滝口康彦 粟田口の狂女 目 次  花のようなる秀頼さまを  大野修理の娘  粟田口の狂女  燃えなかった蝋燭《ろうそく》  坂崎乱心  孫よ、悪人になれ  国松斬られ [#改ページ]   花のようなる秀頼さまを     一  西海(九州)の大名は、兵庫の西宮に至りてわが令を待つべし、という大御所家康の命を奉じた島津少将|家久《いえひさ》は、慶長十九年十一月なかば、大軍を率いて鹿児島を発し、陸路、日向《ひゆうが》の美々津《みみつ》へ向かった。美々津は高鍋城主秋月長門守の領地である。  この美々津で、鹿児島から回航されてくる船を待ち、海路兵庫におもむく手はずだったが、船はいっこうに姿を見せない。逆風のせいらしかった。いらいらする反面、家久はひそかに救いを覚えてもいた。  家康は明らかに、大坂の秀頼《ひでより》を滅ぼす気になっている。 「故太閤殿下ご供養《くよう》のために」  と自分がすすめておきながら家康は、秀頼名義をもって造営された方広寺《ほうこうじ》の大仏殿の鐘銘《しようめい》に、「国家安康」「君臣豊楽」の八文字があることを知るや、 「家康の二文字を分断して徳川家をのろうものなり」  と理不尽ないいがかりをつけ、ほかにもかずかずの難題をふっかけて、大坂方をしきりに挑発し、ついに戦いに追いこんだ。あまりにも露骨なそのやりくちは、うわさとなって遠い鹿児島にもつぎつぎに流れてくる。 「あくどいことをなさる」  心の底ではうとましく思っても、出陣を命ぜられれば、したがうほかはなかった。それだけに、船のおくれを喜ぶ気持がどこかにあった。  やがて月が変わって、十二月になった。船はまだ着かない。あまりおくれては、家康ににらまれる。さすがに家久もあせった。老臣の伊勢兵部貞昌《いせひようぶさだまさ》が、船奉行の山鹿《やまが》越右衛門とともに、秋月家の美々津|郡代《ぐんだい》綾部《あやべ》助兵衛のもとへ出かけて、 「船をご周旋《しゆうせん》願いとうごわす」  と申し入れた。先発兵だけでも、少なくとも五十|艘《そう》以上ほしかった。全軍となればその十倍を要する。それほどの船を美々津で用意するのはむずかしい。 「豊後《ぶんご》から借りてまいりましょう」  綾部助兵衛は、そう約束してくれた。秋月家は、島津家に恩義があった。もう十四年も昔になるが、関ケ原の戦いのとき、初め石田方だった秋月|種長《たねなが》は、どたん場で家康方に寝返った。  種長の奥方は大坂城にいた。敗れたとはいえ、大坂城には石田方の残存勢力がある。奥方は微妙な立場におかれた。それを助けたのが、やはり大坂城にいた島津家久夫人であった。種長の奥方は、いまは敵味方になってしまった島津家の船で日向へ帰った。綾部助兵衛は、そのときの借りを返そうと思ったに違いない。  家久以下島津勢は、船がととのうまで美々津にとどまった。ずるずる日がたち、十二月五日の昼ごろになって、美々津の港に一艘の早船がはいってきた。船じるしは、まぎれもなく桐の紋である。  果たしていくほどもなく、港口近くにもうけられている家久の仮屋《かりや》に、数名の供をつれた、年のころ四十前後と見られる礼装の武士がやってきて、 「大坂の使者武井理兵衛」  と名乗った。  しばらく待たせてから家久は、仮屋の奥で使者と会った。武井理兵衛は、秀頼や織田|有楽斎《うらくさい》の書状をたずさえていた。用件はいうまでもなく、 「大坂城に入城し、総大将として戦いの指揮をとっていただきたい」  という要請であった。  大坂城には、直参《じきさん》の木村|重成《しげなり》、薄田兼相《すすきだかねすけ》らに加えて、真田幸村、長宗我部|盛親《もりちか》、後藤基次、明石守重など、かつての大名や歴戦の勇将が入城しているが、いずれもひとかどの人物ではあっても、家康を相手に全軍を指揮するには、いささかこころもとない。 「そのためにも、七十二万九千余石の太守《たいしゆ》たる少将さまにご出馬を仰ぎたく」  というのである。 「それについては、すでに二度までご回答いたしたはずでごわす」  家久にかわって、かたわらの伊勢兵部が応対した。 「一度は高屋七郎兵衛どの、いま一度は川北|道甫《どうほ》どのを通じてな」  高屋七郎兵衛は十月初め、川北道甫は十月の末、島津家の居城鶴丸城にやってきて、家久の出馬を懇請した。ことに、最初の使者の高屋七郎兵衛は、涙を流して必死にくいさがった。  この七郎兵衛について『駿府記《すんぶき》』は、大坂商人としているが、実際はそうではなく、秀頼の近臣の一人であった。年は四十六、七だったと見られる。  彼は、九月二十三日付けの秀頼の直書、大野|修理亮治長《しゆりのすけはるなが》の書状と合わせて、相州正宗の短刀をたずさえていた。 「これは、右大臣家(秀頼)より、心ばかりの贈物にございます」  七郎兵衛は能弁ではなかったが、誠実さをおもてにあふれさせ、額の汗をふきふき、とつとつと説いて、家久の出馬を願った。  家久も心をうたれた。  だが、だからといって、おいそれと承諾できることではない。家康の横車に、じりじり追いつめられていく大坂方の苦境は、わかりすぎるくらいわかっていたし、故太閤の付託をことごとにふみにじる家康の背信には、いきどおりを覚えもする。  とはいえ、島津家の存亡をかけてまで、秀頼を助けるわけにはいかなかった。いかに大坂城が難攻不落の名城でも、いまの家康を相手に勝てる道理はない。 「即答はできかねる。惟新《いしん》さまのご意向もうかがわねばなりもはん」  ひとまず、そう返事をして、七郎兵衛をさがらせ、城内の一隅に宿舎を与えた。惟新さまというのは、家久の父兵庫頭義弘のことである。いまは兵庫入道惟新、あるいは惟新入道と呼ばれて、先年来、鹿児島の東北六里余の加治木《かじき》に隠棲《いんせい》していた。  答えは初めからきまっている。相談するまでもないのだが、即答しては実もふたもなさすぎる。 「ご返事はまだでござろうか」  しきりに回答をせまる七郎兵衛を、なだめなだめして、十月十三日に、ようやく返事を与えた。     二  本丸の一室に招かれた七郎兵衛は、十日たらずの間に、別人のようにやつれていた。よほど身を焼く思いで、この日を待っていたに違いない。頬はそげ落ち、はっきり目だつほど髪に白いものがふえていた。 「お志のみを頂戴して、この正宗はお返しいたす」  なによりも明らかな拒絶であった。七郎兵衛は蒼白になった。人はだれしも、希望的観測に傾きがちなものである。七郎兵衛も例外ではなかった。不安にさいなまれながら、自分をだましだまし、 「かならず少将さまは……」  と一縷《いちる》の望みにすがってきた。しかし、その望みも絶たれた。家久にはいわせず、伊勢兵部がいった。 「関ケ原の戦いのおり、いったん豊家《ほうけ》への義理は立てもした」  惟新入道の率いる島津勢は、決戦当日の九月十五日、石田三成との感情のもつれから、終始動かなかったが、西軍総くずれとなったあと、惟新入道が、千五百をもって烏頭坂《うとうざか》を突破、わずか八十名になるまで戦って、かろうじて薩摩へのがれたことは、 「島津の退《の》き口」  と称して世に知られている。烏頭坂では、惟新の甥《おい》にあたる日向|佐土原《さどわら》城主島津豊久までが討死した。阿多長寿院盛淳《あたちようじゆいんもりあつ》ほか、名ある勇士も、惟新を落とすために、乱軍の中に命を捨てた。  追撃した徳川方の死傷もおびただしい。井伊直政が痛手を受け、その娘むこで、家康の第四子でもある松平忠吉までが重傷を負っている。  乱後、石田方に与《くみ》した諸大名は、ほとんどが、改易《かいえき》あるいは減封のうきめを見た。島津家も、本来なら、とりつぶされても文句のいえない立場にあったが、家康はとがめず、本領を安堵《あんど》してくれた。 「その恩義を思えば、大坂へのお味方はできもはん」  というのが、秀頼の要請に対する、島津家の謝絶の弁であった。 「その旨《むね》、くわしくこの書面にしたためておりもす」  伊勢兵部は、家久名義による回答書を、七郎兵衛の前に差し出した。 「そこをまげて。お願いでござる」  七郎兵衛は額をすりつけた。家久も、伊勢兵部も、顔をそむけた。つらいが、なまじ同情しては島津家の破滅を招く。心を鬼に突っぱねるほかなかった。かたくなに、良心をねじ伏せた。  七郎兵衛は顔を上げた。顔いちめん、涙にぬれている。 「許してくれ。島津家のつらい立場をわかってくれ」  家久の声がふるえた。 「大坂はもっと苦しゅうござる」  すかさず、七郎兵衛が切り返した。 「どうあっても、お聞き届け願えませぬか」 「くどい」 「わかり申した」  七郎兵衛の手がこぶしになった。 「本日のこの無念さ、高屋七郎兵衛、終生忘却いたさぬ」  たたきつけるようなことばだった。  それから半月あまりたって、こんどは川北道甫がやってきた。七郎兵衛とは、行き違いの形である。  島津家の答えは、むろん変わらない。道甫もむなしく大坂へ帰った。道甫については、家久も伊勢兵部も、それほどきわだった印象は残していない。だが、七郎兵衛の印象は強烈だった。日がたつにつれて、うすらぐどころか、いっそうあざやかさの度合いが深まってくる。 「少将さま、いま一度、なにとぞご勘考のほどを」  武井理兵衛の声に、家久も兵部も、現実に引きもどされた。 「なんど申されてもむだじゃ。危い橋を渡るわけにはいかぬ」 「いいや、大坂はかならず勝ちます」  理兵衛は昂然《こうぜん》といい放った。伊勢兵部は、ちくりといい返した。 「では聞く。諸国の大名のうち、だれか大坂にはせ参じたかな」  とっさに、理兵衛は嘘がつけなかった。大名は、だれ一人として、秀頼の招きに応じてはいない。それが大坂方に勝ち目のない、なによりの証拠であった。 「たしかに、いまのところは、どなたも参じられてはおりませぬ」  理兵衛はひるまず抗弁した。 「しかし、大坂城は、かつての石山本願寺の跡地でございます。信長さまをもってしてさえ、本願寺攻略には、およそ七年の歳月を要しました」 「大坂城は、当時の本願寺の比ではない、というのじゃな」 「たとえ十万の大軍に囲まれても、一年や二年はびくともいたしませぬ」  そのうちには、豊家|恩顧《おんこ》の大名衆が、家康を見かぎり味方に加わってくれる。淀殿や秀頼も、そこに望みをかけているのだ、と理兵衛は強調した。 「甘い甘い」  家久は哀れみの表情をたたえた。なおも押し問答がくり返されたが、家久も兵部も、うんとはいわなかった。理兵衛はとうとう最後の手段に出た。 「これをごらんください」  ふところからおもむろに取り出したのは、油紙の包みである。 「なんじゃな」 「おあけくださればわかります」  理兵衛の声が鋭くなった。伊勢兵部が、手早く包みをといた。小さな叫びが、家久の口からもれた。  白いもののまじった、ひとにぎりの髪であった。家久の声音《こわね》が変わった。 「高屋七郎兵衛か」 「御意」  武井理兵衛はひややかに答える。目に、恨《うら》みがこもっていた。 「島津少将さまを説得できなければ、生きては帰るな。七郎兵衛は、さように申し渡されておりました」  七郎兵衛は、大坂城に帰って復命を終えたあと、責めを負って、いさぎよく腹かっさばいて果てたという。 「右大臣家も、淀の方さまも、いたくおなげき遊ばしました」 「余を責めるのか」 「責めてなどおりませぬ」  そのじつ理兵衛は、はげしい目を、真っ向から家久に浴びせかけた。さすがに、家久もたじろいだ。伊勢兵部もまた、動揺を隠しかねている。家久説得を果たせず、 「本日のこの無念さ、高屋七郎兵衛、終生忘却いたさぬ」  といいきった、七郎兵衛の恨みのまなざしが、二人の胸をかんだ。腹を切るとまでは思いもしなかった。 「哀れなことを」  とは思わぬでもない。だが、どうしようもなかった。秀頼よりも、七郎兵衛よりも、島津の家が大事だった。 「少将さま」  理兵衛が床几《しようぎ》から身を乗り出した。それには答えず家久は、伊勢兵部から、七郎兵衛の遺髪を受けとると、うやうやしく押しいただいた。 「この髪、頂戴しておく」  どこぞの寺に預けて、せめて一遍の回向《えこう》をと思った。それが、家久にできるせいいっぱいの好意であった。  理兵衛は呼吸をととのえた。島津勢が、この美々津に集結している理由は、とっくに読めていた。 「兵庫へ行かせてはならぬ」  味方に引き入れることができなかったかわりに、敵方にまわすことだけは、なんとかくいとめたかった。それには、家久を殺すほかはない。家久を殺せば、出陣どころではなくなる。 「少将さま、お覚悟」  理兵衛はすばやく肩衣《かたぎぬ》をはね、脇差を抜き放った。とっさに、伊勢兵部が背後にまわって、理兵衛をはがいじめにした。 「狼藉者《ろうぜきもの》じゃ。出合え」  ここへ通す前に、伊勢兵部は家久としめし合わせていた。斬りかかったりしなくても、理兵衛を大坂へ帰す気はなかった。     三  島津家は、家康に対して、関ケ原の負い目がある。それだけに、かりそめにも、疑いをさしはさまれるようなことがあってはならなかった。  だから、先に高屋七郎兵衛がきたことも、川北道甫がきたことも、いちいち駿府の家康に報告し、彼らがたずさえてきた、秀頼や大野治長の書状も、使者に託して一通残らず届けている。  こんどの場合は、出陣の命を受けたあとでもあり、なおさらだった。武井理兵衛をこのまま大坂へもどしたりしては、あらぬ疑いをかけられるおそれがある。  理兵衛は、供侍や、早船乗組みの水主《かこ》もろとも、家康のもとへ送られた。家久の命により、別府信濃、東郷肥前の両名が、護送の任にあたった。  大坂には、三原|諸《もろ》右衛門《えもん》が先発している。家久は、 「まず諸右衛門に引き渡せ。あとは諸右衛門がはからう」  と両名にいいふくめた。  別府信濃と東郷肥前が上方に向かっていくほどもなく、美々津郡代綾部助兵衛の骨折りで、豊後の佐伯から、大小の船六十艘が回航してきた。不十分ながら三百余名の水主つきであった。ちなみに、このときの功により助兵衛は、後年島津領日向の小林に移り住み、その子伝左衛門が島津家に召し出された。  家久以下の先発勢が美々津を発し、豊後の守江津《もりえつ》に着いたのは、十二月なかばすぎだった。ここでもしばらく風待ちした。新しい年もここで迎えた。  慶長二十年で、この年は七月に元和《げんな》と改元される。  明けて早々の正月二日、守江津で順風を待っている家久のもとへ、幕府の権臣本多上野介正純の臣福屋七助がきて、正純ならびに山口駿河守直友の奉書を渡した。奉書には、戦いは終わり、関東と大坂のあいだに和議が成立して、大御所も将軍も帰途につかれた、よって諸軍はそれぞれ郷国へ帰るようにとあった。  家久はほっとした。秀頼のために、かげながら喜んだ。太閤全盛のころの夢はもどらぬまでも、せめて一大名としてなり存続させてやりたかった。  家久が鹿児島にもどってほどなく、大坂にいる別府信濃から知らせがあった。それによれば、武井理兵衛を護送して大坂に着いたとき、家康はすでに駿府に去ったあとで、秀忠もまた江戸へ向かっていた。  やむなく、武井理兵衛の身柄は、三原諸右衛門が大坂の天王寺で本多正純に引き渡し、正純の臣佐々木喜兵衛によって、駿府へ護送されることになったという。  島津家の安泰を願ってのこととはいえ、武井理兵衛を家康に引き渡したのは、寝覚めがよくなかった。せめてもの救いは、和議が成立したことである。和議が成立した以上、理兵衛が殺されることはまずあるまい。そう考えてよかった。  だが和議はすぐ破れた。和議成立後も、家康のやりくちは悪辣《あくらつ》をきわめた。無理難題の連続であった。  冬の陣の和議のあと、本丸をのぞいて、大坂城の濠《ほり》はすべて埋められた。初めの約束は、東軍が埋めるのは総構えだけだったのを、あれよあれよという間に、城方受け持ちの二の丸、三の丸の濠まで埋めつくした。難攻不落を誇った名城も、いまや裸城《はだかじろ》にすぎない。  もう戦いになっても、おそれるところはなかった。いや、一日も早く、大坂方を再度の戦いにふみきらせねばならぬ。そのためのごり押しであった。  大坂方は、またしても挑発に乗せられた。家康のわなにかかった。 「出陣に備えよ」  という本多正純の奉書が鹿児島にもたらせられたのは、四月なかばである。奉書の日付けは四月八日になっていた。家久はただちに一万三千八百余名を動員して、国内に待機させた。つづいて、四月二十日付けで、出陣を命ずる奉書が届いた。  五月五日、島津勢は今回は、西回りの海路をとり、五百余艘で鹿児島を発した。このころ、大坂ではすでに、後に「夏の陣」と呼ばれる戦いが始まっていた。  真田、後藤、薄田、木村といった頼みの勇将は相ついで討死をとげ、五月七日、大坂城は落ちた。翌日、秀頼も淀の方も、大野治長らとともにみずから命を絶った。家久はそれを、肥前の平戸《ひらと》で知った。山口直友の書が届いたのである。直友の書には、 「兵は帰国させ、みずからはすみやかに上坂して、大御所さまの勝利を賀せられよ」  とあった。  家久は、ごく小人数をつれて、海路大坂へ急いだ。夜昼船を漕がせた。六月四日の夜、摂津の尼ケ崎に着いたが、馬船がおくれて乗馬がない。家久は、七十二万九千余石の太守たる身が、歩いて伏見に向かった。伏見へは真夜中に着いた。  あくる六月五日、京へはいった家久は、二条城において家康に目通りし、戦勝の賀詞《がし》を述べた。 「島津少将どのは、尼ケ崎から歩いてきたそうじゃの」  だれが耳に入れたのか、家康は上きげんだった。この日、家久は、家康から名馬一頭を賜《たまわ》った。秀忠にも謁《えつ》した。  夕刻、宿舎に帰ってから家久は、痛ましいことを聞いた。 「去る五月二十三日、秀頼さまのお子国松丸さま、六条河原において斬られたもうた由《よし》にございもす」  うわさを聞きこんできたのは、近習《きんじゆ》の市来《いちき》平四郎であった。国松は、乳母とともに市中に隠れているところを探し出された。うかがいを立てると、家康は即座に、 「かまわぬ。首をはねよ」  と命じたという。 「国松丸さまはおいくつじゃ」 「八歳と聞きもした」 「大御所もむごいことをなさるわ」  家久は背筋が冷えた。 「国松丸さまは……」  平四郎が先をつづけようとすると、 「もうよい。それに、以後はさまなどつけるな。国松は大御所さまの敵秀頼の子ぞ」  家久はあわててたしなめた。一瞬、平四郎は悲しげにおもてを伏せた。家久はその目を見のがさなかった。  とがめはしなかった。とがめるよりも、自分のおびえが情けなかった。平四郎の目は、明らかに非難の色をたたえていた。  その夜半、家久はうなされた。宿直《とのい》の者にゆり起こされたとき、家久は汗まみれになっていた。暑さのせいではなかった。 「なにか声を立てはしなかったか」  宿直の者は、わずかにためらってから、 「七郎兵衛、許せ、すまなかった。さように仰せられもした」  遠慮がちにそう答えた。     四  九月の初めに、家久は鹿児島に帰った。陰暦では、九月はすでに晩秋である。南国とはいえ、秋色は日ましに深まった。  家久は、帰国の翌日、加治木の館におもむいた。八十一になってもなおかくしゃくたる惟新入道は、四十歳になる家久を、目をほそめて迎えてくれた。 「ご苦労であった」 「おそれ入ります」 「少しやせたようじゃの」  そのことばがぐさっと胸にささった。惟新はなにげなくいったにすぎない。だから、家久の動揺には、察しもつかなかった。惟新はふっと声を落とした。 「秀頼さまは生きておわす。そんなうわさがある」  八月なかばごろ、鹿児島にもそのうわさが流れてきた、と惟新は告げた。京や大坂ではもっぱらの評判で、家久も何度となく耳にしている。  秀頼も淀の方も、大野治長やその母|大蔵卿局《おおくらきようのつぼね》も、糒蔵《ほしいぐら》で自害したことはたしかだが、それにもかかわらず、落城の直後から、秀頼生存説がささやかれた。  寄手《よせて》が内部から爆破された糒蔵にふみこむと、三十いくつもの死体があったが、どれもこれも焼けただれて顔の判別などつかなかった。ひどいのは、男か女かの区別さえつかず、そんなところから秀頼生存説が出たらしい。  大坂人は、由来太閤びいきである。家康の評判はぼろくそだった。そこでもここでも、家康の悪口が絶えなかった。  巷《ちまた》には、秀頼|哀惜《あいせき》の声が満ちていた。 「真田幸村がまだ生きている。さようなうわさもございます」  家久は、大坂で耳にしたはやり唄のことを惟新に語った。   花のようなる秀頼さまを   鬼のようなる真田がつれて   退《の》きも退いたよ鹿児島へ  大坂の民衆はこううたった。 「ちとおかしいの」  惟新は微苦笑した。微苦笑の意味が、家久にはすぐ読みとれた。秀頼は、色白で秀麗な顔だちだが、 「花のようなる」  といった感じはない。背丈が高く、肉づきも豊かで、堂々たる美丈夫だった。そんな秀頼を、   花のようなる秀頼さまを  とうたうのも、哀惜のあらわれだろうか。ともあれ、秀頼生存説は、日ましにふくらんで、巷をさわがせた。流言|蜚語《ひご》を禁ずる旨の高札が各所に立てられたが、ほとんどききめはなかった。いや、皮肉なことに、その高札が、かえって秀頼の生存を裏づける形になっている。 「父上はいかがお考えでございます」 「わからぬ」  惟新入道は腕をくんだ。  翌日、家久は鶴丸城へ帰った。二、三日は秀頼のことが気になったが、そのうちに、いつとなく忘れた。七郎兵衛のことも、念頭からうすれていった。そのままなにごともなければ、痛切に思い出すことは、二度となかったにちがいない。  が、そうはいかなかった。九月の末ごろ、ゆゆしいことが生じた。大坂の残党らしい二人の男が捕えられたのである。場所は、惟新の館のある加治木の近くであった。  一人は三十二、三で、堀内|大学助《だいがくのすけ》、いま一人は四十歳前後と見られ、藤原|右京亮《うきようのすけ》と名乗った。つかまったとき、二人とも、人目につくりっぱな小袖を着ていた。しかも、桐の紋のある印籠《いんろう》まで所持しており、どちらも大坂落城までは、秀頼のおそば近く仕えていたという。  それを家久に知らせにきたのは、惟新の近臣|仁礼《にれ》八郎であった。 「で、その両名、いかがした」 「惟新さま仰せにて、館内に一室を与え、見張りをつけておりもす」 「取り調べてみたか」 「惟新さま、少将さま、お二方おそろいの上で申し上げたいと称して、いまはまだ口を割りもはん」  どのようにして大坂から落ちのび、加治木にきたか、それさえ口をつぐんで押し通した。ただ、両名のことを館に訴え出た、治作という農夫にだけは、おそるべきことを打ち明けていた。 「おそるべきこととは」 「秀頼さまが薩摩にのがれ、少将さまにかくまわれておわすといううわさがある。それをたしかめにやってきた。なんでも、そのように申しました由」  仰天した治作は、とるものもとりあえず館にかけこんだのである。 「ただちに取り押さえよ」  惟新の命で、仁礼八郎が五、六名をつれてはせつけたところ、堀内も藤原も、手向いもせず縛《ばく》についた。拍子ぬけのするあっけなさだった。 「治作には口どめしたろうな」 「仰せまでもございもはん」 「よし、余もすぐ加治木へまいる」  仁礼八郎を先に立てて、家久はただちに馬を走らせた。日のあるうちに、惟新の館に着いた。  ほどなく、書院の庭先に、堀内大学助と藤原右京亮が引き出された。縄つきのままであった。 「縄をとかれよ。逃げも隠れもせぬことは、すでにおわかりであろう」  右京亮がおだやかに抗議した。 「逃げるつもりなら、初めから右大臣家の近臣などと名乗りはいたさぬ」  その通りであった。自由になると、二人は両手をついて、広縁の惟新と家久を見上げた。こんども右京亮が口をきいた。 「少将さま、右大臣家にお目にかかりとう存じます。よしなにおはからいのほどを」  秀頼がかくまわれていると、きめてかかった口ぶりだった。 「たわけたことを」  家久は声を荒げた。 「いいえ、右大臣家は、少将さまにかくまわれておわす。もっぱらさようなうわさでございます」 「ばかな。右大臣家は、まぎれもなく糒蔵《ほしいぐら》でお果て遊ばされたはず」 「だれがそれをたしかめました」  家久はつまった。家久自身、何度も秀頼生存のうわさを耳にしている。時として、 「あるいは」  と思うことさえあった。右京亮は身を乗り出した。 「少将さま、糒蔵で発見された右大臣家のご遺骸は、黒焦げとなり、顔の見分けもつかなかったと聞き及びます」 「われら両名、気はたしかでございます」  横から、大学助もことばを添えた。そのとき、いままで黙々としていた惟新入道が、にわかに立ち上がった。 「もうよい。その方らの魂胆《こんたん》は読めた。両名に縄をかけよ」     五  堀内大学助と藤原右京亮は、京都へ護送され、所司代板倉|勝重《かつしげ》に引き渡された。京都までは、黒田友右衛門、鈴木宇右衛門、平山|内匠允《たくみのじよう》が護送の任にあたった。  日向美々津までは陸路、美々津からは船であった。美々津で船に移すとき、ちょっとした騒ぎになった。大学助が、 「縄をといていただきたい」  といい出した。 「船に移ってからじゃ」 「いいや、いまといてくだされ」 「ならぬ」  突っぱねると、 「聞いてくれぬのなら、舌をかんで死んでやる。それでもよいな」  とおどしにかかる。死なれては、護送の任が果たせない。まわりに人がたかりはじめたこともあって、やむなく縄をといた。 「かたじけのうござる」  ていねいに礼を述べた大学助は、地面に正座すると、 「上様、つつがなくお過ごしなされませ。さらばでございます」  鹿児島と目される西南の方角に、ふかぶかと頭を下げた。家久は後日、護送役の一人平山内匠允からそれを聞かせられた。 「そのとき、藤原右京亮はなんとしておったぞ。同じことをしたか」 「いいえ、黙って見ておりもした」  なにげなく答えてから、内匠允は急に思いあたった顔になり、 「そうおっしゃれば、一瞬、にこっと笑ったようにも思いもす」  といい直した。  元和元年も残り少くなった十二月の二十日ごろ、堀内大学助と藤原右京亮が、粟田口《あわたぐち》で処刑されたといううわさが、風のたよりで伝えられた。処刑の際にも大学助が、 「磔柱《はりつけばしら》を西南に向けていただきたい」  といい出した。 「なぜじゃ」 「鹿児島に上様がおわす」  むろん、望みがかなうはずもなかったが、その話はひとしきり、洛中洛外で大きな評判を呼んだという。  家久は蒼白になった。 「だれか糸を引いている……」  いや、だれかではない。心あたりは一人しかなかった。高屋七郎兵衛である。七郎兵衛はまだ生きている。いつぞや、美々津で武井理兵衛が差し出した一握りの髪は、七郎兵衛のものではなかった。ようやく、それがわかった。  新しい年が明けた。元和二年である。 「秀頼のことで、公儀からおたずねがありはせぬか」  家久はそれをおそれた。もともと家久は、惟新譲りの剛気な人物だが、こんどばかりは胆《きも》を冷やした。幸いなにごともなかった。やがて三月になった。ようやく、七郎兵衛のことを忘れかけたところへ、またしても家久をおどろかせる事件が起こった。  鹿児島の城下から南へ二里あまり、谷山《たにやま》の在の農夫が、 「秀頼さまらしいお人がおられもす」  と訴え出たのだ。なんでも、去年の秋ごろ、どこからともなくやってきて、谷山にいつき、以来、あちこちの農家で、野良仕事の手伝いなどしているが、人品骨柄《じんぴんこつがら》いやしからず、ただ者とは思われぬという。  加治木から惟新入道がかけつけた。秀頼らしいと見られる男が、城中へ引き立てられてきたのは、その翌日である。思うところあって惟新は、書院に近い庭先の広い場所に、床几を運ばせた。  桜が満開だった。  惟新も家久も、つれてこられた男を一目見て、思わず息をのんだ。身には粗末な布子《ぬのこ》しかつけていないが、背丈が高く、いくぶんふとり気味ながら、ふっくらした色白の顔に、おかしがたい気品があった。  大坂城の大広間で、一、二度秀頼の顔を拝したことはあるが、当時の秀頼は近よりがたい存在で、しげしげと顔を見るなど思いもよらず、見覚えるゆとりもなかった。  目の前の男を見ても、似ているのかいないのか、判断のくだしようもない。ただ、高貴の相はたしかにあった。男は突っ立ったまま、いきりたつでもなく、 「縄をといてくりゃれ」  とおうようにいった。惟新は、家臣の一人にめくばせした。縄をとき終わるのを待って惟新はおもむろにたずねた。 「その方の名は」 「ことばづかいをあらためよ。余は秀頼である」  男はつかつかと進み出て、おそれげもなく惟新の前に立った。 「どくがよい。その床几には余がかける」 「無礼者」  左右から家臣たちがかけ寄るのを、 「待て」  静かに制した惟新は、床几からはなれた。そのあとに、男はゆうゆうと腰をおろし、 「惟新どのにも床几を」  といった。  かわりの床几が運ばれてきた。 「かけられよ」 「おそれ入りたてまつる」  惟新は一礼した。家臣たちは、惟新にすべてをまかせてなりゆきを見守った。惟新のとなりに床几を移した家久は、あらためて男に目をそそいだ。 「だれかに似ている……」  どこかで見た顔だが、だれに似ているのか、すぐには思い出せない。  男が口をひらいた。 「惟新どの、少将どの、もはや天下に望みはない。これよりは、心静かに余生を送ろうと思う。ついては、屋敷を一つ与えてはたもらぬか」  その声にも、覚えがあるのに気づいた。無数の声の記憶をたぐり寄せるうち、白糸ばかりの中にまじった色糸のように、一つの声がよみがえった。家久より先に、惟新がいきなり大声を上げた。 「その方、七郎兵衛がせがれじゃな」  惟新自身は七郎兵衛と会ったことはない。 「違う。余は秀頼じゃ」 「いいや、七郎兵衛がせがれに相違ない」  惟新は確信した。年齢から見ても、つじつまが合っている。大きくうなずいて、こんどは家久が切りこんだ。 「七郎兵衛はいかがした」 「聞くまでもあるまい。あの者は、責めを果たせず腹を切った」  男の目が光った。嘘をついているとは見えない。とすれば、七郎兵衛はやはり死んだのか。 「それで、父の恨みを晴らそうとはかったのじゃな」 「余は秀頼である」  家久の問いを男は無視した。 「いま一度聞く。その方、高屋七郎兵衛のせがれであろう。それに、七郎兵衛は死んではおらぬはず」 「余は秀頼である」  かたくなに男はいいはった。     六  秀頼と名乗る男がしたことも、先に堀内大学助と藤原右京亮がしたことも、すべては秀頼が生きているといううわさを世間にひろめるためだった。そしてさらに、 「秀頼君は薩摩に落ちのび、島津家の庇護《ひご》を受けておわすらしい」  という風に伝わり、やがては家康、秀忠の耳に届くことを企てたに違いない。それが、家康の疑惑を招き、最後は、 「島津家改易」  という運びとなることに、望みをかけたと見てよかった。  惟新が家久に鋭い目をやった。 「少将どの、あのはやり唄をはやらせたのも七郎兵衛ではないか」   花のようなる秀頼さまを   鬼のようなる真田がつれて   退きも退いたよ鹿児島へ  というあの唄である。 「違うか、七郎兵衛がせがれ」 「余は秀頼である」  またしても男は、同じことをくり返した。狂ってなどいない。人をひきつける澄み切った目だった。 「志はわかった。七郎兵衛といい、その方といい、見上げた性根《しようね》よ。以後は谷山で、思いのままに過ごせ」  惟新は、家久とはかって男を放免し、と同時に、書状をもってありのまま家康に報告した。折り返し家康からは、老臣土井利勝名義をもって、 「案ずるに及ばず」  と返事があった。  秀頼と名乗った男が、果たして七郎兵衛の子であったか、また高屋七郎兵衛が、大坂落城後も生き残っていたかどうか、そのあたりのことは、たしかめようもない。  ちなみに、谷山には、いまもなお木下門《きのしたかど》と呼ばれるところがあり、秀頼の墓と伝えられる五輪塔が残っている。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]   大野修理の娘     一  葛葉《くずは》は悔《くや》しかった。大坂城内における、父の評判はあまりにも悪すぎた。物心ついてから、十七歳の今日まで、絶えず父の悪評を耳にしていた気がする。無能、臆病、奸佞《かんねい》、優柔不断、とそしりの種はさまざまだが、最《さい》たるものは、 「お袋さまと通じている」  というにあった。お袋さまとは、秀頼《ひでより》の生母で、後世|淀君《よどぎみ》の呼称で知られる淀殿のこととはいうまでもない。ここまでいえば、もう察しがつこう。  大野|修理亮治長《しゆりのすけはるなが》、それが、葛葉の父の名であった。修理と淀殿の艶聞は、いま始まったことではなく、太閤の生前から、ひそかにささやかれていた。 「秀頼さまは修理の子ではないか」  とさえうわさされた。淀殿との仲を疑われたのは修理だけではなく、石田|治部《じぶの》少輔《しよう》三成《みつなり》もその一人だったが、三成は周知のごとく関ケ原で敗れて刑死した。以後は、修理が一人で浮名《うきな》を背負うことになり、いまもそれが尾を引いている。 「根も葉もない嘘」  葛葉はそう信じていた。修理はすでに四十八ながら、色白で四十二、三としか見えないほど若く、きわだった美男だが、淀殿の方は、修理より一つ多いだけなのに、ぶよぶよに太って、太閤の寵愛《ちようあい》を一人占めした昔の面影はさらにない。 「父上が、あんなお袋さまと、情をかわされるはずがない」  葛葉はつばを吐きたくなる。  修理と淀殿が、他人の目に仲むつまじく映るのは仕方なかった。浅井長政《あさいながまさ》の子として、近江の小谷《おたに》城に生まれ育った茶々《ちやちや》——淀殿の乳母|大蔵卿局《おおくらきようのつぼね》は修理の実母だから、修理と淀殿は乳姉弟《ちきようだい》にあたる。  ただそれだけのこと、と葛葉は思う。もっとも、昨今の修理の不評は、淀殿との醜聞よりも、 「あの臆病者が」  というほうが強かった。  去年の冬の陣で、天下の大軍を敵に回して対等以上に戦いながら、家康の策に乗せられて講和にふみきったことが、第一の原因であった。  総構えを崩し、二の丸、三の丸の櫓《やぐら》を破壊し、濠《ほり》まで埋めつくして、大坂城を裸にしてしまうと家康は、  一、大坂城を出て大和《やまと》郡山《こおりやま》城に移ること。  一、先に召し抱えた諸浪人を追放せよ。  と、和睦《わぼく》の条件になかった難題を吹きかけて、露骨な挑発を始めた。城中では、その理不尽な悪辣《あくらつ》さに憤激して、 「断固戦うべし」  との声がわき立った。にもかかわらず修理は、 「大御所は老齢、いずれ遠からず死ぬ。それまでの辛抱《しんぼう》」  と、戦いをさけたがっている。主戦派にとっては手ぬるいかぎりで、だれもが、 「しょせん臆病風に吹かれたのよ」  と口ぎたなく修理を罵《ののし》った。修理の実弟、葛葉にとっては叔父にあたる主馬首治房《しゆめのかみはるふさ》、道犬治胤《どうけんはるたね》までが、 「獅子身中の虫、修理斬るべし」  と息まいているという。  葛葉は腹が立ってならない。 「あのことを、みな忘れている」  大坂城内のおびただしい金銀を費消させようと企らんだ家康が、 「故太閤のご供養《くよう》のため」  と称して、ことば巧みに方広寺大仏殿の再建をすすめたとき、裏を見ぬけず、あらかたの者が、双手《もろて》を挙げて賛同したなかに、修理ひとりは、 「これまでにも多くの社寺に寄進している。その上、方広寺の大仏殿再建など、金銀のついえでござる」  真っ向から反対したが、修理の声は、寄ってたかってねじ伏せられた。修理の危惧は的中した。大仏殿再建は、予想をはるかに上まわる巨費を要し、あまつさえ、鐘銘《しようめい》に刻んだ「国家安康」「君臣豊楽」の八文字が、家康にいいがかりの種を与えてしまった。  だが修理の先見を率直《そつちよく》に認めて、不明を詫《わ》びた者は一人もいない。そのことには、みな目をつぶり、耳をふさぎ、修理が、冬の陣後講和を結んだこと、いままたなんとかして再戦をさけるべく、必死の工作をこころみていることのみを攻撃し、臆病者と頭ごなしにきめつけている。  鐘銘問題が生じたとき、弁明の使者として駿府《すんぷ》におもむきながら、役目を果たせず、新しい難題まで抱えこんで帰り、主戦派の怒りを買った片桐且元《かたぎりかつもと》が大坂城から退去したあとは、修理が大坂方の柱となった。  冬の陣開始の際、だれよりも強硬だったのは淀殿だが、東軍の大筒《おおづつ》が、御殿の柱の一つを砕《くだ》き、侍女二人が即死すると、淀殿はにわかにおびえ、家康がわから持ち出した講和策に傾いた。  その淀殿を制しきれず、講和を結んでしまったのは、たしかに修理の不覚には違いなく、講和条件にも手ぬかりがあった。が、大坂城が裸城にされたいま、再戦を阻止しようとする修理の説は当を得ている。  現将軍|秀忠《ひでただ》には、とうてい家康ほどの威望はない。 「家康さえ死ねば……」  その修理の気持を、だれもわかってくれないのが、葛葉はうらめしかった。他人はともかく、血を分けた主馬や道犬までが、修理を獅子身中の虫視するのは許せなかった。  冬の陣の講和にあたって、修理は、まだ前髪を残した二男、最愛の弥十郎《やじゆうろう》を、人質として家康に送っている。主馬や道犬は、その弥十郎をさえ、 「見殺しになされよ」  とまでいい、修理を再戦にふみ切らせようとしていた。     二  葛葉は早くから、千姫《せんひめ》つきになっている。いずれ家康は、大坂に対して爪をとがずにはいまいと見た修理に、 「千姫さまと刑部卿局《ぎようぶきようのつぼね》から目を放すな」  と命ぜられてのことだが、千姫にも刑部卿局にも、あやしむべきふしは何もなかった。家康や秀忠と、連絡をとっているとは思われず、葛葉は、 「千姫さまが哀れでございます」  と修理に告げた。千姫のもとへ、秀頼が通ってくることなどほとんどなかった。千姫は人質でしかない。それがわかると、葛葉は心から千姫に仕えた。その思いは、すぐ千姫にも通じて、姫も葛葉を、妹のようにかわいがってくれる。 「再度のいくさになれば、千姫さまのお身が危い」  逆上した淀殿が、家康への恨《うら》みから、千姫を刺殺することさえ考えられた。そうさせてはならぬ、と葛葉はひそかに心に誓った。  この三月、修理は、老練な家老の米村権《よねむらごん》右衛門《えもん》を、二度駿府におもむかせたが、なんの成果も得られず、暦が四月に変わると、戦いはさけがたい情勢になった。表御殿では、連日|評定《ひようじよう》がひらかれ、和平維持か再戦かで激論がかわされた。主戦論が圧倒的だった。  和睦の条件として埋められた二の丸三の丸の濠を、主戦派はすでに掘り返しにかかっている。もう修理にも阻止できなかった。 「駿府のじいさまに、いい口実を与えてしまうのに……」  目に悲しみをたたえて、千姫がぽつんともらした。  きたる四月十二日には、名古屋で家康の第九子|義直《よしなお》の婚礼が挙げられる。日取りをきめたのは家康自身らしい。婚礼を理由に名古屋におもむき、いつでも大坂へ出陣できるようにとの深謀から出たことだった。  大坂城内では、四月九日、また評定が持たれた。評定は朝からぶっ通しで、夕方になっても結論が出なかった。 「修理さまは、あくまで和平説をとって譲られなかったそうです」  刑部卿局が、葛葉にも教えてくれた。 「修理どのはよくやってくれます。そなたからも礼をいうてたも」  千姫の手の暖かさが、葛葉の手に伝わってきた。その夜おそく、葛葉のもとへ悪い知らせがあった。 「お父上が痛手を負われました。評定がすんで、桜門から二の丸へ出ようとなされたとき、不意に刺客に襲われなされ……」  幸い、命に別条はないという。千姫の許しを得て、葛葉は二の丸の父の屋敷に帰ってみた。以前の広壮な屋敷は、濠を埋めるとき東軍によって破壊されてしまい、いまの屋敷はひどく見すぼらしい。  その奥座敷に、傷の手当もすんで修理は寝かされていた。そばには、山岡、平山という二名の家士がついている。 「刺客は平山が仕止めました。明日になれば正体が判明しましょう」  山岡の口から事情が知れた。修理が桜門のくぐりから門外へ出たとき、いきなり刺客が飛びかかり、修理の左脇下から肩へかけて白刃で突き上げたが、山岡がすかさず斬りかかったので、とどめは刺す間がなく、刺客はそのまま逃走した。  勝手知った道筋、山岡が先回りして待ち伏せし、一太刀浴びせると、刺客はあわてて引き返したが、そこへ修理を背負った平山が通りかかり、修理をすばやくおろして、一刀のもとに斬り伏せたのである。 「主戦派の者ですね」  山岡に顔を向けたとき、 「葛葉か……」  と修理が目を明けた。灯りに照らし出された顔は血の気がなく青白いが、気力はしっかりしているらしい。 「愚かなやつらよ……」  和平に奔走している修理の暗殺をはかるのは、二の丸の濠の掘り返し同様、家康に絶好の口実を与える。  それにしても、淀殿のたっての希望だったとはいえ、和議に応じてしまったうかつさが腹だたしいが、かつての律義《りちぎ》者面にあざむかれて、うかうか和議を結んだ手ぬかりを、福に転ずるには、忍びぬいて、家康の死を待つ以外になかった。しかし、いまはその策も捨てざるを得ない。  今夜の始末を、城中に入りこんでいる関東の間者《かんじや》が、ただちに家康に知らせることは目に見えている。 「もはや戦うほかはないか」  自問自答しながら、なにかものいいたげな葛葉のまなざしに気づいた修理は、 「その方ら、しばらくはずせ」  山岡、平山をさがらせた。 「父上、戦って勝ち目がございましょうか」 「無理だな」  かといって、家康に大坂討滅の意志がある以上、戦いはさけられぬ。 「ならばどのみち、この城も豊臣のお家も、いっそいさぎよく滅ぼしておしまいなさいまし」 「なにっ」  まさか十七の娘がいうとは思われぬ、大胆きわまる発言だった。 「それが、お父上に残された、たった一つの道でございます。ただし、千姫さまを殺してはなりませぬ。千姫さまを殺せば、父上の負けになります」  葛葉の目に涙がにじんだ。 「わたくし、悔しゅうございます」  城中に満ち満ちている、修理に対する悪罵《あくば》が耐えられなかった。 「お父上、葛葉がなにをいおうとしているか、よっくお考えくださいまし」  すでに葛葉の目に、たったいま宿った涙はない。 「そなた……」  修理は背筋が冷たくなった。葛葉がたたみかけた。 「わたくし、父上に賭けます。海千山千の家康を向うに回して、父上が勝たれる道が、たった一つございます。家康だけではない。臆病者のなんのと、父上を罵《ののし》った城中の者をも、見返してやりとう存じます」     三  あくる日、朝のうちに、すさまじい突風が城内|隈《くま》なく駆け抜けた。二の丸から桜門への道筋に、刺客の死体がさらされたことから、その正体が明るみに出たのだ。 「これは成田勘兵衛《なりたかんべえ》が手の者じゃ」  服部なにがしという男であった。しかも勘兵衛は、大野主馬首治房の麾下《きか》に属する剛の者として聞こえている。  昨夜の評定で、主馬は兄修理と、刀を抜かんばかりに激論した。かねて主馬が、 「兄といえども許さぬ。斬る」  と激語していたことも、多くの者が耳にしていた。 「主馬どのが黒幕か」  みなそう思った。詰問の使者が、まず勘兵衛のもとへ乗りこんだが、勘兵衛はそれより早く、屋敷に火を放ち、腹かっさばいて果てていた。 「主馬どのをただすべきでござる」  と主張する者もいたが、修理はとめた。 「主馬はそれほどばかではない」  本音ではない。城内を動揺させまいとの修理の配慮であった。だが、葛葉は黙っておられず、主馬の屋敷へ出かけた。実は葛葉は、まだだれにも悟られてはいないが、胸を患《わずら》っている。それで、化粧にもくふうした。その化粧に主馬もまどわされた。 「ほう、これはめずらしい。葛葉、近ごろ色っぽくなったの」 「そんなことを聞きにまいったわけではございませぬ」  真っ向から、ひたと主馬を見た。血のつながる、叔父を見る目ではない。 「ではなにしにきた」  主馬の語気もおのずととがる。 「城が落ちるときの、叔父上のなされよう、とくと見せていただきます。それを申し上げたくてまいりました」  葛葉はずばっといい放った。 「城が落ちるときの……」 「同じことを、道犬の叔父上にも、しかとお伝えくださいまし」  それだけいうと、葛葉は主馬の方へ背を見せた。少女のあどけなさを、わずかに残した後姿に、いきどおりがこもっていた。  あらためて千姫に許しを請うた葛葉は、なお数日、父の身辺につき添った。その間、二人きりになる機会に何度か恵まれた。  怜悧《れいり》で勝気な娘と、器量不相応の重荷を背負いこんだ、さほど有能でもない父とのあいだで、どれほどおそるべきことが語り合われたかを、だれも知らない。ただわずかに、山岡、平山の両名が、 「人質に差し出している弥十郎がなあ」 「弥十郎などお見捨てなさいまし」 「冷たいことをいう。弥十郎は、そちのたった一人の弟ではないか」 「父上、わたくしとて、弥十郎はいとしゅうございます。なれど、弥十郎は武士の子、父上の御名のためには……」  以上のような、修理と葛葉のやりとりを耳にしている。葛葉は明らかに涙声だった。しかし、山岡も平山も、そのやりとりの底に隠された秘密にまでは気づかなかった。  家康は、是が非でも、再戦に持ちこむ腹でいる。だから、大坂方がどれほど耐え忍んでも、手を替え品を替えて、難題を吹きかけてくるに違いない。 「とすれば、太閤さま栄華の名残《なごり》の大坂城、みずからのお手で、みじんに砕かれることこそ、お父上に課せられた、最後のおつとめではございませんか」  かならずしも葛葉が、そのとおりのことをことばにしたわけではないが、修理は、言外に娘の意を汲み取った。奥座敷に身を横たえたまま、修理は胸の中に、大坂を滅ぼす華麗な絵図面を、描いては消し、消しては描きした末に、ようやく思いのままの構図を仕上げた。父からそれをささやかれた葛葉の目に、一瞬、満足の輝きが宿った。  むろんまだ十七の葛葉に、父の最期を飾らせる具体的な方策があるわけもないが、大坂城内における父の悪評をなげく葛葉の涙が、修理に一つのひらめきを与えたことはたしかであった。  葛葉の知恵でもない。修理ひとりの思い立ちでもない。父と娘の別々な思いが一つにとけ合って、自然に生み出された秘策とでもいえばいえようか。 「もう大丈夫」  父の傷の経過を見きわめた葛葉が、千姫のいる奥御殿に帰るとき、修理は万感をこめてけなげなわが娘を見送った。  名古屋で義直の婚礼に列した家康は、四月十八日、京に着いた。修理の弟で、徳川家に仕えている壱岐守治純《いきのかみはるずみ》が、家康の意を受けて修理を見舞いにきたのは、あくる十九日のことである。 「あくどいお人よ」  とっさに修理は、家康の腹を見抜いた。家康が治純をよこした真意は別にある。 「修理は、治純を介して家康と通じているのではないか」  そういう疑惑を主戦派に抱かせ、城中の結束を乱すつもりに相違なかった。  淀殿の使者として、家康と会った、淀殿の妹にして、秀忠夫人お江《ごう》の姉でもある常高院《じようこういん》(京極高次《きようごくたかつぐ》未亡人)と、渡辺筑後守《わたなべちくごのかみ》の母|二位局《にいのつぼね》が、四月二十四日、三ヵ条からなる家康の返書をたずさえて京から戻ってきた。  返書の内容は定かでないが、前後の事情から推して、冬の陣により荒廃した領内を救済してほしいという願いに対する拒絶、大坂城を出て大和郡山城に移ること、諸浪人を追放することの督促《とくそく》と見られる。  修理は黙殺した。  それによって家康は、再度の大坂攻め、世にいう大坂夏の陣の口実をつかんだが、修理の腹の底を知るよしもなかった。     四  難攻不落を誇った大坂城の終焉《しゆうえん》が、刻々と迫っていた。 「まだ真田《さなだ》どのがおられる」  未練がましく一縷《いちる》の望みにすがりつつも、人びとの多くは、 「おそらくは今日かぎり」  とひそかに覚悟した。昨五月六日、城方頼みの後藤又兵衛基次《ごとうまたべえもとつぐ》、薄田隼人正兼相《すすきだはやとのしようかねすけ》の両勇将が、道明寺《どうみようじ》の戦いで討死し、若江堤《わかえつつみ》では、秀頼と乳兄弟でもある木村|長門守重成《ながとのかみしげなり》が、まだ二十二の惜しい命を散らした。 「急ぎご出馬のご用意を」  最後の軍議に加わるため、けさ早く、茶臼山《ちやうすやま》の真田|左衛門佐幸村《さえもんのすけゆきむら》の本陣におもむいた大野修理から使いがきて、梨地緋絨《なしじひおどし》の鎧《よろい》に身を固めた秀頼は、本丸の南の正門——桜門に姿を見せると、太平楽と名づけた馬からおりて床几《しようぎ》に腰をおろした。  かたわらには、故太閤愛用の金瓢《きんぴよう》の馬印をたずさえた津川左近《つがわさこん》、老齢ながら黄《き》母衣《ぼろ》衆の一人|郡主馬《こおりしゆめ》をはじめとする側近の士がひかえた。金の切割《きりさき》二十本、茜《あかね》の吹貫《ふきぬき》十本、玳瑁《たいまい》の千本槍を押し立てた堂々たる軍容だった。徒士《かち》武者《むしや》たちは門外にあふれ出た。  茶臼山から天王寺口にかけては、真田幸村や毛利豊前守勝永《もうりぶぜんのかみかつなが》らの主力が布陣し、その前方には、竹田永翁《たけだえいおう》、浅井長房《あさいながふさ》ら、後には大野修理の隊、一方、岡山口では、真田丸跡と篠山の間に大野主馬首治房、道犬治胤、その左右、あるいは前方に新宮行朝《しんぐうゆきとも》、御宿政友《みしゆくまさとも》、北川宣勝《きたがわのぶかつ》が備えているはずだが、まだ銃声は聞こえてこない。  それからどのくらい過ぎたろうか、馬を飛ばして桜門まで戻ってきた黄の陣羽織の大野修理が、馬からおりざま、がくっとのめり伏して気を失った。 「修理」  秀頼の声と同時に、武者たちが駆け寄って修理を抱き起こすと、左の脇下や肩口が、血でべとべとになっていた。だが、修理はすぐ意識をとり戻すと、 「大事ない、刺客に襲われた折の傷口が破れただけじゃ」  といってのけ、脇下を押さえながら、秀頼のそばに近づいて、なにやらささやいた。秀頼の顔色が変わった。  修理が傷の手当をすましてしばらくたったころ、幸村の嫡子《ちやくし》、ことし十六歳の大助幸昌《だいすけゆきまさ》が、汗みずくになって桜門から駆けこむが早いか、 「上様、ご出馬願い上げたてまつります」  と大声を上げた。 「いいや、その儀はならぬ」  秀頼にかわって、修理が突っぱねた。 「なにを申されます。軍議の席での父左衛門佐との約束、反古《ほご》になさる気か。ご出馬のご用意をとの急使、あの場からただちに差し向けられたはず」 「たしかに」 「ならばなんで……」 「あれは方便、軍議の席でその儀はならぬと申しては、士気にかかわろう」 「なにっ」  大助は目をつり上げ、陣太刀の柄に手をかけたが、すぐ冷静に返って、 「父左衛門佐は、上様じきじきのご出馬に、すべてを賭けておりまする」  と訴えた。 「上様がご出馬遊ばせばとて、味方がかならず勝つとはかぎるまい」  大助は、ぐっとつまったが、 「九分九厘勝ち目のないいくさゆえ、伸《の》るか反《そ》るか、万が一に父は賭ける気になったのでございます」 「上様の大切なお命、万が一に賭けたりはできぬわ」  秀頼じきじきの出馬を仰いで、味方の士気をふるい立たせ、乾坤一擲《けんこんいつてき》の勝負を挑もうとする幸村の気持はわからぬでもないが、下手をすれば、不世出の英雄太閤の子である秀頼を、雑兵《ぞうひよう》端武者《はむしや》の手にかけて、殺してしまうおそれがある。 「そうは思われぬか大助どの」  それには答えず、唇をかんでいた大助は、ややあって、 「やはり父上のおことばどおりじゃ」  と悔しげに吐き捨てた。 「どういうことぞ」 「父は申しました。いままで待ってもなおご出馬なきは、わが兄|信之《のぶゆき》が東軍にあるゆえ、この左衛門佐をお疑いやもしれぬと」  大助は両こぶしを固めて、 「上様、大野さま、大助が人質となります。さればなにとぞご出馬を」  と涙声で迫った。とたんに、秀頼が床几から立ち上がった。 「太平楽をこれへ。左衛門佐父子の志、無にするに忍びぬ。たとえ雑兵端武者に討たれようと悔いはない。ここでためらっては人ではないわ」  六尺豊かな秀頼の色白の顔が紅潮した。 「上様……」  秀頼にとりすがって、大助がむせび泣いた。修理の胸にも、熱いものがこみ上げる。修理が初めて見る、太閤の子と呼ばれるにふさわしい秀頼の男らしさだった。が、修理は心を鬼にした。 「なりませぬ」  強く秀頼を制してから、修理は大助の方へ向き直った。 「許されよ大助どの。修理は決して、左衛門佐どのをあざむいたわけではない。いずれはお身にもわかる」 「いまお明かしくださいまし」 「いや、まだいわれぬ」  鐘銘問題以来、器量の差といえばそれまでだが、修理は家康に翻弄《ほんろう》されつづけてきた。その家康に、せめて一矢むくいたい。その秘策を知っているのは、修理と葛葉の二人だけだった。腹心の家老米村権右衛門にさえ、まだ打ち明けてはいない。  秀頼や淀殿にも知られてはならなかった。修理は片ひざつきになり、大助の右手を両手で包んだ。 「修理の目をごらんあれ。この目が、お身に嘘をついている目かどうか」  修理の手をふりほどこうとした大助の腕から、急に力が抜けた。父幸村とほぼ同年と聞く修理の顔が、涙まみれなのに気づいたからだった。  そこへ老将|速水甲斐守守久《はやみかいのかみもりひさ》が、ちぎれた旗指物を背負って、前線から引き揚げてきた。甲斐はすぐ事態を察して、 「じきじきのご出馬、もってのほかにございます」  秀頼をしたたかにしかった。その一語か、大助の胸にくいこんだ。 「わかり申した……」  頭上に回った夏の陽にあぶられて、熱を持った地面に両手をつき、大助は肩を波うたせた。     五  修理や速水甲斐、津川左近らに守られて、千畳敷御殿に移った秀頼のもとへ、幸村討死の知らせが届いたのは、午後二時をいくらか過ぎたころであった。大助は、身じろぎもしなかった。  女たちの間からすすり泣きがもれた。  しばらくして、幸村同様、天王寺方面で東軍を悩ませた毛利勝永や竹田永翁が、つづいて、痛手を負った渡辺《わたなべ》内蔵《くらの》助糺《すけただす》が、前線から戻ってきた。淀殿のそばにいた、内蔵助の母の正栄尼《しようえいに》が、わずかに眉《まゆ》をひそめた。勝永らによれば、主馬と道犬は、混乱にまぎれて、いずれかへ落ちていったらしいという。 「見上げたお人よ」  淀殿への遠慮からか、秀頼から離れてひかえている千姫に寄り添いながら葛葉は、日ごろ、父の修理を、臆病者と罵ったくせに、どたん場になればこのざまか、と二人の叔父に憎しみを燃やした。 「今日が最後かと存じ、長らく預からせていただきましたこの馬印、ただいまお返しつかまつります」  津川左近が、金瓢の馬印を床の間に立てかけると、秀頼に一礼し、槍をとって千畳敷から出ていった。討死する気に違いない。つぎには、郡主馬が黄母衣を返納し、 「てまえは老齢、戦場では働けませぬ。さらばでございます」  秀頼に暇《いとま》ごいをすますと、わが子兵蔵に支えられてご前から引きさがった。そのあと、そう遠くないところから、鈍いうめき声が聞こえた。  二の丸や三の丸の陣小屋、仮屋、濠埋めのときに取り壊しをまぬかれた侍屋敷などに、火がかかったらしい。明け放たれた縁側から煙が流れこんできはじめた。銃声や喚声も、しだいに近づいてくる。 「ここはもう危うござる。急ぎお天守へお移りを」  速水甲斐のことばで、秀頼以下みな立ち上がった。修理の姿はすでに見えない。金瓢の馬印が置き忘れられたのを、だれも気がつかなかった。 「正栄尼さまがおられぬ」  二人の孫の姿もなかった。葛葉が、千畳敷御殿の縁から、庭へ足をおろしたとき、 「ひいっ」  という幼い声が、背後で二度聞こえた。ついで、はっきり老女とわかる鋭いかけ声がした。気丈な正栄尼が、瀕死《ひんし》の内蔵助を介錯《かいしやく》したものと思われる。そのあと、正栄尼の声は途絶えた。 「声一つ立てずご自害なされたのか……」  葛葉は息をのんだ。だれかが、歩きながら念仏を唱えた。何人かが、すぐそれに唱和した。  千畳敷では、秀頼以下、武者や老若男女合わせて、五百名以上いたはずなのに、天守閣にたどりついたときは、百名足らずになっていた。 「大事な人質、逃がしてはならぬ」  と思うのであろう。淀殿は千姫の袖をわしづかみにしている。  ほどなく、本丸御殿のお台所付近から火が出た。台所頭の大角与左衛門《おおすみよざえもん》が、東軍に内応して火を放ったのである。本丸御殿が炎上すれば、天守閣も危い。 「ご一同、山里曲輪《やまざとくるわ》へ移られよ」  速水甲斐が下知《げじ》した。 「いまさら見苦しい。余はここで腹を切る。そちが介錯せよ」  すわりこむ秀頼を引き起こして、 「大将には死にどきがござる。死ぬはまだ早すぎ申す。ここはともかくも山里曲輪へお渡りを」  背後から追い立てるように、甲斐は秀頼を天守から去らせた。淀殿や大蔵卿局ほかも、甲斐の指図に従った。  風が熱を帯びている。身につけた帷子《かたびら》が、いまにも燃えだすのではないか、とさえ思われた。  芦田曲輪《あしだくるわ》とも呼ばれる山里曲輪は、本丸の北にある。そこへ行くには、いくつかの石段を、右におり、左におりしなければならない。本丸と山里曲輪では、八間あまりの落差があった。その落差の上に、さらに天守閣がそそり立っている。それだけに、山里曲輪から仰ぐ天守閣は、雲がかかりそうな気がする。事実雨の日など、最上層は見えないことがあった。  山里曲輪の名にふさわしく、曲輪のまわりは、深い森や林に囲まれ、昼もひっそりしていて、別天地の観があり、筧《かけひ》の音が静けさをきわ立たせる。  木立の中にはいると、えりもとがひんやりした。銃声や、寄手《よせて》の雄叫《おたけ》びも、うかとすれば聞き落とすほど遠く、熱風もここまでは届かなかった。  やがて、曲輪の一角にある朱三櫓《しゆさんやぐら》に着いた。きらびやかな名だが、ありようは、この曲輪には不似合な、きわめて見ばえのしない糒蔵《ほしいぐら》である。『駿府記』は、二間に五間の広さと記しているが、史書によっては、三間に五間だったともいう。     六  朱三櫓の前には、一足先に千畳敷御殿から姿を消した大野修理が待っていた。天守閣からのがれてきた人数は、さらに減って、四十名そこそこだった。  主だった者としては、男では秀頼、速水甲斐、毛利勝永、竹田永翁、荻野道喜《おぎのどうき》(前名|氏家行広《うじいえゆきひろ》)、真田大助ら。女では淀殿、千姫、大蔵卿局、木村重成の母右京大夫、二位局、宮内局《くないのつぼね》、饗庭局《あえばのつぼね》などである。  そのなかには、千姫つきの刑部卿局や小督《おごう》とともに、葛葉もまじっていた。  格子《こうし》に組んだ高窓がいくつかあるだけなので、蔵の中は光がとぼしく薄暗かった。灯りがなければ、人の顔を識別するのがやっとであろう。それに湿気が多くかびくさかった。糒の俵は一俵も残っていず、内部は、手回しよく運びこまれた屏風《びようぶ》で、三つに仕切ってある。  右がいちばん広く、左がそれにつぎ、真ん中がもっとも狭かった。ふつうなら、真ん中を広くとって秀頼がしめるところだが、入口の扉にあまりにも近すぎる。そのため、秀頼以下の男たちが、右の仕切りの内にはいり、淀殿や、大蔵卿局、二位局らが左を選んだ。残った真ん中の仕切りが、千姫つきの刑部卿局や葛葉たちに与えられた。当の千姫は、 「お千はこっちへきやれ」  と引きずるように淀殿のそばにつれていかれた。淀殿は、千姫の振袖を、自分のひざの下に敷きこんだ。  時刻はやがて五時を過ぎた。  葛葉の目が、修理のめくばせを素早くとらえた。この先のことは、なんの打ち合わせもしていない。臨機に動くしかなかった。葛葉は神経をとぎすました。修理は、千姫の前に片ひざつきになったらしい。 「御台《みだい》さま、ただちにここよりのがれ、この書状を、大御所さまのもとへお届け願いとう存じます」  千姫は答えず、かわりにはげしい淀殿の声が飛んだ。 「なんのためじゃ」 「もちろん、上様とお方さまのお命ごいにございます。なんとしても、豊臣のお血筋だけは残さねばなりませぬ」 「ばかな。家康の悪辣《あくらつ》さ、そなたとて知っておろう。お千を渡してしまえば家康の思うつぼ、使者は他の者をつかわしや。お千は大事な人質、お千さえ押さえておけば、家康も秀忠も手は出せぬ」 「いいえ、ここは御台さまにお願いするが第一、大御所とて、多少の人がましさはまだ残しておりましょう」  押問答がつづいた。いまこそと見てとった葛葉はとっさに、 「上様、ご短慮はなりませぬ」  と叫んだ。葛葉の金切り声を、秀頼自害ととったにちがいない。淀殿が、千姫を突きのけて秀頼のところへ駆けつける。  その一瞬のすきに、 「途中の警護は、堀内《ほりうち》主水《もんど》、南部左門《なんぶさもん》の両名に申しつけてあります」  修理が千姫を、蔵の外へ押し出した。葛葉も刑部卿局も、小督やちょぼをうながしてあとを追った。はかられたと知った淀殿は血相を変えて、 「お千をつれ戻しや、大助、半三郎」  と、秀頼のそばにいる、真田大助以下の若侍たちに命じたが、だれ一人応じない。 「修理、おのれはよくも」  半狂乱になる淀殿を、 「母上、お静まりなされよ」  秀頼が見かねてたしなめた。やがて淀殿は、つきものが落ちたように静かになった。 「権右衛門、すぐ御台さまのおあとを追いまつれ。委細は葛葉に申しつけてある」  修理は、千姫に託したのと同文の書状を、家老の米村権右衛門に渡した。一礼して、権右衛門は蔵から出ていった。委細葛葉に申しつけてあるという、修理のことばに秘められた真の意味を、権右衛門は知るよしもない。秀頼はもとより、淀殿、速水甲斐、毛利勝永、そのほかの面々も同様だった。  このときの千姫脱出については、古来諸説があるが、たがいに矛盾をふくんでいて、真相のきわめようはない。ともあれ、権右衛門は途中で千姫に追いついた。日が暮れていないのが幸いだった。  一行は、途中で出会った坂崎出羽守の案内で、本多佐渡守正信《ほんださどのかみまさのぶ》の陣にたどりついた。正信自身は、茶臼山の家康の本陣に出かけて留守だという。  心きいた正信の家臣が、茶臼山と天王寺口の間に、戦火をさけて人のいない豪農の家を見つけてくれた。正信の陣にも近い。 「あるじが戻りますまで、とりあえず、ここにてご休息を」  千姫以下、ほっと一息入れた。もう、とっぷり暮れている。堀内主水、南部左門らは、供の足軽たちとともに、土間や軒下でからだを休めた。権右衛門の方は、 「ここにいやれ」  と千姫にいわれて、縁側近くに固まっている女たちのそばに腰をすえた。それから小半刻《こはんとき》もせぬころ、葛葉が、驚くべきことをいい出した。 「御台さま、上様とお袋さまのご助命を大御所さまにお願いする儀、なにとぞご無用に遊ばしますように。修理が書状をお預けしましたのは、御台さまをお助け申すための方便にすぎませぬ」 「なんと」 「権右衛門どのも、そのつもりでいますように」 「そういう意味でござったか」  修理の真意がいまわかった。そういえば、ここ数日、なにやら思いつめていた修理の様子もうなずける。 「葛葉、そうはいきませぬ。それでは、お千の女の道が立ちませぬ」 「いいえ、ご無用に願います」  いい争っているとき、茶臼山から帰った本多正信が姿を見せた。 「ご無事でなによりでござった」  長く家康の懐刀《ふところがたな》といわれ、いまはその役を伜《せがれ》正純《まさずみ》に譲って、秀忠つきとなっている正信は、しわだらけの顔をほころばせた。 「刑部卿局、さっき預けた大野修理の書状、佐渡へ渡しやれ」  千姫は葛葉のことばを無視した。権右衛門が、どうするか迷っていると、葛葉が先に口をひらいた。 「佐渡守さま、その書状は、大御所さまにお届けには及びませぬ」 「葛葉とやら、そのことなら、すでに聞いたわ」  どうやら正信は、ここへ顔を出す前に、縁側近くにひそんでいたらしい。 「本多さま」 「そちの申したこと、大御所さまのお耳に入れるかどうかは、わしの勝手」  正信は立ち上がった。 「まず大御所さまに、ついで岡山口に回って将軍家にもお目にかかってまいります」 「佐渡、右大臣家を助けてたも」  千姫が目ですがった。真夜中近く、正信は戻ってきた。 「大御所さまはお喜びなされました。なれど、将軍家におかせられては、千はなぜ秀頼と生死をともにせざったかと、ごきげんを損ぜられ、会わぬと仰せられております」  千姫のおもてから血が引いた。そのとき、すかさず葛葉が、 「ご心配なされますな。いまのおことば、権右衛門と、この葛葉にお聞かせなされたのでございます」  と鋭い皮肉を浴びせた。     七  白みかけた高窓の一つが、ときどき真っ赤に染まるのは、昨日から燃えつづけている本丸の火の手の加減らしい。その火の色も、夜が明けかかるにつれて、真紅と呼んでもいい色合が、だんだん薄らいでいった。  蔵の片隅に、焔硝《えんしよう》箱が置いてある。  秀頼のそばから、わが子|信濃守《しなののかみ》治徳《はるのり》と、お小姓の高橋半三郎を呼んで、軽く耳うちした大野修理は、 「壁ぎわに沿うて、焔硝をまきます」  と静かに淀殿にいった。秀頼には、すでにその旨を伝え、納得させてある。 「修理、まさかそなた……」 「ご案じなさいますな。すべて家康との駆け引きの手だて、上様やお方さまを殺したりはいたしませぬ。ただし、火の扱いにはくれぐれもご用心を」  淀殿のそばにいた大蔵卿局が、わずかな光しか放っていない燭台《しよくだい》の小さな蝋燭《ろうそく》を、あわてて吹き消そうとする。 「まだ早うござる」  修理は落ち着いてたしなめたが、面にはたかぶりがある。信濃と半三郎が、修理の指示にしたがって、壁ぎわ沿いに、焔硝をまき終わった。秀頼以下一同の周囲を、ぐるりと焔硝でかこった形であった。 「よいぞ」  修理の合図で、いつそのような手筈がととのえてあったのか、外にいた足軽たちが、干草を運びこみ、つぎつぎに壁ぎわに積み上げた。蔵の中の空間が、見る間に狭くなった。火を転じた長い火縄が、焔硝から離れた場所の大釘の一つにかけてある。 「これでよし」  修理は胸の底でにんまり笑った。  千姫たちがどうなったか、修理には見当がつかない。ただ願うところは、どんな形ででもよい。秀頼と淀殿の助命を願う意志が、修理には毛頭もないことを、家康に知ってもらえれば十分だった。使者をつかわしたのは、千姫を助けるための口実にすぎず、ここまで追いつめられて、いまさら家康の情にすがるめめしさなどつゆほどもないことを、思い知らせてやりたかった。  あるいは老獪《ろうかい》な本多佐渡に、握りつぶされるかもしれないが、そのときはそのとき、運を天にまかせるばかりだった。  本丸に乗りこんだ寄手は、秀頼の行方を、血まなこで探し回っているに違いない。山里曲輪の、それも糒蔵《ほしいぐら》にすぎない朱三櫓の中とは、夢にも気づかぬであろう。  だが、修理は意外な盲点を見落としていた。蔵の中が、蝋燭を消せば消してもよいほどになったとき、蔵の外で人馬がざわめいた。  修理が、念のため、昨夜のうちに開けておいた、小指の先ほどののぞき穴に目をあててみると、鉄砲隊をふくむ徳川方の軍兵にまぎれもなかった。あとでわかったことだが、井伊《いい》掃部頭《かもんのかみ》直孝《なおたか》と、安藤《あんどう》対馬守《つしまのかみ》重信《しげのぶ》の手の者に、検分役として、旗本|近藤石見守秀用《こんどういわみのかみひでもち》が加わっていた。いますぐふみこんだり、鉄砲を撃ちこんだりする様子はまだ見られず、監視が目的と見えた。 「東市正《いちのかみ》が告げおったか……」  修理はうめいた。片桐且元なら、大坂城内のことは知りぬいている。且元自身が、修理の立場に置かれたと考えれば、やはり真っ先に、この朱三櫓を思いつくだろう。 「囲まれております」  一同に告げざるを得なかった。さすがに、蔵の中に動揺が起こった。口々に且元を罵るのを制して、 「これからが正念場、なにごともこの修理におまかせあれ」  秀頼以下うなずいた。昨日からの修理は、もはや日ごろの修理ではない。無能、優柔不断、臆病、奸佞、ありとあらゆる悪評を集めた男とは別人であった。さしも権高《けんだか》な淀殿までが、われ知らず態度を改めていた。  ほどなく使者がきた。且元の家臣の一人であった。 「右大臣家ならびに淀の方さまのご助命に関し、大御所さまがご相談遊ばされたい由にございます。よって二位局に茶臼山においで願いたいとのご意向にございました」  淀殿の面に安堵《あんど》がかすめた。ただちに、二位局が送り出された。二位局の子、渡辺筑後守は、太閤の旧臣だが、いまは徳川家に仕えている。それでか局は、これまでの和平交渉にも、家康の名指しもあって、淀殿の妹常高院とともに、何度か使者をつとめている。だから今日も、だれも、不思議には思わなかった。  一身に背負いこんだおのれの悪評を、修理は知っている。たしかに、そしられても仕方のない面がいくらもあった。  大坂城内にあっては、主戦派と和平派との板ばさみ、外に向かっては、関東方と大坂方との板ばさみで、修理は苦悩した。その苦悩の深さは、不決断という形であらわれ、それが不信を買った。不決断の底には、誠実さがあった。でなければ、一方をあっさり捨て、断をくだすことができた。  そうすれば、少なくとも無能とか、優柔不断の汚名はまぬかれたに違いない。といって、男として、いまさらそれを口にすべきではなかった。  楽になったと修理は思う。もう迷うことはない。道は一つしかなかった。秀頼に、太閤の子にふさわしい、いさぎよい死をとげさせ、天下の名城の終焉《しゆうえん》を飾ればよかった。  蔵の中には、異臭が満ちている。ここには当然ながら厠《かわや》がなく、いくつかの桶が、かわりに使われた。間に合わせの蓋くらいでは、悪臭の防ぎようがなかった。しかし、その異臭もいずれ雲散霧消する。     八  蔵の外で、修理の名を呼んでいる。扉をひらいて、修理は外へ出た。いっせいに銃口が向けられた。群れの中から、井伊直孝が進み出るのを、修理は制した。 「待て、前もって申し置くことがある。蔵の内部には、焔硝をまき、干草を積んである。それを忘れるな」  直孝の面から血が引いた。足軽たちも驚いて、鉄砲を引っこめた。 「右大臣家とお袋さまのご助命、大御所さまがお許しなされた。お二方を、すみやかにお渡しあれ」 「大御所の書状は」 「火急の場合ゆえ、口頭をもって達するとの仰せであった」 「いかに火急の場合とて、書状がなくては応じられぬ」  一言のもとに突っぱねて、修理は蔵の中へ戻った。 「なぜ断ったのじゃ」  淀殿が声をたかぶらせた。 「井伊のわなとわかったからでござる」 「わな……」  足軽が、修理に思わず銃口を向けたのが、その証拠であった。まこと助命の沙汰があったものなら、不用意に、そんな無礼を働くわけがない。 「井伊はしっぽを出し申した」  助命と伝えて、秀頼と淀殿が出ていくところを即座にからめ捕り、 「生け捕りつかまつりました」  と報告して、寄手随一の手柄にするつもりに違いなかった。  十一時ごろ、こんどは旗本の加々爪甚十郎《かがづめじんじゆうろう》と豊島刑部《としまぎようぶ》がやってきた。修理の指示で、応対した速水甲斐が、 「口頭なれど、このたびは、偽りとは思われませぬ」  加々爪、豊島両名は、家康の命で、秀頼と淀殿を迎えにきたという。修理は、間違いなかろうと感じながら、甲斐にただした。 「乗物の用意は」 「駕籠《かご》一|挺《ちよう》、馬一頭でございます」 「無礼な。上様に馬を召させ、雑兵どもの目にお顔をさらさせ申す気か」 「修理、この際そんなぜいたくな」 「お方さま、戦いには敗れても、上様は太閤殿下のお子にございます。——甲斐どの、いま一挺、駕籠を用意せよと申さっしゃい。それも高飛車にな」  高飛車にという一語に、気づくところがあったらしく、甲斐が黙って出ていくと、大蔵卿局が、ひとりごとのようにもらした。 「二位局の戻り、おそいわの」 「戻るはずがござろうや。且元の使者のことばは、二位局を助ける口実」 「では大御所が、加々爪、豊島両名をつかわして、上様とお袋さまのご助命を伝えられたは、どうしてでございましょうか」  これは右京大夫だった。 「さあて、どうしてでござろう」  とぼけたが、修理にはわかっている。家康は、修理の真意を知ったに違いない。かといって、ここで秀頼、淀殿に死を命じては、寝覚めも悪いし、修理の最後の一矢に敗れることにもなる。それで、ひとまず二人を助ける気になったのではないか。  速水甲斐が戻ってきた。加々爪、豊島両名は、戦場にいくらも駕籠があるものか、と強硬に押し返したが、甲斐にねばられて、 「大御所におうかがいする」  と折れたという。  いよいよ本心を明かすときがきた。修理は仕切りの屏風《びようぶ》をみなとりはらわせて、 「申し上げることがござる。駕籠二挺そろえよとはいいがかり、上様にもお方さまにも、いさぎよくご自害を願います」  といい放ち、淀殿が何かいいかけるのを無視して先をつづけ、これまで隠しつづけた本心を残らずさらけ出した。 「千姫さまは、家康の野望のいけにえとなられた哀れなお人、道づれにしては、人ではござらぬ。それにまた、千姫さまを助けることが、家康めに、おのれの非道を思い知らせることにも相成ります」  大坂方は、人の道を立てた。家康は、人たる道を土足でふみにじった。世間はそうとってくれよう。 「上様もお方さまも、人非人にすがって助かろうなどと思われますな。それが太閤殿下の御名を汚さぬ唯一の道でございます」  蔵の中は静まり返った。秀頼のそばにいた真田大助が、涼しくもいい切った。 「大野さま、昨日桜門でうけたまわったおことば、いまこそ胸に落ちました」 「ご納得《なつとく》くだされたか」 「冥土《めいど》で、父左衛門佐にも、しかと申し伝えます」  その一語が、蔵の中の一同に覚悟をきめさせる役をした。 「修理、秀頼不肖にして、そち一人に苦労を背負わせた。許せ」  修理にとって、最高のはなむけだった。 「まことかずかずの難儀を強《し》いましたの」  淀殿もしみじみもらした。そこかしこで、すすり泣きが起こった。 「上様のご介錯《かいしやく》、てまえがつとめさしていただきます」  毛利勝永につづいて荻野道喜が、 「お方さまのご介錯は、わたくしめが」  と申し出た。淀殿は修理を見た。うるんだその目が、介錯はそなたにと訴えている。修理は、かぶりを横にふった。それぞれ、自害の支度にかかった。佩盾《はいだて》(膝よろい)をつけたままの真田大助に、だれかが助言した。 「佩盾はとられたがよい」  とたんに、りんとした大助の声がひびき渡った。 「お指図はご無用、大将は佩盾をとらぬものと聞いている」  十六歳ながら、名将真田幸村の嫡子にふさわしい、あっぱれな性根であった。  陽は高く照り、かれこれ正午に近い。  焔硝をまいてあると聞いて、みな蔵からかなり離れているため、蔵の中の様子には、だれも気づかなかった。 「未練者どもめ、この期《ご》に及んで、なお助かろうと使者を待つとは」  いらだった井伊直孝は、安藤重信と、近藤石見守を呼び寄せた。 「慈悲心深い大御所さまが、秀頼をお助けなされば、あとあと面倒、ひと思いに鉄砲を撃ちこもうではないか」 「うむ、お許しなく鉄砲を撃ちこんだとて、まさか腹を切れとは仰せられまい」 「これできまった」  三人の意見は一致した。ずらっと並んだ鉄砲隊の銃口が、いっせいに火を吐いた。その少し前に、蔵の中では、大野修理を残して、ことごとく絶命していたことを、だれも知らない。鉄砲隊の発砲とほとんど同時に、修理が火縄の火を焔硝に転じた。     九  葛葉は許され、米村権右衛門も、これまで使者として、しばしば駿府におもむいたことを理由に、戦いの回避に力をつくしたとして放免された。  その後、二人は実の父と娘のように、京の片隅でひっそりと暮らしていたが、葛葉は間もなく病み伏した。悪名を背負った父修理に、せめて最後を飾らせようと精魂傾けたことが、胸を患っていた葛葉を、いよいよ衰弱に追いこんだものだった。  脱走した大野主馬と道犬は、日を違えて捕えられ、いずれも斬られた。主戦派の中心として、修理を臆病者と罵った男たちの、見苦しい末路であった。  父の最期も、葛葉の耳にはいった。もちろん、蔵の中での詳細は知るよしもないが、焼け落ちた朱三櫓のあとは、目もあてられぬありさまで、秀頼以下三十名前後、首と胴は離ればなれとなって焼けただれ、あるいは手足が吹き飛び、るいるいたる死骸は、だれがだれやら識別つかなかったという。 「嬉しい……」  枕もとの権右衛門に、消え入りそうな声で葛葉はいい、にこっと笑った。  秋も深まったとある日、ためらった末に権右衛門が枕もとに近づくと、顔色を見てすぐ悟ったのであろう。 「江戸の弥十郎のことかえ」  先に葛葉の方から口をひらいた。 「大御所の命にて、去る八月二十五日、切腹なされた由にございます」  権右衛門は顔をそむけた。両の目に涙をふくれ上がらせながらも葛葉は、 「父上の勝ちじゃ」  ともらした。  権右衛門は無言でうなずいた。  再戦をさけるべく、必死の奔走をつづけた修理が、最後のどたん場で関東方に見事な意地立てをしたことを、家康は内心はげしく憎悪したに違いない。まだ前髪を残した花のような人質の弥十郎を、無慈悲に切腹させたことが、明らかな証拠であった。 「でもこれからは、いよいよゆるがぬ徳川の天下、きっと父上は、鉄砲を撃ちこまれるまで、恥も外聞もなく助かろうとあがいた未練者ということになりましょうなあ……」  いつの世にも、勝者の歴史はきらびやかに飾られ、敗者の歴史は不当におとしめられることを、この若さでご存じかと胸を衝《つ》かれた権右衛門は、 「いいえ、天が見通しております」  その言葉のむなしさを百も承知の上で、あえてそういわずにはいられなかった。それから小半刻もせぬうちに、葛葉の命の火は燃えつきた。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]   粟田口の狂女     一  三条通り白川橋の東一帯をさす粟田口《あわたぐち》は、三条口、あるいは大津口とも呼ばれ、その昔、粟田口一派の名刀匠が住まいしたことでも名高い。  いわゆる京都七口の一つで、東海道、東山道から京へはいるには、かならずここを通らなければならない。しかも、白川橋を渡ればほどなく三条大橋がある。それだけに、白川橋近くの道筋は、重なり合うように家並がつづいているが、同じ粟田口でも、辰巳《たつみ》(東南)の方、日岡《ひのおか》と境を接するあたりは、人家もまばらであった。一つには、粟田口の刑場があるせいだろうか。  もう三十余年も昔、信長を弑逆《しいぎやく》した明智光秀が、老臣斎藤|利三《としみつ》とともに、いったん首を本能寺の焼跡にさらされたあと、その首を腐乱した胴体とつなぎ合わされた上、あらためて粟田口で磔《はりつけ》にかけられたのを、京の故老たちはいまもよく覚えていた。  その粟田口の片ほとりに、六十前後とおぼしい老女が、人目をさけるようにひっそりと暮らしていた。物腰、立居振舞のはしばしから、武家の出と思われるが、夫も子もなく、二十八、九かと見える女性にかしずかれていた。その女性は、老女を、 「おばばさま」  と呼んでいるようだが、孫とも受けとれない。伯母と姪《めい》という感じにも似ていた。そうかと思えば、ときとして主従のような気配もないではない。  老女は、名をお勝《かつ》といった。若い方は、茜《あかね》という。老女がこの粟田口に住むようになったのは、関ケ原の戦いの翌春である。そのときは、つれあいがいた。名は、 「むしん」  といった。字はどう書くのか、だれも知らなかった。関ケ原浪人くさいが、探索におびえている様子《ようす》はない。一度、京都所司代へ引っ立てられたが、すぐ戻された。数年後、むしんは死んだ。そのあとは、女二人だけの暮らしになった。  住まいは小さい。ささやかな小座敷があるにはあるものの、あとの二間は板張り、式台なしの貧弱な玄関、表には形ばかりの片びらきの木戸と生垣、小座敷の方には、庭とも呼べないほどの狭い庭があった。むしんが死んで間もなく、 「あそこの床の間には、しゃれこうべが飾ってあるそうな」  とうわさが立った。自分の目でたしかめた者はない。そのためか、かえっていよいよ評判になった。薄気味悪がった近所の者が、どこかの寺に頼んで葬むってもらうように抗議しても、お勝は、 「つれあいが大事にしていたものゆえ」  と聞かなかった。そのころのお勝は、ほのかに残《のこ》んの色香をとどめていたが、たおやかな顔に似げなく、声にはりんとした気魄《きはく》があった。近所の者は、ぶつぶついいながら引きさがった。それからしばらくして、所司代の下役人がきた。それも、お勝がうまくいいくるめた。  どういいくるめたか、だれも知らない。辞去するときの下役人のことばづかいは、おそろしく丁重だった。その様子をだれかが見ていて、大げさにいいふらした。近所の者の態度ががらりと変わった。 「あのときは、おかしかったわの」 「ほんに」  お勝は、茜とときどき思い出し笑いをする。実は初めから、しゃれこうべなどどこにもなかった。うわさが立つようにしむけたのは、ほかならぬお勝である。女二人の暮らしを守るはかりごとだった。  暮らしぶりはつつましかった。といって、さほど貧窮しているとは見えず、売り食いしているふうもない。身なりも質素ながら、いつも小ぎれいにしていた。  ときたま、どこからか書状が届いたり、馬の背に積んで、米俵が運ばれてきたりする。近所の評判だと、出入りの者には、奈良の南あたりのなまりがあるという。 「いや、能登なまりの年寄もいる」  そういう声もあった。  お勝が、もう先《せん》になくなった、むしんと呼ばれるつれあいや、茜といっしょに粟田口に移ってきてから、この春でちょうど十四年になるが、いまだに、お勝たちの正体はわからなかった。かろうじて察しがつくのは、 「武家の出には違いないらしい」  ということだけだった。     二  七月に元和《げんな》と改元される慶長二十年、葉桜に変わって間もない四月初めの昼さがり、お勝と茜は、青葉に埋《う》もれそうな、小座敷の濡縁《ぬれえん》にかけていた。話はおのずと大坂のことになる。 「故太閤さまご供養《くよう》のため」  と、おのれが秀頼にすすめて、方広寺の大仏殿を建立《こんりゆう》させておきながら、刻《きざ》まれた鐘銘《しようめい》のうち、 「国家安康」「君臣豊楽」  とある八文字に、徳川家をのろうものなりといいがかりをつけた家康の無理難題で、去年十一月、世にいう冬の陣が起こった。しかし、大坂城は難攻不落、城方の強い抵抗に手を焼いた家康は、十二月に和を結んだ。その和議から半年もたたぬうちに、家康はまたも大坂方を挑発し、露骨に再度のいくさに持ちこもうとしていた。 「和議の条件の一つは、総濠《そうぼり》を埋めること、総濠とは総構えの濠のことじゃ」  誓書には明記されてないが、双方の申し合わせでは、関東方の手で総濠を埋め、二の丸、三の丸の濠や櫓《やぐら》は、城方で崩すことになっていた。にもかかわらず関東方は、 「お手伝いいたす」  と称し、たちまち二の丸、三の丸の櫓をこわし、濠まで埋めてしまった。真に和平を望んでいるのなら、それほど急ぐ必要はないはずだった。  金城鉄壁《きんじようてつぺき》を誇った大坂城も、いまは裸城になった。 「こんどは大坂方に、とても勝ち目はございませんなあ」  茜はため息をもらした。 「大御所さまは汚い」 「そんな高いお声で……」 「なんの、かもうたことかや」  お勝は意にも介さない。 「あの仁《じん》の腹黒さ、いま始まったことではないわい」 「関ケ原のことでございますか」 「そうよ。太閤さまが亡くなられるが早いか、律義《りちぎ》の仮面をかなぐり捨て、法度《はつと》破りのかずかずで、治部《じぶの》少輔《しよう》(石田三成)どのを戦いに追いこんだ」 「なれど……」 「わかっている。治部少輔さまにはご人望がなかった。それにあの旗挙げ、おのれのご野心がなかったとはいい切れぬ。じゃが、家康よりはるかにましじゃ」  大御所さまからあの仁、最後はとうとう呼び捨てになった。 「もうこれくらいで……」  茜があわてて話題を転じようとしたとき、表の方で声がした。 「杉若《すぎわか》のおふくろさま、長三郎《ちようざぶろう》でござる」  お勝が庭|履《ば》きを突っかけて、すぐ表に出てみると、娘|婿《むこ》の神保《じんぼ》長三郎|相茂《すけしげ》が、小具足《こぐそく》姿で立っていた。供侍《ともざむらい》や、槍持ちや馬は、木戸の外に待たせてあるらしい。  長三郎は三十四歳、ふだんは伏見の屋敷にいるが、奈良のやや南、大和国|高市郡《たかいちごおり》に、七千石の所領を持っていた。 「まあ上がんなされ」 「いえ、せっかくながら、わらじを脱ぐのが面倒なれば」 「ずけずけといいやる」  嬉しそうに笑いながら、青葉をくぐって、お勝は長三郎をさっきの濡縁《ぬれえん》までつれていった。 「彦三郎は元気かえ」 「腕白《わんぱく》にて閉口《へいこう》いたします」 「それはたのもしい」  五歳になる孫のことである。長三郎は、茜が運んできた茶をすすって、 「お通《つう》がよろしゅうと申しておりました」 「その後、胸の方はどうであろ」 「いまのところ、さして案ずるほどではございません」  つい嘘をついた。実際には、秋までは持ちそうにない。お勝は、娘のことにはもうふれず、長三郎の小具足姿に見とれた。 「ごりっぱじゃ。で、こんどのいくさ、人数はいかほどつれなさる」 「騎馬の士三十二騎、雑兵《ぞうひよう》がおよそ三百にございます」  長三郎は一瞬、晴れがましい顔になり、昂然《こうぜん》と胸を反《そ》らせた。 「それはそれは。総勢三百以上とは、一万数千石の軍役じゃな」 「騎馬武者のみにかぎれば、三万石並に近くなります」 「さよう。七千石なら、騎馬の士は七騎でよい。よほどのお覚悟と見える」 「冬の陣には、前線に出る折がなく、なんの功名もありませなんだゆえ」  長三郎の気負ったことばに、一度うなずいてから、お勝は皮肉っぽく、 「わたしはさっき、大御所さまの悪口を申しておりました」  といった。 「鐘銘へのいいがかり、和議のあとの約束破り、汚い汚い」 「おふくろさま、長三郎は、大御所さまや将軍家(秀忠)のおんために出陣するのでございます」  長三郎はきっとなった。お勝も負けてはいない。 「それとこれとは話が別じゃ。太閤さまびいきの浪速《なにわ》すずめのさえずり、おもとの耳にもはいっておろう」 「はあ」 「律義なお人、と世間で賞《ほ》められる人間こそ本性は腹黒い。大御所さまがよい見本よ」 「なれど杉若の父御は、関ケ原の戦いで、石田方に与《くみ》しながら、大御所さまのお情けにより、助命にあずかられました。悪口いっては罰が当りましょう」  杉若の父御とは、長三郎の岳父《がくふ》(妻の父)すなわちお勝のつれあい、杉若越後守隠居して無心《むしん》のことだった。  越後守は通称藤七、初めは太閤の異父弟大和大納言|秀長《ひでなが》の幕下にあり、秀長が死ぬと、その養子|秀保《ひでやす》に仕えたが、文禄四年四月、秀保は十津川で水死、嗣子《しし》がなかったため家は断絶した。  そのおり、遺臣のほとんどは太閤の直参《じきさん》に取り立てられ、杉若越後守は、一万九千石を与えられて紀州田辺城主となった。家督を嫡子|主殿頭《とのものかみ》に譲り、隠居して無心と号したのはそれから間もなくだった。  関ケ原の戦いの際は、西軍に属して主殿頭が出陣、伏見城や大津城の攻略に加わったが、九月十五日の決戦で西軍は大敗、人を介して家康に詫《わ》びを入れた主殿頭は、最初から東軍だった桑山|一晴《かずはる》、貞晴《さだはる》とともに、西軍堀内|氏善《うじよし》の紀州新宮城を攻めた。ところが、新宮城攻囲中、 「紀州一ヵ国三十七万六千余石、そっくり浅野|幸長《よしなが》さまに賜るそうな」  と耳にした。紀州一ヵ国といえば、当然杉若家の所領田辺もふくまれる。絶望した主殿頭は、海路逃亡、行方を絶った。  田辺城にあった無心は、ひそかに覚悟をきめた。 「それを大御所さまは、所領召し上げのみにとどめ、あっさりご助命くだされたのでございます」  長三郎は強調した。     三  助命後、浅野幸長の好意により、しばらく旧領の片隅で過ごした無心とお勝が、遠縁にあたる、十五になったばかりの茜をともなって、粟田口に移り住んだのは、翌慶長六年の春である。ぜひお供を、と願う家臣たちの申し出は、 「もはや一介《いつかい》の浪人ゆえ」  と断った。粟田口に移っていくらもたたぬころ、無心は、京都所司代板倉|勝重《かつしげ》に出頭を命ぜられた。 「ご助命のことは承知している。なれど、降人の身で粟田口に住まわれること、ちと無遠慮に過ぎませぬかな」  小なりといえども元大名、という配慮からか、勝重のことばはていねいだが、目には、返答しだいでは許さぬぞ、といいたげな光が宿っていた。 「人も知るごとく、粟田口は京都七口の一つでござる」  詰め寄られても、無心は白州《しらす》に坐したままびくともせず、 「おそれながら、てまえがあえて粟田口に居を定めたは、おのれの犯せる罪を忘れまいとしてでございます」  しゃあしゃあといってのけた。 「罪を忘れまいと……」 「辰巳(東南)のかた、日岡との境には刑場があり、西のかた、ほど遠からぬところには、治部少輔どの、摂津守(小西行長)どのらが梟首《きようしゆ》せられし三条大橋もござる」 「待たれよ。世を乱し騒がせた大罪の者どもに、なぜどのなどつけられる」 「他意ござらぬ。単に死者への礼儀」  臆した様子はみじんもなく、平然と勝重を見上げた。 「相わかった」  勝重は大きくうなずいた。むろん、無心のことばが、本音でないことは、とっくに読み取れている。少しも腹は立たなかった。むしろ、一浪人となり果てても、いささかも卑屈さを見せず、堂々とした男らしさが小気味よかった。 「ご足労でござった。お帰りには駕籠《かご》を用意させましょう」 「いや、その儀はひらに」 「ご迷惑かな」 「せっかくのご好意なれど、てまえは内府《ないふ》さまに背《そむ》き奉った身にございます」  ひざの砂をはらい、無心は歩いて帰った。このときの仔細《しさい》が、板倉勝重から、家康に報告されたのはいうまでもない。 「さすがは杉若越後守」  と、後日勝重がもらしたことは、回り回って、神保長三郎の耳にもはいった。 「長三郎どの」  お勝はまた何かいいかけた。その目に、家康への感謝の色はない。 「もうおやめなされ。大御所さまのお情け、お忘れになってはなりませぬ」 「なんの、無心どのが助命されたは、すべておことのお働きのおかげじゃ」 「そのようなこと……」 「まだ十九の若さで、おことは進退を誤ることなく、東軍に属して、見事な武功を立てやった」  八月二十四日、岐阜中納言|秀信《ひでのぶ》(織田|信忠《のぶただ》の子三法師)の立てこもる岐阜城攻略で、軍功をあらわした長三郎は、藤堂高虎《とうどうたかとら》、黒田長政《くろだながまさ》、加藤嘉明《かとうよしあき》らとの連名ながら、家康から感状を賜った。お勝のことばはそれをさしている。 「いえ、あれは武功にははいりませぬ。その証拠にわたくしは、これまでの六千石に、千石ご加増受けたのみでございます」 「それは、無心どのの命の分、差し引いてあるのであろ。気の毒をしましたな」  お勝のまなざしには、長三郎に対する感謝だけではなく、多少の皮肉がこもっている。長三郎は敏感にそれを感じた。果たしてお勝はつづけた。 「おこと、大御所さまのお情けを忘れるなといいやるが、亡き太閤さまのご恩義はどうでもいいのかえ」  そのことばは、鋭く長三郎の胸に突きささった。  長三郎の父、神保|式部大輔春茂《しきぶのたいふはるしげ》は、能登の名門畠山家で羽ぶりをきかせた神保の一族だが、天正のなかば、畠山家が没落すると、しばらく紀州に幽居、後に大和大納言秀長に仕えて、高市郡のうちに六千石の地を与えられた。秀長の没後は、秀吉の直参となった。そのあたり、無心の場合と似ている。  春茂は文禄五年に死去、遺跡は十五歳の長三郎が継ぎ、ほどなく杉若越後守の娘お通をめとった。関ケ原の戦いが起こったのは、四年後である。 「そのおりおことは、豊家《ほうけ》とのゆかりを捨てて、東軍に与《くみ》しやった。その見通し、わずか十九の知恵とは思われぬ。おかげで無心どのは命拾いなされた」  唇をかんでいた長三郎は、すっくと立ち上がった。 「おふくろさまは、この長三郎に大坂に入城して死ねとおっしゃるか」 「そうはいいませぬ。このたびは、大御所さまにつかれること、筋が通る」 「わかり申した。やはりあのとき……」 「なんのことかえ」 「無心さまが亡くなられたおり、伏見にきてお通といっしょに暮らしなされ。長三郎はそうすすめました。おふくろさまはしかし、お断りなされた。豊家への裏切者とは住まいを同じゅうしとうない。そうでござろう、おふくろさま」 「違う。それは違う。これまで、おことが届けてくだされたお米、ありがたくいただきました」  長三郎には、それさえもいやがらせに聞こえた。 「供の者が待ちあぐんでおります。これにてご免」  長三郎は背を見せた。 「存分のお手柄、祈りますぞ」  返事はなかった。ややあって、表の方で馬がいなないた。それまでの、長三郎とお勝のやりとりを、黙って聞いていた茜が、なじり顔で、 「おばばさま、あれでは、長三郎さまの立つ瀬がございませぬ」 「なに、心配しやるな。長三郎どの、ばかではないわ」  にこっと笑ったお勝は、しげしげと茜を見守って、 「そなた、長三郎どのをどう思う」  とたずねた。 「長三郎さまを……」  茜はけげんな顔になった。 「お通は、しょせん助かりそうもない」  その意味に気がついて、 「そんな……」  茜はかすかに頬を染めた。三十近いとは、とても思われぬ初々《ういうい》しさだった。 「それよりも主殿頭《とのものかみ》さまは、どうしておいででございましょう」  茜は話題を変えかけた。主殿頭は、行方を絶ったままだった。 「いいやるな。あんな臆病者のこと」     四  四月十八日、家康は二条城に到着、将軍秀忠は、三日おくれて伏見城にはいった。それと前後して、諸大名の軍勢がぞくぞく集まり、洛中洛外を埋めつくした。  大坂方は、堺や大和郡山に火を放ち、気勢を上げた。  四月二十九日、泉州|樫井《かしい》の戦いで、大坂方の塙《ばん》団右衛門が討死した。大野|治房《はるふさ》の先鋒を命ぜられた塙は、岡部大学と先陣を争い、無謀にもわずかな手勢のみで進撃し、和歌山城主浅野|長晟《ながあきら》の先鋒亀田大隅隊に囲まれて討たれたのである。  五月五日、家康は河内の星田に、秀忠は砂に陣した。砂は大坂城の東北三里の地、星田は砂のさらに東北にあたる。  越前の松平忠直、加賀の前田利常、伊勢桑名の藤堂高虎、彦根の井伊直孝らをはじめとして、河内口に集結した東軍は、家康、秀忠の直属軍と合わせておよそ十二万八百、それとは別に、大和口からの進軍に備え、伊達政宗、松平|忠輝《ただてる》、水野|勝成《かつしげ》らの三万四千が奈良周辺にいた。  大和口一番手の主将は、勇猛を知られた三河|苅谷《かりや》城主水野日向守勝成で、神保長三郎相茂は、御所《ごせ》の桑山直晴、五条の松倉|重政《しげまさ》、高取の本多利重ほか、大和に所領を持つ諸将とともに、勝成の指揮下に配せられた。お勝のもとにも知らせがあった。 「それはめでたい。一番手なら、存分の働きができるわの」  わざわざ使いをよこしたところを見れば、長三郎は、さほど腹を立てていたわけではないらしい。 「よございました」  茜は、心ひそかにほっとした。  五月六日、道明寺、若江、八尾で激戦が展開された。道明寺では、大坂方の勇将後藤又兵衛|基次《もとつぐ》や、薄田《すすきだ》隼人正|兼相《かねすけ》が壮烈な最期《さいご》をとげ、若江では、木村|長門守重成《ながとのかみしげなり》が討死したが、寄手《よせて》の方でも、八尾で長宗我部盛親《ちようそかべもりちか》と戦った藤堂高虎が、藤堂仁右衛門以下、重臣や侍大将の多くを失った。  明くる七日の夕方、お勝のもとへ、再度長三郎の使いがきて、 「昨六日、道明寺において、神保勢は首九つを取りました。なお、大坂城の運命は、明日一日と心得ます」  と告げた。そういえばお勝は、出陣に際して家康が、 「腰兵糧《こしびようろう》は三日分でよい」  と豪語したとも聞いている。  事実、五月七日、頼みの真田幸村も討たれて大坂城は落ち、翌八日、秀頼も淀君も、朱三櫓《しゆさんやぐら》の炎の中で果てた。大野|治長《はるなが》以下も秀頼に殉じた。  お勝は、長三郎からの知らせを待った。どんな手柄を立てたか、一刻も早く、結果を確かめたかった。  が、長三郎の使いはこない。 「思ったほどの働きができず、顔が出しにくいのか」  初めはそうも思った。三日たった。それでも、なんの知らせもない。 「もしや……」  不吉なものが胸をかすめた。四日目に、おどろくべきうわさを耳にした。  五月七日の午後、天王寺口方面の戦いで、神保長三郎の隊が全滅したらしいというのである。全滅というだけで、くわしい事情はわからなかった。  激戦だったことは想像できる。天王寺口では六連銭の旗をなびかせた真田勢の突撃に、一時は家康の本陣がくずれたとも聞いている。岡山口の大野治房勢も、秀忠の本陣に迫り、秀忠みずから槍をふるって防戦したともいう。  とはいえ、神保長三郎の隊が、一隊全滅とは信じがたい。いかに功名をあせって深入りしたにせよ、一隊ことごとく全滅するとは考えられなかった。  長三郎の屋敷のある伏見から、粟田口は三里そこそこ、今日まで、なんの知らせがないこともいぶかしい。 「茜、そなたも供をしや。伏見へ行く」 「かしこまりました」  月夜なのを幸い、今夜のうちに、と身支度にかかったところへ、人がたずねてきた。お勝は息をのんで立ちつくした。 「そなたは……」  幽鬼のように青ざめた顔に、はっきり覚えがある。長三郎の遠縁にあたる神保平馬であった。まだ四十前後なのに、五十過ぎに見える。それほどやつれがひどかった。ただごとではない、ととっさに察して、お勝は平馬を小座敷へみちびいた。 「なにごとかえ」 「口惜《くや》しゅうござる……」  たった一言、あとはことばにならず、肩を波打たせて平馬はむせんだ。 「泣いていてはわからぬ。さ、わけをいいやれ」  お勝はにじり出た。 「長三郎どのが一隊、七日のいくさで全滅したとはまことか」  平馬は手をついて、嗚咽《おえつ》しながらうなずいた。 「なんでさようなことになったのじゃ」  お勝はたたみかけた。 「味方討ち、味方討ちに遭い申した」 「なに、味方討ち」 「城方の明石《あかし》勢をしりぞけて、一息入れているとき、背後からいっせいに鉄砲を撃ちかけられ……」  平馬はことばを途切らせた。 「その味方とは」 「仙台の伊達陸奥守政宗でございます」  平馬は、六十万五千石の太守を呼び捨てにした。どのなどつける気には、とうていなれなかった。     五  五月七日、家康は平野に馬を進め、天王寺口をめざした。秀忠は岡山口に向かった。真田幸村、毛利勝永ら大坂方の主力は、天王寺口を固めていた。当然、天王寺口が主戦場になった。  天王寺口の先鋒には、本多|忠朝《ただとも》がえらばれた。二番手に小笠原|秀政《ひでまさ》、本多隊の左手に松平忠直の越前勢が布陣した。昨日の一番手水野勝成や、勝成に属した神保長三郎、桑山直晴、本多利重ら大和衆は、 「一番手の諸隊は、昨日道明寺の戦いにおいて、死傷はなはだ多かりしと聞く。今日は旗本勢の前備えとして住吉に陣せよ」  と家康に命ぜられていたが、住吉では、戦場に遠すぎる。そのため、水野勝成以下、阿倍野まで押し出して、越前勢のやや後方にひかえた。  伊達政宗と、家康の第六子で、政宗の娘婿でもある松平忠輝は、阿倍野の西、紀州街道を進んだ。  この日の戦いは、焼けつくような炎天下、正午ごろに始まった。毛利勝永勢に突入した本多、小笠原勢が、主将本多忠朝を討たれ、小笠原秀政も重傷(夜、絶命)を負って敗退すると、岡山口へ進んでいた藤堂、井伊勢が、引き返して毛利勢に当った。  一方、真田幸村は、茶臼山《ちやうすやま》から駆け下りて越前勢を蹴ちらし、二陣、三陣をも突破して家康の本陣までくずしたものの、家康を討つことはできず、戦い疲れた末、越前勢の西尾仁左衛門に首をさずけた。  そのころ、阿倍野付近にいた水野勝成の陣に、越前勢の左翼が突如くずれかかった。船場にいた明石《あかし》掃部《かもん》守重《もりしげ》の精鋭三百が、越前勢に突っこんできたためである。 「見苦しいぞ」  勝成は猛然と前線に躍り出て、明石勢を押し返した。そのとき、水野勢の先頭に立ったのが神保長三郎の一隊、騎馬三十二名、雑兵二百九十余名だった。  この日、長三郎みずからも槍下《やりした》の高名を立て、部下の者も十三の首を取った。明石勢の生き残りは、守重を守って船場へしりぞき、船場から城内に戻った。  追撃するには、神保勢は疲れている。長三郎は、部下に命じて、船場口で一息入れさせた。それが不運を招いた。  いち早く引き返して、水野の本隊に合流するか、そのまま明石勢を追って進むかしていたら、禍《わざわ》いはさけられたに違いない。が、そうはせず、神保隊は最前線で折敷《おりし》いていた。そこへ、背後で無数の銃声が起こった。紀州街道を北上した伊達の大軍だった。 「味方じゃ」 「われらは東軍だぞ」  驚愕《きようがく》した神保隊の者は、振返って大声で叫んだ。それでも、銃声はやまず、いっそう激しさを加えた。 「味方と知って討つのか」 「やめろやめろ」  神保勢のなかから、十数名が狂気のように手を振って、伊達勢の方へ駆け出したが、途中でみな倒れた。 「散れ散れ」  下知する長三郎も、数弾を浴びて絶命し、夏草のかげに身を伏せた者も、ほとんど助からなかった。そこまで語って、 「無念でござる」  神保平馬は、右こぶしで涙をぬぐった。お勝の顔は、土色に変じた。 「それでどうしやった。泣き寝入りしたのではあるまいな」  かみつくように迫った。 「泣き寝入りなどいたしませぬ」  生き残った者が何人かいた。伊達勢にじかに抗議しては危い。味方の死骸の間を縫い、はってのがれ、諸陣を横切り、茶臼山に進められた家康の本陣にたどりつくと、平馬らは、本多|上野介《こうずけのすけ》正純《まさずみ》に事情を訴えた。  正純は、謀臣本多佐渡守|正信《まさのぶ》の子で五十一歳、正信が秀忠のお付きとなってからは、父にかわって家康の懐刀となり、 「佐渡どの以上に切れる」  といわれている。正信と違って、潔癖な一面も持っていた。平馬たちが、正信でなく、正純にすがろうとしたのも、そこを見越してのことだった。 「相わかった。しばし待て」  正純は、家康のご前へ出たあと、使番《つかいばん》を呼んで何かいいふくめ、あごをしゃくった。 「心得ました」  茶臼山の斜面を、馬で駆け下りた使番は、陽が傾きかけるころ戻ってきた。その復命を聞いた上野介正純は、にわかに表情をあらためると、 「神保平馬とやら、伊達陸奥守は、初めから味方と承知の上で撃ったと申している」  といった。 「政宗め、ひらき直ったな」  平馬からその先を聞くまでもなく、お勝には察しがついた。奥州の雄、独眼竜政宗らしい図太さではある。 「平馬、政宗は、神保隊が伊達勢のなかへくずれかかった故やむなく発砲した。そう申したであろ」  その通りだった。政宗は使番に、 「伊達家の軍法に敵味方の区別はない。捨ておけば、伊達勢まで共崩れとなりかねぬ。よって、あえて味方の神保隊を撃ち申した」  と返答し、さらに、 「今日のいくさの勝因は、わが隊が、神保隊もろとも明石勢を討ったことにある」  ともいったという。  根も葉もない作りごとだった。共崩れもなにも、神保隊の前方には、明石勢はすでに一兵もいなかった。  真田幸村を討った越前兵の働きや、岡山口における加賀勢の活躍を知って、あせった政宗が船場口めざして進むと、その前方に神保隊が折敷いていた。右手には、越前勢がいたが、越前勢の前に出るわけにはいかない。その点、神保勢なら無視できる。 「ええい、目ざわりな」  といらだった政宗が、とっさに、 「かまわぬ。鉄砲を撃ちかけよ」  と命じたに違いない。 「本多上野介さまも、そのこと、お気づきのはずじゃ」 「お気づきの上で、なおかつ伊達をおかばいなされた。そうおっしゃいますか」 「それ以外、考えようはない」  お勝は唇をかんだ。  伊達政宗は、仙台六十万五千石、こんどのいくさには、一万の軍勢を率《ひき》いて参陣した。それに引きかえ神保長三郎は、大名でもなくただの七千石、知行高以上の軍役をつとめはしたが、その人数は、騎馬武者、雑兵、合わせて三百三十名足らずだった。  たとえ七千石でも、長三郎が直参《じきさん》なら、政宗もこうした態度には出なかったであろう。また本多正純が、政宗の無法を見のがすはずもなかった。 「本多さまは、伊達と神保をはかりにかけられた」  昨日の道明寺の戦いで、伊達勢は、水野勝成勢とともに、後藤、薄田隊を撃破し、後藤基次を討ち取っている。基次の討死があと半刻でもおくれていたとすれば、勝敗は逆転していたかもしれない。伊達の軍功の前には、長三郎の働きなど、満月と星屑ほどの差があった。 「では、あきらめよと……」 「なんの、あきらめてなどなるものか」  お勝は目を血ばしらせ、すわり直した。その思いつめた真っ青な顔を、灯りが照らし出している。  関ケ原の戦いで、徳川についた変わり身の早さは気に入らないが、わが娘お通の婿《むこ》は婿、長三郎の非業《ひごう》の死を、見捨てるわけにはいかなかった。 「このままではすまされぬ。平馬、覚悟はよいな」  お勝は平馬を見すえて、 「生き残った者、みな集めやれ。証人になってもらわねばならぬ」 「上野介さまに会われますか」 「いや、佐渡守さまじゃ」  ひざに置いた手が、こぶしになった。     六 「このように早くなぜ取り次ぐ」  伏見城内の一角にある、宿舎の奥に寝ていた本多佐渡守正信は、家士《かし》に起こされ、ちりめんじわのなかから目をとがらせた。秀忠の供をして昨夜おそく、家康のいる二条城から戻った正信は、まだ眠りが足りなかった。 「それが……」  縁側に平伏して、家士は口ごもった。 「追い返せぬわけでもあるか」 「じつは、お目にかかりたいと願い出ているのは、先ごろ船場口で全滅いたしました、神保長三郎の義理の母で、お勝と申す老女でございます」 「なに」  正信の顔色が変わった。神保長三郎のゆかりの者と聞いては、会わぬというわけにもいかない。  それにしても、夜が明けていくらもせぬこの時刻に、どうして表御門からはいることができたのだろう。不審をただすと、 「番士の報告を聞き、大御番頭菅野市郎右衛門どのが、城内通行を許されたそうでございます」 「一存でか」 「まさかのときは、わしが腹を切る。そう申された由。また、途中の御門、御門へは、菅野どのが使いを回されたとか」  神保長三郎への同情から出たことはいうまでもない。神保家からは、前もって正信に対して、なんの願いも出ていなかった。だが、それを理由に断りもなりかねる。 「よし、しばらく待たせておけ」  小半刻《こはんとき》ばかりして、別室に足をふみ入れた正信は、一瞬、棒立ちになった。あわてて平伏する老女の顔が、白髪の鬼女に見えたからである。 「面《おもて》を上げられよ」  座についた正信が、改めて見直すと、老女は意外に気品のあるおもざしだった。ただ、髪は不気味なほど白かった。 「長三郎のせがれ、当年五歳の彦三郎にございます。お見知りおきのほどを」  かたわらにひかえさせた、利発そうな男の子を、お勝はまず引き合わせた。 「よいお子じゃの。このたびの神保長三郎どのの壮絶なご最期には、大御所さま、将軍家、ともに深く感じておわす。佐渡も同様にござる」  正信はとぼけた。 「わたくしがうけたまわりたいのは、さようなご挨拶ではございませぬ」 「と申されると」 「わたくしが、なんのためにここへ参ったか。すでにご存じでございましょう」 「いや、とんと」 「この髪をごらん下さい。長三郎の無残な最期を聞いて、かような白髪になりました」  呼吸をととのえてお勝は、 「伊達どのの味方討ち、洛中洛外に知らぬ者とてございませぬ」  語気鋭くいい放った。もちろん正信も、伊達の悪評が巷《ちまた》に満ちているのを知ってはいるが、立場上しらを切らざるを得ない。 「はて、伊達の味方討ち……」 「ご存じないとならば、初めより申し上げましょう」  お勝は、神保隊全滅のてんまつを、かいつまんで語った。語りつつ、ときに涙を流し、ときにこぶしで畳を鳴らした。 「伊達どのが、敵と見違えて鉄砲を撃ちかけた。そう申されるのなら、嘘とわかっていても承服いたします。なれど、共崩れをさけて味方と承知で撃ったなどといわれては、引きさがれませぬ」  佐渡守さまのお手で、真相をただしていただきたい、とお勝はいった。 「厄介《やつかい》なことを……」  内心、正信はいささか当惑した。女だからと軽く見ていたが、うまくいいくるめられる相手ではなさそうだった。 「証人としては、神保平馬以下、三名の生き残りがおります。また多賀左近どのが、あの日、大和衆の一人として、水野勝成さまの指揮下にあり、伊達どののなされようをしかと目にしております」  お勝はたたみかけた。多賀左近はことし二十七、長三郎の妹婿で、長三郎と同じ高市郡のうちに、二千石の所領を有し、家康や秀忠に目通りしたこともあった。 「せっかくながら、いずれも証人には不向きじゃな。神保家ゆかりの者ばかりでは、公正な証言は望めぬ」 「佐渡守さまさえその気になられたら、証人など不要でございましょう。このようにはっきりしたこと、証人なしでもご判断がつくはずと存じます」  お勝の声にいよいよ力がこもった。 「これは、伊達陸奥守さまの申しひらきを鵜呑《うの》みになされた、上野介正純さまの手落ちでもございます」  神保隊がくずれたかどうかは、船場口まで人をつかわせばすぐわかることだった。 「神保隊の者どもが、どのような倒れかたをしていたか。神保隊もろとも明石勢を討ったのなら、神保隊の死骸の間に、明石勢の死骸もごろごろしているはず。第一、どのような乱戦になろうと、騎馬武者、雑兵、合わせて三百三十名近い一隊が、たった三人しか生き残らぬ、このようなばかげたことがございましょうや」  それはとりも直さず、伊達勢が、神保隊の口封じまではかったことを意味する。 「そうではございませぬか」  と詰め寄られて、さすがの正信もことばに窮した。思わずそらせた目に、五つになる彦三郎が映った。彦三郎は、子供心にも、この場のけわしい雰囲気を察したのであろう。かわいらしい唇をきつくかみ、ひざの上の小さい手を、固いこぶしにしていた。正信はまたお勝に目を戻して、 「つまるところ、どうすれば気がすむといわれるのじゃ」  とたずねた。 「去る五月六日、七日の戦いで、合わせて千三百の首を取った伊達家を、つぶせとでもいわれるのかな」  こんどは、お勝がつまった。できるはずのないことである。正信は明らかに、面倒をさけたがっている。それに、落城から、もう二十日以上もすぎていた。六十万五千石と七千石では、対決を迫るなど不可能だし、よしんば対決に持ちこめたとしても、水掛け論になることは目に見えていた。また、こんどの事件は、 「伊達の味方討ち」  として、大坂攻めに参陣した諸大名や、家康、秀忠の麾下《きか》にあった旗本衆の間で、隠れもない評判になってはいる。神保隊への同情の声も、各所で聞かれた。が、公式の場で、伊達六十万五千石を敵に回してまで、七千石の神保家に肩入れしてくれる者があるとは考えられなかった。 「神保隊は逃げてはおらぬ。せめてそのことを明らかにして、亡き長三郎どの以下、非業に果てた者どもの、面目を立ててやりとうございます」  それが、せいいっぱいであった。お勝の目から、涙があふれ落ちた。 「善処いたそう。まかせられよ」 「お願いつかまつります」  深く一礼してから、面を上げたお勝は、釘をさすことを忘れなかった。 「わたくしめが人手にかかるようなことがあれば、伊達家か、もしくは公儀伊賀衆の仕業《しわざ》とお考えくださいまし」 「口がすぎる。わしが伊賀衆を使うとでも思うのか。頼みごとをするに、さようなことは申さぬものじゃ」  苦笑してたしなめた正信は、 「鬼の女房には鬼神がなるとやら。そこもと、さすが無心どののつれあいじゃな」  といった。     七  駿府からお召しがあって、彦三郎が、大御所家康にお目見《めみえ》を許されたのは、母のお通が病死していくばくもたたぬその年の秋であった。彦三郎にとって叔母婿にあたる、多賀左近が付き添って御前に出た。そうはからってくれたのは、本多佐渡守正信である。  粟田口のお勝のもとへは、神保平馬が報告にきて、 「大御所さまは、彦三郎さまに、杉若のばばどのは達者か、さようおたずねなされたそうでございます」  真っ先にそう告げた。 「さようなこと、どうでもよい。肝心なことをいいやれ」  お勝はふきげんな声を出した。 「申しわけございませぬ」  赤面した平馬は、 「五月七日の戦いにおいて、神保長三郎の一隊は、明石|掃部《かもん》守重勢と遭遇し、主従三百余名全滅——幕府の公式記録に、そう書き留められることになりました」 「ふん」 「なお、ご遺領は、そのまま彦三郎さまに賜る由にございます」 「それだけかえ」  お勝は冷ややかにいった。恩賞はないのかという意味である。 「三百名以上が、大御所さまならびに将軍家のおんためほとんど残らず死んだのに、遺領を賜るのみでは、長三郎どのはじめ、とても成仏《じようぶつ》できぬわ」 「そのことについては、彦三郎さま元服を待って沙汰するとのことでございました」  家康のお側にいた、本多上野介正純が、多賀左近に約束してくれたという。 「父佐渡守は老齢、いつ死ぬかわからぬ。佐渡の約束では心もとなかろう故、と上野介さまは申されました由」 「わたしが付き添えなんだゆえ……」  お勝は無念でならない。駿府からお召しがあったとき、お勝は自分も彦三郎についていくつもりだった。だが、 「お勝どのは遠慮されるように」  という、佐渡守正信の意向が伝えられてみると、それを押し切ってまで、しゃしゃり出るわけにもいかなかった。 「左近どのには荷が重過ぎた……」  二十七歳の多賀左近に、これ以上望むのは無理だった。この上は、後日の沙汰を辛抱強く待つしかない。 「彦三郎どのがこと、頼みましたぞ」  委細を多賀左近に託して、お勝はその後も粟田口を離れなかった。もちろん茜もいっしょだった。 「わたしは、とうとうそなたを、いかず後家にしてしもうたの」 「いいえ、茜はこれが運命だったと思うております」  つつましく茜は答えた。いつの間にか、髪を切髪《きりかみ》にしていた。  明くる元和二年四月なかば、家康が駿府で死んだ。七十五だった。 「鯛のてんぷらの食べ過ぎ」  とうわさが立った。六月初め、こんどは本多正信が、まるで家康の跡を追うように病死した。 「ご心配なきように」  という短い本多正純の口上が、使いによって、多賀左近まで伝えられた。お勝は、その旨平馬から聞いた。 「埋め合わせをしてくれる気か」  わずかに心がなごんだ。  本多正信が死んで一月後、思いがけないことがあった。家康の第六子で、伊達政宗の娘婿でもある越後高田六十万石松平忠輝が、家康の遺命により改易《かいえき》されたのである。  夏の陣のおり、道明寺の戦いに遅参したこと、老臣の権力争いによる内紛などが原因と取沙汰されたが、第一の理由は、大坂に向かう忠輝の軍勢が、江州守山付近を通りかかったとき、家士、若党など十二、三名を従えて、行列の横を馬上のまま駆け抜けようとした、旗本長坂十左衛門、伊丹弥蔵の両名を、 「無礼なり」  と大勢で取りこめて、討ち果たしたことにある。討たれた両名も、大坂へ急ぐ途中だった。後日、十左衛門の兄、長坂血槍九郎の訴えで、事情を知った家康は、 「下手人を差し出せ」  と命じた。その下手人差し出しに手間どったことや、引き渡されたのが替玉とわかったことから、家康が激怒したものだった。 「片手落ちじゃ」  お勝の口惜しさにまた火がついた。神保長三郎の一件を、家康が知らずにいたはずはない。知っていて黙殺したことは、まぎれもなかった。  一方は旗本の士というだけで、いかに気に入らぬ子とはいえ、わが子の忠輝さえ改易に処した。豊家《ほうけ》の旧臣だった神保長三郎は、主従三百二十余名が、故意の味方討ちにされたにもかかわらず、相手の伊達家は、おとがめ一つ受けずにすんでいる。  といって、いまさら蒸し返して訴えるわけにもいかなかった。お勝はひたすら、彦三郎の元服に望みをかけた。     八  十五歳になった彦三郎が、元服して神保大学茂安(後に左京茂明)と名を改めたのは、寛永二年の春である。  十一月初め、その大学に江戸からお召しがあった。お勝は七十の坂のなかばを越えていた。  十二月十一日、こんども多賀左近介添えのもとに、大学は千代田城に登場して、将軍秀忠にお目見《めみえ》し、あらためて父長三郎の旧知七千石の御朱印をさずけられた。左近からそれを聞いたお勝は、 「やはりそれだけかえ」  と不満をあらわにした。頼みの本多上野介正純は、三年前に失脚して、いまは配所の出羽にいる。 「だからといって、さようごもっともと引きさがることがあるものか」 「いいえ、黙って引きさがったわけではございませぬ」  御朱印をいただいて三日目の夜、左近はひそかに老中土井|大炊頭利勝《おおいのかみとしかつ》をたずねた。 「恩賞がほしいというのか」 「旧知|安堵《あんど》のみにては、死んだ者が浮かばれませぬ」 「ものは考えようじゃ。知行《ちぎよう》没収よりましであろう」 「知行没収……」  その意味が、左近は読めなかった。 「神保隊全滅の真相は、わしもとくと知っておる」  土井大炊頭利勝は、かすかな笑いを見せた。好意などみじんもない、冷淡きわまる笑いであった。 「その真相を伏せて、明石勢と戦って一隊全滅としたはからいこそ、とりも直さず神保家に対する過分の恩賞と知るがよい」 「どういうことでございます」 「にぶいの、その方」 「ご老中」 「よいか左近、騎馬の士三十二名、雑兵二百九十余名の手勢を持ちながら、伊達の味方討ちに、生き残りわずか三名になるまで、おめおめ討ち果たされるとは何事ぞ。武士ならば、いたしようもあったはず、不覚を恥じもせず、恩賞などとは鉄面皮な」 「しかし、本多上野介さまは……」 「本多どのは本多どの、わしはわし、相わかったか」  長三郎と同じ豊家の旧臣で、二千石にすぎない多賀左近では、権勢並びない土井大炊頭に、楯《たて》つくすべもなかった。 「そういうことなら、そこもとを責めても酷じゃの」  左近をなぐさめ、お勝はしばらく必死に気をとり直そうとしているふうだったが、急にがくっと両手を前についた。 「いいがかりのつけようもあったものよ。負けたわ」  痩《や》せ細った両の肩先が、小刻みに波うち、畳にまで垂れた長い真っ白い髪が、怪奇な生き物のようにふるえた。  年が明けて、寛永三年正月早々、御幣《ごへい》をかざした白髪白衣の狂女が、髪ふり乱し、白衣のすそを引きずって、 「われは奥州の伊達陸奥守なるぞ。去《さ》んぬる夏の陣に、神保長三郎の一隊を味方討ちせしは、この陸奥守にほかならず」  と洛中を叫びまわり、突如、大地に突っ伏せては、 「許されよ神保どの。政宗が悪かった、政宗が悪かった」  と転がりもだえた。お勝は狂ってなどいない。長三郎の霊がついたと見せかければ、 「おめおめ討たれるとは何事か」  という、土井大炊頭のことばのとげがひっかかる。お勝は逆手をとった。当然、所司代に引っ立てられたが、前所司代板倉勝重の嫡男である現所司代板倉|周防守重宗《すおうのかみしげむね》は、 「狂人では是非もなし」  と、すぐ釈放した。お勝は、また同じことを繰り返し、周囲を手こずらせた。重宗は、お勝が狂っていないことを、見抜いていたと思われる。 「ばばさま、もうこれくらいで……」  何度目かに釈放されたお勝は、茜にいわれて、童女のように素直にうなずいた。数日たった雪もよいのとある昼下り、どこかへ出かけたお勝は、それっきり帰らず、明くる大雪の朝、三条大橋で、半ば雪に埋もれて息絶えていた。まわりの足跡は、雪のために跡形もない。お勝は数ヵ所を刺されており、左胸の傷が命取りになったらしく、血にまみれた右手は、指が二本切れかけていた。 「ばばさまがご自身でなされた……」  駆けつけた茜は、なにげなく見た橋の下のそう深くない川底に短刀が沈んでいるのに気がつき、真っ青になった。伊達のつもりであろう、雪の上に「たて」と書かれた血文字がほとんど消えかけている。  すさまじいお勝の形相が、茜には、満足の死微笑を浮かべているように見えたが、彼女はだれにも語らなかった。  これほどのお勝の執念も結局はむなしく無に帰した。伊達家にはなんのとがめもなく、後年には神保家の家譜さえ、 ——この日、天王寺表に於て、再び戦ひをまじへ、相茂《すけしげ》が手勢騎馬の士三十二人|雑兵《ざふひやう》二百九 十三人一時に討死、相茂も奮戦して死す。三十四。  と書かれるに至った。しかし、すべてが抹殺《まつさつ》されたわけではない。神保家とはなんのゆかりもない島津家の『薩藩旧記』の中、夏の陣に関する一節には、  一、伊達殿は、今度味方討|被《まう》[#レ]申《され》候事。|雖[#レ]然《しかりといへども》御前は能候へ共、諸大名衆笑物にて比興《ひけふ》(不都合・卑怯)との由、御取沙汰之由候。味方討に|被[#レ]逢《あはれ》候人は、大和之国衆神保長三郎殿と申《まうす》にて候。  とはっきり記録されている。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]   燃えなかった蝋燭《ろうそく》     一  巨大な谺《こだま》が連続するように、天空から落ちてきた凄《すさ》まじい声が、忠朝《ただとも》の五体をふるわせ耳を鳴らしつづけた。その谺は、何ヵ月も響《ひび》きやまない。 「われはそれでも平八郎がせがれか。父には似ても似つかぬうつけめが」  振り切ろうとしても振り切ろうとしても、家康の怒声が、執拗《しつよう》に忠朝の耳にまつわりついてくる。  後に冬の陣と呼ばれる、去年——慶長十九年の冬の戦《いくさ》の折、より正確には、十二月七日の昼すぎ、忠朝は茶臼山《ちやうすやま》の本陣、並いる旗本衆の面前で、家康に罵倒《ばとう》された。忘れようにも忘れられるものではない。  その日の朝、忠朝は一方の攻め口を与えられた。大坂城の東、平野川を背に猫間川《ねこまがわ》をへだてて、前方に二の丸の玉造口《たまつくりぐち》を望見できるあたりである。  申し渡された場所まで兵を進めた忠朝は、一瞬、唖然《あぜん》となった。平野川の土手下から猫間川までの数町は、耕作された形跡《けいせき》もない湿地帯で、これでは馬を乗り入れるどころか、徒立《かちだ》ちの武者でも、多分|膝上《ひざうえ》まで沈むにちがいない。柵木《さくぎ》や竹束を運んで、仕寄《しより》を築くなど思いも寄らなかった。  念のために部下に命じて、平野川沿いに北へ走らせてみると、隣の陣はこちらほどではなく、馬を乗り入れることも、なんとかできそうだという。 「父の名に恥じない働きを」  まだ三十三、血気の壮者らしい忠朝の、領国を出るときの気負いは、みるみる色あせ、しなびてしまった。どうすればよいか、考えあぐねた末、これではどうにもならぬと決意した忠朝は、 「大御所さまにお目にかかってくる」  と馬の用意を命じた。もしこのとき、側に老練な者がいたら、打開策を進言して、忠朝を茶臼山へ行かせはしなかったであろうが、あいにく物馴れた士がいなかった。それが忠朝の不幸を招いた。  攻め口の変更を願い出た忠朝の言い分に、家康はきげんよく耳を傾けているように見えたが、忠朝がほっとしたのもつかの間、しまったと思ったときはもう遅い。家康の形相《ぎようそう》は一変し、 「われはそれでも平八郎がせがれか」  と頭上に雷《らい》が落ちた。柔和な丸顔が、瞬時に熟柿《じゆくし》の色に染まるのを目にしては、その場にいあわせた者も、忠朝のためにとりなすどころではなく、ただ気の毒そうに面《おもて》をそむけるばかりだった。 「与えられた攻め口、おめおめ変更を願い出るとは、うつけもうつけ、死んだ平八郎が知ればなんと嘆こうか」  激しい嘲罵《ちようば》に、下がるに下がれぬ忠朝が、両手をつき、背を丸め、恥ずかしさ、悔《くや》しさ、情けなさで、からだを地面に凍らせていると、さらに無残なことばがふりかかった。 「いつまではいつくばっているぞ。われの面など見とうもないわ。とっとと失《う》せよ」 「大御所さま、まこと平八郎が子にあるまじき失体、お叱《しか》り骨身にしみてございます。この償《つぐな》いはいずれ戦場にて」  それだけいうのが精いっぱい、そのあと、どうして茶臼山から駆け下りたかほとんど覚えず、ただ夢中で馬に鞭《むち》を当てつづけ、平野川の西岸までたどりついた忠朝は、崩れるように下馬すると、死人同然の色をして、地面の枯れ草にすわりこみ、 「不覚不覚」  と、こぶしで膝をたたいた。  その後忠朝は、雪辱《せつじよく》の折を待ったが、忠朝の無念をよそに決戦の機は訪れず、奸智《かんち》を秘めた家康の巧妙な術策が功を奏して、やがて大坂方との間に講和が結ばれた。  兵をまとめて、上総国《かずさのくに》大多喜《おおたき》に帰った忠朝は、ものいわぬ男になった。 「いずれ大御所さまは、大坂方を挑発し、半年とはせず再戦に持ちこまれよう」  しょせんかりそめの和睦《わぼく》、和平を口実に総構えを崩し、二の丸、三の丸の曲輪《くるわ》を壊し、濠《ほり》を埋め立てて、難攻不落の大坂城を、本丸のみの裸城《はだかじろ》にするのが目的の詐略《さりやく》とわかっていても、忠朝にすれば、歯ぎしりしたい悠長《ゆうちよう》さであったろう。  近習《きんじゆ》の小鹿半弥《おじかはんや》は、人知れず胸を痛めた。半弥は、物頭《ものがしら》小鹿伊右衛門の長子で、ゆくゆくは父と同様に物頭となるべき身だが、前髪のころ、特に望まれて忠朝の小姓となり、前髪を落としてからは、近習となった。  父伊右衛門は先年死んだ。半弥としては、伊右衛門と名を改め、物頭となるのが順当だが、忠朝の意向もあって、いまもなお、近習として仕えている。したがって、忠朝の気性も性癖も、だれよりも知りぬいていた。それだけに、忠朝の無念さはよくわかり、 「夕立に遭うたとでも思われませ。当の大御所さまは、いまごろはきっと、けろりと忘れておわしましょう」  と、心にもない慰めの一つも口にせずにはいられなかった。気に入りの半弥にいわれると、忠朝もついその気になりかけるが、すぐまた元に戻ってしまい、 「何が夕立なものか。あれは雪崩《なだれ》じゃ。雪崩の下に押しつぶされて、おれは心の底まで冷えてしもうたわ。もはや死人《しびと》よ」  と唇をかみしめる。 「ええい、いつまで待てばよいのじゃ」  じりじりするうちに年が明けて、慶長二十年(七月に元和《げんな》と改元)の春を迎えた。忠朝の耳に、家康の罵声は鳴りつづける。     二  偉大すぎる父親の存在は、子にとっては、往々にして重荷になりやすいが、勇将として人に知られた上総大多喜五万石の城主、本多出雲守忠朝の場合、きわめてまれな例外といえた。ときに、 「いかにあがいても、父上には遠く及びもつかぬ」  と絶望に似た思いにかられることはあっても、格別重荷と感じたわけではなく、まだ内記と呼ばれた少年のころや、二十歳にして出雲守に任ぜられて早々のころは、 「わが父は日本一」  と、むしろ心から誇りにもし、それほどの男を父に持つ身の果報を、大声でふれ歩きたいとさえ思っていた。  忠朝の父は、本多中務《ほんだなかつかさの》大輔《たいふ》忠勝《ただかつ》、いや、平八郎忠勝の方が、はるかに通りがよい。若武者のころから、 家康に過ぎたるものが二つあり 唐《から》の頭《かしら》に本多平八  と謳《うた》われた剛の者で、槍の穂に触れただけで、蜻蛉《とんぼ》が二つに切れたという名槍蜻蛉|切《き》りの持主としても名高いが、忠勝自身、中務大輔となったあとも、通称の平八郎を好み、たとえ家康にでも、 「中務」  と呼ばれたりするとひどくきげんが悪く、時としては、聞こえぬふりをして露骨にそっぽを向いたものだった。  忠勝には、三河武士として最高の血が流れている。  本多家では、代々|惣領《そうりよう》が平八郎を名乗る慣《なら》わしで、曾祖父助豊、祖父忠豊、父忠高、みなそうであった。  助豊の事績はさしてつまびらかでないが、忠豊は家康の祖父松平清康、父広忠の二代に仕え、天文十四年九月、先に織田信秀に奪われた安祥《あんしよう》城を攻めた広忠が、利あらず全滅の危地に陥ったとき、強く諫《いさ》めて広忠を落とし、みずからは広忠と名乗って敵勢に突入、安祥畷《あんじようなわて》(城以外はすべてあんじょう)に討死した。  また忠高は、その四年後、同じく松平勢が安祥城を攻めた折、先頭に立って力戦し、城門ぎわで矢を受けて絶命した。ときに忠高は二十二歳の若さで、妻とわずか二歳の鍋之助(忠勝)があとに残された。  ちなみに安祥城は、文明年間(一四六九—一四八七)以来、松平氏の本拠であったとされ、清康の代までに松平家に仕えるようになった者を、安祥御譜代《あんじようごふだい》と称した。なかでも、ことに名誉の家柄を、安祥御譜代七家と呼ぶが、本多家もその七家に数えられた。  忠高の妻も、七家の一つ、植村家の出であった。  三十に満たぬ若さながら、東海一の弓取りの名を得た松平清康は、天文四年冬、尾張に攻め入って守山《もりやま》に陣した際、陣中で馬が騒いだことから、清康の老臣である父阿部|大蔵《おおくら》を誅殺《ちゆうさつ》されたと誤解した阿部弥七郎に討たれたが、おそばにいた十六歳の植村新六郎が、その場を去らせず弥七郎を斬り伏せた。  新六郎は、この十四年後、広忠が故あって家臣岩松八弥に弑《しい》せられたときも、即座に八弥を討ち取っている。  忠高にとつぎ、鍋之助——後の本多平八郎忠勝を生んだのが、この植村新六郎の妹であった。  そのような、父方母方の血に背《そむ》かず、忠勝は見事な勇士に成長した。家康十九歳の初手柄、大高《おおたか》城の兵糧《ひようろう》入れの折、十三歳で初陣《ういじん》、以来六十三年の生涯を終わるまで、大小五十七度の戦いに臨んでただ一度も敗れず、傷を負ったことさえなかった。  忠勝は、父と祖父の討死や、伯父植村新六郎の働きについては、飽きもせず幾度も幾度も忠朝に語り聞かせたが、自分の功名に関しては、一言半句も口にしなかった。しかし、周囲がほってはおかない。お家の老臣や古参の士が、物心つくやつかずの忠朝に、 「よいか、若の父御はのう」  と、その武勲の数かずを、得々として吹きこんだ。だから忠朝は、精神面では、父の功名にまみれて育ったといえる。 「若はまだ三つ、殿はたしか三十七であらせられた。天正十二年四月……」  そんな前置をして、老臣たちがもっともしばしば繰り返したのは、家康が信長の次男|信雄《のぶかつ》に肩入れして秀吉と対決した、世にいう小牧《こまき》、長久手《ながくて》の戦いのことである。  秀吉の甥《おい》三好秀次(当時信吉)は、池田|勝入《しようにゆう》の献策を容れた秀吉に請うて、一軍を率《ひき》い、迂回して背後から家康をおびやかすべく、まず手薄になった三河に攻めこもうとしたが、いち早く察知した家康に、裏をかかれて長久手で惨敗、鬼武蔵といわれた森武蔵守|長可《ながよし》や、池田勝入|恒興《つねおき》、その子|元助《もとすけ》まで討死させてしまい、自分のみ、命からがら逃げ落ちるていたらくだった。  その日午後、敗報に接した秀吉は、家康との決戦をめざして楽田《がくでん》を進発した。小牧山にあった忠勝は、それを知るや、ただちに秀吉軍のあとを追い、追いつくと、竜泉寺川《りゆうせんじがわ》をはさんで同じ方角に進んだ。双方のへだたりは数町にすぎない。秀吉軍は八万、本多勢はただの五百であった。  忠勝の目的は、全滅まで戦って、秀吉軍の進撃を遅らせ、家康に時をかせがせることにあったが、秀吉はとりあわなかった。あとで聞けば、一部の将兵が、 「目ざわりな。踏みつぶしてしまえ」  と騒ぎ立てるのを、秀吉が固く制止したのだという。  竜泉寺まで十町余のあたりにさしかかったとき、新しい報告でもはいったのか、秀吉軍の動きが静止した。それと見た忠勝は、道からそれて畦道《あぜみち》に踏み入り、川岸まで行って、ゆうゆうと馬の口を湿らせた。秀吉軍との間隔は、いちじるしく狭められた。  秀吉の目にも、忠勝の姿が映った。黒漆《くろうるし》をほどこした鹿の角の前立《まえだて》のある兜《かぶと》、小脇にはさんだ青貝|螺鈿《らでん》とおぼしい槍の柄や、大笹穂の槍先が、夕陽に照らし出されて、馬上の平八郎が一幅《いつぷく》の絵になっている。 「あれはたれぞ」  秀吉に聞かれて稲葉貞通《いなばさだみち》が、 「あのいでたち、姉川《あねがわ》の戦いの際に見覚えてござる」  と忠勝の名を告げた。 「人もなげな振舞、討ち取りましょう」  血気の衆が秀吉にしきりに進言したが、 「あれほどの勇士、むざと討ち果たしては、秀吉武運の神に見放されるわ」  ついに秀吉は聞かなかった。  感嘆して、秀吉自身が吹聴《ふいちよう》したことから、平八郎忠勝の名は天下に高まった。     三 「若よ。それ以来殿は、つまりは三河の本多平八郎から、天下の本多平八郎にならしゃったのじゃ」  老臣たちの語り口は、毎回毎回、しめくくりの文句まできまっていた。それがまた、忠朝の気に入った。老臣たちの方は、度重なれば、あまりも曲がなさ過ぎて、ついつい話題を変えたりもする。そんなとき忠朝は、 「じい、あの話をせい」  逆にこう催促した。忠朝は、同じ話を何度聞いても飽きなかった。話を聞くたびに、 「父に劣らぬ勇士になろう」  と、小さな胸に刻んだ。  忠朝には、嫡男《ちやくなん》である七つ違いの兄忠政がいる。忠政、忠朝の両名とも、幼時から、武将として並々ならぬ資質の片鱗《へんりん》を見せたが、父忠勝は、忠政を思慮において勝るとし、忠朝には武勇の面で期待をかけた。おのずと二人の子への接しかたにも、微妙な違いが出てくる。  その違いに、早くから気づいていた忠朝は、元服前に、不敵な望みを父の平八郎に打ち明けた。 「この内記に、平八郎の名を下さいまし」 「忠朝……」  一瞬、絶句した忠勝は、 「よくぞ申した」  喜びあふれる表情になった。 「かたじけのう存じます」  忠朝は当然、承諾の意にとった。が、違った。 「待て忠朝、そちの申し出、涙が出るほど嬉しいが、そればかりは許してくれ」 「何故でございます」 「わが本多家には、平八郎の名は、かならず嫡男に継がせるという掟《おきて》があり、代々それを守ってきた。その掟、わしの代になって破るわけにはいかんのじゃ」  忠朝が、たちまち落胆をあらわにするのを見て、忠勝は、 「許せ、名を譲れぬかわりに、そちには忠信の兜《かぶと》をつかわす。九郎判官義経の股肱《ここう》に、佐藤|継信《つぐのぶ》、忠信兄弟があったこと、そちも存じておろう」  その忠信の兜は、かつて奥州のさる大名が秀吉に献じ、秀吉がそれを、家康との和が成ってから、 「この兜は、そちにこそふさわしい」  と、惜しげもなく忠勝に与えたものだった。秀吉には、ゆくゆくは家康から、忠勝をもらい受けたい魂胆があったに違いないが、兜を頂戴して、ありがたいとも思い、名誉としつつも、忠勝はついに心を動かさず、秀吉は結局、兜のくれ損になった。そんないわくつきの兜だが、忠朝は返事もせず、 「無念でございます」  と、ただ唇をかみしめた。しかし、 「忠朝、そちに平八郎の名を譲れぬこと、そちよりも、この父が切ないのじゃ」  そのことばと、父の目じりにうっすらとにじんだ涙に、忠朝はやっと納得し、 「忠信の兜、内記、ありがたく頂戴つかまつります」  と初めて両手をついた。  十九歳の秋、忠朝は父に従って、関ケ原の戦いを経験した。  決戦当日、精強を誇る島津勢は、石田三成との感情的対立から、主将島津兵庫入道|惟新《いしん》、副将島津豊久(惟新の甥)以下、一兵も戦闘に参加せず、大勢が定まってから、東軍の真っただ中を突破して、副将豊久まで討死し、千五百余の人数が、わずか八十名になるまで戦って、主将惟新を無事に本国薩摩まで帰らせ、世に、 「島津の退《の》き口」  といわれる壮烈な退却ぶりを見せた。  本多勢は、井伊直政《いいなおまさ》勢、福島正則勢とともに、その島津勢と戦い、忠朝は、太刀が曲がって鞘《さや》に収まらぬほどの働きをした。  後刻、戦勝の賀詞を述べに本陣におもむいた際、目ざとく鞘から四、五寸もはみ出た太刀に気がついた家康は、忠朝が口上を述べ終わるのを待って、大勢の旗本衆や大名たちの面前で、 「忠朝、われはさすがに、名だたる平八郎がせがれじゃの」  と賞めたたえたが、なぜか忠朝は、うつむいたきりだった。うながされて、面を上げた忠朝の目がうるおっている。家康に賞められた、嬉し涙とは思われなかった。その涙の意味を家康はとっさに見ぬいた。 「傷を負ったな」 「不覚にも三ヵ所に……」  語尾がふるえた。家康は大笑いして、 「これは欲深な。なるほど、われのおやじ平八郎は、五十数度の合戦に出て、一度も傷を受けなんだわ。じゃが、これは化け物、凌《しの》ごうなどと思うがもともと無理よ。それよりもわしは、われのいまの悔し涙が、五つや六つの兜首よりもっと嬉しいぞ」  これはまた、最高の賞めことばだった。あまりの晴れがましさに、忠朝は思わず頬を赤らめた。一足先に大勝利の喜びを言上していた父忠勝も、満足気に目を細めた。  翌慶長六年、内記忠朝は、忠勝が十五万石を賜《たまわ》って伊勢の桑名に転じた折、出雲守に任ぜられ、家康から、父の旧領、上総大多喜五万石を拝領した。  賞め上手な家康のあの日の賛辞が、あらゆる意味で、その後の忠朝を支えた。 「あのときの栄誉を汚すまい」  それを生きる信条として守りつづけた。  慶長十五年十月、父忠勝は、六十三歳をもって世を去った。父の死は、忠朝をさらにふるい立たせた。そして、去年十二月の失体までは、曲がりなりにも、 「本多平八郎どのがお子」  という晴れがましい名を、維持することができたのである。だが、いまや一切《いつさい》は、泥土にまみれてしまった。忠朝は言語に絶する屈辱の日々に耐えながら、再度の大坂攻めに望みをかけた。     四  ねらいどおり家康の挑発に乗って、大坂方は再戦に踏み切った。家康は四月十八日に入洛、ただちに二条城にはいり、三日おくれて秀忠も伏見城に到着した。  雪辱の好機と奮い立ち、千余名の兵を率いた忠朝は、関東の諸軍の多くと同じく、四月二十五日に京の土を踏んだ。家康、秀忠に直属する以外の諸軍は、着京の翌日か翌々日には、命により一部は大和口方面へ、残る大多数は河内口《かわちぐち》へ向かった。  忠朝は、河内口へ進発するに先だち、小具足《こぐそく》姿で家康に目通りしたが、広縁に姿を見せた家康は、冬の陣における忠朝の失体などおくびにも出さず、至極《しごく》上きげんで、 「こんどこそ、大坂方の息の根を止めねばならぬ。忠朝、だれよりも、われの働きを頼みに思うぞ」  ぬけぬけと殺し文句を吐いた。忠朝はころりと参った。去年十二月七日以来のわだかまりが、春の雪のように他愛なく解け、いつぞや近習の小鹿半弥がなぐさめてくれた、 「夕立に遭うたとでも思われませ」  ということばが、忠朝の胸の中で、たちまちあざやかな色彩を放ちはじめた。家康はさらに、 「そうそう、先にわれにもろうた大|蝋燭《ろうそく》な、あまり見事で使うに惜《お》しく、ずっと秘蔵しておったが、こんどはあれを三十|挺《ちよう》ほどたずさえてきたわ」  とにこやかにいい足して、戦場の幕舎の中で役立てたいといった。  この大蝋燭については二説あり、出入り商人を介して特別にあつらえさせたともいい、余所《よそ》からの献上品だったともいうが、出来栄えがすばらしく、自分だけの物にしてはもったいないと思った忠朝が、そのうちの五百挺を、薄手の内曇《うちぐもり》をはった五つの木箱に収め、わざわざ駿府《すんぷ》まで伺候して家康に献じたのである。  内曇とは、上部に青の雲形、下部に紫の雲形をすき出した上質の鳥《とり》の子紙《こがみ》のことで、雲紙《くもがみ》ともいい、凶事には、雲形の色が上下逆になったものを使う慣《なら》わしになっている。厚手のものは多く短冊《たんざく》に用いた。  忠朝が最初に手に入れたときは、大蝋燭の数は、末広がりの縁起からであろうか、八百八十八挺であった。だから、家康に献じたあと、三百八十八挺が忠朝のもとに残ったが、献上の際に家康が、 「当分秘蔵して使わぬ」  といったので、 「大御所さまがお点《とも》しなさるまでは」  と、忠朝はまだ一度も、その蝋燭に火をつけたことがなかった。 「上々のごきげんにあらせられたぞ」  戻ってきた忠朝から、首尾を聞かせられた小鹿半弥が、 「ほれ、わたくしが申し上げたとおりでございましょう」  と鼻をうごめかせ、家老|沢津杢之助《さわづもくのすけ》はじめ老臣たちも愁眉《しゆうび》をひらいた。  家康、秀忠の直属軍をのぞいた諸軍の編成は、大和口では一番手の主将水野|勝成《かつしげ》、二番手は忠朝の兄本多忠政、以下五番手まで、河内口は、先鋒右備え藤堂高虎《とうどうたかとら》、左備え井伊|直孝《なおたか》、ついで榊原康勝が一番手右備え、以下三番手まで、いずれも左右両備えに分かれた。忠朝は二番手右備えの主将を命ぜられ、真田|信吉《のぶよし》、浅野|長重《ながしげ》、秋田|実季《さねすえ》らが、その指揮下にはいった。  一、二の前哨戦をへて、東西両軍が、双方の運命を決する激戦に突入したのは、五月六日のことである。  この日、大坂方は、道明寺《どうみようじ》方面で、後藤又兵衛基次《ごとうまたべえもとつぐ》と薄田隼人正兼相《すすきだはやとのしようかねすけ》を失い、若江では井伊勢と戦って木村長門守|重成《しげなり》が討死、八尾《やお》では、長宗我部盛親《ちようそかべもりちか》が、藤堂勢を悩ませた末に、力尽きて敗走した。  同日昼さがり、後方にいる忠朝のもとへ、家康の本陣にいる旗本衆の一人から、思いも寄らぬ密書が届いた。いぶかしみつつ、それを読み終わった忠朝は、瞬時にして悪鬼の形相になった。  その密書には、お心得のためひそかにお知らせすると前置して、忠朝の献じたあの大蝋燭が、数日前の夜、幕舎で実際に点《てん》じて見たところ、外見の見事さに反して、ことのほか燃えようが悪く、にわかに不興をあらわにした家康が、 「忠朝めは、この蝋燭、献上前にともしては見ざったものか。先に攻め口の変更を願い出たことといい、このたびの手ぬかりといい、思いのほかの役立たずよ。平八郎があの世で泣いていようわ」  と憎々しげに吐き捨てたことをしたためてあった。  一度は消滅したはずの屈辱が、みるみる巨大な炎となって忠朝の胸を焼きただらせた。二条城で目通りし、家康の殺し文句に手もなく丸められて、大御所さま、上々のごきげんであったぞ、と老臣たちに得々と語ったあさはかさが、いまさらながら情けなかった。 「しょせん死ねとのご諚《じよう》じゃわ」  称賛にせよ悪口にせよ、じかに聞くのと第三者を通じてとでは、微妙な違いがあるが、称賛はともかく、悪口は後者の場合がより身にこたえる。  時間がたつにつれ、忠朝の内部で、家康の叱責《しつせき》の重みがますます増幅《ぞうふく》された。その忠朝のもとへ、夕刻になって、 「井伊勢、藤堂勢とも、若江、八尾の戦いにおいて、兵の損傷はなはだしく、明日の先鋒つとめがたし、されば忠朝かわって天王寺口の先鋒たるべし」  と家康の命が伝えられた。 「よし、死んでやる」  即座に忠朝は決意した。だれひとり、止める者はなかった。うかつに諫言《かんげん》でもすれば、とたんに忠朝の太刀が鞘走るに違いない。  夜になって、小笠原|兵部《ひようぶの》大輔《たいふ》秀政《ひでまさ》が、こっそり幕舎に忠朝を訪ねてきた。  秀政は信州松本八万石の城主で四十七歳、その妻は、家康の長子として生まれ、だれよりも父に愛されながら、天下人信長の意に抗しかねた当の父家康に死を賜り、二十一の若さで自刃した岡崎三郎信康の娘だった。秀政はつまりは家康の孫娘の婿《むこ》ということになる。当然、かねてから家康の覚えもよかった。その秀政が顔を土気色にして、 「たってお願いがござる。明日、てまえの軍勢、そこもとのご陣のおそばを駆け抜けることがあるやも知れ申さず。その折は、なにとぞ武士の情けにお見のがしを」  という。息づまるような声音《こわね》に、忠朝はぴんときた。 「死なれるおつもりか」 「先刻、大御所さまに本陣へ呼びつけられ、したたかお叱りを受け申した」 「どのように」  身につまされて思わず心が動いた。 「われは今日、何をしておった。井伊勢の苦戦を知らざったかと」  仙石忠政《せんごくただまさ》、諏訪忠澄《すわただすみ》らとともに、先鋒につぐ一番手右備え、榊原康勝に属していたから知らぬわけはない。真っ先に救援を主張したが、同じ手にあった藤田能登守《ふじたのとのかみ》重信が、 「あまり早く助勢しては、井伊家の面目にかかわり申すべし」  あとしばらく戦況を見守ってはと反論、みなその説をいれてしまった。井伊勢は、最後は形勢を逆転させ、木村重成を討ち取ったから、結果から見れば、藤田の判断が当を得ていたといえなくもない。が、秀政の口からそれはいえぬ。家康の罵声はなおつづいた。ついに見かねた旗本衆の一人が、 「実は藤田能登守どのが、制止なされた由にございます」  と助け舟を出してくれた。それがかえって悪かった。 「能登がどう止めようと、判断を下すはわれじゃ」  家康はいよいよ苦《にが》り切って、はては、 「信康が娘を、われごときにくれるではなかったわ」  とまで罵《ののし》ったという。秀政は、 「越前宰相さまも、味方総崩れともなりかねぬ折に、越前勢は昼寝でもしておったか、と嘲罵されたもうたとか」  ともいい添えた。越前宰相とは、家康の次子|結城秀康《ゆうきひでやす》(後に松平に復姓)の嫡男、越前北ノ庄(福井)六十七万石、松平|忠直《ただなお》のことである。 「血を引かれた忠直さまにさえそれでは、孫娘の婿にすぎぬ秀政など……」  自嘲しかけて、 「これは十三もお若い出雲守どのに、らちもない愚痴《ぐち》を」  秀政はさすがに、日ごろの毅然《きぜん》とした表情をとり戻して、 「では、先ほどお願いの儀」 「ご心中お察しいたす。三途《さんず》の川、明日は手をとりあって渡り申すべし」  それが、忠朝の返事であった。     五  小鹿半弥は、忠朝に従って、幕舎の外まで秀政を見送った。頭上から、星をちりばめた夜空がなだれてきた。  この年の五月六日は、陽暦では六月二日にあたる。梅雨入りも間近なだけに、無数の星が瞬《またた》いてはいても、真夏の夜空と比べると、どろっとした感じで重苦しい。  夜が更《ふ》けても、半弥はなかなか寝つかれなかった。むろん一つには、 「殿は明日、お討死の覚悟でおわす」  近習として日ごろお目をかけていただいたこの身も、生き残るわけにはいかぬという、突きつめた思いのせいもあるが、そればかりではない。幕舎に戻りしな、夜空の下で忠朝は、 「あの蝋燭が燃えが悪かったとはなあ」  ふとため息まじりにもらした。  半弥も同感だった。  出陣の際、蝋燭も荷駄《にだ》に加えはしたが、家康に献じたのと同一の品ではない。 「せめて三、四挺なりとも、あれをたずさえてくるべきでしたな」 「うん」  うなずきはしたものの、忠朝はそれっきり蝋燭のことにはふれなかった。だが、半弥の胸からは、忠朝の一言が消えず、いつまでも目が冴《さ》えてならなかった。  明けて五月七日朝の八時過ぎ、忠朝は天王寺口めざして押し出すと、左手の小高い丘と、右手の深田《ふけだ》に挟まれた地点に布陣した。丘をへだてた左手には、越前勢が進み出ているらしい。小笠原秀政は、忠朝の陣の後方にいた。戦闘開始までは、正式に先鋒を命ぜられた忠朝に、遠慮してのことであろう。  忠朝陣の右手には、ややさがって、味方の諸隊がひかえている。  半刻も過ぎたころ、前方に敵勢が進んできた。かなり遠い場所だが、旗じるしで、毛利勝永隊と真田|幸村《ゆきむら》隊と察しがついた。双方、まだ火ぶたを切る気配は見せない。ややあって、軍監安藤|帯刀直次《たてわきなおつぐ》が、忠朝の陣へ馬を乗りつけた。 「本多陣は出過ぎてござる。一町ほど退いて他の諸隊と並ばれよ」  帯刀は歴戦の古武士、忠朝より歳もはるかに多く、先年来、家康の十男|頼宣《よりのぶ》の補佐を申しつかっており、後に頼宣が紀州に封ぜられたときは、付家老《つけがろう》となったほどの人物だが、忠朝は断固押し返した。 「いまさら退くなど士気にかかわり申す。不ぞろいとならば、他の諸隊にこそ、一町進めと命ぜられてしかるべし」  陣太刀に手をかけんばかりの語気に、さすがの帯刀も、 「相わかった」  とただちに馬を返した。  この日、忠朝が用いた兜は、例の忠信の兜であったとも、いや、そうではなく、父にあやかって特に造らせた、黒い鹿の角を立物にしたものだったともいう。  槍は蜻蛉《とんぼ》切り、といっても、父平八郎愛用のものではなく、これまた父の愛槍をそっくり摸して名工に鍛えさせ、蜻蛉切りと名づけた、穂先一尺四寸四分五厘の大笹穂で、柄はむろん青貝|螺鈿《らでん》であった。  乗馬は名も百里と呼ばれる逸物《いちもつ》、ところがこの日にかぎってその百里が、どうしてか忠朝が鐙《あぶみ》に片足かけようとするたびに、脚を折って横ざまに倒れること四度に及んだ。 「おのれ臆したか。いま一度倒れてみよ」  陣太刀に手をかけた忠朝の勢いをおそれてか、百里はやっと起き上がった。後日人びとは、 「不思議なことよ」  とさまざまに取沙汰した。  天王寺口の戦いは、正午ごろ始まった。火ぶたを切る直前、戦機熟すと見た忠朝は、足軽隊を前進させた。その備えの立て方を見て、剛直ぶりを知られる老武者の小野|勘解由《かげゆ》が、ずけずけと大声を上げた。 「あのざまはなんじゃ。あれでは一ひねりで敵に蹴散《けち》らされようわい」 「なんの、忠朝がそうはさせぬ」 「ふん、かたわら痛い。嘴《くちばし》の黄なる殿が、何をいわっしゃる」  するとこんどは、加藤忠左衛門が、 「小野どの、よう申された。あの足軽どもの備えよう、ときどき大多喜で催される、鹿狩の折の勢子《せこ》同様」  と罵《ののし》った末、左手を指さして、 「殿、あれをご覧《ろう》じろ。あれにひかえているは、この忠左が手の足軽たち、小人数なれど勇気りんりん、戦いに馳《は》せ向かうにはああなくてはかなわぬ」  いいも終わらぬうちに、 「無礼な」  馬上の忠朝、近習のささげ持つ長刀《なぎなた》をひったくるが早いか、鞘をはね、勘解由と忠左めがけて振り回した。巧みにさけて、 「おっと、ご短慮は迷惑、小野勘解由、ただいま討死して見せ申すべし」  勘解由は馬に一鞭《ひとむち》あてる。忠左の方は、長刀をかわすはずみに落馬したが、すぐさまひらりと乗り直し、自分の備えの方へ馬を走らせた。 「杢之助《もくのすけ》、頼んだぞ」  昨夜のうちに、後事一切を託しておいた家老の沢津杢之助へ一声残して、忠朝は百里に鞭を入れた。小鹿半弥やほかの近習も、忠朝の左右を固めて走った。  小野勘解由は、早くも半町あまり先を駆けている。さっきの雑言《ぞうごん》に対する、忠朝の怒りはもう解けていた。 「勘解由を殺すな」  だが前方には、すでに毛利勢がひた押しに押し寄せて間をさえぎり、たやすくは勘解由に近づきようもない。するうち、敵の槍武者に囲まれた勘解由は、数合《すうごう》渡り合いはしたものの、つぎの瞬間には、七、八本の槍にかけられて宙に突き上げ突き上げされた。  半弥の伯父、軍奉行の小鹿|主馬助《しゆめのすけ》が、不用意に接近戦になっては味方の不利、と見てとって、 「槍は早いぞ。鉄砲じゃ、鉄砲をとれ」  と馬上から叫ぶが、みな上ずって、聞き入れる者はいない。味方のだれもが、意識して主馬助を無視したわけではなかった。  凄《すさ》まじい乱戦になった。端武者《はむしや》や足軽は、いつの間にかたいてい半裸になっていたが、名ある武将や武者は、さすがに具足を捨ててはいない。 「槍を、蜻蛉切りを」  忠朝がしきりに叫ぶが、近くに槍持はいない。やむなく味方の足軽の数槍《かずやり》(安物の槍)をとって渡り合った。  頭上に夏の陽が照りつづけて、戦場は草いきれと、ひしめく人馬の熱気や硝煙で蒸されるようであった。血のにおいに、死臭もまじりはじめた。     六  大坂城本丸の一角に、もうもうたる黒煙が見える。夜ならばすでに、空まで焦がすような火勢であろう。  激戦の渦が遠ざかり、一帯の草原や、合戦で踏みしだかれるよりは、と早苅りした麦畑のそこかしこには、槍や刀や鉄砲、陣笠、指物などが散乱し、動いている人影はほとんどなかった。  陽が西に傾いている。この季節は、日中は真夏とさほど変わらないが、夕方近くになれば、かなりな違いがある。陽にあぶられつづけて、さっきまでは、手をふれれば火傷《やけど》しそうに熱していた鉄砲の銃身や陣笠が、いまは熱を失い、ほのかなぬくもりを残しているにすぎなかった。  草いきれや、硝煙の独特な臭気が薄らぎ、そのかわり、草の根、麦の切株にしみこんだ血や、るいるいと横たわる死者の異臭が、あたりに満ち満ちている。ときどき、深傷《ふかで》で動けなくなった武者や足軽が、絶え絶えの呻《うめ》き声を上げた。  死者や手負いの群れのなかに、首のない忠朝の死骸もまじっていた。その主の屍《しかばね》に左手をかけて、大屋作左衛門がこと切れており、決戦に乗り出す途中、つまずいて遅れ、はぐれてしまった槍持が、やっと探しあてた忠朝のなきがらのかたわらに坐りこみ、ついに主に渡すことができなかった蜻蛉切りを抱きしめて、呆《ぼ》けたような虚《うつ》ろな目を、宙に泳がせ嗚咽《おえつ》している。  そこへ、前線の方から、一人の武者が血眼《ちまなこ》になって走ってきた。ときおり気ぜわしく、足にさわる死骸をのぞきこんだりする。  やがて、槍持の抱きしめた蜻蛉切りに目をとめた。とっさに事態を察して駆け寄り、 「お討死はまことであったか」  首のない主にすがりついて慟哭《どうこく》した。日高太郎右衛門だった。ややあって、 「殿、小笠原秀政さま、嫡子|忠脩《ただなが》さま、ともに討死なされてございます」  涙ながらにそう告げ終わった太郎右衛門は、いつまでもむせび上げている槍持を、叱りつけて手伝わせ、大屋作左衛門の屍を脇へ退けると、招き寄せた百里の鞍壺《くらつぼ》に、忠朝を抱え上げた。  からだを二つに折り、両手を鞍壺の右に、両足を左に、だらんと垂らした首のない主を見て、槍持はまた泣き出した。なにやら思案する風に、あたりを見まわしていた太郎右衛門は、とっさの思いつきで背中の指物をはずすと乳《ち》のところからちぎって、それで忠朝の首の部分を蔽《おお》い隠した。  百里がとぼとぼと歩きだした。  陽が落ちた。  戻ってきた忠朝のなきがらを囲み、主を失い、小野勘解由はじめ、多くの勇士たちを討死させた悲しみに沈んでいる本多陣へ、兜を捨てたざんばら髪の若武者が、刀を杖によろめきよろめきたどりついた。 「半弥……」  当然忠朝のおそばを去らず、討死したものと思われていた小鹿半弥の姿に、人びとは一瞬息をのんだ。  顔におびただしい血を浴び、その血もすっかり乾きかけていたが、半弥は身に無数の深傷《ふかで》浅傷《あさで》を負っているらしく、崩れるように片ひざつきになると、 「このままは死なれませぬ。なにとぞお手当てを……」  と沢津杢之助に訴えた。 「半弥、なんでおめおめ戻ってきたぞ」  軍奉行として、今日の戦いの指揮をとり、初めのうちこそ多少混乱を招いたが、以後はあざやかな采配《さいはい》で、忠朝はじめ多くの討死を出しながらも、本多勢の総崩れをくいとめた小鹿主馬助が、杢之助にかわって横合から、腑甲斐《ふがい》ない甥を叱りつけた。 「仔細《しさい》がござる……」 「その仔細とやら、申してみよ」 「いまは申し上げられませぬ。なにとぞお手当てを……」  こんな言分が、通るわけもない。 「卑怯《ひきよう》者」  後ろの方から罵声が飛んだ。そのとたん、声のした方角をきっと見て、 「卑怯者がこれほどの傷を負うか。これほどの働きをするか」  激しいことばとともに半弥は、杖にしていた刀を右手にかざした。篝火《かがりび》に照らし出されたその刀は、どれほど多量の血を吸ったか、一目でわかる痕跡をとどめ、刃は切先から鍔元《つばもと》三寸のあたりまで、鋸《のこぎり》の歯も同様になっていた。  あたりはしんと静まり返った。一語を発する者もない。力が尽きかけたのであろう、半弥は右手からぽろりと刀を落とし、両手を前についた。そのとき、だれかが主馬助のそばにすり寄り、何事か耳打ちした。うなずいた主馬助が、半弥にただした。 「半弥、足軽のなかに、逃げ出すお前を見かけたと申す者がいるそうじゃ。このこと、覚えがあるか」 「たしかに逃げ申した」  瞬時のためらいも見せず、むしろ昂然《こうぜん》と半弥は胸を反《そ》らせた。  名馬百里にまたがった忠朝は、蜻蛉切りを手にせぬまま、数槍を取っ替え引っ替え、敵武者十二、三騎を突き伏せたあと、肩先に銃弾を受けて落馬すると、こんどは徒立《かちだ》ちで阿修羅《あしゆら》の働きをした。  大小無数の傷をものともせず、半弥も忠朝の近くで白刃《はくじん》をふるっていたが、手強《てごわ》かった敵を仕止めて、わずかに一息入れたとき、なんの脈絡もなく不意に、 「さては」  とおそろしいことが、頭にひらめいた。いままで一度も思い浮かべたことのない、戦慄《せんりつ》すべき疑惑である。 「死なれぬ」  と、とっさに思った。右手の忠朝にちらと目をやると、忠朝は十本近い槍に囲まれていた。よほどの深傷を負っているに違いなく、明らかに足どりもよろけ、槍の動きもしどろだった。忠朝の死はもうさけようもなかった。それを知りつつ、半弥は夢中でその場から逃げ出すと、重なり合って息絶えた二頭の馬のかげに身をひそめて夕暮を待った。だから半弥は、忠朝が首をだれにさずけたかも知らない。  ともあれ、半弥が気がついた疑惑は、あまりにも重大すぎて、たとえ卑怯みれんの烙印《らくいん》をおされても、いま口外するわけにはいかなかった。 「なぜ逃げた。その仔細を申せ。申さねばやはり卑怯者と見なすほかはない」  主馬助に二度、三度とたたみかけられたが、あくまで半弥は、 「故あって。それ以上は、拷問《ごうもん》にかけられても申し上げられませぬ」  とのみで、最後まで押し通した。 「ご家老さま、この傷を証《あか》しに、半弥をお信じ下さいまし」  半弥はふたたび杢之助にすがった。 「はて困ったの。ほかの者の手前もある。信じようにも理由も聞かずには……」  杢之助も当惑した。 「どうでも申せと仰せられますか」 「さよう」 「ならば是非もございませぬ」  意を決した半弥は、 「実は、先に、わが殿が、大御所さまに、献上の……」  とぎれとぎれにそこまでいいかけて、急に気を失ってしまった。杢之助だけが、わずかに眉《まゆ》を動かしたのみで、ほかに半弥のことばを正確に聞きとった者はなかった。 「いかほどの働きをすればとて、逃げ戻ったは、お側にお仕え申したご近習としてあるまじきみれん、気がつくのを待って自害をすすめ、てまえが介錯《かいしやく》いたします」  主馬助が思いつめて杢之助に迫ったが、杢之助は承知せず、 「ならぬ。思う仔細があれば、半弥のことはわしにまかせよ。腹を切らすべきときは、わしが命じてそうさせる」  といい、半弥を幕舎に運びこませると、心得のある者に申しつけ、長時間、自分も付きっきりで傷の手当てにあたらせた。命をとりとめる見通しがついたのは、真夜中になってからだった。  この夜、大坂城は夜空を染めて燃えつづけ、事実上落城、翌五月八日正午ごろ、山里曲輪の一角、朱三櫓《しゆさんやぐら》の中で、秀頼、淀殿、大野|治長《はるなが》はじめ三十余名、思い思いに命を絶ち、華麗をきわめた豊臣家の歴史の残照は、虹のように消えた。     七  慶長が元和《げんな》と改元されてその翌日——七月十四日、家康は諸大名をそれぞれ帰途につかせた。この年は六月に閏《うるう》があったので、落城から九十四、五日ぶりのことである。  出陣の日よりもずっと人数がへり、主を討死させた本多勢は、悲しみを抱いて、八月初めに上総の大多喜に帰った。  傷もすっかり癒《い》えた小鹿半弥は、帰国後初めて登城した折、沢津杢之助に、早速家老部屋に呼ばれた。杢之助はすぐに人払いした。 「半弥、深い仔細とやらを聞こう」 「大御所さまに献上した残りの蝋燭三百八十八挺、一挺もあまさず、点《とも》してみとう存じます」  半弥は待っていたとばかり、膝を進めて切り出した。 「やはりそのことか」 「御家老もすでにお気づきで」 「気づかねば、あの折、そちに手当てをほどこしたりはせぬわ」 「かたじけのうございます」 「ただし、城中で試みるわけにはいかぬぞ」  半弥は無言でうなずいた。 「そうじゃ。三光院(忠朝)さまお形見として、あの蝋燭、そちにつかわそう」  いま思いついたような口ぶりだが、思案はとっくに定まっていたらしい。 「お立会いいただけましょうや」  蝋燭を燃やす場合のことである。 「よかろう」  それできまった。  三日後、使いを出し、夕食を早目にすませて心待ちしていると、供もつれずお忍びで杢之助が訪れた。座敷へ坐りしな、 「すませたぞ」  無造作に杢之助はいった。夕食のことである。 「ではこちらへ」  半弥は、こんどは裏庭に面した小座敷へ、杢之助を案内した。縁先に十基の燭台が用意され、大蝋燭を収めた四つの木箱が、敷居ぎわに置いてある。ほかに小さな木箱も一つ。杢之助の目が微妙な光を帯びた。片隅にひっそりとひかえている、妻の秋葉の存在がそうさせたらしい。 「お気づかいなく。何も聞くなと申し渡してございます。それに」  これからすることを、うかつに他言するような妻ではない、といいたかったが、それより先に、 「わかった」  と杢之助が制した。  無言で箱から取り出した大蝋燭を、秋葉が手ぎわよく十基の燭台に順々に立てた。半弥が、ほかの小ぶりの燭台から、すでに点してあった蝋燭をとって、つぎつぎに火を移しにかかった。 「待て、どこからも見えはすまいな」 「ご安心を。裏塀の向うは、溝川《みぞがわ》になっておりますれば」  物頭をつとめて先年死んだ父が、それまでの功績を多として、特に忠朝から賜《たまわ》ったということもあり、いまは一介の近習ながら、半弥の屋敷はかなり広い。  蝋燭はどれもよく燃えた。燃えぶりの悪いものはただの一挺もなかった。試しのすんだ分は、ひとまず沓《くつ》ぬぎに置いた大盥《おおだらい》に放りこむ。百挺まで試したところで、半弥は別の小箱から十挺を取り出したが、それもよく燃えた。 「ご覧《ろう》じませ。念のため、半日水に浸してから乾かしたものでございます」  杢之助は答えず、ただ重い息をもらした。半弥はなおも試しつづける。いつか半弥も秋葉も汗みずくになった。小座敷もしだいに暑くなり、何もせず、床の間近くに坐っているだけの杢之助の額《ひたい》まで、汗ばんできた。  庭は刻々と暗くなる。それにつれて、炎はいよいよ輝きを増してきた。十二日の月が、もうかなり高くなっているはずだが、この屋敷の向きのせいか、月光はまだ、塀ぎわあたりまでしか届いていない。  百五十挺、二百挺、二百五十挺——。試しが進むに応じて、月光が少しずつ庭にひろがったが、半弥も秋葉も杢之助も、月の庭のおもむきに興を向けるゆとりはない。試しが三百挺に達したとき、杢之助は死相に似た顔になっていた。 「半弥、もうよい」 「いいえ、最後の一挺まで試します」  杢之助は、思いとどまらせるのをあきらめた。半弥の涙に気づいたからである。半弥はとめどもなく涙をしたたらせながら、秋葉の取り替える蝋燭に、憑物《つきもの》がしたかのように火を移していった。しまいには、嗚咽《おえつ》をかみ殺しているのがはっきりわかった。  三百八十八挺残らず試し終わると、堆《うずたか》く積まれた大盥の蝋燭をそのままにして、半弥は秋葉を下がらせた。 「ご家老、とくとご覧なされたか」 「うん」  それだけですべて通じはしたが、半弥はこのままでは気がすまない。胸のつかえを残らずたたきつけたかった。 「この半弥とて、去年冬の大御所さまお腹立ちは、正真正銘、と疑ったこともございませぬ。なれど、献上の蝋燭はたしかに燃えたはず。燃えが悪かったはずはない」  討死前日、忠朝が天王寺口の先鋒を仰せつかるに先だって、旗本衆の一人がひそかに届けてくれたあの密書、あれは実は、家康自身の差金《さしがね》ではなかったか。 「本丸のみの裸城になったとは申せ、大坂方が死物狂いになれば、ことは容易ではございませぬ。道明寺口、若江、八尾での戦いでもそれが実証されました。それ故に大御所さまは、寄手切っての勇将におわすわが殿出雲守さまを……」 「いうな。その先は申すでない」  あわてて押しとどめた杢之助の顔も、涙まみれであった。 「半弥、悔《くや》しいが、このことだれにも明かされぬ」  そのわけは、半弥にも読める。  落城後家康は、忠朝の兄美濃守忠政をわざわざ本陣に招き、忠朝の死を惜しんで、ねんごろに哀悼《あいとう》の意を表し、合わせて主を失ってもひるまず勇戦した本多勢の働きを、ことばを尽くして称賛、 「軍監の報告によれば、わけても窪田伝十郎、大原|物《もの》右衛門《えもん》、柳田|左馬允《さまのすけ》、山本|只《ただ》右衛門《えもん》、以上四名の力戦、並びに軍奉行小鹿主馬助の采配ぶり、見事であった由」  と、五名それぞれに宛てた感状五通を、忠政にさずけた上、 「出雲守がせがれ入道丸(後の内記政勝)はまだ二歳と聞く。されば遺領は入道丸成人まで、その方の次子|甲斐守政朝《かいのかみまさとも》に預けおく。さよう心得よ」  と申し渡したのである。 「それにしても……」  杢之助は、落城後いくばくもせず耳にした、半弥はまだ知らずにいるらしい二つのうわさを、あらためて思い出した。一つは、忠朝討死の当日、本陣に築いた仮の高櫓から、夏草の野に展開される戦況を見守っていた家康が、かたわらの謀臣本多|正純《まさずみ》に、 「出雲は進み過ぎじゃ。捨ておけば討死しよう。早々に使番をつかわして、いま少し退かせよ」  とあわてて命じたという説、あと一つは、それとはまったく逆で、正純が、 「ああも深入りしては、出雲守討死必至にございます。ただちに使番を走らせて、引けとお指図遊ばしませ」  としきりにうながすのを家康が、 「われの知ったことか」  と一喝したという。杢之助からそのことを聞かせられて、 「初耳でございました。で、ご家老はいずれを信じられます」  半弥が鋭く問い返した。 「わしにも判断つきかねる。わかったところで、いまさらどうにもなるまい。半弥、蝋燭の一件、すべて忘れよ」  釘をさして杢之助は辞した。     八  その三日後、半弥はいさぎよく腹かっさばいて果てた。請《こ》われて伯父の小鹿主馬助が介錯《かいしやく》した。  それに先だって、家老の沢津杢之助が半弥の屋敷を訪ね、夜が更けてから辞去したことに、うすうす気がついた者が二人いたが、二人とも、 「善処をうながしにおもむかれた」  としかとらなかったらしい。  形ばかりの寂しい葬儀がすんで、数日たったある夕方、杢之助は、人目をさけて弔問《ちようもん》に出かけた。  二十三とは思われぬ落着きで、つつましく応対した切髪《きりかみ》姿の秋葉は、杢之助が、新しい位牌《いはい》に線香を手向《たむ》けて合掌し、一礼して下がるのを待って、ことば少なながら、行き届いた謝辞を述べた。  澄んだ切長の目には、つゆほどのうるみもなく、武家女として、実家の両親から秋葉が受けたであろうしつけをうかがわせた。  ややあって秋葉は、突きつめた目を杢之助の面にすえた。 「一つだけ、ご家老さままで申し上げたいことがございます」  秋葉が何をいいたいのか、杢之助にはぴんときた。狂ったともとれるあの夜の半弥を見れば、よくよく鈍な女でも、異様な何かを感じるに違いない。まして秋葉ほどの女、いぶかしいと思わぬ方が不思議だった。 「先夜のことだな」 「いいえ。この秋葉、あのような夫の振舞《ふるまい》の裏に何があったか、読みとれぬほど愚かではないつもりでございます」  いわれてみれば、申し上げたいこと、と秋葉はいったが、おたずねしたいこととはいわなかった。 「伯父には口どめされました。なれど、ご家老にのみは、知っておいていただきとうございます」  そして、ずばっと切り出した。 「夫の切腹は、無念腹でございました」  ふつう、腹を切る場合は、浅く切るのが習《なら》いである。深く切るのは、古来無念腹と称して、忌《い》むべきものとされている。  秋葉は語を継《つ》いだ。 「庭にしつらえた切腹の座に直り、夫は伯父に申しました。一期《いちご》の願い、半弥に思いどおりのことをさせていただきとう存じます。さもなければ、永劫《えいごう》浮かばれませぬと」 「主馬助は承知したのか」 「承知しなければ、もはや人間ではございませぬ」  半弥は思うさま腹を切り、腸《はらわた》をつかみ出して庭石にたたきつけた。 「そのとき、夫がだれに向かってなんと叫んだか、それはご推察下さいませ」  その名を明かさなかったことが、そのまま真相を語る形になった。無言でうなずいた杢之助は、三呼吸ほどの間を置いて、 「つかぬことを伺うが、半弥は帰国してからそこもとを……」  とたずねた。秋葉は一瞬息をつめたが、やがて、静かに首を左右に振った。 「やはり察した通りか」  秋葉は返事をしなかった。目には、深い色が宿っている。夫のしたことを、女として納得した目では決してない。かといって、恨《うら》みの目、夫を責める目でもなく、なんともことばにあらわしようのない、暗くて悲しいまなざしだった。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]   坂崎乱心     一  前日の後藤基次《ごとうもとつぐ》、薄田兼相《すすきだかねすけ》、木村|重成《しげなり》らの討死《うちじに》につづく、大坂方頼みの真田左衛門佐幸村《さなださえもんのすけゆきむら》の最期が伝えられた五月七日、夕暮にはまだ間のあるころ、 「さすがは真田よ。大御所《おおごしよ》さまのご本陣が、二度も切り崩されたそうじゃ」  その話で持ち切りの寄手《よせて》最前線の諸陣に、思いがけないうわさが流れた。決戦突入の直前まで、幸村の本陣だった茶臼山《ちやうすやま》に進出した家康が、大坂城内にいる孫娘|千姫《せんひめ》の身を案じて、日ごろにもなく取り乱し、 「お千が死ぬ、お千が焼け死ぬ。だれぞお千を救い出す者はおらぬか。もし三千石以上の士にしてお千を助けた者があらば、ただちに大名に取り立てた上、お千をつかわすであろうぞ」  と口ばしったという。そのうわさは、大坂城の南々東にあたる岡山口から城のほぼ真南に近い、天王寺口寄りの前線に陣を移した、石州津和野《せきしゆうつわの》三万石の城主、坂崎|出羽守《でわのかみ》の耳にも入った。出羽の実名は直盛か正勝だったらしいが、世には成正、もしくは成政の方がよく通っている。 「おもしろい。真偽《しんぎ》を確かめてまいれ」 「かしこまりました」  三十代なかばながら、成正お気に入りの側近で、家老の一人でもある牧野|勘兵衛《かんべえ》が、周囲の数名に目くばせし、みずからも立ち上がった。勘兵衛は、早くから坂崎姓を与えられているが、よほど重大な使者をつとめるとき以外、めったに坂崎を称することはない。 「うわさは真実らしゅうございます」  真っ先に勘兵衛が戻ってきた。他の者の報告も同様で、諸陣とも、真田の勇戦ぶりがすっ飛ぶほどの評判だという。ただし、口頭、あるいは書面による正式なお触《ふ》れがあったわけではなく、うわさの出所ははっきりしなかった。  陽《ひ》が西に傾いて、さっきまでの炎暑は薄らいだが、前方から火の粉とともに熱風が迫ってくる。  冬の陣の和睦《わぼく》の条件として、二の丸、三の丸とも建物の多くは取り壊され、濠《ほり》はすべて埋めつくされたものの、櫓《やぐら》のいくつかと、侍屋敷の一部は残っていたし、再戦に備えて建てられた急ごしらえの仮屋もあった。  だが、それらはもうあらかた焼け落ち、故太閤の栄華の名残《なごり》、本丸の千畳敷御殿や、豪壮華麗をきわめた天守閣にも、そろそろ火が回ったに違いなく、まったく火が及んでいないのは、本丸の北にある山里曲輪《やまざとくるわ》のあたりのみと思われた。  勘兵衛の聞きこんだかぎりでは、まだ秀頼や淀殿、大野|修理《しゆり》らが、城内のどこにいるかもわからず、千姫の消息もつかめなかった。もしかすれば、家康を恨《うら》むあまり淀殿が、千姫を道づれにする気かもしれない。 「姫君をお救い申す」  成正が目を光らせた。勘兵衛はあわててとめた。 「なりませぬ。危《あや》ううござる」 「なんの、城方はもはや落ちのびることで必死、人数は四、五十人もあれば十分じゃ」 「てまえが恐れるのは敵ではござらぬ」  姫を探しまわっているさなか、頭上から大きな梁《はり》でも燃え落ちてくれば一命はない。 「そのときはそのときよ」 「では、それほど千姫さまをご正室になされたいので」  勘兵衛はついからかい口調になる。 「たわけ、おれはもう五十、奥もいれば子もいるわ」  成正の声がとがった。これ以上とめだてすればどうなるか。勘兵衛は知り抜いている。成正の一刻《いつこく》ぶりは天下周知だった。  初め成正は、秀吉のお気に入り宇喜多中納言秀家《うきたちゆうなごんひでいえ》に仕《つか》えて、二万五千石近くを領し、宇喜多|左京亮《さきようのすけ》と称していた。成正にとって秀家は、主君にして従兄弟《いとこ》にあたる。そのころの成正は、秀家に劣らぬ面《おも》だち秀麗な若者だったが、いま以上に剛強一徹で、すぐにかっとなりやすかった。  備前、美作《みまさか》の両国に、備中《びつちゆう》のなかばを合わせて、五十七万余石の太守である秀家は、なかなかの勇将だが、政治的能力にとぼしく、とかくうわさの多い長船《おさふね》紀伊守に国政をゆだねて、紀伊よりはるかに大功のある戸川肥後守、花房《はなぶさ》志摩守、岡越前守らをないがしろにした。紀伊の専横はしだいにつのり、徒士《かち》にすぎぬ中村|刑部《ぎようぶ》(前名次郎兵衛)に二千石を与えて、おのれの腹心《ふくしん》とした。 「これではお家の行末が案じられます。あなたさまはご一門なれば」  戸川肥後らは、成正に助力を求めて諫言《かんげん》を要請した。成正はむろん承知した。しかし秀家は、成正の意見に取り合いもしない。  慶長四年、長船紀伊が急死すると、秀家はあとを刑部にまかせた。成正以下、いよいよおもしろくない。その矢先に、 「刑部は、紀伊の急死をもって、左京さまがた四名による毒害、と殿に申し上げたらしゅうございます」  こういう密告を耳にした成正は、高麗橋《こうらいばし》にあるおのれの大坂屋敷で、戸川肥後以下二名と申し合わせるや、伏見の宇喜多屋敷に押しかけて、秀家に刑部の引き渡しを求めた。 「刑部は怖《おそ》れて逃げ失《う》せたわ」  秀家はそう答えたが、その実は、秀家自身が大金を与えて逃がしたことが、数日たってはっきりしたからたまらない。 「刑部ごときに見替えられたか。主従の縁もこれまでよ。このままでは意地が立たぬ。あとは秀家さまが相手じゃ」  成正以下、高麗橋の屋敷に立てこもった。いずれも万石以上の老臣ゆえ、家臣の数も多い。国元からも駆けつけた。伏見の秀家も、当然いくさ支度にかかる。 「いまに小路《こうじ》いくさ(市街戦)が始まる」  大坂中が騒ぎになり、大谷吉継《おおたによしつぐ》、榊原康政《さかきばらやすまさ》の両大名が調停につとめたが、成正たちは応ぜず、ついに秀吉死後随一の実力者、徳川家康が乗り出して、 「世間を騒がせし不所存者」  と表向き成正らを叱《しか》り、戸川肥後、岡越前を前田|利長《としなが》に、成正と花房志摩を、増田長盛《ましたながもり》に預けて蟄居《ちつきよ》を命じた。  翌慶長五年、関ケ原の戦いにおいて、旧主秀家は三成《みつなり》についたのに、成正らはみな家康に与《くみ》して、それぞれ武功を立て、津和野三万石を与えられた成正は、 「宇喜多を姓とするはおそれ多し」  として坂崎に改め、対馬守《つしまのかみ》、ついで出羽守に任ぜられた。また戸川は成正と同じく大名に、花房と岡は旗本に取り立てられた。  その後も成正の血の気の多さは直らず、意に背《そむ》いて出奔《しゆつぽん》した甥《おい》の左門をかくまったとして、妹婿の伊予宇和島《いようわじま》十二万石|富田《とみた》信濃守|信高《のぶたか》と、数年に及ぶ抗争の末、慶長十八年、家康の御前で対決、言い分をみとめられ、信高ならびに、信高に頼まれて一時左門を預かった、日向県《ひゆうがあがた》(延岡《のべおか》)の城主高橋|元種《もとたね》まで改易《かいえき》に追いこんで、老父や妹を泣かせた。  成正はそんな男だった。     二 「功名の立てどころぞ。千姫君に万一のことがあってはならぬ。急げ」  成正は、勘兵衛以下四十名足らずを率《ひき》いて陣営を離れ、三の丸の焼跡の一角から城内にはいった。累々《るいるい》たる屍《しかばね》や、槍《やり》、刀、指物《さしもの》、焼柱などの散らばる中を、奥へ奥へと進むうちに、自分たちが城内のどこにいるかさえ見当がつかなくなった。一つには、他家の軍勢と別行動をとったせいもある。 「みな案ずるな。ここまでの道順、勘兵衛とくと覚えている」  そのとき、 「ぶしつけながら、もしや坂崎出羽守さまではございませぬか」  横合から声をかけてきた者があった。声の主は、一目でそれとわかる大坂方で、兜《かぶと》はかぶっておらず、年は二十一、二と見えるりりしい若者だった。その背後には、急場の間に合わせらしい一|挺《ちよう》の女乗物を守って、二十名あまりのお供がおり、数名のお女中衆もまじっている。若者の顔に覚えはなかった。 「おれが坂崎とどうしてわかった」 「お旗の二階笠のご紋にて、あるいはと存じました」 「そこもとの名は」 「申しわけございませぬ。あまりに心せいて先に名乗ることを怠《おこた》りました。てまえは、元紀州|新宮《しんぐう》城主堀内|安房守氏善《あわのかみうじよし》が一子、主水《もんど》氏久《うじひさ》にございます」 「おお、思い出したぞ」  さほど懇意だったわけではないが、氏善とは面識があった。おたがい大坂屋敷にいたころは、何度か往来《いきき》したこともある。その氏善は、関ケ原の折、三成に応じて敗れ、新宮城にも戻らず、そのまま行方知れずになった。当時はまだ幼かった主水氏久が、去年の冬の陣に際し、兄の左馬助氏弘とともに大坂に入城したことは、成正も聞いてはいた。兄弟とも、堀内よりも、以前の居城にちなんで、新宮主水、新宮左馬助と称した方が通りのいいこともある。 「出羽守どの、お乗物のなかには、右大臣家(秀頼)の御台所《みだいどころ》さまがおわす」  主水はにわかに語調を改めた。成正以下あわてて平伏した。いわれるまでもなく、成正はとっくに察していた。乗物のそばにいる女性《によしよう》たちも、かなりの身分と見受けられるが、彼女たちのまとっている帷子《かたびら》やかずきは、火の粉の跡や土ぼこりの汚れが隠しようもなく、途中での難儀を語っている。 「刑部卿局《ぎようぶきようのつぼね》さま、小督《おごう》さま、おちょぼどの、大野修理どのが娘にて葛葉《くずは》どの……」  まずおもなお女中衆の名を告げたあと、主水は最後に一人の武者を、 「なおこれなるは、南部家の浪人にて南部左門どの」  と引き合わせた。そこへ、 「おお、ここでござったか」  軽装ながら、相当の貫禄を備えた人物が追いついて、主水から耳うちされると、 「大野|修理亮治長《しゆりのすけはるなが》が家老にて、米村権《よねむらごん》右衛門《えもん》と申す」  と名乗って成正に一礼した。去る三月このかた、淀殿や修理に命じられて、再戦回避交渉のため、たびたび駿府におもむいたこともあり、権右衛門は陪臣《ばいしん》ながら徳川方にも名が通っている。主水は、権右衛門に軽く目礼してから、 「坂崎どの、よきところで出会った。どうか御台所さまを、大御所さまのご本陣まで、ご案内のほどお願い申す」  と申し入れた。 「承知いたした。ただし、その前におたずねしたき儀がござる」 「申されよ」 「念のため、御台所さまのご心底、しかとおうかがい申したい」 「なにっ」  主水の顔色がかわった。刑部卿局や南部左門の表情もたちまちけわしくなった。 「殿っ」  あわててとめにかかる勘兵衛を、 「おのれは黙っておれ」  一喝した成正は、 「この期《ご》に及んで城よりのご落去は、御台所さまひとり助かりたもうためか、右大臣家ならびにお袋さま(淀殿)、お二方のご助命を請《こ》われるためか」  ずけずけといってのけた。一瞬、しいんとなって、潮騒《しおさい》のように遠く近くから流れてくる、戦場の雑多な物音が消え失せた。理由はなんともあれ、成正のいまのことばはあまりにも無礼にすぎる。 「田舎者《いなかもの》、礼儀をわきまえよ」  刑部卿局が声をふるわせた。成正はひるみもせず、再度同じ問いを発した。 「坂崎どの、心ないことを申されるな。御台所さまは、喜んで大坂城と運命をともにすると仰《おお》せられた。それを修理どののお説《と》き伏《ふ》せにより、お二方ご助命嘆願のためならば、と城を落ちたもうたのじゃ」  主水はおだやかに答えた。権右衛門は主水にまかせて、口出しをひかえている。 「しかとだな」  成正は念を押した。 「出羽とやら、千が心は、いま主水が申したとおりじゃ」  思いも寄らず乗物のなかから、千姫みずからのりんとした声がもれた。 「恐れ入り奉ります」 「お詫《わ》びなどどうでもよい。それよりもお急ぎを」  主水がせき立てる。あたりはそろそろ暗くなりかけたはずなのに、燃えに燃える城の火の手で足もとまで明るい。  坂崎勢に守られて、千姫の行列は動き出した。先頭は牧野勘兵衛、成正は堀内主水と馬首を並べて、千姫の乗物の近くにいる。乗物の左右には侍女たち、後尾には米村権右衛門と南部左門。  主水はみちみち、馬上同士の成正に、城脱出の際の苦難のさまを手短かにもらした。 「御台所さまのお痛わしさ、ことばにつくせることではない。まだ火の手のまわらぬ櫓《やぐら》の一つから、空濠《からぼり》へ下りたもうにも、どれほどお難儀遊ばされたか」  矢狭間《やざま》の一ヵ所を壊し、そこから、ふとんで巻いた千姫を、綱でつるして下ろし、先まわりしていた者が、屍で埋もれた空濠で抱きとめて綱をほどくありさまだった。刑部卿局以下のお女中衆は、命綱にすがって石垣を伝い下りたという。 「そういうこととも存ぜず、さっきはまことに申しわけなかった」  詫びる一方、成正はすばやく思案をめぐらせた。本丸の周囲はあらかた水濠で、空濠はごく一部にかぎられている。本丸の正門である桜門の東西が空濠のはずだった。ただし、東がわには表御殿があるため、すでに関東方が充満して、近づきようはあるまい。  逆に西がわには、細長い多聞櫓《たもんやぐら》と隅櫓《すみやぐら》があるくらいのものと聞いている。成正が主水に探りを入れようと、一言、二言かわしたとき、行列の歩みが急にとまった。先頭でごたごたが生じたらしい。  成正は馬を飛ばして前に出た。 「勘兵衛、いかがした」 「われわれを城方の落人《おちゆうど》と疑い、通さぬと申すのでございます」 「わかった」  とっさに兜をぬいで、家臣の一人に持たせた成正は、鐙《あぶみ》をふんばって立ち上がり、 「この顔に覚えのある者、二人や三人はあろう。石州津和野の城主坂崎出羽守成正、右大臣家の御台所さまを警護し奉り、大御所さまの御許《おんもと》へおもむくところじゃ。この陣の旗じるし、とくと見定めたが、武士の情け、成正の胸三寸にたたみこんでおく。早々に道をひらかっしゃい」  と大声で叫んだ。行列は動き出した。成正の声は、行列の最後尾まで届いた。 「なかなかやりますな」  左門が笑うと、 「いかにも。なれど、功名心の塊《かたまり》のような男ともうわさに聞く。この先どうするか」  権右衛門は微妙な応じかたをした。彼は成正が、行列をまず自分の陣にともなうに違いないと見たのである。成正はたしかに、そうしかねない男だったが、この日は権右衛門の目が狂った。 「勘兵衛、お行列は天王寺口の本多佐渡守さまのご陣へご案内申せ」  成正は、さわやかに命じた。     三  伏見城内の一角に与えられた幕舎の奥で、成正は今夜もしきりに酒杯を重ねた。 「ほどほどになされませ。あまり召されては身の毒でございます」  お気に入りの牧野勘兵衛が諫《いさ》めてさえ、成正は聞かず、 「これが飲まずにおられるか」  と目をとがらせた。大坂落城後、すでに十日近くたっている。このところ、成正の幕舎には、連日のように、知り合いの大名小名から使者がきた。 「このたびはお手柄、おめでとうござる」  どれも判で押したような同じ口上《こうじよう》で、もう耳にたこができた。使者のなかには、 「猛火をくぐってのお働きにて、大《おお》火傷《やけど》を負われたとうかがいましたが」  と首をかしげる者もいる。そんなとき成正は、相手がたとえ大大名の使者であろうと、不快さをむき出しにして、 「せっかくながら、このとおり火の粉も浴びてはおり申さぬ。ご期待|外《はず》れでお気の毒でござったな」  顔の左右を、かわるがわる相手の鼻先に突き出した。使者をつかわす大小名のあらかたは、五月七日の夕暮前ごろ流れたうわさを信じこんでいるらしい。 「ご果報、うらやましゅうござる」  と伝える使者も、二人や三人にはとどまらなかった。 「うわさのひとり歩き、おそろしゅうございますな」  勘兵衛にいわれて、そのとおりと成正も思った。ひとまず杯を置くと、あらためてあのときのうわさを振り返った。 「三千石以上の士にして」  という説のほかに、 「貴賤を問わず」  との説も流れたとあとで聞いたが、うわさの出所はついに判明しなかった。ただ、そのうわさが、相当の真実性を人びとに与えていたのは、成正を訪れた使者の数からも、十分察しがつく。 「それにしても……」  眉根を寄せる成正に、 「殿、うわさの流し主がだれか、てまえにはうすうす見当がついております」  勘兵衛は驚くべき名をささやいた。 「なに、本多|上野介《こうずけのすけ》正純《まさずみ》さま……」  正純はとって五十一、かつて家康の懐刀《ふところがたな》といわれた謀臣、本多佐渡守|正信《まさのぶ》の子で、いまは老《お》いて、秀忠付きになった父にかわり、家康の側近にあって、 「佐渡どの以上の切れ者」  と見られていた。その正純ならば、千姫の身を案ずる家康の苦悩を見かねて、寄手の将士を必死に働かせるため、それくらいの術策を弄《ろう》することなど、格別の知恵をしぼるにもあたるまい。  勘兵衛の推測は的を射抜いている。成正は杯をとる気も失せた。そこへ、 「戸川肥後守さま、祝酒をたずさえて、じきじきのお越しでございます」  近習《きんじゆ》が取次のことばを告げた。もう夜も遅いが、先年、主君秀家を見かぎり、宇喜多家を立ちのいた四名の一人で、成正同様、関ケ原の功により、二万九千余石の大名となっている戸川肥後の訪れとあっては、むげに断るわけにもいかない。  成正の前の床几《しようぎ》に腰をおろした肥後は、持参の祝酒を差出したが、昔なじみの気やすさからか、そのいうことがよい。 「おぬし、うまいことやったの。約束どおりお千はそちにつかわす。よって後日の沙汰《さた》を待て。大御所さまおじきに、さよう仰せられたそうではないか」  聞くなり成正は激怒した。 「肥後、見そこのうたぞ。貴様までが、根も葉もない世間の評判|真《ま》に受けるとは。二度と顔も見とうないわ。祝酒など胸くそ悪い。とっとと持ち帰れ」  旧知に対して、あるまじき雑言《ぞうごん》だった。肥後の形相《ぎようそう》も一変した。 「戸川さま、これには仔細《しさい》がございます。お腹だちとは存じますが、これより申し上げますこと、お聞きのほどを」  勘兵衛が必死に肥後をなだめる一方、数名の近習が成正を落ち着かせた。それを見定めたあと勘兵衛は、五月七日に流れたあのうわさのことを皮切《かわき》りに、堀内主水に守られた千姫の行列との出会いから、本多佐渡守の陣まで案内したいきさつを語った。 「なるほど、おれの聞いたこととはだいぶ違うな」  肥後は、その先をうながした。 「その先は、主がくわしゅうございます」  勘兵衛は成正に目で合図した。成正はさすがに、さっきの大人気《おとなげ》なさがいささかてれくさいらしい。 「肥後、聞いてくれるか」 「あたり前よ。そうでなければとっくに帰っているわ」  さっぱりときげんを直した肥後は、 「出羽、話を聞いてやるかわりに、酒はさっさと納めろ」  からからと笑った。     四  成正が、千姫や主水の一行を、天王寺口の本多佐渡守正信の陣に案内したところ、かんじんの正信はいなかった。乗物だったにもかかわらず、千姫は疲れ果てて、 「もう動きとうない」  という。かといって、佐渡の陣にいるのも気づまりらしい。本多家の家臣の一人が気をきかせて、やや離れたところに、無人の農家を見つけてくれた。戦火をさけてか、実直そうな中年男が、牛馬の世話に残っているだけだが、相当の豪農の屋敷らしく、姫の憩《いこ》い場所にはもってこいだった。  ここは、四天王寺の周辺で、後方、わずかな地点に家康の本陣茶臼山がある。一方、秀忠の本陣岡山は、東へ半里足らず、大坂城からは南々東にあたる。  この日、秀忠は岡山口の主将だった。天王寺口の戦いのように、本多|忠朝《ただとも》、小笠原秀政《おがさわらひでまさ》など、大名が討死するほどのことはなかったが、大坂方、大野|治房《はるふさ》勢に各陣を突破され、一時は後方にいた、秀忠みずから槍をとるほどの激戦になったという。成正たちが、 「茶臼山と岡山、いずれを先にいたしましょうや」  と聞くと、 「じいさまのもとへ、先に行きゃれ」  千姫は迷いもしなかった。成正は、堀内主水や米村権右衛門とともに茶臼山におもむいた。  千姫の警護には、刑部卿局や南部左門ら城からのお供衆、牧野勘兵衛以下の坂崎勢、それに本多家の者があたった。  成正たちが小高い茶臼山の本陣についたときはすでに夜で、大坂城の本丸の至るところは猛火に包まれて、栄華を誇った楼閣よりも、夜空の一角そのものが燃えているかのようであった。  家康の仮屋は、畳六枚の粗末さで、垂れ幕で仕切った奥三畳が私室、手前の三畳が対面所になっている。 「出羽、家康心より礼をいうぞ。よくぞお千を救うてくれた」  側近の本多正純を通じて、千姫の無事を知った家康は、狂喜して成正の手を握った。 「お待ち下さいまし。てまえはただ道案内をつとめましたのみ、千姫さまを真にお救い申したのは、堀内主水でございます」  成正の正直さに、若い主水は感動して、 「いいえ、途中で坂崎どのと出会っていなければ、わたくしども、本多さまご陣までとても無事にたどりついてはおりませぬ」  と成正を立てた。 「出羽といい、主水といい、功を相手に譲るゆかしさ、家康感じ入ったわ」  家康は目を細めた。権右衛門は黙然とひかえていた。正純は、家康をふくめた四名の様子を冷ややかに眺めている。それに気づかぬ成正は、面を伏せたまま、 「お賞《ほ》めのおことばに甘えまして、出羽、お願いの儀がございます」  成正は、千姫のけなげな覚悟を、さらにくわしく伝えて、 「願わくは、お千さまのお気持に免じ、右大臣家ならびにお袋さまご助命の儀、なにとぞなにとぞ」 「わかっている。初めからわしはそのつもりじゃ。なれどいまはわしも隠居の身、ひとまずは将軍家(秀忠)に相談せねばならぬでのう」 「ごもっともにございます」  それをみなまで聞かず、 「出羽、いらざる差出口|推参《すいさん》なり。お二方ご助命の儀については、正式の使者として、米村権右衛門が参っておる。ひかえよ」  正純は高飛車に浴びせかけた。さすがの成正もひれ伏した。  そこへ、岡山口の秀忠の本陣から、本多佐渡が駆けつけた。佐渡は年|老《お》いて、もう馬には乗れない。土運びに用いるもっこの新しいのを、山《やま》駕籠《かご》がわりに使った。すでに佐渡は、家臣の報告で、あらかたのみこんでいるらしい。 「佐渡、将軍家に対してお千のとりなし、よしなに頼むぞ」 「心得ました。委細おまかせを」  風のように佐渡は去った。 「両名、大儀であった。出羽は自陣に戻ってよし。主水はお千さまのそばにいよ」  家康にかわって正純が命じた。権右衛門だけがあとに残った。  成正も主水も、乗馬は登り口近くの松につないでいる。 「ときに堀内どの、右大臣家やお袋さま、どこにひそんでおわすのかな」  肩を並べて道を下りながら、成正はさりげなく探りを入れた。 「口外はせぬ。この出羽にのみお明かし願いたい」 「それはなり申さぬ」 「では、ご存じないのか」 「いや、存じてはおり申す」 「ならば一言」 「いかに坂崎どのにでも、こればかりは」 「わしが信じられぬと見たのじゃな」 「いいえ、信じておらぬ相手には、初めから存ぜぬと答えます」  成正はきげんを直した。 「それにしても不思議でございます」  主水は小首をかしげた。家康や、切れ者と評判の本多正純が、秀頼や淀殿のいどころを一切《いつさい》聞かなかったことがいぶかしい。あるいは、両名助命の確約を得てから、権右衛門が明かすのであろうか。  成正は、そのあたりまで語ってから一息入れた。夜はもうかなり遅いが、戸川肥後は帰る気配《けはい》も見せず、 「出羽、その先はどうなったぞ」  と身を乗り出した。勘兵衛が酌《しやく》をしようとしても、 「酒などあとじゃ」  とにべもなく断った。肥後がこうも乗気では、このまま帰すわけにもいかぬ。成正は先をつづけた。  成正と主水が、例の農家に戻ってみると、千姫以下の様子はほとんど変わらず、ただ刑部卿局と南部左門の二人が見えなかった。岡山口の秀忠のもとへ出向いたらしい。周囲にはいくつもの燭台がともされているが、姫をはじめ、どの顔も青ざめていた。 「大御所さまは、お喜びのあまり、てまえの手までお取り下さいました」  成正は家康のご前での首尾《しゆび》を誇張《こちよう》して伝えた。主水も調子を合わせた。千姫の頬に、わずかに血がよみがえった。 「てまえは戸外の警護にあたります。ご用のせつはいつにてもお召しを」  成正は早々に外に出た。そこへ、申し合わせてでもいたように、南部左門だけが帰ってきた。 「いかがでござった」 「上様のごきげん、ことのほか斜《なな》めでござってな」  秀忠は、刑部卿局と左門が、こもごも事情を語るのを、みなまで聞かず激怒《げきど》し、 「お千はもはや徳川家の女でなく、豊臣の女じゃ。お千に伝えよ。目通りなどもってのほか、ただちに城に戻って、秀頼と最期をともにするこそそちの道と」  吐き捨てるように突っぱねたという。 「お二方ご助命の儀、申されたか」 「むろんのこと、なれど、とりつく島もなきご返事でござった」  さすがは将軍家、と内心ひそかに舌をまく思いがあった。 「で、ただいまは」 「刑部卿局と本多佐渡さまが、必死にご説得なされているはずでございます」  うなずいた成正は、左門になにやら耳うちしてから、左門とつれだって千姫のご前に出た。左門がありのままに報告する。その横合から、 「ご案じなされますな。将軍家のつれなきおことばは、きっとお側《そば》の者のてまえでございます。佐渡どのが、かならずうまくはからってくれましょう」  そうなぐさめた成正は、 「明日のこともございますれば、てまえはこれにて」  ていねいに一礼して、勘兵衛たちの待っている屋外へ出た。やや遠ざかったとき、大野修理の娘葛葉が小走りに追ってきた。 「出羽守、今日のそちの心配り、お千生涯忘れぬ。さように伝えてまいれとの、御台所さまのおことばにございました」  それだけ告げ終わると、葛葉は軽く身をひるがえした。 「真相はそういうことよ」  成正はにがにがしく吐き捨てた。     五  肥後が去ると、成正はまた酒杯をとった。勘兵衛はもうとめなかった。成正の怒りの原因は、うわさと事実の違いにはない。勘兵衛だけが気づいていた。  あの翌日——五月八日、夜明けを待たず成正は、手勢を率いて城内にはいった。天守閣や多くの殿舎はなお炎上をつづけており、周囲は異様に赤いが、朝の光が満《み》ちわたると、あらかたは、残骸がぶすぶすくすぶっているに過ぎないことがわかった。それでも、ときどきはどこからか火の粉が飛んでくる。  城兵はほとんど見当らず、城内は味方であふれていた。勘兵衛は、いつの間にか姿を消した。成正は、 「正確とは申せませぬが、だいたいこの通りかと存じます」  勘兵衛から渡された略図を頼りに、山里曲輪への下り口を探したが、焼けた本丸の広さと味方勢の混雑で、思うにまかせず、かつ、目じるしになるものが燃え失せていた。 「ここらしい」  やっと探しあてた石段を少し下りた。幸《さいわ》い成正勢以外に気づいた者はない。右手は本丸の石垣、左手は森、前方には、本丸とはかなりの落差で緑がひろがっている。 「あのなかに山里曲輪があるはず」  成正がまた石段を十数段下りたとき、勘兵衛が下から駆け登ってきた。 「右大臣家以下の隠れ場所は、やはり山里曲輪のうちにて、朱三櫓《しゆさんやぐら》とも呼ばれる糒蔵《ほしいぐら》の由《よし》にございます」 「どうしてそれがはっきりした」 「去年大坂城より退去された片桐|且元《かつもと》どのが、あの場所以外にない、と大御所さまにお告げなされたとか」 「なんと、武士の風上《かざかみ》にもおけぬ。堀内主水の爪《つめ》の垢《あか》でも煎《せん》じて飲ませたいわ」  勘兵衛の報告では、朱三櫓の前には、すでに井伊直孝《いいなおたか》、安藤|重信《しげのぶ》らが鉄砲隊を率いて備えているという。 「それでは近寄れんな」  そのような状況ならば、家康もしくは秀忠から秀頼と淀殿の助命が沙汰されれば、当然井伊直孝なり安藤重信なりが、両名の救出にあたるであろうし、いくら成正でも、横合から手は出せない。  成正は、石段の途中で腰をおろした。左手の深い森が、ほどよい日蔭を作ってくれている。陽の高さから、そろそろ真昼に近いと判断できた。 「おお、これは坂崎どの」  あわただしく石段を下りてきた、使番《つかいばん》風の武者が立ちどまった。昨夜世話をかけた本多家の一人である。 「昨夜はありがとうござった。お急ぎのところ申しわけないが、米村権右衛門のこと、ご存じあるまいか」  ほんの一瞬、男は当惑顔をしたが、すぐ思い直したらしい。 「大御所さまより、お二方ご助命のご沙汰を受け、帰途天王寺口のわが陣に立ち寄り、休息なされました。よほどお疲れと見えました故《ゆえ》、多少の酒食を供しましたところ、喜んで召され、連日連夜にわたる不眠不休のお働きによるものか、しばらく身を横たえるや、そのまま朝まで寝こまれました」 「それでけさは」 「不覚、不覚、もう城へは戻れぬとて、岡山口のご本陣に向かわれました。先を急ぎ申す。これにてごめん」  本多家の士が走り去ると、 「おのれ卑劣者め、命惜しさにわざと寝過ごしおったに違いない」  成正の血相が変わった。勘兵衛は見向きもせず、せわしない足どりで、石段を登り下りする。なにやら間《ま》をはかる様子だったが、ややあって、 「ご一同、森の中へ」  と叫んだ。わけがわからぬまま、成正以下いわれるとおりにした。 「本多家の使者、朱三櫓の井伊どのの陣に着いたころでございます」  勘兵衛はそれっきり口をつぐんだ。顔には血の気がない。なにかある。おぼろげながらだれにも察しがついた。勘兵衛は心の中で数をとっているらしい。そのうち、思わず知らず声になった。 「九十六、九十七、九十八……」  百に達したが何事もない。しびれを切らして森から飛び出そうとする成正の、陣羽織のすそをつかんで勘兵衛が引き戻した。その直後に、数発の鈍《にぶ》い銃声がしたかと思うと、ほとんど同時に、天が裂けたかのような大音響が頭上にとどろき、大地がゆらいだ。  一呼吸おいて成正が石段に飛び出すと、朱三櫓とおぼしいあたりの天空に、真昼でも一目でわかるすさまじい火柱が立ち、瓦の破片や板切れ、ちぎれた人間の手足、折れた刀や槍、具足の袖や草摺《くさずり》らしいものが、高く舞い上がって八方に散った。成正たちのまわりにも、土くれが降ってきた。 「ご最期じゃな」 「殿、米村権右衛門の寝過ごし、大野修理の申しつけ、そうは思われませぬか」  勘兵衛が耳うちした。  伏見城内の幕舎の奥で、そのときのことを振り返った成正は、杯を置いた。 「あのとき、そちが申したこと、真実だったかもしれぬ」  当時のうわさでは、千姫を無事に戻してもらった喜びから、大御所や秀忠が、秀頼、淀殿の助命でも申し出たりしてはあとあとが面倒、と井伊直孝、安藤重信らが、命も待たず勝手に朱三櫓に発砲したため、 「助命ならず」  と判断した大野修理が、硝薬《しようやく》に点火し、櫓を爆破したと見られている。直孝や重信が、その独断を、後刻大御所からしたたかに叱られたという評判もあった。だが、その考えは甘すぎる。発砲は秀忠の命であり、背後には大御所の意向があったと見て狂いはない。いかに将軍の座にあるとはいえ、家康の意志に逆《さか》らう力は、秀忠にはまだなかった。  大野修理が千姫を脱出させ、さらに米村権右衛門を使者に立てたのは、秀頼、淀殿の助命嘆願が目的ではない。すべては千姫を助けるための手数《てかず》にすぎなかった。でなければ、数発の銃声のみで、修理がただちに朱三櫓を爆破させたりするはずがない。あまりにも手順がよく、かつ対応が早すぎる。 「見事じゃ」  成正は、修理を賞めると同時に、老獪《ろうかい》な家康の巧言に、他愛なく手玉にとられたおのれの人のよさに腹が立った。数日後、さらに切ないことを、勘兵衛に聞かせられた。 「国松丸《くにまつまる》さまのこと、お耳にされましたか」 「いや、まだなんとも」  国松というのは、秀頼が側室に生ませた男の子で、ことし八歳と聞いている。 「その国松丸|君《ぎみ》、先日この伏見の農人橋のほとりにて捕えられ、今朝、六条河原にて斬られたもうた由にございます。それも、大御所さまの仰せによるとか」 「むごいことをなさるわ」  柔和な温容を、一皮むいたあとの鬼面を見たようで、成正は背筋が冷えた。     六  七月十三日、慶長は元和《げんな》と改元され、この日から慶長二十年は元和元年となる。翌十四日、二条城、伏見城、あるいは洛中洛外の諸寺院に宿営していた諸大名へ、帰国を許す旨《むね》ご沙汰があった。  成正は兵半数を津和野へ戻し、みずからは残りを従えて江戸へ下った。成正の屋敷は柳原にあった。当時の柳原のたたずまいがどうであったかはよくわからない。ただ『元和年録』によれば、向いは松浦法印鎮信《まつらほういんしげのぶ》、右隣は藤田|能登守重信《のとのかみしげのぶ》、左隣は加藤左衛門尉|貞泰《さだやす》の屋敷だったらしい。  ほどなく論功行賞が発表された。賞のみとはかぎらず、旗本衆のなかからさえ、大坂に好意を示したとして、切腹させられた例もある。成正に対しては、一万石の加増が沙汰された。予期したとおり、連日諸家から祝いの使者がきた。 「恩賞が多すぎる」  成正は一種のうしろめたさを覚えた。直情なだけに、どうしても心の隅に、 「たかが道案内をつとめただけのこと」  という自嘲めいたものがある。成正にこそ告げなかったが、勘兵衛はげんに、 「坂崎どのは売りこみ上手よ」  そんな意味の陰口を、一再ならず耳にしている。成正という男の本心を知らぬ心なさに腹が立った。  九月の末ごろ、めずらしい客が見えた。堀内主水氏久だった。成正は喜んで、座敷へ招じ入れた。 「御加増の儀もれうかがいました。おめでとうございます」  初対面の折の印象にたがわぬすがすがしい挨拶で、成正も素直に受けた。 「してそこもとは」 「将軍家に召し出され、下総《しもうさ》のうちに采地《さいち》五百石を賜《たまわ》りました」 「それは重畳《ちようじよう》」  一方、南部左門の方は、主家より他家への奉公を禁ずる、いわゆる奉公構いを受けているため、幕府も南部家に遠慮、召し抱えるかわりに黄金百枚を下賜するにとどめた。なお主水の兄左馬助氏弘は、主水の功により助命され、いまは藤堂高虎《とうどうたかとら》に仕えているという。以上のようなことをかいつまんで述べたあと、主水は眉をひそめた。 「昨年より大野修理どのが、人質として差し出していました末子弥十郎どの、先ごろ切腹させられましたとか」 「初耳じゃ」 「まだ前髪の、散らすに惜しい花のごとき若者だったと聞いております」 「なんと無残な。千姫君をつつがなくお帰し申したのは、ほかならぬ修理ではないか」 「朱三櫓における修理どの最後の意地立てに対する、大御所さまのご報復、さようなうわさも耳にしました」 「あり得ることじゃの」 「兄の助命がかなったとは申せ、わがなせしこと切のうございます。いま思えば、お痛わしながら千姫君、大坂落城の道づれにすべきでございました……」  主水は涙をしたたらせた。 「よくぞそこまでこの成正に……」  信頼が嬉しかった。主水が辞去するとき、成正はみずから玄関まで送って出た。夜になって成正は、 「酒の支度がととのいました。てまえがお相手つかまつります」  と勘兵衛にいわれた。 「今夜は酒なしでは収《おさ》まらぬ。さようでございましょう」  それには返事もせず、成正は立てつづけに大杯を傾けた。勘兵衛は、成正のなすにまかせた。成正には、泣き上戸《じようご》の気はない。それが、急に涙声になった。 「勘兵衛、おれは間違うていたぞ。八丈島の秀家どのに相すまぬ」  些細《ささい》な意地から、戸川肥後、花房志摩、岡越前らとともに、秀家に楯《たて》をつき、宇喜多家を退散、関ケ原の戦いの際、家康に与《くみ》したことが胸をかんだ。成正ら四名の退去で、宇喜多の戦力の三割は減じたであろう。  にもかかわらず秀家は、関ケ原では、西軍随一の戦いぶりをしめした。敗北のあとは薩摩にのがれ、しばらく島津家の庇護を受けたが、やがて助命を条件に徳川家に身柄を引き渡され、海上はるかな八丈島に流されて、いまも流人《るにん》暮しをつづけている。 「あのころはおれも若く、大御所の正体見ぬけなんだ」 「遠い昔のこと、もう気になされますな。堰《せ》き止めようにも、時の勢いの前には、しょせん人の力は及びませぬ」  成正らが、あのとき宇喜多家にとどまっていたからとて、関ケ原の勝敗が逆になり、その後の大坂方の運命が、変わるわけでもなかろう。 「そう割り切りなされませ。ただいまのお涙、それで十分でございます」 「勘兵衛……」  立ち上がった成正の手から、まだ酒の残った杯がほろりと落ちた。     七  半月ばかりして成正は、出府中の本多上野介正純に呼ばれた。意外にも京へおもむき、公卿《くぎよう》もしくは公家《くげ》衆のなかから、千姫の再縁先を見つけてくれぬかという話だった。 「さような大役、とても成正ごときには」  本心だった。こういう場合の適役には、藤堂和泉守高虎や、久しく京都|所司代《しよしだい》をつとめている板倉|勝重《かつしげ》がいた。 「しかしながら、その方とて、宇喜多家に仕えていたころ、京への使者をたびたびつとめたであろう」 「なれど、もう二昔《ふたむかし》近くも前のこと、いまは知辺《しるべ》とてございませぬ」 「その方に頼めとは、ほかならぬ将軍家のご意向ぞ」  千姫脱出の際における成正の功に謝する、秀忠の好意から出たこと故、辞退は許さぬと正純は強硬だった。成正は、やむを得ずしばしば京におもむいた。公卿、公家ともに、朝廷に仕える官人の総称として用いる場合もあるが、厳密には公卿の方が公家よりははるかに格が高く、公卿は公と卿に分かれ、公は太政大臣、左大臣、右大臣など、卿は大納言、中納言、参議などをいう。  成正苦労の結果、さる公卿との間にやっと合意がなり、内々に承諾を得た。その旨、正純に告げると、日ならずして正純は、成正を招いて詫《わ》びた。 「骨折りを無にしてすまぬが、肝心《かんじん》のお千さまがご承知なさらぬ」 「当然でございましょう。大坂落城から、まだ半年とちょっとでございます」  成正はむしろ千姫の心根が嬉しかった。その旨、率直に伝えると、相手もこころよく納得してくれた。  明くる元和二年四月、大御所家康が駿府で薨《こう》じ、六月には本多佐渡守正信が、跡を追うように没した。ところが、それから間もなく千姫再嫁のうわさがひろまった。輿入《こしい》れは九月初めで、相手は伊勢桑名の城主本多美濃守忠政の嫡子《ちやくし》平八郎——中務《なかつかさの》大輔《たいふ》忠刻《ただとき》という評判であった。 家康に過ぎたるものが二つあり 唐《から》の頭《かしら》に本多平八  その昔、こう謳《うた》われ、名槍|蜻蛉《とんぼ》切りの持主として世に知られた、本多平八郎忠勝の孫である。勘兵衛が調べて、うわさは九分九厘相違ないとわかった。成正に対しては一言の断りもない。 「成正の面目はどうして下さる」  本多正純のもとへ押しかけて、真っ向からねじこんだ。 「その方としてはさもあろう。なれど成正、このたびの運びは、実は大御所さまのご遺命でな」  正純は意外なことを明かした。 「大御所さまの……」 「かねて律義《りちぎ》におわす将軍家、ご生前のおことばなら、たとえ大御所さまの仰せとて、首を振ってはおわすまい。じゃが、ご遺命とあってはせんかたなく……」  一息入れて正純は、先をつづけた。 「将軍家は、成正の立場さぞつらかろう。余がじきじきに詫びるとまで仰せられた。しかし、われらとしてはそこまでは」  こうまでいわれては、成正としても意地の通しようがない。 「千姫さまおんみずからは、いかが思召《おぼしめ》しでございましょうや」 「三日三晩泣き通された末に、おじいさまのご遺命ならば、とようやくご承知遊ばしたとやら」 「よっくわかりました。ならば甘んじて男の面目を失いましょう」  成正はいさぎよく引き下がった。  大坂城内での千姫の処遇が、人質としてのそれでしかなかったといううわさは、成正も聞いている。淀殿の指図《さしず》で、秀頼と寝所をともにすることさえなかったらしく、側室には子供ができても、千姫はついに身ごもることがなかった。  大坂落城後、千姫が江戸へ帰る際は、成正も護送役に加えられた。桑名から宮へ渡るとき、御座船を宰領《さいりよう》したのが、ほかならぬ本多平八郎忠刻で、男ぶりといい、きびきびした指図ぶりといい、男の成正が惚《ほ》れぼれするほどの見事さだった。 「神様は不公平じゃな」  苦笑いしながら、勘兵衛と顔見合わせたことを胸によみがえらせて、 「こんどはお幸せになられますよう、成正心より祈っております」 「かたじけない。いまのおもむき、上様にもお千さまにもお伝えしておこう」  この日かぎり、成正は一切を忘れる気になったが、数日後に、千姫再縁の真相が明らかになった。しかも勘兵衛ではなく、じかに成正の知るところとなっては、手の打ちようもない。  本多忠刻と千姫の縁組は、大御所の遺命などではなく、桑名から宮への御座船で、忠刻を見染《みそ》めた当の千姫が、忠刻のりりしさを忘れかね、 「お千は平八郎さまに嫁《とつ》ぎとう存じます」  とじかに父秀忠にねだったところ、秀忠はたしなめることさえせず、二つ返事で承知したという。  大坂でいかに冷遇されたにせよ、落城後まだ一年半とはたっていない。淀殿や、淀殿のむごい仕打ちを押さえ得なかった秀頼への不信はともかく、秀頼、淀殿の助命嘆願を口実に、自分を逃がしてくれた大野修理の情けの手前も、せめてあと二、三年待てなかったものか。 「女とは薄情《はくじよう》な生き物よ」  あのときのおれの働きも、とうに忘れていよう。千姫への不信は、そのまま秀忠への不信につながる。 「なぜ秀頼と運命をともにせなんだぞ」  南部左門が聞いたという、岡山の本陣における秀忠の一言も、いま思えば、人の手前をつくろうものにすぎない。 「さすがは将軍家」  一瞬にせよ、感動したおのれの甘さが口惜しく、正純の巧言にも腹が煮えた。  夜になって、成正は勘兵衛を小座敷に呼んだ。庭に満ち満ちている、さまざまな虫の音《ね》も耳には入らない。 「勘兵衛、このままではすまさぬぞ」  すでに成正の覚悟を見抜いた勘兵衛は、無言でうなずいた。  九月の何日か日取りは不明だが、千姫の輿《こし》がまっすぐ桑名に向かうことはあり得ない。数かぎりもない、絢爛《けんらん》華麗な婚礼道具とともに、輿はひとまず本多家の江戸屋敷に入るはずだった。目当ては千姫の輿一つ。行列見物と見せかけて待ち伏せし、千姫の輿のみ奪えばそれでよい。  正気の沙汰ではなかった。成正の死、坂崎家の断絶、上は家老から上士《じようし》、下は下士《かし》、足軽小者、さらにはそれにつながる老若男女の離散が待ち受けている。それだけの犠牲を出してまで立てるべき面目か。本来なら勘兵衛は、成正を諫《いさ》めるべき立場にあった。  だが、いまさら思いとどまる成正ではない。不憫《ふびん》ながら一蓮托生《いちれんたくしよう》、それ以外に道はなかった。 『断家譜《だんかふ》』所収の坂崎系図によれば、成正には娘二人のみで男児はなく、跡を取るべき身としては、とっくに縁づいた妹二人をはさんで、はるかに歳の違う弟の大膳がいるのみであった。当時大膳は、津和野にいたと見られる。 「勘兵衛、人選びはそちにまかせる。成正のために死んでくれる者、十名ほしい」  決死の士十名あれば千姫のみは奪える。屋敷までつれこめぬときは、輿から路上に引きずり出し、面罵《めんば》してくれよう。 「それくらいならできる」  勘兵衛もそうふんだ。主の成正が成正だけに、命知らずはいくらもいる。ところが不運にも、この主従の密談を、小姓の一人が立ち聞きしてしまった。成正にも勘兵衛にもかねて気に入られ、信頼も厚かったが、あまりの大事に動転したか、老臣の一人に告げた。その老臣の名はわからない。  成正の長女は、この春早々、後に大名となる旗本|伊丹播磨守康勝《いたみはりまのかみやすかつ》の長子で、まだ十四歳の作十郎|勝長《かつなが》に嫁《か》していた。老臣は内々に康勝に注進、戸川肥後にも知らせた。  康勝にしろ肥後にしろ、かねて直情|一途《いちず》な成正を高く買っている。公《おおや》けにこそ口にしないが、心ひそかには、 「出羽どのの口惜しさももっとも」  と同情を禁じ得なかった。とはいえ、相手が相手、両名別々に成正をたずねてじゅんじゅんと説いた。康勝には、娘を縁づけている手前もあり、成正もおだやかに応対したが、肥後には遠慮がなく、大声でかみついた。こうなれば、人ばらいの効果もない。 「このごろ、殿様のご様子がいぶかしい」  屋敷内にそんなささやきが流れていた矢先でもあり、つい評判になった。おのずとうわさは外にももれ、ついには、本多正純、土井利勝、安藤重信ら宿老《しゆくろう》(後の老中のこと)の耳にも達した。     八  幕閣は極秘に処置しようとしたが、成正のことは、江戸市中にひろまった。成正に対する世間の同情が思いのほか強いので、幕閣でも苦慮せざるを得ないものの、いつまでも捨てては置けず、諸大名や大身《たいしん》の旗本に命じ、成正の屋敷を囲ませて、日夜見張らせた。これでは忍び出るすきもない。  一方、西の丸と濠をへだてた、三の丸のうちにある本多屋敷の周辺も、警戒きびしく輿入れ見物どころではないという。 「これまでだな」  一夜、成正は勘兵衛に告げた。この上じたばたしては見苦しい。勘兵衛は無言でうなずいた。勘兵衛のもとへは、伊丹康勝、戸川肥後の両名から、 「いさぎよく自決されるよう、そちからすすめよ」  という書状が届いている。それを知ってか知らずか成正は、 「勘兵衛、そちが死ぬこと許さぬぞ」  ときびしく申し渡した。 「なにを仰せられます。わたくしの立場として、生き残ったりできましょうや」 「つらいのはわかる。卑怯者、みれん者と汚名をこうむること必定《ひつじよう》であろう。さりながら成正|一期《いちご》の頼み、悪名に耐えて生き残ってくれ。わが本心を知るはそちのみじゃ」  成正の面は涙まみれであった。 「去りたい者は今日のうちに去らせよ」  明くる朝、成正の意を受けた勘兵衛が、屋敷を囲んでいる人びとに、 「逃げる者はお目こぼし願いたい」  と申し入れた。女子供や老人、足軽小者などがあわただしく去ったが、士分にして壮齢の者は、さすがにみな残った。 「ご自害などもってのほか、討手を迎えて一同斬死申すべし」  と息まく者もいる。 「まだ自害するとは申しておらぬ」  成正が苦笑いして間もなく、かねて親しい柳生《やぎゆう》又右衛門|宗矩《むねのり》が、無腰《むごし》で訪ねてきた。従《じゆ》五位下|但馬守《たじまのかみ》に任ぜられて、一万二千五百石の大名となるのは寛永年間で、このころはまだ三千石にすぎなかったが、剣名高いのみか、政治力も並々ならず、譜代大名からさえ、一目も二目も置かれていた。  勘兵衛も同席させぬ成正と宗矩の密談は、半刻(一時間)足らずで終わった。玄関で見送る成正も、見送られる宗矩も、表情はきわめてなごやかだった。 「勘兵衛、出羽どのがこと、頼むぞ」  宗矩の目に情《じよう》がこもっている。後刻、主従二人になってから勘兵衛はたずねた。 「柳生さまのお話、なんでございました」 「ことここに及んでは、いさぎよく自決する以外にない。お望みなら、宗矩|介錯《かいしやく》の労をとろうとまで申された」  剣名一世に高い柳生宗矩の介錯ならば、これほど晴れがましい最期はない。成正はしかし、その申し出を心から謝しつつも、丁重《ていちよう》に辞退したという。 「やはり、そちに頼みとうての」 「殿……」  思わず涙ぐみかけて、勘兵衛ははっと思いあたった。 「柳生さまにご介錯を仰いでは、無念腹を切るわけにはいかぬ。まさかそうではございますまいな」  図星だったに違いない。成正はとっさに答えることができなかった。腹は浅く切るのが正しい。深く切れば、心に恨みをふくむものとして忌《い》まれ、無念腹と呼ばれる。 「奥方もそれを痛く案じておわします」 「なに、奥が……」  成正の妻女は、夫の許しを得て、数日前から、長女の嫁ぎ先、伊丹康勝の屋敷へ出かけていた。実は康勝から、せがれの嫁女《よめじよ》が軽い病《やま》い故、遊びがてら見舞うては下さらぬか、と使者をよこしたからだった。 「あの使者、奥が頼んだのじゃな」 「お手縫いの白装束、伊丹家へお出かけの前に、てまえにお預けでございます」 「知らなんだわ」 「将軍家のおひざもとが、これほどの騒ぎとなった。それのみで、殿のご面目は見事に立ちましたはず」 「許せ勘兵衛、成正、どたん場で血迷い、奥に笑われるところであった」  平静になった成正は、夕刻、老臣以下残っている家臣すべてを広間に集めた。 「いたく心配をかけたが、明後日、わしは心静かに自害する。さすれば跡目《あとめ》の儀は、弟大膳に継がせる幕閣のご意向、と柳生どのよりうかがった」  と申し渡した。どの顔にも、安堵の色が浮かんだ。  腹がすわったせいか、翌朝、成正は寝ざめが遅かった。気になった勘兵衛が寝所をうかがうと、安らかな寝息がつづいていた。ところが、その直後、老臣たちへ宛《あ》てて、土井|大炊守《おおいのかみ》利勝以下、宿老数名の連署による奉書が届いた。意外にもそれには、 「成正の所業不届きにして、人がましき切腹などまかりならぬ。成正を討ってその首を差出すにおいては、大膳に跡目相続相許すであろう」  とあった。驚いた老臣たちは、成正の寝所にもっとも遠い一室で、どうするかを話し合った。真っ先に勘兵衛が、 「いかに幕命とはいえ、家臣の身をもって主を討つこと、お受けいたしがたし」  とためらいもなくいい切った。 「それに見られよ。この奉書には、肝心の本多上野介正純さまのご署名がござらぬ。何か裏があるとは思われぬか」  勘兵衛は、なんとか他の老臣を説得した。それに、 「どうでも討つとならば、どなたが討手となられるな」  この一言の効果が大きかった。  翌日昼ごろ、行水《ぎようずい》を使って身を浄《きよ》めた成正は、帷子《かたびら》をまとい、 「一眠りする。切腹の用意がととのいしだい起こせ」  と命じて、秋風の吹きこんでくる広縁近くに身を横たえた。  庭先に、畳二枚を裏返しに並べて白布でおおい、水桶を用意、屏風《びようぶ》を引きまわすなど、一通りの支度が終わった。勘兵衛は鉢巻《はちまき》、たすきがけ、袴《はかま》の股立《ももだ》ちを高くとっていた。成正の枕もとには、奥方心づくしの白装束が置いてある。 「殿、ご用意ととのいました」  小姓にうながされて、 「もう時刻か。よい寝心地だったわ」  かたわらの白装束に目をやりつつ、成正はやおら起きかかった。そのとたん、血しぶきとともに成正の首が飛んだ。見れば、次の間にでもひそんでいて飛び出したのか、老臣の一人が返り血を浴び、血のしたたる長刀《なぎなた》を手にして突っ立っている。 「勘兵衛どの、許されよ。お家を救うにはこれしかなかった」 「あさはかな。これはわなだぞ」  勘兵衛の目に狂いはなかった。成正の首を差出して十日もせず、上使《じようし》が到着、 「幕命とは申せ、主を討つにはおのずと礼あり、だまし討ちとはもってのほか」  として坂崎家断絶を申し渡した。家臣は散り散りになった。後日勘兵衛が耳にしたところでは、本多正純は、 「成正の首を打って差出せば、まこと跡目相続を許されるのか」 「いや、さようなことはなり申さず」  他の宿老からそう聞くや、 「詐略《さりやく》にひとしき奉書に名をつらねること、正純にはでき申さず」  と一蹴《いつしゆう》した。そのため奉書には、正純の名のみがなかったという。坂崎家断絶の六年後、秀忠の不興を得て、正純が改易された理由の一つは、このときの連署拒否にあったともいわれる。  勘兵衛ほか数名は、成正が死んで十年以上もたってから、老中になって間もない松平伊豆守信綱に召し抱えられたらしい。 「成正の遺臣一人も残らず放置しては、以後万一、同じ例あるとき、幕命を奉ずる者ござるまじ」  という配慮からだった。勘兵衛はみずから望んで微禄に甘んじた。成正一件については、さまざまの形で世に伝えられたが、勘兵衛は生涯、 「乱心などとはもってのほか。主出羽守は死ぬまで正気でござった」  と主張しつづけた。だが、だれ一人それを信じる者はなかった。ただ死んだ成正にとって唯一の救いは、成正の娘を嫡子作十郎勝長の嫁に迎えていた伊丹播磨守康勝が、 「離別なされよ」  という親類どものすすめを、ただ一言のもとに突っぱねてくれたことである。  寛政年間、諸大名、諸旗本よりの書き上げをもとに幕府が編纂《へんさん》した、『寛政重修諸家譜《かんせいちようしゆうしよかふ》』巻第二百七十六に収められた伊丹播磨守(作十郎)勝長の項の末尾には、 「室は坂崎出羽守|正勝《ヽヽ》が養女」  と明記してある。養女としたのが、幕府に対するせめてもの遠慮であろうか。その「正勝が養女」が、次の藩主勝政をふくめて、男三名、女三名をもうけたことは、ほとんど世に知られていない。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]   孫よ、悪人になれ     一  暦は十一月に入った。周防《すおう》、長門《ながと》——防長《ぼうちよう》三十六万九千石を領する毛利氏の城下萩が、大陸から日本海を吹き渡ってくる寒風に見舞われる真冬の訪れも、そう遠くはない。  萩城は、阿武《あぶ》川の川口に早くからひらけた三角州の西北端、指月《しづき》山の頂きから南麓《なんろく》にかけて築かれた平山城だが、十一月早々のとある日、その萩城の奥深く、よく密談に使われる中庭に面した小座敷に、老若《ろうにやく》三つの顔が集まっていた。三人ではない。たしかに三つの顔といえるほど、どの顔にも重い緊張がたたえられている。  その席での最年長者は、法体《ほつたい》になっている隠居毛利|宗瑞《そうずい》(輝元)六十二歳、ついで輝元の信頼|篤《あつ》い筆頭家老で、三月ほど前に密命を帯びて江戸へ行き、昨夜帰国したばかりの宍戸《ししど》備前守|元続《もとつぐ》五十二歳、残るもっとも若い一人が、輝元の次子で、元服したばかりの三次郎|就隆《なりたか》だった。  元続は、大御所家康や将軍秀忠にも顔を見知られており、陪臣ながら従五位下に叙せられ、備前守というのも、正式に任ぜられたもので、戦国のころしばしば見られる私称ではなかった。 「昨夜遅く帰ってまいりました」 「大儀であった」  輝元と元続の間では、こんな短いやりとりがあっただけで、元続はまだなんの報告もしていない。 「江戸での密議も顔三つ……」  元続がそれを思い出していると、待ちかねて輝元の方が切り出した。 「首尾《しゆび》はどうじゃ」 「大坂への献上品の儀、お二方ともご承諾下さいました。昔より豊家《ほうけ》びいきの秀元《ひでもと》さまは申すに及ばず、殿までが、大殿がさようなことを仰せられたか、と目に涙をたたえられまして……」 「そうか。太閤さまご逝去《せいきよ》のみぎり、わずか四歳に過ぎざった秀就《ひでなり》までがのう」  それを聞いて、就隆が気負いをあらわに進み出た。 「兄君はまだ二十歳、お心に濁《にご》りがございませぬ。心に濁りなき者にとっては、昨今の大御所さまの横車は苦々《にがにが》しいかぎり、兄君ならずとも、右大臣家(秀頼)をお助けしたいと思いましょう」 「これ、うかつなことを申すでない」 「何を仰せられます。このたびの儀、真っ先に思い立たれましたは、ほかならぬお父君ではございませんか」  就隆はなお先をつづけようとしたが、元続の目くばせに気づいて思いとどまり、 「備前、そちの弟が献上品とはよいいいまわしよ。気に入ったわ」  と笑った。  いまから三月前、八月に入って間もないある日、元続は同じこの小座敷に、輝元から呼ばれた。 「方広寺《ほうこうじ》の件、聞いておろうな」 「はあ、大仏|開眼供養《かいげんくよう》と、大仏殿上棟式、直前になって、大御所さまがにわかにお差し止め遊ばしましたとか」 「もともとは、故太閤のためにとご自分がおすすめなされたものを」 「いまではそれも、大坂方の金銀を費《ついや》させる企《たく》らみから出たこと、といううわさが専《もつぱ》らと聞いております」  当代随一の碩学《せきがく》として鳴る、清韓《せいかん》長老の撰《せん》した鐘銘《しようめい》の本文百五十二文字のなかに、「国家安康」「君臣豊楽」の八文字がふくまれていることに、家康は難くせをつけた。 「国家安康を、家康の名を分断して徳川家を呪《のろ》うもの、君臣豊楽を、豊臣を君として楽しむとは、いいがかりもはなはだしい」  息まきはしたものの、温厚で気弱な輝元の口ぶりは、怒りというよりも、むしろ愚痴《ぐち》めいて聞こえる。 「理不尽な横車とは、大御所さまご自身、百もご承知と存じます」 「片桐|且元《かつもと》や大野|治長《はるなが》ずれでは、大御所さまにはとても太刀打ちはできまい。このままいけば、関東と大坂、遠からず手切れとなる」 「そのせつ、いかがなされます」 「それでじゃ。そちをこれへ呼んだのも」  一呼吸おいて輝元は、 「大御所さまには、関ケ原の折、すでに滅亡すべきところを、お許しいただいた恩義があるでのう」 「これは驚きました。安芸《あき》、因幡《いなば》、出雲《いずも》をはじめ十ヵ国百二十万余石、すべて安堵《あんど》するとのお約束、大御所さまはにわかに反故《ほご》にし、わが毛利家をわずか防長三十六万九千石にお削《はず》りなされたのではございませんか。それを恩義とはお人がよすぎましょう」 「元続、すりゃあその方は、正面切って大坂に味方せよとでも申すのか」 「何もさようなことは申しておりませぬ。恩義などと仰せられるから、つい腹が立ったまででございます」 「長い物には巻かれるほかはない。こういえばよいのだな」 「御意《ぎよい》」  輝元の口からため息がもれた。まだ何かいいたいことがあるらしい。元続にはそれが読めた。 「大殿、右大臣家を、黙って見殺しなさいますか」  輝元は世にも悲しいまなざしになって、 「それができるなら、日夜苦しむこともない。秀頼がことくれぐれも頼むとの、太閤さまいまわの際《きわ》のお繰りごと、五大老の一人として、じかに承《うけたまわ》った身としては、むげにお見捨てするなどとても……」  と本音を吐いた。 「その先を仰せられませ。元続、身にかなうことなら、なんとしてでもお心に添いまいらせましょう」  それが誘い水の役をした。 「大坂と関東手切れとなったせつ、毛利家とは一切《いつさい》かかわりない形で、だれぞ大坂へ入城させるわけにはいくまいの」  輝元はためらいがちにそういった。 「大殿……」  いまから、そんなことまで考えている輝元のやさしさが、元続の胸を打った。 「元続、そちはどう思うぞ」 「いよいよのとき、だれを大坂にこもらせるか、お心当りございましょうや」 「ある。すでに心の中で白羽の矢を立てた。その者をおいてほかにない」  打てば響くような返事であった。 「ただし、おいそれとは承知せぬと見た。その説得、そちが引き受けてくれぬか」  やはりか、と思った。輝元も元続も、一口も名前は出さない。 「心得ました。ただし、かかる大事、大殿の御意のみではお引き受けはできませぬ」 「ほかにだれを承知させよというのじゃ」 「お二人で十分でございます」 「秀元と秀就じゃな」  甲斐守秀元は、輝元の叔父伊予守元清の子で三十四歳、一時期輝元の養子に迎えられ、ゆくゆくは当主の座につくと目されていたが、実子秀就が生まれたため、二十万石を分ち与えられ、関ケ原の敗戦後は、本領の大幅減にともなって、長府四万石のみとなった。秀就の方は二十歳の若さながら、防長三十六万九千石の当主である。輝元のほかにこの二人の同意を得ておけば、あとでことがもれても、他の老臣たちを押さえうる。  そこで元続の江戸行きとなり、秀元、秀就両名の同意をとりつけた元続は、帰途しばらく駿府《すんぷ》に立ち寄ってから、昨夜帰国してきたわけだった。  その間にも、情勢はいよいよ緊迫して、戦機は刻々熟し、輝元のもとにも、 「領内航行の船舶を検《けみ》せよ」  という家康の命が届き、毛利家ではすでにそれを忠実に遂行しつつあった。したがってことは急を要する。 「大殿、弟|元盛《もともり》には、明日にも御意を伝えます。ご後悔なされませんな」  元続は念を押した。輝元が無言でうなずくのを見て、若い就隆が、わが意を得たりという顔をした。若さとはよいものだな、と思いながら、元続はにじり出た。 「元盛と会う前にいま一つ、大殿にお伺《うかが》いしておきたいことがございます」 「なんじゃな」 「東西手切れの結果がどうなるとお考えか、それをお聞かせ下さいませ」  その問いに、輝元はめずらしく、 「右大臣家はまだ二十三のお若さ、太閤さまの血を引かれたにしては、いささか不肖におわし、淀《よど》の方《かた》さまにはとかくの風評あり、片桐去ったあとを切りまわす大野治長は器量不足なれど、石田|治部《じぶの》少輔《しよう》(三成《みつなり》)ほどの憎まれ者がおらぬ故、関ケ原のときより戦いやすかろうし、豊家|恩顧《おんこ》の大名も、五人や七人は入城してくれよう」  とすれば、城は難攻不落の名城、決着がつくには、三年五年はかかるに違いない。そのうちに大御所さまのご寿命が尽きれば、豊家の命運は保たれる。——以上のような見通しを、すらすらと口にした。 「元続、そちの考えは」 「てまえにはなんとも……」  口を濁して、元続は面を伏せた。そのほんの直前、 「なにもおわかりなされてはおらぬ……」  元続の目に哀れみが宿ったのを、輝元は気づくよしもなく、 「ほう、そちほどの者がの」  と、自分の見通しを、誇示するような表情になった。     二  宍戸備前守元続も、三つ違いの弟、内藤|修理《しゆり》大夫《だゆう》元盛も、同じ萩城の三の丸に屋敷を賜《たまわ》っている。といっても、二つの屋敷はかなり離れているし、元続が筆頭家老の要職にあることもあって、特別な法要でもないかぎり、たいてい書面で用向きをすませ、当人が顔を出すことはほとんどなかった。  元続も元盛も、毛利家の宿将宍戸|左衛門尉《さえもんのじよう》元秀の子として生まれたが、元盛は、大内家の重臣で、主家滅亡後毛利家に仕えた、叔父内藤左衛門大夫隆春に嗣子《しし》がなかったことから、若いころその養子になり、いまは厚狭《あさ》郡の荒滝を領している。 「これはおめずらしや」  輝元に復命した翌日、前ぶれもせず元続が訪ねていくと、元盛は喜んで座敷に通そうとする。それを制して、 「久々に積もる話がしたい」  元続が小座敷の方を所望した。ほどなく、酒肴《しゆこう》が運ばれてくる。 「孫兵衛や図書佐《ずしよのすけ》は、たまには顔を見せるかな」 「いや、いっこうに」  孫兵衛|元珍《もとはる》は、元盛の長子で三十三、父とは別に知行をいただき、屋敷も賜っている。次子図書佐元豊は、粟屋次郎左衛門の養子となり、孫兵衛よりもたしか二つ年下のはずであった。ちなみに、孫兵衛の実名「元珍」は、関係の史書はたいてい、 「げんちん」  とすることが多い。  覚悟して訪ねてきはしたものの、ことがこと、やはりなかなか切り出しにくく、ついとりとめもない世間話をしていると、元盛の方が先に気づいた。 「御家老、そんな悠長な世間話などしている暇はござるまい。何かいいづらいことと見た。どうか遠慮せずおっしゃってくだされ」  それで、気が楽になった。 「ではいわせてもらうが、御家老だの、おっしゃってくだされなどとはいやじゃぞ」 「わかり申した」 「わかったといえ」  元続は、江戸での模様や、昨日の城中でのいきさつを、順序を変えたり、多少取捨したりして元盛に伝えた。 「こんどの戦《いくさ》が、三年も五年もかかると。さてもさても大殿のお人のよさよ。それだから関ケ原のときに、狸の空証文にだまされて、八十万石もの大損をなされたのじゃ」  元盛は、あきれて二の句が継げなかった。 「大坂城へこもってくれるか」  くれぬか、ではなかった。さすがに、すぐには返事ができない。かといって、当惑顔にもならなかった。ややあって、元盛が口をひらいた。 「引き受ける前に、大殿のご真意をうけたまわりたい」 「ご真意を……」 「わしに大坂へこもれと仰せられるお腹のうちじゃ」  きたな、と思った。 「つまりは、故太閤さまへの義理、右大臣家に対するお心入れが主か、それとも、勝利がどっちに転んでも毛利家が滅亡せぬように、と二股《ふたまた》かけるご所存が先で、故太閤さまへの義理はつけたりか。そういうことよ」 「大坂へ行くも行かぬもそのことしだい、というのだな」 「わしとて命は惜しい。せがれどもにも心が残る、古女房にも因果をふくめねばならぬ」  こんどは元続が考えこんだ。どう答えるか迷った。大坂へ行くまいと思えば、輝元の真意いかんにかかわらず、いいがかりの種にことは欠かない。秀頼のことが主なら、 「涙などに命はかけられぬ」  といえるし、逆に毛利家の安泰を持ち出せば、 「そんな薄汚いことはまっぴらじゃ」  と突っぱねられる。どういう答えがいいかを思案しつつ、元続は元盛と二、三度杯をやりとりした。  元盛は武辺《ぶへん》といい、剛直ぶりといい、毛利の家中でも指折りの男で、その上頭脳のひらめきも鋭い。それを十分知りつつ元続は、久々に会った嬉しさもあって、 「さて、どう返事すればいいかのう」  うっかりそうもらしてしまった。元盛はとっさに、裏まで読んだ。 「これは兄者のことばとも思われぬ。おれがそんな男か。関東の古狸といっしょにされるは心外じゃ」  眉《まゆ》がつり上がった。 「待て元盛、わしらは久しぶりに積もる話に興じているのだぞ」 「うん、すまぬ、そうであったな」  元盛はあっさり詫《わ》びた。また何度か杯をとりかわしていると、灯りが運びこまれた。それをしおに、元続は障子を明けて、ひんやりする縁先に立ち、暮色のひろがりはじめた庭に目を投げた。元盛もきて、元続の左側に並んだ。 「聞かずにすまされぬか」  元続はひとりごとめかして、庭に眺め入るていを装った。 「どうしてじゃ」 「こんどのこと、大殿のお指図とは、どのみち口が裂けてももらせぬ大事、ならばご存念、無理に知るにも及ぶまい」 「それは兄者にのみ通じるりくつ」 「ならば聞く。どのような大殿のご存念であれば、おぬしの気に入るのじゃ」 「ばかな。先にいえるか」 「元盛、子供のころは、おぬしとよう取っ組み合いのけんかをしたものよなあ」 「話をそらすな」  そのとき、元続にはもう次の思案が定まっていた。 「実はなあ、大殿はこのことをわしに申しつけるにあたって、かような大事を黙って引き受けてくれる者、毛利の家中に人多しといえども、元盛をおいてほかにない。さよう仰せられた。余と元盛は一心同体、そうおっしゃりたげなお口ぶりにての、わしは正直、ちと妬《ねた》ましかったわ」  だが、この手はきかなかった。 「兄者、兄者はいつから、そのように口上手になった」  ほかの者なら、あるいはぐっと詰まったかもしれないが、そこは元続、ただちに逆手にとった。 「元盛、いまの一言本心か」  声音《こわね》はおだやかながら、胸にひびく気魄《きはく》に満ちている。 「宍戸備前守元続、五十二年の生涯に、初めて口上手といわれたわ。これでは話の進めようもない」 「兄者……」  元盛はうろたえた。 「酒じゃ。話はこれまでよ」  席に戻って、元続は元盛にいい渡した。頭も切れるとはいっても、武辺と剛直のみを心がけてきた元盛が、長年筆頭家老として、毛利のお家を背負ってきた元続に、五分に太刀打ちできるわけがない。三つ違いにせよ元続には、兄としての貫禄もあった。  ほどなく元続は、きげんを直し、元盛もめったに見たことない陽気な酒になった。元盛が肝心《かんじん》な返事を口にしかけると、 「もうよい、わかったわかった」  と制し、妻女を呼べとまでいい出した。元盛は古女房などといったが、夫よりははるかに若く見え、輝元の外戚《がいせき》にもあたるだけに、立居振舞にも気品がある。その妻女までが、元続の上きげんぶりに目をみはった。 「いやあ、今夜は酔うたわ。かたじけなし弟御、修理大夫どの、元盛どの……」  夜が更《ふ》けてから、元続は帰っていった。小路《こうじ》をだんだん遠ざかる、その見せかけの千鳥足に合わせて、元盛のつけてやった小者の籠|提灯《ちようちん》が、右に揺れ左に揺れする。  元続はたしかに酔ってはいたが、あれほど足もとがふらつくはずはない。門前まで見送った元盛に、 「気づかれるな」  とささやいたことでもそれが読めた。 「兄者もきっと泣いてござる」  おそらく今夜が、兄と弟生涯の別れに違いない。 「よしないことを問いただして、兄者を苦しめてしもうたか……」  悔いが元盛の胸をかんだ。なにげなく仰ぎ見ると、星をちりばめた初冬の夜空がしっとりとぬれていた。星空そのものがうるんでいるわけではなかった。     三  数日後、病気につき知行地に帰って療養したい旨《むね》、政庁に願い出た、みずからの筆跡でない元盛の書面が、元続のところへ回ってきた。元続は即日許可を与えた。二日前元続は、 「内藤修理大夫どのが、派手な父子《おやこ》げんかをなされたらしい」  といううわさを耳にしている。  なんでもその前日、元盛は、長子内藤孫兵衛元珍、次子粟屋図書佐元豊の二人を招き、酒なしで何か話し合っていたらしいが、すっかり暗くなったころ、にわかに双方の声が高くなったあげく、まず孫兵衛が、ついで図書佐が表へ飛び出し、それを追って出た元盛が槍《やり》の鞘《さや》をはらいつつ、 「おのれらはそれでも、この修理大夫元盛がせがれか、以後顔を見とうもないわ。今日かぎり義絶するからそう思え」  とどなりつけ、そのあと、夜通し大杯をあおりつづけたあげく、翌朝頭が上がらず、そのまま寝ついてしまったという。 「暮れてからなら、どちらも涙を人に気づかれてはいまい」  安堵とともに、元続の胸が熱くなった。元盛のもとへは、すでに人知れず兵糧米《ひようろうまい》一万石のかわりに、黄金五百枚を届けてある。  元盛が領地へ去るのと前後して、笠井勘七郎、幸田《こうだ》新助、宗近長三郎《むねちかちようざぶろう》ら六、七名からも、病気療養願いが出された。  孫兵衛と図書佐は、元盛のもとへすぐに見舞いの使者を出したが、元盛は家士に応対させて、 「親不孝者の見舞いなど受けぬ」  と、けんもほろろに、せっかくの使者を追い返したという。  哀れとは思いつつも、元続はやがて、弟のことも、二人の甥《おい》のことも、念頭から振りはらい、毛利勢の出陣支度に忙殺された。  十一月十一日、輝元は、三次郎就隆とともに、兵を率《ひき》いて萩を発し、三田尻《みたじり》から海路東上した。むろん、元続もこれに従った。十七日、兵庫に上陸、ここで家康の指示を待つことにしたが、六十二歳の輝元は、長途の旅の疲れから、ほどなく病みついてしまった。急いで家康に使者を出すと、 「江戸の秀就、秀元にも西上を命じてある。両名の到着を待って帰国、療養につとめ、かつは領内の仕置にあたるがよい」  右のような家康の意向が伝えられた。その間、元続は、輝元から名代《みようだい》を命じられた就隆に同行し、大坂城南の住吉で家康に目通りした。家康は終始上きげんだった。後刻、二人きりになってから就隆は、 「見かけはただの好々爺《こうこうや》じゃ。このたびの横車とは、とても結びつかぬ。こわいの」  と首をすくめて見せた。  後にいう冬の陣が始まった。兵庫滞陣中の輝元は、大坂の戦況を聞くたびに、微妙な反応ぶりを見せた。伯楽《ばくろう》ケ淵《ぶち》の砦《とりで》を守っていた城方の勇将|薄田兼相《すすきだかねすけ》が、一夜、女郎屋に出かけた隙に砦を奪われたと聞けば、口をきわめて罵《ののし》り、鴫野《しぎの》、今福《いまふく》における木村|重成《しげなり》、後藤|基次《もとつぐ》の勇戦を耳にすれば、 「さすがは」  と目を細めて、 「大殿はどちらのお味方でございます」  と、近臣たちにたしなめられた。西上して家康に謁見《えつけん》をすませた秀就、秀元両名と、輝元が西宮で対面したのは十二月六日のことで、その四日後、輝元は帰途についたが、帰国していくばくもせず、和議がととのったことを知った。  年が明けて一月の末ごろ、秀就は萩に、秀元は長府に戻ってきた。輝元は、秀就から意外なことを聞いた。 「大殿、大坂城は寄手により、二の丸、三の丸の濠《ほり》まで埋めつくされ、本丸のみの裸城になりました」 「ばかな。城方は、それをおめおめ見ていたのか」 「城方にも落度がございます。和議の条件、総濠は寄手が埋め、二の丸、三の丸の濠は城方で埋めることになっておりました。城方がいつまでもかからぬから、見かねてこっちが手伝ったまで。こう開き直られては、抗議のしようもございませぬ」 「抜かったのう。それではいかに天下の名城でも、再戦となれば半年と持つまい」  輝元は重い息を吐いた。 「大御所さまは、初めからそのおつもりかと存じます。てまえや秀元に、江戸でなく国へ戻れと仰せられたのも、おそらく再戦を含みとしてのことでございましょう」 「元続、大丈夫であろうか」  輝元は、老職のなかで、ただ一人そばにいあわせた元続へ、心細げな目を投げた。わざわざ頭を丸め、佐野|道可《どうか》と変名して大坂城に入城した、修理大夫元盛のこととはいうまでもない。 「ご案じなさいますな。お家と縁もゆかりもなき、佐野道可なる素浪人のこと、捨ておいても大事ございませぬ」  いとも無造作に答えはしたものの、元続にとっては血を分けた弟元盛にかかわること、輝元の不安がりようは、いささか心外であった。 「他の老職どもに気づかれはすまいな」 「それはひとえに、大殿のご態度にかかっておりましょう」  かたわらの就隆に悪いと思いつつ、つい皮肉の一つもいいたくなる。  ともあれ、その後三月までは何事もなかったが、大坂討滅をあせって、一日も早く再戦に持ちこもうとする家康の露骨な挑発ぶりが、しきりに伝わってくる四月なかばのある夜、元続の屋敷へ、老職の一人山田吉兵衛がやってきた。 「思う仔細《しさい》あれば」  といって、玄関近くの刀架にはかけず、太刀をたずさえたまま座敷に通った吉兵衛は、着座の際、作法にはずれてその太刀を左側に置いた。目の光がただごとではない。  元続はすぐぴんときたが、 「なんの真似じゃ」  そ知らぬ顔でおだやかにたしなめた。 「その胸に覚えがござろう。御家老、どういうおつもりか承りたい。佐野道可一件、存ぜぬなどとはいわせませぬ」 「はて、なんのことやらとんと」 「おとぼけ召さるな」  吉兵衛は、自分がつかんでいる元盛大坂入城のいきさつを、かなりな正確さで元続に突きつけた。 「初耳じゃ、さようなことは」 「まだしらを切られるか」 「わしは筆頭家老ぞ。どうしてさような危い橋を渡ろうや。大殿からご相談があれば、命をかけておとめこそすれ、加担したりはいたさぬ」 「なれど黄金五百枚、道可の、いや修理大夫どのの手に渡ったこと、すでに調べがついており申す」 「それをわしの指図というのじゃな。とすれば、だれが申した。名を挙げてみよ」  吉兵衛は詰まった。吉兵衛が聞き出した相手は、 「大殿様おじきのお指図により」  としかいっていない。元続は最初に手をうって、輝元に、 「秀就さま、秀元さまのお名を出されても、元続がかんでいること、何があろうと仰せられますな。それさえお守り下されば、万一家中の騒ぎとなっても、この元続がかならず押さえます」  といってある。黄金五百枚の引き渡しにたずさわった者にも、 「よいか、わしの名、一言半句口にすな」  ときびしく釘をさしておいた。  元盛の大坂入城に関する秘密を、吉兵衛がどうして知ったか想像はつく。おそらく当の輝元が、破滅の幻影におびえて、他の老職にもらしたのに違いない。それ以外、思い当りはなかった。 「それにしても、よくもこの元続の名を出されなかったもの……」  背筋が凍《こお》る思いだった。 「このこと、他に存じている者は」  逆に元続に聞かれて、吉兵衛はわずかにためらったが、すぐ思い直して、 「五名でござる」  とその名を告げた。吉兵衛以外の老臣もふくまれているが、それほど扱いに厄介《やつかい》な者はいない。 「で、どう申し合わせたな」 「おそれ多いことながら、まさかのときは、豊家びいきの長府さまをまず討ち申し……」 「つぎはわしに詰め腹か」  落着きはらった応対ぶりに気圧《けお》されて、吉兵衛は窮《きゆう》した。 「ここで下手に騒いでは、大御所さまのお耳に達するおそれがある。それでは、藪《やぶ》をつついて蛇じゃ。五名はおてまえがなだめてもらいたい。万が一、大御所さまにもれたせつはこの元続がなんとしてでも切り抜ける」  吉兵衛は、しばらく火のような目で元続を見つめていたが、やがて答えのかわりに、左側の太刀を右に置き直した。 「かたじけない」  手をたたいて家人を呼び、硯《すずり》と熊野|牛王《ごおう》を持ってこさせた元続は、その牛王を裏返しにして、吉兵衛の目の前で、    起請文《きしようもん》 一 今度|修理《しゆり》(元盛)事、大坂御城罷出候通|其聞候《そのきこえそろは》、夢聊《ゆめいささか》不存《ぞんぜず》候事、 一 去年之|惣劇《そうげき》付而《について》、大坂江御奉公之望ミ仕候由、是又一円《これまたいちえん》不存候事、  右のように書き出し、三ヵ条からなる起請文を、吉兵衛へ宛《あ》ててさらさらとしたためた。惣劇とは、怱劇、※[#「公/心」]劇と書く場合が多く、忙しいこと、あわただしいことの意、ここでは去年の戦《いくさ》の混乱に際してとでも解してよかろうか。この起請文の文言《もんごん》は、はっきり毛利家の記録にとどめられている。  ともかくも、騒ぎはきわどいところで収拾された。元続の起請文がものをいったことも確かだが、それと合わせて、岩国城主|吉川広家《きつかわひろいえ》(輝元の従弟)の奔走の功も大きかった。     四  緩急《かんきゆう》自在な家康の挑発に乗せられて、大坂方はついに再戦に踏み切った。  毛利家では、まず秀元が、四月二十八日、わずかな供をつれて、長府から海路東上の途につき、翌日、部下の多くがそのあとを追った。待機せよとの触れにくらべて、出陣の令がかなり遅れたため、これがぎりぎりの早さだった。 「大儀であった。毛利勢|先鋒《せんぽう》の到着が、これほど速《すみ》やかとは思わざったぞ」  五月三日、京で家康父子に目通りした秀元は、家康のねぎらいにほっとする一方、なんとなく不審を覚えた。譜代大名の多い関東の諸軍は、先月二十五日に京に着き、すでに大和口、河内口に進出しているというのに、西国の諸軍の姿は、ちらほらとしか見かけなかったからだ。  毛利の主力を率いた秀就の出陣は、秀元より数日おくれ、五月四日、これまた海路をとって三田尻を発した。岩国城主吉川広家の子広正や筆頭家老宍戸元続もこれに従った。萩を出る前日、元続は輝元から、 「元続、頼んだぞ」  と銀十枚を下賜《かし》された。若い秀就を補佐することよりも、先に大坂に入城した、元盛一件についての不安からに違いない。  東上途中、大坂からの戻り船と何度も出会った。船脚をぐっと落として舷《ふなばた》近くから、 「大坂はどうなった」  と大声で様子をたずねると、 「いまごろ大坂のことをたずねるとは、お前たちは唐人か」  そんな嘲《あざけ》りが返ってきた。五月十日に兵庫に上陸、ただちに兵庫の東五里、西宮に着陣してその意味がわかった。秀元からの急使が待ち受けていて、 「去る六日、七日の激戦にて大勢決し、右大臣家ならびに御母公(淀殿)は、八日昼ごろ、山里曲輪《やまざとくるわ》のうち朱三櫓《しゆさんやぐら》にてご自害、大野治長以下およそ三十名も、それぞれお二方に殉じてございます」  と告げたのである。それを聞くなり、秀就より先に元続が、 「して、わが先鋒の働きは」  顔色を変えて使者に詰め寄った。 「甲斐守(秀元)さま、後続の大坂到着が遅れいらだっておられましたが、七日の戦闘にからくも間に合い、極楽寺橋方面において見事なお働きでございました。討ち取る首百八、生け捕り二十六名」 「ほう、それはまた……」  小荷駄の者、騎馬の士につく馬の口取りまで数に入れても、やっと八百前後と見られる手勢の働きとしては、抜群の軍功といってよい。  照りつける夏陽の下でも、それとわかるほど青ざめていた秀就や吉川広正の面《おもて》に、血の色がよみがえった。まだ若いだけに、秀就も広正も、秀元の大功の裏にあるものに気がついていない。 「なんとした元続、その浮かぬ顔は」 「いえ、お若い方と違うて、年寄りはいったん胆を冷やせばなかなかに」  元続は冗談に紛《まぎ》らしたが、いち早くおそるべきことに気づいていた。  秀元はかつて太閤に目をかけられたこともあって、内心は豊家びいき、家康寄りの吉川広家や、老臣|福原越後《ふくはらえちご》とはあまり反《そ》りが合わなかった。その秀元が、豊家滅亡の折に、周囲も目をみはる戦いぶりを示すとは、ただごととは思われない。  元続の勘は、日ならずして的中した。  福原越後の意見を容《い》れて、十一日、伏見城で本多|正信《まさのぶ》に会い、その助言を得た秀就は、翌日、広正、秀元をともなって二条城に伺候《しこう》し、遅参の詫びを言上した。 「なんのなんの、戦いに間に合わざった理由の一つは、触れが遅れたことにある。また船の用意にも手間どったであろう。案ずるな、毛利家の忠節は、甲斐守の働きで十分に実証されたわ」  家康の上きげんぶりにほっとして、お供をした元続がひかえているはずの別室に戻ってみたところ、元続の姿はなく、残っていた一人にたずねると、 「問いただしたき儀ありとて、本多|正純《まさずみ》さまからお呼び出しがかかりました。小半刻《こはんとき》ほど前のことでございます」  という。秀就と広正は青くなったが、 「元続におまかせなされませ。なんとか切り抜けましょう」  秀元は動じた様子もない。  そのころ、当の元続は、城中のどのあたりなのか、見当もつかぬ白砂の庭上にあって、広縁の本多正純とのあいだに、一歩も譲らず押問答を繰り返していた。切れ者として知られるだけに、正純の舌鋒《ぜつぽう》は鋭いが、元続の方も負けてはいない。 「ではその方は、佐野道可すなわち弟内藤修理大夫元盛の大坂入城は、あくまで元盛一存による脱走といい張るのじゃな」 「何度問われても、そのほかに答えようはございませぬ。毛利家の実意は、甲斐守の働きによって明らかでございましょう」 「いや、わしはあの戦いぶりこそ、疑わしいと見ている」 「どうしてでございます」 「道可の秘密がもれたと気づいたが故の必死の力戦、そうとれぬこともない」 「これは驚いたいいがかり、甲斐守は、毛利勢の主力遅参のお詫びのため、命がけになったもの」 「しかし、毛利は二股かけたといううわさを耳にすることも再三じゃ」 「ならば、いかがいたせば、潔白を信じて下さいましょうや」  正純は一呼吸もおかず、 「それはただひとつ、落城の混乱にまぎれて逃がれ、洛中洛外のいずれかにひそんでいると見られる道可を捜し出し、その首を大御所さまの見参に入れまいらせよ」  高飛車にこう申し渡した。元続もまた瞬時もためらわず、 「心得てござる。お家に迷惑を及ぼした不忠の弟元盛、仰せがなくともかならず捜しあてた上、手討ちにいたそうと思うていた矢先、ありがたきお申しつけにございます」  といい切った。  秘密がもれた理由はわかっている。先に大坂に入城し、軍議の席でもその発言を重んぜられた小幡勘兵衛景憲《おばたかんべえかげのり》は、徳川方が放った間者《かんじや》だった。     五  万事休した。こうなっては、どうでも元盛を捜し出し、首をはねて家康に献ずるほかはない。とはいえ、土地勘《とちかん》もとぼしく、広い洛中洛外、雲をつかむように頼りない話であった。  元続は、正純の意向を秀就に伝え、その許しを受けて八方に人数を繰り出したが、なかなか手がかりが得られない。逃げるほうも命がけだし、おいそれと見つかると思うのが不思議であろうが、あまり長びいては、疑いが深まるおそれもある。あせりのうちに、ずるずる無為の日がつづいた。  ところが、五月二十日の午後になって、思いがけなく訴人《そにん》があった。探索に出ていた者に、伏見城内にある毛利家の幕舎までつれてこられた百姓風の男は、元続に会うと、 「大藪《おおやぶ》村の無住の荒れ寺に、おたずねの者らしい男がおります」  と耳よりなことをいい出したが、いろいろ聞き出そうとすると、その答えは妙に要領が悪く、どうにもとりとめがない。  溺れる者の藁《わら》、半信半疑ながら、元続はみずから二十人あまりを率いて、大藪村に出かけてみた。大藪村は京からは南にあたり、昔は大藪庄、もしくは久世庄《くぜのしよう》大藪村といわれていたらしい。夕方、そこに着いてみると、村の片ほとりに、たしかに小さいながら、こんもりした森に三方を囲まれて、それらしい荒れ寺があった。 「十二名は、三名ずつ組んで森にひそめ、残る八名は山門ぎわに隠れていよ。寺から逃げ出す者があれば大声を上げてよし。ただし、それ以外は、いかほど長びいても、わしが合図するまで近づくな」  そう命じた元続は、石段を登り、山門をくぐると、冬越しの落葉がおびただしく積もった境内《けいだい》に足を踏み入れた。とっくに梅雨どきになっているが、ここ数日晴れ間がつづいたので、落葉が乾いた音を立てた。 「これはひどい……」  元続は眉をひそめた。右手の庫裡《くり》も左手の本堂も、荒れに荒れている。どちらを先にするか、つかの間迷った元続は、まず本堂へ足を向けた。七、八段の石段を登る。  本堂は軒《のき》が傾き、入口は、破れ放題の障子がなかば開いていた。人の気配はない。本堂内部は薄暗く、天井が高いせいか、夏とは思われぬほどひんやりする。  目が馴れるまでしばらくかかった。物の見分けがやっとつくころ、 「兄者か」  不意に奥から声がかかった。 「元盛……」  飛びつきたい思いとは逆に、すぐには足が動かなかった。相手も立ち上がらない。目が元盛をとらえた。声ではもっと奥と感じたが、ほとんど何もないがらんとした本堂のほぼ真ん中あたりに、ひげにまみれ、ぼろをまとった坊主頭の男が、ゆったりとあぐらをかいている。 「痩《や》せおった……」  一目見て、胸がしめつけられた。 「待っていた。上がってくれ」  いわれるとおりにした。 「まだ遠い」  小具足《こぐそく》姿の元続は、わらじのまま、抜き打ちを用心しつつ、さらに五、六歩、弟の方へ歩み寄って、おのれを恥じた。元盛のかたわらには、仕込み杖一つなかった。 「これか」  元盛が腹を切る手真似をした。 「それしかない。本多正純に疑われては、わしにもほかに打つ手がなかった」 「正純め、毛利家|取《と》り潰《つぶ》しまでは考えなかったのじゃな」 「極楽寺橋における甲斐守さまのお働きがあっては、そこまではやれまい」 「大殿はいまごろ、お城の奥で、夜もおちおち眠れずにおわそう」  まぎれもない嘲りの口ぶりだった。 「いまさらよせ。それよりも元盛、いつにする」  腹を切るのはという意味だった。 「明日にしよう。それと、いかになんでも、この荒れ寺では腹を切りとうない。この近くに鷲尾寺《わしおじ》という寺があるはず。頼んではくれまいか」 「よかろう。毛利家の名を出せば、むげに断りもされまい」  そのあと半刻ほど、兄弟水入らずで積もる話をしていると、上がり口付近にちらりと人影がさした。 「近づくなというたはずだぞ」  元続がどなると、その人影は転がるように逃げ去った。 「食物はあるのか」 「それくらいの才覚はあるわ」  いつの間にか、外が暗くなりかけた。元盛はため息をついてから、 「夜通しでも語り明かしたいが、そうもいくまい。では兄者、明朝迎えにきてくれ」 「承知した」 「まさか見張りを残しはすまいな」  不意をつかれて、さすがの元続が、とっさに返事ができなかった。元盛の勘は鋭い。落人《おちゆうど》の身で、神経がとがってもいる。血相を変えて立ち上がった。 「見損《みそこの》うたぞ。もう腹など切らぬ。どこへでも逃げるからそう思え」 「元盛……」 「兄者、兄者はいつからそうも頭が鈍《にぶ》くなったのじゃ」  その一言で、元続ははっとした。 「さてはあの訴人……」 「そうとも」 「気づかなんだ。あの訴人、おぬしが差し向けていたとはなあ」  すまぬすまぬ、と元続は、腐りかけた床板に両手をつき、額をすりつけた。 「悔しいわ、悔しいわ。おれの性分、知りつくしているはずの兄者が……。いつぞやの兄者のいいぐさではないが、元盛五十年の生涯に、これほど情けない思いをしたことはない。恨《うら》むぞ兄者……」  涙をしたたらせて元盛は、虫食いのひどい朽《く》ちた柱の一つを、両手ではげしくゆさぶった。細かな無数の木屑《きくず》や壁土が、ばらばら落ちた。     六  明くる二十一日も幸い晴れた。供を七名にしぼった元続が、朝早く、例の荒れ寺の山門をくぐってみると、元盛は本堂の石段のなかほどに腰をおろしていたが、ひげも剃《そ》らず、身につけた物も昨日のままのぼろだった。元続の目色に、元盛はすぐ気づいた。 「これでよいのよ。身体《からだ》は隅から隅まで洗うたし、下帯《したおび》だけは真っさらじゃ」 「なれど、それではあまりにも。白装束のほかに、帷子《かたびら》一枚、念のため用意してきた。着替えるがよい」 「いらぬというたら。いいがかりの種は、少ないに越したことはなかろう」 「そういうわけか」  元続は、昨日といい今日といい、いつにないおのれの血のめぐりの悪さに腹が立った。毛利家のために、そこまで細かく気を配ってくれる弟に、切腹を強《し》いなければならぬ身の不幸が、つくづくうらめしい。 「鷲尾寺には申し入れてくれたろうな」 「昨日、帰りに立ち寄り、住持にお願いしたところ、こころよくご承諾下された」 「かたじけない」  そのあとも、元盛は腰を上げなかった。どうやら、まだ元続と話し足りないらしい。 「急ぐか兄者」 「格別には」  やっと心づいた供の一人が、たずさえていた床几《しようぎ》を、元続の前に置いた。元続が腰をおろすのを待って、元盛がいった。 「昨日はすまなんだ」 「なにがじゃ」 「あのようなこと、男として、口が裂けてもいうべきではなかったに」 「そんなことはない。知らずにいては、あの世でおぬしと顔が合わせられぬところよ。聞かせてもろうてよかったわ」  元続の本心だった。 「兄者、武士で候と気どってみても、しょせん人間、みれんなものよな」  その意味が、元続にはよく読みとれなかった。元盛はつづける。 「昨夜おれは、今日のことで迷った。いさぎよく腹を切るか、無念腹を切るかと」 「よせ元盛」  ふつう腹は浅く切る。深く切るのは、心に恨みを残している場合にかぎられ、古来無念腹と称して忌《い》まれていた。 「思いとどまったから打ち明けたのじゃ。よく考えれば、おれに無念腹を切る理由はなかったわ」 「というと」 「大殿の仰せ一つで、命を捨てる純さはおれにはない。大坂に入城するには、おれなりの夢があった、賭けもあった。だから、半分はおれ自身にも責めがある」 「大坂方万が一の勝利に賭けたのじゃな」 「何度か、大名になった夢も見た。そのたびに、正夢になってくれと祈った。思えばばかな話よ」 「もうやめい」 「わかっている。今生《こんじよう》の別れとなる兄者が聞き手ゆえ、甘えてみれんをさらけ出す気にもなれた。では、そろそろ行こうか」  元盛は石段から腰を上げて、 「こりゃあ失礼、罪人の方が高い方に腰をかけていたとは申しわけなかった」  とおどけた。元続は切なかった。かねがね元盛は、こんなに口数は多くない。兄のつらさを、いくらかなりとやわらげようとの思いから出た多弁、と元続にはわかる。 「一つだけ、こっちから聞いていいか」  床几を離れた元続の問いに、元盛はごく無造作にうなずいた。  元続には、元盛について、わからぬことがある。大坂入城以来、元盛こと佐野道可が、どれほどの働きをしたのか、一度も耳にしたことがない。 「わしは不思議でならぬ」 「それはな」  いいかけて元盛は、 「いや、やめておこう。これを口にしては昨日の二の舞い」  それっきり口をつぐんでしまい、山門の方へゆっくり歩きだした。山門を出ると、長い石段の下に、二十名あまりの老若男女が集まって、みな手を合わせていた。何人か、子供もまじっている。石段の途中で、元続が立ちどまり、元盛を振り向いた。 「あれは」 「昨夜、あのなかの一人に、これまで世話になった礼を述べた。多分それで、別れにきてくれたのだろう」  この村までたどりついて、川土手の破れ小屋に隠れているとき、近くで泳いでいた子供が深みにはまった。 「こっちは落人の身、危いと思わぬでもなかったが……」 「飛びこんで助けたのじゃな」 「討死していたと思えば諦《あきら》めもつく。訴人が出るのも覚悟の上だったわ」  だが、訴人する者など一人もなく、みなが申し合わせて、元盛をかばってくれた。元盛は背後をかえりみて、 「この荒れ寺のことを教えてくれたのも、実は村人たちじゃ。墓地へ行けば、むすびや干魚《ひざかな》が置いてあった。もっとも、野良猫にかっさらわれたこともあるが……」  元盛も元続も、また石段をおりにかかった。村人たちの顔が、だんだん目鼻だちまで見えてくる。どの顔も涙まみれだった。いくつもの冷たい目が、元続を包んだ。 「兄者、迷惑をかけてすまぬ。許してくれ」  元盛が大声で詫びた。     七  元盛の首一つで、ことは無事落着した。  長陣中の諸大名に帰国の許しが沙汰されたのは、七月なかばのことだった。この年は、六月に閏《うるう》があったため、大坂落城から、およそ百日ぶりのことになる。  元続は、秀就に従って、兵庫から海路帰途についた。数日後、三田尻に着いた。ここで下船し、乗船下船の際の控え所となる仮屋で一息入れているとき、 「御家老に、御家老にお目にかかりとうござる。まげてお取次ぎお願いつかまつる」  と飛びこんできた男がある。年のころ二十八か九、なりは百姓体だが、ことばづかいははっきり武士、頬かぶりをとると、髪の結いようもまぎれもなく武士だった。 「やあ、おのれは宗近長三郎」  元続のまわりにいた者が、いっせいに刀の柄《つか》に手をかけた。男は、元盛と行をともにして、大坂に入城した一人だった。 「この不忠者」 「ようもここへ顔が出せたな」 「文句はあとでいえ」  大喝した長三郎は、床几にかけた元続をひたと見て、 「落城のどさくさにまぎれて逃げのびたは、命惜しさゆえではござらぬ。道可さまのことにつき、申し上げたいことがござった。これを果たさぬうちは、宗近長三郎、死のうにも死なれませぬ」  一気に申し立てた。元続が、背後にいる秀就を振り返ると、そちにまかせるというのであろう、秀就は軽くうなずいた。 「道可さまが、どのような戦いぶりをなされたか、だれ一人お耳にされた方はございますまい。そのことについて、ご不審を覚えられたことはございませんか」 「ある。どうにも腑《ふ》に落ちぬとは思うておった」 「それは道可さまにお働きがなかった故ではなく、お働きを隠し通そうとなされたからでございます」  実の兄である元続の、微妙な立場を考えてのことか、長三郎は元盛という名は出さず、道可で押し通した。  あたりはしんとなった。さっき口々に長三郎を罵《ののし》った者も、いつの間にか息をつめて、聞き耳を立てている。長三郎は一息ついてから、また先をつづけた。 「道可さま以下わたくしどもは、五月六日は木村重成さまの麾下《きか》に加わり、翌七日は、毛利勝永さまに属して戦いました。それ故、道可さまの戦いぶりについては、お二方がご存じでございます。なれど、木村さまは若江堤《わかえつつみ》でお討死、毛利さままた右大臣家に殉じられました」  長三郎が涙ながらに語るには、六日朝も、七日朝も、 「もはや城方には、百が百勝ちはない。首など取っても無駄じゃ。首帳に名を記そうなどみじん思うな。敵はみな討ち捨てにせよ。首を取ろうとする者は、見つけしだいこの道可が成敗する」  道可はこういい、さらに、 「死ねとはいわぬ。落ちたくば落ちてよし、だが首はとるな」  と念を押したという。 「道可さまのお心の奥まで、何人が見通したかは存じませぬ。なれど、一人も残らずおことばを守りました。道可さまの手勢、小人数ながら、敵を討った数、一人当りにすれば、城方随一のはずでございます」  長三郎が語り終わったとたん、若い秀就が立ち上がった。 「わかったぞ、元盛が心」  純粋さをまだ失なっていない秀就は、そのあと絶句し、目に涙をあふれさせた。元続が床几から飛びのいて平伏した。 「かたじけのうございます。いまのおことばにて、弟元盛儀……」  その先は声にならなかった。それを見届けたとたん、 「これで思い残すことございませぬ」  というより早く長三郎が、隠していた短刀の鞘《さや》をはらうや、ふところをくつろげて左脇腹に突き立て、ぎりぎり右に引きまわすと、その短刀を持ちかえて、右から左へ咽喉《のど》を貫き前にはねた。ほんの一瞬であった。  半刻後、行列は動き出した。 「元盛、おぬしはお家のために、いいや、お家のためなどではない。お家に仕える侍どもやその妻子のためにそこまで配慮してくれたのか……」  馬上に揺られる元続の頬を、涙が伝わり落ちた。  元盛の部下の名が、首帳に残されたら、落城の際、その首帳が焼けず、万一にも家康の手にでも渡れば、毛利家の立場が苦しいものになる。 「そうじゃな元盛」  あの荒れ寺でのことを、元続はあらためて思い出した。元盛たちの働きが、いっこうに伝わらぬ不思議をただしたとき、 「それはな」  といいかけて元盛が、はっと心づき、 「いや、やめておこう」  と口をとざしたことをである。     八 「元続すまぬ。定めしつらかったであろう。許せよ」  帰国した元続を、老いた輝元は、日ごろの善人面を丸出しにして、涙を流しつつねぎらってくれた。 「もったいなき仰せ……」  そのことばとはうらはらに、元続の心は少しもなごまなかった。涙の九分通りは、毛利家安泰を喜ぶ嬉し涙にすぎぬ。そんな思いが、咽喉《のど》の奥にひっかかった魚の小骨のように、頭の隅から離れず、元続は、 「大殿様のただいまのお涙に、泉下《せんか》の元盛、きっと感泣《かんきゆう》しておりましょう」  こういわずにはおられなかった。人の好い輝元は、精一杯の皮肉とも気づかず、 「そうか。そう思うてくれるか」  と目を細めた。そのあと輝元は、思いも寄らぬことを告げた。 「心配してはと思うて、そちには知らせずにいたが」  元盛の子、孫兵衛|元珍《もとはる》と粟屋図書佐元豊の両名を出頭させよ、という家康の命が伝えられたので、二人はいま上方に向かっているが、もし家康が駿府に戻っていれば、駿府まで足を伸ばすことになろうという。 「初耳でございました。帰国の途中、どこぞで行き違ったと存じます」 「念のため両名には、そちたち兄弟、かねて父と不和であったゆえ、決しておとがめはあるまいが、万一の際は、跡目のことなど一切心配に及ばぬという直筆の書状、渡しておいたわ」  元続はしかし、さほど案じなかった。二人の甥の性根《しようね》は、伯父として知りぬいている。どんな取り調べを受けても、見事申しひらきをするに違いない、と信じて疑わなかった。果たして九月早々に、 「無事に申しひらきいたしました」  という、駿府からの兄弟連名の書状が着いた。一方輝元に対しては、ややおくれて元続と福原越後に宛てて、京都所司代板倉|勝重《かつしげ》から、 「両名へのお疑いはことごとく晴れた。堂々たる両名の申しひらきぶりに、大御所さまもいたく感じ入っておわす。今後とも、大切に召し使うように。なお両名は、所司代|肝入《きもい》りにてしばらく京にとどめ、洛中を見物させてより帰国させる。さよう心得られよ」  右のような書状が届いた。元続はほっとしたが、輝元は、板倉勝重の書状を、 「これは大御所さまが、わしの忠節をためしておわすのじゃ。うかうかだまされては一大事、孫兵衛の跡目は宮松丸に、図書佐の跡目は伊勢岩にとらせ、ふびんなれど二人には切腹させよ」  といい出して、元続と福原越後の諫言《かんげん》にも、かたくなに応じなかった。  十月なかば、両名は孫兵衛の領地|富海《とのみ》で下船、十九日、孫兵衛は富海の滝谷寺《そうこくじ》で、図書佐は自領岩永の蓮華寺《れんげじ》で切腹した。両名とも従容《しようよう》として、すがすがしい死際だったと伝えられた。  許しを得て家督を嫡子《ちやくし》広匡《ひろただ》に譲った元続は、家老を辞し、ときどき輝元に召されても、病いを理由に登城しなかった。隠居して半年近くたったころ、図書佐の家臣がひそかにたずねてきて、 「表沙汰になってはいませんが、図書佐さまのご最期、実は無念腹でございました」  と真相を明かした。元続は、みるみる顔に朱をみなぎらせ、 「ようやった。図書佐、よくぞ無念腹を切ってくれた。礼をいうぞ」  とあたりかまわぬ大声を上げた。  そのころ、初孫《ういまご》の仙千代が、片言をしゃべるようになっていた。暇さえあれば、まだわかるはずもない、仙千代のおつむをなでて元続は、 「よいか仙千代、そなたは決して善人になぞなるな。世の中に、善人ほどむごいやつはおらぬ。そなたはかならず悪人になれ。よいか、悪人にじゃぞ」  といい聞かせた。父よりも、いつも家にいる祖父になついている仙千代は、そのつど、いやがりもせず、意味もわからぬまま、こくりとうなずくのが常だった。 [#地付き]〈了〉  [#改ページ]   国松斬られ     一  四囲に濠《ほり》をめぐらせた二条城は、濠をへだてて堀川通りに東面し、東大手御門にかけられた橋によって、通りと結ばれている。北御門側は、濠に沿って東から西へ竹屋町通りが走っており、その途中に、大御所家康の信頼厚く、一万六千六百余石の大名にして、京都所司代の要職にある、板倉伊賀守|勝重《かつしげ》の中屋敷、上屋敷がつづいていた。  当時の所司代は、朝廷の守護、公家《くげ》、門跡《もんぜき》の監察などのほか、後年の町奉行の役もかねていた性質上、業務は多端で、官邸である上屋敷は、敷地も軽く八千坪を越え、建物の数も多かった。表御門は、二条城の北御門に近い東寄りにあり、庶民の出入りする公事《くじ》門は西寄りにある。  敷地の大半を占める中央殿舎の前半分は、表座敷、使者の間、諸役人控え所、おびただしい執務部屋、白州《しらす》などからなっていた。奥の方は、おおむね勝重の私生活の場として使われている。むろん、一部の家臣や、与力、同心の長屋が、別に幾棟もある。  純然たる私邸にあたる中屋敷は、南北に通じる猪熊通りをはさんで、表門は上屋敷の東塀と向き合っていた。したがって中屋敷は、二条城とは逆に、裏塀が堀川通りに面する形となるのに、しばしば堀川屋敷と呼ばれたものだった。  大坂落城からかれこれ半月近い五月二十一日宵のころ、勝重は七十一歳の老躯《ろうく》に疲れも見せず、奥の小座敷で、大坂から戻ってきたばかりの近習《きんじゆ》早瀬金吾と向かい合っていた。縁側や庭先には、ところどころ蚊やり火がたかれている。  所司代には、与力三十名、同心百名、抱え足軽百名がつけられてはいるが、彼らには、それぞれに公務もあり、勝重は、大事な役目を直属の家臣にまかせることがあった。ことに早瀬金吾は、とっさの場合機転もきき、何事にも読みが深かった。それだけに、近習の役以外にたびたび使った。 「金吾、大坂の様子、なんとあったな」 「町人どもの大半、いや、わずかな例外をのぞくほとんどが、大御所さまを恨み罵《ののし》り、落城を嘆き悲しんでおります」 「さもあろう。大坂の繁栄は、故太閤によって築かれたからの。それに、大御所さまへの町民たちの罵りも無理からぬ」  勝重は、京都所司代として、口にすべからざる本音《ほんね》をもらした。  当の秀吉にしても、本能寺における信長の横死を機に、織田の政権を奪い、みずから天下人《てんかにん》となったが、そのやり口は細心巧妙をきわめた。  家康は違う。秀吉の死後いくばくもせず、その遺命に背《そむ》く行状が多かった。とはいっても、律義温厚の仮面から、醜悪な地顔をちらほら見せる程度だし、関ケ原における大勝後も、豊臣恩顧の有力大名に対しては、きわめて慎重だった。  ところが、慶長八年二月、征夷大将軍の宣下《せんげ》を受けるや、態度は急変した。同年の秋、太閤との約束どおり孫の千姫を嫁《とつ》がせたとはいえ、秀頼など、摂河泉《せつかせん》六十二万石の一大名視した。  そのくらいならまだしもだが、方広寺の鐘銘に対するいいがかり、冬の陣後間もない和睦《わぼく》申し入れ、和睦の条件として、難攻不落の大坂城を、本丸のみの裸城にしてしまうや、ふたたび無理難題を吹っかけて、大坂方を絶対勝ち目のない夏の陣に追いこんだ奸謀詐略《かんぼうさりやく》ぶりは、律義の仮面をいっきょにはぎ取り、一瞬にして鬼面《きめん》をむき出したといってもよかった。 「ご寿命をお案じなされてのお焦《あせ》りからでもあろうが、このたびの大坂攻めばかりは、あくどさが過ぎたもうた」  初名甚平のころから家康に仕えてきた勝重すら、そう思わずにはおられなかった。うなずいた金吾は、報告をつづけた。 「大坂の町民のうちには、右大臣家(秀頼)はまだ死んではおわさぬ。そう信じている者もあまたおります」  豊太閤栄華の名残《なごり》大坂城は、血と涙と、天に冲《ちゆう》する火炎のなかで凄絶な終焉《しゆうえん》を迎えた。事実上の落城は五月七日の夜だが、秀頼、淀殿、大蔵卿局《おおくらきようのつぼね》、大野修理、速水《はやみ》甲斐、毛利|勝永《かつなが》ら三十数名は、そのころ、本丸の北、山里曲輪の朱三櫓にひそんでいた。  翌五月八日正午、井伊直孝や安藤重信勢の鉄砲隊が、朱三櫓めがけて発砲するや、ほとんど同時に大野修理が、用意の硝薬に点火したのであろう。秀頼、淀殿以下、ばらばらの肉片となって櫓もろとも天空に飛散した。そのため、秀頼らの死体を確認することはできず、首実検も中止された。  その評判を耳にして、太閤びいきの大坂の民衆は、秀頼の生存を無理にも信じようとしているのに違いない。いま巷《ちまた》では、   花のようなる秀頼さまを   鬼のようなる真田がつれて   退《の》きも退いたよ鹿児島へ  このような歌が流布《るふ》されているという。勝重は一笑した。 「金吾らしゅうもない。それは、何も知らぬ者のざれごとよ」 「なぜでございます」 「歌の文句、すべて事実と違うている」  どこからか迷いこんできた一匹の蚊を、勝重が手刀で打ち落とした。燭台の蝋燭の炎《ほのお》がかすかにゆらいだ。 「のう金吾、右大臣家は二十三歳、色白の美男なれど、六尺豊かな背丈にて、花のようなとはとても呼ばれぬ。また真田幸村は、武勇こそ抜群じゃが、前歯も欠けて風采の上がらぬ小男よ」 「おことばながら、事実と違うことこそ、大事とは思われませぬか」  金吾のいうことにも、それなりの説得力があった。勝重はついからかった。 「そちは大坂びいきのようじゃの」 「おたわむれを。これまでのやりとり、立ち聞きでもされておれば、殿の咎《とが》が重うございましょう」  見事に切り返されて、勝重はさりげなく話題を変えた。 「ときに、そちはどう思うな。京の人びとの心の動きを」 「まず七に三かと」 「七が落城を悲しむ声か」 「いいえ、その逆でございます」 「なに、逆じゃと」 「おそらく、あれがたたりました」 「やはりな」  勝重にはすぐ読めた。 「わたくしはまだ八つでございました故、父から聞いて覚えております」  そう前置した金吾は、声を落とし、やや抑揚をつけて、つぎのような落首を口ずさんでみせた。   世の中は不昧因果《ふまいいんが》の小車《おぐるま》や    よしあしともにめぐりはてぬる     二  勝重は、火急の場合に備えて、奥のうち、表座敷にもっとも近い廊下沿いの一室を、仮の寝所にしている。短檠《たんけい》も、枕もとからいくらか離して、終夜ともしつづけた。  さっきの金吾の一言で、今夜の勝重はなかなか寝つけなかった。本来ならば京の人びとは、大坂の町民以上に豊家《ほうけ》の滅亡を悲しむべきであった。太閤の恩恵をもっともこうむったのは京の者にほかならぬ。  だのに、京の人びとが大坂落城に冷淡なのは、秀吉自身の蒔《ま》いた種ともいえる。淀殿のもうけた愛児で、秀吉の最大の生き甲斐だった鶴松は、天正十九年八月、わずか三歳で夭折《ようせつ》した。  絶望した秀吉は、甥の秀次を嗣子《しし》にきめ、その年十二月、秀次をまず内大臣に、ついでみずからの関白職を譲ることを朝廷に奏請《そうせい》して許され、当人は太閤と称した。太閤とは、摂政《せつしよう》もしくは太政大臣の尊称であり、関白を嗣子に譲った者をもさす。  ところが、翌文禄元年(十二月初めまでは天正二十年)四月、太閤にともなわれて、朝鮮出兵の大本営ともいうべき肥前名護屋城におもむいた淀殿は、ふたたび懐胎、明くる文禄二年八月三日、大坂において男児お拾《ひろい》(秀頼)を生み落とした。  太閤の心境に、大きな変化が生じたのはいうまでもない。お拾かわいさの老いの一念から、太閤はしだいに秀次をうとんじ、二年後の文禄四年七月、 「行状暴悪、謀反《むほん》の志あり」  として高野山に追放、十五日、同所にて切腹させた。さらに、八月初めには、秀次の妻妾二十八、九名を、いとけない子女もろとも三条河原で斬り捨てた。河原には、前もって大きな穴がうがたれ、斬られた女子供は、その穴に投げこまれ、蹴落とされた。しかも太閤は、その上に土を盛って塚となし、 「畜生塚」  と名づけた。太閤が、京の人びとの信望をにわかに失ったのは、それがきっかけであった。例の痛烈な落首が、巷の至るところに貼り出された。 「あれから二十年、まこと落首のとおりになったわ」  まさに因果はめぐるであった。  勝重はやがて眠りに落ちたが、半刻とはせぬうちに、宿直《とのい》の近習に起こされた。 「本多|上野介《こうずけのすけ》さまより、火急のお使者にございます」 「よし、すぐ衣服を改める」  はね起きると、 「その儀はご無用に」  使者は廊下から声をかけ、そのあと、用件を告げた。 「本日昼さがり、伏見農人橋の近くにて、秀頼の遺児国松丸を、乳母《めのと》ともども引っ捕えました」 「待たれよ。仮にも右大臣家のお子、国松丸さまと申さっしゃい」 「相手は敵将の小伜でござる」 「ならばこの先の口上は聞かぬ。かわりの使者をつかわすよう、すぐ舞い戻って本多どのにご返事あれ」  こう出られてはどうしようもない。使者はしぶしぶ国松丸さまといい直した。 「で、身元がわかったのはなんでかな」 「いっしょに遊んでいた近所の子供たちに名を聞かれて、若君じゃ、ときには上様とも呼ばれると申された由《よし》にございます」  明二十二日早朝、国松丸と乳母を所司代屋敷まで送り届けるので、そのつもりでいてほしい、というのが、使者の口状であり、持参した書状の内容であった。 「委細承知いたした。使者の役、大儀」  玄関まで使者を見送って、寝所に戻ってきた近習は、 「本多さまのお使者に、あのようなこと仰せられて大丈夫でございましょうか」  と眉根を寄せた。本多上野介|正純《まさずみ》は、とって五十一歳、かつて家康の懐刀《ふところがたな》、といわれた佐渡守正信の子で、老いた父にかわって大御所家康のお側に仕え、 「佐渡どの以上の切れ者」  と、だれからもおそれられていた。 「心配すな。わしは七十一ぞ。だてに年はとっておらぬ」  勝重は歯牙《しが》にもかけぬ口ぶりだった。勝重の重厚さ、加えて公正無私な点を、家康は早くから買っている。  駿府町奉行、関東代官などをへて、まだ四郎右衛門と称していた勝重は、慶長八年(六年説もあり)、家康の意を受けて京都所司代となり、従五位下《じゆごいげ》伊賀守に叙せられた。以来足かけ十三年、所司代として過ごし、扱いにくさでは定評のある、京の人びとに心から敬慕されている。 「それにしても……」  正純や使者のことなどすぐふっきった勝重は、国松丸がみずから、 「若君じゃ。ときには上様とも呼ばれる」  といったことに不審を覚えた。落城直前の大坂城から落とすにしても、当然だれかが、名を偽ることを教えるはずであろう。とはいえ、会って見ぬかぎりなんともきめがたい。取調べにあたった者にしても、真っ先にあやしむのがふつうであった。正純にしても、詳細報告を受けたに違いない。正純ほどの切れ者が、 「国松丸」  として所司代屋敷へ身柄を引き渡そうとすること自体、その小伜を真の国松丸と見きわめた証拠ではないか。だが、勝重の迷いはつかの間だった。 「明日になればわかること」  勝重にはすでに、国松丸の真偽《しんぎ》を見分け得る生き証人の用意があった。     三  夜明けを待ちかねた勝重は、早瀬金吾を召し寄せて、二、三のことを申しつけた。そのあと、手早く朝食をすませ、表座敷に出て、おもだった家臣や、公儀からつけられている与力、同心を広縁に集めた勝重は、 「ほどなく国松丸さまが到着される。罪人とはいえ右大臣家のお子、決して無礼な態度をとるでない。なお、ご到着の際は、表門からお通しせよ」  やや高飛車に申し渡した。 「おそれながら、その儀はあまりにも」  与力の一人が進み出る。 「ひかえよ。すべて余に思うところあってのことじゃ」  勝重は一喝してしりぞけた。 「間もなく国松丸さま到着されますが、乳母とは別に童《わらべ》が一人増えております」  先ぶれがあると、勝重はただちに玄関式台に立った。表門はここからずっと離れた左手にある。やがて、いましめられた二人の少年と、三十四、五と見える女が、周りを囲まれてはいってきた。三人とも、着のみ着のままらしいのが遠くからもわかる。 「金吾、国松丸さまには浴《ゆあ》みをさせ申し、お髪《ぐし》をととのえ、新しいお召物をお着せいたせ。また供の両名にも、それぞれ見苦しからぬものを」  そのあと、 「公儀よりつけられし与力、同心にして、余のなすことに不審を覚える者は、ただちに本多どのに告げるがよい」  頭からきめつけた勝重は、ゆうゆうと表座敷に向かった。  国松丸(以後は国松で通す)に関しては、伊賀者によって、去年のうちに、あらかたの調べはついている。国松は慶長十三年に生まれた。母は伊勢の人成田五兵衛の娘で名はお石、年は十七か十八であったろう。  秀頼はときに十六歳、千姫がまだ十二歳だったことを考えれば、国松の出生をことさら秘すにはあたらぬはずだが、いかほどもせず国松は、若狭小浜《わかさおばま》の京極家へ送られ、そこで育てられた。これは千姫よりも家康をはばかってのことにちがいない。翌年生まれた国松の妹は、女児のゆえか、大坂城内ではぐくまれた。  大坂と京極家の縁は深い。城主京極高次の正室初、すなわち後の常高院《じようこういん》は、淀殿の妹であり、将軍秀忠の御台所《みだいどころ》お江《ごう》にとっては姉にあたる。また、太閤のあまたの側妾のなかで、淀殿と互角に近い存在でありえた松の丸殿は、高次の妹であった。  だが、京極家の老臣たちは、国松を城内で育てることに難色を示し、初を説き伏せた上で、 「お名は明かせぬが、さるご身分高いお方のお子|故《ゆえ》、大事に養育を頼む」  と、城下の商人中、三本の指に折られる、ときや弥左衛門なる大商人に国松を預けてしまった。使者には田中六左衛門が立った。史書には「ときや」と仮名《かな》で記され、時屋か研屋かよくわからない。 「いずれにせよ損にはなるまい」  そうふんだ弥左衛門は、去年病死した弟の後家《ごけ》お春を、国松の乳母にした。半年たつかたたないころ、 「右大臣家のお子らしい」  と耳にし、いよいよ大切に扱った。六左衛門も、月に二、三度は様子を見にくる。ところが、国松が七歳になった慶長十九年の夏近いころ、関東と大坂のあいだがにわかに険悪化するに至った。弥左衛門はあわてて、国松を返上してしまった。京極家でも困り果てたが、幸いにも常高院が、 「姉上のもとにおもむいて、大御所さまとの間をとりもちましょう」  といい出した。  田中六左衛門をふくむ心きいた武士数名、お女中衆、徒士《かち》の者、足軽、端女《はしため》など、都合三十四、五名が先発したおり、常高院さま御荷物と称する諸道具に、長持を二|棹《さお》加え、その一つに息穴をあけて国松を忍ばせ、大坂城へつれこんだ。以来国松は、城内で過ごし、行きがかり上、田中六左衛門がお守役をつとめた。  伊賀者が探り出したところは、だいたい以上であった。そのことは、むろん勝重の耳にも伝わっている。  表座敷には、勝重からややさがって、老臣や近習頭、右筆《ゆうひつ》、与力数名、次の間にも、家臣数名が左右に分かれてひかえていた。勝重には、 「国松丸さまとはどんなお子か」  という興味とともに、真偽を見きわめる役目がある。おのずと目も鋭く、面《おもて》もいささかけわしくなった。そこへ、早瀬金吾があの三名をともなってきた。  乳母と童は次の間に控えさせ、国松のみを勝重の前にみちびいた。八歳という国松は、前髪を立て、色白く眉目《びもく》すぐれて、鼻筋の通ったりりしい美少年だった。年齢は十か十一には見える。 「伊賀守、今日のそちのはからい、国松、涙の出るほど嬉しかった。明日《あす》あさってにも斬られるであろうが、そちの情け、たとえ死んでも忘れはせぬ」  突っ立ったまま、一気にいってのけた国松は、袴《はかま》さばきもあざやかに着座すると、いんぎんに一礼し、 「いまのことばは、太閤が孫としての意地、無礼、許されませ。あとはこの身の扱いいかようにも」  涼しくことばを改めた。だれ一人、とがめることもできなかった。 「ご挨拶痛み入りました。板倉伊賀守勝重、役儀により上座よりもの申します」  国松は無言でうなずいた。 「捕われたもうたときのご事情、まずお聞かせ願えませんか」 「その儀はすでにご報告、受けておられましょう」 「なれど、人により申すことまちまちにて、真相、相わかりませぬ」 「それは、伊賀守さまみずから、ご判断なさるべきかと存じます」  それっきり、国松は固く口をつぐんだ。とても、わずか八歳の子の応答ぶりとは思われず、勝重以下みな舌を巻いた。 「ではおたずねを変えましょう。伏見農人橋のほとりにて、近くの子供たちに名前を聞かれ、若君とお答えなされたこと、まことでございましょうや」  国松は、こんどは素直に首をふる。 「城を落ちたもう前、お側の者、万一あやしまれた場合、名もなき者の子のごとく装うようには教えませなんだか」 「みなそう申しましたが、名を偽ってまで命を惜しむこと、太閤の孫たる誇りが許しませぬ」  見事な返事であった。 「ようわかりました。では、別室にお会わせしたき者を待たせてございますれば」  勝重はやおら立ち上がった。黙って国松もあとを追った。金吾がつき添って、いたわるように肩に手をかけようとしたところ、国松は激しくその手を振りはらった。  半刻ほどで、勝重だけが座に戻ると、与力の一人が、 「お席をお外しの間に、乳母をとりただしましたところ、国松丸さま若狭お移りから、ときや弥左衛門お預かり、大坂城お戻りのいきさつまで、伊賀者の探りとほぼ一致しているようでございます」  と報告した。供の童については、国松よりおくれて、別々に捕えられたとだけで、まだ十分には調べていないという。 「そちの名は」  勝重は、童を招き寄せて、やさしく問いかけた。 「仙石宗也斎《せんごくそうやさい》の末子《ばつし》宗五《そうご》、ことし六歳にございます」 「ほほう」  仙石宗也斎といえば、荒大名として世に知られた仙石権兵衛秀久の次子だが、父の遺領信州小諸五万石は三子忠政が継ぎ、こんどの戦《いくさ》には徳川方として加わった。宗也斎は大坂方に馳せ参じた。 「宗也斎は無事に落ちたようじゃな」 「いいえ、父は討死いたしました」 「わしは落ちのびたと聞いたがのう」 「父は逃げたりはいたしませぬ」  よほどきかぬ気らしく、宗五は小さな唇をとがらせた。 「これは悪かった。ときに宗五、乳母は女だし、そなたはまだ六つ、九分九厘助命されよう故、安心するがよい」 「乳母どのは乳母どの、宗五はそれでは困ります」 「困る……」 「なにごとも若君と同じに。宗五はそう心をきめております」  国松が死罪となれば、自分もともに刑死しようというのであろう。板倉家の家臣や、所司代与力たちのうち何人かが、こぶしの甲を目にあてた。     四 「国松丸さまは、この上屋敷奥にて、勝重みずからお預かり申し、乳母と宗五はひとまず牢舎に移す。さよう心得よ」  勝重のきびしい申し渡しに、乳母はくいさがった。 「わたくしどもも、若様のおそばにいとうございます」 「国松丸さまをも牢舎にと申すのか」  こう出られては、いい返すすべもない。 「ならばせめてお聞かせ下されませ。別室にて若様と対面されたのはどなたか」 「そちとはかかわりない」 「まさか、お守役の田中六左衛門どのではございますまいな」 「六左衛門ならば、とうにそちたちにも会わせている」  乳母のお春と宗五は、すごすごと牢舎へつれ去られた。別室にこもった勝重は、国松たちを白州で調べず、異例の措置をとった理由と、そのいきさつを手短かにしたためると、右筆に記録させた国松や乳母や宗五とのやりとりの始終を添え、使者に持たせて本多正純へ届けさせた。ほどなく、縁側に金吾が姿を見せた。 「ご様子、いかがじゃ」 「嬉々として、あの者と遊び興じておわします」 「そちはどう見る」 「正真正銘の国松丸さま、そうとより考えようがございませぬ」 「やはりな」 「一足先に捕えられたもうた妹君は、すでにご助命ときまり、いずれ鎌倉東慶寺にて尼僧となられると承りましたが、国松丸さまへの大御所さまのおはからい、なんとございましょう」  思いがけぬことを問いかけられて、一瞬息をつめた勝重は、しばらくして力なく首を左右に振った。混乱の大坂城から、千姫を落としてもらいながら、平然として秀頼も淀殿も死に追いやった家康だった。 「殺すに惜しいお子でございます」 「末おそろしいとはいえ、助命しても、もはや徳川の天下はゆるぎはせぬ」  この日の夕方、浪人姿の大男が、 「国松丸さまお守役田中六左衛門、所司代板倉伊賀守さまにお目にかかりたい」  堂々と所司代屋敷に乗りこんできた。ただの落人《おちゆうど》でないだけに、与力にはまかせず、六左衛門を白州に引きすえ、勝重みずから糾明《きゆうめい》にあたった。見れば年のころ三十七、八か、ほれぼれするほどの偉丈夫だった。 「途中で他家の衆によく捕まらなんだの」 「板倉さまのもとへは、前もって出頭の旨、書状を届けておいた。それを承知で召捕られるや、と申すと、みなあわてて手を引きました」 「あきれた男よ。それにしても、いまごろなんでわざわざ名乗り出たぞ」 「実は京橋詰めより落ちのびる途中、不覚にも若君を見失い奉り、やむなく市井《しせい》に身をひそめておりましたところ、ご消息を耳にいたしまして」 「物好きよの」 「これが物好きに見えること、とりも直さず世も末の証拠でござろうな」  勝重は、これ以上問答をつづけることの愚に気づいた。問答を重ねれば、この男、何をいい出すか知れたものではない。 「あと一つだけ聞きたい。その方、国松丸さまを大坂城内までおつれして後、若狭へ帰ろうとは思わざったか」 「思いました」  しかし、開戦にはまだ間があろう。せめて一月なりともとお側に仕えていたところ、ある日、国松の方が先に、 「六左、そろそろ若狭へ戻れ。さもないとそちも死ぬことになるぞ」  と切り出した。 「若君のそのご一言に、てまえは大坂に釘づけにされ、和睦の談合にしばしばお越し遊ばします常高院さまに願って、京極家よりお暇《いとま》頂戴いたしたのでございます」  勝重の胸が熱くなった。 「そちごとき馬鹿が、もそっと多くいてくれたら、このたびのようなむごい戦《いくさ》は起こっていまいに」  心からの述懐だった。そこへ金吾が姿を見せ、勝重にすり寄ってなにやらささやいた。勝重はうなずいた。小さな足音がして、六左衛門が顔を上げると、勝重のかたわらに、国松が立っているではないか。 「若君……」 「六左」  汗と埃に汚れた、仁王のような六左衛門の面《おもて》が、みるみる涙まみれになった。国松のつぶらな目にも涙がふくれ上がる。 「六左、許せ……。そちにはぐれたあと、一度、たった一度、六左に逃げられたかと疑うてしもうたわ。そのような六左ではないとわかっていながら……」 「もったいない。すべて途中で若君を見失いました、六左の不覚がもとでございます」  それを聞くなり、国松は白州へ飛びおりて六左にしがみつき声を立てて泣きむせんだ。小さな両手が、六左衛門の首筋に巻きついている。勝重も思わず目をうるませたが、その一方で、 「まことの国松丸さまに相違なし」  とっさに働く意識が、あまりにもあさましく切なかった。 「今日はそれくらいでもうよかろう。——国松丸さま、さあ、ござれ」 「若君、また明日がございます」  六左は国松を引きはがすように、強く前に押しやった。そのあと彼は、乳母や宗五とは別の牢舎に入れられた。 「なんとかお命だけは……」  勝重の思いはむなしかった。この夜遅く、本多正純から急ぎの書状が届き、胸を波打たせつつそれをひらくと、 「秀頼遺児国松は、明二十三日、市中引き回しの後、六条河原にて斬るべし」  とあった。書状には、僧侶の身ながら大御所の信頼深く、国政の枢機《すうき》にも参画し、 「黒衣《こくえ》の宰相《さいしよう》」  と呼ばれている金地院崇伝《こんちいんすうでん》に、国松処刑に適切な日を占ってもらったところ、明二十三日こそ最良という回答だったとかで、その写しも添えてあり、返書の一節には、 「申酉之《さるとりの》間ニ可被害《がいさるべく》候」  と時刻まで指示してある。申の刻とは午後三時から五時まで、もしくは四時から六時までをいい、酉の刻は五時から七時まで、または六時から八時までをさす。ここでは五時ごろと考えてよかろうか。  いずれにしても、今夜の明日では、もはや手の打ちようはなかった。それに、国松殺害の日時を、崇伝に占わせたこと自体、国松処刑は家康の意志であろう。正純は、家康に対する天下の非難を、一人でかぶる気と見てよかった。  処刑が明日とあれば、ことは急を要する。今夜のうちに、すべての手配を終えておかねばならなかった。すぐ金吾を呼んだ。 「家臣、ならびに与力、同心のうち、おもだった者をただちに集めよ」  勝重は、老体の腰をしゃきっと伸ばし、あらゆる感傷を即座に捨てた。そこへ、追いかけるように、夕刻報告した、六左衛門についての指示も届いた。     五  朝の白州に、国松以下四名を引きすえた勝重は、重おもしく申し渡した。 「秀頼遺児国松丸、守役田中六左衛門、右両名に対し、市中引き回しの上、斬罪仰せつけらる。なお時刻は申酉の間、場所は六条河原と心得よ」 「うけたまわりました」  国松が静かに一礼、六左衛門もそれにならった。乳母と宗五はお構いなしだったが、宗五は聞かず、わたくしもお供を、とこぶしを固めてくいさがった。 「宗五、そなたがお遊びの相手をつとめたのは、二月《ふたつき》ほどではないか」  六左がなだめたが、 「お側にお仕えした長さには、かかわりはございません。それにわたくしは、世に知られた仙石宗也斎の子でございます」  という意味のことを、六歳相応のことばでけなげにいい放った。乳母は乳母でわたくしもといいつのる。 「宗五はお供せよ。なれど、乳母どのまでが死んでは、われら三名の菩提《ぼだい》はだれが弔《とむろ》うてくれるのじゃ。苦しかろうが乳母どの、生きるつらさを選んでは下さらぬか」  六左の説得に、乳母は泣いて服した。  市中引き回しは正午からになっている。その間、勝重は、広い屋敷内の一隅、蝉《せみ》の啼きしきる樹下で、四名の者に別れの杯をかわさせた。  六条河原には、すでに昨夜のうちに刑場がしつらえられ、竹矢来が結いめぐらせてあるはずだった。  真新しい白《しろ》帷子《かたびら》の上から縄をかけられた国松たちは、正午、三台の車に乗せられ、所司代上屋敷を発した。先頭が宗五、二番目が国松、最後が六左衛門だった。車を引くのは小者で、与力、同心、足軽たちが、その周囲を固めた。板倉の家臣数名も、勝重の特命によって加わった。 「六左に気をつけよ。あの面魂、縄つきとて決して油断はならぬ」  勝重は金吾に耳うちした。  京から伏見へ至る道筋は、えんえんとつづく十数列の首棚に、おびただしい首が並べてあり、落人狩りが進むに応じて、新しい首と取替えられるが、周囲には蠅がたかり、死臭が満ち満ちて、落城後の酸鼻《さんび》になれた京の人びとも、車上に昂然と胸をはる国松たちには、惜しみなく涙をそそいでくれた。そのなかには、   世の中は不昧因果の小車や    よしあしともにめぐりはてぬる  かつては太閤を非難する、このような落首に拍手喝采した人びとも、まじっていたに違いない。 「さすがは太閤さまのお孫や」  そんなささやきが、何度となく警護の者の耳にはいった。引き回しの順路については定かでないが、途中途中の様子は、つぎつぎに勝重に報告される。勝重にとっては、長い長い半日だった。  国松たちを送り出して半刻ばかりたったころ、前もって六条河原につかわしていた同心の一人が、息を切らせて馳せ戻った。 「竹矢来の外は、見物人どもが鈴なりでございます」 「処刑は夕刻というのにか」  とっさに勝重は同心に、 「大儀ながら、ただちに引き回しの行列に追いつき、六条河原の様子を告げ、刑場入りを遅らせるよう早瀬に伝えよ」  と命じた。金吾なら、それだけで勝重の意図を見抜くはずであった。  金吾は夜になって戻ってきた。一足先に、与力の報告に接していた勝重が、 「無事終わったそうじゃな」  というと、 「それは、てまえがはからいました表向きのご報告、実は田中六左衛門のみは、つれ戻ってまいりました」  驚くべきことを金吾は口にした。  勝重の指示どおり、遅れて刑場につくと、夕暮も近く、折から雨雲が空をおおって、竹矢来の内外はもう薄暗かった。これなら矢来の外からは、処刑の様子はよくわかるまい。それに、刑場を取巻いた人びとは、口ぐちに南無阿弥陀仏を唱えている。  この当時京都では、首斬り役はたいてい青屋《あおや》がつとめた。青屋とは、紺屋、藍《あい》染屋のことだが、その一部の人びとが、罪人処刑にあたったものだった。  今夕の処刑にあたっては、宗五は西に向かって手を合わせ、素直に首を差しのべたが、国松は、朝の申し渡しで斬首と承知していたにもかかわらず、 「太閤の孫たる国松を、打ち首とはなにごとぞ。腹を切らせよ、ただちに縄をとき、腹切刀を与えよ」  と、縄つきのまま荒れ狂った。まさか八歳の子がと信じがたいが、刑場における国松の見事さは、多くの記録が証拠立てている。たとえば島津家の『薩藩旧記』には、 「——若年之|御事《おんこと》ニて候《そうらい》つるニ、御果《おんはて》きは寄特《きとく》(奇特)成仕合《なるしあわせ》、上下共ニ感シ申候」  とあり、『パゼー日本|耶蘇《やそ》教史』の一節は、国松を七歳としてはいるものの、 「人の伝ふる所に依れば、此の勇敢なる小児は、其の最後に臨みて、内府様の太閤様及び秀頼に対する背信の罪を責め、勇ましく首を差し延べて斬首せられしと云ふ」  と伝えている。 「で、国松丸さま、いかがなされた」  勝重はせき立てた。 「黙って首打たれたもうことも、太閤殿下の御孫たる誇りにございます。さよう六左が説得いたしました」  騒ぎは南無阿弥陀仏の声に消されて、人びとには気づかれずにすんだが、ほっとする間もなく、こんどは当の六左衛門が、縄つきのまま仁王立ちとなり、 「たったいま首をはねた童を、うぬらはまことの国松丸さまと思うているか。真《しん》の国松丸さまは、うぬらの知らぬところに、ご安泰でおわすわい」  と大声でほえた。一同、蒼白になった。 「斬れ、斬れ」  何人かが口ぐちに叫んだ。 「ご一同、お静かに」  金吾は制した。縄つきとはいえ、六左ほどの男が死物狂《しにものぐる》いで暴れでもしたら、斬り伏せるのは容易でない。もしもいまのような大声が矢来の外にまでもれでもすれば、それこそ一大事だった。幸いなことに、あたりはもう暗く、騒ぎさえしなければ、矢来の外からはわかるはずはなかった。九分九厘、本物の国松に相違ないとは思うものの、六左のことばは聞き捨てならず、やはり勝重の判断を仰ぎたかった。 「万一のときは臨機の処置をとれ」  と勝重にいわれてもいる。 「田中どの、いま一度、伊賀守さまにお会い願えようか」  下手から出るほかなかった。 「お望みならば」 「では、ひとまず首の座に直っていただきたい」 「だまして首打とうとしても、おめおめ斬られはせぬぞ」  六左は金吾のいうとおりにした。青屋の一人に、金吾は小声で命じた。 「かけ声高く、首打つまねのみせよ」  与力や同心も、金吾の行為をとがめはしなかった。形ばかりの斬首が終り、生きている六左に莚《むしろ》をかぶせて、見物人が去るまで待った。 「よくはからった。して国松丸さまのご遺骸いかがしたな」 「京極家の菩提所誓願寺より、御首《みしるし》ともども宗五のなきがらも合わせて引き取りに見えました」 「常高院さまか、松の丸さまのおはからいであろう」  目をうるませかけた勝重は、にわかにけわしい表情になると、こういった。 「かの者から、新しいことを聞き出した。六左を通せ。きゃつの面《つら》の皮、ひんむいてくりょう」     六  表向き六左衛門は、すでに国松とともに六条河原で斬られたことになっている。明日を待って白州で問いただすわけにもいかず、今夜のうちにけりをつけた方が、余人に悟られるおそれも少ない。  勝重は灯りを点《とも》した奥の座敷の一つを、対決の場にきめた。金吾ともう一人の近習には、前もってこまごまといいふくめた。  やがて金吾に案内された六左衛門が、蚊やり火のたかれている縁側に姿を見せて、静かに着座した。小ざっぱりした夏物を身につけ、脇差はたずさえていない。勝重も無腰だった。ただ六左に寄り添った金吾のみは、脇差を腰にたばさんでいた。とっさの際、六左衛門を斬る用意であろうか。金吾は板倉家切っての小太刀の名手として通っている。 「そこでは蚊にくわれよう。勝重の真向かいに着座するがよい」 「お心づかいはご無用に。てまえはもはや死人《しびと》の身、死人にたかるは蚊ではのうて蠅でござろう」  勝重の好意を、六左はすげなく突っぱねたものの、内心は波だちはじめた。四十に達せぬ壮者の六左から見れば、しわだらけの勝重は、吹けば飛びそうな老ぼれにすぎない。それが今夜の勝重は、 「痴《し》れ者の正体、見破ってくりょう」  という気魄に満ち満ちて、行手をはばむ巨巌を思わせた。早くから大御所の信頼を得、足かけ十三年にわたって京都所司代をつとめている自信がそうさせるのであろうか。気おくれを振り切ろうとする六左へ、勝重は淡々と声をかけた。 「その方、あさはかなことをするものよの」 「なにがでござる」 「昨日の朝より、今日の正午に至るまでの、国松丸さまのご様子、勝重みずからつぶさに見てとり、刑場におけるあっぱれな御振舞《おんふるまい》のことも、仔細報告を受けた。とても偽者にできることではない」 「お見くびりなされますな。この田中六左衛門が、一年間手塩にかければ、偽者をあれまで育てるは易々たるもの」  六左の気負いを勝重は冷笑した。 「なぜお笑いなされます」 「浅知恵がおかしいからじゃ。まことの国松丸さまが斬られたもうたとあれば、天下の同情は大坂に集まり、大御所に対する非難も高まろう。そこに思い至らぬとは……」 「伊賀守さまこそ、読みが浅《あそ》うござる。国松丸さま存生《ぞんじよう》かと、大御所や将軍に疑心暗鬼を生ぜしめ、五年ないしは七年の後、死を覚悟で真の国松丸さまが名乗り出られたら、幕府の威信はゆらぎ、伊賀守さまの名声も泥にまみれましょう」 「この屋敷内でそちを成敗すれば、今日斬られた国松丸をだれが偽者と知る」 「では遠慮なくてまえを成敗し、数日待って見られよ。京の辻々に、一度に貼紙が出申そう。六条河原で斬られしは身代りと」  ああいえばこう、こういえばああと、六左衛門はしぶとかった。緊張のあまり、金吾までが息苦しさを覚えた。しかし、勝重も譲りはしない。 「問答無用、こなたには、かかるときのために生き証人の用意がある」 「ならばただちにお会わせを」  即座に切り返しはしたが、一瞬、六左衛門の面を不安の色がかすめ去った。それでも、とっさに立ち直った。 「その者の名、わかってござる」  勝重はとり合わず、左手のふすまに向かって手をたたいた。 「かの者をこれへ」  近習には、六左衛門の名は、まだ告げるなといってある。ふすまが静かにひらくと、十三、四歳と見える前髪立ちの少年が、固い表情ではいってきた。いやでもまともから、六左衛門の姿が目に飛びこんでくる。 「あ、田中さま……」  真っ青になった少年は、一年近く国松の小姓として、太刀持ちをつとめた秋葉三之丞だった。 「やはりそなただったな」  六左衛門は、じかに三之丞と問答したい旨勝重に許しを求めた。勝重は意外にあっさり承知した。 「三之丞、いつつかまったぞ」 「五月十五日夕刻でございます」  平時なら、都における罪人は、みな所司代によって処置されるが、大坂落城後は、連日の落人狩りで所司代の手に負えず、あらかたは各大名にまかせられ、伺いを立てた上で所司代に送りこまれるのは、よほど名のある者にかぎられた。 「そなた、よう所司代送りになったな」 「国松丸さまのお小姓、と申し立てたせいかと思われます」 「ともあれ、無事でよかった」  思いも寄らないやさしいことばをかけられて、三之丞はその場に手をつき、不意に泣きむせんだ。 「田中さま、三之丞、申しわけないことをいたしました」 「案ずるな。申しわけのないことを一度もせぬ人間などこの世にいるものか。このわしとて、手の指に足の指まで足してもまだ足りぬわい」  六左衛門がなお話しかけようとすると、 「問答はそれまで」  勝重がぴしゃりとさえぎった。 「六左。国松丸さま、三之丞とご対面のせつのご様子は、この勝重がしかと見届けている。三之丞と先にお声をかけられ、飛びつきたもうたは、ほかならぬ国松丸さまじゃ」  だが、六左はなんの動揺も見せず、平然と押し返した。 「それがまことの国松丸さまたる証拠とは、伊賀守さまも焼きが回られましたな」  六左は皮肉っぽく笑った。 「ならばいま一つ、引き回しの行列が発したあと、三之丞から聞き出したことがある。後藤|基次《もとつぐ》、薄田兼相《すすきだかねすけ》の両名が道明寺にて討死、木村重成また若江堤《わかえづつみ》に散りし五月六日、国松丸さま、三之丞、宗五とともに、その方、お天守最上層に登り、回り縁に立って、若江方面の戦場を見渡したであろう」 「仰せのとおりでござる」 「そのときの一部始終、勝重すべて承知している」  六左は眉も動かさぬ。 「したたかなやつ」  内心あきれながら、三之丞から聞いたことを、勝重は六左に語った。当日、お天守最上層の回り縁に四名が立った時刻は、正午近くだった。そこから若江方面を遠望すると、軍勢の動きから判断して、押しては返し返しては押し、敵味方まず互角の戦いぶりに、いや、味方やや有利にさえ見えた。 「あの情勢、なんとごらんなされます」  六左衛門が試すように問いかけると、国松は首を左右に振った。 「どうあがいても、あと半刻よ」 「よう見抜かれました。この城、明日の夜かあさってまでには落城いたします」 「やはり六左もそう思うか」  その一語に、さしもの六左がうつむいてしまった。三之丞には、泣いているように見えた。宗五は、二人の顔をかわるがわる見るだけだった。しばらくして、六左はふたたび口をひらいた。 「ごらんのとおり城方には、もはや万に一つの勝ち目もございません。されば明朝早々か、もしくは夜になってから、若君には、乳母やてまえとともに、城よりひそかに落ちていただきます」  国松は黙っているが、途方にくれた顔ではなかった。 「無事落ちのびる見通しは、百に一か二、さようお覚悟願います」 「もうよい。いざというとき、太閤の孫らしゅう、見事に死ねばいいのじゃな」 「たとえ間違うても、みれんな振舞なされませぬよう」  この問答を、三之丞も宗五も、それぞれの年齢なみに耳にとらえた。六左は、青ざめている二人に申し渡した。 「人目につくゆえ、そちたちは、つらかろうが思い思いに落ちよ。国松丸さまのことは忘れてよい」 「かしこまりました」  ずっと年下の宗五の答えが、三之丞よりも早く、また雄々しかった。 「いま申したこと、違うかな」  勝重はたたみかけた。 「寸分、相違ございませぬ」 「ならばあっさり兜をぬぐがよい」  勝重の口もとがほころびかけて、すぐまたこわばった。六左衛門には、屈した色はみじんもない。むしろゆとりさえ見せて、三之丞の方へ向き直った。三之丞は、おびえをあらわにした。     七 「三之丞、そちが国松丸さまに初めてお目にかかったはいつじゃ」 「去年の夏でございます」 「伊賀守さまに至っては、昨日の朝がはじめてでござろう」  たしかにそのとおりではある。 「それに引きかえこの六左衛門は、ご誕生間もなくのころ、お目にかかっており申す。以後、ときやに預けられたもうたあとも、月に二度か三度はおめもじつかまつった。したがって、二歳の御面《おんおも》ざし、三歳の折のおかんばせ、ご成長に応じて、すべてこの目に焼きつけてござる」  大坂城内に戻し、三之丞が太刀持ちをつとめた国松は、足かけ七年がかりで、心魂を傾けて育てた偽者であり、乳母のお春ともしめし合わせた上だと六左はいう。その乳母は、通行証を与えられて、いまごろは若狭へ向かっていよう。 「六左、では真の国松丸さまは、別におわすと申すのじゃな」 「大坂とも、京極家ともかかわりなきところに、身を隠しておわします」 「なるほど、話はいちおうつじつまが合うている。だが国松が偽者なら、年端もいかぬ宗五をなぜ死なせた。むごいとそちは思わざったのか」 「思わぬことがござろうや。六左とて人間の血が流れており申す。たしかにむごうはござった。なれど、大御所のむごさの前には、満月と蛍火の違い。伊賀守さま、いかがでござる」  いっそ斬り捨てては、と縁側から金吾はしきりに目くばせする。勝重は気づかぬふりをした。そのとき、 「所司代さま、田中さま、三之丞はあの国松丸さまを、まことの若君と信じます」 「ならば三之丞、そちはなぜ若君と死をともにせざったぞ」  六左衛門は声を荒げた。 「それは若君が、板倉さまに命ごいして下されたゆえでございます」 「宗五にも助命のご沙汰があった。にもかかわらず宗五は、たった二月ほどお遊びの相手をつとめただけで、われから望んで六条河原で平然と首差しのべた。三之丞、あくまであの国松丸さまを真の若君といいはるなら、わしの前で腹を切ってみせよ」  三之丞は蒼白になり、わなわなと唇をふるわせた。 「だれかある。三之丞を別室へ移せ」  六左衛門はなにもいわない。三之丞が去ると、勝重の方から切り出した。 「六左衛門、今夜の問答、あとは明日にしてくれぬか。わしは老体、そちのしぶとさに、ほとほと疲れ果てたわ」 「承知いたしました。いや、いっそこれにて打ち切りにいたしましては」 「ここで打ち切っては、わしの負けのようじゃの」 「そうともかぎりませぬ。さっきのご一言、胸に釘打たれました。国松丸さまが偽者などでは、宗五が哀れでございます」  心なしか、目がうるんで見える。勝重はここぞと膝を進めた。 「本日夕刻、六条河原で斬られたまいしは、正真正銘の国松丸さま、そうみとめてくれれば、勝重重荷がおろせる」  即座には返事がなく、しばらく沈黙がつづいた。 「まずこれへ」  勝重は、自分の正面を指ししめした。六左は、こんどは素直に立ち上って、勝重の真向いに移った。金吾はもとのまま縁にいて、身じろぎもしない。 「いかがじゃ、さっきの件」 「二、三日考えとうございます。よって勝手ながら、てまえのみに、牢舎の一つをお与え願えませんか」 「よかろう」  幸い、無人の牢舎が一つある。 「入牢にあたってはお願いがござる」  料紙《りようし》、筆硯《ひつけん》のたぐい、燭台、それに短刀一振りを貸してほしいと六左はいう。他牢の者の手前も、聞き入れがたい条件だが、勝重はあえて承知し、牢舎番の同心にその旨伝えさせた。武谷源右衛門という名にされた六左はただちに牢舎に移された。むろん、終夜見張りがついた。  墨を磨《す》る様子も、料紙をひろげる気配《けはい》もなく、六左衛門は目をとじ、壁に寄りかかっていたが、いくほどもせず灯りが消えた。物音は一切しない。 「一睡もしなかったものか、源右衛門は目を赤くしております」  明くる朝早く、金吾と同道した与力から、勝重はそのように報告を受けた。与力、同心のうちには、六左の正体に気づいている者も数名はいたが、彼らはとぼけ通した。六条河原での騒ぎの一件が、表沙汰になれば大変だし、口外はできないのだ。すべて、勝重の処置にまかせるしかなかった。  与力がさがるのとほぼ行き違いに、逆の方から、青い顔をした近習の一人があわただしくやってくると、 「ついさきほど、秋葉三之丞、みずから相果ててございます」  と告げた。三之丞は、わずかなすきに、脇差で腹を切ったあと、右から自分の喉を刺し前に刎《は》ねて息絶えていたが、体温はまだほのかに残っているという。 「哀れ三之丞も武士の子であったか……」  勝重の声がふるえを帯びている。元服前とはいえ国松のお小姓、せめてもの情けで脇差を与えていたことが、裏目に出てしまった。 「八つも年下の宗五の最期《さいご》を聞いて、心責められたと見えますなあ」  金吾も目をうるませた。 「いや、それのみではあるまい。一つは六左への意地と見た」 「国松丸さまは偽者にあらず。死をもってそれを証拠立てようとしたとでも……」 「そうとってやりたい」  勝重は、金吾を身近く招き寄せ、 「三之丞の自害、牢舎同心にいいふくめ、それとなく六左の耳に入れよ。それと、今夜は見張り無用と申せ」  とささやいた。  翌未明、牢舎内で、六左衛門の短刀による自害姿が発見された。すでに冷たくなった遺骸のかたわらに、見事な筆跡の書置が残されていたが、その書置には勝重の期待を裏切って、 昨五月二十三日、六条河原において斬られ候は、国松丸さまにはこれなく、それがし伜にて当年九歳の八雲新弥に御座《ござ》候。いったんは申し聞かせて国松丸さま御身代りといたし候も、恩愛の絆《きずな》断ちがたく、かくは伜新弥の跡を追い申す次第に御座候。なお宗五、三之丞は不憫《ふびん》には候えども、真の国松丸さま儀は、今もつつがなく御存生《ごぞんじよう》に御座候|間《あいだ》此段書き添え申し候。   慶長二十年五月二十四日夜半 [#地付き]豊臣家旧臣       [#地付き]八雲新九郎時成   以上の通りしたためてあった。勝重に対する、六左衛門の意地に違いなかった。数日たっても、京の辻々には、なんの貼紙も出されることはなかった。とすれば、六条河原で斬られたのは、やはり真の国松ということか。が、はっきり断定もできかねる。 「あきれた男よ。死んでも手こずらせおるわ」  偽らざる勝重の述懐であった。     八  元和六年三月、勝重は、 「老躯《ろうく》任に耐えず」  として職を辞した。ときに七十六歳。跡は長子周防守重宗が継いだ。これについては有名な逸話がある。 「後任に手ごろな者がいるか」  と将軍秀忠に問われて、勝重はためらいもせず、 「わたくしめの嫡子、周防守重宗が適任かと存じます」  胸を張ってそう答えたという。京都所司代就任の際、重宗は三十五歳であった。その折勝重は、所司代在職中もっとも強烈な印象であり、胸に秘め通してきた国松一件を、つぶさに重宗に語った。 「去年病死した早瀬金吾のほかには、ここまで知っている者はない。いささかかかわりを持った者も、いまはほとんど関心を失っておろう」 「ただいま承りましたこと、わたくしかぎりといたします」  重宗はそれだけ答えた。  元和九年、従四位下|侍従《じじゆう》に叙せられた勝重は、翌寛永元年四月二十九日、堀川屋敷とも呼ばれる中屋敷で死去した。享年八十歳。その日、勝重はもうまったく意識はないかに見えたが、何を考えついたのか急に、 「重宗をのぞきみな退《さ》がれ」  と命じた。父と二人きりになって、 「父上、国松丸さま以下、四名の者が、父上を待っておりましょうな」  重宗が声をかけると、勝重は聞きとりにくい声でつぎのように答えた。 「六左や宗五とも会いたいし、三之丞とも会いたい。なれど、いちばん会いたいのは、あの国松丸さまよ。真偽など、いまさらどうでもよい……」  終りのあたりが、途中からすうっと消えてしまった。 [#地付き]〈了〉   初出誌一覧 花のようなる秀頼さまを   「小説現代」昭和57年3月号 大野修理の娘   「小説現代」昭和58年12月号 粟田口の狂女   「小説現代」昭和58年10月号 燃えなかった蝋燭   「小説現代」昭和59年9月号 坂崎乱心   「別冊小説現代」昭和60年新秋号 孫よ、悪人になれ   「小説現代」昭和59年12月号 国松斬られ   (未発表作品) 本書(単行本)は一九八六年三月、小社より刊。 底本 講談社文庫版(一九八九年一一月刊)。