[#表紙(表紙.jpg)] 陽のあたる坂道 石坂洋次郎 目 次  田代家の人々  新しい隣人  父と子  「オクラホマ」で  犬小屋と野球場  正月風景  約束  そよぐ葦  たたかい  あいよる魂  取引き  波紋  ダブル・プレイ  曇後晴れ  わが道を [#改ページ]  [#2字下げ]田代家の人々  九月の末の日曜日だった。  空がうす青くカラリと晴れわたって、じっと眺めていると、身体ごと吸い上げられていきそうな気がするほど、底知れない深さを湛《たた》えている。  太陽は朝から照り続けていたが、いい工合に微風がときどき吹いたりして、凌《しの》ぎがたいというほどでもない。  もう、おおかた正午ちかい時刻である。  そのころ、O大学の国文科の三年生である倉本たか子は、緑ヶ丘のしずかな住宅街を歩いていた。自由ヶ丘の駅で下りていく道は、どこもゆるい上り坂の道になっており、南面しているので、その坂道にはいっぱい陽があたっていた。  両側には、大きな邸宅が並び、ヒバやサツキやジンチョウゲなど、垣に植えられた樹々の緑が、目に沁《し》みるように美しかった。将来、家庭をもち、子供を生み、年齢にして四十か五十になるころには、自分もこの程度の家に住むようになりたいものだ──。たか子は、そんな思いで、両側の家を、一つ一つ念入りに眺めながら、明るい坂道を上っていった。  白いブラウスに紺色のスカート。赤いペチャンコな靴。ストローの夏帽子。それで、右手に赤い色のカバンを下げて、手も足も外側にひらくようにして歩いていくたか子の様子には、男の子のようなにおいが溢《あふ》れていた。  四つ辻《つじ》にくると、たか子は、左の掌ににぎった、案内図を描いた小さな紙きれを開いてのぞきこんだ。ここから右に曲って、二つ目の右側の家が、目ざす田代家の邸宅だ。坂を上りつめた所になっているから、見晴しのいい家にちがいない。  が、二つ目の角まで来たたか子は、なにかアテが外れたような気がした。というのは、田代家が、見晴しのきく南側をのぞいて、三方、大谷石《おおやいし》の高い石塀をめぐらしていたからだった。 (なんだってこんな冷く厚い石塀を築くのだろう。緑の垣根をめぐらした方が、ずっと柔かい感じが出るだろうに……)  四角な石の門柱には「田代玉吉」と記した、大きな陶器の標札が出ていた。小砂利を敷いた道が、植込みをめぐって奥ふかく通じており、そのさきに、褐色の煉瓦《れんが》をはった大きな二階建の家が聳《そび》えている。それが陽をさえぎっているので、こちら側は、うす暗くひえびえとしている。  たか子は、石塀や家の建て方などから、冷く威圧されるような感じを受けたが、髪にちょっと手をやって身じまいを正すと、思いきって小砂利の道に踏み出した。  植込みをまわると、右手の枝折戸《しおりど》が開いて、粗末な経木の帽子をあみだにかぶり、アンダーシャツ一枚にカーキ色のズボンを穿《は》いた青年が、庭下駄をつっかけて出て来た。ズボンにも腕にも、油絵具らしい色がくっついており、足の親指には、汚れた繃帯《ほうたい》を巻いている。  たか子は、あいまいに頭を下げた。青年は、それに応《こた》えるでもなく、むずかしい表情で、たか子をジロジロ眺めまわしたあげく、 「きみに云うけどね、その鞄《かばん》の中に、電球やゴム紐《ひも》が入ってるんだったら、勝手口からまわらないと、ここの奥さんに怒られるぜ」  そう云って、弾《はじ》けるように笑い出した。 「私、押し売りではございません」  たか子は、あまり突然に云われたので、腹を立てる気力もわかず、口の中でつぶやくように云った。  青年は、またむずかしい顔をして、少しずつ身体を動かしながら、試すようにたか子を眺めて、 「押し売りだってわるいことはないさ。……押し売りをさせる社会の制度がわるいんだ。政治の貧困さ。ハハハ……。それは僕の兄貴の云い方だ。兄貴はヒューマニストなんだ。……僕はそんなキザなことは云わないよ。押し売りは追っ払うだけさ……」  そう云いながら、青年はアンダーシャツをまくりあげ、胸から腹のあたりをひろく現わして、そこを爪でボリボリと掻《か》いた。たか子は思わず目をそむけた。 (この人は精神薄弱者ではないのかしらん……) 「私、O大学の学生で、倉本たか子と申します。こちらで高校生のお嬢さんの家庭教師を求めていらっしゃるというので、それに応募しましたら、山川学生主事から、今日こちらにお伺いしてみるようにと云われて参ったんですけど……」 「ふん。そんなことぐらい、君を一と目見た時からちゃんと分っていたよ。……ふん、山川の小父《おじ》ちゃんが、君を選んだんだね?」 「山川の小父ちゃんって……山川主事は、こちらとお知り合いなんでしょうか?」  学校の庶務室で、山川主事と話した時、主事は、田代家のことに就いて、知り合いらしい口吻《くちぶり》は少しも洩《も》らさなかった筈《はず》だ。 「ああ、知り合いですよ。……複雑きわまる知り合いだけどね。ところで、君は、君よりも学課の成績がいい人も応募したはずなのに、どうして山川の小父さんが、君を選んだのか、知ってますか──?」  青年は、言葉づかいをていねいにしたり、ぞんざいにしたりしながら、上からたか子をのぞきこむようにして尋ねた。 「私、存じませんけど……」と、たか子は赤くなって答えた。  応募者の中には、上級生の秀才や、同級生で自分より成績のいい者もおり、まず、自分には機会がないものと半ばあきらめていただけに、たか子は、どうして自分が第一の候補者に選ばれたのか、不審に思っていたところだったからである。  青年は、人をからかうような微笑を浮べて、呼吸のにおいが感じられるぐらい、たか子の身体に近づいて、 「……うちではね、成績も人物も健康状態もよくて……とうたった上に、もう一つの条件をつけたんだよ……」 「……なんでしょうか?」と、たか子はどういうわけか、それに触れてはいけないのだと感じながらも、反射的に聞き返してしまった。 「それはね、美人だという条件さ」と、青年は吐きすてるように云って、また「ハハハ……」と無遠慮に笑い出した。  たか子は、「美人だ」という言葉に「ドロボウ」だと云われたような、冷いショックを感じさせられ、 「まあ。そんなこと……」と、まっかになって口ごもった。 「君のせいじゃないですよ。第一、クリスチャンで、あの年になるまで結婚したこともない山川の小父さんに、どういうのが美人か、分るわけがないと思うんだがな。……彼はたぶん、マリヤ様に似たのが、一ばんの美人だと思ってるんでしょうよ。……気にすることはないと思うな……」と、青年は慰さめるように云った。  とぼけてるようでもあり、真面目なようでもあり、たか子は、青年の心理をつかみかねて、相手の顔をうっかりした気持で眺めていた。  陽やけした、個性の匂いの強い、精力的な顔立だ。赤茶けた髪をG・I刈りにしており、どういうわけか、その髪にも油絵具がくっついている。少し飛び出た、光の強い、丸い目。カッチリと刻まれた鼻柱。うすい大きな耳。厚い唇。虫が匍《は》ってるような、ひん曲った、濃い眉毛《まゆげ》。──そのどれもが、ほかのものとの釣合いを考えずに、単独に、無遠慮につくられたもののような、少しあくどい感じを与えるが、それでいて、額が狭く、顎《あご》がキッチリと引きしまった輪廓《りんかく》の中に、不思議な調和を保っておさまっているのだ。  一と目みて、気むずかしく、ふてぶてしい感じの顔立ちが、思いがけない時にふっと笑い出すと、まるで別人のような優しい表情になる。赤ぐろい、スベスベした頬に、丸いエクボが刻まれ、目が消えてしまいそうに細くなる。そういう時の顔を見ると、この青年の並はずれて不作法なことも、つい許してやりたくなる。  ──たか子には、この青年が、常人なのか、少しばかり精神異常者なのか、まだ判断がつきかねていた。一ばん困ることは、青年が、ときどきシャツをまくり上げては横腹や胸のあたりをボリボリ掻くことだ。しかも、掻いている間、動物がするように心地よさそうな表情を、むき出しに浮べるので、たか子はひどく惨めな気持にさせられて、そのたびに、ぎごちなく目をそむけてしまうのだ。彼女にイヤな思いをさせるために、わざとやってるのだとしか思われない……。  半分開いている枝折戸の内側から、グレートデンらしい、大きな犬がのそのそと出て来た。そして、二人の傍に近づき、たか子のにおいをかぎまわった。  犬に馴《な》れないたか子が、少しずつ後しざると、青年は止めようともせず、犬が自分の足もとにうずくまるまで黙って見ていた。  それから、何か思いついたようにニコニコ笑い出し、人差指を一本だけ立てた右手を、たか子の顔の前あたりに置いて、二、三歩ずつ、往《い》ったり来たりしはじめた。 「君もう家の中に入っていいんですよ。……僕のテストはすんじゃったから……。ところで、僕はこの家の訪問者に対して、一つの憲法のようなものつくってるんだけど、君、その憲法に賛成してくれるといいんだがな……」 「憲法って、なんでございましょう? ……」  たか子は、怪我でもしたらしく、赤チンを塗った、青年の人差指に目をやりながら尋ねた。気がつくと、自分までが微笑していたので、あわてて固苦しい表情をつくった。 「僕の憲法って、きわめて簡単なもんだよ。……家へ訪ねてくる若い女の人の身体に、ちょっとばかり触らせてもらうことなんだよ。わけないやね。……僕の憲法、適用してもいいかね」  青年は、赤チンを塗った人差指で、鼻の先きあたりを狙うようにして、たか子の身体のまわりを、ゆっくりと歩き出した。 「そんな憲法……認めるわけにはいきませんけど……」  と、呆気《あつけ》にとられたたか子は、青年が動くにつれて、自分も身体をねじまわした。  たか子が車の軸だと、青年は外側の輪のような動き方をしているわけだ。  だが、たか子の拒否にもかかわらず、青年の丸い指先きが、いまにも、おでこか頬《ほつ》ぺたか首筋の所に吸いついて来そうで、その予感だけでも、たか子の柔かい皮膚は、ムズムズとした反応を覚えた。  なんだか、子供にかえって、二人で少しばかりおどけた遊戯をやっているような気もした。そして、(指先きでおでこをつっつかれるぐらいは、この精神薄弱者のために我慢してやってもいいわ)と、思ったりした。  青年は、相手のそうした微《かす》かな心の動きを見抜きでもしたように、半歩近づいて、指先きをスーッとたか子の顎の所に伸べてよこした。 (顎だったのだわ)と思っていると、丸い指先きは、そこから急降下して、たか子の丸く肉づいた胸を、うすいブラウスの上から、強くボクンと押しつけた。そして、二、三歩飛びのくと、 「憲法だよ。……ぼくの憲法だよ。ハハハハ……」と、また弾《はじ》けるように笑い出した。  たか子は不意のショックで、まっ青になった。 「何をなさるんです! 失礼ですわ! ……私もう帰りますから……」  たか子は、目頭が熱く曇るのを意識しながら、門の方に引っ返した。すると、青年は、小砂利を蹴《け》ちらすような馳《か》け方をして、たか子の前にまわり、両手をひろげて通せんぼうをした。 「君……君……。そんなことぐらいで怒ってはだめだよ。人生にはもっとつらいことが沢山あって、僕だって、そういうつらいことを堪え忍んでいるんだぜ。ほんとだよ。……よかったら、僕の頬ぺたを引っぱたいてもいいから、帰るのはよし給え。おセンチな女学生のようで見っともないぜ……」  青年が、いきいきと表情を踊らせてそう云うと、人生がいろんな苦労に満たされたものであることが、一つの実感として、たか子の胸に沁《し》みてくるような気がした。不思議なことだった。  たか子の目は、殴れと云われた青年の頬に牽《ひ》かれた。陽やけして、スベスベと引きしまっているその皮膚の裏側には、あの深いエクボが隠れているのだ。 (ピシャリ!)という打撃の音を、たか子は胸の中で聞いたような気がした。外国映画で見た、女が男を殴る、どれかの場面を思い出していたのであろう……。  その時、後の高い所から声が聞えた。 「おーい、信次。どうしたんだね? ……お客さんはどなたなんだね?」  思わず後をふりむくと、二階の小さな窓があいていて、そこから、長身の青年が身体をのり出し、こちらの方を見下していた。北向きの濃い影の中に、白い開襟シャツが鮮やかに浮き上って見える。  信次と呼ばれた不作法な青年は、上眼づかいにチラリと二階を見上げ、 「あれは兄貴だよ。……兄貴は僕とちがって、たいへんな紳士だよ。……進歩主義者さ……」と、小声でたか子にささやきかけ、それから二階の窓に向って大きな声で、「この人はね……。くみ子の家庭教師の志望者なんだよ」 「ああ、それじゃあ、山川さんが推薦してよこした倉本さんだ。……倉本たか子さんでしたね……」  二階の青年が、柔かいバリトンで、直接、たか子に話しかけた。たか子は、上を向いて大きく頷《うなず》いた。興奮したあとなので、すぐには声が出なかったのである。  信次は、二階の窓とたか子をかわるがわる眺めて、ニヤニヤしながら、 「倉本さんひどく怒りっぽいんだよ。……僕がちょっとばかりからかったら、プリプリ怒って、帰ってしまうというんだよ。……」 「だめだよ、お前。初対面の人をからかったりしては……。倉本さん、すみません。すぐそこに参りますから……」  白い開襟シャツの上体が、奥へ引っこんで、ガラス戸が下された。  信次は、たか子の上に屈《かが》みこむようにして、 「兄貴は……立派だよ。僕と兄貴と並ぶと、見劣りがするので、成《な》る可《べ》くいっしょにならないようにしているんだ。……君はきっと兄貴の気に入りますよ。……それに、兄貴は僕みたいに無邪気な憲法をつくってないから、君、安心してもいいぜ……」  そう云うと、信次は、またシャツをめくり、横腹のあたりをボリボリ掻《か》きながら、グレートデンをつれて、枝折戸《しおりど》から庭の中に入っていった。  入れちがいのように、玄関のとびらが開いて、ねずみ色のズボンに白い開襟シャツをつけた青年がこだわりのない微笑を湛《たた》えて、スリッパーのまま、小砂利の道に踏み出して来た。 「僕は信次の兄で、雄吉というんです。弟が何か失礼なことを申し上げたそうで……。すみません。彼奴《あいつ》は、人間は善良なんですが、変り者で、わざと人がイヤがるようなことを云ったりしたりすることがあるんです。心持は決してわるくないんですが……。お気にさわりましたらごめんなさい」 「いいえ、べつに……」と、たか子は赤くなって、言葉を濁した。  たか子が赤くなったのは、いままで、こんなイヤ味のない、整った顔立の美青年を見たことがないと感じたからだった。  この人が、あの団子っ鼻の信次と兄弟だなんて信じられないことだし、この人の前で、信次がどんな失礼なことをしたかを説明することは、舌を引っこ抜かれたって、たか子には出来ないことだったのである。 「さあ、どうぞお入り下さい。母も妹も、貴女《あなた》を待っていたところですから……」  雄吉と名のる青年は、まるで抱えこむようにして、たか子を玄関に案内した。  天井の高い、ガッチリしたつくりの家だった。そのせいか、くつぬぎの上に揃えられた、たか子の赤いペチャンコの靴が、ことのほか貧弱なものに見えた。 「こちらへどうぞ……」と云ってから、雄吉は、声の調子を一段と落して、 「母と妹は、どうかすると、物の云い方がぶっきら棒なことがありますから、気にかけないで下さい。くせなんですから……」  たか子が通されたのは、南側に明るく展望がひらけた、ひろい洋風の居間だった。夏向きの涼しげな家具がうまく配置され、書棚の上で、扇風器がかすかな唸《うな》りをあげている。  室のまん中の客用の低いテーブルを前にして、親子らしい二人の女が立っており、入ってくるたか子に注目していた。  一人は、かすりの塩沢お召の単衣《ひとえ》を着た、五十年配の、背の高い堂々とした恰幅《かつぷく》の人で、肌が牛乳のように白く艶《つや》があり、目も鼻も口もおおがらで、役者絵のようにアクセント(調子)の強い顔立だった。若いころは、すばらしい美人だったろうと思われる。  もう一人は、よく伸びた身体に、油絵趣味の花模様のあるワンピースをピッタリ着こなした、十七、八歳の娘で、母親に似て目が大きく、美しいが感情の烈しそうな顔立ちだった。 「倉本たか子さんだよ。……母と妹のくみ子です」と、雄吉が紹介した。 「ようこそ。私、田代玉吉の家内で、みどりと申します。よろしく……くみ子も御挨拶《ごあいさつ》なさい」と、母親は幅のひろい、押しのきく声で云った。  娘のくみ子は、半ばはにかんでるような、半ば探るような目つきで、たか子の方をジロリと眺めて、何かぶっつけるような調子で、 「田代くみ子です。……先生、私、いまに歩くと分りますが、少しびっこをひいています。だから、ひねくれやすいかも知れませんけど、お気になさらないで下さい。でも、先生、私の前で、足のわるい人の話をしてもへっちゃらですわ。私は現実にあることを認めることにしているんですから……」 「まあ……」と、たか子は挨拶も忘れて、思わず、ワンピースの裾《すそ》から伸びたくみ子の足に目を牽かれた。わるい! と気がついた時はもう遅かった。  くみ子は、そうしたたか子のまごついた表情を、意地わるそうに見つめていた。 「たいへんなエチケットだな。……こいつは、自分が一ばん気にかかっていることを、向う見ずに、一ばん先きに口に出してしまう人間なんです。そうだな、くみ子……」と、雄吉は、出ばなをくじかれた形のたか子をとりなすように、わきから口を出した。 「それがですね、貴女。子供のころ遊んでいて怪我をしましてね。びっこを曳くったって、ほんの少しで、注意してみないとわからないぐらいですわ。……まあ、どうぞお坐《すわ》り下さい」と、母親のみどりも口を添えた。 「失礼します……」  たか子は、なにか落ちつかない気持で、低い肱掛《ひじかけ》椅子に腰を下した。しずかにしたつもりだったが、予想外に座席のバネが柔かく深く、たか子の身体は、二、三度宙にもち上げられた。 「あら」と呟《つぶや》いて、たか子は肱掛にすがった。  くみ子はそれをみて、大きな声で笑い出した。 「いけませんよ、くみ子。……あら、あら、だれがその椅子をもち出したんでしょう。カバーがあるから分らなかったわ。先生、その椅子は外国製なんですけど、スプリングが強くて、知らずに腰かけると、たいてい踊らせられてしまうんですよ。だから、お客さんには使わないことにしてたんですけどねえ……」 「信次兄さんが、考え出したのよ。今度くるお前の先生、最初にあの椅子に坐らせてやんなって……そして、私もそれに賛成したの。……先生、ごめんなさい」  くみ子の云い方が率直なので、たか子は苦笑して頷くしかなかった。殊に、発起人が精神薄弱者(?)の信次とあっては、まともに腹を立てるわけにもいかなかった。それにしても、かりにここで仕事が決ったにしても、それをやり抜くには相当な覚悟が必要だと思わされた。 (決ったら、私、やってやるわ!)と、たか子は、胸の中で、北国人らしい、ねばりのあるファイトをたかぶらせた。 「まったく仕様がないなあ。……ね倉本さん。信次やくみ子には、人に対する好意を、その人を困らせることで現わすという、わるいくせがあるんですよ」と、隣の椅子の肱掛に腰を下した雄吉が云った。  たか子は、雄吉に話しかけられると、顔がほてり出すようで困った。 「私のお友だちにも、そういうタイプの人がございますわ」 「フン、兄さんたら、いつでも解説派なのね。自分の意見ってない……」と、くみ子が、たか子に聞かせるような調子で云った。 「ナマ云うな。……お前にもう少し親切心があればだな、先生に足が悪いことをお話する時に、でも学校では、水泳の四百米の選手をしてますって、つけ加えるべきだ。そうすれば、倉本さんも、もっと楽な気持でお前の話がきけようというものだ……」 「それから、うちでは、足のわるい私のために、お嫁入りの時の莫大《ばくだい》な持参金も準備していてくれるってことやなどもね……」 「くみ子、なんです。はじめてお会いする方の前で──。第一、うちにはそんな財産なんてありませんよ」と、みどり夫人がたしなめた。  くみ子はひるまず、大きな目を光らせて、 「私、でも、持参金は欲しいわ。……私が嫁入りするころになると、雄吉兄さんが、欲ふかい大人になっていて、私の持参金に猛烈に反対しそうで、心配なんだけど……」 「ハハハ……。呆《あき》れかえった奴だな。いいよ、うちの財産をみんな持っていきな。ハハハ……」  そういう雄吉の笑い声には、空っぽな誇張のようなものがかすかに感じられた。  そこへ、中年の女中が顔を出して、 「奥様、お食事の仕度が出来ましてございます……」と云った。 「ああ、そう。……倉本さん、じつは今日、お昼をいっしょにいただきながら、おたがいにいろいろの話しし合いましょうと思ってたんですよ。特別な料理は何もつくりません。ふだんのうちのお昼の献立なんですけど、御いっしょにどうぞ。……くみ子。倉本さんがお手を洗うでしょうから、洗面所へおつれしなさい。それから食堂へ御案内してね……」  みどり夫人にいわれて、くみ子は、北側の出入口から、タイル張りのひんやりした洗面所に、たか子を連れていった。その帰り、長い廊下を歩いてる時、たか子は、さきにたっているくみ子の、ほんの少しばかりびっこをひいている右足に、思わず目を牽《ひ》きつけられた。と、くみ子は、背中に目があるもののように、サッと後をふり向いて、 「はじめて会う人は、みんな私の足を見ますわ。先生もう二度目ですのね。私は馴《な》れてるから平気ですけど……」 「すみません」と、たか子は赤くなって詫《わ》びた。  居間の並びの一ばん端《はず》れが、食堂になっていた。南と東に窓が開いた明るい室で、モダンなさっぱりした家具類が並んでいる。  いくらか落ちついたたか子は、ここに来て、はじめて室の前の景色を眺める余裕をもったのだが、居間の前には、鉄平石のヴェランダが出ており、ひろい庭はいちめんに芝がしきつめられている。それをふちどって、花壇がつくられ、誰の趣味か、バラが色とりどりに咲き乱れていた。庭の両端には、大きな樹木が植わっているが、正面はひろく開いており、そこから、日光を浴びた街の展望が遠くまで見はらされた。  花壇の前に画架を据えて、バラの花の写生をしているらしい信次の後姿が、建物の角からチラとのぞかれた。のんきそうな口笛が聞えている。  食卓では、みどり夫人が主人の座につき、右側にたか子とくみ子、左側に雄吉と信次の席がつくられてあった。 「信次兄さん。お食事よ。ママが早くいらっしゃいって……。お客さんも御いっしょですから……」と、くみ子が、窓から庭の方に呼びかけた。 「俺はあとで食べるよ。……ママが、食卓では上衣《うわぎ》を着なさいって云うだろう。俺、暑いからイヤなんだ。裸でいたいんだ。食事はあとで、犬といっしょにする……」と答える、しゃがれたような信次の声が聞えた。 「手だけ洗えば、上衣はつけなくてもいいから、来いよ。お前だけ来ないの、お客さんに失礼だからな」と、今度は雄吉がよびかけた。 「うん行くよ」  そういう返事があって間もなく、北側の入口から、信次がテレたような微笑を浮べて入って来た。手と顔を洗ったらしく、どちらにも水気が残っており、いまごろ濡《ぬ》れた両手をしきりにズボンにこすりつけている。  たか子は、無視するように、固い表情をつくっていた。さっきの不快な感覚が、また、胸の柔かい皮膚のあたりに蘇《よみが》えってくるような気がした。  信次は自分の席に近づいたが、腰かけようとはせず、 「ママ。僕ははしっこの方で、一人で食べるよ。若い女の人の前に、兄貴と並んで坐るのは、みすみす損だからね」  そう云って、裸の腕で、自分の食器類を、テーブルの端の方にかき寄せて、そこに坐った。 「おい。食事をまずくするようなことを云うなよ。俺は侮辱されているような気がするぞ……」と、雄吉が微笑を浮べながら云った。しかし、本気な調子も感じられないではなかった。 「信次は好きなようにおし。……さあ、倉本さん。何もございませんけど、どうぞ──」  みどり夫人が何もないという献立は、白いロールパン、ベーコンの薄切りと目玉焼、トマトときゅうりのサラダ、冷い紅茶などだった。いつも、学校では、三十円のざるそばなどでお昼をすませるたか子には、すばらしい御馳走《ごちそう》に思われた。 「あの倉本さんは、ずうっとアルバイトをしておいででしたか」と、肥《ふと》ったみどり夫人が、パンを指先きでちぎって、小さく丸めては、つぎつぎに口の中にほうりこみながら尋ねた。 「いいえ、今度がはじめてでございます。家からくる学資で、どうにか間に合うんですけど、そのうちに弟も東京の大学に入りたいなんて云ってましたし、そうなると家でも大変でしょうから、いまのうちに私が、働ける口を見つけようと思いまして……」 「結構なお心がけですわ。……倉本さん、たしか、東北の方でしたのね。お言葉に少しナマリがあるようですけど……」 「はい、そうです」 「私の学校にも、年とった男の体操の先生で、青森か岩手の人がいますわ」と、隣の席から、くみ子が話しかけてきた。 「その先生『ああ、みんなショートパンチをはいて、校庭のてチぼう(鉄棒)の下にあチまれえ!』なんて号令をかけます。そして、その先生の国には、カラシだのシジメだのという珍しい鳥がいるんですって……」 「それからまぐろのシシを食べたりするんだろ。ハハハ……」  末席の方から、信次が、食べ物を吹くようにして笑い出した。たか子は「まあ」とつぶやいて、苦笑するしかなかった。親切な人たちだとは思わないが、ただ無遠慮なだけで、特別に悪意があるとも感じられないのが不思議だった。 「くみ子は意地わるだな。いつも、話を半分でチョンぎってしまうじゃないか。お前は、学校中で、そのてチぼうの先生が一ばん好きなんだろう」と、雄吉が、半ばたか子の方を見ながら発言した。 「一ばんでもないけど、シジメの先生、好きよ。正直なんですもの……」 「だいたいがね、倉本さん。僕は言葉としてのうまみと云いますか、味と云いますか、それは方言にあると思いますね。その点、標準語というのは、味もそっけもない言葉ですよ」と、雄吉が上手に、食卓の話題をひき出していった。 「そうでしょうか。言葉としての味わいはどうか知りませんが、私は日本のように小っちゃな国で、たくさんの方言が行われているということは、長い間、非民主的な政治が行われていた証拠のようなものだと思うんですけれど……。国のすみずみまで、お互いに通じ合う話し言葉が行われるようになることが、民主政治の理想だと思うんです……」  たか子は、雄吉と対立したような意見を述べるのが、たいへん気持よく感じられた。 「私も賛成ですわ。どこかの地方に、カラシやシジメがいたりしては可笑《おか》しいんですもの……」と、思いがけなく、くみ子も一票を投じた。 「それさ、政治的な立場では僕も同感ですけど、僕が問題にしているのは、言葉の品位ということなんです。いわゆる標準語という奴は、デパートの規格品みたいなもので、一応間に合いはするが、言葉としての美しさがたいへん稀薄《きはく》だと思うんですよ。その点、方言には、言葉のうまみが温存されていますよ。いまの調子で、標準語というものが荒《すさ》んでいったら、日本語では詩も書けなくなりますよ。……信次はどう思うね?」 「僕か……」と、フォークにベーコンを突き刺して持ち上げ、顔を少し仰向かせて、それを口に入れようとしていた信次は、たか子の方をチラと眺めて、 「そんなむずかしいこと、僕には分らんよ。……ただ僕は、言葉のナマリの強い女の人とは、結婚しまいと思ってるんだ……」 (大きにお世話というものですわ!)と、たか子は、そっと信次の方を睨《にら》み返した。 「そんなもんじゃないよ。男と女の間に愛情がわけば、たいていの欠陥らしいものは、問題でなくなるよ」 「私の場合にも、そんな恋人が見つかればいいな」  くみ子がそう云うと、雄吉は少しまごついた様子をみせて、 「もちろんさ。愛情の力って大きいからな……」 「僕は……足のわるい女とは結婚しないな」と、テーブルの端の方から、信次が、ひとり言のようにポツンと呟《つぶや》いた。 「信次。口をつつしみなさい。何ということです……」と、みどり夫人がナイフを皿の上にガチャリと落して、険しい口調でたしなめた。 「ママ。いいのよ。私と信次兄さんは、お互い痛いことを云い合うのに馴れっこなんだから……。優しいことを云われたりしたら、かえって背中がゾクゾクしちゃうわ」と、くみ子は、負け惜しみのない、むしろ温かみが感じられるような調子で云った。  隣りに坐《すわ》っているたか子はホッとした。そして、ここの家では、普通の世間に出た時のような神経の持ち方をしていては、いたずらに疲れるばかりだと思った。何が云い出されても、とりあえず、落ちつき払っていることだ……。 「さあ、それではまた居間の方に移りましょう。……信次がびっくりさせるおかげで、心臓が弱い私は、早死にしそうですよ」と、みどり夫人は、大儀そうに身体をもち上げた。それほど不機嫌なわけでもなさそうだ。 「倉本さん、びっくりなすったでしょう。家ではいつでもこんな風なんですよ。みんなが云いたいことを云って、それでまあ、なんとか家族としてまとまってるんだから、奇妙でしょう?」  居間に落ちついてから、雄吉がそう云いかけるのに、たか子は、ある思いをこめて小さく頷《うなず》いた。食後の煙草をくゆらしていたみどり夫人は、ふと思いついたように、 「ああ、お話するのを忘れてましたがね、倉本さん、ほんとを云いますと、私共では、家庭教師と申しましても、くみ子の話相手になって下さる方が欲しいんですの。学課だけのことでしたら、兄達もいますし、本人も何とかやっていけるぐらいの頭はもってるようですし、わざわざ人を雇うこともないんですが、そのほかのことで、女同士で、くみ子といっしょに遊んだり、相談相手になってくれたりする方が欲しいんですわ」 「──つまり、ソクラテスやプラトンのような人生教師というわけですね」と、雄吉が傍から補った。  すると、たか子は、手先きを組んで、上体をまっすぐに持ち上げ、改まった調子で、 「そういうことでしたら、私には資格がございません。自分のことでさえ修めきれないでいるのに、人さまをそういう意味で指導するなんて、私にはとてもそんな重い責任は負いきれません」 「ママや兄さんが大げさに云うからいけないのよ。ね、先生。私、劣等感があるから、一人で外出するのおっくうでしょう。だから、ときどき、映画や音楽会にいっしょについて行って下さればいいの。そして、帰りにアンミツでも食べて、映画や音楽の感想をペチャペチャお喋《しやべ》りして下さればいいんだわ」と、くみ子は無造作に云ってのけて立ち上り、 「ママ、倉本さんを私のお室に御案内してもいいわね。どうぞ、先生……」  たか子は、くみ子の後について、一たん廊下に出てから、玄関の所にあるガッシリした階段をのぼった。二階はまん中に廊下が通り、南側に室が四つ、北側にも室や納戸や化粧室などが並んでいた。  くみ子の室は一ばん奥で、柔かい色の壁紙で囲まれた、小ぢんまりした洋室だった。勉強机、書棚、洋服|箪笥《だんす》、寝台等がそれぞれの場所をキチンと占めている。 「わあ、すてきなお室。……それに見晴しがすばらしいわ」  大人達がいないので、たか子は少女のようにはしゃいだ口調で云って、窓ぎわに立って外を眺めた。 「毎日暮していると、すばらしくもなんともありませんわ。窮屈でいやンなり、ときどき日本間がいいなあと思ったりしますわ。……先生、この絵、信次兄さんがかいたんです」と、くみ子は、寝台の上にかかった油絵を指さした。  それは、むやみに絵具をもり上げて描いた少女の半身像で、顔が、手拭《てぬぐ》いでもしぼったようにひん曲っている。しかし、なにか迫ってくる感じがあった。 「くみ子さんを写生したのね?」 「ええ、そう」 「失礼ね、顔をこんなにひん曲げて描いて……」と、たか子が笑いながら云った。 「でもね、信次兄さんに云わせると、私のひねくれた精神をデフォルメ(誇張)すると、そういう顔になるんですって。……私、その絵が好きなんです」と、くみ子は顎《あご》をつき出して、油絵の顔にウインクするような仕草をした。 「そうね、変な魅力があるわ」と、たか子は絵と実物をゆっくり見較べた。 「いやあ、先生……。私の顔、不良じみてるでしょう」と、くみ子がはにかみながら云った。 「そんなことはありませんわ。古風に、女らしく温順《おとな》しいっていう顔じゃあありませんけど……。私、ここに腰かけさしていただきますわ」  たか子は、きれいな花模様のカバーをした寝台に腰を下した。 「こんなベッドに寝ていると、楽しい夢がみられそうな気がしますわ」 「私、もう先、陸上競技で馳《か》けっこをしている夢をよく見ましたわ。そして、目を覚ましては、ベショベショと泣くんです。いまはもう、自分の身体のことは、だいぶ超越したような気持になれましたけど……」と云ってから、くみ子はたか子の傍に来て、右の腰の所を見せるようにして、 「ここのとこの骨が少し曲っているの……今度いつか、先生とお風呂《ふろ》にいっしょに入ったら見せて上げますわ……」 「貴女《あなた》……明るいわね……」  たか子は、シンから涌《わ》く微笑を湛《たた》えて、くみ子の手をとって、自分の傍に坐らせた。そうして並んでみると、肩の高さが、くみ子の方が上で、胸の盛り上りも目につくほどだった。  赤茶けた縮れっ毛を、はやりのポニー・テールに結び、脂の滲《にじ》んだあから顔で、ところどころにニキビも出ているのが、表情に富んだ黒い大きな目や、意地っ張りなことを示すまっすぐな鼻柱や、野性味のある厚い唇や、一筆描きしたような力強い輪廓《りんかく》など、まだふっきれない、青い未熟な美しさを滲《にじ》ませている。歯が揃って白いのが、殊に印象的だった。  色が白く、輪廓の線が柔かで、青味を帯びた目には深いかげりがあり、鼻柱が細く、唇もうすく品がいいたか子の顔立ちとは、およそ対照的な感じである。 「あのね、くみ子さん。こちらで家庭教師の資格に、ある特別な条件をつけられたそうですけど、それ、どなたの考えなんですか?」と、たか子は少し赤くなって尋ねた。 「特別な条件? ……ああ、美人だってこと? それはママの希望ですわ」 「どうしてそれが条件になるんでしょう?」 「あの年ごろの奥様たちの虚栄心みたいなものよ。自分の身のまわりのものは、道具でも人間でも、見かけのいいものを揃えたいんでしょう。そのかわりに、まわりの者に対する心持ちは温かいってわけでもないんだけど……」 「まあ」と、たか子は頬を少し硬《こわ》ばらせた。 「先生。怒らないでね。人間、誰にだって欠点があるし、うちのママだって、いいとこもあるんですから……」 「怒らないわ。貴女が、云いづらいことでも、正直に仰有《おつしや》って下さるんだから……」と、たか子はしぜんな気持で、くみ子の肩に手をまわした。  くみ子は無邪気に微笑んで、肩先きにまわされたたか子の手をとらえ、身体を少しすり寄せた。 「でもね、私ほんとは、私に似た顔立ちで、美人の先生だったら、困るナと思っていたの。自分で見劣りしちゃうから……。そしたら、まるでちがった顔立ちの先生だったので、ホッとしましたわ。……先生と私の顔、あんまりちがいすぎて、二つ並んだら、かえってお互いに引きたつかも知れなくってよ」 「私、こちらに伺うまで、そういう条件がついてるなんてこと知りませんでしたわ」 「あら、じゃあどうして……」 「信次さんが、玄関の所で、いきなりそれを仰有ったんです。私はびっくりして、お門ちがいの所に来たような気がしましたの……」 「そんなことありませんわ。先生、美しい方なんですもの……」 「私、一ぺんだって、そんなことを考えたことがありません。……何かの本で読んだんですけど、若い女が、自分が美しいという自信をもつために、自分の力だけではダメで、そういう自信をもたせてくれる人が、身近にいないとダメなんですって……」 「あら。先生、胸がドキンとするようなことを仰有ったわ。……何かの本で読んだなんてうそでしょう。先生、御自分で、こっそりそう考えていらっしゃるのでしょう?」  くみ子は、小首をかしげて、たか子の顔をのぞきこんだ。 「さあ、どうですか……」と、それだけ云って、たか子は含み笑いをしていた。 「でも、先生の考えてるような謙遜《けんそん》な女の人って少いわ。私の周囲の人たちは、肥《ふと》ったのも痩《や》せたのも、ノッポもチビも、自分が美人だっていう安直な自信でふくれかえっていますわ。いまは、そういう時代なんでしょう、きっと……。うちのママだって、自信満々だわ。だからあんなに肥ってしまったのかも知れないわ」 「お母さまのことを、そんな云い方をしてはいけませんわ」 「いいのよ。私はだれにも公平なつもりでいますから……」 「──差し支えなかったら、お宅の人達のお話をして下さいます?」 「しましょうか。一人一人の性格描写など、私のお得意とする所ですから……」 「信次さんが貴女のお顔を描いたような──こういう強いデフォルメのあるお話では困りますわ。そんなことを伺うの、わるいんですもの」 「では、水彩画の筆法でね。……まず、父は温順《おとな》しい紳士ですわ。母が家つき娘で、そのお婿さんに見立てられたわけね。美男子ですわ。出版会社の社長です。父は三人の子供達の中では、私を一ばん可愛がっていますわ。つまり……私が女の子だからかな。今日はお友達とゴルフに行っていますけど……。それから……」 「お母さまのことは結構ですわ」 「私がトゲのあることを云うからでしょう。女同士って、親子でもそうなりやすいんでしょうね……」と、くみ子は、他人《ひと》ごとのように、淡々とした調子で云った。  その時、どこか近い室から、ゆっくりした、変な物音が聞えてきた。くみ子は、クスリと笑って、 「先生、あのイビキ、誰だか分りますか?」 「──いいえ」  たか子は分るような気もしたが、そう答えた。 「信次兄さんですわ。いつでも、何処でも眠れる人なんです。こんな風にふんぞりかえって昼寝ですわ、きっと……」と、くみ子は、手足をてんでな方に伸ばしてみせた。  たか子は、笑ったが、かすかに不満なものを覚えた。自分がまったく無視されていると思ったのだ。ついさっき、あんなにひどい悪戯《いたずら》をした相手の自分がまだいるのに、平気でイビキをかいて眠っているのだ。 「そうね、信次兄さんのことが出たついでに、信次兄さんと私のことを一とまとめにして云いますと、ここの家では出来そくないですわ。……少しはいいとこもあるらしいんだけど、まとまりがつかないで、しょっちゅうしくじってばかりいるんです……」  そう云うのが庖丁《ほうちよう》でサクサクと物を切っているような調子だった。 「自分で自分のことを、そんな云い方をなさるもンじゃありませんわ。……でも、私は、お宅のことをなんにも知らないのですから、黙って承わっておくしかないんですけど……」と云ったが、しかしたか子は、信次に関するかぎり、出来そくないという評言がピッタリに感じられて、可笑《おか》しかった。 「それから、おしまいに雄吉兄さんですけど、彼はママのペット(気に入り)で、田代家のホープですわ。あの人が、あんまり出来がいいので、信次兄さんや私の劣っているのが、よけいに目立ってしまうんです。優しくて、シンが強くて、ハンサムで、頭がいいし、強いて欠点を探せば、欠点がなさすぎるということがそうですわ」 「専攻はなんですの?」と、たか子は何気なく尋ねた。 「お医者になるんです。大学を来年出て、それからインターンですわ」 「お立派ですわね」と、たか子はうっかり云って赤くなった。 「そう、お立派よ。……付属病院では、看護婦さんたちがワイワイ云ってるそうですし、うちへ来る私のお友達もみんなお熱を上げていますわ」 「それで──」と云いしぶるたか子の顔色を見ただけで、くみ子は、無造作に、 「いませんわ、恋人でしょう? ……どういうのかな、頭が冴《さ》えているから、女がバカに見えるのかしら。ともかく、女の人に親切だけど、いまのところ、それ以上のことはないらしいの……。私ね、先生、三人兄妹の一人と二人が、どうしてこんなにちがうのかと、遺伝学的に考えてみたんですが、どうも、雄吉兄さんが生れた時は、パパとママがしっくりいってる時だったし、私たちの時は必ずしもそうでなかったことが、大きな原因ではないかと思うんです……」 「くみ子さん、私、まだ、そんなお話を聞く権利がないと思いますから、どうぞお止めになって……」と、たか子は、心もち青ざめて云った。 「ごめんなさい。先生にイヤな思いをさせて……。私はいつもママに云われるんです。お前は、はじめて会う人に、五年も十年もつき合った人と、同じことを喋《しやべ》ってしまうって……。でも私、自分でお喋りだとは思っていません。私だけしか知らないことで、まだ一ぺんも口に上せたことがないことだって、いくらもあるんですから……」 「私も貴女がお喋りだなどとは思いませんわ。ただ、口に出すことと出さないこととの選び方が、ほかの人の物差しとだいぶ変っているというだけのことですわ。ですから、いまの私の場合のように、聞かされる方でも、面喰《めんくら》ってしまうんです。ふだんにそういう性質の話をきく用意が出来ておらないものですから……」 「私は、自分で喋るぐらいですから、人から何を云われても、わりと平気ですわ」 「ほんと──?」と、たか子はふと、ある決意に押されて、くみ子の顔をのぞきこんだ。 「ええ……。先生、何か私に聞きたいことがあるんでしょう? 仰有ってもいいわ……」と、くみ子は、いくらか不安そうに云った。 「普通なら、五年も十年もおつき合いしてから聞くことなんですけど……。くみ子さん、どうして足をお怪我なすったの?」 「いやあよ、そんなこと──!」  くみ子は急に暗い顔をして、弾《はじ》き飛ばすようなヴォリュームのある声で云った。 「ごめんなさいね。私は、ふっと、無性にそれが知りたくなったものですから……」と、たか子は、くみ子の手を握っていた指先きに、心もち、温かい力を加えた。 「怒ってなんかいませんわ」と、くみ子は、燃えるような表情の強い目で、たか子をじいとみつめていたが、 「でも、やっぱり、イヤだわ。そんなお話したくないの……。その代り、別なお話をして上げるわ。……私、小学生で『小公女』や『宝島』や『家なき子』を読んでいたころ、自分は片輪だから、子供が生めないんだと一途《いちず》に思いこんで、とても悲しかったの。中学生になって、人間の生れる生理が分るようになると、今度は、同じ生理的な不安にとりつかれるようになったんです。そして、その時期に、私がすなおでなくなり、わがままで、でたらめな行いが多かったのは、私の歩いている恰好《かつこう》は美しくない、私は走れない──といった風な、他人の目を気にかけることも一つの理由でしたが、もう一つ底にひそんでいた重い理由は、自分は大人になっても子供が生めない娘なんだ、という自覚でした……」  幼い小学生が、子供を生めないという妄想で、無残に痛めつけられている──。同じ性を負っているたか子には、よくそれが分るような気がした。 「そういうお話でしたらね、くみ子さん、いまの私にだって自信がありませんわ。女は、そういう境遇に入ってしまわないうちは、自分が子供が生めるかどうか、ほんとうの自信がもてないんじゃないでしょうか……。そう思うと、早く子供を生んで、自分の能力を試してみたい気がすることもありますわ……」  それは口に出してみて、はじめて、自分はそういうことを考えていたんだと気がつくような、微妙な心理であった。  くみ子は、びっくりしたように目を見張って、 「先生。そんなこと、ママの前で仰有《おつしや》ってはだめよ。気を失ってしまいますから……。私、その後あることで、自分は、一般の女の人と同じで、子供を生めるということが分ったんです。……でも、そのお話をするのはいやあよ! ……ぜったい! ……」と、たか子が尋ねもしないのに、さっきのような烈しい語調で云った。  たか子は、会ったばかりで、くみ子の人柄などについては、何一つハッキリしたものをつかんではいない。印象の強い顔立ちも、いまここの家から出てしまえば、途中で思い出せなくなってしまいそうだ。しかし、短い時間の間に、くみ子から植えつけられた『病める魂』とでもいった風なモヤモヤした影像が、それだけで独立して、彼女の頭の中に、いつまでも生きていきそうな予感がする。  そして、たか子は、その『病める魂』に、自分の内のすこやかなものを注ぎこんでやりたい、生理的な欲求のようなものを感じたのである。ちょうど、若い健康な母親達が、赤ン坊に、張りきった乳房をふくませて、しぜんな喜びを覚えるように……。つまり、普通の云い方をすれば、たか子は、初対面の風変った少女のくみ子に、並々でない愛情を感じたということなのであろう……。  階下から、柔かいピアノの音が聞えてきた。ショパンの練習曲を弾いている。 「どなたですか、お母さま?」 「いえ、雄吉兄さんですわ」 「そお──」  たか子は、ふっと黙りこんで、白い開襟シャツを着た、上背のある雄吉が、胸を張って、ピアノの鍵盤《キイ》の上に両手の指先を走らせている光景を想像しながら、滑かな連続音に耳を傾けた。と、それの、妨げでもするように、くみ子が、眉《まゆ》をしかめて、 「せっかく信次兄さんがお昼寝をしているのに、下手なピアノを弾き出して、わるいわ……」 「私は──」と、たか子はいたずらっぽく微笑して、 「イビキを聞いてるよりも、ピアノの方が結構でございますわ」  くみ子は、そういう冗談にも、ニコリともせず、 「雄吉兄さんのピアノ、滑かなだけで、つまんないんですもの……」と呟《つぶや》いて、寝台に後向きに上り、腰かけたたか子のお尻《しり》のあたりに頭をつけて、両足を長く伸ばして横になった。  そして、下のピアノにはお構いなしに、しばらくジャズ・ソングのようなものを口ずさんでいた。ふと、声がしなくなったので、立ち上ってふり向くと、くみ子は、口を少しあけて、スヤスヤと寝入っていた。目を閉じた顔には、生え揃ったまつ毛が目立ち、白い歯がのぞかれ、少女らしいすなおな寝顔をしている。信次が描いた油絵のように、ひん曲った印象は、すっかりぬぐい去られている。  はじめて会う自分の傍で、なんのためらいもなく眠れる少女──。たか子は、いたいたしいような感動に打たれて、くみ子の寝顔をじいと見下していた。  階下のピアノはまだつづいている。  たか子は、足音を忍ばせて、室を出ようとした。が、何か気がかりで後をふり向くと、くみ子は寝台の上でうたた寝しているが、その上の壁にかけられた額ぶちの中では、おしぼりのようにひん曲った顔のくみ子が、目を大きく開いて、こちらを見つめていた。 (さよなら)と、たか子は、その油絵の顔に、胸の中で言葉をかけて、室から出た。  階下の居間では、雄吉がピアノを弾き、みどり夫人は、長椅子の上に横坐《よこずわ》りをして、外国の服飾雑誌のようなものに見入っていた。 「長いことお邪魔しました。もうお暇《いとま》いたしますから……」 「おや、まあ。……それで、くみ子はどうしましたかしら……」と、みどり夫人は、太い足をぎごちなく床に下しながら云った。 「はい、疲れたからって、ベッドに横になって私とお話してるうちに眠ってしまわれました……」 「そういう奴だ。……ママ、信次はともかく、くみ子は女なんだから、もっとエチケットをきびしくしこまなければダメですよ……」  雄吉はピアノから離れて、たか子の方に近寄って来た。 「だってお前、仕方がないじゃないか。お食事のあとには、誰だって少しは眠くなりますよ。殊にこんな暑い日にはね……」と、みどり夫人は、自分もけだるそうに生《なま》欠伸《あくび》を洩《も》らした。 「ほんとうにすみませんでした。……あいつは、定めし勝手なお喋りをして、倉本さんに御不快をおかけしたことでしょうが……」 「いえ」と、たか子は首をハッキリとふって、 「くみ子さんは率直な方で、私、たいへん気持よくお話が出来ましたわ……」 「まあ、率直とも云えますかね……。人さまには御迷惑かけたりしますが、じつは、僕はあいつが可愛いんです。あいつが、女としての幸福をつかむためには、僕はどんなにでもして援助してやろうと思ってるんです……」 「それに値いする妹さんだと思いますわ……」  風変りな弟や妹をかばう、雄吉の長兄らしい思いやりが、ついでにたか子をも温かく押しつつむようだった。そして、たか子は、雄吉の男らしく整った顔を、長くは見ておれないで、目をそらせた。 「それでは倉本さん、晩に主人が帰りましたら、よく相談をして、山川主事まで御返事を申し上げますから、今日はこれでお引きとり下さい……」  そう云うみどり夫人と雄吉に見送られて、たか子は、田代家から出た。なんとなく興奮した気分で、しずかな坂道を下りて行くと、後の方で鋭い口笛が聞えた。ふり向くと、いまもアンダーシャツだけの信次が、石塀の上から半身を現わし、顔をクシャンと歪《ゆが》めて笑いながら、しきりに経木の帽子をふっていた。たか子はそれを無視して、一たん歩き出したが、なんだかわるいような気がして、もう一度後に向き直り、片手をあげて小さく振った。  と、信次は「フワー!」と奇声を発して、帽子を精一ぱいに宙にほうり上げた。帽子は往来に落ち、信次は塀の内側に消えた……。  そして、たか子が最後にふり返った時も、明るい無人の往来には、信次の帽子が、白く陽を浴びて転がっているのが見えた。 [#改ページ]  [#2字下げ]新しい隣人  たか子は小石川のアパートに帰った。  午後三時をすぎていた。陽はまだカンカンと照っていて、アパートの中はひっそりと静まりかえっている。 「あやめ荘」とよばれるこのアパートは、戦前に建てられた古い建物で、室が四十ぢかくある。どの室も、住人の所有である。というのは、終戦後の混乱期に、元の所有者が郷里に引退することになり、その際、居住者達に、安い値段で室を譲渡したのであるが、たまたま、会社の用事で上京中のたか子の父が、その話を聞いて、ゆくゆくは東京に出る子供達のためにと、二階の六畳一室を買いとっておいたのである。  そんなわけだから、建物の見かけはやつれているが、室の中はそれぞれに手入れしているので、わりに小ざっぱりとしていた。たか子の室は東南に向いていて、陽当りもよく、ガスもひいてあり、流し台も室の中に備えつけてあるので、自炊暮しには申し分なかった。ただ、アパートの中に、三十数世帯も暮しているので、朝晩がだいぶざわつき、それにおたがいの交際も少し煩《うるさ》いが、それぐらいは仕方がない……。  たか子が「あやめ荘」の玄関口に近づいた時、折から廊下を吹きぬける微風で、ノートを千切った紙片を二つ折りにしたのが、足もとに転がって来た。階段から吹落されて来たような様子だった。  紙屑《かみくず》とも思われないので、何気なく拾ってみると、下手くそな鉛筆書きで、  ──目黒区緑ヶ丘××番地 田代──  と記してあった。たった今、そこから帰って来たばかりのたか子は、不思議な気がして、もしかすると自分が落したのかしらんと疑ぐったほどだ。念のために、ポケットをのぞくと、山川主事が書いてくれた案内図は、ちゃんと入っているし、それに筆蹟《ひつせき》がいかにも下手くそで、自分のものである筈《はず》がない。では、どうして……?  たか子は分らないままに、その紙片を細くちぎって、入口の横の溝の中に捨てた。そうした方がいいと思ったのである。  二階に上ると、廊下の向うから、水玉模様の簡単服を着た五十年配の小柄な女が、買物|籠《かご》を下げて、そそくさとやって来た。高木トミ子と云って、待合の女中をしているとか云い、ここのアパートには三月ばかり前から住むことになった人だ。 「小母《おば》さん、どちらへ──?」と、たか子が声をかけた。 「あっ、倉本さん。お帰んなさい……。いいえね、いま買物をして帰ったんですけどね、大切な落し物をしましたの。それを探して来ようと思いまして……」と、トミ子は行きすぎようとした。 「落し物って何んですの? お金?」 「いいえ、貴女《あなた》。大切なものですわ……。所番地を書いた紙切れですの。だから、どこかへ飛んで行っちゃって、見つかりっこないと思いますけど……」 「あら。それでしたら、私が階段の下で拾いましたけど、用の無いものだと思って、ちぎって捨てちゃいましたわ。すみません」 「まあ……」と、トミ子はガッカリした様子をみせて云った。 「でも、小母さん。私、たったいま読んだばかりですから、あの所番地を覚えていますわ。別に書いてあげますから……。ちょっと私の室にお入りになって……」 「そうですか。覚えていて下さいましたか……。ホッとしましたわ。……そうそう、私も貴女にお話があるんだっけ。お話して、おごっていただかにゃあと思ってたとこでしたよ……」  たか子は、鍵《かぎ》をさしこんで、室のドアをあけた。よく片づいた六畳間で、まん中に客用の小さな黒塗りのテーブルが据えられてあり、水色の座蒲団《ざぶとん》が二枚、向い合せに敷かれてある。窓際には、勉強用のテーブルと椅子、廊下側には、流し台や食器類を入れる吊棚《つりだな》がつくりつけられ、小さな床の間の飾り台には、新しい緑色のハイ・ヒールの靴が、斜めに置かれてあった。 「小母さん、どうぞお坐りになって……。いま、冷いお茶を差し上げますわ」 「よくまあ、お片づけになって……。でも、倉本さん。あれはいけませんよ。靴を床の間に飾るなんて、罰が当ります。いずれは泥まみれになる品物ですからね……」 「でも、やっと買えたんですから、飽きるまでああしておいて眺めてやるの。……それに、このごろは、生花の方では、オブジェと言って、金物のようなもので飾るんですから……」  たか子は、お盆の上に、茶碗《ちやわん》と瓶に入れて冷やした緑茶を運んで来た。 「そうそう。忘れないうちに、さっきの所番地、書いておきますわね……」と、たか子は、カバンの中から、紙と鉛筆をとり出して、  ──目黒区緑ヶ丘××番地 田代玉吉──  と、うっかり名前まで記して、 「たしか、こうだったと思いますが……」  トミ子は、わたされた紙片を眺めると、ふだんはのんきものらしくしている表情を、急に曇らせて、しばらく黙りこんだ。 「ちがいましたの、小母さん?」 「いいえ」と、トミ子は重苦しい調子で云って、探るようにたか子の顔を見つめた。 「これでいいんですけど、さっきの紙きれにはたしか……田代とだけ書いて、名前は書いてなかったと思いますが。倉本さんは、田代の家を御存じなんですか?」 「あら、いいえ。……すみません。たしか名前も書いてあったと思うものですから……。私の……お友達が、その家のお知り合いなものですから……。それに一度きくと覚えやすい名前でしょう、玉吉なんてね」  たか子は、しどろもどろな答弁の中にも、ウソを織りこんだ。なぜか、そうした方がいいと警戒させるものが、トミ子の態度の中にうかがわれたからだ。 「でも、覚えておいていただいて、結構でしたわ。今度は落しませんから……」と、トミ子は、簡単服のポケットに紙きれを押しこんだ。 「小母さんこそ、田代さんを御存じなんですか?」と、たか子は、バツがわるいのを紛らすために、尋ね返した。 「いいえ、知りませんよ。何でもないんですよ。ただちょっと……。ホホホ……」と、トミ子は、当てつけがましく笑った。  たか子は、おたがいの素性も知り合ってないいまのところは、双方が隠しだてしていることが分っていても、それには触れない方がいいのだと思った。 「そう。……それで小母さん、私におごらせるってのは、どんなことですの?」 「そう、そう」と、トミ子の方でも、ホッとした風で、気まずさを紛らせる話題にとびついた。 「さっきね、貴女の留守中に、四十ぐらいの男の人が、アパートの前をぶらついていて、私が通りかかると、何気ない風で、貴女のことをいろいろと尋ねるんですよ。私は、てっきり縁談だと思いましたから、あまりおつき合いはないんだけどと断わった上で、ウンと賞めておきましたからね」 「あらあら。誰でしょう? ……まるで心当りがないんだけど……。その人、どんなこと尋ねましたの?」 「いろいろですよ。アパートにひとり暮しをしていて、男が訪ねて来たりしないかなんて……。だから私、男猫だって抱くようなお嬢さんではありませんよって答えてやりましたわ」 「あらあら。アパートに遊びに連れてこないだけで、男の友達とは遊んでいますわ。楽しいんですもの……」 「まあ、たまげた。倉本さんみたいな方がそんなことを仰有《おつしや》って、それがピタッと板についてるんだから、世の中もずいぶん変りましたわね……」と、トミ子は、まだ若々しさの残っている愚直そうな目で、じいとたか子の顔を見つめた。  感心しきったような表情で、見ているたか子の方でも、つい微笑を誘われた。 「ほかに、その人、何か聞きまして──?」 「それがね倉本さん」と、トミ子は廊下の方をうかがうようにして、声をひそめ、 「アパートの誰かが、貴女のことを『アカ』だと云ってるが、ほんとうだろうかって……」 「おやおや」と、たか子は苦笑した。  そういうデマの出所がどのへんか、すぐに見当がついたからである。というのは、このアパートは、室は各自のものだが、玄関、廊下、便所など、共同で修理しなければならない箇所があり、その必要が生じた時は、居住者の会議が開かれる。すると、独身で暮しの心配がないたか子は、どうしても合理的な意見を述べてしまうし、それが、世帯《しよたい》持ちでお金を出しづらい人達の消極的な意見と、対立した形になってしまうのだ。──アカと云われる所以《ゆえん》である。 「それでね、倉本さん。私は、貴女のお室をのぞいたことはないんだけど、その人に云ってやったんですよ。『アカだなんてとんでもない、倉本さんのお室には、天皇陛下のお写真がお飾りしてありますよ』って……」  トミ子は、自分の言葉をたしかめるかのように、室の中を見まわしたが、床の間に、ギリシャ彫刻の円盤投げをしている男の写真がかかっているのを目にすると、 「あら、いやだ。裸の男の写真じゃありませんか。だいぶ話がちがうわ」と、ひとり言のようにつぶやいた。  たか子は、プッと吹き出してしまった。 「でも、小母さん。賞めていただいて、どうもありがとう」  そう云ってる間に、たか子の頭の中には、ふっと、色の白い大柄な田代みどり夫人の顔が思い浮んで来た。もしかすると、自分のことを探らせによこしたのはみどり夫人なのかも知れない。ありそうなことだ……。 「私はね、倉本さん。これまで貴女とお親しくしていただいたわけでもないんですけど、でも、世の中には、若い男と女が、話がきまって、祝言をあげ、御夫婦になるぐらいいいことはないと思ってるんですよ。だから、貴女を賞めるのにも、つい力が入りましてねえ……」と、トミ子は、誇張してるとも思えない、しんみりした調子で云った。 「そんなにいいことでしょうかねえ……」と、人ごとのように云うたか子の胸にだって、結婚の夢は大きくふくれ上っていないわけでもない。 「それというのはね、倉本さん」  と、トミ子はそこで声を落して、 「私は若いころ、家が貧しいんで、芸者に出ていましたの。だから、若い人達が、ちゃんとお式をして御夫婦になるのをみると、羨《うら》やましくてね。自分もあんな風に出来たら……と、ずいぶん泣いたりしたものですわ」 「だって、小母さんには、子供さんもいらっしゃるんじゃありませんか……」  トミ子が、不良らしい二十ぐらいの青年と同居していることを見知っていたたか子は、うっかり、そう云ってしまった。 「それあ、子供は何人か生みましたけど、世間の御夫婦のような関係で生れたんじゃありません。でも、民夫は私を大切にしてくれますから、まあまあ私は仕合せですけどね……」  たか子などは、一生経験する機会もないと思われる、下積みの生活に喘《あえ》いで来たらしいトミ子の様子には、そのわりに汚れた感じがつきまとっていなかった。まだ、黒いゆたかな髪をキッチリ束ね、顔は陽やけして色つやがよく、身体の肉づきも衰えていない。ただ、複雑な考え事は出来そうもない、単純な庶民らしい匂いが、糠《ぬか》のようにプンとにおってくる。 「子供さんは何をしていますの?」 「民夫は歌が好きでしてね、そら、いまはやりのアメリカの歌ですよ。私にはさっぱり分りませんけどね。それで、いまのところ、ナイトクラブのようなところで唄って、稼いでるんですよ。……ほんとは作曲家になりたいんですって……」  そんな話の時、廊下にゆっくりした足音がして、ジャズを口ずさんでいくのが聞えた。 「民夫……民夫……。お母ちゃんはここにお邪魔してるんだよ」と、トミ子は立ち上っていって、ドアをあけた。  緑色のアロハに、細いキッチリした黒のズボンを穿《は》き、髪を油で光らせて撫《な》で上げた、子供っぽい顔立の青年が、両手をポケットにつっこんで、室の中をのぞきこんでいる。 「お母ちゃんは、今日から、倉本さんとお知り合いになったんだよ。民夫、お前もお入り……」 「いやだよ。俺、窮屈なの、嫌いだよ」と、民夫は入口の柱にもたれて、ぶっきら棒に云った。  たか子は、そういう民夫を、どこかで見たことのある顔だと思った。 「そうね。はじめはみんな窮屈ね。でも、だんだんうちとけてくるものですわ。民夫さん……でしたね。お母さまは、貴方《あなた》が親孝行だって、喜んでましたわ」とたか子の方から声をかけた。 「チェ! お母ちゃん、またお喋《しやべ》りしてたんだね。親孝行だなんてするもンかい。ぞうとすらあ。……俺、ちょっと出てくるから、お母ちゃん室に帰ンな」  民夫は、ズボンのポケットに両手をつっこんだまま、階段の方と室の中と、半々に見ながら云った。たか子などは無視してる風だった。 「はいよ、帰るよ。……倉本さん、どうもお邪魔さま。これを機会に仲好くお願いしますよ。……民夫も引き立てていただきますよ……」 「チェ! 若いおねえちゃんに引き立ててもらって、どうしよってえんだい。笑わせやがら……」  母親が室から立去っても、民夫は入口の柱にもたれて、足もとをじいと見つめていた。それから室の中をのぞいて、 「あのな、おねえちゃん。おふくろとつき合ってもらうのはいいけど、なんだかんだと昔の身もとを調べてもらっては困るぜ。女って、他人の身の上話をほじくるの、好きなンだからね。それに、おふくろと来たら、カボチャみたいな頭だから、何でもしゃべってしまうんだ……」 「何を云うんです。私はそんなことに興味がありませんわ。……それに貴方少し生意気よ。お母さんの頭がカボチャだなんて……」  たか子は、民夫が、身体が大きいくせに、ほんの子供っぽい顔をしているので、高飛車にきめつけた。そして、上から見下されているのはイヤなので、自分も立ち上って、窓際の椅子に腰を下した。 「カボチャでもいいんだよ。……おふくろなんて……酸っぱい匂いがするだけの代物さ……」  吐きすてるような民夫のそういう云い方の中に、たか子は、かすかな温かみのようなものを感じた。 「貴方、歌をうたってるんですって──?」 「商売の話はよせよ。俺はぜにを稼がなけあいけないんだからな。……おねえちゃんみたいな脛《すね》かじりとはちがうんだ。どうせ、しまいには、下らない男の嫁になるに決っているのに、むだな金をつかって何になるんだ……」と、民夫は、入口の柱から背中をはなし、クルリと向き直って、今度は指先きで、柱のところどころをつっつき出した。  そして、よく光る黒い目で、チラッチラッとたか子の方を見た。 「そうね、でも、そういう云い方をすれば、世の中に生きてること自体が、つまらないって事になるわね。私は、そうは思ってないの……」 「俺な、今度、おねえちゃんの所に遊びに来てもいいかい?」と、民夫が、よく伸びた身体をねじまげて、テレくさそうに云った。 「私ね、貴方をチョクチョクお見かけして、この人、街の不良だと思ってたの。貴方、自分で考えてみて、不良だと思ったら、遊びに来ないでちょうだい。不良でなかったら来てもいいわ」  たか子は、皮肉たっぷりに云って微笑んだ。  民夫は、入口の柱にしがみつくような恰好《かつこう》をして「クスリ」と笑った。それから、上体をのけぞらせて、弾《はじ》けるように笑い出した。室がかすかに揺れるほどだった。 「俺な、おねえちゃん、まともに不良だって云われたの、はじめてだよ。そして、それがとっても気持がいいことなので、びっくりしちゃったのさ。……いいよ、俺、自分で不良だという気がする時は来ないよ。そして、いくらかいい子だっていう気がする時だけ、遊びに来ることにする。それならいいだろう、おねえちゃん」 「いいわ。……それから、そのおねえちゃんというのは止めてちょうだい。私には、ちゃんとした名前があるんですからね」 「いいよ、倉本さんて云えばいいんだろ。てへ、気どってやがら……。これ、やるよ」  民夫は固い小さなものを室の中にほうりこんで、逃げるように廊下をドタドタと馳《か》け出し、階段を二段ぐらいずつ飛び下りていく気配がした。  たか子は、ドアをしめ、畳から、民夫のほうりこんだものを拾いあげた。それは、赤い小さなライターだった。たか子には、何の用もない品だが、子供が近づきになったしるしに物をくれるような民夫のやり方が、可笑《おか》しくてならなかった。  カチッカチッと火をすってみる。とぼしい火が燃える。民夫の乱暴な応対ぶりの底にも、その程度の温かい心持はあったような気がする……。たか子の頬には、しぜんな微笑がわき上った。  それにしても、変った人達と近づきになる日だ。しかも、トミ子の落した紙片から察すると、田代家の人々と、トミ子と民夫の親子とは、どこかで一つに結び合さっているような気がする。蜘蛛《くも》の巣のように──。そして、うっかりすると、自分はその蜘蛛の巣にひっかかる蝶々《ちようちよう》のようなものになるんではなかろうか……。  たか子は座蒲団《ざぶとん》を折りたたんで枕にし、畳にながながと横たわりながら、とり止めもない妄想にふけった。ときどき、なんの脈絡もなく、雄吉の整った顔立や、気持のいいバリトンの声が思い出されて、かすかに胸がときめいたりした。あんな恵まれた環境の美青年と結婚し、家庭を営むチャンスをつかむのは、どんな女性なのであろう……。  それきり、たか子はウトウトと仮睡した。いろんな人に会って、疲れていたのであろう。眠ってる間に、たか子は夢をみた。赤チンを塗った大きな手が伸びて来て、彼女の左の乳房を鷲《わし》づかみにするのである。  たか子は、息苦しい痛みを覚えて、眠りからさめた。ボンヤリ目をあくと、空には夕焼けの色がうすく反映し、一本ぎりの庭の貧弱な松の木の幹で、油蝉がやかましく啼《な》いていた。  たか子は起き直って、夢の中で爪を立てられた乳房を、柔かく押えた。片手に物を握ってるようなので、掌を開けてみると、さっきの赤いライターだった。  たか子の頭の中には、信次と民夫の顔が、ダブったり離れたりしながら、風船のように揺れ動いていた。「フフ」と、たか子は思い出し笑いをして、ついでに欠伸《あくび》をもらした……。  その晩、お味噌汁《みそしる》、つくだ煮、塩ざけといった献立の食事をすませると、たか子は、田代家のことが気になってならないので、電車で一丁場ぐらいの近くに住んでいる、山川学生主事を訪ねた。通学する時、たびたび同じ電車に乗り合せたりすることから、何かと目をかけてもらっている人だった。ちょうど、郷里の青森から届いたワセの林檎《りんご》があったので、たか子は、それを竹の籠《かご》につめておみやげに持っていった。  植物園の北側の住宅街にある、小ぢんまりした和風の住宅に、山川主事は、ばあやと二人きりで、淡泊すぎるような中年者の独身生活を送っていた。  たか子が訪ねると、山川主事は喜んで座敷に通した。勉強していたらしく、床の間のそばの大きな机の上には、分厚な洋書が開かれ、ノートなどもひろげられてあった。 「お邪魔じゃなかったんですか。先生、お勉強中のところでしたのね……」 「いいや。ひとり者は、ほかにすることもないから、仕方なく本をひろげていたところだ。……君が入って来たら、室の中が明るくなったようだよ。まあ、こっちに坐《すわ》り給え。この方が涼しいから……」  ゆかたがけのくつろいだ恰好をしている山川は、縁側の籐《とう》椅子の方にたか子を招いた。年配は五十四、五歳というところだろうが、かた苦しくないクリスチャンとして、わりに清潔な独身者の暮しをして来たせいか、顔の色など、つやがあって若々しく、目も穏やかに澄んでいる。髪だけは、年相応に白く、それをきれいに分けており、平べったい感じはするが、品のいい顔立ちだ。痩《や》せてヒョロ長いが、シンはあんがい強そうだ。  そして、人柄は、自分を売りこんだりする性格ではないが、しぜんに周囲に人が集って、いまは、O大学の行政面を担当する実力者にされている。 「先生。私、今日、田代家へ行って来ましたわ」 「ふん。……どうだったね」 「山川先生、あそこのお宅とお知り合いの間柄なんですってね?」 「誰がそう云ったかね? マダムかね?」 「いいえ。信次さんという方。……先生のことを『ああ、山川の小父《おじ》さんかね』などと云ってましたわ」 「ふん。……まあ、知り合いの間柄です……」と、山川は、あいまいな微笑を浮べた。  その顔を、つい、探るように見つめて、 「信次さんは『複雑きわまる知り合い』だなんて、仰有《おつしや》っていましたわ……」 「複雑だって……田代君とは、青年時代、友人だったのさ。それだけだ。……君、あまり物を知りたがってはいけませんよ」と、山川は少しばかり苦い顔をして、狭い庭の方を向いた。  狭いなりに、庭は手入れされて、草花やサツキなどが植えられ、小さな石燈籠《いしどうろう》には灯が入っていた。 「すみません……」 「いや。……しかし、初対面の君に、信次君は、いろんなことを喋《しやべ》ったらしいね。もっとも、彼、変り者だからな。そう感じなかったかね?」 「ええ。とっても──」と、今度はたか子の方が苦笑を浮べた。 「それで、貴女《あなた》は、みなさんにお会いしたのかね?」 「ええ。御主人はお留守でしたから、奥様と三人の子供さん達にお会いしました。……奥様って立派な風格の方ですわ。若いころは、すばらしい美人だったろうと思いますわ」 「そう。……みどりさんは、ほんとに美しい人だったな。美しくて、利口だった」  山川の言い方には、無意識にある感慨がこめられているようだった。 「あら、先生は、田代さんとお友達だと仰有いましたが、奥様も若いころから御存じだったのですか?」 「ああ、私達はみんなお友達だったんだ。よき時代のよき青春だったな、あのころは──。私だってその時分は、こんなにじじむさくなく、溌剌《はつらつ》としていたからね……」と、云う山川の目には、一瞬、生き生きとした光が閃《ひらめ》いたようだった。  たか子は、学生仲間に語り伝えられている、山川がいまも独身でいるのは、青年時代、ある美しい女性に失恋したからで、そのイメージを今日も抱きつづけているのだそうな、という伝説を思い出した。よき時代のよき青春──と云っているのは、そのころの生活を意味しているのであろう。  すべてのものは過ぎ去っていく。──たか子は、頭に白髪をのせた山川に向き合っていて、ふと、そうした年寄りくさい思いにうたれた。 「それで、先方から受けた印象はどうだったね?」と、山川は気を変えたような調子で尋ねた。 「はい。正直云いますと、びっくり致しました。みなさん、個性のハッキリした方ばかりで……。どうして、先生が、一言それを注意して下さらなかったのかと、恨めしく思ったりしましたわ。ちょっとでも予備知識があれば、あんなにまごつかなくてもよかったんですもの……」 「ハハハ……。それでよかったんだ。予備知識があると、おたがいに芝居し合うようになって、生地の人間がぼやけて見えなくなるから……。貴女のことも、私は、必要以外はなんにも先方に云わなかった。……そんなにまごついたのかね? ハハハ……」と、山川は温かい目差しで、たか子を見まもった。 「でもね、先生。家族おたがいに、云いたいことを云い合って、どうして家庭としてのまとまりが出来ていくのか、私、不思議でなりませんでしたわ。あれでやっていけるものなら、どこの家庭でもああした方がいいと思いましたの。何というか、それだけ深味のある家庭生活が営まれるような気がしたんです」 「うまいポイントから田代家を観て来ましたね」と、山川はわが意を得たように頷《うなず》いて、 「社会生活の場合でも、家庭生活の場合でも、個人の生活の彫りを深くするには、それだけの余裕がなければいかんのだな。田代家には、そうした経済的な余裕があるから、家族がわりあい自由に考え、行動しても、家庭生活にヒビを入らせないでやっていける。ところが、一般の家庭では、どうにかボロを出さずにその日を過していくのが精一ぱいという実状だから、その線を崩さないためには、家族の各人は、自分のことはあとまわしで、靴に足を合せるといった風の無理を余儀なくされている……」 「だから、ローラーでならしたように、平べったい個性の人間が出来上ってしまう……。そうなんでしょう、先生?」 「まあ、そういうわけだな。貧弱な国土に多すぎる人間がひしめき合って暮している。そうすると、肉体的にも精神的にも、みんなが場所をとらないように手足を縮めていないと、暮していけないということになる。日本人の宿命みたいなものだろうね。……それがまあ、田代家の場合は、少くも家庭の中では、みんながのびのびと考えたり振舞ったりすることが出来るわけだからね。……ところで、肝腎《かんじん》の貴女の教え子のくみ子さんの印象はどうだったかね?」 「私……あの人を好きですわ。でも、教えるなんてことは出来そうもない気がするんです。あの人に少し強く押されると、私の方がひっくり返りそうですわ……」 「烈しい性格の子だからね……」 「先生。あそこの家庭の雰囲気に一時間ばかり浸っていましたら、私も、思ったことは何でも云ってもいいんだという気持になって、くみ子さんに貴女どうして足を怪我したのって尋ねてしまいましたの。そうしたら、そんなお話したくないって、ひどい勢いではねつけられてしまいましたわ。……怪我は、よほど幼い子供のころですか?」 「さあ、私もよく知らんが……。なんでも子供同士で遊んでる間に怪我したんだっていうことだったけど……。しかし、貴女も思いきった質問をしたもんだね」  たか子は、山川が、くみ子の怪我のことを知ってるのだけれども、隠しているのだと思った。 「ええ、私も、ずいぶん思いきったことを云われたり、されたりしましたから……。でも、さっぱりした後味でしたわ。……先生、ほんとうは、私、田代家で働きたいと思うんですけど……」 「そう決りましたよ。……さきほど、みどり夫人から電話があって、田代君に貴女のことを話して、みんな異存がないから、来週からでも来てもらいたいって……」  たか子は、思わず深い嘆息を洩《も》らした。 「──山川先生。意地わるですわ。一ばんはじめにそれを仰有って下さればいいのに……。でも、よかったわ。とっても嬉《うれ》しい……」  たか子の頬には、押えきれない、明るい微笑が湧き上った。山川も笑って、 「べつに意地わるしてたんじゃない。云い出す機会がなかっただけですよ。しかし、貴女が喜ぶのをみて、私も嬉しい。まあ、しっかりおやんなさい。貴女ならやりぬくだろう……」  たか子は、山川のそういう語気に、楽な仕事ではありませんぞ、という戒めがふくまれているように感じた。  その時、玄関に、人が訪れ、ばあやがそれに応対している声が聞えた。大切な用件は、たった今すんだようなものなので、たか子は、邪魔にならないよう、帰ることにした。そして、玄関の室で、新しい客とすれちがう恰好《かつこう》になったが、顔を見合せて、両方で「あら!」と立ちどまってしまった。 「倉本さん、どうしてこんな所へ──」と、口をあいて、驚いた表情をみせているのは、さっき近づきになったばかりの高木トミ子だった。 「貴女がたはお知り合いだったのかね?」  山川がそう云って、当惑したように二人の顔を見較べた。 「ええ。同じアパートに住んでるんですよ。そして、今日はじめて、倉本さんのお室にお邪魔したばかりなんですよ、先生」 「おやおや。倉本さんは私の学校の学生なんだよ。これは意外だ。世の中はまったく狭いもんだな。……そう思わないかね、倉本君。……こちらの高木さんは、私の昔のお知り合いでね。まったく偶然だ。ハハ……」と、山川はうつろな調子で笑った。  高木トミ子の昔。──(私は芸者をしていました)と本人が云っている。クリスチャンの山川が、その高木トミ子とどんな交際があったのであろう? それから、田代家との関係は──? 何かある。あるにきまっている。しかし、それは自分の関係したことではないのだし、自分は自分のことだけやっていけばいいので、よけいな好奇心は起さないことだ……。 「小母さん、どうぞごゆっくり……先生、お邪魔しました……」  たか子は、山川とトミ子に見送られて、青い夜の往来に出て行った……。 「驚いたな、まったく……。貴女がたが顔見知りだとは──。私は、わるいことは出来ないものだという気がしたよ……」  座敷に引返した山川は、そう云いながら、畳のテーブルの前に坐《すわ》った。小ざっぱりした、水色のちぢみの単衣《ひとえ》を着たトミ子も、向い合せに坐って、 「私は先生、何もわるいことなんかしてませんからね。……でも、やはり倉本さんに会ってギクリとしましたわ。それって云うのは、昼間、こんなことがあったんですよ……」と、トミ子は、田代の住所を記した紙きれをなくした話をした。 「それで私が、倉本さんは田代家を御存じなんですかって尋ねましたら、あの人ドギマギして、お友達の知り合いだとかなんとか云うんですよ。ウソに決ってますよ。それでキマリがわるいもんだから、あべこべに、高木さんはどうして田代家を御存じなんですか、と私に尋ねるンですよ」 「もちろん貴女も、ほんとのことは云やしなかったろうね?」 「舌をひっこぬかれたって云うもンですか。それよりも、倉本さんはどうして……」 「あっ、それはしごく簡単だよ。田代家の末の娘さんで、くみ子というのがいるんだが、足がすこしびっこなせいもあって、なかなか気むずかしいんだ。根の人柄は、強く、ハッキリしていいんだけどね。その子に、家庭教師を世話してくれと頼まれ、それで、倉本君を推薦してやったんだ。……倉本君が、廊下で貴女に会ったというのは、恐らく田代家からの帰りだったんだね……」 「あら。そんな事でしたら、隠しだてをしなくてもいいのに……」 「そういうようなもンだが、しかし貴女に聞かれて、すぐ田代家のことべらべら喋り出すような人物だったら、私は家庭教師として推薦しなかったろうね。人間は、必要のない時は、黙っているのがいいんだ……」 「そうですかね」と、トミ子は不服そうな表情で云った。 「それで、貴女は、田代家とのつながりについて、倉本さんには、ほんとになにも云わなかったろうね?」と、山川はいくらか改まった調子で念を押した。 「それあ云やしませんよ。向うだって隠しだてしてるんですもの……」 「いや。倉本さんが隠しだてしなくても、貴女だけは絶対に云っちゃいかん。そうだな、今度もし、倉本さんに、田代家のことを聞かれたら……」 「云やしませんたら、先生」と、トミ子はヒステリックな声で云った。 「先生たら、なんでもかでも、私ばかり押えつけて、一たい私がどんな悪いことをしたって云うのです。あれからの二十年ばかり、民夫を抱えて、朝鮮や満州くんだりまで出かけて、私がどんなに苦労をしたか、先生もだれも御存じないんですからね。……それなのに久しぶりでお目にかかると、私の頭ばかり押えつけて、口惜しいったらありやしない。……先生は田代家の番頭さんなんですか。いえ、ちゃんと知ってますよ。心の中では、いまでもあの奥さんに惚《ほ》れてんでしょう。ちゃんと知ってますよだ。いくら睨《にら》んだって、私はちっとも恐くないんだから……」  トミ子はベショベショと泣き崩れながら、山川に食ってかかった。 「分ったよ、トミ子さん。私がわるかったんだ。別に貴女を押えつけようというのではなく、私は、みんなが無事であるように願っているだけなんだ。それには今までどおりにしているのが、一ばんいいと思うんだな。さいわい、貴女がたもどうにか暮しが立っているんだし、いまさら平地に波をまき起すようなことはしない方がいい……」  山川はおだやかに云おうとしているのだが、それでもやはり、相手を押えようとする調子が滲《にじ》み出てくる。 「私だって、何も波を起そうと云うんじゃありませんよ。でも、私が死んだあと、民夫が、頼りになれる親戚《しんせき》というものもなく、一人ぽっちでとり残されることを思うと、居ても立ってもいられない気がするんですよ。だから、私がこうして働ける間に、信次さんと民夫を引き合せておきたいんですよ。何かの場合には、信次さんに相談相手になってもらうようにね。……ええ、信次さんですよ。私あ、自分が生んだ子でも、信次さんと云いますよ。生んだだけで、一つも育てる面倒をみてやらなかったんですからね。……親の心として、それがそんなにまちがったことでしょうかね?」  トミ子は、自分の考えてることのほかは、一さい受け入れようとしない、狭い女心をふくれ上らせて、とり乱した調子でしゃべりまくった。しゃべりながら、洟《はな》をかんだり涙をふいたりする。  山川は、もてあぐんだような恰好で、 「分ったよ、トミ子さん。だから、それには適当な潮時をみることにしよう。……往年の染六ねえさんという人は、こんなぐちっぽい人ではなかった筈《はず》だがな。もっと、物分りがいい、サッパリとした人だったがな」 「おだてたってだめよ、先生。そんなら昔の若い年を返してちょうだい……」と、トミ子は、肩をつき上げるようにして絡んだ。 「ともかく、私だけでも民夫君の力になって上げるから、あまり興奮しないことにしよう……」 「先生じゃあだめ。私がまいるころには、先生だってあの世へコロリですよ。私の方が若いんですからね。私が心配なのは、そのあとのことなんですよ。この世にひとりぽっちで残される民夫のことを思うと、可哀そうで可哀そうで、私あ気が狂いそうになるんですよ……」と、トミ子は手巾《ハンケチ》を噛《か》んで、改めて涙を流した。たいへんな荒れ方だ。  あまりに一方的でくどいので、向い合っている山川には、親が子を思う温かな気持よりも、生物が種族の存続をはかる盲目的な本能のあがきとして、冷く目にうつってきたほどだった。それにしても、トミ子はいったい、生れて間もなく引き離されて、それぎり二十年余も会ったことがない信次に対して、母親らしい愛情を感じているのだろうか。いや母親の愛情といったようなものでさえ、決して先天的なものではなく、いっしょに暮して育てていくという環境から生じてくるもので、それがない所には、親子の間でも、愛情が涌《わ》かないのではないだろうか。  山川は、少しは意地のわるい気持もはたらいて、そこを突っついて、トミ子の手放しな興奮状態をしずめようと思った。 「貴女《あなた》の気持はよく分ったけど、せいては事を仕損じるから、信次君に会うのは、もう少し待って下さいよ。……それよりも、貴女は一たい信次君に対してどんな気持をもってるのかね?」 「それあ、貴方……」と、トミ子は明らかに狼狽《ろうばい》したさまを見せて、 「私は信次さんを生んだんですから、可愛いに決ってますよ……」 「それじゃ、これまでも、信次君のことがしょっちゅう気にかかってはいたんですね?」 「ええ、それあ……。でも、信次さんは、食うのに心配のない田代家で育てられているんだし、私達は暮しにギリギリ追いつめられていましたし、そういつも気にかけていたというわけではありませんわ。人間は、食うに事欠かないで暮しているかぎり、実の母といっしょでなくったって、そして、母親のちがう兄妹といっしょに育っていたって、そう不幸だというわけではありませんからね。……私は、そうね、三年前、東京にもどってくるまでは、信次さんのことは忘れていることの方が多かったんですよ……」  ウソをつき通せないトミ子は、本音を吐いてしまった。それを吐かないまでも、自分の生んだ子供をどうしても『信次さん』としか呼びきれないところに、信次に対する彼女の気持が、正直に表わされている。 「それで──?」と、山川がさいそくした。 「それが一昨年の暮れに、私が急性肺炎を患って死にそうになって、はじめて、民夫のために親身な相談相手が欲しいと考えるようになり、なんとか信次さんに手がかりをつけたいと思って、来るつもりのなかった先生の所に訪ねて来たんです。ええ。来るつもりはなかったんですよ。信次さんを田代家にわたして、私にどこかへ消えてしまえと云った先生を、私は私なりに恨んでいましたからね……」  云いたいだけを云ったせいか、トミ子の語調はしだいに穏やかになって来た。 「貴女の気持はよく分る。しかし、貴女は自分と民夫君のことばかり考えて、相手のことを考えようとしない。……私が、信次君に貴女の気持を伝えるのはいいが、信次君の方で、顔も知らない母親や、父親のちがう弟に、今さら名乗りをあげられても、会う気がしない、会いたくないと云った場合はどうするかね? ……それも有り得ることだからね」  山川は、自分の云う言葉が、針のようにつき刺さっていく手応《てごた》えを感じた。 「その時は──」と、トミ子は急にしおれてうつむいた。相手の立場というものもあることが、はじめて身に沁《し》みたのであろう。 「その時は……あきらめるしかありませんわ。信次さんがイヤだと仰有《おつしや》るんでしたらね……」 「どうもそう云いそうだな。いまのところ、一応ゆっくりした暮しをしてるんですから、わざわざ煩わしい面倒をしょいこむようなことはしたくないだろうと思うね……」 「────」  トミ子は無言で、身体が縮まるかと思うほど、深くうなだれていた。しばらくして、元気のない調子で、 「信次さんは、自分が奥様の実子でないことは御存じなんでしょうね?」 「それあ知ってるらしいな。家庭じゃ誰も云わんだろうが、世間が知恵をつけるだろうからね」 「それで、信次さんは、仕合せに暮しているんでしょうね?」 「暮し向きの心配がないという意味ではね。しかし、幸福というのは、本人の気持しだいのものだから、本人はどう感じているか分らない……」 「──先生、私、信次さんに会うの、やめにしますわ。あきらめるんです。……大それたことでしたよ、まったく。先生がいい事を仰有ってくれて有り難う……」  ハカリが反対側に傾き出すと、それはそれで止まるすべを知らないのが、トミ子の単純な人柄だった。──山川はふびんに感じた。 「まあ、その覚悟でおった方がいいと思うね。自然な機会でも訪れれば、また別だがね……」 「いいえ、私あ先方で会おうたって断わりますよ。物の道理が分った以上はね……」 「田代君のことを思い出すことがあるかね?」 「いいえ、めったに。──三、四年前までは、田代の旦那《だんな》にいただいた金の指輪を、肌身はなさずもっていたんです。そのころは、旦那の顔をおぼろげに思い出せたんですが、民夫がはじめて背広を着ると云い出して、その指輪を手ばなしてしまいました。そしたら、とたんに、田代の旦那の顔も、それぎり思い出せなくなりましたの……。お変りないでしょうね」 「ああ、元気だね。しかし彼の方では、信次君がそばにいるかぎり、ときどき貴女にすまないことをしたと思うだろうね」 「そんなこと、貴方──。さあ、私は帰りますわ。二度と先生にむりを申上げませんから……」  いまは殊勝らしくそう云うが、この人はまた考えがコロリと変って「むり」を云い出すようになる、──と山川は思った。 「それではお休み。──これからアパートに帰ると、ふっと倉本君の室に寄りたくなるかも知れないけど、今夜だけは寄らない方がいいと思うな……」  山川は、玄関にトミ子を見送って、そう云った。下駄を穿《は》きかけていたトミ子は、つんのめりそうに、あわてふためいて、 「寄るもンですか。なんて邪推ぶかい先生なんだろう。……人のことよりも、自分の頭の蠅を追った方がいいですよ、先生。私にはこれでも、面倒をみてくれる子供が傍にいるからいいけど、先生など、明日にでも中風《ちゆうふう》で手足が利かなくなったって、誰もみとってくれる人がいないじゃありませんか。……口惜しかったら、さっさと奥さんをもらってみせるがいい。はい、お邪魔しましたよ……」  トミ子は、不機嫌な感情を、上体を前のめりにして小刻みにふる歩き方に現して、トットと出て行った。山川は苦笑しながら、いまの注意はむだではなかったのだと思った。  座敷に引っ返した山川は、縁側の籐《とう》椅子に腰を下して、青くはれわたった夜空をながめながら、ボンヤリと時を過した。勉強する気分は中断されてしまったのだ……。  気がついてみると、自分はトミ子を哀れんで送り返してやった筈《はず》なのに、かえって、トミ子が別れ際に云った言葉が、オリのように胸のなかに沈んでいるのだ。 (中風で手足が利かなくなったって、誰もみとってくれる人がない……)  中風になるとは思わないが、そういう表現の形をとった孤独感が、ひしひしと心に喰《く》いこんでくるのだ。まったく、これで年とって働けなくなったら、どういうことになるのであろう? 社会保障の設備の貧弱な日本では、そういう老人のために奉仕する専属の人間が──妻か子供かがどうしても必要なのだ。トミ子が云うように、これからでも結婚したらいいのか。それには、同じ悩みをもった中年すぎの女性が適当なのかも知れない。しかし、体力も気力も衰えかかっている今日、結婚したとしても、どうして二人がうちとけていけばいいのか──?  その煩わしさを思うと、ともかくも気楽ないまの独身生活を、ずっと続けていきたいような気もする。お先まっくらでも仕方がないではないか……。  山川は立ち上って、隣の書斎から、アルバムと古い手紙の束をとって来た。そのアルバムを繰ると、若い日の自分の姿が、さまざまなポーズで納まっている。女学生すがたの田代みどりと、腕を組んで草むらに坐《すわ》っている写真もある。それを写したのは、友人の木村玉吉だ。その木村と、両方からみどりを囲んだ、三人の写真もある。が、つぎの頁を繰ると、自分を裏切って愛し合うようになった、みどりと玉吉の結婚記念の写真がある。そして、その結婚式には、自分も二人の友人の資格で出席させられたものだった……。 「山川君、君を裏切ってすまない。僕はみどりさんを愛し、みどりさんと結婚する。それが僕の釈明であり謝罪であり、そのほかのすべてである。──木村玉吉」  木村の手紙にはぶっきら棒に、それだけ記されてあった。  同じ封筒の中に、田代みどりの手紙も入っていた。 「山川武夫さま。同封の木村玉吉さんの手紙のように、私達は今度結婚する約束を致しました。貴方を裏切り、貴方を傷つけて、ほんとにすまないと思います。  私が、玉吉さんの愛情を受け入れ、結婚を承諾する気になったのは、貴方は私にとって立派すぎる方だ、私は貴方に値いしない女だということがハッキリしたからです。そのことを具体的に申しますと、私もクリスチャンで教会には通っておりますけど、私の場合は多分に社交的な意味のものであり、謂《い》わば生活のアクセサリーのようなものなのです。  ですから、信仰の内容ということになりますと、純粋でひたむきな貴方のそれとは、較《くら》ぶべくもありません。  いまになって考えますと、私が貴方にひきつけられたのは、貴方の曇りのない信仰と、それに基づく立派な生活の理想だったと思います。つまり私は、そういう貴方を敬愛していたのです。その敬愛の情を、私は幼い乙女心で恋愛ととりちがえ、貴方から愛情の告白があった時に、それを受け入れてしまったのです。  その証拠に、私は、貴方にお会いしていると、自分が高められていくような、引きしまった心の歓びを覚えましたが、同時に、何となく窮屈で、長くお会いしてると、グッタリと疲れてしまいました。でも、少女の私は、そういうのが恋愛だろうと思っていたのです。  私が、そのことに疑いを抱くようになったのは、貴方の友人の木村玉吉さんと、ときどきお目にかかるようになってからでした。というのは、玉吉さんと会っていると、私の胸が気持よく弾んで、少しも窮屈な感じがなく、溶け入るように楽しい思いばかりなのです。そして、二人の感情は、海綿が水を吸いとるように、無理がなく相手の中に溶けこんでいくのです。  私は、貴方との約束を思い、それに抵抗しようとしましたが、どうしようもありませんでした。そして、ある日ある時、パッと目が覚めたように、私は貴方を敬愛し、尊敬しているのであって、子供を生むことに結びつく愛情を抱いているのではない、ということに気がついたのです。  私の恋愛の相手は、そして夫となるべき人物は、木村玉吉のように現世的な人間がふさわしいのです。私はまったく、貴方に値いしない女なのです。この事を覚《さと》らず、もし貴方と結婚していたとすれば、私は一生、貴方の信仰や理想の妨げをする悪妻として、貴方を悩ましつづけたことでしょう。──そんな意味では、それに気がついたのが、今でも遅すぎるということはないと思います。  私には、貴方が深く強く、私を愛していて下さることが分ります。でも、それは、信仰の深い理想家の貴方が、現世的な欲望のさかんな私に、対蹠的に牽《ひ》きつけられているので、謂わば貴方の盲点をつかれた不純な愛情ではないかと存じます。  極端に云えば、聖者が売笑婦に牽かれたという、昔の物語の場合と同じケースだと思いますの。  私は貴方にふさわしくない自分の人間的な低さを、ほんとうに悲しく思います。しかし、自分を偽りとおして、貴方の一生を台なしにするよりは、自分の低さを率直に認めて、それ相応な道を行くのが、まだしも良心的なやり方だと信じます。何べん考え直しても、最後の結論はそこに落ちつくのです。  私は、貴方の信仰、貴方の理想が、恋人と友人から二重に裏切られた打撃にも、貴方を堪えさせるであろうことを確信しております。どうぞそれを信じさせて下さい。というのは、私は、恋人としての貴方を失っても、敬愛する友人としての貴方を一生失いたくないからです。この我儘《わがまま》はどうしても貫かせてもらいたいのです。  ああ、貴方と共に過した、心きよまり、思いたかまる、懺悔《ざんげ》と感謝の日々。それは、これからはじまる、私の猥雑《わいざつ》な日常の営みの中で、南十字星のような光をはなつ、思い出の星となることでございましょう。  最後に、教会に通う女らしくない卑俗なことを記させていただきます。それは、木村さんと私は、貴方を裏切って愛情を通じ合うようになって半年ぐらいで、もう男女の深い結びつきをもったということです。貴方とは、愛情を告白し合って二年以上も経っていたのに、貴方もそれを求めたことがなく、私もまた、頭の中がしびれるような気になったことが一度もありません。  私が恥ずかしさを忍んで、こんな事を認《したた》めましたのは、第一に、私と貴方の間にはほんとの人間くさい恋愛などなかったのだということ、第二に、私と木村さんとの間柄は、もうどうしようもない関係になっていることを、貴方に知ってもらいたいからにほかなりません。この事が、どんなに貴方を苦しめるか、推察出来ないわけではありません。でも、今更どうしようもない問題に対しては、貴方の諦《あきら》めと立直りが、一日でも早いようにと気を配ることが、せめてもの私の罪滅ぼしだと考えて、敢て認めた次第でございます。  この手紙をお読みになったあとも、なお私に対する愛情の幾分かが、貴方の胸の中に残っているのでしたら、どうぞ私が、木村玉吉を夫とし、貴方を生涯変らぬよき友人として生きていける幸福な女であることが出来ますよう、寛大なお心持をお示し下さいませ。  貴方を信じ、貴方を尊敬しております……」  それを読んだ若い山川は、下宿から程ちかい多摩川の河原に馳《か》け出していき、小春日の陽に温められた枯草の上に身体を投げ出して、声を放ってオンオン泣いたものだ。その日の空は、うす青くカラリと晴れ上り、ところどころに白い凧《たこ》が上っていたのを記憶している。  いま読み返してみると、すみからすみまで、計算のいき届いた手紙であることが感じられる。それも、頭の中で考え出されたものでなく、あのころのみどりの均整のとれた白い肉体から、分泌物のように滲《にじ》み出てくる計算なのだ。滑らかで渋滞がない。そこに怪しげな魅力がある。  最後に、その必要もない玉吉との関係を露骨に記しているのも、真意は、山川武夫に与える打撃を出来るだけ強烈なものにして、自分の存在を忘れ難いものにさせようという効果を狙っているのだ。それには、たしかに、刃物を惨酷に使うほどいいのである……。  あれから、二十余年の歳月を過したいま、山川は、その手紙の語るものを、かなり正確に読みとることが出来る。そして、昔も今も、手紙が示すような企《たくら》みに満ちた生き方しか出来ないみどり夫人に対して、理屈を超えた好意を、変らずに抱きつづけているのである。  手紙の束の中には、色の褪《あ》せた宴会の献立表が一枚混っている。表紙には「田代・木村両家結婚披露宴献立」と印刷されている。その披露宴に、山川も、みどりのたっての希望で招かれ、しかも友人代表として、祝辞まで述べさせられたものだ。何を喋《しやべ》ったか一さい夢中だったが……。  紅白の糸で綴《と》じ合せた献立表を開くと、  一、オールドゥヴル    取合せ  一、澄《コンソメ》スープ       鶉《うずら》卵入  一、伊勢|海老《えび》       巴里《パリ》風  一、牛《ぎゆう》繊肉《ヒレ》  一、氷酒  一、若鶏《わかどり》ロースト   …………  と印刷されてあり、余白の所に、鉛筆の色もうすれて「マタイ伝 二十六章」という字が残っている。新婚を祝福する華やかな宴席の空気に堪えかねて、山川が、人知れず記したもので、その時、彼の頭の中には、  ──我が父よ。もし得べくばこの酒盃を我より過ぎ去らせ給え。されど我の意《こころ》のままにとはあらず。御意《みこころ》のままになし給え──という聖書の言葉があったのだ……。  いまから思うと、苦悶《くもん》の表わし方が大げさで、滑稽《こつけい》なようなところもあるが、しかし、山川は、青い果実のようなそのころの自分の在り方に、無限の懐しさを覚えるのである……。  もう一つ印象のふかい手紙は、みどり夫人が長男の雄吉を生んで間もないころ、田代玉吉から内密に送られたものである。いら立った気持を、そのまま現わしたかと思われる走り書きで、 「山川君。僕はこの手紙でも、自分の欲していることだけ書く。  それは君に今後、田代家を訪れないようにしてもらいたいということだ。しかも、僕がそれを頼んだということを、みどりに覚られず、君自身の都合ということにしてもらいたいのだ。もっともらしい理由はいくらも見つかる筈《はず》だ。例えば、僕達の家庭生活を見せつけられることは、君にとって堪え難い苦痛であるとかなんとか──。  そこで、君に来てもらいたくない理由だが、第一に、君を裏切ったということを一刻も早く忘れてしまいたいことだ。  第二に、僕達の夫婦生活の内容を、君にのぞいてもらいたくないことだ。  第三に、みどりの心の中に、いつも君が生きていることでさえ僕には辛いことなのに、その上、実物の君をたびたび客として迎えるということは嫉妬《しつと》の炎で身を焼かれる思いがするのだ。  君に信じられるかどうか、君を裏切ったということは、僕とみどりの場合では、あべこべな作用を齎《もたら》しているのだ。僕の場合、マイナス一方だ。プラスになるものは一つもない。  ところが、みどりにはそれが全部、プラスの作用をしているのだ。まず、君のような立派な人に愛されていたのをふりきって結婚したのだから、当然、僕は彼女に対して奴隷的な奉仕をすべきだという心理的な強制がある。そして、事実、僕は奉仕を余儀なくされている。それには、彼女が莫大《ばくだい》な資産をもつ家つき娘であるという背景も影響しているのであるが……。  それから、君を裏切ったといっても、それは、君を惑わす素質だけしかもたない彼女が、君から離れたことで、むしろ君のお役に立っているのだという考え方を、彼女は、物の見事に自分のものになしきっているのだ。そんな風に、都合よく、自分を生かしていく彼女の能力というものは、まったく驚くべきものがある。  僕も、目先きの利益に敏感で、功利的に動くことでは、人後に落ちないかも知れない。しかし、哀しいかな、僕は、中産階級も下位の方のクラスの生れで、貧乏性が身に沁《し》みついており、やることがすべてコセコセしている。ゆっくりして人の好い君から、みどりを奪うぐらいが、僕の精一ぱいの働きというところだ。  そこへいくと、金持の一人娘に生れたみどりは、善悪ごちゃまぜにして、人間の風格が、僕などとは較べものにならないほどずっと大きい。生れながらに備わった貫禄《かんろく》のようなものがある。その上、僕が細かい計算を立てて打ち出すものを、彼女は、カンで無造作に打ち出し、そのカンが僕の計算よりも正確無比なんだからどっちみち、僕は敵《かな》いっこない。しかも、人目を牽きつける派手で大柄な容貌《ようぼう》の所有者だ。──というようなことで、僕自身が彼女に首ったけというような次第なのだ。  情状右の如く、いまの僕にとっては、君に僕達の夫婦生活をのぞかれることと、みどりの目に、君と僕が並んでうつることが、一ばんつらいことなのだ。  どうか、僕達から遠ざかってもらいたい。頼む……」  いきなりというわけにはいかなかったが、その手紙でもとめられたとおり、山川は、田代家から遠ざかるように努めた。が、その計画をぶちこわしてしまったのは、田代玉吉自身だった。というのは、会社のつき合いで遊びを覚えた玉吉は、家庭生活が息苦しいままに、三流地で芸者をしていた高木トミ子に馴染《なじ》んで、子供を孕《はら》ませてしまった。しかも、その失敗を、みどりの「カン」ですぐに嗅《か》ぎつけられ、ちょっとした家庭騒動がもち上った。  山川は、玉吉とみどりと、双方から呼び出されて相談をかけられた。で、その騒ぎは、生れた子をすぐに田代家に引きとり、玉吉とトミ子には手を切らせるという、みどりの思いきったやり方で、あまり世間にボロもさらさずに、表面は納まってしまったのである……。  それ以来、玉吉は一そうみどりの重圧を感じるようになったが、彼はその運命に屈従する決心をしたらしく、気持のはけ口を仕事の上に求め出した。そして、みどりの父親から引き継いだ時は、中流の出版会社であったものを、一流出版社にのし上げてしまった。  一方山川は、田代家のよき相談役として、ずうと親しい交際をつづけて来ている……。  山川にとって、人と人との関係で、心をたかぶらせ、涙を流したりしたのは、その三、四年間の経験だけだった。そのあとは、学校の仕事と読書とで、水のように淡泊な独身者の生活をつづけて来たのである。それだけに、山川の胸には、頭に白髪をいただくようになった今も、そのころの生活が、色も褪せずに鮮やかに生きているのだった……。  山川は、手紙類を元どおりに束ねると、もう一度アルバムを膝《ひざ》の上にとり上げた。その中に、テープで、二枚の頁を閉じ合せた箇所がある。テープを切って、その頁を開くと、片側に、正月用の和服を着たみどりの半身像がはりつけてある。  髪に造花のバラを挿し、白い歯並びをのぞかせて、しぜんに微笑んでいる。若々しい性の魅力にあふれた顔立ちだ。写真は少し変色して、顔のところどころに白い斑《ぶち》が出来ている。  それを目にすると、山川の胸はいまでも怪しく波うつのであった。何故なら、その白い斑は、若い彼が、たびたび唇を押しつけたために、写真の表皮が剥《は》げて出来たものだからである……。 (みどりさん……)  山川は、青い夜空に向って、昔とそっくりな調子で、胸の中で呼びかけてみる。 (私は、一生、貴女《あなた》を愛しつづけて来た。貴女のお邪魔にならないやり方で……。正直なところ、私は、貴女といっしょにいる時、  ──汝等は白く塗りたる墓に似たり。外は美しく見ゆれども、内は死人の骨とさまざまの穢《けがれ》とにて満つ──  という、パリサイ人を非難したキリストの言葉を思い出されることがないでもない。しかし、そうであるほど、貴女に牽きつけられることも確かな事実なのだ。貴女の欠点は、なんという強い魅力に満たされていることであろう……。  みどりさん、貴女は私にとって、昔に変らずすばらしい人だ……)  山川は、青い夜空を見上げながら、唄うように喋りつづける。そして、彼の単調な暮しの中では、声に出さないひとりぎりのおしゃべりが、生活の大切な内容をなしているのである……。  今度、高木トミ子が思いがけなく出現したことで、昔の生活のぶり返しがやって来そうだ。山川は、決してそれを希《のぞ》んでいるわけではないが、どうもある程度はそれが避けられそうもない予感がする。  来るものは来らせるより仕方がないのだ。誰にどんなぶり返しが及ぶのか分らないが、求められれば、自分は、昔のように、誰にでも親切をつくすことにしよう……。  山川は、アルバムと手紙の束を元の所に納め、間もなく寝床についた。そして五分と経たないうちに、安らかな眠りにおち入った。無欲で小才が利かない彼としては、この毎晩の安らかな眠りだけが、神様から恵まれたものなのかも知れないのだ……。 [#改ページ]  [#2字下げ]父と子  田代玉吉は、九時ごろ、ある印刷会社の招待の「あけぼの亭」の宴席から引き上げた。帰りの車の中では、微熱でもあるように、気分が重く、落ちつかなかった。  そんなことはない筈《はず》だと思うが、しかし、決してあり得ないことではない。玉吉は、その女を、「あけぼの亭」の中で、二度見かけた。入る時と出る時である。二度とも、その女がよその座敷に料理を運んで行くところで、一度は横から、一度は斜め後から見た。まともではないから、確かなことは分らないが、どうも高木トミ子に似た女だと思った。  信次を生ませてから二十余年、玉吉は、トミ子に会ったこともなければ、消息を聞いたこともない。その間に日本は、国力をあげて戦ったあげくが惨めな敗戦ということになり、その苛酷《かこく》な経験が、戦前の出来事の印象を急速にぼやけさしてしまった。  信次が家庭にいるかぎり、玉吉は、トミ子のことを忘れるということは出来ないが、しかし現在では、嘗《か》つてそういう女が存在したという稀薄《きはく》な思い出にすぎなくなり、肉体的な感覚はすっかり消え去ってしまっている。  それが、敗戦の打撃から立ち直って、世間が少しばかり落ちついたところで、中断されていた昔の出来事が、また尾を曳《ひ》いて復活しようというのであろうか。ばかな──。他人の空似にすぎないかも知れないものを、とり越し苦労をしてみたってはじまらないではないか……。  玉吉は家に帰ると、セルの和服に着かえて、居間でくつろいだ。家族は、音楽会に出かけたりして、みな留守だった。今夜のように気分の落ちつかない時は、かえってその方が都合がいいというものだ。  玉吉は、ソファに深くもたれて、好物の葉巻をくゆらしながら、夕刊を読みだした。左手の薬指に、カマボコ型の大きな金の指輪がはまっており、長身で肉づきもよく、みどり夫人にふさわしい、押し出しのある恰幅《かつぷく》だ。顔立ちは、雄吉によく似て整っているが、世間の波風をくぐって来てるせいか眉間《みけん》のあたりに険しい皺《しわ》が寄ることがあり、そうすると全体に暗い影が漂う。目の下に、たるんだポケットが出来ているのに、髪だけがくろぐろと硬いのも、なにかどぎつく感じられたりする……。  玉吉は、ざっと拾い読みしただけで、夕刊を投げ出し、食堂の戸棚から、ウイスキーをとり出して来て、ひとりでチビリチビリやり出した……。 「あけぼの亭」で見かけた女が、どうも気になる。招待があっても、もう「あけぼの亭」には行かないことにしよう。昔の古傷に自ら触れるようなことはしない方がいい。一たん解決がついた問題なのだから……。  しかし、あの女を疑い出した自分が、会う機会をつくらないようにするだけで、すましていられるだろうか? そんな太い神経の持主でないことは、自分が一ばんよく知ってる筈だ。必ず、人にあの女の素性を探らせずにはおかないであろう。その結果、高木トミ子だと分ったらどうするのか?……。  想像はわるい方にばかり傾きがちだ。玉吉はそれを消そうとするかのように、そのつどウイスキーのコップを口に運んだ。  あたりはひっそりと静まりかえって、時おり、電車の通る甲高い金属的な音が、かすかな地響きをともなって聞えてくる。 (トミ子か。ふびんな女だった。……だが、それだけのことだ。それ以上、何事でもないのだ……)  宴席で飲んだ上、いままたウイスキーを注ぎこんだので、玉吉の頭の中は大きな炎のようにゆれ動いていた。物を考える力は、半分がた痺《しび》れてしまっている。  と、ジリリリ……と、玄関のベルが、強く長く鳴り響いた。玉吉は脅かされたようにゾッとした。ばあやがドアをあけに出ると、それに絡んでいる信次の声がした。酔っぱらってるようだ。 「なにイ……。何云っていやがんだい。……ちくしょう。馬鹿にすんな……」  口汚くひとり言を呟《つぶや》きながら、ドタリドタリと階段をのぼっていく。その音が、玉吉の胸に、ひとつひとつ、鈍い痛みを呼び起すようだった。 (あいつ、すっかり酔っ払って……階段から落っこちなければいいが……)  玉吉は、ウイスキーのコップを握り、天井を見上げながら乱れた足音が、階段から廊下へ、つぎに信次の室にうつっていくのを、心配そうに目で追っていた。  室の中では、ガシャンと物を落す音がして、信次が大声で何かわめいていた。玉吉は身体が縮かむ思いがした。一としきり暴れて、ドサリと寝台に倒れるような気配がしたかと思うと、それぎり静かになった。玉吉はホッとした。 (あれぎり、朝までグッスリ眠ってくれればいいんだが……)  玉吉は、トミ子に関する事件は解決したものと考えることにしているが、しかしそれはトミ子の姿が目の前から消え去ったことを意味するだけで、問題の中のより重要な部分──信次に関することは、一つも片づいておらないのである。  信次が、年ごろになって、自分の出生の秘密を感づいたらしいことは推測できるが、しかし、その問題を親子で語り合ったことは一ぺんもない。これではいけないのだ。一度はハッキリさせておかないと、双方の気持が内訌《ないこう》して、なにかしら不吉な結果を招きそうな気がする……。  だが、みどりがそれに賛成の顔色を見せない以上、自分だけで信次に打ち明けるということもためらわれる。その勇気が自分にはないのだ。可哀そうに、信次は自分の探り当てた秘密の重荷を背負いきれないで、ひどく悩んでいる。あれの言動が異常に流れやすいのも、あれの素質ではなくて、秘密の重荷に圧《お》しつぶされているためなのだ。  それが分っておりながら、その秘密をつくった張本人の自分が、どうもしてやれないとは……。玉吉はひったくるようにカップを口に運んだ。  二階でギチギチと寝台の軋《きし》む音がした。玉吉が、不安の念をそそられて、天井を見上げると、足音が室から出て、ドタリドタリと階段を下り出した。それがピタリと居間の前で止った。 「パパ。僕、そこに入ってもいいかい?」  寝ぼけてるような信次のしゃがれ声だ。 「し、信次かい? ……お入り……構わないよ……」  玉吉は、ソファの背を固くつかんで、椅子がきしむほど身体をずらせた。それでも恐さが止らないで、何か手ごろの得物はないものかと、思わずあたりを見まわしたほどだった。が、さすがにそれは恥ずかしくなって、玉吉は、胸をはって平然とした構えをつくった。 「パパ、今晩は──」  信次は、髪を乱し、顔を赤くひからせていたが、青い縞《しま》のワイシャツの袖《そで》をまくり、折目のある紺のズボンをつけ、それほどとり乱した恰好はしていなかった。目を細くして、例のエクボが見える、無邪気そうな笑顔をつくっている。 「信次か。まあお坐《すわ》り。……お前、酒を飲んで帰ったんだね。さっきのような騒ぎ方がママの目にとまっては大変だぞ……」 「大丈夫だよ。ママがいないことが分っていたから、大げさに酔っ払った真似をしてみせただけさ。たったジンを二杯飲んだだけなんだもの。……パパのウイスキーを飲みたいな……」 「自分でコップをもってこいよ」 「ここにある湯呑《ゆの》みでいいや」と、信次は、テーブルの上の茶碗《ちやわん》の飲み残しを、床にパッと捨てると、それにウイスキーを半分ほど注いだ。 「ママが帰ったら、すぐ二階に逃げていくんだぞ。……音楽会の切符は四枚買ったと云ってたが、お前どうして行かなかったんだ。音楽は好きなんだろう?」 「好きだけど、……連れが立派すぎると、僕は、ああいうとこが苦手なんだよ。演奏中のシーンとした時間に、くしゃみが出たくなったり、要するに、連れに迷惑がかかるようなことをしたくなるんだ。だから、僕は行かなかったんだ。……代りに倉本さんが行ったよ……。パパ、倉本さんをどう思いますか?」 「どうって、山川君の推薦だけに、すなおなくせに、自分を通すところもあり、チャーミングな人だと思うな。くみ子が馴《な》ついてるようなので、何よりだと思ってるんだ……」  信次は、両手で茶碗をつかんで、ウイスキーを啜《すす》るようにしながら、上目づかいに父親の方を眺めて、 「パパ、僕に、倉本さんをお嫁にもらってくれないかな、僕、床の間に飾って大切にするよ。……ハハハ……」 「まあ、結婚ということはだな。儂《わし》もママも、三人の子供達は、みなめいめいで相手を見つけ出すものと思っているんだ……」と、玉吉は、信次の気持をはかりかねて、警戒するような調子で云った。 「パパ、僕はね、もう倉本さんに軽蔑《けいべつ》されてしまったよ。僕はね、相手がいい人だと思うほど、その人から軽蔑されないと、安心した気持になれないんだよ。みんなから馬鹿にされ、無視される、ひとりぽっちのうす暗い世界──。僕はそこが一ばん住み心地がいいんだよ。故郷に帰ったような気がするんだよ。パパにその気持がわかりますか──?」 「分らん! お前、若い者らしく、もっと明るい気分になれんのか」と、玉吉は怒鳴るように云った。 「明るい? ……そんなもの、うそっぱちですよ。そんなら、パパの人生は明るいんですか……?」  何気なく問い返してくる信次の言葉には、玉吉の呼吸を凍らすようなものが含まれていた──そう感じられた。 「それあまあ、人生というものは、決して生まやさしいものではないんだが……」 「ね、パパ」と、信次は立ち上って、そこらを歩きまわった。 「さっきの話ですがね、僕は、自分にいい印象を与える人に会うと、相手が男でも女でも、一刻も早くその人から軽蔑されるようにならないと、気が休まらないんだ。つまらないと思う相手がそんなことをしたら、張り倒してやりますがね。……それで、倉本さんが、はじめてここを訪ねた時、僕は玄関先きで一目見て、いい感じの人だなと思ったんだ。そして、とたんに、この人から軽蔑されたいと、ムラムラと思いこんでしまったんだ。それでパパ、僕、どうしたと思いますか?」 「知らん。……若い女のイヤがる悪口でも云ったんだろう?」 「ちがうんだ……」と、信次はあの時のように、人差指をおっ立てて、身ぶりを混えながら、 「僕はこうやって、相手の顎《あご》にふれるように見せかけながら、その指先きをサッと下して、倉本さんの乳房を押えつけてやったんだ。ハハハ……」 「信次! 貴様、なんという恥知らずな……。田代家の名誉に関わることだぞ!」と、玉吉は思わず立ち上って怒鳴りつけた。 「僕だって真剣なんだよ、パパ。……そんなに怒られる理由がないと思うんだよ」と、信次もひどく興奮して、大股《おおまた》でせかせかと歩きまわった。  玉吉は、力がぬけたように、ソファにどっかと腰を下して、 「まあ、信次。落ちついて坐れよ。……そんなことがあっても、倉本さんが家に通ってくる所をみると、必ずしも侮辱されたとばかりは感じていないかも知れないんだな……。しかし、信次。頼むから、二度とそんな馬鹿げたことはしないでおくれ。ママが知ったら、お前は……」 「ママは、喜ぶんじゃないかな、パパ。僕が手のつけられないグウタラな人間だということで──。そうでしょう、パパ?」  信次は、テーブルに両手をつき、身体をのり出させて、父親の顔をのぞきこんだ。玉吉は、顔色を蒼白《そうはく》にして、 「信次。お前は酔っぱらっている。今夜のお前とは、まともに話が出来ない。お前は二階に行って休みなさい……」 「僕、いやだな。パパと二人ぎりで話するの何年ぶりかだものね。それに、僕、ちっとも酔っ払ってないんだよ。痛いほど正気なんだよ。でも何か云うと、パパと僕の意見は食い違うから、話をやめて、音楽を聞こうや、パパ……」  信次は、室の隅の電蓄の所に行って、レコードをかけた。 「チャイコフスキーの『悲愴《ひそう》交響曲』って云うんだよ。パパ」  父と子がうなだれて、酒くさい息を吐いている室の中に、激情的なメロディーが、奔流のように流れ出した。  アルコールで興奮しやすくなっている二人の神経は、その音響で、嵐の中の木の葉のように翻弄《ほんろう》された。  信次は、マントルピースの棚にもたれ、髪をかきむしっていたし、玉吉は、深く腕を組んで、顎をセルのふところに埋めていた。どちらの顔も、目がキラキラ光り、荒れてなまなましい表情が宿っている。  レコードがやんだ。あらゆる微細な物音が、レコードの交響曲とともに、どこかへ消え去ったかと思われるような静寂が、耳にヒタヒタと吸いついて来た。と、その静寂の中から、ゆっくりした、抑揚の乏しい一つの声が聞えてきた。 「──パパ。僕を生んだおふくろさんは、まだ何処かで生きているのでしょうか──?」  玉吉は何の反応も示さず、腕組みをつづけていたが、ふと、小さく身慄《みぶる》いして、頭を上げ、 「……信次。お前はいま何か云ったかね?」 「ああ、云ったよ。ね、パパ」と、信次は、人差指でまっすぐに玉吉の顔のあたりをさして、淡泊とも思えるような調子で、 「僕を生んだおふくろさんは、まだ生きてるのかって聞いたんだよ」  すると、玉吉は、バネにでもかかったようにソファから飛び起きた。 「信次、お前は……」 「そうなんだよ、パパ。僕は知っていたんだよ……」と、信次は、向い合せの椅子に腰を下して、クスクスと笑い出した。 「そうか。お前は知っていたのか……」  玉吉は、声が聞えるほど太い嘆息を洩《も》らして、ソファに崩れ落ちた。 「そうだよ、パパ。そして、そして、僕がそれを知ってることを、パパもママもちゃんと承知しているんだ。でもね、いまはパパと僕はさし[#「さし」に傍点]でいるんだから、うそっこのないお話をしようよ。そして、せっかくの二人ぎりの時間を有効に過そうじゃありませんか……」 「なにイ! 貴様は何という……」 「だめだよ、パパ」と、信次は手真似で玉吉を制して、 「怒りっこをする段になったら、僕の方に、百倍も千倍も怒る権利があるわけだもの。……僕はパパと懇談しようと思ってるだけなんだぜ。何かを求めようと思ってるんでなく、ただ知りたいと思ってるだけなんだよ。……その前に云っておくけど、僕は、この人生を、生きるに値いするものだと思ってるんだ。僕がどういうはずみで、この世の中に生み出されたとしてもだね。だから、パパに感謝するというわけにもいかないけど、決して恨んだりはしてないんだよ。パパの人間に対する批判があるのはやむを得ないとしてもだね……」 「分ったよ、信次。怒ったのは、儂の方がわるかった。儂は、適当な時期に、お前にそのことを話さなければいけないとは思ってたんだが、ママが反対するものだから……」 「どうしてママが反対するんですか」 「ママの見解では、お前は、自分の出生の秘密について何も知ってないというんだな。ママとしては、藁《わら》の上から自分の実子と分け隔てなく育てたという自信が、そう思わせるんだろうな」 「くそばばあ」と、信次は低く呟《つぶや》いた。 「信次。お前いま何と云ったのかね?」と、玉吉は、眉《まゆ》のあたりを神経的に痙攣《けいれん》させながら尋ねた。 「くそばばあと云ったんですよ」と、信次は、目を細めて、囁《ささや》くように答えた。 「馬鹿者奴が! ……」と、玉吉は、握拳《にぎりこぶし》で、テーブルの面を強くたたいた。ウイスキーの角瓶やコップや茶碗が、危うく引っくり返りそうな勢いだった。 「ママを侮辱するとは何事だ! この家では、たとえ召使いに対してであろうと、そんな下司《げす》な言葉づかいは許さんぞ。お前には、ママの我慢や努力というものが分らんのか。ママの恩を感じないのか?」 「──パパの奥さんの悪口を云ってすみません。僕、あやまりますよ……」と、信次は変にすなおな調子で云って、コップからテーブルの面に跳ねて出たウイスキーのたまりを、指先きにつけてはペロッと嘗《な》めた。 (パパの奥さん)という言葉がこたえたらしく、玉吉は、急にシュンと黙りこんだ。しばらくして、 「信次。お前はいつごろから、ママの実子でないということに気がついていたんだ?」 「ハッキリ知ったのは、十三、四ぐらいの時かな」 「誰か教えたのか」 「あとでは、親戚《しんせき》の人達が話し合っているのを蔭《かげ》で立ち聞きして知ったんだが、その前からずうと疑いをもち続けていたんだ……」 「ママは、お前に疑いを起させるような、分け隔てのある育て方はしてなかった筈《はず》だがな」 「そうだよ。ママの思いやりが、僕に疑いを起させる原因の一つだったんだ。誰もいない時は、それほどでもないのに、他人がいると、ことさら僕にチヤホヤするのはどういうわけだろうってね……」 「信次。そういう考え方はよせ」 「パパ。僕が自分の生れについて、漠然とした疑いをもったもう一つの原因は、パパの態度にもあったんだぜ。それを聞かないのかい?」 「──儂《わし》がどうしたというんだ?」と、玉吉はつらそうに云った。 「パパはママと反対で、二人ぎりでいる時は僕に親切だが、他人がいると急に冷くなるんだ。──冷くはないんだろうが、そういうそぶりをするんだ……。三人の子供の中で、僕だけがそういう扱いをされると、敏感な子供心で『何故《ホワイ》?』と考え出すのは、当然のことじゃないのか、パパ」 「信次。……儂等は……お前に……そういう目で見られていたのか」と、玉吉は深い嘆息をもらして、倒れるようにソファの背にのけぞった。酒の酔いと汗が滲《にじ》み出て、惨澹《さんたん》とした寝顔だった。 「パパ、心配しないでもいいんだよ。最初に云ったとおり、僕は、自分が生きていることに対しては、なんの不満もないのだから……。生きてるって、絵がかけたり、音楽がきけたり、犬と遊べたり、こうやってパパとお話が出来たり、とってもいいことじゃないか。ハハハ……」  信次は、そこらを歩きまわりながら、うつろに笑った。何か別なことを考えているらしい……。  玉吉は、ソファの背から起き直って、信次の動きを目で追っていたが、 「なあ、信次。ママにこれ以上、つらい思いをさせないようにしてくれないか。ママは、お前がママを実の母だと信じてるってことを少しも疑っていないんだから、ママのそうした夢をこわさないでもらいたいのだ」  信次は、じいと相手の顔を眺めていたが、そのうちにツカツカとソファに近づいて、玉吉と並んで坐《すわ》り、かんで含めるような調子で、 「いやだなあ、パパ。パパはお酒を飲んでも、ウソだけしか云えないのかね? ママは、僕がママの実子でないということを承知していることを、ちゃんと見抜いているし、パパはまた、そういうママの心の中をちゃんと見抜いてるじゃないか。……パパ、僕と二人ぎりでいる時だけでも、裸になって、気楽に呼吸しなさいよ。可哀そうなパパ。……家庭生活に関するかぎり、パパはいつもウソでつくったお城の中で暮してるようなもんだぜ。よくそれで息がつまらないもんだと思うな……」 「なにイ!」と、玉吉は立ち上りかけたが、信次にちょっと肩を押えられると、すぐ腰を落してしまった。そして、喘《あえ》ぐように、 「──信次。お前は一体どうして欲しいと云うのか。それをハッキリ云ってみなさい」 「欲しいことは何もないよ。……ただ、出来るだけ、知りたいと思うだけです。……パパ、はじめの質問を繰り返すんですが、僕を生んだ人は、まだ何処かに生きているんでしょうか?」 「儂は知らん。ほんとに知らんのだ……」 「パパは、その人が生きていてくれるといいと思いますか。それとも……」 「儂は知らん。儂はどっちとも考えたことがない。……そう答えておく。でないと、お前はまた儂の足をすくってくるからな……」 「僕のおふくろはどんな気性の人でしたか?」 「あまり物事に拘《こだ》わらない、さっぱりした気性の女だった……」 「美人でしたか──?」 「お前の顔を鏡にうつして見なさい。……お前は母親似だよ……」 「へっ!」と、信次は肩をすくめて苦笑した。 「パパはその人を愛していたんですか?」 「それはまあ、そうだ。……お前が生れたぐらいなんだから……」 「パパ。かびの生えた人道主義などに囚《とら》われないでもいいですよ。……子供は、人工授精でも、暴力でも生れるんですから。……僕は、自分の出生に、感傷的な神話を必要とするほどチャチな人間じゃないんだ。……要するに、僕がこうして生きてるってことだけが大切な問題なんだから……ね、パパ。パパと僕のおふくろの間にはお金を仲介にして愛情の交換があった。そういうことじゃないんですか……」 「信次。お前は、どうしても私に返事をさせたいのか?」と、玉吉は顔色を蒼白《そうはく》にして立ち上った。 「そうです。僕は知りたいんだよ、パパ」 「俺の返事はこれだ。信次!」と、玉吉は、信次の顔に精一ぱいの平手打ちをくれると、テーブルの上のウイスキーの角瓶をつかんで身構えた。 「あっ」とうめいて、信次は殴られた頬を押えた。  そして、立ち上ると、唇がぬれてキラキラ光っている玉吉の逆上した顔を見つめながら、暖炉の方に動いて行った。二人の間に、安全な距離をおこうとでもするように……。 「パパ。僕、反抗などしやしないし、みっともないから、その角瓶を置いて、落ちついてくれよ。パパはまだ僕の人間をよく知らないんだ。……パパは古いよ。一つも興奮する必要がないことなんだよ。家の暮しが面白くない男が、うさばらしに芸者と遊んで、子供が出来た。──それだけのことじゃないか。パパ、落ちついて、ソファに腰を下してくれよ……」  そういう信次の言葉に合せて、玉吉は、あやつり人形でもあるかのように、角瓶をテーブルに置き、ついで自分は元のソファに腰を下した。そして、両手で頭を掻《か》きむしりながら、 「信次、ゆるしてくれ。お前を殴ってわるいことをした。儂は恥ずかしい。どこかへ消えてしまいたいぐらいだ。お前にずうとつらい思いをさせて来ただけでも、申しわけないことだったのに……」 「おっとと……パパ。そんな古くさい義理人情ばなしはやめてくれ。ジメジメと汚れた感じがして、僕、イヤなんだよ。……パパ。僕はね、パパに殴られて、ほんとにサッパリした気持なんだよ。パパによくその勇気があったと思ってね。僕はいままで、ママからはもちろん、パパからだって、いまパパが示したようなナマな感情を示されたことは、一ぺんだってなかったんだぜ。ほんとはそれが欲しかったんだよ……。  僕はね、いつか兄貴の病院で、ガラスの保温器の中で育てられている赤ン坊を見たことがあるんだ。そして、僕自身、今日まで、ずうとガラスの保温器の中で育てられて来たような気がしているんだ。親のナマな感情──愛情とは云わないよ。何故なら、いまみたいに本気で怒りつけてくれることだっていいんだから──を一ぺんも浴びせられることなしにだね。それでも人間は育つんだよ。  しかし、僕はときどき寂しかったんだ。兄貴やくみ子には注がれる、目に見えない何物かが、僕の所だけスウと素どおりしていくのが、ハッキリと感じられるんだからね。僕は、ガラスの保温器の中で、羨《うらや》ましそうに見送っていたんだ……」  その時、門の方で自動車の警笛が聞えた。 「ほら、ママ達が帰ったよ。……とり乱していると、何かあったなとすぐママに感づかれるからね。パパ、落ちついてなけあだめだぜ……」  そう云って、信次は、汚れたテーブルの上をワイシャツの袖《そで》でゴシゴシ拭《ふ》き、自分が飲んだ湯呑茶碗はポケットにつっこみ、戸棚から雑誌を一冊とって来て、玉吉の膝《ひざ》の上にひろげてやった。家族の帰りを待ちわびる玉吉が、ウイスキーをチビリチビリやりながら、雑誌を読んでいるといった設定である。そうしておいて、信次は、二階の自分の室に駈《か》けのぼって行った。  そのあとへ、みどり夫人とくみ子が連れ立って入って来た。「貴方《あなた》、ただいま──」と、みどり夫人は帰宅の挨拶《あいさつ》をしながら何気なく室を見まわし、匂いでもかぐようなそぶりをした。  家を守る主婦の感覚で、留守中に異常でもあれば、それですぐに嗅《か》ぎつけてしまうのだが、信次の小細工が利いたのか、何事も気づかない様子だった。 「お帰り。──雄吉はどうしたのかね?」と、玉吉は膝の上に信次が置いてくれた雑誌をもっともらしく閉じて、テーブルの上にのせた。 「倉本さんをお宅まで送って行きました。若い女の子ですからね。……音楽会はたいへんな人でしたわ。私、出がけに気がついて、よそゆきに着更《きか》えて、ようございましたわ。それでないと、みなさんキチンとしていらっしゃるので、恥をかくところでしたわ」  そういうみどり夫人は、派手な色合いのちりめんの着物に、黒の羽織を重ねている。 「ママったら、音楽会に衣裳《いしよう》をみせに行くつもりなんだから……」と、紺のスカートに白のカーデガンをつけたくみ子が、大げさに眉をしかめて云った。 「ママは、パパやお前達の恥じにならないように気をつけるだけなんですよ」 「てんでありがたいわ。……パパ、信次兄さんはまだ帰らないの。どこをほっつき歩いてるのかしら……」  くみ子のそういう言葉に応《こた》えるかのように、二階から、信次のまのびした唄声が聞えて来た。  ……小原庄助さん なぜ身上《しんしよう》つウぶしたア 朝寝、朝酒、朝湯が大好きでエ そウれで身上つウぶしたア はアもっともだア もっともだア……  天井を見上げて、くみ子は可笑《おか》しそうに笑い出したが、玉吉もみどり夫人も苦い顔をした。 「困った奴だ……」 「ほんとですよ、貴方。いまごろ大声であんな歌をうたって、御近所に恥ずかしいわ。……酔っぱらってるんですね。……せっかく名曲を聴いて来た感興が、あんな卑俗な唄をきかされたんじゃあ、一ぺんに覚めてしまいますわ……」 「ママ、もっともだア、もっともだア……。私、信次兄さんを訓戒してくるわね。なんとなく、私達へつらあてにあんなもの唄ってるんだわ。そういう兄貴なんだ、あの人は……」  くみ子は可笑しそうに云って、ハンドバッグと音楽会のプログラムを丸めたのをもって、居間から出ようとした。みどり夫人は、後から、 「そう云うんですよ。御近所に恥ずかしいから、唄うのはやめなさいって──」 「云うわ。どうしても唄うなら、ママの好きな讃美歌《さんびか》になさいって……」と、くみ子は、母親の方に、下唇をいたずらっぽくつき出した顔をみせて、階段の方に出て行った。 「信次はいつごろ帰ったんですか──?」と、みどり夫人が、何気なく尋ねた。  この何気なさの正体を十分に知っている玉吉は、しぜんに酔いがさめるぐらい緊張して、 「一時間ぐらい前だったかな。儂が本を読んでいたものだから、ここへ顔を出したが、すぐに二階に上っていったよ」 「ここでいっしょにお酒を飲んでいたんじゃないんですか……」 「いや。儂は雑誌を読んでいたもんだから……」 「お酒を飲みながらですか……」と、みどり夫人は、テーブルの上の雑誌を手にとって、ペラペラと頁をめくりながら、 「これ、お料理の雑誌ですわね。……パパ、こんなことに興味をもつようになったんですか?」 「いや。退屈なもんだから、そこらから手当りしだいにとって来たんだ」 「でも……お膝の上に、雑誌をさかさにひろげてたんじゃあ、読めないと思いますけど……」と、みどり夫人は、云い足りない分を補うかのように、雑誌をバサリとテーブルの上に投げ出した。 「──お前はあまり機嫌がよくないようだね」 「そんなことはありませんわ。久しぶりで名演奏をきいて、心が洗い清められるような気分でしたわ。……さ、私は寝巻に着更えてお風呂《ふろ》に入りますから……。貴方はまだお料理の本を読んでいますの?」  みどり夫人は切口上で云って、北側にある自分達の寝室の方に引き上げていった。  相手に説明を求めたいことがあっても、全部は云わず、きっかけだけつけて、あとは相手にすっかり喋らせてしまうというのが、みどり夫人の身についたやり方だった。それには大変な自制心もいるわけだが、みどり夫人はそれを備えていた。強いゴムのような力だ。玉吉はそれに牽《ひ》っぱられると、たいていの隠し事は、自分から白状してしまうのだった。  今夜のことだってそうなることだろう。いや、信次が自分の出生の秘密を知ってることを、みどり夫人も玉吉もハッキリと認めるということは、将来のために何かと都合がいいことなのかも知れない。そうだ、そのことは喋ってしまって、代りに高木トミ子らしい女を見かけたことだけは固く口を閉じることにしよう。──玉吉は、落ちつかない様子でしばらく居間に残っていたが、みどり夫人の強いゴムのような力に牽かれて、間もなく、寝室の方に立ち去った……。  一方、二階に上ったくみ子は、信次の室の戸をたたいて、 「小原庄助さん。入るわよ」 「いいよ」  信次は、寝台にふんぞり返って、もうもうと煙草をくゆらしていた。入ったとたんに、くみ子は思わずむせたほどだった。 「ママ、怒ってたわよ。あんな唄うたって……」 「へへ。……それでロシア人のピアニストはどうだったい?」 「よく分んないけど……よかったな」と、くみ子は音楽会のプログラムを渡した。信次はそれをめくって、 「どの曲がよかったかね?」 「私、音痴だから、ラフマニノフの『協奏曲第三番』が好きだった。なんとなく文学的で……」 「若い女の子ってそういうものさ。僕はプロコフィエフの『第七番のソナタ』だったな……。すばらしいや」 「あら、信次兄さん、ラジオででも聞いていたの?」 「いや、僕も今夜、音楽会を聴きに行ってたんだよ」と、信次はニヤニヤしながら、寝台の上に起き直った。 「あら、どうして……」と、くみ子もその傍に腰を下した。 「ママや兄貴や、お歴々といっしょでは窮屈だから、僕、三階の隅っこの壁によりかかって、立ったままでずうと聴いていたんだよ。……よかったな、プロコフィエフの第七番は……」 「ふうん、そうだったの……」と、くみ子は何かを想像するような目つきをして、 「三階の片隅で、ワイシャツの袖《そで》をたくし上げた青年が、立ちっぱなしで、舞台を見つめている。──そういう人間が、じつは一番よく音楽を聴いてるのかも知れないわね。……私も、三階の隅っこに、ひとりぼっちで目を光らせているとプロコフィエフが分ったのかも知れないわ」 「僕はぶってるんじゃないんだよ。……兄貴はどうしたんだ。声がしないじゃないか……」 「倉本先生を送って行ったわ」 「ふうん。……音楽でボウとなったあと、二人で夜の街を歩くのか。……ちょっと妬《や》けるな……」 「そんな先生じゃないわ。……音楽会がすんでから、銀座のレストランで食事をしたの。私、あまり食欲がなかったから、ビフテキを半分残したのよ。そしたら、倉本先生、ママの顔をみて『奥さま、くみ子さんの残したビフテキを、私いただいてもよろしいでしょうか。お腹が空いてるものですから……』と云うのよ。ママは面くらって、あたりを見まわしてから『ええ、ええ、よろしかったら、どうぞ──』と云ったわ……」 「それであの人、食べちゃったのか。ヒヒヒ……」と、信次は嬉《うれ》しくてたまらないように、目を細くして笑い出した。 「そう、エチケットの喧《やか》ましいママが、反対する余裕もないほど、スウと云っちゃったのね。……私、あの先生をだんだん好きになるわ……。音楽会では、ラフマニノフの『協奏曲第三番』の演奏がはじまると、『あっ』と口の中で呟《つぶや》いて、終るまでずうと私の手を握っていらしったわ……」 「しまったな。僕が隣りに坐《すわ》っているんだったな……」と、信次が笑いながら云った。 「そうよ、三階の片隅で、ひとりぼっちで目を光らせていたんでは、倉本先生と親しくなれないわよ。音楽は分るか知れないけど……。それで、信次兄さんはどうしたの、音楽会がはねてから……」 「そこらのバーでお酒を二杯のんでから、まっすぐ家に帰ったよ。お前さん達が食事することが分っていたからな……」 「パパとお酒飲んでいたの──」 「ママにきかれたんだったら『いいえ』と答えるんだがな」 「そういうお話が、パパとの間にあったのね」と、くみ子は目に青い光をひらめかせて云った。 「くみ子。その、ニキビの出たお前のおでこを、僕の方に差し出してごらん」と、信次は真面目くさって云った。 「うん」と、くみ子は顔をつき出すようにして、目を閉じた。  信次は、こめかみのあたりを両手ではさんで、額に軽く唇を押しつけた。くみ子は目をあいて「フフ……」と笑った。 「さあ、何のお話よ……」 「僕はね、今夜はじめてパパにきいたんだよ。僕を生んだおふくろさんは、まだ何処かに生きているんですかって……」 「────」  くみ子は、頬のあたりを硬《こわ》ばらせて、まつ毛をそうと伏せた。 「いやかい、こんな話? ……くみ子だって、僕がママの子供でないことは、ずうと前から知っていたんだろ?」  くみ子は頷《うなず》いたが、横を向いて、やはり固い顔をしていた。 「それでね、みんな何時《いつ》までも知らんぷりをしてるし、僕は窒息しそうに息ぐるしくなったから、今夜パパに云い出してしまったんだよ。早く窓をあけておかないと、僕はしまいにどんなでたらめをするか分んないからね……」 「パパ、何と云って──?」 「苦しそうだったよ。もちろん事実は認めたんだがね」 「それで、信次兄さんを生んだ方、まだ生きてるの?」 「全然知らないってさ。ほんとらしい……。もしかすると、そのいざこざの中に入った山川先生が、何か消息を握ってるかも知れないと思うがね」 「会いたいの?」 「生きてればね。……感傷ではないんだ。ただ、知りたいだけなんだよ。それだけのことだ。……僕は知ることを恐れないことにしてるんだ。たとえ、どんな落ちぶれた女が、母親として目の前に現われたとしてもだね。……知らずに迷ってるよりも、どんな悪いことでも知った方がいいんだ……」 「美しい人だわ、きっと。パパが迷うくらいだから……」 「パパにそれを聞いたら、お前は母親似だから鏡をみろと云われたんだ……」 「それだったら……」と云いかけて、くみ子は妙な微笑を浮べて、口をつぐんだ。 「それだったら、美人である筈《はず》がないと云うんだろう?」 「ううん。……それだったら、好きな人から見たら、たまらなく魅力があるけど、そうでもない人が見たら、おかしげな顔だわ、きっと……」  今度は信次が苦笑した。 「この野郎! ……僕の顔はそうも定義づけられるのかね。お前にしては、大出来の表現だよ。認めてやろう。……しかし、魅力があるとかないとかは、若い一時期だけの話で、いまその人が生きていたとしても、うちのママと同じように、その人の人柄だけを示す顔になってしまってるよ。中年すぎた人間は、自分の顔に対して責任があるって、ほんとのことだよ。……くみ子も気をつけろよ。若い間は、ネコでもシャクシでも一応美しいんだが、それから先きは自分の心がけ次第だからな……」 「うん。私、一生懸命やるわよ……」と、くみ子は、信次の手をとって、約束の指切りをした。 「それで、ほかにパパとどんなお話をしたの? きかせてよ」 「いくらも話さないうちに、くみ子達が帰ったんだよ。あのな……お前達が帰る五分ばかり前に、僕はパパにひどく殴られたんだ。この室に来て気がついたんだが、頬《ほつ》ぺたの内側に血が滲《にじ》んでいたよ」と、信次は、舌の先きで内側から頬ぺたをふくらませてみせた。 「やだなあ……野蛮だなあ……」と、くみ子は顔を蒼白《そうはく》にして、 「殴るなんて……私、パパがきらいになりそうだなあ。……どうして、パパがそんなに怒ったの!」 「僕のおふくろをどんな風に愛してたのかって、しつこく尋ねたからさ」 「それだけで──」 「パパと僕のおふくろは、お金を仲介にして愛情の交換があったんでしょうって、念を押したからさ。その返事がピシャリだ。ハハハハ……」 「ひどいなあ、そんなことをきくなんて、私でも殴りたくなるわ……」と、くみ子は、顔を固くそ向けたままで云った。 「よく気が変る奴だ。……でも、僕はパパに殴られてサッパリしたんだぜ。本気で怒ってくれたことが、何よりも嬉しかったんだ。……パパも考えてみると気の毒な人間だよ」 「どうして──?」 「ママに、若気の失敗の形見である僕を、一生そばに押しつけられているからさ」 「まあ!」と、くみ子は寝台から立ち上がって、かすかに慄《ふる》えながら、 「私のママを侮辱しないでちょうだい! ママの心理をそんな風に解釈するなんて……。ママはもっと──」 「もっとどうしたんだ。……お前も年ごろになって気どることを覚えて、真実を認めるのが恐くなったのかね……? 柳は緑・花は紅さ、物事はありのままに見る事だよ」 「でも、信次兄さん。そういうデリケートな問題になると、見る人しだいで、真実のすがたがあべこべほどにもちがってくるわよ。私は、ママが心の底のどこかで、信次兄さんの人柄を恐れ、認めているような気もするんだけど……。ママを恨んでるの?」 「恨んでないよ。感謝もしてないさ。……ともかく、少しあくどいところもあるが、ママは人物だよ、風格があるよ。それに押されて、僕はつい、ママを喜ばせるように振舞いたくなるんだ……」 「どうして、ママを喜ばせるの!」 「僕がまともでないほど、ママは嬉しいのさ。パパへの見せしめになるからな。それが分るもンだから、僕はいろんな事をして、ママを喜ばせて上げたくなるんだ……」 「そんな暗いひねくれたような事を云っていて、信次兄さんの顔、明るいわ。私、わからなくなってしまうな。……でもね、いまの機会にハッキリ云っておくけど、私、ママと信次兄さんがギリギリに対決するようになったら、ママの味方をするわ。いいでしょう……」  信次はクスクス笑って、くみ子の肩をたたき、 「お前はそんな風にハッキリした奴だ。僕は、ママと対立なんかしないけど、でもお前の好きなようにするがいいんだ……」 「ええ、私ママを守るわ。だってママは孤独なんですもの……」 「この家ではみんなが孤独だよ。そうだな、その中でも、ママの孤独が一ばん厚い壁に包まれているかも知れないな……」 「そんな事よりも、信次兄さん、これからどうしようっていうの?」 「パパには一応ハッキリさせたから、このつぎ、ママに対して、僕がママの子ではないっていうことをハッキリさせるんだ。そのつぎは兄貴だ……」 「そうするとどうなるっていうの?」 「分らないよ。ともかく、この家の気風には、ウソで練り固められたようなものがあるから、僕は自分の身のまわりだけでも、それを突き崩してせいせいとしたいんだ……」 「ウソと云いますけどね……」と云いかけて、くみ子はちょっと考えこみ、 「信次兄さんは、玉ネギの皮をだんだん剥《む》いていくと、なんにもなくなるんだという例え話を知っている? 私、四人なり五人なりの人間が集って、一つの家庭をつくっていくためには、真実だけではダメで、どうしてもウソみたいなものが必要なのだと思うわ。セメントに砂が混らないと、うまく固まらないようなもンよ……」 「ふーん」とうなって、信次は驚いたようにくみ子を見つめた。 「お前、いつ、そんな細かいことを考えたんだ?」 「私だって、自分の家庭のことを反省したことがありますもの。それで男と女では、考え方がしぜんにちがってくるのよ。男は、風来坊みたいなもンで、考えるために考えたりすることが多いんだけど、女は、いつか自分が主婦として家庭をまとめていこうとする本能のようなものがはたらいているから、男よりも実際的に物事を考えるんだわ……」 「僕だってただ破壊的に動くつもりはないよ。でも、ここの家では体裁を整えようとする力がのさばりすぎてるからな。……僕は風来坊で、考えるために考えていくんだ。家族の一員として、僕は、その方法でしか、自分の義務を果すことを知らないんだ……」 「それでいいわ。……ママの子供でも、私は好き──?」と、くみ子は、信次の目の中をのぞきこむようにして尋ねた。 「ああ。……僕はお前に一生なおらない怪我をさせちまったんだけど、お前にすまないという気持はあまりないんだ。自分の腕か足を怪我したような気持なんだ」 「ひどいわ。……惨酷だわ……勝手だわ。でも、そう云われて、私どこかで喜んでいるのかしら……」  くみ子はそう云って、信次の胸に頭を寄せかけていったが、すぐに離れて、 「おお、酒くさい! いやだわ! ……いつか私も結婚したらそういう酒くさいのも含めて、自分の夫という男が好きになるんだろうし、可笑《おか》しなようなものね。……お休みなさい。私、今夜、私達兄妹であるって再確認出来て、ほんとによかったと思うわ」と、手をちょっとふってみせて、室から出て行った。 (生意気な奴だ)と、胸の中で呟《つぶや》きながら、信次はまた寝台にふんぞりかえって、煙草をくゆらしはじめた。  そのころ──  銀座のレストランを出ると、雄吉は倉本たか子を送るために、車をひろっていっしょにのりこんだ。 「楽しかったですね……」 「ええ……。上等の席で、世界的なピアニストの演奏をきいて、帰りにレストランでお食事をして、それから礼儀正しい青年に送られて、自動車でわが家に帰る──。私はなんだか、身体が宙に浮いているような気持です。一ばんおしまいのわが家だけは、貧弱そのものですけど……」 「うまいことを仰有《おつしや》る。身体が宙に浮くなんて、とんでもない。私は、貴女《あなた》がいつでも自分というものをなくしないで、落ちついていらっしゃるので、驚いてるぐらいですよ……」と云って、雄吉は、たか子に気づかれないように微笑をもらした。  レストランで、くみ子が食べ残したビフテキをさっといただいちまう。──あんなのは、身体が宙に浮いている人間に出来る芸当ではない……。 「どうです。おぼろ月で気分がいい晩ですから、御迷惑でなかったら、街を少し歩いてみませんか」 「ええ、構いませんわ」  そう答えた瞬間、中年の運転手がバックミラーの中の自分の顔を、チラとのぞきこんだような気がして、たか子はつい往来に目をそらせた。  二人は駿河台《するがだい》下で車からおりた。ひろい交叉点《こうさてん》のあたりは人影がまばらで、自動車のヘッドライトが、舗道に燐光《りんこう》のような線を描いて通りすぎると、そのあとのひっそりしたくらがりの中に、ところどころ、都電のレールが、あるかなしのほのかな光をはなった。 「ねえ、たか子さん。もう一つお願いがあるんだけど、さっきはママもいるんで出来なかったし、僕、お酒を少し飲みたいんだがつき合ってくれませんか……」 「お伴しますわ。私、そういう所へ入ったことがないので、少し恐い気もしますけれど……」 「大丈夫ですよ。恐いことなんかありません。僕等、美容院に一人で入って行けと云われたら、ちょっと恐いような気がするけど……それと同じことですよ」  雄吉はたか子の背中に腕をまわして、電車通りを横ぎり、ネオンサインがまたたいている明るい裏通りに入って行った。そこには、飲屋や料理屋が軒をならべており、人々の話声や笑声なども聞えて、ほのかに活気が流れていた。  肩幅がひろく上背がある雄吉は、グレイの新しい背広を着て、胸のポケットから白いハンケチを垂れ、顎《あご》のあたりにうす青い髭《ひげ》のそりあとをみせて、匂うような若々しさを溢《あふ》れさせている。  たか子自身は、焦茶と紺の細縞《ほそじま》のスーツにナイロンブラウスをつけていた。  つり合いのとれた背丈の二人が、身体をよせ合って歩いていると、通りすぎる人達が、さまざまな目つきで二人を眺めた。そのたびに、たか子は、胸の底に、かすかな不安の念をよび起された。 (夜道を歩く時、男の人が女を保護するような形をとることは、単にエチケットというものにすぎないわ。……いまはまだ、そこまでの風俗が出来ていないにしても、いつかはそうならなければならないはずだわ……)  たか子は、背中に、雄吉の腕の温か味を意識しながら、そう云い聞かせて、自分に自信をつけるようにした。 「ここにしましょう」と、雄吉は「みみずく」という軒燈の出た、小さな山小屋風のつくりのバーの扉を押した。  うす暗い照明の室内では、四、五人の男達が酒を飲んでおり、レコードが低くジャズをかなでている。 「こっちがいいでしょう」と、雄吉は、赤い豆電気を灯《とも》したスタンドの所につれて行って、並んで高い椅子に坐《すわ》った。 「ボーイさん。僕はハイボールだ。こちらの御婦人には……ジンフィズがいいかな」 「いいえ、私はオレンジ・ジュースをもらいます……」 「がっかりさせないで下さいよ。そんな水っぽいものをそばで飲まれたら、僕の酒までまずくなりますよ。……口あたりのいい弱いお酒ですから大丈夫です……」  慣れない雰囲気の所に入り、足を地面から離して高い椅子に腰を下しているので、たか子は、それこそ宙に浮いているようで落ちつかなかった。しかし、珍しく、楽しい気分もなくはなかった。 「雄吉さんはお酒が好きなんですか……」 「まあ、好きですね。毎晩飲むというような好き方ではありませんが、気分が弾んだ時は飲みたくなりますね。……酒を飲む男、きらいですか?」 「いいえ、だらしなくなるのは困りますが、そうでないかぎり、髭が濃かったり、筋骨がたくましかったり、酒が好きだったり──ともかく、自分たちとちがうほど、女は男の人に魅力を感じる場合が多いんじゃないんでしょうか。自分たちと同じじゃつまらないんですものね……」 「それを伺って安心だ。ハハハ……」と、雄吉は白い歯ならびをのぞかせて笑った。  ボーイが、黄色い液体と白い液体を満たしたそれぞれのコップを、二人の前にさし出した。雄吉はその一つをとって、たか子の方にさしのべて、 「それでは、おたがいに友達になれたことを祝福して──」 「よろしく──」  二人はコップをカチリと触れ合せてから口に運んだ。たか子がガブリッと飲むさまをみて、雄吉は笑いながら、 「いくら弱い酒だってジュースとはちがうんだから、貴女みたいな飲み方をしてはだめだな……」 「いいの、酔っぱらうってどういう気分なのか、試してみてもいいんですから……」と、たか子は、なにか挑むような気配の目で、雄吉を見返した。 「大丈夫ですか──?」 「大丈夫よ。雄吉さんが御いっしょだから……」 「馬鹿に信用されちまったな。そんな形で信用されるのは、ちょっと息苦しいところもあるけど……」と云いながら、雄吉はポケットからシガレット・ケースをとり出し、一本ぬいて口にくわえた。  ボーイがマッチをすってそばに近づけた。と、たか子はふっとそれを吹き消してしまった。 「ちょっと待ってね。私がつけて上げますわ。人からもらったんですけど、一ぺんも使う機会がなくて……」  そう云って、ハンドバッグの中を掻《か》きまわし、いつか民夫からもらった赤いライターを探し出して、カチッとすった。  二度ばかりやると、油がきれかけてるような乏しい火がもえた。その火が、口を近づけてくる雄吉のカッチリと彫りの深い顔を、まぢかに、生ま生ましく浮き上らせた。 「ありがとう……」と雄吉は、満足そうに煙をふかく吸いこんだ。 「家へくるお仕事、つらくありませんか。ママにしろ、くみ子にしろ、信次にしろ、相当に癖の強い人物ばかりですから……」 「いいえ。……私もある限度の所まで参りますと、自分の云いたいことを、どなたにもハッキリ申し上げておりますから、別につらいとは思いません。……私みたいに出来ない人には、率直に申し上げますと、かなり肩のこる御家庭だと思いますけど……」 「その通りですよ」と雄吉は、テーブルの面をトンと敲《たた》いて、合いづちを打った。 「ママは、貴女をときどき、生意気な子だと思うことがあるらしいんだけど、それでいて何となく気に入ってるらしいんですよ。というのは、これまでママの周囲には、ママの意見になんでも従う人間ばかり集っていたんですね。いや、そういう人間でないと、ママはつき合えなかったわけですよ。  そこへ貴女が現われて、おとなしいんだけど、ときどきママに逆らい、ママをへこます正論を吐く。すると、ママは貴女が目ざわりだけど、何となく貴女に牽《ひ》かれる気持もある。つまり、へつらわないで、本気で自分の相手をする人間のよさ、といったようなものを、うすうす感じ出したんでしょうね。そうだと思いますよ……」 「私、そんなに立派だと嬉しいんですけど……。若い男の人が、向い合ってる若い女に対して、相手の人物について正論を吐く──ということは、たいへんむずかしいことだと思いますわ……。どうしても耳ざわりのいいことを云ってしまうんじゃないでしょうか……」 「僕の言葉を、そんな歪《ゆが》んだ聞き方をするなんて、貴女らしくもない……。罰として、もう一ぱい飲んでもらいますよ。……おい、ボーイさん。こちらにジンフィズをもう一つ……」 「すみません。ほんとは嬉しいんですけど、テレくさいからそう云ったんです……」  たか子は、雄吉のハイボールのコップをつまんで、鼻の先にもっていき、匂いをかいだあとで、一息にグッとあおった。  雄吉は、びっくりしたように、たか子の顔を眺めて、 「およしなさい、これは強いんですから。……酔っぱらいますよ」 「女は酔ってはいけないんでしょうか? ──こういう云い方を、からむと云うんでしょうね……」と、たか子はクスクス笑った。  雄吉も苦笑して、 「そのとおり。可愛いからみ方ではありますがね。……女だって酔っぱらっても構いませんよ。でもね、たか子さん、社会の実情に即さない理屈は、双刃《もろは》の剣みたいなもので、下手にふりまわすと、自分を傷つけますからね……」 「男と同じに、女も処女性などにこだわる必要がないなどという理屈もそうでしょうね……」 「まあ、いまの段階ではそう心得ていた方がいいでしょうね。将来はどうなるか知りませんけど……」 「例えば、雄吉さんはこだわりますか──?」 「……こだわりますね。ウソを見すかされて貴女に軽蔑《けいべつ》されるよりも、正直なところを申し上げて、頭の古い男だと思われた方がまだ増しですから……」 「ふだんはそう云っていて、実際の恋愛にぶつかった時は、あんがいこだわらなくなる。──私はそういう男性が希《のぞ》ましいと思いますわ……」 「たいへんしぶい御注文です。……僕もせいぜいそうなるように心がけましょう。……たか子さん、握手してもらえますか」  と、雄吉は微笑して、手をさしのべた。たか子もさしのべると、雄吉はそれを指先で軽くにぎってふった。  ボーイが、たか子のためのジンフィズと、雄吉が別に注文したソーセージとセロリーの皿を出した。それを見ると、青いセロリーをサクサクとかみたい動物的な感覚が、ふっとたか子の中に強く目ざめた。そして、サクサクと、それをかじってる間、たか子は、自分が、毛が白く目が赤いウサギにでもなったようで、たのしかった。 「もう一つ、ママが喜んでることは、貴女がいらしてから、くみ子がとても明るくなったことなんですよ。これあ僕も、あいつの兄貴として感謝していることなんです……」 「まるでお宅に天使が訪れたようでございますわね……」 「とんでもない。誰も貴女《あなた》を、天使のように去勢された人物だとは思っていません。下手に触れると、手にトゲがささる人だとにらんでいます……」 「それにしても、奥さまの買いかぶりでございますわ。くみ子さんと私が、ときどき、勉強をサボッて、男性や恋愛を論じたり、資本主義の悪をついたりしている所をごらんになったら、奥さまは卒倒なさるかも知れませんわ……」 「しかし、そういうことのために、現実にくみ子がよくなっていることが呑《の》みこめれば、ママだって鈍い人ではないんですから、名よりも実をとって、貴女のやり方を認めてくれますよ……。もちろん僕は大賛成です。いつか貴女にイヤがられましたが、プラトンのような人生教師うんぬんと申し上げましたっけね……」 「いまだって人生教師なんて言葉は、イヤでございますわ。くみ子さんと私の間の気持は、友だちというのがピッタリしております……」 「しあわせな奴ですよ、あいつは──。たか子さん、目のふちのあたりが、少し赤くなりましたよ」 「あら」と、たか子は、ハンドバッグから懐中鏡をとり出してのぞいた。  たしかに目のふちが異様に赤く、そのために目の光までがみだりがましいものに感じられた。 「私の顔、あまり見ないで下さいね。……汚らしいんですもの……」 「そんなことはありませんが、でも、ボツボツ引き上げましょうか。外の空気に触れると、すぐ酔いがさめますよ……」  雄吉が勘定を払うのを待って、スタンドの高い椅子から下りたたか子は、とたんにふらふらと二、三歩よろめいた。雄吉が支えてくれなければ、前にのめったのかも知れない。  戸外に出ると、二人は腕を組みながら、お茶の水の方へ、ゆるい坂をのぼっていった。空には、白い雲が足早に流れており、月が出たり隠れたりして、そのたびに、地上の物の影が現われたり消えたりした。 「苦しかありませんか?」 「いいえ。いい気分ですわ。……お食事の時、ビールを一ぱいいただいて、それからいまジンフィズを二はい……。そうすると、こんなに酔うのかしら。……田舎の父がお酒が好きで、酔うと気前がよくなるものですから、私たち子供のころ、父が酔っぱらうとお小遣をねだったりしたものですけど、父の気持が分るようですわ……」 「陽気でいいですね……」 「ええ。フワフワと軽く浮き上るようで……。父と同じに、私もいま、ねだられたら、自分の身についたものは何でも上げてしまいたいような気持ですわ……」 「────」  雄吉は黙って、たか子の横顔を眺めた。目がキラキラと光り、額から首筋まで、柔かいが引きしまった輪郭の線が、たしかな感じで、うすい暗がりの中に浮いている。そして、絡み合った雄吉の腕に、遠慮なしに、身体の重みをよせかけて来ているのだ。 (危いようなことを平気で口走って、しかもつけ入るスキを感じさせない。……変った女だ……) 「あの……いつか、くみ子さんとお話したことがあるんですけど、雄吉さんは、女というものを軽蔑しているんじゃありませんか……」 「どうして僕が軽蔑するんです?」 「いつも冷静に冴《さ》えた頭と目で、女を見てるからだと思いますけど……」 「それこそ、僕を去勢された人間に考えてるわけで、心外の至りですよ。僕だって年相応の野性に燃えております……」 「でも、そうでもなければ、いろんな条件が揃いすぎてるのに、恋人を持たない理由が分らないって、くみ子さんが云ってましたわ」 「……貴女もそんなことに興味を感じるんですか?」 「ええ。感じますわ」と、たか子は逆うような調子で答えた。 「困りましたね。……それでは、失礼ですが、僕の方からも尋ねさせてもらいますが、貴女は恋人がいらっしゃるんですか?」 「いいえ、おりませんわ」 「貴女がいつも、冷静に冴えた頭と目で、男というものを見ているから、男というものを軽蔑しているからじゃないんですか?」 「そんなことはありません。……私はいまのところ、ほかの仕事はやらず、奥さん業と主婦業に自分の生涯をかけるつもりでおります。それだけに、つまらない相手をつかみたくないと思いますから、つい手軽に恋愛など出来なくなるんです……」 「たいへんハッキリしてますね。……そうですね、僕の場合、決して女の人を軽蔑などしていません。しかし、僕は、自分で自分をコントロール出来なくなるほど、強い影響力のあるものを、まだ待ちたくないという気持なんです。それと、医学をやってるものですから、女とかぎらず、一ぱんに人間を、現実的に見る傾向があるんでしょうね……」 「分ったような、分らないような。……でも、あとお尋ねしませんわ。これ以上お尋ねするには、女らしくない言葉を口にしなければなりませんから……」  雄吉は内心ホッとした。そういう問題には、あまり触れてもらいたくなかったのである。  二人は、お茶の水の橋の手前から、水道橋にぬける、静かな住宅街の方へ曲っていった。厚い塀に囲まれた両側の家々は、もうひっそりと寝しずまっており、ところどころにある病院の建物も、窓々のあかりがおおかた消えて、夜空にくろぐろとそそり立っている。  時おり、右手の崖下《がけした》を、国電が凄《すさま》じい轟音《ごうおん》をひびかせて通りすぎていった。その轟音が、周囲のブツブツした細かい物音を根こそぎさらって、遠ざかり消えてしまうと、後に残された真空のような静寂の中から、舗道を踏む二人の絡み合った足音が、コツコツと浮び上ってくる。その音は恐いほど四周に響きわたる。そして、二人でいるんだな──という思いが、たか子の胸をヒタヒタとたたくのであった……。 「──たか子さんはね、信次をどう思いますか……」 「信次さんですか。……正直に申しますと、私きらいですわ。憎んでるほどではありませんけど……。あの方、気紛れで、粗野なんですもの……」  云ってしまって、たか子は自分でもびっくりした。信次がきらいだなどと考えたことは、一ぺんもなかったからである。 「たしかにそうです。しかし、そういう外見の中に、あいつは光った才能を秘めているんですがね。僕はときどき、あいつにジェラシー(嫉妬《しつと》)を感じることがあるぐらいです……」 「そうなんでしょうけど……私は信次さんの内部のものが見えるほど、身近にいるわけでもございませんし、自分に感じられるかぎりでは、きらいだと申し上げるしかございません。同じお母さまの子供として、私は、信次さんがもっと、自分というものにほこりを持つべきだと思うんですけど……」 「残念ですね。だんだんあいつのいい所を分ってもらうようにと願うしかありません」と、雄吉はわきを向きながら云った。  右側の人家がつきて、急な坂道の頂上に出た。そこに立つと、街の夜景がひろびろと見はらされた。灯の海と形容してもいいぐらい、いちめんに光の粒がばらまかれている。 「まあ、きれい」  たか子は、崖ぎわの柵《さく》に両手をついて、夜景に見入った。雄吉はそばに立って、口笛で「誇り高き男」を吹き出した。 「空車」の赤い札を出したタクシーが、二台ばかり、二人のそばに寄って来ては通りすぎていった。 「貴女のアパートはどの方向になりますか?」 「だいたい向うの方ですわ」と、たか子は、都電が走っている巣鴨《すがも》の方を指さした。 「これからお宅までお送りして、ついでに貴女のお室を見せてもらいたいんだけど……」 「困りますわ。お宅とはあまりちがいすぎますから……。でもどうぞお立寄り下さい。お茶を一ぱいだけ差し上げますから……」  二人は水道橋に下りると、そこで車を拾って、たか子の住んでいる「あやめ荘」へ駛《はし》らせた。  室に入ると、たか子はさっそく湯をわかしはじめ、雄吉はもの珍しそうに室の中を見まわしていた。 「なかなか気持のいいお城ですね」 「ええ、少くも私にとっては……」 「僕、ときどき寄せてもらおうかな……」 「ええ、ほんのときどきでしたら……」  なにかひっかかる言葉だな、と雄吉は思った。その時、ドアをたたいて、 「おねえちゃん、帰ったのかい。僕、さっきも来てみたんだぜ。おそかったな……」 「民夫さん? 入ってもいいわ……」 「うん」  ドアをあけて、もうパジャマに着更えている民夫が顔を出したが、 「あっ、お客さんじゃないか。失礼。……僕、帰るよ。おねえちゃん、おやすみなさい……」と、すぐに引っこんだ。 「おやすみなさい……。近くの室に住んでいる人なんです。私に馴《な》ついて、ときどき遊びに来ておりますの。……お母さんと二人ぎりで自分はどこかでジャズの歌手をしてるんだと云ってます……」 「へえ。……どこかで見たことのあるような感じの顔だな……」 「あら。私もはじめて会った時、そう思いましたけど、誰に似てるのかと思い出せないうちに忘れてしまいましたわ……」  たか子は、室のまん中のテーブルの所にお茶を二つ運んで来た。 「いまの青年──ある時の信次の感じに似てるとは思いません?」 「あら! そうでしたわ! ときどき信次さんが見せる感じにそっくりですわ! 私、どうして気がつかなかったのかしら……」 「お母さんという人は何してるんです?」 「料理屋の女中さんだと云ってましたわ。昔は芸者さんをしていたとか──。高木トミ子さんという名前ですわ」 「ふーん。芸者をね……」  お茶を飲み干すと、雄吉は急にあたふたと帰っていった。身体の中でまだ音楽が鳴ってるような楽しい思いでいるたか子は、雄吉の表情が硬化していることには気がつかなかった……。 [#改ページ]  [#2字下げ]「オクラホマ」で  土曜日の午後三時ごろだった。  倉本たか子は、学校の図書館から出て、校門の方に歩き出した。と、門を出たところで、後から自動車がやって来て、たか子を追い越して止まった。窓から、山川主事が顔をのぞかせて、 「きみ、家へ帰るのかね?」 「いいえ銀座へ出るんです……」 「そんなら乗り給え。私は神田《かんだ》まで行くんだが、ついでだから乗っけて行ってあげよう……」 「あら、うれしい。それではお願いします……」  たか子は、車に乗って、山川と並んで坐《すわ》った。 「この車は田代君のものでねえ。話があるから会社まで来てくれって、迎えによこしたんだよ……」 「あら、私もこれから尾張町《おわりちよう》の角で、くみ子さんと落ち合うことになっているんです……」 「おやおや。映画でも見るのかね?」 「いいえ。ジャズをやっている喫茶店があって、そこにくみ子さんの好きな歌手が出てるので、それを聞きに行くんです……」 「結構な話だな。きみ、ジャズが好きなのかね?」 「きらいではありません。……でも、私には、今日のことは、くみ子さんの人柄を理解する上で興味があるだけですわ。あの人を少しずつ理解していくことは、私のひそかな楽しみみたいになって来ておりますの……」 「ふーん。……私はあの子に、いい人を教師に世話したようだな……」 「いいえ。くみ子さんの人間に、それだけの魅力があるんですわ。知性も十分にあって、それでいて荒けずりだし、率直でありながら、どこかひねくれているし、矛盾だらけな所がいいんだと思いますわ。いま矛盾してるものが一つに融け合ったら、すばらしい人になれそうな気がするんです……」 「人は誰でも自分とちがったものに牽《ひ》かれるようだな。……あそこの両親の希望は、貴女に、くみ子さんを常識的な人間に感化してもらいたいということだろうね……。ともかく、田代夫妻としては、三人の子供達の中の信次君とくみ子さんについては、小さな爆弾を二つ抱えこんでいるような気持でいるんじゃないのかな。ハハハ……」  と、山川は面白そうに笑った。たか子は、ふっと考えこんで── 「私、自分が母親になった立場で考えますと、子供に対して安心しきった気持でいるよりも、不安と期待と相半ばした気持でいる方が、生甲斐《いきがい》があるような気がしますけど……」 「つまり、自分の子供が、ビクビクして、平板な安全地帯の生活にすがりついていることを希《のぞ》まないというのかね?」 「そうも云えると思います……」  自動車は、人通りの多い土曜日の午後の往来を、ゆっくり駛《はし》っていった。  山川は、ふと気づいたように、ニコニコ笑いながら、 「どうだね、変り者の信次君は、君に親切にしてくれるかね?」 「ええ、それは──」  信次が親切だと答えようとしたたか子は、急に途中でひっかかって口ごもった。というのは、いつかの音楽会の帰り道で、雄吉に向って二度も三度も、ハッキリと信次がきらいだと云いきったことを思い出したからである。  何故あの時、あんなことを口走ったのであろう。ふだんは、信次の人柄を、不作法だとか、こっけいだとか、風変りだとか感じている程度で、きらいだというような強い感情は、決して抱いていないのだ。それなのに、あの時雄吉といっしょにお酒を飲んだり夜道を散歩したりしてる間に、信次がきらいだと、繰りかえし雄吉にきかせたくなったのは、どういうわけなのであろう?  酒が入ると、ちょっとしたことでも、大げさに誇張して表現したくなるのであろうか? それとも、信次がきらいだと云い切ることで、別な気持を相手に伝えようとしたのであろうか。そうだとすれば、その時、自分の中には、どんな気持が潜在していたのであろうか……。  また、何か別の気持を伝えるために、それを率直に伝えず、第三者を傷つけるような方法をとってもいいものであろうか? ……  いや、決してそんなことではなく、あの時は、酔っていたために、勢いで大げさに物を云ったにすぎないのだ……。  たか子は、これまで、あの晩のことを思い出しても、それには触れないようにして来たのだが、いま、山川に、何気なく信次のことを尋ねられると、押えつけていた反省が、いちどにドッと彼女の頭の中に湧いて来たのである……。  ともかく、ある人をきらいだと公言することは、責任が伴う重大な発言なのだ。いま山川からきかれて、そう答える気持は全然ないのだが、それだからって、雄吉の場合とちがう答えをすることは、自分が信実性を欠いた人間であることを、自ら認めるようなものだ。だから、いまそんな気持があるなしにかかわらず、一たん公言したことは、それで貫かなければならないのだ……。  短かい時間の間に、そんな考え事が、たか子の頭の中に去来した。 「どうしたね、云いづらいことなのかね。あの先生、だいぶ変ってるからね……」  山川は、云いしぶってるものを引き出してやるように云って、たか子の顔をのぞきこんだ。 「先生、私、率直に云いますけど、信次さんがきらいなんです……。粗野で、不作法なんですもの」  云ったとたんに、一とにぎりの塩を口に押しこまれたような不快な後味が、身体中にみなぎった。 「きらいだ──。それあ困った。そういう言葉は、よっぽど考えてからでないと、云うべきではないな。かるがるしく人をきらうことは悪徳ですよ、きみ……」と、山川は無意識のうちに、珍らしく強い言葉で、たか子をたしなめた。 「でも、先生。ウソを云うのは、もっと悪徳だと思いますし、私、正直に申しますわ。信次さんを、私、きらいなんです」と、たか子は、表情を硬《こわ》ばらせて頑固に云い張った。 「そうかねえ。そうだとすれば、君の感じ方は何かの誤解にもとづくものだ。……私は、小さい時からの信次君を知ってるんだが、君にきらわれるような人間じゃない筈《はず》だ。……そのうち、君にもだんだん分るようになりますよ。君はまだ交際も浅いのだし、もう少し慎重に構えて、好き嫌いを軽々しく口外しないようにし給え……」 「先生がお尋ねになったのですから、私はきらいだと……」 「いいよ、いいよ。もう分ったよ。君は少し無理して云ってるようだね。何かあったんだろう……。ともかく、その話はやめよう……」 「すみません……」  たか子は、涙が出て来そうで、それを押えるのに一生懸命だった。 「でもね、山川先生。雄吉さんと信次さんと、同じお母さまから生れて、どうしてあんなに性格がちがうんでしょうね?」 「それあ、まあ。……君、身近の人達の人物批評はやめよう。陰口みたいになっても困るからね」 「……こないだ、音楽会の帰り、雄吉さんが送って下さって、私のアパートの室に、十分ばかりお休みになっていきましたわ」 「ふん。それあ親切なことだ……」 「途中で、二人で、お酒を少し飲んだりしましたの。いけないでしょうか、先生」 「君はもう大人だから、自分で判断しなさい……」 「私の判断では……楽しかったと思いますわ」 「楽しいというのが、判断になるかね、君?」と、山川は苦笑しながら云った。  たか子は、それに拘《こだ》わらず、 「あっ、先生。私たちお室でお茶をいただいていますと、高木さんとこの民夫さんが、もうパジャマに着更《きか》えて、入口に顔をみせたんですよ。お客さんがいるので、すぐ帰りましたけど、そのあとで雄吉さんが、民夫さんの顔の感じ、ある時の信次さんのそれにそっくりだと云ったんですよ。私も、はじめて会った時から、誰かに似ていると思いながら、どうしてもその誰かが思い出せずにいたんですけど、そう云われてみると、たしかに信次さんのある時の感じにそっくりなんですよ。可笑《おか》しかったわ……」 「──それで、雄吉君は、民夫君のことを君にいろいろと尋ねたんですか?」 「ええ。尋ねられて、私が、簡単に答えたと思います」 「どんなこと──?」 「母一人子一人であること、本人はジャズ歌手で、お母さんは料理屋の女中さんで、昔は芸者さんだったことやなど……。私、軽はずみだったでしょうか?」 「そんなことはない。……決して……そんなことはない」と、念を押すのが、たか子には、自分の軽薄さを裏書されたようにも感じられた。 「先生は、民夫さんと信次さんが似てると思いませんか……」 「いや、べつに……」と、山川は言葉を濁した。 「可笑しいわ。雄吉さんと私はハッキリそう感じたのに、先生がなんともお感じにならないなんて……」 「似てるとか似てないとかは、主観的な問題だからな……」 「私、信次さんに遊びに来ていただいて、二人を並べてみようかしら……」 「私を試しているんだね、きみは──?」と、山川は不快そうに云った。 「だって先生、高木さんとこのお話が出ると、急に固苦しくなるんですもの……」 「それあまあ、何かあるかも知れないし、ないかも知れないし……しぜんに分る機会を待ってるんだな……。それはそうと、きみ、田代家からどれだけ月給をもらっているの?」 「はじめの月は参千円でした。……いまは五千円いただいております。くみ子さんの学課の勉強をみてやるほかに、今日みたいなおつき合いがいろいろあって、時間をとられるからだそうです……」 「きみはその分だけ、家からの送金を減らされているの?」 「いいえ。うまいものを食べたり、本を買ったり、ほんの少しは貯金したりしております。今度、先生におごって上げますわ」 「ああ、私にはその権利があるようだな。ビールぐらいなら遠慮しないでもいいだろうね。ハハハ……。きみ、尾張町だよ……」  たか子は自動車から下りた。車で来たために、約束の時間にはだいぶ間があるので、近くのデパートに入ってみた。そこで、くみ子に似合うような、花の模様のブローチを見つけて買った。  そんなことで時間を過してから、四時ごろ、舗道に出て待っていると、間もなく、地下鉄の出入口から、くみ子が上って来た。紺の制服めいたものを着て、黒の靴下、黒の靴を穿《は》いていた。それはそれで、清楚《せいそ》な感じが漂っていたが、街の喫茶店に行くのだし、思いきって派手な服装をしてくるものと予想していたたか子は、少しばかり意外に感じた。 「お待ちになった、先生?」 「ええ、学校の門を出ようとしたら、山川先生が車にのっていらしって、ここまで乗っけて来て下すったので、デパートに入ってましたわ。山川先生、お父様の所に行くんですって……」 「それで、先生、私達がどこに行くかお話なさいましたの?」 「ええ。わるかったかしら──」 「いいえ。ただ私、ママには、先生といっしょに映画を見るからって云ってあるの……」 「教師の私がみて、それぐらいのウソは差しつかえないものと判断しますわ。……そんなことよりも、くみ子さんがひどく地味な恰好《かつこう》をしていらしったので、驚きましたわ」 「私の好きな歌手、ジミー・小池って云うの。ハンサム・ボーイだわ。私って、そういう男の人のいる所に行く時は、殊さら野暮ったい身なりがしたくなるの。ひねくれてんのね……」 「どうだかな。みんなが派手にしてる所へは、地味な服装で行った方が、かえって目立つという手もありますわ」 「意地わるね、先生は──。でも、あんがい、私の気持を探っていったら、そんなことかも知れないわ。私って一と筋なわではない人間のようだから……」  二人は肩を並べて、並木通りを新橋寄りの方へ歩いて行った。間もなく、 「この家です、先生──」と、くみ子が立ち止ったのは、窓の少い、大きな二階建の白っぽい建物の前だった。  入口の上の方に──ジャズ・喫茶・オクラホマ──と黒く浮彫してある。 「大丈夫? 中が暗そうで、少し恐いな」と、たか子は、ためらって、周囲を見まわしたりした。 「それは明るいってわけにはいかないけど……。入りましょう、先生」  くみ子はたか子の手を曳《ひ》いて、入口の方に近づいた。と、白い制服のボーイが、内側から扉を引いてくれた。 「いらっしゃい。ずいぶんお久しぶりですね。……ボックスのいい席があいてますからどうぞ……」  ボーイは、左手の壁際の、一段高くなったボックスに二人を案内した。  正面は、バックに黒い幕をたれた小さな舞台になっており、ピアノやバスやドラム等の楽器が、白っぽい光線を浴びて、さむざむとした感じで置かれてあった。  その舞台を半ばとりまくようにして、こちら側はひろい客席になっており、うす暗い照明の中に、一ぱいの客がつめかけているのが分った。そして、いまは休憩時間なのか、レコードが金属的なジャズのメロデーを流していた。ワアーッと頭におおいかぶさって来そうな強い音度だ。 「入ってるのね」と、くみ子が、顔馴染《かおなじ》みらしい調子でボーイに話しかけた。 「ええ、いまジミーの人気はものすごく上って来ましたからね。歌に調子が出て来て、一日何回もきいてる僕なんかでも、うっとりしますからね」と、まだ若い、ひょうきんな顔立ちのボーイは、お世辞でもない調子で云った。 「トンちゃんやハアちゃんも来てる?」 「はい。トンちゃんは、一昨日だったかいらしったけど、ハアちゃんはこのごろお見えになりません。……御注文は──?」 「コーヒーとケーキ。……コーヒーは封切りのとこよ」 「はい。……パゲちゃんにはかなわないな」と、若いボーイは肩をすくめてみせて、立ち去った。 「貴女《あなた》、顔なのね。トンちゃんだのハアちゃんだのってのは──」 「お友達──。ここではみんなあだ名で云ってるの」 「貴女のパゲちゃんは──?」 「中学の一年生のころ、英語のページ(Page)を、うっかりパゲと読んでしまったの。それからパゲちゃんよ……」 「こんなとこが顔だったり……呆《あき》れたパゲちゃんだわ……」  二人は顔を見合せて笑った。  目がうす暗がりに慣れたたか子は、客席を注意ぶかく見まわした。そして、くみ子と同じような、紺の制服をまとった、お化粧のない、ティーンエイジャーの女学生がたくさんいるのには驚いた。男も若い連中が多く、空になったコーヒーのカップを前にして、あまり口もきかずに、演奏がはじまるのを待っている。  大人の客は、外国人の男女が多く、男達はお酒をやりながら、レコードに合せて足拍子をとったりしている。 「……大したものね」と呟《つぶや》いて、たか子は思わず嘆息をもらした。 「どうしてですか?」 「私、こんなとこって、いくらか不健全な気分が漂っているものだと思っていたのに、若い人達でキチンとした雰囲気を盛り上げてるのに感心しちゃった。……それとも、こんなとこでボーイフレンドが出来たりするんですか?」 「そんなことをしたら軽蔑《けいべつ》されちゃうわ、先生。ここでは音楽をきくだけです……」 「ジャズってそんなに魅力がある?」 「ときどき煩わしいと思うし、ときどきはすばらしいと思いますわ」  さっきのボーイが、コーヒーとケーキを運んで来た。 「封切りですよ。パゲちゃん」 「そう?」と、くみ子は一口味わってみて、 「たしかに出がらしではないわ」 「チェ! せっかくバーテンに云って、新しいのをつくらせたのにひどいや。……あのね、パゲちゃん、もう二、三週間もしたら、僕も舞台に出られるかも知れないんですよ。ここみたいな一流のステージじゃないんだけど……。ジミー・小池が骨折ってくれたんですよ。ジミーは若いけど苦労人だから、僕等のことでも親身になってくれるんですよ。……もし、ステージに出るようになったら、僕のところへも聞きに来て下さいな、ねえ」  おでこが広く、顎《あご》が長い、ひょうきんな顔立ちのボーイは、くみ子の上に屈《かが》みこんで、熱心に喋《しやべ》りまくった。くみ子は、首を縮めて、 「それあお目出とう。……でも、もう少し私から離れてちょうだいな。ニキビ臭くっていやだわ」 「チェ! 自分だって、デカイのを出してるくせに……」 「お客に対して失礼だわ。……ジミー・小池はそんな苦労人なの?」 「そうですとも、パゲちゃん。小さい時から、お父さんがいないんで、ジミーとおふくろさんは、御飯も満足に食べられないような生活を、何べんとなく経験したんだって……」 「そう。……その割には貧乏たらしい影がない人ね。明るい感じだわ」 「そこがジミーのえらいとこなんですよ。そんな暮しをして来ても、人柄が卑しく染まってないんですからね。それにおふくろさんを大切にしてさ。……よかったらジミーを紹介しましょうか」 「いらない!」と、くみ子はハッキリことわった。 「つき合ってみて失望するよりも、遠くからファンでいた方がいいわ……」 「いい男なんだけどな」と、ボーイは残念そうに云った。  たか子は、自分も歌手が志望らしい、こっけいな顔立のボーイと、パゲちゃんことくみ子との会話を、半ば感心したような気持で聞いていた。相手を見下しもせず、それかと云って相手がつけ入るスキも見せず、適当に捌《さば》いていくくみ子のやり方には、独特の安定感のようなものがあって、たか子の目を見はらせたのである。 「ジミーは今日なにを唄うの?」 「それがすばらしいんですよ。ジョニー・レイばりで、『雨に唄えば』『クライ』『白い雲』『ブルースを唄おう』など、六曲唄うんですよ。ぞくぞくしちゃいますよ、まったく……」と、ボーイは大げさに肩をすくめながら云った。 「そう。楽しみだわ。……でも、貴方、ここばかりおってはだめよ。あんなに新しいお客がつめかけて、まごまごしてるじゃありませんか。……私のそばから離れられないというわけでもないでしょう……」 「チェ! パゲちゃんの仲間は男よりも口がわるいんだから……。行きますよ。行きあいいんでしょう……」と、おでこのひろいボーイはぶつぶつ云いながら、入口の方にたまった客をさばきに行った。 「──くみ子さんは、よっぽど長くここに通ってるんですか?」と、やっと自分が口を利く機会をつかんだたか子は、嘆息まじりにそう尋ねた。 「いいえ。好きな楽団や歌手が出てる時だけですから、それほど通ってるわけでもありません」 「そう。……貴女が息を吐きかけると、どんな環境でも、ある程度健全なものになるようで、感心しちゃった。ここでは、貴女が先生で、私が一年生みたいなものですわ……」 「すみません。あっ、もうはじまりますわ、先生」  水色の照明が、小さな舞台を照らし出すと、紺の制服の若いジャズメンが登場して、それぞれの楽器の部署についた。そして、演奏がはじまった。  トランペット、テナーサックス、ギター、ピアノ、ベース、ドラムといった編成のもので、弾きまくり、吹きまくり、打ちまくるといった風のドライな演奏ぶりだった。たか子が知ってるのでは「チャイナ・ボーイ」とか「特別航空便」という曲があったが、室内に溢《あふ》れた若い聴衆は、それらの強かったり弱かったりする感覚的な音色にすっかり溶けこんで、音楽をきくというよりは、自分達が音色を出しているかのような陶酔にひたりきっているのである。  トランペットやテナーサックスが、神経を曳き出すようなメロデーを奏でる。ピアノの滑かな連続音が胸に忍び入ってくる。そして、ドラムが爆発する……。  熱心に舞台を見つめているくみ子とたか子は、ふと顔を見合せることがある。すると、たか子は、くみ子の目の中に、遠い原始の記憶をよび起してるような、うつろな表情をよみとるのであった……。  楽団演奏につづいて、女の歌手の唄が三曲ばかりあり、司会者はそこで、ジミー・小池の名を呼び上げた。  場内にはワアーという騒音や口笛の音が起った。  黒の背広をつけた、スタイルのいい若い歌手が、スポットを浴びて舞台に登場した。 「ジイミイ!」と、くみ子が目の前で、大きな声でわめいたので、たか子は、椅子からずり落ちそうになるほど驚いた。  もう一つ重なった驚きは、舞台で、マイクの前に、はにかんだような表情で立っている人気歌手のジミー・小池は、なんと朝晩に顔を合せている甘えン坊の高木民夫なのだ。 「あら! ──」と烈しく呟いたたか子は、それぎり呼吸を呑《の》むようにして、舞台に目を注いだ。  ジミーが唄い出した。歯ぎれのいいバリトンで、派手な身ぶりと表情をまじえて、ゆっくり気分を滲《にじ》ませて唄っている。声量もあるし、フィーリングも自然だし、熱情的でホットな魅力にあふれた唄い方だ。たか子は、くみ子の存在も忘れて、舞台に気を奪われてしまった……。  一曲終るごとに、口笛やらかけ声やらの混じった、さかんな拍手が起った。すると、ジミーは、はにかんでる子供のように、長い身体をぎごちなくくねらせて、うつむいたり、急に天井をみ上げたりする。聴衆がクスクス笑う。ジミーもてれて苦笑する。──そして、そういうことが、狭い舞台と客席に、溶け合った親近感を漂わせるのであった。  何番目かの曲を唄おうとして構えた時、客席から、若い女の声で、 「ジミーちゃん、ネクタイが曲ってるわ」と叫んだ。  場内はゴウと笑い出した。ジミーは頭をかいて、後に向き直り、テナー・サックスの楽士に、ネクタイの曲りを直してもらった。──民夫を知ってるだけに、たか子は、そんなことがよけいに可笑《おか》しくって、つい涙が滲んだりした。  ふと気がついて、くみ子を見ると、彼女は口を半ばあけて、白い歯を現わし、溶け入りそうな微笑を固定させて、魂が失せた人間のようにポカンと舞台を見つめていた。──なにかすがすがしい感じだった……。  ジミーの番組は、アンコールに「パパ・ラヴス・マンボ」「ジラス・ラバー」を唄っておしまいになった。聴衆はザワザワと立ち上った。それに混じって、 「ジミー、サインしてよ」と叫ぶ女学生達の声が聞え、赤い表紙のサイン・ブックを高く差し上げるのが見えた。 「あいよ……」と、ジミーは気軽な返事をして、舞台から下り、二、三の女学生の所に行ってサインをし、着かざった中年の女のテーブルでは、笑いながら何か挨拶《あいさつ》などして、それから客席を泳いで、まっすぐにたか子達のボックスにやって来た。ニコニコ笑っていた。  事情を知らないくみ子は、身体の構えを固くして、たよりなげにたか子の顔を眺めた。 「やあ、おねえちゃん。どうしてこんなとこに来たんだい? 誰かに教わったのかい?」と、ジミーの民夫は、くみ子をチラと横目で見て、たか子の隣のあいた椅子に坐《すわ》った。 「いいえ。この方のおつき合いで、ジミー・小池を聴きに来たら、それが民夫さんだったというわけなの。……どうしてジミー・小池なの貴方《あなた》は──?」 「しようがないじゃないか。芸人だもの。……それにさ、聴きにくる人にわるいけど、本名を名のるような芸じゃないものな。サル真似にすぎないよ。……だからジミーなんだよ。小池ってのは、おふくろをひどい目にあわせた僕の親爺《おやじ》の姓なんだよ。請負師だったってさ……」と、民夫は、いくらかくみ子を意識しているような調子で云った。  そのくみ子は、固くなって、テーブルの面をじいと見つめている。憧《あこが》れのジャズ歌手が、自分が案内して来たはずのたか子の知人であることに、複雑な感慨をもよおしたものらしい。 「あっ、御紹介しますわ。こちら、私の……お友達で、田代くみ子さん。貴方のファンですわ。……こちらは高木民夫さん。民夫さんと私は、同じアパートに住んでるんですよ、くみ子さん……」と、たか子はくつろいだ調子で双方を引き合せた。 「ぼく、高木民夫です。よろしく……」 「私、田代くみ子です。どうぞよろしく。……それから倉本さんは、お友達でなく、私の先生ですわ」  二人は、こもごも、腰を浮しかけて、切口上で挨拶した。 「民夫さん──というよりも、ジミーかな。その方が感じが出るわね。それで、ジミーは、舞台から眺めていて、くみ子さんの存在を知っていたの?」 「それあ知ってたさ。……慣れてしまえば、舞台からは、よく見えるものなんだぜ」と、民夫が無邪気に答えた。 「私は歩き方が変ってるから、すぐ目につきますわ」と、くみ子は横を向いて、コツンとした調子で云った。 「ちがうよ!」と、民夫は、子供らしいむッとした調子で否定して、たか子の方へ訴えかけるように、 「あのね、この人の顔、舞台から眺めてると、目がキラキラ光って、とても印象ぶかいんだよ。僕はそのたんびに(ああ、このお嬢さん、こんな空気のわるい所へ出入りしない方が、ずっといいのになあ……)と思ったりしながら、舞台で唄っていたのさ。……だから、ちゃんと、顔を見覚えていたんだよ……」 「そう。おたがいにいい印象を与えられていたようで、両方を知っている私としても、立場がよかったわ。……ジミーは、ここの空気がわるいように云うけど、はじめて来た私は、若い人達がキチンとした雰囲気を盛り上げているのに感心したぐらいだわ」 「おねえちゃんは、人が好いから、すぐ感心しちゃうんだ。こんなとこでダメになる娘さんだって、ないことはないんだぜ。……あ、おねえちゃん、僕、次の出番までタップリ時間があるし、お二人に晩飯をおごりたいんだけど、つき合ってくんない? ここらは、縄ばりだから、安くて甘《うま》い物を食わせる家を知ってるんだ。……昨日は月給日で、財布もふくらんでるしさ……」と、民夫は、尻《しり》ポケットを上からたたいてみせた。 「どう、くみ子さん。ジミーの御馳走《ごちそう》になりましょうか。どうせ大した御馳走は出っこないんだから、気らくにお考えになってもいいわ。行きましょうね……」 「ええ。先生さえよろしければ──。でも、私、ママには、夕飯は家に帰っていただくからって云ってきたの……」 「いいわ。私、ママに、うまいことお電話しておきますから……」  そのやりとりを見ていた民夫は、大げさに手をひろげてみせて、 「先生がそんな悪知恵をさずけて、いいものなのかね、おねえちゃん……」 「人がいる所だけでも、そのおねえちゃんというのやめてもらえない……おでんやかなにかの小女《こおんな》みたいで、いやだわ……」 「あーら、先生。親しみぶかくっていいな、と私は思ってましたわ」 「どうぞ御勝手に……」 「怒るなよ、おねえちゃん。僕、もうそう呼ばないよ。……ちょっとマネジャーに断わってくるからな。この家の前で待っててくれよ……」と、民夫は奥の楽屋口の方へ引返していった。 「まったく奇遇だわ。私、さっき、あのボーイさんが、ジミーは母一人子一人で苦労して来たとか、親孝行だとか云っているのを聞いて、どこかに似た話があったっけとボンヤリ考えたりしてたんだけど、本人ズバリだったんですものね……」 「────」  くみ子は頬を赤く上気させて微笑していた。まだ緊張がほぐれてないのだ。  二人は戸外に出た。あたりはもう暮れきって、街にはネオンサインがはなやかに灯《とも》っていた。人の通りも多く、土曜日の夜の解放されたような気分が、そこはかとなく漂っていた。 「私ね、さっきデパートで、このブローチを買ったの。すぐに貴女の首に下げてもらうつもりで……。まさか、制服でくるとは思わなかったから……」と、たか子は、ハンドバッグから、花の模様のブローチをとり出して、掌にのせて見た。  くみ子はそれを受けとって、 「あら。スッキリしてますわ。……いただいていいんですか。制服だってかまいませんわ」と、ブローチを首に下げた。  と、民夫が「オクラホマ」の横の細い露地から、駈《か》けるようにして出て来た。 「お待ちどおさま。……トンカツ食べるでしょう。それが大きくっておいしいんだ……。スープもつきますよ。おねえちゃんは、パンと御飯とどっちがいい」 「御飯がいいわ。おしんこもつけてくれるとなおいいけど……」 「僕がそう云うよ。……あの、くみ子さんはトンカツ食べますか?」 「────」  くみ子は、返事の代りに、首でうなずいてみせた。  三人は歩き出したが、その時は偶然、民夫が真中になっていたのに、くみ子はわざわざ後からまわって、たか子の横になった。 (珍しくこだわってるわ……)と、たか子はふと微笑ましく感じた。  民夫は少し先きに立って、露地を二つばかり抜けると、やはりそうした露地の一つにある、小さな食物屋に二人を案内した。  入った所が調理場になっており、右手の方に細長く客席がつづいている。ちょうど食事時のせいか、客が相当にたて混んでいた。  調理場であげ物をしている、肥《ふと》ったコック服の親爺が、 「いらっしゃい、ジミー。……奥の室が空いてますよ」 「そうか。上るよ。……小父さん、A食を三人分ね。それから何か御婦人の飲物をね……」  土間のつき当りが、畳じきの小さな客室になっていた。三人はそこに上った。 「まったくオドロキだったなあ。舞台から、はじめに田代さんの顔に気がついたんだ。あ、あのお嬢さん来てるなと思って、ヒョイとその前を見ると、おねえちゃんがいるんで、僕はドキリとしたよ。もう少しで歌の調子をはずすところだったよ。いやな奴が来やがったと思って……。ハハハ……」 「どうして私がいやな奴なの?」 「僕はね、ぜにもうけの仕事の現場を、知っている人に見られたくないんだよ」 「私こそオドロキだったわ。貴方が舞台に出る。くみ子さんが『ジミー!』とわめく。それに度肝《どぎも》をぬかれて、舞台で正面向いたジミーを見ると、それが民夫さんでしょう。……息がつまるようだったわ。……くみ子さんも、歌が終って、ジミーが私達のテーブルに近づいて私に声をかけるのをみていて、おどろいたでしょう。そして、(しまった、ジミーが先生の知っている人間だと分っていたら、あんなにお熱をあげてる様子を見せるんじゃなかった)と思ったでしょう、きっと……」  くみ子は、頬を赤くし、唇を噛《か》んで、大きく頷《うなず》いた。たか子は、肩を小づいてやりたいほど可愛らしく思った。  ちょうどその時刻で、準備が出来てたせいか、民夫の注文したA食というのが、すぐ運ばれて来た。スープとトンカツ、野菜、それに御飯という献立だ。たか子が欲しがったおしんこも添えてある。  スープを啜《すす》り了《おわ》ったところで、たか子はふと、くみ子の家庭のことを思い出した。 「あっ。忘れてたわ。ママさんにお電話して、食事しませんからと断っておきますから……。食べはじめたところだけど、ちょっと失礼……」  たか子は、入口の方にある電話台の方に、靴をつっかけて出て行った。が、使用中の人や待ってる人があったりして、だいぶ手間がとれた。  待ってる間に、たか子の注意を牽《ひ》いたことは、いま出て来た奥の小部屋から、はじめは控え目に、それからしだいに大きく、民夫とくみ子の笑い声が、からみ合って聞えて来たことだった。 (うまくとけ合ってくれたのかしら──)  たか子の口もとには、しぜんに温かい微笑がわき上った。  電話をすませて、小部屋に引っ返したたか子は、ちょっとの留守の間に、室内の様子が一変しているのに驚いた。フォークやナイフを手にもったくみ子と民夫が、入って来たたか子にチラと目をくれたぎり、二人ぎりの話に夢中になっているのだった。 「……それでね、クロったら、夜寝るときでも、家から出てバロンの犬小屋に『ミャオー』って入っていくのよ。バロンって犬、グレートデンよ。だから、クロの十倍もそれ以上も身体が大きいのに、クロったらちっともバロンを恐がらず、自分の友達ぐらいに思ってるのよ。そして、バロンが手足をこんな風に伸ばして寝そべっていると、クロったら、そのまん中の所に入りこんで、グウスカ眠ってしまうんです。そこが一ばん温かいからでしょう。……それが、毎晩そうなのよ……」  くみ子は、大げさな身ぶりを混えて、飼犬と飼猫の仲がいいことを、興奮した口調で語った。すると、かくべつ面白い話でもないのに、民夫はひどく可笑しがり、持っているナイフの尻でテーブルの面をトンとたたいたりしながら、大げさに笑い崩れるのであった。 「アッハハハ……。猫のやつ、そんなでかい犬といっしょに寝るなんて、てんで生意気だな。またバロンってえ奴もいかれているようなもんだな。そんな生意気な猫のやつを、ふっと吹きとばしちゃえばいいのにさ、ハハ……」 「まだこっけいなのよ。……大きな洗面器に、バロンの食事をやるでしょ。バロンが食べようとすると、クロが横から出ていって、前足でバロンの鼻面を引っ掻《か》くのよ。おれさまが先きだってわけね。それでバロンが引き下ると、クロは、身体よりも何倍も大きい洗面器に首をつっ込んで御飯を食べ出すの。身体が小さいからすぐお腹がくちくなるんだけど、その間、バロンはおあずけ食っておとなしくしているわ……」と、くみ子は目をいきいきと光らせ、世界一のすばらしい話でも聞かせてるような調子で語った。 「アッハハハ……。まったくこっけいだな。猫に、おれさまが先だといわれて引っこんでる犬の話なんて聞いたことがないや。笑わせるな、まったく。アッハハハ……。おねえちゃん可笑しいね……」と、民夫は、たか子をチラと眺め、胸をそらせて、弾《はじ》けるように笑った。  くみ子も、ときどきたか子の方を向いたが、しかし、たか子を見る二人の目は、ガラス玉のようなもので、たか子の存在など認めているわけではなかった。ただ、おたがいの顔だけが、網膜いっぱいにやきつき、おどっているにすぎないのだ。──そんな風に感じられた。 「ジミーのとこ、犬や猫いないの?」 「僕のとこ、アパートの二階だから、犬は飼えないんです。猫はいます。たま[#「たま」に傍点]って云うんです。其奴《そいつ》は毎晩、おふくろか僕の寝床にもぐりこんで寝るんだけど、たま[#「たま」に傍点]がおふくろか僕をえらぶのに、どういう方法をとるか知ってる?」 「知らないわ……。それに、私、猫を抱いて寝るのイヤだわ」 「……たま[#「たま」に傍点]はね、僕達の寝床の枕もとに来て、人間を嗅《か》ぎまわって、酒くさい方の人間の寝床の中にもぐりこむんです。……半年もかかってやっとそれが分ったんだけど……」 「アッハハハ」と、くみ子は、たか子の二の腕を無意識にバシッとたたいて、これもさっきのお返しのように、胸をそらして、大きく笑い出した。 「おかしいだろ、君。猫のくせに酒のにおいが好きだなんてさ。……それで、おふくろも僕も酒を飲んで帰った晩は、奴は両方のにおいを嗅いで、よけい酔っ払っている人間の寝床の方に入ってくるんですよ。奴にはそれが分るんだな。ハハハ……」  民夫は、言葉を崩したり、急に丁寧に直したりしながら、さも可笑しいことのように云った。 「貴方《あなた》のお母さまは、お酒が好きなの?」と、くみ子が尋ねた。 「ああ。料理屋で働いてるから、飲んで帰ることもあるんだよ。……僕もときどきつき合いで飲んだりするんだけど。……酒飲みって嫌いですか?」  たか子は、自分も何時《いつ》かの晩、雄吉からそんな質問をされたことを思い出して、くみ子がどう答えるか、ふと興味を覚えた。 「私、好き嫌いを云うほど、酔っぱらいを見たこともありませんけど、私の兄の一人がときどき酔っぱらうのを見ていると、おどけていて、そうわるいものだとも思わないわ」  一人の兄──すなわち信次のことだ。 「それでね、くみ子さん」と、民夫はまた意気ごんで、さっきの話のつづきをはじめた。 「僕が、たま[#「たま」に傍点]が酒好きだってことが分ったんで、ある時、湯飲み茶碗《ぢやわん》に冷酒を注いで、鼻先きにもっていったら、たま[#「たま」に傍点]の奴、水でもあるかのようにガブガブ飲み干しちゃったんです。そうしたら、とたんにフラフラとよろめき出し、立っておれないで、手足をこんな風に伸ばして、畳に伸びちゃったんだ。目を見ると、人間の酔っぱらいの目みたいで、眠そうにトロンとして、都々逸《どどいつ》でもうなりだしそうなんですよ……。ハハハ……。たま[#「たま」に傍点]って、まったくふざけた野郎なんですよ……」 「ハハハ……。猫が都々逸うたうなんてこっけいだわ。うちのクロだったら、ママのお仕込みがいいから、酔っぱらったら、きっと讃美歌《さんびか》を唄い出しますわ」と、くみ子はおかしくってたまらないように、目を細くして、身体を小さくくねらせながら笑った。 「ハハハ……。猫が讃美歌だなんて……僕、そんな話きいたことがないや。ああ、おかしいことばかりで、僕、お腹が痛くなっちゃった……」  なにかしら異常だった。二人とも、お腹が痛いほどおかしいことは一つもしゃべっていないのである。それでも、二人は目を輝やかせて、物に憑《つ》かれたように若々しい笑い声を吹き上げさせているのだ。  すぐそばにおりながら、まったく無視されているたか子に感じられてくるものは、少年・少女の幼いセックスの躍動である。二人の間に、細く光る電流のようなものが、青い火花を発して交流しているのが、目に見えるような気がする。そして、こんなすなおで、幼く、しかも女らしいくみ子を、たか子は一度も見たことがないと思った。  いつかの夜、雄吉と二人でお茶の水のあたりを歩いていた時、たか子の身内にも、いまのくみ子のそれに似た哀しい思いが動いていたのではなかったか……。  それと共に、 (あぶない! ……たいへんだわ!)という危機に臨んだ感じが、自分のもののように、たか子の胸の底にヒヤリと迫って来た。  自分の責任としても、そういう危険な感情にまきこまれることから、くみ子を守ってやらなければならない……。  たか子はふと、さっき銀座に出る自動車の中で、山川主事から、家庭教師としての月給の高をきかれたことを思い出した。そうだ、月給の話は、猫がどうとかしたということよりも、たいていののぼせ[#「のぼせ」に傍点]をさます、現実的な問題であるにちがいない。 「あのね民夫さん」と、たか子は強引に、二人ぎりの気分の交流の中に入っていった。 「貴方ね、ジミー・小池で唄っていると、どれだけ月給いただくんですか?」 「ええ、なんだって、おねえちゃん」と、民夫はいくらかあわてて、煩《うる》さそうに聞き返した。 「貴方の月給はどれだけかってお尋ねしたの」 「チェ! いやなことをきくな……」と、民夫は興ざめたように呟《つぶや》いて、 「ワン・ステージ二千円のわりでもらってるんだ。職人と同じで、一と月まるまる働けるっていうもんじゃないから、そのわりに月収は少いんだよ……。今度はワン・ステージ三千円ぐらいになるらしいや……」 「貴方、それをどう使ってるの?」と、たか子は、さっきの山川主事と同じ段どりで質問をつづけた。 「そんなこと──。まあ、おねえちゃん相手じゃ怒ったってしようがないや。……そうだね、まず身なりだよ。それから食べることだ。それから、僕みたいな奴にでも、たかる奴が一ぱいいるんだ。だから、毎月ピーピーだよ。……今日はおねえちゃん達にたかられた……」と、民夫は、たか子が狙ったとおり、気分を転換して、冗談などを云い出した。 「人聞きのわるいことを云わないでよ。自分が勝手にひっぱって来て、何がたかりなのよ。ねえ、くみ子さん……」 「ええ。ジミーはきっと、女の人にばかりたかられているんじゃないかしら……」  機敏で、適応性のあるくみ子も、さっそく、その向きの冗談で応じた。 「ひどいなあ。……男でも女でも、僕が御馳走《ごちそう》する人間で、有りがたそうな顔をするのは一人もいないや……」 「そこがジミーの人徳のある所よ。窮屈な気持で、人に物を食べさせたってしようがないでしょう。……さっき私達にサーヴィスした、おどけた顔のボーイさんが云ってたわよ。ジミーは、世話好きで、私達にも分け隔てなくしてくれるって……。貴方の世話で、どこかの舞台に出られそうだって……」 「ああ、カン公か。……あいついい声をしてるんですよ。それに勉強熱心で、楽譜だって僕なんかよりも読めるし……あいつはいまに出ますよ……」  そんな話で、だいぶ現実的になったらしい民夫は、ふと腕時計をのぞいて、 「いけねえや。僕、もう『オクラホマ』につめかけてないと……」と、立ち上った。 「あら、そう。どうも御馳走さま。貴方だと心配がないから、ほんとにおいしかったわ。じゃ遅れないようにいらっしゃい。……私達、街を少し歩いてから帰ることにしますから……」  三人は外に出た。露地から通りへ出たところで、民夫は立ち止って、くみ子の方へ、 「じゃ、さようなら。……きみ、倉本さんのお室に遊びに来るといいんだ。そうすると、僕もそこに行って、いっしょに遊べるんだがな……」 「ええ。倉本先生が来ていいと仰有《おつしや》れば。……まだ私、一ぺんもお伺いしたことがないんです……」と、くみ子は、たか子の方を横目でチラと眺めた。 「あら。まるで私が意地わるしてるみたいに仰有るわ。機会がなかっただけよ。……お宅に較べて、あまりちがいすぎるので、気がひけて、来てもらいたくない気持も少しはあるのかも知れませんけど……」 「でも、雄吉兄さんは行ったんでしょう?」 「それは……音楽会の帰り、送って来て下すって、お茶を一ぱい飲んでいらしただけよ……」と、たか子は少し赤くなって答えた。 「僕がドアあけた時、机の前に坐《すわ》っていたの、この人の兄さんかい。……おねえちゃんがあんなに嬉《うれ》しそうにしているの、見たことがないや……」と、民夫はくみ子の方に、いたずらっぽく、舌を出してみせた。くみ子は弾けるように笑い出した。 「そういう、人を汚すようなことを云うもンじゃないわ。珍らしいお客さんがあれば、誰だって少しはそわそわするでしょう。それだけのことじゃありませんか」 「──すみません、おねえちゃん。それじゃあ、さよなら……」  民夫はすなおにあやまって、スタスタと行ってしまった。  たか子とくみ子は、数寄屋橋《すきやばし》通りの方へブラブラ歩き出した。 「ああ、私、なんだか世の中がひろくなったような気がするわ。貴女《あなた》がひいきしてるジミー・小池の正体が分ったっていうことで……。一つの壁がポカッとくりぬかれて、それだけ身のまわりの世界がひろくなったような感じ──。くみ子さん、そう思わない?」 「思います。……でも、正直なことを云いますと、私よりも前に、先生がジミーと知り合いだったということが分って、少しばかりガッカリした気持ですわ」 「一種のヤキモチね。……でもね、形式的に、私は貴女の先生なんですから、それでかえって都合がよかったわ……」  しばらく間を置いてから、くみ子が何気なく尋ねた。 「──先生。あの人、いい人ですか?」 「そうね、むずかしい質問だわ……」と、たか子の方もしばらく返事をためらった。  これからする返事が、将来たいへん重要なものになりそうな気がしたからである。 「……そうねえ、いま私に、自信をもって答えられることは、貴女とは全然ちがった環境の中で成長して来た人だということです……。そういう返事では不満ですか」 「だから、あまりつき合わない方がいい……。そういう意味でしょうか?」とくみ子は冷い調子で聞き返した。 「私の云ったことを、勝手に翻訳をしてはいけませんわ。……私が申し上げたのは、貴女とジミーは、まったくちがった環境の中で成長した、ということだけですわ……。それ以上でも、それ以下でもありません……」  くみ子は黙っていた。が、たか子の言葉が、くみ子の頭の中でさまざまな反応を呼び起していることが、ハッキリと透視されるようだった。ともかく、自分の云ったことを正面から受けとって、どうでもいいから、自分流に消化してくれればいいが……と、たか子は願った……。  数寄屋橋通りへ出ると、くみ子は、喉《のど》が渇いたから果物が食べたいと云い出し、二人でフルーツ・パーラーに上がった。往来に向って、一面にガラスを張った窓ぎわの席を見つけて、二人は向き合って腰を下した。  すぐ足もとの舗道を、人間の波がゾロゾロと流れていく。男・女・子供・老人・外国人等さまざまで、まるで舗道そのものが大きなベルトであり、その上に多数の人間をのせて、絶え間なく回転しているようだ。  向う側の建物の屋上には、ネオン・サインが眩《まば》ゆく輝き、もっと向うの空間には、新聞社の電光ニュースがつぎつぎと流れていた。 「……くみ子さんね。さっき、ジミーと猫や犬がどうとかしたっていうお話を、ずいぶん面白そうにしてらしったわね……」と、たか子は、フルーツ・ポンチをさじですくいながら、相手の顔をまぢかく眺めて云った。  くみ子は、一瞬、腑《ふ》に落ちない表情で、 「犬や猫って……なんですか?」 「あら。……犬や猫がどうとかしたって、二人で唐紙が破けるほど、大きな声で笑っていましたわ。私の腕を二度ほどぶったりしましたよ……」  すると、くみ子は、赤くなって、戸外の方に目をそらせた。それから、うつむいて、 「どうしてだか知りませんわ。……でも、あの時は、とっても可笑《おか》しかったんです。我慢がならなかったほど……。でも、先生をぶったのは知りませんでした。すみません……」  たか子は微笑して、 「どうしてそうだったのか、自分にも分らないなんて……ずいぶん頼りないお話ね。……私達の人生には、そんなこともあってもいいんだと思うけど……」  自分もまだ若いたか子は、そう口に出してみると、自分のことのように胸にひびいてくるものがあった。  あの時、たか子は、憑かれたように可笑しがって話し合っているくみ子を横から眺めていて、ふっと、万葉集の歌を思い出したものだ。  ──たらちねの母が手はなれかくばかり、すべなきことはいまだせなくに──  が、くみ子に当てはめるには、本人がまだ幼なすぎるかも知れないし、たか子は、それを云うべきではないと思った。 「まあ、ママさんが心配してるといけないし、ボツボツ帰りましょうよ」と、たか子はくみ子を誘って立ち上った……。  ──山川主事は、倉本たか子を尾張町で下すと、そのまま、神田のA出版社に車を駛《はし》らせた。  彼の胸には、民夫と雄吉が、たか子のアパートで偶然に顔を合わしたという話が、しばらくの間、重くるしく澱《よど》んでいた。一つの宿命といったような動き方で、高木トミ子と民夫が、田代家の人々の方へ押しやられていってることが感じられる。小細工を弄《ろう》して、それを妨げようとすれば、結果的にはかえってわるいことになろう。成行きにまかせた方がいい……。  鎌倉河岸のA出版社についた。土曜日なので、もうおおかた空になったビルの三階の社長室で、田代玉吉は葉巻をくゆらしながら、山川を待っていた。 「やあ、呼び出してすまなかった。久しぶりで君とおしゃべりしたくなったものだから……。忙しくなかったのかい?」 「独身者に忙しさなぞないよ」 「あっ、そうだ。……君に印税をお払いしよう。おかげさまでよく版を重ねるよ」と、玉吉はテーブルのひき出しから、八万円ばかりの小切手をとり出して、明細書といっしょに山川に手わたした。  山川はA出版社から、教育学に関する翻訳書を三冊ばかり出していたのである。 「ありがとう。……これでやっと風呂場《ふろば》の改築が出来るよ。待望のタイル張りにしようと思ってね……」と、山川は領収書にサインした。 「いや、君。そんなことだったら、もっと前にそう云ってくれれば、何時でも御用立て出来たのに……」 「僕は小心者だから、どんな形でも、借金というのはイヤだからな」  中年の女事務員が茶を運んで来て、引きさがって行った。 「あとで君、街へ出て、ビールでも飲んで軽い食事をしないかね……」 「ああ、お伴しよう。……ところで何か用事でもあるのではないかね……」 「まあ、そうだ。……君に会う時は、必ず、君に煩わす用事がある時だからね……」と、玉吉は自ら苦笑して、 「僕の功利主義は、昔からのことだから、あしからず思ってくれ給え。……今度もたしかに用事なんだ。……君ね、高木トミ子のその後の消息を聞いたことがないかね?」 「君はまた、どうしていまごろ、そんなことが気になり出したのかね?」 「──君は落ちついた表情をしている。ちっとも意外そうではない。知ってるんだね。……まあ、僕の方から云おう。こないだある宴会に招かれたんだが、そこで働いてる年とった女中が、どうも高木トミ子に似てるような気がしたんだ……」 「それだけ──? 君のことだから、あとで人をやって、その女中さんの身分を探らせたんじゃないのか?」 「そうだ」と、玉吉は苦笑して、 「僕の手口は、みんな君に知られているからな。そのとおりだよ。僕は人に確かめさせたんだ。……それで君の知ってることは……」 「いろいろ知ってることがあるんだ……」と、山川はおだやかに微笑して、 「まず第一に、トミ子さんは十八、九歳の男の子といっしょに、僕の近所に住んでるってことだ。そのアパートには、倉本たか子も住んでいて、しかも室が近くなもンで、おたがいに交際があるんだ。もっとも、いまのところ、どちらも事情は知らないがね。しかし、この頃はそれも怪しくなったようだな。  先晩、音楽会の帰りに雄吉君が倉本さんを送って行って、アパートの室にちょっと立寄ると、偶然そこへトミ子さんの男の子──民夫君というのが顔を出したというんだね。お客さんなので、すぐ引返したんだが、そのあとで雄吉君が、いまの青年は信次の感じに似てないかって云ったというんだ。倉本さんもかねてから、誰かに似た感じだと思ってたところだったが、雄吉君にそう云われて、ピッタリだと思った。というんだね……。  その話は、いま、倉本さんを銀座まで車に便乗させてやってる間に聞かされたことなんだが……」 「雄吉はただ単純に似てると感じただけなのかね?」 「そうでもないらしい。トミ子さんの身分などきいていたそうだから……」 「ふーん。肩のこることだ。それでほんとに似てるのかね、信次とその男の子は──?」 「似てるね。というのは、どちらも母親によく似たということだろうね。……いい青年だよ、民夫君って……。銀座のナイトクラブみたいなところでジャズを唄ってるんだそうだが、トミ子さんを大切にしてるし、頭もわるくない青年だ……」 「それで……トミ子は、昔のことにこだわっているのだろうか……」 「さあ、その返答はちょっとむずかしいことだな……」と、山川は答えをしぶって、窓の外に目をそらせた。  そこには、ぼんやりとかすんだ灰色の街の展望がひらけており、ところどころに、赤い広告気球がくたびれたようにブワブワと浮んでいた。  山川は、迷い悩んでる玉吉を前にして、自分の胸の中に、ともすれば、昔の仕返しをしているような感情が動き、またそういう裏づけをもった言葉が口から出そうになることを恐れていたのである。 「構わんよ、きみ。まいた種は刈りとらねばならんのだろうから……。高木トミ子は、こちらに対して、何か要求がましいことを考えているのかね」 「物質的なものは求めてない。……ただ、信次君と民夫君が兄弟であることを認めてもらいたい気持は相当に根づよいものがある」 「それはどういうことなんだね?」と、玉吉は隠しきれない不安の色を顔にみせながら云った。 「つまり、自分が死んだあと、民夫君が天涯孤独の境遇に陥ることをひどく恐れているんだ。その後、いろんな苦労を経験したようだし、無理もないことなんだ。そして、一たん話がその事になると、いわゆる焼野のきぎす夜の鶴っていう奴で、はたの忠告など一さい耳にとおらなくなるんだ、凄《すさま》じいぜ、君……」  山川は、一語一語、公正であるように気を配って云った。 「つまり、その男の子と信次に、兄弟のつき合いをさせてくれというんだね?」と、玉吉は、それに伴う困難を予想するような目つきをみせて云った。 「そうなんだ。そのつき合いをさせるためには、周囲にどんな困難な事情が横たわっているのか、そんなことは一さいトミ子さんの目には見えないんだ……」 「──それは、その男の子も希《のぞ》んでいることなのかね?」 「恐らく本人は希んでいまいと思う。意地っぱりな青年だからね。……ただもう、トミ子さんだけが夢中なんだ。ろくな身よりもなく、一人ぼっちで民夫君をこの世に残していくっていうことは、耐えられないことらしいんだね……」 「……それで、君は、彼女に何と云ってあるんだね?」と、玉吉は、少しは疑ぐってるのかと思われる調子で尋ねた。 「もちろん僕は、君の家庭に無用の波瀾《はらん》を捲《ま》き起こすことは希まないし、トミ子さんを押えようと努めたさ」 「でも、ガンとして受けつけないんだろう?」 「だから、僕は一つの手を考え出したんだ……」 「手──?」 「ああ。……僕が仲介して、信次君にその意思を伝えたとしても、せっかく仕合せに暮している信次君が、みたこともない人達と、親子、兄弟としてつき合うかどうか疑わしいと云ったんだ。そしたらすっかりしょげこんで、その希みは諦《あきら》めるからと云うんだ……」 「ほんとに諦めたのかね……」 「一時はね。が、また思い直して、僕を口説きにくるんだ。僕も同じことを、もっと強い調子で云う。トミ子さんはまた諦める。また思い直す。……それを何べんか繰り返したんで、いまでは僕の意見が、信次君は、トミ子さん達と親子、兄弟のつき合いをすることは必ず断わるということになってるんだ。そして、トミ子さんのこのごろの申し入れは、そういう信次君に、考えを改めるよう、僕に説教してくれっていうことになってるんだよ……」 「いろいろお心づかいをしていただいて有り難う……」と、玉吉は立ち上って、ズボンのポケットに両手をつっこみながら、室の中を歩きまわった。 「──山川君。君は、信次がトミ子達の存在を知った時、ほんとに交際を断わると思ってるのかね?」 「……さあ、それは、僕なんかよりも、ふだん信次君といっしょに暮している君の方が、正しい判断がつく筈《はず》だ……」 「まあ、そういうことでもいいがね。……しかし、君もトミ子から何べんもその問題をもちこまれたんだし、僕以上にその問題では考えてると思う。どうだね。トランプの札を二枚いちどにあけるように、二人の考えをひろげてみようじゃないか。……云い出した僕から云うと、信次はトミ子を母親として認めると思う。弟の方もね……」 「僕もそう思う……」  ほとんど重るように、二つの深い嘆息が吐かれた。 「なんとかそこまでいかずに、押えられる工夫はないものかね、山川君。……僕は、大きくなった子供達の前に、昔の古傷をなまなましくあばき出されるのは、堪えられないことなんだよ……」と、玉吉は、せかせかと歩きつづけながら云った。 「僕の立場で、それをやって来たつもりだが……」 「それあ分ってる。君には昔から迷惑のかけっ放しだ。……どうだろう、トミ子達を、東京でない──例えば名古屋とか大阪とかへ引っ越させる工夫はないものだろうか?」 「田代君」と、山川はいくらか改まった調子で、 「そういうことをさせる権利は、僕にはもちろん、君にだってない筈だ。トミ子さん達は、いま独立で生計を立てているのだし、その人達の基本的人権を犯すような仕打ちは、誰にも出来るわけのものでなし、また、すべきでもないと思う」 「基本的人権か──」と、玉吉は苦笑して、 「僕はそういう言葉は、労働組合や裁判所などだけで使われる言葉だと思っていたが、僕の考えついたこともそれに該当するのかね……。それだったら、当節、考え直さなければならないだろうな。……ねえ、山川君。トミ子は君ではラチがあかないとなると、どういう出方をするだろうね……」 「それは……、信次君に直接会いに行くか、みどりさんか君に頼みに行くか、そういう方法をとりそうな気がする……」 「ふーん」と、うなって、玉吉は冷くニヤリと笑い、 「君はそれを期待しているわけではあるまいね?」 「何を云うんだ、田代君!」と、山川はテーブルをたたいて立ち上った。そして、玉吉に正面から向き合って、 「君たちとの長いつき合いで、僕が一ぺんだって、そんなさもしいふるまいをしたことがあったかね……」 「いや、僕がわるかった。あやまる。……君、坐《すわ》ってくれ給え……」と、玉吉は山川の肩を軽くたたいて、 「僕は相手が君だと、頭の中に浮んだどんな細かい疑いでも、すぐ口に出してしまうんだ。君が許してくれることを知ってるからだし、また僕自身、そういう疑いを口ばしってしまうことで、サッパリした気持になれるものだから……。自分のことだけしか考えない僕が、君とだけは長い交際をつづけて来られたのも、ひとえに君の寛容の精神の賜物《たまもの》だ……。じっさい、僕等の夫婦関係というのは、君が間に入ってないと成り立たないようなものだからね……」 「僕が出しゃばりすぎているというのかね……」 「いや。僕はもっとすなおな気持で云ったつもりだ。君は、今日のように、僕等の方から呼び出さないかぎりは来てくれない人だからね。……山川君、じつは、こないだ、僕が宴会でトミ子を見かけて帰った晩に、偶然、信次から、正面きってトミ子のことをきかれたんだ。生きてるのか、死んでるのかってね……」  あの晩の思い出は、いまだになまなましいのか、それを云う玉吉の顔は暗かった。 「いずれそういうことになるだろうと思ってたよ」と、山川は軽く受け流して、 「信次君は何か要求をもち出したのかね?」 「いや。ただ、事実を知りたいというのだ。……ひとりぼっちで悩んだものとみえて、あれの覚悟は立派だよ。ともかく、生れたことをよかったと思ってると云うんだからね。……そう云われて、僕には一言もなかったよ。……ところで、僕はどうしたらいいと思うかね。率直に云ってくれ給え」 「そうだな。……家庭の構成の仕方を変えるより方法がないと思う。いままで、君たちの家庭は、信次君はみどり夫人の実子であるという構想で成り立っていた。ところが、そういう補強工作は、信次君が大きくなった今日、内部からヒビ割れがして、もう君達の家庭を支えていく力がなくなった。  だからと云って、あわてて、トミ子さん達を何処かへ転住させようとするのは、姑息《こそく》な第二の補強工作をほどこすようなもので、何の役にも立たない。そんなことでなく、今度は、信次君は君の子であるが、みどり夫人の子ではない──つまりありのままの事実の上に、君達の家庭を再編成していく。それが一ばんいいと思う。その考え方で固まってしまえば、もうどこからもヒビ割れする心配がない。ともかく、その根本の腹が決ってしまえば、いろんなことはムリがなく処置されていくと思うんだ……」  山川は、自分の考え方を正確に伝えるために、出来るだけ冷静にしていたつもりだったが、半ばごろから、しぜんに情熱を滲《にじ》ませた話し方になってしまった。単純な独身者の暮しをつづけている彼にとっては、親友夫婦の家庭生活ででもなければ、自分の人間に対する情熱をたかぶらせる機会を見出しかねるのであった。  玉吉は、口のまわりに、冷い微笑を浮べて、 「よく分ったよ、山川君。ところで、みどりにその事を納得させられるのは、君をおいてほかにないということも、ついでに考えておいてもらいたいんだ……」 「僕が……」と、山川が口ごもった。  自分にしゃべらせておいて、必ずその責任を自分に押しかぶせてよこす。──玉吉から、何べんそれを経験させられているか分からない。 「田代君。もうずいぶん長い年月が経っているのだし、夫婦の問題は、みどりさんと君と、二人で話し合うことにしたらどうだろう。君も僕も、それからみどりさんも、昔流に云えば、もうそろそろ年寄の部類だぜ……。せめていまごろからでも、君達はなんのわだかまりもない夫婦であった方がいいと、僕は思ってるんだ……」 「それも一つの考え方だ。……だがね、山川君、僕のみるところ、人生というものは、感傷的なハッピー・エンドを期待出来るほど、なまやさしいものじゃなさそうだ。……僕とみどりの関係は、おたがいに相手の義足の役目をしてるようなもんだ。それは必要だ、なければ絶対的に困る。だからと云ってその人間が、自分の義足を愛してるとか、尊敬してるとか云ったら、こっけいしごくではないだろうか。ハハハ……」と、玉吉はうつろな声で笑い出した。 「しかし君。僕の立場というものもある。僕ももう、肩のこる事から解放されて、気楽に本を読んだり、温泉につかりにいったりして、のんびり暮したいんだよ……」 「まったく君には申しわけない……」と云って、玉吉はもう一度ニヤリと笑った。 「だがね、山川君。君の云うことは、言葉だけきいてるともっともだが、はたしてそういう生活が君にとって幸福であるかどうかは、じっさいには疑問だと思うね。……みどりと僕は、申しわけない話だが、最初から君を間に挟んでずうと暮してきた。失礼な例えだが、君はサンドウィッチの中身のような形の存在であった。その君が、いま俄《にわ》かに、両側から自分を押しつけていたものをとりのぞくとすると、サッパリし過ぎて、風邪でもひきかねないと思うんだ。……どんな形のものにせよ、私的な生活にまるで刺戟《しげき》がなく、ただ本を読んだり温泉につかったりすることは、決して君の考えるようにのんびりしたものではないと思うんだ。……僕とみどりの生活は、ずうと君の生活にもなって来ているのだし、そう簡単にぬけられないと思うんだ。  僕は正直に云ってるまでで、決して君を見下したりしているわけではないから、その点だけは誤解のないように頼む……」 「何云ってるんだ、君は……」と、山川は烈しく云い返そうとしたが、言葉は出て来なかった。  たしかに、いま、田代夫妻とのつながりが切れるとか、通り一ぺんの知人になってしまうとすれば、彼の生活は、落莫《らくばく》とした灰色のものになってしまう。  いつでも構えを崩すことのないみどり夫人のおごりたかぶった自我、飽くことを知らない玉吉の功利主義。──絶えず自分の内部になんらかの反応をよび起して来たその二つのものがとりのぞかれてしまえば、山川の生活はみてる間にしぼんでしまいそうな気がする。田代夫妻のために、長年、厚意をつくして来たという関係だと思っていたのに、じつは自分も、田代夫妻から大切な何物か──ある生甲斐《いきがい》のようなものを得て来ていたのだということがうなずかれる。 「いや、たしかにそうだよ。僕は僭越《せんえつ》にも、君等のためにいくらか奔走して来たような気持でいたけど、じつはそういう形で、君等からむさぼっているものの方がずっと多かったのかも知れないな……」と、山川は顔を赤らめて、自分の内部を見つめてるような真面目な調子で云った。 「いや、君、そんなことはない。むさぼることが多くて酬《むく》いることが少いのは、僕等の方だったよ。……ところで君、街へ出てビールでも飲まないか……」と、玉吉は、机の上を片づけ、抽出《ひきだ》しに鍵《かぎ》をかけたりした。 「ああ、出かけよう。だいぶうっとうしい話になってしまったからね……」と、山川も立ち上って窓ぎわに行った。  知らずに興奮していたのか、額にうすく汗が滲《にじ》んでいる。  二人はビルを出た。 「自動車を返してしまったから、そこらで流しを拾おう……」 「いやいや。都電で行こう。たまにはそんな物に乗らないと、庶民の暮しが分らなくなるぞ。……君、都電の片道の切符がいくらだか知っているかい?」と、山川はニコニコ笑いながら尋ねた。 「片道かい? ええと……八円かな。いや、それはずっと前で、いまは十円だろう……」と、玉吉はあぶなっかしい口調だった。 「だめだよ、君。十三円だよ。……昔は君も僕も、ときどきその電車賃もなくなって、学校まで遠い道を歩いたりした身分だったがね。そして、僕だけは、いまでも毎日その電車の厄介になってるが、君は電車賃がいくらだか知らないほど出世してしまった。もっとも、その事が直ちに仕合せだとは云わないがね……」 「ああ。おたがいに貧乏書生で、元気だったな、あのころは……」 「僕には、電車ばかりでなく、あの頃と変らない生活が少しは残っているよ。……例えば、昼、学校で、ばあやにつめてもらったお弁当を食うことね。これが一ン日の楽しいことの一つなんだ。熱いお茶をフーフー吹きながら、四角な形に固まった飯を端から平げていく。──これが昔と同じにうまいんだ。そして僕はそれを有難いことだと思ってるんだ……」 「それあ君、僕の舌だって、アルミの弁当の飯の甘《うま》さを忘れてるわけではないんだ。しかし、いまの身分では、僕が会社にお弁当をもって行くと、社員がそれに右へならえするようになってしまうからな。そんな意味では、いろいろと窮屈なんだ……」  二人は都電の停留場まで歩いて、そこから電車にのった。玉吉は珍しいと見えて、車内の客の様子をジロジロ眺めまわしたり、座席から後向きに、沿道のうつり変る屋並みを見送ったりした。そして、老人や幼児が乗ってくると、さっそく立ち上って席をゆずったりした。──そういう玉吉を、毎日電車で通勤している山川は、ずうと座席に腰を下したまま、微笑しながら見まもっていた。  数寄屋橋の終点で電車から下りると、二人は並木通りの方へ歩いて行った。もうあたりはねずみ色に暮れかけて、ネオンサインがはなやかにまたたき出した。とある露地を抜けようとしたところで、山川はふと足を止めて、 「君、見たまえ」とささやいた。前の通りを、倉本たか子とくみ子と高木民夫が、並んで通りすぎて行くのだ。 「これあ驚いた。あの青年が民夫君だよ。……いつの間にか、くみ子さんと知り合いになっている。いずれ倉本君が紹介したものだろうが……。こんなことも、双方から否応なしに曳《ひ》っぱり合っていることの証拠にはなりそうだな……」 「ふーん」とうなって、玉吉は硬《こわ》ばった顔で、三人連れが、つぎの露地の方へ曲って行くのを見送っていた。 [#改ページ]  [#2字下げ]犬小屋と野球場  学校は冬の休暇に入った。  いつもならば、たか子はすぐに東北の郷里に帰省するのだが、今年はくみ子が、雪国の冬の暮しをみたいから連れて行ってくれと云い、二十九日に発ちなさいというみどり夫人の指図があって、それを待って、まだ東京にとどまっていた。  その間、たか子は一日おきぐらいに田代家を訪れて、くみ子の勉強をみてやったり、スキー用品を買うのにつき合ってやったりした。  ある日も田代家に行くと、みどり夫人もくみ子も留守で、すぐ帰るから待ってるようにと、ばあやが居間に通してくれた。  温かい小春日和の午後だった。大きなガラス戸を通して、日光が室のまん中へんまで差しこみ、日向の椅子に坐《すわ》っていると、頭がウトウトとしてくるようだった。  たか子はガラス戸をあけ、テラスにある下駄をつっかけて庭に下りた。明るい陽を浴びた街の展望が、目のとどくかぎり、はてしなくひろがっている。灰色の海のようだ。風はまるでないが、それでも、青空の下を流れている空気は、サッパリとして肌にこころよい。  花壇のバラはすっかりすがれていた。いま、庭の樹木で色づいているものは、山茶花《さざんか》の白い花と南天の赤い実ぐらいのものである。黄色に枯れた芝は、タップリと日光を吸って、まるで厚いジュウタンのような感触だ。  たか子は下駄をぬいで、芝の上に坐った。そして、両方の掌で厚い芝をこすってみたりした。それから、両手を後につっぱり、身体を仰向けに長く伸ばし、目を細めて、吸いこまれるように遠い青空に見いった。 (いい気分だわ……)  たか子の脳裏には、これから帰っていく郷里の、野も山も里も、いちめん白い雪におおわれた冬景色が浮び上っていて、それが、目の前の小春日和の都会の情景と重っているのであった。  たか子はふと二階を見上げた。どの窓もしまっていて、人のいない静けさがこもっているのが、窓ガラスの光り工合に感じられる。それを見とどけてから、たか子は、そうとソックスを脱いで立ち上った。そして、クスクス笑いながら、はだかの足の裏を、厚い枯れ芝の上にこすりつけてみた。  かゆくって、すこし痛いようだ。たか子はスキーでもすべるように、足の裏をすって、そこらを往《い》ったり来たりした。それから、調子にのって、両手を高く泳がせながら、バレーの真似をしてまわった。(タララーララ……)と、うろ覚えの「白鳥の湖」の一節を口ずさみながら……。  そのうちにたか子は、何か異常な気配を身近に感じて、街の見はらしの方に向いた姿勢のまま、化石したように身体の動きを止めてしまった。  後ろの方から、煙草の煙が流れてくるのだ。その色の濃さは、それがすぐ間近であることを示しており、においも鼻にからんだ。 (誰かに、はだかの足とともに、はだかの心ものぞかれてしまった!)  たか子は煙の流れをたぐって、そうと身体をまわしてみた。すると、塀ぎわに建てられた大きな犬小屋の中から、金網をくぐって、煙が流れ出ていることが分った。  中にいるのは信次だった。茶色のセーターを着てデニムのズボンをはき、汚れた足の裏をこちらにみせて、羽目にもたれて坐っていた。膝《ひざ》の上には本がひろげてあり、大きなグレートデンが、彼の腰の所に頭をよせかけるようにして寝そべっていた。 「あら! ……今日は……。私、どなたもいらっしゃらないと思って……」と、たか子は赤くなって、あわてて靴下をはき下駄をつっかけて、犬小屋の方に向き直った。 「あの……どうしてそんなところにいらっしゃるんです? ……本を読むんでしたら、立派なお室がおありになるのに……」 「僕はときどきここが好きになるんです。……なんというのかな、人間の世界でない所がいいのかな。……僕はこの中でずいぶん本を読んだようだな……」 「でも、不潔ですわ。犬小屋の中なんて……」 「人間のいるところだって、ずいぶん不潔だと思うんだがな……」 「……でも、奥さまに叱られません?」 「ママは僕に関するかぎり諦《あきら》めていますよ……」  信次は、煙草をくゆらしながら、真面目くさって云った。たか子は、自分が後めたい所を見られたんじゃないと、虚勢をはりたい気持もあって、犬小屋の前に近づいて、 「何をお読みになってるんですか──」  信次は黙って、膝の上にひろげた大型の本をつき出してみせた。洋書のゴッホの画集だった。もう一冊、ルオーのものらしい画集も、犬の背中の上に載せてあった。 「私……どなたもいないと思ったものですから、一人でふざけたりして……おかしかったでしょう?」 「いいや」と金網の中の信次は、たか子の顔を見上げて、 「そんなことよりも、貴女《あなた》は、むかし樽《たる》の中に住んでいたギリシャの哲学者が、自分の前に立ったアレキサンダー大王に向って何と云ったか御存じですか?」 「あら」と、たか子が気づいてみると、小屋の前に立った自分の影が、信次に当っていた日光をふさいでいるのだった。 「すみません」と、たか子は二歩ばかりわきに寄った。 「僕のお座敷に入ってみませんか。変った気分ですよ」 「……入りましょうか。犬を押えてて下さいね」と、たか子は頭を下げるようにして犬小屋に入った。 「入ったら戸をしめて下さいね。これでも僕の御殿なんだから……」 「はい」と、たか子が後手に、金網を張った戸を曳《ひ》くと、偶然カチリと鍵《かぎ》が下りる気配がした。 「犬くさいわ……」と、たか子はもの珍しそうに小屋の中を見まわした。  隙間だらけの金網一枚へだてただけで、まるで別の世界に入ったような気がする。 「その犬、噛《か》みつきませんか?」と、たか子は、犬の寝床になっている、ムシロを敷いた四角な箱に片手をついて、床にしゃがみこんだ。 「大丈夫です。僕に敵意をもたない人間には、しごく従順です。……絵が好きですか?」と、信次は、膝の上のゴッホの画集をさしのべてよこした。  たか子はそれを受けとって、ゆっくり頁をくりながら、 「見るのは好きですけど、分るとは申せません。殊にアブストラクトの絵など、長く見ていると頭が痛くなりますわ」 「それでいいんでしょう。……いつか貴女の顔を写生したいもんだな……」 「それは……困りますわ。人に顔をジロジロ見られるの、こだわりますから……」 「僕が紳士的であることが納得出来てからだと、承知してくれますか?」 「まだ分りませんわ。……カンバスに自分の心の中の動きまで写しとられてしまいそうで、それに対して自信がないだろうと思いますわ」 「たか子さん」と、信次は妙な微笑を浮べて、 「絵かきというものは、自分が興味を感じた女の人を、頭の中では、はだかにして眺めてるかも知れないといったら、貴女は怒りますか?」 「……頭の中で眺めることは、誰もふせぎようもないでしょうけど、それを口に出すことは、失礼なことだと思いますわ……」と、たか子は赤くなって無意識にスカートの裾《すそ》をつまんで曳き下した。 「ほんとのことって、たいてい失礼なことになるんだ。……ついでに、もう一つ失礼なことを云おうかな」と、信次はまたニヤリと笑って、 「貴女はさっき、日光を吸いこんだ黄色い芝草に、掌で触っていましたね。そのつぎには、靴下をぬいで、足の裏でさんざん芝草を踏みつけていましたね。……僕は眺めていて楽しかったな。貴女が健康である証拠を見せつけられたようで。……そして、僕は考えましたね。この人は、いまはまだ、陽に温められた枯芝に触りたがっているだけだが、そのうちに、若い男に触りたくなるにちがいないとね……」 「何を仰有《おつしや》るんです!」と、たか子は、顔色を変えて立ち上った。  膝の上の画集がバタリと床に落ちた。 「貴方がそんな失礼なことを云わずにいられないとしたら、私は貴方とだけ絶交いたしますわ。たびたびなんですもの……」と、云うたか子の語尾は、かすかに慄《ふる》えていた。  信次は、目にある光をかがやかせて、たか子を見上げ、 「僕が失礼なことを云いましたか。男も女も異性に憧《あこが》れるということは、健全な心理ではないんですか。それとも貴女は、形式本位なざあます[#「ざあます」に傍点]夫人になるつもりですか? ……ゴッホは、世間のそういう卑俗な偏見に癇癪《かんしやく》を起して、自分の耳をきったんですよ……」と、信次は、床に落ちた画集が、頭に繃帯《ほうたい》を巻いたゴッホの自画像の頁を開いているのを指さした。  すると、たか子は、やつれた顔のゴッホの目が、自分の方に向けられているような気がして、口がつまった。 「……それは……たぶん……信次さんの仰有ることが正しいのかも知れません。私は、自分でも、自分が聖女だなどとは思っていません。でも、そういうこともやはり、貴方の頭の中で感じているだけにしていただきたいんです。いまのようなことを云われたら、女はだれだって怒ると思いますわ……」 「僕は貴女を『だれ』でもという一と山三文の女には考えていないんだ。……それを云う値うちのありそうな人にだけ、ほんとのことを云うんです……」  たか子は、自分の中に、腹立たしい気がちっとも湧いてこないのがもどかしかった。信次の言葉は、自分を驚かせるだけで、怒らせているのではなさそうだ。というのは、信次がほんとうのことを云ってる証拠なのかもしれないのだ……。 「でも……私達は原始時代に生きているわけではないんですから……やはりエチケットは必要だと思います」  信次はだまって、落ちた画集を拾い上げ、ほこりを吹いたりして、もう一冊の本といっしょに箱の上にのせた。そして、脅えているとも思われる目つきで、たか子を見上げて、 「──僕と絶交しますか?」 「────」  たか子は、さびしげな微笑を浮べて、ゆっくり首をふった。 (こんな風変った孤独な人間をつき放してしまえるものではない……)  信次の方でも、それに答えるように微笑して、 「ありがとう、倉本さん。……さっきは、君のことだけでほんとうのことを云って、びっくりさせたから、今度は僕のことでほんとうのことを云おう。一つだけね……」 「いいんです、信次さん、むりに仰有らなくとも──」と、たか子は無意識のうちに、信次が何か危険なことを云い出しそうな気がして、あわててそれを押えようとした。  信次は、確信ありげに首をふった。 「だめですね。……貴女もいろんなことを見たり聞いたりして、役に立たない、フンワリしたお嬢さん気質を、だんだんこすり落してしまったほうがいいと思うな。……恐いんですか……」 「──仰有ってもいいわ」と、たか子は、緊張して答えた。  信次は、ひとごとのような淡々とした調子で、 「……貴女もうすうす感づいていたかも知れないが、僕はね、ここのママの子供ではないんだ。パパが若いころに、どこかの芸者に生ませた子供なんです。そんなこと、僕はちっとも恥じてはいませんがね……」 「あっ! ……」と叫んで、たか子は棒立ちになり、あわてて、叫びをあげた自分の口を押えた。  信次のその言葉で、闇夜に稲妻でも閃《ひらめ》いたように、いままであいまいだったものが、一瞬の間に、なにもかも分ってしまったからだ! 山川の煮えきらない態度、高木トミ子がいつか持っていた田代の所番地を書いた紙きれ、雄吉が気づいた信次と民夫が似ていること、信次だけが田代家の家族の中で孤独の影を曳いていること……。  あれほど材料が揃っていたのに、それに筋みちを通すことが出来なかったのは、こんな立派な家庭の過去に、そうしたつまずきがあろうとは、想像さえ出来なかったからである。──たか子は、脳天をうたれたようで、立っているのが苦しいほどだった。  そのたか子は、もう一度「あっ!」と叫んで、狭い犬小屋の後の羽目板までずりさがった。というのは、いつの間にか立ち上がった信次が、きびしい表情で、押しかぶさるように迫って来たからである。 「いけませんわ、信次さん。ここから私を出して下さい。いけませんわ……」 「……貴女は何かを知ってるんだ。僕の知らないことをたくさん知ってるんだ。貴女の驚き方はそれを物語っていた。さあ、それを話して下さい、倉本さん……」  二人の間の異常な気分が分るのか、グレートデンも立ち上って信次のそばにより、たか子の顔を見上げて、ハアハアと荒い息を吐いた。長い舌、白い牙《きば》、ぬれた赤い口の中、青い獣の目──。 「信次さん、いけませんわ。私はなにも……。犬を押えて下さい。恐いわ! ……女をおどすなんて卑怯《ひきよう》ですわ……」  たか子は身体をちぢめて、羽目板にピッタリへばりついた。出来れば、一枚の紙きれのようにうすっぺらなものになって、羽目板の中へ消えてしまいたいのかもしれない。 「倉本さん。恐がらなくてもいいんですよ。相手しだいで、貴女が何を云おうと、それは軽薄でもなければ裏切りでもないんですからね。そして、この僕が、まさにそういう相手ですよ。……貴女のお話することは、関係者みんなにプラスになるように生かされていくんですから……。犬が恐いんですか。この犬には、僕の感情がすぐのりうつるんです……」と、信次は、たか子の肩の上あたりの羽目に手をついて、まるでそこにしばりつけるような恰好《かつこう》にして物を云った。 「云いますわ。だから、犬を押えて……恐いわ! ……ここから出たら貴方とはほんとに絶交しますから……」と、たか子は顔色を蒼白《そうはく》にして目をつぶっていた。 「さあ、おっしゃって下さい」 「……貴方のお母さんらしい方が私のアパートに住んでおります」 「──その人の名前は……」 「高木トミ子」 「──その人は、人間として汚《よご》れた感じですか? 率直に──」 「いいえ。明るい気さくな小母《おば》さんですわ」 「──その人は何をしています?」 「料理屋の女中さんだそうです」 「──貧乏してますか?」 「アパートの中では楽な方かも知れません。十八になる息子さんがあって二人で働いていますから……」 「貴女と交際がありますか?」 「あります」  たか子は、両手を後にまわし、目をつぶったままで、信次の質問に一つ一つ答えていた。答えることが、信次に対する復讐《ふくしゆう》でもあるかのような、妙な感じをもちながら……。 「──貴女はずうと前から、その事に気づいていたんですね?」 「いいえ。何かしら変だとは思ってましたけど、いま貴方がおっしゃるまで分りませんでした。貴方と民夫さんがよく似ていることが分ってからも、そんなこと、疑おうとさえしませんでしたわ。こんな御家庭で、あり得ないことなんですもの……」 「こらバロン!」と、信次は、低くうなり出した犬の首輪を、しっかり抑えつけて、 「──貴女《あなた》の程度に、このことを誰と誰が知ってるんです?」 「──山川先生と……あるいは雄吉さんもすこし──ほかはどうだか知りません。犬をつれてって……恐いわ!」  たか子は、腰のあたりに、犬の大きな口から吐き出される呼吸のなま温かさを感じて、小屋の隅っこにマッチの軸木のように身体を縮かませて、立ちすくんでいた。信次はやっと微笑をみせて、 「……貴女をおどかしてすみませんでした。でも、貴女はあとで、人を裏切るおしゃべりをしてしまったなどと、自分を責める必要はありませんよ。たぶん、貴女がいま教えてくれたことは、みんなのためになることですから……。少くとも、僕はそういう受けとり方が出来ると思います。……さようなら」  信次は、本を抱え、犬をつれて、小屋から出ていった。と、たか子は立っている気力もなくなって、ズルズルと床に崩れ落ちてしまった。両足を前に投げ出し、頭を羽目によせかけて、胸が破けそうな荒い息をもらした。閉じ合せたまぶたのすき間から、熱い涙がにじみ出てくる。「エッ! ……エッ!」と、たか子は二度ばかり、短かく泣きじゃくったりした……。 「倉本さん……これ……」  そういう声で、たか子が目をあけてみると、信次がニコニコ笑いながら、水を満たした大きなコップを差しのべていた。たか子はそれを受けとって、貪《むさぼ》るようになかみを飲んで、信次に返した。 「ここから出たら、貴方とは絶交しますから……。私、もう我慢がならないわ」 「そうですか。僕は不賛成だな……」と、信次は、たか子から返されたコップを透してみるようにして、残った水をひといきに飲んでしまった。水が通る時、喉《のど》ぼとけがグビリとふくらむのが、たか子の目にまざまざとうつった。そして、自分の場合も、それを信次に見られたのだろうと思ったりした。 「いやだわ。私が口をつけた水──」  たか子には、信次の唇が触れたものは、水ではなく、自分の皮膚でもあるかのような、生ま生ましい反応が感じられたのである。 「僕はね、ほんとは倉本さんをいじめて見たかったんだ……」 「私は……ここから出たら……」 「絶交ですか?」  たか子は黙ってうなだれていた。 「ママ達がもう帰りますよ。倉本さん。……身なりをキチンとしておかないと……」と云って、信次はまた小屋から立ち去っていった。  一人になっても、たか子は、けだものくさい犬小屋の中に坐《すわ》って、興奮がしずまるのを待っていた。信次の節くれだった手で、長い間、心臓を鷲《わし》づかみにされていたかのように、いまもまだ、胸のうちに、鈍い痛みが残っているのだ。  その上、信次の一言で明らかにされた事実のきびしさ、どぎつさが、若いたか子の精神の調和を、すっかりつき崩してしまったのである。 (あんな美しく立派な夫人がいるのに、なぜ田代玉吉はそうした過ちを犯さねばならなかったのであろうか。……男のセックスにはそういう盲目的なものが潜在しているのであろうか。……そして、ひとときの過ちのつぐないは、一生かかっても果しきれないものなのであろうか……)  たか子はふと、さきごろ、銀座うらの食物店の小座敷で、くみ子と民夫が、犬や猫の話をして、憑《つ》かれたように可笑《おか》しがっていた情景を、まざまざと思い出した──。玉吉の過ちが、そこまでも尾を曳いて来てるような気がするのだ。  そして、たった一つの救いは、本人の信次が、彼自身の言葉で云えば、人柄に汚れがなく、ともかくもカッチリとしていることだった……。  たか子は立ち上って、小屋から出た。明るいひろい戸外に立つと犬小屋の出来事が短かい悪夢であったような気がする……。  たか子は、何べんも大きく息を吸った。それから、けだものくさい埃《ほこ》りを払い落すために、水色のカーデガンをぬいで力いっぱいにふったり、茶色のチェックのスカートを両手でバタバタとたたいたりした。すると、今度は衣服に触れた手がけだものくさいような気がし出した。  たか子は家の中に入り、洗面所で手を洗った。石鹸《せつけん》を何べんともつけて、神経質に手をこすった。  鏡を見ると、泣いたあとのように、崩れた生ま生ましい感じの顔がうつっていた。しかし、首筋は滑かでたくましく、肩は安定した線で張っており、胸は若い命をはらんでるように盛り上がっている。──たか子は、信次が頭の中で眺めていたかも知れない自分の裸体に、ほのかな自信のようなものを覚えた……。  居間に引っ返して、長椅子に休んだ。家の中はひっそりとして、信次の室と思われる真上の二階から、何か片づけ物でもしているらしい、ガタゴトという物音が聞えた。さっきの今、あの孤独な青年は、何をしているのであろう?……  たか子は、身体の中を風が吹きぬけてるような、うすら寒い気がしていた。しゃべってはいけないことを、しゃべってしまったのだろうか。いや、そうではなく、知ってはいけないことを、信次から知らされてしまったにちがいない……。  そのうちに、二階の室から、壁か床をドッカドッカとたたいて拍子をとりながら、大きな声で、例の──  ※[#歌記号、unicode303d]……小原庄助さん、なアぜ身上つぶしたア……  と、はやすのが聞えて来た。 「あら」と、はじめて聞くたか子は、天井を見上げて微笑した。  耳をすませていると、そのドッカドッカというはやしは、天井板を通して、信次がたか子に、何ごとか話しかけているようにも思われた。なんという奇妙な通信法だろう……。  たか子は廊下に出て、そうと階段をあがった。そして、相変らず「小原庄助さん」のはやしを繰返している信次の室の前で、しばらくためらってから、ドアをたたいた。 「ああ……いるよ」と、信次が答えた。 「私ですけど、あけてもいいでしょうか」 「いいよ──」  たか子はドアをあけて、思わず「まあ」とつぶやいた。  信次の室を見るのははじめてだが、同じ並びのくみ子の室に較べて、まるで別世界といってもいいぐらいに、乱雑な雰囲気だったからだ。  壁には、デッサンやら、大小さまざまの絵がかけてあり、床には描きかけのカンバスをのせた画架が据えられ、絵具や本やコーヒー茶碗《ちやわん》やセーターなど、足の踏み場もないほどとり散らかっていた。  窓ぎわの机の上にも、スキー靴、かじりかけの林檎《りんご》、ウイスキーの小瓶、煙草、パイプなどがのっており、室の隅によせた寝台のカバーはクシャクシャに乱れて、飼猫のクロが丸くなって眠っていた。  ──あきれるほどのとり散らし方だが、信次の室だという感じは、はっきりと漂っている。  その信次は、画架の前にあぐらをかいて、九分どおり仕上った、橋のある風景画に手入れをしていたらしい。 「あの……ドッカドッカというのは、何をたたいていたんでしょうか?」  たか子は、まず第一に、そんなことを尋ねてしまった。信次は笑いながら、何に使うのか、そばにあった木づちで床板をたたいてみせ、 「僕はね、何かの意志表示をする時に、よく『小原庄介さん』をわめき出すんです……。貴女にそれが通じたようだったな」 「どんな意志表示でしたの?」 「下にいる倉本さん、二階に上ってお出でなさい、もっともだア、もっともだア……といった工合です……」 「おやおや、私にはそれが通じたとは思いませんが……。ちょうど私も、信次さんにお話したいと思ったことがあったものですから……」 「どんなことです……」 「──私は貴方《あなた》のことをちっとも怒ってはいませんからと……」 「僕が精神薄弱者だからでしょう。……少くとも貴女は過去に何べんかそう考えたことがある……」  と信次はいたずらっぽい目つきで、たか子の顔をじいと見上げた。  たか子は赤くなって、 「すみません。……でも、どうして貴方にそんなことが分るんですの?」 「貴女がいつも僕を許すからです。……室に入りませんか?」 「いいえ。ここにおります」と、たか子は自分の位置を確保するように、入口の柱に片手を当てて、 「それに入ろうたって、私の席がございません。こんな風に散らかしたら、住んでる人には、ずいぶん住心地がいいんでしょうね」  信次は目を細くして「ヒヒヒ……」と笑った。例のえくぼが印象的だった。 「倉本さん」と信次は少しばかり改まった調子で呼びかけた。 「いつか僕に、おふくろや弟を紹介してくれないかな……」 「それは……」と、たか子はしばらく口ごもった。 「私の立場として困りますわ。お宅の内政に、家庭教師の分際の私が手を出すような形になるのは、面白くないと思うんです。いまのところ私は、ここの家のどなたからも、悪く思われたくないんです……」 「そういうことだったら、いつか気が向いた時、僕が自分で訪ねて行きますよ……」 「──私には、それがいいことか、わるいことか判断がつきませんけど、いずれにしても、私の口出しすべきことではないと思いますから……」 「さわらぬ神にたたりなしか。……ところで、僕のことが分ったいま、ここの家庭をイヤらしいと思いますか……」 「あまりとつぜんでまだ実感としては信じられないぐらいですわ……」 「若い女の人って、人が好いだけで、物を見る目がふし穴みたいなものなんだな。だから、何箇月もここの家に出入りしても、ここがペンキ絵のように平板で幸福な家庭だと思ってるんだ。表面のきれいな部分にしか目が届かないんだ。……だから、たいていの若い女は、口先きのうまい、つまらん男に欺《だま》されてしまうんですよ……」 「私の目がふし穴ですみませんでしたわね。……私もきっと口先きのうまい男に欺されますわ……」 「そういうありふれたすね方は、貴女らしくもない。うんざりですよ。……僕が云いたかったのは、僕の話が、これまで貴女の平面的にしか見ていなかったこの家庭を立体感をもって眺めるのに役立って欲しいということなんです。そこらの、頭がひどくわるい、おセンチな街の娘たちだったら、なんて汚れた家庭なんでしょうと思うかも知れないんだけど……」 「どうしてそう意地のわるい云い方をなさるんです。……でも、まあ、御忠告ありがとう」  それまで入口に止まっていたたか子は、信次をはね返すような気持で、室の中に足を踏み入れた。そして、一ぱいに散らかった品物の間を、二足、三足器用にわたって、寝台に腰をかけ、そこに寝ていた黒猫を、膝の上に抱き上げた。  それが何気なくスムースに運んだところをみると、室に入ったらどこに坐るか、信次と自分の間には何を障害物に置くか、あらかじめ計算が立てられていたものらしい。とにかく、室の中に入ってみると、絵具のにおい、煙草の吸いさしのにおい、男の体臭──そんなものの入り混った、ツンと刺すような臭気が、改めて感じられた。  ふと、寝台をよせた壁の絵を見まわすと、枕もとの所に、女の顔の素描が二枚ほどはられてあるのに気づいた。 (私だわ。……はだかでなくてよかった)と、まず、たか子は思った。 「ああ、そのデッサンはまずいんですよ。よく、貴女がつかめてないんだ。……というよりも、貴女の印象は、いろいろに変るもんだから……」と、信次は立ち上って、絵のそばに行こうとした。たか子は、あわてたように、猫を抱え、腰を浮かしかけて、 「どうぞそのままで──。信次さんがそばにいらっしゃると、私、こわいんです。さっきはおどされたし……。きっと、困ることが起るんですもの……」 「猫をぶっつけるつもりですね。恐い人だな……」と、信次は苦笑して、テーブルの横の椅子の上から、二、三冊の雑誌を払い落して、それに腰を下した。 「あのう……云うだけは私の勝手でしょうから……出来れば私まだ当分、自分の顔を描いて欲しくないんです」 「──それ、破いても構いませんよ」 「もらってもいいんですか」 「あげますよ」 「どうもありがとう」  たか子は、壁の画鋲《がびよう》をぬいて、二枚のデッサンをはがして丸めた。と、信次が、長い絵筆の先きに、ゴム輪をひっかけて、差しのべてよこした。たか子はそれを丸めた画用紙にはめた。  その間に、手ばなされた黒猫は、寝台から信次の膝の上にうつっていった。そして、それだけのことでも、たか子は自分の身辺が手うすになったような心細さを感じた。 「──倉本さん。もう階下へいらっしゃい……」と、信次がパイプをくゆらしながら云い出した。 「お邪魔なんでしょうか?」 「そうでもないが──僕は貴女と二人ぎりでいると、つい意地のわるいことを云い出したくなるからです」 「おっしゃってもいいわ。……私を軽蔑《けいべつ》して、そうなさるのではないということだけは、分ったようですから……」 「あんまり好意的に考えてると、手を噛《か》まれますよ」 「さっきも噛まれましたわ。……なにを、私に聞かせたいんでしょう?」 「つまりね……」と、信次は真面目な表情で、たか子の顔を見つめ、 「僕は、若い女の人が、ただフワフワときれいであることに満足しているのは、人間的に恥じだと思ってるんです」 「よく分りましたわ。それで……」 「怒ったって平気ですよ。それで、貴女に残っているそういう一面を、ゴシゴシこすり落して上げたいんです……」 「ご親切なこと──」 「倉本さんはね、うちのパパとママと山川先生の間が、どんな関係だか、知ってますか──?」 「それは……お友達で……」と、答えかけたたか子は、信次の青いような目の光が注がれると、何か別なことを自分も知っていたような気がして、四肢が硬《こわ》ばるような緊迫感を覚えた。 「私、なんにも知らないんだけど、信次さんにそう云われると、胸騒ぎがして来ますわ。そして、何か知ってたような気がしてくるんです。……あっ、そうだわ。学生仲間に代々つたえられている伝説では、あんなにハンサムな紳士の山川先生が、ずうと独身をつづけているのは、若いころ、ある美しいお嬢さんに失恋したからだと云うことになってるんですけど……。何かその事に関係してるんでしょうか」  たか子は、のどの所まで、なにものかがこみ上げて来てるようなもどかしさを覚えながら云った。 「ああ、それですよ。美しいお嬢さんというのはママなんだ。はじめママは山川先生の恋人だったんだが、山川先生が理想派すぎるもので、友人であったパパにのりかえたんですよ。パパはともかく実行派だったものだから……」 「まあ──」と、たか子は思わず嘆声を洩《も》らしたが、しかし、今度はそれほど強いショックを受けたわけではなかった。  信次の出生の秘密を知ったことが、たか子の胸の中に、たいていの現実暴露には驚かないだけの心構えをつくっていたものとみえる。 「でも、そういう関係の人達が、ずうと親しい交際をつづけて来てるということが、私には腑《ふ》に落ちないんですけど……」 「世の中って、親のスネかじりの学生達が見たら、腑に落ちないことだらけですよ……」 「貴方は抵抗を感じないんですか」 「感じてますとも。でも、僕は、そういう世間に対して、金切声で抗議するのは、みっともないと思ってるんだ……」 「……私がママの立場でしたら、山川先生とは絶交してると思いますわ」 「貴女は絶交が好きな人だ……」  と、信次はたか子を苦笑させてから、 「貴女はそういうのが潔癖なやり方だと思ってるのかも知れないが、一面からみると、一ばん面倒のない方法をとってるんだと考えられないこともない。……ママの場合、二人の男を、夫として友人として、ずうと自分のそばに牽《ひ》きつけておく煩わしさに堪えていく力があるんです。それはまた、僕を、自分の実子として、強引に今日まで育てて来た力でもあるんだけど……。ママは一種の女傑ですよ……。ママでもなければ、ここのようなむずかしい家族を、一つにまとめていく力がないと思うな……」 「ママさんを好きですか」 「きらいですよ。……僕は気分がうっとうしい時は、学校でもこの室でも、電車の中でも、構わずひとり言を云うことにしているんです。『くそばばあ──』とね。ああ、僕は少年のころから、何千回、その言葉をつぶやいて来たことだろう。それでも僕はママをのり越えることが出来ないんだ。ママはいつでも、白い厚い壁のように、僕の行手に立ちふさがっているんだ……」 「────」  たか子は強い感動にうたれた。わずか半時間ばかりの間に、田代家のものは、人間も家も家具や樹木も、一つ一つのものが、急に濃い影を曳き出したように思われ、たか子は、うす暗いジャングルの中にでも放たれたようなたよりなさを覚えた。 「でも、そんなことおっしゃるの、雄吉さんやくみ子さんにわるいと思いますけど……」  しばらく経って、たか子はそう云ったが、信次をたしなめるというよりは、信次を揺すぶって、もっと何かを云わせようとしているように思われて、しぜんに顔が赤くなった。 「くみ子の前では、何べんも『くそばばあ』って云ってますよ。あいつ、賛成なような顔もしてるんだけど……」  たか子はクスリと笑った。くみ子ならば、そういうこともありそうだからだ。が、根本は、表現がどぎついほど信次の心は冷酷ではないということなのかも知れない。 「もちろん、くみ子さんも、御家庭のいろんな事情を知ってるでしょうね?」 「あんなはしっこい奴が、感づかないわけがありませんよ。でも、僕達は、表だってそんな話をしたことは一ぺんもないんだ。ママの強い意志が、家族みんなの上に君臨してるからです。ここは類《たぐ》いまれな立派な家庭でなければならないという強い意志です。その神聖なタブーは、何人も犯すことが出来ないんですよ。少くもいままではね──」  最後の短かい言葉が、たか子の心にヒヤリとするものを感じさせた。そのタブーをつき破るほど、信次の抵抗の精神が成長して来ていることを暗示していたからである。 「──私、家庭教師として、必要以上のことを知ってしまったようで恐ろしい気がしますわ」 「そんなことはないと思うな、くみ子に物を教えるには、くみ子の環境が分ってないとうまくいきませんよ。……それよりも、僕の義弟の民夫ってどんな奴ですか?」 「親孝行で、唄が上手で……そうですね。貴方《あなた》が聞きたそうな解説を云いますと、貴方に較《くら》べて、人柄がわりに単純ですわ。生活の苦労はずいぶんしたそうですけど、ともかくもお母さまとずうといっしょに暮していたせいだろうと思いますけど……」 「貴女は頭がいい人だ。……僕は民夫について何が知りたかったのか、自分でもよく分らずに尋ねたんだが、どうやら、貴女は、僕が一ばん求めていたものを与えてくれたようだ……。貴女は頭がいいよ」 「大学者が小学生を賞めてるようだわ」 「ああ、貴女は僕からみると、小学生みたいなもんだ。胸は少しふくらんでるけど……」 「──一度、民夫さんの唄をお聞きになるといいわ」 「くみ子にひっぱられて二度ばかり聞きましたよ。その時は彼の素性など知らなかったけど……。でも、……あんなもの、器用で唄ってるだけで、本当の芸というものではないな……」 「そっくり同じことを、民夫さん自身が云ってますわ。だから、働くかたわら、作曲を勉強してるんですって……」 「作曲! なんだって、奴は、金を稼ぐのが難かしいような仕事を選ぶんだろう?」 「貴方がお金になりそうもない絵の勉強をしてるようなもんですわ……」 「ハハハ……。貴女が頭がいいということは、さっき云ってしまったし。今度はなんて云ったらいいのかな……」 「なんでしたら、すばらしい美人だとでも何とでも……」  信次は目を細くし、例のエクボをみせて、溶け入りそうに微笑していた。  その顔をみると、たか子は、信次のたいていの不作法は、帳消しにされてしまうような気持にさせられるのだった。 「でもね、倉本さん。くみ子が民夫にお熱をあげるなんて……いきすぎると、因果話めいてきて不愉快だな……」 「民夫さんが私の隣人だということが分ってから、くみ子さんから民夫さんてどんな人間かって、改めてきかれたことがありますわ……」 「ふん。重要な質問だな。貴女はどう答えました?」と、信次は爪を噛んで、たか子の顔を見つめた。 「私、民夫さんは貴女とまったくちがった環境の中で育って来た人です、と答えましたわ。二度ほど繰り返して……」 「──御名答だな。敬意を表しますよ。失礼だが、どうしてそんな適切な返答を思いついたんですか」 「分りません。……貴方の仰有るとおり、これは大切な質問だなと思って緊張したら、しぜんにそういう返事が出たんです」  その説明では、半分の事実が伏せられているのだ。というのは、たか子はそれまでに、雄吉と自分をひそかに並べて考えることがあり、そんな時には、二人の育った環境はまったくちがうのだからという反省で、自分の方にきびしい鞭《むち》を加えるようにしていたのである。  ──その鞭を、くみ子にも用いてみたので、ただ単に適切であるというだけではなく、ある実感がこもっていたのも、そのためなのであった……。 「……さあ、それでは貴女はお帰りなさい。ちょっとの間に、いろんな事が分ったのだし、これからママやくみ子達に会って、態度の使い分けをするのも苦痛でしょうから、今日はこれぎりで帰った方がいいと思うんだ。頭が痛くて帰ったとかなんとか、ママ達には適当に云っておきますから……」  たしかに、このあとみどり夫人に会っても、絶えず物を隠してるような落ちつきなさを感じさせられるばかりであろうし、たか子は、信次の心づかいをうれしく思った。 「ありがとう。私、じゃあ帰りますから……。いろいろ心配なことだらけですけど、貴方を信用しておりますから……」 「僕には自分があまり信用出来ないんだけどな……」 「さよなら」と、たか子は立ち上って、室の入口を出てから、ふり返って、 「貴方はここからお出にならないで……」 「ああ、行きませんよ」と、信次は猫をはらいのけて立ち上り、いままでたか子がいた寝台に腰を下し、ふとニヤニヤして、 「あっ、たか子さんの体温が残っていて、お尻《しり》があったかいや」 「────」  たか子は、ドアをピシャリとしめて、階段を駈《か》けおりた。  信次がそう云ったせいばかりでなしに、信次の室に、何か自分の身についたものを残して来たような気がかりが、たか子をとらえていたのである。  ばあやに見送られて田代家を出ると、たか子はグレーのオーバーを片手に抱え、別の手には、信次のデッサンを丸めた紙包みをはさんだカバンをぶら下げて、都立大学の駅に出る道を歩き出した。  陽はまだ明るく照っていて、たか子の桃色のベレー帽や白いカーデガンを、緑の多い住宅街の雰囲気の中に、鮮やかに浮き上らせていた。  いつもとちがって、外またに地面をふむ足の裏に、ジットリした弾力が感じられるような気がする。たか子の目方が──たか子の精神の目方が、急にふえたからにちがいない。信次の言葉で云えば、人間として恥じだという、ただフワフワときれいなだけの段階をのり越えて、人生の一つの真実のようなものを体験したからにちがいないのだ。たか子の足の踏み方を力強いものにしているのはそのせいなのだ……。  たか子は、映画や読物や人の話などで、田代家のそれ以上のスキャンダルを見聞したことはいくらもある。けれども、それらは、自分から距離が遠い、ひろい世間の出来事として、たか子の皮膚の上っ面をすべっていたにすぎず、いわゆる体験というものにはならなかった。  それが田代家のこととなると、たか子は自分のことのように生ま生ましい衝撃を、胸の奥ふかい所に感じさせられたのである。いつの間にか、田代家の人々が、それほど身近かな存在になっていたのである。  にぎやかな商店街に出ると、横あいから、両方の肩を柔かく押えるものがあった。みると、雄吉の笑顔が自分を見下していた。 「もう帰るんですか?」 「あらっ。……ええ、ママさんもくみ子さんもお留守で、上って待ってたんですけど、頭が痛いような気がして、帰って来ましたの」 「そうですか。……貴女《あなた》が来る日だと思って、外出先きから大急ぎで引っ返して来たんだがな。どうです、そこらを少し散歩してみませんか……」と、雄吉は、片方の手をたか子の肩にのせたままで云った。  茶色のズボンに底高なズック靴を穿《は》き、上は赤い色のシャツにグレーのセーター、その上からチェックの派手なジャンパーをひっかけている。 「少し疲れてるんですけど……でも、めったにないいいお天気ですから、歩いてもいいわ」 「ああ、よかった。……どこがいいかな」と、雄吉は、たか子の腕からオーバーをとってやり、背中を押すようにして、並んで歩き出した。  ふと、石焼いもの屋台車が、二人の前を横ぎって行った。たか子は足をとめて、 「私、あれを食べて、どこかでコーヒーを飲んで……それからお伴しますわ。……お宅には、信次さんだけがおったんですけど、気のつかない方ですから、お茶ひとつ出ませんでした。……ああ、お水は飲ませてくれたけど……」 「信次がおったんですか……」  雄吉は焼いもを買って、近くの喫茶店にたか子を案内した。  ひまな時間だとみえて、喫茶店の中は、客が少ししかおらず、レコードがシャンソンをかん高く唄っていた。  二人は窓ぎわの明るい席に坐《すわ》った。たか子は、コーヒーが来るのを待ちきれず、湯気の立つ紙ぶくろから、焼芋をとり出して食べはじめた。雄吉も一つだけ食べたが、これはどうもおつき合いのためらしい。 「──信次の奴、何していましたか」 「犬小屋の中であちらの画集をみていましたわ」 「あいつはよくそんなことをするんです。……貴女にお茶も出さなかったなんて失礼な奴だな……」 「その代り、これをいただきましたわ」と、たか子は、鞄《かばん》からデッサンの紙包みをぬいて、ひろげてみせた。 「ふーむ」と、雄吉は二枚のデッサンを丹念に眺めて、 「貴女の感じをある程度つかまえていますよ。……貴女はどう思います?」 「私、まだ当分、私の顔など描いて欲しくないと申しましたら、それでは絵をもっていってもいいとおっしゃったんです……」 「貴女はこの絵をどうします? お室にかけておくんですか」 「──焼いてしまうつもりですわ」  その返事は、雄吉の顔を見てる間に思いついたものだった。 「信次が嘆きますよ」 「でも、私に下すったんですから──」 「僕は、兄貴として、そうでないことを希《のぞ》むんだが、貴女はいまでも信次がきらいですか?」と、雄吉はものなれたような目つきで、たか子の顔をじっと見まもった。 「ええ!」  たか子はふしぜんに力んだ口調で答えて、目を外《そ》らせた。顔が赤くなっていた。それをこすり落そうとでもするように、掌で顔をなでまわしてから、 「人をきらうなんて、恥ずべきことだと思ってるんですけど……」 「それあ仕方ありませんよ。僕はあいつの兄貴として、貴女のあいつに対する感情が、早い機会に変ってくれるように希んでいますよ。……もっとも、あいつ自身も、相手にきらわれながら、いつの間にか相手のふところにもぐりこんでいくという性格ではありますがね……」  その言葉で自分でも気がつかないでいるうちに、自分の心の中で、ある程度に進行している事実を指摘されたようで、たか子は、急に重くるしい気分にさせられた。 「私と信次さんとではつまり、肌が合わないというんでしょうね」  ウソがウソに重っていくようで、あと味がわるかった。いい工合に、雄吉が話題を変えてくれた。 「……貴女のアパートの、信次に似た顔立ちの青年はどうしています? ……高木とか云いましたっけね……」 「ああ、民夫さんですか。元気ですわ。あのう……」と、たか子は言葉をにごして、コーヒーを啜りながら、上目づかいに雄吉を眺めた。 「あの人がジャズの歌手だということはお話しましたっけね。……そしたら、こないだ、くみ子さんが、ジミー・小池っていうひいきのジャズ歌手が、銀座の喫茶店で唄っているからというので、いっしょに聞きに行きましたら、なんと、そのジミー・小池っていうのが高木民夫さんだったんです。驚きましたわ。私もそうだけど、くみ子さんの方がもっと……」 「へえ……。じゃあ、くみ子は貴女にその歌手を紹介してもらって、大喜びだったっていうわけなんですね……」 「ええ。いっしょに食事をしましたの。というよりも、民夫さんが私達におごってくれたんですわ……」 「それあよかったですね……」と云って、横を向いた雄吉の顔には、かくしきれない不快の色が滲《にじ》んでいた。  たか子は、日ごろ圧迫(不快なものではなかったが)を感じている雄吉に対して、ちょっとの間でも優位に立てたようで、調子にのって、つい危っかしいことまで口走ってしまった。 「でも、あの晩、貴方に御注意されてから気がついたんですけど、民夫さんって子、ほんとに信次さんに似てますわね。可笑《おか》しいぐらい……」 「──そうですかねえ、僕はちょっと見ただけだから、たしかなことは分らんけど……」  雄吉はさりげなく云ったが、たか子を見つめる目には、刺すような光がひらめいていた。おたがいに、相手がどこまでの所を知っているのか、探り合っているのだ……。 「さあ、もう元気になりましたから、どこへでもお伴しますわ……」  たか子は、鞄をあけて、中のものを整理して空間をつくり、そこに、残った石焼いもをつぶれないように上手につめこんだ。  雄吉は感心したように、たか子の手つきを眺めていた。 (へえ、この子は適当にケチンボで、世帯《しよたい》持ちがいいんだナ)  外に出ると、雄吉はすぐ車をひろった。  そして、ほんの一丁場はしったあたりで、車から下りた。  そこは、左手が赤土のひろい空地になっており、空地のまん中へんに、野球場の夜間照明用の鉄塔が五、六基そそり立っていた。 「駒沢のグラウンドですか?」 「そうですよ。シーズンの時は、野球も見にくるし、いまごろはよく散歩に来るんですよ……」  雄吉は、やはり、たか子のオーバーを抱えてやり、空いている腕をたか子の背中にまわして、埃《ほこり》っぽい道路をそれた固い土の上を、グラウンドの方に向って歩き出した。  歩きしだいに、身のまわりの空間がひろくなり、空気までが、心なしか、澄んで口あたりが爽《さわ》やかになってくるような気がした。  ふり向くと、空地の向うにひろがった街の見はらしの中に、国立病院の棟を並べた建物や、都立大学の高層建築などが目立っていた。  雄吉は無心そうにシャンソンを口ずさんでいた。そして、足もとに穴ぼこがあったりすると、強い力で、たか子の身体を、平坦《たいら》な方に曳きよせてやったりした。  ときどき来ているというとおり、雄吉は、ひろい空地の足場のいい所を横ぎって、野球場のある所に出ていった。  いまはシーズン・オフで、あたりには人気がなく、手入れでも行われているのか、グラウンドの裏木戸があいていた。  二人はそこから球場の中に入っていった。無人のひろいグラウンドやスタンドには、冬の陽がさんさんと降りそそいでいたが、どこやらくたびれ果てたような気分が漂っている。シーズンのころの、観衆が一ぱいにつめかけて、ワーン、ワーンと喊声《かんせい》をあげている響きが、まだ、そこらへんにかすかに残っているような気もする。 「坐《すわ》りましょうや」と、雄吉は、スタンドの一ばん上の段にのぼって自分のジャンパーを脱いで枯れた芝の上にしき、そこにたか子を坐らせた。  そして、腕に抱えていたオーバーを、たか子の膝《ひざ》の上にかけてやった。 「貴方《あなた》もどうぞ──。ジャンパーをお脱ぎになって寒いでしょう……」  たか子はオーバーを横にひろげて、雄吉の膝の上にもかけてやった。  そうして身体を寄せ合って坐っていると、グラウンドの柵《さく》がまわりの視野をふさいで、ひろい世間から、二人ぎりでかくれんぼでもしているようだ。 「──貴女はさっき、僕を試すようなことをおっしゃいましたね?」 「そんなこと……私が云いましたかしら……」 「民夫君とかいう青年、くみ子、信次。──その三つの名前を並べて、僕の表情を読んでましたっけね?」 「私は、自分の方が、雄吉さんから顔色を見られているような気がしてましたわ」 「そうです。貴女の表情に気をつけていましたよ。そして、貴女が事情を知ってるんだなと思いました……」 「ええ、私、知ってますわ……。でも、貴方が私のアパートにお寄りになった時は、まだ知らなかったんです」 「──分ったいま、僕の家庭の秩序を維持するために協力して下さいますか?」 「具体的に申しますと、どんなことをすればよろしいのでしょう」 「とりあえず、くみ子を、ジミー・小池という青年に近づけないようにしてもらいたいのです」 「────」  たか子はどうしても言葉が出ず、ところどころ表皮のはげたグラウンドの土の上で、二匹の犬ころがたわむれているのをじいと見つめていた。 「賛成してもらえないんですか」と、雄吉は少し硬《こわ》ばった調子で尋ねた。 「ええ、無理はいけないと思いますわ。それよりは、適当な機会に、民夫さんとくみ子さんがどういう関係にあるのか、ハッキリさせた方が、二人がしぜんに自重するようになると思いますけど……」 「くみ子もたぶん、信次の生れについては感づいていると思いますけど、しかしいま、民夫君という生ま生ましい材料にからんで、それをハッキリさせることは、自重する前に、くみ子をスポイルしてしまうと思うんですよ」 「私の接したかぎりでは、くみ子さんはもっと大人だと思いますけど……。こんなことを申し上げていいかどうか、足がわるいということは、くみ子さんの気持を大人並みに鍛えていると思いますの……」 「年ごろの娘の心が、その年ごろのもの以上に、固く大人びているということは、本人にとって仕合せなことかどうか疑問ですね。……くみ子がどうして足を悪くしたかっていうことも、貴女のお耳に入ってると思いますけど……」  それを云う雄吉の暗い表情がたか子をぞっとさせた。 (この人は、妹を傷つけた異腹の弟を、まだ許してはいないんだわ、きっと……。当のくみ子さんはもうこだわらなくなっているらしいのに……) 「ええ。信次さんが御自分でそうおっしゃっていましたわ。子供の時分、いっしょに遊んでいて、怪我をさせたんだって……」 「だからですよ。だから、信次に関したことでは、もう家庭の秩序を乱されたくないというのが僕の気持なんです。そして、貴女の立場で、それに協力してもらいたいと思うんですよ」 「──私、お宅が平和であるようにとは、誰より希《のぞ》んでるつもりですけど、でも、ほんとの平和というのが、どんな内容のものかってことは、貴方と考え方がちがうようでございますわ……」  たか子は、緊張した面持で云った。雄吉と正面から対立した意見を述べるということが、若いたか子の魂をおののかせたのである。 「もっと委しく云いますと──?」 「ほんとのことは無理して隠さないで、みんなの諒解《りようかい》の上に成り立つのが、真の平和だと思うんです……」 「それだと僕は反対です」と、雄吉は興奮した口調で云って、 「僕は自分の家庭にほこりを持ってますからね。『かく在る』というよりも『かく在るべき』ということで家庭を守っていきたいんです……」  そういうのが、たか子には(お前さん達の安直な家庭とはちがいますぞ)ときめつけられたようで、全くガッカリした気分にさせられた。同時に、雄吉との間にこんなまずい気分が醸し出されたことを悲しく思った……。  どこからかサイレンの音が聞えて来た。と、それに誘われたように、方々から、音程のちがう二、三のサイレンや、鐘の音などが聞えた。そして、グラウンドの上の空を黒い小鳥が群れて、斜めに飛びかけっていった。  夕暮れがせまっていた。  たか子は急に心細くなった。雄吉との間が、これっきりずれてしまうものとすると、彼女の生活は、晴れる間のない日陰の世界に入ってしまいそうな気がする……。  たか子は、自分の考え方がまちがっているとは思わない。人間は平等の権利をもっているというのが、たか子の基本的な考え方だ。それに対して、雄吉は、家の名誉を守るためには、個人の気持をふみにじることがあっても止むを得ないとする立場をとっている。そして、理屈を越えた信念として、迷うところがない。  そうなると、賛成が出来ないまでも、たか子には、一つの魅力として感じられないこともなかった……。 「さて僕達はどうやら対立してしまったようですね。こうなったら、いい加減に妥協しないで、理解し合える道を打開するようにしましょうよ……。僕は、民主主義というものは、低いもの、卑しいものに同調することではないと思ってるんです……」 「────」  たか子は、うなだれて、雄吉の言葉をきいていた。信次をきらいだと云いきる自分の気持の中には、ほんとに冷いものがなく、いつも信次をかばい、認めている雄吉の気持の中に、かえって信次やその背後の人々に対するヒヤリとした、冷いものが流れているようで気がかりだった……。 「もしも、貴方のお考えが、パパさんやママさんのお考えでもあるとすれば、どうやら私は、お宅に働かせていただく資格がないようでございますわ。もちろん、私には、お宅の内部のことに干渉する意志などございませんけど、私の身辺のことについては、私が正しいと信じたとおりに動くしかないものでございますから……」  たか子は、グラウンドの一点を見つめながら、ひどく改まった調子で云った。身体のふしぶしが固くなるほど緊張していたが、しかし、もう一つ底の方では、この人にはこんなことを云っても大丈夫なんだという、甘えた気持が動いていなかったわけでもなさそうだ……。  はたして、雄吉はあわてたように、 「とんでもない、倉本さん。僕こそ貴女《あなた》にむりなことを求めてるんですよ。第一、貴女はくみ子を教えるために来ていただいてるので、僕に協力するためではないんです。そのくみ子をどんな風に指導しようと、これも貴女に委されたことですからね。……僕はつまり貴女に頼りすぎて、貴女の任務以上のことを求めたっていうわけですよ……。  倉本さん、貴女がお出でになったことはね、少しキザなような云い方になりますけど、田代家に、小さいが明るい太陽がさしこんだようなものなんです。それを失うなんて、何物にも代えがたい痛手ですよ。小っちゃい、清潔な、光燭の強い太陽……」 「そして、石焼いもが好きな太陽──」  たか子がつけた落ちで、二人は声をあげて笑い出した。若い者の心は気まぐれで変りやすいのだ……。  たか子は、さっきから、オーバーの下が気にかかっていた。膝と膝が長いこと触れ合っていて、体温で、だいぶ熱くなっているのだ。が、膝をひき離すのも、こだわって無邪気でないようだし、じっとしていると、膝がほてって、石のように重いのだ。──  ふと、たか子は、自分が坐ったあとのベッドの体温に浸っていた信次のことを思い出した。あんな風にヌケヌケとしていられたら、どんなに気が楽なことであろう……。 「私、寒くなりましたからオーバーを着ますわ。雄吉さんもジャンパーをお召しになって……」と、たか子は何気なく立ち上った。  雄吉は、たか子にオーバーを着せかけてやり、自分もジャンパーを羽織った。 「だんだん寒くなりますから、ボツボツ帰りましょうか。玉電の停留所の方が近いかも知れませんよ……」  二人はスタンドから下りて、裏木戸の方に歩き出した。土の皮のむけたグラウンドに当る陽ざしも、だいぶ弱まっていた。  木戸口のところで、たか子はもう一度グラウンドの方をふり返った。観衆も見えず、喊声《かんせい》も聞えないが、たった今、そこで、雄吉との間に、緊張したゲームがたたかわされたようで、後髪を曳かれる思いが、かすかに胸の中にうずいていた。 「──貴女やくみ子が、御郷里の方にいる間に、僕もスキーに出かけるかも知れませんよ。大鰐《おおわに》のアジャラ山でしたら、僕も二年ばかり前に辷《すべ》ったことがあるんです……」 「歓迎しますわ。私の町から汽車で三十分ばかしで行けるんです……。私、心配してるんですけど、くみ子さん相当に辷れるんでしょうか」 「まあまあ、人の足手まといにならない程度にはやれます」 「──いつかこういうんですよ。世界中の人が歩かないで、みんなスキーで辷るんだといい、そうすれば自分の身体も目立たないんだけどって……」 「──あいつは、口で云うほど、自分の身体のことは気にしていませんよ、もう……」と、雄吉は顔をそ向けるようにして云った。  街に入ると、二人の気持は、解きほぐされたようにくつろいで来た。夕食の買い出しに出た女たちが、店先で食料品をあさったり、舗道で立ち話をしたり、往《い》ったり来たり、にぎやかだった。彼女達は、赤い蟇口《がまぐち》を掌に握ったり、買物|籠《かご》を下げたり、幼い子供の手を曳いていたり、そこはかとない庶民の暮しの雰囲気を漂わせていた。  それは、理由もなしに、ときどき熱病やみのように興奮したりする、たか子達の時期を通りこして、一応の落ちつきを得た女達のありのままの姿なのだ。  たか子は、自分も一足とびに、迷いの少いその世代の人間になりたいとも思うし、反対に、ゆっくり時間をかけて、さまざまな経験を積んでから、その世代に入って行くようにしたいと思ったりする……。  ああ、夕食の買い出しに出かける女達の好ましいやつれ方──。彼女達は、チビた下駄を足のさきに軽くひっかけているだけなのに、ちゃんと力強く大地を踏まえているのだ……。  間もなく電車が轟音《ごうおん》をあげて、停留所に入って来た……。 [#改ページ]  [#2字下げ]正月風景  枕もとの目覚時計が低くチリチリと鳴った。  元旦《がんたん》の午前六時半だった。高木トミ子は、寝床からぬけ出すと、東向きの窓のカーテンを曳《ひ》いて、ガラス戸をあけた。遠い正面の空は、あかく朝やけがして、どうやら今日は上天気らしい。  トミ子は、ガラス戸を細目にあけたままにして、室の空気を入れかえながら、物音をさせないように、朝の仕度にとりかかった。床の間によった方で、民夫がまだ眠っているからだ。  自分の分の蒲団《ふとん》を片づけ、顔を洗い、湯をわかし、雑煮の仕度をし、それからこざっぱりした正月着にきかえた。ゆっくりやったのだが、一時間もすると、何もかも出来上ってしまった。  トミ子は、テーブルの前に坐《すわ》って、煙草をふかしながら、満足そうに、片づいた室内を眺めまわした。  よく掃除のいき届いた十畳間で、和洋の箪笥《たんす》、茶棚、本箱、鏡台、ガス・ストーブなど、一とおりの家具が揃っており、床の間にはサキソホーンやギターなどが飾られてあった。箪笥の中には、自分の分と民夫の分と、二冊の預金通帳がしまってあるのも、トミ子の目にはちゃんと見え透いていた。そして、これらの家財も貯金も、たいてい民夫がお金を稼ぐようになってから出来たものばかりである。  だから、トミ子にとって、この室の中で、一ばんの自慢の種は、白い足の裏をチョッピリのぞかせて、蒲団を頭からひっかぶって寝ている民夫のことなのである……。 「民夫……民夫……。もう起きておくれよ。仕度はとっくに出来て、お母ちゃんは退屈してるんだよ……」 「うるせえな。お正月だけでもゆっくり寝かしておくれよ……」 「何をお云いだい。毎朝寝坊してるくせに、何がお正月だい。ほかの日にはともかくも、今日だけは人並みに起きないと、罰が当るよ……」 「……罰なんか、とっくに当ってらい。……眠いんだよ……」 「悪口だけは一人前に云って、何が眠いんだい……。蒲団をひっぱぐよ。お母ちゃんはお腹が空いて来たよ」 「年よりのくせに食い意地が張ってるな。お母ちゃん、先きに食べちまいな……」 「お雑煮とお屠蘇《とそ》を祝うのに、一人ずつってことはないよ、さっさと起きるんだよ、民夫……」  ゆっくり間をおいて、そんな会話をしたが、トミ子にはそれが楽しみでもあるのだ。 「起きれあいいんだろ……起きれあ」と、民夫はとうとう寝床からぬけ出し、パジャマの上に丹前をはおって、枕もとのガラス戸を一ぱいにあけた。  そして、大きなあくびをしながら、あかい東の空を眺めていたが、ふと、床の間のサキソホーンをとり上げると、窓ぶちに片足をかけて、ヴォリュームのある低音のメロデーを吹き出した。 「よしておくれよ、民夫。元旦の朝っぱらから楽隊をやられちゃ、御近所が迷惑だよ」  が、民夫は聞えない風で、頭をギクシャクふりながら、サキソホーンを吹きつづけた。  トミ子はその間に、民夫の寝床を片づけ、テーブルの上に、おせち料理やお屠蘇などを並べ出した。  民夫もやっと、サキソホーンを床の間に納めて、洗面所に立ったが、そのあと鏡台の前にあぐらをかいて、髪に水油をつけたり、顔にクリームをなすりつけたり、ゆっくりおしゃれをした。 「……お母ちゃん、おれの男ぶりは、中くらいのところだろうな。……もう少しいいかな……」と、民夫は、鏡の中の顔を、いろいろな角度からのぞきこみながら云った。 「中くらいなんてもンじゃないよ。お母ちゃんは念入りにお前を生んだんだからね。お前にしろ、お前の兄さんにしろ、お母ちゃんはお前達がお腹にいる時、もし男の子だったら、第一に身体が丈夫で、第二に男ぶりがいいようにって、願っていたもンだよ。……お前、もう少し大人びて来たら、もっともっといい男ぶりになるよ……」  トミ子はお雑煮をよそいながら、人ごとのような調子で云った。 「そうかなあ。身内が賞めるんじゃあ、あんまりアテにならないな……。だって、おれ、女の子に惚《ほ》れられたことが一ぺんもないぜ」 「……お前はボンヤリだから、惚れられても気がつかないんだよ。その方がいいんだけど……。お前、女の子とベタベタ遊ぶの、好きなのかい?」 「好きなんかも知れないけど……いまは御免だな。俺は当分、飯の種になるものの勉強をするよ」 「私もその方がいいと思うよ……」  民夫は、白いトックリのセーターに茶色の服を着て、テーブルの前に坐った。 「さ、いただきますよ」と、トミ子は二人の盃《さかずき》にお屠蘇を注いだ。 「民夫や、おめでとう。今年もよろしくたのみますよ」 「うん、おめでとう」  民夫はテレくさそうに云って、盃を一と息に飲み干した。トミ子は、目をつぶって、ゆっくり二度、三度に盃を干したが、その短かい間に、下積みの女の苦難に満ちた生涯が、ボンヤリした影のように、彼女の頭の中に思い浮べられていたのかも知れない……。  二人はおせち料理をつまんで、雑煮を食べ出したが、なにか、モジモジしていたトミ子は、ふと箸《はし》を止めて、遠慮ぶかく、 「あのな、民夫。二人ぎりでお正月を祝うのはさみしいし、お前のお父さんの写真を飾ってもいいかい?」 「──いいだろう。お母ちゃんの御亭主だったにちがいないんだからな。でも、俺は、あんな奴、親爺《おやじ》だともなんとも思ってやしないからな……」と、民夫はつっけんどんに云った。  トミ子は、そわそわと立ち上り、箪笥のひき出しから、小さな額縁をとり出して、茶棚の上に飾った。髭《ひげ》を生やして、陰気な顔をした、中年の男の和服の半身像がはまっている。トミ子は、その前に、お屠蘇やおせち料理を供えて、ていねいに拝んでから、テーブルの所にもどった。  民夫は写真の方に尻《しり》を向けて、雑煮を食べていた。 「民夫。お前もいつまでも強情はってないで、一度お父ちゃんを拝んであげたらどうだい?」 「いやだよ、あんな野郎……」と、民夫は、もう一度身体をずらせて、写真の方にすっかり背中を向けてしまった。 「死んじまったんだよ、あの人は……。死んでしまえば、たいていの事は帳消しになってしまうんだよ」 「俺は帳消しにしないよ。お母ちゃんこそ未練がましいよ。自分の都合のいい時だけやって来やがって、そのたんびにこっちをひどい目にあわせていた男を、死んだからって、拝むこたあないじゃないか……。写真なんか焼いてしまうがいいんだ」と、民夫はいまいましそうに箸の先きで雑煮をグサグサに突き刺した。 「お前はそんなことを云うけどねえ……。お母ちゃんはあの人のことだけは忘れられないよ。それあお母ちゃんは、生れ合せがわるかったし、いろんな男の人の世話になったさ。でも、その人達のことは片っぱしから忘れてしまってるけど、お前のお父ちゃんのことだけは、一生忘れっこないからね……」  トミ子はナマスをつまんで食べながら、ゆとりのある調子で云った。 「俺が生れたからって云うんだろ。そんなとこに俺を引き合いに出されちゃ迷惑だよ……。子供を生むぐらいのこと、猫だって犬だって出来るんだぜ……」 「そんなことじゃないんだよ、民夫。……私を本気で相手にしてくれた人は、お前のお父ちゃんだけだってことなんだよ。本気で可愛がってくれたんではなく、本気でいじめ、本気で憎んだってことかも知れないけどね。それでも人間の本気ってものは、いつまでも忘れられないものなんだよ。ほかの人で、私を可愛がってくれた人もあったかも知れないさ。いえ、たいてい可愛がってくれたんだろうさ。でも、どれもいい加減な気持ちのもンで、決して本気なもンではなかったからね。そして、そんなのはすぐ、私の方でも忘れてしまうんだよ。  そこへいくと、お前のお父ちゃんは、私を何べんも死ぬほどひどい目にあわせたけれど、ともかく本気で私を扱ってくれたからね。お父ちゃんが本気であるほど、私はぶたれ、蹴《け》られ、首をしめられるなど、ほんとうに辛い目にあわされたけど、しかし過ぎ去ってしまえば、ひどい目にあわされた恨みはあとかたもなく消えて、ただお父ちゃんが本気だったことだけが、胸の中に温かく残っているんだよ。人間の本気ってそんなものなんだよ。民夫も覚えておくがいい……」 「チェ。そんなこと、俺に分るもんかい。……あんなアル中野郎に、おっそろしく惚れこんだものだなあ……」 「何とでもお云い。……私あこの年になって分ったような気がするんだけど、お前のお父ちゃんだって、根っから悪人というんじゃない、生れつきが不仕合せだったから、あんな風に根性が曲ってしまったんだよ。でもなければ、本気で私を可愛がってくれたかも知れないんだよ……」と、トミ子は茶棚の上の写真にチラと目をやりながら、しんみりと云った。 「もうよせよ、おかあちゃん。雑煮がまずくなっちまうじゃないか……」と、民夫は口をとんがらして云ったが、そのわりに、言葉の中にはトゲがふくまれていなかった。 「お前だって、いつかは嫁さんをもらうだろうが、本気ですることなら、少しぐらい殴ったっていいんだよ。民夫……」 「冗談じゃねえよ。むかしお母ちゃんが、あの野郎にさんざん殴られたのを見てるだけで、俺はたくさんだよ。それにこのごろの娘達は、気が強くなってるから、殴られるのは俺の方だよ、きっと……」  と、民夫は苦笑しながら云った。 「それだっていいじゃないか。お嫁さんが本気で怒ってお前を殴るんなら、その時はお前、殴らしておくがいいんだよ。一生懸命の気持なら仕方がないじゃないか……」 「──俺あともかく、女は殴らねえよ……」  民夫は、てんで小馬鹿にしたような態度でトミ子と対談しているが、そんなポーズの中にも、母親の言葉が、自分に食いこんで来ているのを感じないわけにはいかなかった。──教養といってはあるはずもないが、苦しい生活に鍛えられた知恵は、トミ子にも分相応に備わっているのだ。  民夫はしばらくもじもじしていたが、お銚子《ちようし》を引きよせ、お屠蘇をなみなみと注いで、一と息にグッと飲み干すと、 「あのな……俺、ちっとも認めているわけではないんだけど……あの、俺の兄貴に当る人な。信次とかっていう人よ。俺、兄貴として、これっぽっちも認めてるんじゃないんだぜ……。で、其奴《そいつ》の親爺って奴も、お母ちゃんに対して本気な態度じゃなかったのかね?」 「ああ、田代さんかい? ……それあお前のお父ちゃんのように、ぶったり蹴ったり、お母ちゃんをひどい目にあわせるようなことはしなかったけど、でも、田代さんにかぎらず、ああいう教養の高い人達は、本気がうすいものだよ。お体裁ばかし気にかけているからね……」 「……じゃああれかい? 俺の兄貴とかいう人間の親爺さんであっても、お母ちゃんはもう何とも感じてないってわけかい?」 「そうだとも。……それよりも私は、お前の兄さんを今日まで育ててくれた田代さんの奥様には、その機会があったら、一ぺんていねいに頭を下げなけあいけないと思ってるんだよ」 「義理がたい話だな。……でも、あれだよ、お母ちゃんが頭を下げるのは勝手だけど、俺はその信次とかいうアンちゃんを、ぜったい自分の兄貴だなどとは認めやしないんだからね。金持面した奴は、俺、大きらいなんだからな……」 「なんだね、この子は焼餅《やきもち》やいてるよ。貧乏は私達だけでたくさんで、お前の兄さんぐらい、金持だっていいじゃないか……」  その時、廊下から、女の声が呼びかけた。 「高木の小母《おば》さん。玄関に年賀状が来てますよ」 「はい。どうも有り難う……」  トミ子は気軽に室から出て行ったが、間もなく、うすっぺらな年賀状の束を手にして、ションボリした恰好《かつこう》で引っ返して来た。 「はい、家はこれだけだよ」と、トミ子は二十枚ばかりの年賀状を民夫に手渡して、食卓の座にもどり、 「私あ哀しくなっちまったよ。よそは百枚もそれ以上もこんな分厚い束で来てるのに、うちだけこれっぽちだからね。……やっぱり親戚《しんせき》や知り合いがないと心細いもンだねえ……」 「俺はうるせえつき合いなんかごめんだな……」と、民夫は母親の言葉をはね返しながら、年賀状をめくって見ていったが、ふと、弾んだ調子で、 「あっ、倉本のおねえちゃんからも来たぜ。くみ子さんっていうお友達もいっしょだ。読んでみるからな……。  ──民夫さんおめでとう。私達はしんしんと降りつもる雪の気配に耳をすませ、おこたに当りながら、この年賀状を認《したた》めているのです。昨日と今日と、二日つづけて山にスキーに行きました。くみ子さんの辷《すべ》り方の大胆なのにはハラハラさせられます。  スキーというものは、尻餅ついたり、仰向けに転がったりする人は上達がおそく、正面から、うつぶせに雪にめりこんでいくような転げ方をするような人が、上達が早いものなんだそうです。おっかなびっくりでは、何事をやってもだめということなのね。  それにしても、柔かい雪に首をつっこんで、やっとモソモソ匍《は》い上った時の、眉毛《まゆげ》や鼻や、髪や口や頬に、白い雪片をいっぱいにくっつけた顔のこっけいさったら、百年の恋も一ぺんにさめてしまいそうです。くみ子さんと私は、おたがいのそういう顔で、何べん笑い転げたことでしょう。そして、そのたんびに、おしゃれですまし屋の民夫さんを、一ぺん深い雪の中につんのめらせてやりたいと話し合ったものです。  お雑煮をたくさん食べ、お母さんのお乳も少し飲んで(もうしなびてしまってるからだめかな)民夫さんがもっと大きく利口になるように祈ってますわ。  小母さんにもくれぐれもよろしくおっしゃって下さい──  だとさ。チェ! 人を馬鹿にしてやがら……」 「馬鹿にしてるもンか。……お前、倉本さんに年賀状を出したのかい?」 「出さないよ。だって田舎の所番地を知らなかったもの。今度分ったから、あとで出しておくよ……」  民夫はそう云いながら、くみ子の分の年賀状を、もの足りない気持で眺めていた。それには、大きな字で、  ──謹賀新年──  とだけ書いてあり、余白の所に、スキーで転んでる漫画のようなものが描いてあった。  お雑煮がすんで、林檎《りんご》をむいて民夫にすすめながら、トミ子はすっかり考えこんだ風で、 「ねえ、民夫。私達だけが、まともにつき合える親戚や知人が少いってことは、これあどうしても肩身の狭いことだよ。私あまあ、いく先きが短かいからどうでもいいんだけど、お前はこれから人にひきたてられて世の中に出ていかなければならない人間だからね……」  話なかばから、民夫は、林檎をかじりながら、露骨にイヤな顔をみせた。 「そんな顔をしなくたっていいよ、民夫。お母ちゃんはお前の為を思って云ってるのだから……。それあお前はいま、ひとり立ちで飯を食ってるさ。だけど、世の中は飯さえ食っていられれあいいというもんじゃないからね。例えば、ちゃんとした嫁をもらうにしたって、こっちに親兄弟がいないと、さきさまでは安心がならないといった風なもんだよ。……な、頼むから、お前、自分の兄さんと兄弟のつき合いをするようにしておくれ。お前の了見さえ決れば、私は山川先生に頼んで、明日にも信次さんにここへ来てもらうつもりだよ……」 「何百ぺんいったってむだだよ、お母ちゃん。俺はいまさら、兄貴なんていらねえよ。それにさ、お母ちゃんが云ったろ。その人のおやじさんてのは、教育は高いが本気がうすい人間だって……。俺は、そういう人間の子供と兄弟づきあいするのはごめんだよ……。ともかく、俺は人を頼らねえで、ひとりでやっていくから、俺のためを思うなら、よけいな真似はしないでくれ。……もっとも、その野郎もお母ちゃんの腹から生れたにちがいないんだから、お母ちゃんが、ここんとこで、親子の対面をしたくなったと云うんだったら、勝手にしてもいいんだ。ただ、俺だけはそうとしておいてもらいたいんだよ……」  ふだんあまり雄弁でもない民夫は、その問題が持ち出されると、かなり熱っぽく母親をはんばくした。トミ子がもう少し冷静であったら、民夫が神経質になるのは、内心それに牽《ひ》かれる所があるからだということを見ぬけたのかも知れないが、気がひけているトミ子は、いまのところ、民夫に反対されると、ひたすらに悲しむばかりだった。 「──お前は、親不孝だよ、民夫。お母ちゃんに逆って……お母ちゃんを泣かせてさ……」  そう云ってしまってから、トミ子はほんとに下着の袖口《そでぐち》で目を拭《ふ》いた。  山川主事から、信次は名のり合うのをイヤがるだろうとおどされていたので、その後は信次に会わせてくれるようにと云い出すのにも自信がなく、腰くだけしていたのである。その構えを立て直すためには、今度は自分でなく民夫が、どうしても信次に会いたがっている──そういう環境をこちら側に築き上げねばならなかった。民夫が熱望してることだったら、トミ子は母親として、結果のいかんを問わず、その希《のぞ》みがとげられるように働きかけるのは、当然なことだからだ。  ところが、その民夫は、ゲタを母親にあずけっぱなしで、一向、話しにのってくる様子が見えないのである。──トミ子の単純な庶民的な感情から云えば、民夫はまさに親不孝者なのである。 「元旦早々から、そんな湿っぽい話をするからいけないんだよ。メソメソするの、よせよ、お母ちゃん……」  親と子があべこべになったように物を云いつけることが、トミ子と民夫の間では、しばしばあった。  その時、入口の外で、男女のざわついた声が聞えた。 「トミ子さん、みんなで誘いに来ましたよ。もう仕度が出来てるんでしょう」  そう声をかけながら、肥《ふと》った、五十年配の小母《おば》さんがドアをあけて、中をのぞきこんだ。後に、同じ年配ぐらいの男や女の顔が二つ三つ重って見えた。  トミ子は、急にはしゃいだ調子で、 「おや、およねさんもみなさんも、お揃いで……。出かけられますとも……。なあにね、私は目覚時計で早く起きたんだけど、民夫が寝床の中でぐずぐずしてるもンだから、いまごろになってしまったんですよ。あと片づけする間、室に入って一服してて下さいな……」 「じゃあそうしましょうか。ごめんなさいよ」  よね子が入ると、あとから女四人、男二人が、ぞろぞろと入って来た。ひとり若い女がいるほかは、男も女も中くらいの年寄ばかりで、みんな晴れ着をつけている。  男は板前の清吉、番頭の弥五郎、女は踊の師匠のよね子、待合の女中の花子、煙草屋の隠居の初子、それに年増の芸者の竹子といった顔触れで、ふだんトミ子が親しくつき合っている仲間ばかりだった。元旦の今日、川崎の御大師にお詣《まい》りに行く約束をしていたのである。  くだくだしい正月の挨拶《あいさつ》がすむと、トミ子は雑煮のあと片づけにかかり、花子がそれに手伝った。  よね子は、茶棚の上の額の写真を目ざとく見つけて、わざわざそばに寄っていき、 「へえ、この人がトミ子さんの彼氏だったのかね? ……こういう、額の狭い、気むずかしげな男って、女の骨までしゃぶってしまうもンだよ。……おや、民夫さん、怒っちゃだめよ……」 「平気だよ。おふくろは恨むか知れないけど……」 「それがねえ、民夫さん」と、よね子は写真の額のガラスについた埃《ほこり》を、手巾《ハンケチ》で拭いてやったりしながら、 「トミ子さんは、この人をちっとも恨んではしませんよ。女って、むかし自分を小っぴどく苛《いじ》めた男のことをかえって懐しく思い出したりする、哀しい生き物なんですよ。……でもなければ、元旦に写真を飾ったりするもンですか」 「おふくろはだらしがないんだよ、小母さん」 「そうでもありませんよ。男だって──そこにいる清吉さんだって、いまのおとなしいお上《かみ》さんには無理なことばかり云って泣かせてるくせに、むかし、ぜいたく三昧《ざんまい》をして、せっかく繁昌《はんじよう》していた料理屋を一軒つぶしてしまい、そのあげく色男をこさえて家からとび出して行った、根性のくさった先のお上さんのことは、いつまでもネチネチと未練がましく思い出しているんだからね。世の中ってそうしたもンよ、民夫さん」 「おいおい。なにもそんなとこに、わしを引き合いに出す手はねえじゃねえか。……そういうお前さんだって、わしが知ってるだけでも、三度結婚して、いまはひとり者じゃねえのかい?」と、蟹《かに》のように平べったい顔立の清吉が、いやに落ちついた口調で抗議を申し立てた。  みんなどっと笑い出した。  彼等が経験して来た下積みの生活の中では、悲劇は紙一重で喜劇に隣り合っているのだ……。  色が黒く、口がばかに大きい芸者の竹子が、首をぬくような仕草をしながら、 「世の中って、間がいいことばかりはないもンだよ。……暮れの稼ぎが少し荒っぽかったものだから、肩がこってしようがない。坊や、少しおねえちゃんの肩をたたいてちょうだい……」 「チェ!」と舌打ちしながらも、民夫はおとなしく竹子の肩をたたいてやった。 「うう、こたえる。……でも、構わないからもっときつくたたいてちょうだい……」と、竹子は目をつぶって首をたれていたが、そのうちに、肩越しに手を伸ばして、民夫の手を捕え、自分の胸の所までひきよせていじらしそうにその手を撫《な》でさすりながら、 「若い人って弾力があっていいもンだわね。この皮膚の色つやのいいこと。……羨《うら》やましいぐらいだわ。坊やまだ女を知らないんでしょう?」  それでまたみんなドッと笑い出した。民夫は、ふくれて、自分の手をぬきながら、 「よせよ。ごンぼうみたいに色の黒いのが、俺にうつるじゃないか……」 「小母さんさえ認めてくれれば、貴方《あなた》を、私の肌色にシッポリと染めて上げるんだけどねえ……」 「いやだよ。そこの鏡を一度のぞいてみるがいいや」  育った環境のせいで民夫にはそんな冗談が気軽に云える一面と、もう一つちっともすれていない、ひどくゴツゴツした、青くさい気質もあったのだ。  あと片づけが出来た。 「さあ、もう出かけますよ……御大師さまから帰って、夕方からここで新年宴会をやるんだけど、御近所の室の人達には、七時ごろまでドンチャカ騒ぎをやるけど、そのあとはピタッとしずまりますからと御諒解《ごりようかい》願ってありますからね。……民夫は、外で遊んでいてもいいし、宴会に入ってもいいし、好きなようにおし。……さあみなさん、出かけますよ……」  仲間で一ばんの顔らしいトミ子は、上機嫌で、みなといっしょに室から出て行った。(おふくろの奴、いばってやがる──)と、民夫はおかしかった。  人の気配がしずまってしまうと、アパートの中は、ふだんよりもひっそりとしているように思われた。みんなそれぞれに、お詣りや年始まわりに出かけたのかも知れない。  民夫はガス・ストーブのそばに寝そべって、たか子とくみ子の年賀状をもう一度読みかえした。たか子のはともかくも、くみ子はどんな考えで、自分の気持をぜんぜんのぞかせない『謹賀新年』というきまり文句を書いたのだろう。何が謹賀で、何が新年だ? 面白くも可笑《おか》しくもないじゃないか。それとも、自分がそうであるようになんとなくきまりがわるかったのであろうか……。  民夫は、年賀状を書くつもりで立ち上った。そして茶棚のそばを通る時、ふと、写真入りの額をとり上げて、じいとのぞきこんだ。それから、写真の顔にツイと下唇をつき出してみせて、 「スケベエ野郎……」とつぶやいて、額縁を箪笥の中にしまいこんだ。  民夫は机に坐《すわ》って、たか子あての年賀状を書き出した。  ──おめでとう、おねえちゃん。今朝おねえちゃんの年賀状が配達されて、とてもうれしかったよ。白い雪山でスキーが辷《すべ》れるなんて、まったくうらやましい話だな。今度僕も練習して辷れるようになるつもりだ。すぐ貴女がたに追いつくよ。  おふくろは仲間といっしょに御大師さまにお詣りに行った。夕方から室で新年宴会だってさ。ジャンジャカ騒ぐんだろうし、その間僕はおねえちゃんの室に避難して、本でも読んでるつもりだ。いま、一人でこれを書いてる僕は、お正月というものはたいへん寂しいもんだ、ということをしみじみと感じている。  捻挫《ねんざ》などしないように──  つぎにくみ子に向っては、いろいろ迷ったあげく、やはり「謹賀新年」とだけ書いた。そして(ざまあみろ!)と胸の中で小さくつぶやいた。それでも、たか子宛の手紙の中に、 (……たいへん寂しい……) (……捻挫しないように……)  など、くみ子に呼びかけた言葉も、それとなく書きこんでおいたのである。  民夫は、その年賀状が一刻も早く先方に届くようにという気持で、すぐ下駄をつっかけて、近くのポストまで出しに行った。  帰ってくると、自分でお茶をいれて飲みながら、ゆっくり、分厚い元旦《がんたん》の新聞を読んだ。周囲はほんとにひっそりしている。どこかに正月の賑《にぎ》やかさが集って、ここだけがそれからとり残されたような気がするほどだ。  訪ねて行く先きもなければ、訪ねてくる人もない。民夫はそれがサバサバしていいなどと母親に云ったが、ほんとは物足りなく寂しいのだ……。  信次とかいう父親のちがう兄貴のことが思い出される。海よりもひろいこの世の中に、濃い血のつながる人間が一人だけは生きているのだ。それを考えるだけでも、民夫は、背筋が寒くなるような感動を覚えずにはいられない。  どんな人物であろう。いずれは金持の生意気な大学生にきまっている。そんな奴、母親の希望どおり名乗り合ってみたところで呼吸《いき》が合わず、バカにされ、惨めな思いをするのが落ちだ。  そんならはじめから会わない方がいい。……だが、地球上に何十億と生きている人間の中で、ただ一人だけ同じ母親から生れた人間が身近かに生きているというのに、意識して会わないようにするのは、神様(そんなものがあるとすれば)の御心にそむくことではないのだろうか……。  民夫は、だれ憚《はばか》らず「フーッ」と大きな嘆息を吐《つ》き、新聞をひっかぶって、仰向けに畳にころがった。 (いまごろ迷い出してどうかしている。認めない! 会わない! という、はじめの決心を、男らしく貫きとおすのがいいんだ。本気のうすい、軽薄な親爺《おやじ》から生れた信次とかいう兄貴も、どうせうすっぺらな金持根性の奴にきまっているんだ……。  おふくろは俺がひとりぽっちなことを気にかけているが、俺だってそのうちには丈夫で気立のいい娘をみつけて結婚することになろうし、そうなれば子供が二人、三人と殖えていって、もう俺はひとりぽっちなどというものではなくなる。おふくろだって、孫に囲まれたにぎやかな暮しが出来るのだ……。  そうだ。それにつけても今から俺の頭に深く刻みつけておかなければならないことは、俺の嫁は、俺以上におふくろに優しくしてくれる女でなければならないということだ。こら、民夫! 女の子の見かけばかり気をとられていてはだめだぞ! ……。  おふくろは、なんにも物を知らないで、ときどき腹が立つこともあるけど、しかしずいぶん苦労したんだからな……)  民夫は、そんな風に自分に云いきかせて、あとはクヨクヨ考えこまないようにした。  民夫は、起き上った。そして、大きな鏡台を室のまん中に運んで窓を背にして据えた。それから、鏡を見ながら、このごろ興味をもち出したサキソホーンの練習をはじめた。いくらうまく吹いても、吹くこと自体がショウになっていなければ、ほんとのジャズメンとは云えないからだ……。  やっと興がのって、無心にサキソホーンを吹きつづけていると、鏡にうつっている人口のドアが音もなくあいて(じっさいはノックしたかも知れないが、サキソホーンの音で聞えなかったのだろう)三和土《たたき》にあたる狭い床の所に、背の高い青年がヌッと立ちふさがった。  民夫はなぜかぞっとした。そして自分の意志が麻痺《まひ》したかのように、惰性でサキソホーンをだらだらと吹きつづけながら、鏡の中の青年の顔を、喰《く》い入るようにじっと眺めていた。というよりは、強い引力がはたらいて、目がはなせないような切ない気持だったのである。  不意に現われた青年も、鏡の中の民夫の顔を、瞬きもせずに見つめていた。カーキ色のダッフルコートを着て首にえんじ色のマフラーを巻きつけている、肩幅のひろい青年こそ、田代信次だったのである。 「あの……、こちらが高木トミ子さんの御室ですか?」と、信次は落ちついた口調で物を云った。 「そうですよ……」  小脇にサキソホーンを寄せて、鏡の中の信次に答える民夫の声は、ひどく緊張してぎごちなかった。 「高木さんはいますか?」 「いませんよ。夕方でないと帰りません」と答えるのが、どういうわけか、へり下った調子になるのを、民夫はもどかしく感じた。 「そうですか。……でも、君も高木さんですね?」  信次は、ダッフルコートのポケットから手を出して、入口の柱によりかかりながら云った。 「そうですよ。僕は高木トミ子の息子ですよ……」  鏡の中の信次の顔が、だんだん大きくふくれ上って、自分に迫ってくるような気がする。 「君は歌をうたうんだったね? ジミー・小池というんだったね……?」  民夫は返事の代りに、黙って、サキソホーンの口を嘗《な》めまわした。 「僕は君の歌をきいたことがある。率直なところ、いまの段階では、人真似であって、自分の芸という所まではいってないような気がするんだ……」 「よけいなお世話だよ。お前さんいったい誰なんだい?」  民夫はやっと、自分の身体や声を自由にする力をとりもどして、後をふり向きざま云った、が、すぐまた鏡に向き直った。  信次がニヤリと笑った。 「僕は田代信次という者です……田代くみ子の兄です」 「────」  民夫はまっさおになって、身体が小さく慄《ふる》え出した。物を云おうとしても、唇がガチガチ痙攣《けいれん》して言葉が出そうもないのだ。 「君は──僕の名前を聞いたことがないんですか?」 「ないよ」  民夫はそうわめいて、楽器を畳に投げ出し、はじめて後にくるりと向き直った。そして、つき刺すように信次の顔を睨《にら》みつけながら、 「俺は……そんな名前、お目にかかったことがねえよ。ともかくとっとと帰ってくれ。いきなり入って来やがって、威張りくさった口を利くのはどういうわけなんだ。……とっとと帰ってくれ……」  言葉は崩れて乱暴だが、悲鳴をあげてるような調子だった。信次は、一向にこたえた風もなく、それどころか微笑してるような眼差《まなざ》しで、じいと民夫を見下して、 「僕は威張ったことは云わなかったつもりだ。……ただ、君の唄はまだ本物でないから、いい気になってはダメだと、ほんとうの感想を述べたまでだ。……君は怒りっぽい人らしい。……僕はともかく帰る。お母さんに、田代信次という人間が訪ねて来ていたと、そう云ってくれ給え。……僕はまた訪ねて来ますよ……」  信次はヒョイと片手をあげて合図すると、あっけなく室から出て行った。廊下を踏むゆっくりした足音がまるで爆音のようなショックを、民夫の胸に伝えた……。 (兄貴だ! 兄貴が現われたんだ! ……しかも、そいつは田代くみ子の兄貴でもあるんだ……。ああ、同じおふくろの子宮の中で、俺よりも先に、丸くなって、目を閉じて、十カ月育てられた人間。──兄貴だ! ……兄貴が現われたんだ! ……)  民夫は物に憑《つ》かれたように、家の中をグルグルと歩きまわった。  顔が赤く上気して、目がけだものめいてキラキラ光り、両手を固く握ってウロウロしている。──そういう自分の姿を鏡の前を通るたびに、反射する光の中で、どぎつく見せつけられた。 (たいへんだ……たいへんなんだ……。こんな時、倉本のおねえちゃんでもおって、どうすればいいのか教えてくれるといいんだが……)  ふと、民夫はある気まぐれな決意にうながされて、オーバーを引っかけると室に鍵《かぎ》をかけてあわてて外に飛び出した。ハッキリした考えはなく、ただ信次がどうするか、後をつけてみる気になったのである。  民夫は近道をぬけて電車通りに出てみた。と、目と鼻の所に信次が立っていて、ちょうど通りかかったタクシーを止めて乗りこんだ。民夫もその後から来た車をひろって、前の車を追わせた。 「お客さん、前の車の客がどうかしたんですかい?」と運転手が話しかけた。 「うん、あいつに貸しがあって、やっといま見つけたもンだから後を追うんだよ」と、民夫はでたらめを云いながら、先きを駛《はし》る車の後の窓にみえる、ダッフルコートをつけた信次の姿に、じいと視線を注いでいた。  間もなく、車は池袋の盛り場で止った。信次は、オーバーのポケットに両手をつっこみ、映画館の絵看板を見上げたりしながら、正月の人出の中をゆっくりと歩いていった。ときどきポケットから片手を出して頭や頬を掻《か》いたりした。そのうちに、通りかかった大きなパチンコ屋にヒョイと入り、奥の方に空いた台を見つけて、玉を弾《はじ》き出した。民夫も、少し離れた背中合せの台の所で玉を弾いた。が玉などはどうでもいいので、彼の注意力は、もっぱら信次の方に注がれていた。  元旦だというのに、店は一ぱいの客だった。家におっても何の楽しみもない貧乏な連中が、せめてパチンコでもして元日を楽しむつもりなのであろう。そういう連中の中に混じって、信次がちゃんと板についた恰好《かつこう》をしている所をみると、この男は金持の家で育ってるくせに、あんがいエラぶっていないのかも知れない……。  民夫がそんな事を考えてる時、信次はパチンコ台をドンドンたたいて、途方もなく大きな声で、 「おねえちゃん、玉が出ないぞう!」と怒鳴った。  背中を向けている民夫は、思わずクスリと笑って、(てんで柄のわるいアンちゃんじゃねえか……)と、くつろいだ親近感のようなものを覚えた……。  三十分ばかりで、信次は、なにがしかの賞品を握ってパチンコ店から出ていった。民夫はもう後を追わなかった。ここまでつけて来ただけの収穫は、十分にあったような気がしたからである……。  街へ出て、西部劇の映画を見たりして、民夫は夕方ごろアパートに帰った。自分の室では、母親達の新年宴会がはじまってるらしく、三味線入りでジャンジャカ騒いでいたので、民夫は軽く舌打ちして鍵をあずけられている倉本たか子の室に入った。  ──それから十分ばかり経ったころ、廊下に、田代信次が姿を現わした。えんじのマフラーにカーキ色のダッフルコートという、今朝のままの恰好をしているところを見ると、あれぎり自宅へは帰らず、そこらへんをうろついておったのかも知れない。  トミ子の室から聞えるドンチャン騒ぎに、信次は、たか子の室の前に立ちどまって、一たんは引っ返しそうにしながら、室の入口の柱に貼ってある倉本たか子と記したセルロイドの名札を、いじらしそうにさすっていた。が、ふと気を変えたように、トミ子の室の前に行き、しばらく中の騒ぎに耳をすませてから、そっとドアをあけた。  室の中では、料理やお酒をのせたテーブルを囲んで、男二人、女五人の今朝の顔触れの仲間が唄ったり罵《のの》しったり陽気にはしゃいでいた。三味線を弾いていたトミ子が、目ざとく信次を見つけて、 「おや、民夫のお友達ですね。……民夫はいまいないんですけど、まあお入り下さいな。お正月ですものね。このとおりお年寄ばっかりですけど、一ぱい祝っていって下さいよ──」 「ええ、でも……」と、信次は立ったままで、赤く酔いがまわったトミ子の顔を、それとなく注視した。  そして第一印象が、たか子が証言したとおり「人間として汚《よご》れた感じ」が浸みこんでいないようなのでホッとした。  その時、色のくろい芸者の竹子が立って来て、信次の腕を乱暴に曳《ひ》っぱり、 「さあ、坊や、お上んなさいよ。せっかくの新年宴会なのに、男ッ気と云えば、愚痴っぽいお爺《じい》さんが二人いるばかりなので、私あクサクサしていたところなんですよ。さあ、私のそばに坐《すわ》ってもらって、二人で大いに飲みましょうよ。若い者同志ねえ……」  信次は靴を脱ぐ間もないぐらい、強引に曳っぱられて、竹子のそばの席に坐らせられた。 「みなさん、この人、民夫のお友達ですから、どうか仲好くお願いしますよ」と、トミ子が愛想よくみんなに引き合せた。 「へえ、すると兄さんも楽隊屋さんなの? そう云えば、柄まで民夫さんそっくりじゃないの……」  と、よね子は信次の身体をまんべんなく眺めまわしながら云った。 「いや、僕は楽隊屋じゃないんです。……絵をかくんです」と信次はニコニコしながら答えた。 「そう、画かきさんなの? 私は絵が大好きなの。ほらトミ子さん。横町の亀の湯の富士山をかいた新しいペンキ絵、すてきじゃないの。あれをかいた画かきさんは私のお客なのよ……さ、元気のいいところでグッと干してよ……」  と、竹子はコップに酒を注いで、それを信次の口のそばにもっていった。 「ありがとう」  信次は、一たん自分の手にコップを受けとって、それを三口ぐらいで飲み干した。  竹子は、それからも、ずうと信次にまとわりついていたが、間もなく、みんなは新しく加わった信次の存在を気にしないで、騒ぎ出すようになった。それほど酒がまわっていたのである。  信次は竹子の話しかける言葉にいいかげんに合いづちを打ちながら、トミ子の様子をそれとなく観察していた。  ふだんに恐れていた、生みの母にはじめて会う場合におそわれるかも知れない感傷的な衝動は、トミ子の印象が素朴で明るいものであることが分った瞬間から、きれいに解消されてしまい、あとはただ、ひろく温かい思いやりの気持だけが残った。いっしょに暮したことが一ぺんもない関係としては、そういう気持がほんとのものかも知れない……。  それにしても一座の人々の楽しげなこと。みんな、それぞれに、下積みの苦労に鍛えぬかれた、素朴なパーソナリテー(個性)に富んだ顔をしており、男も女もなく一年一ぺんのつましい宴会に現《うつつ》をぬかしているのだ。  信次は、ふと、江戸の庶民風俗を描いた葛飾北斎《かつしかほくさい》の漫画の中の人々を思い出した。もっと古くは鳥羽僧正《とばそうじよう》の漫画にも、この人々は出て来ているのかも知れないのだ……。  そら、そら。酔っぱらった板前の清吉が蟹《かに》のような平べったい顔を歪《ゆが》めて、いつものクダをまき出した。 「……なあ、弥五郎どん。そうじゃねえか。俺はあいつに上げ膳《ぜん》、据え膳の暮しをさせ、やれ芝居だ、やれ温泉だと栄耀《えいよう》栄華をきわめさせてやったんだぜ。そのために親爺から受けついだ、看板のとおった料理屋をつぶしてしまったほどだ。それなのに、あの女《あま》ったら、しめえにはなけなしの俺の銀行預金をかっぱらって、若え男といっしょにずらかってしめやがったんだ。……犬畜生だって、もちっと恩を知ってるもんなのにな。……俺あそれでガックリ来て、もう二度と立ち上る元気もなくなり、ごらんのとおりのしがない板前になり下っちまったんだ。……あんな畜生だって碌《ろく》な目にあってねえにちげえねえ……。なあ、弥五郎どん。だから俺あ、女なんてものは金輪際《こんりんざい》、信用しねえことにしてるんだ。……女なんて、けだものにも劣るもンだぜ。そう思わねえかね、弥五郎どん」と、涙をグショグショ流して、洟《はな》をすすり上げた。  すると、踊の師匠の肥《ふと》ったよね子が、腕をまくるような恰好をして、清吉の方に向き直り、 「おや、清吉さんは女のことをたいへん悪くお云いだね。男にだって犬畜生に劣る奴はいくらもいますよ。私はみんなも知ってるように、三べん亭主をもったけど、どいつもこいつも、私をしぼるだけしぼって逃げていきやがったからね。こんりんざい信用がならないのは、私あ女よりも男だと思うよ……」 「すンません……すンません」と、清吉は、それまでいきり立っていたのが、急にしおれてペコペコ頭を下げ、 「あっしも男の端くれで、まったくすンません……すンません」 「また清吉さんの泣上戸がはじまったよ。男だって、この室にいる人間は、人に欺《だま》されるよりほかは、能のない者ばかりじゃないか。人を恨むことあないやね。めいめいにそれだけの位しかないんだから。……まあ、メソメソしてないで、踊ったり唄ったり、陽気にやろうじゃないか。……竹子ちゃんに三味線を頼みますよ」  トミ子は立ち上って、船長が船の方向を変えるようにテキパキと物を云った。 「あいよ、小母さん。何を弾くんだね?」と、竹子は、やっと信次の身体から離れ、キチンと坐り直して、三味線を抱えた。 「お前さんにまかせるよ。みんなが知ってるのがいいよ。……さ清さん、泣いていないで踊るんだよ……」と、トミ子はまだグズグズしている清吉の崩れた身体を、重そうに引き上げた。  三味線が鳴り出した。みんな手をたたいてにぎやかに唄い出した。  ※[#歌記号、unicode303d]わたしゃ真室川《まむろがわ》の 梅の花 コオリャ、あなた又この町の鶯《うぐいす》よ……  踊っているのは、トミ子と泣き虫の清吉と煙草屋の隠居の初子だ。と、信次がふいに立ち上って踊りの中に加わった。どこで覚えたのか、みんなに調子を合せて器用に身体を動かしている。そればかりか、しゃがれた男の声で歌をうたうのが、宴会の気分を盛り上げるのに大いに効目があった。  信次は、踊ってる間に、こんな雰囲気の中で生みの母と対面することが、可笑《おか》しくてたまらなくなった。目の前で、地味な柄の晴着を着て、唄い、且《か》つ踊っている小柄で楽天家らしい小母《おば》さん──。それが自分を生んだ母なのだ。父親とかりそめに愛し合った女なのだ。その間に生れた自分も、何時《いつ》の間にかこんなに大きくなって、この席に紛れこんで唄ったり踊ったりしているのだ。なんとこっけいなことではないか……。  信次は、踊りながら、突発的に「アハハハ」と何べんも笑い出したが、そのたびにおしまいの方で、胸がキュウと痛くなり、笑った勢いでそのまま泣き出したくなって困惑した。  なんにも知らないトミ子は、踊ってる間に、信次と体が向き合うと、ニコニコ笑って、コックリとうなずいてみせたりした……。(人に踏みつけられたって……大していい目にもあわなくったって……人生はやっぱり楽しいものですよ……)とでも話しかけているようだ。  こうして、宴会がたけなわの状態にあった時、入口の戸があいて民夫が姿を現わしたのを、人々は、ちょっとの間、気がつかなかった。たか子の室で本を読んでいた民夫は、あまり破目をはずした騒ぎ方なので、どんなことをしているのかと、好奇心でのぞきに来たのである。  そして、戸をあけて、母親達といっしょに踊っている、今朝来た男、その後を自分がつけていった男──信次を見出すと心臓が止まるかと思うほど強いショックを受けた。顔の血の気が失せ、頬のあたりが硬直するのが、自分にも分った。  そのうちに、入口の民夫に気がついたトミ子は踊りをやめて、 「おや、民夫。いま帰ったのかい。……留守にお前のお友達が見えたから、お正月のことだし、仲間に入ってもらって、いっしょに騒いでいたとこなんだよ。気さくないい人だね。……この人は楽隊屋さんでなく、画かきさんだってね。さあ、お前も一ぱいおやりなね……」  民夫はそれに答えようともせず、蒼白《そうはく》な緊張した面持で、こちらの方にニコニコした笑顔を向けて立っている信次に、右手をグイと後に曳《ひ》く仕草を見せて、外に出ろと合図をした。 「どうするんだよ、民夫。お前も入ったらいいじゃないか。お前のお友達の画かきさんが……おや、そう云えば私はこの方の名前もまだ聞いてなかったよ。でも、名前などどうだっていいやね。ともかく、みんなが折角たのしんでいるのにさ……」  母親のそういう言葉を無視して、民夫は、外に出ろ、と信次に合図をつづけた。信次はうなずいて、室の隅においたダッフルコートを抱え、 「みなさん、楽しませていただいて有難う……」と云って、室の外に出た。  民夫は腕組みをして、肩を怒らせ、先きに立って廊下をズンズン歩いて行った。アパートを出て、右手の細い露地に曲り、間もなく小さなお稲荷《いなり》さまの境内に入った。人の背丈けほどの拝殿の前に、正月のせいか、赤い真新しい幟《のぼり》が二本立っていた。  民夫はそこで立ち止まり、石のキツネの背中に片手を当てて、人を小馬鹿にしてるとも思われる微笑を浮べて、近づいてくる信次を待ち受けた。七、八歩の距離の所で、信次は警戒するように立ち止まった。二人はじっと顔を見合せた。  まず、信次から口をきった。 「君、何か用事かね?」 「──俺達をなめるなって云うんだ!」と、民夫は上わずった声で怒鳴った。 「それあどういうわけだね?」 「──俺の友達みたいな面《つら》しやがって、室に入りこんで、あのふざけたざまはなんだっていうんだ! ……この野郎!」 「それあちがうよ、君。僕が戸をあけたら、おふくろさんがとたんに、僕を君の友人だということに決めてしまって、中に曳《ひ》っぱりこんでお酒を飲ませてくれたんだ……」 「それなら何故、ちがうと云って帰らなかったんだ……」  民夫がちょっとでも身体を動かすと、信次もそれにつれて場所を変えた。民夫が襲いかかるのを警戒しているのだ。たしかに民夫は、相手の出方しだいでは、一発食わせるつもりだったのである。 「それは──」と、信次はエクボの出る微笑を浮べて、 「中の空気があんまり面白そうだから、つい仲間に入れてもらったんだ。……お正月といっても、僕のとこは面白くも可笑しくもないからね。だから、今朝もここを訪ねて来たんだ……。君は心持の小さな人のようだね」 「なにイ! ……」  せっかく和《なご》みかけた民夫の気持は、信次の最後の言葉で、カッと強く燃え上った。 「小さかろうと大きかろうと、お前につべこべ云われるこたあねえんだぞ。……」 「だってそうじゃないか。おふくろさんは、気さくに僕を歓迎してくれたのに、君は僕を追い出すんだからね……」 「うるせえ! この野郎! ……」 「気の弱い人ほど、悪態を吐《つ》きたがるということを知ってるから、僕は何と云われても君を怒らないよ」 「なにを! ……」 「おっとと……」と、ニヤニヤしながら、信次は右手を伸ばして防ぐ身構えをしながら、後に三歩、四歩とさがっていった。 「元旦《がんたん》早々、相撲をとるのはごめんだな。それあ相撲ということになれば、ずうと貧乏暮しをして来た君よりも、腹いっぱい物を食べて大きくなった僕の方が、いくらか力があるんじゃないかな。……  ま、お正月だ、野暮ったい真似はよそうよ」  と、信次は後に下りつづけながら、相手をひやかすようなことを云った。  もう、二人の間にはよほどの距離が生じていた。 「なにイ、この野郎……」と、民夫は、足もとから、手ごろな石ころを拾って信次の方を睨《にら》みつけた。 「こわい人だな、君は──。怒り虫! ……怒り虫!……」  信次は、境内の入口で羽根つきをしていた女の子供達を、さっと間に挟んで、なおも相手をからかいながら、グイグイ距離を引き伸ばしていき、最後に手を上げて、 「またくるからな。……さよなら」  と呼びかけると、横ッ飛びに馳《か》け出して、姿を消した。  民夫はホッと嘆息をもらして、拝殿の台石の上に腰を下した。掌を開くと、石ころがポロリと落ちた。その感触が、ふと、子供の日のことを思い出させた……。  そのころ、民夫はよく「メカケの子だ」と云われて、遊び仲間にいじめられたものだった。負けずぎらいの彼は多勢を相手に、棒きれをふりまわしたり、石ころを投げつけたりしてひとりで闘った。もちろん一人では敵《かな》うはずもなく、みんなに押えつけられたり、あべこべに石で怪我をさせられたりした。それでもこりずに、民夫は反抗をつづけたものだった……。 (兄貴でもおって、二人で闘ったら、負けあしなかったろうにな……)  その兄貴というのは、いま去っていった信次のようでもあるし、あるいはまた、まったく架空の人物のようでもあった。  民夫はアパートの倉本たか子の室に帰った。母親達の宴会の騒ぎはまだ続いている。  一体どういうことになるのだろう。  いまさら、昼間の幽霊みたいな、兄貴というものの出現など、ぜんぜん認める気はないのだが、しかしあのダッフルコートを着たおかしげな奴が、自分の異父兄であることは、ほぼまちがいないのだ。自分が兄貴と認めようが認めまいが、彼奴《あいつ》は大手をふってこの世の中に生きていることは確かなのだ。  なんという目ざわりなことだ。彼奴が生きているということを意識してるだけで、おかげでこっちは、しょっちゅう気がかりで落ちつけなくなってしまうのだ。  そればかりでなく、くみ子が信次の妹だということも、頭が痛くなるような話だ。二人が信次の妹であり弟であることはまちがいのないことだが、同時に、二人の関係がまったく赤の他人だということも、まちがいのない話だ。信次が間に挟まったことで、二人の間は、急に近くなったような気もするし、反対に、とり返しがつかないほど遠ざかってしまったような気もする……。  どうすればいいのか。倉本たか子がいれば相談もかけられようが、ヒョッとすると、たか子も一切を承知でとぼけているのかも知れないのだ……。  そうだとすると、どうすればいいのかさっぱり分らない……。 (ともかく俺は、いまさら兄貴なんてものは認めはしないんだから……)  民夫は、考えあぐねると、しまいには必ず、自分で自分にそんな風にタンカをきった。が、ほんとに自信があるわけでもなさそうだが……。  腹が空いて来たので、民夫は外に出て食物屋を探して歩いた。やっと一軒、小さな中華料理店が店を開いてるのを見つけ、チャーハンやすぶたを食べ、ビールを少しばかり飲んで、アパートに帰った。たか子の室で、寝ころんでラジオをきいたりして、十時ごろ自分の室に帰ってみると、宴会のあとはきれいに片づいて、床が二つ並べてしかれ、トミ子はもう休んでいた。 「帰ったかい? ……お前の居場所をなくしちまってわるかったね。食事はすんだのかい?」 「うん。すんだよ。……だいぶ騒いでたね?」 「ああ、お前、面白いのなんのって……みなさん大喜びさ。清吉さんだけは帰るまで泣きやまなかったけど、あの人はお酒が入って気分がいいと泣いてるんだからね。およねさんとお初さんがさっきまで残って、あと片づけをしていってくれたよ。……五百円の会費のほかに、私が自腹の足し前をしたことをちゃんと知ってるもンだから、金を稼ぐ息子をもって仕合せだって、みんなに賞められてね。私あいい気持だったよ……」 「いい気持を味わっていると、金はたまらないな、お母ちゃん。俺もしょっちゅうそうなんだよ。ときどきいやンなっちまう」 「それでいいんだよ、民夫。人のためになるってことはいいことだからね……」  民夫は歯をみがいて寝床に入った。身体を伸ばしてみると、ひどく疲れている感じがした。 (あの野郎のおかげだ……)と、思った。  どこかの室から、歌留多《カルタ》をよむ声が聞えた。それにダブって、ラジオの歌謡曲も流れて来て、元日の夜らしい気分がほのかに漂っている。  スタンドの豆電気のあかりの中で、天井をまじまじと眺めていると、眠ったのかと思っていた母親がふと話しかけて来た。 「あっ、民夫。画かきさんだとかいう、今日来たお前のお友達な。気さくで、分けへだてがなくて、お母ちゃんはあんな人が大好きだよ。なんて名前なんだい?」 「あいつか。──なんてたっけな、あだ名しか云わないもンだから、ちょっと思い出せないや。……おかしな野郎だよ」 「ホホホ……、お友達の名前が思い出せないなんて、よっぽどどうかしてるよ。あの人、私達といっしょに踊って唄って、ほんとうにつき合いいい人だよ」 「──パチンコ屋で『玉が出ないぞう、おねえちゃん』なんて怒鳴る奴なんだぜ。柄がわるいんだ……」  酒が相当入っているトミ子は、それぎり返事がなかった。民夫だけは、目を大きくあいて天井をみつめながら、何か考えこんでいた。  信次は十時ごろ家に帰った。  酒を少し飲んでいて眠かったので、玄関で、居間の方に、 「ただいまア。……おやすみなさい、ママ」と声をかけて、階段を上りかけると、 「信次かい、ちょっとママに顔を見せなさい」と、みどり夫人から呼びとめられた。  信次は引返して、居間のドアをあけた。  裾《すそ》に小さなフリージヤの白い模様をあしらった紫紺のお召に、水色の縫紋の羽織を重ねたみどり夫人は、ソファに腰かけて、トランプの一人占いのカードをテーブルの上に並べていた。空いた所には、編物や雑誌やビールの小瓶やつまみのソーセージ等が載っており、いかにも退屈していたらしい様子だった。 「兄貴はまだ帰らないんですか、ママ?」 「ああ、雄吉は今日の午後、くみ子の後を追って、倉本さんの御郷里の方へスキーに行きましたよ。だから、私はずうと一人ぽっちだったの。まあ、そこへおかけ」 「うちのお正月は、てんでんバラバラなんだなあ。そういう僕も、いままでほっつき歩いていたんだけど……」 「無理にかたまる必要もありません。めいめい好きにふるまってた方が、私は気が楽ですよ……」  そういうのが、大みそかの日から、ゴルフ仲間と伊東の方に出かけていった玉吉のことを諷《ふう》しているようにも、聞きとれた。 「ママ、僕、今夜すこし、お酒を飲んだんです」と、信次は詫《わ》びるように云って椅子に腰を下した。 「お正月だからいいでしょう。……パパのお酒、出して来て飲んでもいいですよ」 「いや、僕、もう十分だ」  話してる間も、やめずにカードを配っているみどり夫人の白い手の動きを眺めていると、信次には、ママもまた仕合せには縁のうすい人間なのだ、という気がして来た。大きな邸宅の中で、着かざって一人ぽっちでトランプ占いをしているのと、粗末なアパートの室で、気の合った仲間が集まって、率直で猥《みだ》りがましい宴会を催しているのと、どちらが生活をたのしんでいることになるのだろう……?  みどりはやっとトランプの遊びを切り上げた。 「ああ、長い時間ひとりぽっちでいて気がクサクサしたわ。……信次、讃美歌《さんびか》をうたってみない?」 「うたいますよ、ママ」  田代家では、家中で讃美歌やそのほかの歌を合唱することがよくあったのだ。 「それでは──」と、みどりはピアノの前に坐《すわ》り、讃美歌の本をとってページをめくった。 「三百四十七番にしますよ」 「オーケー。ママ」と、信次はみどり夫人の後に立って譜面をのぞいた。  二人はうたい出した。   夕日はかくれて 道ははるけし   行末いかにと 思いぞわずろう   わが主よ今宵も ともにいまして   寂しきこの身を はぐくみたまえ……  みどりはアルト、信次はバリトンで、うたい慣れているせいか、キチンとした合唱になっていた。二人はつづけて、讃美歌やそのほかの歌を三番ほどうたった。歌の雰囲気にとけこんだ信次は、いつの間にか、みどりの肩に手を置いて、口を大きく動かしていた……。 「ああ、これでせいせいしましたよ。……声を出してうたうっていいものね」と、みどりはピアノから立ち上って、元の席に返った。 「ママの声、いつまでもつやがあって感心しましたよ。……僕もさっぱりした……」 「ところで、ねえ、信次。今夜は、パパも雄吉もくみ子も遠くにいて、私とお前だけが家の中に残っています。二人ぎりでお話したことが当分なかったし、これから少しお話しようと思うの。おたがいに話したいことが貯《たま》っているような気もするから……。もし、お前が眠いんだったら、濃いコーヒーでも入れさせますよ……」 「いらないよ、ママ。僕、お水の方がいいんだ。自分でとってくるから……」  信次は、食堂から水差しとコップをとって来て、一ぱい飲んでからテーブルの上に置いた。不安な緊張で、身体のふしぶしが固くなるようだった。  みどりは、信次の顔をまっすぐに見つめ、しぜんな圧力を帯びた調子で、 「率直に話し合いましょうね。お前はそれが出来る人だから……。第一に、お前は、お前を生んだお母さんや、父親のちがう弟さんにもう会いましたか──?」 「……ママ、僕、会ったんだ。名乗り合いはしなかったけど……。今日会ったんだ……」と、信次はうなだれて答えた。 「今日──?」と、みどりは大柄な整った顔に、少しばかり動揺の色を示して、 「お前はどう考えているの? この家を出て、お母さんや弟さんといっしょに暮したいと考えてるの?」 「──いや、僕はずうとママ達といっしょにいたいんだ。いままでどおり……。僕はここの家の子だもの」 「私もそれを希望します。お前にも不平はあるかも知れないけど、ともかく田代家という、まとまった一つの編物の中に、お前もちゃんと織りこまれていて、いまお前がどうこうすると、編物全体がバラバラにほぐれてしまうんです。……信次や、私の顔をまっすぐ見てちょうだい。これから私の云うことが、うそかほんとか、お前の目で試してもらいたいんだよ……」  信次はおずおずと顔を上げた。 「僕、ママの顔を見ているよ。……ママの目は青く光っているよ。……僕の心の中までその光が差しこんでるようなんだ……」 「信次。私はお前が好きなのか嫌いなのか、ハッキリ分りません。でも、お前が骨のある人間であることだけは認めているようです。でもお前がそういう人間であることを、私が喜んでいるのか口惜しがっているのか、それが私には分らないんです……」 「ママは喜んでくれてるんだ。ママは心の大きい人だから……」 「お世辞はよしなさい! 私はお前が、私のことをひとり言で『くそばばあ』と云っているのを、何べんも聞きましたよ……」  信次は爪を噛《か》んで微笑していたが、 「ママ、僕はたしかにそう云ったよ。しかし、僕が『くそばばあ』とひとり言をつぶやいた時は、ママの口真似をするようだけど、ママが骨のある人間だということを認めてる時なんだ。僕がそれを喜んでいるのか、口惜しがってるのか、それは分らないけど……」 「私とそっくりの云い方だね。おたがいにその云い分を信用することにしましょうよ。……さあ、それでお前は私に何かききたいことがありますか。何でも聞きなさい」 「──ママは何故この家に僕を引きとったのですか?」 「不用意な条件の中で生れたお前が、不仕合せな生活に陥ることを防ごうと思ったからです」 「それだけですか?」 「お前の考えたことを云ってごらんなさい」と、みどりは動揺した風もなく弾ね返した。 「第一に、ママは、パパの失敗の形見である僕を、一生パパの傍に押しつけておこうと考えたんでしょう?」 「そういう穿《うが》ったような意地のわるい見方は、一応もっともなようで、実は本筋から外れているということが多いものです。でも、私は否定しませんよ。……それから?」 「パパに失敗させるだけの弱味がママの側にあったので、ママが後始末をする形で僕を引きとったのだと思います」 「私はそれを否定しませんよ。……でも私は、神様から、私がお前を引きとった動機を尋ねられたら、私はちゃんと顔を上げて、不用意な条件の中で生れたお前が、不仕合せな生活に陥ることを防ごうとしたからだと答えるでしょう。それというのは、信次。私は、人間というものは、細かい枝葉の心理に拘《こだ》わらず、一ばん本筋のものだけを、堂々と主張していいものだと信じているからですよ」  みどりの厚く盛り上った胸の中から吐き出される言葉には、信次をひるませる圧力があった。剃刀《かみそり》は鉈《なた》に敵《かな》わないといったような感じだった。 「では、ママは僕に対して愛情を感じていたのでしょうか?」 「たぶんね。──愛情というものは育つもので、はじめからあるものではないと思うよ。私はともかく、お前という人間を、誰よりもよく見ぬいているつもりですよ。それは憎しみのためかも知れないんだけど……。私がどんな風にお前を見ぬいているか、その証拠を一つだけ云いましょうか。お前、興奮してはいけないよ」 「僕は……興奮しないよ、ママ。何でも云っていいよ、ママ」と、信次は自信のない調子で云って、みどりから目をそらせた。 「それはお前が、ある事で、私達みんなを──お前自身をも欺《だま》しているということです。ハッキリ云いますよ。くみ子を片輪にしたのは、お前ではなく雄吉だということです」 「ママ! それはちがう!」と、信次は蒼白《そうはく》になって立ち上り、握った手を強く振り下しながら、 「僕だ! 僕がやったことなんだ! ママ! ……僕は申しわけないことをしたんです、ママ! ……僕です! 兄貴ではない……」 「私達は二人ぎりなんだから、お芝居をするのはおよし、信次」と、みどりは冷静な口調で云った。 「私はただ、お前と二人だけの間でキマリをつけておきたいので、ほかの人達には今までどおり、くみ子の怪我はお前の過失だと信じさせておくつもりだよ……」 「でも、ママ、あれはほんとに僕がやったことなんだ。兄貴もくみ子もそれを知ってるんだ……僕だ! 僕だってばさ! ……」  信次はそこらを歩きまわりながら、だだッ子のようにわめいた。 「私はお前がどんな性格かということも知ってるし、それ以上に、雄吉がどんな人かということもよく知ってますよ。……お前ははじめは、無実の罪をきせられたことを恨んだかも知れないけど、そのうちに、私達みんなにそう信じこませておくことが、お前には、なんか私達に恩恵でもほどこしてるような気持がして来たんだろうと思うの。お前が、誰にでも、気軽に、くみ子を片輪にしたのは僕だと云ってる時、お前はきっと、ある優越感のような気持を味わっていたにちがいないと思うの。……でも、私だけはほんとうのことを見ぬいていたつもりだったし、いつかはその問題でお前と話し合いたいと思っていたんです。少なくも私だけは、お前から恩恵をほどこされていたんではないということを、ハッキリさせたかったんだよ……」 「僕だよ! ……僕なんだよ! ……ママの思い過しだよ……」  信次は腕組みをして、すねた子供のように、横向きに壁によりかかり、空っぽな調子で、同じ主張をくり返していた。それもいまにやんでしまいそうだ。みどりは形ひとつ崩さず、壁にへばりついている信次を、冷い目でじいと見つめていた。  息づまるような沈黙があった。そして、それに押されたように、信次の頭の中には、遠い日の出来事が、フィルムを逆にまわすように、鮮やかに思い出されてきた……。  ──雄吉も信次もまだ小学生のころだった。ある日、くみ子も加えた三人で、庭先きで、そのころ父親に連れて行ってもらったサーカスの真似をして遊んでいた。空の色がばかにあざやかだった感覚的な記憶があるから、初秋の時分だったかも知れない。  遊んでいるうちに、単純な真似ごとには飽きて、おしまいに雄吉と信次が、二人で竹の梯子《はしご》を支えて、それに身体の小さいくみ子をのぼらせる曲芸の真似ごとをはじめた。  無鉄砲なところがあったくみ子は、兄二人が顔を真赤にして支えている竹梯子に、一段一段、それでも用心ぶかく登っていった。 「もっとだよ、くみ子。もっと登るんだよ」と、雄吉が指図した。  宙に浮いたくみ子の身体の重味は、梯子を支えている雄吉や信次にきびしくこたえて来たが、幸い梯子の二本の柱の底にとがった金が打ちつけてあり、それが地面につき刺っているので、辛うじて重い梯子を支えていることが出来た。 「お兄ちゃん、危いよ。もうくみ子を下した方がいいよ」と、信次は、当のくみ子よりも、いつも遊びの暴君であった雄吉に呼びかけた。 「なんだい、信次の弱虫。……そんなことじゃほんとのサーカスが出来っこないじゃないか」と、雄吉が高飛車にきめつけた。 「だって、重いんだもン。……僕、もう梯子もっておれないんだよ……」 「弱虫! はなすと承知しないぞ。……くみ子、大丈夫だよ」 「私へいちゃらよ、お兄ちゃん。もう一度のぼろうか」と、赤い服を着たくみ子が、お調子にのった声で云った。 「うん、登れ。俺達のほんとの、サーカスだよ」と、雄吉はふんばって梯子を支えた。 「……登ったわ。ずいぶん高い高いだわ。方々見えちゃって景色がいいのよ。……ね、信次兄ちゃん、大丈夫でしょう。私、恐くもなんともないわ」と、梯子の上で、くみ子は強がりを云った。 「そうら、みろ。信次の意気地なし!」  信次は、くみ子や雄吉の言葉に返辞もせず、顔を真赤にして必死で梯子にしがみついていた。  その時、大きなあげは蝶《ちよう》が、日光に羽を光らせながら雄吉の近くのさつきの上あたりにゆらゆらと飛んで来た。昆虫の採集に熱中していた信次は、欲しいナ、採りたいナと思った。競争で昆虫を集めていた雄吉も、信次に見せびらかしたい気持があったのか、片手を梯子から離して、その手を、ちょうどさつきの上枝にとまったあげは蝶の方へ、こわごわと差しのべた。  もう一と息、もう一と息とあげは蝶の方へさしのべる雄吉の手を梯子にしがみついた信次は、羨《うら》やましそうに見つめていた。  その瞬間、グラッと力の均衡が崩れ、梯子もろとも絶望的な圧力が、信次の上にのしかかって来た。 「あっ!」と雄吉が、あげは蝶から梯子の方に手をもどしたが、もう間に合わず、そうなるほど梯子にしがみついて離れることを知らない愚直な信次は、加速度的な圧力をまともに受けて、梯子の下敷きになって仰向けに倒れた。 「……信次兄さん……だめよう!」  と、傾いていく梯子の上で、くみ子が悲鳴を上げるのを聞いた。……  夢中で梯子の下から匍《は》い起きると、雄吉がまっ青な顔をして、信次を指さし、 「お前だぞ! 信次! お前だぞ……いいか、お前のせいだぞ!」  と、たたみかけて怒鳴った。  信次は口に強く蓋《ふた》をされたようで、言葉はもちろん、呼吸《いき》さえも吐《つ》けず、物問いたげな眼差しで、雄吉の顔を見上げていた。 「お前だぞ! 信次! ……お前だぞ!」と、雄吉は一歩すすんで、もう一度怒鳴りつけた。信次は、鼻血で汚れた顔に弱々しい泣き笑いを浮べて、うつむいてしまった。  くみ子は植込みの中に気を失って倒れていた。梯子にしがみついたまま傾いていって、石の五重塔の台石にしたたか腰を打って、横ざまに投げ出されたのであった。ただ、腰をうっただけでなく、五重塔に触れたはずみに、重い石の屋根が外れて、それにも身体を打たれたらしかった。  雄吉も信次も、くみ子が死んだのだと思った。  おかっぱの頭が、地面に横向きに転がり、目が閉じられ、赤い洋服の袖口から伸び出た白い小さな手には、落ちるはずみにむしったらしい、なにかの緑の葉っぱが少しばかり握られていた。 「ばあや! くみ子が死んじゃったよう! ……信次だ! 信次のせいだよう! 僕じゃない……」  ふいに雄吉はそう叫びながら、家の中に駈《か》けこんで行った。  一人になった信次は、庭のすみの噴水のところに行き、かぶっていた赤い木綿の運動帽子を水に浸して引っ返し、物を云わないくみ子の横顔の上で、その帽子をしぼって、冷いしずくをタラタラと落してやった。何かの物語でそういう知識を得ていたのである。  すると、くみ子は「むう」とうなって、仰向けに向き直り、目を開いて、信次の顔をボンヤリ眺めていたが、 「……信次兄ちゃんの顔、恐いよう……」とつぶやいて、シクシクと泣きはじめた。  信次の鼻血がまだ止らず、顔の下半分と喉《のど》のあたりが、血だらけになっていたのである。  生きているしるしであるくみ子の泣き声を耳にすると、幼い信次は強烈な感動に打たれて、はじめて自分も泣き出したのであった。身体をブルブル慄《ふる》わせ、小さなけだもののように、たけだけしく、ひたむきに泣いた……。  ばあやと若い女中が駈けつけて来て、くみ子を家の中に運び入れた。医者がよばれて、玉吉は会社から、みどりは訪問先きから、電話で呼びもどされた。そして、すぐにくみ子は病院にうつされた。  その間、雄吉は、新しい顔が見えるたびに、 「信次だよ! ……信次のせいだよう!」と訴えるのを忘れなかった。  妹の重傷で気がどうてんしているところへ、いきなり雄吉から不当な罪を押しつけられた驚きも加わって、口が重い信次は、一言の弁解も出来ず、誰の前でも、肩をすぼめてうなだれているばかりだった……。  こうして、くみ子に怪我をさせたものは、信次だという事実がつくり上げられてしまったのである。  その出来事で、信次は、玉吉からもみどりからも、きびしくとがめられた覚えがない。ただ、それを機会に、彼に対するみんなの無関心な態度が、一そうハッキリと目立ったばかりである。感じやすい子供心にとって、周囲の冷い無関心ほど、恐ろしい刑罰はなかったとも云えよう。愛情が欠けたガラスの保温器の中の世界。そこで信次は、孤独に生きていくしかなかったのである。いや、たった一人、彼のおかげで(?)生れもつかぬ不具者になって病院から帰って来たくみ子だけが、元どおり彼になついていたのも、哀しい、皮肉なことだった。  そのころのある夜、玉吉が床に手をついてみどりに謝まっていた一場面を、信次はおぼろげに記憶している。 「この子はやはり、家に入れるべきではなかったんだ。それをお前が……」  たしかに、そんなことを玉吉が云うのを、信次はそばで、爪を噛みながら聞いていたような気がする……。  ──みどりは、信次がゆっくり物を考えるだけの十分な間をおいてやってから、 「私はね、自分の生んだ子供の性格は、誰よりもよく知っていますよ。あの時、私は雄吉を室に呼んでお前さん達がどんな遊びをしてくみ子を怪我させたのか、問いただしたんだよ。誰にも云わないから、正直にお話してごらんと云って……。  そしたら、雄吉が、サーカスの梯子のりの遊びをしているうちに、お前が蝶々に気をとられて手を放したから梯子が倒れたんだと云いました。それで私はすぐ、手を放したのは雄吉だということが分ったんです。何故その時私が、雄吉にほんとうのことを云うようにせめなかったのか──?  その理由はたいへん複雑です。第一に私は、雄吉を盲目的に可愛がっていたから、あの子に心の傷を負わせたくなかったからです。私が雄吉に対して盲目的になるのは、そのころからあの子は、知能は人並以上にすぐれているけれど、どこか道徳的な感覚に欠けている所があるのが感じられ、私は、しょっちゅうそれを気にかけていました。くみ子も可愛いにちがいないけど、人柄に対してある安心感をもっていられるし、したがって雄吉の場合のように、盲目的な感情をあおられることはありません。  第二の理由は、パパに対して、私の生んだ子が、芸者の生んだ子──ごめんよ、信次──よりも軽はずみで、そのために妹を片輪にしたと思われたくなかったからです。私は、パパに対して何一つひけ目を感じたくないんです。それは、パパがお前のお母さんを愛したという恨みからでなく、もっと本質的な二人の性格の喰《く》いちがいがそうさせるのです。  あのころ私も若く、愛憎の感情も烈しかったので、お前が雄吉の云い分を反ばくしないで、くみ子を怪我させた下手人の立場に甘んじているのをみて、気の毒だとは思ったが、それで押し通すことにしようと決心したんです。それを埋め合せるような心づかいを、しょっちゅうお前に注いでいけばいいのだと考えたりして……。  信次、お前は私を、悪魔のように冷い心をもった女だと思うだろうね……」 「思わないよ、ママ。だって、ほんとに僕がやったことなんだから……」と、信次は、壁に身体を横向きに押しつけたまま、頑固に云い張った。 「それはくみ子だって知ってるんだ。梯子が傾きかけた時、あいつは『信次兄さん……だめよう!』と叫んだんだから……。僕が手を放したことを上で見ていたから、そう云ったんだよ、ママ」 「くみ子も雄吉も私が生んだ子です。私は過まりませんよ、くみ子がその時、夢中でお前の名を呼んだのは、ふだんから、さあという時たよりになるのは、雄吉よりもお前だということが、幼いながら肝に銘じていたからですよ……」 「僕だア……僕だア……僕だア……」  信次は、握りこぶしで壁を軽くたたきながら、まるで、子供が遊びごとでもしてるような調子をつけて叫びつづけた。  みどりは手巾《ハンケチ》を出して、そっと目を拭いた。 「──信次。お前はどこまでも私達に復讐《ふくしゆう》する気なんだね。その目的はもう十分に遂げられていると思うんだけどね……」 「ママ、僕は復讐なんて気の利いたことは考えていないよ。……僕は一人でも、あの時、梯子を支えていなければならなかったんだ……」 「一人の力にあまったことですよ」 「あまってもなんでも、僕は支えていなければならなかったんだ。僕の責任だよ。……家の中のいけないことは、みんな僕の責任だ。──僕はそう思ってるんだよ……」 「──お前に罪をかぶせたことで、一ばん大きな罰を受けたのは雄吉ですよ。何故って、雄吉はあれ以来、いつもその問題に触れるたびに、心の中でとがめられているからです。いまもって、その後暗い気持から脱け出すことが出来ないでいます。殊に罪を押しつけたお前に対しては、強い劣等感のようなものを心の中に秘めていると思うの。そして、その事が、あれはあれなりに道徳的に向上しようとする希望をもつことがあっても、その希望を立ち枯れにさせてしまうんです。出発点の所に大きな虚偽が横たわっているからです。その偽りは、くみ子がびっこを曳くという形で、具体的に、毎日、あれの目に見せつけられているんです。  あれは利口だから、人目には生活の崩れを見せないけど、道徳的な脊骨《せぼね》にあたる所は、カラッポになっているんです、私にはよく分ります。  私はいまになって、あの時、雄吉に対して盲目的であった私自身を責めております。私さえ、厳しい態度で臨んで、くみ子の怪我の責任を明かにしておけば、雄吉はいまのようにしょっちゅう脅かされることなしに済んだはずです。たったいっときの体裁をよくするために、一生の後悔を背負わされたようなものです。そして、それも私がそうさせてやったんです……」  信次は壁に頭を押しつけて黙っていた。みどりに云いまくられて、手も足も出なくなった形だ。(なにもかも知っていたんだ、くそばばあ奴《め》……)と、わずかに胸の奥で弱々しくつぶやくばかりだった。 「少くもくみ子の問題に関するかぎり、お前も雄吉もウソつきです。しかし、二人のウソの性質を較べると、私は雄吉の母として、ほんとに情ないと思います。私は、雄吉が、ちょっとした弱気でウソをついたことで、はかり知れない損な立場に追いこまれていることに気づいて、雄吉が思いきって裸になってくれるように内々で願っていたのですが、やはりちょっとした弱気のため、あの子にはそれも出来そうもありません。私なりお前なりが、はたから暴き立てることを考えても、もう今では時期が遅すぎます……。  可哀そうな雄吉。私はあの子が、何か大きな破廉恥なことでも仕出かしそうで、心配でならないんです。……信次は、何かの場合、雄吉を庇《かば》ってくれる気持がありますか?」 「あるよ、ママ。庇うたって、僕流のやり方になると思うんだけど……」と、信次は真実味があふれた調子で云った。 「私はそれを信じることにしますよ、信次。……ともかく、これだけ云って、私はせいせいしましたよ。もうこれでお前も、くみ子のことで、私達を腹の中であざ笑うことが出来なくなるはずだから……。でも、たいへん身勝手な話だけど、このことは二人だけの話し合いにしておきますからね。殊にパパには、これまでどおりお前の失敗だと信じこませて、じめじめした苦い思いをときどき嘗《な》めてもらおうと思ってるの……」 「──ママはどうしてパパをそんなにいじめるんだい?」 「それが私達の夫婦としての在り方だから仕方がないんだわ。私は、パパを憎み、パパを軽蔑《けいべつ》するような気分を半分混えながら、パパと結婚したんだと思うの。それを裏返せば、私自身を憎み、私自身を軽蔑しながら、パパと結婚したんだということにもなるでしょう。……夫婦というものの気持の絡み合い方には、いろいろあって、どれがいいわるいというものではないと思うの。そして、私達の場合は、憎しみといった風なものが、夫婦の結びつきのモチーフ(主調)になってるのかも知れないわ……」  何を云う時も、みどりのガッチリした構えは崩れる様子をみせない。目は青味を帯びて深く、鼻も唇も耳も頬も、ぶあつく滑かで、豪奢《ごうしや》な風がある。 「パパもママもあまり仕合せではないんだね?」 「ええ。でも、クサビを深く打ちこんだような生き方をしてるとは思うんだけど……。お前はこのあと、高木トミ子さんとは──?」 「会ってみて、暗い影のない小母《おば》さんだということが分っただけだよ。肉親だという感情はうすいんだ。まるで世代がちがうし、それにちゃんと暮しが立ってるようだから、心配なこともないんだ。……ただ、民夫という種ちがいの弟がいて、こいつとはつき合ってみたいと思ってるんです。いまジャズの唄い手をしてるんだけど、ちょっと変ったような奴で、それに偶然、くみ子がそいつのファンなんだよ、ママ……」 「くみ子が──」と、みどりはしぜんな思い入れをして、 「どうやらこの家では、はかりはだんだんお前の方に傾き出したような気がするね。そして、その機会は、それこそ偶然だろうが、倉本さんが家庭教師としてこの家に入りこんだころだったような気がするわ。……私はさっきも一人でおった時、なんとなく倉本さんが憎らしくなって、新学期からあの人にやめてもらおうかと考えたりしていたんだよ」 「ママ。それはだめだよ。……もしかすると、倉本さんが、兄貴をママが希《のぞ》んでいるような人間にしてくれるかも知れないよ」 「荷が勝ちすぎますよ、あの娘には──。さあ、遅くなったから、ここらで休戦にしましょう。これが私とお前の元日の夜だったのね……」 「いいじゃないか、ママ。おやすみ。僕はやっぱりママを認めてるよ……」  信次は二階に上った。それぎり家の中はひっそりとなった。が人は寝しずまっても、何かが目を覚ましていて、家の中をさまよっているような気分が漂っていた。そうして、田代家の夜がふけていった。 [#改ページ]  [#2字下げ]約 束  室の中では、ストーブがボコボコと燃えていた。  窓ガラスの外側には、雪が白くまだらに凍りついており、粉雪が舞っているのが、かすんで見えた。しかし、風の音が強いので、相当な吹雪であることが分る。  雄吉は、壁際のベッドに腰をかけて、本を読んでいた。どてらの裾《すそ》から垂れた片方の足が繃帯《ほうたい》で白くふくれ上っている。くみ子のあとを追って、大鰐にスキーにやって来て、明日は東京に帰るという日に、山の急斜面で転んで、足首を捻挫《ねんざ》し、そこから、たか子の家がある弘前《ひろさき》の病院に担ぎこまれたのである。  学校があるくみ子は、予定どおり東京に帰っていったが、いっしょに行くはずだったたか子は、雄吉の世話をするために居残った。そして、一日に二度ぐらいずつ、家でつくった食事のお菜《かず》などを持って、病院に通っていた。  父親や母親はむろん挨拶《あいさつ》に顔を出したし、いっしょにスキーを辷《すべ》った弟も、ときどき雄吉を見舞った。こうして、たか子には、雄吉が急に身近なものに感じられ出したのである。  素朴な地方の雰囲気の中で育ったたか子は、都会の生活にいくらか慣れたとは云え、田代家に出入りするのには、しょっちゅう背伸びしているような窮屈さがつきまとっていたのだ。変り者の信次や教え子のくみ子の場合はそうでもないが、玉吉やみどりや雄吉と話すのは、肩がこることだったのである。  それがいま、雄吉が、ふだんの環境からすっかり切り離され、言葉もろくに通じないおらが国サに、足の不自由な異国人としてほうり出されたのをみると、たか子は、はじめて対等につき合えるような気やすさを感じたのであった。  雄吉の方でも、そういう逆転した境遇に少しも当惑した様子をみせず、粗末な入院室で、のうのうと療養をつづけていた……。  ドアをノックして、八代ゆきという、若い小肥《こぶと》りした赤ら顔の看護婦が入って来た……。 「どうですか、田代さん。お熱は?」 「熱なんてないよ。もう計らなくてもいいからと先生に云ってくれよ」と、雄吉は枕もとの体温計をとって、看護婦に返した。 「困りますわね、そうわがままでは──。もう家にお帰りになった方がいいんじゃないんですか」 「こんな足ではまだ帰れないよ。……それに僕は、雪に囲まれてこうしてベッドに寝ているのが好きなんだよ。……君等も親切にしてくれるしさ」 「君等ではないでしょう? 倉本さんのことでしょう? 私達の控え室で話が出てましたわよ。あれで、田代さんは、倉本さんが一日に二度もお見舞いに来て下さらなかったら、駅まで担架に載って行っても、さっさと東京に引き上げてしまうでしょうって……。病院の入院室って、私達がひいき目でみても、殺風景なばかりで、いやンなっちゃいますものね」 「おかげで看護婦さんが天使のようにきれいに見える。外でみると、さほどでもない人がね」 「失礼しちゃうわ。……煙草を吸いますか?」と、テーブルの上を片づけながら、八代ゆきが尋ねた。 「ああ、吸うよ」と、雄吉は読みさしの本をベッドに投げ出しながら云った。  八代ゆきは、煙草をもって来て雄吉の口にくわえさせ、マッチをすってやった。 「ありがとう……。雪国の女の人って、頬《ほ》っぺたがリンゴ色で、健康そうな感じだなあ」 「都会に出て行くと、その色で、田舎者だと云うことがすぐ分るんですって……」 「いいじゃないか、それだって……。僕はインターンが終ったら、こんな所の病院で働いてみたいもんだな……」 「一時の気紛れですわ。ここの先生がただって、みんな大都市に出たがっていますもの。根を下して住んでみると、田舎は田舎で、息がつまるようなことばかりですわ」  八代ゆきは、いつの間にか、ベッドに雄吉と並んで腰を下していたが、ふと、雄吉の指の長い手と、しもやけでふくれた自分の手とを較べて、 「ほら。ごらんなさい。お金持と貧乏人と、一と目でわかりますわ」 「そんなことじゃないよ、体質だよ。看護婦のくせに……」と、雄吉は八代の肩に手をまわし、片方の手を八代の顎《あご》に当てて顔を仰向かせ、 「君は処女かい?」 「なんて事を云うの──?」と、八代はかくべつ驚いた様子もせずに、 「倉本さんだったら、そんなこと、云いはしないでしょうに……」 「そうだよ。……僕は医者の卵で、君が看護婦だからそう尋ねたんだよ」 「そんなこと分って、どうするの?」 「どうもしやしないさ。君が怒ったり恨んだり泣いたりする所を見たいからさ。健全そうにとり澄ましてる女って、およそつまらないからな。──君は処女かい?」  八代は「フーッ」と嘆息を洩《も》らし、肩から雄吉の手をはずして、少し傍へ離れ、 「貴方《あなた》には怒れないわ。後光がさすほどハンサムでいらっしゃるから……。私の仲間は、みんなこのお室に入りたがってるわ。私、羨やましがられてるのよ。でも、私、田代さんて方は、お見かけどおり、高尚な精神の持主だと宣伝しているの。若い娘に、いまみたいなことを平気で尋ねる人だなんて決して云わないことにしてるの……。  そうねえ、私達みたいに、こんな病院で長く働いていると、人生を裏側から見たり聞いたりする機会が多いし、精神的には、人生に対する処女性を失っているかも知れないわ。肉体的には──、そうね、私達の職業は、正反対の二つの影響を私達に及ぼしていると思うの。肉体の純潔なんて大したことではないという考え方と、肉体の純潔は大切なことだという考え方と──。私もそのどちらかに影響されてると思います。貴方のお好みで、どちらに考えてもいいわ……」 「あっぱれな返答だな。僕が恥かいたようなもんだ。……ほんとは、僕は退屈しているし、君を抱いてみたいんだがな」と、雄吉は身体をかしげて、八代の方に手をさしのべた。 「いや。いや。……そうは云っても、私は私の中にあんがい固い骨が入ってるのが分って、邪魔っ気だと思ったりするんですけど……。あとでまた来ますわ」と、八代はもの憂そうに云いながら、雄吉の手を外して、室から出て行った。  ひとりになると、雄吉は、八代が姿を消した戸口の方をチラとにらんで、用心ぶかくベッドから下りた。そして、普通の人とあまり変らない足つきで、室の中をゆっくり歩きまわった。それから、窓際に行って、外側に雪がくっついた冷いガラスに額を押しつけて、戸外の白い景色を眺めた。  積雪に埋れた中庭の狭い空間には、無数の粉雪が舞い狂っており、ときどき濃い雪煙が上って、白い幕のようにハタハタと風にはためいた。まるで意味のない虚無的な眺めである。  雄吉はそういう無意味なものを見ているのが好きだった。人間の生も死も、喜びも哀しみも、あの無数の細かい雪片の一つ一つが、現われては消えるようなものではないか。女を欺《だま》したって……くみ子を傷つけたのが俺でなく信次であったって……みんなはかない瞬間のことにすぎないではないか。吹雪よ、荒れ狂え! ……すべてのものは一とまたたきのうちに過ぎ去ってしまうのだ……。  雄吉は、我を忘れたように、しばらく戸外の吹雪のさまを眺めていた。ふと、腕時計を眺めた。たか子は三時ごろ訪ねてくる約束だが、もう間もない。  雄吉は、目の前の窓ガラスにつぎつぎと息を吹っかけて、濃いくもりをつくった。そこに、指先きで「たか子」「たか子」といくつかの文字を書いた。文字は白いくもりの中に、クッキリと透明に浮いて見えた。雄吉はニヤニヤしながら、その一つをハートの形で囲ったりした。  と、ドアがノックされた。 「お入りなさい」と、雄吉は窓際を離れずに云った。  オーバーも、頭を包んだショールも、雪まぶれになって、倉本たか子が入って来た。手には風呂敷《ふろしき》包みを下げていた。 「ひどい吹雪ですわ。目をつぶって歩かなければならないぐらい……。いいんですの、起きていて……」 「退屈だから、吹雪が荒れるのを眺めていたんです……」 「買物を全部して来ましたから……。ウイスキーと本とトランプと安全|剃刀《かみそり》一式と……」  茶のスラックスに、白いトックリセーター、それに大柄なチェックの上衣《うわぎ》をつけたたか子は、髪に手を当てながら、雄吉のそばにやって来た。  吹雪にうたれた頬や鼻は少し赤らみ、前髪やまつ毛には、粉雪が溶けたしずくが光っており、生れ立てのように新鮮な感じだった。 「あら!」と、たか子はすぐ窓ガラスの落書に気がついて、真赤になり、握拳《にぎりこぶし》でガラスの字を消しながら、 「いけませんわ、こんなものを書いていては……。先生や看護婦さんに見られたら、変に思われますもの……」 「やあ、失敬。うっかり書いていたんだな。気がつかなかった。……ベッドに腰かけますから、肩を貸して下さい……」  さっきは普通に歩いた雄吉は、たか子の肩に手をまわすと、繃帯を巻いた足を宙にもち上げて、片足でベッドまでピョンピョンと跳ねていった。  たか子は、ベッドの傍にテーブルを運んで、風呂敷包みのなかみを並べてみせた。探偵小説が一冊、ウイスキーの角瓶、クラッカー、安全剃刀、ピカピカ光る新しいトランプ、重箱などだった。 「おやつにと思って、母がつくったきなこ餅《もち》をもって来たんですけど、召し上りますか?」と、たか子は重箱の蓋《ふた》を開けてみせた。 「あとで──。それよりも、久しぶりで髭《ひげ》をそりたくなったな。手伝って下さいよ」と雄吉は頬や顎の無精髭を撫《な》でまわしながら云った。 「はい、はい……」  たか子はかいがいしく、洗面器に湯を注いだり、タオルや刷毛《はけ》や石鹸《せつけん》を揃えてやったりした。少くも、この土地では、雄吉が頼れるものは、自分のほかにはないのだ。──そういう自覚が、たか子のまだ幼い母性にこころよく媚《こ》びているのであった。  雄吉は顔中シャボンの泡に塗《まみ》れて、剃刀を使いながら、 「倉本さん、僕は足をくじいてよかったと思ってるんですよ……」  雄吉の意味することが分っているたか子は、赤くなってそっぽを向き、 「どうしてでしょうか?」 「貴女《あなた》にこんなに身近くお世話してもらえるからです」 「当り前のことですわ。雄吉さんでなくったって、私、そうしますわ。……おしゃべりしてると、顔に傷がつきますわよ」 「そうかなあ」と雄吉は剃刀をもつ手を動かしつづけながら、横目でたか子の方を眺めて、 「僕は貴女が、とくべつ僕に親切にして下さるような気がしていたんだけどな……」 「そんなことを仰有《おつしや》るんでしたら、私、もうここへは参りませんから……」 「貴女にはそんなことが出来ませんよ。そんな意地のわるいことは……。僕はこの土地では、貴女のほかに知り合いがないんですから……」 「私もそうだと思うから、毎日おうかがいしてるのですわ。でもなければ、くみ子さんといっしょに東京に帰ることになっていたんですもの……」 「貴女は、僕が足をくじいて、ここに一人で残ることになったのを喜んでくれますか?」 「いいえ」 「では、邪魔っけだと思っていますか?」 「いいえ。……そういう絡んだようなお話は止めにして、早くお髭をあたって下さい」 「僕は一ン日、この室に閉じこもっているんですよ。だから、気心のおけない人をみると、だだもこねたくなるし、窓ガラスにその人の名を落書したくもなるんですよ……」  雄吉はやっと髭剃りを終った。顔がつやつやとして若返ったようだ。たか子はあと片づけをして、重箱のきなこ餅を小皿にとってやり、お茶を入れて、自分もいっしょに食べ出した。  風の音が一としきり強くなったと思うと、外には煙のような雪の幕が張り、ガラス戸の細い隙間から、さかさまに粉雪が室内に舞いこんで来た。 「ひどい吹雪だなあ。……今朝も目を覚したら、そこらの床が真白になっていましたよ。吹雪の音を聞きながら、ストーブの燃える室で、きなこ餅を食う。こういうのが雪国の生甲斐《いきがい》というものかな。少し世帯《しよたい》染みてると思うけど……」  雄吉はそんなことを云って、お茶を口にふくんでゴクゴクやってから、グイと飲みこんでやった。 「いやあねえ……」と、たか子は立ち上って、重箱やお茶の始末をしてから、 「私、編物をしますから、雄吉さんは探偵小説でも読んで下さいね」 「僕の口を封じようというんですね」 「そうですわ。なんでしたら、声を立ててお読み下されば、私も編物をしながら聞いていますから……」 「そういう肩の凝ることは御免だな」  たか子は、毛糸の玉を足もとに転がして、首のあたりが出来かかっているセーターを編み出した。雄吉は、ベッドに横向きに転がって、じいっとたか子の様子を眺めていたが、そのうちに仰向けになって、云われたとおり、本を読み出した。  煙突に風が紛れこむのか、ときおり、ストーブのたき口から、赤い火がメラメラと吹き出した。  たか子は編棒を動かしつづけながら、そっと目を上げて、本を読みふけっている雄吉の横顔を眺めた。そして、なんとなく満ち足りた気持にさせられた。将来、いまとそっくりな情景が、自分の結婚生活の中にも現われて来そうな気がする。相手が雄吉であるかどうかは分らないが……。  風はやまずに吹き荒れているが、室の中はひっそりとしている。たか子は、時間というものが自分のあんでいる編物の目の中に、つぎつぎと織りこまれていくような気がした。 (この人の読んでる本の中では、いまごろ、どんな殺人が行われているのであろう……)  ドアをたたく音がして、整形外科の山形医師が看護婦の八代を従えて入って来た。山形は、顔の大きい、眼鏡をかけた、ゴマ塩頭のガッチリした身体つきの男である。 「どうだね、田代君」 「はあ、だいぶいいようですが……」 「そうかね。そんなに早くよくなるはずはないと思うが……」  山形医師は、たか子の方を見ながら、皮肉な調子で云った。そして、八代が繃帯や細い副木《そえぎ》をとり払った、雄吉の足首をもち上げて、指先きでいろいろに探るようにしていたが……、 「どうもね、田代君。君も医学生だからむき出しに云うが、儂《わし》のみるところでは、君は昨日あたりから、だいたい普通に歩けるはずだと思うよ。今夜でも、病院に火事騒ぎがあったとすると、君は、短距離選手のように早く逃げ出すこと、まちがいないね……」  八代がクスクスと笑った。  たか子は聞えないふりをして、忙《せ》わしく編棒を動かしていた。 「ひどいなあ、先生」と、雄吉も苦笑して、 「僕はまだ、ほんとに自信がないんですよ……」 「なんの自信だね? ……まあ、君の好きなようにするさ。病院としては、入院料さえ払っていただけば、お客さまだからね。しかも特等室に入ろうという患者は、この辺ではめったにないんだから、君は上客だよ」  山形医師は、テーブルにのっていた雄吉の煙草を勝手にとって、プカプカふかした。ここで油を売ることは、彼にとって気休めであるらしい。 「先生」と、八代ゆきが呼びかけた。 「なんだね?」 「先生はまだしばらく、田代さんとお話なさいますか?」 「どうしてだね?」 「時間があれば、倉本さんが私にきなこ餅を御馳走《ごちそう》して下さるというんですけど……」 「職務執行中だけど……まあいいだろう」  たか子は立ち上って、編物を椅子の上に置き、八代にきなこ餅を出してやった。 「山形先生もいかがですか?」 「いやいや。そんなものは男の食うもんじゃない。儂はお茶だけいただこう……」  山形と雄吉は、雄吉の医科大学の教授や研究室などのことについて話し合った。ぶこつな田舎者の山形は、頭がよくて美男な雄吉をだいぶ気に入ってるらしい様子だった。 「──君、皮膚科をやるんなら、一ン日ここで寝ていても退屈だろうし、うちの皮膚科を見学に来たらどうだい。主任にそう云っておくから……。もっとも、君は足がわるくて動けないんだっけな。それだったら、見学がある時だけ、足がなおることにしたっていいんだぜ、君」  八代ゆきがまたクスクス笑った。 「どうも先生は意地がわるいなあ。僕はほんとに──」 「儂をやぶ医者にするつもりかね……」 「それに僕は、雪に閉じこめられたここの環境がすっかり気に入ったんですよ、先生」 「中庭のほかには、なんにも見えないこの粗末な室が、そんなに魅力があるのかね。儂は医者として、そんな心理を肯定出来ないね。……倉本さんはどう思うかね……」 「────」  たか子は深くうつむいて、黙って編針を動かしていた。 「君をここに牽《ひ》きつけているものは、まったく別なものだろうと、儂は見当をつけてるからね。それだったら、しごく妥当なもので、誰にでも納得がいく……」 「先生──」と、八代が注意を促した時、たか子はスッと立ち上って室から出て行ってしまった。 「ハッハッハ……」と、山形医師は無遠慮に高笑いした。 「女性の髪の毛の一本は、象をつなぐ力があると云うが、いわんや君のような痩《や》せっぽちなんか……。見たところ、いいお嬢さんだぜ。家柄もこの町ではいい方だ。君に彼女を幸福にしてやれる自信があるなら、大いにやれやれと云うところだな……。足の方は君が好きな時に全快するさ、ハハハ……」  山形医師は笑いながら、八代看護婦を従えて、室から出て行った。  雄吉は、一人になると、大きな欠伸《あくび》を洩《も》らして、 (いやな田舎医者だな──)と、胸の中でつぶやいた。  しかし、必ずしも彼にとって不利なことではない。自分が何も云わずに、はたの者が、間接的に自分の気持を伝えてくれるということは、男女の関係の場合、かなり有効な方法でもある。  自分の足が、山形医師に指摘されたとおり、仮病であることはたしかだが、しかしたか子の内心は、ウソつきの自分をさげすむ気持よりも、何故ウソをついているかを察して喜ぶ気持の方が強いにきまっている。  しかも、ここは彼女のホーム・グラウンドなのだ。東京で田代家に通ってくる時のような緊張と用心は、しぜんに払いのけられ、彼女は安心してのびのびと振舞っている。それもこちらに有利な条件なのだ……。  それにしても、なんという魅力のある女だろう。いまの気持が変らなければ結婚してもいいが、しかし、自分はすぐ人間に飽きてしまう性格だし、どんなことになるかは、先きにいってみなければ分らない。愛するということが責任を伴わなければならないということが、どうも俺には合点がいかないことだ。  雄吉が身勝手な妄想にふけっている時、たか子は、碁盤の目がたに通った病院の長い廊下を歩いていた。つめたい風が吹きとおって、たちまちのうちに身体が冷えこんでしまった。  気のせいか、病院の廊下って、うす暗く陰気な感じがする。床板や羽目板にシミがあると、血のあとではないかしらんと思うし、途中の手術室や入院室の中では、いま誰かが死にかけているのでないかしらんと思ったりして、何かしら不安な、駆りたてられるような気分にさせられる。  ふくれるほどたくさん着物をきこんだ、地味な風体の男や女が廊下を往来していた。頭や手足に繃帯している者もあったが、繃帯の白い色が、一そう空気を冷く感じさせるような気がした。  とある角を曲ると、向うから担送車を囲む一群の人がやって来た。車の上には、人間の形を浮き上らせた茶色の毛布が深くかけられ、両側につき添った中年の女や白髪の老婆達が、声をあげてオンオン泣いていた。  たか子は、壁際に身体を押しつけるようにして、その担送車が過ぎ去るのを見送った。と、毛布がずり落ちそうになったのを、車を押す看護婦がグイと掛け直すはずみに、死人の白い足の裏がチラとのぞかれた。  そこらの人の話すのを聞いてると、死んだのは三十代の若い主婦であり、子宮ガンだということだった。  たか子は、身体が冷えきっていたせいもあってガクンと慄《ふる》え、子供のころ、お葬式に出会うと、汚れをはらいのけるためによくやったようにフーフーと呼吸をはき散らした。そして、雄吉の入院室にまっすぐに引っ返した。  雄吉は、胸の上に本を載せて、うたた寝をしていた。口を少しあけて、少しばかり涎《よだれ》を出している。  それを拭《ふ》いてやって、たか子はまた椅子に腰かけて、編物をつづけた。  ひとりで吹雪の音に耳をすませていると、いま廊下ですれちがった担送車の上の死人の白い足の裏がチラッチラッとたか子のまぶたのうちに浮び上って来た。  あの冷たい白さは、一切が空しくなったことを意味しているのだ。しかも、死人はまだ三十代の若さだったという。うかうかしてはいられない。命の火を燃やす機会をとりにがしたら、とり返しがつかないことになってしまう……。  たか子は、編物から目をあげて、窓の方を眺めた。曇ったガラスの上に、さっき自分が握拳《にぎりこぶし》で消してしまった、雄吉の落書のあとを読みとろうとでもするように……。それにしても、何という子供っぽい真似をしたものであろう。どの程度に、雄吉は真剣なのであろう? だだをこねるような調子に、うかうかとのっていいものであろうか? 雄吉のそうしたやり方は、胸をくすぐられるように魅惑的ではあるけど……。  たか子は、はんぱな口笛をスウスウ吹きながら、編物をつづけた。  いつの間にか、室の中が暗くなっていた。たか子は電燈をともし、ついでに黒いカーテンをひいて窓をふさいだ。すると、室の中が急にこぢんまりと明るくなった。  雄吉が眼を覚した。 「ああ、いい気持に眠った。何時ごろかな……」 「五時半ごろですわ」 「すまないな。貴女にずうといてもらって……」 「いま家から晩の御飯が届きますから、貴方に御飯を食べさせたら、私は帰りますから……」 「ここでいっしょに食べていくといいのにな」 「そうは参りません。母が心配してますから……」 「心配してますか?」 「あんな美男子、見たことがないって、昔者の母がこないだ感心してましたから……」 「どうもねえ……。そういう云い方をされると、お前は頭が空っぽだぞと云われてるように響いてくるんです。……僕の苦心や努力が一つも加わらないものを賞められるのは、バカにされてるのといくらもちがいませんからね」  そんな話の所へ、八代ゆきが小さな紙きれを手にして入って来た。 「田代さんに電報ですわ。伊豆の下田《しもだ》でうったものです。電話で来たのを私が受けたんですけど……」 「電文は──?」 「読みますよ。『アニキ ヤケルゾ シンジ』──それで意味が通じるんでしょうね?」八代は真面目くさって雄吉とたか子の顔を見較べた。 「バカな奴だ。伊豆の方に写生旅行にでも行ってるんだな……」と、雄吉は、八代の手から紙きれをとってちょっとのぞき、それを掌で丸めた。  たか子はクスクス笑って、 「貴方《あなた》に早く帰るようにっていうことを、信次さんらしく表現したんですわ」 「冗談じゃない。第一、僕は、信次にやかれるほど、倉本さんにもててはいないもの。そうだろう、八代君?」 「さあ、どうでしょう。ずいぶん御親切にして上げてるように見えますけど。……信次さんて──?」  と、八代ゆきは、たか子の顔を見ながら尋ねた。 「こちらの弟さんですわ。二つちがいだったかしら……。画かきさんの卵ですの。面白い方ですわ。そんな奇抜な電報をよこすぐらいですから……」と、たか子が説明した。 「やっぱり美男子で──?」 「というのは当らないでしょうね。パーソナリテーのあるお顔ですわ」 「見てみたいわ。あんなへんてこな電報をうつよりも、御自分でここに来てみるといいのに……でも、うちの先生と同じに、遠くからでも、こちらはもう短距離選手のように走れるんだ、ということを見とおしているのかも知れませんわ」  八代ゆきは、雄吉の顔をまっすぐに眺めてずけずけした調子で云った。 「イヤなことを云うなよ。田舎のヘッポコ医者に何が分るんだい。ましてその子分の君などに──」 「そんなことをおっしゃってはいけませんわ、雄吉さん。山形先生も御立派だし、殊に八代さんは、お勤め以上の親切をつくして下さっていますわ」 「お勤め以上がいけないんですよ。……お勤めだけでいいんだ。なあ、そうだろう八代君」と、雄吉はぞんざいに云って、まだ掌にもっていた丸い紙きれを、八代に軽く投げてやった。 「呆《あき》れたわ。夜おそくなると、恐いから眠るまで室にいてくれと呼び出したりするくせに……。倉本さん、田代さんを甘やかしてはだめですわ。……どうもお邪魔しました」と、矢代は大して気にもかけない風で、室から出ていった。 「坊やみたいですわね。眠るまで傍に人を置くなんて……」と云いながら、たか子はふと、八代の言葉にこだわっている自分を感じた。 「彼女、おしゃべりだから、僕はもっぱら貴女の家庭のことを聞きましたよ」 「どうぞお好きなだけ──。私には、自分の家庭を実力以上に見てもらおうとする気持はございませんから……」  すると、八代と入れちがいのように、たか子の父の雑貨店で働いている男衆が、雄吉の晩飯をいれた、小さな出前箱のようなものを、室の入口に置いて帰っていった。  たか子は、さっそくテーブルの上を片づけて、五目飯、焼魚、帆立の煮つけ、大根漬などを並べた。魔法瓶には豆腐とナメコの味噌汁《みそしる》が熱いままで入っていた。  一ン日寝ていても腹が空くのか、雄吉はたか子に給仕をしてもらいながら、ムシャムシャ食べはじめた。  たか子は、田代家でときどき食事をよばれることがあったので、いま出している母の手づくりの料理は、まったく田舎風であることを知っていた。それを、雄吉が、皿まで嘗《な》めるようにきれいに平げるのが、たか子には何よりもうれしかった。  雄吉が口いっぱいに食物をほおばる。モグモグ噛《か》む。それから喉《のど》をふくらませて胃袋に呑《の》みこんでやる。その動作を忙しく繰り返すのをそばで眺めていると、自分の方がいきいきとした感覚的な喜びを覚えるほどである。そして、雄吉が物を噛む手助けでもするかのように、自分もからの口をモグモグ動かしたりする……。 「おいしい?」 「おいしいよ。君のお母さんは料理がうまいな。八代君の話だと、お母さんは家つき娘で、婿さんを迎えたんだって──?」 「そうよ。だから、母は家の中で、ゆっくり構えていますわ」 「家とおんなじだ」 「その方が家庭のすわりがいいんじゃないかしら……。主婦がビクビクしてるような家庭なんて、居心地がわるい、さむざむとした感じですわ」 「──ごちそうさま」  たか子は、汚れた食器類を手早く箱の中に押しこんで、お茶を出し、リンゴを剥《む》いてやった。  外では吹雪がますますひどくなって、凄《すさま》じいうなりを上げていた。大きな病院の建物が、根こそぎさらわれていくのではないかしらんと思われるほどだ。ときどき、電燈がポカポカと頼りなげに明滅する。 「それでは、私はもう帰りますから……。信次さんから電報が来たら、急に東京に帰りたくなったわ。身軽い服装で、サンダルを穿《は》いて歩けるんですもの……」  そう云いながら、たか子は壁にかけたオーバーを着て、ショールを頭からかぶった。雄吉はベッドから下りて、 「その前に貴女に見せるものがある。ホラ……」と、両足で室の中をかなり自由に歩きまわってみせた。 「あら! ……あら! ……まあ。ひどい! 私、山形先生の仰有ることは冗談だとばかし思ってたのに、ほんとだったんだわ。……もう私、明日からここに来ませんから……」 「まあ、君。君に話したいことがあるんです。もう一度オーバーを脱ぎなさい……」  雄吉は、たか子の身体を押えて、元の椅子に坐《すわ》らせた。たか子はあまり抵抗もせず、されるままになっていた。雄吉は、もう一つの椅子をそばに引き寄せて、膝《ひざ》をふれ合せるぐらいに近く坐り、たか子の肩に手をまわして、 「僕はたしかに、貴女と親しくなりたいために足の怪我がなおらないことにして、今日までここにとどまっていたんです。……わるいことをしたとは考えません。僕は貴女をよく知りたかったんです。そして、ある程度、その目的が達せられたと思います。ということは、僕自身をも貴女に知っていただいたということになりましょう。僕がウソをついて不快ですか……」  たか子はかすかに慄えながら首をふった。 「不快に思ってないんですね?」と、雄吉は念を押した。  たか子はうなずいた。 「貴女はこれまでに、僕の女性に関する噂を何かお聞きになったことがありますか?」と、雄吉は試すような目つきで、たか子の緊張した横顔を見つめながら尋ねた。 「いいえ。……くみ子さんから、貴方が女にはあまり関心をもってらっしゃらないようだ、というお話はきいたことがあるようですけど……」 「ごうまんな奴だと思ったでしょうね?」 「いいえ。女には、バカにされても仕方がない一面があるのはたしかなことですから……。でも男の人にもやはりそういう一面があって、それでちょうど釣り合うんだと思ってました。それが、雄吉さんにお会いして、貴方だけは例外の男性だと考えておりましたの……」 「僕自身もそう信じていましたよ。足の怪我がいつまでもなおらないようにみせかける。──そんなバカげた芝居をする人間だとは、今日の今日まで思ってもいませんでしたよ。好きな女の人が出来てみると、僕も普通の男並みに愚かしくなるんですね。……たか子さん貴女のせいですよ……」  雄吉は、たか子の肩にまわした手で、強くたか子の身体を押えるようにした。 「私、それに値いしない女ですのに……。買いかぶっていらっしゃるんですわ……」と、たか子はつぶやくように答えた。 「たか子さん。僕ははじめて、貴女という女を愛したんです。そのためにウソをついたりする弱い愚かな人間になってしまいました。しかし、何という幸福な愚かしさでしょう。僕はもっともっと愚かになりたいぐらいです。……たか子さん、僕と結婚してくれますか……」  雄吉は、相手の耳もとに口をつけるようにして云って、両手でいきなりたか子を自分の胸の中に抱きしめ接吻しようとした。 「いけませんわ……雄吉さん……いけませんわ」と、たか子は夢中で手をはさんで、雄吉の唇をふせいだ。  廊下ですれちがった担送車の死人の白い足の裏が、チラッと思い浮んだが、それでも自分の唇をかばわずにはいられなかった。  雄吉は好きなのだが、女としての新しい経験が本能的に恐いのである。 「僕を愛してはくれるんですね?」 「ええ、愛してますわ」  二人の目がまぢかく向き合っていた。目というよりは、無限に深いものを湛《たた》えた、うす暗い穴のような感じだ。 「貴女は……ほんとにすばらしい人だ……」  雄吉はたか子の額に軽く唇を押しつけた。たか子は目を閉じて慄えていた。はじめて男の温かみを自分の肉体の上に感じたのである。 「……結婚することは、承諾して下さるんですね?」 「……その自信が私にはまだないんです。愛してることはたしかなんですけど……」と、たか子は、雄吉の腕の中で顔を起して、意識をとり戻したような調子で云った。 「自信だなんて……貴女が僕を愛して下さる。それが何よりの自信にならないんですか?」  雄吉は、たか子の理性を痺《しび》れさせるにはどうすればいいか、思案をめぐらしながら云った。 「ええ。……でも、いまのような情熱はいつかはさめる──いえ、しずまる時期があると思うんです。そうなったら、おたがいの育って来た環境が物を云うようになり、貴方と私の間には、いろいろチグハグなことが出て来やしないかと思いますの。私はそれが心配なんです……」と、たか子は、男の腕の中で男を見上げながら云った。 「そういうことだったら、貴女も僕も、なんのために教養を積んでいるのですと云いたい。素朴な環境の産物でなくなるためではないんですか。……貴女のように用心ぶかいと、結局、貴女は、人生のなかみの半分ぐらいしか生きないことになってしまいますよ」 「そんなことを仰有らないで……。それでなくても、私、気を失いそうで、ハラハラしているんですから……」と、たか子はあえぐように云った。  口に出してそれを云う人間は、決して気を失いはしない──と、雄吉は思った。 「もう云いませんよ。そして、貴女の気持が熟すのを待っていますよ。僕は、いまは、貴女の愛情と結婚に対する同意を得たことで満足していますよ……」と、雄吉は、たか子の身体をまっすぐに起して、柔かい髪を愛撫《あいぶ》してやった。 「結婚のことは……やはり自信がなくて……遠い先きのことのせいかも知れませんけど……」 「結婚が裏づけにならない愛情……そういうもので、貴女はいいんですか?」 「私には、どういうことなのか分りませんけど……、でも、いまの気持はやはりそうなんです……」 「どうなと貴女の気のすむようにして下さい」 (ほんとはその方が面倒がなくていいことなんだけど……)と、雄吉は頭の中でひとり言をつぶやいていた。 「私、とっても仕合せですわ」と、たか子はもう一度、雄吉の胸に頭を押しつけてから、サッと立ち上った。  そして、身仕度をした。 「おやすみなさい、雄吉さん。……私、これから、吹雪の中を足にまかせて歩きまわって家に帰りますわ。そうでもしなければ、私の身体は燃え上がってしまいそうなんですもの………」  キラキラと濡《ぬ》れた目で、雄吉を見つめて、たか子は室から出て行った。 (変った女だ。愛しているが……結婚するかどうかは分らないって……。こっちが腹の中で希《のぞ》んでいることを、向うから云い出したようなもんだ。結婚を条件にしないという愛し方に自信があるなら、そうしてみるがいい。あとで泣いたって、こっちの責任ではないのだから……)  雄吉は生《なま》欠伸《あくび》を洩《も》らしながら、頭の中でそんな風につぶやいた。ともかく病院に居残った目的の半分は達せられたのだから、この程度で満足しなければならない……。  雄吉はベッドに入って、探偵小説のつづきを読み出した。つぎつぎに人が殺され、探偵がその謎を解いていくという趣向の物語は、面倒なことを忘れるにはもって来いなのだ。  外の吹雪はやむ様子もなかった。それでも、夜になったせいか、あたりが静かになったような気がする。いつの間にか、ストーブの燃える音もやんでいた。そうして時間が過ぎていった。  十時ごろ、看護婦の八代ゆきが入って来た。 「もう休もうと思いますけど、何か御用はありませんか?」 「ないね。少しここで話していってもらいたいということのほかは……」 「火が消えて寒いわ」  八代はストーブの口をあけて、おきを掻《か》きまわし、新しい薪《まき》を二本ばかりくべた。 「僕は明日か明後日あたり東京に帰ろうと思うんだよ。いつまでいたってしようがないからね……」 「──帰るんですか?」と、八代は妙な微笑を浮べて、雄吉の顔を眺めた。 「君、僕にもっといてもらいたいとでもいうのかね?」  雄吉はニヤニヤしてベッドの上に起き直った。ストーブの薪がパチパチはぜて燃え出した。 「いいえ。貴方が病院を引き上げるわけが、私にはよく分るということですわ」 「どう分るんだね?」 「倉本さんと約束が出来たっていうこと──。そうでしょう?」 「そうだよ。君にはウソをついたって仕方がない。……おめでとうを云ってくれよ」 「云えないわ。くやしいんですもの……」と、八代はベッドの端に腰を下した。 「君は正直で可愛らしいや」  そう云うと、雄吉は、八代を抱きしめ、自分の膝の上に仰向けに押し倒して接吻した。八代はされるままになっていた。  雄吉は、好きなだけ唇の感触を楽しむと、八代の身体を起してやり、 「君、ちっとも積極的ではないんだね?」 「──私、倉本さんと貴方と私と、三人を惨めにしたかったのよ。でも、貴方だけは不感症なのね。私すれっからしにしか見えないでしょうけど、男の人に唇を触れさせたの、はじめてだわ。……ずいぶん惨めなことだけど……でも、貴方が東京に帰る時は、私、駅まで送って行きますから……」  八代は身体を慄わせて、抑えきれない嗚咽《おえつ》を洩らしながら、駈《か》け出すように室から出て行った。  雄吉は、しばらくの間、鉄板が赤くやけたストーブを、うつろな目つきで眺めていた。 [#改ページ]  [#2字下げ]そよぐ葦  その翌日、たか子と雄吉は、夜の急行列車で東京に引き上げた。  列車の中で一夜があけると、沿線の景色は、まるでウソのように変っていた。雪は遠くの山々に白く見えるばかりで、大地はくろぐろと地肌をむき出しており、緑の樹木が村や畑を美しくかざっている。おまけに、はれた青空には、太陽が明るく照っているのだ。 「別世界に来たようですわ。昨日まではあんな吹雪の世界の中に住んでいたのに……。やっぱり、雪なんてない国の方がいいわ。気分まで乾いていくようですもの……」 「──昨夜はよく眠れましたか?」 「ええ、グッスリ。……貴方《あなた》に遠慮なしによりかかったりしたから眠れたんですわ。きっと……」と、たか子は微笑して、雄吉の顔を見上げた。 「ああ、ときどきね。……貴女は男の子のようなにおいがしたな。貴女のアパートにときどき寄せてもらいますよ」 「いけませんわ。足がなおって丈夫になった貴方と、二人ぎりで狭い室に向き合っていても、窮屈なだけで、なんにもお話することがないんですもの」 「では、会ってくれないんですか?」 「外でお会いしますわ。ときどき……。それだと、お互いに気を紛らすものがあって、そう窮屈でもありませんから……。そのうち、背伸びしないでも貴方とおつきあい出来るという自信がついたら、何処ででもお会いしますわ……」 「変だなあ。一昨日の晩、僕たちの間には、ちゃんとした約束が出来たはずなんだけど……」 「そう。だから私、二人ぎりになるのを避けたい気持なんです。……私、お約束してしまったことが、嬉《うれ》しいような、寂しいような変てこな気持なんです」 「寂しいんですか──?」 「ええ、自分の大切な自由の一つを失《な》くしてしまったかのようで──」  そればかりではなかった。東京が近づくにつれて、雄吉の存在が大きなものに写り出し、約束が早すぎたような後悔に、胸を噛《か》まれ出したのである。 (この人がいつも足が不自由で、私の手助けを必要とする関係だったら、どんなに仕合せかもしれないのに……。でも、自分さえ、もっと大きく成長すれば、何でもないことなんだから……)  たか子は、いますぐでも伸びようとするかのように、明るい沿線の風景に見入りながら、大きく呼吸をした。  二人は、途中の駅で、弁当を買って、朝飯を食べた。  うす茶のアノラックを着て、カーキ色のスキー帽をかぶっている雄吉は、弁当を使いながら「約束をしたのが寂しい……」と云うたか子の言葉が、細いトゲのように、喉元《のどもと》につかえるのを感じた。何故なら、自分の愛情というものが、奪うだけで与えることがないものであることを、誰よりもよく心得ていたからであった。 (しかし、それだって、女には与えるだけの歓びというものもあるんだから……)  雄吉は自分に都合のいい方へ考えを向けながら、むさぼるように弁当を食べた……。  十時ごろ上野に着いた。  たか子は、そこで雄吉に別れて国電に乗り、自分のアパートに帰った。ずいぶん長いこと、留守にしたような気がする。  自分の室の前に立つと、鼻声で何か口ずさんでいる民夫の声が聞えた。ドアをあけると、民夫が作曲の勉強でもしていたらしく、本や五線紙をいっぱい散らかして、何かの節をうなっていた。傍には、サキソホーンも置いてある。 「あっ、おねえちゃん、お帰んなさい。……ずいぶん遅かったじゃないか。僕、毎日この室を使わせてもらっていたよ……」と、云いながら、民夫は匍《は》うようにして、畳に散らかったものを一と所によせ集めた。 「お留守をしてもらって有難う。貴方、くみ子さんに聞いたでしょう?」  たか子は、鞄《かばん》をそばに置くと、スカートの裾《すそ》がひろがるような楽な坐《すわ》り方をした。 「聞かないよ。第一、僕、あれからくみ子さんに会ってないもの」 「そう。あの人の一番上の兄さん──ホラ、いつかの晩、私を送って来てこの室にちょっと休んでる所へ、貴方が顔を出したことがあるでしょう?」 「ああ、あの野郎か──。あれがくみ子さんの兄さんだったのか?」 「あの野郎だなんて──そんな云い方をするもんじゃないわ。ずいぶんハンサムじゃないの」 「そうかも知んないけど……とりすましていやがって、俺、好きじゃないな……」 「初対面だけの印象で、そう人を嫌うもんじゃないわ」と、たか子は内心にある後めたさを覚えて云った。 「そうかも知れないけど、俺、おねえちゃんなどの知らない、いろんな苦労をして来たから、初対面の印象で人間を判断して、たいてい過まらないんだ。その証拠に、俺、おねえちゃんをはじめてみかけた時、ああ、このおねえちゃんはちょっといける──そう感じたもんだった……」 「なによ、いけるって──。生意気だわ」  たか子は、つい笑い出しながら、赤と黒の格子縞《こうしじま》のウールのシャツに、デニムのズボンを穿《は》いた民夫の、どこやら子供っぽい顔を睨《にら》んだ。 「いけるってのはね、話が通じるってことさ。気どらないで、適当に親切で、適当に意地わるで、まあ、おねえちゃんみたいな人のことだよ」  民夫の顔には、久しぶりでたか子に会ったのが、嬉しくてたまらないといった風の表情が現われていた。 「あら、私がいつ適当に意地わるだったかしら? ──でも、まあ、そういうことにしておくわ。……それで、くみ子さんの兄さんの雄吉さんという人が、あれから、私達のあとを追ってスキーにやって来たの。そして、その人が足を捻挫《ねんざ》して帰れなくなったので、私、病院に毎日お見舞いに行っていたのよ。くみ子さんは、学校がはじまるので、先きに帰ってしまったけど……」 「ふーん。人に迷惑をかける野郎だな」 「貴方が捻挫したって、私、そうするわ。雄吉さんとは、いま上野で別れたばかりなの……」  そう云って、たか子は室の中を見まわし、 「小母《おば》さん、ていねいにお掃除して下さったのね。お室が前よりもきれいになってるわ。それに、お花まで飾ってくれて……」と、本箱の上の水仙の鉢に目をやった。 「うん、あれは、俺が買って来たんだ。きれいだと思ったから……。おふくろもせっせと磨いていたぜ。押入れの奥につっこんであった下着やなんかも、洗濯してたよ」 「あら、いやだ。……誰が押入れあけたの?」 「俺だよ。女の人の押入れの中って、どんな風かなと興味を感じたんだよ。それぐらいは、俺も年ごろだから仕方がないだろう。そしたら夜具|蒲団《ふとん》かなにか、おねえちゃんのにおいがプンとしてね。なつかしかったよ……」 「いやな人ねえ、もう留守を頼まないわ」 「いいじゃないか。蒲団に沁《し》みついたにおいぐらい、ケチケチするない。それをかいだからって、おねえちゃんが減るわけじゃあるまいし……」 「それあ、減りあしないけど……」と、たか子は苦笑した。 「小母さんは元気?」 「ああ、いま室にいるよ。……俺、もう帰るよ。おねえちゃん、夜汽車で疲れたろうから、銭湯にいって来て、一と眠りするといいや。……そのあとで、俺、相談したいことがあるんだ」と、民夫は楽器や楽譜を両手に抱えこんで立ち上った。 「いいのよ、おっても……。私、お風呂は晩にするわ。少しは疲れているから、お行儀のわるい恰好《かつこう》をするかも知れないけど、それでよかったら、まだ話しこんでいていいわ。……お土産に寒餅《かんもち》をもって来たんだけど、その荷物はあとでつくことになってるの。だから、いまはなんにも上げる物がない。……お湯をわかして紅茶でも入れるわね。……その前に、私働けるように着更《きか》えるから、民夫さんは、廻《まわ》れ右して、目をつぶっていなさいよ」  民夫は、云われた通り、後向きになって目を閉じた。その間に、たか子は洋服箪笥の前で、旅行着を脱ぎ、黒のセーターと茶色のスラックスを身につけた。 「もういいわ。こっち向いても……」  向き直った民夫は、首をかしげたりして、たか子の風体をジロジロ眺めていたが、 「おかしいな。留守中、俺が考えていたより、実物のおねえちゃんの方がちょっとばかりきれいだな。おかしいな、お母さんのお乳でも飲んで来たせいかな……」  たか子は顔を赤らめて微笑した。 「女がきれいになったかどうか、貴方に分るの。頼もしいわね。そうねえ、私がもし、少しでもきれいになったんだとすれば、生れ故郷の水と食物と、それから白い雪のせいかも知れないわ……」 「へえ。お体裁のいいことを云って……あやしいもんだ。俺が云ってるの、貴女《あなた》に色気が出て来たって云うことなんだぜ。生れ故郷は色気をつけさせるもんかね?」 「生意気なことを云わないものよ。私っておく手なんでしょう。それでいまごろ少しばかりお色気が出て来たんでしょう。若い女にお色気があったって、わるいことじゃないでしょう?」 「誰も悪いとは云わないよ。俺が年下だと思って、ぜんぜん嘗《な》めたことを云ってらあ」 「嘗めてるわけではないけど、貴方だと気楽に何でも云えて、楽しいわ」 「チェ! 人を楽しんでやがる……」 「ごめんなさい。いま紅茶を入れますからね……」  たか子は、台所に立って、二人分の紅茶をいれてテーブルの上に運んだ。それに、鞄の中から、母親がおやつにもたせてよこしたゆで栗をとり出した。 「相談ってなによ……」  たか子は足を投げ出した坐り方をして、無遠慮に飲んだり食べたりしてから、ふと尋ねた。 「うん」と、民夫は急に硬《こわ》ばった顔をして口ごもった。 「くみ子さんのこと──?」 「少しは関係もあるけど……。俺、おねえちゃんは何もかも知ってるんだと思うんだ……」 「それあ知ってることも知らないこともあるけど……何のことよ?」 「──田代信次って奴が家へ訪ねて来たんだよ」  民夫は、顔を青白く緊張させて、たか子の表情の動きに、何気ないが鋭い視線を注いだ。 「あら──」と口ごもって、たか子はひるんだ様子もなく、自分の方からも、民夫の表情を読みとろうとしながら、 「私、知ってましたよ。そして、ある時期が来たら、貴方やお母さんにお引き合せしようかしらんとも考えていたの。……あの人、一人で来ましたか?」 「一人だよ。野郎、てんでこっちをバカにしてやがるんだ」 「そんな人柄じゃないわ。だいぶ変ってはいるけれど、あの人流に誠実だわよ。どんな風だったの──?」 「それがね」と、民夫は、相手を軽くみてるように、たか子に思いこませようと、少し無理な息づかいの話し方で、信次が二度訪ねて来たいきさつを語ってきかせた。  たか子は目を輝かせて聞いていた。 「そう!」と、大きな嘆息を洩《も》らしてから、 「鏡の中に、サキソホーンを吹く貴方の顔と信次さんの顔と並んで写った時、どう感じて──?」 「俺、正直なところ、ゾーッとしたんだ。あん畜生……」と、民夫は首を強くふりながらつぶやいた。  たか子は手を伸べて、民夫の肩を押え、顔をしみじみとのぞきこむようにしながら、 「まったくよく似てるわ、信次さんに──」 「チェ。あんな奴に似られて、胸くそがわるいや」と、民夫は自分の人相を変えようとでもするように、顔をギュッと歪《ゆが》めた。 「だって、同じお母さんから生れた兄さんじゃありませんか?」 「俺は、あんな奴、兄貴ともなんとも思ってやしないよ。おふくろたちの宴会に、俺の友だちみたいな面して入りこんで、いっしょに唄ったり踊ったりしてやがるんだ。そんなふざけた野郎、許しちゃおけないんだ……」 「ホホホ……」と、たか子はくすぐられでもしたように明るく笑った。 「そういう所が、信次さんの率直でいい人柄なんじゃないの。想像しただけでも可笑《おか》しくなっちまうわ。あの人、何を唄って踊ったの……」 「知らないよ、そんなもの──真室川音頭だったよ」 「そう。※[#歌記号、unicode303d]私ゃ真室川の梅の花っていうあれね。貴方、唄って踊れて? やってみてよ……」 「チェ! 俺、ほんとに怒るぞ、おねえちゃん」 「怒ることではないわよ。……それでお稲荷《いなり》さんの境内で、貴方に石をぶっつけられて逃げて行ってそれっきり──?」 「そうだよ。また来たら、また石をぶっつけてやるんだ。あんなふざけた野郎!」 「貴方、さっきから、野郎、野郎って、そんなにあの人がイヤなの?」 「ああ、そうだよ。俺、ボエンと食わしてやるんだ。今度来たら……」 「おお恐い。でも貴方、大丈夫? 昔の諺《ことわざ》に『吠《ほ》える犬は強くない』というのがあるわ。貴方、吠えてるんじゃないの?」 「俺、そんな諺、知らないよ……」  民夫は赤くなって、見当ちがいの返事をした。そして、体裁を紛らすためにサキソホーンをとり上げて、二つ三つ音を出した。  たか子は、そういう民夫をいじらしいと思った。言葉づかいが烈しく乱暴なほど、信次の存在を気にしていることが、ヒタヒタと感じられて来るからだ。 「ともかく、小母さんはまだ何も御存じないのね?」 「御存じないよ」 「貴方、なんでほんとのことを教えないの?」 「キーキーギャアーギャアー泣きわめいたりして、煩《うるさ》いだろうからさ」 「泣くにしたって、嬉《うれ》しいからじゃないの。貴方、一人っきりでお母さんにまるまる可愛がられていたのを、あの人が現われると、それが出来なくなるので、やっかんでるんじゃないの?」 「よせやい。おふくろのしなびた愛情なんていうものは、誰かにそっくりくれてやったっていいや」 「そう無理な強がりを云わなくてもいいのよ。もう一度教えるわね。『吠える犬は強くない』って……」 「チェ!」と、民夫はふてたように、畳にゴロンと引っくり返った。  たか子はクスクス笑った。 「意地わるしてごめんなさいね。久しぶりで貴方の顔をみたら、ついそうしたくなったのよ。犬ころの頭をたたいてやるようなもんで、好意のあまりなんだわ……」  民夫も苦りきってプスンと吹き出した。 「人を犬ころにしてしまいやがった。まあいいや。ほんとに久しぶりで会ったんだからな……」 「──貴方まだ、何か聞きたいことがあるんじゃない? あったら早く云ってよ」 「うん。あのう、ね……」と、民夫は横に向き直って、肱《ひじ》まくらをし、たか子の目を避けるように、どこか一点を見つめて、 「くみ子さんは、あの変な野郎をもちろん嫌いなんだろ。誰だって、あんな奴好きになれっこないものね……」 「それがそうじゃないの。家中で信次さんとくみ子さんが一ばん仲がいいの……」  たか子は、そう説明した瞬間、民夫の顔に、ある表情の影が走るのをみた。 「そんなこと考えられないな。義理でもなんでも、兄貴だから立ててるんじゃないのかい。そうにきまってるよ」 「貴方、くみ子さんがそんなお体裁ぶった人柄だと思ってるの? ぶしつけなくらい、自分の気持を率直に外に現わす人じゃありませんか……」 「それあそうだ」 「あの二人がどんなにウマが合ってるか、その証拠を教えましょうか。それを云うと、貴方また『あの野郎』を怒るかも知れないんだけど……でも、教えるわね。くみ子さんが足をわるくしたのは、子供のころ兄妹三人で遊んでいて、信次さんのちょっとした不注意で、腰の骨をくじいたのがもとだったのよ。それなのに、あの二人は一ばん仲がいいのよ……」 「その話、ほんとかい、おねえちゃん?」と、民夫は、いきごんで起き直った。  その顔にはあからさまな感動の色が満ちあふれていた。 「……くみ子さんって、ずいぶん心のひろい人なんだなあ……」 「そういう云い方当らないと思うわ。……そうではなくて、信次さんの人柄に、くみ子さんを強く牽《ひ》きつけるものがあるってことなんだわ」 「でも……そんなことでくみ子さんが片輪になったんだったら、あの野郎は、家中の人から恨まれてるんじゃないかい?」 「おや。やっと『あの野郎』のことを心配してくれたのね。……それはね、『あの野郎』は何と云ったってほんとの親子・兄弟の関係とはちがうんだし、それにそういう過去があるんだから、家族の人たちは、心の中ではこだわっているかも知れないわ。しかし、教養の高い人達ばかりですから、表面には、決してそういうそぶりを現わしません。だから、信次さんは、普通の意味では、家庭で仕合せにやっていますわ。……私も好き、くみ子さんも好き。そういう『あの野郎』を、貴方も好きにならなければいけないわ」 「俺はイヤだ! どうしたって……あん畜生! 俺はイヤだ! ……」  民夫はひどくあわてて、力みかえって宣言した。 「いいわ。今すぐ好きになれって云うんじゃないの。つき合って、おたがいの人柄が分ってからでもいいわ……」 「俺、つき合わないよ」と民夫は強い調子で反対した。 「だだをこねてるのね。そういうのは、いつかコロッとひっくり返るかも知れないわ。……私ね、貴方にだけ、いまはじめて話すんだけど、信次さんとはじめて会った時、あの人、私にどんなことをしたと思って──?」 「知らないよ。……お下劣なことでも云ったのかい?」  民夫の顔には、興味を覚えたらしい表情が動いた。 「そんなことじゃないわ。……はじめて私が、田代家を訪れた時、門を入ると、あの人、庭の枝折戸《しおりど》をあけて出て来て、ここの家を訪れる若い女に対して、僕は一つの憲法を実行することにしてるんだが、貴女《あなた》もそれに賛成しろと云うの。そして、私が何とも云わないうちに、その憲法を実行してしまったの。ほんとに失礼な──」 と、たか子は、いまごろになっても、キリッとした怒りの表情を示した。 「なんだい、その憲法って──?」 「私の顔のあたりまで指を伸ばしてよこしたので、頬《ほつ》ぺたでもつっつくのかと思っていたら、いきなり私の胸──正確に云えばお乳のところよ。そこをポクンと指先きで押えて、さっさと逃げて行ったの。そんないかがわしい憲法ってあるかしら?」 「なんだって──」  民夫はあっけにとられた風で、思わず、たか子の胸のふくらみのあたりに目をやった。 「──民夫さん、だめ!」と、たか子は、大きな腕組みをつくって、胸をかくすようにした。  民夫は赤くなって、あわてて目を外らせた。そして、本気な鋭い調子で、 「……そんな奴とつきあって、そんな奴を好きになるなんて、俺、おねえちゃんまでがイヤになりそうだな……」 「そう考えちゃいけないの。そんなことをされても、憎みきれない、いい所もたっぷりもった人間だという風に考えてもらいたいの。くみ子さんが片輪にされても、家中であの人が一ばん好きなように……。分る?」 「俺、もう知らないよ。好きなり嫌いなり、おねえちゃん達の勝手にしてくれ。俺はともかく、あの野郎とは決してつき合わないんだから……」と云うのが、悲鳴でも上げてるような調子だった。  信次が初対面のたか子にほどこしたという憲法の件は、善悪の批判を超えて、異常なショックを民夫に齎《もたら》したのであった。 「貴方に恥ずかしいことを云ったわね。それも貴方を信用してるからなの。そして、イヤでもなんでも、貴方はその人と同じお母さんから生れたんだわ……」 (だから貴方も、いつか誰かにそうするかも知れない)と云われたようで、民夫は顔が上げられない気持だった。 「変な気がするでしょう。くみ子さんも貴方も、信次さんの妹であり弟であるということは──?」 「くみ子さんも、それ、知ってるのかい?」と、民夫は心配そうに尋ねた。 「それってどのことよ?」 「共通の兄貴みたいな奴がいるってことさ」 「もちろん、まだ知らないでしょう。ジミー・小池にお熱をあげてるぐらいだから……」 「知ったら、あの人、どうするかな?」  それを聞く民夫の顔には、真剣な色が現われていた。たか子は、いじらしそうに微笑して、 「なあんだ、それが一ばん聞きたかったことなのね。そんならそれを一ばんはじめに云えばいいのに……」 「そうでもないけどさ……」と、民夫は目を伏せた。 「それあ、貴方が信次さんの弟だということが分ったら、くみ子さんは、気が遠くなるほどびっくりすると思うわ。でも、それからだんだん落ちついてくるでしょう。そして、信次さんというものが間におっても、貴方との関係はまったく赤の他人であり、優生学上、結婚しても差しつかえない関係だと、考え直すようになるかも知れないわ」 「俺、そんなことは考えてやしないよ。ほんとだ。……でも、俺、一ぺんに嫌われあしないかと心配だったんだよ。びっくりしたあまりだね……。俺だってあの野郎の口から、くみ子さんが妹だと云われた時、びっくりして、これぎり絶交しようかと思ったりしたものね……」 「……それあくみ子さんだって、大きな心境の変化があると思うわ」 「それでね。俺の考えじゃ、くみ子さんも早くそのことを知った方がいいと思うんだ」 「それあそうね。でないと、貴方として、ウソをつきながら、おつき合いをしなけあならないわけですものね」 「そうなんだ。俺の性分として、そんな事は出来あしないんだ。……それで、いつ、どうして、くみ子さんがそれを知るかってことだね。誰か話してやらなけあ、分るわけがないんだから……」 「ずるいわ。謎をかけたりして……。私に話せって云うんでしょう?」 「うん」と、民夫はテレたようにニヤリと笑って、 「おねえちゃんはくみ子さんの教師だものね。そして、いい教師というものは、学課だけでなく、人生のもっと大切なものを教えてやらなくちゃあ……」 「貴方に物を教えられるわね。……私、たぶん、云ってあげられると思うけど、あそこの家庭の内情に口ばしを入れるようなことは、成《な》る可《べ》く避けたいのよ。いままでだって、奥さんから、出しゃばりだと思われているらしいんだから……」 「──俺のせいじゃあないよ。おねえちゃんは温順《おとな》しそうでいて、自分の思ってることは、いつの間にかまっすぐに云ってしまってるんだもの。だから、そう思われるんだよ。……おふくろが、おねえちゃんのことを、見かけによらずシンの強い子だと云ってたよ」 「フフフ……。小母さん、そんなことを云ってたの? ほんとかも知れないわね。だから、田代さんとこで、出しゃばりだと思われるんだわ」  たか子は恐縮した風もなく、可笑《おか》しそうに云った。 「どうもありがとう。……おかげでさっぱりしたよ。女の人って、こんな相談はだめかと危ぶんでもいたんだけど……。その代り、おねえちゃんが恋愛問題やなんかで困ってる時、俺、相談にのってやるからな……」  民夫はもう一度、楽器や楽譜を両腕にさらって立ち上った。 「ホホホ……。貴方に相談するもんですか。自分のことは自分でやっていくわ。私は大丈夫」 「そうかな。『吠える犬は強くない』って、おねえちゃんがさっき教えてくれたっけね」 「私は吠えてるんじゃないわ。かけ値なしのことを云ってるだけよ……。私、やっぱりこれからちょっと横になって休みますから、小母さんにはあとで御挨拶《ごあいさつ》に上りますと云っておいてちょうだい」 「そう云うよ」と、民夫はサンダルをつっかけて、自分の室に帰って行った。  そのあと、たか子は、入口の鍵《かぎ》を下し、蒲団《ふとん》をのべ、洋服のまま、毛布にくるまって横になった。  明るい外光が、窓ガラスやレースのカーテンをすかして、室に一ぱい差しこみ、光線の屈折のかげんか、白い漆喰《しつく》いの天井に、水玉模様のかげろうがユラユラと動いていた。  たか子は、身体のふしぶしをありったけ伸ばして、大きく息をついた。なにかしら満ち足りたような気分だった。いつもは、休暇の帰省から引き上げて来ても、単調で少し埃《ほこり》っぽい学生生活が待ってるだけなのに、今度はそうでなく、じっさいに動いてる生活の渦巻きのようなものが、着く早々、ヒタヒタと彼女の身辺に触れて来たのであった。人から頼られる。──それだけでも、自分の生存の意義が自覚されるような気分だった。  いや、それよりも前に、彼女は郷里で、男に対する愛情をちかっている。それもこれも、彼女が、大人の世界に足を踏み入れかけている証拠なのではなかろうか……。  そんなことを夢うつつに考えながら、たか子は間もなく、二時間ばかりグッスリ眠った。そして、その日は室の模様変えをしたり、近所に住んでいる同級生へ、欠席中のノートを借りに行ったりして過した……。  四日経って田代家を訪れた。門を入るのが、これまでになくうっとうしい感じで、雄吉が留守であってくれればいいとばかり念じていた。願ったとおり、雄吉は、まだ学校から帰ってなかったし、信次も、伊豆方面に写生旅行に出かけたとかで留守であった。  くみ子の室に上る前に、みどり夫人が、たか子を居間に招き入れた。 「……くみ子だけかと思ったら、雄吉までがとんだお手数をかけてすみませんでしたね。知らせをきいて、私がさっそく看病に行こうと思ったんですけど、くみ子も信次も、倉本さんにお委せしておいた方がいいと云うものですから、つい御迷惑をおかけしてしまって……。雄吉に聞きますと、貴女だけでなく、御家族みなさんに、たいへんお世話になりましたそうで……」  大きな目でじいと見られて、重いガッチリした調子の言葉でそう云われると、たか子は、よけいな事をしてくれたと叱られているような気がした。 「いいえ、当然のことをしたまででございますわ。……雄吉さんは、もうすっかり御元気になられたことと存じますけど……」と、たか子は雄吉とした約束のことを、何となくひけ目に感じながら云った。 「はい、もうすっかりいいようでございますよ……なんですか、田舎のヘッポコ医者が気に喰《く》わない、僕が倉本さんの傍にへばりついていたいために、仮病を使ってると疑ぐってるんだ、などと申しておりましたよ」 「まあ!」と、たか子は赤くなって、目をそむけた。  雄吉がなんのために、そんな白々しいことを云ってるのか、たか子には気持が汲《く》みとりかねた。 「そんなことを疑ぐられちゃ、介抱役の倉本さんの方がどんなに御迷惑だったか知れないと思いますわ」と、みどりはなにかダメを押すような調子で云った。 「そんなことはございません。第一、私、そんなことはまるで気がつかなかったものですから……」  たか子は、雄吉を好きだという気持が、人に隠さなければならない、恥ずべきものだとは決して思ってない。それにもかかわらず、ついウソをついてしまった。みどりの方でそれを誘い出したのか、自分の方にそれだけの弱味が秘められていたのか。ともかく、こんな調子で、人間同士、実生活の上で、たいした悪意もなしにウソをつき合ってることが、どんなに多いか知れないのだ。生活するって難かしいことなのだ……。 「倉本さん。貴女《あなた》は私どもの家庭をどう考えておりますの?」  そう尋ねるみどり夫人の言葉には、善悪にかかわらず、正直な答えを求めているきびしさが感じられた。 「──はい。一人一人が自由にのびのびとふるまっていらっしゃる代りに、家族としてまとまりが弱いように感じられます。もっともそれは、私どもの素朴な家庭の在り方に較べてそう感じるだけで、これからの家庭の在り方としては、このようなのが希《のぞ》ましいのかと思ったりしますけど……」 「では、貴女は将来、御自分で家庭を営もうとする場合、私どものような雰囲気の家庭をつくりたいと思いますか?」 「────」  たか子は、返事はしなかったが、首をふってハッキリ否定の意志を示した。その瞬間、みどり夫人の白い、肉づきのいい顔に、冷い微笑がサッと閃《ひらめ》いたような気がした。 「貴女は勇気のある方ですね。……とつぜんな話ですがね、倉本さん。私、こないだ信次と二人ぎりで留守居をしていた間に、貴女にくみ子の教師をやめていただこうと考えておったんですよ。それというのは、ここの人達が、ちょうど貴女がおいでになったころから、少しずつ変り出したような気がするからです。いままで静かだった沼の葦《あし》のむれが、風が吹いて来て一斉にざわつき出したように──。いいえ、貴女にそうした意志があったなどとは申しません……」  何を云うつもりなのか──。たか子は知恵と気力のありったけを動員して、みどり夫人の言葉を迎えていた。 「つまり、貴女は、自分から積極的に働きかけなくても、周囲に対する影響力が強い方なんでしょう。いま思えば、ちょうど貴女がこの家にお出でになったころから、私は、この家の中で、何かが私の意志に抗《あらが》い出したような気がし出したんですよ。誰だろう? 雄吉かしら? 信次かしら? くみ子かしら? それとも私の夫かしら──? その誰でもあり、その誰でもないような気がして、私はしばらく迷っていたんですが、そのうちにやっと焦点がきまったのをみると、それが、若くもの静かな倉本さんだったっていうわけなんです……。  貴女はたぶん、私が誇大妄想狂だとお考えになるかも知れませんが、しかし私自身は、自分の感じ方がそう過まっていないと思っていますの……」  たか子は、寝耳に水といった風な驚きに打たれたが、同時に、云われたことの半分ぐらいは、身に覚えがあるような気がし出して、その驚きも、もう一つ加わった。 「──私はどうすればよろしいのでしょうか?」と、たか子は、意外なほど落ちついた調子できき返した。 「いままでどおりにくみ子に教えて下さっていれば結構ですわ。……ただ、私としては、私がそういうことを考えているということを、貴女のお耳に入れておきたかったんです。それだけで、だからどうこうということは、いまのところ考えておりません。……おたがいの気持を通じ合うことは、ともかくいいことだと思いますから……」 「────」  たか子は黙っていた。どう答えていいか分らないからだ。しかし、みどり夫人が、なんの結論もないようなことを話さずにいられない気持だけは、ジンとこたえてきた。それは強いショックだったが、あと味は必ずしもわるいわけではなかった。 「御迷惑でしたろうね。云っても云わないでも、同じようなことを申し上げて……」 「いいえ。私が大人であることを、保証していただいたようで、よかったと思っておりますわ」 「──そうお受けとりになってもいいんです。……どうぞ、もう、くみ子の室にお出で下さい。待っているでしょうから……」  二人で複雑な微笑を交わしたあと、たか子は、二階のくみ子の室に上っていった。  窓際で本を読んでいたくみ子は、立ち上ってたか子を迎えた。 「先生しばらく──。のぼせた、赤い顔をしていらっしって、ママ、なんのお話でしたの?」 「なんでもないわ。貴女や雄吉さんが遊びに来たお礼やなんか……」 「それだけではないと思うけど、不快なことはなかったんでしょうね?」 「いいえ。ちっとも……」  二人はいつものように、テーブルに差し向いに坐《すわ》った。その順番であったとみえて、くみ子は国語の教科書とノートをひろげていた。たか子は、このごろめっきり大人びて来たように思われるくみ子の顔をじいと眺めてから、 「今日は勉強をやめて別なお話をすることにするわ。……貴女、あれぎりジミー・小池に会ってないんですってね?」 「ええ、会ってませんわ」と、くみ子は不安そうに答えた。 「私ね、帰る早々、ジミーに頼まれたんですよ」 「どんなこと──」 「ジミーの身分を、貴女に早く話してくれって……。ジミーもそれが分った時、たいへん悩んだらしいのよ」 「身分って、なんですか──?」 「まっすぐに云いますわね。ジミーと信次さんは兄弟だっていうことです。二人の父親はちがっておりますけど……。分りますか?」  くみ子は蒼白《そうはく》になって、唇をかんでいた。 「分ったでしょう?」と、たか子は、遠慮のない口調で念を押した。  くみ子はのろのろした動作でうなずいた。 「ジミーの民夫さんは、そのお母さんといっしょに私のアパートに住んでいるんです。お母さんは料理屋の女中さんをしています。気さくな楽天家ですわ」 「ジミーはどうして、信次兄さんのことが分ったんですか?」  くみ子はやっと、いつものように根掘り、葉掘り、物をきく調子で尋ね出した。 「正月の元日の日に、信次兄さんがアパートに訪ねて行って、民夫さんだけにそれを云ったんですって……」 「信次兄さんはどうして、そこにそんな人達が住んでいることが分ったんでしょう?」 「私を犬小屋に閉じこめて、犬に噛《か》ませるとおどして、私から聞き出したんですわ」 「先生はどうして……」 「民夫さんのお母さんが、信次さんに会いたいと山川先生にねだっていたからですわ」  それぎり、くみ子はだまりこんだ。テーブルに片手をついて、それに頬をのせ、まるで彫像のように身動きもしなかった。 「──話さなければよかったかしら?」  たか子は冷静にくみ子を見つめながら云った。 「そんなことはありません。……でも、いまは、私の頭の中は、そんな事を聞かせた先生をイヤな人だと思う気持で一ぱいですわ」 「でも、その気持はだんだん消えていきますわね……」 「そうだろうと思います。……ジミーはどんな風に悩んだんですか、先生」 「いろいろですわ。第一に、信次さんを兄さんとして認める気にならないことです。人柄を誤解している点もあるようですけど……。だから、私、そんな人柄じゃない、その証拠に、家の中ではくみ子さんと一ばん気心が合っていますよと教えたんです」 「そうしたら──」 「困ったような顔をしていましたけど、ある感動を受けたらしい様子でしたわ。そして、貴女がそれを分った瞬間、驚きのあまり、一ぺんに民夫さんを嫌いになるんじゃないかと心配していましたよ」 「私と同じことを考えている……」  くみ子は、鉛筆を手にとると、開いたノートの上に、でたらめな曲線をグルグルと描き出した。と思うと、ポキンとシンの折れる音がした。 「でも、信次兄さん、どうして私には民夫さんのことを教えなかったのかしら? ……水くさいわ」  くみ子は、シンの折れた鉛筆を、ふてたようにテーブルの上に投げ出した。 「民夫さんの人柄を、自分の目でよく見きわめてからと思ったんでしょう、きっと。……私、民夫さんには云っておきましたわ、貴方がたは共通の兄さんを持ってるけど、おたがい同志は赤の他人で、優生学上、結婚も出来る関係だって……。少しイヤ味な説明だと思うけど、なにかハッキリはしてるでしょう……」 「いやだな……」 「ジミーもそう云ってましたよ。……さあ、これでジミーに頼まれたことを果しました。あとは貴女しだいということだわ。面白いことを教えましょうか……」と、たか子は、信次がトミ子たちの新年宴会の仲間入りをして、踊ったり唄ったりしたエピソードを語ってきかせた。  くみ子ははじめて明るく笑い出した。 「信次兄さんらしいわ。……そんな人を憎むことないと思うんだけど……」 「憎むってことはそれだけ関心が有るってことだわ。そのうちに民夫さんの心の中の凍ったものが、溶けることがあると思いますわ」 「──ママは、私たちがこんな話をしてることが分ったら、裏切られたと思うでしょうね」 「だいたい知ってらっしゃるようですわ。ママは強い性格の方ですから、現実に触れることを、そう恐れてはいらっしゃらないようです。……私、たったいま、そう云われたんです。私がこちらにお伺いしたころから、それまでおだやかだった、こちらのみなさんの気持が動き出したような気がするので、一時は私をやめさせようかと思ったそうですの。それからまた気が変ったらしく、さっきは私に好きなようにふるまっていいから、と仰有《おつしや》いましたわ」 「ママは何を考えてるのかな。……人間ってみんな一人ぽっちなものね、先生」 「そう。一人ぽっちだわ。貴女も、私も……」 「──いますぐ、ジミーにとても会いたいな……」  青ざめたくみ子の顔には、ニキビのあとが赤く目立ち、それが心の悩みをなまなましく現わしているように思われた。変に美しい感じだった。 「そのうち機会があるでしょう、きっと。ジミーも同じ気持でいると思いますから……」  くみ子はふと調子を変えて、 「先生。私のことはそれでいいことにして……、あれから先生は、雄吉兄さんと親しくなりましたか?」 「ええ。ある程度……。毎日お見舞いに行ってましたから……」と、たか子は少し赤くなって答えた。 「誰だって、雄吉兄さんを好きになりますものね」 「ええ。田舎の病院でも、看護婦さんたちが大騒ぎしてましたわ」と、たか子は呆《とぼ》けた調子で云った。  くみ子は、折れた鉛筆のシンをゆっくり削って、ノートの上に、抽象派の絵画のようなものを描き出した。 「私、ずっと前に、雄吉兄さんの女関係のことで、先生に何か話したことがなかったかしら──?」 「ありますわ」と、たか子はかすかな不安を覚えながら云った。 「どんなことを云いましたかしら──?」 「女には興味がないらしいという意味のことでしたわ」 「──その頃は私、先生が私の家庭の中に、こんなに深くお入りになるなどとは、考えていませんでしたから……。今日でしたら、私はそうは云わなかったろうという気がしますの」 「では、どんな風に──?」 「女関係の噂をきいたことがないということは同じですけど、それは女に関心がないからではなく、あってもきわめて事務的に処理してしまい、問題になるほどのぼせつめたりしないという意味なのかも知れません。……いまだったらそう説明しますわ。先生が遠い人だったころは、家族の一人一人を理想化して御紹介したかったんですけど……」 「そうですか。急に点がからくなったんですね……」と、たか子はふくみ笑いをして、くみ子を見つめた。  そして、くみ子がイヤがらせを云っているのだと思った。民夫の素性をあかされて、不快な思いをさせられたので、それがたか子のせいでないと分っていても、根性が烈しいくみ子は、感情的に反撥《はんぱつ》してくるのにちがいない。もしかすると、雄吉と自分との間に何かの匂いをかぎつけて、一ばん痛い意地わるをしているのかも知れないのだ──と思った。  ともかく、くみ子の言葉をまともに受けとろうとする気持が、たか子の側にはぜんぜんなかったのである。人は自分の不幸を大きく育てていきたがるものなのだ……。 「べつに点をからくしたという気持はありません。少し軽はずみだった説明を、訂正しただけのことですわ……」 「ありがとう。どっちにしても、私、雄吉さんを信用しておりますから……」 「もしかすると、先生は、自分で自分の中の何かを信じてるのかも知れませんわ。もっとも、人間って、みんなそんな形で他人を信用しているんでしょうけどね。信用してる対象が、他人のはずなのに、じつは自分が自分の中の何かを信じているにすぎない」  くみ子は、雄吉を裏切るような考え方に、しつこくこだわっている自分を、イヤらしいと思ったが、口に出した言葉に、思いがけない実感が裏づけされているのに気がついて、背筋に不快な戦慄《せんりつ》を覚えた。それは、遠い昔の埋没された記憶を呼び起されたのに似た感じだった。  たか子にも、くみ子が思いつきのイヤがらせを云っているだけでないことは感じられるので、つい牽《ひ》きこまれて、 「貴女《あなた》、ほんとうは雄吉兄さんを好きでなかったのね?」 「さあ、分んないわ」と、くみ子はあいまいな笑い方をして、たか子の顔をじいと見つめ返した。  その時、ドアをノックして、みどり夫人が顔を出した。 「倉本さんに、さきほど申し上げるのを忘れましたが、今日は家で夕食を召し上っていって下さい。田代も御礼を申し上げたいでしょうし、雄吉もそのうちに帰るだろうと思いますから……」 「はい。ありがとうございます。……今日は私たち、はじめの日ですし、お勉強をやめてむだ話をしておりました」と、たか子はその場の様子をとりつくろうように云った。 「むだ話ではないわ、ママ。……二人で雄吉兄さんのことを話していたとこなの」  くみ子の口調は、不意に顔を現わした母親に、いきなり張り合ってるようだった。 「そう。雄吉のどんな話? ……ママにも聞かせてほしいわ」  みどり夫人は入口の柱にもたれて立ったまま、中へ入ろうとしなかった。 「雄吉兄さんが、青年としてあれだけのとびぬけた条件を備えていて、異性関係の話がないのは、女をつまらないと思ってるせいか、でなければ、恋愛で大騒ぎしたりするのをばかばかしく思って、そんな問題はどこかで事務的に処理して口をぬぐっているせいか、どっちなのだろうかということなの。……ママ、どう思う?」 「知りませんよ。そんな事は、はたでとやかくせんさくするよりも、本人の雄吉にたずねるのが一ばんたしかだと思いますよ。私はそれよりも、貴女がたの間で、どうして雄吉のそんな面が問題になったのか、知りたいと思いますよ……」  その返事は、くみ子よりも、たか子の方に、ピンとひびいてくるのが感じられた。と、くみ子がその言葉を買って出て、 「私が云い出したんだわ。雄吉兄さんが、田舎の病院で、倉本先生に看病されたことやなんかのお話から、そんな方に話がうつっていったのよ。そして、女がつまらないと思っているせいだと云ったのも、恋愛をつまらないものだと思ってるせいだと云ったのも、どちらも私なの。なんとなく、先生の前で、そう云ってみたかったのよ、ママ」 「つまり、倉本先生がそんなお話に興味を覚えるだろうと、お前が感じたわけなのね?」 「私が興味を覚えたのよ、ママ。倉本先生は雄吉兄さんが、非のうちどころのない青年だと信じていらっしゃるわ」 「私もそうであって欲しいと思っていますよ……よかったら、夕食まで、そこらを散歩して来たらどう? せっかく御馳走《ごちそう》をつくるんだから、腹ごなしをして、おいしく食事をいただいた方がいいでしょう……」  みどり夫人が散歩をすすめるのが、たか子には、くみ子相手につまらん話をするのはおやめなさいと、きめつけられているように感じられた。 「行きましょうよ、くみ子さん。私、少しばかり買物したいものがありますし、自由ヶ丘の方に出てみましょう……」  たか子は、通り一ぺんの家庭教師でなくなっている自分の立場に、ふと後悔に似た気持を覚えた。  二人は家を出た。そして屋敷の横の坂道を下っていった。  室の中では息がつまるような話ばかりが多かったせいか、たか子もくみ子も、ひろい戸外の空気が殊のほか快よく感じられた。  自由ヶ丘の細長いマーケット街で、二、三の買物をすると、トンネルでも抜けるように駅前の広場に出た。と、線路よりの歩道の一と所に、小さな人だかりが出来ているのが目についた。  のぞきに行ってみると、ペンキの広告板によせかけて、油絵が三点とデッサンが一枚、陳列されてあった。小規模な街頭展覧会といった恰好《かつこう》だ。 「あら、先生。これ信次兄さんの絵だわ。どうしたんでしょう……」と、くみ子はたか子の腕をつかんで、驚きの感情を示した。 「ほんと? サインはしてないようだけど……」 「ええ、まちがいありません……」  二人はこもごも広場を眺めまわしたが、どこにも信次らしい姿は見あたらなかった。  絵は三枚とも風景画で、一枚は急斜面の段々畑と青空、一枚は小さな漁村、一枚は曲りくねった松と橋がある白く乾いた田舎道、デッサンは、漁師らしい老人の顔を描いたものだった。  くみ子は、人中にまっすぐに立って、四枚の絵をつぎつぎにゆっくり眺めた。それから、歩道の端の方に身をひいて、 「……先生。信次兄さん、いい仕事をして来ましたわ。どの絵にも、見ちがえるような深い味が出ています。……ともかく、もう東京に帰って来てることはたしかですわ。……あっ、あれがそうかも知れない……」  くみ子は何か思いついたように、たか子の手を曳《ひ》いて、すぐ後の交番の所に引っ返した。 「先生。あれ、信次兄さんのよ……」  若い巡査《おまわり》さんが、立って広場を眺めている足もとに、ところどころ絵具が滲《にじ》んだリュックサックが置かれてあった。 「何か御用ですか?」と、巡査さんが、足もとをジロジロのぞくくみ子に尋ねた。 「あの、このリュックサックをしょった人、何処に行ったんでしょうか?」 「ああ、画かきさんですか。そこらへそばを食べに行きましたよ。久しぶりで東京に帰って来たら、急にそばが食べたくなったと云いましてね。……ほんとは、無届であんな所に絵を陳列してはいけないんですが、ほんの二、三時間だからって熱心に云うもんですから……。おかげで私は、絵とリュックサックと両方の番人にされてしまいましたよ。……だいぶ変った人のようですが、お知り合いですか?」 「ええ。私の兄なんです。お世話になってすみません」 「いや。……そうですか? 私にはさっぱり分らんですが、絵を賞めていく人がボツボツありましたよ」と、巡査さんは、お世辞でもない調子で云った。 「ほんとにすみません」 「いやあ。それからお嬢さん。貴女が妹さんでしたら、家へ帰って、下着から何からすっかり変えてあげるんですな。あの人、そばに寄ると、ムッと汗くさいですからな……」 「はい。そうしましょう」 「ああ、来ましたよ。画かきさんが……」  巡査さんが指す方をふり向くと、緑のチロル帽にスコッチ服の上下、それに登山靴をつけた信次が、シワクチャの紙幣を一枚一枚のばして数えながら、こちらに歩いてくるのが見えた。 「お金なんか数えて……人が見てるのに……」と、くみ子が、たか子だけに聞えるようにつぶやいた。 「いいじゃありませんか。いくらかでも経済観念があるということは……」と、たか子が笑った。  信次は、あちこちのポケットから、形が崩れた紙幣を曳《ひ》き出しては、伸ばして、束に重ねながら、すぐ近くまで、何も気がつかずにやって来た。 「兄さん、見っともない真似をしないでよ……」  くみ子はいきなりどやしつけた。信次はびっくりして立ちどまり、そばにたか子がいるのを見ると、紙幣をもみくちゃにしてポケットにつっこみ、ニヤニヤ笑い出した。 「いま帰ったんだよ。……どうしてこんなところへ来たんだい。倉本さんはいつ上京したんですか……」 「巡査さんが云ったの、ほんとだわ。あんまりそばへ寄らないでよ。汗くさくって、頭が痛くなりそう……」  信次は「巡査さん」という言葉で自分のやったことが、なにもかも、くみ子達に知られてしまったと思ったのか、わるさを見つけられた子供のような表情で、陳列した絵の方に目をやって、 「あんなバカげたこと、するつもりじゃなかったんだけど、今度はわりに気持のいい作品が出来たので、駅を下りたとたんに、多勢の人に行きずりに見てもらいたいという気になり、すぐそこの絵具屋の親爺《おやじ》さんたちに手伝ってもらって、絵を並べたんだよ。──ママに怒られるだろうね? 乞食《こじき》の真似をするとかなんとか云って……」 「ママに云いつけあしないわよ。……でも、今度の絵、私でもよく描けたと思ったわ。見物人の中でも、賞めてる人があったって、巡査さんが云ってたわ……」 「そうか。……僕、ときどき、仕事には自信があるんだ」  信次は急にニコニコして、得意そうに云った。なにかしら可笑《おか》しく、たか子も誘われたように笑い出した。 「でももう、街頭展覧会は閉鎖して帰りましょうよ。パパやママに知れてはわるいから……」  くみ子に云われて、信次は巡査さんに預ってもらったリュックを背負い、広告板によせかけた四枚の絵をとり外して、重ねて紐《ひも》でしばって、片手にぶら下げた。それでもまだ余ったスケッチブックは、たか子が抱えてやった。 「どうも有り難うございました。木のワクなど、あと片づけは絵具屋がやることになってますから……」  信次が、交番の巡査さんに礼を云い、三人はすぐ近くのガードをくぐって歩き出した。いくらも行かないうちに、 「私、ちょっとマーケットで、忘れた買物してくるわ。ここから、踏切を越えた道に歩いて行っててね、私、すぐ追いつきますから……」と、くみ子は、小走りに後に引返して行った。  その後姿を見送って、信次がひとり言のように、 「あいつ駈《か》け出さなきゃあいいのに……。駈け出すと、どうしてもびっこが目立ってしまうんだ……。ばかな奴だ……」 「そんなことを云うもんじゃありませんわ」と、たか子は口先きだけでとがめたが、じっさいは、信次がそんなむき出しなことを云っても、ちっとも残酷な感じがしないのが不思議なくらいだった。 「それともあいつ、久しぶりで会った僕たちを、二人ぎりにさせるつもりなのかな……」 「呆《あき》れたわ。私たち、二人ぎりの時間がとくべつに欲しい間柄でもないと思いますけど……」 「しかし、二人ぎりでいる時と、多勢でいる時とでは、しぜんに話がちがってくる……」 「それあそうかも知れないわ。それで、私にどんな話がございますの……」 「そうだな。……まず、僕が写生旅行をしながら思い出していたよりも、じっさいの貴女はもっと美しいということです」 「ありがとう」と、たか子は、民夫からも同じように云われたことを思い出して、くすぐったい気がした。 「つぎに、今度の旅先きの制作が、わりに出来がよかったのは、どういうわけだか知ってますか?」 「知りません」 「大げさに云うと、僕が不幸だったからです。倉本さんは、美青年の兄貴と二人ぎりで、遠い雪国で、仲好くやってるんだ、ちくしょう! ……そういう暗い寂しい情熱が、僕の制作を助けてくれたんです。芸術家は、不幸な時ほど、いい仕事をしていますよ。ショパンだってベートーヴェンだって、ゴッホだって、ドストエフスキーだってそうですよ……」 「私の存在が、貴方《あなた》の不幸の原因だなんて、少し大げさだわ。……でも、貴方のように仰有《おつしや》ると、芸術家はいつも不幸であった方がいいようにも思われるわ……」 「自分でこさえたような不幸はだめですよ。のっぴきならないものでなければ……。倉本さんにね、この中に橋のある風景を描いたのがあったでしょう、あの絵を一と月ばかり貸しますから、お室にかけて、毎日、しぜんに眺めていて下さいよ。そうすれば、絵に鈍感な貴女でも、僕の表現しようとした美がわかってくれると思うんだ」 「私が鈍感なんですか──?」 「そうですよ。例えば貴女は、兄貴の顔が美しいと思っている。あの美しさは、ほんとは幼稚な少女趣味のものなんだ。ハハハ……」と、信次は、通行人の注意をひくほど、高らかに笑った。  たか子は、いままで気づかなかった、痛い所をつかれたような気がした。それだけに、意地のわるいことが云いたくなり、 「貴方のお顔の方が、雄吉さんよりも整っていると感じないで、すみません……」 「それにもちろん、画家の目でみたら、少女趣味の兄貴のそれよりも、僕の顔の方が一段と風格があることはたしかだ……」と、信次はヌケヌケと云った。  イヤ味がなく、可笑しかった。 「勝手ですわ。雄吉さんにそう云って上げようかしら……」 「いいですよ。心の中では、彼も同感するにちがいない……。さあ、これで、僕の方から云いたいことは云ってしまった。貴方の方にも、他人のいない所で、僕に云いたいことが何かあるでしょう?」 「ありますわ。……私、今度帰って来て、民夫さんから、貴方が私たちのアパートに訪ねて来たお話をすっかり聞きました……」 「アハハハ……」と、信次は可笑しそうに笑った。 「あれはいろいろとこっけいだったな……」 「自分を生んだお母さんにはじめて会うことが、こっけいなんですか?」 「そうですよ。僕はちょっとでも涙ぐましくなったりするのかと思ったら、そういう感情はまるでなかった……」 「小母さんといっしょに踊ったんですってね?」 「ああ。楽しかったな。集ってる連中がかざり気のない人たちばかりで……。僕はとたんに、北斎の描いた漫画の庶民たちを思い出しましたよ。僕は、あんなこっけいな雰囲気の中で、おふくろに対面したことに、満足を覚えているんです……」 「そんなんでは、浪花節《なにわぶし》にもメロドラマにもなりませんね。小母さんもそういうサッパリした性格の方なんだけど……。民夫さんには石をほうられたんですってね?」 「あいつ、そんなことまで云いましたか。バカな奴だ。……いろいろ苦労したと思うんだが、そのわりにひねこびてはいませんね。いつか、僕が兄貴だということを、ガーンと耳鳴りがするほど強く思い知らせてやりますよ。……僕のことを何か云ってましたか?」 「あん畜生、あん畜生って云ってましたわ。ぜったい兄貴だとは認めないとも……」 「いまに……ガーン! と……」  信次は握拳《にぎりこぶし》を固めて、何か殴る仕草をした。明るい自信に満ちた調子だった。 「民夫さんは、くみ子さんのことをしきりに気にしてましたから、私、今日なにもかもくみ子さんに話してあげましたわ」 「どういう要領で──?」 「結局、くみ子さんと民夫さんは、赤の他人にすぎないって……」  そんな話のとこへ、後からくみ子が追いついて来た。 「──私ね、お世話になったと思ったから、餅《もち》菓子を少しばかり買って、交番にそっと置いて逃げて来たの……」 「なんだ、小才を利かせる奴だ。僕がそばやに、あとでかけそばを三つ交番に届けろって、お金おいて来たのに……」  たか子は、信次がまるまるボンヤリなわけでもないことに、ふと感心した。 「いやだな」と、くみ子はがっかりしたように云った。 「私むだ働きをしてしまったわ。ボンヤリ者の兄のあと始末をするのが、妹の役目だと思ってやったんだけど……。ほんとは信次兄さん、そんなことに気がつかない方がいいんだけどな」 「しようがないよ。僕だって、ときどきは気がつくさ。……それよりも、僕が往来に絵をかざったことは、家には内証だよ。……どうしても、誰かに見てもらいたくて、我慢がならなかったんだから……」 「いいわ。内証にしてあげる。……でもほんとにいいお仕事が出来ておめでとう」 「うん。お前はお世辞を云わない奴だからな」と、信次は満足そうにうなずいて、 「ところでお前、倉本さんから、僕や民夫のことをいろいろ聞いたんだってな」 「ええ。さっき聞いたばかりよ……」と、くみ子は急に固苦しい調子で答えた。 「なんでもないことさ。……そうだろう?」 「そうよ。……でも、ほんとは、倉本先生からでなく、信次兄さんから聞きたかったわ……」 「それあね……民夫っていうアンちゃんが、僕の弟だっていうことを自分で認めてから云おうと思っていたんだよ」 「可愛いと思う? 弟だから……」 「そんなこと分るもンか。でも、お前がお熱を上げるぐらいだから、いいところもある奴なんだろうとは思ってるよ」 「私のこと、引き合いに出さないでよ。いやだわ。ジミーとつき合うかどうかも、私、ゆっくり思案してから決めることにするわ……。ね、信次兄さん、ママがそう云ったそうよ。田代家では倉本先生がお出でになったころから、みんなが少しずつ変になったって……」 「誰にそう云ったんだい?」と、信次はたか子に気をかねたように尋ねた。  たか子は微笑を浮かべて、 「私にそうおっしゃいましたわ」 「貴女に──」と、信次は探るようにたか子の顔を見つめて、 「ママがそういうことをズケズケ云う時は、たいてい相手の人物を認めた時なんだがな」 「そんな風に気をつかっていただかなくてもよろしゅうございますわ」 「貴女はたたくほど強い音を出す人なんだ。それがママに分ったから、ママは貴女になんでも云うんだ……」  ちょっとした沈黙があった。その隙に、くみ子が、二人にあてつけてるとも思われる調子で、ポツリと云った。 「……私は、ママが大好きよ」  それぎり誰も言葉をつがないうちに、田代家についた。もう、あたりは暗くなりかけていた。  玉吉も雄吉もとっくに帰っており、玉吉はしぶい柄の和服でくつろぎ、雄吉は、黄いろいスポーティなシャツに、空色の背広をつけて身ぎれいにしていた。  たか子は赤くなって、雄吉と目を合わせないようにした。  が、雄吉の方では、なれなれしくたか子のそばによって来て、肩をたたいたりしながら、 「いらっしゃい、倉本さん。……ずいぶんお世話になりましたね。僕はいまでも、夜中にふっと目が覚めると、外で吹雪が荒れる音がしてるような錯覚にとらえられたりするんです。短い期間だが、あそこの入院生活は、僕にはひどく印象ぶかいものでしたよ。山形先生……看護婦の八代君……みんないい人ばかりだったなあ。八代君など、わざわざ駅まで送ってくれたりして……。それから、特に強く感じさせられたのは、貴女なども、深い雪に埋れた、生れ故郷の環境の中で見ると、一ばんすなおな美しさが溢《あふ》れ出ていたことです……」 「そういうのを、やはり野におけレンゲ草というんだ……」  マントルピースの上に、写生旅行の作品を並べていた信次がわきから口を出した。いつも旅行から帰ると、作品を陳列して、家族のみんなに鑑賞してもらう習慣になっているのである。 「どうせ私は田舎者でございますから……。それをひけ目にも感じておりませんわ」 「レンゲ草が怒りやがった……」  信次は笑いながら、シャワーを浴びたり着更えをしたりするために、居間から出て行った。  間もなく、夕飯の仕度が整い、みんな食卓の椅子に坐った。一としきり、信次の絵に対する批評でにぎわった。絵が好きな連中ばかりなので、口うるさかった。  白いトックリのセーターにホームスパンの上衣《うわぎ》をつけてサッパリとした信次は、ニヤニヤしながら、みんなの批評をきいていたが、いつもジックリとこたえるような意見を述べるのは、みどり夫人だった。──ともかく、一致して評判がよく、信次は満足そうだった。  男たちはウイスキーを、女たちは葡萄酒《ぶどうしゆ》を飲んだ。みどり夫人は、話題が絶えないように、そしてみんなに発言の機会を与えるように、気を配っており、みんなもそれにこたえて、食卓の気分を盛り上げていった。少しつくったような感じもあるが、しかし、皿数も口数も少く、早く終ればいいとされているかのような自分たちの食卓の作法に較べると、ずっと豊かな気分が漂っているように思い、たか子は改めて、みどり夫人がともかく非凡な女性だと感じさせられた。  デザートがすむと、男たちは煙草をふかしはじめた。玉吉とみどりは、目顔で何かささやき合ってるようだったが、ふと、みどりがさり気ない口調で、 「ちょっと。……いま、パパから、みんなにちょっとお話したいことがあるそうですから……」  みんなシュンと口をつぐんだ。みどりの云い方がさり気ないものであるほど、なにかしら異常な気配が感じられたのである。  玉吉は、煙草の吸い差しを、灰皿で強くもみつぶしながら、蒼《あお》い緊張した顔で、テーブルの一点をじいっと見つめていた。 「私、席をはずした方がよろしいのではないでしょうか」と、たか子は、なにかしら重苦しい気配を感じて云った。 「いいえ、どうぞそのままで……。倉本さんはいまでは家族の一員のようなものですから……。かえって御迷惑でしょうが、どうぞそのままで……」  そういうみどり夫人のていねいな言葉は、丈夫な綱のように、たか子をその場にしばりつけた。  玉吉は、左肱《ひだりひじ》をテーブルに立て、掌で顎《あご》を撫《な》でまわしながら、 「みんなに話したいことって、べつに新しいことではないんだ。みなが内々で知っていたことを、みながそれぞれ一人前の分別を備えるようになった今日、改めてハッキリさせておきたいということなのだ……。そうすべきものだと思うからだ……。  こう言えば、みなは心の中で、ああ、あの事かとすぐにピンと来るだろうと思うが、それは信次のことなんだ……」  そこで、玉吉はちょっと息をのんだ。と、食卓も、それを囲んだ人間たちも、石で刻んだ彫刻のように、冷く重いものに変り果てたように感じられた。  玉吉は、乾いた声で先きをつづけた。 「──つまり、信次はママと私の間に生れた子供でなく、私が別な婦人に生ませた子供だということだ。私としては、人間として十分な批判力をもつに至ったお前たちの前で、こんなことを告白するのは、身を切られるようにつらいことだ。しかし、私の過去の過失が、お前たちに与えたにちがいない苦悩に較べると、私の場合のそれは、自業自得で、物の数でもないわけだ。とりわけ、信次に対してはすまなかったと思っている。もちろん、ママに対してもだ……」  自分の名前が出たところで、みどりがあとをついだ。 「私としては、お前たちが、この問題に対して形式的な判断を下して、パパだけを責めないようにしてもらいたいと思います。パパをそこまで追いこんだのは、私の責任だからです。……ママって、貴方がたもそう感じるでしょうが、いっしょに暮している人たちに、重くるしい感じを与える人なんです。殊にパパに対しては……。パパは息ぬきがしたかったんです。年をとって、自分というものを客観的に眺める余裕が出来るほど、ママは自分の責任を痛感しております。……ともかく、パパも私も、お前たちが世間に自慢が出来るような夫婦でなかったことを、申しわけなく思っているんです……」 「そうなんだ。そして、この事は、さっきも云ったとおり、お前たちがとっくから、内々で知っていたことなんだけど、しかしそれぎりにすませておくべきではなく、いつかはハッキリした事実として、改めてみなの諒解《りようかい》を得なければならないと思っていたんだ。……ママは、責任が自分の方にあると云ってくれるけど、もちろん私一人の至らないせいだ」 「そうでもないよ、パパ。つまり、ママはパパに対して、ちょっとばかりお色気が足りなかったわけだと思うな……」と、信次がひょうきんに口を挟んだ。 「そういう見方もあるでしょうよ」と、みどり夫人は悪びれた様子もなく云った。  かえって、玉吉の方が、こだわった調子で、 「ここは裁判の席ではないのだから、私たちを批判するようなことはつつしんでもらいたい……」  すると、くみ子が、こごった空気をときほぐそうとでもするように、 「私、そんなこと、ちっとも知らなかったな。そうだと分っていたら、信次兄さんにあんなに親切にしてあげるんじゃなかったわ。……でも、雄吉兄さん、この機会に私たち、改めて信次兄さんを、私たちの家族の一員として歓迎することにしない?」 「賛成だ……」と、雄吉は微笑しながら、あっさりと云った。信次は、それが癖で、爪をかみながら、みんなの顔をかわるがわる眺めていたが、雄吉の方に小さくうなずいてから、 「僕はまずパパに感謝するよ。パパの気紛れがなければ、僕はこの世に存在しなかったろうからだ。自分が生きてるってこと、これはあらゆる倫理に先行することなんだ。……パパ、ありがとう……」  玉吉は、苦そうに葉巻の煙を吐き出していた。 「そのつぎには僕、心のひろいママに感謝します。ママは僕を、むりに自分の実子だとする、愚かしい感傷的な扱いをせず、僕が健康に育っている物理的な──科学的な環境だけをつくっておいてくれたことは、僕にとってもたいへん仕合せなことだったと思ってるんです。ママ、ありがとう……」  みどりは、信次からほんとうに感謝されているとでも信じてるように、ゆっくりとうなずいた。大まかな、線の太いみどり夫人のそうした在り方に、息をつめて、さきほどからその場の成行に神経をこらしていたたか子は、ひどく感心させられた。 「話はこれでおしまいだ……」と玉吉はふと立ち上って、 「今日からこの家の人はみんな大人になったのだ。私やママの人間としての限界も、お前たちの目にハッキリうつっているだろうし、また私たちに多少の長所があったら、それもいっしょに認めてもらいたい。……もちろん、私たちもお前等を大人としてみる。お前たちの自由もひろくなったし、同時に責任もそれだけ重くなってくるわけだ……」  聞いていると、玉吉は、自分が云いだしたことに、結論めいたものをつけようとしているのが、なにかしらピントを外れているように感じられた。ほうり出しぱなしにしておいた方がいいのに……と、たか子は気の毒に感じた。 「倉本先生にはほんとうに御迷惑でした。……さあ、それでは久しぶりでみながいっしょに集ったのだから、歌をうたうことにしましょう……」  みどり夫人がピアノの前に坐《すわ》り、みながそれをとり囲んだ。そして、男三人、女三人の合唱がはじまった。讃美歌《さんびか》やイタリー民謡やシューベルトの歌など……。みんな目を輝かせ、口を精いっぱいにあいて唄った。  歌声の中には、六人それぞれの思いがこもっているにちがいないのだが、それにもかかわらず、六人の声が一つの調和をつくってつぎつぎに流れていく。信次だけは、あちこち身体を掻《か》いたり、ときどき歌のテンポをはずしたり、少しばかり行儀がわるいが、調和を乱すほどのものではない。──おっかなびっくりで合唱に加わっているたか子は、それとなくみんなの顔を眺めまわしながら、不思議な感動にうたれた。  こういう家庭って、めったにあるものではない。なにかしらそらぞらしく、なにかしら立派なのである。家族の一人ずつが、ちぢこまっていないで、幹や枝を一ぱいに張った樹木のように、ガッシリと生きている感じがする。庶民階級の人間には、堪えられないような、澄んだ透明な空気が、家庭の中に流れているような気がするのだ……。  それにしても、みどり夫人や玉吉は、どういう考えで、今夜の会食に自分を加えたのであろう。くみ子の教師だからという理由だけでは納得がいきかねる。もしかすると、雄吉との約束を承知しているのではないだろうか? ──たか子は、歌いながらいろんなことを考えていた……。  合唱がやんだ。みんなくつろいで、煙草をふかしたり、お茶を飲んだりした。そのうち、みどり夫人が改まった調子で、 「倉本さんをお引きとめしてすみませんでしたね。さだめし御迷惑だったことでしょう。でも、私は、ぜひ貴女《あなた》に今夜は会食に加わっていただきたかったんですよ。お聞きぐるしいことばかりだったと思いますけど、その代りほかにはなんにもございませんから……。もう、どうぞお引きとりくださいませ。雄吉が車でお送りすると思いますから……」 「いいえ。親身な扱いをしていただいて感謝しておりますわ。ありがとうございました……」  たか子はホッとした。雄吉と二人ぎりになるのは少し気がかりだが、それよりも息苦しい雰囲気から抜け出せる機会を得たことがうれしかった。  すると、信次が、横からたか子と雄吉の顔を見較べて、ニヤニヤしながら、大きな声で、 「ああ、僕、伊豆の旅先から、兄貴の入院してた病院あてに電報を打っておいたが、読んだろうね?」 「読んだよ、看護婦が電話で受けとって、教えに来てくれたよ。……親切にありがとう……」と、雄吉はニコニコ笑っていた。 「倉本さんも読みましたか?」と、信次はたか子の方に向き直って尋ねた。 「ええ。読みましたわ。……私にはよく意味が分りませんでしたけど……」と、たか子はとぼけて答えた。  信次は、マントルピースの上から、松と橋のある田舎道の絵をとり下して、 「それでは倉本さん、これ。……一と月ばかりこの絵を倉本さんのお室に飾ってもらうことにしたんだ……。絵を好きになってもらうためにだ……」と、はたの人たちの諒解《りようかい》をもとめるような調子で云った。  すると、雄吉が横から手を出して、その絵を受けとり、 「僕が車に積んでいってやるよ。……ママ、今夜は月が出ていて気分がいいから、僕、倉本さんを送る途中、少しばかりドライブするかも知れないよ」 「はい。倉本さんさえよろしかったら、そうしなさい」と、みどり夫人が賛成した。 「信次、こんな晩はどこらをドライブしたらいいかな」と、雄吉は、まるまる信次によりかかるような調子で云った。 「そうだな。登戸《のぼりと》のゴルフ場の方がいいと思う。あの高い丘の上に、水道の浄水場があるだろう。山の中で閑静で、夜景がよく見えて、いいと思うな……」と、信次もこだわる風もなかった。 「そうか。じゃあそうしよう。……ただし、あの山の中へは、お前、電報をうってよこさないだろうな……」 「打たないよ」  兄弟はニヤニヤ笑いながら、たか子のほかに意味が通じない冗談を云い合った。自分をヌキにしてドライブの件が、決められていくのを、たか子は、黙って聞き流していた。断わる理由もないからだった。  玉吉とみどりをのぞいて、みんな外に出た。信次がガレージから自動車をひき出した。 「倉本さんはここへのるんです」と、信次は、たか子をつかまえるようにして、前部の運転席の隣に坐らせた。  その時になって、たか子は急に車に乗るのがイヤになり、信次だけに聞えるように、 「私、行きたくない……」とつぶやいた。  信次は聞えないふりをして、ドアをバタンと閉じた。車が動き出した瞬間、くみ子が、怒ってるような、哀しんでるような目の色で、じいと自分の方を見つめている顔が、たか子の頭の中に強く灼《や》きついた。  信次は、くみ子の肩に手をまわしながら、しだいに細っていくテール・ランプのあとを見送り、 (こんなことでだめになる女は、さっさとだめになってしまうがいいんだ……)と、声にならないつぶやきを洩らしていた……。  雄吉はだまって車をはしらせた。煙草を口にくわえて、絶えず前方を見つめている。ときどき腕が大きく曲って、窓わくにもたれているたか子の身体に触れそうになる。そのたびにたか子はそっと身をひいた。  ヘッドライトが少しずつ夜の街を浮き上らせていく。月は車の座席からは見えないが、中空が水色に染まっているのは、月光のせいにちがいない。それがハッキリ分ったのは、多摩川にかかっているらしい大きな橋をわたった時だった。川の浅瀬に、金色の光が細かく砕け、砂利河原がしらじらとした光をしずませていたからだ……。  それから先きは、たか子には分らない道だった。両側に店屋が並んでいる狭い田舎道を走ったり、そうかと思うと、疏水《そすい》に添うた寂しい道を走ったりした。やがて、左手の丘の上に、窓々に明るく電燈の輝いた大きな建物が、まるで夢の宮殿のようにポッカリと現われ出た。 「あれは病院ですよ。呼吸器の患者が多いんです……」と、雄吉は説明した。  たか子は、丘の上の病院の明るい窓を見上げて、(田園のしずかな夜の中でも、不幸は、あかあかと大きく目を開いているんだ)と、ふっと感じさせられた。 「ママさんは、今夜の会食に、どうして私を加えて下さったんでしょうね?」 「貴女がいつの間にか、くみ子や信次や、それから僕や、パパやママの過去に関係のある人物に深く接触している結果になっていることが分って、そんなら勝手になさいと逆に出たんじゃないのかな。……もちろん、くみ子に対して、通り一ぺんの家庭教師のようではない、人間的な責任を負っていただく……俗な云い方をすれば、くみ子のことに関しては貴女に下駄をあずける、そういう気持もはたらいていたんじゃないかと思います。それから……」と、雄吉は言葉をきって、ヘッドライトが照らし出す行く手から目をそらせて、二度三度チラッとたか子の顔を顧みた。 「それから何でございますの?」  分ってる返事をとぼけて催促してるような気持だった。 「田代家には、血の気の多い息子が二人います。貴女は聡明《そうめい》で美しい。──ママはそういう環境から生ずるかも知れない将来のことも考えているんじゃないのかな。……こないだ爪切りを探して、うっかりママの鏡台の抽出《ひきだ》しをあけたら、興信所から回答して来た、貴女の身分調査書が入っていたんで、びっくりしましたよ。貴女は不快かも知れないが、しかし、ママのそういう分別は認めてやるべきじゃないかと思いますよ……」  たか子は黙っていた。車はいつか、人家のない山道のような所を走っていた。片側は深い谷になっており、片側は急な登りの斜面で、おおいかぶさるように樹木が茂っていた。曲りくねった白い道が、つぎつぎに前方にひらけていく。  たか子は、いつの間にか自分が、蜘蛛《くも》の巣にひっかかったトンボのように、もがくほど、粘っこい糸に身体をしばられていくような気がした。そして、この不自由な感じが、ほんとうの生活というものかも知れないと思った。  自動車がとまった。雄吉はたか子を車から下してやった。 「ここが一ばん高い所ですよ」  ヘッドライトが消え、ひろいくらがりの中に、遠く、光の粒をばらまいたように街の灯が見えた。 「まあ、きれいだわ」  冷えこんだ夜の空気が、ヒタヒタと身体を包んだ。思わず身慄《みぶる》いが出たほどだ。  空は水色にすんでおり、黄みを帯びた円い月が、ごく近い感じで、真上の空にかかっていた。そして、丘の起伏のあるひろがりが、いぶしたように、月光に照らし出されている。  あたりはひっそりと静まりかえっていた。明りを消した自動車が、黒い大きな生きもののように月光を浴びてうずくまっている。後の方の長い柵《さく》をめぐらした一画が浄水場になっているのか、どこか水を流し出す音が、静寂に慣れた耳にしだいにハッキリと聞えて来た。 「少し寒いようですね。これだけでも高い所に上ると、冷え方がよほどちがいますね……」  雄吉は、車の中から、たか子のオーバー・コートをとり出して、肩からきせかけてやった。そして、二人で並んで車によりかかりながら、遠い街の灯を眺めた。──いつの間にか、雄吉の腕がたか子の肩にまわされていた。 「──貴女は後悔していないでしょうね?」と、雄吉が、長い話のつづきのように、何気なく云い出した。  ちっともとつぜんな感じがしなかった。 「──後悔してますわ」と、たか子がしぜんな調子で答えた。 「それは……どういう意味なんですか?」 「どうって……女はあんな約束をしたあと、ほんとはみんな後悔してるんだと思いますわ」 「男を愛することが、女にとっては後悔なんですか?」 「ええ。……自分でないものに、自分がめちゃめちゃにされることなんですから……」  雄吉は挑まれてるような気がして血が湧き立った。 「貴女がそう考えてるんだったら……」と、雄吉は、たか子の身体を強く抱きしめて仰向かせ、顔に顔を押しかぶせた。 「いけませんわ、雄吉さん……」  たか子は、この前のように、掌で自分の唇をふせいだが、雄吉は乱暴にその手をはらいのけて唇を押しつけた。たか子もそれ以上は抵抗しなかった。自分が倒れない程度に、雄吉の首にしがみついていた。唇の所が、電気に感じたように熱く、身体の何かが、ガクガクと音を立てて崩れていくような気がした。  ふと目を開くと、顔を横にして押しかぶさっている雄吉の耳が、ひどくグロテスクなものに見え、その先きに水色の空が遠くひらけて、黄いろい月が見えた。と、とつぜん胸が息苦しくせまって、熱い涙がボロボロと溢《あふ》れ出た。 (私のせいじゃあない。周囲のみんなが、私にこうするようにって、根気よく強制していたからだわ。……私のせいじゃあない)  雄吉はやっと顔をはなすと、たか子の耳もとで囁《ささや》いた。 「貴女は可愛い人だ。貴女と結ばれたことをママもきっと喜んでいるにちがいない……」 「私、仕合せですわ、雄吉さん。仕合せですわ。貴方のようにすばらしい方に愛していただいて……私、仕合せですわ……」  たか子は雄吉の顔を見つめながら、繰り返して「仕合せ」という言葉を云った。何故なら、それを云ったとたんに、仕合せとはちがった、からっぽな気分が感じられるようであわてて云い直したからであった。そのあげく、言葉では空《むな》しいものを埋めきれないと思ったのか、どうすればいいのか分らず、自分から烈しく雄吉の顔に、自分のを押しつけていった……。  浄水場の水を放出する音が、たか子の頭に、冷い響きを伝えて来た。表面だけは酔っていても、底に酔いきれないものが目を覚しているのだ。──たか子は哀しいと思った。 [#改ページ]  [#2字下げ]たたかい  午後の九時ごろだった。  丸の内にある大きなナイトクラブFで、十五、六組ばかりの客が、ひろい席にまばらに坐《すわ》って、夜の食事をとっていた。  上手のフロアで、踊っている人たちもある。左手寄りの一段高いステージでは、空色のユニホームを着た十七、八人の楽団が、つぎつぎに変ったダンス曲を演奏していた。  会場の照明はうす暗いので、少し離れると、人の顔が見分けがたい。客のある食卓の上には、ランプの形をした豆電燈がともされ、向き合った同士の顔をわずかに浮き上らせている。そのおかげで、広い客席に多勢の客といっしょにいるにもかかわらず、連れ同士ぎりのひっそりした雰囲気が滲《にじ》み出ている。  客席の後の方は、一段高い談話室になっており、隅の方にあるスタンド・バーだけが明るい照明を浴びて、棚に酒瓶が並んでいたり、髪をひからせたボーイが立ったりしているのが、まるで遠い別世界をのぞいてるように感じられた……。  田代みどりと山川武夫は、フロアに近い最前列のテーブルに坐っていた。食事がすんだばかりで、なにか飲物をとりながら、舞台の楽団演奏をボンヤリ眺めているところだった。山川はいつものように地味な紺の背広、みどりは縞《しま》のお召に黒の羽織を重ねていた。 「踊りましょうか、武夫さん……」  と、みどりは昔の呼び名で相手を呼んで立ち上った。  二人は、細かい水玉模様の照明が反射するうす暗いフロアで踊り出した。踊るというよりは、リズムに合せて、ゆっくり歩いているといった方がいいのかも知れない。 「……あのころを思い出しますわね。よく踊ったものでしたわね……」 「貴女《あなた》の身体はいまでも軽い。……あのころはもっと……蝶々《ちようちよう》のように軽かった……」  そう云うと、山川は、少しふかくみどりを抱えこんで、気を入れて踊り出した。が、みどりの方では、山川に抱えられながら、自分だけ両手をはなして、 「貴方って、いつお会いしても、ネクタイがまっすぐに結ばれてることがございませんのね」と、ネクタイの曲りを直してやった。 「私は、貴女も知ってのとおり、そんなことでは、昔から不器用なんだ……」 「女の気持をグイと強く牽《ひ》きつけることでもね……」 「どうも、そうだったらしい……」  二人の見つめ合ってる目が、暗がりの中で、おだやかに青く光った。 「その代り、貴方に対する気持は誰でも変ることがありませんわ。いつでも、ふっと懐しくなる人ですわ……」 「どうだかな……」 「私だけでなく、田代だってそうですもの。……何かと云えば、貴方の所に相談に行きますわ……」 「それあ友だちだからですよ。……それよりも、貴女だったら、何もかも子供さん達に話してしまって、そのあとの家庭の空気がなんともありませんか?」 「子供たちの方は何ともないようです。でも、私どもの方は……」と、みどりは口ごもった。  楽団の演奏がやんで、厚いカーテンが舞台をつつんだ。そのためにフロアのあたりが一そう暗くなった。と、カーテンの外の舞台の端《はず》れにスポットライトが当り、一人の楽士が、ハモンド・オルガンを演奏しはじめた。  二人は踊りつづけた。 「貴方がたの方に影響があったというのは……」 「つまり、私たちは私たちの過去のあやまちに対して、子供たちにフェアであろうとして話したつもりなんですが、どうもあと味がよくないんですよ。田代もそうらしいんです……」 「そんなこと、内々でみんな知っていたことなんだし、改めて話す必要があったんでしょうかね……」 「ありましたわ。……昔のことを否応《いやおう》なしに思い出させる人たちが、田代にも信次にもくみ子にも、それぞれちがった形で近づいて来ていたんですもの。そして、私は、そういう環境を私の家庭にもちこんで来たものは、あの倉本たか子という家庭教師のような気がするんです。もう一つ大本は、倉本さんを紹介してよこした貴方だ、という気がして仕方がないんです……」 「それはいいがかりというものですよ、みどりさん。なるほど、トミ子さんが私の家を探し当てて、信次君に会わせてくれと、訪ねて来たことはほんとだけど、僕はそれをなだめて抑えていたんだし、トミ子さんが倉本君と同じアパートに住んでるなんてことは、ずっとあとまで知らなかったんですよ。そして、あとのことはみんな自然発生的に生じたことなんですよ……」 「いいわ、いいわ。貴方には、私や田代を困らせる意志がなかったことにしましょう。……それにしても、子供たちにあんなことを二人で話して、あまり効果もなく、話した私たちが後味がわるい思いがしているのも、結局、説明不足だったからだわ。……もし、信次がどうして生れたかっていうことを、子供たちにも私たちにも、ほんとに納得がいくように話すためには、貴方と田代と私の関係を、洗いざらい話さなければならなかったんだわ。……そう思いません?」 「さあ、彼等が小説でも読んでるんだったら、はじめや途中が省略されていれば納得しないかも知れないけれど、両親やその友人の複雑な関係をあからさまに説明されたんでは、納得がいく前に、刺激が強すぎて、かえっていやになりあしないかな……」 「そんなことはありません。私は子供たちといっしょにいると、いつでも彼等の冷酷な批判を、ジリジリと身内に感じさせられますわ」 「──貴女はお酒を飲みすぎたんだ」と、山川はみどりを抱えて、大きくターンした。 「ハイボールを少しいただいただけですわ。……ね、武夫さん」と、みどりは山川のふところに寄りそうようにして、相手の肩に強く手をかけ、 「私、貴方が奥さんをもらいそうだという噂をきいたら、いつでも飛び出していって、そのお話をめちゃくちゃにこわしてしまいますから……。私、貴方が、どんな女の人とでも結びつくの、イヤなんですわ! ……ええ、イヤなの! ……そのつもりでいてちょうだい……」  山川は、娘のころとそっくりなみどりの烈しい云い方で、ギクリとさせられた。そして、相手の腕をきつくつかんで、自分の身体から少しばかり引き離すようにしながら、 「そうら、みどりさんはそのとおり酔っぱらっている。……賢明な貴女が、私の私生活に干渉する権利があるように、本気で考えているとは思われない。……ハイボールは強い酒ですよ。貴女はそれを二はいも飲んだ……」 「ええ、飲みましたよ。酔った勢いで、貴方にいまのことを云い出すために……。私は貴方がいつまでも一人でいて欲しいんですよ、私のために……」  山川がちょっとでも手の力をゆるめると、みどりは肉づきのいい身体ごと、山川にぶつかっていきそうな勢いを示した。いや、一度は体当りされて、そのため二人ともステップが踏めなくなり、しばらく、細かい水玉模様の照明がクルクルまわるくらがりの中に抱き合って棒立ちに立っていたこともあったほどだ。  が、みだりがましい気分はなく、山川は、なにか鋭いもので身内に切りこまれてくるようなショックを感じた。 「みどりさん、貴女は思いちがいをしている。私が独身でいるのは私自身のためであって、決して貴女や田代君のためではない。ずうと昔は、どうだったか分らないが……」 「いいえ、私には分っています。貴方は私に裏切られたために、ずうと独身でいらっしゃるんです。貴方はそれを身近かで私どもに見せつけて、私どもに少しばかり苦しんでもらいたかったんでしょうが、それには貴方の相手がわるすぎましたわ。……田代の方はどう思ってるか知りませんが、私はいつの間にか、貴方にすまないと思うよりも、私のために一人ぎりの人生を送っている人がある……ということを、私の生活のはりあいにしてしまっていたんです。そういうことは、私の人生もまた、あまり恵まれたものでなかったということなんでしょうけど……。  貴方が一人でいるのは、貴方自身のためだなんて、いや! ……貴方は私のために独身を守っていらっしゃるんです。……一人でお勉強をして、ふと休息したりする時、貴方が思い出しているのは、きっと私のことなんです。ねえ、そうでしょう……」  みどりの年齢にしては、生ま生ましすぎる言葉をつらねて、少しも醜悪な感じを与えず、ヒタヒタとせまってくるものがあるのは、そうした思いが、みどりの心の底ふかく、いつもひっそりと生きつづけていたからにちがいない。 「まあ、いちど席にもどりましょう。踊りながらでは、貴女のもち出す話は重苦しすぎる」山川は、子供を、なだめすかすように、みどりの背中に腕をまわして、自分たちのテーブルにもどった。 「私はちっとも重苦しい話なんかしてませんわ。……貴方が独身でいらっしゃるのは、私のためだということを申し上げてるだけですわ……」 「だから、はじめはどうだったかも知れませんが、いまは私自身のためだと御返事したはずです」 「いまだってそうですわ。貴方はみえをはっていらっしゃるんです。……私に負担を感じさせまいとして、そう仰有《おつしや》ってるんです。それから、貴方自身を、キリスト教的な観点から見て、罪悪のにおいがする人間だと考えられたくないために──」 「バカなことを仰有い! ……」  興奮した山川は思わず大きな声を出して、テーブルの端をゴツンとたたいた。皿やコップがゴトリとはねかえった。近くの席の外人たちは、女相手に大声をはり上げる山川のやり方にショックを感じたのか、椅子をずらせてこちらに背中を向けるようにした。 「すみません、大きな声など出して……」と、山川は両手を強くこすり合せて、ひどくしょげこんだ。  みどりは、そういう山川を、皮肉なような微笑を浮べて、じいと見つめていた。おとなしいはずの山川に、生活の苦労にすりへらされない、昔のままのひたむきなものが秘められているのを目の前に見せつけられ、うずくような懐しさをそそられたのである。 「構いませんわ。私のことだと、分別ざかりの貴方《あなた》が、場所がらもわきまえずカッとなることを見せて下すったんですから……」 「またそういうことを云う。私は貴女が失礼なことを云ったから怒ったまでですよ」と、山川は、額のあたりをハンケチで強く拭《ふ》いた。  みどりは、やはり皮肉な微笑をつづけて、 「わるうございましたのね。……ね、武夫さん。私、年をとって、気持の弾力性がなくなったから、はじめてこんなことを申し上げるんですけど、もし私が、あれぎり貴方と結婚していたらどんなことになっただろうと、たびたび空想したことがあるんですよ……」 「どんな──」と云いかけて、山川はあわてて言葉を変え、 「貴女は自分の身分を忘れてるんだ。貴女は田代君の奥さんですよ。かるはずみなことをおっしゃるもんじゃない……」 「そう。私、田代の家内ですけど、同時に一人の女でもございますわ。だから、いろんなことを空想したっていいわけです。貴方だって、私と結婚していたら──と、ときどきお考えになったと思うんですけど……」 「一度だって、そんなこと考えるもんですか!」と、山川はひくくつめた調子で云った。 「クリスチャンは、心の中で空想にふけるだけでも、姦淫《かんいん》の罪を犯したことになるんでしたっけね」と、みどりはしつっこく相手を怒らせるようなことを云った。 「貴女は私を偽善者だと云いたいんでしょう。そして、私に、もう一度テーブルをたたかせたいんでしょう。私が、いまでも、どんなに深く貴女のことを思っているかを、貴女に納得させるために──。そうはいきませんよ。ともかく、私は、貴女と結婚していたらなどとは、一秒間だって考えたことがありませんから……」  形からせめていって、内容まで同じものに変えてしまう。──山川の云い方にはそういう勢いが感じられた。 「お立派でございますわ。ついでに、私のような女と結びつくチャンスが失《う》せてしまってホッとしたと仰有ればよろしいのに……。私の方はたびたび空想しましたわ」 「やはり貴女もホッとしたんでしょう……」 「いいえ。もし、私が貴方と結婚していたとすれば、貴方は親切だし、紳士的だし、私はたいへん仕合せだったと思いますの。……でも、あんまり仕合せすぎて物足りなくなり、きっと私は浮気でもしていたろうと思いますの。……ホホホ……。何べん空想しなおしても、必ず私が浮気をする場面が出てくるんですわ。……つまり私は、現実にそうであったように、早くにか遅くにか、貴方を裏ぎるにちがいなかったんですわ。……ごめんなさいね……」  みどりは、深い嘆息とともに、テーブルにのせられていた山川の手に、自分の手を重ねた。山川はビクッと慄《ふる》えて、自分からも、みどりの温かい手を握りかえした。 「……貴女は……たぶん、ほんとのことを云ってらっしゃるんだと思う……」 「半分ぐらいはね……私は貴方でなく、田代と結婚したために、あべこべに私の方が浮気を我慢するかもしれない立場におかれることになったんです。そして、自我の強い私にそういう屈辱を堪えしのぶ忍耐心があるなんて、夢にも思わないことでした……」 「人は……自分の気づかない美点をなにかもっているものですよ……」と、山川はみどりの手をやさしく撫でながら云った。  みどりは、驚いたように山川の顔を眺めて、 「私に美点があるんですか。……私に──。いいえ、貴方のおかげですわ。貴方が、人を恨まず、ひっそりと孤独の生活を守っていられる姿が、私に堪え忍ぶ力を与えて下すったんですわ。……いまだって、貴方の存在が、どれほど私に夢と励ましを与えてくれるか知れません。……だから私、貴方に結婚話でももち上ったら、どんなことをしてでも、それをぶちこわしてしまいますから。……貴方はいつも一人暮しをしていて下さらなけあ、いや! ……」  ステージが開いて、十四、五人ばかりの踊り子たちのショウがはじまった。二人は、話の余韻を頭の中に残しながら、ショウを眺めた。  その時、入口の方の明るい照明の中に、田代玉吉と、黒っぽい洋装がよく似合う、顔立ちの整った中年の女が姿を現わし、ボーイの案内で、みどりや山川がいる場所とは反対側のテーブルに腰を下した。そう固苦しくなく、くつろいだ間柄のようだった。  みどりも山川もショウに見とれていて、もちろん気がつかなかった。 「つまらないわ。帰りましょう、貴方……」  ショウのなかばに、みどりは山川を誘って立ち上った。そして、客席を大きくまわって、談話室の前を通り、入口の方に歩いて行った。  その時、テーブルでボーイに何か注文していた田代玉吉が、偶然に目をあげて、明るい照明の下を歩いて行くみどりと山川の姿を見かけた。  玉吉は思わず立ち上って、手をあげ、 「やあ……やあ……」と、二度ばかり呼びかけた。  玉吉が呼びかけたということは、みどりと山川が連れ立っている姿を見かけても、その瞬間は、べつに不快には感じなかったし、また、自分に女性の連れがあることをも、それほどひけ目に感じていなかったことを示すものとみてもいいだろう。  が、玉吉の声は、楽団の強烈なマンボの演奏にさまたげられて聞えず、みどりと山川は、そのまま客席から出て行ってしまった。 「お知り合いの方──? ちょっとした貫禄《かんろく》のある奥さんね。男の人もいい風格だわ。お似合いのカップルというところね……」  黒っぽい洋装が似合う中年の女は、二人の後姿を見送りながら玉吉に話しかけた。 「うん。……知り合いだよ。……あの奥さん、女の目でみても、立派かね?」 「ええ。離れてるからよく分らなかったけど、ちょっとあれだけの人は見かけないわ。御夫婦でしょう?」 「そうだよ」と、玉吉は吐き出すように云った。  もしこの時、玉吉が(家内と友人だよ)とあっさり云ってしまえば、あとになんのしこりも残らなかったかも知れないのに、うっかり夫婦だと云ったばかりに、みどりと山川が連れ立っていたことが、しだいに重くるしく不快なものに感じられるようになった。そして、そのはねっかえりで、自分が女連れであることまでに、うしろ暗い思いをそそられるようになったのである……。  黒っぽい洋装の女は原田雪子と云って、玉吉の常連の一人になっている新橋へんのバーのマダムであった。美人で利口で、崩れたところを見せず、変らないいい客筋を押えていると云われていた。  玉吉とはかなりうちとけた間柄であり、玉吉が教養のある中年男らしく、ジワジワと根気よく押してくるのを、最後の一線のところで、抵抗を感じさせないぐらい上手に受け止めている──そういう関係にあった。  そして、今夜は、雪子の方から、話があるからと云って誘って出たのである……。 「話ってなんだね……君」  不機嫌になった玉吉が、急にそう切り出した。 「愛想がないのね。まだ食事もすんでないじゃないの。おたがいに若い人間ではないはずよ……」と、雪子は、テーブルの下で、玉吉の足を軽く蹴《け》った。 「じゃあ早く食事をすませよう……」 「こんなガツガツした人といっしょに暮していて、奥さん、楽しいのかしら──?」と、雪子は片目をつぶって、玉吉をにらんだ。  さすがに玉吉はそれぎり口をつぐんだ。そして、時間はずれの食事をもくもくと食べ出した。その間に、はじめ見かけた時はなんとも感じなかった、みどりと山川の連れ立った姿が、しだいに粘っこく、神経に絡みついていった。  玉吉の考え方では、男女の関係というのは肉体的に結ばれるか、そうでなければ、時候の挨拶《あいさつ》をする程度の儀礼的な知り合いか、その二つのほかにはない。ところが、みどりと山川の関係はそのどちらでもなく、何十年来、心の奥ふかい所で、温かい光の宿ったまなざしで、じいとおたがいを見つめ合っている。現実的には一文の得にならない、そんな子供じみた真似は、玉吉にはしようと思っても出来っこないが、それだけに非常に気にかかることである。  もしも彼等が肉体的に結ばれているんだったら、玉吉の屈辱感は堪え難いものかも知れないが、かえってそれに反撥《はんぱつ》する野性的な力が湧いて出て、ハッキリした行動が打ち出せるかも知れないのだ。しかし、実体がつかめない影を相手には、たたかいも出来ないわけである。そんなことで、玉吉は、ときおり、刺されるような孤独感に悩まされることがあった。  いまも、その悩みが、彼の心の中に目を覚ましはじめたのである……。  ショウはとっくに終って、舞台は閉ざされ、ハモンド・オルガンの滅入った音色が、うす暗い会場のすみずみまで響いていた。  食事が終った雪子と玉吉は、二、三番つづけて踊った。踊りながら、雪子がふと云い出した。 「さて、それでは商談に入りましょうか。よくって……」 「商談? ……例の金貸せって話かね?」 「御明察。……金貸せっていうことで、金くれということではない所に注意して欲しいわ」 「そんなのは言葉のあやだよ。君のような美しい女性に、金を貸すってことは、つまり進呈するに等しいことだからな……」 「バカにしないでよ。女一人でお店を経営している私ですもの。借りたお金を返さなけあ、世の中が通れないぐらいのことはわきまえてるつもりですよ。そこらは、田代さんの御商売と同じよ」 「同じ面もあろうさ。しかし、貴女がたには、男からただでいただく場合も少くないからな……」 「ただって仰有《おつしや》いますけど、女の身体ってそんな安いものでしょうかね。中国の昔には、女の身体のために国をかけたお殿様だって、たくさんいたじゃないですか」 「私はそんなにお目出度くはなれないな。……ギリギリどれだけ欲しいのかね?」 「八十万円と云いたいんだけど、五十万円融通していただけば、あとは何とかしますから……」 「あとはほかの株主に出資させるか?」 「あら。田代さん、いつ私の株主になって下すったの。……私、そんな女じゃないってことを、一ばんよく御存じのくせに、イヤがらせを仰有るんだわ……」  雪子は踊りながら、玉吉の顎《あご》のあたりをサッとつねった。 「それあ君のことだし、それぐらいのお金だったら用立てないこともないがね。……なにかたしかな担保があるのかね?」  話してる間に、玉吉の頭の中には、一つの考えがしだいに形を整えていった。 「あら。担保がいるんですか?」 「君のためにもあった方がいい。担保もなにもなしに楽に金を借りたと思えば、人間って奴は、真剣に働く気持になれないものだからね……」 「私にどんな担保があるでしょう。いまのお店だけは私のものですけど……。私、まったくちがうことを考えていたんです」 「どんな風にちがうことかね?」 「ハッキリ云いますわね。私、貴方《あなた》とお会いしていると、貴方が私に何か求めているものがあることを感じていたんです。私たち、そんなことにはわりと敏感なんです。……貴方もみえを張る年配の方でもないし、そういうことはあっさりと認めると思うんですけど……」 「認めてもいい……」と、玉吉は苦笑して、 「するとどういうことになるのかね?」 「お金を用立てて下されば、私は迷ってる自分の気持にふんぎりをつけてもいいと思うんです……」 「そういうことか。……それが君の担保のつもりなのか……」 「私も貴方を少し好きなんです。……でも私はたしかなものの裏づけがある貴方の愛情が欲しいんです。……卑しい女だと思いますか?」 「そうでもない。私たちの年配では、何かたしかな裏づけがないと、言葉だけでは頼りない気がするものだからね。……うそとまことのすれすれの所に、君のまことがあるということを私は信じよう……」 「おたがいさまだわ……」 「──君、では真面目に相談しよう」  玉吉はダンスを中途でやめて、雪子を抱えるようにして、テーブルにもどった。 「お金は役立てよう。ただしそれには条件があるんだ」 「だから私、自分の気持にふんぎりをつけてもいいと云ったでしょう」 「そんなことではないんだ。もっとつっこんだ形で私に協力してもらいたいんだ……」 「と云いますと──」 「ちょっと変ってるんだ。……ある男を口説いて、そいつの人間を少し崩してやってもらいたいんだ」 「あらいやだ。何かわるい企《たくら》みに引きこまれるような気がするわ」 「そんな深刻なものじゃあない。……私の友人で、クリスチャンの独身者がいるんだ。どうもそいつの覚《さと》りきったような独身ぶりが、目ざわりでしようがないんだ。女をつまらんと感じているような男は、君にとっても目ざわりなはずなんだがな……」 「たきつけたってだめだわ。魂胆のある話なのね。……お金は欲しいんだけど、そんな悪事の片棒かつぐのはよそうっと……」  雪子はからかうような目つきで、玉吉の顔をじいと見つめた。 「私にとっては、その男が、君のような練達の女性にかかって崩れるかどうか、一つの観物なんだよ。ほかには底意がないんだ。……もっとも、君の気がすすまなければ、この話はやめにしてもいいんだ……」と、玉吉の方でも、ひるんだ様子はみせなかった。 「するとお金もやめということね、困るわ。……でもさあ、五十万円って少いお金じゃないでしょう。それだけのお金を、ただ貴方の興味を満足させるためにかけるということは、ちょっと信じられないわ。誰かを深く傷つけるための企みがあって、私がそのお先棒をかつがせられるとしか思えないじゃありませんか……」 「失敬だが、それあ君のような貧乏人の実感だよ。私は、それぐらいのお金、年来の親友を試してみるいたずらに賭《か》けられる身分なんだ。君、相手の男は立派な紳士だよ。容貌《ようぼう》も整ってるし、教養もあるし、女に触れた経験はぜんぜんない男なんだ。私は、君が承諾してくれても、ミイラとりがミイラになりあしないかと心配なぐらいだ……」 「そんな傷のない方をなぜ汚そうとなさるんですの?」 「目ざわりだからさ。──つまり私並みの水準にその男を引き下げてやりたいんだ」 「そんな気持、誰にでもあることはあるわね。でも、貴方並みではお気の毒みたい──」 「こいつ! ……私がそんなに下等な人間かね……」 「上等の人間でしたら、いまのようなことを私に頼みあしないでしょう」 「ご名答だ。ハハハ……」  頭もよく、世間の経験の十分に積んでいる同士、隙のない会話がトントンと運ばれていった。そして、不思議なもので、一つの依頼について長くお喋《しやべ》りし合っていると、いつの間にか頼まれた方が、引き受けたような形になってしまうものである。──いまもそうだった。 「じゃあ君、引き受けてくれるんだね?」 「仕方ありませんわ。私、お金が欲しいんですから……」 「こいつ、そんなことを云いながら、自分の仕事が面白くなり出したんじゃないのかな」 「そうかもしれないわ。貴方の云うとおりだとすると、男ぶりでも人柄でも、貴方などよりずっと品がよく、しかも独身の方だとあっては、仕事をすすめながら、私の方でも少しは楽しませていただくかも知れないわ。でも、それはお役得というもので、貴方の干渉したことではないはずよ。……念のために確かめておくんだけど、その方、男としていろんな条件は整ってるけど、お金だけはないってわけね」 「そのとおりだ。しかしウンと貧乏だというわけではない。大学の先生をしたり翻訳をしたりで、わりに気楽にやってるよ」 「そう」と、雪子はふっと考えこんで、真面目とも冗談ともつかない調子で、 「私だって、女一人でこのまま無理な背伸びをした暮しをつづけていく意思もないし、そんな方と家庭をもてたらと思うわ」 「それあちょっと見込みがないな」 「バーのマダム風情ではとおっしゃるんですか?」と、雪子はしだいに本気をにおわせた調子でいった。 「まあ、そうだよ。と、云っても、君を軽蔑《けいべつ》してるわけじゃあない。例えばだよ、私を例にとって云えば、一たん私程度の経済生活をした人間が、急につましく暮そうと思っても、それは不可能と云ってもいいぐらい、むずかしいことなんだ。同じことで、君のように精いっぱい羽をひろげた生活をした女が、急に身体を縮めて、中産階級の地味な家庭の主婦におさまろうとしても、これあちょっと無理だと思うんだ……。  君がバーのマダムとして毎日呼吸している空気は、刺戟《しげき》の強い、濃い、濁ったものだし、家庭の主婦たちは、プレーンソーダのように、すんだ無刺戟な空気を呼吸しているんだからね……」 「寂しいことを云うわね。……まるで、私たちには、行きずりの男たちを慰安するほかには能力がないみたいだわ……」 「『習イ性トナル』というからね。人間は、あれからこれと、器用に早変り出来るようにはつくられていないんだよ」 「──言葉で云い合っているかぎり、貴方のおっしゃってることはもっともだわ。でも、世の中の現実というのは、もっともらしい理屈からだいぶズレた所に現われて来てるんじゃないのかしら……。私は、私にも、地味な家庭の主婦におさまる能力があると信じているわ……」 「この問題で君が異常に粘る所をみると、あるいはそうかも知れない。いや、そうあって欲しいもんだ。もし君が、山川の心をとらえて、山川の細君におさまってでもくれれば、私としてはこの上もない満足というものだよ……」 「──あら、その方、山川さんとおっしゃるんですのね?」 「ああ、うっかり云ってしまったが……そうだよ、山川武夫と云って、青年時代から友人だ。……お世辞でなくいい男なんだ。それだけに、彼の超然とした独身ぶりが、目ざわりで仕方がないんだよ」 「目ざわりだという気持は分らなくもありませんけど、その人を崩すことが五十万円に値いするということは、どうも実感としてピンと来ませんわ。もし私の役目が成功すれば、貴方がどこかで、五十万円どころでなく、大きなもうけをすることになってるんだ、ということでしたら、貴方のなさりそうなことだとうなずけるんですけど……」 「それあまあそうだ。私も得るものはあるんだ。物質的なものでなく、気持の上の問題だけどね。そして、それは君が知らなくてもいいことだと思うよ……」  そんな話をしていると、ハモンド・オルガンの途絶えがちな音が、変に切々と胸に沁《し》みこむような気がした。 「お金はいつ欲しいんだね?」 「なるべく早い方がいいわ」 「そうか。それじゃあ、明後日の晩、君のお店にもっていこう。その時具体的な相談をする……」 「ずいぶん高い利子のつくお金だけど、背に腹は代えられないわ。でも、寂しいわね。貴方の愛情って、途中からそんな方向へも変っていけるんだから……」  雪子は、ほんとうに寂しそうな目の色で、じいと玉吉の顔を見つめた。 「それはしかしおたがいさまじゃないかな。君だって、私をいくらかは好いていてくれるはずだが、それが中途から、私の要求をいれてくれたんだからな。  君は金が欲しいからだと弁解するかも知れないが、そういうことではなく、私たちの年配の者になると、愛情でも何でも、和戦両様の構えで臨んでいるんだよ。一つがだめになったからって、それで参ってしまうことはないんだ。転んでもただ起きないという奴だよ……」 「ずいぶん汚れた生き方なのね。……私たち年配とおっしゃるけど、貴方と私ぐらいのものだわ、そんな無神経なことが出来るのは……」 「世の中は型にはまったものではないのさ。いろんなことがあっていいんだよ……」  雪子が引き受けてから、玉吉は急にいきいきとして来た。山川の独身主義が崩れるということは、彼とみどりの目に見えない結びつきが、プッツリと切れてしまうことを意味するものだからだ。思えば、玉吉は、そのかぼそい根づよい二人の心の結びつきのために、どんなに悩まされて来たことであろう。元はと云えば、自分が種をまいたことにちがいないのであるが。  山川がどこかの女に欺《だま》される。あるいはどこかの女と結婚する。──それを想像するだけでも、日ごろみどりに圧《おさ》えつけられている鬱憤《うつぷん》が、一時にスッとはれそうな気がする。みどりのあの高慢ちきな鼻柱をへし折ってやることは、人生最大の痛快事と云ってもいいぐらいのものだ。例えば、いま玉吉が女をつくったところで、みどりは鼻の先でせせら笑うだけで、かえって玉吉自身が惨めな思いをさせられるだけであろう。だが、山川をつき崩せば、みどりの受ける打撃は深刻なものがあり、夫婦関係の優位があべこべにならないものでもない……。  子供たちのほかに、若い女の家庭教師もいる前で、自分の過失を告白するように強制する女。そのほかいろいろと我慢がならない、おごりたかぶった女。そんな女をやっつけろ! 足腰が立たなくなるほど徹底的にやっつけろ! 雪子をこっそり自分のものにして消極的な腹いせをするよりも、そんな風に役立たせた方が、はるかに利口なやり方だ……。玉吉は、頭の中で、自分に都合のいいことをあれこれと思いふけっていた。  一方、雪子の方では、いくらかは好意を抱いていた玉吉から、自分の気持に泥を塗られるような扱いをされて、強い屈辱感に打たれたが、それにもかかわらず、彼女は玉吉の要求に応じた。金のためばかりではない。表面、玉吉が求めたように行動しながら、その間に、恥知らずな玉吉に酬《むく》いる方法は、いくらも見出されることを見とおしていたからである……。 「さあ、それではもうボツボツ引き上げましょうか。お約束をしてしまったら、善悪はヌキにして、毎日うっとうしい、だらけた生活に、一つの張り合いが出来たような気がするわ。……いつその、貴方よりはるかに上品な、ロマンス・グレーの紳士に御紹介して下さいますの?」  雪子はからかうような口調で尋ねた。 「そのうち、もっともらしい口実で、君を紹介するよ。……なんだったら、君が作戦しやすいように、具体的な彼の長所、短所といったようなものを教えておこうか?」 「いりませんわ。私にも人間を見る目があるはずですし、それに貴方が目ざわりに感じるというだけで、だいたいの見当がつきそうな気がしますから……」 「私もとんだ悪人にされてしまったな。さあ、では引きあげようか……」  二人はFクラブを出た。戸外には、いつの間にか、シトシトと雨が降っていた。玉吉は、新橋のバーまで、雪子を車で送ったが、車の中では、おたがいに一言も口を利かなかった。いや、玉吉は二度ばかり、暗がりで雪子の手を握りしめようとしたが、その度に雪子は外を眺めたまま、強くそれをふりはらった……。  家に帰ったのは十一時半ごろだった。居間では、みどりが、さっきFクラブで見かけた外出着のままで、雑誌を読みながら起きていた。 「遅くなったよ。紙屋さんの招待があってね……。お前もどこかへ出かけたのかい?」 「ええ……」とだけしか、みどりは返事をしなかった。 「着物と黒の羽織がよくうつってるな」 「そうですか?」 「どこへ行ったんだい?」と、玉吉はとうとう尋ねた。 「……大学時代の友人が大阪から出て来ましたので、いっしょに食事しましたの……」  みどりは膝《ひざ》の上にひろげた雑誌に目を落して、何気ない調子で答えた。  玉吉は、もう少しでニヤリと口のあたりをゆがめるところだった。みどりがウソをついた! すべてに頭が上らないと思っていたみどりが、見えすいたウソをついたのだ! 玉吉は、痒《かゆ》い所に針をつき刺されたような複雑なショックを受けた。  みどりにしてもそうだった。自分の口から思いがけないウソがすべり出た時、彼女は水でも浴びせられたようにゾッとした。ずいぶん長い間、経験したことがない。不安な自信のない気分だった。  何故ウソをついたのだろう? これまで彼女は、山川と二人ぎりで会ったことについて、一ペンだって玉吉にウソをついた覚えがない。そんなひけ目を感じなかったのである。それが、今夜は、あっと思う間もなく、ウソを口走ってしまったのだ。  いつもとちがって、今夜は、山川に対して、少しヒステリー気味にふるまったせいかも知れない。いや、それよりも、自分たちがFクラブから引上げたあと、玉吉と雪子の間に、自分たちに対するたたかいの謀略がめぐらされたことを、無意識に感じとったせいかも知れないのである……。 「そうか、昔の同窓生と会うのは楽しいもンだ。どこへ御案内したかね?」と、玉吉も上手に調子を合せた。 「丸の内のFクラブに御案内しましたわ。あそこは静かで一ばん落ちつきますから……」 「そうか。それあいい所へ御案内したな……」  玉吉は、みどりに見られていないのに気をゆるして、とうとうニヤリと笑いを洩《も》らしてしまった。  だが、彼は、いますぐにみどりのウソをあばいてその場かぎりの痛快な気分をむさぼろうとするほど幼稚ではなかった。いまは欺されたことにしておいて、あとで骨身にこたえるほど、たんまりとお返しをする腹なのだ。 「貴方《あなた》、お酒でも飲みますか?」とみどりは、なにか落ちつかない気分を紛らすために云った。 「いや、いい。十分に飲んで来たから……。お前こそジンフィズでも飲んでみたらどうだい。お客を接待するって、疲れることだからな……。二人ぎりだったのかい?」  玉吉は、もう一度みどりにウソをつかせるように話をし向けた。 「ええ、二人ぎりですわ」 (なるほど。たしかに二人ぎりだった)と、玉吉は胸の中で、意地のわるいつぶやきをもらした。 「そのお友だち、仕合せにやってるのかい?」 「まるまる仕合せってことは、どこにもあり得ませんわ。なんとか苦情は云ってましたけど、まあ、あの人はあの人なりに仕合せなんでしょうよ……」  そう説明するのが、ほんとに山川のことを云ってるようで、みどりは内心あわてた。 「ほとんどだな。われわれが仕合せとよんでるものは、虫が喰《く》ったり傷がついたり、どれも満身|創痍《そうい》といった形のものばかりだ。八面|玲瓏《れいろう》とした玉のような仕合せなんて、お伽話《とぎばなし》の世界だけのものだよ……」と、玉吉は、ふと、みどりの言葉に共鳴した。  そのあたりで切り上げればよかったのだが、俗に腹がすわってないというのか、玉吉は未練がましく、もう一度みどりをつっつく誘惑を抑えきれなかった。 「で、そのお友達の御亭主は何をしているんだい?」 「中くらいの会社の社長ですわ」 「そうか──」  玉吉には、人間のウソのつき方が見とおせたような気がして、可笑しかった。はじめには山川のことを云い、そのつぎには玉吉の身分のことを云っている。とっさにつくウソというのは、自分の身近にあるものを無意識にかつぎ出して来ているのだ……。  だが玉吉は、そんなカラクリを見ぬいたりして、いい気分にひたっているうちに、とんでもない誤算をしていたのである。というのは、みどりの方でも、自分が山川といっしょだったことを、玉吉に知られているらしいことを感づいたからである。  はじめ、みどりは、自分が落ちつかないのは、めったになく自分が弱気なウソをついてるせいだと思っていたのであるが、玉吉が繰り返し同じ調子に会話を運ぶので、もしかすると、玉吉が今夜のことを承知しているのかも知れない、と考えるようになったのだ。そして、そういう手がかりをつかんでしまうと、みどりは、玉吉などにからかわれているようなお人好しではなかった。  ふいにニコリと微笑して、 「貴方も今夜はFクラブじゃなかったんですか? 私、チラとお見かけしたような気がするんですけど……」  猫がネズミをいたぶるように、みどりをあしらっているつもりだった玉吉は、不意をつかれてすっかりあわて出し、 「いや、私はFクラブには行かなかった。どうも業務関係の客は、あぐらをかいて芸者をよべる席でないと喜ばないからな──」 「そうですか。じゃあ私が見まちがえたんですわ」 「そうだよ。あそこは会場の照明が暗いから、よく人の顔が見えないからな……」  玉吉は、さっきのみどりのように、手近かなものを持ち出して、自分のウソを塗り固めようとした。人間、やることはそうちがわないのだ。 「暗いたって、貴方。自分の夫を見まちがえるほどでもないわ……。よっぽど貴方に似た方だったのね……」  みどりは、玉吉もFクラブに来ており、自分と山川を見かけたのは確かなのだと思った。そうだとすると、自分の方でも玉吉を見かけているように思わせておくことは、造作もないことだった。ただ、みどりは、どういうわけか、玉吉がFクラブに行ったとしても、それは玉吉が云う通り、会社の業務関係の男の客といっしょなのだと思った。  だから、玉吉はFクラブに行ったことを隠す必要もないのだが、しかしそこで、山川とみどりを見かけたことを認めると、ウソをついているみどりとの間に、当然、重くるしい云い合いがはじまるので、それを恐れて、玉吉はFクラブには行かなかったと云っているのだ。──みどりはそんな風に推測した。  もちろん、玉吉の方では、雪子が何者であるか分らないにしても、彼女といっしょのところを、みどりと山川に見られたのだろうと思っている。 「それじゃお前は、私だと思ったその男に声でもかけたのかね」と、玉吉はおっかなびっくりで云った。 「ええ、お友だちをお引合せしようと思って、三つばかりテーブルを隔てた所を通った時、声をかけたんですけど、楽団がやかましいマンボの曲を演奏していたので聞えなかったのですよ。それに、貴方にもお連れがあることだったし、遠慮した方がいいと思って……」  みどりの云い方には、ふだんのゆとりと力がちゃんと蘇《よみが》えっていた。  玉吉は、みどりがまるであべこべなことを云うので、胸の中で苦笑をもらした。が、いつの間にか、自分がすっかり抑えつけられた立場にいることを、認めないわけにはいかなかった。どうも自分と雪子を見かけて、声をかけたのは、ほんとのことらしく思われる。ちょうど自分がやったように──だとすれば、自分たちが会場に入った時だったかも知れない。しかし、雪子が何者であるか、二人でどんな相談をしたかは知ってるはずがない……。 「そんなに私に似た男がいるなんて、あんまりいい気持じゃないな。……さあだいぶ遅いからそろそろ休もうか」 「ええ、休みましょう」  二人は寝室に引き上げた。ベッドにつくと、二人とも、いまのたたかいは忘れたようにすぐ眠りに落ちた。片目はいつも光っていて、片目でぐっすり眠る──。そういうしぶとい生活力を、二人とも持ち合せているのであろう……。  それから四、五日経ったころ──。  山川武夫は、遅い昼飯をすませて散歩がてら、校内を一巡りして庶務室に帰ってくると、机の上に田代みどりからの手紙がのっていた。  ──先夜は失礼しました。あの晩、田代は私よりもだいぶ遅く帰宅しましたが、二人で話しこんでいるうちに、私は大阪から出て来た大学時代の友人とFクラブで食事をしたと、ついウソをついてしまいました。  ウソをつくなんて──どうしてそんな情けない真似をしたのか、私にも分りません。たぶん私が、少しばかり酔っぱらって破目をはずし、貴方にダダをこねたりしたことを恥しく思っていたせいかも知れません。田代はどうやら、私と貴方がいっしょだったことを知ってるらしい様子でした。きっと、彼も誰かといっしょにFクラブに行っていたのかも知れません。私がカマをかけると、彼はあわてて否定していました。商売上の取引客といっしょらしいんですが、彼がFクラブ行を否定したのは、私たちがいっしょにいるところを見たと云わねばならないことが、おっくうだからでしょう。それにはどうしても、まず私がウソをついていることをバラさねばならず、それが彼にはとってもつらいことなのです。  可笑《おか》しいと思うでしょう。私たちはこういう夫婦なのです。しかし、何と云っても、その気もなく、ついウソをついたということは、私のたいへんな失態でした。ごめんなさいね。  もし、田代が貴方に会って、あの晩の話をそれとなく持ち出すようなことがあったら、貴方は知らんふりでありのままをおっしゃって下さい。と云っても、貴方という人は、私が貴方の手を握ったことや、私が貴方にどんな風にダダをこねたかなぞということは、舌をひっこぬかれても云えない人であることが分っていますから、貴方の云える範囲内で、どうぞありのままにおっしゃって下さい。  その結果、私が田代に云ったことが、虚偽であることが否応《いやおう》なしにハッキリしたら──、と気の弱い貴方は心配なさるかも知れませんが、あとのことはどうぞ私にまかせて下さいまし。私は、そんなことで、私のウソを訂正するチャンスを与えられればと、むしろ、それを歓迎したい気持ですの。そして、そういうこともないのに、私自身から、こないだ云ったことはウソだったなどと、田代に訂正を申し出たりする阿呆《あほ》らしい役目は、死んでもやりたくありません。  最後に、このお手紙で、先夜Fクラブで貴方にダダをこねた内容については、一言半句も取り消す意志がないことをお断わりしておきます。  貴方は、あの晩、テーブルをたたいて怒りましたわね。私はほんとうに嬉《うれ》しいと思いました。  要用のみ。不一──  山川は、室中の人間に、手紙の文句が見えてるような気がして、書棚の蔭《かげ》にかくすようにして、手紙を二度くり返して読んだ。そして、頭がボッと熱くなって、まだなんの考えもまとまらないうちに、給仕が、御面会ですと云って、一枚の名刺を差し出した。 「田代玉吉」と記されてあった。  山川はひどくろうばいした。玉吉が、みどりの手紙に書いてあることについて、自分の所にたしかめに来たような気がしたからだ。 「第一応接室に通しておいてくれ。お茶をさし上げてな。……すぐ参りますからと云うんだよ」  山川は、給仕を去らせてから、わざわざ中央のテーブルの所に立って行き、ぬるいお茶を入れて、自分の席にもってかえった。そして、それを啜《すす》りながら、自分の気分を落ちつけようと努めた。が、なんの足しにもならなかった。  みどりの手紙にあるように、玉吉から問いただされれば、ありのままに話すよりほかには、何事も出来そうもなかった。それどころか、玉吉がいまにもこの室にふみこんで来て、みどりの手紙を奪いそうな気がして、大切な書類を入れておく机の抽出《ひきだ》しに手紙をしまいこんで、鍵《かぎ》をかけたほどだった。  山川は、調べ室によばれる容疑者のように、元気なく第一応接室に入っていった。玉吉は、地質のいい茶色の背広をキチンとつけて、葉巻をくゆらしていた。白いものの混った髪をきれいに撫でつけ、血色がよく、いかにも働き手らしい匂いにあふれている。 「やあ、しばらく。お変りないかね。と云っても、君ほど変りのない人はないんだけど」と、玉吉は立ち上って、大げさに握手をもとめたりした。  これが一つのゼスチュアであり、つぎには何か骨身にこたえることを云い出すにちがいないのだ、と山川は握手をしながらヒヤリとした。 「そうだよ。だから、人にお変りないかと云われると、ガッカリしてしまうんだよ。年だけは少しずつとってるし、そういう意味では、なし崩しに少しずつ変ってはいるんだがね……」と山川はいつになくスラスラとしゃべった。 「いやあ、これで偶然、話のきっかけがついたようなもんだが、君、この際、思いきって自分の境遇を変えてみる気はないかね?」 「というと、どういう意味かね?」 「結婚する気はないかということなんだ」 「結婚──? どうしていまごろとつぜん、そんなことを云い出すのかね?」 「いや、適切だと思われる人が、偶然みつかったからだ。未亡人で、三十七、八ぐらいの人だが、美しくて聡明《そうめい》で、君にはうってつけだと思うんだよ」 「それは、みどりさんの意見でもあるのかね?」 「いや、いまのところ、みどりは知らないんだ。話しても、あいつは恐らく賛成しまい……」 「何故だね……」 「あいつは、君がいつまでも独身でいることを望んでいるらしいからね……」 「それは……どういう意味なんだね……」 「つまり……君のためを思ってだろうね。あいつは、君が、女のために必ず不幸にされるタイプの男性だと信じてるらしいんだ」と、玉吉は、葉巻の煙が沁《し》みこんだかのように大げさに目をしかめながら云った。  山川はしぜんに頬のあたりが硬《こわ》ばるのを覚えながら、 「君、それあずいぶん惨酷な定義だね。女のために必ず不幸にされる男って、この世の中に存在するものなのかね?」 「みどりがそう思っているんだよ。……男のために不幸にされるタイプの女が存在するように、男にも、女のために不幸にされるというタイプが存在するのかも知れないな」 「そして、僕がそのタイプだというんだね?」 「私じゃあない。そう考えてるのはみどりなんだ……」 「それあみどりさんの独断だ。私は、自分で自分を動かしていける良識をもっていると思うし、必ず女性に不幸にされるなんていう、安直な既製品タイプの人間ではないつもりだ。……みどりさんがまちがっている!」  山川は、テーブルを敲《たた》こうとして、慄《ふる》える手先きを差し出したが、辛うじて思いとどまった。それほど、玉吉の云ったことは、二重三重に彼を刺戟《しげき》する悪質な企《たくら》みに満たされていたのである。  玉吉は、冷い微笑を湛えて、山川の興奮した様子を見てとり、 「誤解のないようにハッキリ云っておくが、私の考えはみどりとは反対なんだ。私は、現在の君の生活に欠けてるものがあるとすれば、それは女性の醸し出す雰囲気に欠けていることだと思うんだ。つまり、細君がいないということだよ。……みどりの考え方の一つの欠点は、すべての女性が同じ性格のものだという前提を、無意識に立てていることなんだ。だから、君を憤慨させるような結論が出てくるので、私に云わせると、あるタイプの女性は、君を不幸にするかも知れないが、ちがったタイプの女性は、君を幸福にすることもあり得ると思うんだ。そして、そういう考え方だったら、君も肯定してくれると思うんだが……」 「それあ、まあ常識的な考え方だし……誰だって反対出来ないわけだが……」と、山川は不満そうに云って、ちょっと間をおき、 「そういう考え方にしたって、私の不満なのは、みどりさんにしろ君にしろ、私をまったく受動的な立場においてることだよ。幸福にしろ不幸にしろ、私は女性からそれを受けるだけなんだね、君等の考え方に従えば──。そんなバカなことってあるものではない。  男女の生活は、おたがいに影響し合って築き上げられるもので、一方的な影響なんてあり得ないことだよ。……かりにだよ、みどりさんが云う通り、私は女のために不幸にされる型の人間だとしてもだよ。それを私の側から反省すれば、私自身の中に女を幸福にしてやれるものが欠けているということなのかも知れないんだ……」 「どうも君と云いみどりと云い、考え方が観念的だよ。世の中のことはそう一方的に片づけられるはずのものではないと思うよ。ともかく、君は、みどりの考え方には反対なんだね?」 「反対だとも。みどりさんが前にいるんだったら、私は足を踏み鳴らして、その過りを責めたいね」と、山川は、もものあたりを両手で強く押えながら、意気ごんで云った。  玉吉は、冷い余裕をもって、相手をトリックに引っかけていく計画だった。それが、うまく話をすすめるほど、なにか重苦しい気分のものが、胸にのしかかって来るのを覚えた。みどりと山川のいたわり合ってる気持が、どこからともなくヒタヒタと湧き出て来て、彼の舌を硬直させかかるのだ。  例えば、山川は床を踏み鳴らさんばかりにして、自分は女性から不幸にさせられる人間ではないと、みどりの意見を反ばくしている。その反ばくは、裏を返せば、みどりを庇《かば》い、みどりをいたわってることにほかならないのだ。みどりに背かれたのは、背かれるだけのものが自分の側にあったからだ、とまで云っているのだ。──こういう愚かしい人間ほど扱い難《にく》いものはない。どうかすると玉吉は、自分がなまじっか目先きがきく利口な人間であることに、しらじらとした、深い空《むな》しさを感じさせられたりする……。 「ところでどうだね、君を訪問した本題に入るのだが、君、その美しい聡明な未亡人と交際してみる気はないかね。……みどりと私は考え方が正反対だが、君が仕合せであるようにと願っている気持は同じことなんだ。みどりは君が独身の方が仕合せだというし、私はいい人があれば結婚した方がいいというのだ。これまでだって、私は、それとなく君に結婚をすすめたことがあるが、今度改めてこの話をもちこんで来たのは、君の現在の年齢から云って、身心ともに、結婚の最後のチャンスだと思うからそういうんだ……」 「ありがとう。しかし……」 「それだけじゃあない。……私は君に対して、ある責任を感じているんだ。君は反感をそそられるかも知れないが、私としては、君が君にふさわしい女の人と結びついて、幸福な家庭生活を送るよう、出来るだけ側面から援助したい気持なんだ。私自身に元気が残っているうちに、むかし君に御迷惑をかけたことの千分の一でも償わせてもらいたい気持なんだ。『鳥の死なんとする、その声やよし』かね。どうも、君がうすら寒い独身生活をしているのを目《ま》の当り眺めていては、私もいい気持で年寄りになっていけない気持がするんだよ……」  しゃべってる間に、適当な感傷がのって来て、それが相手に影響していってるのが感じられた。山川は立ち上って、玉吉が坐《すわ》ってる傍を往《い》ったり来たりしながら、 「どうも君たちは、──いや、みどりさんはどう思ってるか知らないが、君の考え方はたいへんなあやまりだ。私がまるで自主独立の精神がない男でもあるかのように思っている。迷惑だし不満だよ。私は自分の勝手で一人暮しをしているので、君やみどりさんのせいではないんだ……」 「ところがだ、一種の加害者の立場にある私には、そういうのも、君が私を慰めるために云ってくれてるとしか思えないんだ。実地でそれを証明してくれないかぎりは──」 「実地の証明って何だね」 「君が結婚することだよ。そうすれば私は、しょっちゅう喉《のど》に細いトゲがひっかかってるような思いがとれて、安心して老年に入っていけるんだ……」 「どうもねえ」と、山川は苦笑して、 「私はどっちみち、君たちのために生きてるような存在にされちまったな。君たちに友情が少しでもあるんだったら、私をそっとしておいてもらいたいんだ……」  玉吉は、山川の言葉が聞えないふりをして、 「ああ、いま気がついたよ。君が独身を守ってるのは、私たち夫婦の生活を目のあたりに眺めていて、夫婦というものの在り方に、つくづくいや気がさしたからではないかね。結婚してあんな暮しをするぐらいなら、独身でおった方がずっとましだと……。じっさい、私たちはあちこちに絆創膏《ばんそうこう》をベタベタはって、やっと保ってるような夫婦だからな。……しかしだよ、君の方では、それを見ていて、自分がもし結婚したら、あんな生活はしないという風に積極的に受けとってもらいたいものだな……」 「──それだって、君等があって私があるという考え方には変りがないね」 「まあ、理屈の云い合いはよそう。……君はいまのままだと、死んであの世に行ったら、きっと神様に叱られるぜ。『せっかく男に生れさせてやったのに、お前は一人の女にも触れず、いったい何をボヤボヤしていたんだ。もう二度と人間に生れさせてやらないぞ!』ってねハハハ……」 「ハハハ……。そういう云い方をされるといちばんこたえる。たしかに、私は神様に叱られそうだよ。それを思うと寂しいんだが……」と、山川は相手の言葉をはじめてすなおに受け入れた。 「その気持があれば十分だよ。私も友人として、君が神様に叱られるのを見ておれないからね……とにかく近いうち、その未亡人に私の名刺をもたせて、君の家を訪ねさせるからね。一度会うだけでも会ってやってくれ給え。ほんとにいい人物だから……」 「何を云うんだ、とんでもない。無茶をしては困る」 「いいよ、私にまかせておきたまえ。ただし、当分はみどりには内証だよ。知れると、女は君を不幸にするという彼女の信念に基いて、きっと邪魔をされるからね。……君と私とこっそり協力して、みどりのその信念をくつがえさせてやろうじゃないか。そうなればなったで、みどりだって喜ぶことなんだから……」 「しかし、君……」 「いいよ。……話はきまったよ。……それでは失敬」 「君……君……」  山川は手真似で相手を押えるようにしたが、玉吉は、聞き入れようともせず、吸いさしの葉巻を、手荒く灰皿の中でもみつぶして、応接室から出て行った。  一人になると、山川は急にグッタリとして、崩れるように椅子に腰を下した。額にジットリと汗が滲《にじ》んでいた。  玉吉は、結局、山川がいちばん恐れていたFクラブの件について一言も触れず、ただ、美しく聡明だという未亡人との見合をすすめていっただけだ。それだけに、何か深い思惑が隠されていそうな気がする。  みどりの言葉というのも、あからさまでなく、何か濃い陰影を曳《ひ》いている。だが、それは故意ではなく、みんなが迷った複雑な気持でいるので、言葉で説明する時は、その一面しか云えず、あとのものは濃い陰影になって、言葉のまわりに漂っているせいなのだ……。  こんな状態から抜け出すためには、やはり自分が結婚することが一ばんいいのかも知れない。そうすれば、みどりも、Fクラブでしたような、思いきりのわるいダダをこねることもなくなるだろうし、玉吉も、安心して老年に入っていけるだろうし、自分だって、あの世に行って神様から叱られずにすむだろう……。  結婚したっていいのだ。それをいままでしなかったのは、決してみどりや玉吉にあてつけるためでもなく、みどりに対する愛情がいまも彼の内心に燃えくすぶっているからでもない。いや、いくらかそういう心理もはたらいていたかも知れないが、それよりも大きな理由は、結婚するはずみがなかっただけのことなのだ。  そのはずみを、田代夫妻が、よってたかってこさえてくれようとしている。みどりは山川の結婚に反対することで、玉吉は賛成することで、それぞれ山川の気持を結婚にふみ切らせようとしているのだ……。  山川の頭には、玉吉が話した、美しく聡明な未亡人のことなど少しもイメージを残さなかったが、しかし、結婚を肯定するようなボンヤリした気分が生じかけていたことはたしかである。とすると、とつぜん現われた玉吉は、Fクラブのことを詰問されるのだろうと恐れていた山川の心理にうまくのっかって、目的の一半を達したようなことになる……。 (ふん、女から必ず不幸な目にあわされる男か──)  山川は、みどりが云ったというその言葉と、玉吉が残していった強い葉巻の匂いに、ふと反感をそそられ、立ち上って、手荒く窓をあけはなした……。  それから三日ばかり経った土曜日の夜、山川は自宅の書斎で本を読んでいた。電気ストーブが室を温め、机の上には、好きなレモン・ティーがかすかな香気を漂わせていた。世間の俗事を忘れて、一人ぎりで書物の世界に浸っている。──これが山川にとっては一ばん楽しい時間だったのである。  と、玄関に人の訪れる声がして、間もなく、ばあやが一枚の封筒を手にして書斎に入って来た。 「原田雪子と仰有《おつしや》る女の方が、このお手紙を持ってお出でになりましたけど……」 「原田雪子──知らんね。どんな方だい?」 「中年のきれいな奥様風の方でございますわ」 「ふむ……」  山川は、学校の入学試験期が近いので、その向きのうるさい客だろうと思った。  封筒には、「山川武夫様要用親展」とだけあって差出人の名が書いてなかった。封を切ってなかみをひき出すと、一と目で、田代玉吉の書体であることが分った。  山川はハッと緊張した。  ──先日は失敬。僕の名前があると、君が手紙の封を切らないかも知れないと思ったりして、封筒には名前を記さなかった。用意周到だろう。  この手紙持参の人が、こないだ君に話した女性だ。原田雪子という。僕が同道でお訪ねして紹介するつもりだったが、本人は紹介状をもらって単独で行きたいというので、本人の希望にまかせた次第だ。そういうハッキリした性格なのだ。  本人はもちろん、僕の意図していることは十分に承知している。君もこだわらない気持で会ってやってくれないか。会ったからって、責任も義務も生ずるわけのものではないのだから……。きれいだし、利口だし、話していて決して不快な人ではないよ──  玉吉の手紙を読んで、山川は急にあわてた。そして、とっさにはどうすればいいのか分らず、手紙の文句をとびとびに繰り返して読んでいた。 「──どうなさいますか?」と、ばあやが見兼ねたように催促した。  その時、玄関の方で、低く咳《せ》きいる声が聞えた。それを耳にすると、山川は、弾《はじ》かれたように立ち上った。 「……お客さんは座敷にお通しする。室を温めておいてくれ……」  山川は、はだけた和服の前を合せ、両手の指で乾いた髪を掻《か》き上げると、そそくさと玄関に立っていった。  うす暗いたたきの所に、うぐいす色の塩沢お召に縞《しま》の帯をしめた原田雪子が、四角な風呂敷《ふろしき》包みを抱えて立っていた。細面のひきしまった顔立で、色が白く、目が大きくキラキラと光っている。 「やあ、私が山川です。どうぞお上り下さい……」 「はじめまして……。私、原田雪子でございます。一人で図々《ずうずう》しく押しかけてまいりましたわ。あまり人の御厄介にならない方がいいと思いまして……」 「田代君の手紙にもそう書いてありました。さあ、どうぞ……」 「ごめん下さいまし」  雪子はわるびれずに、くつぬぎに草履を揃えて脱いで、家の中に上った。とたんに、そこらあたりが明るくなったような気がした。  山川は雪子を座敷に案内した。テーブルの座につくと、雪子は風呂敷包みをといて、 「先生、洋菓子をおみやげにもってまいりましたわ。初対面で、それに用件が用件ですから、お話も弾まないでしょうし、お菓子でも食べていれば、なんとか間がもてるだろうと思いまして……」と、雪子は、こだわらない調子で云った。 「やあ、どうも……。いきとどいたお話で……」と、山川は苦笑した。 「それではさっそくばあやに仕度させますから……。紅茶でよろしいですか」 「結構ですわ」と、雪子は思いついたように家の中を見まわして、「お掃除はたいへんよくいきとどいておりますけど、やはり主婦のいない家というのは、なにか欠けてるような気がしますのね」  押しつけがましい感じはなく、山川は好感を覚えた。 「さあ、私は年中この家に住んでるんだから、なんとも思いませんが、はじめての人はそう感じるかも知れませんね。私とばあやぎりですから、まあにぎやかなことはないでしょうな……。失礼ですが、原田さんは何か職業につかれているんですか?」 「ええ、……小さな酒場をやっておりますわ。田代さんもお客さんの一人なんです」 「酒場を──?」 「ええ。田代さんは、当分それを云わない方がいいということでしたけど、私はべつに自分の職業を恥じておりませんから……。田代さんが会社の社長さんであるように、私はバーのマダムなんですわ……」 「そうですか。……むずかしい仕事なんでしょうな……」 「そうでもございませんわ。私はもともと男の方とおつき合いするのが好きなたちでございますから……」  云うことはズケズケしているが、そのわりに濁った感じはなかった。それにしても、たいへんな女を紹介してよこしたものだ──と、山川はあっけにとられた気持だった。  雪子は、そういう、山川を、たしかめるように眺めて、 「もしか、先生、お友だちか誰かと、私のお店にいらしたことがございません?」 「いや、私は酒は飲まないし、退屈するばかりだから、どこの酒場にも行ったことがありません。──どうしてですか?」 「いえ、ふっと、どこかでお見かけしたような気がしたからですわ……」 「私はお見かけしていませんな」 「一度会った人の顔を覚えてしまう──それが私どもの商売の一つのコツなんです。そのうち、どこでお見かけしたか思い出すかも知れませんわ……。先生はどうしてお一人でいらっしゃるんですか? 私は夫にも、一人ぎりの子供にも死に別れて、それから元気をなくして、ずうと一人でいるんですけど……」 「べつにどうという理由もありません。ぐずなんでしょうよ。ただ何となく一人暮しをつづけて来たようなもんです……」 「信じられませんわ。……はじめてお会いしただけでも、立派な男の方だという印象を受けるんですもの。失礼ですけど、若いころ失恋したとかなんとか、きっとそんな動機があったのだろうと思いますわ……」 「失恋しそうな男に見えますか。これあどうも心外だ。人間の行動には、なんの動機もないことだってありますよ。……貴女《あなた》こそ、そんな美しく若いのに、どうして再婚なさらないんです」 「私ですか──。おっくうだからですわ。夫婦の暮しって、私どもの場合でも、ほかさまの場合をみていましても、おたがいの人格に泥足で踏みこんでいくようなことをしょっちゅう繰り返して、しだいに離れがたいものに固められていくような気がしますわ。そういう暮しに入っていくためには、本能的な強い生活力が必要だと思うんです。そして、一度つまずいた私は、もう一度そういう生活に入っていくことが、大儀でしようがないという気持なんです。だからと云って、いまの暮しはもっと頼りないものなんですけど……」と、雪子はどうしようという考えもなく、自分の気持を正直に語った。 「そういうお気持は分るようですな。私など、根が意気地なしですから、相手の人を汚《よ》ごしてしまうことを恐れて、それでとうとう結婚しなかったのかも知れません」 「ほんとはそんな心配はいらないんですけどね。なぜって、相手もある程度汚ごされることを希《のぞ》んでいるからですわ……」  ばあやが洋菓子と紅茶を運んで来た。 「さ、それでは、飲んだり食べたりで、少し間をつないで下さい」  と、山川は珍らしく冗談を云った。 「先生が思ったよりも固苦しくない方なので、おいしく御馳走《ごちそう》がいただけますわ。御いっしょにどうぞ──」  二十分前までは、まったく未知の間柄だった二人が、いまこうしてくつろいでいるのだから、人間って不思議な能力をもってるものだ。 「……先生がいつまでも一人でいらっしゃるのが、田代さんはたいへん目ざわりだというんですが、何かそういうハッキリした理由でもあるんでしょうか。あるように思いますわ。でなければ、あんなに熱心に私を口説きはしないと思いますけど……」 「彼はそんなに熱心だったのですか? ……それあまあ、昔からの友人だし、私のことを心配してくれてるからですよ」 「そうでしょうか? ……田代さんて、自分の利益になることでなければ、そう人のために熱心になる方ではないと思いますけど……。私はべつに非難してるわけではございません。人は他人に迷惑かけずに生活してるかぎり、どんな性格であろうと、誰からも、とやかく云われる筋合いのものではないと思いますから……」  山川は、いままで話し合っただけでも、原田雪子という女はどんな過去があるのか知らないが、人や物を見るたしかな目をもっている女だと思った。 「彼の利益といったって、格別のことはありませんよ。それあ、どこの家庭にだって、長い間には、いろんなことがあるものですが、それをひとり者の私が、いつも涼しい顔で横から眺めているような恰好《かつこう》だったので、私にも結婚させて、つまらん夫婦|喧嘩《げんか》がはじまったりするのを、先方で見返してやろうという魂胆なんですよ。それだけのことですよ」 「同じことを田代さんもおっしゃっていましたわ。……私には信じられませんわ。もっと何か深い魂胆があるような気がしてなりません。先生もそれをちゃんと知ってらっしゃるんだけど、私にはおっしゃらないだけのことですわ。──私にはそんな匂いがするんですけど……」と、雪子はそう云ってから、思い出したようにポツンと加えた。 「先生。田代さんの奥さんて、どんな方ですか──?」 「立派な人ですよ」と、山川はしぜんに固い調子で答えた。 「いいえ、私がお尋ねしたいのは、御夫婦仲が円満ですか、ということなんですけど……」 「ああ、まれにみる円満な御夫婦です……」  田代にジワジワ口説かれている雪子は(ウソばっかり──)と、胸の中で舌を出した。 「そうですか。そんなに円満なんですか。……先生のお顔には、私はウソをついていると書いてありますけど……」と、雪子は、山川の顔を、ほんとに文字でも書いてあるように、ジロジロと眺めた。  子供の正直さを保っている山川は、無意識に掌で顔をなでまわし、 「そんなこと、貴女の独断ですよ。田代君が貴女のバーにときどき行ったりするから、貴女は夫婦仲が円満でないなどと判断してるんじゃないんですか?」 「そんなことはありません。三日にあげず私のお店にお寄りになるような方でも、ああ、この人は、家庭が円満なんだろうなと思わせる人もありますし、たまにしか来ない人でも、こんな人の奥さん、あまり仕合せじゃないんだわと感じさせる人もありますから……」 「田代君はその後の方なんですね、貴女の印象では──」 「さあ──」と、雪子は口をつぐんだ。  その方がしゃべるよりも強い効果があった。  山川は、雪子の云い方が率直なのに誘われて、 「貴女がここに訪ねていらっしゃったのは、田代君に義理を立てるためだったんですか?」 「まあ、義理と云えば義理でしょうが……。でも、田代さんが話してくれた先生のことに、いくらか心を牽《ひ》かれたこともたしかですわ。女をつまらないとだけ感じてる人って、どんな人だろうと思って……」 「私が一人でいるからって、そんな乱暴な結論をもち出しては困りますな。そうですな、強いて説明すれば、私には女の人を仕合せにしてやれる自信がないということなんかも知れません……」 「そういう云い方をなさるんでしたら、男は決して女を仕合せにしてはいませんわ。ただ、役に立っているだけじゃないかしら……」 「それだったら、私はあまり役に立てない人間なんだな」 「そうですか……」と、雪子はすこし色っぽい目つきで、試すように山川を見つめて、 「先生は、女の役に立てる男性ですわ。……私の鑑定にまちがいありません……」 「どうも……たいへんな鑑定だな」と、山川は顔を赤らめた。  雪子はふいに改まって、 「私もう失礼しますわ。お店の方へ顔を出さなければなりませんから……。これを機会にチョクチョクお邪魔してもよろしいでしょうか。ここの家の空気は居心地がいいんですよ……」 「よろしかったら、どうぞ……」 「ほんとに参りますよ……。先生、そこの電車通りまで送って下さいません。車を拾いますから……」 「お送りしましよう……」  二人はいっしょに外に出た。誰のものでもない、自由な美しい女性と連れ立っていて、山川はかすかな胸のときめきを覚えた。  電車通りで、車をとめて乗りこむ時、雪子は手をさしのべて、 「楽しゅうございましたわ、先生」と云った。  山川は微笑を湛《たた》えて、雪子の手を握った。 [#改ページ]  [#2字下げ]あいよる魂  室には明るい午前の陽がさしこんでいた。  倉本たか子は、背中に日光を浴びるように机を据えて、学年末の試験勉強をやっていた。が、どうもこのごろは、精神集中がうまくいかず、少し疲れると、教科書やノートの文字が無意味な記号のように見え出し、ふと気がつくと、じめじめとした後悔の念に胸を噛《か》まれているのだった。  雄吉と愛情をちかい合ったことだ。恵まれすぎたすばらしい相手だと思われるのに、どういうわけか、彼女の胸には楽しい思いが少く、重くるしい負担のような気持だけが、ジワジワと身体をしめつけてくる。  はじめの間、たか子は、恋愛というのは、みんなそんな風に、そらぞらしく窮屈な感じのものだろうと考えようとした。しかし、どうしても、感覚的に納得がいかず、結局、自分が身のほどもわきまえず、高すぎる相手を選び、無理をして、しょっちゅう背伸びをしてるせいだと考えた。  自分のすなおな、ありのままの気持を押えつけてしまって、無理なポーズで行動してるから、重苦しくそらぞらしいだけで、楽しい気持が一つもないのだ。──雄吉について、たか子が見聞してるかぎり、そのほかには考えようもなかったのである。  なぜなら、雄吉はまれに見る美青年で、頭もよく、将来の職業も安定し、ブルジョアの長男であり、しかも、そういう恵まれた条件を備えているにもかかわらず、過去に女との噂はきいたこともないというのだ。そんな相手を恋人につかんで、楽しく燃え上ることが出来ないというのは、自分の方になにか欠陥があるにちがいないのだ。──たか子には、そうとしか考えようがなかったのである。  そういう劣等感に悩まされたあげく、肉体で結びついてしまえば、すべての不安が解消するのではないだろうかなどと、哀しい妄想にとりつかれたりした。だが、現実にそこまで踏みきることが出来るはずもなく、たか子は、成《な》る可《べ》く雄吉と二人ぎりになる機会を避けるようにつとめるしかなかった。そして、いまでは、田代家を訪れることさえもの憂くなり、学校もなにもかも捨てて、田舎へ帰ってしまおうかしらん、と考えることもあるほどだった……。  ドアをノックして、黒いセーターから水色のシャツの襟をのぞかせた民夫が顔を出した。 「たいへんだね、試験勉強で──。おふくろが、御馳走があるから、昼飯をいっしょに食べようと云ってるよ」 「ありがとう。どうして御馳走つくったの?」 「こさえたんじゃないんだ。おふくろの働いている料理屋で、団体の人数が急に減って、あまった御馳走を安く分けてもらって来たんだってさ……」 「そう。……民夫さん、ちょっとそこをしめて……」と、たか子は、民夫を室の中に入れて、 「貴方《あなた》、このごろくみ子さんに会ってるの?」 「会わないよ。……くみ子さん、僕の出るクラブへ来ないもの」と、民夫はドアにもたれ、両手をポケットにつっこみながら云った。 「寂しいでしょう?」 「そんなことはないよ。……あの野郎の妹で、同じ家に住んでいるのだと分ったら、僕、どうでもよくなったんだ……」 「これぎり会わないつもり?」 「向うで来ないかぎり会わないよ」 「くみ子さんもそう思ってるかも知れないわね。だって、くみ子さんの立場からすれば、貴方はママさんを裏切った人の子供ということになりますもの……」 「おふくろはそんな大げさな人間じゃないよ。人を裏切るなんてさ……。くみ子さんの親爺《おやじ》の責任だよ。僕あそいつを一発殴りつけてやりたいと思ってるんだ」と、民夫は少しムッとした口調で云った。  たか子は微笑して、 「野蛮だわ。それに貴方の方が殴られますよ。柔道二段だか三段だそうよ……」 「その野郎の話はよせよ」 「よすわ。……くみ子さんはあれから、どことなく寂しそうにみえるわ……」 「俺のせいじゃないよ。……オヤジのことが憂鬱《ゆううつ》なんだろう、きっと」 「民夫さん、ごめんなさい。私、一昨日、玄関の郵便受けの所で、何気なしにお宅の箱を見たら『くみ子』と記したお手紙が入ってるのが、ガラス越しに見えたわ。……貴方、私にウソをついてるのね?」 「チェ!」と、民夫は赤い顔をして、あわてて外方《そつぽ》を向いた。 「おねえちゃん、油断がならない人だな。……ガラスから見えたんじゃ、怒るわけにもいかないしな、……ホラ、これだよ」  民夫は、ズボンのポケットから、二つ折りにした封筒をとり出して、たか子の方に投げてよこした。 「拝見するわね」  それは、一枚ぎりの書簡|箋《せん》に、大きな字で、  ──十六日午前七時、神宮外苑の絵画館の前で、貴方をお待ちしております──  と、だけ記されてあった。 「変だろう?」 「変じゃないわ。明日の朝の七時に、神宮外苑で貴方を待ってるんでしょう」 「おねえちゃん、にぶいな。午前七時というのは何だい。おねえちゃんがやっと起きるころ、僕はグウスカ眠ってる時間だぜ。……そんな時間に人を呼び出すことはないだろ。……あの人変ってるね、おねえちゃん」 「そう云えばそうね。……午前七時。……なるほど、大変だわ」と、たか子は手紙の裏を引っくり返して眺めたりしていたが、ふと、 「でも、私には分るわ。あの人、普通のあいびきみたいに思われるの、いやなのよ。だから、午前七時と指定したのよ。その時間だったら、眠くて寒くって、誰だってあいびきじみた気持にならないでしょう。くみ子さんらしい感覚だわ。……ほんとは午前五時ぐらいを指定したかったんだわ、……きっと」 「冗談じゃないよ。自意識過剰だよ、あの人は……」と、民夫は、たか子の説明に少しばかり感動したような表情で云った。 「でも、貴方、明日の朝、牛乳配達のように早起きして、神宮外苑に行くんでしょう。……目覚時計を貸して上げてもいいわ」  たか子にからかわれると、民夫はムッとふくれて、 「行くかどうかまだ決めてやしないよ。行かなくったっていいんだ。……でもさ、くみ子さんが、午前七時に神宮外苑に来るには、五時半ごろ起きなけあ間に合わないよ。女の人だから、顔をていねいに洗って、髪をなでつけたりしなけあならないだろう。それから電車に乗って外苑まで来て待っていても、誰も行かなかったら、気の毒じゃないか……」 「私にきいたってしようがないわ。御自分のいいようになさい」 「チェ! 意地わるなんだな、おねえちゃんは……」 「そんなことないわ。自分が後めたいから、そう聞えるのよ。……およばれされたら、お腹が空いて来たわ。もう仕度が出来てるんでしょう。行きましょうよ」 「ああ」  二人は民夫の室にうつった。トミ子は昼食の仕度を整えて二人を待っていた。食卓の上には、焼魚、刺身、肉の煮込み、酢のものなどが並んでいる。 「さあさあどうぞ……。残り物みたいな御馳走で申しわけないんですけど、べつに人が口をつけたわけではないんですから……」と、トミ子はうれしそうにたか子を迎えた。 「すてきですわ。……小母さんとこのおひつが空になるほどいただきますから……」  たか子は、食卓に並んだ御馳走を眺め下し、白いセーターの腕まくりをしながら座についた。 「どうぞどうぞ。御飯が足りなくなれば、民夫にはパンを当てがいますから御遠慮なくどうぞ……。男の子というものは、大きくなると、頼りにはなってくれるけど、ふだんの話相手には向きませんよ。木で鼻をくくったような返事ばかりしますからね。やっぱり、親子の関係でも、女は女同士の方が気持が通じやすいものですよ。……だから私は、倉本さんさえ差しつかえなければ、おたがいに持ちよりで、朝だけでもいっしょに食事をしたいと思ってるんですよ。なあに、仕度は私がしますよ。年寄りは朝が目ざといんですからね……」 「だめだよ、お母ちゃん。……僕、ときどきのぞいて知ってるんだけど、倉本さんは雪国に育ったせいか、口がひん曲るほど塩気の強いものばかり好きなんだよ。あれのおつき合いは、僕、ごめんだな……」 「民夫さんは人間が甘いから、もう少し塩を利かせた方がいいんだけどな……」  冗談を云い合いながら、食事をはじめた。くつろいで楽しかった。この人たちといっしょだと、たか子は水の中の魚のように、気らくに振舞えた。それが、雄吉と二人ぎりでいると、どうしてあんなに窮屈な思いがするのであろう……。  食事がすみ、食後のリンゴを食べながら、三人で話しこんでいると、誰かがドアをノックした。そして、こちらが返事をする間もなく、 「ごめんなさい」と声をかけて、例のダッフルコートを着た田代信次が、入口に姿を現わした。  それを認めた瞬間、民夫は顔色を変えてテーブルから後しざり、敵から自分の身を守ろうとでもするように、洋服|箪笥《だんす》を背にして、ある構えをつくった。 「あら!」とつぶやいて、たか子も身体を固くした。  トミ子だけは、ニコニコ笑い出して、「おや、お正月にいらした民夫のお友だちの方ですね。どうぞどうぞ。もう少し早くいらっしゃると、今日は少しばかり御馳走があって、ごいっしょに食事をしていただけたんですがね。どうぞ、お上りなすって……」  信次は、たか子に目顔であいさつすると、ダッフルコートを脱ぎながら、室に上った。 「民夫。どうしたんだよ。お友だちじゃないかね。御挨拶《ごあいさつ》したらいいだろう……。貴方、どうぞ座布団《ざぶとん》をおあてなすって……」 「俺はそんな野郎知らねえよ。友だちでもないんだ。どこの馬の骨だか知るもンか! ……」  民夫は、握拳《にぎりこぶし》を固めて、腕をグイと突き出しながら怒鳴った。その勢いに、トミ子はびくりとふるえて、 「だってお前、この方もそのつもりで、私たちの宴会に加わって、いっしょに踊ったり唄ったりして……、あの時、お前はいなかったけど……すると私が、年ごろや風体も似ているし、勝手にお前の友だちだとまちがえたのかね。それならそうと、この方のほうからおっしゃりそうなものだけど……。民夫はああ云ってますし、貴方はいったいどなたなんですか!」  信次は、座布団にキチンと膝を正して坐《すわ》り、落ちついた微笑を浮べて、軽く頭を下げ、 「すみませんでした。あの時は、貴女が、室に顔を出した僕を、いきなり民夫君の友人扱いをされたので、それになりすまして御馳走になっていったんですが、じっさいはそうじゃないんです……。僕民夫君の友人でなくて、兄なんです……」 「民夫の兄──」  トミ子は、相手の正気を疑うのか、哀れむような目なざしで、じいと信次の顔を眺めた。 「そうです兄です。……僕は貴女《あなた》の子供です。……田代信次です」  信次が畳みかけてそう云った時、室の空気がキスキスと音を立てて凍りつくように思われた。  トミ子は、二、三度大きく慄《ふる》え、顔を蒼白《そうはく》にして、しばらく口をポカンとあけて、信次の顔を眺めていた。が、やっと不安定な声で、 「あの……貴方が、田代信次さんだとおっしゃるんですか……貴方が……」 「小母さん。そうなの。この方が田代信次さんなのよ。私、信次さんの妹さんの家庭教師をしているので、しょっちゅうお伺いしてるんです。……信次さんって、いい方ですわ、小母さん……」  たか子の言葉が、やっとトミ子の現実感を呼び起したらしく、キチンと居ずまいを正して、まるでうわの空な調子で、 「貴方が……信次さんですか。私……トミ子でございます。……申しわけございません……」と、頭を深く下げて、それぎり顔も上げずシクシク泣き出した。 「とんでもないことです。申しわけないのは、僕のオヤジの方です。オヤジに代って、貴女に苦労させたお詫《わ》びを云いたいぐらいですよ……」  信次は、いたわるように、手をさしのべて、トミ子の肩を軽くたたいた。トミ子は、片手で目を押えて顔を上げ、 「いいえ、私は生みっぱなしで……何一つ貴方の面倒もみて上げられないで……ほんとに、合せる顔がないんです。それなのに、信次さんはこんなに大きく、立派になられて……私、一度は、貴方のいまのお母さんに、貴方を立派に育てて下すった御礼を申し上げなければならないと思いますよ。……生みの母が私のような人間では、貴方もさだめし肩身が狭いことでしょうが……」  そう云ってるトミ子は、身体までが小さく縮かんでいくように、たか子には思われた。 「よしなよ、お母ちゃん!」と、民夫が、横から、かすれた声で怒鳴った。 「そんな野郎に、あやまったり泣いてみせたりすることは一つもないんだ。……こっちが地面に手をついてあやまってもらいたいぐらいなんだ……」 「何を云うんだね、民夫!」と、トミ子も興奮して云い返した。 「かりにも信次さんは、お前の兄さんだよ。私でも死んでしまえば、お前には、この人のほかには血のつながった人がなくなるんだよ。……ちゃんと御挨拶して、今後面倒みてもらうようにお願いしなさい、民夫!」 「チェ! いやだよ。俺は兄貴なんていらねえよ。俺は俺一人でたくさんだ。昼間の幽霊じゃあるまいし、いまごろ変てこな面を出しやがって、兄貴でございたって、胸くそがわるいや。トットと帰ってもらいたいもんだ。……帰れよ、この野郎!」 「民夫。お前は自分の兄さんに向って、なんて口を利くんだい! ……お前は信次さんを恨むことは一つもないんだよ。私は、信次さんを生んだだけで、なに一つ世話してあげられなかったけど、お前とはずうといっしょに暮して、今日までお前を育ててやったんだからね……」 「ああ、俺はお母ちゃんに、たいへん立派に育ててもらったよ」と、民夫はふてたように尻《しり》をついて、身体を半分ほどグイとまわした。 「学校へ行っても靴が買えないで、いつも泥まみれの草履ばかり穿《は》いていたんだ。二日も三日も御飯が食えないで、百姓家の畑から人参や大根をぬすんで、生まで噛《か》じったことだってあるんだ。俺は一生あのころのことを忘れないぞ。……俺はお母ちゃんといっしょで、たいへん仕合せに育ててもらったんだ……」 「何を云うんだね、この親不孝者。お母ちゃんだって、一生懸命だったけど、どうしようもなかったんじゃないか。はじめて会う信次さんの前で、お前はなんてことを云うのだい。……お前はほんとに親不孝者だよ……」  トミ子は畳をたたいて、民夫の方へにじり寄った。 「ほんとよ、民夫さん。はじめて会う人の前でそんなこと云わないものよ」と、たか子もわきから口を添えた。  すると、民夫は一そう興奮して、 「それだけじゃないんだ。俺は……俺は……、腹がへってたまらないので、パン屋の店先きからパンを盗んで食ったことだってあるし……ある時、店の人のすきをねらって、銭箱から銭を盗んだのを、その店のオヤジに見つけられ、鼻血が出るほどぶん殴られて、首筋をつかんで家へ連れてこられたことだってあるんだ。お母ちゃんだってあの時、畳に顔をくっつけて平あやまりにあやまったのを、覚えているだろう。……俺たちが、そんな暮しをしてる時、その野郎は大きな家でぜいたく三昧《ざんまい》な暮しをしていたんだからな。そんな奴を、俺はぜったい、兄貴だなんて認めないんだ! 俺には兄貴なんてないんだ! 俺は俺一人でたくさんだよ、お母ちゃん……」  半ばころから涙声になり、目の前の洋服箪笥を握拳でガタガタたたいたりした。信次は、そういう民夫を、ゆがんだ感じの微笑を浮べてじいと見つめていた。「民夫の親不孝者!」と、トミ子も身体を慄わせて、泣き声で云い返した。 「お前ははじめて会う兄さんの前で何を云うんだい。……信次さん、民夫がパンだの銭だの盗んだと云ってるのは、みんなウソでございますよ。学校もよく出来たし、私の云うこともよくきいて、ほんとにいい子供でしたよ。貴方の弟として、ちっとも恥ずかしくない人間でございますよ。ただね。信次さんがお金持の家に育ったというので、それで少しばかりふてているんですよ。……民夫、お前は信次さんや倉本さんのいる前で、私に煮え湯を呑《の》ませるような思いをさせるんだね。親不孝者が──」 「お母さん」と、信次ははじめてそういう呼び方をして、 「腹がへった子供が物をとったって、僕はわるいことだとは思いませんよ。……それよりも、自分で昔のそんなことを根にもって、いつまでも劣等感にとりつかれているのは、男として意気地がないと思いますよ……」 「なにを! この野郎」と、民夫はまた洋服箪笥をガンとたたいた。 「民夫。信次さんはあんなに分ったことを云って下さるのよ。お前も強情をはるのをいい加減にやめて、信次さんに、弟としてよろしく頼みますと頭を下げたらどうだい……」 「ハハハ……」と、民夫はとってつけたように笑い出した。 「お母ちゃんこそ、俺とその野郎を他人扱いしてるじゃないか。その野郎を呼ぶ時には『さん』をつけて、俺のことは『民夫』って呼び捨てじゃないか。兄弟なら兄弟らしく、その野郎も呼び捨てにするか、でなかったら俺にも『さん』をつけてもらいたいもんだハハハ……」  すっかり子供がだだをこねてるような調子になった。たか子と信次は顔を見合せて、気づかれないように、微笑した。単純で正直なトミ子だけは、民夫の言葉をまともに受けて、息がつまったように、 「それあお前がそうしろって云えば、私はそうするよ。どっちにも『さん』をつけるか、でなければ呼び捨てにすればいいんだろう」と、それでどっちにするか迷ったように、口をつぐんだ。 「そうだよ。同じに扱ってもらえれば、文句がないんだ。云ってみてくれってえんだ……」と、民夫は容赦なくつめ寄った。  トミ子は、不安そうに首をふって、 「ああ、云うよ……。この人は、お前の兄さんで、信次──だよ。信次さんは、いえ、信次は──。貴方《あなた》ごめんなさい。……民夫、私には云えやしないよ。自分の子供だって、生みっぱなしで、今度はじめて会う人を、私は申しわけなくて、呼び捨てなどは出来あしないよ。お前は私に出来ないことを無理強いしてるんだ。お前は親不孝者だよ……」と、テーブルに伏せって、子供のようにかぼそい声をあげて泣き出した。  民夫は意地わるそうにせせら笑って、 「そうらみろ。出来あしないじゃないか。片方は呼び捨てで、片方は『さん』をつける。そんな兄弟って、世界中にありあしないよ。だから、俺は認めないんだ……」 「つまらない云いがかりをつける人だな、君は──」と、信次はダッフルコートを抱えて、ゆっくり立ち上った。 「それじゃ、僕が君に『さん』をつけてやろうか。民夫さん、民夫どの、民夫大将、民夫閣下……もっと云おうかね」 「なにい! この野郎!」と、民夫は血相を変えて立ち上った。  すると、たか子が飛び起きて、力一ぱい、民夫の腰に抱きついた。 「民夫さん。およしなさい。よしてよ……」  不意をくった民夫は、たか子もろとも、畳にペタンとつぶれた。 「僕はもう帰るよ。君はあんがい古くさいんだな。昔の境遇がどうだろうと、それをメロドラマ式にじめじめ考えるのはだめだよ。もっとドライにわりきらなければ……。僕が君の兄貴だということは、そのうち、ゆっくり思い知らせてやるからな。……お母さん、ごめんなさい……」 「なにを!」と、民夫はもう一度立ち上がろうとしたが、たか子は必死で押えつけた。  信次は、手を上げてたか子に挨拶をして、室から出て行った……。 「さあ、小母さんは私の室にいらっしゃい。二人ぎりでいるの、しばらく気まずいでしょうから……。その間に、民夫さんは働きに出かけていくのよ。いいでしょう」  たか子は立ち上って、トミ子を誘った。すると、民夫が、思いがけないすなおな口調で、 「──いいよ。おふくろをおいていってもいいよ。俺、もういじめないよ。俺、ちょっとばかりヒステリーを起したんだよ。おかしかったろう……」 「おかしいことはないけど、信次さんが云うとおり、昔のことでじめじめするのは、バカげていると思うわ」 「分ったよ。俺、いまは恥ずかしいんだ、……だけど、やっぱり俺は、あいつが兄貴だなんてことは認めないんだ……」 「それは……貴方の自由だわ。小母さん、もうすんだんですから心配しないでね……」  両手をテーブルにのせてぼんやりしているトミ子に、やさしい言葉をかけてやって、たか子は自分の室に引っ返した。  ──翌朝、民夫は、午前三時に床の中で、目を覚ました。周囲はひっそりと静まりかえって、隣の床で、母親が安らかな寝息をもらしていた。  時間が早すぎるので、民夫はもう一度眠った。そして、今度目を覚ました時は、五時半になっていた。民夫は、母親の眠りを妨げないように、そっと寝床をはなれた。と、トミ子がハッキリした口調で、 「──お前、こんなに早く、どこへ行くんだい?」と尋ねた。 「なあんだ。目が覚めていたのかい。……友だちが早い汽車で旅に出るので、そいつを送っていくんだよ」 「そうかい。御苦労だね……」  民夫は洗面をすませ、よそゆきの服を着た。その間、トミ子は一言も云わなかったので、また眠ったのだろうと、民夫は思った。すると、不意に、トミ子がじいと考えこんでいたらしい練れた調子で、 「民夫や、昨日来たお前の兄さんだがね。お前はあの時なんだかんだと難くせをつけたが、しかし落ちついて考えてみると、あの人はなかなかしっかりした若者じゃないかね。身体だって、お前の兄さんらしく、ガッチリして一とまわり大きいし、男ぶりもわるくはないよ。それに何よりも、気性がゆっくりして、人をいたわる温かい気持があるよ。お前があんなに荒れても、あの人はお前を子供扱いしていたからね。……ほんとに立派な青年だよ。お前そう思わないかい、民夫?」  民夫は、鏡に向ってネクタイを結びながら苦笑した。 「そんなこと、俺が知るもんかい。お母ちゃんが好きなように考えたらいいだろう……」 「私はね、寝床の中でしみじみ考えたんだよ。私って、ずいぶんつらい生涯をすごして来たけど、お前と云い、信次さんと云い、自分がお腹をいためた子供だけは立派な人間ばかりで、それを思うと昔のいろんなつらかったことが、帳消しにされるような気がするよ……」 「いい気になってると後悔するぞ、お母ちゃん。俺にしたって、お母ちゃんに難儀をかけるのはこれからだからな。女の子が好きになる年ごろが、親不孝のはじまりなんだぜ」 「私は、早くお前が好きになる女の子の顔を見たいと思ってるよ。お前はガツガツしてないから、きっといい子をつかむよ。……民夫閣下、そうだろう?」 「よせやい。俺、またあばれるぜ。……ともかくお母ちゃんは長生きするよ。のんびりしてるもンな。──俺、行ってくるから……」  民夫は神宮外苑に行くために家を出た。  街にはうすい靄《もや》が流れていた。  靄の底の方にはまだ覚めきれない夜のしずけさが、そこここに残っているような気がする。  民夫は都電で水道橋に出て、そこから国電に乗りかえた。早朝のことだから座席は空いていたが、坐《すわ》る気がせず、吊皮《つりかわ》につかまって、移り変る窓の外の景色を眺めていた。  どういうわけか、彼の頭の中には、これから会いに行くくみ子のことよりも、昨日訪ねてきた信次のことばかりが思い出されていた。  一度より、二度目の昨日の方がずうと印象がよくなっている。あんなにからんでやっても、もてあました風もなく、軽くこちらをあしらっていた。相当な奴にちがいない。人相だってイヤらしい所がない。 (自分が兄であることをゆっくり思い知らせてやる)と云ったが、どんなことをするつもりか御手並を拝見しようじゃないか。下手なことをしたら、ウンと軽蔑《けいべつ》してやろう……。  それにしても、昨日の自分のとり乱し方はどうだ。電車の中であることも忘れて、駈《か》け出したくなるぐらいに恥ずかしい。あんなにとり乱したということは、それだけ自分が兄貴の存在に強い関心を抱いていることにほかならないのだ……。  ともかく、普通の知人、友人とはちがう親しい関係の人間が、つぎつぎと自分の身近に出来かかっている。信次がそうだ。それからくみ子。それから倉本たか子。──そして、それだけ、生活がひろく充実していく感じ……。  民夫は信濃町《しなのまち》で電車を下りて、白い靄が流れる神宮の外苑に入っていった。ひろい舗道には、ときおり物をきりさくような快よい音を立てて、自動車がはしっていたが、人の影はまばらだった。茂った植えこみの中では小鳥たちがやかましく囀《さえず》り交わしていた。  民夫は、靄の流れの中をくぐりぬけながら、絵画館の前の広場に出た。コンクリートの路面がしらじらとして、人影ひとつ見えなかった。靄の流れ工合では、自分一人だけが、未知の別世界にふみこんで来たような心細い気持になったりする。  絵画館の前に人工の池があった。民夫は石の段を上って、その池のふちのてすりにもたれて、下をのぞきこんだ。水道のものらしい、澄んだ水の面には小波《さざなみ》がよっており、中には草も生えず、魚の影も見えなかった。  目を上げると、両側は二列に植わった銀杏《いちよう》の並木がある参道がまっすぐに伸び、冬枯れした梢《こずえ》の上にはアパートの集団や野球場の外壁などが望まれた。池のすぐ前の運動場の赤土には霜柱が立ち、その両側には、ヒマラヤ杉やヒバなどのくすんだ緑がまじった植えこみがあった。──空は白っぽく曇って、太陽の影が、切りぬいたように丸くボンヤリと浮き上っていた。  ふと、民夫は銀杏の並木の下の舗道に、小さな黒っぽい人影を認めた。それはまだるっこいほど少しずつ、こちらに近づいてくる。靄で姿が消えたかと思うと、今度現われた時は、紺のオーバーを着て、赤いカバンを下げ、すこしびっこを曳《ひ》いて歩くくみ子の姿がハッキリと認められた。  靄がすこしずつはれて、あたりが明るくなって来た。民夫は池をまわって、くみ子を迎えに出た。  ヒマラヤ杉の重く垂れた緑の枝の下に立っていると、朝の冷い空気で頬を赤くしたくみ子が、白い息を吐きながら近づいて来た。 「お早う、くみ子さん」と、民夫は手をあげて挨拶《あいさつ》をした。 「あら、もう来ていたの。七時に十分も間があるわ。私、貴方《あなた》がこんなに早く来られるとは思わなかったわ」  くみ子はいくらかはにかんだ、うれしそうな様子で、民夫のそばに寄って来た。 「いまごろ、こんなに寂しい所で、君をひとりぼっちで待たせておくのはわるいと思ったからさ」 「お母さんに起してもらったんでしょう?」 「いや、一人で起きたよ。何べんも目が覚めたんだ。……おふくろがびっくりして、何処へ行くんだと尋ねたから、楽団の友だちが旅に出るのを送りに行くんだとウソをついて出て来たんだ」 「──私もウソをついて出て来たわ。学校で、授業前に自治委員の打ち合せがあるからって……。ウソをつかなくてもいいことなのにね……」 「だってしようがないよ。こういう時は、ウソをつくことに相場がきまっているんだから……」  二人は顔を見合せて、明るく微笑した。 「どこかへ腰かけようや。……そのカバン重そうだな。僕が持っててやる……」  民夫はくみ子の赤いカバンを持ってやって、さっき自分が立っていた、池のふちの高い段の上にのぼった。そして池を見下すように、厚い石のふちに腰を下した。 「ずいぶん会わなかったような気がするわ……」 「ほんとだな……」  二人は探るようにおたがいの顔を見つめた。 「貴方、すこし変ったわ」 「君も変ったよ」 「どんな風に──」 「大人っぽくなったよ」 「貴方もそうよ」 「ちょっとの間だったけど、おたがいに苦労したのかな」 「そう。苦労したのよ」  二人は声を立てて笑った。 「ここから見ると、並木の道がまっすぐだろう。君の姿がずうと向うに見えた時、僕はうれしかったんだ。ときどき靄に隠れたりしたけど、僕は君が近づいてくるのを、じいと眺めていたんだ……」  くみ子は並木道の方を眺めていたが、ふと暗い顔をして、 「……近くなりしだい、私がびっこを曳いているのハッキリして来たんでしょう。ここからだとよく見えるわ……」  民夫は顔を赤らめて、 「僕、君にはウソをつかないよ。そうなんだ。銀杏の並木道の下を、君がこちらに近づいて来しだい、足がわるいのがハッキリして、僕ははじめて、ああ気の毒だなと思ったんだ。……あの野郎のせいだってきいたけど、僕まで変に責任を感じさせられちゃった……」 「誰のせいだか、瞬間のことで分りあしないわ。……私のせいなのよ……」  そう云いながら、くみ子は、庭で梯子《はしご》のてっぺんにのっていた、幼い日の自分の姿をふっと思い出した。 「君、でも、あの野郎と一ばん気が合うんだって、倉本さんが云ってたけど……」 「そう。なぜって、信次兄さんは、私がびっこだからって、ちっとも私にハンディキャップをつけないからだわ。私、そういう人が好きなの……」 「……君のこのカバン、ずいぶんふくらんでるけど、みんな教科書なの?」と、民夫は、膝《ひざ》の上に置いたカバンを押すようにしながら尋ねた。 「押しちゃあだめ……。教科書のほかに、昼飯と朝飯が入ってるの。昨夜のうちにサンドウィッチをこさえておいたのよ……貴方もまだでしょう。ここでいっしょに食べる?」 「ああ、君のぶんが足りなくならなければ……」 「いいわ」  くみ子は、赤いカバンを開けて、紙ナプキンに包んだサンドウィッチをとり出した。そして、二人で仲よく食べはじめた。 「……昨日ね。おふくろと僕と倉本さんが室にいっしょにいる所へ、君の兄貴がとつぜん訪ねて来たんだ。ちゃんと名乗りをあげてね……」 「そう。……貴方、歓迎してあげた?」 「いや。追い返してやった。……おふくろは泣いてたけど……」 「どうして? 私と信次兄さんが兄妹であるように、貴方とあの人も兄と弟の関係じゃありませんか……」 「そうかも知れないけど……僕はまだイヤなんだ!」 「どうして──? お母さんをひどい目にあわせた男の子供を、兄だと認めるのはイヤなの? ……貴方、私たちの父を憎んでるんでしょう?」 「そんなことはない。僕の親爺《おやじ》だって、おふくろをさんざんな目にあわせたんだから……」 「貴方のお父さん、何していた人?」 「飲んだくれの請負師だったのさ。……おふくろは其奴《そいつ》に殴られたり蹴られたりしていたんだ。……貴女に、ほんとのことを云ってもいいかい?」 「いいわ。なに云われたって、私、つぶれはしないから……」 「貴女のお父さんは、決しておふくろを殴ったりせず、紳士的だったけど、冷たかったっていうんだ。僕の親爺はおふくろをひどくいじめたけど、本気でやっていたから、おふくろには忘れがたい人だっていうんだ……」  靄が拭《ぬぐ》ったようにはれて、太陽の光が、はなやかに外苑を照らし出した。自動車や人間の動きもしだいに多くなっていった。 「父はたしかにそうだったかも知れないわ。でも、私は、大切なことで本気になれない父を、気の毒に思ってるわ。……それに、父がどうであろうと信次兄さんはその責任を分つことがないと思うんだけど……。貴方がどうして信次兄さんを嫌うのか、私には分らないわ」 「貴女と僕の間に、邪魔な奴がヌウと立ちふさがったような気がしたからだよ」 「私たちそんなに親しかったかしら?」 「でもさ。まったくのサバサバした他人同士だと思っていたのに、間に、両方に血のつながりがある奴が入りこんで来たんだから……」 「それでも、貴方と私は他人同士よ。しようと思えば、結婚だって出来るわ」 「僕、そんなこと考えてやしないよ」 「私も考えてやしないわ」 「でも、僕は共通の兄貴がいるの、イヤなんだ。認めたくないんだ……」 「貴方に追い出されて、信次兄さん、なんて云って……」 「──いまに兄貴であることを、ガンと思い知らせてやる──と云ったよ」 「あの人、きっとそうするわ」 「こっちも、兄貴でないってことを、ガンと思い知らせてやるよ……」 「貴方、子供くさいことでこだわってるんだと思うわ」 「僕は、大人だよ。……いま思うとね、あの野郎が昨日訪ねて来たのは、倉本さんとしめし合せていたらしいんだ」 「そうだと思うわ。……誰だって信次兄さんと貴方は兄弟らしいと感じますもの……」 「僕はイヤなんだ」 「だだっ子。──昨日あの人が訪ねていった時、だれとだれが泣いたの」 「おふくろが泣いたよ」 「貴方は──? 信次兄さんは泣く人でないことが分ってるから……」 「僕か。僕は──」 「ウソついちゃだめよ」 「僕は、泣いたよ。そんなつもりじゃなかったんだけど、つい昔のつらい暮しを思い出したら、腹が立ったんだ。──でも、いまここへ来る電車の中で、そのことを思い出したら、恥ずかしくて、電車の床にひっくり返りたくなったよ」 「だめねえ。私までガッカリしちゃった。貴方、ジャズシンガーのくせに古くさいのね……」 「あの野郎もそう云ったよ」 「今度はもう泣かない?」 「──僕、自信がないよ。貧乏してると、新しい人生観を身につけにくいんだ……。君、まだ、学校、大丈夫?」 「大丈夫よ」と、くみ子は腕時計をのぞきこんだ。  そのわずかの暇に、民夫は、紺のオーバー、黒のストッキング、黒の靴に身を包んだ、くみ子の彫りのふかい清らかな横顔を、貪《むさぼ》るようにぬすみ見た。横から、朝の柔かな日光を浴びたその顔は、額や頬の皮膚が、輝くように美しかった。 「──君、きれいだな」  くみ子が顔を上げた時、民夫は嘆息をつくように、つい、そう云った。 「そう思う?」と、くみ子は顔を正面に向けて、民夫の目をじいと見つめた。  民夫は、その強い視線を受けきれずに、不規則なまたたきをしながら、 「そう思うよ。……僕がキザなことを云ったと思うかい?」 「思わないわ。……うれしいわ。誰に賞められたより……」 「──少し歩こうか……」 「うん」  二人は池のふちの台から下りて、絵画館の裏手の方に歩き出した。もうそのころには、勤人や学生の群れが、急ぎ足に舗道を往来していた。  舗道に添うた植込みの樹々は、おおかた落葉して、まばらな枝々の間から、朝の日光が、まるで液体のような感じで、明るく差しこんでいた。  二人は樹々の間をくぐりぬけて、植込みの端《はず》れの崖際《がけぎわ》に出た。そこは深い切り通しになっており、下を国電の路線がはしっていた。向う側には、K大学の付属病院の白い建物が聳《そび》えている。  二人は崖際の石垣の上に、並んで腰を下した。と、凄《すさま》じい地響きを立てて、電車が足もとをはしっていった。ラッシュアワーのころなので、人がいっぱいに乗っていた。  話すこともなくなったようで、民夫は、自分が持っているくみ子のカバンの中から、手当りしだいの教科書をひきぬいて、ページが開いた所を声をあげて読み出した。 「──水は人の生活に一日も欠くことが出来ないものである。人体の約六十五パーセントは水であって、あらゆる生理作用が水によって行われている。たとえば、栄養素の消化吸収、老廃物の排せつ、体温の調節などである──。僕はね、金があれば大学に行きたかったんだ。いまでも学生をみると羨《うら》やましくて仕方がないんだよ……」 「貴方《あなた》には才能があるんだから、そんなこと、大したことではないと思うわ」 「線香花火のような才能がね」 「────」  くみ子は、黙って両肱《りようひじ》を立て、掌に顎《あご》をのせて、じっと前方を見つめていた。 「君、何を考えてるんだい?」 「なんにも──。私ね、中学の二年生の時、そこの病院に来たことがあるの」 「なにか病気だったのかい?」 「ノイローゼみたいなものよ。……婦人科に行って、私のように足がわるくても、子供が生めるものかどうか、身体をしらべてもらったの……」 「お母さんに連れられて──か?」と民夫は顔を硬《こわ》ばらせて尋ねた。 「ううん。うちの人は誰も知らないわ。私ひとりで決心していったんですもの……」 「だって……僕、男だから知らないけど、そんな心配なものなのかね?」 「私、小学校のころから、それが気にかかっていたわ。お風呂《ふろ》に入ると、よく、鏡に自分の身体をうつして、煩悶《はんもん》していたものだわ」  おしまいの言葉は、切通しを往来する電車の轟音《ごうおん》に妨げられてよくききとれなかった。民夫は、それで、かえってホッとしたぐらいだった。 「そんなこと……僕、知らないな。女の人って、小学生のころでも、子供を生むことを考えてるなんて……」  民夫は、顔を赤らめながらも、ほんとの知恵を求める表情をみせて云った。 「それあ考えてるわ。お伽話《とぎばなし》的な要素も少しは混じってるかも知れないけど……。私の身体をみた、そこの病院の先生も、それを知らなかったわ」  くみ子は指をさして、向い側の病院を示した。 「誰だって、そんなこと知らないと思うな。恋愛の感情もないのに、子供を生むことを考えるなんて……」 「だから、貴方がたは男なのよ。……私、そこの病院に行った時のお話、しましょうか。いままで家の人にも誰にもしゃべったことがないんだけど……。ああ、そうだわ。倉本先生にだけ、病院に行ったというお話、したことがあるわ。はじめてお会いした時だったかも知れない……」 「僕は……ほんとうは聞きたいんだが……聞くのは君にわるいような気もするんだ……」 「いいわ、貴方が目をパチクリさせて、一ばんすなおに聞いてくれそうだから……。あれは、いまから三年も前、私が中学校の二年生のころだったわ……」  また電車が崖下の切通しですれちがい、その凄じい轟音と地響が、くみ子のいう三年前のある日の出来事を、目の前に再現するかのように思わせた……。  ──白い厚い雲がひろがった初秋のある日の午前だった。田代くみ子は白い大きな襟がついた紺地の子供っぽい制服を着て、病院の廊下のベンチに坐っていた。膝の上にふくらんだカバンをのせ、片手に診察券をしっかと握りしめていた。  長い廊下のベンチには男、女、老人、子供など、雑多な患者が、順番を待ってギッシリと立っていた。母親らしい患者たちがつれて来た子供たちが、泣いたりわめいたりしながら、そこらを馳《か》けまわっていた。 (自分が診察してもらうのに、なぜ用もない子供たちを病院につれてくるのだろう……)  庶民の暮しを実感として知らないくみ子は、自分の気持がイライラするままに、吐きすてるように何べんもそう思った。  どの患者たちも、入口の下足で借りる、汚れた藁草履《わらぞうり》をつっかけていた。くみ子自身もそうだ。それが彼等に、何かの烙印《らくいん》でも押されたかのような、ある種の劣等感を覚えさせるのだ。そして、それと対蹠的に、ときたま廊下を通る白衣の医者や看護婦が、ここではひどくえらいものに見えるのだった、殊に、悩みぬき、考えぬいた末に、この病院を訪れたくみ子には、彼等が、自分の人生を決定する、至上の権力者のようなものに思われたのであった。  目の前にずらりと並んだ診療室には、それぞれ専門の科の名札が掲げられてあった。くみ子は、子供のよだれかけのような大きな白い襟のついた制服姿の自分を念頭に置いて、婦人科から少し離れた、しかし呼び出しがあればすぐ聞えるように、すぐ隣の耳鼻|咽喉《いんこう》科の前のベンチに腰を下して、喉《のど》をからしながら、自分の順番を待っていた。  くみ子の隣には、地味な袷《あわせ》を着て、黒い帯をしめた五十年配の田舎者らしい女が、お経のような小型の本を膝の上にのせて、うつらうつらしていたが、大きなあくびを一つすると、ふと話しかけて来た。 「お嬢さんはどこがわるいんですかね?」 「私? チクノウ症なの」と、くみ子はよどみなくウソをついた。 「チクノウ症? 困りましたね。あれはなかなかなおらないんですってね」 「私のは軽いんです」  そう云うのが、くみ子にしては、自分のウソを軽くする気持だったのであろう。 「小母《おば》さんは、どこがおわるいの?」 「わしですかね? わしは喉に腫物《はれもの》が出来て、食物もようのめんのですよ。……もうここの先生にだいぶよくしてもらいましたけどね……」 「小母さん、お経を読んでるんですか?」 「へえ──」と、中年の女は急にニコニコとして、 「私はありがたい先生のお導きを受けましてな。ここでは大きな声じゃ云えんですけど、わしの病気もその先生の御祈りでなおったんですわ。病院へはただ気休めに来ているようなもんですの……」  そう云って女がさしのべてよこした、うすっぺらな経本を眺めると、新聞などで読んだことがある新興宗教の一派の名が記され、漢字ばかりのむずかしい経文の一節が、大きな活字で印刷されてあった。 「お祈りでなおるもんでしたら、お金つかって病院に来るの、ムダじゃありませんか、小母さん」と、くみ子は反問した。 「それがな、お嬢さん。わしには病院に来るのが一つの楽しみなんですわ。なぜか云いますと、ここに通っている人たちは、みんな心に悩みをもっている人たちばかりでしょうがな。神や仏のお救いの手を待ちのぞんでいる人たちばかりでしょうがな。わしは物見遊山など派手なことをするよりも、こういう不幸な人たちの中に混じっているのが好きなんですわ。自分がお導きをいただいている有り難さもよく分るし、また悩んでる人たちに、御仏のお力で、心の迷いをとりのぞく機縁を与えてやることも出来ますものな……」  中年女は、そこでニンマリとした微笑を湛《たた》えて周囲を見まわし、声を一段とひそめて、 「わしはな、お嬢さん。二た月ばかりの間に、ここの廊下で八人ほど信者さんを獲得して、教会の先生に賞められましたがな……。お嬢さんも、一度わしたちの教会に来てみませんか……」  くみ子は、憑《つ》かれたような中年女の微笑に、ゾッとするいやらしいものを感じて、つっけんどんに、 「小母さん、私、そんなのきらいですわ。私、神様は結婚式の時に、仏様はお葬式の時にあればいいと思ってるの……」 「生意気だよ、この子は──」と、中年女はプスンとして外方《そつぽ》を向いた。  その時、婦人科の診療室のドアがあいて、看護婦が顔をのぞかせ、 「田代くみ子さん……田代くみ子さん、どうぞ──」と呼んだ。  くみ子は冷たい水を浴びせられたようなショックを受けた。ベンチに坐ってる間に、何べん、そのまま帰ってしまおうと思ったか知れないのだ。そして、じっさいに二度ばかり立ち上ったりもしたのだが、そのたびにやけくそな意地をふるい起して、また坐り直した。──それがいま、とうとう名前を呼ばれてしまったのである。  くみ子は、手足がすくむようで、すぐには立つことも出来なかった。 「田代さん……、田代くみ子さんはいらっしゃいませんか?」と、看護婦はもう一度名前を呼びかけた。  くみ子はやっと立ち上って、婦人科の診療室の方に歩き出した。新興宗教の中年女は、チクノウ症のはずの女学生が、婦人科によばれていくのを、あっけにとられた面持で見送っていた。 「貴女《あなた》が田代さんですね、どうぞ──」  ドアから半身をのぞかせていた若い看護婦は、くみ子の幼なさに意外な表情をみせて云った。 「──ええ。私、田代くみ子です」  そうつぶやいて、くみ子は、まるで救いでも求めるように、病院に信者を漁《あさ》りに来てるという中年女の方に、小さく手をふってみせて、診療室に入っていった。  看護婦は、廊下側の壁に添うた長椅子に、くみ子を坐らせた。右のテーブルの所では、若い医師が二人、患者の予診をとっており、その傍の大きな回転椅子には、主任の塩沢教授らしい、肩幅のひろい医師が、背中を向けて坐っていた。葉巻をくゆらしている。くみ子の父の玉吉が用いているのと同じ香りだ。ほかにインターンらしい青年が一人、看護婦が二人いた。  ドアがあいた左手の診療室には、白い幕を垂れた診療台があり、その横の方では、シュミーズ姿の女が、身体を屈《かが》めて、ワンピースに頭を通しているところだった。現われた顔を見ると、まだ若い女だった。その女は、身じまいが終ると、塩沢教授の傍によって頭を下げ、 「先生、ありがとうございます。……たしかでございましょうね?」 「まちがいありません。……おめでとう。奥さん」 「夫も姑《しゆうとめ》もどんなに喜ぶか知れませんわ。この、二、三年、子供が生れることばかり待っていたんですから……」 「奥さん、鼻が高いですな……まあ大切になさい……」 「ありがとうございます。……またときどきまいりますから……」 「はい、どうぞ──」  若い女はいきいきとした顔色で、診療室から出て行った。 「先生、田代さんがお待ちですけど……」と、看護婦が、背中を向けっきりの塩沢教授に注意した。 「おう!」と、教授は椅子をギチッと鳴らして、後に向き直った。  白いものの混った髪をG・I刈りにして、太いべっこうぶちの眼鏡をかけた、男らしい風貌《ふうぼう》の塩沢博士は、壁際のベンチにチョコナンと坐《すわ》ったくみ子をみると、けげんそうな表情をした。  そして、机の上の診療簿をとって、くみ子の顔と見較べていたが、 「貴女が田代さんかね?」 「はい、そうです!」と、くみ子は、壁を背にして、飛び出しそうな身構えをしながら答えた。  塩沢教授は、それを見て、もう一度くみ子を爪先きから頭の上まで眺めまわし、 「君は小児科に行くのをまちがえて、ここに来たんじゃないのかね。……ここは産婦人科ですぞ」 「はい。分っております。……先生は塩沢博士でしょう、私は先生の受持ちが火曜日と木曜日だということを調べて来たんです」 「ふむ。……なんで私をマークして来たのかね?」 「先生は患者に対してとても乱暴な口をきく方だという噂をきいたからです。この病院では一ばん口のわるい先生だという……」  若い医者たちはクスクス笑った。二人の看護婦たちも、クルリと背中を向けたところをみると、これも笑いをこらえているらしい。ともかく、子供の時期を卒《お》えていくらも経ってない、大きな白い襟のある制服を着た女学生が、この診療室に姿を現わしたことでさえ異様なのに、その少女が、閉じこめられたけだもののように目を光らせて、塩沢博士に噛《か》みついていく有様は、強くみんなの注意を牽《ひ》きつけてしまった。  塩沢博士は、トゲでもひっかかったように、目の下をヒクリとさせて、 「わしは患者にやさしくしてるつもりだが……、君等がそんなデマをとばすんだろう。迷惑な話だ……」と、助手の医師や看護婦たちの方をにらんだ。それから、言葉をついで、 「そんな口のわるい人間の診療日に、君はなんでやって来たのかね?」 「はい。そういう口のわるい先生は、きっと見立てがいいだろうという直感があったからです」 「アッハッハッハッ……」  塩沢博士は、太い区ぎった声で笑い出した。そして、しばらくくみ子の顔を見つめていたが、ふと真面目な調子で、 「君は利口なようだが、中学生でしかないな。医者の仲間でも、こすい人間は、わざと患者にぞんざいな口を利いて、商売の繁昌《はんじよう》をはかったりするものだ。世間でエライと云われる坊さんなども、みんなその手を用いて、善男善女を煙に巻いてるんだ。……だいたい医者・宗教家・易者、そういう所へ尋ねてくる人間は、みんな迷った弱い心でいるんだから、相手が高飛車に出ると、すっかりそれに曳《ひ》きずられてしまうんだ。分ったかね。……世間の大人たちには、女学生の知恵を上まわったこすい人間もたくさんいるんだってことが……。  君の考え方も全然まちがってるわけではない。孔子さまも『巧言令色スクナイカナ仁』と云ってるとおり、おべんちゃらな人間には誠が少いことはたしかなんだが、その反対に、口がわるいからって、必ずしもその人間が立派だということにはならない。……分ったかね?」  くみ子は小さくうなずいた。しかし、それでおとなしくなったわけではなかった。中学二年生のくみ子にしては、相手に噛みついていくしか、この室では、自分の身体の保ちようがなかったのである。 「それでは先生も、病院が繁昌するように、わざと患者にぞんざいな口をきいていらっしゃるんでしょうか……」  塩沢博士は、さっきよりももっと大きいトゲが喉《のど》にひっかかったように、目の下のあたりをひきつらせた。 「これこれ。君は何を云うんだ。わしが口がわるいという先入観念をとり去りなさい。病院がいくら繁昌したからって、わしの月給が殖えるわけではないんだぜ。……小っちゃな女学生に、人格を侮辱するようなことを云われても、ちっとも腹を立てない。──それだけみても、わしがいかに心の優しい人間であるかが分るだろう。……ところで、君はいったい、ここに何しに来たのかね?」 「──私、子供が生める身体かどうか、先生に診察してもらいに来たんです。……先生、見て下さい……」  くみ子は立ち上ると、塩沢博士の周囲をゆっくり歩きまわった。意識して、少し大きくびっこを曳いてるように思われた。 「足がわるいんだね。……ま、ここに坐り給え」と、塩沢博士は、自分の前の椅子を指して、くみ子をそこに坐らせた。 「怪我をしたのかね?」 「はい。まだ学校にも上らないころ、庭で梯子《はしご》のりをして遊んでいて、落ちて五重塔の台石で腰をぶったんです……」 「それで──」 「それで私は、足がわるいから子供が産めないんだと、小学一、二年生のころから諦《あきら》めたような気持になっていたんです……」 「待ち給え。君少し誇張してるんじゃないのかね。小学校一、二年の女児が、子供を産むなんてことを考えるのかね?」 「あら。先生こそ婦人科が専門のくせに、そんなこと御存じないんですか。……それではいままで、婦人の肉体だけの診療をしていらしたので、精神的な面はなおざりにしていらしったんですわ」 「これは痛いことを云われた。……どうだね、うちの看護婦さんたち。君たちも小学校の一、二年のころに、子供を生むなんてことを考えていたかね?」  すると、年かさの方の色の白い看護婦が、微笑を浮べて、くみ子の横顔をじいと見つめてから、塩沢博士の方に向き直り、 「いままではそんなことを考えてみようともしませんでしたが、田代さんのお話をきいておりますと、どうも無意識のうちに、子供を生むことを考えていたような気がしますわ。もちろん、ハッキリした生理的な感覚のものでなく、ままごとじみたところもあるんですけど……。ねえ、そうじゃない?」  賛成を求められた看護婦も、いくらかはにかんだ様子で、しかしハッキリとうなずいた。 「なるほど。これあ私の大きなミスだ。女性としてはそうあるべきだろうな。……そういう宿命を負った女性が、結婚難にぶつかったりするのは、たいへん惨酷な話だな。そういうのも政治の貧困というものかな……」と、塩沢博士は、あんがいすなおに自分の非を認めた。  それからまた、思い直したように、くみ子に向って、 「──小学一、二年の君が、子供が生めないと諦めたような気持になって、それからどうしたかね?」 「はい。中学校にあがって、人間の生理について少しばかり教わると、足がわるいことと、子供を生むこととは、関係がないことなんだと考えるようになりました」 「そのとおりだよ。見たところ、君は足が少しばかりわるいほかは、栄養もよく、丈夫そうだ。それに、たいへん個性的な感じの美少女だ。……いまに男たちに騒がれるようになる……」 「でも、先生。私、紙の上の知識としては、自分に子供を生む可能性があるんだと分っていても、それだけでは、幼いころからの劣等感を拭《ぬぐ》いきれないんです。もっと確かな証明を握らないかぎりは──」 「確かな証明というのは、医者の診察を受けることなのかね?」 「そういうことになるんですけど、どうしても私には、その勇気が出ませんでした。それで……私は雑誌などに書いてあるように、不良青年に暴行を加えられたとしても、もしその結果、私に子供が生めるということがハッキリすれば、私はその出来事を悲しむよりも、喜んだろうと思いますの。……何べんもそういう空想にふけったことがありますもの……」  室の中の空気が、凍りついたようにキーンとなった。くみ子の話す言葉に、それだけズッシリしたものが裏づけされていたのである。 「君は……思いきったことを考える人だね」と、塩沢博士は、少しばかり面喰《めんくら》ったような調子で云った。 「しかし君、もうそんな危険な空想にふける必要がないよ。専門医のわしが保証したんだから……」 「先生にどうしてそれが保証出来るんです? 私の身体を見もしないで──」と、くみ子は、何気ないが、刺すような口調で反問した。  塩沢博士はムッとした表情を示して、 「君の程度に足がわるいことは、子供を生むことになんの関係もないぐらい、医者の常識で断言出来る」 「私は先生の常識を伺いに来たのではありません。診察を受けに来たんです」 「強情な人だな。わしは少女の君にお気の毒だと思うし、君の身体を見るまでもない、ハッキリしたことだからそう云うんだ」 「科学者は、そういう生まぬるいヒューマニズムに煩わされない方がいいのではないでしょうか……」 「なにイ」と呟《つぶや》いて、塩沢博士は、上靴でドンと床を一つ踏んで立ち上った。 「君のような人ははじめてだ。……わしは家で子供を育てる時、君ぐらいの年齢までは、男の子でも女の子でも、あんまり生意気なことを云う時は、頬《ほ》っぺたを一つはりとばしてやることにしているんだ。これは有効な仕つけ法だと信じている。……しかし、君はよその人間だから殴るわけにはいかん。よろしい! 君の身体をみて上げよう。隣の室で、下着一つになって、診療台にのりなさい……」  涎《よだれ》かけのような白い襟つきの制服を着た女学生を相手に、塩沢博士はカンカンにいきり立ってしまった。この人の素朴な善良さを裏書きするものであろう。  さすがにくみ子は、ためらった様子で立ち上り、室の方に歩き出した。看護婦の一人が、見かねたようによりそって、肩に手をかけながら、いっしょに診療室に入っていった。  間もなく、シュミーズ一枚ぎりのくみ子と塩沢博士が、診療台の白い垂れ幕の中に姿を消した……。 「……なんだ、いまごろになってガタガタ慄《ふる》えたりして……。無理はしないがいい。すぐ服を着て帰ってもいいんだぜ……」  そう云ってる塩沢博士のおだやかな声が、予診室で緊張している若い医師たちの方へ聞えて来た。それぎりシーンとなった。  なにほどか経って、まず塩沢博士が、それから青ざめた顔のくみ子が、予診室に戻って来て、元の座にそれぞれ坐った。塩沢博士は、ドイツ語で、助手たちに何か云ってから、くみ子に向って、 「君はたいへん健康だ。お希《のぞ》みなら、将来いくらでも子供が生める。いまはちと早いと思うが……。それがわしの診断だ。……どうだ、嬉《うれ》しいかね?」  くみ子は、顔色が青ざめたせいで、特に大きく思われる黒い目で、塩沢博士の顔をまともに見つめて、 「ほんとうに嬉しいと思うのは、一週間か二週間あとだろうと思います。いまは……」 「いまはどうかね?」 「いまは、先生が、そこらにある毒薬かなにかをまちがえて飲んで、ポックリ死んで下さればいいと思っています! ……」  そう云うと、目のふちが変にふくれて、涙があふれ出て来た。しかし、くみ子は泣きもせず、しゃくり上げもせず、がんこに唇を閉じ合せていた。 「わしが君の身体を診《み》たからかね。お希みどおりにして上げたいが、わしも妻子を養わねばならない人間だから、君のために死ぬわけにはいかん……」 「すみません。でも、あと三分か五分ぐらいで、先生が死んでくれればいいと思う気持が消えてなくなると思いますから……。私、もう帰ります」 「ああ、帰り給え。……君、すこし興奮しているようだが、しかし、帰りに会計課の窓口で、診察代を払っていくのを忘れてはいかんぜ……」 「はい、忘れません……」  くみ子は予診室から廊下に出た。塩沢博士の目配せを受けた看護婦の一人が、それとなく後をつけていった。  くみ子は、狭い廊下を通りながら、何べんも人にぶつかった。ちゃんと制服をつけているのに、自分はいまもシュミーズ一枚であり、多勢の人の目に身体をさらしているのだという、寒気がする感覚を拭いきれなかったのである。  いつの間にか、はいている藁草履《わらぞうり》が、一つ二つとはずれ、途中、会計課にお金を払って、入口の下足の所に来た時は、白い靴下の底がまっくろけになっていた。  戸外のひろい大気にふれると、くみ子はホッとした。白い厚い雲の切れ間から、初秋の温い陽がさしていたが、くみ子の身体は、ときどき、得体の知れない悪寒におそわれて、ガクガクと慄えた。  垣根の向うには、外苑の森の濃い緑が盛り上り、それがくみ子の魂を強く招いているかのようだった。くみ子は裏口にまわって、国電がはしっている切通しの上の道に出た。そこから、外苑に入る小さな橋をわたりはじめた。と、長くつらなった電車が、すさまじい轟音《ごうおん》を上げて、身体の下を通っていった。くみ子には、理屈のない、兇暴《きようぼう》なその音響が、ひどく快よいものに感じられた。  橋のてすりによりかかって、白く光って伸びている線路を見下していると、ふいに大きな手で肩を押えられた。見上げると、白い治療衣をつけたままの塩沢博士だった。 「……きっと君がこっちの道を通るだろうと思って、追っかけて来たんだ……」 「……先生。私、診察代は会計課にちゃんとお払いして来ましたから……」 「そんなことじゃあない。……君に大切なことを云い忘れたから駈《か》け出して来たんだ。それはだね……」と、塩沢博士は、くみ子の腰の所を指さし、 「君がそこの骨折の治療をしたころに較べると、今日の整形外科というのは、天地のちがいと云ってもいいほど長足の進歩をしている。わしの素人目で見ても、君がもう一度治療をやり直す気があれば、完全に近いぐらいになおるんじゃないかという気がするんだ。そしてだな、もし君がお家の人と相談して再診断を希望するならば、わたしの友人で、信頼出来る整形外科のベテランを御紹介して上げようと思うんだ。……それを云うために、君を追いかけて来たんだ……」 「──先生、ありがとうございます。でも、いまは、私が女として健康な身体をもっているということが分った喜びだけで、十分でございますわ。そして、私が腰の骨を再手術するかどうかは、将来、私の家族以外の人で、私がまっすぐ歩くことを心から喜んでくれる人が現われた時に、もう一度考え直すことに致しますから……」  塩沢博士はまた小さなトゲがひっかかったような表情で、くみ子の顔をじいと眺めていたが、 「……そうし給え。君の前には必ずそういう人間が現われるよ。いまだって君は、なかなか歯ごたえのある少女だからね……」  その時、また電車が轟音をあげて、橋の下を通っていった。それを見送っていた塩沢博士は、ふと、白い歯を見せてニヤリと笑い、 「君はまだ、わしがここから落っこちて、電車にでもひかれればいいと考えてるのかね……」 「……いいえ、もう考えていません」と、くみ子は、青ざめるばかりだった顔に、かすかな血の色を蘇《よみが》えらせて云った。 「そう願いたいもんだね。それでは元気にやり給え、さようなら」 「さよなら、先生」  二人は背中を向け合って、それぞれに橋をわたっていった……。  ──「その橋というのが、そこにかかっているそれだわ」と、くみ子は、二、三人の勤人が通っている、上手の小さな橋を指さした。  それを証明するかのように、電車が、昔と同じに、すさまじい音を立てて、切り通しの路線をはしっていった。  民夫は息苦しそうに嘆息をついた。 「女の人って、小さい時から複雑な心理をもってるものなんだな。聞いてたって、僕にはよく分らないよ。僕は君がというよりも、女の人が恐くなったよ……」 「私たちだって、男の人たちのほんとの在り方については、なんにも知ってやしないわ。分ってるような気がするのは、表面だけのことなのよ。おたがいに……。もしかすると、男も女も、相手がどんなものかも知らずに結婚し、子供を生み育て、知らないままで死んでしまうのかも知れないわ。もっと穿《うが》って云えば、男も女も、相手の正体が分らないから、平気で夫婦になっていられるのかも知れなくってよ……」 「君は考えすぎると思うよ。もうそんな気味のわるい話よそうや。でないと、僕は君が恐くなるばかしだよ。……でも、白い襟の制服を着て、その橋の上に立っていた君の姿が、目に見えるような気がするな……」 「私にも……見えるわ」  くみ子は、いままで胸に秘めていたその話をする時、どぎつくならないよう、ところどころぼかして話したのであるが、民夫の方では、くみ子の言葉が簡潔であるほど、その間に自分の空想力をすべりこませて、強い感動にうたれたのであった。なんという不幸に堪えて来た人であろう! …… 「塩沢先生って、まだそこの病院にいるの?」 「知らないわ。一度ぎりで会ってないんですもの。……温かい感じの人だったわ」 「君、なんで、その先生がすすめたチャンスを試そうとしないの?」 「腰の骨のこと──?」 「そうだよ」 「まだその気持にならないからよ」 「────」  民夫は唇をモグモグさせたが、結局、はっきりしたことは何も云わなかった。 「さあ、私もう学校に行くわ。いまからだと、一時間目が終るころ学校につくわ」 「大丈夫かい」  二人は立ち上って、信濃町の駅の方へ歩き出した。  ふと、くみ子が足をとめて、 「私、練習してみるわね」と、民夫に向って頭を下げ、 「先生。私、今朝お腹が痛くて学校を休もうと思ったんですけど、少し治りましたから出てまいりました……」  すると、民夫も気どった恰好《かつこう》をして、 「ほんとかね。途中で道草くっていたんじゃないのかね。どうも君の身体には、土と枯草の匂いがする。フンフン。でも、よろしい、早く席につきなさい……」  二人は声をあげて笑った……。  ──街はもう昼間の活動をはじめていた。 [#改ページ]  [#2字下げ]取引き  四月を迎えた。  雄吉は医大をいい成績で卒業し、付属病院でインターンをやることになり、たか子は大学四年に、くみ子は高校の三年に、それぞれ進級した。信次も、私立の美術学校にときどき通っていたが、いつ卒業になるものか、誰も分らない……。  ある曇り日の午後、丸首の焦茶のセーターに、紺色のジャンパーをはおった信次が、スケッチブックを小脇に抱えて、どこか外出先から、わが家の方へ帰って来た。  屋敷の近くの坂道にさしかかると、黒のマンボスタイルの背広を着て、硬い髪を油で撫でつけた、上背のある青年が、スッと傍に寄って来て、ていねいな言葉で、 「ちょっと伺いますが……田代さんでしょうか?」 「ああ、田代ですよ」と、信次は何気なく答えた。 「私は上島というものですが──じつは貴方《あなた》にお話したいことがあるんですが、ちょっとそこまで来ていただけませんか」  品はあまりよくないが、精力的な顔立をした上島という青年が、信次の身体にピッタリくっつくようにして云った。 「上島──? 知らないな。どんな用事?」 「ここじゃあまずいんですよ。……貴方のお父さんの会社にまっすぐに行こうと思ったんだが、それじゃあ貴方が困るだろうと思って、迎えに来たんですよ」 「変だな──」  信次がそう呟《つぶや》いて警戒し出した時、同じ年恰好《としかつこう》の二人の青年が、信次を囲むように、横から後から迫って来た。 「君等、どうしようというんだ?」と、信次は本能的に身構えた。 「ちょっとそこまで来てもらえばいいんだよ。手間はとらせないし、貴方さえおとなしくしていれば、暴力|沙汰《ざた》はしないつもりだ……」  上島ははじめてすごんだ声を出した。 「おどしたってだめだよ。いまそこで買物をしている仲間が、五、六人、もう追いつくはずだ。三人と六人じゃあ、喧嘩《けんか》は君等の負けだね」と、信次はすっ呆《とぼ》けた調子で云った。  三人のぐれん隊風の青年は、不安そうに周囲を見まわした。 「べつに貴方をおどしてるわけじゃないんだ。おだやかに話をつけた方が、貴方のためだと思うから迎えに来たんですよ……」 「なにか用事があるらしいね……」と、信次はひとり言のように呟いてから、 「それじゃ行こう、君。ただし、僕は今日、昼食も食わずにふらつき歩いていたんで、とても腹が減ってるんだ。君等のところに行ったら、そばぐらい御馳走《ごちそう》してくれないかな」 「──それあそばでもすしでも」と、上島はあっけにとられたらしく、人の好い調子で云った。  三人で信次を囲んで横町に曲ると、道端に黒塗の小型自動車がとまっていた。上島は運転台に坐《すわ》り、二人の青年は、信次を間に挟んで後の座席に坐った。  車が動き出した。ちょうどその時、仕立下しの合の背広を着た雄吉が、向うからやって来て、車の中の信次を見かけると、けげんそうな顔をして、手をあげて合図をした。 「ちょっと、君、友だちだ。車をとめてくれ……」  信次は車を止めさせて、窓から顔をのぞかせ、 「俺、ちょっと用事でこの人たちと行ってくるから、これ、家に持って行ってくれ」と、スケッチブックをさしのべた。 「うん」と、雄吉はスケッチブックを受けとった。  車が走り出した。 「どうも君等は人ちがいしているようだな。……いくら君等に囲まれていても、ちっとも不安な気がしないものな……」と、信次が誰へともなく話しかけた。 「ふざけるなよ」と、上島がチラと後をふり向いて、信次をにらんだ。 「人ちがいするほどドジじゃねえよ。お前さんは田代の息子で、医者の卵だろうが……」  雄吉のことが云い出されると、信次はなにもかも分ったような気がして、ホッとした。 「そう君、とんがった口を利くなよ。……君の見込みは、当ってるところもあり、外れてるところもある。……そうだな、きっと女に関係したことだね?」 「そうれみろ、ちゃんと承知してるじゃねえか……」 「でも、どの女だか見当がつかないんだ。僕はわりと女にもてるもンだからね……」  信次の云い方が、邪気がなくのんびりしているので、両側に坐っていた二人の青年が、思わずクスリと吹き出した。上島だけが、バカにされたと思ったのか、噛《か》みつきそうに怒鳴った。 「ふざけるな、この野郎!」 「ふざけてやしないよ。君だって細いズボンなどを穿《は》いておしゃれしているし、出来れば多勢の女にもてたいんじゃないのかい。男として当然のことだろうと思うがね……」  信次がそう云うと、反対出来ないような不思議な説得力があった。 「……それあそうかも知れないけンど、ひどい目にあわされた女の方で、泣寝入りしなければならないという理屈はないからな……」 「それもそうだ……」と、信次はすなおに賛成した。  車は玉川電車の路線を横ぎり、世田谷《せたがや》区内に入ったことは分ったが、それからあとは、細い小路をあちこち曲るので、方向が分らなくなってしまった。  そのうち、竹やぶのある空地の隣りの古びた二階家の前に、車がとまった。 「ここだよ。……君の家みたいに立派でなくて恐縮だが、ちょっと入ってもらおうか」 「入りますよ。……近所にそばやがあったら、さっきの約束を頼みたいな」 「煩《うる》せえ男だな。……おいお前、そばやに行って来いよ。仕方がないから、みんな食うことにしようや。かけを五つだ」 「僕は二つ欲しいから、六つとってもらいたいな」 「チェ! ……行って来いよ……」  上島に云われて、一人の青年がそばの注文に行った。  信次は家の中に通された。粗末な八畳の座敷で、庭は、前の家の屋敷の大きな立木で陽をさえぎられ、うす暗く、じめじめしている。  上島という青年は、それでもテーブルの前にうすぺらな座蒲団《ざぶとん》をしいて、信次を坐らせた。が、信次の態度が、わるびれずに落ちつきはらっているので、押されて、バツがわるくなったらしく、階段の上り口の所に行って、二階に呼びかけた。 「ゆりちゃん、連れて来たぜ。お前さんちょっと顔をみせなけあ、話のきっかけがつけにくいんだよ。下りて来てくれよ……」 「そう……。いま行くわよ……」  そう答えるのが、太い、かすれたような、若い女の声だった。信次には聞き覚えがなかった。  間もなく、階段を下りる、ゆっくりした足音が聞えて、派手な色の縞《しま》の袷《あわせ》に黄のだて巻をしめ、髪をざっと撫でつけ、脂気のない白い皮膚にニキビのかたらしいものを残し、目が大きく張り、唇が丸く盛り上った女が姿を現わした。整った顔立とは云えないが、肉のひきしまった身体つきと共に、男好きのする魅力に溢《あふ》れていた。白い素足が印象的だった。 「──どこにいるのよ?」と、ゆり子と呼ばれた女は、信次の上をすどおりして、次の間の方へ、視線を走らせた。 「チェ! 田代って、この男じゃねえのか。自分でもそうだと云ってたよ……」と、上島は急にあわて出した。 「この人──? ちがうわよ。いやだなあ……。だから、そんなことしないでくれと云ったのに……。頭のわるいのが揃ってるんだから、うまくいきっこないのがわかってたのに……。この方に、乱暴な真似をしたわけではないでしょうね……」  ゆり子は柱にもたれて、改めて信次の顔をじいと見つめた。 「それあていねいにして、ここまで来てもらったさ。……まずいことになったな。ゆりちゃんからあずかった写真とそっくりなんで、三人とも、この男にちがいないという意見だったんだ……」  上島は未練そうに、胸の内ポケットから小さな写真をとり出して、信次と見較べるようにした。 「ちょっと拝見──」と、信次は手をさしのべて、その写真を受けとった。  見覚えのあるセーターをつけた雄吉の顔がうつっていた。信次はクスクスと笑い出し、 「上島君、ゆり子さんは──そういうお名前のようだね──僕に遠慮して黙っているが、ほんとは君達にこう怒鳴りたいとこなんだぜ。私が待っていたのは、こんな変てこな顔の男じゃなく、もっとすばらしい美男子だ、ってね……」  ゆり子は苦笑して、 「貴方だって男前でいらっしゃいますわ。……すみませんでした。ほんとに申しわけないことを致しました。どうぞお引きとり下さいまし。なんでしたら、この男たちの頬《ほつ》ぺたを一つずつ張っていっても結構ですわ……」 「冗談じゃねえや……」と、上島が、仲間と顔を見合せてつぶやいた。 「いや、この人たちばかりの責任じゃないんですよ。たしかに写真の男と僕は、いくらか似てるんですよ。彼は僕の兄貴なんだから……」と、信次はゆり子の方を向いて、ハッキリした調子で云った。 「貴方が──弟さん──?」  ゆり子は、急に意力のこもった眼ざしで、信次を見なおした。 「それじゃあ、間ちがえたってしようがないや……」と、上島は、連れの男と顔を見合せてうなずいた。 「ホラ、君等と自動車に乗ってから、僕が窓から、スケッチブックをわたした男があったろう。あれが兄貴だったんだ。君等は僕だとばかり思いこんでるから、あの男の人相に気をとめなかったんだろう……」 「いや」と、そばの注文から帰って来た三人目の男が、変に意気ごんで、 「あれだったらバリッとした男だったよ。チキショウ! ……いやあね、兄貴がそうだというから、俺もついそう思いこんでしまったんだけど、しかしどうも、ゆりちゃんが熱をあげるにしては、この人は少しボサッとしすぎてるような気がしたんだよ」 「勝手なことを云うなよ、君……」と、今度は信次が苦が笑いをした。  ゆり子も笑った。 「すみませんわね。健ちゃん、貴方《あなた》、この方をすぐ自動車でお宅までお送りしてよ。私、この方の兄さんには少しばかり云いたいこともあるんだけど、この方にはなんの関係もないことなんだよ……」 「すぐはだめだよ、ゆりちゃん」と、三人目の男が、真面目くさった調子で云った。 「この人がね、車の中で、昼食も食ってないで目まいがするから、向うに着いたらそばを御馳走してくれって云うもんだから、俺いま、兄貴に云われて、そばやに行って来たばかりだもの……」  ゆり子は呆《あき》れたように嘆息をついた。 「貴方、ほんとにそうおっしゃったんですか?」 「云いましたよ」 「それではここで召し上っていらっしゃいますか?」 「せっかくだから御馳走になりますよ」 「どうぞ──。私もおつきあいしましょうか。……貴方に云うんじゃありませんよ。……健ちゃん、これ、なによ? 一ぱし悪党ぶって、やることったらお茶番みたいなもンじゃないの。なにさ、一たい……」 「ゆりちゃんはそう云うけどね、この人もだいぶ変ってるんだ。こっちがツウと気合いをかけても、向うはカアと受けてくれないんだ。しごくのんびりして、間が合わないんだよ。だから、こんなことになってしまうんだ……」と、上島は頭をかいて、お手上げという形だった。 「はじめから人を間ちがえて、間が合うはずがないじゃないの。……どうもとんだことを致しまして。……私、川上ゆり子と申します。こんなことでお目にかかって、ほんとに醜態でございますわ……」と、女はテーブルのはすかいの位置に坐《すわ》って、間がわるそうに挨拶《あいさつ》した。 「僕は雄吉の弟で、信次というんです。よろしく……」と、信次も改まって軽く頭を下げた。 「お兄さんは元気でいらっしゃるんでしょうね?」 「ああ、元気ですよ。……さっきは仕立下しの合服を着ていたようだが、弟の僕が見ても、映画に出てくるような美男子だな、と思いましたよ、脳味噌《のうみそ》の足りない女の子たちは、みんなあんな型の男に熱をあげる。……貴女もその口じゃありませんかね?」  口から出まかせにしゃべっているようで、悪意を感じさせないところが、信次の人柄なのであろう。  ゆり子は苦い顔をして、 「……貴方は兄さんとまるでちがいますのね。貴方の兄さんという方は、もっと口あたりの柔かいことを仰有いますわ。殊に女を喜ばせるような優しいことをね……」 「はじめ甘くて、しまいには口がひん曲るほど苦くなる言葉でしょう……」 「そうかも知れませんわ」と、ゆり子は、つい顔をそむけた。 「ともかく、若い女の人が、みんなそういう男の方へ牽《ひ》かれていくので、僕等の方へはなかなか順番がまわって来ないんですよ。ねえ、上島君、そうだろう……」  ふいに、名前を呼ばれて上島は、卑屈に「エヘヘヘ……」と笑って、ゆり子の方を盗み見た。 「ところで……」と、信次はいくらか改まった口調になって、 「僕は兄貴じゃないんだけど、しかし兄貴の代りになって、貴女《あなた》の御相談を受けることが出来ると思うんですよ。ある程度ですがね……。そして、御相談の内容によっては、直接、兄貴に話すよりも、僕にお話し下さった方が、効果があるかも知れないと思うんです。……僕に兄貴を守りたい気持があることは否定しませんが、しかし、それだからって、貴女の立場を踏みにじるようなことはしないつもりですから……」 「さあ……」と、ゆり子は意地わるげな微笑を洩《も》らして、 「貴方の兄さんには、多少の無理を利かせたことも云えるんですが、貴方だとそれが云えなくなりますからね。……私の方で損ですわ」 「貴女は利口な方ですね。僕相手じゃ、たしかに貴女の方の分がわるくなる。……どうです。貴女も僕もそれを承知の上で、一応お話してみる気になれないものですかね……」 「──どうしようかね、健ちゃん?」と、ゆり子は迷ったように、上島の意見をもとめた。 「この人、話が分るようだし、話したっていいと思うな。それに、せっかくここまで連れて来たんだし、だまってそばの喰《く》い逃げされる手はないと思うな……。申し遅れたけど、僕は、ゆりちゃんの従兄《いとこ》で、上島健五と云う者ですよ」 「ケチなこと云ってるわ。……それでは、田代さん、お二階にどうぞ──。健ちゃんもいっしょに来てね……」  ゆり子は先に立って、暗い急な階段を上った。二階は二間になっており、奥の室には、寝床がのべてあるのが、唐紙の隙間から見えた。手前の方はキチンと片づいた六畳間で欄間の所に、派手なデザインの服装をして、少し気どって立っている、ゆり子の写真入りの額が掲げられてあった。  信次は、一輪ざしを飾った黒塗のテーブルの前に坐って、欄間の写真を見上げながら、 「貴女ですね。……何かお仕事でもしていらっしゃるんですか?」 「いいえ。ブラブラしてますわ」 「ゆりちゃんはファッション・モデルですよ。雑誌によく写真が出たりしています……」と、上島が横から口を出した。 「……だったこともあるっていうだけのことですわ。もうだめですわ。若いイキのいい方がずんずん出て来ますから……」  信次は、線が崩れかけているゆり子の身体つきをみて、そうだろうと思った。その代り、男の眼からはほどあいな熟れかげんの魅力があった。今度何かの仕事につくとすれば、男相手のものになるだろう。 「──さあ、それでは用談に入りましょうか。僕のカンでは、貴女と兄貴は、恋愛関係にあった。そのうち、飽きっぽい兄貴は、貴女が鼻について来て、逃げ出してしまった。貴女の方では、腹を立てて、どうしてくれる、と兄貴をとっちめにかかっている。──そういうことだろうと思うんですが……」 「だいたい御想像どおりですわ。……兄さん、私のこと、貴方にお話したことがありまして──?」  話したことがあるはずだと云いたげな表情だった。 「一ぺんも聞いたことがありませんね。兄貴は、女の人と関係をもつことを、大事件だともなんとも思ってませんよ。会って楽しんだあとは、この次ぎ会う時まで、女の人のことはケロリと忘れてしまっているんですよ。だから人に話すこともありません。そのやり方が徹底してるもので、家では、兄貴が、女などに全然興味がない人間なんだと思われています。僕だけは、年ごろも近いし、男の生理や心理については苦いほど知ってる上、兄貴の性格も分ってますから、そんなはずがない、必ずウラがあると睨《にら》んでたんです。しかし、兄貴の奴、一度もボロを出さないし、しまいには僕まで、ヒョッとすると兄貴は頭がよすぎて女嫌いなのかも知れないと、自信をなくしかけたりしていたものです。今度、貴女にお会いして、はじめて僕の考えてることがまちがいでないことが分ったんです……」 「変ですわ……」と、ゆり子は複雑な表情をたたえて、淡々とよどみなくしゃべる信次の顔をみつめて、 「貴方はどうして、兄さんのことを、そうあしざまにおっしゃるんです? ……お見受けしたところ、ずいぶんお人柄もちがうようですし、あまり兄弟仲がよくないんだと思いますけど……。でもなければ、兄さんをよく思ってるはずがない私の気持に、油をそそぐようなことをおっしゃらないと思いますけど……」  すると信次は大きくかぶりをふって、 「貴女の考え方はちがいますね。兄貴のことで、僕がほんとのことを云うほど、憎しみで燃え上った貴女の気持に、水をぶっかけるような効果があるはずですね。僕はそれを狙って言ったわけではないんだけど……。胸に手を当てて考えてごらんなさい。きっとそうですよ……」  ゆり子は黙っていた。ということは、信次の言葉を肯定したことになるのだろう。 「ところで、貴女は、兄貴との関係を元にもどしたいとのぞんでるんですか。──そんなことは見込みがありませんね。そして、そのことは、誰よりも貴女が御存じでしょう。でないとすれば、慰藉料《いしやりよう》のようなものでも請求されるつもりなんですか?」  誰に味方するともない、信次の飄々《ひようひよう》とした口調に誘われたように、ゆり子は顔を少し赤らめて、すなおにうなずいた。 「なるほど。様子を拝見すると、それも貴女が思いついたことではなさそうですね。貴女一人では、そんな強気なことが思いつけそうもない……」と、信次は、上島の方をチラと眺めた。 「そうですわ。私ひとりでしたら泣寝入りするばかりだったでしょうが、事情をかぎつけた健ちゃんたちが、そんなばかなことってない、やれやれとたきつけるものですから……」 「チェ! なにもかたきの弟に、そんな正直なことを云わなくてもいいじゃないか……」  上島は白い目でゆり子をにらんだ。ゆり子は聞えないふりで、信次に話しつづけた。 「……いいえ、ね、健ちゃんも、半分ぐれん隊みたいですけど、根はお人好しなんですよ。それが、やっきとなって私をけしかけるのは、健ちゃんは従兄妹《いとこ》同士の私を、昔から好いていたんですけど、私が雄吉さんに夢中になったあげく、こんな結果になったものですから、自分の方がカンカンになってるんです……。江戸の仇《かたき》を長崎で──というわけですわ……」 「俺、怒るぜ!」と、上島はすごんで云った。 「なにも敵の一味の前で、そんな内輪の話をしなくたっていいじゃないか。……ゆりちゃんに惚《ほ》れてわるかったな。……今日だって、俺、仕事休んで働いてやってるのに、そんな云い方をしなくたっていいじゃないか……」 「ごめんなさい」と、ゆり子は微笑して、 「どうせ初手から失敗したんだから、こういう風に包み隠しのない所をお話した方が、かえっていいのよ。……信次さんだって、そういう云い方をなさるんだから……。正直に云って、しぜんにこの方に責任を感じてもらうようにするんだわ。すごんだりおどしたりする手は、この方には利かないわ……」 「さあ、それだってどうかな……僕は女が男にすてられたからって、相手の男を恨んだりするのは、まちがったことだと思うんだ。そういう男を好きになったのは、ぜんぜん自分の責任だし、自分だって、十分に楽しんでいるんだから……。殊に兄貴のような美男子の場合は、おしまいが少しばかり面白くない結果になったからって、途中でおつりが来るほど有頂天に楽しんでいるんだから、まあ、我慢するしか仕方がないと思うな……」  ゆり子はさすがに針でもつき刺されたように、さっと暗い表情をかげらせた。そして、しばらく黙りこんだ。  その時、下から、お使いにいった男が、お盆にそばを四つのせて運んで来た。 「ここは三つでいいわよ」と、ゆり子がとがめた。 「いや」と、信次がニヤニヤして、 「僕が二つ注文したんですから……」 「そうですか。……それでしたらどうぞ……。私たちもいただきますわ……」  三人でそばを食べ出した。いっしょに物を食べるというのは不思議なもので、おたがいの間の敵意や警戒心が、少しずつ消えていった。 「貴方《あなた》の仰有《おつしや》るとおりですわ。……私だって、それがありふれたやり方でしたら、友だちに羨《うら》やましがられて、十分に楽しんだんですから、きれいさっぱりとあきらめるんですけど、お兄さんのやり方はあんまりひどいんですもの。……いまさら、云ってみたってしようがないことですけど、私は二度も妊娠して……もちろん生みはしませんでしたけど、二度目の時は手術がまずかったんで、身体をこわして、いまだにこうしてブラブラしている有様なんです。その間に、貴方の兄さんは、つぎつぎと別な女に手を出して、しかも、それがみんな私のモデルの仲間なんです。いくらなんでもひどすぎますわ。……それで私も、はたからすすめられて、そんならお金をとってやろうという気になったんですわ……」 「兄貴のやりそうなことだな……」と信次は、ゆり子の顔を眺めながら、自分だけの考えごとにふけっている目の色をみせて云った。 「……でも、さんざんひどい目にあわされている貴女《あなた》を目の前に見ながら、貴女のお仲間がつぎつぎと兄貴のふところに飛びこんでいくのだから、兄貴の魅力ってたいしたものだな……」 「女って……ばかな者ですわ」  しばらくして、ゆり子が、自分を嘲《あざ》けるような声で云った。 「兄貴だってばかですよ。……彼はそんな生活をつづけることで、自分の中のある大切なものを、だんだんにすり減らしていってるんですからね……」 「いまの時代は、貴方のおっしゃる『ある大切なもの』なんて必要のない時代だと思いますわ」 「──そうでもないでしょう……」  余韻をもたせて、それだけポツンと云う言葉には、ゆり子を身慄《みぶる》いさせるような、ひそやかな力がこもっていた。  信次は、ふと、気を変えたように、くだけた調子で、 「上島君、君等はどういう方法で、どれだけの金を兄貴からとるつもりだったの?」 「そ、それあ、はじめは野郎に交渉するけど、おしまいは会社の方にオヤジさんを訪ねて、らちをあけるつもりだったんだ……。こっちの手のうちを、ベラベラしゃべっていいのかね、ゆりちゃん……」と、上島は自信がなさそうに云った。 「いいわよ。この方にげたをあずけてしまうのよ」 「金高は──?」 「云い値は百万円だ。こっちの調査じゃあ、田代家は相当な金持だからな……」  信次は、白い歯をみせて微笑しながら、ゆり子と上島の顔を見較べていた。 「それだけのお金、貴女も欲しいんですね?」と、信次はゆり子に念を押した。 「ええ、欲しいわ。……身体をすっかり治して、別な暮しの道を建てるには、相当お金がいりますから……」と、ゆり子はわるびれずにハッキリと云った。 「分りましたよ。……兄貴と相談して、成《な》る可《べ》く早い機会に返事をしますから……」 「貴方にことわっておくけどな……」と、上島は急に脅かすような口調になって、 「今日ははじめからドジを踏んで、こっちが後手にまわるようなことになってしまったけど、それだからって我々を嘗《な》めてかかっては、とんでもない目にあうからね。腕も頭も貸そうという連中が、こっちにはいくらもいるんだから……」 「分ったよ、君。兄貴もいままでは、あと腐れがないよう、うまくやって来たんだろうけど、今度は手剛《てごわ》い人にぶつかったんだ。自業自得だよ。……僕はね、どこかに差し当り必要のないお金があったら、お金がぜひ必要な人の所にまわるのは、わるいことではないと思ってるんだ。……それが僕の正直な気持だ。だが、その通りに事が運ぶものかどうかは、人間同士の折衝だから、よく分らないが……」 「分ったようなことを云っていて……それじゃあお尋ねするが、貴方は、ゆりちゃんと貴方の兄さんと、どっちの味方をするつもりですかね?」 「それあ兄貴の味方だ。しかし、誤解のないように云っておくけど、味方の意味は、なんでもかでも兄貴を庇《かば》うということではない。兄貴が、するべきことはちゃんとして、傷がつかないようにしてやるということだ……」 「どうも、正体がつかめないようなことばかり云う人だ。……ゆりちゃん。いいのかね?」 「いいわ。この人の正直なところを信用してあげましょうよ。……田代さん、御迷惑でしたわね。どうぞお引取り下さい。初対面なのに、寝床から出たままのとり乱した姿をお見せして恥ずかしいわ……」  ゆり子は、いまごろになって、襟元を合わせたり、髪に手を当てたりした。 「いいや、生地のあなたにお目にかかれて好都合でしたよ。……貴女も、自分が美しいという意識がしょっちゅう鼻先にちらついていて、そのためにつまずいた一人でしょうね。しかし、前途は長いんですよ。これに挫《くじ》けずにやり直すことだな……」 「ありがとう……」 「チェ! 礼を云ったりして……。どうも面白くない場面ばかり出てくるね。大丈夫かい?」と、上島は不快そうに眉根《まゆね》を寄せた。 「貴方《あなた》の知ったことじゃないわ。……田代さんをお送りしてね。……御縁があったら、またお目にかかりますわ……」 「身体だけでも早く治すんですな、さよなら……」 「さよなら……」  ゆり子は、テーブルに坐《すわ》ったままそう云って、階下へおりなかった。  上島は、信次を車にのせて、もと来た道を駛《はし》り出した。 「ゆり子さんて、きれいな人だな。僕だってあんな従妹《いとこ》がおれば熱をあげるぜ、君……」と、信次は、運転台に並んで坐っている上島に話しかけた。 「つまらねえことを云うなよ」と、上島は、さも憎たらしげに、横目でチラとにらんだ。 「──君、どんな仕事してるんですか?」 「僕か──。僕はバーテンやってんだ……」 「派手な仕事だな……。どこで?」 「新橋のバーだよ。……これでもマダムに信用されているんだ。……うちのマダムは……名前云っていいかな、原田雪子というんだけど、娯楽雑誌のグラビヤなどにときどき写真がのるんだ。知ってるかね……」と、上島は得意そうに云った。 「聞いたような気がするな……美人かね?」 「それあもう。……いい客筋をたくさんつかんでるんだ。人を使うにも思いやりがあるし、僕も働き甲斐《がい》があると思ってるんだ……」 「何という家? 僕もいつか行ってみるよ……」 「ガードの近くで『あひる』という家だよ。……マダムはね、ほんとは銀座に出たい腹なんだ。それでいま、お金の工面をしているらしいんだ。……だから、僕は、君の親爺《おやじ》さんから金が曳《ひ》き出せたら、ゆりちゃんにすすめて、そのお金を『あひる』に出資させ、ことのついでに、ゆりちゃんにもお店に出てもらおうと思ってるんだ。それあ、ゆりちゃんが出たら店が一段と繁昌《はんじよう》するからね。君、そう思わないかい……」  思慮分別が十分だとは云いかねる上島は、自分の頭の中に描いている、虫のいい計画を語る段になると、夢中になって、人のいい所をすっかりさらけ出してしまった。それどころか、ひとりで興奮して、危うく車を安全地帯にぶっつけそうになったりした。 「それあいい計画だね。……だんだんは君とゆりちゃんが夫婦になって、マダムからお店をゆずってもらおうということだと、なお結構だね……」  信次は上島の頭の奥に隠されている結論を、何気なくスッと曳き出してやった。 「じょ、じょうだんじゃねえよ。俺は、そんな大それたことを考えてやしないよ……」と、上島はあわてて否定した。  しかし、顔を赤らめて嬉《うれ》しそうだった。 「べつに大それてやしないよ、君。人間は希望をもって生活すべきだよ……」 「希望をね……それあそうだな……」  信次は、都立大学の駅の近くで、車をとめさせた。 「どうもありがとう……」  上島は、うちとけた口を利いてたことが、急に不安になったらしく、硬《こわ》ばったゼスチュアをみせて、 「おい、君。俺たちは敵同士だということを忘れないようにしようや。僕が……いつまでも、今日みたいに甘い人間だと思ったら、大まちがいだからな……」 「分ったよ、君。さようなら……」  信次は、車の方へ手をふって、わが家の方へ歩き出した。  ──その晩、雄吉と信次は、自由ヶ丘の小料理屋で、差し向いで酒を飲んでいた。もちろん、信次が雄吉を誘ったのである。 「……まずいことになったもんだな」  信次から一応の報告を聞いた雄吉は、心もち青ざめて、そうつぶやいてから、 「お前のみるところでは、無事にすませそうもないのかね……」 「だめだろうね。いま出て来てる男たちは、あまり利口なのがいないようだけど、女の人が、いろいろ悩んだ末に、お金で埋め合せをつけようとわりきって決心したようだから、あれは喰《く》い下ってくると思うね……」 「……しつっこい奴なんだ……」と、雄吉は、愛欲の場面でも思い出しているような目の色をみせて、ポツンとつぶやいた。 「僕の意見は、家の現在の経済事情とにらみ合せて、いくらかの金を出してやって、こじらせないで手際よくすませることが一ばんだと思うな……」 「そうだよ。それだって、負けて勝ってるようなもんだよ。結果からいえばね……」 「どうもしくじったもんだ……」  雄吉はいまいましそうに、コップの酒をグイとあおって、 「お前、僕の陰の女出入りにぶつかって、びっくりしたかね……」 「そうだな。はじめは面喰ったようだけど、すぐ、ははあ、そうか──とうなずけたよ」 「イヤな奴だと思ったかい?」 「いや。羨やましい男だと思ったよ。僕だって若い男だからな……」 「じゃあ、お前もやったらいいじゃないか」 「僕は不器用だからだめだよ。……くやしまぎれに、僕はゆりちゃんという子にそう云ってやったんだ。兄貴はつぎつぎと女の子を漁《あさ》っているうちに、自分の中の大切なものがすり減っていってるのに気づかないんだって……」 「なにイ」と、雄吉は硬ばった表情をして、信次をにらんだ。 「……ゆり子はなんて云ったい?」 「そんなもの、現代の生活には必要がないって云やがったよ……」 「そうらみろ。お前、あんがい古くさいんだな。……三人の男たちは、ピストルとか刃物とかを、チラチラさせなかったかい?」  雄吉の話しぶりには、一ばん聞きたかったことを、やっといまごろ云い出した、というようなふくみが感じられた。つまり、臆病《おくびよう》なくせにみえ坊なのだ。 「いや。そんなことはなかったよ。誰か持ってたかも知れないけど、俺が人ちがいだということが分ってからは、変に和やかな気分になってしまって、そんなものをふりまわすような険しい場面にはならなかったんだ……」 「あいつら、問答無用で、とんでもないことをするっていうからな」  話が話なので、二人とも、グイグイと酒を身体に入れているようだった。 「──どうするね?」と、信次が雄吉のコップに酒を注いでやりながら尋ねた。 「お前はゆり子たちにどんな風に話して来たのだい?」 「どうせまちがえたんだから、僕を仲に入れて、なんとか治めさせろ──そう云って来たよ」 「ありがとう。──お前はどう治めるつもりなんだね」 「──金をやっておだやかに治めたいね」 「──百万円なんて金、俺にどうして出来るんだい?」 「それあ向うの云い値だよ。三分の一ぐらいでいいんじゃないのかね……」 「三分の一だって、どうして……」 「ママに打ちあけて出してもらうんだよ。ママ、びっくりして銀行から引き出してくれるよ……」 「うん。それあそうだろうけど……」  重苦しい沈黙があった。雄吉は、頭の髪を掻《か》きむしっては、思い出したように酒をグイとあおっていた。赤く充血した目が、ギラギラと光って、なにかを試すように、ときどき信次の顔の上に注がれていた。一つの考えが、潮が差引きするように、雄吉の頭の中で動いているらしいのだ……。  とうとう雄吉が重い口をきった。 「おい、信次」 「なんだね」 「お前に相談があるんだ」 「どんなことだ?」と、信次は、むごたらしく荒れた雄吉の顔を眺めた。 「おい、信次」と、雄吉は改めて呼びかけて、 「俺はな、過去に於《お》いて、お前に重大な迷惑をかけていることを知らないわけではないんだ。そして、お前がずうとそれに堪え忍んでいることもな──」  どこか遠方から聞えてくるような、抑揚のない、うつろな声だった。ギラギラ光る目も、遠い過去を見つめているように、焦点がぼやけていた。  信次は息がつまるようだった。なんだって、くみ子を梯子《はしご》にのせて遊んだ、昔の日のことを云い出したのか──? 「なにを云ってるんだか、俺にはさっぱり分らないや……」 「お前は舌を引っこぬかれても、分ってるとは云わない男だよ。……それを計算に入れておいて、俺はお前に頼むんだが……、そうだな、俺がこの計画のヒントを得たのは、お前が偶然、俺にまちがえられて、ゆり子の家に連れていかれたってことなんだよ……」 「それがどうしたんだ?」 「お前に俺の身代りを勤めてもらいたいんだよ」 「身代り──?」 「ああ、そうだよ。お前が女のしくじりを仕出来《しでか》して、向うから脅迫されているということにして、俺がパパやママに金を出すように説得するんだ……」 「俺が……俺がか──」  信次は呆然《ぼうぜん》として、口を少しあけて、雄吉の顔を眺めた。 「いやならいやでもいいんだ」と、雄吉は卑屈に笑って、 「もともと虫のいい頼みなんだからな……」  信次はやっと落ちつきをとり戻して、 「どうして、しくじったのが兄貴でなく、俺であった方が都合がいいのだい?」 「それはだな、いまのところ、俺は田代家のホープみたいな存在だろう。パパもママも僕を信用しきっているんだ。その俺が、蔭《かげ》では女の子をさんざん漁っており、しかも、おしまいにまずい失敗を仕出来したとなると、ママもパパも人生観が変るほど、ガッカリするだろうと思うんだ。そして、家庭の空気までが暗くなってしまうだろうと思うんだ。僕にはそれがたまらないんだ……」 「──僕が失敗したんだと、家庭が暗くならないとでもいうのかい?」 「そうだよ」と、雄吉は無造作に云いきった。 「お前だとそうならないんだ。何故って、お前ははじめから変り者で通ってるんだし、風来坊の画学生でもあるんだし、パパもママも、呆《あき》れた奴と思うだけですむんだよ」 「そして、兄貴の存在がますます光ってくるというわけか……」  そう云うのが、少しも非難がましい口調ではなく、むしろすなおに驚いているだけのようだった。 「少しはそうなるかも知れないな。しかし、そんなことよりも、俺は田代家の平和ということを念頭において云ってるんだ……。俺を恥知らずだと思うかい? 俺としてはだな……」と、雄吉は、まるで相手よりも優位に立ってるような目の色で、信次をまともに見つめて、 「俺としては、過去にもお前に、ある重大なことで身代りしてもらってるんだし。どうせそういうことだったら、今度もまたお前に代ってもらおうと思いついたんだ……」  身代りという言葉を云い出したのは、いまはじめてである。しかも、それは、つぎの身代りをさせるかけひきに云い出されたものなのだ。口に出してそれを云ったことで、昔の負債は棒引になったから、今度また新しい負債を引き受けてくれという腹なのである。  人が呆気《あつけ》にとられるような、こういう見え透いた、ザックバランな手段を弄《ろう》するほど、信次という人間には、かえって効目が強いことを、雄吉はよく承知していたのである。  果して、信次は雄吉からそんな風に話をもちかけられると、粘っこい蜘蛛《くも》の糸のようなもので胸をしめつけられたようになり、反ぱつする弾力を失ってしまった。頭の中では、 (不当だぞ! ……不当だぞ! ……)と叫びつづけているのだが、その叫びは空まわりするだけで、行動力の裏づけを欠いているのである。  しかし、なんとかして、恥知らずな申し入れを弾ね返したいという、信次の心の底のひそかなねがいが、あちこちに突破口を探しまわったあげく、まったく思いがけない所に、一つの奇妙な出口を見出したのであった……。 「そういうんだったら、僕が身代りしてもいいんだ。その代り条件がある」 「どんな条件だ?」と、雄吉は警戒の目をひからせた。 「それはだな……」と、信次はちょっと云いしぶってから、 「倉本たか子さんだな──」 「倉本さんがどうしたんだ?」 「あの人を、兄貴と俺が自由競争で獲得してもいいという条件だ。現在、兄貴とあの人がどんな関係であろうと問題ではないんだ。俺は俺でやっていくんだ……」と、信次は、決然とした調子で云った。  意外なことが云い出されたので、雄吉はニヤリと笑った。 「お前、そんなに倉本さんが好きなのか?」 「ああ、好きだよ」 「……魅力のある人だからな。古い時代の良さと新しい時代の良さを、兼ねてるような女だ。そして美人だ。しかし、お前の云い方はおかしいじゃないか。恋愛なんて各自の自由だ。それなのに、お前は、倉本さんがまるで俺のものでもあるような云い方をするじゃないか……」 「いや、そういうわけじゃないんだ。……俺が倉本さんを口説いて、倉本さんが俺のものになった時、兄貴がガッカリしたりしてはいけないから、そう云うんだ……」  雄吉は声を立ててゲラゲラと笑った。 「お前、たいへんな自信じゃないか……」  信次は頭をかいてテレくさそうにして、 「いや、そういうわけでもないんだけど、一生懸命にやれば、成功するかも知れないと思ってるんだ……」 「一生懸命にやれよ。俺は、邪魔などしないぞ……」 (信次という奴は、ときどき鋭いカンをはたらかせるが、ときどきはバカみたいに鈍くなる。自分と倉本たか子が、どんな関係になっているのか、てんで気づかないで、ムキになってあんなことを云っている。気の毒な奴だ……)  雄吉は、胸の中で、そんな風に信次を哀れんだ。はたしてそうなのであろうか……? 「いや、邪魔したっていいんだ。俺は、兄貴から恩恵をほどこされるのはイヤだからな。もし、兄貴も倉本さんを好きだったら、自由競争ということにしてもらえばいいんだ。……少しくらい邪魔が入った方が、張り合いがあるようなもンだ……」  敵意は感じられないが、素朴な自信にあふれた調子だった。  雄吉はまた笑い出した。そして、よっぽどたか子との関係を云ってやろうと思ったが、しかし、それを打ち明けてしまうと、信次が身代りをする条件が消滅してしまうのだ。人がわるいようだけど、勝手に信次を張り切らせておいた方がいい……。  ふと、雄吉は、何か思いついたように険しい顔をして、 「おい、信次、もしもだな、ゆり子の件が、しぜんに洩《も》れて、倉本さんの耳に入ったらばどうする? お前、あわてて、自分は身代りだったと、倉本さんにほんとのことをバラしてしまうんじゃないのかい? ほんとの犯人は兄貴だと……」 「俺はそんな中途半端な真似はしないよ。一たん承諾したら、世界中の人に、川上ゆり子をひどい目にあわせたのは俺だと主張しつづけるよ……」と信次は、かくべつ力んだ風もなく、淡々として云った。 「だってお前、そういう生ま生ましい前科をもった男に、倉本さんが好意を寄せるはずがないじゃないか……」 「いや構わないよ。人間は一生懸命になれば、過去の失敗は洗い流せるものなんだ……」  八方破れといった構え方だ。雄吉は、呆れるというよりも、内心、恐しくなった。 「たいへんきれいな口を利くが、大丈夫だろうな」と、雄吉は改めて念を押した。 「大丈夫だよ。俺が、俺がやったときまったことを、途中で、そうでないとひっくり返したことが、一度だってあったかい?」  そう云われると、雄吉には一言もなかった。 「分ったよ、信次。お前を信用するよ。それじゃあわるいけど、お前におんぶするからな……」 「おやすいことだ。……これで倉本さんは俺のものになったも同様だ。あとで口惜しがるなよ、兄貴」 「しっかりやれよ。……女を口説き落すのは、絵をかくよりも難かしいかも知れないぞ……。おい信次、よろしく頼むぞ……」  雄吉から手をさしのべ、信次もそれにこたえ、二人は複雑な微笑を湛《たた》えて、強い握手を交わした。二人とも、身体はひどく酔っぱらっているのに、頭の一部はシーンと冴《さ》えかえっており、そこで、火花が散るような烈しいたたかいが演じられていたのであった……。 [#改ページ] [#2字下げ]波 紋  ──それから数日経った夜、田代家では、玉吉はまだ会社から帰らず、くみ子はたか子といっしょにオペラに出かけ、家には、みどり夫人と雄吉と信次の三人だけが、偶然に残った。  軒先から出る照明を浴びた、庭の芝生の緑の上には、シトシトと夜の雨が降っていた。あたりは埋れたように静かだった。  デザートの林檎《りんご》を食べながら、ふと、雄吉が、信次の方に目配せして、 「いやにひっそりした晩だなあ。……ママ、信次と二人でウイスキーを飲んでもいいですか?」 「ああ、いいよ。……でも、ここは片づけさせますから、向うへいらっしゃい……」  三人は居間の方へうつった。雄吉は、食品棚から、ウイスキーや鰯《いわし》の缶詰などを、自分でとり出して運んで来た。 「ママも一ぱいだけどう……」と、雄吉はさり気なく、ウイスキーを注いでやった。 「ありがとう。……いただくわ……」  みどりは、少しむせたりしたが、しかし、三口ばかりで小さなカップを干してしまった。 「パパは、相変らずの社交で、とり引き先きの人たちと飲みに行ってるようだが、このごろは、どんな所で飲んでるのかな。お座敷? それともナイト・クラブのような所?」と、雄吉は、まるで舌ならしでもするように、なにかとみどりに話しかけた。 「それあお客さんの好みしだいで、さまざまでしょうよ。ずいぶん御苦労なことだと思うけど、しかしパパは身体が丈夫だから動きまわっているんですよ。……なんでも、新橋へんに『あひる』というバーがあって、そこのマダムが美人で利口な人なので、ごひいきにしているとかって、教えてくれた人があるけど……」  それを云うみどりの言葉には、少しもトゲが感じられなかった。 「パパの浮気、絶対反対! 僕にはそれを絶叫する資格がある……」と、信次は片手をヒョイとあげ、おどけていると思える調子で云った。 「そんなことではないでしょう。……パパだって少しは気晴しをしないとね。私が、場合によっては、ずいぶんうっとうしい奥さんであることは、誰よりも私自身がよく知っていますからね……」と、みどりは信次をたしなめるように言った。 「そのバーの名前、ほんとに『あひる』って云うんですか?」と、信次がきき直した。 「そうだって云ってましたよ」 「ふーん。それだったら、マダムがすばらしい美人だっていう話、僕もきいた……。そこのバーテンをしているという男と、こないだ偶然おなじ自動車に乗り合せたんだ……」  信次の言葉で、なんとなく不安なものを感じさせられた雄吉は、少しあわてた調子で、 「パパもバーぐらいには行ったっていいさ。ここの家族といっしょに酒を飲むんじゃあ、うまくもなんともないだろうからな」 「いい気持で酒が飲めるような家庭では、私の方が困ってしまいます。……日本の男の人の酒を飲むというのは、人間のネジをだらしなくゆるめることですからね……」と、みどりが苦笑した。 「──ママ。信次が何かお話があるんだって……そうだろう、信次……」  こらえ性がない雄吉は、とうとうそう云って信次をうながした。と、信次はびっくりしたように、雄吉の口をまねて、 「──ママ、僕、お話したいことがあるんだけど……」 「お話──?」と、みどりは皮肉な微笑を浮べて、雄吉と信次の顔を見較《みくら》べ、 「私もそういうことだろうと思っていましたよ。……念のために尋ねますが、それはパパも知ってのことなんですか?」 「いや。……パパは知らないよ。……僕、兄貴には相談したんだけど、結局、ママに打ちあけて、助けてもらうしかないということになったんだよ」 「珍しいことね。いままで、お前は意固地なほど、自分のことは自分で始末して来たようだけど……」と、みどりは、試すように、信次の改まった顔を眺めた。 「うん。でも……今度はだめなんだ。ママ、僕、女のことでしくじってしまったんです。……たちのわるい女にひっかかってしまったんです……」と、信次はいくらかあわてて、おっかぶせるように云った。 「お前が……? 何をしている女ですか?」 「ファッション・モデルなんだよ。二流かな……三流かも知れない……」 「信じられないわ」と、みどりは大きく首をふって、 「ああいう仕事の人たちは、それぞれ自分の容貌《ようぼう》に自信をもってるんでしょうし、そういう積極的な気質の女が、お前のような人間に牽《ひ》かれるということは、ちょっと考えられないことですよ……」 「ママは惨酷なことを云いますね。……まるで僕が、若い女の子に好かれない人間であるかのように……。ひどいや、ママ」  信次は口をとんがらせて喰《く》ってかかった。しかし、どこやらお芝居じみていた。 「そうは云いませんでしたよ。……自分の美貌をしょっちゅう意識してるようなタイプの女の子は、長くつき合ってないといい所が分って来ないお前のような男には、めったに牽かれないという意味ですよ。……控え目で、自分というものをよく考えている女の子だったら、お前に牽きつけられるでしょうが……」  黙って二人の応酬を聞いていた雄吉は、みどりの言葉で、火事が身近に迫ったような不安を感じ出した。 「ママ、理屈めいたことを云ってもしようがないよ。ともかく、その女にはわるい紐《ひも》がついてたんだよ。信次は、ピストルや短刀で、その男たちからおどされているんだ……」 「おお、いやだ」と、さすがにみどりは顔色を変えた。 「おどす目的はなんなの」 「金だよ、ママ。……女ははじめから、田代家というものを意識して、信次と関係したらしいんだ。そうだろう、信次?」 「そうなんだ。……僕、だらしなくて、すみません、ママ」と、信次は両手を組み合せて、深く頭を垂れた。 「お金をどれほど要求してるんですか?」 「百万円と云ってるんだよ、ママ。そんなもの、向うで吹っかけてるだけで、じっさいはその三分の一ぐらいもあればいいんだろうが……」 「百万円──。まとまったお金なのね」と、みどりは、金高のことでは、べつにショックを受けた風もなくつぶやいた。 「世間の常識では、よほどの大事件でも、それだけの金があれば、カタがつくと思うんだけど、信次は、そのファッション・モデルの娘を、そんなひどい目にあわせたんですか……」 「僕が仲に入ったから、分ってるんだけど……、向うの云い分だと、その女は二度も妊娠して、そのために身体が衰弱してしまったし、それに信次の奴、その女が鼻につき出すと、その女の仲間のモデルの女たちに、つぎつぎに手を出したというんだよ……」  雄吉はスラスラとよどみなくしゃべった。信次は、そういう雄吉の顔を見るのが堪えられない気がして、深くうつむいたままだった。  みどりは、不快そうに、神経性の身慄《みぶる》いをして、 「まあ、いやらしい! ……信次、それほんとのことですか? ……」 「ママ。僕、恥ずかしいんだ。……僕、きっと、生れが卑しいんだよ。……自分でそう反省しているんだ……」 「おだまんなさい! 誰もそんなことを云ってやしません!」と、みどりはまっ青になってきめつけた。 「雄吉の云うとおりだとすれば、どんな要求をされたって、無理なことがないわ。信次、ママにその女の人に会わせなさい。私、会って、直接いろいろお話してみますから……」  雄吉は何気なく顔をそむけた。 「ママ。それはだめですよ。ぐれん隊みたいな男たちが、その女のまわりに一ぱいたかっているんだから……。ママにもしものことがあれば、僕、一そう申しわけがないもの」と、信次はあわてて、火を消しにかかった。  みどりは冷然とした口調で、 「私は女で、年寄りですから、向うもそんなことはしないでしょう。……それよりも私は、その女の人に直接会って、お前がその人をどんなにひどく傷つけたか、この目でたしかめて、その人が立ち直れるようにしてあげたいと思いますよ。……名前はなんと云って、その人はどこに住んでいますか?」 「ママ」と、雄吉が口をはさんだ。 「信次が云うように、ママが直接むこうの人間に会うのはおよしなさいよ。田代家の面目にも関わりますよ。一さい僕に委《まか》せて下さい……」 「若いお前に、ぐれん隊相手に、そんなことを捌《さば》ける自信があるんですか?」 「ほんとは出来ないかも知れないんだけど……、僕は偶然にまきこまれてしまったんだよ、ママ。こないだ、家の前で、ぐれん隊の連中に信次とまちがえられて、車でその女の家に連れていかれてしまったんだ。そんなことで、結局、僕が中に入ることになったんだよ。だからママ、僕に委せておきなさいよ。ママが出ると、かえって騒ぎが大きくなって、奴らにつけこまれるだけですよ……」 「おや。そういうことだったの。では、お前はその女の人に会ったのね? どんな印象の人でしたか?」 「……きれいな人だったよ。すこし……やつれてはおったようだけど……。ねえ、ママ。信次は十分に後悔しているのだし、もうこの話はこれだけにして、信次をあまり苦しめないようにして下さいよ。僕がなんとか治めますから……」 「お前は弟思いなんだね。信次、兄さんに感謝しなければなりませんよ。……私としては、正体も見えない相手に、やぶから棒にお金を出したりするのはイヤなんだけど、雄吉がそう云うから委せることにしますよ。その代り、私の方にも条件が一つあります。それにはパパにもくみ子にも、この件が洩《も》れないように慎重に事を運んでもらいたいということです。私は、私の治めている家庭に、スキャンダルが起ることを、パパにもくみ子にも知られたくないんです。……お金は明後日あげますよ、雄吉……」 「ママ。すみませんでした……」と、信次はホッとしたように云って、首をたれた。  胸がむかつくようなウソをつくことも、これでやっと終ったか、という安堵《あんど》の気持だったのであろう。 「ママ。委せてもらってありがとう。……おい、信次。これからは気を注《つ》けるんだな。ママが、いつでも、今度のように話が分ってくれるとはかぎらないからな……」  雄吉は立ち上って、さもうちとけたように、信次の肩をポンとたたいた。それは、この話の決着がついたことを暗示するゼスチュアでもあったのだ。 「それじゃあ、ママは一人ぎりになりたいから、二人ともめいめいの室に引っこんで下さい。ともかく、パパとくみ子には、絶対気どられないようにという約束は、固く守ってもらいますからね……」  みどりはそう云って、両手で顔を洗うような仕草をした。何かこびりついたものを拭《ぬぐ》い落そうとでもするように……。 「信次。二階に引き上げよう」  雄吉が先きに立って、居間から出た。そして、階段を半分ぐらい上った所で、急に思い出したように、 「ああ。俺は十時ごろ人に会う約束があるんだ。ちょっと出かけてくるからな……」 「……うまくいったな、兄貴」 「ああ、川柳に曰《いわ》く『母親はもったいないが欺《だま》しよい』さ。……俺は若いのでも年よりでも、女を欺すことでは相当な才能があるつもりだ。……お前の世話になるな……」  雄吉は、冗談とも真面目ともつかない調子で囁《ささや》いて、逃げるように戸外に出て行った。  信次は、自分の室に入ると、しめきった窓を二つほどあけ、それから寝台に身体を投げ出して、まじまじと天井を見つめた。そのうちに、落ちつかないのか、身体をゴロゴロ動かしていたが、ふと起き上ると、あいた窓の所に行って、晴れわたった夜の空気の中に首をつき出し、身体をしぼるようにして、 「ウオー! ……ウオー! ……」と、二声ばかりわめいた。  胸にたまった汚いものを、みんな吐き出してしまおうとでもするかのように──。  首をひっこめて、室の中をグルグル歩きまわっていると、ドアをノックする音が聞えた。雄吉が引っ返して来たのだろうと思って、ドアを開くと、そこにはみどりが立っていた。黒い羽織の紐を神経質によじって、信次の顔をじいと見つめている。 「あっ、ママですか──。僕、兄貴かと思って……」と、信次はあわてて云った。 「お前はいま、大きな声を出していたが、どうしたんですか?」 「ああ、僕、自分が恥ずかしくなったから、それを夜の空気の中に発散させようと思ったんです……」 「自分の何が恥ずかしかったんですか?」 「……つまらない女にひっかかって、ママや兄貴に迷惑かけたりして、……それを思うと、僕はいても立ってもいられない気持だったんです……」  そう云うのが、自分でもガッカリするほど力のぬけた調子だった。 「そうですか?」と、みどりは冷い微笑を浮べて、信次を見下し、 「そうではなくて、私にしらじらしいウソをついたあと、気分がムシャクシャして、それで、いまみたいに吠《ほ》えたんでしょう。私だって、二人がかりの念入りなウソを長々ときかされて、女でなかったら、私は大きな声で吠えたてたいぐらいですよ……」 「ママが、なんのことを云ってるのか、僕、さっぱり分りませんよ……」と、信次はそら呆《とぼ》けた。  みどりは、信次の言葉など聞えない風で、 「たぶんまた、雄吉の方からお前に押しつけたんだと思うけど、私がどんな惨めな気持で、お前たちのつくり話を聞いていたか、お前には想像がつくと思うけど……」 「ママが何を考えてるのか、僕、さっぱり分らないな。……困ったなあ……」と、信次はベッドの端に腰を下して、両手で頭を抱えこんだ。 「私には分りましたよ。お前たちが、もっともらしく、細かなウソをならべたてたお蔭《かげ》で、どういう事件だったのか、ほぼ見当がつきましたよ。私は頭の中で、ちゃんと、雄吉とお前を入れ替えにして話を聞いていましたから……」 「ママ。そんなこと、秀才で品行方正な兄貴を侮辱することじゃありませんか!」 「信次。私の目をみてごらん。雄吉を品行方正だなどとはやし立てて、お前は心の中で、雄吉や私に対して最大の侮辱を加えていることになるんですよ。……私のひがみかも知れないけど、お前がわりのわるい今度の役を引き受ける気になったのも、心の奥の方で、私たち親子に対する優越感に浸りたいからだったんじゃないの?」 「……じっさい……困ってしまうなあ……。そんな話は、兄貴がいる時にして下さいよ、ママ……」と、信次は顔をそむけてつぶやいた。 「雄吉はそこらの飲屋で、飲み直しをしていますよ、きっと。いくらあれが無良心な人間でも、あんなしらじらしいことを私にしゃべったあとでは、意識がしびれるほど酒でもあおらなければ、じっとしておれないでしょうよ……」  信次はうつむいて黙っていた。掌《たなごころ》をさすようにそうハッキリ云われてしまうと、もう云い返すだけの気力がなかったのだ……。  それまで室の入口に立っていたみどりは、はじめて室内に入って、ベッドに腰を下している信次と向き合うように椅子に坐《すわ》り、 「信次。私はいま、だいぶお前に意地のわるいことを云いましたけど、でも、どうしても私に飲みこめないことは、どうしてお前が、自分の人格を疑われるような役割を引き受ける気になるのか、それが私には分らないんだよ、信次……」 「……僕にも、分りません」 「だから、私には結局、ここの家の人間には、どう思われようと構いやしないという不信の念が、お前にそうさせるんだろうと思うんだけど……」 「そんなことはないよ、ママ。……今度は僕、兄貴とあるカケをしたんだ。だから、二人とも五分五分の責任があるんだよ……」と、信次は苦しまぎれに云ってしまった。 「カケ? ……どんなカケですか?」 「それは云えないんだ。誰にも迷惑をかけるようなことじゃないから心配しないでいいよ、ママ」 「そうですか。それを信じましょうよ。……しかし、信じたからって、私の惨めな気持が直るわけではないんですからね……」 「──ママはどうして、兄貴と僕がウソをついていると感じたのですか?」  みどりは、寂しげな微笑をもらして、 「私の方から聞きたいんですよ。……どうしてお前さんたちは、くみ子の怪我の場合と同じ型のウソを思いついたのかって……。くみ子の場合で経験ずみの私には、すぐウソが分りましたよ。いずれは雄吉が押しつけたことだろうが、あの子は、何か重大な失敗をしでかすと、いつも同じ逃げ道を本能的に考え出すのね。人間ってみんなそんなものだろうが……。そして、お前も、知ってか知らないでか、その片棒をかついでるのね……」 「……ママ、僕はあることにかけたんだよ……」 「それだって同じことです」 「でも、ママは兄貴の手がいつも同じだと責めるけど、ママだって、そう云えば、いつも同じじゃないかな。兄貴がウソをついてるのが分ったら、何故それを暴いてやらないんです……。小さい時からそうすれば、兄貴だってもっとちがった人間になっていたかも知れないんです……」 「お前は一ばん私の痛い所をつきましたよ。そうなんだよ、信次。私にはそれが出来ないんだよ。そんなことで私は考えたんだけど、一人の人間のもっている可能性には、無限な一面もあるようだけど、同時に極めて浅い限界もあるような気がするんだよ。他人からみて、あんなことぐらい出来ないのかなと思われるようなことが、本人にはどうしても出来ないんだからね。……お前の場合で云えば、雄吉からそんな途方もない相談をもちかけられて、断わりきれない所に、お前という人間の一面の限界があると思うんだよ。……私にもそれがあります。雄吉を暴き、雄吉を批判することは、私自身を暴くことのようで、私にはどうしてもそれが出来ないんです……」 「分るよ、ママ……」と、信次は深い嘆息を洩《も》らした。 「ねえ、信次。私とパパは、お前たちがそれぞれ結婚しても、子供等の世話にならず、二人ぎりで暮すつもりだけど、パパが先きに死んだりして、私一人でやっていけないという事情にでもなったら、私はくみ子の家庭か、でなければお前の家庭で世話になろうかしらんと考えてるんだよ。……お前、私を入れてくれるかい、信次?」 「ああ、いいよ。……ママも不幸な人なんだね……」  するとみどりは不意に笑い出して、 「お前、ホロリとした気分に欺《だま》されてはだめよ。いまそう云ってながら、私はいつお前にひどい意地わるをするか知れないから……。油断してはだめよ」 「僕、油断しないよ、ママ」と、信次も奇妙な微笑を浮べて、口うつしに答えた。  その時、階下の玄関で、人の話声がした。 「くみ子たちが帰ったようだわ。……何事もなかったことにしてね……。お前も下にいらっしゃい……。雄吉がいないから、お前に、倉本さんを駅まで送ってもらいますから……」  二人は居間に下りていった。くみ子とたか子は、長椅子に並んで腰を下していた。出かける時は雨が降ってなかったので、洋傘なしで出かけたのだが、帰り道は、ネッカチーフで頭を包んで来たせいか、二人とも髪の先きに水滴が光っていた。  たか子は地味な紺のスーツ、くみ子は黄のカーデガンをつけていたが、さっきまでの重苦しい室の雰囲気に較べて、いまは花でも咲いたように、居間が明るくなっていた。 「ママ、ただいま。……熱いお紅茶が欲しいわ」 「はい、いますぐ……。倉本さん、オペラはどうでしたの?」 「ええ。とっても楽しゅうございましたわ」 「結構でしたね。……今夜は雄吉が留守なもンで、信次に送らせますから……」 「すみません……」 「いや、女の人のお役に立つって、楽しいことですよ……」と、信次はニコニコして、長椅子の隣の席に坐った。  間もなく、ばあやが紅茶を運んで来た。それを飲んでしまうと、たか子と信次は、すぐに立ち上って戸外に出た。 「──ママさんとお二人で、二階でお話していらしったんですか?」  雨の夜道をしばらく歩いてから、たか子が、長く気にかけていたような調子で尋ねた。 「ああ、僕の室でね──」 「どんなお話ですか?」 「それは云えないや。……それよりも貴女《あなた》は、僕という人間にしょっちゅう気を注《つ》けていた方がいいですよ」 「どうしてですか?」 「僕は自分に自信があれば、どんなことでもしかねない人間だからです……」  たか子は、本能的に、信次から少し身体を離した。しかし、不快な気分ではなかった。  街燈の光が、濡《ぬ》れた舗道や樹々の緑を美しく照らし出していた。人通りが疎《まば》らで、あたりはひっそりしている。駅の近くまでくると、男と女がもつれ合って出て来て、目の前の往来をよろけていったかと思うと、男の方が道端にしゃがんで烈しく吐き出した。 「あら。雄吉さんですわ。お加減がわるいのかしら……」と、たか子は信次の腕を捕えて、雄吉たちの方に寄っていきそうにした。 「よしなさい。兄貴に恥をかかせるばかしですよ。彼、何か面白くないことでもあって、悪酔いしたんでしょう。女はそこらの飲屋の女中ですよ。さあ、行きましょう……」  信次は、たか子を抱えるようにして、雄吉たちの傍を足早に通りすぎた、と後の方で、雄吉が、ろれつのまわらない大声で何かわめいているのが聞えた。  ──次ぎの週の金曜日の夕方、雄吉とたか子は、どんよりと花曇りのした銀座通りを歩いていた。毎週、金曜日の午後がデートに指定され、二人で街を歩いたり、郊外に散歩に出かけたりしていたのである。  そういう時の雄吉は、親切で思いやりがあり、紳士的でさえあった。接吻とか抱擁とか、感覚的な欲求は決してもち出さず、せいぜい、たか子の腕を軽く抱えて、腕をくすぐるような面白い話をつぎつぎと聞かせながら歩きまわるだけだった。  吹雪に閉ざされた入院室で、愛情を誓う接吻を一度交わしてしまった以上、あとは焦らないでゆっくりやった方が、たか子のように固いシンを持った娘には、ずうと効果があるのだ。そして、雄吉には、のぼせないでゆっくりやっていけるアテがあったのだ。というのは、感覚的な欲求を満たすための女は、ほかにちゃんとあったからで、したがって、たか子の前では、百年でも、きれいに振舞っていられたのである。  そのうちには、たか子の方で焦って、ひとりで燃え上ってくるようになる。どういうしっかりした娘でも、一ぺん唇を交わしたあと、長くおあずけのような状態がつづくと、つつしみも辛抱も忘れて、自分から何かを求めるような心理になるのだ。そのころが女の食べかげんというものだ。──医者の卵であり、女についての経験もかずかず積んでいる雄吉は、倉本たか子についても、そういう安易な見とおしを立てていたのである。  そして、甚だ残念なことだが、倉本たか子も例外の女性ではなかったのである。だが、そのことはたか子にとって、必ずしも不名誉なわけではない。何故なら、雄吉が予想している心理は、男でも女でも、人間として避けられないものであるからだ。だからと云って、たか子がじっさいに、雄吉の思う壺《つぼ》にはまるような動き方を、しまいまで続けていくかどうかは、保証のかぎりではない。人間というものは、雄吉が予想している以外の、心理的な要因で動かされることも、しばしばあるものだからだ……。  ともかく、いまの所、たか子は、雄吉との関係について、ある空《むな》しさと焦りを感じ出していることはたしかだった。その気持を、たか子は、雄吉が立派すぎるのだ、と自分自身に云い聞かせていた。  あれ以来、この人は、一度も、自分に感覚的なものを求めようとはしない。いつかの夜は、川崎の浄水場のある寂しい山の中に自分を誘ったこともあるのに、このごろ自分と連れ立って歩くのは、昼日中、人通りの多い所ばかりだ。この人の目はいつもおだやかに澄んでおり、この人の態度はいつも落ちついていて、物欲しげな所がない。そして、自分に対しては、いつも親切で優しい。何という立派な青年であろう。ほんとに、私にはもったいないような人だ……。  それなのに、私の心の底に、いらいらした、満ち足りない思いがうずいているのは、どういうわけなのだろう。なんでこの人は、濁った、けものめいた烈しい目つきで、私を見つめようとしないのだろう。なんで私の唇を──身体を、ガムシャラに求めようとしないのだろう。なんで、乱れた、荒々しい呼吸《いき》づかいを、私の耳に聞かせようとしないのだろう……。  もしもこの人が、そんな風に私に働きかけてくるとすれば、私は哀しい思いに打たれて、ときどきはこの人を拒むかも知れないが、それでも私の女心は、ひそかに満ち足りているにちがいない……。  人に云えない、こんな暗い思いにネチネチふけっているなんて、私は淫《みだ》らないやらしい女なのかしら……? 雄吉さんは、あんなに淡泊で、紳士的にふるまっているのに……。 「たか子さん、お茶でも飲みませんか」と、雄吉が街角の喫茶店の前で足をとめた。 「ええ。いただきますわ……」  二人は店に入って、二階に上り、白いレースのカーテンを垂れた窓際の席に、向き合って坐《すわ》った。雄吉は探るように、たか子の顔を見つめて、 「今日のたか子さんは、少しどうかしているようだったな。僕が話しかけても、返事だけはするんだが、なにか別なことを考えているような、ウッカリした表情をしているんだもの……」 「そうだったかしら……」と、たか子は赤くなって、 「私、べつになにも考えごとはしていませんでしたけど……」 「怪しいもんだ。……たぶん、僕と歩いてるのが退屈なんでしょう?」 「そんなことありませんわ。私こそ、連れ立って歩いても、なんの面白味もない女なんですわ、きっと……」 「冗談じゃない。貴女ほど、男にとって魅力のある人は、ほかにありませんよ……」 「ふん……」と、たか子は小さく鼻を鳴らした。 (そんなに魅力があるんだったら、なぜ私をもっと強く求めようとしないのかしら……)  ボーイが紅茶とケーキを運んで来た。それを飲んだり、食べたりしてる間に、たか子は、雄吉に対して、何かつき刺すようなことを云ってみたくなった。 「──あっそうだったわ。こないだね、くみ子さんと私とオペラに行った晩でしたわ……」 「オペラに行った……ええと、あれは……。それがどうかしたんですか?」と、雄吉は警戒するような目の色をみせた。 「そんな恐い顔をなさらないで。ホホホ……ほんのちょっとした事ですもの」 「僕がそんな恐い顔をしましたか。ハハハ……」と、雄吉はとってつけたように笑い出した。 「オペラから帰って、信次さんに駅まで送られていったんですけど、その途中で、貴方《あなた》をお見かけしたんですの……」 「僕を──」と、雄吉は思わずまた顔を硬直させて、 「僕がどうしたとおっしゃるんですか?」  たか子は、なんとなく張り合いを感じて、意地わるげな微笑を洩らし、 「雄吉さんはひどく酔っぱらっていらっしゃいましたわ。飲み屋の女中さんのような人の肩にもたれて、道をよろけて歩いていたかと思うと、道端にしゃがんで吐いたりしていましたけど……」 「それは……どうも……」と、雄吉は顔色を硬《こわ》ばらせて、 「僕は酔っぱらっていて、覚えがないんだけど、貴女が見たとおっしゃるんだから、たしかに、そのとおりだったんでしょう。でも、そういう風にとり乱した僕を見かけながら、介抱もしてくれないなんて、貴女もあんがい冷淡な人だなあ……」と、しまいには、それでも冗談めかして云った。 「あら。私、信次さんに、傍によってお世話しましょうと申し上げたんですけど、信次さんは、兄貴に恥をかかせるようなもんだと云って、私の腕を曳《ひ》っぱって素どおりしてしまったんです。……後の方で、貴方が、ろれつのまわらない大声で何かわめいていらっしゃいましたわ……」  たか子にしては珍らしく、あばき立てるような調子で物を云った。事と次第ではそんなにもとり乱すことがある雄吉が、自分に対しては、いつも形を崩さない紳士であることが不満だったからだ。 「信次の奴、なんか云ってましたか?」と、雄吉は探りを入れるように尋ねた。 「ええ。貴方が何か面白くないことがあって、わる酔いしてるんだろうとおっしゃってましたわ」 「……それだけですか?」 「それだけでしたわ。私たち、駅の所ですぐ別れましたから……」 「……貴女は僕の醜態をみて、不快に感じたでしょうね?」 「いいえ、驚いただけですわ。……私、でも、アパートに帰っても、その晩はよく眠れませんでしたの。私に対しては、いつも落ちついた優しい面しか見せたことのない貴方を、あんなに興奮させたものって、何だろうと思いまして……」  たか子にしては、遠廻《とおまわ》しに恨みを云ってるつもりなのに、弱味のある雄吉は、信次に身代りさせた不正を、たか子が嗅《か》ぎつけているのではないかしらんと疑ぐったりした。 「信次の奴、貴女に呆《とぼ》けていたのかな……」と、雄吉は用心ぶかく云い出した。 「呆けたって、なんのことですの?」 「つまり……僕が……あの晩、なんでわる酔いしたかっていう理由ですよ……」  雄吉は、たか子の出方しだいで、どうにでも話を変えていけるような云い方をした。 「信次さんがそれを知ってらっしゃるんですか?」 「一ばんよく知ってますよ。貴女には何も云わなかったんですね?」 「云いませんでしたわ……」  信次が、約束を守って口を堅くしていることが分ると、雄吉は急に攻勢に出た。 「あいつがね、ちょっとしたトラブルを起して、街のぐれん隊に狙われていたので、僕が間に入って、それを治めてやったんですよ……」 「信次さんが……ぐれん隊と……。まあ。あの人のことだから、思ったことを何でも云って相手を怒らせたんでしょうね。……でも、その事と、貴方がお酒を飲んだことと、どんな関係があるんですの?」 「つまり仲裁役の僕が、その連中と一ぱい飲んでたんですよ。一人で四、五人の相手と飲んだものだから、さすがにわる酔いしてしまって、貴女に醜態をみられたっていうわけなんです……」  たか子に真相が分っていないという見極めがつくと、そういうウソが、雄吉の口から流れるように出て来た。それも、まるっきりのウソではなく、真実を勝手に歪曲《わいきよく》した、似て非なるものだから、たいへん悪質だ。それだけに効目もあるようで、雄吉を信じきっているたか子は、あの晩、信次が雄吉の傍に近よりたがらなかったことなどを思い出して、雄吉の話がほんとうだろうと思いこんだ。 「たいへんでしたわね。……信次さんの起したトラブルって、どんなことですの?」 「それあ兄貴の僕の口からは云えませんね……」と、雄吉は思わせぶりに微笑して、 「なんだったら、信次に直接きいてごらんなさい。もっとも、僕がそう云ったなどと洩らされては困りますがね。いや、そう云えば、僕はもうすでに云い過ぎたようだな。僕があの晩どうして酔っぱらっていたか、別な口実を考え出すんだったな。……まあ、いまからでは遅いが、貴女《あなた》は何もきかなかったことにして下さいよ……」 「ええ。貴方に御迷惑をかけるようなことはしませんけど……。でも私、信次さんに自分できいてみますわ。トラブルというからには、きっと自分の口からは話しづらいことなんでしょうから、わざと信次さんを困らせて上げるんです。だって、信次さんも、ときどき思いがけないことを云い出して、私を困らせたりすることがあるんですもの……」 「さあ、信次が話しますかね……」と、雄吉は、エサに喰《く》いついて来たたか子の顔を、興味ふかげに眺めた。 「ええ、私しつっこく問いつめてやりますわ……」たか子は、踊らされている者のあさはかさを匂わせて云った。 「僕は……兄貴として、信次をあまりいじめないでもらいたいんですがね。しかし、貴女も信次も大人だし、貴女がたには貴女がたの関係もあるんだろうから、どうしようと貴女の勝手だけど……」 「ええ、私、きき出しますわ。だって、貴方の介抱に行こうとしたのに、そうしなくてもいいなんて、信次さん、狡《ずる》いんですもの……」 「狡いのかな……」と、雄吉はあいまいにつぶやいた。  こうしておくと、信次という奴は、おろかしく一こくだから、自分が引き受けたトラブルをありのままに話してしまうにちがいない。そして、そのことで、信次のもち出した、たか子は自由に獲得していいというカケは、しぜんに消滅してしまう結果になるのだ……。  雄吉は、自分の頭の働きのよさに、思わず会心の微笑を洩らしたほどだった……。  それから十日ばかり経ったころ、ある日、たか子が田代家に出勤すると、くみ子はまだ学校から下っておらず、みどりも雄吉も不在で、信次だけが留守をしていた。 「お二階ですか?」と、居間に通されたたか子は、このごろずうと親しくなっているばあやに尋ねた。 「いいえ。御別荘で本を読んでいらっしゃいますわ」と、ばあやがニコニコしながら答えた。  御別荘というのは、例の犬小屋のことなのだ。お天気のいい日など、信次はときどき、その中で本を読んだりしているのだった。 「そうですか。私、お邪魔してみますわ」  たか子は、温かい陽ざしを一ぱいに浴びた庭先きに、サンダルをつっかけて下りて、犬小屋にまわってみた。  派手な色彩の横縞《よこじま》のウールのジャケツを着て、ギャバジンのズボンをはいた信次が、後の羽目板にもたれて、両足を長々と投げ出して、何か大型の本を読んでいた。上半身は蔭《かげ》の中にあり、下半身は明るい陽を浴びている。 「今日は。信次さん。犬がいないようだけど、どうしたんですの?」  たか子は金網に手をかけて、中に声をかけた。 「ああ、彼は病気で、犬の医者の所にあずけてあるんですよ」  信次は顔をあげて、無意識に、はだかの足の親指をヒクヒク動かしながら答えた。 「居心地よさそうですのね、小ぢんまりして……」 「ええ、掃除は僕が毎日やってるんですからね……。くみ子はまだ帰ってないんですね?」 「ええ、まだ──。私、中に入ってもよろしいでしょうか?」 「どうぞ」  たか子は網戸をあけて、中に入った。動物くさいにおいがした。信次からはすかいの所にしゃがんで、網戸を中から閉ざすと、ほんとに別な世界に入ったような気がする。 「いつかここで、しゃべらないと犬に噛《か》ませるからと、おどされたことがありましたわね。こわかったわ……」と、たか子は、まだ落ちつかない様子で、小屋の中を見まわした。 「そうだったかな。そんなタチのわるいことを僕がしたかしら……」 「ええ。しましたわ。その埋め合せというわけでもないけど、今日は、私の方で貴方にしゃべってもらいたいことがあるんです」 「脅迫だな」と、信次はニコニコ笑って、 「それは貴女が要求すれば、僕はなんだってしゃべりますよ。人を傷つけることでないかぎり……」 「ええ、誰をも傷つけることではないわ。信次さんね……」と、たか子は指先きで、金網をポロンポロン弾くような仕草をしながら、 「貴方、このごろ、何かでしくじって、雄吉さんにあと始末をしてもらったことがあるでしょう。それ、どんな失敗でしたの? ……」  たか子は意地わるげに目を見張って、信次の表情の動きを見つめていた。  信次は、膝《ひざ》の上の本を床板にほうり出し、恐い顔をしてたか子をにらみつけた。 「誰が貴女にそんなことを教えたんですか……。兄貴ですか?」 「雄吉さんはもっと弟思いですわ。貴方の失敗をかばってくれこそすれ、人に話すような方ではありません。いいえ、いいんです。話したくないようなことでしたら、お話しなさらなくても……」と、たか子は挑むような微笑を浮べて、さり気なく云った。  信次という人間の扱い方を、たか子も心得て来ていたのである。  はたして信次は、呼吸を乱して、あせり出し、 「いや、僕は、自分がしたことで、話が出来ないなんてことは一つもないんだ。自分がやったことなら、人を殺したことだって、ベラベラしゃべってるんだ……」 「無理をなさらなくてもいいわ。私、とり消しますから……。人の失敗を聞きたがるなんて、私、どうかしていましたわ。とり消します……」 「いや、僕はそんな風に人から同情されるのが一ばん嫌いなんだ。僕は自分がやったことで、人が僕を嫌ったって、ちっとも構わないんだ。僕は……」  しきりに力みかえってはいるが、なかなか自分の「失敗」というのを話し出さない所を見ると、さすがに信次も困惑しているにちがいないのだ。誰が洩らしたのか知れないが、自分の口から、たか子に、自分が引き受けた「失敗」を告白しなければならない立場に追いこまれようとは、夢にも思わないところだった。それではせっかくのカケもふいになってしまう。──問題は信次にとって、深刻な様相を帯びていたのである。 「────」  たか子は、温かい眼差《まなざ》しで信次を見つめて、黙っていた。相手をいたわるようなその態度が、一そう信次を刺戟《しげき》したらしく、犬の巣箱の横腹を、握拳《にぎりこぶし》でドンとたたいて、 「貴女は僕を見くびってるんだ。僕は自分のやったことで、貴女からなんと思われようと、そんなことは少しも気にしてやしないんだ……」 「さっきから、ずいぶん吠《ほ》えていらっしゃいますわ」  信次は、顔色を変えて、一瞬ひるんだ様子をみせたが、そのあとでは、一そう烈しい勢いで、 「それでは、吠えるのをやめて噛みつきますよ。……僕はファッション・モデルをしている女の子をもてあそんで捨てて、そいつのヒモみたいなぐれん隊に脅されて、金をとられたんだ。それを兄貴がまとめてくれたんです……」 「信じませんわ、そんなつくり話……。ホホホ……」と、たか子は無理でなく笑った。 「いや、ほんとだ。……もっとも、そいつが怒るのも無理がないんだ。二度も妊娠して、そのために身体をこわした上、僕はそいつに飽きると、そいつの仲間の女たちに、つぎつぎと手を出していたんだからな……」  信次は蒼《あお》ざめた見苦しい顔をして、どぎつい調子でそう云った。 「そんな話、やめて下さい! 私には……信じられませんわ……」と、たか子はまっ青になって立ち上った。犬小屋から逃げ出そうとでもするように……。  たか子の考えでは、信次の失敗と云っても、信次らしい、ユーモラスな、明るい、とぼけた話だろうと思っていたのである。それが、いきなり、妊娠とか、ぐれん隊とかいうあくどい言葉が飛び出して来たので、水を浴びせられたように、不快なショックを受けたのであった。  信次も、追いかけるように立ち上り、たか子の前に立ち塞《ふさ》がった。そして、金網にたか子を押しつけ、片手を顔の横のあたりに支えて、 「僕はそういう人間なんだ。貴女が考えているような少女趣味のセンチな人間とはちがうんだ。欲望は満たし、楽しみは遠慮なく貪《むさぼ》るんだ。今度は少しばかりドジを踏んだけど、ちゃんと裏と表を使い分け出来る人間なんだ……。  それにね、僕は、僕の裏の行いを貴女に知られることを、ちっとも、恐れてやしないんだ。なぜって貴女は僕にとって何物でもないからだ。念を押しておくけど、僕はしょっちゅう、ばかな女共をもてあそんでは捨てて、そういうことを繰り返している人間なんだ。だから、僕はちっともひもじい思いはしてないし、貴女なんか僕にとって、何物でもないんだ……」  信次は、しゃべるほど、たか子の心に通じる道が塞がっていくことを承知しながら、しかもなお、それを速めるようなことを、絶望的にしゃべりつづけずにはいられなかった。  たか子は、金網がたわむほど身体を精一ぱいにずらせて、おののいていたが、そういう状態の中でも信次が最後に云った、  ──だから、僕はちっともひもじい思いはしてないし、貴女なんか僕にとって何物でもないんだ──  という言葉が、微妙に頭の中に忍び入って来た。自分の身辺にも、それと似たことが起っているような気が、かすかにしたのである……。 「信次さんは私をバカにしていらっしゃるんだわ。何もそんな云い方をなさらなくとも……。私、自分でも、私自身がそれほど立派な女だと思ってはしませんけど、貴方からそんなにバカにされると哀しくなってしまいますわ……」  たか子は、目ばたきをして、目を伏せた。くろいまつ毛が揃って、なにかを訴えているかのようだった。  信次は、胸にせまるものがあって、危うく優しい言葉を云いかけたが、グッと押えて、 「バカにされているのは僕ですよ。僕の失敗ってどんなものか聞きたい、と云った時の貴女の意地わるげな目つきを、僕は一生忘れないや。……貴女が聞きたがったことを、僕は隠しだてなく話した。僕はそういう人間なんだ。僕と絶交したっていいんですよ……」 「いやです! 私、貴方《あなた》と絶交しませんわ!」とたか子は、自分でも意外なほど、強く反撥《はんぱつ》した。  そして、すぐ間ぢかの所に開いている信次の目──一つの世界を秘めたような黒い穴を、じいっと見つめた。 「私は信じません。貴方には、そんな不潔なことが出来るはずがありませんもの……」と、たか子は喘《あえ》ぎ喘ぎ、追っかけて云った。 「そんなことを云われて、僕が喜ぶなどと思ったら大まちがいですよ、ウソだと思うなら兄貴にきいてみるがいいんだ。……ともかく、これを機会に、僕を子供扱いにしたおつきあいは御免|蒙《こうむ》りたいな。呼吸《いき》がつまるようだ。貴女が絶交しないなら、僕の方から貴女に絶交を宣告する……」  勢いに駆られた信次は、どこまでも破壊的に押していった。 「私は絶交しませんから……。なぜって、貴方が口先きでどんなひどいことをおっしゃっても、貴方の身体から私に伝わってくるものは、やはり明るいすこやかな気分のものだからです。その反対に、見かけは上品そうでも、冷たく不健全な気分を、こちらに感じさせる人もあります……。私、貴方を私のお友だちにしておきたいんです。だから、私は貴方と絶交致しませんから……!」  たか子は、信次が思わず後に下ったほど、身体を前にのり出させて、強く云った。泣きはしなかったが、目一ぱいに、白い涙が滲《にじ》んでいた。そして、無意識にしゃべっていたのだが、今度もまた、  ──見かけは上品そうでも、冷たく不健全な気分をこちらに感じさせる人もあります──  という言葉で、いつかどこかで、自分の身辺にそんなことがあったような思いに、ふっと打たれた。信次は、驚いたような眼ざしでたか子の顔をじいっと眺めていたが、やはりさっきの調子をつづけて、 「それあ貴女の勝手だ。……しかし、貴女が心の中で、僕を哀れんだり軽蔑《けいべつ》したりしながらつき合っていると、しまいにはひどい目にあわされるからね。……僕の失敗を知りたがった貴女の好奇心が、こんな結果を生み出して、貴女はさだめし満足だろうな。……ともかく、その女は二度も妊娠して身体をこわして、そのあげく慰藉料《いしやりよう》を請求することになったんだ。僕はそういう男さ。そして、僕はそういう人間であることを貴女《あなた》に対して少しも恥じていないんだからな。のぼせをさまして、よく考えてみるといいや……」  信次は、自分に対して最後のとどめを刺すようなことを云って、床に落ちた本を拾いあげると、扉を押して犬小屋の外に出て行った。一、二歩あるきかけて引返すと、金網の戸に外から鍵《かぎ》を下し、たか子の方を意地わるげな目つきで眺め、胸をそらせて、 「アッハッハッハ……」と、高笑いをしながら、どこかへ立ち去って行った。  たか子は、(あっ)と喉《のど》の奥で叫んで、金網の戸に近より、網の間から指を差しこんで、鍵を外そうとした、がむだなことが分った。と、たか子は、力がぬけきったように、小屋の後の羽目板にもたれ、そのままズルズルと崩れて、床に尻餅《しりもち》をついてしまった。  身体がひどく疲れていた。がそれは、身体をまともに働かせたあとの疲労のように、むしろ快よい性質のものだったのは、自分でも意外な気がした……。  たか子は、指先きで、目のふちをこすったり、髪をすき上げたりした。大きな声は出したくないし、それかといって、いつまでも、このけだもの臭い小屋の中に入っているのでは困る。  ふと、たか子は、手を伸ばせば届くあたりの金網の横さんの上にチュウインガムがのっているのを見つけた。信次が置き忘れていったものであろう。たか子は、それをとって、包紙を剥《む》いて噛《か》み出した……。  いまの三十分かそこらの間に、五年分か八年分の生活を圧縮した、烈しい、緊密な体験をしたような気分だった。まだそれは、生熱い燃焼状態にあり、整理もなにもついていないが、うまく自分でそれを治めることが出来れば、今日という一日で、自分の人間が、飛躍的な成長を遂げたことになりそうな気がする……。  可笑《おか》しな青年だ。自分が犯した醜い行いのかずかずを、まるで善行をほこるように、得々と弁じ立てるのだから。……そして、不思議なことに、それを聞かされていても、どぎつい言葉が出る事だけ、その反応が、植物のトゲのようにこちらを刺戟するだけで、全体の感じは、暗くも淫《みだ》りがましくもなかった。あの人は、人殺しの告白をしても、それを美しい調べの話にするコツを心得ているのであろうか……。 (私は、あの人と、決して絶交しないわ……)と、たか子は、念を押すように、胸の中でつぶやいた……。  足音が聞えて、いま学校から下って来たらしい、白いカーデガンをつけたくみ子が姿を現わした。 「あら。先生でしたの。こんな所に押し籠《こ》められてしまって……、信次兄さんでしょう、ひどいわ」と、くみ子は鍵を外して戸をあけた。 「ああ、よかった。もう貴女が学校から下りそうなものだと思ってアテにしていたのよ……」と、たか子はニコニコ笑いながら犬小屋から出て来た。  くみ子は、たか子の腕や腰のほこりをたたいてやって、 「どうしたんですか、先生。信次兄さん、わざとしたんですか?」 「いいえ、私がいけなかったのよ。信次さんが中で本を読んでる所へ入って行って、いろんなことを云って、怒らせたもんですから……」 「そう?」と、くみ子は探るようにたか子の顔を見つめて、 「そこの往来で、信次兄さんが、ニヤニヤしながら、何処かへ出かけて行くのに会ったのよ。そうしたら信次兄さんが『おい、くみ子。いま家の犬小屋に、よそから来たドーベルマンの牝犬《めすいぬ》が入ってるからのぞいてみな。その犬、毛並はいいんだけど、サカリがついていて気が立ってるから、噛まれないように気をつけな』って云うの。ごめんなさい。そう云ったんですから……。それで来てみたら、ドーベルマンでなく先生だったってわけ……」 「そんなひどいことを云ったの。いいわ、いつか仕返ししてやりますから……」  たか子は、まだハッキリしない顔をしているくみ子の肩に腕をまわして、家の中に入っていった……。 [#改ページ]  [#2字下げ]ダブル・プレイ  山川武夫は、めずらしく風邪をひいて、一週間ばかり学校を休んだ。いままでだと、アスピリンをのんで、一と晩休んで汗を出してしまうと、次の日は、少しぐらい熱があって鼻がグスグスしていても、勤めに出られたものだったが、こんど何年ぶりかで風邪をひいてみると、精気がぬけたように身体がだるく、意地にも起き上ることが出来なかった。 (年だな──)と、山川は寝床の中で、寂しい思いにうたれた。  休んで三日目あたりに、学校の同僚たちが見舞いに来てくれた。それに混じって、偶然、民夫も、母親から頼まれたお赤飯を届けに来た。 「ありがとう。……退屈だから、君すこし話していかないかね?」と、まだ熱っぽい顔をしている山川は、寝床の中から民夫に呼びかけた。 「はい。……でも、先生、苦しそうに見えるんですけど……」と、民夫は敷居際でためらっていた。 「いや、大したことはない。まあ、坐《すわ》り給え。……お母さんも元気だろうね?」 「ええ。先生が御病気だということが分ったら、母も病人用の食物を持たしてよこしたんでしょうけど……」  民夫は枕許《まくらもと》の座蒲団《ざぶとん》の上に、キチンと膝《ひざ》を正して坐った。いまの所、山川武夫は、彼にとって、この世の中で、一ばん頭が上らない人なのであった。 「音楽学校には行ってるだろうな……」 「はい。毎日、午前中通っております」 「そうして基礎をきずき上げておくんだな。それでないと、君のように派手な職業の人は『花の命は短かくて苦しきことのみ多かりき』ということにもなり兼ねないからな……」 「分ってますよ、先生、僕はいまだって、自分の職業が好きだってわけじゃないんです。ファンだの、契約の駈引《かけひ》きだの、仲間同士の蔭《かげ》の競争だの、この職業には、なってみなければ分らない、イヤらしいことばかりなんですよ……」 「暮しの道はみんな同じさ。でも、君等の仕事は外見が派手なだけに、イヤらしい点も、ほかの職業以上なんだろうな。……なあ、民夫君。信次君のことや、くみ子さんのことなど、どこからともなくボツボツ儂《わし》の耳にも入って来ている。すべて、無理がなくやっていくことだな。古い諺《ことわざ》だが、時が一ばんいい解決をしてくれる。焦ってもいかんし、頑《かた》くなにしすぎてもいかん……」 「はい……」と、民夫は複雑な思いでうなだれた。  長い沈黙があった。熱のために不規則になっている山川の息づかいが聞えた。  半白の髪が乾いて乱れ、反《そ》った鼻柱が浮いてみえる山川の横顔を眺めて、民夫は、寂しそうな人だなと思った。 「ね、民夫君」と、山川は白く乾いた唇を嘗《な》めまわしてから、かすれた声で云い出した。 「妙なことを聞くが、君はバーのマダムなどにつき合いがあるかね?」 「つき合いって……知ってる人はありますけど……」と、民夫は腑《ふ》に落ちない顔で答えた。 「ああいう人たちは、どういうものなのかね、君」と、山川は遠まわしな尋ね方をした。 「どうって……僕、先生のおっしゃる意味がよく分らないな……」 「なるほどな。儂が思わせぶりな云い方をしたもんだから……」と、山川は枕の上の顔を横に向けて、民夫をチラと眺めて、 「では正直に云おう。ある人に、バーのマダムをしているという女性を紹介されたんだが、そういう人と、おかしくなく、儂がつき合っていけると思うかね?」  民夫は思わず微笑して、 「髪の白い大学の先生が、そんなことをティーンエイジャーの僕に聞くなんて、それこそおかしいですよ……」 「しかしだね……」と山川は、熱ばかりでない顔の赤らめ方をして、 「自分に自信のないことは、子供にでも教えを乞《こ》うというのが、儂の主義なんだよ、君……」 「僕、子供並みですか、先生。……そうですね。僕だったら、先生は、そういう女の人とつき合わない方がいいと思います」 「ふん。なぜだね?」 「似合わないからですよ。……まるでちがった環境の中で暮しているんですからね」 「でも、二人がつき合って、おたがいのちがった環境の中から、プラスを引き出し合うということが出来ないものかね?」  民夫は無邪気に驚き、首を伸ばして、山川の顔をのぞきこみ、 「なんだ、先生その人に好意を寄せてるんですね。それだったら、迷わずにおつき合いになった方がいいと思いますね。先生が好意を抱くような人だったら、きっといい人にちがいないんだもの……。なんというバーですか、先生」 「新橋へんの『あひる』というバーだ……」 「あっ、『あひる』だったら、こないだから銀座裏に引っ越しましたよ。あそこのママは原田雪子といって、僕のファンなんですよ……」 「そうか、その人だよ……、君……。偶然なもんだね。……その雪子さんが、ときどき此処に訪ねてくるんだよ。儂のいる時に来て、いっしょに食事をしていくこともあるし、留守に上りこんで、花を飾ったり、室の飾りつけをしていったりすることもあるんだ……。あの人を君、どう思う?」 「どうって、あのママはいい人ですよ。僕も好きな方ですよ。しかし……いい人だからって、ママは、男の酒の相手をして、ムダ口をきくのが職業ですからね……」  そう云いかけて、民夫は途中からプッと吹き出してしまった。 「先生、ごめんなさい。僕、先生に向って、中学生にするようなお説教をしてしまって。……僕、なんにも申しません。先生も『あひる』のママも大人なんですから、二人でお好きなようになさって下さい……」  山川も苦笑して、 「そうなんだよ、君。儂のある面は、いまでも中学生の程度にしか発達していないんだよ……」 「どうして、あのママが、先生のような人に興味をもったのかな……」と、民夫はいぶかるように云った。 「儂は女にもてそうもない男に見えるかね?」 「いいえ、そうじゃないんです。バーに来てるような男たちに較べると、先生は、ママのような女の人にとっては、少し張り合いがない人じゃないかと思うんです。もっとも、ママは、バーで楽しむような達者な男たちには、食傷してるか知れないんだけど……」 「いろいろと察しがいいな、君は──」と、山川は苦笑を重ねて、 「君に無理な相談をかけてすまなかったな……」 「いや、僕は大人並みの扱いをされて感激しちゃったんですよ。僕、今度、『あひる』のママに会ったらそう云っておきますよ。先生とこへ伺うのはいいけど、先生を欺《だま》したりしちゃいけないって……」 「いや、いき届いたことで、どうもありがとう。君にそんなことを云われたら、熱が上って来たようだ、……君、もう帰りなさい、……親孝行するんだぜ」 「はい。……親孝行なんて、古い言葉を云われるとガッカリしちゃうな、先生」 「じゃあ、なんて云えばいいのかね?」 「おふくろとあんまりケンカするなとかなんとか……」  いつもは、出るとかしこまってばかりいる山川が、今日は自分の方から、威厳に関わるような相談をもちかけてきたので、民夫はつい親しみぶかい気持になって、気軽に冗談を云ったりした。父親というものがあれば、これのずっとくだけた気分の存在なのだろうと思った。  山川はふっと、胸から吐き出すような調子でつぶやいた。 「儂のところには君、そのケンカする相手さえいないんだからね……」  民夫は、急に呼吸《いき》がつまるような気がした。じっさい、考えようでは、自分たち親子よりも気の毒な人たちが、世の中には、いくらでもいるのだ。いま話題にのぼった「あひる」のマダムの原田雪子だって、毎晩、派手に騒いでるようだけど、家に帰れば「ケンカする相手さえいない」孤独な身分なのだ……。 「先生、僕もう帰りますから……。御大切に──。そのうちおふくろを見舞いによこしますから……」 「ああ、有り難う。……さよなら……」  山川は、もう何か別なことを考えてるような表情で、まじまじと天井を眺めていた……。  それから二時間ばかり経った夕刻ごろ、原田雪子が、新しい毛布や敷布や氷枕、氷嚢《ひようのう》などを入れた大きな風呂敷《ふろしき》包みを抱えて、あたふたとのりこんで来た。山川の寝ている座敷に入るなり、 「おお、熱くさい!」と、いきなり庭に向いた障子をあけ、枕許につっ立ったまま、 「先生、どうして教えて下さらなかったのよ……。私もお店のことで、忙しくてこられなかったんだけど……」 「いや、すぐなおると思ったし……、それに儂が病気になったからって、君を煩わす法もないんだから……」  山川は、目を反らせるようにして、真上の高い所にある雪子の顔を見上げながら、固苦しい口調で云った。 「それあそうですけどね……」  鉄無地のつむぎの単衣《ひとえ》にうす茶の塩瀬の帯という、さっぱりとした夏向きのよそおいをした雪子は、枕許に坐《すわ》りこんで、 「こういう時こそ、私が家庭の主婦の気分を味える絶好のチャンスじゃないの。私、先生にハッキリ云ってるでしょう。ときどき、この家に寄せてもらって、ままごとの家庭の気分を味わせてもらいますからって……。私って思いきりのわるい女ですから、どこかにそういう雰囲気がないと、やっていけないのね。……かと云って、家庭に入りぎりになる気もないんだし……。ともかく、私に功徳ほどこすつもりで、ちょっと電話でもして下さればよかったのに……。お蔭で私、恥かかされちゃったわ……」 「どんな恥かね?」 「さっき、ジミー・小池がここに来てたでしょう。あの子が、ここを出てから、私のとこへ電話をよこしたのよ。先生が風邪で休んでる、それも、額に濡手拭《ぬれてぬぐ》いをのせ、こめかみの所に頭痛|膏《こう》をはってるという、原始的な病人の様子をしているから、ママが行ってキチンとした病人らしい恰好《かつこう》にしてやんなさい、と云うのよ」 「……それが恥をかかしたことになるのかね?」 「いいえ、そのあとで、どこから電話をかけてるのか知れないけど、受話器から食《は》み出しそうな大きな声で、でもママ、先生を堕落させたり、先生からゼニを捲《ま》き上げたりしてはいけないよって云うんですよ。生意気ったらありあしない。だから私、云ってやったんですよ。お前さん、先生とこに、捲き上げるようなゼニがあると思ってんのって……」 「ほんとうだ……」と、山川は苦笑した。 「ジミーが先生のお知り合いだなんて意外だったから、どんな関係ってきいたら、ともかく、世の中でただ一人、頭の上らない小父《おじ》さんだとだけ云って、委《くわ》しいことは云いたがらないの。そうなんですか、先生?」 「頭が上らないなんて、向うがオマケを云ってるだけで、あの子の母親をちょっとしたことで、昔から知ってるものだから……」 「そうですか。……さ、それでは、原始的な病人の風体を改めますからね。ほんとに、いくら一人暮しだからって、氷枕をするぐらいの知恵がはたらかないもんですかね……」 「氷枕あるんだよ。君。でも、氷を入れてみたら、何年も使ったことがないものだから、ゴムがだめになって水が洩《も》るんだよ、君……」 「君、君って、私のせいみたいに云わないでよ。洩ったら新しいのをお買いになればいいのよ……」  雪子は、小言を云いながらも、ばあやと協力して、山川の身のまわりをテキパキと改めてやった。働く手順にムダがなく、たしかだった。  二十分も経つと、山川は、新しい敷布に包まれた厚い蒲団《ふとん》の上に、掻巻《かいま》きと白い毛布におおわれ、氷枕に頭をのせて横たわっている、小ざっぱりとした病人の風体になった。それはまるで、ここの家には家族が四、五人もあって、みんなから大切にされているといった風な病人の恰好である。そして、そのことを誰よりも、床に横たわっている山川自身が、強く感じさせられていたのであった。  雪子は、するだけのことをしてしまうと、台所で、ばあやと、病人の食事のことについて相談をはじめた。大きな声で笑ったりして、百年も前からここに住みついている人間のように落ちつきはらっている。笑い声が筒ぬけに聞えて来た時、寝床の中の山川も、つられて微笑を洩らしたほどだった。  間もなく、雪子は、座敷に引っ返して来て、枕許に坐り、うまそうに煙草を吸い出した。 「先生。待ってらっしゃいね。今夜はさっぱりした、おいしい料理をつくって差し上げますからね……」 「ありがとう。出来るだけ食べるように努力しよう……。でも君、いつまでもここにいていいのかね。引っ越し早々だと、お店の方も忙しいだろう?」 「ええ。でも、もう一段落ついたから大丈夫。それに、こないだから、安心してまかせておける、人柄のいい女の子が、私の助手格で働いていてくれるので、お店のことは心配いりませんわ。ほんとにいい子が見つかったと思って喜んでるんですよ。うちのバーテンの従妹《いとこ》で、元はファッション・モデルをしておったという子ですけどね。……一度ここへ連れて来て、先生にも見知っておいていただきますわ……」 「ああ、何時《いつ》でも……」と、山川はあまり興味を感じた風もなく云った。 「先生、その子は標準型の美人とは云い兼ねますけど、色が白く、アクセントの強い顔立で、パアッと男の目をひくようなタイプなのよ」 「だいぶ委しい描写をきかせるが、よっぽど気に入ったんだね……」 「そう。私たちはちょっとの間に、うちとけてしまったの。その子はその子で苦労してるのよ。……でも、私が、貴方《あなた》に、ゆり子という名前のその子の話をするのは、少しわけがあるのよ。……田代さんが、その子が店に現われた晩にぐうぜん来ていて、さっそく御執心なの。それも、見ていてどうかと思われるぐらいなのぼせ方なの……」 「田代君がか──。正直に云うと、私は彼のそういう行動力を羨《うら》やましいと思うな」と、山川は嘆息まじりに云った。 「情ないことを云わないでよ、先生」と、雪子は山川の額に手をのせてみて、 「それほどの熱でもないようだから、私、かくさずに云ってしまうけど、あの人、ゆりちゃんがお店に現われるちょっと前ごろまでは、私を手馴《てな》ずけようと、とてもしつこかったの。どうして、私に、急にそんな態度に出て来たのか、先生に分りますか?」 「知らんね」と、山川は、心の中をのぞかれまいとするように、目を閉じて云った。 「それがもう、実にハッキリしたことなの。はじめは何かの目的で、私を貴方に押しつけようとしたんだけど、そのうちに私がチョイチョイこちらにお伺いすることが分ったりしたもので、私が貴方のものになるとでも思ったんでしょう。すると、急に私が惜しくなったのね。貴方のものになる前に、私にちょっと唾《つば》をつけておいてやれ、それから貴方にわたそう──そういう気持なんですよ。いくらなんでも、いやになっちゃった。  私にも、私の勝手に動かせる心というものがあるんだから、そんなことをされると、意地でも貴方の方に近づきたくなるわ。貴方は御迷惑かも知れないけど、私にだってそれぐらいの自由があるはずですわ。……田代さんが、そんな意地汚い人であることは、長くおつきあいしている貴方が一ばんよく御承知だと思うんだけど……」 「それあ君の思い過しだよ。田代君は決してそんな人間じゃあない。君があんまり美しくって魅力があるものだから、途中で迷い出しただけの話さ……」  山川は心にもないことを云ったが、胸の中では、まったく別なことを叫んでいた。 (そのとおりなんだ! そのやり方には、湯気が立つほど彼の性格が滲《にじ》み出ている! 昔も今も、なんという変りなさだろう! むしろ懐しい気がするほどだ……) 「それ、お世辞? 自分に似合わないことをするもんじゃないわ、先生。……そんなことを云うと、私、先生が本気でそうおっしゃってるんだと思って、ますます先生の方によりかかっていきますよ……」 「いや、君、儂《わし》のような張り合いのない男は、君に値いしないよ」 「それを決めるのは私。──先生に心配していただかなくてもいいわ。……さっき、私、電話でジミーをおどしてきいてやったの。お前さん、私のことをなんて先生に告げ口したのって……」 「いや、べつに儂は……」 「『あひる』のママはいい人だけど、ともかく、毎晩、男の酒の相手をして、ムダ口をきくのが商売なんだから、成《な》る可《べ》く家に入れないようにした方がいい。──あの子。そう云ったんですってね。私に向ってハッキリ云うんだから小にくらしい……。もっとも、私はジミーのそういう人柄をひいきにしてるんですけどね……」 「そうだったかな……」 「そうだったのよ。……先生もときどきそれに拘《こだ》わってるんでしょう。原田っていう女は、お人好しで、役に立ちそうな所もあるが、どうも酒場のマダムではね──と……」  ばあやが病人の夕食を運んで来た。おかゆ、ほうれん草のおひたし、玉子焼、さしみ、ぜんまいのあえもの等が、食欲をそそるように、お膳《ぜん》の上に、キチンと盛られてあった。 「床の上に坐って召し上れ。それぐらいの元気はあるでしょう……」  山川は寝床に坐り直し、膝にタオルをかけてもらって、食事をはじめた。少しテレくさいような気もしたが、食物がおいしく、鍋《なべ》のおかゆをみんな食べてしまった。  雪子は、なにかと世話を焼きながら、山川の食べる様子を満足そうに眺めていた。 「おいしかったよ、君。人間の善意が加わると、同じ食物がこうもうまくなるものかね。……それあ、ばあやもいい人間なんだけど、雇人だし、積極的に出るのを遠慮しているからね……」 「そう、よかったわね。いっそのことに、君の顔をみたら、風邪など一ぺんになおってしまったと云ってくれた方が、もっとうれしいのに……。私、図にのって、押し掛け女房などには来ませんから、気軽に物を仰有っても大丈夫よ……」  雪子は思ったことをポンポンと云いながら、食後の果物を食べさせ、ついでに薬も飲ませてやってから、帰り仕度をした。 「なおるまで、毎日、来ますからね。ここの家に来ると、大きな男が、みすぼらしい恰好《かつこう》をして熱を出して寝こんでいるんだと思うと、世話の仕甲斐《しがい》があって楽しみだわ。私の方から、貴方に日当をはらってもいいぐらい……。ホホホ……」 「勝手にし給え。……まあ、田代君のこと、君が美人に生れた酬《むく》いだと思って、わるく思わないようにしてもらいたいな……」 「ああ、その話をしていくつもりだったんですわ……」と、雪子は浮かしかけた腰を落して、 「今度はいろんな事情でそういうわけにはいかないの。ゆりちゃんと相談して、田代さんに、ちと痛いお灸《きゆう》を据えてやろうとしているんですよ。ゆりちゃんにも、それをしていいだけの十分な理由があるんです。……いずれ、そのことがすんだら、先生に委しい報告をしますから」 「儂は、儂に関わりのあるかぎり、君でなく、田代君の味方をする。そのことだけは、ハッキリ云っておくからね……」 「なんの因果で、あの人の味方をするんですか。……先生、あんまり理屈の通らないことを仰有ってると、田代さんの味方するのは、じつは誰のためかっていうようなことが、しぜんに察せられて来ますよ……」 「────」  山川は黙って天井を見つめていた。雪子が、みどりのことを諷《ふう》しているのは分っている。たしかに、そのために、彼が田代を庇《かば》ってやっていることは事実だ。自分を裏ぎった罰を受けている。──みどりにそういう苦い思いをさせないためには、田代が出来るだけ立派でなければならないのだ。立派であるように、いつも側面から援助してやる必要があるのだ。  しかし、それだけではなく、みどりをぬきにしても、山川は、田代玉吉から離れられないものを感じるのだ。キリストは、ユダの人柄が分っていながら、ユダを遠ざけることが出来なかった。いや、心のどこかで、ユダに牽《ひ》かれておったのかも知れないのだ。山川も、田代玉吉に対して、それに近い気持を感じているらしいのだ……。 「先生。よく眠って、明日は元気になるんですよ。それではお休みなさい。さよなら」  雪子は、山川の耳を軽くつまんで、座敷から出て行った……。  風邪のような病気は、ある程度、気分のものでもあるらしく、原田雪子に見舞われて元気づけられると、山川はメキメキと回復していった。そして、四日目からは学校に出勤出来るようになった。  山川は、今度の経験で、衰えかかっている自分の年齢と、自分の暮しに欠けている大切なものが何であるかを痛感させられた。空《むな》しく過した年齢はいまさら取り返せないが、もう一つのものの方は、これからでも埋め合せられないこともなさそうだ……。  田代は、いまごろになって、雪子の身体にツバをつけようとしているというが、雪子の自分に対するやり方に、単に頼まれた役を果そうとする以上のものを感じて、焦り出したせいなのだろうか。いや、他人の心理を推測するまでもない。自分自身、雪子に対してどんな気持でいるのか、冷静に考えてみるといいのだ。そういうことになると、ハッキリつかめることは、自分の気持がいま動いているということだけだ。この動きは一時的なもので、やがて何事もなく治まってしまうものか、それともしだいに大きく動きつづけて、何か新しいものを生み出すようになるものか、いまからでは予想がつかない……。  雪子が去りぎわに云った言葉が気にかかる。ゆり子という若い女の子としめし合せて、田代にちと痛いお灸を据えるというのは、どういうことなのであろう。田代は、たしかにお灸を据えられていい人間だが、その影響がみどりに及んでいくようでは困るのだ。──山川は、雪子の報告というのを、それとなく心待ちするようになっていた……。  ──街にうすい靄《もや》がただよっている夜だった。十一時をちょっとまわったころ、代々木にある高級なアベックホテルの玄関に、グレイのうすいウールのスーツをつけた原田雪子が姿を現わした。商売柄、いい客であることがかぎつけられるのか、中年のマネージャーが応対に出た。  雪子は、店の名前の入った名刺を出して、ニコニコしながら、 「ちょっとね、貴方に御相談したいことがあるの。のってくれない……」 「まあ、どうぞ──」と、頭の禿《は》げ上ったマネージャーは、雪子を、ロビーの片隅のスタンドがともったテーブルの所に案内した。  雪子はしょっちゅう微笑を湛《たた》えながら、おだやかに何か話しこんでいた。マネージャーはそれにつれて、頷《うなず》いたり、首をふったりためらったりしていたが、最後に、承諾したしるしに小さく頷いた。雪子は、ハンドバッグから、丸めた紙幣束をとり出して、そっとマネージャーの手に握らせた。そして、親しげに相手の肩をたたいてやった。  マネージャーは、受付の方にもどって、室の番号を云って、ボーイに雪子を案内させた。そのあとで、ボーイ頭《がしら》のような男をロビーに呼んで、しばらく何か囁《ささや》いていた。  三十分ばかりすると、玄関に自動車が辷《すべ》りこんで、中から田代玉吉と赤い格子縞《こうしじま》のワンピースに赤いイヤリングをつけた川上ゆり子が下りた。すっかり健康をとり戻したのか、ゆり子はすばらしく弾力的な身体つきをしていた。  マネージャーとボーイ頭は、目配ばせをすると、二人を迎えに出た。 「ちょっと休ませてもらうからな。……バーは開いてるんだろうね」と、玉吉はスプリングコートをボーイに手渡しながら云った。 「はい。開いております……」  二人は一たんロビーに通った。ゆり子は珍らしそうに、そこらを見まわして、 「ほんとだわ。わり方きれいなのね。私のお友だちで、チョイチョイここを利用する人があって、話にきいていたんだけど……」 「私たちもチョイチョイ利用するようにしたいもんだね」 「それ、どういう意味──?」 「つまり……利用することさ」と、玉吉がニヤニヤしながら云った。 「私を利用するんだったらおことわりだわ……」 「おたがいに利用し合うのさ。……ギブ・アンド・テークだよ」 「……一たいどうするのよ、こんなとこに人をつれこんで来て……」 「二人ぎりで飲み直そうというのさ。……ボーイさん、バーに案内してくれ」  バーは受付けの裏側の窓のない狭い室で、赤い照明がいびつな形をした室を照らしており、もう一つ深い夜の世界に入ったような気がした。スタンドの所には、外国人と日本の女の組合せが二つ、あまり口も利かず、カップを前にして濛々《もうもう》と煙草をくゆらしていた。  玉吉とゆり子は、隅の方のテーブルに坐《すわ》った。玉吉はハイボールを、ゆり子はジンフィズを注文した。ともすれば白けかかって、話が弾まなかった。 「だんだん遅くなってしまうわ……私、帰りたくなっちゃった」と、ゆり子は思わせぶりに時計を何べんものぞいた。 「どうせ遅いんだ。これ以上遅くなりっこないさ。まあ、今夜はゆっくり、腹をわって話し合おうじゃないか……」 「……腹をわるって、どんなこと──。私も、じゃあハッキリ云いますけどね。私、貴方はパパとして申し分ない人だと思ってんのよ。でも、貴方《あなた》、ついこないだまでは、うちのママにお熱を上げていたんでしょう。それなのに、貴方を私のパパにしてしまったんでは、ママさんに義理が立たないわよ。ママはとっても私を可愛がっていて下さるんですもの……」 「そんなこと、気にする必要はないよ。雪子には、するだけのことはしてあるんだ。それに、雪子と儂《わし》は、客とマダムの関係でしかないんだからね。……私のような年齢の男にとっては、君のもってる若さが何よりの魅力なんだよ。君はすばらしいグラマーだよ……」と、玉吉は手を伸べて、ゆり子の腰にさわった。 「いやあねえ」と、ゆり子は少しばかり腰をひいた。  スタンドの男女は、ジャズを口ずさんだりしていたが、ふと、そのうちの一組がもたれあって接吻をした。すぐ目の前に立っているバーテンは、そんなことには慣れているとみえて、彫刻のような表情で、煙のこもった室内の一点をじいっと見つめていた。  ボーイが、ゆり子たちのテーブルにやってきて、低い声で玉吉に云った。 「あの、お室の準備が出来ましてございますが……」 「あら、お室なんかとってどうするのよ」  ゆり子は、ふてたように、足を大股《おおまた》に組んで、煙草の煙をまっすぐに吹き上げた。 「二人ぎりで話そうと云うのさ。……君、案内してくれ給え」  玉吉が立ち上ると、ゆり子も、ふんぎりがつかない様子で、いっしょにボーイのあとについて二階に上った。  案内されたのは十三号という室だった。けばけばしい飾りつけだが、ともかく小ぎれいで、温かそうな感じだった。室の半分に、椅子、テーブルのセットがあり、半分には大きなベッドが置かれてあった。ベッドの上の壁には、裸女を描いた泰西名画がかけられてある。四つある窓には、どれも厚いビロードのカーテンが垂れ下っていた。どこからか、男と女の忍びやかな話声が聞えてくる。 「いいお室ね。……でも、なんだか胸がドキドキするわ」 「こわがることはないさ。僕にまかせておき給え……」  玉吉は椅子をよせて、ゆり子の肩に腕をまわした。 「無理をしないでね。私ひとりに判断をつけさせてちょうだい。私、正直に云ってママさんに対して義理を欠くような気がして、そこんとこのふんぎりがつかないのよ。……私が納得するまで、無理をなさらないでね……」と、ゆり子は、肩にまわされた、玉吉の手の指をもてあそびながら云った。 「雪子に不義理なことは一つもないと、さっきから云ってるじゃないか。……君のようなすばらしい肉体を目の前に見せつけられて、無理をするなと云ったって、それこそ無理というものだよ。君の気持をちょっとふみきらせれば、万事オーケーなんだ。……可愛い人だな……」  玉吉はゆり子を抱き寄せて、接吻しようとした。ゆり子は、身体はあずけ顔だけツイとそらせて、 「いや。私、そんな気の短い人きらい──。自分の気持に納得がいくまでどうしてもいや──」  そう云うのが、相手を一そうじらせる効果を狙っているのかとも思われた。玉吉は、ぶざまにゆり子にかじりついたまま、きめ手のない言葉で、熱っぽく口説きつづけた……。  アベックホテルの十三号室で、そういう場面が演じられているころ、ホテルの近所の小さな飲屋で、雄吉が一人で酒を飲んでいた。水色のシャツの襟をひらき、グレイの背広をつけていたが、時間の約束でもあるのか、神経質に腕時計をのぞきこんでいた。そのうちに、ポケットから、折りたたんだ手紙をとり出して読み出した。それだって、同じことを何べんかやったものらしい……。  ──雄吉さん。お久しぶりでございます。私、川上ゆり子でございます。いつぞやはお金なぞをねだって、たいへん申しわけなかったと思っております。でも、あの時は、私の従兄《いとこ》にやくざめいた人間がおって、ひとりで意気ごんで騒ぎ立てたりしたので、どうしようもなかったのでございます。  お金が手に入ったおかげで、身体の方の治療も十分に出来て、すっかり元気を回復いたしました。しかし、一たんつまずいた私は、もうモデルのようなまだるっこしい仕事につく気がせず、世話する人があって、銀座裏のバーで働くことになりました。マダムの助手というような役割ですの。マダムがいい人で、私を庇《かば》ってくれますので、わりあい気楽に働くことが出来て、思いきってこんな世界にとびこんで、かえってよかったと思っております。  毎晩、さまざまな男の人たちのお相手をするにつれ、私もここのところ、グッと女になれたような気がしております。雄吉さんとおつき合いしていたころの私を思い出しますと、ギクシャクして、未熟で、ひとりよがりで──あれでは貴方に飽きられるのが当然だと、いまごろになってしみじみそう思っております。  一時はあんなことで貴方をお恨み申したりしましたけど、こんなとこで働くようになって、いろんな型の男の人に接してみますと、貴方ほどの方はめったにいないのだということがよく分ってまいりました。私がいまぐらい、気持の成熟した女であったら、決して貴方を失うことがなかったろうにと、かえすがえす、青くさい過去の私がくやまれてなりません。  私はどうしても、やっと一人前の女らしくなれた現在の私を、貴方にもう一ぺん見ていただきたい願いを、押えることが出来ないのでございます。貴方のお気持が冷えきってしまっていることを百も承知の上で、なおこんな未練がましいお手紙を認《したた》めなければならない私の心を、哀れんでいただければ幸いでございます。  迷い、悩み、苦しんだあげく、私はもう一ぺんだけ自分の運を試してみることにいたしました。六月二十三日の午前零時三十分、私は、私たちにとって思い出ふかいアルプス・ホテルの十三号室で、貴方をお待ちしております。お出で下さるか否かは、全く貴方の御自由でございます。  ただし、私の方にも不慮の事故があるかも知れませんし、二十二日の午後十二時ごろ、私が宿泊してるかどうか、アルプス・ホテルのフロント(受付)にお電話でたしかめてからお出で下さいませ。  運の女神よ。私の上にほほえめ。さようなら──  その手紙をはじめて読んだ時、雄吉は、誰がそんな甘い手にのるものかと、警戒心をそそられたものだ。が、二度、三度と未練がましく読み返しているうちに、警戒心がしだいにうすれて、手紙の内容にひきつけられていった。バーに勤めて急に女らしくなったというゆり子にも、改めて食欲をそそられたし、それにもまして、自分が世間のどんな男性にも勝って魅力的だという手紙の言葉に、すっかり陶酔してしまったのである。自分を過信している雄吉にとっては、そこが盲点になっていたのだ。  指定された二十二日の夜、雄吉は身なりを整えて家を出た。アルプス・ホテルの十三号室というのは、雄吉がはじめてゆり子を女にした室で、その後もたびたび彼等は十三号室を利用したものだった。壁紙の色、調度、飾りつけなど、自分の室のように、雄吉の頭にあざやかにやきつけられてある。  雄吉は、時間を消すために、ホテルの近くの飲屋に入った。そこから、電話でホテルのフロントにたしかめてみると、川上ゆり子が一人で十三号室に泊っている、という返事があった。  雄吉の血はあやしく波うった。傷つけ方がひどかっただけに、いま顔を合せるのは、いくらか後めたい気もしたが、しかし信次を通して慰藉料《いしやりよう》をはらったのだから、その問題は解決ずみだと考えることにした。第一、手紙の中で、ゆり子は自分を懐しがってる一方で、少しも恨んだりしていないではないか……。  雄吉は、もうこれで十ぺんぐらいも読み返したゆり子の手紙をポケットに押しこみ、勘定をはらって飲屋を出た。そして、まっすぐにアルプス・ホテルに向った。  人気のない、シーンとしたホテルの玄関に立った時、フロントの壁の丸い掛時計が、ちょうど零時三十分をさしていた。雄吉は、そんな所が、きちょうめんだというより気が小さく出来ている人間だったのである。 「マネージャーはいるかね?」と、雄吉は、フロントにいた、派手なチェックの洋服を着た、頭の禿《は》げ上った中年の男に尋ねた。  用心をして、顔馴染《かおなじ》みのマネージャーに、一応ゆり子のことをたしかめてみることにしたのである。 「はい、手前がマネージャーでございます。ここんところ、ホテルの職員がだいぶ変りましてございます。……お泊りでございましょうか?」と、マネージャーと名のる男が答えた。 「まあ、そういうことだが……。川上ゆり子という女の人が私を待ってるはずなんだが……」 「はあ、十三号室でお待ちでございます」 「何時ごろ来たかね?」 「さよう。十一時ちょっとまわったころだったと存じます」 「もちろん一人だね?」 「はい。お客様。……お室に御案内申し上げましょうか」 「ああ、そうしてくれ……」 「毎度ごひいきにしていただきます……」  マネージャーが音を殺したベルを鳴らすと、ロビーの奥の方から、さっきのボーイ頭が出て来た。身体つきの逞《たく》ましい男だった。 「こちらを十三号室に御案内してくれ」 「どうぞこちらへ……」  人がだいぶ変ったというが、そう云えば、内部の飾りつけもいくらか変っているのをもの珍しげに眺めながら、雄吉は、ボーイ頭のあとについて二階にのぼった。  長い廊下には、赤いジュウタンが敷いてあり、両側の室々は、ひっそりと静まりかえっていた。あかりが洩《も》れているのもあれば、暗い室もあった。  雄吉の心臓は烈しく打ち出した。  十三号室の前まで来ると、ボーイ頭が、こちらでございますと手真似で示した。雄吉はうなずいて、ドアの前に立った。と、ボーイ頭が、さも心得ているといった風で、ノックもせず、ドアを内側に押した。  雄吉は馴染みの室に足を踏み入れた。あとで考えると、その時、ボーイ頭が後から自分の背中を押したような気がした。 「誰だ、君、人の室に入って来ては困るじゃないか……」  スタンドのほの暗い照明に浮き上った室の様子に、まだ目が慣れないうちに、ベッドの方から、男の声でそうとがめられて、雄吉はドキリとした。そして、思わず、声のする方に目を凝らしたが、その瞬間、身体が凍るようなショックにうたれて、 「あっ! パパ……」とつぶやいた。  ベッドの上には、裾《すそ》を長く曳《ひ》いたうすものの黄の寝巻を着たゆり子と、赤と白の道化じみた縞柄《しまがら》のパジャマをつけた玉吉が、抱き合って坐《すわ》っていたのだ。 「あっ雄吉!」と、玉吉も電気に感じたように、ゆり子から飛び離れて、 「お前……お前……ママに云われて探りに来たのか……」 「どうしたのよ、パパ。この人、パパさんとどんな関係なのよ。人の楽しみの邪魔をして……どうして怒鳴りつけてやらないのよ。ねえ、パパ……」と、ゆり子は身体をくねらせて、玉吉に絡みついていった。  うすものの下の身体の白さが、目に絡みついて来るようだった。雄吉は紙のように蒼《あお》ざめて、ベッドの上の二人をじいと眺めていたが、わずかに細い線の微笑らしいものを浮べて、 「パパ。……お邪魔してわるかったな。……僕、ママのスパイで来たわけじゃないんだから、安心してもいいや。僕、帰るよ……」  雄吉はドアをあけようとしたが、あわてているのか、すぐにはあかなかった。二、三度やってみて、鍵《かぎ》がかけられていることが分ると、 「チクショウ」と、低くつぶやいて、靴下でドアを蹴《け》った。  ゆり子は、跣《はだし》で立ち上り、一と所にまとめておいた洋服やハイヒールをさらうように抱えて、二人の顔をこもごも眺めながら、 「あら。パパさんと雄吉さんは親子だったんですか。私、ちっとも知らなかったわ。……でも、そう云えば、お顔はもちろんのこと、女を口説く手くだまでよく似ていらっしゃるわ。気が短かくってあけすけで、思いついたことは何でも口走って、むやみに女のふところに手を入れたがって……。私、いま、パパさんからしつっこく口説かれながら、いつか誰かに、これと似た口説き方をされたっけと考えていたとこだったの。そしたら、それが雄吉さんだったっていうわけなのね。……それにしても、とんだ所で、御二方が奇《く》しき対面を遊ばしたのね。どうぞ水入らずで、ゆっくりお話しなさいまし。私はお邪魔でしょうから、引っこませてもらいますわ……」  ゆり子はしゃべりながら、ふだんは使うことがない、予備の出入口の方に後しざっていった。と、小さなドアが外からあけられ、白い手が伸びて、さらうようにゆり子を廊下に曳き出した。  カチリとそのドアにも鍵のかかる音がした。  玉吉と雄吉は、呆然《ぼうぜん》として、ゆり子の後姿を見送っていた。  廊下では、女二人が、クックッと忍び笑いを洩《も》らすのが聞えた。そして、今度は原田雪子の声で、 「パパさん。あと二時間ばかりは、お室のドアが開かないことになっておりますからね。室内電話も十三号室はきれています。大きなお声を出すのは御自由ですが、お二人とも、名誉に関わるような真似はなさらないと思いますわ。……御用立いただいたお金は、近日中、会社の方に御送金申し上げますから……。お二人とも、どうぞごゆっくり……」  それっきり、何の物音もなくなった。 「パパ。いま物を云った女は誰なんだい」と、雄吉は観念したように、椅子に腰を下して話しかけた。 「あれはそら、原田雪子というバーのマダムで、ゆり子はそこで働いているんだ。奴等が二人で相談して、儂《わし》等にこんな恥をかかせたってわけだ。けしからん……」  赤と白のおどけたパジャマをつけた玉吉は、腰でもぬけたように、まだベッドの上に坐っていた。暗がりに慣れた目でみると、髪が乱れ、顔色が青ざめ、頬には、ゆり子がお愛想にしてくれたらしい接吻の口紅のあとがくっついていた。 「アッハハハハ……」と、雄吉は、声を押し殺して、神経質に笑い出した。 「パパのその恰好《かつこう》、ママに一と目見せてやりたいな。……いや、パパの会社の社員たちみんなにも見せてやりたいものだな……」 「こら、儂を侮辱するのはよせ。……儂は、あの女が、お前と関係があったことはまったく知らなかったし、酔っぱらっている所をあの女に誘惑され、ついここまでおびき出されて来たわけなんだ……」 「アッハハハ……」と、雄吉は顔をひきつらせて、息苦しそうに笑った。 「パパと僕は身内なんだ。お体裁をはるのはよそうや。パパの血をそっくり受けついでる僕には、パパの心理や行動が、自分のことのようによく分るんだ。この親にしてこの子ありだよ。それほどよく似た親子が、いまここにいた一人の女に牽《ひ》きつけられたっていうことも、ちっとも不思議ではないんだ。ゆり子が云ったように、たしかにパパと僕は、女の口説き方まで同じなんだよ。ハハハ……。念のためにパパに伺うんだが、ゆり子はパパの頬《ほつ》ぺたに、ベタベタ接吻の安売りをしてくれたが、肝腎《かんじん》のものは許さなかったんだろう? ええ、そうだろう? ……」 「貴様、自分の親に向って何という口をきくんだ。……儂はさっきも云ったとおり、あの女にここへ誘惑されて来て、そのうえ、いろいろにねばられたが、もちろんまちがいなどなかったよ……」 「ハハハ……。まちがいなどなかったか──。でも、それがハッキリして、僕の気分はいくらか救われたよ。パパ、分るだろう……」 「なにを分るんだね? ……そんな事よりも、儂たちはここに閉じこめられて、これからどうするんだね。ええ、おい、雄吉」  室の鳩時計が「クウ」と一時を報じた。 「こうしているだけだよ、パパ。二人で飽きるほど、おたがいの顔を眺めていることにしようや。……敵ながら天晴れだよ。僕たち、見事なダブル・プレイを食ったんだ。ゆり子には、こんな手の混んだ策は思いつけるはずがないし、さっき廊下で声をきかせた原田雪子とかいうバーのマダムが、このダブル・プレイの立案者だと思うね……。  パパは、何かのことで、その女の恨みを買う筋があったんだとみえるね。いや、老いてますますごさかんなことだ。僕、お手本にするよ……。  しかし、おたがいにつらいことだな。ピエロのような派手なパジャマを着て、頬ぺたに口紅のあとをつけたパパを目の前に眺めていることは、気が狂いそうにつらいことだな。もしダンテが生きていたら、彼の『地獄篇』の中に、親と子が、こんな成行のもとに、二時間も、狭い一室で顔をつき合せている一場面をつけ加えてもらいたかったな。ハッハッハッ……」  雄吉は、椅子の背にもたれて、憑《つ》かれたようにしゃべりつづけた。しゃべっている間に、一つの行動を練っていたらしく、ふいに立ち上ると、命令でもするような口調で、 「パパ。ベッドからどいてくれないかな。僕はこの室から脱出するよ。……このままパパと向き合っていたんでは、僕、パパを殺したくなるかも知れないんだ。パパだってそうだろう。人生の一ばんまずい場面に、ノメノメと顔を出す息子を、殴り殺したくなるはずだ。しかし、尊属殺人というのは罪が重いんだし、おたがいにそれを避けるように努力しようじゃないか……。  僕、ゆり子とたびたびこの室を利用してるんで、周囲の地形を知ってるんだ。まず、この室の下は物置で、人がいないんだ。そういう室は、恋人たちには気兼ねがなくていいものなんだぜ。窓の下は狭い空地になってるんだ。そこから、コンクリートの低い塀をのり越えると、町の裏通りなんだ……。  そこでだ。敷布だの、毛布カバーだの、ベッドカバーだのをつなぎ合せれば、僕がぶら下っていける綱が出来るはずだ。……ここのは、わりと上等な品物を使ってるから、切れることもあるまいと思うんだ。……万一、綱がきれて、頭蓋骨《ずがいこつ》でも折って僕が死んだとしても、ここに居残って、尊属殺人罪を犯すよりはましだろう……」  雄吉は、玉吉をベッドからどかせると、敷布や毛布カバーやベッドカバーなどを乱暴にひっぱがした。そして、それらを荒くよって、一つ一つつなぎ合せにかかった。思いきりがよくって、手ばやく、自信に満ちていた。曳きこまれて、玉吉もわきからその仕事を手つだった。  雄吉は、忙しく身体を動かしながら、絶えず何かしゃべりつづけていた。 「ありがとう、パパ。親と子の美《うる》わしい協力だね。ハハハ……。もし、僕が無事に脱出したら、外からホテルに電話をかけて、早く室のドアをあけるようにそう云うよ。僕がいないことが分ると、彼等はすぐパパを解放すると思うんだ……。  そのあとだよ、パパの見せ場は──。いいかい、ボーイがドアを開けたら、パパは落ちつき払って、普通の泊り客のように、ボーイにチップをやって、悠々と室から出て行くんだ。もちろん、フロントで勘定もはらうんだ。その前に、口紅のあとだけはこすり落しておくんだな……。ハハハハ……。  ともかく、とり乱した様子は一さい見せないことだ。そのほかには、パパの引っこみの演技はないんだからね……。例えばさ、フロントの所で払いがすむのを待ちながら、パパはゆっくりと煙草でもくわえる。すると、ボーイが思わず駈《か》けよって、ライターをすって差し出す。それぐらいに、落ちつきはらった紳士でなければいけないんだよ。パパ……」 「お前はよくしゃべる奴だな。分ったよ、雄吉……」と、玉吉はかすかに苦笑した。 「しゃべってないと、こっちの仕事もはかどらないんだ。やっと出来たよ、パパ」  雄吉は、どうにか出来上った長い布地の綱を、顔を真赤にして、何べんも、その強さを試した。それから、窓をそっとあけて、下を見おろした。 「いやに高いな。土台が高いんで、普通の建物の三階分はあるな。これあパパ、相当なスリルだよ。……頭蓋骨がいまからガクガク鳴ってやがる……」  雄吉は、絶えずしゃべりつづけながら、綱を窓と窓の間の柱に結びつけると、ためらわずに、窓わくをのり越えて、空間に身体をさらした。 「パパ、それじゃあ僕、行くからな。外から見えては工合がわるいから、スタンドの明りを消してくんないかな……」  綱につかまった雄吉の頭が、一たん窓の下に消えたと思うと、またヒョイと顔をのぞかせ、 「パパ、そこに小切手|帖《ちよう》を持ってるだろうな。僕、お金を十万円ばかり欲しいんだ。……僕、当分、家に帰りたくないんだよ。パパだって、家の中で、僕の顔を見たくないだろうからな。……ママには研究の都合で、当分ひとりで下宿住いをすると電話しておくれよ。信じるかどうか分らないけどね……。お金、十万円……」 「やるよ……やるよ」  玉吉は、上衣《うわぎ》の内ポケットから小切手帖をとり出し、慄《ふる》える手先きでサインをして、窓の外の雄吉に手わたした。 「ありがとう、パパ。……それからだな、今度のことは、僕たち見事なダブル・プレイをくって負けたんだから、二人の女たちを恨みっこなしにしようよ。そうすることで、僕たちの気持は、いくらかでも救われるというもんだからね。それではさようなら、パパ……」  雄吉は、若い腕力にものを云わせて、綱をつたって下りはじめた。どたんばに追いつめられて、つぎつぎと行動力がわいて出るのが、自分にも意外だった。こういう所は信次に似ているのかな──と、綱にぶら下りながら、雄吉はふと懐しく思った……。  暗い室の中では、玉吉が、窓際に立って、ピーンと張った目の前の綱を見つめていた。室に一人きりになった瞬間から、それまで玉吉の身体をしびれさせていたドロドロの屈辱感が、烈しい盲目的な憤りに代って、はけ口を求めて、身体の中をのたうちまわった。  口紅のついた玉吉の顔には、すさまじい殺気が漲《みな》ぎっていた。それがどういうことを意味するかも知らずに、玉吉は、右手に果物ナイフを握り、二度ばかり、綱の上にそれを当てがった。が、そのたびに、白い綱がいまにも切れそうにギチギチと軋《きし》んで、玉吉の決意を、最後の一線でにぶらせた。──玉吉としては、鋭利な果物ナイフをふるって、過去の一さいの汚辱と、縁を断ってしまうつもりだったのかも知れないのだ。  玉吉の顔は蒼ざめ、額にはジットリ汗が滲んでいた。と、果物ナイフがポロリと床の上に落ちた。玉吉は、よろけるように、むざんに皮をむしられたベッドの上に倒れかかっていった。そして、声を忍ばせて、虫でもあるかのように小さく啜《すす》り泣き出した。……  柱にまきつけられた白い綱が、脱出の成功を示すように、ゆるく垂れさがっているのが、夜目にもはっきりと見えた……。 [#改ページ]  [#2字下げ]曇後晴れ  初夏の明るい日光が川原中に溢《あふ》れていた。青い草は濡《ぬ》れたように光り、低い地形をえらんで、やたらにうねって流れている浅瀬の水は、白くキラキラと陽の光をくだいて、地の底から涌《わ》いて出るようなふかい響きをたてていた。  対岸の堤は一直線にのびて、ときおり、その上を自転車やオートバイが、ぜんまい仕掛の玩具のように動いていった。堤の向うには、人家や森が連り、遠い青空のかなたには、丹沢の山々が、白っぽくかすんで見える。  日曜日なので、釣をする人々や水遊びをする子供たちのすがたが、あちこちに見られた。  信次は、島のようになった、川原の空地の草むらに画架を据えて、流れと橋と森と山と空をふくんだ風景を写生していた。強い意欲的な筆触で、四十号のカンバスいっぱいに、まるでそこだけ目の前の自然から強引に景色を切りとって来たように描いてある。一見して暗い色調だが、よく見ていると、爽《さわ》やかな気分が、画面の奥からこんこんと涌いてくるような気がする。  ブルーの毛糸の半袖《はんそで》のジャケットと、大きな尻《しり》ポケットのついたカーキ色のズボンをつけ、やはりブルーの帽子をかぶっている信次は、気分がたかぶっているのか、口笛を吹いて、身体を楽しそうに動かしていた。  見ていると、カンバスの上で、ときどき妙ないたずらをする。細い筆の先きに、赤や青の絵の具をつけては、画面のどこということなく「たか子──たか子」と記してはその上をまた別な色でなすってしまうのだ。そうすることが、いい絵を仕上げることの大切な技術の一つでもあるかのように──。たしかにまた、そうすることが弾みになって、画面が調子よく整っていくように思われた……。  信次はせんだって、おかしな成行で自分がゆり子というファッション・モデルをもてあそんでひどい目にあわせたという過失を、たか子に告白させられたが、しかし、あとになってみると、不思議に、その事で自分がたか子からうとんじられるという気がしなかった。無実の罪だからという云いわけが、心の中にあったからではない。雄吉と一たん約束した以上、世界中の人の前でも、その過失が自分の行為であったことを認める気持でいるのだ。  しかし、そうしたからって、それに伴う罪悪感まで自分のものにするということは、不可能なことだった。だから、たか子との場合も、それを告白してる時は苦しく、絶望的になったりしたが、すんでしまうと、一ばんつらい立場の人に対しても、兄貴との約束を果した、というさっぱりした気分になっていたのである。  もしあの時、たか子に愛想づかしをされることを恐れて、いや、その過失は、じつは自分でなく雄吉のものだった、と洩《も》らしてしまったとすれば、その時は気が楽だったかも知れないが、あとになって、自分が男同士の信義に背いたという自責の念と、自分が最後まで頼りにすることが出来ない人間であることを、たか子に見せつけてしまった後悔の念とで、永久に匐《は》い上れない、泥沼のような劣等感におち入っていたにちがいないのだ。  だが、たか子が、自分を裏表のある女|蕩《たら》しだと思っているとしたら──。それはそれで仕方がないことだ。人間は、悔い改めることで、自分の過失をつぐなうことも出来るのだし、たか子も、いつまでも自分をわるく思うようなことがあるまい。──そこの所になると、信次は、飛躍的に楽天家になってしまうのだった。やはり身に覚えのないことで、じっさいの劣等感が伴わないからであろう……。  ふと、信次は、絵筆をおいて、かたわらの草むらの中に、仰向けに横たわった。興がのっても、それにまかせて一気に仕事をしようとはしない。──そういう心得を、信次は、仕事の上で勝手に決めていたのである。なぜであるかは自分にもよく分らない……。  仰向いてみると、空は高いというよりも深い感じで、青くすみわたっており、白い雲の一とひら二たひらが、舟のようにその上に浮んでいる。そして、空も雲も、ズンズン前方に動いていき、反対に、自分の横たわっている大地は、ズンズン後に下っていってるような気がする。  草の匂いが、目にまで沁《し》みこんでくる。ああ、みんな、さかんな勢いで生きているんだなあと思う。じいと動かないでいると、自分の胸でうっている鼓動が、じつは大地の脈搏《みやくはく》ではないのかしらんという錯覚におち入りそうになる……。  聞き覚えのある話声が聞えた。信次は、草むらの中にムックと身をもたげて、岸の方を眺めた。そこには、何かおやつをもって、ピクニックにやって来るからという約束のくみ子とたか子が立っていたが、それだけではなく、二人の間にはさまって、うすいブルーのセーターを、半袖の白いシャツをつけた肩の上にひっかけた民夫も、子供っぽい顔をして立っていた。  信次と民夫は、顔を合わせた瞬間、女二人が企《たくら》んだことだなと直感した。そして、みてる間に二人の顔は硬直していった。 「だいたいの見当はついてたけど、でも、ずいぶん探しまわったわ。……ぐうぜん、民夫さんもいっしょだったの」 「おいしい梨とケーキを持って来たのよ。……民夫さんもいらっしゃい……」  たか子とくみ子は、両方から民夫の腕をとるようにして、堤から川原に駈《か》けおりた。が、それから先き、信次がいる島のような空地に近づくと、民夫は、女たちの腕を乱暴にふり払って、一歩も動こうとはしなかった。顔色がひどく青ざめていた。 「どうしたのよ。ここまで来てしまったんだから、こだわらなくてもいいじゃあありませんか。信次さんの絵をみせてもらいましょうよ。いらっしゃい……」とたか子はやさしく誘いかけた。 「僕、見ないよ。……僕、貴女《あなた》やくみ子さんに欺《だま》されたんだ。僕は、僕のきらいな人間がいることが分っていれば、決して貴女がたといっしょに来るんじゃなかった……」  民夫は、足をはだけて立って、足もとの長い藺草《いぐさ》のようなものを神経質にひんむしっていた。  信次はニヤニヤして、 「僕だって、どこかの生意気な小僧ッ子をつれてくることが分っていれば、この人たちに居場所を教えるんじゃなかったんだ……」 「二人とも子供みたいじゃないの……」と、くみ子が怒ったような口調で云った。 「一人ずつだと、たいへん物分りがいいのに、二人向き合うと、石みたいに頑《かた》くなになってしまうんだから……。私、知らないわ」 「そういうけど……くみ子さんのような気性の人が、僕の立場だったら、もっと頑くなになるに決ってますよ。……僕、その男、きらいなんだ……」 「ハッキリ云う奴だな、お前さんは──。俺をきらいなのは、お前さんぐらいなものなんだぞ。たか子さんだって、くみ子だって、僕を大好きなんだぞ……」  たか子はクスリと笑って、 「私、そう云った覚えもないようですけど……。でも、結構ですわ。民夫さん、貴方《あなた》もここらで考え直さなけあいけないわ。信次さんは、手をひろげて貴方を迎えようとしてるんじゃあありませんか……」 「僕はイヤです。……殊に貴女がたに欺されて連れて来られて、計画どおりに治まるなんて、そんな安っぽい人間にされるのはイヤです。……僕、ひとりで帰ります……」  民夫は首をプルプルふるほど興奮して、クルリと後に向き直って立ち去ろうとした。 「おい、待て!」と、信次が険しい顔つきで呼びとめた。 「いつか君に、俺が兄貴であることを、ガンと思い知らせてやると云ったことがあるな。いまそれを思い知らせようと思うが、どうだい。場所もちょうどいい所だからな。恐かったら、逃げ帰ってもいいんだぜ……」と、信次は、半袖のジャケツを着てるくせに、腕まくりするような仕草をしながら一、二歩前に進み出た。 「なにを──!」  民夫も血相を変えて、ツカツカと後に引返した。そして、肩にかけたセーターを傍にほうり出し、両手の拳《こぶし》を固めて身構えた。見苦しい人相になっていた。 「いけないわ。やめてよ。民夫さん!」 「信次さん、やめて!」  たか子とくみ子は、まっ青になって、おたがいの肩を抱き合うようにして、少し離れた所から叫んだ。男同士の間の気合いが凄《すさま》じいので、二人の傍へは近寄れなかったのである。  信次は、二人の方へ目をくれて、 「女二人の小細工が、こういう結果を招いたんですよ。僕もこいつも、若い御婦人たちの感傷的な人道主義とは反対な方向に行動することになったんです。女|賢《さか》しゅうして、牛売りそこなうかな。……女の知恵ってそこらへんのものですよ。……民夫閣下、君はそう思わんかね?」 「そんなこと、俺が知るもんかい。俺にハッキリしてることは、俺はお前さんが大嫌いだということだ。そんな奴に、兄貴の押売りをされてたまるもんか……」  そう云いながら、民夫は緊張のあまり、身体をガクガクと慄《ふる》わせた。 「お前さんにはもったいない兄貴なのにな……。女の人たちはそこに坐《すわ》って見てもらいたいな。闘牛か西部劇でもみてるつもりでね……。男というものは、バカなもので、こんな時、女の人がとめに入ったりすると、一そういきり立って怪我をひどくしたりするものなんだ。分ったかね……」と、信次は、間近にせまった民夫の方に油断なく目を配りながら、女たちに呼びかけた。 「分ったわよ。……私たち、梨をかじりながら見物しているわ。……先生もいらっしゃいよ」  くみ子は、いくらか地形が高くなっている草むらに腰を下して、手提籠《てさげかご》の中からほんとに梨をとり出して、たか子にも分けてやった。二人ともゾッとするほど顔色が青かった。自分たちの考え出した小細工を後悔する気持と、これからはじまろうとしている野蛮な闘いに対する恐怖心と、二つのものが彼女等を萎縮《いしゆく》させているのであった。 「さあ、来い。下手な唄うたいが、俺の身体に拳固《げんこ》の一発もお見舞い出来るかな。意気地のない奴は、俺の方から、弟にするのは願い下げにしてもらうからな。ドンとぶつかって来い……」と、信次は自分の胸をたたきながら、民夫のまわりを半円を描いて移動した。  隙をみていた民夫は(この野郎!)と、口の中でうめいて、いきなり信次に体当りしていった。それが予想もしなかった強い力で、信次は突きとばされて、仰向けに倒されてしまった。が、すぐ身体を一回転させて起き直った。  そのひまに、民夫は横の方へ五、六歩駈け出して行き、信次が描きかけている風景画を、画架ごと思いきり遠くへ蹴《け》とばしてやった。信次をキリキリと怒らせてやりたい──そういうひたむきな気持だったのである。  果して、信次の表情は、きびしい、余裕のないものに変っていった。そして、ツカツカと民夫に近づいていくと、肩先を押えつけるようにして、横面に一撃を喰《くら》わせた。が、民夫が身体をかわしたので、あまり効果がなかった。  それがきっかけで、二人は組んずほぐれつ、地面を転げまわって闘った。信次が民夫に馬乗りになって、頭を顔をなぐりつけているかと思うと、すぐにそれがひっくり返って、民夫が上から信次の喉輪《のどわ》をしめつけたりした。そうかと思うと、二人とも立ち上って、腕を一ぱいにふるいながら、相手の顎《あご》や、腹や、横面に、パンチを当てた。  信次は、民夫が予想外によく闘うのにはじめのうちは、頼もしく思ったりしていたが、殴られ、蹴られ、突きとばされたりしているうちに、しだいに動物的な怒りにかられていった。  ハッ、ハッという荒い呼吸《いき》づかいの音や、ビシッという肉体の触れ合う音、ズシンと地面に倒れる音などが、狭い川原の一画の静けさの中に、浮き上って聞えた。  たか子とくみ子は、そこらに伸びた長い草が微風に吹かれているのと同じ調子で、身体を慄わせながら、二人が闘うのに目を奪われていた。ありったけの視力を、無理にもぎとられていくような気持だった。  信次か民夫の一方が、押えつけられてひどく殴られたり、突き飛ばされたりすると、二人とも恐くなって、目をつぶった。が、二人の中では、まだしもくみ子の方が気が強かった。だんだん、目を外《そ》らしたりつぶったりしなくなり、まともに二人の男たちが闘うのを見守るようになった。その代り、ハッとするショックを受けると、くみ子は持っていた梨に夢中でかぶりついた。何かの動作をすることで、恐さを紛らそうというのであろう。  それに気づいたたか子は、自分も梨をかじり出した。結局、二人の女たちは、梨をかじりながら、男たちの闘争を見物しているという恰好《かつこう》になった。しかし、その外見がとぼけて滑稽《こつけい》なほど、誰も彼もが必死だったのである……。  民夫は、身体から云えば一とまわりも大きいような信次を相手に、互角に闘えるのに、自分でも驚いていた。つき飛ばされ、殴り倒されても、闘志とスタミナが、あとからあとから湧いてくるのだ。なんだか、自分が今日まで育って来たのは、ここの川原の空地で、信次と闘うためだったような気がしてきたほどだ……。  そう感じて、ふと感傷的になりかけたが、それが油断になったのか、顎の所に、信次の痛烈な一撃を喰って、一間ばかりすっとんで仰向けに倒されてしまった。  民夫は、起き上ろうとして、二、三度首をもたげたが、いまの一撃が強かったのと、それまでに気力も体力も消耗しつくしたのか、とうとう起き上ることが出来なかった。民夫は、身体中で火のような呼吸をつづけながら、遠い青空を眺めた。そこには、まっしろい雲が一とひら二たひら浮んでおり、平和で、明るくって、しずかだった。 (ああ。美しいな……)と、民夫は満ち足りた気持で、ウトウトと意識を失いかけた。  ──民夫さん、死んじゃったわ……死んじゃったわ……動かないんですもの──  そう呟《つぶや》いているくみ子の声が、遠くの方から聞えて来て、民夫は(僕、生きているのになあ。おかしいな……)と、目を閉じた顔に、微笑する意志をかすかに現わした。  そこへ信次が近づいて来て、胸ぐらをとって民夫を引き起し、眠気ざましの軽いビンタを二つばかりくれてから、 「こら、民夫。これで、俺がお前の兄貴だっていうことが分ったろうな。ええ。それとも分り方がまだ足りないとでも云うのかね。どうなんだ、こいつ……」  民夫は、胸ぐらを押えた信次の腕にすがるようにして、うなだれたまま、 「分ったよ! 分ったよ! お前さんは俺の兄貴だよ! 俺は……認めるよ。俺は……俺はお前さんの弟だよ。……兄貴……」  そう云うと、声をあげて烈しく泣き出した。まるで、吠《ほ》えてるのかと思われる、けだものめいた泣き方だった。 「チェ! 骨を折らせる奴だ。もっと早くすなおになればいいのに……」  信次は、わざとぞんざいに云って民夫の手をふりほどき、浅瀬の流れの所に行って両手で顔を洗った。土くれや血がこびりついて、顔が汚れていたことはほんとだが、それよりも涙が滲《にじ》み出るのをごまかすためだったのかも知れない。  ともかく、それぎり、まだ足をひろげて地面に坐り、うつむいて泣きじゃくっている民夫の傍にはよろうともせず、民夫に蹴とばされて、土まみれになったカンバスを拾い上げ、指先きで、未練そうに泥をはじいたりしていた。  たか子とくみ子も、かじりかけの梨をすてて立ち上り、たか子は、民夫の汚れた顔をふいてやるために、手巾《ハンケチ》を流れに浸しにいき、くみ子は、まっすぐに民夫の傍にいって、相手の肩に手をかけてしゃがみこんだ。 「……民夫さん、負けたのね。……信次兄さんに倒されて、起き上れなかったのね。私、貴方《あなた》が死んじゃうのかしらと思ったわ。そして、なんてお莫窩《ばか》さんなんだろうと思ったの……。そしたら、貴方、死なないで、子供みたいに泣き出しちゃったのね。私もつい、もらい泣きしちゃった……。よかったわね。貴方にいい兄さんが出来て……。私ね、最後の最後まで強情をはる貴方を、ほんとは好きだったのよ。……貴方、目の下が紫色にはれて、口のまわりに血が滲んで、腕もシャツも泥だらけで、髪には枯草がへばりついて……コテンコテンにやられた恰好だわ。でも私、好きよ……。  私、貴方を欺《だま》して川原につれてくれば、きっと何かはあると思ってたの。信次兄さんは、女たちの感傷的な人道主義などと云ったけど、倉本先生だって私だって、そんなお目出度いことばかし考えていたわけではないわ。なぜって、信次兄さんにしろ貴方にしろ、メロドラマの型にはまるようなお人好しとはちがうんですもの……。野蛮な殴り合いになるとは思わなかったけど、でも、何かはあると思ってたの。  貴方、あんなに殴られて……ずいぶんサッパリしたでしょう。私も一生に一ぺんぐらいは、なにかのことで、あんなサッパリした思いに浸ってみたいわ。……泣いたっていいのよ。川原中に聞えるような大声で泣いたっていいのよ……」  くみ子は憑《つ》かれたように、つぎつぎとしゃべりつづけた。民夫を慰さめるというよりも、自分の衝動と興奮をもてあまし、それをしずめるために、思いついたことをベラベラとしゃべっているという風だった。  民夫は、はじめうなだれて、しゃくり上げていたが、そのうちに、肩におかれたくみ子の手をじゃけんにふり払い、 「女の子は黙ってろ! 煩《うる》せえぞ……」と、ヒステリックにわめいて、かたわらの地面にうつぶせに伏せってしまった。  そこへ、たか子が、川の水で濡《ぬ》らしたハンケチをもって来て、うつぶした民夫の手に握らせ、背中を軽くさすってやりながら、 「さあ、民夫さん。これで顔を拭《ふ》くんですよ。もうキマリがついたんだから、あとはサッパリしましょうよ。人が来たりしたらみっともないわ。……信次さんも貴方も若い女の前で殴り合いなどをみせて、たいへん立派な心がけだわ。……私、今日のこと、小母《おば》さんには決してしゃべりませんから、安心してもいいわ。……さあ、貴方も川で、顔や手を洗っていらっしゃい……」 (小母さん)という言葉をきくと、民夫はムクリと起き直った。 「ほんとだよ、おねえちゃん。おふくろにはなんにも云わないでくれ」  こう云うと、民夫は、流れの所に行って、顔や手の汚れを洗い流した。目の下の紫色に腫《は》れた所を、痛そうに押えていた。そしてテレくさそうに、みんなのいる所へ引っ返してくると、まず、カンバスをぶらさげている信次に向って、 「兄貴の絵を蹴っとばしてわるいことをしたな。……俺、めちゃくちゃに兄貴を怒らしてやりたかったんだ。……その絵、もうだめかい」 「いいんだよ、こんなもの。また描けるから……。お前目の下の腫れた所、痛そうだな。大丈夫かい?」 「十日も二十日も、腫れも痛みもひかない方がいいや。なんで痛いのか、それを考えることは、俺にとって決して気持がわるいことではないからね……」 「いや、俺は、お前が舞台に立つ人間だし、顔には傷つけないように気をつけたつもりだが、つい……」 「いや、俺も兄貴だと思って少しは遠慮したんだぜ。……俺は、小さい頃、父親がいないメカケの子だというんで、よく近所の子供たちにいじめられたんだが、一対一では、身体が倍ぐらいある相手でも、たいてい負かしてやったんだ。それというのは、組み伏せられて動けなかったりすると、俺は、最後に、口が触れた所はどこでも噛《か》みついてやったからだ。雷が鳴らないうちは離さないという意気込みでな。すると、たいていの相手は、悲鳴をあげて降参したもんだった。その手だけは、兄貴だと思って、今日はやらなかったんだ……」  すると、傍から、くみ子がひやかすように、 「二人ともスーパー・マンのように強いのね。……先生、私、世の中から戦争がなくならないわけが分ったような気がしますわ」 「ほんと。男の人って、つまらない意地をはって──。  それに、女たちの感傷的な人道主義とかなんとかケチをつけたがる、それにのっかって、ちゃんと仲直りしてるんだから、ずるいと思うわ」 「いや」と信次が反ばくした。 「貴女《あなた》がたの企んだ出だしは幼稚でまずかったんだけど、民夫と僕とで、身体をはってそれを何とか物にしたっていうわけですよ。なあ、民夫。そうだろう……」 「そうかも知れないけど……倉本さんもくみ子さんも、僕はたいへんな思いやりのある人だと思ってるんだ……」と民夫はためらいがちに云った。 「ふん。……女の人に甘いところが、兄弟でも、俺とお前のちがうところらしい。お前、気をつけた方がいいぞ。……ところで、俺たちはたったいま重労働をやって、腹が減ったから、オヤツを御馳走《ごちそう》になることにしようよ……」  信次は民夫を誘って、女たちのいる小高い草むらの上に行った。 「たいへんな重労働ね。それがはじめっから分っていれば、もっとたくさん御馳走をもってくるんだったわ。ついでにアカチンや絆創膏《ばんそうこう》などもね……」  たか子は皮肉を云いながら、手提籠の中の果物や菓子類をみんなとり出して、ビニールの風呂敷の上にひろげた。そして、みんなで食べ出した。  陽は明るく照りつけていた。浅瀬の水は、日光を細かくくだいて、キラキラと輝きながら流れている。川下から吹き上げてくる微風が、遠くの鉄橋の上を駛《はし》る電車の音を、ガア! と間近かに運んで来たりする。  四人ともあまり話が弾まなかった。気分は快よくたかぶっているのだが、口がほぐれないのである。たか子やくみ子は、目の前に親しい男たちの殴り合いを見せつけられた生理的なショックをすぐにはしずめかねていたし、したがって、そのあとに来た快よいはずの感動にも、すなおに浸っていけないものがあったのだ。  殴り合った信次と民夫の場合は、なおさらのことである。顔に、紫色のあざやかすり傷を残して、急にいままでのいきがかりの気分を一掃するということは、不可能なことだった。だから、二人は、ときどき意味のない微笑を湛《たた》えた顔を見合せるほかは、あまり言葉も交わさなかった。  要するに、四人とも、何か大切な仕事を果したあとのグッタリした疲労感にとりつかれており、それから立直るために、めいめい一人ぎりの時間が欲しい気持だったのである……。 「もう帰りましょうよ……」と、くみ子が停滞した気分を破るように云い出した。 「そしてね、今夜改めて、みんなでお金を出し合ってどこかでお祝いをしたいと思うのよ」 「賛成だわ。どこがいいかしら……。私もお酒のんでみるわ……」と、たか子が弾んだ調子で云った。 「僕の絵が蹴《け》っとばされたお祝いだな。……賛成!」 「僕の目の下に、紫色のあざが出来たお祝いだな。……賛成!」 「二人ともてれてあんなことを云ってるんですわ、先生。……でも、ジミーは今夜、どこかのステージがあるんじゃないの……」 「あるんだけど、休むからいいや。誰か代りに出てもらう。それに僕、こんな面でステージには立ちたくないから……」 「そうでもないと思うがな。……いつもノッペリした顔を客にみせてるよりも、たまにはそういう顔をみせて、何事かあったのかなと、客にスリルを感じさせた方がいいと思うな……」 「人のことだと勝手なことが云えらあ……」と、民夫は苦笑した。  間もなく、みんな立ち上って、川の堤づたいに道を下っていった。  その晩、さっぱりした身なりをした四人は、銀座裏の大きなキャバレーで、お祝いの会をやっていた。  民夫は少しの酒で酔っぱらったようになり、信次をフロアにひっぱり出して、男同士で踊った。ときどき、ゲラゲラ笑って、 「兄貴……兄貴……」と、信次の胸にもたれかかったりした。  仕方がないので、たか子とくみ子も女同士で腕を組み、男たちの後を追うようにステップを踏んでいった。 「民夫さん、よっぽど嬉《うれ》しいのね。兄貴、兄貴って、抱きついてるわ……」 「いままでの生活が、ひどく孤独だったらしいから……。それに信次さんなら、もった甲斐《かい》のある兄貴ですものね……。くみ子さん、自分の兄貴を、半分ほども、民夫さんにとられてしまうような気がしてるんじゃない?」 「とられたっていいわよ。そんな寂しい生活をして来た人なら……。それに信次兄さんは、一人の人にかじられたからって、なかみが減ってしまうような人ではないんですもの。……先生、今度いつか、信次兄さんや民夫さんを生んだ小母さんの所に、私を連れてって……。きっといい人にちがいないんだから……」 「それはちょっと困りますわ。ママさんのプライドを傷つけることになりますもの……」 「でも、こっそりならいいでしょう……」 「貴女、自分でこっそり物事が出来る人だと思っていて──?」 「だめかな……」と、くみ子はペロッと舌を出した。  フロアには二百人ちかい男女が踊っていた。緑や赤の廻転《かいてん》照明が、人々の頭上を照らしており、ステージの上の白いユニホームをつけた十七、八の楽団の演奏に合せて、なにか凄《すさま》じい生命力の塊まりのようなものが、ユサユサとフロアの上を匍《は》いまわっている感じだった。  その中に捲《ま》きこまれて、二人が信次たちを見失わないように、大きくまわりながらステップを踏んでいくと、客席のテーブルでビールを飲んでいた男たちが、女同士、腕を組んで踊っているのに目をとめて、 「へっ、しけてやがるんだな。……お嬢さんたち、ここにあまった男がいくらもいますぜ」と、からかったりした……。 「私たち、ほんとに、今日はしけてんのね。今日のお祝いのいい所は、みんな信次さんと民夫さんだけのものだわ。私と貴女はそのおあまりを頂戴《ちようだい》してるようなものよ。第一、女同士踊らせておくなんて失礼だわ。だから、いまみたいにバカにされたりするんだわ……」 「ほんとだわ。でも、先生、彼等にもう少し楽しませておきましょうよ。火の玉みたいに燃え上ってる彼等と踊ったら、先生も私も、何をされるかも知れあしないわ。二人ぎりで十分に踊って、熱をさまさせてから、彼等を私たちの所に迎えた方が安全だわ」 「そうねえ。……そういうことでは、貴女、私よりかませてるわ。そうしましょう……」  二人は笑いながら、結構、自分たちも楽しく踊っていた。人混みの中に、信次と民夫の抱き合った姿が見えると、なにか温かいものが、そこからスッと伝わってくるような気がした。  一つの曲が終って、次ぎの曲にうつる間、座席に帰る人たちもあれば、手を組みあったまま、フロアで待っている人たちもあった。  その時、マネージャーらしい、タキシードを着た中年の男が、ステージに上って、マイクから客に呼びかけた。 「……みなさん、今晩も多勢お出かけ下さいまして有り難うございます。これから、みなさんにグッドニュースをお伝えいたしますから、御清聴を願います。……私、さきほどから、みなさんが楽しそうに踊っていらっしゃるのを拝見致しまして、この分だと、頭数にして二百五十人ぐらい、今夜もこのホールでは大もうけをさせていただいたわいと、内心ほくそ笑んでおった次第でございます……」  客がドッと笑った。 「ところがでございます。そうやって、みなさんの頭数を勘定しておりますうちに、日本ジャズ界の俊英、ジミー・小池君が踊っているのを発見いたしたのでございます。どうして私が、多勢のお客さんの中から、すぐジミー君を見つけたのかと申しますと、なんとジミー君は男のパートナーと踊っておったからでございます……」 「シスター・ボーイ!」と、誰かが大声でまぜっかえし、それでまたホールはドッとわいた。 「……そこで……そこでジミー君に、せっかくだから、臨時に何か唄って下さいとお願いしましたところ、ジミー君は快よく承諾して下さいまして、みなさんのために、これからお得意の歌をうたって下さることになりました。みなさま、拍手をもってジミー・小池をお迎え下さいませ。ジミー・小池。どうぞ……」 (ジミー! ……ジミー!)と叫ぶ若い女の声や口笛の音を混えた、さかんな拍手に迎えられて、ジミーの民夫は、フロアからステージにのぼり、ニコニコしてマイクの前に立った。茶色の背広に、同じ色のネクタイをつけ、白と黒の混じった靴を穿《は》いていた。──多勢の客の中に混じって、たか子とくみ子も、おたがいの背中に腕をまわしあい、固唾《かたず》をのんでステージの上の民夫に視線を注いでいた。 「みなさん、今晩は──。ジミー・小池です」と、民夫は、歯ぎれのいい、柔かな声で呼びかけた。 「さきほど、マネージャーが、僕が男のパートナーと踊っていたと申しましたが、それはほんとうです。しかし、僕はシスター・ボーイではありません。僕は優しい女の人に愛情を感じますが、男なぞ、くそ喰《くら》えと思っているからです……」  場内がワアーと爆笑した。 「僕は、じつは今日たいへん嬉しいことがあって、少しばかりお酒を飲んで酔っぱらっております。これから、下手な歌を唄いますが、うまくいかなかったら、酔っぱらってるせいだと思ってかんべんして下さい。……それからもう一つ、僕が唄いましたら、途中からみなさんにもいっしょに唄っていただきたいと思うんです。僕は、とっても嬉しいことがあって、ワアーッ! と騒いでもらいたいんです。お願いします……」と、民夫は、たしかに少しは酔っている恰好《かつこう》で、ペコリと頭を下げた。 「オッケー! ジミー!」 「頼むぞウ!」  民夫の挨拶《あいさつ》に答えて、さまざまな声がとんだ。くみ子もその雰囲気にまきこまれて、大きな声で、「ジミー!」と呼んで、傍にいるたか子をびっくりさせたりした。  民夫は、後のバンドマスターと何かささやいてから、正面に向き直り、 「それでは、僕『バナナ・ボート』を唄います。みなさんもごいっしょにどうぞ……」  それでまた湧き上った場内の歓声を押えて、バンドが金属的な伴奏の音を響かせると、それにのって民夫は、情感をこめてうたい出した。   あの山越えて 谷越え   馬の背なに揺られて   バナナ積みに出かけた   あの人のことばを   ディ・オー・ディ・オー  フロアを一ぱいに埋めた客は、はじめ遠慮がちだったが、しだいに声を大きくして、おどけた物哀しい「バナナ・ボート」のリフレエンの所を合唱しはじめた。  場内の空気が一つに溶けこんで、異常に雰囲気が盛り上った。くみ子は、遠くから見ているのでよく分らないが、舞台の上の民夫の目が、とくべつに黒く光って見えるのは、涙ぐんでいるせいではないだろうかと思ったりした。 「バナナ・ボート・ソング」が終ると民夫は熱狂的なアンコールにこたえて「マリアンヌ」を唄い、それが終ると、さかんな拍手の中でかなりな高さの舞台からドタリと飛び下りて、信次たちのいる所に帰って来た。 「すてきだったわ……」 「ほんと──」 「お前、少し酔っぱらってる方が歌がうまいな……」  三人は、民夫を囲んで、口々に労をねぎらった。興奮したくみ子は、こわごわ、民夫の肩に手をかけたりした。そして、それに気づくと、ビックリして手をひっこめては、また手をさしのべる……。  ダンスがまたはじまった。今度は信次とたか子、民夫とくみ子が腕を組んで、踊りの輪の中に加わった。 「……民夫さんって、たいへんな人気者なのね。それだけに、このあとの生活に、いろいろむずかしいことが生じそうな気がするんですけど……」 「僕がときどきヤキを入れてやりますよ。たしかに、生ま若い身空で有名になりすぎるのは、気の毒な気がするな。しかし、あいつは、人気の波に溺《おぼ》れるようなこともないでしょう。貧乏だけではない、人間的な苦労を経験しているから……」 「そうあって欲しいわ。……さっきのように、兄貴、兄貴って、もたれかかって来られたりしたら、ずいぶん民夫さんが可愛いんでしょうねえ。……貴方、幸福そうだったわ……」  たか子は、無意識に、信次に身体をあずけるようにして、相手の目をのぞきこんだ。  そういうたか子を、信次も、グイと自分の方にひきつけるようにして、 「あいつは可愛いなんて気を起させる人間じゃないですよ。しかしね、同じおふくろの子宮の中で育った人間が、もう一人この世の中にいるとなると、これはちょっとした出来事だなあ……」 「──そういうのを、ちょっとした出来事というんですか」 「そう。ちょっとした──」  信次は、云い足りない部分を補おうとでもするように、意力のこもった眼差しで、じいとたか子を見つめた。 「──信次さん」 「ああ?」 「私、いまでも気持にひっかかってることがあるんですけど……」 「なんですか?」 「貴方、今日、民夫さんと殴り合いをしたでしょう。その結果がよくなってることは認めますけど、ああする外に方法がなかったものかしら。どうも気持がすっきりしないんです……」 「そうつきつめられると、僕だって恥ずかしいんだ。あれは計画してやったことではなく、とっさに、夢中でやったことだし……まあ、僕としては、一度だけは許されていいことじゃないかと考えてるんです……」 「一度だけはね。……貴方がそうお感じになってるんだったら、私は重ねて申し上げませんけど、でも、私は貴方のなさったことを、決して肯定してるわけではありませんから。……暴力をふるうって、野蛮なことですものね……」 「そうかなあ……」と、信次はたか子の顔をのぞきこんで、軽く抱え上げるようにしてステップを踏みながら、 「そう云うけど、僕は貴女《あなた》だって、カッとなると、誰かを殴りそうな気がするんだけどなあ……」 「私が……私がですか──」と、たか子は呆気《あつけ》にとられて、信次の顔を見返した。 「全然云いがかりというものですわ。……私が、映画に出てくるアメリカ娘のような行動派だったら、とっくに信次さんにビンタを張っていたかも知れませんわ。だって、信次さんは、しばしば、ずいぶん変てこな意地わるを私になさいましたもの……」 「ほっ!」と、今度は、信次の方が意外な面持ちをして、 「僕が意地わるをした──。それこそひどい云いがかりだな。僕は貴女に親愛の情を示した以外に、これっぽちも意地わるなどしたことがありませんよ……」 「それじゃあ伺いますけどね。……私がはじめて田代家を訪れた時、貴方は私に何をなさいました──?」 「昔の話だな。……あれはお天気のいい日で、貴女は経木の帽子をかぶっていて……そうだった。僕は貴女のふくれた胸を指先きでつっついた、はじめてお会いする貴女が、たいへん魅力のある人だったので、貴女にちょっとばかり敬意を表したのです。……」  信次が真面目くさった顔をしてそう云うので、たか子は思わず「クスリ」と苦笑させられた。 「信次さんのような説明をつけたら、世の中の人のする行為は、みんな善意から出たことになりますわよ」 「僕の場合はたしかにそうだったんです。……でもなければ、貴女はとっくに僕に愛想づかしをしていたはずです。……貴女には、形式にこだわらず、人の善意をかぎ分けるセンスが備わっているんだ。僕が意地わるしたと云ってるのは、貴女の口先きだけで、貴女の心は、僕の好意をまちがいなく感じとっているんだと思う」  それを云っている信次の体内の温かい血のめぐりが、皮膚を通して、たか子の心臓にふれてくるような気がした。 「たいへんな自信なのね。貴方《あなた》ほどトクな方はいませんわ。では……大負に負けて、貴方の仰有《おつしや》ることを肯定することにしますわ。でも、私にはもう一つ、しっくりしないことがあるんですけど……」 「なんですか?」 「貴方にだらしない女関係があるっていうこと。貴方のほかの部分を見つめていますと、水と油のようで、どうしても有り得ないことのような気がするんですけど……。どうしてそれが有り得るのか、私に分るように説明して下さいませんかしら……」  すると、信次は、急に暗い険しい顔をして、 「僕、そんな話はしたくないな。……僕が男であるという以外、説明しようのないことなんだ。……貴女は、僕が嫌いだったら、僕から黙って離れていけばいいんだし、そんな説明を求めるなんて、貴女はアブノーマルだな……。惨酷な趣味ですよ」 「……趣味なんて気持ではありません。……私は、貴方を、もっとよく理解したいんですわ。プラスの面も、マイナスの面もひっくるめて、貴方のまるのままの人間を理解したいんですわ……」  二人の目は、探るように、上と下でこもごも光った。 「貴女はね、軽くそう云うけど、一人の女が、一人の男をほんとに理解するためには、白い手をしていてはだめだ、自分を傷つけるぐらいでなければ、ほんとの理解というものは生れて来ない──ということを御承知ないんだ……」 「そんな大げさなものかしら?」 「少くとも、貴女が僕に求めているものはそうだな。……貴女は利口で、常識的でありすぎる。そういう人は、それだけの答えしか得られないと思うな……」 「私は……いつまでも自分の手を白くしておこうとは考えてませんわ。……それに値いすることでしたら、いつでも、自分の手を汚し、自分の身体を傷つけてもいいと思ってますわ。……それが私という人間の成長を意味するものでしたら……」  そういうたか子の顔は青ざめ、目だけがキラキラと光っていた。  信次は呼吸《いき》を呑《の》んで、たか子を抱えたまま立ち止った。ほかの踊りの組が、急に停止した二人の身体につぎつぎとぶつかって動いていった。ふと、信次は低い声で笑い出して、またステップを踏み出した。 「ハハハ……。やりきれないな。貴女はすぐにそんな感傷的なことを云う。成長だか堕落だか、そんなこと、僕が知るもんですか。僕はただ、木戸銭払わなければ、中のものが見られないと云ってるだけですよ……」 「木戸銭ですって……」 「そうですよ。入場料ですよ……」 「……それをとっていいかどうかは貴方が判断なさればいいのよ。それだけのねうちがあるなかみかどうかは、貴方が一ばんよく知ってるはずなんですもの……」 「僕の判断は、百年も前から決っているんです……」 「どんな風に──?」  たか子は、そうしてはいけないと自省しながらも、つぎつぎと、質問をつづけていって、烈しい渦巻きのようなものにしだいに巻きこまれていくのを感じた。引っ返そうとしてもがくほど、その動きが、渦巻きの中心に自分を近づけていくばかりだった。たか子は、目がくらみ、喉《のど》が渇いた。そして、しびれるような絶望感が、急速に頭の中を浸してくるのを、かすかに意識した……。  ──くみ子と民夫の組も、人の波にもまれて、見えたり隠れたりしながら、二人のあとについて踊りまわっていた。  民夫は、くみ子のわきに深く腕を差し入れ、ピッタリ抱えこむようにして、大きくステップを踏んでいた。 「民夫さん、酔っぱらってるのね。……あんまり振りまわしちゃあ、いや。それに、くっつくとお酒くさいわよ……」 「僕、気分に酔ってるだけですよ。あれっぽっちのお酒で、とり乱したりするもんですか……」 「とり乱したわ。兄貴、兄貴って、男同士で踊っていて、私、きまりがわるくなっちゃった……」 「僕たち、いつまでも殴り合っていた方がいいと云うんですか……」 「酔ってるんだわ。そういうのを絡むというんでしょう……。いやあね……」 「僕は、ほんとは貴女を投げ縄のようにブンブン振りまわしながら、踊っていたいんだ……」 「いやあよ、そんなの……。民夫さん、ちょっと、あの二人、見てよ。さっきからなんか変じゃない? 目がキラキラ光って睨《にら》めっこしてるみたいよ。私、心配だわ……」 「彼等は、僕たちよりずっと年ごろなんだから、僕たちの知らない感情が、いろいろと二人の間に動いてるんでしょう。ほうっておけばいいんですよ。彼等の青春に祝福あれ……とね。ハハハ……」 「お酒くさいわね! 顔をそばにもってこないでよ! ……貴方、大人みたいにませたことを云うのね。でも、私なんだか心配だわ。第一、倉本先生が、魂の抜けガラみたいにフラフラして見えるんですもの。あの二人の傍に行きましょうよ……」 「オーケー」  民夫は、くみ子をリードしながら、人混みを縫って、信次たちのすぐ傍に近づいた。そして、二つ三つ、ステップを踏んだかと思うと、二人とも「あっ!」と呟《つぶや》いて、その場に立ちすくんでしまった。  信次が凄じい力で、たか子を羽交いじめにして、強引に接吻をしたからである。人の波が溢《あふ》れ、流れているまん中で──。  たか子は、信次をつきのけようとして、必死にもがいたが、身体を両腕ごと強くしめつけられてしまっているので、少しばかりのけぞることのほかは、どうしようもなかった。  傍を踊ってすぎる男女は、目を見合せて微笑していた。誰も、信次が無理強いしているとは考えず、踊ってる間に二人の感情がたかぶっていって、そんな事になったのだろうと考えたからである。  そこはちょうど、ステージの前の所だったので、二人の恰好《かつこう》に気づいたバンドマンの一人が、びっくりして、吹いていたトランペットの音程を狂わせてしまったほどだった。  それは、ほんの短かい時間にすぎなかったのだろうが、傍で眺めているくみ子と民夫には、ひどく長い時間のように感じられた。身体を押えつけられて、唇をふさがれているたか子にとっては、鉛を流したような、重い絶望の時間であったにちがいない……。  信次は、一度息をつくために、顔を上げ、腕の力をゆるめたが、すぐまた、たか子の身体をしめ上げて、顔を押しかぶせていった。  が、まもなく、信次は起ち上って、たか子を自由にした。紙のように青ざめたたか子は、身体が自由になった瞬間、信次の胸の方にフラフラと傾いていったが、信次の胸に支えられて踏み止まると「……貴方は……けだものみたいな男だわ……恥知らずだわ……けだものよ……」  きれぎれな罵声《ばせい》を投げつけると、右手をひらめかせて信次の頬に烈しい平手打ちを喰わせた。そのため、自分の身体がよろけたほどだった。そしてクルリと後に向き直ると、踊の輪の動きに逆って、控席の方へ引き上げていった。信次は、頬《ほつ》ぺたを押えて、奇妙なうすら笑いを浮べながら、その後について行った。  とり残されたくみ子と民夫は、硬《こわ》ばった青い顔を見合せた。相手の顔がひどく醜く見え、同時に自分もそういう顔をしているのだということが、鏡を見てるようによく分った。くみ子は、小さく慄《ふる》えていた。 「男って……男って……野蛮だわよ。あんなこと、許せないわ」  呼吸を弾ませてそう云ったかと思うと、無意識に、自分も手をあげて、民夫の頬ぺたをピシリと殴った。そのショックで自分のやったことが分ると、くみ子は、驚きのあまり、もう一つの手も上げて、民夫のもう一つの頬にも打撃を加えてしまった。くみ子にしては、はじめの分は夢中だったし、あとからの分は、詫《わ》びようとする意志が、そんな形で表現されてしまったのである。 (ワッ)と、胸の中で泣き出しながら、くみ子は踊の輪にゴツゴツぶつかりながら、まっすぐに控席の方に帰っていった。民夫もボンヤリとした顔つきで、頬ぺたのあたりをなでながら、そのあとを追って行った。 (……今日は俺、殴られてばかりいる日だ。……)と、そんなことをポツリと考えながら……。  控席では、たか子がテーブルによりかかり、両手でこめかみを支えながら、石像のような冷い顔で、どこか一点をじいと見つめていた。そのまわりを、信次が、それこそ檻《おり》の中の獣のようにせかせかと歩きまわっている。  遅れて来たくみ子は、たか子の向う側の席に坐《すわ》ると、力がぬけきったようにボンヤリして、両の掌をしきりにすり合せていた。そこには、民夫の頬をぶったほてりが、神経的に感じられるのである。ときどきひろげた自分の白い掌に、不思議そうに見入ったりした……。  そこへ民夫がやって来た。この男が、まだしも、一ばん落ちついており、テーブルの傍にくると、一刻の休みもなしに動きまわっている信次の肩に手を置き、 「……兄貴。倉本さんに謝まれよ。……あんな乱暴なことってないよ。多勢が見てる前でさ──。しかも、前触れもなく、順序も踏まず、いきなりだろう。女の人にはもっと優しくしてやらなけあだめだよ。……あれじゃあ、誰だって怒っちまうと思うな。……兄貴、たか子さんに丁寧に謝まれよ。な、謝まれよ……」  すると、信次はピタリと、立ち止まり、民夫にでなく、たか子を対象にしてるような気配で、わめき立てた。 「いや、俺は絶対あやまらないぞ! 俺は、自信のある、正しいことをしたんだ。俺にああするように求めたのは、この人なんだ! この人がそれを求めたんだぞ。……この人は、俺という人間をもっと深く知りたいと云ったんだ。だから、俺はそう云ったんだ。手を白くしたままで俺を知ろうとしたってだめだぞ、それには木戸銭を払わなければだめだぞってな。……そうすると、この人が、自分が傷ついてもいいから俺を知りたいとそう云ったんだ。だから、俺は、この人にとっての俺がどんなものであるかを、むき出しに、正直に、ひたむきに教えて上げたんだ……。  俺は、この人にはじめて会った時から、この人を抱きたいと思ったんだ! ほんとは裸のこの人を抱きたかったんだ! ……」  テーブルをたたいたりしながら、そこまでわめきつづけた時、くみ子はビクッと肩先きを慄わせて耳をふさぎ、たか子は両手をテーブルに匍《は》わせて、その間に顔を伏せてしまった。信次のむき出しな光った言葉が、彼女の心臓に堪えられないショックを与えたからにちがいない……。  信次は、女たちの様子にはお構いなしに、しゃべりつづけた。 「そうなんだ! 俺はいつだって、この人が好きで好きでたまらなかったんだ! 例えばだ、……例えばだ……。俺がほかの女を欺《だま》して、堕落してる真最中でも、心の中では飢え渇くようにこの人を求めていたんだ! ……この人だけを求めていたんだ。  それが俺だったんだ。……ところで、この人は俺という人間をよく知りたいと云った。だから、俺は教えて上げた。それだけのことだ。俺は絶対にあやまらないし、俺がしたことを、誰の前でも恥じたりはしない! 神様が見てる前でも俺は、いまと同じに振舞ってみせるんだ……」  信次は、云いたいだけのことを云って言葉がとぎれてしまうと、急にひっそりとなって、テーブルの片隅に腰を下した。顔色がひどくわるかった。  民夫は、そわそわと信次の身辺にまとわりついて、 「兄貴……兄貴。兄貴の気持は分るけどさ。若い女の人には、その気持をもっと優しく表現してみせなけあだめだよ。いきなりあんな乱暴なことをされたんじゃあ、たか子さんがどういう気持だったにせよ、まとまるものでも、ぶちこわれてしまうだけじゃないか。……女の人には、もっと優しく、順序を踏んで、事をすすめなくちゃ、無理というものだよ。……なあ、兄貴──」  信次は、そういう民夫をじっと眺めて、ガッカリした調子でつぶやいた。 「分ったよ、民夫。……お前は物知りだな……」  すると、民夫は口がつまり、顔がほてって来た。信次とたか子の間にあったことは、彼の手にあまる大人の世界の出来事であり、そのことで、信次を説得しようとするのは、ひどく滑稽《こつけい》なお節介であることを、自分でも感じていたからだった。  誰もものを云わなくなると、たか子が青ざめて額にふりかかる髪を煩《うる》さそうにはらいのけ、まるで別人のようなつやのない声で、 「……いいわ。私にもいけない所があったのかも知れないし、……よく考えてみますわ。……くみ子さん、私、明後日伺いますから、それまでに幾何の宿題をやっておいて下さいね。……それから、民夫さん。貴方《あなた》は今夜、責任をもって、くみ子さんを家まで送りとどけて下さいね。……私は少し頭が痛いから、まっすぐに家へ帰りますから……」 「はい、先生。私、宿題をやっておきますから──」 「はい、先生。僕、くみ子さんを送っていきますから──」  くみ子と民夫は、ホッとして顔を見合せ、同じ調子の返事をした。緊張のあまり、自分までが「先生」と呼びかけたことに気がつくと民夫は、胸に錐《きり》でも刺されたように可笑《おか》しくなり、吹き出したいのをやっとのことで押えた。 「──誰も誘ってくれないから、僕はここのバーで飲んでいくよ」と、信次は顔をしかめて、首筋のあたりをボリボリ掻《か》きながら、ひとり言のようにつぶやいた。  まず、たか子が立ち上って歩き出し、それから遠慮したようにかなりの間をおいて、くみ子と民夫が、そのあとについて行った。  ひとりでテーブルの所に残った信次は、もの憂そうに、三人の後姿を見送っていたが、ふと、何を考えてるのか分らないような目つきをして、大きな欠伸《あくび》を二度ばかり洩《も》らした。そして、のろくさと立ち上った……。  ──それから三十分ばかり経ったころ、くみ子と民夫は、数寄屋橋通りにあるフルーツ・パーラーの二階に姿を現わした。一面ガラスをはった窓際の小さなテーブルに向き合って腰を下し、アイスクリーム・サンデーをつっつきながら、顔を近くよせ合って、何かヒソヒソと話し合っていた。  時間がかなりおそく、それに日曜日の夜だったので、室内には客が疎《まば》らに坐っているばかりだった。窓から見はらす戸外にも、車や人間の往来が少なく、そのせいか、電光ニュースやネオン・サインの明滅するのが、いつもよりあくどいものに感じられた。 「──ごめんなさいね、民夫さん。貴方を殴ったりして……。いけないことをしたと思うわ。ごめんなさいね……」  ふと、くみ子は、民夫の顔をのぞきこみながら低く話しかけた。民夫は、当惑したように目をまたたかせて、 「僕はちっとも気にしていませんよ。あんな時は、誰だって夢中で行動するもんだから……。貴女の場合、きっと、倉本さんのやったことを無意味に真似たんだと思うな。……僕はびっくりして、貴女の後姿を見送りながら『ああ、今日は、昼も夜も、やたらと人に殴られる日だな……』と思いましたよ……」  民夫がそう云っても、くみ子はクスリともせず、大きな目で、民夫の顔をまじまじと見つめながら、 「私もはじめは、倉本先生が信次兄さんにしたことが、傍にボウとつっ立っていた私にも伝染して、それで貴方にあんなことをしたんだろうと思ったの。でも、キャバレーを出て、往来を歩きながら考えているうちに、私はあの時、無意識に貴方の頬ぺたに手を当てたのではなく、そうする意志があって、貴方を殴ったのだということが、かすかに、でもハッキリと思い出されて来たの……」 「僕がどんなことで、くみ子さんの御機嫌をそこねたというんだろう? ……僕にはまるで覚えがないんだけど……」と、民夫は不安そうに云った。 「貴方はなんにもしやしないわ。貴方は青くなって、棒のようにつっ立っていただけよ、……でも、私は、信次兄さんが倉本先生にしていることを眺めて、凍るようなショックを受けた瞬間に、この人も──私の目の前にいる貴方のことよ──私に、あんなことをしかけるんではないだろうかという恐怖に襲われたの。いますぐだか、もっとさきだか分らないけど……。それで私、こっちから先きに防禦策《ぼうぎよさく》を講じてしまったわけなの。ごめんなさいね。私、きっと自意識が過剰な女なのよ……」 「いや……僕は……ちっとも……怒ってはいませんよ。僕はボンヤリだから、たぶん殴られてちょうどよかったんですよ……」と、民夫はあいまいに口ごもって窓の外へ目を外《そ》らせた。  くみ子の言葉で、自分でも気がつかないでいた、心のずうと底に芽生えかけている、青い未熟な願いのようなものを、ズバリと云い当てられたような気がしたのだった。 「ここにね……」と、くみ子は、テーブルの上に右手の白い掌をひろげて、 「貴方をぶったしびれが、ついさっきまで残っていたような気がしたんだけど……」  そう云うと、唇をとんがらして掌をプイと吹いた。民夫は、胸をグビリと慄わせて、大きな嘆息をもらした。 「もうその話よそうよ。おたがい、こだわらないことにしようや。……僕、そんなことよりも、倉本さんが兄貴を許すかどうかが心配なんだ……」 「私、もう許したんだと思うわ。……四人が控えの席にもどった時、私、結末がどうつくだろうと気がかりだったの。始めがあることは終りがなければならないわけですものね。しかも、その結末をつける人は、どうしても、倉本先生でなければならないんだわ。信次兄さんが、わけの分らないようなことを、吠《ほ》えるだけ吠えてしまうと、倉本先生は私に云ったでしょう。私、明後日伺いますから、それまでに幾何の宿題をやっておいて下さいね、と──。それから、貴方には、責任を以《もつ》てくみ子を家まで送り届けるように、とね。なんという見事な解決でしょう。落ちついて、当り前のことを云って、それでもうみんなのすることが決ってしまったんですものね……」 「そうすることが兄貴を許したことになるのかなあ……」 「なるわよ。私も女だから、女の倉本先生の云うことはよく分るの。先生が、貴方と私に用を云いつけてる時、その外側では、もう一つの先生の泣いてるような声が『信次さん、貴方を許してあげますわ。貴方は……しようがない人なんですもの……』と叫んでいるのが、私の耳にはガンガンと聞えていたわ……」 「すると……兄貴の奴……つまり……」と、民夫はきれぎれにつぶやいて、あとは息苦しそうに口をつぐんだ。  くみ子は、皮肉なような微笑をチラとみせて、 「民夫さんはこう云いたかったんでしょう。『すると兄貴の奴、うまいとこやりやがったのかな』って。──男の人って、すぐそんなお下劣な表現をしたがるのね……」 「でも、僕には、信じられないな……」と、民夫は顔を赤らめた。 「それは貴方が女のことを知らないからよ。──倉本先生は、信次兄さんを愛していらっしゃるんだわ。まちがいないわ……」 「そんなことが──、人中であんな野蛮な真似をして──、僕にはやはり信じられないや……」 「民夫さんは、目の前に坐《すわ》っている女の心の中も分らない人なのよ……」と、云いかけて、くみ子は急にあわてて、 「といっても、私のことじゃないわ。例えば──の話よ」 「僕は……そんなおかしげなもの、分らなくてもいいや。僕が倉本さんだったら、兄貴に絶交状をたたきつけてやる……」 「勇ましいのね……」と、くみ子は白い歯をのぞかせて、からかうように微笑した。  時間がおそいので、青いユニホームを着た給仕の少女たちが、調理室の前にかたまって、低い声で話しこんだり笑ったりしていた。ひっそりした往来を、白い救急車が、けたたましいサイレンを鳴らしてはしっていった……。  それに促されたように、二人はフルーツ・パーラーを出た。そして、並木通りでタクシーを拾って乗りこんだ。  車の中では、二人ともあまり口を利かなかった。くみ子は、左側の窓にもたれて、移り変る街の夜景を眺めていたし、民夫は、右側の窓にもたれており、二人ともずうと背中を向け合っていた。しかし、二人の目には、街の景色などろくに見えておらず、今日一日の出来事が、瞼《まぶた》の裏につぎつぎと、熱っぽく灼きつけられていってることが、おたがいによく分っていたのだ。  都立大学をすぎて、緑ヶ丘にさしかかると、くみ子は、家の近くの坂道で車をとめさせた。そして、街灯の光でわびしく浮き上ってみえる、垣根の多い道を少しばかり歩くと、くみ子は、ふと立ちどまった。 「──民夫さん。貴方ね、両手を後にまわして、固く手を握り合せてちょうだい。そして、目をつぶるのよ……」 「こうするんですか──」と、民夫は云われたとおりの恰好《かつこう》をして、目をつぶった。  すると、くみ子は、両手で民夫の首にぶら下るようにして、頭を下げさせ、両方の頬《ほつ》ぺたに、かわるがわる、そうと唇を押しつけた。 「──もういいわ。これで貴方とは貸借りなしよ。……貴方はここに立っていて、私が門を入るのを見とどけて下さいね。それから帰ってもいいわ……」  そう云うと、くみ子はひとりで歩き出した。片足をわずかばかり曳《ひ》いて歩くくみ子の後姿が、くらがりの中をしだいに遠ざかり、やがて、田代家の明るい門前でとまると、こちらを向いて二、三度手をふり、吸いこまれるように屋敷の中に姿を消した。  それを見送ると、民夫は、身体ごと酔っぱらったように、往来一ぱいにはだかって、元来た方へ歩き出した。それでも物足りなくて、大きな声で、好きな歌をうたい出したほどだった……。  アパートに帰ったのは、十二時をずっと過ぎていた。ひっそりと静まった白っぽい階段を上って、たか子の室の前にさしかかると、中からほのかに明りがもれていた。  民夫はドアの所にくっついて、あたりをはばかった低い声で、 「おねえちゃん……おねえちゃん……」と、二度ほど呼びかけた。  中からは、 「おやすみなさい。民夫さん……」と、めいったようなたか子の声がして、プツリと明りが消されてしまった。  民夫は自分の室に帰って、すぐ寝床に入った。が、頭が痛いほど冴《さ》えて眠れそうもなかった。  間もなく、母親のトミ子も勤めから帰って来て、民夫が眠ってると思ってるのか、何かブツブツとひとり言をつぶやきながら、そこらで片づけものをしていたが、これもじき、二つ並んだ片方の寝床に入った。 「──お母ちゃん、もう寝たかい?」と、しばらくして民夫が呼びかけた。 「なんだ、お前まだ目が覚めていたのかい、何か用かい? ……」と、トミ子は、民夫の方に向き直った。 「お母ちゃんな……。毎晩、帰ってくると、何かゴチョゴチョひとり言を云ってるけれど、あれ、何云ってるんだい?」 「殴るよ、この子は──」と、トミ子は思わず大きな声を出した。 「女が一人で長く苦労すると、ついひとり言の愚痴が出るものなんだよ。……誰も親身な相談相手がなし、仕方がないから、自分で自分に相談してるんだよ。……そんなもの、お前に聞いてくれと頼みゃしないよ。親をからかって、わるい子だよ、お前は──。何かほかに用があるんだろう。お母ちゃんは眠いんだから、さっさと云ってしまいな。……女の子でも出来たんかい。ちったあ早いけど出来たものなら仕方がないやね。どこの子だい?」 「チェ! いやンなっちゃうな。俺、なんにも云ってやしないじゃないか……」 「だから、さっさと云ってしまいな。お母ちゃんは、ぐずぐずしてる男は大嫌いだからな」 「へっ。勝手に威ばってやがる。あのな、お母ちゃん……」 「あいよ」 「俺な……。いつかここへ来た奴を兄貴として認めてやることにしたよ……」 「いつか……ここへ……誰が来たんだい? ああ、信次さんのことかね。あの人を兄貴として認める……。お前、信次さんとどこかで会って仲直りしたのかい……」 「そうなんだよ。俺、気の毒だから、兄貴として立ててやることにしたんだ」 「どこで会ってどんなことがあったのかね」 「そんなことはいいんだよ。若者同士のことは、昔者のお母ちゃんには分らないとこもあるからな。……ともかく、俺は、仕方がないから、あいつと兄弟だということにしてやったんだ。……兄貴はな、お母ちゃん。図体は大きいが、カラきし物が分ってないところがあるんだ。俺でも後で見ていてやんなけあ、何するか知れたもんじゃないんだ……」 「生意気お云いでないよ。お前が後で何をみてやるというのだい?」 「兄貴はな、あの年ごろになって、女の子の口説き方も知らないんだ。てんでなってないのさ。俺、見ていられなかったよ、まったく……」 「──お前は女の子の口説き方を知ってるのかね。いつそんなことを覚えたんだい? 女の子を口説くって、一生に一ぺん、女房にする女の子を口説くだけでたくさんだよ。変なことが達者になると、お母ちゃんは承知しないよ……」 「ちがうんだよ。分んないなあ。ともかく、俺は兄貴と仲直りしたんだよ。そのうち、ここへも遊びに来るようになる。兄貴のたった一ついい所は──お母ちゃん、何だと思うね?」 「さあ、女の子の口説き方も知らない若い者に、何かいい所があるのかね?」 「うん、たった一つのいい所は、兄貴は、人間を差別待遇しないっていうことさ」 「なんだい。そんな事かね。私には、とっくからそんなことは分っていたよ。……民夫や、断わっておくがね。お前たちが仲直りしようとどうしようと勝手だけど、私はやっぱりあの人を信次さん、お前を民夫と呼ぶからね。民夫閣下とは呼んでやらないからね。それさえ承知なら、あの人をいつここへ連れて来てもいいんだよ。……私は、いつかそうなるだろうと思っていたんだよ……」  トミ子がそう云うのは、決して言葉のアヤではなく、その証拠に、民夫から、信次とうちとけた話をきかされても、興奮して涙を流したりするような醜態を見せなかった。それには、民夫の話の持ち出し方が自然で、いくらかユーモラスであったことも作用しているのであろうが……。 「名前の呼び方など、どうだっていいよ。あの時は、俺、気が立っていたから、お母ちゃんに絡んでみただけだよ……」 「お前、さっき何とか云ったけど……信次さんは、お前が見てる前で、女の人を口説いたのかい? ……おかしな話だね……」  話の筋が一応とおると、トミ子は、さっき聞き流したことを改めて尋ねてきた。民夫は困った。云わなければよかったと思った。 「そうでもないんだけどさ。とにかく、女の子への当り方がすごく乱暴なんだよ。若い女の子って、優しくしてやらなけあだめなもんだろう……」 「お前はごまかしているよ。いいよ、私は、信次さんがどうしたのか、無理に聞こうとは思わないよ。でも、女の子に、乱暴だとか親切だとかでは、私にも云い分があるよ。それはね。乱暴そうな見せかけの中に、まごころがこもっていることもあるし、親切そうな見せかけの中に、狡《ずる》い企《たくら》みが隠されていることもあるし、うわべだけでは何とも云えないよ。私は、どっちかと云えば、お前には、ぶあいそうなやり方をしていても、女の子に好かれるようであって欲しいと思ってるのさ……」 「むずかしい注文するなよ。……俺には、女の子が苦手だよ」 「さっきは上手に口説けるようなことを云ったくせに。……私は思うよ、信次さんのそぶりが乱暴そうだからって、あの人の温かい心持ちが汲《く》みとれないようだったら、相手の女の子は、たいへんな損をしてることになるんだとね。……お前はそう思わないかい?」 「それあね、兄貴はガムシャラで礼儀に外れたような所があるけど、わるい人間ではないと思うね。なにしろ、俺みたいな強情な奴の気持が、コロッと変ったぐらいだからな……」  二人は、気をつけて話してるつもりだったが、いつの間にか声が高くなると見えて、二度ばかり、近くの室から咳《せき》ばらいをされた。そのたびに、二人は、グッと声を落して、話をつづけた。──アパート暮しは、こういう所がおたがいに窮屈だ。 「民夫。お前に一つだけ云っておくんだがね。お前が今度、信次さんと兄弟のつき合いをするようになったこと、たいへん結構なことで、お母ちゃんは涙が出るほど嬉《うれ》しいんだが、しかしどんなことがあっても、お金の事で、信次さんによりかかるような気持は起さないでくれよ。情ないことだからね……」 「俺を見そこなうなよ、お母ちゃん……」と、民夫は思わず大声で怒鳴った。  その声があまり大きかったので、はたで気兼ねしたのか、あたりは、かえって、シーンと静まりかえったような気がした。 「分かったよ、民夫。もう、寝よう……寝よう……」  トミ子はクルリと寝返りをうつと、それぎりひっそりとなった。  民夫は、くらがりの中で、いつまでも大きく目を光らせていた……。 [#改ページ]  [#2字下げ]わが道を  翌朝、民夫は、七時ごろ目を覚ました。  トミ子はとっくに起きて、室を片づけ、朝飯の仕度にかかっていた。民夫は、寝床の中で、大きく伸びを入れて、しばらく、うつらうつらしていた……。  昨日の出来事が、感銘の深かった映画のように、ところどころ思い出されてくる。一ばん気持がいい場面は、信次にアッパーカットをくわされて、川原の草むらに伸びてしまい、意識がうすれかけていく瞬間に見た、青空や白い雲の美しさだった。ああいう微妙な瞬間だけにしか、自然は、ほんとの美しさをのぞかせてくれないのかも知れない……。  それから──。民夫は、掌で、くみ子がそっと唇を押しつけた──その前には、くみ子の平手で殴られた──両方の頬を撫《な》でまわした。あれで貸し借りなしだという。なんという魅力的な取引きであろう……。  民夫は起き上った。そして、うすいガウンを羽織って、洗面所の前に立った。歯ブラシをくわえて、たか子の室の方をのぞくと、入口のドアも、台所のガラス戸もあけられて、朝の掃除がはじまっているらしい様子だった。  民夫はサンダルをつっかけて、たか子の室をのぞきに行った。ふだん着のワンピースに、埃《ほこり》よけのベレー帽を頭にのせたたか子は、室の中を忙しそうに動きまわっていた。 「お早う、おねえちゃん」 「お早う、民夫さん」  たか子が、顔も明るく、声も元気だったので、民夫はホッとした。 「お入んなさいよ。もうお掃除がすんだのよ。……コーヒーがわいてるから飲んでいらっしゃい。室に入ったら、ドアも台所の窓もしめて下さいね」そう云うと、たか子は小さな鏡台の前に坐《すわ》って、髪の手入れをはじめた。民夫は、南側の開いている窓ぶちに腰を下した。 「──私ね。昨夜は一睡も出来ないだろうと思ってたの。誰だってそう思うでしょう。ところが、私って頭がバカなのかしら。昨夜、貴方《あなた》が声をかけていってから間もなく、グッスリ眠って、今朝まで正体がなかったの。……けだものみたいで、われながら浅ましくなっちゃった……」  鏡に向って、さまざまに顔の筋肉を動かしながら、たか子がそう云うのを聞いて、民夫は、胸の底にあるわだかまりが、スウととけていくような気がした。くみ子が云ったとおり、たか子はとっくに、兄貴を許しているのかも知れないのだ……。 「僕も……おねえちゃんのことが気がかりだったけど、すぐ眠っちゃった……」 「貴方がたは、川原で重労働をやったから、身体が参っていたのよ、きっと──。ああ、貴方、あれから、くみ子さんをまちがいなく送り届けてくれたんでしょうね……」 「ええ。まちがいなく──」 「キャバレーからまっすぐに──? それとも、何処かへよった?」と、たか子は、民夫の表情の動きを捕えて、たたみかけて尋ねた。 「……くみ子さんが、喉《のど》が渇いたというんで、フルーツ・パーラーにちょっと寄ったけど……」と、民夫は、目立たないように、警戒しながら答えた。 「そう。それはよかったのね。それから──?」と、たか子は、唇をとんがらして、うすく紅をすりこみながら、民夫の方をチラと睨《にら》んで云った。 「それから……車を拾って送って行っただけです」 「田代家の門の前まで車が行ったんですか──?」 「それは……そうじゃないんだ。くみ子さんが途中の坂道で、車をとめさせたから……。門の前では、家の人が迎えに出て来たりして、煩《うるさ》いと思ったのかな……」 「そう。……じゃあ、二人でしばらく夜道を散歩したってわけね……」 「散歩っていうほどじゃないよ。……くみ子さんは、もういいって、僕を立たせておいて、自分一人で家まで歩いて行ったんです」 「おかしいわね。何かあったんでしょう。私の鼻には、何かがかすかに匂ってくる……」 「ないんですよ、なんにも──」と、民夫は、明るい戸外の方へ目をそらせた。 「あるって、貴方の顔にかいてあるんだけどな……。気持がわるくないことだったら、教えてくれない。……何しろ、昨日一日は、みんな熱に浮かされているみたいだったし、私、誰が、どんな風だったのか、正確に知っておきたいのよ……」 「……くみ子さんがね、往来のくらがりで、僕から借りてるものを返したんです」 「返すって、何をどんな風に返したの?」 「──僕に、両手を後に組んで、目をつぶれと云ったから、そうしていると、僕の首にぶら下って、両方の頬《ほつ》ぺたにキスしたんです……」 「ま、ま、呆《あき》れた。私の生徒にはそういうことを許しません。……貴方、いったい、くみ子さんに何を貸したの?」 「……おねえちゃんが、兄貴の頬ぺたをぶん殴ったでしょう。当り前ですよ。鼻がひん曲るほど殴ってやってもよかったんですよ。……そしたら、傍でそれを見ていたくみ子さんが『男はけだものみたいだ』とかなんとかって、いきなり僕の頬ぺたを、右も左も殴ったんです。おねえちゃんのやったことが、アッという間に伝染したんだと思うな。……僕はなんとも思わなかったけど、くみ子さんは、それが僕からの借りだという風に思いこんでいたんです……」 「そう。そういうことがあったの……。民夫さんにすまなかったわね。私のせいなんですもの……」と、たか子は鏡から顔をはなして、柔かい微笑を浮べながら、民夫の顔をじいと眺めた。  民夫は眩《まぶ》しそうに目をふせて、 「いや、倉本さんでなく、兄貴のせいですよ。あんな野蛮な……」 「そう。貴方の兄さんは、女の立場から云えば、死刑に処してもいいぐらいの恥知らずな極悪人ですわ。……貴方は目の前でそれを見ていたんでしたわね。それでね、民夫さん。貴方は、あんなことを見てしまってから、貴方の兄さんに対してどう感じますか。絶交しようと思いますか。それとも、あんなことがあっても、兄さんだから好きですか?」  民夫は、無邪気でいる所へ、いきなり短刀でもつきつけられたようにギクリとした。そして、思わず、窓際から畳の上へずり落ちてしまった。 「そ、それあ、兄貴のやったことは、許すべからざることで……僕は、弟として申しわけないと思って……兄貴にあとでゆっくり忠告してやろうと思って……」  鏡台から自分の方へ向き直っている、たか子の視線を避けるようにして、民夫は、つかえつかえ、意味のないことを口走った。 「私、そんなことをお尋ねしてるんじゃないの。……昨夜のようなことがあった今朝も、貴方は信次さんを好きかどうかってきいてるの。御返事は簡単なはずよ……」 「僕は……兄貴が……好きです。すみません」と、民夫は頭を垂れた。 「暴力で女を従わせるような男をね。……もしかすると、民夫さんも、兄さんのやったことに共鳴してるんじゃないの……」と、たか子は皮肉な微笑を投げかけた。 「いえ………僕は……すまないと思って……でも、兄貴を、どういうわけか、憎みきれないんです。……ほんとに、すみません……」 「いいのよ、心配しなくても……じつは私も貴方と同じ気持なの。ホホホ……」と、たか子はヒステリックに笑った。 「同じって……?」 「あの人を憎みきれないの。……女として最大の侮辱を受けながら、どうしても、あの人を軽蔑《けいべつ》したり憎んだりすることが出来ないの。私は、そういう自分が、不潔で不甲斐《ふがい》なくて、イヤでイヤでたまらないんです。でも、どうしようもないの。……それで、あんまり自信がなくなったものだから、あの場に居合せたほかの人たちは、どう感じているのだろうと思って、貴方にきいてみたの。そうしたら、貴方も私と同じ気持なので、いくらか自己嫌悪の気持がうすれていくようで、ホッとしたわ……」 「……くみ子さんは、昨夜のうちから、倉本さんは兄貴を許したんだと云ってましたよ……」 「くみ子さんが……。何を証拠にそんなことを云ったんですか?」 「キャバレーを引き上げる時、貴女がシャンとした口調で、くみ子さんと僕に、宿題をやっておけ、家まで送り届けろと、それぞれ用事を云いつけたでしょう。……それでくみ子さんは、先生は兄さんを許したんだと感じたって云ってました……」 「そう。くみ子さんがそう云ったの? ……どっちが先生だか分らなくなっちゃったのね、ホホホ……」と、たか子はまたにがにがしげに笑った。  いずれにしても、その場に居合せた誰もが、信次の行為を、本質的な悪だとは感じていないことがハッキリした。被害者のたか子自身もそう思っていたし加害者の信次は、昨夜の様子では、自信満々といった風の勢いだったし、すると、あれはいったい何事なのであろう……。  トミ子が顔を出して、食事だからと民夫を連れて帰った。そのあと、たか子は、ドアに鍵《かぎ》をさし、鏡の前に坐り直して、改めて自分自身を点検した。なにか、いままでの自分とちがったものが感じられる。うす青いような目の奥から、荒々しく野性的な気配のものが、外をチラチラとうかがっているような気がするのだ。  自分の中に、そういう生ま生ましく欲情的なものがひそんでいることを、たか子は、今日の日まで気がつかなかった。ああ、目の奥の青い深い世界から、じいとこちらをうかがっているあやしげな生き物の気配──。それこそ、男に抱かれ、男の子供を生もうとする本能にしばられている、むき出しな『女』の顔ではないのか……。  たか子は、忙しく目ばたきをして、その野性的なもののすがたを、目の中から消そうとした。が、ちょっとは消えるが、その、ふてぶてしく、恥知らずで、血をかき立てるような生き物の顔は、またすぐ、鏡の中から、じいとたか子の方をのぞいているのであった。──たか子は、鏡にカバーを下して、朝の食卓に坐った。そして、そのころから、たか子の頭の中には、雄吉と信次の顔が二つ並んで現われ、彼女に、絶望的な決意をうながすようになっていった……。  二週間ほど経った。その間、たか子は、きめられた日に田代家に通勤して、くみ子の勉強に関係した以外のことは、一言も話し合わなかった。信次とは、ときどき顔を合せたが、二人とも他人のように振舞って、お辞儀一つしなかった。そして、どちらかと云えば、信次の方が被害者でもあるかのように、ムッとした不機嫌な表情をしていた。  ある日、課業が終えて、帰ろうとして門を出たたか子は、ちかくの往来で信次に会った。 「あっ、信次さん」と、たか子は、あれからはじめて信次に声をかけた。 「むう」と、信次はあいまいな返事をして、試すようにたか子の顔を見下した。 「私、貴方《あなた》にお願いしたいことがあるんですけど……」 「なんですか?」 「雄吉さんと貴方と私と、三人で会う機会をつくってもらいたいんです……」 「兄貴と──? 僕はあまり気がすすまないな」 「でも、どうしても、それが必要なことがあるんです……」 「兄貴に用事だったら、下宿先きへ訪ねていったらどうです。研究が忙しいから、まだ当分、家へは帰らないと云ってましたよ……」 「いいえ。貴方と三人でなければ、意味がないんです」 「貴女《あなた》には、そうかも知れないが、僕は、貴女の前に、兄貴と二人で並びたくないんだがな……」 「貴方にはそうする義務があると思いますわ」と、たか子は、ムチをふるような調子で云った。 「義務か──。じゃあ、そうしてもいいや。ちょっと待ってもらいますよ。病院に電話をかけて、兄貴の都合をきいてみますから……」  信次は駈《か》け出して、家の中に入って行った。と、間もなく引返して来て、 「明後日の午後二時に、病院の門の前で、僕たちを待っているそうです」 「では、その時間に、病院の前でお会いしますわ」 「あっもしもし」と、信次は、歩き出したたか子を、あわてて後から呼びとめた。 「なんですか──?」と、たか子は立ちどまってふり向いた。  信次は、たか子の前に立ちふさがって、前からの話のつづきのように、力をこめた調子で、 「僕は、絶対に、貴女にあやまりませんからね……」 「────」  たか子は、寂しげな微笑をもらして、一言も云わず、信次から離れて立ち去った……。  約束の二日目の午後二時、たか子は、雄吉が通っている神田の付属病院を訪れた。風のある、晴れた、初夏の日和だった。半袖《はんそで》のピンクのセーターに、グレーのスカートをはき、やはりピンクの丸い帽子をかぶっているたか子は、若さに溢《あふ》れてみえた。  病院の門前には、格子縞《こうしじま》の背広をつけた雄吉が、電柱にもたれるようにして立っていた。 「やあ、いらっしゃい。しばらくぶりでしたね。お元気そうで結構です……」と、雄吉はニコニコして、たか子の身体を眺めまわしながら云った。 「雄吉さんも御元気そうですわ。……ほんとにしばらくでしたわね。ときどきお出で下さるだろうと心待ちしたこともありましたけど……」 「すみません。お訪ねしなけあと思ったんだけど、ここのところ、忙しいことばかりつづいたものですから……人を殺すほか能のない医者になっても困りますし、僕にしては珍らしく、がんばって勉強してるんですよ……」 「結構ですわ。──どうぞ人間を生かすお医者になって下さい」 「だが、ほんとに長い間、お会いしませんでしたね。こうして貴女を目の前にしていると、こんな美しい人と長く会わないでいたことを、後悔したくなりますね……」  そう云われると、たか子は、それが自分の気持でもあるような気がした。如才がなく、滑かで、すばらしい美男子である雄吉の前に立つと、一つの方向に動き出す心が、根本からぐらつき出すような気がするのだ。 「私の方からもそう申し上げていいぐらいですわ。どうしてお出で下さらなかったのかと──。ああ、研究がお忙しいんでしたっけね……」 「そうです。……それあしかし、たいした事でもなかったんだけど、ちょっと神経衰弱気味だったもんですから……」 「貴方でも──?」 「ええ」と、雄吉はあいまいに微笑した。  それはある程度、ほんとのことでもあった。アルプス・ホテルで、ゆり子たちから、父親と共に見事なダブル・プレイを食わされてから、雄吉は、父親ばかりでなく、当分、知ってる人間の顔を見たくない強いノイローゼに犯されていたのである。特に、たか子には会いたくなかった。  父親と自分が、無軌道な性の欲情で絡み合っていたということが分ると、さすがに雄吉は、一握りの塩を胃袋に押しこまれたような苦渋を感じさせられた。そして、その苦味は容易には消え去らず、雄吉の物の考え方に、少しずつ根強く作用していった。  何がどう、物の考え方が変ったかということは、まだハッキリした形は出て来ないが、とりあえず、女などはまっぴらだ、という端的な気持になりきっていたのである。  雄吉は知らないが、もしあの時、玉吉が、シーツやベッド・カバーを結び合せた綱に、果物ナイフを当てていたとすれば、雄吉の一身には、大きな変化が生じていたはずである。下手をすれば、生命に関わることだってあり得ないことではなかったのだ……。  そして、そういう重大な運命が、手を伸ばしかけていたことが、なんとなく感じられるのか、アルプス・ホテルの出来事は、誠実性のうすい雄吉にも、予想外に深刻な影響をもたらしたのであった……。  たか子との関係について云えば、雄吉は、楽しみを濃くするために、たか子をせっかちに攻め落すことを避け、たか子の方から、あせって燃え上ってくるのを、舌なめずりをしながら待ち受けていたのであるが、アルプス・ホテルの経験は、そういう疚《やま》しい期待で疼《うず》いていた雄吉の心を、急速に冷却させてしまった。そして、相手は誰であろうと、女出入りは一さいお断わりだ──そういう、極端に投げやりな気持に、雄吉を駆り立てたのである。  頭の中では、たか子が、素朴で合理的であり、清潔で色っぽくあり、すばらしい娘だと考えている。しかし、その判断はきわめて無力なものであり、雄吉の感覚を燃やすことが出来なかった。ちょうど、胃を病んでる人間が、ビフテキを目の前に置かれたような工合で、判断と感覚がそっぽを向き合っているのであった。  雄吉は、そういうスランプから、いつかは脱却出来るだろうと思っている。その時には、これまでとはちがった真剣な気持で、たか子に当り直そうとも思うのだが、それだって何時《いつ》のことか──。いまはともかく、穴ごもりする狐のように、孤独でありたい願いで一ぱいだったのだ。  そこへ、とつぜん、三人で会合するように申しこまれて、さすがに雄吉は、不安なショックを受けた。たか子と信次の間に何事かあったのだろうと直感した。だが二人が愛情で結ばれたのだとは思わなかった。なぜなら、たか子のような娘は、すこし軽はずみだったという反省がわいても、一度交わした愛情の誓いには、ずうとしばられていくものだし、また、相手の信次は、女関係がだらしない人間だと、信じられているはずだからである。  では、会合の目的は──? なんだっていいのだ。煩わしい人間関係を断ちきって、孤独の虫になり切るチャンスだったら、どんなことでも歓迎しよう。──雄吉は、そういう絶望の感情に沈んでいたのであった。 「ところで……」と、雄吉は、冷い微笑を浮べて、 「今日の会合は貴女が提案されたんだそうですが、何か耳よりなお話でもあるんですか?」 「さあ、耳よりだかどうだか知りませんが、私としては、どうしてもお二人の前で申し上げなければならないことだと思うものですから……」 「なるほど。──僕の直感で、人気のない所がいいだろうと思って、日本橋にある医者仲間の倶楽部の特別室を予約しておきましたからね。ガッシリしたつくりの建物で、室の中で殺人が行われても、隣室にはわからないぐらいですよ……」  雄吉の云い方は、やはり皮肉な調子を帯びていた。 「あらそんな立派な所でなくても、公園か喫茶店のような所でもよかったんですわ」  たか子は青い顔をして、雄吉から目をそらせたが、これからの会見では、下手をすると、雄吉が冗談に云ってるように、殺人だってあり得ないことではないのだと思った。  そこへ、ネクタイなしで、紺の上衣《うわぎ》にフラノのズボンをつけた信次が、急ぎ足でやって来た。顔の色つやが冴えず、不機嫌そうな表情をしていた。しかし、何かくすぶっている精力のようなものが感じられる。 「おそくなったよ。……途中で二度ばかり引返しかけたりしたものだから……」と、信次は顔色どおり、ぶあいそな調子で云った。  雄吉はニヤニヤ笑って、 「なんだって引返そうとしたんだい?」 「うん。三人で会ったって、俺にとって面白くない話が出るだけのことだろうと思ったからだ」 「バカに自信がないんだな。……たか子さんに怒られるようなことでも仕出来《しでか》したのかい」 「いや、しないよ」と、信次は頑《かた》くなに云い放った。 「そんなら弱気になることがないじゃないか。──さあ、行こう……」  雄吉は手をあげて、流しの自動車を呼びとめた。車の中では、たか子がまん中に、雄吉と信次はその左右に坐《すわ》った。一言も口をきかず、三人三様の思いに沈んでいた。  車は間もなく、医師の倶楽部だという、日本橋の川に臨んだ八階建のビルディングについた。雄吉が受付でなにか云うと、すぐボーイが出て来て、三人を四階の特別室というのに案内した。  それは、古めかしいが、頑丈につくられた室で、くすんだ色の壁間には、英国風の風景画がかけられ、調度も、樫《かし》材の本棚やテーブル、椅子など、ロココ趣味のものだった。川に面して、窓が三つばかり開いていたが、壁の面積からすると空間が狭いので、室の中はヒンヤリとうす暗かった。  ボーイがお茶を運んで来て、引き下ってしまうと、三人はテーブルを囲んで、しばらく沈黙を守っていた。街の物音が、開け放した小さな窓から、無遠慮に飛びこんでくるが、厚い壁に囲まれた室内に入ると、反響が消されてしまうので、それほど邪魔にはならなかった。 「さあ、たか子さん。それではお話を伺わせてもらいましょうか。僕は午後三時半から、胸部整形の手術に立ち会うことになっていますので、それに間に合うように引っ返したいんです。だから、貴女のお話も、そうした手術のように、ムダをはぶいて、明快率直であってもらいたいんです。……信次や僕や、貴女自身に気兼ねして、話をあいまいにもつれさせないようにして下さい。『鬼手仏心《きしゆぶつしん》』というのは、外科医の信条とするところなんですが、貴女のお話もその要領で願いたいもんですね……」  雄吉は煙草をくゆらしながら、しらじらしい調子で催促した。  たか子は、青白い緊張した顔で、テーブルの上のハンドバッグに、神経質に爪を立てたりしていたが、小さく頷《うな》ずくと、乾いたような声で、 「それではお話し申し上げますわ。……結論的なことを先きに申しますと、私、雄吉さんを愛していたようにずうと思いつづけ、そういうようにも振舞ってたんですけど、それは私の感傷的な思いちがいで、私がほんとに愛しているのは信次さんだったということが、このごろになって、やっと分ってまいりました。そのことを御二人に申し上げたかったんです……」  誰かゴクッと呼吸《いき》を呑《の》む音が聞え、室の空気が、ジーンと硬直していくように感じられた。  そして、雄吉の顔色は見てる間に蒼《あお》ざめ、反対に、信次の頬にはあかみがさして来た。と、雄吉はふいにヒステリックに笑い出した。 「アッハッハ……。これあハッキリしてるな。ハッキリしすぎてるな。……おい、信次。色男。お前どうして途中から引返してしまわなかったんだい……。さあ、たか子さん。結論はよくわかりましたから、僕のどこがお気に入らなかったのか、もっと委《くわ》しく話して下さい。これほどの立派な男のね──。アッハッハハ……」 「──貴方《あなた》は私にとって立派すぎるのですわ」と、たか子は、ためらわずにスパリと云った。 「私は貴方に対して、観念的な愛情を寄せていたんです。こんなにハンサムな秀才を愛することは、女としてのこの上もない仕合せなことだ──。そういう概念にとりつかれていたと思うんです。ですから、私は、精いっぱい、無理な背のびをして、貴方にふさわしい女であろうと努めていたんです。そして、貴方から愛していると云われた時、私は、自分ほど仕合せな女はいないと思いました。いえ、そう思うように自分を強制していたんですわ。  私は、貴方といっしょの時は、自分が下らない女であることを見ぬかれないようにし、しょっちゅう気を張っておりました。だから、楽しいような気はするんですけど、その半面には、変に固苦しく窮屈な感情がわだかまっておりました。私は、恋愛というものは、そういうものだと思っておりました。窮屈だということも、私が貴方に較べて、人間的にははるかに劣っており、それを埋め合せるためにしょっちゅう背伸びしているからだと考えていたんです。だから、出来るだけしっかりして、貴方と無理がなくつき合えるように成長しよう──ひそかに、そう願っていたものでした。……私が貴方にあたいしない女だということは、いまでも、やはりそう思っておりますわ……」  そういう告白が、雄吉の胸に、じっとしておれない複雑で悪質な痛みをもたらした。何かしゃべって、少しでも紛らわすほかはない……。 「おい、信次。聞いたかい。たか子さんほどの人でも、男を見る目がまるで狂ってしまうことがあるってことを……。もっとも、この人は、最後までは狂っていなかったようだがね……。さあ、それからどんなことになりましたかね……」  はじめは、固苦しく変則な調子だったたか子の言葉は、しだいに落ちついたものとなって、聴き手の胸に沁《し》みこんでいった。彼女の悩み苦しんだあとが、すなおに感じられたからであろう……。 「……私が、雄吉さんに対する私の感情が、恋愛とはちがうのではないかと反省し出すようになったのは、信次さんとの交際が深まっていってからでした。なぜって、信次さんといっしょだと、私は背伸びしてるような窮屈さが少しも感じられず、楽しい気分に浸る時も、それから信次さんが何かデタラメなことをして腹が立つ時も、遠慮がなく、純粋で、硬《こ》わばった所が一つもなかったからですわ。信次さんだったら、ありのままの私をさらけ出しても、ちっともひけ目を感じることがなかったからですの……。  そればかりでなく……私、正直に申しますと、信次さんといっしょにいると、酔うような動物的な幸福感に浸っていることが、しばしばありました。その気持は、雄吉さんといっしょの時には、経験したことのないものでした。私は、雄吉さんの前では、無理に自分が幸福なんだと云いきかせて、自分を燃え上がらせようとするんですけど、かえって私の血は冷たくさめていくような気がするんです。  それは、私には、雄吉さんを尊敬する気持があるだけで、対等の立場で愛情を感じるのではないからだということが、このごろになってやっと分って来たような気がするんです。つまり、私、雄吉さんに値いしない女だったのですわ……」 「ハハハ……」と、雄吉は、また、神経質に笑い出した。 「おい、信次。男も女も、時と場合で、どんなにバカになり得るものか、よく見ておいた方がいいぞ。……俺という人間は、この人の頭の中で、すっかり偶像化されてしまっているのだからな。しかし、その事で、この人は、俺の正体を見ぬいたと同じように、危機を脱しているのだから、この人の愚かさも、利口なのと同じように、一つの目的を達しているわけだ。そういう点では、世の中ってバカにならないもんだと思うな。ともかく、俺は崇《あが》め奉られて、この人からスッポカされたんだからな。……くそ真面目な人間には敵《かな》わないっていうわけらしい。……さあ、この人のお話をしまいまで、承わろうかな……」  信次は、テーブルに片肱《かたひじ》をついて、化石したように黙りこくっていた。たか子の言葉にも雄吉の言葉にも、これという反応は示さなかったが、顔の色はますます赤くなり、目の光はますます強くなっていくようだった。  たか子は、頭の中に渦巻いている考えを整理するかのように、白い指先きで、顔やこめかみのあたりをもみながら、 「……私が信次さんを愛していることがハッキリしたのは、ついこないだ、あるダンスホールでいっしょに踊っていた時、多勢の人がみてる前で、信次さんが暴力で私を抱えこんで、私の唇を奪った時からでした。そんな侮辱を加えられたのに、私はどうしても、信次さんを憎む気になれず、それどころか、少しボンヤリしていると、信次さんにそんな目にあわされたことで、うっとりとした気持に浸っていたりするのです。私はそういう自分を情なく思いましたけど、しかし、自分の気持は偽ることが出来ませんでした。  それは、私が信次さんを愛しているからだ、ということのほかは、説明が出来ない気持ですわ……。  もちろん、私は信次さんが女関係のことでいろんなまちがいを起し、それを雄吉さんにあと始末してもらったことも、よく存じております。そんなことが分っていても、私は、どうしても信次さんをうとんずる気になれず、私さえ信次さんの心をいたわって上げてれば、信次さんは、そんなふしだらをせずにすんだろうに──、そういう考え方しか出来ないんです。  そんな意味では、口幅ったいようですけど、信次さんにとっても、私という人間は、ぜひ必要なんじゃないだろうかと思っております……。私は、信次さんと二人きりでいる時、信次さんの身体のずうと奥底から、私を招き、私を呼んでいる、痛ましいような、哀しいような声が聞えてくるような気がすることがあります。それは、もしかすると、私の身体の中で信次さんを呼んでる声があって、それが木魂《こだま》してるにすぎないかも知れませんけど……。  私にとって、信次さんは、迷っている一匹の小羊のように思えるんです。九十九匹の恵まれた小羊はうっちゃっておいても、私は、迷っている一匹の小羊の傍に行かなければならないという気がするんです。……こういうことも、私が思い上って、一人よがりなことを云ってるにすぎないのかも知れませんけど……。  ずいぶんお喋《しやべ》りしましたけど、ほんとに云いたいことは二つだけです。私は、雄吉さんを愛してるように思い、そのしるしに接吻したりなどいたしましたけど、それは私が愛情ということに未熟なために、自分の感情を誤解していたのだということ。もう一つは、私がほんとうに愛していたのは信次さんだったということです。と云っても、私は信次さんに愛情の押し売りをしてるわけではございません。私がついこないだまで、ともかく雄吉さんとそんな関係だったということをお話した以上、そんなあやふやな女はイヤだ、と信次さんがお考えになるようでしたら、それもやむを得ないことだと存じます。  私としてはいまはただ、自分の気持をハッキリさせておきたいという考えで、一ぱいなのですわ……」  そう云うと、たか子はハンケチをとり出して、額や首筋に滲《にじ》む汗を拭《ふ》いた。  重くるしい沈黙があった。風の紛れで、自動車や電車の音に混じって、チンドン屋のおどけたはやしが聞えて来た。  雄吉が、また、とってつけたように、そらぞらしく笑い出した。 「ハハハ……。長いお話、よく分りましたよ。まったく御念の入ったことだったな。……貴女《あなた》が愛しているのは、信次であって、僕ではない。それだけのことを云うのに、貴女はなんとお喋りだったことだろう。いや、まったく御親切なやり方でしたよ。……おい、信次、うまいとこやったな。やっぱりお前は芸者が生んだ子だけに、色事がうまいや、ハハハ……」  すると、信次は「ヒッ!」と、口の中で呼吸の音をさせて立ち上った。赤かった顔が、一瞬の間に青ざめていた。ツカツカと雄吉の傍に近づいて、 (この野郎!)と、つぶやくと、力にまかせて、雄吉の横面を殴りつけた。  雄吉は、椅子もろとも転げて、後の壁に頭を強くぶった。 「信次さん、いけませんわ。もうそんなことやめて下さい。……でないと、私、田代家で働くことも、貴方とお会いすることも、キッパリやめてしまいますから……」と、たか子は、川原の時のようではなく、いきなり信次に抱きついて、押し止めた。  それは、信次が思わず後によろけたほど、強い力だった。  雄吉がのろのろと起き上った。歯ぐきでも破れたのが、唇の端から血が滲み出ていた。そして、たか子も信次も意外だったことは、雄吉がひどく落ちついていたことだった。 「おい、信次。もうよせ。……俺は、一度はお前にひっぱたかれた方がいいかなと思ってたんだ。それで、お前が必ず俺を殴るにちがいないようなことを云ってみたんだ。……しかし、もう沢山だ。お前の拳固《げんこ》は猛烈だし、俺の顔がひん曲って、女の子にもてなくなったりしては困るからな……。  たか子さん。おめでとう。……貴女はいい男をつかみましたよ。誠実で、才能があり、実行力にも富んでおり、信次は……、貴女にピッタリの人間ですよ。ただ、いままでは、この男は、貴女も見ぬいてたように、多勢のいる方へは動かないで、一人で気紛れな道を歩きたがっていたんです。貴女の云う、迷える小羊だったんです。だから、此奴《こいつ》には、どうしても貴女が必要なんです。  貴女が、僕に深い傷を負わされないうちに、貴女のあやまりに気づいたことは、たいへんいいことでしたよ。貴女にとっても、僕にとっても。……もっとも、貴女の気づき方は、僕を尊敬しているのであって、愛してるのではないというのだから、これあ大笑いだけど、しかしその考え方が、僕を尊敬するのに役立ったんだから、同じことですよ。  おい、信次。そのころのたか子さんの目には、女らしいセンチメンタルな膜がかかっていたんだ。それで、俺を愛してると思ったんだ。そうだな。露骨に云うけど、俺たちの関係というのは、二度か三度、唇を触れ合せた、というだけのものだよ。お前は、たか子さんのその程度の過失にネチネチこだわるほど、くだらない男ではない、と俺は信じてるんだ。たか子さんがお前に対して抱いている愛情は、新鮮で、純粋で、少しも濁りのないものなんだ。  おい、信次! お前、それが分らないようだと、大バカだぞ……」と、雄吉は、そこでしばらく呼吸をやすめた。  口を少しあけて、深い感動にうたれながら、雄吉の顔を見まもっていた信次は、思わずコクリとうなずいた。たか子は、テーブルによりかかり、うつむいて、指先きで目頭を押えていた。  雄吉は、ハンケチで、口元の血を押えながら、ゆっくりそこらを歩きまわり、 「僕が急にこんなことを云い出したので、信次もたか子さんも面喰《めんくら》ってるようだけど、しかし、負け惜しみや付焼刃《つけやきば》だけで、こんな事を云ってるわけじゃあないんだ。……僕はこの所、ずうと人間ぎらいになっていたんだ。強いノイローゼだな。それだって、僕が自分で種をまいたようなものなんだけど……。  これは、信次だけに云うんだけど、ゆり子だね。あれと、パパに何か不快な感情を抱いているらしいバーのマダムがあって、その二人にはかられて、パパと僕がコミで、相当ひどい目にあわされたんだ……。  それ以来、僕のノイローゼがはじまったんだ。僕が下宿生活をはじめたのも、じつはそれが動機なんだ。パパはもちろん、家族の者も、たか子さんも、誰の顔も見たくなかったんだ。もっとつきつめて云えば、他人と接触することで、僕というものを意識させられることが、イヤだったんだ。……それが、どんな事であったかは、話すわけにはいかないけどね。ハハハ……」と、雄吉はうつろに笑って、腕時計をのぞきこみ、 「さあ、僕は三時半から手術に立ち会わねばならないので、間もなく失敬する。……最後に、たか子さんに大切なアドバイスがあるんだけど……。それは、信次って奴は、とてもいい人間なんだけど、たった一つだけ、人間的なマイナスの面があるんです。それは、陽気な見せかけの底に……、そうだな、便利な言葉で云えば、一種の劣等感のようなものを抱いており、そこを押えつけられると、他人からどんな無理を押しつけられても、それを自分で引っかぶってしまうんです。自分の身体に刃物をつきさし、自分の人格に泥をぬるようなことでも、痴呆《ちほう》のように、無抵抗にそれを引き受けてしまうんです。  狡猾《こうかつ》な僕は、子供のころから、信次のその弱点を見ぬいていて、彼にいろんな過失の責任を押しつけて来たものです。例えば、近頃のことでは……。そうだな、信次がファッション・モデルの女の子をもてあそんで、あとで金をゆすられて僕がおさめてやった──貴女にそう知られていることなども、じつは話はあべこべで、僕の失敗を、パパやママの手前、信次にかぶってもらったんです。そんな場合、どんな風に話をもちかけていけば、信次が抵抗が出来なくなるかということを、僕はよく心得ているんです……」  すると、信次が顔をあげて、弱々しく抗議した。 「いや。あれは……ほんとに……僕がやったんだ……」 「いいよ、信次。ほかのことは暴きたてないから……。信次にどうして、そういう劣等感が生じたかというと、それあ、結局、僕達の責任かも知れないんです……」 「もういいよ、兄貴! やめてくれ! ……」と、信次はテーブルをたたいてわめいた。 「オーケー。……あとのことは、たか子さんにだけ云うんだ。たか子さん、貴女は貴女の愛情で、信次のそうした劣等感を温かく包んでやらなければならないんだ。信次の傷口を嘗《な》めてやって、内も外も、信次がすっかり健康な人間になるように、貴女の愛情を浸透させてやらなければならないと思うんです。  貴女は信次の絵を見て気がつきませんでしたか。溢《あふ》れるような才能の閃《ひら》めきがあるくせに、まとめる力が弱いということを──。それは、信次の内部に、ある種の劣等感に蝕《むし》ばまれている所があったからです……」 「兄貴! 俺を解剖するのはもうやめてくれよ! 俺はそうされると、何もかもいらなくなってしまうんだ……。俺も家出したくなってしまう……」と、信次は、両手で頭を掻《か》きむしって、ドンと床を踏んだ。 「僕はもう行くよ。手術がはじまるから……。こんな事のあったあとで、人間の身体が切りさかれるのを見ることは、気分が落ちついて、たいへんいいことなんだ。……さよなら……」  雄吉は、まだ止らない口元の血を押えながら、ゆっくり、室から出て行った。  たか子は、椅子の背に手を当てて立ったまま、雄吉が消え去ったドアのあたりを、うつろな目つきで見送っていた。  信次は、テーブルに片肱を立てて、指先きで、額のところをしきりに掻きむしっている。 「さあ、信次さん。ここには、私たち二人ぎりになってしまいましたわ。……この室に入ってから、貴方《あなた》のことでも、私のことでも、おたがいにずいぶん知識をましたと思います。その上で私、改めて申し上げるんですけど、私、やはり貴方を愛しておりますわ。貴方に、背中が折れるほど、強く強く抱いてもらいたいんです。貴方は──?」  たか子は、信次のそばに近づいて、ひっそりと呼びかけた。細い白い指先きで、相手の胸のとびらをコトコトとたたいているような調子だった。  信次は、握拳《にぎりこぶし》で目をこすって、 「僕はとっても嬉《うれ》しいです。しかし……兄貴の奴が、僕という人間を、貴女の目の前で、ナマスのように切り刻んでみせたので、僕はすっかりしょげてしまっているんです。いつの間に見ぬいてるのか、僕の絵のことでも、一ばん痛いことを云やがった。……でも、結局、兄貴は、いい奴だったんだなあ。それが分って、僕は、とても感激してるんです。……二十年憎み合っていても、たった一日許し合えば、恨みなんてあっけなく消えてしまうんですね……」 「だめですわ、信次さん。兄さんのことに感激するのはあとにして、私のことを何とか仰有《おつしや》って下さい……」 「それは……貴女がちゃんともう云ってしまったから……」 「私がなんと云いましたか──?」 「僕は迷える小羊であり、貴女はどうしても僕に必要な人だって……」 「私だって迷える小羊だったんですわ。貴方がいらしったおかげで、正しい道をやっと見出すことが出来たんです……」 「僕はね、兄貴が、外科医のように、手際よくえぐってみせたように、心の底に、弱く卑しいものを抱えこんでる人間なんです。……ああ、僕は、ずうっと孤独だったなあ……」  しまいの言葉をひとり言のようにつぶやいて、信次は、胸をしぼるような嘆息をもらした。  たか子は、自分の胸に、信次の頭を抱えこむようにして、 「もうでも、貴方は孤独な人ではありませんわ。もし、貴方の心の底に、そういう傷口があいてるんでしたら、雄吉さんが云ったように、私にその手当てをさせてもらいますから……」  信次は、分ったというしるしに、頭で、たか子の胸を軽く押した。そんな事もあって、涙で汚れた信次の顔のほてりが、うすいブラウスを通して、たか子の柔かく盛り上った胸の皮膚に、しだいに生ま温かくつたわっていった。  たか子は、しびれるような烈しい歓《よろこ》びを覚えて、ゴツゴツした信次の頭を、腕いっぱいに抱きしめた。  鼻の先きに、男の硬《こ》わい髪の毛があって、強い生命の匂いをはなっていた……。  ──ちょうどそのころ、神宮外苑の裏側から、国鉄の路線を越えて、K病院のある街の一画に通ずる小さな橋のあたりを、紐《ひも》でしばった教科書をぶら下げた民夫が、人待顔に往《い》ったり来たりしていた。白いワイシャツの袖《そで》をキチンとたくし上げ、折目のついた紺のズボンを穿《は》いて、どう見ても学生らしい地味な恰好《かつこう》をしていた。  空には、小波《さざなみ》のような白い雲がいちめんに漂っており、そのために陽はかげっていたが、しかし、雲が厚くはないので、周囲は明るかった。  時おり、深い切り通しの底を、長く連った電車が、凄《すさま》じい地響きを立てて通りすぎていった。  橋の上に立って、もう十幾へん目かに伸び上って見ると、病院の裏口の白い道路の上に、ピンクのカーデガンをつけたくみ子の姿が、小さく現われ出た。そして、橋の上の民夫に向って、物事が成功した場合に示す、両の掌を高く上げて組み合せるゼスチュアをしてみせた。 (あっ、よかったな)と、民夫は思わずニッコリして、意気ごんで、くみ子の方へ駈《か》け出して行った。 「ずいぶん待ったでしょう。わるかったわね……。でも、検査がていねいで、なかなかすまないのよ」  くみ子はポッと上気した顔をして、近よって来た民夫の両肩に手をかけながら云った。 「でも、よかったじゃないか。……ねえ、どうだったの?」 「びっこだということがほとんど分らないぐらいになおるんですって……。ただし、そうなっても、烈しい運動は出来ないからって──。塩沢博士も、親切に、ずうと傍についていて下さったわ。そして、私の腰の所に、レントゲンがあてられている間に『君、たしか、この前会った時は、肉親以外の人で、自分の足がまっすぐであることを喜んでくれる人が現われれば、身体を再検査してもらって、手術を受けるかも知れないと云ってたけど、そういう人が出来たんだと見えるね?』と、私をからかうの。  だから私、云い返してやったわ。 『ええ、そういう気の毒な男の子が、病院の裏口で、私が帰るのを、首を長くして待っているんです』って……」 「そのとおりだよ」と、民夫は、くみ子の背中に腕をまわして歩きながら、 「僕はまたね、ここらをウロウロ歩きまわってるうちに、自分が、外国映画で見た、細君のお産を心配して、病院の廊下を往ったり来たりしている男みたいだナ、と思ったりして苦笑していたんだ……」 「怪しげなこと云わないでよ。これから、私に気をつけた方がいいわ。男の頬《ほつ》ぺたを殴る味を一度経験してるんですからね。……でも、すばらしいことね。十年ぶりかで、まっすぐな足で歩けるかも知れないってことは……」と、くみ子は、おしまいの方を、涙ぐんでるような声で云った。  民夫は、そういうくみ子にいたわるような横目をくれて、橋をわたり、外苑の緑の道に入っていった。  雲の間からうす陽が洩《も》れて、舗道の上には、光と影のまだらな模様が浮き上っていた。 本書は昭和四十年七月に角川書店より刊行された文庫を、改版したものです。作品中、現時点から見れば差別的で不適切と思われる語彙・表記がありますが、作品が書かれた時代背景や作品の持つ文学性、また、著者が故人であることを考慮し、原文のままといたしました。 角川文庫『陽のあたる坂道』昭和40年7月20日初版発行              平成18年2月25日改版初版発行