矢口 純 酒を愛する男の酒 [#表紙(表紙.jpg)] [#裏表紙(表紙2.jpg)] 目 次  人も仕事も、そして酒も……  酒旗の風  言ふなかれ、君よ、別れを  岩魚《いわな》と樅《もみ》の木  あの雲の下  杏《あんず》の花を撮りに行こう  摘み草の頃  やれんヮ  うーなぎ、うなぎ  やがて哀《かな》しき  遠くなる話  あやめと沢蟹《さわがに》  小人閑居すれば  いささかワケが  ビールを、もっとビールを  女優はいけません  悲しいがな  素足の子守唄  何でも好きです  帰るといます  牡丹《ぼたん》に唐獅子《からじし》、竹に虎  慢性女房炎  そうかあ……、そうだろうなあ  ソフトフォーカス  エロチカルな季節  一点差で勝とう  引退しました  あの湖に逢いたい  とんこ亭の人々  泣あっかせる、ね  ほのぼの美人  私の耳は鳥の耳  日本の夏が……  ハロー注意報  外人ばなれ  誤訳  イデオロチン  むろんあなたと一緒です  花粉のお弁当  知っていたかも  ベストセラーつくり昇天  信平さん  ざんざらまこも  幻の歌手たち  ひとしおの感 [#改ページ]     人も仕事も、そして酒も……  終戦の年から二年ばかり、千葉県千葉郡|誉田《ほんだ》村の開拓地に入植した。これからの農業は、酪農経営で行くべきだと考え、大きな畜舎を作った。住まいより立派なのができて、村の人は、 「そんなことして採算がとれめえ」  とニヤニヤ笑った。畜舎には個室があって、その各個室からはそれぞれドアを開けると前庭に出られるようにした。動物たちが遊んだり日向《ひなた》ぼっこをしたりするためのものである。前庭には白い柵《さく》をめぐらした。これは、私が牧歌的な情緒を楽しむためである。  まずザーネン種の山羊《やぎ》を二匹飼った。その山羊たちが仔《こ》を産んで、一日二升ほどの乳を出すようになってから、小豚を三頭と鶏を三十羽買い入れた。小豚には春美・朱美・麗子という名をつけた。学生時代よく行った喫茶店のお嬢さん方の名である。  山羊乳は食卓に欠くことのできないものになった。しかし大部分は家畜たちの飼料に混ぜた。春美も朱美も麗子も嬉しそうだった。日に日に色艶《いろつや》を増した。鶏もよく卵を産んだ。  ある日、弟が一升ビンに、山羊乳を水で割ってイースト菌を入れ、日向に置いた。こうすると三時の|おやつ《ヽヽヽ》にはカルピスができるはずだという。しかし私たちは夏草とりに追われて、清涼飲料水のことを忘れてしまった。ひと風呂浴びて、さて夕食、という時思い出した。 「酸っぱくなってるかもしれない」  と弟は、毒見のような飲み方をして頸《くび》をかしげた。次いで腹のあたりをさすった。 「キューッと熱いぜ。酒になった?」  といいつつ、今度はコップになみなみと注いで美味《うま》そうに飲んだ。 「ほんと? こちらへ」  ああ、サラリとした爽やかな味——それは初恋どころの騒ぎではない。酒(?)なのである。私は興奮した。 「あのナ、ものの本、うん、あれはたしか、トルストイの小説だった? 韃靼《だつたん》人が、羊の乳で何とかいう酒を造ってたぜ!」  私と弟は一升ビンとコップを携えて、畜舎の柵を乗りこえ、山羊の遊び台をベンチにして、折からの名月に、夜宴としゃれこんだ。 「春美さん、朱美さん、起きてますか?」 「コラ麗子、元気か?」  時ならぬ来訪者に三人の麗人は個室のドアを躰《からだ》で細目にあけて、月明りに、こちらをうかがうようだったが、やがてピタリとドアを閉めてしまった。  その夜、私はこの天与の酒をカルスキーと命名して、弟に大量生産の発注をした。しかし弟は、水と乳との比率、イースト菌の量、太陽熱とのバランスに苦慮した。三位一体の妙は天恵であって、邪《よこしま》な心は酒神に通じなかった。芳醇《ほうじゆん》にしてしかもサラリとしたカルスキーは二度とできなかった。そして秋風が吹きそめる頃、太陽熱の不足を理由に、工場は閉鎖の止《や》むなきにいたった。  村の人たちともずい分|馴染《なじ》みができた頃、私は村を去って、東京に職を持った。世話になった村にも、開拓農場にも、そして新しくできた友人隣人たちにも愛着があった。そろそろ贅肉《ぜいにく》をつけはじめた春美たちにも愛着があったが、私は東京に舞い戻った。  私の勤めた雑誌社は、戦後、青空市場でいち早く名をあげた、復興めざましい新橋に近かった。勤めの第一日目、編集長のKに連れられ、新橋の名所であった青空市場の裏手にある「蛇の新」に行った。あの頃だから贅沢は言えないけれど、それにしても小さな店だった。「蛇の新」は今でいう文化人《ヽヽヽ》が目白押しの盛況であった。その綺羅星《きらぼし》たちが味の素入りカストリ(当店のマスターの独創で、当時、誉れ高きもの)を前に、談論風発の態《てい》であった。誰もが眼を輝かして、誰もが大声で話していた。小さな声では、もとより話が聞えないのであるが、何か熱気|溢《あふ》れるものがあった。  私はカストリを口に含んで、一瞬、眼くるめくものを感じた。次いで全身がカーッとなり、耳が遠くなった。私の耳に牛の啼《な》き声が聞えたようだ。村人と酌み交わした濁酒《どぶろく》が幻覚となって現われた。  開拓農協結成の祝宴にやってきた村長の挨拶が浮かんだ。その村長は美辞麗句を使うのが好きであった。それは、たとえば挨拶の冒頭に、 「えー、会津|磐梯《ばんだい》山は、宝の山とかや申します」  というものであった。村会、農協理事会のあとで、村の旦那衆と酌む濁酒は、春風|駘蕩《たいとう》として楽しかった……。私はカストリを口に含んで、混沌《こんとん》とした頭で、東京はきびしいぞ、と思った。人も、仕事も、そして酒もきびしいぞと肝に銘じた。  そしてその通り、東京はきびしかった。Kや同輩のTとよく飲んだ。仏文出身のTは、「何と実存の重きことよ」というのが口癖であった。しかしカストリ、焼酎《しようちゆう》、そしてそろそろ出はじめたビールに焼酎を混ぜて飲む酒は、酔ってから、何か索莫たるものがあった。誰いうともなしに、私たちはあるバーに足を向けた。このバーの勘定がたいへんだった。請求書がくるとサラリーの三倍ほどにもなっている月があった。  その頃、編集室は焼ビルの三階を借りていたが、バーの使者が来たというと、編集長はじめスタッフみんなが屋上に上った。待避である。寒い日は辛かった。生理的現象も辛かった。我慢できなくなったTが四階のトイレに降りて行くと、バーの使者も三階から四階のトイレに上ってきて鉢合わせをした。何と実存の重きことよ! 四階にしかトイレのないお粗末な焼ビルの悲劇である。  水の流れと人の身は……の例で、時代とともに私たちの集う場所も変わっていった。「蛇の新」時代は今や伝説になった。しかしわれら編集者は時代とともに、執筆家とつかずはなれず、まことによくぞ飲みつづけてきたの感、ひとしおである。  最近、友人たちは、弱くなったよ、もう駄目だねと言う。たしかに酒量はひと頃より減ったようである。そして酒量が減っただけ、酒品はやや向上したようだ。  昨夜も、今日は早く帰ろうと思いながら、行きつけのバーに顔を出すと、文藝春秋の小林米紀さんがいた。心もち青い顔をしている。 「ちょっと顔色がよくないよ」  と言うと、 「僕も今、あなたにそう言おうと思っていた」  暫時、互いに憮然《ぶぜん》とグラスを舐《な》めていたが、そのうちに何となく調子が出てきて、 「どうです、河岸《かし》を変えますか」 「いいすネ」  というのだから、われら編集者は因果なものである。 矢口 純——。 大正十年、東京雑司ヶ谷に生れる。 昭和二十三年、婦人画報社に入社。 [#この行1字下げ]以来、文壇、画壇をはじめとする執筆家諸氏の知遇を得、また川端康成、高見順両氏のもとで日本ペンクラブの企画委員を勤めた。 昭和三十六年、「婦人画報」編集長。 昭和四十三年、株式会社サン・アドに入社。 [#この行1字下げ]洋酒の宣伝制作プロデューサーとして、『洋酒マメ天国(三十六巻)、『サントリー・グルメ(続刊中)の編集ほか、各種のPR誌を手がけて今日に至る。 著書に『矢口純対談・滋味風味(東京書房)、『私の洋酒ノート(大泉書店)がある。 [#地付き](記・昭和五十六年) [#改ページ]     酒旗の風  昭和二十四年四月の初め、私は国府津《こうづ》の駅を降りた。駅の北寄りの畑道を歩きながら、私は気が重かった。畑には菜の花が咲いていた。私は名取和作さんの家に、ひっそり身を寄せている歌人の川田順さんを訪ねるのである。  当時、川田さんは、歌のお弟子さんで京大教授夫人である鈴鹿俊子さんとの恋愛で世間をアッといわせた渦中の人である。 �老いらくの恋�というのが、川田さんに貼《は》られたレッテルであった。今日のように、マスコミが膨張していたなら、とっくに川田さん夫妻はテレビや週刊誌に追跡され、つかまっていたにちがいない。  しかし、その頃はまだのんびりしていて�老いらくの恋�の新家庭は手つかずになっていた。私の勤めていた「婦人画報」編集部は、のちに岩波写真文庫を創刊・編集した名取洋之助氏と親しいところから、洋之助氏の父君である名取和作氏の邸宅に、川田さん夫妻が身を寄せていることを知ることができた。そして私は、お二人の生活を雑誌のグラビア頁に掲載するために、国府津へ向ったのである。  名取和作氏の邸宅は、まことに広大であった。白い花をつけたからたちの垣根を境にして、小高い山の南斜面いっぱいに畑と森とが展開され、その中に大きな家があった。  川田夫妻は、名取さんの屋敷の離れに住んでいた。離れと母屋の間は、旅館などによくある渡り廊下であった。その頃の住宅事情では、その渡り廊下でさえ、すばらしい住宅であった。  初対面の私が訪問の目的を告げると、川田さんは次の部屋にいる鈴鹿さんの方をチラッとみて、 「庭をご案内しましょう」  といわれて、先にたって表へ出た。追いついた私に、 「私たちがここにいること、どうしてわかったんですか?」  というのが第一声であった。たいへんに困っておられる様子であった。春|酣《たけなわ》の名取邸の庭には、渾々《こんこん》と湧《わ》き出る泉があった。 「飲んでもいいでしょうか?」  私はむやみにのどがかわいていた。 「うまい水ですよ」  私は泉の水を飲んだ。川田さんも私と交替して水を飲んだ。どうしてここがわかったかということで、話はごく自然に名取和作氏のことになった。 「ぜいたくっていうのは、こういうことでしょうなあ。学者であり、実業家である名取さんが、その力を充分に持っていながら、第一線からしりぞいた、これはぜいたくですよ。しかも、うまいものをさんざん食べた人の行きつく境地なんでしょうけれど、自分で菜っぱや大根を作り、そのとりたてを食べる。乳牛を飼ってしぼりたての乳を飲む。ぜいたくでしょう」  そんな話をしているうちに、川田さんはだんだん元気になってこられた。 「うまいものっていえば、先生は何がお好きですか?」 「それが君、いつまでたっても書生料理が好きでね。天ぷら、すき焼き、うな丼《どん》っていうところかな」  端整な顔が明るい若々しい笑顔になると、一高時代の白線帽姿の川田さんが目に浮かぶようであった。私は川田さんが意外に若々しいので、老いらくの恋なんてとんでもないと思った。  邸内の森の茂み——それも私たちのすぐ近くから、けたたましい鳥の鳴き声がした。 「小綬鶏《こじゆけい》?」 「そう、不協和音ですなあ、この鳥は。しかし、肉はうまいんだよ」  老いらくの歌人にしては勢いがよすぎた。  話はピカソの新しい妻のことになり、土門拳さんの写真なら写していただきましょう、これ以上世間をさわがせたら申しわけないという心境で、なるべくひっそりとしていたかったけど、あなたからピカソの話をうかがうと勇気が出てきましたよ、ということになった。  川田さんと私は名取邸を出て県道をしばらく歩いて、一里塚に腰をかけ、満開の桃畑に入って木の下から花を眺めた。  空が碧《あお》かった。川田さんの話は面白かった。中国の詩人の、それも酒好きの詩人の話がしきりと出た。 「ところで、街には飲み屋が復活してるんでしょうか」 「私の社の近くの新橋には『蛇の新』というのがあります。文人墨客入り乱れて盛んなもんです。戦後いち早くカストリから始まって今ではビールも飲めるようになりました」  かなり遠くまで来てしまっている。川田さんは西の空の太陽を見て、 「まだちょっと日は高いようですが、ほんのすこしばかり酒がありますよ」  といわれて、今来た道をもどった。  名取さんの家のからたちの垣根が見え始めた。中国の詩に、友を訪ねると友は不在で、折から垣根のからたちの花が美しかった——そのからたちを、中国の詩では「枳殻《きこく》の花」と表現していますと川田さんは言われた。また、水辺に柳があり、それをすぎると小高い丘まで畑が続き、その一軒の家の軒先には紺色に白くぬいた酒という字の幟《のぼり》が見えて、その幟が風にハタハタと鳴っている。それを「酒旗の風」と表現していますが、「そそりますなあ」と、川田さんの足は早くなった。  私は離れの二間のうち、川田さんの書斎になっている部屋で馳走になった。 「運よく大きなサバが一本入りました」  ということで酒肴《しゆこう》になった。台所は例の渡り廊下のなかほどにあった。夕方になって鈴鹿さんが電気をつけた。はだか電球であった。  数日して、私は土門拳さんと一緒に国府津を訪れた。二日間にわたり、いろいろ取材させていただいた。そのグラビアには、川田順さんの文章もいただいた。題して「掬泉居《きくせんきよ》」。のどがかわいて私が飲んだ泉のことである。文章のむすびには、  俊子に「歌が出来たろう」と訊《き》くと、「台所が忙しいので」と弁解しながら、左の二首を見せた。   しろき花咲けるからたちの垣根もて   麦の畠《はたけ》と家は境す   潮ざゐのかすか聞ゆるこの夜ふけ   山に響きて汽車も過ぎゆけり  とあった。 [#改ページ]     言ふなかれ、君よ、別れを   言ふなかれ、君よ、別れを、   世の常を、また生き死にを、   海ばらのはるけき果てに   今や、はた何をか言はん、   熱き血を捧《ささ》ぐる者の   大いなる胸を叩けよ、   満月を盃《はい》にくだきて   暫《しば》し、ただ酔ひて勢《きほ》へよ   わが征《ゆ》くはバタビヤの街《まち》、   君はよくバンドンを突け   この夕べ相|離《さか》るとも   かがやかし南十字を   いつの夜《よ》か、また共に見ん、   言ふなかれ、君よ、わかれを、   見よ、空と水うつるところ   黙々と雲は行き雲は行けるを。  これは、大木|惇夫《あつお》氏が南支那海の船上で書いた「戦友|別盃《べつぱい》の歌」である。当時学生であった私たちはこの詩を愛唱した。そしてその詩のように、学窓から兵舎に、そして戦場に、散々《ちりぢり》にわかれて行った。言ふなかれ、君よ、わかれを、見よ、空と水うつるところ、黙々と雲は行き雲は行けるを、という心境であった。そして少なくない友人が死んでいった。戦争は終った。  私が「戦友別盃の歌」の詩人にはじめて会ったのは、知人宅の通夜の席であった。詩人も同じく通夜の客であった。  大木さんはいたく憔悴《しようすい》しておられた。何でも疎開先の福島の山中から、東京に帰ったばかりとのことであった。そして一緒に疎開した富沢|有為男《ういお》氏は、まだ福島にとどまっているとのことであった。  今でいうノイローゼであったろう。自宅からその家まで国電で来られたわけだが、二駅か三駅乗っては降り、乗っては降りして、三時間もかかってつきました、と言われた。  私は大木さんの姿に、戦争のつらかったこと、長かったことを、今更のように思った。知人宅にはその頃では珍しいウイスキーが何本かあった。私たち数人はそのウイスキーを飲みながらとうとう夜明かしをしてしまった。  大木さんも酒が入ってくると、だんだん元気になって、報道班員となってバタビヤ沖海戦に参加し、沈没して南の海に漂った話や、大木さんの師、北原白秋の逸話などを自分から話すようになった。自らの言葉に激して、ハラハラと落涙されたりした。私はそこに、詩人の姿を見た。文字通り、通夜となって朝の陽ざしの中で宴は果てた。突如、大木さんが同席した人に、一人一人握手を求め、 「愉快な晩でした」  と、大きな声で叫んでから、ハッと気付き、 「不謹慎でした」  と、今度は小声でつぶやいて、ピョコンと頭を下げた。そのたくまざるユーモアが、大木さんの人柄を語るようであった。  戦前の文芸雑誌の編集者の間では、「武田|麟太郎《りんたろう》はツライ。大木惇夫はイタイ」という伝説があったそうだ。つまり武田麟太郎の原稿をとるのは、武田さんが締切りを守らずしかも神出鬼没するのでツライのである。大木惇夫の詩をとるためには、大木さんと酒を飲まねばならぬ、酒を飲むのは結構だが、酔うと大木さんは、やたらに握手をし、感きわまれば頬ずりをする、それがイタイのだそうだ。  通夜の晩から数年して、私はツライ、イタイの伝説が真説であることを知った。私は大木さんの自叙伝風の小説『緑地ありや』の担当記者になり、約十三カ月を大木さんと密着して過すようになったのである。  大田区千鳥町のお宅で、盃《さかずき》をかわし、新橋、渋谷、神楽坂《かぐらざか》と、原稿の前祝いといっては飲み、第何回分完成祝いといっては飲んだ。すこぶるイタかった。  そして『緑地ありや』が本当に完成した夏の一夕、私は大森の都新地に招待された。今晩は徹底的に飲もう、というのである。「とんぼ」という料亭であった。座敷のすぐ下は堀割で、すぐに海であった。「とんぼ」のおかみは、なかなかの女傑で、大木さんとは昔からの知り合いである。美しい芸者も来た。飲むほどに、酔うほどに、その夜の大木さんは勇気|凜々《りんりん》、仕方話は、いつしかジャワの頃になり、いよいよ佳境に入った。その勢いに芸者たちは、だんだん席の端の方に退《さが》り、小さくなってかたまった。  ジャワで報道班が解散になり、班員たちが別離の宴をはった時の話になった。宴たけなわの頃、大木さんは満座の中で即興の詩を朗詠したという。それを「とんぼ」の座敷で再現するのである。大木さんはジャワでは真に謹厳な生活をされていたという。はるかに日本に残した愛する人を想えばのことであったそうな。されば——   ほとほとに困《こう》じ果てたるわが|ほと《ヽヽ》を   山の夜霧に触りつるかも   いかならむいましが|ほと《ヽヽ》もほとほとに   歎《なげ》きつらむか触る者なくに   わが魔羅《マラ》が三千海里の長さあらば   何を海原越えて汝《なれ》に触れむ  と、一差し舞いながら朗ずると、「三寸足りない」と声がかかった。大宅壮一氏であった。大木さんは、束《つか》の間《ま》、ポカンとしたが、大宅さんのギャグがわかり、されば——   わが魔羅《マラ》が三千海里三寸の長さあらば   何を海原越えて汝に触れむ 「字余りは許せよ」  と大木さんは大宅さんに言ったそうである。そのかつてのジャワの別離の宴の熱演も終った。海からポンポンポンという焼き玉エンジンの音がした。  おばしまに立つと、海はすでに夜明けの海であった。すぐ下を小舟が漁場に向うところであった。料亭の小さな植込みから、とまどいしたように蝉《せみ》が啼き出した。蹌踉《そうろう》として私のかたえに立った大木さんが言った。 「セ、セ、セミも起きたね」 [#改ページ]     岩魚《いわな》と樅《もみ》の木  井伏鱒二先生とは、これまで三度旅行をした。第一回は笛吹川のほとりや「火もまた涼し」の快川和尚《かいせんおしよう》で有名な恵林寺を、土門拳さんと共に取材して歩いた。宿は先生の常宿である甲府市内の「梅ヶ枝」に厄介になった。この旅行で先生から「塩山・差出磯《さしでのいそ》」という作品をいただいた。  二回目は瀬戸内海の鞆《とも》の津で、藤原審爾さんやカメラの朝倉隆さんも一緒だった。これも私が企画した仕事のための旅ではあったが、楽しい旅だった。  鞆の津は、先生の故郷の福山を経由して行く。先生とは古いなじみの福山駅前の小林旅館にひとまず旅装をといた。そこのきれいな娘さんもグラビアに載せたくなって、鞆の津まで同行してもらったりした。  仕事が終ってから福山に戻り、先生の友人の家でみごとな落鮎《おちあゆ》を馳走になった。九月の末であったが、膳にははしりの松茸《まつたけ》も出た。そこの奥さんが焼松の大皿を運んできた時、 「奥なばでございますが」  と言われた。井伏先生が私に、 「ここらでは、茸《きのこ》のことを|なば《ヽヽ》と言うんです。奥なばとは自分の持山に出るなばではなくて、もっと深い奥山から木樵《きこり》が取ってきた|なば《ヽヽ》という意味です」  と説明された。その家はいかにも旧家の風情があった。昔から梵鐘《ぼんしよう》も作っていて、京や遠く江戸まで、多くの名刹《めいさつ》の鐘を送り出していたということである。  私はこの旅の楽しさが忘れられなくて、今度は全く仕事なしの気楽な旅を先生と共にしたくなった。そこで藤原審爾さんをそそのかして、清水町に旅の勧誘にでかけた。 「私の先輩が日光の奥に山の木を持っています。その村は……村というよりは東京でいえば一つの区ほどの広さなんですが、その村が国と争いましてね。つまり村有林か国有林かの裁判が三十年も続いたんです。結果は村の勝ちになりました。私の先輩の厳父《おやじ》さんがその裁判の弁護士だったところから、山の木を七・三の割で分けてもらったんだそうで……その間、山の木は育ちに育って……もっとも雑木が多いのですが、みずなら、ぶな、こなら、くぬぎ、とち、ほお、かんば、それに檜《ひのき》、杉、松も混って壮大に育っているそうです。木を見に行きませんか」  と私がいえば、藤原さんが脇から、 「その樹林の中を流れる湯西《ゆにし》川は魚影が濃いと言われます。しかも、湯西館という旅館の主人が山菜料理で待っています……その宿から下駄ばきで下りて、山女《やまめ》が釣れるという話です」  とたたみ込んだ。かくして旅の勧誘は成功したのである。  五月末のある晴れた日、井伏鱒二、藤原審爾、カメラマンの林忠彦、映画のプロデューサーの宮内義治、「辻留」のぼんぼんのひな留、講談社の川島勝各氏と私は東武電車に乗りこんだ。  今市で降りてハイヤーでかなりの距離があった。なるほど山奥である。私たちは樹海の中を突き進んだ。朝早くでかけたのに、午後三時頃湯西館に着いた。そこは湯西川の作った小さな洲《す》に建てられていて、人家はあと一軒、小料理屋があるだけである。  湯西川はまさに渓流のたたずまいで、清冽《せいれつ》な水が勢いよく流れ、その曲りっぱなは潭《たん》となり淵《えん》となっていた。そして水の上にまで、樹々の枝が茂り、中には藤の花をつけた枝もあった。  私たちは晩めしまで山女釣りをすることにした。しかし素人が釣るには足場もなく、道糸を流れに振りこむことも難しかった。名人の先生を残して、一人、二人と早々に竿《さお》を収めては、宿に引上げて、酒になった。  いい加減、暗くなった頃、川島さんがけたたましい声とともに部屋に帰ってきた。見れば胸に大きな岩魚を二尾かかえている。 「すぐ下《しも》で先生が……」  と興奮しているところへ先生が現われた。 「山女のつもりが岩魚になって……勝ちゃんのピケの帽子をタモにして貰いましたよ」  まさに尺余の大岩魚である。私たちは膳の上に熊笹を敷き、大岩魚を眺めながら酒をのんだ。しばらく楽しんでから、調理場から味噌と酒をもらって、ひな留が手際よく味噌漬にして木箱に収めた。  宴果てた後、先生の、 「ちょっと外に出ましょうか」  のひと言で、皆嬉々として外に出た。外といっても例の小さな中洲の小料理屋しかない。こんな山奥にきても、私たちははしごの習性はなおらないのか?  次の朝早く先生の部屋に行くと、先生はすでに起きておられた。寝坊のはずの藤原さんもやって来て、すぐ将棋になった。目まぐるしいほどの早ざしで二番続けて藤原さんが勝った。先生が駒を収めながら言った。 「おかしいおかしいと思ったら、散歩用の眼鏡をかけていた」  私たちの視角から、川原と流れと向う岸の山の裾の部分がみえた。その山の樹々に朝の陽がさしてきた。漸《ようや》く飴色《あめいろ》の葉をつけ始めた雑木に混って、ひと際鮮やかな緑の常磐樹《ときわぎ》があった。 「樅の木でしょうか」  と私がいうと先生は、 「樅の木です、若いなあ、十六の少女のようですね」  樅の若木は朝の陽ざしの中に、いよいよ艶やかに匂うようだった。 [#改ページ]     あの雲の下 「九州の病院から信州の鹿教湯《かけゆ》温泉にきて療養しております。少し近くなりました。もし信州まで来られたら、お立寄り下さい」  土門拳夫人からの手紙である。カメラを持ったまま山口で倒れて、九州医大に運ばれて入院した土門さんを、私は忙しさにかまけて、まだお見舞いをしていない。土門さんが倒れたのは、今度で二度目である。  初めて土門さんが脳出血の発作を起こしたのは、もうかれこれ八、九年前になるだろうか。その時は飯田橋の警察病院に入院した。私は母が託した風呂敷包みを抱えて、病院に駆けつけた。意外にも土門さんはベッドに坐っていた。いつもの顔色で、全く元気だった。そして風呂敷の結び目を自分でほどこうとさえした。重箱が出てきて重箱の蓋を取ると、中にはセリ、ヨメナ、ツクシの浸し物があった。母が摘んで作ったものである。土門さんは左手の指で、ツクシンボをひとつつまんで、 「ちくしょう、春か!」  と言った。これだけ元気ならよいと、私は内心ほっとした。  その後、見舞いに行くと夫人や母堂の話では、守衛の目を盗んで病院を脱けだして困るとのことだった。警察病院を脱けだすのだから、常人よりよっぽど達者である。  その土門さんが、二度目の発作を起こした時は、正直のところショックだった。しかし二年ぶりに信州の温泉療養にまでこぎつけたのはまことに嬉しいことだ。弟子の三木淳さん、石井彰さん、友人の渡辺好章氏らの献身的な努力も立派だった。土門さんは、信州でいまを盛りの高原の花を眺めていることだろう。  信州の高原の花といえば、私は土門さんと幾度かの夏を、花の撮影に過した。小海線で小諸《こもろ》から三反田《さんたんだ》を経て、野辺山《のべやま》に行ったのは、その頃ではまだ珍しかった4×5撮影機材やフィルムを担いでいったのだから、大分古い話になる。  私は土門さんを、まず三反田の佐久総合病院に引張っていった。病院長の若月俊一氏を、土門さんに会わせたかったからである。農村と農民を心から愛してやまない医者が日本にいることを、土門さんに知ってもらいたかったからである。  あいにく若月さんは不在であった。しかし私たちが来院したことを知って、若い医者やインターン生が、野辺山に一緒に行こうと言いだした。野辺山の八ヶ岳|山麓《さんろく》開拓地へ、ちょうど巡回診療のスケジュールがあるという。  この若者たちも実に清々《すがすが》しい集団であった。医療器材のほかに演劇の衣裳《いしよう》や小道具をリュックに詰めこんだ。診療が終れば、夜は村の人に芝居を見せるのだそうだ。この演劇の作ならびに演出は、若月俊一氏のものである。  野辺山の駅を降りると、その頃は駅前に旅館が一軒と、二、三軒の小さな食堂があるだけで、あとは八ヶ岳まで緑一色の高原がつづいていた。その広大な高原に、開拓者の家が点在していた。自分たちの手で自ら築いた、ブロックの粗末な家である。  土門さんと私、そして土門さんの助手は巡回診療班の後について、一軒一軒家をまわった。 「次の家はどこにありますか?」 「あの雲の下です」  私は、はじめて雲が道しるべになることを知った。  高原の夏の陽は容赦なく照りつけ、草いきれの中に鮮やかな色の蝶が横切ったりした。そして涯《はて》しない草原の中に、時々一町歩とか二町歩とか、大根畑が出現した。大根畑は草原と見較べると、芝生のように見えた。  ここの開拓地は大根一本槍で勝負していた。あまり大きくならない大根は、収穫すると、すぐに洗って干さずに即製の沢庵《たくあん》漬にする。開拓者たちは小さな共同の加工工場を造って、野辺山駅からそのほとんどを大阪方面へ出荷していた。  巡回診療は、赤い夕陽が八ヶ岳の山裾に入るまで行われた。その夜は開拓村あげての盆踊りになった。昼間無口でちょっと取っ付きの悪かった看護婦さんが、踊りの輪でひときわ見事な手振りで踊っていた。なかなかあだっぽかった。土門さんも私も、輪に加わった。 「百姓になったんだから、一日に一回だけでいいから、米の飯を腹いっぱい食いたいですよ」  と一人の開拓者が踊りながら、私に話しかけた。私のひとつ前にいる土門さんの顔が、キュッと締った。  明け方近く駅前の粗末な旅館に戻る道で土門さんが、 「今日以降われわれ都会人は、米の飯は茶碗に一杯きりにしようではないか」  と提案した。 「そうしましょう。マグロみたいに太っているばかりが能じゃない」 「汝《なんじ》はマグロより、むしろイルカに近いと思われる」  私たちは一日一善をもじって「一膳会」と名をつけ、発起人二名による会員二名の会が発足した。  翌日、若い医者や看護婦さんと別れて、私たちはカラーで高原の花を撮った。八手の花に似た山ウドには、夥《おびただ》しいアブが群れていた。女郎花《おみなえし》、吾亦紅《われもこう》、桔梗《ききよう》、松虫草、はてはゲンノショウコの花まで、土門さんはシャッターを切りつづけた。  道で会った人が、桔梗の花の群落があると言うので、苦心の末、車を見つけて桔梗ヶ原へと向った。その名の通り原一面が紫に揺れていた。  宝の山に入りながら土門さんは桔梗を撮らなかった。その代り、桔梗の原に寝て青空を眺めた。さらばと私も原に寝て、青空を眺めた。マグロとイルカが青空を眺めた。助手が一人ぽつんと立っていた。白い夏雲が浮かんでいた。  どのくらい経っただろうか、その白い夏雲が茜色《あかねいろ》に変わり、遠い八ヶ岳も草原もそして私たちも、朱色に塗りこめられた。  大夕焼けの中に、桔梗の花々がうす紫から藍《あい》に変わった。私の寝ているすぐ傍で、小鳥の稚《おさな》い鳴き声がした。その鳴き声が草を這《は》うように近づいてきた。そして私の足元まで来た。コロコロしたやけに丸っこい小鳥は、モズの子であった。  土門さんが、「カメラ」と助手に怒鳴った。桔梗の花を撮らずに、土門さんという人は迷い子のモズの子を追い掛けるのである。そしてそれに熱中するのである。暫《しばら》くすると土門さんの頭のすぐ上を、そして肩口までも降りてモズの母親が旋回しはじめた。 「もう少し待ってくれ」  と土門さんがモズの母親に言った。精悍《せいかん》そのものの眼差《まなざ》しが一瞬弱まり、口元から白い歯が洩れた。土門さん特有の恥じらいの顔であった。 [#改ページ]     杏《あんず》の花を撮りに行こう  ——杏の花を撮りに行こう。真田幸村が飢饉《ききん》に備えて植えさせた杏の里、信州・森《もり》村に行こう。四月の半ばには、森村は杏の花で埋ってしまう。春の朧《おぼろ》、杏の花の下に立とう。四月には、杏の里を、杏の花を撮りに行こう。  土門さんは私の顔を見るたびに、森村の杏の花の話をした。一緒に写真を撮りに行こうと誘った。私も賛成して、四月の来るのを待ち侘《わ》びた。だが四月半ばになっても土門さんは他の仕事に追われていた。  そして杏の花期が過ぎる頃、来年は必ず行こうと言った。次の年も虚《むな》しく杏の花期は過ぎて行った。私は決して土門さんを恨まなかった。眼を閉じれば、まだ見ぬ杏の村のたたずまいがいよいよ美しく、そして朧に広がるようであった。  土門さんは緻密《ちみつ》な人であり、几帳面《きちようめん》な人でもあるが、何かに熱中すると他のことが見えなくなる人である。だからひとつの仕事を始めると、次の計画も、人との約束も、きれいさっぱり無くなってしまう。しかもひとつの仕事が終ってから次の仕事の取っ掛かりが、なかなかつかない人である。それは怠けてそうなるのではなく、そのことを真剣に考えるあまり、神輿《みこし》があがらないのである。  だから一緒に旅する時には、時間を決めて東京駅や羽田空港で待ち合わせるよりも、明石町の土門さんの家に直行して、撮影機材ともども土門さんを車に積んでしまうに限る。私は仕事の都度、こういう手段をとった。  関西行きを約束した朝、明石町の家を訪ねると、土門さんは着物で胡坐《あぐら》をかいて朝食をとっているところだった。熱い里芋の赤だし、新巻の鮭《さけ》がうまそうだった。土門さんはどんぶりほどに見える大振りな茶碗で、ご飯を食べていた。私の顔を見て、会釈しながら「おかわり」と大振りな茶碗を奥さんに差出した。私はご飯をよそる奥さんに、 「おかわりをするんですか? 私たち二人は一膳会の会員ですよ。一食、一膳の誓いを立てている筈なんですがね……」  と訊《き》くと、夫人は、 「そういえば、去年の夏だったかしら、矢口さんと信州から帰って来た当座、一週間くらいでしたかね、ご飯一杯しか食べないんで、お腹《なか》でも悪いのかと思っていましたよ」  奥さんの言葉に、土門さんは体を小さく丸めて、イタズラを見つけられた腕白小僧のようにした。  その時の関西の旅行で、私は一年もの長い間裏切られた無念さで、モリモリご飯をおかわりして食べた。土門さんはそんな私を上目使いで見ながら、 「すまなかった、悪かった。オイ、おかわり!」  と、宿の女中にご飯のおかわりをした。かくして一膳会は脆《もろ》くも雲散霧消したのである。  その年の六月も終る頃、土門さんが編集室にやってきて、杏の森村に行こうと言いだした。 「そろそろ七月ですよ。杏の実でも撮りに行きましょうかネ」  と皮肉ると、杏の花で有名な森村は今や花作りの村になっていて、今はカーネイションと菊の最盛期で、屋代《やしろ》の駅から東京へ花の貨車が出るほどだと強調した。  私は杏の花が咲いていなくても一度森村を見たかったし、嘗《かつ》ての真田幸村の領民がカーネイションを作っているのも面白く思った。土門さんと信州に行くことにした。  上野の駅でも信越線の車中でも土門さんは好奇の目で迎えられた。土門さんは赤と白の太いストライプの特別発注のポロシャツを着ていた。しかも安南人が冠《かぶ》るような菅笠《すげがさ》を冠っていた。  千曲川が左に見えはじめ、それが大きく曲ると、急行は戸倉駅に着いた。私たちは戸倉駅で降りて、戸倉温泉の清風園にひとまず旅装を解くことにした。私は駅長室に行って戸倉駅長に刺を通じて、今夜の上り夜行の貨車には屋代駅で花が積み込まれるかを確かめ、土門拳さんに写真を撮ってもらうことにしていると言って、ホームに立っている菅笠姿の土門さんを指差した。駅長の視線が窓ガラスごしに菅笠姿で止り、凝視の眼差しになり、 「あの方が土門先生ですか」  と言って、 「わかりました」  と挙手の礼をした。私は清風園に滞在することもつけ加えた。  タクシーで清風園に行ったが、七月もはじめのシーズンオフというのに、部屋が満員ということで断られた。その時、戸倉駅長から電話が掛かった。駅長は、 「土門拳先生の撮影の件で配車計画をご報告したい」  というような表現をしたらしい。宿の人の態度は一変して、私たちは奥のそのまた奥の、たいへんいい部屋に通された。  廊下ですれ違う女中さんは揃《そろ》いの軽快なワンピースを着ていた。その人たちは、夜にはスリーピースの新しい着物のユニフォームに早替りした。デザインは桑沢洋子さんのものであった。こんな新しい経営者の宿でも、どうやら土門さんの扮装は理解の外にあったらしい。  その日から、菅笠と赤白ストライプが、屋代駅|界隈《かいわい》、杏の里の村道や背戸を徘徊《はいかい》し始めた。訪れた農協では、いかにも頭のよさそうな若い職員が土門さんの姿に度肝を抜かれ、一瞬ポカンとした。  しかし、その青年もいつの間にか取材に献身的に協力しはじめる。深夜作業の駅員も、取材に協力してくれた。出荷される花は、菊もカーネイションも葦簾《よしず》の簀巻《すまき》で貨車に積まれるのである。花の|しとね《ヽヽヽ》とは思えぬ風情で、次々に積みこまれていった。  村の子供たちは一連隊のように、私たちのあとをついて歩いた。私たちは持てるだけのキャラメルをポケットや鞄《かばん》に忍ばせて、村の子供たちにプレゼントした。子供好きの土門さんには、東京の子供たちも、広島の子供たちも、そして信州の村の子供たちもすべて身近な友だちなのである。  安南人が使用する菅笠とビーチパラソル風のシャツが抜けるように青い夏空のもとで、シャッターを切って歩いた。  屋代駅の裏にある田舎によくあるよろず屋風の店のおばあさんとも友だちになった。空気がきれいだから、夏の陽は強い。おばあさんは土門さんのために氷いちごを作った。  カンナに氷をのせて、氷の上に布巾をのせてガリガリ掻《か》くあの時代物の氷かきで、おばあさんは汗ダクになって、氷いちごを作った。作るそばから土門さんはその氷いちごを平らげた。  おばあさんの額に汗の粒が吹いて出た。消費が生産を上回るのである。しかしそんなことは容赦せずに土門さんはひたすら氷いちごを飲み込むのである。  おばあさんは襷《たすき》にたたまれた着物の袖を抜くようにして、その袖で額の汗を拭いた。そして土門さんがうまそうに氷いちごを食べるのを嬉しそうに見やるのであった。 [#改ページ]     摘み草の頃  ひところ、春がやってくると、都心からかなり遠い国立《くにたち》市のわが周辺は、にわかに賑《にぎ》やかになった。それは摘み草をする友人たちがたずねてくるからだ。摘み草は国立にかぎる、と当地を名所にしたのは、わが隣人、山口瞳さんである。  山口さんが国立に越してきて間もなく、山口さんと、近くの多摩川に散歩に行った。散歩のついでに摘み草をして、ハンカチや帽子にいっぱい、セリだとかヨメナ、ツクシンボをとって家ヅトにして帰った。  私はそのまま山口さんの家に寄って、ツクシンボの袴《はかま》をとり、セリは根を切って茎をそろえ、油でいためたり、ゴマよごしにして、いま摘んできたばかりの春の草を肴《さかな》に一杯のんだ。酒が終る頃、ヨメナごはんができた。ヨメナは茶碗の中で鮮烈な緑であった。  それからというものは、山口さんは摘み草が病みつきになったのである。そして私に、行こう行こうというのである。そんなに行きたければ一人で行けばいいのだが、山口さんはツクシのはえる場所がわからない。ヨメナと雑草の区別がわからない。だから一緒に行こうというのである。  そしてとうとう摘み草のことを随筆にまで書いたり、夜の銀座などで吹聴《ふいちよう》もした。それだけではおさまらなくて、摘み草会の発起人になり、幹事役になるのである。その都度、私は地元議員兼農夫のような役割を果たすようになった。  伊丹十三氏の『ヨーロッパ退屈日記』が単行本になった時も、版元の担当記者である竹内さん夫妻など、ごく内輪の人だけで摘み草出版記念会というのをしたことがある。ささやかだが、いい会だった。会を企画した山口さんは、出版記念会としては秀逸、アイデア賞ものだと大いに喜んでいた。  さて、そのほかどんな摘み草会があったか? と思い出してみると、四月になってはじめての日曜日に、文藝春秋の田川博一さん一家、梶山季之さん一家、そして地元の山口さん、私と、四家族で一日中田んぼの畔《あぜ》で楽しんだことを思い出した。  いかに草深い国立とはいえ、すでに大きな団地が二つもできて、急激に人口が多くなった。だから前のように気軽に散歩のついでにツクシをとる、というわけにはいかなくなった。それに四月をすぎるとツクシンボはそろそろ品薄になる。山口さんが心配して、真剣な顔をして、「何とか頼みます」というのである。そこで少しばかり遠くまで車を走らせた。多摩川の支流の浅川の、そのまた支流である大栗川の方へ行ってみた。あてずっぽに車を止めて、「ここらへんはどうだんベェ」と、田んぼの傍らの土手に立ってみたら、ツクシンボの林なのである。山口さんが感激して、「あなたは天才です」と握手を求めた。遠来の客を前にして、地元議員としてはホッとしたのである。そこで四家族・4×3=12人が歓声をあげてツクシンボに突撃した。  ツクシをとってから、今度は田の畔でセリとヨメナをとることにした。私が、セリはこれで、ヨメナはこれ、とまずサンプルを示し、田んぼに散開した。ところで粋《いき》なチロルハットの田川さんは、野草なんてものは馬が喰うほど生えているものだと達観して、はやウイスキーをのみはじめている。  そして企画委員の山口さんは何回教えても、ヨメナとヨメナに似た雑草との区別がつかないのである。しこたまとって私のところに持ってくるものは、断然ヨメナではない。 「しかしカロリーはありそうだ」  などとしょげるのだが、とうとう、 「取ったものでも洗いましょうか」  とか、 「何か運ぶものはありませんか」  とか、摘み草作業からおりてしまうのだ。  ところでわが流行作家、梶山さんは、私の示すヨメナを、餌《えさ》に顔をよせてくる動物園のラクダのように、いよいよ眼を細めて観察し、「これがヨメナっちゅうもんかい」と納得するや否や、猛烈な勢いで摘み出すのである。そのスピード、そしてそのスタミナ、その勇姿をみれば、なるほど、一日百枚の原稿なんてものの数ではないと思われる。  私たちは枯草の中にひそむ春の息吹きを、思う存分摘み草してから、田のへりにつづいた丘にある小っちゃな神社で食事をした。  車をおりたところからは、かなり離れたところなので、酒や食物を運ぶのも一仕事であったが、そんな時の梶山さんは白い鉢巻をして、大づつみをかついでいくのである。  男は酒、女房族はオシャベリ、各家の子供たちは高校二年から御年《オントシ》四歳までレパートリーにとんでいるが、ナゾナゾなどして遊んでいる。折しも徳川家康ブームの頃だったので、 「もし家康がいま生きていたらどうなったでしょう?」  などといっている。その答えは、 「日本の人口が一人増えるでしょう」  なんだそうである。  私たちは、春の陽ざしの中で他愛なく笑った。それにしても、この家族は皆、一人っ子である。女房は各一人ずつ(これはまあそうであろうが)。何故に? 一人っ子ばかりなのだろうか?  都合で来られなかったムラさん(村島健一さん)のところも、開高健さんのところも、申しあわせたように一人っ子である。  私がそんなことをふと考えている時、鉢巻姿でグラスを傾けていた梶山さんも、思いはひとつらしく一人言のように言った。 「何故? 一人しかとれんもんじゃろか?」 [#改ページ]     やれんヮ  三日つづいて、明け方、蜩《ひぐらし》の声をきいた。時計をみると、きまって四時三十分。蜩は、まだ残っている小さな林から、ひとつが鳴くとそれを追いかけるように次から次と鳴くのである。それは、まだ醒《さ》めやらぬ寝床の中の私に、確かにきこえたり夢の中できこえたりするようでもあった。時計をみて、ああ、また四時三十分かと思う夢うつつのうちに、その声はほんの一時でぴたりとやんでしまう。  蜩はその言葉どおり|日暮し《ヽヽヽ》で、元来は夏の夕方に鳴く蝉である。勤めを持つ身だから、夕方までに帰宅するのはむずかしいが、この二日ばかり早く帰ることができた。しかし、明け方あれほど鳴いた蜩はいっかな鳴いてくれないのである。蜩はその名にそむいて明け方の蝉に転向したのだろうか。   しづかさや岩にしみいる蝉の声  の蝉は、おそらく|にいにい《ヽヽヽヽ》蝉かあぶら蝉であろう。むろん、この句は真昼の光景である。私の住む町では、にいにい蝉やあぶら蝉はいまなお健在のようである。いっせいに鳴きだすときなどにはなかなか壮《さか》んで電話の声もききとりにくいくらいだ。立原正秋さんに会った時この話をしたら、 「国立は田んぼがないでしょう」  と言った。田んぼがないと、農薬の洗礼を免がれて蝉がいるのだそうだ。そういわれると立原さんの言われるとおり、わが町国立は、甲州街道から国電寄りは人家と学校のキャンパスと小さな雑木林と、ほんの少しの畑があるだけである。田んぼがないことと学園都市の恩恵で緑が残っているので蝉が多いのだろう。  三日つづけて明け方の蜩をきいて、唐突にも遠藤周作氏の顔を思いだした。  遠藤さんが電話魔であることを知ったのは、たしか亡くなった梅崎春生氏の随筆からだったと思う。そして電話魔というよりは、むしろいたずら電話、チャメ電話であるのを知ったのは、遠藤さんと親しい仲間の作家や編集者の被害話からであった。しかしそのいたずらやチャメっ気がごく限られた人との間の出来事であった。それはわが町、国立できくことのできる明け方の蜩の声のようであった。  それから十数年、マスコミは年々歳々膨張し続けて、遠藤さんのかくし芸を表芸へとかりたてたのである。  遠藤さんは、自らを狐狸庵《こりあん》と称したばっかりに、狐狸庵先生は毎週随筆を書くことになった。これは文士の表芸であるからいたし方ないが、毎週大向うの喝采《かつさい》をあびるよう書きつづけるのには大へんな努力が必要であろう。つまり、大向うが遠藤さんのいたずらやチャメっ気を期待していうことをきかなくなったのである。  ある夜、銀座のバーで飲んでいると、白い美髯《びぜん》をたくわえた茶人が入ってきた。茶人だから茶色を選んだかしらぬが、茶の宗匠頭巾、これも茶の|もじり《ヽヽヽ》を着て、杖《つえ》までついている。  茶人は遠藤周作さん扮《ふん》する狐狸庵先生であった。狐狸庵先生はホステスの歓声と、そのバーの常連たちに拍手をもって迎えられて、大へんなもて方であった。  狐狸庵先生は、悠揚せまらずにこやかに客やホステスに対していた。しかも、あまり長居もせずひきぎわまで鮮やかに、さっと席をたっていくのである。  そして私のボックスの脇を、ホステスの華やかな声に囲まれて通りすぎようとした。そして私の脇を通りぬける時、ちょっとこごんで耳元に何か囁《ささや》いた。華やかな声の中で低い声だったから、確かにはききとれなかったが、おそらく「やれんヮ」だったか?……。  私は、美女と対談中のテレビ画面の遠藤さんのプロフィールに、この「やれんヮ」を束《つか》の間《ま》みることがある。どうやら、遠藤さんは恥かしがり屋で、シンゾウもそれほど強くないのではないか? 女優好き、テレビ好きなどというのは遠藤さんの擬態ではないか? 恥かしさのあまりの居なおりではなかろうか?  あれはもう何年前のことであろう。「葡萄屋」が、いまの日航ホテルの裏にあったころのことである。私が飲んでいると、遠藤さんがひとりで現われた。私を見つけると、喜色あふれて、しかも小声で、 「いま、フランスの友人を羽田に迎えに行ってきたところなんだ。その友人は疲れているのでホテルに泊めてきたんだけれど、これが彼の土産(と、おもむろに金色の小函《こばこ》をとりだし、いかにも嬉しそうに微笑《ほほえ》んでいよいよ小声で)オナラが出るクスリ! ためしましょう。やっぱ、ママにする?」  そこで私たちは、 「オン・ザ・ロックスをママにもお嬢さん方にもご馳走します」とオーダーして、オン・ザ・ロックスがくると、そのひとつに素早く例の薬を入れた。そして、 「今日はうれしいことがあったんや。みんなで乾杯!」  というくだりまで、誠にスムーズにやりとげた。問題のグラスは、われらが敬愛してやまざる「葡萄屋」のママ、井上道子さんの手にある。 「今晩はヘンな晩だワ」  とママ。 「もう変になりましたか?」  と遠藤さん。 「なにいってんのよ。どんな嬉しいことがあったか知らないけど、お二人がご馳走してくださるなんて、ヘンな晩じゃない?」  これはご挨拶である。  ところがである。三十分たっても異変はおこらないのである。一時間たっても、ママはいよいよ艶《あで》やかさをくわえるばかり。 「ホントに効くのかい?」 「もちろん。しかし、分量を間違ったか?」と、われわれはあせり、いたずらに夜は更けてゆく。昔の「葡萄屋」はカウンターの左手に化粧室があった。ママがその近くに行こうものなら、遠藤さんは素早く立って走ってママの傍に立つ。 「お腹が痛い?」 「あたし? お腹がどうしたのよ?」  フランスのくすり、駄目でありました。  同じ「葡萄屋」で、ある夜思いきり汚い話を遠藤さんと競いあった。話の途中で遠藤さんはトイレに立った。自らの汚いつくり話に胸がわるくなり少々吐いたのである。  いま気が付いたのだが、蜩という字の|つくり《ヽヽヽ》は、周作の周という字である。蜩は夜のものだろうか? [#改ページ]     うーなぎ、うなぎ  ものの本に「そもそも落しばなしといふものの起源をおもふに、昔の秀句など、その初めなりけむ」とある。この「秀句」を、昔は�すく�とよんだらしい。  兼好法師の『徒然草』にも「いみじき秀句なりけり」といった使われ方がされている。秀句であるから、文学教養の素養がなければとても扱えない。だから、その昔はもっぱら上流階級の言語遊戯であったが、下って江戸時代には一般大衆にも口合《くちあい》・地口《じぐち》になって、庶民の中に浸透したという。  つまり八っつぁんや熊さんが、 「香炉峰の雪は?」  と問われて、すぐさま立ち上り、ツツツと座敷を横切って簾《すだれ》をかかげ、 「簾をかかげて見る」などと清少納言のような訳にはいかない。せいぜい「沖の暗いに」をふまえて、「夜着の古いに虱《しらみ》がふえる」のが関の山である。  そして夕涼みの縁台将棋あたりで、もっぱら地口で駄洒落《だじや》れたのである。「王手うれしや別れのつらさ」とか、「角成り果つるは理の当然」「飛車は飛車でも薬箱持たぬ」などと鼻をウゴめかした。  こんなことを詳細に書いてある本を読んでいるうちに、八っつぁんか熊さんが横町のご隠居に追いつめられて、「うーなぎ、うなぎ何見てはねる」と言うのにつきあたった。  これは八っつぁん、いかにも苦しい。出典《もと》は皆様ご存じの、 「うさぎうさぎ何見てはねる、十五夜お月さま見てはねる」  というわらべ唄である。うなぎが十五夜お月さまを見てはねるのを想像すると、なかなかユーモラスである。しかし、私をはじめとして、私のある仲間は八っつぁんを笑えないのである。  私たち仲間の、誰が言いだしたか�月見の会�という集まりが、いつのまにかできた。メンバーは吉行淳之介、安岡章太郎、山口瞳、梶山季之、村島健一、小島功、岡部冬彦、伊丹十三、それに私という顔ぶれである。  とにかく仲秋の名月|あたり《ヽヽヽ》を期して——|あたり《ヽヽヽ》というのだから月見の宴などといえたものでないが、ともかく一堂に会して酒を酌む趣向である。  月が出なくてもいいのである。要するに飲めばいいのである。ひどい月見があったものだ。  だから、好評だった月見は、その頃、まだ麹町《こうじまち》に住んでいた伊丹十三さんの家の宴《うたげ》で、その夜は大雨だった。何が好評かというと、銀座に近いからだ。梶山さんはじめ銀座の顔ききが、電話をかけてはホステスを呼び寄せるのである。電話をうけたクラブやバーのほうでも、どしゃ降りの大雨で、店も閑《ひま》だったのか、入れかわり立ちかわり、雨をついてかけつけてくれた。 「なにがお月見よ、月なんか出てないじゃない」  と、あきれ顔のホステスもいる。 「いや、私のおぼろ月夜でまにあわせて、飲《や》っております」  自分の頭のことを少しばかり気にしはじめていた山口瞳さんの犠牲的発言である。  何回目かの月見の宴は、当番が岡部冬彦さんであった。浦和の住人、岡部さんは会場を大宮のうなぎ屋に決めた。会員たちは浦和のうなぎは知っているが、大宮のうなぎなんてどうせ場違《ばち》だろうなどと、口ではぶつぶつ言いながら、いそいそと出かけていった。その日が仲秋の名月であったかどうかは失念した。大宮に着くと、西空に夕焼けがきれいだったから、その夜はおそらく美しい月が出ていたのだろう。  そのうなぎ屋は大宮市のはずれの公園みたいなところにあって、かまえも大きくなかなかのものであった。皆、当番の岡部さんに、さすが、さすがなどとおせじをつかった。 「|こんち《ヽヽヽ》、皆様をこんな草深いところまで、お呼びしましたについては、幹事の出血サービスによる、大宮えりぬきの芸者を用意いたしました」  という言葉を聞いたからである。  えりぬきの芸者は、正直言って、何がえりぬきなのかわからなかったが、出てきたうなぎの皿にはびっくりした。朱塗りの浅い鉢は、寿司なら五人前はたっぷり入ろうというほどの大きさである。そして鉢の中には、うなぎがいくつもいくつも、蒲焼《かばや》きとなって並べられていた。小島功さんが、 「これ全部食うの? あーあ、思いやられる」  何が思いやられるのかわからぬが、うなぎで酒になった。宴たけなわの頃、 「今晩は、おそくなりまして」  の声で、ふりかえると、これはまた鄙《ひな》にはまれな美形である。その妓《こ》が、おじぎをして立ち上り席に近づく時、一同ハッとかたずをのんだ。その美形の立端《たつぱ》は、こつまなんきんの表現がぴたりといった、とても五尺に届かぬたたずまい。それでいて、濃艶《のうえん》であった。  皆いっせいに吉行さんの方を見た。吉行さんはこうしたタイプには目がないことを知っていたからである。案の定、吉行さんが、 「君、ここへおいで」と言った。  宴《うたげ》はもとのにぎやかさにかえった。しばし楽しくさんざめいてから、大宮もいいが銀座の月もいいと誰かが言いだすと、それもそうだと皆うなずき、早々に立ち上るのである。  この会の仲間がいかに気の合った同士の——すばらしい会であるか、わかっていただけると思う。  めざすは銀座。二台はハイヤーだが、はみだした私と安岡さんは吉行さんの運転する車に乗った。公園を抜けて、町へ右折する処《ところ》で車が止った。吉行さんは助手席のドアをあけて、暗がりに、 「さァ、早く」  と声をかけた。闇の中から人影がサッと動いて、吉行運転手の脇に坐った……を見てあれば、何と先程のこつまなんきんである。ああ、何と神の如き早業よ。  私たちは銀座の「ラモール」に集結した。気がつくと、吉行さんの顔が見えなかった。むろん、こつまなんきんの顔も見えなかった。私たちはその夜もしたたか酔って、うーなぎ、うなぎ何見てはねる、になった。 「あの晩、どうしたの?」  後日、吉行さんに聞くと、 「いやー、あんたたちが降りて、彼女とさしになるとね、『この間、県会議員をはり倒したのよ』とか、『けしからん成金をぶちのめしたのよ』とか、『あたし、こう見えても空手の名手なの』とか言うんでねえ、早々に大宮に送っていったんだ」  信ずることにいたします。 [#改ページ]     やがて哀《かな》しき  学生時代、英文学のある教授が、「ユーモアは哀しさと同居する」と講義中に話された。若い私にはその真意がよく理解できなかった。  戦後雑誌記者になって、藤原審爾さんと相|識《し》るに及んで、果然この言葉の哲理を体得することができたのである。  私が藤原さんを知ったのは、藤原さんが『世の助』を「小説新潮」に連載しはじめた頃で、当時、もっとも忙しい流行作家の時代であった。  藤原さんと私は、奇《く》しくも生年月日が殆ど同じなのである。ただ藤原さんの家は岡山の名家で、「そういえば池田という殿様が徳川になってからきましたなァ」というほどの旧家であったから、戸籍係に無理がきいたのだろう。だから戸籍の上では私より一月も兄上で、したがって早生れになっている。  それにもかかわらず、私の社に電話をかけてくるときには、交換嬢に、 「矢口のオジサマはイテハリマスカ?」  と言うのである。ある日交換嬢が、 「矢口のオジサマとおかけになる藤原さんとは?」  ときくので、藤原審爾さんだというと、大いに驚いていた。  それもそのはずである。万事早熟な藤原さんであれば『秋津温泉』をひっさげて文壇に打ってでたのは、まだ紅顔の美少年?の頃で、文学好きの交換嬢にとってみれば、彼こそ藤原のオジサマのはずである。そんなことは露知らず、またぞろ例によって、「矢口のオジサマはイテハリマスカ」と電話してきた。 「ハイどちらさまで?」  ときかれて、よせばいいのに、 「藤原のオニイサマです」 「ああ、藤原のオジイサマでございますか」  と一本取られたのである。  藤原さんは凝り屋である。いいかえればものごとに真剣に取りくむのである。あれは、もう何年前になるだろうか? パチンコが流行《はや》りはじめた頃、箱根温泉の早川口の割烹《かつぽう》旅館にしばらく滞在していた。むろん小説を書くためである。追手のある身である。各社の編集者が、その旅館に殺到していた。私もその中にいた。  しかし、藤原さんの心はひたすらパチンコにあった。早川口は、箱根登山電車のガードをくぐれば小田原市である。朝起きると、その頃、もてはやされたルノーをチャーターして緑町をふりだしに小田原市のパチンコ屋を総ナメにした。どのパチンコ屋も、藤原さんの顔をみると、長居の客のために恭しく丸椅子をだすのである。編集者も、仕方なしに終日パチンコをした。その中に私もいた。  戦いすんで日が暮れると、ルノーに藤原さんだけが弾《はじ》きだしたパチンコの景品を山積みにして宿へ帰った。藤原さんが桃太郎、私たち編集者がイヌ、サル、キジである。そして、鉛のようになったからだに酒を流し込みながら、今日もまた、一枚も小説が書けなかった空《むな》しさに、桃太郎もサルもキジも各《おの》がじし自己嫌悪に陥るのである。ある編集者は景品のキャラメルの山の中で鼾《いびき》をかいた。  ある日、電話がかかってきて、会いたいという。行ってみると、藤原さんの脇に端正な大学生がいた。東大生であった。  藤原さんの話し方は、藤原さんの書く小説の流麗さとはちょっと違った感じである。そのやや生硬な表現で訴えるところによれば、これからの日本は隔絶されてしまった新中国を理解するか否かによって、運命が大きく左右される。だからそのためにはまず中国語を会得せねばならぬ。この東大生は中国語のベテランである。今日、これより、日本のために、二人はこの東大生の中国語会話の生徒になるのだというのである。  若い私も感激して(二十年ほど前のことです)即座に大学生の弟子になった。そして苦行がはじまった。テキストは倉石武四郎先生のもので、藤原さんがドアの外に立つ、私は応接間の椅子に坐っている。彼がトントンとノックする。中の私が「誰阿《シエイヤ》」、ドアの向うから藤原さんが「我《ウオ》」とくる。ドアをあける。そこで私が「|※[#「にんべん+尓」、unicode4f60]来了《ニイライラ》。請坐《チンツオ》、請坐《チンツオ》」とやる。  そこらまではよかったが、だんだん難しくなり、駅をきいたり、三番線の列車は何時に出るか? といった件《くだ》りには完全にノイローゼになった。  ご承知のように、中国語は一声から四声まである。その微妙な発音のニュアンスをオッパズすと端正な東大生が厳しく叱るのである。正確に発音しようと彼我相対すると、どうみてもたがいに顔面神経痛……鬼気迫るのである。まず藤原さんが弱音を吐き、先生が来ると、逃げようと言う。三十も半ば越して、二人で窓からエスケープするなんて哀しからずや。  次に凝ったのが野球である。国体の軟式野球の部で日本一を争うほどのチームを築きあげたオーナーである。称して「藤原組」。  私もメンバーに加えてあるというので大いに喜んだら、ただし三軍だという。三軍とはケシカランとイカったら、女子野球と対戦させてくれた。我、欣然として三軍となる。  オーナーであれば、選手のスカウトにも身を入れる。私の住む国立市の豆腐屋の息子が六尺豊か、店先でキャッチボールをする英姿をみるに、その体躯《たいく》、そのスピード、沈滞ぎみのプロ野球選手を凌駕《りようが》す、と吹聴すると、次の日国立に行き、豆腐屋の主人に会い、 「わが藤原組に、なにとぞ——」  と頼み、 「せっかく家業に落ちついた矢先に、何をぬかすか!」  と一喝され塩をまかれた。  次に釣である。釣の師匠は井伏鱒二先生であり、新潮社の専務、佐藤俊夫さんとは鯛《たい》釣りの仲間である。藤原さんは不思議な人で、この道でも筋がよい。釣れすぎて困ることも再々であるようだ。  麻雀《マージヤン》は学生時代、麻雀屋のおやじに見込まれ、その店の用心棒になったほどの腕前である。将棋をさせば、高段者の井伏先生を不機嫌にさせる。  このあいだ、藤原さんが浮かぬ顔をしているので、 「どうしたの?」  ときくと、お手伝いさんが居つかないと嘆くのである。理由をきくと、理想主義者の藤原さんは、農村から出てきた子女を教育するのである。教育の成果があがる。目覚めた彼女らは、一人残らず主人に向って曰《いわ》く、 「こんなことはしていられません」  といって、彼のもとを去るのであった。  つまり、目覚めすぎるのだなァ。   おもしろうてやがて哀しき鵜飼《うか》いかな [#改ページ]     遠くなる話  風間完さんと川越へ行くことにした。山本嘉次郎さんのご推賞の町である。山本さんの言葉によれば、 「今どき土蔵造りの三階建ての倉庫なんてのは川越しかないですよ。それも江戸時代と同じような土蔵造りの家が多くてね。あの地の人は頑固なんですね。日清戦争のころ大火事があって、町がほとんど焼けたんだそうですが、それを復興する時、江戸時代そのままの建物でやるというんだから、驚いたですね。厚さが一尺、高さが三尺、長さ七間ぐらいの無節の欅《けやき》の桁《けた》なんか使ったりして偉いもんですよ。  町を歩いていると、今は全部商店街は変なもので店先を覆っているからわかんないけれど、デパートの屋上にあがってみると、町全体が全部瓦屋根で、鬼瓦なんか大きいものだと直径六尺ぐらいあるんだから……」  こんな話を聞けば行ってみたくなるじゃありませんか。  中野の宮園通りに近い風間さんの家を出たのは、なんだかんだで遅くなって、午後二時頃だっただろうか。車を急がせて中野駅のガードをくぐり抜けて、川越街道に出ようとして、環七(環状七号線)が十三間道路にぶつかる手前まで来ると一寸《ちよつと》見栄《みば》のいい駐車場付きの蕎麦《そば》屋が目に入った。風間さんが、 「あれ田中屋って言ってね。なかなかいいすよ」  ということで川越に行く前にちょっと下拵《したごしら》えをしてもいい気になって、入ってみた。  靴を脱いで座敷に上るようになっている。だから靴を脱いで座敷にあがった。こうなると人間落着いてくるものです。 「蕎麦だけってのは色気がない」 「蕎麦で一杯というのは、オツなもんですね」  と意見が一致して、始まってしまった。時間が時間だけにほとんど客はいないが、たまに近所の主婦らしい女性《ひと》が入ってきて、 「きつね、ください」  と言って、 「うちにはきつね、ありません」  と言われ、 「それなら、おかめ」 「うちにはおかめ、ありません」  と言われ、プーッとふくれて出ていってしまった。  大きな店半分にさし込む明るい陽ざしの中で、ちびちびやっていると、どうも時間の経つのがわからなくなる。  山本さんは川越へ行くと、大豆を買って帰るそうだ。山本さんによれば川越の大豆は日本一。水に浸けるとアメリカ大豆の倍くらいみごとにふくれ、なるほど大豆《ヽヽ》とはこのことか、というふくれ方をするそうだ。川越の大豆は沼田から仕入れる。乾物屋の親爺《おやじ》に、沼田の大豆は美味《うま》いねと言ったら、 「そらそうですよ、沼田というのは高橋お伝の生れたところで、マメが美味《うめ》えのは当り前だよ」  と答えたそうだ。  川越でいま一番美味いのは団子である。第一に米が違う。第二にアンコが違う。アンコは塩がかって、ちょっとばかり塩辛い。第三に醤油焼きは|ほんとう《ヽヽヽヽ》の炭で焼いて、|ほんとう《ヽヽヽヽ》の醤油が使ってある。その醤油は川越の在《ざい》で作っている、この地方だけの醤油だから昔と同じ団子の味になる。  それから駄菓子屋みたいなところには、昔と同じようにしょうが糖を売っていたり�とこなめ饅頭《まんじゆう》�なんかもある。このとこなめ饅頭でっかいから、半分に切って、一つ五十円で売っている……なんて、酒を飲みながら山本嘉次郎さんご推賞の川越談義を復習していたら、陽はようやく西に傾き、これでは川越へ行ったら夜になってしまう。  夜になってしまうのであるが、話は終戦後の新宿のことになり、ハモニカ横丁のことになり、端から一軒ずつ店の名を思い出していって、いちばん端までいって、はじめのお竜さんに戻った。|あの《ヽヽ》お竜さんはどうしたかな? 知らないの? お竜さんならば阿佐ヶ谷の駅の傍で店を開いている、それじゃお竜さんにちょっと顔出してみましょうか、ということになり、阿佐ヶ谷に行くと、お竜さんの家はまだ閉っていた。  そこでガード下の赤提灯《あかちようちん》に入ると、夫婦二人で北海道のものなど取り寄せて、小ぢんまりやっている店である。お竜さんの店が開くまで、ここで過すことにして、ししゃもなんか焼いてもらう。  日頃、風間さんは、昼間いっぱい仕事をしてから、ふらりと外に出て、中野を中心にこんな風情の店を覗《のぞ》いて歩くのが好きな人だ。  だから風間さんの家を訪ねた人の中に、風間さんが、 「一杯やりますか」  と、出るのに随《つ》いて行って、行く先ざきが赤提灯みたいな店ばかりなので、驚きあきれて失望落胆した人がいるという。 「きっと料亭とかナイトクラブにでも行くと思ったんでしょうね。だけどこんなところにも美味いものがあったり、客もおもしろい人が来るんでね。客同士『でましたかい?』『ウンにゃ函《はこ》だけで』なんて話してる。どうやらパチンコマニアつうのは、玉を何個などと言わずに函《ヽ》で数えるもんらしい」  と風間さんもホンワカしてきた。  もう、そろそろいいだろうと、お竜さんの家に行ったら、|あの《ヽヽ》お竜さんがいた。懐しさがいや増して、昼間からの酒で何がなんだかわからないような気持になり、気がついたら、風間さんがよく行く新宿のバーで飲んでいた。中野を出発して川越に近づくはずが、だんだん遠くなっていた。  そういえば、この夏、八月の終りに、地蔵盆のある京の町を風間さんと見に出かけた。これも山本さんの知恵である。瀬戸内晴美さんが伝え聞いて一緒に行こうということになった。しかし瀬戸内さんは仕事でカンヅメになって京都行きは駄目になった。私は風間さんと二人で瀬戸内さんが声をかけてくれた茶屋に行った。小説『京まんだら』に出てくる店である。名妓のその子さんもよし、鱧《はも》もよしの地蔵盆の宵であった。  つぎの日、『京まんだら』の登場人物の女将《おかみ》が案内をかってくれて御室《おむろ》を訪ね、祇王寺《ぎおうじ》の庵主さんを訪ね、平野屋で鮎《あゆ》を食べた。 「まだ新幹線の時間には間《ま》があります」  と言って女将が車を止め、嵯峨野《さがの》の名物豆腐屋で、豆腐と揚げと飛竜頭《ひりようず》を土産に買ってくれた。新幹線の中は寝て、銀座で飲むことにした。東京の灯が見えるころ、うまい具合に目を覚まして、さて、と思ったが、豆腐の水がほんの少しフロアに浸み出していて、骨董《こつとう》屋で買った皿小鉢も重そうで、皿小鉢と豆腐とガンモドキを持って銀座に行く気持にもなれず、妙に里ごころがついて、二人でしおしおと家路についた。風間さんと二人だと、妙に目的地に着かないのである。 [#改ページ]     あやめと沢蟹《さわがに》 「あ、池がありますね。池の真中のもの?は欅の根ですか? なるほど。あの根の洞中《ぼつか》で錦鯉が寝るんですね」 「そうなの。うなぎもいてね。はじめはかくれてばかりいたんだけど、ちかごろは慣れて呼ぶとでてくる。呼んでみようかな。こうやって、パシャパシャ手で水を鳴らすと出てくる……。ホラ、変な格好でやってきた」 「人なつこいうなぎははじめてだなあ。来る道で、ちょっと迷いましてね、自動車《くるま》を降りて少しばかりうろちょろしたんですけど、土手にわらびが生えてましたよ」 「そう、わらびはまだたくさん生えるんだけど、現在《いま》のは大木でしょ」 「大木といえば、ウドの話。ずい分昔、『小説新潮』だったかなあ、読んだのをいまでもおぼえてます。蓼科《たてしな》の……」 「ああ、蓼科ねえ」 「親湯からの帰りの山道で、夏なのにまだ食べられる山ウドを発見した話……崖崩《がけくず》れの赤土をかぶって、新鮮な芽が天の光にむかっていた、という文章はいまだにおぼえてます」 「ああ、あの山ウドはうまかった。東京で買うウドは白い茎だけでね。あの時は、普通食べる茎のところは、夏の盛りだったから、さすがにほんの僅かな部分だったけど、産毛《うぶげ》をはやした新しい葉っぱを丁寧にちぎって、山道を廻り道して豆腐を買ったんだ。その豆腐の味噌汁と冷奴。葉っぱをみじんにきざんで、よそったお椀の汁にふりかけたり、冷奴の薬味にしたんだけど、山ウドの葉っぱはうまい。ウドも山ウドは強い香りが、スーッと靄《もや》のようにのぼってね」 「あッ、着物の袂《たもと》が濡れますよ」 「どうも、腰が……」 「左の膝《ひざ》、どうされたんですか?」 「ああ、この包帯、フフフ……。一昨日まで伊東にいたんだけど、宿の物干から落ちたらしい」 「らしい?」 「いつまでたっても進歩しないよ。『宿酔《ふつかよい》からの脱出法』なんて書かせれば人助けの役にはたちそうだけど」 「いや、いまの人は宿酔するほど飲む人は少なくなりましたよ。特に若い人はメチャ飲みはしませんね。ガールフレンドに気をつかったり、お送り申上げる帰りの自動車《くるま》の運転のことを考えたり……というよりは酒を酌み交わして論じ合ったりするほど、どうやら渇いていないらしい」 「そうかあ、そうすると俺一人かな? じゃあ、そんな本出すの無駄か」 「池の端に紫の花が咲いてますね」 「ああ、友人が来て植えてってくれたの。紫の花といえば、あやめの花もうまい。やはり蓼科だけど、声帯をこわしたとき、まだ避暑客が誰も来ていない頃に行って山荘にあぐらをかくと、ちょうど眼と水平に木曽の御嶽《おんたけ》が見える。濃いコバルトに白い雪の縦縞を流してね。カッコウとリスぐらいしかいないけど、小梨の白い花とレンゲツツジの朱《あか》い炎が鮮やかでネ。あやめも咲いていた。一つのパンにバター、もう一つのパンにマーマレードをぬってその間に紫のあやめと朱のレンゲツツジをはさんで食べてみると、歯切れの音がなんともいえず爽やかで……」 「なんでも食べちまうもんですねえ」 「そりゃ、人間が次々に子供を生んでいくように、料理も無限に生れるんじゃないの? 同じ材料でも、もっと別な食べ方を……という夢が次々に新しい料理を生んでいくんじゃあないかなあ。たとえば、碁が何千番やってもそれぞれ異った盤面を見せるのと同じで、その碁よりも料理の方がもっとバラエティーに富んでるかもしれない。料理学校で娘さんたちが料理を習うの、もちろん結構なことだけど、もっと身の廻りの素材をみつめて、その素材を大事にする心の方が料理には大切なんだ。習ったことを再現するより、創ろうという気持になってほしいナ」 「クッキング・スクールだと、大根の葉っぱは教材にならない……」 「その大根の葉っぱが八百屋の店のわきに捨ててあると気になってねえー」 「鮭《さけ》の頭もね。それからえびの尻っぽも気になるんでしょう?」 「あれはうまいんだ。かねがね、うまいと思っていたら『高村光雲翁回想録』の中で麻布《あざぶ》十番のなんとか屋のえびの天ぷらの|尻っぽ《ヽヽヽ》はうまい、という件りがあってわが意を得たんだ。えびの体もうまいけど、天ぷらにしたら尻っぽは、パリパリした香ばしい味わいで何ともいえない。だけど一緒にえびの天ぷらを食って尻っぽまで食べる人は殆どいない。みんな残すの、おしいね。いつも気になってね」 「えびの尻っぽといえば、例の国立《くにたち》のうなぎ屋には行かれますか?」 「夕べから今朝までいってたんだよ」 「その包帯《あし》で?」 「ううーん、この脚《あし》で。うなぎの頭、骨、肝、えりをあんなにうまく食べさせる店はないもの。骨を土産につつんでくれたりするからありがたい。寿司屋だって懇意になると|あわび《ヽヽヽ》のワタを届けてくれるし、こいつはうすく切って二杯酢にするといいねえ。届けてくれたとき、週刊誌をお礼に渡す……、古い週刊誌も役に立つよ」 「うなぎの骨はどうします?」 「ああ、あれはね、炭火で気長に焼いてね、生醤油をちょっとつけてポリポリ食べる。以前に沢蟹を飼っていてね、この沢蟹がうなぎの骨を焼いてつぶした粉が好物でね、こんがり焼いた骨をたんねんにくだいて与《や》ると喜んで食べる。夢中になって食べるんだ。可愛いよ。どういうものか、大きくなるのとなかなか大きくならないのといるけど——。この沢蟹を生で食べると新鮮で淡泊な味がしてね。えッ? 残酷? どうもそのようだけど、新鮮な淡泊な味でね。まず背中をつまんで、大きな鋏《はさみ》の方から歯で食いちぎる、次に小さな鋏。うん、うん、たしかに可哀そうだけど……、それから体をほおばると酒の肴《さかな》にはいいんだねえ……」  ある夏の一日、東村山の草野心平氏宅へ伺った時の、草野心平さんとの会話の一部であります。 [#改ページ]     小人閑居すれば 「小人《しようじん》閑居すれば……」  と、土岐雄三さんが晴々とした顔で言った。 「閑居すればどうなります?」 「ろくなこたあ、ありません。とにかくおれはもうだめな男だと、しみじみ身に沁《し》みるばかり……」  だめな男などと言いながら、その言葉とは裏腹に、土岐さんの顔はいよいよ晴々しいのである。  それにしても土岐さんと銀座で飲むのは三月《みつき》ぶりである。というのも土岐さんは、「むこう三カ月、絶対に盛り場には足を入れない、一ト月三万円のお小遣で暮らす」と宣言したのである。  そしてその三月がたった。その苦難の三カ月が漸《ようや》く満願になって今日は晴れて銀座にやって来たのである。  ホステスの顔をうっとり眺めたり、ミニスカートからはじき出た若々しい|あんよ《ヽヽヽ》に視線を釘《くぎ》づけにしたり、今度は思い出したように室内をぐるりと見まわしたりする。 「ことの起こりは、ほら、鎌倉の瑞泉寺《ずいせんじ》にめしを食いに行ったじゃあないですか。川端さんを囲んで芹沢《せりざわ》さん、阿川さん、立野さん……、その立野さんは亡くなってもういないけれど、あの日、鎌倉から遅くなって銀座に舞い戻って……二軒目に行ったバーがありましたよね。そうだ、藤島さんも一緒だった。その藤島泰輔さんの懇意の店……あそこに着物のびっくりするほど似合う女性《ひと》がいたでしょう」 「着物を着た女性は何人もいたけど」 「その一人なんです。年甲斐《としがい》もなくいきなりポーッとなりましてね。みなさんには内緒でそれからというものは……。まあ、そういったことで昵懇《じつこん》になりましてね。ところが騙《だま》されてたんだな、結局。マンションの頭金とか、踊りの温習会とか、なんやかやで、一金百八十六万かかったとき騙されていたと気がついて……。これまでにこんなことばかり繰り返していましてね」  山本周五郎を師と仰ぐ土岐雄三さんは、伸びたさかやき寂しくなぜて……無駄金つかうが男の道、女に惚《ほ》れるということは、とりも直さずその女に金を使うことだと心得ている。それが男の甲斐性だと決めている。だから、 「その前のさる女は店を出さしてくれというので、少しばかり手伝ったことがあるんです。ほら、有楽町のガードを潜《くぐ》って『そごう』のところを右に行くと、小料理屋めいた店があるでしょう。え、ご存じない? ええ、ご存じなくて結構なんです。私だってケタクソ悪くて、『そごう』のところを右に曲ったことはありませんよ。うっかり忘れて前を通るときなど駆けだします。あの金が、一金二百二十三万。そのまた前のさる女性は月々のお手当が一金五万。あれはどれだけつづいたか……。ともかく、その頃の物価指数など勘案すると、あの頃の五万円は貨幣価値がありましたよ」 「お言葉中ですけれど、土岐さんの話には着物がよく似合うという以外は�一金……�ばかり出てきて、|さる女性《ヽヽヽヽ》の見目形や風情が一向に描写されませんね。行間に女性のエモーションがにじみでない」 「にじまなくても結構なんです。すべて決算済みで金に換算してあるんです」  と言って、土岐さんはさすがに自分から噴き出した。  行間から女性の情緒は生れてこないけれど、土岐さんの女話はいっそ、あっけらかんとしていてさわやかであった。そしてちょっぴりもの哀しかった。それから嘗《かつ》て銀行の重役の、それも型破りの重役であった余香もするようであった。 「そんなことでね、今度ばかりは私は決心したんです。もう一銭たりとも無駄使いはすまい、女のためには金を使うまい、金を使わせる女のいる盛り場には足を踏み入れまい。そんな決心をした晩に、池島信平さんにばったり会いましてね、つい、その感懐を開陳すると、あの池島さんという人は根っからのジャーナリストでさあ。お前さん、一ト月三万円のお小遣で三カ月暮してみないか。そして、その体験記を『文藝春秋』に書きなさい、というんです。おっちょこちょいだから、軽い気持で引受けましたね。それからが苦行のはじまり……」  土岐さんは苦行のはじまりのところで、水薬を飲むような苦っぽい顔をして、オン・ザ・ロックスをぐいと飲み、今度はぱっと明るい顔になって、 「願明けの日だけに酒がうまいや。銀座はいい。生きてる証拠だ」 「三万円で、小人閑居のときは……?」 「それなんです、子供はみな独立しちまって、海外にいたり別の家にいたりだから老妻と二人、九部屋もあるだだっ広い家にいるなんて、間《ま》が持てません。どうしようもないんです。人間、金を使わないとイキイキしてこない。仕方がなしにテレビを見る。今日《きよう》び、テレビってものは昼間っからドラマでね、ミニスカートの若い娘《こ》に初老の男が傾きかけている……、とたんにうしろで老妻の咳《せき》ばらい。『世の中には似たような人がいるもんですね』。あわててチャンネルを変えると、またぞろパンタロンの若い娘に中年紳士がよろめいている。おちおちテレビも見られませんよ。退屈のあまり鴨居《かもい》にぶら下ってテレビを見ましたが、これはちょいといけましたね。それから、双眼鏡で庭の池の金魚や鯉を見るのもおもしろい」 「双眼鏡で池の鯉を見るとどうなります?」 「いえね、家の池の鯉なんてたかが三千円ぐらいのものなんだけれど、双眼鏡で見ると巨大になりますなあ。時価三十万は下らない名鯉《めいごい》になります」 「三十匹いたとして計一千万円の鯉ですか、豪華な眺めです。とにかく鯉はいいもんですねえ」 「いえいえ、もうコイはいけません。コイは憂きもの辛いもの」 [#改ページ]     いささかワケが  ひところ銀座に行くと必ずといっていいほど、池島信平さんに会うのである。それがほとんど毎晩なので、とうとうある晩、私は、 「よくお会いしますね」  ときりだすと、 「何いってんだ。きみこそよくお会いしますね、だろ。まぁ、お互いさまなんだが……、これにはいささか理由《わけ》がありましてね」  と前おきがついて、何故、毎夜銀座に出撃するか、その理由を話された。  それによると、池島さんの三人のお嬢さんが、春休みでそろって九州へ行かれたのだそうだ。すると必然的に池島邸は、ご夫妻二人になる。  こんな経験は、結婚して子供さんができてからはじめてのことである。どうにもバツがわるい。間がもてない。  仕事が終って、さて帰ろうかと思うと、ああ、家には女房一人が待っているんだな……と思うと何となく足が銀座に向いて一杯だけ飲んで帰ろうかという気持になる。さて、この辺で切りあげて帰るとするかと思うと、またぞろ一人だけで待っている奥さんを思い浮かべる。何だか恥かしくなって、もう少し飲むかということになる。 「なあ、わかるだろ。いい年をして『ただいま』『あら、お帰りなさいませ』なんていえるかよ。だから、しょうがなくて飲んでんじゃねえか」  といかにもテレくさそうに笑って話された。  それから一年後であったか、二年たったかは忘れたが、やはり沈丁花《じんちようげ》の咲く頃、今度はしばらく池島さんを銀座で見かけなかった。そしてある晩、久し振りにお会いして、 「ずい分しばらくでしたね」  と話しかけると、 「ご無沙汰しました。三人の娘と一緒に女房まで連れだって旅にいっちまってネ、今年は。家に誰もいないとなると、何だか落ちつかないんだなあ。銀座なんかで飲んでいられないんだ。イライラしてね。そそくさと真直にご帰館という始末さ」  なるほど、そんなものかも知れない。外で酒が飲めるのは、家内安全だからである。家をしっかり守っている人がいればこそ、仕事は面白く酒に勢いが出るというものだ。  よく下世話では、家が面白くないから外で酒を飲むなどというが、これは下衆《げす》の勘ぐりで酒飲みの心理を理解していない証拠であろう。  家をしっかり守る人があるが故に、家が安泰であるが故に、外で酒を飲むというのは、女房族から理に合わないと反発されそうだが、この、男の心理だけはわかってもらいたいものである。  池島さんのお嬢さんの、上の二人は結婚され、末の照子さんは婦人記者になった。もっとも池島さんは、編集者は俺だけでいい、自分の娘に編集者にはなってもらいたくないと、かねがねいっておられた。  しかし、日本女子大の史学を専攻した照子さんは、どうしても編集者になりたいといって、私が勤務していた婦人画報社を受験したのである。面接試験の時、私が、 「卒論は何を書きましたか?」  と訊《き》くと、 「足利尊氏です」  ということであった。足利尊氏ほどのちの人によって、また時代によってその評価に毀誉褒貶《きよほうへん》の振幅の大きい人物はいない。足利尊氏という人物をとりあげることによって、のちの時代までが鮮やかに抽出される筈である。これこそ歴史の本質に接近する手だてではないか? 私は内心うめえもんだなぁ——と舌を巻いた。卒論がどんな出来かは知らないが、足利尊氏を選んだということでジャーナリストとしての資格があると確信したのである。そして照子さんは試験に合格して、入社して、それも私のスタッフになった。私はそれから二年ほどして、婦人画報社を離れ、山口瞳さんや開高健さんのいるサン・アドに迎えられた。サン・アドのオフィスに照子さんはたびたび訪ねてきた。いよいよ仕事に熱が入ってきたらしい。 「結婚しろといっても、仕事が面白いといっていうことをきかないんだよ」  と池島さんは苦笑していた。私は、サン・アドの仕事の『洋酒マメ天国』に池島さんの「架空会見記」というフィクション対談の原稿をいただいた。そんなことで、池島さんとしばしばお会いして差《さし》で酒を飲んだ。照子さんとわたしが同じ雑誌を作っていたこともあって、話題はごく自然に照子さんや他の二人のお嬢さんのことになるのである。 「女の子なんて楽しみがないよ。せっかく育てても嫁にいっちまうんだからなあ」 「そういえば照子さんは結婚しても、池島さんのお宅に、既に別棟のキッチンや部屋があってよそには出ないんだそうですなあ。この間、照子嬢に会ったらそんなことをいってましたよ。『だから、あたし、結婚は、家つき、カーなし、ジジババつきよ』とかなんとか」 「な、ひでえもんだろう、娘なんて。両親をジジババにしちまいやがる。いつだったか、早く帰ったら、上の娘が婿ときててね、どうでもいいけど、俺の丹前《たんぜん》を着て俺の坐るところで一杯やってやがる。その傍で女房がホイホイ、サービスしてるんだから」  と苦笑されていた。そして、しみじみ、 「子供は、すぐ大きくなるもんだネ。拙《せつ》のいちばんお忙しの頃、それこそ夜うち朝がけで、毎晩遅く帰ったもんだけど、寝静まったわが家に上っていくとまるで西瓜《すいか》畑。小さい西瓜が三つ、スヤスヤ眠ってたもんだ。でかい西瓜を起こしたら叱られるから、しのび足で自分の布団にもぐり込んだものだけどねえ」 [#改ページ]     ビールを、もっとビールを  私は新聞を読まないと、どうにも落着かない。新聞休刊日などは侘《わび》しすぎる。若い人に聞くと、新聞はそれほどでもないが、週刊誌がなくてはという。その週刊誌にもいろいろな|向き《ヽヽ》がある。ヤング向き、女性向き、そして少年何々と唱えながら物凄《ものすご》い漫画が載ったりしている。電車の中や喫茶店で劇画ばかりの少年週刊誌を少年ではない大人が喜んで熱読しているとは、夢にも思わなかった。  かつて池島信平さんが「週刊誌で見たけど」という言葉を非常に嘆かれていたことがある。池島さんの嘆きは、「週刊文春」とか、「週刊新潮」という特定の誌名が出てこないで、ただ「週刊誌《ヽヽヽ》」という表現にある。それも読んだのではなく|見た《ヽヽ》というところにある。  つまり週刊誌は私たち日本人の生活に欠くことのできないものになったかわりに、大袈裟《おおげさ》に言えばやや嗜好《しこう》品の趣を呈してきたようである。特にこれから電車に乗るとか、旅をするとかいう時、駅の売店で買う感じは、タバコを求めるあの感じと似ているようだ。  今日の週刊誌の評価が如何《ど》うあろうと、日本の週刊誌時代の基礎を作ったのは、扇谷正造さんではなかろうか。ともかく扇谷さんの「週刊朝日」はすばらしかった。そして面白かった。私のような編集者には、一週間の区切りをつけるテキストでもあった。生活の単位でもあった。  扇谷さんは国立《くにたち》に住んでおられる。その国立に私も住むことになった。斯界《しかい》の大先輩の住む町にうつり住むにあたって、私は挨拶に伺った。扇谷さんの住む場所は国立といっても国立駅の北側で、駅のすぐ近くではあるが、行政区画では国分寺で、それも平兵衛新田というところであった。おそらく平兵衛さんが開拓した土地なのだろう。緑の多い、閑静な住宅地であった。  私が扇谷さんのお宅に挨拶に伺うのには、もう一つの理由があった。それは扇谷夫人が戦前、その頃は珍しい婦人記者をしておられて、それも、私の編集する雑誌の記者だったのである。つまり夫人もまた私の先輩なのである。  私が編集長になった時も、扇谷さんのお宅に伺った。扇谷さんは編集長のあり方を懇切丁寧に話してくださった。  例えば、編集者は読者より一歩も二歩も前を知っていなければならない。否、もっと前《ヽ》も見通さなければならない。また実際に前《ヽ》を歩くことも必要だ。しかし雑誌の編集にあたっては、読者の半歩前を編集すべきである。一歩前では前すぎる。  また一冊の雑誌で五百人の新しい読者を獲得すべきだ。欲張ってはならない。色気を出し過ぎるといけない。しかし五百人以下でもいけない。  そしてタイトルのつけ方も、その内容と同じくらい大きな意味があるという話もおもしろかった。扇谷さんの説によると、HOW・TOものを始めとして、タイトルはすべて七・五・三の縁起をかつぐべしというのである。つまり「日本の民主化を阻む三つの理由」「あなたを美しくする五つのポイント」等々——。その理由が二つであっても、方法が六つであっても、三つにし、五つにし、ともかく七・五・三にすることが読者にうけるコツだ、と言われる。私は名編集長の一言半句も聞きもらさないように敬聴したものである。  ある年の元旦、朝、目をさますと、妙に深閑としていた。起きて庭を見ると雪が積っていた。まだ小降りではあるが、粉雪が降っているのである。私は門のまえの道を雪かきした。年始に歩く人もなく、自動車《くるま》も通らない。静かというよりは、淋しいほどの元旦の朝であった。しかし、雪かきが済むころには雪もやんだ。私は思い立って扇谷さんのお宅に、年始に行くことにした。  一|瓢《ぴよう》を携えて平兵衛新田へ向った。一橋大学の前の大学通りも人通りがなく、私は新雪を踏む思いで歩いた。扇谷邸も深閑としていた。ベルを鳴らすと、夫人が出てこられた。 「おめでとうございます」 「おめでとうございます。ずいぶんお早いこと。ところで、あなたのさげていらっしゃるものは何ですか」 「ウイスキーです」 「ウイスキーはここの家では不要になりました。そこへ置いて、どうぞお上りください」  私は何か変な予感がした。応接間ではなく茶の間に通された。茶の間にはこたつがあって、こたつにどてら姿の扇谷さんがいた。いままで仮眠されてたようなたたずまいである。 「ずいぶん早いな、まぁ、めでたいんだろうな」  と言われた。その言葉に続いて夫人が、 「この家はひとつもおめでたくないんです。お正月なんか来てないんです。それに扇谷はつい先程、禁酒を誓ったところです」  えらいところに伺ったものである。そして扇谷さんが元旦早々禁酒されたいきさつが判った。  昨日、つまり去年の大《おお》晦日《みそか》、仕事を終えて午後三時頃、扇谷さんはスタッフと社を出て、おさめの盃《さかずき》をした。  一年の納めの盃はつい長くなった。七時に電話を入れて、すぐ帰ると言った。九時に電話を入れて、すぐ帰ると言った。何軒目かの店で紅白歌合戦が終り、次の店で除夜の鐘が鳴った。  その頃には家にした電話などは忘れてしまった。そして草深い里へご帰館あそばしたのは元旦の午前三時を過ぎていた。雪が降り始めていた。  長年、新聞記者をし、週刊誌の編集をする主人《あるじ》を送り迎えした家である。午前三時など何でもないのだが、日が悪かった。扇谷さんは大いに反省し、そして禁酒を誓わされたのである。  正月の客膳が私の前にある。夫人のお酌で私は酒をいただいた。雪見酒である。こたつの中から扇谷さんが私を見ていた。何とも落着かない酒であった。  新しいお銚子《ちようし》をとりに夫人が立つ。 「うめェか?」  と扇谷さんが小声で聞く。また夫人がお銚子のおかわりに立つ。 「ビール、ビールを飲みなさい」  私はビールがいただきたいと夫人に言った。  夫人が何かの用で席を立つと扇谷さんが、 「そのコップを早く!」  と言う。すばやく私のグラスを扇谷さんに渡す。空のコップを受け取る。そんなことをくり返しているうちに、|手渡し《ヽヽヽ》の最中にとうとう夫人に見つかってしまった。 「矢口っつぁんの説によるとビールは清涼飲料水だそうだ。ドイツでは小さな子供まで飲んでるそうだ」  夫人が新しいグラスを持ってこられて、そのグラスにビールをなみなみとついだ。  扇谷さんと私は、ビールのグラスで新年の乾杯をした。こうして扇谷正造さんの禁酒はわずか数時間で、破られたのである。 [#改ページ]     女優はいけません  ミボラという料理をご存じだろうか? これは池田弥三郎先生創案にかかるミルク入り鳥雑炊である。一月二日の池田邸の新年会はミボラが出ておひらきになる。客人は名物ミボラに、はじめて夜の更けたことに気づき、宴のはてる時がきたのを知るという。  ちなみにミボラのミはミルクのミ、ボはボイルドチキンのボで、ラはライス。正月客の常連の一人が命名したのだという。  そういえば正月料理には�わが家の自慢料理�風のものがあるようだ。主人も客もその料理に新玉《あらたま》の春の訪れをみる。  一月二日は鎌倉の川端康成邸の新年宴会の日であった。川端邸の看板料理はみごとな鯛の活《いけ》づくりである。この日のために、走水《はしりみず》の漁師が鯛をとどける。その鯛は九谷の大皿から頭や尾がはじき出るほどのみごとさである。  明くる一月三日は、北鎌倉の高見順さんの新年宴会の日であった。高見邸の看板料理は福井から送られてくる越前ガニである。  ひところ私は一月二日に、ひとまず高見邸に伺って高見さんご夫妻とともに、鎌倉長谷の川端さんに伺うのが新年の習いであった。そして二日の夜遅く、というよりは三日になる頃、北鎌倉へまいもどり、そのまま三日の高見邸の新年の客を迎えることにしていた。  だから三日の朝は高見夫人や家人とともに、越前ガニの下拵《したごしら》えの仲間入りをしたこともある。それほどに北の海の幸の量は多かったのである。  しかしある年、暮からの豪雪で貨車がストップしてついにカニは到着しなかった。なにもカニだけが目当てではない。高見さんの家で一堂に会して、新年の酒を酌み交わすことに喜びがあるのだから、それはそれでいい筈なのだが、やはりいつものカニが欠けているのは淋しかった。  地口のうまい田辺茂一さんが�カニかくに恋しきものは北の幸、われ泣きぬれてカニをおもほゆ�とか�いカニ久しきものとかはしる�とか大変うるさかった。  さて、川端さんの新年会のメンバーは殆どかわらなかった。先生の古い友人である淀野隆三氏とそのお嬢さんたち、大阪からはるばる石浜恒夫さん、高見順氏、橋爪克巳氏、直系の北条誠氏、中里恒子さん、三島由紀夫氏、巌谷大四氏と私、もう一人編集者として河出書房の山川朝子女史。そして必ず望月優子、梅園竜子さんの昔なつかしい浅草派が顔を見せ、遅くなって吾妻徳穂さんのお姉さんが筐《はこ》をかかえてにぎやかに駆けつけるのである。  あれはいつの年であったろうか、映画のスーパーインポーズの名翻訳家だった秘田《ひめだ》余四郎氏が、すでに相当きこし召して現われた。  川端さんの宴会場は、いちばん東側の座敷と次の間をぶち抜いた大広間で、この日はその広間と中廊下を距《へだ》てた茶の間の障子もはずして、第二会場のようになっていた。その茶の間にはいつものように炬燵《こたつ》があって、その周辺には川端夫人を中心に女性軍が陣取っていた。  秘田さんが現われるちょっと前に三島由紀夫氏夫妻がやって来られた。三島さんは広間の客人にかるく会釈して、そこには坐らずに茶の間の炬燵の方へ直行してしまった。広間の数人から「敵に後を見せるとは!」という声がかかって、仕方なく三島夫人だけが広間に留《とど》まって、私の隣りに坐った。ハイネックでスリットの中国服が美しかった。  そこへ秘田さんが現われたのである。秘田さんは細かい絣《かすり》の着流しであった。宴席をぐるりと見まわして、三島夫人の隣りにきて坐った。一旦正座して、それからポンと膝《ひざ》を叩き、やおら胡坐《あぐら》をかいた。そのしぐさが端正で書生っぽい感じがなかなかよかった。  しかし如何《いかん》せんすでに酩酊《めいてい》、しきりに隣りの美人が気にかかるようであった。そして三島夫人を女優さんと思ったらしい。 「あんた、どこのニューフェイス?」  などとききながら、スリットから覗《のぞ》く肢《あし》に眺め入ったりするのだ。そこに現われたのが山川女史であった。和服姿も艶《あで》やかな女史は、美しいお嬢さんを連れて入ってきた。花一輪——。いま、少女期を脱しようというたたずまいなのだが、その清純なあどけなさはやはり少女というほかはなかろう。  川端さんは、殆ど盃を口にされない人である。しかしこの日は宴席をまわって、一人一人に和やかな眼つきで酌をされ、何かと気を遣われるのである。  しかし山川女史がお嬢さんを連れて入ってきたとき、先生は銚子を右手に持ったまま、そのお嬢さんを凝視された。例の殆どまばたきをしないあの眼差《まなざ》しで。(余談であるが、今日出海氏は、インシンを極める夏の夜の鎌倉の海のために二つの灯台を設置する抱負を開陳されたことがある。それによると由比ヶ浜に川端康成灯台、逗子《ずし》に石原慎太郎灯台。由比ヶ浜の灯台はまったく点滅せず、もう一つの逗子の灯台は絶えず点滅して、特色のあるその曳光《えいこう》に、海を渡る船は、安全航行できるというものである)  少女の美しさに宴席は一瞬シンとした。するとニューフェイスづいていた秘田さんは、 「これはニューフェイスになる」  と叫んだ。 「イケマセン。女優にしてはイケマセン」  と、川端さんが珍しく大きな声でいわれた。あまりにも真剣な声に、 「どうして?」といった表情が、川端さんに集まった。川端さんは、 「有馬さんをごらんなさい。可哀そうです。中村錦之助と結婚したじゃないですか。可哀そうです」  といわれたのである。真顔で強調されたのである。別に中村錦之助氏がどうというのではなかろう。ただなにかと心にかけていた有馬稲子さんを考えると、本当に可哀そうに思われるのであろう。あるいは美少女の姿に女の哀しさを感じとられたのか? しかしニューフェイスを提案した秘田さんは承知しなかった。 「可哀そうなもんか。可哀そうなのは錦之助だ」  と川端さんの眼をみずにそう言ったが、豪傑の秘田さんにしては声が弱々しかった。 「いいえ、有馬さんは可哀そうです。だから女優はいけません」  秘田さんは完全にしょげた。川端さんは真顔だった。なんだかおかしくなって、一同はふきだし、宴《うたげ》はまた一段とにぎやかになった。 [#改ページ]     悲しいがな 「サンデー毎日」編集長の高原富保さんから、私の勤務するサン・アドの企画会議の模様をごく自然に写真にとりたい、という話があった。そしてある日、会議をしているとカメラマンがやってきた。会議のありさまはごく自然ではカメラにおさめにくいらしく、カメラマンが、 「すみませんが、開高さんと矢口さんは机の手前にきてください」  ということになって、言われるままに開高健さんと私はカメラに近い方に移ることになった。  この時、ふと軽い怖《おそ》れに似たものが心をよぎったのだが、言われるままに素直に前に行った。あとで開高さんに聞いてみたら、 「わいもそうやがな」  ということであったが、私たちは企画会議も一段落ついてホッとした時であったから、オン・ザ・ロックスを飲み始めていた。だから前にきてください、と言われた時、開高さんも私もグラスを持ったまま移動したのである。  それきり撮影のことは忘れてしまった頃、そのカラー写真がシリーズものの「ある会合」として「サンデー毎日」に掲載されたのである。たいへん美しいカラー写真であり、我が社としてもこんなにしてとりあげてくださるのだからありがたいことではあるが、瞬間、心をよぎった怖れが現実のものになったのである。  縦位置の写真であるが、ページの上半分には机を距てて、山崎隆夫社長はじめ、坂根進、柳原良平、山口瞳がつましく端然とひかえているのに対し、机のこちら側には、つまりページの下の大きなスペースに、開高健と私が誠にでっかいツラをして写っているのである。  右近の橘《たちばな》、左近の桜なら香《かぐわ》しい絵である。しかし、これはどうひいき目にみても浅草の観音さまの仁王さんの風情である。しかもオン・ザ・ロックスのグラスを持ってひかえているのだからシマラナイ。私は悲嘆にくれた。そこへ開高さんが現われた。開口《ヽヽヽ》一番はしゃれにもならぬが、 「猫の年増ぶとりが二匹おるがナ。どないしよう」 「昨夜《ゆうべ》、石川達三さんに会ったら、グラス片手に豪勢な会議だなあ、とひやかされるし、三宅艶子さんは、でっかいツラね、ときたよ」 「そうやろう。悲劇的やなあ。悲しいワー。一緒に死にまほか」  まさか死ぬわけにはいかないので、一緒に酒を飲んだ。  開高さんは、とかく悲しがる男である。オフィスに出てくると声高に国際情勢を論じ、次いで文学を語り、興にのれば談、釣に及ぶという賑《にぎ》やかさで、豊富なボキャブラリーに英、仏、独語を交えて談論風発する。そこへ電話がかかると、 「ハイハイ、あわれな開高でございます」  と応答《こた》えるのである。  ある日灯ともし頃、何か小脇にかかえてオフィスにやってきた。 「大阪の『たこ梅』の蛸《たこ》や。『たこ梅』のボンボンが日光に遊びにゆく|ついで《ヽヽヽ》いうて、わざわざ届けてきたんやけれど、これをさかなに一|献《こん》いう仕かけの場所はないもんかいな」  つまり、酒のさかなを持参しても迷惑がらず、また他の客にも不快な思いをさせないような所はないか、というのである。  そこで新富町の「酒舟」におもむいた。ムッちゃんもさそった。ムッちゃんというのは酒井睦雄といって我が社のCM作りの名人である。沖縄にはじめてテレビコマーシャルが流れた時、沖縄の人はムッちゃんの作ったテレビのCFに拍手を送ったそうである。これは柳原良平さんのアニメーションでトリスおひろめのチンドン屋が登場する。そのチンドン屋はチンチンドンドンやりながら何も言わず、最後に「世の中は乱れております」とだけ言うのである。これがうけたのである。ところがその後沖縄に政変が起こってエライ人が辞任した。記者会見でそのエライ人は、ブゼンとして「世の中は乱れております」とやった。それが翌日の朝刊に一号活字でデカデカと載って「世の中は乱れております」は、いよいようけたのである。沖縄の人たちに向けて酒井さんはもう一つ作った。「アイウエオキナワ タチツテトリス ついつい飲みすぎ手をトリス」といったものである。  蛸をさかなに私たちは酒を酌んだ。酒井さんは戦前からの生えぬきのプロ野球のファンだ。だから野球の話ばかりする。博覧強記の開高さんも、野球だけは苦手だ。だから話がコンガラかる。  その晩も開高さんは悲しがった。  その第一話——。  待ちわびた電話がきた。話しているうちに、開高さんの表現によれば「雲古」がしたくなったのである。「ちょっとお待ちください」と待ってもらって、「どうもお待たせしました」と話を続けた。その後しばらくしてその麗人に会って、あの時はどんな用件でしたと聞かれたので、正直に実は「雲古」と答えたら、その麗人は冷然と立ち去ったそうである。あるいはフン然としたのかもしれない。悲しいがな。  第二話——。  西独の出版社から独訳の開高健著『日本三文オペラ』が美しい本になって送られてきた。そして偶然にもその日、リルツと名乗る若いドイツ女性の訪問をうけた。卒論に開高健論を書いたという神戸に住む絶世の美女である。手みやげに玉露まで持ってきた。のし紙に水茎のあともうるわしく「里留津」と草書で書いてあった。その佳人は玉露を開高さんに手渡すとそのまま羽田へ行き、母国へ帰ってしまった。悲しいがな。  第三話——。  ある日、開高さんはサイゴンをあとにして、ベトコン掃討作戦に参加した。開高さんはいきなり最前線の従軍記者になったのだ。着いたその日の朝からドンパチ、ドンパチがはじまった。至近距離に迫撃砲弾がうなりをたてて土煙をあげた。やがて昼になった。兵隊たちは昼メシを食べるとその場にゴロリと横たわって、早くも寝息をたてた。大隊に三名ずつ配属されているアメリカ兵も、メシを終えるとバタン・グー。シエスタ(昼寝)の時間なのである。 「この日本の小説家だけが目をぱっちりあけておったんやけど、ドンパチもシュルシュルも、もぐらも影をひそめて——考えてみればベトコンもシエスタだったんや」  やがて三時がすぎると、兵隊さんたちは起き出して、いとも自然にドンパチをはじめると、向うでも礼儀正しくドンパチと応えたそうだ。一人眼をさましていた日本の小説家はしみじみ考えた。昼寝とは何ぞや? 戦争とは何ぞや? 悲しいがな。 [#改ページ]     素足の子守唄  いつのまにか親しくなってしまうというタイプの人がいるが、野坂昭如さんはその典型的な例である。電波関係の友人から、特異な才能を持った人がいるから紹介しようか……といわれたようなことがはじまりだと思うが、野坂さんは百年の知己の如く、黒メガネをかけて、一見草履風サンダルをはいてヒタヒタ、ハタハタと編集室にやって来るのである。  そこには一瞬、|あたり《ヽヽヽ》をはらう風情があった。  そしていきなり、聴診器で隣室の秘事をきく話をする。行く年来る年の番組にでて、元旦の朝まだき、お疲れさまとスタディオをでて、正月三ガ日を絶食した話をする。 「正月というのは食いもの屋まで休むんですね」  しかし私が抱えているテーマなり疑問をもちだすと、うてばひびくように、ややどもりがちの早口言葉がかえってくる。速射砲である。速射砲は的確であり、そこには作家の眼があった。  その作家の眼はそれまで私がおつき合いを願った執筆家とはまったく発想の違った態《てい》のものであった。速射砲の照準がどうついているのか、舌を巻かせるものがあった。  マリリン・モンローの不慮の死のニュースが伝えられた次の日、草履式サンダルの主がヒタヒタ、ハタハタと編集室に現われた。野坂さんと私は世紀の女優モンローの死を嘆き悲しんだ。そしてこの嘆き悲しみを個人的なものとせず、モンローを偲《しの》ぶ特集ページを作るべきだという意見で一致した。題して�モンローのような女�……私は野坂さんに特集の扉に墓碑銘を書いてもらった。わずか二百字あまりではあったが、モンローを語りモンローを悼《いた》む名文であった。  よく銀座に飲みにでた。ある年、浅草の皮革問屋がカンガルーのなめし皮を靴にすることを思いたち、それに先立って何足か試作するから足型やサイズを知らせてくれ、といってきた。私は幾人かの友人のデーターを皮屋に送った。わずか半月程のうちに、みごとな靴が届いた。カンガルーの皮は柔かく弾力にとんでいてスポーティーなものであった。色は白、内側は赤の強いチェックの布地が張ってあった。靴を渡すと、 「いただけるんですか」  顔がパッと明るんだ。それがじつに自然でよかった。野坂さんの育ちの良さである。  その日は靴をはいている野坂さんと一緒に、銀座のクラブ「ラモール」へ行った。 「ラモール」のドアマンに、彼はいつもノーネクタイなんだよ、ゴルフ帰りの会員と思えばいいだろうと、ことわって階段を下りていった。しばらくして、フロアー主任が私の耳もとで、小さな声でお連れさんの服装が困るんですと囁《ささや》く。何をいうんだ、今日は草履式サンダルではなく、ちゃんと靴ははいているよと小声でいうと、はい、その靴下をはいていらっしゃらないのが困るんでございますと言う。大勢の美女に囲まれてご機嫌な黒メガネの旦那は素足のままカンガルーの靴をはいていたのである。  テレビのウェートがどんどん増してきて、大宅壮一氏の造語である一億総白痴化が現実問題になってきた。私は雑誌にこの問題を取り上げることにした。そして、電波関係の世界の消息通であり、実際にこの世界で仕事をしている野坂さんに意見を聞いてみた。  意外にも私と同意見であった。ではライターは誰に? と言うと、 「僕でよろしかったら」  と答えた。私に異存はないのだが、こんな文章をものしたら、テレビ局から門前払いをされるのではないかと聞きかえすと、いえ、それは大丈夫と言う。その雑誌がでて、私はどうにも落着かなかったが、やって来た野坂さんが、 「どのテレビ局でもプロデューサー達が、今のテレビの傾向は良くない、よく書いてくれた、と賛成していましたよ」  と、当然のような顔をしていうのである。  彼によれば、テレビ局の傾向はよくない、しかし自分だけは違う、と、どのプロデューサーも信じているものなのだそうだ。野坂さんは、プロデューサーがそういううけとり方をするのを、書く前から計算していたのである。  ある企業の小冊子で対談したことがある。テーマは�いかにしてリフレッシュするか?�。対談した二人の結論として人間は年齢に関係なく、いつまでもやじ馬根性の持主が、いつまでも若若しい感受性を持つことができる、つまりリフレッシュとはやじ馬根性とみつけたりということになった。そして男が、いつまでも若さを保つ決め手は女房にあることでも意気投合した。しからばリフレッシュ女房は誰か? ということになった。野坂さんは友人の青島幸男さんの夫人こそ、推挙できる女性《ひと》と言った。  青島幸男さんが八面六|臂《ぴ》の活躍ができるのも、一にかかってリフレッシュ女房のおかげであり、たとえ幾日家をあけようとも青島さんご帰館とあれば、いそいそと迎え入れ、すぐ風呂をわかし、ホッとした湯上りの顔で膳の前に坐れば、これまたホカホカとした味噌汁の食卓があり、その味噌汁の椀の中からは、必ず三葉の香りがただようのであると、激賞したから、 「今どき珍しいねェ。これぞ貞女の鑑《かがみ》、銅像でも建てたいくらいだ」  と、私が感にたえて言ったのである。このくだり、送られてきた小冊子を見ると、ト書きがついていて、「(矢口氏、思わず涙ぐむ……野坂氏つられてこれまた涙ぐむ)」とあったのは野坂さんのしわざに違いない。  その後、青島さんが参議院全国区に立候補して、見事な票数をかちえたのは、その陰に夫人の協力があったと伝えられた。そんなある日、私のところに週刊誌の記者が青島幸男夫人銅像建設委員会の趣旨を取材にきたのには、大いに驚いた。これもどうやら野坂さんの口コミではなかろうか。  ある晩銀座で野坂さんに会ったら、開口一番、歌手としての地位を不動にしたと威張った。CBSソニー|さま《ヽヽ》やグラモフォン|さま《ヽヽ》からもお誘いがあるといって、そのためにキックボクシングのジムに通って、からだを鍛えていると言った。地方都市のナイトクラブの出演も足まめに行くとも言った。 「歌う作家」と自らを戯画化する彼の皮算用は、私には彼の速射砲の照準のように到底わからない。  テレビでたまたま聞いた彼の歌は、時として声がかすれ、音程が心もちはずれるようであるが、これも計算されたものなのだろうか。 [#改ページ]     何でも好きです  郵送されてきた「文學界」の目次をみると、『太陽の季節』——石原慎太郎というのが目にはいった。私の知らない名前である。私は石原慎太郎という未知の作家の小説から読みはじめた。  一気|呵成《かせい》に読むとはこのことであろう。読み終って、次の小説に移る事ができなかった。それは衝撃に近いものであった。石原さんの作品には、その題名が示すように太陽が燦々《さんさん》と輝いていた。紺碧《こんぺき》の海の上を潮風がさわやかに渡っていた。  一月くらいたってから、編集室に三笠書房・編集長の長越茂雄さんの紹介状を持った青年が訪ねてきた。スラリとした長身であった。名刺に石原慎太郎とあるので、はじめてあの石原さんということがわかった。石原さんはいきなり、 「小説を書き|ます《ヽヽ》」  と言った。私は、「文學界」の『太陽の季節』を読んだこと、そして新鮮な感動を受けたこと、また「文學界」の編集長の尾関栄さんにも読後感を電話ではあるが伝えたことを話した。しかし婦人雑誌の小説欄というのは大家主義で、いま連載中の小説は流行作家として売り出し中の井上靖さんが書いておられるし、次は川端康成さんというふうに、新人を登用することは殆どないことを話した。  石原さんは目をパチパチさせ、 「では映画評論を書きます」  と言った。そこで映画評論は婦人雑誌では、映画評というよりは、その映画に登場した人間の、とくに女性の生き方を論ずる場であり、あるいは映画にでてきた家のインテリアやヒロインのコスチュームに言及したりするもので、普通の映画評論とは違うことを話した。  石原さんはまた目をパチパチさせながら、 「それではルポルタージュを書きます」  と言った。私はややあきれながらも、そのひたむきな青年らしさに清々《すがすが》しいものを感じた。私がスポーツシャツの下に躍動する若々しい体をみながら、スポーツは得意でしょう? と聞くと、一瞬石原さんの頬が明るくなって、 「スポーツなら何でも好きです。何でもやります」  と胸を張った。私は�何でも好きです。何でもやります�というスポーツ欄を創ってもいいと思った。次の月から石原慎太郎のスポーツルポが登場した。  年が明けて、一月の終りに芥川賞の発表があり、『太陽の季節』は受賞作品になった。受賞直後、私は新橋のバー「とんこ亭」で十返肇さんに会った。十返さんは、 「これからの芥川賞は文芸欄のニュースでなく、社会欄のものになるでェ」  と言った。石原さんは果然、時の人、話題の人になった。  石原さんの一橋大学の卒業がもう間近という頃、一橋会館で芥川賞受賞の祝いの、ごく内輪の会をやるから出席してくれという誘いがあった。私は喜んで出席した。行ってみると会場には中央をあけてロの字型に机が配置されていて、石原さんの坐っている近くには浅見淵、伊藤整両氏の顔が見えた。あとは一橋大学の教授や同期の学生諸君で埋められていた。知らない顔ばかりであった。  ちょうどロの字型のメインからは、いちばん外れた端に、新潮社の新田|敞《ひろし》さんと長越茂雄さんが坐っていて、私に向って手をあげた。私は両氏の間に坐った。そのうちに水の江滝子さんがかけつけてきた。  伊藤整さんが立って、 「私はいろいろな出版関係の会に出ましたがこんな会は初めてで、とにかく編集者のいない会というのは何となくホッとして、いいもんですネ」  と発言された。  長越さんが、ここに三人おりますよと声をかけると、伊藤整さんは大いに恐縮して、 「そんな処に坐っているからわからない。まことに失礼を申し上げました。三人ぐらいの編集者がいちばんいい会です」  と言われて、みんなが爆笑した。  すると柔道部のキャプテンの学友が立上って、 「私はこの四月に日本郵船に入社するものでありますが、わが船舶業界はまことに憂うべき現状でありまして」  とやりだした。まだ新入社員にもならない身分としては、その意気たるやまことに壮である。 「私は柔道部員の石原を、いつも畳に叩きつけてきました。柔道で押えこみをされて、『参った』と言わなければそのまま|オチル《ヽヽヽ》。その|オチテイル《ヽヽヽヽヽ》ときはまことに甘美な世界を彷徨《ほうこう》するのでありますが、彼は私のお陰で甘美な学生生活を送ったといえるでありましょう。その意味でも私は彼の恩人であります。この石原は小説とかいうものを書きまして私も急遽《きゆうきよ》読んでみましたが、小説というものはまことに情けないものであると、いよいよ痛感するものであります。しかし彼はどこにも就職せず、これからも書くと言っております。われわれ友人一同寒心に堪えないのですが、まあ水商売のようなものを少しは実地にみることもいいであろうし、どうせ二、三年で尻っ尾を巻いてやめるに違いない。またやめなくてはいけない。その時われわれは実業界において雄飛していることであろうし、欣然、わが膝下《しつか》に迎えいれるものであります」  という演説になった。  それをうけて石原さんが立上り、 「柔道部キャプテンの発言はほとんど放言で、私こそ彼を何度か甘美な世界に導いてやった恩人であります。しかも彼は柔道のほかなんの才能もない。それにくらべて私は蹴球部の優秀なポイントゲッターでもあった。私の進む世界が水商売かどうか、そんなことよりも、私の書く小説によって確実に日本の文学界の水準は高められ、その結果日本の国は必ずよくなるのであります」  と言って着席した。  ふと気がつくと石原さんの横にはいつの間にか可愛らしい若い女性が坐っていた。こんどは一橋大学の教授が立上って、 「きょう私はホッとしたことがあります。と申しますのも二年前の夏、私はゼミナールの学生四人ばかりと三浦半島を尾根伝いに歩いておりました。その山深い松林の中で私たちは若い男女に出逢いました。それが石原という本校の学生であることをゼミの学生によって知らされました。そしてその石原という学生の脇にはまだ稚《おさな》い感じの女学生らしい少女がおりました。その女学生の顔を私は忘れずにおりました。そしていま石原君の隣りに坐っているご婦人こそ、その時の女学生であります。『太陽の季節』は放恣《ほうし》な男女を描いておりますが、石原君の青春はまことに真摯《しんし》なものであったのだと、私は去る年の三浦半島の山を思い浮かべながら、何となくホッとしているのであります」  この言葉に、石原さんも、隣りの結婚したばかりの石原夫人も、揃《そろ》ってうつ向いた。初々しい二人であった。 [#改ページ]     帰るといます 「あなたは自民党を? 支持する、支持しない、よくわからない」といったふうの調査が新聞や雑誌に出る。ところが「よくわからない」の項の数字が意外に多い。  よくわからないとは、一体どういうことであろうか。「自民党」を「社会党」にしてもよいし「時の内閣」にしてもよい。とにかく「よくわからない」という数字が多いのである。  この「よくわからない」とは、回答者が全くわからないのか、言葉通りちょっとばかりよくわからないのか、読んでいる方がよくわからないのである。つまりきかれた人が無知|蒙昧《もうまい》であるのか、やや政治に|うとい《ヽヽヽ》のであるのか……、あるいは政治のあり方とか、いまの政治の理念や、いまの政治家の姿勢はかくあるべしと、強い主張があるのであるが、現在日本で行われている政治については、どうもよくわからないのか?……。  また支持する、支持しない、と答えるよりは、よくわからないと答えた方が、より哲学的であると考えて答えた結果の、よくわからないなのか? とにかく私はこうした調査記事を読む時、いつもある戸惑いを感ずるのである。  しかし今日の政治とか政治家を見ると、「よくわからない」というのはあるいは当然なのかもしれない。  わからないといえば、「週刊朝日」が国会議員へ出したアンケートを議長通達で拒否された事件があったが、これなどはもうさっぱりよくわからない。さぞかし当時の編集長の牧田茂さんはびっくりしたことであろう。  もっともアンケートというものは、余程うまく考えて具体的な回答を求めないと「そう思います」「思いません」「持っています」「持っていません」などという、はなはだ無味乾燥な結果に陥ることになる。  私は自分の編集している雑誌の企画で、各界著名の方々に「あなたの結婚式は何式でしたか。ハネムーンはどこに行かれましたか。子供さんの結婚式のご計画について」というアンケートを出したことがある。私としては結婚式やハネムーンが無闇やたらに豪華になる風潮にどんな反応があるかを引き出したかったからである。しかし回答者の半数以上が、 「私たち夫婦は貧乏でしたので、結婚式はいたしませんでした。従って新婚旅行などは考えもしませんでした。ですから子供の結婚式は許す限り、盛大にしてやりたいと思います」  という主旨のものであった。編集者の意図に反した回答に驚きもし、また感激もした。中には著名な実業家で、 「私たちはいわゆるくっつきで、カケオチが新婚旅行でしょうか」  というのまであった。  扇谷正造さん時代の「週刊朝日」に「妻を語る」というグラビアの一ページ企画があった。夫人の写真が大きく出て、その下に夫なる人が妻を語るページであった。白羽の矢をたてられた人は、さぞかし表現に苦労されたことであろう。  その中で三木のり平さんの文章は秀逸であった。のり平さんは妻を語って、 「家に帰るといます」  とだけ語っているのである。私はその回答の要領のよさとともに、ほのぼのとした、いかにものり平さんらしい人間味をうれしく思った。  その三木さんと、ある日銀座のバーで偶然会ってのんだ。その時、二人で、 「ホテルを支持する、支持しない、日本旅館を支持する、支持しない」  といった遊びをした。  三木さんは日本旅館の支持者であった。女中さんが何くれとなくこまごまと世話をしてくれるアットホームなよさをさかんに讃美《さんび》した。私は必要にしてかつ十分の機能を持ったホテルのべたつかないビジネスライクの美点を讃美した。どうやら席にいたホステスたちはホテル派で私のホテル支持の方が形勢がよくなった。  くやしそうな顔をしてのり平さんは「だけどサア」といって次のような仕方話をした。 「そんなこというけどサア、ホテルのバスルーム、ありゃ何じゃい。顔を洗う洗面所とお風呂と、ウンチ場が同居してるなんて、ボカア許せない。あんなところで歯なんか磨けませんよ。それにお風呂に入ると鼻っ先にあの洋式のトイレが見える……、するとボカアね、無性にオシッコが出たくなるんだよ。エ? 条件反射で結構ですよ。仕方がないから出てタオルで濡れた身体をふいて、まずパンツをはく、それからそのパンツをおろしてオシッコをする。これ矛盾と思わない? 無駄手間と思わないスカ? それからね、あの洋式トイレというのは池みたいに水がはってありまさア。大《ヽ》の時はおつりがきそうで不安で不安で。だから僕のやり方といたしましては、上にのっちゃうんです。つまり野球のキャッチャーみたいな格好になるんだなア。ホテルの密室で野球の格好なんかイカサないですよ。まあ、のってごらんなさい。下の池との落差のはげしさを一段と感じて、いよいよおつりがきそう……、そう思うと、ストリッパーがよくやるグラインダー、ホレ、こんな格好の、あの腰をまわすやつね。キャッチャーのかまえで、腰をまわしながらだましだましするつらさ、それがホテルの実態である」  私は吹き出してしまった。 「腰をまわしてすると?」 「ヒモカワウドンのようになります」 [#改ページ]     牡丹《ぼたん》に唐獅子《からじし》、竹に虎  ひと月ばかり、池田弥三郎先生を銀座で見かけなかった。慶応義塾にもストが波及して、先生は銀座に足をのばすどころではなかったのである。  私は先生にお願いする仕事のことで三田の研究室へうかがった。  三田山上のキャンパスは初冬の陽ざしの中に、銀杏《いちよう》の葉が舞っていた。三時の約束を十五分ばかり遅れて、白壁と赤レンガのツートンカラーの新館まで行くと、中から池田先生が出てこられた。 「迎えに出たところ。どうです、この建物、いささかマンション風……」  文学部長の部屋は、小ぢんまりして、それでも応接用のテーブルもあった。 「近ごろどうです?」  この�近ごろどうです�は、しばらく銀座に無沙汰しているけど、銀座は? 常連の人たちは? そしてホステス諸姉は? という意味が含まれている。 「塾にも三派系がいましてね、このところ渦中の人なんで……でもおかげでストだけは解決したけど。痩《や》せたでしょう、四・五キロ痩せちゃった」  ほんの一カ月ばかりお目にかからないのに、たしかに先生はスマートになった。  部屋の北側の窓越しに木の梢《こずえ》がみえた。 「お隣りさんはなんですか?」 「イタリー大使館」  知らないの? というような顔をされる。その|イタリーの庭《ヽヽヽヽヽヽ》は、かつての三田の山をそのままにのこして、雑木の中に常緑樹の大木まで生い茂っていた。  窓近く南天桐が赤い実をつけていて、その実を食べに来た野鳥の影がしきりに動いた。ちょっと大型なのはヒヨドリであろう。 「久しぶりに、たまった原稿を書いてみたんだけど、調子が出なくてね。あとで読みかえしても、さっぱり面白くない」 「やはり、ツァラトゥストラは山にこもるだけではいけません。街に降りてゆくことも大切なんではないですか?」  と申し上げて、仕事の打合わせを兼ねて一献かたむける約束をして、その日は研究室を辞した。  二の酉《とり》が過ぎたというのに、ばかに暖かい日がつづいた。私は研究室を再び訪れた。夕暮近い三田のキャンパスには、学生たちがベンチにすわり、また三、四人がかたまって立ち話をしたり、いかにも平和であった。この日は約束の時間どおりであったのに、先生は、新館の受付の部屋で待っておられた。 「部屋にいると雑誌社から電話がかかってきてネ。NHKの顧問をやっているでしょ。紅白歌合戦の出場者が決ったんだけど、発表前に知りたがる」  と苦笑された。 「苦労が多いですね。ところでピンキーとキラーズは紅組でっか? 白組でっか?」 「ピンキラは紅」  先生と並んでキャンパスを歩きだすと、ちょっと目礼して通り過ぎる学生、笑いかけるように顔を和める女子学生……まことに気持がよい。池田先生の人柄なのか、塾生の躾《しつけ》の良さなのか……と思っていると、四人連れの学生に向って先生が声をかけた。 「オイ、こんな時間になんだ?」 「講義があったんだよ!」  と一人がぶっきら棒に答えた。声の主は池田先生のご子息であった。  私たちは、紀尾井町の福田家でしめじの椀や百合《ゆり》根の八寸をつつきながら、盃を傾けるうちに次第にいつもの|あの《ヽヽ》調子になっていった。仕事の打合わせはしばしば脱線して中断する。いや、この脱線が仕事なのである? いや、脱線こそ貴重である……と思いはじめる頃には、 「向うに見える提灯《ちようちん》は?」 「たしかに宗任《むねとう》」  が、 「向うに見える宗任は?」 「たしかに提灯」  ぐらいになってきた。  池田先生はたいへんな博覧強記の方である。稗田阿礼《ひえだのあれ》か藤原|不比等《ふひと》である。『古事記』『万葉集』にさかのぼり、天平をさまよって、一足とびに子供の頃の回想譜になったりする。江戸っ子教授の楽しさである。話が百人一首からいろは歌留多になった。もっと理におちた、あたりまえで馬鹿馬鹿しい新いろは歌留多をつくろうということになる。先《ま》ず、手本は先生から、 「犬も歩けばくたびれる」  では�ろ�はと私が受けて、 「論より角材、はどうでしょうか?」 「身につまされるね。理におちすぎるよ。論より角帽、くらいにしましょうか」  理におちたあたりまえが苦しい世の中である。 「それより先生、牡丹に唐獅子やってくださいよ」 「またかい? かならずやれっていうんだから。今晩は一回だけだよ。——隠居さんの御殿は築地さん、山谷浅草根津谷中、夜中に起こすは何用じゃ、猛蛇に食われてこんな傷、傷にメンコうち独楽《こま》まわし、廻しがあって床《とこ》の番、牡丹に唐獅子竹に虎、虎をふまえた和唐内、内藤さまは下り藤、富士見西行後向き、むきみはまぐりばかはしら、柱は二階とえんの下、デンデン太鼓に笙《しよう》の笛、えん魔はお盆とお正月、勝頼さまは武田菱、菱もち三月花祭、祭マントに山車屋台《だしやたい》、鯛に鰹《かつお》に蛸《たこ》まぐろ、ロンドン異国の大港、登山するのはお富士山、三遍まわってたばこにしょ、正直正太夫伊勢のこと、琴に三味線笛太鼓、太閤《たいこう》さまは関白じゃ、白蛇の出るのは柳島、縞のさいふに五十両、五郎十郎曽我兄弟、鏡台針箱|莨盆《たばこぼん》、坊やはいい子だねんねしな、品川女郎衆は十文メ、十文メの鉄砲玉、玉屋は花火の大元祖、相場のお金がドンチャンチャン、ととちゃんかかちゃん四文おくれ、おくれが過ぎたらお正月、お正月の宝船、船に乗るのは七福神、神功皇后|武内《たけのうち》、梅松桜は菅原で、ワラでたばねたなげ島田、島田金谷は大井川、可愛けりゃこそ神田から通う、通う深草百夜の情、酒に肴《さかな》は六百出しゃままよ、ままよ三度笠横てにかぶり、かぶり振るのは相模《さがみ》の女、女やもめに花が咲く、咲いた桜に何故駒つなぐ、つなぐかもじに大象とまる……」  このへんでトメに致しましょう。 [#改ページ]     慢性女房炎  三多摩方面の住人に、河合平三郎さんがいる。正確には甲州街道を少しばかり南に入った調布市仙川の住人である。河合さんとは、彼が「中央公論」の新進気鋭の編集者のころからのつき合いである。いまは河合企画室という特色のある会社をつくって、いかにも河合さんらしいやり方で張切っている。  私が雑誌をやっていたころ、河合さんと相計って、写真小説というページをつくったことがある。毎号グラビア十二ページを使って小説をのせ、挿絵《さしえ》の代りに写真を特写するという企画である。  しかもこの十二ページは、ある企業が提供するというもので、その仲介はみな河合さんがやってくれた。おそらく雑誌媒体でははじめてのものだったと思う。  執筆は松本清張さんにお願いした。登場人物には新劇の演技派をそろえて華々しくスタートした。  しかし流行作家の松本清張さんの原稿は毎号のように締切りに遅れがちであった。小説をいただいてからロケハンをしたり、撮影をするのはなかなか容易なことではなかった。松本さんがギリギリの締切り日になって、突如居どころがわからなくなり、河合さんと多治見まで追っ掛けていって、多治見の宿で松本さんの寝起きを襲っておこったり、懇願したり……という思い出もある。  だから河合さんとは、いろいろな思いをこめて酒を飲んだ。  河合さんは浅草の生れでチャキチャキの江戸っ子である。ちょいと見には慶応義塾経済学部出身の、塾生の残り香もあり、海軍予備学生を経て、海軍教官になった意外に強靱《きようじん》な残り香もあるが、彼のフィーリングは�江戸っ子の平《へい》ちゃん�である。だから私は、酒席では、 「よう、平ちゃんよ」  と言うのである。  平ちゃんは熱烈な恋愛をして、やっとの思いで結婚をした。やっとの思いというのは、駆落ちしたからである。私は何もその駆落ちに立ち会ったわけではないが、かなりその間《かん》の事情、状況をディテールにわたって知っているのである。何故か。  それは平ちゃんが問わず語りに私に話したからである。私が結婚話を強いたことはない。にもかかわらず、彼は酒を飲むと「うちの女房がね……」を連発する。恋女房なんだなあ。 「純ちゃん、今晩|空《あ》いてる?」  とオフィスに電話がかかってくる。 「平ちゃんか、生憎《あいにく》あいてるけれど、お前さんと飲むのは|や《ヽ》だよ。女房の話ばかり喋《しやべ》るから、妙に里ごころがついて酒がうまくねえや」  と口では断るのだが、いそいそと銀座に出かけるのである。  飲みだしてはじめの三十分ばかりは彼も慎重にしているのだが、少しアルコールがまわり出すと、「うちの女房」がはじまるのである。 「また『女房』がはじまったな。お前は慢性女房炎だ」  と憎まれ口を叩くのだが、平ちゃんはひとたび酒が入ると意気|軒昂《けんこう》、女房や子どもの話をはじめて私と口喧嘩《くちげんか》になる。  だから、よく行きつけのバーのマダムやホステスが、 「お二人の仲ってのは、どうなっちゃってんでしょうねェ。仲がいいんだか悪いんだか、ちっともわかりゃしない」  と真顔できくのである。(左様——当事者もどうなっちゃってるかわからない)  ともかく平ちゃんとの酒は、一緒に飲めば毎夜こうなのである。場所を変えようが、席を改めようが、口喧嘩の連続なのである。そのくせ、平ちゃんは、 「いつまで喧嘩して飲んでたってはじまらない。一緒に帰ろう」  と言うのである。一緒に帰ろう? おれは本気でおこってるんだぞ、と私は思いながら一緒に帰るのである。しかしある晩はもう一軒行こう、と私は言うのである。そしてもう一軒行って、同じような慢性女房炎が出て、喧嘩になって、一緒に帰るのである。  まあ言ってみれば、仙川の住人と国立《くにたち》の住人という運命共同体のなせるわざか。�三多摩方面�の悲劇である。  ある夜も、同じようないきさつがあって、と言うよりは、その夜はいつもの喧嘩ごっこがやや嵩《こう》じて、本気で二人とも怒り出した。それでもタクシーを止めて、二人で乗り込んだ。 「甲州街道を行ってください」  と平ちゃんがいった。 「山梨方面へ行ってください」  と、私がつけ加えた。  車の中で、二人とも口をきかなかった。平ちゃんも私も、自分で言うのはおこがましいが、感心に朝は早い。昼間は大いに奮闘する。そのあげくの酒であるから、黙っていると眠たくなる。とくに私は、車に乗ったらすぐ眠る癖がある。それは第二の天性とも言うべきものである。 「お客さん、お客さん」  という運転手の声で二人、目をさました。窓の外をつっ走る夜景は?……あまり見憶えがない。車は快適なスピードでつっ走っている。 「相模湖をすぎて、もうすぐ藤野なんですが、山梨はどこなんですか」  ナヌ? フジノ?……。そういえば山梨方面と言っただけで、二人とも眠ってしまったんだ。  すぐさまUターンして、八王子、豊田、日野駅を通過し、日野橋を渡り、谷保《やぼ》天神を左折して車はわが家についた。口喧嘩して年甲斐《としがい》もなく口をきかずにうたたねしたばかりに、平ちゃんに迷惑をかけたと思い、私はめずらしくやさしい声で、 「平ちゃん、すまなかったなぁ、順序として先におろしてもらいます」  といい、彼の車が視界から消えるまで見送ったのである。  次の日、というよりはその朝、私はいつものようにオフィスにいた。九時四十五分、平ちゃんから電話である。 「おお、感心に出てるな」 「あたり前だ」 「えばるな。オイ、えらい目に会ったよ。あれからまた甲州街道に出て、新宿の方へ急げと言ったのはいいけれど、また寝込んじまった。運転手のやつ、お客さん、新宿に来ました、だとさ」 「お前はバカだ」 「なに、お前は家の前で降りてから、何をしたか憶えているか」 「静かにお前を見送ったはずだ」 「なにを言うか。深夜の一人旅はさみしかろう、なぐさめてやるとぬかして、一差《ひとさし》、舞っていたぞ。それにしてもお前の家の門灯は明るいなぁ」 [#改ページ]     そうかあ……、そうだろうなあ 「そうかあ……、そうだろうなあ」  というのが橋爪克巳氏の口ぐせである。「そうかあ」で切って、そのわずかの間《ま》に——こちらの顔を見る眼鏡の中の目が、つかの間、キラリと鋭い。そして「そうだろうなあ」はやや詠嘆的で、自分にいいきかせるような響きがある。  夜の銀座でも時として「そうかあ……、そうだろうなあ」になって、すぐまたいつもの春風|駘蕩《たいとう》の愛称「ヅメさん」の酒にかえる。  昼間橋爪さんのオフィスを訪ねると、部屋の外まで笑声がもれてくる賑《にぎ》やかさだ。しかし雑談の途中から唐突に「君はどう考えるかねえ?」になり「そうかあ……、そうだろうなあ」になる。  私が橋爪さんにはじめてお目にかかったのは、高見順先生を介してであった。そのころ、私は一ト月のスケジュールのうち、十日間は高見さんと一緒にすごすような仕事になっていた。その仕事が済んでも、夜は一緒に銀座に出ることが多かったから、高見さんの一高時代の友人である橋爪さんとも、ごく自然に親しくさせていただくようになった。  橋爪さんの事務所は銀座の昔の電通通りの近くにあった。だからここを基点にして、夜のスタートをすることもあった。私は橋爪さんを通じて多くの知己を得た。  東竜太郎知事の時代、都財政懇話会というのができた。これも橋爪さんの肝煎《きもい》りで、メンバーは作家、新聞人、出版人の一流どころでつくられていた。橋爪さんは私にも声をかけてくださった。  この会は不定期ではあるが、東京都の既成の施設やこれから造られる道路をはじめ、いろいろな都市計画の現場を訪れて見学をし、そのあと、東知事や、のちに万博の事務局長になった副知事の鈴木俊一さんと忌憚《きたん》のない意見を交換するというものであった。  汚水処理場もみた。朝の築地の魚市場も長ぐつで歩いた。青果市場にも行った。工場地帯の煙害スモッグの実態もみて歩いた。ある時は神代植物園を経て多摩自然公園に足を延ばしたこともある。  自然動物園のゴリラの家にわれわれが行くと、いちばん左のはずれにある館の主は、どういうものか横山隆一さんにむかって小石を投げつけるのである。われわれには目もくれず、そのゴリラは横山さんばかりを目の敵《かたき》にして、フクちゃん先生を悲しがらせた。  懇話会の席上では今日出海、稲葉秀三氏あたりの舌鋒《ぜつぽう》が、激しく東さんに襲いかかった。 「いいか、東。われわれ忙しいのがマイクロバスに詰まって、一日時間を潰《つぶ》してるんだ。おれたちの言ったことは、肝に銘じろ。肝に銘じたら、ひとつくらいは実行しろ。お前はおれたちの言ったことで、何かやったことがあるのか」  などということになるのだが、池島信平さんや高見さんあたりの緩急自在のとりなしで、勉強会は和やかな方向に進むのである。  名神道路が完成間近になって、漸《ようや》く高速道路時代になりはじめた頃、私はすでにできている阪奈道路や名神道路を空から写真に撮りたいと思っていた。高見さんに「日本の美」という連載ルポルタージュをお願いしている頃で、このルポは日本の暮らしの中の美しさを、古いものも新しいものも含めて、毎月ひとつずつ取りあげていくというシリーズであった。カメラは秋山庄太郎さんが担当してくれた。  ある日、橋爪さんから電話がかかった。 「君の計画きいたよ。テロレンが便宜を図ってくれるそうだ」  テロレンとは、今は亡き道路公団の名総裁岸道三氏である。 「それから、道路を空からみたいんだってなあ。防衛庁の上村健太郎に話したら、ちょうどむこうで演習があるから、その演習終了後にヘリコプターに乗ってみろ、といってたよ」  私にとってこんな有難いことはない。この時の取材には橋爪さんも同行された。仕事はまことに規模壮大に進められた。ヘリの窓からみる生駒《いこま》山塊をぬう阪奈道路の九十九折《つづらおり》の美しさ、大阪平野を京都山崎に真一文字に突っ走る名神道路の直線の美しさ。私はこれからの時代は道路だと空の上から賛嘆した。  京の夜はまことに愉しくすぎていった。道路公団の技師長とも親しくなった。この人は技術家にはめずらしく、茫洋とした大人《たいじん》の風格があり、酒仙でもあった。 「二年ほど、道路のことで欧米に留学させられたんだけれど、日本の技術の高さでは、今更、勉強しなくてもよかったんです。まあ酒を飲みに行ったようなもんですよ」  とさり気なくいう横顔が洒脱《しやだつ》であった。 「そうですなあ、私がきめたことは、橋梁《きようりよう》の横線部分を紅色に統一したことぐらいかな」  技師長は、この色をシャンゼリゼー・ルージュと命名している。いまや日本全土に、この色を見ることができる。  京の夜を幾晩か、はしごして飲み歩いた。この技師長が案内にまわる店では、技師長の隣りに坐る女性が、どの店も何となく似た顔つきなのである。誰かに似ていた。誰? と言われても見当はつかないのだが、何となく懐しい顔なのである。  何軒目かのとき、突然橋爪さんが、 「わかった。思い出した、松登!!」  高見さんも、秋山さんも、私も、いわれてみて、なるほどと思い、笑いを噛《か》みころした。しかし技師長は悠揚せまらず、何人目かの松登と親しげに、それも緊密の度をやや濃い目にした風情で酒を楽しんでいた。  橋爪さんはジューサーが出はじめた頃、人からジューサーを贈られた。贈り主が、こんな便利でしかもからだのためになるものはない、材料は台所で出た残りものの大根、人参のしっぽ、キャベツの芯《しん》、菜っぱの切れはし、をよく洗ってぶち込みさえすれば、すばらしい天然ジュースができるといった。  次の日から橋爪さんは台所で大根のしっぽを拾い、奥さんに大いに嫌われながら、ジュースを作って飲んだ。 「どうです、結果は?」 「それがまずいのなんの。それだけじゃあねえんだ、おれ、毎朝人知れずゲロ吐いてね。どういうもんだろうか」 「何も、大根のしっぽばかりが材料じゃありませんよ、リンゴとかバナナとか、拾い物やめてそういう物になさい」  と私がいうと、 「そうかあ……、そうだろうなあ」 [#改ページ]     ソフトフォーカス  私は友人に恵まれている。つねづね幸せなことと思っている。秋山庄太郎氏も得がたい友人の一人だ。氏などというのはおかしい。彼とは同期の桜である。だから顔を合わせれば、秋庄、秋さん、庄ちゃん、などと呼んでいる。  庄ちゃんはソフトフォーカスで新境地を拓《ひら》いて一時代を創った。ところがこのソフトフォーカスの|後ろ《ヽヽ》には、ソフトどころか、精巧な計算と見ごとなメカニズムがあるらしい。庄ちゃんのフィルムを印刷所にわたすと、たとえば凸版、大日本、共同などの技術者は、「秋山先生の写真ですか。はりきってやらせていただきましょう」と心いさむのである。  日常生活の中の庄ちゃんのムードも、いってみればソフトフォーカスである。しかし、その裏側にあるきびしさを見逃してはならない。彼は生硬な理屈やお説教がきらいなだけである。  しかし世の中はおもしろいもので、お説教嫌いの庄ちゃんに人生相談を持ちかける女優さんが数多くいる。おそらく女の本能が庄ちゃんの本質を見抜いて相談に行くのだろう。  ずいぶん昔のことだが、まだ新橋の狸小路《たぬきこうじ》にあった編集者仲間の溜《たま》り場の「とんこ亭」でのんでいると、飄然《ひようぜん》と庄ちゃんが入ってきた。 「パリに行くんだ。だから歯を治してるんだ」  と前歯の欠けた治療中の口を開いてみせた。  庄ちゃんに前歯がないのは、終戦直後のアクシデント以来のものである。  それはまだ進駐軍が肩で風をきって巷《ちまた》をのし歩いている頃のことだった。新橋駅附近で酔ったGI達が日本女性に乱暴をしかけた。庄ちゃんは敢然としてその行きずりの婦人を守った。GIが庄ちゃんに襲いかかって、したたかなぐられた。かけつけたMPは不法にも庄ちゃんを警視庁に連行した。庄ちゃんはその時、沖縄行きを覚悟したそうだ。幸い許されて出てきたからよかったものの、大変な災難であった。庄ちゃんの気骨に一段とみがきがかかった代りに、前歯がなくなったのである。 「そうか、パリに行くのか。羨《うらや》ましいな」 「ちょっと早すぎるけど、思い切って行ってくるよ。でも前歯がないと入国が許可されないそうだ」 「前歯は歯医者が治してくれるからいいけれど、パリはフランス語しか通用しないんだぜ」 「だからフランス語のできる奴に、これ書いてもらったんだ」  といって大学ノートの切れはしをヒラヒラさせた。  その紙切れには、中央にケイが引いてあって、左側に日本語、右側にはフランス語が書かれてあり、そのフランス語の上には仮名のルビがふってあった。 「どれどれ『私に水を下さい』『ブドウ酒を下さい』『パンとコーヒーを下さい』……なんだ、食物ばっかりじゃないか。なに? 『私にライスカレーを下さい』、パリにもライスカレーがあるのか?」  それを皮切りに、その後何度か庄ちゃんはパリに行ったが、言葉だけはあまり上達しなかったらしい。銀座を歩いていて、ある著名なフランスの女優を紹介され、思わず「コンビャン」といって握手をして、フランス美人を卒倒させそうになった。もっとも庄ちゃんにいわせると、 「夕闇せまる銀座街頭で、にわかにフランス美人を紹介されてみろ、思わず『コンビャン|ワ《ヽ》』ぐらい、いいたくなるじゃあねえか」  ということなのだが。  庄ちゃんの話の面白さは、おおむね失敗話であり、吹き出したくなる愚痴話である。  だから折角なおした歯にしても、 「パリの野菜なんてロクなものはないよ。キュウリなんてデカイばかりで鮫肌《さめはだ》ときたもんだ。固いのなんの。生キャベツをくっていて、前歯がかけちまった」んだそうである。  もう十年一昔のことになるだろうか。「お染」から分れて独立した「小夜」で庄ちゃんとのんだ。当時の「小夜」は銀座ではなく、新橋の狸小路にあった。その「小夜」にはトイレがなかった。外に行くのである。何度めかのトイレから帰ってきた庄ちゃんが、 「トイレといえばなァ、パリのキャフェでコーヒーをのんでいたんだ。僕のワキにバアさんが犬を連れてきて、これもコーヒーをのんでた。そこへ五十がらみの夫婦がやってきて、アッという間にバアさんの連れていた犬にカミさんが噛まれちまったんだなァ。それからの口論のやかましいこと。こっちには何にもわかんないんだけど、フランス語のケンカはけたたましくうるさい。そのうちに僕の方にやってきて何かいうんだ。どうやら証人になれ、ということらしい。僕はテレかくしに犬の頭をポンと叩いた。そしたらアッという間にこっちまで噛まれちゃった。早業だよ。証人変じて被害者。警察がきて、一同救急車にのせられた。どうやら狂犬病の予防で警察病院につれていかれるらしい。寒い日でね。自動車の中はシンシンと冷えるし、呉越同舟のヤツが車の中でまで口論している。そのうちにオシッコがしたくなったんだ。『ピピ』ってポリスにいったが通じない。切なくなってゼスチャーゲームよろしくやったけど通じない。警察病院はえらく遠くてね。パリのとんでもない郊外にあるんだ。ついた時は気絶寸前。そのままトイレにとびこんだ。出てくると美人の看護婦がビーカーをわたして、ここにションを入れろだって。無理ですよ、もうでやあしないよな」  といった具合である。その晩はのみすごして、私は庄ちゃんの家にとまった。庄ちゃんの布団に私が寝て、庄ちゃんはスタジオの脇にあるソファーに寝た。明け方眼が覚めてフト気がつくと、庄ちゃんの愛犬ダックスフントが私の寝床にもぐりこんで、アゴを私のお腹《なか》にのせているのである。 「お前の主人は下で寝てるよ。お客さんはもっとスマートじゃないか」 [#改ページ]     エロチカルな季節 「月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり」は『奥の細道』の書き出しである。松尾芭蕉は人生即旅と断じているが、それにしても奥の細道ならぬ日本列島あげて、今や旅の洪水である。  高度経済成長のピークに達した一九七二年の夏は、レジャーのために海外へ出かけた人が六十万人という。中には行った先々でかなり顰蹙《ひんしゆく》をかったむきもあるらしいが、旅なれた人も多くなった。  藤島泰輔さんなどはまことに神出鬼没でイスラエルから帰ったと思うとアメリカに行き、韓国に発《た》ったと思ったら、実は台湾に回っておりましてなどという。  こうなると日航の国際線のパイロット並みである。そこでついつい、 「今度は何日《いつ》まで日本にご滞在で?」  などと聞いて、彼をくさらせてしまうのだ。  旅なれているといえば、戦後、いち早く「ライフ」のカメラマンになった三木淳さんは、その当時からの旅なれた人のトップクラスではなかったか。まだ業務渡航の時代で外務省からパスポートやビザがなかなかおりず、たとえおりたとしてもドルの枠《わく》が五百ドルで、どうにも不自由な時代であった。だから気軽にニューヨークに飛んだり、リオデジャネイロから帰ってきたりされると、どうにも羨ましくてたまらなかったものである。  この旅なれた三木さんとスカルノ大統領に招かれてインドネシアに行ったことがある。  インドネシアは雨期というのに朝四時半頃からカンカン日和《びより》で閉口した。見渡す限り青空でゴッホ描く「アルルの草原の太陽」みたいな火の玉がじりじり照りつける。雨期など嘘っぱちと思っていたら、午後になって小さな暗雲が青空に出て、それがみるみる広がり、あっという間にスコールの襲来で丸太棒のような雨が大地に突き刺さった。  道は川となり、隣りの人の顔も見えない。世の中がすべて水に溶けてしまった……と思う頃雨足が遠のいて嘘のように雨がやみ、またぞろゴッホ描く火の玉のカンカン日和なのである。  インドネシアは大変なインフレと食糧不足であった。終戦直後の日本に似ていた。にもかかわらずルピアはドルのレートで円より高いのである。虎の子のドルをルピアに替えたら、一ドル換算でマッチ一コ買えない惨状である。しかし、旅なれた三木さんのチエで私は豊かな旅を続けることができた。  ジャカルタからバリ島に行くには、ローカルラインの飛行機に乗った。双発の小さな飛行機でエンジンがかかると機内にかくれていた蚊の群れがいっせいに飛び立ったのには驚いた。旅なれた三木さんも、 「早く用さ済まして日本さ帰るべエ」  と言った。  パイロットはインドネシア空軍から派遣されたハリキリボーイだから、着陸の際は急降下のごとき芸当をみせる。それでもスラバヤ経由で無事バリ島に着いた。  三木さんは折しもユーゴスラビアからやって来た女大臣に早くも眼をとめ、その女大臣のスケジュールに便乗して仕事を進めていった。  女大臣が朝市をみればこちらも朝市を見る。アグン火山見学と聞けばその後をつける。バリ島の歌舞伎とも言うべきレゴンダンス観劇とあれば、特別椅子に女大臣と並んでドッカリ坐る……そのうちに警備の兵隊もホテルのボーイたちも、こちらをユーゴスラビアの女大臣の甥《おい》っ子ぐらいに思いはじめた。万事好都合でした。  ただバリ島を引き上げるときも、女大臣と同じ飛行機にしたら、スラバヤでこの女大臣、昼食の時間が長くて、スラバヤを一時間半も遅れて飛び発ったため、南方特有の積乱雲発生の時刻となった。  我等を乗せた飛行機は木の葉の如く舞い上っては、吹きとばされるように降下して、完全にグロッキーになった。  ジャワ島から香港《ホンコン》に直行した。クリスマスを間近にひかえた香港はおだやかな暖かさで、まさに天国であった。飯は安くてうまい、ひとは美しい、これは高いか安いか知らない。スイスの時計も翡翠《ひすい》もその当時はバカ安だった。ただし、香港税関はうるさかった。 「汝《なんじ》はピストルその他の武器や弾丸《たま》を所持しているか」  といかめしく英語で聞くのである。三木さんが、 「イエス、アイ・ハブ」  といったから税関内は俄然《がぜん》、緊張の空気がみなぎった。役人が私たちをとり囲んだ。しかし三木さんは落着いて右手の人さし指で股間《こかん》を指さし、 「アイ・ハブ・ワン・ピストル・アンド・トゥ・ボールズ」  役人達は大笑いをして我らに握手を求め、何も調べずにすべてOKになったのである。  三木さんはこの二月に私の住む国立《くにたち》市のすぐ近くにある国立府中病院で脳腫瘍《のうしゆよう》の手術を受けた。そして六月にはヨーロッパに旅をしているのである。旅なれているというよりは人生の達人というべきか。  先日三木さんを三田のお宅に尋ねると、脳腫瘍の話になった。後頭部の血管内の腫瘍のため血管の一部がテニスボールほどにふくれていたそうである。  入院してしばらくしてから、ある期間の記憶がないという。その間のことを付き添いの夫人や看護婦さんから聞いてさすがの三木さんも赤面したそうである。  記憶喪失の前期はおこりっぽく、それがおさまるとやたらにスケベになったそうだ。担当の博士にイバリくさって手術の日取りや方法を指示しているときはよかった。次の段階になると脈搏《みやくはく》を計る看護婦に抱きついたり、貴女《きみ》は可愛いから体温を計らせてやるとか、ことごとに迫るのだそうである。 「手術が奇蹟《きせき》的にうまくいって病室にもどってから、病室に来る看護婦が、三木先生、ずいぶんおとなしいんですね、お体悪くなったのかしら、なんてひやかすんで、初めて�エロチカルな季節�があったことを知ったわけよ」  と頭をかいて、 「でも、おおむね陽気な人気者のクランケだったらしいよ。ただ、この間久しぶりで病院をたずねたら、すごく年とった看護婦がいそいそ近づいてきて、センセお約束、いつでもよござんすよ、だとさ。あんまり僕がエロなもんだから、そのバアさん看護婦が僕専門の係りだったとか……、その看護婦に今晩待っていると細君《カミサン》の眼をぬすんだつもりで、細君《カミサン》の前で堂々とささやいたんだとサ……男は辛いねえ。どこぞまた長旅でもしませんか」 [#改ページ]     一点差で勝とう  終戦後三年ばかりは、座談会の場所に苦労した。適当な部屋もなく、料亭もレストランもほとんど見当らなかった。わずかにやみ料亭があって、各雑誌社はこうしたところを利用していたと思う。しかし値段はむろん法外に高いのだが、当時としてはこんな美食が! という料理がでた。だから座談会の出席を依頼すると、先生方は、 「どこでやります? ああ、あそこはうまくていいなぁ」と喜んで出席を快諾し、こちらが「ところでテーマは……」と話そうとすると、 「それは会場で聞く」  というようなこともあった。  その当時、料理の権威、本山荻舟《もとやまてきしゆう》さんと古谷綱武さんの対談をしたことがある。阿佐ヶ谷の「ピノキオ」から料理を品川の本山さんの知り合いの寺まで運んで、寺の一室で記事をとった。カメラマンはフリーの人を頼んだ。もっとも当時は専属のカメラマンを持っている雑誌社は少なかった。座談会場に眼鏡をかけた精悍《せいかん》な男が現われた。  座談会の写真などというものは、またたく間に撮れる。たいがいのカメラマンは、雰囲気《ふんいき》の出た時に、話の邪魔にならぬように撮ると「ではお先に」と小声で言って、さっさと帰ってしまうものである。  ところがこの若い眼鏡の男は、写真を撮り終ると、対談者の間にどっかり坐って、話を熱心に聞き始めた。そのうちに相槌《あいづち》を打ち始めた。次に口の中で、 「その通り。いや、それは」  などとつぶやき始めた。そしてついに発言までし始めたのである。その発言の内容というか筋はまことによろしい。ついに本山さんはカメラマンの疑問に答えたり、意見に相槌を打ち始める始末である。この眼鏡の男が樋口進さんだったのである。  彼は腕のいい報道カメラマンであった。後楽園で脚立を立てて取材中、同業のカメラマンが故意に脚立にぶつかったとかで、脚立の上から転落してしばし心の旅路を味わった。これはうわさで聞いた。  次に彼が私の前にあらわれた時は、文藝春秋のチーフカメラマンであった。しかも私の友人、田川博一編集長の義弟になっていた。つまり田川夫人と樋口夫人とは姉妹なのだ。  樋口さんは水を得た魚のような活躍を始めた。「オール讀物」に連載した『空からの日本拝見』は単行本にもなった。その出版記念会は盛大なものであった。  夜の巷でもよく顔を合わせた。そのうちに彼は野球にこりだした。むろん軟式の、それも草野球であるが、彼は得意気にその日行われた試合の模様などを語るのである。よほど野球がうまいのだろうと思ったら、社内対抗でバッターボックスに立ち、背中にデッドボールを受けると、さっそうと一塁に走って行ったそうである。当時軟式野球ではデッドボールは認められなかった。満足にルールも知らなかったのだ。  その彼が文春野球部の監督になったのである。軽井沢で合宿訓練をしているといううわさも聞いた。しかも出版野球リーグでは相当な成績をあげはじめた。思うに「週刊文春」が出来て、カメラマンを始め、若い社員が大量に増えて野球人口が豊かになった結果であろう。しかし彼はそれを、監督の手腕と確信しているようであった。  ある晩、戦前から文士の溜《たま》り場で知られる銀座の「はせ川」の二階で飲んでいると、隣りの部屋が急ににぎやかになった。相当な人数の宴会らしい。襖《ふすま》ごしに話声が聞えてくる。何やら演説とも訓辞ともつかぬ声もひびき始めた。 「カーブは捨てろ。まっすぐだけをねらえ。それも右へ流すのだ。いいか、攻撃は最大の防禦《ぼうぎよ》である」  などと聞えてきた。私は、プロ野球か何かの会合かと思ったが、席を立って廊下に出ると、これも廊下に出ようとした男とはち合わせをした。樋口さんであった。いや、樋口名監督であった。さきほどの声はむろん、彼のものであり、野球部の納会の訓辞を行なったのだという。  私はそんなに強いチームなら、一度お手合わせを願おうと挑戦して、数日後、グラウンドに立つ樋口名監督の英姿をまのあたり見る光栄に浴した。  プレイボール前に円陣をつくり、円陣の真中で檄《げき》をとばした。「一点差で勝とう!」  これは万年テールエンドの大洋を優勝に導いた三原監督の故智にならったのである。  もっともこの時の試合は、私の社のチームのことを考えてコマを落したそうである。しかも編集部を主力にしたと彼は言った。だから外野は左から、井上良、小林米紀、印南寛さんという編集部のヴェテランばかりを起用した。しかし投手だけはまだ入社したばかりの新人・豊田健次さんをたててわずかに若返りをはかったのである。豊田投手が先発するということは前々日にわかったので、試合の前日、私は豊田さんを誘って銀座で飲んだ。豊田さんは大いに飲んだ。そして翌日、私は四打数三安打という大当りをしたのである。これは少しばかりうしろめたいのであるが、勝負の世界は厳しいのデス。  さて日本人が海外旅行をして、夜の都を訪れると、その土地の案内者が「樋口さんをご存じですか」と聞くそうだ。彼の名は海外にまでとどろいているわけである。その地域はやや東南アジアにかたよってはいるが……。  沖縄の花街でも艶《えん》なる女性が「樋口さんが」と言った。香港の中国娘も「ヒグチさん」を知っていた。香港ではバックボディという新語を作った樋口さんで通っている。バックボディが何を意味するかは聞きのがしたが、風流人の彼であるから、おそらく風流な事柄なのであろう。  彼は世界をまたにかける男であるから、むろん旅慣れている。この間、久し振りで会った時、彼は憮然《ぶぜん》として羽田の日本税関の態度を嘆いた。  彼は旅慣れているから身軽で旅立つ。アメリカに行くのに手ぶらで出かけたのである。  果然、羽田の出国事務所の日本税関で詰問を受けた。荷物がないのがあやしいというのである。彼は羽田の税関が世界一の田舎者であることを心から嘆くのである。  その時私は、バックボディとは何かと聞いた。彼は目をパチパチさせながら、 「おれは竹を割ったような気性だ。物事、万事、矛盾していることは大嫌いだ。英語は矛盾している。だから大嫌いだ。それ故、おれは英語は上達しない。マンと言えば、どうしても女を連想するだろう。ところが英語ではマンは男だ。複数のメンにしても牝《メン》を連想する。矛盾していないか、英語は。しかも、女は子供を産むくせに、ウーマンとは何事だ。女が束になって口をそろえて、ウーメンと言うのは何事だ」  私は竹を割ったような気性の男から、バックボディの意味するところを聞くのはやめにした。 [#改ページ]     引退しました 「釣はもう引退しました」  と、井伏鱒二先生は言われた。 「何とおっしゃる」と、開高健さんが言う。それでは、何とおっしゃるウサギさんであります……という勢いである。  標高一七〇〇メートルの樹林地帯にひっそりとした湖があるんです、その湖はヒメマスとニジマスの宝庫なんです、と開高さんは話しはじめた。  この秘められた湖の水利権を持つある志高い人が、五年前にヒメマスの稚魚《ちぎよ》を放った。ヒメマスは見事に育っていった。しかし稚魚の中にニジマスが入っていたらしく、このところヒメマスとニジマスの比率が逆転したという。  しかし、昨年あたりからヒメマスの五年ものが、急激に姿を消しはじめた。ヒメマスの寿命なのか? 湖水があまりにも清すぎて餌《えさ》が不足するのか? それともニジマスにかかって死んでいったのか……。  これは調査を要することである。その志高い人は開高さんに調査を依頼した。開高さんは幾たびか山の湖を訪れたのであるが、井伏先生にも行っていただき、実際にマスを釣って、その原因を糾明してほしいのですと言った。  しかし先生は釣はもう引退しましたと言われた。だが開高さんはあきらめなかった。開高さんの人跡未踏の秘められた湖の描写がすぐれていたのであろうか、引退を表明されながら、先生の心は山の湖に傾きはじめたのである。 「引退興行をすることにいたします」  かくして井伏先生は秘められた山の湖の調査員となった。私も調査員の仲間入りをして、山の湖に出かけたのである。  開高さんの釣はルアーであり、フライであり、竿《さお》はむろんグラスファイバー。�フィッシング�と呼ぶにふさわしいものである。  井伏先生の釣は東作の竹製の竿であり、微妙な動きをみせる唐辛子の浮子《うき》であり、かみつぶしの錘《おもり》であり、道糸も|はりす《ヽヽヽ》もなるべく細く小さく仕掛けながら、大物を釣上げるという�日本の釣�である。むろん、マスとなれば餌はイクラである。  私たちはひとまず一四〇〇メートルの樹海に囲まれた湖畔にある宿に泊った。そしてその宿から秘められた一七〇〇メートルの湖水へマイクロバスを駆って、早朝から暮れ方まで、丸二日間、調査に没頭した。  早起きの私は、普段よりなお早起きをした。山の気は清々《すがすが》しい、というよりは痛烈な爽やかさである。部屋の窓を開けると、まだ常夜灯が、蛍光《けいこう》色を放ってひかっていた。朝といってもまだ小暗いのである。樹々は早くも紅や黄に染まりはじめていた。そこにおびただしい小鳥たちが、天から降るようにやって来た。常夜灯に集まった虫を食べに来たのである。小鳥たちはカラ類の混群であった。指揮官はシジュウカラ。そしてヒガラ、コガラである。窓のいちばん近くにある山毛欅《ぶな》の幹を、忙しく歩いて上り下りするのはブルーのガウンをひっかけたゴジュウカラである。そして地上に落ちた虫を拾うのに忙しいのは、いちばんちっぽけなミソサザイである。  私は次の日はもっと早く起きて、窓を開けて、彼らの来るのを待ったが、この日は一羽も来なかった。  宿の玄関からまわって様子を見に行くと、ゴジュウカラが止っていた山毛欅の梢《こずえ》から、大きな鳥がはばたいて飛んでいった。大きなノスリである。カラ類は常夜灯につく虫の場所を知って毎朝やって来る。そのカラ類を狙ってノスリがやって来る。私は海抜一四〇〇メートルの宿で、野生を見た。  井伏先生は、巨大な流木の根が岸辺に打寄せられて、半分ほど姿を見せた場所を選んで釣場とされた。水から突き出て、オブジェ風に拡げた根は、竿を置くのに好都合である。  開高さんと私はハーリングをすることにした。湖の舟つき場で用意を整えてから、竿を振る先生のところに、昼までお別れしますと挨拶に行くと、既に先生の顔が一段と引きしまっている。 「たてつづけに三度、|はりす《ヽヽヽ》を奪《と》られた……。大物ですよ。仕掛けをかえます。胸がドキドキします」  老練の釣師は、興奮の極みを、面目にかけて漸《ようや》く押えている、というたたずまいである。この辺りだけは清すぎる水をたたえた湖にしては珍しく、わずかに生えはじめた水藻《すいそう》が、水底を緑にしていた。今年いれたヒメマスの稚魚も群れをなして潜んでいる場所である。  陸釣の先生を残して私たちは手漕《てこ》ぎのボートに乗った。『さざなみ軍記』の作者に、あえて陸の源氏になっていただき、私たちは水軍の平氏となった。  開高さんはドイツ、アラスカ、北欧……と釣り歩いた由緒ある名竿《めいかん》を私に渡してもっとも初歩的なことから私を指導してくれるのである。嘗《かつ》てドイツに游《あそ》んで釣具店の主人《おやじ》の手ほどきをうけて釣をはじめたから、私の釣は独学《ヽヽ》ですと謙遜《けんそん》するが、彼の竿|捌《さば》きは、ともすれば揺らぐ舟の上で、たくみにバランスをとりながらみごとというより他なかった。  そして、この季節の、この天候の、この時間の、日の光、空気の流れ、水温——それらのたたずまいを五体に感じとって、魚の心を読みとろうとするのである。 「これや!」  彼は一つのフライを選んで、鋏《はさみ》から爪切までついている七つ道具を駆使して、道糸にフライをつけた。開高さんが漕ぎ、私は言われるままにフライを流しはじめた。  早くもビリビリッときた。合わせる。竿先が水面に沈む、リールをまわす。遥《はる》か三十メートルの向うで、鉤《はり》にかかったマスが、一瞬、おどるように姿を見せ飛沫《しぶき》をあげてまた沈んだ。手元に引きあげるまでの緊張とスリル。四十センチほどのニジマスである。  藍色《あいいろ》の深みで釣れたマスは深い藍色をしていた。浅場のエメラルド色の水に棲《す》むマスを釣上げると、マスはベージュ色である。  二人して湖水を交替して漕ぎ、一周すると六尾ずつの釣果《ちようか》があった。  先生のところにとってかえすと、流木に結びつけてあるフラシの魚籠《びく》は、釣上げたヒメマスとニジマスではちきれるほどの大漁であった。と、みる間にまた一尾かかった。型が小さいようである。 「これは小さい。放してやりましょう」  先生の手からマスは水に滑りこみ、反転して水藻に消えていった。 「あの……、私はたしか引退興行といいましたが、あれは、取り消すことにします」 [#改ページ]     あの湖に逢いたい  海抜一七〇〇メートルの湖をあとにして、井伏鱒二先生、開高健さんと私は再び喧騒《けんそう》の都会に戻って来た。 「釣は引退します」と言われた井伏先生が、「引退しません」になるほどの釣果があったから、喧騒の都会の人になっても、私たちは些《いささ》か興奮を持続していた。 「浅酌して別れましょう」ということになって、先生行きつけの新宿の店ですき焼きをつつきながら、再び私たちは清冽《せいれつ》な山の湖の余韻を楽しんだ。  浅酌は、例によって深酌になった。しかし三人とも同じ方向なので、車は一台でよい。東京の夜の道を、車は清水町に近づいた。 「あの湖はよかった。それが今度は社会党……」と先生は言われた。井伏先生は時々、夫人のことを「うちの社会党が」と言われる。井伏先生が外出しようとして着物を着ると、「今日は洋服の方がいいのじゃあないですか」となり、洋服を着ると、「洋服は似合いませんよ」となり、何でも反対するから社会党だ、と先生は言われるのである。  しかし、この社会党《ヽヽヽ》は先生特有のテレから生れたパラドックスであろう。 「あの湖」から帰ってから、私は短い期間に三度も旅に出た。私にとっては仕事には違いないが、旅が絡むと仕事も楽しくなる。  とくに河口湖畔の一夜は愉しかった。メンバーも田辺茂一さんをはじめとして、團《だん》伊玖磨、藤島泰輔、山崎唯、その夫人の久里千春、村松英子、イーデス・ハンソンさんといった親しい人が多かったため、余計に楽しかった。  私たちはサロンバスに乗って新宿を出発した。サロンがあるから、車が動き出した途端に飲みはじめた。東名高速を御殿場で降りるのだが、そのレストハウスで團さんが、チクワと山葵《わさび》漬を買った。  サロンバスには電子レンジがある。チクワを電子レンジで焼いて、山葵漬をつけて食べようと言うのである。バスの中の焼立てのチクワというのが珍しく、大いに美味《うま》かった。むろん酒も大いに進んだ。バスの案内嬢が、あれが枯れてはいますが富士|薊《あざみ》ですというと、 「ナニ? 冨士眞奈美がどうした?」  などと言い出す人まで出てきた。  富士ビューホテルのたたずまいは、天井が高く、特にロビーには飛騨《ひだ》高山の旧家の柱や梁《はり》を、もうひと回り大きくした巨木が使われていて、われわれ一行の意気はいよいよ壮大になった。  離れの畳の広間で、私たちは鍋《なべ》をつつき、宴果てると、ロビーのバーで飲み、バーがクローズするとグリルを借りて、またぞろ酒を飲んだ。そこにホテルの好意でパイプオルガンが運ばれ、山崎唯さんが即興で弾き語りをし、夫人の久里千春さんが夫君を応援して歌ったりした。  團さんが割箸《わりばし》をタクトにして棒を振った。レパートリーは文部省唱歌である。高音部が出ないと、團さんは背伸びをしてタクトを頭の上で振る。しかし悲しいかな、私たちはついてゆけない。すると團さんは左手で自分の頤《あご》を吊《つ》りあげて、高くせよ! とやる。團さんとしてはこれほどひどい合唱団ははじめてであろう。  歌にも飽きて、また飲みはじめた。ビール、ウイスキー、日本酒、ワイン、ブランデーと、各自思いおもいに飲んでいたのだが、新宿を午後一時に出発したのだから、十二時間飲みつづけていることになる。それでいて一人もダウンしないのは、酒がよいのか、飲み手がよいのか。あるいは十二月の河口湖畔の冷気がわれわれを引き締めるのか。  團さんは最後はワインになっていた。 「ぼくは奇妙に白に弱いんです。赤ならばどんなに飲んでも平気ですけどね」  と言いながら、ワインのコルクを手にして、 「このコルク、みんな貰います」  と言った。 「八丈島に帰るでしょう。ぼくの釣場に立つとね、その日の海の具合で黒鯛が見える時があるんです。もう顔|馴染《なじ》みのもいてね。そいつがどうしても釣れない。赤い唐辛子浮子で釣ってる時、そいつが底から出てきて、赤い唐辛子浮子を上目で見て、吹き出して笑うんだ。胸ビレで口を押えてね。黒鯛てのは大食漢のくせに神経質で、頭いいですからねェ。赤い唐辛子浮子がおかしくてしょうがないんでしょ。それで、このワインのコルクね、これを細く切って、指でつぶして、糊《のり》で浮子に仕上げるんです。コルクの浮子で釣ったら、顔馴染みの一匹が騙されて釣れちゃったんです。とっても大きかった……」  などと釣の話をした。  部屋に戻って三時間ばかり眠ると六時半。カーテンを引くと五合目まで新雪を被った驚くほど大きな富士が迫るようにその英姿を見せていた。  私は湖畔に散歩に出た。身を切るような空気である。ホテルの(?)犬がついてきた。白っぽいような茶っぽいような雑種の犬は私の道案内のように十メートルほど先を歩きながら、時々立止って私を見た。霜が雪のように白い。と、急に湖上の霧が湖畔に忍び寄ってきて、十メートル先の犬が霞《かす》むようになった。霧の中から一人の男が近づいてきた。團さんである。私は手を挙げ、次にニヤリと笑った。しかし團さんは素知らぬ顔をしてすれ違うのである。 「團さん」  と呼ぶと、 「矢口さんだったの? ぼくは、犬を連れて散歩する別荘から出てきた人と思っちゃって」  と笑った。十メートルほど離れている犬に、私と團さんとでいろんな呼び名を呼んでみた。「ポチ」「シロ」「ブチ」「ジョン」「一郎」「二郎」「サブ」。犬は振り向きもしない。私が試みに、「ヨッ」と呼ぶと、サッと私たちの足元に戻ってきた。 「ありゃ、奴さん、ヨッだよ」 「ウーン、……そういえば、何となくヨッみたいな犬だ」  と團さんが言った。  霧が晴れてきた。海抜九〇〇メートルの河口湖は射しはじめた朝陽に湖面を輝かしはじめた。  野鳥たちが群舞しはじめた。野鳥の群れはマヒワ、ヒヨドリ、ムクドリが主流で、それにホオジロ、ホオアカ、カケスなどが混った。  私はふと、九月に訪れた海抜一七〇〇メートルの「あの湖」の野鳥たちを思った。ミソサザイ、ゴジュウカラ、メボソが主流であった。  それから井伏先生のことを思った。風の便りで、先生は「あの湖に逢いたい」と、しきりに言われているという。「あの湖」の湖《ヽ》は|みずうみ《ヽヽヽヽ》と読まずに|こ《ヽ》と読んでいただきたい。つまり、 「あの湖《こ》に逢いたい」のである。 [#改ページ]     とんこ亭の人々 「二、三日顔見せなかったけど?」 「信州に取材の仕事でね。ついでに蜂《はち》の子で一杯飲んでましたよ」 「蜂の子ねぇ、佐藤|垢石《こうせき》老を思いだすなぁ」 「垢石は釣じゃないのか?」 「いや、貴君のように、老が信州へ三、四人連れ立って行ってね、折しも蜂の子のとれる季節というので、巣を探して現場で蜂の子鍋をするという趣向なんだよ。ある男は酒の入った一升|瓶《びん》をぶらさげる。ある男は牛肉の包みと割下《わりした》の入った水差しを持つ、ある男は支那鍋を担いで勢揃《せいぞろ》いすると、まず田んぼに行って殿さま蛙《がえる》をつかまえる。可哀そうだけど殿さま蛙を割いて、|もも《ヽヽ》肉に真綿を巻きつける。真綿は引っぱって、三十センチくらいの糸に伸ばす。そんな仕かけをいくつか作って、農家の生垣の灌木《かんぼく》につけておくと、やがて地蜂がやってきてもも肉をかかえて飛びたつんだそうな。何しろ地蜂は、蛙のもも肉に目がないらしい。地蜂は重い荷物をかかえて、まっしぐらに自分の巣を目ざして飛んでいくのだが、もも肉には真綿の仕かけがついているから、真綿の糸が秋の陽ざしにキラキラ光る。垢石老をはじめとして、垣根の傍にひそんでいた男たちが一斉に地蜂を追跡しはじめる」 「いい大人たちがねぇ……」 「垢石さん自身も、あまり見られたサマではないと苦笑していたけど、そこが通人の辛いところなのだそうだ。重い荷物を持った地蜂だから、スピードはそれほどないけれど、最短距離で巣へかえろうとする。だから小川の上を飛び、田んぼを斜めにかすめ、農家の庭先を横切るというわけだ」 「そうだろうなぁ。空中には道はないもの」 「一見、紳士風が鍋や一升瓶をぶらさげ、奇声をあげながら秋の陽ざしの中を、上目づかいに蜂の糸を追いかける図というのは、この世のものじゃない。田んぼのちょろちょろ小川でズボンを脱ぐ。着流しのきものの旦那は、尻はしょりになって、何やらひらひらさせる。そんな連中が突如として庭先にあらわれたり、裏の竹藪《たけやぶ》を通り抜けていくんだから、農家の人が目ン玉を白黒させて驚くのも無理はない。ようやく蜂が飛行をやめて降りたったところに巣があるわけで、日当りのよい田んぼの端の土手なんかに多いそうだ。巣が見つかると、その辺の枯葉や粗朶《そだ》をかき集めて焚火《たきび》をはじめる。そして煙を地蜂の巣の中へあおぎこむ。おおかたのハチは巣の中で窒息してしまうが、逃れ出てきた健気《けなげ》なやつも、焚火の火にとび込んで死んでしまう。ころやよしと、穴を掘って地蜂の巣を取りだし、焚火に鍋をかけ、割下を入れて牛肉を煮る。酒は茶碗酒。巣を手で欠いて、めいめい箸を突っ込んで蜂の子を引っぱりだし、鍋の煮汁にさっとつけて、殆ど半煮えのまま口にほうり込む。垢石老にいわせれば、こんなうまい酒の肴《さかな》はないという。なかには、あと半日すれば親蜂になるのもいる。野山をかけめぐった上に、焚火の火と茶碗酒でぽうっとなっているから、幼虫と|それ《ヽヽ》の区別がつかなくなってくる……」 「そんな成虫の半煮えは危険じゃないのか?」 「そこだよ。老に聞いてみた。老|曰《いわ》く『素早く食べねば舌を刺される。刺されぬようにだましながらのみ込むのが通なんじゃ』。老がいうのだから間違いなかろう。通の道は厳しい」 「通といえば小野佐世男のゆでだこの話……山形と新潟の境目あたりに鼠《ねず》ヶ崎というところがある。磯には温泉が湧《わ》いていてね、磯風呂に入ると日本海の波しぶきが上気した頬にかかっていい気持だそうだ。湯舟のわきには湯元みたいに熱い湯の吹き出るところもあって、そこは手を入れることもできないそうだ。小野さんは、お銚子《ちようし》何本もその湯元でお燗《かん》をして、湯の中でちびりちびりやる。ふとみると、たこが岩をはい上ってきて、湯舟のふちを歩いていたが、小野さんに気づいて、あわてて熱湯のたぎる湯元に落っこちて、とたんにゆでだこになる。小野さんは、そのゆでだこを日本海の潮で洗いながらちびりちびりと飲んだそうだ」  こんな他愛もない話をしながら、私たちは毎晩酒を飲んだ。場所は、今は新橋ビルが建っている新橋駅銀座口狸小路の「とんこ亭」である。  殆どの客が、ジャーナリスト、作家、評論家、漫画家、カメラマンである。間口二間、奥行一間半ほどの店だから十人も入れば満席になる。  覗《のぞ》いてみて入れないとなれば、そこらを一まわりしてくる。二度目に覗いても入れないときには先客が、では交替しましょうと席を立つ。みんな顔見知りの常連だから、それがごく自然に行われる。  加えて「とんこ亭」のとんこ女史が天衣無縫でジャーナリズムの猛者たちもごく自然に|さばか《ヽヽヽ》れる。いや、とんこ女史が客を|さばこう《ヽヽヽヽ》などとは思っていないからスムーズに交替が行われるのだろう。何しろ、とんこは客よりもいちばん騒いで、喋《しやべ》ったり笑ったりしているのだから世話がない。人徳というべきか。  この狸小路というのは、戦後のいち早く出現した闇市を追いかけるようにしてできあがった飲屋街である。どの店をみたところで、あまり結構な造りでもなければ風情があるわけでもない。トイレも共同のものが、小路の突き当りにあるというたたずまいだ。  それでいて、「とんこ亭」に集まる人々にはある種の酒品があった。志が高かったのか。それに客同士、ある種の連帯感をもっていたようだ。  そんなわたしたちの中に、ちょび髭《ひげ》をはやした五十年配の紳士が現われはじめたことがある。何処《どこ》の誰だかわからない。また、尋ねようとする者もいない。ただ、その男の雰囲気《ふんいき》は私たちの稼業とはまったく違う世界の人のようであった。  その男は、いちばん隅のカウンターで静かにグラスをかたむけ、私たちのとりとめもない話を熱心に聞いているようであった。三月《みつき》ほどそんな日がつづいて、その男は、ぱったり来なくなった。  それに気づいて、ある晩、とんこ女史に、あの男のことを聞いてみた。 「あぁ、あの人、二、三日前夕方早く来て、とても楽しかった、みなさんによろしくいってください……で、それから何といったと思う?」  と、とんこ女史はいって、あの男の声色らしい声で、 「わたしは、今日かぎり社交界から身をひきます」 [#改ページ]     泣あっかせる、ね  正月の二日から早々と社に出て仕事をしたことがあった。ビル街はまったく深閑として、とりつくしまもないおもむきであった。  しかしスタッフは元気な顔でやって来て、朝から編集の仕事に精を出した。重箱におせち料理を持ってきた婦人記者もいた。これは大いに助かった。何しろ正月三ガ日のビル街では、弁当持参でなければ飢え死する。  仕事は思いのほかはかどった。気がつくと時計は夜の七時をまわっていた。オフィスを出て新橋駅へ歩く。習い性とは恐ろしいもので、足は自然に迂回《うかい》して、「とんこ亭」に向いているのである。  正月二日である。あいている筈はない。バーや小料理屋の並ぶ道筋は、のれんをおさめて、その暗がりが寒々しく、何やら映画スタディオのセットを思わせた。その暗がりの中にぽつんと一つだけ小杳《おぐら》い灯りが見えてきた。残置灯のようなたたずまいであった。 「もしや」という気持になった。その灯りは「とんこ亭」からもれているようである。私たちは足を早めた。 「とんこ亭」はあいていた。  とんこのいつもの笑顔があった。おおげさにいえば、とんこの笑顔が暗黒の太陽、砂漠のオアシス、地獄の仏に見えた。新年の挨拶が恰《あたか》も越冬隊「ふじ」の帰還の時のような響きになった。  私は正月二日から初仕事、それも突貫作業などということは、日頃の心がけが悪いようで、どうにも落着かなかった。——だからスタッフにも仕事をするつらさよりも、なまけものの節句働きのような心理的なつらさがあるにちがいない——私は仕事をしながらたえず心の片隅にそんなこだわりがあった。 「とんこ亭」の女主人も働き者である。仕事好きで、常日頃、仕事に全力投球をする女傑である。だからその人が正月の二日から店をあけている……ということに、喜びが二重になった。  私たちはいつものように飲み始めた。というよりは、去年と少しも変わらぬことが、また始まったのである。スタッフのうちお嬢さん記者は一時間ばかりで帰っていった。私はいつもより酔いが早く回るようである。そんな時、 「ほおー、のぞいてみるもんだね」  という耳慣れた懐しい声がした。扉の外の声音《こわね》で戸板康二さんとわかった。戸板さんは満面笑みをたたえて入ってこられた。 「のぞいてみるもんですね」  ともう一度同じ言葉をくり返して、新年の挨拶になった。戸板さんは正月興行の劇場《こや》をいくつかのぞいたり、顔を出して、まさかと思いながらも、「とんこ亭」へ足を向けたのだそうだ。  戸板さんの酒もいつもより急ピッチのようであった。まさかがほんとうになった楽しさに違いない。私は饒舌《じようぜつ》になった。 「たしか荷風の小説でしたか? 大店《おおだな》の主人が道楽が過ぎて番頭の数が減る。いつしか使用人もいなくなる。店を手離して一家は離散する。女房は実家《さと》に帰り、娘は芸者になった……その主人《だんな》は今では炭屋?かなんかの二階に間借りをして……そんなある冬の日、主人《だんな》は昼風呂に行き、湯銭を番台に置いてちょいと女風呂の脱衣場をのぞいて若い女と目が合う——その女が芸者になった自分の娘で……風呂からあがって、風呂屋の前で娘と立話をしたんだったのかな? 娘は父親の住んでいる町の色街に移っていることがわかる。娘と別れて炭屋に帰り、はしご段を二、三段上ったところで、炭屋に話しかける。『女風呂もたまにはのぞくもんだね』。そのたまにゃのぞくもんだねを、さっきの戸板さんの『ほおー、のぞいてみるもんですね』で、思い出したんですよ」 「女湯もたまには……ナカセル」 「その娘さんが、道楽な父親をそれほどうらんでない感じに書かれてましたね。芸者になったことも、いまの境遇もそれほど苦にしてないような感じなんだなぁ」 「哀しいけれど、救いがある」 「そうなんです。お父っつぁんはのん気なんだから、なんて言ったりして……。そのお父っつぁんは、七輪の火で慣れぬ手つきであさりのむき身を小鍋に煮て一杯飲んだり」 「むき身の小鍋、ナアッカセル、ネ」  戸板さんのナカセルネは「泣あっかせる」で、きれて、「ね」がつく。  今度は戸板さんの話が始まる。急に浮かんできた小説の梗概《あらすじ》である。  ——私(戸板さんらしき人物)が旅に出る。あてずっぽうの土地で行き当りばったりの鄙《ひな》びた旅宿に泊る。通された部屋の隣室には、先客がいるらしい。  薄いふすまを通して咳《しわぶき》がする。声の主は五十をとうに越えたやせ型の男であろうと私は想像する。私は隣りがそんな男の泊り客なのに軽い失望を感じ、ひとしお旅のさびしさにひたるのである。  そこへ廊下に物音がして、女中が客を隣室に案内した。客の声は三十がらみの男のようである。何だ、男のところに男の客か……。その二人の男のボソボソした話し声が聞えてくる。  私は女中のとったふとんにもぐり込む。夜が更けていちだんと静けさが冴《さ》えかえる。隣室の会話がややはっきりと聞えてくるようになった。二人は絵師らしい。年とった男はこの町の人ではない。何かの用でこの田舎町にきた。年の若い男は、その先輩に絵の技法の細部にわたって教えを受けているかのようである。どんな絵を描くのだろう? と思っている私に、二人の男がどうやら春画の絵師であることがわかってくる。私はふとんの中でいよいよ流離の思いにひたるのである——。 「急に浮かんだ筋だけれど�遠州藤枝の宿�という題はどうです」  戸板さんも私も新年の酒に陶然と酔った。野球の話もした。戸板さんの野球はプロ野球ではない。断然六大学野球である。戸板さんは熱烈な慶応義塾ファンである。母校愛の権化である。それは年とともに熾烈《しれつ》さを増すようである。話は私の会社チームの草野球の話にもなった。 「近頃、私はファインプレイばかりします。つまり、反射神経がにぶって、第一歩の出だしが悪いんです。何でもない球なのに間一髪のような取り方をする。素人見には、それがファインプレイに見えるんです。オーバーなしぐさがファインプレイに」  ここまで話すと戸板さんが、 「大芸論、芝居の世界にもそれがあります。役者と観客の間にもそれがある」 「とんこ亭」は�陶然亭�となって、やがて三日を迎えようとしていた。 [#改ページ]     ほのぼの美人 「とんこ亭」に行ったら、とんこがいきなり、 「誰か亡くなった方いない、ご親類でも職場でも?」と言うのである。どうも身近に亡くなった人はいないと答えると、大いに落胆して、 「あーら、生憎《あいにく》ねェ。あたし夏の喪服を思い切って作ったのよ。それができてきたの。だから、どっかで葬式がないかなあって思ってんだけど、喪服を作ると逆にないもんねェ」と笑った。  とんこの話によれば、彼女はいままで合着の喪服しかなかった。ところが運悪く、行かなければならない葬式というと、符合したように夏なのである。とんこは合の喪服で焼香し、涙を流し、そして大いに汗をかいた。肩身の狭い思いもした。  そこで清水の舞台から飛び下りる思いで、夏の喪服を新調したのである。だから「誰か亡くなった方いない?」ということになる。その気持、大いにわかる。しかし生憎、私の縁者は壮健であって、とんこの期待にそえなかった。  とんこという人物は、このように喪服の話ひとつするにしてもカラリとさわやかなのである。一向に湿っぽくならない。  そういえば、常連と「とんこ亭」女主人との間の浮いた話を聞いたことがない。少なくともいろっぽい艶《つや》ばなしにまで進展しないのである。これは何故か。  とんこは世に言うところのいわゆる美人とは言い難い。しかしある種の美人である。それはほのぼのとあたたかいものを感じさせる女性である。つまり�ほのぼの美人�であります。  それならば浮いた話の一つや二つあっても、一向にふしぎではないはずである。それが艶っぽくならないのは、とんこの性格の故である。もっと具体的に言えば、とんこの日常会話の音声のボリュームによるのではなかろうか。  たとえば、とんこは文藝春秋のX氏、朝日のY氏などには、ほかの客とは別な関心を寄せているはずである。なぜそれがわかるかといえば、とんこがはっきりそう言うからである。 「あたしゃ、文春のXに岡惚《おかぼ》れしてんだよォ」  とか、 「朝日のY、いいやつだなぁ、あたしゃ涙が出てくるんだ」  などと、オン・ザ・ロックスを客に出しながら、大きな声で話しかける。だから聞き手はここでほんとはハッとしなければならない。もの凄《すご》い内容に、 「ン?」  とか、 「ナヌ?」  と反応しなければならない。にも拘《かかわ》らず一向に艶っぽさも色気もないのは、とんこの話し方が公明正大でありすぎるからだ。大声でありすぎるからだ。馬鹿でかいのろけ話なんて一向にいろっぽくないものである。 「朝日のY」といえば私はごく自然に、やはり朝日の一人の友人の顔が浮かんでくる。いま仮の名を春山咲平としておこう(この件《くだ》りはどうもイニシアルとか仮名が多いなぁ)。  春山はニュースストーリーの名手である。彼のニュースストーリーが載った号の「週刊朝日」は、俄然《がぜん》いろめくような感じさえする。  やさしい男で、いつも伏目がちに、ボソボソ話をするのである。この伏目がちのボソボソが、女の母性本能を刺激するらしい。  彼の告白によると、ある正月、炬燵《こたつ》に入ってぼんやりしていた——よっぽど彼は暇だったんだろう、炬燵の上にノートを拡げて、過ぎし日の彼の前をよぎった女性の顔を一人思い浮かべてみた。女性の翳《かげ》がよぎり、一人の顔が浮かんできた……彼は何の気なしに鉛筆で一本棒を横に引いてみた。二人目のときにその横棒の中心部から縦棒を引いた。三人目のときに、その縦棒の中心部から右へ短い横棒を引いた。ふと気がつくと小学校の級長選挙のときの正《ヽ》という字を書きはじめていたのである。  つぎつぎに過ぎし日の花の顔容《かんばせ》を思い浮かべて棒を引いてゆくうちに、いつしか正という字がノートにいっぱいになって、彼は空|怖《おそ》ろしくなって作業をやめたという話である。  こんな話もある。地方取材を終えていったん社に帰り、すぐまた社を出て、家に帰るため有楽町から電車に乗った。東京駅で乗り換えて、国電の立川行に乗った。彼の家は吉祥寺《きちじようじ》である。東京駅を出たころ、激しい雨が降りだした。にわか雨である。  しかしその雨も、吉祥寺の駅に降りたときは、嘘のように上っていた。通り雨である。彼は旅のためにレインコートを持って行ったのだが、駅を降りたつとき、それを小脇に抱えた。  改札口のところで、文学サークルで知り合った美しい人妻の顔を見た。その人妻も春山に気がついた。人妻は男物のレインコートと雨傘を持って夫を待っていたのである。 「通り雨だったのね、雨が上ったから一緒に帰りましょう」  と夫の傘をブラブラさせた。  二人はならんで井《い》の頭《かしら》公園口の方へ歩いて行った。春山の家は、井の頭公園を越えたところにある。この公園|界隈《かいわい》には、いくつもラブホテルがある。突然、人妻が春山のレインコートをひったくるようにして、一軒のラブホテルに走り込んで行った。春山はその後を、 「レインコートを返してください」  と追いかけて、とうとう二人とも部屋に入ってしまったのである……。男、おとこ春山、通り雨。  そんな春山と、私は「とんこ亭」へ行った。意外にも春山はとんこははじめてだという。ニュースストーリーの名手でありながら、春山は初対面のとんこに、伏目がちで話をした。それが、とんこの母性本能をそそるようであった。  肴にタタミイワシが出た。タタミイワシとは気が利いてるねェ。ところが春山は、タタミイワシに箸をつけない。 「どうした? きらいなのか」  きくと、春山は、 「眼が恐《こわ》い。ちっちゃなイワシがみんなで僕を見てる」  とぬかしおった。そして裏返してみて、 「裏返してもみんなが見ています」  春山が女心を妖《あや》しくゆさぶる秘密を、まのあたり見る気がした。  つぎの日、私は一人で「とんこ亭」へ行った。とんこが目を輝かして、 「きょうは春山さんはご一緒じゃないの? 朝日の人ってどうして、あんなにいい人ばっかりいるのかしら」  めずらしく客は私一人だったので、とんこは朝日のYの話をした。  Yと高尾山に行った話である。ケーブルカーの高尾山駅でおりて尾根伝いの参道を行くと、そこに物売りが出ていた。鶯笛《うぐいすぶえ》も売っていた。ハイキングに来た子供たちは、親にせびって鶯笛を買ってもらって、各自各様に、うぐいすの鳴き音を、山の空気にひびかせていた。 「あたし、そのときYを諦《あきら》めたのよ。Yったらその鶯笛を買って、そっとポケットにしまったの」 [#改ページ]     私の耳は鳥の耳  ソニービルの交差点までくると、師走《しわす》の街は慌しく、夕暮の中の騒音標示の数字は、「ただいま94ホーン」を告げていた。ゴーストップを待つ間に、私の耳にかすかな野鳥の声が聞えてきた。 「鳥の声がするのだが……」  傍らの友人は、けげんな顔をした。私の連れはアメリカ人で、戦後日本に来て日本が好きになり、日本人の女性と結婚した、今様《いまよう》に言えば少しばかりヘンな外人であるが、 「鳥の声? 何も聞えないよ。だけどアレかな?」  と言って、彼は朝日新聞社の屋上に鳩ではない鳥が夕方になると群れているのを二、三度見たことがある、と言った。  横断歩道を歩きながら私はまた野鳥の声を聞いた。私たちはごく自然に西銀座デパートの脇を通り抜けて、朝日新聞社を仰ぎ見た。  ムクドリであった。数にして二十羽ほどであろうか。夕方になったので塒《ねぐら》に帰ってきた風情である。 「|あれ《ヽヽ》よ、|あれ《ヽヽ》がいるのよ」  アメリカ人が言った。ムクドリは漂鳥であって冬は低山地帯から平地にやって来るのだが、たまには神社の松の巨木の洞《ほら》などを見つけると、留鳥となって一年中|棲《す》みつく。  朝日新聞社の屋上のムクドリは、冬場だけ田舎からやって来たお客さんであろう。それにしても騒音と煤煙《ばいえん》のただ中の有楽町などに来たのはなぜであろうか。  新聞社は嘗《かつ》て伝書鳩を飼っていた。朝日新聞社の屋上にはその名残りの空《から》の鳩舎《きゆうしや》があるのであろうか。それに目をつけて夜はそこを塒とし、日中は宮城前の広場や堀端を餌場にしているのかもしれない。  私はアメリカ人と別れて六本木のペンクラブへ行った。ペンクラブのオフィスにいると川端康成先生がひょっこりやって来られた。川端さんはペンクラブの事務所のチリ籠《かご》と、会員が泊るベッドルームに使うこまごましたものをわざわざ持って来られたのである。  そして京都で行われる予定の日本文化研究国際会議の話や文藝春秋社で行う講演の内容のディテールについて、まことに気忙《きぜわ》しくいろいろと話されたり、私の意見をきかれたりした。  私が部屋の明りを点《つ》けようとすると、 「そのままでいいです。話をきいて下さい」  と、ふだん口の重い川端さんにしては珍しくよく話された。そして自分の思ったことを全部言ってしまうと、 「何かおもしろい話、ありませんか」  と訊《き》かれた。私はソニービル前の喧騒《けんそう》の中で野鳥の声を聞き、それがムクドリであったこと、そのムクドリが朝日新聞社の屋上に棲んでいることを話した。 「よく聞えましたね」 「一緒にいたアメリカ人に、私の耳は鳥の耳だと自慢しましたら、そういうのは猟師の耳だと冷やかされましたよ」 「猟師の耳ですか」  川端さんは笑った。  川端さんの小説に『日雀《ひがら》』というのがある。川端さんが『禽獣《きんじゆう》』を書いた頃の作品で、上野桜木町のお宅には五十羽ばかりの小鳥が飼われていた。川端さんの飼う鳥はほとんど野鳥で、それもキクイタダキとかヒガラといった野鳥を愛した。当時はこうした野鳥がさかんに飼われていたらしい。川端さんに言わせるとその野鳥たちは、この世のもので花にもまさる造化の妙だという。  小説『日雀』には川端さんらしい主人公が木曽路の寒駅で汽車を降りて、すばらしいヒガラの鳴き声を耳にする。ヒガラのさえずりを辿《たど》って行くと、街すじのある商店にヒガラの籠があった。主人公は店に入っていって、そのヒガラを店の親爺に譲ってくれ、というくだりがある。 「先生も小説の中で、鳥の耳をもった男を書きましたね」 「ええ、あの頃は、いっとき鳥の声しか聞えませんでしたよ」  川端さんはまたたのしそうに笑った。  この文章を書いている今日から十日前の朝、私は庭でかすかに郭公《かつこう》の鳴き声を二声聞いた。あるいは空耳ではないかとも思った。家に入って時計を見ると五時十分であった。  つぎの朝、郭公の声が聞えるかもしれないという期待のもとに庭に下りた。庭の欅《けやき》や櫟《くぬぎ》にはシジュウカラの小群がやって来て、地鳴きをしていた。と、突然、東側の空から郭公の声がした。三声鳴いた。そしてやや近づいてまた三声鳴いた。私の立っている庭からはかなりの距離があるが、まさしく郭公である。時計を見ると五時であった。  つぎの朝も私は早起きをした。庭に下り立つや否や、庭の間近のすぐ東側の空を郭公が一声鳴きながら飛び去った。時計は四時五十分であった。  つぎの朝、私は四時半に起きた。しばらくして郭公は私の家の北側——おそらく一橋大学の森と思われるところで三声と、つづいて五声鳴いた。  郭公は托卵《たくらん》をする巣をさがしているのか。托卵の犠牲者はモズ、オオヨシキリ、コヨシキリなどの野鳥である。だとすると、こうした野鳥たちもわが町、国立には増えてきたことになる。  私はペンクラブの緊急臨時理事会を終えて、部屋を出ようとして石川達三さんに声をかけられた。 「銀座に出ようよ」  土岐雄三さんが、私も仲間に入りますと言われて、三人で銀座に行った。  車の中でこの日が土岐さんの六十五歳の誕生日であることがわかり、まず「浜作」で乾杯した。ついで「エスポワール」で再び乾杯をした。もう一軒、石川さんの知っている「波」というバーでもう一度乾杯をした。 「あれ、九時になった。僕は帰るよ。朝早いんだ。それにこの頃、郭公が鳴くのでね」  と石川さんが言った。  私は驚いた。世田谷のあたりにも郭公が来ているのである。土岐さんと私はそれから「眉」に行くことにして、石川さんと別れたのだが、土岐さんが、「僕も女房のもとに帰ります」と言い出した。  私は急に眠くなった。日曜日から郭公騒ぎで早起きの連続である。車に乗ると、もう眼をあけていることができなかった。鳥の耳どころか、私は鳥の目である。 [#改ページ]     日本の夏が……  長期予報では、長梅雨のはずであったが、雨は一向に降らず、カンカン日照りの暑い日がつづいた。七月も半ば近くなって、気象庁は空《から》梅雨と梅雨あけ宣言をした。ところがとたんに日本各地に集中豪雨が見舞って、日本列島は水浸しになった。その上、行方定めぬグズ台風が停滞して、どうにもならない湿っぽさが毎日つづいた。  しかし、そのグズ台風が過ぎると、俄然陽ざしは眩《まぶ》しく、やって来ました、日本の夏が——。  盛夏の候である。日常業務は多忙。加えてこの十一月に迫った、京都で行われる日本ペンクラブの国際会議の準備も多忙。まことに息つく暇がない。  一週間に二度は六本木のペンの事務局につめる。阿川弘之さん、三浦朱門さん、遠藤周作さんのばかでかい声が、事務局に響きわたる。石川達三さんが奮励努力する。田辺茂一さんばかりは悠揚せまらぬ大人の風格で仕事をすすめ、夕されば例の大きなバッグを下げて、銀座方面へ出撃するのである。  日常業務が忙しくてペンの仕事があって、田辺さんたちと銀座に行くのだから、この夏の暑さは一段ときびしいのである。そこへ原稿の締切り日ですよ、と追い討ちをかけられる。  締切り日といえば、わが敬愛する野坂昭如さんが私に語った彼の日常生活というものは、毎日が締切り日であるそうな。恐ろしいことである。どこかの編集部の記者が次々に現われては、彼を拉致《らち》し隔離し、原稿用紙に字を書かせるのだそうだ。 「その、何といおうか、密室に閉じこめられて、その、全く、氷結して、白一色になった頭脳から物語を原稿用紙に一字一字つづらなければならないという作業……、ぼくは、前世において、よほど重罪を犯したのかもしれない。その刑罰の作業なのではないか?……」  ある夜、グラス片手にここまで言うとバーのフロアに倒れて、そのまま眠りこけてしまった。作家の、それも流行作家の壮絶さに比べれば、あまり泣言など言えたものではない。  週末を人並みに山中湖畔の山荘にすごすことにして、車で富士五湖をめぐって、富士五合目まで走ってみた。  山中湖も河口湖も、ヨットやモーターボートが湖上を疾走し、湖畔はビーチパラソルの花盛り。とても一〇〇〇メートルの山の上の湖とは思えない。人里離れた西湖ですら、人垣で埋っている。  富士の裾野の五つの湖の水際は、�レジャーをしなければ現代人でありません�という強迫観念にとり憑《つ》かれた人たちが、四列横隊で湖をとりまいているのである。  青年男女が季節顔にうごめいている。家族を乗せて湖畔にたどりついたパパ族が、生気のない顔で立っている。五日間働かされて、二日間レジャーさせられている姿である。その脇にはやや太り肉《じし》のリゾートウェアや水着のママがニンマリしている。  山荘の二日目の朝は四時半に起きて、落葉松《からまつ》林を歩き、湖畔の山に登ってみる。ここは百鳥《ももどり》の朝の歌の饗宴《きようえん》である。カッコウ、ホトトギス、ジュウイチ、ツツドリ。夏のツグミのアカハラ、フジマミチャジナイ、クロツグミ。そしてシジュウカラ、ヒガラ、コガラ、ホホジロ。メボソがジュリ、ジュリ、ジュリ、ジュリと必ず四つの音符を並べて鳴く。ウグイスは谷渡りをしてホーホケキョと鳴く。湖の水際にはすでに人がうごめきはじめているが、山の中は誰一人いないのである。人々はここに来てまで肩すり合わせねば気がすまないのであろうか。  杉の高みのアカハラの歌は、キョロリン、キョロリン・ジリリとも聞え、キャラン、キャラン・ジリリとも聞える。山毛欅《ぶな》の巨木の上のアカハラはそのキョロリンが、聞きようによってはジヒシンとも聞える。ジュウイチが慈悲心鳥と呼ばれるのは、その鳴き声がジュウイチともジヒシンとも聞えるからだが、このアカハラはジュウイチの影響をうけたのだろうか。  双眼鏡で山毛欅の高みのアカハラをしばし観察する。ようやく射してきた朝陽をまともにうけて、天を仰いで誇らしげに鳴きつづける。胸のあたりがふっくらとして可愛らしい。ジヒシン、ジヒシンと二度鳴いて、笛を吹くような含み声をだす。それが|ニワフミオ《ヽヽヽヽヽ》と聞える。  ニワフミオ……私は丹羽文雄さんの顔を思い出し、ついでジヒシン、慈悲心……で田辺茂一さんの顔を思い出した。田辺さんから頂いた創作集の『多少仏心』という小説の題が頭に泛《うか》んだからである。  東京に舞い戻って、ペンの事務局で遅くまで働いて、私は田辺さんと銀座に出た。田辺さんは、例の鞄《かばん》から写真立てを取り出して飲みはじめた。その写真立ての中には、佐良直美がニッコリ笑っていた。 「ホステスがまずいから、これで間に合わせてます、などと言わないよ」  と田辺さんがホステスをからかった。 「ラモール」に行くと、長髪の美髯《びぜん》をたくわえた芸術家(?)が中央の席から立って会釈をした。しばらくしてシャンペンが抜かれる音がして、そのシャンペンのグラスがこちらの席に二つ届けられた。先刻の芸術家の誕生日なのである。 「あれ、こんな暑い日に徳間君は生れたのかな」  と田辺さんが言った。驚いたことに長髪美髯は徳間書店の社長、徳間康快さんであった。いつの間に変身したのか。  ピアノが「茂一の季節」を奏で、客席から拍手が湧《わ》き、田辺さんは茂一踊りをせざるをえなくなった。一さし舞って、帰ってきて、 「踊りどこじゃない。向うに川上(宗薫)さんも笹沢(左保)さんも来ている。ペンへの協力のお礼の挨拶に……」  と田辺さん。  今年の夏の暑さは、ひとしおである。 [#改ページ]     ハロー注意報  昭和四十八年の十一月十八日から十一月末にかけて私は京都で、日本語のまことに上手な外国人と寝起きを共にした。日本ペンクラブ主催の国際会議のために、世界四十一カ国からやってきた三百人に近い日本学の研究者で、ジャパノロジストと呼ばれるだけあって、まことに日本語の上手な人たちであった。中には、 「漱石の作品は私小説とは程遠いように|この国《ヽヽヽ》の人は受けとっていますが、『猫』の苦沙弥先生はもちろんのこと、『それから』の代助といえども、所詮《しよせん》、漱石の分身なんで、つまり、私小説と受けとらざるを得ませんねェ」  などと言う人もいた。  ある人は初日は「ありがとう」と言い、二日目は「おおきに」に変った。  毎朝ホテルを八時半に出発して、バスで宝ヶ池の国際会議場に通うのであるが、たまたま隣りにすわった外人に、私はみごとに黄ばんだ街路樹の銀杏《いちよう》や結構なお屋敷の紅葉した楓《かえで》を指さして、 「今年は、京都はめずらしく秋が遅く、現在《いま》が紅葉の真盛りです」  と、話しかけると、 「ペンのために特別サービスしましたね」  と言った。�特別サービス�などという日本語を知っているのだから、油断ならない。彼は若いベルギー人であった。  そういえば、新幹線で富士の裾野が見えはじめた時、同行のジャパノロジストたちは歓声をあげ、無邪気に喜んだのだが、裾野に拡がる工場にはいたくがっかりして、巌谷大四さんの近くにいた一人が、 「富士の裾野に工場がある。広重、北斎と違うではないか」  と嘆いたそうだ。すぐ傍にいたドナルド・キーンさんが、 「あれで日本文化の研究をしているんですかねぇ。富士の見える裾野にやたらに工場が建ち、田子の浦がヘドロで埋る……、こうした日本列島の体質こそ、日本文化研究の焦眉《しようび》のテーマではありませんか」  と、巌谷さんに話されたという。もっともドナルド・キーンさんは自他共に許す日本学の権威であり、富士の裾野の工場とか田子の浦のヘドロなど今更の問題ではないのである。私は今から十五年ほど前、軽井沢の川端康成さんの別荘を訪ねて、偶然キーンさんにお目にかかった。その時キーンさんは、 「私はもう京都には行きません。私の常宿の部屋から見える美しい杉の木立が、今度行ったら跡かたもなく伐《き》られているんです。日本人はそして日本の為政者は自然をあまりにも粗末にしすぎます」  と言われていた。  私はある空怖ろしさを感じた。空怖ろしさというよりは、むしろ苛立《いらだ》ちといった方がいいかもしれない。  それは私たち日本人が失ったり、忘れかけてしまった�日本の心�を、ジャパノロジストと呼ばれる外国人の方が持っているらしいことへの苛立ちである。  もっとも彼らは各自の研究題目を通じて会得した�日本�であり、ある時代のある部分の狭い�日本�であるから、そこだけの�日本�については、平均的日本人より深い知識を持っているのは当然である。  しかし私が言いたいことは彼らの心情が少なくとも今様の若い世代の日本人よりは、より日本的なあるものを宿しているということである。  彼らは日常会話もつとめて日本語で話をした。国際会議の会期中、晩秋の小春日和がつづいたことを、ある能の研究者は、川端康成氏の霊が守ったのだと真顔で話すのである。そして話が京名物の北山しぐれだとか飛雪になり、やがて風花について語り合うのである。そんな外国人の横顔を眺めていると、こうした目の青い男が、昔々その昔の日本人に見えてきたりするのであった。  一日の会議が終ってホテルに戻ると、特設の談話室でオン・ザ・ロックスを飲んで話すのが、毎晩の愉しみであった。藤島泰輔さんと毎日新聞の学芸担当の記者が論争をはじめると、あるフランス人は私に向って、 「日本のエリートといいますか、ホワイトカラーは、酔ってくると英語が混じります」  と言った。途端に藤島さんが、 「ナンセンス! プレスマンはレスポンシビリティがない!」  と言った。そのフランス人はしたり顔で、 「でしょう。これこそ日本研究のいいテーマです」  東山の都ホテルを、毎朝八時半に出て、九時からはじまる記者会見を皮きりに、お昼の一時間の休みの他は、私たちは休みなく働いた。深夜、いろいろな仕事が飛び入りをする。藤島さんにいたっては、イスラエルから来た人々を担当してガードマンも兼ねていたから、その心労は大変なものだったろう。さすがに皆疲れた。  閉会式の日は、耳鳴りがしてボンヤリした。広報委員室に行くと、中屋健一委員長が放心状態でいた。体力気力の充実した中屋さんは、マイペースでテキパキと強引に仕事を進める人である。広報委員長専用のナンバー11号の車は文字通り大車輪のフル回転であった。わずかに空いているときには私も11号車を使った。11号の運転手が私に訊いた。 「あの方はどういう方ですか。大変に偉い人だと思います。しかし職業がわからないんです」 「東大名誉教授の中屋健一氏であります」 「東大の先生? 京都の先生とは|えろう《ヽヽヽ》違いまンなァ」  そのえろう違うタフネスの中屋さんと、広報委員室のソファーに並んで腰かけていると、 「ハロー」  と、外国婦人が入ってきた。  会期中、後にも先にも外国人が英語で話しかけたのはこれがはじめてである。外人のくせに英語をつかうなんて意外な出来ごとである。  だからこちらの調子が狂った。何を思ったか中屋さんがニッコリ笑って、 「アロハ」  と言った。脇にいた田辺茂一さんがすかさず、 「いよいよ�ハロー注意報�」 [#改ページ]     外人ばなれ  昭和四十二年の九州場所で、東十両筆頭の高見山が十勝五敗の好成績をあげて、次の初場所にはアメリカ国籍の幕内力士が、本朝ことはじめとして誕生することになった。千秋楽の次の日、高見山は高砂親方とともにNHKのテレビインタビューに出た。  まず、私が驚いたことはその声がまったくお相撲さんの声であることだった。ちょうど解説者の天竜さんを思わせるほどのシャガレ声であった。 「関取おめでとうございます」 「ハッ、ごっつぁんです」  からはじまった会話も、紋付の着こなしもまことに関取然としていた。アナウンサーが、 「大和魂を知っていますか?」  と質問すると、 「よくわかりません」  と答えたが、脇から高砂親方が、 「日常の生活でも、稽古の打込み方でも、これほど大和魂をもった相撲取りはいません」  と答えたのも可笑《おかし》かった。 �カッテモ、カブトノオヲシメル。ヤマトダマシイネ�の、例のボクシングの藤猛もアメリカ国籍であり大和魂の礼賛者である。というよりは大和魂復活の立役者である。ヘンな外人がふえてきたものである。  しかしこの相撲とボクシングの人気者である高見山とか藤猛は、外人ばなれしているといえばいいのか? 私にはよくわからない。  もうずい分前のことだが、旧軽井沢の川端先生の別荘へうかがった。万平ホテルの裏にあたるお宅に着くと、玄関のドアにメモがはさんであって、そのメモには、 「父は寝ていますがお入りください」  と書いてあった。私がおじゃますることをあらかじめ知っていたお嬢さんの政子さんのメモである。私はだまって上って静かに待っていた。  先生は、二階で眠っておられるのであろう。コトとも音がしない。時計は午後二時を指している。そこへ、もう一人の客がおとずれた。ドナルド・キーン氏であった。私が川端家の留守番のように応対すると、彼は、 「それでは、勝手ですがおじゃまさせていただきます。不意の訪問で恐縮ですが……」  と流暢《りゆうちよう》な日本語でいい、ソファーに坐ると部屋をおもむろに見まわしながら、 「結構なお住居でございますね」  とむかしの日本人の訪問客が、かつて行なった定型のセリフと仕草をされたのである。こうした風情は外人ばなれというよりは、むしろ日本人ばなれではないかとすら私は思った。  軽井沢名物の貸馬を楽しんで、政子さんが帰宅したのはそれから二時間もたっていた。それでも二階はコトとも音がしなかった。  その長い時間をキーン氏とよどみなく話し合っていたのだが、いま何を話したかはほとんど憶えていない。ただ、キーン氏が日本の美味《うま》いものをよく知っておられるのにびっくりしたこと、そして日本人は惜気もなく杉をはじめ山の木を伐り倒すことに、心から腹を立てておられたのを憶い出す。  もうひとつ、日本の総合雑誌、文芸雑誌が小説欄に書きおろしの戯曲を、三幕五場「一〇五枚」などという形で、掲載すること、それを読者が小説のように読むことをまことに不思議であると言われた。そして活字の戯曲と上演されるその戯曲の芝居とは、何かもっと大きな隔たりがあるように思えるのだが、といい、 「この点、伊藤整氏のそれと、わたくし即《すなわ》ち、ドナルド・キーン氏の|生活と意見《ヽヽヽヽヽ》には、いささかのくい違いがあると思うのであります」  とややおどけていった言葉を鮮やかに憶えている。  私たちジャーナリスト仲間で、新十社会という会をもっていたことがある。池島信平さんたちが戦後つくられた十社会を後輩の私たちが会の趣旨や名前もいただいて、時々集まっては酒を飲んだ。私が世話人になった時、ゲストを招待して飲もうということになり、その都度お客さんをおよびした。第一回が時の総理の池田|勇人《はやと》さん、次にライシャワー大使、とくると、その次は当然ソビエト大使ということになった。  会場は銀座の「辻留」の四階を借り、ブッフェスタイルでした。この時は、ソビエト大使館の一等書記官、二等書記官など大勢の館員が、ウオッカを持参でやってきた。前回のライシャワー氏が、|そば《ヽヽ》が好物とのことで、「辻留」主人に|そば《ヽヽ》を打ってもらったのが好評だったので、この時も途中でそばを出した。すると一等書記官が、私の傍にきて、 「信州信濃の新そばよりも、あたしゃあなたの|そば《ヽヽ》がよい」  といった。  そして、背の低い二等書記官は相当オミキが入っていたが、和服姿で甲斐甲斐《かいがい》しくサービスする「辻留」主人を目で追って、 「あれが懐石料理の名人ですか。懐石料理の巨匠はみな頭の毛をあのように�無�にするのですか」  といたずらっぽく質問してきた。 「いや、今日はソビエト大使館の方々のために、『辻留』主人はわざわざ貴国のボス、フルシチョフ氏にあやかって頭をまるめました」  といいかえすと、 「とんだやぶへび」  と言った。  私はソビエト大使館員が、いかに日本を研究し、日本語にも精通しているか、大げさにいえば肌寒くなる思いがしたのである。  ある夜、私は新橋の「とんこ亭」の止り木にとまって、オン・ザ・ロックスを楽しんでいた。例によって、とんこの軽口に応酬したりして、甚だリラックスムードであったのだが、いちばん端にいた一人の客をあらためてみると、それは意外にも外人であった。眼が合った途端、 「バーは何語だと思います?」  と話しかけてきた。 「そうですねえ、やっぱり英語じゃないですか」  と答えると、 「残念でした。バーは|ハシゴ《ヽヽヽ》でございます」  あとで聞くとその外人は、アメリカ大使館員だったそうである。 [#改ページ]     誤訳  今朝方、試験の夢を見た。それも難問にフウフウ言って苦しんでいる夢である。考えてみれば私は戦前に学校を出ているのだから、あの試験の怖ろしさというものはいつまで、ついて回るのだろうか。  試験で思い出したのだが、私の旧制中学時代、模擬試験というのがあった。それは旧制高校や大学予科の受験対策として、英数国漢などの実力テストを行うのである。私はその模擬試験の英語で、未《いま》だに忘れられない誤訳をした。  英文和訳で education ——つまり教育についての小文なのだが、判読していくと、教育というものは、はじめが肝心で、基礎がしっかりしていなければならない……からはじまって、post という字と nail という字が眼に焼きついた。私は教育論をポストに棲《す》んでいるカタツムリでやっているナと早合点した。  そこで教育というのは郵便ポストに棲んでいるカタツムリを差入れ口からうまくひっぱり出すようなもので、それには、はじめが肝心で、しっかりと正確に狙いを定めてつかまえないと、カタツムリはどんなに忍耐強く取り出そうとしても、ひん曲って出てきてくれない……という風に、訳したのである。  post を、郵便ポストと決めこんだのが誤りだった。しかも nail は爪であり釘《くぎ》であるのだが、私は snail と勘違いして、ポストに棲むカタツムリ! と即座に早合点してしまったのである。  正しい訳は、教育というものははじめが肝心で、しかも基礎がしっかりしていなければいけない。例えば柱(post)に釘を打つのと同じように、はじめに正しく打ちこまないと、あとどんなに忍耐強く打っても、一度曲った釘はなかなかまっすぐ打ちこむことはできない……ということになる。  また、ディクテーション(書き取り)の試験でも失敗をした。これはイギリス人が読んで、まず一回目はヒアリングで、鉛筆を持たずに聞く。二度目にはイギリス人の発声を追いながら書く。そして書き終るともう一度だけ読んでくれるというやり方であった。  まず目をつぶって聞いていると、どうやらカルマスという人物がいて、海越え山越え、遥《はる》か彼方《かなた》に、何やら品物を送り込む。その品物はあるところには、あり余るほどたくさんあるが、海越え山越えの向うには全くないので、そこに運ぶと大変な価値を生ずる。またカルマスという人物はある品物をどこかに隠しておいて、時世時節を待っていて、こんな品物は要りませんかと持ち出すと、その品物はすでに何層倍の価値になっていて、人々はその品物を争って買おうとする。カルマスという人物はそういう価値を生み出す偉大な、そして凄腕《すごうで》の男である——といった話のようであった。しかしカルマスという人名のスペルがわからない。  試験が終って正解を聞くと、カルマスは人間様ではなく commerce(商業)であった。その外人は commerce をカルマスと発音したのだ。  昨年の六月九日の日曜日に、私は岡部冬彦さんの講演を聞いた。というのも、私の住む国立市にある桐朋《とうほう》学園で、生徒が主催する学園祭があった。私は委員の生徒諸君に頼まれて、岡部さんに講演の依頼をした。だから当日、私は校長先生と並んで友人の講演を聞くことになったのである。  岡部さんは開口一番、日本の動物園では殆どの猛獣は子供を生まないと言った。  しかしライオンだけはどういうものか、檻《おり》の中の生活でも、どんどん子供を生んでいく。いま、日本の動物園には三百八十頭のライオンがいるという。ライオンの子供は可愛いが、やはり百獣の王だけあって気軽にペットにするわけにはいかないし、そうかといって日本の動物園やサーカスのキャパシティは三百八十頭が限界点で、今や当局はライオンの産児制限を真剣に考えている……。  ところで日本で漫画を描いてどうやら筆一本で食べていける漫画家の数は二百人足らずである。この点ライオンより稀少《きしよう》価値のある珍獣でありますから、どうぞじっくり見てください、と笑わせた。  岡部さんは墨でサラサラと「アッちゃん」をはじめとして漫画を描きながら、まことに巧みな話をした。岡部さんは、漫画は冷静な笑いでなければならないと言った。そもそも笑いは日常生活のルールやモラルから逸脱し、飛躍するところにはじめて生ずるものである。だから日常生活のルールや、モラルをしっかり守ろうと努力していながら、心ならずも逸脱したり飛躍するときに、はじめて漫画になる。はじめからノンセンスなものは笑いでもなく、したがって漫画でもない、というようなことであった。  講演が終って、私は岡部さんと文芸部の先生と一緒に酒を飲んだ。六本木の「鳥長」の流れをくむ「佐伊登」という鳥屋である。昼間の酒なので皆、すぐいい気持になった。「佐伊登」を出て、拙宅で飲むことにした。その日は真夏のように暑かったり、一天|俄《にわ》かにかき曇って雷をともなった豪雨になったり……しかし昼酒が入ると、雷もかえって趣向のひとつで、いよいよ意気|軒昂《けんこう》となるのだから不思議である。  前後脈絡のない話の連続なのだが、北海道開拓のことになった。そして岡部さんが突如、"Boys, be ambitious !" を「少年よ、大志を抱け」というのは誤訳であると言い出した。  彼によれば明治政府の委託をうけて、時のアメリカ大統領は副大統領であったケプロンを北海道に送りこんだ。そのケプロンの依頼をうけて、北軍の精鋭であったクラーク大尉が赴任してきたのである。そしてクラーク大尉のもとに新渡戸《にとべ》稲造をはじめとして幾多の若き俊秀が集まった。  しかしやがて別離の日がきた。馬に跨《またが》るクラーク大尉のあとを、新渡戸稲造たちはいつまでもいつまでも涙しながらついていった。その時、クラーク大尉は馬上から、 「北海道開拓の決め手は単なる農業技術ではできない。君たちの白いシャツの下に流れる赤い血潮である」  と言って、男のくせに涙など流さずに早く自分の部署に戻れとさとし、最後に、"Boys, be ambitious !" と言ったのだそうだ。だから、正しい訳は前後の事情光景に照らしみて、次のようになる。 「野郎ども、めそめそするな!」 [#改ページ]     イデオロチン  毎朝、私はスポーツ紙の釣だよりを見ながら、この分では、早晩日本の本土の河川や湖沼や周辺の海に魚がいなくなるのではないかと心配するのである。いたずらに釣果《ちようか》を誇りあう釣はあまりにも情けない。「一億総漁師化」反対!  しかし、釣の名人から釣の話を聞くのは好きだ。井伏鱒二先生の釣の話には、釣を語ってその奥に人生の醍醐味《だいごみ》がある。  福田蘭童さんの魚の話、釣の話も面白い。やや言語|不明晰《ふめいせき》なところに、かえって真実味があって捨てがたい味がある。  ある年の十二月に日本ペンクラブの企画委員が、立野信之さんの呼びかけでフグ鍋《なべ》をつついた。立野さんも、そして伊藤整さんもお元気だった頃で、たしか昭和四十二年の暮だったと思う。  十人ばかりのメンバーだったので、二つの鍋を囲むことになった。私の隣りが福田蘭童さんだったので、煮方はすべて福田さんにおまかせした。その箸《はし》さばきは、さすがに鮮やかであった。魚をとことんまで知っている人への信頼感に、いよいよフグは美味になった。  もうひとつの鍋は、どういう風の吹きまわしか、伊藤整さんが料理方にまわった。甲斐甲斐しく立ち働くにもかかわらず、何となくぎごちない。はじめに豆腐を入れて、文藝春秋社の徳田雅彦さんに、 「それは、いちばん後に願いましょう」  と、ダメを出されて、「ハイ、わかりました」などと答えておられた。  それにひきかえわが方の鍋は、まずフグの身や皮を入れ、さっと浮いてきた泡やアクをチョロゲですくうという手際よさである。  後で知ったのだが、すでに故人になられた伊藤整さんは、生涯フグに一|抹《まつ》の恐れと不信感を抱いておられたらしい。今や素人の包丁はともかく、免許を持った料理屋で食うフグは危険ではないと、理屈でわかっていても、何となく不安なんだそうだ。だからその夜のフグ鍋でも、皮ばかりを選んで食べましたといわれた。それを小耳にはさんだ福田さんがいったものである。 「いちばんこわいのは卵巣で、これは今日は無論入っていません。そうね、次にこわいのはさっと浮いてきた泡かも知れないな。次に皮でしょうな」  この言葉で、泡をすくわず、皮ばかり食べた伊藤先生は、たいへんに、しょ気たのである。  その日は、フグから自然に魚の話になっていった。私は瀬戸内海の鞆《とも》の津で見たサヨリの大群の話をした。大群というよりは、二メートル幅で三百メートルほどの行列を見た話である。すると福田さんが、 「サヨリは、長い細い口が逆についているんです。だから磯近く水面下わずか五十センチくらいに浮いて、アミを食べることがあるんですな。ですから、そんな浮いた時のサヨリをとるには、行列の後ろから、そっと掬《すく》うんです」  と、まことに詳しい。新潮社の麻生吉郎さんが、 「魚の行列といえば、終戦後間もなく、復員して博多湾の百道《ももじ》海岸に、しばらくぼんやりしていた時、ある朝、村の子供たちが海岸にイカが押し寄せたと知らせにきましてネ。すっとんで行ってみると、十センチほどの小さなイカが、ほんの波打際の二メートルばかり向うまできて、わいわい群れているんです。さて、どうすべえと思案していると、村の子の一人が試しに、砂浜の石を群れの向うにポイと投げた。その辺のイカが驚いて、さっと波打際に近づく。それっ! とそれを手づかみ。とれましたネ。三日ばかり朝から晩まで、そのイカを食いましたよ」  というと、福田さんは、 「それはホタルイカですな。岸近くにくるときは、そのとり方がいちばんいい」  と、こうしたイカの生態や習性もご存じなのか、一向に驚かない。いささか口惜《くや》しくなった麻生さんが、 「私が中学生の頃、おやじと一緒に馬鹿げた鮎《あゆ》漁をしたんです……。というより私はいささか鮎は馬鹿なんじゃないか? と思っているんですが……おやじは左手に懐中電灯、右手に鋸《のこぎり》。私はビクを腰につけておやじの後につく。福岡に那珂《なか》川というのがあるんですが、夜になるのを待って、懐中電灯をてらしながら下流から上流へジャボジャボ歩いて、鮎がいるとおやじが鋸の峰でパッとたたく。浮いてきた鮎を私がビクに入れる。いくらでも、とれますワ」 「それは、七月なかばすぎですね。その頃になると、鮎は珪藻《けいそう》だけを食べるため縄張りをつくる。鮎という魚は決して下流へ向って泳がない。いつも上流へ向いている。だから縄張りの下手に行きたい時には上流を向いたまま流される。自分の縄張り外の鮎がくれば猛然とおそいかかる。この習性があるから友釣ができるわけです。とにかく一日中そうやっているから鮎は疲れるんです。夜八時から十時までは睡眠時間。ぐっすり眠ります。あんたがた親子は鮎の寝込みをおそったわけです」  といった調子に鋸式鮎とりの明快な解説がつくのである。  福田さんはフランスに行った時、お定りのパリの観光コースよりは、パリ郊外の地面をほじくって釣餌《つりえ》のみみずほりに精を出した。みみずはやっぱり日本と変わらないそうである。しかし、アメリカではみみずは瓶詰《びんづめ》で売っているので取らなかったそうだ。アメリカみみずは暖房完備の部屋でチーズでお育ちになり、マンスフィールド並みのグラマーだから、魚の食いがよいそうだ。ただし上玉だけに一匹五十セントもする。 「しかし、三十ドルもするスズキが釣れますからね」  と福田名人は平気であった。 「ソ連のみみずは?」  ときくと、 「ソ連も売ってます」 「赤いみみずでしょう」  とチャチャを入れると、真顔で、 「その通りなんです。何の薬だか知らないけれど、赤く薬で染めてあるんです」  とのことである。  私はその薬を勝手にイデオロチンと名づけることにした。 [#改ページ]     むろんあなたと一緒です 「今日、東京に出る前に、ちょっと横浜に寄り道したんだけど、イヤ驚いたな、蟻《あり》を売ってるんですよ、一匹七円」  と立原正秋さんが言った。 「アリンコを? 蟻っていうのは庭なんかに行くと、用もないのに脛《すね》を這《は》い上ってきたりして、ありゃ大嫌いだ」  と私が言うと、立原さんは苦笑して、 「好き嫌いはその方の勝手だけど……、そう言われればたしかに蟻は庭に立つと、すぐ這い上ってくるもんだね。それにしてもわが家の庭も蟻だらけだよ。一金七円がウヨウヨと群れをなして歩いている」  ここまで話すと他の人が立原さんの肩を叩いて、何やら話しかけた。立食パーティの席上だから、会話が跡絶《とだ》えても仕方がない。  私が唐突に蟻が嫌いだと言ったのにはもう一つ訳があった。それは、その昔、私が小学校、たしか三年生のとき、学芸会で「蟻とキリギリス」という劇をやった。私は蟻の親分になった。夏の暑い日を蟻はせっせと働くのである。それに引きかえキリギリスは歌をうたって遊び呆《ほう》ける。天罰てきめん、やがて寒い冬がやってくるとキリギリスは食べるものがない。そこで尾羽打ち枯らして、蟻の家を訪れるということになる。すると蟻の親分の私は、「君たちは私たちが汗を流して働いているとき『人が折角歌をうたっているところをうるさい!』と言ったねェ。そんなことを言って、食べるものがなくなると人の家にやってくる。世の中は働かなければいけないのだ。�備えよ常に!�」などとキリギリスに向って言うのだ。  ここで劇は終って、幕になるわけだが、この科白《せりふ》を言ったあと、降りた幕を前にして私は子供心にも何となく楽しくなかった。むしろさびしいような、今様《ヽヽ》にいえば|シラケ《ヽヽヽ》た気分になった。だから蟻には悪いが、その時から私は蟻が嫌いになった。こういうことを立原さんに話そうとしたが、言いそびれたのである。  またあるとき、夜おそく銀座のバーで、違うグループ同士で鉢合わせをしたが、ホステスの肩越しに私が、 「このごろ国立では、しきりに蜩《ひぐらし》が鳴くんだよ」  と話しかけると、立原さんは、 「蝉がそんなに鳴くというのは、国立は田んぼがないでしょう」  と言った。言われてみると、なるほど甲州街道の南には田んぼがあるが、街道筋の北側から中央線にかけては田んぼなど一つもない。なるほどなァと思った。そのときも実はその蜩が夕方鳴くのではなく、明け方鳴くので、ヒグラシという名前にもかかわらず、あの蝉は明け方も鳴くものかと言おうとしたのだが、隣り合っていても、別々に来た客同士であるから、明け方鳴く蜩については言いそびれてしまった。  何年か前、立原さんからいただいた年賀状に「今年は信州森村の杏《あんず》を見に行きます。むろんあなたと一緒です」と書いてあった。思うに忘年パーティかなんかで会って、例の立ち話をして、私は信州森村の杏の咲く頃の話をしたに違いない。杏の花の咲く頃の森村の風情を大いに讃《たた》えたに違いない。しかしパーティだから立原さんが何か言おうとしたところで、話が中絶したのだろう。その思いを立原さんは年賀状に認《したた》めたのだと推測した。  こんなにかけ違いばかりしている二人であるが、一緒に旅行したこともある。三浦哲郎さん、巌谷大四さんも一緒だった。秋の甲州路を楽しんで、甲府湯村の常盤ホテルに着いたときは、もう日が暮れていた。私たちは広い中庭を距《へだ》てて建てられた田舎家や離れ座敷がつづく日本間に通された。  私は立原さんに、この常盤ホテルの離れ座敷の庭はよほど志の高い人が造園したのだろう、何の変哲もない庭でありながら、厭《いや》みがなくて気持がいいと言った。それにカリンの古木なんかもあってね、とつけ加えた。  その夜は酒豪ばかりだから大酒を飲んだ。甲府の芸者が何人かきて、その中にそれこそ婆さん芸者というよりは、もうほんとうのお婆さんの芸者がいた。その人はまことに芸達者であった。とくに秋田民謡は絶品であった。秋田|訛《なま》りがあまりに上手《うま》いので生れを聞くと実は秋田生れで、大きくなって花柳界に入り、望まれて嫁に行って夫と共に東京に出て、戦争のとき甲府に疎開したまま、こちらにご厄介になっているんですよ、と言った。秋田訛りが上手いはずである。  一時頃に宴果てると、私は三浦哲郎さんと同じ部屋に寝た。立原さんは巌谷大四さんと同室である。私はいびきをかくので、一番奥の部屋に二つ並べて敷いてあった布団を縁側に持って行って寝ることにした。三浦さんも、「私もかきますので」と言って、布団を引きずって次の間を通り越して、入口の、とっつきにある三畳の部屋に布団を持って行って寝た。翌朝早く目を覚ましてごそごそしていると、三浦さんも起きているらしい。部屋を出るにはどうしてもとっつきのところを通らなければならないのだが、そこのところで鉢合わせをして、二人でニンマリ笑った。いびきをかく者同士がわかるテレた笑いである。  中庭に出ると、秋晴れの朝陽を受けて背高ノッポの立原さんが立っていた。 「裏の庭を見ましたよ。カリンも見ましたよ、たくさん実をつけていいもんですね」  と言った。  立原さんの小説には時々、作者の分身とも思われる端倪《たんげい》すべからざる人物が出てくる。その人物は何を職業にしているか分らないのであるが、浜の漁師から鰯《いわし》を分けてもらって持ち帰り、目刺しを作って、それを行きつけの店に分けてやったりする。その目刺しが実に美味《うま》そうなのだ。そこで私は立原さんに目刺しの作り方を聞いてみた。それによると目刺しに限らず干物というものはこしらえ方が原始的であればあるほどいいそうだ。当世の干物は電気機械で干すのだから困ったものだとも言った。鎌倉の魚屋に新しい鰯が上ると、これを求めて粗塩を振り、半日、日に干す。微風の日が一番よい。ザルに並べるより、やはり目を通して干しあげる方がよい。昔は藁《わら》に通したけれど、今はいい藁が手に入らないから、庭の萩《はぎ》の枝を折って目を通して干しあげる、と立原さんは言った。 [#改ページ]     花粉のお弁当  庭の西隅に孟宗《もうそう》の竹藪《たけやぶ》がある。もともとははす向いの家の竹藪から越境して生えた竹であるが、年々殖えて、本家の藪と一|繋《つな》がりになった。  この竹藪に、毎年十一月十五日になると判で押したように、椋鳥《むくどり》の群れがやって来る。その数は百五十ばかりであろうか。昼間はどこかへ餌を食べに行って静かだが、夕方近くはまことに賑《にぎ》やかである。  椋鳥たちは自分の寝る枝が決まっているのだろうか、めいめい自分の寝床に納まるまでのイットキ大騒ぎをする。それは修学旅行や臨海学校などで学童たちが眠りにつく前、しばし寝床の上で大騒ぎをするのによく似ている。せっかく静まったと思う頃、必ず茶目な一羽が飛び出して、それにつられて百五十羽がいっせいに夕空に舞い上る。  竹藪の縁《へり》は敷石になっているが、朝、その敷石に夥《おびただ》しい糞《ふん》が落ちている。竹の梢《こずえ》のしなりが丁度その敷石の真上にあたるのだろう。その竹に何羽寝ているのかわからぬが、彼らの食欲|旺盛《おうせい》なことだけはわかる。糞にはネイビーブルーの草の実が、ほとんどそのままの形でまざったりしている。  先日、テレビで「雷鳥の生態」を見ていると、日本アルプスに冬将軍が訪れると、いろいろな動物がつぎつぎに姿を消し、十一月の十日すぎにはそれまで頑張っていた椋鳥の群れも山を去って、あとには雷鳥とその雷鳥を狙う狐だけが残る、と言っていた。そして椋鳥の群れが、麓《ふもと》を指して飛んで行く姿が見られた。  竹藪にやって来るのが十一月十五日だから家の椋鳥たちは、あるいは日本アルプスあたりからやって来るのかもしれない。  年が明けて、冬中賑やかにしていた彼らは早咲きの桜が咲く三月二十五日になると、姿を消してしまう。あまりにも鮮やかな出処進退に、二、三日は物足りない気持になる。  私は那須良輔さんと夜の巷《ちまた》で会えば、魚か鳥の話をすることにしている。那須さんははじめはグラス片手に話していても、女の子にメモと鉛筆を貰い、挿絵《さしえ》入りの説明になる。次いでメモや鉛筆をおっ放り出して、両手を鳥の形にして彼らの飛び方、向きの変え方、餌の啄《ついば》み方などのゼスチャーになる。 「鶯《うぐいす》という野次馬は、落着きがなくってねェ、いつもこんな恰好でチョンチョコ動く」  と言いながら手指をパラッパラッと動かすと、那須さんの手が鶯になるのである。 「こんな動き方だから、障子に映っても、ああ鶯だ、とわかるんです」  と動かすと、ハラリ、ハラリと動く手が、束《つか》の間《ま》、障子に映った鶯になる。  那須さんはすでに巣箱で、五百羽のシジュウカラを育てあげた。シジュウカラの大敵は青大将で、雛《ひな》を孵《かえ》したシジュウカラ一家が、一夜にして青大将の餌食《えじき》になることもしばしばだったそうだ。  そこで、巣箱をつける木は杉丸太にして、杉皮は剥《む》いてしまう。丸太の頂きに左右二十センチの板を打ちつけ、その上に巣箱を乗せると青大将はまっすぐのぼれないので安全だそうだ。 「五百羽も卒業生を出すなんて、楽しいでしょうな」  と言うと、細い目をいよいよ細くして、 「かわいいもんです。ときどききれいに着飾って訪ねて来るのもいますよ」  と女学校の校長さんのようなことを言う。  鳥寄せをするには三つの方法があるという話だ。まず第一が巣箱を作ること。但し巣箱は青大将の被害と雀のいたずらを注意しなければならない。那須さんに言わせると、雀は小鳥界の愚連隊で、一羽では|から《ヽヽ》意気地がないが、集団になると急に勢いづいてシジュウカラを襲う。シジュウカラの巣箱の中は青苔《あおごけ》で褥《しとね》を飾る、まことに優雅な寝室になっている。それが雀には気に喰わないらしい。先住者を追い出して、青苔の上に藁やゴミで塒《ねぐら》を作る。 「汚い双璧《そうへき》は、雀と鼠じゃないでしょうか。人間の側にいると汚くなるんでしょうね」  と既に那須さんは仙人の心境のようだ。  鳥寄せの二番目の秘訣《ひけつ》は水場を作ること。那須さんの鎌倉の家には、筧《かけひ》から落ちる水を鳥のための小さな水盤で受けている。すると目白や鶯、ヤマガラなど小さな奴は、三、四羽いっぺんに水盤に入って水浴びをする。山鳩やヒヨドリは一羽ずつ窮屈そうに水浴びをする。水浴びだけでなく、水を飲みに来る小鳥があとを絶たないという話である。  鳥寄せの三つ目は、実のなる木を庭に植えることである。春や夏の季節には、食べるものがいくらでもあるから、小鳥たちはいかにも伸び伸びと遊んでいるのだが、秋も深まってくると鳥たちは草や木の実に集中しはじめる。 「朝、目を覚ますとね、床の中まで鳥たちの鳴き声が聞えてくるんです。嬉しいときの鳴き声っていうのがあるんですよ。�オーイ、うまそうな実、みつけたぞ�あの甲高い声はヒヨドリだな、などと思うと、寝床を飛び出しちゃうんです。雪の日なんかは、まずくて普段は見向きもしないくちなしの実なんか食べると、かわいそうになってくる」  こんな具合で銀座の夜は更けるのだが、この間も、那須さんと鰻《うなぎ》と小鳥について、みっちり三時間ばかり話をした。 「わが家の庭に、鳥が好んで糞をする場所が一個所あるんだけれど、そこが鳥の糞から生えた小さな植物園になってましたよ」  などと人を羨《うらや》ましがらせる。 「それにしても、鎌倉にはヒヨドリが多いですね、一年中いるみたい」  と訊《き》くと、 「椿《つばき》が多いから……。鎌倉ではどこかしらで一年中、椿が花をつけているんです。ヒヨドリは椿の蜜《みつ》が好物で……だから鎌倉のヒヨドリは嘴《くちばし》をいつも花粉で黄色くしてますよ」 「花粉のお弁当ですね」 「ボクは子どもの頃九州にいたんだけれど、椿が咲くとその蜜を吸うために、人間さまの|こちとら《ヽヽヽヽ》も山に潜り込んだものです。それ以来ヒヨドリとは仲間で……イヤ、競争相手みたいなもんです」 [#改ページ]     知っていたかも  バスの案内嬢が、「黒駒一家で知られる勝蔵親分は、この地に生れ……」  と話し出した時、隣りに坐っていた新潮社の麻生吉郎さんが、右の胸を押えて、 「おかしいなあ、先刻《さつき》から猛烈に痛むんだ。だけどみんなには知らせないでほしい」  と、小声で私に囁《ささや》いた。  バスは御坂峠を越えて甲府に向っている。私たちの一行は昨夜、秋色の河口湖畔、富士ビューホテルに泊った。メンバーは日本ペンクラブの会員有志と、風間完さん、朝倉摂さんなど、幾人かの画家である。  昨夜は、というより今朝方まで、私たちは痛飲した。開高健さんや風間さんのフランス語の歌が出た。阿川弘之さんの海軍の歌も出た。  しかし、歌のレパートリーの豊富さは、何といっても麻生さんである。リズムやメロディが寸づまりになったり、間遠になったりする彼の歌には、独特の味があった。私たちはそれを麻生節と呼んでいる。彼は麻生節を自ら存分に堪能して、つぎに将棋に挑戦した。  相手は強豪の高橋健二さんである。棋力からいったら麻生さんは問題ではない。ところがこの旅に特別参加した銀座のバー「眉」の麗人たちがこぞって麻生さんを応援した。奇声を発し歓声をあげるという騒ぎに、高橋プロフェッサーはとうとう頭にきて、たてつづけに二番も負けた。だから今朝バスに乗り込む麻生さんは、ひときわ颯爽《さつそう》としていた。  しかし、右の胸を押える彼の顔からは、いつもの笑みが消えていた。 「ロビーで朝刊を見たら、玉の海が死んだんだってねえ」  などとも言った。  私は何か不吉な予感がした。それでも彼は参会者と一緒に招待されたサントリーの山梨ワイナリーを見学し、色づいたぶどうの下でワインやバーベキューをたのしんでいた。誰も麻生さんが具合の悪いことに気づかなかった。  東京に帰って間もなく、麻生さんは慶応病院に入院した。不吉な予感が的中したのである。見舞いに行くと、思ったより元気であった。いや、見舞い客の誰よりも健康そうな色艶《いろつや》である。彼は粟粒《ぞくりゆう》結核だといった。先年|腎臓《じんぞう》を摘出手術したあの病気とは関係ない、粟粒結核といっても開放性ではないから、人畜には無害です、とも言った。  年が明けて、彼は自宅で療養するようになった。その頃、日本ペンクラブ主催の「日本文化研究国際会議」も本決まりになって、俄然《がぜん》忙しくなった。 「彼が元気ならなあ」  と、私たちペンの世話人は時々愚痴をこぼした。その最中《さなか》の四月十六日、川端康成先生が急逝《きゆうせい》された。私たちはしばらくの間、呆然としていた。彼が元気なら……とまた愚痴をこぼした。  五月十三日の朝、麻生さんから電話があった。体調がよいし、天気も五月晴れだし、これからちょっと行く、と言う。彼は輝子夫人の運転で、国立の私の家にやって来た。私たちは久しぶりに盃《さかずき》を交わして、四方山《よもやま》話をした。気がつくとウイスキー一本を空けていた。五時間は話しつづけていたろうか。その間、輝子夫人は彼の傍らで、終始笑顔で私たちの饒舌《じようぜつ》を聞いていた。彼が盃をいくら重ねても止めずに黙っていた。  彼は自宅療養をやめて、結核サナトリウムに入院する話をした。無論麻生さんの空想である。  その夢物語の場所は信州のさる高原。白樺《しらかば》林の中。隣りの病室には、はっと思わず声を出すほどの美しい若い女性が入院している。  彼女はいつしか麻生さんを熱烈に恋するようになる。幾人かの看護婦の中に、清楚《せいそ》な美人がいた。この美人も、彼の恋の虜《とりこ》になる。 「どうしよう……色男はつらいね」 「いい気なもんでございましょう」  と、輝子夫人が口をはさんで笑った……その笑顔につかの間|翳《かげ》りが走った。彼は新緑の中をご機嫌で帰っていった。  多忙を理由に、私はほとんど彼の家を訪れなかった。多忙には違いないが、帰宅の途中|荻窪《おぎくぼ》に寄ればいいのである。それを怠けた。怠けたというより、訪ねたいのだが、どうにも辛いのである。やりきれないのである。しかし、電話ではよく話をした。彼はなかなか電話を切ろうとしなかった。それでいて、電話が長くなると呼吸《いき》苦しそうにして咳《せ》き込んだ。 「粟粒結核というのは性質《たち》が悪いねえ」  などといった。  私は電話を掛けるのも、だんだん辛くなった。というのも、輝子夫人をはじめ、柴田錬三郎さん、阿川さん、私などごく親しい者は彼が粟粒結核などでないことを、とうに知っていたのである。  だから彼の例の明るい笑顔を見るのも、明るく振舞う姿に接するのも、どうにもやりきれないのである。  また年が明けて、彼は小康を保っているようであった。ところが、見舞い客の風邪をもらって、再び慶応病院に入院した。彼はベッドに坐って、自分で酸素吸入をしながら、 「風邪をこじらせてしまってねえ」  と言った。白髪《しらが》が増えていた。私の持参したウエストのケーキをおいしそうに食べた。軍歌集を私に見せて、 「よく|しりとり《ヽヽヽヽ》歌合戦をして帰ったものだね」  と言った。  しりとり歌合戦とは、銀座から帰る自動車《くるま》の中で、彼とよくやったゲームで、いつも私が負けた。彼は信じられぬほど歌を知っていた。麻生さんは「よく歌ったよなあ」とニッコリ笑った。そして酸素吸入をしながら、軍歌集を開いてその一つ二つを歌ってみせたりした。それが最後になった。  五月二十三日、午後三時四十六分、不世出の快男児・麻生吉郎は昇天した。腎臓のグラヴィッツ腫瘍《しゆよう》が肺に転移して、九十八%は癌《がん》に冒されていた。しかし彼は泣きごとひとつ言わず、終始あの笑顔で死んでいったのである。  通夜の晩、私は柴田さんに、彼は自分が癌であったことを知っていたのではないか、と訊いてみた。 「もし知っていたとしたら……、それは大変なことだ……、大変な……、大人物だ」  と絶句した。脇から、梶山季之さんが、 「知っていたかも知れない」  と言った。  夜が更けて、柴田、梶山、芦田伸介、黒岩重吾さんなど、数人、生前のドボン仲間が席をたって、遺骨の前でドボンをはじめた。 「芦田がトップか」  という声が聞え、手をしめる音がして、ドボンは終った。賭《か》け金は霊前に捧《ささ》げられた。水上勉、山口瞳さんや私たちも遺骨の前に坐って、みんなで麻生節を真似て合唱した。 [#改ページ]     ベストセラーつくり昇天  昭和三十四年の一月十一日、池島信平さんの肝煎《きもい》りで発足した雑誌編集者の集い、新十社会の人たちで奥日光に行った。今市駅でロマンスカーを降りると、バスの出るまで時間が少しあった。見ると、駅前の土産物屋の傍《わき》に、古ぼけた屋台がでていて、甘酒と書いてある。皆、面白がって、屋台をかこんだ。午後の陽がかげりはじめて飛雪が舞ってきた。 「さすがに、日光ともなると、この時間は寒いですね」  と中央公論の竹内一郎さんが言った。そのとき、横合から、 「寒いんでしたら、スペシャル甘酒をどうぞ」  と茶碗を、こちらへ差しだした人がある。 「スペシャル甘酒?」 「ほら、あの甘酒の釜《かま》の向うにあるトリスウイスキーね、親爺の飲みしろかと聞いたら、むろんそうだが、なんならワンショットいれますか? ときました。|カクテル入り《ヽヽヽヽヽヽ》だと親爺が自慢したスペシャル甘酒です」  と眼鏡の奥で、いたずらっぽい眼が笑っている。ロマンスカーの中で光文社の塩浜方美さんから紹介されたばかりの、塩浜さんと同じ社の古知庄司さんだった。  バスに乗ると、座席が古知さんの隣りになった。私たちは雑談したり、歌ったりした。戦場ヶ原を走る頃、日はとっぷり暮れて凄《すご》いような月がでた。一尺ほどの根雪と白樺の肌がキラキラと光った。私たちは「雪の白樺並木」を合唱した。  南間ホテルに着いて、一風呂浴びて宴会になった。私は古知さんと竹内さんの間に坐っていたのだが、しばらくすると古知さんが、 「やっぱり調子がおかしい」  小声で言って、席を立った。私は気になって、古知さんを追って廊下にでた。 「いやはや、どうも。とにかく、年末年始と連続でしょ」  どうもいけませんという風に頭をふった。 「全くね、一年中、連続みたいなもんで……これをお服《の》みなさい」  私は猛者ぞろいの新十社会の遠足に備えて持ってきた薬を、丹前の懐ろから取りだした。 「肝臓にいいそうです。酔わないためにもいいそうです」  古知さんは薬を服んで、一人先に寝た。考えてみると、あの頃から古知さんの躰《からだ》は、大分弱っていたらしい。  翌朝、奥日光は快晴だった。古知さんも元気になって、晴やかな顔だった。昨日のコースを逆に、バスは今市の駅についた。古知さんが真先にバスを降りて土産物屋に駆けこんだ。駅の待合室から、店の中の古知さんが見えた。楽しそうに、あれこれと品物を選んでは包ませていた。電車に乗ってからも、 「これでよし、これでよし。こっちは息子で、こっちは娘」  と土産物の包みをなでたりした。  私が、 「ミヤゲのコッチャン」  と言うと、 「ハイです」  と言って、彼は、いさぎよく「ミヤゲのコッチャン」になった。  正月の遠足を機に、私は古知さんと親しくなった。所謂《いわゆる》、ウマが合うというのだろうか、共に酌む杯は楽しかった。 「音羽村から馳《は》せ参ずるのは容易でネッス」  などと新橋や銀座にやってきた。音羽村というのは、光文社のある文京区音羽のことである。  古知さんは、生れが深川木場で、下町育ちの伝法さを内に秘めていた。それでいてダンディなのは、市立一中(現九段高校)というネクタイ中学の故だろうか。しかもあの春風|駘蕩《たいとう》とした味は、三高・京大と青春時代を京都で暮らした六年間の故だろう。  彼は京大卒業後、満拓に入社し、満州で結婚し、終戦と共に引揚げてきた。そして、令兄が講談社社長野間省一氏と静高時代からの親友という縁で、光文社に迎えられた。ベストセラーになった『太平洋戦争史』や『ケイン号の叛乱《はんらん》』『愛のかたみ』などは、みな彼が手がけた、今では思い出深い仕事である。  東京の下町に育ち、都会風の中学に通い、三高は文科であって、京大は意外にも農学部である。入試の面接で試験官の農学部長が、あなたは大麦と小麦の区別がつきますかと聞いたそうである。 「麦に大麦と小麦があるってえのは、その時が聞きはじめで、ハイ、大きな麦が大麦で、小さな麦が小麦ですと答えたら、これから勉強すりゃあいいよと言ってくれました」  古知さんは見事に農学部にパスしたわけだが、農学士だけあって、江古田の家には、草花や木を植えて楽しんでいた。 「牡丹《ぼたん》が咲きはじめたんだよ。見にきてくれ」 「牡丹とは、また一段と風雅ですナ」 「その件なのさ。昨日、家に見知らぬ老婦人が現われて、私の夫は退役大佐で花作りが大好きですが、お見うけしたところ、お宅さまのご主人も、恐らく停年で花作りに精を出されていることでしょう。是非、宅の主人とお近づきのほどをと挨拶してったんですト。牡丹は、風雅すぎますかいな?」  牡丹を見に行くと約束していながら、果たさぬうちに花の盛りがすぎてしまった。それでも会えば、バラの新種を論じたり、丈《たけ》ばかり大きくなって蕾《つぼみ》をつけないのは窒素過多にちがいないなどと学のあるところを披瀝《ひれき》しあった。  九月一日の夜、私は新橋のバー「リボリ」に行った。そこに文藝春秋の向坊寿さんが入ってきて、今日、日販(日本出版販売株式会社)に行ったら旺文社(?)の人が亡くなった……家はたしか江古田だとか……と話しだすと、当時は「リボリ」を手伝っていたトンちゃんが一瞬顔色を変えて、塩浜さんが古知さんの具合が悪いことを案じながら、昨日、軽井沢に立ったんだけど、ほんとうにそうだったら困っちゃうけど、もしかしたら光文社の古知さんじゃないかしら? と言うので光文社に電話すると、やはり古知さんだった。そこに文春の田川博一さんもきて、私たちは古知さんのことを話しながら酒を酌んだ。  翌日、告別式で、はじめて古知さんの家に行った。静かな住宅街は車で一杯になった。盛大な告別式だった。抜けるような青空で、時々強い風が吹いた。本年最高の三十六度七分の残暑だった。  古知さんは田宮虎彦氏の家から帰って、小瓶のビールを飲みながら松本清張氏原作のテレビを見ながら、 「眼が見えなくなった」  といって倒れたという。霊前に飾られてある写真の古知さんは、ちょっと横を向いて晴やかに笑っていた。若々しい笑顔だ。  奥さんを中にして並んだ彬君と陽子さん。「こっちは息子で、こっちは娘」のミヤゲのコッチャンに、ほんとに愛された人たちが並んでいた。庭に葉ばかりの牡丹があった。ヒマラヤ杉も植えてあった。高さ一間ばかりのヒマラヤ杉。古知さんはきっと、 「このヒマラヤ杉は大きくなるぞ」  と子供さんたちに言ってたにちがいない。 [#改ページ]     信平さん  昭和四十八年は暖冬異変であった。二月はじめから、庭にはクロッカスの花が咲き始めた。チューリップの芽も異常に伸び、驚いたことにスズランの芽まですでに五センチ程になっていた。  二月十四日の朝、起きぬけに庭に出て、今年は少しおかしいのではないかと考えながら、郵便受けから朝刊を取り出した。  いつもの年の朝なら足早に部屋に帰って、朝刊を拡げるのであるが、私はもう一度庭に戻って、庭で新聞を拡げた。そして池島信平さんの急逝を知って、がく然とした。  文京区の緬羊《めんよう》会館で六時半頃倒れ、七時すぎにはすでに亡くなられたという。文藝春秋社の人たちもちょうど会社が退《ひ》けて、巷《ちまた》に散りはじめた時間であるから、池島さんの急の知らせを果たして何人の人がうけることができたろうか?  私は文藝春秋の親しくしている先輩や友人の顔を思い泛《うか》べた。私は文藝春秋社とは直接関係はないが、ジャーナリストの後輩として随分池島さんにはお世話になった。いろいろ教えていただいた。  私はつい先頃、アメリカの「ライフ」が噂《うわさ》どおりついに廃刊になった時、大きなショックを受けた。私は雑誌記者時代「ライフ」をテキストにしていた。素晴しい写真をふんだんに使ったグラフィカルな雑誌の「ライフ」は、視覚的に読者に訴える好個の教本であった。  そして、もう一つの私の雑誌つくりの支えは池島さんであった。総合雑誌でありながら、池島さんの作る雑誌には|こむずかしい《ヽヽヽヽヽヽ》理屈もなければ、肩ひじをいからすところもない。読みやすくて面白かった。読者の身になって雑誌を作る姿勢がうかがわれ、それでいて格調の高さがあった。 「座談会」というのは今日では、活字ジャーナリズムではものめずらしくないものである。この形式は電波のラジオやテレビにも盛んに使われるが、これは文藝春秋の創始者である菊池寛の創案だそうだ。  池島さんは菊池寛の座談会と同じように、「談話筆記」を創案した。数奇な人生体験をしたり、各界各層で活躍する人にとって、自分の思想や体験を文章にすることは必ずしも容易な業ではない。だからそういう人々から編集者が話を聞いて、文章にまとめあげる。この「談話筆記」がどれほど「文藝春秋」をおもしろくしたことか。  二月十七日、午後一時。私は読経の聞えるロビーに立っていた。ロビーはすでに池島さんを惜しんで集まった人たちで埋っていた。私たち葬儀参列者は葬儀の部屋の模様を、スピーカーから流れる音だけで知ることができた。読経があり、永井竜男さんの言葉が流れ、そして最後に沢村三木男氏の挨拶の声になった。  沢村さんは二月十三日の知らせを聞いて、その夜もそして次の日も、池島さんの柩《ひつぎ》のそばで、ただボウ然としてすごしたと言っていた。  そして昨日、出社し、社長室と隣り合った自分の部屋で幾時間かを過して、はじめて池島さんのいないことの淋しさと、ぽっかり空いた大きな穴を噛《か》みしめたという。沢村さんは「ライフ」の廃刊のことにも触れておられた。  その頃、献花の白菊がロビーの前方に立つ人たちに、いち早く手渡された。白菊を持った人々はうつむきながら沢村さんの話を聞いた。そして、いちように時々白菊を顔に近づけて、その香りをきくような動作《しぐさ》をした。  献花の列が移動して葬儀の部屋に入ると、いきなり池島信平さんの大きな写真が目に入った。例の笑顔を満面にたたえて、意気|軒昂《けんこう》とした池島さんである。 「おい不景気な顔《つら》するなよ」  と話しかけそうな池島さんである。  思えば池島さんほどいつもご機嫌な人はいなかった。しょぼくれたことや泣きごとをおよそ聞いたことがなかった。せいぜい、 「イヤだねェ、いい加減にしてもらいてえよ」  くらいしか言わなかった。しかしその心底には、厳しい批判精神と闘志が燃えているようであった。  それにしても野次馬精神旺盛の人であった。何かの会合で一緒になったり、小さな旅などした時、少しの閑《ひま》にもその日の夕刊を全部持ってこさせて、片っ端から目を通すのである。 「これ見てみろ、銀行の若いエリート社員が、直属の係長を殺しちまったとよ。この殺された係長は、ゆくゆくは若い部下のエリート社員にとって代られる。それで辛く当ってた。それが殺人の原因か。わかるねえ、哀しいねェ。どこの職場にもありそうなことだよナ……。ま、一杯飲みに行こうじゃない」  あれはもう十年も前のことだろうか、橋爪克巳さんから電話があった。 「避暑から帰ってきました。避暑といっても鹿内君(フジテレビ・サンケイ新聞社長、鹿内信隆氏)とアラスカのエスキモー部落に行ってきたんだよ。その帰朝演説をするから、今晩『エスポ』に来ないか。信平さんも今ちゃんもオーケーだそうだ」 「エスポ」に行くと、すでに池島信平さんや今日出海さんも見えていて、橋爪さんはアラスカ灼《や》けなのか(?)よく陽に灼けて健康そのものの顔であった。テカテカ光っていた。頭の方まで光っていた。 「その帰朝演説とやらを早くやれ」  と今さんが言った。橋爪さんはソファーから立ち上り、もったいぶった顔をして、 「本日帰ってまいりました。アラスカのエスキモーはどういう訳か、はげがおりません。この点はなはだ不愉快であった。帰朝の途次ハワイに立ち寄ると、どういう訳かここにははげが非常に多かった。ハワイには好感が持てた所以《ゆえん》であります。おわり」 「どうでもいいけど、人を招《よ》んでそんなことが言いてえのか」  と自分の頭を撫《な》でて池島さんが言った。 「信平、気にするな。悪気はねえんだ」 「いや、これは許す訳にはいかぬ」 「橋爪だってはげてるんだからいいじゃァねえか。お互いさまだ。そんなに気にするな。オレなんか片目が見えねえんだ。それでも心眼でさわやかにやっている。なんならこのオレの悪い目と、お前の頭と交換するか」 「いや、断るね」  橋爪さんがすかさず、 「では、|現状のまま《ヽヽヽヽヽ》乾杯といきましょう」  その池島さんも、もうおられない。しかし私たちの眼のとどかない彼岸の新しい店で、相変わらず忙しく愉快にやっておられるように思えてならない。 [#改ページ]     ざんざらまこも  高見順さんは「婦人画報」に六年つづけて連載ものを書いてくださった。長篇小説『花自ら教へあり』がはじまりで、その次の年から『世界恋愛名詩選』『私の好きな愛の詩十二篇』『世界の詩人十二選』『世界の女流詩人十二人集』と四年連続で、翻訳詩をいただくことができた。しかもその詩には飾り絵として印象派から現存のピカソまで、泰西画家のデッサンを添えることにした。だから四十八枚のデッサンを選んだことになる。そのデッサンも自分で全部、詩に合わせて選んで、克明な解説も書いて下さった。  次に『暮らしの中の美しさ』というタイトルで、私たちの身近にある、ともすれば見すごしてしまうような美についてのエッセイを十二回。これはカメラの秋山庄太郎さんも参加して、三人で関西、東北、北陸路など、美を求めて出かけていったものである。  こんな具合だから、月の何日間かは高見さんと一緒に過すことが多くなった。うちあわせといっては飲み、原稿ができたといっては飲んだ。どうも原稿が書けない、といって飲むこともあった。  そんなある夜、銀座から始まって、その頃は新宿にあった「和」へ行った。高見さんといちばん奥のところで飲んでいると、誰かが三曲百円を頼んで、歌が※[#歌記号、unicode303d]うれしがらせて、泣かせて、消えた……というのになり、私たちは話しながら、実は片方の耳で歌をきいていたのである。  歌が「ざんざらまこも」の件《くだ》りになった。 「ざんざらまこも?」 「|まこも《ヽヽヽ》が|ざんざら《ヽヽヽヽ》なんでしょう。|まこも《ヽヽヽ》って、水辺の草で葦《あし》に似ている……」 「アシ、難波の葦は、伊勢の浜荻《はまおぎ》? ああ、あのたぐいネ。じゃあ、|ざんざら《ヽヽヽヽ》はなんだろう?」 「波かな? それも舟がつくった波で、|まこも《ヽヽヽ》が動くという……」 「ホッ、けだし名解説という……」 「その、|ざんざら《ヽヽヽヽ》波に揺れている、|まこも《ヽヽヽ》、その|まこも《ヽヽヽ》のようなこの私、この気持……」 「ホントかね、ざんざらまこもネ」  それからというものは、 「締切りですよ、どうでしょう?」  と電話すると、 「ゴメンゴメン。それが、ざんざらまこもでね」  という具合になった。ことこころざしに反すること、まことに遺憾であること、ないしはこうした風情が、すべて「ざんざらまこも」になった。略して「ざんざら」ということもあった。 「暮らしの中の美しさ」をたずねて、三島に行ったことがある。「水」というテーマだった。富士の雪が地下水となって、とうとうと三島を走り、沼津にぬけるときいたからである。訪ねてみると、三島の水は美しかった。富士から流れでた美しい水はいくつかの近代企業の工業用水となり、日本庭園の水になっていた。仕事が終って高見さんが提案した。 「ここまで来たんだから、一高時代の友人の中川君のところによってみたいナ。龍沢寺《りゆうたくじ》という禅寺の住職をしているんだけど、いい人ですよ」  私たちは龍沢寺をたずねた。山門から本堂まで、杉木立のある大きな寺だった。あいにく住職は不在であった。その住職にお眼にかかったのは、高見さんの臨終の時であった。私が病室にかけつけた時、主治医が高見さんの胸に聴診器をあて、二名の医者がその後にひかえていた。そしてベッドの右側の枕辺には、法衣を着た高僧と思われる人が、左手で高見さんの右の掌《たなごころ》に軽く触れ、合掌して経文を低い声で唱えていた。その人が三島龍沢寺の住職中川宗淵さんであった。  そこにはガンと対決して一歩もひかなかった高見さんが横たわっていた。呼吸は七回大きく、そして三回弱くくり返されていた。 「ガンのヤツ、ぼくのからだをむちゃくちゃに喰い荒したけど、さすがのガンもぼくの魂だけには喰いつけないサ」といった高見さんがいた。壮烈であった。高見さんは立派だ。  私は三島の取材旅行を思い出していた。さっそうとしていたあの頃の高見さんを。  龍沢寺を出て、とにかくひなびて、どうにもならないような旅館《はたご》にとまろうではないか、ということになった。県道でタクシーをひろい、 「田舎の旅館に案内してほしい」  といったら、運転手は変な顔をして車をヤケにとばした。なるほど田舎道になった。ちょっと心細くなってきた。しかし三人は言い出した手前、黙っていると、少しばかり家並みが現われて畑毛《はたけ》温泉だという。  運転手が案内した旅館は注文通りの田舎の旅館で、それも田んぼの真中にあった。通された部屋のガラス戸を開けると、もうそこには青田がそよぎ、夜になるとカエルがないた。カエルは縁の下でもないた。  先日、秋山庄太郎さんにあったら、彼はポツンといった。 「畑毛温泉でね、『丹羽(文雄)君は出発点からおふくろのことを書いた。書けたんだよナ。ぼくは書けなかった。庄ちゃん、君にはわかるだろう?』って高見ちゃんが言った言葉、思い出すな」  その晩はむろん電話はかからず、銀座の夜のようにハシゴはできず、いろんな人にあったり、わかれたり、ホステスのことを気にしたりしないから、自然、話に熱が入った。そういえば給仕にきた女中さんも、酒を運ぶだけで、早々にひきあげていった。  きょう見てきた水の美しさ、樹木の美しさ……この樹木については、高見さんは�樹木派�の詩人だけに熱心だった。私もうるさい方である。秋山さんは木の話になると憮然《ぶぜん》として、実のなる木、つまり果物の話にもっていこうと努力した。  そこで果物の話になる。話題は何でも構わないのである。ちかごろ果物は、デカければいいという堕落ぶりを三人でなげいた。 「酸味のない、やたらにデカイ甘いばっかりのリンゴなんて、リンゴじゃない。イチゴもバカでかくて、相撲取りの手みたいじゃねェか」 「イチゴといえば、子供の頃、野原にヘビイチゴというのがあったな。いまどきの子供はあれをみてイチゴに似ているとは思わないだろう」 「ちょっと待ってくれたまえ。ヘビイチゴは正しくはヤブヘビイチゴというんだそうだ」  といった具合で、あまりヤブをつついてヘビを出さないように、お互いに自戒しよう、などと殊勝になったりした。  一時頃、秋山さんと私は風呂に入った。高見さんは、 「ヤダよ、はずかしいよ、一緒に入らないよ」  というのである。  秋山さんと私は、やや肥満型であるから、アメリカンファーマシーのパンツをもっぱら買って愛用していた。秋山さんのはピンク、私のは派手なストライプ、そんなのをはいているやつとは、はずかしいという。  仕方がないので二人して夜半の湯ぶねにつかっていると、誰かが着替え室に入ってきた。私たちの他に客がいないから、テッキリ高見さんだと思っていたら、宿の女将《おかみ》であった。女将は悠然と入ってきて、私たちと並んで湯ぶねにつかり、 「男の友達っていいもんですね。も一人おつれさんは、お休みになったんですか?」  というところへ、  ※[#歌記号、unicode303d]ざんざらまこも——  という歌声がして、風呂場のガラス戸があいた。先生は私たちと並んで女の人が入っているので、 「ヒエッ」  と悲鳴をあげてガラス戸をピシャリと閉めた。そしてガラス戸の向うから、 「ざんざらまこもだよ、ほんとに。お先に寝ますよ」  高見さんのパンツはラクダ色のメリヤス製で、紐《ひも》をいちいちしめたりほどいたりする、昔風のあれであった。  その高見順さんも、もうおられない。ざんざらまこもである。 [#改ページ]     幻の歌手たち  高見順さんは、私が特別に注文した熱燗《あつかん》の銚子《ちようし》を手にして、 「アチチチ……」  と言った。そしてよくこんな熱い銚子を平気で持てるねェという顔をした。 「兵隊に行ったり、開拓百姓をしたり、さんざ苦労してますから、手の皮が厚くなってるんですよ」  というと、 「それにしても熱いよ。君はアツクナイノ? 僕はアッチッチッ!」  と、最後は当時流行していた「僕は泣いちっち」の歌になった。  高見さんは人前で滅多に歌を歌う人ではなかったが、流行歌には関心をもっていた。酒席などでどうしても歌わなければいけなくなると、「南国土佐をあとにして」か「星はなんでも知っている」をよくうたわれた。テレ性だからややはにかんで歌う。そのはにかみが居直りになり、時時やけくそな声を出した。しかし声は本来、美声であった。  歌といえば野坂昭如さんは自らを歌手というだけあって、ユニークな味わいがある。  ある夜、開高健さんと銀座の「花ねずみ」で飲んでいると、野坂さんが入ってきた。すでに酩酊《めいてい》していた。彼は席に着くとすぐ立って、店の専属バンドのところに行き、ミュージシャンたちと、何やら打合わせを細かくして、うたい出した。まず「マリリンモンロー・ノーリターン」である。居合わせた客は、今や流行歌手といわれる野坂さんの出現に拍手を送った。彼はレパートリーを幾曲もつづけざまにうたった。開高さんが半畳を入れた。 「いい加減に歌をやめて、小説を書け」  間髪を入れず、野坂さんのマイクからアドリヴが出た。 「魚など釣らずに、小説を書け」  この開高さんも歌は上手だ。レパートリーはすべて外来語で、シャンソンをもっとも得意とする。澄んだ甘い声である。  外来語といえば、安岡章太郎さんはシャンソン一本槍である。「セ・シ・ボン」が出てきたら、その夜はすでに酔いはじめているとみてよい。「巴里の屋根の下」もよくうたう。その歌い振りは、彼が少年時代に感動して見た名画「巴里の屋根の下」をふまえた古典的シャンソンである。  今日ただいま、もっとも脂ののっている歌手は滝田ゆうさんであろう。「めんない千鳥」や、※[#歌記号、unicode303d]私淋しいのーと感情移入して歌う「おひまなら来てね」は玄人はだしだ。  玄人はだしといえば、田中小実昌さんがいる。なかなか歌わない人だが、ジーンとくる歌いっぷりである。声は甲高いなどというものではない。ウィーン少年合唱団員が、お年を召して|太め《ヽヽ》になって絶叫している風情である。  キャリアとアクションを誇るのは、大先輩の田辺茂一さんである。この歌手は「茂一の季節」という「恋の季節」の替え歌を得意とする。  私は甲府の宿で、三浦哲郎さんの※[#歌記号、unicode303d]おれは河原の枯れすすき……の「船頭小唄」をきいたことがある。やや首を傾《かし》げ、絶唱するその声は、嫋々《じようじよう》としてしかも清々《すがすが》しかった。どちらを向いてもヤーマヤマ(山)の甲府の宿が、いつしか真菰《まこも》の生い茂る大利根の水辺を忍ぶ川……まことに絶品であった。  ある晩、銀座で柴田錬三郎さんから水上勉さんの話をきいた。 「俺は水上とは講演旅行はしないことにしている。彼《あれ》は前座にしてくださいといって、講演会は必ず前座でトップ・バッターを承る。あれは真冬の裏日本で、寒い日だったが……トップ・バッターは壇上に歩をはこぶと、額にかかる髪をやおらかき上げて、『しばれますなア』といいやがる。次いで、『私は福井の片田舎の貧しい家に生れました。口べらしのために小学校を出るとすぐ京都の寺にやられました。京都の冬も寒い。しかし小僧の私は寒い朝、早《はよ》う起きて、まだ暗い寺の廊下を雑巾がけするのです。あかぎれに氷のような水が沁《し》みて……』という件《くだ》りになると、早くも婦人客の中には袂《たもと》からハンカチを出して目頭を押える……それからは水上の独壇場——何か話すと、聴衆はハッと打たれる、うっとりする、涙ぐむ……。めでたく終ったときには万雷の拍手。そのあと、この俺がのこのこ壇上に現われて、『眠狂四郎が……』なんていったって、さっぱり効きめがねェんだ。うっとりもしねェんだ。だが、ここまでは俺も許すよ。彼《あれ》が前座を承るのには理由《わけ》があるんだ。こっちが講演を早々に仕上げて会場をあとにして、まっしぐらに色街に行くだろ。店の女将に芸者を呼べ! というと、これが一人もいねェんだ。トップ・バッターの彼《あれ》が、すでに総揚げしてやがる。俺はあいつとは講演旅行は行かないことにしている」  と、苦い薬をなめたような顔をした。  その水上勉さんの歌をきいたことがある。どういうものか、場所はやはり銀座の「花ねずみ」。藍色《あいいろ》の着物を着流して、水上さんは一番隅っこに坐っていた。そして突如歌い出したのだ。講演の冒頭に「しばれますなア」というあの|出だし《ヽヽヽ》を思わせるほどもの静かな、巧みな導入である。水上さんの席についていたホステスが金しばりのように動かなくなった。  私の坐っているところは、いちばん端っこなので、部屋の端と端だから、何を歌っているかはわからない。  しかし他の客たちが水上さんの席の近くからだんだんこちらの端まで話をやめて、水上さんの歌にきき入るようになった。この前座はやはり並の芸人ではない。  これとは対照的に、ひたすら豪快なうたい方をするのが阿川弘之さんだ。レパートリーは「広瀬中佐」をはじめとした海軍一点張りである。  山口瞳さんはどうしてもうたわなければならなくなると、「すみれの花※[#小さい「ナ」]——」をうたう。まことに個性的な「すみれの花※[#小さい「ナ」]——」である。それも聞き手がハラハラして手助けしたくなる歌い方で、いつもきいている方が一人、二人と助太刀して、最後のころには大合唱になるのが決まりである。これもやはり並々ならぬ異能タレントであろう。 [#改ページ]     ひとしおの感 『酒を愛する男の酒』に収められた文章は、佐々木久子さんの主宰する雑誌「酒」に連載されたもので、新潮社のIさんが取捨選択して編集したものである。書名もIさんが名付け親である。いまあらためて全文を通して読み返してみると、我ながらよくぞ酒を飲みつづけてきたという感ひとしおである。  私は出社第一日にカストリで、編集者としての酒の洗礼をうけた。新橋駅近くにはまだ闇市があった。川田順さんを国府津の里に土門拳さんと訪ねた「酒旗の風」が昭和二十四年四月とあるから、おおよそ三十年になる。その間、私は井伏鱒二先生をはじめ多くの方々の知遇を得た。そして作品をいただき酒席を共にし、ある時は旅もした。編集者|冥利《みようり》というものであろう。 『酒を愛する男の酒』という題名でありながら、日本ペンクラブの談話室で川端康成先生と野鳥の話をした「私の耳は鳥の耳」のように、酒のやや稀薄《きはく》なものもあるようだ。  また先日、こんなことがあった。私は久しぶりに石原慎太郎さんと飲んだ。というのも私の親しい知人である石郷岡敬佳さんとその夫人のルリ落合さんが、石原さんご夫妻と昵懇《じつこん》であることがわかって、一緒に食事でもしましょうということになったのである。  石原さんとは久しぶりだったので、なつかしくなって、昔ばなしがずい分出た。葉山の石原さんの家に私が訪ねた時、弟ですと石原さんが紹介された石原裕次郎さんは、慶応義塾のバスケットの選手だった……といったことから、一橋会館であった芥川賞受賞のごく内輪のパーティの話にもなった。私はルリ落合さんに、その受賞パーティで一橋大学の教授がされたテーブルスピーチの話をした。「何でも好きです」の項に書いたとおり、教授は立ち上って、 「きょう私はホッとしたことがあります。と申しますのも二年前の夏、私はゼミナールの学生四人ばかりと三浦半島を尾根伝いに歩いておりました。その山深い松林の中で私たちは若い男女に出逢いました。それが石原という本校の学生であることをゼミの学生によって知らされました。そしてその石原という学生の脇にはまだ稚《おさな》い感じの女学生らしい少女がおりました。その女学生の顔を私は忘れずにおりました。そしていま石原君の隣りに坐っているご婦人こそ、その時の女学生であります。『太陽の季節』は放恣《ほうし》な男女を描いておりますが、石原君の青春はまことに真摯《しんし》なものであったのだと、私は去る年の三浦半島の山を思い浮かべながら、何となくホッとしているのであります」という条《くだ》りである。  すると石原夫人が、 「その女学生のことなんですが、実は私ではございません……ですのよ」  と半分真顔、半分笑顔でいわれ、私が思わず「本当ですか?」と驚くと、脇から石原さんが、 「実は、本当はそういうことなんですよ。それはそうだけれども、あれは先生が勝手に勘違いされたことでして……」  と苦しい弁解のような形になり、そのあわてぶりがおかしくてあとは大笑いになった。 「とんこ亭の人々」「泣あっかせる、ね」「ほのぼの美人」に出てくる「とんこ亭」は、かつては新橋駅の狸小路にあった。いまは新橋烏森口のビルに移った。私は文中に「とんこ亭」とか、ママの名を「とんこ」と書いているが、正しくはバー「トントン」であり、ママの名は向笠幸子さんである。しかし誰もが「トントン」とか「向笠さん」とは呼ばず、「とんこ亭」とか「とんこ」といっている。この店はいまなおジャーナリストをはじめとして多くの常連がつめかけて活気をみせている。私もずい分世話になった。  とんこ亭といえば、私が山口瞳さんを識《し》ったのもこの店である。山口さんはサントリーの有能な宣伝部員ということであった。はじめは黙礼を交わし、ついで話をするようになり、そして急速に親しくなった。山口さんに私は、私の編集する雑誌に連載小説を書いてもらった。その小説がきっかけになって、山口さんは作家の道をすすむようになった。しかも私が昭和四十二年、婦人画報社を退社してまもなく、山口さんの強い推挽《すいばん》で、私が現在勤務しているサン・アドに入社することになったのである。  茫々三十年——。長い歳月ではあるが、私の脳裏には仕事を通じて親しくしていただいた方々の顔が昨日のことのように浮かび、愉しかった酒席の間の情景や会話がよみがえってくる。  しかし、もっとも親しくおつき合いいただいた高見順先生はもうおられない。そしてこの『酒を愛する男の酒』に登場される川端康成、伊藤整、立野信之、三島由紀夫、十返肇、秘田余四郎、池島信平、福田蘭童、北条誠、桑沢洋子といった方々が物故されている。そして私より歳若な元気|溌剌《はつらつ》としていた梶山季之さんは、あまりにも唐突に逝《い》ってしまった。私のもっとも気の合った編集者仲間の麻生吉郎さんもガンに倒れた。感無量である。しかし私はこの書では「いまは亡くなった……」というような補足は一切つけなかった。颯爽としていた方々の顔を思い浮かべると、とてもそんな気持になれなかったからである。 『酒を愛する男の酒』が一本にまとめられたことは私の望外のしあわせである。ここに担当のIさんのお骨折りに厚くお礼を申し上げるとともに、連載の間いろいろお世話をかけた斎藤純子さんにもこの欄を借りて、併せてお礼を申しあげます。 [#地付き]矢口 純   この作品は昭和五十二年六月新潮社より刊行され、昭和五十六年五月新潮文庫版が刊行された。