[#表紙(表紙.jpg)] 世界悪女物語 澁澤龍彦 目 次  ルクレチア・ボルジア 十五世紀イタリア  エルゼベエト・バートリ 十七世紀ハンガリア  ブランヴィリエ侯爵夫人 十七世紀フランス  エリザベス女王 十六世紀イングランド  メアリ・スチュアート 十六世紀スコットランド  カトリーヌ・ド・メディチ 十六世紀フランス  マリー・アントワネット 十八世紀フランス  アグリッピナ 一世紀ローマ  クレオパトラ 前一世紀エジプト  フレデゴンドとブリュヌオー 六世紀フランク  則天武后 七世紀中国  マグダ・ゲッベルス 二十世紀ドイツ  文庫版あとがき [#改ページ]  ルクレチア・ボルジア  フランス映画のお好きな方は、名匠クリスチアン・ジャック監督の『ボルジア家の毒薬』という色彩映画が、数年前に封切られたのをおぼえておられるかもしれない。わたしなんぞも、じつに色彩のきれいな豪華なスペクタクルとして、いまだに記憶に残しているしだいである。  ところで、あの映画のなかで、暴君チェザーレ・ボルジアに扮するのは、スペインの名優ペドロ・アルメンダリス、その妹のルクレチアに扮するのは、わたしの大好きなフランスの女優マルチーヌ・キャロルであったが、──いちばんわたしの印象に強く焼きついている場面は何であったかといえば、にぎやかなローマのカルナヴァレ(謝肉祭)の夜、長いマントをふわりとはおり、紫色のビロードの仮面で顔をかくし、護身用の宝石細工の短剣を身におびた淫婦ルクレチアが、血の騒ぎを抑えきれず、夜の街の人混みのなかへ、男をあさりに蹌踉《そうろう》とさまよい出て行く、妖しくも美しい場面であった。  ルクレチア・ボルジアの淫乱は、その兄チェザーレ・ボルジアの残酷とともに、昔から小説になったり(アレクサンドル・デュマの小説が有名)、戯曲になったり(ヴィクトル・ユゴーの戯曲が有名)、あるいは映画になったり(戦前にはドイツの監督リヒヤルト・オスワルトの作品がある)して、ほとんど伝説と化しているようなありさまだ。  ルクレチアがはたして淫婦であったかどうかという問題については、最近の学者の説によると、たいへん疑わしい点が多く、確実な根拠はぜんぜんないらしいのだけれど、映画にも出てくるような、こんな秘密めいた夜遊びのふるまいは、当時のイタリアの貴族の男女がよくやっていたことで、兄のチェザーレも、しばしば夜中にその護衛兵を伴ない、仮面をかぶって、おびえあがったローマの市中を血に飢えた狼のように徘徊していたという。  そしてそれは、有名な歴史家ブルクハルトの説によれば、単に民衆に顔を見られることを避けるためばかりでなく、その気違いじみた殺人欲、毒殺の欲望を満足させるためでもあったそうである。  ボルジア家がローマのヴァチカン宮殿に君臨していた時代は、美術史的にいえば「クワトロチェント」(一四〇〇年代)から「チンケチェント」(一五〇〇年代)にいたる過渡期であって、ルネッサンスがその最も華やかな爛熟の開花期を迎えんとしている時代であった。  また当時は、きわめて享楽的な気風がイタリア全土を風靡した時代で、名高いボッカチオの『デカメロン』をはじめ、ポッジオの『滑稽集』、ロレンツォ・ヴァルラの『快楽論』、アントニオ・ベッカデルリの『ヘルマフロディトゥス』などといった、官能的快楽をたたえる著作が数多くあらわれ、宮廷の男も女も、おおっぴらに争ってこんな本を読んでいた時代であった。  すぐれた人文学者であるヴァルラの『快楽論』には、処女性というものは自然に反するものだから、いつまでも処女を守っているのは不道徳であり、罪悪であるという極端な理論が、堂々と開陳してあったし、また奇人ベッカデルリの書物は、一種のエロティックな性愛指南書のごときものである。  そういう本が貴族社会でさかんに読まれたことを思えば、当時、娼婦たちとの交遊が活況を呈していたことも、容易にうかがい知れるだろう。  当時の有名な才色兼備の娼婦イムペリアが二十六歳の若さで死んだ時には、ローマ市をあげての盛大な葬儀が営まれ、サンタ・グレゴリア礼拝堂にりっぱな墓が建てられたという。娼婦は貴婦人と同じように、高い教養を誇り、貴族社会に自由に出入りしていた。  こういう時代的背景をよくよく考えてみなければ、あの伝説的なボルジア家にまつわる悪徳や、残虐行為や、毒殺の嗜好や、裏切りや、権力欲なども、なかなか理解できるはずはないのである。現代の尺度で過去の時代の風俗や道徳を計ることくらい、危険なことはない。  実際、ルネッサンス時代のひとびとの精神を現代の道徳的基準に照らしてみるならば、彼らはひとしく、不道徳きわまりない怪物のようにしか見えないだろう。ところが、当時の基準で計ってみれば、彼らはすべて普通人にすぎないのだ。  やはりそのころ、フィレンツォラという作家の『女性美について』という本が出ているが、これは女性の身体の外面的な美しさについて、事細かに述べたものであり、当時のひとびとが内面的な美、魂の美よりもむしろ、外面的な美、肉体の美に対して、はるかに熱中していたことを示す好個の例である。その意味から、ルネッサンス期の特徴の一つは、魂の道徳的不感症といってもよかろう。  ボルジア家の悪逆無道をうんぬんする歴史家は多いけれど、ロードン・ブラウンというひとの次の短い言葉は、なかでも、いちばん意味ぶかいもののように思われる。すなわち、「歴史はボルジア家によって、十五、十六世紀の破廉恥を描き出すための画布として利用された」という言葉だ。  つまりボルジア家のひとびとは、「歴史」という一枚の巨大な白いカンヴァスに向かって、当時の道徳的頽廃ぶりを、原色のはげしいタッチで塗りたくったのであり、いわば彼らこそ、時代を代表して、このカンヴァスに向かいうる選ばれたひとたちだった、──という意味である。  さて、ここでルクレチア・ボルジアの血統をしらべてみよう。  ボルジア家の系譜は十一世紀にはじまり、先祖はスペインのアラゴン王家と血のつながるヴァレンシア地方の名家であった。この名家から、二人のローマ法王が輩出しているのである。  一人は、アルフォンソ・ボルジアと呼ばれる法王カリストゥス三世であり、もう一人は、その甥にあたるロドリゴ・ランツォル・イ・ボルジア、すなわち後の法王アレキサンデル六世である。  そしてチェザーレとルクレチアの兄妹は、このアレキサンデル六世の妾腹《めかけばら》の子であった。つまり、この一家はスペインから出て、ローマのヴァチカン宮殿に号令する地上最高の栄誉ある地位にまでのし上ったのだ。  兄妹の母親はヴァノッツァと呼ばれるローマ出身の身分の低い婦人で、父親のロドリゴがまだ枢機卿《すうききよう》であった時代に彼と関係をもち、三人の子供を生んだが、のちには別の男と結婚している。その他のことは、ほとんど知られていない。  ローマ法王ともあろう者が、若いころひそかに情婦を囲っていたと聞いては、奇異な感じをいだかれる向きもあろうが、ルネッサンス当時の法王庁内の異教主義的、自由主義的雰囲気ときたら驚くべきものがあり、ヴァチカン宮殿の内部に音楽家や、芸人や、俳優や、娼婦などを集めて、はでな宴会がひらかれたりすることも、しばしばだったのである。  ことに兄妹の父親であるアレキサンデル六世ときたら、恥知らずにも僧官売買罪を犯して、法王の位を買いとったほどの、史上で一二を争う悪名高いローマ法王で、まことに権勢欲がつよく、息子のチェザーレと手を結んで、何人の敵を毒殺したか知れたものではなかった。  その娘として生まれたのが、ルクレチア(一四七九年四月十九日生)である。彼女には二人の兄があり、長兄はジョヴァンニ・ボルジア(一四七四年生)次兄はチェザーレ・ボルジア(一四七六年生)と呼ばれた。  ボルジア家はまれに見る美貌の血統で、兄のチェザーレがひとも知るごとく、ふさふさした美しい赤褐色の顎髯と、秀でた額と、ほっそりした鼻筋とをもつ、背の高い堂々たる男ぶりを誇示していたように、その妹のルクレチアもまた、尻のあたりまでたれる豊かな重々しい金髪と、賢《さか》しげな輝やきを放つ青い眼と、官能的な遊惰な唇とをもつ、典型的なラテン人種の女の古典的な美質をことごとく一身に備えていた。  ルクレチアが最初に結婚したのは十四歳の時である。  相手はミラノのスフォルツァ家の御曹子で、ペサロの領主であるジョヴァンニという若い男。もちろん、この結婚は、ミラノとローマとの同盟をはかるための政略結婚で、彼女は父のいいつけに従ったまでのことである。  結婚式は一四九三年六月十二日、ヴァチカン宮殿内で華々しく行われ、式場には十人の枢機卿、貴婦人、貴族、そのほかフェラーラ、ヴェニス、ミラノ、フランスなどの各国使節がずらりと参列した。  声楽と器楽の合奏があり、かなりきわどい艶笑的な芝居が上演され、舞踏会や宴会が翌日の朝まで続いたというから、大した盛儀である。ヴァチカン宮殿といえば、神聖なローマ・カトリックの大本山であり、法王の代々の座所である。そこでこんな歌舞音曲が催されたことさえ、前代未聞のことだった。  もうこのころから、ボルジア家の常軌を逸した淫逸《いんいつ》と放恣《ほうし》、贅沢に関するスキャンダルは、なにかおそろしいもののように、世間のひとびとの口にささやかれ始めていた。  しかし最初の結婚は、若い花嫁ルクレチアにとって不幸な結婚だった。  それというのが、この若い夫は性来病弱で、噂によれば、結婚生活に支障をきたすほどのインポテンツだったからである。  結婚後数年にして、ふしぎな事件が突発した。  ある晩、彼女の夫のジョヴァンニが、愛用のトルコ馬に打ちまたがり、ちょっと聖オヌフル教会まで散歩に行ってくるといって出かけたきり、もう二度とローマには戻ってこなかったのである。彼はそのままローマの街を出て、まっすぐ北に向かって馬を走らせ、自分の領地のペサロまでたどりついてしまったのだった。  この事件は不可解な謎のように喧伝されたが、やがて、いろんな噂が流された。  その噂の一つによると、──ある晩、ルクレチアが夫の召使のジャコミーノという男といっしょに自室にいると、ドアをこつこつノックする者がある。ルクレチアの命令で、あわててジャコミーノはカーテンのうしろに身をひそめた。ドアをあけると、はいってきたのは兄のチェザーレで、兄は妹に向かって、お前の夫をすぐ殺してしまえと厳命する。  ルクレチアは兄の命令を聞くふりをし、兄が去ってから、ひそかにジャコミーノを夫の部屋にやり、すぐにローマを逃げのびないと生命が危ない、と知らせてやる。そこで、ジョヴァンニは大あわてで馬に飛び乗って、一生懸命に逃走し、ペサロの領地にころげ込んでようやく一命を全うした、というのである。  もしこの話が本当なら、ルクレチアは病弱な夫の目をかすめて、夫の召使と自分の部屋で不貞をしていたのであり、夫は夫で、不貞の妻に助けられて、有名なボルジア家の毒薬の犠牲者となるのを辛くも免れたことになるわけである。  ところで、あれほどひとびとにおそれられたボルジア家の毒薬とは、どんな種類のものだったのだろうか。しかしこれについては、ほとんど確実なことが何も解っていないのである。世間のいい伝えるところによれば、その毒薬は「カンタレラ」と称し、雪のように白い、味のよい粉薬であって、多くの場合、きわめて徐々に長期間に効力を発揮する。  毒殺者は指環の石のなかに粉末をかくし、油断を見すまして、相手の飲み物のなかに、ぱらぱらと粉末をこぼす。チェザーレにしてもルクレチアにしても、こういう技術にかけては、熟練をきわめていたらしい。  ルクレチアが夜ごとに男を求めて、ローマの街をさまよい歩いたという伝説にしても、不能な夫をもった不幸な彼女の結婚生活とあわせて考えなければ、つじつまが合わないことになろう。いわば、彼女こそ強制された政略結婚の犠牲者だったわけだ。  よしんば彼女の放蕩が事実であったにせよ、だれがこれを非難しえよう。  それからもう一つ、ボルジア家に向けられた世間のはげしい非難は、親子兄妹のあいだの近親相姦である。  つまり、父親のアレキサンデル六世も、長兄のジョヴァンニ(ガンディア公と呼ばれた)も、次兄のチェザーレも、ひとしくルクレチアに道ならぬ恋情をいだいていて、三人が暗黙のうちに嫉妬し合っているというのであった。  そして、こんな臆測を生んだ原因の一つは、ガンディア公の奇怪な死であった。  一四九七年六月、チェザーレとガンディア公の兄弟がナポリへ向かって出陣する前の晩、母のヴァノッツァが、トラステヴェレの豪壮な別荘に二人を招き、大勢の親類や友人もそこに集まって、お別れの宴会をひらいたことがあった。  宴が終ったのが夜中の一時で、それから二人の兄弟は供の者をつれて、夜道をローマに戻ろうとしたが、ふと、兄のガンディア公が、馬をとめて、「おれはこれから女の家へよってくるから、貴公は一足先に帰ってくれ」とチェザーレにいった。  そこでチェザーレは一人で別れて帰ってきたのであるが、翌日になっても、兄のガンディア公のほうは一向にすがたをあらわさない。やがて、公の馬だけが街の中で発見され、公の連れていた唯一の従者が、瀕死の重傷を負ったすがたで発見された。  にわかにヴァチカン宮は色めき立ち、父の法王は捜査を命じた。すると、まもなくローマ市中を流れるテヴェレ河から、全身に九ヵ所も刀傷を受けたガンディア公の屍体が、網にかかって釣り上げられた。金のはいった財布も、宝石の指環もそのまま身につけていたというから、物盗りのしわざでないことはほぼ確実である。  屍体はていねいに洗われ、僧服を着せられ、金襴のマントに覆われて、聖アンジェロ城まで舟で運ばれ、さらにその日のうちに、ひそかに聖マリア・デル・ポポロの墓地に運ばれて、そこで葬られた。  あたかも夜だったから、松明《たいまつ》の光で見る公の死顔は、生きている時よりもさらに蒼白く美しかったそうである。  葬列が聖アンジェロ城の橋を渡って行くとき、悲痛な号泣が会葬者のあいだから聞こえた。身も世もあらず歎き悲しんでいるのは、平生あれほど剛毅な父の法王であった。その後三日間、法王は部屋に閉じこもったきり、何も食べず、だれにも会わなかった。  ボルジア家の不倫な血は、法王をして、自分自身の息子をも恋人として眺めさせたのかもしれない。  この奇怪な殺人事件の犯人には、いろいろな人間が擬せられているが、結局のところ迷宮入りというほかなかった。一説によると、性的不能という理由で離婚を迫られたルクレチアの最初の夫スフォルツァが、意趣返しにガンディア公を殺させ、ボルジア家の不倫の噂を方々に流したのだともいう。つまり、妹ルクレチアをめぐる兄同士の不倫な恋、あるいは父親をもふくめた四角関係が、ついに殺人事件をひき起したという噂である。  ともあれ、チェザーレが妹に恋着していて、ルクレチアの夫や愛人になると生命の危険があるということは、すでに世間一般の定評となっていたのだ。  スペイン人で法王の侍従だったペドロ・カルデスも、チェザーレに追いまわされ、最後には法王の腕に飛びこんで助けを求めたが、短刀のめった突きで無残に殺されてしまった。そのとき、血しぶきが法王の顔にまではねかかったという。  殺害の理由は、「マドンナ・ルクレチアの名誉を毀損せる行為をなした」というのであったが、じつはルクレチアが彼の種を宿して妊娠したからで、これも兄の嫉妬によるものといわれた。  さて、最初の夫が逃げてしまったルクレチア・ボルジアの二度目の結婚の相手は、アラゴン家の庶子であったビサグリア公アルフォンソである。結婚式は一四九八年七月、やはりヴァチカン宮で豪勢にとり行われた。  新郎は結婚当時十七歳の美少年で、ルクレチアより一つだけ若く、花嫁に心から満足のようだった。ルクレチアも最初の結婚の時とは違って、新しい美男の夫にすっかり熱をあげていた。一年目には、ロドリゴという男の子も生まれた。  ところが、この幸福も束の間、結婚後わずか二年にして、新しい夫はまたしてもチェザーレの陰謀によって、ルクレチアの手から奪われてしまうのだった。  事のしだいをややくわしく述べれば、──一五〇〇年八月のある日、アルフォンソがヴァチカン宮の階段を下りてくると、たちまちそこに待機していた大勢の刺客に襲われて、頭と、右腕と、膝に重傷を負わされてしまう。すぐにヴァチカン宮の一室に運びこまれて、看病される身となった。大勢の名医が呼ばれた。  そして一ヵ月ばかり無事に過ぎ、もう危険を越したと思われたころ、ひとびとの予想を裏切って彼は急に死んでしまったのである。  一部の噂によると、チェザーレがいきなり病人の部屋にはいってきて、ルクレチアその他の付添人を無理に部屋から出て行かせ、家来のミキエリという者に、もう立ち上れるほど元気になっていたアルフォンソを、ベッドの上で締め殺させたのだという。  ルクレチアの歎きはいかばかりであったことか。彼女は夫が瀕死の重傷を負わされたと聞くと、苦悩に打ちのめされたものであるが、勇気をふるい起して、病室に閉じこもり、一ヵ月あまり、献身的な看病にはげんだのだ。チェザーレに毒を盛られることをおそれて、みずからストーブの上で食事をつくっては、病床の夫に食べさせていたのだ。それほどまでに用心していたのに、愛する夫はあえなく殺されてしまった。……  アルフォンソの遺体はその日のうちに、ひそかに聖マリア・デルレ・フェブレ礼拝堂に運ばれ、葬儀もなしに埋められた。  傷心のルクレチアは、その後二ヵ月ばかり、自分の城のあるネーピという町に引きこもって、亡き夫の思い出を暖めていた。が、やがて、またしても父からの呼び出しを受けて、急遽ローマに帰らなければならなくなった。  三度目の結婚が、早くも父と兄によって取りきめられていたのである。相手はフェラーラの支配者エステ家のアルフォンソ一世。  もはや完全に彼女は、父と兄の飽くなき政治的野心のための道具にされてしまっていた。反抗したとて、今さら何になろう?  一五〇〇年十二月、エステ家の使者がローマに来り、翌年一月に彼女をともなってフェラーラに帰るまで、ヴァチカン宮殿は、連日連夜、酒宴やら、舞踏会やら、観劇やら、バレエやらに賑々しく明け暮れた。  兄のチェザーレが歓迎会の主人役をつとめ、みずから馬に乗ってフェラーラの一行を出迎えに行った。供廻りの儀仗兵は四千人、馬具にはきらびやかな金帛《きんぱく》と宝石が飾られた。  ルクレチアのまだ消えやらぬ悲しみをよそに、ヴァチカン宮は管絃の音に鳴りどよめき、華やかな笑い声に満たされた。彼女も、父や兄になだめられて、黒い喪服を脱がないわけにはいかなかった。  チェザーレはどこにいても水際だった男ぶりであった。愛想よく、たくみに客をもてなした。夜は貴婦人と優雅に手を組んで踊り、昼は騎馬槍試合や闘牛で、剛胆な手並みをみせた。  しかし、時として悲しみに沈んだルクレチアの瞳と視線が合うと、この神をもおそれぬ放胆な男の顔に、いおうようない悔恨の暗い翳が走るのであった。誰がこのことに気がついたろう、妹以外の誰が? ボルジア家の者以外の誰が?……  ルクレチアがローマから北イタリアのフェラーラに向って出発したのは、一五〇一年一月六日である。持参金は、宝石や従者の一行をもふくめて、ほぼ十万デュカと値踏みされた。  当時、フェラーラといえば、最も洗練された気品の高いルネッサンス文化の一中心であった。そして彼女の夫となったエステ家のアルフォンソ一世は、当時の名君の例にもれず、武人であるとともに文芸を愛し、フェラーラの宮廷をして芸術家、ヒューマニストの憧憬の地たらしめたひとである。  おそらく、ルクレチアは新しい夫の支配する土地へ来て、ほっと安堵の溜息をもらしたのではないだろうか。法王庁のあったローマの都、父や兄のいたローマの都は、その数々のスキャンダルによって、あまりにも彼女の神経をはげしく痛めつけすぎた。  実際、伝説によれば彼女は稀代の淫婦、毒物学の知識にすぐれた、おそろしい毒殺魔ということになっているのであるが、──しかし、わたしたちの知るかぎりのルクレチアは、むしろ父や兄の政治的野心に利用されるがままの、完全に受動的な、子供っぽいナイーヴな性格の女でしかないのである。  ローマを離れて以来、ルクレチアはスキャンダルに苦しめられることがなくなった。  フェラーラでは、彼女は豪華な宮殿を営み、宮廷にアリオスト、ベンボなどの著名な詩人や、ティツィアーノなどの画家を招いて、彼らと芸術を語ったり、あるいは自分でも詩を作ったりした。詩作は子供の時からやっていた。  ルネッサンス時代の貴婦人はみなそうであるが、ルクレチアもまた、芸術に対して高い好みと理解とを持っていた。  彼女が死んだのは、一五一九年六月二十四日、ようやく四十歳になったばかりの年である。死産児を生んだあと、永いこと産褥で苦しんだのち、夫や侍女たちに取り巻かれて死んでいったのだ。夫も侍女たちも、彼女のために心から泣いた。 [#改ページ]  エルゼベエト・バートリ  十六世紀の末葉、身分の高いハンガリアの貴族の家柄に生まれながら、自分の若さと美貌を保つために、六百人以上もの若い娘を殺して、その血の中に浸ったという残忍無類な女性があった。伯爵夫人エルゼベエト・バートリがそれである。フランス中世の幼児殺戮者ジル・ド・レエ侯にも比較される、この戦慄すべき女性の生涯は、従来ほとんど知られていなかったが、──ごく最近(一九六二年)、フランスの女流詩人ヴァランチーヌ・ペンローズが、その興味ぶかい伝記を書いたので、それによって以下に彼女の肖像を描き出してみたいと思う。  物語の背景になるのは、小カルパチア山脈に囲まれた、十六世紀末のハンガリアである。西ヨーロッパの文明から取り残されたこの地方は、ルネッサンスの曙光を迎えても、まだ中世の暗い夜の雰囲気が消えずに残っていた。森林の多い地方で、狼や狐や兎が出没し、森のなかでは妖術使や魔女が毒草を摘んでいた。風が樅《もみ》の林を抜けて吹きわたると、無気味な狼の咆哮が村々まで聞えた。吸血鬼《ヴアンパイア》伝説が起ったのも、この東欧の陰鬱な風土からである。  物語の主人公エルゼベエトは、一五六〇年、ハンガリアの名門バートリ家に生まれた。バートリ家は、ハプスブルグ家と関係の深い古い貴族の家柄で、代々トランシルヴァニア公国の王をつとめ、エルゼベエトの母方の叔父はポーランド王をも兼任していた。輝かしい名門中の名門である。  エルゼベエトの父親は軍人で、彼女が十歳のとき死んだ。母アンナは教養の高い婦人で、当時の女性としては珍らしく、ラテン語で聖書を読むこともできた。  少女時代から、すでにエルゼベエトの結婚相手はきまっていて、十一歳のとき、未来の姑となるべき婦人ウルスラ・ナダスディの手に預けられた。姑が息子の嫁を若いうちから教育しておくのが、いわば当時の習慣だったらしい。ナダスディ家もまた、九百年以上つづいた名誉ある軍人の家柄で、息子のフェレンツはエルゼベエトより五歳年長だったが、すでにトルコとの戦に出陣していた。  姑の監督ぶりは非常にきびしく、口やかましく、わがままな少女は一目見たときから、彼女が大嫌いになってしまった。黙しがちの少女は、田舎の古い城のなかで、孤独な、陰気な生活を送った。嫁ぎ先の家庭の空気にも馴染めなかった。エルゼベエトが自分の生活に漠然たる退屈と不如意を感じたのは、このときが最初である。それから死ぬまで、この苛立たしい退屈から、ついに彼女は解放されなかった。  蒼白い顔をした、気むずかしい、大きな黒い瞳の少女が、次第に美しく成長してゆくのを、将来の夫たるフェレンツ・ナダスディは、不安な驚きの目をもって眺めていた。が、彼は軍隊生活が忙しく、結婚後も、家庭を留守にすることが多かった。  エルゼベエトには、ふしぎな冷たい美しさがあって、その大きな黒い眼には、見る者を何がなし不安にさせるようなものがあった。ごく若いころから、嘲笑的で、傲慢で、怒りっぽく、男に愛されるよりも男を畏怖せしめるたぐいの、驕慢な女王然たる気質があった。当時の肖像画を見ると、彼女は頭の毛をひっつめて帽子でかくし、大きなレース飾りのついた襟をぴんと張り、手首のところで締まった白いリンネルの袖をふくらませ、黒ビロードの胴着《ジレ》の胸から腰にかけて、真珠をびっしり飾りつけ、ゆったりしたスカートの上に、白いエプロンをかけている。可愛らしいハンガリア風の貴婦人の装いであるが、──表情はむしろ固く、神秘的で、とくにその眼がひどく印象的である。何を見ているのか、彼女の視線は容易に捉えがたい。  結婚式は一五七五年五月、ヴァランノオの城で華やかに行われた。時に彼女は十五歳。プラーグの皇帝マクシミリアン二世から、祝文と贈物がとどけられた。花婿のフェレンツは、しかし、初夜の床で悪魔の花嫁を抱いたことに気がつかなかった。まだ彼女の怖ろしい悪徳は、その魂の深層部にかくれていたからである。  結婚式後に二人が落着いた場所は、スロヴァキア国境に近い小カルパチア山麓の、チェイテという谷間の村にあるさびしい城だった。丘の斜面には葡萄畑があり、村には古い教会があり、村のはずれの坂をのぼってゆくと、ほとんど樹の生えていない荒涼たる石ころだらけの山の上に、ナダスディ家の小さな城があった。付近の森には狼や貂《てん》がいた。村人たちは古来の魔法を信じていて、森に薬草を摘みに行く習わしだった。──さびしいチェイテの城は、現在も廃墟となって残っているが、その怖ろしい暗い地下室には、かつてエルゼベエトの犠牲者として監禁されていた百姓娘たちが、断末魔の苦悶とともに壁にきざみつけた爪のあとが生ま生ましく残っているそうである。亡霊の泣き声が今でも聞えてきそうな場所だという。  チェイテの城を新居として選んだのは、エルゼベエトそのひとであった。なぜ彼女は、こんなさびしい場所に棲むことを考えたのか。生来の孤独癖か? それとも、自分でもはっきり分らぬ神秘な衝動に動かされたのか?  しかし、新居に移ってからも、夫はふたたび戦争に出かけるし、口うるさい義母の目は光っているし、伯爵夫人の退屈は日ましに募ってゆくばかりであった。何事にも興味が湧かず、自室に閉じこもって、義母の目をのがれ、一日に何度も宝石類をならべてみたり、鏡の前で、持っているだけの衣裳を次々に着てみたりした。彼女はウィーンの豪華な宮廷生活にあこがれていた。  毎朝、女中に命じて丹念に髪の毛を梳らせた。彼女の手は驚くほど白く、細かった。この白い手を、白い肌を、いつまでも若々しく新鮮に保たなければならない、と彼女は考えた。そのために、薬草の磨りつぶした汁を塗ったり、香油をつけたりした。部屋のなかに大鍋をもちこんで、まるで魔女の実験室のように、女中に手伝わせて膏薬を練ったり、どろどろの液体を煮たりもした。  自分が美しいといわれることを、彼女は何よりも好んだ。みずからデザインして作らせた8字型の手鏡をもって、ベッドに横になり、何時間も倦むことなく、自分の顔を見つめていることがあった。鏡のなかでも、彼女は決してほほえまない。彼女のナルシシズムは、つねに|より以上《ヽヽヽヽ》を望んでいたからだ。  生涯を通じて、しばしば激しい頭痛に悩むことがあった。そんな時は、女中たちが薬草を煎じて枕もとに持ってきた。また、理由のない苛立たしい発作に襲われて、女中たちをピンで刺したり、癲癇のように痙攣を起し、ベッドをころげまわり、助け起そうとする女中の肩に噛みついたりすることもあった。娘たちの苦痛の悲鳴を聞くと、彼女自身の痛みはふしぎに直るのだった。  バートリ家には、永いあいだの近親結婚による、奇怪な遺伝的|痼疾《こしつ》がいくつかあったらしい。淫乱症もその一つであり、癲癇もその一つである。エルゼベエトの叔父のポーランド王ステファン・バートリも、癲癇で死んでいるし、父方の叔母クララ・バートリは、四回も結婚し、二番目の夫をベッドのなかで窒息死させている。そのほか狂気、残忍、むら気、魔術への耽溺などといった徴候が、この誇り高き家系のうちに見出される。  義母が死ぬと、エルゼベエトは夫につれられて、皇帝マクシミリアン二世の宮殿のあるウィーンへ遊びに行った。舞踏会や音楽会で、皇帝は彼女の冷たい美しさを大いにほめたという。このハプスブルグ家の神秘愛好家は、もしかすると、彼女の裡におのれの同類を見ていたのかもしれない。  夫は一六〇四年、伯爵夫人が四十四歳のときに死んだが、すでにその前から、夫人が女中たちをひどく虐待し、しばしば彼女らを死にいたらしめることもあるという噂は流れていた。正確なところ、いつから夫人が血の渇きをおぼえ、いつからこんな残虐な趣味にふけり出したのかは分らない。女中たちは、女主人の朝の化粧の手伝いをするのを怖れるようになった。  人里離れたチェイテの城の暗い地下室が、彼女の隠微なエロティシズムの欲求に、恰好な舞台を提供した。地下室は元来、穀物の貯蔵に使われるものだったが、いつのころからか、それが秘密の処刑の部屋に一変したのである。  不吉な評判が立っていたにもかかわらず、貧乏な百姓たちは、その娘を城中へ奉公に出すことを躊躇しなかった。新しい着物を一枚やるといえば、母親は喜んで娘をさし出した。ヤーノシュと呼ばれる醜い小人の下男が、付近の村々から娘たちを狩り集めてくる役目だった。娘たちはまるでピクニックに行くように嬉々として城の門をくぐったが、ひとたび城中に入れば、もう生きて帰れる望みは薄かった。やがて彼女らは、身体中孔だらけにされ、あるかぎりの血をしぼり取られた末に、庭の一隅に埋められてしまう。庭にはブダペストから苦心して運んできた、美しい薔薇の花がいっぱいに咲き匂っていた。  伯爵夫人のまわりには、つねに彼女の気まぐれに奉仕する腰巾着のような女が何人かいた。もと夫人の子供たちの乳母だったヨー・イロナという醜い女は、いつも毛糸の頭巾を目深にかぶっていて、決して素顔を見せない。ドロチア通称ドルコという女も、無知な残忍な獣のような怪物で、女主人の前に生贄《いけにえ》の娘たちをつれてきたり、手荒く女中たちを折檻したり、さては魔法の呪文を女主人に教えこんだりした。(ちなみに、エルゼベエトは四人の子供の母になっていた。)  こんな卑しい拷問執行人のような女たちに取り巻かれて、夫人は城中でいよいよ孤独に、いよいよ狂暴に、その常軌を逸した振舞いを募らせてゆくのである。彼女はただ物憂げに、尊大に、命令を下しさえすればよいわけだった。  村の牧師ヤーノシュ・ポニケヌスは、しばしば奇妙な夜の埋葬に立ち会わされた。夜、彼のもとに使いがきて、あわただしく城中に呼ばれる。行ってみると、庭や畑の隅に土饅頭ができていて、そばには、手を泥だらけにした下男が鍬をもって立っている。闇のなかに、醜いドルコの顔も見える。はたしてだれが死んだのか。ふしぎに思いながらも、牧師は命ぜられた通り祈りの言葉を唱える。  そのころ、ウィーンではだれいうとなく、「血まみれの伯爵夫人」という渾名が彼女につけられていた。噂によると、彼女がウィーンへきて泊る宿屋では、毎夜、娘たちの悲鳴が聞え、朝になると街路に血が流れているというのだった。最初のうち、村の牧師はこんな噂を信じなかった。しかし、イロナ・ハルツィという教会の女歌手が、エルゼベエトに伴なわれてウィーンへ行き、やがて手脚をばらばらに切断され、屍衣につつまれてチェイテの城にもどってきたのを見ると、牧師の心に疑惑の雲がむらむらと湧き起った。  エルゼベエトの弁明によると、ハルツィはウィーンの宿で不行跡をはたらいたので、死をもって処罰したというのである。が、彼女が不当な拷問を受けたのはだれの目にも明らかで、今度ばかりは、人の好い牧師といえども騙されているわけにはいかなかった。そこで、牧師は埋葬に立ち会うのをやんわりと拒絶した。  こんなふうに、城の女主人の怖ろしい振舞いに、疑念をいだいたひとも一人ならずいたのであるが、彼女の報復を怖れて、裁判がはじまるまで、だれもこのことをあからさまには口にしなかったのである。  ある朝、鏡に向って化粧の最中、女中の不手際に苛立った伯爵夫人は、やおら振り向きざま、手にしたヘア・ピンで彼女の顔を刺した。悲鳴とともに血がほとばしって、夫人の白い腕に赤い斑点が散った。急いで拭い去ったが、すでに凝固した血もあった。ややあって、すっかり凝血を洗い落してから、ふと腕に目をやると、しばらく血の付着していた部分の肌が、気のせいか、白い半透明な蝋のような輝きをいくらか増したように思われた。夫人は放心したように、そのまましばらく自分の腕を眺めていた。──こんな場面を、わたしたちは空想のうちに思い浮かべてみる。  ともあれ、伝説によると、伯爵夫人はかつて六十人以上の美しい侍女を集めて宴会をひらき、宴果てるや、部屋のドアを閉ざし、泣きわめく侍女たちを次々に裸にして惨殺したという。そして、彼女らの血を桶に集め、みずからも毛皮やビロオドの衣裳を脱いで、素裸になると、そのまばゆいばかりの白い裸体を血の桶に浸して喜んだという。  人間の血、とくに若い処女の血が、美容や回春の神秘な効果をあらわすものであるという説は、古くからいい伝えられており、錬金術の理論にも、そのような考え方は随所に見出される。聖堂騎士団と呼ばれた中世の異端的秘密結社の人間犠牲、カトリーヌ・ド・メディチの黒ミサ等、すべてこのような理論の悪魔的な適用といえる。  聖書のレビ記には、「血はその中に生命のある故によりて贖罪をなす者なればなり。汝らのうち何人も血をくらうべからず」と書いてあるが、──人間の血をもって生命の中心となす思想は、おそらくこの辺から生じたのであろう。  エルゼベエトの伝記を書いた十八世紀のイエズス会神父ラスロ師の言葉によると、「彼女の最大の罪は美しくなろうとしたこと」だった。自分の肉体を美しく保つためには、彼女は何ものをも犠牲にして悔いない精神の持主だったようだ。彼女ほど極端な自己中心主義者はまれである。いつも鏡のなかに自己の美しい容貌を確認していなければ気がすまない彼女にとっては、神も、地獄も、まったく眼中にないのだった。その破戒無慙な生涯を通じて、彼女は、ただの一度も悔恨の念に良心を苛まれたことがないのである。  ウィーンの宿屋で、夫人がほしいままな残虐行為にふけっていたという噂も、どうやら事実であったらしい。裁判記録によると、夫人の下男は次のように証言している。すなわち、「夫人の部屋にはいつも四五人の娘が裸になっていたが、娘たちは身体中に血がこびりついているので、まるで炭のように真黒に見えた」と。  エルゼベエトの拷問の方法は、爪のあいだにピンを刺しこんだり、真赤な火掻き棒で身体の各所を焼いたり、針で口を縫ったり、乳房に針を突き立てたり、また裸のまま樹に縛りつけて、身体中に蟻をたからせたりするといった、ごく初歩的なものから始まって、ついには目を蔽いたくなるような酸鼻をきわめたものまで、じつに複雑多岐にわたっていた。相手の口に両手の指を突っこんで、左右から力いっぱい引っぱって、口を裂いてしまうという方法もあった。咽喉の奥まで焼けた火掻き棒を突っこんだこともあった。あるとき、女中の靴のはかせ方がわるいといって、彼女は真赤に焼けた火熨斗《ひのし》を持ってこさせ、これを女中の足の裏に当てながら、「おや、あんたはきれいな赤い靴をはいてるのねえ!」といったという。  ウィーンの宿屋では、部屋中おびただしい血の海だったので、歩くこともならず、ベッドまで寝にゆくのに、床に灰をまく必要があったという。  ある蹄鉄工に命じて、巨大な鉄の鳥籠のようなものを作らせたこともあった。内部に向って、籠には鋭い鉄の棘が生えている。滑車の装置で、この鳥籠を天井に高々と吊りあげる。籠のなかには、むろん、若い娘が閉じこめられているのだ。残忍なドルコが焼けた火掻き棒で、籠のなかの娘を突つく。娘がうしろに身を引けば、鉄の棘に背中を刺される。下で見ている伯爵夫人の上に、雨のように血が降りそそぐ。  同じようなアイディアによって、彼女はさらに、中世の残忍な刑具として名高い「鉄の処女」をも作らせた。当時、熱心な時計の蒐集家であったブルンスウィック公が、ドルナ・クルパの城に滞在したとき、さる優秀なドイツの時計師を招いて、ここに複雑な装置のある精巧な時計を設置させたので、付近の貴族たちが争って、これを見物に出かけたことがあった。エルゼベエトも時計を見に行ったらしい。そして、ひそかにこの卓《すぐ》れた時計師に注文して、「鉄の処女」の製作を依頼したのである。  この鋼鉄製の人形は、完成すると、チェイテの城の地下室に安置された。使わないときは、彫刻のある樫の箱に入れて、厳重に鍵をかけておいた。使用の際は、箱から出して、重い台座の上に立たせるのである。人形は裸体で、肉色に塗られていて、化粧をほどこされ、細々した肉体の器官が、まるで本当の人間のように生ま生ましく具わっている。機械仕掛で口がひらくと、曖昧な、残忍な微笑を泛《う》かべる。歯もちゃんと具わっているし、眼も動く。本物の女の髪の毛が、床にまで垂れるほど、ふさふさと生え揃っている。胸には宝石の首飾りが嵌めこまれている。  この宝石の球を指で押すと、機械がのろのろ動き出すのである。歯車の音が陰惨にひびく。人形は両腕をゆるゆると高く上げる。やがて一定の高さまで腕を上げると、次に人形は、両腕で自分の胸をかかえ込むような仕草をする。そのとき、人形の手のとどく範囲にいた者は、否応なく人形に抱きしめられる恰好になる。と同時に、人形の胸が観音びらきのように二つに割れる。人形の内部は空洞である。左右に開いた扉には、鋭利な五本の刃が生えている。したがって、人形に抱きしめられた人間は、人形の体内に閉じこめられ、五本の刃に突き刺され、圧搾器にかけられたように血をしぼり取られて、苦悶の末に絶命しなければならない。  別の宝石を押すと、人形の腕はふたたび元の位置に下がり、その顔の微笑は跡方もなく消える。やがて人形は睡気をもよおしたように、眼をとじる。突き刺されて死んだ娘の生まあたたかい血は、人形の体内から溝を通って、下方の浴槽のなかに導かれる。この浴槽に、伯爵夫人が浸ることは申すまでもない。  しかし、こんな大時代的な刑具の使用に、彼女はすぐ飽きてしまった。自分で手を下す余地がなければ、彼女にとっては面白くないのだ。それに、複雑な歯車が血糊で錆びついて、たちまち動かなくなった。──やがて彼女が逮捕されてから、ひとびとが城内をしらべてみると、赤く錆びついて使用不能になった「鉄の処女」が、暗い地下室に無気味にころがっていたという。  この「鉄の処女」の登場は、伯爵夫人が女性だけしか殺さなかったという事実とも結びついて、何か彼女の性格に象徴的な意味合いをあたえずには措かない。もしかしたら、彼女はレスビアン(女性同性愛者)だったのかもしれないし、また無意識のうちに、古代東方の大母神に仕える巫女のような役割を演じていたのかもしれない。ふしぎな隔世遺伝ともいうべきであろう。古代の密儀宗教の寺院では、チェイテの城の地下室におけるがごとく、じつにおびただしい量の人間の血が流されたのである。  城中の召使たちにとっては、死者の埋葬が悩みの種であった。最初のうちは教会の方式通り、牧師を呼んで手厚く葬っていたものだが、だんだん死者の数がふえてくると、事実を隠蔽するのが困難になった。不安になって、娘に会いに城へやってくる母親もあった。が、娘はすでに二目と見られぬ姿になって、なぶり殺しにされているのである。母親に会わせず、早く埋めてしまわねばならない。──噂は噂を呼び、伯爵夫人の立場は次第に危険なものになっていった。  それなのに、彼女はあまりにも無謀であった。卑しい百姓娘の血に飽き足りなくなって、貴族の娘の高貴な血をすら求めたのである。  この彼女の無謀さ、大胆さは、嬰児殺しジル・ド・レエの錬金術に関する狂気の探求を思わせる。が、ジルと彼女とのあいだには、一つの決定的な相違があることを強調せねばならない。ジルはつねに悪魔ないし神に目を向けた、夢想家肌の男であり、悪事を犯すごとに悔恨の念に苛まれていた。一方、伯爵夫人の心には、彼岸に対する憧憬はまるでなく、悔恨の念はついぞ萌したことがない。  真の人間的な恐怖は死そのものでなく、混沌《カオス》ともいうべき虚無の兆であるべきだろう。生涯の最後に悔悟し、喜んで火刑台にのぼったジルは、その点においてきわめて人間的であった。しかるに伯爵夫人は、最後まで怖ろしい虚無の暗黒に身をさらしながら、自己自身という唯一の豪奢につつまれて、孤独のうちに死ぬのである。彼女ほど極端なナルシスト、極端な自己中心主義者は世にもあるまい。  チェイテの城が捜査されたのは、一六一〇年十二月のことである。雪と氷が山上の城を鎖《と》ざし、外は白一色の沈黙の世界であった。  剣をもった役人が、松明をかざして城の地下室におりて行くと、異様な臭気が鼻をついた。拷問部屋の壁には、血の飛沫が生ま生ましく散っていた。火の消えた炉のそばに、処刑の道具がころがっていた。最後に、上階に通じる石の階段のそばに、殺された裸の娘が倒れていた。乳房はえぐられ、肉は切りきざまれ、髪の毛は束になって抜け、怖ろしい断末魔の表情をまだ顔に泛かべていた。  さらに奥へ進むと、他の屍体が見つかった。虫の息で生きている者もあった。生き残りの証言によると、彼女らは食を断たれた末に、殺された仲間の肉を食うことを強要されていたという。  裁判は一六一一年一月、ハンガリアのビツシェにおいて行われた。しかし、エルゼベエトはそこに出廷しなかった。親族からの歎願書がついに皇帝の気持を動かし、彼女は死刑になることをすら免かれた。共犯者のドルコ、イロナらは、いずれも火あぶりになった。  伯爵夫人は終身禁錮を宣告された。チェイテの城に死ぬまで閉じこめられるのである。  判決が下ると、石工が城にやってきた。内部に夫人を閉じこめたまま、彼らは石や漆喰でもって、城の窓という窓を塗りつぶしはじめた。夫人の視界から、だんだんと光の射しこむ部分が消えてゆく。彼女は生きながら、巨大な真暗な墓のなかに葬られるわけである。光を通すどんな小さな隙間も、残らず塞がれた。そうして最後に、食物と水を彼女の部屋に送り入れるための、小さな孔が壁に穿《うが》たれた。  城の四隅の高いところには、四本の絞首台が建てられた。ここに死刑となるべき罪人が生きているということを、告示するためである。  一切の光を奪われた絶対の孤独。それが彼女の甘受した最後の運命だった。井戸の底のような真暗な部屋のなかで、聞えるものはただ風の音のみである。彼女の大きな黒い瞳は、すでに自分の蝋のような白い手をすら眺めることができない。ビロオドと毛皮をまとって、一日中、彼女はただ獣のように生きているしかない。  こうして一年すぎ、二年すぎ……三年目の夏に、エルゼベエト・バートリは死んだ。享年五十四。死の少し前に、明晰な意識で遺言を書いた。しかし彼女の血にまみれた魂は、あらゆる出口を塞がれた永遠の牢獄から、どこの世界に飛び立つことができたろうか? [#改ページ]  ブランヴィリエ侯爵夫人  ルイ王朝の君臨する十七世紀のパリに、奇怪な毒殺事件が頻々として起ったことがあった。世にこれを「毒薬事件」という。  当時は、ヴェルサイユ宮殿に代表される絢爛豪華なロココ趣味の時代で、太陽王ルイ十四世のもとに、フランスのパリがヨーロッパの文化の中心として富み栄えた時代である。  そのような輝かしい時代に、まるで中世の暗黒時代を思わせるような迷信や、毒殺事件や、媚薬の売買や、悪魔礼拝などが、社会の裏面で、悪徳司祭や宮廷の貴婦人までをも捲きこんで、ひそかに行われていたことは注目されてよい。  ある学者の話によると、ルイ十三世の宰相リシュリューが周囲に猫をたくさん飼っていたのは、単に彼が猫好きであったためばかりでなく、この愛玩動物によって食物の毒味をさせるためでもあったそうである。それほど、毒の脅威は当時にあって一般的だった。  史上に名高い一連の「毒薬事件」は、政治的陰謀や、ルイ大王をめぐる宮廷の女たちの恋の鞘当てともからみ合って、あたかも王座を転覆させかねまじい一大スキャンダルにまで発展したが、──そのなかでも、一きわ目立った天才的毒殺常習者として、犯罪の歴史に光彩陸離たる名前を残すことになった一人の女性があった。それが、これから取りあげんとしているブランヴィリエ侯爵夫人である。  ディクスン・カーの探偵小説『火刑法廷』に、このブランヴィリエ夫人のエピソードが巧みに採り入れられているから、興味のある方は読んでごらんになるとよい。わたしは、この奇々怪々な小説がたいへん好きで、最近、スリラー映画の巨匠アルフレッド・ヒッチコックがこれを映画化しているという話を聞いて、今から胸をわくわくさせている次第なのである。  カーの小説では、古風な猫の頭の飾りのある腕輪をした、十七世紀の女毒殺魔に生き写しの女性があらわれて、やはり毒殺犯罪の嫌疑を受ける。つまり、ブランヴィリエ侯爵夫人は「不死の人間」で、最初、十七世紀に死刑を宣告され、火刑に処せられて死んだのだけれども、依然として生きていて、十九世紀にも、ふたたび毒殺事件により断頭台で処刑される。この小説に登場するのは、いわば三代目のブランヴィリエ侯爵夫人というわけである。  面白いのは、この三代目の毒殺事件容疑者が、台所で漏斗《じようご》を見て恐怖の表情を浮かべるというところだ。なぜかというと、かつて十七世紀の侯爵夫人は火あぶりになる前に、裁判所の拷問部屋で、台の上に寝かされ、その口に革の漏斗を突っこまれ、息もつかせず大量の水をどくどく注ぎこまれるという、いわゆる水拷問の刑を受けたことがあるからで、その恐怖の記憶が、二十世紀の三代目の女性にまで、目に見えぬ糸のように繋がっているからなのである。  では、この推理小説の鬼才によって現代に蘇生せしめられた稀代の女毒殺魔、ブランヴィリエ侯爵夫人の素姓と、その犯罪と、その最期とをややくわしく述べてみよう。  彼女は幼名をマリー・マドレーヌ・ドーブレといい、一六三〇年七月二十二日、身分の高いパリの司法官の娘として生まれた。六人姉弟の長女である。  育った家庭については、あまり知られていないが、父親はいくつもの顕職を兼ねていて、多忙のひとだったらしい。彼女は若いころから美貌と才気を謳われたが、宗教的心情にとぼしく、浮気で、すぐ物事に熱中する性質だった。その上、一種のニムフォマニア(色情狂)の傾向があって、二十歳にも達しないうちに、弟たちに次々に身をまかせたという。これは、後に彼女の告白録から知られた事実である。  二十一歳のとき、アントワヌ・ゴブラン・ド・ブランヴィリエなる侯爵と結婚したが、この男は陸軍の士官で、遊び人で、しかも、あまり頭のよくないお人好しだった。  結婚式当時、彼女は栗色の髪に碧い眼をしていて、おどろくほど美しく、妖艶であったといわれる。  良人は賭け事が好きで、莫大な妻の持参金をたちまち使い果してしまった。当時の貴族社会の御多分にもれず、この良人には、賭け事や女遊びの悪い仲間がたくさんいて、いろんな友人を自宅に連れてきた。その中に、ゴーダン・ド・サント・クロワという騎兵隊の士官がいたが、この堕落した男が、ブランヴィリエ夫人の一生を決定してしまうほど、後々まで大きな影響力を彼女におよぼしたのである。  ゴーダンはたしかに頭がよく、魅力的な男であったらしい。良人に顧みられなかったブランヴィリエ夫人は、すぐに彼の魅力の虜になってしまった。二人は大っぴらに、社交界や劇場に姿をあらわすようになり、やがて世間の噂にものぼるようになった。  良人は自分の情事に忙しく、夫人の御乱行のことなど気にもとめなかったが、道心堅固な彼女の父親は、二人の関係に眉をひそめるようになった。家庭のふしだらは許しておけない。そこで、司法官としての自分の権限を利用して、王の署名のある勅命拘引状を発し、不届きな娘の恋人ゴーダンをバスチイユの牢獄に六週間ぶちこんでしまった。  ところで、ゴーダンはバスチイユの獄中で、世界を股にかけて悪事をはたらいている奇怪な男と識《し》り合った。もとスウェーデンのクリスチナ女王に仕えていたエグジリというイタリア人で、かつて法王インノセント十世の時に百五十人以上の人間を毒殺したこともある札つきの男。この時も、毒薬製造の嫌疑を受けて下獄しているのであった。  ゴーダンは、この毒物学者エグジリの熱心な弟子となり、牢獄を出てからも、彼を自宅に招いて毒薬調合の秘法をいろいろ教わった。復讐心の強い彼は、自分を獄にぶちこんだブランヴィリエ夫人の父親を殺してやろうと思い立ったのである。  恋人同士は気脈を通じて、おそろしい毒薬の実験にふけり出した。男にすっかりのぼせあがっていた侯爵夫人も、父親の仕打ちを恨み、実の父親を早く殺して、遺産を自分の手に入れたいと思うようになった。  当時、フランスでいちばん有名な、激烈な効果を有する毒薬は「遺産相続の粉」と呼ばれていた。これを用いれば、遺産が自分の手にころがり込んでくるというわけである。エグジリから手ほどきを受けたゴーダンは、すでに師匠を凌駕する腕前になっていて、この「遺産相続の粉」の調合にもすっかり熟達していた。  しかし、事を行う前にまず実験をしてみなければならない。ある日、ブランヴィリエ夫人はお菓子や果物をもって、パリ市立慈善病院に姿をあらわし、患者たちにそれらを与えたのである。目的は、解剖の際に毒が発見されるか否かを試すためであった。これは永いこと露見せず、夫人は病院では、信心と慈善の鑑と謳われた。  毒薬実験の対象になったのは病人ばかりではない。夫人の家の小間使も、すぐりの実のシロップを与えられて、健康を害し、廃人同様の悲惨な身になってしまった。  こうして、いくつかの実験が効を奏すると、次には父親の命がねらわれた。父親はオッフェモンの領地に娘とともに滞在中、原因不明の病気になり、パリに帰ってから八ヵ月間苦しみぬいたあげく、ついに死んだ。最後まで娘が病床につきっきりで、献身的(?)な看病をした。じつは、毎日少しずつ毒を盛っていたのである!  うるさい父親がいなくなると、彼女は前にもまして放埒になり、次から次にいろんな男と関係をもった。良人の従弟のナダイヤック侯爵とのあいだに、不義の子を生んでしまった。また子供の家庭教師として家に出入りしていた、ブリアンクールという若い男の情婦にもなった。むろん、ゴーダンとの関係も相変らず続いていて、彼とのあいだには二人の子供をもうけた。こんな放蕩のために、彼女は莫大な財産をどんどん使い減らしていた。  こうなると、残された遺産を一人占めにするために、次に犠牲にすべきは弟たちであった。今度も、ゴーダンが五万五千リーヴルの報酬で、彼女の計画に手を貸そうと申し出た。ゴーダンの助手のラ・ショッセという者が、命を受けて弟たちに毒を盛った。このとき、下の弟の死因に疑問がもたれ、解剖の結果、毒殺と認定されたが、辛うじて彼女は追及を免れた。  このころから、そろそろ彼女の行く手に不吉な暗い翳がさしてくる。あまりにも軽率に、自分の計画を他人にしゃべったり、当てにならない恋人ゴーダンに万事を託したりし過ぎたのである。悪辣なゴーダンも、その弟子のラ・ショッセも、彼女の秘密の私信を握っていて、たえず彼女を脅迫しては金を捲きあげていた。  ある種の傾向の人間には、毒殺は一種の趣味であり、性的昂奮を伴なう誘惑でもあって、一度この病癖にとりつかれると、到底やめられなくなるものらしい。「化学者が自分の満足のために実験するのと同じように、特別な目的とてなく、それ自体の快楽から、毒殺者は、その生死が自分にとって何の関係もない人たちまで殺すのである」と、小説『スキュデリー嬢』のなかで、ブランヴィリエ夫人の事件を報告したE・A・ホフマンが述べている。  もはやマニアック(偏執的)な毒殺常習者になっていた夫人は、次に自分の妹と、義理の妹とを殺害し、さらに昔の恋人ブリアンクールをも毒牙にかけようとした。最後に、良人がゴーダンと男色関係にあるのではないかと疑って、嫉妬のあまり、良人をも毒殺してしまおうと決心した。  良人が死んだらゴーダンと結婚するつもりだったのであるが、ゴーダンのほうには、彼女と結婚する気など毛頭なかった。だから彼女が良人に毒を盛ったことを知ると、すぐそのあとで、今度は自分が解毒剤を嚥《の》ませた。あわれな良人は、死ぬにも死ねず、健康を害して細々と命脈を保つことになった。この事件は、奇妙な幕間狂言ともいうべきであろう。  徐々に夫人とゴーダンとのあいだは、険悪な空気をはらんできた。まさに腐れ縁である。最後にはどちらかが相手を毒殺してしまわなければ、おさまりがつきそうもなかった。恋人同士のあいだには、食うか食われるかの心理的暗闘がつづいた。  そんな折、思いがけなくも、ゴーダンがぽっくり死ぬという事件が起った。一六七二年のことである。  伝説によると、自宅で毒物実験の最中、有毒ガスを吸うのを防ぐためにつけていたガラスのマスクが落ちて、毒ガスに打たれ、大釜のなかへ頭を突っこんで死んだという。この尤もらしい説を流布させたのは、小説家のアレクサンドル・デュマである。事実は病死らしい。  彼には相続者がいなかったから、モーベエル広場の袋小路にあった彼の家や財産は、ただちに警察の配慮で封印された。そのとき、チーク材の妙な小箱が警察の手に押収された。小箱にはゴーダンの筆蹟で、次のようなことを記した手紙が添えられていた。 「この小箱を手に入れた方に、余は辞を低くしてお願い申しあげる。どうかこの小箱を、ヌーヴ・サン・ポール街に住むブランヴィリエ侯爵夫人の手に返却していただきたい。箱の中身はすべて彼女に関するものであり、彼女のみの所有に帰すべきものである。云々」  これより前、ゴーダンが死んだという知らせを受けたとき、彼女は血相を変えて、「あたしの小箱はどうなった?」と叫んだそうである。  ともあれ、警察はこの謎の小箱を開けようか開けまいか、永いこと迷ったらしい。夫人はこれを開けさせまいとして、いろいろ手をつくしたが、その努力もついに空しく、小箱は開けられてしまった。  出てきたのは、夫人からゴーダンに宛てた三十六通の恋文と、砒素、昇汞、アンチモニー、阿片などの劇薬であった!  嫌疑を受けていることを知って、夫人は用心ぶかく田舎に引っこみ、箱の中の手紙はすべて贋物だと吹聴させた。そうこうするうち、ゴーダンの助手のラ・ショッセが逮捕され、足枷の拷問を科されて、知っていることを洗いざらい告白し、その日のうちに、車裂きの刑に処せられて死んだ。  ロンドンに逃げのびていた侯爵夫人は、欠席裁判で斬首の刑を宣告された。やがて英国政府が彼女に追放令を発すると、夫人はオランダに落ちのび、次いでピカルディ、ヴァレンシエンヌ、リエージュと、転々と逃げまわった。そうして、最後にリエージュのある修道院に身をひそめていたところ、フランス司法警察の巧妙な罠にかかって、ついに捕縛されたのである。  修道院の中にいるかぎり、警察の手は彼女を捕えることができなかったのであるが、裁判所から派遣されていた警官隊長のデグレという者が、僧侶に身をやつし、修道院の中へしのび込み、色仕掛で彼女に逢曳の約束をさせ、うまうまと夫人を外へおびき出したのである。約束の場所へ赴くと、警官隊が彼女を取り巻き、情人だった僧侶は役人に早変りした。  そのまま夫人は無理やり馬車に乗せられ、数時間後には、警官隊につき添われて、パリに護送されていた。  夫人がパリへ護送されると聞くや、物見高い連中が沿道にわいわい群がった。有名な犯罪人を一目でも見たいという心理は、新聞も何もなかった当時、現代以上に大きかったはずである。  警官隊長デグレの手に押収された夫人の持回り品のなかには、あの一世を聳動させたスキャンダラスな「告白録」もあった。これは彼女の日記のようなもので、生涯に積み重ねたあらゆる種類の淫蕩な、あるいは残虐な悪事が、細大洩らさず、克明に書きこまれていたのである。  それによると、彼女には少女時代の近親相姦から始まって、堕胎、鶏姦、口淫などの性的体験のあることが知れた。これらは、キンゼイ報告を知っている二十世紀の現代人の眼から見れば、取り立てて異とするに当らない行動かもしれないが、カトリック教の倫理の厳として支配していた十七世紀の当時から見れば、どの一つを取っても、それだけで死刑に値する極悪の罪だったのである。  また、彼女は負債に悩み、債権者と不動産のことで争ったとき、怒りにまかせて、自分の家に放火しようと試みたこともあった。  数々の毒薬による殺人も、ちゃんと「告白録」のなかに、事実のままにぶちまけられていた。いったい、なぜ彼女は自分にとって明らかに不利となるような大罪の証拠を、わざわざ紙の上に残しておく気になったのだろうか。  しかし、この疑問に答える前に、わたしたちは、史上に名高い毒殺魔がほとんど必ず、その犯罪の証拠を何らかの形でしゃべったり、残したりしておきたいという誘惑に抗し切れなかった事実を、知っておくことが必要であろう。とくに女性毒殺犯に、さような傾向が顕著である。  やはり十七世紀の有名な女毒殺常習犯マリー・ボッスは、酒に酔った勢いで、「毒殺って、いい商売なのよ。あと三人殺せば、あたしはお金持になって、商売から足が洗えるんだわ」と放言したばかりに、宴席にまぎれこんでいた密偵につかまって、最後には処刑されることになった。  一八五一年に処刑された女中のエレーヌ・ジェガートは、「わたしが行くところ人が死ぬ」と得意そうに語っていたし、一八八七年に死刑になった看護婦ヴァン・デン・リンデンは、「一ヵ月以内にあなたの番です」と予告しながら犯行を重ねていた。この二人の女は、いずれも犯罪史上に名高い毒薬による大量殺戮者である。しかも、その犯行にはほとんど動機がなかった。  ブランヴィリエ夫人も、ある晩、酔っぱらって、薬屋の娘に粉末状の昇華物を見せ、「これであたしは敵に復讐するのよ。これで遺産がころがり込むのよ」と、得意そうに語っていたという。……  どうやら毒殺嗜好者には、告白の衝動が|つきもの《ヽヽヽヽ》なのである。  ドイツの医学者イワン・ブロッホが、ブランヴィリエ夫人を評した文章の中で、「性的渇望はもともと潜在的エゴイズムにすぎないが、他人の運命や悩みに対する感受性を麻痺させる。それが進行すると、殺人欲に転化する」といっているのは、彼女のニムフォマニアとしての性格を本質的に犯罪と結びつけて考察している点、出色のものだ。  さて、獄に下ったブランヴィリエ夫人は、獄吏を誘惑するため、およぶ限りの力をつくしたが、それも無駄と知ると、ガラスの破片やピンを嚥み下し、肛門に棒を突っこんで自殺をはかった。これらは、彼女のヒステリー的性格をまざまざと示すものであろう。  法廷は一六七六年四月二十九日から七月十六日まで、ラモワニョン裁判長係りで二十二回開かれた。  貴婦人らしい尊大さと威厳を片時も失わず、いつも判事席に向かって昂然と顔をあげている侯爵夫人に、並み居る判事たちは舌をまき、怖れをなした。彼女には、先天的に道徳感覚が欠けているのだろうか、と。  実際、彼女は涙ひとつこぼさなかった。いろんな人間が証人として出廷して、涙ながらに夫人を改悛させようと試みたが彼女自身はせせら笑っていた。  昔の恋人ブリアンクールのごときは、十三時間にわたって、彼女から改悛の言葉を引き出そうと懸命に努力したが、ついに匙を投げざるをえなかった。「あなたったら泣いてるの。男のくせに、意気地がないわね!」彼女が洩らした言葉は、それだけだった。  七月十五日に、最後の機会として被告に反省と悔悟が求められた。が、夫人は相変らず、頑として黙秘しつづけた。  夫人が精も根もつき果て、ついに一切を告白し、懺悔聴聞僧エドモン・ピロ師の膝にすがって、赦免を求める気になるためには、冒頭に述べたような、あの怖ろしい火刑法廷の水拷問が必要だったようである。  漏斗によって胃のなかに大量に注ぎこまれる水は、彼女の類まれな剛毅な犯罪的精神をも浸潤し、浮き上らせ、押し流してしまったものにちがいない。  もっとも、この水拷問は、すでに判決の下った後、共犯者の名を白状させるために加えられたものだといわれている。いずれにせよ、権力による火刑法廷の残虐ぶりは、個人の犯罪的精神を上回っていたらしい。  火刑法廷とは、十七世紀ルイ王朝のあいだ、とくに妖術や毒殺などといった異例に属する裁判を審理し、もっぱら被告たちに車裂きの刑と火あぶりの刑を宣告した法廷のことで、部屋中に黒い布が張りめぐらされ、昼間でも松明の光に照らされた、陰惨きわまる場所であった。  法廷の黒い壁面に松明の火の映るさまが、まるで燃えるように見えたので、こんな名前がついたのである。国王直属の裁判所で、パリのバスチイユ監獄の近くの兵器庫に設けられていた。……  拷問を受けた後、ブランヴィリエ夫人は親殺し犯人用の護送車にのせられて、夜のあいだに、裁判所の付属監獄からノートルダム寺院に運ばれた。群衆は寺院の扉の前で、火の点いた蝋燭を両手にもった裸足の侯爵夫人が、やつれた蒼ざめた顔で懺悔をするのを見物していた。そのとき、彼女はようやく三十七歳で、すでに容色は衰えかけていた。  寺院の前からグレーヴ広場につれて行かれ、そこで一夜を明かした後、いよいよ断頭台にのぼることになった。群衆のなかから、嘲笑と悪罵が雨のように浴びせかけられた。  しかし彼女は、その生涯の最後の瞬間を共に過ごしたソルボンヌ大学神学教授エドモン・ピロ師の深い感化によって、心から悔悟していたので、ある人々の目には、そのすがたは聖女のように神々しく見えたそうである。  死刑執行人はギヨームという老練な男だった。夫人の首は一刀のもとに斬り落された。斬り落されるまで、その首は貴婦人らしく権高に、しゃんと伸ばされたままだった。時に一六七六年七月十六日。 「彼女のあわれな小さな屍体は処刑のあと、さかんに燃える火のなかに投げこまれ、その灰は風に散らされました」とセヴィニェ夫人が、娘への手紙のなかに書いている。「したがって、わたしたちは彼女の灰をふくんだ空気をげんに呼吸しているわけであり、霊の交流によって、ある有毒の気質に侵されているわけでもあります……」  常識家のセヴィニェ夫人は、悪女ブランヴィリエ夫人の処刑に対して批判的、嘲笑的、傍観者的であったが、最後の彼女の断頭台上における崇高さ、悔悟した魂の美しさに涙を流す者も、決してないわけではなかった。  処刑の翌日、まだくすぶる熱い灰のなかを掻きまわして、殉教者の遺骨を拾おうと、グレーヴ広場にやってきた者も何人かいた。そして後には、ブランヴィリエ夫人の遺骨と称するものが、魔除けの護符として高価に売られもしたのである。  ちなみにブランヴィリエ夫人とともに十七世紀の「毒薬事件」で主役を演じた、悪名高い女妖術使ラ・ヴォワザンの処刑の模様を、やはり同じセヴィニェ夫人の筆によってお伝えしておこう。夫人はラ・ヴォワザンの堂々たる悪女ぶりに、むしろ感嘆しているかのごとく、次のように書いている。 「ノートルダム寺院に連れて行かれても、彼女は決して罪の許しを乞おうとはしませんでした。いよいよグレーヴ広場に着くと、彼女は囚人護送車から下りまいとして力のかぎり抵抗しました。そこで役人に無理やり引っぱり出されました。針金で縛られて、薪の山の上に坐らせられ、藁でまわりを囲まれると、彼女は大声で罵って、五六度も藁を押しのけました。けれども、とうとう火が燃えさかって、彼女のすがたは見えなくなりました。彼女の灰は、いまでも空気中に浮遊しているはずです」  読者は、この徹底した地獄の信者ラ・ヴォワザンと、最後に聖女に一変したブランヴィリエ夫人との、二つの対照的な死に方を比較してごらんになるがよい。悪女の最期にもいろいろあるものだということが、お分りであろう。  最近、わたしはコリン・ウィルソンとパトリシア・ピットマン共著の『殺人者の辞典』(一九六一年)という本に読みふけっているが、このなかにも、ブランヴィリエ侯爵夫人は、もちろん一項目となって登場している。おそらく、このような種類の本が出るたびに、彼女の名前は永久に繰り返して、人類の記憶によみがえることだろう。あたかもディクスン・カーの空想した「不死の人」のように。 [#改ページ]  エリザベス女王  処女王エリザベスがイングランドに君臨していた時代くらい、きらびやかなギャラントリー(婦人に対する慇懃)が大手をふって栄えた時代はない。女王の思し召し一つで、いかようにも立身出世の道がひらかれるのだから、彼女の宮廷をめぐって、少しでも野心のある男たちが、あらゆる技巧をつくし、この気むずかしい女王様の意を迎えようと懸命になったのも当然であろう。  ロンドン塔の牢獄から出て、二十五歳で王位についたエリザベスは、実際、並はずれた虚栄心の強い女性だった。すべての男が自分に恋し、すべての政治が自分を中心に動いていなければ気がすまない、といったところがあった。  当時の宮廷には、極端に女性の数が少なかった。上下あわせて千五百人から成る廷臣のなかで、女といえば、寝室付きの侍女が三、四人、私室付きの女官が七、八人。その他もっと身分の低い者もふくめて、全部でせいぜい三十人くらいにすぎなかった。なるほど、これでは女王様が一人で男たちにちやほやされるのも、無理からぬことかもしれない。  宮廷の風俗も、この類まれなギャラントリーの時代にふさわしく、まことに華美をきわめていて、女王や貴婦人や貴族の服装は金色燦然たるものがあった。  十六世紀の半ばにスペインから輸入された貴婦人の服装は、極端に胸をしめつけ、袖を優雅にふくらまし、腰から下に大きく張ったフープ(鯨骨の枠)を入れて、スカートをふくらませる。ラフと呼ぶ襞《ひだ》の多い襟飾りは、薄い紗のような織物を糊で固めてつくったもので、まことに繊細なこの時代をよく現わしている。  男も女と同じように、派手な胴衣に大きな真珠などを、これ見よがしに縫いとりしていた。シェークスピアの芝居など御覧になればお分りのように、当時の男の服装はじつに派手なものである。ナイトのズボンはぴっちりと脛をつつみ、脚線美はまる出しである。ふっくらした下袴は、ビヤ樽のように詰物でふくらませてある。  さらに、この時代の伊達男たちの服装の特徴は、ズボンの胯間に縫いつけたコッドピース(股嚢《またぶくろ》)と称するものだ。これは、男性の象徴をおさめるための嚢である。後にはみな、この嚢の大きさを競い合ったものである。(ちょうど現代の女性がブラジャーにパッドを入れて、乳房の大きさを誇示するようなものだ。)  女王の周囲には、名門の子弟五十人から成る親衛隊というものがあった。彼らはぴかぴかした金の大斧をもち、いつも女王のそばに控えている。この毛並のよい連中には、将来の華やかな経歴が約束されている。  女王様の御健康を守るためには、六人の外科医、三人の内科医、三人の薬剤師がいた。また占星博士がいて、女王様の御脈と天文現象との相関関係について、哲学的な研究にふけっていた。  エリザベス御自身も、薬物学に趣味があって、みずから「健脳興奮剤」なるものを発明し、錬金術に血道をあげていた神聖ローマ帝国皇帝ルドルフ二世に贈っている。この薬の処方は琥珀、麝香、霊猫香《れいびようこう》などの香料を薔薇精に溶かしたもので、おそろしく高価なものだった。女王の薬剤師ヒュー・モーガンには、女王はよいお顧客《とくい》さんであったにちがいない。  また宮廷には、ヴェネツィア、イタリア、フランドルなどから来た外国人の音楽家が大勢住みついていた。ダンスも大いに流行し、優雅な踊りぶりは宮廷人の欠くべからざる資格であった。女王もダンスの愛好家で、ほとんど毎日のように廷臣相手に、フィレンツェ風の踊りを踊っていた。  仮面舞踏会やら野外劇やら、鷹狩やら馬上試合やら、すべて女王を中心とした、四季折々の華やかな催しに明け暮れる宮廷生活は、どんなにかすばらしいものであったろう。男まさりの女王は鷹狩が好きで、各国大使をイングランドの野原に誘ったが、かえって男のほうが慣れない遠出に疲れて参ってしまうというふうであった。  ここで、処女王エリザベスを取り巻く幾人かの寵臣たちについて語ろう。  まず、エリザベスの即位当時から中年までの第一の寵臣であったレスター伯ロバート・ダッドリー。彼は、ヘンリー七世に憎まれて殺された大臣の孫に当たる。エリザベスと同年ということになっているが、生年は必ずしもはっきりしない。生まれた月日まで女王と同じだという説さえある。すでにエドワード四世(エリザベスの異母弟)時代から、この美少年はエリザベスの目にとまっていた。まだ少年ながら、その眉目《みめ》よきすがたに同年の少女は惚れ惚れとしたのである。  ロバートが父とともにロンドン塔に幽閉されていたとき、ちょうどエリザベス自身も、仲のよくない姉の女王のために塔に押しこめられていた。釈放された後、ロバートはフランスとの戦争で手柄を立て、エリザベスの即位と同時に主馬寮長官に任ぜられた。  エリザベスの彼に対する愛着は、だれの目にも明らかで、外国の使臣たちもみな、女王がいずれこの美青年と結婚するものと信じて疑わなかった。女王がロバートの室を、自分の寝室の隣りに移したという噂さえあった。ロバートの妻は乳癌を患っていて、女王は彼と結婚するのに彼女の死を待つばかりとも伝えられた。  ところが、ロバートの妻が不慮の過失であっけなく死んだ後も、女王は相変らず、結婚の意志を露ほども見せなかった。  恋人は何人もっても、結婚だけは決してしない女王。ここに、多くの歴史家が疑いの目をそそぐ、エリザベスの派手な恋愛生活の謎がある。彼女は果して処女であったか。  エリザベスの心情は、氷のような貞潔で満たされていたわけでは決してない。むしろ逆である。いつも美しい男たちを周囲に惹きつけておくのが、彼女の最大の願いだった。もしかしたら、彼女は夫をもつということが、女王としての至上権を弱める結果になることを見通していたのかもしれない。「わたしは結婚なんて考えるのもいや」と彼女はロード・サセックスに語っている、「なぜって、自分の半身であるような相手なら、つい秘密を打ち明けてしまうこともあるじゃありませんか……」  これは怖るべき権力意志の表示である。彼女の宿命的な敵対者であるスコットランドの女王メアリ・スチュアートとは違って、エリザベスは決して理性を失うことがない。恋ゆえに滅びた、いかにも女らしい悲劇の女王メアリ・スチュアート……一方、権力意志の女王エリザベスは、女である前にまず君主であった。  こうして、エリザベスはレスター伯やその他の寵臣のみならず、諸外国の王様からの降るような求婚やら縁談やらも、ことごとく自分の意志で蹴ってしまうのである。  なかには、けしからぬ風評をまき散らす者もあった。当時の名高い劇作家ベン・ジョンソンによると、「女王には、男性を受けつけない粘膜があるので、いくら愛戯をこころみても駄目なのだ」そうである。  しかし、こんな無責任な放言はともかくとしても、彼女に幼年期の心理的トラウマ(外傷)による性的欠陥があったということは、十分ありうることである。  彼女の感情生活は、ごく幼いころから緊張と恐怖の連続だった。二歳八ヵ月のとき、彼女の父(ヘンリー八世)は母(アン・ブーリン)の首を刎《は》ねた。父の政策が変るたびに、幼い彼女の運命も刻々と変っていった。父が死んでからは、十五歳のとき、色事師の海軍卿に結婚を申し込まれ、おまけに、彼の謀叛の罪にあやうく連坐するところだった。──少女時代に受けた深刻な心理的打撃が、恋愛の決定的行為、肉の交りに対する潜在的な嫌悪の情を生み、強いてその行為を遂行しようとすれば、ヒステリー性の痙攣を惹き起こすということは、精神医学上よく知られている。  ともあれ、女王は自分の処女性を大そう自慢にしていた。恋人たちの告白を聴くことは、年をとるにつれてますます好きになった。  政治や外交上の取りきめにはあれほど慎重かつ明敏であった彼女も、私的な感情生活ではかなり気まぐれなところがあった。クリスタル・ゲージング(水晶凝視)で評判をとったジョン・デイのごとき学者を宮中に招き、自分の星位を占わせたことからも、彼女の魔術や迷信に対する惑溺ぶりは想像される。  エリザベスの虚栄心はほとんど伝説のようになっているが、これも彼女の法外な権勢欲のあらわれと考えられなくはない。メアリ・スチュアートの使臣がイングランド宮廷に乗りこんできたとき、うぬぼれ屋のエリザベスが、自分とメアリといずれが美しさにおいて勝っているかと問いつめて、老練な外交官を困らせたという逸話は、彼女の向う気の強い性格をよく示している。ある意味で、彼女は生涯幻想に生きた女であった、ともいえよう。  フランスの特使ド・メッスは、何度も女王に謁見するうちに、つくづくこの女王の才気煥発ぶりに舌をまいた、と日記に書いている。彼が聞いたところによると、女王は拵えた着物を、生きているかぎり一枚だって人にやったり捨てたりしたことがない。衣裳箪笥の中には約三千枚もぶら下がっていたそうである。  あるとき、この大使は、女王の異様な衣裳に度肝をぬかれた。エリザベスが窓のそばに、この上もなく奇怪ないでたちをして立っていたのだ。黒いタフタをイタリア風に裁断したドレスが、広幅の黄金の帯で飾られ、オープンにした袖には、緋色の縁取りがしてあった。ドレスはずっと裾まで前が開いていて、下にもう一つ、白いダマスク絹のドレスを重ねているのが見える。ところが、この白いドレスも、腰まで前襟が開いているので、その下からさらに、白のシュミーズがのぞいて見える。そして驚くべきことに、このシュミーズもまた、開き襟になっているのである。  びっくりした大使は、目の向けどころに困ってしまった。彼女が物を言いながら頭を反らせるたびに、重ねたドレスの前は大きく開き、お腹が丸見えになってしまう。大使はてっきり、女王が自分を魅惑しようと試みているのだと信じたことだった。……  さて、次に颯爽と登場する女王の寵臣は、タバコでお馴染みの伊達男ウォルタ・ローリである。これは、美貌以外にさして取柄のないレスター伯とは大いに違って、才気と覇気にみち、非凡な行動力と豪毅な冒険心とをもった一世の風雲児ともいうべき人物である。  ローリは落魄した名家の出で、デヴォンシアの海岸あたりで幼少年時代を送った。万能の天才で、詩文にも長じていたが、とくに海洋への愛は、彼の生まれながらの血の中に脈々と流れ、彼の一生の運命を支配した情熱であった。いかにもルネッサンス期の天才的人物らしい。  青年時代にオクスフォード大学を中退し、新教徒ユグノーを助けるため義勇軍に志願してフランスに渡り、その後、海陸に武人として雄飛したローリが、はじめてエリザベスの宮廷にすがたを現わしたのは、男ざかりの三十歳のときである。身長六フィート、豊かな捲毛と顎髯は暗色でふさふさとし、威風あたりを払った。永く海で暮らした炯々《けいけい》たる鉄色の眼は、ひとを射すくめ、あるいは魅了した。  しかも彼は、無能な宮廷人をてんから馬鹿にしていて、おそろしく傲慢、その態度は傍若無人をきわめていたという。彼が甘んじて頭を下げたのは女王に対してだけである。  彼の雄弁はおどろくべきもので、舌先三寸で女王を動かして、ヴァージニア経営の莫大な資金をまんまと手に入れてしまった。これには世智にたけた宮廷人も、あいた口がふさがらなかった。万事につけ、そんな調子だったから、彼はみなからひどく嫉視され、二十年後に女王が歿したとき、国中でいちばんの憎まれ者はローリだったということである。  また彼は伊達男中の伊達男で、この派手な虚飾の時代にあってさえ、ギャラントリーにかけては彼の右に出る者がなかった。服装の凝り方も飛び抜けていた。彼の胴衣や靴にちりばめられた巨大な真珠は、宮廷中の噂の種になった。  自国語のほかに六ヵ国語を自由に操り、ギリシア学に造詣ふかく、音楽や絵画や詩にもすぐれた鑑賞力を示すという女王エリザベスを、その学識や詩才で感歎せしめ、機知にあふれた会話で魅了し去ったというのだから、ローリという男は大した男である。女王が惚れこんだのも無理はなかろう。こういう万能の才人にかかっては、ただの阿呆な色男など影が薄くなるのは当り前だ。  宮廷にタバコを流行らせたのも、ローリだということになっている。もっとも、はじめてタバコを欧州に伝えたのは、フランス人のジャン・ニコ(ニコチンの名前は彼から由来した)であるから、ローリの場合は、正確には喫煙の習慣を伝えたというべきだろう。いわば流行の尖端を切ったわけである。  ヴァージニア開拓に失敗し、たまたま当地に立ち寄ったフランシス・ドレイクの艦隊に分乗して、本国に引きあげてきたイギリスの移民たちは、アメリカ・インディアンから教わった喫煙の習慣を故国に持ち帰った。が、これは野蛮人の真似だというので、最初は猛烈に攻撃された。これが伊達男のあいだで流行するようになるには、ローリのような果敢な実験者が必要であった。  こんな話がある。あるとき、ローリがひそかに書斎で一服していると、主人付きの従僕がビールを大コップに注いで、彼のもとへやってきた。主人はパイプをくわえて本を読んでいる。みると、その口からは濛々《もうもう》と白煙が立ちのぼっている。肝をつぶした従僕は、咄嗟に手にしたビールをざぶりと主人の顔に浴びせかけ、ころげるように二階を駈け下りて、「大変だ、旦那さまが火事だぞ。早く行かんと灰になってしまう」と怒鳴ったというのである。  また、こんな話もある。ある日、ローリが例のごとく女王に向ってタバコの効用を述べ立てているうち、調子に乗って、こんな法螺を吹きはじめた。自分はタバコのことなら何でも知っている、タバコの煙の重さだって計ることができる、と。女王は笑って、馬鹿なことを、という。どういたしまして馬鹿なことではございません、とローリは澄まして答える。それでは賭をしようということになり、テーブルの上に金貨が積まれた。  一同固唾をのんで見守るうち、ローリは一定量のタバコをつまんでパイプにつめ、うまそうに喫い終り、残った灰を秤にかけた。「お分りでございましょう。始めの重さから灰の重さを差し引いたものが、これすなわち煙の重さでございます……」  しかしまあ、才人ローリの話はこれくらいにして、次へ進もう。  数ある女王の愛人のなかに、「羊さん」という渾名を頂戴して、人一倍可愛がられていた男があった。クリストファ・ハットンである。  この男はもと一親衛隊員だったのが、舞踏会の一夜、ダンスの巧みさで女王の目を惹き、後には大法官にまで引き立てられた。女王がローリをちやほやするのが癪でたまらず、そんなに陛下があいつを大事になさるなら私はあいつを殺してやります、というような、気違いじみた熱烈な手紙を女王に送った。  ハットンだけでなく、どの寵臣も、それぞれ自己の文学的才能の許すかぎり、最大限の形容詞やら讃辞やらを滅多やたらに使って、女王に気違いじみた恋文を書き送っているのである。傲岸不遜なローリといえども、例外ではない。  この女王は、宮廷中の男が自分ひとりに恋しているというふうでなければ気に入らなかったので、寵臣の結婚には大いに機嫌を損じた。ローリが一時女王の不興を買って投獄されたことがあるが、その表向きの理由はともあれ、真の理由は、彼が女官の一人エリザベス・スロックモートンなる者と慇懃を通じて、女王の知らぬまにこっそり秘密結婚したからであった。  最後に登場する寵臣は、エセックス伯ロバート・デヴルーである。弱冠二十歳にみたぬ水々しい美青年。これは、自分の没落を自覚したかつての寵臣レスター伯が、ふたたび自分の勢力を挽回するために連れてきた彼の義理の息子であった。 「背の高い均整のとれた身体、はっとするほど美しい明るい面ざし、夢みがちな眼」と歴史家は評する。ただし、この美青年、まことに衝動的で、短気で、不羈奔放で、分別とか慎重とかいう美徳にまったく欠けていた。  五十三の女王と二十歳のエセックス。三十以上も年の違う二人の恋の語らいは、いったい、どんな調子であったろう。  ともあれ、めざましい昇進をつづける若者エセックスにとっては、政敵であり恋敵である近衛隊長ローリの存在が、つねに目の上の瘤であった。ローリに関することで、何度エセックスは女王と喧嘩したか分らない。  そして女王と衝突するたびに、妥協とか譲歩とかを知らぬこの無鉄砲な若者は、まるで駄々っ子のようにぷいと宮廷を飛び出してしまう。女王も最初のうちこそ意地を張っているが、たちまち不安になって、使者を立てて彼を呼び寄せる。二人は和解する。というより、女王が折れたのだ。これではエセックスがいよいよ増長するのも当然であろう。  女王も寄る年波には勝てなかった。実際、エリザベスはこの横紙やぶりの若者に、どんなにいらいらさせられたり悩まされたりしたか知れない。単に痴話喧嘩ばかりではない、政治や軍事上の意見の喰い違いもあった。  エセックスの浮気の数々が噂にのぼりはじめると、女王は宮廷内で日に日に気むずかしく、疑いぶかく、荒々しくなった。噂の相手はマリー・ホワード夫人。エリザベスはこの女に何とか返報してやろうと機会をうかがった。  ある日、マリー・ホワード夫人が特別きれいに着飾って出仕した。夫人のドレスは美しい玉縁に飾られ、真珠と黄金をちりばめてあった。女王は何も言わなかった。が、明くる朝、女王はマリー夫人の衣裳箪笥から、ひそかに例の着物を抜き取って来させた。その夜のこと、女王はマリー夫人の着物をみずから着て、ひょっこり現われ、宮廷中をわっと湧かせた。  ところが、彼女はマリーよりもはるかに背が高いので、着物はつんつるてんで、その恰好は何ともグロテスクだった。「どう、淑女たち」と女王は言った。満場、息をのんでひっそりとした中を、女王はマリー夫人の前につかつかと歩み寄り、「御婦人、あなたの感想は? わたしには短かすぎて似合わないのじゃない?」  青くなったマリー夫人が、口ごもりながら「はい」と答えると、「あら、そう」と女王は言った、「もしわたしに似合わないなら、あなたにだって似合わないのじゃないかしら。わたしには短か|すぎる《ヽヽヽ》、あなたには、着物の方が美し|すぎる《ヽヽヽ》。どっちにしても、この着物は駄目ね……」言い終ると、女王は室外に歩み去った。  アイルランド総督を任命するために御前会議が開かれ、その席上、エリザベスとエセックスの意見が真二つに割れたことがあった。このとき、骨の髄まで権力意志に憑かれた女王エリザベスが、美貌の魅力で自分をあやつろうとする若い向う見ずなエセックスを、初めて、憎悪の目ざしで眺めたのである。  二人は互いに自分の推挙する者を主張して譲らず、争う声はだんだん高くなった。ついに女王は断乎として、お前が何を言おうと、わたしはわたしの候補者を任命します、と宣告した。エセックスはかっとなり、嘲るような身ぶりで女王に背を向けた。ただちに、女王は彼の耳を打つや、「悪魔の所へ帰れ!」と叫び、怒りで真赤になった。  その瞬間、理性を失った若者は、鳴りひびくような怒号とともに、剣の柄に手をかけて言った、「これは乱暴を召さる。我慢なりませぬぞ……」  ノッチンガム卿に抱きとめられなかったら、彼は女王に斬りつけたかもしれない。エリザベスは身動きもしなかった。息づまるような沈黙。エセックスは室外に走り出た。……  それから三年後、彼はアイルランド制圧に失敗し、女王の寵を完全に失い、焦燥と絶望のあまりロンドン市民の蜂起を企て、挫折して投獄され、ついに斬首されるのである。  エセックス処刑の報告を受けた女王は、すでに六十七歳の老境にあった。永久に失われたもののために、この処女王は、どんな苦い涙をこぼしたろうか。  死刑執行人のふるった大斧は、彼女のかつての恋人の命を断つとともに、彼女自身の華やかな感情生活にとどめを刺したのである。 [#改ページ]  メアリ・スチュアート  十六世紀スコットランドの血なまぐさい宗教動乱のさなかに、その情熱的な半生を燃やしつくした悲劇の女王メアリ・スチュアートこそ、わたしの最も傾慕する歴史上の女性のひとりである。  現代イタリアの作曲家ダルラピッコラの『囚われびとの歌』は、このメアリ・スチュアートが晩年、女王でありながら死刑を宣告されて、城中に幽閉されていた当時の状況を曲にしたものであるが、──その悲壮な鐘の音を伴なう祈りの女性|合唱《コーラス》を聞いていると、わたしには、彼女の数奇をきわめた前半生の劇的シーンが次々に想い出されて、潮のようなクレシェンドとともに、胸がつまってくるのを如何ともしがたい。  いったい、この極端にロマンティックな気質の女性、メアリを「悪女」と呼んでよいものかどうかは、すこぶる疑問であろう。ある者は彼女を殉教者として讃美し、ある者は彼女を夫殺しの売女として非難する。多くの歴史家や詩人に、これほどいろいろな形で描かれた女性もめずらしい。  四十五歳で首を斬られた女性の生涯の前半は、しかし、まことに輝かしく、地上最高の栄誉にみちみちていた。生後六日、父ジェームズ五世の死とともに、早くも彼女はスコットランドの女王になった。六歳でフランス皇太子と婚約し、ドーヴァー海峡を渡り、世界で最も繊細優雅なフランス・ルネッサンスの文化の光を思うさま身に浴びた。十七歳でフランス王妃となり、パリ中の市民の歓呼と祝福を受けつつ、二つ歳下の花婿とともに、豪華な花嫁衣裳につつまれてノートルダム寺院の式典に赴いた。  ヨーロッパの北の果ての、貧しい陰鬱な国スコットランドから、中世以来の洗練された文化国家フランスに連れてこられ、そこの宮廷で養育されたメアリ・スチュアートは、すでに少女時代から、ラテン語の読み書き、詩作、音楽、ダンスなどに非凡な才能を示し、フランス宮廷の華とうたわれた。生まれつき美貌で、優雅で、服装の趣味のよさ、態度の品のよさには定評があり、ロンサールやデュ・ベレなどの詩人たちも、熱をこめて彼女を讃美する詩句を書きならべた。「十五歳にして彼女の美は、晴れわたった昼の光のような輝きを見せはじめた」と年代記作者のブラントームが書いている。  芸術的な天分ばかりでなく、また彼女はスポーツや、あらゆる騎士的技芸にも通じ、男のように大胆に馬を乗りこなし、荒々しい狩猟を楽しんだ。彼女が早朝、高くあげた拳に鷹をとまらせ、きらびやかな騎馬すがたで、市民たちの挨拶に親しげに答えながら馬を進めて行くとき、ひとびとは、この勇ましい王妃を誇らしげに眺めるのであった。  この颯爽たる王妃とは反対に、夫のフランソワ二世は病弱で、ヴァロワ王家の毒された血のために、はじめから早死を運命づけられていた。一五六〇年に夫が死ぬと、十八歳で未亡人になったメアリは、悲しい心をいだいて生まれ故郷のスコットランドに帰らなければならなかった。  湖と森の多いスコットランドは、暗い情熱によって引き裂かれた悲劇的な国である。オランダやスペインやフランスのように人口の密集した、商業や貿易のさかんな、文化程度の高い国とは丸きり様子がちがう。シェークスピアの『マクベス』が見事に描いているように、貴族たちは血で血を洗う権力争いに明け暮れている。一方、狂信的なカルヴァン主義の布教者ジョン・ノックスは、説教壇の上で、フランスから帰った若い女王のカトリック信仰をあしざまに攻撃する。  少女時代のみやびやかな環境とはあまりにも異なる、この憎悪にみちた貧しい国土で、若いメアリは政治の面倒にうんざりし、争い好きな貴族や坊主たちのあいだで、次第に馴染めない自分を感じはじめる。だから、彼女が自分のまわりに小さな芸術的な社交界をつくり、詩人や画家のような洗練された人士を集めたからといって、彼女の享楽癖を一概に非難することはできまい。彼女が未亡人でありながら、何人かの男を寵愛したからといって、その浮気やふしだらぶりを一概に責めることはできまい。  しかし、彼女に思いを寄せる男たちが、後年いずれも悲惨な最期をとげたという事実にぶつかると、この薄倖の女王の性格に、なにか男の理性を狂わせる、不吉なものの影を認めないわけにはいかなくなるのである。  クルーエの肖像画では、その妖しい魅力が完全には分らないが、この少女のようにほっそりした、若枝のようになよやかな女王の肉体には、なにか男心を官能的に刺激するものがあったにちがいない。  フランスの宮廷で、彼女に熱をあげていた第一の男は、モンモランシー宰相の次男ダンヴィル卿であったが、スコットランドにきてからは、詩人のシャトラールが彼の立場に取って代った。シャトラールはフランスから女王につき随ってきた男で、その詩才により、女王の寵愛をあつめたが、あるとき、無謀にも女王の寝室に忍びこんだ廉《かど》で、首を刎ねられた。  不幸なシャトラールこそ、メアリ・スチュアートのために死なねばならぬ最初の男であった。彼を先頭に、この女性のために断頭台へ歩を進める男たちの、蒼ざめた「死の舞踏」がはじまる。若い音楽家のダヴィッド・リッチョも、女王に愛されて大いに羽振りを利かせたが、貴族たちの反感を買い、ついに城中で滅多斬りにされて死なねばならなかった。あたかも黒い不吉な磁石のように、彼女の魅力に吸い寄せられ、彼女のために身を捧げる男たちは、いずれも破滅の道を歩むことになるのである。  メアリが二度目の結婚をしたのは一五六五年、二十三歳に達した時であった。相手はヘンリ七世の曽孫にあたる十九歳の青年、ダーンリ卿である。首都エディンバラのホリルード城で、祝祭は四日四晩ぶっ通しに行われた。  未亡人として女王は四年間、大したスキャンダルもなく、申し分ない態度で過ごしてきた。配偶者のないスコットランド女王をめぐって、全ヨーロッパの宮廷は、激烈な花嫁争奪戦を展開した。スペインとオーストリアのハプスブルグ家、フランスのブルボン家が、それぞれ縁談の交渉人を派遣した。イングランドのエリザベス女王は、事もあろうに、かつて自分と浮名を流したことのあるロバート・ダッドリー卿を、メアリの夫として推奨してきた。(これはずいぶん失礼なやり方である)  ところが、全世界の期待を裏切って、メアリが自分の意志で若い男とひそかに婚約してしまったので、ひとびとは唖然としたのである。  女王の初恋。──二十三歳にして彼女は初めて、自分の若い肉体を、自分の生命を発見したのであった。  それからというもの、彼女はただ自分の血潮の脈動にだけ、自分の官能と欲望の意志にだけ、ひたすら耳を傾ける女となってゆく。彼女ほど激情的な、女らしい女は世にもあるまい。メアリとくらべてみるとき、恋愛遊戯しかできないエリザベス女王は何と干からびた、とげとげしい、ヒステリカルな女性に見えることか。  エリザベス女王が現実主義者として、つねに国家《ヽヽ》に専念すれば、メアリはロマンティストとして、つねに自分自身《ヽヽヽヽ》に専念するのである。ここに、宿命的なライヴァルであった二人の女王の性格の特徴が、あざやかに浮き彫りされる。エリザベスは女として、奔放不羈なメアリの行動をどんなにか羨望し、嫉妬の焔を燃やしつづけたことであろう。  メアリはエリザベスを「お姉さま」と呼び、エリザベスはメアリを「親愛なる妹」と呼んで、二人は表面いかにも親しげに手紙のやり取りをしていたものであるが、ついに生前には一度も互いに顔を合わせなかった。両方で相手を避けていたのである。  さて、メアリを惹きつけた若いダーンリは、美男子ではあったが、性格の弱い、見栄っぱりな愚か者であった。女王と結婚して名目上の王になると、この二十そこそこの若者は、たちまち傲慢にふるまい、主人顔で国事に干渉するようになった。  やがてメアリ・スチュアートも、自分の最初の美しい恋愛感情を、こんな無価値な青二才のために浪費してしまったという、やり場のない後悔と憤懣に責め立てられるようになる。彼女の感情の起伏はいつも激しく、極端から極端へ走るのだ。  苛立たしい幻滅と、肉体的嫌悪に彼女は堪えがたい思いをする。妊娠したことが分ると、いろいろな口実をつくっては夫の抱擁を避ける。彼女の気に入りの音楽家リッチョが謀殺されたのは、このころのことだ。この陰謀には、夫のダーンリも加わっていた。事実を知ると、メアリは激怒する。そんなことから、夫に対する憎悪と復讐の念はいよいよ大きく育っていった。  あたかもそのころ、彼女の前に圧倒的な男性の魅力をもって出現したのが、当時ほぼ三十歳になっていた精力的な軍人ボスウェル伯である。  このボスウェル伯は、メアリ・スチュアートの伝記を書いたツヴァイクによれば、「一塊の黒大理石に刻んだような風貌の人物」である。スコットランドの古い貴族の名門ヘプバーン家の出身で、教養もあり、読書家であるとともに、生来の秩序に対する反逆者、大胆不敵な冒険家といった面もそなえていた。法律や道徳を無視することを屁とも思わず、奸策にたけた卑しい貴族たちを十把一からげに軽蔑していた。しんから男らしい、戦闘的な軍人である。  自分のまわりに頼りとする人物のいないメアリは、国家の支配権を握るために、この豪胆な男の援助を求めた。ボスウェルは女王のために献身的にはたらき、次々に女王から重要な地位をあたえられ、たちまちのうちに、国内に強大な軍事的独裁権を確立してしまった。  最初からメアリは、このボスウェルのうちに情熱の対象たる男性を見出していたのではない。彼女が自分の恋に気がつくのは、かなり後になってからのことである。  それにしても、女王メアリ・スチュアートのボスウェル伯に対する恋くらい、歴史上、すばらしい情熱的な恋はない。それは、はげしく噴き出る一条の白熱した焔のようである。彼女はおのれ自身の情熱に圧倒され、翻弄され、くたくたに疲れ、さながら意志のない人形のように、夢遊病者のように、磁力に引かれて、おそろしい宿命と犯罪への道を歩み出すのである。  この情熱に対して、わたしたちが道徳的批判を加えてみたとて何になろう。どんな忠告も彼女の耳にとどくことはないし、どんな呼び声も彼女の目をさますことはあるまい。生涯のきわめて短い期間に、彼女の魂は異常な熱度に高まり、燃えあがって、その後はもう、燃えつきた魂の脱け殻にすぎなくなってしまう。まことに彼女こそ、ツヴァイクのいう通り「自己濫費の天才」なのである。  メアリ・スチュアートが書いたものとされている一連の恋文や詩が、今日に残されているが、これは彼女の恋愛がいかなる性格のものであるかを知るのに、貴重な資料である。   あの方のために、それ以来、わたしは名誉をあきらめました   あの方のために、わたしは権勢と良心とを進んで賭けました   あの方のために、わたしは身内と友達とを捨てました  今までにメアリが知った男性といえば、十五歳の病弱な夫フランソワ二世と、髭のない柔弱な青年ダーンリとだけであった。むしろ彼女が保護者のような立場にあったといえるだろう。ところがボスウェルは、その荒々しい男性的な力によって、今まで彼女が片時も失ったことのない誇り、自信、理性を粉微塵に打ち砕いてしまったのである。固い殻が割れ、まだ知らなかった女性の歓び、支配される者の歓びが、彼女の内部に花ひらく。  ボスウェルは、メアリの女性としての誇りを台なしにしてしまった代りに、献身という新しいエクスタシーを教えてくれたのであった。王権、名誉、肉体、魂を、彼女はこの情熱の淵に惜しげもなく投げ棄てる。  とはいえ、この恋には最初の瞬間から、不吉な、宿命的な、犯罪的な暗い翳がさしていた。メアリには夫があり、ボスウェルには妻がある。いわば二重の姦通を、スコットランド女王は犯したことになる。そして、この関係を永くつづけようとするならば、さらに犯罪の上に犯罪を重ねなければならないことは自明であった。  それに、メアリ自身には、だれにもいえない絶望的な苦悩があった。ボスウェルは彼女をほとんど愛していなかったのだ。彼は、いわば馬に乗ったり戦争したりするのと同じように、男性的な遊びとして、女性を征服するにすぎない。一度その肉体を奪ってしまえば、もう彼には女など必要ない。  メアリは冷淡な男の前に膝まずいて、彼をしっかり引き留めておこうと懸命になる。あれほど誇り高かった女王が、あれほど毅然とした女性が、何というあさましい変り方であろう! ボスウェルの妻に嫉妬して、彼女をおとしめようと企てる。自分の変らぬ愛情を信じてくれ、と男に向って懇願する。しかし、幸福な結婚生活をしている野心家にとって、女王との単なる情事は、ほとんど魅力がない。  ボスウェルにとって魅力があるものは、ただ一つ、王冠である。スコットランドの王位である。──こう考えてみると、二人の呪われた恋人同士が気脈を通じて、あの名目上の国王ダーンリを殺害するにいたる成行きは、まことに必然的ともいえるだろう。不幸な女王には、情《つれ》ない男をつなぎとめておくために、王冠以外の餌が何一つなかったのだ。  今や、メアリ・スチュアートの生涯のうちで最も暗い、陰惨な一章がはじまる。恋に目がくらんだ彼女は、あのマクベス夫人そっくりの行動をするようになる。犯罪への道、転落への第一歩は、かくて踏み出された。  一五六七年一月二十二日、ここ数週間、ダーンリと同席することを避けていた女王は、突然グラスゴーへ赴く。表向きは病気の夫を見舞うためであるが、本当は、ボスウェルの命令でエディンバラの町へ彼をつれもどすよう誘うためだった。エディンバラでは、死の匕首《あいくち》を握ったボスウェルが、すでにいらいらしながら獲物を待ち受けている。  何も知らない病気の夫は、干し草馬車に乗せられて、エディンバラ市の城壁の外にある、荒れはてた見すぼらしい家に運ばれる。夜の二時、突如として物すごい大爆発が起る。破壊された家の庭に、黒焦げになった国王の死体が見つかる。下手人は誰か?  疑問の余地はない。すべては筋書通りである。市民たちは、真実を見抜けないほど馬鹿ではない。町の広場や王宮の門には、犯人を告発するビラがでかでかと貼り出される。貴族たちは、疑いぶかい沈黙のうちに閉じこもる。  しかしメアリ・スチュアートは、陰謀を捜査し犯罪者を罰するための、いかなる処置を執るでもない。自分から嫌疑をそらすために、苦しんでいるふりをするでもない。フランスのカトリーヌ・ド・メディチも、イングランドのエリザベス女王も、メアリが犯罪者をしかるべく処罰することを強く要望しているのに、彼女はただ茫然と、気抜けしたように、事態を傍観しているのみである。おそろしい精神の緊張のあとの、一種の虚脱状態が彼女を襲ったのだ。「これほどの短期間に、さして重い病気もしないのに、女王ほど面変りした女性を今までに見たことがありません」と当時の証人が書いている。  ボスウェルとメアリの結婚式が挙行されたのは、この忌まわしい殺害事件からわずかに三ヵ月の後である。これこそ全世界に向って手袋をたたきつけたようなものだ。神をも怖れぬ恥知らずの行為だ。彼女はあらゆる国々の同情を失い、すべての者に対して完全に孤立する。彼女の美しい額には、以後、目に見えない|夫殺し《ヽヽヽ》の烙印が焼きつけられる。  いったい、なぜ彼女はこんなに結婚を急いだのか。お腹のなかに、ボスウェルとの道ならぬ情熱の果実が育っていたのである。子供はその後、彼女が幽閉されていたロッチレヴェンの城で流産したらしい。   あの方のために、わたしはそれ以来、名誉をあきらめました   あの方のために、わたしは身内と友達とを捨てました……  この詩句が、ついに怖ろしいほどの真実となったのである。  やがて国内の貴族たちが結束して叛乱を起すと、ボスウェルと女王は、危険を察知してホリルード城から遁走する。メアリは捕えられて、ロッチレヴェン城に監禁される。  粗末な百姓女の服装をした女王が、兵士たちに取り巻かれると、たちまち民衆の憎悪の声が四方から響いてくる。「売女を焼き殺せ! 亭主殺しを焼き殺せ!」と。自分の国のなかで捕虜になった女王とは、何という奇妙な見世物であろう。  ボスウェルの末路は、さらに彼女以上に悲惨である。暴徒に追われ、陸を越え海を越えて、彼は逃げまわる。何度も兵を集めて反撃に転じようとするが、成功しない。オークニ群島にわたり、海賊の頭目になるが、嵐に襲われ、ノルウェーの海岸に漂流し、ついにデンマークの軍艦につかまる。デンマーク王は、この危険人物を牢にぶちこむ。  鎖につながれたまま、暗黒の壁の内部で、彼はおそるべき孤独と無為のうちに、生きながらその逞ましい生命を腐敗させてゆく。そして最後に、この一世の風雲児は、狂気のうちにみじめな最期をとげたと伝えられる。  女王メアリ・スチュアートは、ただ犯罪人ボスウェルと手を切り王位を退くことを要求する民衆の意志に、みずから承認をあたえさえすれば、後半生のきびしい運命に堪えなくても済んだのである。が、彼女はそれをしなかった。今となっては、自分の生命よりも女王としての誇りのほうが、彼女には大事だったのだ。  美しい湖水のなかにある陰鬱な城。囚われの女王。──これは、じつにロマンティックな空想力を掻き立てる風景である。この風景に、さらに女王の脱走という、一層ロマンティックな主題が結びつく。  脱走の手助けをしたのは、囚われの女王に思いを寄せる青年貴族、監視人の息子ダグラス・オヴ・ロッチレヴェン卿である。青年はオールを漕いで、五月のほの明るい夜のなかを、湖の向う岸まで小舟をやる。小舟のなかには、侍女の衣裳を着たメアリがいる。──この美しいロマンスは、メアリの生涯における最後のロマンティックな夕映えであろう。  こうして脱走に成功すると、メアリのうちに、ふたたび昔ながらの大胆さが目ざめる。たちまち六千人の軍隊を集めて、敵と対峙する。が、運命の神はもう彼女には微笑まない。戦いに敗れ、女王は数人の従者とともに、馬にまたがり、牧場を越え沼地を越え、森を抜け野を抜け、必死の逃走をこころみる。  やがて海辺に近いダンドレナンの僧院にたどりつくと、彼女はエリザベス女王に宛てて歎願の手紙を書く。それからイングランドへ渡る。これが彼女の運命の分れ目だ。時にメアリは二十五歳。そして事実上、彼女の生涯はこれで終ったのである。  それから以後の彼女の生涯は、牢獄から牢獄へと送られる、自由を喪失した灰色の年月にすぎない。宗教的にも政治的にもメアリと利害の一致しない立場にあるエリザベスは、決して彼女を自由の身にしないだろう。一五六八年から一五八七年までの十九年間、彼女は苛立たしい虜囚の生活に堪えねばならない。メアリの青春は枯れしぼみ、彼女の生命は徐々にほろびてゆく。  牢獄の外では、メアリを擁立してエリザベスを倒そうとする陰謀が、幾度か計画されては、その都度挫折する。イングランド両院は、メアリの処刑をエリザベスに強く要求する。この不気味な幽霊を追っ払ってしまわないうちは、政府は枕を高くして眠ることもできない、というわけだ。  しかしエリザベスは、人民の目にはあくまで慈悲ぶかい女王として見られたいので、なかなか死刑の決定をあたえない。メアリはメアリで、自分を裏切って幽閉した「お姉さま」に対して、最後の憎しみを爆発させる。この囚われの女が牢獄の中からエリザベスに放った言葉ほど、すさまじい罵りの言葉はない。エリザベスは女としての最後の肉体の秘密にふれられて、怒りに蒼ざめる。  結局、天に二つの太陽がないように、二人のうちの一方は滅びなければならなかったのである。  処刑は一五八七年二月八日朝、彼女の最後の獄舎であるフォザリンゲー城の大広間で行われることになった。  メアリは持っているだけの衣裳全部を点検し、最後の死の舞台に、最も豪華な装いをして立とうと考えた。それはまるで、女王というものがいかに完全なすがたで断頭台に進まねばならないかという模範を、後世に残そうとするためかのようだった。  貂の毛皮を飾った黒褐色のビロード製の上着。同じく黒い絹のマント。その黒っぽい衣裳をさらりと脱ぐと、絹の赤い下着がぱっと人々の眼を射る。これほど芸術的な死装束はなく、その荘重な効果はすばらしかった。  女王は少しも慄えず、ほとんど嬉しげに死刑判決の告知を聞いた。断頭台を両腕でかかえ、首斬役人の斧の下に、すすんでその首をさし出した。最後まで王者らしい尊厳を少しも失わなかった。 [#改ページ]  カトリーヌ・ド・メディチ  中学校の歴史の教科書に、「聖バルテルミーの虐殺」と題された、十六世紀当時の古い銅版画の挿絵が挿入されていて、年少のわたしは、その微細に描かれた残酷な集団|殺戮《さつりく》の場景に、魅せられたように飽かず眺め入ったものであった。  朝まだき、手に手に火縄銃や槍をもった獰猛な兵士たちが、パリの新教徒たちの民家に押し入り、ベッドのなかで寝ている男女を裸にして、窓から街路にほうり投げる。路上では、女や子供までが無惨に刺し殺され、首に縄をつけて引きずられ、手とり足とり、セーヌ河に投げこまれる。いたるところで火縄銃が煙をあげ、髪ふりみだした半裸の男女が屍体となってころがっている。  メリメの『シャルル九世年代記』によると、「血はセーヌ河に向って四方から流れ来り、往来を通る者は、たえず窓から投げ出される死骸の下敷になって押しつぶされる危険があった」ということである。  前景から背景まで、余白も残さずびっしりと克明に描きこまれた銅版画は、いくら眺めても決して見飽きることがなく、まるで一種ふしぎな沈黙の活人画のように、遠い歴史の血なまぐさい一齣を、わたしの眼底にありありと灼きつけるのであった。……  この名高い聖バルテルミーの虐殺を実行させたのが、フランス王アンリ二世の王妃として、イタリアのメディチ家から輿入れしてきたカトリーヌである。 「ルネッサンス期の男女は動物的なはげしさをもっているから、心の配慮が肉体の動きを制することなどは決してない。彼らは良きカトリック教徒でありながら、外出には必ず腰に匕首をおびる。アンリ二世とカトリーヌ・ド・メディチの結婚は、イタリア宮廷の謀略や、罰を受けない殺人や、あやしげな決闘や、毒手袋の風習などをフランスに導入した。そしてイタリアの傭兵隊長流とフランスの騎士道との混合が、そこに奇妙な人間たちを作り出した」とアンドレ・モォロワが書いているが、──たしかに、王妃カトリーヌを中心としてルーヴル宮に君臨していた、あの華麗なヴァロワ王朝末期の君主たちの宮廷には、野蛮と洗練との奇妙に入り混った、魔術的な雰囲気がみちみちていたように思われる。  フィレンツェの名門メディチ家からフランス王家に輿入したカトリーヌは、当時の史家の説によると、ひどく迷信ぶかい病的な気質の女性で、魔術師や錬金道士や、占星博士や香水製造家など、いかがわしい人物を大勢身近にあつめ、後にはしばしば淫靡な黒ミサにもふけったという。  また結婚後、最初の十年間子供がなかったので、占星学者や魔術師に頼んで、子供のできる魔法の水薬を常用したともいわれている。そのためかどうか、後には五人の息子や娘を次々に生んだ。  彼女がいつも護符を肌身離さず持っていたという逸話も、よく知られている。それは金属のメダルで、表面には裸体のウェヌス像を中心に、あやしげなカバラ(ユダヤ神秘学)の記号がいっぱい彫りこまれていた。  長いあいだ粗野な夫アンリ二世に疎んじられていたので、彼女には、多分にヒステリー気味になっていたところもあるようである。  アンリ二世は十八歳も年上の寡婦ディアーヌ・ド・ポワチエ(ヴァランチノワ女公と呼ばれる)を熱愛していて、いつも彼女と一緒に旅に出たり、いろいろな贈物をしたり、熱烈な恋文を送ったりしていた。この王さまの物語めいた執心は、後に述べるように、ふとした災難で王さまが死ぬまで、二十三年間も続いた。  ディアーヌとは、ローマ神話の月の女神である。当時の年代記作者ブラントームの記述によると、実際このディアーヌは、月の女神のように冷静で野心的で、絶世の美人だったそうである。  一方、王妃カトリーヌは、小肥りの醜い女で、鼻が大きく、唇は薄く、船暈《ふなよ》いにかかった人のような締まりのない口元をしていた。眼を半開きにして、しょっちゅう欠伸をしている。これでは夫に疎んじられるのも無理はないが、彼女自身は不屈な忍耐心で、夫の放蕩を見て見ぬふりをしていた。  ラファイエット夫人の典雅な恋愛小説『クレーヴの奥方』の冒頭に、「王妃はもう初々しい若さを過ぎてはいるが、やはり美しい方だった」と書かれているけれども、これは小説作者の粉飾というものであろう。実際の王妃カトリーヌは、当時の肖像画を見ても、あまり美しい方だとは義理にもいえないのである。 「王妃の男勝りの気象では、国王の配偶として崇められる地位を楽しんでおいでのようだった。ヴァランチノワ女公を陛下が御寵愛になることも一向気になさらない様子で、嫉妬の色を少しもお見せにならない。しかしこの方はいつも本心を奥深く包んでいる性質だから、ほんとうの御気持まで察しるのは容易なことではなかった。」(『クレーヴの奥方』)  実のところ、カトリーヌは極端に内攻的な性質で、嫉妬や屈辱の情をこらえ、ぎりぎりまで鬱積させていたのだった。だから、それがたまたま堰を切って爆発すると、側近の腰元や侍童を鞭で打つようなサディスティックな行為に出たり、また夫の死後政治に乗り出してからも、毒殺や暗殺を日常茶飯とするような、権謀術数のうちに生きる陰険な女となってゆくのである。  名高い性病理学者クラフト・エビングの説によれば、例の聖バルテルミーの大虐殺も、彼女の倒錯的な本能の満足のために実現された大々的な淫楽殺人でしかない、ということになる。  もっとも、カトリーヌはメディチ家の出身だけあって、美術や芸術上の良い趣味をもち、芸術家を保護し、この時代のフランス文化を大いに発展させた。祝典や豪奢な音楽会を催し、ルーヴル宮に美術品の数々を蒐集した。壁掛、リモージュ焼の七宝、宝石細工、稀覯《きこう》書、陶工ベルナール・パリッシーの陶器などは、当時の工芸文化の粋であろう。  カトリーヌがパリに建てた宮殿は「女王館」と呼ばれ、館の庭には、内部が空洞で螺旋階段のある奇妙な円柱が立っていた。円柱の頂きには、円形と半円形の交錯した天球儀のような球が載っている。柱頭はトスカナ様式、基底部はドーリア様式、そして柱幹には十八条の縦溝が彫られ、王冠や、百合の花や、動物の角や、鏡や、飾紐や、さまざまな魔術の象徴物がいっぱい彫りこまれている。  この奇妙な円柱は、王妃が御用天文学者レーニエのために建ててやった占星術師用の観測所で、今でもパリの市中にそのまま残っている。ルイ十五世の時代には、円柱の柱頭に日時計が置かれ、周囲に泉水が掘られた。  神秘学や魔道を好んだカトリーヌの宮殿には、レーニエのほかにも、フィレンツェ生れの妖術使ルジエリだとか、医者としても名声のあった予言者ノストラダムスだとかいった、有名無名の魔術師たちが雲のごとく集まっていた。  ノストラダムスといえば、彼がカトリーヌの夫アンリ二世の不慮の死を予言したことは、あまりにも有名である。  王の娘マルグリット・ド・フランスとサヴォワ公との結婚式の折、王は若い近衛隊長モンゴメリー伯をさそって、余興の野試合をしようといい出した。伯は最初つつましく辞退したが、王の懇望にとうとう負けてしまった。そこで、試合をはじめたが、どうしたはずみか、伯の槍が王の黄金の兜をつらぬいて、片目を突き刺してしまったのである。槍は脳にまで達していた。それが原因で、王は九日間を昏睡状態ですごしたまま、まもなく死んだ。  ところで、ノストラダムスの『百詩篇、第一の書』という予言集には、次のような四行詩が書かれていたのである。   若き獅子は老人に打ち勝たん、   いくさの庭にて、一騎討のはてに、   黄金の檻の中なる、双眼をえぐり抜かん、   酷《むご》き死を死ぬため、二の傷は一とならん、  アンリ二世が病床に呻吟する身となるや、カトリーヌは王の枕もとから、寵姫ヴァランチノワ女公を断固として遠ざけた。女公が王のところへお見舞するのさえ、許さなかった。「死にゆく王は王妃のものです」と彼女はきっぱりいうのであった。そして、女公はその館に退き、かつて王があたえた印章や王冠の宝石をただちに返却するよう、また、王妃が控えを取っておいた王からの贈物の数々を送り返すようにとの命令を受けた。  女公は、陛下がもう亡くなったのかと訊いて、そうでないことを知ると、「それでは、まだわたしにそんな命令をなし得るひとはありますまい。陛下が信頼してわたしの手にお渡しになっているものを、だれも返せとはいえないはずです」と答えた。  長いあいだ美しいディアーヌの蔭にかくれて目立たぬ存在だった王妃も、夫の死とともに、俄然、女丈夫としての本領を発揮し出した感があった。政治の舞台に躍り出したのも、夫の死後である。  しかし、アンリ二世の横死事件以来、フランス王家は徐々に傷ましい運命をたどりはじめた。今や王太后となった摂政のカトリーヌに残されたものは、三人の暗愚な王子と、宗教動乱によってずたずたに分裂した王国とであった。  三人の王子とは、その後次々に王位につくことになったフランソワ二世、シャルル九世、アンリ三世である。  母親の血を享けてか、三人の息子はいずれも頽廃的な、魔術を好む気質の持主で、しかも極端に病弱、かつ遊惰であった。これは滅亡寸前のヴァロワ家の王たちに特有な性格である。  これより先、まだ夫のアンリ二世が生きていたころ、カトリーヌは三人の息子の未来を知りたく思って、ノストラダムスをパリに呼び寄せたことがあった。そのとき、この高名な占星学者は、「三人の息子は一つの玉座にのぼるだろう」と予言した。ところで、三人の息子はノストラダムスの予言通り、相継いで一つの玉座にのぼりはしたものの、三人三様のみじめな死に方をしたのである。  まず長子は父のあとを継いで、十五歳で王位につき、フランソワ二世を名乗ったが、即位後一年にして頓死してしまった。教会内で突如として高熱に苦しみ出し、むごたらしく悶絶したのだ。一説によると、毒殺だともいう。  フランソワ二世は虚弱で、腺病質で、幼いころから吹出物や慢性中耳炎に悩み、性格も暗くて、無口で、ほとんど精神薄弱に近いような子供であった。死因はたぶん中耳炎から来た脳脊髄膜炎であろう。  二番目のシャルル九世は九歳で王位につき、母のカトリーヌが摂政となった。ところが、彼女はノストラダムスの予言がようやく気になりはじめ、当時ペストで荒廃していた南仏サロンの町へ、息子とともに旅をして、占星学者の意見を聞きに行った。ここで予言者が傷心の母親に何を語ったかは、知られていない。  シャルル九世もまた、ヴァロワ家の人間らしく虚弱で、遊惰で、美術好きで、いつもおどおどした臆病な人間だった。メリメによれば、「その顔色は憂鬱で、その大きな碧い眼は、決して話相手をまともに見ることがない」のだった。  例の聖バルテルミー祭の日、ルーヴル宮の窓から長い火縄銃で、逃げて行く新教徒たちを狙い撃ちしていたといわれるシャルル九世は、この怖ろしい虐殺の日以来、夜ごと悪夢に悩まされるノイローゼに陥り、それを忘れるために、身をすり減らして快楽に耽溺するようになっていた。そしてついに、王母の手に抱かれたまま、二十四歳を一期として死んだのである。医者は肺病と診断したが、一説には、あまり瀉血をやりすぎて貧血して死んだともいう。  このシャルル九世の原因不明の憂鬱病については、世にも奇怪なエピソードが残っているので、事のついでに紹介しておこう。  息子の病気が日ましに悪化し、医者もついに匙を投げるほどの状態になると、王太后カトリーヌは、ドミニコ派の背教僧と図って、涜神的な黒ミサを行い、悪魔の口を借りて、息子の運命を語らせてみようと考えたのである。  ミサは深夜の十二時に、悪魔の像の前で執行された。列席したのは、カトリーヌとシャルルと、その腹心の部下だけである。まず倒れた十字架を足で踏みつけた妖術使が、黒と白の二つの聖体パンを捧げた。白いパンは、犠牲として選ばれた美貌の子供の口のなかに押しこまれ、子供は聖体拝受がすむとすぐ、祭壇の上で首を刎ねられた。胴体から切り離された首は、まだぴくぴく動いているうちに、大きな黒いパンの上に置かれ、次にランプの燃えているテーブルの上に安置された。  やがて悪魔祓いの儀式がはじまり、悪魔は子供の口を借りて、お告げの言葉を発することを要求された。シャルルはおずおずと質問したが、その声は小さくて、誰にも聞えなかった。すると弱々しい、とても人間の声とは思えない奇妙な声が、犠牲にされた子供の小さな首から聞えてきた。それはラテン語で Vim patior(よくもひどい目に遭わせたな)という意味の言葉だった。  この言葉を聞くと、病人は恐怖のあまり五体を戦慄させ、しゃがれ声で、「その首を追いはらえ。近寄せるな」と叫び、最期の息を引きとるまで、「血まみれの顔……血まみれの顔……」と、うわ言のようにいいつづけた。周囲の者には、王の叫ぶ言葉の意味が分っていた。たしかに王は、聖バルテルミーの夜に虐殺された新教徒の首領、コリニー提督の幻を見たのにちがいなかった。  子供の口から洩れた「よくもひどい目に遭わせたな」という言葉は、じつは、コリニー提督の呪いの言葉だったわけだ。……  かつてシャルル九世とコリニー提督とは、きわめて親密な一時期をもったこともあった。提督はその重々しい人柄によって、人の好い若いシャルルの心をすっかりとらえてしまったのである。王は母に知らせることさえしないで、コリニーとともに、熱中してフランドル遠征の作戦計画を立てていた。のんきなシャルルにとっては、戦争ごっこぐらいの気持だったのかもしれない。カトリーヌはこの有様に憤激した。「この提督は愛児を盗み、祖国を無益な戦争に追いやろうとしているのだろうか……」と。  カトリーヌは思案し、ついにコリニーを除く決意を固める。旧教側の頭目ギュイーズ家と共謀して、手筈をととのえる。かくて一五七二年八月二十二日金曜日、コリニー提督はモールヴェルという兇漢のために、火縄銃で射たれて重傷を蒙った。これが、あの恐ろしい八月二十四日の新教徒大虐殺、すなわち聖バルテルミーの惨劇の、そもそもの発端である。  二十四日の深夜一時半、虐殺の合図の半鐘が鳴った。「今日は残酷なことこそ慈悲にして、慈悲深きことは、すなわち残酷なり」というカトリーヌ王太后の言葉が、口々に唱えられ、女や子供を殺すときには必ず繰り返された。  コリニー提督は寝こみを襲われ、その屍体は窓から街路に投げ出され、路上を引きずりまわされ、最後にモンフォコンの刑場で、絞首台にぶら下げられた。成行きを察して態度を豹変し、かつての親友を裏切ったシャルル九世は、わざわざ刑場に出かけて行って、コリニーの屍体に凌辱を加えたという。 「血まみれの顔」とは、この時のむごたらしい幻影であろう。彼が良心の呵責に堪え得なかったのも、道理である。  しかし別の説によると、シャルル九世は母の手によって毒殺されたのだともいう。そしてその理由は、王太后が最愛の息子たる三男(後のアンリ三世)に王権を確保するためだった。もしこの説が本当なら、カトリーヌはたぶん、シャルル九世の優柔不断な性格と無軌道な放蕩が、打ちつづく宗教動乱によって四分五裂の状態になっていた王国を、破滅にみちびくことを憂えたのでもあろう。  毒殺の疑いを抱かせる有力な証拠は、死の直前、シャルル九世の顔に奇妙な斑点が生じたこと、それから、彼が血の混じった寝汗をかくようになったことである。  毒薬の本場ともいうべきフィレンツェから来たカトリーヌは、その周囲に、毒薬を提供してくれる香料商人を幾人も抱えていた。なかでいちばん有名なのは、サン・ミシェル橋の上に店舗をかまえていたルネ・ビアンコという男である。手袋や手紙に毒を滲みこませる方法は、彼がイタリアからフランスの宮廷に持ちこんだのである。  すでにカトリーヌの送った毒の手紙の犠牲となって死んだと信じられていたひとに、ナヴァル王妃のジャンヌ・ダルブレがあった。当時のひとびとも、ほとんどこの噂を信じて疑わなかったようである。ジャンヌは息子のアンリとマルグリット・ド・フランス(カトリーヌの娘で、後に女王マルゴの名で知られるようになった淫蕩な王妃)の結婚式に参列するために、パリにやってきたが、到着後六週間にして死んだ。  だからカトリーヌ・ド・メディチの名は、ちょうどイタリアのボルジア家と同じように、当時から、毒と結びついた不吉な名となっていたのである。  もっとも、ジャンヌ・ダルブレは永く結核を病んでいたので、その死はただの病死かもしれなかった。それでもカトリーヌに恨みをいだくユグノー派の連中は、毒殺にちがいないといって王母を非難したし、噂は噂を呼んで、いよいよ不吉な名声を国の内外に高まらせたのである。  ブラントームによると、シャルル九世は「人間を永いこと憔悴させ、やがて蝋燭の消えるように絶命させてしまう」海ウサギの角の粉末を、母の手から飲まされて死んだのだそうである。海ウサギとは、プリニウス以来その実在を信じられていた一種の水棲動物で、昔の毒物誌には必ず登場してくる名前である。もちろん、そんな動物は現実には存在するはずもない。  さて、こうしてシャルル九世が死ぬと、母の命によってポーランドに送られていた末弟は、ただちに呼び返されて新王の座についた。これがアンリ三世である。  このアンリ三世は、王母に輪をかけた魔道の愛好家で、頽廃的な倒錯者でもあったらしい。モォロワの『フランス史』によると、「新王アンリ三世は奇妙で不安定な魅力をもっていた。長身で、痩せていて、優雅で、親切で、嘲弄的で、理智と自然な自由主義とを示した。しかし、尊敬の念をひとにあたえなかった。彼の女性的な態度、腕輪、首輪、香水趣味は気にさわるものだった。彼が宮廷のある祝宴で女装していたと知ったとき、ひとびとは彼を『男色《ソドム》殿下』と呼んだ。」  新王はパリ郊外のヴァンセンヌの宮殿に住み、古塔のなかに閉じこもって、寵臣デペルノン公爵らとともに、降霊の術や黒ミサに熱中していた。当時のパリ市民のもっぱらの噂では、王はここで人間犠牲を捧げていたので、王の死後、古塔からは鞣《なめ》された子供の皮や、黒ミサ用の銀器などが発見されたといわれている。  アンリ三世がブロワに三部会を召集し、その席で油断を見すまして、政敵ギュイーズ公を暗殺させた事件は、映画にまでなった有名な歴史の一齣である。ギュイーズ公はブロワの城で逮捕され、斧でなぐり殺された。  だれもがやるまいと思っていたことを、この気の弱い女性的な王は、母にも相談せず、自分だけの考えでやってしまったのである。カトリーヌ・ド・メディチは驚いて、「何をなさったのです」と詰問した。「これで、わたしだけが王になりました」と息子は澄まして答えた。  すでに摂政を辞し、ブロワに隠退していた七十歳の老母は、この事件でひどいショックを受けた。「わたしはもう何もできません。床につくばかりです……」と歎いた彼女は、事実、ふたたび起きなかった。そして三週間後に死んだのである。 「死んだのは一女性ではない、王権なのだ」と、当時の歴史家ジャック・ド・トゥーは、いみじくもいった。 [#改ページ]  マリー・アントワネット  詩人ジャン・コクトーがマリー・アントワネットの肖像を、短い言葉で的確に、次のように描き出している。 「マリー・アントワネットについて考えるとき、首を斬られるということは、極端な悲劇的な意味をおびる。幸運な時期における彼女の尊大な軽薄さは、事情がやむをえなくなったとき、不幸を前にした崇高な美しさと変る。儀礼の化粧をほどこした心ほど、品の悪いものはない。舞台が変り、喜劇が悲劇になったとき、宮廷の虚飾によって窒息させられた魂ほど、気高いものはない。」 「かつての彼女の歯の浮くような名門意識が、フーキエ・タンヴィルの裁判所では、そのまま彼女の役割に天才の輝きを添える。彼女の白くなった捲毛には、もう尊大な風は見られない。一人の侮辱された母親が、反抗を試みるだけである。彼女の言葉は、もう自尊心によって歪められることがない。口笛で弥次られ通しのこの女優は、まことに偉大な悲劇役者となって、見物席の観衆を感動させるのだ。」 「女王の最良の肖像画は、むろん、ダヴィッドによって描かれた、荷車のなかに坐って刑場に赴く彼女のそれである。彼女はすでに死んでいる。サン・キュロットたちが断頭台の前につれて行ったのは、彼女ではない別の女である。羽飾りや、ビロードや、繻子や、提灯などのいっぱい入った箱の下に身をかくし、自分自身を使い果たしてしまった別の女である。」  たしかにコクトーのいう通り、幸運な時期における誇り高い「悪女」が、心ならずも歴史の大動乱に捲きこまれ、思ってもみなかった数々の試練を受けることによって、悲劇の女主人公に転身してゆく過程は、きわめて感動的である。平凡な人間が、運命のふるう鞭に叩かれ、歴史の悪意に翻弄されて、その運命にふさわしい大きさにまで成長してゆく過程を、このマリー・アントワネット劇ほど、みごとに示してくれるものはないであろう。  オーストリアの女帝マリア・テレジアの娘として、爛熟したロココ時代のフランス宮廷に輿入れした彼女は、その軽佻浮薄な精神、贅沢好き、繊細、優雅、コケットリーの誇示によって、十八世紀のロココ趣味の典型的な代表者となった。大きな不安を目前に控えた、この十八世紀末の束のまの一時期こそ、最も洗練された、享楽的な貴族文化の絶頂期といえよう。そして彼女の態度、容貌、生活そのものが、まさに完璧に時代の理想を反映していたのだ。  マリー・アントワネットは自分の好みにしたがって、ヴェルサイユ庭園の片隅に、小さな独自の王国を築き上げた。これが名高いプチ・トリアノンの別荘で、フランスの趣味がかつて考案したうちでも最も魅惑的な建物の一つである。美しい女王にふさわしく、極度に線が細く、うっかりすれば崩れそうな繊細巧緻な趣きは、小さいながら、この別荘をロココ芸術の精髄たらしめている。マリー・アントワネットはここで仮面舞踏会を催したり、芝居を演じさせたり、さては、池や小川や洞窟や、農家や羊小屋さえある牧歌的なその庭で、若い騎士たちとかくれんぼをしたり、ボール投げをしたり、ブランコ遊びをしたりして、ひたすら気ままに遊び暮らすのである。  ヴェルサイユから馬車を駆って、お気に入りの扈従ともども、夜ごとにパリの劇場や賭博場へ出かけては、空の白むころにやっと戻ってくるようなこともしばしばであった。衣裳やら、装身具やら、宝石やらに用いる金はおびただしく、ために借金は嵩み、賭博によって補いをつけなければならなかったのだ。警察は王妃のサロンへは踏みこめない。それをよいことに、王妃の仲間はいかさま賭博をしているという、不名誉な噂が巷間の話題になった。  たえず何ものかに急《せ》きたてられるように、次々と遊びを変え、新しい流行に飛びついてゆく彼女の気違いじみた享楽癖は、いったい、どういう性格上の理由によるものだったろうか。宗教心あつい厳格な母親からの警告を聞いて、マリー・アントワネット自身は次のように率直に答えている。すなわち、「お母さまは何をしろとおっしゃるのでしょう。わたしは退屈するのが怖いのです」と。  この王妃の言葉は、十八世紀末の精神状態を見事にいいあらわしている。崩壊一歩手前で休らった、革命前の貴族文化にとっては、すべてが充足しているという、退屈以外のいかなる精神も見出せないのである。内面的な危機から免かれるために、ひとびとは決して終らないダンスを踊りつづけなければならなかったのである。  それに、マリー・アントワネットの場合には、不自然な結婚生活という、特別な理由が加わっていた。天下周知の事実であるが、彼女の夫であるルイ十六世は、一種の性的不能者で、結婚以来七年ものあいだ、その妻を処女のままに放置しておいたのである。このことが、マリー・アントワネットの精神的成長におよぼした影響は、決して軽々に看過すべきではなかろう。彼女が次々と快楽を追う気まぐれな生活のうちに、怖ろしい退屈を忘れなければならなかったのも、ひとつには、むなしく刺激を受けるだけで、一度たりとも満足させられたことのない、幾年にもわたる夜のベッドの屈辱の結果であった。最初は単に子供っぽい陽気な遊び癖であったものが、次第に物狂おしい、病的な、世界中のひとびとがスキャンダルと感じるような享楽癖と化してしまい、もうだれの忠言も、この熱病を抑えることは不可能となってしまうのである。  一方、国王ルイのふしぎな道楽といえば、錠前仕事と狩猟をすることで、専用の鍛冶場で黙々と槌をふるったり、獣を追って森を駆け抜けたりするのが、彼にとって何よりの幸福であった。派手好きな妻とは趣味が合わないが、彼は妻に対して男性としての引け目を感じているので、まったく頭が上らない。生まれつき鈍感で、不器用で、優柔不断で、いかなる場合でも睡眠と食欲を必要としないではいられない彼は、およそ繊細とか、敏感とかいった気質と縁がない。つまり、妻とは正反対の気質の持主である。といって、夫婦のあいだに風波が起ったということは一度もなく、この二人は子供こそないが、まことにのんびりした、平和な夫婦であった。  後にマリー・アントワネットの兄ヨーゼフ二世がひどく心配し、ウィーンからパリにやってきて、国王ルイに勧めたのが外科手術だったと伝えられる。その結果、力づけられた王は新たな勇気をふるい起して、結婚の義務の遂行にとりかかる。こうして七年間にわたる悪戦苦闘の末に、ようやくマリー・アントワネットは母になる幸福を味わうことになった。「わたしは生涯において最大の幸福に浸っております」と彼女は、はじめて夫が満足に義務を果たしおえた日の翌日、母のマリア・テレジアに書き送っている。  ロココの王妃がトリアノンの別荘で贅沢な祝典に明け暮れしているあいだ、彼女の知らない外部の世界では、次第に新しい時代の動きが準備されつつあった。緊迫した時代の雷鳴が、パリからヴェルサイユの庭園へとどろきわたるころになっても、彼女はまだ仮面舞踏会をやめようとしない。時代の空気をよそに、相変らず享楽生活をあきらめず、国庫の金を湯水のように蕩尽する彼女に対して、非難攻撃の声が高まりはじめた。  オルレアン公の庇護のもとにパレ・ロワイヤルに集まった改革主義者、ルソー主義者、立憲論者、フリー・メイソンなどといった不平分子たちのあいだに、活溌なパンフレット活動が開始される。フランス王妃は「赤字夫人」とあだ名され、卑しい「オーストリア女」と蔑称される。  王妃自身、自分の背後で悪意のこもった陰謀がたくらまれていることを、はっきり感じ取ってはいるものの、生まれつき物にこだわるということを知らず、ハプスブルグ流の誇りを片時も忘れたことのないマリー・アントワネットは、これら一切の誹謗やら中傷やらを、十把一からげに軽蔑するほうが勇気ある態度だと信じている。王妃の尊厳が、賤民のパンフレットや諷刺小唄などで傷つけられるはずはないと高をくくっている。誇り高い微笑を浮かべて、彼女は危険のそばを平然と歩み過ぎるのだ。  市民の王妃に対する反感をいやが上にも煽り立てる原因の一つとなったのは、有名な「首飾り事件」であった。この馬鹿馬鹿しい詐欺事件に、王妃は実際何ひとつ責任がなかったのであるが、少なくとも王妃の名のもとに、このような犯罪が行われたという事実、そして世間がこれを信じて疑わなかったという事実は、拭い去ることのできない彼女の歴史的責任といえよう。プチ・トリアノンにおける長年の軽率な愚行が世間に知られていなければ、詐欺師たちといえども、こんな大それた犯罪を仕組む勇気はとてもなかったにちがいないからである。 「首飾り事件」によって、旧制度の醜い内幕が一挙にあばき出されることになった。市民たちは初めて、貴族と呼ばれる連中の秘密の世界をのぞき見ることになった。パンフレットがこんなに売れたこともなかった。「首飾り事件」は革命の序曲である、といった史家もある。  この事件の直後、王妃が劇場にすがたをあらわすと、はげしい舌打ちが観衆のあいだから一せいに起り、それ以後彼女は劇場を避けるようになったといわれる。積りに積った市民の怒りが、たったひとりの人物に向って叩きつけられる。正面攻撃にさらされるのは、お人好しの国王ではなくて、「彼の鼻先をつかんで引きまわしているオーストリアのふしだら女」なのだ。王妃はついにたまりかね、「あの人たちはわたしから何を要求しているのでしょう? わたしがあの人たちに何をしたというのでしょう?」と、側近の者に絶望の溜息をもらすまでになった。  しかし彼女には、歴史の趨勢を理解する能力もないし、理解しようという意志もない。二千万のフランス人に選ばれた代議士たちを、彼女は「狂人、犯罪者の集団」と呼び、民衆のデマゴーグに対しては、ありったけの憎悪を傾ける。最初から最後まで、彼女は革命というものを、低劣きわまりない野獣的本能の爆発としか考えないのである。  政治的にごく視野の狭い彼女は、明日のパンに困っている人間が存在するということさえ、ついぞ念頭にはのぼらせなかった。そもそも世界の悲惨を知らないでいたればこそ、あのように繊細優美なロココの小宇宙に君臨することもできたのである。今やこの小宇宙もシャボン玉のように砕け、嵐が目前に迫っている。運命の無慈悲な意志は、歴史上最も波瀾に富んだ事件の渦中に、戸惑っている彼女を突き落す。……  七月十四日、ルイ十六世はいつものように狩猟から帰ると、十時に寝てしまった。パリから顔色を変えて注進に及んだリアンクール公が、国王をたたき起して、次のように報告する、「バスチイユが襲撃されました、要塞司令官は殺害されました!」「では、反乱というわけか」と寝ぼけまなこの王は、驚いて口ごもる。「いいえ陛下、革命でございます」と使者が答えた。これは名高い伝説的なエピソードである。  マリー・アントワネットの愛人と目される人物のなかで、いまだに謎につつまれているのが、スウェーデンの貴族フェルセン伯である。いったい、彼女とこの若い北国生まれの貴公子とのあいだには、尊敬以上のものがあったかどうか。  フェルセン伯の存在は長いこと世間の口にのぼらなかったが、彼が王妃の信頼と愛情を一身にあつめていたことは、彼の妹のソフィや父元帥に宛てた手紙からも窺い知られよう。王妃の側近と目されていた連中がすべて彼女を残して去った後も、危険を冒して彼女に近づき、血なまぐさい動乱の最中、ヴェルサイユやチュイルリーの一室で親しく彼女と謀議をこらしたり、ヴァレンヌへの逃亡を共にしたりしたのが、このフェルセンという勇敢な男であった。  一七九二年二月十三日、フェルセンが厳重な国民軍兵士の警戒網を突破して、最後にチュイルリー宮に王妃を訪ねてきたとき、彼はその一夜を王妃の寝室で過ごしたという。おそらく、死と破滅の危険によって昂揚させられた恋の夜は、容易に二人のあいだの慎しみの垣根を取りはらったにちがいない。二人が本当の、精神的肉体的にも完全な恋人同士であったことは、この点からみても疑問の余地がないように思われる。  王妃には、ほかに寵臣がいないこともなかった。しかし公然と印刷された愛人のリストに載っているド・コワニー公にせよギーヌ公にせよ、エステルラジー伯にせよブザンヴァル男にせよ、彼らは単なる一時的な遊び仲間にすぎず、平和な時代の側近でしかなかった。彼らと異なり、フェルセンには一貫した誠実さがあった。これに対して、王妃もまた死ぬまで変らぬ情熱をもって報いたのである。  不幸とともに、この軽はずみな王妃の内面生活に、ひとつの新しい時期がひらける。喜劇が悲劇に変ったのである。彼女はいわば世界史的な自己の役割を認識し、自覚する。「不幸のなかにあって初めて、自分が何者であるかが解ります」と彼女は手紙に書いている。今まで人生と戯れていた彼女が、運命の苛酷な挑戦を受けて、人生と戦いはじめたのである。チュイルリー宮で反革命の外交交渉にみずから乗り出した彼女は、もうすでに、遊びやスポーツにうつつを抜かしていたころの彼女ではなかった。わきへ押しのけられた弱虫の夫に代って、彼女は外国の使臣と協議し、暗号文をつづって手紙を書き、さては怪物ミラボー伯を引見して、君主制維持の陰謀をめぐらすのである。  バスチイユ陥落後、同じ年の十月六日以来、暴民により強制的にパリに連れもどされた国王一族は、まるで人質のように荒れはてたチュイルリー宮に押しこめられていた。このころ、王妃の唯一の相談役がフェルセン伯であった。やがてヴァレンヌへの逃亡の途次、フェルセンは国王一家と別れ、その後一七九二年にふたたびチュイルリー訪問を決行する。そして、それが恋人同士の最後の逢瀬である。革命の大波は怖ろしい勢いで情勢を刻々と変化させ、国民議会から憲法までは二年、憲法からチュイルリー襲撃までは二、三ヵ月、チュイルリー襲撃からタンプルへの護送までは、たったの三日間という、急テンポの進展ぶりを示したのである。さしも勇敢なフェルセン伯も、手のほどこしようがなかった。  一七九二年八月十三日夕刻、王室一家はペチヨンの指揮のもとに、陰鬱な要塞タンプルに送りこまれる。ここにいたるまで、マリー・アントワネットは国民議会で、パリへ連れもどされる途中の沿道で、あるいはチュイルリーに乱入してきた国民軍兵士の前で、どれだけ多くの罵詈雑言を浴び、どれだけ堪えがたい屈辱を嘗めさせられたことか。  王室一家とは、国王ルイ、マリー・アントワネット、ふたりの子供、それに国王の妹エリザベートの五人である。これまで一緒にいた王妃の親友ランバール夫人も、タンプルへの収監と同時に、彼女から引き離された。一ヵ月後に、ランバール夫人は暴民に虐殺され、屍体を裸にされて、パリの町中を引きずりまわされる。槍の穂先には、血まみれの夫人の首が掲げられる。気丈な王妃も、親友が虐殺されたというニュースを番兵から聞くにおよんで、叫び声とともに気を失って倒れる。  国王の裁判がはじまるのは、同じ年の十二月、そしてついにルイ十六世がギロチンで処刑されるのは、翌年の一月二十一日である。処刑の前日、市の役人がひとりマリー・アントワネットのもとに現われて、本日は例外として家族とともに夫に会うことが許される、と伝える。妻、妹、子供たちは、暗い要塞の階段をおりて、国王ひとりが収容されている部屋に赴く。最後の別れである。  タンプルで国王一家の監視に当っていたのは、一七八九年の革命の立役者のなかでも最も根性の下劣な、「狂犬」と異名をとる極左派のエベールであった。ロベスピエールやサン・ジュストのような高貴な精神の革命家と、彼のような血に飢えた卑しい殺人鬼とを一緒にすべきではない。彼はやがて革命の大天使サン・ジュストに告発されて処刑されるが、すでに夫を失い無力になったマリー・アントワネットに対して、執拗な脅迫を繰り返すのが彼である。  七月三日、最愛の子供が彼女の手から引き離され、八月一日、彼女はついに国民公会の決定により、コンシエルジュリに移されることになる。マリー・アントワネットは落着いて告発文に耳を傾け、一言も答えない。革命裁判所の起訴が死刑と同義であり、ひとたびコンシエルジュリに収監されれば、そこを出てくるためには断頭台への道を通らねばならないことを、彼女はよく承知している。  しかし彼女は嘆願もせず、抗弁もせず、猶予を願うこともあえてしない。彼女にはもう失うものが何もないのである。まだ三十八歳だというのに、髪はすでに白くなり、その顔には不安は消えて、茫漠とした無関心の表情があらわれている。コクトーのいうように、すでに彼女は「自分自身を使いつくして」別の女になってしまっていたのである。王妃マリー・アントワネット、未亡人カペーは、世界中から見捨てられ、いまや孤独の最後の段階に立っている。あとはただ、王妃にふさわしく、誇り高く立派に死ぬことが残されているのみだ。  十月十四日から、彼女に対する公判が開始される。そこで例の狂犬エベールにより、思いがけない驚くべき汚名が彼女に蒙らされる。彼女が久しい以前から、九歳の息子に不潔な快楽の方法を教え、息子と忌わしい近親相姦にふけっていたという罪状である。これには息子や王妹エリザベートも証人として出廷させられ、裁判長の訊問を受けている。息子が検事の誘導訊問の通り、母親の不利になるような供述をしたことは事実である。  まだやっと九歳になったばかりの子供の、こんな破廉恥な証言に、どれほどの信憑性があるか知れたものではなかろう。が、マリー・アントワネットは心底から好色な、堕落した女だという確信が、数え切れないほどのパンフレットのおかげで、革命家の魂のなかに深く滲み入っているので、実の母親が八歳六ヵ月になる息子を性的にもてあそぶなどという、容易には信じがたい罪状でさえも、エベールらの徒には何の疑念もなしに受け容れられたのである。  コンシエルジュリにおける七十日は、マリー・アントワネットの肉体をいよいよ老いこませた。日光から遮断されていた彼女の眼は、赤く充血して焼けつくように痛む。唇と下半身のひどい出血が、見違えるほど彼女を憔悴させた。しかし法廷に出てきたとき、彼女は頭をしゃんと起し、動揺の色もなく、落着いた眼ざしを裁判官の方に向けていた。  冒頭に鬼検事フーキエ・タンヴィルが立ちあがって、起訴状を朗読する。王妃は、ほとんど聞いていないかのごとくである。しかし、訊問がはじまると、彼女はしっかりと確信をもって答える。一度も取り乱したり、自信をなくしたりしない。  ともあれ、筋書通り、陪審員たちは全員一致して、マリー・アントワネットが彼女に帰せられた犯罪に対して有罪であると言明する。この判決を聞いても、彼女はまるで無感動で、不安も示さなければ怒りも示さない。裁判長の質問には一言も答えず、ただ否認のしるしに頭をふるばかりである。あたかもこの人生に一切の希望をなくし、ただ一刻も早く死に赴きたいと願ってでもいるように。  彼女がコンシエルジュリの牢獄から引き出され、荷馬車にのせられて、群衆で埋まった革命広場につれて行かれたのは、一七九三年十月十六日であった。死刑執行人サンソンが、彼女の両手を背中に縛りあげた縄の端を握っている。王妃は最後まで強さを失うまいと、精神力のありったけを集中して前方をにらんでいる。  この光景を、的確なスケッチにより見事に描き出したのが、革命派中の唯一の芸術家ルイ・ダヴィッドである。ほんの一筆の素描のうちに、彼はあり合わせの紙の上に、馬車にゆられて断頭台へ赴く王妃の顔を、生き生きと写しとった。彼はカメレオンのように色を変え、権力に尻っぽをふる卑劣な人間ではあったが、画家としては当代最大の、狂いのない手をもった達人であった。コクトーのいうように、マリー・アントワネットの最良の肖像画が、これである。  断頭台の刃が鈍い響きを立てて落下し、死刑執行人が青ざめた王妃の首をつかんで、群衆に向かって高々と示すと、何万という市民は押し殺していた溜息をほっと洩らし、「共和国万歳!」と、一せいに叫ぶのであった。 [#改ページ]  アグリッピナ  暴君ネロの生涯に大きな影響をおよぼした、悪女と呼ばれるにふさわしい女性が二人いる。一人は、彼の前半生を恐怖によって支配した母親アグリッピナであり、もう一人は、彼の後半生を熱烈な恋の虜《とりこ》たらしめた妖婦ポッパエアである。ここでは、前者アグリッピナに焦点をしぼって、紀元一世紀のローマ宮廷に繰りひろげられる皇帝一家の血みどろの惨劇を、ややくわしく語ってみたいと思う。  アウグストゥス帝の曽孫であり、カリグラ帝の妹であるアグリッピナは、後にクラウディウス帝の妃となり、ネロの母親となったので、結局、系図のなかで四人のローマ皇帝の中心に位置することになった。これだけでも彼女の高貴な血統は証明されよう。父親のゲルマニクスがガリア地方に遠征中、同行した母親が、ライン河のほとりのコロニア・アグリッピネンシスという町(現在のケルン)で彼女を生んだ。  十四歳のとき、アグリッピナは兄のカリグラに処女を汚されたという。ローマ時代には、こんな乱倫もめずらしくなかったのであろう。次いでパッシエヌス・クリスプスという者と結婚したが、この男がたちまち死んだので、若い未亡人は、ドミティウス・アヘノバルブスという名門の貴族とふたたび結婚することになった。  この結婚から生まれたのが、後の暴君ネロである。博物学者プリニウスの伝えるところによると、この赤ん坊は「足から先に母親の胎内を出てきた」そうである。赤ん坊が生まれたとき、高名な占星学者に未来を判じてもらうと、「この子はやがて皇帝になって、母を殺すであろう」という御託宣だった。アグリッピナは感きわまって、「皇帝になってくれさえすれば、殺されたって構うものですか!」と叫んだという。この不吉な予言は、しかし、やがて事実となるのである。  ネロが三歳のときに、シチリア島の総督であった父親アヘノバルブスが同地で歿した。彼が遺した有名な言葉に、「わたしとアグリッピナのあいだに生まれる子供は、一個の怪物でしかあり得ないだろう」というのがある。  二度目に未亡人になったアグリッピナは、兄のカリグラ帝の気に入りの美青年レピドゥスとひそかに情交をむすび、兄の暗殺をはかった。むろん、皇帝の地位を奪わんがためである。が、この陰謀は事前に発覚して、レピドゥスは首を斬られ、アグリッピナはチレニア海の島へ追放された。  彼女が追放の身を解かれ、その島からローマへふたたび呼び返されたのは、その後、兄がエジプトで一兵士の兇刃に斃れ、クラウディウスが帝位を継いでからのことである。新帝クラウディウスは彼女の叔父であった。  この新帝は、暗愚で、好色で、虚弱で、酒飲みで、食いしんぼうで、だらしのない腑抜けのような男だった。彼の気に入りの楽しみは、牢屋へ行って罪人の処刑の有様を見物することであったらしい。それでも彼には妙な才能があって、歴史学を愛好し、エトルリア語を自由にしゃべったという。  クラウディウスはローマ皇帝にしてはめずらしく、男色趣味がなくて、もっぱら女を愛した。即位後、三度目の妻を迎えたが、これが悪名高いメッサリーナである。彼女は四回目の結婚だったが、まだ若く美しく、その上おそろしく淫乱で、夜な夜な薄穢ないスブラ街の淫売屋へ通ったという伝説は、あまりにも有名である。  メッサリーナは薄のろの皇帝をてんから馬鹿にしていて、しばしば公衆の面前で嘲弄するようなことさえあったが、それでも彼とのあいだに一男一女をもうけていた。すなわち、娘のオクタヴィアと息子のブリタニクスである。  残忍な皇妃メッサリーナは、宮中の美人にことごとく嫉妬したので、若い未亡人のアグリッピナも、彼女の魔手を逃れるのに大そう苦労した。皇妃の差し向けた刺客が、幼いネロの寝室に忍び入ったという事件もあった。将来ブリタニクスの競争相手になるかもしれない子供を、今のうちに殺しておこうという皇妃の魂胆である。  だから、皇妃が愛人シリウスと通じた廉により、寵臣ナルキッススに刺し殺されたときは、宮中の女性すべてがほっと愁眉をひらいた。皇帝は妻の死の知らせを受けても、何の反応をも示さず、のんびりした様子でむしゃむしゃ料理を食いつづけていたという。  メッサリーナが死ぬと、ただちに皇帝の後添えの問題が起った。宮中はてんやわんやの騒ぎで、寵臣たちはそれぞれ自分の推す女性を皇帝に添わせようと、さかんな売り込みをはじめた。その挙句、パルラスの強引な売り込みが勝ちを制して、ついにアグリッピナが皇妃の地位を得ることになった。  ただ、アグリッピナは皇帝の姪である。叔父と姪の結婚は、ローマの婚姻法では許されない。どうしたらよいか……しかし、解決は簡単であった。法律を改正すればよかったのである。  こうして皇妃《アウグスタ》になったアグリッピナは、三十三歳で絶大な権力を掌中におさめた。彼女にとっては三度目の結婚であるが、そんなことはどうでもよかった。おのれの野心のためにはどんな不倫であれ背徳行為であれ、これを犯して一向に恥じない。要するにこれが彼女の生き方であったからだ。  彼女は進んで国事に干渉し、元老院の会議にも出席した。彼女の肖像をきざんだ貨幣が鋳造され、各地方では、彼女の似姿が神のように礼拝された。彼女以前に、これほど輝かしい権威を誇ったローマの女帝はなかったし、彼女以後にも、ビザンティン帝国のテオドラを除いては、ほとんど類を見ない華々しい権勢ぶりであった。プリニウスの伝えるところによると、アグリッピナはある祭日に、全身「黄金ずくめの豪華な軍服を着て」あらわれたという。  アグリッピナにとって、恋愛はつねに目的ではなく手段であった。皇帝の寵臣パルラスと慇懃を通じ、彼の公然たる情婦になったのも、この男の政治的発言力を利用しようという目的からだった。自分の権力を伸ばすためにしか彼女は男に身をまかせなかった。  彼女の嫉妬ぶかさや残酷ぶりも、メッサリーナに劣らず非常なものである。皇帝がある日、その美しさを讃めたというので、カルプルニアという貴婦人は翌日さっそく追放の憂目にあった。また、皇帝争奪戦相手だったロリア・パウリニアという貴婦人が処刑されたとき、アグリッピナは、わざわざ斬り落された首を目の前に持ってこさせ、死んだのが果して本当に彼女であるかどうか確かめてみるために、みずから首を両手で持って、その口をこじあけ、歯の特徴を仔細に観察したともいわれている。  専制君主はだれでもそうであるが、アグリッピナもまた、自分の地位がいつ脅やかされるかと、たえず不安に苦しめられていた。皇帝にはメッサリーナとのあいだに、ブリタニクスという実の息子がある。アグリッピナの息子ネロは、皇帝にとっては赤の他人の子だ。ここに、彼女の将来に対する不安の芽の一切が胚胎していた。  ネロに対する母親アグリッピナの感情は、生涯の各時期に刻々と変化し、まことに掴みどころのないものである。要するに彼女の愛情のそそぎ方は、あくまでも自分本位だったというしかない。──生まれ落ちてすぐ、赤ん坊のネロはドミティア・レピダという叔母の手もとに預けられた。長ずるにおよんで、ネロの叔母に対する親しみの情は恋愛に変ってゆく。母親アグリッピナはこれを見て、怖ろしい嫉妬の焔を燃やす。しかしネロにとっては、生みの親たる冷淡なアグリッピナよりも、育ての親たるレピダの方に親しみをおぼえるのは当然だったろう。  一説によると、この叔母のレピダはひどく淫蕩的な女性で、幼いネロに愛撫の手ほどきをしたのも彼女だという。ともあれ、ネロの初恋の相手が四十近くも歳の違う、このレピダという女性であったことは特筆すべきであろう。  自分の息子が他の女に支配されるのを、アグリッピナは好まない。やがて彼女はレピダを殺し、息子を自分の手もとに引き寄せる。そしてネロを皇帝の娘オクタヴィアと婚約させ、皇帝の養子とすることによって、彼の将来の地位を固めようとする。  ここまで着々と準備を進めてから、アグリッピナはようやく犯罪の方向に一歩を踏み出すのである。除かねばならない当面の相手は、暗愚な夫クラウディウスであった。  史家ディオン・カシウスによると、すでにこのころ、皇帝は、アグリッピナと結婚しネロを養子としたことを大いに悔やんでいたらしい。妻をしりぞけ、実子のブリタニクスを後継者に指名する用意もあったという。アグリッピナが犯罪を急いだのは、かような情勢に左右されたところもあったにちがいない。  当時ローマに、毒薬使いとして評判の高いガリア生まれのロクスタという女がいた。ふだんは親衛隊長の管理する牢につながれていて、なにか政治的陰謀の計画があるごとに、牢から引き出され、相談を受ける。──アグリッピナも、このロクスタの指示にしたがって、毒薬を用いることに意を決した。  紀元五四年十月十二日、皇帝の誕生日を祝う宴会が宮中で催された。食卓には、クラウディウスの大好物であるキノコ料理が並んでいる。アグリッピナも食べたが、彼女はべつに何ともなかった。ところが、皇帝が皿のまんなかの大きなキノコを口にすると、やがて宴会の果てるころ、猛烈な吐き気が彼を襲いはじめた。しかし、彼はあまりにも多く飲んだり食ったりしていたので、毒がなかなか効き目をあらわさない。アグリッピナはいらいらし、心配になり、侍医のクセノフォンに目顔で合図を送った。  クセノフォンがすすみ出て、ぐったりした皇帝を抱き起し、吐かせてやるという口実で、皇帝の咽喉の奥に一本の鳥の羽根をぐいと突っこんだ。この羽根に、即効性の毒が滲みこませてあったのである。あわれにも皇帝は、たちまち手脚をこわばらせ、頭をのけぞらせ、目をひきつらせて死んでいった。  かくてネロは母親の期待通り、皇帝の座につくことができた。  即位後、最初の数年間は、ネロはまれに見る善政を敷き、民衆のあいだに声望も高かったのである。しかし、やがて競争相手のブリタニクスに疑惑の目を向けるとともに、母親アグリッピナの後見が堪えがたい重荷に感じられるようになってくる。  もともとネロには、極端に臆病だという以外に、これといった欠点もなかったのである。音楽や詩を好み、身辺にギリシア人の学者を多く集め、贅沢三昧に遊び暮らしていれば彼は満足なのであった。  しかし母親に対しては、ネロは幼時から故知らぬ恐怖心をいだいていた。かつてアクテーというギリシア人の女奴隷を愛し、結婚しようとまで思いつめたものであるが、側近のセネカに戒められ、涙をのんで諦めたこともある。この時も、アグリッピナは真蒼になって怒り、文字通り口から泡を吹かんばかりであった。  もう一つ、ネロが母親をかんかんに怒らせた事件は、寵臣パルラスの追放である。皇妃の公然たる情夫として、パルラスがともすると横柄な態度に出るのを、ネロはつねづね快からず思っていた。そこで思い切って彼を公職から追放したところ、これがアグリッピナの逆鱗にふれたのである。彼女はネロを面罵し、「お前には皇帝の資格なんてありゃしない。ブリタニクスこそ正統な帝位の継承者です」といって、あからさまに息子を弾劾した。  ネロはおびえて慄えあがった。  ラシーヌの悲劇『ブリタニクス』では、ネロがもっぱら悪玉として描かれ、アグリッピナやブリタニクスは、ネロの悪計に翻弄される犠牲者のように描き出されているが、実際のネロは、むしろ母の一挙一動に戦々兢々としていたらしいのである。「窮鼠猫を噛む」の譬えの通り、追いつめられたネロは恐怖心から、母やブリタニクスを一挙に除いてしまおうと考えたのだ。  こうして、ついに宿命的な悲劇が起る。  ようやく十五歳になったばかりのブリタニクスには、昔から癲癇の持病があり、ときどき意識を喪失することがあった。だから彼が毒で苦しんでも、病気の発作のせいだと人々は信じるはずだった。ネロはロクスタに命令し、何度も彼女に実験をやらせた末、一瞬にして息の根をとめる電撃的な効き目の毒薬を調合させた。  今度もやはり、犯行は宴会の席上で行われた。ネロとアグリッピナがメイン・テーブルに坐り、少し離れた下座に、貴族たちに混ってブリタニクスのすがたが見えた。  タキトゥスの記述によれば、毒味役の奴隷が試食したあと、飲物をブリタニクスに差し出すと、彼は飲物がまだ熱かったので、ふたたびこれを奴隷の手にもどしたのだそうである。毒物はこのとき投入されたらしい。それは怖ろしい激毒で、一瞬のうちに、ブリタニクスは言葉もなく悶死した。  動かなくなったブリタニクスを、人々は急いで別室に運んで行った。一座はしんとなり、並みいる貴族たちは、みな疑わしそうに、皇帝の顔をじっと窺った。ところがネロは、落着きはらった表情で、「どうせ癲癇の発作だろう。あいつは子供のころから、いつもこうなんだ。大したことはあるまい」とうそぶいたのである。  一方、アグリッピナは真蒼になっていた。ネロが何といおうと、彼女には一切が明瞭に理解できたにちがいない。頼みの綱、ネロに対する圧迫の武器が、こうして彼女の手から奪われたのである。  遺骸は朝になると、さっそく埋葬されることになった。不気味な斑点が死体に現われはじめたので、これを隠すために、死体に石膏が塗られた。しかし葬儀の最中、はげしい雨が降り出して石膏が流れ落ち、黒ずんだ斑点はだれの目にも歴然となった。  一両日のうちに、ブリタニクス毒殺の噂は街々にひろがった。  今や形勢は逆転し、アグリッピナがネロの権力を怖れる番になった。彼女は何とか奸策をめぐらして、ネロを懐柔し、反撃のチャンスをねらおうと考える。そのためには、いかなる手段をも敢えて辞さない。  以前から、この権力欲に憑かれた女は、恋愛を政治的手段として利用してきたのであった。兄カリグラを暗殺するために、レピドゥスに身をまかせたこともあり、皇妃としての地位を安泰に保つために、帝の寵臣パルラスに貞操を売ったこともある。今度の場合も、彼女は色仕掛で息子を誘惑しようと考えた。不倫も背徳も、彼女はさらに恐れない。  ごてごて白粉《おしろい》を塗りたくった若造りのアグリッピナが、息子に色目をつかい、帳《とばり》のかげで、みだりがわしい愛撫や接吻をあたえるのを、人々は驚異と畏怖の念に駆られて見守った。もともと意志が弱く、先天的に道徳観念の欠けているネロには、この誘惑をしりぞけることが困難であったであろう。  母子の醜関係はたちまち街の噂になり、広場には落首や戯歌《ざれうた》が貼り出された。  しかし、この関係も永くは続かなかったようである。やがてネロのほうで厭気がさし、息のつまりそうな母親の重圧をのがれるために、彼女をパラティヌス丘の宮殿から遠ざけてしまったのである。ローマ市内のアントニア宮殿に、彼女は押しこめられた。皇妃の昔日の権勢を知っている人には、これは驚くべき、革命にも似た暴挙であった。  アグリッピナは憤懣やる方なく、いらいらしながら時節の到来を待った。政治の舞台から退いた彼女の家は、ネロの支配体制に不満をいだく不平分子たちの集会場となった。ネロに冷たくあしらわれていたクラウディウスの娘オクタヴィアも、この家の常連になった。  そうこうするうちに、親衛隊によるクーデタの陰謀が発覚し、アグリッピナも、この計画に一枚加わっていることが知れたが、申し開きを迫られた彼女は言葉巧みに追及をまぬがれた。  臆病なネロには、なかなか母親を殺害するまでの決心がつかなかったようであるが、彼の側近のなかには、かなり以前から強硬意見を主張する者もあった。たとえば、ネロの学問上の師であった哲学者のセネカも、その一人であったらしい。温厚な哲学者には、野心家アグリッピナの振舞が嫌悪の的であったのだろう。しかし、最も過激な意見を皇帝に押しつけてきたのは、当時ネロが首ったけになっていた女ポッパエアであった。  美女ポッパエアは、ネロの心を完全に掌握し、後には彼に数々の愚行を犯さしめた、ふしぎな魔女的性格の女である。シェンキエヴィチの『クオ・ヴァディス』のなかでも、彼女はまるで淫蕩の化身のように毒々しく描かれている。二度目の結婚で、彼女は若い美貌の貴族オトの妻になったが、このオトは、じつはネロの男色の相手であった。ネロが自分の妻に惚れると、オトは異議なく離婚に同意し、ポッパエアを皇帝に譲った。この複雑な男女三人の愛情関係は、当時のローマの頽廃した性風俗を頭に入れておかなければ、理解しがたい奇妙な関係としか思われないであろう。  さて、ネロの情婦となったポッパエアには、是が非でも皇妃の地位につきたいという野心があった。そして、そのためにはアグリッピナの存在が何より邪魔だったのである。彼女はネロを執拗に説いて、ついに母親殺害に踏み切らせた。  しかし、今度の犯罪は、ブリタニクスの場合のように簡単にはいくまい。アグリッピナはだれよりも毒薬の知識にくわしいし、彼女の手もとには、あらゆる種類の解毒剤も取り揃えてある。迂濶に毒などを盛ったとしても、彼女の場合には通用しない。いや、むしろ失敗の危険のほうがはるかに大きいだろう。  ネロは頭を悩まし、一計を案じた。  まず母親に手紙を書き、バイエーの町でミネルヴァの祭儀を行うから、ぜひ出席してほしいと鄭重に誘った。手紙には、やさしい心づかいと愛情があふれていた。母親は最初、不審の念を起したが、あらためて手紙を読み返してみて、心が躍ってくるのを抑えることができなかった。これでもう一度、息子の心を支配することができる……「あの子は、あたしなしでは生きてゆかれないんだわ」と彼女は思った。  バイエーの町では、彼女は主賓として手厚くもてなされ、王家の別荘で彼女のために盛大な晩餐会がひらかれた。アグリッピナはちやほやされ、有頂天になって喜んだ。  やがて晩餐会が終り、彼女の帰館の時が近づくと、皇帝は母親に向って、「道中|轎《かご》ではお疲れでしょうから、あなたのために舟を一艘用意しておきました」といって、港まで彼女を案内して行った。  舟着き場で、ネロは名残り惜しそうに、何度も母親に別れの接吻をした。「彼女の乳房にまで接吻した」とタキトゥスが報告している。母親は感動し、嬉し涙にくれた。やがて舟は静かに沖へ出る。  舟のなかには、屋根のついた立派な座席があり、アグリッピナは満ち足りた心で、そこに腰を落着けた。まことに快適な舟旅であった。彼女のそばには、侍女のアケロニアが坐っていた。  ところで、この舟には怖ろしい仕掛があったのである。歯車の装置で、舟底にぱっくり大きな孔があくようにできていた。アグリッピナを舟もろとも沈めてしまおうという計画である。  沖合はるかの距離に達すると、ネロの腹心の部下アニケトゥスが、やおら立って歯車装置を動かしはじめる。しかし機械が故障しているのか、思った通り舟底に孔はあかない。それどころか、舟はぐるぐる廻りはじめ、鉛の重石をつけた屋根が、がらがらと大きな音を立てて頭上に崩れてきたのである。  たちまち、舟のなかは大混乱を呈した。船頭は驚いて右往左往する。アニケトゥスは歯がみして口惜しがり、アグリッピナを刺し殺そうと、彼女のすがたを追い求める。しかし彼女はすでに水に飛びこんでいたので、身代りに殺されたのは、侍女のアケロニアであった。  アグリッピナは水泳が達者であった。岸まで泳ぎつくのに困難をおぼえなかった。こうして彼女は一命を取りとめると、ただちにバウリの別宅からネロへ宛てて、皮肉たっぷりの手紙を書いた。  てっきり母親が死んだと思っていたネロは、彼女の手紙を開封して、すっかり度を失った。恐怖に蒼ざめ、取り乱し、わなわな慄えつつ、セネカやブルルスに相談した。「どうしよう……お母さんが親衛隊の兵士に護られて、都へ攻めのぼってくるかもしれない……」しかし、これは取越苦労にすぎなかった。  結局、失敗した計画の張本人であるアニケトゥスが、責任を取らされることになった。彼は匕首を懐に呑んで、部下とともにアグリッピナの別宅に駈けつけた。  アグリッピナの家では、召使がみんな逃げてしまって、彼女がただひとり、ランプに照らされた薄暗い部屋に坐っていた。アニケトゥスの一隊がどやどや侵入してくると、彼女は立ち上って、「無礼者。お前たちは何しにきたのです。わたしの息子には、親殺しなんてできるはずがありません」と大喝した。  が、兵士たちは物もいわず、彼女に斬りかかった。短刀の第一撃は、彼女の頭に加えられた。アグリッピナは倒れながら叫んだ、「お腹を刺すがいい! 皇帝はここから生まれたんだから!」と。  母親の屍体が目の前に運んでこられると、ネロは彼女の衣類をすっかり剥ぎとって、その肌に手をふれつつ、「ああ、お母さんはきれいな身体だったんだなあ!」といったそうであるが、──スエトニウスの伝えるこのエピソードには、どうやら、あまり真実味がないように思われる。 [#改ページ]  クレオパトラ  バーナード・ショーの諧謔に富んだ皮肉な戯曲『シーザーとクレオパトラ』では、クレオパトラは最初、まだほんの|ねんねえ《ヽヽヽヽ》で、野蛮なローマ人侵入の噂におびえきった、子供の女王として現われる。  若禿の頭を月桂冠で隠した初老の英雄シーザーは、エジプトの神秘な月の夜に陶然として砂漠をさまよいながら、ふと、巨大なスフィンクスの足もとに、ケシの花叢にうずもれて眠っている少女の女王と、はじめて対面するのである。  シーザー「こんな夜ふけに、あなたはここで何をしてるんだ?」  クレオパトラ「だってローマ人は、わたしたちを捕えたら食べてしまうじゃないの。あいつらは野蛮で、その酋長はジュリアス・シーザーといって、お父さんは虎、お母さんは燃える山。あいつの鼻は象の鼻みたいに長いのよ」(シーザー思わず自分の鼻をさする)  この「年とって痩せて筋ばってるけれど、いい声をした面白いおじさん」が、やがてシーザーその人であることがわかって、クレオパトラは仰天してしまう。  シーザーは、女官や奴隷に対する口のききかたさえ知らないクレオパトラに、女王らしく威厳をもって振舞うことを教えこむ。そして、すっかり自分になついてしまったこの娘に、やがてローマからすばらしいプレゼント──はつらつとして新鮮で、強くて若くて、朝には希望をもち、昼には戦って、夜には歓楽にふける、美しい、身分の高いローマ人を、自分の代りに送ることを約束して、心を残しながらエジプトを去るのである。  ショーによって描かれたクレオパトラは、しかし、あまりに娘っ子然としていて、親しみやすすぎる。ローマ人が彼女に与えた「ナイルの魔女」とか「娼婦女王」とかいう名のような、冷たく妖艶な感じはここにはまったくない。  実在のクレオパトラはどうだったのだろうか。たぐいまれな美貌と才知に物をいわせて、ローマの英雄たちを次々に蕩《たら》しこんだ、凄腕の悪女にすぎなかったのだろうか。  彼女はたしかに手練手管に長けていた。だがそれは、単なる淫蕩の気質のためではなかった。彼女には、じつは大きな野心があったのであり、彼女の恋愛生活そのものが、その計画達成のための手管となっていたのだ。  クレオパトラはローマを利用するつもりだった。新興ローマの勢力を利用して、自国エジプトを世界に君臨させようと狙ったのである。  だが、歴史の趨勢には彼女も勝てなかった。エジプトとローマ。地中海をへだてて、かたや四千年の文化と伝統を誇りながら、疲れ衰える一方の富裕な大帝国。かたや僅々数百年の間に、一介の農業国から着々と歴史の中心にのさばり出してきた、新参の共和国。  ローマにとってエジプトは、莫大な財産をかかえた金持の老女のようなものだった。彼女はこの宝を、ついに成り上り者の手に委ねざるをえなかった。  エジプトの女王クレオパトラとローマの英雄たちの物語は、ある意味で『桜の園』古代版ともいうべき、新旧両勢力の交代にまつわる一つの悲劇だったといえよう。  クレオパトラの属するプトレマイオス王朝は、血統的にはエジプト人ではなく、征服者のマケドニア人、すなわちアレクサンドロス大王の部将ラゴスの後裔であった。  プトレマイオス王家には、クレオパトラと名乗る女王や王妃が前後七人もいる。問題の彼女、クレオパトラ七世が生れたころ、この王家はお家騒動の真最中だった。  彼女の父プトレマイオス十二世が、王祖の直系ではなかったのだ。エジプト人のあいだで王家の血統が問題になっている時に、かねてから機会をねらっていたローマがこれに干渉した。それには恰好な口実があって、先代プトレマイオス十一世がエジプトの王権をローマに譲ると約束した遺言書が、ローマにあるというのである。  当時のエジプト国民は、柔弱な王プトレマイオス十二世に「アウレテス」(笛吹き)という渾名をつけて、てんから馬鹿にしていた。彼は酒好きで、酔うとすぐ笛を取り出して、得意になって吹きならす癖があったからである。  キュプロス島がついにローマの手中に奪われると、この笛吹き王は、怒った人民に追い出され、ローマに泣きついてお助けを乞う破目になった。  若いローマの騎兵隊長アントニウスが、こうしてエジプトにやってくることになったのである。  エジプトの首都アレクサンドリアでは、アウレテスの長女ベレニケと、ミトリダテス大王の息子アルケラオスが新たに王座に迎えられていたが、たちまちのうちにアントニウス=アウレテスの連合軍に一掃されてしまった。アルケラオスは戦死し、ベレニケは父の手によって殺された。  アウレテスは、自分を追い出した不埒な人民どもへの復讐をあせったが、アントニウスはこれを極力抑え、逆にアルケラオスの葬儀を丁重に営んでやったので、アレクサンドリアでは非常な好感をもって迎えられた。しかし、アントニウスのほうでもこの国を、いつしか好ましく思いはじめたのは、単にそれだけの理由からではない。王家の小さな淑女、死んだベレニケの妹の、当年十四歳になる才気煥発なクレオパトラのすがたが、この時すでに彼の心にしっかりと刻みつけられていたのである。  一方、クレオパトラのほうでも、このローマの騎兵隊長の英姿を、幼な心に感嘆して見つめていた。無理もないことである。アントニウスは、ヘラクレスの末裔という伝えにふさわしく、りっぱな髯と広い額と鷲のような鼻を持つ堂々たる美男で、ローマの貴婦人たちのあいだでも、並々ならぬ好意と憧憬の的になっていたのだ。……|おませ《ヽヽヽ》な愛くるしい王女と、頼もしい騎兵隊長との交わすまなざしに、ひそかな火花が散っていたのを、当時はまだ、だれひとり知るよしもなかった。  アウレテスはまもなく死に、遺言によって十七歳の次女クレオパトラが、八つ年下の弟プトレマイオス十三世と結婚して王座につくことになった。姉弟もしくは兄妹の結婚というこの奇々怪々な慣習は、古来エジプト王家に独得のもので、単なる形式上のことである。  王様になったとはいえ、まだ十歳にも満たない弟はまったくのやんちゃ坊主で、それをよいことに宦官《かんがん》のポテイノス一派が、エジプトの国政を思うままに操ることになった。  クレオパトラはしかし、こんな状態にはとても我慢がならなかった。支配者になること──これこそ彼女の弱年からの望みであり、そのために、すでに非常な努力と研究が重ねられていたのである。非力な父王の醜態は、クレオパトラにとって何よりの教訓だった。まず国民の好感を得ることが先決問題なのだ。彼女はできるだけ民衆の心を心としようと努めた。  マケドニア出のプトレマイオス一族のうちで、民衆の言葉であるエジプト語が話せるようになったのは、彼女が初めてだったといわれる。  宗教上でも、彼女はみずからエジプトの太陽神ラーの娘であると公言し、イシスやハトホルの礼拝を行った。ハトホルはエジプトの美と愛の女神で、つまり、ローマのウェヌスにあたる。イシスはヘラにあたっている。  こうした努力が実を結び、若くて美しい女王の評判は、民衆のあいだに急速に高まった。彼女はこれに力を得て、さっそく軍隊をかき集め、弟の一派と戦おうとしたが、こればかりはいかにも時期尚早にすぎた。けしからぬ女王さまは、逆にアラビア国境に追放される憂目をみた。  三年経った。  このころローマでは、ケーサル(すなわちシーザー)とポンペイウスの両巨頭の対立が日毎に激化して、ついにファルサリアの決戦となった。敗れたポンペイウスはエジプトまで逃げこんできたが、宦官ポテイノスはこれをだまし討ちにして、アレクサンドリアの埠頭で殺してしまった。追いかけてきたケーサルは、競争者の思いがけない最期を知って、内心ひそかに喜んだが、しかし油断してはいられなかった。陰険なエジプト宮廷は、ケーサルに対しても何を企んでいるのかわからなかったからである。ケーサルは身を護るために、夜は宴会をして過ごすことにした。  そうしたある晩のこと、アレクサンドリアの港に一艘の目立たぬ小舟が着いた。ひとりの男が、舟のなかから、革紐でしばった大きな夜具包みを抱え出して、王宮目ざして運んで行く。華やかな夜の宴に浮かれ気分の番兵たちは、さして気にも留めずにこの男を見送る。  ケーサルは、自室に運びこまれた奇妙な夜具包みを、いぶかりながらほどきかけて、あっと声をあげた。中にはなんと、悩ましげな美女が鎮座ましましていたのである。いうまでもなく、この美女こそクレオパトラで、運んだ男は彼女の腹心、シチリアのアポロドロスであった。  クレオパトラの大胆きわまる一世一代の奇計は、みごと功を奏した。五十三歳のローマの英雄は、手もなく参ってしまい、この夜から彼女と寝室を共にするようになった。  驚いたのは、彼女の名義上の夫たる国王プトレマイオス十三世である。宦官ポテイノス一派も歯ぎしりして口惜しがったが、すでに後の祭りだった。ケーサルは、ローマ人と姉との「密通」に気も狂わんばかりの国王をなだめ賺《すか》し、二人を和解させて、ふたたびエジプトを彼らの共同統治とする旨宣言する。しかしやがて、若いプトレマイオス王は宦官どもの叛乱の際に殺され、こうしてエジプトは事実上、ついにクレオパトラだけのものになるのである。むろん、それにはケーサルの力添えがつねにはたらいていた。  ケーサルのエジプト滞在は半年あまりで終った。後のアントニウスと違って、彼はあくまでローマ総統としての自分の使命を忘れなかった。彼は小アジアを討ち、アフリカに巣食うポンペイウスの残党を一掃した。有名な「来たり、見たり、勝てり」の手紙は、このときポントスで書かれたものである。  だが、いよいよローマに凱旋して、十年任期の独裁官となり、事実上彼一人の時代がはじまってみると、アレクサンドリアに残してきたクレオパトラのことが、そぞろに思い出されてならなかった。  クレオパトラは、ケーサルの落し胤であるケーサリオンを育てながら、再会の日の来るのを心待ちにしていた。ところへ、とうとうローマから彼女を賓客として迎える旨の報せがとどいた。彼女は、息子ケーサリオンはもちろんのこと、夫である幼弟(プトレマイオス十四世)やエジプト政府の高官たちをも従え、美々しい行列を組んでローマへ乗りこみ、ケーサルの邸に落ちついた。  このとき、ケーサルの妻カルプルニアも同じ邸にいて、主婦として彼女を歓迎したというのだから面白い。だが、キリストの生誕にはまだ半世紀近くの間があった当時のことで、もともと王様や武人の色好みは当り前のこととされていたのである。  カルプルニアもケーサルにとっては四度目の妻だ。前妻ポンペイアは、姦通事件を起してケーサルから離別されている。このとき法廷でケーサルは、間男のクローディウスの罪状については何も知らないと述べたので、告発者が「それならなぜ奥さんを追い出したのか」と問い糺すと、「わたしの妻たるものは嫌疑を受ける女であってはならないから」と答えたということである。  ケーサルはいまや、飛ぶ鳥をも落す勢いであった。美しいクレオパトラが側近くにいることが、ますますその気分を煽り立てた。そして、ついに破局がやってきた。  西暦前四四年三月十五日、ケーサルはカシウス、ブルートゥスらの手にかかって五十七歳の生涯をとじた。  ケーサルの命取りとなったのは、何よりも、王位に対する野心であった。これが共和制ローマの敵として非難攻撃の的になったのであるが、逆にクレオパトラにとっては、王位を望むケーサルこそ、おそらく理想のひとであったにちがいない。  ともあれ、いまやクレオパトラの夢は破れた。ケーサルの死後一ヵ月を経ずして、彼女はローマを去った。  アレクサンドリアに蟄居するクレオパトラに、アントニウスから呼出しの声がかかったのは、それから三年後のことである。彼女が以前カシウスの一味に財政上の援助をあたえたのはなぜか、申し開きをせよというのである。だが、これはほんの口実にすぎないことを、クレオパトラはとっくに見抜いていた。  アントニウスはケーサル亡きあとのローマでは、何といっても随一の存在である。彼に並ぶものといっては、ケーサルの養子オクタヴィアヌスがあるばかりだった。しかしこの男はまだ若すぎた。  武人のアントニウスは、気前のよい、ごく単純な性格の持主だった。彼はケーサルのような名門の出ではなく、田舎者まる出しのところがあって、場所柄もわきまえず酒と女に溺れて人々の顰蹙を買ったりしたこともあったが、このころでは男まさりの妻フルヴィアに教育されて、大分おとなしくなっていた。  それが小アジアまで来て、戦勝の宴に酔ううちに、ついクレオパトラのことを思い出したのである。  来たるべきものが来たのであった。クレオパトラは、今度こそローマを存分に利用してみせる自信があった。彼女はいま、美しさの絶頂にあった。  アントニウスはトルコのタルソスで、彼女を待ちうけていた。そこへクレオパトラは、金色の船に銀の櫂《かい》で、紅の帆をかかげ、楽の音に合せてしずしずと河を溯ってきた。彼女自身は黄金の刺繍をした天蓋の下に、キュピドの扮装をした美童を両側にはべらせて、ウェヌスさながらに着飾ってすわっていた。数多の美しい侍女たちが、海の精ネレイスの衣裳で、舳先や艫に立ち並んでいた。  両岸の市民は感激してこのさまを見守った。ナイルのウェヌスがアジアの幸福のために、ローマのバッコスのところへやって来たのだという噂がひろまった。  アントニウスはまずクレオパトラを会食に招待したが、彼より役者が一枚上手の彼女は、それよりも自分のところへ来ていただきたいと頼んだ。  その夜の宴の、聞きしにまさる豪華さに、ローマの軍人たちはすっかり度肝を抜かれた。林立する燈火の数と、その趣好をこらした配置だけでも、アントニウスの目を見はらせるに十分だった。翌日も、翌々日も同様だった。四日目には床一面、くるぶしを没するまでの深さに薔薇の花が敷きつめられていた。  アントニウスが、あまりに正直に感激のようすをさらけ出すもので、クレオパトラは、この男が兵隊あがりの賤しい素姓の者であることを、いっぺんで見抜いてしまった。  五日目に、ようやくクレオパトラがアントニウスの客となったが、いくら知恵をしぼり、腕によりをかけたところで、到底相手の洗練と豪奢をしのぐことはできなかった。  こうなると、アントニウスはもうクレオパトラのいいなりだった。誘われるままに彼は、ローマへ帰るかわりにアレクサンドリアへ冬を過ごしにでかけた。竜宮城の浦島さながら、アントニウスにとっては夢のような、夜を日についでの歓楽がそこに待ち受けていた。  アレクサンドリアは、当時の地中海世界の最も富裕な、優雅と豪奢と倦怠の都だった。港では、世界のあらゆる富がたえず陸揚げされた。アフリカからは象牙、黒檀、金、香料、ギリシア本土からは油、葡萄酒、蜜、塩漬の魚、等々。遠くインドから来る船も多かった。港の入口には、古代七不思議の一つといわれたファロスの燈台が、出入する船をみちびいていた。  クレオパトラは、これらの富を意のままに費消することのできる、エジプトの絶対君主であった。恋人たちは「無双の会」というのを作って、その名の通りだれにも真似のできないほどの贅沢三昧にふけった。  ある日のこと、二人は最も高価な御馳走をしたほうが勝ちになるという賭をした。だがクレオパトラの出した食事は、普段とそれほど変ったものではなかった。アントニウスが勝ち誇って料理の値段をきこうとすると、クレオパトラは、まだデザートがありますといって、自分の耳飾りから先祖伝来の宝である大粒の真珠をはずすと、用意した酢の盃にほうりこんだ。真珠はまたたくまに溶けた。彼女は一気にそれを呑んでしまった。  こんな話はいくらでもある。じっさいアントニウスは、クレオパトラの機智に終始翻弄され通しだった。  二人で魚釣をしたときのこと、アントニウスはいくら待っても運が向かないので、こっそり漁師を水に潜らせて自分の針に魚をかけさせた。クレオパトラはすぐそれと察したが、素知らぬ顔で相手を賞めそやした。翌日も釣ということになり、アントニウスが意気揚々、最初の獲物を釣り上げてみると、何とそれは、黒海でしか取れない大きな魚の塩漬だった。むろん、クレオパトラが漁師を買収しておいたのである。このときクレオパトラは、アントニウスにこういったという。「インペラトール、そんな釣棹はファロスかカノボスの王にやっておしまいなさいな。あなたの釣の獲物は、都や国や、大陸でなくてはならないんですから」  クレオパトラは、美貌もさることながら、何よりもその才気の縦横にあふれた会話がひとを惹きつけたという。だから、ケーサルやオクタヴィアヌスのように、彼女に十分太刀打ちできるだけの頭脳を持ち合わせなかったアントニウスの場合、それだけ一層容易にクレオパトラの魅力の虜にされたわけであろう。  だが、こうしたアントニウスのもとへ、ある日、ローマから不意の知らせが届いた。妻のフルヴィアと弟のルキウスが共謀して、オクタヴィアヌスと戦争をはじめたというのである。フルヴィアのつもりでは、夫の政敵オクタヴィアヌスを倒すというより、むしろ夫を面喰わせて、クレオパトラから彼を引き離すための行動だった。  アントニウスは二日酔の醒めやらぬ面持で、ともかく腰を上げ、早くも敗走してきたフルヴィアとアテネで落ち合った。ふたたびローマへ向う途中、フルヴィアは病気になって死んでしまった。  オクタヴィアヌスは、まだアントニウスと戦うほどの気はなかったので、すすんで和解の手を打ち、その保障として自分の姉オクタヴィアを、フルヴィアなきあとのアントニウスの妻にと申し出た。アントニウスは同意した。  アントニウスがただ政略のためだけにオクタヴィアと結婚したなどと思ってはいけない。彼女は最近前夫を喪ったばかりだったが、まれに見る美しさと淑徳とを兼ね具えていて、ローマでは評判の婦人だった。アントニウスはやさしい夫になった。アレクサンドリアの思い出はほんの一場の夢にすぎなかったのだと、強いて自らにいいきかせながら。  クレオパトラはこうして三年間、アントニウスの忘れがたみの双生児を育てながら、不安のうちに恋人からの便りを待っていた。  新しい妻にもようやく倦きたところで、アントニウスはペルシア征討に出陣することになる。シリアに近づくにつれ、クレオパトラの思い出が刻一刻よみがえる。急使が立てられ、クレオパトラは飛立つ思いで駈けつける。ペルシアこそは彼女の年来の望みの地だったのだ。  賢い彼女は、過去三年間の怨み言ひとつ洩らさなかった。アントニウスはその心根をいじらしく思い、結婚の約束をした上、フェニキアやキュプロスやユダヤの一部など、思いきりたくさんの領土を贈物にした。  アントニウスはシリアからさらに小アジアに転戦したが、早く戦を切り上げてクレオパトラに会いに行きたいという思いばかりが急で、かえって焦って失敗し、彼女に泣きついて糧食や被服の援助を乞う始末だった。  オクタヴィアは夫の苦戦を聞くと、自ら二千の精兵を引具してローマを発った。この知らせはクレオパトラにとって青天の霹靂だった。彼女は泣き落しの一手に頼った。わざと減食して窶《やつ》れた顔をつくり、目には泪をためて、絶えなんばかりのようすだった。アントニウスは心乱れ、オクタヴィアにはローマへ戻るよう使いを出して、クレオパトラと共にエジプトへ帰った。  約束の結婚式が挙げられた。銀の台座に金の椅子を並べて、アントニウス・オシリス・バッコスとクレオパトラ・ウェヌス・イシスが坐った。二人のあいだに生れた双生児には、ヘリオス(太陽)とセレネ(月)の名があたえられた。  敬愛する姉が侮辱を受けたのは、ローマのオクタヴィアヌスにとってよい口実だった。アントニウスとオクタヴィアヌスは、いつかは戦わねばならぬ運命にあったのだ。決戦はギリシアの西北アクティムの湾内で行われた。海戦を主張したのはクレオパトラだった。彼女は戦闘開始に先立ち、アントニウスを説いて、ついにローマのオクタヴィアに離縁状を送らせることに成功した。  この時のクレオパトラがどういう心理だったのかは、いまでも史家のあいだで謎とされている。海戦がはじまり、両軍伯仲するかと見えたとき、突然彼女の艦隊は帆をあげて、外海めざして脱走してしまったのである。敵も味方もあっけにとられた。さらに驚いたことには、茫然としたアントニウスが、必死の戦いを続ける部下を見殺しにして、戦場から脱け出し、単身で恋人のあとを追っかけはじめたのだった。戦いはもちろんオクタヴィアヌスの一方的な勝利に帰した。  アントニウスの胸には後悔と疑惑が渦を巻いていた。事実、クレオパトラは、すでにアントニウスに見切りをつけ、オクタヴィアヌスの勢力を自分の将来に結びつけて考えはじめていたのである。二人は表面仲よく相談して、オクタヴィアヌスに和議を申しこんだが、そのたびに、彼女から、アントニウスには内緒の贈物や手紙が添えられていた。  憂さ晴らしの宴会が続き、前から続いていた「無双の会」に、今度は「共に死ぬ会」というのが加わった。クレオパトラは死刑囚をつかって、どんな毒が一番楽に死ねるか、さまざまな毒薬の実験をこころみた。  ついにオクタヴィアヌスがアレクサンドリアまでやってきた。アントニウスは一騎打ちを申し入れたが、死に方はいくらでもあるだろうに、というオクタヴィアヌスの返事だった。アントニウスは戦死を覚悟で、海陸から攻撃の準備をした。  ところが彼は、またしても裏切られたのだった。開戦と同時に、アントニウスの艦隊はいっせいにくるりと向きを変え、オクタヴィアヌスの軍勢と一体になって、町に攻寄せてきたのである。陸では騎兵隊がやはり寝返りをうった。  クレオパトラはアントニウスの怒りと狂乱をおそれて、かねて造ってあった自分の墓廟に逃げこみ、彼女が自殺したといいふらさせた。アントニウスは、もはや命を惜しむ理由がなくなったと叫んで、腹に剣を突き立てた。そこへクレオパトラが生きているとの報がはいった。アントニウスは瀕死の身を墓に運ばせて、彼女の胸にいだかれて息を引きとった。  クレオパトラの夢はまだ破れてはいない。彼女はオクタヴィアヌスとの会見に、一縷《いちる》の望みをかけている。自分が女であることを、彼女はどんなに力強く思ったことだろう。  だが会見の席上、オクタヴィアヌスはあくまで冷静を守り通した。どんな悲歎の身振も、弁明も、いまは通じなかった。クレオパトラの自信は崩れた。  自信の崩れたとき、彼女にはもはや道は一つしかなかった。  数日後、ひとりの百姓がイチジクの籠を彼女にとどけにきた。番兵が気がついた時には、クレオパトラは黄金の玉座に、女王の正装をして死んでいた。籠の底にかくされた小さなアスピスという毒蛇に、乳房を咬ませたのである。  アスピスの毒は、服用者が眠るがごとく穏やかに死ぬことのできる毒であり、その効果は、かつて「共に死ぬ会」で奴隷をつかって実験済みのものだった。 [#改ページ]  フレデゴンドとブリュヌオー  トゥールの司教グレゴリウスによって六世紀の末に書かれた史書『フランク人の歴史』には、そのころヨーロッパに覇権を争っていたメロヴィング朝の王室の、骨肉相食む血なまぐさい戦いの模様が克明に描かれていて、一読、肌に粟を生ずるばかりの凄惨さである。そして、この激しい争いの主役は、アウストラシア王シジュベールの妃ブリュヌオーと、ネウストリア王シルペリクの妃フレデゴンドという二人の女性であった。  六世紀後半のヨーロッパは、中世といっても、まだキリスト教がようやく根を下ろしはじめたころで、各地に修道院がぼつぼつ立ってはいたが、メロヴィング王家を中心とするゲルマンの社会は、野蛮で、残忍で、混乱をきわめていた。死んだ王の息子たちのあいだで王国を分割するという習慣は、兄弟同士の果てしれぬ殺し合いや、王妃や嬖妾《へいしよう》の陰謀などという醜い争いをたえずひき起した。王たちは好色で、宮廷はさながら淫売窟のような乱脈ぶりだった。  ネウストリア(現在のフランス北部)の王シルペリクは、典型的なフランク族の武人で、王の権力の象徴である金色の長髪を風になびかせては、いつも馬を飛ばして戦場を駈けまわっていた。王妃に仕える大勢の侍女たちのなかに、フレデゴンドという挑発的な美女がいて、早くから王は彼女に目をつけていたらしい。フレデゴンドは大きな青い目と、赤味がかった燃えるような金髪と、完全に成熟した女の肉体をした娘で、身分の低い婢女ではあったが、その傲慢な顔つきには、いつか王妃の地位を得たいという満々たる野心が読みとれた。  五六五年六月、たまたま王がザクセン人と戦うため出陣している留守のあいだに、王妃オードヴェールが娘を生んだ。王の妹が代母になってくれる予定だったが、急に病気で倒れたので、代りの代母が見つからず、王妃が困っていると、フレデゴンドが進み出て、「王妃さま」といった、「宮廷には、王妃さま以上に身分の高いお方はいらっしゃいません。つまり、あなた御自身が代母になられればよろしいのでございますよ……」  愚かな王妃は、なるほどと思って、子供を抱いて教会へ行ったが、じつはフレデゴンドの忠言には、巧妙な罠がかくされていたのである。中世カトリックの規則では、ある子供の代父あるいは代母になると、その者は子供の両親の兄弟あるいは姉妹にひとしい関係になるので、当然のことながら、男親は代母とは結婚できなくなるのである。──頭の単純な王妃をまんまと瞞《だま》して、フレデゴンドはほくそ笑んだ。  やがて王は戦争から帰ってきて、事実を知ると、さっそく王妃を追い出してしまった。オードヴェールは泣く泣くソワソンの宮廷を去り、生まれたばかりの娘とともに、マンスの修道院に押しこめられる身となった。王妃の温もりのまだ残っている寝室で、破廉恥にもフレデゴンドは勝利の快感を味わった。そのまま、彼女は王シルペリクの愛妾になってしまったのである。  しかし、フレデゴンドの勝利は約一年間しか続かなかった。五六六年の春に、新たな邪魔者があらわれたのだ。順序を追って説明しよう。  シルペリクの兄シジュベールは、アウストラシア(ライン中流東北岸地方)の王であったが、最近、スペインに強大な勢力を誇っていた西ゴート王国のアタナギルドの娘、若いブリュヌオーを嫁に迎えて、得意満面であった。ブリュヌオーは美しく、しかも莫大な持参金のついた高貴な王女である。この知らせを受けると、素姓の卑しい女とたわむれていた弟のシルペリクは、嫉ましさと悔しさで一ぱいになった。自分も何とかしてブリュヌオーのような、美しい王妃を妃にしたいと思ったシルペリクは、ひそかに特使を西ゴート王国の都トレードへ送って、ブリュヌオーの姉のガルスウィントを嫁として自分にくれる意志が、父親のアタナギルドにあるかどうか探らせた。  シルペリクの態度が急に冷たくなったことに、フレデゴンドはすぐ気がついた。今までは彼女の肉体の魅力の虜になっていた王が、にわかに彼女に対して冷淡になり、乱暴になり、打ったり叩いたり、口ぎたなく罵ったりするようになったのである。そのうち、交渉がまとまって西ゴート王国から花嫁がくることに決まると、王はフレデゴンドを遠ざけて、もう、臥床を共にしなくなった。  シルペリクの評判はかなり悪かったから、アタナギルドは娘をソワソンの宮廷に輿入れさせるのを、永いこと躊躇していた。が、シルペリクの弟のシャリベールが死んで、その領土の一部がシルペリクの手に帰するようになると、今まで小さかったネウストリア王国は、俄然強大になり、隣国にまで脅威をおよぼすようになった。アタナギルドはしぶしぶ結婚を承知せざるをえなかった。五六七年に、ガルスウィントは泣く泣く母親の腕から引き離され、ソワソンの宮廷に連れてこられた。  妹のブリュヌオーにくらべて、この姉のガルスウィントは、かなり見劣りがした。眼と髪の毛が黒く、肌が琥珀色をしていた彼女は、少なくともフランク族の美人の基準からは外れていたのである。しかし性質がやさしく、信心ぶかかったので、宮廷の者みんなから愛された。ただフレデゴンドのみは、蛇のように陰険な目を光らせつつ、何とかして王妃を王のそばから除いてやろうと機会をねらっていた。「あんな魅力のない女だもの。王はすぐ彼女に飽きてしまうにきまっている」とフレデゴンドは考えた。  案の定、好色なシルペリクは、まもなく慎しみぶかい王妃ガルスウィントを毛嫌いしはじめ、またもや侍女のフレデゴンドと自堕落な夜を過ごすようになった。ガルスウィントは王を怨み、国へ帰してほしいと泣いて訴えたが、西ゴート王国の報復を怖れていた王が、この彼女の願いをただちに聞き容れるはずもない。気位の高い王妃にとって、侍女ふぜいの女に馬鹿にされて毎日を過ごすのは、堪えがたい苦しみだった。  しかし、この彼女の苦しみに決着のつく日がきた。フレデゴンドのひそかに差し向けた男が、ある晩、眠っている王妃の首に紐を巻きつけ、きつく絞めて絞め殺したのである。王妃の長い黒髪は乱れて床に散らばり、両手は虚空をつかんで痙攣したまま、ついに動かなくなった。  これが最初の犯罪である。犯行後、フレデゴンドは宿願を達成し、正式にシルペリク王の妻として、王妃の座につくことを得た。  一方、アウストラシア国の都メッツでは、無残な姉の死の模様を伝え聞いたブリュヌオーが、美しい顔を紅潮させて怒り狂っていた。ゴート人の勇壮な気質を享けて生まれた彼女は、男のように凜々しく、戦闘的であった。気の弱い夫シジュベールに向って、彼女は声をふるわせつつ掻き口説いた。 「ゴート人のあいだでは、古くから、血が血を呼ぶといわれております。家族の恥を雪ぐことができるのは、血だけですわ。ソワソンの宮廷では、あなたの弟のシルペリクが、あたしの姉の血に染んだ寝台で、卑しい婢女を相手にたわむれているのです。西ゴートの王女の名誉は汚されました。この事態を、どうして黙って見ていられましょうか……」  シジュベールは弟と違って、粗野なところがなく、ラテン語も自由に読みこなせるほどの、当時としては珍らしい文化人であった。それだけに優柔不断な面もあったが、深く愛していた美しい妻ブリュヌオーに、こうして涙ながらに掻き口説かれてみると、決心を固めないわけにはいかなかった。  史上に名高いブリュヌオーの「血の復讐」が、こうして宣言され、二人の王妃はこの時から以後、永遠の仇敵として相対することになったのである。  五七四年、兄弟である二人の王のあいだに戦争がはじまった。シジュベールの率いるゲルマン軍の精鋭は、女騎士ブリュヌオーを先頭に、嵐のようにネウストリアを席捲した。シルペリクの長男テオドベールは、シャラントの合戦であえなく戦死した。ネウストリア軍の総崩れであった。フレデゴンドは王とともにベルギー地方のトゥールネに逃れたが、この町も、やがて敵軍の包囲攻撃にさらされるところとなった。  苦境に立ったフレデゴンドは、一計を案じた。いつも土壇場に追いこまれると、ふしぎに頭がはたらいて悪智恵をめぐらすのである。夫のシルペリクは、近ごろめっきり気が弱くなって、坊主どもと一緒に礼拝堂でお祈りなどしている。彼女は、だらしのない夫が腹に据えかねた。「あのひとが何も手を打たないなら、あたしがやってやろう」と思ったのだ。  計略というのは、こうであった。すなわち、前から王妃に気のある様子を見せていた二人の若者に、興奮剤入りの酒をたっぷり飲ませ、いい加減その頭が錯乱してきた折に、毒を塗った短剣を渡し、「この短剣をもって、一刻も早くヴィトリの町へ行き、敵の王シジュベールを刺しておいで。王の血のついた短剣をもって、早くあたしの前に帰ってきた者が勝ちだよ」といったのである。血気の若者を色仕掛で誘って、危険な仕事に駆り立てたのである。  二人の刺客は先を争って、ネウストリア国境近辺の町ヴィトリに達すると、戦勝気分で浮かれていた王の陣屋に難なく潜入し、しのび足で王のそばに近づいて、左右から毒の短剣を王の脇腹ふかく突き刺した。あふれ出る血の海のなかで、王は怖ろしい叫び声をあげた。とたんに、叫び声を聞きつけて、近習の者がばらばらと駈けてきて、二人の若者は取り巻かれ、その場でただちに殺されてしまった。  シジュベールが暗殺されると、戦局はがらりと一変した。フレデゴンドの計画は図に当ったわけである。王を失ったアウストラシア軍は大混乱を呈し、占領した町々を放棄して、ふたたびライン沿岸の根拠地にまでずるずると引きさがった。  パリに留まっていたブリュヌオーが、今度は逆に、圧倒的な敵の大軍に包囲される羽目に陥った。しかし誇り高い彼女は、夫を失っても、いたずらに策を弄したりはしなかった。生まれたばかりの王子シルデベルトを忠臣リュピュスに託して、後方陣地へひそかに落ちのびさせると、彼女は城中にただひとり、玉座に坐って従容として敵の到来を待った。  甲冑の音を響かせて、彼女の目の前にまず現われたのは、彼女の死んだ夫の弟シルペリクと、その息子の若いメロヴェであった。(メロヴェはシルペリクの最初の妻オードヴェールの子である。) 「あなたがブリュヌオーだね?」とシルペリクが横柄に言葉をかけた。「いくさに負けたくせに、偉そうに椅子にふんぞり返っているとは、いい度胸だな。しかし、あなたの王国はすでに亡びたのだよ。あなたはもう女王様ではないのだ」 「あたしの愛する夫の弑逆者、兄弟殺しのシルペリク王よ」とブリュヌオーは平然と答えた、「なるほど、あたしは戦いには負けました。でも、あたしは依然としてアウストラシアの女王ですわ。なぜかといえば、王国はまだ亡びていませんから……」 「馬鹿をいってはいけない。あなたも、あなたの息子も、われわれの捕虜ではないか。王国はもう亡びたも同然だ」  すると、ブリュヌオーの唇にふっと皮肉な笑いが泛かんだ。 「シルペリク、あなたは御存じないのですか。あたしの息子は、もうこの城中にはおりませんよ。あなた方の軍隊がやってくる前に、パリを脱出して、今ごろは、モーゼル河畔のメッツの居城に無事に帰っているはずですわ。ですから、あたしは依然としてアウストラシアの摂政女王であるわけです」  シルペリクは唇を噛んで黙ってしまった。  実際、フランクの王族と血の繋がりのないブリュヌオーを殺しても、大して意味がないのだった。どうしても殺さなければならない相手は、王位の継承者たる彼女の息子だったが、これはすでに手のとどかないところに逃げてしまっていた。考えれば考えるほど、シルペリクは腹が立った。二つの国の王冠を手に入れるという望みは、こうして絶たれてしまった。  もちろん、残忍な王妃フレデゴンドは、捕虜になったブリュヌオーの処刑を熱心に主張した。女王同士のライヴァル意識はすさまじく、憎しみは双方で煮えたぎっていた。どうしても一方が他方を殺さなければ収まりそうにもなかった。が、ここに思いがけない事態が生じ、シルペリクと息子のメロヴェとが、期せずしてブリュヌオーを庇う立場に立ってしまったのである。  美しい女というものは、いかなる場合にも、有利なものである。今まで悪辣な妻フレデゴンドに悩まされつづけてきたシルペリクは、あわよくば、美しい高貴なブリュヌオーと改めて結婚して、二つの国を一つに結合し、統一王国をつくってみたいという遠大な夢に取り憑かれはじめた。一方、息子のメロヴェは、一目見たときから、叔母にあたる敵の女王にぞっこん惚れこんでしまって、彼女のためなら生命を捨てても惜しくないと思うまでになってしまっていた。  こうして、若いメロヴェとブリュヌオーとの悲劇的なロマンスがはじまるのである。  まずメロヴェは父親に勧めて、ブリュヌオーをルーアンのある修道院にひそかに送りとどけさせる。パリの城に留めておけば、いつフレデゴンドの毒牙にかかって殺されるか知れないからである。父親も、なるほどと思って、息子の案に賛成する。腹の虫がおさまらないのは、裏をかかれたフレデゴンドである。しかし、いくら地団駄ふんで悔しがっても後の祭であった。  ところが、ブリュヌオーが出発した直後に、彼女を追ってメロヴェもまた出奔してしまったので、はじめて息子に騙されたと知った父親は、かんかんになって怒った。それ見たことかと、フレデゴンドは夫を嘲った。  逃亡した二人はルーアンで落ち合うと、親切な司教プレテクスタの立会いのもとに、そこでささやかな結婚式を挙げた。それから有名な聖者グレゴリウスの棲んでいるトゥールの修道院へ行って、ここにしばらく身を寄せることにした。神聖な修道院のなかにいれば、だれからも危害を加えられる心配がないのである。しかし一緒になった二人の幸福も、ほんの束のまだった。  父シルペリクが奸策をめぐらして、息子をトゥールの修道院からおびき出し、有無をいわせず頭を剃らせて、サン・カレーの僧院に監禁してしまったのである。剃髪は廃位のしるしであった。  ブリュヌオーはルーアンに移されたが、忠臣リュピュスに助けられて脱走し、ようやくモーゼル河畔のメッツの居城に逃げのびることができた。ふたたび子供の顔を見ることができた彼女は、もう若い愛人のことなんか忘れてしまって、彼女を一途に崇拝している忠臣リュピュス伯爵とともに、あらためて宿敵フレデゴンド打倒の計画をめぐらすのだった。  メロヴェの末路はまことに憐れである。生き別れになった愛人のあとを追って、彼は必死の思いで僧院を脱走し、はるばるメッツの城の下まで来たのであるが、すでにブリュヌオーは伯爵リュピュスと懇ろの仲になっていて、会うことができない。絶望して、ふたたびトゥールに戻ってきたところを、父の部下に発見されて捕えられ、牢に入れられる。牢のなかで、彼は一緒にいた家来に頼んで、喉を突いてもらって自殺したのである。  このメロヴェの死を皮切りにして、怖ろしい殺戮が王国内に相次いで起る。いずれも王妃フレデゴンドの仕業で、彼女はこうして自分の邪魔者を次々に除いていったのだ。  まず最初に、シルペリクがオードヴェールに生ませた男の子、つまりメロヴェの弟にあたるクロヴィスが、パリに近いシェルの町の牢屋で血祭りにあげられた。屍体はマルヌ河に投げこまれた。  次にフレデゴンドが狙いをつけたのは、昔の恋仇オードヴェールであった。彼女は王妃の地位を追われて以来、マンスの修道院で細々と生きていたが、五八一年、ついになぶり殺された。  不幸なクロヴィスの妻もまた、捕えられて、生きながら焼き殺された。  次の犠牲者は、ルーアンの司教プレテクスタであった。彼はメロヴェとブリュヌオーの結婚式に立会ったので、フレデゴンドの怨みを買っていたのである。司教は教会のなかで殴り殺された。  最後の犠牲者は、夫のシルペリクである。夫のために何度も苦杯をなめさせられていた彼女は、以前から彼を深く憎んでいて、いずれは殺してやろうと考えていたらしい。五八四年九月、猪狩から帰ってきた王は、喉の渇きをおぼえたので、一杯の葡萄酒をもらって飲んだ。そしてその晩、ぽっくり死んだのである。たぶん毒酒だったのだろう。  結局、彼女が命じて殺させた人間は、最初の犠牲者ガルスウィントからはじまって、男女ともども総計七人におよんでいる。史上まれに見る大悪女というべきであろう。  王を殺して、フレデゴンドはついに宿望の絶対権力をわが手におさめた。彼女自身にも子供はいたが、上の二人が天然痘でばたばた死んだので、残る一人は、誕生後わずか数ヵ月の赤ん坊にすぎなかった。邪魔になる親類縁者のことごとくを殺害してしまったのだから、じつに怖るべき権力欲の女性である。  しかし、二人の王妃の執念ぶかい争いは、さらにその後十数年、延々として続くのである。フレデゴンドはしばしばメッツの宮廷に刺客を送って、宿命のライヴァルを倒そうとするが、なかなか成功しない。二人の女性は、すでに色香もめっきり衰え、五十歳以上の姥桜となっているのに、お互いの憎悪だけは、一向に衰えを見せないのである。まことに女の執念とは、怖ろしいものだ。  五九六年に、ブリュヌオーの息子シルデベルトが二十六歳で死ぬと、ただちに彼女は孫を擁立して、みずから後見人の地位についた。この機を利用して、フレデゴンドはパリに猛攻撃を加え、まもなくこの町を陥落させた。息子の葬式が終るか終らないうちに、ブリュヌオーは戦場に駈けつけなければならなかった。  ブリュヌオーのかたわらには、影の形に添うように、いつも忠実な恋人リュピュス伯が、馬に乗って従っていた。これに反して、フレデゴンドはつねに孤独だった。彼女の荒廃した心には、ただ憎悪と残忍さのみが棲んでいるかのようだった。  双方の軍隊は、ソワソネ地方とアウストラシアの国境のラトファオで、正面衝突した。今こそ雌雄を決すべき時であった。二人の女王は、それぞれ着物の上に鎧を重ねて着て、半ば白くなった頭に冑《かぶと》をかぶっていた。フレデゴンドのうしろには息子クロテールが、ブリュヌオーのうしろには二人の孫が、それぞれ馬に乗って控えていた。  はげしい戦闘の後、ついにネウストリア軍が大勝を博した。リュピュス伯は撃たれて死に、ブリュヌオーは馬を駆って必死に逃げた。長い髪を風になびかせて逃走するブリュヌオーのすがたを、丘の上から見つけたフレデゴンドは、 「早く彼女を追いかけて捕まえるんだよ。逃がしたら承知しないからね!」と気違いのように絶叫した、「生け捕りにするんだよ、分ったかい、生け捕りに……」  言葉の途中で、彼女ははげしく咳きこんだ。鞍の上で、苦しげに、身体を二つに折り曲げるようにして、ようやく呼吸をととのえた。唇の端から、赤い血が一筋、糸を引いていた。実際、フレデゴンドはその当時、肺患がかなり進んでいたのである。  戦争の勝利を楽しむ隙もなく、フレデゴンドはそのまま病の床につき、一年後に死んだ。彼女の遺骸は、古いパリの聖ヴァンサン僧院に葬られた。  後日譚をつけ加えておこう。  フレデゴンドが死んでもなお、ブリュヌオーの憎悪は消えなかった。フレデゴンドの息子のクロテール二世が、今度は彼女の新たな攻撃目標になった。双方の争いはさらに十七年間、六一三年まで延々と続けられた。  ライヴァルの死とともに、ブリュヌオーもまた、醜い残虐ぶりを発揮するようになった。自分の権力を守るために、罪悪に罪悪を重ね、孫や曽孫を何人も殺させた。  ついに彼女の領内の貴族たちが叛逆して、外国生まれの老王妃を捕え、敵のクロテール二世の手に引き渡したとき、ブリュヌオーはすでに八十歳になっていた。  クロテール二世は母親に似て、残忍無類な男であった。母親の仇である八十歳の老女を、彼は三日間、拷問でさんざん苦しめた後、一頭の馬の尻尾に彼女を結びつけて、その馬を猛烈に疾駆させたのである。五体をばらばらに打ち砕かれて、ブリュヌオーは絶命したといわれる。  西ゴート王家の王女として、一世の美貌と気品と勇気をうたわれた彼女も、猛り狂う悍馬に引きずりまわされ、その鉄の蹄に踏みにじられては、もはや血まみれのぼろ切れも同然であった。 [#改ページ]  則天武后 「世界悪女物語」と銘うった以上、ヨーロッパの悪女ばかりでなく、東洋の悪女をも登場させなければいけないと考えて、筆者は、いろいろな候補者を頭の中にならべてみたのであるが、どうも日本には、適当な代表選手が見つからないようだ。  たとえば日本にも、北条時政の後室であった牧の方や日野富子をはじめ、毒婦として有名な鬼神《きしん》のお松、高橋お伝、雷《かみなり》お新、生首《なまくび》お仙、妲妃《だつき》のお百などといった犯罪者の系列があることはある。しかし、それらがいずれも小粒で、スケールの大きさに欠ける憾《うら》みがあることは一目瞭然であろう。少なくとも「悪女物語」に名前をつらねるには、男性を顎でつかい、一国の運命を左右するほどの輝かしい悪事を積み重ねた、堂々たる女傑でなければならないはずである。  そこで、目を中国に向けてみると、ただちに思い浮かぶのが、いわゆる「支那の三女傑」と称せられている女丈夫たちだ。すなわち、漢の高祖の妃|呂后《りよこう》、唐の高宗の妃|則天武后《そくてんぶこう》、清の文宗の妃|西太后《せいたいこう》の三人である。揃いも揃ってスケールの大きな悪女である。さて、だれを選ぶべきか。  この三人は、ともに絶大な権力をもった独裁者であり、──なかんずく呂后のごときは、自分の目の前で忠臣|韓信《かんしん》をはじめ、その他の家来を殺害して悦に入ったり、また夫の死後、その愛妾であった戚《せき》夫人の手足を断ち、眼をえぐり、耳を燻《くす》べ、|※[#「やまいだれ<音」、unicode7616]薬《いんやく》(唖になる薬)を呑ませて厠のなかに押しこめたというほどの残忍な女でもある。  けれども、則天武后のなしとげた大事業と大量殺戮にくらべれば、呂后の残忍も、西太后の政治的手腕も、影が薄くなるのは否めない。第一、武后には、無学な百姓女にすぎぬ呂后など足もとにも及ばぬ、衆にすぐれた知力があった。まことに則天武后こそ、女だてらに、古代ローマのネロやカリグラにも比較されうる、いな、むしろそれ以上ともいうべき空前絶後の知力すぐれた大独裁者、大犯罪者であった。  武后の詳細な伝記を書いた中国の林語堂氏によると、「武后は女性として異例であった。彼女と比較できる他の有名な女性というと、ちょっと見当らない。クレオパトラでもない、エカテリーナ太后でもない。エリザベス一世女王の一部とカトリーヌ・ド・メディチの一部、つまり、前者の力と後者の残忍性が結びついたもの」ということになる。  彼女の性格には、たしかに、犯罪行為と高度の知能が結びついた異常なものがあった。誇大妄想狂に近い、気ちがいじみた野望の持主だったが、そのやり口は冷静で、正確で、まったく正気であった。しかも、ヨーロッパや日本の犯罪者に特有な、あの繊細の精神を土足で踏みにじってしまうような、大陸民族的な豪放さと野放図さとが見られた。これはじつに異例のことである。歴史家が戸惑いするのも無理はない。  では次に、年代を追って、この途方もない女性の肖像を描き出してみることにしよう。以下に武氏《ぶし》と呼ぶのは、のちの武后のことである。  武氏は最初、唐の二代皇帝|太宗《たいそう》の妾のひとりにすぎなかった。  太宗の貞観《じようがん》時代といえば、唐の黄金時代であり、漢民族の勢力が遠く西域《さいいき》やインド、サラセン帝国にまで伸びた絶頂期である。長安の都はさまざまの種族、──インドの僧、日本の留学生、ペルシアの商人などが、それぞれの服装をして歩きまわり、まことに国際色豊かであった。酒場では肌の白いアーリア系の女たちが客をひいていた。  唐朝の制度によると、皇帝には后《こう》が一人のほかに、妃《ひ》が四人、昭儀《しようぎ》が九人、|※[#「女+捷のつくり」、unicode5a55]《しようよ》が九人、美人《びじん》が四人、才人《さいじん》が五人、その下にそれぞれ二十七人から成る三階級の侍女がいた。これを総称して「後宮」というのであるが、いずれも皇帝の寵愛を受ける資格があり、皇帝と寝所を同じくする資格があった。武氏は当時、六番目の「才人」の一人にすぎなかった。  太宗の死とともに剃髪して尼となり、習慣通り尼寺へ入ったが、じつはその前から、ひそかに太宗の息子の高宗と慇懃を通じていた。いわば近親相姦であるが、彼女はその非凡な頭脳と冷静な野心とによって、次代の皇帝たるべき皇太子と関係をつけておくのが、出世のための早道と計算していたのである。  彼女は背が高く、がっしりした身体つきをしていた。角ばった顔に顎が張り、額は広く扁平で、眉がくっきりしていた。それほど美人ともいえない。が、性格がおそろしく強く、宮中の侍女たちのだれよりもすぐれた頭をもっていた。  六四九年、父の死とともに帝位についた若い高宗は、病弱で、わがままで、気が弱く、最初から年上の武氏(高宗より五歳年長であった)を庇護者のように見ていたらしい。すでに彼には皇后|王氏《おうし》がいたのであるが、尼寺で武氏が彼の種を宿したことを知ると、強引に彼女を宮廷につれてきて側室の一人に加えてしまった。これには皇后の援助の手もはたらいていた。それというのも、皇后に息子がなく、妃であった蕭氏に皇帝の寵が移りかけていたので、皇后自身も武氏を宮中に招じ入れて、美人の蕭氏に対して共同戦線を張りたいと考えていたからである。  そういう次第で、最初は皇后王氏と武氏とのあいだは、きわめて親密だった。遠大な野望をいだいていた武氏は、皇帝も皇后も蕭氏も、難なく手玉にとった。尼寺から宮中にもどって一年足らずのうちに、王室のすべての者を手なずけてしまった。  やがて武氏は女児を産んだ。そしてこの機を利用して、皇后王氏を失脚させてやろうと彼女はたくらんだのである。武氏はみずから皇后の地位につきたかったのだ。  女児が産まれて十日ほどすると、子供にめぐまれない皇后が見にやってきた。皇后は赤ん坊を抱いて、しばらくあやし、それから揺籃《ゆりかご》にもどした。皇后が立ち去ると、入れ替りにこっそり武氏が部屋にやってきて、赤ん坊を窒息させて殺し、その上に蒲団をかけておいた。皇帝が発見して大いに驚く。武氏も声をあげて泣きわめく。わが子を失った母親の歎きは真に迫っていた。  結局、嬰児殺しの罪は皇后にかぶせられた。それにしても、野心のために自分の産んだ赤ん坊を手ずから殺すとは、何という怖るべき母親であろう。  皇后のために張られた罠は、そればかりではなかった。体の弱い皇帝が狭心症の発作を起すと、皇后が妖術を用いて帝の生命を絶とうと企んでいる、という噂が流された。むろん、これは武后の策謀である。帝の寝台の下から木彫の人形が発見されたが、その人形には、帝の名前と運勢の星が彫りこまれ、一本の釘が心臓部をつらぬいていた。  噂がひろまると、宮廷中は大騒ぎになった。皇后は犯人として捕えられ、身の潔白を証明しなければならない羽目になった。しかし、どうして彼女にそれができたろう。  先帝時代以来の忠臣であった遂良《すいりよう》や無忌《ぶき》などが、必死になって事態を収拾しようと努力したにもかかわらず、ついに勅命がくだって、皇后王氏はその犯行のため退けられ、宮中に監禁される身となった。かわって武氏が皇后の座につくのである。かつて先帝の妾であった女、尼の身分で帝の種を宿した卑しい女が──。  廃后《はいこう》王氏はその後、蕭氏とともに牢から引き出され、百回の鞭打を受けた。それから武氏の命により、二人の女は手足を切断され、腕と脚を背の方にねじ曲げられて、大きな酒樽の中にどっぷり漬けられた。 「あの下司女どもを、骨の髄までとろけるくらい酔っぱらわせてやるがよい」と武氏はいった。二日ほどして、あわれな二人の女は死んだという。  こうして手はじめの犯行を終え、六五五年、首尾よく皇后の座につくと、次に武后は、太宗の遺言執行人であった遂良、無忌などの老政治家をことごとく除いてしまった。そして政治の実権をしっかり我が手に握ったのである。夫の高宗は弱虫で、内気で、何でも武后のいいなり放題である。  その上、武后の嫉妬ぶかさには並みはずれたものがあり、皇帝の気に入りの女性は、いつも何か毒物を食べさせられて原因不明の死をとげた。武后の姉の韓国《かんこく》夫人は、ある日、食事の席で奇怪な痙攣を起して死んだ。またその娘の魏国《ぎこく》夫人(つまり武后の姪)も、やはり母と同じ症状を示して、あえなく死んでいった。二人とも、皇帝の大のお気に入りだったのである。  高宗には、武后以外の女に産ませた息子が四人あった。その四人の異母子たちのうち、三人までが叛逆罪や収賄罪の汚名を着せられて、次々に死刑を宣言された。のみならず、皇太子であった武后自身の二人の実子も、毒殺されたり死刑にされたりした。  集計すると、異母子もふくめて武氏の八人の息子のうち、一人は夭折したが、じつに五人までが母親によって殺されているのである。残る二人も十二年以上監禁された。そのほか、例の窒息死させられた幼児がいることは前述の通りである。  皇子|哲《てつ》の妻(つまり武后の嫁)も、理由なく武后の憎悪の的になり、宮中に監禁されて死んだ。何日か経って扉が押し破られてみると、彼女は餓死していたのである。  そのほか三人の嫁が、それぞれ屈辱死、密殺などの手段によって生命を絶たれ、二人の異母兄が死刑に処せられて死んでいる。また二人の甥が謀殺され、二人の孫が笞刑によって殺害され、甥孫、甥の妻、伯母もそれぞれ殺されている。  ごく大ざっぱにいって、武后はその在位期間三十年(晩年の治世を除く)のあいだに、太宗、高宗の兄弟一族七十余人、宰相、大臣級の高官三十六人を皆殺しにしてしまったのである。  政治上の粛清は別として、自分の親族をこれほど多く犠牲の血祭りにあげた女王は、おそらく歴史上にも類を見ないのではないか。また人間の母親として、おのれの血につながる息子や娘の生命をこれほど軽んじた母親も、犯罪史上にめずらしいだろう。  武后の迷信ぶかさも有名なものである。長安の宮殿に幽霊が出るというので、怖ろしくなって洛陽《らくよう》へ旅立ったり、わざわざ新しい宮殿を造営して、そこに移り住んだりした。それでも幽霊が退散しないので、妖術師を招き、道教の護符を燃やしたり呪文を唱えたりして、悪鬼を祓い清めようともした。  文字には魔力があると信じていたので、縁起をかついで皇子の名前を変えたり、政府諸官庁の名称を改めたり、年号を変えたりすることもしばしばだった。ときには一年のあいだに年号が二度も変っている。  派手な行列や華麗な儀式を主宰して、自分の権威を内外に誇示するのが大好きだった武后は、かつて秦《しん》の始皇帝《しこうてい》や漢の武帝がやったように、山東の泰山《たいざん》の頂上で天下の太平を神々に報告し、その永続を祈願する祭りの「封禅《ほうぜん》」を行った。  この儀式には、首都から山東まで延々長蛇の列が繰り出され、その行列の通る地方は、半年ほど大混乱に陥ってしまう。外国の王族や使臣も行列に加わって、旗をひるがえし、日傘をかざして、きらびやかに行進するのである。記録によると、行列は十五里の長きにおよび、沿道は色とりどりの車や馬や駱駝や、蒙古毛氈の天幕などで溢れんばかりであったという。  ──鉦《かね》と鐘磬《しようけい》の音で式がはじまる。壇の下に火が焚かれる。煙が立ちのぼって霊を迎えるのだ。西域渡来の楽器を用いて、合奏団と唱歌隊が祈祷歌を奏する。礼拝は三度行われ、最初が皇帝、ついで武后の順である。  武后は十二本の真珠の紐が顔の前に垂れている冠をいただき、鳳凰の縫いとりのある衣をまとい、腰元につき添われて、しずしずと階段をのぼった。彼女の両側には、華やかな刺繍のある、幅ひろい絹の帯をたらした竿を捧げもつ侍女たちがいて、皇后のすがたを隠している。  しかし、彼女がいかに満足に顔を輝かせているかは、そのすがたを見ないでも、並みいる観衆によく分った。じつは彼女は、この至高の一瞬のために生きてきたのだといってもよかったからだ。封禅の儀式に女性が登場したのは、彼女が初めてである。いまや彼女は得意の絶頂である。  ところで一方、高宗は、このような気骨の折れる儀式やら旅行やらのために、次第に健康を害し、ひどい神経痛や痺れや息切れに悩まされるようになった。  皇帝の健康が憂慮されてくると、武后はかわって政務を行い、六七四年、新治世がはじまると称して年号を上元《じようげん》と改元し、みずから「天后」と名乗った。事実上の独裁者になったわけである。天后とは「天皇」の皇后を意味する、半ば神格化された称号である。  高宗が長い病いの末に死んだのは六八三年、五十五歳のときであった。武后はようやく六十歳になっていた。しかし、驚くべき精力家であった彼女の人生には、まだまだ先があった。  帝の死とともに、二十歳になる太子哲(武后の実子)が即位したが、彼はたった五十四日間皇帝の座についていただけで、ただちにその位を追われることになった。皇太后の武后が口実をもうけて彼を廃位し、幽閉してしまったのである。武后が息子を廃したのは、これで四度目である。  ひとびとは当然、末子の旦《たん》が帝位を継ぐものと思っていた。ところが、彼もまた捕えられて宮中に監禁され、帝位はいつまでも空いたままだった。じつはこれが武后の狙いであって、彼女は息子を残らず廃し、自分ひとり至高の玉座に坐っていたかったのである。自分ひとりの国家をつくることを夢みていたのである。  かくて武后は単独の支配者となり、やがてみずから皇帝を称するにいたるまで、大わらわで唐朝の一族を滅ぼしにかかる。その間、何度か不平分子の叛乱が起ったが、その一つ一つを彼女は着実にたたきつぶしていった。  六八四年に始まるこの時代は、ふつう則天武后の治世と呼ばれることになっている。それは怖るべき粛清政治と密告制度に基礎を置いた、恐怖の時代、暗黒の時代であった。機を見るに敏な武后が、矢つぎばやに粛清の鉄槌をふり下ろすので、世間は息つく暇もないほどであった。唐朝の血筋につながる王族たちは、明日をも知れぬおのれの運命を思って、みな恐怖にふるえおののいた。  有名な密告制度は六八六年に始まる。とはいえ、それはまことに単純なもので、ただ役所の建物のなかに銅の箱をもうけただけの仕掛にすぎなかった。この箱に、友人や隣人の反政府的行動を密告したいと思う者は、だれでも遠慮なく投書することができる。どんなに身分の低い者でも構わない。  拷問の技術や犯人を自白させる方法が、驚くほど進歩したのもこの時代である。そのために『告密羅織《こくみつらしよく》経』という書物が書かれたが、これは、いかにして罪人をつくりあげるかを解説した案内書であって、いわば司法警察の役人たちの法典である。  裁判所の役人たちは「酷吏《こくり》」と呼ばれ、武后の手先として民衆に最も怖れられた。彼らはそれぞれ数百人を殺害し、その数千の家族を悲惨のどん底に突きおとした。  酷吏のなかでも飛び抜けて残忍な索元礼《さくげんれい》という男は、被告から自白をひき出すのに独特の方法を用いた。すなわち、鉄の帽子を被告の頭にかぶせ、クサビで徐々に締めつけるのである。被告が頑として口を割らない場合は、頭蓋骨がくだけることもある。  また来俊臣《らいしゆんしん》という酷吏は、これまた索に劣らぬ残忍無類な男で、自供させるために、まず被告の鼻に酢を注ぎこむ。それから不潔きわまりない地下牢にぶちこみ、食を絶ってしまう。囚人は空腹のあまり夜具を噛んだといわれる。やがて立てつづけの訊問と拷問がはじまり、囚人は眠る暇もあたえられず、くたくたに神経をすりへらしてしまう。  この時代に発明された訊問法の数々は、人間心理の弱点をついた、じつに洗練された巧緻なもので、あたかもナチスやスターリン時代の恐怖政治を思わせる。そうかと思うと、囚人の耳に泥をつめたり、胸を圧迫したり、爪のあいだに鋭い竹を突き刺したり、髪の毛で吊るしたり、眼球を傷つけたりする野蛮な刑もあった。  六十歳の女帝の男狂いについても、一言述べておく必要がある。  相手は薛懐義《せつかいぎ》という怪物。仏教の僧という触れこみであったが、もとは洛陽の大道で薬を売る香《や》具|師《し》にすぎなかった。武后が拾って、閨房に近づくに便ならしめるために、僧に仕立ててやったまでのことである。  この男はたいへんな法螺吹きで、傲慢で、誇大妄想狂であった。僧正の装いをして威張りくさり、緋の衣をひるがえして宮中をのし歩いた。それというのも、武后がすっかり彼に熱をあげ、彼の願いなら何でも聴きとどけようとしたからである。  のちに民衆の心に、武后が仏陀の再来であると信じこませたのも、この怪僧である。武后が明堂《めいどう》と呼ばれる広大な宮殿や、その背後に高さ三百尺におよぶ天堂《てんどう》を建立させたのも、彼の影響によるものである。彼女はまるで魔に魅入られたように、気ちがい坊主の頭から生み出される巨大な幻想の計画に、易々として服従した。  僧は武后とよく似て、派手好みの空想家であった。その点で、二人は同気相求めたのである。  武后はすべて巨大で輝かしいものを愛した。一名「万象神宮」と呼ばれた明堂には、漆喰づくりの馬鹿でかい大仏像が安置してあったが、この像は高さが二百五十尺もあって、その小指の上に十人乗れるほどであったという。  閨房での凄腕をも自慢の種にしていたという、この権勢欲の強い怪僧懐義は、わが国の奈良時代の弓削道鏡《ゆげのどうきよう》を思わせるところがある。道鏡もまた、その巨根で名高く、女帝にとり入って宮廷内に専横をきわめた坊主である。  武后と僧正は、仏教を利用して思うさま民衆をたぶらかした。前にも述べたように、武后が弥勒菩薩の化身だという説を唱え出したのが、この僧正である。記録によると、十人の僧侶に新たに大雲経なる経典をつくらせ、武后がこれを国中に配布したのだそうである。  だんだんと武后は僧正の感化によって、仏教に熱意を示すようになった。国中に人殺しが大手をふって闊歩しているというのに、彼女は勅令を発して豚の屠殺を禁止したりしている。六八八年には、みずから「聖母神皇」と称するにいたる。  こうなると、どうしても唐朝を廃して、新たに国家を起すことが必要と考えられてくるのはやむを得まい。すでに殺戮の嵐は一過し、唐の王族はほとんど除かれた。邪魔な高官も将軍も、すっかり片づけられてしまった。武后が夫の王室に止めの一撃を加えるべき時機は、いまや熟していた。  六九〇年九月、数百羽の赤い雀が明堂の屋根でさえずったとか、鳳凰が宮廷の西の苑に飛んできたとか、さまざまな瑞兆を告げる噂が流された。  九月九日、ついに布告が発せられた。今後唐朝は廃せられて、新しい国は「周」と呼ばれることになる。年号は「天授《てんじゆ》」と改められる。  なぜ周と名づけられたかというと、かつて古代に栄えた周の国の最初の皇帝が「武王」だったからである。もちろん、武王と則天武后とは何の関係もない。が、彼女はみずから武王の四十代後の後裔と称した。  九月十二日、かねて予定していた通り、武后は「聖神皇帝」という称号を名のることになった。「聖母神皇」からさらに一段昇格したわけである。名実ともに、史上最初の女独裁者である。ここにいたって彼女の最後の野心は達せられたといってよい。  武后が成功をおさめたのは、単に強靭な意志力や政治力のみによるのではなく、また弥勒の化身だとか周王室の子孫だとか称して、迷信ぶかい宗教時代の愚かな民衆をまんまとたぶらかしたことにもよる。仰々しい儀式や寺院の建立も、見方によっては、すべて民衆めあての宣伝のあらわれにすぎなかった、といえないこともない。しかし、それが予期以上の効果をあげて、ついに彼女は空前絶後の権力を掌中に握ってしまったのだ。  晩年の武后については、歴史家の意見もいろいろに分れている。とにかく最後の十年間、彼女が殺戮をふっつりとやめ、正しい人物を重く登用して、国家をゆるぎなく統治したのは事実である。  彼女が偽造させて国中に流布させたという大雲経にしても、一部の学者の意見によれば、たしかに原典のあるものであって、決してでたらめに作り上げられた偽書ではないという。彼女の仏教に対する帰依にも、あながち政策上のものだけとはいえない面があって、あるいは武后には、仏教を基礎とした一大帝国を建設しようという真面目な気持があったのではないか、とも思われる。  いずれにせよ、七十歳をすぎた武后の心には、なすべきことをすべて実現した者の満ち足りた感情が、徐々に芽生えかけていたらしい。朝政は信頼できる有能な人物にまかせて、自分は女としての最後の快楽、わが世の晩年の春を心ゆくまで楽しもう、という気持だったのかもしれない。  七十五歳の武后の情事の相手は、有名な張兄弟であった。ともに二十代で、色が白く、すばらしい美貌の青年。二人が宮中に伺候したときは、顔に紅をさし、髪には油をたっぷり塗り、口には鶏舌香をふくんでいたという。兄の易之《えきし》は媚薬や回春剤の専門家で、この道楽者の婆さんを悦ばせる特別の方法を用いたという。そうでもしなければ、なかなか役に立つまい。  張兄弟との情事はたちまち知れわたり、武后の若いツバメどもの名は街々に貼り出され、小唄や落首などで嘲弄されるようになった。すでに恐怖時代は去り、民衆の反抗的気分はあからさまになっていたのである。  武后はスキャンダルをもみ消すために、若いツバメを宮中に囲っておく名目を考えた。こうして作られた新しい官職が控鶴府《こうかくふ》で、二人の兄弟は、そこの役人に任ぜられた。  控鶴府とは、一種の宗教文学研究所のような機関である。易之を主任とする編集委員がいて、孔子、老子、釈迦、およびその他の聖賢の言葉を収録する、いわば宗教文学アンソロジーのようなものを作りつつあった。  道教の神仙は鶴に乗って不老不死の国にいたるという。控鶴府とは、象徴的な名前で、安逸を楽しむ享楽主義のユートピアを意味していた。学者や文人も、たまにはここを訪れることがあって、一見したところ、知的な雰囲気も漂っているかのように見える。  とはいえ、研究所とは表むきの名目で、所員の実際の仕事は酒宴と賭博であった。武后はこの役所を地上の楽園にするつもりだったのかもしれない。  役所は瑤光殿《ようこうでん》と呼ばれる、贅美をつくした宮殿の内部にあった。広大な庭園があって、池には小島が浮かび、橋だの、飾り門だの、極彩色に塗られた渡り廊下だの、灌木だの、彫像だのが配してある。役所の所員はすべて美貌の若者である。弟の昌宗《しようそう》は、この桃源郷のような場所で、神仙らしく羽毛を身にまとい、手には一管の笛をもって、木製の鶴の背にまたがっていたという。羽化登仙とは、まさにこのことであろう。  かくて武后の晩年は、荒々しさが影をひそめたとはいえ、頽廃的生活をきわめたものになった。控鶴府は、ローマ皇帝ティベリウスのカプリ島の宮廷とも比較され得る、男を集めた後宮、倒錯的な情事の取引場と一変し、同性愛の中心地となった。  死の一年前、七〇四年ごろから、武后は病床につくことが多くなった。二人の青年につき添われて、自室にひきこもったままのこともあった。すでに八十二歳である。  張兄弟はいたるところで憎悪の的になり、ようやく唐王室復興の機運が熟した。  武力革命が起ったのは七〇五年一月である。張兄弟は革命軍の兵士に首を斬られて死んだ。無力になった老齢の独裁者は、首都の西方の離宮に移され、そこで監禁される身となった。そして十一月、孤独のうちに世を去った。 [#改ページ]  マグダ・ゲッベルス  第二次大戦中ナチスの宣伝大臣として悪魔のような活躍ぶりを示し、ベルリン陥落直前ヒトラーと運命を共にして自殺したパウル・ヨーゼフ・ゲッベルス博士には、美しい金髪の夫人があった。その名をマグダという。  権勢欲に憑かれたプチ・ブル出身のニヒリスト政治家と、大ブルジョワの家庭に生まれたロマンティックな気質の女性とは、一見、正反対の性格を示すかのように思われるだけに、あの悪夢のような動乱の一時期を背景とした、破滅に向って突き進む二人の男女の結びつきには、なにか運命的な、不吉なものの翳を認めないわけにはいかないのである。  ゲッベルスと会うまでのマグダの生涯の前半は、いわば彼女の一生のプロローグのようなものである。マグダは裕福な技師の家の娘として、一九〇一年ベルリンに生まれた。六歳から修道院で宗教教育を受け、少女時代にふと知り合ったドイツの有名な富豪、ギュンター・クヮントと二十歳で結婚した。  クヮントはその当時、すでに四十歳近い働きざかりの実業家で、最初の妻を失くしていた。マグダは二度目の妻として、彼とのあいだに一人の男の子をもうけたが、結局、あまりにも事業に熱心で家庭を顧みない現実主義者の夫と、性格が合わず、数年後に別れることになる。離婚の直接の原因は、マグダが若い男と情事を重ねていたのが、夫に発覚したためである。  離婚したマグダは、もう二度と結婚すまいと心に誓った。情事の相手は歳下の学生で、芸術を語ったりダンスをしたりするには恰好な相手だったが、むろん、彼女を心から満足させるような男ではなかった。一人息子を手もとに置いて、マグダは気ままな自由の生活を送ろうと決心した。彼女の美貌をもってすれば、遊び友達に不足することはない。  当時、ベルリンの町はナチ党と共産党との、激烈な闘争の坩堝《るつぼ》と化していた。深刻な社会不安が、目に見えないところで徐々に醸成されつつあった。しかしマグダをもふくめた、インテリ有産階級のだれもが、この危機の徴候に少しも気づかず、つい二、三年後にヒトラーが政権を獲得することになろうとは想像もしていないのだった。  ドイツ有数の富豪の妻として、これまで何の不安もなく贅沢な生活を送ってこられたマグダに、政治的関心があろうはずもなかった。離婚した彼女は七部屋もある豪華なアパートを借りて、絵画を集めたり、若い恋人と毎日のように劇場に通ったりするという、新しい生活をひたすら楽しんでいるかに見受けられた。やがて来る危機を前にした一九二〇年代のベルリンは、国際的な歓楽の都であった。ウーファ映画が一世を風靡し、『会議は踊る』などの華やかな作品がぞくぞく作られたのも、このころのことである。彼女の家は若いブルジョワの息子や芸術青年の溜り場になった。  そんな生活に明け暮れしていた彼女が、どうしてある日、ベルリン体育館で催されたナチ党の集会に赴く気になったのか。たぶん、ふとした気まぐれからであろう。しかし、それが彼女の運命の岐《わか》れ目になったことを、だれが予知しえたろう。  会場を埋めつくした五千人の群衆と、ひるがえる赤い鉤十字旗《ハーケンクロイツ》と、士気を鼓舞する野蛮な音楽とに、マグダは肝をつぶした。政治的デモンストレーションというものを、このときマグダは初めて見たのである。彼女は不安になった。  しかし、やがて一人の痩せた、小柄な、貧弱な男が|びっこ《ヽヽヽ》をひきひき演壇にのぼり、銹《さび》のきいた低音で、はげしい共産党弾劾の演説をぶちはじめると、マグダの注意は完全にこの男に奪われた。小さな身体から、よくもあんな力強い声が出るものであった。聴く者の神経を逆撫でするような、奇妙な抑揚と響きのある語調であった。しかも演説が熱してくるにつれて、辛辣な皮肉の切れ味がますます鋭くなるのである。  マグダは最初、あっけにとられたが、次第に昂奮してくる自分を抑えることができかねた。演説が終った時には、酔ったように我を忘れていた。見すぼらしい服装をした貧相な小男が、その火のような弁舌で、群衆のなかの美しい一人のブルジョワ女の魂をしっかり掴んでしまったのである。この男こそ、後に「ヨーロッパのメフィストフェレス」とうたわれた、第三帝国の領袖の一人ゲッベルス博士であった。当時彼は党の宣伝部長であった。  翌日から、マグダの世界は一変した。今までの空虚な生活が、にわかに有意義な、一つの目的をもった生活になった。すなわち、彼女はその日からドイツ国家社会主義労働党(ナチ党)に入党してしまったのである。二十四時間前までは、こんな事態になろうとは、彼女自身夢にも考えられなかったにちがいない。もと富豪の令夫人であったベルリン第一のエレガントな女が、野卑なごろつき政治家の仲間になろうとは!  彼女の周囲の人間も驚いたが、党のほうでも最初は半信半疑であった。しかしマグダの決意は、かりそめのものではなかったらしい。『わが闘争』と『二十世紀の神話』を買って読み、新聞や綱領をじっくり研究した。高価な香水の匂いをぷんぷんさせた金髪美人が党の婦人部に出入りするのを、労働者のおかみさん連中は猜疑の目で眺めた。  彼女の若い恋人エルンストも、マグダが政治に熱中するのを喜ばなかった。それも当然で、当時ナチは知識階級のあいだでは、一握りのごろつきの集団のようにしか考えられていなかったのである。純情なエルンストは絶望し、嫉妬に狂い、ついにある晩、ゲッベルスをののしりながら、マグダに向ってピストルを射った。むろん狂言が半分だったから、弾丸は当らなかった。彼女は隣室に逃げこみ、電話で警察を呼ぶと、部屋のなかの器物を見境いなくぶちこわしている青年を指さして、冷たい声で、こういった。「この青年は気違いです。連れて行って一晩留置してください」と。これが二人の関係の終りであった。  ゲッベルスはマグダを、ベルリン地区記録保管所の整理係に任命した。宣伝部長に直属した秘書のような役目である。マグダは喜んでこれを引き受けた。二人が結ばれるまでには、もうあと一歩であった。  それにしても、いったい、ゲッベルスの男性的魅力とは何であったろうか。彼は不具者で、貧弱な小男で、薄い唇をした酷薄な容貌の持主である。なるほど演説は達者だし、宣伝活動は天才的だし、それにハイデルベルク大学哲学博士の肩書をもつ、党内随一のインテリであるにはちがいない。しかしその性格は暗く、虚無的で、ほとんどナチの理想というものをすら信じていない。頑冥な国家主義者でもなければユダヤ人排斥論者でもなく、シニカルな一個のニヒリストにすぎない。ローゼンベルクのような狂信的な理想主義者と違って、彼の理性はつねに明晰であり、自分が少しも信じていないことでも平然とやってのける。幻影をつくり出す名人だが、およそ自分は幻影を信じていないのだ。つまり、それだけ冷酷に徹することもできる男なのである。  こんな怪物のような男に、マグダは夢中になって惚れこんだ。おそらく彼女には、自分の不逞な夢想を賭ける対象がほしかったのであろう。自分の全生活を挙げて、何かデモーニッシュなものにぶつかってゆきたかったのかもしれない。そういえば、たしかにゲッベルスという男には、その極端な肉体の非力にもかかわらず、燐のように冷たく燃える奇妙なエネルギーの印象があった。それに、何よりマグダは芸術家的素質をもった女であった。二つの青白い魂は闇に踊る鬼火のように、めらめら燃えながら近づいたのである。  二人が結婚したのは、一九三〇年十二月であった。この年は、選挙でナチの議席が十二から百七にはねあがり、にわかにヒトラーが全世界から注目され出した年である。  結婚式は北ドイツのメクレンブルグにある、マグダの前夫クヮントの邸で行われた。この邸は彼女が自由に使う権限を得ていたもので、彼女はたびたびここをナチの会合場所に利用していたのである。式にはゲッベルスの立会人として、ヒトラーも親しく参列した。鉤十字の旗の下で、新夫婦は型通り愛の誓いを交わした。  結婚以来、ゲッベルスの党内の地位はいよいよ固まった。マグダの広い家は快適な雰囲気だったから、ヒトラーをはじめとして、党幹部が毎晩のようにくつろぎに現われ、サロンで音楽を聴いたり、雑談に花を咲かせたりすることもしばしばだった。美しいホステスがいつも愛想よく彼らを迎えた。一九三二年に暗殺未遂事件が起ってからは、ヒトラーはベルリン滞在中は必ずマグダの家で、彼女の手ずから作った料理を食べるようになった。ヒトラーの独りよがりの長談義は有名で、彼がお茶の席で話をはじめると、みな睡気を誘われ、あくびを噛み殺すのに苦労したといわれる。  結婚後十ヵ月たって、最初の娘ヘルガが誕生した。それから次々に四人の娘と一人の息子が生まれたが、前夫クヮントとのあいだの子供をもふくめて、全部で七人の子供たちをゲッベルスは一様に可愛がったらしい。  一九三三年、ヒトラーがついに政権を手にすると、ゲッベルスは新設された「国民啓蒙宣伝省」の大臣として、閣僚の席に加えられた。大臣官邸はウィルヘルム広場のレオポルド宮と決められたが、彼はここに住むことを好まず、ベルリンの屋敷町の奥にひっそりと立っている宏壮な古い邸宅を手に入れて、ここを自分の住居とした。その広い庭園には、鬱蒼と茂った森や池があって、とても大都会のまんなかとは信じられないような趣きがあった。  室内の装飾や家具の購入に采配をふるったのは、大臣夫人たるマグダである。ゲッベルスの主張で、とくに邸内に広い試写室が設けられた。美術館からゴブラン織の壁掛や、ルネッサンス時代の名画や、その他の美術品などをごっそり運ばせたのもゲッベルスである。これにはマグダも驚いた。そんなことをしてもよいのだろうか? しかし、当時のナチの高官たちは、ゲーリングもヘスもヒムラーも、みな同じような勝手な真似をしていたのである。公私混同を何とも思っていなかったのである。  ゲッベルスは有力な宣伝手段として、とくに映画に力を入れた。若いころ小説やシナリオを書いたこともある彼は、いつも芸術に理解のあるポーズを示していた。人気のある映画スターや監督が、よく彼の邸に招待される。『民族の祭典』を撮った有名な女流監督レニ・リーフェンシュタールをはじめとして、ウィリー・フリッチュ、リル・ダゴファ、レナーテ・ミュラーなどの面々が集まった。  ドイツで禁止された外国映画を、とくにゲッベルス邸の夜会で観覧に供することもあった。あるとき、『わたしはナチのスパイだった』というアメリカ映画の試写が行われた。その映画のなかに、ゲッベルスに扮した役者が出てきたのである。世界の平和を乱す戦争挑発者として、映画のなかのゲッベルスはかなり戯画化されていた。鉤十字の旗やヒトラーの胸像に取り巻かれて、彼は大きな事務室に威張って坐っていた。──やがて映画が終ると、ゲッベルスはにやりと笑って、「たった一つ、気に入らないところがあるね」といった、「アメリカでは、わたしはあんなに趣味のわるい男と思われているのかしら。わたしの事務室には、鉤十字も総統の胸像もありやしないよ!」  自慢のメルセデス・ベンツに美しい女優と相乗りで、劇場の特別興行などに赴くゲッベルスのすがたが、しばしば見られるようになった。なぜ彼がこれほど女性にもてるのか、ヘスやゲーリングのような武骨な男には、これは理解のつかない謎であった。こうして、やがてスキャンダルが持ちあがる。  相手はリダ・バアロヴァと呼ばれる小柄な、ほっそりした、スラヴ系の美人女優であった。彼女はグスタフ・フレーリッヒという俳優と結婚していたので、スキャンダルは一層大きくなった。  ゲッベルスがリダを知ったのは、ウーファ映画の撮影所で、彼女がパウル・ウェゲナー監督の『誘惑の時』という映画に出演していた時である。ちょうど一九三六年のベルリン・オリンピック開催の少し前であった。ゲッベルスは非公式の会合にリダと一緒に出席することを躊躇していたので、二人の関係は長いことだれにも知られなかった。マグダが初めてこれに気がついたのは、二年もたってからである。  ある夏の午後、シュヴァネンヴェルダーの河畔にあるゲッベルスの別荘に、数人の客が招待された。よい天気だったので、庭先から河にヨットを出して、水浴びをすることになった。もっとも、ゲッベルスは痩せた身体を見せるのを好まなかったので、白い夏服を着て、甲板の上の長椅子に寝そべっていた。その隣に、派手な水着すがたのリダが坐っていた。マグダは船室の屋上にいたので、どうしても二人の様子が目についてしまう。二人は肩を寄せ合い、手を握り合っていた。……  ゲッベルスがリダの亭主フレーリッヒに殴られたという噂が立ったのも、このころのことである。実際に平手打ちを食ったのは、ゲッベルスでなくてリダだった。あるとき、彼が愛人を自動車で送って、家の前で別れようとしていると、矢庭に車のドアをあけて、フレーリッヒが女を引きずりおろし、ゲッベルスの見ている前で、彼女をさんざん殴りつけたのである。自分の非力をよく承知していたゲッベルスは、愛人をかばおうともせず、そのまま車で逃げ去った。……  また、こんなこともあった。ドレフュス事件を扱ったゾラ原作のフランス映画『わたしは告発する』の試写会が、ベルリンのある映画館で行われていた。宣伝大臣はリダ・バアロヴァと並んで、いちばん前の席に坐っていた。マグダも後列の席に一人で坐っていた。幕間に、ぱっと明りがつくと、並んで坐っている愛人同士の手がからみ合っている。小さな試写室なので、だれの目にも、それがはっきり見えた。マグダの目も、からみ合った二つの手の上に、じっと釘づけになっていた。そのとき、人目もはばからぬ二人の態度に義憤を燃やしたある男が、映画のタイトルをもう一度繰り返して、「みなさん、わたしも……告発します!」と叫んだのである。  この勇敢な抗議の声を放った男は、ゲッベルスの古くからの忠実な部下で、ハンケという男だった。彼は主人の情事をいちいち見て知っているだけに、主人の奥さんに深く同情していたのである。  やがて夫妻のあいだには、深刻な危機が訪れる。マグダは忠実なハンケの協力により、ゲッベルスの私通の証拠をすっかり揃えて、ヒトラーの前に提出し、離婚訴訟を起そうとする。しかしヒトラーは、いやしくも啓蒙宣伝大臣の不品行を国民の前に暴露する結果になるような離婚訴訟には、賛成できないと言明して、彼女の依頼をやんわり蹴ってしまう。「あなた方のように立派な子供さんのある御夫婦が、離婚すべきではありませんね」とヒトラーは笑いながら彼女にいう、「一年ばかり、御主人は修道士のように、奥さんは尼さんのように暮らしてごらんなさい。そうすれば、また御夫婦は仲がよくなりますよ……」  ヒトラーは半ば冗談のつもりで、こういったのだが、マグダはにこりともせず、「それでしたら、わたしはもう一年以上も前から、たしかに尼さんのように暮らしておりますわ」と答えたのである。夫婦のあいだの危機が相当に深刻なことを、これでヒトラーは初めて理解した。  このスキャンダルによって、ゲッベルスに対するヒトラーのお覚えは、いちじるしく悪くなった。もし戦争がなかったら、そのままゲッベルスは次第にヒトラーから疎んじられ、低い地位に落されて生涯を終ったかもしれない。もともと彼は党内に敵が多く、ヒトラーのような人物の庇護でも受けないかぎり、芽の出るような男ではなかったのだ。  マグダもまた、このスキャンダルでずいぶん辛い思いをした。一時、彼女を崇拝していた例のハンケと一緒に派手に遊びまわり、空閨の歎きを紛らそうとしたこともあったが、結局、彼女はゲッベルスを思い切ることができなかった。離婚の請求は、彼女のほうから取り下げられた。  戦争は一九三九年からはじまった。こうなると、夫婦のあいだの反目も自然消滅の形にならざるをえなかった。マグダは長いあいだの生活で、ゲッベルスが悪魔のように冷酷な、一切のものを信じない虚無的傾向の男であることを、骨身にしみて感じさせられたが、それでもこの男と離れては生きてゆけないことを、半ば諦めの気持で認めていた。  一九四三年、スターリングラードの攻防戦に敗れ、一九四四年、連合国軍がついにドイツ国内に侵入してくると、ナチ党の幹部のなかには、姿をくらましたり、敵と個人的に妥協したりする方法を探そうとしはじめる者もあらわれた。そのなかにあって、ひとり急進的な意見に固執し、最後まで闘うことを主張していたゲッベルスは、ふたたびヒトラーの信任を得、側近のなかの最重要の人物に返り咲いた。  じつのところ、明敏な彼には、ドイツの敗北が目に見えていたのである。ヒトラーを説得して、このままベルリンに踏みとどまり、敵の包囲のなかで、ワーグナーの『神々のたそがれ』の讃美者にふさわしく、悲劇的な最期をとげるようにと勧めたのも、このゲッベルスである。  敗戦にいたる最後の数ヵ月間、ゲッベルスは次から次へといろんな「神話」を創り出しては、戦うドイツ国民の希望の火を掻き立てようと苦心した。たとえば秘密兵器の神話である。また、西欧諸国とロシアのあいだに必ず分裂が起るという、これも一種の神話に類した宣伝を行った。むろん、これはいずれも実現しなかった。  ようやく空襲がはげしくなるころ、ゲッベルスはある晩、食後にラジオのスイッチを入れ、ヘルベルト・フォン・カラヤンの指揮するオーケストラを聴きながら、「一生を音楽に捧げたこの男を、わたしはどんなに羨ましく思っていることだろう」と洩らしたそうである。マグダは黙ってうなずいた。  一九四五年春、ソヴィエトの軍隊はベルリンを三方から包囲した。大砲の音が遠雷のように市中に鳴りひびき、夜になると、窓から赤々と砲火が見えた。  四月二十日、マグダは六人の子供を連れ、スーツケースを両手に持って、首相官邸地下の防空壕に避難してきた。ちょうどヒトラーの誕生日に当っていたので、小さな子供たちには「ヒトラー小父さんのところへ御挨拶に行きましょう」といって、御機嫌をとっておいた。子供たちは大層ヒトラーになついていたのである。  すでにゲッベルス夫人マグダは、六人の子供を道連れにして、夫とともに死ぬ覚悟をきめていたのだ。夫は南部ドイツに逃げることを勧めたが、彼女はこれを断わった。  ゲッベルスの家族がヒトラー、エヴァ・ブラウンとともに住むことになった防空壕は、地下五十フィートのところにある二階建の壕で、天井に当る部分は、厚い鉄筋コンクリートになっていた。階下が総統とエヴァの住居で、一組になった六つの部屋が取ってあり、ゲッベルス一家は階上の三部屋に住んだ。そのほかにも小さな部屋がたくさんあって、地図室、電話交換室、発電室、衛生室など、まるで豪華な汽船の内部のように、あらゆる設備が整っていた。  マグダがここへやってくると、ヒトラーもまた、飛行機で南部へ脱出することを彼女にしきりに勧めた。しかし彼女は、自分の決意がすでに固いことを示して、この親切な忠告を辞退した。  翌二十一日、ソヴィエト軍の砲弾が初めて首相官邸で炸裂した。二十二日には、すでにベルリンは完全に包囲されていた。ここにいたって、ついにヒトラーも敗北を認めないわけにはいかなかった。  二十八日早暁、女流飛行士ハンナ・ライッチュの操縦する最後の飛行機が、総統の命を受けて、ブランデンブルグ門近くから南へ向って飛び立った。彼女がベルリン脱出に成功したのは、まさに奇蹟というべきである。マグダは息子宛ての手紙を彼女に託していた。これが事実上、彼女の遺言となった。  ヒムラー、ゲーリングらが逸早く総統のもとを去り、何とかして連合軍と秘密交渉をして、一命を取りとめようと必死になっていたころ、ゲッベルスのみはベルリンの防空壕のなかで、彼らの滑稽な最後のあがきを冷然と嗤《わら》っていた。たとえ戦争終結まで生きのびたとしても、連合軍がナチの幹部をそのまま放っておくはずはない。彼はそのことをよく承知していた。むしろ第三帝国と運命を共にして、自分の死を伝説の光輝でつつんでしまうに如《し》くはない。──ゲッベルスは依然として、宣伝家としての天才を失ってはいなかった。  しかし、暗い防空壕のなかで十日間、子供たちは迫りくる砲火におびえながら、何をして過ごしていたことであろう。いちばん上の娘は十三歳だったから、近づく不幸を感得していなかったはずはないのだが……。  二十八日の夜から翌朝にかけて、ヒトラーとエヴァ・ブラウンの結婚式が挙行された。十四年前、ヒトラーがゲッベルス夫妻の立会人を務めたように、今夜はゲッベルスが彼らの結婚式の立会人になった。  三十日の朝、ヒトラーは別れの挨拶をした。自殺したのはその日の昼過ぎである。弾丸は口のなかに撃ちこまれていた。エヴァは毒を嚥んで死んだ。二つの屍体はガソリンで焼かれた。  翌五月一日の夕方、まずゲッベルスの子供たちが、眠っているあいだにエヴィパン(毒薬)の注射を受けて殺された。マグダは夫に腕を取られて、よろめきながら子供たちの部屋を出る。二人とも一言も発しない。  庭に出ると、すでにガソリン鑵が用意されていた。薄明のなかを、二人は静かに歩き出すと、ゲッベルスの手のなかで、ピストルが火を噴いた。マグダが倒れる。続いてもう一発。ゲッベルスが倒れる。  互いにあれほど重い運命の鎖につながれ、互いにあれほど愛し合い、あれほど憎み合った二人は、ついにこうして、みずからの手で、みずからの生命を断ったのである。屍体は完全に焼けつきず、黒焦げの状態で、翌日ロシア軍に発見された。 [#改ページ]  文庫版あとがき  悪女とはなにか。さしあたって、ここでは、美貌と権力によって悪虐のかぎりをつくした女性、あるいはまた、愛欲と罪悪によって身をほろぼした女性と考えておけばよいだろう。なかには、この定義にはずれる女性もいることだろうし、むしろ可憐と呼びたいような、生一本《きいつぽん》なところを示した女性もいるかもしれない。定義にこだわる必要はないだろう。  本文にも書いておいたが、世界悪女物語と銘うった以上、ヨーロッパの悪女だけでなく、ぜひ日本の悪女をも登場させたいと私は考えた。しかし残念ながら、日本には適当な代表選手を見つけることができなかった。現在の私ならば、できるかもしれない。六〇年代の私は、ひたすら目を西欧に向けていたのである。 [#2字下げ]一九八二年十月 [#地付き]澁澤龍彦  *本作品には今日からすると差別的表現ないしは差別的表現ととられかねない箇所がありますが、それは本作品に描かれた時代が抱えた社会的・文化的慣習の差別性が反映された表現であり、その時代を描く表現としてある程度許容せざるをえないものと考えます。作者には差別を助長する意図はありませんし、また作者は故人であります。読者諸賢が本作品を注意深い態度でお読み下さるよう、お願いする次第です。(編集部)  単行本 一九六四年四月 桃源社刊  文 庫 一九八二年十二月 河出書房新社刊 〈底 本〉文春文庫 平成十五年十一月十日刊