獅子文六 食味歳時記 目 次  食味歳時記   キントンその他   貧寒の月というけれど   貝 類 な ぞ   春 爛 漫   美しき五月   鮎 の 月   涼 し き 味   議  論   今 朝 の 秋   実  る   熟  す   鍋  食 味 随 筆   米 の 味   魚 の 味   菊印のマッチ   醤  油   胡  瓜   桃   心をこめたオカラ   馬のウマさ   馬  肉   明治の京都   神 戸 と 私   辻 留 讃   麩まんじゅう   越 後 屋   カ ル メ ラ   名月とソバの会   パーティー下手   愛 茶 弁   ハイカラな人逝く   中 華 街   白  魚   大統領とコック   鏡 開 き   サラダの水切り   あ と が き [#改ページ]  食味歳時記   キントンその他  キントンとは、どういう字を書くのか。辞典には、�金団�と出てるが、正しいか、どうか。シナから伝わってきた料理と、思われるけれど、ムリに漢字で書かなくても、キントンでいいだろう。  キントンは、私にとって、日本一の美味だった。こんな、うまいものが、世の中にあるかと、われを忘れて、味わった。他のいかなる料理も、キントンの足もとに、及ばなかった。  いうまでもなく、子供の時の話である。そして、キントンは、宴会帰りの父の折詰の中に、発見することもあったが不定期の喜びであり、絶対確実なのは、正月の膳に向う時だった。  屠蘇や雑煮は、どうでもいい。元日の朝の膳に、口取りがつくのが、最大の幸福だった。口取りの皿に、カマボコ、ダテマキ、その他いろいろ盛られるが、お目当ては、黄色い衣《ころも》の中に、栗が顔を出してる、キントンだった。栗のキントンでなければ、幸福でなかった。年によって、母が倹約して、隠元豆のキントンにすることもあったが、その時の失望は、大きかった。  それほど、キントンが好きだった。正月の喜びも、キントンあるがためと、いえないこともなかった。しかし、成人して、酒の味なぞ知ると、キントンに夢中になっては、体裁が悪いと考えた。それでも、ソッと口に入れると、やはり、うまかった。  私の青年時代に、日本料理屋で会食があると、必ず、昔風の口取りが出た。今では、関西の懐石料理が入ってきたので、口取りといっても、仰々しいものを、出さなくなったが、昔の口取りというものは、装飾的で、大変デコデコしたものだった。銀座に(京橋の橋の近くに)松田とかいった二流料亭があったが、そこの口取りは、大量で、デコデコしてるので、有名だった。子供連れの客は無論、そうでなくても、口取りを注文する客が、多かった。  昔風の口取りというものを、まだ、その頃の東京人が愛してた、証拠である。口取りがないと、ご馳走の感じが、出なかったのだろう。しかし、京都あたりの茶人が見たら、あんなものを食う東京人の味覚を、軽蔑したにちがいない。江戸時代の口取りに、すでに典型があったのだろうが、明治になって、顕官や富豪に、田舎の人が多かったから、一層、ゴテ盛りの賑やかなものに、変ったのだろう。口取りに、砂糖味のきいたものが多いのも、田舎趣味の表われだろう。  もっとも、さすがの東京人も、酒飲みは、口取りを食べなかった。宴会の時でも、口取りは、ただ眺めるだけで、刺身や酢のもので、酒を飲み、口取りは、折詰にして、持ち帰った。明治時代の酔客の絵を見ると、必ず、折詰をブラ下げてるが、その中味は、口取りが主だった。家へ持ち帰れば、細君や子供が喜ぶのである。私の父なぞは、土産用に、べつに一折り註文して、二個持ち帰るのが、常だった。そして、折詰の中の人気者が、キントンであることはいうまでもなかった。  そのキントンは、正月になると、今でも、私の前に現われる。さすがに、もう、敬遠の外はなかった。甘ったるい上に、腹に溜って仕方がない。しかし、子供の時は、あんなにも好きだったことを思い出し、わが子に食べさせたくなるが、すでに、ここにも、時代の懸隔がある。 「キントンか。あんまり沢山つけないでね」  彼は、重箱から盛り分ける母親に、そんな註文をつけるのである。 「キントン、うまくないのか」  私は、不思議だった。 「まアね、大したことねえよ」  事実として、彼は、キントンのみならず、口取りそのものに、大きな興味を示さなかった。それよりも、カズノコだとか、黒豆に混ってる赤いチョーロゲだとか、妙なものを好んだ。そして、正月料理というものを、私の幼い時のように、ご馳走とは考えない、形跡があった。むしろ、新年三日間は、毎日、同じものばかり食わされるのを、不満と考えてるらしかった。  そういえば、私の幼時でも、キントンを除き、魅力のある正月の料理といえば、カマボコやダテマキよりも、むしろ、添え皿に載ってるコーン・ビーフとか、ボイルド・ビーフの類だった。  それは、明治年間では、珍味の一つだった。私の家が横浜で、文明開化の方だったから、そんなものを、正月料理に用いたのだろう。ボイルド・ビーフは、母親の手製だったが、コーン・ビーフの缶詰は舶来品で、平素は、なかなか食べさせて、貰えなかった。タマに食べるせいか、その味は、何ともいえず美味であり、また、缶詰なるが故に、貴重だった。国産の缶詰は、まだ乏しく、舶来品は高価で、缶詰を開くということが、すでに一つのゼイタクだった。  私の母親は、父が歿してから、倹約になり、正月のコーン・ビーフを、南京町から仕入れてきた焼豚やシューマイに、変え始めた。これは、当時としては、英断の一つで、東京人は無論、横浜人といえども、シナ料理を食う人は、少かった。私の亡父の如きも、豚を不潔と称して、ハム以外は、口に入れなかった。しかし、母親は、安くてウマいものなら、憚るところなしと、思ったのだろう。敢然と、正月の膳に載せたのである。そしてまた、当時のシナ料理は、極めて安価であり、シューマイの如きは、一個一銭に過ぎなかった。  しかし、すでに明治年間に、コーン・ビーフとか、シューマイとか、他国の食品が、正月の膳に載せられたということに、私は、一つの意味を、見出すのである。つまり、その頃すでに、日本人は、雑煮やお節料理の旧態依然たる正月の膳に、少し飽き始めたのだろう。いや、正月ばかりではない。平素の食物にしても、明治後期から大正にかけて、驚くべき家庭料理の変化があった。シナ料理は、少し後のことだが、洋食の方は、浸々として、家庭料理に入ってきた。�今日もコロッケ、明日もコロッケ�という大正の流行唄が、それを証明するだろう。  一般の文化の洋化が、著しくなったのに、料理だけが、国風を守ることはできないので、自然、そうなったのだろう。そして、食う方の改革は、常に最後で、最大なものであって、�今日もコロッケ�の風習が始まってから、日本人も、東洋の欧米人たる方角に向って、歩き出したのだろう。食物ということを、等閑視してはいけない。思想も、文化も、食物が変ることで、根底から、変ってくるのである。  そして、敗戦によって、日本は大きく変ったが、食物も、大きく変ってきた。戦前の日本とは比較にならぬほど、洋化が激しくなった。日本を破ったアメリカは、料理の国としては、一等国ともいえないが、それでも、そこの特産のホット・ドッグという食物は、今の日本人の日常食になってしまった。もっとも、フランス料理への傾倒は、戦後、俄かに昂まって、パリの高級料亭�マキシム�が、東京へ支店を出すに至った。フランスは連合国側だから、そうなったのかと思ったが、イタリー料理も、非常な勢いである。同じ枢軸側で、敗戦仲間だが、それでも、イタリー料理は、戦後の日本を侵略してる。六本木あたりのイタリー料理は、パリやロンドンのイタリー料亭のそれより、美味なくらいである。そして、スパゲッチの流行ときたら、日本全土に及んでる。  一方、中華料理の方は、これはもう、多言を要さない状態にある。戦前も、日本人は、ずいぶん中華料理を好んだが、今日ほどのことはなかった。今の日本人は、中華料理に対する舌が、すっかり肥えてしまって、中共に住んでる人たち以上になったのではないか。少くとも、優秀な中華料理人の集まる香港や、台湾の顧客と、あまり変らぬ味覚の持主になったのではないか。もっとも、高級料理の鑑賞のみならず、ラーメン、ギョーザの日常食としての普及化は、驚くべきものがある。  とにかく、戦後の日本人は、外国の料理なら、何でも大歓迎。外国料理というより、外国そのものを、食いたいのだろう。  こういう国は、世界のどこにも類例がない。         *  さて、こう日常食が変ってくると、正月料理も、旧態を維持できないのが、当然である。  試みに、新年号の婦人雑誌を、開いて見るがいい。正月料理がカラー版で、いかにもウマそうに、いかにも体裁よく、掲載されてる。  しかし、その料理は、ほとんど全部が、洋風でなければ、中華風である。オードーブル的なもの、鳥や牛豚のロースト、または、シナ料理の冷盆《リャンパン》風のものが多い。日本風の料理は、変りずしのようなものが、隅の方に載ってるに過ぎない。  何という変化であるか。明治時代に、私の家でコーン・ビーフを用いたといっても、ただ一種だけのものだったが、今日では、正月料理の全部を、外国風にする例もある。キントンや、カマボコも、お節料理も、用意しない家が、現われてきた。私の家の子供が、わが家のお節料理に、見向きもしなくなったのも、不思議はないのだろう。  しかし、洋式正月料理というものは、一体、どういうものなのか。欧米のどこかの国の輸入なのか。  私はちょっと考えて見たが、どうも、欧米には、正月料理はなさそうである。日本的意味の正月というものが、存在しないのだから、料理もあるわけがない。しかし、正月はなくても、その少し手前に、クリスマスがある。クリスマス料理なら、無論、欧米各国がやってる。だから、日本の洋風正月料理とは、クリスマス料理を参考にしたのかも知れない。  私はフランスのクリスマス料理なら、多少知ってる。しかし、それは、クリスマス以外の時でも、食わないことはないし、また、日本の正月料理のような、仰々しいものでもない。  フランスの普通の家庭で、クリスマス前夜のご馳走といえば、家鴨のローストぐらいである。英米のように、七面鳥は使わない。勿論、オードーブルとポタージュぐらいは、出るだろう。しかし、そんなものは、クリスマスでなくても食べる。家鴨のローストだって、家族の誕生日にも、こしらえるだろう。もし、クリスマス独特のものといえば、食後の菓子のガトー・ド・ノーエルぐらいだろう。ガトー・ド・ノーエルは、クリスマスの前から、菓子屋の飾窓に置き始めるが、薪をかたどったチョコレートの上に、嬰児のエス様の砂糖菓子が載ってるだけで、格別うまい菓子でもない。むしろ、英国のクリスマスのご馳走に出る、暖かいプディングの方が、美味である。  とにかく、その程度の食事である。クリスマス・ツリーを飾るとか、プレゼントを貰うとかで、子供は喜ぶが、大人にとって、特にご馳走というものはない。それも、一晩きりの話で、日本のように、正月料理を三日間も、食べ続けるわけではない。  それに、フランスでは、家鴨が高いので、以前から、鶏を代用する家が多いが、戦後、日本と同様、アメリカから安いブロイラーが輸入されて、もう、チキン・ローストはご馳走ともいえなくなった。この勢いで行くと、クリスマス料理も、追々別なものが工夫されるかも知れない。日本の正月料理ほどのご馳走でないにしろ、一年一度の食事なのだから、やはり、平素よりウマいものが、食べたくなるのだろう。  考えて見れば、日本の洋風正月料理というものも、典拠のないものである。伊勢エビなぞ用いて、大いにオメデタ・ムードを出すけれど、外国ではエビと祝賀の関係がない。鯛なぞは下魚とされてるから、いよいよ祝賀の意味はない。洋風正月料理というものは、日本製ということに、帰着する。  それでもいいが、正月料理を洋風で行こうとしても、やはり、年月を重ねなければ、いろいろムリがあるだろう。客の多い家では、日本風の方が、便利な点もあるだろう。  もっとも、賀客にいちいち食事を出すという習慣が、長く続くかどうかは、疑問である。正月は家族だけで、ウマいものを食うということになるかも知れない。それなら、問題は簡単である。正月料理という特殊性も、失われて、ただのウマイモノ食いとなるのだが、ちょっと、寂しい気がしないでもない。         *  正月にウマいものを食うというのは、昔の日本人が、平素、マズいものばかり食ってた証拠で、栄養的にも、溜め食いをする目的だったかも知れない。  でも、戦後の日本人は、大変ゼイタクになり、食生活はすっかり向上したので、正月のご馳走が、意味を失うことになった。わが家の子供が、キントンを喜ばぬというのも、平素、マロン・グラッセとか、栗入りの生菓子なぞにありついて、珍奇性を欠くからだろう。  もっとも、私なぞは日本製のマロン・グラッセよりも、熟練した料理人のつくったキントンや、栗のふくませの方に、軍配をあげるのだが、大勢はいかんともなし難い。  それにしても、正月料理というものに、私は大なる郷愁を感じてるわけではない。三献肴《さんこんざかな》、口取り、ウマ煮の類は、元日の朝、一見しただけで、食欲を失う。それを三日間出されるのだから、新年を呪う気分にもなる。  大体、正月料理がウマくないのは、年末に調理したものを、数日後に食うからだろう。料理は、出来たてを食うのが原則なのに、敢えてその逆を行くのである。暖かい料理は、雑煮だけというのも、情けない。  私の家では、ある有名な懐石料亭の正月料理の重詰を、年末に贈られるが、見た眼はいかにもウマそうで、材料も吟味されてるが、いざ食って見ると、これが、あの店の料理かと、疑ってしまう。味が変るというより、味が飛んでしまうのである。名店のものでもそうなのだから、正月料理というものは、誰がつくっても、マズくなるようにできてるのだろう。その上、市販のカマボコ、ダテマキの類は、防腐剤を多量に用いるから、危険な食物でもある。  いつの頃からか、私の家では、三カ日の午食だけは、パン食にすることにした。酒はブドー酒を飲み、コールド・ミートの類を食べ、そして、食後にコーヒーということにする。それで、よほど、食事の単調が救われるのである。  重箱に詰まってるものには、まったく手が出ない。むしろ、朝の雑煮の方がありがたい。そして、晩飯の時の吸物も、冷食でないという理由で、平素よりは美味を感じる。  私の家では、母親の生きてた頃から、正月の吸物は、蛤か、鱈コブにきまってた。両方とも賀客に出すのに、手がかからないからだろう。  鱈コブの吸物というものを、幼時は、あんなマズいものはないと、思ったが、年をとるに従って、好きになった。鱈の匂いと、切り昆布の味が、お節料理に飽きた舌に、快いのである。  しかし、この頃は、その切り昆布が、手に入らなくなった。いや、売ってることは、確かだが、皆、染料を用いるから、まっ青な吸物になってしまう。昔は、どこにでもあった、安価な品物だから、探せばあると思い、手を尽したが、ダメだった。そこで、関西は昆布の老舗が多いから、京都の友人に頼んだ。友人は昆布屋へ行って、親切に探してくれたのだが、どうも、私のいうような品物がない。それで、類似のものを、数種揃えて、送ってくれたが、それらは精製品であって、毛髪のような細さであり、また昆布の品質もちがうらしく、鱈コブにして食べると、まるで、別種のものになってしまった。  以来、私は鱈コブを諦めてるのだが、なぜ、切り昆布の着色なぞというバカなことをするのか。天然のあの青さだけで、結構ではないか。人工着色のどこが、食欲をそそるというのか。切り昆布に限らず、タクワンでも、鱈子でも、ひどい着色を行うが、私は商人の奸策を責めるより、買う人の罪だと考える。食物にあんな色を喜ぶのは、幼児か野蛮人のセンスである。また、着色して、工程を省けば、味が落ちるのである。その上、有害な色素が、多いのである。そういうことも、頭に浮ばないとすれば、ものを食う資格がないともいえる。  鱈コブも食えなくなって、正月の膳は、いよいよ味気なくなるが、それでも、何か食わずにはいられない。睨めっこをしてる重箱の蓋を、仕方なしに、開けずにはいられない。  そういう時に、何に手が出るかというと、わが家でこしらえたお煮〆めである。人参、牛蒡、里芋の類を、大晦日に、細君がセッセと煮上げた料理である。料理ともいえない、お惣菜であるが、これが、案外、結構なものである。少くとも、カマボコ、ダテマキの類より、食欲をそそるのである。ことに、冷たくなった焼豆腐などの味は、悪くない。  しかし、お煮〆めなぞを食って、三カ日を終るのだから、ご馳走からは遠い。四日の朝に、平常食に帰ると、ホッとした感じになる。やっと、厄脱れをした気持になる。  考えて見れば、愚な話である。正月だから、ウマいものを食うのでなく、正月なるが故に、平素より粗食をしなければならない。別に法律で、在来の正月料理を食えと、強制されてもいないのだから、遠慮なく、ウマいものを食ったら、いいのである。それだから、明治年間のわが家でも、コーン・ビーフやシューマイを、食ったのだろう。戦後の日本では、洋風正月料理が、流行するようになったのだろう。  それで結構であるが、正月料理は元日一日だけのものにしたら、どんなものか。和風にせよ、洋風にせよ、三日間も同じものを食うところに、問題があるので、一日コッキリなら、そう飽きることもあるまい。一体、正月に既製料理を食べるということは、台所の人に休養を与える目的もあったのだろうが、戦後は、女中さんも週休を貰うので、事情がちがってきてる。それに、新年と共に、一つ年を加える習慣もなくなったのだから、正月の意義も、よほど減殺されたのである。何も、三日続けて、マズいものを食う義理はない。   貧寒の月というけれど  演劇関係の亡友に、長田秀雄という人がいたが、酒好きで、しばしば私と会飲した。彼は、どこで聞いてきたのか、飲酒家は、一年のうち一カ月を禁酒して、体から酒の気を抜くと、害を受けぬと信じ、それを実行してた。そして、一カ月間禁酒を行うのは、毎年、二月だという。二月は月が短いから、トクだという計算らしい。 「それに、二月は、食べもののマズい月ですからね。酒の誘惑も、ありませんよ」  と、いってた。  その当時は、私もそう信じてたが(つまり、二月は食味に恵まれない月であることを)、よく考えて見ると、あながち、そうもいえないのではないのか。  二月と八月というのは、一年のうちで、商人の景気の悪い月とされてるが、食べものの方から見て、八月は、確かに恵まれない月である。わずかに、下旬に入って、新秋を想わせる食物に、ありつくだけである。  しかし、二月の初頭は、まだ寒中であり、日本独特の寒の美味というのがあり、事実、月一ぱいの寒気は酷しいので、冬の食物の魅力は、続くのである。八月と、どっちを選ぶかとなれば、私は、躊躇なく、二月がいいと思う。  例えば、鍋物——これは、正月に続いて、二月の愉しみとなるだろう。鍋という台所器具を、座敷に持ち出して、直接、箸をつけるという習慣は、日本では、そう古いものではない。 「八笑人」なぞを読むと、すでに江戸人が鍋物を食べてたことがわかるが、恐らく、それ以前を遠く溯るものではあるまい。自分の好みで調味して、家族か親友と、隔てない気持で食べるところに、意味があるが、やはり、熱いものを、ジカに食べる、寒さ凌ぎの目的が、主だろう。その証拠に、鍋物は、九州よりも東北地方が、発達してるし、味もすぐれてる。  戦前も、ずっと前のことだが、私は、新宿の�秋田�という家で、ショッツル鍋の味を覚え、すっかりファンになった。ショッツル汁を入手して、自宅でも試みたが、どうしても、本場へ行って、食べたくなった。初冬の頃だったが、夜汽車で秋田へ行くと、雪が積ってた。  それで、一層、鍋の味を恋しく感じたのだが、いかんせん、一人旅で、且つ土地不案内。仕方がないから、旅館で註文したら、どこでもやる料理らしく、午食の膳に出てきた。でも、貝鍋は用いず、アルミ鍋で、魚も、季節のハタハタでなく、鱸《すずき》だった。ただ、野菜は、新鮮な芹で、これは、ショッツル鍋に、最高のものと思った。  しかし、美味という点では、翌日泊った温海《あつみ》温泉の宿で頼んだ、ショッツル鍋の方が、優ってたが、材料は、鱈だった。一緒に出た松葉蟹の味も、忘れ難かった。  そして、一昨年だったか、羽黒三山へ詣でた帰りに、秋田へ泊り、鍋もの専門の料理屋で、試食したが、特にいうほどの味でもなかった。ショッツル鍋などというものは、料理屋や旅館で食うより、土地の家庭で、味わわして貰う方がいいのだろう。家庭料理なのである。だから、わが家のショッツル鍋を、決して軽蔑できない。東京では、いい芹がないので、白菜を代用し、魚も、ヒゲ鱈があれば一番だが、近海のホーボーや小鯛を用いて、結構、満足できる。鍋も、江の島土産の貝鍋を使う。肝心のショッツル汁だけは、上等品に限るのだが、私は、鉄道関係の人に頼んで、秋田から取り寄せるけれど、近頃は、東京のデパートでも、入手できるようである。  ショッツル鍋が好きになるのは、チリ鍋の愛好者が、新味を求める場合が多いが、チリ鍋そのものを、忘れる人は少い。チリ鍋は、依然として、その魅力を失わないのである。チリ鍋がショッツル鍋に優る点は、つけ汁の橙の香りもさることながら、豆腐の味の愉しみがあるからだろう。ショッツル鍋には、コンニャク類は適しても、豆腐は、せいぜい焼豆腐でないと、味を悪くする。豆腐の水分が、ジャマをするのかも知れない。しかし、チリ鍋の場合は、豆腐なしには、意味がないのである。それも、良質の豆腐に、越したことはない。  大磯に住んでると、魚が新鮮だし、柑橘類の北限地帯だから、チリ鍋を試みることが多いが、幸いにして、豆腐も、わりと、いいものがある。平塚も、いい豆腐があるが、あの附近の豆腐水準は、わりと高いのである。  大磯の豆腐屋さんも、主人が軽四輪車で行商する世の中となったが、この間、散歩の途中で、彼と会ったら、 「吉田さんも、惜しいことをしましたね」  と、私に挨拶した。  古田茂の死んだ直後だったが、一体、この豆腐屋のオヤジは、その日につくった豆腐のうちで、よくできた部分を、吉田邸と私の家へ届けてくれるのを例とした。ワンマンも豆腐好きだったらしいが、私もそれに劣らないことを、彼は知ってたのである。 「もう、うちの豆腐も食べて、頂けねえと、思うと……」  といって、彼は手の甲で、涙を拭った。ほんとに、泣いてるのである。自分のつくった豆腐にそれだけの自信と愛着を、持ってるからなのだろうが、いま時の職人に珍しい心がけと思って、私は感心した。 「まア、おれの生きてるうちは、できるだけ、沢山、豆腐を食うようにするからな」  と、彼を慰めて、別れた。  確かに、チリ鍋の豆腐はウマいが、しかし、ほんとに豆腐の好きな人(例えば、僧侶)は、湯豆腐鍋の方を、選ぶだろう。私なぞも、夏の冷奴よりも、冬の湯豆腐を愛する方だが、豆腐の選択、そして煮方と考えると、なかなかバカにならぬ料理である。いい豆腐といい昆布を、適度の火加減で食うのが、道であるが、醤油と調味料も厄介である。醤油の質は、戦後落ちたけれど、それを、削りカツブシでゴマかすのは、愚である。私は化学調味料を、あまり好かないが、豆腐には、まだ合うと思ってる。しかし、何も用いず、生醤油で食うと、案外、ウマいのである。豆腐好きの坊主は、カツブシも、化学調味料も、味をジャマするといってるが、一理あると思う。  考えようによっては、湯豆腐は、鍋もの料理の王者であるが、それと反対の下賤の位に相当するのは、ハマ鍋ではないかと思う。  ハマ鍋は、剥きハマグリを味噌で煮るのだが、以前は、東京の小料理屋で、よくお目にかかった。ことに、品川や羽田では、名物のようにいわれた。最も下町風な、そして、東京的な野趣を持った鍋料理だが、必ずしも、マズいものではない。ハマグリが新鮮で、味噌が上等でなければならぬが、それよりも、食う頃合いに、気をつけねばならない。煮えたか、煮えないかという時が、美味で、ハマグリも柔かいのだが、それを過ぎると、始末が悪い。味噌を用いるのも、火の効き過ぎない用心なのだろうが、酒でも飲んでると、つい、固くなってしまう。添え野菜は、ネギと焼豆腐だが、牛豚肉が常食とならぬ以前に、東京の職人あたりは、ハマ鍋で満足してたにちがいない。要するに、上等の料理ではない。同じようなものでも、カキ鍋の方には、鉄火趣味はない。しかし、カキ鍋も、関西のカキ船へ行って、カキの酢のものから始まって、カキ鍋、カキのフライと出てくると、ゲンナリしてしまう。単一料理というものは、どんな材料を用いても、そうウマいものではない。例外は、フグだけだろう。  最も下賤な鍋ものとして、馬肉鍋があるが、私は、ふと人に誘われて、その味を知り、これを蔑視できなくなった。私は老人であるから、牛肉を多食することを、医師から戒められてるが、馬肉は味が軽く、繊維も柔かく、甚だ好適である。老人の肉食として、これに過ぎるものはあるまい。  東京で馬肉鍋の老舗が、吉原と深川と、二軒あるが、味噌タレを用いることに、変りはない。味噌で獣肉を煮ることは、日本古来の習慣で、牛肉なぞも、最初はそのようにして食べたらしいが、馬肉の場合、最も適合した料理法だろう。そして、馬肉鍋のことを、サクラ鍋と呼び、猪鍋のことを、ボタン鍋と称するのも、日本人らしい風流である。私にとっては、松阪肉のスキヤキより、老舗のサクラ鍋の方が、結構であって、若い男女が馬肉を軽蔑し、従って、値段も安いのがありがたい。第一、馬肉の生産は少いだろうから、誰も馬肉の味を覚えたら、奪い合いの食品になるかも知れない。         *  中華料理や朝鮮料理には、独特の形をした鍋料理の鍋があって、一種の寄せ鍋を食わせることは、人の知るとおりだが、欧米の料理には、その例を聞かぬようである。  これは、欧米人が、舌を焼くほど熱いものを好まぬからだろう。大体に於て、彼等は猫舌である。フウフウいいながら、ものを食うという表現は、全然、彼等の食欲を誘わない。  しかし、料理を冷めないうちに食う用意は、彼等も、充分に行ってる。皿を暖めることも、料理場から食卓への運搬時間を、やかましくいうのも、その一例である。ことに、冷めたスープに対しては、顔をしかめない者はあるまい。  彼らだって、料理は熱いうちに食うべきことを、よく知ってるのだが、鍋ものという料理は、発明しなかった。ロシアなぞ、寒い国だから、鍋料理がありそうなものだが、私は聞知しない。  なぜ、食卓に鍋を運ばないかと、考えるのだが、台所と食卓との観念的区別が、強いことも、一因だろう。また猫舌の点もあるだろう。しかし、それよりも、食卓でものを煮る燃料に、適当なものがなかったからではないか。彼等の炊事用燃料は、以前は石炭か、木材だったが、どれも、食卓には向かない。  そこへいくと、わが国では、木炭という重宝なものがある。煙も、臭気も出さず、座敷で使用するに、便利である。どうも、木炭があったから、日本で鍋料理が進歩したと、考えられる。もっとも、フランスでは、木炭がないことはない。シャルボン・ド・ボァと称して、売ってる。木の石炭の意である。しかし、どんな場合に用いるのか、私は知らない。以前、フランス映画で、木炭で魚を焼くのを、見たことがあるが、それはマルセーユが舞台だった。パリでは、どうするのか。  西洋に日本風な鍋料理のないのは、確かだが、煮て食うのでなく、暖めて食う目的だったら、鍋を卓上に持ち出す場合もある。パリのモンマルトルに、有名なノルマンディ料理屋があったが、そこの名物は�トリップ・ア・ラ・モード・カン�と称するもので、豚の胃袋の料理である。豚の胃袋は、非常に脂こいもので、熱いうちに食わなければ、口の中がニチャニチャしてしまう。そこで、鍋のまま卓上に持ってくるか、アルコール・ランプの上へ、載せてくる。すでに調理したものを、温度を落さないために、そんな仕掛けをするので、煮て食うとはいえない。従って、鍋料理とはいえない。とにかく、大変シツコイ味だから、酒もブドー酒でなく、林檎酒を飲む。林檎酒の酸味が、脂肪を消すからである。  右の料理の外に、日本でもこの頃ボツボツ始めた、マルセーユ料理の�ブーイヤベス�も、アルコール・ランプと共に、卓上に出す場合がある。あれなぞは西洋寄せ鍋であって、日本人の嗜好に適すると思うが、逆に、フランス人に日本の寄せ鍋を食わしたら、喜ぶかも知れない。いつも、スキヤキとテンプラでもあるまい。しかし、日本の�ブーイヤベス�は、サフランの添加が少いので、もの足りない。あの薬草の匂いが、魚臭を消し、その上、あの料理独特の魅力となるのである。  といっても、要するに、アルコール・ランプで保温する、鍋料理である。ナマのものを煮て食う、日本の鍋料理とは、本質を異にする。どちらがウマいかということになれば、後者だと思う。日本流だと、自分の好きな煮え加減で、食うことができる。これが、大きな強味である。しかし、夜食に礼服をつけて、食卓に臨む英国人の趣味からいえば、鍋料理は、外道にちがいない。日本でも、封建時代だったら、鍋料理なんて、町人か足軽の食物だった。武士の家庭では、思いも寄らぬことだろう。その頃は、台所と座敷の区別が、厳然としてたのである。そして、男子は庖厨に入ることを、忌んだのである。しかし、現代の日本は、ダイニング・キッチンとか称して、台所と食堂を合体させるのが流行だから、わざわざ鍋料理を食わなくても、すべての料理の鍋と火は、眼前に見られることになった。従って、男子にとって、台所のオフ・リミットは解かれたというものの、皿洗いを命じられることも、覚悟しなければならない。         *  二月の食物というと、私には、忘れ得ざるものがある。それは、私が二月に食べるもののうちで、最高の味であり、そして、もう、生涯、食う機会もあるまいと思うので、特記せざるを得ない。  私は終戦の年の暮れに、亡妻の郷里である四国の宇和島在に、疎開したのである。戦争が済んで、疎開するなんて、間が抜けた話だが、実は、すでに疎開してた神奈川県の海岸の町が、戦後になって、一層、食物の窮迫を告げ、どうにも堪らなくなって、再疎開ということになったのである。妻の郷里は、物資豊富と、聞いたからである。  果たして、私の家族は、飢えずに済んだ。その上、疎開者の肩身狭さも、知らずに済んだ。というのは、私が借りた家が、土地の素封家の離れ家で、その持主が、大変、私を厚遇してくれ、あらゆる世話を惜しまなかった。私は彼の紹介で、土地の有力者たちと懇意になり、その人々も、十年の知己のように、私を扱ってくれた。  そこは、海と山とに挾まれた、細長い町で、中央に、川が流れてた。私の家も、川に面してたが、石塊の多い河原を、清流が流れ、夏は鮎が橋の上からも、釣れた。ハヤやウナギも獲れた。そういうものは、皆、土地の人が頒けてくれるから、海の幸の他にも、私の食膳を賑わし、再疎開の目的は、達成された。  私はその町に、約二年いたのだが、その間に、二回、二月という月を迎えた。そして、曾て知らざる早春の珍味に接し、疎開者としては、あまりにも幸福な自分を、感謝しないでいられなかった。  それは、白魚なのである。土地の人は、それを、シライオと呼ぶが、どうも、東京あたりで見る白魚と、同種のものとは、思われない。非常に小型で、白魚というより、シラスに近いのである。見たところ、極めて貧弱であるが、土地の人は、小型であることを、自慢にしてる。例えば、宇和島でも、白魚は獲れるが、ずっと、形が大きく、遥かに、風味が劣るという。 「あがいなもん、食われますかい」  と、土地の人は、蔑視してる。  その小型の白魚が、海から川へ溯上してくるのが、二月なのである。それも、せいぜい、十日間か、二週間の短期間に過ぎない。  その代り、大群が溯ってくる。私はその現場を見たが、川の水が瀬となって、音を立てるあたりを、魚群がチリメンのような水の皺を、呈するので、すぐ、それとわかる。しかし、透明な魚だから、側へ寄っても、一疋の姿を捉えることはむつかしい。  それを、四ツ手網のようなもので、掬い上げるのである。無論、私には、そんな芸当はできない。土地の人がやるのだが、彼も素人で、漁師ではない。白魚は、魚屋で扱わないから、もの好きな人が、漁をするに過ぎない。そのもの好きな人は、土地の有力者に多かったから、私と交際があり、獲物も届けてくれるのである。その恩恵を、謝さねばならない。魚屋で売ってない品物だから、普通には、口に入らないわけである。  最初は、ナマで食って見ろといわれ、いわゆる白魚の踊り食いというのを、試みた。生きてるのを、ポン酢で食べるのだが、口の中で動くようなものは、イカモノであって、好味とはいい兼ねた。  それで、最初は、土地の人の自慢を、信じなかったのだが、やがて、亡妻が郷土風の白魚汁をつくってくれ、それを味わって驚いた。こんなウマいものが世にあるかと、感じ入った。  それは実にヤボな料理であって、人参と椎茸のセン切りを湯煮にして、その中に多量の白魚を投じただけの吸物である。都会風の白魚の吸物は、美人の子指のような数疋の白魚と、僅かな青味が清汁に浮いてるだけだが、ここの白魚は、一見、中華料理の羹《あつもの》のように、雑然として、且つ、トロトロしてる。そのヌメリは、多量の白魚から生ずるもので、まるで、カタクリ粉を混じた観がある。そして、生きた白魚でないと、そのヌメリが出ないことも、度々の経験でわかった。  その味は、酒のサカナによく、また、飯のオカズに向き、つまり、一家の誰にも歓迎された。郷土料理というものは、主人だけの食物でないところに、特色があるのだろう。  二月の食味として、これ以上のものを、知らないが、私があまり激賞するので、昨年、その土地の旅館の老女将が、飛行機で上京する時に、獲れたてのものを、持参してくれた。  軒につるす、ガラスの金魚鉢へ、白魚を入れて、持ってきてくれたのは、おかしかったが、彼女の苦心の甲斐もなく、白魚は、もう、死んでいた。 「松山で、飛行機に乗る時までは、まだ生きとりましたんやけど……」  しかし、空港で、水の補給をしたのが、かえって悪かったらしく、それから、急に勢いが弱ってしまったそうである。  それにしても、彼女の親切がうれしく、私は、早速それを、食膳に上すことにした。死んだ白魚といっても、死にたてであることは、まちがいなく、また、普通、東京で食う白魚は、常に、死んでるからである。  そして、妻に、料理法を授けて、あの土地風の白魚汁にしたのだが、味は、決して、悪くなかったにしても、あのヌメリの舌触りは、ついに、望むべくもなかった。   貝 類 な ぞ  帝釈天のある柴又は、昔から、草餅の団子が名物だが、この間、土地の人が、土産に持ってきてくれたのを見ると、緑青《ろくしょう》でも吹いてるように、青かった。一見して、人工染料で、色づけがしてある。  柴又は江戸川に近く、昔はその堤に、ヨモギなぞが、沢山、生えてたのだろう。それで、草団子が、名物になったのだろう。もっとも、そんな草の生えるのは、春先きで、あの団子は、年中売ってた。それでも、自然の青い色を、呈してたのは、ヨモギを乾燥するとか、塩蔵するとか、何か、保存の策を、知ってたのだろう。しかし、そんな手間は、面倒だから、人工染料を、用いるのだろう。その代り、草の香りもないし、第一、食物とは思えない、不快な青さである。  柴又の団子ばかりではない。三月の声を聞くと、菓子屋の店頭に現われる、桜餅にしても、うぐいす餅にしても、着色がひどい。長い冬を終った喜びで、人は色彩を欲するのだけれど、食べ物の本質を忘れた着色は、閉口である。その傾向が、年と共に強くなるのは、日本人として、恥かしい。  春の野に出でて、若菜摘むというのは、われわれの祖先の詩情であって、あれは、昔の日本人が貧しかったから、野草を食べたのだという解釈は、必要でない。  私の少年時代には、まだ、摘草《つみくさ》という習慣があった。男の子はやらなかったが、私の姉なぞは、小学校の先生に連れられて、三月になると、きっと、出かけた。そして、餅草《ヨモギ》を、沢山、持って帰った。それを、翌日、母親が、草餅にこしらえて、食べさせてくれた。母親の草餅は、餡を入れず、キナ粉でまぶすのだから、そんなにウマくなかったけれど、野原へ行って、食べることのできる草を採取してくる姉には、一種の尊敬を感じた。私には、どんな草が食用になるのか、見分ける知識がなかった。  摘み草というのは、女の子の遊びかと、思ってたら、幸田露伴の随筆を読むと、そうも限らないことが、わかった。  露伴が相当の年になってから、風流な友人と共に、摘み草に出かけたという。彼の家は、向島にあったし、以前は、あの附近は、田圃だったから、そんな遊びができたのだろうが、子供の摘み草とちがって、手ブラで出かけるわけではない。  出かける前に、良質の杉の薄板を、二枚。その間に、よい味噌を挿んで、火にあぶるのだそうである。杉の香りが、味噌にうつる。それと、一瓢。  瓢箪《ひょうたん》というのは、昔は、どこの家でもあったものだが、携帯酒器として、最上のものだったろう。酒の味を、よくするからである。そして、魔法ビンのように、重いものでもない。昔の人は、何かというと、一瓢を携えて、出遊したものだが、摘み草にも、酒を持ってくのは、初耳だった。  露伴たちは、萌え出した野草を摘み、杉板に挿んだ味噌をつけて、その場で食べるのだそうである。そして、一パイやり、俳句なぞを愉しんだらしい。野蒜《のびる》が、最も、酒のサカナになったそうである。ノビルは、野生のネギのようなものだから、味噌に合うのだろう。  しかし、ずいぶん風流な遊びである。露伴のことだから、そんな遊びを、昔の文献で知ってたのだろうが、清遊という点で、それ以上のものはない。私も、ちょっと、真似がしたくなったが、瓢箪も持ってないし、第一、一緒に行ってくれる仲間も、なさそうである。これは、同好の士がいないと、どうにもならない。  風流は、別にしても、早春の頃、大気の下で飲食するのは、ちょっと趣きがある。私は、四国の疎開先きで、その経験をした。  その町では、町では新暦を、農村では旧暦で、行事をするのだが、三月三日の雛祭りだけは、両方とも、新暦だった。恐らく、農事の関係で、新暦に従う方が、便利な点でもあったのだろう。  そして、三月三日は、誰も業を休み、河原とか、海辺とか、水のあるところへ行って、飲食をするのである。日本の古い習慣の雛流しに、もとづくのだろう。雛を人型と考え、それを水に流して、災厄を追放する考えなのだろう。  雛流しそのものは、もう行われなかったが、飲食の方は、盛大だった。終戦直後だったのに、物資に恵まれた地方だったので、彼等の持参する重箱の中には、カマボコも、卵焼もあった。酒も一升ビンを、担いでる者が、多かった。  そして、白昼の宴会を、開くのである。大声を出して、唄をうたい、その声が、川や海の水に響いた。そんな遊びだから、女子供よりも、大人が主体なのである。といって、彼女等が除外されるわけでもない。  最初の年は、私たちは、見物の側だったが、翌年の雛祭りには、家族と共に、弁当と酒を携え、妻の家の裏山に登った。さすがに、土地の人と共に騒ぐ、勇気はなかったからである。でも、入り江を見降す山の上で、ゴザを敷き、弁当を開いた。瓢箪の代りに、水薬のビンに、酒を詰めて、持参したのだが、それでも、のどかな気持で、盃をあげた。暖かい土地なので、三月三日に、もう桜がほころび、松林の間を渡ってくる微風が、絹のように、柔かだった。         *  ヌタという料理は、子供の時に、好きではなかった。そういう食物は、大人になってから、再評価するものだが、ヌタだけは、今もって、好物とはいえない。  しかし、女の人は、不思議と、ヌタが好きである。私の妻も好きで、よく食べさせられる。関東地方では、ヌタは雛節句の料理だから、女性は、その郷愁があるのかも知れない。といって、それほど上品な料理でもない。以前は、居酒屋のようなところで、必ず、ヌタが献立ての中にあり、荒くれ男の酒のサカナになってた。  本山荻舟の飲食事典には、ヌタの漢字を、饅と書いてある。饅頭《まんじゅう》のマンの字だが、どういう意味を持ってるのか。しかし、要するに、ヌタは味噌和えであって、極めて広く行われる日本料理だろう。味噌も、冬のうちは鍋の中に基地を持ってるが、春の声と共に、冷たい食物として、皿の上に出てくるのだろう。  お節句のヌタは、貝類を材料にすることが多い。ハマグリ、アサリの剥き身が、ネギやワケギと共に、使われるが、春を感じさせないこともない。  その他、サザエの壺焼なぞも、お節句に食べるが、その頃、貝類の味がよくなってくるのかも知れないが、それより、潮干狩の季節であることも、考えねばならない。旧暦の節句の頃は、海の風も暖かく、そんな行事が始まったのだろう。  潮干狩というものを、子供の時以来、やったことはないが、私の生地横浜では、海が近いから、よく出かけた。もっとも、私が貝を拾った山下海岸でも、磯子でも、埋立てが行われて、今は夢物語である。  貝塚の貝殻の分量から見ても、われわれの先祖は、よほど貝を食ったものらしいが、今でも、貝類と海草を食う点で、日本人は世界一だろう。フランス人も、貝は嫌いでないらしく、カキは秋の最高の味覚とされてるが、年中食うのは、ムール(カラス貝)のスープである。貝ごと皿に盛ってくるが、フォークで身をほじるのは厄介だから、女の人でも、貝をつまんで、口ヘ直接持っていく。しかし、身よりも、スープの味がいい。私は、最初、パリで、ムールを食べた時に、日本でも、確かに、この貝を食べたことがあると、思い出した。幼時のことである。だから、確かに、日本産のムールがあるのだが、近頃お目にかからないのは、どういうわけか。  しかし、フランスでも、マルセーユあたりへ行くと、実に、よく貝を食う。ハマグリ、アサリは無論のこと、私なぞ名も知らない貝が、貝屋の店に、列んでる。貝屋という商売が、マルセーユに存在し、中年の女が、屋台店を出してるのだが、戯曲�マリウス�には、彼女等の一人が、活躍する。あれは、映画や新劇で、日本に紹介されたから、知ってる人も多いだろう。  私は、磯子の潮干狩に行って、カラのついたカキを拾い、その場で食べたことがあるが、あの附近では、沢山、獲れたのだろう。そういえば、磯子に近い根岸の橋の袂に、カキ専門の洋食屋があった。  その店の顧客は、外人が主だったが、店の構えも、食べさせるものも、決して、立派ではなかった。貧弱なテーブルが、数は列んでるだけの店内だが、ただ、その頃はのどかだった磯子の海を、見晴らすことができた。メニユは、生ガキと、カキのスープと、カキ・フライのみで、スープは、牛乳入りだったと記憶する。材料が新鮮なので、外人客が行ったのだろうが、料理も、皿運びも、中年の女一人で、やってた。彼女は黒襟をかけた、双子縞の着物をきてたが、それは、外人の家で働く日本の女の風俗だった。恐らく、彼女は、アマさんと呼ばれる、外人の家の女中上りか、ことによったら、ラシャメンでもあったかも知れない。そういう女が、昔の横浜には沢山いた。私が食べにいったのは、大正年間だが、その当時では、珍しい風俗ではなかった。  ところで、カキ・フライという食べ物だが、あれは、一体、どこの国の料理なのか。右のカキ洋食屋でも、女主人は、外人の家で働いてるうちに、覚えたのだろうが、どこの国の人だったのか。私は、パリに数年間いた間に、一度もカキ・フライというものを、食べたことはない。普通のレストオランのメニユになかったし、魚介料理専門の料亭�プルニエ�でも、見かけなかったように思う。欧米人の考えからすれば、カキは生食を最高とし、かつ贅沢な食品でもあるから、フライなぞにするのは、勿体ないのだろう。しかし、カキ・フライが日本の創作とも思われず、どこかの国の料理にきまってるが、どうも、審らかでない。  しかし、マズいものではない。熱いうちに、レモン汁でもかけて食えば、相当の味が愉しめる。ただ、カキ・フライは贅沢料理と考え、材料も、油も、揚げ方も、吟味した方がいいだろう。南欧の揚げもの料理は、オリーブ油を用いるが、それが最適にきまってる。そして、日本人のテンプラ感覚をもって、揚げ加減を知ったら、立派なフライができるだろう。戦前、新橋駅前の小さな洋食屋で、カキ・フライを得意とする店があったが、一食に値いした。  とにかく、日本人は、貝類の味わい方を、よく知ってる。例えば、東京附近でいうハシラ——バカ貝やウバ貝の小型なハシラは、味も質も、ほんとにデリケートであって、生食が一番いいのだが、吸い物や揚げ物にする場合にも、その味を落さない工夫を、知ってる。よく調理されたハシラの吸い物なぞ、ヘタな詩歌よりも、春を感じさせる。ハシラのカキアゲなぞも、テンプラ職人の修錬を要するだろう。しかし、最も簡単なハシラの食べ方は、名あるソバ屋で、アラレ・ソバを註文することである。ハシラも、ソバも、よく味が生かされてる。  新鮮な貝類の料理法は、日本人が得意だけれど、干した貝の処置になると、とても、中国人には敵わない。  干した貝柱、干した鮑《あわび》、そして、干したナマコ(貝ではないにしても)のモドシ方を、心得てる点で、中国料理人の腕は、驚くべきものがある。フカのヒレだって、干蔵品で、あんなウマいものを、つくりあげるが、ことに感心するのは、鮑である。石のように固く、干し上げたものを、よく、あんなに軟かくモドせるものと、驚いてしまうが、それよりも、生鮮な鮑と異った、特別な美味を生み出すところに、料理というものを、感じさせる。あのような料理は、科学の発明とひとしく、すばらしい人間の知恵を考えさせるが、エジソンの名は残っても、干鮑を巧みにモドすことを発見した昔の中国料理人は、誰からも顧みられなくて、気の毒である。  干蔵品は、魚介に限らず、野菜から高野豆腐のようなものまで、われわれは、よく馴染んでるが、欧米には、少いようだ。乾燥肉というものも、存在するらしいが、日常食ではない。干蔵品なぞ食わなくても、欧米人は、物資豊富な環境に、住んでたのだろう。しかし、貧しい東洋人は、そうはいかなかった。そして、干鮑の料理のようなものを、発明したのである。  中国料理で、干蔵品の処理の巧みなのは、北京料理だが、日本でも、京都が優れてる。両方とも、海に遠く、しかも、文化の中心地で、住民の舌が、肥えてたからだろう。京都人は、高野豆腐ひとつ煮るにも、よくその方法を知ってる。やはり干蔵品である豆類の煮方も、上手である。  それで思い出したが、欧米人といえども、豆類は、干蔵品を食べないこともない。私はフランスにいる間に、ジゴ・ロチといって、羊肉のローストを、よく食べさせられたが、その添え野菜に、必ず、白隠元豆のスープ煮がつくのである。その白隠元豆が出ないと、ジゴ・ロチを食った気がしないくらいである。第一、ウマいのである。羊肉を一口食べ、そして、白隠元豆にかかると、大変、味の調和を感じる。また、パンの味と、よく合い、ブドー酒の味をも、よくする。  フランス人は、ジゴ・ロチの時には、かなりの量の豆を食べるが、誰も好きなようである。その白隠元豆が、干蔵品であるのは、いうまでもない。しかし、水に漬けてモドす場合、日本のそれより、ずっと簡単なようである。白隠元の外に、赤隠元を使う料理もあるが、この方も、同様である。干し豆に限らず、人参でも、大根(大根もフランスにある。ナーベと称する)でも、大変、早く煮え、早く軟かになるのである。私はパリで自炊の経験があるから、その点をよく知ってる。どうも、日本の隠元豆や人参、大根は、人間に食われないために、必死の抵抗を試みてるのではないか。         *  鯡《にしん》という魚は、春告げ魚の別名があり、今の季節がシュンなのだろうが、私は新鮮なのを、食べたことがない。  北海道の人は、ニシンの美味を説くのが、常である。獲れたてのニシンを、塩焼やカバ焼で、食うらしいが、きっとウマいだろうと、想像できる。そして、新鮮なものに限るだろうと、思うせいか、近頃、東京の魚屋が、生ニシンを持ってきても、つい手が出ない。また、料理法も、ほんとのことを、知らないからである。東京の人は、ニシンは臭い魚と、思ってる。そして、下魚として、軽蔑してるが、そういうものでもあるまい。  英国人は、ニシンをよく食うらしい。ことに、朝飯の食物にするらしいが、フランス人は、オードーブル用とする。ニシンの身をおろしたのを、玉ネギその他の香辛料と共に、油に漬け込んだものである。缶詰としても、売ってるが、食料品屋で、バラにして、皿の上に列べてる。朝食べないのは、フランスの朝飯は、食事ともいえないほど簡単で、コーヒーとパンだけの習慣だからだろう。  私は新鮮なニシンの味を、知らないけれど、決して嫌いな魚ではない。ことに、あの魚の持ってる渋さ(精神的意味ではない。舌に感じる渋さ)が、好きである。そんな味が出るのは、無論、生鮮品ではなく、干しニシンの場合である。  また、話が干蔵品に戻るが、干しニシンの味は、格別なものだと思う。もっとも、東京では、一度も、その美味に接したことがない。わが家でも、時々、生干しのニシンで、試みる時もあるが、いつも失敗する。  やはり、あの種のものは、京都の人が、料理法を知ってる。彼等は、干しニシンでも、干し鱈でも、巧みに処理して、独特の味を引き出す。円山の平野屋へ入ってくと、干し鱈の臭気で、鼻をつくが、出す料理は、私の好物だった。しかし、近年、味つけが大変甘くなり、足が遠退いた。その点、野菜を主とする懐石料理の�雲月�では、結構なニシンの焚き合せを、味わわせてくれた。それから、祇園の近くにあるニシン・ソバも、名物といえないこともなかろう。  京都のニシン料理は、洗練されてるけれど、栃木県の那須温泉のそれは、ほんとの山家料理で、別種の趣きがある。ニシンが那須の名物というわけではない。昔、交通不便だった頃に、あの山奥では、干し魚ばかり食べてたのだろうが、ある旅館の老女将は、今もって、その料理法を心得てる。ニシンをワラビかゼンマイと共に、煮ただけのものだが、大変ウマい。一度、私が賞めたら、私の行く度に出してくれるばかりでなく、便があれば、東京へも届けてくれる。  彼女としては、私という鑑賞者を見出したことが、うれしいのである。なぜといって、宿泊客はもとより、彼女の息子や娘たちも、ニシンなぞは、全然バカにして、見向きもしない。氷詰めのあまり新鮮でないエビなぞを、喜んでる。エビがこの山奥へ侵入してきたのは、戦後のことに過ぎない。婆さんはエビ・フライよりも、昔ながらのニシンの煮つけの方が、美味であることを信じ、それを認めてくれた私を、多とするらしい。しかし、私なぞがいくら賞めたって、山奥の郷土料理なんて、やがて亡びるだろう。那須の場合ばかりでなく、すべての郷土料理は、土地の若い人に背を向けられ、老人たちの死と共に、絶滅してしまうだろう。残念なことである。         *  干蔵品の話ばかりでもあるまい。  三月の声を聞けば、八百屋の店頭にも、木の芽が現われるだろう。私はそれを珍重する。高級料理屋では、秋や年の暮から、あれを用いるが、初夏の松茸と同様、私は唾棄したくなる。普通の八百屋で売り始める頃がハシリで、ムリをしないで、季節の詩情を愉しめるのである。  季節外れをハシリとして喜ぶ悪傾向は、日本の都会だけではないらしい。いつか、東京の�マキシム�のチーフ・コックのフランス人と、対談したら、パリでも、冬の最中に、促成栽培のアスパラガスを出す料亭が現われ、客がそれを喜ぶといってた。そして、彼も眉をしかめながら、そのことを語った。   春 爛 漫  鹿児島の酒鮨《さけずし》というものがあるが、あれほど、陽春を感じさせる、食物はあるまい。マゼ・ズシの一種だが、極めて多くの具《ぐ》を用意し、見た眼にも、絢爛な美しさであるが、その味が、まったく独特である。スシと称しながら、酢を用いず、酒を混じるのである。その酒も、普通の日本酒でなく、あの地方で地酒《じざけ》と呼ぶ、ベルモットに似た、色と味を持ってる、それを驚くほど多量に、飯に混ずるのである。  私が最初に、酒鮨の味を知ったのは、昭和十六年の二月に、拙作『南の風』の取材に、天草から鹿児島へ行った時だった。私は約十日間、鹿児島にいたが、その地を初めて踏んだので、自然も風俗も、非常に魅力を感じ、ことに封建性が多分に、日常生活に残ってる点を、面白く思った。そして、鹿児島のことなら、何でも知りたくなり、料理もその一つだった。郷土料理の豚骨《とんこつ》や春羹《しゅんかん》なぞは、ちょうど寒い頃だったので、味もよく、もの珍しかった。 「まだ外に、土地の料理はありませんか」  私は、案内役の市の観光協会の人に、訊いた。 「そうですな、酒鮨というのがありますが、ちょっと、季節外れで……。でも、私の家が、実は、酒鮨に使う地酒の醸造元で、ご案内致しましょうか」  そして、私は町中の極めて古びた商家へ、案内された。戦災のひどかった鹿児島には、もう、あんな古風な建築の商家は、一軒も残ってないだろうが、そこで、私は酒倉の中へ入ったり、薄暗い帳場の框に腰かけて、地酒というものを、初めて味わったりした。酒というよりも、ミリンに近い──ベルモットにもっと近い甘さを知って、こんなもので鮨をつくったって、意味ないではないかと思った。  そのうち彼の母親という老婆が出てきて、私に酒鮨の製法なぞ、話してくれた上に、今は材料が乏しいけれど、一応の見本を、翌日の午飯に、私の宿へ届けるといい出した。親切はありがたかったが、私は大した期待は持てなかった。  しかし、翌日の正午頃に、その観光協会の人が、首桶のような道具を抱えて、私を訪ねてきた。 「これが、酒鮨の桶なんです」  と、彼はいささか誇らしくいったが、厚い木の巌丈そうな、黒塗りの桶に、これも巌丈な竹のタガが嵌り、黄漆が塗ってあり、見るから、民芸味が豊かだった。そして、厚い蓋をとって見せると、裏側の朱色の美しさは、何ともいえなかった。琉球の赤漆を、使ったものだといった。  私は容器の美しさに見惚れ、内容の方は閑却してたが、茶碗に盛られたものには、鯛のソギ身や、エビや、バカ貝や、サツマ揚げや卵焼のようなものが入ってて、なかなか賑やかだった。しかし、まるで地酒の茶漬けのように、酒に濡れ、酒の香がプンプンするのには、やや閉口した。  とにかく、一口、食って見た。甘くて、鮨の観念から遠い味で、ウマいとも思わなかったが、一杯を食い終ると、もっと食って見たくなった。そして、遂に、三杯半を平げた。その頃は、私の胃袋も丈夫だったが、それでも、飯は二杯ぐらいが、普通だった。つまり、何か、後をひく味があったのだろう。  観光協会の人も、私が沢山食べたので、喜んでくれた。そして、季節外れのために、タケノコや木の芽がなく、紅ショーガなぞを代用したことを、しきりに弁解してた。 「春に、是非、もう一度、お出かけ下さい。本式のものを、母につくらせますから……」  本式でなくても、酒鮨の味を覚えたことは、確かであり、私はそれに満足した。そして、東京へ帰っても、鹿児島に、そのような鮨があることを、よく人に語った。  間もなく、戦争が始まって、酒鮨どころの世の中ではなくなった。そして、日本人は誰も、餓鬼道に堕ちる生活をしたが、その戦争も終り、最初の鹿児島訪問から、十数年も経て、戦前の豊かさが、われわれの生活に帰ってきた。そして、「週刊朝日」が、新日本百名勝というような題で、全国の風光優れた土地に、文士を派遣して、書かせる企画を始め、その第一回に、私が鹿児島へ行くことになった。  私は記者やカメラマンと共に、羽田を出発したのだが、ちょうど四月の始めで、東京の桜が咲き出す頃だった。そして、出発の前に、私は鹿児島が酒鮨の季節であることを思い出し、今度こそは、タケノコや木の芽の入った、本格のものが食えるだろうと、朝日新聞の鹿児島支局の人に、前以て、その斡旋を頼んだのである。  そして、鹿児島に着いて見ると、支局の人は、 「酒鮨には、弱りました」  と、頭をかいた。  戦後の鹿児島は、ガラリと様子が変り、男尊女卑の弊風も、地を払った代りに、酒鮨のような、古風で、厄介な料理は、誰もつくる者がなくなったというのである。そういえば、十数年前にきた時も、あの地酒屋の母親のような、婆さんでないと、製法を知る者がないとは、聞かされたが、絶無というのは、何としても、残念だった。第一、あの民芸の傑作である鮨桶も、戦災で焼けてしまって、市中に残ってるのは少い、ということだった。  私が失望を顔に現わすと、支局の人は、 「でも、たった一人、料理学校の校長さんが、つくってくれるというのですが、食べさせる場所というのが、学校なんです。酒も飲めないわけなんですが、それでよろしかったら、ご案内します」  と、いった。  そうなると、私も意地で、学校はおろか、刑務所へ行っても、酒鮨を食べたくなった。鹿児島は八重桜が咲き、樟の若葉が燃え、爛漫の春で、酒鮨の最好季ではないか。私はすぐ、料理学校長へ依頼をしてもらった。  翌日の正午に、私はその学校へ行った。学校といっても、路地裏のバラックで、戦災後に建てたままらしく、黒板や調理台のある教室の次ぎの間が、茶の間のような和室で、そこへ通された。校長さんは、五十近い女性で、給仕をするのも、教室で何かやってるのも、若い生徒の娘さんだった。  前もって準備ができてたらしく、私の前へ見事な鮨桶が、列べられた。地酒の香りが、鼻を打った。桶の中は、友禅模様のように、色彩の豊かな具が、ギッシリ詰まってた。具の魚介は、十数年前とそれほど変りはなかったが、今度は、季節の酒鮨だけあって、タケノコと木の芽が、入ってた。それも、添加というような、生優しいものではない。飯は三層になってて、一層は桶一ぱいに木の芽の青さ、他の一層はタケノコの黄、最上の層は、あらゆる魚介である。実に美しく、且つ、豪宕の気分がある。木の芽をそんなに多量に使用するところが、サツマ人の神経らしく、面白かった。  そして、食べてみると、木の芽と地酒の香りで、噎《む》せそうになり、タケノコの触覚と、エビや鯛やサヨリや貝類や、サツマ揚げや卵焼との味と混合して、まるで、陽春そのものを、口の中へ入れた感じだった。 「こんな鮨は、食ったことがありません」  同行の記者も、讃嘆した。  それに、今度は、鮨をとりわける木皿が、美しかった。古い、琉球塗りの朱で、酒鮨を盛る器として、これ以上のものは、考えられなかった。  鮨桶といい、木皿といい、よくこんな器具が残ってると、感心したら、校長さんの家は、島津一家に関係のある旧家で、住宅が市外だったので、戦災を免れたとのことだった。  私は、すべてに満足して、酒鮨を礼讃した。単に鮨として、特異なだけでなく、料理のアイデアとして、東京にも、京都にも、発生しないものと、考えた。 「こういうものを、つくる人が少くなったのは、残念ですね。どうぞ、生徒さんに、よく教えて置いて下さい」  と、校長女史に頼むと、 「いえ、誰も、教わろうとする者が、おりません。皆、グラタンだとか、炒飯だというものの講習は、熱心ですが……」  その答えが、教室にいる生徒の耳に伝わったのか、若い娘たちの間に、クスクスと、笑声が起った。         *  タケノコというものは、東洋独特の食物であって、その味わいも、われわれの舌のみが、知ってるのである。パリの中国料理店で、缶詰のタケノコを、料理に用いるが、フランス人の客は、バンブー(竹)を食うのかと、驚倒してしまう。竹は手芸品か、建築材料と考えてるからだろう。そして、味はどうだと、訊いて見ても、ウマくも、マズくもないとしか、答えない。要するに、無味なのだろう。  しかし、われわれにとって、タケノコのない春は、どんなに寂しいことだろう。気候の寒暖によって、遅速はあるが、春の彼岸の少し前にでも、 「もう、タケノコが出ましたよ」  と聞くと、ひどく幸福になり、すぐに買いにやらせたくなる。  ワカメとタケノコの汁も結構だし、木の芽和えもいいし、ただジカ・ガツオで煮たのも、好物である。味の点からいって、私は、秋の松茸よりも、春のタケノコを好む。といって、特にどういう味があるわけでもない。微かな滋味と、弱い香りと、そして、快い歯触りがあるだけである。しかし、それを総合した味に、何ともいえない、魅力がある。  私の母親は、非常にタケノコが好きで、季節がくると、毎日、食ってた。中国の二十四孝の母親も、寒中にタケノコが食いたくなったところを見ると、タケノコは、東洋の婆さんの好物なのかも知れない。  その遺伝なのか、私もタケノコを好むが、もう、根の方の堅いところは、食えなくなった。無論、歯と胃が、弱くなったためである。といって、尖端の一番柔かいところだけでは、もの足りない。全部が、ある程度柔かく、そして、歯触りの快さと、味と香の豊かなものがいい。すると、やっぱり、京都産ということになる。  鹿児島も竹の産地で、タケノコは名物だが、寒いうちから、手塩にかけて育てる、京都のそれには、敵し難いようだ。その上、京都人は、タケノコをいつ、いかにして食うべきかに、細心な注意と知識を持ってる。 �朝掘り�というのを午食に食えば、それ以上の適時はあるまい。そして、料理の手間をかけなければ、かけないほど、ウマイだろう。そういうタケノコを、一度、食って見たくて、機会がなかった。東京にいては、せいぜい、飛行便で届いた�朝掘り�を、「吉兆」か「辻留」あたりの夕食に味わうのが、関の山だろう。それに、ちょっと、ゼイタクである。タケノコなぞは、質素な気持で、食うべきものである。  しかし、東京にも、タケノコはあった。無論、京都のタケノコが、空を飛んで来ない時分だが、東京人は近在のタケノコで、充分に満足していたのである。  ことに、目黒のタケノコが、有名だった。今の目黒は、住宅や工場が櫛比して、竹ヤブどころではないが、目黒の不動尊は、それでも、まだ残ってるのではないか。  その門前町に、古い料理屋が、数軒あったのである。そこで、春はタケノコ飯、秋は栗飯を食わせた。その頃の目黒は畑と雑木林ばかりで、私が中学生の頃は、遠足だの、機動演習に行ったが、確かに、竹林も存在した。だから、土地で獲れるタケノコや栗を、江戸時代から続いて、名物としたのだろう。  その頃のタケノコ飯は、今のチキン・ライス程度のご馳走だったにちがいない。目黒のタケノコ飯は、時季だけの食物だったが、三田の春日神社下のタケノコ飯屋は、年中、食べさせた。タケノコ飯屋といっても、実は、ダンゴや汁粉も売ってたが、三田の学生だった私たちは、午飯代りに、よくタケノコ飯を食べた。しかし、べつにウマいタケノコ飯でもなかった。年中売ってるのだから、タケノコも塩蔵品で、味に乏しかった。もっとも、いつも空腹を感じるほど、健康だったから、食いあますことは、絶対になかった。  タケノコ飯というものを、今でも、季節になると、二度や三度は、食膳に上らせるが、うちの子供は、それほど喜ばぬようだ。それでも、タケノコ飯は、まだ食べるが、菜飯《なめし》に田楽とくると、もう、見向きもしない。  菜飯なんて、味覚よりも、視覚を喜ばすもので、白飯に点じた青が、季節の詩なのだが、あれだって、炊きようによって、ウマいマズいが、あるにちがいない。そして、附きものというより、形影相伴う夫婦のように、木の芽田楽が出ることによって、春の料理としての資格を、備えるのである。  明治時代の東京人は、ずいぶん木の芽田楽を食べた。浅草に、菜飯と田楽を食わせる店もあったが、それよりも、町の豆腐屋で、少し大きな店なら、季節になると、必ず、木の芽田楽の出前を始めた。家庭で田楽をやるのは、なかなか厄介だから、出前をとったのだろうが、焼きたてを、配達してくれたのである。  そして、容器が美しかった。黒塗りの長方形の箱で、内部は朱塗りで、田楽の串が外へ、ズラリと列び、味噌が容器に附着しない仕組みになってた。あんな手の込んだ容器を、一年のうち春だけに使うために、準備するのだから、明治期は、悠長な時代だったと思えるし、豆腐屋がもうやらなくなったのも、当然だろう。  私は、木の芽田楽が好きだが、ガス台で豆腐を焼いても、意味はないし、愛和県の豊橋市に、ウマい店があると聞いても、序《ついで》もないし、せいぜい、焼豆腐を湯がいて、木の芽味噌を塗ることで、我慢してる。でも、そんな田楽が、ウマいはずもない。  数年前、三月に京都へ行った時、八坂神社の側の中村楼で、田楽を食うことを、思いついた。昔から有名な、二軒茶屋の一つで、祇園豆腐の田楽といえば、古い唄の文句に出てくるほどのものである。  といって、田楽を食うのが目的だから、座敷へ上る気もなく、店先きで食べることにした。そんな設備があると、聞いたからである。  ところが、その店先きというのが、大変なものだった。恐らく、昔は、そこが店の調理場だったのだろう。古い井戸、古いカマド──そして、広くて暗い内部の調子が、実に美しかった。飛騨あたりにも、古い台所は、残ってるだろうが、ガッシリと、巌丈な中に、ここほどの洗練さが、見出されるか、どうか。やはり、ここは京都だと思い、京都でも、これだけの美しい台所を建てる職人は、もういないだろうと考えた。  とにかく、私の見た最も美しい台所だが、そこへ置いた縁台の赤毛氈の上へ腰かけ、料理のくるのを待った。アメリカ人らしい女が、通訳と共に入ってきて、薄茶を註文したが、この台所なら、金閣寺ぐらいの見物に匹敵すると、思った。  しかし、やがて運ばれた田楽の味は、それほどでなかった。田楽は二の次ぎで、台所を味わわせるつもりかも知れなかった。         *  鯛という魚に、あまり美味を感じなくなったのは、いつ頃からだろうか。  壮年の時は、まだ、鯛が好物だった。大正十年に、初めてフランスへ渡る時に、神戸の鯛専門の料理店へ、食べに行ったほどである。  その店は、もう無くなったようだが、湊川にあって、ちょっと変った店で、女中が、一切、お酌をせず、用のある時は、ドラを鳴らすというような、店風だった。関西の鯛はウマいと、聞いたので、非常に期待したのだが、鯛ずくめのコースで、しまいには、飽きてしまった。その時から、鯛が鼻についたのだろうか。  でも、戦前に、長崎へ行って、鯛のカブト蒸しを、食わされた時には、これはウマいと、感嘆した記憶がある。  だから、私が鯛に辟易し始めたのは、老年に達してからだろう。鯛の肉は、密度が高く、腹が張って、困るのである。そして、そのわりに、大味(小魚に比し)で、苦労して食べるほどでないと、考えるのである。  瀬戸内海産の浜焼なぞ、よく貰うが、ウマいと思うのは、最初の一箸に過ぎない。また、一昨年の春に、阿波の鳴門へ行ったが、鳴門でも、徳島でも、季節だから、鯛ばかり食わされた。ことに鳴門では、渦潮を見下す料亭で、本物というのを、食べさせられたが、やはり鯛ずくめの献立てで、閉口した。  といって、鯛が嫌いになったのではない。少量の鯛なら、美味を感じる。また、身の部分でも、頬の肉はウマいし、眼玉も、皮も、鯛の子も、好きである。ただ、普通の肉のところに、魅力を感じなくなったのである。  そんなわけで、鯛の料理で、一番好きなのは、潮《うしお》椀である。頭部を、材料にするからだろう。一片の木の芽を浮かした潮椀は、春の宵の食事として、最適である。ところが、案外に、ウマい潮椀にありつくことは、少いのである。料理屋のそれは、見た眼はキレイだが、海洋の気を感じさせず、家庭料理では、とかく汁が濁って、シツコクなりがちである。あれは、見かけによらず、厄介な料理かも知れない。  そこへいくと、鯛のアラ煮の方は、奥さまがたでも、ずいぶん上手な人がいる。どうも、鯛という魚は、骨に附着した部分ほど、味がいいらしい。そして、私は鯛のアラ煮を食う度に、まったく同型のフランス料理、ラパン・ソーテとか、ヴォー・ソーテを連想する。前者は兎、後者は犢《こうし》だが、骨つきの肉をブツ切りにして、ブドー酒や香辛料で、煮込むのである。共に惣菜料理で、高級料亭のメニユにないが、あんなウマいものはない。そして、鯛のアラ煮も、繩のれん風の店で、ハバをきかす。鯛専門料理店なぞでは、出てこない。  しかし、鯛は何といっても、美しい魚である。小振りの大鯛の姿は、色といい、形といい、まったく見事で、鮎と列んで、日本の魚の双美人だろう。老人の私が、美人の肉をもてあますのも、故なしとしない。   美しき五月 「フランスへ行きたいんですが、何月ごろがいいでしょうか」  私は、よく、そういう質問を受ける。  昔とちがって、近頃の渡欧者は、長逗留をしないから、なるべく、いい時季を狙って、出かけたいのだろう。 「それァ、もう、五月ですよ」  その答えは、いつも、きまってた。私ばかりではない、フランス人の答えも、恐らく、同じだろう。  美しき五月——それは、一日の鈴蘭《ミュゲ》の祭りから、始まるだろう。メーデーに無関心な人も、街角に立つ、鈴蘭売りの娘から、一束を買うだろう。空は晴れ、微風が流れ、春の装いの女たちが、胸を反らし、緑濃き街路樹の下を、初聖体拝受の少女の白衣が、清々しいだろう。  そして、美術展覧会と、演劇のシーズンも、始まるのだが、何か、パッと、幕が引かれ、眩しいほど、明るい舞台が、展ける感がある。それというのも、あの暗い冬の長い幕間があったからだろう。フランスにしても、イギリスにしても、気候からいえば、北の国であって、冬はまったく灰色である。それが、百花一時に開く春を迎えるのだから、五月に対する考えも、東京人とはちがうわけである。  もっとも、四月から春はくるが、五月になって、春が安定し、爛熟する。そして、日本流には、春と呼ぶよりも、初夏の気分も、混ってくる。フランス人に、春と夏との区別は乏しい。少くとも、彼等は夏を嫌わない。五月に、初暑と呼ぶ三十度の日があっても、彼等は、その暑さを、いい陽気でございますと、いわんばかりである。  とにかく、万物成育の時であって、食べ物がマズい道理がない。しかし、牛豚肉にシュンというものはないし、魚をそれほど賞美しない国であるし、結局、五月の佳味といえば、野菜である。  フランスは、農の国であるが、地味がいい上に、野菜づくりが、上手なのであろう。フランスの野菜は、まったくウマい。フランス人も、野菜好きである。普通のレストオランへ行っても、数種の野菜の皿が、献立ての中にある。  その野菜が、五月になると、ドッと、出てくる。まず、ジャガ芋——その新芋がウマく、それを食うと、五月になった気がする。普通、フランス風のフライド・ポテトといえば、縦切りに、面取ったものだが、新芋に限って、小粒のせいか、丸揚げである。味は、無論、この方がいい。そして、白ブドー酒と、よく調和する。  次ぎに青豆。つまり、グリーン・ピースのことだが、フランスでは、プチ・ポアと呼ぶ。これが、非常にウマい。鳩のローストの添え野菜として、出てくるが、プチ・ポアばかりの皿もある。そして値段も、肉一皿に匹敵するほど高い。もし、比較的安かったら、それは、輸入ものの缶詰を用いたと、思っていい。フランス人はものの味を知ってるから、自国産を賞用し、従って、値段も高いのである。  その他、|いんげん《アリコ・ヴェール》も、ウマくなる。さや・いんげんだが、細長い、緑の濃いやつを、サヤのまま、バタいためする。しかし、日本とちがって、色の変るほど、長くいためる。フランス人は、日本人のように、サッといためるとか、ゆでるということを、好まない。見た眼は悪くても、柔かになるまで、火を通すのである。しかし、これは惣菜料理である。  |朝鮮あざみ《アルティショオ》も、五月の食卓に出る。葉の根元についてる食用部分は、日本の里芋に似た味に過ぎないが、フレンチ・ソースだけで、食べると、まったく風雅な味であり、あれを喜ぶフランス人は、日本の懐石料理を、理解する資格ありと、思われる。また、日本のお茶人も、アルティショオだけは、そのまま献立てに入れても、奇矯の譏《そし》りはあるまい。  そして、美しき五月のアスパラガス。  フランスでは、アスペルジュと呼ぶが、五月の野菜の王者だろう。日本のナマのアスパラガスも、近頃は、市場を賑わすが、どうして、あんなに痩せて、筋張ってるのだろう。何だか、食べるのが、気の毒になってしまう。フランスのアスペルジュは、豊満な美人の観があり、ルーベンスの絵の女体に近いから、ガブリと、食いつくことができる。  五月になれば、どこのレストオランでも、シュンのアスペルジュが、ハバをきかすが、八百屋の店頭でも、兄チャンの店員が、一キロいくらになったと、出盛りの値段を、大声で喚《わめ》き立てる。  私は、ある年の五月に、ゆで立てのアスペルジュというものを、食べて見たくなった。レストオランだと、どうしても、冷えたのを、持ってくるからである。  そして、自分の部屋で、時には、自炊をするので、アルコール・ランプと鍋ぐらいは、置いてあった。ただ品物を買ってくればいいのである。  私は行きつけの八百屋へ、出かけた。この店は主人も、店員も、女ばかりで、愛想がよかった。私は、一束のアスペルジュを買ったが、ふと、そのままゆでればいいものか、どうか、不安になった。  そして、田舎生れらしい、ズングリした、中年女の女店員に、訊いて見た。 「わけはないんですよ、ムッシュー、まず、外皮を剥いてね」  と、彼女は、ナイフを直角に持って、皮をコソげる所作を示した。日本でも、ウドの皮を剥く時に、そんなことをする—— 「で、何分間ぐらいゆでたらいいの」 「十五分で、結構」 「それから?」 「それから、鍋の湯をこぼして……」  彼女は、恐らく、食いしんぼうの生れだったのだろう。そして、五月のアスペルジュは、誰の食欲をも、そそるのだろう。仕方話をして、教えてるうちに、彼女はヨダレを流さんばかりの顔つきになり、 「それから、皿にとって、こうやって、ソースをつけて……」  と、二本指で架空のアスペルジュを、口ヘ持ってく仕草をしたので、 「それァ、知ってる、教わらなくても……」  思わず、私がそう答えたら、聞いてた女主人が、まず笑い出し、女店員も、ゲラゲラになってしまった。  私は部屋へ帰って、彼女の教えどおりに、アスペルジュをゆでた。そして、熱いやつを、早速、ソースなしで、塩を振って、食べてみたら、そのウマいこと——パリで食ったアスペルジュのうちで、その時ほどの美味は、ついに知らなかった。  そのように五月の野菜は、愉しみなのだが、果物の方も、口福を感じさせるに、充分だった。  一体、フランスの果物は、秋の実りにロクなものはなく、林檎なぞ、普通売ってる品物は、日本でいえば、屑みたいなものだが、五月のイチゴ、桜桃、|木イチゴ《フランボアーズ》は、形も、味も結構で、誰も争って、食後にそれを食べた。その季節だけしか、食べれないからである。  イチゴや桜桃の味は、日本のそれと大差ないが、ただ、イチゴを食べる時に、スプーンでつぶすような人を、見たことがない。誰も、青いヘタをつまんで、少量の砂糖をつけて、口へ持ってく。女性の場合、ことに、似つかわしい。私はフランス人が、ああいう食べ方をして、自然や季節を、愉しんでるのではないかと、推測する。  フランボアーズは、日本の木イチゴのような、不味なものではなく、甘く、香りよく、私は好物だった。ナマで食ってもウマいが、その季節になると、フランボアーズとイチゴを用いた各種のパイが、菓子屋の飾窓に、見るから食欲をそそる姿で、列び始める。パリの五月の美しさは、菓子屋の店頭にも、充分なのである。  野菜と果物を除いて、五月の食物で、記憶に残るものは、セーヌ川の魚のグジョンである。ワカサギとダボハゼの中間のような、魚である。  私はグジョンのシュンが、五月であるか、どうかを知らない。年中釣れる魚であることは、確かである。  しかし、それを食いに、パリ郊外のレストオランへ行くのは、いつも五月だった。セーヌ下流の川岸の村に、ベル・ヴューというところがあって、そこに、居酒屋のような、小料理屋があった。二階のバルコンの食卓から、川が見えるばかりでなく、川岸の大木の上に、テーブルをつくり、そこでも飲食できるような、変った、古びた店だった。  その家は、グジョンのフライが名物で、フライといっても、パン粉なしで、テンプラ風に、オリーブ油で揚げたものだが、熱いうちに食うと、非常にウマい。レモンと塩だけで食うのが、一番である。  グジョンは、安い魚だから、皿に山盛りにして、持ってくるが、同じく安酒の白ブドー酒を傾け、満開のマロニエの花と、田舎びた、水郷風の景色を、眺めながら、時を過すのは、気が安まった。グジョンも、全部平らげ、デザートとコーヒーぐらいで、食事を終る頃は、宵闇が迫って、風情を増し、立ち去り難くなるのだが、セーヌ川の一銭蒸気船が、夜は運行しないので、最終便に間に合うように、急がねばならぬのが、残念だった。  もの皆美しき五月——食べ物も、例外でない。  フランスを訪れる人に、五月をすすめるのは、そんな理由からである。         *  といって、われわれの国の五月だって、捨てたものではない。五月晴れも、薫風も、菖蒲の花も、牡丹も、藤も、ことごとく、われ等の財産である。晩春から初夏を通じて、海の幸、山の幸も、豊かである。ただ、フランスのように、パッと、世界が変らないのは、われわれの冬(東京附近では)が、陰鬱でないからである。冬に日光の恵みがあり、五月を待たなくても、青空が仰げるからである。フランス人にいわせたら、日本人の方が幸福だと、羨むかも知れない。  私は、日本の五月と十一月が、好きだが、それは、爽かさと、清明さに、独特のものがあるからである。フランスの五月は、聖母の月であって、女性美を感じるが、日本のそれは、男の子の祭典の月である。鯉のぼりの姿にも、菖蒲湯の香りにも、日本男子の理想を、汲みとれないことはない。少くとも、明治時代までの男性は、男らしさという目標があったが、戦さに敗けると、何もかも、サランパンである。  端午の節句の柏餅やチマキは、きっとシナからきたものだろうが、あのように日本化されれば、起源を問う必要もない。しかし、柏の葉や笹の葉で、菓子を包むのは、立派な考えである。携帯に便だということばかりではあるまい。防腐や味のことまで、考えてるのだろう。  しかし、節句の柏餅というのは、全国的な風習ではないようだ。私は、四国の疎開中に、節句の餅を貰ったが、それは、アン入りの草餅であり、サンキライという植物の葉で、包まれていた。その葉は、何か薬草のような、匂いがした。  チマキずしというものがあって、京都の料亭でよく食わせるが、東京の毛抜きずしだって、同工異曲だろう。酢の効き過ぎたあの味に、精練さはなくても、私は東京らしい食物として、愛好してる。  柿の葉ずしというものを、吉野の花を見に行って、土地の人から贈られたことがある。柿の若葉で包まれた中味は、サバとサケの押しずしだった。サバは、熊野灘からくるというが、吉野のような山奥で、そんな鮨を、名物とするのは、面白いことである。そして柿の葉の微かな香りが、飯にうつり、また視覚的にも美しく、私は、結構な鮨だと思った。柿の葉の薬効を、ある医師から聞かされたが、そのような配慮もあるかも、知れなかった。とにかく、食べものを植物の葉で包むという、昔の日本人の知恵を、私は大好きである。         *  江戸人が初鰹《はつがつお》を賞味したのは、旧暦の四月だろうけれど、今でいえば、日本の美しき五月である。  初ガツオの刺身というのは、確かに、ウマい。 �髪結い新三�の芝居に、初ガツオを食うところが、出てくるが、大屋さんが�餅を食うようだ�と、味を批評するのは、当を得たものだった。一種の粘着力と、甘味があって、口中の感じが、似てるからである。  なぜ、初ガツオが、そんなにウマいかというと、脂肪が過度でなく、新鮮であればあるほど、清爽な味がするからだろう。やはり、男性の理想が、ついて廻るのである。  しかし、カツオとは、不思議な魚であって、マグロと似てるのに、刺身にして、ワサビが通用しないのである。これは、ショーガが、向くことになってる。実際、ワサビをつけて食っても、ウマくない。私は、ニンニクを磨ったもので、食べるが、一層、味がひきたつ。  四国の疎開中に、土佐の国境に近い、御荘という海岸の町で、カツオのたたきを、食べさせられたことがあったが、東京の�たたき�と、全然異るものだった。  カツオの身が、炙《あぶ》ってあるのは、同じことだが、夥しいポン酢の中で、泳いでるような姿は、同じ料理とも、思えなかった。そして、玉ネギ、ニンニク、その他の薬味が、極めて多量に、使われてた。味は、確かに、本場の料理法が、優れてた。  カツオという魚は、よほど、ナマぐさく、血くさいのであろう。それで、強烈な薬味を、必要とするのだろう。そのナマぐささが、どうも、鼻につくようになったのも、私の年齢のせいにちがいない。  戦前までは、私も、カツオの刺身が好きで、ことに、初ガツオを食うのは、大きな愉しみだった。それが、いつとはなしに、それほど美味と、思えなくなった。これは、カツオばかりに、限らない。マグロだって、同様である。中トロの刺身なぞ、ウマいと思うけれど、二、三片も食えば、充分である。とても、一人前は、食べられない。もっとも、酒のサカナにする場合のことで、熱い飯のオカズとすれば、もっと食べられる。鮨の場合も同様である。  つまり、マグロやカツオの刺身の味は、老人にとって、濃厚過ぎるのだろう。米飯を添えて、やっと、調和がとれるのだろう。とにかく、昨今は、初ガツオの時だけ、魚屋に頼むが、それ以上、脂が乗ってくると、食べる気がしなくなった。そして、カツオの刺身は、私の好物から外されてしまった。  ところが、再考すべきことが生じた。  三年ほど前、私は鹿児島へ行き、指宿温泉に泊った。そして、知人の観光会社の社長が、薩摩半島を、案内してくれた。開聞岳というのは、形のいい山で、それを背景に、青い海や、ツツジの花や、ヤシの木の多い風景は、どこへいっても、美しかった。  その海景を見渡すところで、会社の接待があったが、名産の唐芋《サツマイモ》や、その他、素朴な食事が出た。ちょうど正午だったので、それを午食と思い、私は、相当の量を食べた。カラ芋の味も、関東のサツマ芋とちがうので、もの珍しかった。  それから、朱塗りの美しい、開聞神社その他に案内されて、午後二時頃になって、枕崎という漁港に着いた。ここは、空襲にでも遭ったのか、風情のない町の姿で、そこでまた休憩することになり、同様に風情のない旅館に、案内された。  すると、やがて、午飯の膳が、運ばれたのである。私は閉口した。先刻、小憩した時のサツマ芋が、一向に消化されていない上に、出された料理も、食器も、見るから食欲を減退させられるものばかりだった。しかも、ひどく、品数が多い。  私はゲンナリして、箸をとらずにいると、 「この附近は、カツオが名物ですから、沢山上って下さい」  と、社長にいわれ、やむを得ず、一片の刺身を口にして見て、驚いた。  ウマいの何のといって、こんなウマいカツオを、生れてから、食ったことがない、といってよかった。ネットリとして、甘味があり、舌の感触は、マグロに近いが、やはり、カツオ独特の匂いがあった。 「これは、すばらしいですね」  私は、心から讃嘆して五、六片を平げた。あまり好きでなくなったカツオの刺身を、しかも、満腹の時に、それだけ食べたというのは、よくよく、味がすぐれてたからだろう。そういえば、枕崎というところは、台風の名所であるばかりでなく、鰹節の産地として、聞いてたのだが、また、薩摩の風変りな食物、カツオの血の製品の�せんじ�が、この附近から、良品が出ることも、知ってたのだが、社長の言を聞くまでは、すっかり忘れてた。  きっと、季節も適し、また、土地の人も、よいカツオを精選して、刺身で出してくれたのだろうが、何とウマいカツオが、存在するものかと、驚いてしまった。私は、老人になったから、カツオの味がわからなくなったのだと、考えてたが、ウマいカツオを出されれば、やっぱり、ウマいのである。すると、近来、東京へくるカツオが、昔よりも劣ってきたのだろうか。どうも、脂が乗り過ぎ、血なまぐささが強く、ニンニクの力を以てしても、どうにもならないのである。  しかし、枕崎のカツオは、薬味なぞ要らないほど(ショーガがついてたが)腥臭がなく、久し振りに、真味に接した感があった。この経験は、何がウマいとか、マズいとかいうことを、気早やに、結論してはならぬことを、私に教えてくれた。年齢と共に、ものの味わいが、変化してくることは、事実であるが、それを超越したウマさも、あるのである。ウマいものは、やはり、ウマいのである。ただ、ウマいからといって、大食はできなくなるが、その点は、年齢の支配を、免れがたい。   鮎 の 月  私が老いを意識したのは、六十五歳頃だった。それまでは、単に、老人振ってたのに過ぎない。自分では、気力も体力も、さまで衰えを感じないのに、世間向けに、老人の顔をして見せるのは、ちょっと、面白いものである。 「いや、もう、サッパリいけません」  そんなことをいって、喜んでるのは、無論、いい趣味ではない。その罰として、やがて、ホンモノの老いが襲来して、腰を抜かすのであるが——  その疑似老人時代に、私は、次ぎのような、俳句をつくった。  鮎と蕎麦食ふてわが老い養はむ  ビフテキやウナギを食って、若い女を追い駆けようなんて意志は、毛頭ございませんというところを、表現したわけだが、その頃、淡味の食物を愛するようになったことも、確かな事実だった。つまり、味覚の老人趣味が、始まりかけてたのだろう。  しかし、鮎とソバは、若い時分から、私の好物だった。魚のうちで、何を最も好むかと、問われれば、私は躊躇なく、鮎と答えたろう。そして、ソバもまた、私を夢中にさせた。神田の�藪�や、日本橋の�砂場�のようなところへ、足を向ける時は、常に、イソイソとした気分になった。  鮎も、ソバも、軽い食物で、そういうものを食って、養生しようというよりも、実のところ、二大好物を飽食してやれという、食い意地に過ぎなかった。  実際、鮎が好きだった。  身の脆美さ、匂いの清らかさ、形のよさ、すべて、好きだった。一尾の塩焼を、頭部も、尾も、全部食べ尽さないと、気が済まなかった。よほど、好きだったのだろう。六月一日の解禁を、毎年、待ちかね、酢に混ぜる蓼《たで》も、庭の片隅に植えて、その日のために備えた。そして、若鮎を手に入れて、ウマい、ウマいと、食べ終ると、夏がきたなという気持が、腹から湧き出した。  若鮎は、味として、頼りないけれど、匂いの点では、最高である。私は鮎好きだけれど、身をむしるのはヘタで、料理屋で食べる時は、女中さんに、骨を外してもらうけれど、若鮎の時は、頭から丸かじりにする。そうするのが、一番ウマいと思う。  どこの鮎が一番ウマいかという問題は、結局、お国自慢に終るのだけど、私は、昔の多摩川の鮎は、バカにならなかったと思う。今の多摩川の鮎は、どうにもならぬけれど、以前、東京の人が、わざわざ食べに行った頃は、それだけの価値があったと思う。近頃は、土筆《つくし》亭のような、シャレた旗亭ができたが、私の若い頃は、田舎くさい料理屋ばかりで、料理もひどかった。しかし、鮎そのものは、悪くなかった。ことに、�柳ッ葉�と称する小鮎は、苔の香が高く、独特のものだった。何気なく、カラ揚げにして、食べさせた。  鮎というものは、若鮎か、初秋の子持ち鮎か、どちらかのものだろうが、長い間、私は若鮎党だった。つまり、鮎の香りを、喜んだからだろう。あの香りは、鮎以外の魚になく、そして、いかにも初夏の爽かさを、味わわせるからだろう。  しかし、味という点をいうなら、子持ち鮎が優る。形も見事であり、食べでもある。私は若い頃は、若鮎の外は、見向きもしなかったが、近年は、そうでもなくなった。そして、その若鮎も、塩焼一点張りだったが、年と共に、変ってきた。  ずっと以前、耶馬渓の茶店で、中食したら、ナスと鮎を、知恵もなく、煮たものを出され、なぜ塩焼にしてくれないのかと、情けなかったが、近頃になって、考えて見ると、それはそれで一つの料理で、それを味わうことができなかったのは、味覚が未熟だったのだろう。  干鮎の煮びたしは、結構なものだが、生鮮の鮎を煮つけにするなんて、意味ないと思っていたのだが、そういうものでもない。愚妻が山口県岩国に縁があって、そこの人から、毎年、初秋になると、鮎の大和煮というものを、送ってくる。名物だそうだが、実に見事な鮎であり、腹に一ぱいの子を持ち、錦帯橋のかかってる清流を、泳いでる時の姿を、想像させる。それを、ショーガを入れて、コッテリと、煮込んだものである。私は最初はバカにして、箸をつける気にならなかったが、近年になって、これは別種の鮎料理であることを覚り、食べてみると、なかなかのものである。ただ、味つけが甘く、形も大きいので、鮎好きの私も、一尾を平らげるのに、骨が折れるが、マズいとは、思わなくなった。しかし、鮎の香りなぞは、どこを探しても、行衛が知れない。これは、仕方がない。  一生のうちで鮎を最も多量に食べたのは、長良川の宮内庁の御漁場へ、呼ばれた時だったろう。普通、長良川の鮎漁をする場所より、ずっと河上で、寂しい町の宿場のようなところに、古風な造り酒屋があり、そこが、御漁場の事務所みたいなことを、やってた。私たちは、そこに一宿して、その家の田舎風な料理を、食べさせられた。  七月初旬の夕闇が迫る頃に、近くの河原へ行って、鵜飼を見せられたが、見物人といって、私たちの外にはなく、鵜匠がホー、ホーといって、鵜を使う声が、岸近い山に反響した。鮎は、いくらでも、獲れたようだった。  宿へ帰って、獲物を食べるのだが、料理は家のオカミさん、食器類はお粗末だったが、塩焼、魚田、フライなぞにして、持ってくる。何しろ、材料が多いから、後から、後からと、運んでくる。私は塩焼が好きだから、そればかり頼んで、片端しから、平げたが、遂に二十六尾食べて、止めて置こうという気になった。その年の一月に、私は胃潰瘍で、開腹手術をしたばかりなのだが、それだけ食べても、べつに異状はなかった。  翌夕は、河下の普通の場所で、舟の上から、鵜飼見物をし、川沿いの旅館で、夜食を試みたが、どうも、鮎の味は、上流の方がよかった。ただ、朝飯に出された鮎雑炊というのは、ちょっとウマかった。そして、御漁場でも、河下の旅館でも、タデ酢を添えて出さなかった。そのわけを聞いたら、あんなものは、古くなった鮎に必要なのだと、いってた。  とにかく、生れてから、あの時ほど、鮎を多く、食ったことはなかった。それでも、食べ飽きたという気にならなかった。  しかし、忘れ難い鮎の味ということになれば、戦前、築地の藍亭《らんてい》が、今と別の場所にあった頃に、ひどく結構な塩焼を出されたことがあり、どうも、あれが一番という気がする。藍亭の鮎も、長良川産を用いるのだが、焼き方が、適当だったのだろう。  テンプラの冷めたのは、閉口だが、鮎の塩焼も同様、熱いうちでなければ困る。よく、料理屋で、人肌ぐらいに冷めたのを、持ってくるところがあるが、あんな鮎なら、わが家で食う方が、どれだけいいか、知れない。私は、廊下に、七輪を持ってきて貰って、食卓との距離の短縮を、図るのだが、細君が、焼串からジカに、皿の上に外すのを、すぐに、食べる。どうも、それ以上の方法は、ないようだ。  鮎の塩焼に、酒は何が合うかと、考えて見たのだが、無論、日本酒に超したことはないが、冷やした白ブドー酒が、案外の調和を、教えてくれた。懐石の料理で、他にもいろいろ出るのだったら、日本酒だろうが、私のように、鮎の塩焼ばかり、ムシャムシャ食うのだったら、或いは、冷たい白ブドー酒が、最適といえるかも知れない。  私にとって、塩焼が最高なのだけど、鮎鮨も、ずいぶん好きである。鮎というものは、酢に合うのだろう。鮎をナマで食うのは、四国疎開の際、�背ごし�というのを、度々、試みて見たが、骨のプツプツという歯触りが、変ってるし、また、身だけを、刺身にしたこともあるけれど、私は、充分に酢で殺したものの方を好む。  鮎の姿鮨は、富山あたりのも、ウマいけれど、昔、東海道本線が御殿場を廻ってた頃、山北駅で売ってたものが、懐かしい。あの辺で、鮎が多量に獲れるはずもないし、他地産を用いたのだろうか、一年中売ってたのは、どういう貯蔵法だったのか。そのわりに、味もよかったし、折詰の箱の形も、悪くなかった。  とにかく、私は、長い間、どんな魚よりも、鮎を愛し、毎年、六月のくるのを、待ち兼ねてたのだが、この一両年来、どうも、若鮎の味が、思ったほどでなくなった。これは、年をとって、口が変ってきたのかと、悲しく思った。人間、一つの愉しみを失うというのは、一大事である。しかし、七月頃になって、ふと、鮎らしい味のものに、ブツかることもあるので、首を傾けざるを得なかった。  そのことを、人に語ったら、 「それァ、あなたの口が変ったんじゃなくて鮎が変ったんですよ」  と、いわれた。  どう変ったのかと、訊くと、養殖の鮎が出廻ってる由なのである。養殖の鮎は、形もよく、鮮度も落ちてないが、香りというものは、ゼロに近いのだそうである。  六月の声を聞くと、魚屋が持ってくるのは、そういう鮎らしい。それなら、名ある料亭へ行ったら、天然の鮎を食わせるかと、思ったが、やはり、形ばかり見事で、香りがない。料亭では、形を揃える必要があるから、どうしても、養殖を使うことになるそうである。  よくないことを、始めたものである。そんな鮎が、横行するのなら、ソバばかり食って、老いを養う外はない。         *  私が鮎に血道をあげたのは、やはり、あれが、季魚であるせいだろう。年百年中、鮎が魚屋の店頭に出てたら、アジと変らないことになるだろう。アジもウマい魚で、初夏と共に味を増すが、それほど、夢中にもならない。年中あるからである。  そこへいくと、銀宝《ぎんぽ》という魚は、鮎よりも、季節が短かいせいか、私は珍重して、措かない。銀宝なんて、無論、アテ字であり、東京付近のテンプラ屋が、タネに用いるだけで、関西では、食用にしないらしい。東京湾産らしいが、もう、よほど房州に近い方でないと、獲れないらしい。現物を見たことがないが、泥鰌《どじょう》のバケモノのような、グロテスクの形相だそうである。  しかし、世の中には、不思議な魚もあるもので、どんな料理にも向かず、ただ、テンプラにした場合、王者の風格を発揮し、それも、一ケ月ぐらいで、姿を消し去るのである。まさか、テンプラになる使命を果たして、死んでしまうわけでもあるまい。季節外は、マズいとか、皮が硬くなるとか、そんな理由があるのだろう。  ギンポの季節は、桜の若葉が出る頃に始まって、ほんの短期間で、本来は、前の月にとりあげるべき魚かも知れない。とにかく、ギンポのシュンになると、懇意なテンプラ屋のオヤジが、電話をかけてくる。 「出ましたよ。今年のギンポは、すばらしいですよ」  私は、胸をワクワクさせて、出かけずにいられない。グズグズしてると、季節を逸してしまう。  私が、テンプラで好きなのは、アナゴであって、それも、塩やレモンの厄介にならず、天ツユで食うのを、最上とするが、ギンポのある時は、アナゴに見向きもしない。そして、やはり、天ツユで食う方がいい。  ギンポを、ちょっと過ぎるくらいに揚げて貰って、コロモの歯触りを愉しめる程度のものが、私には、最も好適である。アナゴより、やや味が軽く、そして、肉の厚さが、タップリと、口中をふさぎ、食道へ送るのが、惜しいほどである。 (ああ、何と、ウマいものが、世の中にあることか)  私は、ギンポのテンプラを食う時に、心の中で、三嘆することがある。ことによったら、地上最高の美味ではないかと、思うことがある。無論、そういう時には、何者かに対して、感謝の念が、湧いてくる。  だから、ギンポが出廻ってくると、質に置いてもという気持になるのだが、昨年の春は、膵臓炎を患って、テンプラ屋から、電話があっても、出かけられなかった。医師が、脂肪食を厳禁したからである。今年は今年で、二月に胆嚢炎をやって、同じような、食餌制限を受けた。両方とも、消化器系の病気で、痛い思いをして、その上、テンプラも、ウナギも、ビフテキも、食べられない。私は、いい気になって、食べ物のことなぞ、文章にしてるが、その報いではないか、という気にもなるのである。何がウマいとか、好きだとかいうことは、ソッと、胸中に蔵って置けばいいので、ツベコベいうのは、道に外れてるかも知れない。         *  しかし、商売、商売。  私の好きなものは、鮎、ギンポと、薫風と共に、世に出てくるが、もう一つ、忘れてならぬものがあった。  そら豆。  私は、そら豆が店頭に出る頃から、枝豆と交代する盛夏まで、一日も休みなしに、晩酌の膳に載せる。そら豆の皮が硬くなり、茶色の斑点を生じても、まだ未練たらしく、追いかける。  といって、四月頃の走りのそら豆が、小指の爪ほどもない大きさの時には、それほど愛着を感じない。何か、残酷な気がする。やはり、黒い眉ができて、皮からハジき出して食べるぐらいに、育ってくれないと、真味がない。そして、二ケ月間ぐらい、毎晩食っても、ちっとも、飽きない。  若い頃は、酒のサカナとしても、枝豆の方が、好きだった。いつか、それが、そら豆に、とって替ったのである。なぜかと考えるのに、やはり、年のせいだろう。枝豆は、歯も胃も、丈夫でないと、不向きなのだろう。そら豆の方は、軟かく、独特の匂いがあり、温雅で、且つ爽かな、食べものである。  そら豆は、軟かい豆として、値打ちがある。近年は、八百屋でも、莢《さや》入りのを、売ってるから、大体、軟かいものを、入手できる。私の子供の頃は、サヤ入りなぞは、ゼイタク品であり、売ってるのは、剥きそら豆が、多かった。そして、塩ゆでで、下物とするよりも、砂糖を沢山入れて煮て、惣菜としたものだった。  それでも、八百屋で売ってるそら豆は、ほんとに軟かいとは、いえない。そうなれば、わが家の菜園に、植える外ない。穫れたてのそら豆なら、絶対に、硬いことはない。  大磯在住の頃は、近所のお百姓さんに頼んで、裏の畑に、そら豆を植えてもらった。そら豆なんて、蒔いたら、すぐ食べれるものかと、思ったら、前の年の秋に、種をおろした。そして、冬を凌ぎ、春になって、花が咲く姿が、なかなか美しかった。そして、 「もう、実《な》ってますよ」  と、家人が知らせにくるまで、意外に、早かった。勿論、その頃は、小指の爪ほどもないやつで、私が食べ始めるには、もう少しの時間を、待たなければならなかった。  穫れたてのそら豆は、むしろ、軟か過ぎるのが、難といえるほどである。夕食の支度が始まってから、畑へとりに行くのだから、ほんとの穫れたてである。欲をいえば、そら豆の種を選ぶべきだが、私は、お百姓任せにして、ゼイタクをいわなかった。  しかし、世の中には、そら豆キチガイというべき人がいるらしい。私よりも、もっと、そら豆に、血道をあげてるのだろう。その人は、瀬戸内海の沿岸だか、島だかに住んでいて、金持ちで、広い地所に住んでるらしいが、そら豆の最良種というのを、沢山蒔いて、丹精をこめて、育てるらしい。そして、走りの時から、最後の収穫まで、毎日毎日、そら豆を食べ続け、悦に入ってるらしい。無論、塩ゆでにして、食べるのだろう。さもなかったら、毎日は、続かない。  自宅でできるそら豆を、食べるのが、最上であるが、私は、他所で食うのだったら、国技館がいい。この頃は、角力見物も、桟敷でゴタゴタものを食って、帰りにまた、大風呂敷に包んだ土産までくれて、何か仰々しくなったが、以前は、五月場所だと、そら豆と、ヤキトリぐらいしか、運んでこなかった。そのそら豆が、不細工な木の箱に山のように入っているのが、角力場らしく、それを抓《つま》みながら、ビールでも飲んで、土俵を見るのは、気分がよかった。私は、五月場所に角力場へ行くのが、好きだが、それは、そら豆の魅力が、与《あず》かってた。  そら豆には、ビールが好適のようである。私は、決して、ビール好きでなく、飲み盛りの頃でも、ビールは一本、後は日本酒にした。大佛次郎、火野葦平両君の如く、十五本もビールを飲むことは、とうてい不可能のようである。しかし、少量なら、ビールのウマさを、解さないこともない。  そして、ビールの味が、一番よいのは、私にとっては、盛夏ではない。五、六月頃の晴天の日で、喉が渇きを感じるか、感じないかという状態の時が、最高である。汗をダクダク流して、喉がカラカラという時に、氷のように、冷蔵庫で冷やしたビールを飲めば、快適ではあるが、ビールの味というものは、逃げるようである。ビールの冷え方は、私は、井戸水の程度を、最も好む。戦前、私が千駄ヶ谷に住んでいた頃、裏に井戸があり、氷を用いる旧式冷蔵庫もあったが、井戸で冷やした方が、味はよかった。  そして、ビールのツマミモノに、何がいいかということは、そう決定的ではないようである。その辺のビア・ホールへ行くと、ポテト・チップやチーズのようなものの外、料理類も多種に亙って、用意されてる。ビールを飲むのに、そんなにサカナが必要だろうか。  私はベルリンや、ミュンヘンのビア・ホールを歩いたが、食べるものは、至って少い。ドイツ人は、赤カブに塩をつけたものが、一番、ビールに合うと、思ってるようだ。肉類なら、ソーセージだが、それは、腹の減ってる場合だろう。  日本でビールを飲むのだったら、私には、そら豆が一番である。そら豆の出る季節が、ビールの最もウマい時だからでもあろうが、そら豆の淡味と、渇を誘う性質とが、向いてるように、思われる。ドイツ人に食わして、赤カブとどっちが優ってるか、聞いてみたい気もする。  ただ、季節が短かいのが、難である。近頃は、冷凍そら豆が出廻って、見たところ、実に食指をそそる色と形をしているが、食膳に上せて、満足したことがない。  季節のものがウマいのは、人間が季節の中にいるからである。人間の諸条件が、体も、心も、季節の中にあるからである。   涼 し き 味  子供の頃は、夏がくると、うれしかった。  昔の東京では、七月に入ると、氷水店が始まったが、冬の焼芋屋が変じて、そんな商売をやるのである。昨今は、焼芋屋というものが、行商に転じたようで、また、氷水そのものも、稀にしか、売ってない。  誰も、アイス・クリームを食べ、シャーベットを食べ、或いは、アイス・コーヒーを飲む。氷をカンナにかけて削ったものに、砂糖水をかけるなんてことは、ずいぶん原始的で、今の子供に向かぬのだろう。  でも、大人だって、昔は氷水を、よく飲んだ。どんな町でも、氷水屋の旗がひるがえっていたし、炎天を避けて、そこで一息入れる人の姿を、よく見た。  また、大きな邸宅は別として、普通の家だったら、夏の来客に、茶を出すよりも、氷水屋の出前を頼むのが、例だった。下町では、ことに、この風があった。  だから、氷水屋には、必ず、出前持ちがいて、大がい少女だったが、簡単な岡持ちに入れて、すぐに配達した。溶けやすいものだから、急いで配達したのだろうが、大変早く、持ってきた。  来客に出すのは、砂糖水をかけたものなら二杯、タネモノと称するのだと、一杯が普通だった。足つきの平べったい、安物のガラス・コップに氷の削ったのを、山盛りにしてあった。そして、匙はブリキ製だった。氷水屋の器具が、お粗末だったのは、夏だけの商売というので、看過されたのだろう。  私の中学生時代は、夏が来ると、遊ぶことが多くなり、一年で最も好きな季節だったが、氷水を食べることも、大きな愉しみだった。 「お前、もう、氷水飲んだか」  七月に入ると、私たちは、暑さとか、渇きに、関係なしに、氷水屋に行きたくなった。水イチゴという、紅いシロップ入りのが、人気があり、さもなければ、氷アズキだった。氷じるこというのもあったが、まず、氷アズキだった。  そういうタネモノを、最少、二杯食べるのを、例とした。暑さを凌ぐというよりも、冷めたい菓子を、食う気持だった。氷水のみならず、汁粉でも、ソバでも、昔はお代りをするものと、きまってた。昨今は、ソバ屋へ行っても、一杯だけで帰る人が、多いようだ。それは、今の人が少食になったというよりも、明治の世の中は、まだユトリがあったからだろう。お代りをしないで、出てくるなんて、見っともないと考える、心理もあった。  氷水屋の店で、玉ラムネという清涼飲料を、必ず売ってたが、それを氷水に注いで飲むと、あまり冷めたくて、鼻の奧がジーンと鳴った。私がシャンペン・サイダーというものを、始めて飲んだのも、氷水屋だった。三矢印シャンペン・サイダーというので、玉ラムネより、高級な味がした。それが、サイダーの始祖だが、明治三十八年、九年頃で、それから今日のコーラ飲料に至るまで、考えて見れば、あんなものも、幾山河を超えてる。  しかし、氷水屋が今残ってても、老人の冷水だから、私は立ち寄らぬだろうが、ちょっと、懐かしい気がする。氷水屋はヨシズ張りで、縁台を置いただけで、商売ができたから、どこの町内でも、きっと一軒ぐらいあったが、氷と書いた旗や、ガラスのスダレは、夏の風物詩であって、悪くないものだった。コレラが流行すると、途端に、氷水屋はヒマになったが、非衛生という点で、よく問題になった。もっとも、今の喫茶店が、どれだけ衛生的だか、私は知らない。  トコロテンとか、白玉というものも、氷水屋にあり、風雅な食べものだが、私たち明治少年は、進歩的であり、見向きもしなかった。ことに、トコロテンとなると、どこがウマいのか、わからなかった。でも、この頃になると、ちょいと、食べて見たくなることがある。白玉も、同様である。何によらず、古風な食べ物というものは、刺激的な味がないところに、魅力があり、一度は捨てられても、また、思い返されるのである。それは、回顧趣味以上のものであり、日本の風土で、長い間、人が食べ続けた理由が、やはり、あるのだろう。  しかし、夏がくると、うれしいというのは、遠い夢になってしまった。今の私にとって、暑気は最も耐え難く、若葉の爽かな色を見ても、やがて、めぐりくる炎暑の前触れと考え、恐怖感に襲われるのである。何といっても、氷イチゴと、氷アズキを、一時に食べるほどの胃の強さと、単純な味覚と、快活な精神とは、もう再会を期しがたい。         *  冷麦《ひやむぎ》やソーメンを、食ったって、どれだけ涼しくなるわけのものでもないが、衰えた夏の食欲を、そそる力があるのは、確かだろう。  でも、私は、冷麦よりも、ソーメンを好む。夏でなくても、ソーメンの味は、ニューメンにしても、悪くないのだから、元来、好きなのだろう。その癖、産地のことを、やかましくいったことがない。油くさい、柔かいのは、ご免だが、三輪ソーメンでも、松山産のでも、岡山出身の友人が、よく送ってくれるのでも、皆、私には結構だった。  薩摩も、ソーメンをよく食うところで、川内市だったか、清流の巌の中で、ソーメンを冷やして食べる風習があるが、風流ではあっても、巌の底に、ソーメンの食べ残しが、白く残ってたら、汚ならしいだろう。といって、京都あたりで、ソーメンを竹の樋で流して、自分の前へきたのを、箸でつまむという食べ方もあったが、少し細工が過ぎるようだ。  薩摩の人は、ソーメンをさかなにして、焼酎を飲むらしいが、その盃が、豆のように小さく、何か、上等の陶器だったことを、覚えてる。あの地方の人は、焼酎に水を割り、燗をするのだが、ソーメンをサカナにする時は生《き》のままで飲む。ソーメンの水分を、勘定に入れて、そうするのだろう。  麺状をしてるので、思い出したが、京都の菓子屋の鍵善で、葛切りというものを、食べさせるが、あれも、夏の食べ物にちがいない。よい葛を用い、よい糖蜜をかけてあるから、あんな趣向を凝らした容器に入れなくても、ずいぶん美味を、感じさせるだろう。昔の京都人は、冷やした葛のようなものを食べて、充分に、涼気を味わってたのだろう。今では、葛切りも、年中売ってるようだが、恐らく、アイス・クリームは、季節を問わず、食べられるから、和菓子だって、同様の権利を、主張したのだろう。         *  私の学生時代に、暑中休暇になると、よく、東海道線の弁天島へ行った。  母の郷里が、愛知県の豊橋で、そこの親類に当る人が、弁天島に別荘を持ってたからである。その時分の弁天島は、今のような洋風建築は一つもなく、閑静なものだったが、その別荘も、所有者の大叔父と、親類の男の学生ばかりで、飯炊き婆さんが、一人いるだけだった。  私たちは、水泳と釣魚で、日を暮らしたが、あの附近は、魚類が豊富で、釣りを知らぬ私にも、コチやヒラメが、よく掛った。ある日、そういう漁果を沢山持ち帰ると、大叔父は、 「今日は一つ、アライにして見るか」  と、息子の旧制高校生に、声をかけた。  私は、アライなんてものは、魚屋でなければ、製法を知らぬだろうと、思ったのに、彼等二人は、直ちに相談一決、井戸端へ行って、包丁を手にし始めた。  材料は、コチに黒鯛だったかと思うが、彼等は実に器用に、身をおろし、皮を剥ぎ、そして、刺身包丁で、そぎ身をつくった。  それだけの技倆でも、私には、驚嘆すべきことで、ことに、私より二つ年長の高校生が、父を凌ぐ腕前には、感嘆の外はなかった。東京の男の子は、そういうことには、まったく無能力だからである。  やがて、彼等は、大きなバケツへ、井戸水を汲み入れた。弁天島というところは、砂地に似合わず、水質がいいのだが、その頃は、冷蔵庫もなく、ものを冷やすのには、すべて井戸水を用いた。  そして、彼等は、長い竹箸で魚のソギ身を挿み、バケツの中の冷水で洗うような動作をすると、透明な身が、白く、チリチリと、縮れてきて、紛れもないアライになるのには、魔術を見せられた、気持だった。  その日の夕飯に、山盛りのアライと、魚のアラの味噌汁が出たが、非常にウマかった。生涯で食べたアライのうちで、あの時が一番ウマかったかも知れない。もっとも、腹もだいぶ空いてた。  とはいっても、私は、特にアライが好物、というわけではない。夏になって、最初のアライが、一番おいしいことを、考えると、味よりも、気分で食べるのだろう。魚屋は、氷片なぞを添え、見た眼の涼しさを、工夫するからだろう。ナマで食う魚の味としては、刺身の方が、優れてるようだが、それは、アライにならぬ魚にも、広汎に及んでるからだろう。  しかし、アライという料理法は、日本独特のものではないか。洋食でも、中国料理でも、アライという観念は、成立しないのではないか。日本でも、栄養学者のような人は、魚片をあんなに水で洗うことに、不賛成を唱えるかも知れない。でも、そんなことは、どうでもいいので、日本の風土のもとで、涼しげな、魚の生食法としたら、よいアイデアだと、考えられる。  スズキや黒鯛は、アライに好適だが、共に、夏の魚だからだろう。スズキは、海でも、大河でも獲れるが、利根川の下流のような、幅広い、水の豊かな河が、所を得てるような気がする。戦時中に、ある本屋の主人が、千葉県の小見川に住んでいて、度々、そこに招かれ、物資不足の折柄なのに、川の魚を沢山食べさせられ、うれしかった。その主人の家の庭から、青蘆を分けて、小舟を出すと、すぐ、茫洋たる利根の本流に出たが、その辺で、スズキがよく釣れるらしい。  スズキは、私の好む魚の一つで、アライばかりでなく、塩焼きにしても、ウシオにしても、結構である。また、ムニエールのようなものにしても、よく合う。外国人は、鯛よりも、スズキの風味を、喜ぶのではないか。  初夏の頃、小見川へ行って、食わされたものは、スズキの外に、鯉が多かった。鯉のシュンは、寒中かも知れないが、魚の感じからといって、夏でもいいような気がする。しかし、私は、鯉のアライというものを、それほど好きではない。柴又あたりの料亭へ行くと、鯉の生づくりというのを、自慢そうに出すが、魚が刺身にされても、まだ、ピクピク動いているようなものを、好んで食べる必要が、どこにあるのか。鮨屋へ行っても、オドリと称して、エビの身の動くのを、客は、大変、価値あるもののように、思ってる。昔の鮨屋は、あんなことをしなかったが、その方が、本筋だろう。  私は、鯉コクが好きで、よい鯉とよい味噌で、丁寧に料理されたそれは、天下の美味だと、思うことがある。まだ、学生時代に、信州を旅行したことがあるが、その頃の信州は、海の魚が不自由だったらしく、どの旅館に泊っても、料理はハンコで捺したように、鯉のアライ、鯉コク、そして、卵焼だった。その頃は、鯉の味なんてわからなかったから、ずいぶん困った。中年過ぎから、鯉コクが好きになり、今では、鯉の飴煮というような、甘ったるいものさえ、あれはあれで、味のあるものと、思うようになった。  私は、一体、川魚が好きな方かも、知れない。鮒は、それほど味を知らないが、アマゴとか、ヒガイとかいうものを、京都へ行って食べることは、大きな愉しみである。戦前に、秋の宇治へ行って、料亭で出されたヒガイのつけ焼きの味は、今でも、舌頭に生きてる。スッポンも、川魚のうちだろうが、これは何といっても、京都の大市が、卓越してる。あの店以上にウマいスッポンを食わせる店を、私は他に知らない。古いノレンを、よく守り続けたものである。しかし、これだけ世の中が変ってくると、守り続けるということは、大変、難事だろうと、推測される。料理法を堅く守っても、材料が変ってくれば、どうにもならない。実は、昨年、大市がマズくなったという人が、二、三、出てきた。私は悲しくなり、名城が焼けたように思ったが、マズくなったといった一人が、最近、また大市へ行って、 「大丈夫だ。やっぱり、ウマかった」  と、報告してくれたので、胸を撫で下した。  スッポンも夏のものと思ったが、いつか、大市のオヤジに聞いたところでは、そうではなかった。いつがシュンだか、忘れてしまったが、とにかく、夏ではなかった。  しかし、ドジョウというものがある。これも、夏がシュンとは、限らないようだが、私は盛夏になると、�駒形のどぜう�を食べに行かずに、いられなくなる。不思議なほど、牽引力を感じる。あの店も、青年時代からの馴染みだが、烈火の上に載せて鍋にしろ、ドジョウ汁にしろ、暑い時の食べ物とは思えないのに、汗を流しながら食べ、そして、大変ウマいと思う。  下煮をした、姿のままのドジョウを、鉄鍋でネギの薬味と共に、煮て食うだけで、何のヘンテツもない料理だが、なぜ、あのようにウマいのだろう。きっと、私がドジョウ好きなのだろうが、あの店へ行くと、一層ドジョウが好きになるのは、何かの前提があるのだろう。ドジョウなぞというものは、あの店構えと、ムードのもとに、食べるものなのだろう。スキヤ風の離れ座敷で、一人で、あの鍋に対ったところで、味は半減するのではないか。食べ物は、何でも、京都がウマいが、以前、川魚の専門店へ連れて行かれ、品のいい柳川鍋やドジョウ汁を、食べさせられたが、一向、ウマいとは思わなかった。  私も、子供の時は、ドジョウが嫌いで、飲酒を始めてから、その味を知ったのだが、その頃の�駒形のどぜう�は、実に安い店だった。五十銭銀貨一つ握って行くと、酒も、鍋も、汁も、飯も食えた。  しかし、昨今は、ドジョウも、贅沢品に近くなってきた。同量のウナギと、卸し値は、大差なくなったそうである。それでも品薄で、滅多に、うちの魚屋なぞ、持って来ない。  農薬のために、田圃に自生するドジョウが、激減したからというが、日本の食べ物に、しばしば、このような不幸な変動の起ることを、私は悲しく思う。  ドジョウなぞは、その形や、味からいって、当然、庶民の食べ物であり、事実、長い間�駒形どぜう�も、そういう人たちを、喜ばせてきた。あの店も、材料難から、高級料理店に出世したら、存在の価値を失うと、考えるが、東京湾のカニなぞは、すでに、稀少品となって、私たちの口に入らなくなった。カニなぞも、明治期には、貴人の食物ではなく、居酒屋のサカナだった。私は、明治から大正にかけ、大森に住んでたが、その頃、大井の立会川に、夏の夕方に、カニ舟が着いた。ほんとは、赤貝船で、カニは余禄なのだが、その舟へ買いに行くと、タダのように安かった。五銭か十銭を、風呂敷に包んで、舟の上に投げると、十疋ぐらいのカニを、渡してくれた。そのカニを、直ちに茹でて食べると、あれほどウマいものは、世に少かった。  カニでも、ドジョウでも、下賤の食物として庶民しか食べず、彼等のみが、そのウマさを知ってた。カニを煮た汁で、おカラを煎るなんてことは、横浜の石川あたりの細民の知恵だが、それは、非常にウマいものだった。江戸から明治にかけて、そういう社会的な公平な、美味の分配があったのを、私は面白いことに思う。金のある人だけが、ウマいものを占領する世の中は、面白くも、おかしくもない。安くて、ウマいものを、庶民のために残すことは、ほんとに革命を怖れる人の切に考えるべき問題である。         *  盆の仏壇に、キューリの馬、ナスの牛を供える風習は、ほとんど、見られなくなった。そのような乗物に、ホトケサマが乗って、冥途からお出でになる、という考え方だったのだろう。キューリにも、ナスにも、新しい箸を折って、突き差し、四肢になぞらえてあった。  そして、そのキューリも、ナスも、お盆の時が、初物ということになってた。明治期のわが家では、その時までは、キューリも、ナスも食べなかった。だから、キューリの緑、ナスの紫が、とても新鮮に、眼に映った。  そのキューリが、この頃は、冬でも食えるのである。べつに、ゼイタクというわけでもなく、どこの家の香の物をも、賑わせてる。その代り、夏のキューリに、新鮮感はなくなった。ホトケサマに初物をあげるという意味も、なくなった。  キューリなんてものは、水分が多く、色や匂いの点からも、夏の食物なのに、それを冬食べて、悪いとはいわないが、自分勝手をするのだから、それだけの代償を払うべきだと思う。勿論、時季に食うよりマズいにきまってるが、それだけでは足りない。一本千円ぐらいのペナルティを、課したらいい。促成栽培が進歩して、割合い安価に手に入るから、食味の乱脈が起るのである。江戸時代の名割烹の八百善で、珍しいものを食わせろという客に、冬にナスの香の物で茶漬を出し、小判何枚かを要求したそうだが、その時分、促成栽培があったか、疑問ではあっても、バカ高い勘定をとったのは、理屈に合ってる。  ナスの方は、促成といっても、加茂ナスの走りぐらいだろう。東京の人は、ナスを漬物として、賞味するが、煮物やシギ焼きのようなものだって、ずいぶんウマい。私は、ナスは美味の野菜と、思ってる。ジミで、奥深い味を感じる。精進料理で、ナスの塩漬の汁を、調味料として用いる話を聞いたが、案外の滋味に、富んでるのだろう。  促成栽培の禍いのない夏野菜に、冬瓜というものがある。あんな薄ボケた味は、若い人が好まないから、業者も骨折って、早く売り出さない。冬瓜だけはご免、という青年男女が、ずいぶん多い。  でも、そういったものでもない。あの無味さ——微かな苦さが、中年に達する頃から、イカすと思う時もくるだろう。薄葛の冬瓜で、静かに、酒を味わいたくもなるだろう。日本人は変り易く、また、一向に変らない人種でもある。   議  論  八月の炎天に、食べものの話をしたって、しようがないようなものである。前にも書いたとおり、二月の食べものは、まだ救いがあるが、八月となると、なるべく食べない算段をして、炎暑の過ぎ行くのを、待つより仕方がない。夏痩せという語があるが、食う愉しみがなく、ソーメンのようなものばかりに、頼っていては、痩せもするだろう。  しかし、それは、私のようなオイボレや、昔風の柳腰の美人のいうことであって、盛夏だって、天は旺盛なる食欲を恵んでる人もあるのである。ものがマズいというのは、老衰か、不健康の証拠であり、また、根性も曲ってるのだろう。  若い学生と労働者の健康なる食欲を、私は尊敬する。  私も、曾て、若い学生だったが、暑いからといって、食が減るという経験は、なかったように思う。むしろ、夏の方が、腹が空いた。泳いだり、運動したりする機会が多かったからだろう。もっともマズいオカズの時には食わず、牛肉でも出ると、五、六ぱいの飯を代えた。土用のうちでも、肌寒い日が、よくあるもので、そういう時に、母親が牛鍋でもこしらえてくれると、実に、大食した。私の若い頃は、肉食が高価で、魚が安かったのだろう。肉料理は、せいぜい、週二回ぐらいだった。近頃は、逆になって、家庭料理も、すっかり、内容が変ってしまった。  カレー・ライスなんてものも、今では、どこの家でも、安直なお惣菜として、食事に出るが、私の若い時には、ご馳走だった。その頃は、国産のカレー粉がないから、私の母親なぞ、舶来のを、大事そうに、使ってた。そして、料理法も幼稚で、バターで材料の下ごしらえなぞせず、水煮の肉と野菜に、カレーとウドン粉を、混じるに過ぎなかったから、大変、水っぽかった。  それでも、私たちは、スープ皿に山盛りのカレー・ライスを、二はい、或いは、三ばい食べ、水をガブガブ飲んだ。  私が濃いカレー汁を、初めて見たのは、最初の渡欧で、船がシンガポールに寄港した時だった。碇泊が長いので、上陸して、日本旅館に休憩に行ったが、何しろ暑くて、ものを食う気になれず、アイスクリームを取ってもらって、渇をとどめた。  その旅館の奥座敷は、町の汚ない裏通りに面していて、そこに、数軒の露店が出てた。一軒は、ミカン水のようなものを売り、もう一軒は食べもの屋だった。往来に黒い肌の労働者が、見るからに暑そうに、ダランとして、往来にシャガんでたが、そのうちのある者は、食事をしてた。露店から、蓮の葉のようなものに、飯を盛り、汁をかけたものを、買ってきて、左手の指で、ジカに、口ヘ持ってった。 「何を食ってるんだね」  と、女中に聞くと、カレー・ライスだと、教えてくれた。左の手は、清潔のものとなってるので、ものを食べる時には、そうするのだとも教えてくれた。  その汁というのが、日本のカレーと似ても似つかず、赤褐色で、ドロドロしてた。黒人は、それを丁寧に、指さきで飯を混じ、ゆっとりと食べてた。大変カラいものだと、女中がいってた。その時の情景を、私は、拙作『南の風』に、書き入れた。  私は、そんな場合に、一食を試みたい好奇心を湧かすのだが、暑さと、不潔さで、全然、その気にならなかった。  しかし、カレー料理が、熱帯のものであることは、ひどく実感を誘った。シンガポールでも、高級なカレー料理を食わせる家があるそうだが、ジャバのオランダ人経営のホテルのカレー・ライスが、南洋第一のものだという話も聞いた。カレーそのものよりも、チャツネのような添加物が、四十幾種とかあって、自分の好みによって、味を整えるらしかった。きっと、ウマいように、思われた。  でも、一体、カレー・ライスというのは、洋食なのか、熱帯料理なのか、疑問が浮んだ。そして、やがてパリヘ着いて、数年間を送ったが、その間に、一度も、カレー・ライスにお目にかからなかった。レストオランのメニユにないのである。ただ、一軒だけ、例外があった。日本人クラブの食堂である。そこへ行くと、カレー・ライスがあった。トン・カツもあった。両方とも、日本人の食う洋食で、フランスに関係ないのだろう。  しかし、ロンドンへ行くと、インド料理店があって、カレー・ライスが食べられると、聞いたが、トン・カツを注文しても、断わられるだろう。私がヨーロッパでトン・カツを食ったのは、ただ一度。それも、ベルリンの友人の下宿の婆さんが、こしらえてくれたので、犢のカツレツは、ドイツの料理店にあっても、豚はその時にとどまった。  カレー料理は、熱帯のものだから、夏に食うべきだろうが、われわれ老人には、閉口である。しかし、若い学生が、白い半袖シャツ一枚の姿で、汗をかきながら、熱いカレー・ライスを掻き込んでるのは、壮観であり、日本の将来を背負って立つ意気ごみすら、感じさせる。旺盛なる食欲の前に、暑気も寒気も、あったものではない。私は、若い人がカレー・ライスを食うのを、見るのが好きだ。  同様に、健康なる労働者が、一日の仕事を終って、飲み食いする愉しみも、想像できる。といって、近頃の労働者が飲食する場所は、大衆食堂にしろ、洋食風、中国風の料理が、著しく殖えたらしいから、カレー・ライスを食う学生と、大差ない食事だろうが、昔は、ちがってた。  飯屋《めしや》というものがあった。労働者は、そこへ行って、食事した。  文字通り、飯を食わせる店で、副食物も、それに適合したものだったが、酒も売り、飯屋で酔払ってる人力車夫というのも、珍しい風景ではなかった。  飯屋は、バカにできなかった。飯屋というだけあって、ここで食わせる米飯は、なかなか美味だった。炊き方が、上手なのだろう。そして汁類——ことに味噌汁がウマく、漬物が上手だった。  明治から大正にかけて、東京の各所に、飯屋が栄え、労働者ばかりでなく、下級サラリー・マンも、足を運んだが、学生は、立ち寄らなかった。それなのに、どうして私が飯屋を知ってるかというと、私の級友に、神田の大きな飯屋の息子があって、よくその家へ、遊びに行ったからである。  飯屋も大きいのになると、普請もドッシリして、入口の繩ノレンからして、堂々としてた。しかし客は印半纒《しるしばんてん》の労働者が多く、削りっぱなしの長いテーブルの両側に、縁台に腰かけ、空席のないほどだった。でも、彼等はあまり話をせず、サッサと飯を食って、帰るから、回転率がよく、薄利多売の商売が、成り立ったのだろう。  夏の蒸暑い夕でも、彼等は、熱いドジョウ汁のようなものを註文し、山盛りの飯茶碗を抱え、いかにもウマそうに、頬張ってた。空腹だからだろう。空き腹にマズいものなしというが、それは、料理の必要を否定する言葉に聞えるけれど、私の友人の家のような、大きな飯屋の食べものは、安価なのに、決してマズいものではなかった。飢餓線上の空腹は、問題にならぬけれど、一日三食をしてる者が、体を動かした結果、烈しい食欲を感じるのだったら、飯屋の食べもの程度の食味は、非常な満足感を、与えるだろう。私はその満足や悦びを、かなり大きく評価したい。茶人が心をこめた懐石を味わう時とちがって、鑑賞や批判は働かなくても、肉体の味わう悦びは、それに優るだろう。  フランス語で、食いしん坊のことをグールマン(Gourmand)といい、食通のことをグールメ(Gourmet)と呼ぶけれど、日本語に訳して感じるほど、截然たる区別があるものではない。むつかしくいえば、グールマンには、大食家の意味があり、グールメは、味の鑑定家をいうけれど、普通、両者の意味を混同して、用いてる。グールマンディーズ(Gourmandise)といえば、食道楽の意味になるのである。  それが、正しいと思う。味の鑑定家というものも、動物的食欲の所有者というものも、たとえ存在したところで、あまり意味のあるものではないと思う。真の意味で、味の鑑定家になるには、食欲のインポテンツになる必要があり、ガツガツと大食する者に、味のことを聞いても、仕方がないだろう。  この問題について、私は、個人的経験を語ることができる。  三十代の私は、健康であり、暴飲暴食をしても、消化器の故障もなく、かなりの食いしん坊だった。その頃、私の友人に、金持ちの息子がいて、彼のオゴリで、ものを食いに出かけたが、彼は胃病で、小量しか飲食せず、私の大食を軽蔑した。 「君のように、大食いの奴に、食物を語る資格はないね」 「何いってるんだ。雀の餌ほどのものを食って、ウマいのマズいのというのは、滑稽だよ。ウマいものを、ウンと食うところに、喜びがあるんだ。満腹感の幸福を君は知るまい」 「満腹感なんてものは、外道だよ。それは、胃の問題であって、舌の問題ではない」 「舌と胃とを、無関係な器官と思ってるのか。食欲あってこその食味ではないか」 「君のいうのは、空腹にマズいものなしという俗論で、とるに足りないよ」  二人の議論は、どこまで行っても、キリがなかった。その癖、他の友人の憐れむべき味覚を、悪評する場合は、いつも話が合った。 「あいつは、犬みたいなものだ。何を食わしても、味がわからねえ奴だ……」  そして、それから、長い歳月がたった。彼は胃病が嵩じて、胃ガンとなり、戦争中に死んでしまった。私は、その頃の暴飲暴食の祟りで、胃潰瘍、膵臓炎、胆嚢炎と、消化器の病気ばかりやって、大食なぞ思いもよらない、老残の身となった。脂肪の多い、重い食物は、医者に禁じられ、食事の分量も、あの当時の半分以下で、小食だった彼よりも、もっと小食になってしまった。  そして、私は、よく、彼のことを、思い出す。あんなことをいって、議論したけれど、こっちが食欲のインポテになり、彼の気持が、よくわかるような気がする。  といって、私は、彼の主張に与《くみ》するわけでもないのである。よい料理、ウマい料理も、それを味わうには、やはり、ある程度の空腹を条件とすると、思ってる。近頃は、若い時のような空腹を、感じる機会はないが、それだけに、昔が恋しい。そして、空腹というものを、貴重に感じるのだろう。  しかし、空腹美味論というのは、料理のことを考えれば、一つの危険思想にちがいない。若い、強健な胃袋だけが、食物の醍醐味を知るというのは、暴論である。中年以後の生理が、ものの味、料理人の腕を、最もよく鑑賞できる。それは事実であり、料理の価値と存在理由を、教えてくれるのである。  とはいっても、その議論を、極端に押し進めることも、危険である。私が亡友に反対したのも、そんな考えがあったからだろう。  料理人は、よく、味見《あじみ》ということをやり、猪口かなんかで、汁なぞの加減を、ちょいと味わって見るが、あの場合は、純粋な鑑定家の態度ではあっても、ものを食う人からは、遠いのである。ものを食うという態度は、そんなものではない。  更に、酒の鑑定人が、利き酒をする時を見ると、彼等は絶対に、酒を嚥下しない。口に含み、すぐ、吐き出すのみである。そうしないと、鑑定ということが、むつかしいそうだが、私等から見ると、酒を飲まないで、酒を批評するなんて、意味を失ってると、思うのである。  料理の鑑賞ということも、あまりむつかしいことをいい、あまり純粋さを求めようとすると、鑑賞そのものの成立を、妨げることになる。私が食通という語を信ぜず、強いて、そんなものになろうとすれば、不幸の道を歩くことになると、考えるのも、その点にある。         *  しかし、むつかしく考えさえしなければ、ウマい料理も、優れた料理人も、厳然として、存在するのだし、それを愉しむのは、生きる知恵の一つである。  その方の知恵にかけては、フランス人だの中国人は、優れてるから、料理に関する書物も多い。中国では、古くから、有名な本が、相当あるらしいが、フランスでは、ブリア・サヴァランの『味覚の生理学』(邦訳、『美味礼賛』)が、最も聞えてる。  題名の示す通り、『味覚の生理学』は、料理書というより、食い、味わうこと一般の学問的随想のようなものだが、人生の書としての一面も、持ってる。著者は、女性も食味の鑑賞家として認め、妻が良人と一緒に、食事の快楽を共にし共に語り、共に笑い、一つのテーブルから、やがて一つのベッドへ移行することを、幸福の典型としてる。東洋では、中国でも、日本でも、妻が食欲や味覚に耽ることを、望んでいない。料理人もしくは給仕人として、認められるのみである。  日本人は、フランス人や中国人のように、料理の優れた古典を持たぬのは、長い期間、国民が粗食に甘んじてたからだろう。徳川中期までは、権力者だけが美味を知ってたとしても、国民がほんとに食味に眼覚めたのは、明治に新文明が入ってからで、食生活も一変した。今の日本人は、世界に類例のないほど、食いしん坊となり、フランス人や中国人を凌ぐに至ったが、顧みれば、明治百年の歴史に過ぎない。  日露戦争直前に、村井弦斎の『食道楽』という小説が書かれ、ブームを起したが、私の母や姉が夢中になって、読んでたのを、目撃してる。私も当時この小説の一部分を覗いたことがあるが、筋は至って単純で、お登和さんという美人の令嬢が、結婚するだけのことだったと思うが、彼女は料理の名手で、小説の随所に食物の講釈と料理法が、明細に出てくる。従って少年の私にとって、何の興味もない小説だった。  しかし、昨年、私はこの小説の全巻を、入手することができた。正続八巻の厖大なる小説である。そして、幼時の記憶は誤らず、これは世界に珍しい、料理小説であり、これだけのものが、あの頃に書かれた事実に、驚嘆し、更めて、明治文化の実質を、考えたくなった。  勿論、文芸として感心するところは、一つもない。しかし、小説の形を以て書かれた料理書として見る時、その内容の豊富さ、知識の該博さに、驚嘆するのである。ことに、洋食に関する記載が多く、フランス料理を伝える場合に、フランス語の誤りは散見するけれど、本格的な紹介を忘れてない点は、遠い明治という時期を考え、驚くべきことである。それは、小説を書くために、著者が調べたというよりも、彼がすでに知り、経験し、実践したことを、織り込んだとしか、思えないのである。今の作家の行うような俄か勉強(私もよくそれをやったが)で、あの小説は、断じて書ける道理がないのである。  私は、村井弦斎という作家に、興味を持った。  当時は、尾崎紅葉を頭目とする、硯友社一派の文芸が全盛で、風流と恋愛が、小説の基調だったのに、料理小説を著わすなぞは、反逆的であり、どういう考えだったのか。食物や料理に興味を持ってたにしても、それを小説に結びつけるというのは、大胆で、独創的ではないか。文壇で甘やかされる作家には、そんな構想は、思いつかないだろう。きっと、主流派から冷遇されてた人にちがいない。  そして、私は日本文学大辞典によって、村井弦斎の経歴を知った。  彼は文久三年豊橋市に生れ、明治初年東京外国語学校露語科に学び、銀行員、煙草の行商人なぞを経て、明治十八年渡米。帰朝後は報知新聞に入り、小説『小猫』を書いた。やがて同紙の編集長となり長編『日の出島』を書き、非常な歓迎を受けた。『食道楽』はその後、報知新聞に掲載されたもので、三十九年「婦人世界」の編集顧問となり、同誌に料理法、医療法等の方面で、独自の研究を発表した。作風は芸術的香気に乏しく、当時の評論家より、嘲罵を受けたが、発行部数は、常に他の小説を圧倒していた。昭和二年、平塚に於て没。  以上で、村井弦斎の一半を知ったが、なるほど、風流文士の一生ではなかった。『日の出島』という代表作は、どういうものか知らないが、その視野や態度は、当時の文士と異っていたのではないか。  しかし、『食道楽』は、明らかに、奇書であり、珍小説であって、弦斎の名を、後世に残すだろう。私も『バナナ』という新聞小説を書き、食いしん坊の主人公を扱ったことがあるが、とても、『食道楽』のように、食物に終始することはできなかった。『食道楽』は、胃と腸との問答から始まり、食べるということの生理や戒めを説きながら、大食漢の人物を登場させてる。そして、巻末には、日用食品の分析表とか、小説中に書いた料理法の索引とか、台所の手帳という空欄のぺージまで、附いてる。最初から、文学的作品を書く所存は、なかったらしい。  そして、南京豆の汁粉の料理法が、紹介されるのだが、その中に牛乳を入れるなんて工夫は、どこから仕入れてきたものか。その他、明治三十年代では、まだ普及しなかった豚肉料理の美味と栄養を説き、東坡肉のような中国料理法も、詳細に書いてある。  著者の態度は、明らかに、啓蒙的であり、従来の食生活の欠陥を補い、新しい材料と新しい味の鼓吹に、努めてる。洋食や中国料理に、力点が置かれたのも、当然だろう。  当時の日本人は、食物の上にも、新文明をとり入れんとする要求が、かなり昂まっていたところへ、この大長編が現われたのだから、ことに女性の読者が、いかに喜んだか、想像にあまる。『食道楽』によって、日本の家庭料理は、相当の影響を受けたろう。恋愛小説と比較して、その効用や如何?  そして、その料理を伝える人は、常に美人で名料理人のお登和さんであり、こんな女房を持ったらと、男性の読者も、垂涎したろう。  大正期に、神田の学生街に、おとわ亭という洋食屋があった。無論、お登和さんの名を用いたのだが、べつにウマい洋食を食わせる店ではなく、ただ、安いのが看板だった。カツレツでも、シチュウでも、八銭ぐらいだった。その頃、三田の学生だった私は、ただ安いがために、神田へ出張して、おとわ亭の料理を飽食したが、『食道楽』の余勢は、まだ、その時まで続いていた、証拠になる。   今 朝 の 秋  村井弦斎の『食道楽』をとりあげたのなら、木下謙次郎の『美味求真』を逸しては、片手落ちとなろう。  この方は、小説ではなく、純然たる食物と料理の研究書であり、前者が明治、後者は大正の出版で、共に日本のよき時代の産物たることを、証してる。しかし、『美味求真』の方は、クロース装幀の洋綴じ本であり、七〇〇頁ほどの大冊で、定価五円というのは、当時として、非常な高価だったろう。後に、『統・美味求真』も出版されたらしいが、私はこれを所蔵してない。『食道楽』とちがって、『美味求真』の方は、構成も整然として、食物や料理の歴史、美味ということの研究、主として、魚類の研究と料理法の紹介が、微に入り、細を極めてる。その叙述は、衒学的ともいえるほど、博覧強記を誇り、文語体をもって、終始してる。従って、『食道楽』が女性間に多くの読者を獲得したに反し、『美味求真』の方は、男性といっても、知識階級の好事家に止まり、そんなに売れた本とも、思われない。また、食物の歴史で、国外に触れたところはあっても、著者の知識は、東洋と日本が主で、料理法の紹介も、中国料理か、日本料理——ことに、後者が大部分である。  それにも拘らず、というよりも、その故に、私はこの書を以て、サヴァランの『味覚の生理学』に対応する、日本人の仕事として、誇りを感じる。この書も、『食道楽』も、食うこと、味わうことにかけて、日本人が優秀民族の血を持ち、どこかの強大国民と、比すべからざる趣味と感覚に、恵まれてる点を、知り得るのである。  そして、面白いことに、著者の木下謙次郎は、たしか、政友会の代議士で、書記官長ぐらいやったらしく、まんざらの陣笠でもなかったろう。今の代議士に、食糧政策の専門家はあっても、食物や料理の蘊蓄を持つ者は、あるわけがない。そんな人間的余裕は、すでに政治家を見捨てて、久しい。  それに、私が感心するのは、木下謙次郎という人は、稀代の食いしん坊ではなかったかと、思われる点である。『美味求真』中に、彼の写真が数葉載ってるが、第一に、人相が面白い。ずいぶん小さな男で、ひどく痩せてて、顔ばかり巨きい。どうやら、餓鬼道に堕した人間みたいである。その貧弱な男が、浴衣の袖をまくりあげ、痩せた腕を露わし、包丁を握ってる写真が、どう見ても、代議士ではない。生きたスッポンとウナギを、自在に料理するコツを、著者自ら示してるのだが、その姿も、手つきも、実にイタについてる。そして、自ら料理して、ウマいものを食ってやろうという、気魄みたいなものが、写真に溢れてる。食いしん坊の証拠であろう。  著者は、大分県が選挙区で、あの地方は、私の亡父の故郷だから、よく知ってるが、スッポン、フグ、鮎、ウナギが、名物である。恐らく、著者は、幼少の頃から、それらの魚に親しみ、その習性を熟知し、捕獲法や料理法も、よく心得てたにちがいない。そして、『美味求真』のなかでも、以上の魚の講釈には、他と比べられぬほど、多くのページを、費やしてる。  しかし、根が器用で、マメで、そして、食いしん坊だった人で、代議士になってからも、包丁を握ったり、料理屋へ行っても、板前に文句をいったり、食通を以て、任じてたろう。愛すべき人物だったろうが、政治家になるよりも、料理人となって、客に講釈をならべてる方が、幸福だったのではあるまいか。どうも、そういう生れつきの人のような気がする。  しかし、木下謙次郎にしろ、村井弦斎にしろ、あれほど食味のことにかけて篤学の士は、もう、現代にいない。玄人、素人を通じて、いないだろう。『食道楽』と『美味求真』の二書が、明治、大正に、相次いで現われたきりで、その後、目ぼしいものも見当らないところを見ると、日本のグールマンディーズも、文献的には、向上したとは、いえないのだろう。         *  さて、議論はやめて、食べる方だが——  暑かった八月も、いつか去ったことになるが、九月に入ったって、ほんとは、まだ暑く、食欲は振わない。  でも、妙なものである。九月にならぬ前、八月の二十日頃から、わずかながら、食思が動いてくるのである。昼間は、三十度を超えても、日が短かくなった証拠に、早い夕暮れのたたずまいと、涼風と、そして、いい按配に、縁の下から、コオロギの声でも、耳に入れば、忽然として、秋の食べ物が欲しくなり、胃袋に活気が出てくるというのは、人間ならではの現象だろう。  この時に於てか、走りの食べ物の効用を、躊躇なく、享くべきである。�走り�嫌いの私だって、九月の初旬に、柚子《ゆず》の香を愉しむことは、大賛成なのである。それを、六月から、料理屋が用いることに、文句がいいたいだけなのである。これから、夏の峠を超えようという時に秋に思いを致したって、何になるのか。季節の味というものは、ほんの少し魁《さきが》けるところに、詩情も食欲もそそるのであって、ただ早く食ったって、何の意味もない。それにしても、�走り�に拘泥して、シュンを忘れたら、ものを食う人の態度ではあるまい。世上の�お茶をやってる奥さん�たちの態度を、私は気に食わない。あの連中の�走り�好きは、料理屋以上に、愚劣である。商売人は、金をとる目的で、�走り�を使うのだから、まだ、わかってるが──  秋の芋。  ジャガ芋は春だが、日本種の芋は、秋のものだろう。芋というものの性質からいって、秋に穫れることに、自然を感じる。新芋という語はサツマ芋の場合に使われるようだが、小芋といえば、新里芋のことで、共に、初秋を感じさせる。  小芋を、東京風に煮ると、コッテリと、甘味《あまあじ》にして、酒のサカナに向かなくなるが、あれはあれで、一つの料理だろう。日本橋の�まるたか�なんて、飲み屋へ行くと、その典型的な小芋を、食べさせる。しかし、東京の下町風の味つけも、いつか、稀《めず》らしいものになってしまった。  でも、新秋を味わうつもりだったら、やはり、京都風の薄味の方が、いいにきまってる。野菜は何でも、京都に敵わないから、小芋だって、そうだろうと思うが、昨年だったか、柴又の川魚料理屋の主人と会ったら、ウナギや鯉の自慢をしないで、あの付近の新里芋の味を、ひどく誇ってた。昔から、名物なのだそうである。来年の秋には、届けるといってたが、是非、一食したいと、思ってる。そして、それが美味ならんことを、祈ってる。というのは、なんでもかんでも、京都のものがウマいというのは、業腹《ごうはら》なので、里芋ぐらい、関東に軍配をあげてもいいだろう。また、関東の畑の土は、黒々として、何だか、秋の芋を産するに、適してる気がする。少くとも、サツマ芋だけは、関東が断然優秀で、京都の食いしん坊が、川越の芋を、わざわざ、取り寄せてるのを、私は知ってる。  私は、子供の時は、ご多分に洩れず、サツマ芋が好物だったが、酒を飲むようになって、食えなくなった。その状態は、長く続いた。一体、私は何でも食うのだが、トーナスだけが嫌いだったのに、中年過ぎてから、少しは、味を解するようになった。しかし、サツマ芋は、どうしても、口にできなかった。  ところが、数年前から、サツマ芋も、そう嫌ったものでもないと、思うようになった。京都の�雲月�のおかみさんが、秋の軽い懐石の献立てのカラー写真を、雑誌に出してたが、その時のサツマ芋の扱い方が、何気なく、気持ちがよかった。家でやっても、そう上手にはできないが、幸いにして、私のところへは、優秀なる品種が、届くようになった。  朝日新聞の懇意な人が、川越に住んでるのである。この人が、秋になると、必ず、芋を届けてくれる。最初は、食思も動かなかったが、ふと、食って見ると、まるで、普通のサツマ芋と、味がちがう。色や形も、ちがう。 「やはり、名物はちがいますね」  と、お礼をいったら、川越にも近頃は、ホンモノが少くなって、よほど前から頼んで置かないと、手に入らないのだといった。  川越に川越芋が乏しいとは、おかしな話と思ったが、やはり、戦時中の増産のために、収穫の多い、何トカいう他地産を使うようになって以来、それに圧倒されてる由なのである。庄内米の場合と、同様なのである。  しかし、従来の川越芋も、少しは作ってるらしく、それを、川越名物の芋菓子屋が使うので、いよいよ、払底となり、川越人も、あまり川越芋が食えないのだと、いっていた。  その人に連れられて、川越へ、遊びに行ったことがあったが、古くて、趣きのある町だった。  やはり、城下町のせいだろう。土蔵建築が面白く、中でも、芋菓子屋の店構えが、一段、目立った。芋せんべいというものに、郷土菓子として、創意があり、ヘンに甘くしないところが、感心だと思った。  とにかく、川越の芋のウマいことは、確かであり、私の少年時代に、東京に多かった焼芋屋の芋は、それを使ってたのだろう。形と色に、見覚えがある。しかし、焼芋屋の始まるのは、初冬であり、秋の芋を使っては、商売にならなかったろう。         *  小芋の煮つけに、柚子の香を欠いたら、新秋の味は、半減するだろう。また、焼き松茸の場合も、同じことがいえる。もっとも、松茸は、中秋に食うべきもので、その頃は、柚子も、青蜜柑ほどの大きさに育つが、新秋の柚子は、青く、小さく、堅く、果実ともいえぬほど、幼げなものだが、その香気は、まったく鮮烈である。あれほど、効果があれば、�走りもの食い�ともいえず、正しい食べ方なのだろう。  秋の柚子と、春の木の芽は、日本の香味料として、双絶といえる。その添加によって、季節の食べ物が、どれだけ魅力を呼びさますか、知れない。小芋や、焼き松茸に限らず、柚子の薬味の用法は、秋に多い。  しかし、柚味噌や、柚餅子《ゆべし》のようなものはいいが、柚子の香を、菓子に用いたものを、私は好もしく、思わない。四国には、そういう菓子が多いが、匂いが邪魔でしようがない。  しかし、柚子や木の芽の香りを、西洋人が好むか、どうか。あんな、青くさい、原始的な香味料を、そのまま使うのは、料理の法に外れてると、思うかも知れない。西洋の香味料は、乾燥したものが多いし、数種を混入するし、複雑な味は出るにしても、情趣だの、季節感を、求めはしないだろう。レモンだけは生食で、洋食には欠かせないが、魚や肉の臭気を除く目的だから、柚子の効用と少しちがう。それに、レモンは、年中、入手できることが、長所であり、欠点である。季節の恵みの上に立つ、日本料理の本質からいうと、もの足りないのである。  その他、紫蘇《しそ》にしても、茗荷《みょうが》にしても、日本人でなければ、香味料として、とりあげなかったろう。両方とも、雑草に過ぎないが、素朴で、いさぎよい香りが、どんな食物と調和するかを、われらの祖先は、よく探り当ててる。そして、シソの香りは、まったく日本的であって、西洋人には通用しないものの、最たるべきである。  そういえば、早春の蕗の薹《ふきのとう》も、不思議な香味料で、あの苦さと匂いが、ハマグリの吸物に適してることなぞ、よくも考えついたものである。         *  九月という月は、月初めと終りでは、温度も、風物も、だいぶ差がある。一と月足らずの間に、ずいぶん、世界がちがってくるというのは、面白い月である。  彼岸を迎えると、秋意が明らかになってくるが、それも、その年の陽気によって、いろいろである。秋の訪れが、大変早い年があり、そうでない年がある。私はその遅速を、彼岸の仏さまにあげる五目ズシに、松茸が入るか、入らないかで、感じとる。私の家では、おハギは面倒くさいので、五目ズシが例だが、やっと出た松茸を入れる年がある。無論、秋の早い年である。これは、春のタケノコと、まったく同じであって、五目ズシの具に、タケノコが入ってれば、暖かい年といえる。  彼岸沙魚《ひがんはぜ》という、語がある。春の彼岸にも、秋の彼岸にも、よく釣れ、味もいいのだろうが、私は、秋の方に、親しみを感じる。私の故郷は横浜で、少年時代には、桜木町駅から、ちょっと海に寄った川のあたりで、よく、ハゼが釣れた。私は今もって、釣りは不得手なのだが、そこへ行くと、ずいぶん釣れた。もっとも、ダボ・ハゼというのが、多かった。もう、あの辺は、釣りどころではないだろう。東京でも、ハゼ釣りの舟の出るところはあるらしいが、釣れたハゼが、臭くて、食べられないそうである。  私は、一時、ハゼのテンプラに、凝ったことがあった。どうも、ハゼのテンプラがウマくて、ウマくて、堪らなくて、テンプラ屋へ行くと、そればかり註文した。あの軽さと、身の白さと脆さが、何ともいえなかった。ハゼも、飴煮のようなことをするが、私はウマサを感ぜず、ただ、テンプラ一辺倒だった。  しかし、何かの機会で、ふと、ギンポ党に転じて、ハゼを二の次ぎにしたが、それでも、エビを食うよりは、ハゼの方がいいと、思ってる。  ハゼは、多量に釣れるから、釣った人は、素焼きにして、保存するが、焼きハゼからとったダシは、そう不味なものではない。昔は、川崎大師や、穴守稲荷へ行くと、よく焼きハゼを売ってたが、この頃は、見かけなくなった。  ゴリという魚は、外観は、ダボ・ハゼに似てるが、学問的には、どうなのか。私は戦前に、金沢へ遊びに行って、例のゴリ屋へ寄ったのが、あの魚の味を知った最初だが、ほんとに、ウマいと思った。照り焼きと、カラ揚げと、味噌汁にして、出された。その時は、秋の半ばで、風情のある川沿いの景色に、紅葉が色づいてた。そして、すでにシナ事変が始まって、昼酒は禁止なのに、土瓶へ入れた酒を出してくれたのが、とても、うれしかった。そのせいで、あの店が気に入ったのかも、知れない。  その時に、得体の知れぬ魚のアライを、出された。身に甘味があって、少しグニャグニャしてる欠点はあったが、結構だと思った。そして、給仕の女中さんは、 「何の魚か、当ててご覧なさい」  と、ニヤニヤ、笑ってる。  どうせ、川魚と思ったが、鮒でもなく、草魚でもなく、遂にカブトを脱いだ。 「ナマズですよ」  これには、唖然とした。ナマズのナマを食わされて、気味が悪かったというものの、ウマかったから、文句はいえないと思った。帰りに、この店のイケスを見せてもらったが、山から清冽な水が湧き、その水槽に一週間ぐらい放して置くと、ナマズの泥臭さが、消えるということだった。         *  枝豆を夏のものと思うのは、東京の習慣ではないのか。  事実、青い枝豆は、初夏に出始め、両国の川開きの頃には、盛りとなる。川開きの花火を見るために、柳橋あたりの料亭へ、よく招かれたが、川ぷちの桟敷で出される食事は、前日にでもこしらえるのか、一つとして、ウマいものがなく、ただ、枝豆のみに、手が出た。その枝豆は、よく実り、味もよく、川風の涼しさと、花火の音に、調和した。私は、五月場所のソラ豆と、川開きの枝豆とを、一番、所を得たものと、思ってた。  そして、枝豆は夏のものと、信じてたのだが、四国へ疎開した時に、七月に枝豆を註文したら、 「今頃、そがいなもの食うて、どがいしなはるぞ」  と、土地の人から、笑われた。  枝豆はあるが、秋に食う習慣らしい。それに、枝豆という名称はなく、タノクロマメ(田の畔豆)という。田のアゼ道に植えて置いて、秋になって、枝も皮も黄色くなり、充分に実の入った時に食べ、また、味噌なぞの材料にするらしい。  枝豆を、夏に食わないで、どうするのだと、私は憤慨したが、それは東京人の習慣に過ぎず、全国的には、秋のものとなってるようである。芋名月、豆名月という語があるが、十三夜の時に、枝豆を上げるのが昔の習慣らしい。  それはともかく、私は、川開きの時の枝豆──つまり、関東産の枝豆を、美味なものと、思ってたが、近年になって、その誤りを知った。  枝豆は、越後とか、庄内平野のものが、ウマいのである。最初に、写真家の浜谷浩夫人から貰った、新潟の枝豆で、味を知り、やがて、酒田の本間家が、毎年、初秋に、東京で催す枝豆を食う会で、真価がわかった。  新潟のも、酒田のも、実がマルマルと肥えて、見るから立派だったが、食べる時に、オナラの臭いがするのも、同一だった。最初は辟易したが、そんな臭いがすることが、豆の味のウマさと、密接な関係があるらしく、しまいには、それが魅力となった。  数年前に、私は友人と、出羽三山の紅葉を見に行き、帰途に、酒田の本間家を訪れた。そして、古い料亭で、ご馳走になったが、その時も、今年最後の枝豆だといって、食卓に出てきた。酒田の人は、よほど、枝豆が自慢らしく、さア、沢山あがって下さいと、出席した市長さんまでいった。  紅葉時でも、枝豆があるのである。でも、やはり、新秋頃が、一番のシュンなのではないか。なぜといって、その時の最後の枝豆は、あんまりオナラの臭いがしなかった。   実  る  栗の実のツヤツヤした皮と、ザラサラしたお尻の部分とは、確かに、誰かの顔に似てる。栗のような感じの顔というのは、日本人に多いのではないか。律儀で、勤勉で、少しガンコな中年男──そんな連想がある。そして、栗の実は、日本のお伽噺にも、人間と変らず、愛すべき役割りで、登場するではないか。  栗の実は、古い、日本の食べ物である。  そういう栗を、出盛りの頃になって、母親が、間食の時に、茹でてくれた。 「栗? うれしいな」  私たちは、ほんとに、うれしかった。  晴れた、穏やかな午後の日光が、庭にあふれ、母親は、縁近いところへ、栗をのせた盆を持ち出し、菜ッ切り包丁で、皮を剥いてくれる。丁寧に、皮を剥くから、時間がかかる。それを、待ち兼ねて、私と弟とは、争って、手を出す。 「お待ちなさい、順だよ」  と、いわれても、辛抱ができず、皮のままのを掴んで、口へ入れて、前歯で二つに割って、実をシゴき出すのだが、渋皮のシブさが邪魔で、やはり、母親が剥いてくれるのを待つ方が、悧巧だった。  そんなにウマい、栗の実だった。手が疲れて、母親が音《ね》をあげるまで、いくらでも、食べた記憶がある。  それなのに、現代の子供は、栗の実なぞ、問題にしなくなった。母親が、皮を剥いてやっても、二つか三つ食べて、座を立ってしまう。 「栗、ウマくないのか」  私は、訊いて見た。 「ケーキについてる栗なら、ウマいけど……」  秋の洋菓子には、よく栗が用いられるが、姿のままのにしても、漉したものにしても、タップリと、砂糖で、味つけがしてある。  それなら、ウマいというのである。茹でた栗の自然の甘さ、仄かな香りは、顧みられないのである。人工の甘さと、香料の匂いの方が勝利を獲るのである。そして、お伽噺に出てくる栗のことなぞ、まるで、考えないらしい。  現代の子供は、可哀そうである。周囲を、天然の味に背いた食べ物に、取り巻かれては、そうなるのは、当然である。  親は、有毒な色素や防腐剤から、子供を護ってやるだけでは、足りない。自然の味のウマさを、子供に教えるために、それを損うものを、遠ざけねばならない。子供の時から、もののほんとの味を知れば、正しい食いしん坊ができあがり、生涯を愉しむ幸福を、獲得するだろう。  それにしても、日本の栗は、美味である。  フランスの焼き栗なぞ、製法はまったく日本と同一であるが、ウマいとは思わない。ただ、秋の早いパリの宵に、町角の焼き栗屋の屋台を見出すことや、新聞紙の袋に入れた熱い焼き栗を、歩きながら食べることは、ちょいと詩情を誘うのである。  しかし、一袋の栗を、全部、平げた記憶はない。マズいのである。日本の栗のような、濃やかな味はない。匂いも、高くない。  パリ郊外のムードンの森なぞへ、秋に散歩に行くと、落ち栗が、いくらでも拾える。しかし、誰も拾ってる者はない。さすがは、富裕な国民は、ちがったものと、最初、私は感心したが、よく考えて見ると、栗がマズいからだろう。あんなものを、重い思いをして、提げて帰る気にならないのだろう。  栗がマズく、大味だから、フランス人は、マロン・グラッセというような、手の込んだ栗菓子を考えたのだろう。あっちで食べるマロン・グラッセは、確かにウマい。味も、匂いも、最高級菓子たるに恥じない。  それなのに、栗のウマい日本でつくるマロン・グラッセに、感心したことがない。私は、戦前に『沙羅乙女』という小説を書き、洋菓子のことを調べたが、その頃、六本木の�クローバー�は、至って小さな店だった。製造が主で、小売りはしてなかったろう。そこへ行って、生洋菓子の工程なぞ、見学させてもらったのだが、棚の上に、栗を漬けたガラスの壺があった。店の人に聞くと、マロン・グラッセの試作をやってるのだといった。その頃は、マロン・グラッセの名を知る人も少く、私は、日本人の研究心に感心した。でも、あれから三十数年経ち、国産品が出廻るようになったけれど、その味の方には、感心しないのである。  あれは、よほど、製法のむつかしいものと、思われる。ことによったら、フランスの栗でないと、うまく行かないのではないか。栗のウマい日本では、徒労であるのか。  フランス料理でも、秋になると、栗を添えたり、スタッフにするようだが、そういう場合、白ブドー酒が合うようである。軽便な一酌には、焼き栗をサカナに、ボルドーの白を、抜く人もある。  さて、フランスの栗が出る頃は、間髪を入れず、牡蠣《かき》ということになる。アケビの籠に詰めた生牡蠣が、レストオランやビストロの店先きに、積まれるようになれば、懐中いかに乏しくとも、軒を潜らずにいられない。好みの産地の初牡蠣を、カラのまま、レモンをかけて食う愉しみは、秋の恵みというより、一年中の口福の随一だろう。         *  柿というものは、ほんとに、立派だと思う。  あんなに形よく、色よく、品位があり、そして、日本的な美しさに富んでる果物は、滅多にあるものではない。私は柿が、もっと画材にされてもいいと、思うのだが、そのわりに、多くない。牧野虎雄画伯が、油絵でなく、日本画風に描いたものを、私は持ってるが、柿の美しさが、充分に、捉えられている。  といって、美しいのは、やはり、御所柿、富有柿のような、良種のものに多いが、そういう柿が一個、デンとして、置かれてあるのを見ると、威風をさえ、感じるのである。  味だって、立派である。あの甘さには、品位があり、日本に砂糖の輸入されなかった昔には、菓子として、あれを食べたのかも知れない。菓子と思えば、実によくできた、立派な菓子である。そして、あの程度の甘さで、糖分摂取に満足してた、昔の日本人の食生活と、現在と、どちらが幸福といえるのか。砂糖の濫用が、菓子のみならず、料理にまで及んだ今日を、味覚の進歩といえるのか、どうか。  大垣の柿羊羹というものがあるが、天然の柿の味を、あまり損わない程度に、菓子化してあるのは、好もしい。もっとも、以前の話で、近頃は、どうか知らない。  良種の柿は、美しいが、俗にいうキザ柿だって、捨てたものではない。東京の近郊は、ずいぶん柿の木が多いが、全部が、円い、小さな実のキザ柿である。実の肉は堅く、種が大きく、渋味があったりして、決して、美味とはいえない。  しかし、樹に成っている姿は、美しい。沢山の実をつけるから、秋の花のような趣きさえ、感じさせる。秋晴れの静かな日に、熟しかけた実の色と、モズの声とで、武蔵野の季節感は、充分である。  十月十二日だったか、池上本門寺のお会式であるが、造花をつけた万燈の行列について、お寺まで行ったことがある。無論、若い時の話である。そして、帰りは早朝になり、小雨が降り出し、大森駅まで歩く道の両側に、枝つきのキザ柿を列べた露店が、沢山、出てた。恐らく、あの附近の農家の庭に、成ってた柿だろう。京浜工場地帯というものも、まだ出現しない前で、あの附近も、田や畑が多かった。  お会式がくると、夜寒が始まるのも、あの頃の東京の気象だった。近年は、確かに、秋のくるのがおそくなり、コオロギばかり、勝手に鳴いている。         *  京都から送ってくる松茸の籠は、第一便が、最も貴重である。  外出先きから、夕方、帰ってきて、細君から�吉報�を聞かされる。 「××さんの松茸、届きましたよ。今年は、早いようですね」 「ありがたいな、もう、出たのか」  そして、夕餐の膳に、何にして食おうかと、迷ったことは一度もない。焼き松茸にきまってる。籠のシダの葉の中から、笠の閉った、形のいいのを、選り出す。大きくなった柚子も、添えてある。  焼いた松茸を、まるごと、食卓へ持ってきてもらって、裂くのは、わが手でやる。時として、指先きを火傷するが、そうしないと、香りが逃げてしまう。 「ウマい!」  しかし、そのウマさは、第一便の最初の一本に、及ばないのではないか。  松茸とは、そういうものだと、思ってる。  翌日は、土瓶蒸しにしたり、松茸飯にしたり、いろいろやって見る。マズくはない。しかし、最初の日の焼き松茸に、匹敵することはない。ことに、スキヤキの鍋に入れたりすると、これが松茸かと思うような、つまらぬ味になる。  香りと歯触りと、そして、廻りきた季節の喜びを味わわさせれば、松茸の役目は、済んでしまうのではないか。 「また、松茸が着きましたよ」  始末の悪いことに、その日、東京に出廻ったのを、細君が買ったところへ、大きな籠が、届いたりする。 「また、松茸か」  罰あたりなことを、いわざるを得ない。  松茸なんて、少量であるほど、価値を感じるのだろう。  だから、私は、松茸狩りというものに、行ったことがない。沢山穫れた松茸を、山で、鳥鍋か何かにして、食べるらしいが、想像しても、食欲をそそらない。ただ、京都の山の秋気は、爽かで、青空と赤松の樹間で、飲食することは、愉しいにきまっている。  秋に、東北地方を旅行すると、 「春なら、山菜がございましたのに……」  と、宿の者が、残念そうにいう。  しかし、キノコ類は、沢山あるのである。土地の人は、山菜の方を、賞味するのだろうか。それとも、近時の山菜流行で、都会の人に対して、そんなことをいうのだろうか。  キノコだって、無論、ウマい。  シメジやナメコのウマさは、都会の人も、よく知ってる。私はシメジが好きで、形も松茸のようにハデでなく、床しい味で、土瓶蒸しにしても、松茸より好きなくらいである。  しかし、東北へ行くと、そんな名の知れたキノコでなく、初耳のものが、ずいぶんある。ナラタケ、エノキダケ、マイタケといった名は、覚えやすいが、変な名のキノコで、ずいぶんウマいのがあった。蔦《つた》温泉で食わされた、何とかいうのは、味もよかったが、あまり穫れないので、一貫目の値段が、松茸より高価だったのを、記憶してる。  那須温泉も、キノコの多いところだが、秋に行った時に、町を散歩したら、店頭に、まるで、一塊の肉のような、鮮橙色をした、大きなキノコを、売ってた。あまり、珍しいので、買って帰り、旅館の者に聞くと、 「これァ、シシ・ダケといって、あまりウマくありません」  と、いった。試みに、煮てもらったら、果たして、大味で、食用になるというだけのものだった。  フランスあたりで、珍重するキノコは、トリュフ(西洋松露)だろうが、これは、秋のものと、限らないらしい。フォア・グラの缶詰を開けると、パテになった肉の間に、黒い斑点が見えるのが、それである。ナマのトリュフを、見たことはないが、香りと味の両方を、兼ねたものだろう。フォア・グラとか、野鳥獣料理の臭気を、和げるために、使用するのだろう。  一体、フランスの食いしん坊は、キノコ入りの料理が好きだが、それはキノコが好きだというよりも、キノコを用いる料理に、ご馳走が多いからだろう。サヴァランの『味覚の生理学』にも、キノコの出てくる料理が多く、トリュフの記述も多い。  しかし、一般のフランス人にとって、馴染みの深いのは、マシュルームだろう。あれは栽培品で、年中あるし、癖のないキノコで、誰からも好かれる。私なぞ、パリでスキヤキをやる時に、必ず、鍋に入れた。  キノコのフランス語は、シャンピニオンで、これは総称であるのに、普通、シャンピニオンといえば、マシュルームのことになってる。それほど、代表的なのだろう。しかし、歯触りはいいにしても、香りは乏しいし、それ一種というのも、寂しいし、私は秋になると、故国のキノコの豊富さを、思った。  ところが、ある日、スペイン人の八百屋へ寄ったら、五、六種類のキノコを列べてるのに、驚いた。シイタケのような形のものや、シメジのようなものや、そして、どれも、裏側がオレンジ色で、美しかった。それぞれ、名があるのだろうが、聞き損ねた。また、どのキノコはどの料理と、キマリがあるのだろうが、台所を持たない私は、聞いても仕方がなかった。ただ、マシュルーム以外にも、フランスにキノコがあるのを、この時初めて知った。その店では、キノコの外に、ナスも売ってた。巨大な、長いナスで、色だけは、日本産と同じく、紫紺色だった。パリには、外国人も多いので、その店は、そういう人たちを目当てに、珍しいものを売ってるのかも、知れなかった。         *  村松が梢風という文士は、若い時に結婚し、名を成す前に、かなり、貧乏な生活をしてたのである。  前にも書いた、私と空腹美味否定論を闘わした友人は、三田の文科に学び、梢風と親しく、その貧乏時代も、よく知ってた。 「梢風の家で食わされたサンマ、あんなウマいサンマを、食ったことないね」  と、度々、私に語った。  その友人は、富家の息子で、家では、あまり、サンマなぞ、食わなかったのだろう。そして、ある日の午前に、梢風を訪れ、文芸談に熱中して、午食の時間になったのも、忘れた。彼は梢風を誘って、食事に出るつもりだったのである。  その頃の梢風の家は、見る影もない、貧弱な小屋で、細君と二人暮しだった。その細君というのが、良人と話に夢中になってる友人の前に、いかにも恥かしそうに、 「こんなもの、ほんとに、失礼なんでございますけど……」  というようなことをいって、焼きたてのサンマと、炊きたての飯の貧しい膳を、ささげてきたのだそうである。  それを食べて、友人は驚異的美味を、発見したのである。サンマとは、これほどウマい魚かと驚き、熱い飯とひどく調和することに驚き、少食の彼が、三椀を替えたというのである。 「腹がへってたんだろう」  と、私はヒヤかした。 「いや、おれは、滅多に、腹がへらない男なんだ。それなのに……」 「じゃァ、梢風の家は、目黒にあったんだろう」  落語の�目黒のサンマ�にかけて、私は、再びヒヤかした。事実、梢風の家は、目黒でなくても、そんな郊外だったので、結局、笑い話になった。  しかし、私は、その時のサンマは、ほんとにウマかったろうと、想像するのである。  サンマなんて、海から上ったのを、すぐ食べなければという魚ではないし、料理法といって、特にむつかしいことはない。煮物は上手でも、焼き魚は不得手というような奥さんもいるが、サンマだけは黒焦げにしても、食べられるのだから、技術を要さない。梢風の新妻も、べつに、苦心はしなかったろう。そして、大根おろしを添えるぐらいのことは、知ってたろう。  それに、来客のために、飯を炊いて、熱いのを出したのも、サンマと調和したのだろう。ウナギの蒲焼と同様、脂肪の多い魚には、冷飯は向かない。それよりも、私の友人は、話に時移るのも忘れて、空腹だったのも、知らなかったのだろう。  まったく、サンマなぞというものは、空腹を待つべきである。空腹美味論を持ち出さずとも、あの多脂肪の魚は、胃が健やかになる秋に、向いてるのだろう。  サンマの味も、形も、どう考えたって、高級な魚と思えない。また、値段も安い。でも、そこが、親しみと愛嬌を感じさせ、焼く時のモーモーたる煙りも、一脈の滑稽味さえある。  しかし、あの煙りに食欲を催すには、私の胃袋は、衰え過ぎた。秋になれば、一度ぐらい、サンマを食いたくなるが、なるべく、あのすさまじい煙りを、嗅がない距離を隔てて、焼いてもらう。  その点、イワシも同様で、夏から秋へかけて、味がよくなることを知ってるが、そして、塩焼が一番と、わかってるが、煙りは、閉口である。  ずっと以前に、私は、九十九里浜の片貝に、一夏を送ったことがあるが、イワシの名所であって、実に沢山獲れる。獲れたイワシを、砂浜の砂の中に埋めて、多量の潮水を、上からそそぐ。何のためかと、疑ったが、それは潮水の蒸発によって、砂中のイワシが冷却するので、短時間の冷蔵庫の役をするものとわかった。  それにしても、毎日、イワシばかり食わされて、私は、すっかり飽きてしまった。そして、イワシ網の中に混ってくるアジや、カレイや、その他の魚を物色した。それらは、どれも、ウマかった。  しかし、土地の人は、そういう魚に、見向きもしないのである。 「やはり、イワシですねえ。朝から食ってても、飽きないんですよ」  懇意になった、土地の呉服屋の主人が、そういった。  その時は、腑に落ちなかったけれど、後になって、わかるような気がした。片貝の人は、イワシの真味というものを、知ってるのだろう。イワシという一つの魚に限って、非常な食通なのだろう。他の魚では、その真味に、到達できないのだろう。  変ったものばかり漁《あさ》るのが、食いしん坊の道ではないと、思い当るのである。   熟  す  年の実りが、熟する時であって、ものを食べることの意味を考えたら、日本人にとって、これ以上の祝《ことほ》ぎはない。  私なぞは、都会生れの都会育ちで、米の成る木を知らない方で、収穫の喜びを云々する、ガラではないのだが、四国疎開の一年有半の間に、秋の�とりいれ�というものの意義が、身に沁みて、わかった。  私のいた地方は、半農半漁で、お百姓は麦と甘藷を常食とするくらいで、米どころというには、遠いのだが、それでも、山と山の間の平地には、水田があり、秋になれば、黄金の波を打つのである。  そんな地方でありながら、収穫の喜びは、実に神聖で、また、盛大だった。日本人が先祖代々、伝承してきた喜びの儀式が、あまり崩されないで、私の前に展がった。  秋祭りというのを、東京流に、神社の賑わう日だと思ってたが、参詣に行く人は少く、その代りに、町をあげて、祝い狂うのである。もっとも、その日、神様は神社にいないで、ミコシに乗って、町を巡廻するからかも知れない。東京のオミコシとちがって、面白半分に担ぐ連中は、一人もいず、エボシに白衣の姿で、町を駆ける。その声を聞くと、各戸の人が家の前に飛び出して、拍手し、合掌し、賽銭のオヒネリを投げる。  そして、獅子舞い、鹿踊り、ハヤシ屋台、歌舞と称する伎芸者、牛鬼という南伊予特有の巨大な怪物なぞが、絶え間なく、町を巡る。  音曲と騒音とが、平素は静かな町を、沸騰の状態にする。そして、各戸ともに、酒肴の用意をして、立ち寄った何人をも、 「まァ、一ぱい、やんなせや、お祭りじゃけん……」  と、座敷へ上げる。  土佐の皿鉢《さはち》料理と同型だが、ちょっと趣きがちがって、ここでは鉢盛料理と、名も変る。数個の大皿に、サシミや、スノモノや、口取りや、焼き魚、煮魚、巻き鮨、煮ウドンの類まで、盛り込まれるが、秋祭りには、菊の花が一輪、食べ物の中心に、插してある。終戦から二年目の頃だったが、物資豊富の土地で、カマボコも、卵焼も、皿を飾ってた。  私も、もの珍しさに、町の知人の家を、午前から、数軒歩いたのだが、どこへ寄っても�一ぱい、やんなせ�で、午頃には、すっかり酔ってしまった。  家へ帰れば、今度は、来客の対手をして、また飲まなければならぬから、酔いを醒ますために、町を流れる川の向う堤まで行き、木の下で、憩んだ。  よい天気だった。ほんとの秋晴れで、雲一つない。田圃は黄熟し、喜色を浮べてる。川の流れも、田へ注ぐ役目を終って、悠々としてる。そして、向側の町では、笛太鼓の音が湧き上り、牛鬼の竹ボラも混じる。一筋町の長い甍の連なりの下では、誰も業を休み、ヨソ行きの着物に改め、朝から飽食し、大酔して、敗戦の打撃なぞ、どこ吹く風であった。  正月でも、盆でも、雛節句の野遊びの時でも、町の人は、こんなに騒ぐことはなかった。秋の祭りが、町の最大の行事であることも、眼のあたりに知った。それは、決して、単なる神社の祭礼ではなく、米という大切な食べものを、今年も手にした、昔ながらの喜びが、彼等の血のなかで、踊るのだろう。南欧のブドー収穫の時には、今もって、陽気な祭りをやるが、それと同じことなのだろう。無論、神への感謝につながるのだろうが、東京の秋祭りは、少し忘恩である。この地方へきて、初めて、秋祭りとは、どういうものか、わかったのである。  それに、現在でも、この地方の人々の米に対する愛着は、都会人の想像に及ばない。米どころではないので、かえって、米を貴重に思うのかも知れないが、ご馳走といえば、飯を大食することだし、また、米飯料理の種類も多い。新鮮で美味な、魚介類の多い地方なのに、彼等は多種の副食物よりも、米飯料理一種の方に、喜びを示す。  ボッカケ飯というのがある。  人参、牛蒡、コンニャクを刻み、鶏とか、兎、キジ、山鳥なぞの肉と共に、東京の牛飯よりもやや薄い味つけの汁にして、飯にかけるのである。薬味は、ミカンの皮。ボッカケは、ぶっかけの意だろうが、見かけは悪いけれど、味は淡泊で、わりと食が進む。とはいっても、土地の人のように、十ぱいも食べることはできない。女でも、三、四はいは、お代りをする。  サツマというのも、飯料理であるが、これは、諸所で紹介されてるようだから、詳しくは述べない。白身の魚を焼き、身をほごし、骨も炙《あぶ》って、ダシをとる。そのダシで、味噌を溶き、冷汁にする。ほごした魚の身と混じて、飯にかける。薬味は、ネギ、ミカンの皮なぞを、用いる。サツマという名は、薩摩汁の変種の意味だろうが、薩摩にはない料理である。  その他に、三宝飯とかいうのがあった。  甘鯛のような魚の細づくりを、熱い飯の上に載せ、生卵のキミとゴマを主にした汁をかける。この飯料理が、彼等にとって、最高のご馳走らしく、特に珍重するようである。  とろろ汁や五目飯も、彼等の好物だが、麦とろというわけではない。麦飯は、ご馳走の部に、入らないのである。米飯のとろろだから、私たちには、しつこくていけない。  要するに、彼等は、比類のない、飯好きなのである。東北地方の米に比べると、遙かに味が劣るのであるが、前に述べた理由で、米が貴重であり、ご馳走となるのだろう。  南伊予の人々ほどでなくても、私だって、飯の好きな時代があった。今では、毎食一椀の少量に過ぎないが、それでも、米のウマさを感じる時がある。しかし、米のウマさは、そんな僅かな分量では、堪能できず、ある程度の大食が、必要らしい。それも、副食物を多くせず、よい海苔と、よい沢庵と、ウマい味噌汁ぐらいが、結構である。そんなおカズで、五はいの飯を食った時代の、遠く、なつかしきかな。  しかし、私なぞは、米の知識もなく、たまたま手に入った庄内米を、讃美する程度だが、友人のフランス文学者、鈴木信太郎君は、非常な米通で、その品種や産地のことに明るく、従って、ウマい米というものは、戦後、地を払ったことを、知ってる。彼が愛用した米は、東北地方産ではなく、東京に近い、越ケ谷あたりの農家が、つくっていたもので、甚だ収穫量が少いのだという。それは、彼の好事癖ではなく、江戸人のゼイタクな食味の遺産らしいが、戦争によって、まったく影を止めなくなったそうである。フランスあたりでもそうだが、戦後、パンもブドー酒もマズくなった。戦争は美味の伝統を、痩せさせ、元へもどるには、大変、時間がかかる。  新米の味を解したのは、壮年以後からで、都会生れの者は、ほんとは、飯なぞどうでもよかった。しかし、味を知って見ると、忘れられない。独特の匂いが、いかにも、新しい米を感じさせ、新穀感謝の念さえ、そそるのである。  パンも、ウマいが、米も、ウマい。そういう半日本人的味覚は、自慢にならないのだけれど、明治生れの運命として、甘受する外はない。ただ、半分は、米のウマさを知ってるから、古い日本人の気持もわかり、秋祭りの意義も、どうやら、同感できるのである。  パンといえば、私は四十年来、毎朝、トーストとコーヒーの食事を、続けているが、コーヒーの味は、秋口になって、引き立ってくる経験を、重ねてる。暑いうちは、ダメだというのは、味噌汁と同断である。といって、紅茶に変える、気もしない。         *  新米もウマいが、新ソバのウマさも、酣わな秋の恵みだろう。  ソバは、春にも収穫があるが、秋の方が、ずっと、味がいいのではないか。十一月というのは、ソバを食う月として、暦にでも載せたいくらいである。  新ソバの香りは、新米のような異臭でなく、幽かではあるが、何ともいえない、芳香である。爽かで、素朴で、田園無名の高士と接するような、感じである。あの香気がなかったら、ソバの魅力は半減するし、また、あの香気を愛するか否かで、ソバ好きとなるか、ならぬかの別れ目にもなる。  私は例によって、不勉強であるから、信州のソバ粉がいいのか、北海道産が優れてるのか、よく知らない。近頃は、ソバ粉も、中国だの、アフリカだの、飛んでもない国から、入ってくるから、産地を云々しても、仕方がないが、私にとって、いい匂いのソバが、最上である。  世にソバ通というものがあって、ソバの食い方をやかましくいうが、あれも、ソバの香りを、少しでも愉しもうとする工夫なのだろう。  ソバを噛まないことも、ツユを沢山つけないことも、匂いを消さない法に、適ってるのだろう。ソバの匂いは、どうやら、口腔の奥を通過する時に、発散するようで、丸呑み式といったって、少しは噛んでるにちがいないが、唾液のあまり混らない方が、美味なようである。  ツユも、あまりドップリつけると、匂いを消すと、思われる。それで、末端をツユに浸すだけにするのだろうが、私も、そうする方が、ウマいと思う。しかし、それを金科玉条にするのも、愚である。  昔の小咄に、ソバのツユを、沢山つけて、一度、食べたかったと、死に際にいう人の話があるが、無論、それは、食通のマネを笑ったのだろうが、私は、その笑話の作者は、あんまりソバが好きではなかったろうと、推察してる。ソバは、やはり、ソバ通方式でいく方が、合理的と思う。といって、ツユなしでソバを食うのが、一番だというのは、暴論である。  いつか、四万温泉に行った時に、奥の方の山の湯で、ソバを食わせる旅館があると聞いて、秋の午後の山道を歩いた。ひなびた、静かな宿で、きっと、うまいソバを食わせるだろうと思って、二階へ上った。  ところが、ソバを打つ職人が外出したという。私は、大いに落胆したら、女中が気の毒がって、ソバがきでよかったら、自分がこしらえるという。仕方がないからそれを頼んだら、やがて、大丼一ぱいの大量を、持ってきた。  私の家では、あまり、ソバがきをやらないので、これは、もてあました。そして、酒を飲みながら、サカナのつもりで、少し宛、口ヘ入れてるうちに、いつか、全部、食べてしまった。それほど、ソバがきがウマかったわけでもない。ただ、ソバの匂いが、とても高く、それに釣られて、食べてしまったのだろう。  その後、私は、よいソバ粉を貰った時には、ソバがきにするのを、常とするようになった。見た眼は、汚らしいが、不手際な素人ソバを打つより、気がきいてる。そして、あれは、ひどく、消化のいいものらしい。  とにかく、私にとって、ソバは、ありがたい食物なのだが、東京のソバの水準が、戦後、ガタリと落ちてしまったのを、悲しく思う。昔は、場末のつまらないソバ屋でも、タネモノはダメとしても、カケなぞは、一応、食える家が、多少あった。庶民の一時の腹ごしらえに、ソバ屋ほど適当なものはなかった。私が最初に外国から帰った時に、ソバ屋へ入るのが、愉しみで、入っても、カケばかり食べた。名もないソバ屋では、カケを食うのが、一番だろう。  そのカケが、ひどくなった。ソバ粉なぞ、全然使わず、コンニャクの粉のソバを食わせるソバ屋があるというから、驚き入る。ソバ粉の払底と値上りが、ソバを堕落させたのだが、庶民も、ソバを見放して、シナ・ソバの方へ、親しんでしまった。その失地回復は、もう、見込みがあるまい。  戦後、ソバ屋がシナ・ソバを始めたことが、堕落の理由だというが、私は、関東大震災後、ソバ屋で天丼や親子丼を、商うようになったのが、第一因だと思う。ソバだけでは、儲からなくなったのだろうが、飯類に手を出すようでは、ソバに自信を失ったのである。その頃から、根底が揺らぎ、戦後の大荒れで、一たまりもなかったのだろう。  今では、東京で四、五軒の名店が、ソバを食う満足を与えてくれるが、ソバ屋なんてものは、道を遠しとせず、というべきものではあるまい。パリのキャフェのように、どの町にも、一軒あり、行きずりに飛び込んで、大して腹も立てずに、出てこれる、というようなことを望むのは、時世に反するのか。         *  大根が太くなって、晩秋。  昔は、十一月に初霜が降りて、畑の黒い土から、肥えた大根が首を出し、青い葉が、少し萎れたりするのを見ると、とても、日本的風景を感じたが、近来、陽気がおくれてきたし、近郊の農家も、土地の値上りを待つ間に、まァ大根でもつくって置こうという量見らしい。  しかし、関東の大根は、それほどマズいものではない。ちょっと、味に癖があり、大根臭さが強く、火の通りも悪いが、そこが、特色である。輪切りにして、水に放つというような、食い方をすれば、関東産が随一だろう。  それにしても、大根というものは、日本の食物として、不思議な重要さを持ってる。大根なんて、明日から無くなってもいいという、若い人は多いだろうが、まァ聞きなさい。大根ほど、日本的な味わいを持ってる野菜は、少いのである。そして、日本ほど、大根の食べ方の研究が、進んだ国もないのである。  フランスあたりにも、大根はある。しかし、料理は、スープ煮にして、ドミ・グラスかなんかで、食べるだけである。中国料理も同様、肉と共に煮るとか、炒めるとかする、程度だろう。大根の真味を生かした食べ方とは、思われない。  日本の大根の食法で、天才的なのは、タクワンだろう。あの食法の創始者、沢庵和尚という人は、シナあたりのマネをしたか、どうか知らないが、よほど、食物知識の優れた人にちがいない。大根という無味な野菜を、糠と塩の簡単な加工で、あれほど深い味を、ひき出すというのは、大した発見である。よく漬けられたタクワンの食べ頃の味というものは、やはり、この世のウマいものの一つである。末世の昭和商人が、有害着色料やサッカリンを用いて、世にもマズいタクワンを製造するのは、沢庵和尚の責任ではない。  もっとも、タクワン嫌いという若い人も、ずいぶんいる。外国人がタクワンの臭気を嫌うように、若い人も、鼻をつまんだりする。でも、臭気の強いチーズ、カマンベールの類なら、平気だという。しかし、どうだかな。タクワンも、カマンベールも、同質の味であり、両方ウマいと、感じなければ、超日本的味覚の持主と、いえないだろう。  しかし、タクワンは嫌いでも、べったら漬なら食べる、という人もいる。私なぞは、そうでもないが、秋が深くなり、お酉さまとか、べったら市とかいう行事の始まる、日本の季節感は好きで、それを味わう意味で、べったら漬を食べる。しかし、副食物としてよりも、厚く切ったのを、熱い番茶で、間食にするのは、悪くない。  私は、漬物のことを、よく知らないが、以前は、べったら漬を浅漬といい、その他に新タクワンと呼ぶものが、あったと思う。べったら漬ほど、甘くなく、おカズとして、適当だった。近頃、新タクワンをといって、買いにやっても、べったら漬のことですと、八百屋さんは、取り合ってくれない。  私は、子供の時から、タクワンは好きだったが、煮た大根は、どうにも、口にし難かった。微かな苦味と、特有の臭気が、堪えられなかった。肉類を煮た場合に、辛うじて、食べるに過ぎなかった。  しかし、二十代の半ばを、過ぎた頃から、風呂吹き大根の味を、覚えた。そんな年齢で、フロフキの味を、知るなぞ、ナマイキであるが、偏えに、酒をたしなんだお蔭である。飲酒の癖も、マイナスは多いが、それによって、食べものの幅も、味の深さも、啓明されたことは、明らかである。ことに、日本の料理は、酒を味わう舌によって、そのウマさを知る、因果関係があるようだ。酒量の多寡は、問題ではないが、酒に始まって、飯に終る順序に適うように、日本の料理は、できてるのだろう。私も、晩酌を始めるようになってから、急に、食べ物に対する眼が開け、従来マズいものと、きめてたものが、ウマいものの部に入るようになった。  フロフキなぞも、その一つだが、これは、母の縁辺に、フロフキの名人のいたせいもあろう。その人は茶人で、三河の国に住んでたが、非常にウマい、フロフキをつくる。一つには、三州味噌のいいのが、あるためだろうが、そればかりではないらしい。その人の直伝で、母がつくったが、それで、味を覚えた。夜寒の始まる頃に、熱いフロフキの純白の輪切り大根と、黒い味噌のトロリとした味は、絶妙であって、その時分から、私は日本料理の価値を、知るようになった。  やがて、中年になって、煮た大根の味も、解するに至った。最初は、鴨だの、猪だのの肉と、煮たのが、よかったが、次第に、カツブシだけの方を、好むようになった。その方が、大根の味が残って──つまり、大根臭さが消えず、それをウマいと思うようになったのだから、ほんとの大根好きになったのだろう。  そのうちに、最も大根臭い、キリボシまで、好物になった。キリボシの煮つけなんて、子供の時に、母親に食べさせられ、泣いたものだが、それがいうべからざる滋味を、感じさせるのである。ウマい、マズいなんていったって、アテにならない例である。  秋更けると共に、菜もウマくなる。  ホーレン草、小松菜、白菜──皆、味が出てくる。ナッパというと、日本の粗食の代表だが、新鮮なものを、あまり手をかけない料理で食えば、ずいぶん味がある。ただ、都会人は、イキのいいナッパが食えないのが、気の毒である。だんだん、人間が食いしん坊になっていくと、都会の狭い庭に、石を置き、松を植えるよりも、ささやかな畑にする必要が、切実に考えられるだろう。都会人こそ、新鮮な野菜を、要求するだろう。  白菜というものは、昔の日本になかった。私がその味を知ったのは、大正年間に、韓国の平壌で、名物の牛肉と共に、スキヤキの鍋に用いられた時だった。白菜と、あの地方独特のフィレ肉の味が、よく調和した。香の物の朝鮮漬にも、出てきた。私は異国味を感じたのだが、爾来五十年、日本で最もありふれた野菜に、なってしまった。  ホーレン草は、パリで、ずいぶん食った。ポタージュや、バタいためで、食べるのだが、パンによく調和した。ホーレン草に似た、スカンポのような菜も、よくお目にかかったが、この方は、アクが強かった。  日本の菜の料理には、ゴマを用いたものが多いが、脂肪を加えることによって、味が生きるからだろう。私は中国人の飯店の経営者に、惣菜料理をと頼んだら、山東菜の植物油いためを出され、非常にウマいと思った。また、台湾の前大使に、招かれた時も、公邸の食堂で、何かの菜のシンだけを選び、いためたものが出たが、美味であり、且つゼイタクな料理と、聞かされた。 �おひたし�というものを(私は好きではないが)、日本の女性は、わりと好むのは、ヨーロッパの女性が、生サラダをよく食うのと、一脈通じるのだろう。単なる美容食以外に、何か、生理的、心理的な要求なのかも知れない。ことによったら、女性というものは、根は気が優しくて、殺生を嫌い、菜食主義者ではないのか。血の出るビフテキなぞ、美わしの女神たちの食物ではあるまい。   鍋  冬が始まって、ものがウマくなるというのは、日本独特の現象ではないのか。霜が降りると、味を増すのは、菜類ばかりではない。年を越して、寒に入ると、寒ブリだの、寒ブナだの、魚までウマくなってくるというのは、どうも、不思議である。  初夏の食べ物も、悪くないが、私なぞは、冬を感じる魚菜の方に、心を惹かれる。老人と冬は、ウマが合うのかも知れない。食物に味が乗るばかりでなく、何か、心が落ちついて、静かに、ものを味わうことができる。  十二月の声を聞いて、卒然と食べたくなるのは、まず、フグである。フグ料理店は、十一月から開業するが、やはり、冬景色になってからの方がいい。第一、橙が大きくなる。橙とフグの関係は、マグロとワサビ以上に密接である。  私は鮎の次ぎに、フグが好きだから、毎年、季節を待ちかねるのだが、いつ頃から味を覚えたのか。フグは江戸時代の繩のれんの食べもので、明治になってからも、下賤食だったし、私の家では、フグの毒を怖れ、食うべきものと、思ってなかった。ほんとは、東京の繩のれんのフグは、ショーサイ・フグで、無毒のものだったが──  私ばかりではない。東京で一般人が、フグを食べ出したのは、大正の欧州戦の好景気頃で、築地に�佐久間�という店ができた。下関のフグを、現今の形式のように、いわゆるフグ・づくりの刺身とチリ鍋のセットにして、商売を始めた頃からだろう。でも、その店は、実業家なぞが、珍しがって、出かけるので、貧書生は、近寄れなかった。とにかく、フグの刺身というのは、それまで東京では行われず、繩のれんのフグも、フグ鍋に過ぎなかった。そして、下関風のフグ料理は、中毒しないという評判が、驚異的だった。  私がフグの味を知ったのも、その時代だった。私の渡欧は、大正十一年だが、その前年あたりの晩秋に、亡父の郷里大分県中津に、病いを養ってる伯父を、見舞ったことがある。  私は一週間、伯父の家に滞在したのだが、その間、毎晩、フグを食わされた。といって、チリ鍋であって、もし、刺身を出されたら、私も思い切って、箸をつける気にならなかったろう。  それにしても、初めてフグを食うのに、それほど躊躇を感じなかったのは、食いしん坊の生れにちがいない。そして、食って見ると、実にウマい。こんなウマい魚は、食ったことがない。木下謙次郎の『美味求真』にも、出てるように、あの地方は、フグの本場である。あの附近のフグが、下関の名店に、集まるのである。  最初の晩食って、翌朝、無事で生きてたので私は、一度で、味をしめてしまった。それで、伯母に、他の何の料理も出さないで、フグ鍋だけにしてくれと、頼んだ。今から考えると、どうも、危険な話だが、そのフグ鍋は、伯母の手料理なのである。フグをおろす時は、水洗いが大変らしいが、伯母も、その辺は心得てるのだろうが、家では、活きたフグしか買わないから、絶対大丈夫と、威張ってた。値段は、死んだフグの倍だそうだが、味もよく、中毒のおそれなしといってた。しかし、活きていれば、毒がないというのは、無論、妄断である。  伯父の家のフグ・チリは、今から考えると、フグ料理店のそれと、よほどちがってた。骨つきのアラなぞは、一切、用いない。普通の刺身状に、身ばかりを、厚く切るのである。それを、沸騰する鍋の中に、平ガナの�の�の字を書く要領で、回転させ、すぐ、ポン酢に漬けて、食べる。つまり、長く煮るな、ということらしい。  純白な肉の軽さ、ウマさ。木下謙次郎に形容させれば、�肉は清澄にして光輝あり、白玉の如く、味は嬌嫩《きようどん》にして、甘膩《かんじ》なり。所謂淡にして、薄ならず。肥にして、|※《こう》ならず�ということになるが、つまり、サッパリしてるのに、味が深いという意味だろう。  この頃は、誰もフグを食うから、味を説明したって、仕方がないが、とにかくウマくて、ウマくて、一週間、毎晩食って、飽きなかった。添え野菜は春菊と豆腐だが、それも全部食って、残りの汁に、飯を入れて、雑炊にするのが、酒の後の愉しみだった。一つには、ポン酢に使う橙が上等だった。あの附近は柑橘類の名所で、伯父の家は、古い武家屋敷だったが、その裏庭には、橙、仏手柑、ザボンの類が、枝もたわわだった。  伯父の家のフグ・チリは、恐らく、中津の武家の料理で、フグに中毒して死んでは、主君に申訳がないから、生食の刺身は勿論、皮や内臓には、手を触れないという結果を、生じるのだろう。近くの別府へ行けば、極めて危険な内臓も食う。刺身は、無論である。別府は、町人の町で、ウマいものなら、何でも食うのだろう。  フグ通に聞かせたら、中津の武家流のフグ・チリなぞは、勿体ないことをするといって、憤慨するかも知れない。あの絶味の白子なぞ、捨てて顧みないからである。でも、東京のフグ料理店を、食い慣れて見ると、骨ばかりのフグ・チリが、あじけなくなって、中津風のが試みたくなる。  フグの刺身は、東京で口にしたのだが、勿論、ウマかった。身も結構だが、皮だの、軟骨だのが、もっと好きになった。  ところで、一体、フグの刺身は、獲れてから何時間ぐらいたったのが、一番、美味なのか。普通、魚は活きたのを、すぐ食べるのが、最上とされてるが、フグは、その点、少しちがうらしい。『美味求真』にも、フグが腐敗しにくい魚であることが、書いてあるが、鯛なぞも、あまり新鮮なものの刺身は、硬くて、ウマ味がない。  死んだ�ふく源�の主人は、捕獲後十八時間が、食べ頃と称してた。あの主人は、典型的な九州人で、フグに一生をささげたような男だったから、その言を信ずべきだが、私の友人のフグ好きは、大分生れの福岡育ちで、活きフグに限るという。どっちに与みしていいのか。刺身の問題は、微妙だが、私の経験では、フグ・チリの場合に限り、鮮度高き方がいい。中津のチリに匹敵するものを、東京では、一度も食ったことがない。  私もフグは好きだが、東京のフグ料理の高級化は、ちっとも感心しない。フグなんて、下賤の食べものにして置きたかった。繩のれんの食べものを、金持ちが手を出して、高い値段にしてしまったのである。飛行機で、下関から取り寄せるようなことをしないで、近海のフグで、間に合わせたらいい。木下謙次郎に依れば、東海のトラ・フグは、バカにできない、逸品だそうである。         *  初冬に食べたくなるものは、フグに次いで、おでんである。  十二月になると、無性に、おでんが恋しくなるが、若い時とちがって、一人で出かけるのが億劫になり、誰か連れをと思ってるうちに、新年になると、もう誘惑を感じなくなる。どうも、近頃、おでん屋へ行こうといっても、快諾する男が、少くなった。おかげで、毎年、おでんを食いそびれてる。  そんなわけで、近頃、どこにウマいおでん屋があるのか、一向、不案内である。一説によると、おでんというものは、儲からないので、小料理の方へ身を入れて、おでん鍋をおろそかにするから、ウマい店なんて、あるわけがないという。それが真なら、悲しむべきことである。  おでんは、ウマいものである。フランス家庭料理のポ・トオ・フウは、おでんに似てるが、私はおでんの方が、好きだ。そして、両方とも、熱いうちに、カラシをつけて食べるが、おでんは家庭でやっても、どうも、うまくいかない。おでん屋を訪れざるを得ないが、行くに値いしない店が多くなっては、困ったものである。  昔の東京には、ウマいおでん屋が、二軒あった。一軒は、神田須田町の�丸銀�であり、他は新宿のムーラン・ルージュの向側にあった、�三角�とかいう店であるが、共に、現存せず。  丸銀の方は、東京風のおでんで、多町に青物市場があった頃だから、そこの連中を顧客とし、材料も吟味した。おでんなぞ、材料はどうでもいいと思ったら、飛んだことで、いいタネを使う店は、のれんを潜った途端に、匂いがちがう。豆腐、ガンモ、大根の類よりも、ナマグサモノの竹輪、スジのようなものを、名ある店から仕入れたのと、駄ものでは、すぐ匂いに現われる。従って、丸銀のおでんは、他店より少し高かったが、おでんなぞは、少し高い家で食った方が、トクなのである。  新宿の方も、材料はよかったが、ここはいわゆる関東だきで、関西風のおでんだった。恐らく、東京に進出した、最初の関東だきだったかも知れない。  関西風の薄味おでんは、最初は馴染めなかったが、酒を飲むには、この方が好適と、思うようになった。ことに、豆腐が、好下物だった。東京風おでんの豆腐は、焼豆腐だが、関西風では、生豆腐を用い、少し味のついた湯豆腐のような、煮え加減のを、カラシでなく、ネギの薬味で、食わせた。しかし、ガンモや芋は、薄味でもいいが、コンニャクは、東京風でないと、頼りなかった。  一体、おでん燗酒の趣味は、東京的であり、その証拠に、関西でも、関東だきと称してるが、かりに、おでん文化というものありとすれば、今の時点では、関西に移ってると、思われる。  東京に、われこそはという店(丸銀のような)がなくなったが、大阪には、�たこ梅�が健在である。この店は、幕末以来ののれんを、誇ってるが、おでんで売った店なのか、それとも、独特の煮物のタコを、看板としたのか。とにかく、現在は、両方を食いに、客がくるのだが、他には、何もできない。しかし、明石産の中型のタコを、ここよりも味よく、柔かく食わせる店は、大阪にもないだろう。ただ、おでん鍋には、タコを入れない。おでんの味を出すのは、鯨の乾したアブラミの「コロ」らしいが、これは、ちょっと臭いけれど、慣れると、いうべからざる魅力となる。それから、東京なら、里芋か八つ頭を用いるところを、ジャガ芋である。私は、これは、感心しない。しかし、ガンモでも、練りものでも、いいものを使ってる。そして、酒がいい。錫の大徳利から、錫の大グイ飲みに、注いでくれるのだが、実に満ち足りた飲み心地に、誘ってくれる。  この十数年来、私は大阪へ行くと、必ず、�たこ梅�の軒をくぐるが、数年前までは、先代のオヤジが、生きてた。曾我迺家五郎のように、ズングリした、典型的大阪人体躯で、一切、客と口をきかず、黙々として、カラシを溶いてた。この男が、何かの折りに、私に話しかけた時には、同行者が、奇蹟が起ったといって、笑った。爾来、仲よしになって、セガレが東京へ出る時には、タコを届けてくれた。そのうちに、オヤジは中気になり、臥床したが、何という執念であるか、自宅へは帰らず、タコとおでんの匂いのする店の一間を、離れようとしなかった。三年ほど前、大阪へ行った時に見舞ったら、元気ではあったが、ロレツが廻らず、好色の話らしいことを始めても、意味が通じなかった。それから間もなく、オヤジは他界したが、彼の私に残した印象は、極めて強烈で、私が大阪弁に堪能だったら、一度は、彼のことを、作品にしたかも知れない。 �たこ梅�は、大阪の誇りになるおでん屋だが、その他にも、北のお初天神の近くに、優秀な店があるらしい。また、京都にも、一軒、よい店があると、聞いてる。それらの店は、材料を精選するのみならず、できる限り自製すると聞いたが、優秀おでんの秘訣は、その辺にあるのだろう。現下の東京に、それだけの心がけの店が、ありや、なしや。  しかし、寒夜の路上から、おでん屋の店内に入った時のあの匂い、そして、鍋前でつつましく、酒を飲んでる客——その雰囲気は、私にとって、若い時から、無上のものであり、他のどんな種類の飲食店にもまさった。所詮、私は貧乏性の生れなのだろうが、下司の味を知って、不幸と思ったことは、一度もない。  ああ、今年もまた、おでんが食いたい。         *  私の貧乏性は、近年、馬肉鍋の味を知るに至って、極限に達したが、老人の肉食として、これ以上のものはない。しかし、馬肉のことは、他所でも書いてるから、ここでは触れない。  冬の食いしん坊は、どうしても、鍋料理に尽きる。本来、鍋からジカに食事するのは、下司の習慣とされた。確かに男子の品性を、養う所以ではない。  私が子供の時に、母親が牛鍋をしてくれると、大喜びだったが、牛肉は、せいぜい百匁しか買わず、それを一家で食うのだから、骨肉相食む事態も起きてくる。 「兄貴、肉ばかり食ってやがらァ」  と、弟から、痛烈な糾弾を、受けた。私としては、食いたくもないネギや豆腐にも、手を出してるつもりなのだが、やはり、度数が少くなるのだろう。大勢でスキ焼を食うエチケットというものが、要求されるわけだが、一方、弟と肉を争った時代が、ひどく懐かしく、品性の下落も、ものかはである。  鴨のスキ焼を食べるようになったのは、もう、初老の頃だったから、箸の合戦を闘わすこともなかった。私の家では、いわゆるお狩場焼にするのだが、鴨には合ってるようだ。もっとも、スキ焼の鋤《すき》の語源は、きっと、お狩場焼の鍋の形から、きてるのだろう。  私がお狩場焼を知ったのは、宮内庁の御猟場に、招かれた時だった。自分の網で捉えた鴨を、あまり風情のない食堂で、お狩場焼ということになってるのだが、ほんとのところ、自分で獲った鴨か、どうか、疑問である。獲れたての鴨は、あまりウマくないから、数日前の獲物かも知れない。  御猟場の鍋は、やや大型で、鉄の質もよく、絶対に焦げつかない。生醤油をかけた鴨の肉と、ブツ切りのネギだけで、それを鍋に入れて、あまり焼け過ぎないうちに食べる。単純といえば、これほど単純な料理もない。しかし、味は、結構だった。お酒(日本酒)も頂いたが、制服のお役人のお酌は、何だか、おかしかった。  その時、ちょっと聞いた話だが、御猟場でご馳走になる場合に、モツを頂きたいというような通は、断じて、列べるものでないらしい。モツなぞというものを、招客に出すのは、非礼になってる。といって、捨ててしまうわけではなく、鴨を料理する係員の役得となるらしい。その秩序を破るような注文は、避ける方がよろしい。  私は鴨が好きで、鴨の臭気も、嫌わない。あまりサッパリした鴨は、食ったような気がしない。一昨年だったか、宍道湖の鴨を貰ったが、これは、脂の乗り工合も、臭さも、満点だった。         *  鴨で思い出すのは、パリの銀塔亭《トゥル・ダルジャン》である。遠い昔から、パリにくる日本人は、そこの鴨料理と、プルニエの魚料理へ案内される例だが、両方とも、日本向きといえるのだろう。  私が最初に銀塔亭へ行ったのは、四十年以上も前で、その頃は、世紀末風の建築で、店の空気も、食器類も、古風で、重厚だった。  そして、問題の鴨料理だが、まず、色よくローストしたのを、銀盆に載せて、受持ちのボーイが、見せにくる。こんな焼け工合で、いかがでしょうというつもりらしい。無論、客は頷くだけで、文句はいわない。  その鴨を、今度は、チーフ・コックが現われ、車輪つきテーブルの上で、料理して見せるのである。まず、鴨のテバや胸の肉をおろし、それから、ソースづくりにかかる。アルコール・ランプの上の銀鍋に、鴨の血や、香料や、数種の酒を加え、ソースをつくる。小脇に、ナプキンをはさみ、両手にスプーンとフォークを持ち、慣れといいながら、手順よく運ぶ動作が、ちょっとイキなものである。  そして、そのソースの中で、鴨の肉をちょいと煮て、席へ持ってくる。確かにウマい。肉の適度の柔かさといい、ソースの味といい、立派なものである。  そして、客の食べ頃を、見計らって、ボーイが、お代りを、聞きにくる。前に、腿の肉を食ったのなら、今度は、胸の肉はいかがと、いう風である。現在の私なら、一皿で結構だが、昔は、お代りを辞さなかった。  そのソースづくりをやるチーフ・コックは、私の最初行った頃には、有名な料理人で、劇作家のイプセンそっくりの顔つきだった。私は、イプセンに『鴨』という名作のあったことを、思い出さずにいられなかった。そして、帰る時には、銀塔亭で、紀念カードをくれるが、それには、貴下の食べたのは、開店以来何万疋目の鴨であると、番号が入ってた。  ところで、この鴨料理の鴨は、ほんとをいうと、ホンモノではないのである。合鴨《アヒル》なのである。もっとも、日本人が勝手に、鴨料理と呼んでいるので、銀塔亭では、キャナール(合鴨)と、メニユに書いてある。もし、鴨を用いるなら、キャナール・ソーヴァージュ(野鴨)と、正体を示すだろう。  しかし、野鴨を用いては、この料理は、店の看板にならないだろう。野鴨は季節だけしか、手に入らぬ鳥だし、また、形の大小もあり、商売がしにくいにきまってる。そこへいくと、合鴨には、そういう欠点がない。また、フランス人は、合鴨を珍重し、始めから、それを食うつもりで、銀塔亭へくるのである。鴨でなければ、季節の詩情を味わえないというわけではない。  この鴨料理(アヒル料理)は、銀塔亭の専売ではなく、名ある料亭では、よく見かけた。しかし、銀塔亭のが、ウマかったから、評判になったのだろう。そのウマさは、ソースからきたのだろう。日本の大食通北大路魯山人は、銀塔亭へ行って、ソースの代りに、持参のミソや醤油をつけて食ったそうだが、つまらぬことをしたものである。  しかし、銀塔亭も、改築以来、店内の空気も、食器類も、新しくなり、かえって、昔日の権威を、墜したようである。日本人やアメリカ人は、相変らず食べに行くようだが、フランス人は、あの値段なら、他の店を選ぶだろう。         *  さて、一年間、長々と書き連ねたが、なにが好きだの、かにがウマいのと、人に語ることが、あまり、意味のあることとは、思ってない。  一人で、自由に食ってれば、いいのである。 [#改ページ]  食 味 随 筆   米 の 味  米の味というものは、非常にうまいのである。  私は都会に生れたので、幼少の頃は、米の味がわからなかった。餅の味も、わからなかった。飯も餅も、なるべく食わない算段をした。  ところが、三十歳ごろ、フランスで暮らしてるうちに、ふと、米の味がわかってきた。  こんなに、うまいものなのかと、私は驚いた。  パリで米の飯を食わすところは、日本人クラブの食堂か、中国料理店なのだが、どちらも、あまり上等な米を使っていない。ことに、中国料理店の方は、粗悪の米であって、おまけに、蒸気でフカす炊き方である。日本から来たての人には、口にできないような代物だったが、それでも、私は結構うまかった。フランス料理店では、パンは客の自由に任せてるが、中国料理店でも、飯は山盛りにして、テーブルに出し放しだった。それで、私は、四杯ぐらい食べることもあった。  その習慣がついて、私は日本へ帰っても、よく飯を食った。朝はパンとコーヒーだが、午食に日本風の朝飯——ミソ汁と暖かい飯を食わないと、気が済まなかった。その時が、一番、米の飯の味を、うまく感じた。そして、いつも、三杯半を平げた。つまり、腹一ぱい詰め込む感じを愛した。  そんな習慣を、私は三十年以上、続けたろう。その間には、戦争があり、腹一ぱい詰め込むことが、困難となったのは、いうまでもないが、戦後はまた、午飯三杯半を続けているうちに、私は胃潰瘍になり、手術を受けた。  そういうと、どうも、私が米飯を大食した結果、胃病になったように、聞えるが、それは、事実無根である。同じく米に関係はあるが、酒の過飲が原因であることは、当人が身に沁みて、認識してる。  手術の結果、胃袋が小さくなった。少くとも、腹一ぱい飯を詰め込んだら、切って縫ったところが、ホコロびる恐怖があって、私が飯を沢山食わなくなったことは、事実である。  そして、戦後の新風潮として、米飯の蔑視が始まった。それを私は、一種の反米運動として、書いたことがあるが、米を食えば頭が悪くなるとか、栄養が不足するとか、学者が宣伝する一方、米の飯なんか、いつまでも食っているのは、野蛮であるというような風潮が、主として、都会人、知識人の間に、起ってきた。  私は、飯が沢山食えなくなったのだから、その風潮に、便乗すればいいようなものだが、因果なことに、その時分——初老に達してから以後に、特に、米の飯がうまくなってきたのである。外国へ行って、米の飯の味を覚えたが、今度は、それどころではない。実に、うまくて、うまくて、最上の美味としか、思えないことになった。  そこで、私は、米の飯に対する考えを、変えることにした。つまり、それを、主食と考えないのである。おカズと考えるのである。こんな、うまいものを、主食としたら、大変である。米の飯は、美食の一つとして、少量を摂取すればよろしい。口舌を陶酔させる食物と、考えればいい。  そのようにして、私は午食に一杯、夕食に半杯の米を食うことで、満足してるのだが、ほんとをいうと、もうちっと食いたい。でも、消化力の減退を考えると、そうもいかないのだが、美食として米を食う以上、飯のうまさを、あくまで味到できるような工夫が必要だと、思うようになった。  それには、いい米をうまく炊いて、飯の味を最大限に生かすおカズを、選択することである。  ここで、困難なのは、いい米の入手である。供出制度の悪弊で、農家は量産のきかない米をつくらない。いい米とは、少ししか穫れない米なのである。でも、量産米のうちでも、多少の格差はあるから、比較的いい米で我慢して、炊き方も、薪だの、カマドだのと、面倒なことをいわない。ガスで結構ということにする。  それで、普通に炊けた飯を、さて、何で食うか、というところに、問題がある。  スキ焼がいいとか、マグロの刺身がいいとか、天丼、ウナ丼という説も、あるだろう。  そのどれも、米の飯によく合うのは、わかってるが、でも、飯の味を主体にして、それを最大限に生かす、という食べ方ではない。  まず、ミソ汁。これは、米の飯の伴侶として、欠くべからざるものだろう。これも、いいミソで、うまくつくらねばならないが、その次ぎには何となると、私は、漬け物を選びたい。  沢庵がいい。だが、ほんとにうまい沢庵を、店舗で買うことは、もう不可能である。農家の自家用でも、分けて貰う外はない。しかし東京へ持ってくれば、味が変ってしまう。  われわれに可能なことは、わが家のヌカミソに頼ること以外にないが、何が最も適当かとなれば、ナスを推す。  ナスは季節の制限を受けるのが、残念だが、いいナスを、うまく漬けることができたら、これは、米飯の味を生かす最上のものとなるだろう。私の独断ではない。米どころのお寺の坊さんから、啓示を受けたのである。  ミソ汁と、ナスの漬け物と、それだけあれば、充分である。どうしても、他に一品というのだったら、良質の海苔ぐらいにしとく方がいい。そういう淡味で、簡単なおカズでないと、米の味は生きてこない。何しろ、少量の飯を、いかにして、うまく食うかという課題の下には、苦心を凝らさねばならぬが、私は上述の結論を得たのである。  もっとも、そんなものを食ってると、栄養の点で、医者から文句がくるだろうが、一向かまわない。年中、食うわけではない。真の美食というものは、毎日口にしてはならぬものである。  新米の出始めの頃には、まだナスもあるから、その時分に、ちょいと食えばいい。それでも、文句をいう医者があったら、ヤブにきまってる。   魚 の 味  私は子供の時に、決して、魚好きではなかったのだ。魚の臭いが、どうにもイヤであった。つまり、西洋人に似てるのだが、今の日本の子供だって、大体、同じである。今の子供は肉を好み、魚を嫌う。それでも、フライやバタ焼にすると、食うところを見ると、魚の味よりも、臭いを嫌うのだろう。  魚の臭いは西洋人にとって、よほど難物らしい。洋食のコースで、魚のナイフとフォークを別にするのは、その表れであるが、日本へきた彼等は、卵も、豚肉も、魚臭くて困ると、いってる。鶏や豚の飼料に、魚のハラワタなぞ用いると、魚臭を生ずるらしい。私たちには、気づかぬことだが、彼等は、ひどく敏感である。  それでも、パリあたりには、魚専門の料理店もあるから、彼等が、全然、魚の味を解さないとは、思われない。もっとも、そんな店へ行って、彼等の註文するものを見てると、カキだとか、エビだとか、魚臭の少いものが多い。  フランス人の家庭では、カトリック教徒の習慣で、金曜日が精進日であるが、精進といっても、肉を食わないだけで、卵や魚を食う。パリでは、魚は肉より安いから、主婦はこの日は、家族に魚料理を食わせたがる。それに悲鳴をあげるのは、子供たちである。母親に叱られながら、ベソをかいて、鱈のムニエールか何かを食べてる。よほど、マズいらしい。  フランスの子供が魚の次ぎに嫌いなのは、麺類であって、スパゲッチ、ヴェルミセールといったものの料理は、しかめ面をする。一つには食べにくいからだろう。でも、野菜類は、日本の子供より、むしろ好きである。野菜が好きなので、栄養のバランスがとれてるのだろう。  ドイツヘ行くと、魚を、食わず嫌いという人が多い。ベルリンは海が遠くて、魚を食う習慣がないのだろう。私はあるドイツ婦人が、パリへきた時に、食事に案内したが、その時に、エビのボイルを註文したら、気味悪がって、しばらく手を出さなかった。聞いてみると、生れて初めて、エビを食膳で見たというのである。ゼイタク料理店のショー・ウインドでは見たが、食うのは初めてだというのである。試みに、食って見ろとすすめたら、彼女は怖々、口に入れて、思ったほど、マズくないと答えた。  ベルリンにいる間、私は一度も、海の魚を食わなかった。でも湖や沼からとれた淡水魚は、古くないと思ったから、食べた。珍味だと思ったのは、ウナギの燻製である。ウナギといっても、丸太棒ほど太く、燻製といっても、ひどく油気の多いものだったが、それを輪切りにして、レモンをかけて食べると、なかなかの味であり、ビールの肴によろしい。でも、日本のカバヤキを考えると、ウナギの味を生かしたものとは、思えなかった。  西洋のウナギといえば、イギリスによい品物があるという。ロンドンの日本料亭の職人が、こんないいウナギは、日本にも少いといって、大変うまいカバヤキを、食わせたというが、英国人は、ウナギをシチューにして食うらしい。そして、日本人には、一向にうまくない料理らしい。  私がロンドンへ行ったのは、エリザベス女王の戴冠式の時だから、もう、日本料亭が廃業していて、カバヤキを食うこともできなかった。ウナギのシチューは、まずいにきまってるからこちらから敬遠した。  しかし、イギリスの魚で、絶対に、うまいものが、二つあるのを発見した。一つはドーヴァー海峡のソール(舌平目)であり、もう一つは、鮭の燻製である。  ソールはパリでも、相当のものが食えるけれど、鮭の燻製の方は、まったく他地に比を見ない。近頃は、日本でもやってるナマ燻製であるが、鮭が大きいのか、薄切りにした肉片が、大変なハバである。それに、レモン汁をかけて食うのが、一番うまい。また、肉の色の鮮かさも、食欲をそそる。戴冠式の済んだ頃に、日本の新聞の連中と、私室で酒盛りをしたが、その時の肴に、鮭の燻製を、誰かが買いに行った。五人分ぐらいで、邦貨一万円に相当したといって驚いて帰ってきた。今では、もっと値が上ってるだろう。それほど、高価なものらしい。  その時に、皇太子が陛下の御名代で、ロンドンに来ていたが、一度、日本大使公邸で、殿下に食事をさしあげる会があった。殿下は、ライス・カレーとスシが、お好きということで、料理番もその用意をした。スシの方は、マグロの代りに、鮭の燻製を厚切りにして、用いたということだったが、殿下も、列席者も、舌鼓を打たれたということだった。それは、マグロの代用というよりも、独特の風味があったからだと思う。とにかく、イギリスの鮭の燻製は、塩分が少いし、その上、あの美しい紅色を呈してるので、立派に、スシ用になると思う。銀座の高級スシヤさんは、真似をして、高価を要求したらいい。  でも、ヨーロッパに、マグロがいないことはない。そして、決して、マズいマグロではない。私はパリの日本大使館の夜食に招かれ、日本料理のご馳走になったが、日本を出てから、まだ一週間目ほどで、あまり和食の欲望を、感じなかったのに、マグロのサシミだけは、まったく美味だった。隣席の大使夫人に、そのことをいうと、地中海のマグロが、その頃(五月)には、シュンなのだという話だった。もっとも、本マグロではなく、キハダであったが、あんなにうまいキハダは、日本でも滅多に食えないと思った。  その晩の給仕は、男と女のフランス人ばかりだったが、代々の日本大使に仕え、和食のディナーにも、慣れてると見えて、日本酒の酌をしてくれる手つきも、上手なものだった。ただ、エンビ服を着て、お銚子を持つ姿は、よほど滑稽だった。  フランスのマグロのうまさは、その時初めて知ったのだが(もっとも、近頃は、日本の漁船が地中海まで、マグロ漁に行くようだが)フランス人は、あまり食わぬようだ。大体、フランスの魚は、日本よりマズいといえる。鯛なぞは、もっともマズいが、その代り、値段も安い。鱈の方が、少し高いだろう。でも、日本人は鯛好きだから、パリの日本料理店ではよく使う。シナ料理店でも、丸揚げなぞに使う。一時、大学街のシナ料理店で、鯛のさしみを出したことがあった。日本人の客が多かったからだろう。そのサシミは、いつも鮮度が悪く、それにシナ醤油を使うので、一向にうまくなかった。  フランスの魚で、日本に匹敵するのは、鯖であろう。鯖をムニエールにして、食うのだが、さすがにフランス人のことだから、食い方を心得ていて、ひどく熱いうちに持ってくる。熱いうちなら、そう魚臭はない。味もフランスの魚に珍らしく、小味である。  しかし、フランスの魚介類の中で、最上のものは、カキだろう。これは日本よりずっとうまい。第一、何ともいえない芳香がある。そしてカキの種類も多い。日本だって、種別はあるのだろうが、好みによって註文する風習はない。形の大小、肉づき、色が、種類によってちがい、従って、味もちがう。  秋が深まると、パリの料理店では、カキをメニユに加えるが、普通の店でも、三種類ほどのカキを用意してる。客は好みによって、註文するのだが、普通、一ダースは食う。最低でも半ダースである。カラつきの生ガキだから、一ダースだと、皿一ぱいになる。それに、レモンを絞って食べる。日本では、ケチャップだの、西洋ワサビだのを添えるが、私はレモンだけで食べるのが、一番うまいと思う。フランス人も生ガキにレモンはつきものと心得てる。そして、カキの身を食べてから、カラに残った汁を吸うのも、フランス人の習慣である。また、生ガキの時は、必ず、白ブドー酒の冷えたのを飲む。実によく調和する。  フランス人がカキを食うのは、生の場合に限るようである。ポタージュやグラタンに使う場合も、ないではないが、何といっても、生で食うのが一番うまいのを、知ってる。そして、カキ・フライというものは、絶対に、フランス料理ではない。カキ・フライは、どこの国から、日本へ伝わってきたのだろうか。  貝類で、カキに次いでフランス人が好むのは、カラス貝だろう。日本にもカラス貝はあるが、フランス産の方が小振りのようである。あれを、日本のシジミの吸物のように、スープで煮て、貝ごと皿に盛る。スープのコースの時に食べるのだが、貝の中の身を食べるのに、スプーンやフォークでは、役に立たない。女性も気取っていられないから、貝をつまんで、口ヘ持っていくのである。一体、フランス人は、イギリス人より、テーブル・マナーが寛大であり、ロースト・チキンの骨を持って、噛ったところで、不行儀にはならないのである。  フランスも南の方へいくと、ずいぶん貝を食べる。ハマグリを、生で食べるし、ウニなぞも賞味する。ウニもカラごとテーブルに出すが、カラをひっくりかえすと、裏側にトゲのない、白い場所があり、そこから小さいスプーンを入れて、身をすくい出す。無論、生であって、味も日本のウニとまったく変らない。  私は子供の時に、魚が嫌いだったと、前に書いたが、魚もなかなかうまいものだと知ったのは、中学二年生ぐらいだった。  その年の夏に、私の家では、片瀬と鎌倉の間の腰越の漁師の家を借りた。その頃は、片瀬も腰越も、まったくの漁村であって、旅館なぞは一軒もなく、海水浴客は漁師の家を借りて、一夏を過すのが例だった。  少年の私は、家族と共に出発するのが、待ち切れず、第一日の朝早くから、弟と共に漁師の家に出かけ、すぐ着物を脱いで、海水浴を始めた。ところが、午飯頃になっても、母親たちが到着しなかった。泳ぎの後で、腹は減ってるし、大いに困った。すると、漁師のおかみさんが、気の毒がって、午飯をこしらえてくれたのである。  それは鰈《かれい》の煮つけと、タクワンと、炊き立ての飯だけの食事だった。魚は嫌いだったから、イヤイヤ食って見ると、驚くべきうまさだった。魚とはこんなうまいものかと、驚倒するくらいだった。  私は空腹だったので、うまいと感じたのは、いうまでもない。しかし、決して、それだけではない。海からとれたばかりの鰈の味が、非常によかったからである。それを、少年の私の舌が、味わったのである。子供なんか、味がわかるものか、という人があったら、飛んでもないことである。現在、私の家にも少年がいるが、うまいものとマズいものは、実にハッキリと味わいわける。それより見事なのは、猫である。猫のくせに、魚の新鮮なもの、本場もののうまさを、チャーンと知ってる。いい魚の時は、食い方からしてちがう。  人間は本能的に、もののうまさを知ってるので、食通なぞが威張るのは、滑稽なほどである。うまいものは、うまいのである。ただ、本来の味覚が悪い影響を受けて、堕落することはあるが、それは人間が大人になってからのことである。  とにかく、私は腰越の漁師のおかみさんによって、魚のうまさを教えられ、それからは、魚の料理にも手を出すようになった。といっても、中年に達するまでは、肉類の方に魅力があった。中学時代は、肉と魚と、五分五分の嗜好だった。  でも、老年に達してからは、魚が主となった。一週間のうち、肉を食べるのは一回ぐらいで、後は魚ばかりである。味もうまいし、その方が、体の調子もいい。フランスに生れて、魚ばかり食わされたら、やりきれないが、日本に生れた恩恵を、感謝してる。  しかし、その恩恵も、東京に住んでたら、百パーセントに、受けられるか、どうか。私は海浜の大磯に住み、また、東京の赤坂に住む経験を持ってるが、魚を味わって見て、ずいぶん懸隔を感じるのである。  東京の魚を、一概に古いとはいえない。赤坂なぞは、ずいぶん良心的な魚屋があって、御用聞きが持ってくる品書きのものなら、全部が腐敗から遠いものと、いっていい。その上、大磯とちがって、日本の全国から集まってくる本場ものの数が多く、ヴァライティに富んでる。  しかし、味の点で、何か物足りないのである。例えば、サシミを註文する。マグロ、鯛、平目、カンパチ、シマアジ、何でもある。でも、私には、一人前がどうしても、食べきれない。何か一本、欠けてるものがあって、味が単調で、飽きてしまうのである。  ところが、大磯へ行くと、一人前をきれいに平らげるのである。しかも、魚の種類は、大磯の方が少く、かつ下魚である。土地の漁師が土地の海でとってくるのだから、本マグロなぞはない。せいぜい平目ぐらいだが、赤坂の魚屋の平目と、まるでちがう味がする。その他、イナダとか、ワカナゴとか、価格の安い魚のサシミだって、なかなかイケる。  私は大磯へくると、土地の魚しか食わないことにしてるが、アジだって、サシミにして食うと、初夏の頃は、実にうまい。その他、何でもサシミにして貰って、食って見る。エチオピアとか、バクチウチなぞという奇名を持つ魚も、サシミで食った経験があるが、なかなか結構である。  その中で、最高の味は、ヤガラという魚である。体の半分がクチバシのような、奇型の魚だが、魚屋が中気の予防になるから、食って見ろというから、試みてみたら、非常な好味である。サシミにしてもいいが、チリがうまい。雪のような美しい身で、味は淡泊のうちに、滋味が深い。  私はヤガラなんて下魚と思ってたら、ある本を読んで、宮中料理に用いられる祝儀魚と知って、驚いたことがある。まず、大磯の海でとれる魚で、これが最高であるが、一年のうちに算えるほどしか、漁獲がない。土佐では、沢山とれるという話を聞いたが、一度行って、存分、食べて見たい魚である。  もう一つ、大磯の海の珍味は、カキである。大磯海岸は、岩礁の部分があって、そこで獲れるのだが、一種の奇型のカキである。普通のカキの十倍ぐらい大きい。そして、食べる時季も普通のカキとちがって、夏である。私も最初は気味が悪く、食べる勇気がなかったが、人に薦められて、酢ガキで試みた。磯の香が、非常に高く、なかなか美味だったが、何分、大きいので、一つ食うと、もう結構だった。まるで、柔かい鮑《あわび》を、一つ食べたような気がした。要するに、カキのバケモノであるが、冷蔵庫でよく冷やして、酢も冷やして、食べるのが、コツだと思った。そして、生で食べるのが、一番であり、一度、フライにして見たが、カツレツの感じになった。  普通の魚では、アジがうまい。ことに、五、六月ごろの大磯のアジ──小アジは、逸品である。酢のものにするのが一番だが、魚屋は、サシミにして、持ってくることもある。そのサシミが、大変うまい。もっとも、ワサビよりも、ショーガの薬味の方がいい。  ところが、そんなうまいアジがあるのに、大磯のスシ屋は、アジを使わない。わざわざ、他地の魚市場へ行って、コハダを仕入れてくる。なぜ、そんなばかなことをするのだと、スシ屋のオヤジに聞いて見たら、大磯の町の人は、アジなんて軽蔑して、食べてくれないのだという。それなら、私の家では軽蔑しないからといって、特に註文して見ると、やはり、うまい。小田原にはアジのスシを看板にして、流行してるスシ屋があるが、大磯のスシ屋は、一種の舶来品崇拝家なのだろう。  大磯のカンパチもうまいので、私は曾て『自由学校』の中で、それを書いたことがある。それからカマス、キスも、悪くない。以前は、キスがよほど獲れたと見えて、大磯の有名なカマボコ屋では、そればかり材料に使ってた。軽くて、独特の味があった。でもこの頃は、そうもいかないようである。私は大磯へくると、魚ばかり食ってるが、魚屋の持ってくる品物は、五、六種の場合が多い。私は土地で獲れた魚しか食わないので、どうしても品数が少くなる。昨日もアジ、今日もアジということもある。だから、細君に料理を変えて貰わねばならない。そして、冬になって海が荒れると、漁船が出ないから、魚が皆無という日もある。  それでも、私は大磯の魚が好きである。ここで、赤坂あたりの魚屋の持ってくる魚と、大磯の魚を比較せねばならないが、単に鮮度ということを問題にしたら、ほとんど変らないのである。しかし、東京の魚は、何かが欠けてるのである。  東京のいい魚は、漁場から氷詰めにして、冷蔵庫に載せられて、魚河岸へきて、それから、魚屋が店へ持って帰って、すぐ冷蔵庫へ入れるから、昔のように腐敗の心配はない。見たところ、ずいぶんイキがいい。それでいて、大磯で食べる獲れたての魚と、大変、味がちがうのである。  どうちがうかというと、匂いである。獲れたての魚を、生で口に入れると、いわゆる磯臭さとちがった、一種のいい匂いがある。あれが、東京の魚にない。その他、触覚の問題もあるだろうが、ただ硬ければ新鮮というわけではないらしい。  その匂いと、触感のよさも加わって、何か、魚の真味というようなものを、感じさせる。それが魅力なのである。  私も大磯にばかり住んでいた頃は、そういうことを感じなかったが、東京の生活をして見ると、ハッキリと差異を知るようになった。そして、その問題を、大変、面白く思うのである。  東京には全国の本場物の魚が集まる。  関西料理に使う魚は、飛行機で関西から送られる。九州の有明湾のムツゴローなんて魚でさえ、飛行機で送られて、一応の鮮度で東京人の口に入る。交通の発達と、冷凍技術の進歩のためである。従って、そういう費用のために、東京のいい魚屋の魚は高い。しかし、いくら高くても、ほんとにうまい魚が食えるのだったら、東京人は日本一の果報者なのだが、そうはいかない。  いくら金を積んでも、できないことだってあるのである。私が大磯で獲れたてのアジのサシミで、味わうような満足は、東京人には不可能なのである。やはり、海の近くに住む者だけが、海の幸に浴すことができる。それでいいのではないか。その代り、大磯には映画館は一軒もないし、ロクな本屋もない。不自由な生活は、我慢しなければならない。  誰も彼も、東京に集まる世の中だけれど、海浜に住む人が、魚の真味を味わう幸福を考えて、東京移住を見合せるという世の中になったら、面白いと思う。四面環海の日本では、東京への人口集中がよほど避けられると思う。  味覚の幸福を、それだけ尊重するようになったら、日本人も文化的国民の名に値いすると思われる。   菊印のマッチ  私の書斎の机は、大きいので、やたらに雑物を乗せてしまうから、時には、整理の必要を、生じてくる。  この間も、それをやったところが、書物の間から、一個のマッチが出てきた。マッチなぞというものは、日本では、非常に安価であるのみならず、タダでくれるところもあり、保存の必要はない。なぜ、そんなものが、机の隅に残ってたのか。もっとも、タダのマッチは、レッテルにある名前によっては、家人に隠匿しなければならぬ場合もある。それで、書物の間にでも、かくしたのか。  しかし、私の発見したマッチは無記名だった。それに、大変、上品なマッチである。普通型よりやや大きく、表面の一方は、センイを漉《す》き入れたアサギ色、もう一方は、同じ質の白い日本紙に、セピア色の線描で、一輪の菊花と葉とクキが、かいてある。多い余白の中央に、ポツンと、かいてある。  はて、どこで貰ったマッチかな。  店の名が、全然、書いてないというのは、変ったマッチであるから、私も、ちょっと、スリラー小説的興味を、起しかけたのであるが、すぐ消えた。  そうだ、それは、宮中のマッチである。  菊の花の画で、思い出したのである。といって、十六弁菊花ではなく、半分図案化した、菊の画なのだが、それでも、すぐわかった。ご紋章の方は、みだりに、マッチの札なぞに、用うべきではないのだろう。また、文字が書いてないのも、うなずける。まさか、天皇家とか、あるいは、宮内庁と印刷しても、妙なものである。いわんや、電話番号の記入のごときは、まったく無用である。  これで、無記名のナゾは解けたが、宮中にも、喫茶店やバーと同じく、専用のマッチがあるというのは、何かおもしろい。もっとも、宮中というところは、よく人をお招きになるから、お客がタバコを喫《す》う時に、やはり、マッチが必要だろう。ライターでもいいわけだが、宮中は、倹約と古風なことが、お好きだから、やはり、マッチということになるのだろう。  以上で、万事解決だが、どうして、そのマッチが、私の手にはいったかというと、これは、ハッキリしてる。先年の五月二十日に、前年に推薦された芸術院会員が、宮中で午餐を賜わったのである。私も、その末席を汚したのである。  その時に、タバコを喫う機会が、二度あった。賜餐の前と後である。控え室で、召された人が集まるのを待つ間と、それから、食事のあとの別室で、陛下や皇太子の前で、茶菓を頂く時とである。もっとも、陛下も、皇太子さんも、タバコはあがらないけれど、お招きを受けた人々は勝手に喫《の》む。なぜといって、小卓の上に、シガーとシガレットと、灰皿と、菊印のマッチが、出てるのである。喫んでいけなければ、そういうものは出してないだろう。それに、茶菓の席の空気は、予想したように、堅苦しいものではなかった。陛下も、笑顔をお見せになるし、われわれも、声を出して、笑うこともあった。  タバコの方は、銀の皿の上に、紙巻き二種とシガーが列んでる。紙巻きの一種は、口つきで、昔の敷島とよく似てるが、ご紋章入りである。つまり、宮中タバコであるが、あれは、あまりウマくないことを、私は知ってる。そこで、シガーの方へ手を出した。高いものの方を喫っては、悪いような気がしたが、こういうお振舞いの時に、遠慮するのも、臣下としてあるまじきことと考え、菊印のマッチで、火をつけた。そしたら、隣席の石川淳さんも、シガーに手を出したから、仲間ができて、安心した。  私は今日出海さんのように、シガー通でないから、どんなのがいいのか、見当がつかないが、宮中のシガーは、少しカラいような気がした。ことによったら、専売公社の製品ではないかと、思われた。食事の時のワインも、甲州産だった。  しかし、そのシガーに火をつけた時に、私は無意識に(ここが肝心であるが)マッチを、ポケットへ入れたにちがいない。私はよくタバコを置き忘れる癖があるので、すぐポケットへ入れることにしているが、その時は、タバコの箱というものがないので、きっと、マッチの方へ手が出たのだろう。そう解釈する外はない。そう解釈したいものである。少くとも、宮中のマッチを、一個、失敬する犯意のなかったことは、神明に誓ってよろしい。  それに、その時は、私も気がラクだった。その前年に、院賞受賞者として、お招きを受けた時は、慣例で、茶菓の席で、陛下に何か、申し上げねばならない。新受賞者に限って、高橋院長の紹介のあとで、自分の仕事について、何か、言上するのである。生来の口不調法者が、そういう運命に立って、実に狼狽したのであるが、その時は、その心配もなく、ただ、人のいうことを、聞いてればいい。従って、悠々と、コーヒーやタバコを、頂くことができる。コーヒーは、ドミ・タッスだが、なかなか味がいい。お菓子は蒸し菓子が出たが、これは、だれも食べない。帰りがけに、紙で包んで、ポケットへ入れてしまう。きっと、細君や子供に食べさせる量見だろう。  そして、家へ帰ってきて、ポケットのものを出して見ると、そのマッチがあった。わざわざ、坂下門を潜《くぐ》って、返却に参内するほどの品物ではない。といって、珍しいマッチにはちがいないのだから、クズカゴへ捨てる気にもならなかったのだろう。それで、机の隅に、いつまでも、放置してあったのだろう。  さて、そのマッチの処分法であるが、まだ湿ってもいないし、使用に堪えるのだが、風呂場の点火用というのも、適当でない。といって、家宝として保存というほどのシロモノでもない。  そこで、思いついたのだが、こういうものは、漫画家の横山隆一さんに、進呈するに限る。あの人は、少しでも変った品物なら、何でもコレクションに加えてくれる。パリのエッフェル塔のカンナ屑まで、大切に納《しま》っとく人だから──   醤  油  近頃の新聞に、アメリカで、醤油が大変賞用されると、出ていたが、私は驚かなかった。  今から四十年も前に、アメリカにいた私の友人は、雇入れた女中が、醤油の盗み飲みをして困ると、語ってた。それも、生《き》のままの醤油を、盗み飲みするというのだから、よほど好きだったのだろう。何か、醤油の味が、アメリカ人の舌に合うのだろう。  でも、フランス人だって、ずいぶん醤油の味を解した。パリのマドレーヌ寺院の近くに、世界の珍味屋のような店があり、そこで、二合ビン入りの醤油を、売ってた。値段は高かったが、小豆島製の醤油で、味はなかなかよかった。私たちはそれを、スキヤキにする時に用いるのだが、フランス人の友人でも、アトリエへくるモデルのような女でも、醤油の味を悪くいうものはなかった。  しかし、何しろ、値段が高いので、スキヤキをするにも、鍋の中へ醤油を入れず、つけ醤油にして食うことを、考えついた。鍋といっても、フライ・パンであるが、その中で、肉やネギ(日本風のネギも、ポアローといって、八百屋で売ってる)をイタめて、醤油をつけて、食うのである。この方が味もよく、醤油のウマさもわかった。ポアローの代りに、サラダ用のクレッソンにすると、大変ウマかった。フランス人も、それを好んだ。         *  日本の美点を、私はフランスで知ることが多かったが、醤油のウマさも、その一つだった。  醤油とは、よほどウマいもんではないかと、発見したのである。そして、故国に於ける醤油の濫費を、嘆く気持になったのである。  醤油の濫費の一例は、東京風の煮魚だろう。醤油に酒と砂糖をブチ込んで、サッと煮たのが、われわれが食べ慣れた煮魚だった。関西の人から見ると、野蛮な料理法にちがいない。関西出身の森本薫という劇作家は、そのような煮魚も、それから、ソバ屋のカケや種ものの汁も、気味が悪くて、食べれないといってた。彼は神経質で、関西の薄口醤油に慣れてるから、東京の醤油の黒い色に、堪えられなかったのだろう。  関東の醤油は色の濃いのが特色だが、それにしても、東京風の煮魚や、ソバの汁は、明らかに醤油過多であって、濫費といえるのである。もっとも、私は一概にそれらを、マズいものとは思ってない。その野蛮さに、味がないことはない。釣魚の料理なんて、生醤油で、獲れた魚を、船頭が煮てくれるが、決して、マズいものではない。また、ソバ屋のツユにしても、東京の客は、あれを飲まないことになっている。とはいっても、醤油の濫費という点になれば、一言もない。実際、東京人は醤油の使い方が、デタラメである。近来は、その上に、砂糖の濫費が始まったから、恐るべきことになってしまった。ことに、野菜は薄味でないと、自然の味を壊してしまうのに、わざと甘露煮のようなものをつくって、喜んでる。東京の惣菜料理は、もう野趣の面白さを失い、森本薫でなくても、その毒々しさに、面を背けさせることになった。         *  私なぞは年をとって、濃味を嫌うようになり、関西風の味つけが、口に合うのだが、醤油だけは、子供の時から慣れてるせいか、銚子や野田の濃い色のを好む。匂いも、関西風の薄口醤油より、好きである。といって、濃ければいい、というわけではない。刺身の醤油にしても、タマリというのは、好きでない。普通の関東の醤油がよろしい。  パリで覚えた醤油の貴重感は、今だに残ってるらしく、刺身にしても、湯豆腐、冷奴の類にしても、あまりタップリ醤油をつけると、どうもウマくない。いわんや、スシを食う場合なぞ、ほんの少量に限るようだ。  そして、パリで味を覚えたせいか、洋食類も、ものによって、醤油をかけて食べる。  といって、フランス料理のソース仕立てのものに、醤油はまったく無用である。みだりに醤油を用いたら、かえって味を損うだろう。  一番醤油の合うのは、ビフテキである。アメリカ人が醤油を好むのも、ローストするものに掛けてよく調和するのを、知ったからだろう。  私は家庭でつくるビフテキに、ウースター・ソースを用いないで、醤油にする。その方が、牛肉の味を生かすのである。  しかし、それは、べつに私の発見ではない。  明治時代の横浜に、インゴー屋という洋食屋(?)があった。オヤジは白髪頭のチョン髷で、ガンコで、それで因業屋の名がついた。無論、店は全然和風でナイフとフォークを使うに過ぎなかった。  この家の看板はビフテキだったが、それに醤油を使うことを、私は自分の眼で確かめた。というのも、座敷と料理場とが、障子一枚で隔てられ、子供だった私は、料理の出てくるのが遅いのを、待ちかねて、料理場へ覗きに行っては、チョン髷のオヤジに、叱られた。しかし、醤油を使う現場は見た。  ビフテキがすっかり焼き上って、皿へ移すちょっと前に、火の上のフライ・パンへ醤油を滴らせるのである。シューッと、大変な音がして、肉と醤油の混った匂いが、たちのぼる。いかにもウマそうな匂いで、忘れがたい。しかし、それで料理はおしまい。  恐らく、醤油を添加するタイミングに、コツがあるのだろう。それで、肉も生き、醤油の味も、生きるのだろう。とにかく、インゴー屋のビフテキは、ウマかった。添え野菜のフレンチ・ポテトも、ウマかった。  だから、昔の人が、チャンと、洋食に醤油を使うことを、知ってたのである。  ロースト・ビーフなぞも、ちょいと醤油をつけると、悪くない。しかし、ハムとは合わないようだ。  妙な醤油の使い方を、私はライス・カレーの場合に、常用してる。  ライス・カレーといっても、私の家庭でつくる普通のそれだが、皿に盛って出された時に、私は軽くティ・スプーン一杯ぐらいの醤油を、それに加える。それは、生醤油がいいので、煮たり、ダシを加えたものでない方がいい。そして、誰もライス・カレーを食う時のように、スプーンで混和して、食べるのが、妙に味が生きてるのである。米飯と醤油が、合性だからかも知れない。  国産のつまらないウースター・ソースより、醤油の味の方が、ある種類の洋食には合うことは、確からしい。新聞に出てたとおり、醤油が輸出される希望は、実現性があるといえる。  それにしても、外国人は東京人のように、醤油の濫費をしないだろう。醤油に限らないが、調味料に、悪女の深情けはいけない。   胡  瓜  胡瓜は、その色と、匂いと、豊かな水分とで、最も初夏らしい野菜だが、私なぞ、東京附近の胡瓜を見て、そう思うので、フランスの胡瓜は、バケモノのように巨きく、べつに季節感を誘わない。あんな大型は、フランスだけかと思ったら、四国へ疎開した時に、大変巨きいのを見た。九州あたりでも、そうらしい。  関東の胡瓜は、頃合いの形で、色が青く、イボが沢山ある。匂いも強いようだ。それを見ると、今年も夏がきたなと思う。盆の精霊棚に飾るのが、初物だった。ところが、この頃は、年がら年中、八百屋の店頭にある。胡瓜の初物とか、ハシリとかいうものは、もう存在しなくなった。つまらぬことである。生活の歓びというものを、わざわざ壊してる。   桃  人魚を食えば、若くなるとか、死なぬとかいうが、仙界の桃を食っても、同様の効果があるという。  しかし、人魚も、仙界の桃も、共に求め難い。第一、仙界なんて、どこにあるのか、誰も知らない。昔のシナでは、仙界のことが信じられてた。ほんとに、存在してたのかも知れない。  そういえば、桃という果実の感じは、多分に中国である。キャリホルニア産の桃の缶詰なぞ見ても、そんな気は起らない。現在、わが国で市販してる水蜜桃を見ても、一向、仙界の連想を誘わない。  でも、私の若い頃、まだ、日本種の桃を、売ってた。日本種といっても、シナから来たからだろうが、その形は、頭が尖り、割れ目が深く、紅と淡緑色の外皮を扮ってた。つまり、桃太郎の絵の桃なのである。しかし、果肉はガリガリして、水気も、香気も乏しく、決して、うまくなかった。形も貧弱で、値段も安かった。  そのうちに、天津桃というのが、店頭に列び始めた。これは、明らかに、シナ種であって、果皮も、肉も、濃いクリムソンで、形も大きく、日本桃より味がよかった。しかし、水分は少かった。  洋種の水蜜桃の出現は、その後であるが、私は十七歳頃に、四国へ旅行して、途中、岡山の駅で買った水蜜桃が、非常にうまかったのを、記憶してる。今でも、あの地方の白桃は、優れてるが、私の少年の頃から、栽培研究した賜物だろう。東京の附近では、茅ヶ崎が桃の産地で、ヨネ・ノグチ夫人の米人が、在住してる頃に、遊びに行って、帰りに、水蜜を一箱買ってきたことがあった。それも、昔の話で、今の茅ヶ崎は、家ばかり建って、桃園なぞは、まるで見当らない。  水蜜桃は、まことに結構であるが、食べる時だけの話である。見たり、感じたりする点では、昔の日本桃に及ばない。  日本桃を、もう一度食べたいとは、思わないが、形は美しかった。あれを器に盛って、飾りものにして見たい。青春を呼び返す効力も、少しばかりあるかも知れない。   心をこめたオカラ  近ごろは、おふくろの味ということが、流行文句になってるが、多くは結婚した男性が、そういうことをいうのである。  母親が幼時につくってくれた料理が、美味だったというのは、一つの母恋いであり、その母親がすでに亡い場合、一層、誇張の傾向をとる。  しかし、一面から見れば、多くの亭主が、現在、細君の料理に不満だという証拠にもなる。今の細君の家庭料理は、大体、婦人雑誌が載せる料理と一致し、洋風や中国風が多く、亭主は無意識のうちに、国粋運動を起してるのだろう。また、味つけの点でも、近ごろの家庭料理は砂糖味が強くなり、少し酒でも飲む亭主は、やりきれなくなってるのだろう。  昔、おふくろのつけた味は、今と大いにちがうし、料理法も材料も質素なもので、つまり、昔の日本の惣菜である。それが、懐しくなるのである。亭主というものは、本来、保守的であり、そういう傾向をとるのは、自然だろう。しかし、細君とのケンカは、免れない。まず、細君が初老の年になるまで、待つよりしかたがない。  私の細君は若くないから、彼女自身がおふくろの味を作り出すが、オカラの製法だけは、私のおふくろに及ばないようだ。  オカラなんて、かくべつの料理法を要さないが、オカラは煮るのではなく、煎るのだから、手間はかかる。三時間ぐらいは、気長に、煎らねばならぬだろう。急ぐと焦げて、臭くなるから、忍耐と注意が肝心。つまり、心をこめて鍋に向わねばならぬが、これが今の奥さんには、ニガ手なのだろう。  東京のオカラは、サラッとしたところが、身上であるが、この間、京都へ行ったら、有名な小料理屋で、オカラのオジヤのようなものを食わせた。何でも京都のほうが、料理は上だと思ったら、まちがいである。  手間をかけなければ、うまくない料理は、たくさんあるが、おふくろの味というものは、たいてい、そのような料理法から生れるようだ。   馬のウマさ  コーン・ビーフとか、牛肉ヤマト煮のカンヅメに、馬肉を使うといって、主婦連が怒ってる。業者の方では、牛肉のような顔をしたいのだが、規則があるので、精肉とか、ウマ肉とか表記してゴマかすのだそうである。  これは、滑稽である。はっきり、馬肉と書いたらいい。馬肉はウマいのである。業者は内容を偽る必要はない。主婦連も、そんなに馬肉を忌み嫌わなくてもいい。馬肉のヤマト煮なんか、きっと安くて、ウマいだろう。  もっとも、私が馬肉のウマさを知ったのは、近年のことで、それまでは、忌み嫌わないまでも、牛肉に比すべくもないものと、考えてた。まだ、三田の学生の頃、愛宕下に、安い牛鍋屋があるというので、友人と出かけたが、どうも味がちがい、二度目の時に、馬肉屋であることを発見した。しかし一人前八銭だったから、文句もいえなかった。  数年前に、ある雑誌社の社長に誘われ、吉原日本堤の古い馬肉屋へ行った時も、昔の記憶があるから、期待はなかった。食物に偏見を持ってはならぬ、というだけの気持で、同行したに過ぎない。ところが鍋の中のものを、二箸、三箸と、口に入れてから、これはと思い、今では、病みつきとなった。  そのウマさは、私が老人になったことに関係があるらしい。第一、肉が柔かい。そして、味が軽い。脂肪が少いせいだろう。もう牛肉のロースは、ホンモノの松阪産であっても、一、二片で、ゲンナリで、わずかにフィレのステーキの少量をもって、満足するほどの胃袋が、馬肉だと、軽く二人前いくのである。  一向、腹に溜らない。牛肉をあれだけ食ったら、翌日が大変だが、馬肉はよほど消化がいい。  老人に向く肉食は、犢《こうし》となってるが、日本は牛肉がウマいくせに、犢肉はさっぱりである。そして、料理もヘタである。これに反し、馬肉の方は、材料も、料理も、西洋より優れてるのではないか。フランスも、ドイツも、馬肉を売ってるが、安料理屋で食ったステーキは、革を噛むようなものだった。  しかし、日本堤の馬肉屋で食う鍋は、独特の風味を持ってる。淡にして、且つ滋味を伴ってる。老人の肉食として、これ以上のものはあるまい。世間でいう異臭なぞ、まるで感じない。また、肉に水分が多く、煮ると泡が立つという評判も、ウソである。材料の肉が精選されてるのだろうが、一つには、その店の自慢の味噌タレが、馬肉とよく調和するのだろう。味噌タレでないと、いい味が出ない。牛鍋風のスキヤキでは、何か頼りない。そして味噌タレが、やや煮詰まった頃のを、私は好むが、馬肉屋の姐さんの説では、生煮えが最上だという。  そういうところから、ほんとの馬肉好きは、サシミを珍重するのだろう。鍋を食う前に、薄く切ったナマの肉をショーガ醤油で、ウマそうに食ってる。馬肉には寄生虫も、結核菌もいないそうで、生食に適するのだろう。私の相棒の社長さんは、サシミを愛好する。スタミナ食の意味も、考えてるのだろう。私は、今のところ、鍋の方がいい。しかし、今度行く時には黒パンとバタと、黒ビールを持参してやろうと思う。黒パンにバタを塗り、ナマの肉をのせ、キャナッペにしたら、ウマかろうと思う。そして、黒ビールがきっと合うだろうと思う。  でも、味噌タレの鍋は、ことによったら、馬肉料理として世界最高のものではないのか。これから、雪のチラつく日なぞ、あの鍋の前に坐ってチビチビやる想像は、まことに愉しい。そして、馬肉屋の空気というものが、大変古風で、大変気を落ちつかせる。  とにかく、馬肉はウマいのである。難をいえば、食べながら、あの可愛い動物の顔がちらつくことだが、ウマいものを食うという大義の前には、何ほどのことでもあるまい。   馬  肉  今年は午《うま》年のせいか、馬肉を食えという議論が出てきた。モーターの普及で、馬が動力として用いられなくなり、競馬以外に人間の役に立たなくなったが、食肉としては、牛肉に劣らない栄養を持ってるから、大いに食えというのである。馬の身になったら、新年|匆々《そうそう》、エンギでもない。  私も学生時代にサクラ鍋を愛用したことがあり、近年では、諏訪へゴルフに行って、町の人にナマの馬肉を、饗応された。決して、まずいものではない。牛肉に比べると、ちょっとたよりないが、牛肉ではないと思って食えば、結構な味である。今でもそうなのだから、食用家畜として、品種や飼料の改良をすれば、馬肉奨励論者のいう如く、ずいぶんうまい獣肉になるだろう。  でも、何だか、可哀そうである。  牛や豚は、顔つきや体が人間に遠く、また、肉づきもタップリで、少し人間に分けてくれろという気にもなるが、馬の方は、万事スマートで、容貌も長い顔の人間に似てるといわれてる。そして、塩原多助の故事を持ち出さなくても、何か人情を解する如く見える。つまり、人に近い動物である。  その上、馬の歴史があって、源平の戦から日露戦争に至るまで、人間の戦いを助けた。大東亜戦争までは騎兵という兵科があった。運搬の方でも、トラックのない時代の引っ越しには、馬力という車に限られた。私なぞも何度かその厄介になった。  その馬を食うとなると、どうも困ってしまう。クジラで間に合わせては、どうだろうという気になる。  しかし、どんな理由があっても、馬は結局食われるだろう。食肉は不足してる上に、牛肉より安いというのが、運の尽きである。そして、日本の軍国主義に一役買ったから、懲らしめのために食ってやれという人も、出て来ないでもあるまい。   明治の京都  私が初めて京都へ行ったのは、算えて見ると、六十二年前で、日露戦争中だったか、私は中学一年生で、暑中休暇に、一人で神戸まで旅行して、途中、京都の親類の家に、泊ったのである。  京都で汽車を降りて、駅前へ出ると、何て、田舎くさいとこかと思った。その頃の京都駅は、平屋建てで、駅前に、ズラリと、人力車が列び、それが赤毛布の膝かけだったと思うが、夏のことだから、思いちがいかも知れない。  その車に、烏丸通り夷川上ルというところへ、やってくれといった。多分、暗誦してたのだろう。今でも町名を覚えてるから、不思議である。その親類の人というのは、日本画家で、父の従弟か何かだったか、私は会ったこともなかった。知らぬ土地の知らぬ人を、訪ねて行くのだが、一向に、不安がなかったのは、明治の冒険少年の心意気だろう。  実際、車屋はすぐ目指す家を見つけてくれたし、その家の主人は、二晩か、三晩泊る間に、私を親切に、京都の名所を案内してくれた。  といって、私は京都の名所に、何の興味もなかった。中学一年生に、古都を愛する趣味のないのは、当然だが、京都について知っていたことは、五条の橋で、牛若丸と弁慶が戦ったことぐらいだった。私は金閣寺と三十三間堂へ案内されたことは、記憶に残ってるが、まだ方々へ連れていかれたことと思う。しかし、どこへ行っても、つまらなかった。そして、どこへ行っても横浜から来た私には、田舎くさくて、閉口した。電車は走ってたと思うが、極く一部分ではなかったか。家並みが低く、どうも日本家屋ばかりで、洋食屋なんか、一軒も見当らなかった。  ただ一つ、東京も横浜も、敵し難いものがあった。夕涼みに、京極へ連れて行かれて、氷屋に入ったが、パノラマのような、ペンキ画の背景のある大きな店で、売ってる氷水の種類も、豊富だった。私は金時というのを食べたが、それは東京の氷アズキのことだった。容器も味も、東京や横浜より優れてた。  私は氷水屋だけに感心して、京都を去ったのだが、今から考えて見ると、あの頃の京都は、例のタワーもなく、四条河原町の東京化も始まらず、静かな京都だったにちがいない。京都人だけの京都で、観光客も少く、さぞかしよい京都だったろう。食べものや菓子なぞも、あの時分の方が、きっと、うまかったろう。その他、今ではもう消えてしまったものも、あの時分には、まだ残ってたろう。  私の泊った日本画家の家にしても、町中の門のない、紅がら塗りの二階家で、見たところは貧弱だが、奧が深く、そして、家の中がキチンとして、狭い庭に、樹や石が多かった。今から考えて見ると、一流画家でもないその人は、よほど快適な環境で、生活してたようである。  私は二階に寝かされたが、夏の朝早く、物売りの声で、眼を覚まされた。引ききりなしに、もの売りがくるのである。その中で、 「ノーリー」  と、いうのがあった。私は海苔を売りにきたのかと思って、家の人に聞いたら、糊だということだった。  糊なんか売りにきて、どうするのかと思った。その頃の京都人には、糊を必要とする生活があったのだろう。今の京都には、そんな呼び声も、聞かれないだろう。   神 戸 と 私  神戸には、中学一年生の時に行ったのが、最初である。  今から六十年も前の神戸だが、少年の私が一人で出かけた。べつに神戸に目的があったわけではない。東海道線を終点まで、乗ってみたかったのである。暑中休暇中で、途中、静岡や豊橋や京都の親類に泊り、最後が神戸だった。  神戸にも、親類があった。父の従兄弟の水島鉄也という人で、神戸高商の校長をしていた。住宅は、葺合の熊内というところにあった。とても一人では探し当てられないので、駅から人力車に乗った。熊内というところは、何か、埃っぽい日本家屋ばかり列んで、繁華という感じには遠かった。  水島家に二晩ぐらい泊ってる間に、私は一人で、布引の滝というのを見に行った。歩いて行ける距離だった。それから、夜に、湊川神社に行ったが、きっとお祭りだったのだろう。それは、水島家の書生が連れてってくれた。寂しい河原があり、松が生え、神社の境内には、カンテラをつけた露店が出ていた。そこも、寂しい感じで、神戸というところは、どこへ行けば繁華なのか、と疑った。  須磨、舞子へも、その書生君が案内してくれたが、晴れた暑い日で、とてもキレイな海水の中で、大勢の人が、泳いでた。私は横浜生れで、自然と、神戸と横浜を比較したが、こんな景色がよくて、海がキレイなところは、残念ながら、横浜にないと思った。ことに、舞子の松原が、立派に見えた。今とちがって、松と白砂と海とが、連結して、自然のままの美景と化していた。  その次ぎに、神戸へ行ったのは、中学五年生ぐらいの時で、今度は、花隈のM君という友人の家に泊った。すぐ向側が芸妓屋で、夕方になると、芸妓が肌脱ぎになって、お化粧を始めるのが、よく見えた。その印象が、一番強く、M君とずいぶん街を歩き回ったのだが、何も覚えていない。この時も暑中休暇で、大変暑く、やたらに氷水ばかり飲んだように思う。  それから、ずっと飛んで、青年時代に、フランスから帰ってくる時に、神戸で船を降りた。久し振りに踏む日本の土なので、ずいぶん昂奮した。同船の友人から、夕飯を誘われ、たしか�菊水�という家で、スキヤキを食った。日本酒がうまくて、やたらに飲んだ。いい加減酔って、夕方、三ノ宮から乗車する東京行きの急行に、危く、乗りおくれるところだった。  それっきり、神戸へ行かなかったのである。  なぜ行かなかったのか、べつに大きな理由はない。京都や大阪へは、よく行ったが、どうも、神戸まで、わざわざ足を伸ばす気にならなかったのは、恐らく食い物のせいだったかも知れない。京都の料理は、更めていうまでもないが、一時、私は大阪の食べ物——ことにゲテな食べものに、興味を感じた。もっとも、大阪の食べ物を知ったのは、拙作�大番�を書くために、調査に行ったのがキッカケだった。  そして、神戸の代表的な食べ物は、洋食と中華料理だろうが、どっちも東京と横浜で用が足りるので、気が進まなかったのだろう。         *  ところが、昭和三十四年に、私は読売新聞に�バナナ�という小説を、書くことになった。この小説の主人公は、台湾出身の華僑一家で、東京に住む連中なのだが、場面の変化の必要上、彼らの一族で、神戸に住む華僑を設定した。それは�大番�を書いてるうちに、曾て神戸に呉錦堂という中国人の大相場師のいたことを、知ったことも影響してたろう。  とにかく、私は神戸を書くために、更めて、その土地を調査に出かけた。東京から一人の記者が付き添い、また神戸支局の人も、調査に尽力してくれたのだが、神戸の華僑生活を調べる間に、私は例によって、食いしん坊の根性を抑えることができず、土地の人の話や案内書によって、ウマいものの所在を訪ねて歩いた。  すると、神戸の味覚というものが、儼然として存在するのである。京都や大阪に比肩するのみならず、現在の横浜なぞには求められない、特色ある店と味が、いくらもあるのである。  私は欣然として、食べ歩いた。といって執筆の調査を、閑却したわけではない。土地の食べ物を味わうことは、その土地を知る捷径であると、大義名分を立ててるのである。  まず私は、海岸通りの�キングズ・アームス�へ行った。そこでビールを飲み、ロースト・ビーフを食うと、ロンドンの裏町の小レストランへ行ったような気分になった。  また、元町へ行って、�青辰�のアナゴずしを食った。これは、非常な美味だった。ガンコそうな主人の態度が気に入った。  ハナワ・グリルという家にも行った。コンソメとビフテキを食ったが、大変結構だった。そういうものがウマく食えれば、コックの腕を信用していいのである。その上、この店は小さく、体裁を飾らず、グールマン向きにできてる。私は、そういう店が好きなのである。  それから、中華料理では�牡丹園別館�というところへ行った。味も悪くなかったが、値段の安いので驚いた。その他にも、中華料理は沢山あるらしいが、時間的に、そう何軒も廻れなかった。  しかし�デリカテッセン�という店へ行って、東京への土産を買うことはできた。ここのナマ作りの燻製の鮭は、イギリスで食べたドーヴァー産のそれを偲ばせた。  また�フロインドリーブ�という店へ行ってパンを買った。いい店と聞けば、すぐ出かけてみた。  パンやソーセージ類の専門店は、昔の横浜にもあって、それぞれ特色があったが、戦後は見当らなくなったので、私は神戸へきて、かえって昔の横浜を思い出した。  そして、最後には、加納町の�アカデミー�というバーへ出かけた。  バラックのような、貧弱な店で、ホステスなぞは全然いず、老いた主人が、一人でいるだけだった。そして、べつにお世辞もいわず、酒ビンを丹念に磨いていた。  私は、一度でこの店が好きになった。私は酒好きなので、酒を飲む時は、女性が不要なのである。そこで、東京で女のいないバーを探すのだが、戦後、まったく見当らない。�アカデミー�は私の理想のバーになった。         *  その他、元町の�※[#「几の中に百」]月堂�のコーヒーやアイスクリームの味も覚え、�ユーハイム�の菓子も、東京の同店よりも結構だと知り、一応、神戸の味覚に関することを、小説�バナナ�の中に書き込んだ。  すると俄然、私が神戸通である如く、買いかぶる人間が多くなった。 「神戸は、面白そうですね。一度、案内して下さい」  そんなことをいう人間が、出てきた。  そして、数年前に遂に、私は、神戸案内を実行せざるを得ない破目になった。  仲のいい新聞の連中二人と、私は明石の魚料理を食べに行くことになったのだが、その夜は、神戸のオリエンタル・ホテルに泊り、翌日は、神戸の食べ歩きという計画だった。  そして、おかしなことに、新聞の連中の一人は、神戸出身なのである。もっとも幼時を神戸で送っただけだというが、とにかく神戸人を私が案内することになったのだから、得意想うべしである。  まず、�キングズ・アームス�へ連れてって、アペリチーフを飲み、それから�青辰�という風に、こっちの知識は、一つ覚えだから、連れて行く先きは、きまってるのだが、先方は気がつかない。 「さすがに、よく知ってますね」  と、感心してる。  それに、神戸は東京のように、ダダ広くないから、方向オンチの私にも、どうやら道に迷わずに、案内できる。また、私の案内先きは大体、三ノ宮駅を中心として、そう遠くない地点だから、一層、始末がいい。  その時、好評を博したから、図に乗って、昨年の五月にも、神戸案内を敢行した。この時も、関西の取材を行い、神戸に足を伸ばしたので、同行者も、ジャーナリスト二人だった。しかし、案内した場所は、相変らず、ハンコで捺したような、同じ店ばかりだった。ただ、最後の仕上げに、夜更けてから、バーの�アカデミー�を訪れたら、もうあの老人の姿は見られず、元気のいい若い息子が酒を注いでくれた。   辻 留 讃  辻留のオヤジが、新刊の自著の本を、二冊持って、来訪した。 「また、出たんですか。これで何冊目になります」 「へ、へ。十二冊目です」 「それは、驚いた。立派な著述家ですね」  私は、卒直に、所感を述べた。  十二冊も、本を書けば、堂々たる著述家である。しかも、その著述たるや、誰にも書け、彼にも書けるというものではない。女と寝たとか、転んだとかいう小説なぞと、わけがちがう。  それなのに、オヤジさんは、しきりに頭を掻いて、 「飛んでもない……」  と恐縮する。  何をそんなに謙遜しめさるか。これだけ立派な料理の本を十二冊も書いたら、フランスあたりなら、勲章が貰えるかも知れない。  私は、辻留料理本の熱烈なる愛読者である。�茶懐石��包丁控�以来、私は実に愉しんで読んだ。いや、見た。見るべき本なのである。カラー写真が、まるで、名画の複製のように美しい。包丁の冴えと、盛り方の腕が、何とも美しい、単に美しいのみならず、食いたくてたまらなくなる。食欲をそそらない料理なんて、何の意味もない。辻留本を見ると、猛然と食欲が起る。そして、それぞれのウマさが、頭に浮んできて、しまいには、ほんとに食ったような気持になるのが、不思議である。  婦人雑誌の料理のカラー写真なぞ見ても、絶対に起らない現象が、辻留本を見てると、起るのである。つまり、想像的美食が、成立するのである。しかも、いくら食っても、腹に溜らない。胃弱の私には、もってこいである。  今度の�やきもの�という本が、たいしたものである。例によって、実にウマそうな料理が、美術館秘蔵の名器に盛られて、その調和と適合の美しさが、ウーンといいたくなる。最高の料理美の姿を、カラー写真が語ってる。そして、最高に食欲をそそるのである。実にこういう写真を見ると、文句なしに、懐石料理は世界第一の料理であることを、考えさせられる。最高のゼイタクであり、また、最高の食いしん坊料理であることを感じさせる。  しかし、私はちょいと別なことを考えた。  こんな最高の料理を、どこへ行ったら食えるのか。写真撮影の現場へ、行けばいいのか。それとも、銀座の辻留へ行けばいいのか、美術館秘蔵の名器を、ちょくちょく借り出せないのは、知れた話だが、かりにその幸運に浴せたとしても、銀座の辻留で、あの本の与えてくれるイメージを、舌が味わえるかどうか。  どうも、私は辻留本の読者で終る方が、幸福なような気がしてきた。あの本を見てれば、最高の味が求められるのである。何を苦しんで、銀座の雑踏にまぎれ、あのコンクリートの建物の中に入る必要があるのか。   麩まんじゅう  ふまんじゅう(麩饅頭)は菓子にはちがいないが、菓子屋ではつくらず、麩屋の製品で、本来は精進料理のデザートなのかも知れない。  しかし菓子として非常にうまいのである。ことに産地の京都で食うとうまい。鮮度を尚《とうと》ぶものであるが、京都の雰囲気の中で、薄茶と共に食べると真価を発揮する。京都の菓子も近頃は砂糖が効き過ぎるのだが、ふまんじゅうの甘さは、まことに頃合いである。  ふまんじゅうは、暖めて食べるのが常法だが、蒸し器で蒸しても、笹の皮が麩の皮にくっついて、なかなかうまくいかない。京都の人から、熱湯の中へ暫時浸すのがいいといわれ、そのようにしてるが、それでもやり損う時がある。  私の考えでは、麩屋へ出かけて、店頭で、できたのを食ったら、一番うまいのではないかと思う。  そんなことは、殺風景と思うかも知れないが、ふまんじゅうを一番上手につくる麩嘉《ふうか》の店頭だったら、その惧れもあるまい。あの店の古風な町家建築は、京都でも珍しく文化財として残したい値打ちがある。   越 後 屋  越後屋《えちごや》という店は、寛政年間から続いていて、今が八代目だそうだが、実にガンコに伝統を守り、またガンコな商売をしてる。  予約註文の品物しか売らない。主人と家族だけで、手づくりの菓子だから、沢山できないのだろう。店に看板を出さず、菓子商の構えもしてない。商人でなく、職人が菓子を頒けるといった様子で、東京の一部の茶人を顧客としてる。  こんな店が今の東京にあるのも、面白いと思うが、京都の菓子に対し、江戸の菓子の誇りを残してる唯一の店ではないのか。東京の和菓子は堕落したが、江戸の菓子は案外水準が高く、材料も京都とちがって、関東に仰いでる点も興味がある。製法も京菓子より、質実な風がある。  この店の水羊羹は絶品と考えるが、秋の菓子も栗や長芋を用いたネリキリが自慢らしい。  そして栗も貯蔵品を用いて、季節より早く売り出すことをせず、シュンを待つという態度が、古風でよろしい。  代々の主人が、越後屋平七を名乗るそうだが、古いノレンをきびしく守っている。  文化財の指定を受ける資格があるだろう。   カ ル メ ラ  銅の鍋というものは、日本でも西洋でも料理の職人が使い、素人は敬遠するが、恐らく、手入れが厄介だからだろう。  でも、よく磨かれたアカの大鍋なぞ見るから、うまい料理を連想させる。  私の子供の時のことを考えると、まだ、アルミ製品は少かったが、鉄鍋が多く、タマゴ焼の道具だけが、銅製だった。でも、その他に、アカの小さな鍋があり、それは、私専用だった。  カルメラという菓子をつくるための鍋である。カルメラは、カルメラ焼とも呼び、砂糖ばかりでつくるのだが、勿論、これはキャラメルの転訛だろう。外国では、キャラメルといえば、例の菓子のことではなく、砂糖を焦がしたものの意味である。  その銅製の小さな鍋に、昔はザラメ砂糖三分の二と、黒砂糖三分の一くらいを加え、長火鉢の火の上で、熱すると、べッコー色の飴になる、その頃合いを見て、小さな棒の先きに重曹をつけて、かき廻すと、三倍くらいに膨れ上ってくる。その時に、鍋を火から降すと、カルメラが一丁上りということになる。  ところが、その手加減がむつかしい。ことに、私は不器用であって、成功したことは、十回に一回だった。重曹を入れて、膨れ上らせるまでは、誰でもできる芸当なのだが、それから先きがむつかしい。どうむつかしいのか、今もって会得できないのだが、とにかく、切角、膨れ上ったものが、また、シュンと萎《しぼ》んでしまうのである。  失敗したカルメラも、食べれば食べられないことはないが、固くて、独特の歯ざわりがない。第一、カルメラの形を成さない。  しかし縁日へ行って、カルメラ屋の前に立つと、そこのオジサンの手際は、見惚れるほどだった。勿論、一回だって、失敗しない。そして膨れ上ってきた時に、紙のコヨリを、ちょいと挿す。カルメラは軽くて、壊われ易いから、携帯に便なように、そんなことをする。それでも、手順が狂わず、失敗もしないのは、まるで神業のように見えた。   名月とソバの会  大正の終りか、昭和の初め頃だと思うが、仲秋名月の夜に、文士なぞが集って、滝野川のソバ屋で、ソバを食う会というのが、催された。  当時の私は、まだ文士ともいえず、翻訳や芝居の仕事をしてたに過ぎなかったが、勧誘を受けて、出席した。  そのソバ屋は、有名な店であって、主人の長髯の老人が、その晩に限って、自分でソバを打ってくれるという前触れだった。その会の世話人は、校正の神様とかいわれた人で、文壇に顔が広いのだそうだが、私はまだ彼に校正されるほどの文章を、書いていなかった。  ソバ屋は、案外、小さな店であって、探すのに骨が折れたが、通された二階も、会をするというほどの面積ではなかった。もっとも、以前は、どこのソバ屋でも、二階があって、女連れの客なぞが利用したが、殺風景な座敷が多かった。  その狭い二階に、もう、ずいぶん人が集まってた。私の前側に、和服で鼻眼鏡をかけた佐藤春夫が坐ってた。会ったことはないが、写真で顔を知ってた。私の隣りには、久保田万太郎が洋服を着て、アグラをかいてた。この人には、芝居の方で、多少の面識があった。佐藤春夫と久保田万太郎は同じ三田派なのに、挨拶もせず、久保田は黙り、佐藤は附近の人と饒舌してた。私は文壇のことなぞ知らぬから、二人が不仲ということも知らず、文士とはそういうものかと思ってた。  その他、私が顔も知らぬ文士が、大勢いたと思うが、階段に近いところに、二老人が、何か仲間外れのように坐っていて、それでもニコニコと、二人で話し合ってた。同行者が、その二人は幸田露伴と上田万年であることを、教えてくれた。  やがて、鮎の塩焼が運ばれ、酒となった。ソバはなかなか出て来なかった。ずいぶん待たしてから、最初のセイロが、座敷の中央に積まれた。打つのに手間どるのか、その数は多くなかった。  そうなると、誰も手を出すのを、遠慮するのだが、やがて佐藤春夫が立ち上って、中央へ出、二つばかり、自分の席へ持ち帰った。その態度に、傍若無人のところがあり、私は気に食わなかった。それに、ソバをとりに行きながら、洩らした言葉が、面白くなかった。 「年寄りは、腹が空かないだろうから、後でいいや」  というようなことを、幸田、上田の二老人に聞えよがしに、いったのである。  すると幸田露伴が、 「年寄りだって腹が空くよ」  というようなことをいい返したようだったが、顔はニコニコ笑ってた。当時の佐藤春夫は、何を書いてたか、忘れたが、流行児であったことは、明らかであり、一方、露伴の方は、再認識がまだ起らない前であり、明治文士の生残りとして、影が薄かった。  私は二人を比較して、佐藤春夫の方が不快だった。従って、露伴が気の毒になって、誰か彼のところへ、ソバを早く持ってってやらぬかと、思った。すると、世話人の校正の神様が、そういうことには気のつく人らしく、やがて、二老人のところへ、セイロを運搬し、ヘンな空気も解消してしまった。  私は最後までソバに手を出す気になれず、やがて、ドッと運ばれた時に、やっと味わって見たが、なかなかうまいソバだった。そして校正の神様に会費を払って、外へ出ると大変美しい月が空にかかってた。仲秋名月というよりも、赤味の多い夏の月の趣だったが、それでも、記憶に残るほどの良夜だった。  でも、私はその晩の会が、愉快でなかった。文士の集まる会へ出たのは、初めてだったが、こんなことならもう止めようと思った。  その後、私も文士の仲間入りして、時には、会合に出ることもあったが、いつも、つまらなかった。近頃は、どんな会合にも(実に会合が多い世の中になった)ご免を蒙っている。最初の時に、失望したからだろう。   パーティー下手  日本人がカクテル・パーティーなぞに不慣れで、行儀がおかしいということを、だれかが書いていたが、私も、最近、それを実見した。  ある大ホテルの広間で催されたそのパーティーに、半数以上、和服姿のお嬢さんが集まった。見た目がきれいで、私も近ごろにない華やかなパーティーと、感心したのだが、やがて彼女らは、一斉に、食べ物のならんだテーブルを取り囲んだ。キレイな円陣が各所にできた。その円陣は極めて堅固であり、とても老人が割り込む余地はないから、私は背後で見物してた。彼女らは黙々として、皿を持ちフォークを動かすのみで、近くの客とも一切口をきかない。パーティーなぞというものは、少しはテーブルを離れて、知友と歓談するところに、意味があるのだが、無言の円陣は容易に崩れなかった。  やっと彼女らが動き出したので、それではと私がテーブルへ行って見ると、これはまたよく召し上がったもので、一片の残肴《ざんこう》も余してなかった。よく食べるのは、主催者を喜ばす礼儀で結構だが、それには程度のあることも、会得してもらいたかった。  主催者の方も、パーティー下手であって、最初から終りまで、客にスピーチをさせる。二時間も立ったままで、それを聞かせる法はない。しまいには席が乱れて、だれも話なぞ聞いてやしない。一体、パーティーに演説なぞ、ヤボの骨頂である。  どうも、洋風パーティーの形式が、日本人には向かないのではないか。団欒して飲食することに不慣れなので、いっそお赤飯にお煮〆の折り詰めでも入口で渡して、各自好きなところでパクパクやらせる方が、パーティーを成功させはしないのか。  社交なんて、どうでもいいようなものだが、それが西洋並に発達してからでないと、西洋風のパーティーをやるのは、無意味のように思われる。   愛 茶 弁  家で飲むコーヒー、紅茶、緑茶のうちで、それほど愛用しないのは、紅茶である。恐らく、入れ方をよく知らないせいだろう。ロンドンで紅茶を飲んだ時には、うまいと思ったことが何度もあり、イギリスの婆さんに、入れ方もよく教わってきたのだが、もう忘れた。ただ、ミルクをあとから注いではいけない、先にするのだということだけ、覚えてる。  私はもう三十年以上、朝のコーヒーを飲んでるが、一向に飽きない。しかし、コーヒーとパンの食事を済まし、新聞を読み、さて仕事にかかろうとする時に、必ず日本茶——緑茶が飲みたくなる。どうも、そうしないと、仕事にかかる気分のクギリがつかない。  煎茶の苦味というものが、やや、精神的だからだと思う。サッパリした気分を誘うのである。しかし、やや精神的な味を出すために、茶を入れるのは、人手に任せられない。濃過ぎても、淡過ぎても、そういう味は出ない。仕方がないから、自分でやるほかはない。  ところが、旅行をして、宿の女中さんのいれるお茶は、文字通り滅茶である。ドビン一杯湯を注いで、ガーッと出す。京都あたりの宿で、年増の女中だったら、時に例外を見いだすが、あとは全部滅茶党である。つまり、今の若い女性は、日本茶に興味を失ってるのである。お茶なんて、どっちにしたって、うまくないものと、きめてるのである。  あの連中が主婦になる時のことを考えると、おそらく日本茶の嗜好は滅びるのではないか。近ごろの茶舗は、インスタント・コーヒーも売ってるが、今にコーヒーと紅茶だけの店になるのではないか。  ちょっと惜しいと思う。シナから輸入して、より以上の立派な茶に仕上げたものであり、あのやや精神的な味は、これからの日本文化にも、貢献させなければならない。小学校で茶の入れ方を、教えたらどうか。   ハイカラな人逝く  亡くなった山本為三郎氏は、私の知る範囲で、最も食べ物の味や知識に通じた人だった。和洋の食べ物のどちらも、食べわけるし、本格とゲテの両方の味を知ってた。生まれつきの食通なのだろう。谷崎潤一郎もずいぶん食いしん坊だったらしいが、山本氏ほどに広くなかったろう。  しかし、私は故人の洋酒道楽に、最も感心してる。外国の金持には、珍しからぬことだが、日本人であれほど、古酒美酒を貯えた人はないだろう。ありとすれば、昔日の宮内省ぐらいのものである。  何でも若い時から洋酒を研究して、よき年代のブドー酒なぞを取り寄せ、地下室に貯え始めたらしいが、私はその数本を、味わわせてもらったことがある。  一番驚いたのは、シャンパンである。戦前から貯蔵の一本を抜かれた時に、私は何の期待も持たなかった。シャンパンなんて泡が立って、景気のいいうちに飲むべき酒と思ってたからだ。そしてグラスに注がれたのを見ると、すっかり気が抜けて、色も飴色に変わっていて、いかにもマズそうだった。  ところが、一口飲んで見て驚いた。こんなウマい酒は、生れてから飲んだことがないのである。それはシャンパンの味ではないが、さりとて白ブドー酒の古酒の味ともちがう。何とも言えぬ独特の気品ある味だった。こうしたシャンパンの飲み方があると知って、私は浅学を恥じた。  故人はよほど洋酒のことを知ってたらしいが、自分は飲酒家でなかった。酒の味はよくわかるらしいが、自分では飲まないのである。酒の好きな人に飲ませるのが、愉しみだったらしい。そういうことをハイカラというのである。  私は同じ年の氏の死が寂しいが、このハイカラな人を失ったことが、もっと寂しい。追憶の一言を、述べざるを得ない。   中 華 街  この間、久しぶりに横浜の中華街へ行って見て、キレイになったのに驚いた。  正直なところ、中華街なんていっても、私にはピンと来ない。横浜生まれの私には、ナンキン町といい慣れてる。敗戦後はシナもナンキンもいけないことになって、昔の名称を書いては、慌てて消す始末である。  昔のナンキン町には、独特の臭気があったが、今は大変衛生的である。その上、近代的建築になって、銀座あたりと変らぬ冷暖房完備のキレイな料理店が、大部分である。アメリカあたりの中華料理店は、きっとあんな風だろう。まったくナンキン町だの、シナ料理だのといっては、申し訳ないようなものである。  でも、そのキレイな店に、あまり人がはいってない。昔ながらの汚い店が、二、三軒あるが、そういうところは、一ぱいの入りである。横浜人は実質主義なのだろう。  私のナジミの店も、その汚い方の一軒である。そこの主人はもう老人で、ナンキン町時代に有名だった聘珍《へいちん》楼のチーフ・コックだった。この老人は料理も上手だが、実に人間の堅い男である。十数年前に私が小説の中で、この店のことを書いたのを、徳として、今だに仲秋月餅だの、中華風ソーセージなぞを届けてくれる。息子や娘が結婚すると、招待状まで寄こす。  そのくせ、日本語が不得手で、会っても、人相のいい顔で、ニコニコ笑うだけである。息子や娘は日本人以上に能弁なので、その通訳で話をするのが常。  この間行った時にも、私の帰りを主人老夫婦が待っていた。細君も年をとり肥って、見るから太々《たいたい》然となったが、二人とも幸福そうだった。相変わらず話はできず、握手するのみで別れたが、あのような中国人がいるので、いよいよナンキン町が——いや中華街が、好きになるのである。   白  魚  最近、都内の料亭で、ナマの白魚を出された。ワサビ醤油で食う仕組みなのだが、どうも手が出なかった。 「お嫌いですか」  と、女将がいうから、 「オドリ食いなら、食うが……」  と、心にもないことをいってしまった。  生きてる白魚を、酢醤油につけて食うのを、最上の珍味のようにいう人もあるが、私はそう思わないのである。口の中で白魚が、飛んだり跳ねたりしたって、くすぐったいだけである。味に格別のことはない。といって、その料亭の白魚のような、グンナリしたのを、口に入れろというのは、ムリな相談である。  私が白魚の味を覚えたのは、四国疎開中だった。それまでは、特に好物というわけでもなかった。  その四国の町に、海に近い川があり、二月の上旬の寒い日に、白魚の群れが上ってくる。肉眼でわかるほど、大群である。それを網ですくうのだが、土地の人はオドリ食いなぞ、ご愛嬌に過ぎないことを知ってるから、誰も汁にする。汁といっても、都会の白魚の吸い物のような上品なものではない。人参やシイタケのセン切りを煮た汁に、多量の白魚を投入するのである。すると、白魚から驚くほどヌメリが出て、中国料理のアツモノのような濃さになる。  そのウマさといったら、生涯に何度も味わえるものではない。ほんとのウマさである。お椀を拝みたくなるほどである。もっとも使う白魚は、オドリ食いにするほどの鮮度でないといけない。  惜しむらくは、白魚がとれるのは、二週間ぐらいしかない。それも、毎日はとれない。それで、一層、珍重なものとなる。そして、魚の形状も、東京の白魚の三分の一ほどの大きさで、名前もシラウオといわず、シライオという。古語だろう。   大統領とコック  ホワイト・ハウスのコック長ルネ・ヴェルドンという男が、腹を立てて、職場を飛び出してしまったという。  彼は、フランス人で、フランス料理の腕を買われて、ケネディ時代に雇われたらしいが、今の大統領ジョンソンは、フランス料理よりも、テキサスの田舎料理が口に合うらしい。それで、ルネは心中平らかでなかったところへ、ジョンソン家へ新しく雇われた女執事のような女史が、冷凍食品を使えという命令を出したので、彼はカンカンになって、追ん出てしまったというのである。 「ジョンソン一家が、どんな田舎料理が好きだって、おれの知ったこっちゃない。しかしホワイト・ハウスで客をする時は、国家の名誉がかかってる。冷凍ものなんか使えるか」  というのが彼の辞職理由で、筋が通ってる。  といって、ジョンソン大統領が黒人料理女のつくるテキサス料理が好きだというのも、恥ずべきことではない。昔、信長が天下を取った時に、京都の名料理人が三種の料理を食べさせたが、彼は最下等の田舎料理を賞美したという。英雄とか大政治家とかの舌は、そんなもので、それでいいのである。  ただ、ホワイト・ハウスの宴会料理は、テキサス風では困るだろう。やはり国際的規格のフランス料理がいいらしく、そして、フランス人を雇わなければ間に合わないというのが、アメリカのお国柄である。宇宙ロケットをつくるのは上手でも、フランス料理はニガ手らしい。大国というのは、そういうものかも知れない。そこへいくと、日本の皇室には、秋山徳蔵のような人物がいて、国賓を満足させるフランス料理を、つくってる。   鏡 開 き  一月の十一日に、正月のオカガミ(供え餅)を実にして、汁粉をつくる習慣があるが、もうあまり行われてないだろう。  第一、お供え餅を飾らない家が、多くなった。私の家なぞ古風だから、まだやってるが、それでも、昔の半分の大きさもない。家の者が、大きい餅だと、後の始末に困るといってる。オカガミ開きの汁粉に使う分量は、知れたもので、後は水餅なぞにするが、カビくさくて、うまいものではない。オカガミの小さいのは、貧乏たらしいといって、大きさを競う風があったが、後の処分を考えると、そんなこともいってられない。  それに、日本の都会人は、だんだん餅が嫌いになってくのではないか。昔は子供が喜んだが、今はあまり食いたがらない。私は逆で、子供の時に餅を好まず、人となってから、味を解したが、もう沢山は食えなくなっていた。友人のうちでも、小林秀雄君なぞは餅好きで、かなりの分量を食うようだ。鈴木信太郎君も餅好きの上に餅通で、どこの餅米でなければ食うに値しないというようなことを、よくいってる。二人とも、フランス文学系で、酒好きだが、餅も好きらしい。世間では、酒と餅を両立しないもののようにいうが、事実としては、そうでもないようである。  私が子供の時に、オカガミ開きを喜んだのは、餅は嫌いでも、汁粉が好きだからだった。家庭でつくる汁粉は、砂糖がきかず、形状もゆで小豆に近いが、何ばいもお代りができるのが、魅力だった。十ぱいぐらい、食ったこともある。  正月の天候によって、オカガミは青カビが生える時と、乾《ひ》割れて、石のように堅くなる時とある。どっちにしても、うまい餅の姿ではないが、今年は、どうやら後者らしい。あの堅い餅を、上手に焼くと、新しい餅よりもうまいと、いう人もあるが、こっちは入れ歯をこわさない用心が、先に立つ。   サラダの水切り  戦後、日本人はずいぶん生野菜を、食べるようになったと思う。もっとも、漬け物というものは、古来食ってるので、生野菜を食わないわけではなかったのだが、それではいけないらしい。レタスや、トマト、胡瓜なぞと、フレンチ・ドレッシングで食うことが、生野菜を食うということになるらしい。それでも、漬け物の方はやめたかというと、やっぱり、それはそれで食うらしい。だから、そういう人たちは、西洋人の倍ぐらい、生野菜を食うわけで、きっと、体にいいだろう。  それにしても、サラダを食う以上、衛生上の目的のみならず、味覚も満足させなければならない。どうせ食うなら、ウマい方がいい。その点、日本の主婦たちは、少し冷淡ではないかと思う。  サラダ菜を食膳に上せる前に、日本人のことだから、清潔な水で、よく洗うのは、結構だけれど、金属製のカゴとか、日本のザルとか、そんなものに列べただけで、水切りをやってる。  あんなことは、フランス人の主婦にとって、気色が悪くて、我慢できないだろう。彼女らは、徹底的に、水切りさせるのである。サラダカゴに菜を入れたまま、片手で押え、片手で大きな弧をえがく運動をして、水を振り切る。まるでテニスの球を打ち返すぐらいの運動を、何度かくりかえす。それでも、カゴの中をよく見て、少しでも、水気が残ってると、また、運動を始める。  なぜんあんなに神経質に、水気を嫌うのか、私にはわからなかった。フランス人は日本人ほど、潔癖ではないのに、サラダの水切りに限って、そんなことをするのである。  しかし、やがて、わかった。サラダ菜が水っぽいと、マズいという理由に過ぎなかった。少しでも、ものをウマく食おうとする、フランス人の根性なのだろう。水気が残ってれば、サラダ菜の味も、フレンチ・ドレッシングの味も、落ちるというのである。  もっともフランス人は、よくサラダを食う。必ず食うのは、晩食の時である。フランス人は、手のかかった料理は、午食の時だけで、夜食は、スープ、卵料理、そして、サラダである。後は、チーズぐらい。だから、夜食のサラダは、重要な皿である。  しかし、サラダ菜といっても、レタスに限らない。ロメーヌとか、シコレとか、いろいろ種類がある。日本でビフテキの添え野菜にするクレッソンなぞも、単独にあれだけのサラダにする。  フランスのサラダ菜は、たしかにウマい。菜の味もいいが、ドレッシングの味がいい。サラダ油にオリーブを使うからではないか。フランスの家庭は倹約をするが、サラダ油はフンパツして、オリーブを使う家が多い。南仏やイタリーから、オリーブ油が入ってくるからだろう。アメリカの棉油なぞを使うのは、安レストオランあたりだろう。  それにしても、サラダの水切りは、よくやるに越したことはない。 [#地付き]〈了〉 [#改ページ]   あ と が き  主篇の「食味歳時記」は、昭和四十三年一月号から十二月号まで、一年間、「ミセス」誌に書きました。  毎号二十枚宛で、ちょっとした長編の分量ですが、小説とちがって、「なまぐさい」ことを書かずに済み、いい気持でした。ただ、雑誌の〆切が早いので、二ケ月ぐらい先きの季節を想像して書くので、少しウソの気分があり、遺洩も生じました。  でも、これが本になる愉しさは、小説の比ではなく、ちょいと読んでくれと、友人にも、平気でいえるのです。食べもの話の一徳と、いうべきでしょう。         *  主篇以外の文章も、前著「飲み・食い・書く」以後のものを、集めました。   昭和四十三年初冬 [#地付き]赤坂双六居にて   [#地付き]著 者 〈底 本〉文春文庫 昭和五十四年一月二十五日刊