矢野誠一 志ん生のいる風景 目 次  序  章  1 一九七三年秋彼岸  2 さむらいの自我  3 ひとりの師  4 藝と商売  5 曙光がさす  6 父と子  7 冬の夜に  8 好敵手  9 再び一九七三年秋彼岸  終  章  補遺 志ん生残影 [#改ページ]  序  章  古今亭志ん生。五代目。本名、美濃部孝蔵。  僕の、いちばん好きな落語家である。 [#改ページ]  1 一九七三年秋彼岸  古今亭志ん生が逝ってしまった一九七三年(昭和48)九月二十一日、僕は、いつもよりはやめの昼食をとって家を出た。午後二時に毎日新聞の特集版編集部を訪ねる約束があったからで、その時分、茅ケ崎に住んでいた身としては、東京に出るまで二時間くらい見込んでおかないことには、仕事にならなかったのである。この日は朝から雨が降っていたはずなのだが、記憶にない。  約束の時間よりややはやく竹橋の毎日新聞社に着いて、来意を告げると受付の女の子が手もとのメモを見ながら、 「特集版のほうはあとで結構ですから、すぐに四階の学芸部におあがり下さい。高野がお待ちしております」  という。面会票というのを書いてもらって、エレベーターで四階の編集局にあがり、学芸部の机にむかうと、高野正雄記者が待ちかねていた様子で立ちあがり、古今亭志ん生の死を伝えてくれた。 「社に一報がはいってすぐ、お宅に電話したらば、ちょうどうちに来るっていうじゃない。すぐに、受付と特集版のほうに手配しておいたわけ」  あくる日の紙面に載せる追悼文を、いまここで書けという。原稿用紙と、鉛筆と、資料に使えというのだろう、志ん生に関する新聞記事の切り抜きの束が、すでに用意されていて、あいている机の上に置かれていた。  落語家が死んで、新聞に追悼文を求められることはそれまでにも時どきあって、当然のことながらそれは急ぎの原稿になる。  たしか、柳家金語楼や桂文楽のときなど、新聞社に直接電話で送った記憶がある。送話器にむかって、自分の書いた原稿を読みあげるのは、何度やってもあまりいい気分のものじゃない。  だが、なにかとせわしない新聞社の机で、時間を定められた原稿を書かされたのも初めての経験で、これもあまりいい気分とはいえなかった。毎日、こんな空気のなかで原稿を書いている新聞記者というのも、大変な仕事だとつくづく感心させられたのを思い出す。  そんな雰囲気のところに持って来て、突然の訃であっただけに、追悼文を書くのには苦労した。自分の、追善する気持を、素直に書けばそれでいいとはわかっているのだが、なかなか志ん生の死が実感できないのである。  もう、実際の高座を離れてからかなりの時間がたっていて、若い落語ファンのあいだでは、「幻の落語家」などといわれていたのだが、僕にとって志ん生は、いつも現役の落語家であった。だから、志ん生が死ぬなんて、考えられなかったのである。無論、人間の寿命には限りがあり、八十三歳という年齢が、決して短いものではないことぐらい理解できる。しかし、志ん生に限っていえば、不死身という不可思議なことを可能にするような、妙な能力をそなえていると、勝手にきめこんでいたのだろう。悲しみがこみあげてくるというより、なんだか予定原稿を書かされているみたいな空疎な感じがつきまとって困ったものだった。  志ん生の死が、実感できぬままに書いた追悼文は、翌日の「毎日新聞」に載った。整理部でつけたのであろう、「感動的『芸人に徹した一生』」というタイトルになっていた。以下がその全文である。 〈一昨年の暮れに夫人を失ったとき、おくやみに行ったのが最後だった。意外といっていいくらい元気だったので、ちょっぴり安心したのだが「最近は冥土《めいど》へ行った夢ばかり見るよ」と苦笑していたのが忘れられない。  ちょうど、桂文楽の逝ったすぐあとで、文楽が置いていったというウイスキーのビンを長男の馬生師が持ち出して、供養だからいっしょにやりましょうというと、突然、びっくりするくらい大きな声で、「俺ものむよッ」と志ん生は叫んだ。その「のむよッ」というのがそっくり元気なときの高座の調子で、ぼくは久し振りに、志ん生をきいたことを実感したものだ。  落語という芸の魅力は、演者の語り口にこそあるので、物語というものは、それに付随したものにすぎないと、かたくなに信じているぼくにとって、志ん生の存在は、落語そのものであった。「火焔太鼓《かえんだいこ》」や「らくだ」のおかしさは、決してはなしの面白さではなくて、志ん生というひとの発想そのものにあったので、こういう落語家は、そう簡単に出るものではない。  すぐれた技術というものが、いささか過大評価されて、いわゆる名人型のひとばかりが珍重されている時代に生きながら、最後まで芸人で通した生涯は、感動的ですらある。  志ん生という落語家が逝ったのではなくて、落語という芸そのものが消えてしまった思いがしてならない。  つつしんで冥福を祈りたい。〉  日記をつけない僕には、この志ん生と会った最後の日が、いつのことなのか正確にはわからない。古今亭志ん生の、りん夫人が没したのは、一九七一年(昭和46)十二月九日のことで、桂文楽の逝ったのが、その三日後の十二月十二日だから、おそらく、りん夫人の初七日あたりではあるまいか。葬儀に出席できなかったので、単身おくやみに出かけたようなわけだった。  ちょうど、長男の金原亭馬生と、長女の美津子さんがいて、追悼文に書いたような昼間の酒になるのだが、文楽が置いていったウイスキーというのは、その時分すでに高座を離れていた桂文楽と古今亭志ん生の紙上対談を企画した、東京新聞の富田宏記者にともなわれ、吉今亭志ん生宅を訪れたときに、自ら持参したものであった。久し振りに志ん生と会って、すっかり御機嫌になった文楽は、ふたたび志ん生宅を訪れると確約して、そのときまでとっておくようにと、のみかけのボトルを、あずけておいたのである。 「きっと、お別れをいいに来たんですよ」  と、いいながら、美津子さんが出してきたサントリー・オールドを見ると、ボトルキープの酒場でよくやるように、ラベルのところに、「文」と、マジックペンでサインがしてあった。 「さあ、やりましょう」  と、金原亭馬生がグラスについでくれたそのウイスキー、ほとんど減っていなかった。文楽の酒量も、晩年は相当に落ちこんでいたことを感じ、そして、きっとこれは、志ん生と旧交をあたためたいがために持参したもので、自身は、さしてのみたいとも思っていなかったのでは、などと考えていた。  そんなとき、突然、 「俺ものむよッ」  と、志ん生が叫んだのであった。馬生とふたり、目の前で文楽をしのぶ酒盛などやられては、いたたまれないとでも思っているような、高ッ調子の「俺ものむよッ」という声には、ほんとにびっくりした。老人らしからぬ、毅然たるものがあった。 「それじゃァ、お水で薄めて……いいお水を使うんだよ」  内弟子らしい若い者に、馬生がいいつけると、 「なにをいってやんでェ。水道の水に、いい水も悪い水もあるけェ」 「いやいや、ミネラルウォーターを使いなさいといっているの」 「かまやしねえや、どうせ薄めちまえば、おんなじこったィ」  こんな、親子の間のやりとりがあって、テーブルにはこばれたウイスキーの水割りを、じっと見つめているだけで、なかなか手をつけようとしない古今亭志ん生が、僕の目にはどう見ても現役の落語家にうつるのだった。  ひと足先に別れをつげて、あっさりと逝ってしまった桂文楽に、現役の落語家としていろいろといいたいことがあったのに……と、そんな風に思いをこめて、ウイスキーの、だんだんと水にとけていくさまをながめているように、見えてならなかった。 「東京新聞」の「古今亭志ん生・桂文楽紙上対談」は、一九七一年(昭和46)十一月十五日付の夕刊に載っている。談笑するふたりの写真のはいった、全七段の記事は、 〈志ん生八十一歳。文楽七十九歳。志ん生は昼間にちゃぶ台兼用のコタツの前にすわったきり。テレビをみたり、うとうと昼寝したり。文楽は洋服姿で、志ん生の茶の間にはいる。  文楽「久方ぶりに孝ちゃんの顔をみるんだと思うと、昨夜、眠れませんでした」志ん生はただ笑顔で「やあ」  娘の美津子さんが「おやじさんも、朝からまだ来ないか、なん時に来るのかってうるさいくらい」とスッパ抜く。  文楽「なん年ぶりだろう。君とこうしてナニするのは」志ん生「三、四年会ってないね」文「きょうはうれしいから、あたしは飲みます(と、持参のウイスキーをお茶で薄める)君は?」志「酒がまずくなっちまってね、病気してから」美津子さんが気をきかしてコップに日本酒の水割りを作り、志ん生の前へ置く。「これ、サケのウスメノミコト」と志ん生、一口も飲まなかった。あとで胃のぐあいが悪くなるのだそうだ。〉  と、いった調子ではじまり、こう結ばれている。 〈婦人のおうわさとなる。お互い、いろいろあった勇士たちだ。志「したいことして来たから、死ねばセコ(悪い)なとこへ行くだろう。イヌにケツッペタをくわれたりしてね」文「うん、この節、もう静かに、おむかえを待つ心境もわかってきたね」こんな話をしていても、人生を達観したふたりは陽気で、はなし家ならでは。帰りしなに、かたい握手をして、文「また来ます。このウイ(スキー)のビンはここへあずけとこう」志「ああ待ってるよ。今度は二人会の相談でもしようよ」〉  いまになってみると、志ん生が別れぎわに、文楽と二人会の相談をしようといっているのが、まんざら冗談でなく思われてくる。最後の最後まで、現役の落語家として生きた志ん生は、自分の身体が不自由になっても、ひと声かけられれば、すぐに出かけて落語をしゃべることのできる態勢をこしらえていたのだ。  それにしても、と思う。詩を書かない詩人というのがいるように、落語をしゃべらない落語家として、「幻の落語家」などといわれていた志ん生が、胸に描いていた、桂文楽との二人会の、なんと魅力的なことか。 「文楽・志ん生二人会」という催しが、ふたりが元気だった時分、実際に行われたことがあったかどうか知らない。少なくとも、そういう会があったというはなしをきいたことがない。ちっとやそっとのことでは、そんな会を実現することがむずかしい立場に、ふたりとも置かれてしまった時期が長すぎたのである。  そう考えると、寄席やホールの客席で、何度となく、おなじ日に、桂文楽、古今亭志ん生のふたりをきくことのできた自分の幸運に感謝したくなる。そういう時代に出会えたことに対する感謝である。  古今亭志ん生が、現役落語家として、最後に描いた夢と幻が、桂文楽との二人会であったのだ。それを果たすことなくひと足先にあっさりと逝ってしまった文楽に対し、志ん生はいったいなにをいいたかったのだろう。  団子坂で車を捨てて、「おじさん」というおかしな名前の質屋を目標に行くのが、古今亭志ん生の家を訪ねるときのつねで、いつもこころがはずんだものだが、さすが、お通夜の訪問は気が重かった。志ん生の死を知らされたあくる日の夜だった。  古風な商店街のわきの細道をはいると、街灯の下を選んで、背広の上から名入りの法被《はつぴ》をはおった若い落語家たちが立っていて、 「ごくろうさまです」  と、弔問客に静かに頭を下げていた。落語家の仏事では、おなじみの光景であったが、顔見知りの前座に頭を下げられても、まだ志ん生の死んでしまったことがピンとこないありさまであった。  葬儀で、他人の家を訪問すると、それが通いなれた家であればあるほど、すっかりさまがわりしていることに、あるとまどいを覚えるものだが、この夜の志ん生宅もそうであった。町会の名が染めぬかれた天幕がはられ、受付と携帯品預り所ができ、鯨幕と、はやくもとどけられた沢山《たくさん》の花でかこまれてしまうと、どこが玄関であったのか、見当もつかない。  受付で記帳していると、柳家小三治がやってきた。沈痛な表情もさることながら、ちゃんと喪服を身につけた姿が、いつもの彼とは、まったく別人に見えた。目顔で、それとなく挨拶だけかわして、ひと足先に霊前に行くべく、なかにはいった。  居間につくられた祭壇のまわりには、焼香を待つひとが雑踏をきわめていたが、やっと順番が来て、霊前につくと、すぐわきに大きな身体を座ぶとんにおさめた小島貞二がいて、 「ふんふん、やっぱり最後までお酒が好きだったんだねェ」  などとつぶやきながら、瞼を泣きはらしてる次女の喜美子さんからメモをとっていた。  焼香しながら、かざられた志ん生の遺影を見つめると、いまにも語り出しそうな表情をしているのに気がついた。  そういえば、ふだんの志ん生というひと、決して饒舌《じようぜつ》とはいえなかった。機嫌よく、いろいろとしゃべっていても、突然ふっと口をつぐんでしまって、こちらをとまどわせることも少なくなかった。それでいて、いつも、いまにもなにかを語り出しそうな表情をしていたものだ。きっと、なにかおかしなことをいい出して、こちらを喜ばせようとしているにちがいないと思わせるような目をしていた。なにをいいだすのかと、期待をこめて、じっと志ん生の口もとを見つめてみるのだが、その口はしっかりと閉じられたままで、しかたなく、新しい質問をするなんてことが何度もあった。  いまにも語り出しそうな遺影の口もとを見つめながら、志ん生の高座を、すぐれて個性的にしていた、あの絶妙といっていい志ん生の「間《ま》」について、思いを馳《は》せずにはいられなかった。  ふつう、「間」というと、演劇的な意味で演技的な運動が停止された状態をさすのだが、この「間」には、情緒的な一種の快感を客に与える効用がある。戯曲を読んでいて、作者がわざわざ一行とって、「間」などと指定しているのにぶつかることがよくあるのだが、これは、その場面において、そうした情緒的な空間をつくり出す演出を、作者の側から要求しているわけだ。このことは、とりもなおさず芝居のつくり手が、芝居の楽しさのひとつの要素として、そうした情緒的な「間」のもつ効用を期待していることになる。  落語の「間」の、演劇のそれとのいちばん大きな違いは、情緒的な「間」が、演劇ほど重要な意味を持たないということであろうか。むろん、落語にも演劇的な「間」は、頻繁《ひんぱん》に使われる。だが、多くのばあい、それは生活的なリアリティを与える以外に、あまり役に立たないのが実情だ。情緒的な快感をきき手に与えるよりも、笑わせることの方をたいせつにする落語における「間」は、当然のことながら、落語家の語り口にたくされた、きき手に笑いを与えるための技術なのだ。したがって、落語として効果的な「間」は、演劇的には、およそ無意味なものである例が多い。  古今亭志ん生は、落語における「間」を、ギャグとして利用することに卓越した技術をもっていた。志ん生が、ぐっと言葉につまったとき、ほどよい「間」があってとび出してくる言葉は、きまってきき手の意表をついたもので、客席はどっとくる。このばあい、志ん生の「間」は、きき手の側に次に出てくる志ん生の言葉を予想させる「間」であって、それがものの見事に裏切られて、意表をついた言葉がとび出してくるから、笑いが生じ、「間」が生きてくるのだ。  落語の「間」には、演劇の「間」が持ちがちな、論理的な必然性はあまりなく、単に、次の言葉を効果的に生むためのタイミングといった意味あいが強い。それだけに、その「間」は、落語家自身の裁量に支配される性質のもので、古今亭志ん生のような、ゆたかな落語感覚が要求される所以《ゆえん》でもあった。  考えてみると、僕たちは、高座以外の場所でも、つねに志ん生を落語家として見ていた。だから、突然口をつぐんでしまった志ん生から、高座とおなじように、ほどよい「間」があって、おかしな言葉がとび出してくることを、いつ、どこでも、期待していたのだ。その期待が、いつの間にか、志ん生の顔を、いまにもなにかを語り出しそうな表情としてとらえてしまったようである。  そう思いなおして、ふたたび遺影に目をやるのだが、やはり、なにかを語り出しそうにしている。志ん生が、志ん生であるとき、志ん生はつねに語り出しそうな表情をしていたのだ。志ん生が、口をつぐんで、語らないとき、志ん生は志ん生であることを休んでいたのだ。休むどころか、志ん生であることをやめてしまった通夜の写真が、志ん生の、いちばん志ん生らしい表情であることに、なんとなくやすらぎにも似た感を覚えた。  焼香を終えて、外へ出ようとしたとき、二階から古今亭志ん朝がおりてきた。 「やあ、みんないますよ。上にあがってください」  と、誘われて、次の日の告別式には都合がつかず出られないことがわかっていただけに、二階で知った顔と、ゆっくり志ん生をしのびたい気持になったのだが、次にひとと会う約束があったため、うしろ髪ひかれる思いで通夜の席をあとにした。あの時分、なぜあんなにも雑用に追われていたのか、不思議な気がする。  車を拾うため、表通りへ出る途中、何人もの弔問客にすれちがったし、知った顔も多かった。通夜帰りに必ず体験するそんな光景のなかに自分の身を置いて、やっと、「志ん生は、もうしゃべらない」ことがほんとうに実感されて、なんだか急にさびしくなった。  秋にしては、ほんのちょっと肌寒い夜であった。 [#改ページ]  2 さむらいの自我  僕が、生まれて初めて古今亭志ん生をきいたのは、いったいいつの頃なのか、じつはそれがよくわからない。  学制で、国民学校というのがあった時代の、その第一期入学で、しかも最後の卒業生にあたるわけだが、落語という藝の存在を知ったのはそこの生徒時代だから、いま流にいえば小学生の頃になる。山の手の、サラリーマン家庭に育ったとあって、下町の子供のように、父親の手にひかれて寄席の木戸をくぐったなんて体験はまったくない。もっぱら、ラジオと、いまにして思うと慰問袋にいれて戦地へ送るためのものだったのだろう、小型の落語全集によって、落語とふれてきたのである。親戚の家には、誰が演じていたのか知る由もないが、『花色木綿』のレコードがあって、そこへ出かけるたびに、くりかえしきいた。わが家には、その頃すでにシャンソンのレコードがありながら、落語や浪花節は、一枚もなかった。  そんなわけで、その時分知っている落語家といえば、二代目柳家権太楼、三代目三遊亭金馬、それに七代目の林家正蔵くらいで、わずかに四代目であろう柳家小さんの名に覚えがある。ラジオで、アナウンサーが、「柳家小さんさん……」と、「さん」をふたつ重ねていうのが子供ごころに面白かったからである。いま考えてみると、権太楼、三代目金馬、七代目正蔵、みんな子供にもわかりやすい明快な藝の持ち主だ。  戦争に敗けて、世間の事情が一変して、そんな空気のなかから、『純情詩集』をひっさげた三遊亭歌笑が、まさに忽然《こつぜん》として登場してきたのだが、その歌笑に夢中になっている頃、初めて古今亭志ん生の名をきいた。たまたま乗っていた国電の車内で、前にすわっていた大人が、「東京新聞」を読みながら、 「おや、志ん生が帰ってきたらしい」  と、連れの男に語りかけていたのである。  見ず知らずの大人の会話だったが、志ん生というのが落語家で、帰ってきたというのが、戦地からの復員か、外地からの引揚げであることは、すぐにわかった。復員軍人や、引揚げ者の話題が年じゅう耳にはいってくるような混乱期であったし、わが家自体がその少し前に、一年足らずの期間滞在した京城から引揚げてきてたので、子供ながらにそうした話題に、特別の関心を抱いていたのかもしれない。後楽園球場に、プロ野球を見に行っても、コンクリートがむき出しになったスタンドから、阪神タイガースのベンチをのぞきこんだ大人が、 「おッ、若林がいるぞ、本当に帰ってきたんだ」  などとやっていたものだ。「帰ってきた」という言葉に、「外地や疎開先などから無事に」という意味がこめられていた時代があったことを、もう僕たちは忘れている。  古今亭志ん生は、慰問興行先の満州大連で日本敗戦の日をむかえたのだが、引揚げ船に乗って帰国したのが、一九四七年(昭和22)一月十二日で、家族のいる駒込動坂の家にたどり着いたのが一月二十七日である。となると、それは僕がそろそろ国民学校を卒業する頃で、私立の中学にすすむべく準備をしていた時期になる。国電のなかで、大人が読んでいた「東京新聞」は、一九四七年(昭和22)一月三十日付のものだろう。多分、当時東京新聞演藝記者だった須田栄氏の筆になったと思われる記事は、志ん生の帰国をこう伝える。 〈消息不明の志ん生帰る [#3字下げ]満州で円生と別れ一足先きに 志ん生が帰つて来た、二十年五月松竹の手で満州慰問に出かけて、その七月新京で一行と別れた志ん生、円生の二人の消息は不明となり、蓮華亭あたりで戦死者慰問かなんかやつてるんじやないかとうわさされていたが、円生より一と足先きに、二十七日ひよつくり兵隊服を着て、はい唯今《ただいま》と志ん生が帰つた時は、家人はまず足があるかと見直して、さてそれから安心してうれし涙にくれたという、一年九ケ月振りに丹前姿でわが家に落着いた志ん生の、これは引揚物語の一席である。 奉天から大連行の最後の列車に乗つてやツとたどりつき五日の興行で四日目に大連で敗戦、観光協会の二階の事務所で寝て暮したんだが、円生と二人でなん度も水杯《みずさかずき》をしましたよ、黙つてちやア食えないからと、この部屋で二人会をやりましたね、二席ずつ伺つて税なしの三円てえ木戸銭でさ、それでも大入の日にやア四十人ぐらいは来る 十一月にこの住家兼寄席が売られて以来、お女郎の逃げた後の女郎屋で「とんと居残りでゲス」なんかてえんで自炊をしたり、車を借りて荷物をのツけて歩いてると「師匠どこへ越すんだ」という、「いえ行先が分らねえんで」なんて辛いことも重ねた、まるで素人うなぎでさあね あツしのいた町内はいわば昔の業平橋《なりひらばし》でしような、貧乏人のいる処からさきへ船に乗っけてくれたんだが、円生は大連でも一寸《ちよつと》山の手なんで一と足遅くなります。文楽君はじめ留守中の親切は身にしみてうれしいと思います〉  この記事で、「円生は大連でも一寸山の手なんで一と足遅くなります」とあるのが、満州時代の、志ん生と円生の関係を、それとなく伝えているようにも読めて、興味がわく。  志ん生が、陸軍省|恤兵《じゆつぺい》部の命を受けた松竹の手によって結成された慰問団の一員として、日本を出発したのは、一九四五年(昭和20)五月六日のことだが、団員は、古今亭志ん生、六代目三遊亭円生、漫才の坂野比呂志夫婦、講談の国井紫香ら十人だった。円生は、空襲で焼け出された上、母親を失ったため行けなくなった古今亭今輔に代って行くことになったのである。このとき、志ん生五十五歳、円生四十五歳、十年のひらきがある。  大連で敗戦をむかえてから、ほんとうに何度か死にかけるような苦労を、ふたりともしているらしい。ふたりで共同生活のようなことをしていて、その様子を、志ん生は、『びんぼう自慢』(立風書房)、円生は、『寄席育ち』(青蛙房)という、それぞれの著書に記している。  ふたりの人生において、この大連での生活は、当然のことながら大きな位置をしめていると見え、相当くわしく記述されている。内容的に、さしたる差は発見できないし、おたがい生死をともにした仲ということもあって、双方を認めあっているように読めるけれど、それでなくとも我の強い藝人二人が四六時中《しろくじちゆう》顔つきあわせて暮らしていく上で、トラブルのひとつやふたつなかったわけがない。  ふたりして、落語の会などを催して、小金をかせいでは、密航船に乗せるといわれてだましとられるなんてことがつづいていたらしい。三遊亭円生の『寄席育ち』に、 〈その志ん生がある晩帰ってこない。あくる日帰ってきてぼんやりしてる。「どうしたんだ」「杵屋《きねや》佐一郎のとこにみんなが集まって博打《ばくち》が始まった。そこで、三千五百円持ってた有金を全部負けてきた」ってんです。「しようがないなァ。だから幾度もそういったろう、満州あたりへ来てやってるやつと、いくら君が博打で年季を入れたか知らないが、あの連中を相手にやったってかないっこないって……」そんなこと言ったって、もう負けちゃったんだからしようがない。「あたしァこっちに残ってるから、君だけ帰ってくれ」って言うんですよ。〉  というくだりがあるのだが、「あたしァこっちに残ってるから、君だけ帰ってくれ」と、ふてくされて見せている志ん生の表情が目にうかぶようだ。  十歳も若い円生に、お説教がましいことをいわれたことも面白くなかったろうが、おなじ藝人でありながら、志ん生と円生では、これまでの生き方からしてちがいすぎた。こういう事態に立ちいたったときに、円生のとってみせるもっともらしい態度が、勝手気ままに生きてきた志ん生の自我に、カチンときたことは想像に難くない。  あんがい、「あたしァこっちに残ってるから、君だけ帰ってくれ」というのは、ふてくされでもなんでもない本音であったのかもしれない。  ともに分別がなければならない大人でも、遠い外地にあって明日をも知れぬ状態に置かれれば些細《ささい》なことからしばしば衝突するというのも無理はない。だが、こうした些細なトラブルをいつまでも執念ぶかく根にもつのは円生のほうであったようだ。 「落語界」という季刊雑誌の一九七四年(昭和49)の十一月晩秋号は、「五代目古今亭志ん生特集号」とあって、宇野信夫、三遊亭円生、坊野寿山の三人による「志ん生のヒラメキ人生」なる座談会を載せている。三遊亭円生が満州時代の志ん生を語っているのは当然のことだが、そのなかにこんな発言がある。 〈円生 満州《むこう》で、いかにも志ん生らしいと思ったことがあるんです。新京であたしに女ができたんですよ。金も持っているし、ご馳走になったりしていたが、興行はもうできない、日本へも帰れない。新京のホテルに泊っていたんだけど食い物は悪い、待遇もよくない。そこで志ん生と国井紫香と女のホテルに移っていろいろと世話になって……。そのうち国井だけ飛行機で先に帰りまして、二人で二人会なんぞをやってて、ある日|奉天《ほうてん》へ行くことになった。朝、俥《ヤンチヨ》を注文したんだけど一台しかきてくれない。十歳年上の志ん生に「お乗んなさい、あたしゃ駅まで十五分ぐらい駆けるから」てんで志ん生を乗せ、蹴込みンところへあたしの手提げかばんを乗せて駅へ向かった。発車まぎわの汽車にやっと間に合って、さて向こうへ着くと「おい松っちゃん(円生の本名・山崎松尾)二円五十銭おくれ」てんですよ。「え? 二円五十銭って何だい?」「俥へ乗っかったじゃねえか」「どこで?」「さっき汽車に乗る前に」「あれはキミが乗ったんだろ」「五円とられたよ」「五円ぐらいとるだろう」「だから二円五十銭おくれよ」「だってキミが乗った俥に、どうしてオレが二円五十銭払うんだい」ったらね「キミのかばんを乗っけてやった」(一同爆笑)  宇野 オモシロイね?(笑)。  円生 どう考えても理屈がわからねェ(笑)。  坊野 真《ま》面|目《じ》なの?  円生 冗談でも何でもない。  宇野 まじめなだけなおオカシイ(笑)。  坊野 理屈つけるところがうまい、ちょいといえないよ(笑)。  円生 蹴込みにかばん乗っけて、引っ張ったのは俥屋だよ、と説明してやったら、あとでよく考えてから「いらないよ」ってそういった(笑)。  坊野 当たり前だよ(笑)。〉  志ん生追善の座談会の席でなされているだけに、とぼけた志ん生の人柄を面白おかしく伝えようとつとめているのがわかるのだが、おなじはなしを円生が自分の弟子にしばしば語っていたときは、とてもこんな調子ではなかったらしい。あるときなど、 「志ん生の奴は、きたない」  とまで口汚くののしったそうで、ここまで根にもたれては、志ん生も立つ瀬がない。  もっとも志ん生のほうも、三遊亭円生という落語家を決して好いてはいなかったふしがある。この満州時代、NHKの局員としてやはり大連にいた森繁久弥に、 「あんただってちょっと稽古すれば、円生くらいにはじきになれるよ」  と、当の円生のいる前ではなしかけ、若い森繁をあわてさせたことがあるという。  少なくともおなじ友だちでも、桂文楽や八代目三笑亭可楽のことを語るときのような親しさをこめて、円生を語る志ん生についぞふれたことがなかった。野武士のような生き方をして自分の位置を築きあげてきた志ん生にとって、五代目三遊亭円生の養子として、子供のときから寄席の高座にあがっている「寄席育ち」のエリートは、所詮《しよせん》はなしのあう相手ではなかったのかもしれない。  そうした、おたがい踏み入ることのできない、生き方の相違みたいなものが、大連を舞台にした一種の極限状態のなかで、少しずつ露呈してきたにちがいない。わがままと受けとられるほどに妥協を拒否して生きてきた志ん生にとって、これは耐えられぬことであったはずだ。  三遊亭円生の、大連時代のもうひとつの結婚は、こんなデリケートなバランスの上に構築されていたふたりの共同生活を断ち切る効用を果たしたとも考えられるのだ。ふたたび、『寄席育ち』からひくと、こういういきさつなのである。 〈あたくしが満州で家内を持ったというお話があります。もちろん東京には家内があるんですから、二重結婚で法律上の大問題……いや別にそういうやかましいことじゃァないんです。しかし内地にいた人には所詮判らないことですが、敗戦当時、外地にいて誰一人頼る者はなし、生活の不安と生命の不安……おもてを歩いていても、いつどんなことで殺されてしまうかも知れず、死んだところで「あァ、あすこで日本人が死んでいた」でおしまいなんですよ。そういう人間としてのなんともやりきれない孤独感は、実地にそういう境遇にあっていない人には判らないでしょうが、外地のこういう状態で、心のささえというものが欲しくなって、引き揚げるまでとおたがいが承知の上で、そういう夫婦がたくさん出来たものです。  小唄の師匠で田村干代といい、むこうもあたくしに家内や子供のあることも知っていて、日本に帰れば別れるという話し合いの上で……しかし帰るまでは正式の夫婦でいたいというむこうの条件で、大連にいた芸人仲間を呼んで披露をしました。宴たけなわになってお嫁さんが三味線を弾いてお婿さんが『都々逸《どどいつ》』から『大津絵』なぞをうたいまして、はてはお嫁さんは酔っぱらってぐうぐう寝ちゃったという、大変な結婚式があったもんですなァ。しかし一人で生活するよりも二人の方が確かに経済的にも楽で、どうにか暮して行けるものです。日本に帰ってから、家内にも話をして、千代は今は赤坂で稽古をしております。  それで志ん生もあたくしに刺激されたのか、女房を持とうという話があり、これは義太夫の師匠で、お見合いをして二人で飲んだが、その女が大変酒くせの悪い人で、さすがの志ん生も驚いて引きさがったという話を聞きました。〉  かくして、いっしょに日本を発った志ん生と円生が別々に引揚げることとなり、「東京新聞」の、「円生は大連でも一寸山の手なんで一と足遅くなります」という記事になるのだが、この「大連でも一寸山の手なんで」という表現に、志ん生一流の皮肉を感じる。おそらく志ん生にとって、円生の結婚生活は、なにものにも代え難い自由を取り戻した結果をもたらしたことだろう。  一方円生は円生で、自分の好みでない破滅型の志ん生と別れたことで、ほっとした気分を味わったに相違なく、特殊な結婚生活を持つにいたったいきさつを、あれこれ弁解がましく述べてはいるものの、「しかし一人で生活するよりも二人の方が確かに経済的にも楽で、どうにか暮して行けるものです」などというくだりに、本音がうかがえるのである。  満州での一年と七カ月に及ぶ生活で、古今亭志ん生は、存分に自我を発揮してのけたようにうつる。日本の敗戦という未曾有《みぞう》の事態に、しかも外地で遭遇するという目に会いながら、なお勝手気ままに生きのびてみせたことに、おどろかずにはいられない。自我といえば、志ん生の満州行きそのものが、強烈な自我の発露であった。なぜ、志ん生が満州へ行く気になったかについて、多くの書は、 「むこうには、まだ酒がありますから」  と、いうひと言に、無類の酒好きであった志ん生がすっかりまいってしまったからだと伝えている。しかし、実際はそうではなかったようだ。むろん酒の豊富なことに、志ん生が食指を動かしたことは間違いない。そのこと以上に、その時分連日になっていた空襲を異常に恐れていたのだという。空襲から逃れたい一心で、いわば、なんとしても自分だけは助かりたいという気持から、家族も、なにもかも捨てるようにして、満州の地へ逃れた志ん生の人間的な弱さが、じつは強烈な自我のかたまりと化して、志ん生を支えたのだ。  まだ志ん生が不自由な身体ながらも高座をつづけていた時分のことだが、僕は金原亭馬生とのんで、こんなはなしをきかされたものである。 「私は、じつは親父は、それほど好きじゃないン。そりゃ藝人としては認めますよ。でも、ひとの親としちゃ駄目ですよ。だってそうでしょ、みなさん方は他人だから自由で面白いなんていうけれど、あのもののない時代、一家の働き手に満州くんだりまで行かれちゃって、あとに残された者が、どんな思いで毎日を過ごしていたか」  これをきかされたとき、家族の反対をふりきるようにして、先のことなど考えもしないで満州行きを実行した志ん生の強烈な自我に、あらためて感心させられたものである。  いずれにしても、僕が、古今亭志ん生という名を知るきっかけは、満州からの引揚げが新聞に報じられたからで、いらい、志ん生という落語家に特別の関心をもつようになったというのも、僕自身引揚げを体験したひとりだったことの影響があるかもしれない。  だいぶ前のことだが、ある落語雑誌のアンケートで、「落語を好きになった動機は?」という質問を受けたことがある。  正直に答えるならば、「子供の時分、ラジオで権太楼や金馬をきいて」とか、「落語全集を読んで」とか書けばいいのだが、まがりなりにも、落語や寄席演藝についての文章など書いている身としては、そういう答は当り前にすぎて面白くないと考えたのだろう。いささかの気障を承知で、こう答えた。 〈それが桂文楽でも、桂三木助でもないのですからお恥ずかしい次第です。中学時代、上級生だった小沢昭一、加藤武両氏らの落語をきいて。〉  ここで、桂文楽と桂三木助の名を出しておきながら、古今亭志ん生が出てこないについてはわけがある。同じアンケートの第三問に、「好きな落語家は?(故人でも可)」というのがあって、 〈故人に限っていえば、古今亭志ん生、三笑亭可楽。〉  と、書いているからだ。  それはともかく、このアンケートに関して、自身「子供の時分、寄席につれていってもらい、それ以来ずっと好きで聴いています。」と、記しておられる戸板康二さんから、 「君は、素人の藝をきいて落語が好きになったんだネ」  と、冗談まじりにいわれたりしたが、小沢昭一、加藤武というふたりの素人っぼい高座が、僕に落語という藝の楽しさを教えてくれたのは、たしかなのである。  僕が、麻布の高台にあった私立の中学に入ったのは、一九四七年(昭和22)四月のことだが、六・三制という学制の切換期とあって、ほんらいなら旧制の中学を卒業している連中や、新制大学の入学を一年見あわせたひとたちが、最上級生として学校に残っていた。そうした先輩のなかには藝達者がたくさんいて、彼らが文化祭の余興で演じた演藝は、いま思いかえしても、とうてい学生の遊びとはいえないだけの実力をそなえていた。学校帰りに、鞄をさげたまま、寄席の木戸をくぐるのが楽しみだなんて、不良中学生になるにいたったきっかけを与えてくれたのが、この上級生たちによる文化祭の演藝会なのであった。  前に書いたように、山の手のサラリーマン家庭では、子供を寄席に連れて行くなんてことはしなかった。山の手の人間ばかりか、その時分のふつうの家庭では、まだまだ寄席は悪場所といった感覚が支配していたのではあるまいか。だから、子供の時分、親に手をひかれて寄席通いを体験してるのは、下町に住んでいたか、よほどひらけた親を持った、とにかく恵まれた環境を得た、ひとにぎりのしあわせなひとたちなのである。 〈寄席なんかに出入りするのは、あまりよい趣味ではない。這入《はい》るにも、後先を見すまして、つつと入りこんでしまふ。さう言ふ卑屈な心持ちを恥ぢながら、つい吸はれるやうに、席亭の客になつて行く。こんな風だから、いつだつて大手ふつて、這入つた覚えがない。親たちがこんな風の|しつけ《ヽヽヽ》をしたからなのである。〉  大阪の、生薬屋《きぐすりや》に生まれて「芝居愛好はその家風であった」といわれる折口信夫にして、『寄席の夕立』(折口信夫全集第十八巻・中公文庫版)というエッセイを、こんな風に書き出しているくらいなのである。だから、学校帰りに、鞄をさげたまま寄席の木戸をくぐるについても、映画館とはちがった、なんとなく悪さをしてるような、軽い興奮があった。その時分から、映画館には学生割引というのがあったのに、寄席のテケツには、その表示がないことも、よけいそんな気分にさせられた。  その時分いちばん通ったのは、やはり新宿の末広亭であった。通学の経路からいって、上野の鈴本演藝場や人形町末広はなにかと不便であったからだろう。だがしばらくするとそんな不便さをいとうよりも、好きな落語家を追いかけるほうが先にたって神田の立花あたりにも足繁く通うようになった。僕らにとって地元の感があった麻布の十番倶楽部は、まだ開場していなかったのか、それともあまりに近すぎて放課後の鞄を下げたまま木戸口をくぐるのがはばかられたものか、あまり出かけた記憶がない。  新宿末広亭も、まだまだ粗末なつくりで、平土間の客席など文字通りの土間に木製の長椅子が置かれ、なんとなく薄暗くじめじめしていた。立川談志の『現代落語諭』(三一書房)に、 〈当時NHKの高橋博さんの寄席中継に、 �いらっしゃい、という威勢のよい若い衆の声に送られて、新宿末広亭の木戸をくぐるともうここは江戸の世界です�  というのがあったが、いい文句だ。〉  なる一節があって、たしかにその時分の寄席の情景を的確に伝えてくれているのだが、その「江戸の世界」は、劇場や映画館の、あのまぶしいような明るさとくらべて、なんとはなしに、うっとうしい空気が支配していたものだ。  客席のほうがそうだったから、高座に出てくる藝人だって、みんなその背に鬱屈したものを背負っているような、さえない表情をしていた。その屈折ぶりに魅かれて寄席通いしていたのだと、いまにして思う。  なかでも古今亭志ん生というひとは、ひときわつまらなそうな表情で高座に出てきた。高座について一礼して、口をひらくまで、このさえない、ふてくされたようにもとれる態度は変らない。それでいながらしゃべり出すと、不思議なことに寄席全体がぱっと明るくなるのである。その変り目が楽しかった。面白かった。ひとを嬉しい気分にしてくれた。少なくとも古今亭志ん生をきいているあいだだけは、寄席という悪場所通いをしている不良少年のいだくうしろめたさを忘れさせてくれたのだ。あの奇妙な明るさは、いったいなんであったのか考えるにつけ、僕が初めて志ん生の高座にふれたのは新宿末広亭であったような気が、なんとなくしてくるのが妙である。  初めてきいた志ん生の記憶は定かでないが、『銀座カンカン娘』という映画に出演した古今亭志ん生については、よく覚えている。 ※[#歌記号]あの娘《こ》可愛いやカンカン娘、赤いブラウス、サンダルはいて……  という、その頃大流行した歌謡曲を映画化したもので、封切は一九四九年(昭和24)八月、新東宝の製作、高峰秀子、灰田勝彦、笠置シヅ子が主演で、監督が島耕二であった。この映画の古今亭志ん生は、たしかご隠居のような役で、あの、あるかないかの目を、さらに細くして、 「なんだい? 銀座パンパン娘かい?」 「ちがうよ、おじいちゃん、銀座カンカン娘だよ」  なんてやりとりをしていたのを思い出す。  そういえば、「パンパン」なんて言葉も廃語になってしまった。占領軍の将兵相手の売笑婦のことを、パンパン・ガールなどと呼んだものだった。おかしかったのは、 「たしか納豆が……」 「いただきました」 「よくいただくね、おまえは」  という、落語『替り目』そのままのシーンだった。中学三年だった僕は、その時分つけていた日記がわりのノートに、 「古今亭志ん生、なかなか役者なり」  などと書いたものである。  年譜を見ると、一九四九年(昭和24)八月というのは、志ん生五十九歳で、満州から帰って二年目にあたる。まだ長男が、十代目の金原亭馬生を襲名する前の古今亭志ん橋の時代だ。  あの時分、落語家が映画出演するなどは大変なことであった。それも、三遊亭歌笑のごとき時代の寵児的な売れっ子とちがって、還暦を目前にした大看板《おおかんばん》であったところに、特別の意味もあったといえる。 「ああ見えて、結構うちの親父さん、新しいもの好きなところがあったから……」  志ん生の映画出演について、いつであったか、金原亭馬生がこんなことをいってたものだが、映画の演技で、ちゃんと『替り目』をやって見せた五十九歳の志ん生は、やはり新しかったのだと思う。その新しさも、あの不思議な明るさがあったればこそのもので、古今亭志ん生という藝人の仕事を、初めて僕に意識させてくれたという点でも、つまらないプログラム・ピクチュアにすぎない『銀座カンカン娘』は、忘れることのできない映画なのだ。  結城昌治さんが、一九七六年(昭和51)八月から、翌年の九月まで、「週刊朝日」に連載した、『志ん生一代』は、古今亭志ん生というひとりの藝人の軌跡を描いた傑作で、あの冬の時代を、ひどい貧乏を重ねながら、見事に時流におもねることなく、ゆたかなこころを持ちつづけ、かくも気ままに生きおおせた庶民がいたことに、ある感動すら覚えるのである。一応小説の形式をふまえているが、作者自身、朝日新聞社より刊行された単行本の「あとがき」で、 〈もとより史実、資料となる面に微力のおよぶかぎり正確を期したことは言うまでもないが、本文すべてについて小説であるという理由で責任を回避できるとは毛頭考えていない。〉  と、記しているとおり、これまで志ん生について書かれた多くの文章が犯している誤謬を、じつにさりげなく訂正してる点にも、格別の値打がある。  たとえば、小島貞二がまとめて、毎日新聞社から立風書房と改版された、志ん生の自伝ともいうべき『びんぼう自慢』では、 〈あたくしの本名はてえと美濃部孝蔵てんで、明治二十三年六月五日の生まれであります。教育勅語が降下になったのが、その年の十月だから、あたしのほうが教育勅語より少うし兄貴《あにき》てえことになる。〉  と、自分の出生を語り、 〈おやじの名前はてえと盛行でお袋のほうがてう(ちょうと読む)というんです。〉  と、両親を伝えている。  ところが、結城昌治『志ん生一代』によれば、このあたりの事情は、次のようになるのだ。 〈国民皆兵の時代である。男子は満二十歳になったら徴兵検査を受け、兵役に服さなければならない。  しかし、孝蔵は身体も体重も足りなかった。おまけに痔の気《け》もあった。おかげで兵役を免れている。 「生年月日は」 「二十三年の六月五日です」  父の名は盛行《もりゆき》、母は|てう《ヽヽ》と書いて|ちょう《ヽヽヽ》と読む。四人兄妹の末っ子に生まれたと答えた。  しかし、全部記憶ちがいだった。一生涯戸籍謄本などというものを見たことがなくて、間違えたまま億えているのだ。  戸籍の記載が正しいとは限らないが、明治二十三年(一八九〇)六月までは合っている。しかし誕生は二十八日で、父の名は戌行《もりゆき》、母は|志う《ヽヽ》、孝蔵はその五男である。こんな誤りは彼の芸に無関係だろうが、いかにも彼らしいということができる。それで世間が通るなら、戸籍なんぞはどうでもいいのだ。〉  この、戌行という父親は、巡査だったそうで、志ん生は、旗本の出であることを、折りにふれ自慢していた。当時の戸籍に、「士族」とあったのは、ほんとうらしい。そういえば、きりりと口を結び、じっと一点を鋭い目で見つめてる志ん生を、しばしば垣間《かいま》見たものだが、こんなときの志ん生には、古武士然としたものがあって、なんだか近寄りがたい感じがしたのを覚えている。  志ん生自身、『びんぼう自慢』で、 〈さむらいたってヘッポコじゃァなくって、徳川の直参《じきさん》で八百石ばかり取っていた。もっともね、美濃部家の本家《ほんけ》てえのは三千石の知行《ちぎよう》を取っていたというから、こりゃァ旗本の中でも大看板です。下手な大名なんぞ、ブルブルッとくるくらいのもんですよ。〉  と、いっているのだが、これには、志ん生によるいささかの脚色があるかも知れない。『志ん生一代』のほうは、 〈また八百石という禄高も、旗本武鑑によれば美濃部の本家が五百石、同族に七百石、八百石を知行した者もいるけれど、祖父の名にあたる者はいない。武鑑そのものがそれほど当てになるものではないが、親戚に三千石余の旗本がいたことはほぼ間違いなく、祖父が旗本だったことも間違いないようで、「江戸名所図会」にも紹介されている牛込の赤城神社(新宿区赤城元町に現存する)の要職についたこともあり、とにかく一時金で本郷の切通しに土地を買い立派な家を建てたらしい。  ところが、その跡を継いだ父は連帯保証の借金を背負い込んで家を売る羽目に陥り、神田亀住町の裏長屋に引き移って以来ずっと熊公や八《はち》公と同じ長屋暮らしである。もちろん父は遊んでいられないから、勤めた先が東京警視庁、階級は二等巡査だった。〉  と記している。  そういえばだいぶ前、むろん志ん生存命の頃のはなしだが、稲荷町の長屋に林家正蔵(彦六)を訪ねて雑談をしていた際、同席していた正蔵の弟子になる春風亭柳朝が、なにを思ったか、 「志ん生師匠が旗本の出だっていいますが、旗本ったって、民谷伊右衛門クラスなんでしょ?」  と、正蔵にたずねたのである。コーヒーカップかなにかを口にしてた正蔵が、なにごともなかったような表情で、ただひと言、 「そうだとも」  と答えたのをきいて、ふき出さずにはいられなかった。「民谷伊右衛門クラス」という柳朝の表現のおかしさもさることながら、一も二もなく正蔵がそれに応じた呼吸から、落語家の多くが、志ん生が旗本の出と伝えられてることを、どんなふうに受けとめているかがわかったのである。いずれにせよ、「旗本の中でも大看板」などという武家よりも、裏長屋で傘張りなどに身をやつしてる、しがない浪人のほうが志ん生の出にはふさわしく思える。  それにしても、志ん生はなぜ美濃部家が旗本の出であることにこだわりつづけたのだろう。気が小さいくせに妙に度胸がよく、他人の思惑などおかまいなしの、無手勝流の生き方を貫きとおした志ん生にとって、その出生に関する背景は、どうでもよいはずであった。赤貧洗うがごとき暮しぶりにも、まったく動ずる様子もなく、酒と藝と、そして放蕩《ほうとう》にあけくれたと伝えきく若き日の行いの数々にも、旗本の出であるときいて納得のいくものはなにひとつない。  そんな志ん生が、生涯、旗本の出である事実を、自慢気に語りつづけたのは、志ん生がさむらい好きだったからとしかいいようがない。さむらいのこころが好きだったのである,さむらいのこころを持ちつづけた藝人だったのである。さむらいが、傘をはりながら明日を期していたような心情を、なめくじ長屋とよばれる業平橋での暮しのなかで、どこか気取って、それを無頼《ぶらい》な毎日の支えにしていたのにちがいない。それでなければ、あれだけの貧乏をしながら、こころゆたかに生き抜いてくるわけにはいかなかったはずである。  志ん生が得意にしていたはなしのひとつに、『抜け雀』がある。『左甚五郎』『浜野矩随』『紫檀楼古木』『蜀山人』『中村仲蔵』などの、名匠、名人伝にも似た趣きをもったはなしだが、ずっと落語感の横溢《おういつ》したもので、名人伝でありながら、かんじんの画家の名前がはっきりしていないあたり、いかにも古今亭志ん生の藝風にふさわしいおおらかな味わいをそなえている。  この『抜け雀』の主人公である画家は、相州小田原の、しがない宿屋に泊りこんでおきながら、金も払わず、連日にわたって宿の主人に酒を求めて、おくするところがない。金がないことに、まるで恥を感じないばかりか、世間的な雑事に対し恬淡《てんたん》としている。志ん生が、なめくじ長屋で赤貧洗うがごとき生活を送った体験が、『抜け雀』の主人公に、格別のリアリティを与えるのに役立っているとするのは、皮相にすぎる見方ととれなくはないが、やはり間違っていない。  貧乏ということと、貧乏たらしい生き方というのは、本質的にちがうのであって、貧乏ではあっても、こころゆたかな暮しは可能だし、金に不自由しない身でも、貧乏たらしい暮ししかできないひともいる。古今亭志ん生の、たぐいまれなる落語的美意識は、こころゆたかな暮しから生まれたものだ。  自分の両親の名前はおろか、おのが生年月日まで誤った記憶のままとおすといった、こだわらぬおおらかさを有していた志ん生が、旗本の出という事実には、ある執着をつねに見せていたのが面白い。 「武士は食わねど高|楊枝《ようじ》」の心意気が、志ん生の胸のうちには、生涯あった。 [#改ページ]  3 ひとりの師  古今亭志ん生が、放蕩無頼の生活を送っているうちに、落語家を志すようになったのは、一九一〇年(明治43)頃のことといわれている。近代落語の祖などといわれ、その作品が明治文学にも大きな影響を与えている三遊亭円朝が逝って、十年ほどたっていた。  俗に天狗連とよばれている素人の落語家ならいざしらず、ちゃんとした藝人として、寄席の高座で落語をしゃべることができる身になるためには、誰かの弟子になって前座から修業をつまねばならない事情は、むかしもいまもさほど変らない。つまり入門である。  落語家としての生涯に、十六回も藝名を変えた例は古今亭志ん生以外にきいたことがないのだが、藝名ばかりか師匠も何度か変えている。その志ん生が、最初に入門した先の落語家が、名人といわれ、三遊亭円朝門下の逸材のほまれが高かった四代目|橘家円喬《たちばなやえんきよう》で、朝太という前座名をもらったと伝えられていた。当人が、生前ずっと、そう語っていたから、志ん生の生涯を伝える文章のほとんどがそう記していたし、当然のことながら訃報の経歴にも「名人橘家円喬に入門して落語家となる」と書かれたものだった。  たとえば、『びんぼう自慢』には、 〈あたしが、円喬師匠のところへ弟子入りして、最初につけてもらった名前が三遊亭|朝太《ちようた》てんですが、いま考えてみるてえと、なかなか若々しくていい名前です。円喬師匠が若いころやっぱりこの名前をつかっていたそうでありまして、うちの強次《きようじ》(次男・現志ん朝)が、はなし家になりてえといったときに、あたしは迷わずこの名前をつけてやりました。〉  と、あるし、「文藝春秋」一九七一年(昭和46)新年特別号に載っている、「こうなりゃ九十まで生きる」というタイトルのついた「お茶の間放談」でも自身、 〈はなし家ンなったのは、十七の歳なんです。橘家円喬って名人のとこが振り出しでね。その時分には、円喬なんてひとンなると、ちゃんとした人間でなきゃ弟子にとらなかったんですよ。ええ。それで、あたしは、円喬さんの弟子になれるような人間じゃなかったんだ。たまたま弟子が少なかったんでね、かり出されて行ったんですよ、ワキにいたのを。「あんなもん、しようがねえけど、いねえよりいいだろう」って、あんなもんがいったんだ。〉  と、語っている。  志ん生のいうように、「はなし家ンなったのは、十七の歳」だとすると、それがむかし流の数え方として、一九〇六年(明治39)になり、伝えられてる入門の時期より若干はやまる。ただ、このなかで、「かり出されて行ったんですよ、ワキにいたのを」と、さり気なくそのいきさつにふれているのが興味をひく。  いずれにしても、落語家古今亭志ん生の最初の師が、四代目橘家円喬であるというのは、当の志ん生歿後もしばらくのあいだは定説であった。その定説を否定して、志ん生の最初の師を、二代目の三遊亭小円朝であると記したのが、結城昌治『志ん生一代』で、「週刊朝日」連載第一回、まさに発端の章にこう書かれている。 〈その志ん生が三遊亭|小円朝《こえんちよう》(二代目)に弟子入りして、朝太《ちようた》の名をもらったのは明治四十三年(一九一〇)、ちょうど二十歳のときである。〉  結城昌治さんが、古今亭志ん生の最初の師を、三遊亭小円朝で橘家円喬ではないと推断した最大の根拠は、三遊亭朝太という志ん生に与えられた前座名にある。志ん生自身が、『びんぼう自慢』で、「円喬師匠が若いころやっぱりこの名前をつかっていたそうでありまして」と語っているように、橘家円喬は八歳のとき三遊亭円朝に入門して、三遊亭朝太を名乗っている。しかしこれは、三遊亭円朝の「朝」の字をとった命名で、円喬となってから自分の弟子に「朝」の字のついた名を与えている例がないことなどから推しはかっても、二代目小円朝の弟子で朝太と考えるほうが自然である。橘家円喬が、四十七歳という若さで逝ったのは一九一二年(大正1)十一月二十二日のことなのだが、当時の新開や雑誌に載った訃報や追悼の記事をさがしてみても、朝太という弟子がいたという記録はない。  一九二九年(昭和4)に、「月亭春松事植村秀一郎」を「編輯兼発行人」として、「大阪市西成区東萩町三八・橋本卯三郎」を「発行所」として刊行された『落語系圖』という珍本がある。発行者の橋本卯三郎は、三代目の三遊亭円馬として東京、大阪を股に掛けて活躍した落語家なのだが、この『落語系圖』は間違った記述がかなり多いとされながらも、東西の落語家の系図、明治大正の京阪神の定席、はやし鳴物の一覧、番付、ビラなどが雑然とおさめられた、まさに珍本としかいいようのない、資料的にはなかなかの価値を持ったものだ。この『落語系圖』の、二代目三遊亭小円朝に開する記述は、間違いの多い本ということを頭にいれて、なお興味がふかい。 〈初代圓朝門人 一二代目小圓朝  初め朝太と云ふ、後に小圓太又五代目金馬となり、其後二代目小圓朝となる。  門人朝之助    小圓治 二代目小圓朝の実子なり、初め朝太と云ふ、四代目圓蔵門に入り圓橘となる。    朝がほ    朝ちん    朝 治    圓 麗    圓 流 後に六代目金馬となる。    友 朝    圓二郎 後に五代目新朝となり、大坂初代文字助の実子なり。    清 朝    朝 太    朝兵衛     其外略す。〉  この記述で、金馬という名が五代目、六代目となっているのは、亭号を「立川」で計算しているからで、「三遊亭」としての金馬は、五代目が初代、六代目とあるのが二代目になる。そんなことよりなにより、興味をひくのは二代目の小円朝が、「初め朝太と云ふ」とあり、門弟で実子の後に三代目小円朝となる小円治の項にも「初め朝太と云ふ」とある事実だ。  この『落語系圖』以外、二代目と三代目の小円朝が朝太を名乗ったと記してるものはなく、ほかの資料や三代目小円朝自身の語っているものから判断して、この朝太とあるのはふたつともに「朝松」の誤記らしいのだが、わざわざ親子ともに前名を朝太としているのが、間違いは間違いとして面白い。つまり、朝太という名を、四代目橘家円喬が子供の頃に使っていた事実があってなお、この名は三遊亭小円朝のところのものと考えるほうがより自然なのである。そして、『落語系圖』は、二代目小円朝の門人十二名のうち十一番目に、はっきり朝太という名を記しているのだ。  橘家円喬に入門したと志ん生は生涯語りつづけているのだが、二代目の三遊亭小円朝について旅に出て、橘家円喬の訃をその旅先できいている事実は、多くの文章が伝えている。ただ、最初から小円朝の弟子として旅に出たのではなく、円喬のところから手伝いのかたちで行ってるように記されているのは、それらの文章のいずれもが志ん生の生前に、志ん生の発言をそのまま受けとって書かれたからだろう。  二代目三遊亭小円朝が旅に出るにいたったいきさつは、当時の落語界の事情によるのだが、結城昌治『志ん生一代』は、そのあたりをわかりやすく伝えてくれている。 〈朝太の師匠小円朝も三遊派の頭取をしたくらいだから大看板にはちがいないが、一年あまりも旅をまわる羽目になっていた。その原因は月給制の失敗で、当時上野鈴本を中心に一流の芸人を買い占める計画があり、そこで驚いた神田の立花、京橋の金沢などの席亭(寄席の主人)が先に月給で芸人を抱えてしまう対策をたてた。そのために三遊派頭取の小円朝をはじめ円喬《えんきよう》、円右、円蔵、遊三《ゆうざ》、橘之助《きつのすけ》の六人が相談をうけ、会社をつくって月給制にすれば儲かるという具合にまるめこまれた。  ところが、そのころ人気絶頂の桂小南《かつらこなん》を筆頭に反対派が続出し、それに同調する席も相ついだ。落語界の勢力争いだが、会社派の席は次第に減って月給を払いきれなくなり、落語家も約束がちがうというので反対派へまわる者がふえた。しまいには身内の幹部までつぎつぎに抜けて、会社の代表名義にされた小円朝一人になってしまった。小円朝も抜けたいが、名義だけでも代表だから赤字を背負っている会社から抜けるわけにいかない。それで弟子をつれて旅に出たのである。もともと無理な月給制だったが、席亭側も落語家仲間もみんな身勝手で無責任で、小円朝ひとりワリをくった形だった。  そうなると弟子まで不運の道づれである。〉  もう少し前に書かれた文章も紹介しよう。一九五六年(昭和31)に青蛙房から出た、今村信雄『落語の世界』は、 〈明治四十五年、例の三遊派の月給問題で、小円朝と小南は東京にいられなくなり、前述の通り小南は手人《てびと》を連れて早々に旅に出てしまった。小円朝も旅に出ようと思って、一座を粗んで見ると、どうしても前座が一人足りない。「何処《どこ》かに遊んでいる前座はいないかなあ」そういうと伜《せがれ》の小円治(現小円朝)が「お父さん、住吉町に相談して見る方がいいよ、誰か貸してくれるだろう」「そうだな、頼んで見ようか」住吉町とは円喬のことで、彼は玄冶店《げんやだな》でえちごやという芸者屋をしていたから、玄冶店の師匠とも住吉町さんともいった。小円朝が円喬の処へ行って、事情を打あけて頼むと、そこは兄弟々子、ことに子供時代からの仲よし、心よく承諾をして、朝太という弟子を貸してくれることになった。朝太は現在の志ん生で、その時はまだ二十|五《ママ》歳だった。五月の某日、いよいよ小円朝一行が旧新橋駅(現汐留駅)から出発することになって、皆んなはすでに車に乗り込み、僅か十人足らずの男女が見送りに来ていた。都落ちとはいえ、三遊派の頭取の旅にしては甚だ寂しい見送りだった。〉  と、記している。今村信雄は、落語や講談の速記者として名高い今村次郎の子息で、やはり父の道を継いだひとである。『落語の世界』という本は、「産経時事」に連載したものをまとめているが、三代目柳家小さんから得たはなしが多いと、「あとがき」に記している。  小円朝の旅立ちに関する部分の取材源は明らかにされていないが、この時分すでに志ん生は、自分の落語家としての出発を橘家円喬の門人と他人に語っていたにちがいない。  面白いことに、この小円朝の旅に、朝太時代の志ん生と同道している三代目の三遊亭小円朝も、志ん生が自分の父の弟子であるとしないで、橘家円喬門であると認めてしまっているのだ。『三遊亭小円朝集』(青蛙房)におさめられている「小円朝昔ばなし」という稿で、やはりこの旅立にふれていて、 〈この時の一座は、親父が座頭《ざがしら》で、あたしのほかに国輔《くにすけ》ッて人がいっしょでした。それから女義太夫。それに、このとき円喬さんの弟子だった今の志ん生さんが朝太でいっしょに来ることになった。発つときに円喬さんが送りに来ましたが、これがお別れになろうとは思いませんでした。〉  と、なっている。この『三遊亭小円朝集』が出たのは、一九六九年(昭和44)で、当の三代目小円朝は無論のこと、志ん生もまだ元気だった。功なり名とげた落語家の伝えられている経歴を、いまさらのごとくに正してみたところで小円朝にとって一文の得にもならなかった。それに、もし小円朝が志ん生の伝えられる経歴を否定したところで、志ん生に何の影響も与えなかったにちがいない。すでに高座を離れていて、なおそれだけの地位が、志ん生にはあった。『志ん生一代』で結城昌治さんが、志ん生の橘家円喬門下説を否定したことは、故人の周辺にはまったくといっていいくらい影響を与えなかった。誰の弟子であろうと、古今亭志ん生は古今亭志ん生なので、そのすぐれた落語家としての名跡は、師匠筋が誤り伝えられたくらいのことでは、びくともするものじゃない。  波紋は、むしろべつの方面に及んだ。たとえば、一九七〇年(昭和45)に刊行された『志ん生廓ばなし』(立風書房)についている年表で、 〈明治四十年     十七歳  浅草富士横丁のモーロー俥夫の家に居候しているとき、すすめられてはなし家を志し、運よく�名人�といわれた橘家|円喬《えんきよう》門下となり、三遊亭朝太の名をもらう。〉  と、している小島貞二は、『志ん生一代』が公にされたあとの、一九七七年(昭和52)に出た文庫版の『びんぼう自慢』(立風書房)の年表を、 〈明治四十一年(一九〇八)  十八歳  四月二十三日、兄(二男)益没、二十九歳。あとの兄弟はみな夭折《ようせつ》して、五男の孝蔵のみのこる。  円盛のひきで、円盛の師匠初代(正しくは二代目だが芸界では初代)三遊亭小円朝門下に転じ、朝太の名をもらう。「名人四代目円喬の弟子となった」と志ん生本人は語っているが、師匠筋とすると小円朝が正しい。同門に二代目小円朝(初代の実子、当時朝松)、それにのちの講談師田辺|南鶴《なんかく》(当時一朝)がいた。〉  と、訂正した上、「楽屋帳(あとがきにかえて)」と題する末尾の文章で、こうのべている。 〈年譜を対比しながら、この本を読んだ方は、「生年月日から違ってるではないか」「両親の名前も違うのは、どうしたことだ」などなど、さまざまな疑問を感じられるに違いない。  実は、私は、そういうことを、随分取材の折り、念を押した。  放浪時代の入墨のことも、最初の師のイカタチの円盛のことも、そして小円朝のことも、それとなく伺ってみたのだが、その辺のところは触れるのを嫌うように、志ん生師は話題をすぐ別のほうへ動かした。  やはり、人には誰でも、触れてほしくない面、触れてはならない面がある。まして志ん生師のように、少年時代に家を飛び出し、結局、両親の死に目にも遭えなかったという事情を考えるとき、若い時代の思い出は、何もかもそっくり忘却の彼方に、ソォーッとしておいてほしかったのであろう。  志ん生という人を、本人の談話を忠実に、活字の中に生かすことが、与えられた私の仕事で、何もかもすべてをすっぱ抜き、大上段に人物論を展開するのが目的ではない。本人の語らない……無理に語ろうとしない面は、そのままにしておくことが、やはりこうした読物のとるべき態度であろうと、私は今も信じている。〉  なんとも歯切れのよくない、書かでものことを書いたといった印象の文章だが、志ん生の本格的伝記を以《も》って任じている『びんぼう自慢』の筆者としては、こんなかたちででも正すべきところは正しておかなければと思ったのであろう。  志ん生が、自分の誕生日や両親の名前すら正確に記憶していなかった事実と、自分の最初の師匠を誤ってひとに伝えていたこととは、おなじ間違いにしても、かなりその性格がちがう。とくに、自分の師を橘家円喬だとする発言が、戦後満州から引きあげてきてからのものと思われるところに興味がわく。  五代目の古今亭志ん生を襲って、十六回にものぼる改名記録にピリオドを打ったのは一九三九年(昭和14)のことだが、それから四年ほどたって書かれた正岡|容《いるる》の『當代志ん生の味』という文章には、 〈先代小圓朝門下で圓喬に傾倒し、先代志ん生の門を叩いた彼は、夙《はや》く江戸前の噺《はなし》の修業は一ぱしに了へてゐた、圓朝系の人情噺も一と通りは身に付けてゐた。〉  と記されている。  戦前の、赤貧洗うがごとき暮しをしていた落語家の時代には、その経歴に注目するひとなどそういなかった。だが、満州から帰国していらい、たちまち時代の寵児のあつかいを受け、東京落語界の指導的地位に立たされてしまった志ん生には、自分の経歴をかざることも必要になってきたのである。三遊亭小円朝よりも橘家円喬のほうが師としてふさわしいというより、橘家円喬でなければならない理由が、志ん生にはあった。  少し、寄り道をしようかと思う。  古今亭志ん生が、その生前、最初の師匠だといいつづけていた四代目橘家円喬は、どんな落語家だったのだろう。  まず訃報を見てみたい。一九一二年(大正1)十一月二十三日付の「都新聞」である。当時のこととて総ルビの記事だが、パラルビにとどめ、読みやすいよう若干の読点を補ってある。 〈●橘家圓喬死す [#2字下げ]故三遊亭圓朝の衣鉢《いはつ》を伝へたりといはれたる橘家圓喬 柴田清五郎は予《かね》て肺患に罹りゐたるが、去る十七日人形町の鈴本で独演会を開く前夜俄然病勢加はり爾来日本橋新和泉町三の自宅にて治療中、幸ひ快方に向へる由にて家人門人等|愁眉《しゆうび》を開きしが昨朝十一時頃病勢|頓《とみ》に革《あらた》まり遂に四十八歳、圓三、朝雀を枕辺《まくらべ》に坐らせ置きて死亡したり、同人は始め朝太といひ後圓好と改め、更に四代目圓喬を襲名したものにて「牡丹燈龍」「塩原」などの人情噺では並ぶものなき手腕を有しゐたり、晩年に至り同門の小圓朝圓蔵なぞと仲悪く孤立の気味あり、又門人中|尤《もつと》も未来を嘱せられたる小圓喬は発狂し其他では圓三、小圓三、金朝、朝雀外数人あるに過ぎず、地方で圓遊と称し問題となりたる一圓遊及び今の圓左も一時門弟たりし事ありしも何故か門弟が落着かず、最終の口演は十六日末広亭にて「真景|累ケ淵《かさねがふち》」なり、辞世は「筆もつて月に話すや冬の宵」と、葬式は来る廿六日朝十時雑司ケ谷鬼子母神内光明寺にて〉  さらに、翌十一月二十四日付の紙面には、次のような追悼記事が載っている。 〈●人情噺の千秋楽     (橘家圓喬の逸事) ▲世帯の話が嫌ひ 亡《なくな》った橘家圓喬(四十八)の自宅では兎角の評判があつた女房おげんが越後家《ゑちごや》といふ芸者家を営してゐる、圓喬は世帯話しを聞くのを嫌つて四畳半の茶室に大抵引龍もつて表干家の手前を見せて居た、その代り弟子の喬雀や圓三は落語を其儘お相伴《しやうばん》を勤めてゐた ▲辞世でない辞世 亡くなつた一昨日まで死ぬなぞとは思つてゐなかつた圓喬は廿四日の研究会へ出る積《つもり》で「茶金」の研究をしてゐたので娘がとめると「医者が死ぬといつたのか」と聞き直す、真逆《まさか》湯浅医師が駄目だつていひましたとはいへないので「否、そんな事はありませんけど」といふと「そんならいゝぢやないか」と研究を続けてゐた、軈《やが》て枕許にゐた喬雀に「一句やらう」と何の積でもなく「筆持つて月に話すや冬の宵」とやり尚ほ続けやうとする中《うち》舌が釣つて見る/\体温が冷えて行く、女房が抱きあげて「お前さん確《しつ》かりして」と二三度いふ中にいけなくなつたとの事 ▲岡崎邦輔大贔負 岡崎代議士は圓喬が大好きだつた、圓喬も又岡崎さんは大好きだといつてゐた、それだから孤立してから一と花咲かせる気で種々寄席改良の希望も述べ智恵も借りる事にしてゐた位だから、寝つく前日末広亭で三十九度近い熱を押して「累ケ淵」をやつてゐると岡崎さんのお座敷だといふので又押して大又のお座敷を勤めた、岡崎代議士も乃公《だいこう》の座敷を勤めたので病気が重つたのぢやないかと心配してる ▲三井一家はイヤ 『圓喬でなうて偏狭だ』といはれたゞけあつて岩崎家の贔負を徳として三井一家のお座敷には応じないとか気に入らぬお座敷ならピシ/\断るとかいふ風な気風が仲間にも世間の一部にも憎む人を生じて家に孤立する原因を作つたのである ▲旗上げの計画 コレも孤立の古今亭しん生と故あつて引込むだ桂小南に一圓遊と芸者をしてゐる娘を前に使ひ、自分は人情噺を充分聞かせる積もりで席割は真打の自分だけスケ並にするといふ相談まで出来てゐて、一圓遊の如き目下大阪に引払ひに行つてゐるので此の計画を知つてゐる一流のいろ物席の主人なぞで落胆してゐる者もある筈 ▲弟子を案じる 偏狭でも圓喬は弟子思ひだつた、本郷の若竹で独演会式のものを始めてから席の収入は殆ど圓三其他の弟子に分配してやつてゐた、五厘《ごりん》時代には巾を利かせた圓之助の全盛時代には首切りに賛成してゐたが、失意時代の圓之助を庇《かば》ひ立てして遂に三遊派|内訌《ないこう》の端を開いたので今度の計画にも圓之助を使ふつもりでゐたのである、小圓喬が発狂してからの入院費用も大半は圓喬の手から出てゐたのだ、そんなこんなで碌《ろく》に遺産といふ物はない ▲買ひ物の癖 コレは幾何《いくら》だと聞いて高い値をいふと黙つてしまふ、安ければ買ふ値切るのが大嫌ひだつた、所謂《いわゆる》大家といふものゝ悌《おもかげ》は柳で小さん三遊で此の人だつたらう、因《ちなみ》に研究会では今日常盤木倶楽部の例会席上で弔意を表する相談をする筈〉  三遊亭円朝の衣鉢をついだ名人として、藝の評価のすこぶる高かった円喬だが、その晩年は、仲間うちでも孤立した状態にあったことがよくわかる。円喬という藝名をもじって偏狭とかげ口をたたかれていたというのが、おのれの藝に生きんがためとかく協調性に欠けた行動をとっていたこの落語家の風貌を伝えてくれてあまりある。  橘家円喬が、藝においては師の円朝をもしのぐといわれるほどの高い評価を得ていながら、円朝没後、その円朝襲名のはなしが出なかったのも、円喬自身の性向に問題があったとされている。  三遊亭円朝が没したのは、一九〇〇年(明治33)八月十一日のことだが、この臨終、通夜に円喬は立ちあっていなかった。結局、円喬の死をみとることになった、日本橋の藝妓家越後家のおげんのところに、妻と三人の子供を残して入夫《にゆうふ》する事件と重なったためである。家庭をかえりみなかったばかりか、師の臨終の席にもいなかったことが、のちの円喬の立場をかなり悪くしたことは想像に難くない。  だが円喬という落語家にとって、そうした雑事は、おのれの藝を創造する上で、なんらかかわりのないことであった。落語という藝は、ほんらいパーソナルなものである。そうしたパーソナルな藝にたずさわるひとびとを、三遊派といった組織に統轄せしめた点で、三遊亭円朝はすぐれた藝人であると同時に、オルガナイザーでもあった。それに対して橘家円喬は、落語が本質的にパーソナルな藝であることに殉じた藝人であった。そのことが、ますますこのひとを孤高に押しやっていった気味がある。  三遊亭円生が『明治の寄席芸人』(青蛙房)で、この橘家円喬の性格について、うがった見方をしている。 〈円喬という人は、芸のほかには何物もないと考えていたので、もし、ほんの少しでも外交的な方面に頭を使えば、もっともっと仲間うちでも尊敬されたに違いないと思います。  三つ子の魂百までも……といいますが、持って生まれた性分はどうにもならないもので、子どもの時分から、ひとにいやがられ、晩年も仲間とどうも和合していかない……というのは「いやに高慢ちきな野郎だ」とか「ひとを眼下に見くだす奴だ」と思われて……まァそういう所も多分にあったのは事実ですが、これだけの名人でありながら、お客さまにも、「円喬はきらいだ」というかたがずいぶんあったことを、あたくしどもも知っております。お客を頭から呑むような所もありましたんで、もう少し愛嬌《あいきよう》があったらと思います。〉  この、「外交的でない」というのと、「愛嬌がない」という性格は、そっくりそのまま、円喬を崇拝してやまなかった古今亭志ん生のある一面をしめしていないだろうか。  どうも世間では、落語家というと、お座敷における幇間《ほうかん》的な性格の持ち主をイメージしてしまう傾向がある。実際に、幇間業から転じて落語家になったひともいるし、また戦前のように、座敷をつとめることも落語家の仕事のうちといった考えをもたないと通用しない時代もあった。現在なお、いついかなるときでも、それこそ幇間よろしく愛嬌をふりまかずにはいられない落語家もいないではない。だが、たいていの落語家は、愛嬌は高座の上でだけふりまけばいいと考えている。それでも、世間一般のひとよりは、多少とも愛嬌があって、外交的な手腕にたけているのが落語家というものだろう。そうした点からいうならば、古今亭志ん生というひとは、橘家円喬同様に、およそ落語家らしからぬ落語家であった。  いい座敷といわれるような仕事でも、自分の気にいらない客だと、すぐに投げてしまうから、古今亭志ん生に座敷の仕事をたのむときは気をつけないといけないなどといわれていた。その座敷に、もうひとり落語家が招かれていようものなら、 「ちょいと、よそへまわらなければならないから、先にやらせておくれ」  と、いきなり『義眼』とか、『女給の文』といった、五分か十分ですむはなしをやって、さっさと帰ってしまうことが何度もあったという。あとに残された落語家こそ災難だが、そういう他人の迷惑にまでこころ及ばないのである。  なにしろ、あの空襲をさけたい一心で、家族を残して、一家の大黒柱が満州くんだりまで出かけてしまったのだ。「他人のことなどかまっていられない」といった、自由に対する信奉がひと一倍強かったあたり、古今亭志ん生の生き方は、そのまま伝えられる橘家円喬のそれと二重うつしになってくる。  志ん生が生涯にわたって、四代目橘家円喬の弟子であったといいつづけ、心酔しきっていたことをかくそうとしなかったのは、そのすぐれた技藝に対する敬愛の念もさることながら、落語家としての生き方そのものについても指針としていたからだとも受けとれる。  仲間うちでの評判の悪さなど、すぐれた藝の前には、なにほどのこともないことを知っていた志ん生にとって、橘家円喬はあらゆる面で落語家としての規範であった。  もうしばらく寄り道をつづけて、橘家円喬の藝をのぞいてみようと思う。 「本当にうまい落語家だった」と、このひとの藝にふれたことのあるひとが口をそろえていう。実際に円喬をきいたことのない者としては、そうした年寄りたちのいうはなしを、素直に信じる以外にない。わずかに残された円喬のレコードは、なにぶんにもラッパのようなマイクにむかって、どなりこむようにして録音された時代というだけあって、伝えられる名人藝の片鱗すらうかがうことができない。  だいたい、「うまい落語家」という、その「うまい」というのはどんなことだろう。橘家円喬がうまかったと、ひとびとはいうのだが、どううまかったのだろう。ただ「うまい」といわれただけでは、なにもわからない。  古今亭志ん生も、当然のことながら、この円喬をうまかったと、いいつづけたひとりである。たとえば一九五六年(昭和31)に、朋文社から出た古今亭志ん生最初の著作『なめくじ艦隊』に、「名人かたぎ」という章があって、自分の出会った名人たちにふれているのだが、いちばんはじめに円喬のことが出てくる。 〈「円喬」──この人が、両国の立花家という寄席で、ズーッと続きものをやつていたときの話ですが、本所の方から毎晩その噺をききにくるねつしんな円喬フアンがいたんです。  あるひどい暴風雨《あらし》の晩、その人は、今夜は止そうかと思つたけど、どうしても聞きたくてしようがねえんで、それでも聞きに行こうと思つて、両国橋──その時分は電車もなにもなかつた──を渡つていくと、ひどい暴風雨で前にすすむことができなくなつちまつた。どうにもしようがねえから、あきらめて引きかえそうとしたけれども、あとへもどることもできなくなつちまつた。いまでいう台風なんですよ。その人は両国橋のランカンへつかまつて 「ああ、この円喬てえ野郎がいるために、おれはこんなつらい目をみるんだ。アンチキショウ! にくい野郎だ!」  てえ話があるんですよ。〉  このはなしは、志ん生自身かなり気にいっていた名人エピソードとみえ、折りにふれ語っていたものだ。僕も、直接きいたことがある。このはなしから、橘家円喬という落語家がうまかったことは、充分にうかがうことができる。だが、どううまかったのか、かんじんの藝に関しては、まったくわからない。少しも具体的ではないのだ。  これが『びんぼう自慢』になると、「円喬の四軒バネ」という項で、 〈あるときなんざ、師匠が高座に上がってる。楽屋に大勢いるから、あたしも用事をいろいろ手伝っていて、ひょいと気がつくてえと、どうも外の様子がおかしい。雨が降って来たらしい。 「弱ったな、降ってきやがって……傘《かさ》はねえし、帰りはどうしようかな」  とひとりごとをいったら、そばにいた当時の円楽《えんらく》てえ人が、 「雨じゃァねえよ。師匠が『鰍沢《かじかざわ》』をやってるんだよ」  おどろきましたね。ご案内の「鰍沢」てえはなしの、水の流れてるところをしゃべっているんだが、それがほんとうに、こう、何てんですか、ザーッと水の音がしてるように思えたんですから……。〉  となっていて、少しは具体的に橘家円喬のうまさが認識できる。  ここで、少しばかり円喬のうまさを具体的に語ってくれている例を列記してみるとして、まず三遊亭円生の『寄席育ち』からひいてみる。 〈そのほか、円喬師のものでよく聞いたのは『柳の馬場』で、これは初代の円左さんもよく演《や》りましたし、うまかったけれども……円左師匠のは、按摩が柳にぶらさがってる時に、その地びたが下に見えるんです。ところが円喬師のは「手を放すな、下は何丈とも知れぬ谷間だぞ」「へえッ」と言うと、その断崖の上から、ずウッと柳の木が突き出て、そこへ按摩がぶらさがって、深ァい谷の上へぶらぶらしてるようにあたくしには思えたんです。「へえッ」と言った時の按摩の真剣な顔ってのァないんですよ。とにかく落っこちりゃァ死んじゃう。「いさぎよく死ね」と言われて「南無阿弥陀仏……」ぱッと手を放した……って時にこっちも|どきッ《ヽヽヽ》とする。とたんに「足と地びたの間が三寸」……というサゲで、はアッと息をつくんです。〉  つづいて、桂文楽。正岡容の聞書によるといわれる『藝談あばらかべっそん』(青蛙房)の「名人円喬」という項に、 〈円喬師は「祇園会《ぎおんえ》」「錦明竹《きんめいちく》」「鰍沢《かじかざわ》」「猫の皿」「三味線栗毛《しやみせんくりげ》」などをやったのが耳にのこっておりますが、「祇園会」の芸者のおよくの巧さ、落しばなしとはいいながら、「錦明竹」で与太郎が二階の座敷へ水をまくと、ほんとうにその水の階下へ垂れて来る音が分りましたネ。「三味線栗毛」の錦木検校《にしきぎけんぎよう》の出世してからもその以前も、臭くなく声色《こわいろ》にならないでよく人柄が出ていましたし、若殿の角太郎もよかった。人物の出ないものはなかったといっていいでしょう。  なかでも「鰍沢」は天にも地にもない巧さで、吹雪のなかを旅人があの山の中の一軒家へ辿《たど》りついて笠をとった動作《どうさ》、合羽《かつぱ》をぬぐ趣向《しゆこう》、手をかじかめて|ソダ《ヽヽ》をくべて、フーッとそのソダから煙りが吹上がるあたり、それからソダの火の明りで月の輪お熊の顔をみて、 (この人どこかでみたような女だなあ)  と考えるその目つき。〉  と、円喬の高座の印象を記している。  さらに、この円喬のことを「一生のうち、あんなうまい話術家を聞いたことがない」といいつづける小島政二郎氏は、その著『場末風流』(青蛙房)のなかの「円朝余談」という文章で、三遊亭円朝作『真景累ケ淵』発端の「宗悦殺し」における円喬のうまさを、つぎのようにいう。 〈円喬は宗悦の肌のねばっこさ、吐く息の臭さまで描いて見せた。宗悦の金に対する執着の異常さを性格的に彷彿《ほうふつ》とさせて見せてくれた。深見新左衛門でなくても、つい刀のツカに手を掛けたくなる思いを、聞く我々に伝えてきた。〉  円喬の高座を知らないという林家彦六は、こうした他人の語る円喬の藝に、いかにも落語家らしい考察を加えて、 〈まあ、いろいろひとの話を綜合してみて、いまでいう推理を働かしてみると、……円喬師匠の演《や》り方というものは、おそらく義太夫語りの手法ではなかったか、と、あたしはおもうんだがな。  叙景から人物描写にかかるところなどは、義太夫でいけば、たとえば「太十《たいじゆう》」では、光秀の出の前はいかめしく、操《みさお》のところはやさしく、十次郎初菊のところは色っぽく……ね。  そういう風に、叙景から抑揚をつけて人物描写に入ったんではないかとおもうんだがな。……円喬というひとは、義太夫の素養もあったひとだから。〉  と、林家正蔵時代に著した麻生芳仲編『林家正蔵随談』(青蛙房)で、いっている。  必要以上に、ながながと、橘家円喬の藝に関するいろいろなひとの叙述を引用したについては、いささかわけがある。  こんにちひとびとが、落語家の藝のうまさを話題にするとき、その「うまさ」というばくぜんたる表現の志向しているものが、円喬的な演技術にあるような気がしてならないからである。つまり、橘家円喬というひとの藝に、ひとびとは、落語家の技術の理想を見出しているのだ。  いきおい円喬の藝について語られた部分が、本来もっている意味以上に拡大され、なかば伝説化されてしまうことになる。  そんなわけで、どうも先人たちのいう円喬落語のうまさというものが、明確に、しかも具体的にはなかなか理解されぬうらみがあるのだが、先に引用したいくつかの叙述は、円喬の藝にはからずも共通したすぐれた特質のあることをうかがわしてくれている。それは、描写力といっていいだろう。円生のいう『柳の馬場』や、文楽、志ん生がそろって指摘する『鰍沢』における円喬のうまさは、なみはずれてすぐれた描写力にほかならない。つまり『鰍沢』の水の流れを、志ん生が雨音と錯覚したということにうかがえる、描写力の高さである。  落語にとって、描写ということのもつ効果は、決してないがしろにできるものではない。落語に描かれる世界を、的確にきき手に伝えるために、落語家がみがく技術のなかでも、描写力はきわめて大きな要素だ。登場人物、情景、はなしの展開といったすべてが、ひとりの手にゆだねられている藝にあっては、欠くことのできぬ性質のものだ。円喬というひとには、すぐれたそのちからがそなわっていたにちがいない。  ふつう描写力というと、文字通り描いて写す技術のことである。円喬の例でいえば、柳の木にぶら下がった按摩の恐怖の表情であり、吹雪のなかを山中の一軒家にたどりついた旅人のしぐさであり、心理であり、急激に量を増した水の流れるさまであり、異常な金に対する執着心である。つまり、人間や、ものごとの状態を、それらしく高座に描いて写してみせる技術である。  ここで容易に気がつくことだが、そうした落語家の技術は、芝居でもって役者に要求されているそれに、ひどく似ている。役者が役を演ずるときの姿勢が、そのまま落語にもちこまれている、そんな感じがあるのだ。そうした典型として、橘家円喬のうまさを理解しようとつとめることによって、いままで漠然としていた円喬のうまさというものが、かなり明確さを増してくるように思われる。  だいたい、役者が役を演ずるという作業には、いっぽうで扮するという言葉が使われることに象徴されるごとく、その役の人物らしくよそおう技術が、かなり重要視されてきた。役の人物らしく見せるために、役者は扮装をこらし、しぐさのはしばしまでそれらしい特徴をつくりだし、台詞《せりふ》のいいまわし、発声に工夫する。とくに、扮装をこらすことは直接視覚に訴えることのできる点で、その役らしく見せるために役者に与えられた有力な手段といえる。  歌舞伎を見ると、役によって衣装、かずら、化粧法にいたるまで、定められた型のあることに気づくが、あれは長いあいだに、その人間らしく見せるためにもっともふさわしいものが選び出されているのであって、役者にとって扮装が、すぐれた効果をあげ得るものとしていかに大切にされているかを、如実に物語っているのだ。  ところが周知のとおり、落語家は役者とちがって扮装をほどこすということをしない。なぜかといえば、落語家は役者のように特定の人物を演ずるだけでなく、たったひとりですべての登場人物を演じなければならないからである。  役の人間らしくうつすための、もっとも効果的な手段であるところの、扮装をうばわれた落語家のたよるものといったら、わずかのしぐさと、語りの技術しかない。いきおい落語家は自分の語り口でもって、すべての状況を描写してみせようとする。その見本であり、手本になったものが、芝居における役者の演技術にあったことは想像に難くないのだ。  小島政二郎氏のいう「肌のねばっこさ、吐く息の臭さまで」その人間を描いてみせ、「金に対する執着の異常さを性格的に彷彿とさせ」、そして、「深見新左衛門でなくても、つい刀のツカに手を掛けたくなる思いを」、劇中人物でない観客にまで伝える技術の高さ、すなわち高度の描写力によって生まれるところの現実感、ほんとうらしさを舞台上につくり出すことこそ、一時期の演劇が懸命になって追い求めた世界であったはずである。  伝えられる橘家円喬の描写のうまさが真に迫ってくればくるほど、このひとが『鰍沢』なら『鰍沢』というはなしの場面を、芝居の舞台に想定し、芝居に描かれる世界を、自分の語り口をとおしてきき手に伝えようとしたことを物語る。『圓喬新落語集』(三芳屋)によっているという『落語名作全集』(立風書房)所載の『鰍沢』で、円喬が、旅人をして、 〈はァ、なるほど。きょうも雪の降るのにお商《あきな》い……。しかし、ようございます、かえってそのほうが──。熊の胆《い》なぞを、江戸へみやげか何かにしますが……、なんですぜ狂言作者《きようげんさくしや》(芝居の脚本家)がこのことを開きゃァ、見のがしませんね。いいセリフができますぜ�ひび、あかぎれをかくそうため、亭主は熊の膏薬《こうやく》売り……�なんと言って〉  といわしてる事実は、興味ぶかい。円喬のこの速記よりいささかはやい、一八八七年(明治20)の落語講談速記雑誌『百花園』第四号に載っている、四代目三遊亭円生による、おなじ『鰍沢雪の酒宴』では、はやり七五調の芝居めかした台詞《せりふ》まわしこそあれ、わざわざ狂言作者うんぬんという言葉は出てこない。  円喬という落語家には、かなり意識的な芝居の世界にたいする傾斜がうかがえるのだ。林家彦六の「円喬というひとは、義太夫の素養もあったひと」という言葉も、こうした面からきくと、いっそう意味あいがふかまる。円喬の演技術に発見する、演劇性への志向は、円喬の評価が高ければ高いほど、のちの落語に大きな影響を与えずにはおかなかった。  演劇性への傾斜ということは、橘家円喬の活躍した時代的な背景からも当然歌舞伎の影響ということになるのだが、多くの落語家が知らず知らずのうちに、歌舞伎における演技術を、落語の語り口にとりいれようとしたのはうなずける。ただ、落語における語り口に、歌舞伎役者の演技への傾倒が見出せても、それは歌舞伎役者のもつ語り口そのままではない。もちろん、こんにちなおしばしば演じられる「芝居噺」などには、あたかも歌舞伎役者を思わす語り口が通用しているのだが、これはあくまで例外であって、ふつうの落語における語り口は、歌舞伎の時代物はもとより世話狂言のそれよりも、もっともっと生活的である。無論、橘家円喬の時代とて、その点では変るものではない。  歌舞伎の影響を、あれほど受けながら、なお落語の語り口が歌舞伎よりも生活的であることは、役者とちがって落語家は扮装をしないことも大きな理由としてあげられよう。演劇的な現実感と、生活的な真実感には、意外といっていいくらいの距離があるので、扮装をしない落語家に、演劇的な現実感を要求することは、かなり過酷な作業といえる。  それに、落語のばあい、歌舞伎とちがって一種の様式を必要とするような世界で、はなしが展開されることがあまりない。むしろ、芝居より生活感を大切にもちつづけているといってよく、そうした世界をいきいきと活写するためには、すぐれた描写力をそなえて、しかも生活的な真実感をもった語り口が要求されるわけだ。というよりもむしろ、そのすぐれた描写力という技術は、生活的な真実感をより鋭角的にするためのものなのである。  橘家円喬いらい、うまい落語家とよばれるひとの、そのうまいとされる要素は、それらしく感じさせる技術をもって、最高の価値あるものとしてきたのが落語の藝である。  ここで考えてみなければならないことは、落語の藝に要求されるものが、こうした高度の描写力だけにとどまったとき、落語にはきわめて強固な枠がはめられてしまうことだ。つまり描写の志向する、ほんとらしい世界から、激しくはみ出ようとすることをしなくなったとき、落語家の藝は、描写の枠にとじこもり、描写を、表現にまで高めることを拒否してしまうからである。  歌舞伎の役者にとって、描写は表現のためのひとつの手段である。だから、それらしい扮装をほどこしたうえ、あの一種独得の台詞術をうみだした。あの台詞まわしは、歌舞伎の求める演劇的な現実感を創造するのに、もっともふさわしくて適切な技術であって、表現のための形式なのである。  ところが落語は、歌舞伎から多くのものを学び、その演技術を志向しながら扮装をすることができない。そのため、いたずらに描写にたより、生活的な真実感を追求することに、落語の演技術はのめりこんでしまった。単なる描写力からだけでは、落語的な真実感も、落語的にすぐれた表現も生むことができない。そのために落語は、描写以外の力を借りねばならぬのだ。  落語の面白さ、楽しさを、きき手に伝える落語家の技術を支えるものといったら、語り口の個性以外にない。描写は、その語り口をよりゆたかにするためのひとつの手段にすぎない。描写において、なみはずれたうまさをもっていた橘家円喬に、あれだけ傾倒していた古今亭志ん生という落語家の藝を評価するのに、その描写力といった物差しだけでは、とうてい計り難いものがあることを、じつに面白く思う。いつも、ゆたかな諧謔《かいぎやく》の精神と、するどい批評精神を忘れることのなかった古今亭志ん生の高座には、天才的ともいっていい語り口が躍動していた。その強烈な個性は、訓練だの、稽古だのを超越した、全人間的なものといってもいい。だから三遊亭円生がいみじくもいった「道場でなら、志ん生に勝てるが、真剣勝負ではかなわない」という言葉ほど、この落語家の資質をいいあらわしたものはない。 『火焔太鼓』というはなしは、そうした志ん生の藝を識るには格好の落語だが、このなかで志ん生は、侍を侍らしく描写してみせたり、道具屋の親父と侍のちがいを、藝の上で納得させるということに、それほどの興味をしめしていないようにうつる。それでいて、待は侍であり、道具屋は道具屋になっているというのは、志ん生自身の語り口によって表現される人間像がそこに、でんと存在するからだ。志ん生の語り口が、諧謔精神と批評精神に裏うちされているからである。「描写の上にあぐらをかいてはいられない」ということを、さる文士が口にしたそうだが、描写という技術に寄りかかってばかりいられないのは、なにも文学ばかりではない。  こうした描写を超越した語り口を支えている、古今亭志ん生の諧謔精神、批評精神を、『崩壊の危機に立つ古典の芸─落語』(『伝統と現代』第八巻・學藝書林)という文章で、永井啓夫がするどく指摘してみせる。 〈五代古今亭志ん生の『妾馬《めかうま》』では、話し手が無知な八五郎と同意識に立って物語を進めていた。つまり大名の屋敷の中で礼儀作法のむずかしさに戸惑っているのは志ん生自身であり、その人間的な愛嬌とささやかな反骨精神が笑いを生んでいた。しかし、六代三遊亭円生の『妾馬』では話し手は客観的に八五郎をあたたかく見下ろして、主人公とその局囲の人々の人情をえがいてゆく。話し手は家主や大名の立場に立って、自分自身は笑いの対象にならない。志ん生が落語の手法を貫いているのに対し、円生は人情噺の演出を採っているからである。〉  ここで永井啓夫のいう「人情噺の演出」は、とりもなおさず演劇的な演出ということで、話し手が、それぞれの人物の立場にたって、自身は笑いの対象にならない姿勢に、はっきりと落語における演劇への傾斜がみられるわけだ。というより、人情噺という形式自体がそうした演劇的な手法を必要としているのである。その意味でも、橘家円喬が人情噺を、より得意にしていた事実が、彼の落語を象徴している。 『妾馬』というはなしに、あえて人情噺の演出をもち込んだ三遊亭円生と、落語としての手法を貫いた古今亭志ん生のあいだに、落語家としての姿勢の差を発見することができる。自身の語り口によって『妾馬』を展開させていくことは、志ん生自身の批評精神なり、諧謔精神なりが、志ん生の『妾馬』を支えることになる。すぐれた落語感覚を内にひめた落語家でなければ、できることではないのだ。  おそらく天性の落語感覚という点で、橘家円喬の描写力を超えていたと思われる古今亭志ん生が、最後の最後まで円喬のことを名人といいつづけていたのが興味ぶかい。生涯現役のこころを持ちつづけた志ん生にとって、どうしても超えることのできない山脈に映ったのだろうが、前出の「文藝春秋」の「お茶の間放談」で、そのうまさを、 〈それでも、その時分は、そんなに上手《うま》いと感じなかったのが、不思議ですね。いまンなってわかるんですよ、その、ほんとの上手さってものが。ああ、あれは上手いなということが。どうしてかというと、それは自分にできないからです。『三軒長屋』にしても『茶金』にしても、どうやったって、できない。やれないんですよ。〉  と語っているが、はなはだ具体的で面白い。 『三軒長屋』も『茶金』も、しばしば志ん生が高座にかけていた演目で、無論悪かろうはずのないものである。その志ん生のすぐれた落語感覚をもってしても、円喬の描写力に対して、「どうやったって、できない。やれないんですよ」と頭をさげてしまうのだ。  若い時分の志ん生が、「まっ|ち《ヽ》かくな藝」の持ち主であったことは、多くのひとが指摘するところだが、円喬的な正確な描写力を目指した末に会得したかにうつる、あの独自の飛躍した表現力、諧謔精神が、なにものにもかえがたく尊いのである。  志ん生にとって、円喬のもつ描写力の高さは、生涯信仰の対象のようなものだった。 [#改ページ]  4 藝と商売  橘家円喬の藝を伝える文章に、このひとのよくなかったときの記録がない。どんなにすぐれた技藝の持ち主も、出来のよくないときというのが皆無であったはずはないので、そうしたときの記録が残されていないことが、余計に橘家円喬という落語家に対して神秘的な面影を与えてしまっているのは否めない。  その橘家円喬に、生涯心酔していた古今亭志ん生には、円喬にうかがえる神秘性がまるでなかった。病に倒れる前の、ということはいわゆる全盛期の志ん生を、高座にむかえるとき、志ん生をよく知る客は、「きょうは、やるか、やらないか」混沌《こんとん》とした気持をいだきながら待っていたのを、僕もよく知っている。 「やる、やらない」というのは、熱心に高座をつとめるか、そうでなく半分投げやりでおりてしまうかといってもよく、伝えられる橘家円喬のように、いつもいつも名人藝を披露《ひろう》してくれる落語家ではなかった。よく競走馬に、勝つときは、圧倒的な強さを見せながらゴールにとびこんでくるくせに、負けるときは、まったく無残なレースをするのがいて、馬券を手にした者をはらはらさせるのだが、志ん生の藝には、そんなむらっ気の多い競走馬じみたところがあった。ただ、そうした「やらない」ときの志ん生が、つまらなかったり、だめであるかというと、決してそんなことはなく、ときとしては、「やらない」ときのほうが、面白いという点ではふだん以上などということもあるので、油断のならない落語家であった。  江國滋『落語手帖』(普通社)に、こんな一節がある。 〈……小さん、志ん生、(休憩三十分)、三木助、文楽……というプログラムだった。第十三回(三三・五・三〇)の東横落語会。  ところが小さんの『三人旅』が終ると、突然幕がおりてしまった。休憩五分ののち、スルスルと幕があいて、お囃子《はやし》もなく現われたのが再び小さん。「志ん生師匠がまだこないんで……」と、つなぎに漫談をはじめたが、とてもつなぎきれず、漫談が枕になり、枕がいつしか本題となって、はなし半分ほど喋《しやべ》ったところで、かけつけた三木助にバトンタッチ。三木助のだしものは『鉄拐』。終って中入り。  三十分間の休憩のあと、「志ん生はもうこないよ、きっと」というささやきが聞こえる中で幕があがった。メクリは「鮑熨斗《あわびのし》 古今亭志ん生」とある。軽妙な出囃子『一挺入り』が聞こえ、やがて志ん生がぬっと出てきた。顔が真赤で、足もとが危い。一見してひどい酔い方だ。もっとも、どんな時だってシラフの志ん生なんて考えられないほどだから、いまさら赤い顔をして高座へあがったところで、驚くことではないのだが、それにしても今夜の酔い方は尋常ではない。  例によってななめに床をなめるようなお辞儀をしかけると、グラリと体がゆれてハッとさせる。お辞儀をしたまま寝てしまうのではないかと思ったが、それでもしゃんとして正面をむき、しばらくは無言。そんな一瞬の間が笑いを誘う。やがて、蛸入道《たこにゆうどう》のような彼の口から洩れた「ええ、ちょいっと事故がありましてナ」という第一声に客席は爆笑。酒のことも、遅刻のことも、これっぱかりもいわず、すぐ本題に入ったのはよいが、「あの時分はてェと、まだ米が一升十銭で買えた」という件《くだ》りで、 「……その米が一升十銭で買えた|大正から明治《ヽヽヽヽヽヽ》へかけてのことで」  とやって、再び客席は爆笑。志ん生はキョトンとした表情を浮かべたが、しばらくしてから気がついて、あるかなきかの細い目を愈々《いよいよ》細くしてニヤリと笑う。それがおかしいといって客席はまた爆笑。  あとはもう破れかぶれ、ロレツのあやしい舌でペラペラと喋って、オチまでいかずに結局、這這《ほうほう》の態《てい》で退散。そんな志ん生の後姿に、客席は大満足で、盛大な拍手をおくった。この日最大の拍手だった。不思議な噺家だなあと思いながら、ぼくもこの天下ご免の酒に惜しみなく手を叩いたのだった。〉  志ん生と酒の関係は、切っても切れないものがあり、彼の酒についてはこの先もしばしば書くことになりそうである。ただ、のみたいときにのむという、およそ酒の好きな者にとっては、理想的に思える酒ののみ方をしていた志ん生が、その酒のために、かんじんの高座をしくじったことは、一度や二度ではない。江國滋が書いている、東横落語会のような高座ぶりを、じつにしばしば演じていた。人形町末広の高座で酔いつぶれ、ひと言も発することなく寝こんでしまい、 「おいッ、どうかしちゃったぞ」  という客の声に、あわてて前座が楽屋に連れ戻したこともあったそうだ。三越落語会の顔づけから、しばらくはずされていたこともあって、これも、酒にからんだしくじりがつづいたことへのいましめからであったといわれる。  ふだんの、それほど酔っていないときの志ん生ですら、「やるか、やらないか」が問題にされていたくらいだから、泥酔したときに真剣な高座がつとめられるわけがない。そんな状態の志ん生に、いつも客は惜しみない拍手を送ったのだから、やはり不思議な落語家であったというほかにない。不思議な落語家であったが、客は、好きなときに好きなようにのみ、その結果を考えない、志ん生の自由な生き方に、ある憧憬を感じ、共感の拍手を送ったのではなかったか。  世間体を気にし、自分の仕事をまもろうとする意識から、いつもおのれを殺すことを強いられている客にとって、そうしたことからまったく超越してるようにうつる志ん生の生活態度は、格別うらやましく見えたに相違ない。高座に酔いつぶれた志ん生の姿に、あるカタルシスを感じた客も、少なくなかったわけで、そうした客にとっては、志ん生の、やる、やらないなど、どうでもいいことであった。やらない志ん生にすら、より一層の鮭力を感じたはずである。  寄席の符牒《ふちよう》に、「セコキン」というのがある。悪い客の意味だ。落語など、ふだんはきいたことのないような客で、洒落《しやれ》っ気を理解しないし、繊細な藝の味わいなどもぴんとこないから、「大ネタ」と称するいいはなしを苦労してしゃべっても、むくわれない。そんな「セコキン」の多い日のためのはなしを、どんな落語家も用意しておく。『勘定板』とか、『目薬』とか、下がかった内容の短いはなしが多い。  こんなはなしがならぶ日は、寄席の客が、どこかおかしいのである。古今亭志ん生のばあい『義眼《いれめ》』であった。なんとも他愛のないはなしだが、適当にうけるし、演者としても楽にできたのだろう。僕なども、志ん生の『義眼』には、じつにしばしば付き合わされたものである。当人としては、ある程度お茶をにごしたつもりの高座なのだろうが、そんなことを知るよしもない寄席の客は、腹をかかえて笑いあい、大喜びするのが常であった。 「週刊文春」に以前「この人と一週間」という欄があって、一九六一年(昭和36)十二月四日号で古今亭志ん生を取りあげているのだが、その十一月十八日の項をひいてみる。 〈「法政の学生が�お直し�やってくれってえやがんだよ、一体あたしゃあ、なんで法政へいかなきゃなんないんだい」  ブツブツ呟《つぶや》いていた師匠も、口でいうほどいやではないらしく、二時前に法政大学落語鑑賞会に出かける。  金原亭柱太さんがお迎え役。馬生さんに弟子入りして、まだ前座だが、法政落研のOBで、法学部出身というインテリ。 「噺できますか?」  木造の体育館のような講堂に集まった三百人ほどの学生の客の様子を、控室で気にする。 「オメエさんたち、はなし聞きにきたんだろ? だったら、聞かなきゃわかんねえじゃねえか」  と、わるい客にタンカをきったことのあるという師匠だ。  三百人ほど集まった学生を、全部前の方に寄せ、マイクをとり払ってしゃべる。 「マイクを使うってえと、あたしの声は若く聞こえるらしいんで(笑)、声だけ聞いてるてえますと、ありゃあ二十二、三じゃねえかってえん」(笑)  学生の客は熱心で、師匠はたっぷり三十分�お直し�をやって高座をおりた。  三十一年春、芸術祭賞を得たときのやりものがこれだった。  ──三時頃、本牧へ。 「勝負の勝ち負けは、世の中ァ渡るのとおんなじですナ。どういうふうにして勝つかってえことと、どうやって世に出ていくかてえのとおんなじですな」  そういっては、将棋をさしにいく師匠も、このところ調子があまりよくない。何にでも勝つという荒木又右衛門を祭った神社のお守りを持っているが…… 「いくら荒木又右衛門でも、将棋の強ェやつにゃあ、かなわねえよ。やんなっちゃうネ」  本牧では珍しく、二合ほどひっかけて、講談の貞丈さんと一緒に新宿についた。  土曜日とあって入りはいいが、あまり上等の客ではないらしい。 「ノゾク|やつ《ヽヽ》やるか」 「義眼《いれめ》」のことを師匠はこう呼ぶ。あわてて義眼をのみこんだ男の尻を医者がのぞくと、向うでもだれかがこっちをにらんでいたという、おなじみの噺だ。  お弟子さんがそれを聞いて 「ハァ、今夜は尻《けつ》の客です」  しかし、途中で気が変って、「鈴ふり」というめったに聞けない大変な艶笑譚《えんしようだん》をやった。〉  あらかじめ、演目の定められているホール落語会のようなところでも、志ん生はしばしば演目を変更してのけた。内容的についてしまうはなしが、ほかに出ているというのが表むきの理由であったが、じつは思ったほど客がよくなくて、苦労していいはなしをきかせるほどのこともないと志ん生が判断したケースのほうが多かったようだ。こんなときは、たいていこの『鈴ふり』とか『疝気《せんき》の虫』といった、ふだんはきく機会のない艶笑落語をやったものだ。  自分が多少とも楽をさせてもらうときでも、客には喜んでもらいたいという、志ん生一流のサービス精神であった。しばしば寄席の高座でかけた『義眼』だって、客に喜ばれるという点では、それこそ芸術祭賞をとった『お直し』にも負けないものを持っていたので、いわゆる藝惜しみ」をするときにさえ、いや「藝惜しみ」をすればこそ、客に対するサービスということが、志ん生なりに頭を離れなかったのだ。要するに、『お直し』を好み、それを理解する客か、『義眼』のようなはなしを単純に喜ぶ客かが問題なのであって、その客の好みにあわせたはなしをして喜ばれればそれでいいというのが、志ん生の素直な気持であった。  その点では、落語家がまくらでよく口にする、   はなし家に 上手も下手もなかりけり   行く先々の 水にあわねば  という狂歌の精神を忠実に実践していたともいえる。  元気な時分の志ん生には、「お座敷」と称する仕事が少なくなかった。待合や料亭の座敷に招かれて、一席やるのだ。ふだんの寄席や、落語会で支払われる出演料とは、くらべものにならないくらいの金額が支払われるのがふつうで、だからたいていの落語家は「お座敷」を、ことのほか大切にした。ところが、志ん生は、この「お座敷」でも、たびたび『義眼』を演じている。「週刊文春」の「この人と一週間」にも、十一月十六日の項に、 〈本牧でひと休みしたのち、七時前、赤坂のお茶屋の席へ。こういう宴席の客には、手っとり早い「義眼」で十分だ。〉  なんてくだりがある。  柳家小せんが、まだ若かった頃、本牧亭の女主人石井英子さんの紹介で、古今亭志ん生とおなじ座敷に出たことがある。というより石井さんが、志ん生のお座敷の前座の仕事を小せんにくれたのだ。ところが、当日、小せんのいることを知った志ん生は、 「きょうは、ちょいと急ぐから、先あげとくれ」  といって、さっさと『義眼』を演って帰ってしまった。客のほうは、志ん生がもう一席やると思っているし、だいいちまだ若くて名の知られていない小せんなんて落語家をきこうなどとは思っていない。 「志ん生を出せ」 「志ん生はどうした」  と、口々に騒ぎ出したという。小せんと石井さんは、ほうほうの態で、裏口から逃げ出さざるを得なかった。  志ん生が、ほかの落語家のようには「お座敷」を大切にしなかった事実は、いろいろに伝えられている。ああした場所に、落語家を招いて一席きこうという客の側には、無論一種の見栄もある。だが、そうした見栄以上に、せっかく安くない金を支払ったのだから、たっぷりといいはなしをききたいという気持をいだくのも当然といえる。そうした客の期待を、志ん生はいとも簡単に裏切ってみせた。  一九五一年(昭和26)に、京和社なる版元から『藝談』という本が出ていて、そのなかで須田栄氏が古今亭志ん生の項を担当しているのだが、その冒頭にこんなくだりがある。 〈志ん生がまだ甚語楼といった時代だから、今から十五六年も前の事だったと思う、ある非公開の席で彼の「五人廻し」を聴いた。実に絶品で、世の中にこんな巧い噺し家があるだろうか、と敬服したのは素人の私ばかりでなく、並み居る大真打《おおしんうち》達も舌を巻いて耳を傾けたものだった。  あれから何年、寄席で彼の「五人廻し」を聴く機会は何回かあったが、ついぞあの時ほどの出来を一度も耳にする事ができなかった。  同じ人間が、同じ噺をして、どうして、こうも違うのかしら……とある時彼にたゞすと、「冗談いっちゃいけませんや。『芸』なんてものは一年に一度か二度しかやるもんじゃなくて『芸』と『商売』とはおのずから別ッこのもんです、あの時やった『五人廻し』は『芸』で、ふだん高座でやっている『五人廻し』は『商売』です、毎晩々々高座で『芸』をやっていたら、こっちの体が持ちませんよ」  と答えた。なるほど、とはじめて合点がいったような気がした。〉  つづけて、志ん生は、こうもいっている。 〈「遊びに来た客には気持よく遊ばせて帰す、それがわれわれの『商売』の腕です、それをいいまのふりして『遊び』に来た客と取っ組んで『芸』を聴かせようなんて、ほんとのくたびれ儲け、改札口を通っちまった地下鉄の切符じゃないが、こんなコケな斟酌《しんしやく》は、あっても無くてもいいもんです」〉  地下鉄の切符うんぬんというのは、当時東京の地下鉄が入札口だけで切符を改めて、出札口では回収しなかったことを、くすぐりにしてるので、よく高座でも利用していたのを思い出す。  いずれにしても、志ん生は、この「藝と商売は別」とする考え方がかなり気にいっていたようで、折りにふれてこのことを口にしている。すでに、二度引用している「週刊文春」の「この人と一週間」にも、 〈七時半頃ヤマハホールへ。芸術祭参加「東京落語会」だ。師匠のほかに小さん、円生、柳橋、文楽という一流の顔ぶれで、超満員の盛況で、機嫌がいい。  お得意の「火焔太鼓」をたっぷり三十分やって新宿へ。  新宿でも「寝床」ときて、このところ結構な噺が続く。 「芸と商売たあ別ですからネ。芸なんてもなァ、一年に二度か三度ぐらいのもんで、毎晩、芸やってた日にゃあ、こっちの体が参っちまいますからナ」〉  と、ある。  志ん生にとって、いや、落語家なら誰でもそうだろうが、お座敷は商売の場なのである。商売の場であることに徹していた志ん生は、酒をのみながらの宴席にあっては、『義眼』のようなはなしのほうがふさわしいことを、身体で知っていたのである。  商売だから、気がむかないこともままあったはずだ。客の期待に、それがそむくとわかっていても、適当にお茶をにごして次なる場所へ行ってしまわずにはいられないのだった。 「二度と招ばれない覚悟さえあれば、どんなことだってできる」  といった、商売の姿勢を持っていればこそ、ふつうの落語家のように、「お座敷」を格別大切に扱うこともしなかったのだ。  それにしても、自身、「遊びに来た客には気持よく遊ばせて帰す、それがわれわれの『商売』の腕」  といっているとおり、志ん生というひと、こと商売の場ではすぐれた腕を発揮してのけた。 『義眼』で、客席をわかせるばかりでなく、酔って支離滅裂な高座を見せるのも、酔いつぶれてその高座で眠りこんでしまうことさえ、志ん生の商売の腕なのである。  そんなことが許されたというだけでも、このひとが、なみのスケールの通用しない落語家であったことがよくわかる。  古今亭志ん生という落語家は、「商売」と「藝」を、たくみに演じわけていたのだが、当然のことながら、ふだんは商売に徹して、「藝」で勝負することなど、めったになかった。「毎晩のように高座で藝をやっていたら、こっちの身体が持たない」と再三にわたって述べているのは、自己弁護というより本音なのである。いまだに語り草になっている、一九五六年(昭和31)十二月の三越落語会で演った『お直し』を聴いていないのが残念なのだが、これなどは志ん生が一世一代の藝にいどんでみせた高座で、その結果が芸術祭賞に実ったといったところであろう。  この受賞は、古今亭志ん生という落語家の藝の歴史のなかでエポック・メーキングをなすのだが、じつはこのときの三越落語会が芸術祭参加公演であることを、志ん生自身知らなかったと伝えられている。  いかにもそういうことに無頓着《むとんじやく》な志ん生らしいエピソードにされているのだが、正直なところ疑問がないでもない。おそらく、受賞が知らされたときの志ん生のコメントがそのまま伝えられたものであろうが、いかに志ん生といえども芸術祭がどんなものであるか、まったく関知していなかったというのは、やはり不自然である。昨今の、まったく年中行事化した、なんの権威もない芸術祭とはちがって、落語のような寄席演藝にも、やっと門戸が開かれて、落語家がひとしく喜びあってた時代の芸術祭である。知らなかったわけがない。受賞を伝えられた志ん生には、自分が精いっぱいに藝をやって、それが認められたことに対する「てれ」があったことは想像に難くない。  その「てれ」が、「俺はべつに藝をやった覚えはなくて、ただいつもと同じように商売をしただけだ」という意味あいで、「芸術祭なんて知らなかった」と発言したものと思われる。  百歩ゆずって、ほんとうに芸術祭参加公演であることを知らなかったとしても、ほかの落語家たちが芸術祭に賭けて、真剣な、志ん生のいう藝を高座に展開してるのにふれれば、まさか自分だけいつもの商売でお茶をにごすことはできまい。要するに、志ん生は藝をやったことがてれくさかったのではなくて、その藝で賞をもらったことに対しててれたのである。そのてれが、「芸術祭なんて知らなかった」という発言になり、商売でもって賞をもらったという印象を周囲に与えようとしたのである。志ん生の言葉にかかわらず、このときの『お直し』は、立派な藝であったに相違ない。  それならば、ふだんの寄席の高座では商売ばかりやっていて、藝にいどむことがまったくなかったかというと、これがじつはそうでもない。結構、寄席でもっていい藝を披露したこともあるので、『茶金』だの『中村仲蔵』だのを、じっくりときかせてくれたのに何度かふれた覚えがある。  こういうときの志ん生は、「俺のはなしを、ききたくないひとは帰ってもいいんだ」といった、無愛想でとりつく島のないような態度をとってみせた。はじめのうちはそれが、いつもの愛嬌あふれたサービス精神旺盛な志ん生とは別人の感じがして、ひどくとっつきにくい感じがするのだが、いつの間にかはなしにひきこまれてしまうのであった。  いま考えてみると、志ん生がこうやって寄席でもって藝をしたのは、雨が降っていたり、客が思いのほか少なかったり、それにふさわしい条件をそなえていたことに思いあたる。僕が寄席で志ん生をきき出した時代、このひとはすでに功なり名とげた大看板として君臨していたのだが、そうした志ん生にして、いや、そうした志ん生であればこそ、毎日の客の状態が気になったのであろう。  いつであったか、三笑亭可楽と約束があって、新宿末広亭の楽屋口までむかえに行くと、すでに出て来ていた可楽が、ファンらしい学生風の男につめよられて立往生しているのにぶつかったことがある。なんでもこれまでに何回となく客席から『らくだ』を注文してるのに、一度も応えてくれたことがないのをなじっているらしかった。にが虫をかみつぶしたような表情の可楽が、僕を見つけて、はっとした様子になって、こんどはその学生にさとすような調子で、 「あァた、そんなに『らくだ』がききたけりゃ、雨の日にいらっしゃい、雨の日に」  といい残して、僕のほうへやって来たのだが、こんどは僕にだけきこえるような小声で、 「べつに、こっちは藝惜しみしてるわけじゃないんだ」  と、弁解がましくいったものである。  よく、いい藝人ほど藝惜しみが激しいなどといわれ、志ん生などもどちらかというとこの藝惜しみをするほうのタイプと思われていたふしがある。  藝惜しみという言葉は、いうところの楽屋用語で、自分の藝を出ししぶって全力を出しきらないことなのだが、藝惜しみするには、それだけの腕がなければできることではない。  その意味では、十八番といわれる得意の演目を、そう簡単なことでは高座にかけなかった古今亭志ん生や三笑亭可楽は、その藝を求めて寄席通いしていたファンにとって、冷たい存在とうつったとしても無理がなかった。  毎晩のように寄席でもって藝をやっていたら、身体がもたないという志ん生の言葉を裏がえせば、寄席というところは毎晩のように藝をききにくる良質の客が集まるわけではないということでもある。雨の降る日に寄席をのぞくと、「お足もとの悪いなか、ようこそのおはこびで……」と挨拶する落語家が多いことにすぐ気づくが、こういう日にわざわざ寄席まで足をはこぶ客は、本当に落語の好きなひとだという頭が落語家にはある。そんな客を相手に思いきった藝をやって喜んでもらおうというのも、長い寄席の歴史が落語家にさずけた知恵であった。古今亭志ん生の『茶金』や『中村仲蔵』を寄席できいたとき、雨が降っていたような気がするのは、まんざら根拠のないことではないのだ。  いい藝人には藝惜しみが多いかわり、それとまったく逆のことをしてしまうこともないではない。つまり、ほんとうだったら「商売」をやるつもりで高座にあがったのに、なにかのはずみで存分に「藝」をやってしまうような状況で、こうしたどこか天邪鬼《あまのじやく》なところのあるのが、いい藝人のひとつの特性かもしれない。僕も、一度だけそんな天邪鬼な志ん生にふれたことがある。  学校帰りに、鞄をさげたまま、あちこちの寄席の木戸をくぐるというのが、ちょっぴり悪事をしているような快感を与えてくれた、中学生か高校生だった時分だから、たっぷり三十年はむかしのはなしだ。神田の須田町に、往年の名アナウンサー松内|則三《のりぞう》が経営にあたっていた、立花という寄席があった。鰻の寝床を連想させる細長い客席の、いまから思うと陰気な寄席であった。  期末試験の最中であったか、あるいは土曜日で授業が午前中で終ったのか、とにかく学校帰りに立花の昼席をのぞいたのである。椅子席の真んなかあたりを、数人の中年客が陣取っていたのだが昼酒に酔っていたのか、ひときわ騒がしいのである。三遊亭円生に、   はなし家をふと困らせるばか笑い  という川柳があるのだが、この中年客たちがまさにそれで、さして面白くもないくすぐりにまわりの客がびっくりするぐらいの大声で笑いあって、頻蹙《ひんしゆく》を買っていた。  高笑いだけで終っているうちはまだいいので、若い藝人を弥次《やじ》ってみたり、女の藝人に対して卑猥《ひわい》なかけ声をかけたり、衆をたのみにした酔っぱらいのつねで、周囲の客がいやな顔をしているのがわかると、ますますエスカレートするのだった。そんなところに、古今亭志ん生の出番がまわって来たのである。古今亭志ん馬が、いつだったか、 「私が前座の時分、高座がえしで名札をひっくりかえすとき、名前が出ただけで客席の期待が熱気となって伝わってきたのは、うちの師匠くらいのものだった」  と語ってるのにふれたことがあるのだが、この頃の志ん生の人気はすごかったから、このときの立花の客席も沸《わ》いた。ところが、例の客たちは、こうした客席の熱気に水をさすがごとくに、 「いようッ、ハゲッ」  だの、 「がんばれッ、爺ィさんッ」  だのと、きくにたえない拙劣な弥次をとばした。せっかくの志ん生の出番が、こうしたこころない大人たちのためによごされるのがくやしくてならなかった。こういうときの志ん生が、きちんとした高座などつとめるはずがないのはわかっていた。  ところが、この日の志ん生は、少しばかしいつもとちがっていた。さわいでいる客席の一部をまったく無視して、はなしをはじめたのである。これが弥次をとばしていた客には意外にうつったらしいのである。それまで弥次をうけていた藝人は、例外なく、 「えへへ、いいご機嫌でいらっしゃる」  とか、 「お客さん、手前どもも帰りにどっかへ招んでいただきたい」  などと気弱なお追従《ついしよう》をいったりしたもので、それがかえって彼らを調子づかせた気味があったのだが、志ん生はとりつく島のない態度ではなしをはじめたのである。  存在を無視された客は、だまってきく以外にない。それまで傍若無人の態度をとりつづけていたひとかたまりが静かになったことで、客席の七分目ほどを埋めていたほかの客はやっと安心してはなしをきける状態になったし、僕もほっとして、志ん生のはなしに耳をかたむけた。  きいていて、どうやら志ん生が『富久《とみきゆう》』をやろうとしていることがわかってくると、なんだかこちらの胸がたかまってきて、気持を落ちつかせるのに困った。寄席で、こんなに気持が昂揚したなどは、初めての体験であった。それに、その時分志ん生で『富久』をきいたことがなかったし、桂文楽以外にこのはなしをするひとがいることも知らなかったのである。 『富久』は、三遊亭円朝が実話を落語化したものという説もあるらしいが、しがない幇間の哀感を、きわめてドラマチックに描いた名作である。名作であるから、滅多なことでは寄席の高座になどかからない。まして、なにかと藝借しみする志ん生が、しかも質《たち》のよくない酔った客のいる席で、『富久』を出すなどは、まさに信じ難いことに思われた。その信じ難いことを志ん生がやったのである。  きちんとサゲまで、神経のこまかくはりめぐらされた『富久』を演じ終えたとき、さかんに弥次をとばしていた数人の客が、感動にすっかり酔を醒まされたといった表情で、ひときわ大きな拍手を送っていたのを忘れない。  はなし終えた志ん生が、べつに格別の藝をやったというでもなく、勝ち誇った表情をするでもなく、まったく当り前の、それこそいつもの商売をしたのだといった感じの、ごく自然なかたちで拍手に送られて引っこんだのも忘れられない。  商売をやるつもりで高座に出ながら、つい藝をやってしまった天邪鬼な志ん生に、一度だけでもふれることができたのは、やはり大変な僥倖《ぎようこう》であったと、つくづく思うのである。 [#改ページ]  5 曙光がさす  古今亭志ん生は、その生涯に十六回芸名を変えている。こんな落語家はいない。そして、十六回も藝名を変えたという事実を、晩年の志ん生自身、いささか売物にしていた気味がないでもない。結城昌治さんが作成した「美濃部孝蔵(五代目古今亭志ん生)年譜」(『志ん生一代・下』)からその改名のなりゆきをさぐってみるとこうなる。  一九一〇 明43 三遊亭小円朝(二代目)入門、三遊亭朝太の芸名をもらう。(二〇歳)  一九一六 大5  三遊亭円菊と改名して二つ目に昇進。(二十六歳)  一九一八 大7  金原亭馬生(六代目)門へ移り金原亭馬太郎と改名。(二十八歳)  一九一九 大8  吉原朝馬と改名。(二十九歳)  一九二〇 大9  全亭武生と改名。(三十歳)  一九二一 大10 金原亭馬きんと改名し真打に昇進。(三十一歳)  一九二三 大12 古今亭志ん馬と改名。(三十三歳)  一九二四 大13 小金井蘆州の門へ入り小金井蘆風と改名。講釈師になる。(三十四歳)  一九二六 昭1  古今亭馬生と改名して落語界に復帰する。古今亭ぎん馬と改名。柳家三語楼の門に入り、柳家東三楼と改名。(三十六歳)  一九二七 昭2  柳家甚語楼と改名。(三十七歳)  一九三〇 昭5  隅田川馬石と改名。間もなく柳家甚語楼に戻る。(四十歳)  一九三二 昭7  古今亭志ん馬(二度目)と改名。(四十二歳)  一九三四 昭9  金原亭馬生(七代目)を襲名。(四十四歳)  一九三九 昭14 古今亭志ん生(五代目)を襲名。(四十九歳)  五代目の古今亭志ん生を襲名してからは、三十四年間ひとつ名前で通したわけだが、この名にめぐりあうまでの二十九年間に、十六回も名を変えなければならなかった事情が、この落語家の前半生のありようを、物語っているようにも思える。とくにすさまじいのは、一九二六年(昭和1)で、四月に短い間つとめた講釈師の足を洗い落語家に戻って古今亭馬生を名乗ってすぐ、こんどは古今亭ぎん馬と改名、さらにその時分売れっ子だった柳家三語楼の門に転じて柳家東三楼となるといったあんばいに、一年のあいだに三回も改名しているのだ。  落語家に限らず、藝人にとって名前を変えるということは、それが大きな名跡を襲名するばあいでない限り、益するところはあまりない。どんなに売れてない藝人であっても、ながいこと使った名前でひとに知られるわけだから、誰でも自分の藝名は大切にするものだ。この世界では、藝名のことを看板とよぶならわしすらあるので、文字通りの、おのが看板を簡単に変えてみせるのが、これから売り出していこうという藝人にとっても、また功なり名とげた身にとっても、決して得策にならないことは常識であった。志ん生自身、『びんぼう自慢』のなかで、 〈また名前ェをよくかえましたが、別に深いわけがあるってほどのこともない。名前をかえれば、ひょっとして貧乏神も逃げ出すかもしれないという、わずかばかりの希望《のぞみ》みたいなものですよ。いくら名前をとっかえても、少しもかわりばえがしない。  かえるたびに、手拭ィ染めて、仲間にくばったりするから、かえってモノ入りです。 「なんだい、おまえ、またかえたのかい。一体、何度かえりゃァ、気がすむんだい」  なんてえことを、イヤ味タラタラいわれたりする。何度かえりゃァ気のすむてえものではありません。〉  といっているくらいだ。  そんな得にもならない改名を、なぜ何回もくりかえしたのか。くりかえすには、くりかえさざるを得なかっただけの理由が介在しなければならない。晩年の志ん生は、その赤貧洗うがごとき若き日々のことを、多少とも距離をもって見ることができるようになっていて、 「なあに、名前を変えちまえば、借金取りだって来にくいってもんだ」  などとうそぶいていはしたが、改名がそんな借金の言訳には、一時しのぎの役にもたたないことは当人がいちばんよく知っていたはずである。 『びんぼう自慢』のなかでのべている「ひょっとして貧乏神も逃げ出すかもしれないという、わずかばかりの希望《のぞみ》みたいなもの」というのも、本音にはちがいないが、そんなわずかばかりの希望も、そう何度もたくすものではない。十六回の改名には、それぞれの事情があったわけで、なかには万やむを得ず、こころならずもの改名もあった。結城昌治『志ん生一代』は、小説のかたちを借りながら、そのあたりの事情をたくみに解きあかしてくれている。  講釈師から落語家に復帰がかなって、最初に名乗ったのが古今亭馬生なのだが、馬生という名は元来が金原亭で、四代目の古今亭志ん生だった鶴本勝太郎が、志ん生になる以前、長いこと金原亭馬生で売っていた。その四代目は一九二六年(大正15)一月に死んでいたし、一応志ん生にとって師匠筋にあたるのだから、師匠の最後の亭号と、その前の名を半分ずつ名乗る分にはかまわないという思いからの命名であった。 〈ところが、高座へ上がれるようになって間もなく、小西万之助の延生に注意された。 「まずいらしいよ、孝ちゃん。古今亭はいいけど、馬生はいけねえ」 「どこがいけねえんだ」 「どこがっていわれても困るが、鶴本の師匠が売ってた名じゃねえか」 「だから遠慮して古今亭にしたんだよ」 「それは孝ちゃんだけの気持で、みんなには通じていない」 「文句を言ってる奴がいるのか」 「いる。それも二人や三人じゃない」 「どんな奴らだ」 「そこまで聞かないほうがいい。おめえは喧嘩っ早えし、間いたって何の得にもならねえ。それより、おれの言うとおりにしてくれ」 「また名前を変えるのか」 「仕方がねえ。どうしても馬生になりたかったら、どこからも文句が出ないはなし家になることだ。それから堂々と、古今亭じゃなくて金原亭馬生を襲名するんだ」 「いまのおれは馬生の器量《からだ》じゃねえというのか」 「──」  延生は返事をしなかった。  返事をきかなくても、孝蔵には分かりきっていることだった。面とむかって文句を言う者はいなかったが、延生だからこそ忠告してくれたのだ。〉  小西万之助の延生は、二代目小円朝の門で志ん生とは兄弟弟子の関係になるのだが、のちに、八代目金原亭馬生となるのもなにかの因縁かもしれない。  いずれにせよ、志ん生はこのとき古今亭ぎん馬を一時名乗ることになるのである。こんな一時しのぎの改名をくり返さなければならなかったというのも、志ん生という落語家のふるまいが、仲間うちから決してよく思われていなかったことにもよる。それほどの大看板でもない名跡を、しかもさして売れてもいないしなびた藝人が、どう名乗ろうとおたがい関知しないというのがふつうなのに、なにかといいがかりをつけて足を引っぱられるような行いを、この当時の志ん生がしばしばしていたことは、どうやら間違いないようだ。  志ん生の長女である美濃部美津子さんは、一九二四年(大正13)に生まれている。これも結城昌治さんの作成した年譜によると、北豊島郡滝野川町大字田端一八五(現・北区田端一丁目)に志ん生夫妻が住んでいた頃で、有名ななめくじ長屋の本所業平に転ずる四年前である。  この、なめくじ長屋時代も志ん生は柳家甚語楼から隅田川馬石、ふたたび甚語楼に戻り、二度目の古今亭志ん馬から七代目金原亭馬生と改名をくりかえしている。だいたいが、三遊派の藝人として落語家になりながら、柳派の名前になって、また三遊に戻るなどというこの時分の落語家にはあまり考えられないような乱暴なことをやっているというのも、そのたびに師匠をしくじっているからなのである。  それはともかくとして、美津子さんは、戦後の一時期、志ん生が専属契約を結んでいたニッポン放送に入社して、志ん生の番組を担当したりしたあと、晩年の志ん生のマネジャーをつとめることになる。この美津子さんが、いつであったかなめくじ長屋時代の志ん生のことを、 「家を出てから、雨が降ってくることがあるでしょう。そうすると私が傘を持って、寄席の楽屋にむかえに行くんだけれど、そういうとき、きまってお父さん、寄席を抜いちゃうのよ……いたたまれなくて」  と述懐しているのにふれたことがある。傘を持った幼い子供の気持が、いたいようにわかったものだ。  楽屋言葉で「抜く」というのは、席を勝手に休んでしまうことだが、改名をくりかえしていた時分の志ん生は、じつにしばしば寄席を抜いたという。雨が降ってきて、雨やどりのつもりでどこかで一杯やったが最後、もう寄席のことなどどうでもよくなってしまうのだろう。落語というのは、きわめてパーソナルな藝で、孤独な作業に裏うちされているから、落語家には自己中心主義的な考えを持つむきが多くなる傾向は否めない。これはなにも落語家に限ったことではなく、講釈師、浪花節語りなど、個人藝にたずさわる者のおちいりやすい宿命みたいなものだが、この時分の志ん生は、ひと一倍そうした傾向が強かったようだ。雨の日に、たいした稼ぎにならない寄席へ行くよりも、好きな酒でうさばらししているほうが楽だという気持は誰にもあるが、そのことによって仲間の藝人に迷惑が及ぶというところまでは考えがいたらなかった。いや、考えてはいたのだろうが、それよりも自分の勝手|気儘《きまま》な了簡《りようけん》のほうが先行してしまうのだ。どちらかというと、臆病で気の小さい志ん生なのに、こういうときになると、妙に度胸がよかった。  仲間の迷惑を考えないという点では、博奕《ばくち》の負けを支払わないことも多かったらしい。持ち金をすべてまきあげられてなお、自分の指を差し出して、「ここに……」とやってみたが、「手ばりは駄目だよ」と、あっさり断わられてしまったはなしなどを、面白おかしく機嫌のいいときの志ん生は語ってくれたものだが、ことはそんな冗談ですまされるような段階ではなかったらしい。博奕の金ばかりでなく、仲間への金銭的な不義理も少なくなかったという。  晩年の桂文楽が、志ん生の貧乏時代を、 「あちらは、いまンなって若い時分の貧乏を自慢してますがネ。あの時分金のないのはおたがいだったんだ。その、おたがい金のなかった時分、なけなしの五円貸して、返してもらえなかった身のことは、誰も考えてくれない……」  と、半分冗談めかして語っていたものだが、冗談のなかに、いまだに釈然としない思いも残っているといったしゃべり方であったのを思い出す。  金を貸したほうが忘れられて、借りて返さなかったほうが洒落なはなしとして語り伝えられるという、おかしな論理を成立させてしまえたのも、志ん生というひとが、晩年名人として君臨することができたればこそなのであって、そうなるに至るまでのルーズな生活態度が、かなり仲間うちから敬遠されていたことは想像に難くない。  こうした仲間うちの視線に、なみの神経であったら耐えられないところだが、そのあたりになると、志ん生というひとは一種のひらきなおりにも似た、ふてぶてしさを発揮してのける才を有していた。  藝人にとって、「看板」でもある「藝名」を何度となく変えて、なおはばかるところのなかった志ん生は、案外名前に固執していたのかも知れない。自分の評判が、少なからずよくないことに、超然としているように見受けられても、本質的には気の小さいこのひとは、なんとかそこから逃れようと、気をくばりつづけていたのだろう。改名は、そのための方便であって、ちょうどやくざが自分の指をつめることで、それまでのしくじりを帳消しにするように、改名によって、少しは仲間の冷たい視線をさけ、不義理を重ねているといった負い目から逃れられると考えても、不思議ではない。  無論、名前を変えるということで、免罪符よろしく、これまでのしくじりや不義理が消えやしないことは、志ん生自身がいちばんよく知っていたはずだ。だが、名前に固執すればするほど、古い名前を捨て、新しい名前を得ることで、藝人として、これまでとなにかちがった生き方ができやしないかと考える。実に十六回に渡って、そうした模索をくりかえしたあげくの果てに、古今亭志ん生という最後の名を得たことは、はなはだ象徴的である。志ん生が、「真生」に通じる命名であることは、このひとが五代目を継ぐとき、すでに知られていた。美濃部孝蔵という、破滅型の藝人にとって、「真生」を意味する志ん生襲名は、最後の賭《か》けであった。代々短命で終っているこの大看板を、 〈「べらぼうめえ、志ん生になると、みんな病《わずら》うだの、早死にするなんてえことが法律できまってるわけのもんじゃァあるめえ。こういうこたァ、その人の持ってる運勢だァな。オレがもし、志ん生になって病うんならむしろ本望じゃァねえか。もし、長生きしてウーンと看板大きくしたら、代々の師匠もよろこんでくれるだろう。どうだい、それでも異存あるかい」〉 『びんぼう自慢』によると、こんな啖呵《たんか》をきって襲名したことになっているが、四面楚歌《しめんそか》にも似た状況にたたされていた当時のこのひとによって、「志ん生」という名跡にはなんとしても固執しなければならないものがあった。志ん生という名を得ることができれば、なにを失ってもいいといった心境であったはずだが、それまでの十五回の改名で、失うものなど、もうなにひとつ残されていなかったのである。  一九三九年(昭和14)三月、古今亭志ん生の五代目を襲ってから、三十四年間ひとつ名前で通し、志ん生で死んだわけだが、この名跡を得て、やっと失っては困るもの、失いたくないものが、志ん生にもできた。  一九八一年(昭和56)の、たしか六月頃ではなかったか。突然という感じで、講談社文芸局の駒井晧二さんから電話があった。「お目にかかって、相談したいことがある」というのだ。駒井さんがまだ「小説現代」だったか、「現代」であったか、とにかく月刊誌の編集部にいた十数年前に仕事をさせてもらっていらいの久方振りの電話であった。  有楽町の喫茶店で落ちあって、とにかくはなしをきいた。こんど講談社で、『昭和戦前傑作落語全集』というのを全六巻の構成で出すのだが、その全巻解説をやらないかというのである。この全集は、一九二六年(昭和1)から一九四一年(昭和16)まで、いわゆる昭和戦前期に刊行された講談社の雑誌「講談倶楽部」「面白倶楽部」「キング」「富士」が掲載した落語の速記六百二十篇のなかから、すぐれた口演をよりすぐって復元しようというもので、すでにリストアップされた案がコピイになっていた。  明治期の三遊亭円朝いらい、おびただしい数刊行された落語の速記本が、こんにちもはや、「藝の正確な記録」という本来の意義をこえて、「まったく別種の落語」としての存在価値を持ち、ひとり歩きしているとかねてより考えていた身にとって、いわゆる昭和戦前期の速記本は、さけて通るわけにはいかない部分でもあり、一も二もなくこの仕事を引き受けさせてもらった。 『昭和戦前傑作落語全集』の全巻解説という役目を、その場で引き受けたについては、もうひとつ理由がある。この全集に、古今亭志ん生の速記が二十一本も取録され、柳家金語様の十八本、三代目三遊亭金馬の十六本をしのいで断然トップをしめていたからである。  この解説を引き受けたときすでに、僕は少しずつ古今亭志ん生について書き始めており、まったくといっていいくらい資料的な文献のとぼしい五代目古今亭志ん馬、七代目金原亭馬生、そして五代目志ん生を襲名するという、「昭和戦前」期におけるこのひとの仕事ぶりに、より以上の関心があった。伝えられる赤貧洗うがごとき時代から、志ん生襲名を機に、藝の面でも、生活の面でも、曙光《しよこう》がさしてきたあたりの感性が速記からうかがえやしないだろうかと考えた。それよりなにより、あの天衣無縫といわれた奔放な語り口と、ひとなみはずれて豊かな諧謔精神が、「昭和戦前」とよばれるあの時代に、どう花開いていたものか、速記に目を通すことによって把握できるにちがいない。  落語家の藝を、活字で記録する「速記本」は、一八八四年(明治17)、東京京橋の稗史《はいし》出版社から刊行された三遊亭円朝の『牡丹燈龍』が、その嚆矢《こうし》の役を果たしているのだが、一八七二年(明治5)の学制|頒布《はんぷ》で急増した新しく字を読むことを覚えた階層に受けいれられることによって、新しい読物としての地位を獲得した。  三遊亭円朝の成功が刺激になって、ほかの落語家の速記も刊行されるし、「やまと新開」など当時の新聞がきそって落語速記を掲載するようになる。一八八九年(明治22)にいたって、落語、人情噺の速記を主体にした雑誌「百花園」が金蘭社から創刊されるし、おくれて一八九五年(明治28)創刊の「文藝倶楽部」(博文館)も、二年後から毎号落語の速記を載せて売物にした。 『昭和戦前傑作落語全集』があつかっている、「講談倶楽部」「面白倶楽部」「キング」「富士」といった講談社発行の雑誌に掲載された落語の速記には、こうした歴史的な背景があるわけだが、忘れてならないのは、この時代、つまり「昭和戦前」の時期において、落語速記の雑誌掲載が落語家にとってかなり大切な取入源であった事実だ。つまり、いうところのお座敷と同様の効用を有していたのである。  昨今の、東京都内に四軒しか定打ちの演藝場を数えることができない状況にくらべれば、この時分の落語家の生活が定打ちの寄席に依存する部分はまだまだ多く、考え方によれば落語家が落語でかせげるという、状態が支配していたともいえるのだ。一九四一年(昭和16)に昭和書房なる版元から出ている近藤春雄『藝能文化讀本』の伝えるところによると、 〈大正十三年の警視庁の調査によると、東京市内の演藝場は一〇七箇所で入場人員は三九四三八〇一名を算へてゐたが、昭和十二年には一二四箇所、三一三〇〇〇〇名となり、十三年末には九六箇所に減じながらも、入場人員は四〇一三〇〇〇と増加してゐる。〉  といったようなありさまで、少なくとも、落語家が入場料を支払った客の前で落語をしやべることによって生活の糧《かて》を得るという、基本的にあるべき自然なかたちにゆだねている点で、現在とはくらべようのないくらい恵まれた状態にあったといえそうである。いえそうではあるが、寄席へ出るだけでおのれの生活をまかなっていた落語家がそう大勢はいなかったであろうことも、昨今の演藝事情とさしたるちがいはなかったはずで、ラジオに出ることや、雑誌に速記の載ることが、贔屓《ひいき》客の座敷と同様の重さを持っていた。  つまり落語家にとって「売れている」ということは、何軒もの寄席をかけもつことばかりではなくて、ラジオに出たり、雑誌に自分の速記が載ることでもあったのだ。  その意味では、晩年まで口ぐせのように、「若い時分は売れなかった」といいつづけていた林家彦六も、三代目三遊亭金馬も、結構売れていたように見えるし、古今亭志ん生にしても、志ん生という名跡を継ぐ前後から、社会的知名度はかなり上向いてきていることがうかがえる。  そういった興味からも、講談社の『昭和戦前傑作落語全集』に収められた古今亭志ん生の速記は、一段と興味ぶかく読める。志ん生という落語家の、伝えられる暮しむきの変化もさることながら、彼自身の落語観や速記に対する姿勢まで、思いがけず露呈してくれているからだ。  落語という藝には、知らず知らずのうちに自己を語ってしまうようなところがあるものだが、速記という作業は、ときとしてそうした部分を希薄にしてしまう。それがある意味では、この時代の速記者の技術でもあった。だが、志ん生の有している強烈な自我は、速記者のすぐれた技術をもってしても濾過《ろか》できなかったのであろう。  全部で二十一本収められている『昭和戦前傑作落語全集』の志ん生の演目をながめて、面白いことに気がつく。それでなくても、演目の決して少なくないひとではあったが、雑誌に載せる速記の性格をつねに考慮していて、多少とも毛色の変った演目を提供しようという意識が、ほかの落語家よりも強くはたらいているようにうかがえるのだ。もちろん、『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』『お灸』『つもり泥』『犬の御難』『猫の皿』『鯉のぼり』『百年目』『そば清』『淀五郎』『搗屋幸兵衛』と、半分以上は晩年までしばしば高座にかけていた演目の速記なのだが、おなじみのはなしであるはずのこの種の演目の速記にも、志ん生ならではの色彩はかなり濃厚に投影されている。  どうやら雑誌に掲載される落語の速記は、高座の正確な記録というよりも、独立した読物としての価値がなければならないという考えを、すでにこの時代の志ん生はいだいていたようで、そうした考えが、雑誌の速記もお座敷のひとつといった姿勢を表面上はとりつくろいながらも、ほかの落語家とはひと味ちがった速記を提供することにつとめていた気味があるのだ。そしてそのことが、この時代の志ん生にとっての、精一杯の商売感覚なのであった。  古今亭志ん生を襲名して、十六回に及んだ改名記録にピリオドをうつまで、まったくといっていいくらい寄席で売れるということのなかったこのひとが、寄席以外の場、つまり放送、レコード、雑誌の速記といった分野に関心がなかったわけがない。寄席というところは、落語家にとって家庭のような意味あいが多分にあって、そういう場所では仲間うちでの評価、評判が必要以上に左右する。仲間うちでの評判の決していいとはいえなかった志ん生が、そうした評価の及ばない、放送、レコード、雑誌の速記といった、寄席をはなれた場に於て活路をひらいていこうとはかったとしてもべつに不思議なことではない。  正岡容に、『増訂明治大正昭和新作略史』という文章があって、そのなかの昭和の落語家による新作落語の動きにふれた部分に、志ん生についての記述もある。 〈古今亭しん生のしん馬時代、「電車」「夕立勘五郎」の作があり、新体制以後「館林」を改作して、侠客《きようきやく》とやくざものの解釈などを盛り込んだ一作がある。(題名を失念した)「電車」は幼児を枷《かせ》にインチキな乗り方を試みる男の可笑《おか》しさ、「夕立勘五郎」は田舎廻りの訛《なま》りだらけの浪曲師の素描である。 「電車」は譲り受けて故柳枝も演じたが、貧乏臭い|こすつから《ヽヽヽヽヽ》さうな柄がしん生の方がピッタリ嵌《はま》つて可笑しかつた。柳枝が此を放送したときは左翼思想横行期で車掌たちから忽《たちま》ち抗議を申込まれた。〉  志ん生に、いうところの新作があるというはなしはあまり知られていないから、一九四三年(昭和18)に書かれたこの文章におどろくむきがあるかもしれない。古典落語に対したときでも、いかにも志ん生ならではのアレンジを加えてみせたひとであったから、新作落語をつくる才に恵まれていたことに見当はついても、実際にそれをものしていたとは、当人もほとんど口にしたことがなかった。速記本は、かなり幅広く読んでいたひとだけに、いろいろと珍しいはなしを知っているという認識はあっても、自作のある落語家とは思われていなかったのである。 『夕立勘五郎』は講釈ネタから取材したもので、志ん生の弟子で早逝した金原亭馬の助もしばしば高座にかけており、馬の助自身、「あれはおやじの作なんです」と口にしていたのをきいている。ただ、古い事情通がわけ知り顔に、「あれは志ん生が貧乏時代、珍しいものならレコードに吹きこんでくれるといわれて、金がほしさに森暁紅さんにたのみこんでこさえてもらったもの」と説明しているのにもふれたことがあるので、純粋に志ん生作であると断定するに足る根拠があるわけではない。  柳枝も演じたという『電車』に関しては、まったく手がかりがないのだが、この時代、電車内の光景を漫談風にアレンジすることが流行したようで、柳家権太楼や三代目春風亭柳好に、『満員電車』、『電車風景』といったかなり売物にしていた演目もあって、そのあたりと同工異曲のものだろうことは想像に難くない。  いずれにしても、あまり自作があるとは思われていなかったこのひとに、いくつかの作品があったらしい事実は、意外な一面と受けとれなくもない。『昭和戦前傑作落語全集』に載っている志ん生口演の速記には、志ん生という落語家のそうした知られざる才能の発揮されているものが何本かあって、それがこの時代のこのひとの落語家としての活動のある一面をのぞかせてくれるのだ。  年代順に編纂《へんさん》された『昭和戦前傑作落語全集』に、志ん生の速記が初登場するのは第三巻で、この巻には、『円タクの恋』『悋気の見本』『長命』『代り目』『桃太郎』『ぞろぞろ』の六本が載っている。  前の二本が五代目古今亭志ん馬で、残りの四本は七代目金原亭馬生の名になっている。時代区分でいうなら、いちばん早い『円タクの恋』が一九三四年(昭和9)の「講談倶楽部」八月号で、『ぞろぞろ』が一九三五年(昭和10)十二月号のやはり「講談倶楽部」である。わずか一年半のあいだに六本の速記を雑誌に発表している計算になるのだが、このほか全集におさめられていない作品も当然あるわけで、単純に数だけから判断するならば、かなり多いといえるだろう。  ほかの落語家には、一年半に六本もの速記の載る機会は与えられていない。仲間うちでの評判の悪さがたたって、寄席で売れない日々を送っていた志ん生も、この頃から雑誌の速記などではかなり注目されはじめていたことがよくわかる。  こうした雑誌の速記にたくして、志ん生という落語家は思いきった独自の色彩を打ち出してみせている。新作を手がけたり、自身の大胆なアレンジをほどこすなど、他人とおなじ演り方はしたくないといった感じがはっきりと見てとれる。この全集におさめられた二十一本のうち、約半分は前にも書いたように志ん生自身が晩年までしばしば手がけていたなじみぶかいはなしなのだが、そうしたはなしにも志ん生的色彩といおうか、志ん生ならではの独自の演出をうかがうことができるのだ。それくらいだから、新作落語や、志ん生の創作的配慮がなされていると思われる作品の速記には、存分に志ん生の意向が発揮されていて、そこがすこぶる面白い。 『昭和戦前傑作落語全集』のなかで、古今亭志ん生の創作的才能の一端なりと発見できる演目を掲載順に列記してみる。  第三巻に、五代目古今亭志ん馬の名による『円タクの恋』『悋気の見本』、第四巻に七代目金原亭馬生の名で『強盗屋』、第五巻にやはり馬生の名で『虫づくし』そして第六巻で五代目古今亭志ん生になって『一万円貰ったら』『隣組の猫』『長屋の孝行』と七本を数えることができる。  かなり志ん生をきいていると自負するむきでも、題名だけ見たのではいったいどんなはなしやら皆目見当もつきかねるといったところだろう。おそらく志ん生自身が思い出せぬくらいのはなしもあったはずで、そうした一種の量産を可能ならしめるような、ほとばしるものがこの時代の志ん生にはあったのだ。 『円タクの恋』は、正岡容によれば『恋の円タク』という題で鈴木みちをが、橘ノ百円時代の橘家円太郎に与えた作だという。晩年は音曲《おんぎよく》ばなしなども手がけ、古いはなしばかり高座にかけていた円太郎だが、百円時代には新作に傾斜、評判になった自作も何本かある。市内を一円均一ではしるタクシーが人力車に代って人気をあつめた時代、円タクとよばれたこの乗物を扱った新作落語がはやったというから、百円の演目を志ん生が手がけた事情もうなずける。  おどろくべきことは、鈴木みちをという作者の介在している作品でありながら、すでに志ん生独得の口調が全篇に脈打っていることである。 〈あゝそうですか——向うなら向うといってくれるがいいじゃないか——あゝあの紳士が、手を上げたよ——へエお待ち遠さま——へエ乗らないんですか、いま手を上げたでしょう……あゝワイシャツのぼたんが取れたので、あゝそうですか——何《な》んだ、あんなやつワイシャツなどを着る柄じゃァない、新聞紙に穴でもあけて被《かぶ》ってろよ——あゝどこかのお嬢さんがパラソルを持って立っている。自動車を待っているに違いない——へエ、お嬢さん、参りましょう——エッ、乗らないんですか、人を待っているんで。へッ、いい男でしょうね——なーンだ、人の恋路《こいじ》の心配まで出来るものか。〉  なんて運転手のモノローグなど、声を出して読んでみるとあの志ん生の語り口が彷彿としてくる。 『悋気の見本』は他愛ない小品といってしまえばそれまでだが、志ん生でなければ出せない味だけはちゃんとそなわっていることに感心する。落語には、御婦人の悋気を扱ったはなしが少なくないのだが、そうしたはなしの「まくら」に使われるエピソードをあつめて、さらに全然やきもちをやかない夫人を、友人のなみはずれて嫉妬ぶかい夫人のところへ連れて行き、やき方を覚えさせようというナンセンスなものだ。おそらく必要に応じて急場しのぎにでっちあげた作だろうが、商品として合格点のつくものに仕上げてみせている才覚はさすがである。  第四巻に金原亭馬生名で載っている『強盗屋』なる作にも、このひとならではの破天荒な滑稽《こつけい》感が満ちあふれている。だいたい、『強盗屋』なんて乱暴な命題が、無頓着にすぎておかしい。内容は他愛ないもので、女房に強いところを見せようとした亭主が、五円払って居直り強盗をやとうという、『夏どろ』を逆手にとったような作だ。いかにも急仕立てのあとが歴然としてはいるけれど、亭主に投げとばされた強盗屋が、思わず、「へェ、どうも貴方は強い」と感嘆してみせるあたりの口調が、そっくりそのまま晩年の志ん生を感じさせて楽しい。所載は、『キング』の一九三七年(昭和12)四月増刊号なのだが、ちょうど名古屋城の金の鯱《しやちほこ》がはがされるという事件のあった頃らしく、まくらでこんな小咄《こばなし》を披露している。 〈どうかすると手の届かないような所へ手を伸ばして、物を盗《と》ろうなんてんで、名古屋城のしゃちの鱗《こけら》を持って行っちゃったりなんかします。あのしゃちは夫婦ですからな、細君の方が驚いて、 妻「本当にあきれっちまうよ。人間なんて本当に油断がならない。とうとうあなた妾《わたし》の鱗《こけら》を持って行っちゃったわよ。本当に、この分じゃ、みんな鱗《こけら》を持って行っちゃうよ。こんな思いをするくらいならば、いっそのこと、妾《わたし》生きているのがいやだから、お前さんと二人、猫いらずを服《の》んで死にましょうか」 夫「馬鹿なことをいうな。夫婦で猫いらずなど服《の》んで死んで見ろ、長年の間、名古屋のしゃちは金であると思われていたのを、二人で猫いらずなど服んで死んでみろ、金と人は思わねえぞ」 妻「思わないことはありませんよ」 夫「イヤ思わねえ。二人で死んで見ろ、あれは|しんちゅう《ヽヽヽヽヽ》だといわれらァ」  しゃちが洒落《しやれ》を言っております。〉  時局にあったエピソードを、たくみなくすぐりや小咄にアレンジしてみせることを、志ん生は晩年まで得意にしていたが、この名古屋城の金の鯱の小咄など、すでにその萌芽《ほうが》がうかがえるのである。  第五巻に載っている『虫づくし』は、廓《くるわ》ばなしをするときの志ん生が、好んでまくらにふっていた『蛙の女郎買』の前に、虫についての志ん生らしい考察を加えた虫随談である。その虫についての考察なのだが、志ん生の虫を見る目に、すぐれた落語家ならではの鋭い感性が見てとれて、そこが尊い。  たとえば、 〈蚊などと一口にいいますけれども、世の中に蚊ぐらい度胸の据《すわ》ったものはありませぬ。蚊というものは体《からだ》は小さいけれども、人間に向って攻めてまいります。ピシャッと一つ潰《つぶ》す、それを見て驚くかと思うと、その仲間がその死骸を飛び越えて又刺しに来る。人間が見ていても、又仲間が漬されようが、どうしようが動かない。さすがの人間も蚊帳《かや》というものを釣らなければならないことになります。して見ると蚊の度胸のいいということはおそろしいもので。そこへ行くと蚤《のみ》というものは、見つけられると驚いてすぐに逃げてしまいます。南京虫などもソーッと来て、すぐ逃げて行ってしまいます。蚊は|ちゃん《ヽヽヽ》とブーンと名のりを上げて向って来るのですから、実にあっぱれのもので。〉  などと蚊を細かく観察したさまなど、志ん生でなければいえない言葉に支えられた落語感が横溢していて楽しい。  虫に限らず、志ん生は動物にたいして、特別な愛情を持っていたように見えた。蛙や犬や猫や狸が、志ん生の口を借りるといきいきと躍動をし始めるばかりか、その動物を語る志ん生の高座態度が、楽しくて楽しくてたまらないようにうつったものである。いつであったか、小沢昭一さんといっしょに志ん生の家へ出かけたとき、そのことについてたずねてみたことがあったのだが、 「べつにそんなこともない」  と、にべもない返事がかえってきたのを思いだす。  一九三九年(昭和14)の三月に五代目の志ん生を襲名し、十六回に及んだ改名の仕上げをしたわけだが、それまでの蓄積を一気にはき出すかのように、たくさんの落語速記を雑誌に提供している。『昭和戦前傑作落語全集』の第六巻だけでもじつに十本がおさめられている。なかで志ん生オリジナルと思われる作は、『一万円貰ったら』『隣組の猫』『長屋の孝行』の三本である。 『一万円貰ったら』というのは、奇妙なはなしだ。全体の趣向は『気養い帳』の型だが、起るべくもないことの空想に、しがない夢をたくしあうあたりは『宿屋の富』で抽籤《ちゆうせん》を待っているところの色彩である。志ん生がいろいろのはなしで使っていたくすぐりをよせ集めた感じのもので、およそ「はなし」としての体裁をなしているとはいい難いところが多く、これまた苦しまぎれに即製した跡が見てとれるのに、全篇に志ん生らしさがただよっているのだから不思議だというほかない。サゲの部分が、 〈八「私は相撲が好きなんで、中でも双葉山が好きですがね、蔭《かげ》贔屓《びいき》でさア。一万円ありゃァ大威張で国技館へ行って、双葉山が勝ったとたんにやっちまうんで」 家「一万円やるのかい」 八「ナーニ一万円はやりません。九千九百九十九円九十三銭やっちまう」 家「変にきざんだね、七銭ばかり残さないで、一万円やっちまったらどうだ」 八「帰りの電車賃を取って置きます」〉  となっていて、かの双葉山が出てくるあたりにも時代色がある。この速記の初出は、「講談倶楽部」一九三九年(昭和14)五月増刊号だから、ちょうど双葉山の全盛の頃である。太平洋戦争下の物のない時期に、料亭で双葉山と酒ののみくらべをしたのが、志ん生の自慢ばなしのひとつだったが、この速記の出た頃の、やっと世のなかに認められかけた志ん生にとって、双葉山ははるかかけ離れた存在にちがいなく、それこそ「蔭贔屓」であっただろうから、一万円の祝儀を切るというのも、志ん生自身の夢だったのかもしれない。  戦時体制というものが、その時代の藝に対していろいろな枷《かせ》を加えてくるのは、どこの国でも大差はない。日本でのそうした具体的な動きのあらわれとして、一九四〇年(昭和15)に近衛文麿の提唱した新体制運動を無視することはできない。その年の暮には、この運動に呼応するように、 〈演劇、映画、演能及競技其他ノ醇化《じゆんか》ヲ図リ日本精神ノ昂揚ト健全ナル国民文化ノ進展ニ寄与シ以《もつ》テ藝能報国ノ誠ヲ致スヲ目的〉  として、 〈国策ノ普及徹底ニ必要ナル事業〉 を行うために、「藝能文化聯盟」なるものが結成されている。いつの時代にも、世のなかの動きに対して敏感で、しかも柔軟な反応をしめしてきた落語家たちが、この新体制運動にも、それにふさわしい姿勢を、しごく安直にとって見せたのも、当然といえば当然のことであった。  一九四一年(昭和16)十月三十日、東京浅草寿町本法寺の境内に、「はなし塚」を建立、時局にあわぬはなし五十三演目を選び出し、禁演落語として葬ってしまったのも、落語家自身の手になることで、いってみれば時代に迎合した自主規制なのである。さすが正岡容は、『随筆寄席風俗』のなかで、 〈どうも今次の新体制に対する演藝界の連中にはこの種のゆきすぎが、まことに少なくないやうである。〉  と、やるかたない憤懣《ふんまん》をのべている。  いかに大衆の支持を受けてきたとはいえ、戦前戦中の落語家に、ある種の藝人コンプレックスのなかったはずがない。これがもし平和な時代であれば、社会を逸脱したところで野放図に生きることが自分の藝への蓄積になり得たし、粋な暮しに通じもした。だが、戦時色濃い時局の下で、一億総決起が叫ばれ、国民のすべて、つまり自分以外のひとがみなひとつ方向に足なみそろえているとき、それまでいささか奔放に生きてきた藝人が、せめて自分たちの力でできることで体制協力を願いでることによって、国民としての免罪符を獲得しようとしたのが、禁演落語制定などに見受ける自主規制であったのだ。  こうした落語家たちの戦時体制順応の動きに対して、古今亭志ん生は、きわめて自由な態度を、それもかなりユニークにとりつづけてきたように見える。それでなくとも、こうした状況下におかれることによって、落語という藝はますますパーソナルな色彩を濃くしていくので、いま風のいいかたをすれば、一席の落語のなかにそれを演ずる落語家の、本音と建前がないまぜになってつめこまれてくる。そのあたりの事情をおもんぱかって読まないことには、なかなか落語家の本音はつかめるものでなく、戦時中の落語の速記本には、油断のならないところがあるのだ。  自分の独演会の席で、禁演の指定をうけていた間男《まおとこ》のはなしを、平然と演ってのけたという逸話のある古今亭志ん生が、『昭和戦前傑作落語全集』第六感に取録されている、『隣組の猫』とか『長屋の孝行』のような、戦時色濃厚な作品を発表していたというのが、やはり格別に興味ぶかく思われる。 『隣組の猫』は、長屋の暮しをそのまま隣組に移してみせたところがみそで、 〈……エヽなんてえあそこの家《うち》の奥さんは偉いんだろう。頭がよくて賢くて、何《なん》にでもよく気が付いて、あゝいう人が隣組をやってたら、何でも円く行くよ。きれいに掃除した所へ、猫が泥足で入って来たら、大概な者なら追うよ。それをあとで拭けば泥足の跡は除《と》れる─。エ、俺ン所《とこ》の嬶《かゝ》アなどと来た日には、何だい、あれは女かな。同じ女でも、こうも違うかと思うと、恐ろしくなるよ。何も知らねえで、ベラ/\しゃべるだけだ。ねえ、この間も近所のお内儀《かみ》さんが、オリンピックというのは何でしょうといったら、絆創膏《ばんそうこう》のことだてえやがる。聞いてて汗が出ちゃったよ。いやになっちゃうね……ア、家《うち》にいるね。あの顔色《がんしよく》を御覧よ。家《うち》の主《ぬし》だね。頬骨が出て眼肉《がんにく》がこけて、まるで患《わず》らってる鰻だよ〉  なんて亭主の述懐は、晩年まで志ん生がたびたび高座にかけていた『町内の若い衆』のアレンジメントなのである。時局にあわない間男のはなしを、隣組なんて新体制下の風俗に置きかえてみせるあたりが、なんとも皮肉といえば皮肉なのだが、志ん生にとっては格別の意図があってのことではあるまい。  この『隣組の猫』は、一九四一年(昭和16)の「講談倶樂部」一月号からのもので、ちょうど予定されていた東京オリンピック中止の頃にあたる。くすぐりなどに、時代の風俗を取りいれることのたくみなひとであったが、その才能は、かなり若い頃から随所に発揮されており、この時分は脂の乗りきったところでもあった。そして、志ん生という落語家にとっては、新体制下の隣組なんて組織も、単なる新しい風俗にすぎないのであって、戦時体制順応とか、時局便乗などとはまるで無縁の関心なのである。  同じ巻に取められている、一九四一(昭和16)二月号の「キング」所載の『長屋の孝行』のまくらで、 〈当今は何事も新体制々々ということを申します。政治の新体制、経済の新体制、何でも新体制でなくちゃいけませんようで、落語なども今度新体制ということになりまして、今までの落語の標題を甲乙丙に分けて、甲と乙はやってもいいけれども、丙の組に入ったものは絶対にやってはいかんという。丙というのは学校の方ばかりでなく、落語の方でもいけませんようで、われ/\もない頭をしぼって、いろ/\今までの落語を作り変えたり、又新しいのを作ったりしてやっておりますが、幾ら世の中が新体制になりましても、変らないのが世の中の道徳……〉  などと、落語家にとっても息苦しさがなくはない世のなかの体制について語ってはいるけれど、そのことが志ん生という落語家の自我意識まで、がんじがらめにしめつけてしまったとは思えない。  この『長屋の孝行』というはなしも、志ん生によるアレンジメントがほどこされているもので、『二十四孝』と、五代目の三遊亭円生が、『酒』という題で演じていた養老の滝にまつわるはなしがその原型となっている。新体制下に、興亜奉公日というのが定められて、この日は一汁一菜、弁当は梅干ひとつの日の丸弁当が強制され、酒類の販売が禁止となり、劇場、映画館などの興行場も休まされた事実をうまく利用して、 〈……御利益でございましょうか、不動様がそこへ姿を現わしまして、 不「アヽコレ八五郎」 八「ウヘエー、これは不動様でございますか、私は親孝行がしたいんでございます。親が洒が好きでございますが、貧乏で買えません。どうかこの滝の水を酒にして下さい」 不「今日はだめだ」 八「へッ?」 不「今日は酒はやれない!」 八「なぜでございます」 不「今日は興亜奉公日《こうあほうこうび》だ」〉  と、さげている。  ここで感心させられるのは、戦時体制にむかってひた走りの様相を呈して、日を追うにしたがい暗くなりつつある世相も、志ん生という落語家にとっては、自分の落語に多少とも新しい色彩を加えることのできる材料にすぎなかったという事実である。つまり志ん生の持って生まれた自由な感性は、戦争という国をあげての大事業に対しても、つかず離れず、いつもある距離を置いて存在するのである。隣組なる組織も、興亜奉公日なるイベントも、単なる新しい風俗のひとつとしてしかとらえていないから、『隣組の猫』だの『長屋の孝行』という、見方によっては時局に便乗し、体制に迎合した作とうけとられかねない内容を持ちながら、そうしたものとは無縁の、ナンセンスきわまりない新作落語として処理されてしまっていたのである。志ん生にとっては、戦争と、それにともなう新体制下の風俗も、おのれの自由な創作活動のための、若干の刺激にすぎなかったょうだ。  空襲が連日になって、その警報が発令されるたびに興行が中止されるなんて時期に開いた自分の独演会で、禁演の指定を受けていた間男のはなしをかけてみせた志ん生が、一方で、『隣組の猫』とか『長屋の孝行』といった落語の速記を雑誌に提供していた事実は、志ん生の強烈な自我意識のなかでなんら矛盾するところがないとしても、やはり面白く思える。さらに面白いのは、そんな戦時下の志ん生をききつづけていたひとが、口をそろえて『隣組の猫』だとか『長屋の孝行』といったはなしを、実際の高座にかけたのにふれた覚えがない、といいきっていることだ。  戦後の、功なり名とげた志ん生が、しばしば、「藝と商売はちがう」と口にして、その言葉どおり、ときに応じた仕事のしかたをしていたことは前に書いた。ひとなみはずれた貧乏に苦しんで、改名につぐ改名で少しでも悪い状態から抜け出そうとしていた時代の志ん生には、正直いって、「藝と商売はちがう」などといってすましている余裕などなかったはずである。五代目の古今亭志ん生を襲名して、赤貧洗うがごとき暮しぶりから抜け出す曙光が見えてきたときに、やっと彼なりの商売のやり方の手ががりができてきたのにちがいない。  講談社系の雑誌の注文に対して、高座にかけることなど最初から予定していないような作品を提供しつづけたのは、志ん生が新しく覚えた商売のひとつなのであった。仲間うちでの評判の、決してよくはなかった志ん生は、寄席の高座ばかりでなく、いうところのお座敷も多いわけがなかった。そんな志ん生にとって、雑誌に速記を載せることは、新しく自分で開拓したお座敷でもあって、格好の商売となったのである。  古今亭志ん生が、「藝と商売とは、おのずから別」という藝人としての処世訓を、晩年にいたるまで持ちつづけた、そのきっかけのひとつに、この時代の雑誌にたくさんの速記を発表して新しい商売を覚えたことがあげられるかもしれない。 [#改ページ]  6 父と子  一九八二年(昭和57)九月十三日の夜のことだ。行きつけの四谷の酒場に、スポーツ新聞や週刊誌の記者が電話をくれて、その日の午後三時半、食道癌に急性肺炎を併発して、古今亭志ん生の長男である十代目金原亭馬生が逝ってしまったことを知らされた。ほんとうにびっくりした。身体のぐあいがあまりよくないとはきいていたのだが、どちらかというと大袈裟《おおげさ》なところのなくはないひとであったから、それほどだとは思わずに、たかをくくっていたのである。  考えてみれば、ずいぶんと長いあいだ酒をくみかわすことをしていなかったわけで、残念な思いがしてならなかった。いつでも会うことができるし、いつでもきくことができるひとというイメージを、ついついこちらが抱いていた気味があっただけに、なんだか頭をがちんとやられたような気がしたのである。「死なれてみると」、というのは、誰もがつい口にしたがるいい方だが、金原亭馬生くらい、「死なれてみるとこんなに惜しいひとはいない」という言葉がぴったりする落語家もそういない。元気なときに、もっともっと大切にされなければいけないひとであったと、いまにして思うわけだが、もう遅い。ただ、死んでからひとびとをそうした思いにからせるような生き方を、金原亭馬生という落語家がしてしまったことも事実なので、このことは、父親の古今亭志ん生の失意と貧乏のどん底時代に生を受けたことと、まんざら関係がなくもない。  美濃部清というのが金原亭馬生の本名で、一九二八年(昭和3)一月五日に生まれている。その年の四月に柳家甚語楼を名乗っていた父親の志ん生一家は、有名な「なめくじ長屋」の本所|業平橋《なりひらばし》に転居している。まさに困窮きわまっていた時代で、自身『びんぼう自慢』に、 〈家賃が払えないくらいだから、米屋だの、酒屋だの、借りっ放しです。朝晩、大家と顔ォ合わすのがつらくってしょうがないから、うっかり水なんぞ掬《く》みに行けないですよ。夜中にこっそり、かかァと二人で表の井戸へ掬みにゆくてえ始末です。〉  と記しているくらいで、業平橋の「なめくじ長屋」も、家賃がいらないというはなしにひかれて、夜逃げ同然にころがりこんだというところらしい。  そんなときだったから、志ん生にとって初めての男子出生も単純に喜んでばかりいられない。出生の届出だって、すぐにすませたものかどうかはっきりしない。晩年の金原亭馬生は、実際の年齢よりもかなり老けて見られていたが、自身酒の席などで冗談めかして、「子供の時分、私が年中病気してるもんだから、親父がよく『お前は夏の暑いときに生まれた子だから、身体が弱いね』といってたのきいて、不思議に思ったもんですよ。もしかしたら、前の年の夏に生まれたのかもしれない」  などといっていたものだ。  経師屋《きようじや》の伜で、そっちのほうでもそこそこの腕を持っていながら、志ん生の呑気《のんき》そうな暮しぶりに魅かれて落語家になってしまったという麹池《きくち》元吉の八代目三笑亭可楽が、 「私はその時分、小唄のお師匠さんといっしょだったんで、いくらか羽振りがよかった。清が生まれたとき、たしか生卵を十個ばかり持ってお祝いに行ったもんだけど、かみさん青白い顔に鉢巻しめて横ンなってた」  と語ってくれたのを思い出す。  こんな生まれ方をした美濃部清が、結局父と同じ道を選ぶことになったのは、一九四三年(昭和18)八月のことである。  二年前の暮に太平洋戦争が始まっていて、志ん生は五十三歳になっていた。すでに五代目志ん生の名をついで、ひと頃のひどい状態から抜け出して、自分の息子を同じ道にすすませるについても、なにかとちからになれるだけのものをそなえてはいたものの、時代が悪すぎた。それでなくとも若い男はみな戦争にかり出されているというのに、藝人になろうなどは、世間から不心得者の目で見られてもしかたがなかったし、警視庁に届け出て、「技藝者之証」なる鑑札をもらうことも必要だった。そんな時勢に、あえて父と同じ道を目指すにいたったいきさつを、結城昌治『志ん生一代』は、こうのべている。 〈清は少年飛行兵に志願したが、虚弱だったせいで、身体検査で落ちてしまった。中学は中退していたし、勤め先の富士フィルムは軍需工場ではないから、正社員になっていない清は徴用でどこへ飛ばされるか分からないので、一時は鉄工場に勤め、電気溶接工になった。  しかし、眼をわるくしてそこも辞《や》めてしまった。  当時は国民徴用令というのがあって、ぶらぶらしていると強制的に軍需工場や炭鉱などで働かされたのである。「湯屋番」の若旦那のような存在は許されなかった。  そこで、落語家になれば軍需工場の慰問にまわる仕事があって徴用にかからないと父にすすめられ、昭和十八年八月、父志ん生の弟子になった。もらった芸名がむかし家今松、父が好きだった先代志ん生の二つ目時代の名前だ。〉  これがもし梨園とよばれる歌舞伎役者の社会であれば、名優や大名題《おおなだい》の息子に生まれた者は、それだけで将来が約束されてしまう。しかし、おなじ藝人の社会でも、落語家のばあい、ことはそう簡単にははこばない。役者のように、なんだかんだといわれながらも周囲で引き立ててくれるということがないのだ。いや、引き立ててもらったところで、高座で藝をするのはおのれ自身である。どんなにすぐれた名人の息子であっても、当人の藝に魅力がなければ、客はそっぽをむくだけである。とはいうものの、それほど広い社会ではないから、大看板《おおかんばん》といわれる落語家の息子が、父と同じ道を選んだとなれば、相応の扱いは受けるのがふつうである。少なくとも、まったくこの社会と無縁のところからはいってきた者よりは、なんらかのかたちで恵まれた立場というものが与えられるものだ。ところが清のばあい、父親である五代目古今亭志ん生の名は、落語家としてのスタート台についた身に、さしたる役にはたたなかったように見うける。ふたたび結城昌治『志ん生一代』をひくと、 〈「たぬき」「道灌」「子ほめ」の三つを父に教わっただけで、いきなり二つ目で高座へ上がった。別段志ん生の息子だからというわけではない。当時は若手がみんな兵隊にとられ、どうせ売れないなら前座でいたほうが気楽でいいという年寄りばかり多くて、二つ目が足らなかったためである。だから口うるさい前座に扱《こ》き使われる名前だけの二つ目だった。〉  ようやく世間的にも名前が売れて、押しもおされもしない立場にあったとはいえ、若い時分の身勝手なふるまいを、決してこころよく思っていない仲間が、まだまだ大勢いたであろう当時の寄席の楽屋で、その志ん生の息子に対する扱いが、あたたかいものであったわけがない。この社会にあって、父親の名前がいささかの役に立つどころか、かえって邪魔になるばあいもあるという事実を、入門早々に教えられた美濃部清が、落語家として、多少とも屈折した歩み方をしたとしても、無理からぬところがあった。  清が落語家になって、二年とたたないうちに、父の志ん生は満州へ慰問興行に出かけてしまう。陸軍省恤兵部の命をうけた松竹演藝部の編成した慰問団の一員に加わったのだが、六代目三遊亭円生、活弁あがりの講釈師国井紫香、漫才の坂野比呂志らがいっしょだった。志ん生は満州行きをしぶっていた漫才のリーガル千太・万吉にかわって自ら希望して参加したのである。連日になっていた米軍の空襲は、駒込神明町の借家も全焼して、動坂に移り住んでいたが、志ん生にはこの空襲が耐えられなかったのである。満州なら空襲がないからと、家族に相談もなく、独断で実行した満州行きであった。  それでなくとも極端に物資が不足して、いわゆる銃後の国民のみんながみんな苦しい思いをしているときに、仮りにも一家の大黒柱として家族の面倒を見なければならない立場にある人間が、連日の空襲がこわいからと、逃げるように満州へ行かれたのでは、残された者がたまったものではない。すでに五十五歳、そうした分別は充分についているはずの年齢も、強烈な自我の前には、なんの役にもたたない志ん生であった。自分さえよければいいという、単純な身勝手さともちょっとちがう、それは一種動物的ともいえる本能にも根ざしたもので、大切な家族のことにまで思いがまわらなくなってしまうのだ。  まだ二十歳にもなっていない、落語家になったばかりの金原亭馬生の目に、こうした父親の姿がどううつったか、想像に難くない。年とった前座にこきつかわれることの、なにかと多かった二つ目の落語家ではあっても、五代目志ん生という父親がすぐそばにいる事実は、どこかでよりどころとなっていたはずである。そのよりどころが突然満州へ行って、なくなってしまったのである。  それでなくても仲間うちで決して評判のいいほうでなかった志ん生の伜ということで、このときとばかりいじめぬかれたようなこともあったらしい。おまけに一家の生活が、その両肩にのしかかってくるのである。晩年の志ん生が、さかんに若かりし日の貧乏な時代のはなしを冗談めかして語っているのを、 「親父が貧乏したんではなくて、おふくろや私たちが貧乏したんですからね」  と苦笑していたものだが、実際の苦労はなみたいていではなかったはずで、 「よく若いうちの苦労は買ってでもしろなんていいますが、そりゃあ若い時分に本当の苦労をしてないで偉くなったひとのいい草ですね」  と、しみじみ語っていた気持の底が、いまとてもよくわかる。  父親に満州へ行かれてしまった時期の、藝人としての屈折は、必要以上に自分を大きく見せようという意識となって馬生の身についたように思われる。実際の年齢よりも老けて見られた事実にしても、それを風格とは受けとらず、「二十代から老眼鏡をかけて、楽屋でむずかしい本を読んでいたから」と、いささか皮相に見るむきが多かったのも、戦時中の父親のいない時代につちかわれた神経が影響していたにちがいない。  若くして、一人前の藝人としての評価を受けたというより、受けないことには父親の勝手に残していった家族の面倒も見ることができない。必要以上に背のびをした人生を送らねばならない宿命が、落語家という父と同じ職業を選んだ瞬間から馬生にはついてまわった。結果、年齢の割よりも一足はやく売れて、一足はやくうまくなり、一足はやく風格がでて、一足はやく老けこんで、そして一足も二足もはやく世を去ってしまった。どう考えても急ぎすぎた人生というほかにない。  五十四歳といえば、父親の志ん生が家族を捨てて満州へ行こうとたくらんでいた年齢だ。父親が、ようやくこれから花咲かせようとするまでにかけた時間を、長男の馬生は、しごくあっさりと費いきってしまったのである。  大酒飲みで知られた志ん生の伜だけに、金原亭馬生もよく飲んだ。酒量からいったら、父親以上ではないかともいわれた。とくに晩年は、朝から食べるものも食べずにコップ酒が毎日のことで、周囲はアルコール中毒になることを心配したが、その酒のために高座をしくじるということは決してなかった。  そのあたりが同じ酒飲みの親子でも、志ん生とはちがっていた。酒の上のしくじりで、仲間うちの評判を落した時代の長かった父親を、実際にその目で見ているだけに、「親父とはちがう」ところを見せようという意識が、馬生には必要以上にあったように思われる。  同じような意識は、馬生より二年先に逝った林家三平にも見ることができる。林家三平は、楽屋の仲間うちで、「金が切れる」という点ですこぶる評判がよかった。つきあいのほうも人一倍であったし、余暇《ひま》さえあれば若い落語家を連れて飲み歩いた。三平の父親である七代目の林家正蔵というひとは、あれだけ売れた落語家でありながら、自分の金を残すことに急で、仲間づきあいの面では必ずしも評判がいいとはいえなかった。その辺の事情を熟知していた三平は、仲間づきあいで父親と同じ間違いをくりかえす愚をさけたのである。  金原亭馬生といい、林家三平といい、父親と同じ職業を選んだが故の苦衷に満ちた気の使い方が、酒ののみ方にまであらわれてくることにも、落語家社会というものの、あるせまさを感じないではいられない。  古今亭志ん生というひとは、洒の上で何度も仕事をしくじったが、家族にもずいぷんと迷惑をかけてきた。父の酒のために、母親が泣くのを見せられて、自身苦労させられて育った金原亭馬生は、父親以上の大酒飲みではあったが家族に迷惑をかけるということはしなかった。迷惑をかけるどころか、藝人には珍しいくらい家庭的なひとであった。「あんなに自分の家の好きなひともいない」と仲間があきれるくらい、家から出ることをいやがった。  仕事で外に出て、その仕事をすませてから、次なる仕事まで時間があいてしまうことがよくある。ふつうのひとだったら、映画を見るとか、それこそ行きつけの店で時間をつぶすとかするところだが、馬生というひとはいったん自分の家へ帰るのである。かりに戻っても、またすぐに出なければならぬようなばあいでも、十分でも二十分でもわが家にいることができるのなら、それを選んだ。酒がはいると、もう家族のことが頭からどこかへ行ってしまう父親を見て育った馬生ならではの生き方であった。  そういう点では、父親の酔態ぶりを、かなり醒めた目で見つづけていたということができる。世間の評価はともかくとして、「父親としては決していい存在ではなかった」と、志ん生のことをいいつづけていた馬生は、志ん生以上に酒に淫しながらも、自身「よき父、よき夫」であることに徹してみせた。  それは、そうでなかった父親に対し、終生醒めた態度をとりつづけた必然の帰結であったが、この醒めた態度は、かんじんの落語という藝に対するときも同様で、そのことが金原亭馬生という落語家を、古今亭志ん生とはかなり異った藝質の持ち主に仕立てあげたことは否めない。 「天衣無縫」「自由|闊達《かつたつ》」と、ひとびとは志ん生の藝を評したが、それは裏がえせば、「ぞろっぺい」で、いいかげんな一面を有していることでもあった。ただ、そうしたいいかげんさが、志ん生という落語家の、ほかのひとからは得ることのできない魅力となっていたこともたしかなので、落語という藝には、「面白ければ、多少とも辻褄《つじつま》が合わなくてもかまわない」部分が存在してるのだ。古今亭志ん生の長男でありながら、金原亭馬生というひとの藝には、そうした「いいかげんさの魅力」というものが稀薄だった。稀薄だったというより、そういうところから目をそむけようとする潔癖さが、馬生という落語家の背骨として終生ついてまわったような気がする。 『芝浜』という落語がある。飲んだくれの魚屋が、かしこい女房の知恵で一人前になる人情噺風の佳品で、古今亭志ん生もしばしば高座にかけていた。このはなしのなかに、女房に一刻早く起こされて河岸についてしまった魚屋が、夜明けをむかえる場面がある。とくに、このはなしを十八番にしていた桂三木助の、「あァ、ぼおッと白んできやがった……あァ、いい色だなァ、ええ? よく空色ッてえとあの青い色一色なんだけどねェ、青い色ばかしじゃねえや、白いようなところもあるし、なんかこう橙色《だいだいいろ》みてえなところもありやがるし、どす黒いところもあるし、あァ、いい色……あァ、お天道《てんと》さまが出て来た……」などという描写は、かなりの評判をよんだものであった。  ところが金原亭馬生は、決してこの夜明けの情景を演じようとしなかった。一度その理由を当入にたずねてみたことがあるのだが、 「江戸時代の一刻《いつとき》といえば、いまの二時間でしょ。あの頃、魚河岸の開くのが七ツっていいますから、いまの四時。それより一刻早く起こされたってことは八ツとして、午前二時。どうやったって夜は明けません」  という答が返ってきた。藝の嘘の効用を、まったく認めないわけではなかろうが、それをさけたことによって、ほんらいなら得られたはずの落語家|冥利《みようり》まで惜し気もなく捨ててしまったのである。  桂文楽の至藝で知られ、志ん生も得意にしていたばかりか、自身相当気にいっていたはなしに『船徳《ふなとく》』がある。勘当されて、出入りの船宿《ふなやど》の二階に居候している徳さんなる若旦那が、四万六千日のお暑い盛りに、にわか船頭になって二人の客を大桟橋まではこぶおなじみの落語だ。  このはなしのなか程に、素人のこぐ船とあってゆれが激しく、煙草を吸おうとする客と、それに火箱をさし出す客が、たがいにお辞儀をくりかえすばかりで、なかなか火がつかずに往生する場面がある。滑稽感あふれた動きが笑いを誘い、誰が演ってもうける場面だ。  NHKテレビの委嘱で、『船徳』を演じた金原亭馬生は、この場面をカットしてしまった。はなしのなかの、目玉ともいうべき場を演じなかったからには、それなりの理由があることと察したプロデューサーがそれをただしたところ、馬生はいともあっさりと、 「だって、船は、ああはゆれません」  といってのけたという。 「演技の考証について、若干の考えちがいをしている」と、このプロデューサーは思ったというが、「若干の考えちがい」どころか、ことは落語の笑いに関して、本質的な問題をふくんでいる。だいたい、この『船徳』というはなしは、『お初徳兵衛浮名の桟橋』という、近松の名作『曾根崎心中』の登場人物に名を借りた、船頭と藝者がご法度《はつと》の恋におちる人情噺だったのである。それを、明治の才人三遊亭円遊が、こんにちのような滑稽ばなしに改良してのけたものだ。  人情噺『お初徳兵衛浮名の桟橋』は、たまに古今亭志ん生も演じていたが、『船徳』ほどに面白いものではない。金原亭馬生は、それの本格的な復活上演を試みたこともあるくらいで、「たとえ多少辻棲が合わなくとも、面白くなればそれでよし」とする落語観にはくみしたくない信条を有していたようだ。  落語に対する、そのあたりの姿勢となると、金原亭馬生と父親の古今亭志ん生には、かなりの距離があった。志ん生がしばしば高座にかけていた『鈴ふり』という艶笑落語のなかに、「十八|檀林《だんりん》」と称する、憎が修行して歩く十八の寺の言い立てがあったが、その順番をときどき間違えるのである。そのことを息子の馬生に指摘されたときのやりとりが、結城昌治『志ん生一代』に、 〈「だけど今夜の|鈴ふり《ヽヽヽ》の十八|檀林《だんりん》、言いたての順が随分ちがってたけど、あれはどうなの」 「あれで構わねえのさ。寄席は学校じゃねえんだ。間違えたって直したりしちゃいけねえ。そのまんま通しちまうんだ。」〉  と記されているが、「寄席は学校じゃない」というのが志ん生の一貫した姿勢であって、それはそれとして馬生にも理解できるのだが、「間違えたって直したりしちゃいけねえ」とまで、ひらきなおれない気の弱さが、「自身納得できないことは演じられない」馬生の藝風をいつの間にかかたちづくっていた。 『志ん生一代』は、さらに志ん生の十八番『火焔太鼓』で、古道具屋の甚兵衛が太鼓を背負って御殿へ行くくだりにもふれて、 〈しかし、実在する火焔太鼓は雅楽に用いる左右|一対《いつつい》の大太鼓で、鼓面の馬皮だけで直径六尺三寸、まわりを極彩色の雲形で飾り、高さ一丈を越える雲形の上方は朱色の焔で燃え上がっていた。到底甚兵衛が背負っていける代物ではない。  それで清は演出を変えて、太鼓を大八車で運ぶことにした。 「だからおめえは駄目だっていうんだ。実物の大きさなんて、そんなことどうでもいいんだ」  志ん生は清を叱りつけた。たとえ実物とちがっていても、甚兵衛が背負ったのは火焔太鼓で、落語のなかではそういう火焔太鼓もあったのである。あっていけないという理由がどこにあるのか。〉  と記している。  およそ、藝とよばれるものには、いろいろな枷があって、それが演者をなにかと制約してくるものだが、志ん生というひとはそうした枷から、きわめて自由かつ大胆に飛揚してのけ、それが独得の語り口に結実していったのである。志ん生のこうした落語に対するとらわれない自由な面が、もっとも特徴的に現われている例として、『千早振る』という滑稽噺の傑作を見てみたい。このはなしの梗概を以前『落語・長屋の四季』(読売新聞社)という拙著に記したことがあるので、便宜上ここにひかせていただく。 〈娘に、百人一首の在原中将|業平《なりひら》朝臣《あそん》の詠《よ》んだ、   千早振る神代もきかず竜田川からくれなゐに水くくるとは  という歌の意味を問われて困った親父、横丁の先生ならわかるだろうと、とびこんだものの、この先生なるものが先《ま》ず生きてるほうの先生だったからはなしはややこしくなってくる。 「千早振る神代もきかず竜田川、というこの竜田川というのを、おまえさんは川の名だとお思いだろうが、それが大違い。あれは相撲取りなんだなァ」 「へえッ、相撲取りね」 「八年の修業をつんで大関になった。ある日、吉原で、千早という花魁《おいらん》を見染めてしまった。ところが、千早は、わちきは相撲取りはきらいでと、ウンといわない。それならと、千早の妹花魁で神代というのにかけあったが、これも駄目《だめ》だ」 「たいへんに振られたもんですね」 「竜田川もすっかり力を落としてしまって、相撲をやめて田舎に帰り、豆腐屋になってしまった」 「へェ、豆腐屋にねェ」 「十年ほどたった秋の夕ぐれ、ひとりの女|乞食《こじき》が豆腐屋の店先に立って、おからをくれという。見るとこれがあの千早|花魁《おいらん》のなれの果てだ。豆腐屋は十年前に恥をかかされたことを忘れないから、おからをやらない。千早も大いに恥じらって、そばにあった井戸に身を投げて死んでしまった」 「へえ、それから」 「それでしまいだ。いいか、はじめ千早という花魁に竜田川が振られたろう。だから『千早振る』だ。神代という妹花魁もいうことをきかなかったから『神代もきかず竜田川』となるだろう」 「なるほど」 「おからをやらなかったので、井戸の水にはいって死んでしまった。これがつまり『からくれなゐに水くくるとは』さ」 「なるほど、『水くくる』まではよくわかりましたが、そのあとの『とは』てえのはなんです」 「いいじゃないか、『とは』ぐらい、負けておおきよ」 「いいや、負かりません。『とは』は、なんです」 「ううン、そうそう『とは』は、千早の本名だ」〉  この『千早振る』の「竜田川もすっかり力を落としてしまって、相撲をやめて田舎に帰り、豆腐屋になってしまった」「へェ、豆腐屋にねェ」というくだりだが、いま手許にある「古今亭志ん生傑作選」というビクター・レコードできいてみると、 「相撲をよして豆腐屋ンなっちゃった」 「どうして豆腐屋ンなるの?」 「実家《うち》が豆腐屋なんだ。故郷《くに》が……」  と、なっている。だが、ここでこういうやりとりをした志ん生の実際の高座に、僕自身はふれたことがない。もうひとつ、志ん生の高座を活字化した、『志ん生滑稽ばなし』(立風書房)をひらいてみると、 〈「……相撲をよして、豆腐屋になっちゃった」 甲「ヘンだね、相撲取りをよして豆腐屋にならなくてもいいじゃないかね」 乙「なったっていいじゃないか。なりてえって自分がなるンだから、とめる権利はないンだよ。自由の体なんだから……」〉  となっていて、だいぶちがう。どんなはなしでも、そのとき、その場に応じたしゃべり方をしていた志ん生の面目躍如たるものがある。ついでに記《しる》せば、竜田川が千早を見染めたくだりで、千早の美人ぶりを表現するくすぐりも、レコードでは、 「夜中のはばかりだ」 「なんだい? 夜中のはばかりてのは」 「目のさめるようないい女」  としゃべっているが、『志ん生滑稽ばなし』は、 〈甲「なんです、そのこわれた金魚鉢みてえってのは?」 乙「水の垂れるような女さ」 甲「ヘンだよ、おまえさん」〉  になっている。  何回となく僕のきいた志ん生の『千早振る』では、竜田川が豆腐屋になるところは、おおむね『志ん生滑稽ばなし』の速記どおりなのだが、いちばん印象に強く残っており、最も志ん生的だと思われるのが、 「なんでまた豆腐屋になっちまったんだい」 「いいじゃねえか、当人がなりてえってんだから……」  というやりとりである。  大関までいった相撲取りが、吉原の花魁にふられたからといって、どうして豆腐屋にならなくてはいけないのかという、素朴きわまりない疑問を口にした男に対して、 「いいじゃねえか、当人がなりてえってんだから」  と、いいくるめてみせるのは、いかにも志ん生的である。そこには論理も理屈もない。ただ、当人が豆腐屋になりたかったからなったのだという、きき方によってはいささか乱暴にうつる展開が、そのまま古今亭志ん生の落語観につながっているように思えて面白いのである。  実際には、とてもかつぐことなど不可能な火焔太鼓でも、大八車などで運ばずに、風呂敷でかついで行くほうが落語として面白いし、「だいいち、当人がそう演りてェんだから、いいじゃないか」といった態度が、志ん生の落語からは、いつも見てとれた。  気のせいか、「いいじゃねえか、当人がなりてえってんだから」と、懸命にいいつくろう『千早振る』の横丁の先生が、志ん生自身のとまどいのようにきこえてくるのである。はなしを面白くするためなら、論理や事実を多少まげてもかまわない、とにかく好きなようにしゃべらせてくれといった志ん生の叫びが、「いいじゃねえか、当人がなりてえってんだから」という台詞からきこえてくるのだ。その意味からも、 「相撲をよして豆腐屋ンなっちゃった」 「どうして豆腐屋ンなるの?」 「実家《うち》が豆腐屋なんだ。故郷《くに》が……」  というレコードのやりとりは、あまり面白くない。平仄《ひようそく》が合いすぎて、志ん生らしくないのである。  古今亭志ん生の、こうした自由な態度が、きわめて独創的な志ん生落語に結実したことは、無論、息子の金原亭馬生にも充分理解できたはずである。だが、志ん生が自由に思うがままの、理屈にならないというより理屈を超越した態度でことにあたるのは、なにも落語に限ったことではないように馬生には思えてならなかった。  人生で遭遇するあらゆる局面で、志ん生というひとは、おのれの落語に対するときとまったく変らない自由な態度をとりつづけてきた。幼いときから、父親のそうした面を見せられてきた馬生が、父とおなじ職業を選んだとき、生き方がそのまま藝の姿勢につながってしまうような、父親の方法を踏襲する気にはなれなかったというのも、わかる気がしないでもない。馬生にとって、枷のない、とらわれぬ自由さにあふれた語り口が、そのまま「いいかげん」で「ぞろっぺい」な生活態度と受け取られかねないのが、我慢ならなかったにちがいない。  父親の志ん生とちがって、家庭にあってはよき夫であり、よき父たらんとし、事実そのとおりの生涯を送った馬生は、藝に対しても誠実でありたいという姿勢を最後までくずそうとしなかった。  馬生の考える誠実な藝とは、嘘のない藝であって、父親の志ん生が、「藝だから許される嘘」を、たくみに利用していたことを理解し、自分もある程度はそれを許容しながらも、納得のいかないことに対して必要以上にきびしい態度をくずさなかったことが、父親と比較して自分の落語のスケールを小さなところにはめこんでしまった気味がある。  藝に必要なものを吸取することに熱心で、こと、ものを学ぶ意欲に関しては父親以上でもあった金原亭馬生を見ていると、あの明治の変革に際し、九世市川団十郎が創始した「活歴」の、枝葉末節にこだわりすぎてかんじんの「劇的興奮」を失ってしまったという誤謬が思い起こされてならなかったのである。  このあたりの事情に関して、一度ゆっくり馬生の真意などききたいと考えていたときに耳にした訃報であっただけに、しばらく前まであんなに機会を重ねていた酒席が、このところとどこおってしまっていたのが、悔やまれてならないのである。  もうしばらく金原亭馬生から見た、父親としての古今亭志ん生像について書く。  じつは志ん生独得の語り口のことで、『千早振る』の速記の載っている『志ん生滑稽ばなし』を書棚から出してひらいて見たとき、巻中に「はだかの志ん生」と題した、金原亭馬生と小島貞二による対談があるのを見つけて、読んでみるとこれが案外と面白かったのである。この『志ん生滑稽ばなし』という本は、奥付にはられた紙片によると、「1975年2月10日 第1刷発行」とあるから、志ん生没後二年に出ているわけだ。書肆《しよし》から贈られて、書棚にいれたままになっていたので、こんど『千早振る』の速記に目を通すために引っぱり出すまで、こんな対談が載っていたことに気づかなかったのである。 「はだかの志ん生」と銘打ってはいるが、この対談のなかでの馬生の発言内容そのものに、格別の目新しさはない。ただ、志ん生の没後に、その人柄をしのぼうという主旨で行われているだけに、馬生としては自分の抱いていた父親像を、公的に語っておこうとした意識があったようで、その辺を忖度《そんたく》しながら読んでいける面白さがひそんでいるのだ。そんな興味の感じられる馬生の発言を、ごく恣意《しい》的に、いくつか順に歌りあげてみる。 〈家《うち》ィ帰ってきて酒を呑んでも、あたしと会わない。おやじさんは、湯豆腐ならそれを前にして酒だけクーッと呑んで、そのあとすぐめしを喰っちゃう。あたしは梅ぼしかなんかで、トロトロ呑んでるわけです。そうすると。�じれってえやつだ。一緒には呑めねえ�って……。だから二人ではほとんど呑んでないです。〉  酒に関する逸話には事欠かない志ん生だが、このひと「酒」はたしかに好きだし、あびるくらいのんでみせたが、いわゆる「酒席」はあまり好きでなかったのではあるまいか。なによりも、盃をやったりとったり、他人に気をつかい、お愛想のひとつもいいながらのむ酒は、気がねだったにちがいない。  戦後の一時期、上野広小路にほど近いところに、「源氏」という大衆酒場があって、鈴本演藝場や本牧亭の出番を終えた寄席藝人がよく集まっていたときく。そんなとき、連れだってきている仲間ばかりか、まったく関係のないほかの客にまで冗談をいったり、愛嬌をふりまいてみせる藝人が少なくないのに、古今亭志ん生ばかりは、いつも「いくら」を前に、ひとり黙然とコップ酒をやっていたという。  これが親子の間柄であっても事情はまったく同じだったというのが、僕にはやはり面白い。それでなくとも金原亭馬生というひとは、酒がはいるとかなり饒舌になって、理屈っぽくなるところがあった。いわゆるからみ酒ではないし、愚痴っぼい酒でも決してなかったが、いいかげんにきき流してしまえばそれでいいといった感じにはなってくれないからかえって困るのである。いくらわが子だとはいえ、酒の席でまで藝の相談を持ちかけられたり、仕事のはなしをされるのは、志ん生という自由人には、やはり耐えられなかったにちがいない。「だから二人ではほとんど呑んでないです」と馬生はいっているが、じつは志ん生のほうで馬生との酒をさけていたといったところであろう。  酒は大好きだが、わずらわしい酒はきらいという酒のみの、志ん生がその典型であった事実は、志ん生の酒について書かれたいろいろな文章からもうかがうことができる。安藤鶴夫の『まわり舞台』(桃源社)という本に、「古今亭志ん生」と題した、志ん生のインタビューが載っている。安藤鶴夫が上野の本牧亭階下の将棋倶楽部にいた志ん生を、近くの蕎麦《そば》屋蓮玉に誘い出してはなしをきくのである。 〈ヒヤが好きなのである。コップに一杯あてがったら、なみなみとさせたまんま、のまない。〉  とあって、将棋のはなし、小泉信三が好んだ『冬の夜に』という大津絵のはなしなどを質問に答えている風情で記した安藤鶴夫の文章の結びは、こうなっている。 〈一日いまどのくらいのむと訊ねたら、「一升ですよ」  嘘をつけといったら、うちでのむのが一升、外でのむのは数えねえといって、目の前についであったヒヤのコップを、ものの見事にくいーッ、と一ッ気にのみほした。〉  好きな酒を、目の前に置いたまま、まったく口をつけようとしないでいた志ん生の表情が目にうかぶようだ。将棋や小泉信三の話題は、志ん生にとって不愉快になる性質のものではない。そうではないが、それが取材の上でのこととなると、いささか事情が変ってくるのであろう。率直にいって、そういうことは志ん生にとって面倒なので、面倒なことをしてるときには酒を口にしたくないのである。だから、仕事としての話題にけりがついたと判断したとき、「目の前についであったヒヤのコップを、ものの見事にくいーッ、と一ッ気にのみほし」てみせたのである。  安藤鶴夫は、志ん生ののみっぷりの見事さに感心してみせているけれど、酒のみとしての志ん生のこうしたこころのうちまでは見抜いてはいない。ついでに記せば、「コップに一杯あてがったら、なみなみとさせたまんま、のまない。」とあるのも、気になる表現である。こういう酒ののみ方、いや、のまされ方は、志ん生にとって決して快いものとは思えないからである。この短い文章は、志ん生が一気に酒をのみほしたところで終っているから、そのあとが楽しい酒席になったのかどうかはっきりしないのだが、 「それじゃァ、これで」  か、なにかの挨拶があって、志ん生ひとりが場所をかえ、腰をすえてじっくりのみ出すとでも考えたほうがリアリティがあるように思えてならない。好きな酒だから好きにのむというのが、志ん生の流儀であった。  志ん生の左の腕に、般若《はんにや》の面の筋彫りがしてあったというのは、べつに大っぴらにしなければならないことではないので誰も口にしなかったが、楽屋うちではたいていのひとが知っていたようだ。とくに晩年は近所の銭湯へ連れて行くのが内弟子の役目だったから、そのあたりから伝わったのかもしれない。僕自身、そうした弟子のひとりから冗談めかして、 「いや、セコい筋彫りでね、般若の面だっていわれりゃそう見える程度のもので、とてもひとさまのお目にいれられるもんじゃ……」  などときいたことがある。「はだかの志ん生」という対談で金原亭馬生は、この彫物について、落語家になる前のことで、 〈何でも鼻緒《はなお》屋の職人のときに、彫岩《ほりいわ》でやったらしい。まァ、昔はそういうくだらないことが流行《はや》って、知り合いの職人衆がみんなやるから。�じゃア、おれもひとつやってみよう�てンでやったんでしょう。ずいぶん若い時分ですよ。〉  と発言している。彫岩というのが、どの程度の彫師なのか、その方面に関してはまったく知識がないのでわからないのだが、とにかく実際に見たひとや楽屋の噂を総合したところでは、それほど立派なものではなかったというし、馬生のいうとおり遊び半分のいたずらごころから彫ってみたものだろう。だいたい、仕事師だとか道楽者の社会にあっては、彫物をしていないことのほうが恥かしいような風潮のあった時代だ。  それでなくとも、学校も出ずに、さしたる定職についたわけでもなく、天狗連に出入りしているうちに気がついたら落語家になっていたような志ん生に、若気のいたりの遊びごころがあってもおかしくはない。それにしても貧弱な筋彫だけで終っているというのが、いかにも古今亭志ん生らしくていい。金がつづかなくなったのか、肉体的苦痛に耐えられなかったものなのか。  三代目の三遊亭金馬というひとは、落語家のなかでは無類の物識りであったが、『浮世断語』(有信堂)という好著がある。この本のなかに、刺青《いれずみ》の話」という章があって、彫物についていろいろとうんちくをかたむけているのだが、 〈次に咄家と刺青。  誰も自慢に見せた物はないが、道楽の末の咄家で無疵《むきず》の人は少ない。いまの人では信用問題になるから亡くなった人の話をしよう。〉  と記しながら、彫物をしていた落語家の名を何人かあげている。それによると、品川の円蔵といわれた四代目の橘家円蔵門下の円幸と円太。林家彦六で死んだ八代目林家正蔵や六代目三遊亭円生などに三遊亭円朝系の人情噺、芝居噺を伝えた三遊亭一朝。大阪の二代目桂文枝。三代目桂文団治。二代目橘家花橘。さらに洒脱《しやだつ》な音曲で知られた柳家小半治。変人でとおっていた日本太郎。五代目の柳亭左楽。ひと頃古今亭志ん生が身を寄せていた柳家三語楼。それに落語家が彫物をするような風潮をいましめていたという三遊亭円朝の実の父親である橘家円太郎も、背中にらくだを彫っていたという。  三遊亭金馬の『浮世断語』の初版が出たのは一九五九年(昭和34)だから、「いまの人では信用問題になるから」という「いまの人」のひとりが、古今亭志ん生であったことは間違いない。もうひとり、藝術協会会長をながいことつとめた、『トンチ教室』でおなじみだった春風亭柳橋にも、貧弱な桃の彫物が太腿にあったという。 『トンチ教室』といえば、これもこのNHKの人気ラジオ番組で売り出した三代目の桂三木助は、ひと頃「隼の七」と異名をとった本職の博奕打ちであったというから、彫物ぐらいあってもおかしくないところだが、これが意外で、なにも彫っていなかったそうだ。本気で鉄火場に出入りしていた三本助に彫物がなくて、子供の頃から売れに売れ、晩年は政治家や宮様のところに出入りするのが自慢だった柳橋に、これも稚拙な彫物があったというのが面白い。  志ん生にしても柳橋にしても、若い時分のちょっとした遊びごころが自分の身体に望んで傷をつけたのであろうが、一方で男としての見栄に支えられているはずのその彫物を、元気な時代にあまり他人の目にふれさせなかったのは、時勢が変ったということもさりながら、自慢気に見せるには、あまりに貧弱であったためにちがいない。古今亭志ん生の見栄が、許さなかったのである。  もう少し、「はだかの志ん生」から、金原亭馬生の発言をひろってみたい。  古道具屋をのぞくことの好きだった古今亭志ん生が、同時に一度買った品物を売ることも好きだったというはなしである。 〈本当はあたしがきれいな円朝全集を買ったンですよ。国宝みたいなパリッとしたやつをね。おやじさんが�うちに一組あるよ��あったっていいんだよ、こういうきれいなのは手に入らないンだから�って……。で、寄席から帰ってきたらもうないンです。�どうしたの、お父っつあん�ていったら、�うん、売っちゃった�って……。〉 〈川合|玉堂《ぎよくどう》とか鴨下|晁湖《ちようこ》とか、いろいろ宝ものみたいないい絵があったんですよ。十本ぐらいまとめて、五万円で売っちゃった。〉 〈あたしは一度いいタバコ入れをもらった。二、三ン日して�おめえにタバコ入れやったな。あれ持ってきてくれ�って持ってこさせて、�いいね、これは�なんていって見ている。翌日、おやじさんに�あのタバコ入れは?�と聞いたら�あれ売っちゃった��えっ、売っちゃった!?�いっぺんこっちにくれたらこっちの所有でしょう。〉 〈金はいくらあったって、病人だから使い道がない。酒はあたしのほうから持って行く。喰うものだって心配ない。医者の支払いもこっちでしょう。  おやじの小遣いというのは、全部|道具《もの》を買うためです。買うというのはつまり売るという目的があって買うンです。それでよく喧嘩しました。〉 〈だから売るたんびに金は減っていくわけですよ。十万で買ったモノが五万になり、五万で買ったモノが三万になり……。〉  この馬生の発言を読んでいて、思い出したことがある。押入れの奥にしまいこんでおいたのを出してみると、一九七〇年(昭和45)の七月号だから、もう十三年前になる。「演劇界」に、「わが歌舞伎」という連載があって、そこに古今亭志ん生に登場してもらいたいのだが、「矢野さん、代筆してもらえないだろうか」という編集部からのたのみである。しばらく志ん生ともはなしをしていなかったし、遊びがてら取材に行くのも悪くないと、先方に電話で主旨を通じてひとりで出かけた。ちょうど五月の節句のさなかであった。  志ん生は元気で、機嫌もよく、にこやかにむかえてくれたのだが、困ったことにかんじんの歌舞伎のはなしをそっちのけにして、落語のはなしばかりしゃべるのである。見かねた長女の美津子さんが、 「お父ちゃん、ほら播磨《はりま》屋ンとこへ招ばれたとき……」  だの、 「十五代目の羽左衛門さんがさァ」  などと助け船を出してくれるのだが、志ん生は、 「わかってるよ」  などといなして、一刻は芝居談義をしてくれるのだが、すぐにまた落語のはなしになってしまうのである。そんなところへ、スケッチ・ブックを手に、兵児帯《へこおび》をだらしなく巻きつけた姿の金原亭馬生がひょっこり現われた。すぐ裏に住んでいるのである。 「おや、なんです? 今日はまた?」  というから、ことの次第をはなすと、 「そうですか、ごゆっくり。帰りにちょっと寄りませんか。すき焼かなんかでやりましょうよ」  と、あいたほうの手で一杯のむしぐさをしながら、そのまま二階へあがっていった。いったん中断された芝居のはなしを、ききなおすべく、ノートなどひろげる間もあらばこそ、二階へあがったはずの馬生がふたたび顔を出した。 「摸写をしとこうと思ってきたんだけど、今年はあの鍾旭様の軸、出さなかったのかい?」  馬生がきき終るのを待っていたかのタイミングで志ん生が答えた。 「売っちゃったよッ」  そばにいた志ん生夫人のりんさんが、 「そう、売っちゃったのよ」  と、つづけた。馬生は、しばらく茫然としていたが、やがて口をとがらして、 「売ったって……だって、あれ、玉堂だぜ……そうかい、売っちゃったのかい」  と、がっかりしたあとは、ただ苦笑するばかりだった。そんな馬生の表情をちらりと見てから、いたずらっぽい顔をこちらにむけて、 「俺はね、ものを売るの、うまいんだよ」  と志ん生はいった。  若い時分の貧乏暮しのなかでならまだしも、功なり名とげ、あとはただ生活を楽しんでいればそれでよい状態にあってなお、手もとにあるものを金にかえたかった志ん生の意図は、どこにあったのだろう。いわゆるコレクションの趣味はなかったようだが、だからといってものに対する執着心がまったくなかったわけではない。めったなことでは、他人にものをあげたりしなかったが、一度あげたもののことは決して忘れなかったという。そんな品物を、いともたやすく、それもさしせまって必要というわけでもなさそうな金に換えてしまう神経は、やはり不思議としかいいようがない。  伝えられるなめくじ長屋でのひどい生活のなかでも、まれにみる強い自我意識を発揮してのけ、ゆたかなこころを持ちつづけた志ん生は、そうした見栄も外聞もない生活に、小金というものが格別の支えになることを、それこそ身をもって知っていたはずである。手もとに小金を置いておくことのできない恐怖感というものは、きちんとした生活設計をたてて、それにしたがって健全な暮しをいとなめるむきの想像を絶するものがある。なみはずれた自我意識の持ち主としては、それを支えるための武器でもある小金を、さして必要としない状態がやってきてなお、習い性になったというか、道具屋をよびつけては、手離して小金を得ることに、奇妙な老人の喜びを見出していたのではあるまいか。 「俺はね、ものを売るのがうまいんだよ」  というのは、ユニークな生活の楽しみ方を実行している事実を、精いっぱい自慢してのけた言葉のように受けとれる。  こうした志ん生の生活ぶりが、長男の馬生には理解できない。理解できないけれど、それはそれとして認めてしまわないことにはどうしようもない、といった気持でしか到底処理できない性質のものであった。「はだかの志ん生」対談のなかの、 〈粋だ粋だって人さまはおっしゃるけど、ちっとも粋じゃない。……だけどあの風格と芸の底力で�まあしょうがないよ、あの人なら�と、いうとこまで持っていってしまった力ね、そこまで人を納得させてしまったところがすごい。〉  という馬生の発言は、身近に志ん生を見ていたひとならではの志ん生論として面白いが、やはり父権の強大さにおののいている、金原亭馬生という落語家の姿のほうがより明確に見えてくるのだ。  馬生について書いたからには、志ん生の次男でやはり落語家の古今亭志ん朝についてもいささか記さねばなるまい。  志ん朝が生まれたのは一九三八年(昭和13)三月十日だが、戸籍の上では十一日となっているらしい。父志ん生は七代目の金原亭馬生を名乗っていて、その翌年に五代目古今亭志ん生を襲名するのだから、暮しの上でもようやく落ちつきの出てきた時期にあたる。  十年前に生まれた長男の馬生のときとはかなり事情が変っていた。十年ぶりに子供ができたことは、もう四十八歳になっていた志ん生をかなり喜ばせたらしい。どこの寄席に出ても、『桃太郎』ばかり演っていたといわれる。こましゃくれた子供の出てくるはなしだ。もっとも、志ん生とは若い時分から親しくしていた八代目三笑亭可楽によれば、志ん生は馬生が生まれたときも『桃太郎』ばかり演っていたそうだ。志ん朝の生まれた三月十日は、日露戦争で日本軍が奉天を占領した日で、陸軍記念日であった。志ん生にたのまれて柳家三語楼がつけた名前が強次《きようじ》である。  生まれたときから気苦労の連続だった長男の馬生とちがって、強次の志ん朝はのびのびと育てられたらしい。なによりも四十八歳という年齢で得た子供であることに、父親の志ん生は特別の思いがあったらしく、それこそ目のなかにいれても痛くないといった状態であったというのもうなずける。  強次が兄とおなじ道を選ぶ決心をしたのは、一九五七年(昭和32)四月のことで、十九歳になっていた。その年の二月に父の志ん生は落語協会会長に就任していて、父の門下ということで古今亭朝太の藝名をもらっている。父の最初の藝名である。落語家になったはいいが、かんじんの父親が、すぐに家族を置いて満州まで行ってしまった兄の馬生とくらべ、なんといっても会長の御曹子《おんぞうし》だったから周囲の扱いや、もろもろの条件など、すべての点で恵まれたスタートだった。十四年間の歳月が、父親の古今亭志ん生という落語家の嵩《かさ》をそれだけ大きなものにしていたのである。  恵まれたスタートこそ切りはしたが、じつをいうと落語家の道を選ぶことは、強次の本意ではなかったらしい。私立の独協学園を卒業して、外交官になりたくて東京外語大を受験したのだが失敗して浪人中だったのである。藝の世界にすすむなら歌舞伎役者になりたいところだが、門閥、家柄がものをいう社会ということを知っていたから、最初からあきらめていた。落語家になる気がなかったのは、自分がむいていないと信じていたからである。なによりもひと一倍照れ性の身に、ひとりで客の前でしゃべりつづける藝は苦痛に思われた。そこへもってきて、幼い頃から父と兄が議論をたたかわしているのをきくともなしにきかされていたから、とても自分にはむいていないと決めこんでいたのである。  そんな強次が、なぜ父や兄と同じ道を歩む決心をしたかというと、ただただ父志ん生の説得が強かったためらしい。五十近くになってから得た子供だけに可愛くてしかたがなかった志ん生としては、できるだけ長いこと身近に置いておきたかったのだろう。それには、同じ商売の落語家にさせるのがいちばん手っとりばやい。多少とも気が弱く、父親思いの次男坊としては、こうした志ん生の願いに根負けして、親孝行の気持から落語家になってしまったようなところがあった。そのかわり、いったん落語家となってからは、見る間に腕をあげてみせた。このあたり、兄馬生のときとはまったくちがった事情を、結城昌治『志ん生一代』からひいてみる。 〈朝太は父に五つ六つ落語を教えられると、気がすすまないまま新宿末広亭の四月上席から高座へ上がった。父がつけてくれる稽古に対して、馬生のときは馬生自身が熱心だったが、朝太のときは父のほうが熱心で、二階の六畳を締めきって前座ばなしの「道潅」「子ほめ」「道具屋」などから「文七元結」「火焔太鼓」「宿屋の富」のような大きなはなしまでみっちりやった。  また、たとえ渋々ながらでも高座へ上がるようになると、朝太は父親ゆずりの負けず嫌いだった。仲間うちの勝ち負けではなく、へたな芸で恥をかきたくないという意地があった。それで正蔵に稽古を頼み、約一年半というものは一日置きに稲荷町の正蔵宅へ通いつづけ、「巌流島」「やかん」「芝居風呂」「こんにゃく問答」など次から次へと教えてもらった。〉  僕が初めて朝太のはなしをきいたのは、落語家になってからまだ半年にもなっていない時分だったが、そのうまさに舌をまいたおぼえがある。いかにも若手らしい明るさもさることながら、いきのいい口調が本寸法で、さすが蛙の子は蛙だと感じいったものである。十数年、キャリァの点で差のある兄馬生より、ずっといい落語家になりそうというのが、そのときもった正直な感想であった。実際、その時分の前座といったら、ひと前でろくにはなしができないばかりか、途中で「ここから先は、できません」と頭をさげて高座をおりてしまうなんて、いまでは考えられないようなのが何人もいたから、朝太の前座らしからぬ実力はいやでも目についたのである。  まだ改築前で、安藤鶴夫の直木賞作品『巷談本牧亭』の舞台になった上野の本牧亭で、二カ月に一度「古今亭朝太の会」というのを開いて、毎回二席ずつ新しい演目を披露した。前座の身で、定期的に自分の会を持つなどは、その時分破天荒なことであったが、その会がいつも超満員の客を集めていたというのもこれまた例のないことで、いわゆる親の七光り的な面がまったくなかったとはいいきれないが、なによりも落語家として異数の才能に恵まれていたことがよくわかる。  実際に、この会できいた彼の高座の数々を、いまだに忘れかねている。『唐茄子屋』『抜け雀』『鰻の幇間』『権助魚』『明烏』……まだまだある。才能のある若い落語家が、二カ月間一生懸命に稽古をすれば、これだけ上手《うま》くなるのかというおどろきを、この会に足をはこぶたびに与えてくれた。こんなペースで上手くなっていってしまったら、先行きどうなってしまうのだろうと、よけいな心配すらいだかせるくらいの会で、あとにも先にもこんな落語会と出会ったことがない。だから、いつもこの会の応援に出演する先輩格の落語家がかわいそうであった。当然のことながら、キャリアのちがいをはっきりと高座にあらわさなければならぬところなのに、それができないのである。しかたなく軽いはなしでお茶をにごして、そそくさと高座をおりるのがつねであった。  この会は、朝太が一九六二年(昭和37)に入門後五年という記録的なスピードで古今亭志ん朝を襲名し真打に昇進してから、「古今亭志ん朝の会」と名を改め、しばらくのあいだつづいた。だが、はっきりいって、志ん朝となって、真打の落語家の会になってからは、朝太時代の輝きはもうなかった。相変らず年齢が信じられないくらい上手い藝を見せてくれてはいたが、あの若さにまかせて攻めまくるような迫力はさすがに失せていた。  こんにちの古今亭志ん朝は、もはや現役の落語家中最高峰の評価を与えられているのだが、その基本となるものは、すべてあの「古今亭朝太の会」でつちかわれたにちがいない。その「古今亭朝太の会」に、父志ん生はほとんど顔を出していない。強次を、いささか強引に落語家にさせ、二年後二つ目に昇進した年の暮に、巨人軍優勝祝賀会で倒れてしまっていたのである。だから志ん朝を襲名して真打になった披露の高座にも志ん生は連なることができなかった。それでなくても親の七光りと、いたくもない腹をさぐられがちの身にとって、その親が病に伏しているときに、なんとしても他人からうしろ指さされることのないだけの実力を養わねばならない事情があったのだろう。そうした圧力を背に負うことで、「古今亭朝太の会」の高座で、徹底的に攻める藝を身につけたのにちがいない。  その志ん朝と知りあったのは、じつは兄の金原亭馬生よりもひと足はやい。したがっていっしょに酒をくみかわしたのも馬生とよりも先であったような気がする。それでいながら、酒席で顔をあわせた機会は、おはなしにならぬくらい馬生より少ないのだ。どんな理由にせよ、馬生のばあい顔をあわせれば酒というのが必然のなりゆきであったが、志ん朝はそうでなかった。無論、仕事の忙しさでは馬生の遠く及ぶところではなかったという実質的な理由が介在していたこともさりながら、酒に対する姿勢の点でも、志ん朝は馬生とかなりちがっている。自分の体調の問題もふくめて、ほんとうにのみたい気分になっていないときでも、つきあいだからと酒にむかうようなのみ方を志ん朝はしないのだ。それに意外と求道的なところのあるこのひとは、新しい仕事にはいるとき、それがうまくいくまで酒を断つなんてことをしばしばやるらしいのである。だから、たまに顔をあわせて、もう仕事もなさそうだと判断しても、先方から誘われない限り、いっしょに酒をのむことをためらわせるものがあるのだ。  そうかといって志ん朝とのむ酒に、堅苦しさはまったくない。天真|爛漫《らんまん》、屈託のなさを絵に描いたような酒で、いつも藝談に終始しがちだった馬生の酒席とは、その点でも対照的であった。  いつであったか、なにかの用事があって江國滋とふたりで出かけた大阪で、古今亭志ん朝と笑福亭松鶴に出くわしていっしょにのんだことがある。豪快きわまりない松鶴との酒席が楽しくないわけがなく、志ん朝も、江國滋も、無論僕もよくのんだ。いや、のんだというよりものまされた。はしご酒のくせがある松鶴は、キタとミナミを何度も往復するのである。何軒目かの酒場で、松鶴が席をはずしたすきに、僕と江國滋で志ん朝に相談をもちかけた。一軒くらいは、僕たちで勘定を持ちたいのだが、あいにく旅先とあって顔のきく店もない。志ん朝だったら、どこか適当なところを知っているだろうから、この次はそこへ行こうと誘ったのである。このときの志ん朝の返事が立派だった。 「いいじゃないですか。今晩は最後まで松鶴さんの世話ンなっちゃいましょうよ。そのほうがあのひとも嬉しいんだから。大丈夫ですよ、もうそろそろ、はいったとたん露骨にいやな顔される店しか連れてかれませんから」  事実志ん朝のいう通りになったのだが、こうしたおおらかな坊ちゃん気質は、やはり次男坊なるが故のもので、馬生には絶対にないものだった。そのへんは馬生もとくと承知していたようで、前出の『志ん生滑稽ばなし』の対談「はだかの志ん生」で、 〈志ん朝というのは若旦那の悪いくせで、わりと苦労してないンですよ。本当の意味でね、『唐茄子屋』じゃないンです。『明烏』の若旦那です。だからなんでもかんでも人がお膳立てしてくれるのを待っている。いままでそれが通っちゃったから……。〉  といいながら、 〈このごろしみじみ考えてみて、つまらねえなァって……。だってそうでしょう、とにかく物心ついたときから親の手伝いでしょ。それから戦争になって噺家になって……。やっと一人前になったときには志ん生の伜だってね。つまり、噺家いじめってえのがあるンですよ。あたしが防波堤になったから志ん朝がぶつかンなかった。〉  と、本音を披露している。だから、父志ん生の、次男志ん朝に対する愛情の深さも、かなり醒めた目で見つめていたふしがある。 〈おやじさんは、志ん朝が可愛くてしょうがなかった。歳をとってからの子供で、それが素直に育って売れたでしょ。ところがあたしがいるから心配でしょうがない。そこに至ると世間のお父っつぁんと変わりがなくなった。生きてるときに、あたしが�志ん朝に志ん生をやるから�ったら、もう涙と鼻とをクシャクシャにして�ありがとう、ありがとう�って泣いてました。〉  志ん朝の父志ん生が、十六回にわたる改名の末に得た名跡は、五代目になるわけだが、この世界でいう大看板である。こうした名跡は、ふさわしいひとによって継承されていくことが望ましいのはいうまでもない。ただ藝名の伝承は、それを絶やさないために継いでおきさえすればいいというものでもない。あくまでその名跡にふさわしい藝風の持ち主によって受け継がれるのが理想である。いまの志ん朝は、なにをどうしゃべっても「落語」にしおおせてしまう、おそろしいくらいすぐれた言語感覚の持ち主である。これは、やはり父親ゆずりという以外にない。  金原亭馬生というひとも、なかなかすぐれた落語家で、その早逝が惜しまれてならないのだけれど、志ん生的落語感覚という点から見るなら、志ん朝とはかなり格差があることを認めないわけにはいかない。だからこそ、晩年の志ん生が、元気な時に録音した自分の『火焔太鼓』が放送されているのをきいて、志ん朝が演っているのと間違えたというエピソードが、ある重みをもって迫ってくるのだ。  一九八二年(昭和57)の秋、劇団民藝が吉永仁郎作『すててこてこてこ』という芝居を上演した。明治の変革ですっかり客層の変った寄席の世界での、三遊亭円朝と三遊亭円遊の確執を描いた、新劇にはめずらしい題材のものであった。この公演のパンフレットで、「落語と芝居のあいだ」という座談会を、出演者のひとりである日色ともゑと古今亭志ん朝と僕の三人でやることになり、僕は久し振りに志ん朝と長時間にわたりおしゃべりをする機会を得た。ちょうど、金原亭馬生の初七日を過ぎたばかりの頃で、さすがにやつれがうかがえたのだが、はなしははずんだ。それにしても一九三八年(昭和13)生まれにしては、志ん朝というひと、これまでにずいぶんと多くの身内との別れを経験している。母親のりん、父志ん生、兄弟子の金原亭馬の助、吉原朝馬、そしてじつの兄金原亭馬生を失っているのだ。  この座談会で、志ん生家に見る落語家らしい日常的生活感というのは、志ん朝の家庭よりもむしろ金原亭馬生家のほうに受けつがれていたことをきいた。ふだんは洋服ですごすことがなにかと多くなって、たとえばおなじ明治生まれでも桂文楽などは、黒いタキシード姿でパーティに出席したり、革のジャンパーにニッカズボンなんてスタイルで外出したりしてみせたものだが、古今亭志ん生は生涯洋服というものを着なかった。戦時中、十五代目の市村羽左衛門の国民服姿を、 「親方、およしよ、似合わないよ」  と、とがめたことがあるのが自慢であった。余談だが、このとき羽左衛門は憮然《ぶぜん》とした表情で、 「俺だって似合うと思っちゃいねえよ」  といったそうだ。こうした洋服と無縁の暮しは、金原亭馬生のほうが踏襲していた。もっとも僕は、背広姿の馬生と北海道へ行った記憶があるのだが、あれは非常にめずらしいことだったに違いない。寄席に出かけるとき、高座着のままなんてことの多かった志ん生は、上にふつうの羽織を着て、紋付の羽織と、手ぬぐいと扇子、それに白足袋を風呂敷にくるむのだが、そのとき扇子と手ぬぐいの上に白足袋を置くと、ひどく怒ったそうである。この座談会の、志ん朝の発言をひくと、 〈うちの親父は、世間からは大変ずぼらに見られてたひとだけど、そういうことは割にうるさかったんです。言葉づかいなんかでも、たとえば「女郎屋」なんて言葉は使わずに、「貸座敷」とかね。「おまえ、そういう言葉は品がないよ」って、うちの親父から出る言葉かしらと思うくらい。(笑)〉  天衣無縫、自由閥達、感性がたよりにうつった志ん生の藝には、細かすぎるくらい細かい神経の裏づけがあるのだが、些細な言葉のひとつをも決してないがしろにしなかったのは、落語家としての美意識であり、こころがまえでもあったのだ。  日常の生活まで和服姿で通したり、家の出入りや、新しく品物をおろしたときなど切火を打つような落語家の家庭ならではの習慣は、馬生家までで、志ん朝の代ではさすがもう受けつがれていないという。だが、古今亭志ん朝というひとは、父志ん生の落語家的日常生活感覚のなかから、落語家ならではの美意識とこころがまえだけは、しっかりと抽出して受けとめている。それが、格別にこころしてのものでなく、ごく自然な感性としてなされているところが、古今亭志ん生という落語家を忘れられないでいる世代のひとびとのこころに、あるやすらぎを与えているのだ。 [#改ページ]  7 冬の夜に  古今亭志ん生が脳溢血で倒れたのは、一九六一年(昭和36)十二月十五日のことである。高輪のプリンスホテルでひらかれた巨人軍の優勝祝賀会の余興に招かれて、そこで倒れた。  四年前に、落語協会会長に就任していたし、この世界にあって最高峰をきわめていたひとだけに新聞も報じた。なかには危篤と書いたところもあり、事実一時は絶望視されたのである。七十一歳という年齢もあって、「もう駄目だろう」と多くのひとが感じた。それでなくても若い時分の放蕩無頼につきる暮しや、老いてなお斗酒辞せずといった日常が、面白おかしく脚色されたエピソードとともに伝えられ、およそ養生ということとは無縁の日々を送っていると思われていたひとである。「来るべきときが、とうとう来てしまった」といった受けとり方を世間がしたというのも、まあやむを得ないなりゆきであった。  志ん生の体力は、おどろくくらい強靭《きようじん》であったらしい。輸血や酸素吸入のちからを借りていた危機を、わずか二日くらいで脱すると、たちまち小康を保ち、医者の反対に耳もかさず二カ月半で、かつぎこまれた東京船員保健病院を退院してしまった。  右半身が不随で、自由に動くことはならなかったが、さいわいなことに言語障害のほうはさほどひどくなかった。だから、倒れた翌年の十一月十一日、およそ一年ぶりで新宿末広亭の高座に姿を現わしたとき、世間のひとびとは倒れたとき以上におどろいた。ほとんどそれは奇蹟だったのである。いったん緞帳《どんちよう》をさげて、弟子にかかえられて座蒲団につき、講釈師の使う釈台を前にして演った『替り目』をききながら、ひそかに涙する客も少なくなかった。  右半身の不自由なことには、かなりまだるっこしい思いがしたらしい。高座でも、ほんらいなら右手を動かしながらしゃべるようなとき、いかにも「じれったい」といった表情をうかべることがなくはなかった。しかし、志ん生の藝を支えていた豊かでユニークな語り口の魅力は、病いに倒れる前とくらべて劣るところがなかった。若干あった言語障害の後遺症を意識してか、倒れる以前よりもずっとゆっくりした口調になっていて、志ん生ならではの面白さがより強調される結果になっていた。なによりも、しゃべることに賭けた執念が感じられて、元気だった頃とはちがった味わいがでてきたように思われた。藝が一段深くなったとでもいったらいいだろうか。  志ん生が逝ってしまってから、結城昌治さんが雑誌「オール讀物」(一九七三年十二月号)に書いた『志ん生の仕込帖』という文章があるのだが、そのなかで倒れたあとの志ん生の高座に初めてふれたときの印象を、こう記している。 〈わたしはすっかり聞惚《ききほ》れてしまった。病気の負い目は隠せない。舌がうまくまわらない。右手が自由に動かない。しかし、かつての志ん生になかった芸の力が底光りしていた。無駄に年をとったのではない。無駄に病気したのでもない。酒、女、バクチ、貧乏──世俗的なあらゆるマイナス札を芸の上でプラスに切換えてきた志ん生は、とうとう命の瀬戸際といわれた病気まで芸にしてしまったのだ。わたしは胸が熱くなった。〉  古今亭志ん生が奇蹟の復活をなしとげてからしばらくの時間がたつと、倒れたときの様子などがくわしく伝わってきた。復活するまでは、そんなことよりなにより、とにかく一日もはやく元気になってほしいという願いのほうが強かったから、倒れた原因などどうでもよかったのである。それが、むかしのままとはいかないまでも、毎日でも寄席に出られるまでに元気になると、あらためて右半身を不自由にさせてしまった、巨人軍の優勝祝賀会の様子などに周囲の関心があつまるのである。  巨人軍の優勝祝賀会のあった日も志ん生は忙しかった。寄席のほかに、上野池之端の中国料理店の開店披露で一席やるという断わりきれない仕事があり、それをすませたあとフジテレビで、年の暮に出す小咄の録画どりをした。いつものように長女の美津子さんがつきそってタクシーでまわった。美津子さんは、一時ニッポン放送に籍を置き、落語の番組などを制作していたが、この時分は退社して志ん生と、その年の四月二つ目に昇進した志ん生の次男強次、つまり朝太を名乗っていたいまの古今亭志ん朝の面倒を見ていた。そろそろ藝能界にふえ始めていた女性マネジャーである。  余談になるが、美津子さんがつとめていた頃のニッポン放送には、学友の倉本聰、俳優座劇場にいた湯沢保雄、のち女性プロデューサーとして名をあげ夭逝した吉田史子など知りあいが机をならべていたため、しばしば油を売りに行ったものだが、美津子さんはいつも和服姿で、さすが落語家の娘といった風情をただよわせていたのを思い出す。  フジテレビの出してくれた車で、志ん生はともども巨人軍の優勝祝賀会のある高輪プリンスホテルへ急いだ。巨人軍はその年、水原茂に代って川上哲治が監督に就任、前年大洋にさらわれた優勝を奪いかえし、日本シリーズでも南海を破り日本一に輝いていた。野球の好きな落語家は少なくないのだが、志ん生にはさして関心がなかった。楽屋で、スポーツ新聞をひろげて前日のゲームの結果をあれこれやっている会話にも加わったことがなかった。  そんな志ん生が巨人軍の優勝祝賀会の余興に出演する気になったのは、義理のある筋からのたのみであったからだ。立食形式のパーティでの余興は、ほとんど断わっていたのだが、飲み食いの始まる前の五時頃に軽く一席やってくれればいいというはなしなので、引き受けたようなわけだった。  軽く一席やればいいというのは、志ん生流のいい方を借りるなら、「藝ではなく商売」なのであって、それこそ小咄の二つか三つ演っておりてくればいいのだ。それでなくとも、巨人軍の選手やその家族の一年間の労をねぎらうためのパーティである。ふだん落語に親しんでいる客など、そうそういるわけがない。  ところが安藤鶴夫の書いた文章によると、志ん生はこの日『万病円』でもやろうと思っていたらしい。志ん生の終生敬愛してやまなかった四代目橘家円喬が十八番にしていたはなしである。小咄かなにかで軽くおりてもかまわない席で、ちゃんと一席やるつもりになっていたというのは、さして野球に興味のない志ん生にも、巨人軍の会ともなると大切にしなければならないといった世俗的な意識がはたらいたのでもあろうか。  約束の時間を気にしながら会場の高輪プリンスホテルまで急いだのだが、会はまだ始まっていなかった。なんでも、いったん顔を出した監督の川上哲治が銀座に忘れものを取りに行っていて、戻るのを待っているとかで、監督がいないことには会を始めるわけにはいかないのだという。高輪から銀座まで車の往復、ふだんでも空いてはいない道路だが、あいにく師走で、しかもいちばん渋滞のはげしい時間帯である。待たされることのきらいな志ん生が待った。次に仕事でもひかえていれば、事情を説明して先に一席やらせてもらうか、断わって次なる仕事場にまわってしまうところだが、昼間の忙しかったこの日は、これが最後の仕事だったこともあって、志ん生は待った。  やっと川上監督が到着して、会が始まった。すでに予定を一時間以上遅れている。川上の挨拶が終ると、参会者がいっせいにテーブルに群がった。待たされていたのは志ん生だけではなく、参会者も腹をすかせきっていたのである。食器のふれあう音、声高な会話、とても落語などしゃべれる状態ではない。安藤鶴夫『わたしの寄席』(雪華社)からひいてみる。 〈志ん生は、やだなと思った。 �万病円�をやるつもりだったが小咄でもやって降りようと思った。 「大晦日《おおみそか》箱提灯《はこぢようちん》はこわくなしてえますが、昔ァ、師走ももう数え日ンなりますてえと、みんなこのゥ、歩いてるひとの目の色が違ってましたな……」  あと、そのままつづけて喋っているのに、志ん生がひょいと気がついたら 「ズーズー、ズーズーズー、ズーズー……」  ときこえる。  自分の声がである。  変だなと思って、もっとつづけて喋ったら、こんどは自分でなにを喋っているのかわからなくなった。〉  志ん生の倒れたときのくわしい様子が伝わってくると、ふだんの志ん生をよく知るひとたちは複雑な思いに襲われた。長い時間じっと待たされたあげく、とても落語などはなせる状態にない高座に、志ん生ともあろうひとがなぜあがったのかとくやんだのである。ふつうだったら怒って帰ってしまうところだし、これまでにそうした態度をとったことがないわけではなかった。また、「これじゃとてもはなせないから」と帰ったところで、志ん生が責められる筋合いはまったくなかった。なのに志ん生は小咄でもやろうと高座にあがり、倒れた。主催者の巨人軍が、それほどまでに義理だてをしなければならない贔屓であったわけでもない。  もちろん志ん生とて、こういうよくない状態のところで、かあっとした気持ではなすことが、身体のために決してよくないことは承知していただろう。だが、自分の身体をいためつけることはあっても、およそいたわるということとは無縁のひとであった。多少身体にさわるぐらいのことはという気持で、手ばやくすませて、一刻もはやくここを立ち去りたかったにちがいない。まさか倒れることになろうなどとは、考えてもみなかった。長年不健康につきる暮しできたえてきた肉体に対する過信もあった。  なぜ志ん生が怒って帰ることをせず、さして大切でもない高座をつとめる気になったのかを考えてみるのだが、やはり志ん生も年齢《とし》をとったのだという以外にない。  やりたくないことはやらないという、考え方によってはわがままいっぱいの自我をつらぬき通してこれまでやってきた志ん生にも、老境は訪れていたのである。他人の迷惑など考えない生き方にも、疲れがでてきたのである。長老ということで落語協会会長などという柄にもない椅子に祭りあげられたことも、そうした志ん生の老化にちからを貸したかもしれない。およそなにもやらない、不精きわまりない会長というのが志ん生在任中の大方の評価なのだが、若いときならいざ知らず、無用な衝突はさけるにこしたことはないという境地に、さすがの志ん生も到達していたのだろう。巨人軍というプロ野球の人気チームのお座敷を、怒ってつとめないで帰ってしまったという噂がたつことよりも、自分が不本意な高座をつとめて多少とも不愉快な思いを味わわされるほうを選んでしまったのだ。若い時分にはおよそ緑のなかった妥協という便法を知るところまで、志ん生は年齢をとってしまっていたのである。  筑摩書房から出た『古典落語』第二期第五巻の巻末にある、飯島友治「落語史年表・下」から、志ん生が倒れた一九六一年(昭和36)の落語界の事情をさぐってみると、その前年に日本中を激動の渦にまきこんだ、いわゆる六〇年安保と、この世界がかくも無縁に生きていたことにまずおどろかされずにはいられない。  晩年になってから、いなせな江戸前のいい味を発揮していた三代目の桂三木助が惜しまれながら世を去ってはいるが、志ん生とともに昭和の落語を代表する存在であった桂文楽は紫綬褒章を受けているし、長いこと東京にあって大阪落語を紹介して手柄のあった桂小文治は『紙屑屋』で芸術祭奨励賞をとっていた。その前年の芸術祭では、三遊亭円生が『首提灯』で大賞をもらっているといったあんばいで、三代目の三遊亭金馬、八代目三笑亭可楽などを加え、明治生まれの落語家たちが元気に活躍をしていた時代である。戦後の落語が、藝術的な水準においてピークに達した時期といってもいい。藝が、あふれるばかりの輝きを持っていた時代で、新安保条約の自然成立など、いってみれば蚊帳の外の出来事であったのだ。  その時分の僕は、まだ新劇の世界から足が洗えないでいた。三期会と称していたいまの東京演劇アンサンブルの演出部に籍を置いていて、ブレヒトの芝居などやっていたのである。  六〇年安保闘争のさなかには、新劇人会議なる組織の教宣部の一員として、デモにかり出される毎日だったが、樺美智子さんの殺された六月十五日、さらに自然成立した六月二十三日以降急速にしぼんで行く運動に、一種の虚脱感を味わっていたものだ。  まだひとり者の気楽さで、芝居の地方巡演に裏方としてついて行くことが、いささかの気晴しになっていたのだが、久方振りに東京に帰ってくると、なにはともあれまず寄席をのぞくのであった。新劇の演出部、それも小さなグループの仕事はなにかと雑用が多く、ひとなみの忙しさにとりまぎれてしばらく中断していた寄席通いが、この頃からまた復活したのである。それに、多分に誤解されていた気味のあるスタニスラフスキー・システムの後遺症を背負った新劇人の演技術に、なんとなくあきたらぬ思いがしていた時期でもあり、寄席で展開されるいつに変らぬ落語家の藝が、とてもなつかしいものに思えてならなかったのだ。  こんな時期に、まだ三遊亭|全生《ぜんしよう》を名乗る二つ目だった三遊亭円楽とつきあいができた。早稲田大学の落語研究会にいた、いまニッポン放送で活躍している塙宏君の紹介で知りあったわけだが、寄席通いをしてはいたものの、本職の落語家とのつきあいはまったくなかっただけに、ほぼ同世代の落語家といろいろ落語談義のできるのが楽しかった。彼を通じて、柳家小ゑんといっていた立川談志や、林家照蔵時代の春風亭柳朝などともつきあいがひろがり、寄席の客席ばかりでなく、楽屋まで訪ねるようになった。円楽は酒をたしなまなかったので、もっぱら落語談義は喫茶店だったが、新宿の喫茶店を閉店で追い出されて、はなしのつづきを歩きながらしているうちに、気がついたら四谷を通りこしていたこともある。みんなまだ若かった。  同世代の落語家とつきあいができると、新劇の演出部員として多少はプロデュースの仕事も手がけたことのある身としては、自分でホール落語会のプロデュースができないものかという、大それた気持をいだくようになってきた。  当時の寄席が、どこも短い高座時間と低俗な色物の氾濫《はんらん》で、ほんとうの落語好きを満足させてくれないように思えたのである。いまとなっては、低俗きわまりなくうつった色物が、どうしてどうしてなかなか面白く、なつかしさがつのってくるのだが、あの時分は、正統な落語が色物のために寄席から閉め出されているように思えたのである。  自分の手で、自分の好きな落語家の、自分の好きな落語をききたいという望みがつのった僕は、とりあえず三遊亭円楽に相談をもちかけたところ、円楽は、 「大丈夫、私にまかせなさい。どんな大看板でも私が口説《くど》いてあげる」  と胸をたたいた。年があけたら早速準備にかかろうと思っていた矢先に、古今亭志ん生が倒れてしまった。なにしろ志ん生一辺倒で、自分の手でプロデュースしようとする落語会も志ん生を中心にメムバーを考えていただけに、これはショックだった。倒れた報に接したとき、「なんで志ん生ともあろう落語家が、野球の選手などに落語をきかせなくちゃならないんだ」と、くやしい思いにかられたことを、いまでもはっきり思い出す。  志ん生が駄目で、桂三木助ももういないとなると、その時分でも格調高い落語会にふさわしいメムバーを組む作業は、そうやさしくはなかった。いろいろと思案のあげく、桂文楽、三遊亭円生、柳家小さん、林家正蔵、三笑亭可楽の五人をリストアップして、円楽に見せると、 「いいんじゃないですか。三笑亭と林家がはいることで、アクセントもつくし」  といって、それぞれの家に、一軒一軒案内してくれた。どこの馬の骨ともわからない若造の、「ホール落語会」をひらきたいという無謀とも思えるたのみを、みんなこころよくきいてくれ、出演を快諾してくれたというのも、円楽がつきそってくれたからである。無論、この五人の誰とも初対面であった。  開場したばかりの、内幸町のイイノホールを根城に、「精選落語会」というのをこうしてスタートさせたのが一九六二年(昭和37)四月のことで、僕と落語界の直接的なつながりもここから始まる。いくら円楽が手助けしてくれたからといって、まったく独力でこんな落語の会が開けるわけのものでもない。もうニッポン放送に就職していた塙宏、「精選落語会」以前からなにかとつきあいのあったイイノホールの浅川一正支配人、さらにイイノホールのある飯野ビルのなかで喫茶店をひらいていた学校時代の友人などが、いろいろとちからを貸してくれた。新劇の演出部にいたおかげで、各新聞社の演劇記者とのつきあいがあったことも大いに助けられた。各紙ともかなりのスペースをさいて、この会のスタートを取りあげてくれたのである。その前年に、普通社から処女作『落語手帖』を世に出していた江國滋は、「週刊新潮」の編集者だったが、こういう会を始めたいとはなすと、 「なんでもお手伝いします。なんならポスターはりでもチラシまきでも……」  といってくれた。さすがポスターはりまで手伝ってもらうことはしなかったが、発足以来のプログラムに、文章とスケッチをまったくの無料で書きつづけてくれた。ポスターのデザインは同じ劇団の演出部に籍を置いていたよしみで、装置家の岡島茂夫がやってくれたのだが、これもたしかデザイン料が払えなかったように覚えている。 「精選落語会」の出演者の人選は、まったく僕の個人的な好みでしたもので、その点では「東横落語会」が一九五六年(昭和31)に発足したときに、桂文楽、古今亭志ん生、三遊亭円生、桂三木助、柳家小さんの五人に出演者を限定した湯浅喜久治のひそみにならったという、いささかの気取りがあった。  湯浅喜久治は、一九五九年(昭和34)一月にまだ三〇歳の若い生命を自らの手で閉じてしまったが、「芸術祭男」の異名をとった天才プロデューサーであった。「現在の落語界で鑑賞に耐える藝の持ち主はこの五人だけ」という、強烈な主張と美意識が、「東横落語会」の出演者をレギュラー制にしたのである。  その五人のうち、桂三木助すでになく、僕にとって本命であった古今亭志ん生までが倒れたとあって、新しく始める「精選落語会」に出演者のレギュラー制を敷くことに関しては、かなり頭を悩ました。結局、個人的な好みが勝って三笑亭可楽と林家正蔵をいれたようなわけである。  毎偶数月に開催する「精選落語会」が正式に発足することになって、一年間の演目を決めてもらう必要もあり寄りあいをもったとき、開口一番という感じで桂文楽にこういわれた。 「この会に、金馬さんがはいっていないのは、どういうわけのもんです?」  文楽の質問に他意はなかったと思うが、これには正直困った。三代目の三遊亭金馬をこの会の出演者に加える気持が僕にはまったくなかった。レギュラー出演者の人選をしているときにも、金馬の名前は僕の頭のなかにまるで浮かんでこなかった。あれだけのひとでありながら、その時分のなんとなく落語がわかっていたような気になっていた僕には三代目三遊亭金馬の藝が、どうしても好きになれなかったのである。講釈師あがりという経歴からくるのだろうか、調子にかんでふくめるようなところがあって、それがどうにも理屈っぼい感じに思え、いやだったのである。 「時間の関係もあって、レギュラー出演者を五人以上ふやせないので……」  と、なんとかその場をとりつくろって納得してもらいはしたものの、三遊亭金馬というひとの仲間うちでの評価の高さに、いまさらのようにおどろかされたのをよく覚えている。  その三代目三遊亭金馬が、 〈私事この度(十一月八日午後八時三十分)無事死去つかまつり候ご安心下されたく、普断の意志により生花、造花、お供物の儀、かたくお断わり申し上げ候。普断の頑固をお許し下さい。何百年後、極楽亭か賽の河原の露葉にてお目にかかるやも知れず、皆様、長生きして下さい。〉  という自分で書いた死亡通知を出して、七〇年の生涯を閉じたのは一九六四年(昭和39)のことだ。  僕は、とうとう一度も会ってはなす機会に恵まれなかったが、なぜ頭からきらうことなく、もう少し金馬の藝にふれておかなかったかと、くやまれてならない。いま、テープできいてみると、どうしてどうしてあれだけ明快な語り口を有している落語家はそういるものじゃない。『孝行糖』『居酒屋』『高田馬場』『藪入り』など、なかなか男っぽい落語家であった。  ところで病いに倒れた古今亭志ん生は、「精選落語会」のスタートした年の十月に、奇跡的な復活をなしとげていらい、「東横落語会」や銀座ヤマハホールで開かれていたNHKの「東京落語会」など、いわゆるホール落語会の高座にも姿を現わしていたのだが、「精選落語会」としては五人のレギュラー出演者に限定してしまったこともあって、だまって指をくわえている以外なかった。  そのかわりというのもおかしいが、この会では異色の惑があったただひとりの藝術協会からの参加者三笑亭可楽の評価が客のあいだで思いがけず高かったのは嬉しいことであった。会場でくばったアンケートの圓答に、「三笑亭可楽がききたくてこの会に来る」という理由を書いたものがかなり多かったのである。  その可楽当人から、 「矢野さん、えれえことンなっちまいました、ちょいと入院をしなくちゃならねえんで」  と電話があったのは、一九六三年(昭和38)の十二月のなかば頃であったろうか。その月の第十一回「精選落語会」は四日にすんでいて、可楽は『短命』を出している。師走にちなんで「年忘れ艶笑落語会」というもうひとつ別の催しをやろうと、イイノホールの支配人とたくらんで、そっちのほうにも三笑亭可楽の出演を依頼してあったのだが、「出られなくなった」というのである。  代演のほうはこれも故人になった三遊亭百生に『女護ケ島』かなにかしてもらうように手配して、とるものもとりあえずといった感じで国立第一病院に見舞った。ベッドに横たわった可楽は、思ったより元気で、 「よかったらウイ召しあがりませんか。ありますよ」  などと、いたずらっぽく笑ってみせたが、引き受けてある仕事のことは、さすが気がかりと見えた。暮の「艶笑落語会」のほうは、三遊亭百生にたのんであることを報告したが、さしあたって翌年の二月にある第十二回の「精選落語会」のことを考えなくてはならない。可楽のはなしによれば、胃のぐあいがよくないので、どうやら手術をするらしいという。手術となれば、若い身体ではなし、退院できても二カ月後に高座をつとめるというのは、ちょっと無理だ。 「誰かに、代りをたのんでもらえませんかねえ」  と、つぶやくように可楽がいうので、 「そうですね。やっぱり志ん生さんあたりに頼むより仕方ないでしょう」  と答えると、可楽は嬉しそうな表情になって、 「志ん生さんが出てくれりゃ、いうことない。あたしゃ、この際、清《きよし》でも仕方がねえと思ってたんだ」  といった。清というのは、志ん生の長男金原亭馬生のことで、その時分長いスランプから抜け出して急速に高い評価を得つつあるところだった。  だが、若い時分の志ん生に刺激されて落語家になってしまったと、常日頃口にしていた可楽としては、ここはどうしても志ん生に代演してもらいたかったのであろう。僕にしても、志ん生以外考えていなかった。そうことが決まると、あとの雑談もはずんだのだが、あまり長居するのも本意でなく席を立とうとすると、心配気に可楽がいった。 「あのう、私がよくなってまた出られるようンなったら……」 「もちろん出ていただきますよ、喜んで」 「そうじゃないンで、私じゃなくて志ん生さんは?」 「志ん生さんにもずっとつづけて出ていただくつもりです。ですから、師匠の病気が治ったら、レギュラー六人になるわけです」 「六人。そいつはいいや」  満足そうな可楽の表情を見ながら、なぜこんなことにいままで気がつかなかったのだろうと、自分のおろかさを悔いる気持がこみあげてきた。そうなのだ、「精選落語会」の出演者を五人に限定しなければならぬ理由はなにひとつなかったのだ。大好きな志ん生が元気になって再び高座にあがれるようになったとき、すぐに出演を依頼してレギュラー六人にしておけばそれですんだのである。こんな簡単なことに気づかず、志ん生をきくためだけの目的で、「東横落語会」や「東京落語会」に足をはこんでいた自分がなんだか滑稽に見えてきた。  病院を出たその足でタクシーに乗って古今亭志ん生の家を訪ねた。あわてていたのだろうか、手持ちの金が少なかったのか、手土産を持参することもしなかった。長女の美津子さんにあらためて来年から「精選落語会」のレギュラーとして出演してもらえないかとお願いした。長火鉢をわきに炬燵《こたつ》におさまった志ん生は、毛糸の帽子をかぶった好々爺《こうこうや》然とした姿で、ただにこにこ笑っていた。美津子さんは、出ることはいっこうにかまわないけれど、といいながら、 「なにしろこんな身体でしょう。会のほうで送り迎えの車だけ出してもらえないかしら」  とつづけた。最初から志ん生のばあいにはハイヤーを出さなければと思っていたので、一も二もなくという感じで志ん生のレギュラー出演が決まった。  ある程度の理想はかなえたつもりの「精選落語会」であったが、発足いらい二年にして、ようやく完全なかたちになる手がかりが得られたような気がした。三笑亭可楽の病いさえ軽ければいうことはない。  こうして古今亭志ん生が初めて出た第十二回「精選落語会」は一九六四年(昭和39)二月十七日で、『品川心中』でトリをとっている。  念のため当日の番組を記しておくと、『野ざらし』立川談志、『ちきり伊勢屋』林家正蔵(彦六)、『二十四孝』柳家小さん、『穴どろ』桂文楽、『真景累ケ淵より宗悦殺し』三遊亭円生、そして志ん生となるのだが、やはり今昔の感にたえない。  この日、じつは最初にあがる立川談志が遅れて、「開演時間が来たから」と、林家正蔵がさっさと先に高座にあがってしまうハプニングがあった。わずか五分開演を遅らせればプログラムどおりことがはこんだのに、あえてそれをやらなかったあたりが、いかにも林家正蔵であった。志ん生の楽屋入りのために、飯野ビルは駐車場から直接あがれるエレベーターを動かしてくれた。まだ、むかし家今松だった古今亭円菊と、いまは亡き吉原朝馬のふたりが美津子さんとともにつきそって、このつきそいは最後まで変らなかった。  四月の第十三回「精選落語会」には、退院した三笑亭可楽も顔を出し、ここで初めて六人のレギュラー出演者がそろった。番組を見ると、『三味線栗毛』春風亭柳朝、『こえがめ』古今亭志ん生、『百人坊主』三笑亭可楽、『ステテコ誕生』林家正蔵、『蔵前駕籠』柳家小さん、『よかちょろ』桂文楽、『庖丁』三遊亭円生と豪華なものだ。だが四十一回つづいた「精選落語会」のなかで、この六人が顔をそろえることができたのは、このとき限りなのである。  六月にはいってすぐだったと思う。三笑亭可楽がまたいけなくなったと連絡がはいった。四月に元気そうに見えてみんなを喜ばせたのは、一時的な小康であったらしい。困ったことに、この月は林家正蔵がどうしても断われない旅の仕事がはいっていて、出演できないことになっていた。  せっかく志ん生に加わってもらっても、可楽、正蔵の二人が抜けると、あとは小さん、円生文楽だけである。最初にあがる古今亭志ん朝を加えても全部で五高座にしかならない。前の月に談志をふくめて七高座あったものが、とたんに五高座というのでは、会の体面にもかかわってくる。どうにかひとり代演をと思うと、これが金原亭馬生しか思いうかばないのである。  ところがまずいことに、この月は古今亭志ん朝が出ることになっている。「精選落語会」の「サラ」と称する最初の出演者は、円楽、談志、柳朝、志ん朝の四人の輪番制をとっていたのだが、六月は志ん朝の番で、さらに馬生が出るとなると六人のうち半分を古今亭志ん生の親子で占めてしまう。個人的な好みでいえば、それはそれでいいことなのだが、世間的、対外的に見たばあい、「いくらなんでも」といわれそうな気がした。  思いあぐねた末に、当時まだ柏木に住んでいた三遊亭円生を訪ねた。三笑亭可楽がやる予定だった『寝床』を代演してもらうことにしたのだ。つまり円生には、自分の『高尾』と、可楽の代演としての『寝床』と二席つとめてもらおうというのである。二席つとめてもらうなら、やはり円生にたのむしかないという頭がこちらにはあったのだろう。布団にうつぶせになって、出入りの指圧師らしい白衣を着た若い男に背中をもませながら、円生は、 「ようがしょう。おタロは二席分でしょうね」  などといいながら、 「可楽さんはネ、あれは癌です。もういけません」  とつづけた。  円生のいったとおり、三笑亭可楽が膵臓癌のためいけなくなったのは、その年の八月二十三日のことで、六十七歳だった。  十月の第十六回「精選落語会」を、とくに「三笑亭可楽追悼」としてもらい、『二十四孝』円楽、『三人娘』小さん、『愛宕山』文楽、『山崎屋』円生、『お若伊之助』志ん生、『でんでん殿様』正蔵のなかに、可楽の一番弟子であった三笑亭夢楽が加わって、『妾馬』を演った。  このときのパンフレットに、「八代目三笑亭可楽・精選落語会・上演目録」というのが載っていて、『今戸焼』『たちきり』『一両損』『らくだ』『五人廻し』『二番煎じ』『子別れ(上)』『反魂香』『文違い』『富久』『短命』『百人坊主』とある。それでなくとも演目の多いとはいえないひとであったが、よく変化に富んだものをならべてくれていたのだなといまにして思う。それで思い出したが、このとき可楽が予定して自分で出しておいた演目の『寝床』『鰻の幇間』『芝浜』などもついでに載せようとしたところ、江國滋に、 「あまりにも未練がましすぎるんじゃないか」  といわれて、やめにしたものだ。  三笑亭可楽が逝って、「精選落語会」は再び五人のレギュラーを中心に番組が編成されるようになった。古今亭志ん生が毎回出てくれたことで、その時分全盛だったホール落語会のなかでも、最も格調の高い会という世間の評価を得ることができたし、客も大勢つめかけて、いつもほぼ満員の状態であった。古典落語に間する書籍の出版も盛んで、空前の落語ブームがピークに達していたのである。  ただ、可楽が世を去ったあと二日おいて二代目の三遊亭円歌が、十一月には三代目三遊亭金馬が、年がかわった四月には紙切りの林家正楽、十一月には桂小文治、さらにその翌年には柳家三亀松、土橋亭里う馬と、明治生まれの落語家、藝人たちが、それこそ櫛《くし》の目の抜けるように次々と鬼籍にはいっていった。  それだけに、すでに斯界《しかい》の最長老となっていた古今亭志ん生の不自由な身体をおして出演する姿が、感動的にうつったのである。それまで毎月のように顔を出していた「東横落語会」や「紀伊国屋寄席」から、いつの間にか姿を消したあとも「精選落語会」の出演だけはつづけ、結局一九六八年(昭和43)十月九日の第四〇回のときの高座が最後になるのだが、七年つづけた「精選落語会」を、その年の十二月第四一回で閉じたのも、いまから考えると不思議な暗合である。  古今亭志ん生の最後の高座が、第四〇回の「精選落語会」であることは、結城昌治さんが、『志ん生一代』を書くための調査ではっきりさせてくれたのだが、このあと五年間、志ん生は高座にあがらなかったことになる。第四〇回の「精選落語会」の番組は、いま小三治になっている柳家さん治の『厩火事』で始まり、林家正蔵の『三人旅』、桂文楽の『景清』。ここで二十分の休憩があって、古今亭志ん生の『二階ぞめき』、柳家小さんの『芋俵』、そしてトリが三遊亭円生の『猫忠』である。 『二階ぞめき』は、やはりいうところの廓ばなしの範疇《はんちゆう》に加えるべきものだろうが、なみの廓ばなしとはちがった奇想天外なおかしさに満ちていて、そのおかしさが志ん生の藝風にぴったりの十八番であった。  毎晩、吉原をひやかして歩かないことには気がすまない若旦那のために、番頭が店の主人と相談して二階に吉原をこしらえるのである。店の二階に吉原をこしらえるという発想も大胆といえば大胆きわまりないが、その二階をいい身なりに着かえた若旦那がひやかして歩くというのだから、非凡なはなしというほかない。  こういう発想そのもののおかしさが支えているようなはなしは、志ん生のような落語家しか手がけるひともなく、僕も三遊亭朝三といっていた時代の三遊亭円之助のものが、志ん生以外のひとできいた唯一の『二階ぞめき』であった。それだけに、この日の志ん生の高座には、客の期待も大きかった。  ところが、なにを勘ちがいしたものか、志ん生は『二階ぞめき』ではなしを始めながら、途中から『王子の狐』を演ってしまった。楽屋にきこえてくるモニターでほかの出演者が気がつくより先に、いつものようにそでで待機していた長女の美津子さんが、黒幕をかきわけ高座のうしろにかざってある屏風《びようぶ》のかげから、 「お父ちゃん、ちがうよ、ちがうよ」  とささやきつづけたのだが、志ん生は動ずることもなく、とうとう『王子の狐』で通してしまった。いったん緞帳がおりて、二人の弟子が志ん生をだきかかえ、楽屋まで歩をはこぶあいだ、美津子さんがいいつづけた。 「お父ちゃん、気がつかなかったの、私があんなにいったのに」  それにたいして志ん生は口を真一文字に結んだまま、じれったそうに自由になる左半身だけの歩みをつづけていた。楽屋に落ちついても、志ん生はまったく口をきかなかった。誰かがとりなすような冗談口調で、 「師匠、狐に化かされたんですよ」  といっても、志ん生の不機嫌な表情は変らなかった。そのあと、ひとづてにきいたところでは、美津子さんに、 「お父ちゃん駄目だよ、あれは」  といわれて、 「なにいってやんでェ。ああなっちゃったもン仕方ねえじゃねえか」  といい返したという。べつのひとのはなしでは、 「仕方ねえさ、俺もここンとこ稽古してねえから……」  と答えたともいうのだが、どうもこちらのほうは、はなしがうまくできすぎている感じがあって、やはり、 「ああなっちゃったもン仕方ねえ……」  というほうが志ん生らしく思われる。  このことがあって間もなく、美津子さんから電話があって、次回十二月の「精選落語会」から、しばらく志ん生を休ませてもらえないかという。当人からの申し出とあればいたし方なく、十二月は金原亭馬生に代演をたのんだ。結局、その十二月の会を最後に、七年つづけた「精選落語会」をやめることになるのだが、正直いって個人のちからや、周囲の好意だけでは、ホール落語会を支えていくことがむずかしい状況になっていた。  しかし、いま考えると、志ん生に出てもらえないなら、無理してこの会をつづけていくことにも意味がないという気持が、まったくなかったとはいいきれない。それだけに、美津子さんから電話をもらったとき、なぜ「無理をしても出てください」と説得できなかったかとくやまれる。いらい五年ものあいだ、高座から遠ざかってしまった志ん生の胸中が、いま、痛いくらいによくわかる。最後になった第四十一回の「精選落語会」のとき、常連客のひとりに、 「志ん生さんは、矢野さんがおろしたんですか」  ときかれて、やっきになって否定したのを思い出す。もし、そんな噂をたてられたら、立つ瀬がないと思った。  古今亭志ん生が、「精選落語会」でかけた演目を順にならべてみる。 『品川心中』『こえがめ』『浜野矩随』『ふたなり』『お若伊之助』『わら人形』『鈴ふり』『茶金』『五銭のあそび』『大山詣り』『牡丹燈籠』『今戸の狐』『猫の恩返し』『千早振る』『搗屋幸兵衛』『唐茄子屋』『蔵前駕籠』『岸柳島』『お血脈』『松山鏡』『こんにゃく問答』『あくび指南』『品川心中』『芝浜』『錦の袈裟』『本所七不思議』『船徳』『犬の災難』  そして『王子の狐』となる。  この演目をながめているだけで、志ん生の高座姿がしのばれて、なつかしさがこみあげてくるのだが、それはやはり青春の記憶と、じかにつながる。  夏目漱石が『三四郎』のなかで大学生佐々木与次郎の口を借りて展開している三代目柳家小さん論くらい、落語という藝とそれを支える聴客との関係に、いろいろの示唆《しさ》を与えてくれるものもない。 〈小《こ》さんは天才である。あんな藝術家は滅多に出るものじやない。何時《いつ》でも聞けると思ふから安つぽい感じがして、甚だ気の毒だ。実は彼と時を同じうして生きてゐる我々は大変な仕合せである。今から少し前に生まれても小さんは聞けない。少し後《おく》れても同様だ。〉  この、どんな名人でも、上手でも、その藝人と「時を同じうして生き」ないことには、それに出会うことができないというのは、なかなか含蓄のある言葉である。いい藝、すぐれた藝にふれるのは、出会い以外のなにものでもないのだ。自分の感受性の、いまよりずっと鋭かったはずの青春時代に、古今亭志ん生と出会うことができたことは、「大変な仕合せ」だったと、いましみじみ思うのである。  むかしの落語家は、高座で一席やる以外に、「飛び道具」と称する裏藝のひとつやふたつ持っているのがふつうであった。ほとんどのひとが踊りの手ほどきを受けていたというし、古今亭志ん生も若い時分は高座で踊ったことがあるときいた。さすが志ん生の踊りにふれる機会には恵まれたことがないのだが、例の「大津絵」は、何度かきくことができた。  滋賀県の三井寺あたりで売り出された、あらっぽい筆法の戯画を題材にした歌詞に節づけした俗曲が大津絵節で、大正のなか頃まで寄席で音曲師がさかんにうたっていたものだという。当然のことながら、いろいろの替歌がつくられているが、渥美清太郎編『邦楽舞踊辞典』(冨山房)によれば、 〈げぼう梯子乗り、雷太鼓で釣をする、お若衆は鷹を据ゑ、塗笠おやまは藤の花、座頭の褌《ふんどし》に犬がつけば、仰天して杖をば振り上げる、荒気の鬼も発気して鐘撞木、瓢箪《ひようたん》なまづを押へましよ、奴の行列、釣鐘弁慶矢の根五郎〉  というのが原作だそうだ。  志ん生は、この大津絵節を名人立花家橘之助の弟子であった小美代という音曲の藝人から教わったといわれる。落語のなかにちょっとした歌のはいる音曲ばなしというのがあって、志ん生も『稽古屋』などという音曲ばなしをときたま高座にかけていたから、のどのほうにはまんざら自信がなくもなかった。志ん生の大津絵は、『冬の夜に』とよばれる火消しの女房の心意気をうたった歌詞できかせるのがつねであった。   冬の夜に風が吹く   知らせの半鐘がジャンと鳴りゃ   これさ女房わらじ出せ   刺子《さしこ》襦袢《じゆばん》に火事頭巾   四十八組おいおいに   お掛り衆の下知をうけ   出て行きゃ女房そのあとで   うがい手洗にその身をきよめ   今宵うちのひとに怪我のないよう   南無妙法蓮華経 清正公菩薩   ありゃりゃんりゅうとの掛け声で勇みゆく   ほんにおまえはままならぬ   もしもこの子が男の子なら   おまえの商売させやせぬぞえ   罪じゃもの  というのだ。  落語家として、昭和を代表する名人とまで高い評価を受けていた志ん生の、いわば余技にも等しいこの大津絵がいろいろと話題にされ有名になったのは、小泉信三がこれをこよなく愛したからである。  志ん生が満州から帰国して間もなくというから、小泉信三が皇太子の教育係りをつとめていた時分のことだろう。柳橋のお座敷に招かれた志ん生が一席やったあと、大津絵『冬の夜に』を余興のつもりでうたったところ、突如激しく小泉信三が落涙したというのだ。学生時代はテニスの選手として活躍、四十五歳で慶応義塾塾長に就任した頃は六代目菊五郎に摸された美男ぶりをうたわれたこの経済学者も、空襲で顔面と両手に火傷《やけど》を負い、海軍士官だった一人息子や多くの教え子を戦争で失っていた。火事を知らせる半鐘をきいてとび出して行った鳶《とび》を送り出した女房の悲しみを、志ん生はせつせつと訴えるようにうたう。専門的にいえば、決してうまいとはいえない大津絵だろうが、祈りにも似た志ん生の哀調こもった節まわしが小泉信三の胸に、さまざまな思いをよみがえらせたにちがいない。  以来小泉信三は、しばしば三田の家に志ん生を招いては落語をきいたあと大津絵を所望した。そのたびに家族の前で嗚咽《おえつ》をもらし、やがては大津絵をきく前から白いハンカチを用意するまでになったといわれる。このお座敷は小泉が三田から広尾に越してからもつづいたが、ある年の両国の川開きの林彦三郎の船で『たがや』を一席やったあとの志ん生が、「季節はずれですが……」と断わって、その船に乗りこんでいた小泉信三のために、とくに大津絵『冬の夜に』をうたって、またまた泣かせたはなしも伝えられた。  その小泉信三が七十八歳で死んだのは一九六六年(昭和41)の五月のことだが、その翌年の夏であったと思う、志ん生がこの『冬の夜に』をうたうのを、お座敷できくという僥倖に僕は恵まれた。山口瞳さんのおかげである。小泉信三が逝ってしまった直後に、人形町末広で志ん生は独演会をひらいているのだが、『たがや』『唐茄子屋政談』『茶金』と三席の大ネタを演じて、番外として小泉信三をしのびながら大津絵『冬の夜に』をうたった。そのときの様子を、安藤鶴夫が『わたしの寄席』(雪華社)の「あとがき」でこう書いている。 〈楽屋へいくことのきらいな男だが、志ん生に逢いに立った。高座のうしろを通って、楽屋へいくと、志ん生が壁に背をもたせかけて、手ばなしで、泣いていた。  粛然とし、わたしも志ん生の前にすわって、泣いた。  それから、わたしはこんなことをいった。  志ん生さん、大津絵でね、あんまり先生を泣かせたから、その罰で、こんどは大津絵で自分が泣かされるんだよ。そういったら、志ん生は、くしゃくしゃした顔をして、そうだ、そうだといって、うなずいた。  わたしの寄席に、しばらく、こういうことがなかった。〉  おそらくこの文章を読んだのであろう。山口瞳さんがどうしても志ん生の大津絵をききたいのだがなんとかならないかといっている、と江國滋から相談をうけたのである。早速に美津子さんに電話をかけて、場所は明神下の神田川で、出演料は十万円ということではなしをつけた。志ん生が逝ってしまったあとの、一九七三年(昭和48)十一月一日号「週刊新潮」の『男性自身』に山口瞳さんは、このときのいきさつを、 〈志ん生さんのほうでは、私のことを、なんという生意気な小憎だと思ったかもしれない。そんな気がしたのであるが、意外にも志ん生さんは演《や》ってくださるという。そういうことがあったほうが体のためにもいいのだということで、周囲の方も賛成してくれたそうである。御礼(出演料)は十万円で、場所はウナギの神田川ということになった。この出演料には、すでに歩けなくなっているので、抱きかかえる二人のお弟子さん、「大津絵」だから三味線の人が必要であり、そのぶんの御礼も含まれている。「大津絵」一曲のために十万円というのは高いといえば高い、安いといえば安い。まあ、頃あいというところだろう。〉  として、 〈ところで、私は、実は、志ん生さんのほうで神田川と指定されて、はっとしたような気持になった。亀清でも金田中でも吉兆でも新喜楽でも、どこでも私は受けるつもりでいた。しかし、金田中となると、あとで芸者を呼ぶべきものかどうか、私には、かいもく、わからない。また、文壇には、うるさい一面もあって、駈《か》けだしの作家が、金田中で芸者遊びをして、余興に病気静養中の志ん生を呼んだということになれば何を言われるかわからない。そういう心配もあった。神田川ということで、私は咄家の世界の一端をうかがい知ったように思った。有難いことに思った。〉  と、書いている。  じつをいうと、十万円で神田川というのは、僕からいい出して美津子さんに納得してもらった。イイノホールで「精選落語会」をプロデュースしていたかかわりで、地方都市の鑑賞団体や、新聞社の事業部などから落語家の出演を斡旋《あつせん》してくれないかというたのみを受けることもあって、そういうばあいのおおよその出演料に関しては知っているつもりであった。しかし山口瞳さんのようなケースは、まったく初めてのことで、どの位の出演料が妥当なものか見当もつかなかった。その時分、すでに料亭に落語家を招いて一席きくという習慣はほとんどなくなっていたし、そういう仕事専門の余興屋も姿を消していたとあって調べる手だてすらなかった。たしか「精選落語会」の出演料がひとり一律一万円で、三遊亭円生を東北巡演に引っぱり出したとき、主催者側に日だて五万円を支払ってもらったことがあり、そのあたりをおもんぱかっても、志ん生の大津絵に十万円というのは決して失礼にはあたらないだろうと考えたように覚えている。  もちろん、事情をくわしくはなして、山口瞳さんの大津絵をききたいという熱意を先方に伝えて、特別に安い、それこそ「お車代」でお願いすることもできなくはなかった。しかし、そういう方法をとることは山口さんの本意でないはずで、いま考えてみても、志ん生の「大津絵」に十万円というのは山口瞳流にいう「頃あい」の値段だったと思う。山口さんは、十万円を「頃あい」としながらも、 〈しかし、私にとっては容易な金ではなく、これは一世一代の贅沢《ぜいたく》だと思った。金額だけのことを言っているのではない。〉  と記しているのだが、ほんとうにそうだと思う。いまでもそうだが、あの時分に原稿を書いて十万円もらおうと思ったら、これは大変な仕事になる。  場所を神田川にしてもらったについても、まったく他意はなかった。明神下の鰻屋神田川は、その時分桂文楽が贔屓にしていて、僕もしばしばここで文楽に御馳走になった。少人数のときでも、大人数のときでもいつも二階の大きな座敷を使って、ひとには好きな酒をすすめて、自分はあずけてあるスコッチを、お茶で薄めながらのむのが文楽のつねであった。  何度となく桂文楽の神田川の宴席に招かれたのだが、いつも昼間であったというのが面白い。夜はなにかと忙しい落語家たちには、真昼間の宴会をいとわないところがあって、真打披露、先代の法事といった祝儀不祝儀の催しのほとんどが昼の時間に行なわれる。そんな習慣が、桂文楽のように個人的な楽しい語らいの席まで、昼下りの明神下の神田川を用意するまでになったのであろう。そんなとき、すっかり御機嫌になった文楽が、 「私がここの座敷が好きなのは、東京のまんなかでありながら、静かだからなんです。どうです、おもての音てェものが、きこえないでしょ」  と口にするのを二度ならずきいていた。たしかに、秋葉原の雑踏近くにありながら外の騒音が気にならないのである。  古今亭志ん生の身体の状態を考えたら、夜の宴席で大津絵をうたってもらうというのはどう考えても無理なはなしだ。昼間で静かな座敷といったら、神田川しか思いうかばなかったというのが実際のところなのである。それに神田川なら志ん生にとっても勝手知ったるところで、なにかと都合もいいはずであった。  当日は二十人くらいのひとが、山口瞳さんに招かれたかたちで巣まった。会費五千円の持ちよりである。江國滋と僕も、世話人のような格好でこれに連なったのだが、山口さんがどんなひとを招いたものか、戸板康二さんがいらしたこと以外、ほとんど覚えていない。戸板さんと、こうしたところでお目にかかった最初ではなかったかとも思うのである。志ん生とはふだん、なにかと気やすくつきあってもらってはいたものの、こんな座敷で、藝にふれるのはまったく初めてだったので、僕も緊張した。いつもの大座敷の、床の間にむかいあうかたちで畳の上に緋毛氈《ひもうせん》が敷かれていた。ふたりの弟子に抱きかかえられた志ん生が、この緋毛氈につこうとしたとき、美津子さんが小声で、 「ほんとはいけないんだけど、なにしろあんな身体なんで、座布団を使わせてくださいな」  といった。藝人がお座敷で一席やるときは、藝者同様座布団は使用しないのがきまりであることを、じつはこのとき初めて知ったのである。 「きょうは大津絵をという御注文ですが、大津絵だけというのもなんですから……」  というような語り出しで、大津絵の前に『羽衣』を一席、志ん生はしゃべった。 『羽衣』は、三保の松原伝説に取材した、艶笑風な小品だから、こうした席にふさわしいという志ん生流のサービス精神であろう。めずらしいはなしで、志ん生以外ほとんど演り手がいないはずだが、明治時代の落語講談速記の専門誌「百花園」に、『三保の松原』なる題で例の橘家円喬の速記が載っているというから、なにかの機会に円喬が演ったのをきき覚えていたのかもしれない。 『羽衣』のあとにうたった大津絵は、さすがひと頃よりも声量が落ちていたが悪いものじゃなかった。あらかじめ志ん生のほうには断わって、このときの大津絵はテープにとらせてもらったのである。  うたい終った志ん生を別室へ送って、一座で酒をのんでいるところに美津子さんがやってきて、志ん生が山口瞳さんに挨拶がしたいといっているという。嬉しかった。  正直にいって、この日の会の段取りを、江國滋を通してたのまれたとき、山口さんの意向をどう正確に志ん生に伝えるかに、いちばん頭を悩ました。さすがに美津子さんは著名な直木賞作家を知っていたが、志ん生のほうはおそらく山口さんの文章にふれたことなどないだろう。そのあたりのこともあって、この日の会を、志ん生が単純にお座敷のひとつと思ってしまったら、山口さんとしては立つ瀬がない。それが志ん生のほうから挨拶したいといっていることは、充分こちらの意が伝わったにちがいない。  別室で、弟子とくつろいでいた志ん生の前に正座して、山口瞳さんがていねいに頭をさげて礼をいうと、志ん生はいたずらっぽい笑いをうかべて、 「ここの酒はね、樽だから美味《うま》いんだよ」  といった。ちらちら横目で美津子さんの表情をうかがっている様子から、僕には一杯ぐらいは自分もつきあいたいといっているように思えた。そこから先のことは、山口瞳さんの文章を引かせていただく。 〈私が皆と酒を飲んでいると、控室になっている別室で、志ん生さんが私に会いたがっているという伝言があった。  何事かと思って行ってみると、いま歌った「大津絵」は、あまりうまく歌えなかったので、私の前でもう一度歌うと言われるのである。私は、志ん生さんと相対で坐り、もう一度緊張することとなった。  これを一言で言うならば、はなはだ月並みに言うならば、芸人の執念である。あるいは恨みである。あるいは怒りである。もどかしさである。あるいは魂である。あるいは律義である。そうして、自分の体と自分の芸との戦いだった。その場に立ちあってくれと言っているのである。大変に辛《つら》いことを書くが、そのときの志ん生さんは、もう、声が出なくなっていた。冬の夜に風が吹く、までは出る。あとは何が何やらわからない。私は、志ん生さんのまえに頭を垂れているばかりである。〉  呼んでいたハイヤーが来て、志ん生が乗りこむまで見送った山口瞳さんは、ハイヤーが外車でなかったことを気にしたが、小型しか乗らないのだと説明すると、 「いいね。落語家らしくて」  と、さかんに感心した。  説明が足りなかったのだが、ひと前で大型車にふんぞりかえるような趣味を持ちあわせていないこともさりながら、大型の外車だと志ん生家の前まで横づけにすることができず、不自由な歩きようで玄関まで身体をはこばなければならないという理由もあったのである。  その夜、山口瞳さん御夫妻は、江國滋と僕を銀座に招待してくださった。たしか、はち巻岡田とエスポアールに連れて行ってくれたと思う。もう一、二軒はしごしたかもしれない。酔っぱらって、御機嫌になった山口さんは、志ん生を語り、さかんに大津絵『冬の夜に』を口ずさんだ。  神田川の座敷の会があって一年ほどたった一九六八年(昭和43)五月十七日、銀座のヤマハホールで開かれたNHK主催の東京落語会で「小泉信三忌に寄せて」と題して、古今亭志ん生はまた大津絵をうたった。その年の正月、上野鈴本の初席に出演いらい寄席に顔を出さなくなっていた志ん生だけに、 「おそらく、こういうことはもうこれが最後になるだろう」という思いが客の側にもあったにちがいない。大勢の客がつめかけた。  その夜のプログラムがどういう順番で、誰がなにを演ったかまるで覚えていないが、とにかく志ん生の大津絵で中入りになって、せまいロビーがひとで埋まった。そのなかに江國滋の姿を発見して近づいたのだが、僕の顔を見るや、 「駄目だねえ、声が出ないねえ。神田川のときとは雲泥のちがいだね。山口さん、いいときにきいたねえ」  といった。  つめかけた大勢の客は、志ん生に対して満足しきった拍手を送っていたが、じつは僕も江國滋とまったく同じ感じをいだいた。少なくとも、山口瞳流にいう、藝人としての「執念」も、「恨み」も、「怒り」も、「もどかしさ」も、「魂」も、「律義」も、そして覇気もない大津絵だった。ただひとりの老人が、さびしく俗曲をうたっているといった姿にうつった。なんだか急に、志ん生が遠くに行ってしまったような気がした。  そして、この夜の大津絵が、僕が客席にすわってきいた最後の志ん生になった。 [#改ページ]  8 好敵手  古今亭志ん生が昭和期を代表する落語家であることは誰も否定できないところだが、その志ん生とまったく対照的な存在として、八代目桂文楽の名をあげないことには不公平のそしりはまぬかれまい。  いま昭和期の落語という書き方をしたのだが、落語の歴史に「昭和期」なる区分を用いるなら、とりもなおさずそれは「志ん生・文楽の時代」になる。藝人として、いわゆる「売れた」状態になったのは桂文楽のほうがひと足だけはやかったが、世代的には同期といっていい。一八九〇年(明治23)生まれの志ん生に対し、桂文楽は一八九二年(明治25)に生まれている。世を去ったのは桂文楽が二年ほど早いので、結局古今亭志ん生のほうが前後四年だけ余計に同じ時代を生きたことになる。  このふたりは、ある時代を代表する落語家でありながら、面白いことにあらゆる面で対照的な存在であった。性格、生き方などの面までそうであったというのが面白いのだが、なんといってもその藝といおうか、落語にたいする感性、姿勢、神経といったものが、まったく対照的であった事実が、よりすぐれていながら色彩のまるでちがった落語にふれる僥倖を僕たちにもたらしてくれたのだ。  そうした意味から見るなら、古今亭志ん生と桂文楽は、世にいう同時代を生きた好敵手《ライバル》となるかもしれない。プロ野球の選手にたとえれば、桂文楽が川上哲治で、古今亭志ん生は大下弘といったところだろうか。野球と藝事では本質的にちがうからもう少し世界を近くして歌舞伎にたとえると、六代目尾上菊五郎と初代中村吉右衛門の関係が、志ん生・文楽のそれと二重うつしになってくる。無論伝えきく六代目菊五郎の性格藝風が志ん生に似ていて、桂文楽のそれに初代吉右衛門的なところが発見できるというわけだ。  もっとも、この六代目と吉右衛門に、志ん生と文楽を対比させる考え方はいまに始まったことではなく、しかもまったく逆のとらえ方もあって、正岡容など一九四四年(昭和19)に私家版として刊行した『随筆寄席囃子』のなかの「富代志ん生の味」と題する文章で、こういっている。 〈当代のはなしかのなかでは、私は文楽と志ん生とを躊躇なく最高位に置き度《た》い。文楽は菊五郎、志ん生は吉右衛門、正しくさう云へるとおもふ。但、藝質の融通無礙《ゆうずうむげ》なところでは志ん生の方が菊五郎らしく、双方の藝を色彩に例へて云へば文楽の方がハツキリと明色で六代目らしい。そのくせ一字《ママ》一劃を疎《おろそ》かにしない文楽の小心さ規《ママ》帳面さは吉右衛門をおもはせ、志ん生のいい気な図太さは六代目に似かよつてゐるのだからなか/\おもしろい。〉  晩年の中村吉右衛門にはやっと間にあいはしたものの、六代目尾上菊五郎の実際の舞台にふれた記憶のない僕よりも、一時代も二時代も前のひとであった正岡容が、「文楽は菊五郎、志ん生は吉右衛門」といっているのだ。ここは素直にそれにしたがうべきかもしれない。しかし、これまでにふれることのできた文献、資料の類が伝えてくれる菊五郎、吉右衛門のイメージと、さんざんふれてきた文楽、志ん生の藝と人柄を対比させると、どうしても「志ん生は菊五郎」で、「文楽が吉右衛門」という図式がうかんでしまうのだ。もっとも、「文楽は菊五郎、志ん生は吉右衛門」という正岡容にしても、「藝質の融通無礙なところでは志ん生の方が菊五郎らしく」といい、「一字一劃を疎かにしない文楽の小心さ規帳面さは吉右衛門をおもはせ、志ん生のいい気な図太さは六代目に似かよつてゐる」と、別の見方もできることを忘れてはいない。それにしても、志ん生的と目される六代目菊五郎が、実際には桂文楽を贔屓にしていて、その菊五郎にくらべられた志ん生が吉右衛門のほうに、より可愛がられていたという事実が面白い。  伝えきく六代目尾上菊五郎の、日によって出来不出来が激しかったという評判くらい、古今亭志ん生の藝を思いうかばせるものもない。気が乗ると目を見はるような素晴しい舞台を見せるくせに、そうでないときは投げやりになって、地方巡業の際汽車の時間にあわせて芝居を短くしてしまったなどという伝説は、そっくりそのまま志ん生にあてはまる。藝をやるときと、商売で高座をつとめたときの差の激しかったことは前にも書いたが、汽車の時間にあわせるどころか、気にいらない高座にはあがらずに帰ってきてしまうことすら、全盛期の志ん生はやってのけた。  初代中村吉右衛門という役者は、それこそ一点一画をおろそかにしない楷書の藝の持主であったが、熱演型で「役者は一生が修行」というのが口癖だったというはなしも、落語家桂文楽の姿勢とちがわない。吉右衛門の「役者は一生が修行」に匹敵するのが、吉井勇であったか久保田万太郎であったかにいわれたという「長生きも藝のうち」という桂文楽のモットーである。  戸板康二『役者の伝説』(駸々堂)という楽しい本には、この菊五郎と吉右衛門に関するエピソードがたくさん出てくるのだが、そのなかで、 〈吉右衛門はたえず医薬に親しんだが、いささか被害妄想の感じもあったようで、ある日急に気分が悪くなったといって、主治医を呼んだら、その医者が酔っていて、脈をとりながら、懐中時計を裏返しにしていた。それに気がついて、また熱があがったという伝説がある。〉  として、 〈六代目菊五郎は、吉右衛門にくらべて、健康をたのみすぎ、酒もセーヴせず、食養生もしなかったため、寿命を縮めたような気がする。〉  とあるのが興味ぶかい。  桂文楽というひとも健康には気をつかっていた。つかいすぎるくらいだったといってもいい。僕が知りあった頃、すでに仕事でかけもちすることはおろか、トリをとることもなるべくなら遠慮したいといったあんばいで、自分より三つ歳下の林家正蔵が、下駄ばきで寄席を三軒かけもちしたとき、 「あなた、年齢《とし》てェものを考えなさい。そんな無理なことをしちゃいけません。高橋も高橋だ。私からよくいっときます」  と、かなり真剣な表情で正蔵を責めていたのにぶつかったことがある。高橋というのは、何代目かの柳家小三治だったことのあるその時分の落語協会の事務員である。  それくらいだから、少しでも体調が悪いと高座を休ませてもらっていた。晩年、体力を消耗するからと、得意の『愛宕山』を演るときはあらかじめ主治医の許可を得たくらい神経を使っていた。楽屋でも、弟子に持たせた鞄のなかから薬の包みを出させている光景を何度となく見たことがあるし、じつにしばしば自分で目薬を差しているところに出くわしたものである。  一方、古今亭志ん生というひとは、医者ぎらい、薬ぎらいで通っていた。巨人軍優勝祝賀会で倒れた七十一歳のときまで、入院さわぎをしたことがなかったというのも、当人が健康であったのもさることながら、生来医者ぎらいで通してきたためでもある。その生まれて初めての病院生活も、医者の反対をおしきってわずか二カ月半ですませてしまった。白い壁にかこまれた病室、おしつけられる食事、それよりなにより禁酒禁煙と注射をうたれることが、気ままに生きてきた志ん生には耐えがたいことなのであった。だから退院してわが家に戻ってきても、家族の、 「お父ちゃん、もっと養生しなくちゃ駄目じゃないか」  という心配に対して、 「なにをいってやがる。養生なんてもんはな、いい若い者がするから養生なんで、この年齢《とし》ンなって、いまさら養生もくそもあるかいッ」  なんてにくまれ口をたたいてみせたのである。  六代目菊五郎のように、こうした不養生が格別に寿命を縮めることもなく、好きなようにやりながら八十三年の生涯をまっとうしたのだから、それはそれでしあわせな生き方であったといえる。  寄席の楽屋というところは、高座からではなかなか見当のつかない、その落語家の思いもかけない一面が瞥見《べつけん》できて楽しいのだが、その楽屋にあって、いつもにぎやかで明るいのが桂文楽であった。楽屋といわず、桂文楽あるところいつも明るくはなやかな空気がただよっていて、あの高座姿とおなじ光景が展開されたものだった。だから楽屋における桂文楽は、播磨屋型というよりも音羽屋型であったといえる。六代目菊五郎の楽屋も、笑い声の絶えないことで有名だったという。  よほど親しいひとでも訪ねてこない限り、楽屋で無駄口たたくようなことはしないのが古今亭志ん生であった。たいてい誰か相手を見つけて将棋をさしていたといわれる。だからまわりの様子などまったく気にしていないかというと、これがそうでもなくて、ときたま思わぬ方角から警句がとんできて、楽屋をわかせることもあったらしい。  いまは亡き柳家小さん夫人が自宅の階段をふみはずし、病院にかつぎこまれたことがあった。病院からあわただしく楽屋入りした小さんに、みんな心配気な表情で夫人の容態をたずねたのは当然である。 「ええ、なんとか助かったんですがね。一時は、もう駄目かと……」  小さんが説明していると、将棋の駒を手に盤上を見つめたままのかたちで志ん生がつぶやいたそうだ。 「世のなか、そううまくいくもんじゃねえ」  ひとをそらさない如才のなさという点に関しては、桂文楽には天才的なところがあった。五代目の柳亭左楽から習ったといわれる処世術にたけていたのである。  三代目の桂三木助が没して一年ほどした頃、その三木助を「しのぶ会」というのを、安藤鶴夫が音頭をとって、どこかの料亭でひらいたことがある。ごく親しい内輪のひとたちだけの会であったらしいのだが、安藤鶴夫が音頭をとったことに対して、反発を感じたむきも正直いうと少なくなかった。  だいたい安藤鶴夫というひと自体|毀誉褒貶《きよほうへん》の激しいところへ持ってきて、晩年の三木助を不当に高く評価しすぎたという声も、なくはなかったのである。そんなところから、むこうが「しのぶ会」をやるなら、こちらは「しのばず会」というのをやろうじゃないかと、アンチあんつるを広言してはばからなかった放送局のプロデューサー、新聞記者、藝人たちが集まることになった。「しのぶ会」の開かれる同日の同時刻に、「しのばず会」ということで不忍池に近い本牧亭の座敷を借りたあたり、いってみればこの世界独得の「洒落」なのだが、その洒落に少々きついところがあったのも否めない。  両方の会から声のかかったひとが何人かいたそうで、こうなると一種の踏絵である。たいていのひとが、「都合がつかない」とかなんとか適当な理由をつけて、顔を出さないことで双方に義理を果たした。なかで桂文楽だけは敢然と両方の会をかけもちして見せたという。  こうしたケースのとき、どっちもしくじらないように行動するのが桂文楽の処世術で、また苦もなくそれのできるひとであった。古今亭志ん生には、まったくそなわっていない神経といっていい。  あるとき、桂文楽と古今亭志ん生が連れだって、地方都市の落語の会に出かけたことがあった。主催者が気をきかしたつもりで、楽屋に寿司を差し入れたというのである。この寿司が、ついていた若い落語家が見ても、ちょっとどうかと思われるくらいひどいものであった。こんなとき志ん生は露骨にいやな表情をして、立ちあがると鼻歌かなんかうたいながら外へ出てしまう。そういう不器用な方法しかとれないのである。ところが文楽はさすがである。そばにいる弟子に、大声ではなしかけるのだそうだ。 「文平。惜しかったねえ。ここで寿司が出ると知ってたら、汽車ンなかで弁当なんか食べるんじゃなかった」  ひとを傷つけずにことを処理するのが、習い性となっているのだ。  桂文楽の藝が初代吉右衛門同様に、一点一画をおろそかにしない楷書の藝であったことは前に記した。精巧無比な機械にまでたとえられた。ねりにねりあげた結果が高座にあらわれたもので、寸分の狂いもなかった。だから、古今亭志ん生のように、その日の気分や客の状態によって、おなじはなしの時間が極端にちがうなんてことは決してなかった。放送の録音などで、おなじはなしを何度収録しても、その仕上り時間が一分とちがわなかったことに担当者は舌をまいたという。  それだけに、ひとつはなしを高座にかけるまでに、気の遠くなるくらい稽古に時間を費したといわれる。十八番とされていた『富久』初演までのいきさつを、安藤鶴夫が、『わが落語鑑賞』(筑摩書房)に書いている。 〈待望文楽初演�富久�は、おそらく稽古をはじめてから五、六年はたっていたことであろう。ところが研究会に�富久�が発表されると、そのたびに文楽は休むのである。当時研究会の批評を克明に都新聞に続けていたぼくは、しまいに腹を立てて、きょうも文楽は�富休�であるなどと揶揄《やゆ》したものだが、それが二、三度続いたでもあろうか、ついに文楽の�富久�は登場したのである。〉  こんないきさつがあって、ひとつひとつの演目を完成させていった桂文楽のレパートリーが、ほかの落語家にくらべて少ないのは、きわめて当然のことなのである。その数少ない演目のひとつひとつを完璧に仕上げて、いつ、どこでも一言半句のちがいなく口演してみせたのが桂文楽の藝であった。  桂文楽の最後の高座は、一九七一年(昭和46)八月三十一日、国立劇場小劇場の第四十二回落語研究会で、演目は『大仏餅』であった。途中で絶句してしまったのである。神谷幸右衛門という人物の名が、どうしても出てこなかったのである。『大仏餅』は、三遊亭円朝作の三題噺と伝えられ、文楽はじつにしばしばこのはなしを高座にかけていた。事実、その前日の東横落語会でもこの『大仏餅』を出し、いつに変らず演じてみせたばかりだった。その、しゃべりなれた演目の登場人物の名が出なくなってしまったのである。 「申しわけありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」  客席にふかく頭をさげ、舞台のそでに姿を消していらい、その年の十二月十二日、神田駿河台の日大病院で肝硬変のため世を去るまで、とうとうひと言も「落語」を口にしなかった。  精巧で、寸分の狂いのない、機械にまでたとえられたすぐれた藝の持ち主の最後の高座が、絶句して、完成しないまま終ってしまった事実に、藝というもののおそろしさとむなしさを見ないわけにいかない。何度も何度も稽古して、その日演ずる作品は、かならず事前にさらいなおして、しかもそうした稽古ですら手を抜くことなく高座そのままに演じていた努力のひとにすら、「絶句」というあり得べからざる事態が襲うのである。しかも晩年の桂文楽は、このおそろしい日にそなえて、 「申しわけありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」  という、わび口上の稽古までしていたときく。 『大仏餅』を絶句した八月三十一日から、この世を去る十二月十二日までの一〇三日間、ひと言も落語を口にしなかった事実に、落語家桂文楽のひとつの強い意志をみることができる。体調を急にくずしたわけでもなく、老化を防ぐ意味からも熱心に出演することをすすめた周囲の声に対しても頑として耳を貸さなかった。この一〇三日間は、落語家桂文楽でない人間並河益義七十九年の生涯に、初めてめぐってきた至福の日々であったような気がしてならない。それにしても、 「申しわけありません。もう一度、勉強しなおしてまいります」  という落語家として高座に残した最後の言葉の、なんと桂文楽の藝を象徴していることか。ここでも、「役者は一生が修行です」といっていた中村吉右衛門のことが想起されるのである。  古今亭志ん生の藝を、ひとびとが「天衣無縫」といったことも前に書いた。その点で桂文楽の楷書の藝と対照して、志ん生を草書の藝の持ち主と評したひともいる。たしかにそんな一面がなくはなかった。  桂文楽は一点一画をおろそかにしない技術でもって、きっちりとした落語を構築してみせたが、古今亭志ん生のばあいは、彼の口をついて出てくる言葉そのものが落語であった。なにを、どうしゃべっても落語になってしまうような魔力をそなえていた。そうした志ん生の、自由な語り口に酔わされた客は、志ん生を天才とよんだ。事実天才的なひらめきが志ん生の藝にはあった。それでいながら、桂文楽におとらぬ稽古を古今亭志ん生もしていたらしい。文楽の藝のように、血の出るような稽古の結果を、いささかも感じさせることなく、落語と遊ぶがごとき境地にうかんでいた志ん生の藝の秘密に、いましきりに魅かれる。  古今亭志ん生最後の高座となった精選落語会で、『二階ぞめき』のはずが『王子の狐』になってしまったのは、予定していた演目をとりちがえてしまったのだから、事故といえば事故といえる。しかし、古今亭志ん生という落語家に限っていえば、この程度の事故はそれこそ日常茶飯事であった。桂文楽にとっては、『大仏餅』で神谷幸右衛門という名が出てこなかったことが、落語家としての死命を制してしまうのだが、おなじようなことが古今亭志ん生という落語家にはなんの影響も与えないばかりか、すぐれた個性とまで受けとられていた。実際元気な頃の志ん生は、しばしば絶句した上、それをギャグとしてたくみに利用してみせた。なんのはなしであったか、ある侍の名が出てこなくなってしまい、 「ううん……その、お侍さんの名はってェと………」  と、しばし絶句したあげく、 「ううん、どうでもいい名前」  とやってのけ、客席を爆笑させたのに接したことがあったが、そういう志ん生のその場に応じた自由闊達な語り口が、ひとを喜ばせた。桂文楽においてはとりかえしのつかない事故が、古今亭志ん生においては「藝」にすらなるのだった。  最後の高座になった『王子の狐』を演じたとき、古今亭志ん生は七十八歳で、一九七三(昭和48)九月二十一日の臨終をむかえるまで、五年に近い歳月を残している。そのあいだ志ん生はなにをしていたたというと、これが稽古をしていたのである。ときには三遊亭円朝や橘家円喬の速記本に目を通し、たまに訪れる親しい客には、 「どうです、『船徳』でもやりましょうか」  と、一席きかせたがったりした。  自身、引退した気持など毛ほどもなかったから、いつでも声さえかかれば仕事に行ける準備はおこたりなかった。 「独演会やりてえな」  というのが口ぐせであったという。  精選落語会の『王子の狐』が最終の高座というのも、たまたま結果がそうなったのであって、当人はいつでも高座に出るつもりで、仕事を待っていた。五年間待った。待って、待ちぬいて、待つことに疲れて、やがて死んだ。  つまり桂文楽が最後の高座を絶句していらい、落語を忘れることで、ふつうの老人として生きたのに対し、古今亭志ん生は最後の最後まで、現役の落語家であることをやめようとしなかった。 [#改ページ]  9 再び一九七三年秋彼岸  いよいよ古今亭志ん生の臨終について書かねばならない。  一九七三年(昭和48)九月二十一日、ときあたかもお彼岸で、眠るがごとき大往生であったという。  さすが斯界の最長老とあって、どの新聞もかなり大きなスペースをさいてその死を伝えた。いわゆる社会面のトップに十段ぬきの記事を載せた、九月二十一日付夕刊の「朝日新開」から、リードとよばれる冒頭部をひいてみる。 〈古今亭志ん生が死んだ。落語界の最長老、数々の逸話につつまれ、一線からは遠ざかっていたものの、ファンも後進も「師匠が生きていてくれるだけでうれしい」としたわれていたのに……。二十一日午前十一時半、東京都荒川区西日暮三ノ一六ノ八の自宅で、心筋こうそくだった。本名、美濃部孝蔵さん。八十三歳。〉  新聞の訃報には、かならず死亡時刻と病名が記されているもので、古今亭志ん生のばあい、午前十一時半で心筋こうそくになっている。当然のことながら、この死亡時刻と病名は、「毎日新聞」でも「読売新聞」でもかわらない。  いまだに、ひとの死に立ち合った経験がないのでくわしいことは知らないが、映画やテレビドラマだと、医者が「御臨終です」と宣告するとき、かならず自分の時計を見る。死亡時刻の確認である。古今亭志ん生の、午前十一時半という時刻も、そんなケースであって、新聞社に通知され、それが記事になったものだと、そのときはそう思った。  葬儀が終って何日かたって、午前十一時半という死亡時刻が、じつは推定によるもので、志ん生の逝った瞬間を誰も見とっていなかったことを耳にした。いかにも志ん生らしい死に方だと思った。人間は自分の死に方を選ぶわけにはいかないのだが、たったひとりで、いささか乱暴ないい方をすれば、勝手に死んでいったことが、気ままに生きたこのひとを象徴しているような気がする。  志ん生は死ぬ前日の夕方、親子丼が食べたいといって、美津子さんにつくらせている。老耄《ろうもう》の度がいささかすすんで、金原亭馬生を自分の父親と間違えたり、馬生の長女で女優として売り出していた池波志乃を二年前に失ったりん夫人と錯覚したりすることがあったが、食欲は衰えていなかった。親子丼を半分ほどたいらげて、夜九時頃吸いのみについだ酒をのんで眠った。食事のあと酒をのむと、胸がやけて苦しむことがときどきあって、この夜も深夜に血をはいたという。何度かあったこととはいいながら、その夜は量が多かっただけに心配され、翌朝までぐあいが悪いようなら医者をよばなければと家の者は考えていた。  その翌日、志ん生は朝からうとうと眠ったり起きたりしていたが、さすが朝食をとるとはいわなかった。内弟子の志ん太がやってきて、家を掃除してから寄席へ出かけるため志ん生に挨拶したのが午前十時半頃だったという。このときの志ん生の返事は、家にいた者がみんなきいている。そして、昼ごろ、 「お父ちゃん、ばかに静かだね、見てきたら……」  顔を出していた馬生が美津子さんにいった。静かに眠る志ん生が、目を覚ますことはもうなかった。  勝手気ままに、おのれの命ずるがままに、好きなことをやって、好きな落語を好きなようにしゃべりつづけた古今亭志ん生は、たったひとりで、誰に別れを告げるわけでもなく、消えいるように去っていった。落語という、きわめてパーソナルで、しかも孤独な藝に、その生涯をささげた志ん生にふさわしい去り方を、最後に自分で選んでみせたのである。  落語家は、その生涯自体が藝のようなところがある。その落語家が死んだとき、そのひとの落語が完成するのである。だから、その落語家の死に方までが多分に伝説化されるのだ。志ん生が生涯にわたって敬愛してやまなかった四代目橘家円喬の、弟子をよびつけて辞世の句をよんでいるうちに顔の色が変ってきたという「都新聞」の訃報など、そうした伝説の最たるものではあるまいか。  後家殺しといわれ、スカタンといわれ、上方落語の世界を風靡《ふうび》した桂春団治など、長谷川幸延が小説『桂春団治』(角川書店)に描いた臨終の場のほうが、実際のそれよりもはるかに桂春団治的である。小説家に、そうした伝説をつくらせたがるだけのものが、すぐれた落語家の生涯にはあるのだ。 〈春団治の病勢は、そんなことから頓《とみ》にすすんで、吉本の社長が最後の別れと知っていながら、 「しっかりしてや。お客が皆、師匠を待ってるぜ……」  見舞に来たのや、といわんばかりに手を握ると、 「あきまへんなあ。もうわても、先が見えました……」 「阿呆《あほ》らしい。そんな……」  社長の方が、少しあわてて言葉につまってうろつくのを、 「いえ。もうわたしもこの辺で、落語家《はなしか》らしゅう、お後《あと》と交替せんならん」 「師匠」 「つまり、依願《いがん》(胃癌《いがん》)免官というところでやすなあ」 「……」  胃癌ということも、命数も、何もかも知っていて、静かに死を待つ、春団治だったのである。〉  三代目の桂三木助も癌に冒されて世を去ったひとりだが、憔悴《しようすい》しきったある日、親しいひと達にかこまれて、娘のひくピアノをききながら静かに死にたいと考えた。古今亭志ん生、桂文楽、柳家小さん、安藤鶴夫などが枕もとによばれ、死に水がわりのメロンをたべて、娘さんがピアノをひいて、すべてのお膳立てがそろったのだが、三木助は死ねなかった。  ことが思うようにはこばないもどかしさに、三木助が情けないような羞渋の色をうかべると、古今亭志ん生が、 「そうむやみに、人間が死んでたまるもんか……」  と大声でどなったことを安藤鶴夫が伝えているのだが、これは実話だそうだ。  このとき死ねなかった三木助は、日ならずして、 「桂三木助儀、本日これから死去致しますについては、長いあいだかわいがっていただいていたNHKのみなさんに、とくに厚くお礼を申しあげます……」  という電話を弟子にかけさせて去っていった。  たったひとりで、藝人じみた大芝居をすることもなく、ひそかに彼岸にむかった古今亭志ん生の死に方には、なまはんかな伝説を拒否してのけるきびしさがある。  ここで、朝日文庫版、結城昌治『志ん生一代』の解説で、山田洋次氏が、 〈一九七三年の秋、志ん生は八十三歳の見事な生涯を終えた。お彼岸の、静かに雨の降る日のお昼前、すやすやと気持よく眠っているかのようであったというその最後の日の描写は、心にしみ入るように印象深い。志ん生の霊前に手を合わせ、心から冥福を祈りながら書かれたのであろう作者の結城昌治さんの優しい思いと、この天才的な落語家の芸に対する深い愛情が、読者の胸にひたひたと押しよせるかのような美しい幕切れなのである。〉  と記した、その「美しい幕切れ」をひかなければなるまい。 〈志ん生は瞼が重くなった。  さっきからりんの呼ぶ声が聞こえていた。 「うるせえな。いま行くよ」  志ん生は答えたつもりだった。 「お父ちゃんー」  美津子が言った。  志ん生は入れ歯をはずして、すやすやと気持よく眠っているようだった。  九月二十一日午前十一時三十分、雨は降っていたが、お彼岸で、いつ息を引き取ったのか知る者はいなかった。  五代目古今亭志ん生、本名美濃部孝蔵、八十三歳だった。〉  もとより小説だから、ここで志ん生伝説をひとつつくることも可能だった。だが、そんな作業をいとわせぬだけの、事実でもって志ん生は自分の生涯を完成させたのである。  美しい死に方といっていい。 [#改ページ]  終  章  戒名は松風院孝誉彩雲志ん生居士。文京区小日向の還国寺に墓がある。 [#改ページ]  補遺 志ん生残影  この九月六日は、朝からまたまた暑さがぶりかえし、久し振りにネクタイをしめ、スーツを着るのがつらかった。はやいもので九月十三日が金原亭馬生の一周忌なので、その法要が十一時から上野精養軒で行われたのである。心光院清誉良観馬生居士というのが金原亭馬生の戒名だ。  精養軒も久しぶりだった。落語家の真打昇進披露は精養軒がきまりみたいな時期がひと頃あって、春と秋の年二回はここを訪れたものだが、いつの頃からか真打披露も都心のホテルを使うことが多くなって、しばらく御無沙汰だったのである。時間にゆとりのあるときなど、わざわざ御徒町《おかちまち》で国電をおり、鈴本演藝場の前を通って、西郷さんの銅像を見ながら行くのが、いかにも上野の山をのぼるという感じがあって好きだった。ひさびさの精養軒に、そうして行ってみたかったのだが、人一倍汗っかきの身がそんなことしたら、会場につくまでにワイシャツがべとついてしまうにちがいない。クーラーのきいたタクシーに乗って、運転手に行き先を告げながら、夏の暑いとき、馬生というひとは、いつも絽《ろ》の着物を涼し気に着こなしていたのを思い出していた。  ずいぶん大勢のひとが集まった。参加者どうしがたがいの旧交をあたためあったりしている光景がそこここに見られて、法要というよりもパーティの趣きだが、こうした雰囲気も故人の望んだところだろう。僕自身、久し振りに会うひとが多かったのだが、そうしたひとたちのみんながみんな、まず健康をたしかめあっているのがおかしかった。それがこうした席にいちばんふさわしい会話ということもあるが、いつの間にか、そんなやりとりが自然に出てくる年齢になってしまったのだ。  献花が始まるとき、出囃子のテープが流され、それがきっかけで引かれていた幕があいて、遺影が現われた。モノクロの、高座姿をやや横むきかげんにとらえたもので、意外なくらい元気あふれた表情をしていた。生前の馬生の高座で、あれほど元気あふれた表情を見たことは、そうない。なんのはなしをしていたときのものか知る由もないのだが、金原亭馬生の高座にも、ときとしてひとをはっとさせるくらい攻撃的な瞬間のあったことを思い出させてくれた。  それよりなにより、流れ出した出囃子が「鞍馬」であることがなつかしかった。馬生の出囃子は、うんと若い時分に「老松」を使ったことがあるらしいが、ほとんどこの「鞍馬」だった。それが晩年、「一丁入り」に変っていたのである。「一丁入り」は、古今亭志ん生の出囃子として親しまれていた曲だ。飄々《ひようひよう》と高座にあらわれる志ん生にぴったりの出囃子であった。  志ん生という、きわめて個性的な落語家を象徴するこの出囃子を、晩年の馬生が用いたのをきいて、ある違和感を覚えた。もちろん志ん生が逝ってから、誰も使っていないこの出囃子を、このままにしてしまうのは惜しいからと、誰かが使っていっこうにかまわない性質のものだし、もし誰かが使うなら、それは金原亭馬生をおいてはほかにいない。それでもなお、「一丁入り」は、それを耳にした瞬間、うかんでくるのは古今亭志ん生の姿であって、志ん生以外の落語家は思いうかばないのである。それくらい志ん生の体質がしみこんでいる「一丁入り」を、いくら長男だからといって馬生が使うのは、おかしないい方になるが馬生にとって損だと思った。実際の志ん生の高座をきいたことのあるひとが、ひとりもいなくなってしまうまで、「一丁入り」の出囃子は、お蔵入りさせてしまうべきだと思った。  それだけに、遺影のあらわれるきっかけに使った出囃子が、耳になじんだ「鞍馬」であったことで、あらためて、あまりにも早く逝きすぎたこの落語家を惜しむ気持がこみあげてきたのである。  落語協会を代表して、会長の柳家小さんが金原亭馬生を追悼する挨拶をした。馬生は副会長として小さんのよき相談相手だったという。なにごとに対してもせっかちで、早急に結論を出したがる小さんを、馬生はいつもなだめていたらしい。のんびりとして、決して急ぐということをしなかった馬生は、結局いちばんかんじんの人生だけ急ぎ足で過ごしてしまったことになる。  ついでに落語協会の会長職について記すと、桂文楽のあとをうけて古今亭志ん生が会長に就任したのが一九五七年(昭和32)の二月で、六三年(昭和38)に辞任、ふたたび桂文楽がなった。文楽は、二年ほどつとめて、六五年(昭和40)三遊亭円生にゆずった。このとき円生六十六歳で、若返りなどといわれたものである。その円生が、柳家小さんに会長をゆずったのが一九七二年(昭和47)で、金原亭馬生はこのときから副会長として小さんをたすけている。  それぞれ個性の強い落語家が会長をつとめているのだが、この歴代会長のなかで、およそなにもしなかった会長らしからぬ会長といわれているのが古今亭志ん生であった。その、なにもしなかったところが逆に仲間うちで評判がよかったというのだが、志ん生というひとは、自分がそうした会長職などをやる柄でないことをよく知っていたのだ。最長老ということで、そうした地位にまつりあげられている立場は理解できても、およそ自分のことしか考えずにこれまでやってきた身が、会長になったからといって、急にあれこれ協会の運営について口を出すなどは、てれくさくてできなかったのである。  そうした、いってみればずぼらで無精《ぶしよう》につきる志ん生の会長ぶりが、かえって仲間うちで高い評価を得ていたことは息子の馬生もよく知っていた。また、志ん生のあとワンポイント・リリーフのようなかたちでふたたび会長になった桂文楽のそのまた次の会長になる三遊亭円生が、じつにいろいろな改革を、なかば会長職権による独断で実行したについて、それなりの高い評価を得た半面、相談にあずからぬ者からの不満が鬱積していたことも知っていた。そんな馬生が、なにかにつけてせっかちな小さんを、いつもたしなめていたというのは、当人ののんびりした性格もさることながら、父親志ん生のずぼらな会長ぶりに見る落語家の知恵みたいなものを身につけていたからであろう。  古今亭志ん生が逝って十年になるのだが、その評価はますます高まっているようだ。おびただしい数が販売されている落語のレコードやカセットでも、現役の落語家によるものをしのいで売上げ面でも他を圧しているときく。そうした高い評価も、ただただすぐれて個性的だったその藝に対して与えられているので、七年間にわたってつとめた落語協会会長としての功績に対してのものとなると、これはさがすのに苦労する。  落語家の評価なんて、終極のところその藝に対してだけなされるのがふつうなのだが、古今亭志ん生のばあいは、いささかちがっていた。その藝もさることながら、生き方そのものがこれほどに評価された落語家もそういない。それも求道的な態度を取りつづけ、藝一筋という儒教的な道徳律の規範のような生き方が、藝人として尊ばれがちであった時代に、きわめて強烈な自己主張をしてのけ、好き勝手な道楽|三昧《ざんまい》にふけり、およそ反道徳きわまる生き方をしてのけているのだ。  そんな生き方を貫いてきた身が、最長老ということで落語協会という組織の長にまつりあげられたときの戸惑いが、手にとるようによくわかる。組織されることと、もっとも距離を置いたところで生きてきた人間が、その組織の責任者になるというのは、いかにも人生の皮肉だ。そうした戸惑いが、志ん生をしてなにもしない無精な会長を七年間つとめさせたのである。  おそらく古今亭志ん生は、落語協会会長に推されたときも、別段これまでの生き方を改めようなどとは思わなかったはずである。これまでと同じように、身勝手に自分の望みをごり押ししてやって行っても、結局なんとかなってしまうことがわかっていたはずである。だいいち、なにをやっても許されてしまうところまで志ん生の地位はきていたので、たとえ会長の独断を責める声が耳にはいったからといって、なにするものでもなかったはずだ。  それなのに会長になってからの志ん生は、これまでのごり押しをしなくなってしまった。三遊亭円生が、『寄席楽屋帳』(青蛙房)に、古今亭志ん生の会長就任について書いているのだが、 〈この時に、はっきり言って、あたくしは反対でした。とにかく|ずぼら《ヽヽヽ》でわがままで、ひとのことは構わずに勝手しだいなことをする、あんな人が会長になって、いったいどうなることかと思った。しかし、これは全く予想外でしたねェ。まァだれしも、ひとの下にいるよりは、会長になってみたいってこともあるでしょうし、一面、どんな乱暴な人でも、自分が小言を言う立場になったら、そうだらしのないこともできない、というわけで、まァこれは、われわれの予想を裏切って、大変におとなしくもなり、商売のほうにも身を入れるようになりました。〉  と、その豹変《ひようへん》ぶりにおどろきの色をかくさない。円生は、会長という椅子が、志ん生の人間をひとまわり大きくしたように受け取っているようだが、これは少しちがうと思う。  古今亭志ん生は、自我を貫くことに疲れたのである。身勝手を通すことに厭きたのである。だいたい自我だの、身勝手だのというものは、通らないから無理にも通そうとするので、そこに世間との軋轢《あつれき》も生じる。若い時分の志ん生がまさにそれだった。ところが藝人としてのちからが身についてきて、地位も高くなると、若い時分には通らなかった無理もたやすく通るようになる。そればかりか、そうした身勝手な振舞いやわがままな行いが、かえって八方破れの魅力として、世間からも関心をよぶようにさえなるのだ。  こうなると面白くない。天邪鬼《あまのじやく》と受け取られようが、通らない我《が》をはるからこそ自我なので、思うなり、いいなりになってしまっては、身勝手の通しようもないのである。会長就任を機に、あまりわがままをいわなくなったのは、円生の見るように人間がひとまわり大きくなったのではなく、志ん生も年齢《とし》をとったのである。無論、会長としての世間体を志ん生も気にする年齢になったということもあるが、自我を通すのに疲れ果てたといったほうが当っているだろう。落語協会会長の椅子についたことで、志ん生はしばらくそうしたものから逃れて休みたかったにちがいない。それが志ん生をして、なにもしない無精な名会長という予想外な評価を得させたのだが、同時にそれは間違いなく志ん生の老化をしめすものでもあった。  金原亭馬生にとって、父親の評判は、なにかにつけ気になったところだろうが、おそらく会長に就任するまでは、よからぬ評判のほうが多く耳にはいったものと思われる。それが会長就任によって逆転したことに、はじめのうちは戸惑いを覚えたであろうことも想像に難くない。その辺の事情が、父親が会長としてなにもしないことによっているのを、頭のいい馬生はいちはやく察知してのけたのだ。  とかくものごとをせっかちに決めたがり、なにごとにも早急に結論を出したがる柳家小さんに、副会長としての馬生がいろいろと提言したのも、父親の自我の推移を見つめて得た自分なりの知恵からであろう。それが馬生の副会長としての政治なのだが、同時にそれは古今亭志ん生の意志でもあったのだ。志ん生の残影は、いまなおこうしたかたちで生きつづけているのだ。  金原亭馬生一周忌の法要では、ずいぶんといろいろなひとに会えたのだが、結城昌治さんに久しぶりにお目にかかり、馬生の俳句について、はなしのきけたのが有難かった。  馬生が、結城さんの主宰する「くちなし句会」の熱心な会員であったことは知っていた。馬生が逝って、その追悼句会を最後に、この「くちなし句会」を思いきりよく解散したことも結城さんからきいていた。法要の席できいたはなしだと、馬生の俳句は、むかし川柳をやっていたことがわざわいして、なかなか上達しなかったのだが、熱心さには見るべきものがあり、死の一年ほど前には、   晩秋やひとり寝好む身の弱り  などという秀句をものしていたという。  金原亭馬生が身体の変調に気がついた正確な時期は定かでないが、「仲のいい家族らしく、つつみかくさずはなそう」ということで、癌ということも知らせていたという。知りつつ、これまでどおり酒をのみ、高座をつとめ、作句にはげんでいたわけだが、夜寝床で苦しむさまを家人に気づかれたくない愛情が、この句に実ったのであろう。いかにも家庭を大切にした馬生らしい句といえる。  馬生の俳号は「可和津《かわづ》」というのだが、柳にとびつく蛙のことで、川柳をやっていた頃からのものらしい。馬生が以前川柳をやったのは、父志ん生の影響である。  志ん生は俳句こそやらなかったが川柳には熱心で、坊野寿山の指導する「鹿連会」に連なり、いかにも志ん生らしい奇抜な句をよんでいる。     三勝は去年の秋に死にたがり     人中で背中にノミのいる辛さ     泥棒は女ばかりに大あぐら     捨てるカツ助かる犬が待っている     手拭も柄が悪いと手を拭かれ     羊かんの匂いをかいで猫ぶたれ     襟巻を忘れた家の名が言えず     同業に悪く云われて金が出来     のみの子が親のかたきと爪を見る     焼きたてのさんまに客のくるつらさ     味の素あまり不思議でなめてみる  いずれも志ん生ならではの感性が横溢していて、志ん生の落語における語り口を思わすものがある。その志ん生も、俳句にはあまり興味をしめさなかったようである。興味をしめさないというより、感覚的に俳句はだめと、自分で決めつけてしまっていたのではあるまいか。  一九五六年(昭和31)に朋文社から出た古今亭志ん生の『なめくじ艦隊』という著書は、志ん生の弟子金原亭馬の助が代筆したものと伝えられるのだが、そのなかに二代目蝶花楼馬楽の句として、   そのあしたてんぷらを焼く日暮かな   古袷秋刀魚に合す顔がない  の二句が引用されている。これは、当然のことながら、   そのあした天麩羅を焼く時雨かな   古袷秋刀魚にあわす顔もなし  が正しい。 「その朝天麩羅を焼く日暮かな」では、句意が矛盾しているし、だいいち俳句にならない。馬の助の誤記とも考えられるのだが、もし志ん生自身がそう覚えていたのだとしたら、いかにもういうことにこだわらない志ん生らしい。志ん生の俳句に対する興味の度合が、こうした誤った覚え方からもうかがえるのである。 「古袷秋刀魚にあわす顔もなし」というのは、落語家らしい生活感あふれた名句といっていいものだ。この名句が、志ん生流の「古袷秋刀魚に合す顔がない」となると、がぜん川柳めいてくるし、そのまま志ん生の世界となってくるから不思議だ。「秋刀魚に会す」ではなく「合す」顔というのは、どんな顔だろう。それに、「顔もなし」を「顔がない」というだけで、いかにも志ん生の語感という感じがあって、この間違いは間違いとして面白い。  いい俳句というものは、それ自体は果てしがないような、ひとの世の営みだの、宇宙だののなかから、これはまたごく些細な一断片を、ひょいと抽出して、残された大きな影のごとき部分を感じさせてくれる。つまり、五、七、五の十七音というぎりぎりに煮つめられ、選択された言葉によって成立しているわけだ。川柳も、言葉の選択という点では、まったく同じといっていい。  このあたりの事情は、落語によく似ている。落語もまた、無駄な言葉や説明は、できるだけ省くをもってよしとしており、いい落語家になればなるほど、簡潔な言葉に多大の効果をゆだねているのがふつうだ。  そうした言葉の選択という作業が、古今亭志ん生のばあい、落語でも、川柳でも、語感の面だけに神経がいっていた。語感から抜け出ることをしなかった志ん生は、落語感あふれる川柳をつくりつづけたが、最後まで、俳句のもつ雅味、風味には関心がなかった。  志ん生の、きわめて個性的な落語感覚に傾倒しながら、それを自分も共有することのついにできなかったかにうつる金原亭馬生が、川柳を捨てて俳句に傾斜していったのが、僕にはすこぶる面白い。あまりにも大きくのしかかってきた父権から、馬生が逃れることのできる唯一の方法は、父志ん生とは、まったく異った色彩の落語を、独自に創造することで、それには俳句の持つ雅味、風味を身につけることが、とりあえずの手だてであったのだ。  そう思って、馬生の残した俳句をながめて見るのだが、思わぬところに志ん生の落語のかげを発見して、血というものの偉大さにいささか圧倒されてくる。     部屋冴えて女静かに座りをり     鶯の声冴え渡り餅を焼く     空罐に梅挿してあり採石場     チンドン屋日だまりにゐる余寒かな     障子張るひぐらしの声遠くあり     贋作の鉄斎の下萩桔梗     焚火して叱られてゐる子のあはれ     侘助といふ名の椿庭にあり  などの句に見る、いかにも馬生らしい気取りの裏側に、古今亭志ん生的落語感が姿を変えて息づいているように思われてならない。馬生は、父志ん生とはちがう生き方をすることで、ちがった落語をつくり出すことを念じながら、結局どこかに志ん生の残影を背負った落語家として、短い生涯を終えた。 「兄貴は、あれでなかなか頑固なところがあったから、ほんとうに自分の好きなひととしかつきあいをしなかった。きょうは、兄貴の好きだったひとだけに集まっていただいて、兄貴も喜んでいるでしょう」  施主としての古今亭志ん朝が、こんな挨拶をした。きらいなひとは避けるという交際法は、そっくりそのまま志ん生のそれだった。落語家という職業に於いて、かなり重要な面を持つひとづきあいの面で、父親とおなじやり方を踏襲し終えたことが、金原亭馬生の後世の評判に、悪い材料となるわけがない。馬生もまた孤高の落語家であったのだ。  冷房のきいた精養軒を出ると、昼下がりの陽が照りつけている。タクシーを拾うには、やはり山をおりなければならない。汗を覚悟で、ひとり公園を抜けた。不忍池を右に見ながら山下までくると、なんとなく池之端の商店街を歩きたくなった。小池屋という呉服屋も、薮蕎麦も、志ん生、馬生親子がさんざん顔を出した店のはずである。  やはり、汗が出てきた。とりあえず一度家に帰るべく、不忍通りへ出て車を拾った。ここで車を拾えば、志ん生や馬生の住んでいた団子坂下を通って行ける。この通りも、都電がなくなり、銀行の新しい建物ができたりしたが、いまの東京には珍しく、むかしながらの風情が残されている。古今亭志ん生が、毎日見なれたはずの光景を、タクシーの車窓からのぞいていると、ふと団子坂で車を停めて、これから志ん生を訪ねるような錯覚におそわれるのだった。あの、「おじさん」という、おかしな名の質屋はまだあるのかしら。  志ん生の命日も近い。  あれからもう十年になるのだ。 [#地付き]〈了〉  単行本 昭和五十八年十二月青蛙房刊 〈底 本〉文春文庫 昭和六十二年十二月十日刊