滝口康彦 拝領妻始末 目 次  拝領妻始末  下野《しもつけ》さまの母  千間土居《せんげんどい》  上意討ち心得  異聞浪人記  三弥《さんや》ざくら  綾尾内記覚書  非運の果て [#改ページ]   拝領妻始末     一  その話が出たとき、笹原家ではすくなからず当惑した。途方にくれたといってもよい。困ったことになった。正直、そんな思いが強かった。話を持ってきたのは、会津若松二十三万石の主、松平|正容《まさかた》のお側用人高橋|外記《げき》であった。  笹原家は、物頭《ものがしら》で禄三百石、藩祖|保科《ほしな》正之以来の家柄だが、お側用人が、それも夜、わざわざたずねてくるのは異例といわねばならない。なにごとだろうと、笹原伊三郎は、見当をつけかねてとまどいながらも、ともかく外記を座敷へ案内した。  享保十年秋はじめ、近く願い出て、二十五歳になる嫡男《ちやくなん》与五郎に、そろそろ家督を譲ろうという矢先である。座につくと、世間話の一つもするではなく、高橋外記はただちに用件に入った。 「今夜うかがったのはほかでもない。実は近くお市の方さまにお暇《いとま》がつかわされる」  ついてはと、外記が切り出したのは、思いもかけぬことだった。二年前から主君正容の寵《ちよう》を得、容貞と名づける男の子までもうけたお市の方を、妻として与五郎に賜わるというのである。お暇が出される理由は、いささか御意にかなわざるところがあって、とだけで、外記は言葉をにごした。 「とはいえ、なまじなものに縁づけては、不憫《ふびん》と仰せられてな」  殿の御内意ゆえ、ありがたくお受けするように。返事はあらためて聞きに参るといいおいて外記が帰ると、伊三郎は、妻女のすが、長男の与五郎、次男の文蔵を呼んだ。どの顔にも、困惑の色があった。  すでに五十を越した正容にとって、お市の方は、孫娘ほども年が違っている。それだけに、溺愛ぶりも常軌を逸して、おつきの者が顔あからめるような振舞も多かったという正容が、にわかに暇を出す気になったのには仔細があった。この春お市の方は、正容のすすめもあって、容貞を乳人に預け、熱塩《あつしお》へ保養に出かけたが、一月ほどして、お奥に戻ってみると、正容のそばには、お玉という若い女がとりすまして侍《はべ》っていた。逆上したお市の方は、いきなり髪をつかんでお玉を引き倒し、さんざんに打擲《ちようちやく》したばかりか、はては正容の胸に武者ぶりついて泣き狂いしたという。 「あまりのことにあいそづかしなされて、殿は以来一度も、お市の方を閨《ねや》に召されてはおらぬそうな」  もっぱらの家中《かちゆう》のうわさであった。  ——お紋の方の二の舞では困る。  伊三郎が案じたのは、まずそのことであった。もう二十数年も昔になろうか。正室竹姫を失った松平正容は、下屋敷に二人の女をおいた。竹姫のおつき女中だったおようと、浪人榎本なにがしの娘お紋である。どちらも若くて美しかった。おのずと、寵を争う形となった。  間もなく二人ともみごもり、前後して正容の子を生み落した。おようは女、お紋は男であった。本来ならば、男児をもうけたお紋に情がうつるところだが、正容はかえっておように心を傾けた。はげしい嫉妬にかられたお紋は、あるとき、懐剣をひらめかして自害すると正容をおどした。怒った正容は、お紋を会津へ送って幽屏《ゆうへい》した。自分の生んだ正邦の成長を、お紋は唯一の頼みとしていたが、不幸にして正邦は早世した。十余年の幽居の末に、ようやく許されたお紋は、使番神尾八兵衛に嫁いだ。死んでもいやと訴えるのを、正容の旨を含んだ老臣たちが、強引に押し切ってしまったのである。うまくいく筈がなかった。  お紋は正容の寵を受けた昔の夢をいつまでも忘れず、ことあるごとに夫の八兵衛を軽んじののしった。八兵衛は隠忍したが、お紋の狂態はつのる一方である。八兵衛はついに恥を忍んで、 「お紋儀短慮はなはだしくして、行末見届かず、御慈悲にお引き戻し下さるよう」  と、拝領女房の返上を願い出た。願いは聞き届けられたが、兄のもとへ預けられたお紋は、呪詛《じゆそ》の果てに悶死した。それが十年ばかり前のことである。伊三郎は与五郎に、神尾八兵衛の轍《てつ》を踏ませたくなかった。 「お殿様御寵愛のお市の方さまを、嫁に迎えるなど、なんとしても、おそれ多いことにございます。なにとぞ」  三日目の夜、ふたたびたずねてきた高橋外記の前に、伊三郎は平伏した。 「そのような斟酌《しんしやく》は無用、先ごろも申した通り、殿の御内意である。それに、前例はいくらもあることだ」  高橋外記は、いくつかの例をあげて押し返した。伊三郎は、なおもくどくどといいわけをつづけた。 「くどいわ。御内意だと申したこと、まだわからぬか」  外記の声がとがった。 「そこを曲げて」  伊三郎もくいさがった。  ——父上。  座敷の気配を察して、与五郎の胸に、熱いものがこみあげてきた。常ならば、御用人と聞いただけで、満足にはものもいえないような父である。伊三郎は若いころから、 「まるで養子にいくために、この世に生れてきたような男」  などとよくいわれた。それを裏書きするように、二十六のとき笹原家の養子となり、以来、家つき娘で、気位ばかり高いすがの尻にしかれっぱなしだった。そんな父が——と思うと切なかった。  高橋外記は青くなっていた。伊三郎はさっきから、額をたたみにすりつけている。灯りを受けて、めっきりうすくなった頭髪が透けて見えた。 「ご辞退つかまつります」  その一点ばりで伊三郎は押した。 「絶対に聞かぬと申すのじゃな」 「いえ、ご命令を聞かぬと申すのではなく、ご辞退つかまつるのでございます」 「黙れ」  外記のこめかみに青すじが立った。そのとき、ふすまが静かにあいた。 「父上、わたくし、お受けいたしたいと存じます」  与五郎であった。  軽はずみとは思わなかった。父に難儀をかけるまいというだけでもない。お紋さまとは違う。確信に似たものがあった。与五郎は一度だけお市の方と会っている。いや、そのころはまだいちだった。たしか道場からの帰りだったと思う。稽古道具を肩に、五、六人つれだって歩いているとき、 「おい、塩見平右衛門どのの娘だぞ」  と誰かが、中間《ちゆうげん》を供にしたがえた、十五、六のういういしい娘にあごをしゃくった。それがいちであった。会ったといってもただそれだけで、声をかけたわけでもないし、どんな顔だったかも今は覚えていない。にもかかわらず、なにか言葉であらわしにくい、鮮烈な印象が残っていた。     二  秋が深まったころ、内輪の祝言があって、お市の方は笹原の家に迎えられた。もとのいちに戻った。与五郎はもちろん、つつがなく家督を相続し、伊三郎は隠居した。  伊三郎のおそれは杞憂《きゆう》に過ぎなかった。小柄なせいもあってか、つつましい立居振舞のいちは、二年余も、五十を越した正容の寵を受けていた女とは思えず、生娘のような清らかさを、身のまわりにただよわせていた。しかし、すがは大いに不服だったらしい。祝言のあくる日から、ネチネチといちをいびりはじめた。 「いかにもとは殿の思いものであったとて、いったんこの家に縁づいた以上、もはやどこまでも笹原の嫁、よいかえ、そのつもりでいなされや」  陰《いん》にこもったもののいい方で、箸のあげおろしにまで文句をいった。与五郎が出仕しているときは、ことにはなはだしい。見かねた伊三郎がやんわりたしなめると、 「いいえ、これくらいせねばしめしがつきませぬ。和子《わこ》さままで生んでいながら、お暇を出されるような女、甘い顔を見せれば図に乗りましょう」  とたちまち眉をつりあげた。わたしがいたらぬからと、いちは常に自分を悪者にした。それがいちばん波風を立てぬ法とわかっているからだ。与五郎に告げ口もしなかった。それでもときには涙ぐんでしまう。するとすがは、えたりといたぶりにかかった。 「なんで泣きやる。笹原の嫁に格さげされたのが、それほど口惜しいのかえ」  笑顔に受け流せば受け流したで、やはりなんだかんだとからんでくる。だがいちは耐えた。ときとして与五郎が息まけば、 「当のわたくしが、なんとも思うてはおりませんのに」  と、逆になだめるようないちだった。こんないちが、逆上して、殿のお胸に武者ぶりついたなどとは、とても信じられなかった。ある夜、与五郎がそれをいうと、 「ほんとうでございます」  いちは寂しい笑いを見せた。いちの運命が狂ったのは、彼女が十六の春であった。お側用人の高橋外記がきて、父の平右衛門と座敷でなにやら話しこんでいるところへ、お茶を運んでいったいちは、そこで自分の話が出ているなどとは夢にも知らなかった。  いちはあとで座敷に呼ばれた。父の平右衛門がそそくさとさがるのを待って、外記がその話を切り出したとき、いちは、おどろきよりもむしろいきどおりを覚えた。五十を越した正容が、まだ十六になったばかりの自分に執心《しゆうしん》しているというのが、いいようもなく不潔で、首すじを毛虫がはいまわるような悪感がした。そんないちの心の動きを、外記はすぐ見てとった。 「お殿様は、好きでかようなことを望まれてはおらぬ。大名というものは、あとつぎがなければ、たちまちお家断絶じゃ。もしそうなれば、困るのは家中の者、何百の家臣、いや、家族を合わせれば何千人の人間が、路頭に迷わねばならぬ」  今正容には、世子|正甫《まさもと》があるきりで、あとには一人も男の子がなかった。正甫の身にもし万一のことでもあれば、お家はどうなるかと外記は強調した。 「といって、誰でもおそばに召すというわけにもいかぬ。和子さまを生んでもらうには、いちどののように美しく、また心ばえやさしい女でなくてはかなわぬのだ」 「わたくし、お受けできませぬ」  いちには許婚《いいなずけ》があった。 「笠井三之丞にすまぬと申されるのだな。ではいちどの、三之丞さえ承諾してくれれば、おそばにあがって下さるか」 「————」 「どうなのだ」 「それはもう……」  若いいちは、いつの間にか、ものやわらかで巧妙な外記の弁舌に乗ぜられて、そう答えざるを得ないはめに追いこまれていた。一つには三之丞への信頼もあった。このような理不尽、三之丞さまが納得なさる筈がない。そう思った。誤算だった。数日とはせず、 「殿の仰せならばやむを得ませぬ」  と、三之丞はかしこまって受けたという。驚愕《きようがく》したいちは、夜おそく笠井の屋敷を訪ねた。恥かしいとも、はしたないとも、考えてはおられなかった。その時までは、まだ一縷《いちる》の望みを抱いていたが、三之丞は門をとざして会わなかった。 「お会い下さらねば、夜が明けるまででも、ここに立っています」  門番にそう伝えてもらったが、三之丞はついに姿を見せず、かわりに三之丞の母が出てきた。 「迷惑いたします。お引き取り下さい。うけたまわればそなたさまは、三之丞さえ承諾すれば、おそばにあがってもよいと申されたそうな」  日ごろとは別人のような、とりつく島もない切り口上が、ぐさりといちの胸を刺した。いちは、言葉のあやのおそろしさを知らされた。  旬日もせぬうちに、三之丞には、江戸詰めの御沙汰があった。聞けば同時になにがしかの御加増《ごかぞう》があり、三之丞は唯々《いい》としてそれを頂戴したのだという。いちは二重にうちのめされた。三之丞の母に、肺腑《はいふ》をえぐる一言を突きつけられたとき、いちは、それも三之丞の潔癖さがさせたことと、失った珠玉を惜しんだが、事実はそうではなく、しょせんは口実だったのである。 「見そこなったわ」  あんな男のことなど忘れてしまえ、そういってなぐさめてくれた筈の父の平右衛門が、親類の者と話し合っているのを聞いて、いちはさらに傷ついた。 「面倒なことになりはせぬかと、内心はらはらしていたが、まずよかった」  まるで出世のいとぐちをつかんだと、いわんばかりの口ぶりであった。いちはこうして正容に召された。白無垢《しろむく》を泥土に投げる思いの、みじめな初夜だった。だがいちは、間もなくかなしい生き甲斐を見出した。ややを生もう、何人でも、それも男の子を。こんなつらい思いをするのは、わたし一人でもうたくさん……。  悲しさにいちはなれた。あくる年の秋、正容の出府中に、男の子を生んだ。すなわち容貞である。世子正甫さまに万一のことがあれば、この子がかわってお世継《よつぎ》になる。そのときは、わたしは世子の御生母——いちは、夢にもそう考えたことはなかった。  わたしはどこまでも日蔭の花でよい。そして、からだのつづくかぎり、男のややを何人でも生み、それで一生を終わろう。折にふれ自分の胸にたたみこんだ。そうでも思わねば浮かばれなかった。けれども、たった一つのいちの夢は、無残に砕かれてしまった。  この春、会津に帰った正容にすすめられ、熱塩の温泉で一月ほど保養したいちが、若松城のお奥に戻ると、にこやかに迎えてくれる筈の正容の顔が、当惑げにゆがんでいた。かたわらに、見なれぬ若い女の顔がある。いちは、とっさにことを悟った。 「お玉じゃ、仲良ういたせ」  ぬけぬけという正容の言葉が、一気にいちの怒りをあおった。おもてがすうっと青ざめたかと思うと、いちはいきなりお玉におどりかかり、髪をつかんで部屋中を引きずりまわした。  嫉妬ではない。お玉の顔に、悲しみのひとかけらも宿っていないのが口惜しかった。心外だった。着かざったお玉は、晴れ晴れと、得意気《とくいげ》でさえあった。お奥にあがるのがそれほど嬉しいのか。ばか、ばか、いちは大粒の涙をしたたらせながら、ひいひい泣きさけぶお玉をこづきまわした。  まわりの女たちは、あまりのいちの凄まじさに、とめることもできず、ただおろおろするばかりだった。興ざめた正容が、ぷいとお錠口へいきかけたのを見ると、いちは、力まかせにお玉を突き倒して、狂気のように正容のあとを追い、その胸に武者ぶりついた。口惜しさ、腹だたしさ、あるかぎりの胸のつかえをたたきつけた。よくもお手討ちにあわなかったものだ。正容は、こののち、二度といちを閨に呼ばなかった。 「お殿さまは、しばしばわたくしのことを、まるでお紋の生れ変りじゃ、などと仰せられたそうでございます」  口惜しさを思い出しなのだろうか、いちは涙ぐんでいるらしい。与五郎は、いちのからだをかき寄せて、 「そなたがお紋の方と違うこと、わたしが信じている。それで満足できないのか」  やさしくいった。それが、いっそう切なくいちの胸をかき立てた。 「そなたが殿にあいそづかしをされたおかげで、わたしはよい女房がもらえた」  嗚咽《おえつ》がほとばしって、いちの涙が与五郎の胸をぬらした。いちはきれぎれにいった。 「わたくし、今夜かぎりで、和子《わこ》さまのことをきっぱり忘れまする」  これまで、正容を憎いとは思っても、容貞を忘れることはできなかった。お奥を去るときは、別れを惜しむことさえ許されなかったが、容貞のおもかげは、くっきりと胸に焼きついている。でも、忘れてしまわねば……。いちは自分にいい聞かせた。     三  笹原の家にきて一年半、享保十二年の五月に、いちは女の子を生んだ。与五郎と話し合ってとみと名づけた。  会津若松城へ、世子重五郎正甫の急死を告げる、江戸表からの早馬が着いたのは、その年秋のはじめであった。いくほどもなく、いちの生んだ容貞が、世子に直された。 「いち、喜ぶがよい。容貞さまがお世継ときまったぞ」  ある夕方、いつもよりやや早めに下城してきた与五郎は、着がえながらいちに告げた。ぬぎ捨てた夫の袴をたたみかけていたいちの手の動きが、急にとまった。それっきり、いちはうなだれて動かない。どうしたのだと、問いかけて与五郎は、声をのんだ。和子さまのことは、おたがいに口にせぬという約束だった。 「許せ、うかつなことをいうてしもうた」  いちの手が、また動きだした。ほっそりとした白い指である。見ているうちに、与五郎はなぜともなく、つんと胸にしみてくるものを覚えた。  数日後の昼過ぎ、いちはすがに呼ばれた。とみを寝せつけてすぐ姑の部屋にいった。手をつかえるいちへ、じろっと目をくれたすがは、ことさららしくすわり直すと、くそていねいにおじぎをした。 「いちどの、このたびはまことにおめでとう存じました。与五郎どのが教えてくれぬ故、ごあいさつがおくれて」 「あの、わたくし」  いたたまれぬ思いのいちを、舌なめずりするような目で見ながら、すがはねばねばといった。 「お世継さまの御生母とあっては、これからは、気やすくいちどのとも呼べますまいな。いったいなんとお呼びしたらよかろうかと思って、きていただきました」 「お許し下さいまし。わたくしはもはや、笹原の嫁でございます。和子さまとは、とうからかかわりのない女でございます」 「口先だけならなんとでもいえる。その実、内心では、口惜しがっているのでありましょう。なんで笹原の嫁になどなったかと。もっとも、いわば身から出た錆《さび》、誰を怨《うら》みようもありますまいが」 「怨むなどと……。わたくし、笹原に嫁いで参りましたこと、心から、ありがたいと存じております」 「そちらはありがたくても、こちらはたいそう迷惑でございましたよ。親の身になれば、お世継さまの母御など拝領いたすより、与五郎どのの嫁には、うぶな娘を迎えたいものでございました」  すがのいや味は、とどまるところを知らなかった。いちはただ忍んだ。 「たいていにせぬか」  縁がわの障子があいた。庭からあがってきた伊三郎であった。 「いち、とみが目を覚ましたらしいぞ」  救われたようにいちはさがった。とみはまだすやすやと眠っていた。伊三郎のいたわりだったのである。いちは、平和なとみの寝顔を見つめているうちに、不思議なくらい心がやすらぎなごんだ。どんなにつらくとも辛抱しよう。わたしにはとみという宝がある。そして与五郎どのがある……。  そのとき、いかにもにくていな、すがの高声が聞えてきた。 「三十年つれ添うた女房より、嫁の方があなたはかわいいと見えます。どうせそうでございましょうよ」  それを伊三郎がしきりになだめていた。  奥医師の土屋一庵が、伊三郎をたずねてきて、寝耳に水のことを切り出したのは、数日後のことであった。一庵と伊三郎は、古くからのつき合いと聞かされていたので、いちははじめは気にもとめずにいたが、座敷へ茶を運んでいって、ふといぶかしいものを感じた。一庵の顔が妙にこわばっていたからだ。ふすまをしめてそこを離れかけたとき、一庵の押し殺したような重い声がした。いちは、目がくらみそうになった。 「ご承知のごとく、容貞さまはこのたびお世継となられた。さすればいちどのは、世子の御生母ということになられる。ついては、世子の御生母たるものを、このまま家臣の妻としてうち捨てておくこと、世上の取沙汰もいかがかとあってな」  すみやかに返上させよとの、主君正容の意向で、江戸家老、国家老、一致して賛同したのだと一庵はいう。 「ともかく、ご善処を願いたい。正式の御沙汰を待たず、おてまえがたがいち早く心づいて、お市の方の返上を願い出たという形になれば、それがいちばんよろしかろう」  いちは、息をひそめて立ちつくしていた。伊三郎が、一庵になんと答えるかと、ふるえがとまらなかった。しばらくして、伊三郎の声がした。 「一庵どの、では与五郎へは、御用人から一度お話があったのだな」 「さよう。それをご子息は、にべもなくお断り召された」 「とみという子供もあること故」 「いかにも無理からぬことではある。情としては忍びがたかろう。それは、御用人も御家老も、よくよくおわかりであった。だが、その情を、あくまでも押し通せる武士の世界ではないこと、おてまえもご承知の筈」  父の伊三郎から、今一度与五郎を説得させよ。そういう高橋外記や、家老柳瀬三左衛門の意を含んできた一庵であった。 「無理やり返上させられるのと、われから返上を願い出るのでは、雲泥の相違、そこをよっく御思案召されたい」  いやといっても通りはせぬと、いわんばかりに一庵はたたみかけた。とみの泣き声がしてきた。いらいらしたすがの声もする。あわてて引きさがったいちは、そのあとどんな話になったか知らなかった。一庵が辞去して間もなく、与五郎が戻ってきた。与五郎は肩衣《かたぎぬ》をぬぎかけて、 「途中で土屋一庵を見かけた。ここへきたのではないのか」 「お見えになりました」 「やはりな」 「わたくし、ありがたいよりも、いっそうらめしゅう存じます」  責めるように、いちは与五郎を見た。 「すまぬ。悪気で隠していたのではない」  そこへ文蔵がふすまをあけた。 「兄者《あにじや》、父上がお呼びです」 「よし、すぐいく」  夜になっても、いちは落ちつかず、絶えず不安にとらわれつづけた。今夜にかぎって、ひどくむずかるとみを、ようよう寝せつけたとき、ふすまがあいて与五郎が入ってきた。いちばんおそれていることが、与五郎の口から切り出されるのではないかと、心がしいんと冷えた。そんないちを、与五郎は、あたたかいまなざしで見た。 「いち、心配することはないぞ。わしはもはや隠居の身じゃ、笹原家の当主はあくまでもそなた、思う通りにせい。父上はそう申された。そして、いちは大事にしてやらねばならぬ女だとも……」  いちは胸がいっぱいになった。いつもながらの、老いた伊三郎の慈愛が身にしみた。 「母上はご存じなのでございましょうか」 「まだだ。いずれは耳に入れねばなるまい。しかし、案ずることはないぞ。誰がなんといおうと、そなたをお奥へ戻しはせぬ。この子のためにも」  無心なとみの寝顔がそばにあった。     四  土屋一庵は、あくる日もまたきた。高橋外記や、家老柳瀬三左衛門は顔を出さず、どこまでも土屋一庵を表に立てて、与五郎父子を説得しようとするのは、あくまでも自発的返上という形をとらせるために違いない。  与五郎は一庵に忿懣《ふんまん》をたたきつけた。 「一庵どの、いかに殿でもあまりにもご勝手じゃ。いちは、いちは人形ではない。血が通うておりますぞ」 「いや、いかにもごもっとも。若いおてまえとしてはさもあろう。だが与五郎どの、泣く子と地頭《じとう》には勝てぬのたとえ。ここはなんにもいわず、いちどのを返上しては下さらぬか。この上意地を通せば、笹原の家もどうなるやはかりがたい」 「かまわぬ。たとえ火の雨が降ろうといちは戻さぬと、御家老や御用人に伝えられい」 「そうでもあろうが、まあまあ」 「ええい、くどいわ。帰れといったら帰らっしゃい」  斬りもかねないいきおいで、与五郎は一庵を追い出した。そのあと、はじめて事情を知ったすがとの間に一悶着《ひともんちやく》おきた。与五郎はひたむきに母を説いた。 「お願いします。同じ女なら、おわかりでございましょう。もし母上がいちならばどうなされます。仰せごもっともと、とみを捨ててお奥へ戻られますか」  それを耳に入れるようなすがではない。自分のいいぶんばかりを、真っ向からふりかざして、与五郎の胸を揺すぶった。 「与五郎どの、そなたは、笹原の家をとり潰《つぶ》す気かえ。女一人に血迷うて、この笹原の家を亡《ほろ》ぼすつもりかえ」 「場合によってはそれもやむを得ませぬ」  その答えが、さらにすがの怒りに油をそそいだ。文蔵も血相を変えた。 「兄者、笹原の家をつぶしてもかまわぬとは本気でいうのか」 「本気だ」 「なにっ」 「文蔵、聞いてくれい。もしおまえが兄ならどうする。いちを返上するか」 「おう返上するとも。みれんだぞ兄者は」  いきりたつ文蔵を、伊三郎がたしなめた。 「ひかえろ文蔵、与五郎は笹原家の当主じゃ。よかれ悪《あ》しかれ与五郎の意志は尊重せねばならぬ」 「しかし父上」  争いがつづいている間、いちは、とみを抱いて、うす暗い納戸の小部屋に、じっとすわっていた。声がしなくなったと思ったとき、背後に人の気配がした。 「いち……」  伊三郎であった。振りかえったいちに、伊三郎はしきりにまばたきしながら、 「辛抱せいよ、いち。負けてはならぬぞ。とみや与五郎がいとしいなら、心を鬼にして、義理など踏みにじってしまうのだ。家をとりつぶしても、守ってやる甲斐のあるそなただと、わしは信じている」 「もったいのうございます」 「だが、まだまだ、これくらいの騒ぎではすむまいの」  伊三郎のいう通りだった。三日後の夕方、笹原の屋敷には、おもだった親類の者が、つぎつぎに集まってきた。その人々は、いちように、顔にたかぶりの色を浮かべ、足音あららかに畳を踏み鳴らして座敷へ通った。その足音が、どかどかと、いちの心の中にまで入りこんだ。  いちは、座敷からいちばん遠い部屋に、息をひそめてすわっていた。そろそろ四ヵ月になるとみは、小さな唇をすこしあけて眠っている。人の気も知らずにと、ふと憎らしかった。 「だいたいそろうたようだな」 「一通り話を聞こう」  そんな声がした。つぎに伊三郎の、ぼそぼそという低い声がした。それがくせの、ひどくもどかしいまわりくどい口調で、伊三郎はとつとつと語った。それを別の声が消した。かわって与五郎のやや高い声がした。声と声がからまり合って、いちは聞きわけることができなかった。その中から、 「兄者一人の笹原家ではないぞ」  文蔵の声がはっきりひびいてきた。いちはしだいに息苦しくなってきた。まるで針のむしろにすわっている思いである。いち、負けてはならぬぞ。この前、納戸で聞いた伊三郎の言葉に、いちはけんめいにすがった。座敷では相変わらず無数の声が入り乱れている。  ふすまがあいた。 「姉上、きて下さい」  ぶっきら棒にそれだけいうと、くるっと文蔵は背を向けた。後姿ぜんたいが、怒りの表情になっていた。いちが座敷のふすまをあけると、中の顔がいっせいに振り向いた。青い顔もあれば赤い顔もあった。 「お呼びでございましたか」  もとどおりふすまをしめて、手をつかえたいちの頭上から、 「いち、その方の存念を聞こう。その方は、笹原の家をとり潰しても、あくまで与五郎と添いとげたいか」  と、野太い声が落ちかかった。一門でも、最長老格の笹原|監物《けんもつ》であった。いいたいことは、いっぱい胸の中にひしめいていた。それでいて、うまくいえず、いちは言葉を探した。いらだって監物が、 「どうなのだ、いち」  と、強くたたみかけた。それが、いちに固い決意を植えつける結果となったといえる。いちは伏せていた顔をあげ、まっすぐに監物へ向けた。 「添いとげとうございます」 「笹原家をつぶしてもか」 「はい」  顔もそむけずきっぱりいった。そのとき、すががにじり出た。 「いちどの、心にもないことはいわぬものですよ」 「心にもないこと……」 「そうではありませんか。一日も早くお奥へ戻りたいくせに」 「いいえ、そんなことはありません」 「おや、いけずうずうしい。平右衛門どのが御家老さまに、いちをお奥へお引き戻し下さいと、願い出られていること、知らぬ筈はありますまい」  いちはぎくりとした。ありそうなことだった。すがは勝ち誇ったように、 「それだけではありませぬ。この前は、与五郎どのを、下城の途中に待ち伏せて、いちを返上して下されいと、なんどもお頼みなされたそうな」  嘘ではあるまい。それくらい、しかねぬ父の平右衛門であった。 「そなたかわいさに与五郎どのは、ひた隠しに隠していたらしいが、ちゃんと見ていた者があったのですよ。親というものは誰しもわが子がかわいいもの、いちどの、そなたが真実お奥へ戻るのをいやがっているのなら、父の平右衛門どのが、そんなまねをなさる筈がありますまい」  この時ほど、父が憎かったことはない。わが親ながら情けなかった。でも、いちはひるまなかった。 「父は父、わたくしはわたくしでございます。いちは死んでもお奥へは戻りませぬ。どうぞみなさまがた、この旨、御家老さま、御用人さまにおとりなし下さいまし」 「ばかな、それができるくらいなら、とうの昔にそうしておる」  監物はどなり声を出した。 「いち、かさねていう。その方、あくまで与五郎と添いとげたいというのじゃな。笹原の家はどうなろうともよいのじゃな。いや、笹原の家のみではない、親類一同にも、お咎《とが》めがあるは必定。それでもかまわぬとその方はいうのじゃな」 「いたしかたございませぬ」  いちは真っ青な顔で答えた。 「わかった。これほどいうものを、とめだてしてもはじまるまい。気の向いたようにしてもらおう。すがどのもあきらめなされ。与五郎がこんな女に見こまれたも因果《いんが》じゃ」  ずけずけという監物に、誰かがすぐさま応じた。 「まったくとんだ清姫よの。この執念ならば、いつぞや殿のおん胸に、武者ぶりついたも道理よ」 「一同引きあげよう」 「与五郎、もはや遠慮はいらぬぞ。笹原の家見事にとり潰してくれい。われらも巻き添えくう覚悟、しかと定めておく」  どやどやと立ちあがった。すがも文蔵も別間にさがり、最後に、伊三郎と、与五郎と、いちが残った。与五郎は、長い間首をたれていた。一言も口をきかぬ。やがて与五郎は、おもてをあげた。まるで、血のしたたるような目になっていた。 「いち、すまぬ、お奥へ戻ってくれい」  大きく見はった与五郎の目から、音をたてそうな感じで涙が落ちるのを、いちは放心したように見つめていた。怒りも悲しみも、不思議と覚えない。こうなるのがほんとうだった。わたしたちは、それを遠まわりしただけ——そんな気がした。いちが、ゆっくりとうなずきかけたとき、 「なにをばかな。与五郎、いまさらなにをいう。笹原の家がなんじゃ。親類の迷惑がなんじゃ。それとも与五郎、そなたは今になって、三百石が惜しいのか」  激して伊三郎がいった。与五郎が、ものごころついてこのかた、はじめてみるはげしさだった。 「与五郎、いち、よく聞け。わしは、おまえたちが承知の通りぐずな人間だ。若いころから、養子にいくために生れてきたような男などといわれ、事実二十六のとき、この笹原家の養子となった。そして、一生女房の尻にしかれてきた。そのようなぐずのわしが、一生一度の意地だてをする気になったのは、いったいなんのためじゃ」 「父上」 「いえ、与五郎。どんなことがあっても、いちを放さぬと誓え」     五  五、六日、なにごともなく過ぎた。その日与五郎は出仕し、伊三郎も、所用あって昼から他出した。帰りは偶然いっしょになった。屋敷に戻ってみると、とみが火のついたように泣いている。それを文蔵が、しきりにあやしているところだった。 「いちはどうした」 「はあ……」  なにかいおうとして、文蔵は口ごもった。用意していた筈の返事が、けし飛んでしまった。 「どうしたというのだ」  火のような与五郎の目に押されて、とみを抱いたまま、文蔵はあとへさがった。顔色の変わっているのが、自分でもわかる。まともに与五郎の目を見ることができなかった。 「貴様、はかったな」  与五郎はこぶしを握りしめた。いちはすでに、笹原の屋敷にはいなかった。 「卑怯でございます」  いちの顔色は蝋色にかわっていた。二ノ丸そとにある、家老柳瀬三左衛門の屋敷の奥座敷である。家老柳瀬三左衛門、主命によって会津へ戻ってきているお側用人高橋外記、それに笹原監物が、いちを、三方からかこむようにすわっていた。  昼過ぎ、伊三郎が出かけて半刻《はんとき》ほどしたころ、玄関に人の訪《おとの》う気配がした。文蔵が出ていって、すぐまた引きかえしてきた。 「姉上、お支度なさって下さい。兄上からの迎えです。御家老が、おたずねなさりたいことがあるそうです」  夫の与五郎も、柳瀬三左衛門の屋敷で待っているという。いちはしばらくためらった。 「どうなさいました」 「とみをどういたしましょう」 「起きているのですか」 「いいえ、さっき寝せつけたばかりです。お乳はたっぷりやっているのですけれど」 「だったら、大丈夫でしょう。目をさましたら、わたしがうまくあやします」  いちは着物を着がえたが、やはりなんとなく心もとない。文蔵が笑っていった。 「兄上がいるのですよ。姉上、この前の意気で、御家老にも、はっきり覚悟をおっしゃることですな」  兄上一人の笹原家ではないぞと、一度ははげしくくってかかった文蔵だったが、このところどうしてか、いちにやさしかった。そのことで、すがと口争いすることさえあった。いちはやっと決心がついて、すがのところへいき、 「御家老さまのお屋敷まで、出かけて参ります」  とあいさつしたが、すがは、じろっと目をくれただけで、ろくに返事もしなかった。ほとほとあきれた風に文蔵が苦笑した。 「相変わらず困った母上だ。気にしないことです。なに、あと二、三年の辛抱、そのうちぽっくりいきます」  いちははかられた。すべてはなれ合いだったのだ。家老柳瀬三左衛門の屋敷に与五郎はいなかった。 「許せいち、こうする以外なかったのじゃ」  しきりになだめる監物を、いちはさげすみの目で見ていたが、 「わたくし、戻らせて頂きます」  すっと立ちあがった。膝でにじり動いて、監物はいちの前をさえぎった。柳瀬三左衛門がひややかにいった。 「いや、たってもとあらば、戻られてもよろしい。ただし、与五郎を、腹切るはめに追いやること、覚悟の上ならばだ」  いちはくらくらと目まいがした。無数の網の目が、身をからめているのがわかった。 「いちどの、悪いことはいわぬ。素直にお奥へ戻られよ」 「監物からもこの通り頼む。そなたが、なにもいわず奥へ戻ってくれれば、御家老も、これまでのこと、一切、不問にいたそうと申されておる」  いちは崩れるようにすわった。どの道のがれるすべはない。わたし一人がいけにえになれば、すべてはまるくおさまる……。監物はさらに説いた。 「そなたも知っての通り、殿の御内意が伝えられてもはや久しい。本来ならば、笹原家はすでに、重きお咎めをこうむっていてしかるべきところだ。それを今日まで、いかにしても笹原家へ疵《きず》をつけまいとおはかり下された、御家老、御用人のお情け、あだに思うてはならぬ」  お情けなものか——いちは、腹の中で冷笑した。でもいまさらどうなるものでもない。いちの胸にようやく覚悟がおさまった。 「御家老さま、仰せにしたがって、お奥に戻らせていただきます」 「かたじけない。よく聞きわけて下された」 「ただ、せめてものお願いには、あと三日ほどの御猶予を」 「いや、それはなりませぬ。これより、ただちにお奥へ戻っていただきましょう。お召物その他の用意は、すでに一切申しつけてあります」  さすがに無残と思わぬではないが、一日でも屋敷へ戻せば、またどう気がかわらぬとも知れないし、与五郎の一本気も心配された。  夜が更けた。  とみは、なにも知らず、すやすやと眠っている。枕もとで与五郎は、 「とみ、おまえはばかだぞ。他人の乳に満足して眠るなど……」  ぽつんともらした。 「御家老さまのお申しつけにて参りました」  日の暮れがた、ひもじさに泣きつづけるとみを抱いて、とほうにくれているところへ、若い女がたずねてきた。これから毎日、時刻を定めて通ってくるという。頼まぬと追いかえそうと思ったが、とみの泣き声に、つい負けてしまった。 「とみ、おまえはばかだぞ」  ふすまの外に立ちつくして、伊三郎は、くすんとはなをすすった。     六  あくる日から、病気の届けを出して、与五郎は出仕をやすんだ。七日ほどして、笹原監物がやってきた。すぐ座敷に通して、与五郎は額を畳にすりつけた。 「先ごろからのお骨折りのかずかず、まことにかたじけのう存じました」  思うさま皮肉をこめた。監物は、ひどく間の悪そうな顔をして口ごもりながら、 「一本気なそなたのこととて、御家老のお屋敷へ、押しかけはしまいかとそれのみ案じておったが、よくこらえてくれた。神妙の至りと、御家老も深く感じておられる」  ついてはと、一膝乗り出して、 「今日参ったのはほかでもない。実は、いちの返上願いを書いてもらいたいのだ。御家老がたの仰せでの」  返上願いを出せば、いくほどもなくお許しがおりる。その上であらためて、返上届けを呈出する。それだけの手数を一応踏んでもらいたいというのであった。  与五郎は腹にすえかねた。 「お断りいたします。てまえは、いちを返上した覚えはございませぬ。ことはすべて、あなたさまと文蔵とで、おはからいなされました筈」 「なにをいう。それも、笹原家のためを思ってしたことだ。あの場合、ああするよりほかはなかった」 「ともかく、てまえはお断りいたします」 「与五郎、そなた、せっかくのいちの志を無にする気か」 「いちの志……」  かっと、与五郎の目が燃えた。ぬけぬけとよくもいえるものである。監物の口を引き裂いてやりたかった。 「てまえが返上願いなど書けば、いちはかえってなげきましょう。なにもおっしゃらずお引き取り願います」 「でもあろうが」  押し問答がつづいたが、与五郎は、最後にとうとう折れた。いや、まことは折れたのではない。腹に一物《いちもつ》あったのだ。数日後与五郎は、城中の用部屋におもむいた。家老柳瀬三左衛門は、きげんよく迎えてくれた。 「よくきた。病気だと聞いておったが、もうよかったのか」 「おかげをもちまして」 「で、今日は」 「これを——」  と、与五郎は、ふところから一通の書面をとり出して三左衛門の前においた。 「おう、返上願いを書いてくれたか」  無言で与五郎は平伏した。おもむろに書面をひろげた三左衛門は、たちまち満面を朱に染めた。 「ばかめ、血迷いおって」  与五郎がさし出したものは、返上願いではなく、いちをすみやかに戻していただきたいという、嘆願状であった。 「御家老、与五郎決して血迷ってなどおりませんぞ。てまえ、返上願いは絶対に書きませぬ。あるいはこんご、てまえ名義をもって、返上願いをさし出すものがあるやも知れませぬが、それは偽筆と御承知おき願います。右念のため、御免」  いうだけのことをいい終ると、与五郎はすっと立ちあがった。後刻、ことのなりゆきを知った、監物はじめ一門の者は、愕然となった。一切は水泡に帰したのである。  ——見たか。  ひとり、伊三郎、与五郎父子のみが、心中に快をさけんだ。おろかと呼ばれてもよい。卑小な意地と笑われてもよい、それが父子にとって、ただ一つの、いちへの心づくしであった。  このいきさつは、ただちに江戸の正容へ報じられた。そして、この年——享保十二年十二月、笹原伊三郎、与五郎父子に対して、知行《ちぎよう》召しあげ、永押込めの御沙汰があった。親類一同も、閉門、お叱り、その他、それぞれにお咎めがあったが、ただ、文蔵に対してのみは、  ——父兄を諫《いさ》めて、君命に従がわしめんと尽瘁《じんすい》せし段、奇特の振舞。  とあって、四人扶持が下されることになった。  とみに乳をのませに通ってくる女は、名をきよといった。生まれて間もない子供をなくしたという、足軽の女房で、めずらしく淳朴な女であった。伊三郎と与五郎が、永押込めに処せられて近く城下を去ることがわかると、 「とみさまのこと、御心配には及びませぬ」  と、真情をおもてにあらわしていってくれた。すがは、別れるが別れるまで、おまえさまがたのなされたこと、死んでも忘れはしませぬと呪詛《じゆそ》の言葉を吐きつづけた。文蔵の目にも憎悪がみなぎっていた。その文蔵をひややかに見て、伊三郎はいった。 「父兄を諫めて、君命に従がわしめんと尽瘁せし段、奇特の振舞か。——文蔵、よっく覚えておけ、そなたの忠節の値うちは、ただの四人扶持じゃということを」  十二月もなかばの、小雨そぼ降るうら寒い一日、伊三郎と与五郎は、住みなれた屋敷をあとに、会津若松の城外、長原村の押込め所へ送られていった。     七  お奥へ引き戻されたいちは、名を美崎《みさき》とあらためさせられた。老女並として、十人扶持を頂くことになったが、世子容貞の御生母としての扱いにはならなかった。正容が許さなかったのである。  容貞は四歳になっていた。広縁やお庭で、容貞の姿を見ることは再三あった。容貞が、顔を覚えて、ときどき、 「美崎」  と呼ぶことがある。そんなときも、老女美崎として答えねばならなかった。もっとも、そのことで、怨みごとをもらすような美崎でもないのだった。  とみと引き離されて、美崎の乳房はうずいた。日に三度か四度は、乳を搾《しぼ》り捨てねばならない。捨てても捨てても、乳房はたちまち張りつめる。乳房の痛みは、そのまま美崎の心の痛みであった。やがて美崎は、乳を捨てることをやめた。何日か、苦しい思いをしたが、しだいに乳房の痛みになれ、痛みはうすれ、いつか乳が干あがって、こちんとする固い乳房に戻った。不意に涙があふれた。  あくる享保十三年三月、世子容貞が出府した。将軍家へお目見《めみえ》のためである。当然江戸への供に加えられるべき美崎は、正容の意向によって、またしても選にもれた。五歳の春を迎えて江戸へ発つ容貞の、りりしい晴れ姿を、美崎は、遠く離れて見送りしただけであった。  永押込めに処せられて、一歩も外へ出ることを許されぬ笹原父子にとっては、四里とは離れていない、会津若松の城下のうわさを知ることさえ、ままにならなかった。ただわずかに、押込め所の番を仰せつかっている、足軽苅谷伴作の、重い口がひらくのを待つばかりである。  無口な上に、顔のつくりがいかつく、からだつきも頑丈な伴作は、ちょっと見にはひどくとっつきにくいが、なれるとかえって実があった。ほんのときたまだが伴作は、聞かれもしないのに、とつとつとした口ぶりで、城下のできごとを語ってくれる。美崎の消息も伴作から聞いた。与五郎は歯ぎしりした。 「こんな話があるか。——父上、いちが、いちがあわれでございますなあ」 「まことだ。御生母としての扱いもせぬ。江戸への供にも加えぬ。あまりにも人を踏みつけにしたいたしかた」 「こんなことなら、なにもいちを、無理にお奥へ引き戻すことはなかった筈……」  父と子は、同じことを、なんどもくりかえした。いわずにはおれなかった。そうするうちにもいくどか年があらたまった。  享保十六年、すなわち美崎が二十四歳の九月に、彼女の運命を狂わせた松平正容が死去した。美崎がおびただしい血を喀《は》いて倒れ、奥づとめを引いたのも、ちょうどそのころであった。そして、同じ年の十二月、八歳の容貞が、正容のあとを襲い、会津若松二十三万石の主となった。  笹原父子は、依然として永押込めを解かれぬまま、享保十七年の正月を迎えた。与五郎は、三年近く寝たきりであった。小雪のちらつきはじめた一月末のある夕方、見るかげもなく痩せほそったからだを、こころもちおこすようにして、与五郎はぽつんといった。 「父上、いちの病いが重いそうでございますな」 「知っておったのか、そなた」  六十に手のとどいた伊三郎は、しきりに目をしばたたいた。ふと気がつくと、与五郎の目がかすかにうるんでいる。 「このごろ、幼いとみのことよりも、いちのことばかり思い出してなりません。みれん、お笑い下さい」 「みれんだなどと、わしがいついった」  与五郎は、老父の顔に、怒りにも似たものを見出した。 「いまさらみれんなどと、そなたを笑うつもりなら、わしは笹原の家を潰しはせぬ」  伊三郎は、くすんとはなをすすって、与五郎の血の気のない顔をじっと見つめた。くぼんだ目、削《そ》げ落ちた頬、長くないことが一目でわかる。美崎と同じ胸であった。生まれつきそう丈夫でなかった与五郎にとって、じめじめした暗い部屋に閉じこもったきりの、永押込めの生活は、死神を待っているのにひとしかった。 「父上、いちのもとへ、江戸からお医師がつかわされたというのは、ほんとうでございましょうか」 「まことじゃ。森喜内どのと申されるそうな」  伊三郎は与五郎からおもてをそむけて、 「日ごろは捨ておいたにしても、美崎さまが容貞さまの御生母にあらせられるは、まぎれもないこと、ご重態とあっては、御家老がたも放ってはおけまい」 「美崎さまか……」  与五郎の唇からため息がもれた。もう別れて四年余になる。思えばつれ添って二年そこそこ、つかの間の夫婦であった。 「いち……」  与五郎のおもてに、ほんのり紅がさした。いちをいつくしんだ夜の記憶が、なまなましくよみがえって、一瞬、遠花火のように与五郎の胸をいろどった。  外は、雪が降りしきっていた。     八  会津盆地に、ようやくおそい春が満ちはじめた。だが、山かげの、日あたりの悪い、長原村の押込め所近くには、冬が残っていた。それでも、藪かげでは、ときどき鶯の声がした。 「父上、とみが苦労しておりましょうなあ」  寝たまま与五郎は、老父の顔を見あげて嘆息した。とみも今は六歳の筈である。すがと文蔵は、お城下の一隅に居をいとなみ、文蔵のいただく四人扶持に頼って、ほそぼそとくらしており、とみもいっしょだという。いちと与五郎父子を怨んで、離散以来、ただ一度も、押込め所をたずねてくれたこともないすがが、とみにどんな仕打ちをしているか目に見えた。  お医師森喜内が、思いがけなく長原村にやってきたのは、春が老いて、盆地をとりまいている野山が、くまなく新緑におおいつくされたある日であった。  伴作が、牢の入口をあけると、喜内はそこから背をかがめて中へ入ってきた。そして、相変わらず寝たきりの与五郎の枕もとにすわると、静かにきり出した。 「美崎さまがなくなられました」  江戸家老の命を受けた森喜内が、会津若松の城下についたのは、四囲雪につつまれた、正月七日の日暮れであった。あくる日、喜内は、家老柳瀬三左衛門にともなわれて、塩見平右衛門の屋敷におもむいた。二人は、上にあがって、しばらく待たされた。奥の方で、争い声らしいものが聞えた。 「お待たせいたしました。どうぞこちらへ」  ほどなく平右衛門が戻ってきて、二人を病間へ案内した。美崎は、床の上に起きあがって、きちんとすわっていた。さっきは、そのことで父と争ったものらしい。 「かまわぬ。やすんでいられよ」  柳瀬三左衛門がすすめたが、美崎は首を横に振った。おもてが透き通るように青い。かなり弱っているのがわかった。 「こちらは、江戸屋敷からつかわされた、お医師森喜内どの。こんごは、この仁があなたの病いのお世話をいたします」  三左衛門が喜内を引き合わせたが、美崎はしらじらしい表情で口をつぐんでいる。 「早よう、お礼を申さぬか」  にじり寄る平右衛門に、ちらとつめたい目をやってから、美崎は切り口上で述べた。 「思召しはかたじけのう存じますが、この儀ご辞退つかまつります」 「な、なにをいう」  あわてる平右衛門には目もくれず、 「わたくしは、老女美崎でございます。国もとの老女の病いに際して、江戸からお医師をつかわされたためし、いまだかつて、うけたまわったことございませぬ」 「美崎どの」  三左衛門の声がとがった。美崎が、無理に床の上に起きあがっていた理由が、ようやく読めた。 「美崎どの、容貞さまは、おん年わずか九歳ながら、すでに会津二十三万石の御あるじにございます。あなたさまはその御生母」 「わたくし、これまで、いつ御生母としてのお扱いを受けたでございましょうか」 「いや、それにはいろいろと……」 「わたくしは、ずっと、老女美崎として遇せられて参りました」  堰《せき》を切ったように美崎はいった。笹原家を去って、若松城のお奥に戻ってこの方の、一つ一つが一度に胸にこみあげてくる。広縁やお庭に容貞を見かけても、母としてものいうことも許されなかったつれない扱い、容貞五歳の春、将軍家へお目見のため出府の際も、供に加えられなかったこと……。 「御家老さま、とはいえわたくしは、決して怨みごとを申しているのではございませぬ。いいえ、かえって満足でございました。笹原与五郎の妻にさげ渡されてこのかた、わたくしは、もはや和子さまとは、なんのかかわりもない女、そう思い定めていたのでございます。お奥へ戻れと仰せられたときも、それゆえ命がけでこばみ申しました」  しかし、三左衛門は、明らかに怨みごとととったらしい。顔色がかわった。 「無礼でございますぞ」  美崎はひるまず、ひたと見かえして、 「どうぞ、お引き取り願います」  と、一歩も譲ろうとはしない。見かねた喜内が、 「まあまあ、ここは僭越《せんえつ》ながら、てまえにおまかせ下さい」  と、おだやかにとめ、さまざまにいいなだめて、まず三左衛門を別室にさがらせた。 「美崎さま、事情はうすうす伺っております。あなたさまのお気持もよくわかります。でも、てまえとしても、このまま江戸へ戻るわけにも参りません。ともかく御病気のお世話をさせて頂くこと、なにとぞお許し願えませぬか。そのかわりてまえも、御家老がたに命ぜられたのではなく、ただ一介の医師としてつとめるつもりでございます」  口先だけではない喜内の真情を、美崎は信じたらしい。長い間黙っていた末に、ようやくうなずいた。 「その後美崎さまは、てまえの申すこと、よく聞いて下さいました。てまえが立てて進ぜる薬湯は、しずくもあまさず召して下されました」  喜内は語りつづけた。  一月、二月とするうちに、美崎は身の上などもつつまず語った。喜内の聞いたところでは、美崎は絶えずとみの上に気を配り、季節季節のかわり目には、文蔵の住居へ、人を頼んで、衣類や金子を欠かさず届けたが、それは、ひとりとみのものだけでなく、伊三郎、与五郎、すがや文蔵の分まで、忘れず添えてあったという。それを、すがは一言も知らせてはくれなかった。  喜内はなおも語る。 「それほどの美崎さまが、四年余の間、どうしてか、一度もあなたさまがたの、御赦免を願い出られたことがないらしいのに、いつとなくてまえは気がつきました」  気分のいいときを見はからって、ある日、それとなくただすと、美崎は、寂しい微笑をただよわせて、 「その気持、おわかりになりませぬか」  と反問した。  なるほど、その気になりさえすれば、伊三郎父子の永押込めを許してもらうことは、さほど難事ではなかっただろう。親しいお女中衆の中には、 「悪いことは申しませぬ。どうぞそうなさいまし」  親身にすすめてくれるものが、何人もあった。ことに去年の暮れ、自分の生んだ容貞が、会津第四代の藩主として襲封した慶事は、お慈悲を願い出る絶好の機会であった。さすがに迷った。 「しかし、わたしはそれをしませんでした。依怙地《いこじ》に過ぎるかもしれません。こんなわたしを、与五郎どのやお舅さまは、お腹だちなさるかもわかりません。でも、わたくしは、どうしても容貞さまの御生母ということを、持ち出したくなかったのでございます。容貞さまとは、なんのかかわりもない女、それで一生を貫きたかったのでございます。女の幸せを踏みにじったものへ、せめてはかない意地を立て通したかったのでございます」  青い顔に、かすかに紅がさしていた。そのときの美崎のおもざしを、喜内は、世にも美しいものに見た。それから、二月とはせぬうちに、美崎の命の火は燃えつきた。すなわち三日前である。 「美崎さまの形見にございます」  森喜内は、ふところから、一握りの黒髪をとり出して与五郎の手に握らせると、 「美崎さまは、すでにご自分の運命を、ご承知のていに見受けられました」  伊三郎は、はじめそれがなにを意味するか悟りかねていたが、ややあって、うっとうめき、おもてに暗いかげをにじませた。与五郎は、父よりも早く気がついていたようであった。  森喜内はゆっくりうなずいた。 「さようでございます。美崎さまの死が、江戸の上屋敷へ達すれば、容貞君は、ただちに喪に服されましょう」  伊三郎は、かたくこぶしを握って、なにかをいおうとしたが、黙って目をとじている与五郎に気がつくと、口をつぐんだ。陽が傾いたらしい。たださえ暗い牢内が、いっそう光をせばめた。牢格子の外には、苅谷伴作がじっとうずくまっていた。 [#地付き](了)  [#改ページ]   下野《しもつけ》さまの母     一  二十六、七年もつれ添った夫に、いまになって裏切られたと知ったいよは、目の前がまっくらになった。いや、正確にいえば、いま裏切られたのではない。十四年前に裏切られていたことが、いまわかったのである。  夫の波多野修理《はたのしゆり》は五十歳、いよは四十五になる。嫡男《ちやくなん》の右近《うこん》は二十七歳、そよという気立てのよい妻を迎えて、すでに小金吾と呼ぶ男の子をもうけていたし、あやとつや、二人の娘は、他家に縁づいてなに不自由なく暮していた。それだけにいよは、二、三日前まで、対馬藩《つしまはん》の家中に、自分ほど果報者《かほうもの》はないと信じていた。  ところが、そのしあわせはまぼろしに過ぎなかったと、いやでも思い知らねばならなくなった。いよとて信じたくはない。しあわせがまぼろしだったということを、まぼろしと考えたかった。だが、現実はいよにそれを許さなかった。  夫の波多野修理は、若いころから謹直《きんちよく》一方の人間として通っていた。人もそれを認めていたし、いよもそう信じて疑ったこともなかった。  その夫が、妻以外の女と、武士としての誇りさえ捨てて無理心中を企てていたとは。しかも、相手はただの女ではない。先代対馬藩主、宗《そう》対馬守|義暢《よしなが》の愛妾|若狭《わかさ》さまというではないか。若狭さまには、たとえ夭折《ようせつ》したとはいえ、種寿《たねじゆ》さまというお子まであった。  ——こともあろうに、あの若狭さまと。  いよは、気が狂いそうだった。いよが、夫の背信に気がついたのは、つい三日前のことである。動かぬ証拠があった。夫の筆跡にまぎれもない、走り書きの書置きだった。  その書置きは、若狭さまの遺言によって、七日前に、修理に届けられた。それには、若狭さまの書状も添えてあった。  若狭さまが、ひっそりと、四十三年の生涯を閉じられたのは、ことし——寛政十一年二月二十四日のことだった。 「若狭さまが、なくなられたそうだ」  いよは、夫の修理の口からそれを聞かされた。その時の夫のおもてには、深いかげりがあった。そのかげりを、幸《さち》うすい生涯を終わった人へ寄せる、人間として当然の儀礼といよは思ったのだが、いまにして考えれば、あれは、かつて命がけの思いをかけたお人の死を悼《いた》む、ひたむきな哀惜にほかならなかったのだ。 「若狭さまのご遺言によって、お届けにあがりました」  と使いの者が、修理の留守の折、蒔絵《まきえ》の文筥《ふばこ》を届けてきたのは、それから三日目だかのことだった。 「ご遺言……」  日の暮れがた、他出先からもどってきた修理は、いよからその文筥を受け取ると、一瞬けげんそうな顔をしたが、すぐ文机《ふづくえ》の前にすわって、 「灯りを」  といった。いよは、いわれる通り灯りを運んでから、ややはなれてすわった。修理は、さがれともなんともいわず、ゆっくりと文筥のひもを解いた。中からとり出されたのは、二通の書状であった。どちらも、ごく短かかった。  いよの場所からは、読むことはできなかったが、一つは男文字で、もう一つは女文字のように思われた。  修理の顔色が、急に変わった。蒼白になったといってもよい。いよの気のせいではなかった。 「なにごとでございますか」 「聞かずにおいてくれ」  修理は、きびしく答えた。そのあと、長い間、文机の前を動かなかった。 「万松院へ参ってくる」  修理がそういい出しだのは、あくる日のことである。万松院は宗家の菩提寺で、代々の藩主やその一族の墓があった。若狭さまの墓に参るのだといよは思った。  修理が出かけたあと、いよは、しきりに文筥をあけたい誘惑にかられたが、かろうじて思いとどまった。文筥は、文机の上に、昨日のまま置かれていた。  ——なにかわけがある。  昨日、文筥をあけた時の、夫修理の様子はただごとではなかった。 「聞かずにおいてくれ」  といったことも、気になってならない。忘れようと思ったが、そう思えば思うほど、いっそう気になりだした。のどのかわきの耐《た》えがたさに似ていた。  いよは、三日間耐えたが、四日目、修理の留守に、悪いと知りつつ、ついに文筥をあけてしまった。  いよはふるえだした。この前、男文字のふみと見た方は、いまとくらべると、手はすこし若いが、まぎれもなく、夫の修理の筆跡だった。名あては、若狭さまではなく、家老の古川|図書《ずしよ》で、 [#1字下げ]——修理儀、年来若狭さまに懸想《けそう》仕り、道ならぬことと、ひたすらおのれを戒《いまし》め候えども、煩悩《ぼんのう》の火断ちがたく、ついに思いきわまりて、ここに若狭さまおん命を失いまいらせ、みずからも生害《しようがい》に及び申し候。    乙巳《きのとみ》九月十四日 [#地付き]波多野修理    としたためてあったのである。乙巳の年といえば、いまから十四年前、すなわち天明五年になる。なんといい開きをしようと、十四年前、夫の修理が、若狭さまに思いを寄せ、つきつめたあげく、若狭さまを殺して、みずからも死のうとはかったことだけは、明らかであった。  わからないのは、夫が、どうしてそれを思いとどまり、また、家老古川図書あてのその書置きが、どうして若狭さまの手に渡っていたかということである。  一方、女文字のふみの方は、若狭さまから修理へあてたもので、終りに、 [#1字下げ]——お心入れのほど、ただただ、切《せつ》なくかたじけなく、このこと一すじに生き甲斐を見出して、若狭は今日までの年月を過ごしまいらせ候うんぬん……。  とあり、日付は、ことしの二月十八日、すなわち、死去の六日前になっていた。文面から推《お》し量《はか》れば、表向きはともかく、心の底では、若狭さまも、修理の思いを受け入れていることが察せられた。  十四年前は、嫡男の右近は十三歳、二人の娘、あやとつやは十一歳と八歳だった。そのころ、夫の修理には、なに一つ不審《ふしん》な態度はなかった。しかし、この二通のふみがあるかぎり、修理の心がいよを離れていたことを、みとめないわけにはいかない。  いよは、ふるえる手で、二通の書状を、元通り文筥におさめた。ひもが、なかなかうまく結べなかった。     二  いよは苦しかった。なにげなく、自分の胸にしまっておくなどということは、とてもできそうになかった。といって、だれにでも打ち明けられることではない。たとえ人妻であったにしても、相手が並みの女であれば、実家の兄に相談するとか、婚家の娘を呼び寄せて、心のつかえをまぎらわせるとか、方法はいくらもあるが、若狭さまが相手となれば、おいそれとそんなことはできなかった。  いよは、ともかく三日間は辛抱《しんぼう》した。その間、夫の修理は、なんともいわなかった。文筥も、文机にそのままである。三日間はなんとか耐えたが、あすも耐えられるという自信はなかった。いっそのこと、二通の書状を、すぐ焼き捨ててもらえばよかった。さっさと焼き捨ててくれたのであれば、焼き捨てたことに、多少の不審や疑惑を抱いたにしても、いつかは、忘れてしまうことができたであろう。 「聞かずにおいてくれ」  といった夫のことばも、いつとはなしに、気にならなくなるに違いなかった。が、秘密を知ってしまったいま、それを望むのは、とうてい無理だった。  今日、いよは、万松院へ出かけた。夫の反応を見るつもりで、 「万松院へ参ってきます」  とはっきりいったが、夫はあっさり、 「うん」  とうなずいた。それっきりであった。  万松院へいったいよは、住持《じゆうじ》に、夫が訪れた日のことをたずねた。夫の修理は、いまは隠居しているが、数年前までは、藩中でも重い役目をつとめていたから、住持が知らない筈はなかった。  住持は、隠しだてする様子もなく、その時のことを語った。別だん、夫に口どめされたこともなさそうだった。住持の語るところによれば、修理はやはり、若狭さまの墓に参っていた。墓といっても、墓石はまだ建っておらず、墓標である。 「それから、修理さまは、下野《しもつけ》さまのお墓にも参られました」  住持は、そういい足した。下野さまとは、藩主宗対馬守|義功《よしかつ》の弟である。幼名を、富寿《とみじゆ》といった。母は永留氏——お弓の方。下野さまは、文武に秀れた好青年で、だれからも愛されていたが、四年前の寛政七年、まだ二十二歳の若さで世を去っていた。  夫が、下野さまの墓にも参ったと聞いて、いよは、いくらか心がなごんだ。  ——思い過ごしだったかも知れぬ。  ふと、そんな気がした。第一、うしろめたさを秘めての墓参であれば、あの日夫が、わざわざ、 「万松院へ参ってくる」  などという筈がない。そう思った。住持に礼を述べて、いよは、万松院を辞した。いよは、心のわだかまりを捨てる気になった。すくなくとも、わが家の門をくぐるまではそうだった。  が、その気持は、たちまちくつがえった。帰宅してみると、夫の修理は、文机の前に黙然とすわっていた。ひどく、心をうちのめされたような姿であった。  ——この人は、まだ若狭さまのことを思っている。さもなければ、あのようにゆゆしいふみを、焼き捨てもせず、いつまでも残しておかれる筈がない。  いよの心に、めらめらと火が移った。いよは、すわり直した。 「わたくし、おうかがいしたいことがございます」  おのずと、切り口上《こうじよう》になった。修理は、おだやかに受けとめた。 「なにをだな」 「その文筥の中のもの、先日、読ませていただきました」  切りつけるように、いよはいった。 「知っておった」  文筥がすこし動いていたし、ひもの結びめの位置も、いくぶん違っていたと、修理はいった。修理の態度が、意外に平静なので、いよはいっそうとり乱した。 「あなたさまと、若狭さま、お二人の間がらにつき、くわしく、お聞かせ願いとうございます」 「いや、聞かずにおいてくれ」 「そのようなこと、できませぬ。わたくしの心、すでに地獄でございます」 「それを承知で頼むのだ」  きめつけるようにいって、そのあと、修理は一言も口をきかなかった。巌《いわお》のように動かなかった。 「十八の時からつれ添い、いまになって、このようなうきめを見ようとは、夢にも存じませんでした……」  血ばしった目で、うらめしげに夫を見すえながら、いよは立ちあがった。いよがふすまの外に出た時、修理は、追いかけるように声をかけた。 「待て、いよ。——頼む。心の地獄、だれにも悟られるな」  いよが、冷静なときであれば、いまのことばに、おそらくなにかを感じ取ったに違いない。だが、いよは、耳にもかけず、はげしくふすまをしめた。  修理は、心の中でいよに呼びかけた。  ——いよ。わたしとて、この二通のふみ、ただちに焼き捨てるすべを知ってはいた。知っていながら、あえてそうしなかったのは、このこと、そなたにいうべきか、いうべきでないか、いまのいままで、迷いつづけていたからなのだ。  重い、息苦しい過去が、すさまじい音をたてて、修理の胸になだれてきた。     三  前藩主、宗対馬守|義暢《よしなが》が死んだのは、いまから二十一年前——安永七年一月五日のことで、修理は二十九歳になったばかりだった。この時、江戸表の正室元姫には子がなく、国もとに妾腹の男児三名があった。母はそれぞれ違うが、世子として、幕府に届けの出ている十歳の猪三郎義功、八歳の富寿、五歳の種寿であった。もっとも、猪三郎義功の方は、十歳というのは表向きで、実際は富寿と同じ八歳であった。  新藩主の座には、かねて世子として届けも出されていたこととて、当然猪三郎義功がつき、幕府もむろん、これをみとめた。国家老古川|図書《ずしよ》が補佐の任にあたった。  図書は、三十歳の若さながら、名家老として知られた古川|大炊《おおい》の子で、父に勝るとも劣らぬと見られていた。一方、江戸には、権勢ならびない、老中田沼|主殿頭意次《とのものかみおきつぐ》と親しい、老練の江戸家老杉村直記の存在がある。したがって、新藩主が幼少ということは、問題とする要もなかった。  ところが、七年後、対馬藩は思いがけなくお家|断絶《だんぜつ》の危機に見舞われたのである。その年——天明五年七月八日の夜、修理は、家老古川図書から火急の招きを受けた。いまからいえば、十四年前のことで、修理は中老の職にあった。  古川家の奥座敷には、家老の図書と、図書の弟で、これも藩政の枢機《すうき》に参与している古川左衛門が待っていた。二人の顔の青さでただごとでないことがすぐわかった。 「左衛門には、いま話したところだが、殿がご急逝《きゆうせい》遊ばされた」  修理がすわるのを、待ちかねたように図書がいった。発病が三日前、信じられないような容態の急変であり、死であった。  ことの重大さは、修理にもただちにのみこめた。藩主とはいえ、猪三郎義功は十五歳である。まだ元服していなかったし、去年、参覲《さんきん》ご猶予を願い出ていて、将軍家ご謁見の儀も終わっていない。当然、義功の後嗣《あとつぎ》についても届けが出されてはいなかった。義功の死が表沙汰《おもてざた》になれば、 「嗣子《しし》なき場合は家断絶」  の掟《おきて》によって、宗家は亡ぶほかはない。図書は、沈痛な声でいった。 「とるべき道はただ一つ。あくまで喪《も》を秘めて、当分の間、ご病気とご披露《ひろう》いたし、その間に、しかるべき対策を講じねばならぬ」 「江戸へは、なんとなされます」 「むろん、すぐさま書状をしたためて急使を立てる」  先君真常院——対馬守義暢の正室元姫や、江戸家老杉村直記の意見も、たしかめて見る必要があった。  図書は、修理と、弟の古川左衛門を、かわるがわる見て、 「ともかくも、江戸からの返事が届くまでに、両名ともそれぞれ、最善と思う策を練っておいてもらいたい。もちろんわしも考える……」  といった。奥方と江戸家老杉村直記、国家老古川図書、その弟左衛門、それに波多野修理、この意見をつき合わせれば、最善の策がおのずと生まれるであろうという、図書のねらいであった。 「承知いたしました」  そう答えた瞬間から、修理には、重苦しい日夜がつづいた。図書の弟、古川左衛門にしても、同じだったに違いない。  図書は、ただちに手を打った。 「ご主君|御病《おんやまい》」  と発表された。固く口止めされた、側近の数名をのぞいては、猪三郎義功の死を悟った者は、だれ一人なかった。  古川図書のもとに、先君真常院夫人元姫と、江戸家老杉村直記からの返書が届いたのは、九月に入ってすぐだった。図書は、まず弟の古川左衛門を招き、つづいて、波多野修理を呼び寄せた。九月とは思われぬ、ひどく暑い夜だった。  図書は、修理がくる前に、江戸からの返書に目を通し、さらに、左衛門の考えも聞き出していた。 「そこでこんどは、おてまえのご意見をうかがいたい」  修理が顔を見せると、図書はすぐさま切り出した。 「されば」  修理は膝を進めた。  もっとも無難《ぶなん》な方法は、藩主猪三郎義功の病気届を幕府に出しているいま、異腹の弟富寿を世継《よつぎ》と定めて、これを幕府に承認してもらい、しかる後、義功の死を発表、つづいて、富寿を藩主の座につけることだった。 「だが、この方法をとれば、安全な反面、医師お願い、跡式お願い、ご判元|見分《けんぶん》、そのほか、数々のやっかいな手続きを要し、おびただしい物入りとなります」  そこまでいって、修理は一息ついた。     四  修理は、すぐまたつづけた。 「財政豊かな場合は、もとよりなにほどのことでもございませぬ」  しかし、いまの藩財政を考えれば、相当の出費である。もともと対馬藩の領内は、山地が多く、沃野《よくや》に乏しく、田畑の大半は地味が痩せていて、藩の経済は、宿命的に貧困であった。その上、隣国朝鮮と近接しているため、古くから、外交と国防の重荷を背負いこまされている。  ことに、通信使と呼ばれる朝鮮使節を、江戸まで護送するにあたっては、莫大な費用を要した。  もちろん幕府は、対馬藩に対して、多くの援助を与えはした。  一つは、賜金《しきん》という名目の、財政的輸血である。一つは、訳官資金と呼ばれる、外交手当の給付である。いま一つは融資だが、これは、賜金や、訳官資金と違って、返済しなければならない。  げんに、多年にわたる幕府からの借金は、つもりつもって、去る安永九年には、総額十五万二千四百五十両にのぼり、返金延期を哀訴して、ようやく急場をしのいだありさまであった。 「こんな矢先でございますゆえ、物入りはなんとしても避けねばなりません」  と修理はいった。図書はうなずいて、 「で、どうせよというのだ」 「ただ一つ、秘策がございます」  修理の目が、きらりと光った。 「聞こう。その秘策とやらを」 「若君をすりかえます」  ずばっと、修理はいった。  死んだ猪三郎|義功《よしかつ》には、腹違いながら、二人の弟がある。十五歳の富寿と、十二歳の種寿であった。 「お気の毒ながら、表向きは種寿さまがなくなられたことにいたし、種寿さまは富寿さまということにしてしまいます。そして富寿さまには、猪三郎義功さまになりかわっていただきまする」  その上で、義功の病気全快を幕府に届け出れば、跡式願いその他、一切の手続きは不要になる。 「以上申し上げたような運びにすれば、いかがでございましょう」  修理が、いい終わるか、いい終わらないかに、古川図書は思わず、 「ハハハハ」  と笑い出した。修理はむっとした。 「なんで、お笑いなされます」 「いや、おてまえを笑ったわけではない。あまりにも見事に、考えが一致したのがおかしかったのだ」 「では、ご家老も……」 「さよう。同じことを考えておった」  図書だけではなかった。左衛門の意見もそうであり、先君真常院夫人元姫ならびに、江戸家老杉村直記の意見も、まったく同じであった。図書は、修理と左衛門を、ふたたび交互に見て、 「こうなれば、もはやいささかもためろうところはない。危険はとものうが、この際、思いきってやってのけよう……」  といった。さすがに、語尾はいくぶんか弱くなった。 「しかし、問題はございますな」  左衛門は眉根を寄せた。図書は軽くうなずいた。左衛門のいう意味は、修理にもよくわかった。  故猪三郎義功  富寿  種寿——。  この三名は、それぞれ母が違っていた。それでも、義功の母は、すでに世を去っているので、考慮の必要はない。富寿の母である永留氏——お弓の方も、わが子の富寿が、新藩主の座につくことだから、猪三郎義功になりすまさねばならぬということに、多少の不満はあるにしても、別だん、否やはないであろう。  問題は、若狭さまだった。  猪三郎義功の病気は平癒《へいゆ》した——として押し通す以上、表面的には、種寿をこの世から抹殺《まつさつ》してしまわねばならない。種寿は、生きていても種寿ではなく、富寿としてこれからは遇せられる。若狭さまは、わが子とのつながりを、ぷっつと断ち切ってしまわねばならないのである。 「そのようなこと、果たして若狭さまが、聞き入れてくださるかどうか」  左衛門は腕を組んだ。 「それじゃ、問題は」  図書も、顔を暗くした。 「お家のためでござれば、是が非でも、お聞き届け願わねばなりますまい」  強くこういいはしたものの、修理にしても若狭さまを説得しうる自信があるとはいえなかった。  二日後、修理はあらためて、図書に呼ばれた。図書は、 「ほかの家老衆も、賛同してくれた。ついては、おてまえに、若狭さま説得の役を引き受けてもらいたい。お弓の方さまには、左衛門が会う」  といった。 「…………」  さすがに、とっさには答えができかねた。修理が黙っていると、 「よろしいな」  図書は、じりっと膝を進めた。いやとはいわせぬはげしいものが、図書の目に宿っていた。 「お引き受けいたします」  やむを得ず、修理は答えた。 「ただし、若狭さまが、お聞き届けくださらぬ時は、なんといたしましょう」 「あくまで、説き伏せてもらいたい」 「万が一の場合はと、てまえはうかがっております」 「万が一など考えるな」  しかりつけるように、図書はいった。修理は、腹が立った。 「さように申されるならば、ご家老じきじきにご説得願います」 「いや、わしが乗り出しては、まさかの時、うつ手がない」  そのことばが、なにを意味しているか、修理には、はじめわからなかった。心の底まで冷えるような、すさまじさに気がついたのはしばらくたってからである。  ——もしお聞き届けなき時は、若狭さまを殺し、おてまえも死んでもらいたい。  修理はそうとった。秘密を明かす以上、若狭さまの承諾が得られない場合、若狭さまを殺しても秘密を守る——それが、古川図書の考えであった。     五  数日後、修理は若狭さまと会った。  宗家のお館《やかた》は、府中の町の北端、桟原《さじきばら》にある。若狭さまは、そのお館の一隅に小さな屋敷をもらい、一人の侍女と、ひっそりとくらしていた。  若狭さまは、もともと、目立ったことがきらいだった。だから、先代藩主宗対馬守|義暢《よしなが》の寵を受けて、種寿という子をもうけても、いつもひかえ目に振舞った。義暢が世を去ると、 「雨露がしのげさえすれば、それでよろしゅうございます」  と、自分から願い出て、小さな住いに移り、侍女も一人にへらしてしまったのだった。  種寿はいまは表御殿に住んでいるので、めったに顔を見ることもないが、それでも、ときどきは母のもとをたずねてくる。月のうちに、一度か、せいぜい二度である。それが、いまの若狭さまにとっては、ただ一つの生き甲斐といえた。  そんな若狭さまから、種寿をとりあげてしまうというのは、いかにもつらくむごいことだった。 「種寿さまご死去」  として、種寿を富寿にすりかえ、富寿を、死んだ猪三郎義功に仕立てれば、こんご若狭さまは、母として種寿と会うことは、もうできないのである。それを思えば、とうてい口にするに忍びない。だが、お家のため、心を鬼にするほかなかった。 「無理を承知で、まげてお聞き届けのほど、お願いいたします」  修理は、つとめて感情を殺し、若君すりかえという、非常手段をとらざるを得ない、藩の苦しい財政事情を説いた。  若狭さまは、たちまち真っ青になった。それっきり、一言も口をきこうとはしない。ただ、うなだれていた。 「若狭さま」  修理は、決意を迫った。若狭さまは、はじめて口をひらいた。 「二、三日、考えさせていただけますか」  即答せよとは、さすがにいいかねた。 「三日間、お待ちいたしましょう。ただし、ほかの者には、絶対ご相談なさらず、お一人でおきめ願います」  修理は釘をさした。若狭さまは、弱々しくうなずいた。修理にとって、この時の三日間は、実に長かった。息苦しく、めしも満足にのどを通らぬ思いだった。  三日目の夜がきた。  ——あす、もし若狭さまが、うんといってくださらねば。  腹は、すでにきまっていた。修理は、この世の名残《なご》りに、三人の子の寝顔を、しみじみとのぞいた。十三歳の右近、十一歳のあや、八歳のつや、三人とも、なんのかげもないしあわせそうな寝顔だった。 「よう眠っている……」  さりげなく、修理はいった。妻のいよは、なにも気づかず、 「はい、まことに」  とうなずいた。満ち足りた顔だった。  ——このいよを、こととしだいでは、絶望の淵《ふち》に突き落すことになる。  思わず、涙が出そうになって修理は、あわててあくびをした。いよは、ほんとうのあくびと思いこんだらしかった。  その夜修理は、古川図書へあてて、 [#1字下げ]——修理儀、年来若狭さまに懸想仕り、道ならぬことと、ひたすらおのれを戒め候えども、煩悩の火断ちがたく、ついに思いきわまりて、ここに若狭さまおん命を失いまいらせ、みずからも生害に及び申し候。    乙巳九月十四日 [#地付き]波多野修理    このような書置きを書いた。  あくる日は小雨だった。若狭さまは、侍女に宿さがりをさせ、一人で待っていた。やつれが目だった。まだ二十九の筈だが、三十三にも、四にも見えた。それは、若狭さまが、どれほど苦しみ悩んだかを、はっきり物語っていた。修理は、それに目をつぶった。目をつぶらねば、負けそうであった。 「お聞き届け願えましょうな」  よけいなことはなにもいわず、事務的に、ずばっと切り出した。若狭さまは、黙って修理を見返した。うらめしげなまなざしだった。そして、静かに首を横に振った。かえって、強い意志が感じられた。 「いやと申されるか」  修理のことばには答えず、若狭さまは、別のことをいった。 「あなたも、お子さまをお持ちでございましょう」 「三人おります」  修理は、三人の子の名と年をいった。 「その三人のお子と、父親として会うことが許されぬ。そうなった場合、あなたは、どうなさいますか」  ぐっと、修理はつまった。若狭さまを哀れとは思いながらも、自分自身の身の上に振りかえて、若狭さまのことを考えたりしたことなど、一度もなかったのに気がついたからであった。 「わが子と、生きながら縁を切る。あなたはそれがおできになりますか」 「…………」 「わたくしにはできませぬ」 「しかし、お家のためでござれば」 「ほかに手だてがございましょう」 「どうせよと申されます」 「富寿さまがなくなられた。そうしてもよい筈でございます」  お弓の方には、富寿さまのほかに、姫がある。だから、富寿さまとは縁が切れても、姫によって心をまぎらわせることもできる筈。若狭さまはそういった。 「ご勝手が過ぎます」  修理は、われ知らず声を強めた。 「いかにも、富寿さまがなくなられたとすることはできます。いや、その方が、秘密を守るには好都合でございましょう」  種寿が死んだことにすれば、種寿が富寿になり、富寿が猪三郎義功になるという、二重の嘘が必要になる。その点、富寿が死んだことにすれば、富寿と義功が入れかわるひとつの嘘ですむのだ。 「が、それでは、お弓の方一人に犠牲《ぎせい》を強《し》いることになります」 「それゆえ、若狭にも悲しい思いをせよと申されますか」 「お願いいたします」  修理は、両ひざに置いた、双のこぶしに力をこめた。若狭さまは、負けずに、修理をまっすぐに見た。 「若狭が、あくまでいやと申せば、どうなさいます」  さすがに、あなたを切るというわけにはいかない。修理はいった。 「説得できなかったことの責めをとって、この修理、腹を切らねばなりません。そして、ほかの者が、またこれへまいります。その者も腹を切る。つぎがまたくる。つぎからつぎに、入れかわり立ちかわり……」  むごいとは知りつつ、たたみかけるように修理はいった。若狭さまの顔は、蒼白になっていた。なにかいおうとして、唇がふるえている。修理は見ておれず目を閉じた。  急に、若狭さまが、崩れるように前にのめったのは、つぎの瞬間だった。修理は、若狭さまの重みを、もろに受ける形になった。いつの間にか修理は、ひざとひざを突きあわせるほどにじり出ていたのである。  若狭さまは、むせび泣いた。修理は、いつまでも、そうさせておきたいいたわりを感じつつも、あわてて、若狭さまの重みを、そっとひざから離した。 「若狭さま、あとしばらく、さよう、夕方までお待ち申しましょう。その間にいま一度、よっくお考えくださるよう。親子の情にすがりつくか、藩という、大きなものをお立てなさるか……」  修理は、縁先にのがれた。  庭に乱れ咲いた秋草の群れに、雨がひっそりと降りつづけていた。それから、どのくらいしたろうか。暮れには、まだいくらか間のあるころ、背後の障子が静かにあいた。修理が振りかえると、さっきとは別人のように、きりっとした若狭さまの顔があった。 「さきほどは、聞きわけないことを申しました……」 「おお、それではお聞き届けくださるか」  若狭さまは、黙ってうなずいた。 「かたじけのうござる……」  修理は、両手をついた。しばらく、顔をあげることができなかった。不覚にも涙を落してしまったのである。  若狭さまは、 「修理どの、種寿と、一度ゆっくり会えるようおはからいください。わたくしより、よっくいいふくめておくことがございます」  といった。     六  修理が、ふところに入れておいた、古川図書あての書置きがないことに気づいたのは、馬場筋通りの屋敷に帰って間もなくだった。不要になったので燃やそうと思い、手をやるとなかった。二度、三度、念入りに探したが見つからない。しまいには、入れた覚えのないたもとまで探した。なかった。  ——若狭さまに泣きつかれたあの時、落したのかもしれない。  そのほかには、思いあたりがなかった。修理は、雨の中をふたたび若狭さまのもとへ出かけた。 「書付のようなものを、落してはおりますまいか」  そんなたずねかたをした。 「いいえ」  若狭さまは、首を横に振った。嘘をついている顔ではなかった。  ——とすれば、途中で落したのか。  他人に拾われてはことだった。とうとう、どこからも出てこなかった。  その後、長いあいだ心にかかっていたが、一年たち、二年たちするうちに、だんだん気にならなくなり、いつとなく忘れた。  ——だが、いま思えば、十四年前のあのとき、若狭さまは、図書どのあての書置きを、やはり拾っておられたのだ。  あれほどかたくなだった若狭さまが、にわかに心をひるがえしてくれたのも、そのためにほかならなかった。  お家のために、武士の誇りも捨て、恋ぐるいと見せかけて、若狭さまを殺し、みずからも亡《ほろ》びの道をたどろうとした修理の覚悟を知って、若狭さまは、種寿という、たった一つの生き甲斐を捨てたのに違いない。  修理には、いまそれがわかった。  一度、回想からさめた修理を、ふたたび、過去がさらった。若狭さまと、種寿の悲しい運命が、修理をとらえた。 「種寿さまご急死」  と、正式に藩庁から発表されたのは、天明五年九月なかば過ぎだった。ほどなく、万松院において、葬儀が営まれた。葬儀に参列した人々は、十四年たったいまも、その時の若狭さまの悲しみにうちのめされた姿を、おそらく忘れてはいないであろう。  焼香《しようこう》のさなか、突如、痛切な悲泣の声があがった。声は若狭さまだった。若狭さまは、その場にうずくまって動かなかった。身も世もないということばが、そのまま絵になったかのようであった。  ——さもあろう。  人々は、若狭さまの泣き声に納得した。裏を知りつくしている修理でさえ、  ——まこと種寿さまがなくなられたのではないか。  一瞬、そう思いかけたほどだった。とはいえ、修理は、若狭さまの悲嘆を、お家|安泰《あんたい》のための、必死の芝居などとは、考えたくなかった。若狭さまの涙は、種寿との、生きながらの別離に流されるものと思った。  こうして、種寿は富寿となり、富寿は、猪三郎義功となった。  葬儀のあと、若狭さまの姿は、毎日万松院の新墓の前に見られた。いつも、花と線香を手にしていた。やつれがひどかった。生きている人間のようではなかった。  ——おいたわしい。  行き会うごとに、人々は、心から同情を寄せた。若狭さまは、雨の日も風の日も、欠かさず万松院に通った。種寿の墓に、花の枯れている日はなかった。  一方、種寿の富寿と、富寿の猪三郎義功は、それぞれの新しい暮しに、しだいになじんでいった。それでも、時としてとまどうことがある。ことに、種寿の富寿は、まだ十二歳という稚《おさな》さでもあるし、 「富寿さま」  と呼ばれても、しばらく、自分のことと気づかず、ぼんやりしていることがあった。しかし、そんなことも、そのうちに、だんだんなくなってきた。富寿になりきろうとつとめる、種寿のひたむきさは、涙ぐましかった。おつきの者がいいふくめることはほとんどない。種寿にそこまで教えこんだのは、若狭さま以外のだれでもなかった。  秋が深まったある日、種寿の富寿は、 「万松院にいく」  といい出した。 「なんとなされます」  おつきの者が、おどろいてたずねると、 「種寿の墓に参ってやる」  というのだった。  その日波多野修理は、偶然万松院にきていた。 「富寿さまがお見えになっております」  住持にそう聞いた修理が、種寿の墓にいってみると、種寿の富寿が、手を合わせているところだった。 「お参りでしたか」  修理の声に、ふりかえった彼は、なにかいおうとして急に口をつぐんだ。目に、微妙なかげがさした。若狭さまが、すぐ近くにきていたからだった。  若狭さまははじめ、おそらく種寿の姿に気づかなかったのに違いない。気がついておれば、しばらく物かげに身を隠した筈だった。突然、種寿の姿をみとめて、息をつめた様子が、若狭さまには見られた。それでも、若狭さまは、すぐ気をとり直した。 「富寿さま、お参りしてくださって、ありがとうございます」 「種寿が、寂《さび》しかろうと思ったのです」 「いまごろは、種寿もきっと、喜んでおりましょう……」  修理は、耳をふさぎたかった。聞くに忍びなかった。いまは母と子でない母と子のやりとりに、そらぞらしさを感じたからではなかった。むしろ、逆だった。必死に、他人になろうとしている、母子の心が、あまりにも痛ましかった。若狭さまは、菊を胸に抱きかかえていた。ほとんど黄菊ばかりで、白いのは二、三輪だった。いま一度、墓に供《そな》えようと思ったのだろうか、種寿の富寿は、 「その花を、すこしわけてください」  といった。 「よろしゅうございますとも」  若狭さまから、いくつかの菊を受け取ろうとして、種寿の富寿は、急に、声にならない声をもらし、顔をゆがめた。下唇がめくれていまにも泣き出しそうだった。  修理はあわてて、二人の間に割りこみ、若狭さまの目から、種寿の泣き顔を隠した。  ——なぜ、こんなことをしたのだ。  修理は、自分も一役買っていながら、つくづくうとましかった。たとえ藩の財政難に、いっそう拍車《はくしや》を加える結果となっても、  猪三郎義功の病気届  お医師願い  富寿の跡式願い  義功の死亡届——と、正規の手順をとるべきではなかったろうか。しきりに、後悔されてならないのだった。     七  富寿の猪三郎義功が、将軍家にお目見えのため出府したのは、それから五年後——寛政二年の春だった。種寿の富寿も、義功に従って出府した。義功は十九歳、富寿は十七歳であった。このころ富寿は、すでに宗|下野《しもつけ》と名をあらためて、家中の者から、 「下野さま」  と呼ばれていた。  猪三郎義功のお目見えは、六月十三日に行われた。この日、下野さまも千代田城に登城、おことばを賜わった。  猪三郎義功が、侍従《じじゆう》に叙《じよ》せられ、対馬守に任ぜられて、 「対馬守義功」  と名をあらためたのは、この年、十一月のことである。義功は、そのまま江戸屋敷にとどまり、下野さまは対馬に帰った。翌年、義功も帰国を許された。  これは、このころ幕府において、朝鮮使節いわゆる通信使の聘礼《へいれい》を、江戸で行わず、対馬で行うことを考え、対馬藩にその検討を命じていたからで、この問題が解決するまで、 「特に参覲を免じて、藩主の在国を許す」  という処置をとったためである。  下野さまは、武芸を修め、学問に秀でた好青年で、その人がらも申分なかった。人々は信愛と畏敬《いけい》をこめて、 「下野さま」  と呼び、 「下野さまは、いまに殿様の、よき補佐役となってくださる」  と期待し、願望した。しかし、不幸にしてそれは実現しなかった。病魔が、下野さまの胸をむしばんだのである。  下野さまが、血を吐いて倒れたのは寛政五年秋のことだった。下野さまは、まだ二十歳の若さだった。藩士といわず、町民といわず、人々は、平癒《へいゆ》を心から祈ったが、その祈りは届かず、病は日に日に進んだ。  やがて、寛政七年秋がきた。かつての好青年宗下野は、見るかげもなく痩せおとろえていた。十月八日、医者の道玄は、 「あと三日のお命でございましょう」  と宣《せん》した。  それを知って、修理は悩んだ。下野さまのほんとうの母、若狭さまを、臨終の席に招くかどうかについてである。  秘密を知っている老職のうち、古川図書はすでに六年前に死んでいた。江戸家老として手腕を発揮した杉村直記は、以前、老中田沼主殿頭意次の厚遇を受けたことから、現老中松平定信に忌避《きひ》されて、いまは退隠している。図書の弟古川左衛門は病中であった。  ——殿のご意見をおうかがいしよう。  修理はご前《ぜん》に伺候《しこう》した。 「若狭さまを、下野さまにお別れさせとう存じます……」  口ごもり、口ごもり、修理がそういい終わると、対馬守義功は、 「うむ」  といったきり、しばらく答えなかった。腹を立てたような表情であった。が、腹を立てているのではなかった。 「いかがはからいましょうや」  修理が、にじり寄った時、 「よし、余が許す。会わせてとらせい。まさかの時は、お家が亡ぶともかまわぬ」  ずばっと、義功はいった。そのことばが、ぐっときて、火のかたまりのようなものが修理の胸をつきあげた。修理は、義功の心の傷を、はじめて知った。富寿として生まれ育ちながら、途中から、猪三郎義功となって、まったく違った人生を歩まねばならなかった若者の、心の傷の深さを、修理は、いま知ったのだった。  いよいよという、十月十一日の朝、修理は若狭さまを迎えにいった。しかし、若狭さまは、かたくなに首を横に振りつづけて、どうしても立ちあがろうとしなかった。 「ご上意《じようい》でございますぞ」  修理が声を励ますと、若狭さまは、一瞬、悲しげなまなざしになったが、やっと、心がきまったのであろう。 「おことばに従います」  と答えた。  その夕方、下野さまの枕べには、五つの暗い顔が並んでいた。兄の対馬守義功、母ならぬ母のお弓の方、ほんとうの母である若狭さま、老職の波多野修理、それに、医者の道玄であった。  道玄が、ちらっと修理を見た。修理は、その意味をすぐ悟って、若狭さまを目でうながした。若狭さまは、気がつかなかったのか、気がついていて、気づかぬふりをしたのか、黙っていた。見かねたお弓の方が、 「お人ばらいしてございます。どうぞ……」  といった。せめて一言なりと、母としてのことばをかけてやるように。そんなつもりであった。 「早く」  ややいらいらした声で、対馬守義功がせき立てた。それでも、若狭さまは、まだ黙っていた。その時、下野さまの唇が、わずかにひらいた。 「母上……、長い間……、お世話に……、相なりました……」  下野さまは、若狭さまにいっているのではなかった。光を失いかけたその目は、まぎれもなく、お弓の方の顔を、まっすぐに見ていたのだった。 「種寿……」  うめき声とも、泣き声ともつかぬ、異様な声が、対馬守義功の唇からもれた。声こそ異常だが、はっきり種寿と呼んだ。富寿と呼んだのではなかった。  下野さまの目から、涙があふれた。 「種寿……」  義功は、また呼んだ。義功の目からも、涙がしたたり落ちた。下野さまの命の火が燃えつきたのは、それから間もなくだった。  若狭さまは、泣かなかった。泣かずに、しっかりした声で、 「お弓の方さま、泣いておあげなされませ。若狭も、十年前に、種寿どのを失って、覚えがございます。どうぞ、心ゆくばかり、泣いておあげなされませ……」  といった。 「若狭さま」  修理は、思わずわれを忘れそうになった。腹が立った。対馬守義功の目にも、怒りが宿された。だが、その怒りは、一瞬にして消えた。若狭さまのからだが、ゆらっと揺れて、横に崩《くず》れたのである。若狭さまは、気を失っていた。ほとんど同時に、お弓の方の唇から、泣き声がほとばしった。お弓の方は、下野さまの遺体にとりすがって、泣きながら、種寿の名で呼んだり、富寿の名で呼んだりした。     八  若狭さまが死んだのは、ことし——寛政十一年二月二十四日のことだった。下野さまが世を去って、三年と四ヵ月目である。  修理は、文筥のひもを解いた。そして、ふたたび二通の書状をとり出した。十四年前、家老古川図書にあてて、修理がしたためた書置きと、死の数日前、若狭さまが、修理にあててしたためたものである。  さっきいよが、はげしくふすまを閉めて去ったあと、かれこれ三時間近く過ぎていた。修理は、若狭さまの、筆のあとを目で追いながら、心でつぶやいた。  ——いよよ。これが、色恋の沙汰などであるものか。  いうべきか、いうべきでないか、修理は、なお迷っていた。  秘密は、すでに十四年守られた。いまそれをいよに明かしたからとて、もはやなんということもあるまい。明かしてしまえば、いよの心の地獄は、たちまち消えてしまうであろう。だが、悲しい運命に耐えた、若狭さま、下野さま、あの二人の心を思えば、あくまで、秘密を守ってやりたかった。  ——いよ、こらえてくれい。  修理の目はぬれていた。ふすまがあいた。 「くるな」  きびしく、修理はいった。また、ふすまがしまった。一瞬に過ぎなかったが、いよは、修理の涙を見たに違いない。文筥が、ふたたびひらかれていたことも、はっきり気づいたに違いない。  修理は、二通の書状を、もと通り文筥の中におさめた。そして、ゆっくりと、ひもを結びはじめた。 [#地付き](了)  [#改ページ]   千間土居《せんげんどい》     一  川の左岸は柳川《やながわ》領の北田村、右岸は久留米《くるめ》領柳瀬村であった。このあたりは、川幅はほぼ三十一、二間あるが、深さはさほどではない。いちばん深いところでも、ふだんは二尺あるなしで、渡し舟はなく、歩いて楽に渡れる。石づたいにうまく渡れば、くるぶしをぬらすくらいですんだ。その矢部《やべ》川が、一度雨が降ればたちまち形相《ぎようそう》を変えた。土居すれすれまで水がせまり、大蛇のようにうねりのたうって、はなれたところに立っていてさえ、目がくらみ、水に引きこまれてしまいそうであった。水にのまれて、助かった者は一人もなかった。村人は、 「矢部川の気ちがい水」  と呼んだ。  これまでに、何度土居が切れたか、数えることもできない。土居が切れると、あたり一面の田圃《たんぼ》は砂と石ころの川原になった。しかも土居が切れるのは、きまって柳川領の方ばかりなのである。  それが、いまでは逆であった。 「これもみな、お父上さまのおかげでございます」  源右衛門は川土居に立って、つれの若者に感謝のまなざしを向けた。若者は返事もしない。笠を上げて川面《かわも》に見入っていた。雨ですっかり重くなったみののすそから、刀のこじりがのぞいている。 「これが千間《せんげん》土居か……」  若者はぽつんとつぶやいた。うわさはいつも聞いていたが、目で見るのは今日がはじめてであった。  十一万九千石、立花侍従|貞俶《さだよし》の城下筑後柳川からここまでは、四里そこそこしかない。その気になればいつでもこれるのに、いままで一度もきたことがなかった。若者は、柳川藩士田尻|総馬《そうま》の長男|藤蔵《とうぞう》であった。半月ほど前に家督を相続し、近く父の名をとって総馬と名乗ることになっていた。 「ここまで水がくれば、昔なら、土居はひとたまりもなかったはずでございます」  北田村の庄屋源右衛門は、感慨ぶかそうに藤蔵の顔を見上げた。  水は足もとまできていた。しかし、土居は小ゆるぎもしない。川に面しては、竹が生い茂っている。その竹の根が、目に見えぬところで、土居を守っているのに違いなかった。土居の長さは、曲り松から山下まで、千三百間ある。千間土居の名もそこから生まれた。土居の上には、数千本の樟《くす》が植えてある。  この土居が築かれたのは、元禄八年であった。もう三十年も昔のことである。いまでいう突貫工事であった。  工事主任は、普請役《ふしんやく》田尻総助で、その手助けをしたのが総助の次男総馬であった。しかし村人は、総助のことよりも、手伝い役に過ぎなかった総馬の方を覚えている。千間土居と呼ばずに、総馬土居と呼ぶこともあった。総馬はそのとき、まだ十九だった。  侍の家の次男は、一生冷や飯をくわされるのが普通である。運がよくて、どこかの養子にいくのが精いっぱいであった。総馬は、次男として生まれたのにもかかわらず、十六の春、書院番に取り立てられ、十時《ととき》摂津の組に入れられた。総馬が相当の切れ者だったことは、それだけでも察しがつこう。  千間土居の工事で、総馬はたちまち名を上げた。人夫《にんぷ》たちは、 「鬼の総馬」  と呼んだ。  むちがわりに、絶えず弓の折れを手にして普請場を立ちまわり、ちょっとでもなまけている者があれば、情けようしゃもなく打ちのめしたのである。まるで総馬が奉行《ぶぎよう》で、父の総助が手伝い役のようであった。 「ことは急を要する。久留米藩の横槍がはいっては面倒じゃ。怨みごとはあとでいえ」  総馬は、息をつく間も与えぬほど人夫たちをこき使った。休めるのは、飯をくうときと排便のときだけである。 「あきれたやつじゃ」 「二十歳《はたち》にもならぬがきのくせに、人使いが荒いのなんの」 「あいつは鬼じゃ。人間ではないわい」  かげでこそぶつくさいうが、面と向って文句のいえる者はなかった。人夫たちは、苦しまぎれに、苦肉の策を思いついた。ほかの者がした|くそ《ヽヽ》の上にまたがって、一息入れるのである。竹べらで、他人の古いくその皮をはがして、たったいま排泄《はいせつ》したばかりのように見せかけるのであった。  だが、その策も、二日とはせぬうちに見破られた。しまいには、くそあらため役までできた。源右衛門も何度か、くそあらため役をやらされた。それがもとで、村人たちの怨みを買ったこともある。 「でも、それも昔ばなしになりました」  鬼の総馬は、いまは神様|並《なみ》であった。  千間土居は、完成して数年後、わずかにけずられたことがある。それを総馬が徹底的に補強した。以後、どんな大雨にも、一度もくずれたことはなかった。土居を水が越すほどになってもびくともしない。そのかわり、久留米領の土居がしばしば切れた。いままでの逆であった。 「田尻さま」  源右衛門に呼びかけられたが、藤蔵はこんども返事をしなかった。相変わらず一心に川面に見入っていた。  藤蔵はあることに気がついた。うねりのたうっているにごった川水が、よく気づけて見ていると、荒れ狂っているようでいて、その実、規則正しくといってもよい、一つの同じ動きをくりかえしているのである。     二  不思議だった。このあたりでは、川は柳川領の方へ入りこんでいる。水にけずられるのは、当然くぼんだ柳川領の方でなければならない。それが逆なのだ。にごった土色の水は強い勢いで、久留米領柳瀬村の土居をめざしてうねっていた。 「お気づきなさいましたか」  源右衛門が、藤蔵の顔をのぞきこんだ。隠しばねがあるのだと彼はいった。総助と総馬が知恵をしぼったものだった。 「村人は総馬ばねとも呼んでおります」  自分が考案でもしたかのような、得意げな口ぶりである。 「川底に仕掛けがあるのか」 「さあ、仕掛けといえますかどうか……」  源右衛門はあいまいに笑った。隠そうとしているのではなく、彼自身にも、はっきりしたことがわからないらしい。水が引いたあとでも、どこが隠しばねなのか、目でたしかめようがないと源右衛門はいった。  上流にもはねがある。これは別に隠してはなく、ふだんも表面に形があらわれている。左岸から、流れの中へ突き出た、石積みの短い突堤《とつてい》である。突端《とつたん》というべきかもしれない。はねは刎《は》ねと書く。つまり、水をはね返し、流れを変える仕組であった。  はねは、形も違えば、突き出た角度もそれぞれ違っている。それがたがいに働き合って、柳川領の土居にあたる水の力をそらすわけであった。隠しばねも、りくつはそれと同じであろうが、目で見てもさっぱりわかりませぬと、源右衛門はかさねていった。  藤蔵は青くなっていた。その青さの意味を源右衛門は知らない。藤蔵の目は、柳瀬村の土居に向けられた。降りしきる雨にけむってよく見えないが、土居の上は、人びとが右往左往しているらしく、すさまじい濁流の音と雨の音のあいだを縫《ぬ》って、呼びかわす声がちぎれちぎれに渡ってくる。  田植えがやっと終わったばかりだった。いま土居が切れたら、青田は一瞬にして土砂に埋まってしまう。人びとは、土や石をつめた俵を、必死で土居に積み上げているのに違いなかった。  一方、こっちの岸には、藤蔵たちをのぞけば、人影一つなかった。だれもが、一度もくずれたことのない千間土居の堅固《けんご》さに、安心しきっているせいであった。  一つ屋根の下に起居しているくせに、総馬はめったに自分のことを語らない。総馬のことは、たいてい人が語ってくれた。  総馬は、千間土居を築く前には、雨のたびに、水かさのました矢部川の激流を、命がけで桶《おけ》に乗って流れくだり、水勢の強さ弱さや水流の変化を見きわめたのだという。いま、源右衛門もそのことにふれた。 「それだけではございません。総馬さまは、こどものころも雨が降ると、庭に川を作って遊ばれたそうでございます」  三つ子の魂百まで、総馬さまは、こどものころの遊びさえ、むだにはなさらず、後の土居づくりにお役立てなさいましたと、まじめくさって源右衛門はいった。 「たわけ。そんなことまで本気で信じているのか。つくりごとだ。父をたたえるために、だれかがいい出したつくりごとにきまっているわ。庭に作った、ままごと遊びの川でなにがわかる」  藤蔵はふきげんに吐《は》き捨てた。源右衛門は黙ってしまった。  水はさらにまして、土居を越しはじめた。土居を越えても心配はいらない。土居の外には、遊水路がもうけてあった。  藤蔵は水びたしの土居の上を、川下の方へ歩いていった。その足が急にとまった。妙なものが目についたのだ。  一人の男が立っている。下帯一つのはだかであった。からだには丈夫そうな綱をまきつけ、その綱のはしは、土居の樟の一つにしばってあった。濁流にさらわれぬための用心らしい。それとは別に、向う岸まで、もう一本の綱が張り渡してあった。  男は、流れの中に身を沈めては、また浮かびあがる作業をくりかえした。そして、ときどき小首をかしげる。 「ここにも隠しばねがある」  藤蔵はすぐ気づいた。水の流れようが、さっきの場所とよく似ていた。すると、この男は——と思ったとき、男はまた水の中にもぐったが、しばらくして、ふたたび岸にはいあがった。ぬれた髪が乱れて、顔や首すじにまといつき、唇は血の色がなかった。  藤蔵の顔が急に引きしまった。  男の額《ひたい》には、はっきりと面ずれがあった。 「侍か……」  はっとしたとき、 「田尻さま、こやつ、村の者ではございません」  源右衛門がけたたましい声を立てた。 「田尻だと」  男はすっくと突っ立った。からだには、綱をつけたままである。 「田尻とは田尻総馬か」  鋭い声が男の口から飛んだ。 「違う。総馬の嫡男藤蔵だ」  笠をあげて顔を見せた。 「貴様、隠しばねの秘密をさぐろうとしたのだな」  藤蔵の後ろから、源右衛門が息まいて叫んだ。それには答えず、男は綱を結んだ樟のところまでもどった。三十年前に植えられたものだが、樟は成長がおそいので、そんなに大きくはない。その一本の枝に、脇差がなわでつるしてある。  男は脇差をぬいて、手早くからだをしばった綱の一ところを切り、低い姿勢で半身にかまえた。 「人を呼んでまいります」  とめる間もなく、源右衛門はしぶきをあげて走り去った。 「おい、いまのうちに逃げろ」 「いらぬ情けじゃ」  男は間合《まあい》をつめた。藤蔵よりも、二つ三つ若い。二十二か三であろう。眉《まゆ》が濃く、切れ長の目をしていた。 「おぬし、久留米藩の者か」  男は答えない。 「村の者がくればうるさい。逃げろ」  藤蔵はまたうながした。うながしながらも相手にそなえて、みのをぬぎ笠を捨て、刀の柄袋《つかぶくろ》をはずした。  男の目がきらっと光った。 「敵《かたき》の片割れの情けは受けぬ」  たたきつけるような声だった。 「敵の片割れだと……」 「兄は、田尻総馬のために死んだ。兄だけではない。父もだ」 「なにっ」  初めて聞くことだった。 「待て。話を聞かせてくれ」  返事のかわりに、からだごと脇差がせまった。危く藤蔵はかわした。相手は、なおも無二無三にかかってくる。やむをえず、藤蔵も刀をぬいた。 「おぬし、名はなんという」  それにも答えはなかった。藤蔵はつづけていった。 「答えたくなければ、答えなくてもいい。ただ聞くだけ聞いてくれ。五日後、おれはまたここへくる。そのとき、おぬしもきてくれ。向う岸でよい。おれの方から川を渡って会いにいく。きたくなければそれでもよい。しかし、おれはかならずここへくる」  相手のからだから殺気が去った。そこへ、源右衛門たちの声が近づいた。七、八人くるらしい。 「逃げろ」  藤蔵があごをしゃくると、こんどは素直に応じ、男は脇差を鞘《さや》におさめて下帯にはさめた。そして、くるっとうしろにまわすと、向う岸まで張り渡した綱をつかんだ。 「おれは三枝《さいぐさ》右近」  短い声を残して、男は綱を頼りに濁流を渡りはじめた。右近のからだは、綱ごと、波に盛り上げられたり、見えなくなったりした。源右衛門たちがかけつけたとき、右近はすでに川のなかばに達していた。一度、ちらっと振り返った。 「綱をお切りなさいまし」  叫んでから、源右衛門はぎくっとして声をのんだ。みのも笠も捨てた藤蔵は、頭からぬれそぼちながら、刀をさげたまま、血ばしった目をこっちへ向けていた。  その夜、柳瀬村の土居は切れた。     三  降りしきる雨の中を、藤蔵が、笠をかぶりみのを着て、わざわざ千間土居へ出かけたと知って、総馬はうれしかった。  藤蔵には弟がいた。名を総右衛門という。兄とは二つ違いでことし二十三であった。その総右衛門が、 「兄者《あにじや》には、父上のなされたことが、まだよくわかってはいないようです」  と総馬にいった。 「どういう意味だ」 「おたずねまでもありません。父上のなされたお仕事のたしかさが十分わかっておれば、どんなに雨が降ろうと、千間土居をあやぶむことはございますまい」  そのとおりではある。が、それでも総馬はうれしかった。総馬のしてきたことに、これまでほとんど関心を寄せたことのない藤蔵が、気まぐれにもせよ、わざわざ千間土居まで出かける気になってくれたのが、無性《むしよう》にうれしかったのだ。  総馬は、水利土木の事業に従事して、もう三十年以上になる。いや、考えようでは四十年近いといってもよい。はじめて大きな工事に取り組んだのは、むろん千間土居だが、父の総助についてまわったのは、十一、二歳のころからであった。十五、六のころは、土居の築き方もひととおりは覚えてしまい、千間土居の工事のときは、すでにひとかどの技術者だった。総馬の着想の絶妙さに、父の総助でさえしばしば舌を巻いたものである。 「総馬が奉行でわしが手伝い役じゃ」  目をほそめてそういったこともある。  元禄十三年、総助は江戸で死んだが、息を引き取るまぎわに、 「総馬がいるから大丈夫じゃ」  といった。総馬は二十四であった。  父総助の死後は、父にかわって、総馬が自在に腕をふるった。磯鳥や高碇《たかいかり》に井堰《いせき》をもうけたのも総馬であった。正徳三年には、つなみで決潰《けつかい》した新開(干拓地)の海岸堤防六十余ヵ所を修復した。  享保二年には、蒲池山のふもとに、東西二百六十間、南北百間の広いため池を造った。大根川を改修して、飯江川に水をそそぐようにしたのも総馬であった。五年前の享保五年には、三潴《みずま》新開の功によって百石の加増《かぞう》を受けた。そして、ことし四十九歳となった総馬は、先ごろ藤蔵に家督を譲った。  家督を譲りはしたものの、藤蔵には望みを托せず、 「水利の事業はわしで終わりじゃ」  総馬はなかばあきらめていた。藤蔵は、幼いころから、父の仕事にまったく関心をしめさなかった。総馬にとっては、不肖《ふしよう》の子であった。  父の総助がそうしたように、総馬も、藤蔵が十一、二になると、かならず普請場へともなったのだが、藤蔵は一向に父の仕事を覚えようとはしなかった。きらっているというよりも、素質がないといったがよい。総右衛門がまだしもましであった。  といって、長男の藤蔵をさしおいて、次男の総右衛門に相続《そうぞく》させるわけにもいかなかった。あきらめかけていたその藤蔵が、おそまきながら、父の仕事に関心を持ちはじめたのである。ときには、 「千間土居の図面を見せてください」  ということもあった。うれしくないわけがなかった。  ばかの一念ということがある。一つのことに専念すれば、ばかでさえ、ひととおりのことはやってのける。まして藤蔵は、ばかではなかった。いや、ばかどころか、幼いころから学問好きであった。ひいきめでなしに、相当の学殖《がくしよく》がある。その学殖が、水利について役立たぬはずはない。総馬はそう思った。  藤蔵が千間土居からもどってきたのは、もう暗くなってからであった。すぐに、総右衛門が聞いた。 「どうだ兄者。これしきの雨で、千間土居はびくともすまい」 「うん」  気のなさそうな返事だった。気のない返事ではなかったことが、あとでわかった。藤蔵は父にこう聞いたのである。 「父上、千間土居の向う岸に、同じ強さの土居を築けば、こっちはどうなります。くずれますか」 「それを知ってどうする」 「どうするわけでもありません。ただ、理として知っておきたいのです」 「くずれんだろうな」  横から総右衛門がいった。 「どうして」 「りくつはない。ただそう思うだけだ」 「父上はどうお考えです」  総馬は、 「さあ……」  と、ことばをにごした。藤蔵の気持を、はかりかねているふしがあった。藤蔵は質問を変えた。 「父上なら、千間土居の向う岸に、くずれぬ土居を築くことがおできですか」  ひどくきまじめな表情だった。 「どうでございます」 「わしならばできる」  総馬ははっきりいった。     四  藤蔵のことばの裏にあるものが、総馬に読み取れたのは、五日後のことであった。その日藤蔵は、非番だったのを幸いに、ふたたび千間土居まで出かけ、日が暮れてからもどってきた。  夜になって父の部屋にいった。 「折入ってお話があります」  藤蔵は、青い顔をしていた。千間土居で、なにかあったな。総馬にはぴんときた。 「さがりましょうか」  先に父の部屋にきていた総右衛門が、父と兄の顔を、かわるがわる見た。 「いや、かまわぬ」  藤蔵にいわれて、総右衛門は、すこしさがって部屋に残った。藤蔵はいった。 「父上、わたくしは今日、川向うの柳瀬村の土居を見てまいりました」  土居はあとかたもなく、矢部川|沿《ぞ》いにある何十町という青田が、無残《むざん》な川原と変わり果てていた。柳瀬村だけではない。西どなりの矢原村もそうであった。  源右衛門の話によると、藤蔵が、三枝右近と会ったあの日の夜、土居が切れたのだという。藤蔵は、右近のことは、まだ父の耳に入れていない。 「人も、何人も水にのまれたそうでございます」  おだやかにいったつもりだが、知らず知らず問いつめる口調になっていたらしい。 「わしを責めるのか」  総馬は藤蔵を見返した。 「いいえ、責めているのではございません。ただ、おうかがいしたいのです。久留米領のこと、どう思っておいでかを」  強い目であった。横から、総右衛門が身を乗り出した。 「兄者、それで父上を責めてはおらんというのか。げんに責めているではないか」 「おまえは黙っていろ」 「いいや、いわせてもらう」 「総右衛門、ひかえい。藤蔵は、すでにこの家の当主だぞ」  父の総馬がたしなめた。 「しかし」 「ひかえいというておる」  総右衛門は口をつぐんだ。そのとき、母のよねが、次の間のふすまぎわにすわった。気がついたのは総馬だけであった。 「父上、あらためておうかがいいたします。千間土居の隠しばねのことで、父上は胸をお痛めになったことはございませんか」  よねが、息をつめて藤蔵の背に目をやり、ついで、夫の顔を見た。総馬は無言のままである。兄を見る、総右衛門の目がけわしくなってきた。 「どうなのでございます」 「藤蔵どの……」  遠慮がちに、よねが声をかけた。母であっても、当主の藤蔵には、頭ごなしのいい方は許されない。 「母上は、いましばらく、黙っていてくださいまし」  母に背を向けたまま藤蔵がいった。総馬がひとりごとのように答えた。 「胸を痛めたことが、一度もなかったといえば嘘になろう」 「ただそれだけでございますか」 「どうせよというのだ、わしに……」 「父上は、父上のお仕事について、これまでわたくしが、まったく無関心だったとお思いのようですが……」 「そうではなかったというのだな」  藤蔵はうなずいた。もっとも、関心があったとはいっても、総馬が手がけてきた数々の水利土木の事業そのものについてではない。考えたのはその裏面であった。  千間土居ができてから今日まで、三十年のあいだに、久留米藩では、普請役をつとめた藩士が何人も腹を切っていた。藩庁の記録ではすべて病死として処置されている。藤蔵はそれをいった。 「知っておる」  率直に総馬はみとめた。夫に軽く会釈《えしやく》してから、よねが藤蔵のそばに寄った。 「藤蔵どの、九品《くぼん》寺にいってごらんなさい。そのかたがたのご位牌《いはい》が預けてあります。父上みずからお刻《きざ》みになったご位牌が」  九品寺には、田尻家の墓があった。 「位牌のことは存じております」  住職から一度聞いた。手にとって見たこともある。位牌の文字もたしかに父の筆跡であった。 「しかし、位牌を刻めば、それですむというものではありますまい」  それを聞いて、総右衛門がつめ寄った。 「兄者、ことばが過ぎるぞ。それが父上に対していうことか」  血相が変わっていた。 「まず先まで聞け。——父上、父上もご存じのごとく、久留米藩の百姓たちは、わが柳川領の百姓に倍する年貢《ねんぐ》を納めております。わけても矢部川沿いの者は、苛酷《かこく》な労役にかり出され……」  いうまでもなく、矢部川の氾濫《はんらん》による米の不作と、二、三年おき、はなはだしいときは毎年のようにくりかえされる土居づくりが、苦難の大きな原因であった。久留米藩の領内には、いま一つ、九州一の大河である筑後川が流れているが、筑後川の治水は早くから行き届いて、沃野《よくや》をうるおす母の役を果たしている。矢部川は夜叉《やしや》であった。 「だから父上に、どうなされよと兄者はいうのだ」 「そこまでのさしずは、わたしにはできぬ。わたしはただ父上に、久留米領の百姓も、血の通《かよ》った人間だということをおわかりいただきたかった。それがわかっていただければ、柳川藩士としての制約のうちにも、なさるべきことはおのずと明らかなはず」 「わしになにができたというのだな」 「なそうにもできなかった。そうおっしゃるのでございますか」 「できることなら、わしとてそうしておる」 「嘘でございます。父上はあえて、みずからの良心に目をつぶられました。それがわたくしにはくやしいのでございます。鬼の総馬が、命をかけてかかれば、できないはずはございません」  藤蔵は身を乗り出して、右手を畳についた。ひざにおかれたその左手は、固いこぶしになっている。 「藤蔵どの……」 「母上も覚えておいででしょう。藤蔵が、まだ八つか九つのころ、六助という下男が父上に斬られました」  さっと、よねの顔色が変わった。 「幼かったわたくしは、長い間、六助が金を盗んだためとばかり思いこんでおりました。しかし、真実の理由は、そうではなかったのでございます」  藤蔵は左手の甲で額の汗をぬぐった。 「真相はどうだというのだ、兄者」 「六助は久留米藩の足軽だった」  よねはふるえ出した。違いますと、とっさに打ち消すゆとりがなかった。  六助はたしかに、久留米藩の足軽だった。もっとも、それがわかったのは後日のことである。 「藤蔵、だれに聞いた、六助のこと」  総馬の額にも汗がにじんでいた。藤蔵は気負っていった。 「三枝右近という男です。久留米藩士、三枝左近の弟でございます」  六助のこともだが、それ以上に藤蔵の心をとらえているのは、三枝左近のことだった。左近の名を耳にして、総馬の顔がすうっとかげった。     五  今日の午後、藤蔵は右近と会った。  空には梅雨《つゆ》明けの陽が照っていたが、矢部川の水はまだにごっていた。流れもかなり強い。水かさはへって、土居の斜面があらわれてはいるものの、それでも、背が立ちそうになかった。  藤蔵の立っているところから、すこし上手《かみて》の向う岸は、ぱっくりと土居が切れて、そこから水が流れ出ている。柳瀬村や矢原村の農民たちであろう。一かたまりの人夫が、くいを打ち、土のうを積んでいるのが見えた。仮土居を築いているのだ。その向うは、一面の青田が泥水をかぶって、もとのおもかげもない無残な姿をさらしていた。  藤蔵は、川下へ歩いていった。間もなく、右近と出会った場所についた。向う岸まで張り渡した綱が、もとのまま残っている。この前と比べると、水面がかなりさがっていた。 「綱づたいに渡るか……」  と思ったとき、向う岸に人があらわれた。右近である。 「きてくれたか……」  暖いものが胸に満ちてきた。藤蔵が綱に手をのばすと、右近があわてて手をふった。よせよせといっているらしい。つぎに右近は川下を指さした。川下にいけといっているようであった。川下に浅瀬があるのかもしれない。藤蔵が歩き出すのと、右近が衣服をぬぎ捨てるのが同時だった。  途中で藤蔵が立ちどまったとき、右近はにごった流れの中ほどにいた。押し流されながら、こっちの岸へ泳いでくる。川下を指さしたわけがやっと読めた。  ようやく泳ぎついた右近は、土居の斜面をはいあがってきた。下帯一つである。藤蔵が手ぬぐいをさし出すと、右近は、いらんと手で答えた。陽ざしが強いので、右近のからだはほとんどかわいていた。水がにごっていたせいだろう。右近のからだには色がついている。 「おれの方から渡る約束だったぞ」 「土居が切れて、柳瀬村のやつら、気が立っている」  右近はそういった。 「おぬしは、おれと会うのを見られてもいいのか」 「やつら、おれには手を出さん」  その意味は、あとでわかった。 「しかし、よくきてくれたな」 「初めはくる気はなかった」  川を渡る途中まではだと、右近はいいそえた。 「だが、川のまんなかで気がかわった」  五日前のことを藤蔵は思い出した。濁流にもまれて、綱ごと、ゆり上げられたり沈んだりしながら、向う岸へ渡る途中、一度、右近はちらっとこっちをふり返った。 「あのとき、おぬしが、綱を切るのではないかと、おれは一瞬疑った。が、おぬしは切らなかった。おれは恥じた」  それで会ってみる気になったのだと、右近はいった。 「待て、五分五分になろう」  藤蔵は、かたびらも下着も袴《はかま》もぬいで、右近と同じ下帯一つになった。 「おぬし、ほんとうに田尻総馬の子か」  右近の目がうるんだ。 「間違いない。正真正銘田尻総馬の嫡男、藤蔵だ」 「おぬしが、田尻総馬の子だと……。鬼の総馬のせがれだと……」  右近の顔が急にゆがんだ。唇が、かすかにふるえた。むせびあげるような右近の声には、怨みともなげきともつかぬ、深い思いがこもっていた。  右近には十四違いの兄があった。名を左近といった。年がそんなに違ったのは、あいだに何人も姉がいたからである。  兄弟の父は三枝多聞《さいぐさたもん》といい、筑後久留米二十一万石の有馬家に仕《つか》えて、普請奉行として名を知られていた。筑後川の治水には、隠れた功績があった。  矢部川沿いの、馬場村、宮野村、柳瀬村、矢原村の一帯に土居を築いたのも三枝多聞であった。多聞の築いた土居は、どんな大雨にも耐えた。柳川領の土居は何度となくくずれたが、久留米領の土居は、びくともしなかった。  ところが、元禄八年に千間土居がきずかれた。多聞は気にもとめず笑っていたが、あくる年の梅雨どき、多聞の築いた土居が一たまりもなくくずれてしまった。築き直しても、築き直しても、土居はくずれた。一度、無事に梅雨どきを切りぬけても、つぎの年の梅雨は越せなかった。  多聞は、全智全能をしぼって、また新しい土居を築いた。 「こんどこそ」  十分な成算があった。その年は、千間土居の一部がえぐられた。 「勝った」  多聞は眉をひらいた。しかし、その喜びも長くはつづかなかった。田尻総馬が、千間土居を修築すると、翌年には、多聞の土居はまた水にのまれたのである。手のほどこしようがなかった。  以来、千間土居は、二度とゆらいだことはない。  多聞は病《や》んだ。多聞にかわった者も、失敗をくり返すばかりだった。責めをとって切腹した者も、一人や二人ではない。  千間土居は魔の壁であった。  残された手段はただ一つ、千間土居の秘密をさぐる以外になかった。はねのりくつはよくわかった。多聞の築いた土居にも、はねは各所に取り入れてある。問題は隠しばねである。なんとしてもわからないのだ。目に見える機械的な仕掛けならば、その秘密をさぐるのは、さほどむずかしくはない。千間土居の隠しばねは、目に見える仕掛けではなかった。いわば力学の応用である。  多聞はついに非常手段をとった。千間土居の絵図面を盗むほかはないと、藩の家老に申し出て、足軽の名取《なとり》三次郎を、田尻総馬の屋敷に奉公させることに成功した。それが下男の六助だった。     六  二年半の歳月が流れた。自分の命をきざむような思いで、多聞は名取三次郎の帰りを待った。その間にも、柳瀬村の土居は二度|決潰《けつかい》し、工事責任者が腹を切った。 「わしは、腹を切らぬぞ……」  多聞はそれを聞くたびに唇をかんだ。家中の者の中には、 「三枝どのは、腹の切りようもご存じない」  などとそしっている者もある。 「いまに見ろ」  多聞は屈辱に耐《た》えた。だが、運命は多聞に苛酷であった。頼みの下男六助——多聞に秘命をさずけられた足軽名取三次郎は、正体を見破られて田尻総馬に斬られた。宝永六年秋であった。  三次郎の死が、多聞の耳にはいったのは、死後半月以上もたってからだった。 「三次郎が死んだと……」  ふだんは、寝返りもうてないほど病みおとろえた多聞が、ふとんをはねのけて起きあがると、よろよろと縁がわへ出ていった。とめようとして、左近も右近も突きとばされた。  多聞は、柱にすがって縁に突っ立ち、荒い息をしながら、かっとみひらいた目で宙をにらんだ。  空は折からの夕焼けで、多聞の顔が赤く染まった。 「左近、土居をきずけ。土居を……」  それが最後のことばだった。柱にすがったまま、多聞は絶命した。老いた赤鬼のようであった。 「兄者は二十一、おれは七つだった」  そこまで語って、右近は深く息をついた。が、すぐまた先をつづけた。 「おれの兄が、柳瀬村の土居普請を命ぜられたのは、それから七年後だ」  左近は二十八であった。多聞の死後、左近は、普請奉行の下役として、いくつかの工事を手がけてはいたが、責任者として土居築造にあたるのははじめてであった。  右近はいった。 「兄はとほうもないことを考えついた。せいいっぱいの知恵だった。兄は、まっすぐな男だった。誠実をもってことにあたれば、人は誠実でこたえてくれる。子供のようにそう信じていた」  兄はどうしたと思う——と、右近は藤蔵にいった。藤蔵には、見当がつかなかった。とほうもないこと、とほうもないこと。藤蔵はつぶやいた。 「そうだ。とほうもないことだ。ほかの者なら、考えつきもしないことだ」  泣き笑いに似た右近の表情だった。そのときの右近の表情を、藤蔵はいま、まぶたに描いていた。 「父上はそれをご存じのはずです」  総馬は軽くうなずいた。 「いかにも、三枝左近という男、とほうもないことをした」  いまさら隠しても仕方がなかった。  三枝左近は、こともあろうに、矢部川の治水をめぐって常に反目《はんもく》してきた柳川藩の、田尻総馬をたずねたのである。いまから九年前の享保元年夏の終わりであった。  日が落ちて間もないころ、総馬が書きものをしていると、若党が来客を知らせた。 「久留米の有馬家のご家中、三枝左近と申される方でございます」  とっさに、聞き違いかと思った。久留米藩士がたずねてくるわけはない。 「刺客《しきやく》か……」  一瞬、そう思った。怨みを買っているのはとっくに承知していた。しかし、総馬はすぐに苦笑した。自分の命をねらう者が、わざわざ久留米藩士などと名乗るわけがないと気づいたからである。  総馬は玄関に出ていった。そこには、年のころ二十七、八の、いかにもきまじめそうな武士が立っていた。総馬は、ゆっくり会ってみる気になった。 「おあがりください」 「ありがとうございます」  まるで子供のような、無垢《むく》な喜びをみなぎらせて、左近は深く頭をさげた。座敷に通された左近は、ややかたくなって、 「久留米藩士三枝左近にございます」  あらためて名乗り直すと、 「実はわたくし、恥を忍んでお頼みにあがりました。どんな雨にもくずれぬ、土居づくりの秘法の一端、おさずけいただきとうございます」  ひたむきなまなざしで両手をついた。総馬はしばらく返事ができなかった。あっけにとられた。 「おてまえ、三枝多聞どののご子息かな」  やっとそれだけいった。  左近はうなずき、 「わたくし、このたび、柳瀬村の土居づくりの奉行を仰せつかりました」  率直に、父の多聞の最期のこと、足軽名取三次郎のことにもふれた。 「なにとぞ、お願いにございます」  けれんのない人がらには、たしかに好感が持てたが、ことはあまりにも重大である。おいそれと承諾できるわけがない。 「せっかくだが、お断わりいたす。田尻総馬は柳川藩士、久留米藩の禄をはんではおり申さぬ」  ことさら、切り口上《こうじよう》で答えた。 「それはわかっております。そこをまげて、お聞き届け願いとうございます」 「失礼だがお若いな。考えが甘すぎる」  ずけずけと総馬はいった。さすがに左近はひるんだ。うなだれる左近に、総馬はたたみかけた。 「恥とは思われぬか。いやいや、恥を忍んでと申されたな。が、やめたがよい。第一、なきお父上がなげかれよう」  左近は顔を上げた。 「おことばではございますが、わたくしは、父のために土居は築きません。ただただ、重い年貢にあえぎ、矢部川の気ちがい水に泣かされる、領内の百姓の難儀を救うてやりたいのでございます。どんな大雨にも、みじんもゆるがぬ、堅固な土居を築いてやりたいのでございます」  目には、涙さえにじんでいた。その涙を見ても、総馬は動かない。きわめて冷酷にいってのけた。 「ご自分でくふうなされい。でなければ、命のこもった土居はできぬ」 「ごもっともでございます。しかし……」  左近はなおもくいさがった。自分は、工事を仕損じて、腹を切るのがおそろしいのではない。真実領内の農民を、苦境から救ってやりたい一心で、こうして頼みにきた。くりかえし強調した。  それは信じてよさそうであった。かけ引きなどできる人物ではない。誠心誠意ぶっつかってきたことは総馬にも読み取れた。思いきった冒険であった。柳川藩の田尻総馬に助けを求めたなどということが、同藩の者にわかれば、たちまち窮地に立たされよう。それを承知でこの男は……。  が、やはり総馬は突っぱねた。 「くどうござる。なんと申されても、お教えするわけにはまいらぬ。千間土居ができるまでは、柳川領の者が毎年泣かされておった。毎年な」  こうまでいわれては、引きさがるほかはなかった。 「あまりむごうございます。せめて一言の助言なりと……」  すごすごと左近が去ったあと、よねは夫を責めた。総馬はついに動かなかった。     七 「おれはそんなことがあったのを、はじめは知らなかった」  はだかとはだかで肩をならべて、右近は藤蔵にいった。右近の顔は、いくぶんけわしくなっていた。  侍二人がはだかでいるのを見て、けげんな顔をして、土居の上を人が通り過ぎた。 「おれは十四だった」  気にもとめず、右近は先をつづけた。  兄の左近には許嫁《いいなずけ》があった。同藩の檜垣《ひがき》六郎兵衛の娘で、名をしのぶといい、年は十九であった。藩庁の許しも出て、祝言《しゆうげん》をあげるばかりになっていたが、柳瀬村の土居築造を命ぜられた左近は、 「来年の秋まで待っていただきたい」  と申し出た。六郎兵衛もしのぶも、すぐに納得《なつとく》した。左近の決意が読み取れたからである。  秋の終わりから冬にかけての、水涸《みずが》れどきに、土居の工事ははじまった。左近は、現場の仮小屋に寝泊りして工事を指揮し、ときには、みずからくいを打ち石を運んだ。その誠実さにうたれて、人びとは黙々と働いた。彼らは、左近の父多聞のことも、決して忘れてはいない。 「先代さまのためにも」  それが合いことばだった。  三月なかば、土居は完成した。四月の初めに長雨が降った。しとしとと降りつづける卯《う》の花くたしであった。  新しい土居は雨に耐えた。 「こんどは大丈夫じゃ」  村人は喜びの声をあげた。 「もう秋まで待つことはあるまい。早速にも祝言を」  待ちかねた檜垣六郎兵衛から、そういう申し入れがあったが、 「いいえ、やはり秋まで待っていただきとう存じます」  左近は慎重だった。五月の梅雨どきを乗り切るまでは、とても祝言をあげる気にはなれなかった。  やがて五月がおとずれた。  土居は無事だった。雨七日、風七日、晴《ひ》七日、二十一日が過ぎた。あとは、梅雨明けを待つばかりだった。  梅雨明けの前には、ほとんど例外なく、雷鳴をともなった豪雨がくる。肥前や筑後でははげ雨と呼んだ。  その梅雨明け直前の集中豪雨を、左近のきずいた土居は、無念にもささえることができなかった。 「すまぬ。許してくれ。おまえたちの血と汗をむだにしてしもうた……」  左近は、泥水の中にすわりこんで唇をかんだ。そこでもここでも、村人たちの泣き声がほとばしった。  右近が、兄の左近に呼ばれたのは、その三日後である。  右近は十五になっていた。 「おれは去年の夏、柳川にいって、田尻総馬に会うた」  そのときのことを、左近は弟に語った。 「おれをばかと思うか。気ちがいと思うか。どうなんだ、右近」  右近ははげしく首をふった。本気だった。打ちのめされている兄への、いたわりなどではない。ほかの者がそれをしたのなら、たしかに気ちがい沙汰《ざた》であろう。兄にとっては、当然のことだった。 「でも、ほかの者には、おっしゃってはなりません」 「わかっている」  二十九になる兄と、十五の弟は、抱き合って泣いた。ふと気がつくと、仏壇の父の位牌の前におかれた線香の煙りが、静かにゆらいでいた。  右近は急に不安になった。 「兄上……」 「ばか、心配するな」  弟の思いをすぐ悟って、左近はにっこりと笑った。 「そのときの笑いが、いまでも、まだ目に残っている」  右近はそういって、となりに腰をおろしている藤蔵を見た。藤蔵の目には、親身《しんみ》な思いが宿っていた。右近の胸が、不意に焼けつくように熱くなった。その手が、藤蔵の肩にかかった。 「おぬし、ほんとうに田尻総馬の子か」  さっきと同じことをいった。 「ほんとうだ。おれは、まぎれもなく、田尻総馬の嫡男藤蔵だ」 「おぬしが、田尻総馬の子だと……。鬼の総馬のせがれだと……」  右近の目から、大粒の涙がしたたった。 「なんでだ。なんでおぬしのおやじは、おぬしに似なかったのだ……」  右近は、りくつに合わぬことをいった。藤蔵にもその気持がわかった。 「そうだ。おやじは、おれに似てくれたらよかったのだ……」  心の中でつぶやきながら、藤蔵は右近にたずねた。 「それで兄者は……」 「腹を切った」  ずばっと切りつけるようにいい、右近は土居の上へあがっていった。 「ここでだ。ここで兄は腹を切った」  千間土居で左近は腹を切った。はらわたがはみ出るほど、ふかぶかと切った無念腹であった。土居が切れたのが無念なのではない。藩が違うというだけで、人の真実が相手の心に通じない。それがくやしかった。そんな兄の思いがわかるのは、右近だけであった。  左近の死は、藩庁の情けで病死という扱いにされ、あとは右近が継いだ。 「あれを見てくれ」  右近は向う岸を指さした。一基の地蔵が立っている。 「村人がたてたのか」 「姉上だ。村人がたてたのは、別のところにある」 「姉上……」  ああと、藤蔵はうなずいた。右近がいったのは、しのぶのことだった。祝言はあげぬままだったが、右近はいまでも、しのぶを姉と思っていた。藤蔵は、土居の上にあがっていき、右近の前に立った。 「千間土居の図面、おれがうつしてやる」  右近は一瞬、ぽかんとなった。藤蔵のことばの意味が、すとっと胸に落ちてきたのは、しばらくしてからだった。 「そのことばだけで十分だ」  そして、右近はいい足した。 「おぬし、おれの兄といい勝負だな……」     八 「向う岸の地蔵のことは知っている」  総馬は答えた。よねも総右衛門も息をつめている。藤蔵は父にいった。 「しのぶどののことも、右近からひととおり聞きました」  総馬もむろん知っている。左近が無念腹を切った年の秋のある日、総馬は千間土居を見まわった。その途中、土居の樟の根方の下草に、苦しそうに突っ伏せている若い娘があった。 「いかがした」  抱き起こそうとしたとき、その娘はいきなり総馬におどりかかった。 「夫の敵《かたき》、夫の敵」  懐剣《かいけん》をかざしてからだごと、無二無三に突いてくる。しかし、しょせんかなうわけがなかった。懐剣が宙に飛び、秋の陽をはじいて、矢部川の流れへ落ちていった。娘は、くずれるようにすわりこんだ。 「怨みます。わたくし、あなたさまを怨みます。一生、いいえ、未来|永劫《えいごう》怨みぬいてやります。左近さまほどのお人を……」  左近の一周忌に、しのぶはのどを突いて果てた。 「父上、柳瀬村の土居は、ことしもくずれました」  藤蔵はひざを進めた。  夜はかなりふけている。さっきまでひどくむし暑かったのが、嘘のように涼しくなっていた。 「しかし、いずれはまた、工事がはじまりましょう」 「その方、なにがいいたいのだ」  おそれに似たものが、総馬のおもてに浮かんだ。藤蔵の目はきらきら光っている。 「わたくし、父上の土居づくりの秘法、右近に教えてやりとう存じます」 「なにをいう。ならぬ。さようなこと、絶対に許さぬ」 「まだそのようにかたくななことを」 「かたくなでよい。だれがなんといおうと、許すわけにはならぬ」 「向う岸に、どんな土居ができても、千間土居はくずれぬ。先夜、父上はそうおっしゃったはずでございます。藤蔵、一生一度のお願いにございます」  藤蔵は必死だった。 「くどいわ。ならぬ」  総右衛門が、藤蔵の前にきた。 「兄者、なんでそんなことを、いちいち父上に申し上げるのだ」 「なに……」 「兄者がこうと思ったのなら、なんで兄者一人の判断でやりぬこうとしないのだ。父上のお立場としては、うんとおっしゃれる道理がなかろう」 「違う。そうではない」  強く藤蔵はいった。たしかに総右衛門のいうとおり、自分一人の判断でやれはする。が、藤蔵はそうはしたくなかった。ぜひ、父の許しを得たかった。 「よかろう。思うとおりにやれ」  切に、そういってくれる父であってほしかった。藤蔵はそれをいった。 「兄者、それはむりだ。兄者の考えはおれにもわからぬではない。が、われわれには、藩というものがある」  藤蔵は、総右衛門のことばを聞き捨てた。 「父上、ほうっておけば、久留米藩では、まただれかが腹を切らねばなりません。いや、それよりも、領内の農民が、賽《さい》ノ河原のなげきをくり返すのでございます」  藤蔵は、父を責めに責めた。 「父上はそれでも人間でございますか」  とまでいった。  藩というものの存在はわかっていた。自分のいうことが、現実ばなれのした青くさい考えかもしれないことは、自分自身百も承知だった。それでもいわずにはおれないのだ。  総馬は黙っていた。石のように口をつぐんでいた。いつもの総馬なら、こんなときは、頭から、たわけ者とどなればすんだ。今度はなぜかそれができない。  藤蔵の若さが燃えあがった。 「なにが千間土居だ。なにが総馬ばねだ」  藤蔵は立ちあがって絶叫した。かならずしも、父一人にいったわけではない。父をしばっている、目に見えないものにたたきつけていた。 「無礼だぞ、兄者」  総右衛門が飛びかかり、はげしい組み打ちになった。折りかさなってごろごろところがり、ふすまや障子が倒れた。力は総右衛門の方が強い。藤蔵は組みしかれてしまった。 「兄者、父上にお詫《わ》びをいえ」  馬乗りになってぐいぐいとしめた。それでも藤蔵は叫んだ。 「なにが神様だ。なにが水利の神様だ」     九  千間土居には、白いものがちらちらしていた。土居の竹の葉に、うっすらと雪が積んでいる。樟も化粧を急いでいた。水涸《みずが》れで、低くなった矢部川の水面に、雪雲が影を落している。 「総馬さまではございませんか」  こっちに背を向けていた田尻総馬が、ゆっくりとふり返った。庄屋の源右衛門が、田尻さまではなく、総馬さまと呼ぶのは、本来ならば無礼である。が、総馬の方がそう呼ばせていた。身分こそ違え、二人はいわば、昔の苦労仲間だった。人のいやがるくそあらためまでした源右衛門なのである。 「おめずらしゅうございますな」 「久しぶりに、千間土居が見とうての」  総馬は、 「いい忘れた。わしはもう総馬ではない。隠居していまは自道と号しておる」  といった。 「では、藤蔵さまが、総馬の名もそのままお継ぎになったので」 「うん、一時はあれが継いだ。もっとも、わしは日ごろから呼びなれた、藤蔵、藤蔵で通したがの」  一時はということばに、源右衛門はとまどった。すぐ総馬がおぎなった。 「いまは、次男の総右衛門が総馬を名乗っておる」 「すると、藤蔵さまは……」 「先ごろお役御免になった」  総馬は川の方へ向き直った。 「遊蕩三昧《ゆうとうざんまい》にふけって、武士の風上《かざかみ》にもおきがたしという理由でな」  源右衛門には納得がいかなかった。藤蔵と会ったのは、七ヵ月ほど前である。そんなにおいなどどこにもなかった。うわさを聞いたこともない。総馬の幼いころの、水遊びの話をしたとき、 「たわけ」  と軽くいなした藤蔵の、さわやかな声がまだ耳に残っている。 「藩庁には、わしが報告した。親がいうことゆえ、間違いはない」  そのことばに、源右衛門は、きびしさよりもさびしさを感じた。  川向うでは、雪の中で土居づくりがつづけられていた。くいを打つ者、石を運ぶ者、寒さもいとわず立ち働く人びとの姿が、土居の斜面をおおった竹の葉末《はずえ》に見えがくれする。その中に、きびきびとさしずしている若侍の姿が見えた。藤蔵の話に聞いた、三枝右近に違いなかった。  川幅は、広いといっても三十一、二間、水はいまの季節なら、せいぜいひざまでであろう。渡るのは苦もない。が、総馬は、目に見えぬものに、背後からはがいじめにされていた。無限の川幅があった。  源右衛門がため息をついた。 「まだ賽ノ河原でございましょうな」  総馬は返事をしない。聞えないはずはなかった。 「若い者は、とほうもないことを考えおる。むきになりおる」  ひとりごとのように総馬はいった。源右衛門に、その意味がわかるはずもなかった。総馬は川下へ歩いていった。  ひとりでに足がとまっていた。  川向うに地蔵が見える。 「なにが総馬ばねだ。なにが神様だ」  若い、はげしい声がした。むろん、現実の声ではなかった。  藤蔵はいま、ほんとうに身を持ちくずしていた。その真の原因を人は知らない。 「親に似ぬ不肖の子」  口さがない柳川すずめは、そうさえずっているらしい。廃嫡《はいちやく》された藤蔵にかわって、田尻家の当主となった次男の総右衛門は、父からさずけられた田尻総馬の名の誇らしさに、生き生きとして日を送っていた。にわかに肩ひじはりだした総右衛門のことを思い出して、総馬は苦笑した。 「わしの方が、不肖の親かもしれぬ……」  いつの間にか、雪は、大きな牡丹《ぼたん》雪に変わっていた。花びらのような雪が、つぎつぎに矢部川の水に消えていった。あとからあとからと、水の中に吸いこまれていった。それが、総馬には、まるで藤蔵の叫びのように思われてならなかった。  向う岸の地蔵は、見ているうちに、まっ白な雪地蔵になった。 [#地付き](了)  [#改ページ]   上意討ち心得     一  いけなかった。すこし軽はずみにすぎた。もしかすれば主馬《しゆめ》さまは、浅香《あさか》大学のために逆にお討たれになるかもしれない。だとすればわたしは、兄と二人がかりで、あの方を死地に追いこんでしまったことになる。  小雪の胸はしきりに痛んだ。 「弱ったな、小雪」 「いいえ、わたしは主馬さまを信じます」  気づかう兄の弥三郎には、心にもとめていないかに、きっぱりいった小雪だが、心とことばはうらはらだった。  いやいや、主馬さまにかぎって、不覚をお取りになるはずはない。あの方はかならず大学を討ち果たし、上意討ちのお役目を首尾よくとげて、つつがなくこの和歌山の城下へもどっていらっしゃると、自分の胸にいい聞かせる一方から、まるで砂の山のようにそれはむなしくくずれて、暗く重苦しい不吉なものが、すぐまた小雪の胸をとざした。 「主馬の意地っぱりめ」  今日の夕方、兄の祇園《ぎおん》弥三郎は、ひどく腹を立てて下城してきた。が、本心は怒りよりも、むしろ主馬への気づかいでいっぱいだったようである。その証拠に、帰ってくるなり肩衣《かたぎぬ》もはずさず、部屋の中をぐるぐる歩きまわった。  浅香大学は、紀州和歌山五十五万五千石の家中でも、剣をとっては五本の指に折られる手だれだったが、狷介《けんかい》不屈なところがあり、一月《ひとつき》あまり前、わずかな意趣《いしゆ》から、大納言頼宣《だいなごんよりのぶ》お気に入りの近習《きんじゆう》を斬り捨て、城下を出奔《しゆつぽん》した。 「見つけしだい斬れ」  激怒した頼宣の命で、二名ずつ三組、都合六名の討手《うつて》がつぎつぎにあとを追ったが、そのうち四名までは、紀伊と大和の国境《くにざか》いであえなく返り討ちにされた。  選りすぐって討手を命ぜられたくらいだから、いずれも有数な使い手ぞろいであった。それが手もなく大学のために討たれてしまったのだ。このこと一つからも、浅香大学の非凡な腕が十分うかがわれた。  やがて、残る二名の討手の消息も絶えた。十五日たち、二十日たってもまだ帰ってこない。しだいに安否が気づかわれた。 「あの二人も討たれたのかもしれぬ」  そうした推測が決定的になりかけた。ところが、案じられたその二人が、 「浅香大学の行方が知れました」  と、昨日の夕刻、およそ一ヵ月ぶりにもどってきたのである。二人とも、げっそりとやつれきっていた。報告によれば、浅香大学はいま、本多|大内記《だいないき》の城下、大和|郡山《こおりやま》のとある町家にひそんでいるという。  郡山ならば、和歌山からは二日路、そんな目と鼻のところに、ゆうゆうとしているというのも、頭から討手をのんでかかっているせいに違いなかった。それに、頼宣に対する面あてのつもりもあろう。 「所在をつきとめながら、なぜおめおめと引き返してまいったのだ」  表情をけわしくする頼宣に、 「わたくしども両名、決して命を惜しんだわけではございませぬ。なれど郡山は本多大内記さまのご城下、そこつにかかって万が一にも、大学を討ちもらしては紀州家の恥と存じて、あえてもどってまいりました」  と二名の者は答えたが、さすがに申しわけなげに顔を伏せた。すっかりおじ気づいてしまっているのは明らかだった。  老臣たちは別室で評議をかさねた。 「鉄砲組の者をさし向けてはいかがであろうな」 「いや、たかだか一人を討つのに、さようなことをするわけにもいくまい」 「では、いっそ本多家に、大学の召捕《めしと》り方をご依頼あっては」  それならば一応の筋は通った。他領に逃げこんだ者を、みだりに捕えたり討ち果たしたりしては、後日物議をかもすおそれもある。だが、それも時と場合、こんどばかりは、大藩の面目にかけても、他家の力を借りるわけにはいかなかった。  といって、これという思案もない。相談がまとまらなかったことを知った頼宣は、一夜明けた今日、 「里見主馬に討手を申しつけよ」  と老臣に命じた。ためらう様子もない。 「里見主馬に……」  だれもがことの意外に顔を見合わせた。里見主馬は馬回り組にあって三百石、ことし二十八になる。頼宣に名を覚えられているとはいえ、上意討ちの討手にふさわしい男では決してなかった。さほど腕が立つとも聞いてはいない。しかし、ともかく殿の仰せと、主馬のもとへ使いが出された。 「謹んでお受けいたします」  いくほどもなく頼宣のご前《ぜん》にまかり出た主馬の顔は、やや青ざめて見えた。にこっとした頼宣は、 「介添《かいぞ》えには祇園弥三郎をつれていけ」  と命じた。人びとは、はじめて思いあたったようにうなずいた。祇園弥三郎は、大学にも劣らぬ抜群の使い手なのである。が、主馬はにべもなく拒絶してしまった。 「その儀はお断わりいたします」 「なに、断わる……。どうしてじゃ」 「無用にございますれば」 「ならぬ。主命じゃぞ」  頼宣はふきげんにいった。主馬はそれでもひるまず、 「おそれながら、介添えをつかわされるくらいならば、上意討ちは、他の者にお申しつけくださいませ」  と強くいいはる。たまりかねて、当の弥三郎がにじり出た。 「主馬、この弥三郎の介添えでは不足というのか」 「不足とはいうておらぬ。無用なのだ」  ぴしりときめつけた主馬は、 「殿、郡山は他領にございます。なにとぞご判物《はんもつ》を」  と頼宣を見上げた。  ご判物とは、書判《かきはん》——すなわち花押《かおう》のある文書である。不服そうにひかえている弥三郎を目で制した頼宣は、主馬の望むまま判物を与えたが、後刻あらためて弥三郎を呼び寄せた。眉がくもっていた。 「大事ないか、主馬一人で」 「あれほどきっぱりいいきったのは、覚えあってのことかと存じます」  そうは答えたものの、弥三郎もやはり心配だった。どう考えても浅香大学が、主馬一人の手に合うような、なまやさしい相手とは思われないのである。  ——主馬のばかめ、つまらぬ意地をはりおって。  これはひょっとすると、小雪を泣かせることになるかもしれぬ。下城の途中、足もとの定まらぬ思いであった。実をいえば、里見主馬に、上意討らのご下命があるようことを運んだのは、ほかならぬ祇園弥三郎みずからなのである。それも、だれでもない妹小雪のためであった。     二  学問に長じているのでもない。ぬきんでて武芸を身につけているのでもない。どちらかといえば里見主馬は、ごく平凡な目だたぬ男だった。男ぶりもよくはなく、あまり見ばえのしない、どこにもあるありふれた顔だちである。  だが小雪は、そんな主馬がなぜか好きだった。いつどこで、どうして好きになったかは自分でもよくわからない。  兄の弥三郎とずっと以前から親しかったので、ちょくちょく遊びにはきていたが、さして気にとめることもなかった。いや、それどころか、石ころのように無視することさえあった。それがいつの間にか、かけがえのない人になった。  不思議といえば不思議といえる。といって、全然思いあたりがないでもなかった。二、三年前のことだったと思う。遊びにきていた主馬に、兄の弥三郎が、ふっとこんなことをいい出した。 「おい、主馬。おぬし、小さいころは左ききだったそうだな」 「ああ、たしかにぎっちょだった。だれに聞いた、その話」 「おぬしの母上にだ。——おぬし、ほんとうにぎっちょだったのか」  弥三郎は念を押した。 「うん、箸《はし》も左手に持った。困った。母者にはひどくしかられたな。いつ、どうして、その悪いくせがおさまったかはよく覚えていない。いつの間にか直っていた」  そのときの主馬の顔は、なんだかたいそう子供っぽかった。小雪とは九つも年がひらいているのに、せいぜい二つ三つしか違っていないような気がした。小雪は軽い気持で、いまでも左手がうまく使えるかどうかをたずねてみた。  どうしてか、ひどく興味があった。 「さあ、どうだろうな」  主馬はしばらく思案する風だったが、急にいたずらっぽく笑って、 「弥三郎、おぬし母上にお願いして、晩めしをごちそうせんか」  といった。そして夕食のとき、 「だれにもないしょだぞ」  そう念を押して主馬は、器用に左手でめしをくって見せた。邪気のない、童《わら》べのような表情を見ているうちに、なんとなく胸がほのあたたかくなってきたのを、いまでも小雪は覚えている。思い出すとおかしかった。 「小雪、おまえは地味なたちだから、主馬となら似合いかもしれんな」  弥三郎にそういわれたのは、それから半月ばかりしてからだった。もしかすると、それが一つの暗示となって、小雪の胸の中に、微妙な感情を芽生えさせたものだろうか。  やがてそれは、目に見えぬところで強い慕情にまで高まり、小雪の思いは日ましに主馬に傾いた。小雪の心の揺れに、最初に気がついたのはやはり弥三郎であった。それとなく母ににおわせてみると、強くではないが、難色をしめされた。親類中のきけ者である伯父の菅井|主水《もんど》も、 「主馬ではな」  といい顔をしなかった。取り柄がなさすぎる。そういいたいらしかった。伯父のいうとおり、たしかに取り柄らしい取り柄はない。そのかわり、小雪になげきを見せるようなこともないはずだった。弥三郎は、なんとか二人をいっしょにしてやりたかった。  大納言頼宣のお声がかりという風に、ことを運べば一も二もないし、頼宣お気に入りの近習である弥三郎にとっては、さほどむずかしいことでもないが、できれば頼宣の手をわずらわせずすましたかった。 「なんとか主馬に一手がらを。さすれば、母上や伯父上にも否やはあるまい」  よい知恵はないかと、かねがね心をくだいているところへ、こんどの浅香大学の一件である。願ってもない好機だった。討手の者が四名までも返り討ちにあったと聞いて、弥三郎は人知れず頼宣に、 「なにとぞ里見主馬に」  と願い出たのである。介添えは、初めから自分が買って出るつもりであった。むろん頼宣に異存はなかった。弥三郎自身の口からでは、主馬に悟られる。だから、介添えには弥三郎をと、頼宣が命じたのだった。だが、それを知ってか知らずにか、 「介添え無用」  と主馬は拒絶してしまった。ふだんの主馬からは、想像もつかぬ態度だった。下城してきた弥三郎からそれを聞かされた小雪は、唇の色を失った。  主馬の心が読みとりかねた。 「わたくし、主馬さまに会ってきます」  大学に劣らぬ使い手の兄弥三郎が、介添えに立つとわかっていたからこそ、こんどのことに同意した小雪だった。  ——主馬のばかめ。  弥三郎は、小雪が出ていったあとも、部屋の中を落ちつきなく歩きまわった。     三  小雪が、うちのめされたように、沈みきってもどってきたのは、もう宵《よい》になってからであった。顔青ざめ、目にはうっすらと涙さえにじんでいた。 「どうした。主馬はすでに郡山へ発《た》ったあとだったのか」 「いいえ」  小雪は首をふって、唇をかんだ。主馬の母にしかられたのである。 「なに、主馬の母御にしかられたと……」  弥三郎はややけしきばんだ。 「あなたがたご兄妹は、侍の心得、ご存じでないと見えます。こうおっしゃいました」  小雪が主馬の屋敷へついたのは、日の暮れがたであった。案内を乞《こ》うと、主馬の老母のお勝がすぐ姿を見せた。すこし顔色が冴《さ》えなかったのは、やはりわが子の重大な使命を気づかってだったろうか。 「ご出立の前に、主馬さまにお目にかからせてくださいまし」  小雪が主馬を慕っていること、主馬もまた小雪を憎からず思っているらしいことを、お勝はうすうす察している。口には出さないが、お勝自身もそれを喜んでいる様子なのは、常日ごろ小雪にも読めていた。初めから、わが家の嫁ときめてかかっているような、暖かいいたわりが、お勝の立居振舞のはしばしにあった。だから、すぐ主馬に会わせてもらえるものと、小雪は疑っても見なかったが、 「それはなりませぬ」  お勝は静かに首を横にふった。といって、悪意からではなかったようである。大切な上意討ちの仰せをこうむって、郡山へ発とうとしているわが子主馬の心を、乱したくないという思いやりからに違いなかった。  小雪は黙って引きさがるべきであった。けれど、そうはできなかった。はっとしたときはもう、 「その上意討ちのお役目のことで、申し上げたいのでございます」  と口にしてしまっていた。主馬の身を案ずる一心からであった。このままでは、主馬は浅香大学に討たれる。とても黙って見ておれることではなかった。すがるような思いで小雪は、主馬に上意討ちのご下命があったいきさつを、お勝に語ってしまった。お勝の口から、いま一度、主馬を説き伏せてもらいたく、ただ夢中であった。 「では弥三郎どのが、そのようにはからわれたとおっしゃるのですね」  しまったと思ったがもうおそい。お勝の顔はたちまち一変していた。これまでに、小雪が一度も見たことのない、きびしくこわばった顔であった。 「いけなかったのでございましょうか」 「小雪どの。いいや、弥三郎どのも同じ、あなたがたご兄妹は、侍の心得、おわきまえでないと見えます」  突きはなすようにひややかなことばであった。 「どうしてでございましょう」 「弥三郎どのに、わたしのことばをお伝えになるとよい。それでもなおお気づきにならぬとすればよくよくのこと、わたしは、あなたがたの、なきお父上までさげすまねばならぬことになります」 「お願いいたします。どうか主馬さまに一目だけでも」 「いまさらむだというものです。主馬は侍の心得、承知しています。きっと見事に死んでくることでしょう」  とりつく島もない切口上で述べると、お勝は背を向けて奥へ去った。外にはもう夕闇が満ちていた。小雪は、里見家の塀の近くに、しばらく立って、支度を終えた主馬が出てくるのを待っていたが、やがて思い直し、重い足を引きずって帰ってきたのだった。 「うかつだった。主馬の母御の申されたこと、理がある」  弥三郎の顔には悔《く》いがあった。おれと主馬の仲だからと、軽く考えたのが不覚のもとである。 「上意討ちの仰せは、かるがるしくお受けしてはならぬ」  なき父に、何度となくいましめられたことだった。上意討ちの討手には、たいてい正副二名がえらばれるのがふつうだが、時としてはそれが悶着《もんちやく》の種にもなる。功名争いの結果を招くことが往々にしてあった。そのもつれから、討手同士の果たし合いとなったためしさえまれではない。 「それゆえ、上意討ちのご下命があった場合は、押しかえしても、かならず一人に仰せつけられるよう願うことだ。たっても両名にということであれば、あくまでご辞退申し上げるがよい」  そうすれば、討手はその方一人に申しつける、いま一人の者は、万一の場合にのみ助太刀するように。その場においての功名争いはかまえて無用とのご上意があろう。しかる後初めてお受けすべきものである。 「大事なことじゃ。よっく心得ておけ」  折にふれ、そういい聞かせられたものだった。その父のことばを、弥三郎はあらためてかみしめた。いずれにしても、おれと主馬の間がらだからと、軽く見ていたのがいけなかった。 「小雪、そなたどうする」 「わたくし、主馬さまを信じます。あの方はきっと、お役目を果たして無事に帰っていらっしゃいます」  嘘だった。口ばかりだった。 「主馬は侍の心得承知しています。きっと、りっぱに死んでくることでしょう」  切口上のお勝のことばが、小雪の胸をぎりぎりとしめつける。  ——もしそうなればどうしよう。  目の前が暗くなる思いだった。     四 「里見主馬なる者に、上意討ち仰せつけられたこと、間違いござるまいか」  そういう問い合わせの、郡山本多家からの急使が和歌山についたのは、主馬の出立後五日目であった。その夕方、弥三郎はせかせかと下城してくると小雪を呼んだ。 「主馬は無事じゃ。見事に大学を仕留《しと》めたらしい」 「まことでございますか」  安心と喜びが胸にこみ上げてきたが、小雪は間もなくぎくっとした。弥三郎の浮かぬ顔に気づいたからだ。 「主馬のあわて者め……」 「どうなさったのでございます」 「ご判物をなくしおったのだ」  本多家の使者の口上のあらましを兄に聞かせられて、小雪は血が引くのを覚えた。たったいまの喜びが、あとかたもなくしぼんでしまった。  郡山の城下の、ごみごみした裏通りに、駄菓子などほそぼそとあきなっている店があったが、一月《ひとつき》ばかり前、目つきの鋭い浪人ていの武士がやってきて、二日ほど休ませてくれといった。亭主がうちは宿屋ではないからとしぶい顔で断わるのを、強引にいいくるめて、一間を借り受けると、そのままずるずるといすわって、四日たち五日たちしても、いっこうに出ていく気配も見せなかった。 「まあ取っておけ」  無造作にほうり投げた小粒銀一つ、困っているときでもあったので、つい受け取ってしまったのが悪かった。その浪人はいつもむすっとしていて、めしをくうときでさえ、大刀をそばから離そうとはせず、なにか不気味なものを、絶えず周囲にただよわせているようであった。  名を浅香大学ということ、大納言頼宣の近臣を意趣斬《いしゆぎ》りにして、和歌山を出奔した元紀州藩士であること、紀伊、大和の国境いで、討手の者を逆に四名まで返り討ちにしたことなどがおいおいにわかった。  そうと聞けば、出ていってくれなどと、うかつにいえるものではない。町奉行へ届けるのも、あとのたたりがおそろしかった。いきおいはれものにでもさわるような扱いになった。子供はおびえてしまうし、女房はかげでぶつぶつこぼすし、亭主はとほうにくれてしまった。  半月ばかりたったころ、裏の垣根のくずれたところから、こっそり家の中をうかがっている二人の武士に亭主は気づいた。あくる日も見かけた。 「和歌山からの討手に違いありません。いまのうちに、どこぞへお移りなさいまし」  しめたとばかり、話を大げさにして追い立てにかかったが、大学は、 「たわけめ。討手がくるのは願ってもないことじゃ。五人十人、たばになってかかろうとも、びくともするおれではない」  そらうそぶいてゆうゆうとしている。 「でも、万が一ということもございます」 「うるさい」  じろりとにらんで大刀を引き寄せた。ぞくりと、背筋がつめたくなった。もうなりゆきにまかせるより手はない。厄病神《やくびようがみ》に見こまれたようなものだった。やがて、その浪人がみこしをすえてから一ヵ月あまりたった。  初夏の陽が傾いて、風の涼しい夕方であった。大学はいつも片手でめしをくった。決して椀《わん》を取り上げはしない。左手にはかならず大刀を引き寄せて、いつなんどきでも鯉《こい》ぐちが切れるようにしているのだ。そのまわりから、殺気がめらめらと燃えあがる感じだった。そのときも浅香大学は、大刀を引き寄せて片手でめしをくっていた。  そこへ、すうっと風のようにはいってきたものがある。編笠《あみがさ》の武士であった。上りかまちに編笠をぬぐと、その武士は無造作に上にあがり、すたすたと大学に近づいていった。大刀は腰からはずして、だらんと右手にさげていた。 「上意っ」  亭主が、すさまじい大学の絶叫を耳にしたのは、一瞬のあとである。  われにかえって、おそるおそる寄ってみると、大刀の柄《つか》に手をかけたまま大学は、前のめりに倒れており、畳や、くいさしの膳の上に血が飛び散っていた。 「許せ。これは畳の汚し賃じゃ。すぐ町奉行まで届けてくれ」  小判を一枚投げ与えると、武士は血のりをぬぐって刀を鞘《さや》におさめた。 「人殺しじゃ」 「浪人者が殺されたぞ」  異変を知って、そこここから集まってきた群衆が口々にさわぎ立てた。間もなく、郡山藩の目付や、町奉行所の役人がきた。 「これは見事な」  どのような理由があれ、届け出もなく人を斬っては、狼藉《ろうぜき》と見なされても仕方のないことであった。しかし役人たちは、取り調べにはいる前に、その武士の手なみに目をみはった。浅香大学はただ一刀のもとに絶命していたのである。自然ことばづかいもていねいになる。 「ご姓名は」 「里見主馬、紀州家の禄《ろく》をはむ者にございます」  上意討ちである旨いい添えた。 「なにゆえ町奉行まで、前もって届け出をなされませんでしたかな」  さすがに一応はとがめてくる。 「申しわけござらぬ。なにぶん火急の場合、届け出をする間に、逃げられでもしてはと存じまして」  主馬はそう答えた。そこまではよい。ところが、 「上意討ちとあれば、さだめし証拠となるべき判物をご所持のことと存じます。それをお見せいただきたい」  と問いただされたとき、主馬は、そんなものは持たぬと返答したのである。 「なに、ご所持ではない。大納言頼宣|卿《きよう》のご判物を持たぬといわれるのか」  役人の表情がややあらたまった。 「なれど、てまえが紀州大納言が家臣、里見主馬なることは、神明に誓っていつわりではござらぬ」  上意討ちの役目をつつがなく果たした以上、一刻も早くこの旨報告しなければならぬと主馬は申し出たが、 「ごもっとも。しかし、あっぱれな今日のお働き、おつかれのことでもあろうから、一両日なりともご休息なされては」  としきりにすすめる。主馬もすすめにしたがうほかなかった。こうして、主馬を引きとめたあと、郡山の本多家では、ただちに急ぎの使者を和歌山へさし向けたものだった。 「兄上、主馬さまは、大納言さまのご判物、なんとされたのでございましょう」 「おれにもわからぬ」  紛失したとしか考えられない。いずれにしても、うかつな話だった。  主馬が大学を見事に討ったと知って、ほっとする間もなく、小雪の胸は、また新たな不安にとざされてしまった。  ——主馬さまのばか。  大事なご判物、なくしたですむことではなかった。きっと重いおとがめがあるに違いない。せっかくの働きも水のあわ、軽くても閉門はまぬかれまい。もしかすると……。  悪いことばかりが想像された。 「あわてものめ。気ばかりもませおって」  つぶやくようにもらした弥三郎の顔にも、暗いかげがさしていた。     五  小雪はまんじりともせず朝をむかえた。弥三郎も同じだったらしい。目が赤く血ばしっていた。  本多家の使者は、昨日すぐ帰途についたというが、紀州家から、どのような回答がなされたかは、弥三郎もまだ知らない。  たとえ主馬が、見事に上意討ちの使命を果たしたとしても、ご判物紛失ということになれば、ゆゆしい不覚といわなければならぬ。藩の体面にもかかわることであった。 「里見主馬なる者は、当家において心あたりなし」  そのような回答さえ、考えられぬことではない。もしそうであれば本多家では、城下をさわがせた狼藉者として、ただちに主馬を処断するにきまっている。 「里見主馬は、当紀州家の家臣にまぎれなし。上意討ちの討手を仰せつかったこともまた事実なり」  切にそうであってほしかった。が、よしんばそうであったとしても、主馬が帰ってきたあとの、藩庁の処置がどうあるかは、やはり問題である。重い仕置を主張する者があろうことも、十分考えられた。  小雪は生きたここちもしなかった。  ところが、案じられたその主馬が、本多家の使者が、郡山に帰りついたかつかぬかと思われる夜の八時ごろ、ひょっこり姿を見せたのである。 「里見さまがお越しになりました」  家士の声に、まさかと半信半疑で弥三郎が玄関へ出てみると、旅姿のまま主馬が立っていた。夜分ではあったが、まっすぐ城中にいって大納言頼宣に、浅香大学を討った旨報告をすませ、その帰りにちょっと立ち寄ったのだという。  ともかく座敷へ通して、 「おぬし、ご判物をなんとしたのだ」  弥三郎はまずそれを聞いた。 「そのことか」  こともなげに主馬は笑った。  ——ひどい方、人の気も知らないで。  怨《うら》み顔の小雪にちらと目をやってから、弥三郎の方に向き直り、 「弥三郎、おぬしのおせっかいのせいじゃ。気をもまされたなどと、おれを怨むのは筋違いだぞ」  主馬はぬけぬけといった。憎いといったらない。  いきさつはこうであった。 「おつかれでもあろうから」  本多家の武士たちに案内されて、主馬がつれていかれたのは、郡山でも名の通った料亭「あかね」の離れ座敷だった。すぐ酒肴《しゆこう》が運ばれる。酒も料理も極上、接待ぶりも至れりつくせりで、いささかくすぐったかった。物頭《ものがしら》以上と見える者が、何名もつぎつぎにあいさつに出て、 「あざやかなお手のうち、ほとほと感服つかまつった」 「われわれもあやかりたいもの」  下にもおかぬもてなしだった。だが、主馬はほどなく気がついていた。料亭「あかね」に招いての接待といえば聞えはいいが、その実は一種の軟禁であった。応対にあたる藩士の態度は鄭重《ていちよう》をきわめたが、底にこちんとくるものがあった。  もともと郡山藩は、藩主本多大内記以下、徒士《かち》足軽の末に至るまで、尚武《しようぶ》の気風さかんなことで知られている。 「上意討ちということ、もしいつわりならば、その場を去らせずたたっ斬れ」  懇切な応対ぶりの裏にこもっている、殺気十分な気がまえがぴーんとひびいてきた。紀州家へ急使が向かったことも主馬は悟っている。泉水築山《せんすいつきやま》のかげにも、警固《けいご》の者がひそんでいるらしい。  ——逃げはせぬか。  そう見ているに違いなかった。 「貴殿のご武勇にあやかりとう存ずる。お流れをひとつ」  献酬《けんしゆう》のあいだにも、こちらの腹をさぐりにかかっていることが明らかに読めた。主馬が床についてからも、つぎの間、廊下の隅、手水鉢《ちようずばち》のかげなどに人の気配があった。  ——ご苦労なことだ。  夜が明けて、朝めしをしたため終わった主馬は、にんまり笑った。ときどき、小雪や弥三郎に見せる、いたずらっ子のような顔になっている。  初めから、ちゃんと計算にはいっていることだった。紀州家へ使者が立つことも、むろん承知の上である。いや、むしろそれを願っていた。  とも知らず、主馬の目の届かぬ、渡り廊下の途中や、藩士たちの詰めているひかえの一間では、 「どうだ。おちつかぬ様子はないか」 「まだわからぬ」 「案外ゆうゆうとしているのかもしれん」 「やせがまんを張っておるのじゃ。油断を見すまして逃げる腹だろう」 「それともまだ気づかずにいるのかな」  しきりにこんな話がかわされていた。だれかが女中の一人に聞いた。 「けさの食膳、もうさげたのか」 「はい、先ほど」 「で、どうだった」 「きれいにおたべになりました」  ずぶといのかにぶいのか、いっこうに見当がつかなかった。 「おぬしらどう思う。上意討ちということ、いつわりかまことか」 「いつわりにきまっているわ。まこと上意討ちであれば、ご判物を所持せぬはずはない」  紀州領内なら別だが、郡山は他領なのである。 「願わくは、いつわりであってほしい」  こういい出したのは、かねてから腕自慢の男だった。 「あさっての日の暮れまでには、多分使者がもどってくる。それまでの命、せいぜいもてなしてやることだな」 「それにしても、こっちの魂胆《こんたん》にまだ気づかぬとは」  声をそろえて笑った。     六 「大事なことを申し上げたい。ご家老のうちのどなたか、すぐお越しくださるよう。離れのお客さまが、そのようにおっしゃっておりますが……」  女中の一人が、主馬のことばを伝えてきたのは夕方であった。物頭の矢沢というのが離れに出向くと、 「ご家老に会いたいと申したはずでござる」  にこりともせず主馬がいった。ずしりと腹にひびく気魄《きはく》であった。ただちに、家老の津田清左衛門に使いが出された。  半刻《はんとき》あまりして清左衛門がきた。物頭以上の数名が、清左衛門といっしょに離れに向かった。どの顔もけわしくとがっていた。  主馬はひるみもしない。一同をゆっくり見まわしてからずばりといった。 「昨晩よりのおもてなしのかずかず、てまえが紀州大納言の家臣なるをもってのご懇情《こんじよう》とばかり存じておったが、まことはさにあらず、うろん者、かたり者と思召されてのお扱いとお見受け申した。証拠のご判物は所持しており申す。大納言めがねをもって仕物《しもの》を命ぜられた上は、はばかるところもあるまじと存じて、昨日はあえてご判物を差し出し申さざったまで。さ、とくとこれを」  小柄《こづか》をぬいて手早く肌着の襟を裂き、津田清左衛門の面前に差し出したのは、まぎれもなく紀州大納言頼宣の花押のある文書であった。こまかく折りたたんで、襟に縫いこんでいたのである。  清左衛門の顔におどろきが浮かんだ。 「たしかに……」 「では、ただちに紀州へまかり帰ること、ご異存はござるまいな」  そのときの一同のあわてぶりを思い出しでもしたのか、主馬はくすっと笑った。 「まあ、こういうわけだ」  弥三郎も小雪も、あきれて二の句がつげなかった。  主馬が、そんな手のこんだことをしたのは、わけがある。  ご判物をすぐ取り出してしめせば、その場でらちがあいたに違いない。が、相使《あいづか》いはなく、討手は主馬ただ一人であった。浅香大学を見事に斬り伏せたと、証言してくれる者はいないのである。  主馬自身の口から委細《いさい》を語っても、おそらくだれも信じてはくれまい。主馬の日ごろが日ごろだけに、 「なあに、郡山藩の力を借りたにきまっているわ」  口をそろえて、そう取沙汰《とりざた》するであろうことは、目に見えていた。そのためにとった苦肉の策だった。 「真っ向からただ一刀」  あざやかな手並であったと、郡山藩本多家の使者が、わざわざ証言してくれた形であった。手玉にとられた、郡山の家中の者こそ、いいつらの皮である。 「だが主馬、おぬし、よくも一太刀で大学を仕留めたものだな」  弥三郎でさえ、一刀で斬り伏せうる自信はなかった。 「これがものをいうたわ」  主馬はにこっとして、左手でめしをくうまねをした。 「あ……」  意味がわかるのに、しばらくかかった。  主馬は左手の抜きうちで浅香大学を倒したのである。あのとき主馬は、大刀を腰からはずして、だらんと右手にさげていた。そこに大学ほどの者も一瞬の油断があったらしい。ふだんの主馬の評判を知ってもいた。 「弥三郎、相手がおぬしなら、大学も油断しなかったろうがな」  小雪はまじまじと主馬を見て、 「では主馬さま、左ききはとっくに直ったとおっしゃったのは……」  主馬は微笑した。それが返事だった。母のお勝でさえ、主馬の左ききはとっくに直ったものと思っている。  が、そうではなかった。直ったと見せかけて主馬は、十五、六のころから、人知れず左手の抜きうちを稽古してきたのである。 「一生に一度くらい、役に立つことがあるかもしれぬと思ってな」 「ひどいやつだ。母御はともかく、おれにまでかくしているとは」  しかし、弥三郎はうれしかった。こんどの手柄で、母も、口うるさい伯父の菅井主水も、主馬と小雪の縁組みに、いやとはいわぬはずであった。そんな思いは、主馬にもすぐに通じたようである。 「近いうちに、藩庁へおうかがいを立てて見る。いいだろうな」 「頼む」  弥三郎は目で答えた。 「もっとゆっくりしたいが、母が待っている。早く安心させてやりたい」  主馬が立ち上がった。弥三郎は、自分はわざとすわったままで、小雪に送らせた。しばらくして、小雪はもどってきた。  なぜか沈んだ様子がある。 「どうした」  小雪は黙っていた。 「母御のことか」  あなたがたご兄妹は、侍の心得、ご存じないと見えます。主馬の母にそういわれたことを、気にしているのに違いないと弥三郎は考えた。  そんなことではなかった。小雪の思いは、もっと複雑だった。主馬が見事に役目を果たしたこと、その主馬と夫婦になれること、それはうれしい。が、その底に、  ——今日から主馬さまの運命が変わった。  そんな思いがあった。  小雪は主馬に、男らしさ、りりしさを求めたのではない。人目につかぬ平凡さに心をひかれた。これという取り柄のないところが好きだったのだ。  だが、目だたぬ男と思いこんでいたその主馬でさえも、いざというときは、日ごろ肩ひじ張っている者と同じように、命がけで侍の面目を立てようとしたのである。そして、見事に面目を立てた。  今日の主馬は、もう昨日の主馬ではない。目だたぬ、平凡な人生を歩くことを許されぬ男であった。ふっと、寂《さび》しかった。  けれど、小雪のそんな思いは、だれにもわかってもらえるはずもない。また弥三郎が聞いた。 「どうしたのだ」 「いいえ、なんでもありません……」  障子《しようじ》をあけて、小雪は縁がわへ出た。  母がはいってきたらしい。ひどく昂奮《こうふん》して、主馬のことを話す兄の声が、障子ごしに聞こえてくる。 「侍心得のこと……」  ぽつんとつぶやき、小雪は深いためいきをついた。目の前に、青葉のにおいのこもる夜の暗さがひろがっていた。 [#地付き](了)  [#改ページ]   異聞浪人記     一  巷《ちまた》にはそろそろ涼風が立ち初《そ》めて、残暑のきびしさもいつとはなく忘れられがちとなった、寛永年間とある秋の昼さがりのことである。外桜田にある、井伊|掃部頭《かもんのかみ》直孝の屋敷の玄関先に、ぬうっと突っ立って案内を乞う浪人者があった。  あたりを威圧する堂々たる屋敷構えを目の前にしても、別段ひるんだ様子もないその男は、年の頃かれこれ五十五、六であろうか、一見したところ、いかにも尾羽《おは》打ち枯らしたというにふさわしい見すぼらしいなりだが、どことなく一癖ありげな精悍な風貌の持主である。肩はばの広いいかついからだつきで、がっしりした骨組みの太さが垢じみた着物の上からも容易に想像され、いずれはひとかどの武士のなれの果てに違いなかった。  どうしてこんな素浪人を通したのだ——とでもいいたげな一瞥《いちべつ》を表門の方へ投げて、軽く舌打ちした若い取次の侍が、 「何用あって参ったのだ」  軽侮の色をあらわにして高飛車《たかびしや》にたずねるのへ、その浪人は静かにいった。 「御迷惑ながら、御当家の玄関先をしばらく拝借させていただきたい」  男は津雲半四郎と名乗った。去る元和《げんな》五年六月、みだりに城普請《しろぶしん》を行なったかどで改易の憂目に会い、その後いくばくもなく、信州川中島の配所に不遇の晩年を終わった、もと芸州広島の大守、福島左衛門大夫正則の家臣であった。  ——主家の没落後愛宕下の藩邸を出て、とある裏店《うらだな》に移り住み、細々と暮しを立てるかたわら、あれこれと伝手《つて》を求めて再度の主取りを望んだが、すでに太平無事の時世とあっては、それもなかなか思うにまかせなかった。志を得ぬまま無為の日々を送るうちに、生活は窮迫の度を加える一方で、今日まではなんとか糊口をしのいできたものの、もはやこれ以上の辛抱はなりかねる。このままむなしく陋巷《ろうこう》に呻吟《しんぎん》していつまでも生き恥をさらすより、武士らしく、いっそいさぎよく腹かっさばいて果てようと思う故、晴れの死場所に、願わくは、御当家の玄関先を貸してはいただけまいか——。  そんな意味のことを、津雲半四郎はかいつまんで述べた。思いのほかにさわやかな口上であった。 「またも来おったか、性こりもなく」  若侍から委細を聞くと、老職の斎藤|勘解由《かげゆ》は、そういってにやりと笑った。何か妙に底意地の悪い笑い方だった。 「いかがはからいましょうか」 「よし、これへ通せ。そやつの面の皮ひんむいてくれよう」  若侍の案内で、津雲半四郎と名乗る浪人が間もなく姿を現わした。悪びれたさまもなくぴたりと座につくのを待って、斎藤勘解由はおだやかにいった。 「いつまでも陋巷にあり、座してむなしく窮死の日を待つよりも、むしろいさぎよく自決して、武士らしい最期をとげたい——そう申されるのだな」  直前に見せた冷酷な表情は、ぬぐったように消えていた。半四郎は無言でうなずいた。ひどく落着いたもの静かなその態度が、小面憎いくらいであった。 「とはまた、近頃珍しい見上げた御心底。ただただ感服のほかはない」  老獪な勘解由はそういいながら、腹の中では別なことを考えていた。  ——ふん。いい気になりおって。今に吠えづらをかくまいぞ!  勘解由は、真面目くさった表情を少しも崩さず、心もち身を乗り出して、 「以前は、福島殿の御家中とやらうけたまわったが、ならばそこもとは、千々岩求女《ちぢわもとめ》と申す男を御存じかな」 「千々岩求女——でございますか」 「さよう」 「一向に存じませぬが」 「ほほう、存ぜぬ——やはりもとは福島殿の家中と申したがの」  勘解由は急に、じろじろとなめまわすような目になって相手を見守ったが、津雲半四郎は平然としている。  そのとりすました顔面から、今にもすうっと血の気が退《ひ》いてしまうのだ——と、内心で舌なめずりしながら勘解由は、 「半年ほど前のことじゃ。千々岩求女と名乗る浪人が、当家をたずねて参ったのは——。それも、そこもとと同じ用件でな。晴れの死場所として、当家の玄関先を貸してもらいたいという——」  うわ目づかいに、またしてもじろりと相手の顔色をうかがった。それでもなお、津雲半四郎は眉一つ動かさぬ。 「お話し申そうかな。その時のいきさつ」  なぶるような、残忍な笑いが勘解由の口もとに刻まれたが、顔色を変えるでもなく津雲半四郎はおだやかにいった。 「では、うけたまわりましょう」     二  芸州広島の福島家の浪人で、千々岩求女と称する年の頃二十七、八の男が、井伊家の玄関先へやってきたのは、桜には多少間のある早春のある日のことだった。浅黒くきりりと引きしまった男らしい顔だちながら、何か妙に暗い、陰気な影を背負いこんだようなその男は、玄関先に立つと、ちょうど今しがたの津雲半四郎と同じ口上を述べたのである。  巷には今、関ケ原以来の浪人が充満していた。以前は名ある浪人と見れば、諸侯は争ってこれを召し抱えたものだが、兵馬|倥偬《こうそう》の時世が過ぎるともはや無用である。大坂の陣が終わり、吹く風も枝を鳴らさぬ元和の偃武《えんぶ》が謳歌されるとともに、浪人は仕官の途を絶たれてしまった。  かてて加えて諸侯の改易が相続いた。外様《とざま》はむろんのこと、幕府の仮借《かしやく》ない政略の前には、親藩、譜代といえども例外ではあり得なかった。  越後高田の松平忠輝、広島の福島正則、久留米の田中吉政、あるいは本多正純、最上義俊、蒲生秀郷——。  元和のなかばから、寛永の初めにかけて、改易、あるいは減封された諸侯の名は、数えるに暇もないくらいであった。そして、主家の廃絶によって、いやおうなく路頭に投げ出されたおびただしい浪人の群は、うたかたのようにはかない仕官の望みを抱いて、その大部分が江戸へ集まっているのである。  それらの浪人たちのあいだに、諸大名の屋敷へ押しかけて、腹を切るからどうか玄関先を貸してくれと切り出すことが最近急にはやりはじめていた。もちろん、実際に腹を切るつもりなど少しもない。いわば、衣食に窮した浪人連のていのよいゆすりの手段である。  ことの起こりはこうであった。ある時、さる大名の屋敷を訪れた一人の浪人が生計立ちがたくこの上はいさぎよく自決したい。願わくは武士の情にこの玄関先をお貸しいただけまいかと、あふれるばかりの真情をおもてにして申し述べたのである。態度も見るからに堂々としており、それに弁舌もすこぶるさわやかであった。  見事なる心底、近頃奇特の振舞と、深く胸をうたれたその大名は、ただちに死を思いとどまらせるとともに、老職に命じて件《くだん》の浪人を家臣の列に加えたのである。  そのうわさは、旬日もせぬうちにたちまちぱっと江戸中にひろまって、そのうちに、二、三の者が逸早《いちはや》くそれにならい、他の大名のもとへ押しかけた。ある者は首尾よく召し抱えられ、そうでない者でも、面目をほどこした上にいくばくかの金子を与えられた。こうなると浅ましいものである。我も我もとその真似をする者が続出して、狂言切腹が流行《はや》り風邪のように、浪人たちの間を風靡《ふうび》していくのであった。  少なくとも最初にこれを行動に移したものは、貧苦の中に身もがきしながら生きながらえるよりも、むしろいさぎよく死を選ぼうとする純粋な思いを、いくばくなりとも胸中に宿していたであろう。  だが、今では、そのような殊勝な心がけなど薬にしたくともなかった。我も我もと先を争って諸侯の屋敷に押しかけるあまたの浪人たちにとって、それはもはや、一時の窮迫を切りぬける生活の方便であり、体のよいゆすりでしかないのであった。  ほとほとこれに手を焼いたのは諸侯の方である。見え透いた嘘と知りつつなにがしかの金子を与えるのもばかなことだが、といって実際に玄関先で、腹を切らせる訳にもいかなかった。千々岩求女と称する浪人が、井伊家の玄関先に姿を見せたのはこんな時分であった。井伊家では初めてのことだった。  求女は極めて丁重な扱いを受けて、すぐに青畳の香りも新しい立派な一室に招じ入れられた。間もなく一服の茶が運ばれたが、そのあと誰もやってこない。随分久しい間待たせられたのち湯殿に案内された。  小ざっぱりとなって湯から上がると、湯殿の外には真新しい衣服が用意してあった。日頃垢じみたものをまといなれた肌に、心地よい柔らかさが伝ってくる。求女の顔は自然に明るくなっている。先刻、湯殿に案内される途中、おもてに好意をあらわして若侍にささやかれた言葉を反芻《はんすう》しているのかもしれなかった。 「殿が、お目通りを許されるとの由にございます」  若侍はそういったのだ。殿とは、夜叉掃部と称される当主直孝のことである。目通りを許されるというのであれば、悪いことではないと見てよかった。  と、そこへ、沢瀉《おもだか》彦九郎という、恰幅《かつぷく》のよい中年の武士が顔を出した。そして、ていねいな口調で、 「お召し替えの用意ができております」  と意外なことをいう。  たった今、新しい衣服に着替えたばかりである。いぶかしいことをいう——求女が心中で小首をかしげるのには気もつかぬらしく、その武士は、 「どうぞこちらへ——」  慇懃《いんぎん》な態度で、最初の部屋へみちびいていった。その時まで、不思議なこととは思いながらも求女は、おのれを待ち受けている不幸な運命を知らなかった。  刀架にかけておいた自分の大小が、どこかへ持ち去られているのに、ふと求女が心づいた時、一方のふすまが開いて、若い前髪の小姓が入ってきた。うやうやしくその両手にかかえられたものに、ちらと目がふれた千々岩求女は、一瞬、雷にでもうたれたように愕然となった。小姓によって運ばれたのは、まぎれもなく水色無紋の上下《かみしも》であった。  さっと青ざめた求女の顔に、じろりと冷たい一瞥を与えて沢瀉彦九郎はいった。 「いかがなされた——」  柔らかな物のいいようだが、その裏には明らかに棘《とげ》があった。口もとに残酷な微笑さえ浮かんでいる。  ——はかられた!  と、思いながらも、 「お目通りを許される由であったが——」  かろうじてそうたずねると、 「さような筈はない」  と、にべもない答えである。  そして、急に語調を変え、掌《てのひら》をかえすような態度で、沢瀉彦九郎は頭からずばりと浴びせた。 「さ、お召し替えを願おう。すでに用意万端ととのうておる、お望みどおり切腹なさるがよろしかろう」     三  話なかばにそわそわと落着きをなくし、今にも唇の色を失ってしまうものと、斎藤勘解由はひとりぎめに内心ほくそ笑んでいたのだが、予期に反して、津雲半四郎は一向おどろいた様子も見せなかった。いや、終始にこやかな微笑さえたたえていたのである。  何やら勝手の違うものを感じとって、勘解由は、 「いかがだな、今の話は」  相手の、得体のつかめぬ腹の中を読みとろうとでもするように、それが癖のうわ目づかいにじろりと見すえた。が、半四郎は、 「なかなかおもしろい話でござった。さすがは、赤備えの名を謳われる、武勇の御家風と申すもの——」  しゃあしゃあとしていう。  こいつめ、いささかくえぬ奴。  さらばとばかりに、勘解由はずいと身を乗り出して、 「してそこもとはいかがなさるおつもりじゃ」  まさかさっきの口上通りに、真実腹を切るものとは思われぬ。強《し》いて虚勢を張っているのではないかと見た。しかし、 「とは、これのことでござろうか」  半四郎は、手真似で切腹の型をしめして見せる。 「うむ」 「あはは、御念には及びませぬ。初めからそのつもりで参ったこと故——」  こともなげな笑い方だった。  津雲半四郎が、庭前にしつらえられた切腹の座についたのは、それからほぼ半刻のちのことである。勘解由が、無紋の上下を用意させようとするのを、 「御無用に願いましょう。食いつめ浪人の最期には、このままがふさわしいと申すもの」  と押しとどめて、なりはそのままだった。やや傾いた秋の陽が、荒けずりな半四郎の顔にかっと照りつけた。鬢髪《びんぱつ》のあたりには、さすがに老いのかげこそいちじるしいが、堂々たる男ぶりで、威風あたりをはらうものがある。切腹の場には、おもなる井伊家の家臣たちが詰めていた。それに目にもとめぬ風に、半四郎はゆっくりと斎藤勘解由を見上げ、 「本日はまことにもって御丁重なるおとりはからい、ただただかたじけなく、お礼の申しようとてもございませぬ。なおこの上の願いには——」  といって、一つの条件を切り出した。介錯《かいしやく》人に望みがあるというのである。 「誰を望みといわれるのじゃ」 「なろうことなら、沢瀉彦九郎殿に御介錯をお頼みしたく——」 「彦九郎に——。それはまた何故かの」 「井伊殿御家中にても、ことに武勇のきこえ高き方とうけたまわるが故にございます」  ふむと勘解由は思案した。沢瀉彦九郎はこのところ所労と称して出仕していない。その旨を告げると、津雲半四郎はつぎに松崎隼人正の名をあげたが、これも病中であった。さらばと半四郎は、川辺右馬助の名を最後にいった。ここに至って、  ——はて?  斎藤勘解由の顔がつと曇った。その川辺右馬助も実は病気引きこもり中なのである。沢瀉彦九郎、松崎隼人正とともに、家中でも錚々《そうそう》たる武辺者たることも同様であった。  しかも、今はじめて気がついたことだが、三名が三名とも、千々岩求女と称する浪人に遮二無二《しやにむに》腹を切らせた時の首謀者なのであった。  ——何かある?  斎藤勘解由は、ようやく相手の胸中に、容易ならぬ企みが宿されていることを思い知った。 「御三方とも御病気とは——」  いかにも解《げ》せぬと、半四郎は不審のおももちをあらわした。  ——有無いわさずぶった斬るか。  たかの知れた素浪人一匹、おっとりかこんで討ち果たすのは造作もない。すでに、この場の異様ななりゆきに、家中の面々は殺気を顔にみなぎらせている。目くばせ一つですむことであった。それにここは、城郭と呼ぶにもふさわしい宏壮な屋敷のうちである。  が、その勘解由の腹の中を見すかしでもしたように、半四郎はとっさに機先を制していた。言葉も対等にあらたまって、 「お待ちあれ! お手出しは今しばらく御無用に願いたい。申しあげたき儀がござる。それを一通りお聞き願えれば、てまえは必ず切腹いたす。いや、寄ってかかってなますに刻まれようとも否やは申さぬ」  ずばりといった。身に寸鉄も帯びぬ相手にこう出られては、まさか手出しもなりかねた。 「申してみい」 「されば」  半四郎はじりりと前に出た。 「千々岩求女は、いかにもてまえが存じ寄りの者でござった——」  老年ながらただならぬ気魄に満ちあふれ、精悍そのものと見える津雲半四郎の面上に、この時はじめて、すうっと悲哀のかげが宿された。     四  求女の父の千々岩甚内と津雲半四郎は、かねて無二の仲だった。甚内は、主家の福島家が改易となって間もなく病没したが、その臨終の場に駆けつけた半四郎は、当時まだ元服したばかりであった、求女の後事を託されたのである。  福島家が改易されたのは、元和五年六月のことである。みだりに広島城の普請を行ったのが公儀の疑惑を招いたためであった。が、それは表面の理由に過ぎぬ。福島家はこれという咎《とが》なくしても、当然改易されるべき運命にあった。  慶長十九年冬から、あくる元和元年夏にかけて両度にわたる大坂の陣が終わると、四海波静かな太平無事の世となったが、豊家恩顧の諸大名の中でも、芸州広島において四十九万八千余石を領する福島家は、肥後の加藤家と並んで、幕府にとっては目の上の瘤《こぶ》ともいうべき存在であった。何らかの理由をもってこれを除くことは焦眉の急ともいえた。  もともと広島城の普請は、福島正則自身が直接幕府の権臣、本多上野介正純を介して願い出たのちになされたのだが、それがとりかえしのつかぬ禍根を招いた。思うつぼにはまったのである。  その時のいきさつを、一書にはこう伝えている。 [#1字下げ]——本多上野介正純につきて広島の城池を浚《さら》うべき旨を申す。申し上ぐべき由を答えられしが、御上京の事繁きにまぎれてそのことなかりしに、広島の城普請の事を聞《きこ》し召し怒らせ給いしに、正純其時驚きて正則の書翰を出されしに、証文の出しおくれとて、聞し召し入れられざるとなり……。  思うにこれは、権謀術数にたけた本多正純の肚裡にすでに福島家改易の企みがあり、故意に城普請に関する正則の書翰を手もとで握りつぶしていたものであろう。  越度《おちど》を見出して咎めるのではない。あらかじめ取り潰すことを定めておいてしかるのちに有無いわさぬ罪状を作り上げる——これが幕府の常套手段であった。  かくして、元和五年夏、主君正則は信州川中島の配所に移され、罪なくして衣食の途を絶たれた家臣たちは、思い思いに離散の運命をたどったのである。  千々岩求女の父甚内が、失意のうちに死んだのはそれから間もなくのことであった。 「半四郎、求女がことはくれぐれもおぬしに頼んだぞ——」  いまわのきわにいい置いた甚内の言葉が、昨日のことのように半四郎の胸によみがえってくる。  老いた津雲半四郎の胸中には、凄まじい暴風が吹き荒れていた。悲しみ、怒り、憎しみ——ありとあらゆる激情が、地軸を揺るがすような怒濤となって、真っ向から襲いかかった。さっき、斎藤勘解由が得々とした口調で語るのを、半四郎は、気にもとめず聞き流す風に微笑さえ浮かべていたが、その実、彼の胸中には、にえくりかえるばかりの憤怒と憎悪が、傷ついたけもののようにのたうちまわっていたのである。  斎藤勘解由の話を待つまでもなく、半四郎は、千々岩求女の無残な最期のさまを、知り過ぎるほど知っていた。  なぶり殺しにひとしい求女の最期だった。  計られたと知って、顔面蒼白となった求女が、作法通り白砂をまき、畳二枚を敷いた切腹の座についた時、周囲には、井伊家の侍たちが大ぜい集まって、一斉に好奇の目を見はっていた。 「千々岩求女殿とやら」  麻上下に威儀を正して斎藤勘解由が、おもむろに声をかけた。 「浪々貧苦のうちに、座して窮死の日を待つよりも、いさぎよく腹かっさばいて果てんとは、近頃まことに奇特のお志。いや、武士は誰しもかくこそありたいもの。先代直政公以来の、赤備えの武勇を誇る当家にも、そこもとほどの覚悟ある者は稀《まれ》であろう。大ぜいの侍どもも、まことの武士のあっぱれなる死ざまを拝見せんものと、ごらんの通り集まっておる。いざ、お心静かに」  初めからはかっていたことである。目にあまる最近の浪人どもの所業を伝え聞いた井伊家では、手ぐすね引いて待ちもうけていたのであった。  ——赤備えの井伊家を知らんのか。  ——素浪人、目にもの見せてくれるわ。  千々岩求女は、飛んで火に入る夏の虫であった。  赤備えとは、もともと甲州の飫富《おぶ》兵部が創始したものという。井伊家ではそれにならったのである。  甲冑、旗差物、鞍、鐙《あぶみ》、鞭——その他一切のものを朱一色にぬりつぶしてしまう。その真紅の色が燦然と輝いて、井伊の軍勢が疾風を巻いて行動を起こすさまは、紅蓮《ぐれん》の炎が襲いかかるにも似て、壮観の一語につきた。  井伊の赤備え!  知らぬ者はなかった。大坂夏の陣の折、若江堤一帯の合戦に、城方の勇将、木村長門守重成、山口左馬介、内藤新十郎らを討ちとったのも井伊勢なのであった。  千々岩求女の額には、玉のような脂汗がにじんでいる。それを、露骨な嘲笑の目が包んでいる。 「いかがなされたな」  にんまりという、斎藤勘解由の顔をひたと見つめて、 「お願いつかまつる」  求女は必死にいった。 「お願いじゃ。今しばらく御猶予されたい。今より一両日の御猶予が願いたい。逃げもかくれもいたさぬ。必ずこれへ戻って参る!」 「いまさら、世迷《よま》い言《ごと》は申さぬものじゃ」  つかつかと歩み寄ったのは沢瀉彦九郎であった。 「御願いつかまつる!」  見上げる顔へ、かあっとつばが飛んだ。 「恥を知れ」  千々岩求女はさすがに憤怒に顔をゆがめ、きりきりと唇を噛んだ。そこへ、あごをしゃくった勘解由の指図で三方が運ばれてきた。三方にのせられたのは、短刀ではなく求女自身の脇差であった。 「御自分の差添えをお用いなさるよう、身どもがはかろうた。見事なる脇差をお持ちじゃな」  図に乗った彦九郎のあざけりに、求女はさながら悪鬼のような形相となった。脇差は竹光だったのである。 「存分に引きまわされい」  介錯人が声をかけた。竹光で引きまわせるわけはない。しかし、千々岩求女は無言で三方の上に手を伸ばした。さすがに周囲の者が息を呑む。と、求女はぐいと腹をくつろげて、思うさまに竹光を突き立てた。  介錯の際は三方の刀に、手がかかるや否やに、首を打ち落すのが普通である。それ故、短刀の代りに白扇を用いることもあった。それを扇腹と称したものである。だが、介錯人は白刃を手にしたまま、しばらくは求女の背後に突っ立っているばかりであった。 「切れ」 「ぐいと右へ引きまわすのじゃ」  周囲からどっとおこる、嘲罵の渦の中で求女が舌を噛みちぎった時、はじめて介錯人の白刃がひらめいたのである。     五  求女は半四郎にとって、単に亡き甚内に後事を託されていただけではない。求女の妻の美穂は、実に半四郎|鍾愛《しようあい》の娘であった。  主家没落ののち、愛宕下の藩邸を立ち去る時は、美穂はまだあどけない少女に過ぎなかったが、その頃から死んだ母親似の、類い稀な美貌が人目を引いた。見るからに容貌|魁偉《かいい》な半四郎の実の子と聞かされても、人目は明らかに半信半疑の体を見せたものである。  野の花を思わせる飾らぬ美しさは、浪々窮迫の生活の中にあっても、決してそこなわれることはなかった。美穂が十五、六になると、あでやかな容姿に目をつけた人々が、つぎつぎに屋敷奉公をすすめてきたし、しかるべき者の養女とした上で、さる大名の側妾になどという話も、何遍も持ちこまれた。だが、半四郎は断固としてすすめをしりぞけた。  それをうべなえば、半四郎自身の運も、あるいは易々《いい》として開けたかもしれぬ。半四郎はしかし、それらの話についに耳をかそうとはしなかった。娘の美貌を手づるに、おのれの栄達をはかることを、いさぎよしとしなかったばかりでなく、半四郎は、生前の千々岩甚内との約束を守ったのである。美穂は求女の許婚であった。  浪々の身であることを理由にして、あくまで固辞する求女を無理に説得して、かたちばかりの祝言をあげさせたのは、美穂が十八の折である。美穂にはむろん、異を唱えるところはなかった。  求女と美穂にとって、貧しいなりにも平安な日々がしばらく続いた。三年目に男の子が生まれ金吾と名づけた。  半四郎は、一人の方が気楽だからと別に暮しを立てていたが、孫が生まれるとかなりな道のりがあるのもいとわず、暇さえあれば求女たちの長屋へやってきた。  かつては打物とった武骨な手に、金吾を抱き、魁偉な顔に、さまざまなおどけた表情をつくっては、孫を笑わせようとつとめるさまが、この上もなく微笑ましかった。そんな表情が、やはり幼い金吾にも通じるのか、いかつい爺さまに金吾はよくなついた。金吾は笑うとえくぼができた。 「こいつめ、武士たる者の倅が、えくぼなど見せおって」  そういいながらも、半四郎はいかにもうれしげであった。 「美穂も可愛かったがの、孫の可愛いのはまた格別じゃて」  そんな時の半四郎は、福島正則の麾下《きか》にあって、屈指の驍勇を謳われた頃の面影を、どこに置き忘れたのかと思われた。  幼い金吾の周囲には、絶えずさわやかな笑い声が平和なさざなみを立てた。そこには、愛宕下の藩邸にあって、衣食になんの不自由もなかった頃とはまた違った、ささやかな幸せがあった。だが、その幸せは、たとえば、はだか蝋燭のあかりにも似て、頼りなく心細いものでもあった。さっと、一陣の突風が吹きつければ、瞬時にして消え去るに違いないはかなさを常に帯びていたのである。  禍日《まがつび》の黒い触手は、まず虚弱な美穂の上に差し伸ばされた。  金吾が三歳の正月をむかえた夜のことである。秋の初め頃から顔色も冴えなくなり、時々疲労を訴えていた美穂が、突然おびただしい血を吐いて昏倒した。  もともとが蒲柳《ほりゆう》の生まれつきで、かりそめの風邪にもすぐ床に臥せりがちだった、繊弱な美穂の胸を、いつの間にか病魔は容赦なく蝕《むしば》んでいたのである。それに、弱いからだに鞭うって、無理な手内職をずっと続けていたのも悪かった。  小さな町道場の代稽古をつとめたり、暇を見ては、近所の子供たちに読み書きを教えたり求女はしていたが、それだけでは、親子三人の口を糊するのがせいいっぱいである。高価な薬を十分に求めるなど、思いも寄らぬことだった。  見る見る美穂は痩せ細った。  あくる年——ことしの早春のある日、今度は金吾が頭痛を訴えた。額に手をやると微熱がある。  風邪でも引いたのかと寝せつけたが、二、三日経っても熱は引かなかった。近所に医者の心当たりはなかった。もしあったとしても、貧窮のどん底にあえいでいる浪人者の子をおいそれと見てくれよう筈もない。  求女は途方にくれた。頼みに思う美穂は、長らく床に就いたきり身動きもならぬ状態である。  金、金、金——。  一途に金が欲しかった。折よく来合わせてくれた半四郎に、 「てまえにいささか心当たりがございます故、しばらく金吾をお願いいたします」  夕刻までには、いくばくかの金子を工面して、必ず帰ってくるからといい置いて、求女はどこかへ出かけていった。目を血ばしらせて出ていく、やつれたうしろ姿が、あまりにも痛々しく哀れで、  ——不憫な奴よ。  半四郎は暗然たる呟きをもらした。このさまを亡き甚内が知ったらと、思っただけでも切なかった。  といってなんの手だても持ち合わせぬ半四郎である。金目になりそうなものは、とうの昔に売り払って生活の糧となっていた。  夕方になっても、求女は一向に戻ってこなかった。金吾が、あえぎあえぎ、しきりに痛苦を訴えた。そっと手をやると額が火のように熱している。  ——あ! こりゃあいかん。  狼狽した半四郎は、つぎつぎに水を汲みかえて濡れ手拭で、金吾の額を冷やしにかかったが、手桶の水はたちまち湯になってしまう。呼吸も次第に切迫して、はた目に見るのも苦しげだった。  長いこと病床につきっきりの美穂が、心配のあまり、我を忘れて蟷螂《かまきり》のような痩躯《そうく》を起こしかけるのを、 「ええい、そなたがおきあがったとて、金吾の熱が引くものか」  頭から叱りつけたものの、半四郎自身が、つぎつぎに襲いかかってくる強い不安と焦躁にいたたまれぬ思いがした。不安というよりも、むしろ恐怖に近かった。  熱はひどくなる一方だった。軽い風邪くらいと、手をつかねているうちに、急激に病勢が進んだものに違いない。  高熱に苛《さいな》まれて、金吾はあえぎ、身をよじらせて苦しがった。時おり、はげしいひきつけの発作が起こり、白眼が不気味に宙にすわった。  求女はついに帰ってこなかった。金吾をお願いしますといい置いて、蹌踉《そうろう》と出ていったのが、求女の姿を見る最後となったのである。     六  思い出すだに無念でならぬ。千々岩求女に遮二無二腹を切らせてしまった、井伊の屋敷でのいきさつは、たちまちつぎからつぎに尾鰭《おひれ》がついてひろがり、しばらくは江戸の市中は、寄るとさわるとそのうわさで持ち切りだった。  ——さすがは井伊家。  ——思い切ったことをしたものよ。  以後の見せしめのために、過激な手段に訴えた井伊家の断固たる処置を、ほとんどの者が支持し称揚さえした。浪人たちは一度にふるえ上がった。諸侯の屋敷に推参する浪人の群が、ぴたりとあとを絶ったのはいうまでもなかった。  それから七、八日も経ったある夕方のことだった。 「ざまあねえや。腰のものはなんと竹光だったって話よ」  少し酒の入ったらしい職人風の男が、連れにいい気持でしゃべっていた。 「ふん。竹光など差してやがる癖に、いさぎよく切腹つかまつりたいもないもんだ——」  いい気味だとばかりにそういいかけて、男は急にぎくりとして口をつぐんだ。いつきたのか背後に、五十五、六とおぼしい浪人者が、明らかに険悪な表情を浮かべて突っ立っていたのである。  手早く刀に反りをうたせて、 「それからどうだと申すのだ」  度を失って逃げる間もなく、男の頬がはっしと鳴った。よろめくところへ、 「いらざることを申すまいぞ。素町人の知ったことか」  はげしい言葉をたたきつけて、抜きうちにぶった斬りもかねない勢だった。  津雲半四郎はふらふらと歩き出した。  ——うぬらの知ったことか!  あらがねに刻んだような、赤銅色の頬を伝わって涙がしたたり落ちた。  半四郎は孤独だった。求女は非業の死をとげ、金吾は、高熱に苛まれて、幼い、あまりにも短い生涯を終わっていた。それからものの三日とはせぬうちに、美穂もまた後を追ったのである。  一瞬の悪夢に似ていた。半四郎には、今にも路地の奥から、 「お爺さま」  と声をかけながら、金吾が走り出してくるように思われてならぬ。  ——知らなんだ。わしはばかじゃ。求女許してくれい。  運びこまれた求女の屍にとりすがって、人目も構わず慟哭《どうこく》の声を放った半四郎だった。求女の脇差が竹光だったと、その時はじめて知ったのである。大刀も、竹光でこそないものの、まさかの役にも立ちそうにもない鈍刀だった。  暮しのため、美穂の薬餌の代《しろ》にするため、とうに手放していたのである。大小ともに生前の甚内が自慢の業物《わざもの》であった。それを惜しげもなく売り払っていたのか。  ——求女よ許してくれい。  おのれのうかつが、いまさらのようにうらめしかった。求女がそれほどまでに、美穂のために心を労していたとは知る由もなく、半四郎は、こればかりはと腰の両刀を後生大事にしてきたのである。  ——さもしいことをするものよ。  かねて諸大名の屋敷に押しかける浪人たちの振舞を、苦々しく慨嘆していた求女が、目をつぶって同じ所業を見ならったのも、よくよく切羽づまってのことだった。  求女を見す見す殺してしまった、おのれのうかつさもさることながら、あまりにも無残な井伊家の処置に対しても、いいようのない怒りが湧いた。その怒りが、今日までの半四郎を支えていたといってもよい。  斎藤勘解由をはじめ、居並ぶ武士たちを見渡して、半四郎はいった。 「いずれもお聞き願いたい。いかに衣食に窮してのこととはいえ、真実腹かっさばくつもりもなく、玄関先を借り受けたいと諸侯のもとへ押しかけた浪人者のあさましい所業はもとより言語道断のことながら、千々岩求女に対しての方々のなされかた——てまえは無念でなりませぬ。武士たるものが死のどたん場で、恥も外聞もなく、一両日がほどの御猶予を願いたいと訴えたは、よくよくの事情があればこそ。せめて一言なりとも、いかなる理由あってのことか、問いただすほどの思いやり、方々にはなかったものか」  逃げもかくれもせぬ。一両日ののちには必ず戻ってくると明言した筈である。それを違える求女では決してない。  武士は死を貴ぶという。生涯のすべてをその死の一瞬にかけるという。  しかも、求女にはそれができなかった。思わぬことから腹切る羽目に立たされたとはいえ、いったん死に直面した以上、おのれの不運を甘受して、一切を擲《なげう》ち求女は見事に死ぬべきであったであろう。だが、求女にはそれができなかった。  妻は瀕死の床にあえぎ、いとけない金吾はしきりに痛苦を訴えていた。  一両日のうちに、できうるかぎりの手をつくして、委細を半四郎に託したのち、井伊の屋敷へふたたびとってかえそう求女の心だったに違いない。  それが半四郎にはよくわかる。  いかに武士とはいっても、しょせんは血の通うた生身の人間である。霞を食って生きていけるものではない。妻子をかかえてはなおさらであった。その妻子故に、どたん場に追いつめられて求女ほどの男が血迷ったのかと、思えば不憫でならぬ半四郎だった。 「竹光浪人などと申して、町人小者の末に至るまで、求女がみれんをあざけり笑うたことはまぎれもない。だが、たとえ、千人万人の者が異口同音に笑おうとも、てまえだけは、笑うつもりには決してなれぬ。いや、よくぞ血迷うたというてやりたい」  人それぞれの心は、とうていはたからはうかがい知れぬものである。笑う者はどこまでも笑うがよい。幕府の仮借《かしやく》ない政略のため罪なくして主家を亡ぼされ、奈落の底にうごめいている浪人者の悲哀は、衣食に憂いのない人々には、しょせんわかってもらえることではなかった。血迷った求女のみれんをあざけり笑ったその人々が、同じ立場に立たされた時、どれだけのことができるというのか——。  射すくめるような半四郎の強い視線を浴びて、斎藤勘解由の顔には、一瞬、明らかな動揺の色が見てとれた。しかし、それも瞬時のことである。勘解由の口もとには、すぐにふてぶてしい笑いが刻まれた。 「ふん、世迷い言はそれだけか」  半四郎は衣紋の崩れを直していった。 「津雲半四郎、この世に思い残しとてはさらにない。存分に腹かっさばいてごらんにいれよう。ただし、先ほども申した通り、介錯人には沢瀉彦九郎殿」 「彦九郎は病中じゃ」 「はて、心得ぬ。松崎殿、川辺殿もまた同様じゃ、病いとは解せぬ。斎藤殿」  半四郎は会心の微笑をもらしてずばりといった。 「赤備えの武勇を誇る御当家におかれても、武士の面目とは、しょせん人目を飾るだけのものと見受けまするな」     七  所労引きこもり中とは嘘である。半四郎はそれを承知している。ことの仔細を十分に知っているのは、半四郎を除いては、当の三名の者ばかりであった。  沢瀉彦九郎  松崎隼人正  川辺右馬助——。  求女が井伊の屋敷で非業の死をとげたその時の、くわしいいきさつを知った瞬間から、最も強硬な態度をとったと目されるこの三名を、半四郎はずっとねらい続けていたのである。  それほどまでにしなくてもというのを振切って、求女に竹光で腹を切らせようとしたのは彦九郎だった。介錯は松崎隼人正、彼らの提案を強硬に支持したのは、川辺右馬助であった。  三名の顔をまず覚えたが、それからもなかなかよい折はなかった。無為の日が続いた。三月経ち四月経ちしても、半四郎はあきらめなかった。老いの執念をただ一つにかけて日を送ってきたが、今から約半月ほど前に、この三名を次々にとらえることができたのである。  半四郎はまず沢瀉彦九郎を、所用の帰りと覚しい路上にとらえた。見えがくれにあとをつけていた半四郎は折よく人通りの絶えたのを見すまして、早足に追いすがり声をかけた。 「待たれい。沢瀉彦九郎殿であろう」  あたりには宵闇がたちこめていたし、それに、宏大な屋敷の塀外だった。その先は空地が続いていた。究竟《くつきよう》の場所である。 「何者だ」  振りかえったその鼻先に音もなく、すうっと刀のきっ先が伸びていた。 「何をする。人に怨みを受ける覚えはない」 「————」 「名を名乗れ」 「————」  半四郎は無言のままである。白刃は正確に相手の胸もとに迫った。彦九郎は戦慄した。自身がよくできるだけに、相手の容易ならぬ業が彦九郎にはよくわかる。段違いなのである。  相手の正体のつかめぬのが、彦九郎の恐怖を倍加させた。怨みを受ける覚えもないのにここで斬られるのかと日頃にもなく浮足立った。抜き合わせるゆとりもない彦九郎の胸もとへ、胸もとへと、なぶるように相手の白刃が伸びてくるのだ。ただ、そのきっ先は、少しも殺害の意志をしめしていないようにも思えた。  彦九郎は、おそろしく長い時間の経過を感じていたが、その実、まだいくらもたっていない。思うままに追いつめておき、 「抜け」  半四郎は一たん刀を手もとに引いた。ようやく抜き合わせたとたんに、またすうっときっ先が伸びて右の袖をはらわれた。つぎには左の袖が切られた。襟が切られ帯が切られた。 「人違いじゃ。許せっ」  思わず彦九郎は叫んでいた。 「命の代りに髷《まげ》をもらうぞ」  言葉の終わらぬうちに、彦九郎のもとどりがぷっつと飛んだ。半四郎は叫んだ。 「千々岩求女を覚えているか!」  それから二、三日を置いて、つづけざまに松崎、川辺両名のもとどりを切った。  もとどりを切り落された三名が、それぞれ前後して所労と届け、自邸に引きこもっていることを確かめた半四郎は、今日の昼さがりに、飄然として、井伊家の玄関先へ姿を現わしたのである。  もとどりを切られた不始末を、彼らは、ひたかくしにしているに相違なかった。人に知られては、病気引きこもりなどではすまされぬ筈である。 「赤備えの武勇を誇る御当家においても、武士の面目とは、しょせん人目を飾るだけのものと見受けまするな」  ずばりといってのけた時斎藤勘解由は顔面蒼白となっていた。この場に居合わせた井伊家の武士たちは、一斉に殺気立ち、早くも殺到の気配を見せている。  津雲半四郎は冷たく笑った。もはや惜しい命ではない。求女も、美穂も、そして、老いの身に唯一のなぐさめであった幼い孫の金吾も——すべて死んでしまっていた。残されているのは、もはや浪々窮迫の暮しのみじめさだけである。今は半四郎を引きとめる何ものもなかった。 「これなる品、三名の方へお届け下されい」  半四郎は、ふところから取り出した三つのもとどりを、無造作に斎藤勘解由の足もとに投げた。  その一つ一つに井伊掃部頭様御家来、なにがし殿|御髻《おんもとどり》——と記した紙が結びつけてあった。  津雲半四郎が、乱刃に斬り苛まれて息絶えたその時刻とほぼ前後して、沢瀉彦九郎ら三名は、それぞれ自邸の一室にこもって割腹していた。三名とも、同じような書状を受け取っていたのである。  ——先般御預り申候貴殿の御髻、本日、尊藩御家老のもとへ御届けに及び候。 [#地付き](了)  [#改ページ]   三弥《さんや》ざくら     一  まっ先に、だれがいい出したのかはわからないが、松平|上野介《こうずけのすけ》の家中では、並はずれて仲がよいことを、いつからか、 「三弥と小源吾のようだ」  というようになっていた。  三弥は、仙石《せんごく》三弥。小源吾は、伊吹《いぶき》小源吾のことである。年はどちらも二十六、禄高も申し合わせたように二百石、五万三千石の家中ではまず上士《じようし》といえた。  仲のよさが目立ちはじめたのは、五つ六つのころからであった。だから、いまでは二十年以上のつきあいになる。  十五、六のころは、衆道《しゆうどう》——つまり、男色関係にあると見て、 「あいつら、寝ているのではないか」  と、うがったことを、真顔《まがお》でいう者もあった。それを信じこんだ者も、二人や三人ではなかったらしい。  二人とも、頭も切れる。腕も立つ。藩校|文武館《ぶんぶかん》では、常に首位を争った。むろん、性格は違っている。三弥は沈着で柔軟、小源吾ははげしく一本気、いうならば、三弥は水、小源吾は火であった。それでいて、いや、それだからというべきか。はたからうらやましいほど仲がよかった。 「寝てはいなかったらしい」  去年、それがはっきりした。二人とも、ほぼ前後して祝言《しゆうげん》をあげたのだ。しかも、三弥の妻は、小源吾の妹小浪、小源吾の妻は、三弥の妹すまであった。 「とすれば、どっちが兄貴分ということになるかな」 「小源吾だろう。小源吾の方が、生まれが三日早い」  ひとしきり、にぎわった。そんな三弥と小源吾が、思わぬことから、まともに対立するはめになったのである。こうであった。  城下のそこここでは、ぼつぼつ花だよりも聞かれはじめたある夕方、下城してきた三弥は、屋敷内の空気が、なんとなくものものしいのに気がついた。奉公人たちの顔が、ひどくこわばっているし、妻の小浪も青ざめて、ただごとではない。刀を渡しながら、 「どうしたのだ。なにかあったのか」  たずねると、 「駆けこみ者がございました」  と小浪はいった。 「なに、駆けこみ者——。で、そなた、なんとした?」 「かくまいました」  あるじ不在の場合でも、駆けこみ者があった時は、命をかけてもかくまい通せ。小浪には、かねてそういい聞かせてあった。その通りにしたと小浪はいう。  三弥の父は、三年前に死んでいる。母も、三弥の祝言がすむと、ぽっくりいった。だから、三弥の登城中は、小浪が、いわばこの家のあるじであった。  まだ十九の小浪が、あるじとしてのつとめを、りっぱに果たしてくれたことが、三弥はうれしかった。 「よくかくもうた。礼をいうぞ」  にこっとするであろう小浪の笑顔を、三弥は期待した。が、小浪の顔は、青ざめたままであった。なにか、ものいいたげに、目がうるんでいる。 「なんとした、小浪」 「駆けこみ者は……」  小浪は、途中でいいよどんだ。 「駆けこみ者が、どうしたというのだ」  三弥は、小浪の肩に手をかけた。小浪は、やっといった。 「駆けこんできたのは、直八でした……」 「なんだと……」  さすがに、三弥もおどろいた。直八は、小源吾の中間《ちゆうげん》であった。  今日の昼さがり、居間で、つくろいものをしていた小浪は、突然玄関の近くで、けたたましい声がするのを聞いた。 「お願いでございます。お願いいたします。かくもうてくださいませ」  声に覚えがあったが、だれとは思い出せないまま、つくろいものを置いて、立ち上ろうとした時、 「奥さま、駆けこみ者でございます」  若党《わかとう》の佐田十蔵が、庭から知らせた。 「いまいきます。すぐに、くぐりをしめなさい」  といいつけた小浪は、実家から持ってきた懐剣《かいけん》をふところに、玄関に出ていった。表門とくぐりは、すでにしまっており、玄関の脇に、中間|風《ふう》の男が一人、まっ青な顔をして、うずくまっていた。 「あ——」  男の顔を見て、小浪は息をのんだ。よく知っている、実家の中間直八だった。とっさに、まずいことになったと思ったが、もうどうしようもない。小浪は、 「安心おし」  と直八にいい、若党の佐田十蔵に、直八をかくすように目顔でいいつけた。兄の伊吹小源吾が、殺気だってやってきたのは、直八をかくした十蔵が、玄関にもどってきて間もなくだった。  門をあけさせた小浪は、玄関の式台に、きちんとすわって、兄に応対した。 「直八を渡せ」  いきり立って、小源吾は迫った。 「なんのことでございます」 「とぼけるな。直八が、ここへ逃げこんできた筈だ」 「いいえ、きっと、なにかの間違いでございましょう」 「黙れ。この屋敷に駆けこんだのを見届けた者がある。それに、だれもきておらんのなら、なんでくぐりまでしめさせた」 「兄上」  小浪は、ゆっくりと兄を見上げた。 「はっきり申し上げます。直八は、ここへはきておりません」 「まだしらを切るのか」 「直八はきておりません」  小浪は、冷静にくりかえした。 「その方が、兄上も、よろしいのではございませんか」 「なにっ……」 「小浪がしていることは、かねがね、なき父上や、兄上にお教えいただいたことでございます。また、夫の三弥も、こうせよと教えてくれました」  小浪のことばは、理にかなっていた。もっともとは思っても、小源吾にはやはり、兄という意識があるのであろう。 「直八は、ここにはこなかった。そういうことにすればよい。直八めは、不義を働きおったのだ。だから、つれかえって、成敗《せいばい》せねばならん」 「相手はだれでございます」  小源吾は、女中のみわの名をあげた。ぴしりと、小浪はいった。 「ともかく、お引取りくださいまし。三弥の留守中、直八を渡すわけにはいきませぬ」 「逆らう気か、兄に向って」 「小浪は、兄上の妹である前に、いまは、仙石三弥の妻でございます」 「生意気いうな。たって渡さぬなら、家《や》さがししてくれる」  小源吾は、式台に片足かけた。 「伊吹さま!」  若党の佐田十蔵が気色《けしき》ばむのを制して、 「兄上、もし兄上が、家さがしをなされば、わたくしは、三弥に申しわけのため、自害せねばなりませぬ。兄上は、それでも家さがしなさいますか」  小浪は、ふところからとり出した懐剣を、ひざに置いた。単なるおどしではない。本気であった。これには、小源吾もひるんだ。 「よし、わかった。ここはひとまず引き上げる。だが、直八を逃がしたりすれば、その時は、いかに妹でも許さんぞ」  ふきげんに、くびすをかえした。その背後から、小浪は声をかけた。 「兄上、他人に気づかれては、扱いがしにくくなります。なにごともなかったように、お静かにもどってくださいまし」  小源吾は、返事もしなかった。  そこまで語って、小浪は、 「おっつけ、また兄がくると存じます」  と、三弥にいった。     二  小浪のいう通りだった。三弥が着がえをすますかすまさないかに、佐田十蔵が、しきいぎわに手をついた。 「いま、伊吹さまがおこしになりました」  小浪に心配させまいと、三弥は、 「小源吾のやつ、まだこれか」  右手を、額《ひたい》のすみに持っていき、人さし指でつのを立てて見せた。一つは、自分の心を静めるためでもある。  十蔵は、笑わなかった。笑わないことが、返事だったといえる。  三弥は、自分で玄関に出ていった。もう暗くなりかけた玄関先に、小源吾は、顔をこわばらせ、棒のように突っ立っていた。  これまでにも、小源吾は、しばしばそんな姿を見せた。そのつど、三弥はそれを、うまくさばいた。が、今日は、そう手軽にはいきそうにない。 「あらましは、小浪に聞いた。まず、あがってくれ」 「いや、ここでよい」 「ここでは、かどが立つ」 「直八を、渡すのか、渡さんのか、それを先に聞こう」 「そのことで、じっくり相談をしようというのだ。とにかく、あがってくれ」  すこし強くいった。しぶしぶだが、小源吾はあがった。座敷に通せば大仰《おおぎよう》になる。三弥は、わざと居間に通した。  そこには、碁盤と碁笥《ごけ》が用意してあった。あかりも置いてある。なにもいいつけはしなかったが、小浪のはからいに違いない。小源吾は、すわる時、腰からはずした大刀を、左がわに置いた。ふだんなら、もちろん、右に置くところだ。 「久しぶりに、どうだ」  三弥は、刀の位置には気づかぬふりして、すわるとすぐ、黒石をつまみ、盤の一隅に置いた。 「碁など打ちにはきておらん」  小源吾は、手荒く碁盤を押しのけた。 「さあ、返答を聞こう」 「落ちつけ、小源吾。落ちつかねば、とりかえしのつかぬことになる」 「ことは簡単だ。直八を黙って引き渡せば、けりはつく」 「そうはいかん」 「渡さぬというのか」 「まあ待て。——小源吾、直八は、不義を働いたといったな」 「そうだ。だから、成敗しようとすると逃げおった」 「不義といっても、おぬし、乳くりあう現場を見たのか」  小源吾は、一瞬、黙った。 「そうでなければ、やみくもに成敗しては、かわいそうだぞ」 「いいや、たとえ手をにぎっただけでも、不義は不義だ」 「やぼはよせ。そんなことをいえば、おぬしだとて、大きな顔はできまい」  三弥は、やんわり釘をさした。小源吾が、祝言をあげる前、すでに三弥の妹のすまと、ぬきさしならぬ仲だったことを、三弥はうすうす知っている。  小源吾は、ばつの悪そうな顔をした。 「なあ、悪いことはいわぬ。今日は、なにもいわず帰ってくれ」  おぬしのいいぶんだけではわからぬ。直八のいいぶんも聞いた上で、どう処置するかをきめたい。三弥はそういった。  直八は実直な若者だった。働きぶりも小気味よい。それを三弥は、小浪から聞かされている。 「おぬしにしても、かねがね賞《ほ》めていたではないか」 「それとこれとは、話が別だ」 「小源吾、できればおれは、まるく話をおさめたい。いかに下郎《げろう》でも、直八は血の通《かよ》った人間だ」  成敗することだけは、思いとどまってくれと、三弥は説いた。 「いいか小源吾。ことが表沙汰になれば、直八は助からぬ。それだけではない。おれとおぬしの仲もこれまでだし、四方八方に波紋《はもん》がひろがる。まっ先に泣くのは、小浪だ、すまだ……」  家中には、三弥と小源吾の仲を、ほほえましく見守っている者ばかりはいない。ねたみ半分に、ことあれかしと願っている者も、何人もいる。 「おぬしがことを荒立てれば、手をたたくやつが出てくる」  小源吾はうなずいた。どうやら、しだいに平静にもどりかけたようだった。が、まだ十分ではなかったらしい。 「正面切って、駆けこみ者を渡せ、渡さぬとなると、ことはやっかいだ。世間は、おぬしを火、おれを水と思っている。いかにも、おれは水かも知れぬ。だが、その静かな水も、まさかの時は、大木をも押し流す力を秘めている」  その三弥のことばのあやを、小源吾はまともにとった。 「おぬし、おどすのかおれを」  たちまち、また殺気だった。 「違う、違う、そうではない」  三弥は、いきり立つ小源吾を、しきりになだめようとするが、てんで聞き入れない。 「兄上、いま夕食の支度ができました。どうぞ、三弥といっしょに、召しあがってくださいまし」  小浪のことばにも耳をかさず、 「今日はひとまず帰る。しかし、直八はいずれ、刀にかけても受けとるぞ」  小源吾は、すっと立ちあがった。刀にかけてもということばには、さすがに三弥も、こちんときた。が、それを押し殺して、 「待て、待ってくれ、小源吾」  あわてて、小源吾のあとを追った。外は、すっかり暗くなっていた。門の外には、気づかった通り人の気配《けはい》がする。屋敷のなかのようすを、うかがっていたのに違いない。おそらく、なにごとかをかぎつけたものだろう。三弥は、小源吾の耳にささやいた。 「悟られる。落ちついてくれ」  小源吾を、門の外まで送って出て、 「今日はおもしろかった。そのうちに、またきてくれ」  三弥は、わざと陽気にいった。小源吾には、こんなとき、たくみに受けとめる器用さがない。ぎくしゃくとして歩き出した。 「困ったやつ……」  三弥は、腕を組んだ。     三  その夜、三弥は直八を呼んで、委細《いさい》を問いただした。  直八は、かねてから、みわが好きだったこと、いまではみわも、自分を憎からず思ってくれているということを、素直に打ち明けた。 「でも、ふしだらなまねなど、一度もいたした覚えはございません。それだけは、信じてくださいまし」  そして、二人の仲を、奥さまだけは、うすうすご存じでしたと、いい添えた。 「すまが知っていたと……」 「はい、悪いようにはせぬから、しばらくのあいだ辛抱《しんぼう》しているように。よく、そうおっしゃったそうでございます」  それをみわに聞かされたので、軽はずみなことはするまいと、直八は心に誓い、その誓いを守って、みわに、指一本ふれぬようにつとめたという。  信じてよいと、三弥は思った。 「ところが、きのうの宵のころ、二人で話し合っているのを、つい大奥さまに見つかりました」  大奥さまとは、小源吾の母、とねのことだった。直八とみわは、とねに見られた時、手一つにぎり合っていたわけではない。が、むかしかたぎのとねは、それさえ許さず、きびしく責めた。見かねたすまが、横からとりなすと、とねはいっそうつむじをまげ、二人のことを、必要以上に強調して、小源吾に告げたのだった。  それを、そのまま受け取った小源吾は、今日の昼、直八を呼びつけて、真《ま》っ向《こう》からなじった。  小源吾にしてみれば無理もない。みわは、出入りの商家から、行儀見習いのために預っている娘だった。いきおい、小源吾は、口ぎたなく直八をののしった。  頭ごなしに、不義もの呼ばわりだった。若い直八には、耐《た》えられなかった。思い合っているという自負もある。指一本ふれたことのない清い仲を、疑われたというくやしさもある。ついむきになって、 「それはあまりでございます」  と口ごたえしてしまった。 「口ごたえをするか」  腹を立てた小源吾は、 「女中とはいえ、みわは大事な預り人だ。中間の分際《ぶんざい》で、思いを寄せるなどとはもってのほか。きっぱりと思い切れ。誓うか。思い切ると誓うか」  と迫った。  あまりにもくやしく、 「いいえ、思い切ることはできません。みわも同様だと存じます」  直八は、ずばっといってのけた。いわずにはおれなかった。それが、小源吾の怒りを決定的にした。 「おのれ」  小源吾は、いきなり抜き打ちを浴びせた。その刃の下をかいくぐって、直八は屋敷を飛び出し、死物ぐるいに走って、気がついたときには、三弥の屋敷に駆けこんでいたのである。 「ただもう、夢中でございました。そのために、こちらさまにまで、ご迷惑をおかけするはめになり申しわけございませぬ」  あの時は命がけだったので、だれの屋敷か見定めるゆとりもなかったと直八はいい、思いつめたような顔で、 「お邪魔いたしました」  と頭をさげた。 「どこへいく気だ」 「お屋敷へもどります」 「もどる……。ばかな、いまもどれば、そなたの命はないぞ。小源吾が、いますこし落ちつくまで、待つがよい。わたしが、なんとか穏便《おんびん》に話をつけてやる」 「いいえ、こちらさまに、ご迷惑をおかけするより、いっそのこと……」 「いいから、まかせておけ」 「でも、わたくしのために、お二人が、仲たがいをなされては……」 「心配することはない。まかせろといったらまかせろ」  無理にいってさがらせた。 「どうしたものか……」  まかせろとはいったものの、三弥は判断に苦しんだ。このまま、直八をどこかへ逃がしてしまえば簡単だが、それでは、直八のせっかくの夢を砕くことになる。それにまた、 「三弥と小源吾のようだ」  といわれて、仲のよいことのたとえにまでされる小源吾との友情も、断ち切ってしまわねばならない。  かといって、ほかにこれという、いい思案はなかった。 「はたの者に気づかれてはしまいだ……」  わかっていることは、それだけだった。とにかく、いまのところは、世間に知られぬことを願う以外にない。いったん、表沙汰になってしまえば、三弥も小源吾も、好むと好まざるとにかかわらず、とことんまで意地をつらぬくほかはなくなるのだ。 「それにしても……」  と、三弥は、母のとねのことばを、そのまま受け取って、直八を不義者呼ばわりする、小源吾の単純さが、腹だたしかった。もともと三弥は、そんな小源吾の単純さが好きだった。しかし、その単純さは、ときとして、箸《はし》にも棒にもかからぬものとなる。こんどの場合がそうだった。     四  ゆうべは、よく眠れなかったらしい。小浪の目が、赤かった。三弥にしても、心にわだかまりが残っている。相手が小源吾でなかったら、とっくに腹を立てているところだ。  朝食のあと、三弥は縁に出た。  縁から山が見える。中腹に桜があって、のどかな眺めだが、心にとめるゆとりがなかった。 「どうなされます」  小浪がきいた。 「こっちから、出かけてみよう」  小源吾と、小源吾の母のとねに会って、じっくり腹を割って話し合おう。それ以外にないと思った。  その時、若党の佐田十蔵がやってきた。 「ただいま、伊吹さまから、お使いが見えました」  見ると、書状を手にしている。 「使いは帰ったか」 「いえ、ご返事をいただきたいとのことでございます」  三弥は、書状をひらいた。奔放《ほんぽう》な走り書きだった。顔が目に見えるような、はげしい筆づかいに、三弥は苦笑した。 [#1字下げ]——本日正午までに、直八をお引き渡し願いたい。直八がもどらねば、みわを成敗する。  以上のようなことが書いてある。 「からめ手からきたか」  これは、真っ向からこられるよりも、いっそう始末が悪い。やむなく、直八を呼んで、その書状を見せた。直八は色を変えた。しばらく迷っているようだったが、みわを殺すわけにはいかないと、腹をきめたのであろう。ややあって、 「すぐ、もどります」  といった。 「だが、もどれば、小源吾はそなたを斬る。おそらく、そなた一人を斬る」  みわは斬るまいと、三弥はいった。 「仕方ございません」  直八は、きっぱりいった。ことばの上だけではない。真実そう思いつめているのが、はっきり見てとれた。 「これほど思いこんでいる直八を、ありきたりの、不義者呼ばわりしてなるものか」  三弥はそう思った。 「直八、もどることはない」 「でも、それでは……」 「心配すな。これは手だ」  三弥は、自分で玄関に出ていくと、小源吾の使いに、 「返事はこちらから、あとで届ける。その旨《むね》小源吾に伝えてくれ」  といった。  使いが去ると、三弥はすぐ机に向い、長文の手紙を書いた。かどが立たぬよう、小源吾の心がほぐれるよう、一字一句までこまかく神経を使い、二十年以上の友情をつづり、直八の真情を説き、成敗だけは見合わせてくれるようにと頼んだ。 「これがわかってもらえねば、二人の仲もこれまでだ」  三弥はその手紙を、小浪に見せた。読み終わった時、小浪の目はぬれていた。 「使いには、わたくしがまいります」 「うん、そうしてくれ」  昼ごろ、小浪は実家へ、書状を届けにいった。そのあと、なかなかもどってこない。もどってこないのは、脈がある証拠と見てよかった。  日の暮れごろ、やっと小浪はもどってきた。三弥は、すぐ小浪の顔を見た。暗くはなかった。 「どうだった」 「わかってくれそうでございます」  小浪は、微笑した。 「あすまで、考えさせてくれ。兄はそう申しました」  よかった。三弥はほっとした。あすまで考えさせてくれということは、そのまま、小源吾が納得したことを意味している。小源吾の性癖《せいへき》を、三弥は知りつくしていた。  張りつめていた心が、一時にゆるんだせいだろう。その夜、三弥の胸の中で、小浪はこどものようにむせび泣いた。  が、安心するのは早かった。一夜にして、事態は急変したのだ。三弥が、もっともおそれていたことが、現実になった。  朝早く、藩校文武館時代のなかまの一人、二宮|佐久馬《さくま》がやってきて、玄関で、三弥の顔を見るなり、 「やったそうだな」  といった。 「なにがだ」 「とぼけるな。駆けこみ者をかくまっただろう。しかも相手は、伊吹小源吾というではないか」 「違う。おれはなにも知らぬ」 「いまさら、隠しだてしてもむだだ。もう、家中《かちゆう》の者はほとんど知っている」  二宮佐久馬は、にやにやした。案じてくれている顔ではない。佐久馬の語るには、 「三弥と小源吾が鞘当《さやあ》てか。これはなかなかの見ものだぞ」  と、城下すずめは、口々にさわいでいるという。 「かえってくれ」  三弥は思わずどなりつけた。     五  二宮佐久馬が去ったあとも、つぎつぎに人がきた。野次馬気分まる出しの者もいる。心から案じてくれている者もある。ともあれ、ここまで人に知られてしまった以上、うつべき手はなかった。 「やむを得ぬ」  三弥は、腹をきめた。小浪にも、その旨《むね》いいふくめた。  小源吾からは、昨日のように、奔放な走り書きでない、後悔と、苦渋《くじゆう》に満ちた書状が届けられた。それには、多年の友情を謝した上、ことここに至っては、刀にかけても、直八を受け取るほかはないとあった。 「刀にかけても渡されぬ」  と、三弥もただちに返書を送った。  若党の十蔵には、 「直八から目を放すな」  といいつけた。責めを感じた直八が、思いつめたことをするおそれがあるからだった。直八は哀願した。 「わたくしを、引き渡してくださいませ」 「ばかなことをいえ。いまさら引き渡すくらいなら、とうにそうしておる」  三弥は一喝《いつかつ》した。  どうやら、直八はすでに、みわのことはあきらめたらしい。三弥は、 「ひそかに裏口から逃がしてやるか」  と思わぬでもない。が、そうすれば、おそらく直八は、逃がれはせず、殺されることを覚悟で、伊吹家の門をくぐるに違いない。  三弥は、小源吾を待った。日が暮れても、小源吾は姿を見せなかった。あるいは、家老からの指示があったのかも知れない。  夜になって、ほとほとと門がたたかれた。  小源吾の妻のすまだった。 「去り状を渡されました」  という。  すまは、血の気《け》もなく、げっそりとやつれ果てていた。その姿に、小浪は胸をつまらせた。三弥は、小浪にいった。 「小浪、そなたも去るか」 「いいえ」  小浪は、必死にかぶりをふった。すまは、三弥にいった。 「兄上、直八と会わせていただけますか」 「会ってなんとする」 「みわのこと、伝えてやりとう存じます」  三弥は、聞き入れてやったものかどうか、つかの間、迷った。 「わたくし、直八を呼んでまいります」  小浪が立ちあがった。三弥は、とめはしなかった。一つには、すまが、直八たちの理解者だと聞かされていたからでもある。  ほどなく、小浪にともなわれて、直八が姿を見せた。 「奥さま……」  膝をついて、なつかしそうに、直八はにじり寄った。 「直八……」  すまも、膝を進めた。すまの顔が、いっそう青ざめ、ひどくこわばっている。唇もかすかにふるえていた。 「なにをする!」  すまの右手が、ふところにいくのと、三弥が飛びこむのがほとんど同時だった。懐剣がすまの手から、はね飛んだ。  三弥はすでに、すまをねじ伏せている。 「すま、なんで直八を刺そうとした。小源吾にいいふくめられたのか」  すまは、唇を噛んで答えない。 「いえ、いわぬか」  三弥は、すまの片腕をしぼりあげた。 「小源吾の、いいつけではございません。すまの、すまの、一存でございます……」  すまは、きれぎれにもらした。  直八の顔が、大きくゆがんだ。目から、涙がしたたり落ちた。 「ばかなやつ……」  三弥は力をゆるめた。すまが不憫《ふびん》だった。  すまの肩が、はげしく波うちはじめた。 「もどれ、すま。今夜のこと、まことそなたの一存ならば、書状をしたためてやる。それならば小源吾も、屋敷に入れぬとはよもやいうまい……」  三弥はやさしくいった。     六  夜が明けた。直八が駆けこんでから、もう十日もたったような気がするが、実際には、まだ三夜が過ぎたばかりだった。  昼近くなった。小源吾はやってこない。 「だれかに、扱いでも頼んだのか」  三弥は、そう考えた。昼過ぎに、来客があった。三名である。家老の日野|刑部《ぎようぶ》、小源吾の上司《じようし》山崎彦五郎、それに、三弥の上司桜井主膳であった。  座敷に通すと、日野刑部が、早速用を切り出した。 「二十年来親しくしてきたその方と、ことをかまえるに忍びぬ。そういって、山崎彦五郎を通じ、小源吾が扱いを求めてきた」 「しかし、小源吾は、刀にかけても直八を受け取る旨、書状をしたためて届けました」 「それはいわば、勢いと申すものだ」  ことは、主君松平上野介の耳にも、すでに達している。上野介も、三弥と小源吾の仲については、くわしく承知していた。 「それ故、殿にもいたく案じておわす」 「われわれに、まかせてくれぬか」  桜井主膳もことばを添えた。 「どうせよといわれます」 「直八を、小源吾に引き渡してもらいたい」 「せっかくながら、お断わりいたします。それでは、三弥の武士が立ちませぬ」 「いや、さようなことはない。これは、おそれ多くも、ご上意なのだ。されば、直八を引き渡したからとて、その方の士道には傷はつかぬ」 「いかにご上意でも、この儀は、お受けいたしかねます」 「かなくななことを申すな。よいか三弥、直八を引き渡すことで、万一とやかくいう者があれば、われわれが許さぬ」 「ご家老」  三弥は、強い目で刑部を見すえた。 「なんだな」 「条件一つでは、直八を引き渡してもよろしゅうございます」 「どうせよと申すのだ」 「直八の命、保証してくださいますか」  刑部は、彦五郎や主膳と顔見合わせた。明らかに、当惑の色がある。 「たってとならば、保証してもよい」  刑部はそういった。 「証拠を見せていただきましょう」 「——証拠だと」 「お三方の、誓紙《せいし》をいただきとう存じます」  ずばっと三弥はいった。 「そうまでせずともよかろう」 「いえ、いただきます。あとで、そんな約束は知らぬなどといわれては、三弥の立ち場がございませぬ」 「三弥、直八はたかが下郎ではないか」 「だから、命などどうでもよい。そうおっしゃるのでございますな」 「いや、そうではない、そうではないが、一応、小源吾の顔も立てんとの」  刑部につづいて、 「このたびのこと、もはや、家中に知らぬ者はない。さわぎがここまでひろがった以上、不憫ながら、直八には」  死んでもらわねばいたしかたないと、彦五郎がいった。 「ならば直八は渡さぬ」  三弥の顔が青くなった。 「どうあってもか」  刑部の声もとがった。 「どうあっても」 「そのかわり、どんなことになるか、承知しておろうな」 「討手をさし向けるとおっしゃるか」 「さよう」  つめたく、刑部が答えた。  桜井主膳が、にじり出ていった。 「三弥、直八を引き渡してくれ。頼む」 「お三方」  三弥は声をふるわせた。 「お三方、青くさいせりふなれど、下郎とても、人間でございます。直八の命とて、人の命でございます。なんとか、なんとかお助け願えませぬか」 「処置はすでにきまった。藩の方針としてきまったのだ。もはや変改《へんがい》ならぬ」  きびしく、刑部はいった。そのことばの終わらぬうちに、三弥は、おどりかかっていきなり刑部を組みしき、そののどもとに、脇差のきっ先をあてた。 「桜井どの、山崎どの、動けばご家老の命はない。さあ、誓紙を書かれい。直八の命は助けると、誓紙を書かれい。——小浪、硯《すずり》をこれへ持て」  その時、三弥に組みしかれながら、刑部が叫んだ。 「誓紙は書くな。わしは殺されてもよい。わしにかまわず、すぐさま引きかえして、討手を差し向けよ」  さすがは、家老だった。  のるかそるかの思い切った手段をかわされた三弥は、胸ぐらをつかんだまま、引きおこした刑部を、力いっぱいつきはなすと、脇差を、ずぶりと畳に突き立てて、その場にすわりこんだ。  衣服の乱れを、手早く直した刑部は、山崎彦五郎と、桜井主膳を、あごでうながして、ゆっくり座敷を出ていった。彦五郎が、あわててあとを追った。  主膳は、彦五郎につづこうとして、一度立ちどまり、三弥を振りかえった。 「三弥、元和《げんな》、寛永の昔でもないに、なぜそうまで意地を張るのだ。いまなら、まだなんとかなる。忍びがたかろうが、直八を引き渡す気にはなれんか」 「なれませぬ」  はっきりと、三弥はいい切った。     七  仙石家の表門は、大きくひらかれていた。屋敷の内外は、ちり一つなく掃《は》ききよめられている。討手を待つためであった。畳は、一枚も残らず裏返ししてある。  三弥は昨夜、奉公人たちに、すべてひまを与えた。中には、 「あくまでごいっしょに」  と、いいはる者もあったが、強い三弥の説得によって、泣く泣く去っていった。ことに父の代から仕《つか》えてきた佐田十蔵は、最後まで聞き入れようとしなかった。しかし、その十蔵も、夜明けがた、心を残しつつどこかへ去った。  直八も去らせた。 「ことのおこりは、わたくしにございます。そのわたくしが、立ち去るわけにはまいりませぬ。どうぞ、どうぞ、ここで死なせてくださいまし」  と、泣いてすがりつくのを、叱りつけて追い立てたのだった。だから、三弥のほかに、ここにとどまっているのは、小浪がただ一人である。むろん、小浪にも去れとすすめたのだが、小浪はきかなかった。 「死んでくれるというのか」 「はい」 「思い残しはないな」 「はい。ただ……」  しばらく、口をつぐんでから、 「ややが、欲しゅうございました……」  と、小浪はいった。  夜が明けてから、三弥は茶を喫した。小浪は、静かに茶を立てた。とり乱すまいと、必死に耐《た》えているのが、三弥の心に、じいんとひびいてきた。それでも、最後に、ほんのわずかだが、小浪の手がふるえた。それが、いっそういとしかった。  そのあと、三弥は身支度をかためた。 「討手はおそらく小源吾」  三弥には察しがついている。  小源吾ならば、腕はほとんど互角《ごかく》だった。文武館時代から何十遍となく立ち合って、打ちこみのくせまで、たがいに知りつくしている。まともに立ち合えば、九分九厘、相打ちに違いない。  が、三弥は討たれる腹だった。  ことは、直八の命を救いたい一念から発している。それが、もつれてこんな結果を招いたのだ。とすれば、せめて捨てるのは、おのれの命一つにとどめたい。そんな思いがどこかにあった。  式台に床几《しようぎ》を持ち出して、腰をおろしていた三弥は、ゆっくりと立ちあがった。足音が聞えたのだ。一人の足音ではなかった。  開け放った表門から入ってきたのは、五名であった。中条|左文次《さもんじ》、野見源内、榊原《さかきばら》仁右衛門、志賀八十郎、鳥井六之丞、いずれも、使い手ばかりである。伊吹小源吾の姿はなかった。 「上意《じようい》——」  先頭の中条左文次が、刀の鞘《さや》をはらった。 「小源吾はどうした」 「殿様ならびに、ご家老の思召しによって、小源吾はこぬ」 「殿の思召し……」 「ありがたく思うがよい。二十数年来の朋友《ほうゆう》同士、たがいに血を流させるに忍びずとのおはからいだ」 「ばかな!」  三弥の胸に、火のようなものが突きあげてきた。そこまではからうほどの、思いやりがあるならば、なぜ、あんなに頼んだ、直八の助命を聞き届けてやれないのか。たたきつけるようにいった。 「なぜだ、なぜだ、直八が下郎ゆえか。下郎とて、虫ではないぞ」  三弥は、討たれる気を捨てた。 「こいっ、一人も残らず斬り捨ててやる」  抜き放った三弥は、八双《はつそう》にかまえた。五名の討手は、半円になって、じりじりと迫る。その動きにつれて、三弥も、すこしずつ足をずらせた。  さすがにすきはない。五名の討手は、半円を、それ以上ひろげることができなかった。三弥は、つ、つ——と、左へ寄った。五名をたてにして迎えるためだ。横にして迎えればどうしても不利になる。  五名は、あわてて、横に散ろうとした。だが、三弥はそうはさせない。先頭にいた中条左文次が、三番目になっていた。  その時、だれかが入ってきた。 「のけ、のいてくれ。おれがかわる」  小源吾だった。討手を願い出て許されず、ひとまず思いとどまりはしたものの、やはり黙っておれなかったものと見えた。 「ご一同、さがってくれ」 「いや、それでは役目がすまぬ」  中条左文次が答えた。 「申しひらきはおれがする」  小源吾の声に、かぶせるように、三弥も叫んだ。 「小源吾とかわってくれ」  五名は顔を見合わせたが、やがて引きさがった。ただし、刀は抜きつれたままである。 「かたじけない」  小源吾が前に出た。 「きたか」  これで、おれ一人の命ですむ。三弥は、そう思った。小源吾はまだぬかない。 「三弥、ゆうべおそく、直八がきた」 「なにっ」  なんということだ。あれほど、逃げのびよといったものを。三弥は、とっさにことばもなかった。 「三弥、直八はなあ、わたしを切ってくれ、そしてこの首を、ご家老に届けてくれ。そういうのだ」 「それで、どうした。おぬし」 「切るわけがあるか。おれは、すぐさま、夜中をもかまわず、ご家老のもとへかけつけた。そして、委細《いさい》を申し上げた。だが、だがご家老は、もはやいかんともしがたい。そう、仰せられた……」 「では、直八は……」 「逃がしてやった。一目、みわと会わせた上でな。それ以上は、どうしてやることもできないのだ……。直八のような男を、頭ごなしに、不義もの呼ばわりして、おれは……、おれは……」 「もうよい……。ぬけ、小源吾」 「三弥……」  ようやく、小源吾はぬいた。その目が、なにかをさがしている。小浪をさがしているのだ。それが、三弥にはわかった。もう、いまごろ小浪は、別室で、のどを突いているのかも知れない。せめて、せめてこの手で、とどめを刺してやりたかった。  庭には、何本か桜がある。満開には何日か早いが、もう美しく花を咲かせていた。 「ことしの花見はできなかったな——」  ふっと、そんな思いがひらめいた時、小源吾の声がした。 「三弥、いくぞ」  同時に、はげしい突きがきた。わずかにかわした。両者のからだは、入れかわっていた。一歩、小源吾が出た。三弥はさがる。いつの間にか、三弥は、仙石家でいちばん大きな桜を背にしていた。  中条左文次以下の五名は、だれからともなく、刀を鞘におさめている。 「とう」  二度目の、小源吾の突きがきた。その突きを、三弥はかわさず胸で受けた。それと、ほとんど同時に、三弥の刀が空《くう》を切った。いや空を切ったと思ったが、三弥は、その刀にしたたかな手ごたえを感じた。 「ばかな——」  三弥の叫びは、もう声にならなかった。しかし、三弥は知っていた。小源吾が、わざと相打ちをえらんだことを。  三弥は、自分の刀が、小源吾のどこを斬ったか知らない。ただ、おそらく小源吾も助かるまいという、手ごたえだけはわかった。  三弥は、桜に背を持たせていた。足もとに小源吾がうずくまっている。その上に、三弥のからだがくずれ落ちた。  この日から、 「三弥と小源吾のようだ」  ということばは死んだ。 [#地付き](了)  [#改ページ]  綾尾内記覚書 [#地付き]宝暦十二壬午年九月十一日    なんとも厄介至極な問題が生じたものである。もはや世にない筈の勝山|造酒《みき》が実は今もなお生きながらえているという。半年程前に江戸詰を解かれて、この岡崎へ帰ってきた内藤伊右衛門の口から出たことである。  昨日の昼過ぎ、私は月番家老二本松右京殿に呼ばれてそのことを聞いた。勝山造酒はもと当岡崎藩で馬廻り役をつとめ食禄二百石、かねてから剛直の士として知られていた。それでいて闊達《かつたつ》なところもあり、朋輩間の気受けも悪くはなく、御家老たちからも役に立つ男として重んぜられていたらしいが、二十七年前の享保二十年三月はじめ同輩の玉置《たまき》市之丞を討ち果たして当城下を出奔している。  当時私はまだ十四歳であったから、勝山造酒についてはほとんど知らない。もちろん勝山造酒が玉置市之丞を討ち果たした事件は、岡崎城下でも相当評判になったかと思われるので、あるいは私も一、二度は小耳にしているのかもしれない。しかし、現在ではまったく何一つとして私の記憶には残されていないのである。二本松殿自身も、これというはっきりした記憶は持たれていないもののようであった。  造酒が市之丞を討ち果たすに至った経緯もくわしくはわかっていない。あとで藩の記録類を繰《く》って見たところ、お役所日記享保二十年三月四日の項に、きわめて簡略な記述があったが、闘諍《とうそう》に及んだ原因は、ただ武道の意趣によりとのみで一切おぼろのままである。この時勝山造酒は二十九歳、玉置市之丞は三十二歳であった。  市之丞には妻女そのとの間に小五郎という一子があり、当時まだ六歳であった。それから十年後の延享二年四月、小五郎は敵討のために当城下を出立、供には下僕の半蔵が従った。そしてまるまる十二年の辛苦の末、宝暦七年春、主従はめでたく宿怨を晴らして帰国したのである。同時に小五郎は跡目相続を許された。以来精励|恪勤《かつきん》今日に及んでいる。ところがその小五郎主従に討たれた筈の勝山造酒が、実は今なおこの世にたしかに存在しているというのである。それは内藤伊右衛門の口からもれた。  伊右衛門は七、八日前、榊原右内の許へ出かけた。ささやかな祝いごとがあって招かれたのである。ほかに田安惣八郎、森川三左衛門、野々宮忠太らも招かれたらしい。酒肴が運ばれてひとしきり座がにぎわった。そのうち、談たまたま玉置小五郎のことに及んだ時ほほうと伊右衛門がからだを乗り出した。酒くさい息を無遠慮に吐き散らし、相当悪酔いしていた模様である。もともと酒癖のよからぬ男だった。江戸詰を解かれたのも、酒の上での失敗のせいだろうといううわさもよく聞かれる。 「不思議なことがあればあるものだな。玉置小五郎に討たれたというその勝山造酒に、おれは江戸で会うたことがある。さよう、二年あまり前のことだ。はてさて面妖な」  伊右衛門はそういった。玉置小五郎が本懐をとげて帰ったのは、五年前の宝暦七年春であった。しかるに伊右衛門は、討たれた筈の勝山造酒に二年前に会ったという。事実とすればこれより面妖な話はない。まずいことになったと気をきかせて田安惣八郎は、 「これは内藤氏、少々|酩酊《めいてい》なされたな」  と笑いにまぎらわせようとしたが、 「いや、これしきの酒で内藤伊右衛門、酩酊はいたさぬ。二年前に、おれはたしかに勝山造酒の姿を見かけた。さても不思議なことよ。勝山造酒が二人もいるとは」  伊右衛門はしきりにいい募《つの》った。その後もくどくどと同じことを繰りかえす始末に、一同ほとほと困惑しもてあましたが、それでもなんとか都合よくあしらって、ようやく門口を送り出したのだという。 「それについては、田安がこっそりわしの耳に入れてくれた。榊原、森川、野々宮らへは口どめしてあるので、今のところ他にはまだもれてはいない。とかく表沙汰になっては困る点もある故、ことの真相を、おてまえの手で内々にとりただしていただきたい」  二本松殿はそう申された。そして、 「内々にという理由、わかっているであろうな」  とも念を押された。目付としては、私——綾尾内記のほかに、真田六左衛門、伊藤八太夫、加藤嘉内、中代之助、吉田八左衛門らがあるが、二本松殿は、私以外にはまだ何も明かされていない模様である。というのは、もしこれが、何らかの間違いであった場合はよいが、万一にも内藤伊右衛門のいうごとく、勝山造酒が事実今なお生きているとすれば、表沙汰になることは他藩への聞こえもあって、藩の面目上も由々《ゆゆ》しいことだからである。いずれにしても、まことに厄介な問題が生じたといわねばならない。 [#地付き]九月十六日    内藤伊右衛門の酔余の言のごとく、勝山造酒が今なおこの世に存在しているとすれば、玉置小五郎主従は、果たして誰を討ちとって帰参したのであろうか。当然にせものを討って帰ったことになる筈である。私は今日も古い記録類をとり出して調べに当たった。  玉置小五郎と下僕半蔵が、首尾よく本懐をとげて帰参したのは、宝暦七年春、くわしくは三月十八日である。届出は、あくる十九日付をもってなされている。それによれば、彼ら主従は、同年三月七日、御府内白金村においてめざす勝山造酒とめぐり会い、多年の宿意をとげたことになっている。造酒はこの時五十一歳、痼疾《こしつ》のために剣をとる能《あた》わず、小五郎が自裁をすすめた。観念した造酒がかろうじて脇差をとり、形ばかりに腹へ突き立てるところを小五郎が介錯したという。武士の情けを知るゆかしい振舞として、帰参の当座小五郎がしきりに称揚されたことを私は思い出した。  その勝山造酒がいまだに生きているなどとはとうてい信じられない。今日の夕刻、私は内藤伊右衛門を自宅に呼んだ。家士に案内されて居間に入ってきた時、彼のおもてには明らかに不審の色がたたえられていた。何故に目付の私宅に招かれたものかにわかには解しかねるていである。座につくのを待って、私はおもむろに伊右衛門に切り出した。 「勝山造酒のことに関して、いささかたずねたい。おてまえは先年造酒と会われたそうだな。もはや世にない筈の勝山造酒と」  ある衝撃が伊右衛門のからだを走った。はっとこの時ようやく思い当たった風である。してみると、先夜の酒の上での放言を、なかば失念しかけていたものだろうか。ややあって平静にかえり彼はしばらく沈思していた。伊右衛門は六十二歳になる。思慮分別は申し分ないものと見てよかった。当然私は、当たりさわりのない返答を期待した。 「私には信じかねることだが」  だからすぐこうつけ加えたのである。覚えがない、何も知らぬといって欲しかった。酒の上のことであったから、申し訳はなんとでもつく筈である。ことに当夜の伊右衛門は酩酊甚しかったと聞いている。是非にも覚えがないと答えて欲しいものであった。さすれば二本松殿も、それ以上の追求はなさらぬ筈である。それは容易に察しがつくし、ことの糾明を特に私一人に申しつけられたのも、おそらくそのためと見なすことができる。伊右衛門の顔には苦渋がただよった。私はその時かすかに危惧を覚えた。やがて彼はじりりと膝を進めた。期待は、裏切られたのである。 「いかにも勝山造酒と出会ったこと、覚えがあります。さよう、ちょうど二年前、木挽町の通りで造酒の姿を見かけました」  木挽町に研勝《とぎかつ》と看板を出した研屋がある。そこの前を通りかかった時、店先から伊右衛門の目の前に出てきた五十年輩の武家があったが、それがまぎれもなく勝山造酒だった。浪人ていではなく、たしかに主持ちと思われる身なりだったとも伊右衛門はつけ加える。その折、造酒と何か言葉の一つもかわしたかと私はたずねた。そうではない。一瞬はっとして、呼びとめようとした時には、もう造酒の姿を見失っていた。それで、研勝の店先に立ち寄って素姓をたずねると、越後高田の藩中有本兵衛という返事であった。しかし、その男が勝山造酒なることは、絶対に間違いないと伊右衛門はいう。 「それだけでは、間違いないと断言するわけにはいくまい」 「いいや、断言できます」 「見誤りではないかな」 「決して——。てまえは以前、造酒とは親交がありました故」 「だが、造酒が当岡崎を出奔したのは、すでに二十七年昔のこと」  伊右衛門が造酒と出会ったのが今から二年前であるにしてもその間二十五年の歳月が経っているわけである。それでいて、言葉をかわすこともなかった行きずりの男を、とっさに勝山造酒に相違ないと判別できるものであろうか。私の疑問に対して、伊右衛門は再度、決して見誤りではないと確信をもっていい切った。少し意地になっているようなところが見えぬでもなかった。 「それがまことならば、玉置小五郎が討ったのは、にせ者だったことになる」 「まず、そういうことになりましょう」  伊右衛門の答えはにべもない。きわめて微妙な立場に置かれる玉置小五郎への思惑などどこにも見られない。 「かさねて念を押そう。越後高田の有本兵衛なるその男、たしかに勝山造酒にまぎれない。その通りだな」  おどしの意味もいくぶんあった。万一の場合あくまで責任をとれるか。私はそれとなく匂わせたのである。 「この首をかけましょう」  伊右衛門はためらわずいいきった。他言無用を申し渡して、私はひとまず彼を引きとらせた。どうやらいよいよ厄介なことになってきたようである。  それにしても、このような不可思議なことがいったいあり得るものだろうか。間違いないと、断固としていいきった伊右衛門の言を真実とすれば、玉置小五郎は当然別人を討って帰ったことになる。では小五郎は誰を討ったのか。敵でもないのに、討たれてやるばかがあろうか。たとえ痼疾に悩まされていたにしても、なかなか生への執着を捨てきれぬのが人間なのである。だが、その考えを振り払うように、私はふとまた二本松右京殿の言葉を思い出した。先日、二本松殿は私にこう申された。 「にせものを討って帰るということ、絶対に考えられぬものでもない。敵討と一口にいっても並たいていではないからな。はた目には、これほどはなばなしく、また勇ましいものはないようだが、当人の身になれば、言語に絶する難行だろう」  まことに苦行には違いない。たとえ十五年かかろうと、二十年かかろうと、首尾よく本意を達せぬかぎり、主家への帰参は許されぬことである。さもない以上、浪々窮迫のうちに、灰色にぬりつぶされたままの暗い生涯を終わるほかはなかった。では玉置小五郎は、いつ果てるともない流浪の苦しさに耐えかねてなんらかの術策を弄したのか。しかし、これはおよそ不可能に近い。場所が場所、白金村は、朱引内《しゆびきうち》と称される御府内のうちだからである。疑わしいのは、行きずりの者を、勝山造酒にまぎれもないと固執する内藤伊右衛門の方ではないか。意地にかかっていい張っているとも考えられぬことではない。 [#地付き]九月二十四日   「替玉を討って帰ること、絶対に考えられぬものでもない」  なにげなしにそう申された二本松殿の言葉が、今も私の耳にこびりついている。まさかと、簡単に打ち消してしまえないものがあった。それはたしかに、事実によって裏づけられた。敵討が言語に絶する難行であることをいくたの事例が雄弁に物語っている。  昨日まで数日間にわたって、私は藩の記録類にあらまし目を通し、当岡崎水野家における敵討の事例を調べてみたのである。元和元年、大坂の役における功をもって、野州山川三万五千石を領された監物《けんもつ》忠元公、駿河の田中、参州吉田を経て、さらにはここ岡崎へお移り遊ばした大監物忠善公、右衛門大夫忠春公、以下当主水野和泉守忠任公に至る、八代の間の記録をたどった結果、つぎのようなことが判明した。もとより怱忙《そうぼう》の間になしたこと故いくぶんの見落しもあろうかとは考えられるが、八代およそ百四十余年の間に、正式に君公のお許しを得て、敵討の壮途についた例が十五件に及んでいる。  ところが、驚くべきことには、そのうち運よく本懐をとげて帰参した例は、玉置小五郎の場合を含めて、わずかに四件に過ぎなかった。他はほとんどが、某年某月敵討に出立とあるのみで、あとはなんの記載もなく空白のままに残されてあり、後に朱筆をもって絶家と書き入れてある。中に一つ、二十年の辛酸がようやく実を結ぶ寸前に、めざす敵に急死されて発狂したという事例もあった。これによっても、はた目にははなばなしい敵討の壮挙が、当事者にとっては、いかに筆舌につくしがたい苦行であるか、容易に推量できるというものである。  他の討手の人々が、どのような運命をたどったかもおよそ想像にかたくない。不運にも返り討になった者もあろう。敵を見出せぬまま絶望のあげく、窮迫のうちに果てた者もあろう。あるいははるかな家郷に思いをはせ、袂《たもと》をわかった肉親のおもかげを偲《しの》んでは、暗然と涙を呑み、いつしかその足跡を絶った者もあるに違いない。それらの人々は、めでたく本懐を果たさぬかぎり、二度と家郷の土を踏むことはできないのである。家督相続は許されないのである。某年某月敵討に出立と記されたのみで、今は紙の色もくすんでしまった空白の中に、私は、むなしく他国に果てたであろう討手の人々の、無限の妄執を見る思いがしてならなかった。  では玉置小五郎は、果てしもない流浪の辛酸に耐えかねて、そこになんらかの術策を弄し替玉を討ちとって帰参したのだろうか。考えられぬことではない。だが、私の答えは否である。宝暦七年春、首尾よく本意をとげ、帰参して以来の小五郎の恪勤ぶりは誰しもみとめている。篤実重厚の人柄たることも、衆目のひとしく見るところであった。彼、玉置小五郎にかぎって、そのような卑劣漢とは夢にも考えられぬ。  昨日夕刻、私は二本松殿の私邸をたずね、これまで調べあげたあらましを報告した。二本松殿はただ軽くうなずかれるのみにて、別段の指示もなかった。 「くれぐれも内々に」  と念を押されただけである。 「明夕刻、玉置小五郎をこれへお呼び下さいませんか」  私はそう申し出た。  今日、二本松殿の私邸で、私は玉置小五郎と会った。私の姿を一目見た時、小五郎の顔にも、さきの内藤伊右衛門の場合と同様、ちらと不審げな表情が浮かんだ。何故呼ばれたか解しかねるていであった。数日前に、私が下僕の半蔵を呼びつけたことには、まだ気がついていないらしい。  しばらく雑談をまじえてから、私は小五郎に、御府内白金村において勝山造酒を討った際のくわしい説明を求めた。相手の感情を刺激せぬよう、十分気をつかったつもりであるが、小五郎は急に不快な顔になった。私がもし目付の要職にあるのでなかったら、彼はもっと怒りを露骨にしたであろう。 「何故それをお話し申さねばなりませんか」  小五郎はそう反問してきた。これは当然ともいえる。拙かったかな。御家老をわずらわせて、もっとさりげなくたずねるべきだったかもしれぬ。私はそう思ったが、もはやいたしかたなかった。それに、私には私なりの考えもあったのである。 「理由は申しあげられぬ。ただそこもとをお疑いしているわけでは絶対にない。てまえを信じてはいただけまいか」  できるだけ好意をあらわしたつもりだが、小五郎はなお釈然とせぬらしかった。私はやむなくいった。 「おてまえに討たれた筈の勝山造酒の姿を二年前に見かけたと申す者がある」 「なんと!」  むろん小五郎は愕然となった。そして、 「ばかな!」  と吐き捨てた。が、その驚きも怒りもきわめて自然であった。少しも不自然とは思われぬ。狼狽と呼ぶにはほど遠かった。これは潔白! とっさに私はそう考えたことである。そのうちに、私になんらの悪意もないこと、詰問、あるいは糾明するといった態度の全然ないことを、先方もようやく納得したらしい。顔の色もやわらぎ、ぽつりぽつりと敵討のてんまつを語りはじめた。  数日前に、私は小五郎の下僕半蔵にも、同じことをたずねている。私の召し使っている平助が、かねてから半蔵とどういうものか懇意にしているので、平助を使って呼び寄せたのである。その際半蔵にも他言無用を申し渡した。もしや主の小五郎にもらしはしまいかと、多少不安に思わぬでもなかったが、懸念には及びませぬと平助がうけ合った。帰る時半蔵はひどく青い顔をしていた。 「心配はいらぬ。主の小五郎に迷惑の及ぶようなことでは決してない」  私は再度念を押したが、半蔵はやはり浮かぬ顔であった。これは責められぬ。目付という私の職掌がある不安を与えたのであろうから。それでも半蔵は、どうやら私との約束を守って、主の小五郎には何も告げていないようである。  半蔵はことし六十一になる。平助より三つ年かさである。無類の忠義者らしい。実直な平助のいうことだから一応信頼できる。私の目にもそう見えた。半蔵はもと博奕《ばくち》うちであった。十七、八の頃はもう右に出る者のない名人芸を見せたというが、二十六の時、仲間の怨みを買って簀巻《すまき》にされた。参覲《さんきん》のお供をしていた玉置市之丞が、ふとしたことからそれを救ったのである。  そのことが機縁となって、半蔵は市之丞に奉公し、以来博奕はぷっつり断った。市之丞に助けられたことを、今もなお深く徳としているらしく、市之丞、小五郎と、二代にわたる彼の忠義もうなずけることである。そんな事情を私はすべて平助に聞いた。  玉置小五郎が語った敵討のてんまつは、半蔵が語ったこととほとんど一致した。藩庁への届出ともぴたり合っている。疑いをさしはさむ余地はなかった。ただ、時々話の順序が前後したが、これはやむを得まい。 「てまえが、無事本懐をとげることができたのは、すべて半蔵の骨折りです」  そう語る時小五郎は目をうるませていた。感謝の念が言外にあふれていた。半蔵が主思いの誠実な人間であることは、私にも推察がついている。もとが博奕うちだなどとはとても想像がつかなかった。  私に他意がないことをはっきり知ると、小五郎はひどく打ち解けて、岡崎の城下を発った十六歳の春から、十二年に及ぶ流浪の旅の苦労をもつぶさに語ってくれた。そのくわしい事情はここに省略する。それを物語る時、小五郎の白皙《はくせき》のおもてには、暗いかげのようなものが絶えず去来した。私は強く胸を衝かれた。敵討は言語に絶する難行——あらためてそれを認識させられたことである。他人の私でさえ、しばしば涙を催さずにはおれなかったくらいだから、もし彼らの肉親の者が、悲惨な敵討の実態を知ったならば、おそらく声をあげて慟哭せずにはおれないだろう。最後に小五郎は私にいった。 「二年前に勝山造酒を見かけたと申した者の名、お明かし願えませんか」 「せっかくだがそれは申されぬ。が、無根のことを口に出したこと、十分証拠だてば、なんらかの処分をするものと思われたい」  小五郎は納得した。ごく内々のうちにことを運ぼうとする、二本松殿や私の肚が十分に読みとれたからであろう。うわさは人を傷つけやすい。たとえ後日、事実無根なことが判明したにしても、一度ひろまった無責任な世間のうわさによって与えられた傷痕は、容易に癒すことができない。不可能といってもよかった。不用意から、よしないうわさが城下を流布《るふ》することは極力避けねばならぬ。 「今日のこと、他言無用になさるよう」  私は、玉置小五郎を送り出した。辞去していく静かなその後姿に、私は好もしいものを感じた。 「みだりに好悪の感情を抱くこと、慎しまねばなりませんぞ」  はじめて目付に就任した折、古参の真田六左衛門に戒められたことを、私はふっと思い出した。 [#地付き]九月二十八日    近くお国替えがあるらしいとの取沙汰が、このところしきりである。なんでも、肥前唐津への移封を命ぜられる公算大なる由。そのうわさをめぐって、家中当否さまざまの論がかわされている様子だが、目下のところ、否定論の方が多少有力とも考えられる。少くとも根拠のないことでもない。  というのは、当岡崎城には、大監物忠善公以来和泉守忠任公まで、水野家七代、百十八年の在城となっており、一方肥前唐津城においても、土井侯三代七十二年の在城を見ていることとて、両家ともに、今に至ってにわかにお国替えの御沙汰を拝することがあろうとは考えられないからである。どちらかといえば、私も否定論に傾きたい気がする。 [#地付き]十月二日    ここ数日来なんとなく頭が重い。風邪でも引いたらしい。  今日昼過ぎ、二本松右京殿に呼ばれた。やはり玉置小五郎の件に関してである。昨日から月が代わった。今月の当番は中村源太左衛門殿の筈だが、この件に関しては、引き続き二本松殿が見られる模様である。  二本松殿は、江戸表からの内々の書状を示された。留守居渡辺源五右衛門殿からもたらされたものであった。さきに二本松殿からつかわされた書状に対する返信である。内容は町奉行所からの回答が主になっている。玉置小五郎が、御府内白金村において勝山造酒を討った経過が、ことこまかに調べられてあった。北町奉行依田和泉守殿の扱いで、掛与力は島木三七郎となっており、敵討の現場におもむいた検視役人の名も明らかになってい、玉置小五郎の藩庁に対する届出とすべて一致していた。間然するところはなかった。病気の造酒の面倒を見ていたという、白金村在百姓伝次郎の口上もぬかりなく添えてあった。  木挽町研勝の店先近くで、内藤伊右衛門が勝山造酒を見かけたというのは、してみるとどうやら見誤りと断じていいようである。第一、二十数年にわたって消息を絶っていた勝山造酒を、一目で見わけたということ自体がそもそもおかしい。それがあやふやなことは伊右衛門自身が、十分承知しているのではなかろうか。酒の上での失言を糊塗するため、ことさら意地にかかって強弁しているふしがないでもない。だとすれば、なんともおろかな話といわねばならぬ。 「近いうちに、今一度伊右衛門と会ってみたいと存じます」  二本松殿は無言でうなずかれた。そして、 「内記、どうやら風邪気味のようだな」  と申された。 [#地付き]十月六日    困ったことになった。風邪気味で私が二、三日臥せている間に、とりかえしのつかぬ事態を招いてしまったのである。多少の頭痛は押しても、ただちに内藤伊右衛門と会っておくべきであった。まさかと思ったのが不覚のもと、伊右衛門か小五郎か、どちらかを陥れねばならぬはめとなってしまった。いまさらのように後悔されてならぬ。  内々にしていたことが、すべて明るみにさらけ出された。一度死んだ筈の勝山造酒を、伊右衛門が江戸で見かけたそうな。では玉置小五郎は誰を討ってきたのか、替玉を討ったのだろう、これはおもしろい——。すでにこのようなうわさが、城下のそこかしこでささやかれているらしい。  誰から出たことかわからぬ。私か、あるいは二本松殿から出たのではないことだけは確実である。もらしたのは、田安か、榊原か、森川か、それとも野々宮忠太か。今となっては糺《ただ》しようはなかった。誰にしろ、私がもらしましたなどという筈はない。とりあえず、月番家老中村源太左衛門殿から、軽々の取沙汰は慎しむよう内々で達しがあったらしいが、いかほどの効果も、これには期待できないであろう。  それに、悪いことには、このうわさをめぐって、玉置小五郎と内藤伊右衛門が早くも衝突している。昨日夕刻、志賀|主税《ちから》の屋敷の塀外で、両者がばったり出会ったのである。 「榊原右内宅にて申されたこと、実証か」 「いかにも。根もないことをいいふらす暇など持たぬ」  はじめから喧嘩腰であったらしい。蒼白になって小五郎は詰め寄った。 「越後高田の藩中、有本兵衛なる者、あくまで勝山造酒に相違ないと申すのだな」 「念には及ばぬ。おれの目は節穴ではない」 「では、この玉置小五郎が討ったのは誰だというのだ」 「知ったことか」 「おれが替玉を討ったとでも申すのか」 「知らぬ。そのようなこというた覚えはないぞ。おれはただ、死んだ筈の勝山造酒を、木挽町で見かけた故、さても不思議なことがあればあるものよと、小首をかしげただけのこと。もっとも、結局のところは——」  いいさして伊右衛門はにやりと笑った。 「うぬ!」  まさにあわやというところへ、折よく通り合わせた人々が間に割って入り、ようやくその場はことなきを得たという。血を見ずにすんだのは何よりであった。とはいえ、いよいよ抜きさしならぬことになったものである。それを聞いて、私は今日伊右衛門を呼びつけたが、彼ははじめからふてぶてしい態度を見せた。 「軽率なことをいっては困る」 「何が軽率といわれるのだ」  反省の色などなかった。私に対しても反抗の気配を露骨に見せている。この男が、うわさ以上に狷介《けんかい》な性であることを、私はあらためて知った。私はつとめて平静な態度をとった。 「軽率でないと思うならそれでいい。だが、それでは困らぬかな」 「困る……。何も困ることなどありませんぞ」 「有本兵衛なるものと対決させて頂きたい。小五郎はそう申し出ている。おてまえはそれで仔細ないのかな」 「対決もとより望むところ、困るのは小五郎でしょう。早速書状をしたためます」 「書状を……」 「有本兵衛、いや、勝山造酒にです」  伊右衛門はあくまで、有本兵衛なる者が、勝山造酒にまぎれもないと、信じきっているもののようである。いや、少し違う。そうと見せかけているのかもしれない。信じこんでいるのでも、思いこんでいるというのでもないらしい。なんというか、自暴自棄とでも呼べるような態度であった。たしかに、意地ずくになっているとしか思いようがなかった。 「てまえの一分《いちぶん》が立つか立たぬかの瀬戸ぎわ、勝山造酒は必ずこれへ参りますぞ」  ふてくされたようにいい捨てると、伊右衛門は荒々しく席を蹴って去った。私はしばし茫然としていた。伊右衛門の心理がなんとも納得できないのである。心底から彼は越後高田藩中の有本兵衛なる者が、勝山造酒と同一人だと信じこんでいるのだろうか。二人が同一人だとはとうてい考えられない。いかに懇意にしていたにしても、二十数年消息を絶っていた男を、とっさにそれと見わけられる筈はないのだ。もし同一人だとしても、勝山造酒が、この岡崎の城下へのこのこと対決にやってくる筈がないではないか。  ともあれ、私は委細を二本松殿に告げた。 「やむをえぬ」  憮然として、二本松殿は腕を組まれた。双方に傷をつけぬようにとのはからいは、ついに水泡に帰し去ったのである。内藤伊右衛門のおろかな意地だてがこの上なく腹だたしかった。彼の狷介さが、よしない紛争を惹き起こすに至ったのである。 [#地付き]十月十八日    思いがけぬことになった。有本兵衛なる者は、勝山造酒とまさしく同一人であった。ことの意外さにただただ茫然たらざるを得ない。いまだに、にわかには信じられぬことである。が、信じるよりほかはなかった。歴然たる事実によって裏書されたのである。  昨日、私は内藤伊右衛門の訪問を受けた。彼のおもてには、勝ち誇った色があった。目の前に差し出されたものをつととりあげて、私は声を呑んだ。一瞬、顔色も変わっていたに違いない。それは、早飛脚に託された一通の書状であった。差出人の名は、まぎれもなく有本兵衛こと勝山造酒となっている。越後高田藩榊原家の江戸屋敷から出されたものであった。何遍見直しても同じである。こんなことがあってよいものだろうか。内心の動揺をひた隠しに、私はその書状に目をさらした。それには、いつにても玉置小五郎と対決の用意があることを達筆にしたためてある。  考えられぬことであった。 「この書状あずかってよろしいかな」  伊右衛門はゆっくりとうなずいた。これはどういうことだろう。海の底を歩いているような気がする。 「わからぬ」  二本松殿も小首をかしげられた。 「おのれで細工したのではないか」  そうもいわれた。その昔、造酒と懇意だったという人々の中から、口の固いもの数名を招いて筆跡を見せたが、みないちように首をかしげただけである。何分三十年近い歳月のへだたりがあった。以前の造酒の筆跡も持ち出された。彼自身のものと見られる縁組に関しての伺書《うかがいしよ》である。似ているようでもあり、全然別ものとも考えられる。比較するのがもともとどうかしていた。三十年の歳月をどうしようもない。  ともかく玉置小五郎と有本兵衛を対決させることに決した。それを伝えた時、伊右衛門はかすかな笑いを浮かべた。何やら、神がかり的な確信の強さともとれ、無理に虚勢を張っているかともとれた。もとより小五郎にも異存はなかった。  しかし、勝山造酒はほんとうにここへやってくるつもりだろうか。やってくる以上、主君には永の暇《いとま》を乞わねばならないだろう。場合によっては、死をも賭さねばなるまい。ここ岡崎は、同輩を討ち果たしてそのまま退散した土地であった。それにしても、伊右衛門は果たしてはじめから、有本兵衛と勝山造酒が同一人と確信していたものだろうか。あるいは偶然の結果がこうなったものだろうか。  今日私は、平助を使って半蔵を呼んだ。もちろん小五郎には何も告げずにである。 「半蔵、ほんとうのことをいうてくれ。その方、小五郎としめし合わせて、小細工したのではあるまいな。替玉を討ったのではあるまいな。今ならばなんとかまだうつ手がある」 「めっそうもない! 綾尾さま」  半蔵は憤然となった。 「勝山造酒が、二人もいよう道理はありません。内藤さまの面の皮、今にひんむいて見せましょう」  勝山造酒の書状なるものはインチキにきまっている。半蔵は顔を赤くしていった。その通りだ。いささかでも、身にやましいところがあれば、こうきっぱりはいえないだろう。私にしても、伊右衛門よりもやはり小五郎や半蔵を信じたかった。 [#地付き]十一月九日    両者の対決は昨十一月八日に行なわれた。内藤伊右衛門にあてた、有本兵衛こと勝山造酒の書状に接してから、ちょうど十九日目になるわけであった。  場所は二本松右京殿の屋敷内の広間であった。勝山造酒をのぞく関係者一同は、この日辰の下刻にそれぞれ席についた。床柱を背にして正面に二本松殿、その左に中村源太左衛門殿、やや離れて私——綾尾内記、私以外の目付衆のうちからは、真田六左衛門、加藤嘉内両名が、二本松殿の右少しさがって着座、あとの伊藤、中、吉田ら三名は見えず、水野三郎右衛門、拝郷源左衛門両上席家老も、この席に臨まれぬことになっている。これは、この度の対決が、あくまで非公式のものとして扱われているからである。もはや家中にかくれもないことではあったが、決してこの上の表沙汰にはならぬようにと、内々のうちに一切が運ばれていた。玉置小五郎は半蔵を従えて、内藤伊右衛門と向い合った。  勝山造酒は、巳の上刻に直接この二本松邸へ到着する予定であった。旧知の藩士邸に立ち寄ることは絶対に許さぬ方針だったからである。もちろん、事前に内藤伊右衛門と会うことも厳に差し止めてあった。造酒が、果たしてここへやってくるかどうかもいまだ疑問である。必ずくるという者もあり、否と見る者もあり、予測はまちまちで、強いていえば、姿を見せる筈がないと見なす考えが、いくぶんか強いようであった。前夜私はひそかに、桔梗屋、山家《やまが》屋をはじめ、城下の旅宿を洗った上、さらに一里半足を伸ばして、藤川宿の立花屋、かどや、その他をそれとなくあたってみたが、勝山造酒らしい者を見出すことはできなかった。  巳の上刻まであと四半刻になると、伊右衛門、小五郎、半蔵、三名ともさすがに緊張のためか、顔面は蒼白を呈していた。私は造酒が姿を見せぬことを望んでいた。いつともなく私は、狷介な内藤伊右衛門に対して、内心嫌悪の情を覚えはじめていたのである。  むろん私は、玉置小五郎の潔白を信じていた。それを裏書するように、緊張のおももちこそ否めぬものの小五郎は冷静であった。かえって落ちつかないのは伊右衛門の方なのである。とはいえ、表面はあくまで傲岸さをむき出しにしていた。  勝山造酒の書状なるものは、インチキにきまっている。半蔵はそういったし、二本松殿もまた、 「伊右衛門の小細工ではないか」  ともらされたことがある。が、それが事実とすれば、伊右衛門がこうしてゆうゆうと対決の場に臨めるものだろうか。小五郎、半蔵にしても同様である。三者それぞれ顔蒼ざめながらも、おもてには確信の色が宿っていた。これはどういうことなのか。まったく了解に苦しむところであった。造酒はおそらく姿を見せるまい。見せる筈がない。それでも私は、やがてそう判断した。いや、正しくは願望したというべきであろう。  けれどもその願望は、みじんに砕かれてしまった。勝山造酒は、約束の時刻もたがえず二本松邸に悠容たる姿をあらわしたのである。造酒は数日前にここ岡崎を通り過ぎ、池鯉鮒《ちりふ》の山吹屋に逗留してこの日を待っていたのだった。心憎いことである。  造酒は五十六歳、典型的古武士を髣髴《ほうはつ》させる風貌であった。 「勝山造酒にございます」  落ちつきはらった物腰であった。伊右衛門は勝ち誇った色をあらわした。真田六左衛門が、勝山造酒に相違なき旨、二本松殿に確言した。半蔵のおもては、さながら死人のごとくである。唇がわなわなとふるえた。小五郎ははじめ一向に事情の呑みこめぬ様子であったが、すぐ我にかえって、 「半蔵! これはどうしたことなのだ!」 「————」  言葉をなくして、へたへたと崩れる半蔵に目をとめて、私はふと事情が読めたような気がした。これは芝居ではない。小五郎はたしかに何一つ知っていなかった。はっきりいえることであった。 「わたくしめは、主人をだましました……」  やっとそれだけいうと、老いた半蔵は、くしゃくしゃにゆがんだ顔を、二本松殿に向けた。 「御免!」  脇差をとって、いきなり下腹をくつろげようとする玉置小五郎を、すばやく押しとどめたのは勝山造酒であった。 「御短慮はつつしまれい。てまえは、そこもとに討たれるつもりで参った。伊右衛門の一分が立てば、はや思い残しはない」  その時、半蔵の唇に笑いが浮かんだ。冷たい笑いであった。 「お前さまは、ごりっぱなお方じゃ」  賞めたたえているのでは決してない。せいいっぱいの皮肉であった。 「半蔵! つつまず仔細を申せ」  私は半蔵に命じた。  訥々《とつとつ》として半蔵が物語ったところは、およそ次のごとくであった。  あてもない流浪の旅に疲れ果てた玉置小五郎と半蔵が、三度目の江戸の土を踏んだのは宝暦四年春のことである。岡崎の城下をあとにして以来、この間まる九ヵ年の歳月を閲《けみ》していた。ところが、浅草三間町の長屋に身を落ちつけたと思うと、小五郎は間もなく高熱を出して寝こんでしまった。多年の疲労の重なったところへ、悪性の流行《はや》り風邪に冒されたのである。一時はどうなることかと危ぶまれたほどで、もとのからだに戻るのにまるまる二ヵ月かかった。  いくぶん熱もさがって、もう大丈夫と見通しがつくと、お杉という隣のおかみさんが親切に、あれこれと気をつけてくれるのを幸い、小五郎のことを頼み、半蔵は毎日町中へ出かけた。この九ヵ年の間に、敵の行方をたずね出すということが、どれほどむつかしいことか、どんなに雲をつかむようなあてのないことか、骨身にしみて知らされてはいたのだが、黙って長屋に引きこもっているよりそれでもましだろうと、自分の胸にいい聞かせいい聞かせ、あてもなく歩きまわった。半分は惰性がさせることであった。  ある日、思いがけない人間に出会った。 「おう、半蔵|兄哥《あにい》じゃないか」  雑沓の中で不意に声をかけられ、驚いて立ちどまると、年の頃四十八、九と見えるでっぷりと肥った男が近づいてきた。若い衆を三、四人連れて、明らかに土地の顔役らしい恰好である。男はさもなつかしそうに近づくと、無遠慮に半蔵の左の二の腕をまくって、 「違えねえ半蔵兄哥だ!」  と大きな声を出した。半蔵の左腕には、風変わりなさいころの彫物があったのである。博奕で鳴らした昔の名残だった。相手の顔をまじまじと見かえすうちに、半蔵はやっと思い出すことができた。 「お前は新吉——」  そういいかけて、あとが声にならなかったのは、見違えるような相手の貫禄につい気おくれしたからだった。気やすく、おう新吉かと出てこない。男は昔半蔵が、博奕で鳴らしていた頃、可愛がっていた弟分なのである。しきりに尻ごみするのを、無理矢理近くの茶屋に引っぱりこまれた。相当いい顔らしいのが、女たちの応対ぶりでもすぐわかる。久しぶりにとりあげる杯だった。別れて以来の身の上を、ぽつりぽつり半蔵が語ると、 「兄哥はずいぶん変わったなあ」  と、新吉はしんみりいった。皮肉ではない。もともとが情の深い男であった。あたたかいものがぐっと胸にこみあげて、半蔵は思わず目をしばたたいた。別れしなに自分の住いを教え、 「困った時ゃあ力になるぜ」  新吉はそういいながら、そっと小粒を二つ握らせてくれた。浅草広小路の付近で、半蔵が、橋詰弥平次という浪人者と出会ったのはそれから間もないある日のことだった。 「江戸は広い。どんな人間でもいるものだ」  半蔵ははじめただそう思っただけである。五十にいくらか間のあるらしい、尾羽うち枯らした浪人ていの男のあとから、ぞろぞろと子供たちがついてきた。通りすがりの者が、いずれもにやにやしながら立ちどまって目をとめる。 「命売物也」  男の背には貼紙がしてあった。酔狂でもいたずらでもないのは、その悲痛なおももちからもすぐわかった。労咳かもしれない。男は痩せて顔色も冴えず、背だけがひょろひょろと高かった。身なりもこの上もなく見すぼらしく、いかにも尾羽うち枯らしたというたとえにぴったりだった。おそらく腰の物も竹光だろう。その男が、石州津和野の浪人、橋詰弥平次であった。 「これではとても、買手がつきそうにもないな——」  半蔵は人ごとのようにつぶやいた。まことに縁もゆかりもない行きずりの人間としか、その時の半蔵の目には映っていなかったのである。ふっと、あるひらめきが脳裡をかすめたのは男を一度やり過ごしてからだった。 「もし、そこの御浪人」  振りかえった男の顔に、すぐ失望の色が浮かんだ。とても命を買いとってくれそうにもない人間と、半蔵を見たからだろう。半蔵にしても、その男を笑えるなりではなかった。けれども、男はやはり足をとめた。藁にもすがる気持が動いたのに違いない。 「何か御用か」  半蔵のふところには、新吉にもらった小粒がまだ残っていた。半蔵は男をつれて、とある路地の、うすぎたない居酒屋ののれんをくぐった。失望と期待を、半々に抱いているらしい男の顔が、妙に哀れっぽかった。銚子をとって、弥平次の杯に安物の酒をついでやりながら、 「お前さん、ほんとうに命を売んなさるつもりか」  と半蔵は聞いた。弥平次は黙ってうなずき杯を干した。 「値はいくらつけなさる」 「されば」  弥平次はふと思案する目の色になった。二、三ばい杯を傾けて、 「まあ、二十両だな。奮発してもらうに越したことはないが」  二十両といえば、この頃の相場でざっと米三十石ほどの値——すばやく胸算用して、命一つ安いものだと半蔵は思った。買手がつくと見て、高く吹っかける才覚は弥平次にはなかったらしい。それ以上値をつけても、おれに買手のつく見込みはない。はじめからそう諦《あきら》めているのかもしれなかった。いかにも実直な小心者らしい弥平次の顔に、半蔵はあらためて気がついた。二つとはない命がたったの二十両か。しゅんとなった。とはいえ、半蔵にとっては手も出ない大金である。 「新吉に頼めば、なんとかしてくれるかもしれない」  昔なじみの新吉の、でっぷり貫禄のついた顔を、ちらと顔の隅に浮かべて、 「二十両積めば、たしかに命を売って下さるんですね」  半蔵は念を押した。 「ただし、命は必ず捨てることになりますよ」 「仕方がない。捨てずにすめばこれに越したことはないのだが……」 「いや、そうはいきませんね」  半蔵はわざと冷酷にいってのけた。そのあと、またしんみりとなって、 「で、失礼かもしれませんが、そこまでせっぱつまんなすったわけ、聞かせてもらえませんか」 「娘が死にかけている」  弥平次は立て続けに酒をあおると、目をしょぼしょぼさせていった。 「そもそものはじまりは敵討だ」  ほどよく酒がまわったせいか、弥平次は急に雄弁になった。時々江戸前の巻舌になるのが、ぴったり板につかずおかしかった。 「おれはもと、石州津和野の亀井家に仕えていた。食禄は百二十石、四万石そこそこの小藩だからそう悪い方でもなかろう。もっとも、これはおやじが頂戴した分で、おれはまだ部屋住みだった」  ところが、父親の弥右衛門が、些細のことから口諭して、そのあげくは殺されてしまったのである。下手人はその場から出奔した。弥平次は十九であった。 「なにしろおやじときたら、相当のうるさ型だったからな。正直いっておれは、内心ほっとしたものだ。今になって考えれば、まったく親不孝な話よ。が、その当座はまるで厄介ばらいしたような気分だった。敵討などなあにたかが知れている。ものの二、三年も苦労すればあっさりかたがつくだろう。そうすれば少くとも二十石か三十石の御加増か。などと考えていたからいい気なものさ」  しまった! と、後悔のほぞを噛んだのは津和野の城下をあとにして四年目だった。ぬきさしならぬ泥沼に陥ちこんでしまったことをようやく悟ったのである。かいもく手がかりもなかった。そのうちには藩から満足に路銀も出してもらえぬようになる。故郷を出る時の気負い立った決心など、たわいなくすっ飛んでしまった。 「こうなると人間勝手なもの、ばかなおやじめ、なんだって殺されるようなヘマをしやがるんだと、はてはさか怨みする始末よ」  乞食同然な放浪の旅を、それでも十六年間辛抱した。その苦労が、実を結べばまだしもあきらめもつくというものだが、十七年目に一切がふいになった。 「敵の行方、知れるには知れたが、情けない話さ。その時ゃ相手は死んでやがった。あと十日早ければそれでよかったのだ——」  ともかくも津和野に帰って、その旨藩庁に報告した。はじめはただちに帰参を認める方針だったらしいが、思わぬところで横槍が入った。弥平次には敵を討ち果たすつもりなど最初からなかった——そういい出したものがあったのである。悪いことに、敵の斎藤久米八は一流の使い手であった。 「しょせんまともな太刀うちはできぬと見て、いたずらに無為の日を送り、相手の死ぬのを待っていたというわけよ」  ひどいことをいうやつがあればあるものよと、半蔵は義憤を覚えた。  結局はそれが命とりになった。藩の財政は火の車だったし、この上もないいい口実ができたわけである。 「武道不案内者——というわけで、雀の涙ほどのお手当金であっさりちょんだ……」  悄然として江戸へ出た。 「考えてみれば江戸は広いものさ。おれのような喰いつめ浪人にも、女房にきてくれてがあったからな」  曲りなりにも世帯を持って見たものの、生活はみじめだった。二人の間に娘ができ千代と名づけたが、何一つしてやることもできないまま、ことしで七つになった。生まれつきひよわな子で、ここ二年ほどは寝こんだきりである。いつも青く透けた肌をしていた。その千代が、このところいよいよ悪く、死を待つばかりだった。とうてい助からぬ命にしてもこのまま見殺しにするには忍びぬ。せめて一度なりとも、親らしいことをしてやりたい弥平次なのであった。さして惜しいほどのおのれの命でもない。窮乏のどん底に、虫けらのような生活があるだけだった。不健康に青ずんだ弥平次の顔に、べっとりとしみついている虚無の影を半蔵は見た。 「あさって、またここへ来ておくんなさい」  勘定の残りをいくらか握らせて、半蔵はやがて弥平次と別れた。 「恩にきる。いつかえせるやらあてもないが、なんにもいわず二十両貸してもらえまいか」  昔面倒を見た弟分とはいっても、今では根っからの他人、力になるぜとはいってくれたものの、どこまで本気にしていいものやらと断られるのを承知で半蔵がそう切り出してみると、 「ほかならぬ半蔵兄哥の頼み、こいつぁ聞いてやらざあなるめえ」  思いがけないこころよい返事、新吉はわけもたずねず、ぽんと切餅一つ出してくれた。だが、その時すでに新吉は、なにもいわぬ半蔵の肚のうちを読みとっていたらしい。ふっと声を落して、 「うまくやりねえよ」  半蔵の耳にささやいた。命の売物が出ていることを、新吉は知っていたのである。若い頃から頭の冴えた男だった。愕然と色を失う半蔵に、にこっと笑顔を見せて、 「兄哥、水臭えぜ。口を割るようなおれならはじめっから金は出さねえ」  半蔵は心で手を合わせた。小五郎にはまだ何も知らせていない。あくまで一人でことを運ぶ半蔵の腹であった。小五郎が、勝山造酒の顔を知らないのが何よりも幸いだった。  約束の日、半蔵は弥平次と会い、切餅の包みを割いて二十両渡した。 「かたじけない」  弥平次の顔には、喜びとも、かなしみとも、あきらめともつかぬものが錯綜した。あたりにすばやく目をやって、 「仇討《あだうち》の苦労は、骨身にしみているお前さまだ。どうせ売物の命なら、わたしどもにおくんなさい」  半蔵は声を落した。  あと一ヵ月のうちに、参州岡崎の浪人勝山造酒になりすまして、玉置小五郎に討たれることを約束させたのである。おたがいに、ちびりちびりとやりながら、こまごまとしたところまで打ち合わせた。さすがに酔えないものらしい。弥平次の顔からは血の気が消え失せている。人の弱味につけこんで、罪なことをするものと、半蔵はなんだか気が咎めたが、背に腹はかえられぬとすぐ思い直した。  店には他にも客が来合わせていたが、二人の間で、まさかこんな話が進められているとは思いもしなかっただろう。ひどく酒がまずい。なあに、売りに出ている命を、言い値で買ったまでじゃないか。われとわが胸にそういい聞かせても、半蔵は妙に気がめいってならなかった。そのくせ、いっそその千代という娘、死んでくれたらこの男も、ふんぎりがつけやすかろうなどと、不人情なことを考えたりもした。 「あと一ヵ月のうちにか——」  縄のれんをかきわけて外へ出る時、弥平次はぼそりともらした。軒の掛行灯のあかりに照らし出されて、しょぼしょぼした目が赤くただれていた。  半蔵は、弥平次との間に結んだその奇妙な約束を、黙って自分の胸にしまいこみ、小五郎には何も明かさなかった。ただ何かのきっかけで、 「近いうちに、なんだか敵のいどころがわかりそうな気がします。虫の知らせというものかもしれません」  といっただけだった。一日一日が、おそろしく待ち遠しかった。やっと、泥沼の中からはいあがることができるのである。半蔵は、自分の思いつきに陶酔した。 「だまされた!」  と気がついたのは間もなくである。弥平次はずらかってしまった。二十両を手にして、急に命が惜しくなったのに違いない。が、その尻をどこに持っていきようもなかった。心当たりの場所を、血まなこになって探しまわったが、見つかる筈がない。物に憑《つ》かれたように半蔵はそこかしことうろついた。 「虫の知らせは当たらなかったと見えるな」  小五郎もやはり、いくぶんは藁にもすがる思いであてにしていたものだろう。落胆のていを見せた。半蔵は、弥平次を八つ裂きにしてもあきたらぬ思いがした。話を聞くと、 「よし、おれにまかせておきねえ」  新吉はどんと胸をたたいて見せた。彼は、手足のような子分を何十人と持っている。逃げたといっても、江戸を飛び出すわけがないというのが新吉の考えだった。小五郎のからだが十分回復したところで、主従はまた旅に出た。何ごとにもよく気のつく新吉が、相当の路銀を用意してくれたのである。 「まあ、あと二、三年、遊ぶ気になってあちこちまわってみねえ。できることなら、本物を見つけ出すことだな。その方が、あとの寝覚めもいいというものだ。旅に出ても、ふところの心配さえなけりゃあ、そう辛いことばかりでもねえだろう」  半蔵はうなずいた。二人が、四度目に江戸の土を踏んだのは、それからほぼ三年たった宝暦七年のやはり春であった。二人は疲れきっていた。 「なんだって、まだ見つからねえ。そうか。まったくもってむずかしいものだな。敵討がうまくいくなあ芝居だけか」  新吉はつくづくあきれ顔をした。そして、ふっと声を落すと、 「弥平次は見つけ出したぜ。白金村だ。なあに心配はいらねえ。逃げ出そうにもからだがいうことをきかねえよ」  といった。  人の住家とは名ばかりの、白金在の小さなあばら家に弥平次はひとりで住んでいた。病がこうじて寝たきりと一目でわかる。見るかげもなかった。三年前に半蔵と出会った時にも、すっかりくたびれてはいたが、これほどではなかった。枕もとにぬっと姿をあらわした半蔵に気がつくと弥平次は、 「おぬし、きたか——」  と弱々しい声をもらした。もはや驚く気力も失せたていである。咽喉もとまでこみあげた怨みごとを、半蔵はまた呑みこんだ。 「おぬしにはすまぬことをしたな」 「お前さま、ひとりぼっちか」 「娘は死んだよ。女房は——」  そういいかけて弥平次は絶句した。逃げたということらしい。暮しはどうして立てているのだろう。あの時の二十両がいつまでもあるわけもなし——そう思っていると、弥平次は心もち首をもたげて、 「おぬしにもらった二十両のうちから、安物の刀を買った。それが思わぬ掘出物とあとでわかって、また金になった。それで、まだなんとか暮しは立っている」  近くの伝次郎という百姓が、いつも面倒を見てくれている。が、それも金のあるうちだろうと弥平次はいった。やがてまた、いかにも人のよさそうなさびしい笑いを浮かべて、思いがけぬことを告げた。 「おれはここでは、参州岡崎の浪人、勝山造酒ということになっている。住みついた時からだ」 「え……」 「驚くこたあないさ。おぬしとの約束を、遅ればせながら果たそうなどという、殊勝な心がけから出たことではない。まあ気やすめみたいなものよ。ありようは、なにやら心が咎めての話」  半蔵はふっと思い出した。この男が、二つとはない命を売るのに、たった二十両にしか値をつけなかった三年前のことを。気の弱い小心な人間なのだ。もとはそうでもなかったらしい。少くとも若い頃は、父を討たれて厄介ばらいした気になるくらいの男だった。長い苦難の歳月は、一人の人間をすっかりつくり変えてしまっていた。気力に富んだ若々しい侍一匹を、こんな悲惨な境涯に追いこんでしまった仇討のむなしさを、半蔵はあらためて身に覚えたことである。 「おぬし、いいところへきてくれた。あと半年とは持ちそうもないおれの命——」  ぽつんと弥平次がいった時、表に誰かの影がさした。 「伝次郎か……」 「へえ」  中年の百姓男がこちらをのぞきこんで、 「気分はどうだね、勝山の旦那」  といった。はっきりそれを耳にして、半蔵はくすんと鼻を鳴らした。粗末な食べ物を運んで、伝次郎が去ると、弥平次は弱い視線を半蔵にあてて、 「で、おぬしたち、いつやってくる。あさってがいい。なに、疑いをさしはさむ者は誰もない。すべて伝次郎にいい含めておく。あいつはおれを、どこまでも参州岡崎の浪人勝山造酒と信じこんでいるのだ……」  半蔵は黙っていた。とてもこの男を、身がわりに討ちとる気になどなれるものではなかった。憎しみはとうに消えていた。その思いは弥平次にもすぐ伝わったらしい。 「何故返事をせぬ。遠慮などいらぬことだ。それ、おぬしいつかいったではないか。仇討の苦労は骨身にしみているお前さまだ。どうせ売物の命なら、あたしどもに売っておくんなさいと……。あたら若者一人の浮沈の境、なあ、遠慮には及ばぬ。ただしこのからだ故とても尋常の勝負はできぬ……」 「それから四日目に、わたくしどもは橋詰弥平次を討ちました。その時のてんまつは五年前の届出の通りでございます」  長い物語を終わって半蔵は目を伏せた。しんとした部屋の中に、人々の重い吐息がもらされた。伊右衛門は蒼白である。さきほどの、勝ち誇った色はそのおもてからあともなく消え去っていた。他の人々は、あるいは気がつかなかったかもしれぬ。が、私は伊右衛門のおもてに暗い心のかげりを見出した。 「いつ果てるともない、苦難の旅を続けねばならぬ主小五郎への思いやりから、その方が一存をもってさようにとりはからったと申すのじゃな」  二本松殿がたずねられた。半蔵は、はっと狼狽の色を見せたが、すぐにこう答えた。 「いいえ、決してそうではございません。これは主人とはかかわりのないこと、弥平次とはじめに会った時、わたくしはもはや五十を過ぎておりました。旅の辛さはひとしお老いの身にしみます。それまでにも、中途で何度逃げ出そうと思ったかもしれません。でも、亡き先代さまの御恩を思えばそうもならず、いやいやながらお供を続けていたのでございます。弥平次を替玉にと思い立ったこと、これはみなわたくしの勝手、それ以上仇討のお供を続けることにいや気がさして、このような大それた企みをしでかしました。主人のためなどとはとんでもない。小五郎さまはただの一度も、あてもない敵討をいとうこと、素振りにもお見せになったことはございません。これは誓って申し上げます」  二本松殿は大きくうなずかれた。伊右衛門は言葉を失ったままである。それまで唇を噛みしめていた小五郎が、その時つとおもてをあげた。 「幼少の折父を討たれて、敵の顔を弁ぜぬとはいえいかにも不覚、理由はなんともあれ小五郎の武士ははやすたりました。この上は、いかようの処分をも甘んじてお受けいたす覚悟、半蔵はてまえをかばっております。ただわが身いとしさ故に、かようなことを企むごとき半蔵ではないこと、多年辛苦をともにしたてまえにはよっくわかります」  これは見事にいいきったものであった。嗚咽を噛み殺している半蔵の目から、大粒の涙がはふり落ちた。勝山造酒が、じりりと膝を進めたのはこの時である。 「日をあらためて、てまえと玉置氏を立ち合わせていただきとう存じます。はじめからそのつもりで、永の暇《いとま》をとって参りました。討手の目をのがれていったんは逃げかくれした身ながら、一分を立てるためとの、内藤伊右衛門の書状に接してはむげに見過ごしもなりません。当岡崎を出奔以来二十数年無音にうち過ぎたとはいえ、昔の伊右衛門との交誼に思いをいたせば、他人の空似、思いも寄らぬ迷惑とうち捨てておくこと、てまえの一分が相立たず、かくは罷《まか》り越した次第、伊右衛門の一分を立てた今となっては、もはや思い残すことはございません……」  さわやかな勝山造酒の言葉に、中村殿、真田殿、加藤殿のおもてには、期せずして歎賞の色が宿った。花も実もあるまことの武士というのであろう。半蔵はその時、ふたたび勝山造酒に冷たいまなざしを向けた。 「まことにお前さまは、見あげたごりっぱなお方でございます」  小五郎、伊右衛門、造酒、半蔵の四名を別室にさがらせて評議の結果、とりあえず勝山造酒は二本松殿の屋敷にとどめ置き、他の三名はそれぞれ自邸に引きこもって、追っての沙汰を待つことと定められた。その席上においても、中村殿、真田殿、加藤殿は口々に、 「いやまことに見あげた志じゃ」  と、勝山造酒に対して称讃を惜しまれなかったが、このことに関するかぎり、二本松殿は終始無言であった。  半蔵は何故に、前もってせめて私になりとも真実をうち明けなかったのであろうか。さすれば、ほかにとるべき道もあったと思う。越後高田の榊原家につかえる有本兵衛なる者が、よしや勝山造酒にまぎれないとしても、わざわざこの岡崎へ、対決のために姿を見せようとは考えられなかったものであろう。あるいはいつぞやの言のごとく、造酒の書状そのものをも、伊右衛門の小細工と盲信していたのかもしれない。  侍と匹夫の相違とでもいうべきか。今日まですでに三十年余にわたって、武家奉公を続けてきた半蔵だが、彼はしょせん一介の下郎に過ぎなかった。時においては、はかなくむなしいものに一命を賭する侍の心情は、とうてい推量に及ばぬことであったであろう。いや、その侍たる私ですら思いも及ばなかったのである。しかし、それはそれとして、勝山造酒に冷たい目を向け、 「お前さまはまことにごりっぱな方じゃ」  と、皮肉な笑いをたたえた半蔵の心は、私にもわからぬではない。 [#地付き]十一月十日    昨九日夜、内藤伊右衛門は一室にこもって自決した。理由は不明、遺書らしきものは別になかったが、全然推察のつかぬことではない。替玉の橋詰弥平次を討ったてんまつを、半蔵が訥々と物語るその間、伊右衛門は終始無言であった。勝ち誇った色は、おもてからあとかたもなく消え去っていた。  伊右衛門の死は卒中として扱われた。二本松殿の指示によるものである。それを命ぜられる時、二本松殿のおもてには、かすかな安堵の色があった。伊右衛門、小五郎のいずれをも傷つけることなくすみそうだからであろう。  夜、これをしたためているところへ、玉置十郎右衛門が見えた。玉置本家の主で一門の長老である。座につくとすぐ十郎右衛門は、気負いたってつぎのごとくきり出した。 「主をあざむいた不届者の下郎半蔵、我ら一門の者立会いの上にて、今夕、小五郎が手打ちにいたしました。この旨お含みの上、小五郎に対してしかるべき御沙汰あるよう、二本松殿へお口添えのほどを——」  これは無残なことをしたものである。すべては主小五郎への思いやりから出たこと明白であった。替玉を主に討たせた手段は笑うべきも、その心根はむしろあわれむべきではないか。他への聞こえもあって、無条件に許すことは論外だが、できうれば領外追放程度にというのが二本松殿の肚だったと思われる。ことに伊右衛門が自決した上は、どのようにも半蔵を救う方途はあったであろう。まことに無残なことであった。 「では、よしなにお頼み申しますぞ」  十郎右衛門は、太い半白の眉をぴくりと動かし、昂然として辞し去った。一匹の虫を殺したほどの心のかげりも、その面上には見られなかった。 [#地付き]十一月十一日    今日昼少し前、私は用部屋において二本松殿に半蔵の死を告げ、かつ玉置十郎右衛門の言葉を伝えた。 「不憫なことをする」  二本松殿は憮然としてもらされた。  面談中、江戸表よりの早飛脚の到着が告げられた。正式に、肥前唐津へお国替えの御沙汰があった由。唐津の土井|大炊頭《おおいのかみ》殿は下総|古河《こが》へ、古河の松平|周防《すおう》殿はここ岡崎へ。しかしてわが水野家は、土井侯のあとへ移封を命ぜられたものである。さき頃のうわさは現実となった。 「半蔵がことは捨ておけ」  あとで、二本松殿はそういわれた。その意味を私は解した。もはや玉置小五郎に傷をつけぬことのみ考えるべきなのである。思いがけないお国替えの御沙汰が幸いしたといわねばならぬ。伊右衛門の死、半蔵の死はお国替えの騒ぎの中に忘れ去られるに違いない。私はふとその時、橋詰弥平次なる哀れな浪人者のことを思った。これで弥平次も、いくぶんなりと浮かばれることであろう。  城内の騒然たる気配は、用部屋にあって手にとるごとくであった。  しかし、私が愁眉をひらいたのはつかの間であった。今日夕刻、家人の隙を見て、玉置小五郎が自害した旨、深更に及んで知らせがあったのである。私がかけつけた時、親類縁者の姿はまだ見られなかった。 「まだ誰にも知らせておりません」  真青な顔をした妻女は、一通の書状を私に渡した。私にあてた小五郎の遺書である。半蔵が哀れでならぬ旨、手短かに記してあった。これは、私にはすでに推測のついていたところである。ただ、そのため小五郎が死を選ぶとは考えてもいなかった。 「半蔵はてまえをかばっております。ただわが身いとしさ故に、かようなことを企むごとき半蔵ではないこと、多年辛苦をともにしたてまえにはよっくわかります」  きっぱりいいきった小五郎の言葉が、あらためて思い出された。まことに半蔵は、主のために主をあざむいたのである。 「小五郎は、わたしが殺したも同様でございます」  きれ長の目に涙を宿してそういう妻女の、唇がわなわなとふるえた。下僕半蔵、さらには夫小五郎を死に至らしめたのは、妻女が玉置一門の人々を動かした結果であった。もとより夫のため、悪しかれと願ってのことではない。が、結果において逆を招いた。 「わたしは、ひたすら夫に罪の及ぶことをおそれました」  小五郎には内密に、一門の長老たる玉置十郎右衛門のもとを訪れたのもそれ故である。十郎右衛門は、おもな一門の人々を語らって下僕半蔵を手打ちにせよと、小五郎に強引に迫ったのであった。しかし、小五郎は頑として聞き入れなかった。ついに業《ごう》をにやした十郎右衛門は、庭先に半蔵を引きずり出して一刀のもとに斬り捨てたのである。 「その時小五郎は、ただ一言、下郎といえども虫ではない——そう申しました。そして、唇を噛みしめ、目にはあふれるほどの涙をたたえておりました」 [#地付き]十一月十三日    今日夜明け前、勝山造酒は人目を避けて岡崎の城下を去った。京へいくという。身寄りの者でもあるかとの問いには、かすかに首を横に振った。惟悴、面貌は彫ったごとくである。二本松殿の意を含んで、私は造酒を松葉川のほとりまで見送った。袂をわかつに至って、造酒は編笠をあげ憮然としてもらした。 「お前さまはごりっぱなお方じゃ。そう申した半蔵の心、解けたように思います」  ささやくような松葉川の川音をにじませた暁闇の中を、勝山造酒は去った。武士の本分をつくしたあとの満ち足りたものは、そのどこにも見られなかった。 [#地付き](了)  [#改ページ]   非運の果て     一  貞享四年八月、出羽国新庄の城下にある崇福寺の墓地で、切腹して果てている二人の武士が発見された。一人は年の頃三十七、八、今一人はそれより二、三歳若かった。いずれも思いきわめての上であろう。身なりは粗末ながら、死後に恥を残さぬだけの用意は十分に見てとれた。  とはいえ、あまりにも無残な死にざまであった。一人は腹を切ったあと咽喉を突いて、そのまま前のめりにうち伏していたが、残る年かさの方は、立ち腹切ったらしい形跡を明らかにとどめていた。しかもすぐそばの、一、二ヵ月前に立てられたと見える白木の墓標のおもてには、べっとりと、はらわたがこびりついていたのである。  うわさを聞きつけた近くの人々が、ぞろぞろ集まってきた中に、供をつれた旅姿の武士があった。新宮寺|主税《ちから》と下僕宗平である。 「お気の毒なことじゃ」  口々に何やら騒ぎ立てる群衆に向って、いくらかわけを知っているらしい中年の住持が低い声で事情を説いた。  それによると、二人は作州津山の森長成の家臣で、浦部小十郎、同じく紋弥兄弟だという。父の敵|檜垣《ひがき》四郎五郎の消息を風の便りに伝え聞き、夜を日についで、旅路を急ぎ、ようやくこの地についたのが数日前のことであった。故郷を出てちょうど十八年目である。しかし、めざす四郎五郎は、すでに浪々窮迫のうちにその生涯を閉じていた。臨終を看取る者もない哀れさで、見かねた近辺の者が寄り合って、崇福寺に葬り、形ばかりの墓標を立てたのが四十日ほど前である。  それと知った時の浦部兄弟の落胆ぶりを、住持は見るに忍びなかった。石のように立ちつくした兄弟の両眼から、人目をも構わぬ大粒の涙がしたたり落ちた。無理もない。言葉につくせぬ十八年の辛苦が水泡に帰し、浮草に似た定めない流浪の旅路にあって、ともすればくじけようとする兄弟の心を、しかと支えてきた唯一のものが、忽然として消え失せたのである。 「ようやく気をとり直し、礼を述べていったんここを辞去されたのが、昨日の夕刻のことでござった……」  住持は思わず絶句して、しきりに目をしばたたいた。 「死なぬでもよかったろうに」 「わしらにはわからぬ」  そんなささやきが流れた。農夫や町人にはわかるはずもない。自らの刃に果てざるを得なかった浦部兄弟の哀れさを、身にしみて感じたのは、新宮寺主税と宗平の二人だけであった。墓地に群れている人々の背後から、心からなる合掌をささげ、重い鉛を胸に沈めて二人はそこを去った。  古びた山門を出て、よそより早い北国の秋風に、黄ばんだ銀杏《いちよう》の落葉が点々と散らばっている石段のなかほどまで来た時、主税はつと立ちどまると、背後の宗平を振りかえり、つぶやくようにいった。 「宗平、人ごととは思われぬな」  沈んだ暗い声だった。  この時二人は期せずして、一年前に出会った、鵜沼修理《うぬましゆり》という男のことを思い出していたのであった。     二  彼ら主従が、東海道原の宿《しゆく》で鵜沼修理と会ったのは、去年——貞享三年の秋も末つ方の、歩いていても思わず知らずとろりと眠りに誘われそうな、暖かい小春日和が三、四日続いたあと、急に冷えこんで、一足飛びに真冬がやってきたかと驚かされた寒い日だった。空は晴れているのに、風が冷たい棘《とげ》を含んでいた。東海道を幾度となく往来するうち、いつとなく名を覚えてしまった、愛鷹《あしたか》山や鋸岳《のこぎりだけ》の頂きに、雪が見えないのが不思議なくらいだったのを宗平は今も覚えている。  時候はずれの冷えこみように、なんとなく出足が鈍り、前夜泊った吉原の宿を発《た》つのも半刻は遅くなった。いつもなら、ものの五、六町も歩けば汗ばむくらいのはずだが、この日は吉原を出ておよそ二里、それも急ぎ足に、大野新田、柏原、一本松、問屋新田と過ぎてそろそろ原の宿にかかっても、からだが一向にあたたまる風もなく、時折り顔見合わせるたがいの唇が土色だった。  やっと原の宿へ入った時、往来からほんの少し入りこんだ、とある辻堂のほとりに、一人の乞食がたき火をしていた。招き寄せられるようにふらふらと近づき、 「許せよ」  と主税の方が声をかけた。 「ああ」  聞きとれないような気のない返事をしたきりで、乞食は無愛想な顔である。年の頃かれこれ四十八、九か、痩身で血の気のない青白いおもてに陰鬱なかげがあった。主税も宗平も少し気まずい思いで、しばらく黙ってたき火に手をかざしていた。するうち、乞食は何を思ったかぼそりと問いかけた。 「おぬしら、仇討《あだうち》旅か」  いくらか投げやりながら、思いがけない侍口調である。人を人とも思わぬひびきがあった。  乞食の癖にと覚えずむっとした表情になる主税を、宗平はあわてて制した。乞食の手にしているのが、どうやら仕込み杖らしいと逸早《いちはや》く気がついたからだった。それに目つきも尋常でない。ただ鋭いというだけでなく、妙にすさんだ感じがただよっていた。  ずばり仇討旅かと図星をさされて、驚いた宗平が、 「そういうお前さまは」  と逆にたずねかえすと、男は陰気に笑い、吐き捨てるように、 「おれも御同様よ」  と崩れた言葉でこたえた。その乞食が、もと備前岡山の池田侯の家臣鵜沼修理のなれの果てであった。労咳《ろうがい》らしく、時々ぜいぜいとひどいせきをした。  年齢こそかなりなへだたりがあるものの、同じ境遇だとたがいに知り合ってみると、主税は、何か捨てばちな、ぞんざいな言葉づかいをする乞食姿の修理が、それほど気にならなかった。いや、むしろ親しいものさえ覚えたが、修理は冷然とそれを無視する風であった。  やがてすさんだ目をすえて、修理は奇矯《ききよう》な言辞を弄《ろう》した。 「おぬしは、今でも敵《かたき》を憎いと思うかな」 「いうまでもないこと!」  心外なと思わず気色《けしき》ばむ若い主税を、冷ややかに眺めやって、 「父を討たれたから、ただやみくもに敵が憎い——そう考えているうちは、まだまだ苦労が足りぬ。察するにおぬしらは、あてもない仇討の旅に出て、今、十と二年か三年そこらか」  それも図星だった。五歳の時に父の主膳を討たれた新宮寺主税が、藤堂喜八郎の姿を求めて、下総《しもうさ》佐倉の城下をあとにしたのは、十六歳の春である。それから十三年、敵の顔を見知らぬ主税のためにつき添った下僕の宗平は、すでに六十の坂を越している。その間に、主家の松平家は、佐倉から肥前の唐津へ移り、さきごろ亡くなった松平乗久にかわって、今は乗春があとを継いでいた。 「そういわれるおてまえは、敵が憎いとは思われぬのか」 「おれは当の敵より、討たれた父がかえって憎い。またうらめしい。ばかなおやじよ」  愚かな——と咎《とが》めるような、主税のはげしいまなざしにぶっつかって、修理はふふんとせせら笑った。 「あと五、六年も、諸国をさまよい歩いてみることだな。さすれば、おれのいうことが、おぬしにもわかるだろう。いや、これまでにも二度や三度は、おれのような気持をひそかに抱いたこともあるはずだ。ないなどとはいわさぬ——」 「黙れ」 「ふふふ、怒ったか。怒るうちが花よ。なあおぬし、故なくして奇矯の言を弄するとのみ思えば、なるほど腹も立とう。だが、今のはおれの本心だ」 「聞く耳持たぬ。武士の風上にもおけぬ痴《し》れごと、心まで乞食になりおおせたか」 「いらざる説法じゃ。よしてもらおう。このおれとて、はじめからすね者だったわけではないぞ。おぬしらわかるか。旅路でむかえた二十八年という歳月の長さが。おれが故郷を出たのは二十歳の秋」  乞食の双の眸が帯びている、射すくめるような一種異様な光を、新宮寺主税は思わず無言で避けた。抵抗できぬものがあった。木片れを三つ四つ無造作に投げこんで、消えかかった火をかき立てると、乞食は急にすっと立ちあがり宗平に目をやった。 「包みの中に飯があるだろう。一粒だけ額《ひたい》につけてみろ」  そして仕込み杖をすらりと抜いた。一瞥《いちべつ》してそれと知れる業物《わざもの》である。  額につけた飯粒を目にもとまらず真っ二つに切るという剣客の話を、主税は以前誰かに聞かされたことがある。この男もそれをやるというのだろう。この男ならたしかにやりかねぬ。不気味な青い火を宿したような修理の眸を見て、主税はそう思った。  顔色を変えている宗平にいわれる通りしてみろと、主税はすばやく目くばせした。やむなく宗平が、包みに手をかけようとした時、修理はまたくくと笑った。 「ええい、ラチもない——」  ぱちりと抜身をおさめて、 「文武抜群の若者よと、かつては口々にもてはやされたあたら侍一匹の、なれの果てがこの通りよ——」  たたきつけるような言葉だった。そのむなしいひびきが、一年たった今もからからと、主税の胸に北風のように鳴っていた。 「そろそろ参りましょう」  宗平に声をかけられて、主税ははっとわれにかえった。ゆっくりと、石段をおりかける二人の前後に、またひとしきり黄いろい落葉がくるくると舞った。     三  そこはかとなく木蓮の匂いがただよい、しめった地面には、柔らかな春の陽ざしがこぼれていた。宗平はさっきから、藩邸の一隅にじっとうずくまっている。  ——弥左衛門の奴、またいろいろと主税さまにいや味を並べたてているに違いない。  宗平はいらいらした。勘定方の大庭《おおば》弥左衛門と会って、主税が用件をすますのを待っているのである。もちろん、路用を出してもらうためであった。  原の宿で鵜沼修理と会ってから一年半、新庄の崇福寺の墓地で自害した、浦部兄弟の哀れさを胸にとどめてから、ほぼ半ヵ年の月日がたっている。藤堂喜八郎の足跡は、その間も杳《よう》として知れなかった。  ——あの男の言葉にも一理はある。  この頃宗平は、つくづくとそう思いかけている。その思いは日ましに強かった。宗平ばかりでなく、主の新宮寺主税にしても、一言も弱音《よわね》こそもらさぬものの、どうやら内心には、同じことを考えているらしい。  宗平は今、暗い虚無の匂いをしみつかせた鵜沼修理の、鶴を思わせる痩躯を瞼に描いていた。 「討ち果たされた当座は知らず、今では、敵への憎しみにつながっているのは、父を殺された怨みではあるまい。いつ果てるともない流浪の旅、その旅路での艱難《かんなん》辛苦が、そのまま敵への憎しみにつながっている——そうではないのかな。父の怨みからでもない。武士の意地からでもない。ただ、敵を討ち果たさぬかぎり、いつまでたっても家督相続が許されぬから、やむなく、そうだよ、やむなく、敵のあとを追いまわす……。やむなくな……」  修理の言葉通りだった。めでたく本意をとげるまでは、家郷の土を踏むこともできぬのが武士のならいである。主税が下総佐倉の城下をあとにしてからすでに十五年近い歳月が流れている。この間の言語に絶する苦しみと焦燥は、宗平自身、身にしみて覚えがあった。  行き暮れた夜の辻堂に、飢えと寒さに苛《さいな》まれながら、主従が抱き合ってたがいのからだをあたため、まんじりともせず吹雪の一夜を明かしたこともある。風の便りに敵の消息らしいものを聞き、今度こそはと心をはずませ海を渡ってようやく伊予の松山へたどりついてみると、めざす敵とは似ても似つかぬ人違いとわかり主従相擁して口惜し涙にくれたこともあった。  鵜沼修理は、二十八年かかってもなお敵にめぐり会えぬともらしたが、あれから一年半の今日までに、首尾よく望みを果たしたとは、とても考えられぬ。 「かりに百名の者が、それぞれ仇討に出たとして、そのうちの何名が、運よく本意をとげてかえれるか、おぬしら一度でも考えたことがあるか」  修理はそういった。 「敵持つ身にとって、その生涯は底なしの泥沼じゃ」  本懐を達することができるのは、百名のうちに、わずかに五指を屈するに足ればいい方であろう。それが事実であった。あとの者がどのような運命に陥ちていくかは想像にかたくない。  もちろんたくみに転身して、現実的な生き甲斐を見出す二、三の例外はあろう。だが、兵馬|倥偬《こうそう》の巷を疾駆した、父祖の武功に依存して、徒食になれたつぶしのきかない大部分の者は、最後は窮迫のうちに野たれ死するよりほかはなかった。逸早く見きりをつけてしまえばいいだろうが、かりそめにも両刀腰にたばさむ以上、なかなかそれもなりかねる。面目もあれば意地もあった。気がついた時には、もはや身動きもならぬ底なしの泥沼に、からだをさらわれているのである。  崇福寺の墓地で切腹して果てた浦部兄弟、二十八年の歳月を費《つい》やしても、まだ敵にめぐり会えぬという鵜沼修理の運命は、決して他人ごとではなかった。  檜垣四郎五郎の墓標に、はらわたをつかみ出して、たたきつけずにはおれなかった、浦部兄弟の無念さが、ひしひしと宗平の胸を責めつけた。  ——死なぬでもよかったろうに。  そのように考えるのは、浦部兄弟をつぎに待っているものが何であるか知らないからである。不可抗の運命によるとはいいながら、あのまま作州の津山へかえったとすれば、より以上の苦渋《くじゆう》が兄弟を待っているはずだった。もちろん帰参は許されるであろう。父の半知程度は与えられるに違いない。が、それは、家中の人々の冷視に耐えることによってあがなわねばならぬ。  親類縁者をのぞいた他の人々は、おそらく兄弟がなめた十八年の忍苦は冷然と無視し、不倶戴天の檜垣四郎五郎を討ち果たし得なかった、ただ窮極のその一事をもって、軽侮冷笑の的とするにやぶさかでないであろう。それを予知したが故に、あえてみずから死を選んだ浦部兄弟なのであった。 「宗平」  はじかれたように顔をあげると、式台のところに主税が立っていた。 「さんざん恩を着せた上に、たった十両よこしおった」  低い声でたたきつけるようにいう、主税のこめかみにあらわれた太い血管と、目尻ににじんだかすかな涙を宗平は見た。     四  主税は無念でならなかった。なぶるような冷笑を浮かべた大庭弥左衛門の、いかにも小意地の悪そうな干《ひ》からびた顔が目の前にちらちらする。 「ほかならぬ仇討の路用じゃ。なんとかしてやりたいが、このところお家の物入りもいろいろとあってな。ない袖は振れぬ」  しぶい顔をしたが、それでも十両だけは渡してくれた。 「時に、もう何年になるかの、故郷を出て。ほほう、はや十五年とのう……」  決して同情の念から出た言葉ではなかった。暗《あん》に、いつまでかかるのかと、いわんばかりのどこかにこちんと骨のあるいいかただった。それでも、いくらかなりと路用を出してくれる間はまだしもと、ひそかに胸に納めようとする主税に、弥左衛門はさらに毒を含んだ言葉を吐いた。 「もっとも、いつまでも敵にめぐり会えぬ方が無事ともいえる。なにせ、藤堂喜八郎は、剣をとっては抜群の使い手とやらじゃ。それに、なんとか諸国をうろついておれば、その間、路用だけは藩から出るしな……」 「言葉が過ぎましょう!」  若いだけに主税はかっとなり、思わずつめ寄った。 「てまえが、故意に仇討を避けているとでも貴殿は申されるのか」 「といって、そうでない証拠はどこにもあるまい」 「無礼な! 次第によっては許しませんぞ!」 「ほほう、許さぬ……。許さねばなんとするつもりだな。藤堂喜八郎を討てずとも、算盤《そろばん》以外に何も手にしたことのない、この大庭弥左衛門には、目にもの見せるとでもいうのかな」  主税は蒼白になり、わなわなとふるえた。刀の柄に手をかけて、ただ一打ちにしたい憤怒をかろうじて耐えた。 「口惜しくば、このつぎ藩邸をたずねてくる時は、見事敵の首を持参することだ」  いい捨てて、弥左衛門はぷいと立ち上ってしまった。そのいきさつを、佐久間町への途次、宗平は聞かされて、胸が重かった。足もまた重かった。  しっかりやれと、藩邸の人々が主税主従を心からはげましてくれたのは、旅に出て一、二年の間だけだった。今では、二人を迎えるのは、冷たい、よそよそしい視線ばかりである。露骨な邪魔物扱いを見せられることさえ一再ではなかった。むろんたまには、あたたかい言葉の一つもかけてくれる者がないでもない。だが、それとてもありようは、通り一ぺんの挨拶に過ぎなかった。  ——可哀想な主税さま。  重い足を運びながら宗平は、主税が不憫でならなかった。 「おれは当の敵より、討たれた父がかえって憎い。またうらめしい。ばかなおやじよ。そうではないか。とるにも足らぬ意地だてから、我が子といくらも違わぬような、弱輩《じやくはい》相手の喧嘩沙汰……」  そういった鵜沼修理の心が、今にしてよくわかる。主税の父の新宮寺主膳が非業《ひごう》の死をとげたのも、のちのうわさに聞けば、相手の藤堂喜八郎よりも、非はむしろ主膳自身にあったという。してみれば、主税を今日の非運に追いやったのは、武士の意地という美名にかくされた、父主膳その人の愚かさだったともいえよう。ただそれを、あからさまに口に出せないだけであった。  主税自身にも、すでにその考えはあろう。しかし、主税は一言もそれをもらさぬ。愚痴らしいものをただの一度も、宗平はまだ耳にしたことがなかった。それ故、なおさら哀れに思えてならないのである。  物ごころつくやつかずの頃から、主税は宗平によくなついた。父を失ってからはなおのこと、ましてや、今日までの長い歳月、暗澹《あんたん》たる流浪の旅路にあって、常に寝食をともにしてきたのであれば、主とはいい条、宗平にとっては我が子にもひとしかった。  ——その主税さまを、浦部兄弟や、あの鵜沼修理と同じ運命が待ち受けているのかもしれぬ。  そう思うことは耐えられなかった。  労咳《ろうがい》を病んだ鵜沼修理が、仇討の願望を放棄したのは二十七年目である。といって、断念してしまったわけでもなかった。辻堂の裏の蒲鉾《かまぼこ》小屋をねぐらに、乞食となって起き伏ししながらも、やはり心のどこかには、この原の宿に住みついていても、運さえよければ敵の方から飛びこんでこないものでもあるまいと、投げやりに似た気持が動くこともあった。  そんな修理を訪れる者はなかった。備前岡山の池田藩の人々は、もうとうの昔に修理のことなど忘れ去っているに違いない。親類縁者でさえ、参覲の供をして江戸へ向う途中、ひそかに立ち寄ってくれることもなかった。例外はただ一人である。三つほど年少の従弟鵜沼左源太がそれだった。すさみきった修理に、この男だけが、昔に変わらぬ温情を持ち続けてくれている。  修理について、主税たちが知ったのはそれだけだった。多くは、口をにごして語ろうともしなかったのである。が、その修理が、どんなに悲惨な半生を流転のうちに過ごしてきたかは想像にあまりあった。 「日頃は物乞いをして、暮しをたてていられるのか」  そう主税が遠慮がちにたずねた時、 「物乞いは物乞いでも——」  いいかけて修理はにんまり笑った。凍ったような冷たい笑いだった。 「まあ、そこで見ているがいい」  いい残して、ふらふらと修理は街道へ出ていった。  折から、供を従えたりっぱな旅の武士が通りかかった。と、修理はその武士にどんとぶっつかったのである。故意とは、明らかに見てとれた。 「無礼者」 「そっちからぶっつかって、無礼呼ばわりはないだろう」  色も変えず修理は、ずばりといってのける。 「おのれ」 「斬るというのか。おもしろい。存分に斬りきざんでもらおうか。だが、念のためにいうておく。黙ってこの首さしのべるわけにはいかないぜ」  伝法な言葉と同時に、修理の仕込み杖が宙に躍ると、旅の武士の笠の紐がぷつっと切れた。すさまじいまでの早業である。さっと武士の顔色が一変した。 「待て」  形勢不利を察したらしい。 「待て待て、君公の命を帯びての途次じゃ。話はかえりにつける」  虚勢を張ってそういう語尾が、おかしいほどふるえていた。 「そんなことあどうでもいい。酒代《さかて》をよこしな」  さすがに苦い顔はしたものの、あきらめて小粒を投げ与え、武士は逃げるようにそそくさと立ち去った。修理はそれを無造作にすくいあげて、 「小粒とはずいぶんはずみなすったね。ふふふ、物わかりのよい御仁じゃ。おぬしあ、今に出世するぜ」  背後から嘲笑を投げた。     五  だが、そんな鵜沼修理にも、まだ多少の人間らしさは残っていた。 「藤堂喜八郎、年五十……。おれよりは二つ年かさのわけか。長身痩せがた、所持する大刀がそぼろ助広だな。覚えておこう。手がかりがあれば知らせてやらぬものでもない」  別れしなに修理は約束した。その時、すさみきっているこの男の眸の奥に、ちらと、別人のようになごやかな光が動いたのを、宗平は思い出した。 「宗平、こんどはどこをまわろうか——」  呟くように主税はいった。江戸へ出た折のねぐらにしている、佐久間町の長屋である。両手を組み合わせて枕に、仰向けに寝ころび雨もりのあとのいくつもある天井を、主税はぼんやり見上げている。こんな崩れた態度を見せることも、ついぞ覚えがなかった。 「さあ、どこへ参ったものでございましょうか」 「考えてみると、ずいぶんめぐり歩いたものだなあ」  宗平は胸が切なかった。若いに似げなく、物のわかったやさしい主なのである。風邪をこじらせた宗平が、木曾路のとある宿場で病みついた時、主税はまるで父でも看取るように心を砕いてくれたものだった。  こんな人柄の持主が、なぜいつまでも不幸の泥沼からはい出すことができないのか。それが人の世の常とは思いながらも、宗平は、はげしいいきどおりを覚えずにはおれないのである。  主税には、百合という許婚があったが、とうに他家に縁づいてしまっている。すでに二人の子を生《な》しているとのうわさも聞いた。おそらく主税もそれを知っているに違いない。その話を誰かに聞かされた時、まるで自分自身が裏切られでもしたかのように、 「売女《ばいた》め」  と宗平は顔に朱をそそいだものだった。  どこをどうまわるか、宗平にもあてはなく五里霧中だった。まるで雲をつかむようなものである。くる日もくる日も、昼のない暗い暦を繰《く》り続けるのが仇討旅の常だった。  十両の路銀がいつまであるか。ここ数年来の相場では、一両あれば、およそ米一石五斗ほど買える。考えようによっては十両は大金といえた。だが、あてもなく諸国をさまよい歩く身にとっては、雀の涙にも足りなかろう。しかも、その十両がもはや最後の命の綱だった。 「爺!」  突然主税が身を起こした。 「なんでございましょう……」 「そなた、もう六十五だな」 「はい」 「もうしばらくは、死んだりなんぞしてくれるなよ。おれにとっては、爺一人が頼みの綱なのだ」 「主税さま!」  それっきり宗平は、ものがいえなかった。ただ心の中で、 「死にませぬ。爺は、主税さまがめでたく本懐をおとげ遊ばすまでは、どんなことがあっても、死んだりなんぞいたしませぬ。たとえ鬼になっても!」  と繰りかえした。  主税はしばらく放心したように、宗平の年老いた顔を見つめていた。春の夕陽がななめにさしこんで、くされかかった畳を照らし、その古畳から主税と宗平の、男世帯の侘びしさがにじみ出ているようだった。 「爺、おれが鵜沼修理の年になるまでには、まだ十何年かある。それでもなお、藤堂喜八郎にめぐり会えぬ時は、爺と一緒に、野たれ死でもしようなあ……」 「主税さま……」  宗平は耐えかねて、がばとその場に突っ伏し、大きく肩を波うたせた。     六 「藤堂喜八郎のありかがわかったぞ」  思いがけない吉報が、主従のもとへもたらされたのは、それから三日目、あすはいよいよ北陸道へ向けて出立しようというたそがれどきであった。  見る見る主税は目を輝かせ、頬を紅潮させた。その一瞬ほど溌剌たる生気をみなぎらせた主税の顔を、ここ久しく見たことがなかった宗平は、かあっと胸があつくなった。自分自身の五体にも、新しい血液が音をたてて流れこむ思いだった。と同時に、もし今日の知らせが、あと二、三日でも遅れて、出立したあとになっていたらと身ぶるいを覚えたことである。  江戸へ出た時の住居を定めて、藩邸に届けていたのが、何よりの幸いだった。知らせてくれたのは有本甚太夫という、五十二、三の同藩の士だった。  甚太夫は、肥前唐津から公用で出府してくる途中、ゆくりなくも東海道金谷の宿で、藤堂喜八郎の消息を知ったのである。いや、喜八郎の方から、おのれの所在を明示していたのであった。  日坂《につさか》から小夜の中山を越え、菊川を渡って金谷へ入る松並木の間に高札があり、そのおもてに墨くろぐろと、  ——下総佐倉の浪人藤堂喜八郎、このところに罷《まか》り在り。  と達筆に記されていた。名宛はまぎれもなく新宮寺主税となっていたという。  喜八郎が佐倉の城下を逐電《ちくでん》してから、早くも二十五年の歳月を閲《けみ》している。実に二昔半である。亡き新宮寺主膳と格別の交情があるでもなかった有本甚太夫が、よくも高札に気がついてくれたものだった。 「何分にも公用の途次ではあり、かてて加えて、道中季節外れの長雨にたたられたり、いちじるしく旅程も長びいていたこととて、心せくまま、くわしい様子は探るいとまもなかったので」  と、有本甚太夫は、いくぶんか気の毒そうにいった。 「いやいや、藤堂喜八郎の名を、思いだしていただけただけでも天の助け——」  主税と宗平は、心の底から感謝の涙にくれたことである。  それにしても——、  二十数年の久しきにわたって、杳《よう》として行方を絶っていた藤堂喜八郎が、なぜ今になって突如みずから高札によって名乗って出たか。かれこれ思案をめぐらせても理解に苦しむところだった。さりとて、いつまでも思いあぐんでいる時ではない。  あくる日、夜明けを待ちかねて、主税と宗平は江戸を発った。  白く乾いた街道にかげろうがもえた。  ——今度が最後の旅。  そう思うと、足の運びも軽かった。四日目に原の宿へさしかかると、ひとりでに足がとまった。  ——鵜沼修理はどうしているだろう。  同じ思いが、木の間がくれの落葉の下ににじみ出る湧き水のように、主税と宗平の心をうるおしていたのである。修理と出会ったのは、おととし、貞享三年秋の末だった、およそ一年半の歳月が流れて、今は貞享五年の春もすでに老いている。  ——もはや死んだのではなかろうか。  ふとそう思う。  病いに蝕《むしば》まれた顔の青さ、物乞いは物乞いでもと、にんまり冷たい笑みを浮かべて、旅の武士から金子をゆすりとった修理の、痩躯にしみついた虚無の匂いが、じいんと胸によみがえった。  その無頼《ぶらい》な生き方を責めるよりも、哀れを誘われる心が強かった。  藤堂喜八郎の消息がわかったと、告げようか告げまいか二人は迷った。喜んでくれそうにも思える。三十年近い歳月を費やして、なおかつ本懐をとげ得なかった、修理の心をさらに傷つけてはとも思う。  ——やはり会っていこう。  最後に、二人をそう決心させたのは、別れしなの鵜沼修理の目だった。相手の年齢、人体《にんてい》、その他のこまごました特徴、所持する大刀の銘《めい》までも宗平にくわしく聞きただし、手がかりがあれば知らせてやらぬものでもないといってくれた時の、すさみきった修理の眸の奥に、つかの間宿った、別人のようになごやかな光だった。しかし、辻堂の裏手にある蒲鉾《かまぼこ》小屋から、ひょいと顔を出したのは、三十五、六のいざりだった。 「その男でしたら、京へいくとかいってましたよ」 「京へ——。していつのことだ」 「さあ、もうかれこれ、半年にもなりますかねえ」  もしや敵の手がかりでもつかめたのではなかろうか——反射的にそう思ったが、いざりは別に、くわしいことを知らせられている様子もなかった。 「そうそう、ついこないだも、誰かお武家さまが一度見えましたよ」  とだけ、無造作につけ足した。  その日の夕暮れから天候が崩れた。四月にはまだ間があったが、じとじとと小止みもなく降り続けて、まるで卯の花くたしだった。あくる日も雨はあがらず、心せくまま濡れるにまかせて島田の宿までかけつけたが、大井川はやはり川止めだった。  川一つ越せば、もうめざす金谷の宿だというのに、足を奪われた主税と宗平は、じりじりしながら、雨があがるのを待つよりほかはなかった。夜の闇にまぎれて、泳いででも渡ろうと、無理をいいだす主税をなだめるのも一骨だった。  やっと川止めが解けたのは、島田へついて四日目である。いらだちのあまり、主税の目はげっそりと落ちくぼみ、川渡しの人足が、 「旦那あ、どっか工合が悪いんじゃあござんせんか」  と真顔でたずねたくらいだった。     七  藤堂喜八郎の手になる例の高札はすぐわかった。ああ、あれかと、金谷の宿の人々は、たいていがまだ記憶にとどめていた。それでいて、肝心の高札の主、藤堂喜八郎その人については、ほとんど何一つ知らぬのである。いや、中には、その男なら知ってますという者もないではなかったが、くわしく問いただしてみるということはまちまちだった。  高札は、金谷の宿の一里塚を過ぎて、そろそろ上り坂にかかるあたりの松並木の間にあった。その高札のおもてに主税は紙を貼り、直ちに尋常の勝負を望む旨書きしるした。三日目に同じ場所にいってみたが、高札はもとのままだった。漠然とした不安が、むくむくと頭をもたげた。宿場役人にたずねても一向にラチがあかなかった。 「主税さま! 喜八郎がおりました!」  息を切らして宗平が、旅籠屋で待っている主税のもとへ駆けこんできたのは、金谷の宿へついて七日目だった。勝負の日時と場所を記した紙が、高札のおもてについに貼り出されていたのである。 [#2字下げ]三月二十七日の明け六つ刻 [#2字下げ]場所は高禅寺裏の松原  当日までに二日のゆとりがあった。高禅寺は、金谷の宿からやや北に入りこんだ、山裾の閑寂な場所にある。あくる日、宗平をつれ編笠に顔をかくして主税は、勝負の場となる高禅寺の松原へおもむいた。思わぬ不覚をとることのないよう、また相手にだまし討ちをかけられるおそれがないか、十分に地形を見定めておくためであった。  いってみると、さすがに申し分のない、勝負には究竟《くつきよう》の場所だった。小暗い高禅寺の境内に、細路一つでつながったその松原は、人家と離れてしんかんと静まりかえり、邪魔の入るおそれもなさそうである。 「届出はなんといたしましょう。前もって届けておけば安心でございますが」 「討ち果たしたあとのことじゃ。公儀の帳づけがすんでいる以上、事後の届出でも、さしたる面倒はないはず」  大仰《おおぎよう》に騒ぎたてて、せっかく勝負の約束までした相手に逃げられでもしてはと、主税は考えたのである。  樟《くすのき》や椎の老樹が亭々とそそりたって、うす暗い高禅寺の森の背後を通ってかえりかけた時、ぎいとはねつるべの音がした。庫裡《くり》と覚しいあたりに、小坊主の白い姿が木立をすかしてちらと見えた。 「宗平!」  森に沿って大きく左へまわり、山門の下まできた主税は、ぴたりと足を釘づけにした。長い石段を、ゆっくりと下りてくる編笠の武士の姿が目に映ったのである。背丈はさほど高くないが、肩はばの広い、がっしりしたからだつきだった。  藤堂喜八郎! とっさの判断だった。 「主税さま、あわててはなりませぬ」  おだやかに微笑を浮かべ、たしなめるように宗平はいった。たしかに主税は、我にもあらず取り乱していた。藤堂喜八郎は背の高い男——常々宗平に聞かされたことを、ものの見事に忘れていたのだった。  編笠の武士は、石段をおりきるあたりで、寺で働いているらしい下男風の、実直そうな男と出会った。一度やり過してから、急に野太い声で、 「待て」  と呼びとめた。武士は石段を数歩引きかえして、上から寺の男を見おろす位置に立ち、 「この寺に、五十前後とおぼしい浪人者がいるだろう」  かさにかかった問いかただった。 「はい、一人さまだけ、いるにはいらっしゃいますが」 「その男、名はなんという」 「藤堂喜八郎さま……。たしか、そううかがいました」 「藤堂喜八郎……。やはり、住持の申す通りか。その男、言葉にもしや備前なまりは残ってはいまいな」 「さあ、そこまでは気がつきませぬ。なんでも下総佐倉の御浪人とやら聞きましたが」 「…………」  武士は無言で、編笠ごしに山門の方をつと見上げた。いぶかしい——とでもいいたげな様子が明らかに見えたが、すぐ思いかえしてまたゆっくりと石段をおりていった。  主税と宗平は黙ってそれを見送っていた。その編笠の武士がやがて主税の運命を大きくくつがえしてしまおうとは、知るよしもない二人だった。しいんと、静まりかえった周辺の空気を裂いて、小鳥の声がしきりに聞こえた。     八  春は老いていたが、さすがに夜明けの空気は冷えびえとしている。もう間もなく明け六つだった。松の間にしっとりと靄《もや》がただよっていた。  襷《たすき》を十字にかけ、汗どめの鉢巻、足ごしらえも十分に、新宮寺主税と宗平は、藤堂喜八郎をさっきから待ち受けていた。二人とも、昨夜はよく眠っていない。 「主税さま。今夜はぐっすり眠りをとっておかねばなりませぬ」  そういった宗平自身が、まんじりともしていなかった。眠れぬのも無理はない。十五年間の辛苦が、今まさに結晶しかけているのである。  松の下草を踏む足音と同時に、主税と宗平はさっと身構えた。敵は単身である。勝負の場にのぞむとも見えない、無造作な着流し姿だった。 「藤堂喜八郎か」  意気ごんで刀の反りをかえす主税に、 「きたかばかもの」  たたきつけた最初の言葉がそれだった。ややしわがれたその声に、主税も宗平も愕然となった。ひげの剃りあとも青々として、なりこそ違えまぎれもなく、原の宿で出会った鵜沼修理その人だったからである。  ——なんのために? 「おめでたい話よ」  思案をめぐらせるいとまも与えず、修理は冷ややかに笑った。悪意に満ちた嘲笑だった。 「下総佐倉の城下を逐電して二十五年、おぬしらが旅に出てから十五年。杳《よう》として行方を絶っていた藤堂喜八郎が、まことおのれから名乗って出ると思ったのか」 「うぬ、なんの怨みがあって」 「怨みはない。怨みはないが、ただなんとなく退屈でな」  主税も宗平も蒼白だった。それを修理は、舌なめずりするような目で黙って見守っている。  ——敵の手がかりがつかめたら、知らせてやらぬものでもない。そう約束してくれた時の修理の目にふと宿った別人のようになごやかな光——。  しょせんはあれも、ただの気まぐれに過ぎなかったか。骨の髄《ずい》まで無頼《ぶらい》になりおおせていたものなのか。  修理の病勢は、さらにすすんでいるものと見えた。一押し押せば、朽木のように倒れそうなもろさが感じられた。あと半年の命脈が保たれるかどうかも危ぶまれるほどである。すさみにすさんだその心がわからぬでもなかった。だが、あまりにも無残な仕打ちだった。 「おぬしら、おれの立てた高札をいつ知った? 誰が知らせてくれた? ふふふ、うらめしげな目をするのはよせ。江戸を出て、おれとここでめぐり会うまでのその間は、ともかく生き甲斐があったろう。礼でもいわぬか」 「人非人」 「なんとでもいえ、怨むなら、武士の掟を怨むことだ。父の仇はともに天を戴かずか。敵を討ち果たさぬかぎりは、家督相続も許されず、流浪の果ては野たれ死にするよりほかはない、愚かな武士の掟を怨むことだな。文武抜群の若者よと、口々にもてはやされたあたら侍一匹、人間の屑につくり変えた武士の掟とやらをな」 「それ故、我ら主従をなぐさみものにしたと申すのか」 「さっきもいうたではないか。ただなんとなく退屈でな」  それだけいい捨てると、鵜沼修理はくるりと背を向けた。肩をそびやかせて、すたすたと松の間を去っていく。 「待て」  追いすがって、 「よくもなぶり者にしおったな」  主税は大刀を抜きはなった。もとより宗平もそれにならった。 「おもしろい。相手をしよう」  振りかえって修理はゆうゆうと抜き合わせた。主税とて、腕に多少の覚えはある。しかしながら、とても修理と互角に渡り合えるとは思っていなかった。勝敗は問題ではなかった。斬られるのも承知で、一太刀怨まずにはおられなかった。 「宗平、そなたも死ね。主税も死ぬ。たとえここで死なずとも、しょせんは野たれ死にするほかはない、われらの運命じゃ」  ツ、ツ、ツ——と間合をつめて、 「ええい」  と捨身の突き、修理は冷酷な笑いを浮かべて無造作にかわした。明らかに、格段の違いがある。が、主税はひるまず、またもや必死に突いて出た。空を突かせて、修理の白刃が真っ向から殺到する。主税はからくもがっきと受けとめた。  ——危い。主税さまが危い。  それがわかっていて、宗平にはつけ入る隙《すき》が見出せなかった。脇差をかざして、ただうろうろするばかりだった。  冷笑さえ浮かべている修理と、顔面蒼白、額に脂汗をふき出している主税——。勝敗はもはや明白だった。  いつしか靄のうすれかかった松の間を、編笠の武士が近づいてきた。高禅寺の小暗い森を徘徊《はいかい》するうちに、松原の斬り合いに気がついたのである。  武士は小走りに駆けだした。その時、はげしい絶叫と同時に鍔ぜり合いが解けた。目をおおいたい思いを耐え、恐怖に背筋を凍らせて宗平は見た。  茫然と——、宗平は立ちつくしていた。信じられなかった。意外にも、血を噴いてよろめき倒れたのは鵜沼修理だったのである。だが、主税もまた精魂をつかい果たして、へたへたと松の根かたにうずくまった。 「待たれい」  編笠の武士が躍り出したのはこの時である。おととい石段のところで見かけた男だった。 「仇討でございますぞ」  とっさに宗平は叫んでいた。一瞬のうちに宗平は、おそろしい企《たく》らみを思いついたのである。  ——鵜沼修理を、このまま藤堂喜八郎とすりかえてしまうのだ。道具立てはそろっていた。高禅寺の住持が証人である。これで不幸な主税は救われるだろう。果てしもない暗やみの旅は終わりを告げるのだ。  主税は、松の根かたにすわりこんだまま、大きく肩を波うたせていた。 「わたくしどもは、下総佐倉、今は肥前唐津の松平家の家臣、新宮寺主税と下僕の宗平、ただ今、父の敵、主の敵、藤堂喜八郎を討ち果たしたのでございますぞ」  編笠の武士は耳もかさぬ。笠を投げ捨てて修理のからだを抱き起こした。 「修理っ」  武士は主君に願って格別の暇《いとま》を賜わり、必死に鵜沼修理を探し求めている、従弟左源太であった。 「これはなにごとだ」  左源太は、叫ぶが早いか立ちあがって、いきなり抜刀し、ことの仔細を語るいとまも与えず、主税の真っ向から疾風のように殺到していった。  新宮寺主税は、思うさまに致命の太刀を浴びていた。が同時に、主税の最後の一薙《ひとな》ぎはまた、鵜沼左源太の脇腹をしたたかに裂いていたのである。  まさに転瞬のできごとだった。宗平は、一瞬の悪夢に呆《うつ》けたように突っ立っている。  左源太は、渾身の力を振りしぼってはっていった。鵜沼修理は、まだわずかに呼吸があった。 「修理、おれが、わかるか……。左源太だ……。おぬし、敵の行方がわかったぞ。か、敵の行方が……」  ようやくそれだけいい終わると、左源太は顔をゆがめ苦しげにあえいだ。修理は、絶え絶えな息の下から、ただ一言もらした。 「おれは、藤堂喜八郎じゃ……」  それっきり、がくんとなった。その上に折り重なって左源太がのめり伏した。息絶えた主税のなきがらにとりすがって、身も世もなく慟哭《どうこく》している宗平は、修理の一言を耳にすることができなかった。  どこでどうして求めたのか、この時修理が手にしている太刀はそぼろ助広だった。哀れな鵜沼修理の本心を知っているのは、見事な白髯をたくわえている、年老いた高禅寺の住持が、ただ一人であった。 [#地付き](了)