[#表紙(表紙.jpg)] ケータイ小説は文学か 石原千秋 目 次  はじめに[#「はじめに」はゴシック体]  1 ケータイ小説と文学[#「1 ケータイ小説と文学」はゴシック体]   僕の「文芸時評」   「作者の意図」と「近代文学の終焉《しゆうえん》」   ケータイ小説は文学ですか?   ケータイ小説は一時の流行ですか、それとも定着しますか?   ケータイ小説はケータイで読むべきか  2 ケータイ小説とリアリティー[#「2 ケータイ小説とリアリティー」はゴシック体]   ケータイ小説が文学の入り口になってくれればいい   「少女性」という商品   リアルとリアリティー   リアルがすべて   繭《まゆ》を紡《つむ》ぐ蚕のように  3 「新しい国語教科書」のモラル?[#「3 「新しい国語教科書」のモラル?」はゴシック体]   荒唐無稽《こうとうむけい》な物語   二項《にこう》対立の構造   坪内逍遙《つぼうちしようよう》に叱《しか》られそう  4 何が少女をそうさせたのか[#「4 何が少女をそうさせたのか」はゴシック体]   「実話をもとにしたフィクション」とは何か   「素直《すなお》になっていれば、後悔《こうかい》はしなかった」   作られた「本当」の気持ち   なぜ「素直」になれなかったのか   与《あた》えられた「好き」   気分としての「好き」  5 男たちの中の少女[#「5 男たちの中の少女」はゴシック体]   恋《こい》は必ず「誤配」される   反転する「誤配」   ホモソーシャル   社会が個人を規定する   汚《きたな》い自分   またしても「誤配」から始まる   小さい胸  6 ポスト=ポスト・モダンとしてのケータイ小説[#「6 ポスト=ポスト・モダンとしてのケータイ小説」はゴシック体]   ケータイ小説のセックスは軽いか   それでも軽く見えるのはなぜか  あとがき[#「あとがき」はゴシック体] [#改ページ] ————————————————————————————  はじめに ————————————————————————————  いま、僕は『産経新聞』に毎月「文芸時評」を書いている。昨年(2007年)12月の「文芸時評」で、ケータイ小説そのものではなく、ケータイ小説について語った鼎談《ていだん》に触《ふ》れたところ、何を勘違《かんちが》いされたのか、1月になってから立て続けに海外メディアの取材を受けた。アメリカの新聞「ニューヨーク・タイムズ」、全国ネット・テレビの「CBS」、そしてフランス政府が後押《あとお》しをしている国際ニュース専門のテレビ局「FRANCE 24」。後の二つは、「ニューヨーク・タイムズ」が大々的にケータイ小説特集を組んだのに触発《しよくはつ》されたものらしかった。  海外メディアというのがミソで、たぶん「早稲田《わせだ》大学教授」という肩書《かたが》きがほしかっただけではないかと思っている。「ニューヨーク・タイムズ」では、僕はケータイ小説の研究者にされてしまっていたので、その勘違いもあっただろうが、肩書きで「権威《けんい》づけ」をしようと考えもしたのだろう。国内のメディアだったら僕よりもっとふさわしい人を取材したはずである。たとえば、先の鼎談に参加した人の方が適切な人選だったことは明らかなのだから。  僕はと言えば、取材を引き受けてから紀伊國屋《きのくにや》書店新宿本店に走って、ケータイ小説の棚《たな》があるのに驚《おどろ》いてしまったくらい、ケータイ小説について無知だった。しかも、どれが売れているのかさえわからない。しかたがないので、書店員さんに「いま売れているのを何冊か見繕《みつくろ》ってください」なんて頼《たの》んで、ケータイ小説を二袋分買ってきて慌《あわ》てて読んで、あとはネットでほんの少し情報を仕入れて取材に臨《のぞ》んだ。いつものことだが、我ながら軽薄《けいはく》すぎるとは思った。しかし、「ケータイ小説現象」を不思議に思っている記者から取材を受けたことは貴重な体験になった。そして、ケータイ小説についてちょっと考えておこう、いや考えておかなければならないと思った。  それぞれの記者は、僕に取材をする前にかなりの取材を終えていて、情報をたくさん持っていた。そして、ケータイ小説作家にもすでに取材をしていた。こういう場合、記者はすでに記事や番組の構成をほぼ決めていて、僕はその最終的な権威づけのための仕掛《しか》けとして動員されるだけにすぎないことが多い。だから、決まりかかっている構成をかき乱さないように、それまでの取材の内容をほどよく整理して聞かせてくれた。その話から僕が得た情報は、実に興味深いものだった。  取材で聞かれたこと、言われたことは、ほぼ決まっていた。「ケータイ小説は文学ですか?」、「ケータイ小説は一時の流行ですか、それとも定着しますか?」、「ケータイ小説作家は、ケータイ小説が文学の入り口になってくれればいいと言っています」と。実際にケータイ小説を読んだ記者も、ケータイ小説をどう位置づけたらいいのか、実は迷っている風だった。結局は、どの記事や番組も「紹介《しようかい》」の域を出ないようだった。  僕はどの取材でも結構たくさん話したが、話しているうちに、ケータイ小説の向こう側に現在の文学が浮《う》かび上《あ》がってくるような感じがしてきた。そもそも何かの質を問うときには、別の何かと比べるのが手っ取り早い。ケータイ小説は、いまその書き手にとってさえ「文学」とはっきり言い切れない「別の何か」というポジションにあるようだ。その「別の何か」について語れば、それは現代の文学について語ったことになるはずだ。  もっとも、ケータイ小説はすでにピークを過ぎたようだ。書籍《しよせき》版の売り上げが昨年末|頃《ころ》から急激に落ちていると言う(「朝日新聞 be」2008・3・22)。皮肉なことに、その頃からケータイ小説に触れる記事や論文や書籍が目立つようになってきた。ピークを過ぎた頃に話題になるのはメディアではよくあることだから不思議ではないが、先の新聞記事によれば、2006年12月から2007年11月までの期間では、書籍化されたケータイ小説が「文芸書ベストセラー」の上位3位までを独占《どくせん》していたのだから、このズレ方は尋常《じんじよう》ではない。「文芸書ベストセラー」に組《く》み込《こ》まれていながら、同時に文学にとって「別の何か」であるようなポジション。いま文学の境界線上にあるケータイ小説。だからこそ、ケータイ小説について考えておく意義があると思う。  この本はちくまプリマー新書にしては珍《めずら》しくヨコ組みにしてもらった。ケータイ小説からの引用文に「ケータイ小説テイスト」を生かすためである。かつて水村美苗《みずむらみなえ》という作家が『私小説』(新潮社、1995・9)というタイトルの小説をヨコ組みにしていた。日本文学の伝統である「私小説」というジャンルとヨコ組みとをセットにすることで、文学を攪乱《かくらん》しようとしたのだ。ケータイ小説はそれをいとも軽々とやってのけたのである。 [#改ページ] ————————————————————————————  1 ケータイ小説と文学 ————————————————————————————  僕の「文芸時評」[#「僕の「文芸時評」」はゴシック体] 『産経新聞』の「文芸時評」(正確には1月号の文芸誌に触《ふ》れた「時評 文芸」2007・12・23)では、僕はこんな風に書いた。文体がちょっと硬《かた》いが、読んでみてほしい。       *  フランス語では「エクリヴァン」(作家)という単語には大変な敬意が込《こ》められているのだと習ったのは、もう30年以上も前だ。なるほどそういう国だから「これからの文学批評は、作者ではなく読者を相手にする時代だ」と説いたロラン・バルトの批評「作者の死」が書かれたのだと納得《なつとく》したのは、もう少し後の話である。  今月の文芸誌では、中村航・鈴木謙介《すずきけんすけ》・草野|亜紀夫《あきお》による鼎談《ていだん》「ケータイ小説は「作家」を殺すか」(文学界)が最も刺激的《しげきてき》だった。『恋空《こいぞら》』に代表されるケータイ小説は、「浪花節《なにわぶし》」であり「演歌」であり「大衆芸能」であると言う。つまり、それほど種類の多くない「物語」から成っているということだ。しかし、それがかくも多くのヒットを生み出したのは、TSUTAYA での販売《はんばい》に力を入れたということだけではなく、「「実話を基《もと》にした」というスタイル」を採っているからで、そのスタイルが「リアリティー」を保証しているからだとも言う。ごくふつうの若者(女性の方が多いらしい)だからこそ、彼女《かのじよ》たちの書きたいものがそのまま読者の「ニーズ」だったのだろう。  一昔前に、「ハーレクイン・ロマンス」というイギリス生まれの「小説」のシリーズが大ヒットしたことがあった。これは出版社があらかじめマーケティングをして、それをもとに「小説」の骨格を決めて、後はフリーのライターに書かせたものだった。小説が読者のニーズに応《こた》えるのではなく、読者のニーズが小説を作ったわけで、「作者」はこの時一度死んでいたのである。しかし、「ケータイ小説」は「作者」を殺してはいない。たしかに「作者という権威《けんい》」は殺したが、多くの無名の「作家」を誕生させた。「ケータイ小説」がジャンルとして確立すれば、一人の権威ある「作家」が小説を書き続ける時代から、多くの無名の「作家」が生涯《しようがい》に一度だけ小説を書く時代がやってくるかもしれない。それは「作者の死」だろうか。  この鼎談と遠く響《ひび》き合《あ》うのが伊藤氏貴《いとううじたか》「「文学の終焉《しゆうえん》」の終焉」(群像)である。伊藤は「文学の終焉」の論点を、「商品価値の逓減《ていげん》」「社会的価値の下落」「政治的|影響力《えいきようりよく》の低下」の3点だとしている。これは「純文学」に関する議論であって、あたかも「エクリヴァン」のことを語っているかのように見えてしまう。そして、もっと俯瞰的《ふかんてき》な視点から見れば「内面の消失」も「文学の終焉」論と深く関《かか》わっていると言う。そこで僕ははたと膝《ひざ》を叩《たた》いた。これら「近代文学」が持っていた属性をすべて反転させると「ケータイ小説」が生まれるのではないだろうか。「ケータイ小説」を「近代文学の終焉」の一つの里程標と見るか、それとも新しいジャンルの誕生と見るかによって、日本の「現代文学」はずいぶん違《ちが》ってくるだろう。       * 「作者の意図」と「近代文学の終焉」[#「「作者の意図」と「近代文学の終焉」」はゴシック体]  この「文芸時評」には、はじめと終わりの段落に関して、注釈《ちゆうしやく》がいるかもしれない。  フランスの批評家ロラン=バルトは、まだ「作者」が社会的にも大きな権威を持っていた時代に、批評が「作者」に言及《げんきゆう》すればすむ時代は終わって、これからは「読者」の時代だと宣言《せんげん》した。考えてみれば、「作者の意図」は作品を読んでもわかるはずはない。もちろん「作者の意図」がわかったと思うのは勝手だが、それは厳密には読者が抱《いだ》いた幻想《げんそう》にすぎない。いまこれくらいのことがわからなければ、よほど時代|遅《おく》れな人か、ものをきちんと考えたことのない人だろう。  それに「作者の意図」は常に「文学的な意図」に限られる。昭和初期の小林|秀雄《ひでお》のように、借金を返すという「生活上の意図」があって懸賞《けんしよう》論文「様々なる意匠《いしよう》」を書いたことがはっきりしている場合でも、当時日本で台頭してきたマルクス主義文学への批判という「文学的な意図」だけを「作者の意図」とするお約束になっている。つまり、「作者の意図」とは文学上のお約束なのである。  それに、言葉をどのレベルで扱《あつか》うのかという問題もある。たとえば、日本語を習い始めた幼児が「この町」と書いたとしよう。そして、この幼児は単に「自分の住む町」という意味で、大人の使っている言葉をまねて書いただけだとしよう。そういうことは、現実にいくらでもある。しかし、この「この町」という言葉を日本語の海の中に浮《う》かべてみれば、すぐさま「あの町」や「その町」と対比することができる。そこに比較《ひかく》という観点が導入されるのである。いや、「あの町」や「その町」と対比しなければ、ほかならぬ「この町」という言い方は日本語として十分な意味を持たないはずなのである。「あの町」や「その町」という言葉をかの幼児が知らなかったとしても、「この町」という言葉は常に他の日本語と比べられることでより豊かな言葉になる。これは、幼児の「作者の意図」を無視して、日本語を完全に使える人という理想的な「読者」として言葉を読む立場である。  こういう言葉の扱い方から「テクスト論」という立場が生まれた。「テクスト論」は「作者」を括弧《かつこ》に括《くく》り込《こ》む。つまり、「作者の意図」があることは知っていても、それを無視する。そうすることで、文学をより豊かに、そして多様に読もうとする。日本では1980年代に最も流行した立場だが、僕はいまでも頑固《がんこ》に「テクスト論」の立場を守っている。研究上のトレンドはどんどん変わっていくから、「逃《に》げ遅《おく》れたテクスト論者」というのが、僕の自己認識だ。  伊藤氏貴の言う「文学の終焉」とは、批評家の柄谷行人《からたにこうじん》の『近代文学の終り』(インスクリプト、2005・11)を強く意識している。この本で柄谷行人は、日本で高度消費社会がはじまり、ポスト・モダンと言われた1980年代にもう近代文学は終わっていたと宣言してしまった。柄谷行人の批評が出る以前からこういう議論はあったが、批評としての影響力という点では柄谷にかなう者はいない。伊藤氏貴はそうした「近代文学の終焉」論の論点を「商品価値の逓減」、「社会的価値の下落」、「政治的影響力の低下」の三点にまとめた。さらに、「内面の消失」を論点に加えた。近代文学は、売れなくなって、社会的な価値も低くなって、政治的な影響力も失って、さらに人間の内面も書けなくなったというわけだ。  僕は、ケータイ小説とは「商品価値」、「社会的価値」、「政治的影響力」とは全く無縁《むえん》なところに成立した文学ではないかと言いたかったのだ。たしかに、これら三つの価値が近代文学を特徴《とくちよう》づけていた。近代文学は何らかの形で社会をリードしてきたのである。だから、これら三つの特徴を失えば、近代文学は「近代文学の終焉」と言われてもしかたがないのかもしれない。しかし、そのナイナイづくしの地点にも文学は可能ではないかと言いたかったのだ。ただ、ケータイ小説には、伊藤氏貴が最後に付け加えた「内面の消失」だけは当てはまらない。むしろ、最近のケータイ小説は「内面だけ」という様相を呈《てい》している。その意味では、僕の「文芸時評」はちょっと不用意だったかもしれない。  では、「内面」だけが書かれた小説は「近代小説」と呼ばれる価値があるのだろうか。あるいは、「内面だけ」の小説はどのように可能なのだろうか。この本は、こういう問いの周りを巡《めぐ》り続《つづ》けるだろう。  ケータイ小説は文学ですか?[#「ケータイ小説は文学ですか?」はゴシック体]  僕は、こういう問いや言葉には、だいたい次のように答えた。もっとも、そのほとんどはカットされてしまって、記事にもなっていないし、放映されてもいない(「FRANCE 24」の放映は確認していないが、たぶん同じようなものだったろう)。 「ケータイ小説は「文学」か」という議論はほとんど無意味ではないだろうか。自ら「小説」と名乗って「小説」に似せて書かれている以上は、そしてすでに書店で書籍《しよせき》の形で売られている状況《じようきよう》を考えれば、「文学」としか言いようがないだろう。「二〇〇七年の文芸書年間ベスト五位のうち、四点までがケータイ小説だった」という統計結果の括《くく》り方《かた》が多くのメディアで流通している現実は、すでに社会がケータイ小説を「文学」と認めたことをよく示している。「ケータイ小説などは文学ではない」と感じるのは、好みの問題か差別の問題だ。  そもそも、「文学とは何か」という定義はできない。(厳密に言えば、あらゆるものは定義などできない。具体例が、必ず定義を裏切るからだ。)かつて文学を「言葉の芸術」と呼んだ批評家がいたが、せいぜいそこまでだろう。あとは、その時代にその社会が文学と認めたものが文学なのである。ケータイ小説も言葉で書かれている以上、社会が認めれば文学である。だから、いま僕たちに許されているのは、「ケータイ小説とはどのような文学か?」という問いかけだけであって、「ケータイ小説は文学ではない」という言い方は許されていないと思う。  もっとも、「社会が認めた」という言い方は、ケータイ小説に関しては微妙《びみよう》だ。たしかに、出版業界はケータイ小説を文学として扱ってはいる。そして、多くのメディアはそれを受けてケータイ小説に関するデータを報じている。しかし、社会を構成する多くの読者がケータイ小説を文学と認めているとまでは言えないのではないだろうか。それが「まだ認めていない」のか、「ずっと認めない」のかはいまの時点ではわからない。それに、書籍の形になったケータイ小説はすでに文学として扱われていても、ケータイで読まれるケータイ小説を文学として捉《とら》えているかどうか。ケータイ小説を論じる本も、「ケータイ小説は、ケータイの画面ではこんなにスカスカですよ」と、紹介《しようかい》している。これは、ケータイのディスプレイで読むケータイ小説を、文学だと「認める」以前のやり方だろう。だからこそ、いま「ケータイ小説とはどのような文学か?」という問いの持つ意味は重い。  ケータイ小説は一時の流行ですか、それとも定着しますか?[#「ケータイ小説は一時の流行ですか、それとも定着しますか?」はゴシック体]  この答えは簡単だ。ケータイ小説はケータイというツールによって生み出された文学である。かつて印刷技術の革新によって近代小説が生み出されたのと比べるのは大袈裟《おおげさ》かもしれないが、技術が生んだ新しいジャンルだとは言えるだろう。いまではケータイを使わずに書かれたケータイ小説も増えてきたと言う。それはケータイ小説というジャンルが確立した証拠《しようこ》でもあるし、ケータイ小説というジャンルが拡散していく過程でもある。ケータイ小説は、特に BOOK 機能(小説執筆機能)に依存《いそん》している。だから、ケータイにもっと面白《おもしろ》い別の機能が付加されれば、ケータイ小説作家はただのケータイのユーザーとなって、そちらの機能にどっと流れていってしまうだろう。  ここで、取材時では気がつかなかったことを付け加えておこう。  ごく最近、『國文學《こくぶんがく》』(2008・4)という雑誌が、「ケータイ世界」というケータイ小説を中心とした特集を組んだ。その中にこういう意見があった。 [#1字下げ] したがって、ケータイ小説はケータイで読まなくてはならない。ケータイ小説が、昨今書籍として出版されているが、書籍『恋空』には改行もなく、紙も再生紙色、印字は当然黒、ページが広く、そこに桜色に閉じこめられた原版の世界はない。書籍版のケータイ小説はもはやケータイ小説ではない。 [#地付き](田中久美子「ケータイ小説の表現は貧しいか」) [#ここで字下げ終わり]  誤解のないように言っておけば、田中久美子は論文全体では、日本語は現在の「ケータイでの読み書き」には向かないのでどうしても語彙《ごい》が貧しくなってしまうが、技術革新によって日本発の新しい「世界的文芸」が生まれるかもしれないと、ケータイ小説に可能性を見ている。また、冒頭《ぼうとう》に「したがって」とあるのは、ケータイ小説を書く作業を検証し、空白が多い画面には読者が「追体験」する間《ま》があると分析《ぶんせき》した結果である。それはそれで一定の説得力を持つ。しかし、この短い引用の中にさえ、ずいぶんおかしなことが書いてある。はっきり言って、ずいぶんお粗末《そまつ》な文章である。  まず、「書籍『恋空』には改行もなく」とは、まったく意味不明である。これを文字通りに読めば、書籍版『恋空』ははじめから終わりまでが一段落の小説ということになる。そんなことはない。もちろん、書籍版『恋空』には改行がたくさんある。田中久美子の文章の全体から推測するに、おそらく「書籍版『恋空』には、ケータイの画面と同じようなたくさんの改行はなく」という意味なのだろう。  次に、「紙も再生紙色」が意味不明である。田中久美子は、100パーセントピュアパルプの真っ白な紙だけがふつうの紙だと思っているのだろうか。むしろ、書籍はふつうややクリームがかった色の用紙を使う。書籍版『恋空』も書籍としては一般的《いつぱんてき》な用紙(あえて言えば、書籍としてはかなりしっかりした高級な用紙で、決して「再生紙色」ではない)を使っているにすぎない。それを「再生紙色」と表現してしまうこの人は、ほかの「書籍」を見たことがあるのだろうか。田中久美子の文章の全体から推測するに、ここは「本文の用紙の色は、内容に合わせて工夫《くふう》されたケータイのディスプレイの色使いとは異なってしまう」と言いたいのだろう。  さらに、「印字は当然黒」が微妙だ。これは決して「当然」ではないだろう。なぜなら、たとえば『赤い糸』は赤で印刷されているからである。(ちなみに、出版物ではふつう「印刷」と言う。まあ、文字の色を強調したかったのだろう。)ついでに言えば、文脈からして「印字は当然黒」のあとの「、」は「。」であるべきだろう。ここは、「黒い活字では、ケータイのディスプレイの印象と変わってしまう」と言いたいのだろう。どうやら、「表現が貧しい」のは田中久美子自身のようだ。  ケータイ小説はケータイで読むべきか[#「ケータイ小説はケータイで読むべきか」はゴシック体]  なぜこんな意地悪なことを言いつのっているのかと言えば、田中久美子が文学に関してはド素人《しろうと》だろうと思われるからである。そして、その点をとりあえず批判的に捉えることで、ケータイ小説の輪郭《りんかく》がはっきりしてくると考えるからである。先の引用で最もおかしいのは、言うまでもなく「ケータイ小説はケータイで読まなくてはならない」、「書籍版のケータイ小説はもはやケータイ小説ではない」という、同じ意味のことを述べている二つの文章だ。吉田|悟美一《さとび》『ケータイ小説がウケる理由』(マイコミ新書、2008・2)も「紙に印刷された時点で、もはやケータイ小説ではなくなっています」と述べている。  ケータイ小説はケータイの画面で読むのと書籍版で読むのとではイメージが違う、というところまではわかる。しかし、ケータイの画面で読まなければならないとなると、話のレベルが違ってくる。こういう「ケータイ画面原理主義」は、ケータイ小説をケータイの中に閉じこめる。それに、ケータイ小説というジャンルの意味がわかっていないのである。いや、わかっているのかもしれない。ケータイ小説というジャンルの意味について考えてみよう。  こういう初出原理主義(?)を押《お》し通《とお》すなら、たとえば「文庫」という出版形態は全面的に否定しなければならないだろう。出版物が文庫に到《いた》るまでには、多くの場合二つの版を経過している。まず、雑誌などにはじめて活字として発表される「初出」、次にそれを単行本にした「初版」、そしてふつうはさらにそれを文庫にするのである。もちろん、初出と初版はずいぶんイメージは異なるし、文庫となればさらにイメージは異なる。だから、「文学作品は初出で読むべきだ」という研究者もいる。「初出」でなければわからない情報があるのも事実だ。しかし、それは研究上の話である。一般読者の享受《きようじゆ》を考えれば、文庫を否定することはできない。  たとえば、最近|芥川賞《あくたがわしよう》を受賞した諏訪哲史《すわてつし》『アサッテの人』(講談社、2007・7)は、初出時に文芸雑誌『群像』(講談社、2007・6)に発表されたときには、様々な種類の文章をコラージュのようにつなげた手法が視覚的に楽しめたが、単行本化されたら1行が長いのでベタッとした感じになってしまって、視覚的な面白さがずいぶんそがれてしまった。それでも、『アサッテの人』は『アサッテの人』だ。だから、初出原理主義をとるなら、文庫は全面的に否定しなければならない。詩の場合などは、本の判型によって1行に収めるべきところが2行になったりすることもあるが、誰《だれ》も作品への冒涜《ぼうとく》とは言わない。  もっと言えば、原稿用紙《げんこうようし》に書いていた時代には、公にするときにはそれが活字になるのだから、形態が変わってしまうのである。それでも、好事家《こうずか》や研究者を除いては、小説は原稿で読めとは言わない。田中久美子は、ケータイというテクノロジーと印刷技術というテクノロジーには大きな違いがあるから「書籍版のケータイ小説はもはやケータイ小説ではない」と言っているのだろう。それはわからないでもない。しかし、この意見はあまりにも即物的《そくぶつてき》、唯物論的《ゆいぶつろんてき》で、ジャンルというものの意味を考慮《こうりよ》していない。  いまやケータイ小説は、産出形態から名づけられたジャンル名なのである。極端《きよくたん》なことを言えば、原稿用紙に書いたものをパソコンに入力してからアップロードしても、ケータイ小説なのである。ケータイ小説というジャンルが確立すれば、もう厳密な産出形態は問われないのである。ケータイ小説はケータイのディスプレイに表示されるプロセスがありさえすればいい。それがジャンルというものの強度だ。ケータイ小説はジャンルとしての強度を守れる限り、続くだろう。逆に言えば、ジャンルとしての強度が守れなくなったとき、消えるだろう。そこで、こういうことになる。「ケータイ小説はケータイで読まなくてはならない」という田中久美子の言葉が「ケータイ小説のジャンルとしての強度はそのようにしてしか守れない」という意味ならば、正しいと言えるということだ。  ただし、田中久美子が夢想するような日本発の新しい「世界的文芸」が生まれる可能性はたしかにあるが、それが広まる可能性はケータイ小説が世界中で書籍化されない限りあり得ないだろう。理由は単純である。ケータイを使える地域よりも、書籍が読める地域の方がはるかに広いからである。たとえば、ケータイが日本よりも普及《ふきゆう》している韓国《かんこく》にはケータイ小説はすでに輸出されているが、ケータイのインフラが整っていないフランスでは、ケータイ小説の流行はあり得ない。  したがって、結論はこうだ。ケータイ小説として書かれ、ケータイのディスプレイに表示されるプロセスを経由していれば、あとはアクセスがなかろうが、書籍版になろうが、それはケータイ小説である。つまり、書籍で読んでもケータイ小説はケータイ小説である。雑誌で読もうと、単行本で読もうと、文庫で読もうと、『博士の愛した数式』(小川洋子著・新潮文庫)は『博士の愛した数式』であるように、だ。これがジャンル内における同一性の強度である。  ケータイで読まなくてもこのジャンル内における同一性の強度が守れるなら、ケータイ小説は生き延びるだろう。つまり、「ケータイ小説」という名称《めいしよう》が、現実はどうあれ、あくまで「ケータイのディスプレイで読むための小説」という記号として機能するなら、ケータイ小説は生き延びるだろう。そう考えれば、書籍版のケータイ小説が大ベストセラーになって「ケータイ小説」という記号が大量に消費されたことは、もしかするとケータイ小説にとって不幸なことだったかもしれない。 [#改ページ] ————————————————————————————  2 ケータイ小説とリアリティー ————————————————————————————  ケータイ小説が文学の入り口になってくれればいい[#「ケータイ小説が文学の入り口になってくれればいい」はゴシック体]  ケータイ小説には、様々な批判がある。結局ポルノではないか、表現が稚拙《ちせつ》だ、リアリティーがない、語彙《ごい》が貧弱でかつ誤用が多い、パターン化しているなどなどだ。こういう批判はケータイ小説作家も意識しているようで、そこで取材を受けると「ケータイ小説が文学の入り口になってくれればいい」と言うのだろう。こういう話を聞くと、ケータイ小説作家は謙虚《けんきよ》すぎるとも思うし、傲慢《ごうまん》すぎるとも思う。  しかし、ケータイ小説の読者にも同じ意見を持っている人がいるようだ。『朝日新聞』の「声」欄(読者の投稿欄《とうこうらん》)に、18 歳《さい》の高校生がケータイ小説の欠点を指摘《してき》し、「ケータイ小説だけを読んで文学が分かったようになるのは危険なことではと思って」いるが、「ケータイ小説がきっかけで読書の楽しさを知り、いろいろな文芸作品にも興味をもつ若い人たちが増えればいいなあとも思っています」と、述べている(「ケータイ小説 読書の入り口」2008・2・10)。この投稿は「いまはケータイ小説なんかを読んでいる高校生も、そのうちホントの文学を読むように成長するから見守っててね」というエクスキューズ(いいわけ)になっている。  こういう意見には大きな錯覚《さつかく》がある。それは、ケータイ小説のジャンルとしての強度を理解していないことだ。現在、ケータイ小説はケータイ小説以上でも以下でもない。僕は前の章でケータイ小説は文学だと言った。しかし、それは形式的には文学としか言えないという意味であって、ふつうの文学として位置づけるにはまだ時間がかかるだろうし、それまでケータイ小説ブームが持つかどうかもわからない。それほどケータイ小説というジャンルの強度は強い。したがって、ケータイ小説と銘打《めいう》てば売れるのである(あるいは「売れた」のである)。  実際、ケータイ小説と同じ内容をふつうの小説として刊行したら、売れないだろう。ある種のカテゴライズが必要だったはずだ。ケータイ小説はふつうの文学とは何かが違《ちが》うからである。だから、ケータイ小説がふつうの文学の「入り口」になるという意見は、ケータイ小説をふつうの文学より低く見ているという意味で謙虚すぎるし、同時にふつうの文学の「入り口」になる程度には文学だと思っているという意味で傲慢すぎるのである。  では、ケータイ小説とはどういう文学なのだろうか。あるいは、ケータイ小説は新しい文学なのだろうか。この点について、ゲームデザイナーの米光一成《よねみつかずなり》が目配りのいいみごとな論を展開している(「ケータイ小説の新しさと古くささ」『國文學《こくぶんがく》』2008・4)。米光一成によれば、現在ケータイ小説として広く認知《にんち》されているのは、「リアル系ケータイ小説」だけだと確認した上で(米光一成はこの用語を、本田透《ほんだとおる》『なぜケータイ小説は売れるのか』〔ソフトバンク新書、2008・2〕から借りてきている)、その「リアル系ケータイ小説」には6点の特徴《とくちよう》があると言う。僕の言葉も添《そ》えて、確認しておこう。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰これはホントにあったことですよと差し出され、読者の身近にもありそうだと思わせられるような「実話テイスト」であること。  ㈪「少女の恋愛《れんあい》物語」であること。読者も10代の女性が圧倒的《あつとうてき》に多い。  ㈫「定番悲劇イベント」が組《く》み込《こ》まれていること。米光一成はそれを「いじめ、裏切り、レイプ(輪姦《りんかん》)、妊娠《にんしん》、流産、薬物、病気、恋人《こいびと》の死、自殺|未遂《みすい》、リストカット」としている。先の本田透はこれらを「七つの大罪」と分類している。それらは「売春、レイプ、妊娠、薬物、不治の病、自殺、真実の愛」である。最後の「真実の愛」は、ケータイ小説の多くが「真実の愛」に目覚めて終わることを言っている。  ㈬「ハイテンポ」であること。「定番悲劇イベント」が次から次へと少女に襲《おそ》いかかる。  ㈭「すかすか。文章が短く、改行が多用される」こと。  ㈮「社会的に正しくない」こと。これは主に日本語のまちがいや、描写《びようしや》の粗雑《そざつ》さや表現の稚拙さのことを指している。 [#ここで字下げ終わり]  しかし、これらのうち㈰から㈭までは、1966年に創刊された『小説ジュニア』掲載《けいさい》の小説にも共通するもので、ケータイ小説独特のものではないと言う。その意味では、ケータイ小説は、小説としては決して新しくはないのである。そこで、㈮のいわば「乱れた日本語を使うこと」だけが、ケータイ小説の新しさだということになる。しかし、その結果「少女が書く→少女に届く」というダイレクトな感覚が生まれた。ケータイで打ってそのままアップロードする。日本語がヘンでも、それを直す編集者という大人の感覚は入らない。大人の排除《はいじよ》によって成り立っているジャンル。それがケータイ小説だ。 「少女性」という商品[#「「少女性」という商品」はゴシック体]  米光一成は、こう結論する。 [#1字下げ] 多くの少女たちの実感や気持ちと一致《いつち》するためにめんめんと書かれ、読まれつづけてきた少女のための物語は、ケータイという大人の視線を気にせずに表現できるパブリックな場を持つことで、少女的リアルを獲得《かくとく》できた。大人が希望するように賢《かしこ》くはなく、小説的表現という制度からも解き放たれ、ディテールや社会性などに興味を示さず、大人を排除した少女的リアルを。  僕はかつてある編集者から聞いた、女性誌の編集者の言葉を思い出した。それはこういう言葉だった。「女性誌を作るには社会性はじゃまなんですよ、彼女《かのじよ》たちの関心は身の回り3メートル以内にしかないんですから」と。巷《ちまた》に溢《あふ》れる女性誌をぱらぱらめくって見れば、この言葉は事実だと実感させられるだろう。米光一成の結論は、この女性誌の編集者の言葉とピッタリ重なる。  米光一成の論文は、こうして構築されたケータイ小説がいま大人によって商品化されている現実を皮肉って終わるのだが、それは米光一成自身の文章も同じことだし、いま僕が書いているこの本も同じことである。すべての文章は商品化され得るのだから、資本主義社会でそれを言ってもしかたがないだろう。むしろ重要なことは、無限の差別化のゲームに投げ込まれた大衆消費社会が、ケータイ小説に他の小説との差異を見出しているという事実である。だからこそ、商品として自立できたのだ。これが、ケータイ小説はケータイ小説以上でも以下でもないという理由の一つだ。 「女性性」という言葉はもうすっかり定着したが、ケータイ小説の商品価値は「少女性」とでも言うべきものにある。ケータイ小説の新しさは、米光一成の言う「社会的に正しくない」という特徴によって、少女たちが書いた「少女性」がほぼダイレクトに少女自身に届いていることにある。かつての援助《えんじよ》交際やブルセラ少女がそうだったように、「少女性」を買うのは大人の男ではないのだ。ケータイというツールが「少女→少女」という閉じた関係を、大規模なスケールでパブリックにするという離《はな》れ業《わざ》をやってのけたのである。  この閉じられた巨大なループを、文学への「入り口」と言えるのだろうか。ループが小さければ、少女たちはもっとほかの文学を求めてループの外に出はじめるかもしれない。しかしこの巨大《きよだい》なループは、その大きさゆえに自足することができてしまう。ケータイ小説の読者である多くの少女は、たぶん外部への志向を持てない(あるいは「持たない」)だろう。  リアルとリアリティー[#「リアルとリアリティー」はゴシック体]  ケータイ小説に「リアリティー」はない。そこにあるのは「リアル」である。「リアル」と「リアリティー」との関係については別の本で書いたが(『大学生の論文|執筆法《しつぴつほう》』ちくま新書、2006・6)、繰《く》り返《かえ》しておこう。  日本語に訳せば、「リアル」は「現実・本物」で、「リアリティー」は「現実らしさ・本物らしさ」となる。僕たちにとって「現実(リアル)」は科学的に解明されたものとしてある。仮にいまはまだ明らかになってはいなくても、将来にかけて科学が解明できないものはないと考えられてる。したがって、いま僕たちが存在しているこの世界の全体、宇宙の果てまでが僕たちの現実となる。宇宙ロケットは何も想像の世界へ向けて飛んでいるわけではない。現実の世界へ向けて飛んでいるのだ。  しかし、「現実らしさ(リアリティー)」はそういう感覚ではない。たとえば、ジョージ・ルーカス監督《かんとく》の映画『スター・ウォーズ』の宇宙戦争が現実らしく見えること、スティーブン・スピルバーグ監督の映画『ジュラシック・パーク』に登場する恐竜《きようりゆう》たちが本物らしく見えることが、「リアリティー」の感覚だと言える。また、フィクションである小説を「ホントにあったこと」のように感じるのも、「リアリティー」の感覚である。つまり、想像の産物でしかないものに「現実らしさ」を感じるのが、「リアリティー」なのだ。  そうである以上、「リアリティー」を感じるということは、それが「本物ではない」ことがわかっているということになる。「リアル」は「本物」で、「リアリティー」は偽物《にせもの》(作られたもの)に感じる「感覚」。それが「リアル」と「リアリティー」の最大の違いだと言える。「リアル」と「リアリティー」との間には微妙《びみよう》な形ではあっても、キッチリ線が引かれているのである。 「ケータイ小説にはリアリティーがない」とよく批判される。レイプから数ページで立ち直ったり、癌《がん》に冒《おか》されているはずなのに元気だったりと、「現実らしさ」がないと批判される。ふつうの小説の感覚からいえば、その通りだろう。しかし、よく考えてみよう。「リアリティー(本物らしさ・現実らしさ)」はそれが「本物ではない・現実ではない」ことがわかっているからこそ起きる感覚だった。そこには、「小説はフィクションである」という前提がある。だからこそ、「リアリティー」を感じさせることが「作者」の腕《うで》の見せ所となるのである。その前提がケータイ小説に当てはまるだろうか。  リアルがすべて[#「リアルがすべて」はゴシック体]  ケータイ小説は、それが「現実(リアル)」であるというメッセージを読者に送っている。この本で触《ふ》れておこうと考えているいくつかのケータイ小説もそうだ。ふつうの感覚から見れば荒唐無稽《こうとうむけい》な物語となっている Yoshi『Deep Love 第一部アユの物語』の「あとがき」にはこういう一節がある。自分はこの物語を映画にしたいという願いを持っているが、もう一つ願いがあると言うのだ。 [#ここから1字下げ]  この作品を自分が主宰《しゆさい》する携帯《けいたい》サイト「ザブン」で掲載していた頃《ころ》に寄せられた、ある少女の願いを果たすことでした。「援助交際でエイズになった少女」からのメール——。少女の願いは、「この本で、私のような少女を減らして欲しい」というものでした。  今回、出版にあたり、その少女の願いに応《こた》えたいと思いました。 [#ここで字下げ終わり]  この「少女」のメールが事実かどうかはさしあたり問題ではない。問題は、そのことを「事実」として「あとがき」に書き込んでいるという一点にある。何もこれが『アユの物語』を「現実(リアル)」だと保証するわけではないし、事実そうは言ってはいない。しかしこのように書き込むことで、『アユの物語』が「現実」との接点を持つように仕組まれることはまちがいない。これを極端《きよくたん》に言えばこうなるだろう。「リアリティーはないが、リアルではある」と。事実、その後の「あとがき」はこの路線を強化する方向へ進んでいくのである。 『Deep Love 第二部ホストの物語』の「あとがき」にはこういう一節がある。 [#1字下げ] リアルな物語にするために実話をできるだけ盛り込むこと。自分の出来事のように感じてもらいたいからです。  この説明は、ふつうの論理から見れば明らかに錯綜《さくそう》している。そもそも「リアルな物語にする」という言い方自体がおかしい。「リアルな物語」はそのまま「リアルな物語」であって、そのように「する」必要なはいはずだ。そして、「自分の出来事のように感じてもらいたい」ということは、「リアリティー」を感じてもらいたいということでなければならない。つまり、「リアルにリアリティーを感じてもらいたい」と言っているのだ。先の「あとがき」とつなげるとこうなる。「リアリティーはないがリアルなので、リアリティーを感じてほしい」と。  こういう説明のおかしさを指摘したいのではない。もしかするとその程度の言語運用能力しかないのかもしれないが、この循環《じゆんかん》論法の中心に「リアル」があることの方が、ずっと重要なことだ。「リアリティーはなくてもリアルはある」、こう言っているからである。 『Deep Love 第三部レイナの運命』の冒頭《ぼうとう》にはこういう一節がある。 [#1字下げ] 『レイナの運命』を書き始める前に、ある読者のメールが自分の元に届きました。それは「自分の犯《おか》した過《あやま》ちを償《つぐな》いたい」というものでした。その思いを受けて、この本では、内容の一部をその読者の告白に基づいて構成しています。 「あとがき」には、「現実は物語より厳しい」ともある。ここまで来れば、もう言うべきことはない。「リアリティー」は問題にしていない。「リアル」だけが問題なのだ。そして、第三部までを通して、繰り返し「この本の売上金の一部は「エイズ撲滅《ぼくめつ》の基金」として寄付されること」になったと報告される。したがって、「ケータイ小説にはリアリティーがない」という批判は肩《かた》すかしを食うことになる。そこにあるのは、「リアル」だけなのだから。そこで、こういう疑問が生まれる。少なくとも Yoshi にとっては「リアル」と「リアリティー」は同じものなのではないかということだ。そうだとすれば、「リアル」でありさえすれば「リアリティー」の工夫はいらないことになる。ケータイ小説に「リアリティー」がないのは、ある意味では当然なのだ。「リアリティー」を感じさせる工夫のすべてを「リアル」に負っているからである。  繭を紡ぐ蚕のように[#「繭を紡ぐ蚕のように」はゴシック体]  そのほかのケータイ小説も、ほぼ同じような前提を共有しているように思える。Chaco『天使がくれたもの』の「あとがき」はこうだ。 [#1字下げ] この『天使がくれたもの』は、私の経験談であり…ケジメをつけるために記したものです。  美嘉《みか》『恋空』では、「この作品は実話をもとにしたフィクション」だという断り書きがあるものの、ケータイ小説作家と主人公が同じ「美嘉」という名前を共有しているし、「あとがき」では、やはり主人公美嘉の恋人だったヒロと約束した交換《こうかん》ノートの代わりにこの小説を書いているのだと述べている。メイ(主人公の名前は「芽衣《めい》」)『赤い糸』にははっきりと「この物語はフィクションです」という断り書きがあるが、正編下巻には「これは、いくつも恋をしてきた人なら誰《だれ》だってくぎづけになるような芽衣の話であって私の話。/フィクションであって本当の話でもある私の本」と、仲宗根泉《なかそねいずみ》が言葉を寄せている。仲宗根泉の言葉はうまくできていて、「リアリティー」と「リアル」をみごとに一つにつなげている。ケータイ小説には「リアリティーとリアルは同じもの」という原理があると先に述べた。それをやさしい言葉で書けばこうなるのだろう。  なぜこのようなことが可能なのだろうか。いや、なぜこのような仕掛《しか》けが有効なのだろうか。濱野智史《はまのさとし》はホームページ「濱野智史の「情報|環境《かんきよう》研究ノート」」(2008・1・15)において、東浩紀《あずまひろき》『ゲーム的リアリズムの誕生』(講談社現代新書、2007・3)を参照しながら、『恋空』を中心にケータイ小説を論じていて、ケータイ小説とはある一部の読者層にのみ共有できる「限定されたリアル」によって成立しているのだと言う。そして、現代はそういう「限定されたリアル」が「林立」している時代なのだとも言っている。だとすれば、「ケータイ小説にはリアリティーがない」という批判は、ケータイ小説の世界とは別の「限定されたリアル」から発信された批判だということになる。  明快な説明である。異論はない。ただし僕はこの説明に、ケータイ小説自身の「リアル=リアリティー」とするような「戦略」を接続させておきたい。ケータイ小説が生きる「限定されたリアル」のループの中では、「リアル」でありさえすれば「リアリティー」の工夫は必要がなかった。そして、蚕が自ら繭を紡ぐように、ケータイ小説は自ら「限定されたリアル」を紡ぎ出している。つまり、「いまどきの少女の自己表現」という形式が、ケータイ小説と外部(その「外部」の一つが「文学」だと言える)との間に境界線を作っているということである。  もちろんその前提としては、あるいはそれと同時に、「少女性」というコンセプトが確立していなければならない。おそらく、ケータイ小説はそれをみごとに戦略的に行ったのである。それは、「少女」たちの「自分が大人からどう見られているか」という自意識の産物だと言える。彼女たちはその自意識を掛《か》け金《がね》にして、「いまどきの少女の自己表現=少女性」を戦略的に商品に仕立て上げたのである。ただし、この時「大人」は外部にある。外部がなければ内部は成立しないのだから当然だが、何を「外部」として選ぶかによって、「内部」の性格が決まる。内部を成立させるために彼女たちは外部として「大人」を選んだ。「少女性」はそのようにして成立したと言える。こうして、彼女たちは「限定されたリアル」の中で、「少女性」という自意識を共有したのだ。  次章からは、これまで名前を挙げたケータイ小説の代表作を読んでいこう。 [#改ページ] ————————————————————————————  3 「新しい国語教科書」のモラル? ————————————————————————————  荒唐無稽な物語[#「荒唐無稽な物語」はゴシック体]  Yoshi の『Deep Love』がケータイで無料配信されて大ヒットしたのが2000年、本田透《ほんだとおる》はこれを「ケータイ小説元年」とする。書籍《しよせき》版が刊行されたのは2002年で、累計《るいけい》は270万部にもなったと言う。ただし、あまりにも荒唐無稽で、「文壇《ぶんだん》」からはいっさい無視された(前出『なぜケータイ小説は売れるのか』)。もっとも、片山恭一《かたやまきよういち》『世界の中心で、愛をさけぶ』(小学館、2001・4)などもミリオンセラーになりながら無視に近い対応だったので、これ自体はそれほど珍《めずら》しいことではない。しかし、『Deep Love』がケータイ小説を世の中に認知《にんち》させた小説であることはまちがいないだろう。この場合の「世の中」とは、ある世代の若者と出版社が中心だったかもしれない。また、ケータイ小説は主に地方都市で売れたと言うから、渋谷《しぶや》を舞台《ぶたい》にした『Deep Love』は東京への恐怖《きようふ》にも似た憧《あこが》れをもかき立てたのかもしれない。  いま、その内容を簡単にまとめておこう。       *  中学時代に成績がトップクラスだったアユは、なぜか商業高校に通うことを選び、渋谷でいつもきっちり5万円で援助《えんじよ》交際をしている。友達と言えそうなのは、レイナ一人だった。そんなとき、アユは舌を半分切り取られた子犬パオを拾って、日頃挨拶《ひごろあいさつ》をしている近所の「おばあちゃん」と同居することになる。アユはホストクラブに勤める健二と継続的《けいぞくてき》に肉体関係を持つが、感じることはない。しかし、クスリほしさに店のお金を使《つか》い込《こ》んだ健二のために、アユは「おばあちゃん」の貯《た》めたお金に手を出してしまう。結局、そのお金でまたクスリを買ってしまった健二は、店の者に殺されてしまった。 「おばあちゃん」は、アユの盗《ぬす》みを知っても責めることはせず、亡くなってしまう。アユは「おばあちゃん」から、昔子供を拾って育てたが、その後、その親に取り返された話を聞かされていた。「おばあちゃん」はその義之《よしゆき》という青年の心臓移植のためにお金を貯めていたのだった。アユは「おばあちゃん」の遺志を継《つ》いで、義之のために、渋谷の居酒屋でアルバイトを始めた。「おばあちゃん」の葬式《そうしき》で一目見た義之に心を奪《うば》われ、偶然《ぐうぜん》出会った公園で義之と会い続けてもいた。そんなとき、かつて同じクラスの景子の交際相手を取ったといざこざがあったのが理由で、レイナが景子の仲間にレイプされてしまった。レイナは妊娠《にんしん》してしまったが、子供を生むと言う。  アユは、義之の父に心臓移植のためにとお金を渡《わた》し続けていたが、義之と沖縄《おきなわ》旅行を決行した。義之の父はアユの体をも奪《うば》った。それ以後、アユは援助交際で「売り」を再開した。そのためにアユはエイズに感染《かんせん》し、それが発症《はつしよう》して死んでしまった。その事実を知った義之の父はすべてを告白し自殺した。義之はその日から、感情というものを失った。  レイナはアユのことを知りたくて彼女の義父の家を訪ねた。そして、アユが義父と兄に1回5万円で犯《おか》されていたことを知った。さらに、母はアユの目の前で自殺したのだった。アユが感じることができなかったのは、この過去があったからだった。レイナは、生んだ女の子をアユと名づけた。一方、心臓移植手術が成功した義之は、アユが見たものを自分の目で確かめようと、渋谷の街に消えていった。(第一部 アユの物語)  義之は、渋谷でトップクラスのホストクラブ「プラチナ」のホストになった。店長の拓《たく》に冷たい無表情を見込まれたからだった。そして、店長の愛人である沙羅《さら》にはじめての手ほどきを受け、挿入《そうにゆう》しないで感じさせる「本物」のホストになった。「プラチナ」は暴力団とつながっていて、クスリの売買にも手を出していた。ところが、拓が右腕《みぎうで》と頼《たの》みにしていた龍二《りゆうじ》の裏切りで暴力団との間に事件が起き、隆《たかし》というホストが殺された。  上京してきた隆の母の指の欠けた手を見て、拓は土下座をして許しを請《こ》うた。その指は、昔隆が自殺をしようとしたときに止めに入って失ったものだった。「愛」に目覚めた拓は、沙羅を愛するようになったが、その後に沙羅は拓をかばって龍二にナイフで刺《さ》されて重傷を負い、下半身|不随《ふずい》の身となった。献身的《けんしんてき》に介護《かいご》する拓を見て、義之は拓の代わりに店を経営することにした。  その頃、義之は公園で盲目《もうもく》の女の子と出会っていた。レイナの娘《むすめ》、アユだった。レイナが亡くなっていたことも知った。アユは祖母に育てられていたが、祖母が病気になったために新潟《にいがた》の親戚《しんせき》に預けられることになった。ところが、新潟で大地震《だいじしん》が起きた。義之は新潟に向かってがれきの中からアユを救い出すが、アユは事切れてしまった。(第二部 ホスト)  アユを生んで養わなければならなくなったレイナは、キャバクラに勤めるようになった。そこへ、かつて好きだった明が店に来て仕事を辞《や》めるように説得したが、レイナは聞き入れなかった。その頃、アユが家の階段から転げ落ち、医師がその処置を誤って目が見えなくなってしまった。盲目となったアユのために、レイナはヘルスに勤めることにした。店で働くアイラがなにかとレイナをかばってくれた。レイナは、明とお互《たが》いの愛を確認するようになった。  ところが、その店の社長は過激なサディストで、レイナを痛めつけるようになった。すでに、店の子が犠牲《ぎせい》になって、姿を消しているという噂《うわさ》だった。あまりにひどいので、レイナの身代わりになろうとするアイラをかばって店長が止めに入った。店長は以前から、アイラを思っていたのだ。しかし、アイラを探しに来た明が社長に射殺《しやさつ》され、それを見たレイナは発狂《はつきよう》してしまった。  店長とアイラは北海道の小樽《おたる》まで逃《のが》れ、店長はトラックの運転手として働いた。その頃、レイナを探していた義之は、レイナが娼婦《しようふ》としてタイに売り飛ばされたことを知り、助けに行くことにした。それを知った店長とアイラも加わって、地元のマフィアとの戦いの末に、ようやくレイナを救い出したが、レイナの精神は元には戻《もど》らなかった。(第三部 レイナの物語)       *  二項対立の構造[#「二項対立の構造」はゴシック体]  このほかに「特別版」として「パオの物語」がある。本編と無関係ではないが、イヌの物語を付け加えてもしかたがないので、カットしよう。  この要約を読んでもわかると思うが、本田透が言うように、新潟地震あたりから物語が荒唐無稽になってきて、真面目《まじめ》につきあうのがちょっときつくなる。しかし、この程度の荒唐無稽ならドラマや映画でもあるだろう。文芸誌に載《の》るような純文学や通俗小説にないだけである。ただし、その後ミリオンセラーを生み出したリアル系ケータイ小説という観点から見れば、やはり「第一部 アユの物語」が重要だ。そこで、「第一部 アユの物語」を構造|分析《ぶんせき》しておこう。 「アユの物語」は、実に簡単な構造からなっている。はっきり前景として見えるのは、「きれい/汚《きたな》い」の二項対立である。背景におぼろげに見えるのは「時代/個人」という二項対立である。それはこんな風に書かれる。アユが慣れないレイナを誘《さそ》って「オヤジ」と援助交際をする場面である。 [#ここから1字下げ] 「そうか、感じてるな! よし、こっち来て、しゃぶりな!」  汚いモノを出した。自分はアユをしゃぶりながら、レイナにくわえさせた。 [#ここで字下げ終わり]  次は、アユがレイプされかかった場面である。 [#ここから1字下げ]  すっと開かれた脚《あし》の根元に、アユの大事な部分がさらけ出された。 「まじ、かわいいよ! 見てみな。ピンクだし、汚《よご》れてないよ」 [#ここで字下げ終わり] 「汚い/汚れてない」。二項対立はあまりにもはっきりしている。少女はたとえ援助交際をしていても「汚れてない」が、その援助交際の相手の「オヤジ」は「汚い」のだ。それが体のレベルにまで及《およ》んでいるのである。要約を見てもわかるように、「オヤジ/少女」の二項対立で物語が進行する構造になっている。ほかにも健二が相手をする中年女性へのヘイティング(嫌悪《けんお》)の記述もあり、この物語が中年男性嫌悪と中年女性嫌悪の感性によって成り立っていることもわかる。これが大人が「汚く見える」反抗期《はんこうき》にある少女を読者として獲得《かくとく》できた、一つの理由ではないだろうか。  この物語には「汚い」という言葉が頻出《ひんしゆつ》するのだが、たとえば渋谷は「汚い街」と繰《く》り返《かえ》し書かれる。もちろん渋谷が女子高生の街だからで、ここからは「汚い」のは「街」であって少女ではないという論理がほの見える。少女は援助交際をしていても「汚れてない」というのならば、そこに立ち上がるのは文学の伝統的なモチーフである「娼婦聖女説」だと言えるだろう。しかし、少女が「汚れてない」ことは、他者による承認《しようにん》が必要だ。そうでなければ、アユは物語で孤立《こりつ》してしまうからである。  義之と公園で会うようになったアユは、倒《たお》れ込《こ》みそうになる義之に手を差しだそうとして、それをやめてしまう。「自分の汚《けが》れた手では義之に触《さ》われない、と思ったのだ。/『触《ふ》れられない……こんな汚い手で……純な義之君を汚しちゃう』」。沖縄でのこと、義之がアユの手を握《にぎ》ろうとしたときにも、「アユは反射的にその手を振《ふ》り払《はら》った」。 [#ここから1字下げ] 「何で?」 『私、汚いから』 「汚い?」 『うん』 「汚くなんてないよ」 『……』 「アユは誰よりもきれいだよ」 [#ここで字下げ終わり]  ちなみに、アユの言葉は『二重カギ』になっていて、他の登場人物と区別され、読みやすくなっている。  この会話が契機《けいき》となって、アユは自分の過去を義之に物語るのである。そして最後に、『やっぱり……私、汚い。義之に触れる価値ない……』と言うと、長い沈黙《ちんもく》のあと、義之は「汚《よご》れてなんかない」と言う。二人の「愛」が成就《じようじゆ》した瞬間《しゆんかん》である。もちろん、義之にはそれを言う資格がある。アユが告白する少し前の場面。「義之の目からキレイなキレイな涙《なみだ》が自然と流れ出た」。(ちなみに、「第二部 ホスト」では義之の目だけが「眼」と表記されている。義之の心が閉ざされていることを示しているのだろう。しかし「第一部 アユの物語」ではまだ「目」である。)心臓を病んだ義之は、はじめからある意味で「貴種」として登場する。アユがはじめて公園で義之と会った場面では、こういう説明が挿入される。 [#1字下げ] 〈汚《けが》れを知らない義之の心が、その涙をより美しく感じさせるのかもしれない〉 「貴種」である義之から「汚《よご》れてなんかない」と言われたアユは、「聖女」としてではなく、はじめて一人の登場人物として物語の中に組み込まれたと言える。これが「アユの物語」の構造である。そして、「アユの物語」はこの構造を先のような挿入句がリードする作りになっている。  坪内逍遙に叱られそう[#「坪内逍遙に叱られそう」はゴシック体]  はじめの方に置かれた挿入句。 [#1字下げ]〈確かにそうかも知れない。すべて金!——そんな時代だ。何もかも金で買える時代。金のある人間が偉《えら》そうに幅《はば》をきかせ、ない人間は金持ちの奴隷《どれい》になり、金のためなら何でも売る。そんな時代。そう、心までも……〉  ここにはお金|万能《ばんのう》の「時代」が「個人」を「奴隷」のように飲み込んでいく構図が語られている。こういう「時代」から「愛」の力によって「個人」が立ち上がっていくまでが、この物語の構成力だと言っていい。この挿入句は、そのための前提を語っているのである。  それが、沖縄でのアユの過去物語(告白)のあとでは、こう変わっている。 [#1字下げ] 〈人は過《あやま》ちを犯《おか》す生き物。時には深い悲しみから……、あるいは深い憎《にく》しみから……。深い絶望《ぜつぼう》や、深い迷《まよ》いから……。そこから救ってくれるのは……深い愛だけなのだろう〉  義之は心臓を病んでいるから、セックスはできない。 [#1字下げ] 2人は同じ1つのベッドに並んで横たわり、手をつないだまま眠《ねむ》りについた。波の音が優《やさ》しかった。       *   *   * [#1字下げ] 翌朝、朝日を見に浜辺《はまべ》へ行った。柔《やわ》らかい陽射《ひざ》しが、周りの景色と一緒《いつしよ》に2人を明るく染《そ》めていく。どこまでも続く空を見つめながら義之がつぶやいた。 [#ここから1字下げ] 「僕、このまま死んでもいいや」 『何言ってんのよ』 「だって、アユといれて幸せだったから」 『……』 「帰りたくない」 『私も……』 [#ここで字下げ終わり]  これが二人の切ないラブシーンであって、しかも「死と再生の儀式《ぎしき》」であることは、誰《だれ》の目にも明らかだろう。だから、このあと義之の父に犯されるときにも、アユの目は「汚そうとしても汚すことのできない輝《かがや》き」に溢《あふ》れているのである。「愛」が完成していたからだ。それを先の挿入句がリードして、地の文とは異なったレベルから読者に示しているのである。  この挿入句をジョージ秋山のマンガ『銭《ぜに》ゲバ』と結びつけた本田透の解釈《かいしやく》はほんのご愛敬《あいきよう》だ。こういう挿入句のような形で「作者」が作中に顔を出すのは、古くは平安文学の「草子《そうし》の地」と呼ばれる表現技法があるし、江戸時代の戯作《げさく》ではごくふつうに使われていた技法である。ほぼすべての国語教科書(高校1年生用)に収録され、いまや国民文学と言っていい芥川龍之介《あくたがわりゆうのすけ》の『羅生門《らしようもん》』にも「作者はさつき、「下人が雨やみを待つてゐた」と書いた。」という文章がふつうに挿入されている。こういう挿入句は最近では珍《めずら》しいだけの話である。  ただ、本田透がこれを「説教|臭《くさ》い語り」と言うのはその通りだろう。もっとも、そのことで「いわゆる文学的価値が一気になくなってしまう」とは思わない。本田透は説明を極端《きよくたん》に省いたリアリズム小説だけを「文学」と考えているふしがある。「語り手」が前面に出て過剰《かじよう》に語る「文学」もごくふつうにある。問題は、これが地の文から切《き》り離《はな》された「説教臭い語り」であるところにある。つまり、メタ・レベルの語りが陳腐《ちんぷ》なお説教をしているのだ。「アユと義之が「愛」を探し当てるまでの物語」という登場人物レベルの物語に、語りが介入《かいにゆう》して読者にお説教を垂れている構図。これが興ざめなのは事実だ。  これではまるで道徳の教科書のようではないか。もっと言えば、国語教科書に収録された「小説」のようではないか。僕たちは、実は国語で「道徳」を学んでいるのである。このことは、この10年程のあいだ繰り返し書いてきた。どうやら、Yoshiは渋谷で援助交際に明け暮れる少女にとって、「教師」でもあるようだ。ケータイ小説が『Deep Love』からブレイクした意味は大きい。「真実の愛を見つけるまでの物語」という、以後のリアル系ケータイ小説の原型を作ったからである。  ずいぶん昔、明治も20年頃、坪内逍遙は『小説|神髄《しんずい》』という近代日本ではじめての本格的な文学理論書を書いた。そこで坪内逍遙は、滝沢馬琴《たきざわばきん》の『南総里見八犬伝』について「勧善懲悪《かんぜんちようあく》を説きながら、実際の物語としては殺伐《さつばつ》として猥褻《わいせつ》な記述ばかりで、支離滅裂《しりめつれつ》だ」という意味のことを述べて、強烈《きようれつ》に批判した。いま坪内逍遙が『Deep Love』を読んだら、まったく同じことを言って批判しただろう。しかし、それは決して『Deep Love』が「文学」でないということではない。「文学」としての評価の問題である。 [#改ページ] ————————————————————————————  4 何が少女をそうさせたのか ———————————————————————————— 「実話をもとにしたフィクション」とは何か[#「「実話をもとにしたフィクション」とは何か」はゴシック体]  Chaco『天使がくれたもの』(スターツ出版、2005・10)は、いまに続く第2次ケータイ小説ブームを作りだした記念碑《きねんひ》的作品として位置づけられている。この「第2次ケータイ小説ブーム」とは、「リアル系ケータイ小説ブーム」である。  ところが、『天使がくれたもの』の中扉《なかとびら》を開いてさらに1枚めくると、いきなり妙《みよう》なことが書いてあるのだ。「この作品は実話をもとにしたフィクションであり、人物名などは実在の人物・団体等には一切関係ありません」と。この文がおかしいのではない。むしろ、テレビドラマなどでもよく見かける文章だ。しかし、これはふつうは最後に置かれるべき文章ではないだろうか。テレビドラマでも、ドラマが始まる前にこれを映したのは見たことがない。しかも先の2章で触《ふ》れたように、「あとがき」にはこうあったのだ。 [#1字下げ] この『天使がくれたもの』は、私の経験談であり…ケジメをつけるために記したものです。 「フィクション」だとはじめに断り書きを入れなければならなかった理由はいくつか考えられる。すでに「実話」だという「神話」が一人歩きしていたから、それを打ち消す必要があった。あるいは、作中に反社会的な言動が多いのではじめにエクスキューズが必要だった、などなど。  では、「あとがき」との矛盾《むじゆん》はどうなるのだろうか。「あとがき」まで含《ふく》めて「フィクション」という作りなのだろうか。そうかもしれない。いや、そうだとしたら面白《おもしろ》い。Chaco も「フィクション」、どこにもいない。あるのは、本田透《ほんだとおる》が言う「実話テイスト」だけ。現実と接続しないのに、「実話テイスト」だけはある。もちろん、「実話をもとにしたフィクション」だと断っているのだから、実際には現実と接続はしているのである。しかしこの本全体の作りは、ケータイ小説の「リアル」が実は「実話テイスト」でしかないことを雄弁《ゆうべん》に物語っている。言《い》い換《か》えれば、ケータイ小説の「リアル」とはお約束にすぎないということだ。それが、「実話テイスト」である。工業製品であっても「手作り感覚」をセールスポイントにする商品と似ている。  実際にケータイ小説を読めば、その感覚はよくわかる。多くのケータイ小説に書かれたことがすべて「実話」だとしたら、重すぎてやりきれない。日本はとても法治国家だとは言えそうもない気もしてくる。もし仮にすべてが「実話」だとしても、「実話をもとにしたフィクション」だと言ってもらった方が、気楽に泣ける。その上に「実話」の部分もあるならば、感情移入もしやすい。「実話をもとにしたフィクション」というコンセプトを前面に打ち出したこの本の作りは、こういう読者の心理をみごとに捉《とら》えたのではないだろうか。 「リアル系ケータイ小説」とは、「実話テイスト」を楽しむケータイ小説のことなのである。「実話テイスト」を確立したという意味において、第2次ケータイ小説ブームに『天使がくれたもの』の果たした役割は大きいと言える。『恋空《こいぞら》』も『赤い糸』も、そのコンセプトの延長線上にあるからだ。 「素直になっていれば、後悔はしなかった」[#「「素直になっていれば、後悔はしなかった」」はゴシック体] 「素直になっていれば、後悔はしなかった」、これは『天使がくれたもの』の「あとがき」に書《か》き込《こ》まれた言葉だ。「素直になれなかった自分」とは、小説に繰《く》り返《かえ》し書かれる定番のモチーフである。だから、それを書いただけでは小説として自立できない。「自立できない」とは、ありきたりの物語のパターンを借用しているだけで、文学のステージに新しいシーンを切り開くことはできないという意味である。問題は、なぜ「素直」になれなかったのかにある。それを書き込んで、はじめて文学としての「評価」の土俵《どひよう》に乗ることができる。『天使がくれたもの』の物語から「素直になれなかった」理由を読み取ることができるだろうか。いま、その内容を、簡単にまとめておこう。       *  舞台《ぶたい》は大阪《おおさか》市内。物語は、公立高校に落ちて某《ぼう》私立高校に通う日向舞《ひなたまい》が、入学式に向かうところから始まる。初日からクラスの本田美衣子《ほんだみいこ》が人なつっこく話しかけてきて、程なく舞を自分の地元の子たちが集まる「たまり場」(テルオのマンション)に連れて行った。「たまり場」には木村幹《きむらみき》と太田雪奈《おおたゆきな》もよく来ていた。舞はテルオと恋仲になるが、テルオは美衣子の元彼《もとかれ》で、二人ともまだ思い切れずにいた。舞はすぐにそのことに気づいて傷ついたが、そんな舞をカグ(香久山聖《かぐやましよう》)が気遣《きづか》ったことから、舞とカグは心を通わせるようになっていった。  花火で遊んだ日に、舞はカグが何かに悩《なや》んでいることを知るが、何もできなかった。そんななかでも、舞はカグに髪《かみ》を染《そ》めてもらうまでになった。そんな時、中学時代に親友だった岸田純子《きしだじゆんこ》から連絡《れんらく》があって、同窓会に出席することにした。舞はそこで元彼の葉山|勇心《いさみ》と再会した。  鳶《とび》職のカグは、借金を抱《かか》えたままカグが中学生のときに家を出た父親が急に戻《もど》ってきたので、追い返したところ父親は自殺してしまったのだという。カグが花火の日に泣いていたのは、そのためだった。お金が必要になったカグは、和歌山の白浜《しらはま》に3か月住み込みで働きに出かけたが、舞は何も言えないまま送り出してしまった。そこへ、木村幹が妊娠《にんしん》していることがわかって、大騒《おおさわ》ぎとなった。幹は彼氏の拓馬《たくま》が元カノに迫《せま》られて断るために会っていたのを「浮気《うわき》」と誤解して、仕返しのために別の男と寝《ね》たのだった。妊娠したのはその男の子供だったが、幹は生むと言いだし、誤解の解けた拓馬は自分がその父親になろうと決意を語った。  白浜のカグとは連絡が取れずにいたところ、勇心がまたやり直したいと告白し、舞がそれを受け入れた数日後、カグが白浜から帰り、舞に告白したが、舞はいまは彼氏がいると告げた。カグは諦《あきら》めて帰って行ったが、舞の心はカグから離《はな》れることはできず、今度は勇心に別れを告げた。テルオの子供を妊娠して高校を辞《や》めた美衣子に相談し、カグに告白するがはぐらかされてしまう。カグを忘れられない舞は、カグにそっくりな快とはじめての関係を持った。ところが快は遊び人で、それを知って落ち込む舞を、今度はカグが慰《なぐさ》めるのだった。舞は快との関係を続けるが、快は変わらなかった。 「たまり場」の仲間である実《みのる》が交通事故にあった日、舞はカグから告白されるが、まだ快を忘れられない舞はそれを拒《こば》んでしまう。カグは亜紗美《あさみ》という子とつき合い始めたが、舞はカグを忘れることができない。二人を見続けていた美衣子は思い合っているのがわかるから「素直」になれと舞に助言するが、舞にはそれができない。ところが、ようやく自分の気持ちを伝える決心をして待ち合わせをしていたその日に、カグは交通事故で死んでしまった。葬式《そうしき》では、亜紗美がカグの恋人として振る舞っていた。舞は高校も中退し、「ボロボロ」の生活をした。美衣子とテルオは生まれた子供を「聖《せい》」と名づけたと知らせてきた。  それから5年後の2004年3月。22歳《さい》になった舞は自分の過去をホームページに書き始めていた。そして、美衣子に一度も行っていなかったカグの墓参りをしたいと告げると、全員集合となった。カグの墓前で舞は、舞を忘れられなかったカグが亜紗美とは別れていたことをはじめて知らされた。       *  作られた「本当」の気持ち[#「作られた「本当」の気持ち」はゴシック体]  この要約を作るのに最も苦労したのは、逆接の接続詞「しかし」や「〜が」や「ところが」をどれだけ少なくできるかということだった。それだけ舞の気持ちがカグの周りを巡《めぐ》って二転三転するのである。まるで少し前に大流行した韓国《かんこく》ドラマ『冬のソナタ』のようだ。 『冬のソナタ』では、ヒロインのユジンはミニョン(実は、高校時代の恋人ジュンサンが記憶《きおく》を失って、自分をミニョンと信じ込まされている)のところへ行ってはミニョンの言うことを聞き、幼なじみのサンヒョクのところへ行ってはサンヒョクの言うことを聞く。もちろん、『冬のソナタ』は八方美人のユジンが決意するまでの物語なので、その心の揺《ゆ》れ動《うご》きを楽しめばいいのである。(ちなみに、僕は『冬のソナタ』の大ファンで、3回は通して見ている。韓国語の「完全版」も録画して見た。気に入った場面は、数十回見ている。) 『天使がくれたもの』の舞の場合は逆で、「素直」になれないために、ことごとくチャンスを逃《のが》す物語なのである。すれ違《ちが》いの物語で、恋愛《れんあい》物語では定番中の定番だろう。ただ、カグが突然《とつぜん》交通事故で死んでしまうから悲劇ということになるが、最後にカグも舞を忘れられずに亜紗美とは別れていたことを舞が知る結末なので、読後感は単純な「悲劇」ではない。「舞がカグの「本当」の気持ちを知る物語」とでも要約できるだろうか。  この「本当」には、注釈《ちゆうしやく》が必要だ。というのは、仮にもしカグが死なずに二人の物語がだらだら続けば、舞とカグはまた何度も行き違いを演じて、そのプロセスでカグは亜紗美以外の女性と付き合ったにちがいないからである。カグがうまい具合に亜紗美と別れた時期に交通事故で死んだから、それがカグの「本当」の気持ちのように思わされているにすぎない。この場合、「思わされている」のは舞も読者もである。つまり、カグの「本当」の気持ちは、結末によって作られたものなのだ。構成の妙と言ってもいい。ということは、「カグの本当の気持ち」という結末を作ったのは舞ではなく、Chaco である。「あとがき」の「素直になっていれば、後悔はしなかった」という言葉が機能するのは、このレベルにおいてである。  しかし、この「あとがき」はほんの少し手が込んでいて、こういう一節が書き込まれているのである。 [#ここから1字下げ]  この『天使がくれたもの』は、私の経験談であり…ケジメをつけるために記したものです。 「書き終えたら、彼に逢《あ》いに行こう」  そう決意して、ホームページに書き始めました。  最初は、誰《だれ》かに読んでもらうためではなく…自分自身のために。  書いていく中で読んでくださる方がいて、書き終えた時にはたくさんの方から…たくさんのお言葉をいただきました。 [#ここで字下げ終わり]  ここで、舞と Chaco が重なる。それならば、カグの「本当」の気持ちが小説の構成上作られたものであることを、舞も知っているのだろうか。あるいは、それは舞が作ったものだろうか。この問いは永遠に答えが出ない。ただ、この問いから導き出されることが二つある。  一つは、舞と Chaco とが小さなループを形成していて、二人(?)は閉じた関係になっていることだ。そして、そのループに入り込めるのはこの物語を「読んでくださる方」の位置に自分をセットできる読者だけだということである。(もちろん、このセッティングは意識的に行われる必要はない。)つまり、『天使がくれたもの』は読者を選んでいるのである。『天使がくれたもの』は蚕が自ら繭《まゆ》を紡《つむ》ぐように、「少女が書く→少女に届く」というループ関係を自ら紡ぎ出している。そこに「限定されたリアル」が成立するのだ。その意味で、『天使がくれたもの』はケータイ小説の成立過程そのものを小説化した「メタ・ケータイ小説」と言えるかもしれない。  もう一つは、自分の過去をホームページに書くことに自己|言及《げんきゆう》することで、それが自己|治癒《ちゆ》になるのだと知らせていることである。これは、多くの少女にリアル系ケータイ小説を書く動機を与《あた》えるだろう。あるいは、ケータイ小説を書くことに社会的な正当性を与えるだろう。 『天使がくれたもの』のこういう仕掛《しか》けに注目すれば、これが第2次ケータイ小説ブームを巻き起こしたのは決して偶然《ぐうぜん》ではないことがよく見えてくる。  なぜ「素直」になれなかったのか[#「なぜ「素直」になれなかったのか」はゴシック体]  小説の仕掛けに言葉を費《つい》やしてきたが、ここで物語の内容を分析《ぶんせき》しておこう。 『天使がくれたもの』をまとめる前に、「『天使がくれたもの』の物語から「素直になれなかった」理由を読み取ることができるだろうか」と書いた。実は、この問いに対する答えは簡単だ。きちんと書き込まれている。それは、はじめに書かれた舞とテルオとの関係がまちがっていたからである。舞は「たまり場」に行きはじめて、最初にテルオに好意を寄せ、テルオもそれに応《こた》える。しかし、舞はそういう関係を美衣子が快く思っていないことに気づく。テルオと美衣子との関係を舞に話すのは、カグだ。『天使がくれたもの』の登場人物は、みんな優《やさ》しい。 [#1字下げ]「…あの二人なぁ、中学んときからずっと付き合っとったんやし。でも、なんちゅうの?…一時の倦怠期《けんたいき》っていうか、喧嘩《けんか》多かった時期に別れよったねんな。…でもおまえも気づくほど、まだあの2人は未練残ってるんやし。…まぁ、おまえからしたら…納得《なつとく》いかん話やろうけど」  すぐあとには、テルオ自身も舞に気持ちを打ち明けて、謝《あやま》る。 [#1字下げ]「舞のことは、ホンマに遊びじゃなく好きやったねん。…でも俺…まだ美衣子に未練あってな。ごめん…中途《ちゆうと》なことしてた」  ケータイ小説では、「中途」な関係が最も罪深いという原則がある。そこで、彼/彼女《かのじよ》たちは儀式《ぎしき》のように「コクる(告白する)」ことで、関係に区切りを入れる。この儀式が終われば、セックスを許す関係になったということを意味するからである。その一方で、「未練」が残ることも多い。人の心は「コクる」儀式によってカチッと切《き》り替《か》わるほどデジタルにはできていないからだ。そこで、身体と心がズレて揺れ動く。その揺れ動きを延々と書くのが、リアル系ケータイ小説のお約束である。そして、それを楽しむのがリアル系ケータイ小説の読者のお約束である。このお約束が守れなければ、あるいは守りたくなければ、リアル系ケータイ小説からは、作者としても読者としても排除《はいじよ》されるだろう。  さて、このあと舞とカグは急速に親しくなっていくのだが、はじめに親友の元彼を取ってしまうまちがいを犯《おか》した舞は、またまちがいを犯しはしないだろうか、自分は人を傷つける人間ではないかと心が縮こまって、そのあと「素直」になれなくなってしまったのである。はじめに犯したまちがいは、舞にとって〈いま/ここ〉にいる自分の存在そのものが否定されるような、いわば実存的な重みを持った体験だったにちがいない。これは、恋愛にしか生きる意味を見いだせないかのようなリアル系ケータイ小説の主人公に共通する感覚である。  舞の犯したまちがいは、舞がまちがった相手に送り届けられてしまう、いわば「誤配」だったと言える。「誤配」は恋愛小説にはつきものだ。あるいはすべての恋愛が「誤配」の感覚を持つのかもしれない。「誤配」とは、フランスの哲学者《てつがくしや》ジャック=デリダの用いた概念《がいねん》で、メッセージは正しい宛先《あてさき》よりもまちがった宛先に届いた方が「事件」が起きやすいことを言う。たとえば、「100パーセントの恋愛小説」と銘打《めいう》った村上|春樹《はるき》『ノルウェイの森』では、キズキの恋人だった直子が、キズキの自殺によって「僕」に「誤配」されてしまう。「僕」は「誤配」された直子を、正しい宛先であるキズキに届ける義務を果たそうとする。それは、直子を自分の意志で「自殺」させることにほかならなかった。その切ない時間が、「僕」と直子との「恋」の時間だったのだ(詳しくは、拙著『謎とき 村上春樹』光文社新書、2007・12)。  はじめにまちがってしまった舞は、この「誤配」の感覚から逃れることができなくなってしまったのだろう。繰り返すが、それは自分の存在自体がこの世に「誤配」された感覚にまで到《いた》ることがあるにちがいない。その意味で、ケータイ小説で自分の子供の名に自分とかかわりの深い人間の名を付けることが繰り返されるのは、象徴的《しようちようてき》かもしれない。『Deep Love』では、レイナが子供に親友のアユの名を付ける。『天使がくれたもの』では、美衣子とテルオは子供にカグの名前「聖」を(読み方を変えて)付ける。あたかも、この世に「誤配」されたために短命に終わったアユやカグの存在を正しい宛先に届けるかのように、である。  与えられた「好き」[#「与えられた「好き」」はゴシック体]  はじめにテルオと「誤配」された関係を持ってしまった舞は、なぜカグを好きだと自覚できたのだろうか。そのプロセスを追ってみよう。  日曜日に花火で遊んだ夜のことである。 [#ここから1字下げ] 「何をジィーッと見つめてるんですかぁ?」  カグの姿を心配そうに眺《なが》めていた舞の耳元で、幹がニヤニヤとささやきかける。 「見っ、見つめてないしっ!!」  ニンマリとほほ笑む彼女に、舞は頬《ほお》を赤らめ必死に言い返した。 [#ここで字下げ終わり]  幹は「ニンマリとほほ笑」んだりするらしい。まあ、いい。肝心《かんじん》なのは、舞がここではまだ自分の気持ちに気づいておらず、幹に冷やかされることで、自覚しはじめることだ。 [#ここから1字下げ]  幹の言葉に輪をかけて、冷やかす美衣子。 「好きなん!? カグのことっ!!」  大きな声で彼の名を出す雪奈に、舞はあせって身を乗り出した。 「そんなんちゃうし! あんな…ガキみたいな奴《やつ》っ」  舞は必死に否定する。 「…そんなガキみたいな奴、好きになったんちゃうん?」  美衣子は落ち着いた表情を見せ、真剣《しんけん》に問いかけた。  マジマジと大きな目で見つめる彼女に、舞は観念しため息をついた。 「なんていうか…最近変に意識してしまうことは…ある」  舞は、耳まで真っ赤にしてつぶやいた。 [#ここで字下げ終わり]  その少し後、中学時代に親友だった岸田純子に「勇心に惚《ほ》れ直《なお》した」のかと聞かれた舞は、勇心とは「好きとかはもうない」と答える。 [#1字下げ] …はっきりと言いきれる。なぜなら、もう好きなのは…カグだと気持ちは固まっていたから。  ここまでのプロセスでまず押《お》さえておかなければならないのは、舞のカグへの恋心は美衣子の承認が必要だったということである。それは、はじめに舞がまちがって美衣子の「元彼」であるテルオを好きになってしまっていたからだった。これは、わかりやすい。  これを抽象化《ちゆうしようか》すると、舞は自分の気持ちを他者から与えられていることになる。それを暗示するような記述が「もう好きなのは…カグだと気持ちは固まっていた」である。「好き」という感情は「気持ちを固める」ようなものだろうか。もっと直接的にわき上がってくる感情ではないだろうか。どうやら舞には「気持ち」を固める主体がこちら側にあって、「好き」という「気持ち」は客体としてあちら側にあるようだ。まるで、「好き」という感情を主体が操作できるかのように。「好き」という「気持ち」が客体としてあちら側にあるからこそ、それは他者によって与えられてしまうのだ。  しかし、客体としての「気持ち」を操作できる主体は、たとえば「これこそが自分だ」と特定できるような実体なのだろうか。そうではないだろう。数学で言う「点」のように、位置はあるが面積を持たない何かではないだろうか。それは、あたかも空虚《くうきよ》のようだ。その空虚な「自分」は、どうやれば「自分」と感じることができるのだろうか。  気分としての「好き」[#「気分としての「好き」」はゴシック体]  ふつうは、自分を操作する自分である主体(I)と、自分に操作されるもう一人の自分である客体(Me)がぴたりと一致するのが「好き」という奇跡《きせき》のような感情だと思うが、舞はそうではない。あくまで「カグが好きな自分」は客体(Me)なのである。舞が「好き」という感情を他者に承認《しようにん》してもらわなければならなかったのは、こういう舞の内面の構造にもよっていたのだ。そして、「好き」という感情が客体化(Me)されているからこそ、それが他者からはっきり見えるのである。  しかしその後の舞は、「好き」を操作できなくなっている。勇心とカグの間で揺れ動き、カグと快との間で揺れ動く。そういう舞を美衣子が叱《しか》る。 [#ここから1字下げ] 『…舞。その快って子にいい顔…カグにもいい顔、そんなことしてたら痛い目見るで?』 「…だから、言うたやん。中途なことしたらあかんてっ」 [#ここで字下げ終わり]  ところが、舞にはその「中途」が心地よい地点だったのだ。 [#ここから1字下げ]  舞は、快の背中にそっと両手を回した。  慣れた手つきで、自分をあやつる彼の指。  それは、中途|半端《はんぱ》な気持ちの舞からすると…ほどよく心地よいものでもあった。 [#ここで字下げ終わり]  ボルノウというドイツの哲学者は、感情ははっきりとした対象を持つが、気分はそうではないと言っている(『気分の本質』藤縄千艸《ふじなわちぐさ》訳、筑摩叢書、1973・5)。たとえば、悲しいという感情は何が悲しいのかをはっきり言うことができるが、不機嫌《ふきげん》という気分は何に対して不機嫌なのかを言うことができない。二人の男性の間を揺れ動く舞は、ちょうどはっきりした対象を持たない「気分」を楽しむような状態だったと言っていい。その時には、舞の主体(I)と客体(Me)は一つになっている。なぜなら、「気持ち」は「好き」というはっきりと客体化(Me)された感情として自分のあちら側にある対象の方へ行ってしまったりしていないからだ。だから、舞はまるごと「自分をあやつる指」に身を任せることができるのである。このとき、舞の「好き」は感情ではなく気分なのだ。それが、他者からは「中途」に見えることは言うまでもないだろう。  気分に身を任せる舞にとって、「好き」という「気持ちを固める」主体(I)はどこにあるのだろうか。それはどこにもない。舞にあるのは、「指」に身を任せる身体だけだ。別の言い方をすれば、主体が身体に張り付いている。空虚な主体が、はじめて場所を占《し》めることができたのである。それを「恋」と呼んでもいいのだが、はじめに「誤配」を生きてしまった舞には、特定の誰かに対してではなく、「中途」な関係でしか「恋」ができなかったのである。交通事故にあった実を見舞った帰り道、一人快のことを思ってしまう自分を、舞が「汚《きたな》く感じた」ことは偶然ではない。舞には、ただ一人を思うことができなくなっているのである。すべては「誤配」から始まった。これが「素直になれなかった」ことの痛切な意味だ。舞がそう言っているのでもないし、Chaco がそう言っているのでもない。物語の構造が、そう語っているのである。 「何が少女をそうさせたのか」。それは「恋」がそうさせたのである。そして、すべての「恋」は「誤配」によって成り立っている。だから、恋人たちは身体で空虚な心を埋《う》めようとする。それを構造的に物語った意味において、『天使がくれたもの』はみごとな恋愛小説となった。『天使がくれたもの』が画期となった理由もそこにあったのだろうし、これ以後のリアル系ケータイ小説が同じパターンを繰り返すしかなかったのも、やむを得ないことだったろう。  そういうわけで、『恋空』と『赤い糸』については、次章で僕がポイントと考えるところを分析するにとどめよう。 [#改ページ] ————————————————————————————  5 男たちの中の少女 ————————————————————————————  恋は必ず「誤配」される[#「恋は必ず「誤配」される」はゴシック体]  美嘉《みか》『恋空』上・下(スターツ出版、2006・10)は7つの章からなっている。その章のタイトルがなかなかしゃれている。「一章 恋来 koirai」、「二章 恋涙 koirui」、「三章 恋迷 koimei」、「四章 恋淡 koitan」、「五章 恋夢 koiyume」、「六章 恋旅 koitabi」、「最終章 恋空 koizora」。  物語を簡単にまとめておこう。       *  田原美嘉は入学して三か月の、高校一年生。背が低くて幼顔なので、実際よりも年下に見られるのが悩《なや》みだ。アヤとユカと三人でお弁当を食べていると、隣《となり》のクラスの遊び人でハンサムなノゾムが PHS の番号を交換《こうかん》しようとやって来た。驚《おどろ》いたことに、アヤがそれに応じた。アヤから番号を聞いたノゾムは、美嘉に電話をしてきた。酔《よ》っぱらってかけてきたときに、代わりに謝《あや》まったのが桜井弘樹《さくらいひろき》だった。番号を交換した二人は、夏休み中|連絡《れんらく》を取り合った。美嘉はまだ見ぬ弘樹に思いを寄せていったが、二学期になって教室にやってきた弘樹は、大柄《おおがら》で明らかに「不良」という感じだった。それでも、ヒロ(桜井弘樹)のアタックが続き、美嘉はヒロに彼女《かのじよ》(咲《さき》)がいることを知りつつ、初めての関係を持つ。その後、ヒロは咲とは別れて、二人は恋人同士となった。  ところが、美嘉はヒロとの関係を恨《うら》んだ咲に指示された仲間にレイプされた上、咲に執拗《しつよう》に嫌《いや》がらせを受けて自殺|未遂《みすい》を犯《おか》す。それを知ったタツヤがヒロといざこざを起こしたことで、タツヤはヒロたちの策略で退学に追《お》い込《こ》まれる。後に、ヒロはそれを謝罪し、タツヤもそれを受け入れた。その頃《ころ》、美嘉はヒロの子を妊娠《にんしん》していた。ヒロは生むようにと祝福してくれるが、美嘉の父親は許さず、さらに嫌がらせを続ける咲ともみ合ってしりもちをついたことが原因で、流産してしまう。ヒロと美嘉は公園の花壇《かだん》に花を置き、毎年クリスマスにはそこにお参りに来ることを誓《ちか》った。(恋来)  二年生になってしばらくすると、つまらないことで別れようと言ってきたり、シンナーや煙草《たばこ》をはじめたりと、ヒロの様子がおかしくなってきた。二人の関係もぎくしゃくしてきた。突然《とつぜん》デートをしようというヒロと楽しく過ごしたあと、ヒロが別れを告げた。美嘉の生活も乱れ始めたが、ヒロがミヤビとつき合い始めたことを知り、美嘉は新しい恋を見つけることに決めた。アヤの誘《さそ》いでパーティーに出た美嘉は、ヒロに似ている福原優と友達としてつき合うようになる。(恋涙)  高校二年も終わる頃、新しい彼氏《かれし》との子を妊娠した咲が、美嘉に謝罪してきた。もう、ヒロとは付き合っていないと言う。三年になって、美嘉はヒロとのことやレイプされたことを優に話したが、優は美嘉がヒロのことを忘れられないのを知りつつ、自分は二番目でいいから付き合いたいと言う。美嘉はヒロを忘れるために、優に賭《か》けてみることにした。クリスマスの日、約束したお参りに公園に行くと、そこには帽子《ぼうし》を被《かぶ》ってやせ細ったヒロが来ていたが、二言三言言葉を交《か》わしただけで、美嘉は優の方へ走ったのだった。(恋迷)  年が明けて、ヒロと付き合っているミヤビが誤解して、美嘉をクラスで「子供を中絶した人殺し」となじったが、美嘉の仲間は事情を知ってかばってくれた。美嘉とその友人何名かは優のいる大学に合格し、もうすぐ新しい生活が始まる。ところが、両親に離婚《りこん》の危機が訪《おとず》れた。同じ経験を持つ優は美嘉の家に行き、美嘉たちが子供の頃の写真を美嘉の両親にさりげなく見せて、二人をうち解けさせることに成功した。(恋淡)  大学の入学式で「ギャル」そのもののウタと知り合いになった美嘉は、優の所属している旅行サークルに、アヤたちといっしょに入った。そこで優の友人であるケンから、優がかつて人妻と不倫《ふりん》関係にあった過去を聞いてしまい、自分に直接話してくれない優を恨《うら》めしく思う。一方、アヤはケンと付き合っていたが、美嘉と優をうらやんで、優を誘惑《ゆうわく》するようなそぶりも見せていた。美嘉は、前からサークルにいたミドリがケンを忘れられずにいることを知り、ミドリを応援《おうえん》してしまう。それを知って怒《いか》りを爆発《ばくはつ》させるアヤに、美嘉は「中途半端《ちゆうとはんぱ》」なことをしたと謝る。結局、ケンとミドリはよりを戻《もど》すことになった。(恋夢)  大学生になって初めてのクリスマスを迎《むか》える頃、それまで一人住まいをしていた美嘉は優と同棲《どうせい》することになったが、例年のお参りには欠かさず出かけた。すると、そこにノゾムが来ていた。ノゾムの話では、ヒロは2年前から癌《がん》に冒《おか》されていたと言う。それで荒《あ》れた生活をし、自分を悲しませないために無理に別れたのだと、美嘉は悟《さと》った。1年前にお参りをしたときに帽子を被っていたのは、抗癌剤《こうがんざい》の影響《えいきよう》で毛髪《もうはつ》がなかったからだったのだ。それを美嘉から聞いた優は、美嘉を病院へ送り、ヒロのところへ行けと背中を押《お》した。ヒロと再会し、愛を確認した美嘉は、優と別れて実家に戻った。アヤとヤマトは美嘉が軽い女だと誤解したが、すぐにその誤解も解けて、友情が戻った。美嘉は、ヒロとの時間を静かに過ごした。(恋旅)  3日間の外泊《がいはく》が許されたとき、美嘉とヒロは思い出の高校の図書館に行き、ヒロと別れた思い出の川原に行き、お互《たが》いがはじめて「愛」という言葉を口にして、結ばれた。しかし、ヒロの病状は悪化し、ついに息を引き取った。美嘉はヒロの残したノートを読み、ヒロを思う日々を送るが、あの川原での関係で妊娠していたのだった。「産みますか」と聞く医者に、美嘉は産むと即答《そくとう》した。そして、悲しい時、寂《さび》しい時、苦しい時、楽しい時、美嘉は亡くなった最初の赤ちゃんと、ヒロがいる空を見上げる。だから、恋空。(恋空)       *  反転する「誤配」[#「反転する「誤配」」はゴシック体] 「これってまさに『冬ソナ』じゃないか」。これが僕の読後感だ。クラスメイトや同じ高校の生徒との友情と恋の物語。そして、あとから明かされる「真実」。さらには、優が病気のヒロのところへ美嘉を送るところは、ミニョンが衰弱《すいじやく》しきったサンヒョクのところへユジンを送る場面のほぼパクリだろう。そう思った。こういう場合、それが実体験であったか否かは理由にはならない。『恋空』があとから発表された以上、『冬ソナ』に似ていればプライオリティー(優先権)を犯したことになる。ただ、そもそも恋愛物語の山場を構成するシチュエーションは、二人の間を揺《ゆ》れ動《うご》くとか、恋人と仕事のどちらを取るかで揺れ動くとか、恋人を思う人のために身を引くとか、自分が不治の病にかかって身を引くとか、それほど多くはないのだから、この程度のことは問題にするほどのこともなかったのだろう。  美嘉がはじめにヒロではなくノゾムから連絡を受けるところは、『天使がくれたもの』に似ている。しかし、ノゾムと美嘉との関係が発展する前にヒロが介入《かいにゆう》し、この時点での「誤配」は回避《かいひ》される。「誤配」はその後、ヒロが身を引いたときに一度だけしか起こらない。そのために美嘉の動きは〈ヒロ→優→ヒロ〉となり、物語の基本線は単純化された。しかも、美嘉の思いはヒロ一筋なので、読者は安心して美嘉の周りで起きるエピソードと、美嘉の友人たちの優《やさ》しさを楽しむことができる。これが、上下2冊、都合700ページあるわりには、要約を作るのにも『天使がくれたもの』のときのように、逆接の接続詞を気にしなくてもすんだ理由だ。要約を作るときには、ほとんどのエピソードは省略するしかないのだから。このように、感動のポイントを一つに絞《しぼ》り込《こ》んだのが、『恋空』が大成功した理由だろう。レイプや「中途半端」が罪になるなどのケータイ小説特有のアイテム(?)は使われているが、全体の構成がふつうの小説に似ているのである。 『天使がくれたもの』の舞が、心を寄せるカグにそっくりな快と「誤配」を演じるように、『恋空』の美嘉も心を寄せるヒロに似ている優と「誤配」を演じる。これも、恋愛小説の定番だと言っていい。もう一つこの2作に共通することがある。それは、カタカナ表記が多い登場人物の中で(『恋空』にその傾向《けいこう》がはっきり出ている)、「誤配」を演じる〈舞/快〉と〈美嘉/優〉の二つのセットが、漢字表記となっていることである。特に、男性の方の「快」と「優」はその性格や役割を漢字表記が表していて、もしかすると〈舞/カグ〉と〈美嘉/ヒロ〉のセットの方が、実は「誤配」だったのではないかと思わせるほどだ。ここに逆説が生まれる。『天使がくれたもの』を論じたときに、僕は「すべての「恋」は「誤配」によって成り立っている」と書いた。そう、もしかすると〈舞/カグ〉と〈美嘉/ヒロ〉のセットの方が「誤配」だったからこそ、それが恋愛と呼ばれるにふさわしかったのではないだろうか。  もっとも、『天使がくれたもの』の続編『君がくれたもの』でカグの物語を書き、『恋空』の続編『君空』でヒロの物語を書いてしまった「作者」たちには、このことは気づかれてはいなかったのかもしれない。  ホモソーシャル[#「ホモソーシャル」はゴシック体]  多くの「少女」が『天使がくれたもの』や『恋空』を「安心」して読めた理由は、ほかにもあると思っている。それは、この2作のヒロインがいずれも男性に頼《たよ》り切《き》っているからである。それはどちらがコクったのかというような問題ではない。優が美嘉に対して底なしに優しかったというような問題でもない。『恋空』の終わり近く、死を覚悟《かくご》したヒロから友人のノゾムへのメールを引用しよう。 [#ここから1字下げ]  ≪ノゾムへ。|俺《おれ》はそろそろ死ぬかもしれねぇ。  なんとなくわかる。俺が死んだら美嘉が一人になる。  本当は美嘉を一人にしたくねぇし俺も死にたくない。  だけどこれはしょうがねぇんだ。  俺が死んだら寂しがりやの美嘉はきっとすげー泣くだろうしすげー落ち込むと思う。  だからもし俺が死んだらノゾム、おまえが美嘉を支えてやってほしい。美嘉に現実を教えてやってくれ。  そしてもしいつかほかに美嘉を守ってくれる男が現れたら、そいつに美嘉をよろしくって言ってやってほしい。  俺が美嘉を守ってやれないのがすげー悔《くや》しいけど、俺のせいで美嘉が一人で寂しがっている姿を見るのが何よりつらいから。  最後にノゾムおまえは最高のダチだった。  幸せになれよ! いろいろありがとな≫ [#ここで字下げ終わり]  僕にはこういうヒロのメールをばっさり切り捨てる資格はないが、批評することはできる。これは、ホモソーシャルの構図そのものなのである。ホモソーシャルについては『謎《なぞ》とき 村上|春樹《はるき》』(前出)で詳《くわ》しく説明したが、ここでも少し手を入れてショート・バージョンで説明しておこう。  ホモセクシャルとホモソーシャルは違《ちが》う。ホモセクシャルはふつう「ホモ」と略されるもので、男性同士が肉体的な関係を持つことを言う。ホモソーシャルはそれとはまったく違った概念《がいねん》で、「ソーシャル」だから「社会構造」のレベルの問題である。簡単に言ってしまえば、男性中心社会のことだ。現在のわれわれの「父権制資本主義社会」の性質はホモソーシャルと呼んでいい。ホモソーシャルな社会では男たちが社会を支配しているが、この男たちはあるやり方で男同士の絆《きずな》を強めていく。それは「女のやりとり」である。これがホモソーシャルな社会を支えている。  僕の専門の漱石《そうせき》文学から分かりやすい例を挙げよう。  漱石の『こころ』はこの典型である。「先生」がいて、K がいて、お嬢《じよう》さん(静)がいて、三角関係のようになる。発端《ほつたん》は、「先生」が K の気持ちをほぐすためにと、K とお嬢さんをわざと近づけたところにある。実は、「先生」は結婚《けつこん》相手としてお嬢さんをもうほとんど手に入れているも同然の状態だった。そのお嬢さんを K に近づけることで、「先生」は K との「友情」を再確認する形を取るわけだ。つまり、「先生」は K との間でお嬢さんの擬似的交換《ぎじてきこうかん》を行おうとしたのである。ところが、K はこのホモソーシャルな交換がゲームでしかないことを理解していなかった。K はお嬢さんを本気で好きになってしまい、それを「先生」に告白したのだ。慌《あわ》てた「先生」は K を出《だ》し抜《ぬ》いてお嬢さんとの結婚を決めてしまう。お嬢さんを取り戻したのである。その後に K が自殺し、それが「先生」に重い罪の意識をうえつけることになり、ついには「先生」も自殺することになるが、そもそもの原因は友情を確認するためのゲームになる程|行《ゆ》き渡《わた》っていたホモソーシャルの原理を、K が理解していなかったことにある。  こういうホモソーシャルの構図の中では、女性は男同士の絆を強めるためにやりとりされる、いわば「貨幣《かへい》」のような存在になる。あるいは、「貨幣」のような役割を担《にな》うことになる。したがって、ホモソーシャルな社会では「女性|蔑視《べつし》」の思想がベースとしてある。なぜなら、女性を他者として「尊敬」していたら「貨幣」のようには扱《あつか》えないからだ。根底に「女性蔑視」の思想があるから、男同士は女性のやりとりができる。それがホモソーシャルな社会なのである。  社会が個人を規定する[#「社会が個人を規定する」はゴシック体]  ここで、予想される反論に答えておこう。  その反論とは、「自分は愛し合って彼と結婚したのであって、決して「貨幣」のように扱われてはいない」というものである。「彼氏」の側から言えば、「彼女を貨幣のようには扱った覚えはない」となるだろう。もちろん、個人がこう考えるのはまったくかまわない。しかし、「だから自分はホモソーシャルの構図に収まってはいない」ということにはならないのである。つまり、ホモソーシャルの構図と愛し合っているということとはまったく矛盾《むじゆん》しないのだ。いや、矛盾しないどころか、本人同士が「愛し合っているだけだ」と思いこんでいた方が、ホモソーシャルにとっては好都合でさえある。  端的にいえば、世の中ではホモソーシャルが機能しているけれども、本人同士は自分たちがただ愛し合っているだけだと感じてくれたほうが、ホモソーシャルな社会にとっては都合がいいのである。自分たちはホモソーシャルの社会に動かされて結婚すると思われてしまうよりは、愛し合っているから結婚するのだと当人同士が思ってくれたほうが、社会としては都合がいいということだ。それは、ホモソーシャルが一つの思想、イデオロギーだからである。イデオロギーが最も円滑《えんかつ》に機能するのは、そのイデオロギーが忘れられている時なのだ。  先の反論の誤りは、ホモソーシャルであることは愛し合っていないことだと思いこんでいるところにある。しかし繰《く》り返《かえ》すが、ホモソーシャルと愛し合うこととは両立するどころか、その方がホモソーシャルにとっても都合がいいのだ。つまり、ホモソーシャルが機能することと個人的な感情があるかないか、愛しているか愛していないかということとは別次元の問題なのである。ホモソーシャルは社会レベルの機能であり、愛情は個人レベルの問題だ。しかし、個人レベルの問題を社会レベルの問題が規定しているという考え方が、「ホモソーシャル」という思想をあぶり出したのである。  社会学で言う「見せびらかし効果」を考えてみよう。「見せびらかし効果」は、男が自分の社会的地位や富を誇示《こじ》するために、多くの女性と交際したり、美人の女性を妻に迎《むか》えることを言う。これは、非常にわかりやすい形で行われている。プロ野球選手やサッカー選手と「女子アナ」との結婚だ。一つは美人だから、もう一つは有名だから、「見せびらかし効果」が大きい。  これが男の場合の「見せびらかし効果」だが、女性の立場は自分の美しさを社会に誇示するために社会的にステータスがあり、そして富のある男性を選ぶという形を取る。自分の美貌《びぼう》と男性の社会的地位や富とを引《ひ》き換《か》えにするのである。これを個人的な感情のレベルで言えば、「尊敬」という言葉になる。女性が結婚を意識した場合、「尊敬できる人」という条件が上位にくるのはよく知られている。  こうした男女間の差異を学歴の上で制度化しているらしいのが、キューピッドクラブという結婚|紹介《しようかい》業者だ。キューピッドクラブの「ご婚約速報」という新聞広告を見ると、必ず女性よりも男性の学歴が上か(女性が短大卒で男性が四年制卒)、偏差値《へんさち》の高い大学を出ているのだ(たまに同じ大学というカップルがあるが)。「尊敬できる人」を露骨《ろこつ》に形すれば、こうなるのだろう。「尊敬できる」ということに相互性《そうごせい》がない場合は、女性よりも男性の方が上であることを求めていることになるからだ。もっと品のない言い方を挙げよう。女性は「甘《あま》えるのが上手」であるほうが結婚に近いと言われているが、「甘えるのが上手」ということは、露骨に言えば「バカのふりをするのが上手」ということだろう。「寂しがり屋を演じる」のも同じで、「尊敬できる人がいい」と質は同じなのだ。  これらは個人レベルに現れたホモソーシャルを見た場合だが、女性がこういう心性を持ってくれれば、男女の利害が一致《いつち》することになる。女性が結婚したい男性像の中で「尊敬できる人」が上位に来ている限りは(あるいは、これが男性が結婚したい女性像の上位|項目《こうもく》に入らない限りは)、そして男性が女性を「守ってあげたい」と思っている限りは、ホモソーシャルの社会は安泰《あんたい》だろう。  汚い自分[#「汚い自分」はゴシック体]  もうおわかりだと思う。美嘉が寂しがりやを演じているとは言わないが、寂しがり屋であることを隠《かく》そうとしていないことは事実だ。そして、そういう美嘉をヒロが「守ろう」と思っていることも事実だ。その結果、ヒロは自分が死んだら美嘉をまず親友のノゾムに託《たく》し、さらにノゾム経由で自分の知らない誰《だれ》かに託そうとしている。まさに目に見えない男同士の絆《きずな》の中で「女のやりとり」が行われていると言える。最も大切な「もの」を託し/託されたヒロとノゾムとの友情は、ヒロの死後も深まるだろう。このメールの最後が「最後にノゾムおまえは最高のダチだった。/幸せになれよ! いろいろありがとな」と終わっていることは、決して偶然《ぐうぜん》ではないのである。ヒロは、ホモソーシャルの構図を生きたのだ。  優が美嘉をヒロのところに送り届けるのも、ホモソーシャルの構図の中にある。美嘉が優に過去を告白したあとの場面である。 [#ここから1字下げ]  …泣き虫卒業しなきゃね。 「なんで我慢《がまん》するん? 俺の前では強がらなくてええよ」  優は美嘉が涙《なみだ》をこらえている事に気づいている。 「我慢してないよ? 美嘉強いもん!!」  こんな時まで強がりで本当に可愛くない女。  本当は泣いてしまいたいくせに…。 「嘘《うそ》つかんでええよ。美嘉は人一倍傷つきやすくて弱い子やんな? 俺わかっとるで! 我慢しなくてええから」  その言葉に我慢していた目からは涙がぽろぽろとこぼれ、美嘉は声を押し殺して泣いた。  優はその涙を指先でふき取り、フフッと微笑《ほほえ》んだ。 「…ほんまに、強がりやな」  まだ泣き虫は、当分卒業できないみたいだね。 [#ここで字下げ終わり]  優は限りなく優しいように見える。いや、実際優しいのだろう。しかし、それだけだろうか。この場面で、美嘉は優によって無理矢理「泣き虫」にさせられているのではないだろうか。それは、美嘉よりも優の方が強いということを示すためではなかっただろうか。ホモソーシャルの構図からはそう読める。  こうしてホモソーシャルの構図から読んでみると、もう一つのことに気づかされる。それは、レイプされた少女が相手を責めるよりも、なぜ自分を「汚い」と感じるかということだ。事実、美嘉もレイプされたときには「ヒロ、美嘉|汚《よご》れちゃった」と思っているし、その後もヒロが「美嘉の体は汚い」と思っていないか恐《おそ》れている。優に過去を告白したときにも、「重いとか汚いとか思われちゃうのかな?」と考えている。これはケータイ小説の「お約束」だが、レイプされた少女が自分を「汚い」と感じるのは、このホモソーシャルな社会では女は「キレイ」でなければ交換価値がないと無意識に信じ込まされているからだろう。「女はレイプの被害者になるように教えられて育つ。「レイプ」という言葉を知ることは、男と女の力関係を学ぶことだ」(ブラウンミラー『レイプ・踏みにじられた意思』幾島幸子訳、勁草書房、2000・3)。強烈な言葉だが、ここで言う「男と女の力関係」を支えているのが、ホモソーシャルなのである。『恋空』が空前のヒットとなったのは、ホモソーシャルの構図にしっかり組み込まれているからではないだろうか。それは現実にホモソーシャルな社会を生きている少女を「安心」させる。「自分の生き方はまちがっていないのだ」と。  もう一つ、『恋空』のヒットの理由は、それが過去物語として語られていることにもある。たとえば、冒頭《ぼうとう》近くに「この時は、ヒロに恋するなんて…全然思ってもいなかったんだ」とある。「人が物語を読むのは終わりがあるからだ」という意味のことを言った批評家がいるが、この語りは物語がすでに終わっていることを明示している。未来形の物語は何が起こるかわからないので不安をともなう。しかし過去形の物語は、すでに知っているかのような錯覚《さつかく》を読者に与《あた》え、安心して自分の過去を重ね合わせるようにしむける。本の中に読む物語と自分が体験した物語が読者の中で二重化するのだ。こうして、過去物語は物語の強度を高めるのである。  またしても「誤配」から始まる[#「またしても「誤配」から始まる」はゴシック体]  メイ『赤い糸』は全4冊。『赤い糸』上・下(ゴマブックス、2007・2)、『赤い糸 destiny』上・下(2007・6)である。ケータイ小説の構造|分析《ぶんせき》に関しては言いたいことはもうほとんど言ってしまったが、まとめておこう。       *  芽衣《めい》は中学二年生。幼なじみの悠哉《ゆうや》に思いを寄せているが、悠哉は芽衣の姉である春菜に恋していることを知っている。芽衣の気持ちを知らない悠哉は、芽衣に茶髪《ちやぱつ》でチャラい感じの友人コータを紹介する。芽衣は悠哉を忘れるために、クラスメイトのアッくんとのキスにおぼれ、やがて恋人となってセックスをするようになった。しかし、コータのたまり場に行って送ってもらったのを見られ、アッくんは別れると言い始めた。自暴自棄《じぼうじき》になったアッくんは止《や》めていたエクスタシー(麻薬《まやく》の一種)に手を出し、セフレだったカレンとセックスをした。アッくんから別れを告げられた芽衣は、自分からコータに抱《だ》かれた。そして夜遊びに出た日、芽衣は友人の美亜《みあ》とともに、四人の男にレイプされてしまう。  このレイプは美亜に男を取られた上級生の仕組んだものだった。しかも、それはコータのたまり場に来ている上級生だった。芽衣と美亜はたまり場に殴《なぐ》り込《こ》みをかけた。事情を知ったコータたちがその上級生や襲《おそ》った男たちに仕返しをしたが、逃《に》げ遅《おく》れてコータが警察に捕《つか》まってしまった。しかもその日、芽衣が自宅のマンションに帰ると、自分が引き取られた子だったことを知ってしまった。芽衣の産みの母親は自殺し、父親はヤクザで刑務所《けいむしよ》にいるという。さらにショックを受けた芽衣は自殺|未遂《みすい》をする。両親は離婚し、姉の春菜は父親と家を出た。芽衣は悠哉を思いながらも、アッくんとセックスを繰り返し、体の喜びを覚えた。  修学旅行では、友人の沙良《さら》が思いを寄せていたたかチャンのたっての頼《たの》みで一日だけデートをしたが、それが沙良に知れてしまった。沙良はホテルから飛び降り自殺を図ったが、未遂に終わった。しかし、芽衣はアッくんからたかチャンが好きなことを指摘《してき》されてしまう。沙良は記憶《きおく》を失い、転校していった。沙良の希望で病院に行くと、日記を付けていた沙良は、それを読んで、自分はたかチャンが好きだが、たかチャンは芽衣が好きなことを知っていた。そして、自分はもうたかチャンが誰だかもわからないのだから、芽衣はたかチャンとの両思いをとげてほしいと言うのだった。その声に背中を押された芽衣は、たかチャンと恋人同士になって、愛の証《あかし》に入《い》れ墨《ずみ》まで入れた。  ところが、たかチャンだけ高校入試に失敗し、別の高校に通うことになった。そうなると二人の気持ちはしだいにずれていき、たかチャンは浮気《うわき》をした上に暴力をふるうようになる。その後は優しく振《ふ》る舞《ま》うが、親友の優梨《ゆうり》がナツくんの子供を妊娠したと相談してきたときに、たかチャンと会う約束が守れなかったのを機に、たかチャンのドメスティック・バイオレンスは激しさを増していった。芽衣はついにケータイの番号を変え、たかチャンとの関係を絶った。優梨はナツくんの反対を押し切って、彼と別れても子供は生むと言う。恋愛に失敗した芽衣はいつか赤い糸で結ばれた相手を探そうと思う。(『赤い糸』)  芽衣は高校二年生になった。ナツくんも賛成し、優梨は無事出産し、子供を梨夏《りか》と名づけた。優梨と夏樹《なつき》(ナツくん)から一字ずつ取ったのである。偶然出会ったたかチャンは、芽衣に暴力をふるっていた時期には両親が離婚話でもめていて、母親が父親から殴られていたことを話した。その後ガソリンスタンドでアルバイトをはじめた芽衣にたかチャンがやり直したいと言ってきた。その頃、別れていた父親が肺ガンになったと知らされた。芽衣は悲嘆《ひたん》に暮れるが、それが契機《けいき》となって父との再会を果たした。父親の手術は無事に終わった。父の手術の成功のお礼にと神社に行くと、神主からアッくんが芽衣を思って2年間も通《かよ》い詰《つ》めていることを知らされた。  麻美と付き合っていると知りながらアッくんが気になる芽衣は、たかチャンにこんな「中途半端」な気持ちでは付き合えないと告げ、アッくんに会いに行くが、彼のマンションには麻美《まみ》がいて、アッくんと二人でいるところを見られてしまう。芽衣は「中途半端」な自分がたかチャンも麻美も傷つけたことを後悔《こうかい》する。アッくんは芽衣に「未練」があるが、心臓を病んでいてアッくんとの関係を生《い》き甲斐《がい》としている麻美の姿に、芽衣はアッくんを諦《あきら》めると言った。しかし、心ではアッくんを思い続けていた。アッくんは麻美と別れたと芽衣に告げ、芽衣は優梨から麻美の心臓病はアッくんを引き留めるための嘘だったと聞かされた。  アッくんと行ったイタリアン・レストランで、芽衣は産みの母親の名を知っている店主と出会う。しかし、芽衣はそれを知りたくなくて逃げてしまう。アッくんの説得で民間の児童養護|施設《しせつ》を経営している人に会いに行った芽衣は、「父親には会いたくなったときに会えばいい」という言葉に触《ふ》れて気持ちが楽になった。アッくんからもコクられて幸せを味わう芽衣に、非通知の嫌がらせメールが入り始めた。芽衣はアッくんが麻美からよりを戻そうと持ちかけられていることを知ったが、アッくんと幸せな気持ちでセックスをした。  その頃、生活がどんどん乱れてクスリを止められなくなった美亜のことが芽衣は気になっていた。両親にも愛されずに育った美亜の過去をすべて聞いた芽衣は、育ての親に大切にされた自分と引き比べて、美亜を立ち直らせようと思った。  アッくんの母親は麻美の父親が支店長を務める銀行から融資の話を持ちかけられていた。麻美は、3年前に芽衣がレイプされたことを、それを知らないアッくんに話すと脅《おど》した。その後、アッくんのマンションの前で麻美ともめているところへアッくんが降りてきて、車道に飛び出す芽衣をかばって共々車にはねられて怪我《けが》をしてしまう。しかし、この日以来麻美からの嫌がらせはなくなった。麻美は美亜と同じく、「境界性人格障害」だという。  芽衣は勇気を出して、自分の過去を確かめに例のレストランに行った。父はいつかアッくんが連れて行ってくれた施設を運営しているという。その時、アッくんの母親が店に飛び込んできた。彼女は芽衣の母マチ子の親友だったのだ。幼いアッくんと芽衣は、その時もう出会っていたのだった。芽衣の運命の赤い糸は、アッくんと結ばれていたことになる。(『赤い糸 destiny』)       *  小さい胸[#「小さい胸」はゴシック体]  もう説明はいらないように見える。ケータイ小説のアイテムがてんこ盛りである。そこで、はじめにこれまで言われてきたケータイ小説の特徴《とくちよう》にいくつかの要素を付け加えておこう。しかし、ほんの小さなほころび(?)がホモソーシャルの構図に風穴をあけるかもしれない。  第1は、ケータイ小説では特に「誤配」が恋の特徴だということ。第2は、レイプされた少女は自分を「汚い」と感じてしまうこと。『赤い糸』にも「レイプされて、汚されて」といった記述が散見される。第3は、「中途半端」な態度が一番責められること。第4は、それと合わせ鏡のように、「未練」が物語を複雑にする仕掛《しか》けになっていること。第5は、さらに関連するように、告白することに非常に重要な意味があること。第6は、男には女を守る義務があること、などなどである。  これらの大枠《おおわく》は、ホモソーシャルの構図でほぼ説明ができる。そもそも、「誤配」がなければ女の交換は起きないし、先に述べたように、レイプが「自分を汚す」感覚もこれほど強くは起こらない。そして、「中途半端」や「未練」があると、男同士の交換の「貨幣」にはならないので、それが大きな罪と見なされる。そこで、「告白」して女が誰の所有物かをはっきりさせる必要があるのである。自分のものになった女は守らなければならない。でなければ、「交換」することができないからだ。  繰り返すが、ホモソーシャルの構図の中では、男も女も自分がその中にいることを自覚していない。自分の意志で行動し、揺れ動き、悩《なや》んでいると信じている。その感覚にまちがいはないのだが、ホモソーシャルという大きな物語から見れば、少しの例外はあっても、男も女もまるで将棋《しようぎ》のコマのように動かされているように見えるはずだ。彼女/彼の気持ちはホモソーシャルの構図が作りだしているのだ。ケータイ小説では少女の視点から物語が語られるので、その構図が見えにくいだけだ。たとえば、『赤い糸』なら芽衣が何人もの青年を取《と》り替《か》えているように見えるが(芽衣を中心に物語をまとめたからよけいそう見えるだろう)、アッくんを中心にこの物語を語り直せば、『赤い糸』はまったくちがった相貌を見せるはずだ。  一つだけ例を挙げておこう。芽衣はセックスをするときに「胸も小さいから恥《は》ずかしい…」と何度か思いもし、口にもする。次に引用するのは、芽衣がアッくんと1年ぶりにセックスを期待する場面である。 [#ここから1字下げ] 「アタシ、胸が小さくなったんだ。しばらく前に食事とれなくて痩《や》せたから……」 「胸? 見た目じゃわかんないけど」 男の人って、胸が大きい人が好きっていうイメージがあった。 前より小さくなってたら、ショック受けちゃうかな? そう思うと、エッチというより体を見せることに対して臆病《おくびよう》になってきた。 [#ここで字下げ終わり]  村上春樹『風の歌を聴《き》け』を論じるとき、僕はホモソーシャルに関連してこう書いた。長いが、単独に読めるように少しだけ改変して、引用しておこう。       *  人間関係は相互的である。ホモソーシャルな社会は女性蔑視と引き換えに、男性には過酷《かこく》な生き方を強いている。女性蔑視は「女らしさ」と言い換えられ、過酷な生き方は「男らしさ」と言い換えられる。そのことで、人はホモソーシャルという思想を忘れる。あるいは、目をそらす。では、女性蔑視がもっと個別的に現れたら、どういう形を取るだろうか。  それは、女性の局所化である。女性を身体に局所化し、さらにそのパーツに局所化する。たとえば、村上春樹は女性を乳房《ちぶさ》に局所化して描《えが》く傾向がある。いや、ホモソーシャルの構図から見れば、村上春樹文学の「僕」たちは女性を乳房に局所化して評価する傾向があると言うべきだろうか。 『風の歌を聴け』では、ベットで寝入《ねい》っている「小指のない女の子」について、「形のよい乳房が上下に揺れる」と書かれている。また、彼女のアパートに呼ばれた場面では「彼女は乳首の形がはっきり見える薄《うす》いシャツを着て、腰《こし》まわりのゆったりとした綿のショート・パンツをはいていたし、おまけにテーブルの下で僕たちの足は何度もぶつかって、その度に僕は少しずつ赤くなった」と書かれているのだ。一方、ジェイズ・バーで会った、もしかすると鼠《ねずみ》の新しい恋人かもしれない女性に関しては、「グレープフルーツのような乳房をつけ派手なワンピースを着た30歳ばかりの女」と書かれている。さらに、地下鉄で出会った「ヒッピーの女の子」は「彼女は16歳で一文無しで寝る場所もなく、おまけに乳房さえ殆《ほとん》どなかった」と書かれているのだ。文庫本にして150ページほどの小説に、これだけ乳房に関する記述がある。しかも、形のいい乳房とそうでない乳房にはっきり書きわけられているのである。  この両者を比べれば、「僕」が乳房によって女性を評価していることがわかるだろう。あるいは、女性の好みを乳房によって書き分けていると言うべきだろうか。もちろん、前者が「僕」の好む女性で、後者はそうでない女性だ。ここには女性蔑視の「匂《にお》い」が漂《ただよ》っている。前者の系列には、「僕」が「僕の目をのぞき込むようにしてしゃべ」る「小指のない女の子」に「ひどくどぎまぎさせ」られるような、淡《あわ》い恋のはじまりを感じさせる場面も含《ふく》まれる。しかし、女性蔑視がベースになっていても、初心で淡い恋はいくらでも可能だ。それに、繰り返すが、人間関係は相互的である。 [#1字下げ] 僕が三番目に寝た女の子は、僕のペニスのことを「あなたの、レーゾン・デートル」と呼んだ。  ペニスが「僕」の存在理由。女性を乳房に局所化する「僕」は、ペニスに局所化されてしまうのだ。女性蔑視は、実は男性蔑視とセットになっているのである。「僕」の記述はこのことをみごとに暴《あば》いている。『風の歌を聴け』は、一面的なホモソーシャルの構図の向こうへ突《つ》き抜《ぬ》ける可能性を孕《はら》んでいるのではないだろうか。だから、「僕」の一人称《いちにんしよう》語りで成立している村上春樹文学は自己否定の契機を孕んでいて、時に底なしの虚無《きよむ》を感じさせるのだ。その意味で、村上春樹文学から女性蔑視だけを読んでしまう批評は、細部が読めていないか、たとえばホモソーシャルという読みの枠組みを使いこなせていないと言うべきだろう。       *  僕は、『風の歌を聴け』では、女性の身体の局所化だけでなく、男性の身体の局所化も行われているところに、人間関係の相互性を読み取ろうとした。しかし、『赤い糸』にこのような身体に関する相互性はない。女性は乳房の大きさによって商品価値が決まると思いこんでいる、まだ幼い少女の感性が書かれているだけである。いや、それどころか芽衣は体が丸ごと商品であることを知っているかのようだ。この芽衣の羞恥心《しゆうちしん》こそが、ホモソーシャルの構図が生み出したものなのである。  ところで、この構図の全体をもう少し別の角度から見たらどうなるだろうか。そのために、マリリン・ヤーロム『乳房論 乳房をめぐる欲望の社会史』(平石律子訳、ちくま学芸文庫、2005・1)を参照してみよう。この本は人類が乳房に過剰《かじよう》とも言える意味を与えて来たことを暴いたみごとな文化史だが、「商品化された乳房」という現代における乳房について論じた章で、次のように述べている。 [#1字下げ] 大きな乳房がセクシュアリティと生殖《せいしよく》の指標なら、乳房の小さな女性には何が残されているのだろうか。キャサリン・ヘップバーンやオードリー・ヘップバーンのように乳房を売り物にするわけにはいかない女優たちは、まったく異なる層を代表した。彼女たちはセックスではなく上流階級のエレガンスのシンボルとなったのである。肉体の生々しさを超越《ちようえつ》した存在であるかのように扱われ、恋愛映画に主演するときも肉感性の欠如《けつじょ》した彼女たちは情熱的な肉体ではなく洗練と知性を表した。  文化史的に見れば、乳房の小さい女性は知性を表象することになる。こういう分析を視野に入れると、芽衣があたかも自らの「知性」を恥じているかのように見えて来る。それはこういうことだ。乳房が大きくセクシュアリティをアピールする側にいる女性は、男性に見られ、守られる女性だと言っていい。一方、乳房が小さく知性をアピールする女性は男性と対等な女性だと言っていい。いや、少なくとも露骨に男性に見られ、守られることはなく、それを洗練された「エレガント」なやり方に導くだろう。  では、小さな乳房を恥じている芽衣はいったい何を恥じているのだろうか。言うまでもなく、自分の体がアッくんの「欲望」に値《あたい》しないのではないかと恥じているのである。あるいは、自分が「知性」の側にいることを恥じていると言ったら深読みにすぎるだろうか。しかし、「知性」の側にいる女性は男性に見られ、守られる度合いが低いことを考えれば、あながち見当はずれとは言えないのではないだろうか。少なくとも、芽衣がアッくんをそのような男だと見積もっていることだけはまちがいない。『赤い糸』には身体に関する相互性はなく、男性の身体が対象化されてはいないが、芽衣のナイーブな羞恥心の中に、アッくんの姿が映し出されていることはまちがいのない事実である。繰り返す。芽衣の目に映るアッくんはその程度の男なのだ。これが、人間関係が相互的であるということの意味だ。  ただし、芽衣が小さな胸を気にするのは物語が進行中のことである。この時点で芽衣の目に映ったアッくんがその程度の男であることは事実だが、物語の終わりではどうだろうか。芽衣とアッくんが幼いときに出会っていたことを知った場面で、アッくんの母親はこう語る。 [#1字下げ]「アツシのファーストキスは芽衣だったのよ。赤《あか》ん坊《ぼう》だった芽衣がチュッてキスして、私とマチ子は大笑いしちゃった。そのとき、マチ子が言ったのよ。いつか芽衣がアツシと結婚したらいいねって……」  芽衣の乳房が小さかったどころか、まだまるでなかった頃。キスをしたのは芽衣の方からだったのだ。このエピソードは、芽衣が、アッくんとのキスに溺《おぼ》れた体験を帳消しにするだろう。そして、その話を聞いた芽衣は、こう思う。 [#ここから1字下げ] やっと……、やっとアタシは、赤い糸の先にいた運命の人に巡《めぐ》り会《あ》うことができた。 アッくんの手をそっと握《にぎ》ると、アッくんは、強く握り返してきてくれた。 そして、アタシたちは、目を合わせて微笑み合った。 [#ここで字下げ終わり]  もちろん、このあと芽衣が夢見る「あたたかい家庭」の中で、二人がどういう関係を築くのかはわからない。しかし、物語としてはここが終わりなのである。手を握ったのも芽衣の方からだった。芽衣はみごとに物語の主人公になったのである。その時、アッくんはそれまでとはまた別の意味でその程度の男になった。芽衣はもう小さな乳房を恥じたりはしないだろう。——物語はそんな風に、ホモソーシャルからほんの少し離《はな》れて終わる。 [#改ページ] ————————————————————————————  6 ポスト=ポスト・モダンとしてのケータイ小説 ————————————————————————————  ケータイ小説のセックスは軽いか[#「ケータイ小説のセックスは軽いか」はゴシック体]  家坂清子《いえさかきよこ》によると、現代日本の若者は15歳《さい》(高校1年生)を境に性交渉《せいこうしよう》経験者が急激に増えて、約4人に1人の割合になるという(『娘たちの性@思春期外来』生活人新書、2007・7)。また、ケータイ小説は地方都市でよく売れたと言われているが、家坂は「全国的な規模からの観点に立つと、性交経験率は大都市より中都市、地方のほうが上昇《じようしよう》している」とも言う。家坂がその傾向《けいこう》に疑問を抱《いだ》いてある地方都市の高校の教頭に聞いてみたところ、「他に楽しみがないからですよ」と即答《そくとう》されたと言う。ケータイ小説の世界は、現実なのである。  では、少女の性は軽くなったのだろうか。高崎真規子《たかさきまきこ》『少女たちの性はなぜ空虚《くうきよ》になったか』(生活人新書、2008・1)は、こう書いている。 [#ここから1字下げ]  エンコー少女たちにしてみたら、別に安く売っているという意識はなかったんじゃないだろうか。セックスがそんなに重みのあるものだなんて、元々ピンとこない話なのだ。考えてみれば、元々特別な価値があったわけではない。それに、純潔とか女の命といった意味をこめていただけのことで、それがはげてしまえば、ただの行為《こうい》にすぎないのだ。  つまり、彼女《かのじよ》たちがセックスを軽く扱《あつか》ったのではなく、すでに十分軽かったということだ。 [#ここで字下げ終わり]  これ自体がちょっと品のない文章だし、「元々特別な価値があったわけではない。それに、純潔とか女の命といった意味をこめていただけ」云々のあたりは少しおかしい。セックスに「元々特別な価値があったわけではない」とはいつの話をしているのか、意味不明だ。こういう具合に、「元々」などという議論はたいてい怪《あや》しい。日本では古来セックスを特別に扱ってきた歴史がある。ただし、ずいぶんおおらかであったことも事実だ。しかし、こういう歴史的な議論はこのあたりにしよう。  おかしいのは、高崎真規子がセックスには「元々特別な価値」などありもしなかったのに、それに「純潔とか女の命といった意味をこめていた」と言っている因果関係だ。価値がないものに意味をこめたのではない。意味をこめたから、価値があるものとして社会的に承認《しようにん》されるようになったのである。庶民《しよみん》の間ではセックスは価値のあるなしとは無関係にあったが、明治以降のキリスト教的純潔思想によって、社会が特別な意味を与《あた》えてはじめて価値があるかのように認識されはじめたのだ。だから、その先に述べていることはほぼ正しい。純潔思想がなくなれば、セックスは価値から無関係になる。  なぜこの文章にかみついたのかと言えば、これを批判することでケータイ小説のセックスの重みを浮《う》かび上《あ》がらせたかったからである。ケータイ小説に書かれるセックスは軽いという意味の意見は多い。たしかに、ケータイ小説ではセックスがたくさん書かれている。しかし、たくさん書かれているからといって、彼《かれ》/彼女たちのセックスが軽いことにはならない。たとえば、ケータイ小説の重要なアイテムの一つであるレイプにしても、よく言われるように、少女たちはそれをすぐに忘れるわけではない。自分の全存在が「汚《よご》れた」という感覚をいつまでも持ち続けるのである。『赤い糸』の芽衣《めい》は明らかに、その後遺症《こういしよう》(セックスに対する恐怖感《きようふかん》)に悩《なや》まされてもいる。  中西新太郎はその秀抜《しゆうばつ》なケータイ小説論で、こう言っている(「自己責任時代の〈一途《いちず》〉を映すケータイ小説」『世界』2007・12)。「「一途」をつきつめる心情優位の姿勢はケータイ小説の主人公たちに共通しており、世界を引き受ける健気《けなげ》と言うべき心理機制がそこから生まれる」ので、「自分への理不尽《りふじん》な攻撃《こうげき》も抑圧的《よくあつてき》な世界の威力《いりよく》も、「私が耐《た》え忍《しの》ぶべき試練」へと変換《へんかん》して了介《りようかい》する内面操作を可能にする」。そして、「苦難のそうしたあくまで私的で孤独《こどく》な受容が、彼らの純粋《じゆんすい》さを、「一途」を証《あか》し立てる」と言う。それは、「決して世界に救済を求めない」ような「自己責任イデオロギーが強力に浸透《しんとう》している」からだとする。  そう、ケータイ小説の主人公はまさに「受苦する身体」を生きていると言ってもいい。しかし、それは同時に「聖なる身体」でもあるのだ。誤解を恐《おそ》れずに言えば、物語論的観点から見て、レイプは少女が物語の主人公となるべき資格を得るための通過|儀礼《ぎれい》なのである。だからこそ、彼女たちは「汚れた」というマイナスの形によって、他の登場人物とは決定的に差異化される。それを受け入れることができる男だけが、少女の彼氏に値《あたい》する。その意味では、レイプされた少女は物語の中の「貴種」であるとさえ言えるだろう。だとすれば、彼女たちの性の遍歴《へんれき》はまるで「貴種|流離譚《りゆうりたん》」であるかのようだ。「貴種流離譚」とは、たとえば古典の『伊勢《いせ》物語』のように「貴い身分」の人間が権力の中心から排除《はいじよ》されて全国を流浪《るろう》する型の物語を言う。物語論的には、ケータイ小説の少女たちの「真実の愛」を見つけるまでの「男性遍歴」が、ちょうど「流浪」に相当する。ケータイ小説には物語の古層がしまい込《こ》まれている。  またケータイ小説では、セックスする関係になるためには、「告白」という厳格な儀式を経なければならない。キスですらそうだ。芽衣は「告白」のともなわないキスに自己|嫌悪《けんお》を感じている。アッくんとのあっけないキスに、まるで「処女|喪失《そうしつ》」であるかのような衝撃《しようげき》を受けてもいる。それでも、ケータイ小説のセックスは軽いと言えるだろうか。  ケータイ小説の少女たちは複数の男とセックスをする。しかし、その一つ一つは彼女たちにとって大変な重みを持っている。なぜなら、「他にすることがない」からだ。社会と生産者として関わることはできず、かろうじて消費者として関わっている彼女たちにとって、他者と濃密《のうみつ》に関《かか》わるセックスの重みは大人以上だろう。それに、ホモソーシャルの構図の中ではセックスは重い意味を持つ。女性が誰《だれ》とでもセックスをすれば、男の所有物ではなくなってしまうからである。ケータイ小説の少女たちのセックスに対する思い入れは、ホモソーシャルの構図をトレースするかのようだ。  それでも軽く見えるのはなぜか[#「それでも軽く見えるのはなぜか」はゴシック体]  ケータイ小説はなぜセカチュー(片山恭一《かたやまきよういち》『世界の中心で、愛をさけぶ』小学館、2001・4)ではないのか。理由は簡単だ。セカチューは少女の白血病だけを書いた。しかし、ケータイ小説はあまりに多くのアイテムを使いすぎるのである。感情移入のポイントが、多すぎると言ってもいい。その点『恋空《こいぞら》』は、ケータイ小説のアイテムをふんだんに使ってはいるものの、物語の構造としてはヒロの癌《がん》という一点に絞《しぼ》り込《こ》んだことで成功したのだろう。これは、前にも書いた。  その結果、どういうことが起きるのだろうか。それは、アイテムの記号化である。読者は多すぎるアイテムの一つ一つに感情移入するほどお人好《ひとよ》しでもなければ、暇《ひま》でもない。そこで、多すぎるアイテムが記号として消費されることになる。「現代人は歯磨《はみが》きを買うのではなく、広告やデザインに現れた歯磨きのイメージを買うのだという冗談《じようだん》がある」と山崎正和が書いたのは1971年のことだったが(『劇的なる日本人』新潮社、1971・7)、それは決して「冗談」ではない。フランスの社会学者ジャン・ボードリヤールによれば、現代社会における「消費」とは「言語活動」なのである(『消費社会の神話と構造』今村仁司、塚原史訳、紀伊國屋書店、1979・10)。それは、消費が「神話」となることを意味する。「神話」の中では、一つの記号が一つのイメージを容易に喚起《かんき》する。それが現代社会における消費である。ケータイ小説における多すぎるアイテムも、そのように消費される。それが、特に性的な言説であることにはどのような意味があるのだろうか。  僕の「文芸時評」の引用からはじまったこの論は、やはり「文芸時評」(2007・8・26)の引用によって結論を導きたいと思う。       *  いわゆる「現代文学」は、性(セックス)をいかにも安易に書く。正確に言うと、わざと安易に書いているように見えると僕が感じる、ということだ。  フランスの思想家ミシェル・フーコーは、「近代」とは性に関する言説がその人の「真実の言説」となった時代だという意味のことを述べた。これは、英文学者の大橋洋一が卓抜《たくばつ》な例を使って説明している(『新文学入門』岩波書店、1995・8)。自分(大橋洋一)がデパートの地下食品街でマグロの刺身《さしみ》を買ったところを見ても、誰も自分のことが「わかった」とは思わないだろうが、もしデパートの裏で男を買ったところを見たら、自分のことが「わかった」と思うだろうというのだ。これが、性に関することが「真実の言説」となったということの意味だ。  こういう観点から僕自身の「感じ方」を振《ふ》り返《かえ》ると、僕は性を語ることにためらいを感じる「近代人」であって、「現代人」ではないということになりそうだが、こうも言えそうだ。「現代文学」は「性的な言説が真実の言説」であることを知りながら、あえてそれを安易に書いてみせることで、自らが「現代文学」であると主張している。あるいは、それを知っているからこそ、性急に「性的な言説」を書いているのかもしれない。たぶん、どちらも正しいのではないかと思っている。「現代文学」は急ぎすぎではないだろうか。       * 「「近代」とは性に関する言説がその人の「真実の言説」となった時代」だとすれば、ケータイ小説は「真実の記号化」をしてしまったのではないだろうか。ポスト・モダンの現代ではあらゆるものが記号化される。しかし、性に関する言説だけは「真実の言説」として特権的に記号化されなかった。だからこそ、現代文学は好んでそれを書いて見せたのである。その「真実の言説」までをもアイテムとして記号化したのがケータイ小説ではなかっただろうか。それはもはやどこにも特権的な言説が成立しない世界であって、「ポスト=ポスト・モダン」と呼ぶしかないのではないだろうか。大衆消費社会の現代はあらゆるものを記号化して、その差異を競《きそ》う。そういう社会にあってもなお多くの読者がケータイ小説にある種の違和感《いわかん》を抱くとしたら、それは性に関する言説さえ「真実」のリアリティーを失ってしまった、差異のないのっぺりした世界に耐《た》えられないからだろう。  フランスの思想家ミシェル・フーコーは、晩年に「パレーシア」という概念を提出した。パレーシアとは、自分の生と引き換えに自分だけの「真理」を語る権利のことで、そうすることによって「普遍的な真理」に「別の真理」が対置され、「真理」が複数化する「真理のゲーム」がはじまると言う(中山元『フーコー入門』ちくま新書、1996・6)。生涯をかけて「真理」の解体をめざしたフーコーにふさわしい到達点である。パレーシアで言う「真理」は、先の「真実の言説」と深いかかわりがある。真偽はどうあれ、ケータイ小説は「自分だけの体験」を掛け金にして、性に関する「真実の言説」を語った。そういうスタイルを採っている。しかし、あまりにも性に関する言説に特化しすぎたために、「真実の言説」が空洞化し、「真理のゲーム」がその重みと複数性を同時に失ってしまったように思う。それこそ「お約束」になってしまったのである。急ぎすぎたのだ。それが、ケータイ小説の評価と直結していると言える。  誤解のないように言えば、これはあくまで書き方のレベルの問題である。登場人物のレベルにおいては、性は重い意味を持っている。しかし、すでに小説に書くことができる物語のパターンには限りが見えてきた。いまは、書き方で競う時代だと言っていい。先の芥川賞《あくたがわしよう》で川上|未映子《みえこ》が受賞したのも、表現の斬新《ざんしん》さが評価されたからである。その意味で、ケータイ小説はその稚拙《ちせつ》さも含めて、新しい。  僕たちはいま、ケータイ小説という「ポスト=ポスト・モダン」の世界を目の前に見ているのだ。 [#改ページ] ————————————————————————————  あとがき ————————————————————————————  ケータイ小説論を書こうとしてきちんと読み始めたら、これは斜《なな》め読《よ》みができないジャンルだと感じた。実はケータイは持たない主義なので書籍版《しよせきばん》で読んだのだが、それでもダメだった。僕はもともと本を読むのに時間がかかるのだが、どうしても斜め読みをしなければならないときがある。その時には段落のはじめの数字だけを読んでそれを頭の中でつなげていくのだが、ケータイ小説はそれができないのだ。そもそも段落が異常に多い。話の展開が早すぎる。会話が多すぎる。そして、僕が慣れていない。そういうことのすべてを割り引いても、これは新しい読書体験だと思った。僕がケータイ小説は一つのジャンルとしての強度を持っていると判断したのは、こういう体験からだった。  ただ一方で、すでに言われているように、ヒットしたケータイ小説が予定調和的に「真実の愛の発見」で結末を迎《むか》えるところに、このジャンルの弱さや通俗性があるとも思った。結局、大人の与えた「道徳」という「大きな物語」の圏内《けんない》で書かれているからである。リアル系ケータイ小説は、セックスと恋愛《れんあい》と結婚《けつこん》が三位一体となったロマンティック・ラヴイデオロギーをなぞっている。そして、ロマンティック・ラヴイデオロギーこそは、近代家族を支えるイデオロギーなのだから。  書き方の新しさだけでなく、物語の新しさを見つけられない限り、文学に新しいシーンを描くことはできない。もっとも、ケータイ小説作家は新しい物語など書こうとは思っていないだろうし、ケータイ小説の読者も新しい物語を求めているわけではないだろう。反社会的なエピソードが連ねられていても、最後に来るのは「安心」である。そういう「少女による少女のための中間小説」というポジションが、いまのケータイ小説である。それでも僕は、ケータイ小説に可能性を読もうと試みた。ケータイ小説の読者も何か言葉にできない新しさを感じているのではないだろうか。それは「祈り」のようなものではないかと思っている。  昨年の春から「文芸時評」を連載《れんさい》している。近代文学の研究者の多くは「現代文学」を小馬鹿《こばか》にしているところがあるが、毎月刊行される文芸誌を読み続けて、何か新しい息吹《いぶき》を感じるときがある。そして、僕の文学観に何かが付け加えられていくように思っている。もし「文芸時評」を連載していなかったら、ケータイ小説論を書こうとは思わなかっただろう。僕に「文芸時評」を書かせることを思いついた、『産経新聞』文化部次長の江原和雄さんに感謝している。  いま勤務している早稲田大学では、はじめての取材は広報室を経由して依頼《いらい》が来ることが多い。1月の下旬に大学へ出てメールをチェックしたら、ケータイ小説について今年3件目の海外メディアからの取材依頼の知らせが広報室から来ていた。僕は「ここまで関心がもたれるジャンルならば、やはり論じておかなければならいないかも」と思って、長いお付き合いがあるプリマー新書編集長の山野浩一さんへ、その場でメールを出した。実は、ちくま新書からはまったく別のテーマですでに企画《きかく》が進行中だったのだが、旬を過ぎつつあるケータイ小説が先だと思ったのである。  授業が終わってまたメールをチェックしたらもう返事が来ていて、いくつか質問事項が書いてあった。それにもすぐに返事をした。そして、次の授業を終えてまたまたメールをチェックしたら、「やってみましょう」という返事が来ていた。そういうわけで、この企画はわずか数時間、2往復のメールのやりとりで決まってしまったのである。2月7日には、担当してくださる伊藤笑子さんと企画の打ち合わせを行った。伊藤笑子さんとは『未来形の読書術』からのお付き合いで、安心してお任せできるのでありがたかった。でも、「エクスタシー」に「何かドリンク剤《ざい》ですか?」というコメントが付いていたときには、さすがに「こういう純な人もいるんだ」と笑ってしまった。それで「麻薬の一種」と注を入れたけど。  ケータイ小説論を書くという貴重で楽しい体験をさせてもらった山野浩一さんと伊藤笑子さんに、心から感謝申し上げたい。   2008年5月 [#地付き]石原千秋 石原千秋(いしはら・ちあき) 1955年生まれ。成城大学大学院文学研究科国文学専攻博士課程中退。現在、早稲田大学教育・総合科学学術院教授。専攻は日本近代文学。文学テクストを現代思想の枠組みを使って分析、時代状況ともリンクさせた斬新な読みを展開する。また、とくに入試国語の読解を通した問題提起を積極的に行い、現場の内外を問わず支持を集めている。著者に『教養としての大学受験国語』『大学受験のための小説講義』『国語教科書の思想』『大学生の論文執筆法』(ちくま新書)、『未来形の読書術』(ちくまプリマー新書)、『テクストはまちがわない』(筑摩書房)、『反転する漱石』(青土社)、『漱石の記号学』(講談社選書メチエ)、『漱石と三人の読者』『百年前の私たち』『中学入試国語のルール』(講談社現代新書)、『秘伝 中学入試国語読解法』『学生と読む『三四郎』』『秘伝 大学受験の国語力』(新潮選書)、『評論入門のための高校入試国語』『小説入門のための高校入試国語』(NHK ブックス)、『J ポップの作詞術』(生活人新書)、『『こころ』大人になれなかった先生』(みすず書房)、『謎とき村上春樹』(光文社新書)ほか。 本作品は2008年6月、ちくまプリマー新書の一冊として刊行された。