望郷と海 石原吉郎 -------------------------------------------------------------------------------- 筑摩eブックス 〈お断り〉 本作品を電子化するにあたり一部の漢字および記号類が簡略化されて表現されている場合があります。 〈ご注意〉 本作品の利用、閲覧は購入者個人、あるいは家庭内その他これに準ずる範囲内に限って認められています。 また本作品の全部または一部を無断で複製(コピー)、転載、配信、送信(ホームページなどへの掲載を含む)を行うこと、ならびに改竄、改変を加えることは著作権法その他の関連法、および国際条約で禁止されています。 これらに違反すると犯罪行為として処罰の対象になります。 目次 ㈵ 確認されない死のなかで    ある〈共生〉の経験から ペシミストの勇気について オギーダ 沈黙と失語 強制された日常から 終りの未知 望郷と海 弱者の正義 ㈼ 沈黙するための言葉 不思議な場面で立ちどまること 『邂逅』について 棒をのんだ話 肉親へあてた手紙 ㈽ 一九五六年から一九五八年までのノートから 一九五九年から一九六二年までのノートから 一九六三年以後のノートから 初稿掲載紙誌一覧 望郷と海 ㈵ 確認されない死のなかで   ——強制収容所における一人の死 百人の死は悲劇だが  百万人の死は統計だ。 アイヒマン  ジェノサイド(大量殺戮)という言葉は、私にはついに理解できない言葉である。ただ、この言葉のおそろしさだけは実感できる。ジェノサイドのおそろしさは、一時に大量の人間が殺戮されることにあるのではない。そのなかに、ひとりひとりの死がないということが、私にはおそろしいのだ。人間が被害においてついに自立できず、ただ集団であるにすぎないときは、その死においても自立することなく、集団のままであるだろう。死においてただ数であるとき、それは絶望そのものである。人は死において、ひとりひとりその名を呼ばれなければならないものなのだ。  「みじかくも美しく燃え」という映画を私は見なかった。だが、そのラストシーンについて嵯峨信之氏が語るのを聞いたとき、不思議な感動をおぼえた。映画は、心中を決意した男女が、死場所を求めて急ぐ場面で終るが、最後に路傍で出会った見知らぬ男に、男が名前をたずね、そして自分の名を告げて去る。  私がこの話を聞いたとき考えたのは、死にさいして、最後にいかんともしがたく人間に残されるのは、彼がその死の瞬間まで存在したことを、誰かに確認させたいという希求であり、同時にそれは、彼が結局は彼として死んだということを確認させたいという衝動ではないかということであった。そしてその確認の手段として、最後に彼に残されたものは、彼の名前だけだという事実は、背すじが寒くなるような承認である。にもかかわらず、それが、彼に残されたただ一つの証しであると知ったとき、人は祈るような思いで、おのれの名におのれの存在のすべてを賭けるだろう。  いわば一個の符号にすぎない一人の名前が、一人の人間にとってそれほど決定的な意味を持つのはなぜか。それは、まさしくそれが、一個のまぎれがたい符号だからであり、それが単なる番号におけるような連続性を、はっきりと拒んでいるからにほかならない。ここでは、疎外ということはむしろ救いであり、峻別されることは祝福である。  私がこう考えるのは、敗戦後シベリヤの強制収容所で、ほぼこれとおなじ実感をもったからである。  私は昭和二十四年から二十五年にかけて、バイカル湖西方バム鉄道沿線の密林地帯で、二十五年囚としての刑に服した。この時期は私たちにとって、入ソ後二回目の〈淘汰〉の時期を意味した。最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、長途の輸送による疲労、環境の激変による打撃、適応前の労働による消耗、食糧の不足、発疹チフスの流行などによって、八年の抑留期間中、もっとも多くの日本人がこの期間に死亡した。またこの期間は、何人かの捕虜と抑留者が、自殺によってみずからの死を例外的にえらびとった唯一の期間でもある。  この淘汰の期間を経たのち、死は私たちのあいだで、あきらかな例外となった。私たちの肉体は急速に環境に適応しはじめ、生きのこる機会には敏速に反応する、いわゆる〈収容所型〉の体質へ変質して行った。  このような変質は、いうまでもなく、多くの人間的に貴重なものを代償とすることによって行なわれる。しかしこの、喪失するものと獲得するものとの間には、ある種の本能、人間の名に値する瀬戸ぎわで踏みとどまろうとする本能によって、かろうじてささえられるきわどいバランスがあって、人がこのバランスをついにささえきれなくなるとき、彼は人間として急速に崩壊する。淘汰の時期の衰弱のはばが、環境の変動のはばよりもはるかに大きかったのは、このためであって、栄養失調の進行は、予想していたよりも(私たちは一回目の淘汰の経験から、当然それを予想できた)はるかに急速であった。  この時期に私は、ふたたび多数の死者を目撃しなければならなかった。第一の淘汰を切りぬけたものが、第二の淘汰に耐えなかったという事実の痛みは大きい。しかし、それが痛みとなって記憶にのぼるのは、それから数年後である。死者にかかわっているどのような余裕も、そのときの私にはなかった。飢餓浮腫の徴候は、私自身にもすでにはじまっており、粗暴な囚人管理のもとでは、誰が生きのこるかということは、ただ数のうえでの問題であって、一人の個人の関心の枠をすでにこえていたのである。  栄養が失調して行く過程は、フランクルが指摘するとおり、栄養の絶対的な欠乏のもとで、文字どおり生命が自己の蛋白質を、さいげんもなく食いつぶして行く過程である。それが食いつくされたとき、彼は生きることをやめる。それは、単純に生きることをやめるのであって、死ぬというようなものではない。ある朝、私の傍で食事をしていた男が、ふいに食器を手放して居眠りをはじめた。食事は、強制収容所においては、苦痛に近いまでの幸福感にあふれた時間である。いかなる力も、そのときの囚人の手から食器をひきはなすことはできない。したがって、食事をはじめた男が、食器を手放して眠り出すということは、私には到底考えられないことであったので、驚いてゆさぶってみると彼はすでに死んでいた。そのときの手ごたえのなさは、すでに死に対する人間的な反応をうしなっているはずの私にとって、思いがけない衝撃であった。すでに中身が流れ去って、皮だけになった林檎をつかんだような触感は、その後ながく私の記憶にのこった。はかないというようなものではなかった。  「これはもう、一人の人間の死ではない。」私は、直感的にそう思った。  私にとってそのとき、確かなものは何ひとつ未来になかった。ただ、いつかは自分も死ぬということだけが、のがれがたく確実であり、そのことを時おり意地わるく私自身に納得させることで、「すくなくとも、今は生きている」という事実をかろうじて確かめ、安堵していたにすぎない。だが「死ぬ」という言葉は囚人のあいだでは、すでに禁句に近いものになっていた。自殺ということは、この時期には、ほとんど私たちの念頭にのぼることはなかった。にもかかわらず「生きる」というたしかな意志表示は、もはや誰の顔にも見られなかった。誰もが、「しばらくは死なないだろう」という裏がえしの納得で、かろうじて生きようとする意志を表明していたにすぎない。五年生きのびることさえおぼつかない環境で、二十年囚が二十五年囚に示すあらわな優越の表情は、このことをよくものがたっている。  「これはもう、一人の人間の死ではない」と私が考えたとき、私にとっては、いつかは私が死ぬということだけがかろうじて確実なことであり、そのような認識によってしか、自分が生きていることの実感をとりもどすことができない状態にあったが、私の目の前で起った不確かな出来事は、私自身のこのひそかな反証を苦もなくおしつぶしてしまった。  しかし、その衝撃にひきつづいてやって来た反省は、さらに悪いものであった。それは、自分自身の死の確かさによってしか確かめえないほどの、生の実感というものが、一体私にあっただろうかという疑問である。こういう動揺がはじまるときが、その人間にとって実質的な死のはじまりであることに、のちになって私は気づいた。この問いが、避けることのできないものであるならば、生への反省がはじまるやいなや、私たちの死は、実質的にはじまっているのかも知れないのだ。  人間はある時刻を境に、生と死の間《あわい》を断ちおとされるのではなく、不断に生と死の領域のあいまいな入れかわりのなかにいる、というそのときの認識には、およそ一片の救いもなかったが、承認させられたという事実だけは、どうしようもないものとして私のなかに残った。  私がそのときゆさぶったものは、もはや死体であることをすらやめたものであり、彼にも一個の姓名があり、その姓名において営なまれた過去があったということなど到底信じがたいような、不可解な物質であったが、それにもかかわらず、それは、他者とはついにまぎれがたい一個の死体として確認されなければならず、埋葬にさいしては明確にその姓名を呼ばれなければならなかったものである。  その男が死んでしばらくたったある寒い朝、一人のルーマニア人が森林伐採の現場で、切りたおされた樹の下じきになって死んだ。氷点下四十度に近い極寒の日であったため、腐敗のおそれのない彼の死体は、夕方まで現場に放置され、作業終了後、橇で収容所へはこばれたのち、所内の営倉へ投げこまれた。  その夜、バラックの施錠に近い時刻に、夜間の使役を終えた私は、なにげなく営倉に立寄ってみた。営倉は半地下牢であったため、ほぼ上から見おろす位置でなかの死体を見ることができた。死体は逃亡のおそれがないとみられたわけであろう、営倉へ半分押しこんであるだけで、開かれた戸口から外側へはみ出た下半身は、あきらかに俯伏せていた。私の目がその下半身をたどって、雪明りのなかで上半身にとどいたとき、思わず私は息をのんだ。上半身が仰向いていたからである。死体の胴がねじ切れていたことに気づくには、それほどの時間を必要としなかった。私はまっしぐらにバラックへ逃げかえった。その時の私のいつわりのない気持は、一刻でもはやく死体から遠ざかりたいということであった。「あれがほんとうの死体だ」という悲鳴のようなものが、バラックの戸口まで、私の背なかにぴったりついて来た。  氷点下四十度をすでにくだった気温にもかかわらず、むっと寝息のこもったバラックのなかで、最初に私が考えたことは「人間は決してあのように死んではならない」ということであった。  一人の日本人と一人のルーマニア人、この二つの死体の記憶をもって、私は、入ソ後の最悪の一年を生きのびた。私が生きのびたのは、おそらく偶然によってであったろう。生きるべくして生きのびたと、私は思わない。だが、偶然であればこそ、一個の死体が確認されなければならず、一人の死者の名が記憶されなければならないのである。  その後、私はハバロフスクへ移され、生命力の緩慢な恢復の時期に、かつて見たルーマニア人の死体を、悪夢のように憶い出すことがあった。人間は決してあのように死んではならないという実感は、容易に、人間は死んではならないのだという断定へ拡張された。それは今もなお変らない。人間は死んではならない。死は、人間の側からは、あくまでも理不尽なものであり、ありうべからざるものであり、絶対に起ってはならないものである。そういう認識は、死を一般の承認の場から、単独な一個の死体、一人の具体的な死者の名へ一挙に引きもどすときに、はじめて成立するのであり、そのような認識が成立しない場所では、死についての、同時に生についてのどのような発言も成立しない。死がありうべからざる、理不尽なことであればこそ、どのような大量の殺戮のなかからでも、一人の例外的な死者を掘りおこさなければならないのである。大量殺戮を量の恐怖としてのみ理解するなら、問題のもっとも切実な視点は即座に脱落するだろう。  生き残ったという複雑なよろこびには、どうしようもないうしろめたさが最後までつきまとう。さまざまな場所で私が出会わざるをえなかったどの他人の死も、手きびしく私を拒んだ。私は誰の死にも、結局は参加できずにとり残された。私はどんな他人の死からも、結局はしめ出された。そしてこのような拒絶は、最後に自分が他人を、全世界をしめ出すときまで、さいげんもなくくり返されるにちがいない。生きている限り、生き残ったという実感はどのようにしてもつきまとう。単独な生者として、単独な死に立ち会わざるをえなかったことが、その理由である。  死は、死の側からだけの一方的な死であって、私たちの側——私たちが私たちであるかぎり、私たちは常に生の側にいる——からは、なんの意味もそれにつけ加えることはできない。死はどのような意味もつけ加えられることなしに、それ自身重大であり、しかもその重大さが、おそらく私たちにはなんのかかわりもないという発見は、私たちの生を必然的に頽廃させるだろう。しかしその頽廃のなかから、無数の死へ、無数の無名の死へ拡散することは、さらに大きな頽廃であると私は考えざるをえない。生においても、死においても、ついに単独であること。それが一切の発想の基点である。  私は広島について、どのような発言をする意志ももたないが、それは、私が広島の目撃者でないというただ一つの理由からである。しかしそのうえで、あえていわせてもらえるなら、峠三吉の悲惨は、最後まで峠三吉ただ一人の悲惨である。この悲惨を不特定の、死者の集団の悲惨に置き代えること、さらに未来の死者の悲惨までもそれによって先取りしようとすることは、生き残ったものの不遜である。それがただ一人の悲惨であることが、つぐないがたい痛みのすべてである。  さらに私は、無名戦士という名称に、いきどおりに似た反撥をおぼえる。無名という名称がありうるはずはない。倒れた兵士の一人一人には、確かな名称があったはずである。不幸にして、そのひとつひとつを確かめえなかったというのであれば、痛恨をこめてそのむねを、戦士の名称へ併記すべきである。  ハバロフスク市の一角に、儀礼的に配列された日本人の墓標には、いまなお、索引のための番号が付されたままである。 ある〈共生〉の経験から  〈共生〉という営みが、広く自然界で行なわれていることはよく知られている。たとえば、ある種のイソギンチャクはかならず一定のヤドカリの殻の上にその根をおろす。一般に共生とは二つの生物がたがいに密着して生活し、その結果として相互のあいだで利害を共にしている場合を称しており、多くのばあい、それがなければ生活に困難をきたし、はなはだしいときは生存が不可能になる。私が関心をもつのは、たとえばある種の共生が、一体どういうかたちで発生したのかということである。たぶんそれは偶然な、便宜的なかたちではじまったのではなく、そうしなければ生きて行けない瀬戸ぎわに追いつめられて、せっぱつまったかたちではじまったのだろう。しかし、いったんはじまってしまえば、それは、それ以上考えようのないほど強固なかたちで持続するほかに、仕方のないものになる。これはもう生活の智恵というようなものではない。連帯のなかの孤独についての、すさまじい比喩である。  私がこう思うのは、私自身に奇妙な〈共生〉の経験があるからである。  私は、昭和二十年敗戦の冬、北満でソ連軍に抑留され、翌二十一年初めソ連領中央アジヤの一収容所へ送られた。この昭和二十一年から二十二年へかけての一年は、ソ連の強制収容所というものをまったく知らない私たちにとっては、未曾有の経験であった。入所一年目に私たちが経験しなければならなかったかずかずの苦痛のうち最大のものは徹底した飢えと、しばしば夜間におよぶ苛酷な労働である。当時ウクライナ方面で起った飢饉のため、全般的に食糧事情が悪化しており、まして私たちは一般捕虜とちがい、大部分が反ソ行為の容疑者から成る民間抑留者の集団であったため、食糧にたいする顧慮が十分行なわれなかったとしても不思議ではない。加えて、どこの収容所にも見られる食糧の横流しが、ここでは収容所長の手で組織的に行なわれ、これが給養水準の低下に拍車をかけた。  このため入所後半年ほどで、私たちのあいだには、はやくも栄養失調の徴候があらわれはじめた。  こういった事情のもとで、おそらくはこの収容所に独特の、一種の〈共生〉ともいうべき慣習がうまれ、またたくまに収容所全体に普及した。〈共生〉が余儀なくされた動機には、収容所自体の管理態勢の不備のほかに、一人ではとても生きて行けないという抑留者自身の自覚があったと考えてよい。まず、この収容所は民間抑留者が主体であって、大部分が食器を携行して入ソした一般捕虜の収容所にくらべて、極端に食器がすくない。したがって食事は、いくつかの作業班をひとまとめにして、順ぐりに行なわれることになるが、そのさい食器(旧日本軍の飯盒)を最大限に活用するために、二人分を一つの食器に入れて渡す。これを受けとるために、抑留者は止むをえず、二人ずつ組むことになったが、私たちはこれを〈食缶組〉と呼んだ。これがいわば、この収容所における、〈共生〉のはじまりであるが、爾後この共生は収容所生活のあらゆる面に随伴することになった。  食缶組をつくるばあい、多少とも親しい者と組むのが人情であるが、結局、親しい者と組んでも嫌いなものと組んでも、おなじことだということが、やがてわかった。というのは、食糧の絶対的な不足のもとでは、食缶組の存在は、おそかれはやかれ相互間の不信を拡大させる結果にしかならなかったからである。  一つの食器を二人でつつきあうのは、はたから見ればなんでもない風景だが、当時の私たちの這いまわるような飢えが想像できるなら、この食缶組がどんなにはげしい神経の消耗であるかが理解できるだろう。私たちはほとんど奪いあわんばかりのいきおいで、飯盒の三分の一にも満たぬ粟粥を、あっというまに食い終ってしまうのである。結局、こういう状態がながく続けば、腕ずくの争いにまで到りかねないことを予感した私たちは、できるだけ公平な食事がとれるような方法を考えるようになった。まず、両方が厳密に同じ寸法の匙を手に入れ、交互にひと匙ずつ食べる。しかしこの方法も、おなじ大きさの匙を二本手に入れることがほとんど不可能であり、相手の匙のすくい加減を監視するわずらわしさもあって、あまり長つづきしなかった。つぎに考えられたのは、飯盒の中央へ板または金属の〈仕切り〉を立てて、内容を折半する方法である。しかしこの方法も、飯盒の内容が均質の粥類のときはいいが、豆類などのスープの時は、底に沈んだ豆を公平に両分できず、仕切りのすきまから水分が相手の方へ逃げるおそれもあって、間もなくすたった。さいごに考えついたのは、缶詰の空缶を二つ用意して、飯盒からべつべつに盛り分ける方法である。さいわいなことに、ソ連の缶詰の規格は二、三種類しかないので、寸法のそろった空缶を作業現場などからいくらでも拾ってくることができる。分配は食缶組の一人が、多くのばあい一日交代で行なったが、相手に対する警戒心が強い組では、ほとんど一回ごとに交代した。この食事の分配というのが大へんな仕事で、やわらかい粥のばあいはそのまま両方の空缶に流しこんで、その水準を平均すればいいが、粥が固めのばあいは、押しこみ方によって粥の密度にいくらでも差が出来る。したがって、分配のあいだじゅう、相手はまたたきもせずに、一方の手許を凝視していなければならない。さらに、豆類のスープなどの分配に到っては、それこそ大騒動で、まず水分だけを両方に分けて平均したのち、ひと匙ずつ豆をすくっては交互に空缶に入れなければならない。分配が行なわれているあいだ、相手は一言も発せず分配者の手許をにらみつけているので、はた目には、この二人が互いに憎みあっているとしか思えないほどである。こうして長い時間をかけて分配を終ると、つぎにどっちの缶を取るかという問題がのこる。これにもいろいろな方法があるが、もっとも広く行なわれたやり方では、まず分配者が相手にうしろを向かせる。そして、一方の缶に匙を入れておいて、匙のはいった方は誰が取るかとたずねる。相手はこれにたいして「おれ」とか「あんた」とか答えて、缶の所属がきまるのである。このばあい、相手は答えたらすぐうしろをふり向かなくてはならない。でないと、分配者が相手の答に応じて、すばやく匙を置きかえるかも知れないからである。  食事の分配が終ったあとの大きな安堵感は、実際に経験したものでなければわからない。この瞬間に、私たちのあいだの敵意や警戒心は、まるで嘘のように消え去り、ほとんど無我に近い恍惚状態がやってくる。もはやそこにあるものは、相手にたいする完全な無関心であり、世界のもっともよろこばしい中心に自分がいるような錯覚である。私たちは完全に相手を黙殺したまま、「一人だけの」食事を終るのである。このようなすさまじい食事が日に三度、かならず一定の時刻に行なわれるのだ。  共生の目的は他にもある。たとえば作業のときである。私たちの労働は土工が主体であったが、土工にあっては工具(スコップ、つるはし)の良否が徹底してものをいう。それは一日の体力の消耗に、直接結びつくからである。毎朝作業現場に到着するやいなや、私たちは争って工具倉庫へとびこむのだが、いちはやく目をつけた工具を完全に確保するためには、最小限二人の人間の結束が必要である。食事のときあれほど警戒しあった二人が、ここでは無言のまま結束する。  こうして私たちは、ただ自分ひとりの生命を維持するために、しばしば争い、結局それを維持するためには、相対するもう一つの生命の存在に、「耐え」なければならないという認識に徐々に到達する。これが私たちの〈話合い〉であり、民主主義であり、一旦成立すれば、これを守りとおすためには一歩も後退できない約束に変るのである。これは、いわば一種の掟であるが、立法者のいない掟がこれほど強固なものだとは、予想もしないことであった。せんじつめれば、立法者が必要なときには、もはや掟は弱体なのである。  私たちの間の共生は、こうしてさまざまな混乱や困惑をくり返しながら、徐々に制度化されて行った。それは、人間を憎みながら、なおこれと強引にかかわって行こうとする意志の定着化の過程である。(このような共生はほぼ三年にわたって継続した。三年後に、私は裁判を受けて、さらに悪い環境へ移された。)これらの過程を通じて、私たちは、もっとも近い者に最初の敵を発見するという発想を身につけた。たとえば、例の食事の分配を通じて、私たちをさいごまで支配したのは、人間に対する(自分自身を含めて)つよい不信感であって、ここでは、人間はすべて自分の生命に対する直接の脅威として立ちあらわれる。しかもこの不信感こそが、人間を共存させる強い紐帯であることを、私たちはじつに長い期間を経てまなびとったのである。  強制収容所内での人間的憎悪のほとんどは、抑留者をこのような非人間的な状態へ拘禁しつづける収容所管理者へ直接向けられることなく(それはある期間、完全に潜伏し、潜在化する)、おなじ抑留者、それも身近にいる者に対しあらわに向けられるのが特徴である。それは、いわば一種の近親憎悪であり、無限に進行してとどまることを知らない自己嫌悪の裏がえしであり、さらには当然向けられるべき相手への、潜在化した憎悪の代償行為だといってよいであろう。  こうした認識を前提として成立する結束は、お互いがお互いの生命の直接の侵犯者であることを確認しあったうえでの連帯であり、ゆるすべからざるものを許したという、苦い悔恨の上に成立する連帯である。ここには、人間のあいだの安易な、直接の理解はない。なにもかもお互いにわかってしまっているそのうえで、かたい沈黙のうちに成立する連帯である。この連帯のなかでは、けっして相手に言ってはならぬ言葉がある。言わなくても相手は、こちら側の非難をはっきり知っている。それは同時に、相手の側からの非難であり、しかも互いに相殺されることなく持続する憎悪なのだ。そして、その憎悪すらも承認しあったうえでの連帯なのだ。この連帯は、考えられないほどの強固なかたちで、継続しうるかぎり継続する。  これがいわば、孤独というものの真のすがたである。孤独とは、けっして単独な状態ではない。孤独は、のがれがたく連帯のなかにはらまれている。そして、このような孤独にあえて立ち返る勇気をもたぬかぎり、いかなる連帯も出発しないのである。無傷な、よろこばしい連帯というものはこの世界には存在しない。  この連帯は、べつの条件のもとでは、ふたたび解体するであろう。そして、潮に引きのこされるように、単独な個人がそのあとに残り、連帯へのながい、執拗な模索がおなじようにはじまるであろう。こうして、さいげんもなくくり返される連帯と解体の反復のなかで、つねに変らず存続するものは一人の人間の孤独であり、この孤独が軸となることによって、はじめてこれらのいたましい反復のうえに、一つの秩序が存在することを信ずることができるようになるのである。  一日の労働ののち、食事に次いでもっともよろこばしい睡眠の時間がやってくる。だが、この睡眠の時間にあっても、〈共生〉は継続する。とくに収容所生活の最初の一年、毛布一枚の寝具しか渡されなかった私たちは、食缶組どうしで二枚の毛布を共有にし、一枚を床に敷き、一枚を上に掛けて、かたく背なかを押しつけあってねむるほかなかった。とぼしい体温の消耗を防ぐための、これが唯一つの方法であった。いま私に、骨ばった背を押しつけているこの男は、たぶん明日、私の生命のなにがしかをくいちぎろうとするだろう。だが、すくなくともいまは、暗黙の了解のなかで、お互いの生命をあたためあわなければならないのだ。それが約束なのだから。そしておなじ瞬間に、相手も、まさにおなじことを考えているにちがいないのである。  昭和二十三年夏、私たち抑留者は、それぞれ運命を異にするいくつかの集団に分割されて出発した。私の食缶組のさいごの相手は、その時、別の集団に編入されて私の目の前から姿を消したが、その後、私が彼を憶い出すことはほとんどなかった。 ペシミストの勇気について  昭和二十七年五月、例年のようにメーデーの祝祭を終ったハバロフスク市の第六収容所で、二十五年囚鹿野武一は、とつぜん失語状態に陥ったように沈黙し、その数日後に絶食を始めた。絶食は誰にも知られないまま行なわれたので、周囲の者がそれに気づいたときには、すでに二日ほど経過していた。絶食はハンストのかたちで行なわれたのでなく、絶食中も彼は他の受刑者とともに、市内の建築現場で黙って働いていたため、発見がおくれたのである。  ハバロフスクには、六分所および二十一分所と、いずれも捕虜時代の呼称をそのまま踏襲した二つの収容所があって、いわゆるソ連の〈かくし戦犯〉(サンフランシスコ条約の一方的成立に備えて、ソ連が手許に保留した捕虜・抑留者の一部で、極東軍事裁判とは無関係に、ソ連国内法によって受刑したもの)を収容していたが、入所経路はまったくちがっていた。六分所は、ソ連の強制収容所でももっとも悪い環境にぞくするバム(バイカル・アムール鉄道)沿線の密林地帯から移動して来た日本人が主体で、移動後の緩慢な恢復期に、バム地帯での身心の凍結状態から脱け出すために、かなりアンバランスな緊張状態を経験しなければならなかった人びとが大部分を占めていた。人間の結びつきが恢復して行く過程もかなり特殊で、それも長い相互不信の期間を必要とした。前述の鹿野武一の絶食は、私たちがこうした恢復期をほぼ終ろうとする時期に起きた。  入ソ直後の混乱と、受刑直後のバム地帯でのもっとも困難な状況という、ほぼ二回の淘汰の時期を経て、まがりなりにも生きのびた私たちは、年齢と性格によって多少の差はあれ、人間としては完全に「均らされた」状態にあった。私たちはほとんどおなじようなかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動した。私たちの言動は、シニカルで粗暴な点でおそろしく似かよっていたが、それは徹底した人間不信のなかへとじこめられて来た当然の結果であり、ながいあいだ自己の内部へ抑圧して来た強制労働への憎悪がかろうじて芽を吹き出して行く過程でもあった。おなじような条件で淘汰を切りぬけて来た私たちは、ある時期には肉体的な条件さえもが、おどろくほど似かよっていたといえる。私たちが単独な存在として自我を取りもどし、あらためて周囲の人間を見なおすためには、なおながい忍耐の期間が必要だったのである。  このような環境のなかで、鹿野武一だけは、その受けとめかたにおいても、行動においても、他の受刑者とははっきりちがっていた。抑留のすべての期間を通じ、すさまじい平均化の過程のなかで、最初からまったく孤絶したかたちで発想し、行動して来た彼は、他の日本人にとって、しばしば理解しがたい、異様な存在であったにちがいない。  しかし、のちになって思いおこしてみると、こうした彼の姿勢はなにもそのとき始まったことでなく、初めて東京の兵舎で顔をあわせたときから、帰国直後の彼の死に到るまで、つねに一貫していたと私は考える。彼の姿勢を一言でいえば、明確なペシミストであったということである。  鹿野と私は、同じ部隊で教育を受けて満州へ動員され、いく度か離合をくり返しながら、ほとんど同じ経路を経て帰国した。鹿野の精神形成にとって大きな意味をもっているこれらの経緯を逐一語る余裕はいまないが、ある時期の鹿野にとって、私はほとんどただ一人の友人だったといっていい。  昭和二十年、敗戦の冬、鹿野と私は相前後してハルビンで抑留された。抑留のきっかけが、いずれも白系ロシア人の密告であったことも奇妙な暗合である。翌年初め、鹿野は北カザフスタン、私は南カザフスタンの収容所へそれぞれ収容された。  私の最初の抑留地はアルマ・アタであったが、ここで三年の〈未決期間〉を経たのち、昭和二十三年夏、選別された一部抑留者とともに北カザフスタンのカラガンダへ移された。その年の秋、すでにカラガンダへ来ていた鹿野から一度、人を介して簡単な連絡があったが、その後消息不明のまま、翌年二月私は正式に起訴され、カラガンダ市外の中央アジヤ軍管区軍法会議カラガンダ臨時法廷へ身柄を移された。判決を受けるまでの二カ月を、私は法廷に附設された独房ですごしたが、ある夜おそく、真向いの独房へ誰かが収容されるらしい気配に気づいた。その頃私は、周囲の出来事にほとんど無関心になっていたが、警備兵の誰何にたいして「鹿野武一」とはっきり答える声を聞いたとき、さすがにおどろいてとび起きた。  その翌日から私は、なんとかして鹿野と連絡をとりたいと、そればかり考えて暮した。ソ連兵の警備は見かけによらず大まかなところがあるので、双方がその気になれば、たいていのばあい連絡がとれることはそれまでの経験でわかっていたが、鹿野の方から積極的に連絡をとってくる気配はまったくなかった。  四月二十九日、私は他の独房の十数人とともに重労働二十五年という予想外の判決を受けたのち、カラガンダ第二刑務所へ送られ、想像もできなかった未知な環境での、新しい適応の過程をあらためて踏みなおすことになった。  七月に入って、新しく送られて来た既決囚の集団が別の監房に収容されたという噂が私たちのあいだにひろまったが、私はそのなかに、おそらく鹿野がいるはずだと考えた。起訴されて無罪になった例は聞いたことがなかったし、判決を終った日本人はぜんぶ第二刑務所を経由することになっていたからである。  八月初め、この新しい集団は、炭坑に近い収容所に移され、日ならずして私たちもその後を追った。この収容所は、短期刑の刑事犯専用の収容所で、私たちのような特殊な長期囚は収容できない所であったが、所長同士の闇取引で、一時労働力を融通したことがあとでわかった。しかしこの闇取引のおかげで、私は思いがけず鹿野に会うことになった。ハルビンで別れてから、ほぼ四年目であった。  私たちが収容所に到着したのは、もう就寝時間を大分すぎた時刻であったが、私は取るものもとりあえず、鹿野のいるバラックへかけつけた。すでに寝しずまっていたバラックの入口で、私は鹿野の名を呼んでみたが、答えがなかった。二、三度呼んだあとで、バラックの奥の暗がりから、鹿野が出て来た。そして私の顔を見ずに「きみには会いたくなかった」とだけいって、奥へはいってしまった。私は呆然として自分のバラックへ帰って来た。  翌日から私たちは土工にかり出された。鹿野の姿はときおり見かけたが、なんとなく私を避けているらしい様子に、私も積極的に話しかけることをためらっているうちに一週間ほどすぎた。  ある日の夕方、作業から帰って来た鹿野が、思いがけなく私のバラックへやってきた。彼は「このあいだはすまなかった」といったあとでしばらく躊躇したのち、「もしきみが日本へ帰ることがあったら、鹿野武一は昭和二十四年八月‥日(正確な日附は忘れたが、彼がこれを話した日である)に死んだとだけ伝えてくれ」といって帰って行った。  私はそのときの彼の、奇妙に平静な、安堵に近い表情をいまだに忘れない。後になって彼の思考の軌跡を追いはじめたとき、当然のことのように彼のその表情に行きあたった。しかしそのときの私には、彼の内部でなにかが変ったらしいことがかろうじて想像できただけであった。この時期を境として、ペシミストとしての彼の輪郭は急速に鮮明になってくる。  八月末、私たちはあわただしく刑務所へ送り返され、いくつかの集団に編成されて、つぎつぎにカラガンダを出発した。私は先発の集団と共に囚人護送隊へ引渡され、ストルイピンカ(拘禁車)でシベリヤ本線へ向けて北上した。途中ペトロパウロフスクとノボシビルスクの二カ所のペレスールカ(中継収容所)を経由した私たちは、案に相異してタイシェットのペレスールカに収容された。このタイシェットがバム鉄道の起点であることを知ったときの、私たちの不安と失望は大きかった。  私たちの到着後、日ならずして鹿野をまじえた後続部隊が到着したが、もうその頃には、東は極東、西はウクライナ、沿バルト三国に到る地域から続々と送りこまれて来たさまざまな民族によって、ペレスールカはぼう大な民族集団にふくれあがっており、私たちはたちまちそのなかにのみこまれてしまった。判決にさいして、本来あるはずのないソ連邦の市民権を剥奪された私たちは、ここで完全にソビエト連邦の強制労働体制のなかに押しこまれたのである。  鹿野と私はここで一カ月ぶりで再会するのであるが、私たちをつなぐ言葉は、このときすでになかった。私たちは、行きどころのない人間のように、ひまさえあれば一緒にいたが、ほとんど話すことはなかった。ただ鹿野と私の絶対の相異は、私がなお生きのこる機会と偶然へ漠然と期待をのこしていたのにたいし、鹿野は前途への希望をはっきり拒否していたことである。タイシェットにいるあいだ、およそ希望に類する言葉を、鹿野は一切語らなかった。  十月の終りに近い頃、この地方をしばしばおそう苛烈な吹《ブラ》雪《ーン》のなかで、とつぜんエタップ(囚人護送)の命令が出た。私たちはつぎつぎに呼び出されて、車輛ごとに編成を終り、夜になって引込線にはいって来た貨車に押しこまれた。サーチライトに照し出された、厳重な監視下での異様な乗車風景は、そのさき、私たちを待ちうけている運命を予想させるに充分であった。それにもかかわらず、暗い貨車のなかに大きな樽が二つ用意されており、一つが飲料水、他が排便用であることを知ったときの私たちのよろこびは大きかった。〈走る留置場〉と呼ばれるストルイピンカでの経験から、人間は飢えにはある程度耐えられても、渇きと排泄にはほとんど耐えられないことを思い知らされていたからである。ストルイピンカでは、排便は二十四時間に一回という、忍耐の限度をこえたものであった。  私たちは貨車に乗りこむやいなや、争って樽の水を飲んだ。飲めるうちに飲んでおかなければ、いつ飲めなくなるかも知れないという囚人特有の心理から、飲みたくない者まで腹一杯飲んだ。便器があるという安心もあったが、その容量まで考えて自制するような余裕は私たちにはまったくなかった。仮にあったとしても、すでに始まった混乱と怒号のなかでは、どうすることもできなかったであろう。発車後数時間ではやくも樽をあふれた汚物が、床一面に流れはじめた。私たちは三日間、汚物で汚れた袋からパンを出して食べ、汚物のなかに寝ころんですごした。収容所生活がほとんど無造作な日常と化した時点で、あらためて私たちをうちのめしたこれらの経験は、爾後徹底して人間性を喪失して行く最初の一歩となった。  私と鹿野とは、このときべつべつの貨車に分けられた。貨車は沿線の収容所を通過するごとに、後尾から一輛ずつ切りはなして行ったが、出発後三日目に私たちの貨車が切りはなされた。貨車を出たのは、鹿野たちがさらに北上して行ったあとであった。十月下旬、沿線の密林はすでに雪に掩われており、汚物に濡れたままの私たちの衣服は、みるまにまっ白に凍って行った。  私たちはただちに「コロンナ33」と呼ばれる収容所へ追いこまれたが、この日から翌年秋までの一年が、八年の抑留期間を通じての最悪の期間となった。それらの状況の詳細を語る余裕はない。ただ私自身は、これらのほとんど「脱人間的」な環境を通過することによって、鹿野が先取りしたペシミズムに結局は到達したと考えている。  バム地帯のような環境では、人は、ペシミストになる機会を最終的に奪われる。(人間が人間でありつづけるためには、周期的にペシミストになる機会が与えられていなければならない)。なぜなら誰かがペシミストになれば、その分だけ他の者が生きのびる機会が増すことになるからである。ここでは「生きる」という意志は、「他人よりもながく生きのこる」という発想しかとらない。バム地帯の強制労働のような条件のもとで、はっきりしたペシミストの立場をとるということは、おどろくほど勇気の要ることである。なまはんかなペシミズムは人間を崩壊させるだけである。ここでは誰でも、一日だけの希望に頼り、目をつぶってオプティミストになるほかない。(収容所に特有の陰惨なユーモアは、このようなオプティミズムから生れる)。そのなかで鹿野は、終始明確なペシミストとして行動した、ほとんど例外的な存在だといっていい。  後になって知ることのできた一つの例をあげてみる。たとえば、作業現場への行き帰り、囚人はかならず五列に隊伍を組まされ、その前後と左右を自動小銃を水平に構えた警備兵が行進する。行進中、もし一歩でも隊伍を離れる囚人があれば、逃亡とみなしてその場で射殺していい規則になっている。警備兵の目の前で逃亡をこころみるということは、ほとんど考えられないことであるが、実際には、しばしば行進中に囚人が射殺された。しかしそのほとんどは、行進中つまずくか足をすべらせて、列外へよろめいたために起っている。厳寒で氷のように固く凍てついた雪の上を行進するときは、とくにこの危険が大きい。なかでも、実戦の経験がすくないことにつよい劣等感をもっている十七、八歳の少年兵にうしろにまわられるくらい、囚人にとっていやなものはない。彼らはきっかけさえあれば、ほとんど犬を射つ程度の衝動で発砲する。  犠牲者は当然のことながら、左と右の一列から出た。したがって整列のさい、囚人は争って中間の三列へ割りこみ、身近にいる者を外側の列へ押し出そうとする。私たちはそうすることによって、すこしでも弱い者を死に近い位置へ押しやるのである。ここでは加害者と被害者の位置が、みじかい時間のあいだにすさまじく入り乱れる。  実際に見た者の話によると,鹿野は、どんなばあいにも進んで外側の列にならんだということである。明確なペシミストであることには勇気が要るというのは、このような態度を指している。それは、ほとんど不毛の行為であるが、彼のペシミズムの奥底には、おそらく加害と被害にたいする根源的な問い直しがあったのであろう。そしてそれは、状況のただなかにあっては、ほとんど人に伝ええない問いである。彼の行為が、周囲の囚人に奇異の感を与えたとしても、けっしてふしぎではない。彼は加害と被害という集団的発想からはっきりと自己を隔絶することによって、ペシミストとしての明晰さと精神的自立を獲得したのだと私は考える。  翌年夏、私たちのあずかり知らぬ事情によって沿線の日本人受刑者はふたたびタイシェットに送還された。私たちのほとんどは、すぐと見分けのつかないほど衰弱しきっていたが、そのなかで鹿野だけは一年前とほとんど変らず、贖罪を終った人のようにおちついて、静かであった。  集結後日ならずして、ふたたびエタップが編成され、シベリヤ本線を東へ向けて私たちは出発した。このときは偶然おなじ貨車に鹿野と乗り合わせたが、疲労のためほとんど口をきくこともなく、なかば昏睡状態のままハバロフスクへ到着した。到着後私たちは、すでに捕虜が帰還したあとの六分所に収容されたが、健康診断に立会った軍医が容易にその理由を信じなかったほど、ほとんどが衰弱していた。  このときから、私たちの緩慢な〈恢復期〉が始まる。待遇が一般捕虜なみに切りかえられたこともあって、健康の恢復は思ったよりも急速であったが、精神的な立直りは、予期しない逆行現象をもまじえて、試行錯誤に近い経過をたどった。誰もが精神的に深く傷ついており、もっとも困難な状況でのお互いの行動をはっきりおぼえていた。わずか一年の強制労働によって、人間として失なったものは私たちには大きすぎた。それらのひとつひとつを取り戻して行く過程は、とりもなおさず、人間としての痛みと屈辱を恢復して行く過程となった。一年後、ほとんど健康を恢復したあともなお、私たちの精神は荒廃したままであり、およそ理由のない猜疑心と、隣人にたいする悪意に私たちは悩まされつづけた。  この時期になると、鹿野の「奇異な」行動はますますはっきりして来た。毎朝作業現場に着くと彼は指名も待たずに、一番条件の悪い苦痛な持場にそのままついてしまうのである。たまたまおなじ現場で彼が働いている姿を私は見かけたが、まるで地面にからだをたたきつけているようなその姿は、ただ悽愴というほかなかった。自分で自分を苛酷に処罰しているようなその姿を、私は暗然と見まもるだけであった。冒頭に書いた鹿野の絶食は、このような精神の〈恢復期〉を私たちがようやく脱け出しはじめた頃起きたのである。  鹿野の絶食は、その頃になってようやく彼の行動を理解しはじめた一部の受刑者に衝撃を与えた。彼らはかわるがわる鹿野をたずねて説得をこころみたが、すでに他界へ足を踏み入れているような彼の沈黙にたいしては、すべて無力であった。その無力を、さいごに私も味わった。すべてを先取りしている人間に、それを追いかけるだけの論理が無力なのは、むしろ当然である。  絶食四日目の朝、私はいやいやながら一つの決心をした。私は起床直後彼のバラックへ行き、今日からおれも絶食するとだけいってそのまま作業に出た。事情を知った作業班長が、軽作業に私をまわしてくれたが、夕方収容所に帰ったときにはさすがにがっかりして、そのまま寝台にひっくり返ってしまった。夕食時限に近い頃、もしやと思っていた鹿野が来た。めずらしくあたたかな声で一緒に食事をしてくれというのである。私たちは、がらんとした食堂の隅で、ほとんど無言のまま夕食を終えた。その二日後、私ははじめて鹿野自身の口から、絶食の理由を聞くことができた。  メーデー前日の四月三十日、鹿野は、他の日本人受刑者とともに、「文化と休息の公園」の清掃と補修作業にかり出された。たまたま通りあわせたハバロフスク市長の令嬢がこれを見てひどく心を打たれ、すぐさま自宅から食物を取り寄せて、一人一人に自分で手渡したというのである。鹿野もその一人であった。そのとき鹿野にとって、このような環境で、人間のすこやかなあたたかさに出会うくらいおそろしいことはなかったにちがいない。鹿野にとっては、ほとんど致命的な衝撃であったといえる。そのときから鹿野は、ほとんど生きる意志を喪失した。  これが、鹿野の絶食の理由である。人間のやさしさが、これほど容易に人を死へ追いつめることもできるという事実は、私にとっても衝撃であった。そしてその頃から鹿野は、さらに階段を一つおりた人間のように、いっそう無口になった。  鹿野の絶食さわぎは、これで一応はおちついたが、収容所側は当然これを一種のレジスタンスとみて、執拗な追及を始めた。鹿野は毎晩のように取調室へ呼び出され、おそくなってバラックに帰って来た。取調べに当ったのは施《シエ》という中国人の上級保安中尉で、自分の功績しか念頭にない男であったため、鹿野の答弁は、はじめから訊問と行きちがった。根まけした施は、さいごに態度を変えて「人間的に話そう」と切り出した。このような場面でさいごに切り出される「人間的に」というロシア語は、囚人しか知らない特殊なニュアンスをもっている。それは「これ以上追及しないから、そのかわりわれわれに協力してくれ」という意味である。〈協力〉とはいうまでもなく、受刑者の動静にかんする情報の提供である。  鹿野はこれにたいして「もしあなたが人間であるなら、私は人間ではない。もし私が人間であるなら、あなたは人間ではない。」と答えている。取調べが終ったあとで、彼はこの言葉をロシヤ文法の例題でも暗誦するように、無表情に私にくりかえした。  その時の鹿野にとって、おそらくこの言葉は挑発でも、抗議でもなく、ただありのままの事実の承認であっただろう。だが、こうした立場でこのような発言をすることの不利は、鹿野自身よく知っていたはずである。私はまたしてもここで、ペシミストの明晰な目に出会うのである。私には、そのときの鹿野の表情がはっきり想像できる。そのときの彼の表情に、おそらく敵意や怒りの色はなかったのであろう。むしろこのような撞着した立場に立つことへの深い悲しみだけがあったはずである。真実というものは、つねにそのような表情でしか語られないのであり、そのような表情だけが信ずるに値するのである。まして、よろこばしい表情で語られる真実というものはない。  施は当然激怒したが、それ以上どうするわけにも行かず、取調べは打切られた。爾後、鹿野は要注意人物として、執拗な監視のもとにおかれたが、彼自身は、ほとんど意に介する様子はなかった。  私が知るかぎりのすべての過程を通じ、彼はついに〈告発〉の言葉を語らなかった。彼の一切の思考と行動の根源には、苛烈で圧倒的な沈黙があった。それは声となることによって、そののっぴきならない真実が一挙にうしなわれ、告発となって顕在化することによって、告発の主体そのものが崩壊してしまうような、根源的な沈黙である。強制収容所とは、そのような沈黙を圧倒的に人間に強いる場所である。そして彼は、一切の告発を峻拒したままの姿勢で立ちつづけることによって、さいごに一つ残された〈空席〉を告発したのだと私は考える。告発が告発であることの不毛性から究極的に脱出するのは、ただこの〈空席〉の告発にかかっている。  バム地帯での追いつめられた状況のなかで、鹿野をもっとも苦しめたのは、自動小銃にかこまれた行進に端的に象徴される、加害と被害の同在という現実であったと私は考える。そして、誰もがただ自分が生きのこることしか考えられない状況のなかで、このようないたましい同在をはっきり見すえるためにも、ペシミストとしての明晰さを彼は必要としたのである。  おそらく加害と被害が対置される場では、被害者は〈集団としての存在〉でしかない。被害においてついに自立することのないものの連帯。連帯において被害を平均化しようとする衝動。被害の名における加害的発想。集団であるゆえに、被害者は潜在的に攻撃的であり、加害的であるだろう。しかし加害の側へ押しやられる者は、加害において単独となる危機にたえまなくさらされているのである。人が加害の場に立つとき、彼はつねに疎外と孤独により近い位置にある。そしてついに一人の加害者が、加害者の位置から進んで脱落する。そのとき、加害者と被害者という非人間的な対峙のなかから、はじめて一人の人間が生まれる。〈人間〉はつねに加害者のなかから生まれる。被害者のなかからは生まれない。人間が自己を最終的に加害者として承認する場所は、人間が自己を人間として、ひとつの危機として認識しはじめる場所である。  私が無限に関心をもつのは、加害と被害の流動のなかで、確固たる加害者を自己に発見して衝撃を受け、ただ一人集団を立去って行くその〈うしろ姿〉である。問題はつねに、一人の人間の単独な姿にかかっている。ここでは、疎外ということは、もはや悲惨ではありえない。ただひとつの、たどりついた勇気の証しである。  そしてこの勇気が、不特定多数の何を救うか。私は、何も救わないと考える。彼の勇気が救うのは、ただ彼一人の〈位置〉の明確さであり、この明確さだけが一切の自立への保証であり、およそペシミズムの一切の内容なのである。単独者が、単独者としての自己の位置を救う以上の祝福を、私は考えることができない。    いまにして思えば、鹿野武一という男の存在は私にとってかけがえのないものであった。彼の追憶によって、私のシベリヤの記憶はかろうじて救われているのである。このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心のなかを通って行ったということだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずるのは、おそらく私一人なのかもしれない。 追記  シベリヤから帰還後、〈徳田要請事件〉で証人として国会に喚問され、昭和二十五年に自殺した管季治氏と鹿野は、一時カラガンダの収容所で一緒だったらしく、管氏の遺稿集『語られざりし真実』(昭和二十八年、筑摩書房刊)につぎのような記述がある。舞鶴上陸直後、鹿野は文中のKという人物が自分であることを、私に確認している。    そのころ、わたしたちの収容所にKがいた。Kは京都薬専を出たおとなしい人だった。ドイツ語、ロシア語、エスペラント語にすぐれていた。Kとわたしは、よくロシア語文法やロシア文学について語り合った。彼はツルゲーネフを愛し、常にオストロフスキイの喜劇をふところにもっていた。作業場では、ちょっとの暇にも、ソヴェート新聞の切り抜きを読んでいた。或る時、わたしにこんなことを言った。「ぼくには、どうもニーチェやキェルケゴールが一番深い影響を与えたようなんです。それで、これからコムニストになるにしても、そうした過去の思想的経歴をかんたんに捨て切れないでしょう。」  Kにわたしは、「学芸同好会」のためにエスペラント語について話してもらいたいと頼んだ。 Kは、はにかみながらも引き受けてくれた。わたしは「エスペラント語入門」というテーマで広告を出した、——と言っても、小さな板きれを食堂にぶら下げたきりだけだけれども。  その夜はひどい吹雪だった。夕食の終った人《ひと》気《け》のない寒い食堂で、Kとわたしは、聞き手が集まるのを待っていた。ところが、話を始める予定の時間になっても、さらにそれから三十分も待っても、聞き手は一人も来なかった。わたしはKに気の毒で恐れ入った。しかしKはおだやかで静かだった。Kはただ一人の聞き手であるわたしのために、くず紙をとじた手帖を開いて「エスペラント語入門」の話しをはじめた。一先ず「わたしの愛するエスペラント語について話す機会を与えてくれたカンさんに感謝します」と前置きして。  Kの話しは、きわめて系統的で内容豊かであった。 一、エスペラント語の発生 二、文法の基本 三、エスペラント語の国際的意義 四、日本におけるエスペラント語研究の歴史 五、エスペラント語の研究文献 に就いて、二時間位Kは語った。最後に、ゲーテの「野バラ」のエスペラント語訳を説明し、「エスペラントの歌」を二回唱ってくれた。冷えきった食堂にひろがる澄んだKの声を、わたしは、「学芸の愛」そのものとして感じたのであった。  それからしばらくしてKは他の収容所に移された。別れる時、わたしに「野バラ」と「エスペラントの歌」を書いてくれた。  こういう美しい魂と一緒になっても、すぐ引き離されてしまうウォエンノプレンニク(俘虜)の身の上のはかなさを、その時ほどひどく感じたことはなかった。    鹿野がエスペラント語を学んだのは、学生時代彼がしばしば訪ねた京都南禅寺の柴山全慶師の影響によるものである。東京の部隊(陸軍露語教育隊高等科)で鹿野と出会ったさいの最初の会話は、たしかエスペラントにかんしてであったと記憶している。私自身多少エスペラントを解した。  カラガンダへ移動後、人を介して私が受けとった鹿野の連絡文は、全文エスペラントでしたためてあり、末尾のMi preskau perdis esperon.(私はほとんど望みをうしなった)という一行は、いまだに私の記憶にのこっている。  鹿野がどのようなかたちで、みずからをコムニストに擬していたかについては、私はまったく知るところがない。前述の〈講演〉ののち、鹿野はおなじカラガンダの日本人民間抑留者専用の収容所へ移された。おそらくそこで重大な挫折を経験したものと想像されるが、具体的な事実については、鹿野はついに語らなかった。  帰国した翌年、鹿野は心臓麻痺で死亡した。狂気のような心身の酷使のはての急死であった。彼はさいごまで、みずからに休息をゆるさなかったのである。 オギーダ しかしどのようにして、私たちがそれに  慣れたかは聞かないで欲しい。      フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳)  自殺は敗北である。そのことにかんするかぎり、私は結論へためらわない。だが、敗北とはなにか、なんにたいしての敗北かということになると、私に明確なものはなにもない。日本の降服が決定した日、その日のうちに、いくたりかの人が私の周囲で、それが当然の義務であるかのように自決した。その人たちの図式には、いかんともしがたい事実として敗北がまずあり、なんのためらいもない行動がそれにつづいた。自殺そのものを敗北とする発想は、その人たちにはなかったのである。自殺という表現を拒み、自決という言葉をえらんだその人たちにとって、それはあくまで自己決定の行為だったのである。私には、その人たちの発想に、どんなかたちでも立ち入る意志はない。  降服が決定した直後の数時間が、岐路の選択をせまられた唯一の時間であった。前線でも後方でもない真空地帯だけが、その決定を強いられた。前線は決定が終っており、後方は決定の主体そのものが崩壊していた。最高統帥部とも、またすでに絶望的な戦闘状態にはいっていた北正面と東正面の戦闘部隊とも断絶したままで凍結せざるをえなかった、関東軍将兵の苦悩を思わないわけには行かない。もっとも緊張した数日ののち、硬直した決意と、柔弱な思惑のなかで、各人の処置は各人の所断にゆだねるというかたちで一切が放擲され、堰を切ったような混乱がそのあとにつづいた。  そして私は残った。自己を決定して残ったのではない。その人たちの明確な図式から、単純にとりのこされたのである。だが、生き残ったという事実は重大である。生き残った者にとって、生きのこる機会は、さらに無数にやってくる。一度生きのこってしまえば、要するにどんな屈辱のなかでも、ついに私たちは生きのびるのである。ソ連軍がいっせいにソ満国境をこえたとき、ハルビン市内にどこからとなく、大量の青酸カリが放出され、手づたえに日本人婦女子へわたされた。しかしそのひと月後、進駐して来たソ連軍将兵の連日の凌辱のなかで、青酸カリを飲んだ婦女子があったということは、すくなくとも私は聞かなかった。  ここでは生存ということが、むしろ敗北なのだ。死にざまから生きざまへの転換は、むざんなまでに不用意である。生きざまへ居直る瞬間から、およそいかなる極限も、そのままの位置で日常へなり終せる。なぜあのとき死ななかったのかという、うらみのようなものだけが、のこるものとしてそのあとにのこる。それが生きざまというものである。  しかし自殺は敗北であるという本来単純な発想から、だがそれは敗北の終結であるという飛躍へは、ほとんどどれほどの距離もないはずである。そして敗北だけが敗北を終結させるというこの背理が、ついにみずからをつらぬきえずに終るとき、敗北はその位置で石化する。屈辱はそのときからはじまる。背理はかならずつらぬかれねばならない。    昭和二十五年春、私は、バム鉄道沿線の〈コロンナ33〉と呼ばれる収容所から〈コロンナ30〉へ移された。〈コロンナ〉とはこの地帯での、強制収容所の一般的呼称であり、33という数字は、バム鉄道の起点であるタイシェットから三十三キロの地点を意味している。したがって〈コロンナ33〉から〈コロンナ30〉へ移動したことは、三キロだけ日本へ近づいたことを意味する。距離というものは、私たちにとってつねにそのような意味をもっていた。それは、予想をこえた刑期によって、一時は帰国を断念せざるをえなかった日本人だけが知っていた特殊な感覚である。そのころ私には距離というものを、ただ私だけの基準で、ある時間の長さへ換算する一種の習癖のようなものが身についていた(たとえば三キロの距離は、時間で三カ月というように)。距離というものが直接帰国へ結びつかない以上、たとえばそれは生きる時間へのふりかえといった、一種の遊戯に変質せざるをえなかったのである。  森林伐採が労働の主体であった極寒期《マロース》が終ると労働は採石作業と鉄道工事に代った。労働そのものは、すでに苦痛である段階を通りこしており、私たちはいわば一種の条件反射でこれに対応していたにすぎなかったが、氷点下四〇度を上下する極寒が終ったという安堵はなんといっても大きかった。バム地帯での最悪の季節は、じつはそれからはじまるのである。  五月、この地域を霧のように掩う、マシカと呼ばれる毒ぶよが、私たちの収容所一帯にも発生した。それはほとんど一夜のうちに発生して、ある朝私たちは戸外へ出るやいなや、マシカの群れのなかにいた。むき出しになった皮膚という皮膚へ針で刺すような痛みとともにわっとまつわりついたものを、私たちははじめ理解できなかった。この地域に数年前からいる少数の〈経験者〉を除けば、私たちはほとんどこれについて無知であった。経験者たちは、およそ必要な警告や助言を私たちに与えなかったのである。彼らのこのような態度はどうにでも説明がつくが、結局は「いずれ自分でわかることだ」という、隣人の苦痛への徹底した無関心につきる。一般に捕虜と囚人の顕著な差異は、隣人へのこのような関心の有無にあるといっていい。そこには、隣人への憎悪さえもすでにないのである。私たち自身も、やがてはそうなる運命にあった。おそらくそれは、無益な関心からまがりなりにも自己を防衛しようとする、一種の本能のようなものであったのかもしれない。  隣人へのこのような関心の欠如は、当然、隣人からの関心にたいする期待の欠如をともなう。強制収容所のような環境で、自殺ということがほとんど囚人の念頭にのぼることがないのは、ひとつには、自殺の前提となる最小限度の隣人の関心がまったく期待できないからであり、自殺者を犠牲者として、または自己の運命の予徴として見る視点が、完全に囚人から脱落しているためである。にもかかわらず、仮にもし、自殺という行為が囚人のあいだで起るとすれば、それはただある種の不用意によって起るにすぎない。  こうして私たちは、予想もしない事態に逢着するごとに、自分ひとりの力でこれを判断し、理解し、対処することをまなばなければならない。たとえば、マシカにとりつかれたら、手ばやくこれをふりおとす。ころしてはならない。刺された痕はなるべく水で冷やす。掻いてはいけない。マシカはいったんとりついたら、からだいっぱい血を吸ってしまうまでは、けっして飛びたたない。ほとんど逆立ちするような姿勢で皮膚に食い入ってくる胡麻粒ほどのマシカをつぶすのは、蚊をころすよりも容易である。それはただ、てのひらでおさえるだけでたりる。しかし、おさえた結果はさらに悲惨である。血の匂いにはおどろくほど敏感なマシカは、おしつぶされた血の痕へあっというまに集まってくる。無経験な私は、最初の日にこの失敗を犯した。夕方、乾いた血でまっ黒になった手首を水で洗ったとき、皮膚の一部がうそのようにめくれおちるという目に会った。マシカがとくに好んで集まる部分は、目と首のまわりである。ことに目のまわりに集まってくるマシカは、追い払うだけで、ぜったいにころしてはならない。わずかの血痕でも目のふちにつけば、二、三時間後に目は完全にふさがってしまう。  私たちは、これらの教訓をひとつひとつ、ただ自分の経験をとおしてまなびとるほかなかった。〈経験者〉にたいして私たちは、どのような〈助言〉も期待しなかった。彼らの沈黙は、彼ら自身の苦痛をとおして獲得したこれらの知識が、いわば彼らにとって生きのびるための武器であり、なんの苦痛の代償もなしに、他人に先取りされるのは許せないという、囚人特有のエゴイズムにほかならないことを知っていたからである。  その頃私は、ロシヤ人を主体にした作業班にただ一人の日本人として編入されていたが、日本人であるということはこの時期には、すでに標識としての意味をうしなっていた。それに、私同様のみじめな日本人を周囲に見ずにすむということは、すくなくとも私にとっては救いであった。私の周囲も、私の国籍にほとんど無関心であり、発音しにくい私の姓は、いつか「シガーラ(葉巻)」と呼びかえられていた。  五月末、あらたに下士官が一人、収容所に着任した。このような不遇な部署へ配属される警備兵は、おおよそ二つのタイプに大別される。一つは体制からのどうにもならない脱落者であり、他はすくなくとも体制への個性的な意見の持主である。オギーダという姓が示すとおり、ウクライナ出身の(ウクライナ人の姓にはA音で終るものが多い)その伍長は、着任の翌日私たちの作業班の警備長に任命され、それまで警備長であった若い、粗暴な兵長はそのまま警備兵の地位に移された。スターリングラードの攻防戦に参加したこの若い剛腹な伍長が、どのような経緯で、いわば流謫ともいえるこのような部署へ移されて来たのかは、私の知るかぎりでなかったが、その当時なおベリヤの支配下にあったエム・ベ・デ(ソ連内務省)軍隊の将兵にとっては、バム鉄道沿線から、いかにしてシベリヤ本線へ脱出するかということは、私たちとはまた別の、彼らの死活問題だったのである。  オギーダが警備長に就任したその日から、旧警備長とのあいだに、警備の規律について微妙なずれが見えはじめ、日を追ってそれはあらわなかたちをとった。オギーダは警備については、愚直なほど厳格であった。そして旧警備長がオギーダの厳命を、それと目立たぬかたちで緩和して行くやり方は、当然のことながら囚人たちの信望を引きつけた。  だがこのときにも〈経験者〉たちはただ沈黙していた。彼らにとってそれは、彼らが飽きるほど目にして来た、彼らにはなんの意味もない葛藤の一つでしかなかったからである。しかしこの無意味な葛藤が、思いがけない不用意な行動へ私を追いつめる結果になった。  六月中旬のある朝、いつものとおり作業現場に着くと、オギーダは、隊伍を組んだままの私たちを地面に坐らせ、規定どおり警戒線を一巡した。警備長が警戒区域の巡視を終り、警備兵が定位置に着くまでは私たちはそのまま坐っていなければならない。警戒区域の一方の側を限っている河のふちまで来たとき、オギーダは監視用のボートが見えないのに気づいた。前夜私たちが引揚げたあとで、誰かが河を渡ったらしく、ボートは対岸に乗り捨ててあった。河に臨んだ現場では、作業中警備兵の一人が、ボートで河を上下して監視に当る規則になっていたが、オギーダが着任するまでは、この規則はあまり厳格には守られていなかった。警備兵にとっては、けっして楽な仕事ではなかったからである。  オギーダはしばらく考えていたが、指示があるまでは私たちを一歩も現在位置から動かさないよう警備兵に厳命しておいて、上司の指示を仰ぐため単身収容所へ引返した。警備兵の不満そうな態度は、私たちにはっきりわかった。片道三十分以上の道のりをオギーダが往復するのを、マシカの群れのなかでじっと待っているのは、彼らにとっても、私たちにとってもがまんのならないことであった。  オギーダが出発して一時間近くたったころ、急にいら立って来た旧警備長が私たちの方へ向き直って、このなかに泳げる者がいるかとたずねた。彼の無謀な意図を理解した囚人たちは、思わず顔を見あわせた。その河はアンガラ河の支流の一つであったが、作業現場附近でかなり河幅がせばまっており、頑健な者なら泳いでわたれない距離ではない。しかし、すでに半年余の苛酷な労働で衰弱し切っていた囚人にとって、それが自殺にひとしい行為であることは、わかりすぎるほどわかっていた。加えてこの河の流れが、表層と下層とで速度も温度もひどくちがっていることは、逃亡防止の意味も含めてたびたび警告されて来たところである。当然答えはなかった。  私たちの沈黙でさらにいら立った兵長に、警備兵の一人が「そこに日本人がいる」とだけ答えた。囚人たちはいっせいに私の顔を見た。日本人なら当然泳げるはずだという、先入主のようなものが彼らにあったことは、私にも想像できた。私はまったく不用意に立ちあがった。それは文字どおり不用意に起きた。反応のすばやさにややとまどったような警備兵の前で、私は衣服を脱いだ。上衣とズボン、シャツとズボン下、それが私が脱いだものの全部である。旧警備長が決断しかねているあいだに、水際までの十歩ほどの距離を私は歩き出していた。何もかもがまったく不用意で、唐突であった。警備兵の一人が水際まで追って来たが、べつに止める様子はなかった。ボートは丁度私のま向いの位置にあったので、そのまま泳ぎ出せばおそらくボートよりもずっと下流側へ流れつくことになることは私にもよくわかったが、それはどうでもいいことであった。私には対岸へたどりつく意志がまったくなかったからである。  河はなかなか深くならなかった。ひょっとするとこのまま向う岸まで歩いてわたれるのではないかと思ったとき、一挙に胸までの深さに沈みこんだ。私がそこでひと息ついたとき、上流寄りの岸からオギーダの叫び声が聞え、つづいて五、六発の銃声が起った。私の三メートルほど前へ、扇形に水煙りがあがった。私は瞬間その位置で立ちすくんだのち、のろのろと岸へ引返した。岸へたどりつくまでが、私にはおそろしく長い時間に思えた。やっとのことで岸へあがった私は、かけよって来たオギーダにいきなり銃床でなぐり倒された。  そのまま砂地へへたりこんだ私をしばらく見据えていたオギーダは、警備兵たちの方をきっとふり向くと、誰がこの男を泳がせたのかと鋭く詰問した。警備兵も囚人も、申しあわせたように黙っていた。もし私を弁護する者があらわれなければ当然私は逃亡と見なされる立場にあったが、私にはもうどうでもいいことであった。たぶんオギーダも警備長として、最終責任を問われることになるだろう。警備兵と因人たちの石のような沈黙のなかで、オギーダと私だけが孤立するという奇妙な状態をすばやく見てとったオギーダは、すぐさま警備兵を配置につけると作業を開始させた。私はすわりこんだままの位置から動くことを禁じられ、オギーダ自身の監視下に置かれた。なにもかも死に絶えたような長い一日がはじまった。オギーダは五、六歩はなれた位置からときどき私をふりかえったが、ひと言もものをいわなかった。陽がしだいに高くなるにつれて、あたりを飛びかうマシカの数もふえた。河のほとりでは、他にくらべればマシカはすくない方であったが、それでも素裸でマシカのなかに坐っているのは苦痛にはちがいなかった。  正午の休憩にはいって、囚人たちを一カ所に集めたあとで、オギーダが私のそばへ来て、脱ぎすててあった衣服を私の前へ投げた。「着ろ《アジエワイ》。」オギーダの顔に怒りの色はなかった。だまって服を着ている私に、オギーダが妙なことをたずねた。「シガーラ、お前はウクライナ人か。」私が日本人だと答えると、オギーダはうなずいて自分の定位置にもどった。この奇妙な対話は一種の象徴のようなものとなって、その後ながく私の心にのこった。  帰営後、私はそのまま営倉へ収容された。収容所長へオギーダがどのような報告をしたか知るよしもなかったが、私の営倉入りは一日ですみ、その日のうちに他の作業班へまわされた。オギーダ自身も、間もなく他の収容所へ転属した。  これらすべての出来事は、ただ私一人の出来事として、周囲の完全な無関心のなかで起り、そして終った。またしても私は不用意に生きのびた。それが、その事件が私にたいしてもつことのできたすべての意味である。みずからの意志でみずからを決定するということを、およそそのときから私は断念した。 沈黙と失語  はじめに、手がかりをつけるいみで、私自身の作品を一篇引用させていただきたい。     脱走 そのとき 銃声がきこえ 日まわりはふりかえって われらを見た ふりあげた鈍器の下のような 不敵な静寂のなかで あまりにも唐突に 世界が深くなったのだ 見たものは 見たといえ われらがうずくまる まぎれもないそのあいだから 火のような足あとが南へ奔《はし》り 力つきたところに すでに他の男が立っている あざやかな悔恨のような ザバイカルの八月の砂地 爪先のめりの郷愁は 待伏せたように薙ぎたおされ 沈黙は いきなり 向きあわせた僧院のようだ われらは一瞬腰を浮かせ われらは一瞬顔を伏せる 射ちおとされたのはウクライナの夢か コーカサスの賭か すでに銃口は地へ向けられ ただそれだけのことのように 腕をあげて 彼は 時刻を見た 驢馬の死産を見《ま》守《も》る 商人たちの真昼 砂と蟻とをつかみそこねた掌《て》で われらは その口を けたたましくおおう あからさまに問え 手の甲は 踏まれるためにあるのか 黒い踵が 容赦なく いま踏んで通る 服従せよ まだらな犬を打ちすえるように われらは怒りを打ちすえる われらはいま了解する そうしてわれらは承認する われらはきっぱりと服従する 激動のあとのあつい舌を いまも垂らした銃口の前で—— まあたらしく刈りとられた 不毛の勇気のむこう側 一瞬にしていまはとおい ウクライナよ コーカサスよ ずしりとはだかった長《ちよう》靴《か》のあいだへ かがやく無垢の金貨を投げ われらは いま その肘をからめあう ついにおわりのない 服従の鎖のように  注 ロシヤの囚人は行進にさいして脱走をふせぐために、しばしば五列にスクラムを組まされる。    この詩のモチーフとなった事件については、とくに説明の要はないであろう。昭和二十五年夏、東シベリヤの強制収容所の作業現場で、私はこの光景を目撃した。しかし事実のなまなましさ、さらにその場面を名指しての告発はこの詩の主題ではない。この詩の主題は〈沈黙〉である。このような、極度に圧縮された一回的な状況のなかでは、おそらく絶望というものがはいりこむ隙はない。おそらくそこにあるのは、巨きな恐怖と、この恐怖に瞬間的に対応しなければならない自分自身だけであったと私は考える。この光景の私自身にとっての意味は、自分の目の前で起った鮮烈な出来事とその衝撃を、はっきり起ったものとして最終的に承認し、納得したということである。  こういう追いつめられた場面では、さいごにきっぱりと承認してそれを受けとめ、のりこえるしか道はのこされていない。私ばかりでなく、多くの日本人がそのようにして、押しつぶされるような衝撃からぬけ出して来た。おのれの立場を、おのれの側から断ちおとすような承認には、当然苛酷な沈黙がはね返って来る。私がいいたいのは、この沈黙が、すべての言葉を囚人が、一挙に取りもどす瞬間であったということである。  このことを理解するためには、この事件に先立って私たちに、ながい〈失語〉の期間があったことを説明しなければならない。言葉をうしなうことと、沈黙することとはまったく次元がことなるからである。  昭和二十四年秋、私は二十五年囚としてこの地域へ送りこまれた。シベリヤ本線のタイシェットから、ほぼ三〇キロのこの地点に到達するまでに、私たちには、数段階にわたる適応の過程があった。そしてその過程のひとつを経るごとに、周囲の出来事にたいする私たちの関心は確実に減衰して行った。それは私たちにとって、ある猶予の期間のおそろしく不確かな進行を意味している。最終の絶望はすぐ目の前に屹立しているようでもあり、進むにつれて遠のいて行くようでもあった。そのような不確かな適応の過程が最初に私たちにひき起した反応は、時間の長さとその価値の混乱ということであった。このような混乱は、収容所生活の一つの特徴であって、一日は無限に長く、一年はおどろくほど短い。〈日〉以上の単位として実感できる長さは〈週〉だけで、私たちは一年を事実上日曜をもって区切っていたにすぎない。季節は冬と、冬以外の二つの季節が存在するだけであり、しかも実感としては、圧倒的に冬が長かった。  時間の感覚のこのような混乱は、徐々に囚人をばらばらにして行く。ここでは時間は結局、一人ずつの時間でしかなくなるからである。人間はおそらく、最小限度時間で連帯しているものであろう。人間に、自分ひとりの時間しかなくなるとき、掛値なしの孤独が彼に始まる。私はこのことを、カラガンダの独房で、いやというほど味わった。このような環境で人間が最初に救いを求めるのは、自分自身の言葉、というよりも自分自身の〈声〉である。事実私自身、独房のなかの孤独と不安に耐えきれなくなったとき、おのずと声に出してしゃべりはじめていた。しかし、どのような饒舌をもってしても、ついにこの孤独を掩いえないと気づくとき、まず言葉が声をうしなう。言葉は説得の衝動にもだえながら、むなしく内側へとりのこされる。このときから、言葉と時間のあてどもない追いかけあいがはじまる。そしてついに、言葉は時間に追いぬかれる。そのときから私たちには、つんぼのような静寂のなかで、目と口をあけているだけのような生活がはじまるのである。  ナチの収容所では、このような過程はある程度、応用心理学的なスケジュールを追って進行したかもしれない。だがシベリヤでは、この過程はアジヤ的蒙昧のなかで、ねじ伏せるように進行する。頽廃がいずれの側にあるかは、私の関知するところではない。バルト海岸に到るまで、ロシヤは完璧にアジヤである。  強制労働の一日一日は、いうまでもなく苦痛であるが、しかもおどろくほど単調である。そしてこの単調さが、この異常な環境のなかへ、まさに日常性としかいいようのない状態を生み出して行く。異常なものが徐々に日常的なものへ還元されて行くという異常な現実のなかで、私たちは徐々に、そして確実に風化されて行ったのである。  このような日常性の全体をささえていたものは、ある確固とした秩序である。私たち囚人のあいだに、連帯というべきものは最初からなかった。同民族の囚人のあいだでさえそうであった。同時に、私たちを監視する側の一人一人にも、おそらくなんの連帯も結びつきもなかったと私は考える。囚人は彼らの前で完全に無力であり、一丁の自動小銃でその集団を思うままに威嚇できる状態にあるとき、彼らはなんら連帯を必要としないだろうからである。ただそこにあるものは、誰にも理解できない、ある動かしがたい秩序であり、その秩序は今日もあすも、厳として存続するほかないと考える点で、監視するものもされるものもふしぎに一致していた。秩序というものはおそらく、そのようなかたちでしか維持されないのであろう。  こうして、あきらかに失語状態といえる一種の日常性へ、私たちは足を踏み入れる。強制収容所の日常をひと言でいうなら、それはすさまじく異常でありながら、その全体が救いようもなく退屈だということである。一日が異常な出来事の連続でありながら、全体としては「なにごとも起っていない」のである。収容所の一日がおそろしく長いという実感は、このような異常な事態がついに倦怠となり終るほかない囚人の生態を直截にいいあてている。   なんの影に曇らされることもない、いや、ほとんど幸福とさえいえる一日が過ぎたのだ。 ソルジェニツィン〈イワン・デニソビッチの一日〉    これが、すべての囚人が、異常な適応力をもって無表情のまま耐えて来た、強制収容所の一日の重さである。  強制収容所のこのような日常のなかで、いわば〈平均化〉ともいうべき過程が、一種の法則性をもって容赦なく進行する。私たちはほとんどおなじかたちで周囲に反応し、ほとんどおなじ発想で行動しはじめる。こうして私たちが、いまや単独な存在であることを否応なしに断念させられ、およそプライバシーというべきものが、私たちのあいだから完全に姿を消す瞬間から、私たちにとってコミュニケーションはその意味をうしなう。  はり渡した板にまるい穴を穿っただけの、定員三〇名ほどにもおよぶ収容所の便所は、毎日一定の時刻に、しゃがんだ一人一人の前に長い行列ができる。便所でさえも完全に公開された場所である運命をのがれえない環境では、もはやプライバシーなぞ存在する余地はない。私たちはおたがいにとって、要するに「わかり切った」存在であり、いつその位置をとりかえても、混乱なぞ起りようもなかったのである。私たちの収容所では囚人番号は使用していなかったが、しかし徐々に風化されつつあった私たちの姓名は、いつでも番号に置きかえうる状態にあった。  しかし、この平均化は同時に、囚人自身がみずからのぞんで招いた状態でもあった。ここではただ数のなかへ埋没し去ることだけが、生きのびる道なのである。こうして私たちは、個としての自己の存在を、無差別な数のなかへ進んで放棄する。  言葉がむなしいとはどういうことか。言葉がむなしいのではない。言葉の主体がすでにむなしいのである。言葉の主体がむなしいとき、言葉の方が耐えきれずに、主体を離脱する。あるいは、主体をつつむ状況の全体を離脱する。私たちがどんな状況のなかに、どんな状態で立たされているかを知ることには、すでに言葉は無関係であった。私たちはただ、周囲を見まわし、目の前に生起するものを見るだけでたりる。どのような言葉も、それをなぞる以上のことはできないのである。  あるときかたわらの日本人が、思わず「あさましい」と口走るのを聞いたとき、あやうく私は、「あたりまえのことをいうな」とどなるところであった。あさましい状態を、「あさましい」という言葉がもはや追いきれなくなるとき、言葉は私たちを「見放す」のである。  このようにして、まず形容詞が私たちの言葉から脱落する。要するに「見たとおり」だからである。目はすでにそれを知っている。言葉がそれを、いまさら追ってもむだである。しかもその目は、すでに「均らされて」いるのである。つづいて代名詞が、徐々に私たちの会話から姿を消す。私たちはすでに数であり、対者を識別する能力をうしないはじめていたからである。ここでは、一人称と二人称はもはや不要であり、そのいずれをも三人称で代表させることができる。すなわち、私たちが確実に人間として「均らされて」行く状態、彼我の識別をうしなって急速に平均化されて行く過程に、それは照応しているのである。  失語の過程は、ある囚人にあっては、べつなかたちをとる。私はしばしば、朝起きてから夜寝るまで、なにかにおびえるように、のべつまくなしにしゃべりつづける男を見た。あるとき私は、その男が周囲の嘲笑や黙殺のなかで、つぎつぎに相手を代えながらしゃべりつづける姿を見て、胸をつかれた。そこにはもう、言葉がなかったからである。にもかかわらず彼の饒舌は、さいごまで相手を必要とした。その男はたぶん、刑期の終りまで無限にしゃべりつづけるだろう。彼は言葉をうしなったままで、無限に相手を必要として行くのである。  失語とは、いわば仮死である。それはその状態なりに、自然であるともいえる。そして、それが自然であるところに、仮死のほんとうのおそろしさがある。禿鷹も、禿鷹についばまれる死体も、そのかぎりでは自然なのだ。  シベリヤの密林《タイガ》は、つんぼのような静寂のかたまりである。それは同時に、耳を聾するばかりの轟音であるともいえる。その静寂の極限で強制されるもの、その静寂によって容赦なく私たちへ規制されるものは、おなじく極限の服従、無言のままの服従である。服従をしいられたものは、あすもまた服従をのぞむ。それが私たちの〈平和〉である。私たちはやがて、どんなかたちでも私たちの服従が破られることをのぞまなくなる。そのとき私たちのあいだには、見た目にはあきらかに不幸なかたちで、ある種の均衡が回復するのである。  ひとつの情念が、いまも私をとらえる。それは寂寥である。孤独ではない。やがては思想化されることを避けられない孤独ではなく、実は思想そのもののひとつのやすらぎであるような寂寥である。私自身の失語状態が進行の限界に達したとき、私ははじめてこの荒涼とした寂寥に行きあたった。衰弱と荒廃の果てに、ある種の奇妙な安堵がおとずれることを、私ははじめて経験した。そのときの私にはすでに、持続すべきどのような意志もなかった。一日が一日であることのほか、私はなにも望まなかった。一時間の労働ののち十分だけ与えられる休憩のあいだ、ほとんど身うごきもせず、河のほとりへうずくまるのが私の習慣となった。そしてそのようなとき私は、あるゆるやかなものの流れのなかに全身を浸しているような自分を感じた。  そのときの私を支配していたものは、ただ確固たる無関心であった。おそらくそれは、ほとんど受身のまま戦争に引きこまれて以来、ついにたどりつくべくしてたどりついた無関心であったかも知れぬ。そしてそのような無関心から、ついに私を起ちあがらせるものはなかった。だがこの無関心、この無関心がいかにささやかでやさしく、あたたかな仕草ですべてをささえていたか。私にとって、それはほとんど予想もしないことであった。実際にはそれが、ある危険な徴候、存在の放棄の始まりであることに気づいたのは、ずっとのちになってからである。私の生涯のすべては、その河のほとりで一時間ごとに十分ずつ、猿のようにすわりこんでいた私自身の姿に要約される。のちになって私は、その河がアンガラ河の一支流であり、タイシェットの北方三〇キロの地点であることを知った。原点。私にかんするかぎり、それはついに地理的な一点である。しかし、その原点があることによって、不意に私は存在しているのである。まったく唐突に。私はこの原点から、どんな未来も、結論も引き出すことを私に禁ずる。失語の果てに原点が存在したということ、それがすべてだからだ。    だが、収容所生活のすべてのデテールから言葉が消失するのではむろんない。言葉が無力となるのは、主として収容所の現実にかんしてである。現実の生活において言葉が無力なのは、私たちが人間として完全に均らされていたからであり、反応も発想も、行動すらもほとんどおなじであったからである。一般に囚人は、現在の実感については語らない。現実が決定的に共有されているとき、それについて語ることの意味はうしなわれる。そこでは人びとは、言葉で話すことをやめるだけでなく、言葉で考えることをすらやめる。一日の大部分がいわば条件反射で成り立っている生活では、思考の自立の誘因となる言葉から、人びとは無限に逃避するだけである。  これにたいして、言葉がなお余命をたもち、有効であるのは、彼らの過去、かつて人間であった記憶のなかでである。それは決して共有されることなく、ひとりひとりにあって息づいている。囚人にとって過去とその記憶は、すべてよろこばしいものの集積であり、そこでは言葉は無傷のままあたためられ、よろこばしくその機能をたもちつづける。  囚人にとって、およそ不幸な過去というものは、ありえない。すべての囚人にとって、過去は絶対に幸福でなければならない。このことは、囚人の見る夢が、例外なく過去の夢であり、例外なく幸福な夢であることからもわかる。彼らにとって幸福とはなにか。たとえばそれは、朝起きて一人で排泄することであり、街路を自分の歩速であるくことであり、あるきながら任意に立ちどまることであり、行きあう一人一人に鷹揚な関心を示すことができるということである。彼は思いついたように立ちどまることができ、そこから引返すことさえもできるのだ。私自身、しばしばそのことに思いおよんだとき、呼吸がとまるような驚きをおぼえた。  囚人が見る夢は、つねににぎやかである。そこでは、彼はつねに歓待される。言葉はそこでは、善意にあふれている。だれもが、だれをも傷つけない言葉。言葉はそのかたちで、やわらかに彼のなかへ密封される。そのとき鐘が鳴る。吊り下げられたレールの一片、または貨車の車輪をさびた鉄の棒が、ごくあたりまえのようにたたく音である。それは三つ鳴り、間をおいてさらに三つ鳴る。起床、その瞬間に、一切のよろこばしい言葉は箝口される。言葉は彼の記憶のなかへ拘禁され、果てしなくながい失語状態がふたたびはじまる。箝口された言葉は、おなじ時刻に彼の内部で石化する。それは、ほとんどいつもおなじ時刻である。一定の時刻に眠りに墜ち、かならず一定の時刻にそこから呼びもどされるとき、夢の長さも一定とならざるをえない。ある時期囚人は、ほとんどおなじ夢を見つづける。それはかならず、ある街の一隅ではじまり、他の街の一隅で終る。その正確さは、いわば外側から内へ、内側から外へとせめぎあう二つの秩序の拮抗の結果であるかもしれない。卑小をきわめた一人の男の内部と、世界の輪廓がまっとうに拮抗するのは、いわばこのときであるかもしれないのだ。  だが外側から見るかぎり、この拮抗がそのままで持続することは、一人の人格が分裂したままで放置されることである。その分裂をくいとめる力は、彼のなかにはない。このようにして囚人が、ますます深く過去のなかへ自己を閉鎖して行く結果、現実の世界では、言葉の回復がもはや絶望的なところまで彼は追いつめられる。私の友人は、まる三カ月間ほとんど無言ですごしたのち、発言を強要されたが、必要な言葉がほとんど念頭にのぼって来なかったと述懐している。だが私にあっては、強制労働においてしばしば遭遇する場面の、その一つが、のめりこみかけた私の襟首を引きすえたのである。    昭和二十五年夏、収容所からほぼ五キロの川沿いの採石現場で、作業開始直後、警戒位置についたばかりの監視兵の目の前を、一人のロシヤ人がいきなり警戒区域外へ走り出した。だれの目にも結果はあきらかなはずのこの行動は、拘禁心理から来る発作的な錯乱としか説明できない。この若いロシヤ人は、サボタージュのかどで近く裁判にかけられるという噂があった。強制収容中の犯罪は、通常はその収容所に設けられた臨時法廷で裁判にかけられ、刑の加重が決定した囚人は、この地域では多くのばあい、懲罰の意味でアンガラ河の鉄橋工事に送られる。その事自体は、とりたてていうほどのことではない。この地域の囚人はほとんどが五十八条(反ソ行為)関係の二十年囚か二十五年囚で、サボタージュによる刑の加算はせいぜい五年どまりである。ソ連の強制収容所のなかでも、とくに悪い環境にぞくするこの地域で、二十五年生きのびることは問題外であり、そのうえに加算される刑期なぞ、すでに無意味に近い。  しかし囚人は、本能的に未知な環境を恐れる。既知の悲惨は、それが既知であるというだけで、どのような未知の悲惨よりも、まだしも耐えやすく思われるのである。私自身、環境をかわるごとに、状況は確実に悪化した。こんどかわれば、さらに悪くなるという先入主のようなものが、かたく私たちのあいだに根をおろしていた。おそらくそうした不安がこの若いロシヤ人を、発作的に警戒区域外へ駆り立てたのであろう。  彼は不幸にして、監視兵の視野を横断する方向をとらず、一直線に遠ざかる方向をとったため、おちついて照準をあわせた監視兵によって一発で射殺された。世界が動顛するような一瞬ののち、すでに死体となって彼は投げ出されていた。かけ寄った監視兵が、なれた動作で、爪さきで死体を仰向けにした。  私たちはただちに作業場の中央へ集められ、すわりこんだ姿勢のまま、一切の意思表示を禁じられた。それまでは眠ってでもいたかのような監視兵の言動が、にわかに粗暴になり、膝を組みかえただけでもはげしい罵声が私たちにとんだ。監視兵の一人が死体から上衣を引きはがすと、私たちの目のまえでそれをひろげて見せた。みせしめのためである。砂と血で汚れたその上衣を前に、囚人たちは無表情におしだまったままであったが、あきらかに動揺していた。私たちにとってそれは、かならずしもはじめての経験ではなかった。死体はその場に放置され、監視兵の一人が上衣をたずさえて収容所へ走った。収容所に必要なのは上衣であって、死体ではない。上衣はあらためて全員に、警告のため〈公示〉されるはずであった。  うずくまった私のなかで、あるはげしいものが一挙に棒立ちになった。そのときの私の脳裡に灼きついたのは、そのときにかぎり死体ではなかった。そのとき私を動顛させたのは、監視兵がしっかりと狙って射ったただ一発の銃声である。銃声が恐怖となるのは、ただ一発にかぎられる。とっさのまに監視兵をとらえた殺意は、過不足なくその一発にこめられていた。一定の制限のもとに殺戮をゆるされたものの圧しころした意志が、その一発に集中していた。監視兵のこの殺意は、あきらかに私の内部に反応をひきおこした。私は私の内部で、出口を求めていっせいにせめぎあう、言葉にならない言葉に不意につきとばされた。それはあきらかに言葉であった。言葉は復活するやいなや、厚い手のひらで出口をふさがれた。一切の言葉を封じられたままで、私は私のなかのなにかを、おのれの意志で担いなおした。一瞬の沈黙のなかで、なにかが圧しころされ、なにかが掘りおこされた。私にとってそれは、まったく予期しなかったことであった。  この瞬間の衝撃は、帰国後もしばしば私をおびやかした。言葉をとりもどすということは、主体にその用意がないばあい、主体そのものの均衡を根底からゆりうごかす。そしてこの均衡こそは、囚人が失語を代償として、かろうじて獲得したものである。言葉は、言葉につらなる一切の眷族をひきつれて、もっとも望ましくないときに、不意をついて訪れる暴君である。  その夜、私たちの作業班は異様なふんいきに包まれた。だれもが生き生きと興奮していた。ふだんは死んだようなバラックのなかで、ときおりはげしい口論がおこり、なにかを相手に投げつけるものおとがした。だれもが、なぜ自分たちが興奮するのか、理解に苦しんでいるように見えた。そしてこの異様なふんいきのなかで、射殺された不幸な同囚のことなぞ、とうのむかしに私たちの念頭をはなれ去っていたのである。  翌日も、その翌日も、私たちは黙って働きつづけた。私の内部には、一発の銃声が呼びさました、あらあらしい言葉の手ざわりがいつまでもあった。言葉は、そのときまでたしかにうしなわれていたという実感をもって、うごかしがたく私に恢復した。その日もつぎの日も、私はほとんどものを言わなかった。それは私だけではなかった。そしてそれは、あきらかに失語とはことなる〈沈黙〉であった。私たちは一様にいらだちやすく、怒りっぽくなっていたが、あきらかにそれは、喪失したものを確認し、喪失そのものを担いなおしたものがもつ表情であった。  言葉はそののちも、しばしば私に失われた。しかし失語と沈黙の循環は目立ってみじかくなって行った。そしてそれらの過程全体を通じて、言葉の決定的な次元としての沈黙が、私のなかに根をおろして行った。 強制された日常から ……人びとは文字どおり自分を喜ばせる    ことを忘れているのであり、あらためて    それを学びなおさなければならないのである。 フランクル『夜と霧』(霜山徳爾訳)  『夜と霧』を読んで、もっとも私が感動するのは、強制収容所から解放された直後の囚人の混迷と困惑を描写した末尾のこの部分である。  彼らはとつぜん目の前に開けた、信じられないほどの空間を前にしながら、終日収容所の周辺をさまよい歩いたあげく、夜になると疲れきって収容所へ戻ってくるのである。これが、強制された日常から、彼らにとってあれほど親しかったはずのもう一つの日常へ〈復帰〉するときの、いわばめまいのような瞬間であり、人間であることを断念させられた者が、不意に人間の姿へ呼びもどされる瞬間の、恐れに近い不信の表情なのである。  それはおそらく、彼らが経験しなければならなかったかずかずの悲惨の終焉ではない。それは彼らが、〈もう一つの日常〉のなかで徐々に覚醒して行く目で、自分たちが通過して来た目のくらむような過程の一つ一つを遡行して行くその最初の一歩であり、およそ苦痛の名に値するものはそのときからはじまるのであって、それらの過程のことごとくを遡行しつくすまでは、〈もう一つの日常〉への安住なぞおよそありえないのである。  私が〈恢復期〉という言葉で考えようとしているのは、このような苦痛によって裏打ちされた特殊な期間の経験である。強制収容という異常な拘禁状態と、これにつづく解放期—恢復期との関係は、前者において状況だけがほとんど先取りされ、これに対応する苦痛は後者、恢復期へ保留されていること、すなわち拘禁状態にたいする本当の苦痛は、拘禁が終ったのち、徐々に、あるいは急速に始まるということである。  さらに、この二つの期間のもう一つの特徴は、肉体と精神の反応がはっきり分裂していることであって、このことは、恢復期における両者の立直りのテンポが大きくずれていることのなかに集約的にあらわれている。というよりは、両者ははっきりと別の方向をたどる。肉体は正確に現実に反応する。それはフランクルがいうように、文字どおり現実に「つかみかかる」。それは正確に生理学的な法則をたどって恢復し、ついに「恢復しすぎる」に到る。だが精神は、このときようやく拘禁そのものの苦痛を遡行し、経験しはじめるのである。  この、いわば異常肥大化する肉体と、解放の時期にはじめて収監される、極度にいたみやすい精神とのあいだの断層が、実は恢復期の痛みの実体なのである。このような恢復期を二度——一度はハバロフスク、二度目は帰国直後の日本で私は経験した。  最初の恢復期の混乱を理解するためには、これに先立つ期間に私たちが置かれた環境を説明しなければならない。  私は昭和二十四年から二十五年にかけて、東シベリヤの密林地帯で二十五年囚としての刑に服した。バイカル湖西方、バム(バイカル・アムール)鉄道に沿って強制収容所が点在するこの地帯は、慣れた囚人でもしりごみするところである。この、ほぼ一年にわたる期間が、結局八年の抑留期間を通じて最悪の期間となった。この時期は私たちにとって入ソ後二回目の、いわば〈淘汰〉の時期にあたる。  最初の淘汰は、入ソ直後の昭和二十一年から二十二年にかけて起り、私の知るかぎりもっとも多くの日本人がこの時期に死亡した。死因の圧倒的な部分は、栄養失調と発疹チフスで占められていたが、栄養失調の加速的な進行には、精神的な要因が大きく作用している。それは精神力ということではない。生きるということへのエゴイスチックな動機にあいまいな対処のしかたしかできなかった人たちが、最低の食糧から最大の栄養を奪いとる力をまず失ったのである。およそここで生きのびた者は、その適応の最初の段階の最初の死者から出発して、みずからの負い目を積み上げて行かなければならない。 すなわちもっともよき人びとは帰っては来なかった フランクル『夜と霧』  いわば人間でなくなることへのためらいから、さいごまで自由になることのできなかった人たちから淘汰がはじまったのである。  適応とは「生きのこる」ことである。それはまさに相対的な行為であって、他者を凌いで生きる、他者の死を凌いで生きるということにほかならない。この、他者とはついに「凌ぐべきもの」であるという認識は、その後の環境でもういちど承認しなおされ、やがて〈恢復期〉の混乱のなかで苦い検証を受けることになるのである。  この時期を経たのち、私たちの淘汰はすこしずつゆるやかな過程をたどるようになり、死はしばらく私たちのあいだでは例外となった。わずかに最初の淘汰に洩れて私たちの側へ残りながら、なお適応へのためらいを捨てきれずにいた者が、櫛の歯が折れるように間をおいて、不幸な先例を追ったにすぎない。  二度目の淘汰は、昭和二十四年から二十五年にかけて起った。あずかり知らぬ偶然によって一般捕虜のあいだから私たちは選り分けられ、法廷へひきわたされた。それらの理不尽な経過のひとつひとつを拾いなおすことは、今ではほとんど無意味である。私たちを摘発した側のひとりひとりにとっても、それはただ困惑でしかないだろう。  太平洋戦争中ほぼその戦力を温存しえた関東軍は、戦闘状態が完全に終熄したのちに、初めて最大の損害をこうむった。八十五万の捕虜から差し引かれた五万の死者と七万の消息不明者(そのほとんどは死亡したはずである)は、すべてが平時に還ったのちに発生した損害である。そののちさらに三千に近い日本人が、サンフランシスコ条約の締結に備えてソ連政府の手許へ保留された。極東軍事裁判とは無関係の〈かくし戦犯〉である。これらの処断の手続きはソ連の〈国内法〉によって行なわれ、外国人であるにもかかわらず、ソ連邦の市民権を剥奪されたが、このような形式的矛盾はその後の私たちの困難には実質的に無関係である。その後の環境のなかでの私たちの行動について最終的に責任を負わなければならないのは、私たち自身である。私たちを支配した環境が、それを余儀なくさせたという弁明は通らない。にもかかわらず、ついにいたし方ない過程をたどって、私たちは堕落して行ったのである。  堕落の第一は、私たちに対する非人間的な処遇、すなわち囚人たる地位への順応である。起訴状を読みあげた保安将校は、はっきり「ヴァエンヌイ・プレストゥプニク」(戦争犯罪人)という名称を使用したが、私たちには直接の犯罪意識はさいごまでなかった。私たちはこの判決が、私たちには無関係の意図によって行なわれたことにおぼろげながら気づいていたからである。〈かくし戦犯〉の選別は昭和二十三年の秋ごろからはじまり、翌年秋の初めに打ち切られた。おなじ部隊のものでも、この時期以降は一般捕虜として無事帰国している。したがって、〈かくし戦犯〉が一定数に達したとき、ソ連政府は選別を打ち切ったと考えることができる。  いずれにしても、私たちに対する法的な処断は、ある政策的な意図によるものであり、適用条項である刑法五十八条(反ソ行為)によって、私たちの良心が拘束されるはずはなかった。しかし、判決を終るやいなや処遇は一変した。私たちは五十八条が規定するとおり、国家に対する犯罪者として取り扱われることになり、まさにそのように扱われた。起訴から判決までの数カ月のあいだに、私たちは戦争犯罪人から、一国の国内犯へ切りかえられた。したがって私たちは、判決にさいし、ソ連邦の市民権を剥奪されたのである。  私たちの〈格下げ〉は、まず判決直後収容されたカラガンダ第二刑務所で始まり、爾後加速的に取扱いは苛酷になった。これらの経緯の詳細を語ることは、今ではあまり意味がないが、一例をあげると「ストルイピンカ」(拘禁車)での経験がある。ストルイピンカとは、限られた数の囚人の輸送にもっぱら使用される車両で、一般の列車に連結して運行される。正式の名称は知らないが、囚人のあいだではもっぱらストルイピンカで通っていた。ストルイピンカとは帝制末期の内相ストルイピンの名に由来している。  通常緑色の兵科章をつけているストルイピンカの警乗兵は、もっぱら囚人護送を専門に担当しており、囚人にたいしてはとくに粗暴である。昭和二十四年秋、私たちは東シベリヤへ向けてカラガンダを出発したが、このときはじめてストルイピンカの扱いを経験した。乗車は夜明け前、一般乗客に先立って行なわれ、十人程度のグループに区切って警乗兵に引き渡される。  ストルイピンカの内部はいわば留置場であって、片側が監視廊を兼ねた通路になっており、通路に沿って鉄格子で厳重に仕切られた留置室が奥まで並んでいる。ここで私たちは、どのような扱いをも甘受せざるをえない自分たちの身分を、徹底して思いしらされる。私たちはまず通路へ横隊に並ばされ、警乗兵の目の前で、手ばやく上衣とズボン、靴を脱いで、所持品とともに足もとへならべなければならない。脱ぎおくれた一人が、いきなり警乗兵に蹴倒された。私たちが留置室へ追いこまれたあとも、通路からは警乗兵の罵声や、床に倒れる囚人の音がつづいた。  ストルイピンカ乗車直後に、例外なく囚人が経験する過剰ともいえるこの威嚇は、あきらかにある示威的な意図を含んでいる。爾後、輸送中つぎつぎに強いられる経験は、国家にたいする犯罪者としての自認を、いやおうなしに私たちに迫った。発車直後にまず私たちが味わった苦痛は渇きである。ストルイピンカでは食糧は支給しない。私たちは刑務所を出発するさい三日分の黒パンと塩漬けの鱒を一匹支給されたが、その夜一泊した民警(警察)の留置場でたちまち平げてしまった。  いつ盗まれるかもしれないという不安と、輸送中は労働がないという安心からでもあったが、なによりも満腹感が味わえるという狂喜に近いものが私たちの分別を奪ったのである。その後の苦い経験から、ストルイピンカ乗車前には、一切飲食いしてはならないことを骨身にこたえて思い知ったが、ストルイピンカについてはまったく無知だったそのときの私たちにとっては、どうにもならないことであった。  三日分の黒パンと塩鱒一匹をまるごと平げた結果は、発車直後の猛烈な渇きとなってまずあらわれた。どの留置室からも渇きを訴える声がきこえ、次第に哀願に近いものに変って行った。二、三時間おきの停車時に備付けの三つのバケツで、順番に留置室へまわされる水は、おりかさなるようにして口をつける囚人たちによって、あっというまになくなった。飲みあらそってバケツをひっくりかえした留置室へは、つぎの順番が来るまで水は支給されない。警乗兵に口汚くののしられながら、這いずるようにしてバケツにしがみつく同囚のあいだで、私はほとんど目がくらみそうであった。  こうした混乱をくりかえしながら、すこしずつ渇きがおさまるころから、私たちははげしい尿意に悩み出した。前夜の三日分の食糧をまたたくまに消化した胃腸は、さらに容赦なくその排泄を私たちに迫った。ストルイピンカの便所は大小一つずつしかない。許されてそこへ行ける者は、順番に一人だけである。かろうじて順番にありついた者は、おそらく翌日までその機会がないことを考えて、できるだけ全部の用をすまそうとして、最大限の時間をそこでねばる。そこには同囚の苦痛にたいする顧慮はすでにない。その結果、私たちの目の前で何人もの囚人が、用もすまないうちに便所から引きずり出されて留置室へ追いこまれた。  こうして、二十四時間にかろうじて一度まわってくる順番を、鉄格子にひしめきながら待つうちに、私たちはしだいに半狂乱に近い状態におちいった。こらえかねて留置室の床へ排便した者は、ただちに通路へひきずり出されて、息がとまるほど足蹴にされたのち、素手で汚物の始末をさせられた。この拷問にもひとしい輸送日程は三日で終り、かろうじて私たちはペトロパウロフスクのペレスールカ(中継収容所)に収容されたが、わずか三日間の輸送のあいだに経験させられたかずかずの苦痛は、私たちのなかへかろうじてささえて来た一種昂然たるものを、あとかたもなく押しつぶした。ペレスールカでの私たちの言動には、すでに卑屈なもののかげが掩いがたくつきまとっており、誰もがおたがいの卑屈さに目をそむけあった。  ストルイピンカによる輸送は、通常三日か四日で打ち切られ、いったん沿線のペレスールカへ囚人を収容する。それ以上長途の輸送は、必要以上に囚人を疲労させるからである。このため沿線の目ぼしい都市には、かならずといっていいほどペレスールカが設けられている。ここで囚人は一週間ほど〈静養〉期間を与えられ、体力の恢復を待って、ふたたびストルイピンカに引き渡される。  こうした過程をつぎつぎにたどるうちに、正常な状態ではとうてい受け入れようのない処遇を、当然のこととして私たちは受け入れるようになる。かつて人間であったという記憶は、しだいにいぶかしいものに変って行くのである。  適応とは「生きのこる」ことであり、さらにそれ以上に、人間として確実に堕落して行くことである。生きのこることは至上命令であり、そのためにこそ適応しなければならないのであり、そのためにこそ堕落はやむをえないという論理を、ひそかにおのれにたどりはじめるとき、さらに一つの適応の段階を私たちは通過する。  このような環境をはるかに遠ざかったいま、安んじて私たちはそれを堕落と呼ぶかもしれない。だが、任意のいかなる時期にそう呼びうるにせよ、私たちが堕落の過程を踏んだのは事実であり、それに責任を負わなければならないのは私たち自身である。ある偶然によって私たちを管理したものが、規定にしたがって私たちを人間以下のかたちで扱ったにせよ、その扱いにまさにふさわしいまでに私たちが堕落したことは、まちがいなく私たちの側の出来事だからである。  堕落の第二は、囚人のあいだでの救いようのない相互不信である。このような相互不信をもたらす恰好な例として、よく知られたノルマ制度がある。ノルマ制度とは一日の作業課題を完遂した者を一〇〇パーセントとし、褒賞によってその超過遂行を奨励する制度として知られているが、囚人に適用されるとき、それはきわめて陰惨なかたちをとる。  強制収容所の一日の食糧には厳重な枠があり、これをこえることは許されない。この総量を囚人の頭数で割った平均一人あたりの量は、囚人一人の生命をかろうじて維持できても、その労働力をとうてい維持できる量ではない。囚人の労働時間は一日十時間である。食事は朝夕の二回であるが、主食のほとんどは朝支給される。  このきめられた食糧の枠で、ノルマ制を実施することになると、一部の囚人に加給される食糧は、当然他の囚人の犠牲においてまかなわれることになる。収容所側は食糧の平等な分配を厳重に禁止しているため、作業班長はやむなく書類上の操作で、何人かのノルマ遂行者と未遂行者を作って報告する。報告はそのまま炊事へまわされ、翌朝の食事にはっきりと差のついた給食となってあらわれる。  もっとも明確に格差がつくのは主食の黒パンであって、増食組と減食組との差は、しばしば後者が前者の半分以下になる。多少とももののわかった作業班では、この増食と減食を班の内部でたらいまわしにするが、いずれは特定の囚人に固定せざるをえない。常時増食にあずかるのは、若いまだ頑健な囚人か、もしくは班長となれあった一部のグループである。減食組はいずれは老人か、すでに栄養失調の症状のあきらかな病弱者に固定されざるをえない。作業班自体としても、サボタージュの罪に問われない水準に班の実績を維持するためには、こうした〈荷厄介〉の食糧を削らざるをえないのである。  だが問題は、増食組にも減食組にも属さない中間の層である。作業班の労働力は、実質的にはこの層に集中している。したがって作業班長は増食の一部を、この層にまわさざるをえないが、彼らをつねに競争状態に置くために、これを特定の個人に固定しない。このいわば〈浮動食〉にありつくために、多少とも体力の残っている囚人は、その全力をかけるのである。そのあげくにかろうじてありつく増食が、そのために消耗した体力をまかなうことはほとんどない。私たちはながい適応の経験から、そのことを知りつくしているはずであった。だが、現実に目の前に置かれる日ごとのパンの重みは、結局は一切の教訓をのりこえる。  こうして私たちは、みすみす結果があきらかなはずのこの生存競争に、とぼしい体力をあげて立ち向わざるをえない。それは体力の限界でついに競争を断念せざるをえなくなるときまで、さいげんもなくつづけられるのである。私たちにとって二度目の淘汰にあたるこの時期に、比率的にはもっとも多くの犠牲者がこの中間層から出た。しかも日本人受刑者は、もっとも多くこの層に属していたのである。  このような競争を経て、明確に格差をつけられた食卓は悲惨そのものである。そこではある者が、ありありと他の生存をおかすかたちをとる。およそ一切の処遇にたいして、すでに麻痺したはずの囚人の神経も、食事にたいしては考えられないほど鋭敏である。彼は、いま隣りあっている囚人が、あきらかに自分の食糧を〈奪取〉しつつあることを直感する。そして不幸なことに、弱者のこの直感はつねに正しいのである。  このような食事がさいげんもなく続くにつれて、私たちは、人間とは最終的に一人の規模で、許しがたく生命を犯しあわざるをえないものであるという、確信に近いものに到達する。第二の堕落はこのようにして起る。食事によって人間を堕落させる制度を、よしんば一方的に強制されたにせよ、その強制にさいげんもなく呼応したことは、あくまで支配される者の側の堕落である。しかも私たちは、甘んじて堕落したとはっきりいわなければならない。ハバロフスクでの私たちの恢復期には、おおよそこのような体験が先行している。  昭和二十五年秋、バム鉄道沿線の日本人受刑者は、突然タイシェットへ送還され、日ならずして梯団を編成、シベリヤ本線を東へ向け出発した。輸送先はハバロフスクであった。  私たちは、すでに捕虜が帰還したあとの六分所に収容され、その日のうちに全員の健康診断が行なわれたが、診断に医学的な手続きはほとんど不要であった。私たちがシャツを脱ぐだけで、徴候は明白だったからである。私たちの説明を聞き終ったソ連人軍医は、首を振って「そんなことは考えられない」と答えただけであった。  この日から私たちの〈恢復期〉がはじまる。八時間の労働と、日に三度の平等な食事。季節はすでに冬へ向っていたが、肉体——それは健康というなまやさしい言葉では表現できない——の恢復はほとんど暴力的であった。私たちは、食べたその分だけ確実に肥った。禁欲を一挙に破られた消化器官は、例外なくアレルギー症状におそわれ、私たちははげしい下痢になやみながら、正確に肥っていった。「食っただけちゃんと肥る。まるで豚だ」という軍医の言葉を聞いたとき、私は生存そのものがすでに堕落であるという確信につきあたって、思わず狼狽した。  十月のなかば、私は所内の軽作業にまわされていた他の数人とともに、ハバロフスク郊外のコルホーズの収穫にかり出された。ウクライナから強制移住させられた女と子供ばかりのコルホーズで、ドイツ軍の占領地域に残ったという理由で、男はぜんぶ強制労働に送られたということであった。だが小声で語る女たちの身の上ばなしに、ほとんど私は無関心であった。他人の不幸を理解することが、私にはできなくなっていた。周囲が例外なく悲惨であった時期に、悲惨そのものをはかる尺度を、すでにうしなっていたのである。このことは、つぎの小さな出来事がはっきり示している。  正午の休憩にはいって、女たちはいくつかのグループに分れ、車座になって食事の支度をはじめた。私たちはすこしはなれた場所から、女たちのすることをだまって見ていた。小人数の〈出かせぎ〉には昼食は携行せず、帰営後支給されることになっていたからである。食事の支度を終った女たちは、手をあげて私たちを招いた。「おいで、ヤポンスキイ。おひるだよ。」  それは私たちにとって、予想もしなかった招待であった。そのようにして、他人の食事に自分が招かれているということは、ほとんど信じられないことだったからである。私は反射的にかたわらの警備兵を見あげた。このようなかたちでの一般市民との接触は、むろん禁止されている。警備兵は、女たちの声が聞こえなかったかのように、わざとそっぽを向いていた。「いきたければいけ」という意味である。  私たちは半信半疑で一人ずつ立ちあがって、それぞれのグループに小さくなって割りこんだ。われがちにいくつかのパンの塊が私の手に押しつけられ、一杯にスープを盛ったアルミの椀が手わたされた。わずかの肉と脂で、馬鈴薯とにんじんを煮こんだだけのスープだったが、私には気が遠くなるほどの食事であった。またたくまに空になった椀に、さらにスープが注がれた。息もつがずにスープを飲む私を見て、女たちは急にだまりこんでしまった。私は思わず顔をあげた。女たちのなかには、食事をやめてうつむく者もいた。私はかたわらの老婆の顔を見た。老婆は私がスープを飲むさまをずっと見まもっていたらしく、涙でいっぱいの目で、何度もうなずいてみせた。そのときの奇妙な違和感を、いまでも私は忘れることができない。  そのとき私は、まちがいなく幸福の絶頂にいたのであり、およそいたましい目つきで見られるわけがなかったからである。女たちの沈黙と涙を理解するためには、なお私には時間が必要であった。  翌年にはいって、健康の恢復はようやく絶頂を過ぎ、私たちの食欲は目にみえておとろえはじめた。収容所生活で食事への関心がうすれるということは、あきらかに不幸な徴候である。それは、ほとんど生きがいをうしなうにひとしい。このときになって私は、バム地帯での一日一日が、いかに確固とした期待によってささえられていたかということに気づいて、愕然としたのであった。私たちの体力はほぼ入ソ直前の水準まで回復し、ほとんどが申しぶんなく肥っていたにもかかわらず、容貌は弛緩し、表情は荒廃していた。食事への関心がうしなわれたいま、私たちには考えることがまったくなかったからである。肉体と精神の恢復のずれは、このころからしだいにはっきりしたかたちをとりはじめた。  ハバロフスクはようやく春を迎えようとしていた。極東地方の春はおそく、そしてみじかい。その訪れ方のはげしさにおいて、ハバロフスクの春はまさに象徴的であった。春は、短い期間をそれこそ嵐のようにかけぬける。それは一夜のうちに街を占領し、樹木と人をあらあらしくゆりおこす。春がこのようにはげしい季節だとは、予想もしないことであった。そして、このむせかえるような季節の息づかいは、かろうじて私たちのなかにたもたれて来た均衡を、手あらくゆさぶった。  人がその恢復期にあって、もっともねがうものはなにか。おそらくそれは、均衡の確立である。しかし事実は、この恢復期においてこそ、もっとも大きく均衡がうしなわれるのである。恢復期以前にあって、それなりの次元でかろうじてたもたれて来た心身の均衡が、この時期に大きくくずれる。恢復期に特有の混乱と痛みがこれにともなう。衰弱した精神にふさわしく肉体が衰弱することによって、それなりにたもたれて来た均衡は、まず肉体によって破られる。肉体は容赦なく恢復し、恢復した状態をさらにこえる。恢復した肉体は、あらあらしく生きる目標を求める。食うことがもはや目標であることをやめたいま、精神がそれを肉体に示さなければならない。しかも拘禁された状態のままで。  精神も私たちのなかで、たしかに恢復しつつあった。しかしそれは、肉体の恢復のようなよろこばしい過程ではけっしてない。それ自体が自己目的に近い肉体の恢復とはちがい、精神の恢復は、なによりもまずその痛みの恢復である。それは、コルホーズの女たちの沈黙と涙を、痛みとして受けとめる感受性を、生きているという事実の証しとしてとりもどすことである。そしてこのような過程が、ハバロフスクでの最初の春の訪れとともにはじまったことは、私にとってけっして偶然なことではなかった。  その頃、私は市内の建築現場で働いていたが、ある日出来あがったばかりのバルコニーから、茫然と街を見おろしていたとき、かたわらの壁のかげで誰かが泣いている気配に気づいた。私のよく知っている男であった。十七のとき抑留され、ハバロフスクで二十二になったこの〈少年〉が、声をころして泣きじゃくるさまに、私は心を打たれた。泣く理由があって、彼が泣いているのではなかった。彼はやっと泣けるようになったのである。バム地帯で私たちは、およそ一滴の涙も流さなかった。  私たちの精神が平均的に新しい環境に対応できた時期はようやく終りに近づいていた。私たちがひとりひとりの意志で、これに対応しなければならない時期が来たのである。適応という生物学的な過程をしいられた時期はすでに過ぎたにもかかわらず、私たちは、みずからの意志によって、みずからの姿勢をえらぶということをほとんど知らなかった。いまやそれを、あらためて学び直さなければならないはずであった。みずからの精神的自立において、おそらくもっとも大きなこの危機に、私たちはほとんど対処する力がなかった。私たちは精神というものをほとんど信じなくなっており、肉体的な法則に呼応することで生きのびて来たようなものだったからである。  しかし、条件反射という機能は、あきらかに精神の領域に属する。精神はその活動の最初の段階で、おそらく動物的な領域を通過するのであろう。この段階で私たちは、私たちにとって苦痛な問いを本能的に回避した。  春がすぎるとともに、私たちは目立って陽気で開放的になったが、その過程はあきらかに不自然であり、シニカルであった。この期間はいわば〈解放猶予〉ともいうべき期間であり、この時期に私たちは、自由ということについて実に多くの錯誤をおかしたのである。  最大の錯誤は、人を「許しすぎた」ことである。混乱はまず、私たちのあいだの不自然な寛容となってあらわれた。病的に信じやすい、酔ったような状態がこれにつづいた。  「おなじ釜のめしを食った」といった言葉が、無造作に私たちを近づけたかにみえた。おなじ釜のめしをどのような苦痛をもって分けあったかということは、ついに不問に附されたのである。たがいに生命をおかしあったという事実の確認を、一挙に省略したかたちで成立したこの結びつきは、自分自身を一方的に、無媒介に被害の側へ置くことによって、かろうじて成立しえた連帯であった。それは、われわれは相互に加害者であったかもしれないが、全体として結局被害者なのであり、理不尽な管理下での犠牲者なのだ、という発想から出発している。それはまぎれもない平均的、集団的発想であり、隣人から隣人へと問われて行かなければならないはずの、バム地帯での責任をただ「忘れる」ことでなれあって行くことでしかない。私たちは無媒介に許しても、許されてもならないはずであった。  私が媒介というのは、一人が一人にたいする責任のことである。一人の人間にたいする罪は、一つの集団にたいする罪よりはるかに重い。大量殺戮《ジエノサイド》のもっとも大きな罪は、そのなかの一人の重みを抹殺したことにある。そしてその罪は、ジェノサイドを告発する側も、まったくおなじ次元で犯しているのである。戦争のもっとも大きな罪は、一人の運命にたいする罪である。およそその一点から出発しないかぎり、私たちの問題はついに拡散をまぬかれない。  私たちはこの時期に、あらためてひとりひとりの問いとならなければならないはずであった。肉体的には、私たちは、ほとんどおなじ条件で、いわば集団として恢復した。しかし精神としては、私たちはひとりひとりで恢復しなければならない。なぜなら、集団のなかには問いつめるべき自我が存在しないからである。そしてこの、問いつめるべき自我の欠如が、私たちを一方的な被害者の集団にしたのである。  人間の堕落は、ただその精神にのみかかわる問題である。肉体は正確に反応し、適応するだけであって、そのこと自体は堕落ではない。堕落はただ精神の痛みの問題であり、私たちが人間として堕落したのは、一人の精神の深さにおいて堕落したのであって、もし堕落への責任を受けとめるなら、それは一人の深さで受けとめるしかないのである。私たちはさいごまで、一人の精神の深さにおいて、一人の悲惨、一人の責任を問わなければならないはずであった。だが、精神の密室でそれが問われるとき、私たちは自己にたいして恣意に寛容であることができる。なぜか。私たちはこのようにして、ついに〈権威〉の問題につきあたる。  緩和されたとはいえ、私たちはなお拘禁状態にあり、外側から加えられる拘束にたいしては、いぜん集団として対応せざるをえなかったことが、単独な場での追求を保留させたということもできる。だがもっとも大きな問題は、私たちにのがれがたく責任を問う真の主体である権威が、ひとりひとりの内部で完全に欠落していたことであり、この欠落が私たちを、焦点をうしなったまま、集団的発想へ逃避させたのである。  このようにして恢復期を通じ、精神の自立へのなんらの保証をももちえぬままで、私たちはただ被害的発想によって連帯し、バム地帯での苦い記憶を底に沈めたまま、人間の根源にかかわる一切の問いから逃避した。私自身、あらためておのれの背後へ向きなおり、被害的発想と告発の姿勢からはっきり離脱するという課題を自己に課したのは、帰国後のことである。そしてこれには、抑留のすべての期間を通じ、周囲から自己を隔絶することによって精神の自立を獲得した一人の友人の行動が大きく影響している。  私は八年の抑留ののち、一切の問題を保留したまま帰国したが、これにひきつづく三年ほどの期間が、現在の私をほとんど決定したように思える。この時期の苦痛にくらべたら、強制収容所でのなまの体験は、ほとんど問題でないといえる。苛酷な現実がほとんど一つの日常となってしまった状態から、もう一つの日常へ一挙に引きもどされたとき、否応なしに直面せざるをえなかった二つの日常の間のはげしい落差は、めまいに近いものであった。そしてこのようなめまいのなかで、かつて問われつづけた自分自身をもう一度問いなおして行く過程は、予想もしなかった孤独な忍耐とかたくなな沈黙を私に強いた。恢復期、正常な生命の場へ呼びもどされる時期の苦痛は、それ以後私の最大の関心事となったといっていい。  苦痛そのものより、苦痛の記憶を取りもどして行く過程の方が、はるかに重く苦しいことを知る人は意外にすくない。欠落したものをはっきり承認し、納得する以外には、この過程をのりこえるどのような手段ものこされてはいなかったのである。  そしてこれらの過程のすべてを通じて、私たちはのがれがたく、日常にとらえられており、およそ日常となりえないどのような悲惨も極限も、この世界にはないのだという認識に、やがては到達せざるをえないのである。  帰国後十六年を経たいま、これらの試行錯誤の跡をたどってみて、この時期の混乱と混迷がいまなお克服も整理もされていないことに、おどろくほかはない。私はナホトカからほぼ四日かかって東京に着いたが、この四日という期間の長さを、いまもって私は正確に測ることができない。それは、私の知っているどの時間にも属さない、まったくの異質な時間であった。長い、重い、単調な、乾燥した時間は、ナホトカの汀まで私たちを追って来た。ナホトカの埠頭で私たちはやっとそれをふりきった。興安丸がソ連の領海をはなれたとき、私たちは甲板に出て、安堵して空と海を見た。そのとき私たちをはこんでいたものは、おそらく〈時間〉というものではなかった。いわば二つの時間のあいだの、大きな落差のようなもののなかに私たちはいたのである。  私たちは未来という時間的感覚を、すでにうしなっていた。船が南下するにつれて、私たちはひたすらに過去へ引きもどされて行くような錯覚に何度もとらえられた。風景の展開をまったくともなわない、一種の真空状態のなかでのこの退行感覚は、海をこえてかろうじて帰国したものだけが知っている特殊な錯誤なのかもしれない。私たちは一様に興奮し、一様に虚脱していた。私たちがやがてたどりつく風景は、すでに熟知しているはずのものであり、目を閉じてなぞりつづけたはずのものでありながら、まったく未知のものであり、一秒ごとにただ不安をもって待ちのぞむしかないものであった。だれもがあかるく、陽気に肩をたたきあいながら、そのひとりひとりの目が、苦痛なほど空虚なことを、やむをえぬことのように私は見た。私自身の目も、まちがいなくそうであったはずである。  私たちはいわば、二つの時間のあいだを、「つきとばされた」かたちで舞鶴に着いた。そこでそれぞれの群れに奪い去られた。無際涯の海と空のあいだへ不用意に投げ出され、さらに不用意に、理解のいとまもなく、すさまじいつながりのなかへまきこまれたといえるだろう。舞鶴の吸いこまれるばかりの海の紺、松の緑は、その後車窓を通過したすべての風景とおなじく、ただ呆然と私たちの視野を通過しただけであった。  昭和二十八年十二月三日午後、私は東京に到着した。私が想像していた位置に、品川駅があった。だが駅を出て見た東京は、私が想像のなかでつけ加えたどの修正をも、はっきりとこえていた。目の前に展開する一切の速度がちがうのである。速度というものに、まず私はおびえなければならなかった。なんのためにこれほどの速度を必要とするのか、私にはほとんど理解できなかったのである。  新しい環境での違和と疎外の感覚は、まず時間と言葉の面ではっきりあらわれた。数日前まで、私はあきらかに別種の時間のなかにいた。それはいわば、長い管の内部のような閉鎖した空間を流れつづけて来た時間であり、いま私の周囲をまぶしく流れている時間はそれとはあきらかに異質のものであったが、この新しい時間は、ただ私の外側を流れるだけであり、私の内部を支配していたのは、およそどの時間にも属さない私だけのあてどもない時間であった。それはたえまなく切迫し、弛緩して私を混乱させた。いまはただこのような抽象的な表現でしか、帰国直後の混乱を語れないのが残念である。  つづいて私自身の、環境からの疎外を決定的なものにしたのは言葉である。それはまず、生理的な欲求に似た、とめどもない饒舌ではじまった。それは、悪夢のような記憶をただ切れぎれにつづりあわせるだけの、相手かまわずの、さいげんもない饒舌である。あきらかに、べつなかたちでの失語の段階に、私は足をふみいれていたのである。記憶はたえず前後し、それぞれの断片は相互に撞着した。記憶の或る部分だけを取りあげて語るということが、私にはできなくなっていた。「一切を」語りたいという欲求から、さいごまで私はのがれることができなかった。私はしばしば話の途中で絶句し、途方にくれた。そしてこのような饒舌のなかで、私は完全に時間の脈絡をうしなっていた。 強制された日常から 私たちの多くは、あのようなかたちで、戦争責任を「具体的に」担って来たという一種の自恃に似たもので、わずかにその姿勢をささえていたかに見えたが、それは、戦争責任を「担わされた」という被害的発想からわずかにずれたところで、かろうじて成立した自恃であった。そしてこの自恃が饒舌に結びつくとき、相手は例外なく困惑または憐憫の表情を示した。  饒舌のなかに言葉はない。言葉は忍耐をもっておのれの内側へささえなければならぬ。結局はそのような認識によって、私は沈黙へたどりついた。欠落したものを確認し、一切の日常の原点を問いなおす姿勢は、そののちかろうじて私に定まった。 終りの未知 ——強制収容所の日常  極限の向うに、さらに一つの極限の予感がある。人間が追いつめられるのは、つねにその予感の一歩手前である。いわばそのような予感において、私たちは極限へ追いつめられるのであり、予感された極限が永遠に保留されることによって、極限はそのままの位相で日常へ転化する。  強制収容所の囚人には、いわば〈執行猶予妄想〉ともいうべき不安がさいごまでつきまとう。これは死刑囚にさいごまでつきまとう〈恩赦妄想〉と正反対のものである。おそらく死刑囚は判決直前に恩赦妄想に憑かれ、爾後熾烈の度を加えながら持続するかぎりそれは持続し、刑の執行直前に絶頂に達する。死刑囚が容易に自殺しないのは、おそらくはこの恩赦妄想による。しかし恩赦妄想とはまさに反対のかたちで、〈執行猶予妄想〉もまた、不安定なその屈折によって、囚人が自殺へのめりこむ〈歯止め〉となるのである。  一九四八年前後、ソ連政府は人道上の理由によって死刑を廃止し、その数年後に政治的な理由によってこれを復活した。そしてこの、廃止と復活をはさむ数年のあいだに、おどろくべき数の〈不定期囚〉が生れた。〈不定期囚〉とは、この短い期間に、ロシヤ共和国刑法五十八条の名で、全ソの法廷から精力的に送り出された二十年ないし二十五年囚を指している。この期間に行なわれた長期判決の特色は、有期刑であるにかかわらず、ほとんどが〈不定期刑〉の性格を帯びていたことである。二十年と二十五年のちがいは、いわばソビエト法廷のユーモアであって、そのいずれも実質的に〈不定期刑〉であることに変りはない。  しかしこの二十五年という不定期刑は、受刑地によって致命的な格差がつく。二十五年という刑期におそらく囚人が耐えない地域として私が知ることのできたのは、ほぼつぎの三つである。第一は極東のマガダンを中心とするコルイマ地帯、第二はバイカル湖西方バイカル・アムール鉄道に沿うバム地帯、第三は北極海に面したヴォルクタ地域である。この地域に送りこまれた囚人は、彼らが受刑以前にかろうじてもちえた予備知識によって、ほぼそこが最終の地であり、二十五年を待たずしておそらく「刑が執行される」であろうこと、しかもそれが未確定のまま〈猶予〉されていることを直感するのである。  この猶予の感覚は重大である。囚人はこの猶予の感覚によって、みずからの姿勢を決定する機会を永久にうばわれる。すなわち日常が、まさにのがれがたく強制されるのである。  執行猶予妄想とは、重大なことはすでに起っており、事態はすでに決定的であるにもかかわらず、重大なことは今後に残されており、いまなおなにごとも決定されていないという錯覚が無限につづくことである。二十五年が不定期刑にほかならないという囚人の直感が、結局はこの錯誤を生む。それは囚人が、二十五年という刑期の〈結末〉について、およそいかなるイメージも持つこともできないことからも来ている。  緊張の極の法廷での判決を終り、刑務所での不安な〈待機〉と、長い困難な〈護《エタ》送《ツプ》〉を経て、想像もできなかった環境に最終的に適応しなければならない段階に来てすら、なお私たちは刑の執行直前の段階にあり、やがては刑を執行されるのだという、とらえどころのない不安に悩まされた。現に最悪の状態にありながら、最悪の状態の〈予感〉にたえずおびえつづけているということ、したがって、そのなかに腰を据えるにも据えようがないということ、いわばこれが強制収容所の日常であり、およそ日常の原型ともいうべきものを、私はそこに見ることができるように思う。  死刑囚にあっては、一切は絶望的に先取りされているが、不定期囚の意識においては、一切は救いがたく未決定である。死刑囚における恩赦本能は、この先取りされた決定的な結末を、残された生の各瞬間に自己の原点へ向けて引きとめようとする願望のあらわれであるが、不定期囚における執行猶予妄想は、おなじく決定されたはずの状況の背後から、できるだけ距離をおいてあゆもうとする本能のようなものであると私は考える。フランクルは『夜と霧』のなかで、「自分はあたかも自分自身の屍体の後から進んで行くかのようだった」という一囚人の言葉を引用しているが、〈未知の終り〉が〈終りの未知〉へ転化する瞬間の戦慄を象徴するものとして、これ以上の言葉はない。しかもこれは象徴であるだけでなく、まぎれもない実感なのである。  このような不定期囚にとり、二十年ないし二十五年という刑期がほとんど実感をもっていない恰好な例として、定期的に囚人に対して行なわれる刑期の〈確認〉がある。これは、休日又は夕食後の時間に、囚人を食堂または屋外へグループ毎に集合させて行なう。アルファベット順に呼び出された囚人は一人一人、書類を前にした保安将校に、適用された刑法の条項と刑期が満了する期日を答えなければならない。  この確認は外国人受刑者にたいしては行なわれず、もっぱらソ連籍の囚人にたいして行なわれたが、ソ連人受刑者のばあい、適用条項の圧倒的多数が「イズメーナ・ロージヌイ」(祖国にたいする裏切り)というおそろしく枠のひろい条項である。私の知っているエストニヤの青年は、戦時中ドイツ軍に占領されたエストニヤからドイツの軍需工場へ強制徴用され、連合軍による救出後、すでにソ連領となっていた〈母国〉でイズメーナ・ロージヌイを適用されている。  適用条項についてはまずまちがいなく答える囚人が、刑期の満了期日となるときわめてあいまいである。五十八条囚にあっては、未決期間はほとんどのばあい通算されないので、判決の日から起算した満了期日は明暸なはずであるのに、しばしば囚人がまちがえるのは、刑の満了を彼らがほとんどまじめに考えていないことを示している。囚人が期日をまちがえるたびに、書類を見てこれを訂正し、復唱させる保安将校の姿は、まさに忍耐そのものである。なんのためにこんな努力をしなければならないのかという私の疑問にたいし、かたわらのロシヤ人は、「彼にも仕事が必要なのだ」と答えただけであった。  不定期囚にとって刑期がなんの意味ももっていないことを示すもう一つの例は、判決後の犯罪にたいする刑の加算である。強制収容所内での犯罪は、収容所に設けられる臨時法廷で裁判にかけられる。裁判は多くのばあい唯一の集会所である食堂を利用して、ひやかし半分の傍聴者の揶揄と嘲笑のなかで、まさに茶番のように行なわれる。これが五十八条囚にたいする唯一の〈公開裁判〉である。  はじめて裁判を傍聴して私がおどろいたのは、傍聴者はいうにおよばず、裁判官から被告に到るまで、裁判そのものに重大な関心を示すものが一人もいないということであった。  ここで裁かれる罪名は、主として脱走未遂(バム地帯では、完全な脱走者はほとんど消息不明であり、明確な未遂行為はその場で処置されているので、この罪名に該当する者は、脱走の意図を密告されたものが大部分である)、反抗、労働忌避(これは栄養失調によるノルマ未達成がほとんどであって、明暸なサボタージュは反抗として処理される。またバム地帯では、囚人が凍傷になったばあい、一旦はサボタージュの罪に問われる)、傷害、殺人である。弁護権のない裁判は、わずか二、三時間で終り、一方的に判決がくだる。判決は最低五年から最高十年までであるが、中間値を採らないため、結局は五年と十年の二つになる。ソ連の有期刑は最高二十五年であって、それ以上の刑を科すことはできない。したがって加算された刑期は、形式上別項のかたちで本来の刑期に附加される。たとえば、二十五年の刑期に五年が追加されれば通算三十年になるはずであるが、形式的には「ドワツァチ・ピャーチ・ピャーチ」(二十五年・五年)というソ連独得の呼称になる。さらに五年の刑を受けたときは、この刑期は追加された刑期の方へさらに追加されて「ドワツァチ・ピャーチ・ジェーシャチ」(二十五年・十年)となる。法そのものへの嘲弄にほかならないこうした手続きは、結局は刑期そのものへの囚人の一切の関心をそぎおとす。  しかし、刑期への関心が失われるということは、刑期そのものが消滅することではむろんない。刑期はおよそ曖昧なかたちのままで、囚人の嘲笑に耐えながらはっきりと囚人を拘束する。このことから、拘禁という事実そのもののきびしさにたいする囚人の認識に、奇妙な混乱と困惑が生れる。およそシンセリティを欠いた条件によって、致命的に拘束されるという事実ほど、侮辱的で絶望的なものはない。このような現実は、ただシニカルな姿勢によって耐えるしかないものである。  刑の加算について私が知ることのできた唯一の例外は、戦前すでに十五年の有期刑を受け、戦後になってバム地帯へまわされて来たある囚人の例である。彼は私たちの収容所へ来て、まもなく刑期を終えたが、刑期満了直前に呼出されて十年の刑期を追加された。おそらく予防拘禁に類する措置であったらしく、裁判は行なわれなかった。しかしこの十年の追加によって、彼は有期刑から不定期刑へ移されたのである。彼自身はすでにこのことを予期していたらしく、とくに変った様子もなかったが、おそらくは彼自身の一切の時間のひとつの目安になっていたにちがいない時点から、あらためて〈終りの未知〉を担いなおすということは、けっして容易なことではなかったはずである。  死刑囚にあっては、刑期というものはない。あるものはただ刑の執行であり、彼はただ座して確実にこれを待つことができるだけである。死刑囚にあってはひとつの事実である刑の執行が、不定期囚にあってもまた、苦痛な期待をともなう錯誤となってあらわれる。彼らにあっても、問題はもはや刑期ではなくて、刑の〈執行〉でしかないように思えてくる。ソ連に無期刑があるかどうかについて知るところはないが、もしあるとしても無期刑にあっては、あやうく死刑をまぬかれたという安堵の方が、むしろ大きいのではないかと思う。しかしこのおなじ条件が、不定期囚にあってはまさに大きな苦痛となるのである。  囚人にあって日常が耐えがたいのは、きのうと寸分たがわぬ一日が、今日も明日もさいげんもなくくりかえされるためではない。この日常がある日前ぶれもなしに崩壊するのではないか、すなわち〈猶予された執行〉が突如として起るのではないかという不安のなかで、たえまなく小刻みな緊張を強いられるためである。不定期囚は、苦痛にはおどろくほど耐えるが、不安にはほとんど耐えない。もしこの不安におびえずにさえすむなら、彼は安んじて日常への永住をもえらぶだろう。不定期囚の心理はこのようにして、強制収容所の日常の無条件の永続を無意識にねがうまで追いつめられる。  一般に囚人は実際に目で見たものには、たとえそれがどのような苦痛な現実であっても、ある安堵感をもつ。これに反して予感されるしかないものにたいしては、たとえそれがよろこばしいはずのものであっても、恐怖に近い不安をもつ。甘んじて受入れるに到ったものは、どのようなかたちでも、変更されることを恐れるのである。  いうまでもなく、このような不安はなんのいわれもないものであり、なんの根拠も理由もないものである。だがなんの根拠も理由もないからこそ、それは不安なのであり、およそ情緒の安定を欠いた囚人にとって、うごかしがたいリアリティをもつのである。しかも、なんの理由もないということは、この不安に対抗する現実的な手段をついにもちえないということを意味している。  日常の密度は行動半径に反比例する。異常な出来事や行動が、特定の閉鎖された空間に集中して相対化され、反復して生起することによって、やがてそのなかからある種のリズムが生れるとき、日常はまさに日常として加速状態にはいる。やがて囚人は進んでこのリズムに順応しはじめる。それは同時に、囚人が自分自身をも相対化して行く過程である。自分自身を相対化し、日常のリズムに積極的に順応して行くことだけが、理由のない不安からのがれるただひとつの方法となる。  しかし囚人が完全に日常のリズムに乗り切ったと思われる瞬間に、ふたたび彼は新しい不安におそわれる。リズム自体が彼にとって危険なものに思われてくるのである。「こんな調子で、なにごともなく万事が終るのだろうか」という疑問が執拗に頭をもたげてくる。この疑問はつぎの二つの点で、不定期囚にとって絶望的な問いとなる。第一に、彼らが日ごとにくりかえして経験せざるをえない異常な現実は、「なにごともない」状態ではけっしてないということである。だが、この「なにごともない」という感覚は、囚人の神経が異常な出来事の反復に麻痺し、ならされた結果ではない。それは、囚人がその日常を経験することを放棄した結果である。経験の欠落に由来するこの感覚は、感覚そのものに不可欠な危機感をうしなうことによって、一種の陥穽におちいる。要するに彼は、周囲の人間の無感覚な状態を見て、安心しているにすぎないのである。  第二に、救いがたく〈終りの未知〉の状態におかれている不定期囚にとって、「このままで終るだろうか」という疑問、またはこのままで終ってほしいという願望は、それ自体が矛盾であり、錯誤であるからである。  こうして、不定期囚が最初におちいった〈執行猶予妄想〉という錯誤は、つぎつぎに新しい錯誤を生んで行き、彼はかぎりなく振り出しへもどらざるをえない。しかもその振り出し自体が、すでにのがれがたく錯誤なのである。このような錯誤による神経の消耗は、おそらく不定期囚に特有なものである。  こうして囚人は、かろうじて日常のリズムに順応しえたと思われた瞬間に、ほとんど無意識にこれから脱落する。そして、ふたたび終りのない不安のなかでのらくらしはじめるのである。ある時期囚人は、憑かれたように働き出し、他の時期にはなにもかも投げ出したように、ものうく怠惰になる。しかもそれは、特定の囚人について例外的にそういう状態が起るのではなく、一つの作業班全体が、そして収容所全体がそうなるのである。あたかもそれは収容所全体が、その固有の生理をもっているような観を呈する。収容所生活の不気味さを象徴するものとして、これ以上のものを私は考えることができない。  リズムへの順応とそれからの脱落のこのような反復と循環は、やがてそれ自体が緩慢なリズムと化して行く。強制収容所の日常は、その末期的症状にはいる。この段階にはいると囚人は、完全に収容所の内部へ溶解してしまい、どのような手段をもってしても、その日常からの脱出は不可能になる。囚人にとって収容所は世界の全体となり、収容所の外にべつな世界があるということは、もはや感覚的に信じられなくなる。作業現場で行方不明になったはずの囚人が、捜査の手を待たずに、自分で収容所にもどってくるのはこの時期である。  まれにある囚人が、このすさまじい平均化の過程に危機感をもつ。彼は本能的にこの過程から脱落しようとこころみるが、意識的な行動ではないため、その行為は唐突で、理解しがたいものになる。その直前までなんの変ったところのなかった囚人が突然あばれ出して、しばしば手がつけられないほど兇暴になるのは、多くはこのためであり、一人にこの症状があらわれると、容易に連鎖反応をひきおこす。  私が目撃したのは、あるモルダビヤ人の例である。一九四九年の冬、私とこのモルダビヤ人、それにロシヤ人の三人が、薪割りのため構内にのこされた。モルダビヤはルーマニヤの一部で、戦時中ソ連軍に占領された。戦後ソ連領に編入され、体制切りかえの恐慌状態のなかで、多数のモルダビヤ人が強制収容所へ送られたが、このモルダビヤ人もその一人である。彼はロシヤ語がほとんど話せず、体力のないためもあって、卑屈なほど弱々しく、作業班のなかでも、いつもかくれるようにして生きていた。事件が起きたのは、正午の休憩が終って午後の作業にはいったときである。おたがいにあまりなじみのない私たち三人は、午前中とおなじく、ほとんど口をきくこともなく、薪を割りつづけた。ひと株割り終った私は、雪の上に散乱した薪を束ねようとして身をかがめたが、ただならぬ気配を感じて顔をあげた。斧をもちあげたモルダビヤ人がまっ青な顔で、しゃがんだロシヤ人の前に立ちはだかっていた。ロシヤ人がけげんそうな顔で「なんだ」といって立ちあがるのと、モルダビヤ人がふりあげた斧を打ちおろすのとほとんど同時であった。ロシヤ人は悲鳴をあげて、わきへころげた。斧はロシヤ人の顔をわずかにそれて、左の肩に打ちこまれた。さいわいロシヤ人は厚い防寒着を着ていたので、致命傷をまぬかれたが、肩口が大きく切れて、血がいっぺんに吹き出した。彼はとっさのまに、ころげまわって難をのがれると、わけのわからぬことをわめきながら衛兵所の方へ走っていった。あっというまの出来事だったが、すべてがひどくぶざまで、ちぐはぐであった。モルダビヤ人は呆然と斧を垂らしたまま、血の気のない紙のような顔を私の方へ向けた。それが完全に動機のない行為である以上、私自身もおなじ危険にさらされているはずであったが、私はただ黙って立ったままであった。私には事態がまるきりのみこめなかったのである。モルダビヤ人は手にさげた斧と、雪のうえに点々と滴ったあざやかな血の色を見て、いまにも泣き出しそうな顔つきになった。彼はあわてて斧を投げだそうとしたが、固く握った指がどうしても開かないらしく、見るも哀れなほど狼狽してその場にしゃがみこんでしまった。さいごに斧を横に置いて、その刃を足で踏みながら、ぬきとるようにして斧から手をはなした。しりもちをつきそうにして、彼はようやく立ちあがったが、足もとの血に気がつくとまたしゃがみこんで、白い雪のうえでつきあげるようにはげしく嘔吐をくりかえした。  そのときの状況の細部をふしぎなほどはっきり私が記憶しているのは、おそらくその瞬間の私が、目の前に生起した出来事に完全に無関心であったためである。この瞬間、もっとも絶望的な状態にあったのは、おそらく私自身であった。  ほどなくかけつけて来た監視兵に引きずられるようにして、モルダビヤ人は衛兵所へつれ去られた。なすこともなく呆然とバラックへ帰った私は、あお向けに寝台にひっくりかえったまま夕方まで身うごきもしないでいた。作業班の帰営時刻に近いころ、私は衛兵所へ呼び出された。起きあがろうとしたとき、手足のふしぶしを、はげしい労働のあとのような痛みが走った。モルダビヤ人は放心したように、衛兵所の床にすわりこんでいた。ロシヤ語がほとんどわからないモルダビヤ人に手を焼いた衛兵司令が、唯一の目撃者として私を呼んだのであるが、私にもほとんど満足な説明はできなかった。しかし衛兵司令は私に、起ったことを起ったとして証言する以上のことを求める意志は、はじめからないらしかった。こうした事態について、彼はすでにたくさんの事例を見ていたからである。  モルダビヤ人はその夜から一週間営倉に収容されたのち、所内の裁判にかけられ、五年の刑期を追加されて、ある寒い朝どこかへ連れ去られた。被害者のロシヤ人は左の鎖骨を折られて、結局は重労働を免除されることになった。  収容所生活の特定の時期に、しばしば発生するこれらの事件は、囚人の適応のリズムを毫も動揺させるものではない。なぜなら、適応のリズムそのものからの脱出が完全に不可能であることの証拠として、これらの事件が起ったからである。いわばそれは、収容所生活の病理の一端を示す徴候にすぎない。病理が存在するかぎり、徴候は存在する。したがって、これらの事件は囚人にとって、およそいかなる教訓ともなることはない。  一九五〇年秋、バム鉄道沿線一帯の日本人のほぼ全部は、突然の命令によって、あわただしくシベリヤ本線のタイシェットへ送還された。悪夢のような日常から前ぶれもなしに引きはなされた私たちは、中継収容所《ペレスールカ》での数日間をただ呆然とすごした。一年目に再会した私たちのほとんどは、十年も老いこんだように表情が荒廃していた。頭髪がほとんど白くなった者もすくなくなかった。生きているという実感のようなものは、もはや誰の顔にもなかった。タイシェットでの数日間、私たちははげしい違和感にたえず悩まされたが、それは、ひとつの日常のリズムにのがれがたく適応して来た過程が突如として断ち切られたために起る一種の眩惑であって、極度の心理的圧迫の突然の除去によって起るこの危険な徴候を、フランクルは心理的な潜《ケー》函《ソン》病にたとえている。強制された日常から唐突に解放されることは、そのまま人間の恢復へつながるものではない。  私たちがタイシェットを出発する直前に、若いオーストリア人の一団がペレスールカに到着した。ウインのソ連占領地域で抑留された者がほとんどで、即決裁判ののちまっすぐタイシェットに送られて来たため、いずれも血色がよく、快活で、信じやすい明るい目をしていた。彼らはやがてバム地帯へ送られるらしいことにうすうす気づいていて、そこがどういうところかをさかんに知りたがった。まだ好奇心の域を出ていないらしい彼らの関心にたいして、どういったらいいか私は迷ったが、「とにかく大へんなところだが、だいじにすればなんとかなる」とだけ答えて別れた。 望郷と海 望郷と海陸から海へぬける風を 陸軟風とよぶとき それは約束であって もはや言葉ではない だが 樹をながれ 砂をわたるもののけはいが 汀《みぎわ》に到って 憎悪の記憶をこえるなら もはや風とよんでも それはいいだろう 盗賊のみが処理する空間を 一団となってかけぬける しろくかがやく あしうらのようなものを 望郷とよんでも それはいいだろう しろくかがやく 怒りのようなものを 望郷とよんでも それはいいだろう   〈陸軟風〉    海が見たい、と私は切実に思った。私には、わたるべき海があった。そして、その海の最初の渚と私を、三千キロにわたる草《ステ》原《ツプ》と凍《ツン》土《ドラ》がへだてていた。望郷の想いをその渚へ、私は限らざるをえなかった。空ともいえ、風ともいえるものは、そこで絶句するであろう。想念がたどりうるのは、かろうじてその際《きわ》までであった。海をわたるには、なによりも海を見なければならなかったのである。  すべての距離は、それをこえる時間に換算される。しかし海と私をへだてる距離は、換算を禁じられた距離であった。それが禁じられたとき、海は水滴の集合から、石のような物質へ変貌した。海の変貌には、いうまでもなく私自身の変貌が対応している。  私が海を恋うたのは、それが初めではない。だが、一九四九年夏カラガンダの刑務所で、号泣に近い思慕を海にかけたとき、海は私にとって、実在する最後の空間であり、その空間が石に変貌したとき、私は石に変貌せざるをえなかったのである。  だがそれはなによりも海であり、海であることでひたすらに招きよせる陥没であった。その向うの最初の岬よりも、その陥没の底を私は想った。海が始まり、そして終るところで陸が始まるだろう。始まった陸は、ついに終りを見ないであろう。陸が一度かぎりの陸でなければならなかったように、海は私にとって、一回かぎりの海であった。渡りおえてのち、さらに渡るはずのないものである。ただ一人も。それが日本海と名づけられた海である。ヤポンスコエ・モーレ(日本の海)。ロシヤの地図にさえ、そう記された海である。  望郷のあてどをうしなったとき、陸は一挙に遠のき、海のみがその行手に残った。海であることにおいて、それはほとんどひとつの倫理となったのである。  一九四九年二月、私はロシヤ共和国刑法五十八条六項によって起訴され、二カ月後判決を受けた。起訴と判決を含む前後の経緯は、ほぼ次の通りである。一九四八年夏、私たち抑留者は南カザフスタンのアルマ・アタから北カザフスタンのカラガンダへ移され、同市郊外の一般捕虜収容所へ収容された。その直後から、目的不明の取調べが始まり、十四、五人程度の規模で、つぎつぎに収容所から姿を消して行った。  私の取調べは翌年にはいってから始まった。取調べはほとんどのばあい、深夜から未明へかけて行なわれるが、熟睡中の不用意をねらうこの方法は、ソ連ではすでに伝統的なものである。  取調べは一週間ほど、ほとんど毎夜行なわれた。取調べといっても〈罪状〉はすでに出来あがっており、その承認を毎回強要されるだけの話である。すでに取調べを終った同僚の意見を聞いたうえで、一週間後に私は調書に署名した。私たちのなかには、さいごまで署名を拒んだ者もいたが、結果的にはまったくおなじことであった。だがこのことは、署名を拒むことが、結局は無意味だということを意味するのではない。それは、結果のいかんにかかわらず、彼自身のとった行為として、彼自身にとってのみ積極的な意味をもっているからである。私はただ時期を見はからって、権利を放棄したにすぎない。結果のいかんにかかわらず、と私がいうのは、サンフランシスコ条約の一方的締結に備えて発言権を確保するために、ソ連が手許に保留すべき日本人の数とその選別の枠は、このときすでに決定していたからである。  取調べ打切りの数日後に、相前後して取調べを受けた十数人の同僚とともに構内に待機を命ぜられた。作業隊出動後、私たちは衛《ワ》兵《フ》所《タ》に集合させられたが、私たちの行先については皆目不明であった。私たちのなん人かが勇を鼓して警備兵に、どこへつれて行くのかとたずねた。知らないのかという表情で警備兵が答えたのは、五分所であった。この分所は炭坑作業を専門に担当している捕虜収容所で、給与がとくによいことで私たちには知られていた。これまでの慣例では、すでに帰還が決定した捕虜は、一旦この分所へ移されたのち、体力の回復を待って輸送梯団へ編入されることになっていた。信じられないといった顔つきの私たちへ、笑いながら警備兵が示した給与伝票は、あきらかに、五分所あてに切ってあった。  ほどなく到着したトラックに、追いたてられるようにして私たちはよじのぼった。私たちのそのときの表情は、おそらくさまざまであった。私たちがそのときいちはやく運命を予測しえなかったのは、私たちが多数であったためである。私たちはこの短い時間に、おのおのの不安を、隣人の願望によって埋め足すという複雑な屈折を経過した。  トラックはカラガンダ市内へ通ずる草《ステ》原《ツプ》の一本道に沿って走り出した。道が市内へはいるすこし手前で、さらに一本の道が直角に右へ分岐している。トラックがそのまま進行して市内へはいれば、その先は給与伝票に明示された五分所である。私たちは、たぶん一歩だけ希望に近づくことになるだろう。右へ分岐する道の行先は十三分所である。十三分所はドイツ人民間抑留者の収容所で、その構内に法廷があることを、かねがね私たちは聞かされて来た。  トラックが分岐点に近づくにつれて、私たちはしらずしらず立ちあがっていた。トラックは分岐点の手前で速度をゆるめると、そのまま右へ折れてまっすぐに走りだした。おおっという吐息のようなものが、期せずして私たちののどをあふれた。  トラックは正午すこしまえ、十三分所の前でとまった。警備兵がまずとびおりた。うって変ったように、彼らの態度は粗暴になった。あきらかに私たちの処遇は変ったのである。私たちに示す必要のない給与伝票にわざわざ虚偽を記載した収容所当局の意図を、私たちははじめて了解した。彼らは私たちの動揺をおそれたのである。このときから私は、私たちがおそれるとき、かならずこれに対応して彼らのおそれがあることを知るようになった。おそれる側に先立って、おびやかす側のおそれがまずあるのである。  トラックをおりて見た十三分所の印象は、はっきりと不吉なものであった。私たちはおりた位置で収容所側の監視兵に引渡され、そのまま衛兵所へ追いこまれた。壁へ向って手をあげた私たちが、ひとりずつ手さぐりの身体検査を受けている最中に、構内へ通ずるドアが開いた。背後の監視兵が「うしろを見るな」と叫んだ。壁へはりついたままの私たちの背後を、ぞろぞろと足音が外へ過ぎた。かろうじてぬすみ見たひげだらけの蒼白な顔は、あきらかに日本人であった。  足音が過ぎるのを待って、私たちは構内へはいった。初めて見る十三分所の内部は、左手にドイツ人抑留者用と思われるバラックが立ちならび、右手は高い黒ずんだ板塀が、さらに内側の建物を仕切っていた。構内に人影はなかった。私たちはひとりひとり姓名を呼ばれ、塀の中央にある門をくぐった。私たちの目の前の粗末な木造家屋の左半分が法廷、右半分が独房であることは間もなくわかった。私たちはまず、右側の独房へそれぞれ収容された。  その日のうちに私は呼び出されて、左右の指紋をとられ、起訴状に署名をした。罪状は刑法五十八条六項(反ソ行為、諜報)であった。ロシヤ共和国刑法は、ソ連邦の一構成共和国であるロシヤ共和国の刑法が、ソ連全土に拡張適用されたものであるが、それはいうまでもなく領土内の犯罪にかぎられ、領土外での、しかもソ連と交戦状態にはいる以前の私たちの行動には適用できないはずである。  その日の夕刻、私たち同行十数名を呼び出して、保安将校が読みあげた起訴状は、あきらかに私たちが署名した起訴状と内容がちがっていた。私たちはそのなかで、〈平和と民主主義の敵〉と規定され、〈戦争犯罪人〉と規定された。戦争犯罪人を規定する法廷は、極東軍事裁判以外にないことを知ったのは、その数年後である。  起訴と判決をはさむほぼふた月を、私は独房へ放置された。とだえては昂ぶる思郷の想いが、すがりつくような望郷の願いに変ったのはこの期間である。朝夕の食事によってかろうじて区切られた一日のくり返しのなかで、私の追憶は一挙に遡行した。望郷の、その初めの段階に私はあった。この時期には、故国から私が「恋われている」という感覚がたえまなく私にあった。事実そのようにして、私たちは多くの人に別れを告げて来たのである。そのとき以来、別離の姿勢のままで、その人たちは私たちのなかにあざやかに立ちつづけた。化石した姿のままで。  弦《つる》,にかえる矢があってはならぬ。おそらく私たちはそのようにして断ち切られ、放たれたはずであった。私をそのときまでささえて来た、遠心と求心とのこのバランスをうたがいはじめたとき、いわば錯誤としての望郷が、私にはじまったといっていい。弦こそ矢筈へかえるべきだという想いが、聞きわけのない怒りのように私にあった。  この錯誤には、いわば故国とのあいだの〈取り引き〉がつねにともなった。私は自分の罪状がとるにたらぬものであることをしいて前提し、やがては無力で平穏な一市民として生活することを、くりかえし心に誓った。事実私が一般捕虜とともにそれまですごして来た三年の歳月は(それは私にとって、事実上の未決期間であった)、市井の片隅でひっそりといとなまれる、名もない凡庸な生活がいかにかけがえのないものであるかを、私に思いしらせた。しかもこの〈取り引き〉の相手は、当面の身柄の管理者であるソビエト国家ではなく、あくまで日本——おそらくそれは、すでに存在しない、きのうまでの日本であったのであろうが——でなければならなかったのである。  私たちは故国と、どのようにしても結ばれていなくてはならなかった。しかもそれは、私たちの側からの希求であるとともに、〈向う側〉からの希求でなければならないと、かたく私は考えた。望郷が招く錯誤のみなもとは、そこにあった。そして私が、そのように考ええた時期は、海は二つの陸地のあいだで、ただ焦燥をたたえたままの、過渡的な空間として私にあった。その空間をこえて「手繰られ」つつある自分を、なんとしてでも信じなければならなかったのである。  告訴された以上、判決が行なわれるはずであった。だが、いつそれが行なわれるかについては、一切知らされなかった。独房で判決を待つあいだの不安といらだちから、かろうじて私を救ったものは飢餓状態に近い空腹であった。私の空想は、ただ食事によって区切られていた。食事を終った瞬間に、一切の関心はすでにつぎの食事へ移っていた。そしてこの、〈つぎの食事〉への期待があるかぎり、私たちは現実に絶望することもできないのである。私はよく、食事の直前に釈放するといわれたら、なんの未練もなく独房をとび出すだろうかと、大まじめで考えたことがある。  なん日かに一度、あたりがにわかにさわがしくなる。監視兵がいそがしく廊下を走りまわり、つぎつぎに独房のドアが開かれ、だれかの名前が呼ばれる。足おとは私のドアをそのまま通りすぎる。「このつぎだ。」私は寝台にねころがる。連れ去られた足音は、二度と同じ部屋に還ってはこない。そして、ふたたび終りのない倦怠と不安のなかで、きのうと寸分たがわぬ一日が始まる。どこかの独房で手拍子をうつ音が聞こえる。三・三・七拍子。日本人だという合図であり、それ以上の意味はなにもない。  望郷とはついに植物の感情であろう。地におろされたのち、みずからの自由において、一歩を移ることをゆるされぬもの。海をわたることのない想念。私が陸へ近づきえぬとき、陸が、私に近づかなければならないはずであった。それが、棄民されたものへの責任である。このとき以来、私にとって、外部とはすべて移動するものであり、私はただ私へ固定されるだけのものとなった。  四月二十九日午後、私は独房から呼び出された。それぞれドアの前に立ったのは、いずれもおなじトラックで送られ、おなじ日に起訴された顔ぶれであった。員数に達したとき、私たちは手をうしろに組まされ、私語を禁じられた。  私たちが誘導されたのは、窓ぎわに机がひとつ、その前に三列に椅子をならべただけの、およそ法廷のユーモアにふさわしい一室であった。椅子にすわり、それが生涯の姿勢であるごとく、私たちは待った。ドアが開き、裁判長が入廷した。若い朝鮮人の通訳が一人(彼もまた起訴直前にあった)。私たちは起立した。  初老の、実直そうなその保安大佐は、席に着くやすでに判決文を読みはじめていた。私が立った位置は最前列の中央、判決文は私の鼻先にあった。ながながと読みあげられる、すでにおなじみの罪状に、私の関心はなかった。全身を耳にして私が待ったのは、刑期である。早口に読み進む判決文がようやく終りに近づき、「罪状明白」という言葉に、重労働そして二十五年という言葉がつづいたとき、私は耳をうたがった。ロシヤ語を知らぬ背後の同僚が、私の背をつついた。「何年か」という意味である。私は首を振った。聞きちがいと思ったからである。  それから奇妙なことが起った。読み終った判決文を、おしつけるように通訳にわたした大佐は、椅子の上に置いてあった網のようなものをわしづかみにすると、あたふたとドアを押しあけて出て行った。大佐がそのときつかんだものを、私は最初から知っていた。買物袋である。おそらくその時刻に、必需品の配給が行なわれていたのであろう。この実直そうな大佐にとって、私たち十数人に言いわたした二十五年という刑期よりも、その日の配給におくれることの方がはるかに痛切であった。ソビエト国家の官僚機構の圧倒的な部分は、自己の言動の意味をほとんど理解する力のない、このような実直で、善良な人びとでささえられているのである。  つづいて日本語で判決が読みあげられたとき、私たちのあいだに起った混乱と恐慌状態は、予想もしない異様なものであった。判決を終って〈溜り〉へ移されたとき、期せずして私たちのあいだから、悲鳴とも怒号ともつかぬ喚声がわきあがった。私は頭から汗でびっしょりになっていた。監視兵が走り寄る音が聞こえ、怒気を含んだ顔がのぞいたが、「二十五年だ」というと、だまってドアを閉めた。  故国へ手繰られつつあると信じた一条のものが、この瞬間にはっきり断ちきられたと私は感じた。それは、あきらかに肉体的な感覚であった。このときから私は、およそいかなる精神的危機も、まず肉体的な苦痛によって始まることを信ずるようになった。「それは実感だ」というとき、そのもっとも重要な部分は、この肉体的な感覚に根ざしている。「手繰られている」ことを、なんとしてでも信じようとしたとき、その一条のものは観念であった。断ち切られた瞬間にそれは、ありありと感覚できる物質に変貌し、たちまち消えた。観念が喪失するときに限って起るこの感覚への変貌を、そののちもう一度私は経験した。観念や思想が〈肉体〉を獲得するのは、ただそれが喪失するときでしかないことの意味を、いまも私はたずねずにいる。意味が与えられるとき、その実感がうしなわれることを、いまもおそれるからである。あっというまに遠のいて行くものを、私は手招いて追う思いであった。  四月三十日朝、私たちはカラガンダ郊外の第二刑務所に徒歩で送られた。刑務所は、私たちがいた捕虜収容所と十三分所のほぼ中間の位置にあった。ふた月まえ、私が目撃したとおなじ状態で、ひとりずつ衛兵所を通って構外へ出た。白く凍てついていたはずの草《ステ》原《ツプ》は、かがやくばかりの緑に変っていた。五月をあすに待ちかねた乾いた風が、吹きつつかつ匂った。そのときまで私は、ただ比喩としてしか、風を知らなかった。だがこのとき、風は完璧に私を比喩とした。このとき風は実体であり、私はただ、風がなにごとかを語るための手段にすぎなかったのである。  正午すぎ、私たちは刑務所に収容された。この日から、故国へかける私の思慕は、あきらかに様相を変えた。それはまず、はっきりした恐怖ではじまった。私がそのときもっとも恐れたのは、「忘れられる」ことであった。故国とその新しい体制とそして国民が、もはや私たちを見ることを欲しなくなることであり、ついに私たちを忘れ去るであろうということであった。そのことに思い到るたびに私は、背すじが凍るような恐怖におそわれた。なんど自分にいいきかせてもだめであった。着ている上衣を真二つに引裂きたい衝動に、なんども私はおそわれた。それは独房でのとらえどころのない不安とはちがい、はっきりとした、具体的な恐怖であった。帰るか、帰らないかはもはや問題ではなかった。ここにおれがいる。ここにおれがいることを、日に一度、かならず思い出してくれ。おれがここで死んだら、おれが死んだ地点を、はっきりと地図に書きしるしてくれ。地をかきむしるほどの希求に、私はうなされつづけた(七万の日本人が、その地点を確認されぬまま死亡した)。もし忘れ去るなら、かならず思い出させてやる。望郷に代る怨郷の想いは、いわばこのようにして起った。  故国の命によって戦地に赴き、いまその責めを負うているものを、すみやかに故国は呼び返すべきである。それが少なくとも、「きのうまでの」故国の義務である。私がそのとき、それほど結びつきたいと願ったのは、すでに崩壊し、消滅したはずの、きのうまでの故国であった。すでに滅び去った体制だけが、かたくなに拠りたのむ一切であった。敗戦によって成立した新しい体制は、もはや恥ずべきものとして、私たちを捨て去るかもしれぬ。もし捨て去るという、明確な意志表示があれば、面《おもて》を起してこれを受けとめる用意がある、と私は思った。  これらの性急な断定は、いうまでもなく錯誤である。断定を急いだのは、状況をもちこたえることができなかったからである。しかし、状況の急迫がのがれがたく錯誤を生み出すとき、錯誤は状況のなかで確固としたリアリティをもつ。およそとらえようもない昏迷のなかで、この錯誤だけがただひとつの手ごたえであった。爾後の私の発想と行動はすべて、錯誤のこの、手ごたえの確かさに由来している。  私たちが収容された監房には、すでに定員の三倍に近い日本人とドイツ人、それにルーマニヤ人が、重なりあうようにしてひしめいていた。半裸の背や胸はたえまなく流れおちる汗に濡れ、むっという異臭が部屋いっぱいにたちこめていた。前年の秋以来、つぎつぎに姿を消した日本人のほとんどがそこにいた。まもなくわかったことだが、ドイツ人のほぼぜんぶがSS(ナチ親衛隊)隊員と、彼らのあいだでDivisionと略称するパルチザン掃討師団の将兵であった。  その夜私は同房の〈先輩〉から「最初の三日間はできるだけばか話をしろ。ものを考えるな」と忠告された。理由は聞くまでもなかった。私は監房全体を掩っている、異様なまでに不自然な陽気さを、そのときはじめて理解した。そしてその陽気さは、いわばこの〈待機〉の時期にだけ特有な現象であることを、さらにのちになって理解することができた。もし私がそのとき充分冷静でありえたなら、ことさらに野卑な高笑いや、およそその境遇とは似てもつかぬ卑猥な会話のかげに、平然たるものをかろうじてもちこたえている、ぷざまなまでに必死な表情を見たはずである。おそらくその時期に、例外なく私たちをおそったであろう怨郷の想いを、ついに私たちは口にしなかった。あらぬことをのみひたすら語りつづけることによって、堰を切れば収拾のつかぬものを、かろうじておのれの裡へ圧しころしたのである。  郷を怨ずるにちから尽きたとき、いわば〈忘郷〉の時期が始まる。同年秋、かつて見ない大がかりな囚《エ》人《タ》護《ツ》送《プ》が開始され、ひと月後に私たちは東シベリヤの密林《タイガ》にはいった。「ついに忘れ去られた」という、とり返しのつかぬいたみは、当然の順序として私自身の側からの忘却をしいた。多くの囚人にたちまじる日本人を、〈同胞〉として見る目を私は失いつつあった。それは同時に、人間そのものへの関心、その関心の集約的な手段としての言葉を失って行く過程であった。  密林《タイガ》のただなかにあるとき、私はあきらかに人間をまきぞえにした自然のなかにあった。作業現場への朝夕の行きかえり、私たちの行手に声もなく立ちふさがる樹木の群に、私はしばしば羨望の念をおぼえた。彼らは、忘れ去り、忘れ去られる自我なぞには、およそかかわりなく生きていた。私が羨望したのは、まさにそのためであり、彼らが「自由である」ことのためでは毫もない。私がそのような心境に達したとき、望郷の想いはおのずと脱落した。    一九五三年夏、ハバロフスクの日本人受刑者の一部は、ナホトカへ移動した。移動の目的は一切知らされなかった。ナホトカは私たちが帰国するための、ただひとつの窓口である。しかし私たちには、事態がどのように楽観的に見えるときでも、さいごまで疑ってみるという習性が身についていた。  港湾にのぞむ丘の中腹に、私たちの収容所があった。そこはまだ海ではなかった。海でないという意味は、私たちはなお、のがれがたく管理されており、あずかり知らぬ意図によって、いつでも奥地へ引きもどされうる位置にあったからである。乗船までの六カ月間、私たちにおよそ安堵というものはなかった。私たちは受刑直前の状態に似た、小刻みな緊張と猜疑心に、さいごまでつきまとわれる運命にあった。到着後、ふたたび意図のわからぬ取調べが始まったことが、私たちの不安をさらにかきたてた。密告の常習者とおぼしい者が、なお密告を強要されているという噂が流れた。  十一月三十日早朝、ふって湧いたように、「荷物をもて《ス・ベシチヤーミ》」という命令が出た。とるにたらぬ荷物をかかえて広場に集合した私たちは、読みあげられる名簿の順に、構外に仕切られた建物へ移され、税関吏による所持品の検査を受けた。彼らの態度は、思いもよらず丁重であったが、私たちを「返す」とは最後までいわなかった。一時間後に何が起るのかもわからない緊張のなかで、まあたらしい防寒帽が支給された。それが、ソビエト政府からの、最後の支給品であった。正午すぎ、収容所の窓からほぼ真下に見おろす位置に、一隻の客船が姿を現わした。それが興安丸であった。戦慄に似た歓喜が、私の背すじを走った。  夕方になって、私たちの輸送が始まった。トラックが到着するたびに、私たちはもう一度姓名を呼ばれ、トラックに分乗した。自分の姓名をあきらかに呼ばれるまで、私たちには、なお安堵はなかった。そして、姓名を呼ばれた。  トラックは興安丸の大きな船腹へ、横づけになるようなかたちでとまった。トラックからおりた位置で、私たちは整列しかけた。最後の人員点検があるはずだと思ったからである。警備兵はしかしトラックをおりず、あそこだというように、船の中央部を指さした。私たちは瞬間とまどったのち、われがちに走り出していた。タラップの下には、引渡しの責任者と見られる内務省の高官らしい人物が、目もくれずにタラップをかけ昇る一人一人に、手をあげてにこやかに会釈していた。  タラップをのぼり切ったところで、私たちは看護婦たちの花のような一団に迎えられた。ご苦労さまでしたという予想もしない言葉をかきわけて、私は船内をひたすらにかけおりた。もっと奥へ、もっと下へ。いく重にもおれまがった階段をかけおりながら、私は涙をながしつづけた。いちばん深い船室へたどりついたと思ったとき、私は荷物を投げ出して、船室のたたみへ大の字にたおれた。  船が埠頭をはなれるまで、誰ひとり甲板へ出ようとはしなかった。最後にすがりついた畳の上に呆然とすわったまま、私は夜を明かした。  その翌朝、興安丸はナホトカの埠頭をはなれた。かろうじて安堵した私たちは、甲板へ出た。二十四時間の興奮と緊張のあと、私たちはただ疲れていた。揺れながら遠ざかるナホトカの港をながめながら、私はただ疲労しつづけた。  一九五三年十二月一日、私は海へ出た。海を見ることが、ひとつの渇仰である時期はすでに終りつつあった。湾と外洋をへだてるさいごの岬を船がまわったとき、私たちの視線はいっせいに外洋へ、南へ転じた。舷側をおもくなぞる波浪からそれは、性急に水平線へ向った。これが海だ。私はなんども自分にいい聞かせた。  海。この虚脱。船が外洋へ出るや、私は海を喪失していた。まして陸も。これがあの海だろうかという失望とともに、ロシヤの大地へ置き去るしかなかったものの、とりもどすすべのない重さを、そのときふたたび私は実感した。その重さを名づけるすべを私は知らないが、しいて名づけるなら、それは深い疲労であった。喪失に先立って、いやおうなしに私をおそう肉体の感覚を、このときふたたび経験した。海は私のまえに、無限の水のあつまりとしてあった。私は失望した。このとき、私は海さえも失ったのである。  十二月一日夜、船は舞鶴へ入港した。そこまでが私にとって〈過去〉だったのだと、その後なんども私は思いかえした。戦争が終ったのだ。その事実を象徴するように、上陸二日目、収容所の一隅で復員式が行なわれた。昭和二十八年十二月二日、おくれて私は軍務を解かれた。 弱者の正義 ——強制収容所内の密告  針一本で密告された経験が私にある。一九四九年、東シベリヤの強制収容所でのことである。針一本といったが、針一本が密告に値いするラーゲリの状況には、やはり説明が必要である。  ラーゲリでは一切の金属は、金属であるという理由で没収される。まず没収されるのはボタンである。私たちが捕虜収容所で支給された旧枢軸軍の上衣から、判決直後にすべてのボタンがもぎとられた。その代替物はもはや各人の生活の知恵である。私たちが東シベリヤの密林《タイガ》へ送りこまれたのはすでに秋の終りであったから、もぎとられたボタンの処置は入所早々の死活問題となった。  結局はさまざまなかたちの木片を縫いつけることで、急場をしのぐことになったものの、これを縫いつけるための針はすでに金属である。その時期までにわずかに針をかくし終せたものは数人にすぎなかった。一本の針が密告に値いしたのは、まだこの時期ではない。一、二の例外は、まだこの時期には例外ですんだ。針の密告がはじまったのは、なにごとにも器用な日本人が、およそ利用できる材料を利用して、いっせいに針の〈密造〉をはじめたときである。ラーゲリのような極度に切りつめられた環境で、針を作り出すような人種は日本人のほかにはいない。  私自身は、かなりおくれて、必要な材料を入手するという条件で、他の日本人から針の作り方をおそわった。身をまもるという、およそ囚人の基本姿勢をすでに忘れかけていた私は、かろうじて上衣の前を和服のようにかきあわせた上へ縄を巻きつけて寒さをしのぐのがせい一杯であったが、その縄もしばしば没収された。いきおい、いちはやく環境に対応して行った先例を追わざるをえなくなったのである。  ラーゲリのような条件で針を作る方法は、そういくつもあるわけでなく、それもやがて一つの方法に統一された。材料には、もっぱら森林伐採現場の鋼索が利用された。解きほぐした一本を、タポール(斧)で寸断する。これを一本の針に仕上げるためには、その先端をとがらせ、他端にめどを明けなければならない。このためにどうしても必要な道具は、鋭利な三角やすりである。作業班は出発にさいし、鋸目立て用のやすりを二、三本ずつ収容所から貸与される。やすりの種類はまちまちであって、必要な三角やすりが常に自分たちの作業班にまわってくるとはかぎらない。  針つくりの最大の難関は、めどの明け方である。まず、短く切った鋼索の一端を、火で焼きもどし、たたいていく分ひらたくしてから、その部分をくの字にかるく折りまげる。そして、折れまがった稜線の部分を三角やすりのかどで二、三度こすったのち、さらに反対側へ折りまげて、裏側からやすりをかける。こんな操作を数回くりかえすと、稜線の中央にぼつんと、それこそ針でついたような孔ができる。あとは、針金をまっすぐにして、別の針で孔を拡張し、他端にやすりをかけるだけだが、めど作りのこつをのみこむだけでも年期が必要である。しかも、監視兵の目をぬすみながらやる仕事なので、それだけでもなみたいていの苦労ではない。  もっぱら日本人独占の、この〈職人芸〉は日本人以外の囚人にとって公然の秘密であったが、この段階ではまだ密告は行なわれない。  私が密告されたのは、翌年に入ってまもないある労働日のことである。三日ほど足踏み状態の風邪がつづいて、やっと待望の「ネッパツ」(発熱)が来た。前日の夕刻の診断で一旦追いかえされ、翌朝かろうじて〈資格〉を獲得した私は、翌日の休養がかならずしも期待できないことを考えて、大車輪で身辺の整理にかかった。  一日の休養は、冬のラーゲリでは、生存の条件の文字どおり一日分の補強をいみする。完全に「自分のために」働くこと。それが、病気の〈目的〉である。ラーゲリでは、病気でさえはっきりした目的をもっている。半時間に近い寒天下の点呼が終るやいなや、かけ戻ったバラックで、まず寝具を詳細に点検する。ここでは、〈寝ること〉と〈生きること〉とはほとんど同義である。労働条件と食糧が、管理する側の恣意にまったくゆだねられ、私たちの力でどうすることもできない以上、すこしでも眠りやすい条件を自分の手でつくり出さなければならぬ。一日の睡眠は一日の生存につながる。睡眠もまた、生存競争の一つの形態である。  だが、それにも劣らず切実なのは、衣服とワーレンキ(フェルト長靴)の補修である。わずか一センチの破れ目であっても、氷点下四〇度の外気にさらされる十時間の体温の消耗と苦痛は想像外である。気力と思考力のすさまじい減衰のなかで、私たちの計算はあくまで冷徹で貪欲であった。糸はありあわせの布切れをほぐせばいくらでもとれる。このため私たちは、道路や床に落ちている布類はけっして見のがさなかったし、また、衣服をすこしでも厚くするために、所きらわずこれを縫いつける習性が身についていた。  ひととおり補修が終って、寝台に横になったころ、すぐブシュラート(防寒衣)を着てワフタ(衛兵所)へこいという命令を受けた。ブシュラートを着てこいというのは、たぶん構外の使役のことだろう、と考えながらバラックを出た私は、そこで立ちどまった。病人に使役をさせるはずがない。はっと気がついた私は、いそいでブシュラートの腋の下から針をぬきとって雪の上へ捨てると、その上を踏みつけた。思考力や判断力が完全におとろえた囚人にも、こういう直感だけはこわいくらいはたらく。さいごにのこされた防衛本能である。  ワフタにはいると、案のじょう針を出せという。ないと答えると、いきなりブシュラートをはぎとられた。ちゃんと腋の下のかくし場所まで知っている。だが結局はなにも出てこなかった。警備兵は舌打ちしながら、あちこちあらためたあとで、ブシュラートを投げてよこした。ひとわたり悪態をつかれたあとで、私は放免になった。  その日バラックにいたのは、私とデジュールヌイ(バラック当番)の老人だけである。デジュールヌイはおもに老人、不具者、虚弱者などで、労働を免除され、バラック内外の清掃、ペチカ番その他の軽作業にあたる。私のバラックのデジュールヌイは西ウクライナ(旧ポーランド領)出の老人で、陰気で多少偏屈な点を除けば、べつにどうという男ではない。しかし、彼が密告したことに、ほぼまちがいはなかった。  問題はしかし、密告の動機である。この種の「自発的な」密告には、ほとんど報酬が出たためしはない。密告がまちがっていれば、彼はただ叱責され、同囚の怨みを買うだけである。しかし、この奇妙な密告の動機については、もうすこし説明が必要である。  囚人は原則として貨幣をもつことを許されない。貨幣の使用がまがりなりにもみとめられるのは、刑務所までの段階であって、それ以後の段階では、ストルイピンカ(拘禁車)の警乗兵に強奪されるか、ペレスールカ(中継収容所)でまきあげられるかして、なしくずしに無一文になってラーゲリに到着する。この段階で私たちの生存の条件は、一応まがりなりにも平等になる。  しかし、その直後にまた格差がつく。年齢と体力による格差はまず措くとして、私たちにがまんのならないことは、ソ連籍の囚人だけが、それもかろうじて受けとることのできるポスイルカ(差し入れ)であった。ポスイルカの内容はどれも似たようなもので、穀類(ひき割りの麦かとうもろこしの粉末)、たばこ、サラと呼ばれる脂身の塩漬け、それに砂糖菓子の類である。なかでも羨望の的はたばこである。たばこは囚人にとって、かならずしも生存の糧ではない。だがそれは、かろうじて囚人が現実から逃避できる、ほとんど唯一の手段である。  ながい囚人生活のなかでは、まれには奇蹟のように少量のアルコールが手にはいることがあるが、収容所の現実を忘れるために、酒とたばこのいずれをとるかとなると、やはりたばこの方に救いがある。というのは、生きている以上、その酔いがさめたときの絶望を考えなければならないからである。ラーゲリでの絶望は、まさに絶望以外のなにものでもない。それにくらべれば、ニコチンによる陶酔は、飢えた囚人にとっていかに強烈であるにせよ、数秒ないし数分をこえないからである。彼は二センチほどのマホルカの紙巻きを、ほとんど吸いこんだまま、よろめき、うずくまり、やがて仕方なしに立ちあがるだけのことである。  ラーゲリでは、たばこは支給しないが、喫煙は自由であり、しかもたばこの給供源の九〇パーセントはこのポスイルカである。私たち外国人がたばこを吸おうと思うなら、このポスイルカのたばこを買うしかないが、貨幣の流通のない収容所では、まず貨幣の代用物をさがさなければならない。だがこの代用物については、ほとんど選択の余地がなかった。相手は例外なくパンを要求して来たからである。  こうして、収容所でたばこの売買が普及するにつれて、その相場も固定してくる。平均的なパンとたばこの交換比率は、作業ノルマ八〇パーセント遂行分のパンにたいしマホルカ三日分である。(八〇パーセントというのは、収容所平均のノルマ遂行率であって、実際には、作業班間および作業班内でそれぞれ大きな開きができる。)  結局私たちは、一日絶食同様の状態に耐えることによって、三日分のたばこを手に入れるわけである。もし継続的にたばこを吸おうとすれば、三日に一度ずつ絶食をしなければならない。ラーゲリ内でのたばこの誘惑は、それほどつよいのである。  モスクワやレニングラードなどの比較的富裕な家族からポスイルカで送られてくるパピロース(巻きたばこ)、いわばたばことしてのかたちをなしたこの種のものは、囚人にはただ上品なだけのぜいたく品である。収容所で「実質的な」たばことして流通過程にはいるのは、主として農村で好まれるマホルカと呼ぶ、匂いもあくも強いきざみたばこ(これは細かく刻まれた茎と葉脈から成る)か、干しこんぶのように束ねられたたばこの葉である。  この流通過程では、たばこもまた貨幣として機能する。だが、パンは生存に直結する食糧であり、たばこは結局のところ嗜好品である。それを手ばなす苦痛において、両者はとうてい比較にならない。パンは、もし、手ばなさずにすむなら、即座に飢えた胃袋におさまってしまう。だが、保管のきくたばこの方は、弱気な買い手を忍耐づよく、いつまでも待っているのである。こうして、たばこの所有者は、両種の通貨を手にすることによって、生存上あきらかな優位に立つ。事実、囚人のなかには、自分は一服も吸わず、もっぱらパンの購入にあてるものもいたのである。  このようにして、ほとんど一方的に定着しかけた流通過程へ、思いがけなく日本製の針が割りこんで来た。季節が冬であったこと、職人としても商人としても圧倒的な日本人のぬけめなさが、こうした市場の攪乱を可能にしたのである。日本人受刑者は、この時期までに、すでに三年余の淘汰を経験しており、もっとも気弱な者ですら、受刑早々のソ連籍囚人とは、狡猾さの点では比較にならなかった。私たちは、ほとんど押売りのようなかたちで、ソ連籍受刑者たちが安心して作りあげた流通過程のなかへ手製の針を割りこませた。ある者は就寝直前に、乾燥室へもちこまれるワーレンキ(フェルト長靴)をかぎ裂きにしたうえで、翌朝その持ち主に針を売りつけた。いわばこれが、ポスイルカで生存競争に圧倒的な差をつけられた日本人受刑者の対抗手段であった。三日に一度の絶食にたいする私たちの危機感と、一回の針の貸借にもいちいち対価を要求される相手側のわずらわしさが、新しい通貨の登場を許したわけである。針を売りつけるあつかましさにおいては、私もけっして人後におちなかった。  私たち日本人は、生きることにおいてしばしば性急であり、乱売の結果、針の相場はひんぱんに下落したが、しかし絶食にくらべれば、共食いの苦痛はまだしもであった。それに、ともかくも針がつくれるのは、伐採が主労働の冬場にかぎられていたからである。そしてこの針は、まれに第一の通貨であるパンを購入する機会すら持った。  密告は、この針の乱売に呼応するようにして起った。密告者は多くは不明であり、時にはこれと名ざせるばあいでも、私たちはだまっていた。ラーゲリで密告者に公然と報復することはタブーであり、たとえ報復しえたとしても、さらに悪質な密告によって手いたい仕返しを受けるのがおちだからである。無益な葛藤をひきおこすよりも、一本でも多く針をつくる方が賢明であった。針は、間を置いては没収され、そのつど精力的に補給された。  私が知ることのできた密告者のほとんどは、針にもたばこにもおよそ縁のない老人か病弱者であった。これは意外なことでもあり、また当然予想できたことでもあった。密告者自身にとって、およそなんの利益にもならぬ、反射的、衝動的ともみえるこの行為の動機は、おそらく複雑で、理解しがたいものであるが、ひと言でいえば嫉妬である。  単なる嫉妬。だが「単なる」ということばは訂正を要する。ラーゲリにあっては、嫉妬は、単に弱者の潜在的な攻撃性にかかわる感情であるだけではない。それは強制収容所という人間不信の体系の根源を問う重大な感情だからである。  ラーゲリの囚人には、生存の条件の悪化にともなう一種の安堵のようなものがある。これは奇妙なようだが事実である。「おれも苦しいが、あいつだっておんなじだ」という安堵である。ノルマによる主食の格差はどうにもならないこととしてあきらめたその分だけ、他の条件の平等への希求が増大するのである。生存の条件の向上は必然的に不平等をともなう。したがって囚人は、自分では気づかずに条件の低下を希求することになる。こうした心理状態のもとでは、針やたばこの存在は、その恩恵外にある者にとっては許すべからざるものである。  針一本にかかる生存の有利、不利にたいする囚人の直感はおそろしいまでに正確である。彼は自分の不利をかこつよりも、躊躇なく隣人の優位の告発をえらぶ。それが、自分の生きのびる条件をいささかも変えることがないにせよ、隣人があきらかに有利な条件を手にすることを、彼はゆるせないのである。人間は生存のためには、その最低の水準において〈平等〉でなければならず、完全に均らされていなくてはならないというのが、彼のぎりぎりのモラルである。ここにおいて、嫉妬はついに、正義の感情に近いものに転化する。  この感情は、そのあらわれ方の救いなさにもかかわらず、おそらくはただしいであろう。私自身いく度となく、こうした嫉妬をあじわった。  このような条件で密告を行なう者のほとんどが老人か病弱者であるということも、当然である。強者の知恵が平然と弱者を生存圏外へ置き去ろうとするとき、弱者にとって、強者を弱者の線にひきもどすには、さしあたり権力に頼るしかないのである。私がこういいきる根拠は、強制収容所のような極限の状況では、発想も判断も行動も完全に「均らされて」おり、どのような不可解な行為でも、自分自身にも当然起りうる行為として、手にとるように理解できたからである。極限状況のもっとも大きな特徴は、すべての可能性は、すべての人間にとって完ぺきに平等だということである。  ラーゲリ生活で、骨身にこたえて思いしらされるのは、弱者のいやらしさということである。このいやらしさは徹底していて、当人自身でさえつよい嫌悪感なしに自己の行為を容認できないほどであり、しかも見る者の側へ、即座にそれがはね返ってくるという点で、二重に救いがない。じっさい、ラーゲリで生きるということは、無数の鏡にかこまれて生きるようなものである。強者の横暴は単純明快で、それなりにわかりがいいが、弱者の狡猾さは、陰湿で怨恨にみちており、けっして表面にあらわれることがなく、無数の弁明によってひそかにささえられている。囚人が弱者にたいして、徹底して無慈悲で冷酷であるのは、いわば当然のなり行きだといえる。ラーゲリの囚人を実際にいらだたせ、疲労させるのは強者の横暴ではなく、弱者のこの狡猾である。  しかも、その強者といえども、あすはもはや強者ではない。強制労働は、彼らの体力を確実にすりつぶして行く。やがては彼らみずから、弱者の論理と弁明を武器に、他人の生存の間隙をねらい出すのは、火を見るよりも明らかである。しかもその弱者たちのあいだには、弱者なるが故の連帯なぞおよそ一片もない。弱肉強食を絵にしたような収容所生活が、やがては弱肉弱食の様相を呈するに到るのは、ただ時間の問題であって、密告は、これらのすじみちを予告するひとつの挿話にすぎない。    八年の抑留生活で、直接間接に私が知ることのできた密告は、おおよそ二つのタイプに分けられる。ひとつは、一九四六年から四九年にかけて、主として一般捕虜収容所で行なわれた型の密告で、その多くが集団的な規模で、ときには衆人環視のなかで、いわゆる〈つるしあげ〉のかたちで行なわれたが、こうなるともはや〈密告〉ということはできない。この型の密告は、当時全ソの捕虜収容所を席惓したいわゆる民主運動と、これを巧妙に利用したソ連当局の、いわゆる〈かくし戦犯〉の摘発に密接な関連がある。 〈かくし戦犯〉については、すでに他の機会にふれたが、冷戦に備えたいわば人質で、その数は現在わかっているだけでも三千人をこえる。受刑者の顔ぶれから私が想像できたその選別の枠は、憲兵、警察官、情報関係者などで、捕虜のあいだではもっぱら〈前歴者〉という名で呼ばれていた。なかでも情報関係はもっとも枠がひろく、本来の情報勤務者から広報、新聞関係にまでおよんでいる。  いわゆる民主運動は、一九四六年ごろから、旧軍隊秩序の解体をスローガンに、日本人捕虜のあいだに急速にひろがったが、その過程でいわゆる〈反動分子〉の摘発が、捕虜自身の手で精力的に行なわれた。しかし、摘発された者の顔ぶれとその後の運命からみて、ソ連当局がこれを指導し、奨励したことは、ほぼ確実である。民主運動そのものは、結局は収容所側の指導する労働強化運動に変質して行ったが、それらの過程で日本人同士のあいだで行なわれた摘発と密告は、その後ながく救いがたい怨恨をのこした。  ハバロフスクで直接知りえただけでも、三つの集団が密告によって摘発され、受刑している。チタ地区で起った集団密告は、日本人受刑者のあいだでもとくに知られている。この事件は、チタ地区の民主運動の主導権あらそいが発端で、一方の派閥が根こそぎ逮捕され、裁判を受けた。これらのグループの罪状はいずれも、現地で情報を収集し、帰国後米軍にこれを提供することを目的とした諜報活動ということになっているが、収容所のような極度に閉鎖された環境で諜報活動を行なうなどということは到底考えられることではない。  しかし、この種のタイプの密告は、それがどのように大がかりな規模のものであり、どのように錯綜したからみあいのなかで行なわれたにせよ、本来その構造は単純で明白である。この型の密告の制度化については、ソ連邦はながい伝統をもっており、たまたまそのパターンに民主運動が乗せられたにすぎない。要するに密告は、特定の政策的な意図にしたがって、スケジュールどおりに行なわれたのであり、そのパターンさえ明らかになれば、それぞれの細部は、然るべき位置づけが可能である。必要な証言さえ得られるなら、その経過を跡づけることは容易である。ただ、だれもそれをしたがらないだけのはなしである。したがって、私もこの問題には、これ以上立ち入る意志はない。    第二のタイプの密告というのは、私が最初にのべたような密告である。ここにはもはや政治の問題はない。それはまったくの孤独な行為であり、その動機はしばしば不可解であるが、そこにあるのはまぎれもない人間の問題であり、私自身の問題であり、密告という外側の事実をこえた問題なのである。  「密告はゆるされるか」というような立場から出発して、私はものを考えようとは思わない。そうした立場から引き出せるものは、せいぜいのところ被害者意識か怨恨である。密告を、密告する者とされる者との関係としてとらえるかぎり、密告が象徴する内部の暗黒は暗黒のままである。そうではない。密告はただ、密告者ひとりにかかわる孤独な行為である。密告される者の側からは、ただ被害の問題しか出てこない。問題はつねに加害の側から出発することを銘記すべきである。深淵がはじまるのは、つねに加害者の追いつめられた足もとからである。  密告させる者、密告する者そして密告される者。密告はこの三者をつらねた線上で行なわれるが、問題を問いつめて行く過程で、形式上の加害者と被害者は、その両端から脱落せざるをえない。被害と加害の焦点は、密告者ひとりの姿へ一挙に集約する。結局は被害者であり、同時に加害者であることによって、彼の存在は分裂しており、救いがたく孤独である。その孤独な姿を正確に射とめることなしには、密告についてのいかなる発言も不毛である。  さいごに報復の問題がのこる。密告者に報復は行なわれないといったが、それは権力の庇護の圏内でのことである。私たちをのせた興安丸がソ連の領海をはなれた直後に、劇的なかたちでそれが起った。二人の日本人が衆人環視のなかで、あたかも儀式のようにリンチを受けた。私がその光景をよしとしたのは、そのときの精神状態であってみれば、いたしかたないことであったかもしれぬ。密告の動機はおそらくさまざまであるが、もし初めにのべたように、密告を弱者のポテンシアルな報復と考えるなら、その後に行なわれる報復は、報復にたいする報復であることにおいて救いがたく不毛である。領海をこえるという象徴的な出来事が、両者の地位を劇的に転倒させたにすぎないからであり、領海外での安堵の位置づけにおいて行なわれた報復は、領海内での屈従を弁護するものとはならないからである。 ㈼ 沈黙するための言葉  私は知識を整理することが下手な人間なのでとりとめのない話になると思います。  私の話は「自作を語る」ということになっています。しかし、よく考えてみると、自分が書いた作品を自分で説明しようとするとき、私たちは当然何らかの形で矛盾につきあたらないわけには行きません。たとえば、ある詩人が他の詩人の作品について自分の意見を述べようとする時には、「但しこれも一つの見方、一つの角度からの見方にすぎない」という条件をつけることによって、一応は最終的な責任をまぬかれることができるわけですが、自分自身の作品については、そういうわけにはいきません。しかし、詩人が常に自分の作品の最終的な責任者であるかというと必ずしもそうではありません。作品の中には作者が最終的に責任を負いきれない部分があるのがふつうですし、その部分は、読者にとっても作者にとっても難解な部分であり、しかもその部分によって作品全体が支えられている場合が多いからです。  自分の作品について語ろうとする時に、詩人がぶつかるもう一つの矛盾は、作品を書くことによってかろうじて沈黙しえたものへ、作品からずれた次元でふれなければならないという一種の違和感です。詩における言葉はいわば沈黙を語るためのことば、沈黙するためのことばであるといってもいいと思います。もっとも語りにくいもの、もっとも耐えがたいものを語ろうとする衝動が、ことばにこのような不幸な機能を課したと考えることができます。しかし詩について一般の理解の場で語ろうとするときのことばは、もはやただ語るためのことばにすぎないわけです。  詩人が自分の作品について語ろうとする時、詩人はいわばこのような二重の制約のもとにおかれるわけです。そのような制約をおしのけても、詩人が自分の作品について語ることにもし意味があるとすれば、それはたぶん、「作者にとって作品とは何か」ということから、「作品にとって作者とは何か」という立場の転換が期待されるからであり、作者が詩人として問われる場が作品であると考えられるからです。あまりはっきりしない前置きになりましたが、一応ここに選んだ三篇の詩を朗読したあとで、これらの作品に関連して、私の考えていることをお話ししてみたいと思います。  三つの作品のうち、はじめの二つ「デメトリアーデは死んだが」と「脱走」は詩を書き始めて二年目ぐらいの時期のもので、私は三十九歳の時に詩をかきだしましたからこれは大体四十一歳の時の作品です。最後の「ひとりの銃手」はずっとのちのもので、方法もスタイルもかなりちがってきているのが自分でもよくわかります。  人間の体験を直接作品に結びつけて考えるのは正しい詩の読み方ではないと思いますが、私は敗戦後シベリヤに八年抑留されました。この最初の二つの作品は、その期間に私自身が目撃した一つは冬、一つは夏の出来事がモチーフになっています。       「デメトリアーデは死んだが」「脱走」  この「デメトリアーデは死んだが」と「脱走」はいずれもシベリヤでの強制労働がモチーフになっていますが、強制労働の非人間性や、これに対する抗議や告発、そこで私自身が目撃しなければならなかった事件のなまなましさは、これらの作品の主題ではありません。この二つの作品に共通しているものは、どのような事件に対してもおよそ告発や抗議を行なわないという私自身の姿勢のようなもので、このような姿勢によって私自身が支えられていなかったら、このような作品は書けなかったかもしれません。  私自身のこのような姿勢は、この二つの作品の終わりの部分を読んでいただければ、多分おわかりになるのではないかと思います。不遜な言い方が許されるのなら、告発しないという決意によって私は文学にたどりつくことができたし、詩にたどりつくことができたといえると思います。「デメトリアーデは死んだが」という詩は、シベリヤのバム鉄道沿線地帯にある森林伐採の現場で、同じく囚人であった一人のルーマニヤ人が切り倒された木の下じきになって死んだ事件を目撃したことが詩を書く動機となったのですが、事件そのものを人に伝えることは、この詩の目的ではありません。  これは次の「脱走」でも同じです。この最初の詩には特にわかりにくいという所はないと思います。ただ「無口で貧乏な警備兵《カンボーイ》が/正直一《いち》途《ず》に空へ打ち上げる/白く凍った銃声の下で」ということばがありますが、これは、事故のあった現場から収容所に急報する場合、空へ向けて空砲を射つ習慣があって、そのことをいっております。この作品の私自身にとっての意味は自分の目の前で起こったむごたらしい事件の衝撃を、はっきり起こったものとして最終的に承認し、納得したということです。こういう極限の場面では、最後にきっぱりと納得して、それを受けとめ、のりこえるしか道は残されていません。私だけでなく、多くの日本人がそういうふうにして押しつぶされるような衝撃からぬけだしてきたわけです。そして、こういった態度は、そのまま私自身の詩の方法につながっていったように私には思えます。この詩の最後の部分に「その髪の毛を/数えられないために」という個所がありますが、これは、新約聖書の中の「汝の髪の毛までも数えらる」ということばに拠っています。  「脱走」の内容は、強制労働の最中に無謀な脱走を試みて、衆人環視の中で警備兵に射殺された一人の囚人のことですが、こういったせっぱつまった状態の中では、恐らく絶望というものが入りこむすきはありません。恐らくそこにあるのは、巨きな恐怖と、この恐怖に瞬間的に対応しなければならない自分自身だけであったと思います。こうした場面では、目撃者は徹底した沈黙と服従を強いられます。しかもその沈黙と服従は、日常の次元では考えられない程重い意味をもっているはずです。  私がこの二つの作品で書きたいと思ったことは、いわばこのような最終的な納得と沈黙、その深さと重さということになると思いますが、その点からいえば、この二つの作品に共通していることばのリズミカルな流れにおし流されて、必ずしも成功したとはいえないというのが正直な感想です。ただこの詩を書いたころは、私には一つの流れるようなリズムがいつもあって、そのリズムにのればいつでも詩がかけた時期だったということはいえると思います。       「ひとりの銃手」  これは作品としてはわりに新しいものです。これを書いている時は、特に方法というものを意識したわけではありませんが、でき上がったものは、ご覧のように、大変に方法が勝ったものになっています。  この詩に託そうとした特別な意味というものはありません。むしろ、詩の中のイメージが特定の意味をもつことはできるだけさけようと努力したつもりです。  この詩に何か手がかりのようなものを与える意味で、たとえば銃殺の場面、銃をもった者と銃口の前に立った者との間の、一つの切迫した空間、あるいは切迫した時間というようなものを想像してくださっても結構だと思います。最後に、銃殺を執行しおわった男を、更にもう一つの銃口が背後からねらうというかたちになっています。  例えば、一つの位置、あるいは一つの意志、あるいは一つの時刻のなかに更に凝縮したもう一つの位置と意志、もう一つの時刻があって、それらのものを二つずつ重ねあわせていくことによって、その位置なり時刻なりが、更に鮮明になるという効果が、この詩の一つのねらいになっているわけですが、それも結果としてそうなったということで、初めから意識してそれをねらったわけではありません。二つずつ重ね合わせたイメージの中で、おわりの方の「銃手」だけは三つ重なっていますが、その理由を説明することは困難です。しいていえば、ここまで単調につみ重ねてきたテンポを一つずらせたかったことと、最初の銃手の「背後」のもう一人の銃手であることを強調したかったということがいえるかもしれません。      (質 問)   詩という形式をえらんだ動機について  日本に帰って来た直後は、たくさんのものが自分の内部にうっ積して、凝縮した状態にあったわけです。それを散文的な形、あるいは日常のことばの次元でとき放つことができなかったわけですね。それは、実際に人に話してみてわかったことですけれど、殆ど理解してもらえない。ということが、別の切迫したことばの次元、詩という形式を選ばせたということに、強いて説明すればなるかもしれません。それと、シベリヤでの八年間は殆どロシヤ語だけの中にいて、そういう時には日本語というものが非常になつかしいわけですね。それで帰ってきた時、日本語そのものが私にとって非常に新鮮だったということが、私を詩におもむかせた一つの動機になっているかと思います。       「告発しない」という姿勢について  告発しないという決意によって、詩に近づいたということですが、これも、今いった詩を選んだ動機に、ある意味ではつながると思います。八年の間見てきたもの、感じとったものを要約して私が得たものは、政治というものに対する徹底的な不信です。政治には非常に関心がありますけれど、それははっきりした反政治的な姿勢からです。人間が告発する場合には、政治の場でしか告発できないと考えるから、告発を拒否するわけです。それともう一つ、集団を信じないという立場があります。集団にはつねに告発があるが、単独な人間には告発はありえないと私は考えます。人間は告発することによって、自分の立場を最終的に救うことはできないというのが私の一貫した考え方です。人間が単独者として真剣に自立するためには告発しないという決意をもたなければならないと私は思っています。  私は、戦争を通って来た世代の一人として、自分が目撃したものを証言する義務のようなものを今も負っていますし、およそ自分の目撃しないものについては、沈黙しなければならないとかたく考えています。もち論これは、私一人の特殊な立場で、この反対の考え方を否定するつもりはありません。  それから、今はもうこのような発言は、告発という次元では、ただ不毛を生むだけだと考えています。告発する者と告発される者を明確に分断できるのは、限られた、ある特殊な期間でのことにすぎません。  告発することを自らに禁じた者が、なおその位置で立ちつづけようとするとき、はじめてその〈告発〉に真剣な表現と内容が与えられるのだと私は考えます。  それは沈黙した怒りであるよりも、むしろ深淵のような悲しみであると思いますが、このような悲しみこそ信ずるに値するものであると私は考えます。       読者について  単純な意味での外側への働きかけという姿勢は、私にはないかもしれません。ただ、最終的に沈黙することはできない。なにをいってもだめだけれど、最終的に沈黙することはできないというぎりぎりの所で、私は詩を書いてきたと思うし、これからも書いていくしかないと思うわけです。そのばあい、読者とどうつながるのかという問題だと思いますけれど、実際いって、どう答えていいかわからない。けれど、私の作品を読んだ人と私がもしどこかでつながるとすれば、それは、おそろしく単独な場所でつながっているとしか考えられません。       収容所内でものを書く自由について  時期によってさまざまです。しかし、正式に囚人になった場合、紙も鉛筆も持つことを許されないのが原則です。しかしそういう中でも、なんとかして鉛筆を捜し出してくる。むろん、書いたものは人にはみせません。密告のきっかけを自分でつくり出すようなものですから。しかしそういう場合でも、どうしても書きたいという欲求があるわけですね。殆どものをしゃべれなくなる、その分だけ書きたい欲求がたかまるわけです。  ハバロフスクではかなり自由で、日記だけはつけていました。どこへでもかくせるような、小さな手帖です。はじめは、一冊書きおわるたびに焼きすてていたのですが、だんだんそれができなくなって、しまいには現場の壁の中に塗りこんでしまいました。私はその頃、左官をやっていましたから。今でもハバロフスクのどこかの建物の壁の中に、私の日記があるはずです。       ことばとの出会いについて  ことばに対する新鮮な感覚というのは、私のばあいには爆発的に起こったわけです。日本語を話す人びとの間に帰ってきた時、日本語はまぶしいくらい私には新鮮でした。       詩を書くときの、ことばの選択について  詩を書く時期によっていろいろです。初めの時期は、あるモチーフがあれば、その方向にことばが自然に選択されて、ながれるようにあふれ出た時期があるし、あとになると、ことばの一つ一つ、て・に・を・はに至るまで準備しないと詩が書けない時期があったし、いろいろです。ただ私自身、作品がわかりにくいといわれることが多いのですが、こういうふうに考えることができると思うのです。それは、この詩によって何が書きたいかという立場をひっくり返して、この詩によって何が書きたくないかということを考えてみる必要がないか、ということです。詩を書くことによって、終局的にかくしぬこうとするもの、それが本当は詩にとって一番大事なものではないか。あるいは告発しないという態度もそこにつながっていくかもしれませんが。       死をどう考えるか  大変な質問ですが、ただ私が考えるのは、死は、人間にとって最後まで不自然なものだということです。たとえば、動物が死ぬ場合には、それなりに自然だと思えるのです。けれども人間が死ぬ時に限って、それが自然だとはどうしても思えない。そういう場面をたくさん見てきたからかもしれないけれど、しかし人間に限って死を自然と思えないのは、やはりそこに大きな矛盾があるからだと思います。人が死にそうになると、とても助からないと思うときでも放ってはおかないでしょう。一分でも一秒でも生きさせようとする。それは、死が不自然だということを直感しているからです。だから本当は、人間というものは死んではいけないのだという考えが、確固としてそこにあるのだと、私は考えます。       ことばを詩で取りもどす過程について  四十代近くなって、自分の国のことばがこんなに美しい、こんなに新鮮なものだったかと感じたその実感というものは、そうかんたんにはうすれないですね。その前に、長い間日本語から遠ざけられていた環境・期間があったわけですね。ですからことばに対する郷愁というものは、私にとっては生やさしいものではなくて、日本語ともう一度結びつきたいという切実な希求をもって帰ってきたわけです。  しかし、私たちが帰ってきて、口を開いたときにはすでに、日常の次元のことばの中だったわけです。私はナホトカから、大体四日かかって東京へ来たわけですが、四日前の、ことばに対する切迫した感情と、四日後に私をとりまいていることばの次元とのあいだの落差は予想外であったわけです。それがはっきりしてくるにつれ、日常の会話の次元ではだんだん沈黙して行く。それは私だけでなく、多くの人がそうだったし、たとえばナチの強制収容所から帰って来た時期のフランクルの場合でもそうです。日常の次元で逆にことばを失っていく、その失った部分を詩によってとり返していくという意識があったと思います。それはけっしてよろこばしい過程であったわけではありません。       日本語で詩を書くことの制約について  日本語は日本人にしかわからない、あるいは日本語をほんとうに理解するのは日本人ということになるでしょうし、それはそれぞれの国のことばが本来もっている宿命のようなものですけれど、その日本人の中でお互いに話している日本語が、同じ平面でまじわっているかどうか、大へん疑問だと思います。 不思議な場面で立ちどまること  私の手許に一枚の写真がある。ありふれた外国映画のスチール写真だが、いまだに私はその場面に奇妙にひかれる。それは高い足場の上で、二人の青年が危うげに身をささえている場面だが、二人は建物の角をはさんで互いに相手を待伏せてでもいるように、ぴったりと壁に背をつけている。だがよく見ると、一方の男は片手に一匹の猫をつかんで、他の男の方へさし出しているのである。  これを「奇妙な」場面と考えるかどうかは、見る人の自由である。だが、映画の一場面なら奇妙であっても不思議はないと考えるにはあたらない。私たちが疲れきって歩きまわる町々では、およそこういう、私たちがその展開に参加できないままの奇妙な場面に、いくらでも遭遇できるはずである。  通常私たちは、こういう場面を奇妙とは考えないという一種の慣習に従って、その前を素通りすることにしている。それは、私たちの注意力と想像力には限りがあるためであり、まがりなりにも一個の自我として生きのびるためには、無益な分散と解体から積極的に自己を防衛しなければならないという顧慮によるのかもしれない。しかし、何よりも大きな理由は、それらの場面が、それに連続する前後の場面を完全に省略したかたちで、いわば私たちがその〈物語〉の展開に関わりえないかたちのままで投げ出されているからにほかならない。しかし、まさにそのような事情こそ逆に、私たちがある感動をもってその前に立ちどまる理由ともなるのである。  いまいった写真は、いわばこのような長い物語をある一点で切断した切り口のようなものである。物語の全体を知っている者は、その切り口を見て、それが物語のどの場面にあたるかを知ることができる。しかし逆にある切り口、ある場面を示して、その物語の全体をいえといわれたら、実に無数の物語がそこから生れるだろう。一点を通る直線が(なにも直線でなくてもいいが)無数に存在するように、このいわば人生の切り口が同時に無数の場面に展開しうる可能性——危機とも言うべき不安を内蔵しているという認識は、ある戦慄のようなものを含んでいる。  いま私は、私に示されたこの一つの場面から、二人の青年の無数に可能な経歴をひき出すことができるし、また無数の喜劇や悲劇や、あるいはまったく無意味な未来をこの場面から出発させることができる。私はこの写真を、あるときバーで知りあった男からもらったのだが、後になって、これがあるフランス映画の一カットであることを知った。映画に一つの題名がある以上、この場面を運ぶ筋というものがひととおりしかないのはもちろんである。にもかかわらず、それが一つの切り口を示すかぎり、この一つの場面を無数の物語に還元することができ、また無数の物語がここから展開する可能性が存在する。  私たちが一つの場面に遭遇し、一つの感動とともに立ちどまるのは、それがかならず一つの物語をもつということ以上に、同時にそれが無数の物語をもちうることのためである。そのような可能性が成立しうるのは、その場面がもはや私たちの側の出来事となっているためであって、そのとき、私たちと世界のあいだに置かれた灰色の裂け目はひそかに埋め去られる。私たちと世界のあいだに生き生きとした結びつきが回復するのはこのときである。 『邂逅』について  私は椎名文学のとくに熱心な読者ではない。とくに最近の作品は、私だけの体質からくる抵抗があって、ほとんど読んでいない。ある時期、私が熱心に読みふけったのは、『邂逅』に到る主として初期の作品である。とくに『邂逅』との出会いは、私にとって文字どおり〈邂逅〉にひとしい事件であった。『邂逅』はくり返し五、六度読んだような気がする。どうしてあれほど夢中になって読み返したのか、今になってみるとふしぎだが、理由は作品よりも、私自身の方にあったのではないかと思う。  『邂逅』を読んだとき、最初に私をひきつけたのは、ある奇妙な、生き生きした混乱と、その混乱がもつどうしようもないリアリティ、そしてその混乱の全体をささえているあるあたたかな安堵のようなものである。それは、受洗という新しい現実を通過した椎名氏が、必然的に直面させられた混乱と同質のものであったかもしれない。私には復活したキリストとの予想もしなかった邂逅という現実に、むしろ困惑している椎名氏の表情を見るような気がした。それはたとえば「おれはおれの無力に苦しみ、悩み、疲れている。それがお前たちに対するおれの自由と喜びのユーモラスな告白なのだ」とか「笑いながら、おこっていますよ」といった切迫した言葉によくあらわれている。正直なところ、これらの言葉に行きあたったとき、私はほとんど泣き出さんばかりであった。  私は『邂逅』を、かならずしも「文学的に」読んだわけではない。シベリヤから帰って三年目の私は、およそ文学的にものを読める状態ではなかった。私にとって、自由と混乱とは完全に同義であり、混乱を混乱のままでささえる思想をさがし求めていた。たぶんそれが〈愛〉というものなのだろう。だが、愛という言葉ひとつを口にするためにも、じつに多くのまわり道をしなければならない。それが椎名氏のいう「自由」ということなのであろう。  復活したキリストによって、私たちのまったく理解しない、まったく異質の新しい秩序によって、そのままの姿でささえられた者が、きのうとおなじ世界のなかで、なお立ちつづけるとき、世界がどのようにその意味を変えるか、意味を変えた世界をどのような〈自由〉において受けとめるか。これが、この混乱の全体によって、作者が問い同時に作者が問われている問題である。この問題の重さにくらべれば、構成上の多少の破綻は私にとってはとるにたらぬことであった。  だが、作品の主題はともかく、作品との邂逅は純粋に私自身の側の出来事である。それが、読者であるということの意味であろう。邂逅はある時点での出来事であり、事件としての邂逅は起るやいなや終る。あとは自分であるき出すだけである。このようにして邂逅は、無数の孤独な問題を一点へ交差させる。そして問題の展開は、おなじ数の方向へ分れる。展開して行くものは、ふたたびおなじ問題として交差することはないだろう。しかし、ある一点をひとつの偶然によって「共有」したということは、文字どおりかけがえのない出来事である。そのようにして私たちは、無数の地点を、無数の人と共有するのである。  さいごに、この作品の随所に見られる〈荒廃〉という言葉の独特なニュアンスについて。私たちにとって〈荒廃〉という言葉は、救いのない状態、または罰せられた状態としての意味しかもっていない。しかし『邂逅』のなかで私たちが遭遇する荒廃は、そのひとつひとつの局面では救いようのない状態でありながら、その全体があたたかく許されていると作者は考えている。そして、この思想を確固としてささえているものは、作者自身のどうしようもない実感である。おそらくこの「許されている」状態は、そのまま椎名氏の〈自由〉へ直結するものであろう。 棒をのんだ話 Vot tak ! (そんなことだと思った)  朝の六時には、もうその男がやってくる。六時にやってくることで、その男と僕との間に特別な話し合いがあったわけではない。だが結局は最初の日から、彼は六時にやってきた。もっともいつが最初の日かということになると、すこし問題がこみいってくる。  六時というのは、彼が一方的にきめてきた時刻で、その男との理不尽な交渉の最初から、話し合いなどというものが成立つすじあいではなかったのだ。今ではもう、朝の六時になると待ちもうけたように彼が姿をあらわすのは、完全に僕にとって既定の事実になってしまい、ひょっとすると僕が生れたその朝から——おおやけの記録によれば、僕は三十年前のある朝の五時に生れたことになっている——僕のところへやってきたのではないかという錯覚をおこすことがあるが、むろんそんなはずはない。彼は、ある朝とつぜんやってきたのであって、重大なのは、それがある朝はじまったということではなく、とつぜんそれがはじまったということなのだ。実際この世の中で、とつぜんでなくて、なにが一体起るだろう。  その男について、つまりその男の印象や風采について説明しろというのであれば、毎朝僕のところへやってくるという事を除けば、まず申しぶんのない男だと答えるほかはない。事実僕はあるとき、彼が公園でなにかの共同募金箱に金を入れているらしい姿を見かけたことがあるが、自分の権利も義務もよく心得ている中年のサラリーマンといった様子だった。ひょっとすると、どこか中どころの保険会社に勤めている正真正銘のサラリーマンなのかもしれない。職場の外では、へんにぶしつけであつかましくなるのも、この程度のサラリーマンにはよくあることだからだ。中年といったが、彼の年齢についてべつに確信があるわけではない。あるときラジオで漫才が「年のころのぎょろっとした、目の三十五、六の男」というのを聞いて、うっかり笑ってしまったが、ぎょろっとした年頃というものがもしあるとすれば、まっさきに彼があてはまるかもしれない。もう永年のつきあいになるにもかかわらず、僕にはその男が、いまだになんとしてもうす気味が悪くて仕方がないからである。その男が僕のところへやってくるには、むろん目的がある。僕に棒をのませるためである。  僕は、気の利かない冗談をいって気の利かない顔つきをされるのはあまり好きではないが、およそまじめなことがらをくそまじめな顔つきで話しだしたら、まず助からないという意見には賛成である。だがこの場合は、どうしてもまじめな顔つきではじめなければならない。まずこんな馬鹿げた話を、ばかげた顔つきで話しだしたら、それこそ救いようがないからだ。むろん「棒をのんだように」という古典的な比喩があって、今でも結構リアリティを持っていることは僕も知っているが、この場合は比喩とはなんの関係もない。僕がその男の手で毎朝のまされるのは、まぎれもない一本の棒であって、それもところどころ瘤のある一メートルほどのしっかりしたやつなのだ。  彼がやってくることについては、まず手ちがいというものがない。六時になれば、かならずドアの外で足おとがとまり、遠慮会釈もなくそれが開かれ、遠慮会釈もなくそれが閉めかえされる。その男は帽子をかぶってくる。今どきあまり流行らない、カムチャッカの猟師のような、まっ白な毛皮のやつだ。そして、彼にはまるで季節というものがないかのように、夏でもそいつをかぶってくるのだ。その男との奇妙な交渉がはじまってもう久しくなるにもかかわらず、今なおその白い毛皮の帽子を除けば、およそ彼に関するかぎり確実な印象というものが僕にはない。  彼はその帽子を、あたかも彼自身がこの部屋の正当な居住者でないことを証明するただひとつの儀礼であるかのように、わずかにもちあげてみせる。それから、急にせかせかと僕のそばへやってきて(彼はいつもなにかしらあわてている)、二、三のきわめて形式的な質問をする。たとえば、「顔を洗ったかね」とか、「飯は終ったかね」といった工合だ。よしんば、その質問に僕がどう答えようと、それは彼の関心外である。要するにそれは、最小限必要な一種の手続きのようなものであって、「さあ仕度しろ」というほどの意味をもつにすぎない。それから僕の返事も待たずに、ひょいと肩をおさえると、「あーんと口を開けて」というなり、持ってきた棒をまるで杭でも打ちこむように、僕の口の中へ押しこんでしまうのである。その手ぎわのたしかさときたら、まるで僕という存在へ一本の杭を打ちこむようにさえ思える。  一体人間に棒をのますというようなことができるのかという、当然起りうる疑問に対しては、今のところ沈黙をまもるほかはない。なぜなら、それはすでに起ったことであり、現に今も起りつつあることだからだ。それにこの種の疑問は、要するに一種の好奇心であって、一回の事実があれば、それでいくじなく納得してしまうのがふつうだからである。だがつぎの疑問となると、そう簡単には行かない。どうせわからないにしても、一応は思考の手続きをふんでみるのが、この場合の順序というものである。厄介な疑問とは、つまりなんの理由で、棒なぞをのませなければならないのかということであって、この種の疑問にはかつて人間が納得したためしがないものである。  まず考えられることは、その男が刑罰または教訓の意味で、僕に棒をのませるのだということである。刑罰または教訓のために棒を使用するのは、最も原始的な、したがってまた最も情熱的な方法だということは僕も認めるが、しかしどうせ棒を使うなら、たとえば背なかか尻の辺でも力いっぱいどやせばそれですむことであって、なぜこんな手のこんだ方法をとらなければならないのか僕には理解できない。現にその男自身でさえ、「まったくこんなまわりくどいことをするより、思いきって君の尻でもどやした方がどれほどらくかしれない」といったことさえある。それにしても僕が、なんの理由で刑罰を受けなければならないかは、やはり不明である。  つぎに考えられることは、彼が、治療の意味で棒をのませるのだということである。こんな方法を人間の治療に使用するようでは到底有能な医師とは思えないが、それにしても、彼が医師またはそれに類した職業の人間であると考えてもよい理由はないわけではない。たとえば僕の喉をのぞきながら、しょっちゅう彼は扁桃腺のことを気にする。「いけないね。またはれている。いまどきこんな病気はもう小児科だ。僕の管轄じゃない。」といった調子である。僕自身は到底これを、信用のおける治療法として承認する気にはならないが、しかし僕らに適用される処方のなかには、この棒よりもひどいやつだって結構ないわけでないのだ。もっとも僕自身の正直な感想からすれば、この場合、棒の方をむしろ一種の病気と考える方がずっと実感がある。  しかし結局のところ、現在の僕は、ほとんど完全に近い健康状態にあり、また、ただ一つの理由を除けば、僕がこの世界で刑罰を受けなければならない理由というものは、今のところまったく考えられないのである(ただ一つの理由というのは、すこし説明しにくいが、つまり僕には刑罰を受ける理由がなんにもないという、どうにもならない理由である)。  もちろん僕としても、こういうわけのわからない事態をいつも甘んじて受け入れてきたわけではない。それどころか、僕は不断に彼に抵抗しつづけてきたのだ。たとえば、僕は六時という時刻に抵抗した。なによりも僕は、それが一定の時刻に行なわれることががまんできなかったし、またなぜそれが六時であって、他の時刻であっていけないのかという疑問に耐えられなかったのだ。ある朝僕はその男に、せいぜいいやみたらしくこういってみた。  「一体なにがおもしろくて、きちんと六時にやってくるのかね。」  すると彼は、そらきたといった顔で、即座にこう答えた。  「冗談じゃない。もともと君がいいだしたことじゃないか。自分がさきに頼んでおいて、なにが、とはなんだい。」  「僕が頼んだって? なんだい、それは。」  「からかっちゃだめだ。毎朝六時、それより早くても、それよりおそくてもいけないと、あれほど念をおしたのも君じゃないか。」  「僕が、六時にだって? 冗談じゃない。」  「冗談じゃない。」  最後のせりふは、よく息の合った芝居のように、まるで一人のせりふに聞えたが、彼はもうそれ以上相手にならず、さっさと立ちあがった。  「いずれこんなことをいい出すとは思っていたさ。ついでにいっておくが、仕事が終ったら、よけいなことをいわずに、さっさと出て行ってほしいといったのも、そもそも君なんだぜ。」  彼はそれだけのことをいうと、さっさとドアを開けて出て行ってしまったのだ。  僕はその日いちにち、頭があつくなるほど考えてみたが、何がどういうふうにしてはじまったかは、ついにわからずじまいだった。  僕がこころみたおかしな抵抗の例をもう一つあげると(もっともこの場合、問題はそれほど本質的なものではなく、むしろ技術的なものであったが)、あるとき僕は、彼の押しこんだ棒が僕のなかで、どういう状態で一日をすごすのか、ひどく気になったことがある(いい忘れたが、彼は夕方六時になると、また正確に姿をあらわして、朝押しこんでおいたままの棒をぬきとって帰るのである)。  その晩僕は、妙に想像力ばかりふくれあがって、到底ねむれそうになかったので、起き直ってあらためてこの問題を考えてみた。  まず僕はこういう場合に、常識をもった人間ならだれでも考えつくはずのことから考えはじめた。まず、人間の消化器官は喉から胃ぶくろまでは、ほぼまっすぐに通りよくできているが、それから先は解剖学の書物がおしえるとおり、およそ奇怪きわまる曲折をくりかえして最後に直腸へ到達する。もしそのとおりであるなら、問題の棒が僕の喉へ押しこまれたあとの状態は、当然これらの消化器官が棒の意志に従って一直線になるか、また棒の方で妥協してくねくねとよじれているのでなければならない。  この問題は考えれば考えるほど面白そうな問題だったので、僕はしばらくのあいだそれに夢中になったが、結局この世界でいちばんくだらない問題だということがわかった。というのは、棒がまっすぐでないなら、それがまがっているにきまっているからだ。しかしそのあとで、僕は思いがけない事実に気がついたのだ。つまり、人間の喉と肛門とははしなくも同一の器官の両端を形成しているということである。そうすると、僕が毎日おしこまれる問題の棒は、当然その一端が僕の喉に接し、他の一端が肛門に接していることになる。いったいあの棒に上下の区別があるのだろうか。僕は急にむかむかし出した気持をもてあましながら、あした彼がやってきたら、どうしてもこれだけははっきりさせておかなければならないと、かたく決心したのだ。  つぎの朝、僕は彼が仕事にとりかかろうとするそのきっかけをつかまえて、大急ぎで前の晩に考えたとおりのことをたずねた。  「いったいその棒に上と下の区別があるのかね。」  彼は棒をもちあげた手をそのままにして、なんというくだらないことを聞くやつだという顔で僕を見た。  「区別があったらどうするのかね。」  「もし区別があるのなら、ちゃんとその区別をまもってほしいし、区別がなかったら、いまからしっかり区別をつけてもらいたいのさ。」  「区別をつけることが、そんなにだいじなことかね。」  彼は「そんなに」というところに妙に意地のわるいアクセントをつけていった。  「すくなくとも、その棒に上下の区別がなかったら不潔じゃないか。」  「じゃなんだね。君は清潔でなければいけないというんだね。」  「すくなくとも、ふつうの人とおなじくらい清潔であるべきだよ。」  彼はすこしばかりやさしい声でいった。  「それじゃ、どっちを下にしろというのかね。どっちを下にしても、要するにおんなじことなんだぜ。どっちの端だって、どうせ君の喉を通るんじゃないか。」  ちきしょうそうか。僕は完全に沈黙した。彼のいうとおりだったからだ。  僕がこころみたおかしな抵抗やいやがらせは、もちろんこれだけではない。だがそれはつまるところ、棒に附随するさまざまな条件に対する抵抗であって、かんじんの棒をどう考えたらいいかという段になると、僕にはまるっきり見当がつかないのである。僕が棒について、つまり最も根源的なあいまいさについて考えはじめるやいなや、それは僕の思考の枠をはみだし、僕の抵抗を絶してしまうのだ。要するに災難なんだ、といい聞かせておいて、帽子をかぶり直すという寸法なのだ。  棒か、要するにそれは、どう考えてみたところでどうにもならないものだ。たとえば、  〈もしあの棒がなかったら〉 と僕は考える。そうしたら僕の生活はどうなっているだろう。ぜんぜん別のものになっているだろうか。だが、どんな仮定をしてみたところで、棒は僕のなかに現に厳然とおさまりかえっているのだし、結局、棒というものはとにかくうごかしようのないものとして、一応前提からはずしてかからないことには、僕の一日は一向にはじまることにならないのだ。  もっとも、僕の抵抗に多少とも新鮮な意味があったあいだは、とにもかくにもあれこれとまわり道をしては、問題の本質にすこしでも近づこうという努力をしたこともないわけではない。だが結局のところ、棒があるものと考えても、ないものと考えても、僕は今までどおりの生活をし、いままでのようにものごとを考えて行くことしかできないのだということにうすうす感づきだしてからは、できるだけ問題の本質から遠ざかって、もっぱら気ばらし程度の抵抗で満足することにきめてしまった。  僕の生活は、棒をのむことによって始まる。棒をのみ終るやいなや、僕はもう棒のことなぞきれいさっぱりと忘れてしまい、上衣に手をつっこみ、帽子に頭をつっこんで廊下へとびだすのだ。僕は、結構一日の目的だけはちゃんともっているような顔をして、すたすたときめられた道の上を歩いて行くのである。  僕にはいくつかの奇妙な習慣がある。そのほとんどはそれが習慣となるやいなや、すでに行動としての意味をうしなってしまったものであるが、しかも僕は頑強にそれらの習慣をまもりつづけている。それだから、つまりそれは習慣なのだ。考えてみれば、僕らの生活は、どれもこれも習慣によって成立っているようなものだ。人間とはつまり習慣である。そういえばたしか、僕らの耳や鼻や、肝臓や盲腸も、みんなりっぱな習慣である。たとえば、僕は毎朝駅の売店で、その日のスポーツ新聞を買って電車に乗り、電車のドアがしまるとそれを開く。そしてそれを開くやいなやたちまち絶望して、それを網棚へほうりあげるのだ。まったく世のなかに、スポーツ新聞ぐらい絶望的なものが、ほかにあるだろうか。それにしても、毎朝のその絶望をぬきにしては、やはり僕の生活ははじまらないのである。  僕が電車にのるのは、一応ちゃんとした目的がある。僕は働いているのである。僕は電車を降り、まっすぐ職場の方を向いてあるいて行く。むろん例の棒も一緒である。  職場に着くと、僕は挨拶をする。僕はちゃんと挨拶をすることを知っている。たとえば椅子からひょいと腰を浮かせて、「おはようございます 課長」といえばいいのだ。そのひょうしに僕は、例の棒でいやというほど喉の奥をつきあげられる。まったく、あの棒はうまくできている。だがどっちみち、僕は課長なぞこれっぽっちも尊敬なぞしていないのだ。僕があんな男を尊敬するはずがない。僕が尊敬するのは、自分のやっていることがほとんど無意味であるか、あるいはまったく意味をもっていないことをちゃんと知っていて、それでいてその仕事をちゃんとやってのけるような男である。僕はそういう男を尊敬する。だがそんな男に、僕はまだ一度だって会ったことはない。したがって、僕の周囲にいる男というのは、自分のやっている仕事が結局なんにもならないことを知らずに、結構せい出している男か、または自分の仕事がなんの意味ももたないことにいちはやく気づいて、そのためにのらくらしている男か、そのどっちかになる。もっとも、この両方のあいだで、時に働いてみたり、時にのらくらしたりするものも結構いて、むしろこの方が数からいえばずっと多いのだが、しかし早晩このような連中ははっきりとどっちかへ片づいてしまうのだ。ところで僕はといえば、もうとっくに片がついてしまっている。ただ、僕が多少とも人なみに働くのは、ほかならぬあの棒のせいなのだ。しかし、僕自身をも含めて、そのような男たちを僕が尊敬しないからといって、べつだん軽蔑しているわけではない。いわば、僕自身をも含めてそのような男たちに、僕はまったく関心がないのだ。たぶんそれは、軽蔑することよりも、もっとわるいことにちがいない。  しかし、いつもこのようにして、ものごとが順調にはこぶわけではない。寸分の狂いもないといったところで、その男がいつも快適な状態で棒を押しこんでくれるとはかぎらない。とりわけ僕が、思いきってあくどいいやがらせをいったときなぞはそうだ。そんな時は、さすがの彼も動揺を感じるのか、あるいは僕をいじめる気でわざとそうするのか、どっちかわからないが、棒のおさまりぐあいがなんとしてもおかしいときがある。そうなるともう、僕の生活は朝から調子がくるってしまうのだ。  そんなとき、僕の歩く方向はきまって途中からそれてしまう。それも、きまって海の方向へそれるのである。もっと正確にいうと、海のまんなかに棒のようにつき出した堤防へ足が向いてしまうのだ。僕のアパートから堤防へ行く距離と職場へ行く距離とは、どういうわけかちょうどおなじなのだ。つまり職場へ行くのとちょうどおなじ労力で、僕は堤防の突端へも到達することができるのである。もっとも、労力の点からいったら、そのほかにもいろいろな場所があるにちがいない。僕が堤防へ行くのは、つまり堤防が僕をひきつけるからなのだ。たぶん、棒の連想から自然とそうなるのだろう。  堤防が僕をひきつける理由にはそのほかに、それがかならず突端で終っており、そこまで行ったらかならず引返さなければならないといったこともある。それは、いずれは行きどまりになっていて、不承ぶしょうに引返さないわけにはいかないあの袋小路というやつに非常によく似ている。だがやはりちがう。堤防の突端には、あのうさんくさそうな土塀や壁は立っていない。つまりそこは、なにかしら自由なのだ。決心さえつけば、そこからさらに無限にあるき出すことだってできる。だが決心はべつに今日でなくてもいい。そうして僕は、堤防の突端まで来て、そこに思いがけない自由な空間があることになんとなく安心し、失望し、そしていくぶん不安になって、頑丈な堤防の上をひたすら引返すのだ。  時には、さんざんまわり道をしたあげく、ようやく夕日が沈み出す頃になって、堤防の突端にたどりつくことがある。とりわけ波のうねりが妙に高いときなぞ、海に夕日が沈んで行くのを見るくらい心にこたえるものはない。まともにこの光景を受けとめるには、かなり豪気な精神を必要とする。だがすくなくとも、豪気というのは僕の属性ではない。いつもそんな時には、僕は、はじめて火事をみた少年のように、歯の根も合わんばかりの風情で、真赤なたどんのかたまりのようなものが、あつい息を吐きながらすこしずつ海の中へ沈んで行くのを見まもるだけなのだ。妙なことに、そういう時になるときまって僕には、茶椀をひっくりかえす音や、からの鍋をかきまわすような音が聞えだすので、よけい居ても立ってもいられなくなるのである。  だが結局は、その大きなたどんのようなものも完全に姿を消してしまうと、やがてあたりは、うすぼんやりしたつかまえどころのない色彩のなかにゆっくりと沈みはじめ、そうしてなにかしらほっとするような気配がやってくる。黄色い市場のうえでゆさぶられるような時間がやってくるのだ。そして僕は、結局はどんなことにも終りがあるのだということにやっと納得して、ながいながい堤防を引返して行くのである。  夕暮れというのはたしかに奇妙な時間である。まだらな牝犬のまだらな乳房をなだめるようなけだるさのなかにその時間はやってくるが、ひととおりいろんなことは終ったにしても、まだほんとうの終りにはしてもらえないので、どうにも恰好がつかないといった時間なのだ。だからその時間になると、誰もが誰かにもてあまされているような顔つきになる。なにかがここではじまるにしても、それはほんとうの終りが来るまでのはかないあいだでの出来事にすぎないのである。だがもしかすると、その夕暮れの時刻から、一日の生活をはじめるやつがいるかもしれない。おまけにそれが、僕であるかもしれないのだ。それが職場からであろうと、堤防からであろうと、夕暮れがおとずれたとあれば一目散にきたならしいアパートへとんで帰るのは、かすかにそれを僕が予感しているからかもしれないのだ。だがそれにしても、おもて向きの理由は、きっかり六時に僕のところへ彼がやってくることになっているからである。  彼がきちょうめんなのは、朝も夕方も変らない。時には、僕といっしょに肩をぶつけ合いながら部屋に入る時もある。僕は帽子を脱ぐ。彼は帽子を脱がない。「あーんと口をあいて。」それでおしまいだ。彼は抜きとった棒をきたならしそうにぶらぶらさせたあとで、「じゃ」といって出て行ってしまう。それから……それからすくなくとも僕にとって、なにかがはじまる番なのだ。  なにからはじめようか。だが結局はいつもおなじことなのだ。まず僕は泣きだすのだ。あのはんこで押したような足音が、階段のところまで行ってばったり聞えなくなると、待ちかまえたように僕はドアにとびついて、もう一度ばたんとそれを閉めなおす。それから、がっかりして腰をおろす。すると、その時までまるで節穴ではないかとしか思えなかった僕の目から、涙が、それこそ一生懸命にながれ出すのである。  だがそれにしても、奇妙なことがひとつある。というのは、いよいよ涙が、どしゃ降りの雨のように流れ出す段になると、きまってそれが一方の目に集中してしまうのである。だから、僕が片方の目を真赤に泣きはらしているあいだじゅう、僕のもう一方の目は、あっけにとられたように相手を見つめているといったぐあいになるので、僕は泣いているあいだでも、しょっちゅう間のわるい思いをしなければならないのだ。やがて、いままで泣いていた方の目が次第に乾いてきて、さもてれくさそうに、または意地悪そうにじろりと隣の方を見つめると、待っていたといわんばかりに、もう一方の目からしずかに涙がながれ出すというわけである。  むろんこんなことは、だれもがもうさんざん経験してきたことにちがいない。実際、両方の目からいちどきに涙を流すような完璧な男がこの世界にいるだろうか。だがひとのことなどはどうでもいい。僕にとってはただ、やがて僕自身が泣き終る瞬間こそが、言葉はおかしいが、それこそかけがえのない恥しさなのだ。だから泣き終るやいなや僕は、まるで硫酸でもひっかぶったように椅子からとびあがって、またもやおもてへとび出して行くのである。いわばこの恥しさこそが、僕にとっては、自由というもののはじまりかもしれないのだ。  そのようにして僕がとび出して行くさきは、ときに雨のなかであったり、ときに霧のなかであったりする。また時には、それこそなんにもない、まったくのからっぽのなかであったりする。よしんばそれがわずかなあいだのことにすぎないにせよ、僕があの棒となんのかかわりも持たないでいい時間というものが存在するのだ。たぶんそのあいだは、あの男が棒と、否応なしにかかわりをもつことになるだろう。だがそれは、全然べつな問題である。  あるとき、そのようにして僕が出て行くのは、あふれるような月の光のなかである。バケツの底のような町へ、たっぷりと月がさしていて、なにかの飲みもののように光がたまっていた。光は帽子のふちにも、ズボンのへりにもたまっていた。水たまりをまたぐように、まっさおな光をまたいで行きながら、胸がいたくなるようにやさしい、そして奇妙に動物的なものの気配が、僕のからだのどこかでかすかにうごめくのを感じた。なんてやさしいんだろうと、僕は思わず口に出していった。まるで、しずかに草を食っているけものみたいじゃないか。すると僕は、おんながあるいているのを見るのだ。  だが時には、ひと晩じゅうあるきつづけても、一人の女にも出会わないことがある。女ばかりでなく一人の男にも会わないのだ。そのような時、僕が出あうのは、銅像と犬だけである。この町には、馬の銅像が三つと、革命家の銅像が一つある。たぶん一生のあいだ失敗ばかりしつづけて、銅像になるほか仕方のなかった革命家なのだろう。なぜなら、この国に革命があったという話を、僕は聞いたことがないからだ。だがひと晩じゅうあるきつづけても、僕が出あうのは馬の銅像ばかりである。革命家の銅像がどこにあるかは、ほんとうは僕も知らないのだ。  とりわけ霧のふかい夜なぞ、灰色の息吹きのようなものにびっしょり濡れながら、それでもうごかずに立ちつくしているけものの像に出あうぐらいいやなものはない。おまけにそれが僕の目の前で、鼻のさきからしっぽの先までずっしりと充実しているのだ。そうなるともう僕は、帽子もとらずにその前を素通りしてしまうのである。  だがいちばんいやなのは、三番目に会うことになっている馬の像だ。その銅像は、いつも僕が引返すことになっているちょうどその曲り角に立っているのだが、前の二つの銅像がともかくもちゃんとした馬の銅像であるのに、その銅像だけは、どうしたわけか木馬の銅像なのだ。つまり馬を木馬にしたうえで、もうひとつそれを銅像にしたという念の入った記念物なのだ。どうしてそんなに念を入れたのか、僕が考えたってわかるはずがないが、それでいてその前へ来るとかならず立ちどまってしまうのである。それがいつも、とまろうと思ったわけでもないのに、うっかり立ちどまってしまったというぐあいに、ちゃんと足がとまってしまうのだ。それから両手を上衣のポケットにつっこんで、さもばかにしたように僕は銅像を見あげる。実際、ばかにされるためでなくて、だれがわざわざ木馬を銅像にまで仕立てて、こんなところに置くだろうか。だから、それは当然ばかにされていいのだ。だがそれにしても、わざわざそんな所まで、そんなものをばかにしに僕がやってくるのは、つまりは僕がばかにされている証拠だと気づくには、それほど時間がかからない。その証拠に木馬には、あるかないかの小さな目が、それも片っぽうしかついていないのだ。それから僕は、まっくらな町を一目散にかけもどると、しめっぽい寝台へいきなり背中からもぐりこんで毛布を頭までひっぱりあげ、ほんとうの夜明けが来るまでねむるのである。そうだ、あの木馬の、あの手のこんだばからしさは、たしかにあの棒の場合と似ている。だからどうしたって、あれは棒をのんだ馬だ。  それにしても、人間が棒をのんでいるということは、棒をのんであるいているということは、やはりどこか異常な、理不尽なことにちがいない。それが日常のなにくわぬ生活のなかで、硝煙や犯罪のにおいさえもともなわずに、ひっそりとしずかに行なわれていることからして、すでに異常である。つまりそれは、もう事件とさえもいえないのだ。もしそれが、たとえば「あーんと口をあいて」というようなことでなくて、決断や対決や威嚇や悲鳴をともなって起るなら、まだしもそれは正常だといえるだろう。それが、どうしてもあたりまえのことのように起るから、どうしてもそれは異常なのだ。  しかしいずれにせよ、ものごとの状態をあらためて確認しなければならない日が、いちどは来るものだ。僕らがそれに対して責任を負うかどうかは別にしても、定期便トラックだって赤信号の前では一応ブレーキを踏むことになっている。  ある日仕事場で、書類を片づけてひょいと立ちあがろうとしたとき、僕の足もとへ紙きれが落ちて来た。紙きれを追ってきた手がそれへ重なって、その手へじかにつながった平べったい背なかの上を、ちょうど持ちあげた僕の足がいやというほど踏んだ。もう一度はじめからいい直すと、落した書類を拾おうとして、あわてて四つん這いになった同僚の背を、ちょうどうまいぐあいに僕が踏んでしまったのだ。人間の背なかというやつは、人間が踏むにはもってこいにできている。たぶんそのまんなかに、靴型のように深いくぼみがあるにちがいない。すると、踏まれた方の男が四つん這いのままで、真青になって僕を見あげたのだ。  「気をつけろ。棒をのんでるのがわからないのか。」  僕はその瞬間、世界のどこかの隅がみしっと音を立てて、いきおいよく落ちくぼんだような気がした。僕は鷺のように片方の足をもちあげたままの姿勢で、いまいましそうにその男が起きあがるのを見ていた。起きあがりながら、彼はつかみそこねた紙切れをひろいあげた。なんでもない、つまらない紙だった。それからほんのすこしのあいだ、誰に所属していいかわからないような時間がすぎると、彼は急にてれくさそうに、あっちこっちへぶつかりながら部屋をとび出して行った。  僕は、いきおいよく急停車した満員電車のなかでかろうじて踏みこたえたような恰好でうしろを見た。僕のうしろの席には、もう何年も前から、むやみに爪の長いオールドミスが、ごくあたりまえの顔をしてすわっていた。そしてそのときも、ごくあたりまえの顔で僕にいったのだ。  「気にすることないわよ。あの人はただ、棒の尊厳を維持したかっただけなんだから。」  しかし、オールドミスのその、ごくあたりまえの言葉が、僕には新しいショックだった。  「棒って、君、あいつも棒をのんでるのか。」  「なにいってるのよ。棒ぐらいだれだってのんでるじゃないの。それともあんた……。」  それから彼女は、急に不愉快な顔をしてだまってしまった。自分自身の想像の思いがけない重大さに、自分でショックを受けたらしかった。  だが僕にとってその時のすべては、かけがえのない新しい経験だったのだ。得体の知れない熱いせつないものが喉もとへいっせいにこみあげてくると、僕は知らずしらず立ちあがっていた。僕には、同僚や上司たちをつぎつぎに見まわして行く自分の視線が、次第に火のようにあついはげしいものに変って行くのが、自分でもよくわかった。  (こいつも……そしてこいつも……。そろいもそろって、よくまあこんな大変なことを……。ひとりのこらず同罪じゃないか……。)  部屋のなかがいきなりしんとした。誰も彼もが不意に腰を浮かすようにして、いっせいに僕の方を見た。僕は彼らに対して、まったく唐突に愛を感じた。僕はなにかしゃべりたかった。だが声にはならなかった。僕は、ただ茫然と交通事故の現場を見まもっているだけのような同僚たちの視線にそれ以上耐えられなくなって、そのまま廊下へとび出したのだ。  廊下をまっすぐ走って行ったところで、いきなり小さいドアがあった。ドアを開けるとまた小さいドアがあった。僕は夢中でその小さいドアを開けた。洋式の便器が、ぎょっとするような白さで目の前にあった。僕はドアの鍵をしっかりとおろすと、いきなりその上へしりもちをついた。この便器はどこか、おれの会社の椅子とすわり心地が似ているなと、混乱した頭のどこかの隅が勝手に考えていた。世界が急にしんとしてしまった。おれの姿勢はどこかで見たような姿勢だなと、その時僕はふいに感じた。たぶんロダンの有名な彫刻のなかに、こんな恰好をしたやつがあったかもしれない。もっともあいつは、便器の上に腰かけたりしてはいなかった。あいつが腰かけていたのは、何かずっしりした根拠のようなものだった。僕は自分の頭をかかえた。なんだか妙なかたちのキャベツをかかえているような気持だった。キャベツの真中に、世界の中心のようなまっくらな芯があるのだ。僕は知らずしらず涙を流していた。だがありがたいことに、今度は両方の目から一緒だった。僕はなんとなく気をうしなって行った。  その日の夕方、〈当分の間安静を要する〉という医師の診断書と一緒に、僕はアパートへ送り返された。例のオールドミスがなんと思ったのか、アパートまでつき添って来た。彼女は、しょんぼりと寝台に腰かけたきりの僕にはおかまいなしに、いきなり部屋のまんなかにつっ立ってしゃべりはじめた。  「すこしせっかちだったわね。あれじゃ誰にだっておっちょこいにしか見られないわよ。だってそうでしょう。」  「おっちょこいじゃない。おっちょこちょいだ。」  僕は蚊が鳴くような声で、彼女のまちがいを指摘した。  「どっちにしたっておんなじことよ。自分でそれをみとめるなら。」  僕はそのときはじめて、彼女の耳輪の左と右がちぐはぐなことに気がついた。僕はなんとなく心にやすらぎをおぼえた。この女はもう何年も、この片ちんばの耳輪をぶらさげてあるいていたのだ。  「棒をのんでるってことだけで、人間の問題がそのままおなじになるなんて考えられないじゃないの。それに場所もよくなかったわね。あんなところで問題を持ち出すべきじゃないと思うな。」  「じゃ、どこで持ちだすんだ。」  「そうね、裁判所か……でなかったら教会ね。」  僕は奮然と立ちあがりかけた。  「よし、あした教会へ行ってやる。」  「そうしなさいよ。」  彼女は僕の唐突な決心に、不自然なほど気軽に応じた。  「それでなにかが変ることはないにしてもね。」  彼女はいいたいだけのことをいってしまうと、挨拶もせずに帰りかけたが、またもどって来ていった。  「いっておくけど、あしたは日曜じゃないわよ。ほんとに。」  それがどうしたんだと、思わず腰を浮かせたとたんに、部屋のなかで六時が鳴った。僕は一瞬のあいだに一切を思い出した。なにもかももとのままなのだ。一時間後、僕は木馬の前に佇つ。あす、僕はしっかりと棒をのんで職場へ行く(休養なぞだれがするものか)。およそ愚劣なこと。およそ無意味なこと。何ひとつ変ってはならないのだ。何ひとつきのうと変ってはならないのだ。僕は歯ぎしりして立ちあがった。 肉親へあてた手紙 ——一九五九年一〇月  前の手紙の内容は一応おわかりいただけたことと思います。私たちの間で行なわれた一連の話しあいのなかで、法的な義務と慣習上の義務や、〈家〉の観念についての不用意な混乱、法律の条文にたいする希望的な解釈があるのではないかということを感じたからなのです。私自身は法律の問題を正面に押し出すことは、初めから全く気がすすまなかったのですが、先日のそちらの語気では、かなりはげしく〈責任〉のけじめをつけることを要求しておられるように受けとれましたので、やむを得ず根本的な検討をしたわけです。  しかし、法律の上の事がらがはっきりしたからといって、それで問題が終ったのではないことはもちろんです。法律的な、あるいは論理的な筋道がはっきりしたとしても〈道義上の責任〉の問題はやはりのこるでしょう。そしてこの問題こそ、私自身徹底的に追求したい問題であり、するどくこの問題を考えることによって、私たちの内部に存在するあるものが変り、新しい視野と展望が開けると信じるからなのです。  この事は以前には一応諒解がえられたはずの、幾つかの問題があるいは忘れ去られ、あるいは無視されて、ふたたびむなしい怨恨と不満におきかえられようとしている現在、きわめて重要なことであると考えないわけには行きません。  〈道義的な責任〉にたいして取る私自身の立場と考え方を、一応説明をはっきりさせるために、次の三つの立場に分けて考えて行きたいと思います。 1 キリスト教徒としての私の立場と考え方 2 信仰上の立場を一応切りはなして考えた場合の人間としての私の立場と考え方 3 戦犯受刑者としての私の立場と考え方  以上の三つの立場は、こんどの問題の場合にかぎらず、およそ一切の問題に対する私自身の考え方の基調になっているものです。もちろん実際にはこの三つの立場はいずれも同等の比重をもって一つのものになっているはずですが、問題を混乱させないために右のように分けて考えることにしたいと思います。 ㈵  信仰上の問題については大へん説明しにくいのですが、いろいろな動揺や不安や躊躇を伴いながらも、やはり私自身をキリスト教徒であるとはっきりいい切らぬわけには行きません。私自身は戦前からたえず信仰の問題については動揺をくりかえしながら、しかしその動揺のすべての過程を通じて、徐々に、しかし確実に教会に引きつけられつつあるということがいえると思います。  いまキリスト教徒という具体的なイメージがない場所で、「私はキリスト教徒である」ということは、「私は何ものでもない」ということと全く同意義であることは私自身もみとめます。しかし、それにもかかわらず、私が私自身をキリスト教徒であると告白できるのは、私たちの全く理解しない、私たちとは全く異質の新しい秩序によって私自身が力強くささえられているからにほかなりません。  しかし、このような問題にこれ以上深く立ちいることは、理解のための共同の前提が全く失われているこの場合、やはり避けたいと思います。ただ、右にのべた二、三の言葉を通じて知っていただきたいことは、信仰という問題が現在の私自身にとって、いかに逃れがたく重大な問題であるかということなのです。  ここで、私が特別に申しあげたいことは、問題のもう一つの側面——形式的な側面です。ここではっきりさせておかなければならないことは、私がカトリック教徒ではなくプロテスタントであるということです。プロテスタントには、その外側の形式を拘束するどのような規範も存在しません。すべてはその人の宗教的良心に従って判断し、行動すべきものとされます。したがって、その人がプロテスタントでありながら、たとえば仏教の儀式を主宰するということもありうるわけです。それは、具体的な場合に聖書に耳をかたむけることによって具体的に判断して行くというほかいいようがありません。  しかし、私は私の宗教的良心にしたがって、きわめてきびしく判断しました。信仰上の判断にもとづく大きな責任は、個人が個人にたいして負う責任とは異なるはずです。  したがって、私の場合は今後もこの方針をつらぬくことによって、教会に対する責任を担って行くつもりでおります。このことは前に申しあげたように、信仰というものが現在の私にとって、きわめて致命的な問題であることから、一応は理解していただけることと思います。  以上申しあげたことは、前にも一度説明したことなのですが、はっきりしない点もあるかと思うので、ここにもう一度くりかえして申しあげた次第です。 ㈼  次に一応キリスト教徒としての立場を別個に切りはなして、人間としての立場から私自身の考え方を申しあげます。  この場合、私にとってもっとも重大な問題は、人間と人間との結びつきの問題、人間関係の問題です。  なによりも私は、墳墓と儀式、および排他的な血族意識によって人間がつながりあい、かかわりあうということに強い不安と危機を感じないわけには行きません。このような結びつきのなかで、私たちがどのように無意味に傷つけられ、また傷つけ、さらにまた無意味な妥協をくりかえさなければならないかということは、何よりも私自身いくたびか実感して来たことなのです。このような結びつきの内部でもっとも重要なことがらは、「誰を誰の上に置くか」という格式の問題であり、「誰と誰が組んで誰に当るか」という党派意識の問題であり、「誰が誰にどれだけ与えたか」という恩義の量の問題です。おおよそ、人間の存否にかかわることがらは、そこでは永久に押しのけられるか、あるいはまた自己の立場を巧妙に守るための論理的武装に利用されるだけであり、しかもこのような結びつきの底を流れるものは、暗い怨恨と誤解との、腐食的な進行だけではないのかとすら考えます。  もともと外部に向って結束する目的を持つはずの血族的な結びつきが、むしろ内部から逆に分裂して行くのは、このようなきわめて感性的な、あるいは生理的な原則を中核としたことから起るものであると考えます。  私自身はこのような結びつきから、またそのような結びつきのための儀式と慣習からできるだけ遠くへ身を置きたいと考えています。  戦争は私たちに多くの傷を負わせ、その一人一人に深い孤独をもたらしました。戦争を通じて、私たち一人一人の間には理解しがたい断絶が置かれ、その断絶のおのおのの側で私たちは深く自分の内部を見つめ、自分の力で自分自身の魂にかかわる問題を解決して行かなければならなくなりました。  このような場所で、私たちが相互の内部にある孤独を理解しえないまでも、たがいに尊重するようになるとき、私たちの間に深い真剣ないみでの連帯が回復されるという確信は、とりわけ、現代のような不幸な精神的状況のなかで、真剣な問題意識をもって生きて行こうとする場合に、大きな深い意味をもって来ます。  私たちはおそらく、親子であっても、夫婦であっても、兄弟であっても、そのままのかたちでは直接につながりえない不幸な断絶を持っており、私たちの人間関係をささえているかに見えるものが実は深い虚無であるということを、否応なしに認めさせられるように思うのです。しかし、このような深い虚無を真正面から見すえることが人間が生きることの意味であり、このような真剣ないみでの実存的な課題から目をそむけて、儀式と血統によりたのむということは不幸な逸脱、意味からの重大な逸脱であると考えないわけには行きません。  私は、人間はどんな場合でも、人間としてのみかかわりあうべきものだと考えます。そのばあい私たちを結びつける真実の紐帯となるものは、その相互間の安易な直接的な理解ではなく、それぞれの深い孤独をおたがいに尊重しあうことであると考えます。そのような場合にのみ、私たちは人間として全く切りはなされた状態でありながら、しかもその全体の上に深い連帯が存在しうると考えることができます。いずれにしてもそのような連帯は墳墓と儀式、慣習と血族意識とを核として成立する連帯とは全く別のものでなくてはなりません。  なによりも私は意味のある生き方を求めて戦いたいと思いますし、おおよそ無意味であると考えるものはきびしく拒みたいと考えます。失われた十三年の歳月の後の、のこされた私の人生は意外に短いかも知れません。しょせんは死と虚無に終るはずのこの人生のなかで、なおこの上に無意味な儀式にかかわるということは、私にとって大きな苦痛です。  私は何よりも人間としての問題性の上におたがいの結びつきを深めて行きたい。血族というものを前提とする一切の形式を避けて生きて行きたいと考えます。 ㈽  これから申しあげようと思うことは、私たちの間の話しあいの中で全く忘れ去られているか、あるいはまた最初から念頭におかれていないと思われる問題なので、とくにくわしく申しあげたいと思います。  御承知のように、私は昭和二十四年四月、三年にわたる未決期間ののち、いわゆる〈戦争犯罪人〉として、中央アジヤ軍管区司令部つきの軍法会議で二十五年間の重労働をいいわたされました。  断っておきますが、戦争犯罪人というのは、日本の場合には、極東軍事裁判で判決を受けたもの以外、このような〈闇取引〉によるものは認めないのが常識です。このことは裁判に先立って、私自身も一応抗議し、判決後も形式的にではありますが上告しました。しかし、誰かが「認めない」と口先でいうだけで終るなら、問題は簡単です。認めようと認めまいと、現実に実刑を課された人間には、そのような議論はなんの慰めにもなりません。むしろ正式の裁判によって、その存在が明らかにされている戦犯は、とも角も囚人としてまがりなりにも人間らしい扱いを受けたのに対し、これらの闇取引による犠牲者たちは、誰にも知られないままに、最も苛酷な、非人間的な環境に置かれることによって、実質的には最もきびしい戦争責任を担わされたと考えなければなりません。この点が巣鴨の戦犯たちと、シベリヤの戦犯とが絶対にちがうところであり、問われた罪状はきわめて漠然としているにもかかわらず、実刑においては巣鴨の戦犯とは比較にならない程重い戦争責任がシベリヤの戦犯の上にのしかかったわけです。  ソ連の囚人たちの間では、陰語で〈屠殺場〉と呼ばれている最低の流刑地が二つあります。一つはカムチャッカの北西から北極海に到るコルイマ地帯、もう一つはバイカル湖の西側、アンガラ河に沿う無人の密林地帯で〈バ《*》ム〉と呼ばれています。ここに送られることはその頃の囚人にとって最大の恐怖を意味しました。私がタイシェットの収容所にいた時、バムに送られるということを知った囚人が自分の手の甲を半分切りおとして出発を遅らせたという事件がありました。判決をうけて直ちに送られたのはこのバムの密林です。私は受刑直前、小型起重機の事故に会って左側の肋骨を二本折ったまま手当も受けずにバムへ送られたので、栄養などの関係で、その後三年ほどの間折れた骨の一本が剥離したままになっていました。  スターリン時代の最後の時期のソ連の囚人の生活(もし生活というものがあるとすれば)が、どんなに陰惨なものであったかということは、その頃から何度も人道問題として世界の世論がとりあげて来たことでもお分りになると思います。このような環境で何年もすごしているうちに完全に感覚が麻痺して、動物のように無神経になってしまったはずの囚人が、しかもなおしりごみをするといわれるバム地帯の生活が具体的にどのようなものであったかということは、ここではもう申しあげないことにします。それは、実際にそこにいた人間にしかわからないことであると思いますから。  このような生活の中で、とも角も私のささえになったのは、私は決して〈犯罪者〉ではないということ、いずれは誰かが背負わされる順番になっていた〈戦争の責任〉をとも角も自分が背負ったのだという意識でした。そしてまた、このことだけはかならず日本の人たちに理解してもらえるという一種の安心感でした。とも角も私はスターリンが死んだおかげで第一回の特赦に、それも最初は洩れたのを辛うじて追加になって、日本へ帰って来ることができました。私たちが舞鶴に上陸したとき、私たちは自分の故国、自分たちの理解者の中へ帰って来たのだという事実だけに単純に満足して、それまで多くの帰国者がやったように帰国後の生活保障を要求したり、失われたものへの補償を要求するようなことを一切しなかったことはよく知っておられるはずです。とも角非常に単純に、「ごくろうさん」といわれた言葉に満足し、「私たちは日本の戦争の責任を身をもって背負って来た。誰かが背負わなければならない責任と義務を、まがりなりにも自分のなまの躰で果して来た」という自負をもってそれぞれの家へ帰って行ったわけです。  しかし、私自身が一応のおちつき場所を与えられ、興奮が少しずつさめてくるに従って、次第にはっきりしてきたことは、私たちが果したと思っている〈責任〉とか〈義務〉とかを認めるような人は誰もいないということでした。せいぜいのところ〈運のわるい男〉とか〈不幸な人間〉とかいう目で私たちのことを見たり考えたりしているにすぎないということでした。しかも、そのような浅薄な関心さえもまたたくまに消え去って行き、私たちはもう完全に忘れ去られ、無視されて行ったのです。  ところが、完全に忘れ去られたと思っていた私たちを、世間は実は決して忘れてはいなかったのだということを、はっきり思い知らされる日がやってきました。私ばかりでなく、ほとんどの人が〈シベリヤ帰り〉というただ一つの条件で、いっせいにあらゆる職場からしめ出されはじめたのです。私たちが、私たちの生きる道を拒みつづける人たちの肩へも当然かかったであろうと思われる戦争の責任、それも特別に重い責任を引受けたのだという自負はきわめて無造作に打ちくだかれ、逆にこんどは、きわめて遠まわしにではあるが、またそれだけ骨身にこたえるような迫害をはじめたわけなのです。  いずれにせよ、こうした無慈悲な環境のなかで、具体的に私自身の助けになってくれた人たちは、例外なしにいずれも同じ苦しみを受けているはずの帰還者でした。このことを、よく考えていただきたいと思います。  私はラジオ東京のアルバイトをふり出しに、いくつかの職場を転々として現在の職場におちつきましたが、私のためにそれらの職場を探し出してくれた人たちは、ぜんぶシベリヤ帰りの人たちです。私は去年の二月から六月まで失業しましたが、その期間のとぼしいアルバイトを世話してくれた人も、みんな帰還者です。そのなかには私と同様の失業者もいます。そうして、このような人たちが、私にそのような配慮を示したことによって、私に対してどんな責任を要求したでしょうか。どんな義務を負わせたでしょうか。  ここに到って、私が世間を忘れ去ろうと思っても、世間の方で私のことを決して忘れはしないのだということを、私はいまさらのように慄然たる思いで肯定せざるを得ないのです。もちろん、これから先もこのような出来事はいくらでも、くり返されるでしょう。けれども、私は、このような全く顛倒したあつかいを最後まで承認しようとは思いません。誰がどのように言いくるめようと、私がここにいる日本人——血族と知己の一切を含めた日本人に代って、戦争の責任を「具体的に」背負って来たのだという事実は消し去ることのできないものであるからです。  このような大きな不条理につき当って、ほとんど絶望的な戦いをつづけている私に、あらためて世間なみの義務を思い出させ、責任をとれという人は一体どういう人なのかと思います。「私は責任と義務をすでに余るほど果して来た。あなた方のいう責任や義務とは比較にならない程重い責任を果して来た。しかもその事のために、今あべこべに生きる道を拒まれている。」と私が大声でいってはいけないという理由はないと思います。  私の〈留守中〉にあなた方が、当然私の義務であるべき父親の葬儀をりっぱに果たし、母親の扶養の義務を引きうけたということが一つの〈言い分〉になっていることを私は理解できます。しかし、その期間に私が何をしていたかということをもう一度はっきり思い起していただきたいと思います。  私はその時、単に〈留守中〉であったでしょうか。私はその時、自分の義務と責任とから〈解放〉されていたでしょうか。そうであるはずはない。あなた方が父の棺の蓋を掩いつつあったその同じ瞬間に私が何をしていたか、あなた方自身忘れるはずはないし、忘れていいはずはないと思います。あなた方はそれをその時知っていただろうか。あらためてもう一度聞きます。知っていたにしても「どれほど」それを知っていただろうか。  (たとえば、例の〈仮定〉の問題について考えてみましょう。私はあの時「もしもその時に私がいたら……」というあなたの設問が大へん意地の悪い設定の仕方であると思ったので「仮定の話は成り立たない」と答えたのです。おそらく、あなたにはそういう設問の仕方自体がどのくらい意地の悪いものであるかということに気がつかない程無神経であったと思います。人間は一般に被害に対しては驚くほど神経質であると同時に、加害にたいしては無神経なものです。  「もしその時私がいたら」という仮定は、当然その前に「もし私が受刑していなければ」というもう一つの仮定を先行させなければなりません。そうすれば、この仮定がどんなに不愉快な仮定であるか、お分りになるはずだと思います。)  話をふたたび前へもどします。  帰国直後の私がそれまでもちつづけて来た期待の一つ一つをきわめて無造作にうちこわされていったことは、今まで申しあげたとおりですが、しかしそのような打撃は単に一般世間から来たばかりでなく、親族と呼ばれるつながりの内部からも私に加えられました。私がそのときまでもちつづけてきた郷里と親族に対する親近感が大きく動揺せざるを得なかった事情は、いちいちあげてみても仕方がないので、具体的な一つの例だけをあげることにします。  私が帰国直後に伊豆を訪れたことは知っておられることと思います。  伊豆という土地はその時まで私にとって、やはり一つの象徴的な意味をもっていましたし、なによりもそこに長い年月を黙々と眠りつづける祖先の霊に接触することによって、長い血統をつらぬいて私自身にまでうけつがれた、何か理解できない重いどっしりしたものをあらためて確認するという上で一種の期待に似た気持があったことを否定しようとは思いません。(ことわっておきますが、この時期の私の関心はキリスト教を全くはなれ去っていましたし、その後しばらくの間教会は全然訪れていません。)  それに、私自身は滑稽にも、今申しあげた戦争責任の問題を何よりも、この自分の血に深いつながりのある土地で第一番に理解してもらえそうな気がして、胸が痛くなるような気持でバスをおりたことを昨日のようにおぼえております。しかし、こういったいわれもない期待は伊豆へ着いたその日のうちに簡単にひっくりかえされてしまいました。  「よくぞ帰った」という声を心のどこかの隅で聞きながら、私が伊豆へ着いたその晩、N氏が居ずまいを正し、まだ私が何も話さないうちに、まず私にいったことは次のようなことです。 1 私が〈赤〉でないことをまずはっきりさせて欲しい。もし〈赤〉である場合はこの先おつきあいをするわけには行かない。 2 現在父も母もいない私のために〈親代り〉になってもよい。ただし物質的な親代りはできない。「精神的な」親代りにはなる。 3 祖先の供養を当然しなければいけない。  私は、自分のただ一つの故郷で、劈頭告げられたこれらの言葉に対しその無礼と無理解とを憤る前に、絶望しました。そうでなくても、ひどく他人の言葉に敏感になっており、傷つきやすくなっていた私の気持はこれですっかり暗いものになってしまいました。何度もいいますが、戦争の責任をまがりなりにも身をもって背負ってきたという一抹の誇りのようなものをもって、はるばる郷里にやって来た私は、ここでまず最初に〈危険人物〉であるかどうかのテストを受けたわけです。さらに〈精神的親代り〉にいたってはいうべき言葉がありませんでした。N氏が〈精神的〉というとき、それが一体何を指すのか明らかではありませんが、さしあたり精神は物質よりも安くつくという笑うべきロジックがその底にあっただろうというぐらいの想像はしても差支えないと思います。いかにもN氏なら考えそうなことです。しかし、少くとも私自身は〈精神〉という言葉をその本来の重量で考えました。そのばあい精神の支えを与えうるような人は、当然それを受取る人よりも豊かな精神の持主でなければならないと、その時私は考えました。非常に傲慢ないい方ですが、仮に私の方がN氏の精神的親代りになるというならまだ話はわかると思ったのです。  これに引きつづいて私が聞いた三番目の件は、全く私の精神的状況を無視して、私が姿を現わすや否や、まずこれに逃れえない責任を課そうとする態度であるとして一も二もなく反感をもちました。これは多少私の考えすぎであったかも知れませんが、これに先立って言われた二つの事項を聞いた直後の気持であってみれば、止むを得なかったものと考えます。  とに角、私は伊豆へ着くや否やいきなり絶望しました。伊豆にいる間、もう帰ろう、もう帰ろうと思いながらそれでも予定の半分だけでも滞在したのは、おそらくは、十三年ぶりで見る故郷の山河や蒼穹のたたずまいに強くひかれたからにほかなりません。  私がしばしば墓地を「うろついた」ということが、今となって、ある種の揶揄と悪意をもって語られているということは容易に想像されますが、それに対しては別に弁解をする気にはなりません。おそらく、その人たちは私が墓地で何を考えようとしていたか、またなぜ人の顔を見るのを嫌って墓地へ出かけていったかということまでも考えてみようともしない人たちでしょうし、また考える力もない人たちであろうと思います。一つだけつけ加えるなら「もはや墓地とははっきり離れなければならない」という考えは、まさにその墓地をうろついている時に、私の内部ではっきりした輪廓をもって来たということです。伊豆から帰った私が、急に暗い人間に変ったことをあなた方はよくご存じのはずです。  以上で私のいうべきことは大体終ったように思います。これらの言葉をもう一度くり返すような時がこの先あろうとは思われません。これらの言葉を直接お会いして話さずに、書簡の形式をとった理由ももはやお分りのことと思います。  これらの言葉を、私は私自身の内部にあるいろいろないやなものと戦いながら書き終りました。  誠実に話すことは、それ自身積極的な行動理解となりうるという私の確信もしばしば動揺し、不安になり、絶望的なものに変ろうとする危険を感じます。けれども私が単なる法律論に終始して、そのあとに冷い沈黙がのこるだけであるとしたら、私たちの間はほんとうに救いのないものになってしまうでしょう。  形式的な考えや、思惑や、相互の不信などによって固められつつある殻は、どんな絶望的なばあいであっても、なおこれを打ちやぶる努力はつづけなければならないと私は思います。それと同時に、このような事件を通じて、私自身の立場をさらに前進させ、これまでの妥協的で、不安定な態度とははっきり袂別して、もっとも本質的な問題のためには、これから一歩も退かないという決意を持つことができたということに大きな喜びを感じない訳には行きません。  この手紙はもう一度はじめからくりかえして読んでくださるようにおねがいします。一度で読みすてられることのないようにおねがいします。  ここまで書き終り、ひととおり読みかえしてみて、なおそこにいくつかの重要な問題がきわめて不充分なかたちでしか語られていないことに気がつきました。たとえば、私がなぜ墓地を放棄するにいたったかということは、その所どころで必要な程度ふれてあるにすぎません。  しかし、このような事柄の全貌をお伝えすることは、同時に一人の人間の成長過程を物語ることであり、精神のそのような形成にたいする関心を期待しえない場合には、おそらく退屈な物語にとどまるでしょう。ですから、この問題にはこれ以上は触れないことにいたします。結論として私自身に明らかになったことだけは御諒解ねがえると思います。私はそれぞれの人が、その伝統と死者の記憶を誠実に担って行くことに対し、私なりにこれを尊敬しなければならないと今は考えています。それは私自身にこののちにも担って行かなければならない多くのいたみと、私自身の死者の記憶があることと、おそらくはその重量において同等であると考えるからでもあります。  私が、ここまでまとまらないかたちで書きつらねた文章の中に、どうぞ無益な悪意を読み込まないでください。  また文章と文章のあいだのロジックのくいちがいにすぎないものに、深くこだわらないでください。  私としては、能力のゆるすかぎり整理し、また不用意な言葉をさけるために努力はしましたが、それでもやはり自分自身の感情のあおりを食って上ずった表現になったところもあると思います。  私は自分のこの場合の考え方を決して最後のものであるとも、最上のものであるとも考えておりません。  何びとも、自分自身が正しいと思いはじめたときが、その人の堕落のはじまりであると思います。私たちは一度は(そして、いつでも!)自分自身に対して抱いている自信を放棄し、自分自身に絶望する勇気をもたなければならないと思います。それがとりも直さず自分自身にたいする誠実であり、またすべてのひとびとにたいする誠実であると考えます。  どうぞ、ここでのべた内容の中で理解できるものは理解し、理解の困難なものは、そのままのかたちにしておいて下さい。自分の理解の領域にないものを、ただちに許すべからざる異質なものとして拒むという態度をおとりにならないで下さい。もし私に、これからのちも人間としての成長が許され、あなた方にも、それ以上の精神の深まりがあるならば、いつかは私たちは、相互の立場の間におかれた深い断絶をそのままのかたちで承認しあい、その上で何よりもまず、人間としてのつながりが回復する時があるはずですし、またそうなければならないと信じています。  人間が蒙るあらゆる傷のうちで、人間によって負わされた傷がもっとも深いという言葉を聞きます。私たちはどのような場合にも一方的な被害者であるはずはなく、被害者であると同時に容易に加害者に転じうる危険に瞬間ごとにさらされています。そういう危険のなかでなおかつ人間の間の深い連帯の可能性(それはまだ可能性であるにすぎず、おそらくは可能性のままであるかも知れないのですが)、そのような可能性を見うしなわないためには、人間はそれぞれの条件的な、形式的な結びつきから一度は真剣に自分の孤独へたちかえって、それぞれの孤独のなかで自分自身を組み立て直すことが必要であると思います。深い孤独の認識のみが実は深い連帯をもたらすものだという逆説をお考えになってください。さらにまた、その連帯は、死者との連帯の方へ向けられるのではなしに、生きているもの、問題と痛みを担って現に生きているものとの連帯へ向っての前向きのものでなければならないということも心の中にとどめておいていただきたいと思います。「死者は死者に葬らせよ」という聖書の言葉は、おそらくはこのような裏がえしの意味のなかで、はじめて深い光を放つ言葉であろうと思います。  私なりの立場と考えをごらんのような文章のかたちにまで整理し、ととのえるのに、一週間あまりの時間を必要としました。あなた方が不用意なかたちで投げ出された一連の言葉から、このような展開が得られ、多くの問題が深められ、ささやかではあるが前進らしいものが起ったということに、私自身はまじめな意味でユーモアを感じます。そして、このようなユーモアこそ今の私にとって大きななぐさめでもあります。  これで私の手紙を終ります。おそらくこのような手紙をこののちさしあげることは、もはやあるまいと思います。 *〈バム〉とはバイカル・アムール鉄道の略称であるが、囚人の間で〈バム〉というときはこの沿線に点在している強制収容所を指している。 ㈽ 一九五六年から一九五八年までのノートから 一九五六年  思い立って、帰還以来の日記を全部焼却した。こういう行為は、今も昔も変らぬ私の感傷である。しかし一つの感傷によって、数々のふるい感傷を忘れることができるなら、私の感傷も多少は新しいはずだ。  今の私は、たしかに人目にも分るほど衰弱している。精神も。健康も。ただ忍耐づよい努力によってのみ、私は、しっかりとした自らの孤独な世界を確立して行けるのである。  この救いがたい敗北感は、どんなにしても克服してしまわねばならぬ。  今年は決断の年である。この一年に私は一切を賭けなければならぬ。残された人生は短い。不必要な一切の享楽から遠ざかり、固く己れの孤独に立ち、負うべき苦悩にはしっかりと耐え、勇者の如く滅んで行かねばならぬ。  今年こそは、という意味は、今、私の一切が行きづまっているからである。これ以上ごま化し去ることを許されないからである。 (1・1) *  勝利したところで、すべてが終る。  敗北したところから、すべてが始まる。それが敗北の深い意味である。私は勝利したことはなかった。私はただ、敗北によって成長して来た。だが、敗北したといっても、まともに敗北を受けとめたことが、いつあっただろうか。真に敗北するまでの勇気と、誠実さがないこと、それが私の致命的な欠陥なのだ。  私は勝利とか敗北とかいうことを、人と人との(人間と人間ではない)対比の上で考えて来た。AがBに優越すること、それが勝利だと考えたのだ。だが勝利はともかく、敗北とは、おそらくそういうことではない。敗北とは、まったくの孤独のなかでの出来事である。真実の敗北には本来、他人はかかわらない。  日本の敗北も、本来そういう意味なのだ。 (1・2) *  「敗北したのは何が原因か?」このように敗北の理由を求めうるあいだは、それは敗北ということのできないものだ。一切の理由を挙げ終って、しかも敗北という事実が、圧倒的な重量をもって天秤を一方へ傾けるとき、敗北とは私にとって、最も根源的な〈何か〉だということが明らかになるのだ。そのとき、敗北は孤独の証しであり、孤独は死の証しであるだろう。 (1・27) *  存在しても、しなくてもいいような時間ばかりが、無限に私の背後へ堆積して行く。いやらしいむなしさ。そのなかで私は、ただ働き、なんの意味もなくしゃべり、そして生きている。これは、もはや〈生〉ではない。もし私に、力強い戦慄とともに、暗い絶望がおとずれるなら、どのように勇気にみちて生きて行くことができるであろう。事実は、〈絶望〉というものさえも存在しないところに、このいやらしい、腐食的な暗さのみなもとがあるのだ。そして、このいやらしい暗さがキエルケゴールのいう〈死にいたる病〉なのであろう。 (1・28) *  〈孤独〉ということは、一つの〈場合〉ではない。孤独ということは〈存在〉と同義なのだ。人間は時たま故郷へ還るように、各自の孤独へ還るのだと思っているが、しかし人間ははじめから孤独のなかに居り、一歩も孤独から出てはいないのだ。 (1・29) *  一人の人間の限界をもって、一つの時代を破ることはできない。 *  私は孤独という中心のまわりを、ただむなしくまわっているにすぎない。永久に孤独の中心へはいって行こうとはしないのだ。 *  ありふれた蹉跌から、ありふれた絶望しか生れないようなら、もうだめなのだ。ふみとどまれ。そして、重荷をしっかりと負え。 *  沈黙。最後の関心。 *  椎名麟三の『邂逅』を読みはじめる。実に難解な作品。だが、その難解さというのは、詩の難解さに実によく似たところがある。現実そのものの難解さの表現。 (2・1) *  背骨を一気におしひしぐような疲労のなかで、ほとんど二年間手にしたことのなかったバルトの『ロマ書講解』を読みはじめた。私はもう、このような浅薄な情念のなかで亡びて行くのがいやになった。私は一つの〈意味〉を知りたい。〈意味〉を知ること、たとえそれがどういうことであるにせよ。『シジュフォスの神話』がなんの支えにもならぬことを、私は思い知らされた。今日から一つのErnstで自分自身を支えるのだ。 (7・13) *  〈新しい人間〉ということ。私が、新しい人間にならなければならないということ。私の内側で、〈何か〉が新しくならなければだめだということ。そういうことが信じられると否とにかかわらず、そういう奇蹟が起らないかぎり、一切は無意味だということ。こうして私は新たな虚妄へ向って出発するのだ。賭けるべき何が私にあるか。総じて「賭ける」とは、まことはどのような行為であるのか。そうしてそのような時、私と詩との距離はさらに近づくであろうか。 (7・31) * しかしここにはもう、新しい物語が始っている。ひとりの人間が一歩一歩新しくなって行く物語が、——すこしずつ生れ変り、すこしずつ一つの世界から、他の世界へ移り代わり、それまでまったく知ることのなかった現実へと目をひらく物語が始まりかけている。 ドストエフスキイ『罪と罰』 *  今週は、初めから妙にからだの調子が悪く、疲れがひどい。ただ疲労の上へ疲労を重ねて行くだけで、自分を確かめる意欲もなく、まっくらな無力感のなかで、ただ目だけあけて生きている。これでは、全然生きていないにひとしい。この間、北条民雄の『癩院受胎』を読んでいた時、「癩になって生きているということがすでに虚偽なんだ」という言葉にぶつかって慄然とした。そうだ。こういう状態で生きること、そのことがすでに虚偽なのだ。はげしくこれにあらがう意志だけが、この生を生きるに値するものにするのだ。 (8・17) *  三年前に読んだキエルケゴールの『死にいたる病』をふたたび読みはじめる。何故か知らぬが、この書物が私の生活を変えてしまうような気がして仕方がない。帰還直後、お茶の水の書店でこの本を手にした瞬間、理解しがたい切迫した気持にかられて、これを買ったが、ひととおり読んだだけで、その難解さに呆れて、その後手をふれてもみなかった。今、これをもう一度読もうと思い立ったのは、いわば一つの思いつきではあるが、しかしそれでも、私の内部に"Nimm und lies!"(取りて読め)とささやく何かがあることを否定できないような気がする。たしかに、この書物は難解であり、久しく訓練を怠り、荒野のようにさくばくとした頭にとっては、石の壁のように受けつけがたいものだが、しかし何といっても私はこれを読まねばならず、かつ深刻にこれを理解しなければならない。 (8・22) *  私の内部で何かが変らなければならぬ。私はしょっちゅうその声におびやかされて、じりじりしている。「変る」ということはどういうことなのか。それさえ私にはよくわからない。おそらくそれは本当に私が変った時、はじめてはっきりわかることなのだろう。キエルケゴールは「自己であること」以外に、人間には何の希望ものこされていないといっている。おそらくそれが「変る」ということの真の内容なのだ。 (8・23) *  頭がすっかり弱っているので、一つのことを一分と考えつづけることができない。しかし、この"Krankheit zum Tode"(死にいたる病)だけは手ばなすまい。私が生きるに値する生き方をしたか否かは、この一冊の理解にかかっているのだ。  生活に追われ、浅薄な報復を夢み、人間におびえ、わずかな逃避を酒に求める、そういう生き方がつくづくいやになった。しかし、皮相な不幸にすぎぬものを大げさには考えまい。失われたものを、その全き価値において取り戻すのは、かかって現在の自分への誠実さにあるのだから。 (8・24) *  作品"Frau komm!"の腹案が出来る。こういう風にして、最初から主題がはっきりしてしまうのは、あまり面白いことではない。しかし、私の今までの詩の書き方は、もっぱらメタファーにたよった衝動的なものに終始して来た観があるので、自覚した方法で書いているなどとは義理にもいえないものだ。  作品の主題は、おそらく誰もとりあげようとはしない〈報復〉の問題だ。「報復ということの、永遠の正しさ。」 (9・3) *  築地の映画館へ、初めて公開されたドキュメンタリー『日本かく戦えり』を見に行く。評判どおりの衝撃的な内容だが、しかし今の私には、あのようなすさまじい殺戮を、私自身に切実にかかわるものとして見る視点があきらかに脱落している。十年前ハルビンの映画館で、特攻機が離陸する瞬間のぼやけた一カットを見て、思わず胴ぶるいをしたことを、まるできのうのように思い出した。  あのすさまじさに、私の青春がどういうかたちでつながっていたのか、私には全く不可解である。私のとなりにいた若い娘たちは、画面に出てくる必死の表情と、ぶざまな動作を見ながらくすくす笑っていたが、それにもしまいにはあきて居眠りをはじめた。  あれが、私の戦争だったのだ。そして、私の戦争という発想は、到底私には処理しきれぬ程重いものであったがために、私は常にそこから逃避した。そして逃避するための媒体となったものが、〈死〉であった。  私はあの戦争をただ、私一人を死へ追いやるための過程としてしか考えなかった。私は戦争のあいだじゅう、ただ死だけをおそれ、しかもその死を、私にとってどうにもならぬ宿命的なカタストロフとして、無気力に、絶望的に承認していたにすぎない。戦争のあいだじゅう、私には、およそ深刻な苦悩というものはなかった。そうして、そのような無気力な、ずるずるべったりの承認のために、最後に苛酷に罰せられた。 (9・10) * 敵を恐れるな——やつらは君を殺すのが関の山だ。 友を恐れるな——やつらは君を裏切るのが関の山だ。 無関心なひとびとを恐れよ——やつらは殺しも裏切りもしない。だが、やつらの沈黙という承認があればこそ、この世には虐殺と裏切りが横行するのだ。 ヤセンスキイ『無関心なひとびとの共謀』(9・11) *  私は未来を持たない。未来を持たないということが、かろうじて私を安定させているようなものだ。未来を持たない、あるいは持とうとしない態度は、卑怯で不まじめなものだろうか。私にはそういうことで、弁解する必要もない。私はよく仕事の帰りに、疲れきってぼんやり街を歩きながら私は一体どうなるんだろうか、どうするつもりなのだろうかなどと、何となく自分にたずねてみることがある。そしてそういう時に、自分にはほんとうに未来がないのだということがはっきりするのだ。  なるようになる、という言葉は、よしんば自分の力でどうにもならないにせよ、未来という時間がなお自分に残されているということであり、また若い頃しばしば感じた焦燥と不安は、未来というものの確実な承認の上に立っているのである。しかし、今、極端にいえば、私にはほとんど不安というものがない(もっとも、こういういい方は、あとできびしく訂正する必要があるだろう)。私のこの生活は変ることもないだろうし、変っても同じようなものであるだろうし、変えようとも思わない。やがて、私は確実に亡び去るだろう。終身刑を課された囚人のように、私はその日を待つことができるだけだ。そういうかたちで、かろうじて私は、自らを積極的に維持することができるのだ。 (9・14) *  今日は私の生涯にとって記念すべき日であると私はなんの躊躇もなくここへ書きしるす。もち論それは、今日が明るく、喜ばしい日であったという意味ではない。むしろそれは沢山の苦悩を約束された日であり、みずからの虚しさを思い知らなければならない日であるからだ。しかし、私は今日、一つの決心をし、一つの行為へ進むことができた。そしてそのような行為によって、ともかくも自分自身に責任を負おうと決意したのである。私にとって、このほとんど不可能に見える決意を、とも角も自らに課すために、私は一週間苦しんだ。もち論、私は信仰のために苦しんだのではなかった。もっと人間的なことのために苦しんだのである。  虚無のただなかに寝そべることは、むしろ安易である。虚無とたたかわねばならぬことは、おそろしいことだ。だが約束を聞いた者が、約束を忘れつづけることができるだろうか。もう充分だ。私は信仰へ帰らなければならない。  今日私は、ほとんど一年ぶりで教会へ行った。 (9・23) *  自分の徴候を知らなければならない。 (9・25) *  虚無にみずからをまかせたままでよいということは、ひっきょう虚無に屈服したということである。そのような状態で、どうして虚無を見すえることができるだろうか。虚無の姿におびえない時は、自ら虚無に深くむしばまれている時なのだ。虚無とたたかうもの、虚無と死闘する者だけが虚無の真実の姿を知っている。だが、自分自身すでに虚無にほかならないものが、どうして虚無と正面からあらがうことができよう。私が虚無を究極的におしのけるその根拠は、ただ他者によって絶対に置かれたものだ。 *  「コリント前書」を読みおわる。深く生きるためには、強靱な英知をとりもどさなければならない。何よりも、ながい忍耐のなかで希望をもちつづけなければならない。何に希望を持つか。単純で率直な意味で、人間であることに。 *  疲労には休息が必要である。私は自分自身に、休息というものを全く与えていない。 (10・23) *  「なんじは」と聖書が呼びかける時の、その〈なんじ〉とはほかならぬ私自身である。もし、それが私でなかったら、聖書は私にとってただ空虚な古典であるにとどまる。〈なんじ〉が私でないもの、それを通じてただ間接に語りかけてくるにすぎない不特定多数への呼格であるならば、私は聖書を読むことによって、ただ無意味な気ばらし、勿体ぶった浪費を行なっているにすぎないのだ。だが聖書の呼びかける〈なんじ〉が他ならぬ私であることを、誰が一体保証してくれるのか。 (10・24) *  「救われる」ということをなぜか拒否したがる気持、日常、僅かな救いにも頼らざるを得ない状態にありながら、根本的には救済への不信——それはすべて、人間の〈つくられ方〉自体から来るのである。 (10・25) *  私はついにほろび去ること、ついにあとかたもなく亡び去ることをおそれる。ついに全く虚無に帰することは、考えられないほどおそろしいことだ。しかし、ほろび去ること、全き無をのがれるためには、道はただ一つしかない。その道へ来て、なお私は躊躇する。なぜだ。 (10・28) *  みずから立とうとすること、みずから否定の英雄として立とうとすることは、おそろしい誘惑だ。併し、おそらくは安易な放棄なのだ。 (10・31) *  どのように表面が動揺していても、その奥底には深淵のように深く静かなよどみを持っていなければならない。生に深く、自らの内に深く根をおろしていなければならない。 (11・1) 一九五七年  朝、ラジオで『アミエルの日記』の話を聞いていたら、急に日記がつけたくなった。思えば、このうすっぺらなノートを、すでに二年ごしで書きつづけているわけだ。私が日記を書かなくなったのは、いいにしろ、わるいにしろ、また私がよく知っている、また知らないいろいろな理由がある。ただ、今までの調子で日記を書きつづけて行くことは、もう意味がないようだ、ということだけはよくわかっているつもりである。もうすこし、自分へのめりこまずに書くことができないものだろうか。 (1・15) *  重苦しい時間の中で、それでも約束にしたがって、糸を紡ぐように私は生きている。すべてこのような努力が全くその意味を失なうまで、私ははてしなく生きて行かざるを得ない。私のなかにあるものは、人間の生活に対する暗い、うしろめたい悪意だ。いつ、誰が私の中に播きすてていったかは知らぬが、今ではこの悪意は私の背丈をはるかに超えている。私は自分の悪意におびえつづける。そうして、予想もつかない隣人の悪意に対してもおびえつづけている。隣人の平安は、とりもなおさず私自身への悪意なのだ。私は他人の平安におびえながら、今日も街をあるいている。隣人の平安のない世界。不幸なことに私は、やはりひそかにそれを求めている。「ゆるされてそこに在る」という言葉を、私はある時教会で聞いた。私はゆるされて、ここに在るだろうか。私には、私が「ここに在る」ことにより罰せられているとしか思えない。私はもはや充分に罰せられた。  私が〈そこ〉にいない時、その時私はゆるされているだろうか。その時私はどこにいるのだろうか。どこにもいないのだろうか。その時私はゆるされるのだろうか。〈そこ〉とは私の虚無であるのか。私が〈ここ〉にいること、それが私の虚無なのではないか。  私がときに、私に欲する〈転換〉。これらのことを、もはや考えなくなること。無造作な生活者となること。そこから私に答えとなるものは、何ひとつ出ないことを私はよく知っている。 *  「性格というものは、変えることができるものだろうか」。これは今から十七年前、東京の兵舎の一隅で、一人の友人に私が行なった質問である。それが私にとってどんなに重大な質問であるか、彼はおそらく知りもしなかった。私はその答次第で、自分の努力に目標が与えられ、あるいは未来が全く自棄に終るということを予感していた。つまりその頃から、私は〈性格〉という言葉で代表される自分の存在理由を疑っていたし、強く嫌悪していたし、重荷でならなかったのである。自己を脱出したいという願いは、その後どんな時でも私を離れたことはなかった。孤独ということは、そのような自己と二人きりで向いあうことを意味する。私が疲労しきって、自分の孤独へのがれるとき、最もいまわしい悪意が、私をそこに待ちもうけているのである。 *  私が理想とする世界とは、すべての人が苦行者のように、重い憂愁と忍苦の表情を浮べている世界である。それ以外の世界は、私にはゆるすことのできないものである。 (2・5) *  混乱と動揺のなかで、必死に平静を保とうと努力することが、果して私自身をものごとの深みへ近づけるだろうか。 (2・6) *  聖書がただひとつの救いの場であるような生き方は、いまなお私には不可解である。私は、聖書を読むとき、ここ以外に行くべき場所がないという切迫したものを、特に感ずるわけではない。私には聖書へ来る自由も、聖書を去る自由もあるのだという気持を、どうしてもかくし終せることができない。私が聖書をただ一つの生きる場として考えていないのは、ちょうど詩を、私にとってかけがえのないものと考えていないのとおなじことである。  私が聖書を読むとき、多くの人が「つまずいた」ような抵抗をなにひとつ感じないのは、きっとそのような理由によるのだろう。キリストが復活しようとしまいと、実は大した感動ではないのだ。以前は、こうした無責任な態度は、自分が「疲れている」せいだと考えていた。実際、一日の生活に疲れきって、ぼんやりした頭で、ただ義務的に聖書を読む時、キリストがどんな奇蹟を行なおうと、人間イエスが十字架の上でどんなに絶望しようと、それをむきになって考えたり、つまずいたりする気力なぞ、あるわけはないのだ。  だが、よく考えてみると、私が真剣に聖書に立ち向えないのは、ただそればかりではなさそうだ。それどころか、そんなことは、ほんとうは取るに足らぬ問題であるにちがいない。最も重要なことは、私がまだ、聖書以外に行き場のないまでに窮迫していないということなのだ。  しかし、この辺へ来ると私の考え方は混乱して来る。一体、芝居でもなしに、計画的に自分を追いつめたりすることができるものだろうか。「あれか、これか」という設問自体が、私にはどうしても、うそになって行くような気がするのだ。  椎名麟三の『私の聖書物語』を読むと、その辺のところが何かあいまいな気がする。彼がなぜ、彼の生きる場所は「聖書以外にない」と考えたのか、それがよく分らないのだ。そして、偶然へ自分の一切を賭けるということは、やはり不まじめなことだと考えないわけには行かない。こういう問題は「ひょうたんから駒が出る」ようには解決できないのだ。  私が教会をえらんだ動機を今ふりかえってみると、ほとんどなんということもなかったような気がする。その頃は支那事変が始まったばかりの時期で、なによりも私はもうじき戦争に行って、へたをすると死ぬかもしれないという考えに、しょっちゅうおびえていた。そして何よりも、そんな臆病な、気の弱い自分を嫌悪していたのだ。私は一夜にして深い感動が私をおそって、自分を生死を超越した男に作りかえてくれることだけを期待して、教会へ行ったような気がする。そんなことが目的なら、もっと別の場所があったはずだ。だから私は、よしんば洗礼を受けたにしろ、教会からはなんの影響も受けはしなかった。しかし私は教会が私の期待していたものを与えてくれなかったといって、決定的にそこを離れるということもなかった。なぜなら、私は最も重大なものを教会に求めたのではなかったし、従って私は最初から教会と何もかかわりがなかったからである。併し、そういう自分が、やはりなんのかんのといいながら、結構教会を忘れずにいるのは、私が優柔不断であるということばかりでは説明できないような気がするのだ。「もうすこし、もうすこししたら、おれは真剣に聖書を読みはじめる。そうしたら」。そんな虫のいい言いわけで自分をだましながら、それでもいつかはヨハネのような予言者に(私にとっては、あながちキリストでなくても、予言者、でもいいような気がするのだが)「なんじら悔いあらためよ」と一喝されて、ふるえあがる日を待ちつづけているというのは、やはり、何か予感のようなものが私にあるせいかもしれないのだ。 (3・2) *  深い生き方というのは、毎日の生活にくよくよしないで、いつももっと「根源的な」ことを考えているということとは、どうもちがうような気がする。そういうことをまったく考えないようになることが深い生き方であるはずはない。 (3・11) *  3月2日に書いたことは、もはや自分にとってどうでもよいことのような気がする。聖書に赴いたことが偶然であっても、必然であっても、それによって私に対する聖書の意味が変るはずはない。重大なことは、私が聖書に接したという事実なのだ。その事実の重大さは、今はあるいは心許ないものであるかも知れない。しかしそれは、自分が真剣に聖書に向えば向うほど、ますます明らかになって行くだろう。  今ここで、私がはっきりと考えてみなければならないことは、自分が聖書から「何を」期待しているかということだ。聖書につきつけて行かなければならない自分の問題を自分のなかにたしかめてみなければならない、ということなのだ。そういう問題があるところに、はじめて聖書との格闘があるのだ。ヤコブと天使との組打ちは、キリスト者の生活を示すひとつのパターンである。 (3・13) *  私がつね日ごろ考えている〈深い生活〉というはっきりしないパターンは、実は、私自身の暗い消極的な生活態度の一種の弁護であり、現実の矛盾と問題に対して消極的に求めるまずしい期待にすぎない。このような不愉快な暗さは有害なものであり、誠実に生きて行こうとする意志を蝕むものである。〈暗さ〉と〈誠実さ〉とをすぐに結びつけようとすることの中に、私自身の救いがたい偏見と安易さがあるといわなければならない。 (3・14) *  私に問題を強いるのは〈義務〉ではなくて、〈感動〉である。詩が世界の困難と矛盾、苦悩と悲惨に対して積極的でありうるのは、このような理由によるのだ。 (3・15) *  無益な思いわずらいから、弱り切っている頭を解放してやらなければならない。考えなければならないことが実に多いのに、そのための余力というものが、私にはほとんど残されていないのだ。  今日は帰宅したらしっかり聖書を読もうと思って、意気ごんで帰って来たが、いざ読みはじめるとすぐ頭が混乱してしまい、せっかく開いた聖書を投げ出したまま、ぼう然と時間をすごしてしまった。こんなことがしょっちゅうつづくとしたら完全に絶望である。 (3・18) *  酒やたばこをきっぱりやめるという決心は、生活の中にしっかりした希望が生れるのでなければ、特に私のような意志の薄弱な男にとっては困難なことである。併し、酒やたばこによってまぎらわされたり、慰められたりする必要のないほど深い望みによって支えられている生活であるなら、もはや、そのようなことはどうでもいいことであり、止めるためにことさら重大な決心を要するということが、むしろ滑稽なこととなるだろう。 (3・20) *  私が外国語というものに興味を持ち、ついにこれを自分のSpezialit閣として選んだという〈宿命〉の中には、現在なお克服しきれずに悩んでいる自分自身の性格的なマイナスがはっきり反映しているように思う。いわば自分の浅はかな虚栄心が、ついに職業的なものへ結びついたのだと考えることができる。私の記憶にまだ残っているのは私がまだ十六歳の頃、何とかしてギリシャ語とラテン語を勉強したいと思ったことである。その時ラテン語やギリシャ語は、英語しか知らない同級生に対する一種の優越を意味していた。幼時から極度に劣等感の強かった私は、自分の劣等感からくるいたみを、このような方法でいやそうと思ったのである。このことは、その頃の私の蔵書の一部を思い出すだけでも明瞭である。貧しい一人の中学生の書架にあったものの中には、たとえばセネカの『幸福論』、スペンサーの『第一原理』、ダーウィンやメンデルのもの、クロポトキンの『相互扶助論』のようなものさえあったが、これはみなこの少年の愚劣な虚栄心のあらわれにすぎない。  このような虚栄心が私に、自分の劣等感の手っとりばやい代償としてドイツ語をえらばせたのであり、ドイツ語の学生の中にいてドイツ語を一向勉強せずに、フランス語に浮身をやつした原因となるのである。早くいえば、競争者のいない分野に「ずれ出」て、自分の優越感を充たそうとしていたにすぎない。私が高等数学に妙な憧れを持つのは、要するに呪符に似た不可解な記号が、私自身の特権意識を挑発するからにほかならない。そして周囲にそのような記号を解するものがいなければいない程、私の興味はそそられるのであり、そのようなものがすでに既知のものとして受け入れられているような環境の中では、逆に興味は半減するのである。  学生時代、私がマルクス主義にきわめて皮相的なかたちで足をふみ入れたのは、当時私の周囲にマルクス主義に関心をもつような学生がほとんどいなかったためであり、そのような学生を「おくれた、無自覚な」存在として意識するために、私は唯物史観にかぶれたにすぎない。このような男が順調な過程を経て、立身出世しなかったことをこそ喜ぶべきである。もしそうであったら、この男は野放しの虚栄心のままで一生を終るほかなかったであろう。 (3・24) *  時おりしずかな夜などに、わっと大声で喚き出したいようなはげしい不安にわしづかみにされる。もえつきて行くローソクの芯のように、みるみる自分が細って行くような心細さに捉えられる。自分がまるで不安という分子の集合体のように思え、また戸外で、私の名を呼びながら、私に悪意を持っている男が、私をたずねまわっているような気さえしてくる。そのような時、戸口を通りすぎる足音にも私はおびえずにはいられない。  朝になって、明るい日の光が部屋のすみずみにまでさしこむ頃になれば、悪夢に似たそのような不安は、あとかたもなく消え去ることは分っていても、併し、今私を包んでいる不安はほとんど一つの実在、私自身よりもたしかな実在であるように思えてくるのだ。このような不安を、幼時からどのくらい私は味わって来たことだろう。  しかし、ふりむいてその不安を捉えようとすると、雲のように手応えがないのだ。  もち論、そんなものは病的な心理として片づけることもできる。だが、それだけのことだ。問題としての不安はもとのままだ。私自身の内部には、暗い空洞のようなものがあって、時おり古井戸の底をのぞきこむような気味悪さを感じないでは生きて行けないという事実は、病的心理なぞをはるかに超えた問題なのだ。  私が存在しているということの、形容しがたいこの暗さ。それは、私の虚無が私自身よりも深く、最初から私の力を超えているということをまざまざと知らせているものなのだ。そして、そのような時にこそ、私が「問われている」ことを、はっきり知らなければならないのだ。  虚無はいつも、私の正面には立ちはだからない。いつも私の背後へ、背後へとまわって、巧妙な刺客のように私をつけねらい、おびやかすのだ。この虚無を決して手なずけようと思ってはならない。また、手なずけられてもならない。 * Die Erinnerung an Gott begleitet uns als Frage und Warnung best?ndig. K.Barth 神の想念は問いとなり警告となって絶えずわれわれにつきまとう カール・バルト *  仕事に対して不まじめだということは、職場の人間関係というものにほとんど無関心な私自身の態度によくあらわれている。私が隣人に対して全く人間的な愛情というものを持ちえないということ、私が彼らに示す冷淡な態度、くらい敵意。そんなものが、仕事に対する私自身の関心をいつしかゆがめて、なげやりなものにしてしまうのだ。 (4・1) *  私が〈死〉というものを、どういうふうにとらえているかという一例をあげよう。  シベリヤから帰った直後、用があって自分の母校を訪ねたことがあった。おどろいたことに、私を教えた教授や助教授は一人も生きていなかった。特に印象の強かったのは、若くて母校の助教授となったAという人まで、とうの昔に亡くなっていたことだった。いずれはドイツへ留学することになっていたこの助教授の死は、一種奇妙な安堵をその時私に与えた。  「なんだ、結局死んでしまったじゃないか」  彼の〈死〉というものが、彼が一生努力して積み上げたもの——教養や功績や地位などを一挙に無意味なものにしてしまったことを、そのとき私は直感したのだ。  だが、この「なんだ、結局死んでしまったじゃないか」という立場は、容易に「なんだ、結局は死んでしまうじゃないか」という立場に拡張される。  結局は死んでしまうことによって、現在の努力というものがまったく無意味になるということが、逆に私にとってひとつの安堵となる、というシニカルな立場はゆるしがたいにしても、しかし〈死〉というものの明快な理不尽さに対するその時の直感はまちがってはいなかったと私は考える。残念なのは、なぜその時、その考えをもっと追いつめなかったかということである。私が経験して来たかずかずの不幸は、結局、死を、そのような一切の不条理を最後には余すところなく一挙にのみ尽してしまう偉大な虚無として感じさせる上では効果があった。かつて私は死をむしろ一種の救済と感じていたのである。  その辺から問題が出て来る。私は実際には、死を、自分にかかわるものとして考えていなかったのである。もちろん私は、死の意味を一般的に生物学的なものに還元しようとは思わなかったが、一般にひとつの終着または刑罰として考えていたという点ではおなじことである。誰にも例外なしに、一様に掩いかぶさる死のかげ。私は結局、誰にも例外なしに最後には死が訪れるということで辛うじて安堵していたにすぎない。結局、それは、私自身に切実にかかわるものとして、生き生きとリアルに捉えられた死ではなかったため、その奇妙な安堵や満足はそれなりのものとなり、およそそこから展開するものはなにもなかった。そのような安直な結論がなんら私をおちつかせはしなかったことは、今までの経験からして、いうまでもないことだろう。 (4・3) *  その人間が社会的に見てどんな仕事をしたかということと、彼が人間であったということとは本来無関係であるということを、かつて牧師から聞いた。それは、一種奇妙な安堵を私に与えたが、しかし牧師は決してその言葉を、私が期待したような意味でいったのではないことはもち論である。ただ、一般的にいって、敗者は勝者よりも問題性のある位置にあるということが、彼にとって一つの優位となっていることを知れば充分なのだ。 *  私が、私に問われている言葉をかつて真剣に聞いたことがないように、私は私自身に向って真剣に問うたことがない。いかに多くの問いをなおざりにして、風にまきさられて行く木の葉のように流されて行ったかは、私自身が最もよく知っている。  なぜ私が教会へ行ったか。なぜ私が教会を離れたか。なぜ私が教会へ戻ったか。なぜ私は結婚しなかったか。そして、なぜ私は結婚したか。なぜ私は郷里を訪ねたか。なぜ私は郷里を離れたか。私はまじめに問い、そして耳を澄ますべきであった。 (4・4) *  なぜ——自分はこうなんだと、自分に問うことを忘れてはいけない。その問いにたとえ答えることはできなくても、問う姿勢には最後の意味があるのだから。 *  ……ところで、いったい人間は何をもっとも恐れてるだろう。新しい一歩、新しい自分自身の言葉、これを何よりも恐れているんだ…… ドストエフスキー『罪と罰』(4・5) *  雑踏のなかにあって我を忘れているとき、せわしなく雑多な仕事に追われて、自分をうしなっているとき、ふと我にかえって、我とわが身につぶやく。「俺はいまどこにいるのだ。」そうして、結局、私が神の前にいること、それ以外のいかなる場所に立っているのでもないこと、そうして、私が実に立たされていること、ゆるされてそこに立たされていることを、愕然たる思いで知ることこそ重要なのだ。それは、ほっとするような安らかなことであるとともに、おそるべきことでもある。 (4・10) *  ごく単純な、しかし真剣な行為から私は出発しなければならない。私がかつて、真剣だったことがあるだろうか。真剣な謙虚な生活というものが、かつて自分が想像もしたことのないような、おもいがけないものだということに、思いいたったことがあるだろうか。人と自分を小ばかにしたような、ひとりよがりな生活をもうゆるしてはいけない。 *  この二、三日来、ある雑誌に掲載された「キリスト者の自由」という論文を読みつづけているが〈自由〉についてのこのような厳格な追求には、現在の私はとうてい耐ええないような気がする。このようなきびしい追求を、自由において一歩ごとに要求されるとしたら、耐えられるものではない。  私はいまもなお、没落としての自由につよくひかれる。三年前、このようなかたちで私は、みずからの自由をえらびとろうとしたことがあった。自分が自由を、つまりは自分自身をえらび取るということは、兵役を併せて十三年の拘禁状態に呪縛されていた私には、想像もつかないことであった。生活というものが、およそかたちを整えきらぬときに、いちはやく没落のかたちで、自分自身の自由を決定しようとしたことは、私の一生のなかでもめったにないことであった。そのとき、私を追いつめた力が何であったか、今ではもう思い出すこともできない。だが、重大なことは、そのときはじめて、自分の力で自分の自由をこころみようとしたことである。そのことの直接の価値判断は別として、私は生涯忘れることはないだろう。私はそのとき「もうこれで、おれの人生というものにつきまとう〈意味〉から一切解放されるのだ」と考えただけで、ひどく気持が自由になったことをおぼえている。アルバイトの通知という偶然な出来事が、私のこの決心を簡単にひっくりかえしてしまった。もともと、私の〈主体性〉というものは、そのような偶然で苦もなくけしとんでしまうようなものだったが、ただ、その時ほど私が、自分の手で自由をえらびとる可能性を生き生きと感じたことはなかった。私は、たとえそれが笑うべき錯覚であったにしろ、あの「生き生きとした」感じだけはいつまでも忘れることはできないし、いつかはその本当の意味を理解することができると思っている。 *  何か重大な決意をせまられているようだ。むなしくひとつの軸をまわりつづけることが、もはや私には不可能になりつつある。それと同時に、自分自身のなかに、どのようなささいな決意をなす力もないということも、ますますはっきりして来る。ささいな生活上の習慣でさえも、それを変更する力が、私にはまったくないということがはっきりしたのは、ついきのうのことだ。自分の現在の生活がどのように愚かしいものであっても、その生活を変えることが、自分にとってどのようによろこばしいことであっても、定められた軌道のようにわけもなく受け入れて来たものは、もはや私にとって絶対の重みを持っているようだ。  私が、みずからなすいかなる決意にも耐えないということ。そのことから、一体何が起るのか? (4・11) *  いつの間にやら五月になってしまった。この二週間ほどのあいだ、なんとなく生活がだれてしまった。まともに、自分の問題にぶつかって行く気力もなく、夜になれば酒をのみ、わけのわからない状態で一日を終った。こんなにして、いつまでもつづけられる道理はないと思いながら、私の心のすみのどこかに「もうすこし……もうすこし……今のままで……」という声があって、その声にひきずられるままに、あてもない気持で生きている。結局、私はこのような生活しかできないのだろうか。まずたばこをやめ、酒をやめ、すべてをしっかりとささえなおそうと、一体日に何度決心するだろうか。いちばんかんじんなものが、私に欠けている。ささやかな生活のなかのささやかなたのしみを、おしげもなくなげうたせる深いよろこびが。 *  今、という時間は、人間の決断を除いては存在しない。私たちが「今だ」と直感し、「今でなくてはならぬ」と決断する瞬間だけ、今が私たちにとって存在する。このような決断がなければ、時間は永遠に私たちの外を流れるだけで、今という感動にみちた時間は私たちに存在しないのであり、今日も、昨日も、あしたもおしなべておなじ、意味のない時間でしかない。「今だ」とつぶやいて立ちどまるとき、私は新しい次元の戸口に立つことになる。  しかし「今だ」と私につぶやかせ、私を腐朽した流れのなかに立ちどまらせる、いかなる力が私の内部にあるだろうか。私は重くるしい、灰色の記憶を引きずっており、その記憶をまったく断ち切ることなしに、新しい戸口の前に立つことはできないのだ。  するどく考えよ。今私が立ちどまるとき、そこにかならず戸口がある。そうして今私が立ちどまるということは、立ちどまったという事実だけでは終らないのだ。ああ、私は新しい人間になりたい! *  自分がなげうとうとしている一切のもの、それは自分がそれとなれあっているときには何の重量も感じないが、なげうとうという意志を持つ瞬間から、その重量は耐えがたいほどの大きさになる。それはちょうど、衣服のままで水に入った者にとって、水中では何の重量も感じないのに、一旦水を出ようとする瞬間に、予期しない重量をもって衣服がまつわりつくのによく似ている。  同時に、意志を持とうとしない者は、自分の意志の弱さを全く知らないが、ひとたび何ごとか意志しようとする瞬間から、みずからの意志の弱さがまったくあらわになる。 *  私がささいな日常生活の習慣からはなれることが、なぜ苦痛であるかというなら、それは、私にとってそれらの習慣が、私のすべての過去を代表しているからである。ある人にとっては、一つの習慣を捨てることは、それだけのことでおわるだろう(それによって得られる実利的な収穫は別として)。そのような人にとっては、一つの習慣を捨て去ることは容易であろう。だが私にとっては、一つの習慣を捨てることは、一切の過去と訣別すること、新しい次元に立つことを意味する。私にとってそれは、決してそれだけのことで終らないのだ。 *  そして私が、それほど苦しんではなれようと思うもの、私はそれを〈罪〉であると考えないわけには行かない。 *  もういちど次のことを考えよ。〈今〉ということ、そして〈私の罪〉ということ。 *  私は人間になりたいと思っている。では私は人間ではないのか。では私は今何なのか。しかし私は、私の周囲に起き伏しし、悩んでいる多くの人たちと一緒に、やはり人間ではないか。では、私がなりたいと思っているものは一体何なのだろう。  私は私が人間であるということを、はっきり知りたいと思っているのではないだろうか。 *  通りすがりに街頭で、ふと耳にする旋律の美しさにおどろくことがある。書店の店さきで、何気なく開いた詩集の一連、画集の一ページに目を見はることがある。私は、多く行きずりに美しいものに会う。詩集や画集を求めて帰り、自分の机に置くとき、それらの魅力は色あせ、店頭でのあの生き生きとした感動はもはやよみがえらない。予期しない時に出会うものの美しさ。私たちを立ちどまらせる感動。私は求めているときにそれに会うことがなく、求めていない時に不意に出会うのだ。 (5・7) *  最も高い責任感としての罪の意識。 (5・17) *  聖書につまずくということは、つまずき得るということは、私たちにつまずきうるほどの情熱、つまずきうるほどの誠実、つまずきうるほどの単純さがあることを意味している。私たちがつまずく個所、抵抗を受ける個所から、聖書の理解が開けるのはその故である。地面に軽くおかれただけの犂は、どのような抵抗も受けることはない。しかし地中に深く打ちこまれた犂を曳く馬は、全身であえがなければならぬ。  私たちが、この世の出来事に深くつまずくなら、それは私たちの深い関心のしるしであり、この世に対する責任の証しである。  しかし私自身は、おそらく聖書にも、現実のこの不条理にもつまずかない。聖書が荒唐無稽であるのはごく当りまえのことであるし、この現実の不条理は、幾分の倦怠とともに、半ばいやいやながら、しかし肯定せざるを得ないと考えているにすぎない。私自身は「問いかける」気力をうしなってからすでに久しい。それは遠くシベリヤの時期、いやもっと前、もっと前……に遡る。そうして、ヨブのあのたくましい問いは、所詮私には神話だったのだ。 (5・20) *  真に深い信仰。隣人に対する責任は、そこでしか自己に成り立たないのではないか。エゴイズムは貫ぬかれるほかはない。それが貫ぬき得ないとき(それはエゴイズムの当然の宿命である)、妥協を拒むなら、信仰による調和を望むしかないではないか。私たちは妥協はできるが、調和を作り出すことは絶対にできない。調和はおよそ人間的なものではない、調和はただ神的なものである。 *   「生命を正しとすれば、死が誤りとせらる」 バルト(5・21) * 〈生きることの困難さ〉とは、〈積極的に生きることの困難さ〉である。労苦や悲しみにおし流されている間は、この困難さへの認識はない。 *  一度でよい。立ちどまって、そして自らに問え。 (6・4) *  生きて行くことは、どうしてまたこんなにむずかしいのだろうと、ため息をつきたくなる。何も考えずに、ただ無我夢中で追われて行くだけなら、それほど身にせまっては来ないのだが、それでも背後にそびえ立つ目に見えない壁がゆっくり音もなく崩れて来るような不安からは、一秒だってのがれるわけには行かない。そうして、ふと立ちどまると、その瞬間に自分の足もとで、思いもかけぬ深淵が口を開く。しかしそれでも、生きるということを放棄するわけには行かないのだ。そうして、この生きないわけには行かないということは、なんと理解しがたい、重くるしいことだろう。 *  不安を忘れている時こそ、最も不安な時である。むしろ不安を見すえている時の方が、かすかなやすらぎがある。 (6・12) *  危機を「克服」しようとすることは、いわば人間の本能である。私たちはあてもない未来に向って、なお危機と戦うことをやめることはできず、従って成長をやめることはできない。明日をまったく奪われた死刑囚でさえ、なおその毎日には、いやおうのない成長があるだろう。あてのない経験と教養を確実に積んで行って、なお一分でも一秒でも、私たちは生きのびる。 *  自己という存在は、この世界にくらべるもののない、全く独自の存在であると同時に、あらゆる存在と全く同じ存在であること、あらゆる存在と全く同じ運命をついにのがれ得ないこと、ここにIchの底の知れない不幸がある。徹底的な例外であって、徹底的に例外でないこと(この二つの命題の間には、いかなる接続詞を挿むこともできない)、それはIchだけが常に負っており、人間一般はなんら関知することのない矛盾なのだ。  この断層の存在は何を意味するか。それは、この断層を和解させようとする試みが、決して「一般的な」ものであり得ないこと、例外者としての自己にとって全く新しい問題であること、人間がくりかえし、くりかえし直面して来た問題でありながら、自己にとってはまったく新しい問題として、完全な孤独のなかで直面しなければならないことを意味する。 (7・20) *  真夜中、ふとまっくらななかで目を覚ますと、いきなり絶望的に深いもののなかへ突きおとされる。おれは、確かに死ぬんだなと考える。巨きな黒い手で口をふさがれるような恐怖にとらえられる。眠りの中で、夢すら見ないでいる部分、私はその時の自分がどこにいるか知らない。どこにも私が存在しない瞬間、私が全く〈不在〉となる瞬間、それがいわば私の死だ。私がそれに気づく瞬間、息づまるような驚愕におそわれる。  朝になって目をさます。白い、まぶしい光が私の周囲にあふれている。見なれた家具が、しずかに昨日の秩序をたもちつづけている。昨夜の恐怖は思い出しても理解できない。私には肉体があり、私の周囲には秩序がある。そうして私は、昨夜の自分の状態はたしかにアブノーマルだったのであり、今自分がノーマルな精神の秩序に還ったことを知って、心から安堵するのだ。  だが、今、もはや私は決して安堵しない。明るい陽光に息づき、おなじような生のいとなみをみとめて安堵している時こそアブノーマルなのであり、生の浅瀬へ浮きあがって呆けている時なのだ。そうして、深夜全くの孤独で、救いのない壁に追いつめられている時こそが、無限に真実な瞬間であり、その瞬間の自分の状態こそ、最もノーマルな状態であることを私は知っている。その時こそ最もするどく、最も正確に自分の姿をとらえている瞬間なのだ。 (7・21) *  私の心のなかのどこかには、生きるということに対して、根本的にまじめになり得ないなにかがあるのではないか。そうしてそこに、詩も信仰も窮極のものとしては私につながり得ない、いちばん大きな理由がひそんでいるのではないか。 (7・24) *  またしばらく何も書かなくなった。自分が自分でなかったわけだ。久しぶりで日記に立ち返って見ると、ずい分ながいこと空家になっていた家に帰って来たような気がする。 (8・9) *  Ernst(まじめさ)ということは、ものごとが自分自身へかかわる度合いをいう。自分自身の、人間としての生き方にかかわりのないものは、結局気ばらしにすぎない。 (8・12) *   ひとが   ひとでなくなるのは   自分を愛することをやめるときだ 吉野弘「奈々子に」    「自分を愛すること」。もうずい分ながく聞いたことのないような、または生れてはじめて聞くような、ふしぎな言葉だ。この言葉は私には、まるでラテン語か何かのようにひびく。にもかかわらず、この言葉の中に、久しく忘れていたあるなつかしいものを感ずるのだ。私には、自分を心から愛したおぼえがない。自分で自分の躰に、泥をなすりつけるようなことばかりして来た。時には負いきれぬほどの過大な要求をし、時にはわれとみずからを路傍へうちすてて来たりした。自分を愛すること。自分を愛すること。一体それはどういうことなのであろう。 (8・13) *  どうも、この頃の私はおかしい。こういう妙な自分にまともにつきあってはいられない。 (8・23) *  何かに気をまぎらわせることが、生きていることだと思っている人間。自分が生きていることに気づかないことが、生きていることだと思っている人間。それでも彼は人間である。但し、他の何かにとって人間なのであって、自分自身にとって人間であるのではない。 *  ただひとつのこと、ただひとつのことだけが私には明らかである。すなわち、聖書のほかに、もはや私には一つも行き場所がないということだ。そうして、そのことから出て来る結論も、決意も、希望も何もない。ただ、自分が〈存在するもの〉として現にあるためには、そこよりほかに行く場所がまったくないということ。そして、その一つのことが、今の私の呼吸をかろうじてたすけているということ、存在者としての意識をささえているということなのだ。いま私は、それ以外のことを何も知ることができないし、知りたくもないのだ。私の信仰は、私の悲鳴に近いものだ。 (8・28) *  幸福という言葉が、どのような内容を持っているかは別問題としても、私は幸福になろうと思うし、そう希望することを許されている筈だ。私たちはあまり多くの不幸を知りすぎたので、自分がどんなに不幸であるかということをはっきり知る力を失ってしまっており、そういうほんとうに不幸な状態に完全に慣らされてしまった結果、ばくぜんと、そういう不幸な状態を最もふつうの状態のように考え、そのことから、幸福という言葉の本当の重量を知ることができなくなっている。この世界に幸福というものが、一体ほんとうにあるのだろうかと思い、たとえあるにしても、自分ははじめから幸福とはなんの関係もないのだと、ばくぜんときめてしまっている。  しかし今、私は深い、本当の意味での幸福があるということを予感するし、自分こそ最も切実に幸福に関係があるのだと考える。  幸福なぞあるものか、ましておれが幸福になぞなれるものかという、浅薄な独断をおしのけて、「いや幸福というものはたしかにある。そうしてその幸福は、まぎれもなくおれに関わっているのだ。おれは、幸福になるためにこそ生れて来たのだ。そうして、このような暗い世界のなかでこそおれは幸福になろうと望むことができるのだ。このような暗い世界のなかでこそ、幸福をねがうことが、最も深い生き方へつながるのだ」ということをくりかえしくりかえし、自分にいい聞かせなければならない。 (9・9) *  決断ということを私は、たとえば人生の最も厳粛な場面における最も「不まじめな」行為、つまりやくざが命を張って行なう賭のようなものに考えて来た。しかし今、この言葉は私にとって、すこしく意味をかえたものとならなければならない。  決断の困難さは、それが日々のリアルな生のなかで、具体的な状況のなかで反復して行なう具体的な行為であることにある。具体的に決断しなければならぬ。そして決断をしたあとは、決断をささえる自己の弱さに耐えなければならぬ。このような行為に、もし真のよろこびが伴なわなければどうして耐えることができよう。  ふかいよろこびもなしに、このような行為をささえようとすることが、私にとってどんなに荒涼たることであるか、それを今ほど痛切に感ずることはない。  だが、よろこびというものは、よろこび自体を求めては得られないものだ。よろこびはおそらく何かの結果としてやって来る。私が神に向って決断したことをよろこぶという状態は、いったいどういうことなのであろう。  私自身のよろこびというものは、不確かな、はかないものであろう。それは容易に消え去り、また悲しみに入れ代る。「私が」よろこんでいるのだと感ずる時、そのよろこびは、決して私をささえるような大きなものではない。 (9・10) *  私はついに、意志というものを持ちえない男なのであろうか。意志という言葉を口にするだけで私には重く、暗くのしかかって来るものがある。意志とは苦悩であるほかに、ついに致しかたのないものだろうか。よろこびによって、ついにともなわれることのないものだろうか。 (9・15) *  たとえ、どのような蹉跌があったにせよ、私は変らなければならない。私はまったく別の人間にならなければならない。私はすでに死滅しつつあるのだから、亡びつつあるのだから。私が変ることだけが、世界を全く、根底から変えてしまう唯一つの道なのだから。もはや後には引き返せない。私は断崖とともに走らなければならぬ。断崖はたえず後退し、私はたえず前進する。 (9・16) *  信仰のユーモアについて。ユーモアと「真剣に」取り組むことは、決して滑稽なことではない。ユーモアを「真剣に」扱わなければならないことに深いユーモアがあるのだ。それは〈あたたかいユーモア〉というような情緒的なものではなく、人生のリアリティというものは、結局ユーモアでしか理解できないということなのだ。教会がユーモアをどうとりあげているかということは、今の私にはあまり問題ではない。椎名麟三が回心の体験を〈ユーモアでしか語りえない領域〉と述べていることをよく考えてみなければならない。ユーモアとは、のっぴきならない状態の中ではじめて明らかになるものである。このHumorの意味がほんとうにわかったとき、私たちは、この暗い生の重圧の下で「それでも生きている方がいい」と、安堵してつぶやくことができるのだ。「生きていてよかった」などという言葉を、無傷な世代から押しつけられずにすむのだ。  たとえば『邂逅』の主人公がとんでもないときに浮かべるとまどったような微笑の中に、はげしい怒りでさえも表情となるとき奇妙に変質してしまうような微笑のなかに、私はこのような、この世のユーモアに出会ってしまった男の、望みにみちた困惑を見ることができる。それは「救済された瞬間に」見捨てられた困惑であり、およそ希望は、そのようなかたちでしか私たちを訪れないのである。 (9・30) *  貧乏すると、どこか人間がいやしく、ずるくなるというが、自分のすることを考えてみると、どうもそんなふしが見えて、自分ながら情ない思いがする。こんなことは、いつも気をつけておればちょっとした努力ですむことなのだ。清貧に甘んずるという言葉は、時とするといやなニュアンスを帯びるが、しかし、そういう境地そのものに腰をおちつける努力をするということは、決してつまらないことではない。  いつかラジオの録音構成で、わずか三人の生徒をあずかっている山間の分教場の教師が、その貧しい生徒たちを「人の幸福をうらやまない人間に育てたい」と語っているのを聞いて胸を打たれたが、こういう素朴な気がまえというものから、どんなに自分が遠い処で生きているか、思いがけない時につよく思い知らされることがある。小さい時から、人一倍貧乏の味はなめたくせに、貧乏にしっかりきたえられることのなかった不甲斐なさを、この頃身にしみて感ずる。 (10・6) *  不条理がたしかに不条理となる場所が自分自身である。従って、自分自身が事実上存在しない場所では、不条理は存在せず、世界もまた存在しない。不条理は自己に対する切実な関心(Sorge)から生れる。不条理の深さは、自己への関心の深さである。 (10・8) * ……しかし不思議なことにこの苦悩のなかに、たしかな未来への予感があるのだ。僕はふいに一挙に変るだろう。 椎名麟三『三つの訴訟状』(10・9) *  私は自分が「変る」ということ、今までの自分とはまったく別の人間となってしまうということについて、それが一体どのようなことを意味するのか想像もできなかった。私は、自分の少年の頃から、どのように自分を嫌悪したか分らない(それにもかかわらず、自分自身に限りなく執着した)。その頃から今に到るまで「変りたい」「別の人間になりたい」ということは、いつも私の心の底にうずきつづけている願いである。そうしてしまいには、私はこのような自己嫌悪を、自分にとって唯一の美徳であるかのように考えるまでになった。実際、今でも私が最も嫌いなタイプ、はき気がするほどいやなタイプは、しょっちゅう自分に満足しきって、自分自身を疑ってみることもないようなタイプの人間である。こんな人間の前にいると、思い切って彼を侮辱してやりたい気持になる。  だが、そのようなはげしい願いにもかかわらず、私自身はそれこそびた一文だって変りはしなかったのだ。そうして、この「変る」ということが、実は「他人に対して」私が変るのだと考えていたところに、大きな問題があったのだと思う。私が時に、いたたまれないほど他人の目を意識するのは、おそらくそういうことが原因なのだろう。  そのような私に、今、聖書の〈新しい人間〉という言葉は、なにか今まで自分が想像もできなかったような不思議な希望を、かすかにではあるが与えてくれるように思えるのだ。〈新しい人間〉とは何か。それはおそらく想像もつかないようなことだろう。しかし、私が今まで悩みぬいて来た問題は、まさにこの〈新しい人間〉という言葉に圧縮されているように思われる。私は〈新しい人間〉になれるだろうか。「もし、なれなかったら」と思うと、恐怖が背すじを走るような気さえする。私の日々の希望は、この〈新しい人間〉になりたいということであり、もし今の私に、かろうじて喜びのようなものがあるなら、それは、このような私自身にもかかわらず、なお〈新しい人間〉というただ一つの希望が残されていることのためである。 (10・11) *  この地上に、もしも私という人間が現実に存在するなら、その人間は救われていなくてはならない。 (10・13) *  人間は死への存在であるというハイデッガーの規定は、よく納得できる言葉であるが、この言葉が私にとってリアルなひびきを持たないのはなぜだろう。私はこのような深い洞察のなかから「何かが」起らねばならないと考える。しかし、それはついに起らない。それは私たちにとって、死がついに現実となることがないためである。私は、死がほんとうに体験されないかぎり、いかなる人生もはじまることはないと考える。もち論、死の実感によって人生の意味が回復されるとは考えないが、少くともそのことによって、生きることの意味が初めから失われていることがはっきりするだろう。この認識(というよりも体験)は重大である。しかし、死がついに体験となり得ないという事実はさらに重大である。死がリアルなものとならないということは、生がついに現実性を持たないことなのだ。 (10・14) *  実存とは、いわば私自身のことである。私はついに私自身を一歩も離脱できず、結局この私自身を生きてこそほんとうに生きたということができるのだ、という認識から、何かの価値の転倒(私にとっての)が起らないだろうか。生きるということは、この世界の何を生きるというのでもない。ただ現実のなかの現実、レアリテの極限としての自分自身を生きることにほかならない。  それはロジックではない。走り出したらあとをふり向かない決意としてである。生きることが虚無であるなら、とりもなおさず私自身が虚無であるということであり、生きることが救いであるなら、とりもなおさず私自身が救いであるということなのだ。 (10・15) *  きのう書いたことと、私が〈新しい人間〉になるということが、どうつながりがあるか考えてみる。〈新しい人間〉こそは私の終生の希求であり、きのう書いたことも、この〈新しい人間〉という言葉がきっかけになっている。私がついに私自身から逃れることができず、最後までこの私自身しか生きることができないとしたら、〈新しい人間〉とは私にとって最も無意味な言葉ではないのか。このことについて、現在の私はただ、比喩をもって次のように考えるしかない。〈新しい人間〉とは、今のままの人間が今のままの姿で、今とはまったく別の新しい光に照らし出された姿である、と。もしそうであるなら、それは〈新しい人間〉へ飛躍する力は、私の中にはないということである。それは、何かとの〈邂逅〉によってしか起りえない。その光が復活の光であるとは、今ただちに口に出してはいえないにしても、私はそのような光を、今はキリストの復活の方向にしか予感できないのだ。  牧師は、「私たちがキリストに出会う場所はlifeであり、その中で真剣に生きてみろ、というより仕方がない」と言われたが、ライフとはこの場合、私自身であり、この不条理な私自身を外にして、キリストと出会う場所はない。そうしてまた、私がキリストに出会う場所はキリストの復活した場所以外にはなく、私たちに出会うキリストは〈復活したキリスト〉以外にはないのである。 (10・16) 一九五八年  〈立ちどまる〉ということは重要なことだ。とある街角の敷石の上であれ、書店の店さきであれ、その時私は立ちどまらねばならない。私が立ちどまる時、私は階段を一つ降りる。生きることがそれだけ深くなるのだ。なぜなら、立ちどまる時だけ私は生きているのだから。 (1・23) *  あきらかに、今の私をささえているものは信仰ではない。それは、信仰を、残されたただひとつの支えにしようという、私自身の決意にすぎず、その決意だけが日々あらたに、くずおれかける私をささえ直しているのだ。それは、あくまでも私自身の決意であるから、その限りでは根底のない、たえず挫折の不安にさらされたものである。けれどもそれは信仰への希求をその内容とすることによって、ひとつの根底を約束されているはずであり、それ故にこそ、私は私自身の決意を自分のささえとすることができるのである。 (1・28) *  ほんとうに日記を遠ざかってしまった。日記は要するに気安めだという安直な考えと、かりにも書きしるす以上、自分の内部に秩序を与えなければならないという気重さが、つい私を日記から遠ざけてしまった。私にとって、日記を書かないということは、自分がかつての状態のままで、乱雑にほうり出されたきり、一向整理もされていないということである。生活はまったく安定を失ってしまったにも拘らず、精神は当初の危機感を全く失って、むしろ無為に狎れ親しんでいる。このような危機に向って生き生きとめざめていること以外に、自分には「生きる」ということは考えられないが、そのために絶対必要なエネルギー、気力の集中は、しっかりと毎日の生活を整理して行くことによってのみ得られる。だから、日に一度日記を書くことによって、自分の乱雑な、だらけ切った内部を容赦なく整理して行かなければならない。 (4・2) *  なにげなく一日をすごし、ふとこのままで何となく、いつまでも時がすぎて行くような錯覚に気づいて、びくっとすることがある。見たところはほんとうに何ごともなく、この上もない平穏な一日、一日を送っているのだが、しかし、あらためて考えてみるまでもなく、生活は確実に行きづまりつつある。女房の献身的な奔走にも拘らず、五月、六月となっても見とおしが開けなければ、私たちはそれこそ、完全な困窮のなかにおちこんでしまうだろう。しかし、そのような生活の上での行きづまり、困窮が私にとって何を意味するかはその時になってみなければわからない。つい先頃K氏が、生活に行きづまって自殺した。生活は、実際に人を殺すことができるものなのだ。それは私もやはり殺すだろうか。私はほんとうに〈行きづまる〉だろうか。私たちのまわりには沢山の事件があり、かぞえ切れないほどの教訓が転がっているにも拘らず、私は自分自身に対して、いかなる決断をなすことも、責任を負うこともできない。これが、私のありのままの姿だ。これが私のリアリティである。  そうして、私がそのような自分自身を承認するということは、私にとって新しい意味をもつ。私が日記を書きしるす時、かならず何らかの倫理的な義務を自分自身に強いるのは、実は、現実の自分を凝視する忍耐と勇気に欠けているからにほかならない。自らを凝視する勇気のないところから、ついにいかなる希望も湧いては来ない。もともと文学とは、私にとってはそのようなものであったはずなのだ。私は日記の中で、たえまなく自分に絶望し、自分を叱責し、自分を激励するが、現実はもとのままである。  なぜそうなのか。それは私には分らないが、自分の現実の姿を承認することなしには、私にとってはどんなささやかな前進もありえないだろう。私はこういう人間である。私はこういう人間であるよりほかに、ありようがないのだという確かな認識以外の場所から、私は出発してはならない。ありえざる理想像の高みから、自分を見おろし、叱責し、絶望するほど不毛なことはない。そういう〈前のめり〉の姿勢から一時も早く立ち直ることこそ、私にとって今、最も必要なことなのだ。私が希望をつかもうとあせるのは、実は逃避にほかならないからである。 (4・4) 一九五九年から一九六二年までのノートから 一九五九年  この一週間ほどの間、私としては非常に珍らしい状態にある。それは、私がとも角も私自身の気分にたいして抵抗しはじめたことだ。それがどういうきっかけから起ったのか、私はおもいだすこともできない。そして抵抗はいつでも不器用におこなわれ、多くの場合、私を腐食する虚無感は克服されずに残り、それとの不安定な均衡の状態にとどまるだけだが、少くともそのような絶望感に圧倒されるだけで万事が終ってしまうだけの私にとっては、このような状態は全く珍らしいことであるといわなければならない。もちろん、絶望が全く克服されつくすということはあり得ないことである。私が私自身の絶望にたいしてなしうること、そしてなすべきことは絶望にたいして勝利を得ようと望むことではなく、たえず抵抗をつづけることであり、この抵抗することの中に「私は生きている」という実感をつかまなければならない。  自分自身にたいして少くとも意志らしいものを持ちはじめたこと。これは不思議なことだ。シベリヤ以来の私にとっては、初めての新しい状態であるといえる。今の私にただ困難なことは、ただこれを持続することだ。  しかし、とも角も私は変りつつある。そのことに私は希望をもたなければならない。  私は、何ものをもそして何ものにたいしてもついに賭けなかった。青春ということを賭けるということとほとんど同義であると考えれば、私には青春というものが全く存在しなかったにひとしい。私が青春を失ったということはありえない。青春を失ったといえる時は、失うに足る青春を所有していたことになるが、私にはそのようなものは存在しなかったのだ。一切をひとつのことがらへ賭けて敗れた時、その時青春を失ったということはいえるであろう。その時、彼は〈無からの創造〉の立場に立つ。  私はあてもなく街を歩き、たまたま通りすがりの映画館の低俗きわまる絵看板を見上げる。『今は名もない男だが』というのがその映画の題名だ。その映画の主人公は、ただトランペット一つに一切を賭けた青年である。私は身ぶるいする。トランペットに一生を賭けることだってできるのだ! だが、「だって」とはなんだろう。それは、トランペットに「こそ」人生を賭けることができるということと全く同義ではないか! 賭けるということの本質はまさにそのようなことなのだ。賭けるとは、数多くのものの中から最もよいものをえらび出すことではない。というのは、その時、賭けるという行為だけがすべてであるからである。賭けるもの、賭けられるもの、それによって失うであろうもの、獲得するであろうもの、それら一切は究極的には賭けるという行為の前には無意味である。  しかし、そのような危機に人はいつ立つことができるか。それはまさに〈運命〉として来る。賭けるという危機的な行為の前に立つとき、選択の自由はすでに失われている。その時、彼はとらえられているのであり、何ものかによって逆に、「賭けられて」いるのである。  賭のパトスは絶対的な喪失に九分どおり賭けているという戦慄に存する。その時彼は99パーセントまでの敗北を予感しているのである。勝利の機会はただ1パーセントである。確率的にはどうあろうと、心理的にはまさにそうである。客観的に賭の偶然性を支配する確率の法則と、賭ける者の情熱とは全く別のものである。勝利した時の喜びは、むしろ奇妙な期待はずれの失望感をまじえた安堵にさえ似ている。だから、彼は再び賭けるのだ。彼は負けるまで賭ける。あたかも、賭は負けなければならないものであるかのように。敗北することにこそ賭の目的があるかのように。  確率論の上からいえば50パーセントずつの確率が存在しなければ、賭は成立しない。しかし、二つの場合の確率が単に50パーセントずつあるというのはいわば無関心の立場であって、賭をおこなうものには、その一方に圧倒的な関心があるのであり、そのような幸運に絶望的な情熱と関心を注げばこそ、その確率を1パーセントとするのである。  私は賭をそのように理解する。そして、私は何ものにもついに賭けなかった。賭けるに価するものがこの世に存在しなかったのではない。私にデーモンが、勇気がなかったのである。  よしんば、わずかな時間であっても、自分自身に抵抗しえたということは、私にとってどのような大きな経験であろう。  いいがたく、卑屈で、無気力で、下劣な自己に永劫囚われたままのこの自己。このような、二つの自己が厳として存在することを知る力すらなかったこの一人の男が、やがてつかの間でも自己から脱出したいという願いを持ちはじめるようになるまでに、実に四十年という時間が必要だったのだ。  だが、それにもかかわらず、私がついに自分自身について考えはじめたということ、自分自身のなかに敵を見るようになったということ、それは、私にとってあるまったく新しいものの始まりを意味するのである。 *  ほんとうの悲しみは、それが悲しみであるにもかかわらず、僕らにひとつの力を与える。僕らがひとつの意志をもって、ひとつの悲しみをはげしく悲しむとき、悲しみは僕に不思議なよろこびを与える。人生とはそうでなくてはならないものだ。 *  どのようなことであろうと習慣は悪である。習慣は僕を腐敗させる。 *  人間は決して一度に二つのことはできない。それなのに人間はかならず一度に二つのことをやる。人間がこわれるのはあたりまえだ。 *  決して長くとはいわぬ。ごくわずかでよい。抵抗せよ。 *  「おれはこれでいいのか」と問うたことはかつて一度もなかった。  「おれはこれでいいのだ」とふてくされたこともかつてなかった。 *  ただひとつのことが私には明らかである。真剣になること。真剣に〈それ〉を求めること。それ以外に私には救いはない。  いかなる救いも信ずることはできぬ。ただ一つほんとうの救いをのぞいては。  私が真剣に、死にものぐるいになって求めなければならないもの——それを私は〈救い〉であるとしかいえぬ。 *  私はこの頃、酔って自分がどうしたらいいだろうということばかり考えるようになった。酔えば酔うほど自分が不自然でたまらないのだ。 *  昨夜は夜半ごろ目を覚まして、山口さとのという人の『愛に生きる』という本をほとんど泣きながら読んだ。  おそらく、このような感傷は、この人たちの不毛の戦いにとってまったく関係のないことであろう。たとえ、この人たちの苦しみが、何人かの人の共感と感動を呼ぶにしても、この人たちの苦しみに髪の毛ひとすじをも加えることはできないであろう。この人たちの苦しみはもはや和らげられないものであり、戦いはつづけられるより仕方のないものであり、終りまで望みを持ちえぬものであるかも知れない。  しかし、少くともこのようなかしゃくない戦いが現に私たちが生きている世界のなかでいとなまれているということ、そのような人たちが、私たちと時をおなじくしてこの地上に生きつづけていること、現に私たちがこうして希望をうしないつつある瞬間に、まさしくその人たちの希望のない戦いが、一歩の妥協もなく、執拗につづけられているということ、そのことこそ私たちの希望でなくてなんであろう。    私がシベリヤで、くりかえしくりかえし自分にいい聞かせてきた言葉——滅びなければならない時が来たら、いつでもしずかに滅びて行こうという言葉を、ようやく私は忘れはじめたのではないか。だが、帰還直後しばしば私をおそった、あの痛みにみちた安らぎがふたたび私にかえってきたような気がする。私の父は、私の知らない時に、場末の小さな病院で、誰にも知られずに死んで行った。私はそのことを胸が裂けるような思いで聞いたが、そのような死こそ人間にとってふさわしいのだ。私たちの周囲にすでに色濃くただよっている死のにおいを、いちはやくかぎとった者にだけ、すでに安定が失われ、危機に膚接している生のただなかで、誰よりもしっかりとした安定があるのだ。  とるに足らぬ一つの問題が、私にこのような危機感をよびさまし、私にとってすでに親しい、あの痛みにみちた身構えを私に復活した。もはや、私はこのような身がまえを忘れないであろう。 *   私は虚無へ引きかえす   帰るべき故郷を持つもののように    くりかえし自分に問うてみなければならない。希望を捨て去ることはよいことか。戦いを拒むことは許されるか。僕はまだそれをけんめいに自分に問うていない。僕がそのように傾斜したというだけのことではないか。 *  勝野君はあの日死ぬことに「なっていた」。ただ誰も彼にそれを教えてやらなかっただけの話だ。僕も〈その日〉に死ぬことになっている。ただ、誰も僕にそれを教えてくれないだけのはなしだ。 *  ひとまわりまわってみて、結局僕はもとのところに還って来る。「還って来る」ということが、それ自身僕には一つの経験であり、教訓である。もはや、単純で積極的な〈行為〉によって自らを救う以外にどんな途も残されていない。単純な行為。たとえば、聖書を読むとか、労働するとか(詩を書くこともこのさい労働でなくてはならない)。自己の行為によって自己を救うという場合の「救う」という行為も単純に行なわれなければならない。  勝野君がtravailという言葉を使っていたが、その意味は要するに、〈単純で積極的な行為〉ということであろう。 *  絶望する前にすでに単純に行動を起していること、尤もこの場合、自分からできるだけ「離れる」ために積極的な抵抗が要る。 *  「自分の症状に気づくこと」これはいつか、日記に書いておいたことだが、大切なことだ。自分の病気に気づかないで、健康になろうとしてもどうにもなりはしない。僕は病人だ。まだ、自分でも気づかない病気がたくさんあるにちがいない。そのなかには生れた時から背負いこんでいるものもあるだろうが、つい近頃になってとっつかれたものもあるはずだ。僕はこの頃になって、そのうちの重要なやつを二つ三つ見つけ出した。その中には、心がけ次第で癒りそうなやつもあるが、ほとんど絶望に近いものもある。簡単なやつから手をつけなければならない。病気は虱のように、一つずつたんねんにつぶして行かなければだめなのだ。とに角、それは単純に〈病気〉なんだということを自覚してかかる必要があるのだ。    昨夜は実に久しぶりに教会の例会に出席した。どういうものか、私は教会の集りに出ようとするときまってさくばくとした空虚な気持におそわれる。昨夜もやはりそうだった。おそらくこのさくばくとしたもののなかに、私自身と信仰という問題とのかかわりを考えるための重大な手がかりがあるはずだと思う。だが、この頃の私は、そのように物ごとに深く切りこむ気力をほとんどうしなっている。しかし、このさくばくとした気持は意外なほどつよく、そのままふいと引っ返したいと思う程であった。  集りの中心のテーマは、最近バルトが東ドイツの一人の牧師にあてた手紙についてであって、バルトはその中で、共産主義者の支配下にある世界の中で、なおキリスト者はふみとどまって、肯定すべきものは肯定し、ただ一つの支えをキリストに求めて生きつづけるべきだといっているのである。  このような問題がどれだけ私自身にとって重大なかかわりをもっているか、私にはよくわからないが、私がふとその時考えたことは、東ドイツのきびしい条件の中に、一人の牧師が現実に生きていて、毎日の具体的な戦いの中で、重厚な態度で真剣にキリスト者として立とうとしているということであった。このことは私を、ともすれば忘れ去ろうとしている真剣な問題へ引きもどす。私は今すぐにでもそれを考えなければならないのだ。  昨夜の集りで私が考えたことはただそのことだけであった。 (4・22)    かつて、まだ少年期を脱したばかりの頃、私は貧窮にやせ細った姿で一人ルターの註解を読みつづける一人の青年を、自分の未来の理想像として熱っぽく想いえがいた時期がある。それがいわば私のヒロイズムであった。このような希求のなかには多くの笑うべきものがあったにせよ、なお私自身が存在することに対する希望がある。そして私の夢想がいつもそのような暗い傾斜を持っていることは今でさえ少しも変らない。四十を越えたいま、なお私は何かを(おそらくそれは自分自身であろうが)変えるという熱っぽい夢想にたえず悩まされている。私が私自身を変えてしまいたいと思うことは、まさしく世界を変えるということである。  私は〈無意味〉ということに本能的に反撥する。意味がないままで終るということには本能的に耐えられない。私がこれまでにであってきたものはおそらく意味をうしなったものばかりであったが、それでも私は意味というものを求めないわけには行かないのである。そういう精神の傾斜の中にだけ、辛うじて意味への予感があるのかも知れないのだが。 (6・5)    その人たちはおそらく歴史の流れのなかにある自分たちの位置がどんなものであるか、考えてみたこともないであろう。誰が誰を支配し、誰が誰にれい属するかということによってのみ成立っている、巨大な人間社会の機構がその人たちにとってどのような決定的な意味を持っているかということも、考えたことはないであろう。その人たちは誰を支配しようとも思わず、また支配する必要もなかったであろう。その人たちは、このようなすさまじい流れの中で、ただ切なく愛しあい、むつみあって行くほかには、なにもできないし、なにもしなかった人たちにちがいない。世界のほんとうの内容をかたちづくっているのはこのような人たちだ。そうして、未来はこのような人たちにだけ属し、革命はこの人たちのために行なわれるのである。 (6・15)    このような抜け道のない袋小路のような現実を外側から突破するものとして、革命が待ち望まれている。しかし私は知っている。血なまぐさい何週間かの混乱ののち、いちはやくのしあがってくる奴は、昨日とおなじ奴らであることを。真に革命を必要とする人びとは、いぜんとして不安と窮乏のなかにとりのこされるということを。 (6・17)    『若き獅子たち』という映画を見た。あまりいい映画とは思わなかった。筋のはこびの冗長さ。ヒューマニズムの浅さ。しかし、その中のある一つの場面、ある一つの表情が私をとらえた。今でもその表情は私の心をかきむしる。それは、アフリカの戦線で、この映画の主人公の一人である若いドイツ軍の将校が、負傷者を射てといわれた瞬間のくらい絶望的な表情である。この表情のくらさは単にヒューマニスチックな考え方で解けるくらさではない。それは、もはやどこにも解決を持って行きようのなくなった暗さである。おそらくその時に、私はその暗さを聖書へ直接に結びつけようとしたかもしれない。だが、そういう考え方の中にこそ最も大きな絶望がかくされているにちがいない。その暗さはそのままのかたちで耐えなければならないものだ。暗さのままで。 (8・31)    キリストが〈われわれとまったくおなじ人間〉であったということと、キリストが〈最も蔑しめられた人間〉であったということ。この二つの〈事実〉を同時に考えなければならない。そこで明らかになるのは、キリストではなくて、われわれ自身の〈目〉である。 (9・5)    仕事にかんして、自分には〈実力〉がないのだということに、はっきり〈自信〉を持つこと。悪びれずそれを承認し、仕事の能力をもって人間の評価に代えようとする態度をはっきり拒むこと。事業と才能の世界のなかに、なお人間として立ちつづけること。このことは、現在の私にとって大切なことだ。 (9・15)    「おれはだめだ」と考える前に「なぜおれはだめなのか」「どうしておれはそうなのか」ということを考えなければならない。そういう必要に思い到ったことはかつて今までになかった。 (9・29)    自分自身の〈とりあつかい方〉をおぼえること。 (10・7)    私が最もおそれるのは、精神の安定を失うことである。それは、人間らしく、しかも主体的に生きて行くために、どうしても必要なものである。だが、私自身は自分にとって最も必要なことにたいして、おそらく何の努力もしていない。そしてたえず安定の攪乱を怖れているのである。 (10・9)    希望をもつこと。希望をもとうという意志をもつこと。このことは私にとって絶対に必要なことである。 (10・12)    一人の人間を献身的に愛することができるなら私は生きうるであろう。 (10・12)    詩を書きたいと思うとき、詩によって自分を救おうと思うとき。それは自分がなんらかの意味で壁につきあたっている時、自分自身を疎外しているとき、危機に脅かされているとき、不安を感じているとき、絶望を感じているときである。 (10・16)    シベリヤでどのような限界状況にいたかということはこの際問題ではない。またその際何を考えたかということも今となっては問題ではない。問題は、現在の私自身が、シベリヤの経験を「どう受けとめているか」ということである。 (10・27)    頭を切りかえる訓練を真剣に考えること。私は全く訓練ということができていない。 (10・27)    思索におけるtrainingの必要について。 (10・31) 一九六〇年  僕はなお生きようとしている。それが今朝の僕の実感だ。  そして、そのことを宣言すること、それが僕の詩の意味だ。  言葉は厳密にもちいねばならぬ。詩を書くことが生きることへの確証であるなら。 (2・13)    「神がかくされている」ということは、われわれのばあいには、「神がかくされているという事実がさらにかくされている」という事実であらわれる。かくれた神へむかって、深い淵から呼び求める、あの詩篇の詩人の声は、ここではもはや聞くことはできない。神が二重にかくれていることによって、ここでは虚無が、そのものとして、神をまっすぐに指し示すという、背理的なすじみちを失ってしまっている。ここでは、虚無は虚無自身を指し示すだけであるか、またはなにものも指し示さない。朝夕の街路で、雑踏で、電車の中で、もしくは片隅の孤独のなかで、われわれは不断に虚無と向きあい、向きあっているという事実を忘れ去っている。そこでは、われわれが虚無と向きあっているというよりも、虚無がわれわれと向きあっているという方が正しい。そして、この絶望的な状態は、単にそれが絶望的であるという状態のままで終り、また始まって行くのである。  虚無がはげしい問いとならないとき、虚無がそのままゆるやかな弧をえがいて、ひとつの円周をとじるとき、世界は見すてられたままであり、僕らは完全な絶望のなかに見すてられる。虚無がただ虚無として語られるとき、それは絶望以外のなにものでもない。 (3・16)    とおいひとびとの苦悩を、自分の苦悩に直結できること、それが若いということである。 (3・21)    やけくそ、そうだ僕はやけくそで聖書を読む。聖書にたいする正しいアプローチ、聖書に対して正しい位置を占めること、ひとつひとつ確実につみあげて行くように聖書を読むこと、そのようなことが今の僕に不可能であることは、肝にこたえてわかった。僕はただやけくそで聖書を読む。それは、聖書を読むことによろこびがないなら、もはやこの世のなにものにも、よろこびというものはないからだ。聖書によって僕が読み捨てられてしまうこと、そのことのために、僕は聖書を読む。 (3・24)    脱出するものにとっては、脱出して行く〈方向〉は問題ではない。彼の重大な関心は、彼の背後であって、彼の前方ではない。  (障壁についてはどうか。障壁はつねに前方にある)。 (4・1)    危機的な認識をもっているということと、危機的な生き方をしているということは、まったく別のことだ。 (4・14)    もうずい分長いこと、日記をつけるという習慣を失っている。僕にとって、日記をつけないということは二重の問題を意味している。ひとつは、僕自身、自分を整理し、考える意志を失いはじめたということであり、あらゆる問題に対する無関心、日常性への埋没の最初の徴候があらわれ始めたということである。第二に、そのことを一応承認するとしても、かつて、ただもたれこむような姿で日記を書きつづけていた自分の姿を、決して積極的な姿勢と考えるわけには行かないということである。 (4・17)    ごくありふれた感想だが、危機の観念だけでは毎日の生活は展開しないということを、よく心得ておく必要がある。いやなことばだが、生活の智恵というものに、いまさらのようにぎくりとする瞬間が、今になってしばしばあるのだ。一体、僕は生活ということをどう考えているのだろう。一度はじっくりと、自分自身と膝をまじえて問いただしてみたいと思わないわけには行かない。日常の場で、自分自身と顔を見あわすということを、僕は何か怖れている。そして、いつも顔をそむけて、そそくさと自分自身から離れ去ってしまう。情緒というものを期待しえない場所で、自分自身の素顔に出会うほど絶望的なことはないからだ。しかし「最後には」結局そのいやな奴と二人っきりにならなければならないのだ。たとえば、独房のなかで……墓場の中で……。「さあ、いよいよお前さんと二人っきりになったぜ」と最初に口を切るのは、一体どっちの僕からだろうか。「さあ、いちばんいやな話をはじめようじゃないか……」だが、独房や、墓場の中にはともかくもふんいきというものがある。そのような場面にふさわしい……。しかし、もっとも辛いのは、毎日の生活のただなかで自分自身と向いあわねばならないことだ。電車の中で。事務所の机の前で。だが、こういう時にこそ、僕は勇気をもって自分自身に語りかけなければならないのだ。 (5・2)    危機の観念だけでは生活は展開しない。はじめからすでにわかりきっているようなこのりくつを、あらためて思い知るためには、ともかくも一応の行きづまりを必要とする。行きづまる過程は、劇的な場面の中ではなくて、日常のたいくつな空気の中で進行する。進行に気づいた時は、すでに一方の極に達しているのだ。  危機とは僕にとっては終始一つの観念であった。真実の危機はつねに僕の足許にあったにも拘らず、僕は頭上に危機を考えていた。奇妙なことだが、僕は危機という言葉を考えるとき、いつもある種の安堵をおぼえる。「それでおしまいだ」という安堵である。staticな認識は、観念的な危機感の特徴である。  危機感を持っているということを、人間の聡明さの証明のように僕は考えていたのだ。 (5・5)    僕の、どんなにしても消え去ることのない願いを要約するなら、どのようにしても生き生きと生きる人間(ein lebendig lebender Mensch)になりたいということである。 (5・6)    この、無意味な世界を生きるに値するものとするということは、無意味を意味におきかえることではない。無意味とたたかいつづけることである。 (6・27)    怒りはけっして報復の方向へねじまげられてはならない。それは、神聖な衝動としての怒り、怒ることによってのみ深まりうる感情をみずから踏みにじることである。怒りは耐えられることにより、人知れず深められ、さらに大きな怒りへと結びついて行かなければならない。 (7・7)    日本がもしコンミュニストの国になったら(それは当然ありうることだ)、僕はもはや決して詩を書かず、遠い田舎の町工場の労働者となって、言葉すくなに鉄を打とう。働くことの好きな、しゃべることのきらいな人間として、火を入れ、鉄を灼き、だまって死んで行こう。社会主義から漸次に共産主義へ移行して行く町で、そのようにして生きている人びとを、ながい時間をかけて見つづけて来たものは、僕よりほかにいないはずだ。 (8・7)    考えてみよう。僕はその生涯に何をしたか(四十年といえば、それはすでに生涯である)。生きるに値する生について、片時も悩まない時はなかったのに、僕の生涯はかくも空白である。一人の人間に対する愛が試みられるような危機にあって、僕はただ自分のいたみを考えた。考えるに値しないほど空白な自分自身の、その痛みをまず考えたのだ。  僕がなお何事かなさねばならないのであれば、そしてなお一つのことを許されるなら(ただ一つのことを)、僕はおそらく聖書を読まなければならないのにちがいない。しかし、何という困難な、荒涼たる仕事であろう。だが、ほかに何もないなら、何ひとつないなら、僕はそれを読み抜かねばならぬ。何よりも、一切はもはや決まってしまっている、何ものももはや動かすことはできないという絶望と戦って行くために、僕は読み「始め」なければならぬ。そこでは、ともかくも何かが始まるのであり、ともかくも僕がそれを「始める」のだ。けれども何という重苦しさ。何という空虚さ。僕が開くその一ページからして、おそらく僕にかかわりのあることは何ひとつ見いだすことはできないのだ。証人をあてにするわけにはいかぬ。ルターがその言葉によって救われても、僕が救われる保証はなにもない。而も、救いとは何を意味するのか。おそらく、それは、僕にとって無意味な言葉のうちでも最も無意味な言葉なのだ。そして、まさにそのような地点から、それでもなお僕は読み始める。 (9・2)    僕は自分自身に対して真剣でありたいと思う。自分自身に対して真剣であるということはどういうことか。それは、危機感をもって自分自身を凝視するということでなければならない。いたずらな言葉、ただ絶望的であるにすぎない言葉をもてあそんでいる時ではない。自分の全存在が「問われて」いるのだということを、昼も夜も耳鳴りのように聞きつづけていなければならないのだ。 (9・4)    僕らが〈死〉というとき、それは常に時間を媒介とした観念である。しかし、死をただ時間的にしか捉えることができないのであれば、そのような死について考えることは無益で滑稽なことであろう。しかし、死は生のすべての瞬間に〈同時性〉をもって考えなければならないものだ。時間の終末に来るもの、それはもはや〈死〉とすらいいえないものである。それはただ、その生の各瞬間において僕らが同時に死につつあったということ、その生の各瞬間において僕らが完璧に死に引き渡されていたということの最終的な〈確認〉にすぎないのだ。 (9・4)    大事なことは詩を理解することではなくて、詩を書くことであり、他人の詩を理解することではなくて、自分の詩を書くことである。僕らは断じて批評家になってはならぬ。 (9・4)    希望によって、人間がささえられるのではない(おそらく希望というものはこの地上には存在しないだろう)。希望を求めるその姿勢だけが、おそらく人間をささえているのだ。 (9・5)    休養について。休養とは、気力をうしなって、ぐったりと横たわることではない。それは、ひとつの意志的な、集中的な行為である。「休養する」という意志を持つこと、それが休養の真の内容である。僕は生れて一度も、本当に休養したことがない。たえず、小刻みに緊張し、そうして不断に回復されぬ疲労の中にいる。 (9・7)    絶望しやすい人間と、容易に絶望しない人間があるというのはどういうことか。僕は、自己への関心の強さが、その人間の絶望への勾配を決定するのだと思う。犬や馬はおそらく絶望しない。人間は絶望することのできる唯一の動物であるといったキェルケゴールは正しい。人間は自己に対して関心をもちうる唯一の動物だからである。絶望しやすいということを恥じてはならない。しかし同時に、絶望する能力をもつということは、いかにしても救いえない人間の暗さを示すものではないだろうか。人間はつねに人間以外のものであってはならないが、しかし人間であるということは祝福と絶望の二重の構造のなかで考えられなければならないのだ。人間がそれ自身として人間であること、人間の絶望のもっとも深い根源はおそらくそこにあるのであろう。それは論理的にいっても、きわめて明らかな帰結であるように思われる。いいかえれば、絶望は人間のもっとも根源的な存在形式なのだ。 (9・9)    僕は、なにかしらたのしみがなければ生きて行かれない人間である。 (9・15)    僕にとって行動とはなんであったか。行動とは、自分が生きていることへの確証をつかむこと、現実への積極的、意志的な働きかけというふうに単純に考えても、僕にはかつて行動というものがなかったと考えてよいであろう。行動というものが必ず挫折と結びつけられて考えられるような状況のなかで、僕の青春が最初から挫折していたとしても、それは僕が自分自身の行動によって傷ついたのではなく、僕と同じ世代による無数の挫折の陰影によって、そのときすでに僕自身が色濃く染められていたからではなかったのか。 (9・15)    僕が〈考えぶかい人間〉に対して本能的な劣等感を持っているということ、そしてそのような劣等感が僕を〈考えぶかい人間〉へかりたてているのだということを考え直してみる必要がある。 (9・15)    「起ちあがらなければならぬ」という言葉を、ほとんどうたうようにして、僕はくりかえしつづけている。しかし、単にうずくまっていたものが起ちあがるにすぎないとき、立ちどまっていたものが歩き出すにすぎないとき、それはただ状態の変化にすぎないのだ。  かつて地に倒されたことのないもの、挫折したことのないものがどうして、起ちあがるという意志をもち、経験をもつことがあるだろうか。 (9・16)    挫折という痛切な経験は、僕にはない。しかし、一つの時代が挫折するとき、一つの世界が挫折するとき、僕はその挫折の真唯中にあるのであり、僕を含めた一つの全体がそこで挫折しているのだ、ということをはっきり知らなくてはならないのだ。 (9・16)    ひとつのことだけ、僕には単純にはっきりしている。現在の苦悩がどんなものであるにせよ、苦悩に負けてはならないということだ。負けてはならない。    願っていた安定が徐々にではあるがやってきて、僕たちの周囲にものしずかに住みついて行く。職業と生活と、それらがごくあたりまえのように、一つの方向を作り、一つの枠を作り、そうして——そうしたらもうおしまいなのだ。何ものも生み出すことのない生活、絶望、死に至るまで続くほかない生活が始まるだけだ。危機が真実に危機であるとき。それは、僕が危機という感覚を失ってしまう時である。そのような時を、僕の上に来らせないように! どうぞ、そのように僕が生き生きと目ざめてあってくれるように! (10・14)    もっとも単純な質問から始めよう。僕は自由であることを欲するか? しかり、欲する。新しい、まったく新しい生活を欲するか? しかり、切に欲する。虚無と不毛の人生を憎むか? しかり、憎む。この答えは、僕にとってもはや揺がないものである。答えは、僕にとって、このように単純である。ここから、すべてを始まらせようではないか! (10・14)    「これでいいのか?」僕はこの声をはっきりと聞きたい。その声は、いつでも絶え間なくひびいているにちがいないのだ。ただ、しかし、僕が心から耳をすます時にだけ、それは聞える。いつでも耳をすましていなければならない。その声の聞えて来る方向へ…… (12・9) 一九六一年  自分自身がいよいよ行きづまりの段階に来ているということが、新しい年を迎えての、僕自身の切実な感想である。同時に、僕が僕自身の絶望的な状態に対して、まがりなりにもこのようなはっきりした認識をもったということが、辛うじて救いでもある。  何かが変らなければならぬ(そしてそれは一切が変ることなのだが)という感じが今ほど切実なことはない。生活態度を改めるとか、酒をやめるとか、煙草をやめるとかいう問題ではない。自分自身が存在として、まったく破れ去っていること、その破れのまっただなかから「僕を救って下さい」という声を、全身をもって叫ぶこと。そのことを除いて、僕が存在しうる契機はもはやなにひとつ残っていない。 (1・11) 主よ、無益なものごとに対してはわれらの眼をかすませ、汝のあらゆる真理に関してはわれらの眼を澄ませたまえ。 キェルケゴール『死にいたる病』  時に、僕の内部で一切の波紋が姿を消し、世界がふいにしんとしずまりかえることがある。そのとき、僕の内側でひとつの目が巨きく開く。その目が何かを読む。なにごとかを読む。僕自身の背後にある、僕の理解しがたい暗黒のなかで、なにごとかが理解される。 (1・13)    今にしておもえば、鹿野武一という男の存在は、僕にとってかけがえのないものであったということができる。彼の追憶によって、僕のシベリヤの記憶はかろうじて救われているのである。このような人間が戦後の荒涼たるシベリヤの風景と、日本人の心の中を通って行ったということだけで、それらの一切の悲惨が救われていると感ずるのは、おそらく僕一人なのかもしれない。彼のあの悲劇的な最後は、今の僕にとってはひとつの象徴と化している。    ついに、バルトの『ロマ書』を読み始めた。四十年におよぶ混迷と停滞もついに、ひとつの主題にしぼられて来たかの観がある。僕自身の人間的転回ということが、もはや「僕にとって」問題とならなくなるまでに、僕は、この偉大な改革者の言葉に真剣に耳をかたむけるべく決意している。 (1・19)    聖書は、僕にとって、読んでも読まなくてもいい書物ではない。だが、そのことが一体どういうことであるのか、僕にははっきりわかっていないのだ。いぜんとして、僕は聖書を、いまいったような態度であつかっている。僕にとって何かひとつ、聖書を読むための重大な転回点が欠けている。 (2・1)    毎日の生活が、堅実な軌道に乗って進められること。充実した一日を送った、という満足をもって眠るゆたかな眠り…… このような生活の根源的な虚偽に、僕はとうから気づいている。意味のないことに意味を与えてみる愚劣な自己満足、肯定。仕事をしたというよろこび。「建設的な」生活のなかにある、このような救いがたい虚偽にくらべれば、まだしも、酒にのんだくれ、おのれの一日に絶望しつつ眠る方が、どれだけ真実に近いことか。しかり、ここでは、絶望とはまさに〈能力〉である。  だが、問題が、真に問題らしい問題が起るのは、このような次元においてではない。もう一度、読み返してみるがいい。実に、僕自身の青春の閾《しきい》に立った日から、僕はこれとまったくおなじ言葉を、変ることなく書きつづけて来たのだ。僕が、どれほど遠く旅をしようと、僕はただつねにおなじ平面をあるきつづけて来たにすぎない。  そのような平面の上では、たとえ僕が僕自身に絶望しようと、絶望すまいと、本来僕自身の存在が絶望的であるという事実に、なんの変りもなかったのだ。 (2・26)    まず聖書を読むことから、一日の生活を始めること、生活の中心に聖書を置くことを決意してから、多くの月日が経った。にもかかわらず、生活はもとのままである。僕はいぜんとして聖書を避けつづけている。実に「聖書を避ける」という言葉ぐらい、僕の生活を余すところなく的確に表現している言葉はない。僕は何をしているのでもない。ただ聖書を避けつづけているのだ。僕は、食事をすることによって神を避け、働くことによって神を避け、考えることによって神を避けている。僕の一切の行動と思考はことごとく、「聖書を避ける」という、かくれた目的と理由をもっている。  このことをはっきり理解することは、現在の僕のよるべなさのみなもとを知るうえで重要である。  しかし、さらに重大なことは、僕が聖書を避ける以上、僕にとって聖書は存在するということである。否定しがたい、重くるしい真実として、また、理解しがたい、絶対に新しいものとしてそれは存在する、ということなのだ。 (2・26)    新しい問題を語るためには、新しい言葉が必要である。 (4・3)    ふたりの男が経験しなければならなかった深い孤独の世界について、新聞は報じている。一つは、人類史上はじめて打ち上げられた人工衛星の中で、〈英雄〉ガガーリン少佐がただひとり経験した、重力圏外の沈黙と孤独の世界であり、他の一つは、人間の堕落の責任者、人類史上最大の犯罪者として、イスラエルの法廷のまっただなかに立たされている親衛隊中佐アイヒマンが、全世界の抗議の目の壁のなかで経験しているおそるべき絶望と孤独の世界である。  第一の孤独の構造は、きわめて明快で単純であり、おそらくその経験は無数の共感によって支持されるものである。そこではおそらく、前人未踏の孤独の世界へ一人の〈代表〉を送った人類の保障の手が、これをささえていたと考えなければならない。しかもこの孤独は、わずか一時間余で終りをつげ、断層のように突然うかびあがった歓声の中に、余すところなくそれは解消するのである。  だが、僕がはげしい関心をもつのは、第二のアイヒマンの孤独である。この孤独は、おそらくいかなる人の共感をも呼ぶものでなく、彼がその孤独に耐えるということは、どのような未来をも、彼に約束するものではない。おそらく、より多く悪魔の側に立っているであろう、この一人の親衛隊中佐をして、峻厳な法廷のただなかへ、みじろぎもなく立たせるものはなにか。  だが、僕がここで反射的に考えることは、アイヒマンのこのような暗黒のなかへも、イエスは降りて行くであろうかということである。おそらくこれは、問題の立て方がまちがっているのであろう。問題はおそらく、そのような仕方で出してはならないはずである。そのことをはっきり知ることが、アイヒマンの孤独と暗黒の秘密を解く鍵となるだろう。 (4・18)    このような孤独を経験した二人の人物の一人は少佐、一人は中佐と、いずれも軍人の肩書をおびていることは、このような孤独を生み出す機構が、かならず戦争と結びついて行くことを意味している。 (4・20)    ただ思いつきだけの、もしくは他人の思いつきを自分の思いつきにすりかえているだけの、そこからなにひとつ自分のものが発展するはずのない、自分自身ですらまったく信用を置いていない、脆弱で、傲慢な、粗雑で、感傷的な言葉で、自分自身を語ることにもはやあきあきした。そしてこのような言葉によって、僕自身を何か不当に誤解している(正当な誤解は避けられないことであり、あるいみでは誠実さの限界を示すものであるが)人たちのことを思うと耐えられない。 (7・6)    人間は孤独である時、最も他人を意識する。 (7・12)    僕自身の最終の問題であり、現在における最大の関心であるもの——すなわち過去においても、現在においても、また未来においても、僕のただ一つの問題は、僕自身の生きる根拠ということである。  それはまず第一に、僕が生きていることに一体根拠というものがあるのか、ないのかということであり、もし根拠があるとすれば(あるとすれば!)どのような根拠かということである。  生命力が生きるための根拠であるような時期は、そう長いものではない。また、生命力が涸渇して行くにつれて、生きる根拠が失なわれて行くという考え方に、僕は耐えることができない。  他人、もしくは人間一般が何を根拠にして生きているかということは、僕自身には全く関係のない問題である。僕はただ、僕自身の生きる根拠をはっきり知りたいのだ。 (8・3)    根拠があるのか、ないのかを知ることが問題だといういい方をしたが、それは正確ではない。あるのか、ないのかといったいい方では、この苦悩は説明できない。  そうではない。根拠がなくてはこまるのだ。それにもかかわらず、僕自身の内部のどこをさがして見ても、究極の根拠を見いだせないということが問題なのだ。これは決してぜいたくな疑問ではない。これが答えられなければ、明日といわず、今日すぐにでも僕は困窮してしまうのだ。 (8・3)    「キリストによる明確な救いを経験したものであること」。これは、あるキリスト者のゼミナールの参加資格の最初にかかげられてあった言葉である。この〈条件〉は現在の僕自身にとって、ショッキングなものである。 (8・4)    Nihil Admirali——倦怠、疲労、そして無関心、無感動——これが、生きる根拠というものを失った僕自身の危機的な症状である。睡眠が充ちたりており、僅かに健康に恵まれている場合でも、事態はけっして変るものではない。 (8・4)    帰還直後の、混乱してはいたが、生き生きと危機に膚接していた時期を、僕は尊重する。 (8・4)    このとき、己れの絶望を中断して、まず「聞く」ということ、まず「耳をかたむける」ということが始まらねばならぬ。 (8・4)    われわれの生きているこの世界からは、意味というものは窮極的に失なわれてしまっているのだ、と僕は告げられる。しかし、このような認識が始まるのは、意味が窮極的に回復された場所においてでなくてはならない。実に復活した者のみが、真に生き生きと死を語りうる。もはや意味が失なわれている世界の中で、「意味が失なわれている」という認識は、本来始まりようのないものなのだ。 (8・4)    同様にして、もはや死んで行くよりほかなくなった者、死者としてすでに先取りされた者に、死についての認識が始まりようはない。 (8・4)    故に、「意味が失なわれている」という言葉を聞くときほど、僕らにとって奇妙な瞬間はないのだ。 (8・4)    故に、「意味が失なわれている」という認識は、本来、僕らには永久に始まるはずのないものである。しかも僕らが、「意味が失なわれている」という不安に絶えず悩まなければならないのはなぜか。ここでは、二つの認識が互いに堂々めぐりをしあっており、いずれの発想も、他の発想の根拠とはなりえない。しかし、おそらくはこういうことがいえるであろう。すなわち、「意味が失なわれている」という認識は、すでにこの世のものではないということであり、また、「意味が失なわれている」という認識は、それなりのものとして安定した内容を拒まれているということである。 (8・4)    にもかかわらず、私たちの間に、この「意味が失なわれている」ことへの切実な不安(認識への不安)が存在しているというのであれば、それは、私たちにとってすでに終末が始まっているということではないか。 (8・8)    終末をまちのぞむ姿勢とは、ととのえられた身がまえといったものではないだろう。それは当然、人間の破綻を踏まえたものとなるはずである。呻く者の姿勢とは、そのようなものではないか。にもかかわらず、人間としての自己の破綻を語ることが、一種の美徳とされ、破綻に悩むことが、「このましい」キリスト教的なしつけと見なされるようなムードの中に僕らはいないだろうか。 (8・29)    裸にならなければならないということは、無限に理性的にならなければならないということである。 (9・4)    「何が自分自身の問題か」を自分自身に対してはっきりさせること。生きるということは、いわば自分の問題を自覚することである。 (9・11)    僕はいつも〈序論〉ばかり書いている、ということだ。 (9・15) 一九六二年  ひとつのことだけが、かろうじて僕にはっきりしている。つまり、真剣にならなければいけない、とか、なにか一生懸命に考えなければならないとかいうような、一種の義務感や当為で、今から動き出すのでは、もうだめだということである。ただ、このままでいたら、もうおしまいだという恐怖だけが、僕をこの場所から動かすのではないかということだ。  しかし問題は、このままで、とはいつまでなのか、おしまいとは、いつがおしまいなのかということである。このように考えると、いつもきまって、それは今だ、という答えがはねかえって来る。だが、この〈今〉という言葉にぶつかるやいなや、僕は〈今〉のそばをはやくもすりぬけてしまい、僕はあくまで〈今〉から疎外されてしまうのである。 (4・24)    僕にとって、およそ生涯の事件といえるものは、一九四九年から五〇年へかけての一年余のあいだに、悉く起ってしまったといえる。そしてこの一年によって、生涯の重さが決定してしまったと考えるとき、僕の人生は頽廃せざるをえない。現にそのようにして、僕自身の生活は頽廃しつつある。なにゆえに頽廃するのか。それは現在の僕自身のどのような行動も、なにひとつこの重さにつけ加えることができないからである。さらに、これらの事件が全く僕ひとりの事件であり、その体験は全くその位置で固定し、およそいかなる展開も持たず、またいかなる連帯をも保障することがないからである。 *  頽廃と風化は、すでにどうにもならない所ではじまっている。今日、僕は雨の中をただ歩きまわった。目的がないということが、いかに今、自分の姿にふさわしいことか。 *  倫理的であるということは、倫理的に固定しているということは、すでにそれだけ頽廃しているということである。 *  疲労はつねにその一端からはじまって、他の一端へ向けて進行するとはかぎらない。ときに、その両端から同時にはじまって、中心に向けて進行することがあり、時に、その中心から両端へ向けて同時に進行することがある。また時には、その全体が深い疲労のなかへ一挙に陥没することがある。 *  現在の僕自身をささえるうえで、拒絶はさらに必要である。拒絶することによってしか、僕は、僕自身の輪郭を明瞭にできないのかもしれない。  現在の僕にとって、拒絶ということは、ひとつの感動を含んでいる。今も昔も、僕が僕自身の位置を発見し、やがて自分自身に熱中しはじめるのは、この地点からなのだ。この地点をうしなうとき、僕は自分自身を見うしなってうらぶれる。 *  あるとき、僕がいつのまにか、拒絶の姿勢をうしなっていることに気づき、大きな衝撃を受ける。その時僕にとって、世界は一時に明瞭になる。僕はひとつの感動をこめて、世界をもういちど拒絶するのだ。 一九六三年以後のノートから  体験とは、一度耐え切って終るものではない。くりかえし耐え直さなければならないものだ。 *  耐えるとは、〈なにかあるもの〉に耐えることではない。〈なにもないこと〉に耐えることだ。 *  死だけではない。生きること自体が人間にとって不自然である。 *  やさしさとは、やさしさに埋没することではない。拒むことのできるやさしさ、おしかえすことのできるやさしさこそ重要なのだ。 *  自由は〈強制〉できない。それは自由の自己矛盾である。 *  「決定された」ということは、事実上過去だけがあって、未来がないということだ。したがって私には未来がない。 *  怒りを〈組織〉してはならぬ。 *  ちからづよい孤独の意識。世界が荒廃した直後に、しっかりと一人で立てる思想。私が求めるものはまさにそれだ。 *  人間はほとんど無造作に死ぬ。無造作に死ぬことがほとんど信じられない人間の目の前で。それが、ほとんど確かな事実なのだ。 *  Minder Licht ! *  男が男と陰湿に憎みあった時期を、私は生涯忘れないだろう。それは恥辱そのものである。 *  〈対話〉の場でも、まもることのできる孤独。 *  もしそれが未来というものであるなら、その時ほど鮮明に未来をもったときはなかったはずだ。今私は、その未来の形骸を生きているのである。 *  私は告発しない。ただ自分の〈位置〉に立つ。 *  屍臭と体臭との同在。 *  荒廃はただ己れの責任である。荒廃の中心に己れ自身を据えよ。 *  〈問題〉は逃げられるだけ逃げるがいい。それでも問題は迫ってくる。 *  自然な死ほどおそろしいものはない。不自然な死ほど自然なのだ。 *  人間は〈裁き〉のもとにおいてのみ、人間である機会をもつ、不完全な裁きのもとにおいてすらそうである。しかし、裁く側は本来〈非人間〉である。それは、人間以上の地位をあえて占めることによって、人間以下となる。裁きの場においては、つねに裁かれるもののみが、人間の名に値する位置をたもつ。ただしそれは、沈黙して裁きに服する時にかぎる。 *  一人の思想は、一人の幅で迎えられることを欲する。不特定多数への語りかけは、すでに思想ではない。 *  一人の個人が、意志的な単独者へと自己を止揚するとき、その単独者に向きあうもの、それが敵である。 *  大量殺戮への途が発見されたとき、ただ一人の人間へ到る途も発見されたはずだ。 *  理解しあい、手をにぎりあうことだけが連帯なのではない。にくみあい、ころしあうこともまた連帯である。決定的なかかわりあいであることにおいて、私はそのあいだに、どのような相異も見いだすことはできない。 *  今は攻撃することによってしか、自己を表現しえない時代である。それが平和ということである。そして奇妙なことに、戦争の時期に私たちは、禁欲的なまでに自己を表現しなかった。 *  いずれにしても、集団をにくむものは、集団の指導者を単独に殺害するか、集団のなかで自殺するか、あるいはみずから疎外して、凝縮するしかない。 *  自由は、完ぺきな個人の次元で確認すべきものである。 *  〈みずからに禁じた一行〉とは、告発の一行である。その一行を切りおとすことによって、私は詩の一行を獲得した。その一行を切りおとすことによって、私の詩はつねに断定に終ることになった。いわば告発の一歩手前へふみとどまることによって、断定を獲得したのである。 *  承認したということは、いまもなお承認しないということであり、しかも、その先へは一歩も踏み出さぬことである。いわばこの屹立の姿勢こそが、私にとって〈詩〉ということであったのだ。 *  行動の断念としての明晰さ。 *  〈アイヒマンの孤独〉を追求すること。イスラエルの法廷に立つアイヒマンの沈黙。 *  断絶するまえに拒絶せよ。 *  沈黙するためには、ことばが必要である。 *  あるいみでは、読者を拒むということが、詩人の基本的な姿勢である。 *  民主主義の根元をささえるものは人間不信である。 *  通過儀礼について。 *  日常は本来脱出不可能なものである。といって、腰を据えるには到底耐えうるものではない。 *  詩とは〈沈黙するための言葉〉の秩序である。 *  まず連帯とは、〈すでに失われたもの〉であるという認識から出発しなければならない。そして、失われたものの回復は、一人の人間から始まり、一人の人間で終る。 *  優先すべきものを決定するまえに、優先するものがすでに来ているという状況。つまり、自己が自己として自立する瞬間が、永遠に来ない状況。さいわいなことに、私はこの状況からはっきり逃れている。立ち去ることだけが、自立への保証なのだ。 *  もし私が何ごとかに賭けなければならないのであれば、私は人間の〈やさしさ〉にこそ賭ける。 *  「塔が塔であるかぎり、それはいつも未完である」 マグダ・レベツ・アレクサンダー *  拒絶ということには、ひとつの感動が含まれており、感動ということには、ひとつの拒絶が含まれている。 *  私の体験のなかには、思想化されること、一般化され、体系化されることをはげしく拒む部分があり、それが私の発想のもっとも生き生きした部分を形成しているのだ。 *  ひとと共同でささえあう思想、ひとりの肩でついにささえ切れぬ思想、そして一人がついに脱落しても、なにごともなくささえつづけられて行く思想。おおよそそのような思想が私に、なんのかかわりがあるか。 初稿掲載紙誌一覧 ㈵ 確認されない死のなかで 現代詩手帖一九六九年二月号 ある〈共生〉の経験から 思想の科学一九六九年三月号 ペシミストの勇気について 思想の科学一九七〇年四月号 オギーダ 都市一九七〇年第三号 沈黙と失語 展望一九七〇年九月号 強制された日常から 婦人公論一九七〇年十月号 終りの未知 展望一九七一年四月号 望郷と海 展望一九七一年八月号 弱者の正義 展望一九七二年八月号 ㈼ 沈黙するための言葉 ルネッサンス・リビュー(広島)一九七〇年第二号 不思議な場面で立ちどまること 現代詩作詩講座(一)(現代教養文庫)一九七〇年七月三〇日刊 『邂逅』について 日本読書新聞一九七〇年六月二二日号 棒をのんだ話 現代詩手帖一九六五年八月号 肉親へあてた手紙 石原吉郎詩集(現代詩文庫)一九六九年八月一五日刊 ㈽ 一九五六年から一九五八年までのノートから 日常への強制(構造社)一九七〇年一二月二五日刊 一九五九年から一九六二年までのノートから 石原吉郎詩集(現代詩文庫)一九六九年八月一五日刊 一九六三年以後のノートから 日常への強制(構造社)一九七〇年一二月二五日刊 石原吉郎 (いしはら・よしろう) 一九一五年、静岡に生まれる。東京外国語大学卒業。一九三九年応召、一九四五年以後、シベリア各地の強制収容所を転々とする。一九五三年、特赦により帰還。詩作を始める。一九七七年歿。その作品は『石原吉郎全集』全3巻(花神社)にまとめられている。 本作品は一九七二年一二月、筑摩書房より刊行され、一九九〇年十二月、ちくま文庫に収録、一九九七年八月、ちくま学芸文庫に収録された。 なお、電子化にあたり解説は割愛した。 望郷と海 -------------------------------------------------------------------------------- 2002年1月25日 初版発行 著者 石原吉郎(いしはら・よしろう) 発行者 菊池明郎 発行所 株式会社筑摩書房 〒111-8755 東京都台東区蔵前2-5-3 (C) MINORU TANAKA 2002