ユーモアの鎖国 石垣りん [#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)] もくじ  待つ[#「待つ」はゴシック体]   ㈵  新巻  花嫁  宿借り  夜叉  朝のあかり  はまぐり  甘栗  美味  ラーメン  バナナ  お茶  うわさ  季節  シジミ  おそば  まじめな魚   ㈼  夏の日暮れに  試験管に入れて  鍵  ユーモアの鎖国  炎える母の季節  お酒かかえて  お礼  日記  春の日に  けちん坊  絵の中の繭  花よ、空を突け   ㈽  事務員として働きつづけて  五円が鳴いた  花とお金  目下工事中  よい顔と幸福  事務服  晴着  領分のない人たち  生活の中の詩   ㈿  詩を書くことと、生きること  女湯  立場のある詩  事実とふれ合ったとき  持続と詩  表札のうしろ  第一行はとび出してきます  あとがきのこと  清岡卓行『四季のスケッチ』感想  生活詩  出来ること出来ないこと  風信   ㈸  食扶持のこと  眠っているのは私たち  買えなかったもの  私の新しい空  仕事  個人の手・公の手  生活と詩  犯された空の下で  文庫版あとがき [#改ページ]   海よ云ふてはなりませぬ   空もだまつてゐますゆゑ   あなたが誰で 私が何か   誰もまことは知りませぬ     (初期の詩「契」) [#改ページ]  待つ   唄  女性が待つ、という受身の姿勢は社会環境によるのだろうか。天然の性《さが》だろうか。男性が何をどのように待つか知らないけれど。女は心身のどこかに待つものを抱いて生きているような気がする。母親の胎内で子は十カ月待つ。あの場所と関係はないだろうか。 [#ここから1字下げ]  人間という 不可思議なものの  まことに何であるかも知らず  すべての生きものにならい 母になる  それでよいのか、と心に問えど  答えのあろうはずもなく  日毎夜毎 子守唄のごと   りすはりすを生み   蛇は蛇を生む とくちずさむ  さらばよし 母にならむか  おろそかならず こころにいらえもなくて——。 [#ここで字下げ終わり]  私は結婚しないで年をとり、従って子もないけれど、たまに妙なことを考える時があった。私の腕の中には�生まれなかった子供�がいるから唄をうたってあげよう。   山王下  東京都が市であったのは、それほど古いことではない。走っている電車を市電と呼んだ。路線によって電車の型が違って、いちばんちいさいのに、運転台が客車の外に付いている、雨降りには雨も吹き込みそうなのがあった。うしろの車掌が出発信号に紐を引くと、前の運転手にチンチンと合図が行く。三原橋と飯田橋の間を往き来するのがそのチンチン電車であった。途中、赤坂山王下という所を通る。昭和はまだひとけただった。私の家から山王下まで小学生の足で十分とはかからなかったろう。けれど二十分ぐらいかかると思っていた。ふだんの行動半径を出はずれた、そこは遠い場所だったのである。現在は片側にビルディングが建ち並び、そこで少し彎曲《わんきよく》した通りを前よりもせまい、谷のような感じにして、おびただしい自動車が流れている。  今は昔の、同じ舗道に夜がひとつ、電柱が一本、女の子がひとり立っている。うしろに黒板塀の料亭があった。一停留所向こうから電車の灯りが見えて、近づいてくる。目がいっぺんに光る。身動きしないでじいっと降りてくる人を待つ。ひとり、ふたり……客を降ろし終えて行ってしまうとあたりは静かになる。するとまた次の電車を待つ。とても間遠であった。六台も七台も待つ。もう帰ろう、あと一台来たら。その一台が行ってしまっても、また待ってしまう。寒い季節だったと思う。そうでなくても八時、九時と立っている間にからだが冷えてゆくのを感じた。何年生であったか覚えていない。自分をいちばん可愛がってくれていた祖父がどういう事情でか、しばらく家を離れていた。その祖父の帰りが待ち遠しくて、夜になるとあてもなく迎えに出かけた。  待つものはたいていあらわれないで、父や義母、弟妹たちのいる家へ戻って行った。その戻ってゆくうしろ姿を知らない。いまも歩き続けている自分の、うしろ姿を私は知らない。ただ、人生なかばを遥かに過ぎて、このごろ古い一枚の写真を取り出して見るように、夜の電停にじっと立っている少女を思い浮かべる。そこに私の一生の原型、何かを待ち通しに待つ、という姿があったのではないか、と。   露地で  戦争が末期に近付いたころ。町は灯火管制がしかれ、警報が鳴ればマッチの火ひとつもれてもならなかった。心覚えをたよりにおもてを歩く。そんなとき、どれほど家並にあかりのともる日を待ち望んだろう。  生まれてから二十四歳になるまで住んでいた赤坂は、敗戦の年の五月に空襲で焼け落ち、はじめて立ち去ることを余儀なくされたけれど。引越した先の仮住居は、傾いた軒と同じように生活の中身をも傾けていった。食糧が不足して、義母が盛り分ける飯の量にいさかうことも度々であった。祖父の病気。商売の根底を失った父もやがて半身不随となる。そんな時期に書いた詩の中に、待つ、という言葉がひとつあった。   犬のいる露地のはずれ[#「犬のいる露地のはずれ」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  私の家の露地の出はずれに芋屋がある、  そこにずんぐりふとった沖縄芋のような  のそりと大きい老犬がいる。  人を見てやたらに尻っぽを振るほど  期待も持たず、愛嬌も示さない、  何やら怠惰に眼をあげて蠅を追ったり  主人に向かってたまに力のない声で吠える。  犬は芋屋の釜のそばに寝ていたり  芋袋を解いた荒縄で頸をゆわかれたりしている。  その犬  不思議に犬の顔をしているこの人間の仲間に、  私はなぜか心をひかれる。  ことに夜更け  誰もいなくなった露地のまん中に  犬はきまってごろり、と横になっている。  そのそばを風呂の道具を片手に十一時頃  かならず通るのだが、  今日という日がもう遠ざかっていった道のはずれ  ながながと寝そべる犬のかたわらに  私はそっとかがみこむ。  私は犬の鼻先に顔をよせて時々話しかける、  もとより何の意味もない  犬の体温と私の息のあたたかさが通い合う近さでじっと向き合っている  犬の眼が私をとらえる  露地の上に星の光る夜もあれば  真暗闇の晩もある。  私は犬に向かって少しの愛情も表現しない  犬も黙って私を見ている  そしてしばらくたつと、私が立ちあがる  犬が身動きする、かすかに、それがわかる  私の心もうごく。  この露地につらなる軒の下に  日毎繰り返される凡俗の、半獣の、争いの  そのはずれに犬が一匹いて私の足をとめさせる  ここは墓地のように、屋根がない  屋根のある私の家にはもう何のいこいもなくて。  露地のはずれに犬がいる  それだけの期待が 夜更けの  今日と明日との間に私を待っている。 [#ここで字下げ終わり]  終戦というけれど、八月十五日に片付いたものはごくわずかであったろう。私の友だちは夫の戦死の通知を受けとるまでに、それから二十年近く待たなければならなかった。待って受け取ったのは、骨のはいっていない骨箱だったという。   果実  私の家庭は複雑だった。といったら無責任な言葉になる。そこにもし私一人いなかったら、家の中はどれほど単純明朗になっていたかわからない。妻が四人変った、それだけで父の不幸は手一杯だったはずである。  その中で私は物書くことに熱中した。小学校の教科書より少女雑誌のほうが面白かったので、早くから投書などした。上級学校へ行かず銀行に就職し、受け取る給料は小遣いにして好きなことだけに精出す、親にとって迷惑な娘であった。  投書仲間十何人かで女性だけの同人詩誌「断層」を出したのは、私が十代の終りごろ、投稿詩の選者、福田正夫氏の指導に寄りかかって出来たことであった。毎月編集に集まる師の家で、詩と関係があるようでないような話も出る。未婚者がほとんどだったから、 「いいかい? 自分から落ちてはいけないよ。落ちた木の実は鳥もつつかない。枝の上で待つことだ。ああおいしそうだなあ、と思って人がそれをもぎとるまで」  聞いていて自分が、からだごと小枝の先で重くなるりんごのような気がした。  当時男女間の交際は戦後ほど自由を認められていなかったし、私の勤め先では職場結婚をゆるさなかった。身分制というものがはっきりしていて、男性は女性の上位にあった。万事ひかえ目にすることが女の美徳とされていたから、男より先に愛を打ちあけて成就《じようじゆ》する割合は現在よりずっと少なかったろう。  けれど師の言葉は、だから待て、と言うのではなかったと思う。ひとり実って、与えることをごく自然に待つ姿。どんなに心がひもじくても物乞いしてはならない愛というもの——師がこぶしを軽く上げて見せた、その高さにいまも目がとまる。不肖の弟子はかすかな風にも落ちてばかりいた。待つことは、しんぼうのいる、むつかしいことでもあった。  もし女性が結婚を目的にしなかったら、今よりずっと成長するだろう、と言った人がいたが。私もそうだろう、と思う。結婚しない、というのではなく、結婚をアテにして暮さないということである。  世の中が新しくなったというけれど、若い女性が働く余暇の大半を、昔と変らぬ花嫁修業的なことに当てているのはなぜだろうか。一通りのおけいこごとをして結婚を待つ、待ち方に古さを感じる。会社がそういう嫁入り前の女性を適当に使おうとするのであれば、使い方を変えさせるか、使われ方を自覚してかからなければならないだろう。  結婚式の豪華さはごく最新の現象である。いつか土曜日の、少し混み合っている湘南電車で珍しい情景を見た。   出発[#「出発」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  花嫁はいちばんすみの席を選んだ。  花婿がその隣に腰かけた。  それから互いにソッポを向いた。  けれどまわりの人たちは  すっかり承知してしまった。  ついさっき  ふたりが婚礼をすませてきたことを。  花嫁はちいさな花束を  両手で握りしめていたから。  花婿のボストンバッグは新しかったから。  まわりはこんでいたから。  二等車の花嫁は質素だったから。  孔雀が羽をひろげたような  誇らしい花嫁ではなかったから。  花嫁はかたく口をむすび  花婿はどうしようもない申し訳なさで  若く細い首を立てていた。  二等車の客たちは  見て見ぬふりの視線を  ふたりにふりそそいだ。  どっさりふりそそいだ。  その祝福は言葉にも品物にもならなかった。  車中に満ちていたのは  遠慮と恥ずかしさばかり。  そこで花嫁と花婿が、ああ  どんなに発車の合図を待ったことか。 [#ここで字下げ終わり]   銭湯  人が寄り集まる場所には、たいていその中で目立つ人がいるものである。私が行く公衆浴場にも何人かのスターがいた。そのひとり。脱衣場で白い襦袢《じゆばん》と、とき色の腰巻ひとつまとった湯上りの老女が、煙草一本つまんで番台に「ちょいと」としわがれ声をかける。「火をくれない?」  男湯と女湯双方に目の届く番台は、一段高くなっているから、小柄なおばあさんは心持ち爪立ちしないと、台に坐っている人からマッチを借りられない。そのままの姿勢で一服吸うと、ふう、と煙をいきおいよく男湯の方へ向けて吐く。のび上がるようにして、風呂屋の主人と話しはじめる。けれど聞かせたい話し相手が男湯の不特定多数なのに本人も気が付かない。彼女は湯上りの、その持つ肉体の最上級の美的コンディションでモーションをかけているのだ。  番台の前からひとつの境界線がのび、男女の間は完全に二等分されている。互に見ても見られてもならない構造で、そのならない所がかいま見える。逆に言えばこちらを見せることの出来る高みへ、爪立ちする。いまどき見かけない衿《えり》白粉《おしろい》を塗ったその後姿を、外の女たちの目がいつも冷笑していた。  彼女について詳しく知らない。ダンナと別れてアパートを持っている。むかしオドリを習った。エイガを見にゆくのがたのしみ。きれぎれの情報でそれだけ得た。年は六十を少しすぎたころか。あさましいといえばあさましく、可愛いと思えばその通り、あわれの深さは格別であった。その老女に、私が見たのは待つ姿、女が男を待ちのぞむ、せつない後姿だった。  彼女を笑う女たちは、だいたい結婚していて、それ以上待つ、ということを放擲しているかに見えた。そういう女たちのナリフリを、反対に彼女は蔑視していた。  私が面白かったのは浴場が描いて見せる男女の図式についてだった。裸の世界を二つに仕切るタイルの壁、あれは職場にも、街にもそのままのびて、万里の長城のように背を分けているような気がする。  ところどころにはめ込まれた鏡に映るのは、所詮こちら側の景色ばかりで、多かれ少なかれ、女はのび上がって待つのではないか、と思う。男の世界を私は知らない。男とは何であろう。   待つ  思い切りが悪いというか、みれんが多すぎるのか。人とのつきあいで、私は実によく待つことをした。喫茶店に四時間近くいた記録がある。勤め先に連絡する、と言われ、土曜日の夜までじっと電話の前にいたこともある。同じ会社の人から、帰りに寄ります、と声をかけられ喜んで待ち、あまり長くかかるので遠慮しながら行ってみたら、その部屋の扉はしまっていて誰もいなかったこと、など。  何時間待たされても、相手があらわれてくれれば恨めしい思いはあまり残らなかった。いらだちは安心が引き替えてくれたし。待ち呆けたあとの思い——はどうしたろう。これはどうしようもなかった。待ったんだからいいわ。なるべく自分に言いきかせた。私がいちばんおそれるのは、待つアテのなくなることである。   風景[#「風景」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  待つものはこないだろう  こないものを誰が待とう  と言いながら  こないゆえに待っている、  あなたと呼ぶには遠すぎる  もう後姿も見せてはいない人が  水平線のむこうから  潮のようによせてくる  よせてきても  けっして私をぬらさない  はるか下の方の波打際に  もどかしくたゆたうばかり  私は小高い山の中腹で  砂のように乾き  まぶたにかげる  海の景色に明け暮れる。 [#ここで字下げ終わり]      * 「ずいぶん待ったなあ」 「なにを?」 「それがまだわからないの」  そんな自問自答。  個々には何を待ったかわかっていても、それらはすべて、待つということの部分にすぎなかったような気がする。時を待つことも。人を待つことも。  詩を書くことも、待つことのひとつではなかったかと思う。未熟だけれど、それさえ私が一人で書いたものはひとつも無いような気がする。いつも何かの訪れがあって、こちらに待つ用意があってできたものばかり。  からだがすっかり冷えきってしまうまで、真暗闇に街灯をともしたような星あかり。地球の片隅で自分の足もとをみつめながら、待つことを重ねている。その地番を私は知らない。 [#改ページ]   ㈵ [#改ページ]   新巻  昨年の十二月はじめに、高崎市にある音楽茶房�あすなろ�から速達がきた。新年のはがきに刷り込む、八行以内の詩を書くように、とある。日数は五日、遠慮するひまも無いので、有難く引き受けることにした。  何とか約束の日までに届け、二日ほどしてまた訂正の原稿を送った。それがどうなったかわからないでいると、突然三越から新巻《あらまき》鮭が家に届けられた。依頼主はあすなろ。  コレヤコノ鮭一尾、見事ナオ顔シテ、遠路ヨクオイデ下サイマシタ、コノ陋屋《ろうおく》ニ。  私は板の間に手をついて、北海道産の鮭に挨拶した。けれど、受け取って良いものかどうか、実は迷っていた。あすなろはいつも私に『あすなろ報』というのをタダで送ってくれている。その喫茶店が新装開店の通知も兼ねた年賀状に使う、というのなら、お祝いに上げるのがちょうどいいくらいのものである。そんな気持で四日も放って置いたら冷蔵庫のない台所で、冷凍の氷が解け、鮭がビッショリ泣いている、「今更帰るわけにゆきません」と。  一週間たち、ようよう食べる決心をし、私は両手に新巻鮭をささげて魚屋に行った。 「切っていただきたいんですが」  親切な魚屋のおにいさんは、片身を切り身にこしらえ、「良い品ですね、いっぺんには食べきれないでしょう」と、残り半分に塩をしてよこした。 「詩はクエない、と言うのに、クエたじゃない?」  そばでそんなことを言われながら、うすくれないの鮭を焼いた。魚の味は良かったけれど、詩の方の味はどうだったのか。原稿を受け取った答えが、無言の鮭は一寸気になる、と思い、市外電話を入れると、「あの詩は適当でなかったので、他のかたのを使いました、お詫《わ》びのしるしまでに送ったのです」と言いにくそうである。それほど聞きにくいことでもないのに、気を遣わせたものだ、と思い、さてこちらが詫びようにも、塩まみれになった半身の鮭には、もう頭もないのである。 [#ここから1字下げ] 「新年」  それは昨日に続く今日の上  日常というやや平坦な場所に  言葉が建てた素晴しい家、  世界中の人の心が  何の疑いもなく引越して行きました。 [#ここで字下げ終わり] 「どうもこれでは」そんな話がきこえてきそうで、私は二、三日キャッキャッとさわいで自分のはずかしさから逃げていた。それにしても詩が適当であったら、あの鮭は私の所に来たろうか、すでにからだの奥深く泳ぎ去ってしまった鮭に、エニシの深さを感じる。  いつか私は、鮭のようにまるごと一尾のおいしい詩を書いて、詩をひろめることに熱心な、あの奇特な茶房にお返しをしなければいけない。 [#改ページ]  花嫁  私がいつもゆく公衆浴場は、湯の出るカランが十六しかない。そのうちのひとつぐらいはよくこわれているような、小ぶりで貧弱なお風呂だ。  その晩もおそく、流し場の下手で中腰になってからだを洗っていると、見かけたことのない女性がそっと身を寄せてきて「すみませんけど」という。手をとめてそちらを向くと「これで私の衿《えり》を剃《そ》って下さい」と、持っていた軽便カミソリを祈るように差し出した。剃って上げたいが、カミソリという物を使ったことがないと断ると「いいんです、ただスッとやってくれれば」「大丈夫かしら」「ええ、簡単でいいんです」と言う。  ためらっている私にカミソリを握らせたのは次のひとことだった。「明日、私はオヨメに行くんです」私は二度びっくりしてしまった。知らない人に衿を剃ってくれ、と頼むのが唐突《とうとつ》なら、そんな大事を人に言うことにも驚かされた。でも少しも図々しさを感じさせないしおらしさが細身のからだに精一杯あふれていた。私は笑って彼女の背にまわると、左手で髪の毛をよけ、慣れない手つきでその衿足にカミソリの刃を当てた。明日嫁入るという日、美容院へも行かずに済ます、ゆたかでない人間の喜びのゆたかさが湯気の中で、むこう向きにうなじをたれている、と思った。  剃られながら、私より年若い彼女は、自分が病気をしたこと、三十歳をすぎて、親類の娘たちより婚期がおくれてしまったこと、今度縁あって神奈川県の農家へ行く、というようなことを話してくれた。私は想像した、彼女は東京で一人住いなんだナ、つい昨日くらいまで働いていたのかも知れない。そしてお嫁にゆく、そのうれしさと不安のようなものを今夜分けあう相手がいないのだ、それで——。私はお礼を言いたいような気持ちでお祝いをのべ、名も聞かずハダカで別れた。  あれから幾月たったろう。初々しい花嫁さんの衿足を、私の指がときどき思い出す、彼女いま、しあわせかしらん? [#改ページ]  宿借り  女のひとが年を取るにつれ、ハンドバッグも大きいのを持つようになる、という。たぶんそのことは、家庭にいる人より、外で働く人の場合にあてはまる。  めったに更新しないけれど、ハンドバッグを買うとき、私は、たくさんはいること、軽いこと(同時に値段の高すぎないこと)に気を配る。袋物店の店先で、いくつかの品を手秤《てばか》りにかけて、重さに首をかたむけている人がいたら、それは私だ。または私によく似た人に違いない。遠い道を行くのに、荷が重いのは禁物である。  買ったバッグに入れるのは、日常最小限の必需品であるから、手放すとたちまち不自由になる。病院へ入院する時も、これを持参した覚えがある。寝ている枕もとのハンドバッグは少しくたびれていて、とどのつまりこれにて用の足りる女の暮らしのさびしさがあった。  食品会社の社長をしていた親類のオバアサンが、老衰して身体の自由をなくしてしまったとき、見舞いに行ったら、かたわらにワニ皮のハンドバッグを置いて眠っていた。上等のワニ皮であることがわずかに社長の面目《めんぼく》を保っていたけれど、広い屋敷のすみで、最後に手もとに置いたのがやはりハンドバッグだったのか、と私は鼻を熱くした。  朝、ラッシュアワーの東京駅を降りると、出勤する女の人のすべて、と言ってよいほどが、ハンドバッグを持っている。それは会社における彼女たちが、自分の時間に自分の物を取りに行く、ちいさなちいさな家。  宿借りは貝殻を背負って暮らす。働く女性は、ハンドバッグの口をあけたり締めたりして、そこから鏡を出して顔をのぞかせたり、手をひっこめたりする。月給を入れるのもバッグなら、月給が足を出すのもバッグの口である。自分の生活を窮屈にその中におし込んで、彼女たちがどんなにけなげに働くか。バッグバッグバッグ。青い空の底を、おびただしい宿借り族が行列しているようで、それを見る私の目は自然に水のかげりをおびてしまう。 [#改ページ]  夜叉  久しぶりであった友だちの指がキラリ、と光った。 「あら、ダイヤね」  すると黙っててのひらを返して見せた。腕時計のまわりにも、細かいダイヤモンドがちりばめられてある。 「スゴイじゃない」 「オホホ」彼女はたおやかに笑って言ったものだ。 「宝石を身に付けているとね、交通事故にあったとき、丁寧に扱ってくれるんですって」 「?」 「この人は支払いがいいだろう、そう考えてくれるらしいの。そんな話、聞いたことない?」  今度は彼女の目が光った。 「ショック!」  はねとばされたのは私の心だ。伝説にしても殺風景すぎる。さし当り、指輪も頸飾《くびかざ》りもない、財布《さいふ》の根付けに石ころをつけているような私はどう扱ってもらえるのか、と冗談《じようだん》を言いながら、笑いがひっこんでしまった。  戦争中、胸に血液型と住所姓名を書いた布を縫い付けていたことがあった。最近の身分証明は宝石か。金色夜叉のお宮さんは、ダイヤモンドに目がくらみ、貫一さんにけとばされた。  現代女性はダイヤを指にはめて、車にけとばされたときの心得とする。  今月今夜、月は曇ってしまった。 [#改ページ]  朝のあかり  夜がきたら、たとえ二つの部屋の片方に家族が集まっていても、あいているもうひとつの部屋を同じように明るくしておきたい。台所も手洗いも、みんな電気をつけておきたい、私は明るさの持つ静かなにぎわいが好きだから。  けれど二人の家族はこの考えに批判的である。いらないあかりをつけておくのはもったいない、という。それで、私が外から帰ってくると、人のいる所だけが明るくなっている。私はハンドバッグを持ったまま、ついてない電灯のスイッチを入れる。ねえ、ふすまひとつへだてた隣りがくらがりに沈んでいるより、明るい方が何となくゆたかでしょうに? でもそれは無駄なことだという。  電灯が宝石のように高価だったら私だって手が出ない。さいわい電気代くらいなら狭い家のこと、全部一晩中つけておいても給料でまかなえるだろう。  ついでながら宝石と電灯が同じ値段で、生活の中でどちらかひとつ選べ、と言われたら私は電灯が欲しい。どうして人は宝石を買ってあかりを節約するのかしら、などとへんな理屈をこねてみるものの、皆が寝静まった頃、私の部屋のあかりだけがカンカンしていて「またゆうべもつけっ放しだった」と責められるのは、あまりバツの良いものではない「もったいない!」  それが度重なった日、私は自分のひけ目から強盗のように居直ってしまった。「もったいないですって?」一日働いてくたぶれて、あれもこれもしようと思いながら、思い果たさず消し忘れた電灯。「デンキぐらい、なんの楽しみもない私の道楽なのに」と泣き落した。  とにかく月給を運んでくる者に、たったひとつの道楽とまで言われては、家人にはもう返す言葉もなかったのだろう。以後、日曜日の朝、八時が九時になろうと、頭上の灯りは誰からも消してもらえなくなり、わずか一〇〇ワットで、私の主張は周囲の明るさから取り残されることになってしまった。 [#改ページ]  はまぐり 「おじさん、そのはまぐりをください」「高いよ」じろりと私を振り返って言いました。 「じゃ、半分ください」おじさんはマスの中から半分よこしました。高いのは承知でした。戦争末期、東京山の手の大空襲で私の町は焼失しました。何十年ぶりかで小学校の同窓会があり、訪れたその町で、少女のころいつも売りに来ていたアサリ売りのおじさんに会ったのです。私を覚えているはずはありません。値段に関係なく買うつもりでした。でも私には買いきれない品とふんだのでしょう。はまぐりとともにおじさんの思いやりも買わなければなりません。見たところおじさんの商売もあまり高度成長していなくて、昔、テンビンに振り分けた竹籠に貝を入れ、かついできたのが、大型のリヤカーに変わっただけでした。私の胸にかかえた新聞紙包みはみるみるぬれてしまいました。 [#改ページ]  甘栗 「からだのために、と思ってせっせと食べさせた魚が毒だったなんて——」水俣病の家族のことばが耳をはなれません。  私はまずしい家族に何もして上げられない。みんな苦労ばかりしている。せめて財布の許す限り、おいしいものを買って上げたい、と働いては求めるわずかな食糧。自分が食べなくても上げる、そんな気持ちのよしあし。  このごろは、ふと買い控えてしまうことが多くなりました。新聞を見ていると、母乳、お前までもか! と言いたくなります。  ケーキも、もち菓子も不安のかたまり。ときどき甘栗を買います。ガード下のいちばんちいさい店のが暖かかったりします。日本産でないから安心できる、なんて。あんまりです。 [#改ページ]  美味  私鉄の線路沿いにある、町中には珍しい土手。そのかどにゴミの集積所があります。たいてい大きなポリバケツが山になっています。けさは役所のトラックが片づけて行ったものとみえます。コンクリートに汚物のシミが残っていますが、道はそれだけ広くなりました。顔を上げたら、手の届くあたりの土手に、赤い花の、盛りも過ぎたシネラリアの一株が、芽ばえたばかりの青草にまじって根をおろしているのが目にはいりました。あら?  たぶん捨てられた鉢をゴミ集荷にきた人がそっと植えて去ったのでしょう。お豆腐を買いに行く道すがら、口より先に目が食べたおいしいもの。  亡母の里では手ぬぐい一本もらってもゴットオサンデス (ごちそうさま) といいます。 [#改ページ]  ラーメン  手術室に四回運ばれたほかは、あおむけに寝たきりの五カ月間がありました。見舞いに来た友だちが「ハイ、オルゴール。曲は枯れ葉、エンギをかつぐあなたでもないでしょ」と置いてゆきました。そうです。すっかりよくなった今でも、枯れ葉の曲をきくと、生き死にの境の思いが切なくよみがえって、悲しみさえ甘くなることを知りました。  同室の患者が夜、出前のラーメンをすするとき、私は思いました。いつ食べられるかしら? ラーメンはあおむけのまますすれるものではありませんでした。元気になってしまうと「きょうは節約してラーメンにするか」などといいます。値段は安くても健康という高い代価を支払って食べるのに。 [#改ページ]  バナナ  宴会などで、テーブルのまん中へんにくだもの皿が置かれてあり、りんごやみかんといっしょにバナナのひとふさが盛られていると、まるで消えかかった虹《にじ》を見るように、皆の目がバナナのほうへ集まってゆくのが、だれもなんとも言わなくてもわかりました。  まだ食事が全部すんだわけでもないのに、ひとりの手がつとバナナにのびると、先を急がなくちゃ、といった気分が走って、二本目三本目がたちまち消えうせます。みんな無くなると何となくおだやかになります。遠慮して食べそこなった人、欲を満たした人、あやうく手に入れて安心してしまった人。皿の上ではとり残されたりんごやみかんが顔を赤くしていました。  それはバナナが品薄のため、とびきり値段が高かった日の話。このごろは安くなりました。私が子供のじぶんには縁日でタタキ売りされていました。世間の波にゆられてバナナの身のうえも上下いたします。味は変わらないのにね、笑いながらバナナの皮をむきます。 [#改ページ]  お茶  少女のころでした。 「君はお茶がきらいか」  いつまでたっても湯のみには手を出さず、お菓子ばかり食べちゃって——。どうしてお茶までいるのかしらん、と不思議に思った日もありました。  このごろは、お菓子はほしくなくて、おいしいお茶を望みます。  大正期、『民衆』という詩誌を創刊した恩師福田正夫氏の墓が小田原市の久翁寺にあり、毎年弟子たちが五月か六月にお参りいたします。皆が本堂で雑談中、私ひとりそっとぬけ出し、庭の茶|摘《つ》みを手伝ったことがありました。 「こんなにどっさり芽を摘んでも、お茶にするとひとにぎりです」  きれいにお化粧したダイコクさんの笑顔がひきしまりました。 [#改ページ]  うわさ 「死ぬまでに、もういちど何が食べたい?」。健康で、娘ざかりで、しかも春で。許婚者も、恋人も、みんな戦争につれて行かれて。話すことというと夢。それも食べものの夢。「クリームパンが食べたいわ」と私が言っても友だちはひとりも笑いませんでした。お米も塩も、味噌も、まるで乏しくて。職場が、働く者に配給してくれた栄養剤。薬と知りながら空腹のあまり、一カ月分を二日で食べてしまったこともありました。平和がよみがえり、やがてパン屋さんの店先にクリームパンも並びましたが、どういうわけか、私の夢みた、二つに割るとクリームがとろりとこぼれそうになる、おいしいパンはあらわれませんでした。  忘れられないことがひとつ。みんなが飢えて戦っているときでもたくさんの物資が「あるところにはある」といううわさがありました。 [#改ページ]  季節  もうじき青いアスパラガスが値下がりするでしょうか。どんなに高くても買う、というのでなければ、ほんとに好きといえないかもしれません。ほんとに好きだからその植物にとっての自然な季節を待つのだ、といっておきましょう。  アスパラガスやセロリを食べるとため息が出る。と私がいうと、まわりの人に笑われます。口にすると胸がふくらむおいしさです。みつ葉も、ウドも、ミョウガも、大好きです。 「そのタケノコをください」  やさいのシュンを見ると、あらかじめたてていった献立を忘れて、つい手を出します。 「アイヨ、姿の美しいのがほしいんだろ」  八百屋のおばさんが、一回だけ言った私のことばを覚えていて、ひやかします。 「すみません」 [#改ページ]  シジミ  買ってきたシジミを一晩水につけて置く。夜中に起きたらみんな口をあけて生きていた。あしたはそれらをすっかり食べてしまう。その私もシジミと同じ口をあけて寝るばかりの夜であることを、詩に書いたことがあります。  一人暮らしには五十円も買うと、一回では食べきれないシジミ。長く生かしてあげたいなどと甘い気持ちで二日おき、三日たつ間に、シジミは元気をなくし、ひとつ、またひとつ、パカッパカッと口をあけて死んでゆきました。  どっちみち死ぬ運命にあるのだから、シジミにとっては同じだろう、と思いましたが、ある日、やっぱりムダ死にさせてはいけないと身勝手に決めました。シジミをナベに入れるとき語りかけます。「あのね、私といっしょに、もう少し遠くまで行きましょう」   シジミ[#「シジミ」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  夜中に目をさました。  ゆうべ買ったシジミたちが  台所のすみで  口をあけて生きていた。 「夜が明けたら  ドレモコレモ  ミンナクッテヤル」  鬼ババの笑いを  私は笑った。  それから先は  うっすら口をあけて  寝るよりほかに私の夜はなかった。 [#改ページ]  おそば  太平洋戦争が終わったあと、東京丸の内のとある町かどで、二人の婦人が靴みがきをはじめました。それがもう二十年以上になります。はじめたとき四十歳前後だったでしょうか。おばさんたちは歩道に正座し、私はその横を通りすぎる。  いつでしたか、ビルの地下にあるおそばやさんで私がモリソバを食べていると、おばさんのひとりが店にはいってきて、前に腰かけました。はこばれてきたのはタヌキソバ。箸《はし》をとったおばさんは、下を向かなくともどんぶりのへりが口のへんに届いてしまうほど、靴をみがく時のかっこうのまま背がこごんでおりました。  このところそのおばさんの姿が見えません。どうしたのでしょう? 気にかかります。もうひとりのおばさんが日よけに黒い雨傘を立てはじめました。プラタナスは新緑です。   信用[#「信用」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  けさは雨に打たれていた。  プラスチック製もりそば容器とつゆ碗。  丸の内のとある四ツ角。  その舗道に立っている一本のプラタナスは  からになった食器を根元に置いて  宮廷の門番以上に姿勢がいい。  そば屋が取りにきたら  挙手の礼をするかもしれない。  ビルディングの絶壁を背に  晴れさえすれば早朝から  しつらえられる二つの席。  前に立つ時すべての者が自分の足もとに目を落す貴賓席は  あいにくの雨でとり片付けられている。  戦後荒れ果てた東京駅前に  四十歳前後の婦人がふたり。  膝をそろえて坐った。  その日から二十余年。  街には高層建築がふえた。  二人のうちの一人が靴を磨くかっこうのまま  すっかり背がこごんでしまった。  靴磨き料金が少しずつ上がってきた。  が、  それらは歴史の変動にあまりかかわりを持たないだろう。  重大なのはごく最近  そばやが出前をはじめたことだ。  財産といったらほうきと座ぶとん  木箱一杯の商売道具。  店をしまえば跡かたもない  そのあたり  このあたり  百人千人通りすぎる道ばたに 「置いといてくれればいいです」  と出前持ちに言わせた。  老女たちの領域  領域のひそかな繁栄。  口笛吹いてそばやは通うだろう。  この客の前でそばやは卑屈にならないだろう。  仮にプラタナス国。  皇后の食器は今朝  雨に打たれハネをあげている。 [#改ページ]  まじめな魚  それは子供のとき見た絵本の、マンガのひとこまです。海に落ちた目ざまし時計をまんなかに、魚がウサン臭そうに、あちこちから寄ってくる。  絵をみて笑ったのは、人間の子供でしたが、子供が大人になって思い出すのは、笑った自分ではなくて、驚いている魚の目のほうです。きれいな花なら根を移し植えることができます。あの絵の魚は——やはり飼うことができるでしょうか。  まさか、飼っておこうと思ったわけではありません。であるのに、あのマンガの中の魚たちが、かわいい目で最近、私の電話の受話器をとりかこみ、目ざまし時計を見たときと同じように近よっては、かわるがわるつつきます。ことに遠い土地へのダイヤルを、私がまわす時など。  先夜も伊豆の親類へかけると、ただちにいとこの声が私の耳にとどくのでした。あたりまえのことです。それを、魚たちはやはり、オカシイ、といいます。もしかしたら電話が便利に出来ているのではなくて、人間の構造のほうが、たいへん不便に出来ていて、非常に近くにあるものが遠くへだてられているのではないか、と、重大なことを申します。  発明とか、発見というものは、無限に遠くへひろがってゆくことなのか。無限に何かに近づくことか。  この辺はどうも、脳髄を古い絵の中の魚が泳いでいる私のマンガ的発想にゆきあたるのですが。  その伊豆・子浦へ行ってきました。電話が一瞬で飛ばしてしまう風景をたどり返しに。  久しぶりでゆく親類はごたぶんにもれず、広い家を半分改造、民宿開業となっておりました。そこで私は、はじめてほんとうの客となりました。  大好きな、夏の子浦料理、直径五十センチもあるような皿に、とりたての鰺《あじ》を開いて並べたサシミ。それは出なくて、あまり見かけない鯛《たい》に似た形のよい焼魚を出され、これ何? と聞くと「さあ、何ずら? 冷凍で来つらヨ」と言われました。食卓から鰺は遠ざかり、冷凍魚の近接です。  この辺の経済も非常に成長していました。  暑いさかりは住人の三倍近い海水浴客でにぎわう、といいますから、同慶の意を表しました。土地の人は、その持っている美しい風光をおすそわけし、都会の人はサイフのお金を、互いに分けあうのでしょう。私はその交換が、ほんとうに均衡を得ているだろうか? と、磯の先で足を海にひたしながら案じました。  すこし沖を、ゴムボートがひとつ。大の字に寝た青年を乗せ、ただよってきました。波が、もてあますようにゆすってやっているので、私は、ご苦労さまです、とつぶやきました。  青く澄んだ水のおもてを、ちいさい魚が、ごく自然に群れをなして泳いでいましたが、とても真面目《まじめ》な顔をしていました。  マンガの中の魚もまじめだったなあ、と思いました。 [#改ページ]   ㈼ [#改ページ]  夏の日暮れに  伊豆は遠いところです。  私の両親は伊豆に生れました。父は子浦、母は岩科《いわしな》の峯です。といえば、ああそうか、と伊豆の人ならわかります。現在の地名では、南伊豆町子浦、松崎町峯と呼ばれています。私はその二人によって、東京で生れました。  ちち、ははの墓は伊豆にあります。墓にはほかに祖父母、二度目の母。それから私の二人の妹などがおります。にぎわうほど深くしずもる。  墓は子浦の湾を見晴らす山の中腹にあります。いつでしたか墓参りに行ったら、ちいさい石段をのぼった所にビール瓶がころがっていて、首をかしげた私に「東京衆が、ここで月見でもしつらよ」と一緒に行ってくれた親類の者が説明してくれました。なるほど、と思いました。墓まで観光の波を受けはじめてきた様子です。有料にしなければなりません。その老人も、いまは隣りの墓に眠っています。自分で建て、手入れを怠らなかった自分の墓に。もう草とりも出来かねて。  伊豆は私を観光者にはしてくれません。行く、という言葉の裏に、帰る、という意味合いがかくされていて。ふるびた軒の下から、ふとのぞいた老婆が、まあお前、来たけえ? いつきたけえ、よく来たのう、と語りかけるからです。伊豆には骨が埋まっています。伊豆の風景は骨を包む、生身の美しさです。ひとつひとつの地名は、活字で見ても声が聞こえます。その多くは、すぎ去った人たちの声です。  いまは東京から下田まで、電車で三時間ですが、西海岸の子浦から半島の南端、石廊崎《いろうざき》をまわり、下田の港へ行くまでに、同じ時間ほど船に乗った覚えがあります。蓑掛《みのかけ》岩を外から見ました。それは手品師が自分のふところから目的物を出して見せるのに似ていました。船がそこにさしかかる前に、父は自分が用意しておいたもののように、ホラ、あれだ、あれが蓑掛岩だ、と目を輝かせ、笑いこぼれて示すのでした。岩はそうして私の記憶に位置しました。小学校何年生の時でしたか?  東京を発つのはいつも夜汽車で、いちばんふるい思い出は、御殿場を廻って沼津に出ました。駅で夜の明けるのを待ち、人力車に乗って船の発着所へ行くのです。伊豆西海岸を通う汽船は、沼津の河べりに横付けになっている時もあり、河口の外にいかりをおろしていて、そこまでは小舟で運ばれることもありました。  ほんのり明るんだ空の下のほうに、まだ眠っている家が、灯りを消し忘れていたりしました。人の暮しというものが、どれほどつつましくせつないものか。ちいさい灯の色が、水の上をわたる幼い者に絵解きしてくれました。あれが私の、夜明けの空の色です。  母は私が五歳、祖母は七歳の時に亡くなりましたから、伊豆へは父か祖父に連れられてゆきました。距離はそれほどないのに、交通の便がわるいから伊豆は遠いのだ、とよくこぼしておりました。遠ければめったに帰郷するゆとりも折もなく、父が子を連れて伊豆へ行く日は、かならず、といってよいほど、家族の葬式のためでした。  戦争で焼かれる日まで、東京赤坂の家には籘で編んだ大きめの、古いバスケットがひとつありましたが、その中に骨壺を入れ、おみやげ物の包や、着替えのトランク等と同行しました。覚えております、その荷物がひとかたまり、駅のホームにおろされたり、船着場の道ばたに置かれたりしたことを。子供の私は新しい服など着せられ、その荷のそばに、もうひとつの荷物のようにつっ立っていて、バスケットの中身は外の荷物と少し違う、ひとにないしょのもの、ぐらいにしか思っていなかったのでした。  生きている子供という荷物と、亡くなった人を荷物にかかえて、ふるさとに向かった父の心を、今になって偲《しの》びます。  あれは、私が成人してからのことでした。松崎の浜辺の病院に入院した十九の妹が危篤だといって、父と私が、やはり沼津から船に乗った朝。偶然乗り合わせた昔の友達と、船員が船尾にしかけた釣糸の行方を追いながら、父が「子供を持つのも考えものだよ」と、相手をいたわるように語っているのを、私は聞えぬふりで聞いていました。噂で知っていたその人は家庭を持たない変り者なのでした。あまりに心労が多い日常を、父はそうして友に打ちあけたのでしょう。妹は死にました。熱にうかされた夢の中で「お兄さんが海軍の制服を着てきた」と妹が笑いましたが。兵種の決まった弟にまだ召集はなく、太平洋戦争の戦火が日本本土に及ぶのは、それから間もなくのことでした。 [#ここから1字下げ]  西伊豆の海岸線に沿って汽船が通っている  バスに乗ってそれを見ると  たとえば崖の高みから  静かな日には 青い平野であるか、とも思われる  けれどしんじつ海である  そのキラキラ光るみどりの表を  ゆっくりと、ちいさく走っている船。  その船に私は乗っていた、  甲板は私にとって充分広かった  海は船べりに満ちていた  海は岸辺にも満ちていた  私の掌には一個の赤いりんご  掌にあまるその大きさとほど良い重みを  私は心地よくささえていた、  十月、熟れたりんごに満ちあふれる秋と  潮にささえられた一艘の船と  船にささえられた私と。  海よ  私は掌の中に海の重さを感じていた、  遠景に富士が  雲一つなく立っていた  私は甲板に立っていた  すべてがゆれた  西伊豆の海岸線に沿って汽船が通っている、  村道から見るとわずかな島影にも姿をかくす  それはちいさな、船である。 [#ここで字下げ終わり] 「海とりんごと」という私の詩は、その時の船旅の印象から、後日書いたものです。葬式に行くとはいえ、なつかしいふるさとであることに変りありません。東京にいても、まして伊豆にゆく船旅の途中などでは、父は夢中で、山を海を、島を、その色を輝きを私たちに指し示し、喜びを強いるのでした。いいところだろう? こんないい景色はないだろう? ここが伊豆なんだ、と飽くこともなく繰り返すのでした。あんなにまでふるさとの風景の素晴しさを信じ、愛した人がいるだろうか? と思うのは身内の勝手にすぎません。  私はたぶん、その父の教えによってなのでしょう。はじめて見た日から、伊豆の自然への感嘆を失うことなく今日までまいりました。濃紺の海、岸の岩壁、山にかかる雲の白、走る魚影。私というひとつの器に、景色というもの、あとはいくら注いでも、こぼれるばかりなほどに、伊豆一カ所で一杯になってしまったのでした。  東京へ出てきた父が、松崎の町を流れる川のほとり、いまもあそこ、とわかる土蔵と、一本の木が立っている家で母と見合いをし、その母を迎えて都会に戻り、三人の子をもうけ、ほどなく母を骨にして伊豆に返し、祖父母の骨を返し、自分も最後には無言で帰っていったはるかな旅。伊豆は、どれほどか遠い土地でなければなりません。  下田からバスが子浦まで通いはじめると、東京湾を船で発ち、大島廻りで下田へ行くこともありました。戦争中、敵の魚雷を恐れて灯火管制した船が、観音崎にさしかかろうとするころ。房総半島のほうから、かすかに響いてきた祭り太鼓の音は、くらやみの底から湧く、なんとものどかな音色でした。  伊豆半島のそこここをバスが通いはじめると、もう人は、車に揺られても船にゆられたいとは思わなくなってゆくのでした。けれど、その程度ではまだ、奥伊豆は秘境のうちにはいっていたろうと思います。  東京から下田へ電車が直通したのが昭和三十六年十二月。その正確な年月は、下田、寝姿山にかかるロープウェイで頂上に行った時、鉄道を敷いた資本家の記念碑が建っていて、知りました。碑のおもてには、五島慶太は伊豆と共に生きている、とあり。そんなにいつまでも生きている人間を、いぶかしく思いました。伊豆の人はみんな、「お先に」と、ごく自然に死んでゆくような気がしてなりません。けれど、電車というものの便利さに感激して碑をたてた土地の人たちの喜びがわからないわけでもありません。  私の伊豆行きも、そのあたりから、用事なし、遊びの目的でおとずれることがふえてきたのでした。たとえば会社の一泊旅行。そこでは団体さんの安楽なひとりです。  汽笛を鳴らして、ようやく汽船が波止場近くに碇《いかり》をおろすと、船会社のはしけが漕《こ》ぎ寄せてくる。そのほかに小舟が一隻近付いて、船腹の下のほうから、「迎えに来たよう、おりん坊《ぼう》ちゃん」と呼んで手を差し出してくれた源平じいさんは祖父の友。妻良《めら》と子浦をつなぐ渡し舟の船頭でした。迎えに来てくれたお礼の酒に、陽にやけた顔を赤らめ「こうして元気だが、昔のうたに、アスアリト、オモフココロノアダザクラ、ヨハニアラシノフカヌモノカハ、ってのう。おじいは、いつ死ぬだか」と語りきかせてくれた、それはそのまま、いまの私の昔語り。  折あって、この夏おとずれた伊豆は、波も変えなかった自然を、急速に変えてゆく何かがありました。そのもうひとつの波は青いでしょうか?  西子浦の松が下へと行く途中の道を下に降りた磯の先で、小一時間も足を水にひたしていた私は、いっときちいさい岸でした。小魚の群れが泳ぎよせては遠ざかり、手元の穴から蟹《かに》が出てはひっこむ。そのすばしこさに笑いながら、すばしこいから生きながらえたのだろう、とたわむれました。  向こうに見える、以前人影もなかった人附浜《ひとつきばま》には、オレンジ色のテントが三十ばかり。その上には駐車場まで出来て。  さっき墓参りにゆく道すがら、高い木を切っている人に逢いましたが、墓掃除を終えてもどるころには「西林寺ビアガーデン」と横幕が張られていたものです。そのビアガーデンに、十六名の戦死者を記念する碑が、完全にかくされていました。  墓地は、暮しの忙しさをはかるように、今までにない草ぼうぼう。掃除をたのんだ遠縁の女性は私より年かさで、石の下の人たちの若い日の話を私に聞かせながら一緒に草を刈り、百人一首のなかの歌をいくつかそらんじて、「昔は物を思わざりけり」と言うのでした。  祖父の姉妹衆が、辞世の句をつくり合っていたことを思い出しました。  心に負担のある旅が多かった伊豆で、今回はゆっくり古い旅路を採ろうと思い立った私が、観光船で、子浦を波勝《はがち》へ向けて発ったのが午後三時。船長が私に、乗るな、と注意した通りの大波で、会社の者はこの波を知らないで船を出させたがる、とこぼすのをききました。対立、というものが、沿岸の船にも乗り移ってきていました。  猿も人もいなかった波勝の磯に、村人や父に連れられ釣りに来て、岩の上で西瓜を割った日。一メートルもある細長い魚が、浅瀬に立った少女の足をかすめて過ぎた日はいつ?  売店のまわりにまかれたとうもろこしの実を、何十匹もの猿が、素早く、いっせいに拾う姿に目をみはりました。私は申歳《さるどし》。私がこの赤ら顔のけものの歳であるとはなんとまあ。  波勝から松崎へゆく船は高波で欠航。車は出払っていてここまでは来てくれない、とわかると、これから松崎の峯まで行きたいという私を、この土地に縁ある人、と見た食堂の小母さんが「アイス屋さん」の車を世話してくれました。  おかげでアイスクリームと道連れになり、いままで一度も行く機会のなかった伊浜に降り、知り合いに一目逢い、平戸から蛇石をぬけ、山道の只中で松崎町の標識を通過しました。山々のたたずまいに、見たような、影がさし、八木山を峯へとおりると、十何年ぶりかで見る母の里は、知らない隣人が、どの家に来たか、と私にたずねるのでした。  しかしこの辺からでした。私が、昔とあまり変っていないものの姿に、首をかしげはじめたのは。  翌日、松崎から沼津へ向かった時。船の名前こそオトギ話めいた第二十七龍宮丸とありましたが。過去をたどり返すように、田子、安良里《あらり》、宇久須、と停り停りで進むとき、私は次第に自信を失い、ついには情なく自分に問いかけるのでした。私は、ほんとうに二十年あまりここを通らなかったのだろうか? そんな……。つい最近、ここを通ったのではないのか……。移り変る景色が、あまりに鮮明な記憶と結びつくので。もしや私は、私も知らない時、始終ここを通っていたのではないのか? 海の上を。という恐れと不安に、あやしく荒れてくるのでした。  空がかげり、夕立が来ました。雷鳴と波のゆれに、百名定員をはるかに超えた龍宮丸の下の船室からはキャーッという大勢の声が、ちいさい木の実ほどにはじけました。  西伊豆の船旅は、大瀬崎がゆっくり方向をかえることで終りに近づくのですが。船室を出た私が、降りのこった雨を一、二滴受けながら舳先《へさき》に立ち、はるかな陸地の上に、雲よりはたしかなものの在りようを、横に長く次第に高く、目でたどってゆくと、かすかに富士が立っていました。 [#改ページ]  試験管に入れて  すぎ去った日の、底のほうに沈んでいたちいさな言葉、なんでもない言葉が、とつぜん目の前に浮き上がってくることがあります。 「これが上の娘です。気まま者でして」  まだ若かったころの父が、笑いながら相手に向かっていうとき、ひとりの童女は、どうやら自分は気まま者という、あまりほめたものではないらしい、けれどその子をはじめて紹介する父の仲間、大人という仲間に向かって、ニコニコ押し出してやりたいほどの、わずかな満足をかくしているらしいことを感知して、親の、腰のあたりに身をひそめ、テレながら外をうかがい、甘えと、おそれと、もひとつ、そういう者であるらしいところの自分を新しく意識するのでした。  後年私は、どちらかといえば陽気な、小心で律義《りちぎ》だったこの父に反目《はんもく》し、いきどおりの中で恨み死にさせてしまうことになるのですが。  振り返ってみたとき、ただなつかしい、と言ってしまえばそれで済んでしまいそうな、あの紹介の中に、ズバリと子を見通した父親としての評価があることに気が付きます。  私の本性はたいへん気まま、わがままに出来ているようです。私は私であるがままにずっと生きて行きたかったろう、と思います。それの出来なくなってゆく過程、出来ないことが積み重なってゆく月日の中に、私の人生は展開いたしました。  どう生きるか、その生き方について語れ、と言われても、私は答えられることは何ひとつ無いのに困りました。私は生きてきた、それだけのことです。具体的には物の食べ方、働き方、人とのつき合い方など、私らしいとても自慢にならない下手なやり方があるわけですが、その実績を紙一重でも超えて、生き方、という旗じるしを掲げることが出来ません。  私が育てられたのは、ちいさいけれど暮らしに困ることもない商家でした。足りないものは四つの時に亡くなった母親。過去があって現在があるように、ないことによってあるものが支えられているとしたら。亡い母親は、私にあるべき運命をさずけた、とでもいうのでしょうか。母と呼ぶ人を四人迎えました。その手前には三人の母の死があるわけです。私はごく自然に、自分をしばるものから解き放し、自由に生きることをいのち全体で希望したに違いありません。十五歳の時点では教育と家庭から。それで最初に選んだのが働くことでした。というと少し立派にきこえますが、勝手につかえるお金が欲しかっただけです。  お金とはこわいものです。お金が与えてくれる自由が、どんなに自由というものの部分にすぎないか思い知るのは、私にとって容易なことではありませんでした。  いま振り返ってみると、自分が望んではっきりと道を選ぶことが出来たのはその時だけでした。  話がとんでしまいますが、政治には、この部分的自由を極端に一カ所に蓄積してしまい、少数の人がその鍵を握ることで人の心を貧しく、飢えさせ、ただもう自由は金の力を借りるしかないように世間をかりたてることで繁栄する方法もあるのだ、と知りました。  気ままものの私が、少女のころから働くことでわがままを伸ばそうとし、そのためにしたがまんの分量を考えると、奇妙なおかしさがこみ上げてまいります。  年をとるほど、親族と、生活の不安は私を束縛し、定収入、つまりサラリーマンとしての位置から一歩もはずれることなく、保身をはかってきました。職場が銀行だからそれが出来た、ともいえるのですが。その間、戦争は家を焼き、敗戦が家族の病気とともにおとずれたりしました。  人はよく前向きに生きる、と申しますが、私が前を向くと、うしろばかりが立ちふさがってくるのです。あまりに不安定な世の中に生まれ、未来ではなく、既にあるものの、どうしようもないかなしみのようなものに手も足も染めて、何とかしなければ、という思いにばかりかり立てられるために。希望とまでゆかない、こまやかな願いごとをつなぎ合わせることで日々をつないできました。  戦後、私を大切にしてくれていた祖父が亡くなる前、年をとったひとりの女が生きてゆくことをどのように案じるか、たずねました。「お嫁にも行かないで、この先、私がやってゆけると思う?」「ゆけると思うよ」「私は、私で終わらせようと思っているのだけれど」「ああいいだろうよ、人間、そうしあわせなものでもなかった」  闇の世を立ち出でてみればあとは明月だった、という句を、祖父は口うつしで私に伝え、やがて逝《ゆ》きました。  あの会話は、からだの自由を失った老人が、私の将来に見当をつけての思いやりだったと気が付きます。  これからひとりで老年を迎えることがどれほどさみしいか試《ため》さなければ、といった覚悟のようなものは多少用意したつもりでしたが、実際はどう堪えおおせますことか。時には試験管の中に自分を入れ、振ってみます。  そんな旗じるしのない私の精いっぱいの表白が、詩のような形をとりはじめてずいぶん久しいのです。   唱歌[#「唱歌」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  みえない、朝と夜がこんなに早く入れ替わるのに。  みえない、父と母が死んでみせてくれたのに。  みえない、  私にはそこの所がみえない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](くりかえし) [#改ページ]  鍵  ざくろの木が立っていました。パンやさんの裏庭に一本だけ。  私の家の裏手にあるトタン板張りの囲いを飛び越えてその庭にもぐりこむと、と言ってもふとんにもぐりこむわけではありませんので。どこからも道らしい道の通じていない場所に、はいりこんだ、というわけです。初夏の空の下に、ざくろの花があかく咲いていたりしました。  私はパン焼きのかまどをのぞき、そこの職人さんにねだって、粘土細工でもするように、てのひらにのせてもらったパン種を、パンらしい形にまるめて遊ぶのでした。  職人さんが、ほんとうのパンといっしょに、私のまるめたパンをかまに入れてくれたことを、今になって感謝しています。あのお兄さんは、汚れて食べられるはずのないちっぽけなパンを、かまどの隅のじゃまにならない所におくと、大まじめに火を入れて、子供の夢をふくらませてくれたのでした。  表通りにある写真店に、たまに写真を撮りに連れて行かれると、洋館風の二階に通され、その窓からは正面の高さに、横に長いパンやの看板が大きく見えました。   ※[#T-CODE SRC= DNP3C9EA8.PNG ]パン食になるるは国民の最大急務なり  その看板の言葉の意味が私にはむつかしく、ことに「なるるは」というのが、最大にこまるところでした。昭和初年の、平和な日の思い出です。  第二次大戦中、ひどい食糧難におちいった時、ああ、死ぬ前にもう一度クリームパンを食べたい、と友だちに語りました。友だちにも、死ぬ前にどうしても食べたいものがあって、てんでにそういう話をして遊んだわけです。何ともいじらしい青春の夢でした。  食糧、ことにお米というものがどんなに大切なものか。一軒の家で一日一粒の米をむだにすると、全国ではどのくらいの量になるか。稲の苗から飯粒となって人の口にはいるまでには、どれだけの月日と労苦がかかっているか、など。学校でも家庭でも、心に着せられた一枚の肌着のように、教えとして身につけられてしまっては、いまさらその考え方を変えろ、と言われても簡単にはまいりません。  このごろ食堂などで、若い人たちは出されたご飯をあっさり半分ぐらい残して「ふとるんですもの」と言います。私はきれいに食べて、皿のへりに一粒でも残っていると、ていねいに拾ってしまう。そんな仕草はたいそうケチン坊のようでもあり、見苦しいお行儀のようでもあり、先に箸を置いた人にじっと見つめられると、罪悪を犯しているようなヒケメさえ感じることがあります。国民はパン食にすっかり慣れてしまいました。  すべての移り変わり。政府があり余るお米の始末に困り、減反《げんたん》を命じ、遊ばせる田に奨励金を支払うと聞けば「お前しばらく働かないでくれ、遊んでいる間の小遣いはやろう」と言われているような、妙な気持ちがいたします。むつかしいことはわかりませんが、それだけ日本列島から緑が減っているのは事実でしょう。  戦争中、人間であることに希望を見出せなくて、母親にはなるまい、と心に誓ってしまったおろかな私は、昨今、家族をはなれ、はじめて一人住まいをはじめました。スーパー・マーケットに買い物に行くと、人の背丈ほどに食糧品がぎっしり並んでいて、必要なだけ無言で籠に入れる。先日、後ろからサッと来て、菓子の大袋をガバガバッと五袋投げ入れて、忙しく立ち去った婦人に感嘆。あれは食べ物か、飼料か、と首をかしげてしまいました。  いつも誰かがいて、玄関に鍵をかけずにいたのがこれまでの家であったなら、神経質にいちいち鍵をかけて出るアパートの一室は、何と呼んだらよいでしょう。私は買い物籠を下げ、キー・ホルダーにはめた四個の鍵をちゃりちゃり鳴らし   孤独になる(れ)るは国民の最大急務なり  などとつぶやきながら、トボトボ坂道をおりてゆきます。 [#改ページ]  ユーモアの鎖国  焼け跡の道を男が二人、向こうから歩いてきた。 「それがね、奴《やつこ》さん、壕《ごう》の中で、ちょっと乙《おつ》な恰好《かつこう》して死んでたんだ。こんな具合に日本刀を抱えて——」  話がそばを通り過ぎていった。少し笑っているようだった。  ——それじゃ——と私は思った。せっかく立派に死んで見せても、美談にならない。惜しいことをした。  一九四五年五月二十五日の朝だった。空襲で前夜は家族ちりぢりになり、互に生きているか、死んでいるか。ここに家があった、という、まだ火のくすぶっている地点に、一人帰り、二人戻ってたしかめ合ったばかり。逃げるとき防火用水に投げ込んだ鍋や茶碗は残ったけれど、木の箸はなくなっていた。あってもそれではさむ食糧はなかった。そんな非常なとき、正面を向いた私の横のほうで、耳が勝手に拾っておいた、その頃の感じ方で言えば軽べつに価する不謹慎な話。  それがへんに生き生きしていて、戦争が終った後まで、ふと近付いてきては私の前で立ち止まる。そして。  では聞くけれど——、もしあの男の死が美談としてとり上げられていたら。翌日の新聞に、某の家の誰が、空襲下の町を護《まも》り、最後まで消火に努め、逃げおくれたと知った時、少しも取りみださず日本刀を抱えて壕にはいって死んだ。と書かれたら。お前は、惜しいことをした、などと考えたろうか?  惜しいことをした。と思ったのは、せっかく死んだのに、奴さんと呼ばれ、乙だった、などと片付けられたのでは、元も子もない。まるっきり馬鹿気た死にざまにしか受け取られていないから、惜しんだのではないか?  命をほんとうに惜しんだのではなくて、死と引き換えにしたものでバカをみた、と思ったのではないか?  死者にゆるしを乞うとして、お前にきくが、日本刀を抱えて死んだ男の心の中の、ある種の気取りを見ているのではないか。言い換えれば、その気取りをヤユした二人の男の言い分に異存がなかったのだ——。  キグチコヘイハ、シンデモラッパヲクチカラハナシマセンデシタ。この言葉の強烈な印象、リズム。小学生のときはもちろん、戦争が終ったあとも忘れられないひとつの言葉。  最近書店に戦前の教科書が山積みになっていて、精神にふるさとというものがあるならその景色が、あの本の中に展《ひら》けているのではないかと思われる。手にとってみると、どの画にも見覚え、心覚えがあって、教科書の方から私を見たら子供の表情をしているのではないか、と思うなつかしさだ。その修身書の巻一をひらいてびっくりした。テンノウヘイカバンザイ、の次が、あのキグチコヘイであった。すると、学校に上がったばかりの子供を、そのしょっぱなからつかんで離さない力が、あの本にかくされていることになる。それならテンノウヘイカバンザイは、最初に習い、戦場で死んで行った多くの兵隊さんたちは、それを最後の叫びとしたことになる。  私は育てられるとき子守唄で寝かしつけられたかも知れないけれど、学校は美談で起こしてくれたのだろうか? 日本は軍国主義だったといわれても、私が生まれたのは日本で、日本は軍国だったかもわからないけれど、私が主義に生きたことは一度もなかった。天皇が神だと言われれば、不思議を信じ、聖戦といえば、戦いぬくことに従う外ないと思ってきた。一人の弟に召集令状がきた時も、祝いをのべるほどおろか者の私は、家が燃え落ちた朝も国民としての義務をひとつ果たしたくらいの覚悟で、何となく身軽な気持ちになって隣組の使い走りなどに精出していた。  その教え、さすがに優等生には仕立てかねたようだけれど、この程度には私をこしらえ上げた、育成の手が教科書の中にあるといわなければならない。  やがて社会に出てからも、新聞は連日、戦場における美談を伝え続けていた。  その美談に影のさした日、それがあの朝。町も家も、国さえが構《かま》えという構えを焼きはらわれ、着のみ着のままで道ばたに立たされたとき、私は聞いたのだ。エラクも何でもない町の小父さんの、世間や教育に気兼ねしない、率直な意見を。  どちらか一方の権力に荷担して、その世界で美談を生きようと、または美談に死のうとすれば、力がほろびたとき�ちょっと乙な恰好�でしかなくなる場合があるのを。  焼け跡で耳にとめた話。あれは私にとって、いのちがけのこっけいというものを無残な形で会得《えとく》させられたはじめての経験。ユーモアの鎖国が解けた、最初の汽笛かも知れない。  二十五年経っていま、こんな風に私は、不謹慎な態度で、あの日本刀を抱えて死んだ、見知らぬ男の死を弔おうとしている。涙をためて。 [#改ページ]  炎える母の季節   鬼[#「鬼」はゴシック体] [#地付き]宗 左近 [#ここから1字下げ]  母よ  あの夜焼けたトウモロコシになってしまってくださったから  わたしが手製の冷蔵庫のなかから二十二年後の夜ごと  あなたを引っぱりだしてはあなたの歯並に禿《ち》びた  わたしの黄色い歯をあてて噛んでいるのです  黒焦げで口にひどく苦いのですけれど  それでもたまに柔らかいところに噛みあたると  ほの甘い蜜が沁《にじ》んでくるものですからそこに  吸いついたままわたしの歯はとれてしまうのです  今ではわたしの前歯のすべてが逆さにうわった  奇体なハリネズミみたいなトウモロコシなのですが  前歯の両端の歯だけが残って牙ほども伸びたので  それでじっくり左右から固くはさんで  ハモニカがわりにわたし自身のための  感傷的な童謡曲などそっと吹きならす夜ごとなのです  母よ [#ここで字下げ終わり]  五月の季節感を持った詩で、忘れ得ない、というようなのがありますか? と聞かれ、私はいそいそと答えた。ええ、あれは誰のでしたでしょう。外国の詩。少女雑誌で見ました。 [#ここから2字下げ] ねえ、お母さま 私はあした五月《さつき》姫になるの ——ひとつ夜が明ければ、あの谷、この村から若者たちが集ってくる。そうして私は——。 [#ここで字下げ終わり]  私が五月姫になるはずはなかった。けれど選ばれて姫になる前の晩の少女の心のときめきは、詩を読む私をやさしく明るくはずませてくれた。  ねえ、お母さま。その書き出しは幼時母に死に別れ、多少センチメンタルな日本の少女が、甘えて口ずさむのにつごうがよかった。  今年、東京の桜は四月十一日、九分通りひらき。前日私のところには知命会なる名で、花見のさそい状が速達で届いた。大正八年生れの詩人が昨年集ってつくった会だという。  安西均、中桐雅夫、宗左近、吉岡実、西垣脩、黒田三郎さん。  一回毎にゲストを呼ぶことにした。五十にして命を知る。君は仲間ではない。しかし一夕、われらと花を見よう。という意味の添え書きがあった。その限りではついこの間、知り難い命を知ってしまった私への、春より暖い思いやりをかくした、男性がたの招待だった。桜の花より一足先に、私の心は満開になっていた。  その晩かなり降った雨は、靖国神社に近い九段会館の地下食堂に皆をとじこめた。そこは以前の軍人会館、宿泊者が夕食におりてくるドテラ姿に「あれは遺族会の人たちですね」 と誰かが言い、私は出かかった返事を、あ、と飲みこんだ。生きている。生き残った者が生きている。  私が生き残ることが出来たのは五月だ。第二次大戦の最後の年。空襲による焼夷弾《しよういだん》が町内に雨と降った夜、すれ違ったひとりは死に、私はあくる日を迎えた。  義母を先に逃がし、消火の手だてもなくなったとき、片手に馬穴《ばけつ》一杯の水を下げ、父と手をつないで火の中を急いだ。どこへ? 生きのびる道をさがして。赤坂|氷川《ひかわ》神社の境内、その樹木の下かげを火の粉が横に走っていたのを時々思い出す。ここもだめ、そこもだめ。火は面積じゃない、高さなのよ。火事の話になるといまも私は、バカのひとつ覚えのようにいう。  逃げきった乃木神社の坂下で空があかるんだ時、私の足下で声がした。「妻は直撃弾で死にました」それは焦げて横たわった黒い男の呼びかけだった。  五月姫の好きだった娘に、戦争と青春は一緒におとずれた。空腹をかかえ、義母のよそってくれる一碗のめしをにらみすえ、�かれと、これとを見くらべて われは悲しき餓鬼となる�などとうたったりしていたが。  あの焼け出される晩何という愚かなことをしていたろう。姫にミレンがあったというのか。髪にあてる鏝《こて》を自宅のいろりの火であぶっていた。そこに私のわずかな若さへの記憶が、こてのメッキ色に光る。  警報が鳴り、灯りを消す、空襲がはじまる。すると東京の街はその火でまる見えになって浮き上がった。毎度、毎度。  乃木坂下と信濃町の距離は、歩いて三十分もかかるだろうか。その信濃町で宗さんは、 [#ここから2字下げ] 昭和二十年五月二十五日夜 アメリカB29の焼夷弾をあびて燃え上る炎の海のなかをわたしと母は手に手をとりながら 泳ぎ 喘ぎ 逃げまどっていた 母をこんな袋小路に追いこんだのは わたしなのだ 熱い塊が わたしの胸の内側をじりじり焼いた もう 助かりっこはない 母を殺すのは わたしなのだ どうしよう ああ 瞬間 母は走る足をとめて その瞳をわたしの目にくいいらせた 直ちにわたしは了解した よし 一緒に死にましょう すると母の瞳を見つめながら なぜかしら わたしは薄く笑ったのだ どうしてだろう [#ここで字下げ終わり] [#地付き](「緑の底の宝石」 から) [#ここから1字下げ]  わたしは顔中をデスマスクとるための石膏のように  全面埋めつくした白い繃帯の下にかくれて [#ここで字下げ終わり] [#地付き](「骨を焼く」から)  ひとりの朝を迎えなければならなかった宗さんが、一九六七年になって発行された詩集『炎える母』一巻の中に「鬼」がある。  五月は炎える母の炎え続ける季節。 [#改ページ]  お酒かかえて  大正期、詩誌『民衆』を創刊した福田正夫氏は私の先生ですが、斗酒なお辞せず、酔って電車の線路に大の字に寝た、などという思い出話をされました。むかしは線路にもその程度の安全性があったことがわかります。  私は、先生のお話ならたとえ酔っぱらいの話でも有難く、詩のお話を聞くのと同じくらいの真剣さで耳をかたむけておりました。そんなわけで、話はなさいましたがお酒を教えるには少女でありすぎたのでしょう。昭和十年代、先生の酒量がずっと落ちていたのも事実で、もっぱら詩についてだけ指導して下さいました。忘れることのできない恩人です。  ひるは会社勤め、夜のわずかな時間を自分のしたいことに当てるわけですが、夜更《よふ》けまで机に向かったあとは、翌朝の出勤にそなえて、最低ねむらなければならない時間があります。ぎりぎりまで起きていて、すぐ寝つくための処方上、お酒にたよることを知りました。これは歳月の教えかと思われます。覚えたのはお酒の味ではなく効用のほう。酔いの路線に横たわれば、身体は軽くあくる日へと運ばれるもののようです。夜半の三時ともなればこのくらい飲まなければだめだろうと、そそいだコップのウイスキーを飲み忘れたままいつか寝入って「朝みると残っていたりするの」と言ったら、異性の詩人がウウムとうなって「いいねえ、実に愉快だねえ」。私には何が、どうしていいのであり、ユカイなのか判じ難いのですが、一人暮しの無残な女の明け方に、あきれては気の毒だと、思いやっての言葉かもわかりません。  親兄弟もろくに飲めないタチの家に育ってお正月のトソを飲みすぎる、とたしなめられた日からどのくらいたったでしょう。  物を書けと言われて、あらいや、などと女らしい言葉づかいをする事はまずありませんが、酒之友社からのさそいに「いったい誰が告げたのでしょう」と恨みがましくひとりごとを申しました。いやねえ。  でもさびしい私の台所のすみに、自分で買った安いお酒がたいていは一本置いてあります。いまは、親切な女友達が持ってきてくれた高いお酒がもう一本。  福田先生、私はいまでもそう呼びかけます。小田原にある先生のお墓はなつかしい場所なのですが。いつからでしょう、年に一回、昔お世話になった弟子どもが相つどい、お参りに伺います。  東海道線で小田原から西へひとつ先の早川という駅で降りると、ちょうど真裏の山側にある久翁寺は、寺の陰気さが無い、サッパリと明るい寺です。そこに天然のちいさい根府川《ねぶかわ》石を使った福田家のお墓が建っています。損得ぬきで弟子の面倒を見て下さった先生のお墓に、私がはじめて詣でたのは女性四人ででしたが、それとは別に私の知らない先輩の弟子方がお墓に参っていて、いつか合流することになりました。  行き始めてから十何年になりましょうか。春が終りに近付くと、今年はいつかな? と思います。先生が亡くなられたのは昭和二十七年六月二十六日。それで、毎年その日以前の五月か六月の日曜に日が決まります。  お墓参りに私は初め一合瓶を買って先生に差し上げました。そのあともせいぜい二合か四合瓶ぐらい。けれど時に仲間うちの喜びごとでもあれば一升ということになりました。たいていは晴れていて、早川駅から寺へ行く海辺の町の白い路を、お酒瓶かかえて逢いにゆくうれしさ。  久翁寺の入口から本堂までの石畳の両脇は大きなつつじの行列で、このつつじの花が咲いているか、境内のみかんの花が咲いているか散ったあとか、で例年のお墓参りの遅速が感じとれます。  いつか、お墓の草むしりを終え香華の中で皆がかわるがわるお酒をそそぐころ、俗にいう狐の嫁入り、それもお墓の真上だけではないかと思われるほど狭い範囲に、ハラハラと雨が落ちてきて一同びっくりいたしました。東京からだけでなく、関西からも駆けつけてくる人が毎年いるのですが、その遠道《とおみち》を来た人が、ああ先生がおよろこびになられた、とつぶやきました。  ある年は、いつものようにすっかりお掃除し終えて、お線香をどっさり焚《た》いて、お水もたむけて、お酒もたっぷり墓石にかけおえたら、濡れて陽に照らされた石の丸みのてっぺんにちいさいカタツムリがはい上がっていてツノを出し、それが水に浮んだスワンのように気取っているではありませんか。 「まあ! おいしいものだから」  ほほほ、と福田先生の奥さまが笑いこぼされました。私たち一同もいっしょに笑いました。「おいしいものだから」と言う奥さまの言葉の中に、先生がおいしいお酒を好まれたことへのいたわりのようなものが感じられて、私はカタツムリの姿のように胸をふくらませてしまいました。  今年は五月二十三日にします、といつか世話をやくのはその人、と落ち着くところへ落ちついてしまったような世話人から、短い便りが先日届きました。時間は十二時、久翁寺。誰と誰がくるとも、何とも書いてありません。これる人がくればいいのです。私もそのときの財布と相談してお酒を一本さげてまいります。「先生、きました!」 [#改ページ]  お礼  私には、ひとつだけ詩に関して得意な話があるんです。それをきいて下さい。と、ある集りでおしゃべりしたことがあります。  だいぶまえに村野四郎先生のところへうかがったとき、西脇先生の詩はみんなむつかしいむつかしいとおっしゃってるのに、それを、そんなこといっていいかしらと思いながら、「私、西脇先生の詩を拝見すると、何とも言えないおかしさを感じます」と申し上げました。「おなかの底からおかしさがこみ上げてきて、こんな上等な笑いの味があるだろうかと思います」。すると、「西脇さんの詩の本質を一言で言いあてたのは君が初めてだよ」と言って下さいました。  村野先生が、気軽に私を励まして下さったひとことを、いつまでも得意がっていては申し訳ないのですが。そこが私のたあいなさで、だいぶ月日がたっているのにその先なにも言えません。学問があったら言えるのではないかと案じられます。不勉強のため、と言いかえたほうが適当でしょうか。  学問がない、学校を出ていない。ということが一生の負い目になる、そういう社会で長い間働いてきた私が、自分でもたあいないと思われる考えを口に出し、それをないがしろにされなかった喜びの深さが、困ったことに私を慢心させたのでしょう。有難いのは村野先生です。  西脇先生に私がお目にかかれる折はめったにありませんが、お逢いするとしあわせを感じます。そこにはいつも西脇順三郎さんがいらっしゃいます。変な言いかただと言われるなら、私の片言を直します。そこには大学教授がおいでになるのでも、芸術院会員がいられるのでもないのです。と言って、私が先生のご経歴や肩書のようなものを忘れ去っているわけではありません。私がいいたいのは、それらのものが権威として立ちふさがってこない、ということです。  少ないときでも四、五人は一緒にビールかなにか傾けているわけですが、そうした場合私がふだんなら感じやすいヒケメとか遠慮のようなものを失《な》くしているのに気が付きます。先生は五人いれば五人を、あまり区別なさらないらしいのです。私はありのままの私でいることが出来ます。  いつか私の方を向いておっしゃいました。「ナンカ、ヒトと変ったことをするのがイイですヨ」「カワッタことヲ」。先生は繰り返されました。  短い会話の中で、私が人並に結婚することもなく年をとったかわり者だとわかった上での言葉ですが。八十三歳で二十年も前に亡くなった私の祖父が、私を変った者に仕立てようと願っていたのを思い出し「明治」を感じました。  先生はたいへんな学者だそうですが、先生の学問は先生ご自身の中にすっかり溶けこんでいて、店の品物のようには前面に出てこないものと見えます。売り物だと、財布に金のないものは手が出せません。店の主人が算盤《そろばん》片手に見張っています。その目でこちらを判断いたします。品物に見合うものを持っている人にだけアイソがいいのです。そういうことがありません。先生は無邪気に人をごらんになられるので、私の中からも邪気が抜けてゆくようです。先生の前では、どこかの半島のおばあさんの咳だってゴッホです。  いつからか国土というものに疑いをもったとき、私の祖国と呼べるものは日本語だと思い知りました。言葉の世界に皇帝の位はありません。皇帝という言葉があるだけです。それは絶対ではない。  私はその言葉の領域、きまりかけている狭さ、かたちの、どこをどうとおしてか解き放ってくれる力を、それとない力を西脇先生の詩から受けとります。それは私の心を自由の方向にたのしませて下さいます。 [#改ページ]  日記  二月五日[#「二月五日」はゴシック体] 日曜、呼び出されて月島の親類へ行く。理由はわかっている。私に早く家を出なさい、という忠告。出ます、と約束する。「私が出て、あと大丈夫かしら?」「そんなことを言っているからいけない」と叱られる。結婚もせず、本当に長く居すぎてしまった。私が食べてきたのは御飯だったか、家族だったか。現在我が家はお墓に七人、こちらに四人。帰途都電で勝鬨《かちどき》橋を渡る。広々とした川の眺めが銀座の目と鼻の先にあることを忘れていた。  二月七日[#「二月七日」はゴシック体] 職場新聞の担当者きて、丸の内のうつりかわりについて書きなさい、という。ビルディングというもの、どれも半永久的かと思っていたら、銀行の建物が耐震理論確立前の設計であるため、四十年で老朽化してしまったという。先日取こわしをはじめた海上ビル旧館が全体白布に覆われているのをみた時はギョッとした。人間を葬送するカタチに似すぎている、と思って。  二月十一日[#「二月十一日」はゴシック体] 紀元節だという。  二月十二日[#「二月十二日」はゴシック体] 連休、雪が降り続いている。子供たちはうれしくて仕方ないらしい。近所で声があかるい。家にいても落着かないので午後風呂敷に本一抱え包み電車で五反田まで出る。喫茶店の人ごみは平気なのに家人に見られるのがはずかしい、因果な性分。お茶を飲むわずかな時間に何冊もの本読める筈なし。戻ったら親類の料理店にあずけた下の弟、川崎から来ていた。子供の時病気して簡単な読み書きがせいぜい、そのくせ料理の本など買いこんできて、私共においしい物を食べさせようとする。紫キャベツを買って頂戴、などとねだる大人である。彼がくると母も上の弟も喜んでいるのがわかる。  二月十三日[#「二月十三日」はゴシック体] 昼休み、職場で公募した組合歌のことで集会。昨日の日曜、雪合戦をしてくたぶれた話が議題のまくらとなる。雪質が良すぎてダルマには適さなかった、と真面目に語る父親たち、ダルマもむつかしくなってきた。  二月十五日[#「二月十五日」はゴシック体] 晴天。新丸ビルの前のきれいに乾いた舗道には、けやきの根かたに白い雪を少量残すばかり。しめっているわずかな地面、まるで木が氷菓子を前にして立っているような感じ。けれど四十分前に出てきた品川在の露地裏はそうゆかない。雪はよごれ果てているのに消えることが出来ない。朝の道はカリカリ凍っているけれど、陽が高くなるとおしるこになる。この生活の差異に嘆きと怒りを訴えるのは中高の私の靴、靴には靴の仲間がいる。  二月十八日[#「二月十八日」はゴシック体] 退行後旧丸ビルを散歩する、土曜の午後の習性。丸善へより、はいばらをのぞき、冨山房へはいる。陶器はいいなあ、花屋もちょっと。二階へ足をのばし銀杏堂から御木本《みきもと》の前を通りすぎて文祥堂へ。この時刻は閑散至極、ビルの中の古い落着いた街をゆっくりぬけてゆく。束縛のないよろこびとあてのないさみしさ、終点のヴォアラでコーヒーを飲み本でも読んでいると、太陽は私に無断で傾いてしまう。  二月十九日[#「二月十九日」はゴシック体] 家人外出、四畳半占領、炬燵《こたつ》にはいってあたたまったら、去年から抱いてきたひとつの思いが孵《かえ》った。題は「公共」。 [#ここから1字下げ]  タダでゆける  ひとりになれる  ノゾミが果たされる、  トナリの人間に  負担をかけることはない  トナリの人間から  要求されることはない  私の主張は閉《し》めた一枚のドア。  職場と  家庭と  どちらもが  与えることと  奪うことをする、  そういうヤマとヤマの間にはさまった  谷間のような  オアシスのような  広場のような  最上のような  最低のような  場所。  つとめの帰り  喫茶店で一杯のコーヒーを飲み終えると  その足でごく自然にゆく  とある新築駅の  比較的清潔な手洗所  持ち物のすべてを棚に上げ  私はいのちのあたたかさをむき出しにする。  三十年働いて  いつからかそこに安楽をみつけた。 [#ここで字下げ終わり]  二月二十一日[#「二月二十一日」はゴシック体] 誕生日。若い仲間が「で、おりんちゃん、四捨五入するとどっち?」と笑顔。四十なのか五十なのか、というのだ。大ざっぱすぎやしないか、と意見しておく。ここまで来てしまったからには、いっそオニババリンを宣言、たじろぐことなく生きるため、恥という恥をさらけ出すとしようか。  夜、炬燵の中で四時となる。このところ、隣の家の念仏が十二時をすぎても低く続く。一時をまわる頃には近くの保健所工事現場から、鉄筋を打ち込む音が規則正しく響きはじめる。私の所在を知って台所口へ呼びにきたのはノラ猫シロ、夜食をよこせというのであった。貧しくにぎやかな夜更け、寒い冷たい夜更け。  二月二十四日[#「二月二十四日」はゴシック体] 長い間働いてきた仲間の一人が、先の目当もなくやめる、というのを皆でひきとめた。だが他人事とも思えない、世間でいうBG、職場の花などと呼ばれ、花を落した後どうやって根を深くすれば立って行けるか。また、未婚者が自分の資質をゆがめず、素直に年をとるにはどうしたら良いか、その困難さについて、先輩女性と語り合う。  二月二十六日[#「二月二十六日」はゴシック体] ニイニイロク、三十一年前、赤坂山王下近くに住んでいたことを思い出す。何が起ったか、すぐそばに居て知らなかった。あのときは少女だった、じゃ今はどうなのか。  二月二十八日[#「二月二十八日」はゴシック体] 住宅公団の申込抽籖結果、落選のはがき、大分たまる。面倒だけれど、どこかさがしてひとりになろう。  三月四日[#「三月四日」はゴシック体] 昼、仕事をしていたらお茶にさそわれ、パレスホテル十階に案内された。宮城前広場と濠端《ほりばた》のビル街が一望出来る結構な場所である。話がどこを通ってそこへ行ったのか、戦争のことになる。話しながらふと、二重橋に目がゆく。よく構築されてある——そう思い、目を右にズラすと緑の木の間がくれにダイダイ色の新宮殿造営中の姿があった。 [#改ページ]  春の日に  引越してきたアパートの三階の窓から川が見える。その向こうの道にリヤカーをとめて屑屋さんが荷おろしをしていた。新聞がだいぶたまっている。ゴミ集積所へ捨てておけば済むのに、私は物惜しみした。雨に打たせたくないし、第一とっておけばチリ紙交換できるかも知れない。と思うまに私の背丈ほどになり、処分に困っていた。  川向こうまで行くのは少し手間がかかる。沸《わ》かしかけの湯をとめ、部屋に鍵をかけ、階段をかけおり、橋を渡って飛んで行った。古新聞を引き取るか、屑屋さんに聞くため。  前に立ったのに、遠くにいるような気がするちいさい老人が、陽焦《ひや》けした顔をしわの中にたたみ込んでいた。「ええ、それはもう」と言い「で、新聞はどこにあるのですか」と聞く。あそこ、と指さし、来てもらうのも気の毒なので「運んできましょう」といった。それからがひと仕事だった。四、五回に分けてリヤカーの所まで抱えて届けた。その間、おじいさんだけど商売だから、お金をよこすと言うだろう、と考えた。言わないかな、と考えた。もし言うならば……。  私は「あと一回で全部です」と断わった。払う気があるならおよその心づもりをしておくだろう。最後に「はいおしまいです」といったら「いくらでもないんですよ」という。「そうでしょうね」と答える。「ほんとうにいくらでもないんですよ」少しガッカリした。私も意地悪い、三度同じ言葉を聞いてから「十円か二十円なのでしょう?」「ええ、まあ」「いいわ、上げますから」というとはじめて笑い、礼を言った。  その礼を受け取りかねた。下手な商いだ。二十円なら二十円と言ってみたらいい。なぜタダなら有難いのだろう? タダ以前の用心深さ。  そんなことを言って。二十円と言ったらお前どうした、受けとったろう? こんどは自分への質問。たぶん、ね。  古新聞のネウチをはさんで、お互い、貧しい心の取り引きをした。 [#改ページ]  けちん坊  たとえどなたにお支払いするのであっても、自分の財布にある紙幣の中からは、なるべくきれいなの、きれいなのから使うようにしようと決めていても、なに相手は百貨店だ、と思うとついきたないのをつまみ上げている。かと思うと、今夜はこまかいのがない、近所のお風呂屋さんへゆくのに、ちょっと折目のついてないのを出してみせようなどと、これは至ってつまらぬ見栄心をうごかせて、パリリとしたのを持参したりする。  金の使い方というのは、額の多少は勿論、同じ額面の紙幣の使い方でさえ、きれいときたないの違いが出るものである。  いつからそんなことを心がけ、気にするようになったかというと、会社での女子には仕事の外の仕事に集金というのがある。  とあるとき、私は大きな椅子の前で待たされ両手でひらいた紙幣の中から、堂々と、きたないのばかり二枚、三枚とゆっくりえり出して支払われたことがある。これは、かなり上の方へゆかないと出来ないゲイトウだ、と感心はしたけれど、されてみてはじめてわかった。自分の払いっぷりについても、である。いずれは手を離れる通貨のこと、まして同額であれば何の文句があろう。世間様にきれいなのをさし上げる気持になったらどうだ。  自分にそう言ってきかせても、つい新しいのを自分のふところへしまいたくなる。それが人情だの美しい物を愛するからだ、などと言えた代物ではない。  けれど最近、サービスをする側の人は、紙幣の中のきれいなのを心がけて相手にさし出すようになった。出納《すいとう》の窓口などでも係の人が良いのをよりわけてくれたりすると、何ともすがすがしい気持になる。  そんな日常のささいな行為の中で、まったく相手にサービスをしないでも通る立場になったら、私というけちん坊はどんな払いっぷりをするだろう。両手でひろげてきたない札をえりぬき、目下と信じる人間に、はじらいもなく支払ったりするだろうか。それならエラクならない方が身の為だなと、どうにもえらくなれない人間はつぶやく。  私も銀行員のはしくれなので、通貨の運用面に関する労苦をちょっぴり。 [#改ページ]  絵の中の繭  ひろい会場に立つと、遠くから一枚の絵が手まねきします。 「こっちよ」  絵が語りかけます。 「よく来てくれたわね、私よ」  会沢さんはちょっと笑います。  私は絵を見ているのではなく、絵の中の会沢さんを見ます。絵のことはわかりません。  会沢さんは長い間、夜と、深い艶のある緑と、少しかたい線と、考えの中で精一ぱい生きていました。  来る年も来る年も、似たような絵の中にいました。  その絵、あるようでないような絵の枠の中で、何枚書いても会沢さん以外の何者でもない色や形の中からやっと手を出し、からだをのり出して脱皮をこころみる精一ぱいないとなみ。そのつらさとたのしさが私にはわかりました。  あ、やっと赤がにじみ出した。あ、白がふえた。そのほんの少しずつの変化に、全身全霊をかけている。働きながらそれをしている。なんの成算もあてにしない愚かしいまでの所業を積み重ねている。  会沢さんは何になろうとしているのでしょう? 会沢さんは絵を画こうとしているのではなく、絵になろうとしているのではないでしょうか? すくなくとも絵の中で、私にもわからない会沢さん自身の思いをとげようとしているのです。  会沢貞子さんは少女のころ私といっしょに、同じ本に物を書いていたことのある古い知り合いです。私の勤め先に会沢さんがたずねてきた時、受付の人が、きょうだいですか? と聞きました。お互い、間違われるかも知れない幾つかの要素に思いあたり、笑うことも忘れていました。 [#改ページ]  花よ、空を突け  昨年の夏、詩集『表札など』の原稿を出版社に渡したあと、手もとに残ったのは、おそれと不安だけでした。  内容はここ九年間に書いた詩の中から三十七篇えらびましたが。いつも思ったこと、感じたことを遠慮なく書いてしまったあとには、気持の負債がふえるだけで、あまりトクになることが残っていませんでした。  トクをしようと思って詩を書いたことはありませんが。こんども、ヒドイ目にあわされるのではないか——と。 「じゃ石垣さん、詩集が出来たら全部舟に乗せ、東京湾のまんなかへ行って捨ててきましょう」  出版もとに迷惑をかけはしないか、という私に、社主が笑って答えました。  出来たばかりの本の束を、ザボンザボンと海に捨てるのは残念無念ではあっても、わるくないイメージでした。そんないさぎよい風景が、逆に私をなぐさめ、出版するという決心を落ち着かせてくれました。  それくらいなら、はじめから本など出そうとしなければいいのですが。作品というのは内側からみのった果実と同じで、樹木のように自分から手離したい欲求にかられるのではないでしょうか。誰かに受け取ってもらいたい、という、ごく自然な願い。世間にこたえる私の独自な方法はただこれだけだ、という貧しさでもありました。  十二月の末近い晩、突然出来上ってきた本をタクシーの後坐席に四百五十冊積みあげ、くずれ落ちないか気にしながら走った、高速道路の重たい走り心地が、忘れがたくからだの中に残っています。  翌日から私には忙しい日が続きました。勤め先のほうも年末で休むわけにゆかず、受け取った本は狭い我が家の、やっかいもの然と通路をふさぎました。残業して帰ってくる、それから一冊一冊の荷造り。明け方までかかって、たった二十冊などということもよくありました。  送り先は、大勢の詩人、世話になった人々。はずかしさをこらえて、知らない作家、評論家、新聞社などまで。買いとった大部分をおおよそくばり終えるのに、一カ月以上精出しました。  その重たい荷物を郵便局へ運ぶたび、田舎《いなか》の祭礼か節句どきの配り物に似ている、とオカシクなりました。「これは私の手作りです。ご賞味下さい」挨拶を添えたら、そういうことになるのだ、と思って。私にとってかなりな出費でしたが、それは覚悟の上。詩は、書きはじめたときから収入のある将来など決して約束してはくれませんでした。そればかりか、好きな勉強をするからには働いて、自分の自由になるお金をかせいだほうがいい、と十五歳の私に決心させたのもこの道でした。本を読んだり物を書いたりしては、女の道にはずれかねない、昭和十年頃のことです。  私は好きなことをしたくて働くことをえらび、丸の内の銀行に入社しました。以来三十年余り、同じ場所に辛抱しておりますが、職業と生活は、年月がたつほど私を甘やかしてはくれなかったので、結局そこで学びとらされたのは社会と人間についてでした。戦争も、空襲も、労働組合も、です。  終戦後、労働組合が結成され、職場の解放と共に、働く者の文化活動が非常に活溌になった一時期。衣食住も、娯楽もすべて乏しく、人々は自分の庭や空地に麦、カボチャを植えて空腹の足しにし、演劇も新聞も自分たちの手でこしらえはじめたころがありました。  戦前、同人雑誌など出し、詩や文章は職場とは関係のない、ごく個人的なものと割り切っていた私は、自分と机を並べている人たちから詩を書け、と言われることに新鮮な驚きを覚えました。私に出来るただひとつのことで焼跡の建設に加わる喜びのようなものがありました。同時に、人に使われている、という意識が消え、これは私たちみんなの職場なのだ、と思うことの出来た、わずかに楽しい期間がそこにありました。  ひとつの銀行の単独組合の機関誌に発表した詩が、組合連合体の新聞に転載され、それがまた『銀行員の詩集』といったまとまった形をとるに至ったとき、詩壇の人の目にもとまる、ということになったのでした。不思議な気がしました。予期しない形で詩を書く道が少しひらけ、日本現代詩人会への仲間入りをさそわれたときには。  予期しない、といえば、こんど出した詩集にユーモアがある、という批評ほど意外なことはありませんでした。精いっぱい書いた私の詩の、どこからそんなものがニジミ出たのか、見当がつきません。面白くない、というのが自分への不満でした。  海がよく出てくる、とも言われましたが、数にしたらいくつでもありません。あとがきに [#1字下げ] 伊豆の五郎は私と同じ年のはとこ。四十を越して、遠くたずねてゆくとムスメが三人顔をそろえる。ひとり者だからと言って、私が何もこしらえないのは申しわけない。  などと書き出したせいか、海は伊豆か、と聞かれたりします。どこの海ということはないのですが、私に一番印象の深い海は伊豆です。  父母の故郷でもあり、現在、祖父母、父、二人の母、妹二人のねむる場所でもあります。伊豆へ行く時は、いつもお骨壺を抱きかかえていた。そんな思い出があります。ついこの間まで電車もなく、それ以前はバスさえ満足に通っていなかった伊豆は、今よりもっともっと美しく、つらい場所でした。  ヒマが出来たら、いちど帰って見ようかと思います。私は東京で生まれ、赤坂で育ちましたが、伊豆は私が一本の木なら根の部分。見えない過去という過去が、白いヒゲのようにはびこっている、血のふるさとでもあるのですから。   海辺[#「海辺」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  ふるさとは  海を蒲団《ふとん》のように着ていた。  波打ち際《ぎわ》から顔を出して  女と男が寝ていた。  ふとんは静かに村の姿をつつみ  村をいこわせ  あるときは激しく波立ち乱れた。  村は海から起きてきた。  小高い山に登ると  海の裾は入江の外にひろがり  またその向こうにつづき  巨大な一枚のふとんが  人の暮しをおし包んでいるのが見えた。  村があり  町があり  都がある  と地図に書かれていたが、  ふとんの衿から  顔を出しているのは  みんな男と女のふたつだけだった。 [#ここで字下げ終わり]  祖父の姉弟たちは辞世遊びが好きでした。オムカエがくるまでに私の歌をひとつ。そんな気風の古い村が、海のほとりにありました。  こんど、九年前に出した詩集のあと、やっと二冊目を出したわけですが、私のブッキラボウな詩を読んで、 「ムカシの人の歌のほうが、ええようだなあ」 と磊落《らいらく》に笑う、老人たちの声がききたいと思います。  先日、ある会合の席で、前に坐った男性から「石垣さんですか? あなたは石垣さんですね」と声をかけられました。 「古い話ですが、戦地でこんな(と両手の人差指と親指で四角をつくり)ちいさい『くれなゐ』という本に載っている、あなたの詩を読みました」  私は指でつくった四角が解かれると、びっくりしてその人の、こんどは丸い顔の中を目でさぐりました。「僕は小沢です」  すると一枚の写真の中から、豆粒ほどの面影が近づいてきて、目の前の人と重なりました。 「今でも持っています。あの本」  それは、私が投稿していた雑誌の版元が出した、戦地の兵士に送る慰問袋用の小冊子のことでした。  戦地と、銃後と呼ばれた日本内地を結んだ慰問袋の縁で、私はその人と写真のやりとりまでしたのでしょうか? それとも詩の縁から慰問袋を送ったのでしょうか? すっかり忘れてしまったそのこと。その短い詩を思い出すことにします。   花[#「花」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  ひかり弾丸《たま》と降れば  一兵の意志もて顔を上げよ。  風に透明な血潮を流し  匂い絶つ日にも  進路そこに展けて  遠いラッパをきく。  花よ、空を突け  美しき力もて。 [#ここで字下げ終わり]  この通りであったかどうか、わかりません。花の流す血は透明で済んだかも知れませんが、戦いの進路に、あまりに多くの人間が血を流してしまった第二次世界大戦。その川の向こう岸に私の幼年があり、こちら側に終戦後の歳月がひらけ、ちょうど戦争に架《か》かる橋を渡る、その時期に私のいちばん若かった日、があるのでした。  ふたりが逢う、それまでのたくさんな起伏。お互い、うしろにいくつかのガイコツをガチガチ鳴らしていても不思議のない過去を遠くしりぞけ合って、ほんのわずか話をかわし、また逢う機会もあまりなさそうなことを感じ合いながら、ごく普通の挨拶で別れました。日常とはこうしたものなのでしょう。なつかしくもない詩と戦争のエピソードです。  ずいぶん生きてきた、と思いました。この先、ほんとうにひとりぼっちの老年が私をおとずれたとき、詩は私をなぐさめてくれるでしょうか? 冗談ではない、という、もうひとつの声が私をたたきます。そんな甘ったるいのが詩であるなら、お砂糖でもナメテオケ。 [#改ページ]   ㈽ [#改ページ]  事務員として働きつづけて  はじめに私が選んだのは、働く、ということでした。その志の中継ぎをしてくれたのは職業紹介所で、私を選んでくれたのは銀行でした。  たいへん就職難の時代で、こちらがどこをと希望する余地はありませんでした。あってもよくわからなかったと思います。会社という相手に対して希望があるわけではなく、働く場を求めただけのことです。  いまの人はまず仕事を選び、職場を選び、そこで自分をどう生かそうか、と考えるのでしょうか? 私の場合は働いて得た金をどう生かそうか、その生かし方で自分を生かそうと、少し回り道をして考えました。それは職業に対して無自覚な態度である、と現在なら責められるかも知れません。それで私が説明しなければならなくなるのですが、あの時代のオツトメに、少女がどれだけ自分を生かすことの出来る職場があったか、ということです。昭和十年ごろのことです。  一般の会社では、女性はあくまでも使われる者の立場。身分制というものがゆるぎなく立ちはだかっていて、経営者の次に男性という上層があり、その下で働くという、二重の枷《かせ》がありました。それさえ明確には気づかなかった、というのがほんとうですが。昇進というものから切り離された女性の地位は、昇給という形であがなわれ、上へ行くといっても女性の中で少し頭株になる、という程度のことでした。  そこに私の希望がありました。昇進の労を必要としない女の身分に満足したのです。売り渡さないですむ心情、とでも申しましょうか。自分を確保することがたやすかったのです。私は会社にとり入る心、会社が必要とする学問、栄達への努力をしないで働くことが可能でした。いい換えれば、ちょっとした走り使い、たのまれる範囲の仕事を、けれど頼まれた以上はできるだけちゃんと、していればよかったのです。そのために受け取るものが少ないのはがまんしなければなりませんでした。同僚とくらべて少ない時は、そのがまんもつらかったことを白状いたします。  ところが、この金を受けとることの少ない立場というのは金だけにとどまらないのが社会でした。金を多くとり得る人たちは力を持っていたし、権力さえ握っていることに気づかされて行きます。鼻っ柱の強い元気な少女は次第に自信を失い、自己卑下を処世とだぶらせ日常化し、元気のかわりにあきらめをとり入れながら年月を重ねることになります。その間、不景気、戦争、インフレ、といった状勢は、どんな小さい人間をも、小さいゆえによけいたやすく巻き込むことをしてきました。今日の私はその果てで働いています。  仕事の上でこれという発展もなく、それゆえたいした昇格もせず(戦後、女性も役職者への道がひらけてきましたがまだまだ微々たるものです)、律義に働いたつもりだ、と主張しても、入社時とあまり変わらない律義さでは、使う方も困るだろうと察しがつきます。かいつまんで言ってしまうと、つまり私は職業人としての落第生、悪い見本です。これから働きに出る、学問や技術を充分に身につけたであろう若い人たちに、何の助言ができるか、と考えます。その資格は無いようです。ただ、忠義の人をたやすく信じません。戦争中、職業軍人が国に示した忠誠、あの忠誠とは何であったか。戦後、会社勤めをする人々が、会社への忠勤をはげむ、その忠勤の本質は何であるのか。優秀な会社員が公害企業の重役や社長になりおおせた姿を見て、またしても目を見はる思いがいたします。では何にもなれなかった私は、それらと無縁なのか。私の手は汚れていないのか?  いっぽうではそんな問いを据え、片方ではさざ波よせつづけるちいさい静かな入江のような職場で、互いの神経だけがこまかくこんがらかる毎日をどうすごしよくするか、といった問題に悩まされて通勤します。どちらが時間的に多く心を領するか、といえば後者です。  そこで、私に問いかけられたところの「魅力ある職業人」とは何を指すのか、逆に聞きたいと思います。魅力といっても、それは誰にとっての魅力なのか。経営者側にとっての魅力ある女性、男性側から見た魅力ある人、同性にとっての魅力ある仲間、色々あり、その全部から魅力を感じてもらいたい、という至難なことをねがう人もあろうか、と思います。私のあずかり知ることではありません。  では私は同僚として、どういう人を仲間にしたいだろうか? 我こそは魅力ある女性に、などと気負わない、ごく自然にああいいなあ、とひかれるような魅力。働く以上しなければならない地味な仕事を果し、日常の挨拶など上下の区別なく、男女の区別なく、気持よくとりかわし、女性でいて女性をバカにしてかかることのない人といっしょなら、ずい分やりよいだろうと思います。 [#改ページ]  五円が鳴いた  私がはじめて給料をもらったとき、祖父は十八円はいっていた袋の中から五円ぬき取ると、これを貯金にしなさい、と命じました。残り全部私のものになったのですから、上級学校へ行かないで働きに出た、ということの悲壮感もなければ、生活上の逼迫《ひつぱく》もなかったわけです。  とは言っても、現在のように職員組合もなければ労働基準法の適用もない、身分制度というものの根強く残されていた会社づとめ。ことに女が働くということは今ほど一般化されていなかったので、職業婦人という言葉には、あるさげすみの含まれていたのも事実でした。昭和九年、非常に就職難の時代でもありました。  その難関をぬけて銀行の事務見習員、いい替えれば給仕になったわけです。採用されたことを、年寄りはひとつの光栄のように受け取って言いました。 「飼われるなら大家の犬に、と申しますからね」  祖父は私をたいそう愛してくれましたが、働くということを昔のご奉公的感覚で受けとめていたので、多少からだの具合が悪い日でも、 「なんですか、起きていられるなら行きなさい」 と叱咤《しつた》し、休ませてはくれませんでした。やっと勤めを果たして家に戻ると、朝の表情はあとかたもないばかりか、一日中心配し通していたことをありありさせて、 「さあ早くおやすみ」 と、ふとんまで敷いて待っていたりしました。今様に言えばずいぶん封建的だったわけです。  そのころ、女が働きに出ることが特殊な目で世間からむかえられていたように、女が物を書くなどということは、更に特殊なことに考えられていました。本を読む暇があったら、お裁縫でも料理でもしなさい。それは小言としてポピュラーでした。  小学校のころから勉強もそっちのけで、小説を読み、詩だの歌だのを書く少女をかかえた家族の心配は、容易なものではなかったろう、といまになって考えます。  その少々変り者の孫娘に五円の貯蓄を強いた老人が、 「これだけがやがてお前のたよりになるだろう」 とさとした、その声が三十年以上たったいま、なぜ急によみがえって来たのかと、いぶかしく思います。  あの言葉は、裏返すと親も兄弟も、ついに頼りにはなるまい、その時、積み立てたお金がありさえすれば、という意味あいだったのでしょうか。  親も兄弟もたよりにはなるだろう、しかし何といってもこれが無いとネ、といったユーモアでしたろうか。  もっと別の、すべてがお金でうごいているからね、お国のおおもとも、これが土台さ、と言ったのでしょうか。  とにかく、生活というものがいつも安心の上になり立ったことがない。何かあった時の用意を常にしておかないと、どんな目にあうかわからない、という恐ろしさがちいさい住居の周囲を化け物のようにウロウロしていた、といっては大げさでしょうか。せっせと働き続けました。そのため貯金通帳の残高は、いつもすくないながらゼロになることもなく来ました。  そのことを、ふと思い出したのです。私のお金の末尾の五円。あるいは何万円かの中の底の底に根のように張っている五円。あれは昭和九年のもの。  話は違いますが、職員組合の話し合いなどで男の人の言うこと、 「君たち給料が少ないというけど、僕らよりずっと貯金を持っているじゃないか」  だから女の暮しは男より楽なのだ、と。  たしかに家族を養う、という義務のまだ生じない一部の若い娘さんたちは、少々貯金が多いかも知れません。  もひとつ。 「僕ら金融機関に働く者より、炭礦労働者の方が、ずっと貯金が多いんですよ」  だいぶ前のことですが、それを聞いたとき、私は経済の専門家が情ないことを言うと思ったものでした。  財産も、学歴もなく、そのうえ職業上の安定がない場合、不時にそなえてどう用意しなければならないか。 「これだけがたよりになろう」  そのことがちらちらと見えていれば、たちまち値打ちが色あせてゆく紙幣とは知っても、百の暮しを五十につめて、収入がゼロになった日のために、とっておくしかないだろう、と考えます。  貯金の残高は、不安の残高と同質に思われます。すると昭和九年の不安と、現在の不安とどれほどの差違があるでしょう。経済成長が額面をセリ上げただけ多くなった不安の残高、といっては皮相でしょうか。  秋です。三十年以上前の私の五円が、繁栄の根元のあたりで鈴虫のように鳴きはじめたとしても仕方ありません。 [#ここから1字下げ]  キイテオクレ五円ノカナシミ  ワタシハ五円、イツモ五円 [#ここで字下げ終わり]  あれはひとりの少女が自分の労働をお金にかえてお国に預けておいたものなのに。お国は年々その価値を減らして行った。そうしてへらし取った価値の分量を、誰が、何へ投機し、何をショウバイしたのか。私が問い直したいのはそのところなのです。  職場は解放された、と言っても、現在の政策の手の内を知って(ああそれがなぜ、学問なのでしょう)うまくやっている人と、やれないでいる人。大家の主人顔をするものと、やはり犬でしかないような立場もあって。明治生まれの、いまは亡い祖父のことばが、前よりは複雑な内容をもってかえってくるのでした。長く飼われた末に「たよりになるのは——」何であったのか、と。  国を信じ、戦争を信じ、復興を信じ、と並べると、それが泣きごとにきこえるほどコッケイな時代が来ているのでしょうか。  それとも、もっと別のおそろしさ。五円の値打ちは変ったけれど、国の方針は昭和九年のころとたいして変らない、というようなミステリー。  物思う秋にきて、貧しい思考はたった五円で動きがとれない所へきてしまいました。無学者の私が物を知る、ということは、ほんとうに手間ヒマのかかることばかりです。 [#改ページ]  花とお金  世の中は資格に関する分け前の多いところだ、と思う。  内容によって資格が得られるのだ、とお叱りをこうむるかも知れない。  たぶんそうなのだろう、と自分に言いきかせてきた。  会社につとめて、ひとより昇給が少なくても、それは実力もあるが、第一には学校を出ていないためだ、と慰められたことがある。  戦時、母親の病気中に召集令状を受けた同じ会社の人に同情したら「君はあの人が侍従《じじゆう》のむすこなのを知らないのか」と言われ、少女の気持をひどくきずつけられたこともある。  相手が侍従の息子なら、庶民の娘の私には同情する資格がないのか、とおどろいてしまった。  その私にたった一度、資格を手にすることのできる機会がまわってきた。勤務先で何年か習っていたお花の先生が、お免状と看板を下さるという。  初伝から奥伝までは、何となく頂戴した。その先いただくとき、少女の給料では少し負担のかかる謝礼を必要とした。もし安かったらもらっていたかも知れないなあ、と思う。私はたぶんその金額にこだわったのだ。けれどその時は、こだわるほどの金額であったために、お金の重み(それは労働の対価でもある)と同じほど、その内容を重く考えた。  もしお金を払わなければ、私は師範のお免状はいただけない。お金を払いさえすれば、わるいけれど、私より下手な人も資格を受けることが出来るだろう。資格というものはかなり安直に手にはいる場合もあるらしい。  私は花が好きで習ってきた。花になりきることもできないのに、お金とひきかえで先生になったってしようがない。  何という体裁のよい理屈をこねまわしたことだろう。身銭をきってやりぬくほどの積極的な希望がなかっただけの話。  でなければ、お前のお小遣いが乏しかったのよ、それだけのことよ、といじめてみる。  その反面、花にはなれないという悲願を、悲願として残した若い日の貧しさを私は了承する。  おかげで、と言っては負けおしみになるけれど、私はとうとう生きて行く上で値打のある何の資格も持たないで、年をとってしまった。  私が世間での分け前にあずかるのは、この先もすくないことだろう。 [#改ページ]  目下工事中  十五の年から五十三歳の今日まで同じ職場で働き通した女性が、無事退職、とは言い難いやめかたをした。「とてもがまんがならない」というわけらしい。あと二年で定年を迎えるのに、と同僚後輩から退職金の減収を惜しまれながらの退職である。その人の別れの茶会がひらかれる、というので、私は私同様三十娘の三人と近郊にある会社のグラウンドの隅に最近建てられた茶室に出向いた。  はじめて見る一戸建の茶室は、梅などが咲く土地のなだらかな勾配にたてられていて、浅い春の陽ざしをいっぱいに受け、つくばいの水のきよらかな流れを光らせていた。お茶というのでことさら美々しい和装の若い人たちも大ぜいみえて、はたから見れば常とかわらぬなごやかな茶会の風景である。  四人は離れのあずまやからこれをながめて、彼女はこの先、どうやって暮すのか、とひとごとではない話に口をとがらせていた。  戦前から戦後にかけて働いた者には、会社がこうして、会社の施設を女性に使用させることすらある感慨なしには受け取れないのだ。いい茶室が出来て、という言葉のかげにはそれが無かった時代が腹合わせに考えられている。  婦人運動家などと違って、目的意識がごく消極的で、食べてゆく為に働きつづけてきた事務員である私たちには、いつも与えられるものを受け取る、という受け身な姿勢ばかりが、自分ながら目立つ。「こんなグラウンドが出来て、こんな茶室が出来て」いいわねえ、というわけだ。自分たちのためにつくられた、と知りながら、それはより多く、あとの人たちのために利用される、ヒガミのような気持もどこかにあるらしい。  そういえば良い衣地、良い下着、良い施設、それらが目の前にあらわれるたび、「まあうれしい」というより「いいわねえ」と、やや客観的な祝辞を発するのも、この三十をはるかに過ぎた者たちだ。  茶室にとおって一杯の茶を喫した私が贈られた小扇をひらくと、   在職の四十年短し水仙花   静 とあった。  随分もとでのかかった俳句だ、とパチリ、痛いような音を立ててそれを胸にたたむと。  彼女が退職後、ひと月たつかたたない日に、今まで殆んど男子のみだった一般昇格の辞令が年かさの何人かの女性にも出された、その祝いとも言えぬ祝いをしに、四人は席を立った。  駅は人間と喧噪の渦、どこもかしこも足場が悪く、顔をしかめて歩く仲間に「あれをごらんなさいよ」と私が指さすと、一人が「目下工事中」と読んだ。 「どこへ行っても工事中よ、みんな出来上がったら私たちオバアサンになっているのじゃない?」と説明し、そこで大笑いをすると、四人は一緒に焼鳥屋へ行って、はじめて女だけのオサケ、をかたむけた。 [#改ページ]  よい顔と幸福  先ごろ職場しんぶんに、私たちの銀行の人は大へん良い顔をしている、という一文が載った。  それは比較の問題だから、銀行以外の人、つまり世間一般の人々にくらべてみて良い顔をしている。良い、といっても形だとか色だとか様々な良さがあるから、何が良いのか、といえばこの場合何となく、であり、人が良い、ということなのだ、と受け取った。  ともかく結構な話であった。  しばらくすると、それに次いでまた一文あった。  本当に銀行の人は良い顔をしている、ことにわが子息たちはまことに良い顔をしているが、この大層な世間を前にして、この良い顔をした子供たちはどうやって世渡りをしてゆくであろう。という、それは、親ともなればそういう心配もあろうかと、心うたれる文章でもあった。  ふたつの文章を読み終えて、私の頭鉢から浮き上がってきた感想は、どうしたわけか、綿アメのようにやわらかく、あじわってみて甘いものだった。 「何という幸福な人たちだろう」  かねて私が、ひそかに深い敬意を払っているこの筆者は、勿論そんな甘いことを書いたのではない、それとはまったく反対なことを暗に指摘して、考慮をうながしたものである。それならなぜ、それを共々に不安となし得ないか。  私は勤続二十五年を数えるが、入行当初に、机を並べて仕事をしている男性を眺め、少女の直感で思いあたったのが「女でよかった」ということだった。  幸福、などという言葉はかなり思考をともなったものだ、と私は思う。直観的には、よかった、とか、うれしい、といった言葉の方が出やすい。私が女でよかった、と思ったとき、私は女であることを幸福だ、と言いかえてもよかった、と思う。それは銀行業務に対する否定、一生の業務としないですむ喜びであった。その喜びは、自分が肯定できる業務に就くことの出来ない最大の不幸について考えおよばなかったのである。  それは私だけの愚かしさに違いないのだけれど、その最大の不幸を忘れさせたものは何か、と言えば生活の困難さ、であったと思う。もしくは困難さへの不安であった。当時もまた非常な就職難で、銀行へはいれた、ということは、それだけでもう客観的には幸福、といわなければならない状態だった。  そのころ、女性の地位は極端に低かった。封建社会になぞらえるなら武士と町人のへだたり、階級がまるで違う扱い。女性は親睦会に入会することも出来なければ、寮の使用もゆるされず職場結婚などもっての外であった。少し無理な表現かもしれないが、今流の言葉を借用すれば、女性は完全なアウトサイダーであった。違う立場から男性を見る、という目は、この長い期間に私の身についてしまって、離れない。  今の若い女性はどういう感じ方で、銀行へはいってくるだろう。とにかくアウトサイドの席は全部とり払われ、すべての席がインサイドにとりつけられている。みな同等なのだ、けれどかなしいかな私は、インサイダーとして物を考える方途を失っているらしいのである。  それが何かの場合につけ、同感とならず、批判となってしまう。(私としては深いなじみの銀行に、何というなじむ心の浅い人間として暮していることだろう)  立派な文章を読みながら、その味は甘かった、などというのも、ざっと、右のような心の形成を持つ者のフラチな感慨なのである。  私は、私が言っては僭越になる、前記の父親の誠実さと、深いあたたかさから推して、それに輪をかけた御子息の姿を容易に思いえがくことが出来て、素直にその心配に打たれる気持が本当はあったのだ。けれど、……  ある時、銀行員の家族と一緒に旅行をしたことがある。連れられてきた子供さんは皆、かわいらしく、組合で、苦しい苦しいと言っている親たちの庇護を充分に受けた、育ちの良い顔をしていられた。  しかし時がたつにつれ、一人の父親が見せた自分の子供に対する放任ぶりは目にあまるものがあった。女性に対する言葉づかいといい、食事のあとテーブルの上をかけ廻るなどに至っては、たしなめようとしない父親にむしろ憤りさえ感じた。  貧しいとはいえ、日本中が貧しい中で、銀行員の給料は先ず上、と言ってさしつかえないだろう。この子供たちはこんな形で愛され、そしてもっと貧しい者たちが進学も就職も困難な中で、割合からみれば恵まれた環境で、上級学校も出、それなりによい職場も得、つまりは銀行員の父親のように、次の世代でも上、の位置につくのではないか、というおそれであった。  このような利己的な傍若無人さで、次の中間層が育てられるのか、というやりきれなさであった。  たぶん、これは例外中の例外、と胸を撫でておいた。  けれど貧しさの中で、かつかつに食べ、したい勉強も出来ぬいらだちに、顔がかわるほどの苦労をしている人間の多い、そこではたくさんの醜悪な事が行なわれている世間、でいい顔をしている人間の集りである銀行という村落の幸福、というのは一体どういう性質のものであるのだろう。  旅行でみたことは、たしかに例外であるとしても、利己と保身を拡大すれば、どれもあの姿に見えてくるのは残念である。それこそ人間の本質である、と人はいうだろうか。  私は青い鳥のお話が好きであった。  半ズボンと帽子の似合うチルチルと、ふくらんだスカートを着て髪のちぢれた可愛いミチルが、きれいな鳥籠を持って旅をする。そしてさがし廻った幸福は、さがさないでもよい、ごく身近な所にあった、という。  それは、随分説得力のある、美しい物語に違いなかった。  幸福、といえばすぐ頭に浮かぶほど、私の子供の頃には、幼い心にしみとおり行きわたっていた青い鳥。  私はそういう幸福への考えかたを、しばらく本棚へあずけておくことにしたい、と思う。  現在は、みんなで、たくさんな幸福をさがしまわらなければなるまい、と考えている。  幸福にもいろいろ種類がある、青い鳥に象徴された、どちらかといえば観念的な幸福というものは、時に人間を危険におとし入れるものではないのか。  こんなに大勢の人達が、物質的にも精神的にも困り果てているときに、どうして手もとにあるものの中に幸福を感じなければならないだろう。いつだって、総がかりで求めなければならないものが人間の幸福なのだ。  そんなにも幸福が足りないとき、そのかけらを手にした人間が、すっかり満足してしまう。かけらでしかなくたって、持ってない人より、どんなにましかわかりはしない。  はたに無ければないほど、その喜びが大きくなる。戦争中のさつま芋のうまさを思い出させる。  が、そのかけらは、持っていない者から見れば宝である。持っていない者のうちには奪いとっても自分の手に入れたい、と願うこともあるだろう。  持っている者の、不安と焦燥が生じる。少ない物の奪い合いとなる。これが現状として私の目にうつってくる。  だから、かけらならかけらなりに、たくさんさがし、持っていない人たちにも持ってもらうようにしなければ、どうしても困るのだ。その人たちのためばかりでなく、自分たちのためにも。  ここまで書いてみると、私がれいれいしく幸福、と呼んでいるものが、かなり物質的な意味あいのものであることに突きあたる。そうなのだ、今、何が自分や隣人を不幸にみちびいているか、と言えば基本的にそこへ結びついていってしまう。  先年私は慶応病院の三等病室に半年を送ったけれど、六つ並んだベッドに寝たきりの老少におとずれるのは病苦の差だけではなかった。  見舞にきてくれた同僚は「あなた保険料のモトをとったわね」と祝ってくれたが、保険のない女中さんが、もう少しいればよいのに、というような容態であるのに「はずかしいけど、私お金が無いのよ」と言って退院したり、十日目毎の支払日に自分の手術料の金額を気にしている主婦をみるのは、つらかった。 「何という幸福な人たちだろう」 と銀行員に向かって思うとき、その人たちの不幸は見ぬいている筈なのだ。なぜならその次に提示されてあるものが不安、でしかないから。  私は銀行員が、現在従事している業務それ自体に、どれだけ幸福だ、と意識している人があるか、大変疑問に思っている。幸福だって相対的なものであることをまぬがれないから。日本中の人が一応安定した仕事と、将来を約束されたなら、銀行員(全部とはいわない)の不幸はそこからあらためて、はじまるだろう。私はその不幸が、一日も早くはじまって欲しいのだ。不幸の自覚がなければ、幸福の進展なんてありはしない。  大分前の文芸部の集りの時であった。ある年若い男性が、 「僕、また戦争にでもなりゃあいいと思いますね、そしたら良い詩が書けるかも知れないから」 と発言して、戦中派から「とんでもないことをいう奴だ」とつるし上げをくった。  これは笑い話であったが、何とも笑いきれない話であった。私はそこに、戦争の悲惨を知らない人間の幸福と不幸を、同時に感じたから。  あんまり平穏で、幸福といえるような条件が充分になると、たしかに不幸というものが、不幸という形をとらず、おしるこにつけられた辛い昆布のように、欲しくなるものでもあろう。  そうしたら、幸福とか不幸という言葉も、どのようにでも変えたらよい。「ああ欲しいものはないかしら」という不満を、いま、誰が不幸というだろう。 「あなたは幸福ですか」 と聞かれたことが、一度ある。  何の用意もなかった私が、自分の考えを追いながら答えた記憶が、のこっている。 「そう、  私はしあわせです。  だけど、私のまわりの人たちが  ちっともしあわせに見えないから  私はふしあわせかも知れません」  それは年を経て、はっきりした形をとってきた。周囲の不幸は、私の残された夢、私の自由、私の年齢を容赦なく振り落していったので。  私が幸福についていいたいのは、不幸も考え方で幸福にすりかえるのでなく、自分が幸福と感じているものの再検討と、本当の幸福、より以上の幸福への希求をおこたりなくすること、についてである。  そこで今、私はまったく不幸だ、と言おう。いう先から、 「何という幸福な人だろう」 という哄笑のようなものが、ドームに響きわたる合奏のように、頭中にはねかえってくる。  自分のこととなると綿アメの抒情どころではなくなるから申し訳ない。  どんなにアウトサイドに腰かけていたとしても、私が銀行員である、ということからはずれるわけにはゆかないのだ。 [#改ページ]  事務服  私の働いている銀行が、事務服の改善を打ち出したとき、どういうことになるのか、とハラハラした。  長い間、事務服といえばよごれの目立たない上っ張りで、企業ごとに色や形が決められているとは言うものの、似たりよったりが通例だった。  それは働き着であって、おしゃれ着ではない。労働することで必要以上いたむであろうところの個人の衣装を保護する目的の、家庭でいえば割烹着《かつぽうぎ》みたいなものだった。  デパートや航空会社が、美人をそろえてきれいな制服を着せる、その効果を見定めた産業会社や金融機関が、ワレもということでまねしはじめたのか。それとも働く女性の側から、「あらいいわねえ」という羨望《せんぼう》が生じ、ふくれ上がったための流行か。  とにかく労使一本になって推進できる都合のいい改善であったので。いつかしら女性は、容姿自体が社名であるようなカッコよさ? で、画一的に着飾るハメになってしまった。  聞くところによると、ユニホームの良し悪しが人集めにも影響するという。女性は無意識のうちに衣紋掛にさがったブラブラの企業イメージに、自分から若い肉体を合致させてゆく。とまでは深刻に考えたりしないで、同じような衿もとから顔を出してニコニコしてしまう。とてもかわいらしい。  女性側では、そのかわいらしい年代には問題がなかった。問題は中年、高年層にとって深刻である。  私の職場では、最初に三通りのスタイルが案として職員組合に提示された。その中のどれが一番いいか、組合が全員にアンケートしたとき、私は困ったなあと思った。渡し舟に乗って広い川幅のおおかたを渡り終え、停年という向こう岸からの手まねきが見えそうな所まできて、三通りのうちのどれを着せられても閉口してしまうようなデザインの服を支給されたとしたら——。それは着るか着ないかではなく、着なければ働けない立場を示されたことになる。私はすっかり思いつめてしまった。会社をやめるべきか、とどまるべきか。これは生活の問題であり、たしかに組合の問題である。しかし組合のアンケートは、デザインの選択に限られていた。  私はいまさらのように濃紺色の、サージの、シャツカラーの、ひざ上までくる身丈の、ふるい事務服に愛着した。働くのにこれほど都合のよいものを大金かけて取替える必要がどこにあろう、もったいない話だ。  もしかしたら、若い人にしか似合わないユニホームをつくることで、中高年層をいたたまれなくする、または若い人たちにもあまり長居しないほうがよい、と思わせる。そんな計算もふくまれているのではないか、と勘繰った。「もちろんそうよ」、同僚のひとりは軽く答えた。どうも私の世代はひがみっぽい。  とにかく大勢はいかんともしがたく、反対はなかったかのように、多数決という大義名分により、選ばれたスタイルで見本がつくられた。それを誰それが着て、重役諸公に見せたとか、見せないとか。 「ねえ、どうなさる?」 「なによ」 「着ますか?」 「だって、着なけりゃしようがないでしょう?」 「…………」 「ペイ、ペイですよ」  大先輩は自若《じじやく》として言った。そのことばで私の迷いはさめた。まったく、働かなければ食べて行けない事実を、たかがユニホーム一枚で忘れそうになるとは。職業意識が甘いと言われてもしかたがない。  それにしても、太平洋戦争中衣料品が切符割当制になって、事務服の支給など考えられなくなった時代を通り越して、いつまたユニホームなどが復活したのだろう。  戦後の組合で男女同権論がにぎやかな最中に、事務服がもらえないなら、エプロンでもいいから下さい。そんな女性からの要望があったことを思い出す。私服がよごれる、もしよごれるような仕事ならよごした上で、そのぶんまで賃金を正面から要求する、という方向には行かないで。  退社してゆく人には、「会社の思い出にどうぞ」とプレゼントされるそうだけれど、ホント我が国は情緒的だなあ、と感心もし、上っ張りと違って、その人その人にだいたい合わせてある制服は回収しても利用度はないのだから、と冷静にもなる。  はずかしながら、働いて三十年余り。私ははじめて頂戴した給金十八円のあふれる喜びと、はじめて最新のユニホームを着せられた時のあふれるかなしみを忘れはしないだろう。 [#改ページ]  晴着  まだ夏もはじめのころ、職場の若い同僚が「ねえ石垣さん」と、話とも相談ともつかない声をかけてきた。「あたし、どうしようかしら?」  どうしようか、ときのうから迷っているのはお母さんと見てきた、それは金糸で鶴が舞い降りてきた模様のある、地色がピンクの振り袖のことで。気に入ってはいるんだけど、値段が高いの、という。高いけど、お母さんが買ってくれる、というの。だけど、そりゃ欲しいけど、バカらしいような気もして。  思いあまり、お嫁に行ったお姉さんに相談したら「買って上げる、って言うんなら、買ってもらえばいいじゃない」という返事なのだそうである。私に聞いてもらいたい部分は「欲しいけれどバカらしいような気」のするあたりで。  そうねえ、まず着るのは来年の新春仕事始めに一回、あとは友だちの結婚式に呼ばれた時の用意、これが何回あるか。そのために、自身で働いたお金では、ボーナス全部でも足りないほどの晴着を買ってしまうのは勿体ないから……。「やめなさいよ」  若い仲間は、自分の迷いのバランス。お姉さんの言葉で買う方へ傾いたハカリを、もう一度買わないほうへ動かしてくれる、そんなひとことを私から受け取りたいのだろう、と思った。  けれど私は迷うばかりだった。買って上げるというならもらっておきなさいよ、というお姉さんの言葉には、金に替えられないもの、若さへのはなむけがあり。お母さんの申し出には裕福な背景と愛情が見られ、迷っている同僚には働く女性の、賃金の貧しさがあって、どれも捨てがたい気持の余韻がある。  あとでハカリは完全に買うほうへ傾いたらしい。何日かたった退社ぎわに、きょうは出来上がった着物をとりに行くのだという彼女のうれしそうな顔から、私はもらい笑いをしてしまった。  近代的な職場、とはいっても娘さんが、振り袖、というシッポをふさふさとたらす古い日が、一日ある。などと言うつもりはない。女には装う、という期待と悩みがあって、それへの用意が、半年も、それ以上も前から心がけられたりしているという、そんないじらしい話がしてみたかった。  着物が思い通り手にはいる娘には喜びであり、困ったことに誇示であったり。手に入れられないものには嘆きであり。算盤をはじいて欠勤の道を選ぶ者もいる。やむを得ず、または装わないことを自負に置きかえて一日を支えるか、心情的に正月を棄権して挨拶だけつきあうやりかたもある。  とにかく、オメデトウと口でかわすだけでは片付かない問題をかかえた日が、女性の上に毎年早々とおとずれる。  いつからか、部員そろっての記念撮影というのがハヤり出した。会社で長居をしていると、その写真の枚数がふえていく。はじめは五十人近い中の三分の一を占める女性ほとんど晴着姿だったのが、一人洋服がはじまり、おや? と思うと二人欠席していたり。翌年は洋服が三人になったり、している。  自分を良く見てもらいたいと願うような相手の男性が多ければ、女性の晴着姿もいちだんとにぎわうのだろうか。男性の好みが変われば、女性の新春の装いもかわるのだろうか。  女性の好みで男性が装いをととのえるという日も来るだろうか。  振り袖の力で、仕事始めに仕事をしない職場も出てきた。 [#改ページ]  領分のない人たち 「おばあさん」という呼び名は、どういうときに使われるのでしょう。  年とった女の人の総称のようでもあり、四十歳であっても、孫があればおばあさんです。孫のない、五十なかばの私の友人は公園で、子ども連れの婦人に「おばあちゃま」と言われショックを受けた、と言います。  孫があっても、詩人の英美子さんはおばあさんという呼び名を拒否し、ヨシコと呼ばせているそうです。ある時、私が英さんのお孫さんの背にちょっと手を添えた、その手に心がとまった、と言って、「いつか自分がいなくなったとき、その成長に目をとめて欲しい」という便りをよこされ、人間というものの持つかなしみの深さに、からだをあつくした覚えがあります。  先日、町を歩いていて、働く女性の大先輩と思われる人を見かけ、ハッといたしました。六十歳よりはかなり上に思われる、体格のよいからだに、仕立の良い服を着こなし、帽子をかむり、私の前をつっ切って行くとき、胸打たれたのはすっかりこごんだ背の丸さで、それだけがその婦人の持つ全体の感じに不釣合でした。  肉体がどんなに年をとっても、仕事のほうがまだまだ若い精神を必要としているのだろう、と想像しました。もし声をかけなければならなかったとしたら、私は何と呼んだでしょうか。当然名前で。それを知らない場合にもせいぜい「オクサン」と言うだろうと思います。  おばあさんという呼び名が、老い、と無関係でないなら、同性として、よほど相手のことを考えた上で使います。要注意、それが礼儀だと心得ます。 「おばあさんになったら、おばあさんでいいじゃないの?」若い人は文句を言いますか? 若い人でなくても「私はおばあちゃんで結構よ」。自足し、周囲に不満を抱かないでいる模範的お年寄りからも、物言いがつきそうです。  わかりました。そういう人たちは手をあげて下さい。二つに別れましょう。問題のない人にしばらく黙っていてもらうために。  戦後、いろんな呼び名が変更されました。芸人が芸術家になり、文士が作家になり、大工が建築士になり、女中がお手伝いになる、といったことを、私はつまらないことだと考えました。名前を変えてどうする、その仕事に自信と誇りを持つことのほうが先ではないか、と。女中が女中と言われるままで十分立派に扱ってもらえるような世の中にしたほうがいい、と。  そのデンでゆくと、おばあさんはおばあさんでよいことになるはずですが、少し違うと思うのは身勝手というものでしょうか。  孫は可愛い、けれどオバアチャンと呼ばれるのはイヤだという場合、これからは呼んでもらいたい名を孫に教えたらどんなものでしょう。雰囲気として新鮮になると思います。  最近、年をとった独身女性がふえて来ています。そのひとりである私も、あと何年かすると五十四歳で死んだ祖母の年齢になるのですが。この中には戦争犠牲者が多く、もし平和だったら八〇%から九〇%の人が独身で老年を迎えることはなかったろう、と思われます。家庭があって、はじめておばあちゃんの領分、というような区画も主張できるのでしょうが、その土台のない人たちです。  そこで戦前と戦後が、私の年齢を真っ二つにした形で比較されます。つまり、二十五歳ぐらいまでに知っていた老人と、それ以後の老人です。たとえば、ふるさとの南伊豆で一生を送った大伯母など、遠くから見ただけの感想ですが、ごく自然に年をとり、いのちを全うして、祖父の言葉を借りれば「目をネムリました」そんな表現をするほどおだやかな死に方をしました。それならしあわせだったかというと、早くから寡婦となり、ひとりむすこには自殺され、家族に頼るというアテのない人でした。ただ自分の手仕事を持ち、こころこめて生きるというささやかな願いを、前もって辞世の歌などにして、近隣、村人との連帯の中でおだやかに老けていました。そこには孤独の影がなく、にぎわいさえ感じられました。  自然が、私共の周囲から減ってゆくのと同じ歩調で、いままであった老境、という自然も乏しくなり、ススキの穂のように白髪を光らせながら一歩退いた場所で世の中の背景をなす、というわけには行かなくなったことを感じます。  実利ばかり追い求めた社会の、行きつくハテのような所に、現在と、これからの老人がちょうど行き合わせたかたちになりました。  結婚もせず、家庭というものを持たなかった私には、子に対する悩みも失望も、まして希望もありませんが。ただ、いままで誰にもたよれなかったから、これからも甘えたり、助けてもらえるアテはありません。そこに重大な不安が発生します。会社で定年が来たら、これまで働いてきたように、その先も職を求めて働くしかない。どんなに収入が少なくても、生きて行くためにはそうする以外にない。  話は違いますが、深沢七郎さんの『楢山節考』が発表になったとき、読後ふとんの中で声を殺して泣いた、その感動を忘れませんが、あれから何年たつでしょう。  最近になって、姨捨《うばすて》が物語の中だけのことでもなければ、伝説でもなく、近い将来をも暗示しているのではないか、と思いはじめています。必要度の減った人間が、自分から死にに行かずにはいられない社会。上手にそれを仕組んだ掟のようなもの。そのムゴサを現在に当てはめてみることは、経済の高度成長と呼ばれているもの、ひとつとって見ても明白に思われます。老人の自殺が、ごく日常的なものにならなければ良いと案じます。  さしあたっての希望は、欲しがらない人間になりたい、ということ。誰が何をしてくれなくても。さみしかったら、どのくらいさみしいか耐えてみて、さみしくゆたかになろうと——。  それができるか、できないか。不安は不安として、とにかく覚悟を決めたら。新しい連帯をこばむことなく、隣りの老人と茶のみ話でもはじめたいと思います。 「私たち、いちど個人の殻をぬいでみましょう」 [#改ページ]  生活の中の詩  あるとき組合団体の催しで、三岸節子さんと菅野圭介さんをまねいて、座談会を開いたことがあった。菅野さんはとうに亡くなられたから、この話はだいぶ古い。  波が記憶をさらって行ったあとに、言葉がひとつ残されていた。この言葉を物の形で表わしてみる。たとえば絵に画くとどうなるのだろう? 波間に岩がひとつ首を出している(たぶんこれは、絵にはなるまい)絵にならないとしても、私はそのイメージの岩に腰かけて釣り糸をたれることが出来る。するといつも何がしかの手応えがある。アレ、またひっかかった、というものだ。  この話を具体的に書き直すと。  丸の内に働く者たちが一夕、著名な絵かきさんを招いてその話に耳を傾けた。席上ひとりの男性がたずねた。 「しかし、何ですねえ、僕ら一流の大学を出て、知識も教養もある者が見て、わからない絵、というものの値打ち、はどういうものなんでしょう?」 「それは、絵に対する教養があなたにおありにならないのです」  答えは三岸さん。言われてみれば明解至極なことに感心した。問題は私の側にあったのかも知れない。  良い大学を出れば、絵に対しても万能であろうという発想。謙虚を裏返しにして、座ぶとんの上にあぐらをかいたような姿勢。好意的に言えば、無邪気なまでの自信。その自信を育てている環境。  けれどそのことを私が指摘するのは、まだ少し早い。学歴に対応する何かを持つまでは身をこごめ、そういう世間に向かって、つつましくしている必要がある。とにかく内面をもっと充実してからでなければまずい。これは学歴なしの私の保身? 悪くいえば長いものにはまかれる姿勢。まかれる力しかない弱者の身すぎ世すぎ。  そこではじめに戻ると、私はそういう世間から休暇をとり、気晴しにあの岩へ釣りに行く、という寸法になる。またひっかかった、という手応えは「オレにわからぬ〇〇が……」ということなのだ。ひっかかっても、この魚は食えない。  三岸さんの話と関係はないけれど、私のこんど出した詩集『表札など』の中に次のようなのがある。   落語[#「落語」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  世間には  しあわせを売る男、がいたり  お買いなさい夢を、などと唱う女がいたりします。  商売には新味が大切  お前さんひとつ、苦労を売りに行っておいで  きっと儲かる。  じゃ行こうか、と私は  古い荷車に  先祖代々の墓石を一山  死んだ姉妹のラブ・レターまで積み上げて。  さあいらっしゃい、お客さん  どれをとっても  株を買うより確実だ、  かなしみは倍になる  つらさも倍になる  これは親族という丈夫な紐  ひと振りふると子が生まれ  ふた振りで孫が生まれる。  やっと一人がくつろぐだけの  この座布団も中味は石  三年すわれば白髪になろう、  買わないか?  金の値打ち  品物の値打ち  卒業証書の値打ち  どうしてこの界隈《かいわい》では  そんな物ばかりがハバをきかすのか。  無形文化財などと  きいた風なことをぬかす土地柄で  貧乏のネウチ  溜息のネウチ  野心を持たない人間のネウチが  どうして高値を呼ばないのか。  四畳半に六人暮す家族がいれば  涙の蔵が七つ建つ。  うそだというなら  その涙の蔵からひいてきた  小豆は赤い血のつぶつぶ。  この汁粉 飲まないか?  一杯十円、  寒いよ今夜は、  お客さん。  どうしても買わないなら  私が一杯、  ではもう一杯。 [#ここで字下げ終わり]  あなたはなぜ生活を詩に書くのか、と言われる。なぜって、そんなこと知らない、と答えるのが一番正直だと思う。正直であっても親切にはならない。  話は違うけれど、詩人の田村隆一さんが「僕らは、生まれてから日本語を習ったのじゃない。日本語の中で生まれてしまったのだ」と言われた。これも、一度聞いて忘れることの出来ない言葉を、講演会で頂戴してきたのだけれど。  この素晴しい意味を棚上げにして、論法だけを拝借すると、私の詩は生活を書こうとしたのじゃない。生活の中から生まれちゃったのだ、ということになる。  生活的という言葉の印象は、どうして何がしかの貧しさにつながるのだろう。芸術的という言葉の感じが、なぜ、あるぜいたくさを連想させるのだろう。もし私がゆたかな生活を詩に書いたら、それは生活をうたった、とは言われなくなるだろうか?  たとえば生活的、とひとこと言われたって、感じることは言葉と共に、この程度の伸び方はする。けれど、詩にしようと思って、詩のために生活を考えるゆとりは私にない。ということは、やはり貧しさにつながり、貧しさは生活につながってしまう、というわけか? 私に言えるのは詩を書く行為が、特別なものではないということ。  小学生のころから、詩にひかれ、しゃにむに面白くもない詩を読み、自分でも下手な詩を書き続けてきた。その、詩に対する希望は? と聞かれても、やはりそれらしい返事が出来ない。詩に対する希望が別個にあるのではなく、実生活面での願いごとや祈りとより合わされていてわかちがたい。それで「自分の書いてしまった詩が、実用的であったらどんなによいだろう」などと答えてしまう。  実用、というと、生活と同じように、言葉にひとつの相場があって。このイメージも現在のところ高級でない。デパートでいうと特選売場には並んでいないものになる。けれどゾリンゲンの鋏《はさみ》なら、いまのところ香水と並ぶのだ。ゲイジュツも、生活に役立つ具体的な機能をそなえることをおそれる必要はないと思う。具体的という言葉は、これまたどうして高い調子を持ち合わせてくれないのだろう。ムガクな私が、生活・実用・具体などと書くと、書いている間に穴が出来、自分が落ちこんで頭からスッポリ埋められそうな危険を感じる。  私は生活をもっとゆたかで、ぜいたくなものにしたい。出来れば芸術的と言われるほどのものにしたい。一流の大学を出て……と言わせるような、貧相な人間の背景を変えたい。詩がタダで食べられる山海の珍味であるとよい。見えなかったものが見える眼鏡であるとよい。それまでは残念ながら生活詩を書き続けることになるだろう。 [#改ページ]   ㈿ [#改ページ]  詩を書くことと、生きること    1[#「1」はゴシック体]  小学生の時から、見よう見真似《みまね》で、詩を書きはじめました。綴り方の時間に作文を書くのはたのしいことでしたが。それとは別に、散文とは違った形の表現方法、短歌とか、俳句とか、そのころではまだなじみの薄い、詩の形のあることが、私をひきつけました。勝手に教科書以外の、幼年雑誌、少女雑誌を読みあさって、四百字詰原稿用紙、って、どれをいうのだろう、と首をかしげながら、投書規定などを見て、投稿することを覚えました。書きながら、読みながら、出しながら、書きながら、この行為のごく自然なくり返し、いとなみ——。  家は、子供を働きに出さなければならないほど生活に困っておりませんでしたが。母が私の四歳のとき亡くなり、次の母も、やがてまた次の母も死ぬ、というような、少し複雑だった家族関係の中で「母親のないのが、お前のビンボウ」と里方の祖母が、よく私の顔をのぞいてさみしく笑ったものでしたが。その貧乏がもたらした、もろもろの情感は、まけ惜しみではありますが、私にとって、充分豊富なものでした。  私は早く社会に出て、働き、そこで得たお金によって、自分のしたい、と思うことをしたい、と思いました。で、学校を出なかったのは自分の責任で、誰を恨《うら》む資格もありません。  高等小学校二年生は、だいたい翌年、働きに出るため、職業紹介所の人が、生徒の希望を聞きながら面接に来たものですが。私は「店員」と答えました。上級の優等生がデパートの食堂に勤めて、白いエプロンのうしろを大きな蝶結びにしているのが、とても立派でしたから。  すると若い担当員は、じっ、と私の目を見て「むつかしいよ」と言いました。昭和九年、少女にとってさえ、深刻な就職難の時代でした。私は二つの銀行に振り向けられ、そのひとつに入社いたしました。それ以来三十年余り。今日まで、同じ所で働いています。  余談になりますけれど。はじめて月給をもらったとき、唇から笑いがこぼれてしまって、とてもはずかしかったのを思い出します。皆スマシテいましたから。いま思えば、この時、私と同じようにお金も笑いこぼれていなければならないのでした。なぜなら、私はこのお金で自由が得られると考えたのですが、お金を得るために渡す自由の分量を、知らずにいたのですから。  とにかく、その辺を社会の出発点といたしました。数え年十五歳の春でした。  つとめする身はうれしい、読みたい本も求め得られるから。  そんな意味の歌を書いて、少女雑誌に載せてもらったりしました。とても張り合いのあることでした。  と同時に、ああ男でなくて良かった、と思いました。女はエラクならなくてすむ。子供心にそう思いました。  エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ、と思ったのです。愚か、といえば、これほど単純で愚かなことはありません。  けれど、未熟な心で直感的に感じた、その思いは、一生を串ざしにして私を支えてきた、背骨のようでもあります。バカの背骨です。  エラクなるための努力は何ひとつしませんでした。自慢しているのではありません。事実だっただけです。機械的に働く以外は、好きなことだけに打ちこみました。  その後、第二次世界大戦がはじまり、敗戦を迎えるのですが。  戦後、女性は解放され、男女同権が唱えられ。結成された労働組合の仕事などもいたしましたが。世間的な地位を得ることだけが最高に幸福なのか、今迄の不当な差別は是非撤回してもらわなければならないけれど。男たちの既に得たものは、ほんとうに、すべてうらやむに足りるものなのか。女のして来たことは、そんなにつまらないことだったのか。という疑いを持ち続けていたので、職場の組合新聞で女性特集号を出すから、と言われたとき、書いたのが次の詩でした。   私の前にある鍋とお釜と燃える火と[#「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  それはながい間  私たち女のまえに  いつも置かれてあったもの、  自分の力にかなう  ほどよい大きさの鍋や  お米がぷつぷつとふくらんで  光り出すに都合のいい釜や  劫初からうけつがれた火のほてりの前には  母や、祖母や、またその母たちがいつも居た。  その人たちは  どれほどの愛や誠実の分量を  これらの器物にそそぎ入れたことだろう、  ある時はそれが赤いにんじんだったり  くろい昆布だったり  たたきつぶされた魚だったり  台所では  いつも正確に朝昼晩への用意がなされ  用意のまえにはいつも幾たりかの  あたたかい膝や手が並んでいた。  ああその並ぶべきいくたりかの人がなくて  どうして女がいそいそと炊事など  繰り返せたろう?  それはたゆみないいつくしみ  無意識なまでに日常化した奉仕の姿。  炊事が奇しくも分けられた  女の役目であったのは  不幸なこととは思われない、  そのために知識や、世間での地位が  たちおくれたとしても  おそくはない  私たちの前にあるものは  鍋とお釜と、燃える火と  それらなつかしい器物の前で  お芋や、肉を料理するように  深い思いをこめて  政治や経済や文学も勉強しよう、  それはおごりや栄達のためでなく  全部が  人間のために供せられるように  全部が愛情の対象あって励むように。 [#ここで字下げ終わり]    2[#「2」はゴシック体]  私はごく自然に、家族の者が扇子に書いた俳句を見て、自分もこしらえたり。本でみた短歌というものが、いくつの字で成り立っているか指でかぞえて、三十一文字に自分も言葉を組立ててみたり。それから、も少し長い詩など書きはじめ、とにかく、そういうことがしたくて、したくて。  そのわがままを通すからには、人にたよらないで暮してゆく道をえらばなければダメだと思って。  学校もいいけれど、きらいな学科も勉強しなければならないし、それに親にたくさんお金を出させなければならないし、といった、わずかないたわりのようなものもあって、働きに出たのですが。  物を書くためには、どれほど修練をつまなければならないか。  また、それとは別に、世の中を渡ってゆくには、どれほど資格というものが大切か。日を追って、イヤというほど味あわされる羽目に陥ります。  毛並みとか、学校とか、財産などが、大きく物を言う社会で、その、どれひとつも持たない者が、どのように隅へ、隅へ、と片寄せられて行くか。身につまされて、わかったように思います。  働いて三十年余りになるのですが、年をとったのは劣等感、してきたのは仕事ではなくて、がまんだった。などというのは、私のニクマレグチです。  自覚らしい自覚も、選択もなく、向こうが採ってくれた職場で。これもたいそう思いがけない、受け身なかたちで、戦争の渦の中に巻き込まれて行くのでした。  働きながら物を書くのぞみは、十代の終りに同人誌を出すような打ち込みかたをしていましたけれど。十二月八日、宣戦の詔勅をあおいだのが二十一歳でしたか。  物を書くといっても、職場とも社会とも結びつかない、別の場所で精を出していたので、いきおい一人の感情を出なかったのでしょう。日本は神の国、あらひとがみ様のしろしめす不思議の国、そしていくさには負けない国だ、と、教えられたことを、二十歳になっても信じておりました。勝った、勝った、という戦捷《せんしよう》報告のかげで死んでゆく兵隊さんの悲惨より、勇ましさにうたれる、といった単純さでした。同じ書く仲間の中から「病院船」というような看護手記が出されたりしましたけれど。  弟に召集令状が届けられたとき、私は両手をついて「おめでとうございます」と挨拶しました。そういう精神状態だったのです。  話が横みちにはいりますが、出征する弟と二人で田舎の叔母に暇乞《いとまご》いに行ったとき、叔母が弟に「おまえ、決死隊は前へ出ろ、と言われて、はい、なんて、まっ先に出るのではないど」と申しました。私はその言葉の珍しさに驚きました。当時のものさしではかれば非国民の言葉となるのですが、私が聞き捨てたはずのことばを耳が大切にしまっていて、今日でも、何かの暗示のようにとり出して見せるのは、それが、ほんとのひびきを持っていたからだと思われます。私は、権力とか常識のとりこになり、そういう真実の言葉を、いつも持ち得ないで生きているのではないのか? と時々心配いたします。  東京が空襲され、それが次第に激しくなってきたとき、近づいてくる爆弾の音をはかりながら。世界の中にはスイスという中立国があって、そこでは戦争など行われていないのだという事実を、どれほどうらやましく思ったかわかりません。  現在、なお、その戦争というものにさらされている国があることを考えると、そこには若い日の私のような女性がひとりいて、爆弾の恐怖にさらされながら。日本という国は平和で、とても栄えているのだ、ということを、どう思っているだろう、と考えます。  終戦の年の五月二十五日、東京山の手が空襲され、私の町も家も焼かれてしまいましたが、私は、それを築き上げた父たちが力を落しているそばで、財産などというものがなくなって身軽になったことで、へんに生き生きしていたのを思い出します。若さとは、残酷なものだと思います。  それでも最後には、死ぬよりほかないらしい、と自分に覚悟を強《し》いていた。今から考えられない素直さで、国の指導者のいう通りになっていたことを、忘れるわけにまいりません。人間というものが、とひとくちに言っては申しわけないので、私というものが、どのくらい愚か者であるか。  終戦を境にして、すっかり目をさましたように思ったのも、アテにはならないようです。現在、違った状況のもとで、私はやはり、同じように愚かだろう、と思うからです。  次に、戦後二十年たったとき、職場の新聞が、同じ職場から出た犠牲者の名を掲げ、戦争追悼号をこしらえました。それに載せた私の詩を読みます。   弔詞[#「弔詞」はゴシック体]       職場新聞に掲載された一〇五名の戦没者名簿に寄せて [#ここから1字下げ]  ここに書かれたひとつの名前から、ひとりの人が立ちあがる。  ああ あなたでしたね。  あなたも死んだのでしたね。  活字にすれば四つか五つ。その向こうにあるひとつのいのち。悲惨にとじられたひとりの人生。  たとえば海老原寿美子さん。長身で陽気な若い女性。一九四五年三月十日の大空襲に、母親と抱き合って、ドブの中で死んでいた、私の仲間。  あなたはいま、  どのような眠りを、  眠っているだろうか。  そして私はどのように、さめているというのか?  死者の記憶が遠ざかるとき、  同じ速度で、死は私たちに近づく。  戦争が終って二十年。もうここに並んだ死者たちのことを、覚えている人も職場に少ない。  死者は静かに立ちあがる。  さみしい笑顔で  この紙面から立ち去ろうとしている。忘却の方へ発《た》とうとしている。  私は呼びかける。  西脇さん、  水町さん、  みんな、ここへ戻って下さい。  どのようにして戦争にまきこまれ、  どのようにして  死なねばならなかったか。  語って  下さい。  戦争の記憶が遠ざかるとき、  戦争がまた  私たちに近づく。  そうでなければ良い。  八月十五日。  眠っているのは私たち。  苦しみにさめているのは  あなたたち。  行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。 [#ここで字下げ終わり]    3[#「3」はゴシック体]  人の一生というような物差ではかると、私もかなり長い間、時をすごしてきたことになりますが、ふり返ってみると、精神はその日暮し、毎日毎日にピッタリ向き合うことで思いを満たし、口を養って来たような気がします。  若い日に感じた自分への問いかけ、それを書いた詩に、次のようなのがあります。 [#ここから1字下げ]  人間という 不可思議なものの  まことに何であるかも知らず  すべての生きものにならい 母になる  それでよいのか、と心に問えど  答えのあろうはずもなく  日毎夜毎 子守唄のごと   りすはりすを生み   蛇は蛇を生む とくちずさむ  さらばよし 母にならむか  おろそかならず こころにいらえもなくて——。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](「この光あふれる中から」より)  そんなつまらないことを言っているから、ダメなんだ、と友達が匙《さじ》を投げたように笑いましたけど、ほんとに、私もおかしく思います。これはいつまでたったって、答えが出てくることではありません。  結婚もしないで、上級学校へも行かないで、肩上げのとれない時に就職した銀行で、じっと居据《いすわ》ったまま、うかうかしていると、やがて定年ということになってまいります。  横道にそれますが、私が丸の内の銀行にはいったのが昭和九年。そのころは通勤電車に乗っても、女性がいまほど数多く乗ってはいなくて、職業を持つ婦人の地位は、今よりももっと低く、働くことがひとつの引け目になりかねないような、風向きさえありました。  最近、同じ丸の内を歩くと、昼休み時など、髪の毛の白くなりかかっているような、働く婦人とすれ違うことが、こころなしか多くなりました。すると、その婦人ひとりが年をとった、というふうには見えないで、ああ職業婦人の歴史が年をとって来た、と思います。  私が就職したとき、象牙の印鑑を一本九十銭で、親に買ってもらいましたが、毎日出勤簿に判を捺《お》している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。この間、印鑑入れを買いに行きましたら、これも年配の古い店員さんが「ずいぶん働いたハンコですね」と、やさしく笑いました。お互にネ、という風に私には聞こえました。  それにしても、一本のハンコが朱に染まるまで、何をしていたのかときかれても、人前に、これといって差し出すものは何ひとつありません。  一生の貯えというようなものも、地位も、まして美しさも、ありません。わずかに書いた詩集が、いまのところ二冊あるだけです。綴り方のような詩です。  ほんとに、見かけはあたりまえに近く、その実、私は白痴なのではないかとさえ、思うことがあります。ただ生きて、働いて、物を少し書きました。それっきりです。  そのせいか、働かないと、書くことも思い浮かばない、といった習性のようなものが、私の身についたのではないか、と案じられます。そして、物を考えているのは私の場合、頭だろうか? 手だの足だので感じたり、考えたりしているのではないのだろうか?  たずねても、手や足は黙っているからわかりません。  そしてとにかく詩は、私の内面のリズムであり、思いの行列であり、生活に対する創意工夫であり、祈りのかたちであり、私の方法による、もうひとつの日常語。唖《おし》の子が言い難いことを言おうとする、もどかしさにも似た、精いっぱいのつたない伝達方式でもあります。  そういうものではありますが。詩を求めて、詩のために、詩を書いているのではないので、明日、たとえ書かなくとも、あるいはまったく違うかたちに生まれ変ろうと、かまわない筈だと、思っています。  家庭には家庭のしがらみ、職場には職場の忍従。たくさんのがまんで成り立っている日々の暮しの中で、たったひとつ、どうしてもしたかったこと。もとより、わがままな所業でありました。詩でさえ、それが制約であるなら、とらわれないようにしたいものだ、と思っています。  ただ、長いあいだ言葉の中で生きてきて、このごろ驚くのは、その素晴しさです。うまく言えませんけれど、これはひとつの富だと思います。人を限りないゆたかさへさそう力を持つもので、いいあんばいに言葉は、私有財産ではありません——。権利金を払わなければ、私が「私」という言葉を使えない。といったことのない、とてもいいものだと思います。  また、領土のようだ、とも思います。いつか詩を書く人々四、五人で話していたとき、日本は生活がたいへんだけど、南のどことかへ行くと、バリカン一丁使いこなせれば食べてゆけるそうだ、という話になり、話していた人が、突然私に向き直って、「ね、いっしょに行こうじゃないですか」と笑いました。私はさそわれたうれしさで、「ええ行きましょう」と答えました。  あとで、生活が食べることだけだったらそれですむけれど、心の中にある口、そのひもじさはどうやって満たすのだろう、言葉の違う場所で、と考えました。私はそこで、それから習いおぼえる貧しい言葉で、生きてゆくことは出来ないだろうと思いました。  私のふるさとは、戦争の道具になったり、利権の対象になる土地ではなく、日本の言葉だと、はっきり言うつもりです。  そして人生、はじめに申し上げましたように、いまだにわからない、そのことについて語るとなれば、私の言葉、私の語りかけとしての詩を聞いていただくほか、思いつくことは何もありません。   くらし[#「くらし」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  食わずには生きてゆけない。  メシを  野菜を  肉を  空気を  光を  水を  親を  きょうだいを  師を  金もこころも  食わずには生きてこれなかった。  ふくれた腹をかかえ  口をぬぐえば  台所に散らばっている  にんじんのしっぽ  鳥の骨  父のはらわた  四十の日暮れ  私の目にはじめてあふれる獣の涙。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  女湯 [#ここから1字下げ]  一九五八年元旦の午前0時  ほかほかといちめんに湯煙りをあげている公衆浴場は  ぎっしり芋を洗う盛況。  脂と垢で茶ににごり  毛などからむ藻のようなものがただよう  湯舟の湯  を盛り上げ、あふれさせる  はいっている人間の血の多量、  それら満潮の岸に  たかだか二五円位の石鹸がかもす白い泡  新しい年にむかって泡の中からヴィナスが生まれる。  これは東京の、とある町の片隅  庶民のくらしのなかのはかない伝説である。  つめたい風が吹きこんで扉がひらかれる  と、ゴマジオ色のパーマネントが  あざらしのような洗い髪で外界へ出ていった  過去と未来の二枚貝のあいだから  片手を前にあてて、  持っているのは竹籠の中の粗末な衣装  それこそ、彼女のケンリであった。  こうして日本のヴィナスは  ボッティチェリが画いたよりも  古い絵の中にいる、  文化も文明も  まだアンモニア臭をただよわせている  未開の  ドロドロの浴槽である。 [#ここで字下げ終わり] 「野火」に連載されている伊藤桂一さんの〈抒情詩入門〉を愛読しておりますが、そのなかの——余韻のある読後感——で�匂い立つ後味こそ、大切�と、書いていられました。  ここに掲げた「女湯」は、匂い立つ後味に欠けているため、私のあまり好む詩ではありません。公衆浴場の、言ってみれば風俗詩のようなもので、匂うものがあるとすれば、作者も鼻をつまみたくなるような臭気ばかりです。  けれど、ドロドロの汚れの中で、女達がすっくりと健康な裸を上気させ、洗い清めることをしていた。安い石鹸で、彼女たちはそのことをしていた、明日を迎える儀式のように。  お風呂屋さんもひとつの社会です。その悪条件の中から、一人一人からだを拭いて上がってゆく姿を美しいと思いました。ゴマジオ色のパーマネント、は事実をありのままに書いたものです。私は多少のおかしさをこらえ、日本のヴィナスを見た、と思いました。  これを書いてから十年余り、浴場の設備はだいぶ良くなり、値段まで向上してしまいました。そのことで、この詩の内容も古くなり、何の共感も呼ばなくなったでしょうか? そうかも知れません。伊藤さんの文中にある�人が与えてくれる評価こそ真実�ということにまかせる外ありません。  余談になりますが、大晦日の混雑から新春二日の朝湯にうつると、前には流し場のタイルに三ツ指ついて挨拶しているのをよく見かけました。最近は、番台で買った牛乳を湯気の立つからだでラッパ飲みする、勇ましい風景に出逢います。そんなとき、私はあわてて目を裸にします。何しろお湯に来ているのです、目が着けている衣装、たとえば常識のようなものもぬぎ捨て、まずよく見る、ことからはじめようと思うわけです。 [#改ページ]  立場のある詩  以前から抒情詩とか、叙事詩、散文詩等という呼び方はありましたが、最近そういう質的な分類とは違った、別の分けかたで呼ばれる詩が多くなりました。主義主張による、ダダとかシュールというのでもない、プロレタリア詩といった自覚によるものとも違う、職業別、所属別に近い、たとえば生活詩、働く者の詩といった呼び名。  職業の分野でも専門化、細分化が進んできたので、詩もその傾向から逃れられなかったか、と冗談に聞いてみたいような気がします。  私の書いたものが、少しでも世間にとりあげられるきっかけになったのは、この働く者というひとつの立場からでした。第二次世界大戦後、組合運動がさかんになり、その一端として文化活動が強く推進された。食糧も娯楽も乏しかった時期、文芸といった情緒面でも、菜園で芋やかぼちゃをつくるのと同じように自給自足が行われ、仲間うちに配る新聞の紙面を埋める詩は、自分たちで書かなければならなかった。実際、私も勤め先の職員組合書記局に呼ばれ、明日は広島に原子爆弾が投下された八月六日である。朝、皆が出勤してきて一列に並んだ出勤簿に銘々判を捺す、その台の真上にはる壁新聞に、原爆被災の写真を出すから、写真に添える詩を今すぐここで書いてもらいたい。と言われ、営業時間中、一時間位で書かされたことがありました。   挨拶[#「挨拶」はゴシック体]       原爆の写真によせて [#ここから1字下げ]  あ、  この焼けただれた顔は  一九四五年八月六日  その時広島にいた人  二五万の焼けただれのひとつ  すでに此の世にないもの  とはいえ  友よ  向き合った互の顔を  も一度見直そう  戦火の跡もとどめぬ  すこやかな今日の顔  すがすがしい朝の顔を  その顔の中に明日の表情をさがすとき  私はりつぜんとするのだ  地球が原爆を数百個所持して  生と死のきわどい淵を歩くとき  なぜそんなにも安らかに  あなたは美しいのか  しずかに耳を澄ませ  何かが近づいてきはしないか  見きわめなければならないものは目の前に  えり分けなければならないものは  手の中にある  午前八時一五分は  毎朝やってくる  一九四五年八月六日の朝  一瞬にして死んだ二五万人の人すべて  いま在る  あなたの如く 私の如く  やすらかに 美しく 油断していた。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](一九五二・八)  題名は、友だちに「オハヨウ」と呼びかけるかわりの詩、という意味で「挨拶」としました。  あれはアメリカ側から、原爆被災者の写真を発表してよろしい、と言われた年のことだったと思います。はじめて目にする写真を手に、すぐ詩を書けと言う執行部の人も、頼まれた者も、非常な衝撃を受けていて、叩かれてネをあげるような思いで、私は求めに応えた。どういう方法でつくった、といえる手順は何もなく、言えるとすれば、そうした音をあげるものを、ひとつの機会がたたいた、木琴だかドラムだか、とにかく両方がぶつかりあって発生した言葉、であった。それがその時の空気にどのように調和し得たか。  翌朝、縦の幅一米以上、横は壁面いっぱいの白紙に筆で大きく書いてはり出されました。皆と一緒に勤め先の入口をはいった私は、高い所から自作の詩がアイサツしているのにたまげてしまいました。何よりも、詩がこういう発表形式で隣人に読まれる、という驚きでした。  ほうぼうの職場で、多かれ少なかれこうした詩の出来事があったのでしょう。私の所属する金融機関の組合連合体でアンソロジーの出版を企画し、それは『銀行員の詩集』として年一回ずつ、十回発行を重ねました。やがて組合団体の分裂がひとつの原因となって一九六〇年版で終刊となりましたが、この詩集に毎回発表したものは、他に紹介され、別に新しく書くことをたのまれる機会ともなりました。その場合、私の書いたものは働く者の詩であり、生活詩、ということになるのでした。  いま詩を書く以外に仕事を持たないで生活している人は数える程しかいないのですから、私の詩に説明が付くのはハンディキャップ、たとえば「子供の詩」と断り書きがつくのに似ているのでしょうか。それとも何か詩と違った要素があるからでしょうか。いずれにしても私は一日中働いているのであり、その立場で詩を書き進めてゆく以外、食べてゆくことも、書いてゆく手だてもないのが現実です。 「挨拶」が職場で書いた詩であるなら、次の詩は自宅で書いた詩、とでも言いましょうか。だから題を「表札」にしたのか、といわれると困るのですが。  職場は大手を振ってまん中を行進していた組合活動を少しずつ横に片よせ、経営が本通りをゆく、ある落着きをとり戻していました。  前の詩と、この詩の間に十年以上の月日が流れています。私の詩を書く立場は、この流れにうごかされ、大勢の中からひとりの中へと置き換えられてゆくようでした。   表札[#「表札」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  自分の住むところには  自分で表札を出すにかぎる。  自分の寝泊りする場所に  他人がかけてくれる表札は  いつもろくなことはない。  病院へ入院したら  病室の名札には石垣りん様と  様が付いた。  旅館に泊っても  部屋の外に名前は出ないが  やがて焼場の鑵《かま》にはいると  とじた扉の上に  石垣りん殿と札が下がるだろう  そのとき私がこばめるか?  様も  殿も  付いてはいけない、  自分の住む所には  自分の手で表札をかけるに限る。  精神の在り場所も  ハタから表札をかけられてはならない  石垣りん  それでよい。 [#ここで字下げ終わり]  日常働いているところが、たとえ資本主義の本丸に近いような場所であっても、目先のこまかい仕事に追われていては気が付かない。職員組合が強かった弱くなった、といっても、はじいている算盤珠に数として出てくる一円もなく、向き合っている同僚の顔色に出るということもありません。けれど政治の選挙などがはじまると、駅の広場の辺から様子が変わり、やがて私の身辺に届く事柄となってあらわれてきます。  まえには自分の支持する政党をはばかりなくあげ、職場の新聞紙上で意見をかわす、というようなことがあったのに、一九六六年にはそうした論議を呼ばない。話題としても互いに礼儀正しくふれ合わないでいるような雰囲気がある。と同時に与党に反対の意志を持った者のひそかなさそいかけが私などの所にまいります。  私は詩も、暮し方も、どちらかと言えば保守的だけれど、現在の保守政党に一票は入れない、それだけはしない。そこから出発し、自分の足で歩いている。そこへトラックが寄ってきて、乗りませんか、連れてって上げます、という。私はその人の運転に自分をまかせることをためらう、そのためらい。  家に帰ると宗教への勧誘がきます。あなたが幸福になるためにはこの会にはいる以外に道はない、はいらないと家族は現在以上の不幸や困難に見舞われるでしょう、という。ずいぶん気持ちの悪い親切で、強迫に近いものだ、と忿懣《ふんまん》やるかたないのですが、ご近所とあれば遠慮の仕方もこみ入ってしまう。  表札はただ単純に、表札についてだけ書いた詩ですが、気持ちの下敷きとして、私をささやかにとりまくこのような状勢があり、それがまったく関係のない表札の記憶と不意に結び付いたとき詩になりました。  短い時間で出来上がりましたが、終りから四行目、�精神の在り場所も[#「も」に傍点]�を�精神の在り場所に[#「に」に傍点]�と直したほうが良いかどうか、発表するギリギリの時間まで迷いました。地理的にいうとお茶の水駅周辺をうろうろ歩いて迷いました。歩いていたのはに[#「に」に傍点]とも[#「も」に傍点]です。結局も[#「も」に傍点]にする以外ないと考えました。に[#「に」に傍点]にすると曖昧な部分はなくなりますが、詩が狭くなるような気がしました。   冠[#「冠」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  奥歯を一本抜いた  医者は抜いた歯の両隣り  つごう三本、金冠をかぶせた  するとそのあたり  物の味わいばったり絶え  青菜をたべても枯葉になった  ああ骨は生きていなければならない  けだものの骨  鳥の骨  魚の骨  みんな地球に生えた白い歯  それら歯並びのすこやかな日  たがいに美しくふれ合う日  金冠も王冠もいらなくて  世界がどんなにおいしくなるか。 [#ここで字下げ終わり]  短いものですが、割合に長くかかりました。何回も書きかけてはやめております。さわってみて未熟だな、と知り、もぎとることを後にする果実のようにです。りんごや柿の、花が咲いて実がなるくらいはかかりました。  動機も、内容も、願いも全部おもてに出してある平明な詩なので、よければ読者も白い歯でまるかじりにして味わって下さい。もしシブイところがありましたら、締切りにせまられたせいです。けれど期限で切られなかったら最後の二行は出てこないで、詩になるのがずっとおくれるか、まったく別の詩になっていたろうと思います。  金冠も王冠もいらない、これは「表札」で様も殿も付いてはいけない、と言ったことと何となく似てしまいましたが、こんな風に、自分の内面にありながらはっきりした形をとらないでいたものが徐々に明確に出てくる、あらためて自分で知るといった逆の効果が、詩を書くことにはあるようです。かりにも私の場合、書くことと働くことが撚《よ》り合わされたように生きてきた、求めながら、少しずつ書きながら手さぐりで歩いてきた、といえます。  時期でいうと「挨拶」と「表札」の中間頃に当る「家出のすすめ」は、時間でいうと真夜中にあらわれました。読んで下さる方に必要のないことですが、作者はそのことを思い出します。意図しないのに突然出て来たからです。魑魅魍魎《ちみもうりよう》のたぐい、私の世迷《よま》いごと、でもあるのでしょうか。   家出のすすめ[#「家出のすすめ」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  家は地面のかさぶた     子供はおできができると     それをはがしたがる。  家はきんらんどんす     馬子にも衣裳     おかちめんこがきどる夜会。  家は植木鉢     水をやって肥料をやって     芽をそだてる     いいえ、やがて根がつかえる。  家は漬け物の重石     人間味を出して下さい     まあ、すっぱくなったこと。  家はいじらしい陣地     ぶんどり品を     みんなはこびたがる。  家は夢のゆりかご     ゆりかごの中で     相手を食い殺すかまきりもいる。  家は金庫     他人の手出しはゆるしません。  家は毎日の墓場     それだのに言う     お前が最後に     帰るところではない、と。  であるのに人々は家を愛す     おお 愛。  愛はかさぶた     子供はおできができると     ………。  だから家を出ましょう、  みんなおもてへ出ましょう  ひろい野原で遊びましょう  戸じまりの大切な  せまいせまい家を捨てて。 [#ここで字下げ終わり]  実は他に、読んで十五分くらいの詩を書き上げなければならず、苦心惨澹の最中でした。そのときふと�家は地面のかさぶた�というイメージが浮かびました。おや? と思うまもなく、ひとつの調子が出て、次々と言葉がさそい合い、連れ立って私の前にあらわれました。「オカチメンコなんて使えない」と言っても、「かまうことない、詩を書かなけりゃいいでしょ」と、さっさと先へ行き、最後の一行まで言葉がそろうと静止いたしました。その間、呼吸のようなものがあるだけでした。勿論多少の修正は加えました。肩を段違いにそろえたのも清書の時です。これはあまり好きなやりかたではありませんが、この詩の場合、自然にそなわった形だと思っていたしました。  作詩法などとは言えない、まるで無責任な話ですが、私に言えることは、言葉たちがどの道のりをきたか、どういう経験が先に立って引きつれてきたか、最初の出発点はどこか、知っているということです。  小学生の頃、貧富の差の激しい生活を構えの外に見せた家々と、そこから出てくる子供たちが同じ教室に集ったとき、私は家を離れてきたそのかたち、子供だけの世界、子供だけでつくった一軒の新しい家が欲しい、と思いました。年をとって、夢はなおざりになりましたが、現実の家は私の背に屋根のようにハリツいて離れません。日本人の大多数が抱いている家の意識から解放され、一度家を出てみたら——これは私の祈り、私の願いごとです。  いまこの詩は私に命令し、私をはげます、横からうたでもうたうように�家は地面のかさぶた……�と呼びかけてくる。私にのこされているのは実践に移すことだけです。  それなら詩の方法というようなものがお前にはないのか、といわれればない、と答えるほかありません。もとよりわがままな所業、自分のしたいことがしたくて、この道を来ました。私が少女の頃、昭和十年代、詩を書き、文学を好む娘を持った親は災難でした。それだけ余分な心配をしなければならなかったからです。私は私で、親の言うことを聞かないならそれだけの覚悟が必要と考え、自分から働きに出ました。浅はかだったとも思います。なぜなら、そのため学問と呼ぶ学校の門をくぐらなかったから。はじめから実社会に出て生活と一緒に出発してしまいました。おかげでまだ基礎がぐらぐらしています。卒業証書、社会に通用する手形、を一枚も持っていない、そのため意外な不便に出逢います。そして三十年、サラリーマンとして低い位置にすわり続けてきた、ひとつの椅子。  職場は私に給料と、それ以外のものも与えました。けれどそれらを受け取るため、たくさんの時間と労働を引き替えに渡してきたことを思い返します。そんな当り前をなぜ言うか、ときかれれば、職場が育てた詩人、などという言葉に対する僅かな不満を語りたいからです。職場や職業はそれほど甘いものではない、現在の職場によりかかったグループから、まるまる一人の詩人が育つなどということが、私にはまだ信じられないのです。育ってもひよわなものとなりはしないか。よりかかって出来ることではないと思うのです。  また職場の書き手たちが、自分のことを詩人、と思いこみ、名乗ることに、あるはずかしさを私は感じます。詩人としての自覚が必要だ、と言われるかも知れませんが、職場で働く以上詩人の自覚はなくても詩は書けるのではないでしょうか。自覚と自負とが紙一重の危険な関係に立っていることを考えるとき、詩は誰でも書ける、と言い、そして書きさえすれば自分は詩人だというのをきくと、そういう詩人なら職業人であるほうが有難いと考えるのです。勿論こんな意見は組合大会における一票の反対のように否決してもらえばいいのですが。  そこで詩のことにかえりたいと思います。職場グループ等で詩を勉強している、初歩の人たちだけが読んで下さい。それ以外の人にきかれると、私、言いにくいんです。仲間の中の少し古い経験者として話をしたいのです。  そういう人たちの書いたものを読んでいつも感じるのは、詩は詩的なことを書くものだ、と思っているらしいこと。たとえば詩を見て虹を感じた、とします。詩は虹のように美しい、さて私も詩を書こう、詩は虹を書くことだ、と考えてしまう。どうもそうではないらしいのです。虹を書くのは大変です。虹をさし示している指、それがどうやら詩であるらしいということ。間違っているかも知れません。私の書く指の向こうには鍋だの釜だのがあるばかりで、それで生活詩などと言われているのですから。  虹を見るとしても、そこに野山や空がなければならない。現実、または実際にあるものの向こうに虹は立つ——。自分の詩に欲をいえば、その場所、その時刻と切りはなすことの出来ない、ぬきさしならない詩を書いてみたいと思います。永遠、それは私の力では及ばない問題です。 [#改ページ]  事実とふれ合ったとき  これを書くため、私が、自分のどの詩をとり上げようか、と考えているとき。昭和四十三年八月二十二日付の夕刊は、三面にひとつの出来事を伝えていました。ある新聞には、 「鷹司和子さんご難」とあり、別の新聞にはトップに「鷹司和子さんお手柄」という見出しをつけていました。いずれも東京都内のある邸に強盗がはいり、主の女性を傷つけた、というニュースでした。そのことから私は、ずいぶん前に書いた次の詩を思い出しました。   よろこびの日に[#「よろこびの日に」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  美しい和子姫  大奥で育てられたあなたは生れながら宮と呼ばれ  くらしのための苦労も不安もなく  心すこやかに、姿伸びやかに成人された、  晴れの婚儀を前に  誰があなたの幸運を妬もう  たぐいまれないのちの素直さ  ひなたに花の咲いたような明るい笑顔  それは万人の娘たちが願う  やすらかな表情である。  遠い平安の世にあらず  万々人の殺戮に夫を、兄弟をささげた現世  姫と育つ人の数は  貴族文化咲き栄えた世よりも  まだ稀なあなたの存在である。  その幸福は  飢えた子供に与えるため一個のりんごを盗んで捕えられた母親と同じほど  あなた自身に罪のないものといえよう、  美しい和子姫  私はあなたのこの上ないしあわせを願う  たとえいかなる土壌の上に咲こうと  あまりにもうるわしいその姿  素直な心のありようこそ  私のいのちをかけたねがいでもあれば。  けれど美しい和子姫  緑濃い宮居の堀を私達日常の貧しい垣の外に築き  生れる子供に着せるものの心配なく  病む人の医薬に不安なく  好き自由な学ぶことの出来る世の中をつくったら  それはどんなに大きな喜びであろう、  優しい心を包みかくすどんな強がりもなく  すさんだ言葉をつかう者もなく  日本中の女性があなたのように笑うことも出来るに違いない。  美しい和子姫  どれほど愛し合っていても片方の貧しさに結婚がさまたげられたり  婚儀の席に連なるには  あまりにも身なり粗末な父母がいたり  また婚礼の費用に困る若人たちが溢れているこの国  そればかりか  働くに職もない若人たちでいっぱいのこの国。  ああ五月  このよろこびの日に  貴女のたぐい稀な美しさを  だれが妬み、そねんだりしよう、  美しい和子姫  幸福な人間を見ることは私共のあこがれである  その、より多いことこそ  最も強いあこがれである。 [#ここで字下げ終わり]  思ったことをみんな書き並べてしまった、だらだらと長い詩で、そのせいか、一人の人に代表作、というようなものがあるとするなら、これは忘れられたほうの代表作かも知れません。  それには関係なく、さきほどの新聞記事を、もう少し引用させてもらいます。 「鷹司和子さんは天皇陛下の第三皇女として、昭和四年九月三十日に生まれ、昭和二十五年五月二十日、元明治神宮宮司、鷹司信輔氏の令息、平通氏と結婚した」  つまり、右の記事を私の作詩ノートに借りてしまおう、というわけです。この記事により、忘れられた詩の、忘れていたことを、思い浮かべる手がかりを得たのでした。 「よろこびの日に」は、昭和二十五年(一九五〇)五月に書きました。同じ年の同じ月、皇居前では戦後一番盛大なメーデーが行われております。一番盛大であった、ということは、後になってわかったことですが。そのとき私は、私の所属する銀行従業員労働組合の執行部におりました。  終戦後、職場の解放が叫ばれ、組合運動が推進された。その運動が昇りつめた時期、と言ったらいいでしょうか。翌六月には朝鮮動乱がはじまり、七月には各業界にレッドパージ旋風がおこる、前夜の明るさなのでした。みな、過ぎてみてわかったことです。  天皇は人間宣言をし、神の衣をとっくに脱がれましたが、雲の上の世界をのぞくように、国民の多くは宮中の出来事に喜びとあこがれを抱きつづけていましたから、姫の婚儀はマスコミの大きなニュースダネになっていました。当時生活面では、金さえ持って行けば、どこの食堂ででも食事が出来る、などという便利な世の中ではなかったのです。  食べる物が足りない。着る物が乏しい。観る物も少ない。読む物も……となると、これは総がかりで、何とかしなければならない、ということになって。たとえば文化面でも、自分たちが芝居をし、自分たちが文章を書く、ということになる。新聞などが職場単位で発行され出したのも、組合活動と切り離せない事の起りに思われます。実によく、詩を書け、と言われました。この詩もそうした依頼、または空気にうながされて発生した言葉でした。もちろん、誰よりも私自身の中に書くことをうながす力のようなものが湧き出ていたのですが。  終戦前、またそれよりもっと、戦争のはじまる前。詩を書く仲間、詩の読者を自分の周囲に見付けることは珍しく、ほとんど孤独な作業だったのにくらべ、たとえ書く時は一人であっても、その読まれかた、受け入れられかたには大きな違いがありました。  この詩は朗読のために書いたわけではありませんが、職場の文化祭、集会などで朗読させられました。そういうわけで、活字は声にもなり、何がしかの語りかけ、訴え、があり、相手があり、難解であっては通用しない場所、つきあいのある場所で詩を書き、働き、生きていました。  語りかけには返事が戻ってきました。この詩を読んだ仲間の一人が申しました。 「つまり君は、この人たちの幸福はそのままにして、同時にみんなも幸福になりたいって言うんだな。僕たちは、こういう幸福はひきずりおろそう、と思っているんだが、君は?」  物事を学問として学んだことのない、働いて、肌で、自分の経験で、人よりおくればせに覚えてきた私は、その時、何の深い洞察も視野もなく、天皇制に対する明確な判断もなく。であるからレッドパージ前の、激しければ馘首《かくしゆ》されかねない、きわどい組合の常任委員に、周囲の都合から選び出されたのかもわからないのですが。その人に私が「はい、そうです」と答えたのを覚えています。  以来二十年近くなろうとしています。私が成長したか、退歩したか、どちらにせよ、皇族の婚礼に対し、この詩のようなひたむきさで呼びかける折はもうあるまいと思います。その矢先、かつて私がその美しさをたたえ、それを喜び、しあわせを願ったはずのお姫さまが、ステンレス菜切り包丁などで傷つけられる。傷ついた手の痛みは、一人の同性としての私の手にも痛みを伝えてきました。  新聞記事を続けます。 「男が金を無心、切る」 「調べに対し、二十三歳の男は『腹が空いていたので、まず台所でメシでもくってからドロボウをするつもりだった』といっている」  私は詩の中で、「その幸福は/飢えた子供に与えるため一個のりんごを盗んで捕えられた母親と同じほど/あなた自身に罪のない」と書いたことをダブらせて読みました。りんごを盗んだ母親の罪は猶予されたとしても、この男の罪状は明白となるでしょう。同じほど不幸なのは和子さんであり、この若い男だ、と思うのは甘いでしょうか。  別の新聞記事を読んで下さい。和子さんが結婚したところの、 「平通氏は四十一年一月二十九日、ガス中毒死した。その後、和子さんは平通氏の母堂、綏(やす)子さんとお手伝いさんの三人暮しだった」  そこに荒涼とした家庭の風景を思いえがくのは、余計なおせっかい、ヤジウマ根性にすぎないでしょうか? 私が若かった日、心こめて祝った人が、身のまわりにすぐ見つけ出せる戦争未亡人、失業者、肢体不自由者その他多くの不幸な人たちと同じではないにしても、現在客観的にみて幸福とは言い難いような状況におかれている、というそのことのなかに私は、目を当てないわけにはゆかないのです。この連帯、このはるかなエニシ。  働いても、働いても楽にならないのは石川啄木の歌とおなじで。なにか運命のようなものからハガイジメにされているのではないか、と冗談のひとつも言いたくなるような年月を重ね、私は四十歳を越えてきました。変らないのは二十年前も今も、もっと何とかしよう、もっと何とかならないか、と思いながら働き、働きながら詩を書いていることです。  その、詩の構成はどうするか。言葉の選択はどうするか、といった問いかけに対して、私には用意された答えがありません。たとえば、言葉の選択ですが、今夜ライスカレーをこしらえるから材料を買ってこよう。肉とにんじんと、玉ねぎと……というぐあいに集めるものではないので。書く、というそのときには手足の生えてしまっているのがまるごと生まれてくる、それをとらえる。用意は、書くという行為のずっと以前にある、と思っています。  書く動機。これは人それぞれで、私の場合、この文章を書くきっかけが新聞記事、記事のなかのひとつの事件。事実とふれ合った地点でペンをとった。と同じように、いつも何かにぶつかった所で発生する。想像力に乏しい、と言われるかも知れませんが、どんな抽象的なことがらでも、私がとらえるきっかけには、手でさわれるような具体性があって、そこに足をおろして書いてきた、と思います。  これから先、それはわかりません。ちいさいときから無いものねだりが大好きで、詩を書いてきましたから。そしてこの作詩ノート。これは一篇の詩のつけたり。詩そのものが私の生きていることのノートではないか、と書きながら思い至りました。 [#改ページ]  持続と詩  どういう姿勢で——詩を書いているのか、というのが私への問いかけです。  鳥が首をかしげるように、私は私の中の声に耳をかたむけてみました。 「ラクナシセイ、ゴク、ラクナシセイ」  私はうなずき、無理な姿勢だったら、何十年もへたな詩を書き続けてこれるものではなかった、と納得しました。  ではラクにどうしてきたか、とたしかめると、 「バカミタイ、バカミタイ」 と九官鳥のような、たどたどしい答えが返ってきて、思わず吹き出してしまいました。どうひいき目に見ても、賢い処世ではなかった、と。  私はいつも、先の方に希望というものを見付け出せなかったので、目先のことにとらわれ、わずかな過去に根を張り、その範囲で心かたむけて暮らしてきました。私の願ったものはまわりの者のしあわせであり(これは逆に不幸をもたらし勝ちだったけれど)、無事に、どうしたら皆が食べて行けるか、ということであり、戦争があれば火の中を夢中でくぐりぬけることでした。  食糧がなくなれば、持てるだけの物を背負いに遠く出かけてゆき、平和になればもう戦争が起こらないようにと祈り、どうか家族が傷つくことなく生命をまっとうしてほしいと思う。勤めに行けば、何とかつつがなく仕事を済ませようと励み、夕方終われば、皆に少しでもおいしいものを食べさせたい、と百貨店の食品売り場を歩く。一方、腹が立てばいさかい。愚痴やあやまちもどっさり。せめてこれ以上悪いことがありませんように、と小心に、びくびくしながら眠る。  その片手間というのではなく、そのこととわかち難く、詩や文章を書きつづってきました。で、私の詩を書く姿勢は、私の暮らし方の姿勢であり、文学への理想も、詩への目標も単独にはありえない、つづり方練習生にすぎません。  女としては結婚せず、まして母ともならず、銀行員としての長い月日、昇格といった点から見ると、最低の線を人後に落ちて歩いてきました。気が付いたら、そろそろ定年が近くなっている、というのに。 [#ここから1字下げ]  手に持てる何ものもなければ  この身まずしき菊の  花を捧げむ葉を捨てむ  大空に満ちわたる美しき歌声の  そのひと節を求むれば。 [#ここで字下げ終わり]  これは少女期に書いた私の短章ですが。花が持ち得ない言葉、声に対する悲願。無いものねだり。四十歳をはるかに越して、手に持てる何ものもないのは、昔も今も同じということになります。  バカミタイ、という言葉の説明がこれでついたことにして。  ラクな姿勢、ということに移ると。子供が友だちを選ぶように、私は読むこと、書くことと仲よくしました。なぜそうなったのか、あまり自然で覚えていません。私の性情が無心にそれをしたかったのだろうと思います。詩には小学生のころからひかれ、見よう見まねで書きましたけれど。図書館で手当たり次第にひらいた詩集は、読んでも読んでも決して面白いものではありませんでした。  最近私は詩の実用性、などとへんなことを言ったりするのですが。その面白くなかった詩の中に、応用のきくもの、自分に合った、自分の心が育ってゆくのに都合の良い何か、をどっさり感じとって、飽きるということがなかったのだと思います。  そうして目的もなしに書きつづってきた詩が、結果として私の集計、私の目的だったような形をして前に置かれました。それがこんど出した、わずか二冊目の詩集『表札など』です。  私にとって詩は自身との語らい。ひとに対する語りかけ。読んでもらいたいばかりに一冊にまとめたのですけれど、みとめてもらえるというようなことは勘定外でした。詩が私を教育し、私に約束してくれたことがあったとすれば、書いても将来、何の栄達も報酬もないということ。も少し別の言いかたをゆるしてもらえるなら、世間的な名誉とか、市場価格にあまり左右されない人間の形成に、最低役立つだろう、ということでした。その点では、詩は実用的ではありません。その非実用性の中に、私にとっての実用性をみとめたのでした。  いつか書店でパラパラと詩の本をめくっていたら、「詩による社会変革は可能か、不可能か」というアンケートの設問がとびこんできました。私はとっさに、可能でないならつまらない、とひとりで答えてしまい、あと、だれがどのように答えているか、読みそびれましたが、ひとつの変革、次の展望、新しい生命、価値観の転換、その方法、手段などに、表立つことなく何らかの形で加わる力がないならば、目を洗う、というちいさなことすら、詩がなしとげることはできないのではないでしょうか。  自分の詩を棚《たな》に上げて考えたことです。 [#改ページ]  表札のうしろ  三年ほど前に出した詩集の題名を『表札など』としたら、「表札」という詩がそのまま本の表札の役割りをしてしまった。 [#ここから1字下げ]  自分の住む所には  自分の手で表札をかけるに限る。  精神の在り場所も  ハタから表札をかけられてはならない  石垣りん  それでよい。 [#ここで字下げ終わり] などと詩の中に自分の名前を書きこんだので、よけい表札的になったのかも知れない。  表札という言葉はカッチリして、余分なものを含まない。あいまいさが少ない。ということは、言葉の実体がモノとしてハッキリしているということだ。  揺れ漂う表札。アイマイモコとした表札、無限の可能性を持った表札、などというのはない。どんなに大きくこしらえてみても、どんなにちいさくしてみても、知れている。  そして、私の見て歩いた限りでは、表札はたいそうマジメである。地面に横になったのもなければ、天井から下に取りつけられたのなどもない。市民生活の路面に向かって、人目というものの前に整列した観がある。その前をオモテムキが通りすぎる。  食卓とか、台所、お手洗、それらを必要とする人間のいとなみは、すべて表札のうしろがわの屋根の下で、窓を開けたり、夜にはかわいらしい灯をともしたりしている。  このおとなしいナワバリ宣言は、貨幣が間接闘争 (?) して得ているから、オトナリさんとはニッコリ笑っておつきあい出来る仕組みになっている。  表札が身動きできないでいるのはいいことだ、そこに一応の平穏がある。  戦前、東京の町のあちこちに夜店というのが、よく出た。その片隅に木箱などを置き、表札を商う人がいたものである。子供の私はその前にかがみこみ、総理大臣の名前や、豊臣秀吉などという字を見て、不思議を感じた。いくらほんとうの人の名があっても、そのうしろに誰も住んでいない表札は空々しかった。  戦争中、大空襲のあと、生き残った人々はそこを立ち去る時どうしたろう。わずかな木切れ、板切れをひろってきて、ここが我が家のあと、というガレキの山のはしに表札を出した。  隣り近所との境界もないのに、ひとつひとつの表札のうしろには、どこかで仮り住居をしている人のたしかな生活が実在した。忘れられないことである。  ある日どこかで新しい表札が生まれ、ある日どこかで古い表札が死ぬ。  表札はちっとも面白くないけれど、生きているだけでじゅうぶんである。 [#改ページ]  第一行はとび出してきます  第一行をどう書くか? どう、って、どう書くものでもないなあ、とひとりごと申しました。  それで、割合新しい詩をひとつとって、思い出すことにしました。  私はずいぶん前から、手袋、といった品にあわれのような、かわいらしいような、人間が身に付ける物の宿命的な形、というものに気をとられていました。指が五本宛ある以上、それを動かす以上、包み込む袋の先を五つに分けてこしらえる。なるほど手を入れる一方だけは、あけておくしか方法はないのだ。と思うと、靴下にしろ、下着にしろ、これは上からかぶる。これは下からはく。といった動作で、あてがうより仕方のない、その、どうにもならないことに、うっすらとした悲哀がたちこめてくる。その中に吹き出したいような笑いが漬けこまれているのを感じます。  けれどそういう感じはごく日常的なもので、特別のものではありません。それで感じるままに放って置くことになります。  それとは直接関係のないこととして、犬がとても人間に愛される話、とか。どこそこでコンクールがあった、というニュース等が新聞に出たりする。私だって朝夕、通りがかりの犬に、つい手を出して招きよせてしまうこともある。けれど着物を着せるとは考えていなかった。首輪やリボンくらいは見慣れていても、デパートに衣装売場まで出来るとは思わなかった。主人のため、犬はそれを着せられた。道を歩いている。あ! [#ここから1字下げ]  犬に着物をきせるのは  よいことではありません。  犬に着物をきせるのは  わるいことでもありません。  犬に着物をきせるのは  さしあたってコッケイです。  人間が着物をきることは  コッケイではありません。  古い習慣  古い歴史  人間が犬に着物をきせたとき  はじめて着物が見えてくる。  着せきれない部分が見えてくる。  からだに合わせてこしらえた  合わせきれない獣のつじつま。  そのオカシサの首に鎖をつけて  気どりながら  引かれてゆくのは人間です。 [#ここで字下げ終わり] ということになりました。題は「着物」です。  第一行はとび出してきます。それには、たたいてみたり、いじってみたり、記してみたり、といういろいろな前段階があるとしても、書き上がるときの一行はとび出してくるように思われます。 [#改ページ]  あとがきのこと  清書をはじめてから三年ほどもたつ詩稿を、ようやく『表札など』として一冊にまとめ、出版社に渡したあと、まだあとがきが出来ていませんでした。  本をひらくと、最初にあとがきを読むくせのある私は、それを書くことにこだわっている自分に気付き、困るな、と思いました。 [#1字下げ] 伊豆の五郎は私と同じ年のはとこ。四十を越して、遠くたずねてゆくとムスメが三人顔をそろえる。ひとり者だからと言って、私が何もこしらえないのは申しわけない。  筆がそんな走りかたをしてしまったのは、田舎から、五郎がガンでもう助からないだろう、という便りがきたときでした。皆がそれとなく見舞いに行っている、という。それとなく出来る私の見舞いはないか——。 [#ここから1字下げ]  借金は勤め先にわずかばかり。それはいいとして、借情、借交、借手紙、そんな言葉があろうかと思うような、身にふりつもるもので齢も心も重たくかしいできた。  これは私の、九年程前に出した一冊に続く二冊目の詩集。はずかしいけれど精いっぱいでほんの少々の返済。それに価格をつけるのはどういう了簡《りようけん》だ、面白くもない。と言われたら。だって、働いてきた。お金ではまだあなたに借りてない。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き]一九六八年八月  書いてしまったあと、見舞い品としては適当でも、あとがきとしては不適当ではないか、と案じましたが。一度できた文章が、後で書いてみたほかのあとがきに道をゆずろうとしないので、出すことにしました。  終りのひとことには、読んだ人にコンチキショウ、と張り倒されてもしかたがないような、イケナサを感じました。  でも、それは詩集を読んでくれた人、全部に対して言っているのではない。「面白くもない」と言われた時のために用意した返事なのだ、と自分には説明をつけておいたのですが。やはり最後にひっかかるなあ、と惜しんでくれたひともありました。  ただ私は、あとがきもひとつの試みであっていい。駄目なら駄目でしかたがない、とはじめからあきらめ。とにかくあそこにひとりだけの、ちいさなドラマをかくしたのでした。  余談になりますが、あくる年の四月、五郎は最後の床で指をまわして見せ、私を電話で呼べ、と合図したそうです。職場を早退し、私は桜が満開の東海道を熱海から横にそれて、下田の病院にかけつけ「アレは五郎さんへのお見舞いよ」とドナリました。五郎はうなずき、翌日死にました。 [#改ページ]  清岡卓行『四季のスケッチ』感想  たしかな手ごたえで、この詩集一冊が自分のものになったとき、私はとっさに、本を抱えて逃げたい、と思った。うまそうな骨をくわえた犬は、八方に目をくばりながら、早く安心のゆく場所に行き、ゆっくり味わいたいばかりに逃げる。それかあらぬか、一人になった私は『四季のスケッチ』の扉をあけるとき、ウウッとうなってしまった。うなってから自分の声におどろき、前文の犬に似ていることに気が付いた。  知っているのだ、とにかくこの本の骨の味を。私は食べる前からヨダレを出していたのだから。そんなやつに書評が書けるか? ごもっとも、犬の分際でするべきことではない。尻尾を振るな、と言われたら……かみついてやろう。しかし振ってよければ、優しいもの、与えてくれるもの、かてて加えて美味《おい》しいものに、しっぽがうごく。そうしたけだものの興奮を、最初の一頁が見事にしずめる。四季のスケッチという、いかにも淡彩な題名の詩集が�早春�にはじまる時に。  清岡卓行さんの詩を読んで、いつも思うことは、字面から受ける不思議な体温だ。素肌のあたたかさ、かというと、そうでもない。「大学の庭で」の中から、都合のいい言葉をひとつ借りるなら、 [#ここから1字下げ]  つまり  美しいものにおいて自己を実現すること  そのきびしく結晶されるかたちこそ  学問と呼ばれるわざくれに  きみの魂の血液を [#ここで字下げ終わり]  惜しみなくめぐらせることではないのか? の、魂の血液、とでも言ったらいいだろうか。活字が肥えてみえる。ゆたかな果肉のようでもある。ここには精神が、不消化物としてほき出してよこすようなものは何ひとつまじっていない。まるごとが私にとって糧となることに間違いないのだ。透けてみえるから浅いのではなく、底に何があるか見せてくれようとする澄みかたで、おだやかに寄せてくる今日の抒情。私は骨を食べ、また、あたたかくも冷たくもないその流れに耳をたれて、飲む。どうも仕方がない、犬で終始してしまった。が、ひとつだけ断る。  最近、絵でも、詩でも、彫刻でも、自分が無心で近付いて行ったとき、ごく自然に、心の底から笑いが浮かんできた時、私はその対象物はとてもとてもいいものだ、と信じている。人間だけが知り得る、たとえようもない良質の笑い。   冬のレストラン[#「冬のレストラン」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  それが何であろうと 心をこめた  一日の長い仕事ののちの  爽やかさ。  冬の夕ぐれの繁華街の  あわただしい雑踏に  静かに粉雪が降りかかりはじめ  いくつかのネオンの原色が  それを微かに照明している。  それは平凡な しかしまた  そのとき一度きりの群衆の横顔。  そんな優しさ きびしさを  レストランの窓ぎわのテーブルから  飽かずに眺めているぼくは  どこかで むごたらしく  欺されているのだろうか?  すいた胃袋に  何かの感情の眼ざめのようにしみて行く  冷たい火のオン・ザ・ロック。  昨日は同じ席で  同じ時刻に  ヨーロッパの中世のお城から  今ぬけでてきたばかりの少女といった  あるふしぎな髪の夫人と  レモンの酸っぱい生牡蠣をすすりながら  ぼくは年齢について話していた。  ——十九歳から二十歳になるときが    一番絶望的で 甘美で    真珠の中には それよりも大きな    水蜜桃がかくされています。    二十九歳から三十歳になるとき    おつぎはもう四十歳とあきらめ    暴風雨の中に ぼくはせめて    音楽の沈黙を聞こうとしました。  ぼくは奇妙なメタフォールまじりのせりふを  内心深く恥じながら 附け加えたのだ。  ——だから 四十歳になるとき    おつぎは五十歳だと観念する    にちがいない と思ったのですが    そのとき 実際に感じたことは    ぼくはもう死ぬんだという    ごくありふれたことでした。  ——まあ!    気が早いんですね。  彼女は驚いてそう受けながら  遠くを夢みるような眼ざしで  真剣にたずねかえしてきたのであった。  ——それで    九つから十になるときは    どうでした? [#ここで字下げ終わり]  読み終えたとき、真実私は笑ってしまった。まだ笑い終っていない。お腹の底に笑いの井戸をひとつ掘ってもらったようなものだ。詩集とは値段ではかると安いものである。  散文詩では「無人島で」にひかれた。その最後のところを引用させていただく。 [#ここから1字下げ]   ——ぼくは他人に絶対に見つからない、豪華で楽しいこの旅行のための旅行を愛しています。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  生活詩  九年ぶりに、二冊目の詩集『表札など』を出してみて、おや? と思った。第一詩集との共通点であるかのように、手洗所の詩と、公衆浴場の詩が、両方にひとつずつある。  書こうとして書いたのでもなく、計画して入れたのでもない。結果としてそうなっていた。最初のは「きんかくし」と題し、目次から隠しておいた。 [#ここから1字下げ]  家にひとつのちいさなきんかくし  その下に匂うものよ  父と義母があんまり仲が良いので  鼻をつまみたくなるのだ  きたなさが身に沁みるのだ  弟ふたりを加えて一家五人  そこにひとつのきんかくし  私はこのごろ  その上にこごむことを恥じるのだ  いやだ、いやだ、この家はいやだ。 [#ここで字下げ終わり]  これは「家」という、少し長い詩の反歌のような形にした。自称、つづり方詩、道義的には親不孝詩。九年経つと匂うものを水に流し、少し人なかに出る。個人の家から公の場所へ。「公共」という題の詩は東京駅の手洗所のことを書いた。  けれどお風呂のほうは、公衆浴場から個人の浴室、というような変化もない。湯銭だけが上昇している。第一詩集のは「女湯」。今度が「銭湯で」。 [#ここから1字下げ]  東京では  公衆浴場が十九円に値上げしたので  番台で二十円払うと  一円おつりがくる。  一円はいらない、  と言えるほど  女たちは暮しにゆとりがなかったので  たしかにつりを受け取るものの  一円のやり場に困って  洗面道具のなかに落としたりする。  おかげで  たっぷりお湯につかり  石鹸のとばっちりなどかぶって  ごきげんなアルミ貨。  一円は将棋なら歩のような位で  お湯の中で  今にも浮き上がりそうな値打ちのなさ。  お金に  値打ちのないことのしあわせ。  一円玉は  千円札ほど人に苦労もかけず  一万円札ほど罪深くもなく  はだかで健康な女たちと一緒に  お風呂などにはいっている。 [#ここで字下げ終わり]  いずれも番台で仕切られた、風呂屋における真半分の領域、女湯での属目。  このあいだ「自分の書いた詩が『生活詩』と呼ばれることに不満を感じる」と、会合で隣り合った若い女性が語りかけてきたのは、私の詩を生活詩と認めてのことだろう。 「仕方ないわ」ずいぶん愛想のない答えになってしまった。一冊の詩集の中に「表札」があり、「土地・家屋」があり、「くらし」(台所)があり、「干してある」(ふとん)があるのでは、仮りに芸術詩、などという言葉があったとしても、私のがそうだ、と言うわけにいかない。  残念ながら第一詩集のは、もっと暮しが半煮えで、題名の詩が「私の前にある鍋とお釜と燃える火と」。外に、「百人のお腹の中には」(食事)、「白いものが」(せんたく物)、「屋根」「月給袋」……。  半煮えが良いなどと思っていないから、第一詩集を九年かかって煮|溶《と》かして見たものの、第二詩集にもまた生活が残ってしまった。  けれど、食べて行くために働いている私の詩から、生活のかたちが消える時は、私も消えているだろう。そのとき、「母の顔」に出てくる、 [#ここから1字下げ]  やさしく、残酷な  生きている母たちの本当の母親。  死んだ母親。 [#ここで字下げ終わり] が、溶けた私を古い鍋から一匙すくい、ナメてみて「うん、まあいい」と言ってくれるかどうか。  毎晩、家人がテレビのスイッチを切った後の静けさは私の溜息。自分の部屋が欲しいなあ、と思うけれど、そんな時の私にねらいをつけて、今夜もノラ猫がたずねてくる。住まわせてくれなくていいんです。食べさせてくれなくてもいいんです。逢いさえすれば。  と言わぬばかりに、台所の戸を黙ってひっかく。こういう欲のない交際圏にいると、しかたなく「ニャオ?」と呼びかけるのは私のほうになる。   猫だった猫が[#「猫だった猫が」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  そうなると  私は困る。  食器もそろえてやった。  毎日  ごはんにかつおぶしをかけ  醤油で味をつける。  それがお前の好み、  化学調味料もふりかける。  すっかり食べて  ノラ猫本来のねぐら  どこかの縁の下に  引きあげてくれればよかった。  きのうまで皿に首をつっこみ  仲間がくるとうなり声をあげ  ケンリを主張していた猫が  皿いっぱいの食べ物にチラと目をやって  それっきり振り向こうともしない。  しゃにむに愛撫を求めてくる。  いや、そうではない。  お前は  私のための食器と  私のためのかつお節を尻っぽでゆわえて  こんばんわ、と言ってくるのだ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  出来ること出来ないこと   はじめてのこと  ほんとうに何からお話していいか、私は、この間から途方にくれています。最初におことわりしなければならないのは、こうした場所で話をするのが、はじめてだということです。五十分間というのですが、五十分という時間がいったいどのくらい長いのか、わかっておりません。新しくて恐ろしい五十分です。幹事さんからここで自作を語るように言われたとき、私話したことがないからできないと言いました。すると、できますよっておっしゃるんです。そうかしらって答えたら、おやりなさいよ。というようなことになって。受けたあと、とてもあわただしい日を暮したため、講座のことはあまり考えていませんでした。するとプログラムが送られてきて、見たら私は西脇順三郎先生とならんでいるんですね。これはただ何でもないことなのに、私もう、びっくりしてしまいました。西脇先生は大変な学者でいらっしゃいます。それにひきかえ私は全然無学です。上級学校を出ないで三十年以上同じ銀行に勤めてきた私が、先生と隣り合った時間を受け持つなんて、とても無理です。はずかしいのを通りこして、噴き出したいくらいおかしいものを感じました。これちょっと話がとびますけど、ひとつだけ詩に関して得意な話があるんです。それをきいて下さい。実は、だいぶまえに村野四郎先生のところへうかがったとき、西脇先生の詩はみんなむつかしいむつかしいとおっしゃってるのに、それを、そんなこといっていいかしらと思いながら、「私、西脇先生の詩を拝見すると、何とも言えないおかしさを感じます」と申し上げました。すると、「西脇さんの詩の本質を一言で言いあてたのは君が初めてだよ」と、言って下さいました。あとにも先にも、これだけ。私が無邪気に自慢できるのは。それとこれとはだいぶ質が違いますけれど、今日のプログラムにとてもおかしいものを感じたのですから、おかしみ、という点でご縁の深い先生でいらっしゃいます。だけど、困りました。自分を笑っていてすむ話ではありません。   ふるえあがって  一週間前ぐらいから、五月の末だというのに、心が寒くなりました。一体今日をどうやって迎えたらいいのだろうかと、思いつめたのです。それで、もっとはずかしいこと白状しますと、きのう、一日勤めを休みました。今日なにをお話したらいいか考えようと思って。五十人も六十人も熱心なかたがおいでになる。こちらは椅子が一つですね。よほど力がないと均衡がとれない。私、実は、この講座、受講したかったのです。昔勉強しなかったことを、こういうところへ来て、習いたいと思っていました。忙しさにまぎれて申し込みしなかった。それが、ことの誤りで、こう……運命のいたずらみたいに、ここへ立たされました。とにかく一週間前からがたがたしはじめ、きのうは休んで。今日話すことを何枚か書きまとめて、それを読んだらいいと人に教えてもらった通り書き始めたのですが、かたくなって、なにもまとまらないのです。それで不安に追われるように告別式に行ったりして、あんな申しわけない告別式なかったんですけど。帰ってきて、また夜ふけるまで一生懸命考えましたけれど、何話していいかわからないんです。結局しょうがないから寝てしまったのですが、朝起きてこれで一日勤めに出れば、勤めている間は機械のように働かなければならないから、とうてい今日の夜のことを考えることができない、しょうがないと、実は今日も休みました。大変なことになった。もし今日という日がすぎて明日の朝が来たらどんなにうれしいだろうと思いました。どうか今日が無事に終わってくれるように。   すぐにはできない  けさ目がさめて、やっと気が付いたことがありました。それは、すぐできますよなどと人は言いますけれども、こういうところで話をしたりするのは、とても大変なことなのですね。できない者にとっては。それで苦労している間に、詩を書く、文章を書くことならまだ何とかなるのにと思いました。話は、ただちょっと話せばいいんですよ、って言ったって、何の習練も、それから用意もない、そういうことが、すぐできますものじゃない。詩もよく、お書きなさい、あなたもすぐ書けますよ、何でもないんですよって、言いますね。私もそういってきました。勤め先の文芸サークルなどで。  だけど、やはりそれは、言えないことなんだなということ。この一週間ふるえあがって、それから二日休んで体験して得たことは、たったそれだけです。簡単に、詩は書けるっていってはうそになるかもしれない。相当習練を積んで用意もして、それで初めてやっと、やっと思うことが思うかたちで表現できるようになる——。   いつも手さぐりで  私はわずかそれだけのことを会得するのに一週間ふるえて、二日休んで、全くばかみたいな知り方をするわけですけれども。考えてみますと、私の詩の書き方というのは、全部それだったような気がいたします。人が一日で学び得たかも知れないことを、じかにぶつかってみて、何日もふるえあがって、ずい分むだな時間をかけて、そのあげくに、あっ、と。そういう何かつきあたったところで、出て行く。そういうことくり返している間に、年月がどんどんどんどんたって、知らない間に年をとって、そういうことなんだと思うんです。それで、私はやはり、勤め先などで、簡単だから思ったことをそのまま書けばいいのですと、これからも言うかもしれませんけれども、それがすぐ詩になるものではないと、付け加えなければならないと思います。  じゃ詩は何だ、って言われると困るのですけれど、さっき西脇先生がそういうことについてよくお話し下さいましたから、私の力にかなわないことは、皆様にやっていただくことにして、私は今朝気がついたことを申し上げるだけで止めたいと思います。   詩に語ってもらう  実はお受けしたときに、自作を語る、というのは、詩自身が語ってくれればいいのであって、もし付け加えなければならないことがあるとしたら、それは詩が不出来だからに違いない。それなら自作を読めばいいじゃないか。一冊読んだら五十分くらいたつかもしれない。そんなふうにも思ったのです。それで、西脇先生のよいお話のあとで、まあアトラクションのつもり、へたな、とてもへたな、そういう感じで、詩を一つ一つ読ませていただきたいと思います。よろしゅうございましょうか。読みながら思いついたことを、その詩のあとに付け加えてゆきます。中途でそこはどうなんだ、こうなんだ、それはつまんないじゃないか、というようなことを、おっしゃって下さい。私の詩は私の語りかけ、私の方法による話し言葉ですから、どうぞお願いします。  さいわい、西脇先生が、詩はただ書けばいいんだっていうようなことおっしゃって下さいました。先ほど私が申し上げたのは、ただ書けるものではないというようなことでしたが、書けても書けなくても、ただ書くことから始めるよりほかありません。私はそれしかやってこなかった。小学生のころから、見よう見まねで書きました。それからあとは、いいたいことをどう表現したらいいか。何かを感じて書き、書いては感じ、それの繰り返しです。だから、愚かと言えば、これほど愚かなことはなく、勤めの方も朝行っては夕方帰ってくる、ということの繰り返しで、私、白痴ではないかと、このごろ本気で思ったりしています。今日の役目をはたすために三つの詩をあげておきましたので、「童謡」から入っていきたいと思います。   童謡[#「童謡」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  お父さんが死んだら  顔に白い布をかけた。  出来あがった食事の支度に  白いふきんがかけられるように。  みんなが泣くから  はあん、お父さんの味はまずいんだな  涙がこぼれるほどたまらないのだな  と、わかった。  いまにお母さんも死んだら  白い布をかけてやろう  それは僕たちが食べなければならない  三度のごはんみたいなものだ。  そこで僕が死ぬ日には  僕はもっと上手に死ぬんだ。  白い布の下の  上等な料理のように、さ。  魚や 鶏や 獣は  あんなにおいしいおいしい死にかたをする。 [#ここで字下げ終わり]   思いあまる  お聞きになって、残酷な童謡だとお思いになったかもしれませんが。私、死ぬということが物心ついたときからとてもこわかったのです。四つのときに母を亡くしてから、次の母も死んだり、妹たちが死んだり、現在私の家族は四人ですが、墓に七人いるというような。死というものがずい分つきまとってきた。そのたびに非常な思いをして、非常って言ったら大げさですけれども、私ちいさいときから、死ぬとわかっていたら人間に生まれてくるのではなかったなどと考えました。もう死ぬことがこわくてこわくて、夜もがたがたふるえて寝られないようなときもあったのです。どうして私の気持をたずねてから生んでくれなかったのかと思いました。それと同時に、死んで行く人も大変ですけど、残された人もずいぶん悲しい思いをします。それがつらくて生きている人を見ても、その人の死ぬときのことばかり考える。そういう変なくせがあって。少女のころから、電車などに乗っていても、前にずうっとならんで腰かけている人たちを、一人一人やがてお棺にはいる、そういう風景と重ね合わせてしまう。とにかく死は私にとって強烈な、今もおそろしいものです。どうせ死ぬなら、いま生きてるときもっと楽しまなければならないのに。  私はよく、実用——話がとびますけれど——実用的な詩だったらいいなどとへんなことを、このごろいうのですが。私のいう実用っていうのは、たとえば、その死を転換できる考え、死の受けとりかた、死にかたを変える方法が偶然、詩にふくまれていたらいいということです。意図して書くわけにはまいりませんが、出産に無痛分娩があるなら無痛死っていうようなことも考えられる。もしそれをさぐりあてることができたら、すばらしい発見だという風に考える。そんなことを思いつめ、思いつめていた私が、童謡をたのまれたとき書いたものです。思いあまった気持とは逆に、死というものを軽く、非常に無慙な形で表現してしまいました。その時は「えらい」という題で出しましたが、詩集に入れるとき「童謡」に直しました。   土地・家屋[#「土地・家屋」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  ひとつの場所に  一枚の紙を敷いた。  ケンリの上に家を建てた。  時は風のように吹きすぎ  地球は絶え間なく回転しつづけた。  不動産という名称はいい、 「手に入れました」  という表現も悪くない。  隣人はにっこり笑い  手の中の扉を押してはいって行った。  それっきりだった  あかるい灯がともり  夜更けて消えた。  ほんとうに不動なものが  彼らを迎え入れたのだ。  どんなに安心したことだろう。 [#ここで字下げ終わり]   言葉ひとつ  私は狭い家に住んでおりまして、自分の部屋もなくて。何が欲しい、と言われたら、自分の部屋が一つ欲しい。全くいじらしいような願いなのですが、そんなこと言うから生活詩などと言われます。目下のところ、土地も家屋も私には縁のないものです。三十五年働いていますから、退職金を借りれば、一部屋ぐらいのものは買えるかもしれない。それとは別に私は、長い間毎日仕事をしてきたけれど、あれは仕事だったろうか? がまんではなかったのだろうか、とふりかえる気持がある。がまんを重ねてきて、これからなお働かなければ得られない退職金を前借りしてまで、取りかえるだけの値打ちがあるだろうかという不満がある。すると、現在人々が土地や家屋にあれほど執着し、一生の願いのように骨折っている。その考え方をみんながいっせいに変えることができたら、世の中はもっと違った明るさ、もっと他のことに願いをこめて生きられる、そういう世の中が来るのではないか。  また話が変わりますが、いつでしたか鎌倉の古い寺で、何村の某が一町八反の土地を寄進したという札が下がっていました。それを見た時に、この人はずいぶんな物持だったかもしれないが、その人のもっていた物はみんななくなり、もしかしたら子孫の所有からも離れ、結局寄付したということだけが一枚の札となって残っているのではないか。そのことにとても強烈な印象を受けました。だから皆の一生懸命な働きと引き替える値打ちのあるのはもっと別のものでありたい。それだけの気持を他に向けて、今より私たちがしあわせになる方法はないのだろうか。そんな余計な願いをもっていると、不動産という言葉一つ耳にはいってきても、不動産とは何だろうと考え、こっけいになってきます。こんなに動いているものに不動産という名称を付けなければならない人間のあわれのようなものが身にしみてくる。そうではないでしょうか?   杖突峠[#「杖突峠」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  信州諏訪湖の近くに  遠い親類をたずねた。  久しぶりで逢った老女は病み  言葉を失い  静かに横たわっていた。  八人の子を育てた  長い歳月の起伏をみせて  そのちいさい稜線の終るところ  まるい尻のくぼみから  生き生きと湯気の立つ形を落した。  杖突峠という高みに登ると  八ヶ岳連峯が一望にひらけ  雪をまとった山が  はるかに横たわっていた。  冬が着せ更《か》えた白い襦袢の冷たさ、  衿もとにのぞく肌のあたたかさを  なぜか手は信じていた。  うぶ毛のようにホウホウと生えている裸木  谷間から湧き立つ雲。  私は二つの自然をみはらす  展望台のような場所に立たされていた。  晴天の下  鼻をつまんで大きく美しいものに耐えた。 [#ここで字下げ終わり]   不出来なまま  だいぶ苦労して書きました。これは見たままを書いた詩ですけれど、見たその場で書いた詩ではありません。ある年の冬、茅野市の親類をたずねて行きました。すると偶然おばあさんが老衰になっていて、私が行った晩から意識がもうろうとしてきた。着いた晩、嫁に助けられて排泄するところを見てしまった。それが印象に残っていて、翌日その家のむすこが、店の事務員さん二人と私を連れて雪の杖突峠へ車であがってくれました。私が東京から来たから、事務員さんへのサービスをかねて、私にも杖突峠のきれいな眺めを見せてやろう、と思ったのでしょう。同行の若い、かわいらしい女性がノートを出して熱心に詩を書いていました、そこで。どういうのが書けたかわからなかったのですが。そうしてすぐ書ける詩が私にもありますけれど、この詩の場合は手間がかかりました。病人の排泄するところを見、匂いまでかいでしまったということを一応しまっておいて。杖突峠は杖突峠で上がってみて、何という美しい、すばらしいながめだろうと思って、これもそのまましまっておいて。ふたつ並べておきましたが、うまく結びついてくれない。これが詩になったのは、一・二年たってからでした。そんな風にあたためておいたものを、何度も書き直してやっとまとめました。それも詩誌から、詩を書きなさい、と言われなかったなら、まだ詩は生まれてないと思います。出来あがったこの詩を読んでもどこかまだこなれ切っていない感じがします。不出来な詩です。ただ、興味があるかないか、私のひとりよがりで話をしてすみませんが。最初発表するとき、八人の子を育てた、ではなくて、十人の子を育てた、と書いたのです。というのは、八ヶ岳連峯と八人では、あまりにもつきすぎていると思って。実際は八人の子を生んだのですが、十人と、なおした。結局、つきすぎていても、本当の八人の方が良かったとわかって、詩集に入れるとき八人になおしました。  ミスプリントというのは、とてもいやなものですが、たった一回だけ感謝したのは、この詩の場合、「冬が着せかけた」と原稿に書いたのです。ミスプリントか、わざわざ直したのか、わかりませんが、「着せかえた」と活字になっていました。よく読んだら「着せ更えた」の方がずっと良いので頂戴しました。そういうこともあります。これで、三つの詩については終わりましたが、これでは十分か二十分で終わってしまいますので、あとずっと詩を……どうしましょう。よろしければ読み続けることにいたします。 [#改ページ]  風信  書くことがのろくて下手な私は、たまに短い文章ひとつたのまれても、卵をかかえた鳥のように、気持ちがそこに行ってしまいます。手紙の返事もひとつの卵です。ふたついっぺんにかかえる事ができません。送られてくる詩集と手紙が、私の持っている自由時間では当てきれない数になるため、たいそう無礼を働くことになります。  昼つとめに出ていて、昨年は家族に病人が相次ぎ、会社、病院、家、それから自分のアパートの一室に帰り着くと、洗濯はいつも深夜の仕事になりました。郵便物は、そんな中でさびしい私のいのちの賑いです。心待ちにしながら、寄せられるナサケの有難さに目下首がまわらない、という矛盾に悩んでいます。  この情的借財の累積で、会社ならとっくに倒産。私の信用もそれに近い状態だろうと、目をつむりました。  ある日ふと、なるほどケイエイが大事なんだな、と目をあげ、私は石垣りんではやって行けないんだ、石垣りん株式会社にして心の機構を整備し、手紙も拝啓ますますご清栄、とやらなければ現社会に対応できないのだ、と気がつきました。それにしても、こんなちいさなひとりまで、人が人でなくなってはじめて成り立つゆとりのない暮らしかたとは何だろう、と。情報の氾濫を縮図にしたような狭い部屋の、郵便物と印刷物の中で足の踏み場をえらびながらオロオロしています。  その現状を承知で、我と我が一冊をハンランに加えました。過去に出した二冊の詩集の全篇に未刊の詩を加えた、思潮社版現代詩文庫の中のナンバー46がそれです。申しわけありません。 [#改ページ]   ㈸ [#改ページ]  食扶持のこと  私がはじめて銀行に就職した時、月給は十八円。外に一日四十銭の昼食が出た。大ざっぱに計算すると食費が一カ月十二円。給料に比例してずいぶんアンバランスな弁当が出た、ということになる。  昭和九年、そのころの高等小学校二年生は数え年で十五、六歳、卒業を前にして就職難という言葉を日常語にしていた。  職業紹介所の人が学校に来て面接をしたとき、第一希望に「店員」と答えた私を、係官は「むつかしいヨ」とひとこと言って、じっと見据《みす》えた。ブアイソウな女の子だったに違いない。ふたつの銀行に振り向けてくれた。片方が採用に決まった時、もっと大きい方が試験の中途で未決定だった。ひとつ決まったら他の人の邪魔をしない方がいい、と学校の先生は言い、祖父は別の意味で「先に決まった所にしなさい」と言ったあと、付け加えた「あそこの銀行は食べ物の区別をしないから」。  どこで聞いて知っていたのだろう、といまごろ首をかしげる。  さらに、こうも言った「飼《か》われるなら大家の犬に、といいます」。そのころ飼われる、という言葉に抵抗はなかった。暮しに困らぬ家の子女が、嫁入り前の修業に、と女中奉公するのがひとつの生き方でもあった時代である。私は勤めに出た。着物にハカマに靴。これが規定の服装だった。初出勤の日に出された昼食のメニューを、今でもはっきり覚えている。ライスカレーに生玉子が乗り、別皿にえびフライとサラダ。食後にババロワとレモンティが出た。少女は感動した。であれば忘れないのである。  身分制度がはっきりしていて男女差は当然。男女間の交際さえ、行外で逢っても挨拶するなというほど、へだてられていたから、食事だけでもサベツのないのは貴重であった。  裏を返せば男性側の給料に比して釣合いのとれた食事が、事務見習生の給料にくらべると破格、ということであった。  それから徐々に、国が戦争に深入りしはじめると、何々貯蓄などということが強《し》いられ、それまでにも、昼食はもっと安くていいからお金で欲しい、といった一部の希望とも結びついて、女性の食事は男性と別種になった。いまから考えると「食べちゃったほうがよかった」のであり、食べてしまった男性より、その限りでは女のほうがお国のために少し多く貯金したことになる。  空襲、敗戦、となると給食など思いもよらず中断されたけれど。物が出はじめると銀行はいち早く昼食の支給を軌道に乗せた。以来何年になろう。とにかく私は銀行のメシを食べ続けて年をとった。あと何年かで定年もこようという昨今、出向を命じられて昼食の出ない事務所で働くことになった。そこではじめて具体的に、食う、食わせてもらう、ということをあらためて考えはじめた。  毎回自分の財布をあけ、ゼニを払って自分の選択した物を食べる。たとえばラーメン屋の腰掛けで、ほうぼうの会社の事務員さんや背広氏にまじってどんぶりを傾けながら、たとえそうしていても、どこまで自分自身で食べているか。まだ食わせてもらっている、あるいは会社がくれたゼニ、という意識から完全に脱出していないのではないか。健康な労働、という肉体のうしろのあたりに忠義のシッポをたらしているのではないか。それがいいとか、悪いとかは別として。お互いキツネの顔つきで口をとがらせて汁をすすっているのではないか。という、それこそ化かされたような幻想にとらわれたりするのである。  次の詩は、しかしそれ以前のものである。   藁[#「藁」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  午前の仕事を終え、  昼の食事に会社の大きい食堂へ行くと、  箸を取り上げるころ  きまってバックグラウンド・ミュージックが流れはじめる。  それは  はげしく訴えかけるようなものではなく、  胸をしめつける人間の悲しみ  などでは決してなく、  働く者の気持をなごませ  疲れをいやすような  給食がおいしくなるような、  そういう行きとどいた配慮から周到に選ばれた  たいそう控え目な音色なのである。  その静かな、  ゆりかごの中のような、  子守唄のようなものがゆらめき出すと  私の心はさめる。  なぜかそわそわ落ち着かなくなる。  そして  牛に音楽を聞かせるとオチチの出が良くなる、  という学者の研究発表などが  音色にまじって浮かんでくる。  最近の企業が、  人間とか  人間性とかに対する心くばりには、  得体の知れない親切さがあって  そこに足の立たない深さを感じると、  私は急にもがき出すのだ。  あのバックグラウンド・ミュージックの  やさしい波のまにまに、  溺れる  溺れる  溺れてつかむ  おおヒューマン! [#改ページ]  眠っているのは私たち  この間、知らない人から古びた一冊の小雑誌を見せられて驚きました。それは第二次世界大戦中、戦地へ送る慰問袋に入れるためにつくられた、若い女性たちの文集でした。  文集のなかに私の詩が出ていたのですが、もっと驚いたのは、扉の余白に誰かがペンで書き込んであった短い四行の詩、名前も何も書き添えてなかったのですが、それはまぎれもない、私が書いて、他の場所に発表した詩の写しでした。 [#ここから1字下げ]  ひたすらに心に守《も》りし弟の  けさ召さるるとうちひらく  この姉の掌《て》に照り透る  真珠《まだま》ひとつのいつくしさ。 [#ここで字下げ終わり]  昭和十八年七月、弟に召集令状が来たとき、私は両手をついて挨拶しました。 「おめでとうございます」  男がお国のために命を捧げて戦場に行く、それは喜ぶべきことであっても、悲しんではならない、たとえ悲しくても人前で涙を見せてはならない、名誉なこととされていました。(いまなら誰もが読むことのできる、明治時代の反戦歌、与謝野晶子「君死にたまふことなかれ」は、敗戦の日まで、私の目にふれる機会がありませんでした。)  私は最愛の弟を、そうして海軍が指定する場所に送ってまいりました。町内会の歓呼の声に送られて、です。  別れた瞬間から、弟の行方は親族のあずかり知らぬところに引き離され、何日か経った後、着て行った国民服一揃いが留守宅に送り返されてきました。私は家の二階の奥、人のこない押し入れの下段にひそんで、夏の日を泣いてすごしたのをおぼえています。  戦争は一枚の令状で、日本中の家におびただしい別れを強いたのでした。年月がたつほど、その事実がよくわかってきたような気がします。  とうぜんの義務と思ってあきらめ、耐え忍んだ戦争。住んでいた町を焼かれても、人が死んでも国のためと思い、聖戦も、神国も、鵜呑《うの》みに信じていた自分を、愚かだった、とひとこと言えば、今はあの頃より賢い、という証明になるでしょうか。私の場合ならないのです。  戦争当時と別な状況。現在直面している未経験の事柄。新しい現実にたいして、私は昔におとらずオロカであるらしいのです。  もう繰り返したくないと願いながら、繰り返さない、という自信もなく。愚か者が、自分の愚かしさにおびえながら働き、心かたむけて詩も書きます。 [#ここから1字下げ]  ………………  戦争の記憶が遠ざかるとき、  戦争がまた  私たちに近づく。  そうでなければ良い。  八月十五日。  眠っているのは私たち。  苦しみにさめているのは  あなたたち。  行かないで下さい 皆さん、どうかここに居て下さい。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](「弔詞」より) [#改ページ]  買えなかったもの  この春、小田原市の城跡、と言いたいのですが、残念ながら城は復元されてしまいました。新しい城には動物園も図書館もあります。堀をめぐらした城内のすみには、北村透谷の碑があり、その隣りに「民衆」の二字をきざんだ碑も建っています。こちらは、オットセイや象ほど人目をひく存在ではありません。民衆、のほうは、大正期にその題名の詩誌を創刊した福田正夫の記念碑で、氏は小田原に生まれました。私の詩の先生です。没後二十年たって、城内で資料展がひらかれました。  弟子たち、といっても師事した年月はマチマチですが、先生が亡くなられてから、お墓参りを一緒にするようになりました。六月二十六日が命日なので、毎年その前後の日曜日を選んで市内の久翁寺に集まります。今年は郷土文化館で行われている資料展を拝見しながらの墓参、ということで五月二十一日に小田原へ行きました。先生の書画を、並べてどっさり見たのはこの時がはじめてです。  その展覧会場で、金太郎の絵と、それに連句が添えられてある半切の前まで来た時、私は斜うしろからつぶやくように語りかける声に立ちどまりました。 「これ、僕のむすこのはじめてのお節句に、先生が下さったんです」  思わず振り返りました。 「戦争が終わったばかりで、僕は五月人形を買ってやりたいと思ってデパートへ行ったんですけど、お金が足りなくて買えなかった。がっかりして先生のお宅へ寄ったら、これを書いて下さったんです」  昭和二十一年、食べる物もろくに無い月日を思い浮かべました。戦災で家も蔵書も焼かれてしまった先生の所に、書く和紙がよくあった、と思うくらいです。 「先生が金太郎を書いて、それからご家族みんなが句を書いて下さって」 「そして?」 「そう、いただきました。その子供はいま高校の先生になっています」  彼は満足そうに笑って答え、私はあやうく涙をこぼすところでした。もしその時、たくさんお金を持っていて人形の箱包みをかかえ、まっすぐ子供の所へ帰っていたら——。この半切をさずかることはなかっただろう、と思うと、今更のように祝いをのべずにはいられませんでした。「よかったわね」  同門、などと言っては古めかしい表現になりますが、弟子同士の気やすさから、人に対してかなり遠慮の多い私が、彼にはずけずけと物をいい、それをゆるしてもらえる、と思う親しさがあるのですが。そうさせることの原因のひとつに、同じ学歴ということがなければいい、と案じます。男と女の違いはありますが、どちらも上級学校を出ておりません。高等小学校を出るとすぐ大会社に就職し、四十年前後働いてきた経歴は、会社も仕事も全く別の二人を、ことに私を気楽にさせているように思われます。  ということは、私も学歴がないための、何ともいいようのない差別を、風雨が岩にしむように骨身にしみて感じて来たからです。  彼は彼で、なにかというと口にしたがる言葉がありました「僕は小学校だけど、むすこは大学です」。そして、ウッフッフ、とうれしそうに笑います。このごろはそれに付け加えます。「学歴無用論、あれはウソです。ウッフッフ」  学歴というものの、これから先のことはわかりませんが、私に彼の心情はよくわかります。学歴の有無で、必要以上の差別や、そのための労苦、ヒケメなどが存在したために、親たちが異常に教育熱心になっている現状を、私は単純に責める気持ちになれません。けれど、同じ人間をこれほどまでに卑屈にしたり、一方で思い上がらせて来た学歴。その学歴を与えた学問の根本は何だったのでしょう。  私は彼の肩をたたきたいほどの思いで、裸で健康な金太郎に目をあて、声に出ない言葉をのみこみました。 「貧しかったから、いまこれがあるのよ」 [#改ページ]  私の新しい空   鳥[#「鳥」はゴシック体] [#地付き]川崎 洋 [#ここから1字下げ]  空は鳥を近くで飛ばしたり  遠くで飛ばしたり  けしつぶから消したり  空は鳥にそうしかしてやれなくて  我々は 「鳥が飛ぶ」  としかいいようがなくて  鳥よ  羽をまるごと外してみてくれないか  お前が空を滑れるのは  その我がもの顔加減は  羽があるから などと  そんなかんたんなことではないと  ぼくは思うのだ [#ここで字下げ終わり]  先日、デパートから送られてきた印刷物を見ていたら「詩のある室内装飾」というのがあって、びっくりしました。  それは現在の日本の生活水準ではかるとかなりぜいたくな、金のかかった調度類の見本でした。私が驚いたのは室内の豪華さではなくて、そこに「詩」があるという断定でした。  いけない、私が求めていたのは詩ではなかった。  と、ノートに書きました。つまり、そう書くことが私の詩でした。  きれいな部屋に、すわり心地のいいソファーが置かれていて、さあどうぞ、と迎え入れてくれる、そういうムードの中に詩があってもいいし、出合いがしらに水をかけられるような詩があっても、いいわけです。  私が好きなのは実用的な詩です。使いものになる詩、飾ってながめるのではなく、くらしにかかわる力を持った、働きのある詩です。  たとえば、などと言っては川崎さんに、とても申しわけないのですが。文章のゆきがかりでこんな説明をすることをおゆるしください。 「鳥」を読んだ後の私と、読む前の私とでは違いが生じました。詩の働きで、そうなりました。 [#ここから1字下げ]  お前は人生を理解してはならない  すると人生は祭りのようになる [#ここで字下げ終わり] と書いたのは、リルケでしたでしょうか。私はこの詩句を口ずさむことで、いつも人生に賑わいを感じるのですが。  これも実用の一例です。  理解することが出発の足がかりとならず、理解することで物事を、貧しく片づけてしまう。残念ながら、鳥は羽で飛ぶ、と思っていた私の目を、この詩はグイ、とぬぐってくれました。  私は机の上で厚い『川崎洋詩集』を読んだのですが、そのとき全体から受けた感銘が深く、ひとつひとつについては読み忘れたはずでした。何日かたって、出勤の道すがら東京駅前の広場で鳩が飛ぶのを見たとき、突然、あの詩だ、と気がついたのです。 [#ここから1字下げ]  お前が空を滑れるのは  その我がもの顔加減は  羽があるから などと [#ここで字下げ終わり]  そんなかんたんなことではない、という不思議が、生きて、羽ばたいているのでした。言葉のいのち、ということを感じました。  それからです。鳥を見ると「羽をまるごと外してみてくれないか」などと、無理な注文を出すようになったのは。  そうすることで私の空はさらに新しくなり、百羽の詩が夕焼けの中を遠ざかって行ったりする、美しさに立ちすくむことも多くなりました。 [#改ページ]  仕事  去年の夏、名古屋のテレビ局が企画したドキュメンタリー番組に詩を書くように言われ、スタッフと一緒になって動きまわっていたとき、若いディレクターが「月給じゃできませんね」と笑ったのが印象的でした。夜も昼もなく仕事に打ち込んでいるのを見て、私が何かいったときの答えです。彼らは四日市で�いのち�がどんな扱いを受けているか、写して見せたかったのです。  もちろん月給がなければできない。満足できる月給ではとうていない。けれど月給だけじゃ、と言えるところに来ている。もし私たちの国が前よりゆたかになったとしたら、はっきり言えるのはその部分だけのような気がしました。あとの部分は氾濫だったり、余剰だったり。  私はながいこと、月給だけのために働いてきました。繁栄の下にひろがる貧しさの深い根。地位と収入が目的で精出してきた公害企業側重役も多かろうと思います。  この二様の仕事ぶり。二つの層がどこで行き違うのでしょうか。その接点にいつかしるしをつけてみたいと思いました。  ひとつの町ひと夏の記録「あやまち」が放映されたあと、私の手もとにはなおいくつかの詩篇が残りました。   貝[#「貝」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  女の先生が  四日市の小学校にはじめて赴任した日、  海辺で貝を拾うと  子供がいいました。  先生  その貝はとても食べられないよ。  先生は  教えられることから  はじめなければなりませんでした。 [#ここで字下げ終わり]   立札[#「立札」はゴシック体] [#ここから1字下げ]     高圧ガス管がうまっています     異常があったらデンワを下さい。  人家の塀にはられた合成ゴム会社の木の札  矢印の左の方向に歩いて行ったら  遊園地がありました。  異常があるまで遊んでいてほんとうにいいのでしょうか? [#ここで字下げ終わり]   乳母車[#「乳母車」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  子供を乗せた乳母車  孫を乗せた乳母車  みんな大きくなりました。  四日市ではよく見かける  籐で編んだ底の深い  古いかたちの乳母車。  おばあさんが  誰も乗っていない  空の乳母車を押してゆきます。  最後に残された  自分の重みをはこんでゆきます。 [#ここで字下げ終わり]   ふたり[#「ふたり」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  天と地を支える 四本の柱  陽焦けした 天使の足です。 [#ここで字下げ終わり]   クサイ仕事[#「クサイ仕事」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  クサイ町で  クサイものをかがないという  ほうはない。  これはクサイ  たしかにクサイ  とてもクサイ  クサイ人間がいる  クサイ人間のしたクサイ仕事の臭いだ。  煙突を見ていても駄目だ  ほんとうにクサイのは人間だ。  クサクない仕事をする人間もいる。  ここにいないだけだ。 [#ここで字下げ終わり]   長い[#「長い」はゴシック体] [#ここから1字下げ]  四日市の  長い橋だ  長い堤防だ  長いパイプだ  長いタンク車だ  長い水平線の上の  長いタンカーの腹だ  少女があえぐ  長い夜だ  苦しみ続ける夜明けまでの長い長い道だ。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  個人の手・公の手  先日、聞きなれない声の電話がかかってきた。 「わかる?」 「?」 「…………」 「あ!」 「わかった? 私、サイトウ。思い出してくれた?」  電話線が一本の道となって、過ぎてきた長い年月をつらぬくのが、瞬間、見えるような気がした。斎藤さんはあの高等小学校の教室にいまもいて、そこから私に語りかけてきたのではないのか?  結婚して、もう斎藤ではないけれど——。その人がぐうぜん、私の詩をテレビで聞いてくれて、なつかしさのあまり電話した、という。 「思い出したわ、あなたとは机を並べていたのですもの。私はいつも爪を噛《か》むクセがあったから、銀行の就職試験を受ける前、ずいぶん心配してくれた。爪がきたなくて落されるのじゃないか、って」 「そうだったわね、それでいま、爪はどうなの?」  どうなのか、と爪の消息をきかれ、私は受話器を持たないほうの手に目を当て「相変らずよ」と声をおとした。変らないのは爪ばかりではない。あの時採用された銀行でいまなお働き続けている。  手について、私はキレイごとを書く資格がない。色は白く指はほっそりと長い、いうなれば�白魚のよう�といった表現があるが、私の手は、全部その反対の言葉で説明しなければならない。もっとも特徴的なのは、まるい指の先にしがみつくように生えている爪。どれも短く、短い上に伸びるヒマがないほど切られ、噛まれ、時にはむしられて、これ以上ちいさくなれない、という表情で並んでいる。  子供が爪を噛むのは欲求不満のあらわれだという。であるなら、私が子供のころ、少女のころを通りすぎ、成年して、あやうく老年に近付こうとする日まで、いじめつづけてきた爪というものは何であろう。  ポッと桜色に染まった、健康な爪はさくら貝などと呼ばれる。さくら貝はどこから流れ寄るのか、朝の浜辺に。するとこのぶざまな、あるときは深爪のあげく、顔を洗う水にひたした手を、指の先の痛みに思わずひっこめてしまう。私の爪は、私の心の奥から表面の渚のような場所まで打ち寄せ、打ち上げられた魂のカケラではないのか。  手による表現、という言葉をきいたとき、私がすぐ思い浮かべたのは舞踏家の手でもなく、茶人のふくささばきの手でもなかった。太平洋戦争中、息子戦死の報を受けた母親が端坐して、一滴の涙も見せず「名誉なことで」と答えた。けれどテーブルの下でハンカチを握りしめていた手がぶるぶるふるえていた、という。その手のことだった。顔というもの、表向きのものは、ときにどのような色どりでいつわることをするか。いつわることを余儀なくされるか。  私はその手を見たわけではない。けれどその手が現実に存在したことを心で確認している。かくされた場所でハンカチを握りしめた手の悲しみは、あの軍国時代の母、という者の立場を象徴していたと思う。私はその話を美談としてきかされたのである。美談とは残酷なものだ。  手による表現を、意図し、意識して、どう美しくするか、といったことは、ちょうど、話し方教室などというものに対して私が疑問を抱くのと同じように、それだけを技術的に修得してどうするのだろう、という考え方に傾いてゆく。その人その人のおのずからな表白、自然な表情、しぐさ、があればよいのではないか。手には目で見るかたちの外に、働きという大きな役割がある。あまりよく働くから、時には手ということばが、誰それの手先、などというように使われ、その際は一人の人間が他の人間の手の先にされてしまうくらいである。これは悪い冗談かも知れない。  政治の手が届く、とか、届かない辺境・階級などというふうにも使われる。血の通ったあたたかい手。出されたらつかまりたくなるような、親切な政治の手が私の前にさしのべられたことがあるだろうか? 安心と、希望に乏しい長い月日だった、とふり返って思うのは残念である。  そう考えてくると、手による表現とは、とりもなおさず行為そのものとなる。私たちの目が見なれてしまった、人間のちいさい手のイメージを、ある時は一掃してすべてのものの「手による表現」をしかと見る目をやしなう必要があるかも知れない。  こぼれ落ちる露ほどの宝石を指にはめて、目を輝かせているひまに、ふたたび戦争に巻き込まれた、などということのないように。 [#改ページ]  生活と詩  この春、私は田村俊子賞をいただいた。そのとき新聞社のインタビューに答えて「恐ろしいことです」と言ったらしい。らしい、といっては無責任だけれど覚えていない。けれど自分が言いそうなことだし、気持ちの中にそういう思いがあるのも事実だった。  賞は有難い。世間が認めて下さった証拠のようなものだし、そういうものを頂戴することで、からきし値打ちのない職場での立場も、会社では役に立たないけれど、どこかに見どころがあるのだろうか、といった反応がある。そのことは、ただそこに居るというだけで遠慮しないではいられないような、この世の中での私の居心地に少々の落ち着きと、自信を与えてくれる効力を持っていた。これほど有難いことがあろうか。昔の人が「陽の目を見る」というふうに言ったのはこのことかも知れない。 「おめでとう、よかったわね」  ふだん私の、そういう心情をながめる近さにいた友は早速電話をかけてきて、祝ってくれた。そのあとで、 「だけど、恐ろしい、って感想。あれ、おっしゃったの?」 と聞かれた。  断っておかなければならないのは、賞の対象となったのが、現代詩文庫46『石垣りん詩集』という小冊で、内容は、過去に出した詩集『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』と『表札など』の二冊、それにテレビ・ドキュメンタリー「あやまち」のために書いた一連の詩などを加えてまとめたものである。  恐ろしい、という言葉の説明をするため、いよいよ厚顔《あつかま》しいことを並べると、『表札など』を出したとき、日本現代詩人会からH氏賞をさずけられた。はじめて陽の目を見たのは、だからいまより三年ほど前といったほうがよいかも知れない。  私の詩は本の題名が示している通り、ごく日常の属目にすぎないから、よく生活といううわっぱりのようなものを着せられた。私はただ詩を書いたつもりでいるのに、作品は「生活詩」ということになる。  いつであったか、詩が私と同じような扱いを受けているらしい女性から、「生活詩、って呼ばれるの、どう思いますか」ときかれた。だいぶ不満げな口ぶりだった。そういえば男の人の書いた詩で、生活詩などと呼ばれている作品はない。 「どう思うって。仕方ないでしょう」  不満だったら、そう言われないだけのものを書くしかないから、と答えた。不親切な返事ではあったけれど、自分への答えでもあった。文句をいう筋合はない。  運動競技には種目によって、重量による区別があるらしい。詩にも重量による区別といってはなんだけれど、こちらの力量によってハンディキャップがつけられる。すると私のは生活級? とは残念である。残念なことにこの文章に与えられた仮題まで、「生活と詩」であった。  けれど、そういわれながらも認めていただいたのだからずいぶんうれしかった。詩は読まれなくてもいい、という人がいる。現在の人に理解されなくても、いつか、やがての世に読者を得ることが出来る。自分の書くものはそういう詩でありたい、といった。なるほどと思った。ほんとうに時代にさきがけ、未来を先取りした詩は難解であったり、理解されない運命におかれたりするだろう。  私はそれだけの自信と見通しを持っていない。それこそ毎日の暮しの中で、自分にわからないものをわかろうとし、見えないものをみつけ出そうとし、身のまわりがもう少しなんとかならないかと工夫し、その段階で、それをひとに語りかけることに骨を折る。いきおい私の詩は、働いている者の立場、家庭での立場、学問らしい学問も修得していない者の立場で書くことになる。内容はゆたかさに欠けていて、日本の「生活」という言葉が持つイメージ、貧しい印象と重ね合わせるとピッタリするらしい。ピッタリしたころあいではじめての賞をいただいた。ところがその辺から実生活の方に狂いが生じて来た。  世間は親切だった。新聞は記事にしてくれ、写真と一緒に紹介してくれる。それをみて周囲の人は、新聞の値打ちによって私の値打ちを推し量ってくれる。喜んでくれる。祝ってくれる。知っている人、知らない人からの手紙がいっぺんに来る。お盆とお正月と。したことのない結婚式とお葬式が全部きてしまったほどにぎやかになった。ほんとに何という晴れがましさだろう。いままでたのまれたこともない所から原稿をたのまれる。少しではあっても私には充分すぎる仕事が生じる。昼の職場を休むわけにはゆかない。働いたり、身辺の雑事をすませたりした残りの、ひとにぎりの時間に、からっぽの頭脳をさかさにするような恰好《かつこう》で約束を果す。そうしているまに個人的なつきあいがすっかりおろそかになってしまった。三年前にもらった手紙の束と、送られたたくさんの本を前に、私はそれらに代って自分を責める。「ひとつひとつ答えられないのは誠意がないのだ」「今にお前など誰もふり向かなくなるだろう」。  どうしていいか、途方にくれているところへ、田村俊子賞を下さるという。恐ろしい、と言ったのは我が身のほど。積み重ねた所業にほかならない。  私は私の詩から「生活」というかさぶたが、自然にはがれ落ちてくれることを願っていた。けれど、人とのかかわり合いをなおざりにした暮しかたの中から、何が生み出せるだろうと考えるとき、みょうな心配をしはじめていた。生活詩から生活がはがれ落ちたら、ただの詩になってしまう! [#改ページ]  犯された空の下で       一九七二年七月二十四日、四日市裁判判決の日に  この場合、勝つ、ということは何をさすのだろう。大方の予想は前日までに出そろっていた。どこに出ていたか、といえば新聞等の論調であり、そこまで世論を押上げたのは、個々人の苦しみであり、目をさました集団であり、マス・コミュニケーションの力添えであった。事実があって、だれもが何のしわざかわかっていることの是非が決着を見るまでに、なんというたくさんの努力を要したことだろう。  もしこれだけのにがい滴《しずく》、人々の心のより集りが力として働かなかったとしたら——こんどの判決さえ、どう出たか知れたものではない、と考えるのは疑い深い私情にすぎないだろうか? 発表になる寸前まで、なお一抹《いちまつ》の不安が残されていた。  判決の直後、勝利のたれ幕が裁判所の建物の上の方からつり下げられ、前夜のあらし模様がまだそこここの水たまりとなって残されている前庭に、集った大勢の中からいっせいに拍手がわき上がり、祝・大漁の旗もかかげられたけれど。こうしてごく当り前と思われる判決の前に大喜びしなければならないのが、私たち庶民と呼ばれているものの、現在置かれた立場なのであろうか。無念ながらいつもそうだったことを思い返した。富山でも、新潟でも。もっとも悲しむべきことさえ、私たちは泣いて喜ばねばならなかったのである。  私がはじめて四日市を訪れたのは、東海テレビのドキュメンタリー「あやまち」のサブ・タイトルを借りるなら、一九七〇年夏、ということになる。その制作メンバーに加えられ、詩を書くためであった。住民でない者がいきなり行って、何を言う資格があろう、としりごみした。遠慮は無用である、といわれた。はじめて見る者の目で実際をとらえるのです、と言われた。どれだけとらえ得たかわからない。炎天下シャツ一枚で取材に歩くスタッフに私は同行することになった。  はじめて見る四日市をどう思うか、と聞かれたとき、言うことをはばかったのを覚えている。実は墓地に見えたのである。盛んに火と煙を吐き出し、林立する大煙突の紅白ダンダラじまが、経済成長の宴を取巻く祝儀の席を思わせる。であるのに近付いてみると、へんに人気の乏しい工場群。夜になるとフレアスタックのほのおが一段と色を増し、海岸べりに広く長く陣を敷いたコンビナートのありかを示して、妖怪じみた息を吐き続けていた。そして、工場施設にぎっしりともされた電気、これは美しかった。その万灯は鈴鹿川にうつって流れた。私は勲章だと思った。くらやみの中にひとつの顔を見よう、と思った。幅広いコンビナートの胸に輝く栄光。その勲章をつけて立つ紳士の顔を、よくよく見なければならないと思った。企業の顔であり、国家と呼んでもよい、その方針と非情をみる思いがした。  そんな言い方はしたくない。したくなくても、ではなぜ、汚れきった空の下で、多くの居住民が健康をむしばまれ、生活の場を不当に犯されて苦しむ側に味方してくれなかったのだろう。長い間、とつけ加える。もしかしたらこれから先も、とつけ加える。  鈴鹿川ひとつへだてた磯津の町は対照的だった。近代設備をととのえたコンビナートの真向いに、昔ながらの家並み、かどをまがれば干魚のにおう黒い町。なぜか屋根も壁面も黒い印象だった。一軒一軒見てゆくと、そこには海が与えたつつましい暮しの安定とゆたかさが軒端にかげる、長い月日を宿していた。が、ちょっと顔をあげれば、その真上には、どこからでも目にはいるのが、ボワッボワッと無気味に燃え続けるフレアスタックのオレンジ色の炎であり、色とりどりの煙であり、うっとうしい空の重たさであった。それだけならがまんもしよう。問題は異臭、悪臭であった。そのにおいにこもる毒性であった。その上、と言いたい。その毒性がうんぬんされ出したとき企業は何をしたか。毒性をそのままにして、臭いと色の方を消すことをした、と町の声はいった。  塩浜の氷屋さんに腰をおろすと、店の向うに大工場の門があり、見上げる煙突の胴が立ちふさがっていた。ふと「私も認定患者なんです」とその店の四十がらみの奥さんが言い、立って行って一通の手紙を私に渡してよこした。ひらくと、大気汚染関係認定疾患者殿という四日市市衛生部長からの刷物だった。個人名をあて名としていちいち書く手間をはぶかなければならない数の患者があってのことだろう。なんでもないことのようにその婦人はつけ加えた。「病院へネ、八日行くと月二千円くれる。七日ではダメ」。言葉は少なかった。たった二千円。ぜんそくに苦しむ人に渡す金が七日と八日の境で分けられることにいきどおりを覚えた。当の婦人の顔に怒りのないのが逆に印象深かった。  いちにち、私は小学校でひらかれた三泗《さんし》母親大会に行った。渡されたパンフレットの表に「生命をうみだす母親は生命を育て生命を守ることをのぞみます」と印刷してあった。公害分科会に出席する。窓から吹込むそよ風の恐怖。ここでは教育ママになりたくても、なりようのない母親たちが、どうしたらわが子のぜんそくをなおせるか、と涙をため、訴え、相談している、せっぱつまった談合なのであった。 「真夜中に、起き出して、親にもかくれるようにして、タンスのとってにしがみついて、あえぎはじめるんです。三年生の女の子が」。由々《ゆゆ》しきことである。「こんなに苦しいなら死んだ方がいい。オカダヤの屋上から飛降りたら死ねるん」と言うんです。母親は絶句した。その長い夜を、なぜ無力な母子だけにおしつけておくのか。  首をつった認定患者の、とざされた格子戸の奥のくらがりものぞき見た。そこの古びた二十軒の長屋は自殺者の家を除いて全部ふさがっていたが、すぐ隣に建つ、企業の一戸建社宅はみんな空家になって、板でくぎ付けされていた。私は板の割れ目をくぐりぬけ、夾竹桃《きようちくとう》の咲いている庭に立った。大気汚染に対して、それほど身に覚えがないなら、なぜこれほどの被害、使える家屋を全部放置する損害に目をつむっているのだろう。荒れた庭は、白日の下にひろげられた一枚の加害証明書でもあった。  人家の塀にはられた木札には、 [#ここから2字下げ] 高圧ガス管がうまっています 異常があったらデンワを下さい [#ここで字下げ終わり] と書いてあった。裏返せば、ここには異常が起る可能性が埋まっています、と断られているのと違うだろうか。異常が起ってからで間に合いますか、と聞きたかった。  大気汚染関係と市がはっきりいう、その責任をとるまいとする企業集団というもの、その正体との対決。勝ったからといって海も空も、もとへ戻るだろうか。勝っても死んだ人たちは帰らない。菜の花咲く海辺の町も帰らない。  ちいさい屋根の下で、ひとりひとり、どれほどのつらさを、がまんを、強いられて生きているか。あげればきりがない。ただひと夏、会社勤めの合間を縫って通った四日市が、もひとつのふるさとのようになつかしく、身につまされて思われるのは、山河はいざ知らず、名もなくとは言いたくない、ひとりひとり名を持ちながら、その名もいのちも、ひっくるめたぞんざいさで扱われてきた民の悲しみをここにもみる、そのふるさとへの哀切である。 [#改ページ]  文庫版あとがき  年に何度か、東京駅北口を丸の内側に出て、宮城の方角に歩いて行きます。私が少女期就職して五十五歳で定年退職した、銀行を訪れる用事があって。  その途中のビルディング入口に、地下一階喫茶店の案内が出ています。  あそこだった、と今も新しいことのように思います。散文集を出しましょうという、私にとってはじめての話が待っていてくれたのは。  ユーモアの鎖国は、北洋社櫛野義明さんの手でまとめられ、一九七三年二月発行になりました。  その後、講談社から再刊されたのが一九八一年五月、以来絶版になっていました。  こんどちくま文庫に入れられると決まったとき、しあわせな本だと思いました。またどなたかに読んでいただける機会に恵まれて。  考えてみると、本の題名にもした「ユーモアの鎖国」一篇は、筑摩書房から出版されていた「展望」に掲載されたものです。本にもえにしがあるのでしょうか。  今回頁数の関係で、戦前の創作二篇削除。「待つ」が巻頭に並び替えられたことを付記します。   一九八七年一〇月 [#地付き]石垣 りん 石垣りん(いしがき・りん) 一九二〇年、東京生れ。高等小学校卒業後、日本興業銀行に就職し、七五年退職。社会と生活を見据えた詩風で注目され、戦後の代表的な女流詩人として高く評価された。二〇〇四年歿。詩集に『私の前にある鍋とお釜と燃える火と』『表札など』(H氏賞)『石垣りん詩集』(田村俊子賞)『略歴』『やさしい言葉』、散文集に『焔に手をかざして』『夜の太鼓』などがある。 本作品は一九七三年二月、北洋社より刊行され、一九八一年五月、講談社より刊行された後、一九八七年十二月、ちくま文庫に収録された。