の中で、ともかくも食いつないで行かれたのは、この竹内氏に負うところまことに多大であった。奇縁というか何というか、二人の縁をつないだのは新聞の三行広告ひとつであった。更に、私の手紙のなかに誤字が一つも無かったという、相手の予期せざる選択にひっかかった為であった。人間の運命というものは、どこが分岐点であるか解らない。何年も経ってからふりかえってみて、あの時のあれが分岐点であったと、冷汗をかくような思いをするのだ。  翌朝出勤すると、社長は原稿を書けと言う。内容の要点は社長の話を聞いてメモを取った。何枚に書きましょうかと問うと、何枚でもいいと言う。枚数をきめてくれと言うと、十二枚に書けと言った。私はきっちり十二枚の最後の行まで書いてさし出した。社長はおどろいて、もう書いたですかと言う。原稿を早く書くことにかけては自信があった。それからざっと読んで、こりゃ面白い、ええですなあ、どうですか、明日から正式に社員にならんですか。月給は先ず四十円ということにして、様子を見てからまた上げるでね、と言った。  私はとにかく定職がほしかったから、その場で承諾した。すると社長は喜んで、では今日の分……と言って五十銭銀貨を四枚よこした。  翌日から私は正式に社員になり、社長から与えられる資料にしたがって原稿を書きなぐった。国民時論は実業界、殊に電気業界に喰い込んだ雑誌であった。多くは東邦電力の松永安左ェ文の側に立って、東京電燈を敵にまわすという立場だった。私は縁もゆかりもない松永氏をほめ上げたり、相手側の悪口を書いたり、舞文曲筆した。しかし私はいささかも良心に咎めるところがなかった。つまり実業界などは他国のことであり、私とは終生無縁だと思っていた。  翌月から月給は五十円にあがり、翌々月は五十五円、次の月は六十円と、ほとんど毎月給料があがった。そして数カ月後には国民時論編集長ということになった。すこしまえなどは食うや食わずの貧書生であった私としては、身にあまる出世栄達であった。二十三歳八カ月頃のことである。  翌々年の三月、私はしばらくの暇をもらって移民船に便乗し、ブラジルへ行ったが、その間にも旅先から雑誌に通信を送っていた。社長は私の出発に当って、かねが要るだろうからと言って、一時退社の名目にして退職金をくれたりして、援助してくれた。  そういう恩義があったので、昭和十年に芥川賞をもらった時には、記念の贈りものをもって竹内氏を訪問したりした。氏のいろいろな援護がなかったら、私の文学修業は六七年も続けられたかどうか解らない。私は勤めから帰ると深夜まで勉強していたので、ほとんど毎朝のように出勤時間に遅れた。社長は何カ月か月給を削ったが、やがて、 「君は勉強をしとるで、他の人と違うで、朝三十分の遅刻だけはええことにしますでな。それ以上は遅れんように気をつけてもらうでな」と言った。まことに有難い配慮であったが、それでも私は遅れた。  昭和十三年であったか、当時の中外商業新報、いまの日経新聞にはじめて新聞小説を書くことになって、私は竹内氏を竹下閑平という名前でモデルに使わせてもらった。学歴も何もない、いわゆる立身出世型の人で、当時は電力会社の顧問、間組の顧問をしながら、自分で光学ガラスの会社の社長になっていたが、艶聞の絶えない、面白い人物だった。この小説が「人生画帳」である。  モデルにされた竹内氏は相当迷惑されたらしく、女子大学へ行っていた氏の長女が、恥かしくて学校へ行かれないと歎いた由であった。私は恩を仇で返したようなことになって、甚だ申訳なかったが、中断する訳にも行かず、終ってから一夕築地に招待してお詫びを申上げた。場所は田川という料亭で、当時そこの女将は小唄勝太郎であった。  田川にはどういう訳か、その頃ときどき行っていた。行けば勝太郎さんが一度は必ず挨拶に顔を出した。女将として挨拶に出てきた勝太郎さんに、歌を聞かせてくれというのは失礼に当るので、 「ちょっと僕が歌うから、聞いてちょうだいよ」と念を押しておいて、へたくそな一節を歌って見せると、そこが悪いここが悪いと言いながら、結局向うも歌ってしまう。そういう策略を用いて、よく彼女の歌を聞いたものだった。  丹羽文雄と連れ立って行ったこともある。あとで丹羽が、「石川というやつは図々しいやつだ。勝太郎に歌を教えるんだからな」と言って笑っていたが、それは私がどこか地方で覚えて来た民謡を、彼女が知らないと言うから歌ってみせたような訳であった。  勝太郎について感心したことが一つある。  或るとき田川の酒席で佐渡おけさの話が出た。すると彼女がこういうことを言った。  私がおけさを歌いますと、あちこちの人から手紙が来て、お前のおけさは違うという文句を聞かされました。おけさは佐渡の町々でみんな違うし、新潟でも町によってみな違います。二十種類もそれ以上も歌い方がある訳です。私はそれを全部勉強してから、自分のおけさを作ったわけです。 「ですから、どこの町の人からどんな文句を言われても、私はちっとも|怕《こわ》くはないんですよ。その人たちは自分の町のおけさだけしか御存じないんです」  さすがに、全国に流行したほどの勝太郎おけさは、一朝一夕にして出来たものではなかったのだ。どんな仕事でもその道によって、みんな人知れぬ苦労をしているのだと、思い知らされたものであった。 [#改ページ]         9  ブラジルへ行ってみようと思い立ったのは昭和四年の六月ごろだった。まるで見当もつかない旅であったから、あれこれと実状をしらべているうちに、米良さんという人物を知った。|苗字《みようじ》だけで、名は忘れてしまった。  米良さんはブラジルに理想の農村を造ろうと夢みていた人である。武者小路氏の新しき村を真似たようなものであったかも知れない。彼は日本国内で同志を集め、実行計画を練りながら、先ずさきに弟をブラジルへ行かせることにした。  弟の名は米良功。彼は兄と志を同じゅうしていたと見えて、移民となるために二十二歳ぐらいで結婚し、妻の弟という人物と三人で移民の群にはいった。そしてサン・パウロ州サンタ・ローザ駅から四里ぐらい行ったところのサント・アントニオ農場にはいった。そこでブラジル農業の実状を学びながら、兄の計画の実現を考えていた。その理想の村はまだ影も形もなかったが、名前だけは(希望の村)と名づけられていた。  昭和五年の三月、私は米良兄から弟への紹介状をもらってブラジルへ出発した。五月にサン・パウロに着くと約一昼夜の汽車の旅でサンタ・ローザ駅につき、長い道を歩いて、夜になってから米良功氏の家に辿りついた。家というよりは農民小舎で、まわりは煉瓦を使ったりしていたが、中はみな土間に小机と手製の椅子を置いただけの生活だった。  私は米良功氏の家に一カ月居候をした。その間、珈琲園の手入れや新しい農地の開墾などを手伝った。米良氏のところには生れて数カ月の小さい子供がいた。馴れない百姓仕事も若いうちの事とてあまり辛くはなかったが、一カ月の労働ののちに米良氏と二人でサン・パウロ市に出るとき、夜汽車の中で風邪をひいた。するとやがて発熱し、胸のあたりが痛んだ。私はマラリヤにやられたと思ったが、実は急な労働ののちに、風邪をひいて肋間神経痛をおこしたのだった。爾来私は終生神経痛持ちになった。それが私のブラジル土産だった。  希望の村は全く望みがないという訳ではなかった。サン・パウロ州政府の農林大臣みたいな職にあった農学博士カルバーリヨ・バルボーザ氏は日本人びいきで、米良氏の希望の村に同情的であった。そして土地を提供するという話もあった。私は米良氏とつれ立って氏の事務所を訪ね、写真にサインをしてもらい、また日本の農民に送るメッセージをもらって、竹内氏の国民時論社に送った。  米良功氏は濶達な好青年で、ブラジル人にも信用があり、前途に期待が持たれたが、その後東京の兄が肺患で歿し、内地に足がかりを失うとともに、何分にも資金ゼロであったから、希望の村は遂に空想の村に終ってしまった。私の旅行から三十五六年の年月を経て、いまは在住日本人も大いに発展し、自家用飛行機を持つ農場主さえも有ると聞いたが、最近のたよりによると、米良氏は今もやはり貧乏しているらしい様子だった。あのとき生後数カ月であった女の子は結婚して孫もあるというのに、六十を過ぎて、事は志のようには行かなかったらしい。私の「蒼氓」の末尾の方に出て来るブラジル農民の生活の描写は、米良氏の家庭の周囲から沢山の資料を得たものである。その意味でいろいろな恩義はあるのだが、恩返しの機会もない。米良氏は本がほしいというので、ときおり本を送って上げる程度のことである。  帰国のためにサントスの港から大阪商船のリオ・デ・ジャネイロ丸に乗ったのが昭和五年の六月末。横浜着は八月三十日。まる二カ月の長い航海であった。アマゾン河口のベレンに寄り、メキシコ湾を通ってミシシッピを溯り、ニュー・オルリンズに数日、テキサスのヒューストンに一泊、パナマを通ってロス・アンゼルスに二泊。それから北太平洋を横切る旅であった。  この船の客は往路と違って移民集団はないので、誠に気楽だった。しかも衣食住の心配がないのでひどく退屈でもあった。そこで友達がたくさん出来た。  ブラジル帰りの千田君という気軽な青年がいた。アルゼンチン帰りの清水さんという豊満な娘さんがいた。千田君と私は同室で、清水さんは隣室であった。身寄りの少ない人で、アルゼンチンの伯父夫婦の所にわざわざ身を寄せたのに、伯父たちが何かの事故で急死したために、已むなくまた日本へ帰るという女性であった。  千田君は清水さんの部屋に入りびたっていた。だからきっと彼等は日本に着いたら結婚するだろうと私たちは見ていた。千田君は若いカメラマンで、ブラジルで撮った映画を日本で売り込み、それを資金にして一旗あげようと計画していた。  しかし日本は彼が考えたほど甘い時代ではなくて、彼の計画はうまく行かなかった。私がその次に会ったのは約一年後で、千田君と清水さんとは中野鍋屋横丁の靴屋の二階に下宿していた。  結局のところ彼等にとって、日本は住みにくい所であったらしい。彼等はもう一度移民船に乗ってブラジルへ行ったらしかった。二度目に日本を出るときは、むしろ日本と永久に縁を切るようなつもりであっただろう。私はその時期までの彼等の関係をモデルにして、短篇小説「流離」を書いた。昭和十三年ごろのことである。これは当時の私としてはわりあいに気に入った作品であった。  しかし彼等はまた帰って来た。結局日本にもブラジルにも安住できない中途半端な人間になっていたのであろうか。彼等の求める自由の天地はどこにも無かったのだ。  そのうちに彼等は別居することになった。貧しさが家庭をこわしたのであろう。清水さんの郷里は広島であった。昭和二十年夏、彼女は広島で原爆に逢った。そしてその後の数年間を原爆症で苦しんだようであった。千田君はいろいろ手を尽したものらしかったが、結局彼女は二度と妻の座にもどれるようにはならなかった。数年後に清水さんは死んだらしい。  終戦後の千田君は新しい妻を得て、一時好景気だった。田園調布の方に家をもち、車をもって、ブラジルから珈琲を輸入したりして、なかなか颯爽としていた。それから西銀座の並木通りのあたりに酒場アヴェニーダを経営していた。アヴェニーダはブラジル語で、フランス語のアヴェニューに当る。彼はしきりに私を誘ったが、あまり御馳走になるのも気が引けたので、私は一二度しか行っていない。それからもう一軒アンドロメダというスタンド・バーも経営して、その方は愛人にやらせていたが、愛人と本妻とのあいだにもんちゃくが起きたりして、悩んでいたようであった。  その後、どういう都合であったか、彼の酒場はみな人手にわたった。それから、多分その資金で、彼は新しい実業をはじめた。ローザ化粧品株式会社である。その事業をはじめてから、もう七八年、十年くらいになるだろうか。今年の正月の年賀状には(ローザ特殊化粧料株式会社、基礎美容研究所)とあって、千代田区九段に事務所を持っているらしい。ひところは日本とブラジルの間を彷徨していた彼も、ようやく日本の土に根を生やしたようである。  社交ダンスというものを、最初に私に教えてくれたのは、この千田君であった。場所はブラジルから帰る船の上、メキシコ湾のあたりだった。  サン・パウロの街に私は一カ月滞在し、上地ペンソンという日本人経営の下宿屋兼旅館にとまっていた。夕方になると勤めの青年や観光の人たちがぞろぞろと帰って来て、賑やかな食事になる。日本を離れている日本人たちの人なつかしさから、案外|和《なご》やかな良い集りであった。  或る夕方、邦字新聞の記者を相手に、私はへぼ碁を打ちながら、食事の支度のできるのを待っていた。するとそこへ、一見して農場から出て来たと思われる三十五六ぐらいの、やや小柄な男がはいって来た。それを見ると私の相手の新聞記者は小さな声で(もうよそう……)と言いながら、打ちかけの碁石を崩しはじめた。私は変に思って、どうしたんだと訊いた。相手は更に小声で、 「いま来た人、岩本六段だ」  と言った。  いまの日本棋院の長老岩本薫九段は、若い頃、もう六段になっていたのに、突然棋界を退いてブラジルに渡った。そして珈琲園や果樹園で何年か苦労をしてから、要するに志を得ずして帰国し、再び棋院にもどった。そういう経歴をもつ人である。私が会ったのは|恰《あたか》もその苦労の最中の岩本六段の姿であったらしい。  その新聞記者は或るとき私にむかって、上地ペンソンの炊事をしている小母さんは、谷崎潤一郎の妹だよと言った。 「本当だよ。日本からは亭主といっしょに来たんだが、こっちで別れて、今はペンキ屋の女房で、このペンソンの飯焚きをしているんだ」  そんな風な日本人の小母さんが台所で働いていることを知っていたが、潤一郎の妹という話を私は信じなかった。当代一流の作家の妹が、何もブラジル三界で炊事婦をすることはない筈だと思っていた。  それから二三年後、私が|嘗《かつ》て教えを受けた早大教授谷崎精二先生にお会いしたとき、実は私はサン・パウロでこれこれの噂を聞きましたが……と言ってみた。すると先生は、 「君、会いましたか」と言った。 「ええ、ただ、見かけただけです」 「そうですか。会いましたか……いや、どうもね、帰って来いと言ってかねを送ったこともあるんだが、女はやはり男次第でねえ」  と先生は憮然として言った。  やはり本当であったのだ。同じ親から産れた同じ兄弟姉妹でも、人生の幾山河を越えて行くあいだに、まるで似ても似つかぬ境遇になってしまうこともあるのだと、改めて思い知らされた。  それからもう一つ、関連した思い出がある。  昭和三十二年か三年のことであるが、日本教職員組合の教育研究大会が和歌山市でひらかれた。たしかその時だったと思う。私は傍聴するために和歌山へ行き、新和歌の浦のBという大きな旅館にとまっていた。客室はみな海に臨んで、海の方から見ると五階か六階建てになって見える。大会は四日ぐらい続いた。  或る午後、私は旅館を出ようとして玄関で車を待っていた。するとそのとき部屋付きの中年の女中がそっと私にささやいた。 「先生、そこの玄関に年寄りの下足番が居りますでしょう。……あの人、谷崎潤一郎の弟ですって。本当でしょうか」  私はふりかえって見た。そして愕然となった。谷崎潤一郎はかなり肥って、丸い顔で、背丈は高いという程ではない。その玄関にいた下足番の老人は痩せて背丈が高くて、すこし猫背だった。潤一郎とは躰つきがまるで違っている。しかし谷崎精二先生がふらりとそこに現われたかと思うほど、寸分違わないくらい似ているのだった。  けれども私は、この老人のためにも、谷崎潤一郎氏や精二先生のためにも、証言めいたことは言いたくなかった。 「さあ、どうだかな。人はいろんなことを言うからね。どうだか解らないよ」  私はそんな風に言葉を濁してしまったが、気味がわるいほど精二先生に似ていたその人の俤だけは覚えている。そしてブラジルのペンソンに居た本当の妹のことまで思いあわせ、この人も本当の弟かも知れないという気がした。しかし今日に至るまで、彼が本当の弟であったかどうかを確かめてはいない。谷崎氏は東京の下町の人。その兄弟が何で和歌の浦まで行かねばならなかったのか。そういう筋道も私にはわからないままである。 [#改ページ]         10  一九三〇年春、もともと何の用もないのに私がブラジル三界まで半年の旅に出たり、それが貴重な体験となって小説「蒼氓」を書き、それが一九三五年になって芥川賞にえらばれ、図らずも文筆業の道にはいれるようになった、そのそもそもの原因を辿って行くと、米増覚という人物がそこに出てくる。  もともとこの人は上海の東亜同文書院で私の兄の同級生だった。たしか九州鹿児島あたりが郷里である。非常に癇癖の強い人物で、学校を終ってから一年志願で入隊したが、兵舎のなかで何かの理由で腹を立て、銃をふり上げて下士官に打ってかかった。相手が逃げたので銃は机を叩き、銃床がこわれた。上官抵抗、銃器破損の罪によって重営倉に入れられ、一年志願をとり消されて、更に二年の現役をやらされた。それから郷里の美人と結婚して東京にとび出し、私の兄の家の裏の方に住んでいた。  職業は海外興業会社社員。そこの社長は井上雅二という人で、社長の夫人は日本女子大学校(現在の日本女子大学)の校長井上秀子女史であった。海外興業は当時のブラジル移民を一手に引きうけていた会社で、その頃は一年間に一万五千人ぐらいの移民を送っていた。昭和四年の夏ごろ、米増氏が来年の春に移民一千人の監督としてブラジルに渡るという話を聞いたのが、そもそもの始めだった。私は彼に頼みこんで、移民の群の中に入れてもらう手続きをしてもらった。  そんな関係で往路一カ月半のあいだ、私も移民監督の手伝いをしながら航海をした。そして帰りの船も一緒だった。仕事の手伝いもしたが、多くの便宜も与えてもらった。喧嘩早い人で、往きの船の中でも移民の一人と大喧嘩をやりそうになり、私が止めに入って事なきを得たような話もあった。  高等文官試験を受けて弁護士になると言って、猛勉強をしていたが、夫人と旨く行かず、離婚しようとしたがそれも思うようにならず、遂に勉強を中途で投げ出してしまった。それから何かの事で社長井上雅二と喧嘩をして会社をとび出し、妻子を連れて満洲国へわたった。  私はこの人に興味をもった。優れた才能はありながら、事ごとに失敗をくり返し、他人と調和して行くことができず、夫人ともその頃はうまく行かなかったらしいが、遂に満洲まで流れて行くという失意の姿が、胸に痛かった。芥川賞をもらってから間もなく、私はこの米増氏をモデルにして百枚ばかりの小説「飼い難き鷹」を書いた。この題名はセキスピヤの「オセロ」から取った。(もしわが妻が飼い難き鷹と知れなば、よしやわが心の糸の組み紐はその足を繋ぎ居ろうとも、口笛鳴らして風下に追い放ち、みずからその餌を|漁《あさ》らそうぞ……)掲載した雑誌はもう記憶にない。単行本は短篇集として、新英社から出版した。新英社というのは吉川英治氏が資金を出して、さきごろ病歿した氏の弟吉川晋氏にやらせていた出版社であった。晋という人は生涯兄貴に支えられて暮していたような人で、新英社も永続きはしなかった。 「飼い難き鷹」を発表してから、半年ぐらい後であったろうか。米増氏から私の兄に手紙が来て(君の弟がおれの事を小説に書いたそうだが、それを是非読みたい)と言って来た。その後に但し書きがついていて、(事情があって大至急読みたい。今月末以後ではもう読むことができなくなる……)という風な、謎のような文句が書いてあった。  私は兄から言われて、急いで本を送った。満洲に居るものと思っていたが、米増氏のその時の住所は北京か天津かであった。向うからは受取ったとも何とも言って来なかった。そして五カ月ぐらい後であったろうか、兄の話で、 「米増は何か放火事件みたいな事をやったらしいな」ということを聞いた。しかし具体的な事は何もわからなかった。ただ、あの癇癖はいつまで経っても治らないらしいと、氏のために惜しむ気持が強かった。  戦後は東京に帰っていたが、どんな職業についていたか、私は知らない。三十七八年頃であったろうか、突然黒枠のついた葉書が来て、米増氏の死去を知った。晩年は全く疎遠になっていたが、私は黒枠の葉書を見ながら、この人は生涯、自分を一般社会と調和させることができないで、暴れまわり、のた打ちまわっていたような人だったと思った。多くの場合、事件の原因は、無茶苦茶に強い氏の正義感であったらしかった。そういう性格が、どうして造られたものであるか、私には解らなかったが、それが彼自身の罪のように思われず、それだけに、しきりに痛ましい気がした。  私はもともと自分の私生活を、きちんと秩序立てて暮すことが好きで、それが時には窮屈に思われたり、それで損をしていることもあると思うが、早大を中退した後の半年あまりと、南米から帰国して後の一年半ぐらいと、二度にわたってバガボンドめいたでたらめな生活をした経験がある。そういう時期にはちゃんとそういう仲間が居て、その他の時期とは違う暮し方をしていた。同人雑誌をやっていた頃には、仲間と夜通し遊び呆けたりしても、夜が明けると一度は必ず下宿に帰って、とりあえず自分の机の前に坐ってみなければ、自分がとり戻せないような気がした。それを私は自分で(復原力)と呼んでいた。無責任な独身時代でも私にはそうした反省があって、何とか自分を崩さないで暮していられた。  南米から帰ったのち、しばらくして私は社交ダンスを覚え、それに入りびたった。南米へ行ったことも若気の至りなら、社交ダンスなどに入りびたったのも、バガボンドめいた生活をしたのも、若気の至りだった。そして若気の至りというものは、若い時にしかできないことで、若い時に一度はやって見た方がいいと、今でも私は思っている。失敗もあり後悔もあるが、それはそれなりに貴重な体験であり、一度は経過すべきハシカのようなものだ。  ダンスホールに入りびたっていた時期、私は或るひとりのダンサーを知った。その女の名をどうしても思い出せないので、仮にA子として置く。ひと通りの美人であったが、それよりも何よりも、照り輝くような美しいミルク色の肌をしていた。あれ程に美しい肌を持った女を私は他に知らない。私はずいぶん心惹かれていたし、A子も私に好意を見せた。あるいは好意以上のものを見せていた。私が積極的に出れば、ほとんど事はきまっていた。  しかし私は行動的になれなかった。それは私がまだ志を得ない貧乏文学青年であって、女に対して責任がもてなかったということも一つ。またそれとは別に、A子の挙動や言葉つきに私は一種の(崩れ)を見つけていた。それが何から来たものであるかは解らないが、まじめな意味で女房にする女だとは思ってなかった。二人で食事をしたこともあり、街を歩いたこともある。しかし遂に私はそこから踏み出していけなかった。  そのとき若い舞踊家の中山義夫が私たちの前に現われた。彼はあたりには眼もくれずにA子に近づき、A子はすぐに彼の誘いに応じた。すぐに誘いに応じた彼女の態度が、すなわち私の感じていた(崩れ)そのものであった。私は惜しかったけれども、中山と争う気はなかった。単に女としてだけの評価から言えば、あんな魅力のふかい女はなかったように思う。  A子は中山の誘いに応じたあとで、弁解がましく私に言った。(だってあなたは、卑怯よ。)私にはその意味がよく解った。女の側から見れば卑怯に見えたに違いない。あるいは彼女は私から軽蔑され、侮辱されたと感じていたかも知れない。  ちょうど五・一五事件があり、次いで満洲国建国があった頃だった。私は先の見えない文学青年の生活に疲れており、経済的にも行き詰っていた。中山があるとき、(俺のうちへ来いよ。部屋はあるんだ)と言ったのに誘われて、中野鍋屋横丁にちかい彼の家へ転居して行った。行って見ると家とは名ばかりで空家同然、家具は一つも無いような生活だった。そして沖村俊佑という中山の弟子兼食客のような居候がいた。少しばかり|やくざ《ヽヽヽ》者で、声学と舞踊をやり、かつてはエリアナ・パブロワの弟子で、またかつてはやくざ仲間の斬り込みに加担して、日本刀で頭をやられたこともあるという青年であったが、性格はいかにも美しくやさしい男だった。  中山自身は旅に出ることが多くて、ほとんど家には寄りつかない。私は沖村と二人暮しだった。どうかすると素姓不明の青年が来て三人になったりする。私は二階の六畳で、それでも原稿を書いていた。家賃は払わず、米もみそも無くなり、瓦斯を止められ電燈をとめられ、夜は蝋燭で暮した。蝋燭もなくなると、切られた電線をつないで盗電もやった。  そんな所へ中山はA子を連れて来た。連れて来たのは中山の事でA子が勤め先で拙くなった為らしかった。そうして私と沖村とA子との三人暮しが始まった。中山は一カ月のうちの二三日しか居ないで、あとはA子を放ったらかして旅から旅であった。A子は中山に対する不満をしばしば私に訴えた。私に救いを求めていたのだ。しかし私は三角関係などというものは本質的に嫌いだった。そしてA子の崩れがますます眼についていた。同じ屋根の下に起居して居ながら、私は遂に踏み出して行けなかった。  新しい満洲国の新京かどこかに、新しく大きなダンスホールができて、日本から何十人かのダンサーを連れて行くという話があったとき、A子は旅先の中山に無断で応募した。彼女は中山の手から逃れ、私からも遠ざかりたかった。つまり日本に居ては収拾がつかなくなったらしかった。彼女は(舞踊使節)という華やかな名で、多数の見送りを受けて、東京駅を出発した。そのあとで沖村は私に、A子には子供があって、誰かにあずけてあるのだという話をした。私はその話で、少しわかったような気がした。  私はその頃エミール・ゾラを読んで、あのルゴン家の壮大な構図と、彼の小説の方法とに強い関心をもっていた。私はゾラの手法にならってA子の一種不思議な崩れ方を、その出生にまで|溯《さかのぼ》って見たいと思った。そしてゾラ的な構図を組み立てて、数年後に私としては最大の長篇「心猿」を書いた。これは昭和十年の六月号から同人雑誌「星座」に二年がかりぐらいで連載した。最初の百枚ばかりは第一回芥川賞の銓衡に当って、「蒼氓」とともに参考資料として、審査委員からかなり高い評価を受けることができたようであった。  それ以後、A子には一度も会っていない。中山はA子の後を追うようにして渡満し、かなり永いあいだ夫婦生活をしたらしかった。私は中山にはほんのときたま、それも偶然に、駅のフォームでぶつかったりしたことがあった。彼の口ぶりから察すると、二人はまた別れたらしく、敗戦後のA子はどうなったかはっきりしないが、帰国してから病歿したようである。  中山義夫の活躍ぶりは畑違いの私には解らないが、舞踊の振り付けなどをやって、その道では相当に顔が売れているらしい。仕事の上ではともかくも、生活の上では本当のバガボンドで、どこにも根を生やさない浮草のような男だった。しかも善良で純情で、なりふり構わず女に惚れて行くような率直さがあった。結局A子は私のような慎重な男とも生活し得ず、中山のような超バガボンドとも生活できない、中途半端な崩れ方をしていたのであったろうと思う。  中野の中山の家をはなれてから、沖村俊佑には一度も会っていない。二三度彼から年賀状をもらったが、それによると戦後、下町の方で、何か化粧品の会社をつくっていたらしい。彼と化粧品とはどうも結びつかない気がした。しかしこの二三年、その年賀状も来なくなった。酒を飲むとき、いかにも楽しそうな表情をする、気さくな良い男であった。 [#改ページ]         11  八木久雄という文学青年の仲間がいた。中山義秀が連れて来て、私たちの同人雑誌「新早稲田文学」の同人になった。「花のある半襟」などという甘い小説を書いては、私たち口の悪い仲間に軽蔑されていたが、無類のお人好しで、郷里からの送金で、何もせずに安定した下宿暮しをしていた。新国劇が大好きで、私は彼に連れられて(白野弁十郎)を見たこともある。  やがて彼は自分の純文学に見切りをつけて、大衆小説を書くつもりになり、平安朝時代の泥棒小説を書いたと言って、得意になって見せてくれたこともあった。そんな事からやはり当時売れない文学青年であった大林清とつきあったりしていた。高田馬場の近くで、私の居た下宿のすぐ近所に住んでいたから、ほとんど毎日顔をあわせ、銭湯も晩飯も一緒のことが多かった。  彼の郷里は静岡県で、私たち数人で彼の田舎へ遊びに行ったことがある。静岡の町はずれの安倍川の岸で|あべかわ《ヽヽヽヽ》餅をたべてから、バスに乗って(駿河なる宇津の山辺)を越えて行くと、右手に文福茶釜の物語の出所だという寺があり、寺の東に吐月峰という山があって、寺が竹藪の竹を切って内職にこしらえた(灰吹き)に吐月峰という焼印を入れたことから、吐月峰と書いてハイフキと読ませるのだと聞いた。   宇津谷峠を越えると岡部の町。その町から川ひとつわたると志太郡の仮宿という部落になる。八木の家は仮宿の地主で、古い立派な家だった。昭和十一年頃から彼は文学修業をあきらめて郷里へ帰っていたようであった。  十二年八月、日華事変がはじまって直ぐに、彼は悲痛な葉書一枚をよこしたきりで応召した。その次の軍事郵便は上海からであった。(腰までクリークの水につかったままで半日の戦闘。今夕、つかまえてきた捕虜を小隊長が斬った。しかし快哉を叫ぶ気にはなれない。上海の空赤く燃えてやまず……)私は彼の葉書の文章が、文学青年時代の甘さの片鱗をも残していないのにおどろいた。  二枚目の軍事郵便は蘇州川の激戦場からであった。そして三枚目は(腰に数個の弾片を受けて身動きもならず、もう一昼夜も塹壕の中に寝ている。微熱あり……)  その頃の戦争に関する新聞の報道記事は、ただ勇ましく、美談佳話にみちていて、むしろスポーツ記事のようでさえあった。私はただ八木久雄から来るときおりの軍事郵便によって、本当に生々しい戦場を感じていた。そして戦争の実態をどうしても見て置かなくてはならないという気持をそそられた。  それがその年の末になって、中央公論社から従軍をすすめられたとき、私がとびつくようにして南京まで出かけて行った最初のきっかけであった。その揚句に「生きてゐる兵隊」を書いて禁固四カ月という刑罰を受けるに至った最初の動機でもあった。  やがて八木は後送され、沼津あたりの軍の病院にはいり、そして除隊になった。私は戦争の末期に彼の田舎の方へ疎開しようかと考え、長い手紙を書いて便宜をはかってくれるように頼んでみたが、彼からは風の便りもなかった。  戦後、彼は結核にかかり、永い病院生活ののちに、(遂に細菌は|鼠蹊腺《そけいせん》にまで達した。もはやこれまでと諦めるより他はない)という意味の、告別の辞に似た鉛筆書きの葉書をよこした。やがて死亡通知が来るものと私は予期せざるを得なかったが、人間は結核では死ななくなった。彼は全快し、写真関係の仕事をはじめ、子供たちを大学にやったりして、もう還暦を越えている。昔から一癖ある男で、風邪をひくと下宿の部屋の火鉢で、冷え症の女性のための実母散という薬を煎じて飲んでいた。私も面白がって一緒に飲んだことがある。  千葉数夫というペンネームの文学青年がいた。或る時期私とおなじ同人雑誌の仲間でもあった。ひとひねり|捻《ひね》ったような男で、ひとひねり捻ったような綺麗な小説を書いていた。産れは千葉県大網から少しはいった福岡村依古島の中農の長男で、農家の跡を継ぐべき者がどう間違ってか作家を志し、駿河台の西村伊作がやっていた文化学院の学生になった。  そのころ文化学院には作家十一谷義三郎氏が先生になっていた。或るとき千葉数夫は教室で十一谷氏と言い争い、かなりしつこく喰い下ったものらしく、先生は腹を立てて、(君みたいなやつはこんな学校へ来ることはない、やめてしまえ)と言った。千葉は自分で退学届を出しておいて、(先生が言った通り学校をやめましたが、これから後はどうしたらいいんですか)と言った。十一谷氏は困って、(では僕のうちに、ときどき来給え)と答えた。  そういう次第で彼は十一谷義三郎の弟子になり、ときどき作品を持って行って指導を受けていた。十一谷さんという人は病弱で、若く亡くなったために、作家生活も短く、今では彼の名を知る人も少ないが、当時は「唐人お吉」「時の敗者」を書いたあとで文名|嘖々《さくさく》たる中堅の作家であった。  私は或る年の夏、千葉数夫と、前に書いた秋山正香とに連れられて、逗子桜山の十一谷さんの家を訪ねたことがある。当時私はまだ同人雑誌をやっている頃で、先方は私のことなど知る筈もなかったが、そういう氏素姓のわからない来客には馴れているらしく、一向気にしないで、客が何人居ても|こみ《ヽヽ》で扱うような気楽な応対をされた。ほかにも二三人来客があったようで、彼等を勝手にしゃべらせて置いて、御自分は別室で原稿を書くという風なやり方であったらしい。  十一谷さんはその頃、金春流の謡曲に凝っていた。私もずっと前に友達にさそわれて、金春流の稽古本を五六冊習ったことがあった。  ちょうど私が訪問した日は、十一谷さんの稽古日に当っていて、東京からわざわざ先生が稽古に来てくれた。それで私なども末席に加えてもらって稽古をした。その先生というのが桜間道雄氏で、当時はまだ新進であったが、戦後には金春流を背負って立った程の人であった。先生が独りでひとくさり謡い、弟子が六七人でそれをくり返す。ところが弟子の合唱はひよわく聞えるのに、桜間道雄はひとりで謡っても、うしろの障子の紙がびりびりと慄えた。  その夜は数人車座で酒を飲んだが、その席に十一谷さんは顔を出さなかった。私たちは別室に蚊帳を釣ってもらって泊りこみ、翌日の朝辞去したが、その時にも十一谷さんはまだ寝ていたように思う。結局私と十一谷さんとの御縁はそれっきりだった。多分先方は私のことなど記憶の片隅にも無かったことだろうと思う。  千葉数夫はそれから父の後を継いで農家を経営しながら、戦中戦後にかけてずいぶん苦労をした。五十過ぎるまでは時おり思い出したように小説を書いていたが、生活事情もあって続けて行かれなかった。途中から私と縁つづきになったので、一家の事情は解っていたし、彼の悲願もわかっていたが、結局同人雑誌の古顔ということで終った。いまではもう息子が一家の働き手になり、いくらか心の閑も出来たらしいが、改めて原稿を書こうと言っても、歯車が錆びついて廻らなくなっているのではないかと思う。  昭和十六年の春、私がはじめて自分の家を建てた時、彼は近処から庭木を集めてトラック一台分送る手配をしてくれた。その木は二十五年を経て大きくなり、今も私の家の庭に蔭を造っている。その木の成長を見、それが季節季節の花をつけるたびに、千葉数夫を思い出す。  一昨年、同じ千葉県に住んでいた私の弟が病死した時には、ずいぶん彼に世話をかけた。二人とも明治三十九年うまれの|丙午《ひのえうま》である。 [#改ページ]         12  私の友達のなかでも矢崎弾は一種独特な風格の男だった。三田出身の若い評論家。新宿の紀伊国屋書店の田辺茂一が出していた雑誌「行動」に評論を書いたりしていた。私たちの同人雑誌「星座」は矢崎が中心になって編集し、事務的なことは中村梧一郎がやっていた。  奇骨稜々、何ものにも屈しないような我の強さをもちながら、一方では破目をはずしたバガボンドであり、放蕩無頼であり、元来ならば私はそういう男とは友達にならないたちであったが、どういう訳か矢崎とは交遊が続いた。彼は我が強いくせに他人の我の強さをもゆるすところがあったらしい。私は彼と弁舌を闘わしながら、意気投合したことはほとんど一度もない。しかし彼の嘲笑的な議論を聞いていることが面白かった。彼は文学を、あるいは文壇というものを、いつも裏から見ているようなところがあった。そういう風な評論集が二三冊は出版されている筈だ。私の書いたものについても、正面からほめてくれたことは一度もない。いつも小説を裏から眺めていた。あるいは人生そのものをも裏から見ていたかも知れない。  彼は相当の大酒家で、私もその頃は彼に負けないほど強かったから、よく新宿の裏街をおそくまで飲み歩いた。それでも一晩の小遣が一人当り三円あれば足りた。矢崎は酔うと腕力を使いたくなる。しかし他人と争うことはしない。停車していた自動車の屋根の上に駈けあがり、運転手に文句を言われると、おとなしく何円かを支払ったりしていた。  彼はたしか佐渡ヶ島の出身で、夫人も同郷であったらしい。杉並区永福町に家があった。夫人の財産で建てたものだった。矢崎と夫人との関係は八百長芝居みたいだった。夫婦とは多かれ少なかれ八百長的であるに違いないが、彼等の場合はもっと深刻だった。矢崎の放蕩は夫人に対する八ツ当りのようでもあった。  或るとき玉ノ井の私娼街の女が矢崎の家を頼って逃げて来た。当時の言葉では(自由廃業)と言った。その女が矢崎を頼って来たということに、既に家庭的な問題がある。夫人は妙に客観的になって、唇をゆがめて笑っていた。矢崎は玉ノ井の暴力団に襲われるかも知れないと称して、ベッドの下に日本刀をかくしていた。私たち友人は、(変な夫婦だね)と言って感心していたが、十日ばかり経って夫人が自殺未遂をやった。矢崎はあわてて自由廃業の女をどこかへやってしまった。  そういう家庭内の紛糾があるときに、矢崎はもりもりと仕事をした。身辺の紛糾に負けまいとする抵抗力が、彼に仕事をさせたのかもしれない。私のような律義者には考えられないようなことだった。  その事件がおさまった後しばらくして、彼の家の若い女中が薬を飲んで、それがひどく巧く行ったと見えて、簡単に死んでしまった。原因は彼の家庭内の単純な三角関係であったらしい。夫人は(可哀そうに……)と言って、例のように唇をゆがめて笑った。女中の親を呼んで葬式を出した。そんなとき、矢崎は奔流のような勢いで原稿を書いていた。  彼の家へ行ってみると、まるで泥棒の家のようであった。酒の燗徳利に見覚えがあり、盃に見覚えがある。みな新宿あたりの飲屋でかっ払って来たものだった。便所にはいると白い陶器に(煙草の吸殻や紙屑などを投入しないで下さい)と書いたものが下げてあった。これも盗品である。書斎の片隅には道路工事中の場所に|灯《とも》して置く赤いガラスのはいった小さな角燈がおいてあった。道路工事の現場から盗んで来たものだった。私はそんなものよりも、山手線の電車の一番前に下げてある(山手)と書いたほうろう引きの板がほしかったが、遂に望みを達しなかった。  昭和十二年に日華事変がおこった。十三年のはじめごろ矢崎はひとりで上海へ行き、二カ月ぐらい滞在した。そして中国の若い作家たちと会った。つまり日中文化交流というようなことを考えて、その下工作をやっていたらしかった。  ところが帰国して間もなく彼は杉並警察につれて行かれ、そのまま半年も帰してもらえなかった。当時の警察はどんなことでもやれた。一つの警察に何十日留めて置いても平気だった。犯罪の容疑は何だかわからない。要するに上海で共産主義運動の工作をしたのではないか……という程度の疑いをもたれたのであろう。矢崎という男は刑事に好感をもたれるたちではなかった。刑事が意地わるをする気になれば、何カ月も留置場に入れておいて、公判にもかけないということができた。  私が武漢作戦に従軍するために、居住証明書か犯罪人ではないという証明書か、そんなようなものを貰いに、たまたま居住地の杉並署の刑事室に行ってみると、そこに矢崎がいた。皮肉な笑いを洩らして私の顔を見た。刑事がそばに居るので勝手な話はできない。何とも嫌な気持だった。  結局彼は半年も留置場にいて、釈放された。何のために捕まっていたのか、いま以てわからない。その間に彼は胸を患っていたようであった。雑誌がなくなって、私たちの交遊はかなり遠くなっていた。  戦争が終ったころから、彼は一種のノイローゼ的な症状に陥り、入院したようであったが、簡単には治らなかった。二十二年か二十三年ごろ、結局は胸部疾患で死んだ。永福町の家へ弔問に行ってみると、夫人がひとり祭壇の前に坐っていた。夫人も胸を患っていた。そして多分二三年後に、郷里の方で亡くなったようだった。  要するに矢崎は特高警察によって殺されたのだと私は思っている。警察の中で死んだのではなかったが、精神的にも肉体的にもすっかり駄目になってから釈放された。  特高警察には私も何度か御縁があった。私は矢崎ほど大きな被害は受けていない。いまから思えば特高というのはむしろ滑稽な存在であった。  中央公論に「生きてゐる兵隊」を書いて発禁処分を受けた直後、私は早朝に特高刑事の訪問を受け、そのまま警視庁へ連行され、夜まで取調べを受けた。その時の刑事は顔も名前も忘れてしまったが、 「お前は支那の戦場で見聞したことをそのまま書いたのか」  と言った。  私は、そのままではなくて小説的な再構成をしたものだということを答えると、 「それでは事実ではないのだね。事実でないことを事実であるが如くに書いたわけだね。……それは造言飛語であろう」と言った。  私は驚いて、小説とは事実をそのまま書くというものではない、事実でないことを事実らしく書くのは当然のことだと答えた。 「それは如何にもそうかも知れん。平素はそれでいいだろう。しかし今をいかなる時と思っているか。非常時だぞ」と彼は言った。そして、「小説を書くなら桜井忠温の|肉弾《ヽヽ》のようなものを書け」とまで言った。  つまり特高刑事が文化指導までやろうとしていた。恐るべき時代だった。二度目にやられたのは終戦直前の八月十二日頃で、まる二日間、警視庁と隣の情報局と両方を、行ったり来たりして取調べを受けた。もはや警視庁の中庭では米軍占領に備えて書類を燃やしていた。  その時の刑事もやはり朝はやく、二人連れで私の家へやって来た。そして連行の前に書斎を見せてくれと言ってあがり込んだ。結局手紙類や書籍などリュックサック一杯と大風呂敷一枚とに詰めて、背負って行ったのだが、その刑事が、まっ先に私の本棚から取り出した本は、スタンダールの「赤と黒」であった。  これはつくり話ではない。私は、彼がなぜスタンダールを取り出したのか、二三日のあいだ解らなかった。しかもその刑事が私を二日間に亘って(思想調査)してくれた。私ばかりではない。すこし骨のあるような作家評論家数人が、そのころ次から次へと、この男によって思想調査されていたのだった。恐ろしい、そして滑稽な時代であった。 [#改ページ]         13  山本実彦。改造社社長。綜合雑誌「改造」を刊行し文芸雑誌「文芸」を刊行し、日本文学全集を出していわゆる円本時代をつくった人。懸賞小説制度を創設して芹沢光治良氏その他多くの新人を文壇に送り出した。林芙美子氏があれだけの流行作家になったのは、山本氏の肩入れがあずかって力があったのではないかと思う。その意味では文化的にたくさんの功績をあげているが、本質的には文学のわかる人ではなかった。むしろまるきりの門外漢であり、出版事業家にすぎなかった。かえってなまじっか文学など解らなかったことによって、事業的には成功したのかも知れない。たしか鹿児島県人。(酒を飲んで……)というべきところを、(酒を|ば《ヽ》飲んで……)と言った。それが私には耳ざわりだった。衆議院議員、当選数回。戦後は協同党(?)党首になったこともあったが、氏が病歿するとともに改造社はがたがたに崩れてしまった。  戦争の末期、中央公論社とともに、左翼的乃至は自由主義的ということで、軍に睨まれて、綜合雑誌「改造」は廃刊させられてしまったが、山本氏自身は左翼でもなければ自由主義的でもない、まことに在り来りの政治家的な俗物にすぎなかった。  この人の性癖は、外国を旅行して、その国の一番えらい人、一番著名な人に会って来ることであった。そしてその事を機会あるごとに吹聴して歩いた。アインシュタインを日本に招いたのもたしか山本氏であった。そのことは氏の一生の誇りであった。 「アインシュタイン君がねぇ、日本に来たときにねえ……」と彼は言った。聞いている者にはアインシュタインと山本実彦とが同格同列に在るように思われる。それが彼の狙いであった。  十七年の二月末、私は海軍徴用報道班員となって、占領直後のシンガポールにいた。同盟通信の社員宿舎に宛てられた広壮な空き家にもぐり込み、ジャワ作戦の進行状況を毎日気にしていた。この家は英国人の銀行支店長がいた家で、風呂場が三つもあるような大きな邸だった。そこへどういう訳か、いきなり改造社長山本実彦がやって来た。軍の指示であったかどうかは知らないが、とにかく同じ家に寝泊りすることになったという話だった。何のためにこの人がシンガポールに来たのか、私も同盟記者も変に思っていた。  夕方になると私たちは広い二階のテラスに集って、涼風に吹かれながら洒を飲んだ。すると山本氏はスコッチウイスキイをとり出して、みんなで飲んでくれという。酒は大歓迎だった。しかしそれから後がいけなかった。彼は外国を旅行したときのことを得々として話しはじめる。「ヒトラー君が……」と言い、「ムッソリーニ君が……」と言う。あるいはまた「印度へ行ったとき私はガンジーを訪問しましてねえ……」と言う。私たちは嫌な気持になった。それから更に酒が廻って来ると彼は実に汚い言葉で猥談をした。  ある朝、軍の旗を立てた自動車がこの宿舎へやって来て、連絡将校が山本さんに会いたいと言った。私たちは山本氏をテラスに呼んだ。すると将校は、 「あなたが山本さんですね。あなたは寺内閣下に面会を申し込まれていますね」と言った。 「はい。申し込んでおります」  当時の軍司令官は寺内寿一大将であった。例によって山本氏はここで一番偉い人に面会を申し込んだのだった。将校はつづけて言った。 「それにつきまして寺内閣下からの御質問があります。宜しかったらお答え下さい」  そして箇条書きのような質問をならべた。「第一、あなたはどういう資格で当地へおいでになったか。第二、面会は単なる儀礼であるのか、それとも何か用件をおもちなのか。第三、用件とすればそれはどういう事であるか……」  すると山本氏は、シンガポールという戦場へ来た自分の資格を説明し、面会は儀礼であるというようなことを答えていた。私たちは傍に居て、何というみっともない人だろうと思った。出版社の社長が何もこんな無礼な質問をされてまで、寺内司令官を儀礼訪問することはあるまいと思っていた。しかし彼にして見れば内地へ帰ると直ぐに、(僕はシンガポールで寺内君に会いましてねえ……)という話ができる訳だった。  私は虚名の上に足場を築きたがる政治家というものの本性を見たような気がした。彼が寺内大将に会ったかどうか、私は知らない。二日ばかり後に彼は何も言わずに宿舎を出て、どこかへ行ってしまった。  シンガポールへ行くまえは、サイゴンに半月ばかり居た。私はサイゴンの海軍報道部の所属になっていた。私たち報道班員が飛行場に着いたとき、最初に出迎えてくれたのは白い防暑服を着た小肥りの色の白い海軍中尉松岡謙一郎であった。元外務大臣松岡洋右の長男である。大学から直ぐに海軍に廻って主計将校になっていた。  後に彼は帰国して大本営報道部勤務になった。私は千駄ヶ谷に近い彼の家へ遊びに行ったこともあるが、その家は倉ひとつを残して戦災で焼けてしまった。戦後はたしか毎日放送につとめていたが、その後教育放送にかわり、今は重役になっている筈である。暁星出身でフランス語がうまかったので、サイゴンでは渉外関係の仕事をやっていた。  メコン河に突き出した野天のカフェがあって、夜になると涼を求めて客があつまって来る。仏印は平和進駐であったから、フランス人もいるし印度人もいるし、華僑もいる。私は松岡君と何度かそこへビールを飲みに行った。日本人の間では(おしゃべり岬)と言われているフランス好みのカフェである。そこで私は近衛文麿と松岡洋右との対立の話を、ずいぶん彼から聞いた。近衛という人は他人を利用するだけ利用して、要らなくなると弊履の如くに棄て去る。(あんな冷酷な男はない、あれは華族の冷酷さだ)と松岡洋右は言っていたそうである。  サイゴンの街で私はおなじ徴用報道班の中山善三郎に会った。毎日新聞の記者で、おなじ秋田県人で、新宿あたりで何度か一緒に酒を飲んだことがあった。私は艦隊付きであったが彼は海軍航空隊付きであった。  太平洋戦争にそなえて、海軍はサイゴンに大急ぎで飛行場をつくった。この飛行場が完成しなくては、直接シンガポールを空襲して帰ることができなかったのだ。開戦前に海軍は一万メートルの高度で偵察飛行をおこない、シンガポール軍港の写真を何百枚も撮った。新聞二頁の大きさに拡大された写真には、開戦の直前に派遣されて来たばかりのプリンス・オブ・ウェールズとレパルスとが、セレタ軍港に碇泊している姿がはっきりと映っていた。言うまでもなく領空侵犯である。  開戦の直後、この二つの戦艦を撃沈したのは、九州の鹿屋からサイゴンへ進出して来た海軍機であった。中山善三郎はこの鹿屋航空隊付きになって、その当時の詳細の戦況を日本に送り、毎日新聞は一頁全面をつぶしてそれを報道したものだった。  私は一夜、中山に連れられて行って、鹿屋航空隊の将校連中といっしょに洒を飲んだ。二十人ばかりで急設の日本料理屋へあがりこんでの宴会だった。それは私がかつて見たこともない程に何とも乱暴で無礼な宴会だった。隊長は四十二三であったろうか。一番若い飛行将校はまだ二十一二の子供っぽい青年だった。しかしこの宴席では階級差別は皆無だった。若い少尉が隊長の頭の上に盃をのせて酒を注いだり、隊長の前の刺身を取って食ったりしていた。  その乱暴さも無礼さも、ともに命をかけて戦っている戦友のあいだだけで許されているものであろうと私は見ていた。明日の朝、出動命令があれば一斉に飛び立って行き、それっきり帰って来なくなる者もあるかも知れない。毎夜の盃が、そのたびごとに別れの盃なのだと思うと、私は胸が痛んだ。  その夜の将校たちの名は知らない。ただひとり鍋田大尉という名前だけを記憶している。背の高い、細身の、色の黒い、精悍な男だった。編隊の隊長をつとめるその道の達人でもあったらしい。彼はもつれる舌で、|あの《ヽヽ》日の戦争のことを私に話してくれた。 「……とにかく向うは火力が凄いですからね、接近して魚雷を落すでしょう、そこで旋回して逃げようとすると、敵に腹を見せることになる。やられるのはその時なんだ。ね、解りますか。だから、こっちは新しい戦法でね、これは世界中でまだやったことがない。……低空で魚雷を落す。そのまままっすぐに、敵艦の頭の上をすれすれに飛び越せ。その方が|たま《ヽヽ》は当らない筈だ。そう言って教えてあるんですよ。そこであの日もね、おれは編隊の先頭で、まっさきに飛びこんで、魚雷を落す。そのままマストすれすれに敵艦を飛び越して、あとの連中どうしたかな……それが心配でね。ふりかえって見ると、あいつも、こいつも、そこのその男もね、おれが教えた通りに、まっ直ぐに来るんですよ。みんな産れて始めての戦争なんだ。飛行時間だって何百時間もあるかないか。僕は嬉しくてね、有難う、よくやった……飛行機の上で泣きましたよ。  あの日は海の上に雲がかなり有って、索敵機を網のように五筋に分けて出してたんだが、なかなか見つからん。苦労しました。油が無くなりそうになってから、ようやく敵艦発見。それッという訳でね。……僕のその時の心境を言いましょうか。はじめてプリンス・オブ・ウェールズを見つけたとき……。(忽然と・夏雲の下・敵主力)俳句になっていますかねえ」  私が鍋田大尉に会ったのはこのときだけ、たった一回だった。戦況が不利になるにつれて飛行機の損傷も多く、従って操縦者の教育も間にあわなくなり、彼のような優秀な将校は転戦に転戦を続けて行ったに違いない。一年半ぐらい経ってからであったろうか、私は彼の戦死を知った。所詮はまぬがれることのできない運命であったのだ。詳細は何も知らないが、もしも縁あらば、彼の墓に一片の香華をささげて、(英霊)を弔いたいと思う。|英霊《ヽヽ》と呼ぶにふさわしいような男だった。  戦艦レパルスの捕虜が居るというので、新聞記者と一緒にインターヴュに行ったことがあった。彼はシンガポールの港内の小船の操縦をやらされていた。まだ三十前の水兵と四十五六の将校と二人居た。水兵の方はあの海戦のあいだじゅう、照準器を見つめて日本の飛行機ばかり覘ってポムポム機銃を撃っていたので、全体の戦況は知らなかったと言った。  私は将校の方にむかって、 「君は英国の将来をどう思うか」と問うてみた。あたかも英本国はドイツの激しい攻撃をうけて弱り切っていた時だった。だから私はむしろ悲観的な返答を期待していた。ところが彼は静かな口調で、こう言った。 「あなた方は日本の将来に大きな希望をもっていられるだろう。それと同様に私は英国の将来に大きな希望をもっています」  私は平手打ちを喰ったような気がした。そして英国人気質の一片にふれたような思いがした。もしも日本人が彼と同じような立場に立ち、おなじ質問をうけたとき、彼のように立派に答え得るかどうか。……もちろんそれは英国人的な頑張りの強さであって、内心は悲観的であったかも知れないが、敵国人を前にして、捕虜の立場に在りながら、すこしも悪びれず、いささかも己れを崩していない姿は立派だった。  私がサイゴンから第一南遣艦隊の旗艦鳥海に乗ってシンガポール軍港にはいったのは、陥落の日から五六日目。まだ軍港の大きな石油タンクが三つも燃えつづけていた。  この軍港の英国海軍司令部で使われていたマレー人にむかって、私たちが質問したことがある。プリンス・オブ・ウェールズが沈んだとき、この司令部の将校たちは何をしていたか、と。  マレー人は答えた。 「将校さんたちは将校室で、抱きあって泣いていました」  その答えを聞いた日本の新聞記者たちは、一様に沈黙した。  相擁して泣いた将校たちの心と、あの小船で働いていた捕虜の英国精神とが、別に矛盾するという訳のものではなかった。 [#改ページ]         14  太平洋戦争がはじまった直後、私は陸軍報道班員として徴用を受け、すぐ後に海軍の方にまわされた。そして十七年の正月に南方へ向けて出発した。  出発の直前、私は海軍報道部のK少佐に呼ばれた。 「君はサイゴンへ行ったら、あちらの報道部に石田中佐という人が居るから、その人に口頭で伝えてもらいたいことがある。要件はこういう事だ。(サイゴンの放送局で謀略放送がやれるかどうか。やれるならば、当方に適当な人物が居るので、派遣することができる……)これだけだ」  少佐の口ぶりから察すると、適当な人物というのは日本人ではないらしかった。私はこの用件を何度も自分でくり返して暗誦し、横須賀から指定の船に乗った。それは極洋丸という一万トンぐらいの捕鯨母船で、形式から言うとほとんどタンカーであった。永くドックに入れていないので時速七ノット。出港した翌朝になってもまだ富士山が見えていた。ところが下田沖では敵潜水艦が出没していて、非常に危険だという。東京の住民にはまるで知らされていない事だった。最初の夜は危いから、着のみ着のままで寝た。  佐世保にまわり、澎湖島にまわり、台湾の高雄にまわり、海南島にとび、ようやくサイゴンに着いて見ると、石田中佐はハノイ出張で不在だった。私は報道部長堀内大佐のテーブルに行き、東京の報道部からの伝言を厳粛に報告した。堀内大佐は鼻の先で|ふん《ヽヽ》と言ったきりだった。大本営海軍報道部などというものは、現地の軍人たちからは軽蔑されていたらしかった。私のような部外者でも、大本営報道部の在り方など、高給を喰んで遊んでいるように見えた。  十七年夏に帰国し、十八年頃から私はしばらく報道部の無給嘱託になった。嘱託室という一室があって、謀略宣伝の漫画を書いている男や、宣伝工作を立案している人たちが何人かいた。その中に二階堂進という気の強い青年がいて、何かの事で報道部長に喰ってかかったりしていた。  戦後になって総選挙があったとき、新聞を見ていたらこの男が、九州鹿児島の方から立候補していた。おやおやと思っていたら当選して代議士になった。その後二十年、彼は今では押しも押されもしない自民党の古顔の代議士である。今から思えばいかにも代議士になりそうな男だった。一度ぐらい国務大臣をやったようだった。  十九年の夏からサイパン基地のB二十九が一機ずつ東京に飛んで来るようになった。警報が鳴ると東京中は一斉に鳴りをひそめ、夜ならば灯を消して、解除のサイレンまでは東京中が沈黙したまま、敵機が何をしているのか一向に解らないという不安な姿だった。  そこで私は或る日、海軍報道部の部室で例のK少佐に向って言った。 「空襲のときにはラジオで以て敵機の行動を刻々に民衆に知らせる方がいいと思います。そうすれば敵の様子がわかるし、余計な不安をもたなくてもすみます。何機ぐらい来たのか。どっちの方を空襲しているか。被害はどんな様子か、僕たちは知らせてもらいたいですね」  するとK少佐は、 「そうすると野球放送みたいな具合にやるのかね。来ました来ました。落しました落しました。爆弾です。当りました当りました。……そんなばかなことができるかね君」  そして報道部将校たち五六人が一斉に声をあげて嘲笑した。私は腹が立ったが、無給嘱託ではそれ以上は言い争うわけにも行かなかった。その後数カ月、二十年のはじめ頃にはもう空襲と同時に東部軍管区情報というラジオ放送が刻々の情報を伝えてくれるようになった。私はざまを見ろと思った。  海軍報道部などというものは高級将校をたくさん並べておいて、それほど先の見えない仕事をしていたのだった。要するに悪い意味のお役所に過ぎなかった。  報道班員としてサイゴンに向って出発したときに、横須賀から乗せられた捕鯨船極洋丸には、新聞記者たちが二十五六人も乗っていた。大阪朝日の犬石君、大阪毎日の林君、東京日日の松本カメラマン等々。  極洋丸は捕鯨母船として南氷洋で仕事をしていたのだが、戦争で仕事がなくなったので軍に徴用されていたらしかった。船長はたしか小間芳男という七十前後の元気撥溂たる老人で、さすがに鯨を殺し続けて来た殺戮者らしく、腹の太い、猥談の好きな、濶達な人だった。よく私たちを船長室に呼んで、大声でひとりでしゃべっていた。鯨の刺身のうまさについて、鯨の交尾について、等々。たしか一二冊の著書があって、それも見せられたように記憶している。根っからの海の男だった。  横須賀から高雄へ直航する予定であったが、軍から無電の命令がきて船は佐世保にまわり、油を積んで澎湖島にまわった。高雄の港は浅くて、|吃水《きつすい》のふかい極洋丸は入港できないというので、私たちは澎湖島で船長と別れた。それっきりで極洋丸の消息も小間船長の消息も知らなかった。  二十年八月敗戦。それからしばらく経って、多分二十一年の春か夏ごろであったと思う。私は新聞記事によって小間芳男氏の死を知った。七十四五になっていたと思う。彼の死は自殺だった。  その自殺の理由というのが近年では稀に見るかたちのものだった。(日本は戦に敗れ、多くの船を失い、それとともに日本人一般が海洋に対する興味と希望とを失ってしまったように思われる。誠に残念である。日本は海洋なくしては成り立たない国である。いま一度海洋を見直し希望をとり戻さなくてはならない。自分は海に対する日本人の関心を呼びさますために自殺する。)……そういう主旨の遺書を残して、どこかの海に投身自殺をしたのだった。  七十過ぎの老人、いわば楽隠居である。その人が、普通ならば、残り少なくなればなるほど惜しがる命を、みずから海に投じた、文字通り烈々たる志に、私は感動した。それが最良の手段であったか否かは別として、こんな古めかしい、こんなに堅固な心をもった人は、昔は無数に居たけれども、近頃はもう見られないタイプの日本人ではないかという気がした。日蓮宗の熱心な信者だった。  東京日日新聞(現在の毎日新聞)に宮沢明義という記者がいた。学芸部が永かったので私とはかなり親しくしていた。「母系家族」を連載した頃に彼はたしかその方の仕事を担当してくれた。丸顔の、よく笑う男だった。憲法学者として有名な宮沢俊義博士の実弟であった。  太平洋戦争がはじまった頃、彼は仏印のハノイ支局長になっていた。ハノイは北部仏印進駐で日本軍がずっと駐在していたし、フランスの総督府もあった。  十七年の五月ごろ、シンガポール、ジャワを廻ってサイゴンまで帰って来ていた私は、海軍報道部長の許しを得てハノイへ旅行することにした。期間は一週間であった。ハノイを見たい気持もあったが、それよりも報道部に監督されている生活からちょっと離れて、自由な空気を吸って見たかった。そのころハノイには小牧近江さんが娘さんと一緒に住んでいた。そして宮沢明義がいる。彼を当てにして、私はまる一昼夜の汽車の旅に出た。ひどい汽車で、寝台に寝ていると、飲んだばかりのビールが胃のなかでがぼがぼと揺れた。まるで胃袋が水袋のようだった。  ハノイは古めかしい落ちつきのある、良い街だった。宮沢は支局のひとり暮しであったから、大変に歓迎してくれた。夜になると時おり空襲警報が鳴り、電燈が消えた。中国の飛行機がくるのだという話だった。  宮沢は私を人力車に乗せて、カムテンと称する遊里へ連れて行ってくれた。場所はどのあたりだったか解らない。日本で言えば少々場末の芸者屋町のようなところだった。  登楼すると安南人の女性が三四人部屋にはいって来て、ビールやウイスキイを飲みながら|埒《らち》もない話がはじまる。宮沢はフランス語で、いくらか妓たちと話も通ずるが、私は仏語とは縁がないから、美人たちがそこに居ても人形と対座しているようなものだった。何とも間の抜けた話である。  帰り道の人力車で宮沢の説明を聞いた。ハノイの遊里では妓はみな酒楼のかかえ妓で、外から呼ぶものではない。いわゆる|一見《いちげん》の客は絶対に登楼させないが、上った客はどこまでも信用していて、どれほど借金をためても支払いの催促をしない。第一、勘定書というものをよこさない。ときおりこちらが適当に払うだけである。  酒楼の妓は決して娼婦ではない。もしも馴染の客が好きになった時には、客を泊めることもある。しかしそれは妓の自由意志であって、酒楼の楼主とは何の関係もない。いわんや客に金銭を請求するようなことは絶対にしない。つまり正真正銘の恋愛関係以外の男女関係は有り得ない……という話だった。  私は近松や西鶴のえがいた徳川時代の遊里の姿に似ているのではないかと思った。しかし日本の遊里の姿よりももっと自由で清潔なところらしかった。勘定の催促を一切しないという話に至っては、二十世紀の文明社会の経済生活から隔絶していて、支那の桃源郷もかくやという気がした。  私は三度ぐらい宮沢にカムテンに連れて行ってもらった。しかしあまりにも清潔で、しかも言葉が通じないとあっては、桃源郷も|隔靴掻痒《かつかそうよう》の感があった。  私は十七年夏に帰国し、宮沢は十八年か十九年に帰国した。それから後は新聞社も紙はないし報道の自由はないし、全くの苦難の季節だった。敗戦が近づいたころ日本中に発疹チフスという病気が流行した。|虱《しらみ》が病菌をまき散らすのだと言われていたが、東京の人たちもおびただしい虱に悩まされていた。  二十年の敗戦直前であったろうか、敗戦直後であったろうか、宮沢明義は発疹チフスにかかり、まことに|脆《もろ》く死んでしまった。私がそれを知ったのは十日も経った後だった。 [#改ページ]         15  昭和十三年秋、中支戦線で武漢攻略戦がはじまった頃、いわゆるペン部隊なるものが報道部によって組織され、二十人近い作家たちが揚子江をさかのぼって行った。菊池寛氏もいたように思う。久米正雄、岸田国士、その他かなり大勢いたようだった。新聞がペン部隊について華やかな記事をのせた。  同じ時期に私は中央公論特派員という名目で、全く単独行動で従軍した。林芙美子さんはたしか改造社特派員として、これも単独に従軍した。ペン部隊の人たちの多くは戦線視察という程度の気持であったらしいが、単独行動の方は積極的に何かを書こうという気があり、取材のつもりだった。出発前から中央公論なり改造なりと原稿の約束をしていた訳であった。  私が林芙美子さんと中国で出会ったのは、どこであったか記憶にない。とにかく南京から九江の方にむかって溯る軍用船の中で、一緒だった。船は底の方に軍馬をのせていて、獣の悪臭がぷんぷんしていた。船艙にひろく畳をしいて、そこに何日もごろ寝をした。同航者は汗くさい輜重兵たちの一団で、髭むじゃの垢だらけの男たち。その中で林さんは文字通りの紅一点だった。私は同業者というところから、何となく林さんの護衛の役を背負ったような気持だった。  たしかその船の中で、自動車輜重隊の若い小隊長と一緒になった。南京に連絡の用事で出かけた帰りらしかった。軍人とは思えないおだやかなインテリで、予備か後備かの将校だった。名前は味岡益太郎。群馬県の県庁につとめていた人で、本業は造園技師のような仕事だったと思う。私も林さんもこの人と親しくなり、よく雑談をしていた。  船が九江に近づき、上陸する時になって、あなた方はこれからどこへ行くのですかと味岡少尉に聞かれた。私も林さんも上陸したその時から、行く先の当ては無い。兵站部に行って寝泊りする所を相談しようという程度の気持だった。 「そんなら僕の所へ来ませんか」と誘われて、渡りに船、私はすぐそうすることにきめた。林さんは別にどこか軍の宿舎に泊ったように思う。  味岡自動車部隊は、九江の町の中のお寺を宿舎にしていた。日本の寺と違って半ばアパートのようになった三階建てで、小部屋がたくさん有った。兵隊はみな車の運転できる者で、召集を受ける前はトラックやタクシーの運転手だった。気風は荒っぽくて、中には背中一面に刺青をしたような荒くれ男もいた。私は味岡さんの部屋の空いていた支那風ベッドに一週間以上も寝せてもらい、三度の飯をたべさせてもらった。  ある夕方、部隊に酒の配給があった。一人二合というような配給であるが、飲めない兵もいるので、飲める者は四合も六合も飲んだらしかった。そのうち酔漢の喧嘩がはじまって、大騒ぎになったが、味岡少尉は何もしなかった。  翌日になって喧嘩の張本人を少尉は部屋に呼んだ。少尉は三十になるやならず、呼ばれた兵は四十前の元トラック運転手で、魚河岸にいたという巨漢だった。少尉は叱るでもなく低い声で静かに何か言い聞かせていたが、そのうち巨漢の兵がうつむいてぼろぼろ泣きはじめた。私は不思議なものを見たような気がした。|諺《ことわざ》で言えば柔よく剛を制すと、解り切ったことのようになってしまうが、柔を以て剛を制するのは容易ではない。私は味岡さんの人柄の良さだと思った。  味岡部隊が九江から|星子《せいし》に軍需品をはこぶ仕事があり、少尉にさそわれて私は同行した。林芙美子さんも同じ乗用車で出かけた。私は星子から更に|隘口街《あいこうがい》、徳安街道の戦線を見てくるつもりだった。道は|廬山《ろざん》の下、五老峰の南画のような山々を右に見て進む。星子のあたりには日本の山と同じような小松の生えた丘が至るところにあった。私と林さんとは車を降りて、味岡さんの案内で丘の上から四方を展望し、地形や戦況のはなしをしていた。そのとき林さんは、 「ちょっとここに居て下さいね」と私に言い残して、小松の生えた丘のかげに小走りに走って行った。  何をしに行ったか、私たちには直ぐに解った。そして従軍ということが女性にとっては、こまかい所で相当に困難なものであることを知り、同情した。  その夕方、星子の自動車部隊で食事をいただいた。隊長は理研アルマイトの社長さんという初老の予備少尉であった。近くの陽湖に来ている海軍の軍艦からキャベツとコンビーフを貰って来たからと言うので、コンビーフのすき焼きというものを御馳走になったが、どうも変な味だった。 (九江滞在を切り上げて以来、私は味岡さんに会っていない。数年前、風の便りに聞いたところによると、東急が経営している霧ヶ峰山荘か何か、そんなような山のホテルの運営をやっているような話だったが、それも確かではない)  それからあと、私はしばらく林芙美子さんの消息を知らなかった。前線は日々に武漢に迫りつつあった。私は前の従軍のあと、「生きてゐる兵隊」を書いて公判にかけられ、まだ検事控訴中であったから、前線の戦闘に取材することを避け、後方の兵站線の活動を主にした、戦争というものの全体的な構図をつくり上げて見ようと考えていた。だから|陽新《ようしん》、|武穴《ぶけつ》、|田家鎮《でんかちん》などの兵站基地をまわってうろうろしていた。  するといきなり揚子江の北岸にいた陸軍部隊が、戦車隊を中心に走りはじめ、海軍の艦艇も機雷の掃除をしながら揚子江を急にさかのぼりはじめた。北岸の陸軍はまるで敵軍を左右に掻き分けるような勢いで真一文字に走りつづけ、三日目ぐらいに|漢口《かんこう》に突入した。介石はあわてて最後の飛行機で漢口から脱出したという話だった。  この陸軍部隊のなかに林芙美子さんがはいっていた。彼女がいつどこで、どんな|伝手《つて》を得てその陸軍部隊にもぐり込んだのか、誰も知らなかった。彼女は漢口一番乗りの部隊とともに突入し、その報道記事は日本の新聞雑誌に派手に掲載された。何とも見事な抜け駆けだった。彼女にはそういう計算と度胸のよさと負けん気とが有ったらしかった。  翌十四年の改造一月号には林さんの「北岸部隊」がのり、中央公論には丹羽文雄の「還らぬ中隊」と私の「武漢作戦」がのせられた。  昭和二十六年の五月末、私は世界ペン大会に出席するために欧州へ旅立った。旅行のまえに偶然に、文藝春秋の編集室で林さんに出会った。林さんも欧州へ旅行の予定があると言っていた。 「そんなら林さん、一緒に行きましょうよ」と私はしきりに誘ったが、 「だめ、今直ぐは行かれないわ」と言って、同行を|肯《がえん》じなかった。彼女は沢山の執筆の約束をかかえていたらしかった。  五月末に英国にわたり、十日あまり滞在してフランスに廻り、それから私は芹沢光治良、池島信平氏等とペン大会のひらかれるスイスのローザンヌへ行った。一週間のペン大会を終り、七月はじめにまたパリにもどって、ちょうど来ていた高峰秀子、歌手の高英男、藤山愛一郎氏等と会った。当時パリはまだ大使館が開設されて居らず、在外事務所長として後の駐仏大使萩原徹氏がいた。それから学問研究に来ていた桶谷繁雄氏がおり、早大教授の建築家吉阪隆正氏がいた。画家の|硲《はざま》伊之助氏に案内してもらってマチスの病牀を訪ねたこともあり、彫刻家の高田博厚氏に案内してもらってブラックのアトリエを訪ねたこともあった。藤山さんの車で、藤山さんと高峰さんと私と、郊外ブーローニュの森に絵を描きに行ったこともあった。  八月はじめであったろうか、高峰秀子さんと私たち夫妻と三人でオペラを見る約束をして、夕方すこし早目に、オペラ座の前の中華料理店でおちあい、いっしょに食事をした。そのとき、少し遅れて来た高峰さんは、私たちの待っている席へくるといきなり、 「林芙美子さんが死んだわよ」と言った。  私は|えっ《ヽヽ》と言ったきり、あとが出なかった。出発の直前、あんなに私が誘ったのに承知しなかったことが思い出され、もし一緒に旅行していたなら、死ななくて済んだのではなかったか、という気がした。  その時は死因までは解らなかったが、後に聞くと心臓の急激な発作であったらしい。そう言えば私が同行をすすめた時も、肩で息をしていたようだった。彼女はよく、(花の命は短くて……)という文字を色紙や短冊に書いていて、私もその一つを所蔵しているが、花の命のみじかいのは彼女自身であった。まだ五十にはなっていなかった。  武漢戦争に従軍して、独りでひそかに形勢を按じ、一番乗りをめざして北岸部隊にはいりこみ、見事に目的をはたしてジャーナリズムの上に華々しい報告作品を発表した、あの聡明さとあの計算と、度胸と、闘志と……それが却って彼女の命を縮めたのかも知れない。当時作家たちのあいだでは、(林芙美子はジャーナリズムに殺された)という話が流れていた。  彼女の家には毎日十人以上も客があったらしい。応接間には新聞雑誌記者がいつも何人か詰めかけていて、彼女の原稿ができ上るのを待っていたということである。それは彼女の人の好さでもあり、気の強さでもあり、また逆に気の弱さでもあった。単なる流行作家という以外に、何か不思議な魅力をもった女性であったらしい。そういう変った生活が仕事の上の|張り《ヽヽ》でもあった。彼女は夜も昼もないような暮し方をしていた。そこまでジャーナリズムと調子をあわせてしまったことが、彼女の自己崩壊の原因であったようにも思われる。  私よりは一つか二つ年上であったが、若いころから作家活動をしていたので、文壇的には四五年も先輩であった。娘時代からずいぶん貧しい生活に耐えて来た人であったが、その苦労が左傾思想にはならないで、抒情的なものになっていた。それが林芙美子の基本的な性格であったように思う。 [#改ページ]         16  片山哲氏にはじめて会ったのは昭和十三年の四月ごろだった。私が中央公論に書いた「生きてゐる兵隊」が発売禁止になり、ついで起訴されて、最初の公判がひらかれた時であったと思う。片山さんは当時は一介の弁護士で、中央公論社の法律顧問であった。事務所は新橋にちかい土橋のわきの小さなビルの二階であった。そのビルは今は|壊《こわ》されて、東海道新幹線がちょうど元の片山法律事務所のところを走っている。  中央公論側の被告は発行名義人牧野武夫と編集長雨宮庸蔵の両氏だった。実際に仕事を担当していた佐藤観次郎氏は事件の直後に召集をうけて中支の自動車部隊に行っていた。戦後は社会党から出て代議士に当選し、もう古顔になっているが、あのとき日本にいたら当然被告にされるところだった。  牧野氏も雨宮氏もその事件ののち、引責辞職のようなかたちで社をしりぞき、牧野氏は出版社牧野書店をやっていたが、先年亡くなったようだった。雨宮氏は読売新聞にはいって科学部長などをつとめていたが、近況は知らない。私としては大変に御迷惑をかけた人たちであった。  片山哲氏はこの二人のために法廷に出て弁護の役をつとめた。私の方の弁護士は福田耕太郎氏(俳人福田耕人)と私の弟石川忠とであった。一審判決は八月ごろで、検事控訴があったので、二度目の公判は十四年の三月か四月だった。このときも片山氏は法廷に出て来られた。片山氏の法廷弁論は温和な、むしろ訥々とした口調であったが、被告席に坐っている者にとっては少々頼りない気がした。あまり説得力があるようには思われなかった。  その次に私が片山氏に会ったのは戦争が終った二十年の秋の末ごろだったと思う。銀座の貿易会館の二階でひらかれた会合の席だった。敗戦とともに社会党の存在が大きくうかび上り、従って片山氏の存在も注目されていた。その日の会合は敗戦後の日本をどう考えるか、民主主義をどうやって推進するか……という風な目的のものであったが、時局便乗的な弁説が多いので不愉快になり、私は片山氏の引き止めるのを振り切って、途中で退席してしまった。  それから更に数カ月ののち、二十一年の春、戦後最初の総選挙があった。片山氏は社会党の党首とか書記長とかいう最高の地位について、日本中の注目を浴びていた。非合法時代からかぞえて何十年か、民主主義運動に挺身して来た片山氏としては、一世一代の晴れの場であった。  私はそのとき柄にもなく立候補を決意した。文筆を捨てて政治家になろうというのではなかった。戦争中から鬱積していた政治への憤りから、一度だけ国会へ出ていって|政治屋《ヽヽヽ》連中と喧嘩をしたいというのが本心だった。  私は社会党にはいって立候補しようと考え、片山さんを例の弁護士事務所にたずねて行った。一度目は留守で、時間の予定を聞いておいて、二度目に訪ねてお会いした。汚い事務所だった。私は自分の希望を述べ、東京第二区から社会党候補として出してもらいたいと言った。片山氏は後に|ぐず《ヽヽ》哲とか|ずぼ《ヽヽ》哲とか|綽名《あだな》をされたように、甚だ煮え切らない口調で、第二区はもう立候補がみな予定されていて駄目だと言った。私は面会十分ぐらいで辞去した。  そのときの東京第二区は新宿、渋谷、品川から三多摩まで含んだ大選挙区で、立候補百二十名。当選十二名だった。石橋湛山が十八番で落選。私は二十二番で落選したが、社会党は急激にふえて、やがて片山哲内閣が成立した。しかし世評はあまり芳しくなかった。要するに敗戦直後の民衆の期待にこたえるような成果がなかったのである。  それから後のほとんど二十年間、片山氏と直接の関係はなにも無かった。ただそのあいだ片山氏は社会党から民社党にうつり、氏自身がこしらえた憲法擁護連盟をはなれて、別の憲法擁護の団体をつくるという声明があった。その文書が私のところへも配達され、加盟を求められた。私はそういう片山氏の行動を無責任乃至はだらしないことと感じたので、新しい護憲団体などには決して加入しないという返事を送りつけたことがあった。  一昨年であったか、片山氏は民社党をはなれ、政界を引退すると同時に、選挙粛正を終生の仕事として、今後はそれに打ち込んでいくということを声明した。私は某新聞に公開状を書いて、片山氏が本当に選挙粛正をやり遂げることができれば、総理大臣などをするより何倍か有意義だという激励の言葉を発表した。  片山氏はその新聞に私の激励にこたえる文章を書き、ついで選挙粛正運動を具体化するための準備会に私の出席を求められた。私はその席で久しぶりに片山氏に会ったが、以前から少々煮え切らないような所のあった同氏は、年老いて一層動きも言葉もにぶくなった感じだった。選挙粛正についての熱意だけはさかんなものがあったが、資金がゆたかに有るわけではなし、十人前後の同志がある程度では先に希望はもてなかった。選挙の腐敗はきのうや今日に始まった事ではなくて、もはや病状は|膏肓《こうこう》に入って瀕死の状態である。しかも政権の座にある保守党は、この腐敗選挙を基盤として成立しているのだから、片山元首相といえども徒手空拳をもってこれが粛正の実をあげることは、到底望みなしと私は見た。だから少々気が|咎《とが》めたけれども、その後の片山氏の運動にはほとんど何の協力もしなかった。  今でもときおり、小型の新聞が本部から送られて来るところを見ると、運動はまだ続いているらしい。しかしもはやその効果は期待し得ないようだ。要するに片山哲という人は若い頃から種々の理想をかかげて、そのために大いに努力して来た人であったと思うし、その事にも意味はあったであろうが、所詮実行の人ではなかったように思われる。日本の政界で仕事をするには、あまり人間がまっとうで正直すぎたようだ。  昭和電工、日本冶金工業などを主宰していた森|矗昶《のぶてる》氏の歿後、私の兄がその会社の役員をしていた関係から、兄に連れられて麹町紀尾井町の森邸へ行き、夕食を御馳走になったことがあった。席には森暁氏もその夫人もいた。  その席で先代の未亡人は、こういう話をした。——森矗昶が生きていた頃は、議会が解散ときまると、選挙のために郷里の選挙区に帰るまえに、保守党の議員連中が次から次へと挨拶に来たものだった。その人たちを三つの応接間に待たせておいて、ひとりひとりに金一封ずつを渡す。つまり挨拶というのは選挙費用をもらいに来ることだった。……  そういう風にして政界と財界とは切っても切れない因縁ができていた。現在もその通りだろうと思う。だから片山哲が選挙を粛正し得たにしても、政界と財界との因縁が絶ち切られるとは思わないし、政治が民衆の利益よりも財界の利益にひきずられることも避けがたい。芦田均が昭和電工事件で失脚した事実と考えあわせると、この未亡人の思い出ばなしも大いにうなずけるものがあった。  結局芦田均は無罪になったが、晩年はあまり愉快ではなかったように思う。どういう訳だったか忘れたが、大森山王の芦田邸に呼ばれて、何回か夕飯を御馳走になったことがある。別に目的もなにもない、おしゃべりだけの会であった。宮田重雄、渋沢秀雄氏らが同席したように思う。外交官が永かっただけに話題の豊富な人で、なかなかの洒落者だった。汚職事件はこの人にとっては、本当のところ無縁なことではなかったかと思う。昭和二十七八年ごろの事である。  ところが私が森邸に呼ばれた用件というのは、先代の未亡人が出版事業をやってみたいという希望をもっているが、出版事業なるものがよく解らないので、私に話を聞かせてほしいということであった。私は自分で出版をやったことはないが、青年時代に小さな出版社につとめたこともあり、多少の知識はあったから、一通りの説明はしたが、どちらかと言えば、まあおやめになった方がよかろうという説明になった。もう七十にもなろうという素人の未亡人が手を出すような仕事ではないと、私は思っていた。結局、出版事業のはなしはそれっきりで、立ち消えになったようである。私が大いにすすめたら、実現していたかも知れない。  その夜同席した森暁氏の夫人という人は、なかなかの美人で、だから暁氏の愛妻であろうと思っていたところが、程なく暁氏はこの夫人と離婚してしまった。そして二年ぐらい後であったろうか、女優柴田早苗を後妻にむかえた。  私は終戦後まもなく素人ばかりの絵を描く会(チャーチル会)に入ってデッサンを勉強していた。会員の中には高峰秀子がおり藤山愛一郎がおり、柴田早苗もいた。女優としては一流とは思えなかったが、感じのいい娘さんだった。それがどういう所からか森暁氏に望まれて、すらすらと森家の奥様になってしまった。  それからもう十四五年にもなるだろうか。近頃は(早苗ちゃん)に会うこともないが、もう中年の落ちついた夫人になっていることだろうと思う。森暁氏には年に一度ぐらい、ゴルフ場で顔をあわせることがある。血圧が高いとか言っていたようだった。 [#改ページ]         17  私は小学校一年生のときから中学三年までの、ほとんど十年間を岡山県の山の中の高梁町で過した。今は町村合併で高梁市と称しているが、当時は人口七千人の静かな小さな町だった。  この町の県立高梁中学校の同級生に福武昇という男がいた。大正十二年頃のことである。学生時代は小柄で、別にこれという特徴もない青年だった。中学四年生になると同時に私は岡山市の中学に転校したので、福武のことはそれっきり忘れていた。  彼が中学を出てからどういう筋道を歩いて行ったか、私は何も知らなかった。中学時代から二十年ちかくも経って、私がふたたび彼に会ったのは京都だった。彼は市役所につとめていた。小柄なところは変らないが、話好きな濶達な中年男になっていた。  おなじ京都に井上甚之助という人物がいる。慶応の出身で京都の大丸百貨店につとめていた。百貨店などにつとめながら文学好きで、芝居好きで、どういう訳か一昨年亡くなった佐佐木茂索さんなどと親交があった。早慶野球戦が大好きで、その季節になるとわざわざ上京して来た。そして佐佐木さんの家に泊り込んでしきりに碁を打っていた。二人とも似たような腕前であった。  私の長男は昭和十八年に産れた。十九年の春、鯉のぼりを立ててやろうと思ったが、何しろ戦争末期のこととて、東京のどこを探しても鯉のぼりを売っていない。私は思いついて京都大丸の井上君のところに問いあわせて見た。すると鯉が二匹送られて来た。五間半に五間という巨大なやつで、(この二匹だけ、あまり大きいので売れ残っていた)という井上君の註釈がついていた。緋鯉の方が大きかった。  十九年の五月、食うものも碌にないというのに、私の家では庭にこの巨大な鯉のぼりを押し立てて、近所の人をおどろかしたものだった。  私は京都へ行くと必ず、福武と井上に連絡して、歓談の一夜を過した。場所は祇園のこともあり|先斗《ぽんと》町のこともあった。先斗町の末の家という酒楼へ連れて行かれて以来、今日まで末の家とはつきあいが続いている。京都の人はつきあいが堅くて、このところもう何年も行かないのに、春は名物の|筍子《たけのこ》を、秋は松茸を忘れずに送ってくれる。  戦後、福武は京都市の観光局長になった。職掌柄、祇園あたりの酒楼やお寺には大変に顔が利いていた。どこへ行っても局長さま局長さまと、評判のいい男だった。  井上は一度大阪の本店詰めになっていたが、再び京都の大丸に戻ったときには副支店長になっていた。終戦後まもなく、彼の案内で綾部の方の山へ松茸狩りにゆき、当時は珍しい(銀シャリ)の飯で鳥鍋をたべたりしたこともあった。  京都にひところ和敬書店という出版社があって、そこの若い社長が井上に劣らぬほどの芝居好きだった。多分彼等二人の共謀の結果であろうと思うが、その出版社から「幕間」という題名の芝居専門の雑誌が刊行され、二年ぐらいも続いていた。私もその雑誌に、文楽の悪口などを書いたことがある。  東京では文藝春秋祭の文士劇という素人芝居が毎年の秋の名物になっているが、京都にも京都の名士たちによる素人芝居のもよおしがあった。いつも年の暮の押しつまった頃、南座を借り切って、有料の興行だった。その収入はすべて慈善事業に寄付することになって居り、京都の芸妓やお茶屋ではそれが毎年の暮の|賑《にぎ》やかな話題であった。  観光局長福武も芝居好きで、毎年出演していた。もちろん井上甚之助も女形をやったりして熱演したものだった。それから料亭浜作のおやじなども常連の俳優であった。  私は或る年、ちょうど暮ちかくに京都へ行ったので、本舞台は見られなかったが、稽古場を見に行った。なかなか凝った歌舞伎調の演しものばかりで、その日私が見たのは|累《かさね》ヶ|淵《ふち》の立稽古だったと思う。演技指導は当時京都にいた坂東|簑助《みのすけ》、現在の三津五郎だった。三津五郎という人は福武とか井上とかいう別の世界の人間と遊ぶことが好きな人のように見えた。  京都では高山市長という人が三期か四期か、ずいぶん永く市政を執っていたが、福武は市長の腹心の部下ではなかったかと思う。観光局長から収入役になり、それから助役になって何年もつとめた。市長はたしか昨年勇退したが、福武は今年の四月まで新しい市長の下で助役をつとめ、停年退職したという印刷のあいさつ状が送られて来た。  彼とのつきあいは短くないが、彼から直筆の書信をもらったことは一度もない。松茸のお礼状を出しても、私の本を送っても、葉書一枚よこしたことはない。彼からの便りはすべて印刷された挨拶状に限られていた。おしゃべりというものは却って筆不精なのかも知れない。  戦後まもなくであったろうか、京都先斗町の末の家の、鴨川に張り出した|ゆか《ヽヽ》で、久米正雄氏を中心に、私や井上甚之助が加わって酒を飲んだことがあった。福武も同席したかも知れない。  久米さんは芥川賞の最初からの銓衡委員で、だから私は作家としての出発以来、久米さんには後輩として親しくしていただいた。私の新聞小説は最初が中外商業新報(現在の日経新聞)で、その次が東京日日(現在の毎日新聞)であった。日日の話がきまったとき、或る会合の席で私は久米さんに、こんど日日に連載を書きますと報告した。すると先生は、 「そうか、それはよかったね。大丈夫だ、君は書ける人だよ。大いにやりたまえ」と激励して下さった。大新聞に書くということで少々心配になっていた私は、久米さんの言葉で何だか自信をつけられた気がした。その時の小説が「母系家族」である。  昭和十四五年ごろ、まだ文学報国会などのできる前、文芸銃後運動という会があって、各地で文芸講演会をひらいていた。私は九州班に加わり、久米さんを中心に島木健作、松井翠声、それに小島政二郎氏と小林秀雄氏とが途中から加わった。旅程は宮崎から鹿児島にまわり、熊本から長崎、雲仙でひと休みして福岡というようなことであったと思う。  雲仙の宿で久米さんはゴルフをやろうと言いだし、近処のゴルフ場へ行った。私はコースにはいるのは初めてだった。ボールを打ったのは二度目である。そのとき私は久米さんから天才の折紙をいただき、それがきっかけになって十六年から本当にゴルフをやるようになった。久米さんは私にむかって、(君は天才だ)というのではなく、小島さんや小林さんの方を向いて、独りごとのような言い方で、(ふうん……これは天才だねえ)と呟く。そういうところが久米さんの妙な魅力であった。  長崎の講演のあと、市長が宴会をひらいてくれて、街の芸者も何人か来ていた。そこまでは覚えているが、妓のひとりひとりについては何も覚えていない。帰京して半年もたった頃だったろうか、或るときいきなり久米さんから、 「君は悪いやつだねえ」と言われて面くらった。「長崎の宴会で君のそばに坐っていた芸者がおっただろう。あの女に君は自分の本を送ってやるという約束をしておいて、送ってやらなかっただろう。どうだ」  そう言われてみると、そんな会話があったようにも思う。私の本を読みたいと言うから、帰ったら送ってあげるよと答えて、それっきり忘れていたらしい。しかしその事をさして、(君は悪いやつ……)と言われる程のこともない筈だった。けれどもその後の久米さんの話がいけなかった。 「あの女が君、自殺したんだよ。君が書いた本を枕もとに開いたままだ。君はわるいやつだねえ」  しかし、待って下さい。その自殺は私とは関係ない。第一、私は名前も顔も覚えていない、ほんの行きずりの、おなじ夜の宴席にならんでいたというだけの女ですと、何度陳弁しても久米さんは、いや悪いやつだとくり返していた。私に言わせれば、その時の女が私の本を枕もとに開いたまま自殺したという、そんな長崎での事件を詳しく知っている久米さんの方が、少々怪しいように思われた。  昭和二十二年の春だったか、国鉄の御招待をうけて十和田方面の観光旅行をしたことがあった。久米正雄、河上徹太郎、舟橋聖一の諸氏に私も加わって行った。夜汽車で出て、奥入瀬をさかのぼり、蔦ノ湯、酸ヶ湯をまわり、大町桂月が書いたという唐紙の字を見せられたりして、十和田湖畔の国鉄経営のホテルに泊った。すぐ近くの和井内の姫鱒養殖場ものぞいてみた。和井内旅館の娘さんが石井漠門下の和井内恭子という舞踊家で、なかなかの美人であったが、その時はもう結婚して引退しており、ちょっと旅館の玄関まで挨拶に出てきた。  久米さんはこの旅のあいだじゅう、朝から酒を飲んだ。酒量においては当時の私の方がずっと強かったが、私は朝の酒は好きでない。久米さんは時をえらばず少しずつ飲むという方であった。  二十三年頃であったろうか。春の四月はじめ、文藝春秋社が私たち多勢を熱海に招待してくれたことがあった。一泊して翌日、林芙美子さんに誘われて、久米さんを加えて五六人だけが一行と別れて、奥湯河原へ遊びに行った。加満田という林さんの定宿で、いつも仕事をもって逃げこむところであった。林さんの好きな部屋は二階のどん詰りの六畳ぐらいの小部屋だった。林さんの歿後、私も何度かその部屋へ仕事をしに行った。  その日はちょうど奥湯河原の桜が満開のときで、表に向いた座敷の窓をあけひろげて小宴をひらいていると、谷風にあおられた花びらが、文字通り吹雪のようになって窓から吹きこんで来た。その席で、浴衣にくつろいだ林さんのうしろ姿を私は悪戯書きした。その絵がまだ加満田旅館のどこかの壁にかけてある筈だ。  三時間ばかりのお花見のあとで、みんなほろ酔いになって帰京した。  久米さんのゴルフは非力ではあるが智能的な、巧者なゴルフだった。邦枝完二氏もなかなかうまかったが、そのうまさが何だか狡い気がした。久米さんの方は洒落た巧みなゴルフだった。そのゴルフの性格が、久米さんの処世の巧みさと通ずるようなものがあった。ずいぶん私より年長だと思っていたが、私はいま既に久米さんの最後のお年より何年も上になってしまった。 [#改ページ]         18  島木健作は私より一二歳年長の作家だった。多分私は四五回しか彼に会っていないだろうと思うが、忘れ難い人物であった。青年時代に肺を病み、亡くなったのも結局は肺の病気であったが、その間にさなだ虫に苦しめられたりして、彼自身の言葉によると他人の五倍も六倍もの病気をした。むしろ青年時代から後は絶えず病人であった。  しかし肉体の病気とは逆に、あれほど健康な精神をもった男に、私は会ったことがないような気がする。彼の作品はあくまでも健康で正統的で、理想主義的でさえもあった。晩年の最後の長篇「礎」なども、満洲に取材して、建設的な理想の青年像を追求したような作品であった。  久米正雄氏を中心にした文芸銃後運動の九州講演に、島木健作も加わって、私たちと一緒に東京を出発した。彼は汽車が動きだすとすぐに、買ってきたばかりの地図をひろげた。これから旅行する九州地方について、まず地図をしらべて置くというやり方が彼の態度であった。中学生のようなまじめさである。彼は物事を真正面から考え解釈するという風な人で、わざと横へ廻ったり裏へまわって見たりするという意地のわるい考え方のできない人のようだった。  その地図をひらくと、やがて彼が非難の言葉を発するときの癖で、唇をゆがめて言うのだった。 「ねえ君、仕様がないねえ。日本の地図というのはこんな物しか無いんだよ。これじゃ何の役にも立ちゃしない。どうしてもっとちゃんとしたものを作らないんだろうねえ」  彼は他人について、社会について、文句の多い人だった。何事につけても不満が多く、批判がきびしい人だった。それだけに作品の上では彼の理想を追い求めていたのではないかと思う。  昭和十八年の夏から冬にかけて病気の再発があり、私は何かしら気がかりだったので見舞の手紙を出した。十九年二月十三日付で島木の返事が来ている。(今度は全くひどくやられて、いままでに一番タチが悪かったのです。……もうだめかなと思ったような症状がふた月ちかく続いたこともありましたが……)と書き、また、(病気の再発などは心の持ちよう、生活のまちがっていたことの証明みたようなものですから恥しいことです)と書き、そのあとに、(文学の大勢は、僕の文学が説教文学として非難されていたのが説教という点では僕など|後塵《こうじん》を拝さねばならぬような成行きになって来たようですが……ある意味では先覚者かも知れません)と書いている。  彼の手紙はいつも正しい大きな字で書かれており、蔭のない明るい性格の人であったことが察しられる。  十九年の春ごろ今日出海氏がフィリピンへ行き、私がその後任に指名されて文学報国会実践部長という任務についた。結果的には情報局のやり方に腹を立てたり、報国会を主宰していた中村武羅夫氏と喧嘩したりで、仕事らしい仕事はなにもしないで終ったが、一月に島木の作品を読んで感想を書き送ったのに対し、彼からの長い返事をもらっている。 (作家仲間は好意をもっていても、同じ仲間のものは却ってなかなか読まぬもので、ことにああいう長いものは、そう早くは読んでもらえぬものです。私の病後再起を喜んでくれる貴兄の心持のあたたかさによるものと私はまことに有難く……)と謙虚な文章がつらねてある。  この(長い作品)が「礎」ではなかったかと思うが、さらに三月二十八日付の手紙で、(このたび新潮社から病後最初の長篇小説を|上梓《じようし》しましたので……御送り申しました。従来の僕の作風であり、取材その他にも別に新味のあるものではありませんが、僕としては止みがたい新生の心をもってなしたる一作故、その意味においてお受け下されば幸いに存じます)とあるので、前の手紙の方は「礎」ではなくて別の作品であったようだ。「礎」は彼が書いているように、やみ難い彼の心の凝縮されたような作品であったのだ。  その本を書き終ってからのち、長篇は多分ひとつも書いていない。彼は体力が尽きたのかも知れない。病と闘いながらひた向きに歩きつづけて来たような彼に、休息の時が来た。そして二三の珠玉のような短篇を書いている。それが「赤蛙」であり「黒猫」であった。 「赤蛙」は雑誌に発表されるとともに、大変な好評を得た。むしろ私にとっては不気味なものがあった。何かしら死の匂いがあった。死に近づいた人間のみの持つ、澄み切った心境が感じられた。  けれども十八年あるいはもっと前から、私は鎌倉扇ヶ谷の彼を見舞ったことはなく、彼は上京したこともなかったらしいので、一度も相見ることはなかった。しかし晩年の島木に私は何かしら心の通いあうものを感じ、しきりに彼の再起を望む気持があった。  彼の死は年鑑によると一九四五年、昭和二十年の八月十七日、日本の敗戦の二日後となっている。年は満四十二歳ぐらいの若さであった。  私はいまでも時々考える。もし島木健作がずっと生きていたら、この二十年間どんな仕事をしたであろうかと。あるいは文壇の頽廃をなげいて、例のように唇を歪めて論じているかも知れない。理想主義を貫いて、いまもあの規格正しい作品を書きつづけていたかも知れない。生かしておきたい人であった。そして剣にかえてペンを取るという(文士)の名にふさわしい作家でもあったと思う。  横光利一、一八九八年生、一九四七年(昭和二十二年)十二月三十日歿、まだ五十歳にはなっていなかった。私より七年ばかり年長であった。昭和十年に私が芥川賞をもらった時に既に堂々たる中堅作家であった。初対面は多分十一年であったと思う。某雑誌の希望で私の方が横光氏邸へインターヴュに出かけて行った。  その対談によって私は、横光さんが文学の神様と称されている理由がわかったような気がした。 「ドストイエフスキイの将棋盤には君、トンネルがあるんだよ」と言う。こちらは謎をかけられたような気持だ。  解らないから註釈を求めると、説明してくれた。小説の中の登場人物の動きに作者が行きづまると、凡庸な作家ならばその将棋盤の上で駒を動かすのに、左右か前後にしか逃げ道はない。ところがドストイエフスキイは下をくぐって向うへ出るという方法をもっている……というのだった。つまり彼が神様あつかいされたのは話術のせいだった。いきなり結論を出されて、みんなが面喰う。あとで註釈を聞かされて、なるほどと感心する。  この神様は私の見た限りでは、非常に迷いの多い人だった。島木健作は生涯迷いを知らず、自分の道をまっすぐに歩いたような作家である。それにくらべて横光さんは自分の作品の上でも生活態度の上でも、つねに迷い続けた人、自分を信じない人、いつも自分を疑い、世間の定説を疑っている人だった。作品の系列を見ても、「春は馬車に乗って」の短篇のころから、「寝園」を経て、「家族会議」を経て、晩年の「旅愁」まで、ずいぶん変っている。  あるとき銀座裏の(はせ川)という居酒屋風の家で数人が卓をかこんで小酌していた。五十ちかい横光さんは病気のはなしに熱心で、(人間は先ず足から弱ってくるものだね)と、自分の足が弱ったことを語っていた。その話にしても、自分の足が弱くなったことを、(僕は足が弱くなった)とは言わないで、(人間というものは先ず……)という哲学的な表現を用いるところが、神様的だった。そのあとで私にむかって、 「君は熱が出たとき、何で冷やす?」という御下問であった。私はとまどいして、 「熱が出たら、そりゃ、氷で冷やしますよ」 「それがいけないんだ。氷はいけない」 「氷がいけなかったら、何で冷やすんです。水ですか」  するとしばらく間をおいて、盃の酒をひとくち飲んで、厳然として彼は言ったものだ。 「菜ッ葉で冷やす」  私はこの人が好きだった。氷を忌避して菜ッ葉で冷やそうというのは、横光さんのきわめて真面目な迷いだった。そして近代医学への不信感があった。医者がきらいだった。  昭和十七年ごろ、横光さんと同行して川奈でゴルフをしたことがあった。横光さんは青年時代に野球をやったことがあるらしく、ボールを打つことには自信をもっていたが、ゴルフはまるで駄目だった。佐佐木茂索、川端康成の両氏がいっしょだった。  横光さんのゴルフはどこまでも我流で、ただぶっ飛ばそうという闘志ばかりが眼立っていた。川端さんは物静かで、教えられた通りにやろうとする。腕前は似たようなものであったが、二人の性格の差がまる見えで、私には何とも面白かった。  いつからか横光さんは俳句に凝って、若い同志を集めて月に一度ずつ句会をひらいていた。場所はたいてい山王の(山ノ茶屋)という貸席だった。この会で刺戟されて本職の俳人になった者に石友二があり、多田裕計がある。横光さんは芭蕉を勉強して、 「芭蕉は壁にもたれて句を作るべからずと言った」とか、また或る時は、「俳句をやると自分の思考の範囲がわかるね」とか言っていた。しかし愚見を以てすれば氏の俳句はあまり上等とは思えなかった。   妻と見し 白梅の枝 折れてゐる  という句境から、   蟻 台上に飢ゑて 月高し  という新傾向の句まで、やはりこの人は常に迷っている人であったように思われる。 「旅愁」を書く結果になったヨーロッパ旅行から帰ったとき、たしか神田神保町あたりの会場で句会があり、横光さんはドイツの太い色鉛筆を買ってきて皆に一本ずつお土産代りに配った。私も赤鉛筆を一本もらい、筆箱のなかに入れて置いて、ほとんど二十年間愛用した。  その日であったろうか、夜になって東京は珍しい大雪になり一尺四五寸ほど積った。横光さんは友人と酒をのみ、十時すぎて自宅の近くで電車を降りると、雪に足をとられ、友人と肩を抱きあって|難渋《なんじゆう》したらしい。そのことを後に私たちに語って、 「僕あ、ほんとに死ぬかと思った。二人で腕を組んだまま、転んだりつまずいたり、まるで歩けないんだ。ほんとにもう駄目かと思ったよ」  何て大袈裟なことを言う人だろうと、私は思った。私は秋田産れで、十一月から四月までは五尺六尺の雪の街で育った。東京の雪などものの数ではなかった。しかし考えてみると横光さんは三重県、滋賀県の方で暮してきた人で、雪の扱い方を知らないのだった。  欧州から帰ったときの、横光さんの話は面白かった。 「君たち、外国へ旅行するときは忘れないで、|晒《さらし》木綿を一反持って行きたまえ」  これも神様的な警告であったが、理由の説明を聞いて呆れてしまった。欧州の某ホテルで風呂の湯を出しわすれて、バス・ルームの床一面に湯があふれていた。横光さんはその処置に窮し、鞄のなかに晒し木絹一反があったことを思い出し、それを湯にひたし吸い取らせては絞り吸い取らせては絞り、ようやく何とか始末をつけた。(だから諸君も晒し木綿を持って行け……)というのであった。  またあるとき横光さんは欧州旅行のはなしに触れて、 「石川君、僕はね、パリのホテルで毎日、泣いてばかり居たよ」と言った。  この人が|泣く《ヽヽ》という心境がわかり兼ねて、私はその訳をたずねたが、 「わかるだろう、君……」と言っただけで、この時は説明がなかった。従って今日に至るまで私の謎は解かれていない。しかし多分、泣いてばかりいた横光さんの、その心境が凝縮されて、あるいは解決を求めて、長篇「旅愁」が書かれたのではないかと思う。  横光さんの死は胃潰瘍の悪化であったらしい。当時の医学としては死ななくて済む筈だった。しかし医者に見せることを嫌った。というよりも近代医学をまるで信じなかった。もっと何か優れた療法がある筈だと考えていたらしい。しかも胃潰瘍をさえも信じなかった。胃からの吐血を脳出血だと考えていたらしい節がある。自分は酒好きだから脳出血なんだ。ただ幸に脳よりずっと下の喉の血管が切れたので、助かったんだ、と思っていた。  そこで酒をやめた。すると甘い物がほしくなる。甘い菓子は胃潰瘍に最も悪い。近所の喫茶店で餅菓子を半分たべて、あとの半分を、「あしたまた来るから、これは取っておいてくれ」と言ったこともあったらしい。また見舞にもらった菓子を息子が食べたといって叱りつけたりしたこともあったという。  今日出海氏が心配して、ちゃんと医者にかかることをすすめたが、聞き入れず、 「最近ラジウムの煎じ薬を手に入れた。これできっと治る。放射能があるから鉄瓶はだめだ。土瓶で煎じるのだ」と大まじめで言っていたらしい。今氏は呆れて、 「ラジウムは金属だよ。金属を煎じて何が出るんだい」と言った。これは今氏から私が聞いたはなしである。  年末の寒い日、氏の死亡を聞いて駈けつけてみると、もう|弔問《ちようもん》の知友が多勢あつまっていた。四畳半の別室に|炬燵《こたつ》があって、川端さんが坐っていた。 「先生は、淋しくなりましたねえ」と私が言うと、川端さんは例の謎のようなかすかな笑いをうかべて、 「ああ、もう、ひとりきりですよ」と言った。  横光、川端、片岡と並べて言われていた片岡鉄兵は一九四四年の暮に旅先で死亡。同年輩の牧野信一はずっと前に急死しており、池谷信三郎も若死だった。どういう訳か川端さんの年代の作家たちは短命な人が多かったようである。  彫刻家本郷新氏が横光さんのデスマスクを取った。その作業を私は終始じっと見ていた。そしてこの人の作家としての生涯をどう評価したらいいのかと考えていた。(棺を掩うて定まる)と云うが、この人は終生迷い通し、迷ったままで命を終ったのではないかと思われて、悲しかった。  死顔に油がぬられ、どろどろに|融《と》かした石膏が額に落され、それが両眼を掩いかくしたとき、私は涙が流れた。しかしそのマスクを外したとき、石膏の粉がすこし残っていて、死顔はうす化粧をしたように美しかった。それを見たとき私は、この人の未完成の生涯を、それはそれで充分に価値があったのだと思った。そう考えずには居られなかった。  横光さんは他人や他人の作品を嘲笑しない人であった。私は一度もそういう姿を見ていない。いつも真剣な態度でうけとり、まともに考えようという人だった。それに比べて片岡鉄兵さんは皺の多い顔をゆがめて嘲笑し、あるいは笑殺することが少なくなかった。そのことは片岡さんの器用さと、横光さんの不器用さとの差異のようでもあった。作品の系譜を見ても、横光さんはいつも四ツに組んだ真剣さで、遊びというものが感じられない。片岡鉄兵さんには遊びもあり皮肉もあり、ずっと器用な人であったと思う。  山ノ茶屋の俳句の会で、私たちがどんなに下手な句を出しても、横光さんは決して嘲笑するような態度は見せなかった。二三の賞品をいつも用意してあって、点の一番多い句に賞を出していた。その間にも若い仲間の句から何かを学ぼうとしていたのかも知れない。そういうところは島木健作と似ていた。しかし島木は学びながらも自分自身を疑う心はすくなく、横光さんはいつも自分を疑っていた。  昭和十四五年ごろの夏、私は文芸銃後運動の一行に加わって北海道へ行った。吉川英治、白井喬二、片岡鉄兵、松井翠声、それに私という顔ぶれで、函館から小樽、札幌、旭川をまわり、登別で一日休息して、室蘭までという行程であった。  旭川の講演会であったろうか。学校の講堂が会場で、私は前座をすませ、白井さんが終り、片岡さんが終り、真打の吉川さんの順番がきたとき、私は校庭で涼風に吹かれながら、窓越しに吉川さんの話を聞いていた。  するとそこへ煙草をくわえた片岡さんがぶらりと出て来て、私とならんでしばらく吉川さんの熱弁を聞いていたが、やがて片頬にいっぱい皺を寄せて、 「吉川英治という人は、骨の髄まで通俗だねえ君……」と言った。  私は返事ができなかった。しかし片岡さんには「花嫁学校」のような面白おかしい作品、それからたしか「色情文化」という題の短篇の作品もあったと思うが、吉川英治を骨の髄まで通俗と酷評するだけに、文学にきびしいものを求める心は多分にあったに違いない。片岡さんの死後まだ二十五年ほどしか経っていないが、いま彼の文学はほとんど顧みられていないようだ。ある時期、ベスト・セラー作家であったことを思えば、いささか淋しい気もする。  小樽の講演会で、満員の聴衆にむかって私が馴れない講演をしていたとき、後ろの二階席の奥の方からいきなり弥次を飛ばされた。大して意味のある言葉でもなかったが、私は横面をたたかれた気がして、しばらくあとの言葉がつかえて出なくなった。そういう私の腰のすわらない姿を自分でも恥ずかしく思ったが、どうしようもなかった。  私のあとが片岡さんだった。片岡さんは私が弥次られるのを傍で見ていた。やがて氏の話が佳境にはいった頃、さっきの男がまた弥次をとばした。すると片岡さんは話を中断してふり向いた。 「私たちはこの文芸銃後運動のために、東京からわらじばき手弁当でここまで来たんです。私たちはまじめなんだ。私の話はたといつまらなくても、諸君にも一つまじめに聞いてもらいたいと僕は思います。せっかく皆さんがこうして静かに聞いて下さっているのに、一人二人の不まじめな人のために、この会場の空気を乱されるというのは、僕は甚だ不愉快です。諸君も不愉快だろうと思う。……そうじゃありませんか皆さん」  これはアジ演説だった。片岡さんはそういう演説のやれる人だった。つまり聴衆を動かす一種の話術だった。はたして聴衆のあいだからたくさんの声がおこり、(そうだそうだ、まじめに聞け、酔っぱらいつまみ出せ)という怒号までがひとしきり渦巻いた。  片岡さんはほんの一分足らずの弁舌で聴衆を味方につけ、弥次った男を孤立無援の状態に追いやってしまった。その辺の話術の呼吸は見事なものだった。あとから人に言われて気がついたが、片岡さんはかつて左翼運動に加わり、一時は検挙されて牢屋にまで入れられた経験をもっていた。だから群衆を動かすアジ演説ぐらいは朝飯まえであったかも知れない。  冬の志賀高原、|発哺《ほつぽ》温泉の上の方へ、片岡さんとスキイに行ったことがあった。佐佐木茂索さんを始め、文藝春秋の人たちが一緒だった。片岡さんは四十四五になっていたかも知れない。スキイは巧くなかったが、驚くほどの頑張り屋だった。靴ずれで水ぶくれができ、その皮が破れているのに、山を下りるまでそれをひとことも言わなかった。文壇野球をやっても、あの骨と皮ばかりのような痩せた躰で、実に頑張る人だった。左翼運動で鍛えられた頑張りであったかも知れない。そしてどこかしら孤独な影をもった人だった。  杉並の方のお宅に、丹羽文雄、米川正夫、その他数人で、何度か夕食に招かれ、御馳走になったことがあった。別に意味のある会でも何でもなかった。そういう風にして吾々を招いて下さったというのも、晩年、なにか心さびしいものを感じていられたのではないかという気がする。多くは語らないが、批評は手きびしい人だった。 [#改ページ]         19  昭和七年から八年のころ、私は貧乏文学青年で、独り者の身軽さ、とにかく毎月四十円ばかりの収入さえあれば、それ以上は何の慾もなく、小説の勉強さえできればいいという身分だった。だから職業にも文句を言う気はない。その前すこしばかり雑誌編集の経験があったので、藤村さんという人のすすめで編集記者になって見ることにした。  それは日本で多分はじめて創刊された社交ダンスの雑誌で、誌名はモダン・ダンス。創立者は藤村浩作。この雑誌は後に誌名を変えて、いまは「ダンスと音楽」という名になっている。藤村さんはこの雑誌を三十五年も続けているわけだ。ダンス好きで音楽好きで、強い性格を温和な態度で包んでいる紳士だった。ちょうどビング・クロスビーが日本でも人気を博するようになった頃だった。  この雑誌を私と一緒に編集した青年が永田一脩という人物であった。色が白く背が高く、柔和な表情をした痩せた男だった。雑誌の表紙でもカットでも自由自在に画く、何とも器用な人だった。そのうえ英語ができてフランス語ができた。  二人で仕事をしていて段々解ったところによると、永田君はもともと上野の美術学校出身の画家で、青年期にあり勝ちな激しい思想の動きから、左翼運動に加担して逮捕され、何カ月か留置場の麦飯を食わされた。それで健康を害し、左翼運動はとても続けられないと悟って転向を声明し、釈放された……という経歴をもっていた。私が(左翼美術家)と言うと、彼はいやな顔をした。その時代のことは思い出したくないらしかった。  本来、性格的にきわめて温和な、人柄のいい人で、この人にはとても左翼運動などできそうにはないという気がした。しかし一つの事に興味をもつとどこまでも深入りして行く凝り性で、それでつい左翼運動にはまり込んだということかも知れなかった。  三年ぐらいその雑誌の編集をしていたが、私がそこをやめてから後、彼はいつの間にか靴屋になっていた。それも婦人靴の専門屋だった。靴に興味をもち、それを造るところまで深入りしたものらしい。やろうと思えば靴だって造れる人だった。私は後年モスクワでトルストイの旧居を訪れ、その遺品のなかに自分で造ったという長靴を見て、ゆくりなくも永田一脩を思い出したものだった。  しかし彼の靴屋は永続きしなかった。その後彼は西川ふとん屋の下請けで、フランスの流行雑誌の翻訳をやっていた。女の流行についても彼は一流の知識をもっていた。  その後何年かたって、次に私が彼にめぐり会ったのは毎日新聞社の出版局、サンデー毎日の編集部であった。どういう|つて《ヽヽ》で毎日新聞に入社したか、私は知らない。そこでどんな仕事をしていたかも知らないが、もともと美校出の画家であるから、グラビアの割りつけとかカットの扱いとかにかけては、専門的な腕をふるっていたのではないかと思う。  しかし一脩さんの仕事はそれだけではなかった。いつの間にか写真に凝って、立派な写真家になり、つとめのかたわらカメラ雑誌に作品を発表したりしていた。何をやっても直ぐに急所を悟り、それを以て職業とすることができるほど、器用さを通り越した立派な才能をもっていた。  私はしばらくの間、彼を写真家だと思っていた。ところがまた一二年たって彼に会うと、「ちょっと是を見てちょうだい。こういう本を出したんですよ」と言って見せられたのが、中国美術の本。それも古いものではなくて、近代の南画の諸家の作品をあつめた立派な研究書だった。  そういう最近の南画の研究を、彼はいつの間にか独りでやっていたのだった。だから私は一脩さんを、今度は中国美術の研究家だと思っていた。  そのうち彼はいつの間にか、魚釣りの大先生になっていた。魚釣りをいつからやっていたか私は知らないが、佐藤垢石みたいなおかしな釣人ではなく、本格的な、実に正道を歩いている釣の大家であるらしかった。やがて彼の書いた釣の本の寄贈を受けたが、私はその方は一向にわからない。「大物釣り」その他、釣の本は何冊も出しているらしい。  しかしこの天性の凝り屋は、魚を釣るだけでは満足しなかった。いま彼は、魚拓をつくることにかけては日本一と言ってもいい程の人物である。人の話によると彼の魚拓は外国にまで紹介されているらしい。また魚拓のつくり方の指導書も出版されているようだ。「あの人の魚拓は立派な芸術品ですよ」と、私の知人も言っていた。  彼は大磯の方に住んでいる。東京から湘南にかけての釣天狗仲間で、永田一脩を知らない者はない。また湘南の漁師仲間でも釣の先生である。もう六十六七になるであろうか。  結局彼は、生涯好きなことばかりやって来たと言えるかも知れない。道楽者と言えばこれ以上の道楽者はいない。しかし世の常の道楽者はそのために身を亡ぼし産を傾けるのであるが、彼の道楽は一つ一つがその時々の生活の支えであり、そして生き甲斐であり、しかも世間の非難を受けるような道楽ではなく、世間が|羨望《せんぼう》するような立派な道楽をやってきたのだった。  数年前、彼は毎日新聞社を停年退職して、いまは悠々自適。魚拓も造り魚も釣っているであろうが、このところ暫く会っていない。今度会ったら、また何か新しい道楽に凝っているかも知れない。せち辛い日本に住みながら、そのせち辛さを素通りさせているような、不思議な男である。それはあふれるほどに豊かな天性の才気によるものであろうか。物質的にはあまり恵まれてはいないようだが、まことに羨むべき人物である。  村松風。木偏が三つ続いている。書きにくい名前だ。一八八九年生、一九六一年歿。七十二歳ぐらいだった。亡くなる一二年まえ、鎌倉の税務署を相手に税金不払いを声明して、大喧嘩をやってのけた。それはそれで、御本人にとっては誠に筋の通ったものであったのであろう。私もかねがね税務署には腹を立てていることがあったから、遠くから声援の葉書をさし上げたような気がする。  ずっと前、水戸、宇都宮地方の講演旅行にお伴したことがある。村松さんは宿につくと甲賀三郎氏と碁ばかり打っていた。碁は晩年は素人三段ぐらいもらっていたらしかった。  税金闘争ひとつを見ても、大変にわがままで、すこしばかり常識をはずれたようなところが有った。その常識はずれは、実は外れたのではなくて、普通の人なら或る程度でやめておく筈のところを、もっと先まで突っ走ってしまうという風なものであった。  昭和三十一年頃、アジア連帯委員会という団体の文化使節という名目で、谷川徹三氏を団長に約三十人が、一カ月半ばかりの外国旅行に出かけた。柄にもなく私は副団長という名目をつけられていた。このときは風さんと、尾崎宏次、芥川也寸志、杉村春子、それに加藤唐九郎、菊池一雄、花柳徳兵衛などの顔ぶれもそろっていた。印度からエジプト、ウインナを経て、一部はソ連、蒙古、中国まで入った。  ソ連のコーカサス地方のスフミであったろうか。午後ちょっとした催物を見ての帰り、夕方の住宅街を三人ばかりでしゃべりながら歩いていると、若い二人連れが私たちを追い越して行った。その女がいかにもういういしく可愛い感じだった。すると風さんは、 「ああ良い女だな。もう一遍顔を見たいな。こっちを向かせてやろう」  そう言うといきなり大きな音をたててかしわ手を打った。ずいぶん無礼なことをする人だと私は思ったが、平素から女好きの風さんはうれしそうに相好を崩している。二人連れは時ならぬ拍手におどろいてふり向いた。普通ならばひやかされたと思うところである。女がこちらを向いたので、風さんは喜んでいる。私はやわらかくたしなめた。失礼ですよ、怒られますよ……。すると風さんは語勢を強くして、 「そんなことは絶対にないよ君。ほめられて怒る女がどこの世界に居るものか、君……。あの女だって内心喜んでいるんですよ」  しかし私は少々納得し兼ねた。水商売の女とのつきあいならそれでもいいが、淑女に対してはやはり無礼に当る筈だ。その辺の解釈の仕方が風一流のもので、しかも決して後には引かなかった。面白い人であったが、ちょっと面白すぎるようなところがあった。  それから二日目か三日目、コーカサスの雪をのせた大山脈の見えるトビリシという街のホテルで、ソ連人の通訳と街の有名な俳優と私たちと、七八人でゆっくりした夕食をしていたとき、どういう話の都合であったか、風さんが日本の天皇の悪口を言いだした。口汚いという程のはげしい口ぶりだった。それを通訳がロシヤ語に訳しているのだ。羊の肉の料理と、コーカサスの白ぶどう酒で、風さんの口調は荒っぽくなっていた。日本の天皇なんて、頭は悪くて凡くらで、あんな者はどうのこうの……という手きびしい言葉で、聞いていた私はこれは困ると思った。  モスクワへ帰ってから、私はそのことでとうとう風さんと激論をしてしまった。吾々はたとい名ばかりであっても文化使節という名目で、相手国の歓迎をうけながら旅行しているのだ。多少は公的な立場でもある。たとい天皇がどうであろうと、外国人にむかって日本の恥をさらすような発言はつつしまなければならない。第一、なにもソ連まで来てそんなことをしゃべって歩く必要はない……というのが私の主張であった。  風さんは眼の色を変えてまくし立てた。君は天皇を擁護するんですか。あんな者を何で擁護する必要があるんだね。私はどこの国であろうと私の考えている通りを言いますよ。第一君には私の発言を|掣肘《せいちゆう》するような権利はありゃしないよ、そうじゃないですか……。  これでは話にならない。結局喧嘩わかれのままだった。そしてそれからまた杉村春子さんたちと数人で、シベリヤを通り蒙古のウランバートルに着き、そこで三日を過してから北京につくまで、およそ十日間も、二人はひとことも口を利かなかった。  ところが北京に滞在していた村松さんの息子さんの暎氏が、私たちのホテルを訪ねて来た。この人はいま慶応大学の中国文学の教授だと思う。私は先輩に対して譲歩すべきだということもあり、いつまでもこだわっていて、この息子さんにまで不快な気持を与えてはいけないと考え、その時からまた風さんと話をすることにした。それで無事にすめばよかったが、もう一つ事件が起きてしまった。風さんという人はどうも、外国旅行のエチケットなどというような妥協的なことは、考えられない人であったらしい。  北京滞在のある日、政府の文化局長郭沫若氏(違っているかも知れない)が晩餐会を開いて、私たち一行を正式に招待してくれた。私と風さんとはメン・テーブルに坐っていた。廖承志が私の正面にいた。日本語のわかる人も多勢いたが、やはり何人かの通訳もついていた。  宴がすすみ、酒もまわり、二三の挨拶もあって、まずまず友好親善らしい雰囲気もでたころだった。風さんがその夜の主人のとなりの席から立ちあがって挨拶をはじめた。  始めは御招待に対する感謝の言葉。それから何度か中国に来たときの思い出ばなしに移り、そして介石に会っていろいろな話をした時のことに及んだ。その話自体は面白かった。なかなか内容のある良い話だった。  しかし時が時であり、場所が場所である。革命中国の第一のスローガンは(台湾解放)である。街の到るところに大きな看板が出ている。介石という名前はタブーのようなものだった。それも話が風さんの思い出の、(当時と今とをくらべて感慨無量なものがあります)というだけなら、別に何でもなかった。  最後にその話は、ひとことだけ多かった。つまり話のしめくくりのつもりで風さんは言ってしまった。(嘗ての英雄介石氏のために、ひとつみんなで乾杯しようではありませんか……)  風さんはグラスをあげた。しかし中国の要人たちは誰ひとりとして応ずる者はない。却って一座|しん《ヽヽ》としてしまった。これはどう考えても風さんの失言だった。私は同じ席にいて、さて是をどう収拾したものかと思っていた。とにかく一番危険な問題にまともにふれてしまったのだ。しかも祝福の乾杯である。  向い側にいた廖承志がきわめて巧みな日本語で、ちょっと要領を得ないような論理ではあったが、ともかくもその場をとりなしてくれた。風さんも失言に気がついたようではあったが、別に釈明をするわけでもなく、何とかうやむやに済ませてしまった。谷川徹三氏がアテネで病気で倒れ、そのあと私が団長という名前になっていたので、私は少々冷汗をかいたものだった。  けれども私はその前の天皇問題もあるので、ホテルへ帰ってからも何も言わなかった。風さんはその後数日のあいだ、ちょっとしょんぼりしていたように見えた。 [#改ページ]         20  風さんたちと一緒に外国旅行をしてから数年後に、私はもう一度モスクワへ行った。それはソ連作家大会に招かれたので、中野重治君と大急ぎで出かけたときだった。私の作品の露訳をしてくれたイリナ・リボワ女史(モスクワ大学教授)が通訳その他万端の世話をしてくれた。  大会はクレムリンの中の講堂のような所でひらかれた。日本で名前を聞いたことのあるようなソ連の作家はたいてい顔を見せていた。ざっと五六百人も居たであろうか。正面の雛壇のような席にはフルシチョフ、ミコヤンをはじめ政府の要人がずらりと居並んでいる。そういう所でこれから文学についての会議を開こうというのだった。  ソ連の作家にもいろいろ派閥があって、この大会で派閥の色あいがどう変るかというような微妙なものもあったらしいが、我々には一向わからない。要するに芸術創作の自由と共産主義社会への奉仕と、その二つの矛盾をどんな形でバランスを取るかということが、共産圏の作家たちの絶えざる苦悩であろうかと思われた。  フルシチョフの演説を聞かされた。えんえん四時間にわたる独演である。二時間をすぎたころに二十分ほどの休憩がはいった。こちらは一語一句わからないのだが、しかし不思議に退屈しなかった。彼は演説にかけては名人であり、あるいは名優であった。  その演説のなかに、(作家は砲兵でなくてはならない)という、例の有名な文句があった。リボワ女史が通訳してくれた。それを聞いたとき私は|かっ《ヽヽ》となった。そして共産国家が内部にあるひとりひとりの個人に対して、どれほどの重圧をかけようとしているかを考えさせられた。後日中国の劇作家田漢が批判されたり、郭沫若が自己批判したりした、あの悲劇を考えあわせても、これは疑う余地のないことだった。  その大演説のあとでパーティがあった。クレムリンの古風な装飾の多い大広間で、帝政時代がこの部屋の中にまだ生きているような印象をうけた。フルシチョフは奥の方の椅子にぐったりと坐って、流石に疲れたように見えた。リボワ女史が(同志フルシチョフに紹介するから、行こう)と私を誘ったが、私は断った。なにも彼と握手をしたからって、どうということもないし、彼を相手に文学を語る気もない。ずんぐりとした田舎おやじのような男であるが、エネルギッシュな感じだった。リボワ女史は私をあきらめて、中野君だけを同志フルシチョフに紹介した。中野君は共産党だろうから当然のことであろう。文学者は砲兵であるべしという事についても、彼は私のように真向から反対意見を示したりはしなかったように思う。  イリヤ・エレンブルグは前に日本に来たことがある為か、向うから私たちの方に近づいて来て、あした昼食に来ないかと誘ってくれた。気むずかしげな痩せた老紳士だった。  翌日、モスクワ郊外の彼の別荘をたずねた。丘の斜面に建てた古い汚い木造家屋で、土地も建物も彼のものではなく、政府が彼に使用を許可しているという風なものだった。つまり私有財産としての別荘などは有り得ないのである。大きな犬がいたし、小さな温室があった。彼の財産はその程度のものらしかった。|杏《あんず》から取った酒を御馳走になった。  うす暗いみすぼらしい書斎にマチスだったかピカソだったかのデッサンがかけてあった。私がそれを見ていたので、昼食のあとでエレンブルグは、ソ連の美術をどう思うかと私に訊いた。 「沢山見たわけではないから確信をもって言うことはできないが……」と言いかけると、「外交官のような言葉は聞きたくない」と彼は気むずかしげな言葉をはさんだ。  私は、よし来た、それならば……と思って、存分にソ連美術の悪口を言ってやった。描写に終始していて表現に乏しい、誰の作品もみな画一的だ、国家権力が芸術の自由な発展をさまたげている、云々。エレンブルグは面白くない顔をして聞いていたが、 「若い画家にはもう少し良いのも居る」と言った。画家の畑にも派閥があるらしい口ぶりだった。  その翌日の大会であったか、外国から招かれた客に挨拶の時間が与えられた。私は予定の原稿を同時通訳に廻してあったが、少々腹に据えかねるものがあったので、予定外のことをいきなり日本語でしゃべって、通訳をあわてさせたりした。つまり作家というものは何百人も集った席で今後の方針を立てたり、作品の方向を研究したりする性質のものではあるまいということを言いたかった。芸術は孤独な魂の所産である。それをソ連では大量生産の方式を考えたり、政治の道具に使おうと考えたりしているのだった。  翌日であったろうか。リボワ女史の案内でモスクワ大学の教授コンラッド博士の宅を訪ねた。狭苦しいアパート住居で、通された書斎は日本語の本で埋まっていた。にこやかな老博士は、(私は作家大会には行かない……)と言って複雑な笑いを洩らした。  この人はモスクワにおける日本語、日本文学研究の草分けのような人だった。リボワ女史をはじめ、日本文学を翻訳している人たちや、日本語の通訳をしている人たち全部の先生と言ってもいいような学者である。一時間足らずの短い訪問であったが、人柄の美しさが感じられた。  小さなオルゴールを持ち出してきて、 「これは或る日本人の客から貰ったものだ。ねじを巻くと日本の歌がきこえてくる。いかにも優しい美しい歌だ。私は毎晩ねるときに、枕もとでこれを鳴らしながら眠る。しかし何という歌だかわからない」と言って彼はねじを巻いた。  聞えてきたのは五ツ木の子守唄であった。あの歌もモスクワで聞くと意外になつかしい気がした。  私はちょうど持って行っていた日本音楽のレコードを進呈した。筝曲の千鳥と六段とを表裏に吹き込んだものだったと思う。  ちかごろ聞くところによるとコンラッド氏は、日露辞典だか露日辞典だかの編纂を畢生の仕事としてやっていられるらしい。もうかなりの御老体で、健康もよくない。  私は日本ペンクラブや、徳川義親氏が主宰している日ソ文化交流協会にむかって、コンラッド氏に日本の勲章を贈呈するように働きかけてほしいと提案しつづけているが、まだ実現されたという消息は聞いていない。毎年のように何万という日本人に沢山の勲章が贈られているが、コンラッド氏のような人こそ、日本の文化をソ連に紹介するために生涯を費した人であり、いわば恩人でもある。こういう人に勲章を贈ることはどんな勲章にもまして意義があるだろうと思うが、日本の外務省も、そういう事には頭がはたらかないものと見える。 [#改ページ]         21  正宗白鳥さんに始めてお会いしたのは、どこだったか解らない。先生は洗足池の近くに住んで居られた。昭和十五年に私は高円寺の方から自由ヶ丘の近くに転居し、十六年から駒沢のゴルフ場へよく出かけるようになった。  その頃は自由ヶ丘駅前からゴルフ場行きの小さなバスが出ていて、掘立小舎の待合室があった。私はその待合室でよく白鳥さんと一緒になった。元新聞記者の白鳥さんは、いつでも新聞を手から放さないような癖があった。そして新聞の取扱い方が大変に乱暴であった。待っているところへバスが来ると、それまで読んでいた新聞を、(|見ていた《ヽヽヽヽ》……と言う方が正確だ)ポケットに入れる。そのとき新聞を折り畳むのではなくて、まるでアコーデオンを畳むように押したたんで、紙屑を押しこむようにしてポケットに詰め込んだ。それを見て私は、(この人はもと新聞記者だ)と思った。そういう癖が終生抜けなかった。  ゴルフ場では決して他人と一緒にやろうとしなかった。 (僕のゴルフは運動だから……)と言って、独りきりですたすたと歩いて行った。始めはキャディの少年が道具をかついでついて行ったが、先生はキャディたちに嫌われて、後には誰も道具を持ってくれない。先生は三本か四本の道具を自分で持って、とっとと歩いていた。技術的にはまるで成っていなかったが、巧くなろうという気もなかったらしい。したがって白鳥さんには、(ゴルフ仲間)というものは無かった。運動のためにゴルフを続けているという老人は少なくないが、あれほど徹底して娑婆っ気を捨ててしまったゴルファーを私は知らない。むしろ言うなれば白鳥さんは、ゴルフをやっていたがゴルファーではなかったと見るべきであろう。  昭和十八年の八月であったろうか、駒沢ゴルフ場は閉鎖され、食糧増産のための麦畑にされてしまった。それから後はもうゴルフどころではなかった。白鳥さんは十九年ごろから軽井沢の別荘へ行ったきり、冬も東京には戻って来なかった。空襲におびえて暮すような事が嫌であったのだろう。  しかし軽井沢の真冬は零下二十度を越えるような日もある。もう六十になっていた白鳥さんにとっては、その極寒のなかで何カ月かを過すのは容易ではなかったと思われる。  二十年のはじめ頃であったろうか。帝国ホテルで何か小さな会があった。その席に白鳥さんも出席していた。兵隊靴のような古靴をはき、裾を締めただぶだぶのズボンで鼻水を垂らしていた。その頃の帝国ホテルの食事もみじめなもので、真黒な固いステーキが出た。|海豚《いるか》のステーキだった。軽井沢の冬は寒いでしょうと私が言うと、 「それはもう、まるで骨まで凍るようだ。しかし僕たちは若い頃から勝手気ままな暮し方をして来たので、いまその罰を受けているのだと思って、我慢している」と白鳥さんは言った。  その考え方、その発想の仕方は、やはりクリスチャンだと私は思った。私ならばいくら辛い立場に置かれても、神の罰を受けているのだという発想はうまれて来ない。  白鳥さんは東京に出てくると、昔々、つとめていた読売新聞社に立ち寄ることが多かった。そこで芝居の切符を買っておいてもらっては、東京の芝居を見に行った。読売の文化部長が年に一度ぐらいずつ白鳥さんを囲んで、六七人で食事をする会をひらいていた。私も招かれて何度か同席させてもらい、白鳥さんの芝居のはなしを聞いた。名優団十郎の思い出など、心から惚れ惚れとした話しぶりだった。  会食の席はいつもフランス料理だった。白鳥さんはフランスが好きで、フランス料理が好きだった。東京で最初にフランス料理の専門のレストーランが出来たのは風月堂だったというので、銀座裏の風月堂で会食したこともあった。そういう時の白鳥さんはおしゃべりで、いくらでも昔の思い出を話して下さった。  その席を出てから、私たちの行きつけの酒場へ先生を御案内したことがあった。白鳥さんにとっては何となく場違いのような感じであったらしいが、後日白鳥さんはその夜のことを思い出して、 「あの、何とかいう魔窟は面白かったな」と言った。銀座の酒場を(魔窟)と言ったのは白鳥さんが最初であろう。  敗戦の直後、「新生」という雑誌が出て、その経営者の青山虎之助君がひどく白鳥さんに心酔していた。先生も戦争中にたまっていた想念を発表したかったのか、続けざまに幾つかの作品を書かれ、白鳥ブームのような一時期があった。戦争から戦後の動揺した時期に、一番動揺しなかった作家は白鳥さんではなかったかと思う。昭和三十年ごろであったろうか、弟さんが亡くなられた前後のことを書いた、「去年の秋」という短篇は白鳥さんの傑作であるとともに、日本のいわゆる身辺小説と言われる作品の中の傑作であったろうと、私は思う。  或るとき白鳥さんは中央公論の文芸時評のなかで、私の作品にふれて、(石川達三は志小ならず)と書いて居られた。私は大変に有難い気がした。古風な言葉だ。しかし作家を評してその志の大小を論じた評論家は、おそらく一人もあるまい。作家と言えば売文業者であるだろうが、その売文のなかでも、私はひそかに(志操)というようなことを考え、けち臭くない仕事をしたいと望んでいた。だから白鳥さんの評言は、(あの人に解ってもらえた……)ような気がして嬉しかった。  そんな感謝の気持があったから、白鳥さんが亡くなられた時、少し風邪気味であったが、雨の中を霊前にささげる花籠をもって洗足のお宅に行った。しかし遺骸は解剖が永曳いて、まだ病院からお宅へ帰っていなかった。  二年か三年ののち、軽井沢に白鳥さんの文学碑が建てられた。私が文学碑の除幕式というものに参列したのは、前にも後にもあの時一度しかない。軽井沢の古い町並みから碓氷峠の方に、昔の中仙道をしばらく登った左の谷あいの、静かな場所だった。町の教会の牧師と合唱隊とが参列して、キリスト教式な除幕式であった。牧師は白鳥さんの事よりもキリストの宣伝ばかりしゃべっていて、私は退屈した。除幕の綱を曳いた未亡人が、もう年をとって居られて、痛々しかった。  吉川英治さんとは二十四五年にわたってのおつきあいだった。年齢的には十三ぐらい離れていたから、ずっと遠い先輩だった。文藝春秋社の恒例の文士劇に、私が宮本武蔵に扮して大熱演をやったこともある。また私がひところ軽い肥厚性鼻炎でこまっていたとき、(うちに上手な鍼医者が来るから、やってもらったらどうだ)というお話で、赤坂のお宅へ夜になってから出かけて行き、鍼の治療をうけて、ついでにコニャックなどを御馳走になったことも何度かあった。  あるとき吉川さんはゴルフ場で私のうしろ姿を見ながら、「羨しいなあ、おれの倍あるなあ」と言ったものだった。  吉川さんは一緒に風呂にはいって見ると可哀そうなほど貧弱なからだだった。こんな躰でよく「宮本武蔵」だの「私本太平記」だのといろいろ長い長い作品が書けたものだと、感心するくらいであった。そういうエネルギーがどこに潜んでいるのか不思議だった。目方は十貫目あるか無しで、私は二十貫あった。  吉川さんは伝説的に、(良い人だった、温い人だった)ということになっている。ジャーナリストを大事にして、深更まで酒のつきあいもしたらしい。ジャーナリストも吉川さんを大事にして、一方では散々甘ったれたりしながら、他方では吉川さんを甘やかして居たこともあったようだ。吉川さんに関しては批判的な言葉をほとんど聞かない。それは人徳の然らしむるところであったのだろう。  しかしそういう事がいつとはなしに吉川さんを我儘にしていた点もあったようだ。一緒に旅行する時にも鞄は人に持ってもらう、車は人が都合してくれる、自分は何もしないというのが当り前のようになっていた。  年に何回かゴルフの仲間で旅行をすることがあった。その時には重い道具があり鞄がある。きっと誰かが持ってくれるので、吉川さんはいつも手ぶらだった。それだけなら何でもないが、吉川さんが手ぶらである分を、夫人がみんな持たねばならなかった。細い躯で自分の持ち物と御主人の持ち物と、両方を持たされて駅の階段を上る。(貞女の鏡)と言われた程の夫人であったから、それを当然のことのようにしていたが、吾々の方が見かねて夫人に手伝ってあげるのが例だった。しかし吾々も自分の物を持っているのだ。そして吉川さんは|咥《くわ》え煙草でポケットに手を入れて、独りでさっさと歩いて行ってしまう。私はいつもそれを見て少々腹に据えかねていた。  あるとき、やはりそうしたゴルフ旅行の帰りで、一行十五六人、伊東かどこかの駅から汽車に乗り込んだ。私たちが荷物を網棚にのせたりしているとき、手ぶらの吉川さんは座席にすわってのんびりと煙草をすっていた。ちょうど二つ三つうしろの座席の方で、吉川夫人が鞄が一つ見つからないと言って騒いでいた。みんなで網棚をさがしはじめた。するとそのとき吉川さんは自席に坐ったまま、大きな声で夫人に、 「何してるんだ、馬鹿。ちゃんと気をつけろ」というようなことを叫んだ。  それを聞くと私は日頃から腹に据えかねていたものがとうとう爆発して、吉川さんの頭の上から怒鳴りつけた。 「あなたは何を言うんだ。自分は何もしないで、鞄も何も人に持たせて置いて、気をつけろとは何です。それ位なら自分でやったらいいじゃないか。自分の鞄ぐらい自分で持ちなさい」  まわりに仲間が何人も居たが、私を止めた人はいなかった。吉川さんは座席にすわったまま、ぽかんとして私の顔を見上げていたが、とうとうひとことも言わなかった。おそらくあの人は流行作家となって何十年、ひとから怒鳴りつけられたというのはあの時だけではなかったかと思う。甚だ心外であったかも知れない。からだの弱さもあって、人からはいたわられ通しで、その為に自分もそれを当然としているような所があって、私のような野人にはそれが神経にさわった。あの時は大変無礼なことを言ってしまったと、後では思ったが、私は後悔はしなかった。  昭和三十六年秋、吉川さんは癌の疑いで入院し、翌年九月までまる一年の闘病生活であったが、その入院する前の夏も軽井沢で、何度か一緒にゴルフをした。もはや体力の衰えが外にもあらわれていて、コースを歩きながら、一本のゴルフクラブを、草の上に曳きずって歩いていた。コースの全部は歩けなくて、たいてい半分でやめていたようであった。そして絶えず小さな咳をしていた。   ずっと昔、私がほんの駆け出しの頃、菊池寛氏に招かれて、吉川さんと晩餐の席を共にしたことがあった。それが初対面であったかも知れない。吉川さんはもう大衆小説の大家だった。私は生意気にも質問した。吉川さんは御自分の小説をどういうつもりでお書きになっているんですか……。すると、「僕はね、消耗品を書いているつもりですよ」と吉川さんは言下に答えた。「毎朝の新聞をね、サラリーマンが電車の中で読んで、それで忘れてしまうんですよ。その日その日の分を面白く読んでくれたら、僕はそれでいいと思うんだ」  文学の永遠性などということを考えていた文学青年の私は、頭をどやされたような気がした。そこまで吉川さんは腹を据えていたのだ。氏の作品は大衆小説と言われ、大衆小説以外のものでは無かったであろうが、その消耗品と自認した作品が、吉川さんの歿後も多くの読者をもち、なまじっかな純文学作品よりも(永遠性)を保持しているという事実を、私は考えない訳には行かない。 [#改ページ]         22  昭和七年ごろ、私が「新早稲田文学」の同人になって青臭い作品を書きはじめた当時、新しく四宮学という同人が加わった。どういう因縁で同人になったか、私は知らない。彼は淡路島の福良という港町に住んでいる若い歯科医であった。したがって早大系の作家ではなかった。彼の父もその町の歯科医であった。  住所がはなれているから、始めのうちは顔を見たこともなかったが、時おりの文通はあった。彼が上京したのは昭和八年ごろで、弟と二人で小さなアパートに住み、どこかの歯科診療所につとめながら小説を書いていた。音楽が好きで沢山のレコードを集めていた。せっかちで神経質でおしゃべりで、さらに生真面目で、都会ずれのしていない青年だった。私よりは四つ五つも歳下であった。安定した職業をもっているので、文学修業にも気持のゆとりがあって、懸賞小説に応募するために徹夜をつづけるという風な、せっぱ詰ったことはやらなくてもよかった。それだけに私などから見ると歯痒いところもあった。  昭和十二三年ごろ彼は郷里の方の美人を妻にむかえて、桐ヶ谷の火葬場から遠くないところに自分の歯科医院をこしらえて、看板をあげた。文学修業は片手間のかたちになったが、決してやめはしなかった。やがて長女がうまれ、次女がうまれた。  三度目に長男がうまれた時に、彼は私のうちを訪ねて来て、名前をつけてくれと言う。 「息子の名前は親がつけろよ。親の責任だ」などと私は言ったが、四宮は|肯《き》かないので、私は(|暁《さとる》)という名を進呈した。  やがて太平洋戦争は敗色をふかめ、東京も空襲をうけるようになった。私は家族を疎開させて独り東京に残り、四宮も家族を淡路に帰らせて、独りで歯科医院をつづけていた。空襲になると彼は救護班の腕章をつけて詰所へ行かなくてはならない。  そのことを不安に思ったらしく、或る日、彼は大八車を曳いて私の家まで、一竿の箪笥をはこんで来た。愛蔵の音楽レコード何十枚を入れた函も持って来た。これをあずかってくれと言う。 「焼けても責任は持たんぞ」という約束で、私は彼の荷物をあずかった。  二十年五月の空襲のときであったろうか。五反田から桐ヶ谷方面は焦土と化し、四宮医院も灰燼に帰した。その空襲がようやく静まったばかりの朝、彼はへとへとになり、息を切らしながら私の家へやって来た。 「やられました。丸焼けですよ。僕の箪笥、ここへ持って来ておいて、助かりましたよ」と彼は言った。私の家は被害ゼロであった。  箪笥をあけて、彼が喜ぶ顔を、私は横から見ていた。 (あ、これも有った。……あ、これも有る。有難い。……あ、これも有った……)まるで戦災を喜んでいるみたいだった。私は何もしたわけではないのに、四宮からこんなに感謝されて、却って恐縮だった。  焼け出された彼はしばらく淡路へ帰っていたが、平和が恢復してまた上京した。そのころ医者が足りないので、臨時に医者を養成する速成機関ができていた。彼はそこに入学して、二年ばかり後には歯科医ではなくて、普通の医者になった。そして東横線沿線に小さな診療所をひらいた。  私はこの速成の医者をあまり信用しなかった。しかし彼の熱心さと誠実さとは、やがて速成という条件を乗り越え、それから十年十五年の経験を重ねるとともに、今では街の名医になったと私は思っている。  祖父も父も脳溢血型で、私も血圧は高いが、今日まで何とか無事で来られたのは、四宮医師の診察と勧告のおかげだと思っている。また六七年前に伊豆方面の旅先で、気管支拡張症のために突然喀血したときも、四宮は自分の患者を|抛《ほ》っておいて慶応病院までついて来てくれ、担当の医者に平素の健康状態などを説明してくれた。  数年前、私は急に不整脈の発作をおこして、まる一昼夜ばかり心臓の不安に苦しんだことがあった。すると四宮医師はすぐにポータブルの心電図の機械を買い込み、説明書と首っ引きで私の心電図をとり、その方の専門書を買って研究し、更に専門の医師について学び、すっかりその方の医学知識を身につけてしまった。私が揚足とりのようなことを言って文句をつけると、彼は数冊の医学書をもって来て、(こことここを読んで下さい。僕の言うこと、間違いないです)と、むきになって抗弁した。  医は仁術という古い言葉は、もうどこにも通用しなくなったが、四宮医師にとっては今でも仁術であるらしい。貧乏人から高いかねは取れないし、さりとて見す見す治るものを、高い良薬を使わない訳には行かないと告白する。そういう彼の医者としての良心は、天性のものでもあろうけれども、永年の文学修業によって|培《つちか》われたところも有るのではないかと私は思う。  作家としては、いまだに無名の新人である。もはや五十五歳の停年に達して、いまでも同人雑誌に加入しており、ときどき短いものを書いてはいるが、ゆっくりと書くだけの時間もない。彼の小説には花柳病患者がよく出てくるし、病気にかかった一種虚無的な女性がいつも登場するが、その性格にほとんど一定の型があって、それが作者の好みであるらしい。二十年も前の作品を何度も何度も書き直しているのを見て、(そんなものは捨てて新しい作品を試みたらどうか)と、手厳しい勧告をしたこともあった。もはや数人の孫があり、私が名付け親になった長男は、人間相手の医者ではなくて、いまはたしか獣医学校へ行っている筈だ。  彼と私との交遊は三十五年ぐらいになる。いまでも彼は、(文学をはなれて僕の人生は無いです)と言う。それほど好きなのだ。しかし作家として著名でないことを、あまり苦にしてはいないらしい。こういう人が却って本当に文学をたのしんで居るのかも知れない。また逆にいえば、文学はこういう人によって最もその価値をみとめられるのだとも考えられる。短い髭を生やし、耳の上のあたりに多少の白髪をまじえ、自分で車を運転して往診に出かける。  診療所の軒には、内科、外科、小児科、皮膚科、婦人科……などと六つぐらい名前がならんでいる。私は、(まるでデパートだね)と悪口を言うが、患者には大変信用があるらしい。殊に、(四宮先生の薬はよく利く)ということで定評があるようだ。投薬にも彼の医学的良心がはたらいているのであろうか。  ちかごろは大病院に患者が集中し、町医者を軽視する風潮がある。しかし私は町の名医を信じる。人体の健康は一つの流れである。その流れを知って、これをみちびくことが医療の根本であろうと思う。だからかかりつけの町医者に自分の体質やくせを知っておいてもらわなくてはならない。四宮は私の躯をよく知っている。あるいは私よりも私をよく知っている。  私も何度か人にすすめられて、癌の定期診断などと称する簡単なドック入りをしてみたが、大病院の医者は私にとっては初対面であり赤の他人だ。私の血圧はいきなり計られると二百にもなるが、十五分たってもう一度はかると百七十に下る。初対面の医者はそれを知らないから、これは重症だと思う。そのための処置をとろうとする。だから私は近頃、大病院へはなるべく行かないことにした。  ときおり四宮は、郷里の淡路島の浜でとれた小魚の乾したものを土産にくれる。また鳴門の海のわかめを持って来てくれる。わかめは血圧の薬だと言う。ところが近頃は四宮も血圧が高くなって来たらしい。あの男に長生きしてもらわないと、こちらの命が心細くなる。彼自身は(文学をはなれて人生はない)と言うが、こちらは文学でなしに、彼の医学を頼みの綱にしているのだ。 [#改ページ]         23  信夫韓一郎氏を知ったのは、彼が朝日新聞の編集局長になった頃だったと思う。今から数えればかれこれ二十年近くになる。局長を六七年つとめ、専務を数年やって、退職してから四五年ののちに、社内の紛争がおこったのを機会に改めて顧問に迎えられてから、もう三年にもなるであろうか。  新聞社という、社会のあらゆる紛糾のまっただ中にいる、またはまっただ中に踏み込んで行くような仕事のなかに居て、彼は一種の人間ぎらいであり、あるいは多少ニヒリスト的でもある。しかし人間嫌いでありながら、人間づきあいには驚くほどこまかい心づかいをする。それが社内の女秘書、運転手、新入社員に至るまで心を配るのだから、その果てに却って自分を人間社会から隔離したくなるのかも知れない。  彼とはよくゴルフをした。ゴルフ場で昼食をとる。彼の食べ方は驚くほど早い。まる呑みのような食べ方をする。まるで胃袋の中へ飯を叩きこむようだ。(飯をくちゃくちゃ噛んでいるような奴は大嫌いだ)という。そういう気の短いところがある。持って廻ったことが大嫌いで、一刀両断、瞬時に結論をつけてしまおうとする。それだけに先を見ることは実に早い。  彼が専務の時代に朝日新聞労組が賃上げストライキをやった。労組代表にむかって彼は社側の案を提示する。それも八百長めいた懸け引きは大嫌いだから、社側が出し得る最後の線を、最初から提示した。最後の線であるから、そこからは一歩も引かない。労組の代表もそれには少々手を焼いたらしい。  社員の停年は五十五歳である。彼は、重役も六十ぐらいを停年にした方がいいと言う。そして満六十歳の誕生日に辞表を出して、すっぱりと朝日を退職した。退職となるとまた水際立ったやり方で、持株も何も全部ゆずり渡して裸になってしまった。尤もこの時は社長夫人を中心に勃発した朝日の内紛がからんでいたようであった。  大岡昇平君がこのとき信夫氏にむかって、君はどうせ一二年のうちにどこかの会社の役職につくだろうと言い、彼は、いや絶対にどこへも行かぬと言い切った。賭けるか、よし賭けようという話になり、二年を期限にして就職するかどうかを賭けた。結局信夫はあらゆる招聘を拒絶し、大岡は何万円かを彼に取られた筈である。そういうふざけた事が大好きな二人だった。  ひところ信夫は肝臓を患って、医者から酒を止められ、一日七合の牛乳を飲めと言いわたされた。その七合を苦労して飲んでいたが、たまたま数人の仲間が多摩川の岸の料亭で晩飯をたべたことがあった。他の者は鮎料理で酒を飲む。彼はオレンジ・ジュースを飲む。それが例の早さでまたたく間に六七本も飲んでしまった。 「それだけ飲んだらジュースだって害があるよ」と私は笑ったものだった。  まことに言語道断の我儘者であるが、病気の時だけは医者の言うことを忠実に守る。二年ぐらい前には白内障をわずらい、手術をした。そして当分は片眼になっていたが、それでもゴルフは欠かさなかった。  彼はひところ東京を引きはらって伊東に住み、それから真鶴に住んでいた。朝日を退職してからは九州宮崎市の郊外に一戸を新築して移転した。その時の言い分がおかしかった。 「年賀状を全部しらべて、日本中で一番友達の少いところを探したら宮崎だった」  そこで宮崎を|つい《ヽヽ》の|栖《すみか》と定めた。ところが彼の新居へ行って見ると客を泊めるための部屋があり、ベッドが三つも用意してあった。これでは人間嫌いも筋が通らない。しかも気の合った友達を、来いよ来いよと言って招き寄せる。これでは何の為めに宮崎へ行ったか意味をなさない。それを言うと、 「宮崎東京の直通便ができてなあ。一時間半で羽田に着くんだ」という。  どうしても浮世は捨て切れないのだった。そのくせ、宮崎もうるさくなったと言って、鹿児島県の|指宿《いぶすき》の方へ土地の物色に行ったりした。その時は私も少々呆れて、(一体どこまで逃げるつもりなのか……)と、苦言を呈するような手紙を送った。そのせいかどうか、指宿行きは思い止まったらしかった。  私が朝日新聞に「人間の壁」を一年八カ月にわたって連載したとき、彼は専務だった。既成政党や政治権力を批判するような内容が各所に有ったから、私は多少心配して、 「外部から何か面倒なことを言って来たりしないか」と訊いてみた。彼は言下に、 「いや、何もない」と言った。  しかし連載が終ったあとになってから、 「いや、本当言うと、ひどい眼に会ったよ」と言った。連載が続いている間は、私にひとことも知らせないで、存分に書かせながら、実はひとりで外部からの圧力と黙って闘っていたのだった。  圧力というのは右翼的な勢力、保守党的な勢力であったらしい。詳細は知らないが、実業界にはたらきかけて、朝日新聞に出す広告を止めようとした。事実二三の会社は予約してあった広告を撤回したりしたらしい。これは新聞社としては糧道を断たれるようなことで、大問題である。彼がどんな対策を講じていたか、私は知らない。後になってそれらしいことを聞かされて、私は信夫韓一郎という人の言論人としての信念の強さと、人間関係に於ける信義の堅さとに敬服した。  宮崎市内を走る車は時速三十キロ以下と定められている。彼は小型のぼろ車を運転している。三十キロ制限ののろくささに腹を立てて、四十キロで走る。するとすぐ交通巡査につかまる。狭い街だからたいていの巡査が顔なじみで、 「またあなたですか、困りますねえ」と言う。丁重に謝って勘弁してもらう。  雑談をしている時には大変な悪たれ口を利くが、手紙を書くときは叮寧な文字で、礼儀正しい文章を書く、二重人格という訳でもないらしい。朝日新聞に急用があるときは、宮崎東京間を日帰りで往復したりしているようだ。それを当り前だと思っているところは、老いてもなお新聞人の根性である。  大正十五年の六月ごろ、私は早稲田高等学院の二年生だった。文芸部という学生グループの主催で文芸講演会を大学講内でひらいたことがあった。講師は高須梅渓、久保田万太郎、本村毅、佐佐木茂索という顔ぶれだった。  私は幹事として講師控室に詰めていた。私が佐佐木茂索さんを知ったのは、それが最初だった。大島か何かの着流しで、黒足袋に雪駄ばき、パナマ帽子をかぶって、籐のステッキという伊達な姿だった。木村毅、久保田万太郎氏等の噂によると(佐佐木のやつ、ふさに首ったけだな)という話だった。女流作家大橋房子と結婚してまだ二三年という頃であったらしかった。  それから後ほとんど八年間の断絶がある。二度目に私が佐佐木さんに会ったのは、昭和十年の七月、芥川賞が決定して私が文藝春秋社に呼ばれた時だった。佐佐木さんは専務の部屋にひとりきりで坐っていた。 「君の作品が芥川賞に当選ときまったが、受けてくれますか」という御挨拶だった。私はただ、有難くお受けしますと答えただけで、四五分の面会で辞去したように思う。人に接する時の態度 が厳正で、一分の隙もないような感じの人だった。池島信平君の言葉によると、(あんな頭のいい人、見たことがない)という、その聡明さが容姿からあふれているようで、近づきにくかった。  たしか八月のはじめに、菊池社長の部屋で略式の授賞がおこなわれた。菊池寛氏は佐佐木さんとはまるで印象のちがう、まことにざっくばらんな人で、社長室もごたごたと散らかって居り、将棋盤があったり馬の置物があったり紙屑が落ちていたりという風だった。直木賞の川口松太郎氏も同席だった。私が菊池さんに直接お会いしたのはその日が最初だった。  それから後、私が菊池さんにお会いしたのは数えるほどしか無い。新橋の料亭につれて行かれ、久米正雄氏や吉川英治氏と同席したこともあった。菊池さんは鮎がきらいだったらしく、見事な鮎を、 「君、たべないか」と言って私の膳に移してくれたこともあった。  当時の菊池寛は文壇の大御所と言われ、文士と名のつく程の者は争うて接近して行くような風があった。私は芥川賞の関係から言っても、菊池さんに接近しても別におかしくはない筈であったが、権威者の前に尻尾を振るように見られるのが嫌で、殊更に遠ざかっていた。年齢から言っても地位から言っても、個人的にはほとんど用事などは無かったが、原稿を持って行ったとき、社員にさそわれて社長室に顔を出してみる位のことはあった。そういう疎遠なままで何年も過ぎた。  佐佐木さんとはもっと疎遠であったかも知れない。昭和十六年から私は運動のためにゴルフを始め、それが縁となって藤沢や川奈のゴルフ場でお伴をしたことが数回あった。  菊池さんは東京市会議員を一期だけつとめたことがあった。その期間中の某日、記憶ははっきりしないが、道を歩きながらの話だった。 「市会なんて君、詰らん所だねえ。本当に詰らんよ。時間が無駄になってね。もう僕やめるよ……」そんな風なお話だった。午前十時開会予定の会議が夕方六時になり七時になる。それが毎度のことで、菊池さんはすっかり腹を立てていた。  要するに文士と議会などというものは縁が無かったようだ。菊池さんはそれっきりで、直接政治の場にはいろうとはしなかった。山本有三、金子洋文、中野重治氏等、参議院に議席をもった人たちも、あまり永続きはしなかった。  戦後一年ぐらい経った頃であったろうか、何かの折に菊池さんにお会いしたとき、 「芥川賞と直木賞を復活しようと思っている。復活したら君は銓衡委員になれ」と言われた。  私はまだ駆けだしの時期をようやく終ったくらいで、銓衡委員はおこがましいとは思ったが、直接の御下命であったから、ただ素直にお受けして引き下った。賞が復活したのはその翌年くらいであった。それからもう二十年以上になるが、私は菊池さんが創設したこの事業をお手伝いするつもりで、また直接委嘱された仕事の責任を果たすつもりで、委員をつとめて来た。  二十二年の始め頃であったろうか。私は自動車の運転を覚えようと考え、ときおり教習所に習いに行っていた。終戦の前後、交通機関が大混雑して、家族を疎開させるのにも私は大変な苦労をした。非常事態が起ったとき、国家はたよりにはならない。一般の交通機関はあてにならない、自分で機動力をもつ必要がある……というのが運転を始めた動機だった。贅沢ではなくて、必死だった。ある作家はそういう私の気持を知りもしないで、(作家が自動車を乗り廻すなんて邪道だ。電車の中で庶民の生活の実態にふれるべきだ)というようなことを言ったものだった。その作家はいま高級車ベンツに乗っている。しかし私は機動力をもつことだけが目的だから、絶対に高級な外車は買わない。  私が運転の勉強をはじめて間もなく、文藝春秋の一記者が、菊池さんの伝言をつたえてくれた。(運転免許をとるつもりなら、警視庁の交通関係の良い人を紹介してやるから一度おれのところへ来るように、石川に話してくれ……)というのだった。その頃は免許をとるのがなかなか厄介であったらしい。  私はびっくりした。菊池さんがそんな事にまで私のことを気にかけていて下さったのかと思い、それまで意識的に疎遠にしていたことを相済まなく思った。その後間もなく、私は雑司ヶ谷のお宅を始めて訪問した。運転技術は一向すすんでいなかったので、まだ係の人を紹介してもらう所までは行かなかった。十分か十五分で辞去したように思う。  それから一年ちかく経って、二度目にお訪ねしたのは、何の用事だったか記憶にない、約束もしないで不意の訪問だった。 「いまから僕は出かけるんでね、新橋の方だよ。一緒に行こうか」と菊池さんは言った。 「僕は公職追放のことでね、佐藤観次郎君に会うんだよ。新橋のそばにトンカツのとても旨い家があってね。そこへ行くんだ」  私は先生の車に同乗した。がたがたした具合の悪い車だった。新橋駅から虎ノ門の方へすこし行った左側のレストオランが目的の家だった。私と佐藤観次郎氏とはトンカツを食べ、菊池さんはステーキか何かを食べた。佐藤氏は代議士に当選していて、菊池さんの公職追放解除のために奔走していたらしかった。  食事のあとで新橋に近いダンスホールへ行った。私は菊池さんのダンスというものを始めて見た。大変に横着なダンスで、自分は立ったままほとんど動かず、相手の女をぐるぐる廻らせているようなダンスだった。後から考えてみると、それは自分の心臓をいたわっていたのだろうかと思われた。  翌日から菊池さんは腹具合がわるくなって寝こんでいた。私は何も知らなかった。一週間ほどたった三月六日の夕方、私は友人の家で酒を飲んでいた。ラジオ・ニュースが菊池さんの急死を伝えた。私はその場からすぐに菊池さんの家へかけつけて、遺骸の前に|跪《ひざまず》いた。この人からわざと意識して遠ざかったりしたことのあさはかさを後悔し、この人の好意に何ひとつ応えることができなかったのを相済まなく思った。晩年は、追放問題がおこったり、多年育てて来た文藝春秋社を解散したりして、時代の苛酷さが一度に先生の肩に降りかかったようで、内心はなはだ淋しかったのではないかと思う。  初対面のころ、ずいぶんとっつきにくかった佐佐木茂索さんと、気楽に打ちとけてお話できるようになるまでには、何年もかかった。その間に私の方も年をとって行ったし、佐佐木さんも厳しい姿勢を次第にくつろがせて来られたかも知れない。  戦後、ペンマン・ゴルフという会の仲間に入ってから、ゴルフ場でたびたび一緒になったし、芥川賞の委員会では一月と七月と二回、必ず同席した。文藝春秋社の忘年会とか、秋の文士劇とか、こちらから特にお訪ねすることはほとんど無かったが、お会いする機会は次第にふえた。ひところはよく佐佐木さんと碁を打った。油断のならない厳しい碁で、私よりは二目ぐらい上だった。  佐佐木さんの公職追放が解除され、迎えられて再び文藝春秋新社の社長になってから間もない頃だった。或日、私に電話がかかって来て、今から訪問したいということだった。 「御用でしたら私の方から参ります」と答えたところが、 「いや、ぼろ車があるから僕が行く」というお話だった。  私は何事だろうかと待っていると、やがて佐佐木さんがおいでになって、今度「文學界」の刊行を引き受けることになった、ついては連載小説を書いてもらいたい、という。そのあとにつけ加えて、 「菊池が文藝春秋を創刊したとき、自分で足を運んで原稿をたのんで歩いたものだった。それを思い出して、僕も自分で足をはこんで原稿をたのむのが当然だと思った。そういうわけで、いろいろ都合もあろうが、ひとつ引き受けてくれ給え」  謙虚といえばまことに謙虚であるが、そこまで事を分けて話をされては、後輩の私としては二の句が継げなかった。有難くお引き受けするより仕方がない。そういうところ、佐佐木さんは出版社の社長であると同時に、先輩作家であった。これが新潮社、中央公論社、岩波などであったら、相手が社長であろうと誰であろうと、都合が悪ければ辞退もできるが、佐佐木さんに対しては私はそれができなかった。つまり佐佐木さんの原稿依頼その他のおはなしからは、文藝春秋社の営業以外のものを私は感じていた。もうけ仕事でやっている人とは思っていなかった。むしろ、本当は小説を書きたい人であろうと、最後まで思っていた。その点、文藝春秋社長であることに、御自分であきたりない思いもして居られたかも解らない。  健康がおとろえて来たのは三十六七年ごろからであったろうか。秋の文春祭りのあとの社長挨拶は、なかなか洒脱な面白いものであったが、それがいつとはなしに大儀そうに見えてきた。或年の秋には、(来年ももし命あらば……)というような言葉があって、ぎくりとさせられた。  その頃から新社屋建設の計画がすすめられていたようであった。前後三年ぐらいかかったであろうか。昭和四十一年の三月ごろ、落成披露会が新しい建物の八階か九階か、上の方でひらかれた。私たちがエレヴェーターで上って行くと、会場入口に池島専務以下重役諸君が居並んで、客を迎えてくれた。そして佐佐木さんは、その横の方で椅子に坐ったまま、頭だけで客に会釈していられた。疲労困憊したというような姿だった。それを見たとき瞬間的に、気をつけなくてはいけないと私は思った。社屋は落成し、文藝春秋社もこれで全く安定した基盤に乗った……ということの安心感から、佐佐木さんは気落ちがしたのではないかと思った。  その後、佐佐木さんの疲れたような姿を見るにつけて、私は落成式のときの不安を幾度か思いうかべたものだった。  それからが本当の晩年であった。自分の健康に自信を失い、医学書を読みあさり、いろいろな薬を飲みながら、鬱々として暮していた。生きていることが大儀なように見えた。老人性の肺気腫があって、いつも重い咳をしていた。それでもその年の夏はまだ軽井沢で、一緒にゴルフをした日もあった。たいてい半分でやめていた。  その年の十月、入院されたと聞いたときは、あまり意外とは思わなかった。病状はむしろ軽いような話で、静養がてらの入院のように思われた。十日ぐらい経ってから急変を聞いた。その時はもう全身的な衰弱で、どうにもならなかったようであった。吉川英治未亡人と私の妻とが徹夜で病床につき添い、臨終まで見まもった。臨終と思われてから、更に数時間にわたって微弱な呼吸が続いていた。病院長冲中博士は、 「非常に聡明な人ですから、ここで眠ってしまったらもう終りだということが解っていらっしゃるんです。意識はほとんどありませんが、眠るまいとして必死に闘っておいでになるんです。偉い人ですなあ……」というようなことを言った。たくさんの臨終を見てきた筈の冲中さんが、そう言って感歎したのだった。  いつ息が絶えたか解らないような静かな臨終であった。  他人に対して深い思いやりを持ちながら、それを口に出して言うことが嫌いな人だった。私の娘は私に無断で入社試験を受けて、文藝春秋社員として三年ばかり勤めていたが、佐佐木さんは娘についてほとんどひとことも私に言ったことはなかった。娘の縁談についても、ひそかに心を配って下さったようであるが、恩きせがましいことが大嫌いだったらしく、それらしい様子は全く見せない人だった。冷淡と思われるほど控え目でありながら、奥の方には深い配慮があった。どんな相談をもって行っても、理路整然たる返事をして下さる人だった。理論の下に温い配慮がかくされていた。  四十二年の晩秋、一周忌の法要が鎌倉の東慶寺で行なわれた。集った人々の顔ぶれを見て、佐佐木さんの人柄が偲ばれた。すばらしい秋晴れの日で、巨木の銀杏の黄葉が日光に照り映え、黄色い炎のように美しかった。新しい墓標は故人の静かな人柄をそのままに、つつましく清潔だった。 [#改ページ]      
出世作のころ

   1 小説との出会い  日露戦争の終わった年、明治三十八年のうまれ。五黄の|巳《み》歳。この年、日本狼が絶滅したということになっている。だから同年の仲間たち、入江相政、木村義雄、玉川一郎、馬淵威雄、志村喬などの仲間が集まると「おれたちは日本狼の産まれ替わりだ」と称する。  昭和十年八月、芥川賞を頂戴した。満三十歳。だから世間の人たちは「蒼氓」を私の出世作だと言っているらしい。自分ではそんなことを思ったことは一度もない。自分の作品でも他人の作品でも、運のいい小説と運の悪い小説とがある。さほど上等の小説でもないのに、ばかに世間でもてはやされたり、名作扱いされたりするものもあるし、それよりは数等すぐれているはずの小説が、意外に世間から黙殺されたりすることもある。同様に、大した作品を書いてもいないのに流行作家にされてしまう人もあり、立派な作品を書いているのに世間からはさほど騒がれない作家もいる。  世間の評価などというものは決して公平でもないし順当でもない。いわんや雑誌社、出版社の宣伝文句が、その作品の真の価値を示すはずはない。出世作というレッテルも出版社の商策以外のものではないので、そんなレッテルを貼られて作者自身が良い気持になれるはずもない。  小説家を志した動機は何であったか解らない。身のまわりに作家またはそれに類する職業の人は一人も居なかった。ただ父祐助は道楽で俳句をやっていたし、父の弟の石川六郎は終生新聞記者であったが、若いころに小説を書こうと考えたことがあったらしい。祖父は南部藩の祐筆であった。だから多少、文科系の血統ではあったようだ。しかし多勢いる兄弟のうち、長兄は軍人、次兄は経済ばたけ、弟は法律家、生物学系統等々、私と似たような職についている者はいない。  大正十四年の春、早稲田高等学院に入学して英文科に籍をおいたが、将来の職業として予定したものは無かった。卒業したら新聞記者にでもなろうかと漠然と考えてはいたが、それとても特に希望していたわけではなかった。  それ以前からときたま小説らしきものを書いては居たが、大学ノートに書いてみる程度のことだった。自分が作家になれるとも思っていなかったし、作家とはどんなものかも知らなかった。第一、小説というものすらも碌に読んではいなかった。それまでに読んで面白かったのは黒岩涙香の「巌窟王」、一番感動したのは中学三年生のときに読んだ賀川豊彦の「死線を越えて」であった。しかしこの二つからは文学の香気を感じたというわけではなかった。  最初に、これが文学というものだろうと思ったのは、アナトオル・フランスの「S・ボナールの罪」の訳本だった(訳者・松村みね子?)。軍人の兄が休暇に帰ったとき、置いて行ってくれた本だった。私は四五回も通読し、文学というものの手ざわりを知った。それから同じ作者の短篇集を読み、更にこの作者の文学的態度に感心したものだった。  早稲田高等学院に入学したのは、なにも早稲田精神にあこがれた訳ではなかった。私学は授業料が高いし、東京で下宿しなくてはならないので、私の家の経済としては無理だった。だから自宅から近い岡山の第六高等学校を受けたが、二度も落第した。やむを得ず早稲田を受けてすらすらと合格したが、もしも六高に入学していたら、作家ではなくて何か他の職業についていたかも知れない。  早稲田は高等学院の時代から、文科には文科の雰囲気が充分にあった。その雰囲気にやしなわれて、結局作家を志すことになったのだと思う。つまり、三年もかかって決心がきまった、というような具合だった。同級生があつまって同人雑誌を作ったり、築地小劇場にチェホフの芝居を見に行ったりした。そしていつとは無しに文学的なものの中で生活することになった。  けれどもその当時の文学熱は、いわば趣味的なもの、あるいは頭だけのものであって、文学が肉体化されてはいなかった。肉体化といって悪ければ、生活とはどこかかけ離れたものだった。もちろん将来は職業として小説を書くつもりではあったとしても、文学が自分の血肉にまではいってはいなかった。したがって作品は小手先の器用さだけでまとめたようなものに過ぎず、文学そのものの理解の仕方が、技巧的な面からの理解が多かった。そして文学をそのようなかたちだけで理解していた仲間は、みな中途で文学を抛棄して他の職業に行ってしまった。つまり、「いつまでもこんなことをしては居られ」なくなったのだ。私自身も何度、気持がぐらついたか知れなかった。 [#改ページ]    2 雨の移民収容所  中央公論社や改造社の懸賞小説に応募したこともあり、新聞社に原稿をもって行ったこともある。しかし何の手ごたえもなかった。私は気を腐らして映画俳優になってやろうと思い、松竹蒲田撮影所へ行ってみたこともある。南米移民の船に便乗してブラジルへ行こうと思い立ったのも、そうした気持の迷いからであり、若気の至りでもあった。  兄の友人が海外興業という移民取り扱い会社の社員で、来年の三月に移民一千人を連れてブラジルへ行くという話を聞いたのが、前年の六月ごろだった。私は早速便乗手つづきを頼みこみ、それから一生懸命になって貯金をした。翌年の三月、神戸を出るとき私のポケットにあったかねは、大体六百円だった。  当時の移民には政府補助があり、補助は一家族単位に限られていたが、私は特にたのみこんで、政府補助単独移民ということにしてもらった。二十五歳の春である。補助を受けた移民は指定された珈琲園にはいって一年間は動いてはいけない規定になっていた。そんな規定も一切苦にならなかった。私はブラジルに住みついてもよし、帰国してもよし、行って見なくてはわからんという風な、いい加減な気持だった。そこはひとり身の身軽さである。日本に帰ってどうしても文学をやろうというほどの執着心はなかった。第一、私自身が文学からしめ出されていたような気持であった。  しかし指定された三ノ宮駅上の移民収容所に、指定された三月八日の朝、身のまわりの荷物をもって集合した時になって、私のいい加減な量見はたたきのめされたような気がした。そこに全国の農村から集まった千人以上の農民家族は、みな家を捨て田畑を捨てて、起死回生の地を南米に求めようという必死の人たちだった。その貧しさ、そのみじめさ。日本の政治と日本の経済とのあらゆる「手落ち」が、彼らをして郷土を捨てさせ異国へ流れて行かせるのだった。移民とは口実で、本当は「棄民だ」と言われていた。  小雨の降る寒い日だった。バラックの待合室の中は人いきれとみじめさとで、居たたまらなかった。私は雨の中にひとり出て行き、赤土の崖のふちにうずくまり、だれにも顔を見られないようにして、しばらく泣いていた。私はこれまでに、こんなに巨大な日本の現実を目にしたことはなかった。そしてこの衝撃を、私は書かなければならぬと思った。これを書くだけの力はない。しかしいつの日か、何とかして書かなくてはならぬと思った。私はこの時はじめて「作家」になったのかも知れない。これまでは学生仲間と同人雑誌をつくったりして「文学ごっこ」をやっていたが、あんな甘い量見で、あんな技巧的な理解の仕方で、この移民集団の現実が書けるはずはない。もっと別の態度で、もっと別の立場で書かなければならない。たとえそれが形において文学的に不完全なものであろうとも、そんなことは考える必要はあるまい。文学が至上ではない。この現実を作品に書くという、そのことの方が大切ではないだろうか……。  その日の小雨の中で、これだけのことを考えた訳ではない。私はただ心の衝撃に打ちのめされていただけであったが、その後三十年以上にわたる私の作家生活の、根本的な性格はあの日にきまっていたのかも知れない。  私にも幾つかの私小説的な作品はある。しかし、いわゆる日本の伝統的な私小説は私の肌には合わなかった。そのことは作家としての私の一つの欠点として数えられているらしい。そういう批判を私は承知のうえで見過ごしてきた。  私は小説のために小説を書こうとは思わない。何のために書くか、という問いは私の頭から離れたことがない。人生のために、社会のために……と言うと大袈裟に過ぎる。私は国士でも何でもない。一介の文士にすぎない。しかし私は自分の書いたものを、人に読んでもらうためには、読者の心に訴える何ものかがあると思わなくては、書く気になれない。読者にむかって何を訴え、または何を語ろうとするのか。  単なる情痴小説、単なる恋愛小説、それから身辺雑記的小説、そういうものを書くことに、私は興味をもたない。年齢を加えてくるにつれて、ますます興味をうしなった。そうした私の傾向の最初のあらわれが、あの移民収容所での感動の日であったように思う。  だから厳格な意味で言って、私は純粋な意味の作家ではなくて、作家という仕事を手段としているのだ、と言われても仕方がない。私はいわゆる文士らしい文士、ことに破滅型と言われる文士たちを、好きでない。小説と心中するような文士のタイプを、好まない。私の仕事は問題小説とか社会派小説とか、いろいろなことを言われた。そしていつでも、いわゆる文壇の主流からすこし離れた、孤立した道をひとりで歩いて来た。 [#改ページ]    3 同人誌に加わる  青二才の文学青年の時代から、私には師と呼ぶべき人はなかった。これは多分、ほめた話ではない。漱石門下とか紅葉門下とか、文士の世界にも師弟関係はすくなくないし、師の教えを受けて大成した弟子の数も多い。教えを受けるということは、それだけ得をすることであろう。  しかし私は性格的に師を持てないたちであったらしい。子供の時からキリスト教会に親しんで来たが、ついにキリスト教徒にはなれなかった。共産主義者にも国粋主義者にもなれなかった。不偏不党というと聞えはいいが、実は自分が偏狭なためであるかも知れない。それとも依怙地なのか。独立自尊などという立派なものではない。むしろ言うなれば、多少の懐疑派であり、意地わるであった。素直に物事を信じるたちではなかった。  文学青年の仲間では、事ごとに異を立てるやつだと言われていた。右と言えば左という、へそ曲りだった。その性格は今日までなおってはいないらしい。そのために師をもつことも出来なかったのであろう。師というものに束縛されることが嫌だった。自分勝手に歩いて行きたい。それだけ苦労も多く、余計な回り道もしたかも知れない。三十五六になってからゴルフを覚えて、二十何年も続けているが、教師についてゴルフを習ったことは、初心のころ、三十分ずつ二回ぐらいしかない。あとは先輩や仲間のゴルフを見ては|業《わざ》を盗みながら、自分の技術を育てて来た。だからきまった師というものはないが、吉川英治がよく色紙に書いていたように「われ以外、みな我が師」であった。それほど謙虚ではない。ただ持って生まれた一種の器用さがあって、何もかも器用さでごま化して来たようである。  五十ちかくなってから道楽に絵を描きはじめ、もう十五年も続けているが、これもまた絵の先生というものは無い。画廊をのぞいてみたり画集を見たりしながら、彼らの業を盗み、技法を盗み、あとは自分の器用さだけをたよりにして、近ごろはともかくも絵らしいものが描けるようになって来た。それが私の行き方で、終生このままで行くらしい。  これは一種孤独な性格であろうか。青年時代にアナトール・フランスからは何かしらの影響を受けたように思うが、日本の先輩作家の作品に心酔したというようなこともなかった。横光氏の短篇は好きだったし、泉鏡花もおもしろかった。新興芸術派の龍膽寺雄、吉行エイスケ、中村正常というような人たちが一時にぱっと文壇に出て、これまでとはまるで手ざわりの違った新しい小説を発表したころ、私はちょうど文学青年で|もたもた《ヽヽヽヽ》していた時分だった。そして彼らの新しさに目をみはったものだった。しかし彼らの作品をまねようという気にはなれなかった。  一方では左翼文学が波のようにわきあがって来て、これもまた私たちの気持をゆさぶった。しかし私はそういう作品にも批判的だった。  結局は孤独。それも孤独に自信があったわけではなくて、ただ何となく孤独だった。昭和四年、五年ごろは本当にひとりきりで、仲間も何もなしに、ただ自分勝手に書き、それでも何かしら新しい文学を心にだけは描いていた。  昭和六年の春だったろうか、私は同人雑誌「新早稲田文学」の同人に入れてもらった。実はそういう雑誌があることも知らなかった。金谷完治という人が同人のひとりで、多分朝日新聞の社員だった。私の叔父石川六郎が朝日の学芸部長をしていて、金谷氏にむかって、自分の甥に達三という文学青年がいるから仲間に入れてやってくれというような話をしてくれたらしい。  それから聞いてみると、この「新早文」を主宰しているのは白石靖と言って、早大の先生であった。この人は早大英文科を卒業してすぐに早稲田高等学院の教師になり、最初の年に教えたクラスが私たち英文の組だった。坪内さんの弟子になる人で、芝居好きで、ときどき戯曲を書いていた。どこかの新劇団にも関係していたらしい。  私は同人に入れてもらうために白石さんの家をたずねて行った。四谷番衆町という、新宿の裏街のようなところだった。行って見ると早大英文科で同級生であった秋葉和夫が先生の家の二階で雑誌の校正をしていた。やあやあ……というような具合である。  私は同人雑誌の仲間というのを、まるで知らない人たちばかりだろうと思っていた。ところが白石先生が居り、秋葉が居り、佐藤義美が居た。まるで昔の早大の仲間に逆もどりしたようでうれしくもあり心強くもあった。私が早大を中退してから三年ぐらいたっていた。 [#改ページ]    4 「新早文」の人日  白石先生にはずいぶん御迷惑をかけた。校正するために先生のうちに集まって夜になると、御母堂に甘ったれて一本つけてもらったり、先生を誘惑して新宿へ飲みに行ったりした。  当時先生はまだ独身であったが、そのうち奥さんをもらった。みんなで示しあわせて「白石さんの花嫁さんを見に行こう」と言って押しかけたりした。 「新早文」が三年あまり続いて解散してから、わずか二三年後に白石さんは結核でなくなった。結局先生には迷惑のかけっ放しであった。  秋葉和夫は千葉県の産まれ。文学的にはなかなか繊細な感覚をもっており、批評眼もたしかだった。しかしそういう繊細な感覚をもった人に限って寡作であり、自分の作品について懐疑的になるものらしい。佐佐木茂索さんを私は一つの例だと思っている。秋葉も寡作で、一種のなまけ者だった。そして酒好きだった。私は彼をどれほど激励したり悪口言ったりしたかしれない。  しかし彼は結局創作の筆を捨てて実業之日本社にはいった。入社してからは、実直でもあるし才能もある男であったから、相当に良い地位を与えられ、停年の後まで嘱託か何かで社に残っていたらしい。  佐藤義美は学生時代から詩人として活動していた。彼が「新早文」に発表する新しい形式の詩は、私たちにはちょっとわからなかった。飄々としてつかまえどころの無いような男だった。結局私が学生時代から一番ながくつきあって来たのは佐藤義美であるかも知れない。彼は今も童話作家、童謡詩人として仕事をしている。そして早大英文科を志して高等学院に机をならべた中で、創作的な仕事を最後まで続けたのは佐藤と私だけということになった。  私は「新早文」の同人になると、急に活溌に仕事をはじめた。一年間に出す十二冊のうち八回ぐらいは私の短篇をのせてもらった。私には秋葉などのなまけぶりが理解できなかった。私はほとんどスランプを知らない文学青年だった。それは自分の仕事について無反省ということであったかも知れない。けれども創作の仕事は反省だけでは成り立たない。丹羽文雄の言葉を借りれば、「作家は書くことによって考える」ということも少なくない。書くことによって自分の欠点は余すところなく現われてしまう。反省は書いてから後の仕事だ。  そのころの同人費は毎月五円。二十人の同人費がはいれば百円。一カ月分の雑誌が八十ページぐらいで約二千部刷って、七十円から八十円で出来た。ところが同人はみな貧乏文学青年で、同人費が五十円か六十円しか集まらない、不足分はたいてい白石靖氏が早大の月給のなかから支払ってくれた。しかしそれも限度のあることで、だんだん借金がたまった。印刷は共同印刷がやっていた。共同印刷は早大とは何か縁故のふかい会社であったらしく、こんな小さな印刷を片手間にやってくれたらしかった。私たちは、 「なに、構うものか。相手は共同印刷だ。少々借金をためたってつぶれやしないよ」などと太平楽をならべていた。  そのころの同人は、秋葉、佐藤のほかに、淡路島の歯科医四宮学がおり、埼玉県行田の足袋工場の社長秋山正香がおり、印刷会社のサラリーマン中村梧一郎がおり、われわれよりは五六年先輩の中山義秀がいた。  中山義秀は早大で横光利一と同級生だという話で、私たちは一目も二目もおいていた。ときたま同人の合評会などに出て来ても、床柱を背負って傲然としていた。彼は「文芸共和国」という同人雑誌をやっていたらしいが、同人雑誌の命数はたいてい三年までときまっていた。「共和国」がつぶれたので中山義秀は、そこの同人であった鈴本徳治と八木久雄とを連れて来て、「新早文」の仲間にした。  私は八木久雄の紹介で、蒲田の方のアパートに住んで大衆小説の勉強をしているという青年を知った。その青年が恋愛をしているというので、八木はひやかしたり片棒かついだりして面白がっていた。その青年というのがやがて大衆作家となって、現在は放送作家組合の理事長になっている大林清である。  私はあるとき、「襟をひらく女性」という短篇を書いて、多少自信があったので、「新潮」にのせてもらいたいと思って、当時新潮社に籍のあった加藤武雄氏に送った。しかし二カ月たっても三カ月たっても風のたよりもなかった。紹介も何もなしにいきなり送ったのだから、こちらの注文も無理なはなしだった。  四カ月ぐらいたってから手紙を出して、原稿を返してもらい、それを「新早文」にのせた。これは中山義秀がほめてくれた。自分としては多少新しい方法を試みたつもりだった。そのころの中山義秀は「議秀」と書いていた。言偏を切り捨てるようになったのは、横光利一氏に忠告されたからだという話だった。 [#改ページ]    5 借金で雑誌廃刊  私が「禁断」という短篇を「新早文」に出したとき、秋葉は校正をしながら涙が流れたと言った。 「ばかばかしいと思いながら、どうしても涙が出るんだよ。変な小説だ。石川の小説は売りものになるよ」  売りものになるというのは、ジャーナリズムにのせて商売になる作品という意味だった。同時にそれが非難でもあった。面白すぎるというのだ。私は意識して小説を面白く書こうと考えていた。何年か前に、朝日新聞社の学芸部長をしていた叔父のところへ長篇小説を持って行って、読んでくれと頼んだことがあった。一週間たって行って見たら叔父は始めの五六枚を読んだだけでやめてしまったと言った。面白くないと言うのだ。 「僕は面白く書こうとは思わない。面白くなくてもいい。たとい五人か七人でも読んでくれればそれで満足するんです」というような生意気なことを、私は昂然として言った。すると叔父は、 「それもわからなくはない。しかし同じことを書くにしても、それが面白ければなお良いじゃないか。面白く書けないのは腕が足りないのだろう」と言った。  いかにも新聞記者的な言い方だったが、私は青二才の頭をどやしつけられたような気がした。爾来、自分のえらんだ主題を、どんな風に書けば面白く読ませ得るか、ということを考えるようになった。その結果が秋葉の批評のような、「売りもの」になる作品になって来たのだ。それは大衆的になったということであったかも知れない。芥川賞をいただいてから後、たとえば週刊朝日に書いた「転落の詩集」とか、「若き日の倫理」とかではそれが大いに役立った。しかしまた同時に、ずっと後年になってから、その大衆性をどう清算するかということについて、また別の苦心をしなくてはならない原因にもなった。 「新早文」はたしか昭和七年の一月号で終わりになった。借金で首がまわらなくなったのである。最後の号に私は「毒草苑」という短篇を書いた。これは時事新報(?)の月評で林芙美子氏が賞讃してくれた。「読みながら私は幾度か涙を催した」と書いてあった。私は良い気持になっていたが、後年林さんを知るに及んで気がついた。林芙美子という人は大変に涙もろい女性であった。  雑誌の借金がたまると、白石さんは共同印刷に対して顔が立たなくなった。そこで経理一切は私が引き受けることにした。それと同時に印刷所を町の小さな店に移した。共同印刷には二百何十円の借金があったが、それはとうとう踏み倒した。踏み倒すことについては大して良心が痛まなかった。文学青年たちが印刷屋の借金を踏み倒すのはほとんど通例になっていて、われわれと同年代の作家はきっとだれしも一度や二度は踏み倒しの経験をもっているだろうと思う。良いことをしたとは思わないが、世間が何となく許してくれた。文学青年を印刷屋が甘やかしてくれた。そういう「良き時代」であった。  白石さんから会計を引き継ぐときに、私は約束手形というものを覚えた。六十日先付けの手形を書いておけば、支払いは六十日先でいいと言うのだ。私は大変喜んで、八十円ばかりの手形を書いて印刷屋にわたした。  それからしばらくたって、ある朝、下宿のおかみさんが私の部屋へ来て、お客様だと言う。戸塚三丁目の国栄館という素人下宿の二階の四畳半に、私は朝飯付き十円で住んでいた。  階下に降りてみると中庭の廊下の前に、中年の職工風の男、おかみさん、子供を背負った若い女房と、三人が並んで立っていた。そして約手の期限が来たから現金を払ってくれと言う。印刷屋と製本屋と紙屋だった。私はびっくりした。約束手形というものがこんな形で私の首をしめに来るものだとは知らなかった。そのころになると同人費の払いが悪くて、会計主任の手もとには四十円ぐらいしか無かった。私はあるだけを払って、あとは十日間待ってもらうことにした。  それから早速同人鈴木徳治君を呼んで、みんなに実情を訴え、同人費の払い込みを催促するはがきを書いてもらった。鈴木が帰ったあとで滞納者の名前を調べてみると、鈴木自身も四カ月ぐらい滞納していた。だからはがきに彼のあて名も書いて発送してやった。鈴木は自分が本文を書いた督促状を自分で受け取ったことになった。するとその翌日、私のところに速達がきた。鈴木がかんかんに怒って絶交状をたたきつけてきたのだった。私は「この位のユーモアがわからんか」という返事を書いてうやむやにしてしまった。  鈴木徳治はその後発明家になって、こまごまとした発明をしたが、大成しなかった。彼は郷里千葉県成田で立派な商人になっているらしい。まことに善良な男だった。 [#改ページ]    6 ただ一行の批評  そのころの交遊関係については、「ろまんの残党」という小説におおかた書いてしまったから、ここでは省略する。  私はなまけ者で、他人の作品はあまり読まなかった。同時代の文学青年についてもあまり知らなかった。舟橋、高見、太宰などの仕事にもほとんど関心をもたず、読んでもいなかった。私は人から学ぼうという気持が少なかった。何もかも自己流であった。当時文壇で最高の長老は徳田秋声、宇野浩二であり、志賀直哉はもう非常に寡作であった。  文学青年にとって、徳田、宇野は神様のような存在であった。しかし私はきらいだった。秋声さんとはずっと後になって、銀座の喫茶店へお伴したりしたこともあるし、どこかのダンスホールへ御一緒したこともあるが、その当時の秋声さんは例の有名な恋愛事件のころで、私は「逃げた小鳥」「元の枝へ」などという短篇を読んで、こんな人が日本の伝統的な文学の系譜を歩いている老大家なのかと思うと、腹が立った。私にはあのような私小説を尊敬するセンスは無いようであった。  そのころであったと思う。ジェイムス・ジョイスの「ユリシーズ」の訳本が出た。その新聞広告を見て私は驚いた。「ホーマー以後の小説の伝統を破るもの……」と書いてあった。私は読まないうちから心が躍った。高い本で、すぐには買えなかった。しばらくたってからようやく手に入れて読んだが、読みきれなかった。どうにも面白くないのだ。ジョイスは私の叔父の言葉を借りれば、この同じ主題を、もっと面白く書くだけの技倆がなかったのだと思った。爾来私はまだユリシーズを読了していない。同じころ、クヌウト・ハムズンの「飢え」を読んだ。たしかノーベル賞になった作品であるが、何とも退屈だった。ハムズンは飢えの心理を克明に描写し、ジョイスは意識の流れを執拗に追うている。それは試みとしては面白い。しかしだからと言って、すぐれた小説とは私には思えなかった。 「新早文」がつぶれてから、私はどこにも作品を発表する場所がなくなった。その当時の気持は汽車から途中下車させられたような具合だった。ほかの文学青年たちは汽車に乗ってどんどん目的地にむかっているのに、私だけは駅のフォームに立って、遠ざかる汽車を見送っているような感じだった。私はもう二十八ぐらいになっていた。ほかの職業につくならば今のうちだ、三十を過ぎたら碌な職にはつけない、という風なあせりがあった。しかし他の職業を積極的にさがす気にはなれなかった。  私は以前につとめていた実業雑誌「国民時論」に原稿を書かせてもらっていた。毎月百枚の約束で手当ては月四十円であった。私は国民新聞の経済記者をしていた兄貴の家へ行って、財界裏ばなしのような話の種を仕入れて来て、それを三日がかりのなぐり書きで百枚の原稿に仕上げた。月四十円あれば私は四畳半に住んで、何とか三食たべて、大して不自由なく暮らして居られた。この仕事は芥川賞をもらった後も半年ちかく続けた。  雑誌の仕事がなくなると、独りきりの下宿住居で、持てあますほど時間があった。私は思い立って数年前の体験、移民船にのってブラジルへ行った、あれを主題にして書いてみようと思った。どのくらいかかったか、内容がどうであったか、ほとんど覚えていないが、多分神戸の移民収容所からブラジルまで、全部で百枚くらいの原稿になったと思う。  それを私は中山義秀さんに送って意見を乞うた。義秀さんは夫人が病死したあと、子供たちを郷里にあずけて、築地かどこかのアパートで独り住居をしていたように思う。「おれは今からが青春だ……」などと、溌刺たる元気を見せていたが、始終胃のくすりを飲んでいた。  原稿は十日ぐらいで送り返されて来た。それに付け加えてあった義秀さんの感想は、行数にすればたった一行、「考え直す必要があるんじゃないか……」とあった。  中山義秀という人にはこんな風な癖がある。言葉を惜しむような癖だ。彼がその作品をどう感じたのか、それは一切言わない。だから受け取った側でははぐらかされたような気がする。  しかし私は返されて来た原稿をもう一度ひろげてみて、はじめの方の原稿五枚も読まないうちに、はっと気がついた。これは駄目だと思った。どう駄目なのか。それは理屈よりは直感だった。要するに私が体験した移民集団の、あの真実が書けていない。粗雑で、あいだが抜けている。文章が騒がしくて、乱雑だ。書き直そうと、即座に思った。三倍の長さに書かなくては、この素材は書ききれないようだと考えた。その契機をつくってくれたのは、義秀さんのぶっきら棒なたった一行の批評であった。 [#改ページ]    7 「蒼氓」という題名  その当時、綜合雑誌「改造」は定期的に、新人のための懸賞小説を募集していた。龍膽寺雄とか吉行エイスケとかいう人たちも当選作家ではなかったかと思う。つまり改造の懸賞小説はいわゆる新興芸術派作家の育成には功績があったようだ。中央公論社はアンデパンダンという名前で同様のことをやっていた。私はアンデパンダンに原稿をもち込んで落選した経験ももっている。  移民を主題にした作品を改造の懸賞に出してみようと思い立ったのは、どういう動機であったかわからない。中山義秀さんに見てもらった作品を三倍ぐらいの長さに書き改めることにして、それを三部作とし、第一部だけを約百枚に書こうと考えた。改造の懸賞は百枚前後という制限があった。私の原稿は結局は百三十枚ぐらいの長さになってしまった。  作品の題名はなかなかきまらなかった。私の頭には青民草とか青人草とかいう文宇がうかんだが、それでは満足できなかった。私はこれに類する何か良い言葉はないかと思って漢和辞典を引いてみた。そして「蒼生」をさがし出すと「蒼氓に同じ」と書いてあった。「氓」というのは初めて見る字である。氓の意味をさがして見ると大変な註釈がついていた。  支那古代に|井田法《せいでんほう》という土地制度があり、大化改新ではこれに習って、班田収授の法を設け口分田を行なう、とある。方形の土地を九つに分け、まわりの八区を八人に耕作させ、中央の一区を共同耕作して年貢とするものである。これは耕作地を平等に与える制度で、従って人口の多い農村から人口の少ない農村に移住する農民が出てくる。「この移住民を氓と言う」。  蒼氓は蒼生に同じであって、しかも氓には移住者の意味がある。これこそ私のさがしていた言葉であった。こんな見たこともない文字を題名とすることに躊躇は感じたが、これを捨てる気にはなれなかった。たいていの人はとまどって「そうみん」と読んだ。  そのころ同じ文学青年仲間に長崎謙二郎君がいた。貧乏に耐えてよくたたかっていたが、世帯もちで小さい子供もいたので、私よりは数段苦しい立場だった。彼はどういう訳か芹沢光治良氏と親しく、たびたび訪問したりしていた。私は長崎に、原稿を芹沢さんに見てもらいたいがどうだろうかと相談した。本来ならば私は知名の作家に知遇を求めるような事はしない方である。中山義秀に原稿を見てもらったが、義秀さんはまだほとんど無名の先輩にすぎなかった。  それから私は長崎に連れられて初対面の芹沢さんをたずねて行った。東中野の小滝町という所で、通された書斎はうらやましいほど立派だった。私の持って行った原稿をこころよく受け取って下さって、それからいろいろフランス文学などの話を聞かせてもらった。  一週間あまりたってから私はもう一度芹沢さんをおたずねした。長崎君も一緒だったと思う。長崎も改造の懸賞に応募する原稿を書いており、お互いにライバルでもあった。  芹沢さんは私の原稿を大変おもしろく読んだと言い、ことに終わりの方が面白かった、是非応募しなさいと激励して下さった。このときの言葉はありがたかった。私はずいぶん力づけられたような気がした。  昭和八年の夏ごろであったと思う。懸賞小説の発表が「改造」に出た。私も長崎君も選外佳作のなかにはいっていた。当選はたしか酒井龍輔氏の「油麻藤の花」であったと思う。早速読んでみたが特に感心する所もなかった。  応募原稿は一切返却しないと規定されていたが、私はその原稿に執着があった。そして何とかして返してもらおうと考え、改造編集部に手紙を出しておいてから、交渉に出かけて行った。改造社に知人もなく、改造社の建物もようやくさがし当てたのだった。  受付で用件を伝えると小さな応接間に通され、やがて私の原稿をもって三十五六の人が出て来た。改造の編集長であったらしい。もらった名剌には鈴木一意とあった。そして、私も早稲田出身だとか、うんと勉強して良いものを書きなさいとか、実にあたたかい態度ではげましてくれた。私はそれまでに何度も原稿をもって新聞雑誌をたずねたことがあったが、こんなに親身になって文学青年をはげましてくれた人ははじめてだった。三十五年も前のはなしだが、私はいまだに鈴木氏に対する感謝を忘れていない。  返してもらった原稿は、結局それが後に芥川賞の当選作になった。もし鈴木氏が懸賞募集の規定を楯にとって、原稿はお返ししませんと言えば、それっきりのことで、「蒼氓」は日の目を見ることなしに終わったはずである。鈴木氏にとっては小さな一つの好意であったかも知れないが、それが私の生涯の運命を左右する大きな転機となった。 [#改ページ]    8 運命のわかれ目  原稿は返してもらったが、私は何かしら気落ちがして、自分の仕事に自信を失ったような具合になった。年齢は三十に近く、これから先の人生の方途に迷う気持もあった。宇野浩二、徳田秋声の作品が幅をきかせている文壇に腹を立ててみたり、いっそ大衆作家になってやろうかと思ったりしていた。  そのころ「作品」という雑誌があった。どういう人の経営であったか知らないが、編集長は小野松二という人で、一般の同人雑誌よりは一段格が上の雑誌と見られていた。同人雑誌作家の中から目ぼしい人を見つけては原稿を依頼し、彼らのための登竜門とするのが雑誌のねらいであったらしい。私たちは「作品」に原稿をのせてもらうことをさし当たっての望みとしていた。仲間のだれかが「作品」に書いているのを、うらやましい気持で読んでいた。  あるとき、その雑誌の小野松二から手紙が来て、短篇を一つ書いてくれということであった。私は気持の上では大変にうれしかったが、ちょうどそのころ、生涯はじめての、そして最大のスランプを経験している最中であった。  スランプというものがどんなにつらいものであるかを、私は始めて知った。それは何とも仕様のないものだった。小説が書けないなどという生やさしいものではなくて、文章そのものへの懐疑がやり切れなかった。構想を立てる、筋を考える。その筋がばかばかしく思われてならない。しかししめ切りの時期はきまっているので、ともかくも書き始める。その第一行が何としてもきまらないのだ。どんなに努力して見ても自分の文章が書けない。一行書いては破り二行書いては破るという日が二十日以上も続いた。私はそれまでほとんどいつでも、五十枚の短篇を書くのに原稿紙五十二枚あれば足りた。書き直しや清書をしたことがない。「蒼氓」の書き直しは異例のことだった。  このスランプの中にあって、私は本当に一枚の原稿も書けなかった。果ては日本語の文章の末尾が気になってたまらなくなった。「だ。である。であろう。だった。かった。……」日本語の文章の末尾はまことに変化に乏しくて、十種類かそこいらしか無い。そのくり返しが気になって気になって、どうしようも無かった。名詞止めを試みたが、それでも気持が納まらない。  私は「作品」の小野から頼まれた短篇一つを書くために、二カ月間苦闘した。苦闘の相手は自分自身だった。そして遂に、「作品」の原稿は書けず、小野には断わり状を出して、折角の好機を見のがしてしまった。  このスランプから脱出するために、どうしたらいいかと私は考えた。迷っていてはいけない。文章の末尾のくり返しなどにこだわっていてはいけない。どんなくだらない作品でもいいからとにかく書くことだと私は思った。書くことによってくぐり抜ける、それしか無い。私は自己嫌悪と自信喪失とに苦しみながら、とにかく書いた。何を書いたか覚えていない。碌なものが書けたはずもないが、四カ月もかかって、その方法によって何とかスランプをくぐりぬけた。そういう時期はだれしも経験することかも知れない。知恵熱のようなものだった。  その時期のあと、私は同人雑誌をもたないままに、野心的な大長篇を書こうと思い立った。中学時代に岡山市の郊外の大安寺という|藺草《いぐさ》をつくる村で一夏を過ごしたことがある。この村に育った美貌の娘が東京にきて、ダンスホールのダンサーになり、五・一五事件のあと満洲国建国があり、その満洲にできたダンスホールまで流れて行くという筋書きで、当時の日本の歴史を背景に、その歴史が女の運命をゆがめて行く過程を書こうと思った。資料の足りないところは当時岡山在住の母に頼んで調べてもらい、ぼつぼつ書きはじめていた。それが昭和十年の夏から「星座」に連載した「心猿」である。(後に芥川賞銓衡委員の中で「蒼氓」よりも「心猿」が良いという人もあったらしい)  そのころ大阪から「旗」という綺麗な雑誌が出ていた。東京の「作品」のような性質の雑誌であったようだ。昭和九年の九月ごろ、その雑誌から手紙がきて、改造選外佳作の「蒼氓」を「旗」にのせたいから原稿を送ってくれということだった。私は発表の好機と考えて原稿を送った。先方からは十二月号にのせると言って来たが、「旗」は十一月号でつぶれて翌年一月に私の原稿がもどって来た。 「蒼氓」はよくよく運の悪い作品だった。私は気をくさらし、もうこの原稿は見たくもないような気持になった。しかしあとから考えるとそれが逆だった。第一回芥川賞は昭和十年の一月号から六月号までに発表された作品を銓衡対象としていたので、「旗」がつぶれずに十二月号が出ていたら、「蒼氓」は銓衡の範囲にはいらないことになる。まことにきわどい運命のわかれ目だった。 [#改ページ]    9 予期しない受賞  数年前につぶれた「新早稲田文学」の仲間たち、秋葉和夫、佐藤義美、中村梧一郎などが集まって、新しい雑誌を出そうということになったのは、多分昭和十年の一月ごろであったと思う。今度は早稲田とは無関係の人たちも参加するような話になっていた。慶応出の若い評論家矢崎弾、原爆傷害で数年前になくなった大田洋子、詩人江間章子、石河譲治、その他にだれがいたか忘れてしまったが、私にも参加の勧誘が来た。  私は喜んで参加したが、ただの同人雑誌ではつまらないから、何か思い切ったことをやってくれなどと、註文をつけていた。編集は矢崎弾と中村梧一郎が中心だった。二月ごろのある日、中村が私の四畳半の下宿をたずねて来て、改造選外佳作の「蒼氓」を同人雑誌の創刊号にのせたいと言った。雑誌の題号は矢崎の命名で「星座」ときまっていた。  私は「蒼氓」の話はもういやだと言った。何度もけちがついているのだから、あんなものは捨ててしまうと言った。すると中村は、 「それではとにかく見せるだけ見せてくれ」と言って、持ち帰った。そして私には無断で「星座」創刊号(四月号)にのせてしまった。  その雑誌の第二号に私は随筆風の雑文を書いている。何だかやけくそになって、東京で一文にもならない小説なんか書いているより、田舎に帰って豚でも飼う方がどれほどいいか知れない……というような文句であった。その文章はもはや紛失してどこにも無いが、その当時は本当にそんな気持になっていた。しかし豚を飼うというのは台詞に過ぎないので、私は牧畜のことも酪農のことも何も知りはしない。 「星座」の第三号から私は「心猿」の連載をはじめた。第一回目には百二三十枚を発表したと思う。それからほとんど一年間、およそ八百枚ぐらいも書き続けた。  七月の末ごろであったろうか、「蒼氓」が芥川賞の候補になっているという噂をだれかから聞いた。しかし芥川賞というものの見当がつかないし、当選を期待するような気持は毛頭なかった。選者がだれであるかも知らないし、知っていたにしても全部が未知の作家たちであった。  当選発表が何月何日であったか、私はよく覚えていない。遊びに行っていた先に中村梧一郎から連絡があって、すぐ帰れということだった。帰って見ると下宿のおばさんが疳高い調子で新聞記者が三人も来て、私の部屋へあがり込んで、机の抽出から私の写真を持って行ってしまったと訴えるのだった。  その晩は矢崎、秋葉、中村、八木などという仲間数人で、新宿へ出ておそくまで酒を飲んだ。それからみんな私の部屋へ押しかけて来て、結局四畳半に四人ぐらい寝た。私はやむなく押し入れの中にはいって寝た。そして翌朝はやく高田馬場の駅へ行って、五種類ぐらいの新聞を買ってきた。どの新聞にも私のことが出ている。変な気持だった。うれしいというのとは違う。いままで世間から「鼻もひっかけられな」かった待遇と考えあわせて、どこかに嘘があるような、またはどこかが間違っているような、釈然としない気持だった。  当時内幸町の大阪ビルにあった文藝春秋社からの呼び出しがあって、行って見ると専務の佐佐木茂索さんの部屋に通された。君が当選ときまったが、賞を受けてくれるかというお話であった。私はありがたくお受けしますと答えて引き下がった。  八月のはじめであったと思う。菊池社長の部屋で初対面の川口松太郎さんと並んで、賞金と記念の時計とをいただいた。正式の授賞式はたしか十月末ごろ、日比谷公会堂で行なわれ、その時は目録だけをいただき、満員の聴衆に五分ばかりの挨拶をした。  後になって矢崎弾から聞いたところによると、水上瀧太郎氏が私の「蒼氓」を強く推薦して下さったそうである。水上さんは銓衡委員ではないし、慶応系の作家である。私とは縁もゆかりもない人だった。水上さんについて私は今でもほとんど何も知らない。一度三田系の作家たちをお宅に招かれて晩餐会を開いておられる所へ、矢崎につれられて御挨拶に行き、御馳走になったが、何だか立派な人だと思った。  芥川賞の賞金は、当時五百円だった。百円を「星座」に寄付し、長年の親不幸のおわびに百円を母に送った。貧乏暮しが何年も続いていた後だったから、かねはいくらあっても焼け石に水の観があった。  賞をいただくと同時に、当時の文春の編集長斎藤龍太郎氏から、来年の正月号に短篇を書けと言われた。注文されたというよりは、命令を受けたような具合だった。それが私には非常につらかった。この第二作こそ本当に私がためされる仕事になるだろうと思った。 [#改ページ]    10 「日蔭の村」を書く  第一回芥川賞の最終候補作に残ったのは衣巻省三、太宰治、高見順、外村繁と私であったらしい。衣巻、太宰とは遂に交際がなかった。外村とは何か気持の通じあうものがあり、私は心から信用していた。だから外村の病死の一週間まえにも病牀を見舞った。高見とは文芸家協会やペンクラブの仕事を通じて、ずいぶん関係があった。彼は私の持たない特別な才能をもっていたので、私はその点では彼を尊敬していた。しかし高見は本質的に私に対して、何か異質なものを感じていたらしく、終生私に向かって心を開かなかった。その異質なものは、私にもわかっている。  その年の八月、九月、十月の三カ月間、私はたった七十枚ばかりの短篇に苦しみ通した。当選作は選者がえらんでくれたものだが、第二作はすべて自己の責任である。そのうえ、芥川賞という制度に対する義理、菊池寛氏に対する義理もあった。七十枚ほどの短篇のために私は珍しく二百枚の原稿紙を費やした。それが十一年一月号の文春にのった「深海魚」である。  その雑誌が出た直後であったろうか、銀座の裏の方のアパートにひとりで住んでいた中山義秀を久しぶりにたずねて行った。中山は大変よろこんで、 「お前はもう、遊びに来てくれないんじゃないかと思っていた」と言った。  年長の友、兄弟子ともいうべきこの人より先に芥川賞をもらったことが、私は何ともつらい気持だった。それから彼は机のかげから一升瓶をとり出しながら、 「深海魚、読んだよ。お前はあれ以上のものは書けないんじゃないのか」と言った。  謎のような言い方だった。最高にほめてくれたようでもあり、あれがお前の限度だと言われたようでもあり、何かしら胸がつかえた。  中山義秀は十三年になって「厚物咲」で芥川賞を受けた。その祝賀会が朝日新聞の向かいのビルの中の料亭で開かれた。横光利一と中山義秀とが正面にすわっていた。酒がまわってから私は席を立って中山の所へ行き、喜びを述べ、彼の手を握った。すると思わず涙があふれて来た。この人の受賞で私は三年間の胸のつかえがおりたような気がした。  十一年のはじめごろ、改造社から出ていた「文芸」に短篇「霧海」を書いたが、それを新進評論家中村光夫が「糞リアリズム」という新しい言葉で痛烈な批評をしてくれた。これは胸にこたえたが、同時に教えられるものもあった。  十二年の正月であったか、|東京市《ヽヽヽ》の視学をしていた友人(詩人で「星座」の同人)から、奥多摩の小河内村が貯水池問題で市と抗争している話を聞いた。小説に書いて見ないかという誘いであった。私はこの田中令三という友人に案内されて雪の小河内村へ行き、村長をたずね、付近を調査して帰った。結局小河内には前後三回ぐらい行った。  その事を「新潮」の記者に話したところが、自分の雑誌に載せたいということで、六月はじめごろから執筆にかかった。当時「新潮」の創作欄は稿料の予算が全部で百五十円しかないが、それだけでいいかと問われ、私はそれを承知で三百二十枚ぐらい書いた。一枚五十銭に足りない稿料であるが、稿料よりも私は発表の場がほしかった。  ほとんどまる一カ月、私は徹夜をつづけた。未明の六時ごろまで執筆をつづけ、朝飯をたべてから四時間ぐらい寝た。それでよく躰が続いたと思う。五万分の一の地図を見ながら、資料を調べながらの仕事だった。そのときの稿料百五十円が、ちょうど八月にうまれた長女のための、病院の支払いなどで一杯一杯だった。五、六十円しかない貯金を使わなくて済んだというような生活だった。 「日蔭の村」の掲載された「新潮」九月号は八月上旬に刊行された。その翌日の朝、いきなり初対面の富沢有為男が玄関にたずねて来て、 「新潮の小説読んだよ。良いものを書いたなあ。粒が立っているよ」と、激賞してくれた。私は喜んで彼を招じ入れ、二人でビールを飲んだ。富沢は第四回芥川賞を受けた作家であり、画家でもあった。彼が激賞してくれたので、単行本「日蔭の村」は富沢に装画を描いてもらった。  翌月、雑誌の文芸時評で武田麟太郎氏が「日蔭の村」を評して、「石川君は芥川賞だけではまだどっちともわからなかったが、この日蔭の村を書いたことによって、まあ君は文壇に居てくれということになった」と書いた。  その批評の当否は別として、ともかくも私に作家としての安定した地位があたえられたのは、このころからであったらしい。私は満三十二歳。芥川賞をいただいてから満二年ののちのことであった。 [#改ページ]          文春ウェブ文庫版     心に残る人々     二〇〇〇年七月二十日 第一版     二〇〇一年七月二十日 第三版     著 者 石川達三     発行人 堀江礼一     発行所 株式会社文藝春秋     東京都千代田区紀尾井町三─二三     郵便番号 一〇二─八〇〇八     電話 03─3265─1211     http://www.bunshunplaza.com     (C) Yoshiko Ishikawa 2000     bb000708