[#表紙(表紙.jpg)] 長崎・壱岐殺人ライン 深谷忠記 目 次  プロローグ  第一章 ようこそ壱岐《いき》へ  第二章 消えた男  第三章 平戸《ひらど》にて死す  第四章 殺人招待席  第五章 博多行  第六章 長崎へ  第七章 偶然と必然  第八章 殺意の不等式  エピローグ [#改ページ]   プロローグ  角を曲がった。  自宅の生垣が見えてきた。  男[#「男」に傍点]は口がからからに渇いていた。暑いわけではないのに、時々、汗が顔や背中に噴き出した。  男はわずかに足をゆるめた。右手の甲で額の汗をぬぐった。  男は罪の意識にさいなまれていた。自分はなんということをしてしまったのだろう、と思う。さっきから繰り返し何度も。  しかし、今更遅い。いくら後悔したところで時間を前に戻すわけにはゆかない。  男は唾《つば》を呑《の》み込もうとした。が、喉《のど》の筋肉を上下させても、唾液《だえき》は出なかった。  代わりのように、額に汗がにじみ出た。  男をとらえているのは、後悔や罪の意識よりも恐怖かもしれない。後悔と罪の意識の割れ目から恐怖が顔を覗《のぞ》かせるたびに、汗腺《かんせん》が開くのかもしれない。  誘いに乗ってしまったのは酒のせいだ、と男は思う。強くない酒を過ごしてしまい、気が大きくなったことが原因だった。自棄《やけ》とは違うが、酔いは人を�どうなったって構うものか�といった気持ちにさせる。誠実というよりは臆病《おくびよう》な男を大胆にしたのは、だから酒のせいにちがいなかった。  しかし、そんなことは言い訳にならない。いかなる理由、事情があろうとも、男の行為は許されるものではない。それは、数ある犯罪の中でも最も卑劣で忌むべき犯罪の一つとされていた。  事もあろうに、男はそれをしてしまったのである。  そのために、酔いの醒《さ》めた男は、罪の意識と後悔にさいなまれ、時々頭をもたげてくる〈もし露見したら……〉という想像に脅《おび》えているのだった。  角が擦《こす》れて丸くなった石の門柱の前まできた。  門灯はないが、母が点《つ》けておいてくれたのだろう、玄関の軒下の四十ワットの電球が、狭い庭に植込みの影を作っていた。  時刻はまだ十時を回ったばかりだが、街から外れているので静かだ。聞こえるのは波が堤防を洗う音だけ。隣家の庭はもう真っ暗だったし、通る車もない。  男は、錠の付いていない鉄の門扉を開け、庭へ入った。  三、四メートル歩き、玄関の少し手前で足を止めた。ふっと、自分は今どんな顔をしているのだろうかと思ったのだ。酒を飲んだ後いつもそうであるように青い顔をしているのだろうか。そこに黄色い汗を浮かべているのだろうか。目は……目はどうだろう。  穴から外を窺《うかが》っている臆病な鼠のような目が浮かぶ。自分が今そのような目をしているとは思いたくないが、いずれにせよ、母と顔を合わせたくなかった。母にそんな目を見られたくない。それには、そっと玄関の鍵《かぎ》を開けて入り、顔も手も洗わずに二階へ上がってしまう以外にない。  男はそう考えると、音をたてないように指の裏でズボンの汚れを払い始めた。行為[#「行為」に傍点]の後で叩《はた》いていたが、もう一度念のために。  手がズボンからブルゾンに移った。  男は息を呑んだ。  同時に手が止まる。  次の瞬間、その手はブルゾンのファスナーを勢いよく引き下ろし、シャツの胸ポケットを探った。 〈ない!〉  男は、顔から血が退《ひ》くのが分かった。  車の運転免許証がない。  男はブルゾンのポケット、ズボンのポケットと捜したが、どこにもなかった。  さっき汚れを落としたときはどうだっただろう、と思う。  手でズボンの膝《ひざ》や裾《すそ》を叩きながら坂を駆け降りたので、覚えていない。少しでも早く現場から遠くへ離れようと夢中で、何か落としたかもしれない、落とすかもしれないといった考えは頭をかすめもしなかった。  といって、その後で落とした可能性は薄いから、行為の前にはしご[#「はしご」に傍点]した飲み屋のどこかだろうか。  いや、それもないだろう。  としたら、残るは一つ、あの行為のとき以外に考えられない。  現場の公園で、彼女[#「彼女」に傍点]か彼女以外の誰かに拾われたら……。  体温の戻りかけた男の顔は、再び氷を当てられたように冷たくなった。  男は首を振った。首を振りながら、夜、免許証のような小さな物が見つかるわけがないではないか、と思う。拾われるとしたら、明日の朝だ。朝なら心配いらない。たとえ拾った人間が警察に届け出たところで、昨夜、あの公園で何があったのかは知るよしもないのだから。  しかし……と、すぐに男の希望に翳《かげ》が差した。もし、今夜、彼女が警察に駆け込んでいたら、どうなるか。  結果は火を見るより明らかだった。  男は心を決めた。  これから捜しに戻ろう、と。  男は、玄関の履物入れの上に懐中電灯が置かれているのを知っている。  玄関まで進み、そっとノブを握って回してみた。鍵は掛かっていなかった。  男は音をたてないようにドアを開けて中へ入り、懐中電灯を取った。  廊下の奥に明かりが灯《とも》り、テレビの音がしていたが、誰も出てくる気配はない。  男は猫が隙間《すきま》を擦《す》り抜けるようにして外へ出た。静かにドアを閉めた。  庭を出て、いま来た道を引き返した。  しばらく駆けて、坂を登った。  木の間越しに港の灯を見下ろせる丘の中腹に造られた公園である。  男は、誰か人が来たら逃げようと神経を張り詰めさせながら、三、四十分さっきいた場所とその周辺を捜し回った。  だが、免許証を見つけられないまま家へ帰った。  男は一睡もせずに夜を明かし、窓が灰色っぽくなるのを待って家を出た。  朝は人と出会うし、顔も見られるので、散歩しているようなふりをして坂を登り、公園を捜し歩いた。  しかし、五十分ほど捜しても、免許証はどこにも落ちていなかった。  誰かに拾われてしまったのだろうか。それとも別の場所で落としたのだろうか。朝の光の中でこれだけ捜しても見つからないということは、そのどちらかとしか考えられない。もし後の場合ならいいが、前者だった場合は事だった。  男は不安におののきながら、さらに二十分近く捜した。  それでも見つからず、諦《あきら》めるしかないと思いつつも公園を立ち去れずにいると、下の街からパトカーのサイレンの音が響いてきた。  パトカーは対岸の警察署を出て橋を渡り、こちらへ近づいてくるようだ。  男は、心臓を鷲《わし》づかみにされたような恐怖を覚えた。足がすくんだ。  パトカーは二台、三台とつづき、男の立っている公園の下の埠頭《ふとう》のあたりで停《と》まった。港で何かあったらしい。  自分とは関係なかったらしいとは思ったものの、男の心臓はまだ早鐘のように鳴りつづけていた。  免許証はまだ見つからない。  が、これ以上ここにいないほうがいいと男は判断した。  坂を駆け降り、家へ急いだ。  家に着くと、母だけでなく、父も起きて新聞を読んでいた。新聞から目を上げ、こんなに早くからどこへ行っていたのかと、多少とがめる口調で訊《き》いた。  男は、友達に誘われて港の近くを散歩していたのだ、と答えた。 「それなら、パトカーが来たじゃろう」 「ああ」 「港ン中に若い女の死体が浮いとったち話じゃが、聞いたとね?」 「うん、まあ……」  男は誤魔化した。 「もしかしたら身投げじゃなかか、と牛乳配達の宮口さんは言うとったが」  若い女の身投げと聞いて、男はギクリとした。自分の顔色の変わるのが分かった。 「見たとね?」  父が男の表情の変化を誤解した。 「あ、いや」  男は答えると、顔を洗わずに散歩に出たからと言って、父の視線を逃れるように茶の間を出た。  洗面所へ行き、冷たい水で何度も顔を洗った。  顔を起こすと、自分のものではないような濡《ぬ》れた顔がヒビ割れた鏡に映った。  関係ない。港に浮いていたという女と昨夜の行為は関係ない。そして、免許証はきっと別の場所で落としたにちがいない。  男は、鏡に向かって呪文《じゆもん》を唱えるようにぶつぶつとつぶやいた。 [#改ページ]   第一章 ようこそ壱岐《いき》へ      1  今日は天気も良く、玄界灘《げんかいなだ》は穏やかなほうだという船長の話だったが、それでも、船は結構揺れた。笹谷美緒《ささたにみお》たちは、博多《はかた》港を出てしばらくはデッキに出て、博多の街や志賀島《しかのしま》などを眺めていたが、フェリーが糸島半島の先端をかすめて玄界灘へ出てからは、ほとんど船室に横になっていた。  そのせいか、誰も気持ちが悪くならずに無事に二時間二十分の船旅を終え、十一時二十分、フェリーは壱岐の郷《ごう》ノ浦《うら》港に着いた。  今日は五月四日(土曜日)。美緒は、連休を利用して、女子大時代の友人である片平《かたひら》サユリ、桑野佐知《くわのさち》とともに九州へ来ているのだった。  昨日の朝、寝台特急「はやぶさ」で博多に着くと、太宰府《だざいふ》まで行ってきてから�博多どんたく�を見物し、昨夜は那珂《なか》川を見下ろすホテルに泊まった。  今夜は壱岐のペンション泊。明朝、東松浦半島の呼子《よぶこ》に渡り、名護屋《なごや》城跡、唐津《からつ》などを見た後、博多へ戻って、新幹線で東京へ帰る予定だった。  船を降りると、さっきデッキで話を聞いた親切な船長が笑顔で迎え、「どうぞ楽しい旅を」と見送ってくれた。  美緒は自然に心が浮き立つのを感じた。列車や飛行機から降り立ったときとは違った気持ちだった。  郷ノ浦のフェリーターミナルは細長い入江の入口にあり、入江の両側には民家やホテルが建ち並び、その裏は海岸段丘である。だから、景色はひらけていないし、船を降りたからといって島だと分かるわけではないが、 〈ああ、これがあの魏志倭人伝《ぎしわじんでん》に出てくる一大国、壱岐なのか……〉  と思った。  美緒がこれまでに訪れた島といえば、瀬戸内海の因島《いんのしま》や天草《あまくさ》諸島など、車で行けるところばかり。サユリは隠岐《おき》へ、佐知は佐渡へ行ったことがあるというが、美緒はこうした島らしい島に来たのは初めてなのだ。  美緒たちがターミナルビルを出て、きょろきょろしていると、さっきフェリーのデッキで話しかけてきた男が、笑みを浮かべて近寄ってきた。  男三人連れのうちの一人で、他の二人は、ちらちらと美緒たちのほうを窺《うかが》いながら、白い乗用車のトランクにスポーツバッグとボストンバッグを収めていた。 「やあ」  と、薄いブルーのサングラスをかけた男は馴《な》れなれしく片手を挙げた。  年齢は、他の二人と同じ二十六、七歳。黒いズボンに白いセーターを着た、どことなく育ちの良さとともに軽薄さを感じさせる男だ。身長は百七十センチ前後と大きなほうではないが、肩幅が広く、がっしりとした体躯《たいく》をしていた。  美緒はサユリ、佐知と、迷惑ねといった視線を交わし合い、黙って頭を下げた。 「これから島を見物して周《まわ》るんでしょう?」  と、男が訊《き》いた。  ええ、と美緒たちはうなずいた。 「じゃ、一緒にいかがですか。あれは——」  と、男が乗用車のほうを指し、「手配しておいたレンタカーなんですが、もしオーケーなら、すぐにワゴン車に替えてもらいますから」 「いいえ、結構です」  と、美緒は答えた。 「でも、足はあるんですか?」 「バスに乗りますから」 「バス?」  男が、小馬鹿にしたような笑いを目の中ににじませ、「バスなんて、日に数えるほどしか走っていないし、行きたいところを通るわけじゃない」 「それなら、歩きます」 「島といっても、壱岐には四つの町があるんですよ」 「それぐらい、知っています」 「でしたら……」 「せっかくですけど、本当に結構です」 「しかし……」 「お断わりします」  美緒の横から、もう我慢できないといった調子で佐知が言った。「初対面の方にご心配していただかなくても、私たちは私たちで何とかしますから」 「あ、そう」  と、男が佐知に視線を走らせ、目と唇から笑いを消した。それから、不快そうに口元を歪《ゆが》め、 「それじゃ、走るなり歩くなり、どうぞお好きなように」  捨《す》て台詞《ぜりふ》を吐いて、二人の仲間のほうへ戻って行った。  不快なのは美緒たちのほうこそ、である。島に降り立ち、せっかく好い気分でいるときに……と、美緒は腹立たしかった。 「美緒が初めからはっきりと断わらないからよ」  と、佐知が言ったが、本気で責めている口調ではなかった。 「ごめん」  美緒は謝った。 「美緒のせいじゃないわ」  サユリが弁護した。  サユリは誰に対しても優しい。  一方、佐知は学生時代から思っていることを歯に衣《きぬ》着せずに口にしたから、教師や級友の一部からは煙たがられたが、なぜか美緒とサユリとはウマが合った。  現在、美緒は神田にある中堅出版社「清新社」の文芸書籍編集部員、サユリはフリーライター、佐知は大田区役所の職員と仕事はばらばらだが、予定を合わせては年に二回ぐらい一緒に旅行をする。 「分かってる」  と、佐知が言った。「ごめん」  彼女は、思っていることを口に出すかわりに、さっぱりとした性格だった。  男三人の乗ったレンタカーが走り出て行った。 「何よ、あいつら。私たちを売れ残りのオバンだと思って、誘えばホイホイついてくると思ったのかしら」  佐知が、白い乗用車の尻《しり》に恨めしげな視線を投げた。  美緒も佐知もサユリも二十五歳。売れ残りというには早過ぎるが、すでに結婚した級友たちも少なくないので、彼女たちに会ったとき、自ら「オバントリオ」を称している。  それはともかく、佐知は「あいつら」と一括《ひとくく》りに言ったが、三人連れの男たちのうち、背が百八十二、三センチあるひょろりとした男は、青白い気の弱そうな顔をしていたし、もう一人、目立たない中肉中背の男にしても、美緒たちに何か言ったわけではなかった。フェリーのデッキで話しかけてきたのも、いまのブルーのサングラスをかけた男一人である。どこから来たのかと訊《き》くので、美緒が東京だと答えると、自分は長崎だが、福岡にずっと住んでいたのでこの近辺の地理には詳しい、ぜひ案内させてくれ、と。美緒たちが船室へ逃げ戻るまで、しつこく。 「でも、どうする? 確かに、時刻表に載っているバスは数えるほどしかなかったし」  サユリが言った。  そうなのだった。  島内にある四つの町(港)、郷ノ浦町(郷ノ浦港)〜石田町(印通寺《いんどうじ》港)〜芦辺《あしべ》町(芦辺港)〜勝本町(勝本港)〜郷ノ浦町と循環しているバスは、これから一時間半近く待たなければ、来ない。  美緒たちはそれを承知していながら——島というイメージからか——適当なバスがなければ歩いたってたいしたことないだろう、と漠然と思っていたのだった。  その誤った認識を、図々しい男の申し出によって思い知らされたのである。 「循環バスの他に区間バスがあるって出てたでしょう。だから、それとタクシーを使って、あとは本当に歩けばいいじゃない」  佐知が言った。 「ただ、今夜泊まる『サンライズ・サンセット』っていうペンションは、ここから歩いて十五、六分のところだという話だったでしょう」  サユリが美緒に目を向けた。 「うん」  と、美緒はうなずいた。  今回の旅行は美緒が幹事なのである。 「ということは、島を一巡りして、夕方までに郷ノ浦へ帰ってこなきゃなんないわけじゃない」 「それがどうしたの?」  佐知だ。 「かなりの距離になるし、タクシーを使うぐらいなら、私たちもレンタカーを借りたらどうかなって……」 「レンタカーを借りて、誰が運転するの?」  佐知が訊いたが、美緒には答えは分かっている。いや、佐知だって。なぜなら、美緒と佐知は運転免許を持っていないのだから。 「もちろん、私」  サユリがにっこりと笑った。 「でも、サユリは、ペーパードライバーじゃなかったの」  美緒は言った。 「私だって、何回かはハンドルを握っているわよ。それに、この島なら大丈夫。大きなトラックやダンプなどが走っていそうもないから」 「免許取ったの、確か四、五年前よね。それから何回運転した?」 「そうね、三、四回かしら」 「だったら、一年に一回も運転していないじゃない」 「でも、自信があるわ。去年の秋、北海道へ行ったとき、友達と交替で二日間も運転してきたし」  サユリはおとなしくて優しいのに、美緒などより数倍も大胆で思い切りのいいところがある。そのために、かつて妻子ある男と不倫の関係を結び、危うく殺されそうになったのだった。 「美緒、サユリの言うとおりにしよう?」  と、佐知が言った。「歩くよりはよさそうだから」 「サユリに命を預けるわけね」 「そういうこと。いいじゃない、たとえ車ごと海に飛び込むことになっても、みんなまだ独り身なんだし」  佐知が言ってから、「あ、そうか、美緒には大事な人がいたんだった……」 「大丈夫。絶対に黒江《くろえ》さんを悲しませるような運転はしないから」  サユリがつづけたが、美緒の脳裏に壮《ソウ》の顔が浮かんだ。  美緒は冗談で「命を……」と言ったのだし、佐知もサユリもそれに合わせているのが分かっていながら、なんだか急に話に現実みが出てきたように感じられた。  壮《ソウ》こと黒江|壮《つよし》。  職業は、水道橋《すいどうばし》にある慶明大学の数学科教授をしている美緒の父・精一の助手である。  数学者の娘なのに、かつて算数、数学と聞いただけで蕁麻疹《じんましん》の出た美緒に言わせると、数学などという「陰気」な仕事とはマッチしない、現代的なマスクをした美男子だ。背もすらりとしている。ただし、現代風なところは容姿だけ。暗いというのではないが、少し喋《しやべ》らないでいると腹がふくれて苦しくなってしまう美緒とは対照的に、極端に無口である。しかも、真剣に考え始めると、誰がいようがどこにいようが、何も見えず聞こえずの「考える人」になってしまう、特技というか、奇癖というか……の持ち主。  年齢は、美緒より四つ上の二十九歳。もうじき三十路《みそじ》にかかろうというのに、この�宇宙人�ときたら、まるで世事にうとい。そして、地球人の美緒たちにはチンプンカンプンの数学という�暗号�と殺人事件の謎《なぞ》を解くとき以外はあまりにも不器用で、いまだに二人の関係はキスの段階にとどまっている。  そのため、この恋人といると、美緒は時々いらいらする。  たとえ腕を組んで夜道を歩いていても、彼の場合、 〈柔肌の熱き血潮に触れながら、寂しからずや暗号を解く君〉  だからだ。  が、一方、そんな壮に、美緒は、持ちまえの母性本能、世話焼き的な性格をくすぐられないわけではない。それで、惚《ほ》れてしまったのが百年目と諦《あきら》め、口の悪い友人たちからは金魚の何とかのようだなどとひやかされながらも、いつもくっついて歩いている。  というわけで、美緒は、今度もサユリと佐知とともに九州に来てから何度も壮のことを思い浮かべ、電話したいのを我慢していたのだった。 「何よ、お美緒ったら、その顔」  と、佐知がからかった。「あなたのお通夜《つや》の席にいる黒江さんを想像しているような顔をしてるわよ」 「嘘《うそ》!」  と、美緒は少し恥ずかしくなり、声を高めて否定した。 「嘘かどうかは、鏡を見てみれば分かるわ。ね、サユリ?」 「佐知、もうやめなさいよ」  サユリが注意した。 「ごめん」 「それより、二人ともどうする気? レンタカーを借りるの、それとも歩くの」 「サユリに命預けます。ね、美緒?」  佐知に言われ、美緒も「うん」とうなずいた。  決まりだった。  美緒の脳裏をまた壮の顔がかすめたが、今度はそれ以上は考えなかった。      2  レンタカー会社には、免許所持者のサユリが電話した。観光案内所でもらった島内地図に広告が載っていた会社の一つである。  美緒たちがターミナルビルの前で二人ずつ写真を撮り合っていると、五分もしないうちに、二十二、三歳の若い男性社員が白い軽乗用車を運転してきた。  壱岐は小島ではないが、最大幅のところを計っても、南北十八キロ、東西十五キロしかない。島のほぼ中央を北から南へ、さらに東へとL字形に走っている島の大動脈ともいうべき国道382号線でさえ二車線だし、他はもっと狭い道路がほとんど。そのため、島内の車は軽乗用車が多く、それで充分なのだという。  サユリが電話でそうした説明を聞き、料金が安くてしかも狭い道を運転しやすい軽乗用車に決めたのだった。  サユリが契約を交わしている間に、美緒と佐知はバッグを後部の荷台に積み込み、二人とも助手席を避けて[#「避けて」に傍点]リアシートに乗って待った。  借りる時間は六時間。返す場所は「サンライズ・サンセット」の入口である。  サユリが、ボンネットを台にして書いた契約書を男から受け取り、美緒たちのほうを見た。リアシートにいる二人の意図を察したのだろう、 「ま、しようがないか……」  苦笑いを向けてつぶやくと、運転席に乗り込んだ。  男に計器類の説明を受け、シートベルトを締めて、ゆっくりと発進させた。  コースは一応決めてある。  これから、島をだいたい右回りに一周してこようというのである。  壱岐は、距離的には福岡県と佐賀県に近いが、行政的には長崎県である。海路は博多港と呼子港と、空路は福岡と長崎と結ばれている。島が一つの郡——長崎県壱岐郡——で、大ざっぱにいうと、リンゴを割るように島を縦横四つに割ったとすると、左下つまり南西部が郷ノ浦町、その右・南東部が石田町、そして、石田町の上・北東部が芦辺町、芦辺町の左・北西部が勝本町、である。  人口は四町合わせて、約三万五千人。  郷ノ浦町に壱岐支庁や警察署などがあるところから見ると、ここ郷ノ浦が島の中心らしい。  サユリの運転する車は、のろのろと入江に沿って進み、二、三分行って右に折れた。銀行やバス会社や土産物《みやげもの》店などが並ぶ街らしい通りである。  といっても、街並はあっという間に過ぎ、L字形の国道382号線の折れ目に出て、右(東)へ向かった。道の両側は山と畑。十五分ほど走って、呼子との連絡フェリーが発着する印通寺港へ下る手前で左(北)へ入った。  もう五分も行けば、右手に原《はる》ノ辻《つじ》遺跡があるはず[#「はず」に傍点]である。  中国の史書・魏志倭人伝には、朝鮮半島の帯方《たいほう》郡から韓国を経て邪馬台国《やまたいこく》に至る道筋が記されている。狗邪韓国《くやかんこく》〜対馬《とや》国〜一大国〜末盧《まつら》国〜伊都《いと》国〜奴《な》国〜不弥《ふみ》国〜投馬《つま》国〜邪馬台国、と。  美緒は以前、壮とともに邪馬台国がらみの殺人事件に関わったことがある。そのため、�邪馬台国論争�に関しては多少の知識を持っている。  それによれば、魏志倭人伝に記されたこの道筋のうち、不弥国から先、特に投馬国と邪馬台国の場所について、九州説と畿内《きない》説に分かれ、さらにその中で諸説入り乱れているのだった。  一方、不弥国より手前はかなりはっきりしており、対馬国は現在の対馬《つしま》、一大国は壱岐、末盧国は東松浦半島の呼子から唐津にかけてのあたり、伊都国は糸島《いとしま》半島の付け根の前原《まえばる》・周船寺《すせんじ》のあたり、奴国は福岡市から春日《かすが》市にかけてのあたり、と見られている。  とはいえ、これらもおおよその位置にすぎず、一つの例外を除いて、「この場所が××国の跡である」と確定したところはない。  そのただ一つの例外——一大国の跡と見て間違いないであろうと言われているのが、ここ壱岐の「原ノ辻遺跡」なのだった。 「地図で見ると、このあたりのはずよね」  サユリが左右にきょろきょろ目を配りながら、言う。  ほぼ田植えが終わった水田の広がるかなり広い平地である。周囲の山が低く、空が広く明るいとはいえ、何の知識もなしにここに放り出されたら、島の中にいるとは思えない。 「そうだけど、サユリは前を見ていて。私たちが探すから」  美緒はたしなめる。  何とかここまで無事に来たものの、何度も対向車や生垣に擦《こす》りそうになっているのだ。  ここには生垣はないが、車は時々来るし、それより脇見をしていたら田圃《たんぼ》に落ちる危険性がある。  美緒たちは同じ道を行ったり来たりして、ようやく田圃の中にそれらしい場所を見つけた。  車を駐《と》め、土手を越えて農道へ入って行くと、やはりそこが原ノ辻遺跡だった。  連休だし、観光客が沢山来ているだろうと思っていた先入観が邪魔したらしい。  人の姿はなく、埋め戻された遺跡の外に説明板が立てられているだけ。当然ながら、埋め戻された遺跡はただの平地にすぎず、 「なーんだ」  と、佐知が期待外れの声を出した。 「でも、ここのこの場所に魏志倭人伝に出てくる国が造られていたと思うと、すごく想像力を刺激されるじゃない」  美緒が言うと、 「そうよ。その頃の人たちも、あの小さな山を見て暮らしていたのかななんて想像するだけで、わくわくするわ」  サユリは美緒に同調したものの、佐知は「そうお? 私は全然わくわくなんてしないけど」と素っ気ない。  四、五人の男女が土手を降りてきたので、美緒たちは入れ代わりに車に戻った。もしかしたら島内最大の平地ではないかと思われる水田地域を北に抜け、すぐ先の集落にある安国寺《あんこくじ》へと移動した。  創建が室町《むろまち》時代(江戸時代に再建)だという安国寺は、小さいが端正な寺だった。広くはないが、境内は静かで落ちついている。美緒たちは、そこで樹齢千年という大杉を見た後、北へ少し進んで進路を東へ変えた。  これから、玄界灘に突き出た八幡《やはた》半島まで行き、しばらくは海の景色を楽しみながら北上しようというわけである。  サユリが運転に慣れてきたからか、東京近辺の道路からは想像ができないほど空《す》いているからか、今度は一度も肝を冷やすことなく「はらほげ地蔵」に着いた。  赤い帽子を被《かぶ》って赤い腹掛けを着けた石地蔵が六体、海の中に祭られている。  腹に穴がほげ[#「ほげ」に傍点]て(空いて)いるので、はらほげ地蔵というのだという。  今は地蔵の全身が海中から出ていたが、潮が満ちてくると穴の空いた腹のあたりまで水に浸るらしい。  美緒たちは堤防の外の石段を降りてそばまで行こうとしたが、ここは壱岐の観光地の一つらしく、前に着いた人たちが次々二人、三人とお地蔵様の前に並んでは写真を撮り合っていた。駐車場にマイクロバスが二台駐まっていたから、それに乗ってきた人たちかもしれない。  彼らはいまに蜘蛛《くも》の子を散らすように一斉にいなくなるはずだが、美緒たちはそれまで待たずに車に戻り、来るときに見ておいた「はらほげ」という食堂へ引き返した。  すでに午後一時に近かったので、三人とも空腹を覚えていた。  が、食堂の駐車場はいっぱい。  名物の「うにめし」なら弁当もあるというので、美緒たちはそれを求め、近くの自動販売機で茶を買って、半島の先端・左京鼻《さきようばな》へと向かった。  左京鼻までは五、六分。  トイレのある駐車場に車を入れて、狭い道を反対側に越すと、天然の芝に覆われた丘がゆるやかなスロープを描いて海の上にせり出していた。  丘の下は三十メートルほどの断崖《だんがい》である。  対馬の北の朝鮮海峡を越えれば韓国という土地柄か、案内板には漢字とローマ字の他にハングル文字が記されていた。  美緒たちは丘の先端まで進み、白っぽい空と群青《ぐんじよう》色の海に向かって立った。誰からともなく、そろって深呼吸した。  断崖のすぐ先には、鬼の要塞《ようさい》のような奇岩が海中から突き立ち、周りで波が白く砕けている。玄界灘が一望というだけでなく、左手には島の海岸線が綺麗《きれい》につづいていた。  もしこれだけの眺望の良い場所が首都圏にあったら……と美緒は想像する。ゴールデンウィークというこの時季、広い丘には腰を下ろす隙間《すきま》さえないのではないか。ところが、ここでは、精々三、四十人の人たちが弁当を広げたり、戯れたり、海を眺めたりしているだけであった。  美緒たちは芝生に腰を下ろし、弁当を広げた。「うにめし」は、御飯の上に雲丹《うに》が載っているのかと思っていたら、そうではなく、雲丹の炊き込み御飯だった。  オレンジ色がかった御飯は、開けるとぷんと雲丹の匂《にお》いがし、食べると、薄い塩味と一緒になってそれが口中にひろがった。  海を眺めながら、素朴だが美味《おい》しい「うにめし」を食べる——美緒たちは、壱岐へ来てよかったわねと話し合いながら、至福の時を過ごした。  その後、美緒たちは、芦辺港、弘安《こうあん》の役《えき》跡がある少弐《しように》公園、文永《ぶんえい》の役跡などを通って、壱岐最大の漁港・勝本港まで北上。あとは国道382号線を南下し、玄室《げんしつ》の見える円墳・鬼の窟《いわや》を見てから西の道へ逸《そ》れ、壱岐唯一の温泉・湯ノ本温泉のある湯本湾沿いに黒崎半島へ向かった。  黒崎半島は、左京鼻のある八幡半島のほぼ反対側、西へ突き出した半島である。  狭い道だったが、途中、乗用車やマイクロバスだけでなく、大型観光バスとも何台か擦《す》れ違った。太平洋戦争中に造られた東洋一の砲台跡もさることながら、猿岩という面白い大岩があるかららしい。  美緒たちは何度かひやひやしながらも、曲がりくねった坂を登り、無事に半島の行き止まりに着いた。  そこが駐車場兼展望台だった。  車を降りて、柵《さく》のほうへ進むと、すぐ先の海の中に、まさに横を向いて座った猿そっくりの巨大な岩があった。猿の背中に当たる部分が絶壁なので——猿との相似を無視すれば——岩は座るというより屹立《きつりつ》していると言ったほうが適切かもしれない。  猿の顔は西に回った陽を受けて明るいが、背中は陰になっていた。そのコントラストから、猿は、何か物思いながらじっと遠い海のかなたを見やっている……そんな印象を受けた。  美緒たちは、その猿岩をバックに二人ずつ交替で写真を撮り合った。  最初にサユリが美緒と佐知を、次に佐知が美緒とサユリを、そして最後に美緒がサユリと佐知を柵の前に並ばせて、カメラマンになった。  名カメラマンが二人のモデルにいろいろ注文をつけていると、佐知とサユリが前後して眉《まゆ》をひそめるような変な顔をした。 「何よ、二人とも。撮っちゃうわよ」  美緒は言ったが、二人が美緒の背後に視線をやっているのに気づいた。 「なーに?」  美緒はシャッターを押すのをやめて、身体を回した。  と、ちょうど、こちらへ歩いてくる三人の男たちと目が合った。  船のデッキと郷ノ浦港のフェリーターミナルで会った男たちだった。  背の高いひょろりとした男は気弱そうに目を逸らしたものの、他の二人の男の目にはふっと好奇の色に似た表情が浮かんだ。  といって、中肉中背の男はそれだけだったが、レンタカーで一緒に島を周らないかと誘いかけてきた、サングラスをかけたがっしりした体躯《たいく》の男は違う。嬉《うれ》しそうに表情を崩し、 「やあ、またお会いしましたね」  と、手を挙げた。  朝、佐知があれだけはっきりと断わったのに、カエルの面に何とか……全然|応《こた》えている様子がない。  仕方がない。  美緒は黙って、頭を下げた。  男は美緒に近づいてくると、 「ああ、あれが猿岩ですか」  と、猿岩を見やって声を高めた。「確かに猿そっくりですね」  美緒は黙っていた。 「失礼。写真を撮っていたんですね」 「ええ」  と、美緒は殊更に大きくうなずいた。だから邪魔だ、というように。  しかし、男は、 「それじゃ、僕がシャッターを押してあげますよ。三人で一緒に入ったらどうですか」 「いいえ、結構です」 「遠慮しないで」  男が、美緒の持っているカメラに手を伸ばしてきた。 「いいんです、本当に」  美緒は身体を回してカメラを引っ込めながら、少し強い調子で言った。「三人一緒のは別の方にもう撮ってもらいましたから」 「ああ、そうなんですか」 「美緒、早くしてよ」  佐知が促した。 「ごめん」  美緒は言うと、男たちを無視して、カメラを構えた。  佐知とサユリがポーズを取ったが、顔が引き攣《つ》っていた。  美緒は、これも記念だと思い、シャッターを切った。  写真を撮り終えると、美緒たちは、三人の男たちから逃げるようにして車を乗り出し、すぐ下の砲台跡まで行った。  平時は海上から見えないように地下に潜っていたという東洋一の砲台の跡は、今は地崩れが激しく危険だというので、空に向かって開いていたらしい巨大なマンホールのような穴の下まで行けなかった。  前の道に車を停《と》めていたし、またさっきの男たちと出会うと嫌なので、美緒たちは早々に防空壕《ぼうくうごう》のような横穴から出て、砲台跡をあとにした。  半島の入口まで下り、美緒たちは、地図で見た郷ノ浦への近道を取る。 「サユリ、ゆっくり行って」  美緒が注意しても、サユリは運転に慣れたらしく、軽快に飛ばす。  それがいけなかった。  珍しく前からダンプカーがきて、それと擦《す》れ違うために左に寄り過ぎ、畑との間に付けられた溝に後輪を落としてしまった。  といっても、軽乗用車は軽いので、美緒と佐知が降りて後ろから押し、難なく脱出に成功。  ところが……である。  勢い余って、今度は前輪が溝に突っ込み、つづいて脱出したばかりの後輪も一緒に落ちてしまった。  軽乗用車が軽いといっても、前輪、後輪が落ちてしまったのでは、おいそれとは上がらない。  サユリがいくらアクセルを踏み込んで、美緒と佐知が尻《しり》を押しても、車輪は溝の柔かい土を削り、空転するばかり。  こうなったら、通りがかった車に助けを求めるか、レンタカー会社に連絡を取って救援に来てもらうか、どちらかしかなさそうだった。  しかし、こんなときにかぎって車は全然通らないし、レンタカー会社に救援を頼むといっても、周りは畑と山ばかり。人家のあるところまで歩いて行って電話を借りないことには連絡が取れない。  三人並んで車の横に立ち、思案投げ首しているとき、美緒たちが来たのと同じ山の陰から白い乗用車が現われた。 「あ、車だわ」  サユリが声を上げた。  美緒も救われた思いで乗用車のほうを見た。  これで、乗用車を運転している人に手伝ってもらえば、車を溝から上げられるかもしれない。たとえそれが無理だったとしても、美緒か佐知が電話のある場所まで乗せて行ってもらえば、レンタカー会社に連絡できる。  美緒はそう思い、サユリと佐知と並んで近づいてくる乗用車に向かって手を振った。      3  それから一時間半後——  美緒たちは、ペンション「サンライズ・サンセット」の部屋に落ちつき、交替でシャワーを浴びていた。  ということは、白い乗用車に乗っていた人間に助けてもらって無事ペンションに着き、レンタカーを返すことができた、というわけである。  ただし、この事実には、大きな�付録�がついていた。  美緒が白い乗用車を見て、〈ああ、これで助かった〉と思って手を振った次の瞬間、  ——あ、あれ……!  と、佐知が声を上げ、美緒とサユリも息を呑《の》んで顔を見合わせた。  三度あることは四度……とは言わないのに、乗用車を運転していたのは、フェリーのデッキ、郷ノ浦港のフェリーターミナル、猿岩の展望台と、すでに三度会ったあのサングラスをかけた図々しい男だったのだ。  乗用車は、振った手を下ろして戸惑っていた美緒たちの手前で停車。  サングラスをかけた男が、にやにや笑いながら運転席から降りてきて、  ——どうしたんですか?  見れば分かるのに、小馬鹿にしたように訊《き》いた。  他の二人はというと、リアシートに座ったままこちらを見ている。  ——落としちゃったんです。  サユリが軽乗用車のほうへ顔を向け、恥ずかしそうに肩をすくめて答えた。  ——ほう、前輪と後輪両方とはすごい。  男が横から車を覗《のぞ》き込んで言う。 〈何がすごいよ!〉と、美緒は反発を感じたが、今は助けてもらわなければならないので黙っていた。  リアシートに掛けていた二人の男たちも降りて、寄ってきた。  ——歩くのをやめて、レンタカーを借りたわけですか……。  サングラスの男が美緒たちに顔を戻して、言った。  ——はい。  と、サユリ。  責任を感じているのか、神妙だ。  一方、サングラスの男は、嬉《うれ》しくておかしくてしようがないのを懸命にこらえているといった顔をしている。  ——手伝っていただけないでしょうか。  サユリが頼んだ。  ——もちろんです。  サングラスの男が応《こた》え、「なあ?」と二人の仲間に顔を向けると、二人もうなずいた。  ——心配いりませんよ。こんなの、すぐに上がりますから。  男が言った。  ——よかったわ。  サユリのほっとしたような、感謝の気持ちのこもった声。  男が図々しすぎるから悪いのだと思いながらも、美緒も、これまでつんけんしすぎたことをちょっぴり反省した。  三人の男たちは、軽乗用車の車輪が落ちた側に回った。  ——一人はハンドルを右に切り、二人は後ろから押してください。  サングラスの男が美緒たちに指示を与え、仲間とともに車体の下に両手をやった。  彼らが「一、二、三」の掛け声とともに力を込めて車体を持ち上げるのと同時に、サユリがハンドルを操作し、美緒と佐知は後ろから押した。  すると、軽乗用車はゆるゆると前進を始め、まず前輪が、次いで後輪が溝から外れて停《と》まった。  ——どうもありがとうございました。  美緒たちは三人の男たちの前へ行き、礼を述べた。  ——別にたいしたことじゃないですよ。  サングラスの男は言ったが、三人の女性に頭を下げられ、満更でもないといった顔だ。  ——でも、軽《ケイ》でよかった。  中肉中背の男が、手の汚れをはたき落としながら初めて口を開いた。  恩を売った後のせいか、どことなく馴れなれしい、打ち解けた口調だった。  もう一人、背の高いひょろりとした男だけは、何も言わず、ただ嬉しそうに微笑《ほほえ》んでいた。  ——今頃、この道を南へ向かっていたということは、今晩は郷ノ浦泊まりですか?  サングラスの男が訊いた。  ——はい。  と、サユリが答えた。  ——宿は当然決まっていますよね。  ——ええ。  ——どこですか?  サユリが、答えるべきか黙っているべきか相談するように美緒と佐知の顔を見た。  ——宿を聞いたからといって、別に下心はありませんよ。  男が、またちょっと馬鹿にしたような笑みを浮かべた。  ——夜、電話をかけて誘い出そうなんてしませんから安心してください。  語るに落ちたと言うべきだろう。  美緒は、自分の口元が歪《ゆが》まないように注意した。助けてもらったのは感謝するが、やはり図々しい嫌な奴のようだ。  ——どうやら、僕は信用されていないらしいけど、よかったらその宿まで先導してあげようと思っただけです。  ——ありがとうございます。でも、もうすぐですし、私たちだけで大丈夫ですから。  美緒は言った。  ——あ、そう。じゃ、精々、今度は対向車に正面衝突なんてならないように注意するんですね。  サングラスの男が苦々しげに口をひんまげた。  人間、他人に親切にするのは簡単だがその後が難しい、とよく言われるが、そのとおりらしい。  ——やめろよ、間宮《まみや》。失礼だよ。  見かねたのだろう、背の高いひょろりとした男がたしなめた。  ——失礼? 助けてもらうときだけ神妙な顔をして「すみませーん」なんて甘ったれた声を出し、用が済んだらさっさと行けといった態度のほうが失礼なんじゃないか。  美緒たちは神妙な顔をしていたかもしれないが、甘ったれた声は出していない。  ——間宮、おまえはしつこすぎるよ。  中肉中背の男も、間宮と呼ばれたサングラスの男に言った。  ——なんだ、吉久保《よしくぼ》も俺が悪いっていうのか。  サングラスの男が、吉久保と呼んだ中肉中背の男に詰め寄った。  ——だって、教えたくないっていうもの、仕方がないじゃないか。  吉久保という男の言い方には、間宮の言い分も分かるが……といったニュアンスが感じられた。  ——ちっ、おまえらだけいい格好しやがってよ。  ——別に俺はいい格好なんかしていない。それより、行こうぜ。早く行かないと、岳《たけ》ノ辻《つじ》の展望台まで行ってくる時間がなくなっちゃうよ。  ——でも、松井、展望台はペンションからすぐなんだろう?  サングラスの男が、ひょろりとした男に顔を向けた。  美緒はハッとした。美緒たちが今夜泊まる予定になっている「サンライズ・サンセット」も、岳ノ辻の登り口に近いところにあるペンションだったからだ。  ——そうだけど、登って降りてくるのに一時間ぐらいは見ておかないと。  松井と呼ばれた、一番優しく善良そうな男が答えた。  ——あの、今夜泊まられるのは何というペンションですか?  美緒は、思いきって松井というひょろりとした男に質《ただ》した。  三人の男たちが意外そうな顔をして美緒を見た。自分たちの泊まる宿を教えないでおいて、彼らの宿泊先を訊いたからだろう。  ——「サンライズ・サンセット」というペンションですが、何か……?  松井という男が訊き返した。  美緒は、サユリ、佐知と見交わした。  サユリと佐知の目には、驚きよりも困惑の色があった。  ——そうか、あんたたちも、俺たちと同じペンションなんだ。  間宮というサングラスの男が、つい今しがたの不機嫌な様子が嘘《うそ》だったように、嬉しそうな声を上げた。  ——当たりでしょう?  ええ、と美緒は認めた。  今更隠したところでどうにもならない。  ——それなら、話が早い。これから、俺たちの車のあとについてきてください。どうせ同じところへ行くんだから。  間宮は言うと、「そうと決まったら早く行こうぜ」と勝手に自分だけで決め、松井、吉久保という二人の仲間を促して、自分たちの車へ戻って行った。  こうなったら仕方がない。  美緒たちも彼の言葉に従うつもりで軽乗用車に乗り込んだ。  ——私が余計なことを訊いたから……ごめん。  美緒が謝ると、  ——美緒が訊こうと訊くまいと、前から宿は決まっていたんだから、同じよ。  佐知がちょっと怒ったように……といって美緒に怒っているわけではないのだが、言った。  そのとき、右側に白い乗用車が並び、運転席の間宮が助手席の窓のほうへ上体を伸ばして、声を高めた。  ——じゃ、ついてきてください。  白い乗用車が再び動き出し、つづいてサユリが軽乗用車を発進させた。  ——そうよ、美緒のせいじゃないわ。  と、前方に顔を向けたままサユリが話を戻した。  ——そもそも車を溝に落とした私が悪いのよ。同じペンションに泊まろうと、私が弱味さえ作らなかったら、あの間宮という男の誘いを拒否できたんだから。  ——もうやめよう。  佐知が少し強い調子で言った。  ——助けてもらったからって、別に嫌なことは聞く必要ないわ。はっきりと断わればいいのよ。  美緒たちは、間もなく国道382号線へ出て、国道がL字状に折れている分岐まで下った。そこで、右に向かい、フェリーターミナルのある入江へ出る前に左へ入って坂を登り、ペンション「サンライズ・サンセット」まで来た。  間宮はペンションへ入る私道の反対側に車を停めて美緒たちを待ち、一緒にこのまま岳ノ辻の展望台まで行かないか、と誘った。  だが、佐知が、  ——私たちは明日の朝歩いて登りますから、どうぞ行ってらしてください。  ときっぱり断わり、先にペンションにチェックインしたのである。  交替でシャワーを浴びると、美緒たちは着替えをして、夕食前に近くを散歩することにした。  サユリと佐知がバッグの中の物を出したり入れたりしてぐずぐずしているので、美緒は一足先に階下に降りた。  昼は綿パンツにブラウス、それに薄いブルゾンを脱いだり着たりしていたが、今は木綿のワンピースをゆったりと着て、下は素足である。  十分ほど前、間宮たち三人が宿に着き、隣りの隣りか、またその隣りの部屋に入ったようだったから、今は風呂《ふろ》に入るかシャワーを浴びている頃だろう。  階段を降りた正面が玄関、その手前右側がフロント、左側がロビーと食堂だった。  フロントといっても、ホテルのようにいつも人がいるわけではなく、客が着くか帰るときだけ、オーナーかオーナーの妻が出てくるようだ。  今もその狭いフロントは無人。  美緒は、スゥイングドアを押して、テーブルとソファの置かれたロビーへ入った。  と、誰もいないと思っていたのに、外から見えない左の壁際に一組の男女がいた。  美緒は思わず足を止めたが、相手は美緒の足音を聞いていたのだろう、息をひそめるようにしてこちらを見ていた。 「すみません」  謝る必要がないのに、美緒はつい謝ってしまった。  なんだか、二人の逢引《デート》を邪魔してしまったような感じだったからだ。  いや、よく見ると、逢引にしては、二人とも強張《こわば》ったような顔をしている。密《ひそ》かに会っていたのは間違いないと思われるが、甘い愛を囁《ささや》き合っていたようには見えない。特に、男のほうは怒ったような表情をしていた。 「あ、いいえ」  と、背の高いひょろりとした男——松井と呼ばれていた三人組の一人——が、戸惑ったように言った。  美緒は、女のほうも顔だけは知っていた。  さっき、美緒たちに前後してこのペンションに一人で着いた女性だ。年齢は二十歳前後。身体は美緒などよりずっと肉感的だったが、ふっくらした頬《ほお》のあたりにはまだ少女の面影が残っていた。  美緒は、二人に軽く黙礼し、ソファの後ろを回って板張りのベランダへ出た。  見るともなく見ると、松井という男が先にロビーを出て行き、わずかに間をおいて女が出て行った。  二人がいかなる関係かは分からないが、このペンションへ来てから知り合ったのではないようだ。  美緒が、ベランダの手摺《てすり》に寄って、フェリーターミナルの上に架《か》かったアーチ橋やその向こうの海と島、橋の右手に広がる郷ノ浦の街などを眺めていると、 「お待たせー」  と、佐知とサユリが降りてきた。      4  時刻は六時三十二、三分。  東京では日が沈んで、そろそろ薄暗くなりかける頃だったが、このあたりは東京と経度が十度違うため、太陽がまだ西の海の上にとどまっていた。  ペンション「サンライズ・サンセット」は、壱岐で一番高い岳ノ辻(標高二一三メートル)の西側、郷ノ浦の街と港を一望にできる丘の中腹にあった。周りは雑木林。ペンション様式とでも呼んだらいいような、白い二階家だ。  岳ノ辻には、主な登山口が二個所ある。一つは、昼前、郷ノ浦港から原ノ辻遺跡へ向かうときに通った国道382号線沿いに、もう一つは、郷ノ浦から島の南端・海豚《いるか》鼻へ向かう道の途中に。  海豚鼻へ向かう道は、郷ノ浦の街の裏側から一気に坂を登っているのだが、「サンライズ・サンセット」はその道から西に三十メートルほど逸《そ》れた場所に建っていた。  名は、ミュージカル「屋根の上のバイオリン弾き」の挿入歌から取ったらしい。が、岳ノ辻へ登れば|日の出《サンライズ》も|日の入り《サンセツト》も眺められるが、このペンションからはサンライズは見られないという。  美緒たちが身体を回してロビーへ戻ろうとしたとき、食堂の奥にある厨房《ちゆうぼう》から出てきたらしいペンションのオーナーが姿を見せた。  彼は、にこやかな笑みを浮かべてベランダへ出てくると、 「いかがですか、眺めは?」  と、訊《き》いた。 「とても素敵ですわ」  佐知が答えたので、美緒とサユリも横で大きくうなずいた。 「岳ノ辻には登られましたか?」 「いいえ、まだなので、明日の朝にでも登ってみようと思っています」  今度は美緒だ。 「そうですか。晴れていれば、本土の山はもとより対馬まで見られますよ」  オーナーが言った。  年齢は五十歳前後か。さっきチェックインして二階の部屋に上がってから、「もう二十歳ぐらい若くて、独身だったらな……」と佐知が言ったように、鼻筋の通った整った顔立ちをしているが、額がだいぶ後退し、腹が出ていた。  このペンションは、美緒が「ベスト・トリップ」という旅行雑誌で見て予約した。「ベスト・トリップ」では、編集者がホテルや旅館、ペンションなどを泊まり歩いて、毎号数軒ずつ推薦している。「サンライズ・サンセット」はそこに載っていただけではない。雑誌を出している出版社に美緒の知り合いがいたので、記事を書いた編集者本人に訊いてもらうと、  ——あのペンションなら、泊まって絶対に損しないですよ。  という返事だったのだ。  オーナーの名は兼岡昭一郎《かねおかしよういちろう》。ペンションの経営者には、いわゆる脱サラをした者が少なくないが、彼もその一人だった。長崎で自動車整備工場に勤めていたが、郷里の壱岐に住んでいた両親が年老いたため、十年ほど前、調理師の免許を取って壱岐に帰り、このペンションを始めたのだという。  安い料金で、海の幸をふんだんにつかったフランス料理のフルコースを食べさせるだけではない。ホテルや旅館にはない家庭的な雰囲気が売りもので、夜は妻ともども客たちの歓談に加わることも少なくないという。また、島内のどこの店にも置いていない、すべてオーナー自身の手作りになる工芸品を廉価で販売し、宿泊客に喜ばれているという話でもあった。  美緒たちは、兼岡と一緒にベランダからロビーに入った。  広さ三十畳分ほどの板張りのフロアにソファとテーブルが配され、テレビ、新聞、雑誌などがそなえられていた。右側の食堂との境には大きな広葉樹の鉢が三つ置かれているだけなので、奥の厨房のドアも見えた。 「夕食は七時からでしたね」  と、オーナーが玄関まで送って出てきながら確認した。  準備があるので遅れないように、ということだろう。  美緒たちは、「はい」と答えた。  食事時間は、七時から八時までの間の都合のよい時間をあらかじめ告げておくようになっているのだった。 「その頃、ちょうど今日の日の入りの時刻になっているはずです」  美緒たちは靴を履き、「お気をつけて」というオーナーの言葉に送られて玄関を出た。  庭は狭く、前はすぐに雑木林で、下りの斜面になっていた。  右手の道路のほうへ歩き出すと、 「ああ、やっと着いたわ」  という声がして、美緒たちと同年ぐらいの女性が二人、大きなスポーツバッグを提《さ》げて駐車場を兼ねている庭へ入ってきた。  一人は、宝塚の男性役のように背が高く、脚がすらりと長い、ジーパンをはいた女性。もう一人は中背だが、胴も腕も脚も太く、胸が大きく張っている、キュロットスカートにウェストポーチを付けた女性だ。上衣《うわぎ》は二人とも薄手のブルゾンである。キュロットスカートの女性は髪を肩まで垂らしていたが、ジーパンの女性はショートカット。髪の短い女性のほうが目と口が大きく、派手な顔立ちをしていた。  二人が近づいてきながら、「今日は」と挨拶《あいさつ》したので、美緒たちも「今日は」と挨拶を返した。  二人とも顔が上気していた。キュロットスカートの女性の胸は大きく上下し、息を弾ませている。 「歩いて登ってこられたんですか?」  と、美緒が訊くと、 「ええ、そう」  と、キュロットスカートの女性が答えてから、「こちらの……」と傍らの女性を見やり、「長い脚に合わせるのに、私は大変だったわ」と笑った。 「タクシーにするって訊いたのに、玉木さんが歩きたいって言うから」  身長が百七十センチ近くあると思われるショートカットの女性が言い、二人は美緒たちと擦《す》れ違って行った。 「だって、こんなにきつい坂道だとは思わなかったんだもの」 「玉木さんのほうが、毎日病院の階段を上ったり降りたりしているんだから、私より体力があると思っていたのにな……」 「安達《あだち》さんは私とはコンパスが違うのよ」  美緒たちが足を止めたまま、そんな二人の会話を聞くともなしに聞きながら見送っていると、二人の声を聞きつけたのか、オーナーの兼岡が玄関から出てきた。  兼岡の顔には、美緒たちに見せていたのとは明らかに違う、親しみのこもった笑みが満面に浮かんでいる。 「おじさま……!」  ジーパンをはいたすらりとした女性が、嬉《うれ》しそうな声を上げて駆け寄った。 「いらっしゃい」  応《こた》えた兼岡の声にも、親しい者を迎える喜びが溢《あふ》れているようだ。 「お邪魔します」  と、キュロットスカートの女性が言って、頭を下げた。 「よく来てくださいました。さあ、中へ入ってください」  美緒たちは、三人が玄関へ入るより先に彼らに背を向けて歩き出した。  ペンションの庭を出て、三十メートルほど歩き、街から登ってきている道路まで出てみたものの、近くに人家はないし、見えるのはロビーのベランダから眺めた景色と変わらない。  それなら、兼岡が工芸品を作っているという作業所を覗《のぞ》いてみようと、ペンションの庭へ戻った。  庭は、前の雑木林がせり出してきている玄関前が細くくびれ、瓢箪《ひようたん》のような形をしている。車は手前の広い部分までしか入れず、奥のロビーと食堂の前の平地には芝生が植えられていた。  兼岡の作業所は、雑木林の下についている小道を七、八十メートル左(西)へ下ったところにあるのだという。  当然ながら、そこには工具類や作りかけの工芸品が置かれているにちがいない。そう考えると、東京に住んでいる美緒たちには信じられないぐらい不用心だったが、  ——昼は鍵《かぎ》を掛けていませんから、興味がおありでしたら、どうぞご自由にご覧ください。  と言われていたのだ。  林の下の小道へは、食堂前の庭の隅から斜めに下る歩道が造られていた。  美緒たちは新緑の中のその歩道を下り、それよりわずかに広い下の小道へ出た。  教えられたとおり、左へさらに七、八十メートル下った。と、右側が雑木林から松林にかわり、松の木立の下に兼岡が自分で建てたという可愛《かわい》らしいログハウスが建っていた。  小道は松林の前を過ぎてもつづいており、十五、六分下れば、郷ノ浦の入江に出られるらしい。  美緒たちはログハウスの前に立ち、「失礼します」と言ってから入口のドアを引き開け、中へ入った。  誰もいない。  広さは精々十畳分ほどか。床が板張りのいわば小屋である。形は長方形。入口は短辺の一方(東側)に開いており、西側と南側には大きなガラス窓が付いていたが、北側は作りつけの棚だった。大きな備品としては、入口から見て左手、南側の窓の近くに一畳ぐらいあると思われる木製の作業台が置かれ、奥の窓のそばにやはり木製の机と椅子《いす》が配されていた。  薄暗いので、佐知が入口の右に付いているスイッチを押した。  灯《あか》りは、天井の梁《はり》から長く吊《つ》り下げられた電灯、机の上に置かれた小さな蛍光灯スタンド、それに壁から作業台の上まで伸びたアーム式ライトと三種類あった。だが、点《つ》いたのは、作業台と机の間、多少棚寄りのところに下げられた、古臭い琺瑯引《ほうろうび》きの笠《かさ》がついた百ワットと思われるボール電球だけ。 「ベスト・トリップ」の紹介記事によると、兼岡は、ペンションの仕事が暇なときは、ほとんどここへ来て、主に木と石と貝を材料にして様々な工芸品を作っているらしい。  机と作業台の上だけでなく、三段になった棚の上にも、様々な工具類や作りかけらしい品、素材の木や石、貝などがところ狭しと置かれていた。  床に小型のガスボンベが置かれ、作業台の上にガスバーナーも見えるから、火を使って細工することもあるのだろう。奥の窓の右上には換気扇まで付いていた。 「これじゃ、一つ二つ、石や貝を失敬する不心得者がいても、分からないんじゃないかしら」  作業台のそばまで進みながらサユリが言ったが、そのとおりだと美緒も思った。  これでは、島の人間は誰も来なくても、「ご自由にご覧ください」と言われたペンションの客の中に善からぬ心を起こす人間が出るかもしれない。  美緒がそう言うと、 「それでも構わないということなのね、きっと」  と、佐知が応じた。 「なんだか嫌だわ。もし今日、ここから何かなくなったのが分かったら、オーナーは私たちのことを思い浮かべるでしょう。もちろん、私たちだけでなく、今日ここへ来た可能性のある客、全員だけど……」  美緒は言った。 「そうね」  と、サユリ。 「でも、それはオーナーの罪じゃないわ。彼にはその人を責める気がないんだから」 「佐知はずいぶん肩を持つのね」  美緒だ。 「そりゃ、だって佐知のタイプだものね」  サユリがからかった。 「うん。ただし、頭が禿《は》げていなくて、お腹も出ていなかったらね」  美緒たちは、冗談を言い合いながら電灯を消し、外に出てドアを閉めた。  ほとんど目の高さに吊られた灯りのそばにいたせいか、ほんの五、六分の間に木立の下は一段と暗くなったように感じられた。 「もうじきお食事だし、日が沈むわ。早く行こう?」  佐知が言って先に立って歩き出したので、美緒とサユリもつづいた。  三人が松林から小道に出たとき、上から、間宮、松井、吉久保の三人組がやってくるのが見えた。  一本道なので、逃げられない。  美緒たちは足を止めかけたが、 「関係ないわ。堂々と行こう」  佐知が胸を張って言った。「一緒に散歩しようとか何とか誘われても、もう食事の時間だからと言えばいいわよ」  案の定、間宮が、もう一度自分たちと一緒に作業所を見に行かないかと誘いかけたが、佐知が美緒たちに言ったとおりの断わりを述べた。 「面白い物が沢山ありましたわ。どうぞ、ごゆっくり……」  間宮たち三人が外から帰り、食堂に入ってきたのは、それから三十分ほどして、窓の外がだいぶ暗くなってからである。  そのとき、食堂にいたのは、美緒とサユリと佐知の三人と、ロビーで松井と会っていた二十歳前後の若い女性、それに美緒たちが散歩に出るときに着いた背のすらりと高い女性と体格のよい女性の六人だった。  間宮たちがそろったところで、オーナーの兼岡が四十三、四歳の小柄な女性と一緒に厨房から出てきた。エプロンを外し、 「壱岐へ、そして『サンライズ・サンセット』へ、ようこそいらっしゃいました」  と挨拶し、自分が主《あるじ》の兼岡で、こちらが妻だと紹介した。 「これで、今晩お泊まりのお客様が全部おそろいになられました。袖《そで》振り合うも多生の縁と申しますが、みなさまが今夜当ペンションにお泊まりくださったのも何かの縁……どうか、一晩、仲良く、楽しくお過ごしになられますように、お願い申し上げます」  兼岡は、妻とともに深々と頭を下げ、厨房へ戻って行った。 [#改ページ]   第二章 消えた男      1  翌五日の朝、美緒たちは、朝食前に岳ノ辻の展望台まで登ってきた。  すでに、日の出からだいぶ時間が過ぎていたが、空気が澄んでいて、壱岐全島はもとより対馬の青い島影まで見えた。  朝食時間は七時半から九時までだったので、美緒たちは八時十五分にしておいた。  八時ちょっと前に宿へ戻り、部屋で帰り支度を整えてから、八時十二、三分に食堂へ降りて行った。  食堂にいたのは、昨日、美緒たちが散歩に出ようとしたときに着いた二人だけだった。昨夜、夕食の後で話したところによると、髪の長い体格のよいほうは玉木|由加利《ゆかり》、ショートカットの背のすらりとしたほうは安達|江美《えみ》。由加利は長崎市にある希望会中央病院の看護婦、江美は同じ市内にある玩具《がんぐ》メーカーの事務員と職場は違うが、高校時代の同期生だという。また、昨日、美緒たちが想像したように、オーナーの兼岡と安達江美とは知り合いであった。江美の父親と兼岡とはかつて同じ自動車販売会社に勤めていた整備士で、今も親戚《しんせき》以上に親しい交際をつづけているのだという。  美緒たちが二人に挨拶《あいさつ》して別のテーブルに着くと、兼岡の妻がオレンジジュースを運んできて、 「おはようございます」  と、にこやかに挨拶した。  五、六分して、今度は兼岡が妻と二人でロールパンとベーコンエッグと野菜サラダを運んできた。 「昨夜は申し訳ございませんでした」  と、料理をテーブルに並べ終わってから、兼岡が言った。 「いいえ」  と、美緒たちは応《こた》えた。  兼岡が悪いわけではない。ただ、昨夜、間宮、松井、吉久保の三人組が午前零時近くになっても部屋で酒を飲んで騒いでいたため、兼岡に注意してもらったのだ。 「もう、出発したんですか?」  佐知がちらっと上のほうへ視線をやって、訊《き》いた。 「いえ……」  と、兼岡が苦笑して、「まだ寝《やす》まれているようです。朝食が八時半になっていますから、もうそろそろ降りてこられるでしょう」 「江尻《えじり》さんは……?」  美緒は訊《き》いた。  江尻というのは、昨日、松井と密会していた(と思われる)女性である。昨夜、夕食の後で歓談したとき、�福岡の短大に通う江尻あゆみ�と自己紹介したのだ。 「江尻さんでしたら、先ほど……三十分ほど前に出立《しゆつたつ》されました」 「もう出られたんですか、早いですね」 「街へ降りてから、適当にバスに乗って島内を周《まわ》られるご予定だとかで……」 「お一人ですよね?」 「えっ」  と、兼岡が一瞬驚いたような目をして美緒を見返してから、もちろんですと言うように「ええ」と語調を強めた。  美緒は、松井と江尻あゆみの「密会」をサユリと佐知にも話さなかったので、二人が知り合いだなんて誰も気づいていなかったと思う。が、美緒にだけは、ロビーや食堂で、あゆみがいつも松井に注意を向けているのが分かった。一方、松井はというと、彼は殊更に彼女を無視するような態度を取りつづけていたのだった。  昨夜の食後の歓談には、間宮と松井と吉久保も加わった。  加わったどころではない。美緒たちが玉木由加利や安達江美と話していると、間宮が図々しく割り込んできて——昼の経験から美緒たち三人は脈がないと見たのだろう——スタイルが良くて顔も綺麗《きれい》な江美にさかんにモーションをかけ始めた。  自己紹介によると、三人は福岡にある西倫館《せいりんかん》大学の同期生だという。年齢はともに二十七歳。松井良男は福岡にある私立女子高の国語科教師、吉久保宏は大阪の商事会社社員、間宮|圭一《けいいち》は福岡で二年ほどサラリーマン生活を送った後、郷里の長崎へ帰り、現在は家業を手伝っている——。  間宮の言う家業とは和菓子の製造販売だった。長崎はカステラや中国菓子が有名だが、当然ながら、和菓子だって作られている。その中でも、間宮の父親が社長をしている「亀屋」といえば、長崎で一、二を争う和菓子メーカーで、「亀屋の枇杷羊羹《びわようかん》」は全国のデパートで売られているという。  松井と吉久保がそうした説明をするより早く、由加利が、  ——え、あの亀屋の……!  と驚いたような声を上げ、江美も満更ではないような目を間宮に向けた。  とはいえ、二人ともちゃらちゃらした尻軽《しりがる》女ではないらしい。街へ飲みに行こうと間宮にしつこく誘われたが、なかなかうんと言わなかった。特に、一見、活発で積極的に見えた由加利のほうが、半ばその気になった江美に「どうする?」と訊かれても、「悪いけど、私は今夜はやめとくわ」と渋った。  結局、�酒を飲まなくてもいいから、散歩がてらに……�ということで、二人は間宮たちと一緒に街へ降りて行ったのだが。  美緒たちが部屋で話していると、五人は十一時頃に帰ってきた。江美と由加利は、「お寝みなさい」と言って隣りの部屋に入り、じきに静かになった。だが、間宮たち三人は飲み足りなかったのか、それから午前零時近くまで部屋で騒いでいたのだった。  玉木由加利が、「じゃ、先にお部屋へ行っているわ」と言って、安達江美を残して立ち上がった。  兼岡がそれを見て、 「それじゃ、どうぞごゆっくり」  と美緒たちに言って、テーブルを離れた。  彼はロビーのほうへ歩きかけた由加利に目礼し、江美に近づいて行った。 「コーヒー、もう一杯、どう?」  他の客に対するのとは違った調子で話しかけた。 「ううん、もういいわ。ご馳走《ちそう》さま。美味《おい》しかった」  江美も親しげな口調で応《こた》える。  彼女は、兼岡と話そうと待っていたのかもしれない。 「昨日の話だけど、やっぱり無理だとお父さんに言っておいてくれないかな」 「どうしても?」 「うん。せっかく夏の忙しいときを外してもらったのに、すまないって。いくら暇なときだといっても、一週間も家を空けるわけにはゆかないんだ」 「そうか……そうね……。でも、父はがっかりするわ」 「江美ちゃんが持ってきてくれたパンフレット見て、万里の長城にだけはぜひ登ってみたいと思ったんだけど、仕方がない。女房には、俺なんかいなくたって大丈夫だって言われたんだが……」 「中国ぐらい、近いんだからいつだって行けるわよ。そのときは、ペンションを完全休業にして、おばさまと一緒に行ったら?」 「うん、そうしよう。いつになるか分からないが……。それより、江美ちゃんたちは、今日これからどこへ行くの?」  兼岡が話題を変えた。 「まず、牧崎《まきざき》の鬼の足跡[#「鬼の足跡」に傍点]に行ってみようと思っているの」  江美が答えた。 「レンタカーで?」 「そう思っていたんだけど……」  と、江美がちょっと言い渋ってから、「間宮さんたちも、昨日、鬼の足跡だけ見残してきたっていうから、一緒に行く約束になっているの」  つまり、彼らの車に乗せて行ってもらうというわけだろう。 「そう」  と、応えた兼岡の声と横顔が心持ち硬くなったように美緒には感じられた。  それは江美にも分かったのだろう、彼女は言い訳するように付け加えた。 「間宮さんたちとは、鬼の足跡まで一緒に行ったら、別れるわ。あの人たちは、午後一番の便で呼子《よぶこ》へ渡るそうだし」  牧崎というのは、郷ノ浦の街の北西に突き出した半島だった。先端の高い断崖《だんがい》の上は天然の芝生で覆われ、鬼が踏み抜いたような形をした直径百メートル以上もある海蝕陥没《かいしよくかんぼつ》があるため、「鬼の足跡」と言われているらしい。  美緒は、江美の話を聞き、昨日、間宮たちは美緒たちと出会ったために、牧崎へ行くはずだった予定を変えたのかもしれない、と思った。それで、彼らは、夜、江美たちと一緒に街へ降りたとき、江美と由加利を誘ったのだろう。 「うん……」  と、兼岡が曖昧《あいまい》にうなずき、「とにかく気をつけて」と言って、江美のテーブルを離れかけた。  そのときだった。  ガッシャーンと、ガラスでも割れたような音がした。  音は、ガラス戸の開いている外から聞こえてきたようだ。  すぐ近くといった感じではないが、かなり大きな音だ。  兼岡と江美が芝生の庭のほうを見やった。  同時に、美緒たちも食事をしていた手を止め、同じほうへ首を回した。  なぜともなく美緒が時計を見ると、八時二十八分だった。 「どうしたの?」  兼岡の妻が厨房《ちゆうぼう》から出てきて訊いた。 「分からん」  と、兼岡が妻を振り返って答えた。「ガラスでも割れたような音だったが、うちじゃない。外から聞こえた」 「自動車事故かしら?」 「でも、道路のほうじゃなく、下のほうから聞こえたわ」  江美が言った。「それに、自動車がぶつかったときの音とは違うみたい」 「そうね」  と、美緒たちも三人でうなずき合う。 「じゃ、あなたのお城?」  兼岡の妻だ。  あそこは、ただの作業所なんかではなく、兼岡の「城」だったのか……。 「まさか」 「昨夜、鍵《かぎ》は?」 「いつもどおり、八時頃、掛けに行ってきたじゃないか」 「覚えてないけど……じゃ、誰かが外から大きな石を窓にぶつけたとか……」 「お客さんは誰も行っていないはずだし、朝、街からあんなところへ登ってくる者などいないよ」  兼岡は言ったが、美緒には音があのあたりから上ってきたように思えた。 「よし、とにかく見てくる」  兼岡がつづけた。 「一人で大丈夫?」 「ハハハ……大丈夫だよ」 「でも、万一、おかしな人間でも鍵を壊して入り込んでいたら……」 「おばさま、それなら、私もおじさまと一緒に行ってみるわ」  江美が言った。 「江美ちゃんが?」 「私じゃ、役に立たない?」 「そういうわけじゃないけど、もし江美ちゃんに何かあったら……」 「大丈夫。私はおじさまの後からついて行って、もし誰かいるようだったら、すぐに駆け戻ってきておばさまに知らせるから。そうしたら、おばさまが110番すればいいでしょう?」 「分かった。じゃ、お願いするわ」 「ハハ……まったく女は想像がたくましいんだから。誰もいやしないよ」  兼岡は笑ったが、江美はついて行くつもりらしく、立ち上がった。 「お騒がせしました。どうぞ気になさらずにごゆっくり食事をなさっていてください」  兼岡が美緒たちのほうを向いて言い、食堂から出て行った。  江美がつづき、兼岡の妻も二人を玄関まで送るつもりなのだろう、緊張したような顔をして美緒たちに頭を下げ、あとを追った。 「ね、私たちも行ってみない?」  佐知が言い出した。 「うーん……」  と、サユリ。 「ね、美緒」  と、佐知が美緒の判断を求める。 「そうね。コーヒーは帰ってきてから飲めばいいんだから、そうしようか」  美緒は決めた。  行儀が悪いと思われようと、持ち前の好奇心には勝てない。 「うん、そうしよう、そうしよう」  と、佐知がはしゃいだ声を出した。 「もう、二人とも……!」  と眉《まゆ》を寄せたものの、サユリだって、行ってみたくないわけじゃない。佐知と美緒につづいて腰を上げた。  美緒たちが、ロビーのスゥイングドアを押すと、兼岡と江美が兼岡の妻に送られて玄関を出て行くところだった。  彼らは、何事かというように美緒たちのほうを振り向いた。 「すみません、私たちも連れて行ってください」  と、佐知が言った。  美緒たちが玄関を出たとき、いま来たばかりらしい手伝いの女性が一人、駐車場にバイクを停《と》めて何事かというようにこちらを見ていた。      2  美緒たちは、兼岡と江美につづいて、昨夕通った林の中の斜めの歩道を下り、兼岡の作業所へ急いだ。  小道の右側が雑木林から松林にかわる前に、ログハウスのドアが大きく開いているのが見えた。  ということは、誰かが鍵《かぎ》を壊して中へ入り込んだのは確実らしい。 「音は、やっぱりここだったのか!」  前を行く兼岡が緊張した声を出した。意外感と驚きがこもっていた。  彼につづいて、江美、美緒たちと松林の中へ足を踏み入れた。  と、兼岡が突然足を止めて身体を回し、 「ここにいてください」  と、江美と美緒たちを制した。  彼は、一人で小屋の入口に近づいて行きながら、 「誰かいるんですか?」  と、大きな声で呼びかけた。  返事はない。  彼はさらに入口に近寄り、同じ問いを繰り返した。  しかし、小屋の中からは人の声だけでなく、何の物音もしなかった。  兼岡が小屋の入口に立った。  腰を屈《かが》めて首を伸ばし、おそるおそる中を覗《のぞ》くや、 「あっ!」  と小さな声を漏らして棒立ちになった。 「おじさま、どうしたの?」  江美が鋭く訊《き》いた。  美緒は思わずごくりと唾《つば》を呑《の》み込んだ。 「奥の窓が割れ、中に人が倒れている」  兼岡が振り向いて答えた。  顔が緊張に青ざめていた。 「人が?」  江美が訊き返した。 「そう」 「どんな人?」 「分からないが、男らしい」 「そっちへ行ってもいい?」 「うん」  美緒たちは、江美と一緒に兼岡のそばまで進んだ。  兼岡の横から小屋の中を覗くと、大きく割れた対面(西側)のガラス窓と、その手前の床に横たわっている男の姿が目に飛び込んできた。  顔は分からないが、男は年寄りではないようだ。靴をはいていない両足を入口のほうへ投げ出すようにして、作業台の右下に倒れていた。  灯《あか》りは三つとも点《つ》いていないが、朝なので、かなり明るい。  床には、男が履いていたものと思われる茶色い靴が一つずつ別々に転がり、工芸品の材料と思われる木片や貝殻、何やらの板や箱、煙草の吸殻などの散乱しているのも見えた。  他に美緒の注意を引いた点というと、割れたガラス窓の右上で換気扇が回っていたことだった。  男が床に倒れていて室内が乱れている事実と、窓の割れていた事実の間に、具体的にいかなる関係があるのかは分からない。が、さっきペンションの食堂で聞いたガッシャーンという音は、ここの窓の割れた音だったのは間違いない、と思われた。  美緒は、サユリ、佐知と緊張した顔を見合わせた。 「もしもし、もしもーし」  と、兼岡がもう一度、さっきより大きな声で中の男に向かって呼びかけた。  が、反応なし。 「そばへ行って調べてきます」  兼岡が言った。 「あ、でも、おじさま一人で入っちゃ、だめよ。もし何かあったら、後で警察に疑われるから」  江美の言うとおりだった。 「じゃ……?」 「私がついて行ってもいいけど……」 「いいえ、私が行きます」  兼岡と何の関係もない者がいいだろうと思っているらしい江美の考えを察して、美緒は言った。 「そうお?」 「はい」 「美緒一人じゃ可哀《かわい》そうだから、私たちも行こう?」  佐知がサユリに言った。「後ろのほうについているだけならいいでしょう。どこにも手を触れないようにすれば」 「江美ちゃん」  と、兼岡が呼びかけた。「江美ちゃんは戻って、警察と救急車を呼ぶように女房に言ってくれないか。異常があったのだけは間違いなさそうだから」 「分かった。じゃ、おじさまたちが中へ入ったらすぐに行ってくるわ」  江美の返事を待ち、 「それじゃ……」  と、兼岡が美緒たちを促した。  美緒たちはうなずき、彼につづいて、おそるおそるといった感じでログハウスの中へ足を踏み入れた。  外から見たときは気づかなかったが、床には蚊取線香のくずや灰が一面に散っていた。棚に置いてあった去年の使い残しでも落ちたようだ。  それを見て、美緒たちは大勢の足で踏みつけないほうがいいだろうと判断し、一メートル余り入ったところで足を止めた。  そこからでも、左の頬《ほお》を床に押しつけた男の顔が見えた。 「あ、あの人……!」  佐知が美緒の耳元で驚きの声を漏らした。 「うん」  と美緒はうなずき、空唾《からつば》を呑《の》み込んだ。  男は、間宮たち三人組の一人、吉久保宏に似ていたのだ。  見えたのは男の顔だけではない。男の頭のあたりから流れ出た血が床を赤く染めているのが認められた。  兼岡が右側の棚すれすれの端を回って男の頭の近くまで進んだ。  そのとき、外から「じゃ、行ってくるわ」という江美の声がして、駆け出して行く気配がした。  兼岡が、美緒たちを越してちらっと外を見やってから、足下の男に視線を戻し、屈《かが》み込んだ。 「お客様の吉久保さんです」  彼は、静かな……とも感じられる声で言った。  だが、緊張しきっているのは、強張《こわば》った表情からだけでなく全身から感じられた。  兼岡は、人差し指を男の鼻の下に当てて三十秒ほどじっとしていた。  それから、胸に鉄板でも当てられているかのようにぎこちなく身体を起こし、 「すでに亡《な》くなっているようです」  と、告げた。  彼は、死亡を確認した時刻をはっきりさせておいたほうがいいと気づいたらしく、腕時計を見た。  美緒たちもつられて、それぞれの腕時計に目をやった。  八時四十二分——。  さっき美緒が食堂で見たとき八時二十八分だったが、それはガッシャーンという音がして一分ぐらい経《た》っていたから、ガラス窓が割れたのは八時二十七分頃か。  兼岡が戻ってくるのを待って、美緒たちは一緒に小屋の外へ出た。 「吉久保さんたち三人は、まだ部屋に寝ていると思っていたのに……」  兼岡が、困惑しきった顔をしてしきりに首をひねった。  美緒たちは、兼岡とともにログハウスの周りを見て回った。窓の付いていない北側は藪《やぶ》になっていたが、歩けないほどではない。西側の窓は、内側から何かがぶつかって割れたらしく、ガラスの破片はほとんど外側の草の上に散っていた。  兼岡は、ドアの錠がドライバー様のもので壊されているのを確認してから、美緒たちを入口に残して、もう一度建物の周囲を調べてきた。  だが、割れたガラス窓以外には、いつもと違っている点は見つからないという。 「換気扇のスイッチは、誰が何のために入れたのかしら?」  佐知が首をひねりながら、誰に問うともなく口にしたとき、小道に江美の姿が見えた。  玉木由加利も一緒だった。  二人は松林の中へ駆け込んできた。 「おばさまが電話したから、警察も救急車もすぐに来るはずだわ」  江美が息を弾ませて兼岡に報告した。 「間宮さんたちの部屋から、誰か降りてきましたか?」  美緒は訊いた。 「いいえ。間宮さんたちが何か……?」  江美が訊き返した。 「この中に倒れていた人、吉久保さんだったんです」 「えっ!」  と言ったまま、江美が絶句した。 「亡くなっていました」 「亡くなっていた……!」  今度は、由加利が目に恐怖の色を浮かべておうむ返しにつぶやいた。 「でも、三人は、まだ寝《やす》んでいたはずでは……」  江美だ。 「それで、お部屋に、どなたかがいるのかなと思って」  美緒は言った。 「私がおばさまに知らせに行くまで、玉木さんはずっとお部屋にいたんでしょう、何か気づかなかった?」  江美が訊いた。  由加利と江美の部屋は、間宮たちの部屋の隣りなのだ。 「何も……」  と、由加利が困惑したように首を横に振った。  それを見て、美緒は、さっきガッシャーンという音がしたとき、由加利はどうしていたのだろうか、とふと疑問に思った。  二階の部屋にいたのなら、下の食堂よりもよく音が聞こえたはずではなかったか。  だが、由加利は、音がしても降りてこなかっただけではない。兼岡と江美と美緒たちが玄関を出てくるときも、顔も覗《のぞ》かせなかったのだ。 「玉木さんは、ガッシャーンというガラスの割れるような音、聞こえませんでしたか?」  美緒は訊いてみた。 「聞こえたけど……ちょうどおトイレに入っていたものだから」  由加利が恥ずかしそうな顔をして答えた。 「すみません、ごめんなさい」  美緒は謝った。 「ううん、別に構わないわ。それに、どこかで交通事故でもあったのかなと思っただけで、まさか、みんなでここへ来ているなんて思いもしなかったし……。だから、安達さんにお話を聞いたときはびっくりしたわ」 「私が、芝生に立っていたおばさまとお手伝いの方に大声で話しながら庭へ駆け込んだら、玉木さん、窓から顔を覗かせて、のんびりとした調子で『なーに?』なんて訊くんだもの……」  江美が言った。 「それでも、間宮さんたちのお部屋からは誰も顔を覗かせなかったんですか?」  佐知が訊いた。 「ええ」  と、江美が大きくうなずいたとき、下の街のほうでサイレンが鳴り出した。  サイレンの音は一度小さくなったが、すぐに大きく響き出し、坂を登ってどんどん近づいてきた。      3  犬飼《いぬかい》たち壱岐島警察署の第一陣がペンション「サンライズ・サンセット」のすぐ下にある小さなログハウスに着いたのは、午前八時五十五分だった。  ログハウスのそばを通っている道には車が入れないので、犬飼たちはパトカーをペンションの庭に駐《と》め、林の中を七、八十メートル速足で下った。  刑事課長の鬼塚《おにづか》を先頭に、八木《やぎ》捜査係長、鷲尾《わしお》部長刑事、犬飼とつづく。  桃太郎のお供は犬と雉《きじ》と猿だが、鬼ガ島ならぬ我が�壱岐ガ島�では——よく他の署員たちにひやかされるように——山羊(八木)と鷲と犬が、鬼のお供をする。  犬飼|翔太《しようた》は佐世保《させぼ》で生まれ育ち、佐世保市内にある高校を卒業した後、長崎県警の警察官になった。年齢は二十六歳。佐世保東署、平戸《ひらど》中央署の勤務を経て、去年、壱岐・郷ノ浦町にある壱岐島署に転勤してきた。刑事課捜査係の勤務は壱岐島署が最初なので、いわば駆け出し刑事《デカ》である。  犬飼たちの乗ったパトカーにつづいて消防署の救急車もペンションの庭に着き、救急隊員たちが追いかけてきた。  しかし、彼らの出番はなく、すぐに帰って行った。  ペンションの経営者・兼岡昭一郎の妻からの連絡によれば、兼岡が作業所として使用しているログハウスの窓ガラスが割れ、中に男が倒れているという話だった。が、犬飼たちが現場に着いたときは、男は宿泊客の一人・吉久保宏(二十七歳)と判明するとともに、すでに死亡していた(死亡しているようだという兼岡の話を聞いて、鷲尾部長刑事と救急隊員の一人が検《しら》べると、露出していない皮膚の温度はまだ三十度以上あったものの、心臓は確かに停止していた)。  吉久保宏は、後頭部を現場に落ちていた大型の釘抜《くぎぬ》き——兼岡によるといつもハウス内の棚に置いてあったという——で殴られたらしく、頭蓋骨《ずがいこつ》が棒状に陥没していた。だが、出血はそれほど多くはなく、鷲尾と救急隊員の見方では、死因は脳挫傷《のうざしよう》ではないか、という。  救急隊員たちが帰ると、犬飼たちも現場を荒さないようにログハウスを出た。  もちろん床にはシートを敷き、それを踏んで入ったのだが、煙草の吸殻やら蚊取線香の欠けらや灰やらが散っていたからだ。  鬼塚課長の命を受けた鷲尾が、トランシーバーで署と連絡を取り、 ≪ペンションの男性宿泊客が死亡し、殺人の疑いが濃厚≫  という報告を入れた。  これで、他の刑事や鑑識係員たちが嘱託医を伴って駆けつけてくるだろう。  ログハウスの建っている松林の外の小道では、兼岡と「サンライズ・サンセット」の宿泊客たちが、固唾《かたず》を呑《の》んで犬飼ら四人の刑事の動きを見守っていた。  犬飼たちは彼らに近づいた。  鬼塚刑事課長が、吉久保が殺されたらしいことを簡単に説明し、 「——というわけですので、せっかくのご旅行中、申し訳ありませんが、しばらくご出立を延ばしてくださるようお願いします」  と、捜査への協力を求めた。  鬼塚は四十五歳。頭を下げると、てっぺんが禿《は》げていた。姓のイメージとは逆に、ほっそりとした小柄な男で、顔つきも性格も穏やかだった。  兼岡と一緒にいた宿泊客は、女性五人に男性一人。犬飼たちがここに着いたときは、男性客の姿はなかったから、彼らがログハウスの中にいる間に来たらしい。  兼岡の説明によると、女性は、東京から来た笹谷美緒、片平サユリ、桑野佐知の三人組と、長崎から来た安達江美と玉木由加利の二人組。男性は、死亡した吉久保の連れである間宮圭一だという。  ペンション「サンライズ・サンセット」に昨夜宿泊した客は、吉久保を除いて、あと二人いた。間宮、吉久保と一緒に来た松井良男という福岡の高校教師と、やはり福岡から来た江尻あゆみという短大生である。  このうち、江尻あゆみは七時五十分頃一人でチェックアウトしたという話だが、松井良男はどこへ行ったのか不明であった。  鬼塚は、兼岡と間宮の二人だけを残し、五人の女性たちはペンションへ帰らせた。まずは兼岡と間宮の話を聞く必要があったからだ。  二人といっても、狙《ねら》いは間宮である。  兼岡からは、食堂にいるときガッシャーンというガラスの割れるような音を耳にしてから、ここへ駆けつけて死体を確認するまでの経緯を簡単に聞き、放免した。  その事情は、女性客たちの話を聞いた後であらためて詳しく聞き、矛盾がないかどうか調べるしかない。  兼岡が去るのを待って、鬼塚が、少し離れた場所に待たせておいた間宮を呼んだ。  どこにも聞き耳を立てている者はいないので、松の木の下に立ったままの尋問である。  間宮は背はそれほど高くなかったが、肩幅の広いがっしりとした体付きの男だった。兼岡によると、長崎では知られた「亀屋」という和菓子屋の長男だという。話術の巧みな積極的な男らしく、三人の中ではリーダー的な存在だったらしい。  強いショックを受けたらしく、さっきから青い顔をして押し黙っていたが、四人の刑事に囲まれ、その顔がいっそう不安げな表情に変わった。  仲間の一人が殺され、もう一人が行方《ゆくえ》不明なのだから、当然と言えば当然だったが。 「間宮さんは、我々が来るまで、部屋で寝《やす》まれていたとか……?」  鬼塚が、兼岡から聞いた話を確認した。  遅れてここへ来た間宮が、兼岡たちにそう言ったのだという。 「ええ」  と、間宮が答えた。「昨夜は午前一時近くまで飲んでいたので、パトカーが近づいてくるまで気がつかなかったんです」 「我々のサイレンの音が目覚し時計だった、というわけですか」 「そうです。それで目を覚まし、窓から見ると、パトカーが来ているので、びっくりし、急いで支度をして下へ駆け降り、ここへ来たんです」 「吉久保さんと松井さんがいないのに気づかれたのはいつですか?」 「目を覚ましたときです。ベッドが二つとも空だったので、すぐに気づきました」 「不思議には思わなかった?」 「全然」  と、間宮が強く首を振った。「僕が眠ってる間に起きて、下へ行ったんだろうと思いましたから」 「二人が出て行ったのは?」 「知りません」 「後で、それらしい気配があったのを思い出したというようなことは?」 「それもありません」 「じゃ、二人が一緒に出て行ったのか、別々に出て行ったのかも分からない?」 「ええ。初めに言ったように、ぐっすりと眠っていましたから」  兼岡も彼の妻も、松井と吉久保がいつ二階から降りてきてペンションを出て行ったのか、二人一緒だったのか別々だったのか、気づかなかった、という話だった。 「二人の荷物は元のままですか?」 「さあ、分かりません。ズボンをはいてシャツを着ると、すぐに部屋を飛び出してきてしまいましたから」  間宮が答えたとき、署からの第二陣、第三陣が着き、つづいて、署長が嘱託医の安斎《あんざい》を伴って到着した。  そのため、間宮の尋問は中断。  鬼塚が、鷲尾部長刑事と犬飼の二人に、間宮をペンションへ連れて行って尋問をつづけるように、と命じた。 「間宮と松井と吉久保の関係、三人が壱岐へ来た経緯など、できるだけ詳しくな。それから、こちらの検証が一区切りついたら、鑑識の連中をそっちへやるから、それまで、間宮を二階の部屋へ入らせないようにしておいてくれ」  鷲尾が、分かりましたと答えてから、 「松井の行方の探索はどうしましょう?」  と訊いた。 「まだ事件に関わっているかどうかは分からんが、早急に見つけ出す必要があるな」 「ええ。島から出てしまうと、厄介なことになりかねませんし」 「分かった。じゃ、署長と相談して、すぐにフェリー発着所と空港に警官を配備し、島外に出ようとしていたら、引き止めさせよう。松井という男は、ひょろりとしたノッポなうえに青白い顔をしているというから、分かるだろう」 「郷ノ浦から、八時五十分発のジェットフォイル『ヴィーナス』が出た後ですが」 「県警本部を通じて福岡県警に連絡を取り、もしその高速船に乗っていたら、水際で身柄を押さえてもらおう。他に、すでに出た便はあるかね?」 「八時十分に、印通寺《いんどうじ》港から呼子《よぶこ》行きのフェリーが出ているはずです」 「もしガラスの割れる音がした八時二十七分頃の犯行なら、その便は関係ないが……呼子着は?」 「確か九時十五分だったと思います」 「それじゃ、どっちみち、もうどうにもならんな。いま九時二十六、七分だから、すでに呼子に着いて乗客は散ってしまっている」 「ええ」 「よし。これから出る船と飛行機、それに八時五十分に出たジェットフォイルの乗客に関する調査はこっちでやろう」 「もう一人の宿泊客、江尻あゆみについては……?」 「その女は事件に関係ないと思われるが、松井と一緒に捜すようにする」  鬼塚が答えると、「間宮のほう、頼む」と鷲尾に言い、署長と安斎医師のほうへ寄って行った。  犬飼は、鷲尾とともにそれを見送り、間宮の前へ戻った。  もうしばらく話を聞きたいので一緒に来てくれないかと間宮を促し、松林の中から小道へ出て、ペンションへ向かった。      4 「先ほどのつづきですが……」  と、鷲尾部長刑事が間宮圭一に対する尋問を再開した。 「サンライズ・サンセット」の食堂である。  犬飼は鷲尾と並んで間宮の前に掛け、手帳を開いていた。  兼岡と彼の妻には厨房《ちゆうぼう》の裏に接した母屋へ行ってもらい、出勤してきていた手伝いの主婦は帰らせた。また、二グループ・五人の女性客は二階のそれぞれの部屋に待たせてあるので、誰にも話を聞かれるおそれはない。 「間宮さんは、吉久保、松井両氏が部屋を出て行ったのに全然気づかなかった、という話でしたね」 「ええ」  と、間宮が面倒くさそうに答えた。  さっき何度もそう言ったじゃないか、といった顔だ。  それでいて、鷲尾がじっと見つめると、微妙に視線を逸《そ》らした。  犬飼は、自分と一歳しか違わない目の前の男に反発を覚えていた。嫌な奴だ、と思った。どこがどうとはっきりとは説明できないのだが、世の中を嘗《な》めて暮らしているような不真面目《ふまじめ》さを感じるのである。 「では、二人……いや、どちらか一方でもいいですが、間宮さんが寝ている間に部屋を出て行った目的あるいは理由について、心当たりはありませんか」  鷲尾が新しい質問に入った。  歳は、課長の鬼塚より四、五歳若い四十前後。時々細い目が鋭く光るときがあるものの、鬼塚同様、鷲のイメージとは合わない、団子《だんご》っ鼻《ぱな》をしたこでっぷりした男だった。 「ありません」  と、間宮が答えた。「……というか、目が覚めて空のベッドを見たときは、下へ降りて新聞でも見ているか、散歩にでも出たんじゃないか、と思ったんですが」 「二人一緒に?」 「ええ、まあ……」 「そう思われた根拠は?」 「根拠なんてほどのものはありません。ベッドが二つ空だったので、何となくそう思っただけです」 「この旅行中……特に昨夜、二人に、あるいは二人のうちのどちらかに、いつもと変わった様子は見られなかったでしょうか」  間宮が、考えるようにちょっと首をかしげていたが、 「なかったと思いますね」  と、答えた。 「昨夜、二人のどちらかから、明朝は早起きをして何かするんだといった話は?」 「聞いていません。松井も吉久保も、そんな話はまったくしていません」 「では、昨夜、二人が喧嘩《けんか》したとか、日頃から二人は仲が悪かったとか?」 「喧嘩なんかしませんよ」  間宮が笑った。  が、彼は、すぐにその笑みを引っ込め、 「刑事さん」  と、真剣な視線を鷲尾に当てた。「刑事さんは、松井を疑っているんですか?」 「そういうわけじゃありませんが、吉久保さんが殺され、松井さんの姿が見えないわけですから」 「松井は、吉久保の件とは関係なく、どこかへ散歩にでも出ているにちがいありません。いまに帰ってきますよ」 「ということは、二人は仲が悪かったわけではない?」 「もちろんです。仲が悪ければ、一緒に旅行なんかしませんよ。僕らは大学時代のテニス同好会の仲間ですが、現在は仕事も違えば住んでいるところも違うんですから。吉久保は大阪のユニバーサル通商という商事会社に勤め、松井は福岡にある華咲《はなさき》学園という女子高の教師をし、僕は長崎で実家の仕事を手伝っているんです」 「今度の旅行は、どなたが言い出されて……?」 「松井です。四月の中頃、松井から電話がかかってきて、五月の連休に吉久保と三人でどこかへ行かないかと言ってきたんです。それで、僕が、吉久保の都合さえよければ……と答えると、二、三日して、吉久保がオーケーしたと松井からまた電話があったんです」 「壱岐という行き先は、どのような経緯で決まったんでしょう?」 「どうだったかな……。大学を卒業してからも、時々三人で福岡、長崎の近辺を旅行していたんですが、五島列島と壱岐・対馬がまだだったので、そのあたりはどうかといった話になり、五島列島は遠いし、対馬まで足を延ばすのもしんどいので、壱岐にしようか……そんなふうになったんだと思います」 「五島列島か壱岐・対馬あたりはどうか、と言い出されたのは……?」 「松井かな。電話では、吉久保もそれで了承したというような話だったから」 「松井さんが、行き先が壱岐になるように誘導された?」 「誘導なんて、そんな大袈裟《おおげさ》なものじゃないですよ。三人で旅行するとき、いつだってまめな松井が世話役だったから、彼は言い出しっぺとして、具体的な場所を挙げただけですよ」 「とにかく、松井さんの発案どおり、三人で壱岐へ来られたわけですね」 「ええ……」 「ここのペンションの予約も、当然松井さんがされた?」 「そうですが、松井が一人で決めたわけじゃありません。『ベスト・トリップ』という旅行雑誌に紹介されていたこんなペンションはどうかといって、僕と吉久保にそのページをファックスで送ってきたので、僕らがオーケーしたんです」  といっても、松井が誘導したのに変わりはない。旅行の日程も、行き先も、そして宿泊場所も。  犬飼がそう思ったとき、間宮が、ふっと何かを思い出すか気づいたような表情をして視線を宙に止めた。 「何か?」  と、鷲尾が訊《き》いた。 「さっき、刑事さんは、この旅行中、吉久保か松井にいつもと変わった様子は見られなかったかと訊かれましたね」  間宮が鷲尾に目を戻した。 「ええ」 「いま気づいたんですが……もしかしたら、松井がいま一つ元気がなかったように思われなくもありません」 「松井さんは元気がなかった?」 「何となくですが。酒を飲んでいても、時々心が別のところにあるような……何かを考えているような目をしているときがあったんです。僕が心配事でもあるのかと訊くと、いや、そんなものはない、と笑ってはぐらかしてしまったんですが」 「心配事があるように見えたわけですね」 「ええ、まあ……」  と、間宮が曖昧《あいまい》に答えてから、「でも、そんなこと、今度の事件に関係しているわけはありません」と語調を強めた。 「では、間宮さんは、吉久保さんは誰に、なぜ殺されたとお考えですか?」 「そんなこと、僕にだって想像がつきませんよ」  間宮が少し怒ったように言った。 「しかし、松井さんは事件に無関係だと考えられる?」 「当然です。松井に吉久保を殺す動機なんて、どこをどう捜したってあるわけがない。それだけはこの僕が一番良く知っている」  とは言うが、二人は間宮に黙って部屋から出て行き、一方が殺され、もう一方が消えたのである。消えた人間が友人を殺して逃げた、といった疑いは消えない。  いや、�ぐっすりと眠っていたので二人が部屋を出て行ったのに気づかなかった�という間宮の話もそのまま事実だと信じるわけにはゆかない。  なぜなら、間宮には、ずっと部屋に寝ていたという証拠はないのだから。  ログハウスのほうからガッシャーンというガラスの割れる音がしたとき、すぐに二階の部屋から顔を出すか、下へ降りてきたというのなら、間宮は事件に無関係であろう。しかし、彼は、その音にも、兼岡たちがログハウスへ駆けつける物音にも気づかず、パトカーのサイレンが近づいてくるまで眠っていたという。不自然と言えば言えた。  もしかしたら……と犬飼は思った。間宮は、ガッシャーンという音がしたとき、ペンションの部屋にいなかったのではないだろうか。そのとき、吉久保、松井とともに間宮も外にいたのではないだろうか。  この想像をもう一歩進めれば、�間宮こそ、吉久保を殺してガッシャーンという音をたてた張本人だったのではないか�という疑いになる。その場合、間宮は、兼岡たちがログハウスへ駆けつけた後、そっとペンションの部屋へ戻り、何も気づかずに眠っていたように装ったのだ。ログハウスとペンションの間は雑木林である。兼岡たちがログハウスのほうへ走り去るまで、身を潜めているのは容易《たやす》い。だから、その後、兼岡の妻が食堂か厨房に引っ込んだときを狙《ねら》えば、誰にも気づかれずにペンションへ戻り、二階へ上がることは不可能ではない。  ただ、そう考えても、松井の姿がどこにもないのは不可解だった。  松井はいったいどこへ行ったのだろうか。間宮が言ったように、事件に関係なく、どこかを散歩しているのだろうか。  犬飼は、鷲尾と間宮に気づかれない程度に小さく首を振った。そうした可能性は薄いな、と思う。もし散歩なら、朝食前にそれほど遠くへ行くわけがないから、当然、ペンションのほうへ向かうパトカーと救急車のサイレンの音を聞いているはずである。パトカーのサイレンの音は何回も。それなのに、まだ戻ってきていないというのはおかしい。  犬飼は分からなくなった。三人のグループの一人が殺され、他の二人の行動がどちらも怪しいのである。  間宮は本当に何も知らずにずっと部屋で眠っていたのだろうか。そして、最初に想像したとおり、松井が吉久保を殺して逃げたのだろうか。それとも、やはり間宮が嘘《うそ》をついているのだろうか。  鷲尾と犬飼がひとまず間宮に対する尋問を終えようとしていたとき、ログハウスのほうから二人の鑑識係員が遣《おく》られてきた。  ログハウスの現場検証はつづいているらしいが、鬼塚は先に間宮たち三人の泊まった部屋と吉久保、松井の持ち物を調べる必要を感じたらしい。  鷲尾と犬飼は、鑑識係員とともに二階に上がり、間宮を立会い人にして彼らの部屋を捜索した。  その結果、吉久保の持ち物は部屋にあったものの、松井のバッグ、衣類はすべてなくなっていることが判明。犬飼たちは、俄然《がぜん》、松井良男に対する疑いを強めた。      5  鷲尾と犬飼は、精《くわ》しい捜索を鑑識係員たちに任せ、途中で部屋を出た。  ログハウスへ行き、鬼塚課長、八木係長らにペンションの部屋から松井の荷物がなくなっていた事実を報告し、検死と現場検証の経過を聞いた。  鬼塚の話によると、吉久保の死因は鷲尾の見立てどおり脳挫傷《のうざしよう》らしい。また、死亡時刻は午前八時頃から兼岡たちが駆けつけて死体を発見した八時三十三、四分までの間である可能性が高い、という。 「それから考えて……ま、八時前に死亡した可能性もゼロではないという話ではあるが……被害者が死亡したのは、食堂にいた兼岡氏や女性客たちがガラスの割れる音を聞いた八時二十七分前後と見てほぼ間違いないんじゃないか、と思う」  鬼塚がつづけた。  ログハウスの中ではまだ鑑識係員たちが忙しげに立ち働いているので、犬飼たちは外に立って話していた。割れていない南側の窓の外である。  八木は、別の捜査員を指揮するために戻って行った。 「犯行時に窓ガラスが割れたことを示すものでも見つかったんでしょうか?」  鷲尾が訊《き》いた。 「もの[#「もの」に傍点]が見つかったというわけではないが、そのときを除いて、ガラスは割れようがなかったと思われる」  鬼塚が答えた。 「ということは、犯人と被害者が争っていて……?」 「被害者の傷の状態は、それほど争ったようには見えないから、犯人は被害者の油断を見すまして突然殴りかかった可能性が高い。とはいえ、被害者は当然次の攻撃を逃れようとするか、抵抗しようとしたはずだ。そのとき、窓は割れたんじゃないかと考えられる」 「犯人が逃げた後で被害者が息を吹き返し、誰かに知らせようとして割った、という可能性はないんですか?」 「安斎先生によれば、それはないだろうということだ。何か固いものを手に取ってガラスを叩《たた》くにしても、投げつけるにしても、被害者は、まず起き上がらなければならない。なにしろ、窓の位置は、おとなの腹より上だからな。たとえ被害者がその時点まで生きていたとしても、傷の状態から見てそれだけの力が残っていたとは到底考えられない、と先生は言われるんだ」 「では、犯人が犯行時刻を誤魔化すために、自分が逃げた後で窓ガラスが割れるようにしておいたといった可能性は?」 「現場の状況から、それも不可能だろうと判断された。何が窓にぶつかってガラスが割れたのかが判明したにもかかわらず、工作を示す跡や物がどこにも存在しなかったんだ」 「ガラスを割った物が特定できたんですか」 「そう」 「もしかしたら、凶器に使われた釘抜《くぎぬ》きでは?」 「違う。電灯……というか電灯の笠《かさ》だ。天井の梁《はり》から吊《つ》り下げられた電灯がここからも見えるだろう。あれだ」  言われて、犬飼たちはログハウスの中を見やった。  古ぼけた琺瑯引《ほうろうび》きの鉄の笠の付いたボール電球が、立っている鑑識係員の頭の下まで長く下がっていた。位置は、こちらから見て、床に倒れていた死体の頭より多少奥のあたりか。割れた西側のガラス窓からは一メートルと離れていない。 「あれがブランコのように揺れて窓ガラスを割ったことは、ガラスの割れ方や割れた位置、笠の縁の疵《きず》、笠に付着していたガラスの粉などから見て、間違いない」  鬼塚が説明を継いだ。「だから、あの電灯を窓の反対側に斜めに引いて何かに引っ掛けておき、時間がきたら放つようにできれば、犯人は逃げた後で窓ガラスを割れる。そうした装置は難しくないだろう。しかし、いかに装置が簡単であろうと、どこにも何の痕跡も残さずに[#「どこにも何の痕跡も残さずに」に傍点]、というのは不可能だ」 「それらしい紐《ひも》とか針金とか時限装置といったものはなかったわけですね」 「なかった。部長《チヨウ》さんたちもさっき見たように、小屋の中には、作業台や棚から落ちたらしい工具や工芸品の材料などが散乱していた。被害者のポケットにあったのと同じ銘柄の煙草の吸殻も三本落ちていたし、兼岡氏が去年の使い残しを菓子箱の蓋《ふた》に入れて棚に載せておいたという蚊取線香の破片や灰も散っていた。だが、電灯線を引っ掛けるための鉤《かぎ》か針金、かなり重い琺瑯引きの笠の付いた電灯を反対側に引っ張っておけるような糸や紐、さらには一定時間後にそれを解き放つための装置、そうしたもの……というか、そうしたものが存在した痕跡《こんせき》を示すものは一切見つからなかった。しかも——もちろんこれから兼岡氏と一緒に小屋へ入った女性客たちから話を聞かなければならんが——兼岡氏によれば、我々が来るまで一人で小屋へ入った者はいない、という話だった」 「つまり、工作に使った物を持ち去ったり、その跡を消すのは誰にもできなかった」 「そう。だから、窓ガラスが割れたのは、殴りかかった犯人か逃げようとした被害者かは分からないが、どちらかの腕か身体でも電灯の笠に当たって撥《は》ね飛ばすか払うかした結果だった、そうとしか考えようがない、というわけだ」 「分かりました。とすると、これで犯行時刻及び死亡時刻はほぼ確定ですか」  鷲尾が言った。  鑑識の結果や遺体の解剖結果を見て、さらに精《くわ》しく検討する必要はあるが、そう考えて八割がたは間違いないかもしれない、と犬飼も思った。 「ペンションの食堂にいた兼岡氏たちがガッシャーンという音を聞いたのが八時二十七分頃で、それから彼らがここへ駆けつけるまで六、七分経っていたという話でしたから、その間に犯人は逃げ出したわけですね」  鷲尾が話を進めた。 「そう考えられる」  鬼塚が答えた。 「犯人は、先に来てドアの錠を壊して待っていたのか、被害者と一緒に来て錠を壊して入り込んだのかは不明ですが、もし煙草の吸殻が被害者の吸ったものなら、二人は、少なくとも被害者が煙草を三本吸うぐらいの時間はここにいたということになりますね」 「うん。それで、換気扇が回っていたのは、犯人が煙草の煙を嫌がった結果じゃないかと考えたんだが」 「では、犯人は煙草を吸わない人間?」 「逆にそう思わせようとした可能性もないじゃないがね」  鬼塚が苦笑いを浮かべた。 「煙草はともかく、犯人が八時半にここを出たとすれば、この細い道を郷ノ浦まで駆け降り、八時五十分発の高速船……ジェットフォイルに乗れたはずですね」 「高速船といえば、博多着が九時五十八分だったが……」  と、鬼塚が時計を見て、「十時を回ったから、もう博多に着いたな。間もなく、知らせが入るだろう」 「もし松井が乗っていれば、それで片が付くかもしれません」 「そうなってくれればいいが」  鬼塚が言ったが、しかし、そうはならなかった。  それから十分ほどして八木が無線で受けた報告によると、博多に着いた高速船「ヴィーナス」には松井らしい男は乗っていなかったというのだ。  長崎県警の要請を受けた福岡県警の刑事が、降りてきた乗客一人一人をチェックした結果だという。  鬼塚は、苦虫を噛《か》み潰《つぶ》したような顔をして八木の話を聞いていたが、 「乗っていないものは仕方がない」  と言い、念のために八時十分に印通寺港を出た呼子行きフェリーの乗客についても調べるように八木に命じた。  その便は、さっき松井の乗った可能性のある船について調べようとしたとき、すでに呼子に着いた後だったため、佐賀県警に手配しなかったらしい。  犬飼は、鷲尾とともにペンションへ戻り、兼岡夫妻と女性宿泊客たち五人を一人ずつ食堂に呼んで事情聴取を進めた。  その結果、ガッシャーンという音が聞こえたとき、長崎市にある希望会中央病院の看護婦だという玉木由加利一人を除いて、全員が食堂か厨房にいた事実がはっきりした。  兼岡の妻・綾《あや》、東京から来た笹谷美緒ら三人、それに玉木由加利と一緒に長崎から来た安達江美によると、ガッシャーンという音を聞いたときの状況や、それからログハウスへ駆けつけて吉久保の死体を発見したときの模様は、すでに兼岡から聞いていたとおりで間違いないようだった。  兼岡と一緒にログハウスへ入った笹谷美緒ら三人は、自分たちだけでなく、兼岡も室内のものにはまったく手を触れていない、と明言した。  犬飼たちは、ガッシャーンという音がしたとき熟睡していたという間宮の所在とともに、部屋のトイレに入っていたという玉木由加利の所在が多少気になったが、かといって、尋問に答える由加利におどおどした様子や不自然な態度は見られなかった。  そうした事柄とは関係なく、犬飼たちは笹谷美緒から意外な話を聞いた。  昨夕、松井と江尻あゆみがロビーの隅で密会していたようだった、というのだ。  ということは、松井は島内のどこかに江尻あゆみと一緒にいるのだろうか。松井の行動は、吉久保が殺された事件とは関係がないのだろうか。  笹谷美緒を放免してから、犬飼と鷲尾はそう話し合ったが、少なくとも松井が江尻あゆみと一緒でなかったことだけは、間もなく判明した。  八時十分に壱岐・印通寺港を出港して九時十五分に東松浦半島の呼子に着いたフェリーから、容姿、年齢が松井良男そっくりの男が降りた形跡がある、という知らせが佐賀県警から届いただけではない。それに前後して、壱岐空港に近い海沿いの路上で江尻あゆみが見つかったのである。  江尻あゆみによると、彼女は、十時に空港近くの錦浜《にしきはま》で松井と会う約束になっていたのだという。  あゆみは、松井の勤務する華咲学園高校の卒業生だった。いちじ二人は親しく交際していたが、最近、松井に学園経営者一族の娘との縁談が持ち上がると、彼はあゆみに冷たくなった。彼の予定を探り出して壱岐までついてきたものの、怒って口さえきいてくれない。そこで、あゆみが昨日、あなたが私を無視するなら、二人の関係を間宮と吉久保に話すと言うと、  ——馬鹿なまねをするんじゃない。明日、朝食が済んだら、間宮たちと別れて、十時にきみのところへ行く。だから、先にペンションを出て、錦浜で待っているんだ。  と、松井が言った。  あゆみはその言葉を信じて、松井に言われたとおり、錦浜へ行って待っていた。だが、十時半を過ぎ、十一時になっても、松井は現われなかったのだという。      6  美緒とサユリと佐知は、兼岡の車に送ってもらって隣り町の印通寺港まで行き、午後一時発のフェリーに乗った。  呼子港に着いたのは二時五分。  壱岐・呼子間には高速船ジェットフォイルは就航していなかったが、壱岐・博多間の半分以下の距離なので早かった。  美緒たちは、ターミナルを出るとすぐにタクシーに乗り、味醂干《みりんぼ》しの台がずらりと並べられた呼子漁港沿いの道を名護屋《なごや》城跡へ向かった。  名護屋城跡へはバスを乗り継いでも行けるようだが、本数が多くないし、美緒たちは予定より大幅に遅れていた。それで、タクシーを奮発したのだ。  予定では、美緒たちは印通寺港を午前十時四十分に出るフェリーに乗って、昼前には呼子に着く予定だった。ところが、兼岡所有のログハウスで宿泊客の一人である吉久保宏が殺害されたために足止めを食らい、次の、午後一時の便にやっと乗ったのである。  タクシーは、ホテルや旅館の並んでいる前を過ぎると、海から離れた。  東京で地図を見たときは、同じ東松浦半島の先端に近い場所なのだから、歩いて行けるのかと思っていたら、とんでもない話だった。フェリーの発着所は東の呼子町に、豊臣秀吉の朝鮮侵略の本拠地・名護屋城の跡は西の鎮西《ちんぜい》町に、と別々の町にあるのだった。  といっても、四、五分走って、半島に大きく食い込んでいる入江に架《か》かった名護屋大橋を渡ると、じきに城跡の下に着いた。  反対側に城跡博物館があるという話だったが、美緒たちは森に囲まれた台地になった天守台の跡までタクシーで登った。  台地の端に立つと、まさに北と西の海が一望。壱岐、対馬どころか、朝鮮半島まで見えるのではないかとさえ思われ、秀吉がここに城を築いた理由が呑《の》み込めた。現在は石垣などが残っているだけだが、それでも城の大きさは充分に想像できた。美緒は、小さな前線基地か砦《とりで》程度のものかと思っていたが、それもとんでもない誤解であった。  それにしても、何と大きな無駄なことをしたのだろう。  古今東西、いつの世も、権力者のエゴと征服欲というのはかぎりがないのだろうか、と呆《あき》れた。同時に、そのために——侵略される側はもとより侵略する側も——常に民衆は虫けらのように扱われ、辛酸を嘗《な》めさせられてきたのだ、と思った。それは、現在でもちっとも変わらない。昨日まで仲良く一緒に暮らしてきた隣人同士が、異民族だという理由だけで互いに殺し合いをさせられていることなども、少数の人間のエゴと利益と権力欲のためだとしか考えようがなかった。  権力者の欲望とは関係ないが、同じペンションに泊まった客が殺されたというショッキングな事実に直面した直後のせいかもしれない、美緒は、最近テレビで見た累々と横たわる虐殺死体を連想し、そんな感慨を覚えた。  印通寺港からフェリーに乗った後、美緒たちは何を話していても、いつの間にか殺人事件の話に戻った。  吉久保は、誰になぜ殺されたのか。松井はどこへ行ったのか。間宮によると、部屋から松井の荷物がなくなっていたらしいが、それは事件に関係あるのだろうか。彼が犯人なのだろうか……と。  そのため、美緒たちは、この旅行中はもう事件の話はしないことにしよう、と決めたのだった。  といっても、意識から事件が締め出されたわけではない。口には出さなくても、事件が三人の心の内に重く残っているのは疑いなかった。  刑事の話では、吉久保は午前八時から八時半までの間に殺された可能性が高いらしい。たぶん、美緒たちがガッシャーンというガラスの割れる音を聞いた八時二十七分頃ではないか、という。そのためか、そのときペンションの食堂にいた美緒とサユリと佐知は、同じく食堂にいた兼岡と安達江美とともに、また厨房《ちゆうぼう》にいた兼岡の妻とともに、容疑が解けたようだった。  その点は幸いだったが、容疑が解けても、事件から受けたショックと謎《なぞ》は消えない。  素晴らしい景色を眺めていても、美緒の胸の内には、たえずそれらが基調音として流れているのだった。  吉久保は、朝早く、どうしてログハウスなどへ行ったのか。松井と一緒だったのだろうか、それとも一人で行ったのだろうか。ガッシャーンという窓ガラスの割れる音がしたとき、部屋で熟睡していたという間宮と部屋のトイレにいたという玉木由加利は、窓から顔さえ覗《のぞ》かせなかった。彼らは本当にそれぞれの部屋にいたのだろうか。いや、由加利は嘘《うそ》をついているとは思えないから、問題は間宮だ。警察も、二人に対しては美緒たちに対するのと違った角度から尋問したらしいが、何かつかんだのだろうか……。  美緒たちは、一度、天守台の下に降りてみた。石垣で囲まれた正方形の空地だ。それから、公園のようになった城跡内を登り降りして、博物館前へ下った。  唐津《からつ》行きのバスは四時近くまでなく、一時間以上待たなければ来ない。  それでは遅すぎるので、美緒たちは、朝鮮との交流を示す資料が展示された博物館を速足で見学し、タクシーに乗った。呼子町の入口まで戻り、フェリー発着所始発のバスに乗り、唐津へ出た。  呼子から唐津までは三十分ちょっと。バスが、市の中心に近い大手口バスターミナルに着いたのは四時だった。  当初の計画では、唐津城と虹《にじ》の松原《まつばら》を見て博多へ行き、博多発午後五時三十四分の東京行き最終の「ひかり」、ひかり56号に乗る予定だった。  しかし、予定より二時間以上遅れており、唐津で何も見ずに博多へ向かっても、もう「ひかり56号」には乗れない。 「ひかり56号」の後、全席指定の「のぞみ28号」があるものの、美緒たちは周遊券と新幹線の自由席特急券しか持っていない。普段のときならいざしらず、連休中では、自由席特急券を「のぞみ」の指定席券に換えるのは無理と見たほうがよかった。  美緒たちはそうバスの中で話し合い、自由席特急券を払い戻してもらって、寝台特急で帰ることに決めていた。ひところは人気の的だったブルートレインも、世の中がせっかちになりすぎたのか、一部の列車を除いて今や空席が目立つと言われていたからだ。  東京行きの寝台特急の最終は、博多を七時四十三分に出る長崎始発の「さくら」。  それなら、唐津発五時五十三分の電車に乗れば、筑前前原《ちくぜんまえばる》で乗り継いで博多に七時二十分に着くので、新幹線特急券を寝台券と特急券に買い換える時間がある。  唐津発五時五十三分(虹ノ松原発は六時)なら、まだ二時間あった。 「唐津くんち」の曳山《ヤマ》展示場を見た後で唐津城に上ったとしても、タクシーで虹の松原まで行けば、松林の中や砂浜をしばらく散策して六時の電車に乗れるだろう。  美緒たちは、市内地図を手にまず唐津神社脇の曳山展示場へ向かった。  バスターミナルから曳山展示場までは、国道から北へ逸《そ》れた静かな広い道を歩いて四、五分だった。  暗い館内に展示された、巨大な魚や兜《かぶと》などを象《かたど》った重さ数トンという十四台の曳山は、金・銀・朱に彩られ、まさに豪華|絢爛《けんらん》。美緒は、以前、青森の「ねぶたの里」へ行ったときを思い出した。  展示されたねぶたなど見ても面白くもおかしくもあるものかと思いながら、たまたま時間が余ったので、タクシーの運転手に勧められるままに行ってみたところ、予想に反して�凄《すご》い�の一語に尽きた。  今度も同様だった。ねぶたや曳山は大勢の人々の間に引き出されてこそのものだろうと思っていたが、ただ飾られているのを見ても、それらは目を瞠《みは》らせた。  館内では、テレビが祭りの熱狂を映し出していた。美緒たちはそれを見て、今度は十一月の祭りの頃に来てみたいものだ、と話し合った。  美緒は東京の西荻窪《にしおぎくぼ》で生まれ育ったので、大きな祭りというのを知らない。東京にも浅草《あさくさ》の三社祭《さんじやまつ》りのような祭りがあるが、地方出身者が目を輝かせて郷土の祭りを語るのを聞いたり、テレビで祭りに熱狂している人々を見たりすると、美緒は羨《うらやま》しかった。自分もそうした興奮をいつか味わってみたいものだと思っていた。それもあって、今回、博多どんたくを見物がてらの壱岐旅行を計画したのであった。  美緒たちは、曳山展示場を出ると、ところどころ崩れた古い土塀のつづく道を通り、唐津城まで十分ほど歩いた。  唐津城は、松浦川河口の高台、舞鶴《まいづる》公園の中にあった。  そのため、眺めが良い。  天守閣に上ると、唐津の街と、海の一部のように広い松浦川の河口がすぐ目の下にあった。河口の左手は唐津湾、先は虹の松原、さらにその奥にはあまり高くない山並が重なり、連なっていた。  時刻は五時二、三分前。  あと一時間しかないので、美緒たちは城を出てタクシーに乗り、河口に架かった橋を渡って、いま上から眺めた濃い緑の松林と白い砂浜がつづく虹の松原へと向かった。  川を越えて、左右に建った大きなホテルの間を過ぎると、道は松林の間に入った。国道202号線だという。タクシーの窓からは見えないが、左(北)側の松林の外を海岸線が道路と平行に伸び、右側の松林の外をJR筑肥《ちくひ》線が走っているはずであった。  美緒たちは、運転手に三、四分ゆっくりと走ってもらい、右へ行けば虹ノ松原駅だというところでタクシーを捨て、松林の中へ足を踏み入れた。  松といっても、関東の近辺で見る太い松とは違う種類のように見える。  樹皮が黒いので、黒松の一種かもしれないが、幹がひょろひょろとしていて、どこか南国の木を思わせる。  それにしても、下草が綺麗《きれい》に刈られた見事な松林だった。 「あ、あれ、何?」  百メートルほど進んだとき、突然、佐知が足を止めて素《す》っ頓狂《とんきよう》な声を出した。 「え、どこ、どこ?」  美緒とサユリも足を止め、佐知の指差すほうを見た。 「いま、草の陰に隠れて動かなくなってしまったけど、小さな茶色い動物が……」  佐知が言いかけたとき、草の中から茶色い子猫ほどの動物——といっても子猫より胴体が長く足の短い動物——が現われ、たったったっ……と右から左へ駆け出した。 「あ、あれ、鼬《いたち》だわ」  サユリが言った。 「鼬?」  と、佐知。 「そう。私、動物園で見たことがある」  と言っている間に、鼬と思われる胴長の小さな動物は、切り株らしいでっぱりのあるところで消えた。  美緒たちは、足音をしのばせてそっと近づいて行った。  でっぱりは、やはり松の切り株だった。中央に穴が空いているらしい。その穴から獺《かわうそ》みたいな小さな顔が覗《のぞ》き、こちらの様子を窺《うかが》っていた。  美緒たちは立ち止まった。  切り株との距離は十六、七メートル。  サユリがカメラのレンズを望遠にズームして覗き、シャッターを切った。  しかし、美緒と佐知がそれを借りて覗こうとしたときには、鼬は切り株の穴の中に消えていた。  美緒たちは、それでも音をたてないようにして、切り株のそばまで行ってみた。  切り株は、枯れて中央が深い空洞になっているらしく、鼬はもう顔を覗かせることはなかった。 「ここがお家なのね、きっと」  サユリが言った。 「それにしては、不用心だわ」  と、佐知。「こんな、周り中から見える場所に巣を作って」 「誰も鼬をいじめる人なんかいないのよ」  美緒だ。  三人は顔を見合わせ、誰からともなく微笑《ほほえ》み合った。  豪華な曳山を見ても、素晴らしい景色を見ても、実はいま一つ気分が晴れなかったのだが、一匹の小さな鼬は、美緒の気持ちを——おそらくサユリと佐知の気持ちも——なごませてくれたのだった。  美緒たちは、さらに百メートルほど歩いて松林を抜け、砂浜に出た。  夏は海水浴場として賑《にぎわ》う場所らしいが、今は人の姿がちらほら。それでも、さっき見たホテルのほうには結構男や女の姿があったから、このあたりも昼はもっと出ていたのだろう。  美緒たちはバッグをその場に置くと、砂に足を取られながら波打ち際まで駆けた。  波の静かな、遠浅の砂浜だった。  ひいて行く波を追いかけ、寄せ返した波に身をひるがえしたとき、美緒は、左手七、八十メートルのところにいた男を見やり、アッと思った。  砂の上に腰を下ろし、両膝を抱えるようにして沖を眺めていた男である。  男の姿は、松林から砂浜に出たとき美緒の目に映った。が、背を向けていたので顔が分からなかったし、気にもとめなかった。  それが、いま、身をひるがえすのと同時に男のほうを見やると、美緒たちの歓声に男もこちらへ顔を向けたのだった。  美緒は、足が波に濡《ぬ》れるのも構わずに立ち止まっていた。 「どうしたの、美緒?」  と、波から逃げきったサユリが振り返って言い、佐知も怪訝《けげん》な顔をして寄ってきた。 「どうしたのよ、ぼんやりして?」  佐知が訊《き》いた。 「あっちに座っている男の人を見て」  美緒は言った。  佐知とサユリが身体を回し、男のほうを見やった。  サユリがはっと息を呑《の》んだのと、 「あ、あれ……!」  と、佐知が驚きの声を上げたのは、ほとんど同時だった。  二人が美緒に顔を戻すのを待って、 「松井さんでしょう?」  と、美緒は確認した。  サユリと佐知が、緊張した顔で大きくうなずいた。  男は、今朝、壱岐のペンションから消えた松井良男だったのだ。  松井も美緒たちに気づいたのは確実だ、と美緒は思った。素知らぬふりをして前方に顔を向けているが、どことなく硬く落ちつかなげに感じられた。 「ど、どうする?」  と、佐知が訊いた。  美緒は黙って生唾《なまつば》を呑み込んだ。 「知らないふりをしているのは変だから、とにかく行って挨拶《あいさつ》しよう?」  サユリが言った。  美緒とて、このまま黙っている気はなかったので、「うん」と答えた。 「そうよね」  と、佐知も同調した。  決まりである。  美緒たちは、松井のほうへ向かって足を踏み出した。  すると、松井が美緒たちのほうを見ずに立ち上がり、横に置いてあったボストンバッグを持って背を向けた。歩き出した。長い脚で逃げるように。  美緒たちは足を速めた。 「松井さーん」  と、佐知が呼んだ。  だが、松井は振り向きもしなければ返事もしない。逆にスピードを上げる。 「松井さーん、松井さんでしょう?」  今度は美緒が呼びかけた。  松井は無言。  このままでは、大きなコンパスの松井との間がひらくばかりなので、美緒たちは駆け出した。 「松井さーん、待ってください。話を聞かせてください」  松井は逃げる。 「もし事件に無関係なら、逃げないほうがいいと思います」  松井の身体が一瞬静止したかと思うと、スピードがゆるんだ。 「逃げれば逃げるほど、警察は疑いを強めますから」  なおも美緒は言った。  と、今度は松井の足が完全に止まった。  身体を回し、美緒たちのほうを見た。  美緒たちは、荒い息を吐きながら彼に駆け寄った。 「事件て何ですか? 警察の疑いって、どういうことですか?」  松井がせっかちに訊いた。  知らないようだ。  が、それにしては、顔が青く引き攣《つ》り、目には脅《おび》えの表情が色濃く浮かんでいた。 [#改ページ]   第三章 平戸《ひらど》にて死す      1  ゴールデンウィークが終わった五月八日(水曜日)の朝——  犬飼は、鷲尾部長刑事とともに呼子《よぶこ》へ向かうフェリーの客になっていた。  時刻は八時四十分。  印通寺《いんどうじ》港を出たのが八時十分だから、ちょうど半分ほど来たところだ。  天気は良いし、波も静かである。これが休暇で島を出るときなら、犬飼は朝食代わりにビールの一缶も引っ掛け、今頃はジュータンに横になっているだろう。  しかし、今は出張の途上であり、さっきからむすっとした顔をして煙草ばかり吹かしている上司と一緒では、ビールはもとより、横になるわけにもいかない。すぐそばで気持ち良さそうに鼾《いびき》をかいている漁師らしい中年男を横目に見ながら、あぐらをかいて鷲尾と面《つら》を突き合わせているしかなかった。  いや、上司が一緒でなかったとしても、今の犬飼は、ジュータンにごろりという気にはなれなかったかもしれない。横にならないで座っていたからといって、船のスピードが上がって目的地に早く着けるわけではない。どうなるわけでもない。そんなことは百も承知だったが、たとえ横になったとしても、すぐに起き上がっていたかもしれない。  犬飼たちは今、平戸へ向かっていた。  今朝六時過ぎ、平戸港で男の死体が上がり、松井良男[#「松井良男」に傍点]と判明したからだ。  その知らせが壱岐島署に届いたのは七時十五分頃。仮眠室に寝ていた犬飼は叩《たた》き起こされ、署の近くに住んでいる鷲尾とともにパトカーに送られて印通寺港へ向かった。そして、三日前に松井が乗って呼子へ渡ったのと同じ朝一番のフェリーに乗ったのである。  ペンション「サンライズ・サンセット」経営者・兼岡昭一郎所有のログハウスで、客の一人である吉久保宏が殺されたのは、子供の日(日曜日)の朝である。だから、今朝でまる三日|経《た》っていた。  しかし、犯人らしい人間も動機も、まるで分からなかった。  犬飼たちは初め、吉久保、間宮と一緒に壱岐へ来て、「サンライズ・サンセット」に泊まり、五日の朝|行方《ゆくえ》をくらました松井を強く疑った。  だが——その行動は不可解ながら——松井には吉久保を殺せなかった、と判断せざるをえなかった。  検死をした安斎医師によれば、吉久保の死亡時刻は五日の午前八時から八時半頃までの間である可能性が非常に高い、という話だった。だが、長崎市にある西都《さいと》医科大学で遺体を司法解剖した結果、それは〈午前七時半〜八時半〉と推定された。安斎とて、八時前に死亡した可能性を完全に否定したわけではなかったが、とにかく、初め犬飼たちが考えていたのより幅が三十分ひろがったのである。  郷ノ浦のログハウスから隣りの石田町にある印通寺港まで、車かバイクで約二十分。だから、吉久保の死亡時刻が八時以後ではなく、七時半〜八時半なら、犯人は吉久保を殺害した後、ログハウスから印通寺港まで車かバイクを飛ばし、八時十分発のフェリーに乗ることが可能だった。  ところが、遺体の解剖結果が出る前に、犬飼たちは、松井が五日の午前七時半頃[#「午前七時半頃」に傍点]、郷ノ浦町の中心街にあるタクシー会社を訪ねてタクシーに乗り、印通寺港まで行った、という事実を突き止めていた。また、松井が確かに印通寺港を八時十分に出港したフェリーに乗った事実も。  ログハウスから郷ノ浦のタクシー会社まで急いでも十分はかかるから、これにより吉久保の死亡推定時刻の幅が三十分ひろがっても、松井には吉久保の殺害は不可能だった、と判断せざるをえなかったのである。  松井が犯人でないとなれば、次に疑わしいのは、吉久保、松井とともに壱岐に来ていた間宮圭一である。五日の朝、間宮は熟睡していて、吉久保と松井が部屋を出て行ったのだけでなく、ガッシャーンという音にも気づかなかったというが、窓ガラスが割れたとき、彼はログハウスにいた可能性がないではない。しかし、そう考えても、明らかに自分が疑われると分かっている方法で吉久保を殺さなければならないような理由、動機が間宮にあったとは思えないのだった。  吉久保の死亡推定時刻は七時半〜八時半と一時間の幅があるものの、彼が殺されたのはログハウスのガラスが割れた八時二十七分前後だったことはほぼ確実である。  五日の朝、現場で鬼塚刑事課長が鷲尾と犬飼に話したことは、その後いっそう確かになったからだ。鑑識係員たちがログハウス内をしらみ潰《つぶ》しに調べても、〈犯人が逃げた一定時間後、天井から下がった電灯の笠《かさ》を振り子のように動かして窓ガラスを割る仕掛け〉を示すような物、痕跡《こんせき》はまったく見つからなかったのである。  となると、ペンションの食堂か厨房《ちゆうぼう》でガラスの割れる音を聞いた兼岡夫妻、安達江美、それに東京から来た笹谷美緒ら三人はほとんど容疑圏外に出る。あと宿泊客の中で怪しいと言えば言えるのは、ガッシャーンという音が聞こえたとき部屋のトイレにいたという玉木由加利と、その頃、石田町にある万葉公園のあたりを一人で歩いていたという江尻あゆみの二人だけ。  それでも、犬飼たちは、間宮、松井、玉木由加利、江尻あゆみの四人だけでなく、兼岡夫妻と四人の女性客についても、その身元、吉久保と何らかの関わりがなかったかといった点などを一応調べた。  しかし、間宮と松井を除き、過去において吉久保と何らかの関係があった形跡のある者は一人もいなかったのだった。  兼岡夫妻には、長崎の大学へ通うミドリという一人娘がいたが、昨年の七月長崎市郊外の山林で首を吊《つ》って自殺した、という多少気になる事実が判明した。だが、ミドリの自殺の動機は、遺書から失恋だとはっきりしていたし、福岡の大学を卒業して大阪の商社に勤めていた吉久保とミドリの間に接点があった可能性は薄かった。  四日の夜、間宮、松井、吉久保、それに間宮に強く誘われた玉木由加利と安達江美の五人が街へ酒を飲みに降りたと聞き、犬飼たちは、間宮と由加利と江美だけでなく、五人が行ったというスナックの従業員にも当たった。何か気になるような話を耳にしたり、変わった出来事はなかっただろうか、と。その結果、由加利はウーロン茶しか飲まずに終始黙り込んでいたという事実と、松井が時々ふっと心ここにあらずといった感じになり、どことなく元気がないように見えた、ということが分かった。といっても、ただそれだけで、殺された吉久保にはこれといって変わった様子は見られず、翌朝の事件を予感させるようなことは何もなかったという。  【五月四日から五日にかけて「サンライズ・サンセット」にいた者】 ○間宮圭一(27)——長崎市在住。有限会社「亀屋」専務取締役。吉久保とは福岡の西倫館大学時代、テニス同好会の仲間。ガッシャーンというガラスの割れる音がした前後は部屋で寝ていたという。 ○松井良男(27)——福岡市在住。学校法人・華咲学園高校国語科教師。吉久保との関係は間宮と同じ。ガラスの割れる音がしたときは呼子行きのフェリーに乗っていた。 ○玉木由加利(26)——長崎市在住。二年前に母方の祖父母の養子になったため、沢《さわ》から玉木に改姓。医療法人・希望会中央病院看護婦。ガラスの割れる音がした前後は部屋のトイレに入っていたという。 ○江尻あゆみ(20)——福岡市在住。私立・芳友《ほうゆう》短期大学二年生。松井の教え子で、彼の元恋人。ガラスの割れる音がした頃は一人で万葉公園のあたりにいたという。 ○兼岡昭一郎(49)——壱岐在住。長崎の自動車販売会社で整備士をしていたが、十一年前、故郷の壱岐へ帰り、ペンション「サンライズ・サンセット」を開業。評判が良く、経営は順調。ガラスの割れる音がしたときはペンションの食堂にいた。その後ログハウスへ駆けつけてからは、ハウスの中に入って吉久保の死を確認したときも、外に出てからも——一度だけ一人でログハウスの周りを調べてきたときを除いて——常に笹谷美緒、片平サユリ、桑野佐知と一緒だった(美緒たちもそう証言した)。 ○兼岡綾(44)——昭一郎の妻。ガラスの割れる音がしたときはペンションの厨房《ちゆうぼう》にいて、昭一郎たちがログハウスへ行ってからは、そのときちょうど来た手伝いの主婦・橋爪《はしづめ》町子とずっと一緒にいた(町子もそう証言した)。 ○安達江美(26)——長崎市在住。玩具《がんぐ》製造会社「ケーユー」事務員。父親は兼岡昭一郎の親しい友人だという。玉木由加利とは同じ高校の同期生。ガラスの割れる音がしたときはペンションの食堂にいて、兼岡たちとログハウスへ駆けつけた。だが、中には入らず、ペンションへ駆け戻って、兼岡綾と橋爪町子にログハウス内に人が倒れていると話し、警察と消防署への連絡を依頼。その後、二階から顔を覗《のぞ》かせて降りてきた由加利と一緒にログハウスへ戻った(美緒たちも綾と町子もそう証言した)。 (笹谷美緒、片平サユリ、桑野佐知の三人は省略)  犬飼たちは、二重の意味で松井良男を容疑者のリストから外した。一つは、吉久保の死亡推定時刻の上限である七時半に郷ノ浦のタクシー会社に現われている事実から。そしてもう一つは、たとえ、もっと前に殺害しておきながら遺体に何らかの手を加えて吉久保の死亡時刻が七時半過ぎであったように見せかけられたとしても、すでにフェリーに乗って海の上に出ていた八時二十七分頃、ログハウス内に何の痕跡《こんせき》も残さずにハウスの窓ガラスを割る方法はなかったはずだ、という点からである。  ところが、�松井は犯人ではない、犯人ではありえない�とはっきりすればするほど、彼の行動は不可解になった。  江尻あゆみを見つけ出して話を聞いたときは、彼女にしつこくつきまとわれて嫌になり、間宮たちに黙って一人で先に島を出たのかとも考えたが、それもおかしいと間もなく判明した。  なぜなら、五日の夜が過ぎ、連休最終日の六日の晩になっても、彼は福岡のアパートに帰らなかったからだ。  昨日(七日)の朝、勤務先の高校には、身体の具合が悪いので二、三日休ませてほしいという電話があったらしい。とはいえ、その後もアパートへは帰らず、間宮にも連絡がないという。  そのため、犬飼たちは、〈松井は吉久保を殺した実行犯ではないだろうが、事件と重要な関わりを持っているのは疑いない〉と判断し、行方を捜していた。少なくとも、松井から事情を聞けば、事件に関する情報を得られるにちがいない、と考えて。  間宮から聞いたところ、松井の実家は平戸にあり、両親が健在だという。それなら、松井は実家に立ち寄るか、両親に電話をかけてくる可能性があった。  犬飼たちはそう考えて、県警本部を通じて平戸中央署に協力を要請し、実家の張り込みもつづけていた。  そこへ、平戸の海で松井の死体が上がったという連絡——死因および他殺か自殺か事故死かはまだ不明だという——が届いたのだった。  平戸は犬飼の前任地である。  だから、平戸中央署には、知った顔がまだかなりいた。  といっても、犬飼は交通課の下っ端署員の一人だったにすぎない。相手が覚えてくれているかどうかは分からない。  それはともかく、犬飼たちにとって、事件のカギを握っているのではないかと考えていた松井に死なれた衝撃、戸惑いは大きかった。犬飼は鷲尾とともに慌てて印通寺港に駆けつけてフェリーに乗り、少し落ちついた今、あらためて困惑しているのだった。  呼子港には定刻の九時十五分に着いた。  だが、バスの連絡が悪く、フェリー発着所始発の唐津行きのバスが出るまで一時間以上あった。  犬飼たちは、仕方なく港沿いの道を二十分ほど呼子バス停まで歩き、加部島《かべしま》から来た十時のバスに乗った。  壱岐と平戸との間の直線距離は、壱岐・博多間より短い。だから、フェリーがあれば、二時間ちょっとで行けるはずなのだが、船便はない。そのため、呼子に渡って、呼子から唐津へ、唐津からJR筑肥線、松浦鉄道と乗り継いでたびら平戸口[#「たびら平戸口」に傍点]まで行き、そこからまたバスに乗らなければならないのだった(長崎と壱岐を結んでいるコミューター機で長崎空港まで飛び、空港から佐世保《させぼ》まで列車かバスで行き、佐世保から平戸までは松浦鉄道かバスか船を利用するルートのほうが所要時間は多少短いが、壱岐発の飛行機は九時四十分までなかったし、交通費が高くなる)。  唐津での連絡はまあまあうまくいって、二十数分待っただけで、十一時六分発のディーゼルカーに乗れた。  終点の伊万里《いまり》着は十一時五十七分。  松浦鉄道は、有田《ありた》〜伊万里〜松浦〜たびら平戸口〜佐々《さざ》〜佐世保と、九州北西部の北松浦半島をほぼひと回りしているローカル鉄道のため、本数が少ない。  途中の松浦まで行く便はすぐにあったものの、たびら平戸口まで行くディーゼルカーは十二時三十三分までなかった。  待っている間に、犬飼たちは、駅から出てパンと牛乳を買ってきて昼食を摂《と》った。  昼食が済んで鷲尾が一服つけていると、ディーゼルカーが走り出し、たびら平戸口に着いたのは約一時間後の一時三十七分。  たびら平戸口は、平戸市とは別の田平《たびら》町にある小さな駅だ。今や、平戸を訪れる観光客の大半は観光バスやマイカー、船なので、朝夕の高校生が乗り降りする時間帯を除くと、ひっそりとしている。  平戸に三年間住んでいた犬飼にしても、佐世保の実家に帰るときはたいていバスだったので、この駅を利用したのは数えるほどしかなかった。  バスの停留所は、駅から少し坂を下った道路沿いだ。そこまで行って、またバスを待たなければならないのか……。犬飼がそう思って、少しうんざりしながら鷲尾のあとから改札口を出ると、駅舎の外に見知った顔が立っていた。  犬飼と同年配の山元という刑事だった。  犬飼が思わず顔をほころばして手を上げ、「やあ」と挨拶《あいさつ》すると、 「たぶん、このディーゼルカーだろうという連絡があったので、迎えにきた」  と、山元がにこりともしないで言った。 「ありがとう」  犬飼は礼を言い、山元と鷲尾を互いに紹介した。 「遠くからご苦労さまです」  と、山元が鷲尾に挙手の礼をした。  酒を飲むと、人が変わったように陽気になるが、普段は生真面目《きまじめ》を絵に描いたような男だった。  犬飼たちは、広場の隅に駐《と》めてあった覆面パトカーに乗り、全長六六五メートルという平戸大橋を渡って、十分ほどで平戸中央署に着いた。      2  平戸島は大きいが、平戸の市街は半日もあれば主な観光場所を歩いて回れるぐらいに狭い。小さな湾になって陸地に食い込んだ平戸港の西側から南側にかけての一帯——山を背にした低地——が、バスターミナルと平戸桟橋を中心にした街になっており、港を挟んだ反対(南東)側の丘が、復元された平戸城の建つ亀岡《かめおか》公園である。  平戸中央署は、港の一番奥まった東側、亀岡公園の下に市役所と並んで建っていた。  犬飼たちは、署に着くとまず署長と副署長に挨拶し、それから署長室の隣りの応接室で刑事課長の梶《かじ》警部から話を聞いた。  松井良男の遺体は、行政解剖に付すためにすでに長崎へ運ばれた後だった。そのため、犬飼たちは対面できなかったが、ポケットに写真入りの運転免許証が入っていたというし(これで死者が松井と判断され、壱岐島署に連絡があったようだ)、両親が遺体を見て確認したというから、松井であるのは間違いない。  発見者は二人の女性観光客。早朝、港を散歩していて、海に変な物が浮いているのを見つけ、警察に通報してきたのだという。  司法解剖ではなく、行政解剖に付されるという事実からも分かるように、殺人の可能性はほとんど消えたらしい。残るは事故または自殺だが、事故のセンも薄いようだ。松井の身体に目立った外傷がなく、しかも、走り書きされた遺書と見られる一文の入ったボストンバッグが実家の門の内側に置かれていたのだ、という。  ボストンバッグは、今朝六時過ぎ——まだ松井の死を確認する前——に、父親が朝刊を取りに出てきて、植込みの陰に置かれているのを見つけた。彼も母親も、昨夕までそんなものはなかったというし、あれば気づいたはずだというから、それは昨夜から今早朝にかけての間に置かれたのは確実らしい。  検死した嘱託医によると、松井の死亡時刻は午前零時を挟んで前後二時間ぐらいの間、死因は溺死《できし》ではないか、という。はっきりしたことは解剖の結果を待たないと分からないが、もし医師の判断が正しければ、松井は、自分で我が家へ行ってボストンバッグを庭に置いたのち、深夜、誰もいない港のどこかから海に飛び込んだ(その前に睡眠薬等の薬物を飲んでいる可能性もあるらしい)、と考えられる——。  梶警部の説明は要領がよかった。  吉久保が殺された事件については鬼塚刑事課長から電話で聞いていると最初に言っただけで、余計なことは言わない。  たびら平戸口からここへ来るまでの間に、山元から聞いた話によれば、梶は、犬飼が壱岐島署へ移った翌年、平戸中央署へ転任してきたらしい。年齢は、鷲尾より二つ三つ上の四十二、三歳。大柄ではないが、広い額が磨いたようにてかてかと光っている、見るからにエネルギッシュな感じの男だった。  梶は、犬飼たちに説明している間に、部下の一人にボストンバッグとその中身を持ってこさせた。  それぞれ、透明なビニール袋に入れられたものである。  ボストンバッグは、色、大きさともに間宮から聞いた松井のバッグに酷似していた。  しかも、中に、下着などと一緒に壱岐のガイドブックや観光地図が入っていたというから、松井は、五日の朝、無断で「サンライズ・サンセット」を出た後、福岡県警の報告どおり一度もアパートへ帰らず、五日、六日、七日とどこかをうろついていたことがほぼ確実になった。 「遺書と見られる走り書きというのは?」  鷲尾が訊《き》いた。  犬飼も最も気になっていた物だった。 「ああ、これです」  と、梶が手袋をはめ、一方のビニール袋から一冊の文庫本を取り出し、かけられていたカバーを外した。  因《ちな》みに、文庫本は夏目漱石の『こころ』、カバーは福岡市内にある高林堂という書店のものだった。  犬飼は、鷲尾とともに、梶が裏返しにしてテーブルに広げたそのカバーを覗《のぞ》いた。  そこには、黒のボールペンで、次のように書かれていた。書いた人間の気持ちの乱れを示すような乱暴な文字で。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ]  ≪俺じゃない。俺は吉久保を殺していない。吉久保が殺されたなんて、俺は五日の夕方まで知らなかった。俺は、間宮と吉久保に黙ってフェリーに乗っただけだった。夜には福岡のアパートへ帰るつもりで。次は、俺か間宮だ。俺か間宮が殺されるにちがいない。それなら……。いや、無駄だ。たとえ警察に泣きついたところで、どうにもならない。俺たちはもう逃げられない。必ず、必ず殺されるだろう……≫ [#ここで字下げ終わり] 「筆跡の鑑定をしなければならんですが、父親が言うには、息子《むすこ》の文字に間違いないのではないかということでした」  犬飼たちがカバーから目を上げるのを待って、梶が言った。 「とすると、松井は、もうどこにも逃げ道はないという絶望感から自殺したというわけですね」  鷲尾が言った。 「この一文を読んだかぎりでは、そうとしか考えようがないでしょう」 「それにしても、松井は、肝腎《かんじん》の点を一言も書いていませんね。なぜ黙ってペンションを抜け出して、島を出たのか。誰に、どうして、吉久保が殺され、次に自分と間宮が殺されようとしているのか……」  鷲尾が首をかしげた。  犬飼も一文を読んで一番引っ掛かっていた点だった。 「そうなんです。ただ、松井が無断でペンションを抜け出し、フェリーに乗った裏には、誰かの意思が感じられませんか」  梶が言った。 「私も同感です」  と鷲尾が即座に応じたが、それは犬飼も感じていた。 「誰かとは、当然、吉久保を殺した犯人ですね。そして、おそらくその犯人は、松井が間宮、吉久保とともに壱岐へ来るように仕向けたものと思われますが」  鷲尾がつづけた。 「初めから、三人のうちの誰かを殺害する目的で、というわけですな。しかし、その時点では、松井にはそこまでは予想できなかった。そのために犯人の言うなりになった?」  梶が推理を進めた。 「ええ」  と、鷲尾がうなずいた。 「ところが、吉久保が殺され、松井は犯人の意思、意図をはっきりと理解した。そして、今度は自分か間宮が殺されるにちがいない……犯人は自分たちを必ず殺すにちがいない、と思った——」 「たぶん、梶警部のおっしゃるとおりでしょう。だが、なぜ[#「なぜ」に傍点]犯人が自分たちを必ず殺すと考えているのかが書かれていません。この一文を読むと、松井には犯人の動機が分かっていたように思われますが」 「確かに、松井には分かっていますな」  梶が、テーブルの一文にちらりと視線をやって、鷲尾の判断を支持した。「ですから、問題は、なぜ松井がその動機を書かなかったのか、というわけです」 「それは、書けなかったんじゃないかと思いますね」 「書けなかった?」 「松井と間宮と吉久保の三人は、誰にも明かせないようなことをやらかしたんじゃないでしょうか。そのために殺されてもおかしくないような」 「なるほど。それで、警察に訴え出て事情を明かすぐらいなら死んだほうがいいと考え、自殺してしまったか……」 「ええ」 「しかし、吉久保を殺した犯人の動機がそれだけ分かっているなら、松井には犯人の見当もついていたはずじゃないですかな」 「そうなんです。その点がどうもすっきりしないんです」  鷲尾が首をひねった。「犯人の見当がついていたとすれば、警察には話さなかったとしても、間宮と相談して、殺害を逃れる手立てを講じられた可能性が高いわけですから。しかし、松井は、それをしないで自殺してしまった。ということは、犯人の動機は分かっても、犯人は分からなかった——そうとしか考えようがないようにも思えるんです」 「動機が分かっても、犯人は分からないか。もちろん、そういう場合もないわけじゃないが……」 「ええ」 「で、これから、どのようにするつもりですか?」  梶が今後の捜査について尋ねた。 「間宮にもう一度事情を聞いてみようと考えています。知っている事実を正直に話すかどうかは分かりませんが」 「間宮は長崎の老舗《しにせ》菓子屋の長男だと鬼塚課長から伺いましたが、それでは、これから長崎へ?」 「課長と相談して、できればそうしたいと考えています。ただ、その前に、松井の父親か母親から話を聞き、福岡の松井のアパートへ行ってみたいんですが」  それは、今朝、松井の死を知らされて平戸へ来ることが決まったときからの予定だった。松井の部屋には、吉久保と松井の死を引き起こした理由、事情を探る手掛かりが残されている可能性が低くなかったからだ。  松井の部屋を調べた後、博多から真っ直ぐ壱岐へ帰るか長崎へ行って間宮に会うかは成り行きによって決めよう、と犬飼たちは鬼塚に言われてきたのだった。 「それなら、ちょうどよかった。我々も、松井の父親を伴って福岡のアパートまで行こうと思っていたところですから」  梶が言った。 「あ、そうですか。では、一緒に連れて行っていただけますか?」  鷲尾が頬《ほお》を輝かせ、渡りに船とばかりに飛びついた。  また松浦鉄道、筑肥線と乗り継いで博多まで出なければならないのかと思い、うんざりしていたからだろう。 「もちろんです。それから、松井の部屋を調べた後で長崎へ行くんでしたら、送ります。松井の父親も、解剖の終わった息子の遺体を引き取りに長崎へ行くはずですから」 「それは大いに助かります」 「じゃ、さっそく出かけましょうか」  よろしくお願いします、と犬飼たちは頭を下げた。      3  梶警部が松井の実家に電話で連絡を取ると、犬飼たちは山元の運転する覆面パトカーに乗って松井の実家へ向かった。  福岡へは他の刑事と鑑識係員たちも同行するというが、いま犬飼たちを案内しているのは梶と山元だけである。  覆面パトカーが橋を渡って、港に沿って北へ向かって走り出すと、助手席の梶がすぐに停止を命じ、 「松井の死体が浮いていたのは、あのあたりです」  と、岸から五、六十メートル離れたあたりを指して教えた。  リアシートに掛けた犬飼と鷲尾は、梶の示すほうへ首を向けて見たが、もちろん今は何もない。岸壁近くに小型の漁船が何隻か舫《もや》われた向こうにあるのは波静かな入江の海である。 「そうですか」  と、鷲尾が言葉だけで応じた。 「この港で二年つづけての自殺です」  と、梶が言った。「まったく、自殺の名所にならなければいいんですが」 「二年というと……ああ、例の事件[#「例の事件」に傍点]の因《もと》になった……?」  鷲尾が前の梶に目を戻した。 「そうです」  梶が深刻げな顔をしてうなずき、「そちらの場所は湾から少し外へ出たところですが、やはり去年の五月です。今年より三、四日早い、ゴールデンウィークの最中でした」  その件は犬飼も知っていた。  というか、後で知ったのだった。  現職警官の殺人という結果を引き起こした女性の自殺[#「現職警官の殺人という結果を引き起こした女性の自殺」に傍点]、として。  去年の五月、佐世保の信用金庫に勤めていた一人の女性が、この平戸港に身を投げて死んだ。女性の身体には暴行を受けた跡があり、女性を辱しめた犯人は、女性にしつこく言い寄っていた信用金庫の顧客である不動産会社の経営者ではないかと言われた。その晩、男もちょうど佐世保から平戸に来ていたからだ。しかし、男は無関係だと主張し、女性が死亡してしまったために、男の犯行を立証することはできなかった。ところが、三カ月ほど経《た》った八月の初め、女性の恋人だった二十九歳の佐世保湾岸署の警官が、恋人を暴行して自殺に追いやったと見られる不動産会社社長を刺殺し、その足で自首した——。  この事件は、同じ長崎県警に勤める犬飼たちに強い衝撃を与えた。  犯人の警官——確か石崎一《いしざきはじめ》といったような気がする——は、刑事や検事の取り調べに対しても、公判の場でも、堂々と自分の犯行動機を陳述。そして、殺人という法を犯した罪は償わなければならないと考えているが、後悔はしていないし良心の呵責《かしやく》も覚えていない、と述べた。  そのため、事件は新聞や週刊誌、テレビで大きく取り上げられ、その三カ月前、新聞の地方版に小さく載ったにすぎない�女性の自殺�も——登場人物はほとんど仮名ながら——詳しく報道されたのだった。  因《ちな》みに、殺人事件の一審判決は懲役十年。しかし、懲役十二年を求刑した検察側は、その量刑を不服として控訴した。検察側の言い分は、動機には同情すべき点がないではないものの、現職警官の思い込みによる短絡的な殺人は極めて重大であり、まったく反省の色がない点は許しがたい、というものだった。そのため、裁判は現在も福岡高等裁判所でつづいていた。  松井の実家は、バスターミナルや桟橋の前を通り、オランダ商館跡を東から北へ回るようにして車で数分行ったところだった。  松井の両親は、ともに五十代後半か。中学の教頭だという父親は首の長い痩《や》せた男で、目を赤く泣き腫《は》らした母親は中肉中背の品の良い女性だった。  ひょろりとしていて身長が百八十センチ以上あったという松井の体形は、父親似だったらしい。  松井には四つ違いの姉が一人いて、結婚して大阪に住んでいる、と梶に聞いていた。その姉が、小学校入学前らしい二人の男の子を連れて駆けつけてきていた。  犬飼たちは座卓の置かれた居間に通され、両親と姉から話を聞き始めたが、子供が騒ぐので、姉はすぐに奥へ引っ込んだ。  松井の両親は、息子《むすこ》の良男について、福岡の大学へ入学した九年前から家を出て、年に一、二度しか帰ってこないので、どのような生活をしていたのかほとんど分からない、と力なく答えた。  警察から、もし家に連絡があったら知らせるようにと言われていたが、電話もないし、平戸へ来ていたなんて全然知らなかった、という。 「ですが——」  と、暗い、困惑したような目をして、父親がつづけた。「良男が自殺したなんて、今でも信じられません。息子の勤めている華咲学園の小山田理事のお嬢さん、香子《きようこ》さんとの縁談がまとまりかけていて、良男はとても喜んでいましたから。校長の紹介で知り合った理事の娘さんということで、多少は出世の計算もあったかもしれませんが、良男はそれ以上に綺麗《きれい》で気立ての良い香子さんに惚《ほ》れていたんです」 「ご両親は、良男さんの西倫館大学時代からの友人である間宮圭一、吉久保宏の二人をご存じですか?」  鷲尾が訊《き》いた。 「ええ」  と、父親が答えた。  居間の座卓を挟んで、松井の両親は俯《うつむ》きがちに正座していた。 「吉久保さんが、良男と間宮さんと一緒に旅行中、壱岐で殺されたと聞き、びっくりしていたところでした」  父親の目に、不安とも恐怖ともつかない色が浮かんだ。 「二人にお会いになったことは?」 「二度あります。学生時代に一度と卒業してから一度、平戸へ遊びに来ましたから。二度とも良男が一緒に連れてきたんです」 「二人をどう思われましたか?」 「吉久保さんは常識的な方でしたが、間宮さんはどうも……」 「どうも、とは?」 「長崎の有名な菓子屋さんの息子だという話でしたが、正直に申し上げて、調子ばかりよくて信用がおけない感じでした」  それは、間宮に関して犬飼たちの抱いた感想でもあった。さらに犬飼は、軽薄なだけならまだしも、内にどことなく凶悪なもの、残酷なものを秘めているような感じがしたし、真面目《まじめ》にこつこつと働いている者を馬鹿にしているような、世の中を嘗《な》めているような印象を受けた。 「永年、教師をしていて、あの手の生徒を沢山見てきたので分かるんです。あれは、教師の前では良い子にしていて、陰で平気で残酷ないじめ[#「いじめ」に傍点]などをするタイプです」  松井の父親がつづけた。「もし……もしですが、このたび吉久保さんが殺され、良男が自殺しなければならないような事情があったとすれば、それはあの間宮という男と付き合っていたせいです。あの間宮と一緒に壱岐に旅行なんかしたからにちがいありません」  父親は、好きな女性との婚約を目前にした息子が自殺するわけがないと言いながらも、一方で、自殺の事実を受け容《い》れ始めているらしい。そして、松井が本のカバーの裏に走り書きした一文を見ていたからだろう、息子の死には自分の知らない事情があったらしいと思い始めているようだ。  それはともかく、自分の子供が友達と一緒に悪いことをしたとき、�うちの子は××君に誘われて仕方なく……�というのも、親の決まり文句だった。それは、永年教師をしてきた松井の父親には分かっているはずだった。が、こと自分の子供の問題になると、見えなくなるものらしい。  確かに、間宮という男は信用がおけない感じがする。また、三人の中では彼がリーダー的な存在だったようだ。  それは、安達江美や玉木由加利の話からも窺《うかが》える。  といって、松井や吉久保は中学生ではない。大学を卒業した立派な社会人である。住む場所も仕事も違う。間宮と付き合いたくなければ、付き合わなければいいのである。だから、たとえ父親の言うように、間宮との交際が二人の死を招いたのだったとしても、それは本人の責任であろう。  横から鷲尾の顔を窺うと、どうやら彼も犬飼と同じように感じたようだった。  が、息子を亡《な》くして悲嘆している親の前でそんなことを言ったところでどうにもならないからだろう、何も言わなかった。  鷲尾は、さらに父親に二、三の点を尋ねて、梶に質問の終わったことを知らせるために頭を下げた。  それからおよそ三十分後の三時四十分、三台のパトカーに分乗した犬飼たちは、松浦、伊万里、唐津と通って福岡へ向かうために、平戸大橋を渡った。      4  同じ八日、午後五時五十分——  犬飼たちの乗ったパトカーが糸島半島の入口の前原を過ぎて、福岡市へ入った頃、美緒は神田《かんだ》にある勤め先・清新社のデスクで、安達江美の電話を受けていた。  退社時刻の五時半を過ぎたし、今日はこれといって急ぎの仕事がなかったので、壮の研究室に電話をかけて、彼の都合がよかったら一緒に夕飯でも食べようかと思っていたとき、江美から電話がかかってきたのである。  壱岐のペンションで知り合って、勤め先を教えておいたものの、電話をかけてくるとは思っていなかったので、相手が「長崎の安達江美です」と名乗ったときには、少しびっくりした。もっとも、殺人というショッキングな経験を共有したせいか、五日の昼近く、刑事たちの尋問が済んだ後で兼岡の淹《い》れてくれたコーヒーを一緒に飲む頃には、江美とも玉木由加利ともかなり親しくなっていたのだが。そのとき、佐知などは調子に乗り、美緒の恋人の数学者はこれまでに警視庁や神奈川県警に協力して難事件をいくつも解決した優秀な探偵なのだ、とまるで自分の恋人を自慢するように話したのだった。 「先日はいろいろお世話になりました」  美緒は挨拶《あいさつ》した。 「こちらこそ……。それより、お仕事中、ごめんなさい」  と、江美が謝った。 「いいえ、もう帰るところでしたから構わないんです。安達さんも会社からですか?」  美緒は訊《き》いた。 「ううん、私はお家。私は五時になったら、すぐに帰ってしまうから」  江美が笑いを含んだ声で答えた。  彼女は長崎市内に住み、市の外れにある従業員五十人ほどの玩具《がんぐ》メーカーに勤めている、と美緒は聞いていた。 「勤め先とお家が近くて、いいですね」 「地方都市の良いところといったら、それぐらいしかないわ」 「そんなことありませんけど」 「そんなことあるのよ。長崎は九州では大きな都会だけど、それでも、私、時々息が詰まりそうになるわ。それに、仕事はつまらない事務と使い走りばかりだし。短大を卒業した後、本当は東京か大阪へ行きたかったの。でも、父が……あ、ごめんなさい、突然お電話して、つまらないお話ばかりして」 「いいえ」 「笹谷さんたち、事件の真相というか……捜査の成り行きについて知りたいって話してらしたでしょう」 「ええ、まあ……」  美緒は、曖昧《あいまい》に応じた。〈そうか、事件の捜査に何か進展があって江美は知らせてくれたのか〉と思いながら。  というのも、五日の昼、美緒とサユリと佐知は、江美たちを前にして、  ——いったい、犯人の狙《ねら》いは何なのかしらね。どういう事件なのかしら。  ——でも、東京へ帰っちゃったら、たぶん続報なんてどこにも出ないわね。  といった話をしたからだ。 「ああは言われても、遠い九州の島で起きた事件など、もう気にかけていらっしゃらないかと思ったんだけど、そちらの新聞には載っていないだろうと思って……」 「気にかけていないなんてこと、ありません。昨日も片平さんから電話があって、その後どうなっているのかしら、って二人で話しましたし」 「そう。なら、余計なお節介にならなくてよかったわ」  江美が応じてから、急に声の調子を沈めてつづけた。「実はね、壱岐の『サンライズ・サンセット』からいなくなった松井さんが亡《な》くなったの」 「亡くなった……! やはり殺されたんでしょうか?」  美緒は、「殺された」という言葉を口にしてから、慌てて左右を見やり、送話口を手で囲った。  両隣りの席は空だったが、編集長の西村が原稿から目を上げ、額に縦皺《たてじわ》を寄せて、じろりと美緒をにらんだからだ。  その顔には、�また余計な探偵ごっこ[#「探偵ごっこ」に傍点]に首を突っ込んでいるのか�と書かれているように美緒には見えた。 「私も、いま夕刊を見ただけだから、はっきりしたことは分からないけど、自殺した可能性が高いって書かれているわ」 「自殺ですか……。どこで亡くなったんでしょう?」 「松井さんの郷里の平戸で、海に浮いているのが今朝見つかったんですって。五日の朝、黙って『サンライズ・サンセット』を出て行ってから、福岡のアパートにも帰らず、行方《ゆくえ》が分からなかったらしいわ」 「警察にも連絡がなかった?」 「それはそうでしょうね。警察は吉久保さんの事件に関して事情を聞くために行方を捜していたって書いてあるから」  ということは、松井は自分たちとの約束を守らなかったのか[#「松井は自分たちとの約束を守らなかったのか」に傍点]、と美緒は思った。  五日の夕方、虹の松原の砂浜で出会ったとき、松井は、美緒たちの話を聞いた後、�それなら、これから警察へ行って事情を説明する�と言っていたのに。  そのときのことが美緒の脳裏によみがえった。  松井は、美緒たちが彼に気づいて追いかけると、初め長い脚で逃げ出した。  だが、美緒たちが待ってくださいと呼びかけ、  ——もし事件に無関係なら、逃げないほうがいいと思います。  と言うと、スピードをゆるめた。  ——逃げれば逃げるほど、警察は疑いを強めますから。  なおも美緒たちは言った。  と、今度は松井の足が止まった。  身体を回し、美緒たちのほうを見た。  美緒たちは、荒い息を吐きながら彼に駆け寄った。  ——事件て何ですか? 警察の疑いって、どういうことですか?  松井がせっかちに訊いた。  松井の顔は青く引き攣《つ》り、目には脅《おび》えの色が浮かんでいた。  ——知らないんですか?  佐知が信じられないといった顔をして、松井を見上げた。  ——ええ、何も。いったい何があったんですか?  ——ペンションから林の中を少し下ったところに建っていたログハウス、ご存じでしょう。あそこで吉久保さんが殺されたんです。  美緒は説明した。  ——よ、吉久保が……!  松井がそう言うと絶句した。  顔が紙のように真っ白になり、そこに恐怖の表情が張りついていた。  ——本当にご存じなかったんですね。  美緒は確認した。  ——ええ。  松井が大きくうなずいた。  彼は本当に吉久保が殺された事件を知らなかったようだ、と美緒は思った。  ——では、松井さんがお部屋を出られたとき、吉久保さんは?  質問を継いだ。  松井がすぐには返事をせず、美緒から視線を逸《そ》らした。  何かある、美緒はそう直感した。  が、彼女がそれを質《ただ》すより先に、  ——ね、寝ていました。  と、松井が答えた。  ——本当ですか?  ——本当です。間宮も吉久保もぐっすりと眠っていたんです。それで、僕は二人に黙ってそっと部屋を出たんです。時刻は七時十分頃でした。……あ、それで、吉久保が殺された時刻は分かっているんですか?  ——八時二十七分頃ではないか、と警察は見ているようです。  ——八時過ぎでは、僕は関係ありようがない。僕は、ペンションのオーナー御夫妻に気づかれないように玄関を出ると、街まで下り、タクシーで印通寺港まで行って、八時十分に出る呼子行きのフェリーに乗ったんです。タクシーの運転手かフェリーターミナルの職員にでも訊いてもらえば、僕の話が事実だと分かってもらえるはずです。  ——分かりました。松井さんが吉久保さんの殺された件に直接の関わりはなかった、というお話は信じますわ。  美緒が言って、サユリと佐知を見ると、二人も同意するようにうなずいた。  でも、と美緒はつづけた。  ——でも、直接の関わりはなかったとしても、松井さんが無断でいなくなった直後に吉久保さんが殺されたのはただの偶然とは思えません。  サユリと佐知が、前以上に大きくうなずいた。  美緒は言葉を継いだ。  ——松井さんが部屋を出られたとき、吉久保さんはぐっすりと眠っていたと言われましたけど、本当は起きていたか、すでに部屋にいなかったんじゃないんですか。松井さんは何かご存じなんじゃないんですか。  ——知らない。僕は何も知らない。僕が出るとき、吉久保は眠っていた。本当だ。  松井は否定したが、視線は美緒たちから微妙に逸らされ、揺れていた。  ——じゃ、松井さんは、どうして一人で朝早く帰ってしまったんですか? 間宮さんと吉久保さんだけでなく、ペンションのオーナーの兼岡さんにも無断で。  佐知が、最大の疑問点を質した。  ——そ、それはある事情からだ。  ——ある事情って?  ——僕の個人的な問題なので、きみたちに言う必要はない。  美緒は、もしかしたら江尻あゆみに関係しているのではないかと思ったが、それなら兼岡に無断で帰る必要はないとすぐに思い返した。間宮と吉久保には言い出せなくても、彼が宿泊を申し込んで世話になった兼岡には、�申し訳ありませんが、急用ができたので先に帰りますから�とでも一言|挨拶《あいさつ》して行くのが筋だろう。  だいたい、松井の不自然な行動の理由が江尻あゆみなら、彼が帰った直後に、彼と一緒に壱岐へ来た吉久保が殺された、という事実の説明ができない。それは、どう見ても偶然とは考えがたい。  松井は、彼が部屋を出たとき吉久保は眠っていたというが、嘘《うそ》をついているような気がする。彼の見せた反応から。もし美緒のこの観察が正しければ、松井は直接殺人にはタッチしていなくても、どこかで事件と関係している可能性が高くなる。  誰にも気づかれずにペンションを出てログハウスへ行った吉久保の行動が、彼の自発的な意思だったとは思えない。なぜなら、彼はそこで殺されたのだから。  では、あの朝、吉久保をログハウスへ導いたのは誰か——?  彼を殺害した犯人であるのは間違いないだろう。  しかし、犯人の意思を吉久保に伝えたのが松井だった可能性はある。犯人が吉久保を殺そうとしているとは想像できないで。  そのため、�事件�と聞いただけで、松井は顔色を変え、脅えたような表情をしたのではないだろうか。  美緒はそう考え、さらに質した。  しかし、松井は、何も知らない、自分は事件には一切関係ない、先に帰ったのは個人的な事情からにすぎない、と言い張った。  それなら、疑いを晴らすためにも、これからすぐに警察へ行き、事情を話したほうがよい、と美緒たちは勧めた。  松井も、その点は、「分かった」と了承した。  美緒たちは、自分たちも一緒に行ってやってもいい、と申し出た。  ——いえ、あなたたちにそこまで迷惑はかけられません。僕一人で行きます。  松井が応《こた》えた。  美緒たちは、松井が警察へ行かずに逃げてしまうのではないかとおそれ、その場で少しぐずぐずしていた。  すると、松井が美緒たちの心の内を読んだように、  ——僕は逃げやしませんよ。何も悪いことなんかしていないんですから。  と、かすかに目元を笑わせて言った。  ——もう壱岐行きの最終フェリーには乗れませんので、これから壱岐島署に電話をかけ、向こうが指定した場所で待ちます。そして、事実を話します。約束します。  美緒たちとしては、それ以上松井の行動を縛ることはできない。彼の言葉を信用するしかなかった。  博多へ行く筑肥線の電車の時刻も迫っていたこともあった。松井と別れ、虹ノ松原駅へと向かった——。 「松井さんの死が自殺らしいということは、遺書があったんでしょうか?」  美緒は訊いた。 「文庫本のカバーに遺書とも取れる走り書きがあったとは出ているけど、きちんとした遺書はなかったみたい」  江美が答えた。  話し始めたときより馴《な》れなれしい言葉づかいになっていた。 「文庫本のカバー……! そこに何と書かれていたんですか?」 「自分は吉久保さんの殺された事件には関係ないって書かれていたそうだけど、文章までは載っていないわ」 「では、松井さんの自殺された理由は、はっきりしない?」 「そうだけど……自分は吉久保さんの事件に関係ないって書かれていたということは、逆に自殺の動機はそこに関係があった、ということじゃないかしら」 「そうですね」  美緒は応《こた》えながら後悔していた。  五日の夕方、たとえもう一晩泊まることになったとしても、松井の行動を見届けるべきだったか、と。松井に断わられても、強引に警察までついて行くべきだったか、と。  そうすれば、もしかしたら松井を自殺に追いやらずに済んだかもしれない。  自分たちとの約束どおり、松井は警察へ行って事情を話しただろうか、と美緒たちはずっと気になっていた。博多で寝台特急「さくら」に乗ってからも、東京へ帰ってきてからも。といって、壱岐島署に電話して確かめてみるまではしなかったのだった。 「それじゃ、お仕事中、あまり長くなるといけないから……」  江美が言った。 「あの、吉久保さんの事件のほうは、その後何か分かったんでしょうか?」  美緒は慌てて訊いた。 「警察は、これといってまだ何もつかんでいないみたいね。五日の朝、松井さんが乗って印通寺港まで行ったタクシーは分かったらしく、松井さんは犯人じゃないとは見ていたようだけど」 「では、松井さんは、警察に出頭しても、容疑者として責められるおそれはなかったわけですね」 「そうね」  美緒の胸で、後悔の念がいっそう強くなった。  彼女はちょっと迷った後で言った。 「実は、私たち、あの事件の日の夕方、松井さんに会ったんです」 「えっ……!」  と、今度は江美が驚きの声を発し、「ほ、本当? ど、どこで会ったの?」 「虹の松原です」 「じゃ、松井さんから詳しいお話を聞いているの?」 「いいえ。ただ、八時十分に印通寺港を出た呼子行きのフェリーに乗ったというお話と、吉久保さんの事件は知らなかったということしか……」 「誰にも何も言わず、一人でペンションを出てフェリーに乗った理由は?」 「私たちもそれが一番の疑問でしたから、尋ねたんですが、松井さんは個人的な事情だと言われ、教えてくれませんでした」 「そう」 「私たちは、無用の疑いをかけられたくなかったら、とにかく警察に行って事情を話したほうがよいと勧め、松井さんもそうすると約束されたんですが……」 「約束を守らなかったわけね」 「安達さんのお話を伺って、そうだったらしいと分かりました。そのとき、私たちが強引に松井さんと一緒に警察へ行っていれば、もしかしたら今回のような結果にならなかったのかもしれません」 「笹谷さんたちには何の責任もないわ。犯人の疑いが濃いっていうんなら、警察に知らせる義務があったかもしれないけど、そうじゃなかったんでしょう」 「ええ。松井さんのお話を聞いて、犯人じゃないことは確実らしい、と思いました」 「だったら、笹谷さんが自分を責める必要なんか全然ないわ。松井さんの知っている事実が分からなくなってしまったのは残念だけど、松井さんは立派なおとな[#「おとな」に傍点]なんだから。事情はどうあれ、松井さんが自殺したのは、たぶん、その選択しかなかったから、そうしただけよ」  美緒を力づけるためだろう、江美が突き放した言い方をした。  そうかもしれない、と美緒も思う。  松井が、彼の言うとおり、吉久保の死とまったく関係がないのなら、自ら死を選ぶ必要などなかったはずなのだから。 「長くなってしまったわね。ごめんなさい」  江美が語調を変えた。 「いいえ、こちらこそ。長距離なのに、お電話代も考えないで……」 「いいわよ、電話代なんて。どうせ、私が払うわけじゃないから」  江美が電話の向こうでくすりと笑った。 「わざわざ知らせてくださって、ありがとうございました」  美緒は、ちらっと西村のほうを窺《うかが》いながら見えない相手に頭を下げた。 「事件と松井さんの死について詳しい事情が分かったら、またお知らせするわ。ただし、ご迷惑でなかったら、だけど」 「迷惑だなんて、とんでもない。ぜひ、教えてください。……あ、いえ、今度はこちらからお電話します」 「もちろん、それでもいいけど……。じゃ、桑野さんに伺った、名探偵のフィアンセによろしく。ひょっとしたら、その方に事件の謎《なぞ》を考えていただかなければならなくなるかもしれないから」  江美は冗談で言ったのだろうが、美緒は本気で〈あるいは……〉と思った。あるいは、そうなるかもしれない、と。  美緒はその晩、水道橋駅で壮と待ち合わせると、一緒に新宿へ出て食事をした。  壮には、壱岐での出来事はもとより、虹の松原で松井に会ったときのこともすべて話してあった。東京へ帰った日(六日)の夜に。  だから、同僚に勧められて行った飛騨《ひだ》料理の店では、味噌《みそ》で味つけされた飛騨牛の朴葉焼《ほおばや》きと山菜料理を食べながら、江美に聞いた話を付け加えた。      5  美緒と壮が東京新宿で飛騨牛の朴葉焼きを頬張《ほおば》り始める一時間ほど前、犬飼たちは福岡市内の松井のアパートに着いた。  アパートは、唐津、前原方面から行くと市の中心を通り抜けた反対側、東区の箱崎にあった。  松井の父親の話によると、松井の勤めていた華咲学園高校は九大病院や福岡県庁に近い東公園の並びにあるので、地下鉄で二駅の距離なのだという。  アパートは三階建て。二階の西の端・二○五号室が松井の部屋だった。  犬飼たちは、平戸中央署の鑑識係員たちに十分ほど遅れて部屋へ入った。  ダイニングキッチンと書斎と寝室、それに浴室にトイレという、広さ四十平方メートルほどの部屋だ。先に写真を撮り、扱いに注意すべき物がないかと調べた鑑識係員たちの観察によると、これといって不自然な点はないという。それは、犬飼たちがざっと見ても同様だった。同じ独身男の犬飼の部屋に比べると、格段によく片付いていた。  松井は殺人事件の容疑者ではないし、被害者でもない。ただ、吉久保が殺された事件の事情を知っている可能性が高いと考えられるだけである。  そのため、犬飼たちの最大の目的は、そうした事情の記されたものを見つけることだった。  父親によると、きちんとした日記はつけていないかもしれないが、子供の頃から文章を書くのが好きだったから、時々自分の気持ちや出来事などを綴《つづ》った雑記帳のようなものはあるのではないか、という。  犬飼たちは、その言葉を頼りに、机の上の本立て、引き出しなどを捜し、それらしい大学ノートを三冊見つけた。  それは、まさに、父親が言ったような事柄を、気が向いたときにだけ書いたらしいノートのようだった。  そのうち、(1)、(2)と番号のふられたノートは全ページが文字で埋まっていたが、一番新しい(3)のノートはまだだいぶ白紙のページが残っていた。また、(3)のノートは、去年の二月十一日に観た映画の感想が最初の記述だったが、その後、途中が何枚か破られていた。破られる直前の記述は去年の四月二十九日、破られた後の初めの記述は去年の八月十七日、そして最後の記述は今から三週間ほど前の今年四月十四日、婚約するかもしれないという小山田香子と食事をして帰り、その喜びを記したものだった。  鷲尾が、(3)のノートのページを数え、破られた部分のページ数を計算した。  それによると、全ページ五十枚・百ページのうち、破られていたのは十四枚・二十八ページ分。去年の四月三十日から八月十六日まで、約三カ月半にしては、かなりの枚数だった。書きたい事柄は平均にあるわけではないにしても、他のときは月に三ページ平均の記述しかないのに、その三カ月半は、月に八ページ以上書かれていた計算になる。  ノートを全部読んでみなければはっきりしたことは言えないが、その破られた部分にこそ今度の事件と松井の自殺に関係した事柄が記されていたのではないか——。  ノートを持って食堂のテーブルに移り、梶警部と鷲尾がそう話し合ったが、それは犬飼の感想でもあった。  では、ノートを破ったのは誰か?  松井が失踪《しつそう》しているのを知っている人間がこの部屋へ忍び込み、その人間に不都合な事柄の書かれている部分を破った可能性もゼロではない。  鷲尾は回りくどい言い方をしたが、その人間とは間宮である。  しかし、破断された跡を携帯顕微鏡で調べた鑑識係員によって、破られたのが昨日今日ではないと分かり——破断面が変色し、けばが圧《お》しつけられたり擦《こす》れたりしていたらしい——、その可能性は消えた。  それにより、ノートを破ったのは松井自身だったことがほぼ確実になった。つまり、松井は、そこに何らかの事実なり自分の気持ちなりを書きつけたものの、その後、破り取って処分してしまった。そう考えられた。  破った理由は分からない。  心境の変化かもしれないし、万一誰かに読まれたら困ると考えたのかもしれない。  ただ、松井自身が破ったらしいと判明したことから、そこに吉久保の殺された事件と松井の自殺に関わる事柄が記されていた可能性が、いっそう高くなった。  となると、問題は、処分されてしまったその二十八ページに何が書かれていたのか、である。  しかし、それを推し量る手掛かりは、少なくともノートにはなさそうだった。  なぜなら、もしあれば、その部分も松井は破り取ってしまっただろうから。  ノートから分かるのは、その事柄が〈去年の四月末〜八月中旬〉という時期に関係しているらしい、という点だけである。  犬飼たちが、食堂のテーブルにノートを並べて思案していると、鑑識係員の一人が机の引き出しから見つけたという新聞の切り抜きを持ってきた。  それは、名刺ほどの大きさの皺《しわ》くちゃになった切り抜きだった。 「引き出しの奥に押しつけられ、さらに小さく丸まっていたんですが」  と、その鑑識係員は説明した。「広げて読んでみると、去年の五月に平戸港に身を投げて死んだ女性の記事だったんです」 「なにっ?」  と梶が目を剥《む》き、 「去年の五月、平戸港というと、例の警官の事件の因《もと》になった女性ですか?」  鷲尾が緊張した声で訊いた。 「そうです。新聞の発行日は分かりませんが、記事に『五日朝……』となっていますし、間違いありません」  鑑識係員が答えた。 「郷里の平戸の出来事とはいえ、松井さんは、どうしてそんな切り抜きを持っていたのかな」  松井の父親がそばにいるので、梶が「さん」付けで言った。  鑑識係員が、切り抜きを梶と鷲尾の前のテーブルに置き、皺を伸ばした。  梶と鷲尾が目を近づけたので、犬飼も鷲尾の肩の後ろから覗《のぞ》き込んだ。  記事は、五日の早朝、若い女性の死体が平戸港の出口で漁船によって発見されたことを伝えていた。女性の氏名は沢|祥子《しようこ》。佐世保の大辰《たいしん》信用金庫に勤めている二十四歳のOL。四日の晩は、三月末に辞めた元同僚の歓送会で平戸へ来て泊まっていたが、九時頃に外出して深夜になってもホテルに帰らないため、心配した上司によって警察に届けられていた——。  犬飼は、沢という姓に引っ掛かった。 〈沢〉という姓は珍しいというほどではないにしても、それほど多い姓でもない。  旧姓がそれと同じ女性が、事件の関係者の中にいたからである。  犬飼は、石崎警官の殺人事件については強い関心を持っていた。事件を報じた新聞や週刊誌はよく読んでいた。が、そこには、自殺した女性については「S子さん」とか「Sさん」としか書かれていなかった。だから——女性が何という氏名であろうと関心もなかったので——、犬飼はそれが〈沢〉という姓だとは今まで知らなかった。  彼は、梶と鷲尾が切り抜きを読み終わったらしいのを見て、 「部長」  と、鷲尾に呼びかけた。  鷲尾が振り向いた。 「沢という姓ですが……」  犬飼が言いかけるや、うんと鷲尾がうなずき、「分かっている」と応えた。  玉木由加利——。  彼女は、二年前に母方の祖父母の養子になったために玉木姓になったが、その前の姓は〈沢〉だった。 「沢という姓が何か……?」  梶が訊いた。  鷲尾が、玉木由加利について説明してから、言った。 「吉久保が殺された直後に、その旧姓が例の事件の因になった女性と同姓だと気づいていたとしても、それで玉木由加利に特別の注意を払ったとは思えませんが……」  そのとおりだった。  いま、松井の部屋の引き出しから、沢祥子の自殺を伝える記事の切り抜きが出てきたので、その件が気になったのである。  そうでなければ、 〈吉久保の殺された事件と沢祥子の自殺の間に、何らかの関連があるのではないか〉  といった想像は生まれない。 「それにしても、松井さんがこんな新聞記事を切り抜いておいたというのは、どういうわけですかな……」  梶がさっきの疑問を繰り返した。  鷲尾が首をひねったが、もちろん犬飼にも想像がつかなかった。今度の事件は、沢祥子の自殺に関係があるのかどうか。あるとしたら、いかなる関係なのか——。  その点は不明ながら、気になるのは、吉久保が殺されたと考えられる五日午前八時二十七分頃、「サンライズ・サンセット」の二階自室のトイレに入っていたという玉木由加利は、ガッシャーンという音がしても誰にも顔を見せていない、という事実だった。つまり、間宮と同様に、彼女にもアリバイがないのである。  犬飼たちが、切り抜きを前に思案していると、 「あの……」  と、松井の父親が遠慮がちに言った。 「何でしょう?」  と、梶が彼に顔を振り向けた。 「その切り抜きに関係があるかどうかは分かりませんが、去年の五月の連休でしたら、良男たちは平戸へ来ていたんです」 「去年のゴールデンウィークに、息子さんたちが平戸へ行っていた?」  梶が緊張した声で訊き直した。 「ええ」  と、松井の父親がうなずいた。 「息子《むすこ》さんたち、というのは?」 「良男と吉久保さんと間宮さんの三人です」  松井の父親の答えに、犬飼はごくりと生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。 「正確な日にちは分かりますか?」  梶が質問を継いだ。 「えーと、良男が福岡へ帰った日の朝、パトカーのサイレンを聞いて、その女性の死体が上がったという話をした覚えがありますから、三日、四日、五日の三日間ですね」 「吉久保さんと間宮さんの二人も、松井さんのお宅に泊まっていた?」 「いえ、食事はうちで二度ほどしましたが、泊まったのはバスターミナルの近くにあるホテルです。余計な気をつかいたくなかったんでしょう。学生時代に来て泊まったとき、深夜まで飲んで騒いでいたので、私がちょっと説教したからかもしれません」 「四日の晩、三人がどうしたかは分かりますか?」  松井の父親が首をひねり、 「最初の晩は、吉久保さんと間宮さんもうちで一緒に食事をしたんですが……」  と、答えた。 「四日の晩は、間宮さんと吉久保さんの二人はホテルで夕食を摂《と》った?」 「と思いますが……」  父親が答えかけて、「ああ、思い出しました」と、わずかに声の調子を高めた。「どこで食事をしたのかは分かりませんが、その晩は、良男も二人と酒を飲んだらしく、かなり遅く帰ってきました」 「翌朝、サイレンの音を聞いて、女性の死体が海から上がったらしいという話をされたとき、良男さんの様子はいかがでしたか?」 「覚えていません。……いや、特に変わった様子はなかったと思います」  答えてから、父親は急に不安そうな顔をして訊《き》いた。「その女性の自殺は原因がはっきりしていたはずですが、そこに良男たちが何か関係があるんでしょうか?」 「いえ、そういうわけじゃないんですが、こんな切り抜きが出てきたものですから、念のために」  梶が引いた。  彼の言葉は嘘《うそ》ではない。  もしかしたら、沢祥子の自殺と松井たちの間に何らかの関係があったのかもしれないが、今のところ具体的な点はまったく分からないのだから。  ただ、犬飼は、これから長崎へ行ったら、間宮だけでなく玉木由加利にももう一度会って話を聞かなければならない、と考えていた。由加利と沢祥子の間に関わりがあるのかどうか……。 [#改ページ]   第四章 殺人招待席      1  福岡の松井のアパートから長崎市の中心まで、九州自動車道・長崎自動車道を利用して、約二時間二十分で着いた。  犬飼たちは、中島川に架《か》かった中央橋の袂《たもと》まで梶たち平戸中央署のパトカーに送ってもらい、彼らと別れた。  西側の坂の上は県庁、県警本部、裁判所、検察庁などが集まっている官庁街、川を渡った東側は銅座、浜町、思案橋《しあんばし》といった繁華街である。  時刻は間もなく午後九時四十分。人を訪ねるのに適当な時間とは言えないが、犬飼たちはこれから間宮に会うつもりだった。  和菓子舗「亀屋」は、駅前の本店の他に市内に数軒の店を持っていると聞いていた。が、間宮一家の住居と工場は中島川の東側、万屋町《よろずやまち》にあるのだった。  間宮に話を聞いた後、県警本部へ行けば、泊まれるように鬼塚が手配してくれていたから、宿の心配はいらない。  犬飼たちは川沿いの道を二百メートルほど遡《さかのぼ》り、賑《にぎわい》橋という小さな橋を渡った。  このあたりは、上流にも下流にも似たような橋がいくつも架かっている。そのうちの一つ、歩行者専用の橋が眼鏡《めがね》橋である。  道は一方通行の狭い通りだった。交差している観光通りというアーケードの商店街を越し、さらに狭い道を右に左に入ると、間宮の家はじきに見つかった。さほど大きな家ではなかった。裏庭か中庭があるのかもしれないが、商家の造りらしく、通りに面して古い格子戸の入口が付いていた。  インターホンで案内を請うと、間宮圭一の母親と思われる五十二、三歳の小柄な女性が格子戸の鍵《かぎ》を開けた。  鷲尾が身分と姓を名乗った。女性の顔からすーっと血の気が引くのが分かった。  鷲尾が夜分の訪問を詫《わ》びてから、圭一の友人が殺された事件に関係して緊急に事情を聞く必要が生じたのだ、と説明した。  女性が、「それでは、ちょっとお待ちください」と言って引っ込み、すぐに間宮を呼んできた。  間宮の眉《まゆ》の濃い顔は、五日の朝、吉久保が殺された直後より青ざめ、緊張しているように見えた。それは、夜、突然刑事が訪ねてきたせいばかりではなさそうだった。  鷲尾もそう感じたのだろう、 「松井さんが亡《な》くなったのは……?」  と、まず訊《き》いた。 「知っています。新聞で見ました」  と、間宮が答えた。  犬飼の想像したように、吉久保が殺されたのにつづいて松井まで死んだため、次は自分ではないかと恐怖を感じているのかもしれない。  なぜなら、自殺した松井は、 ≪……次は、俺か間宮だ。俺か間宮が殺されるにちがいない。……俺たちはもう逃げられない。必ず、必ず殺されるだろう≫  と書いていたからだ。  この一文は公表していないから、間宮はその内容を知らない。だが、彼なら、松井の死によって、吉久保を殺した犯人の狙《ねら》いについて見当がついたとしても不思議はない。それで、今度は自分の番ではないか、と戦《おのの》いているのではないか。  いや、別の可能性もある。犬飼たちは、間宮に対する疑いをまだ解いていない。間宮が別の人間の犯行を装って、彼の秘密[#「彼の秘密」に傍点]を握っている吉久保と松井の口を封じようとした疑いだ。この場合、松井も、自殺しなかったら、いずれ殺されたにちがいない。  間宮の母親が、「どうぞお上がりください」と勧めた。  一瞬、間宮が眉を寄せて母親に険しい目を向けた。玄関で話を済ますつもりだったのだろう。  鷲尾が気づかないふりをして、 「そうですか。それでは、ちょっと失礼しますか」  と、靴を脱いだ。  犬飼もつづく。 「もういいよ」  間宮が怒った口調で母親を追い返し、鷲尾と犬飼を和室を改造したらしい応接間へ通した。 「昨日か一昨日、間宮さんは松井さんと電話で話していますね?」  向かい合ってソファに腰を下ろすや、鷲尾がいきなり訊いた。 「ぼ、僕が、松井と……?」  間宮が、いかにも意外な質問だというように訊き返した。  そうした質問をぶつけるとは犬飼も聞いていなかったので、びっくりした。  鷲尾は時々はったりを利《き》かせるタイプだが、いま間宮に会って、松井と話しているという感触を得たのかもしれない。 「そうです」  と、鷲尾が相手を見据えて答えた。 「ぼ、僕は話していない」  間宮が激しく首を横に振って否定した。 「正直に話してくれませんか。松井さんから電話がかかってきたはずですが」 「正直に言っている。松井から電話なんかなかった」 「吉久保さんがどうして殺されたのか、五日の朝、松井さんがなぜあなたたちに無断で壱岐を出てしまったのか、なぜアパートへ帰らないのか……。松井さんは、あなたにだけは、そうしたことを説明したんじゃありませんか」 「僕は聞いていない。松井は何も言ってこなかった。だから、僕にも、何がなんだか、さっぱりわけが分からない。吉久保が殺された理由はもとより、松井がなぜ自殺などしたのか……」  間宮の顔は、事実を言っているように見えた。といって、巧みに嘘《うそ》をついている可能性もあり、犬飼にはどちらなのか判断がつかなかった。 「間宮さん」  と鷲尾がさらに追及しかけたとき、ドアがノックされ、間宮の母親が茶を運んできた。  間宮が、瞬間、顔をしかめたが、すぐにほっとしたような表情になった。追及の間が空いたからだろう。  彼の母親は、茶と枇杷羊羹《びわようかん》の皿を鷲尾と犬飼の前に置き、「どうぞ」と勧めて出て行った。 「どうしても松井さんと話していないと言われるんなら、仕方がない。別のことをお訊きします」  鷲尾が語調を変えた。「壱岐旅行は松井さんが言い出され、宿の手配なども松井さんがされた、という話でしたね」 「ええ」  と、間宮がうなずいた。 「そのことが、吉久保さんの殺された事件、松井さんの失踪《しつそう》・自殺に無関係だと思いますか?」  間宮はすぐには答えなかった。どう答えるべきかを考えるように、鷲尾から視線を外して黙っていた。 「いかがでしょう?」  鷲尾が返答を促した。 「刑事さんは、関係があると?」  間宮が逆に訊き返した。 「こちらが質問しているんです」 「そうですね……」  と、間宮はもう一度考えるように首をかしげてから、「よく分かりません」 「松井さんを操ったというか……あなたと吉久保さんを誘って壱岐へ行くように松井さんに強制した人間がいたのは、今や明らかです。五日の朝、松井さんをあなたたちに無断でペンションを抜け出させたのも、吉久保さんを殺害したのも、その人間だったのはおそらく間違いありません。  間宮さん、あなたはそのことを知っているはずです」 「ぼ、僕は知りませんが、いま刑事さんの言われたことは本当ですか?」  間宮が鷲尾に真剣な視線を当て、また訊き返した。  その目には、脅《おび》えの表情が色濃く浮かんでいた。 「証拠はないが……」  鷲尾が前言をわずかに後退させた。 「そうか……いえ、そうかもしれません。そう考えると、松井の行動が理解できます。というより、他に松井の行動は説明しようがありません」  間宮が合点したように言った。「実は、僕も、吉久保の殺された事件と松井の行動の裏には何かあるのではないか、と感じてはいたんです。ですが、それが何なのか、想像がつかなかったんです」 「では、本当に松井さんからの電話はなかった?」 「ありません」  間宮が語調を強めた。 「そうなると、松井さんの行動はますます不可解になるんですがね」  鷲尾が首をひねった。 「ないものはないんです」  間宮が怒った声を出した。 「松井さんは、死ぬ前に、間宮さんにだけは事実を話しているにちがいない、と思ったんですが……」 「僕だって、できれば、松井の口からどういうことなのか聞いてみたかったですよ」  鷲尾のしつこさに、間宮がわずかに顔をしかめたが、声は普通の調子に戻っていた。  どうやら、松井から間宮に電話がなかったというのは事実らしい、と犬飼は思った。  ただ、そうなると、鷲尾も言ったように、間宮にさえ何も言わずに死んだ松井の行動はいっそう不可解になるのだった。遺書とも取れる走り書きに、松井は、次は自分か間宮が殺されるにちがいないと記し、吉久保が殺された事件の裏には�自分と吉久保と間宮の三人が関わった何か�のあったことを暗示していたのだから。彼は死を選ぶ前に、なぜ、「仲間」であるはずの間宮と話さなかったのか。なぜ、間宮と連絡を取り、死を免れる方策を検討しなかったのか——。 「分かりました」  と鷲尾がやっと引き、茶を飲んだ。  松井から電話があったはずだと断定的に言ったことは、口をぬぐって、謝らない。  茶碗《ちやわん》を茶托《ちやたく》に戻し、 「間宮さんは、吉久保さんの殺された事件と松井さんの不可解な行動の裏には何かがあるのではないか、そう感じておられたという話でしたね」  顔を上げて間宮に視線を当て、新たな追及にかかった。  ええ、と間宮が警戒するような目をしてうなずいた。 「それが何なのか、想像がつかなかったという話でしたが……」 「そのとおりです」 「しかし、今は想像がついたんじゃないですか?」 「いや、まだつきませんね」 「間宮さんたち三人の壱岐旅行の裏には、誰かの意思が働いていた、そしてその人間が吉久保さんを殺害したらしい、と聞いてもですか?」 「ええ」  間宮の目に、不安げな、戸惑ったような色が差した。  それが翳《かげ》を作り、落ちつきなく揺れ始めた。  それを見て、どうやら本当に想像がつかないらしい、と犬飼は思った。 「じゃ、もう一つ、ヒントを差し上げましょう」  鷲尾の言葉に、間宮の喉仏《のどぼとけ》が上下した。 「それは、去年の五月の連休に間宮さんたちが松井さんの郷里の平戸へ行ったときの出来事に関係していると思われます」  皮膚の下に強力な吸取紙を当てられたように、間宮の顔からすーっと血の色が消えた。  今度こそ、思い当たることがあったのは間違いないようだった。  そしてそれは、松井の部屋にあった切り抜きの事件に関係していたらしい。 「想像がつかれたようですな」  鷲尾が満足げな声を出した。 「い、いや……」  と、間宮が痰《たん》の絡んだような声を出し、首を振った。 「想像がつかない?」  鷲尾が目を剥《む》いた。  間宮は無言。顔に恐怖の表情が張り付いていた。 「間宮さん!」  遂《つい》に鷲尾が怒りの声を上げた。  間宮は苦しげな顔をしながらも、なおも口を開かない。 「それなら、言ってやろう。それは、去年の五月五日、平戸港で水死体になって上がった信用金庫職員の自殺事件だよ」 「ち、違う!」  間宮が叫んだ。「違う。関係ない。あの事件は決着がついたはずだ」 「ほう。どういう決着かね?」  鷲尾が訊いた。やっと相手の口を開かせられたからだろう、余裕が戻った口ぶりだ。 「女性を暴行した犯人の男を、恋人の警官が刺し殺したじゃないか」 「よく知っていますな」 「あれだけ新聞や週刊誌を賑《にぎわ》せば、当たり前だ。テレビのワイドショウでも何度も取り上げられていた」 「しかし、刺し殺された男が自殺した女性を暴行した犯人だという証拠はなかった」  鷲尾が重大な発言をした。  それは、裁判でも問題になっている点だった。  元警官の石崎一は、恋人・沢祥子を襲った犯人は彼の刺し殺した男に間違いない、祥子はその男に凌辱《りようじよく》されたために自殺したのだ、と主張した。  だが、その石崎も、彼の追及に男が暴行の事実を認めた、とは言っていない。というか、男は�俺はやっていない�と否認したという。そのために、男に対していっそう強い怒りを覚えて刺したのだ、と石崎は供述していた。  遺体解剖の結果、沢祥子の膣内《ちつない》から石崎に殺された男と同じ血液型の精液が微量ながら検出され、祥子が男に暴行された可能性は非常に高い、と判断された。男がその晩、祥子を追って平戸まで来ていた事実、夜九時から十二時頃にかけてアリバイがない事実、男は大辰信用金庫の大口預金者のため、祥子が無下《むげ》には誘いを断われなかった事情、なども、�男が祥子をホテルから呼び出して暴行した�という状況証拠になった。また、何よりも、祥子の同僚たちは、誰か知った人に呼び出されでもしないかぎり、彼女が黙って外出するわけがない、と証言した。  こうしたことから、一審の裁判官は、今となっては事実は誰にも分からないが、その男が沢祥子を凌辱した犯人だと石崎一が確信したとしても無理からぬ理由がある、という判断を示した。もちろん、それによって、殺人という石崎の行為が正当化されるものではないが……とことわったうえで。  この判断は、大方の人に妥当なものと受けとめられたようだった。そして、犬飼ら壱岐島署の刑事たちも、暴行犯人は石崎に殺された男に決まっている、と話し合った。  ——自分の行為、それも卑劣な犯罪行為が原因で女が死んだというのに、女の恋人である警官に追及され、「はい、やりました」と言うわけがないじゃないか。  と、鷲尾もそのとき言った。  ところが、いま鷲尾は、�女性(沢祥子)を暴行したのが警官に刺し殺された男であるという証拠はなかった�と、あたかも別の暴行犯人がいるかのような言い方をしたのである。  その真意は、犬飼にも分かった。  松井の「遺書」と彼の部屋にあった新聞の切り抜きを見た後、犬飼の脳裏にも〈あるいは……〉といった疑いがかすめないではなかったからだ。  つまり、鷲尾は、 〈沢祥子を暴行した犯人は、もしかしたら間宮たち三人ではなかったか〉  と言っているのだった。  そう考えれば、松井の部屋に沢祥子の自殺を報じた新聞の切り抜きがあった事実の説明がつく。松井の雑記帳から、去年の四月末〜八月中旬にかけての記述が破り取られていた点、松井が警察に出頭して弁明できなかった点、「遺書」にはっきりしたことを書けなかった点、さらには、平戸港に身を投げて自殺したこと、も。  新聞の切り抜きは、小さいうえに引き出しの奥に押しつけられて丸まっていたというから、松井は、ノートを破るとき、そんなものが残っているとは気づかなかったのだろう。また、平戸港に身を投げたのは、平戸が彼の郷里であるという理由もあったかもしれないが、自分たちが死に追いやった女性と同じ場所で、同じように死ぬことによって、少しでも反省と詫《わ》びの意を示そうとしたのかもしれない。  ただ、そう考えても不可解なのは、松井が、自殺する前に、なぜ間宮に自分の知っている事実や自分の想像、気持ちを伝えなかったのか、という点だった。警察には話せなくても、仲間であり共犯者でもあった間宮にだけは、そうするのが自然のように思えた。  松井がそれをしなかったということは、自分たちの推理——鷲尾も犬飼と同様に考えているにちがいない——が、間違っているのだろうか。 「証拠があるかないかは僕は知らない」  少し落ちついたらしい表情で、間宮が言った。「だが、そんなことは僕には何の関係もない」 「それにしては、あんたはいま、顔色を変えたが」 「刑事さんがあんまり意外なことを言い出すから驚いただけですよ」 「意外? 去年の五月の連休にあんたたち三人が平戸へ行っていた事実は分かっているんだよ」 「それは否定しません。だから、どうだと言うんです? 刑事さんは僕に言いがかりをつけようというんですか?」 「言いがかりなんかじゃない。事実を言ったまでだ」 「でしたら、僕も事実を言います。去年の五月、平戸で自殺した女性が誰に暴行されたのであれ、僕たちには関係ありません」  犬飼は、どう判断したらいいのか、分からなくなった。  鷲尾が�去年の五月の連休、平戸……�と言ったときに間宮の示した反応は尋常ではない。それに、松井の部屋にあった新聞の切り抜きの件もある。彼らが、平戸の事件に無関係だったとは思えない。  しかし、その一方で、松井が間宮と連絡を取らずに自殺してしまった、という不自然な事実があるのだった。  犬飼は、さらに、�間宮たち三人が一年前の暴行事件の犯人であり、今度の事件がそれに関係して起きた�と考えた場合の疑問に気づいた。  それは、松井を意のままに操り、吉久保を殺害した犯人は、どうして、自殺した沢祥子を暴行したのが石崎に刺し殺された不動産屋ではなく、松井たちだと突き止めることができたのか、という点である。沢祥子も不動産屋も死んでしまい、警察や裁判官にさえ真相は分からないままだというのに。  疑問はまだあった。  今度の事件の犯人の動機が、沢祥子が暴行されて自殺した事件なら、松井には犯人の見当がつけられたはずであろう。少なくとも、沢祥子と関係の深い何人かに絞るぐらいは容易だったはずであろう。つまり、彼には対抗手段が取れた、ということである。  それなのに、松井の「遺書」には、どうやってももう死から逃れようがない、と書かれていた。文章の行間から、正体不明の犯人に対する恐怖[#「正体不明の犯人に対する恐怖」に傍点]が覗《のぞ》いていた。  間宮に用心させる意味もあって、最後に鷲尾が松井の「遺書」の写しを見せた。  間宮は再び顔色を変えた。  が、鷲尾の質問に対しては、書かれている意味が分からない、松井が何に脅えていたのか見当もつかない、と言い通した。自分は誰かに命を狙《ねら》われるようなことをした覚えはない、と。  そのため、犬飼たちは、精々気をつけるようにと注意を促し、県警本部へ引き上げざるをえなかった。      2  翌九日の朝、犬飼たちは、中央橋の東側の袂《たもと》にある西浜町電停まで歩き、市電に乗って諏訪《すわ》神社前まで行った。  天気は昨日につづいて晴れ。  県警本部の宿直警官用のベッドはホテルのベッドのようにスプリングは利《き》いていなかったが、少なくとも犬飼は朝まで一度も目を覚まさずにぐっすりと眠った。  昨夜、犬飼たちは、間宮の家を出て、夕食(夜食)のチャンポンを食べる前に壱岐島署に電話を入れた。  すると、鬼塚刑事課長が帰宅せずに待っていて、犬飼たちをねぎらった後、沢祥子について調べた事実を伝えた。  それによると、祥子は玉木由加利の一つ違いの妹であった(由加利が沢姓から玉木姓に変わった事情は犬飼たちの聞いていたとおりだったようだ)。家族は、由加利の他に佐世保市内に住んでいる両親と祖母の三人。一家は数年前まで長崎に住んでいたが、由加利が長崎市内の高校を卒業して看護学校に入学して間もなく、佐世保に引っ越した。姉の由加利が明るい活発な女性——吉久保が殺された直後に会ったからか、犬飼たちには必ずしもそうは映らなかったが——であるのに対し、祥子は、暗いというほどではないにしても、あまり自分を主張しないおとなしい娘だったらしい。このように性格は正反対と言ってもいいぐらい違っていたが、二人きりの姉妹のせいかとても仲が良く、祥子が死んだとき、由加利はわぁわぁ声を上げて泣いた——。  この鬼塚の話を聞いて、犬飼たちは、玉木由加利を訪ねる前に安達江美に会おうと決めた。  これまでの玉木由加利は、吉久保が殺された前夜、間宮たちと街へ行ってもウーロン茶しか飲まずに神妙にしていたというように多少気にかかる点がないではなかったものの、特に怪しい点はなかった。ただ吉久保殺しに関するアリバイがないだけだった。だが、今や、いつ容疑者に変わってもおかしくない�重要参考人�になった。そこで、犬飼たちは、本人にぶつかる前にもう一度江美に会って、由加利に関する情報を仕入れておこう、と思ったのである。  安達江美は、例祭「長崎くんち」で有名な長崎の総氏神《そううじがみ》、諏訪神社のそばに住んでいた。朝、県警本部から鷲尾が自宅に電話し、会社へ出てから三十分ほど時間を作ってもらえないかと頼むと、江美は、出社した後で抜け出すのは難しい、それなら出勤を一時間遅らせるから八時半に近くの喫茶店へ来てほしい、と応《こた》えたのだった。  市電を降りると、ちょっと複雑な五叉路《ごさろ》のようになった西側が神社へ上る階段になっていた。  神社の裏山、西側から南側にかけては楠《くす》の大木などが茂る長崎公園である。  公園内には知事公舎や県立図書館などが建ち、すぐ近くに美術博物館などもあるらしいが、犬飼たちは地下道を通って歩道へ出ると、神社の石段に背を向けて、小さな橋を渡った。かつて、オランダ人医師のシーボルトが住み、鳴滝塾《なるたきじゆく》を開いていた地・鳴滝に建てられたシーボルト記念館まで通じているという�シーボルト通り�を歩いて行った。  車道と歩道にレンガを敷き詰めた小綺麗《こぎれい》な商店街だが、ほとんどの店はやっとシャッターを開けて、店先の掃除を始めたばかり。が、江美の指定した喫茶店「シーボルト」だけは、ドアに営業中と彫られた木板が下がり、店内に五、六人の客がいた。モーニングサービスのセットで朝食を済ませ、仕事にかかる前にスポーツ新聞に目を通そう、という男たちのようだ。  県警本部からどれぐらい時間がかかるか分からないので、犬飼たちは早目に出てきた。だから、時刻はまだ八時十五分。  彼らも、相手が来る前に腹ごしらえをしようと、コーヒーに茹《ゆ》で卵とトーストが付いたモーニングセットを注文した。  江美は、二人が急いでトーストを食べ、茹で卵をコーヒーで飲み下すのを待っていたように、約束の二分前に現われた。  よくテレビのコマーシャルで見る口の大きな女優に似ていた。大柄で、身長は百七十センチ近くあるようだ。話が済んだら、このまま出勤するつもりなのだろう、服装は紺系統のスーツに草色のショルダーバッグと控え目だったが、派手な顔立ちの美人であった。 「お勤めの時間を遅らせてしまい、申し訳ありません」  犬飼と鷲尾が立ち上がって迎えると、 「いいえ」  と、江美が大きな口元に笑みを浮かべて、応《こた》えた。  江美は、知り合いらしい四十歳前後の女主人《ママ》に目顔で挨拶《あいさつ》を送り、コーヒーを注文して、犬飼たちの前に掛けた。 「昨日、夕刊で松井さんが亡《な》くなられたというニュースを見て、びっくりしましたわ」  口元から笑みを消して言った。 「我々も驚いています」  鷲尾が応じた。 「あの後、アパートにも帰っておられなかったとか?」 「そうなんです」 「新聞には自殺の可能性が高いと出ていましたが、遺書があったんでしょうか?」 「遺書らしきものはありました」 「そこに、自殺の動機について……」 「すみません」  と、鷲尾が右手を上げて江美の質問を制した。  これでは、どちらが話を聞きに来たのか分からないからだろう。 「申し訳ありませんが、そうした点は私たちの一存ではお話しできないんです」  鷲尾がつづけた。 「あ、すみません、ごめんなさい」  江美が気づいたらしく、慌てて謝った。 「いえ」 「あの、それで、今日は私にどのようなことを?」  江美があらたまった調子で訊《き》いた。 「この前の話と重なるかもしれませんが、連休に壱岐へ旅行に行くようになった経緯《いきさつ》と、玉木由加利さんについて伺いたいんです」  質問すればどうせ分かるからだろう、鷲尾が由加利の名を出した。  と、案の定、江美の顔に驚いたような色が浮かび、 「玉木さんについて?」  と、訊き返した。 「ほんの参考までに……」 「五日の朝、ガッシャーンという音がしたとき、玉木さんは私たちと一緒にいなかったからでしょうか?」 「それもありますが……安達さんは、玉木さんの旧姓が沢だということは?」 「もちろん知っています。高校時代は沢でしたから」 「では、玉木さんの妹さんが去年の五月、平戸で自殺したのはご存じですか?」 「ええ。玉木さんから聞いたわけじゃありませんけど」 「その自殺が、三カ月後、警官による刺殺事件を引き起こしたことも?」 「知っています。高校時代の友達から聞きました。その友達が、警官の恋人だった人は玉木さんの妹さんだと教えてくれたんです。玉木さんとは、同じ高校とはいってもクラスが一緒になったことがなかったため、そのときはまだ沢という旧姓と顔ぐらいしか知らなかったんですが」 「そうすると、安達さんが体調を崩して玉木さんの勤めている病院に通院され、同窓ということで、何度か言葉を交わすうちに親しくなった——そういうお話でしたが、それはもっと後だったわけですか?」  二人が知り合った経緯は、五日の朝、聞いたのだった。 「そうです」  江美が答えてから、急に不安そうな顔になった。大きく見開いた目をひたと鷲尾に当て、「玉木さんの妹さんの自殺が、今度の事件と何か関係があるんでしょうか?」と訊いた。 「もしかしたら、ですが」 「それは、松井さんが同じ平戸の海で自殺されたことと関係している?」 「ええ、まあ」 「でも、いったい……あ、またっ! ごめんなさい」  江美が恥ずかしそうに肩をすくめた。  そのとき、ママが江美のコーヒーと水を一緒に運んできて、犬飼たちの皿やカップを片付けた。  大事な話をしていると思ったのだろう、何も言わなかった。  江美がコーヒーをブラックで一口|啜《すす》り、カップを戻した。  前よりいっそう暗く不安げな表情になっていた。 「安達さんは、玉木さんと親しくなった後、妹さんの自殺について玉木さんから話を聞かれたことがありますか?」  鷲尾が再び質問を開始した。 「いいえ、ありません」  江美が答えた。「私はもちろん触れませんでしたし、玉木さんもその話は一度もしませんでした」 「玉木さんは明るい方のようですが、妹さんの話だけはしなかった?」 「ええ」 「安達さんは、そのことをどう思われますか?」 「話をするのが辛かったんだと思います。玉木さんは明るくて元気で、あまり物事にこだわらない人ですけど、それは玉木さんの一つの側面で、私なんかよりずっとデリケートな面も持っています。ですから、玉木さんが妹さんの話をできるようになるには、まだしばらくかかるんじゃないでしょうか」 「つまり、玉木さんにとって、妹さんはかけがえのない存在であり、それだけ妹さんの死から受けたショックと悲しみは大きかった、というわけですね」 「そうだと思います」 「とすると、もし……もしですが、その妹さんを死に追いやった人間がはっきりしたら、玉木さんは、けっしてその人間を許さなかった?」  江美は答える代わりに、警戒するような、探るような目をして、鷲尾を見返した。 「安達さんは、そうは思われませんか?」  鷲尾が返答を促した。 「でも、妹さんに酷《ひど》いことをして、自殺に追いやった犯人は……」  江美が不安げな目をして、首をかしげながら言いかけると、 「ええ、すでに殺されています。ですから、あくまでも仮定の話ですが」  と、鷲尾が引き取った。 「いったい、どういうことでしょうか?」 「いずれ、お話しできるときがくるかもしれませんが、今は勘弁してください」 「わけが分かりませんけど……でも、これだけは言えます。玉木さんは、吉久保さんを殺した犯人なんかじゃありません。親しくお付き合いをするようになってからまだ一年も経《た》っていませんが、それぐらいは分かります。玉木さんには、絶対に絶対に、殺人なんてできません」  江美が必死の態《てい》で言った。  玉木由加利が犯人か否かを見分けるのは江美の言うように簡単ではない。その判断が簡単につくようなら、裁判官はもとより刑事や検事も苦労しない。  しかし、そう言ってしまっては身も蓋《ふた》もないからだろう、鷲尾は、 「お考えは参考にさせていただきます」  と、受けた。      3  鷲尾が腕時計をちらりと見て、昨夜、松井の死を知ってから由加利と話をしたか、と訊《き》いた。  話をしようと思って寮に電話すると、由加利が不在だったので話していない、と江美が答えた。  鷲尾が、江美と由加利が連休に壱岐へ行くことになった経緯《いきさつ》に質問を進めた。  この点は、五日の朝、吉久保が殺された直後に簡単に聞いてあったが、もっと詳しい事情を知る必要が出てきたからだ。 「この前のお話では、安達さんのほうから誘われたということでしたが」 「はい」 「重複しても結構ですから、そのへんの経緯をもう一度説明していただけませんか」 「先日お話ししたように、『サンライズ・サンセット』の兼岡さんは父の親しいお友達なので、私はこれまでに何度も壱岐へ行っていました。ですから、本当は別のところへ行きたかったんですけど、去年の秋頃、いつか一緒に壱岐へ行こうと玉木さんに話すと、玉木さんがぜひぜひ……ととても乗り気だったんです。それを覚えていたので、玉木さんがうまく連休中にお休みが取れたら壱岐へ行かないか、と誘ったんです」  江美が説明した。 「安達さんが玉木さんを誘われたのは、いつですか?」  鷲尾が質問した。 「四月の初めでした」 「そうしたら、玉木さんは二つ返事でオーケーされた?」 「そうです」 「壱岐へ行くことがはっきりと決まったのは?」 「それから十日ほどしてからでした。私は、玉木さんを誘った後で、五月の連休は玉木さんの妹さんの一周忌の法要があるのではないかと気づいたんですが、それは、何かの都合で一週間ほど早められ、四月末に予定されていたようです。なぜそれが分かったかというと、私がせっかくの連休にお家へ帰らなくていいのとさりげなく尋ねると、玉木さんがちょっと暗い目をして、四月の末に帰る予定になっている、と答えたからです」 「四月初めから十日ほどしてというと、四月十日から十五日までの間と考えていいでしょうか」 「ええ」  と、江美が答えてから、「妹さんといえば……この前はお話ししなかったかもしれませんが、『サンライズ・サンセット』に泊まった四日の晩、玉木さんは街へ行くのが気が進まない様子だったんです。これは、ちょうど一年前の妹さんの事件を思い出していたんじゃないかと思います。そう気づいたので、私も間宮さんたちとお酒なんか飲みたくなかったんですけど、出かければ少しは気が紛れるかなと思って、『散歩がてらに行ってみよう?』と玉木さんを誘ったんです。でも、スナックに入っても、玉木さんはウーロン茶しか飲まず、カラオケのマイクも握らず、やっぱりいつもより元気がないみたいでした」  もし玉木由加利が吉久保を殺した犯人なら、その晩の彼女は、一年前の祥子の事件を思い出して元気がなかったわけではないにちがいない。翌朝の行動を考え、緊張していたのだろう。  犬飼はそう思ったが、この点は江美に質《ただ》したところで、どうにもならない。  おそらく鷲尾もそう考えたのだろう、彼は本筋の質問を進めた。 「四月十日から十五日の間に玉木さんの予定がはっきりすると、安達さんが兼岡さんに連絡を取られ、『サンライズ・サンセット』に予約されたわけですね」 「予約というか……その前から、連休中にお友達と一緒にお世話になるかもしれないと話してありましたから、はっきりと決まったのでよろしくお願いします、と連絡しました」  江美が答えた。 「それは、いつですか?」 「予定が決まってすぐです」  ということは、遅くとも四月十五日と見ていいだろう。  一方、松井が間宮と吉久保に連休中にどこかへ行かないかと誘いの電話をかけ、それとなく壱岐行きを決めたのは四月半ば(十五日)過ぎ。  玉木由加利が、自分と江美の予定が決まった後で松井に連絡し、彼と間宮と吉久保の三人で五月四日に壱岐へ行き、「サンライズ・サンセット」に泊まるように指示したと考えると、日にち的にはぴったりと符合する。  由加利が実際にそうしたと考えるには、彼女が自分の素性を感づかれないようにどうやって松井とコンタクトを取ったのか、松井がなぜ彼女の言うなりに動いたのか、といった問題を解明しなければならない。  これらの問題は、吉久保殺しの犯人が由加利でなかったとしても同様である。  が、由加利であれ別の誰かであれ、今や、その犯人が松井を意のままに動かしたのだけはほぼ間違いないと思われる。松井はその犯人の指示で間宮と吉久保を誘って壱岐へ行っただけでなく、五日の朝、間宮たちにも兼岡にも黙って、ペンションを出て壱岐を離れたのだろう。  犬飼が時計に視線を走らせると、九時四、五分前だった。  玉木由加利に関して江美から聞くべきことは聞いたが、まだ時間はある。犬飼たちが江美に申し出た時間は三十分だが、江美は出勤を一時間遅らせると言っていたからだ。 「もう少しいいでしょうか?」  鷲尾が確認すると、江美が時計を見て、 「もう十五分ぐらいでしたら」  と、答えた。 「兼岡夫妻の一人娘・ミドリさんも去年の夏……七月の初めに自殺されたと伺ったんですが、当然、安達さんはご存じですよね」  鷲尾が話を移した。  時間があるなら、その件についても江美の話を聞いておこう、と考えたのだろう。 「知っています。ミドリちゃんでしたら、私の妹みたいでしたから」  江美の顔を暗い翳《かげ》が覆った。 「長崎の大学へきていたそうですね」 「ええ、浦上《うらかみ》にある長崎文科大学です。社会学部の三年生でした。大学の近くにアパートを借りていましたけど、うちへ来て、私の部屋に泊まることも少なくありませんでした。兼岡さんと父は昔からのお友達ですし、ずっと長崎で家族ぐるみのお付き合いをしていましたから、私とミドリちゃんも幼馴染《おさななじみ》です。私が五歳上でしたので、ミドリちゃんは、ずっと私をお姉ちゃんと呼んでいたんです」  ミドリについて話す江美の顔は悲しげというよりは苦しげだった。本当に姉妹のように仲が良かったのだろう。  それはともかく、兼岡夫妻の一人娘が自殺したと聞いたとき、犬飼たちは多少気になった。夫妻には吉久保殺しに関してのアリバイがあったといっても、もし一人娘の死に吉久保が関わっていたとすれば、充分に殺人の動機になりうるからだ。  しかし、ミドリの自殺の動機は、遺書から失恋に間違いないと分かり、しかも、調べても、長崎の大学へ行っていたミドリと五年前に福岡の大学を卒業して大阪の商社に勤めていた吉久保との接点は出てこなかった。ましてや、二人が恋人同士だったとは到底考えられない。そのため、犬飼たちは、ミドリの自殺は今度の事件には関係していそうもない、と判断した。  その後、松井が自殺し、沢祥子が暴行を受けて自殺した件が今度の事件とどこかで関わっている疑いが濃くなった。といって、まだ沢祥子の姉の由加利が犯人と決まったわけではなく、兼岡夫妻の容疑も百パーセント解けたわけではない。兼岡夫妻を犯人と見るには、�犯行不可能�の壁があるが、ログハウスの所有者の彼らなら、もしかしたら犬飼たちの想像もつかないような方法を使えたかもしれない。  そうした可能性もゼロではないので、鷲尾は、江美に会ったついでに兼岡ミドリの自殺について聞いておこうと思ったのだろう。 「自殺の原因は失恋だったとか?」  鷲尾が質問を継いだ。 「ええ」  と、江美が答えた。  眉《まゆ》を寄せ、辛そうだった。  しかし、鷲尾は気づかないかのように、 「相手の名は分かっているんですか?」 「いいえ」 「遺書には、�あの人は私から去って行ってしまった。あの人なしには私は生きてゆけない�そんなふうに書かれていただけで、名前は書いてなかったそうですが、もしかしたら、安達さんにだけはミドリさんが話していたとか……?」 「いいえ、私も名前までは聞いていません。同じ大学の先輩……一年上の学生さんだとは言っていましたけど。自殺する七、八カ月前……一昨年の秋頃、図書館で知り合ったようです」 「失恋したのは?」 「亡《な》くなるまで知りませんでした。しばらくうちへ来なかったんです。でも、前期の試験が繰り上がって夏休み前にあると聞いていたので、その準備に忙しいんだろう、と思っていたんです。それに、亡くなる一週間ほど前、ひょっこり顔を見せたときも、にこにこして、そんな様子は全然見えませんでしたから。目の下に隈《くま》ができて、少しやつれていましたけど、『あんまり無理しちゃだめよ』と言うと、笑っていましたし。それだけに、後から、〈あのとき、ミドリちゃんは、私たちの前で無理して元気に振舞っていたんだな〉と思うと……」  江美が急に言葉を詰まらせた。  目に見るみる涙がふくらみ、溢《あふ》れた。  バッグからハンカチを出して目に当てながら、 「すみません。でも、そのとき、私が気づいてやれば、ミドリちゃんが自殺しなかったかもしれないと考えると……」  と、また声が途切れた。  鷲尾が質問を控え、江美が目からハンカチを離すのを待った。 「すみません」  と、江美が目を上げた。 「いや、こちらこそ、辛いことを思い出させてしまったようで……」  鷲尾が小さく頭を下げた。 「いいえ」 「最後にもう一つだけ教えてください」  江美は、もう嫌だと拒否もしなかったが、どうぞとも言わなかった。黙って鷲尾を見ていた。 「兼岡ミドリさんを捨てた元恋人が、どこかで吉久保氏か松井氏、あるいはこの長崎に住んでいる間宮圭一氏と関わりがあった可能性は考えられないでしょうか?」  鷲尾が訊《き》いた。  江美が一瞬ぽかんという顔をした。どうしたら鷲尾の言うような可能性が出てくるのか、理解できなかったのかもしれない。 「いかがでしょう?」 「今度は玉木さんじゃなくて、兼岡のおじさまを疑っているんですか?」  江美が訊き返した。  その口調も目も怒っていた。 「そういうわけじゃないんですが……」 「とにかく、私には分かりませんわ」  江美が右手に持ったハンカチをぎゅっと握りしめて、きっぱりと言った。「もし気にかかるんでしたら、ミドリちゃんを捨てた恋人を捜し出して、どうぞ、刑事さんの気が済むように訊いてみてください」      4  玉木由加利の勤める希望会中央病院は、一九四五年(昭和二十年)八月九日、原爆が投下された浦上にあった。  平和公園や浦上天主堂に近い、市電通りの東側である。  安達江美が一足先に「シーボルト」を出て行った後、犬飼たちが地図で調べたところ、兼岡ミドリが通っていた長崎文科大学も平和公園の近くだった。  といって、犬飼たちには、長崎文科大学を訪ねる予定はなかった。江美に、もし気になるならミドリの恋人を捜し出して訊《き》けと言われたが、そこまでする気はなかったし、必要も感じていない。いわば、鷲尾は、江美を怒らせただけの無駄な質問をしたのだった。  鷲尾が、唇に苦笑いを浮かべて自嘲《じちよう》的にそう言うと、「行こうか」と腰を上げた。  諏訪神社前で乗った赤迫《あかさこ》行きの市電は、長崎駅前を通って、希望会中央病院の最寄り駅である松山町に十六、七分で着いた。  犬飼たちは、市電を降りて十分ほど歩き、高台に建った病院の玄関を入った。  病院は、六階建てのかなり大きな総合病院である。由加利は近くの看護婦寮に住み、整形外科の病棟看護婦をしているという話だった。  この時間に病院に勤務しているかどうかは分からない。夜勤明けで寮で寝ているかもしれないし、今日は休みでどこかへ出かけているかもしれなかった。  それならそれで仕方がない。  犬飼たちはそう話し合い、敢えて電話で所在を確かめずに——江美にも、自分たちが行く前に連絡を取って口裏を合わせないようにと釘《くぎ》を刺して——来たのだった。  待合所に掲示された院内の案内図で整形外科病棟の場所を調べ、犬飼たちはエレベーターで五階まで昇った。  矢印にしたがって廊下を二度曲がり、整形外科のナースセンターの前に出た。  窓口の前に立つと、机に向かってカルテのようなものに書き込みをしていた四十歳前後の看護婦が目を上げ、 「何でしょう?」  と、問いかけてきた。 「看護婦の玉木由加利さんは出勤しておられるでしょうか?」  鷲尾が訊いた。 「ええ、玉木さんならいますけど、玉木さんにどういうご用事ですか?」  看護婦が訊き返した。  年配と口のきき方から、由加利の上司らしいと思って胸の名札を見やると、「婦長」と読めた。 「個人的な件で、ちょっとお話を伺いたいんですが」  由加利の立場を考えて、鷲尾が刑事と名乗らずに言った。  婦長が、患者の身内にしては変だと思ったのだろう、観察するような目であらためて犬飼たちを見た。  だが、彼女はそれ以上は何も訊かずに、 「でしたら、いま戻ってくると思いますから、そのへんでお待ちください」  と言って、机に戻って行った。  犬飼たちはほっとした目で見交わし、四、五メートル斜めに下がって、廊下の反対側に立った。  これで第一関門は通過。間もなく由加利に会える。  と思う間もなく、二十メートルほど先の病室から由加利が大股《おおまた》で勢いよく現われた。  そのまま廊下をこちらへ向かってきた。  白衣を着て白い帽子を被《かぶ》り、脇《わき》にバインダーを抱え持った由加利は、この前のキュロットスカート姿の彼女とは別人のように見えた。胸や腰の大きさは白衣の上からでも分かるが、看護のエキスパートとして実に頼もしく映った。  四、五メートル近づいた。立っているのが犬飼たちと気づいたらしい。由加利はハッと息を呑《の》んだような顔をして足を止めた。  犬飼は鷲尾を見た。  話すのに婦長の目と耳がない場所のほうがいいのではないか、と目顔で告げようとしたのだが、その必要はなかった。  犬飼の合図より先に鷲尾が動き出し、由加利に近寄って行った。  犬飼もつづく。  同時に由加利もまたこちらへ向かって歩み出したが、前の弾むような足取りとは違っていた。表情だけでなく、身体も緊張しているのが分かった。  由加利との距離が二、三メートルに近づいた。 「どうも……」  と鷲尾が曖昧《あいまい》な挨拶《あいさつ》をすると、由加利もちょっと警戒するような目をして曖昧に頭を下げた。 「仕事中、申し訳ないが、三十分ほど時間を割《さ》いてもらえませんか」  鷲尾が言った。 「この前、私の知っていることは全部お話ししましたけど」  由加利が応《こた》えた。  不安そうというよりは迷惑そうだ。 「その後、新しい事実が分かったんです」 「新しい事実? どういうことですか?」  松井の自殺を知らないのか、それとも知っていて惚《とぼ》けているのか。  昨夜、松井の死を知った江美が由加利の寮に電話したとき、由加利は留守だった、という話だったが。 「昨日の夕刊を読みませんでしたか?」 「ざっとでしたら、見ましたけど」 「松井良男が自殺したんです」 「松井さんというと、壱岐のペンションからいなくなった……?」 「そうです。松井の郷里は平戸だったんですが、平戸の海に飛び込んで死んだんです」  由加利の目に驚愕《きようがく》の色が浮かび、顔から血の気が引いた。妹の沢祥子と同じ平戸の海へ飛び込んでの自殺、と聞いたからだろう。  松井の死については本当に知らなかったらしい。  由加利が唾《つば》を呑み込み、鷲尾の視線から逃れるように目を下に向けた。 「それだけじゃありません。松井の部屋から新聞の切り抜きが出てきたんです」 「新聞の切り抜き……?」 「去年の五月五日の朝、平戸港に浮いているのが見つかった女性の……」 「や、やめて! やめてください……」  由加利が叫び、両手で耳を覆った。  彼女の声を聞きつけ、近くの病室から数人の患者と二人の看護婦が顔を覗《のぞ》かせ、そのうちの看護婦の一人が、 「どうしたの?」  と、訊いた。 「な、何でもない」  由加利が慌てて答えた。 「婦長を呼ばなくて、いい?」 「いいわ。何でもないから」  由加利が言ったが、彼女の声は婦長の耳にも届いたのだろう、婦長がナースセンターから出てきた。  それを見て、由加利が、 「地下の食堂へ行っていてください。あと二十分ほどしたら行きます」  と、鷲尾と犬飼に早口で伝えた。 「分かりました」  鷲尾が応えた。  婦長が、怒ったような顔をして近づいてきた。  犬飼たちは彼女に黙って頭を下げ、足速に擦《す》れ違うと、逃げるように廊下の角を曲がった。  犬飼たちが地下食堂の隅のテーブルに掛けて、セルフサービスのコーヒーを啜《すす》り始めると、由加利はすぐに現われた。 「職場にまで来られて、正直言って、私、迷惑しているんです」  彼女は、犬飼たちの前に立ったまま、怒ったように言った。「婦長さんや同僚には、変な目で見られるし」 「だが、こちらも仕事でね」  鷲尾がむっとしたように言い返した。  相手の態度がかちんときたらしい。同僚看護婦や婦長が飛び出してきたのは、あんたが廊下で叫び声を上げたからではないか。言外にそう言っていた。 「仕事なら、刑事さんは相手の迷惑も考えないんですか?」 「私たちだって、これでも気をつかっているつもりだがね。婦長さんに訊かれても、警察と名乗らずに……」  話を聞かなければならないからだろう、鷲尾が語調をやわらげた。「それより、掛けてくれないか」 「私、すぐに帰らなければならないんです。ですから、このまま聞きます。用事があるんなら、早く言ってください」  由加利が突っ張った。 「そうか」  と、鷲尾が少し硬い声で収め、肝腎《かんじん》の点を切り出した。 「松井が妹さんの自殺を報じた新聞の切り抜きを持っていたことは言ったね」 「……ええ」  と由加利がうなずき、目を落とした。  今度は予想していたからだろう、さっきのように叫び出すことはなかった。  顔からは、つい今しがたまでの怒りの色が消えていた。唇をぎゅっと結び、辛い思い出に懸命に耐えているような顔に変わっていた。 「掛けないか」  鷲尾が促すと、今度は素直に前に腰を下ろした。顔は俯《うつむ》けたままだ。 「吉久保が殺されたのは、あんたの妹さんが亡《な》くなった……正確に言うと平戸港で死体になって見つかったちょうど一年後の五月五日の朝だった。しかも、吉久保が殺された後、行方《ゆくえ》をくらましていた松井が、あんたの妹さんの死を報じた切り抜きを部屋に残し、妹さんと同じ平戸港に身を投げて死んだ——。  どう考えても、今度の事件とあんたの妹さんの死が関係しているとしか思えないんだがね」  鷲尾がつづけた。  由加利が顔を起こした。  ひたと鷲尾に目を当てて言った。 「それでは、妹に酷いことをしたのは、もしかしたら角倉裕之《すみくらひろゆき》ではなかった。それは松井さんたちかもしれなかった。そういうことでしょうか?」  角倉裕之というのは、警官・石崎一に刺し殺された不動産屋の名だった。 「その可能性もあるんじゃないかね」 「石崎さんは間違って角倉を刺した……」  由加利が鷲尾から視線を外して、つぶやいた。 「検事はずっとその可能性もあると言っていたんだから、あんたがそれを知らないわけはないだろう」 「それは知っていたけど……」  と、由加利が鷲尾に目を戻し、「でも、妹をホテルから呼び出して、あんなことをできる人間は、角倉裕之を除いていなかったはずだわ」 「妹さんをホテルから呼び出した人間が妹さんを襲った犯人とはかぎらない」 「じゃ、刑事さんたちは、妹を襲った犯人は吉久保さんや松井さんだった、と?」 「証拠はないが……少なくとも、あんたの妹さんが亡くなった日、松井、吉久保、間宮の三人は平戸にいた」 「そうなんですか!」  由加利が目を丸くしたが、もし彼女が犯人なら、それはもちろん演技であろう。 「あ、でも」  と、由加利がつづけた。「でも、今度、吉久保さんが妹の件に関係して殺されたとすると、誰が犯人なんですか?」 「妹さんの恋人だった石崎君は監獄だし、他に誰が考えられるかね?」  鷲尾が訊き返した。 「えっ?」  由加利が驚きの表情を止め、「も、もしかしたら刑事さんたちは私を……!」と、やっと気づいたように言った。  鷲尾は、そうだとも違うとも言わない。 「私を、私を、疑っているわけね?」  由加利がさらに言う。 「松井たちには、私がいま話したような事実が明らかになった。としたら、吉久保が殺されたとき、あんたが同じ宿に泊まっていたという事実を、単なる偶然だとして片づけられるかね」 「偶然だわ。他に考えようがないもの」 「あんたが、吉久保たちをあのペンションに泊まるように仕向けるか強制した、とも考えられる」 「どうやって? いったい、どうしたら私にそんなことができるの? あの前の日まで、私は三人の名前も顔も知らなかったというのに」 「そのように振舞っていても、知っていたかもしれない」 「……のように考えられる。……かもしれない。そんなあやふやな根拠で、刑事さんは私に殺人の疑いをかけるんですか? 馬鹿ばかしくてお話にならないわ」  由加利が、さも呆《あき》れたというように肩をすくめて見せた。 「馬鹿ばかしい?」  鷲尾が気色ばんだ。 「ええ」 「じゃ、はっきり言おう。あの日、偶然、あんたが壱岐に来て、『サンライズ・サンセット』に泊まっていたなんて考えられない。そんな偶然はありえない」 「でも、あの旅行は、安達さんが全部計画して、宿の予約もしてくれたのよ」 「行き先と宿が決まってから、松井たちを同じ宿に来させることはできる」 「それじゃ、前の質問に答えてください。どうしたら私にそんなことができたのか」 「松井を脅せばいい」 「私だと分からずに、具体的にどうやって脅すんですか?」 「そこまでは分からんが」 「もう一つ、大きな疑問があるわ。もし松井さんたちが本当に妹を襲った犯人だったとしても、どうしてそれが私に分かったの?」 「あんただけが知っている手掛かりがあったんだろう」 「また刑事さんの想像ね」 「他に考えられん」 「もういくら話しても時間の無駄だわ。私、行きます」  由加利が腰を上げかけた。  それを、鷲尾が、 「ま、待て」  と、手振りを交えて慌てて引き止めた。 「私、忙しいんです」 「逃げるのか」 「逃げなんかしません。何度も言っているように、私は犯人じゃないんですから」 「それなら、あんたが松井たちと同じ宿に泊まっていた、きちんとした説明を……」 「疑問があるんなら、それを明らかにするのは刑事さんたちの仕事じゃないんですか。もし、これ以上私を疑うんなら、いま言った事柄の一つでも、�私にできた�という証拠を見せてください」  本当に無実だからか、それとも、そうした証拠は絶対に手に入れられないという自信があるからか、由加利の顔には動揺の色は微塵《みじん》も窺《うかが》えなかった。 「よし、あんたは事件に無関係だった、としてみよう」  鷲尾が作戦を変えたのか、一歩引いた。 「してみよう、じゃなくて、私は無関係だったんです」 「分かった。それなら、あんたは気にならないか?」 「…………?」 「私が最初に話した、松井たちに関して判明した事実……松井たちが妹さんを襲った犯人だったかもしれないという話だよ」  由加利の顔に、速乾性の糊《のり》が固まるように見る間に緊張が戻るのが分かった。  目にも暗い翳《かげ》が差していた。 「あんたが犯人でないなら、吉久保を殺した犯人は誰だと思うかね?」  鷲尾が言葉を被せた。 「そんなこと——」  と、由加利が目を釣り上げた。「私に分かるわけがありません」 「では、妹さんが自殺したとき松井たちが平戸にいて、しかも松井が妹さんの自殺を報じた切り抜きを持っていたという事実をどう見るかね?」 「分かりません」 「私たちの推理にも一理ある、と思うんだがね」 「ええ」 「としたら、犯人は、おのずから妹さんに深い関係があった人という結論に……」 「分からない、分からないわ!」  由加利が、鷲尾の言葉を遮って高い声を出した。半泣きに顔を歪《ゆが》め、両手を耳の横にやって首を激しく振り、同じ言葉を繰り返した。「分からないわ、私にも分からないわ、何がなんだか分からないわ」  その様子は、頭と気持ちが混乱して、自分にもどうにもならないといったように見えたが、もしかしたら、鷲尾のこれ以上の追及を逃れるための巧妙な演技である可能性もないではなかった。  まだあまり人のいない食堂の隅とはいっても、こっちに向けられているいくつかの視線が感じられた。  由加利は、途中からハンカチを目に当てて泣き出した。  鷲尾は、もう質問しても無駄だと判断したのだろう、何も言わず、由加利が泣きやむまで待った。  やがて由加利は顔からハンカチを外し、赤く充血した目を犬飼たちに当てた。  暗い表情ながらも、どこか挑むような意思の感じられる視線だった。 「もし……」  と、糊付けされた唇を開くようにして低い声を押し出した。  犬飼たちは由加利を見つめて、つづきの言葉を待った。  由加利は、犬飼たちを見つめ返しているだけで、何も言わない。 「もし?」  と、鷲尾が促した。 「もし……」  と、由加利が繰り返してから、ようやくつづきの言葉を口にした。「もし、松井さんたちが妹を襲った犯人で、吉久保さんの事件が妹の自殺に関係して起きた殺人だったとしたら、予想されることが一つだけあるわ」 「予想されること?」  鷲尾だ。 「そう」 「どういうことかね?」 「刑事さんたちだって、分かってるんじゃないですか」  そう、犬飼と鷲尾にも分かっていた。そしてそれは、今度の事件が由加利の妹の沢祥子の自殺に関わっていようといまいと変わらなかった。  由加利が言った。 「今度は、間宮さん……間宮さんが殺される番だわ」  もし由加利が犯人なら、それは予想ではなく、予告であった。      5  長崎の出島《でじま》は、長崎湾内に一六三四年(寛永十一年)から一六三六年にかけて築造された扇形をした人工島である。  初め、ポルトガル人を隔離する目的で造られたが、一六三九年にポルトガル人の来航が禁止されると、翌々年一六四一年、平戸にあったオランダ商館が出島に移され、オランダ人は出島以外に居住できなくなった。その前に中国船の来航も長崎に限られていたから、これによって鎖国が完成した。  それから、ペリーの来航によって、一八五四年に日米和親条約が結ばれ、鎖国が解かれるまでの二百年余り、出島は日本とヨーロッパを結ぶ唯一の窓口になった。  長崎の町と出島との間には橋が架《か》けられていたが、島の入口には出島門が設けられ、オランダ人はもとより、日本人の出入りも厳しくチェックされた。  出島の広さは約一万五千平方メートル。外周が五百六十メートル余りだというから、たいして広くない。そこに、オランダ人居宅、長崎奉行所の番所、オランダ人との交渉に当たった長崎|乙名《おとな》と通詞《つうじ》の住居、倉庫など六十戸余りが建っていたのだという。  現在、中島川の河口近く——川を挟んだ県庁の反対側(南側)——に出島町という地名は残っているものの、島はない。埋め立てられて市内の一部になり、道路に打たれた鋲《びよう》がその位置と形を示しているのみ。  ただ、出島の跡には、出島資料館と長崎市歴史民俗資料館本館が建てられ、出島の中心とも言うべきオランダ商館の建っていた場所——中島川の南の川縁《かわべり》——には、かつての出島を想像させるいくつかのもの[#「もの」に傍点]が建造あるいは展示されている。  復元建造されたのは、出島にあった石倉や出島門。展示されているのは、オランダ船の大砲、石造りの日時計、約十五分の一に縮小復元された出島全体の模型など。  そこは、出島の周囲にめぐらされていた土塀を模した塀、石倉の壁、鎖などで囲まれているが、昼は門が開かれていて出入り自由。さながら、出島に関する�青空博物館�のようになっている。  その�青空博物館�の敷地内、つまり平戸から移されたオランダ商館の跡地[#「平戸から移されたオランダ商館の跡地」に傍点]で若い男の変死体が見つかったのは、五月十四日の早朝だった。  犬飼と鷲尾が安達江美と玉木由加利に会って壱岐へ帰ったのが九日(木曜日)だから、その五日後——翌週の火曜日である。  発見者は、オランダ商館跡と出島資料館の間の道を自転車で通りがかった大原幸二という三十二歳の牛乳販売店の店主。�青空博物館�の敷地内といっても、男が倒れていたのは、道から引っ込んだところに建造された出島門に通じている通路のため、道路との境に塀がない。車止め用の鎖が通路の入口に張られているだけなので、人は鎖を跨《また》ぐか横を通り抜ければ、屋根付きの大きな門の前まで、七、八メートル入れる。道路のほうから見て、その通路の右の塀際、側溝に、男は頭を奥のほうへ向けて横たわっていたのだった。  市電通りのほうから入ってきた大原は、ブレーキをかけて自転車を停《と》めると、舗道に片足をついた。  首を左に回し、男を見やった。  まだ薄暗いうえ、男は塀のほうを向いて横向きに寝ているので、顔ははっきりしないが、浮浪者にしてはこざっぱりした格好をしていた。といって、酔っ払いがこんなところで寝ているなんておかしい。  大原はとにかく自転車に跨がったまま、 「もしもし」  と声をかけてみた。  返事はない。 「おいっ。もしもし。あんた……」  と、大原は、さらにいろいろ呼びかけてみた。  が、何の反応もなかった。  大原は、ますますこれは変だと思い、自転車から降りてスタンドを掛けた。  おそるおそる鎖を跨いで通路に足を踏み入れ、男に近寄った。  ひょっとしたら死んでいるのでは……と思いながらも、相手が寝ているだけだった場合、びっくりさせてはいけないので、「もしもし……」と言いながら腰を屈《かが》め、男の顔を覗《のぞ》き込んだ。  次の瞬間、彼は小さな声を漏らして顔を上げ、後ずさった。  男は苦悶《くもん》の表情を浮かべて目を剥《む》き、口の周りには血がこびり付いていたからだ。  蝋《ろう》人形のように固められた表情。  死んでいるのは明らかだった。  大原は、鎖に足を取られてよろけながら道路へ出た。  自転車のハンドルに両手をやり、押しながらスタンドを倒す。  勢いをつけ、サドルに跨がった。  懸命に漕《こ》ぐ。  出島橋を渡り、中央橋の袂《たもと》にある交番へ向かった。  それからおよそ十五分後、出島のオランダ商館跡で死んでいたのは、所持していた運転免許証により、市内万屋町に住む間宮圭一(二十七歳)と判明した。 [#改ページ]   第五章 博多行      1  五月二十四日(金曜日)——  美緒は、夕方五時過ぎに天神《てんじん》で地下鉄を降り、地下街を通って、ファッションビル・天神コアへ入って行った。  エレベーターで六階まで昇り、壮との待ち合わせ場所である紀伊國《きのくに》屋書店の文芸書売り場に立つ。  約束の時刻は五時半なので、壮はまだ来ていない。遅刻常習犯の彼のことだから、おそらく六時近くまで現われないだろう。  美緒は、それを見越して、相棒が遅れてもいらいらしないで待っていられる書店にしたのだった。  壮は、一昨日から今日まで、九州大学で開かれた若手数学者のシンポジウムに出席していた。  一方、美緒は今日、出張で福岡へ来た。朝六時七分に東京駅を出る新幹線「のぞみ1号」に乗り、十一時十一分に博多に着くと、午後、市内在住の二人の作家を訪ねた。  壮と美緒そろっての福岡出張——。  これは偶然ではない。  美緒が、壮のシンポジウムの予定に自分の出張を半ば無理やり合わせた結果である。  先週、安達江美から、玉木由加利が警察に疑われて困っている、という電話があったのが発端だった。  吉久保が殺され、松井が自殺したのにつづいて、先週の火曜日(十四日)の朝、長崎市出島町のオランダ商館跡で間宮圭一が殺されているのが見つかった。青酸ソーダによる毒殺だという。  江美は、その事件について美緒に知らせてくるとともに、由加利が困っている事情について説明した。  自殺した松井の部屋にあった新聞の切り抜きにより、去年の五月四日、由加利の妹・沢祥子——姓が違うのは由加利が母方の姓を名乗っているからだという——が平戸で自殺したのは、松井たち三人によって暴行されたのが原因だった可能性が生まれた。つまり、由加利と松井たちの接点らしきものが判明し、警察が由加利を疑っていたところ、由加利の所在がはっきりしなかった十三日の晩、間宮が殺された。看護婦なら、普通の人より手に入れ易いのではないかと考えられる青酸ソーダによって。そのため、警察は、一連の事件は由加利による妹の復讐《ふくしゆう》ではないかという見方をいっそう強め、しつこく由加利の職場や寮を訪れ、由加利が参っている、というのだった。  ——玉木さんはもちろん自分は関係ないと言っているし、私も玉木さんを信じているけど、そうすると、玉木さんの妹さんが亡《な》くなったとき、松井さんたち三人がちょうど平戸にいた事実や松井さんのお部屋にそんな切り抜きがあったことが引っ掛かるのよね。  江美はそう言った後で、  ——これが東京なら、名探偵だという笹谷さんのフィアンセに相談できるんだけど。でも、いくらなんでも長崎じゃね……。  と、つづけた。  それを聞いて、美緒は、来週なら壮が九州大学で開かれるシンポジウムに行くではないか、と思い出した。  そうして翌日、出社するや、鏡をつかって練習した最高に愛想《あいそ》のよい笑みを浮かべて編集長の西村に近づいた。揉《も》み手をしつつ、おそるおそる福岡出張を申し出た。  西村がじろりと冷たい目でにらんでから、フンと鼻を鳴らした。  彼とて、美緒に下心があるぐらいは読んでいるのである。  ——大杉先生と山倉先生なら、来月の半ば過ぎで充分じゃないのかね。  福岡に住んでいる美緒の担当する作家の名を挙げて、言った。  ——私もそう思っていたんですが、山倉先生の場合、浮気性ですから。このへんで一度ご機嫌を伺っておかないと、うちの書き下ろしの前に他社の仕事を挟まれてしまうおそれがあるんです。丸川書店の寅戸《とらど》部長が近々九州へ行くという話も聞きましたし。  ——私はそんな話は聞いていないがね。  ——大阪と神戸へ行ったついでに足を延ばすらしいんです。  これは嘘《うそ》ではない。美緒が担当するFという作家が、丸川書店の横木という担当者から聞いた話を、美緒もFと雑談しているときに聞いたのだった。  ——寅が行こうと獅子《しし》が行こうと、山倉さんだって、そんな信義に反するまねはしないだろう。  ——でも、山倉先生の場合、去年の洋林社と恵泉堂の例がありますし。  ——うむ。  とうなずいた西村の顔に、ほんのかすかながら不安げな翳《かげ》が差した。  それを見て、美緒はここぞとばかりに、  ——ですから、山倉先生があの巧妙な寅戸部長に飲まされない前に……。  ——お美緒じゃ、まるっきり色気がないから、色仕掛けにはならんが、顔を見せないよりはましか。  ——ええ。  と、美緒は、鬼面に変わりそうな顔に何とか笑みを保って、大きくうなずいた。  ——しかし、今度はどういう魂胆かね。  西村が不意に訊《き》いた。  ——魂胆?  美緒は惚《とぼ》けた。  ——まさか、また[#「また」に傍点]、出張旅費をつかってあの宇宙人の恋人と婚前旅行を楽しもうというわけじゃないだろうな。  さすがにお見通しだった。 �また�というのは、美緒には前科があったからだ。  しかし、美緒はそれを認めるわけにはゆかない。いや、朴念仁《ぼくねんじん》とは一緒に旅行したって、いつも部屋が別々なのだから、正確な意味の婚前旅行ではない。  ——編集長、誤解です。とんでもない濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》ですわ。  美緒は抗議するように言った。  ——濡れ衣かそうじゃないかは調べればすぐに分かるが、ま、いいだろう。その代わり、高い出張費を使って九州まで行っておきながら、万一、丸川書店に山倉先生の作品を先に持って行かれでもしたら、頭をまるめてもらうからな。  ——分かりました。頭をまるめるだけじゃなく、逆立ちして銀座だって歩いて見せますわ。  美緒は、言いながら、心の内で会心の笑みを浮かべた。  こうして、今日・金曜日の出張を勝ち取り、これから壮と一緒に食事をし、さらに夜、長崎から福岡まで出てくる安達江美と玉木由加利に会う予定になったのだった。  珍しく、壮は約束の五時半を十二、三分過ぎただけで現われた。 「遅いじゃない」  と、美緒がわざと怒ったように言って口を尖《とが》らせると、雑誌のモデルだって務まりそうなすらりとした美男子が、主人に叱《しか》られた犬のように首を縮めてすみませんと謝った。  犬なら、何度か叱ると同じ悪さはしなくなるものだが、この宇宙人の場合、美緒たち地球人とは違う時計を持っているらしく、どうにもならない。 「ま、あなたにしたら、早いほうだけど」  美緒が言うと、壮はほっとしたような顔をした。 「とにかく、行こう?」  と、美緒は相棒の空いている左腕を取り、抱え込んだ。  壮は革の鞄《かばん》、美緒はショルダーバッグしか持っていない。  壮は、今夜美緒も泊まることになっている博多駅前のビジネスホテルに荷物を置いてあるのだろうし、美緒は駅のコインロッカーにボストンバッグを入れてきた。  このビルの七、八階も飲食店街になっているらしいが、美緒は、山倉に鶏の水炊き専門の店を聞いてあった。  エスカレーターで降りて十分ほど歩くと、その店はすぐに見つかった。  できれば、壮と飲みたいところだが、これから安達江美と玉木由加利に会うので酔うわけにはゆかない。由加利は殺人の疑いをかけられて困り、壮に相談に来るというのに。  美緒たちは、水炊きを肴《さかな》にビール一本とあとはウーロン茶を飲んで我慢し、最後にスープにうどんを入れて食べ、店を出た。  地下鉄で博多駅まで戻ったのは、七時十五分過ぎ。  江美と由加利は、勤めを終えた後、長崎発六時五分のL特急「かもめ36号」に乗るという話だった。その列車が博多に着くのは八時二十八分。まだ一時間以上ある。  江美たちと会う場所は、駅の正面玄関・博多口から歩いて四、五分のところに建つ「博多ユニバーサルホテル」のロビー。一方、今晩美緒たちの泊まるのは、筑紫口《ちくしぐち》にある「西海イン」という中級どころのビジネスホテルである。  二つのホテルは駅を挟んで反対側だが、歩いて十分とはかからない。  美緒たちは一旦《いつたん》「西海イン」の部屋へ行くことにして、駅のロッカーから美緒のボストンバッグを出してきた。      2  安達江美と玉木由加利は、壮と美緒の待つ「博多ユニバーサルホテル」のロビーに、八時三十六分に姿を見せた。  美緒たちは立って二人を迎えた。  美緒がまず壮を紹介すると、彼女たちがそれぞれ自己紹介し、遠いところ申し訳ございません、と口をそろえた。  江美たちも今晩は博多駅の近くに泊まるという話だった。だからだろう、江美はポシェットの他にルイ・ヴィトン(もしかしたら模造品かもしれない)の男性用マリンバッグを、由加利はウェストポーチの他に焦茶色のバケツ形バッグを持っていた。  服装は、江美が黒のパンツに黒のサマーセーター、由加利が茶系のスカートに白のブルゾンである。  江美は、壱岐で会ったときもジーパンだった。男性のように背が高く、脚がすらりと長いので、パンツ姿がよく似合う。江美にはそれが分かっているのだろう。  一方の由加利は、江美ほど服装に気をつかっていないようだ。壱岐のキュロットスカートを普通のスカートに替えていたものの、ウェストポーチは前と同じだった。  因《ちな》みに、美緒は、上着の着替えを持ってきていないので、昼二人の作家を訪ねたときのままの紺のスーツ。壮も、シンポジウムに出たときのダークグレーのスーツ姿からネクタイを外しただけだった。  美緒たちは、ロビーの奥にある喫茶室へ移った。  江美と由加利も列車の中で夕食を済ませてきたというので、それぞれ飲み物だけを注文し、彼女たちの知っているかぎりの事情を聞くことから本題に入った。  事件の経緯《いきさつ》は、美緒も壮もだいたい知っていた。  美緒が電話で江美から聞き、壮には美緒から話してあったからだ。  といっても、細かな点まで聞いていたわけではない。それに、美緒が最後に江美と話したのは三日前だから、それから新たに判明した事実もあるかもしれなかった。  美緒たちとしては、玉木由加利が本当に事件に無関係なのかどうか、その点を初めに知りたかった。  しかし、由加利に質《ただ》したところで分かるものではない。それは、二人の話を聞きながら由加利の反応、様子を観察して判断する以外になかった。  その点、美緒は江美に、次のように言ってことわってあった。  ——相談といっても、黒江は、先入観なしに考えて、ただ事件の真相を突き止めようとするだけですから、その結果がどう出るかは私にも予想がつきません。もしかしたら……もちろん、もしかしたらですが……玉木さんを追いつめるような結論を導き出すかもしれません。それでもよろしければ、どれだけお力になれるか分かりませんが、お話だけは伺います。  それに対して、江美は、  ——私は玉木さんを信じているし、笹谷さんの言われたような結論は絶対に出ないと思っているわ。でも、黒江さんが先入観なしにゼロから考えられるのは当然だし、それは玉木さんも了解してくれると思うわ。  と、応《こた》えたのだった。  江美が、主に新聞やテレビで報じられた間宮圭一殺しについて説明した。  それによると——  死因は青酸中毒。胃の内部から、溶けたキャラメルとチョコレートが検出されたので、青酸ソーダを混入したチョコレートをキャラメルの層で包んだ飴《あめ》菓子を食べた可能性が高い。死体にはこれといった外傷がなく、衣類にも争ったような跡は見られなかった。とはいえ、遺書がないうえに、死者には青酸ソーダを手に入れる方法もなかったと思われるので、殺人であるのはほぼ間違いない。つまり、死者は、犯人に騙《だま》されて青酸ソーダ入りの�チョコレートキャラメル�を食べさせられた、と考えられる。死亡推定時刻は十三日(月曜日)午後十一時から十四日午前一時の間。死体が発見されたのは十四日の朝五時三十五分頃。場所は、出島町のオランダ商館跡に造られた�オープン博物館�の敷地内。市道から六、七メートル引っ込んだ出島門に至る通路——通路の入口には夜は車止めの鎖が張られている——の側溝である。牛乳を配達するためにそばを通りがかった牛乳販売店主が見つけ、警察へ届け出た。  オランダ商館跡は、被害者の自宅から一キロ前後しか離れていない場所である。しかし、死体発見現場の周辺はもとより、被害者の自宅からそこに至る道筋で被害者を見たという者は見つかっていない。  被害者は、十三日の夜十一時五分前頃、「ちょっと散歩してくる」と母親に言いおいて、家を出た。いつもはたいてい車なのに、珍しく徒歩で。外出する前、家の電話は鳴らなかったというが、被害者が自分の所有する携帯電話で誰かと話した可能性はある。  これらの事実から、被害者は自宅を出て間もなく犯人の車に乗り、別の場所で殺されたのち、オランダ商館跡に運ばれて棄てられた可能性が高い。  こうした推定と、被害者が犯人に与えられた毒入りチョコレートキャラメルを食べているらしい点——これも事実と確定したわけではないがその可能性が高い——から見て、犯人は、被害者があまり警戒心を抱かなかった相手と考えられる。  警察は、この事件を、吉久保宏の殺害事件と松井良男の自殺事件に関係しているのではないかと見て、調べているらしい。とはいえ、二つの事件との結び付きを示す証拠は、まだ見つかっていないようだ——。  江美の説明につづいて、玉木由加利が、刑事たちの尋問を受けたときに得た情報を付け加えた。  吉久保が殺された五日の朝を除いて、江美は、間宮の殺される前と後に一度ずつ刑事たちから参考人として事情を聞かれただけだが、一方の由加利は、間宮の殺される前に一度と間宮が殺された後に二度も、半ば犯人扱いの尋問を受けたのだという。  由加利によると——  警察が、吉久保、松井、間宮の事件を一連のものと見ているのは確実である。つまり、�吉久保殺しの犯人と間宮殺しの犯人は同一人である�と考えているのは間違いない。その犯人が由加利ではないか、と彼らは疑っているのだった。  間宮が殺された十三日の深夜、由加利は、友達に借りた車で長崎半島の先端の野母崎《のもざき》まで一人でドライブをしていた。そのため、吉久保が殺されたときと同様にアリバイがないからだが、警察が由加利を疑う理由は他にもあった。  その第一は、今度の一連の事件が、去年の五月四日に由加利の妹・沢祥子が平戸港で自殺した件に関係しているのではないか、と考えられる点である。  沢祥子を暴行したとされる角倉裕之という不動産屋は、祥子の恋人だった警官・石崎一に刺殺されているが、角倉が暴行犯人だったという証拠はない。その晩平戸にいて、祥子の自殺を報じた新聞の切り抜きを持っていた松井たちこそ、祥子を襲った犯人だったのかもしれない。松井の雑記帳はちょうどそのことを記したのではないかと思われるあたりが破り取られていたし、吉久保は、祥子の死んだちょうど一年後[#「ちょうど一年後」に傍点]の五月五日に殺された。それだけではない。松井は誰にも自分の知っている事実を明らかにできないまま平戸港に身を投げて死に、さらに数日後、間宮も殺された。しかも、吉久保の殺害事件が起きたときも間宮が殺されたときも、すぐ近くに由加利がいた。  第二は、間宮の殺されていたのが、祥子の死んだ平戸にあったオランダ商館の移された場所だったという点、そして第三は、間宮の殺害に毒入りのチョコレートキャラメルを使用しているらしい点、である。  第二の点は、犯人は平戸にこだわり、祥子を死に至らしめた間宮たちの行為を暗示しようとしたのだろうというのであり、第三の点は、間宮を警戒させずに呼び出し、キャラメルなどを食べさせられたのは女しかいないのではないか、というのだった——。 「私も、刑事さんたちが私にこだわる理由は分からないではありません」  と、由加利がつづけた。「最初のときは、突然妹の自殺の話が出され、頭も気持ちも混乱して何がなんだかよく分かりませんでしたが、後で落ちついて考えてみると、〈どうしてだろう〉と不思議に思ったのです」 「どうしてだろう[#「どうしてだろう」に傍点]というのは、妹の祥子さんの亡《な》くなられた件と関係があったかもしれない吉久保さんが殺されたとき、玉木さんが同じペンションに泊まっていた、という符合についてですね」  美緒は確認した。 「そうです」 「それは偶然だと思われますか?」 「初めは、どんなに妙でも偶然としか考えようがないのではないかと思っていましたが、今は、もしかしたら裏に誰かの意思が働いていたのではないか……そんなふうに思い始めています」 「偶然にしてはできすぎていますものね」 「ええ」  と、由加利が答えてから、「……ただ、そう考えても、刑事さんの言うように、吉久保さんと間宮さんの殺されたのが妹の自殺に関係していたとしたら、誰が二人を殺したのか、全然見当がつかないんです」 「その点は後回しにして、まず符合について考えてみませんか」  美緒が言うと、横で壮がうなずいた。  刑事から話を聞くときでも、事件の関係者から話を聞くときでも、壮は初めほとんど口を開かない。ときには話し相手に直接質問することもないではないが、たいがいは話の進行を美緒に任せ、もっぱら考えつづける。だから、美緒もだんだん慣れてきて、壮の思考の進め方が分かるようになっていた。  美緒の考えに由加利も江美も同意した。  そこで、美緒はつづけた。 「吉久保さんの殺されたとき玉木さんがその近くにいた、という事実の裏に誰かの意思が働いているとしたら、安達さんと玉木さんが五月四日に壱岐へ行って『サンライズ・サンセット』に泊まるという予定を知っていた者、ということになりますわね」 「ええ」  と、由加利が考える目をして肯定した。 「安達さんがペンションの兼岡さんに連絡を取り、宿泊の予約をしたのは四月十二、三日頃だったというお話でしたけど」  美緒は江美に顔を向けた。  これは、江美から電話で聞いていた。 「ええ、そう」  と江美が答え、「遅くても四月半ば過ぎということはないわ」と付け加えた。 「松井さんたちがいつ『サンライズ・サンセット』に宿泊の申し込みをしたのかは、分かりますか?」 「兼岡のおじさまに聞いた話では、四月十七、八日頃だったみたい」 「そうすると、遅くとも、安達さんが宿泊を申し込まれた五、六日後には、松井さんたちも、玉木さんと同じ日、同じ宿に泊まる予定が決まっていた……」 「そうなるわね」 「刑事さんたちは、松井さんを通して三人にそうするように指示、強制したのが私だったのではないか、というんです」  由加利が言った。 「でも、それは玉木さんではない——」  美緒が言うと、由加利が「ええ」と大きくうなずいた。  由加利の言葉が事実かどうか、検証することはできない。  が、美緒は、由加利が犯人ではないという前提に立ち、 「すると、それをした人間がいたとしたら、安達さんか玉木さんの近くにいて、二人の予定を知りえた人か、兼岡さんを通じて玉木さんの宿泊予定を知りえた人……このどちらかということになりますわね」  と、話を進めた。      3  美緒と壮が博多のホテルで安達江美と玉木由加利に会って、話している頃——  長崎市・南山手警察署の三階、≪オランダ商館跡 製菓会社専務殺人事件特別捜査本部≫の置かれた講堂では、捜査会議が開かれていた。  司会は、県警本部の捜査一課からきた捜査主任官の三好《みよし》警部である。  会議には、壱岐島署から鬼塚刑事課長、鷲尾部長刑事、それに犬飼の三人が出席していた。  十日前の早朝、市内出島町のオランダ商館跡で死体となって発見された間宮圭一は、チョコレート入りキャラメルに混入された青酸ソーダを飲んでいた事実が判明。事故死のセンは問題外だったし、自殺するつもりなら、青酸ソーダを�チョコレートキャラメル�に混入する必要はないので、この時点で彼の死は殺人と断定され、大浦天主堂やグラバー園の下の海岸沿いにあるここ南山手署に捜査本部が置かれた。  事件は、さらにその九日前に壱岐で起きた吉久保宏殺害事件と密接な関係があると考えられた。このような場合、合同捜査本部を設けるのが普通なのだが、本部を長崎市内に置いても壱岐島署に置いても、捜査員たちは動き回るのに不便このうえない。そこで、南山手署に間宮事件の捜査本部を置き、常に壱岐島署と連係して捜査を進める、という方針が決められた。  その結果、犬飼は、鷲尾とともにここ十日のうち延べ一週間前後は長崎に滞在し、南山手署の刑事たちと一緒に、あるいは手分けして、聞き込みに歩き回り、夜は南山手署の捜査会議に出席しているのだった。  事件に対する警察の考えはこの十日の間にだいぶ変化し、大きく分けて二つの見方が共存していた。  間宮が殺された直後は、これで玉木由加利が犯人である疑いがいっそう濃くなったと犬飼たちは考えた。南山手署の下田、高津両刑事とともに彼女を厳しく追及した。  しかし、由加利に三度目——間宮が殺されてからだと二度目——にぶつかった今週の月曜日ごろから、 〈もしかしたら、玉木由加利は犯人ではないのではないか〉  という意見が捜査本部内で上がり出した。  犬飼と鷲尾は、まだ由加利が犯人である可能性が高いと考えている。  松井の部屋にあった新聞の切り抜きや松井の自殺など、いくつかの事柄が妹・沢祥子の自殺事件との関連を示しているだけではない。これまで多少とも容疑ありとして調べた者の中に、吉久保と間宮の二人を殺せたのは由加利しかいなかったからだ。  といって、反対者の説にも一理あり、無視できなかった。  由加利犯人説に異を唱えている刑事たちは、沢祥子の自殺事件と松井たちとの関連は偶然にすぎず、吉久保が殺されたとき由加利が彼と同じペンションに泊まっていたのは犯人の作意であろう、と述べた。また、犯人はペンション「サンライズ・サンセット」のオーナー兼岡昭一郎か、兼岡と妻の綾の二人ではないか、と。  彼らが兼岡に注目したのは、間宮が殺された十三日、兼岡が長崎に来て、安達江美の父親が経営する自動車修理工場「安達モータース」の二階に泊まっていたからである。  十三日は月曜日でペンションの客が少ないからと、兼岡は長崎へ来たらしい。銀行に用事があったのだという。その晩、彼は安達家を訪ねて、江美の両親、江美と酒を飲んで夕食を共にした後、歩いて十分ほどの市役所そばにある「安達モータース」へ行き、二階の小部屋に泊まった。江美の自宅は現在改築中のため、父親は近くのホテルに部屋を取ろうとしたらしい。が、兼岡は、寝るだけなので勝手が分かっている修理工場の二階の部屋で充分だと断わり、鍵《かぎ》を借りて一人で行ったのだという。  兼岡が安達家を出たのは九時半頃。その後の兼岡の所在は確認されていないので、間宮の死亡推定時刻(午後十一時〜翌午前一時)に彼を殺害するのは可能だった。兼岡にはレンタカーを借りた形跡はなかったが、彼は元自動車整備士である。安達モータースの庭に駐《と》められていた車を無断で乗り出すぐらい難しいことではなかっただろう。  兼岡犯人説を主張する刑事たちは、さらに言う。兼岡なら、江美から五月四日の宿泊申し込みを受けた後、松井に指示して、同じ日に松井と吉久保と間宮の三人を「サンライズ・サンセット」に泊まらせることもできたはずであり、由加利に疑いがかかるように仕向けることも可能だった、と。  犬飼や鷲尾は、たとえ妻の綾が共犯だったとしても兼岡には吉久保は殺せなかった、と述べた。  だが、それについても、彼らは、吉久保の死亡推定時刻は五日の午前七時半〜八時半であり、ガッシャーンという音のした八時二十七分前後に彼が殺されたという証拠はない、と主張した。ログハウスの持ち主であり、しかも細工が得意な兼岡なら、八時頃に吉久保を殺害しておき、自分がペンションへ戻ってからガラスが割れるように工作することぐらい可能だったのではないか——。  そうした方法は、これまでいくら頭をひねっても見つからなかったのだが、犬飼たちとて、もしかしたら……と考えないではない。兼岡犯人説にも理があることを認めた。  そのため、犬飼ら捜査員は、玉木由加利については引きつづき調べつつ、兼岡昭一郎が犯人である可能性も追及するようになっていたのだった。  当然ながら、殺害が可能だからといって、動機なしに殺人は犯さない。  では、兼岡が犯人の場合(単独でも妻の綾との共犯でも)、動機は何か——?  その解明が一つの大きな問題だった。  十一年前から壱岐でペンションを経営している兼岡夫妻の場合、どこをどう探っても、松井、吉久保、間宮と直接の接点があったとは思えない。それも、計画的な殺人につながるような。  としたら、両者の接点は間接的なものであろう。  自然に、犬飼たちは、去年の七月初め、長崎郊外の林の中で首を吊《つ》って自殺したという兼岡夫妻の一人娘・ミドリ(当時二十歳)に目を向けることになる。  もし一人娘の死が、松井たちの行為によって引き起こされたとしたら、兼岡が三人を殺そうと計画したとしても不思議はない。  いや、もし兼岡か兼岡夫妻が犯人なら、他の動機はありえないのではないか。  犬飼たちはそう考えて、兼岡や安達江美から聞いていたミドリが自殺したときの事情から調べた。  ミドリの自殺は、死体が発見された時点から長崎東警察署が扱っていたので、調べるのは簡単だった。  長崎東署の刑事課長によると——  ミドリは、去年の七月四日(火曜日)、長崎の市街地から東へ三キロほど行った、国道34号線沿いの山林で首を吊って死んでいるのが見つかった。行政解剖の結果、死後およそ二〜三日と判明。逆算して、一日の土曜日か二日の日曜日に死んだものと考えられた。検死によっても解剖によっても、犯罪の疑いを抱かせるような不審な点は認められなかったが、妊娠二カ月〜三カ月だった。  その後、一日の夕方六時過ぎ、死体発見場所から七、八百メートル離れた市電の終点・蛍茶屋《ほたるぢやや》でミドリと思われる女性が電車を降りた事実が確認された。目撃者によると、女性に連れはなく、諫早《いさはや》・雲仙《うんぜん》方面につづいている国道34号線を一人で日見《ひみ》トンネルのほうへ向かって歩いて行ったという。  また、ミドリが住んでいた浦上のアパートを調べたところ、部屋は綺麗《きれい》に整理・整頓《せいとん》され、机の上に封をした両親|宛《あて》の遺書が載っていた。  遺書は、表書き・本文ともにミドリの筆跡に間違いなく、�命をかけて愛した人が去って行ってしまった。もう自分には生きてゆく力も望みもない�といった自殺の動機と思われる内容が記され、先立つ不幸を両親に詫《わ》びる言葉、これまで大事に育ててくれたことを両親に感謝する言葉で結ばれていた。しかし、そこには、愛人の名や妊娠については一言も触れられていなかった——。  長崎東署の刑事課長の話を聞いた後、犬飼たちがしたのは、ミドリの恋人だった男を突き止める作業だった。男を突き止めて、松井たちとの間に関わりがないかどうかを調べようとしたのである(大阪在住の吉久保、福岡在住の松井はともかく、ミドリと同じ長崎に住んでいた間宮がその男だった可能性もないではなかった)。  しかし、犬飼たちのその行動は厚い壁に突き当たっていた。 「これだけ当たっても、兼岡ミドリと付き合っていた男について誰も知らないとは、妙な話だな」  と、三好警部が首をひねった。  三好は年齢四十歳前後、目の細い精悍《せいかん》な顔つきをした男である。  会議は八時半から始まり、今、九時十二、三分。各捜査班のキャップである鷲尾たちが一通り報告を終えたところだった。  鷲尾と犬飼を含めた捜査員の半分以上が、ここ数日、兼岡ミドリの元恋人——彼女を捨てたらしい男——を突き止めようとしてきた。が、いまもって、男がどこの誰か分からないのである。当然、間宮の側からも調べたが、彼にはミドリと思われる女子学生と付き合っていた形跡はなかった。  ミドリに恋人がいたことは、彼女が妊娠していただけでなく、遺書の記述から見て、間違いない。それなのに、彼女の友人、知人たちの誰一人として、その名前を聞くか顔を見るかした者はいないのだった。  犬飼たちは、ミドリを妹のように可愛《かわい》がっていたという安達江美にも再度会って、ミドリの相手の男について質した。  すると、江美は怪訝《けげん》な顔をしながら、氏名までは聞いていないが、長崎文科大学の一年上の学生で図書館で知り合ったと聞いた、と前の話を繰り返した。  ところが、犬飼たちが他の刑事たちとともに長崎文科大学へ行き、ミドリと同じ社会学部の学生やミドリが所属していた「染色研究会」の会員に訊《き》いても、江美が言ったような人は知らない、という返事しかかえってこなかった。それだけでなく、彼らのうちの何人かは、 〈ミドリに好きな人がいたのは確かだと思われる。だが、長崎文科大学の学生ではなかったと思う。去年の四年生ならもう卒業したはずだが、春まではこのキャンパスにいたのに、ミドリがそんな男と一緒にいるところを見たことがない〉  このような言い方をした。  犬飼たちは、 〈どうして、兼岡ミドリに好きな人がいたのは確かだと思うのか〉  と、学生たちに質問を重ねた。  すると、彼らは次のように答えた。  ——勘ね。それぐらい、一緒にいれば何となく分かるじゃない。  ——私は兼岡さんに聞いたわ。でも、いくら好きでも結婚はできないのって、悲しそうに言っていた……。  ——俺が言い寄ったとき、「田端さんのこと、嫌いじゃないけど……ごめんなさい、私には好きな人がいるの」と断わられたから。もしかしたら、断わる口実だったのかもしんないけど。  ——兼岡さん、二月《ふたつき》に一度ぐらいの割合で土、日と出かけていたもの。私たちに行き先を秘密にして、そんなに頻繁に泊まりがけで旅行するっていったら、カレとのデートしか考えられないじゃない。  ——もちろんミドリに聞いたのよ。だって、私はミドリの親友だったんだもの。相手は五歳年上の長崎の人だって話してくれた。でも、そこまで。二人の関係を両親に知られたら大変だし、相手にも大きな迷惑がかかるから、これ以上は誰にも教えられないの、ごめんなさいって……。  これらの答えから見ても、ミドリに恋人がいたのは疑いない。  だが、彼女が友達に言った言葉のどこまでが事実なのかははっきりしなかった。  幼い頃から姉妹のように親しかったという江美にさえ、相手は一年上の学生だと嘘《うそ》をついていたと思われるわけだし。  ただ、ミドリの友人たちの話から、男と女の一つの関係が浮き上がってきた。≪不倫≫という二文字で表わされる関係である。つまり、ミドリは、妻子ある男と不倫の関係を結んでいたために、その相手について誰にも明かせなかったのではないか——。  しかし、そうなると、ミドリの死が今度の殺人事件に関係していた可能性は薄れる。同時に、兼岡が犯人である可能性も。  なぜなら、もしミドリの死が事件に関係していて、兼岡が犯人だったとすれば、真っ先に殺されるのは、一人娘を弄《もてあそ》んで妊娠させ、挙句の果てに捨てて自殺に追いやった男でなければならなかったはずだから。  今度の事件を兼岡の犯行と見た場合、さらに疑問があった。  ミドリの死と吉久保、松井、間宮の間に、たとえ何らかの関わりがあったとしても、兼岡にどうしてそれが分かったのか、という点である。ミドリの遺書には、それを暗示するような記述はもとより、彼女を捨てた恋人の名さえ書かれていなかったというのに。 「兼岡ミドリの恋人というか愛人は、自分の名を秘すように強くミドリに求めていたらしい。そのため、ミドリの自殺には、�彼女を死に追いやった男がどこの誰か分からない�という謎《なぞ》が残っている。これは、大いに気になる。できることなら、男を突き止め、すっきりさせたい。しかし、いつまでもそこにかかずらわっているのは、どうやら時間の無駄らしいと分かった」  三好が言った。  各班の報告の後で何人かの刑事が意見を述べ、議論はほぼ一つの結論に落ちつき始めていた。 「なぜなら、その男が今度の一連の殺人事件に関係している可能性はかなり低いのではないかと思われるに至ったからだ」  三好がつづけた。「そうなれば、男がどこの誰であれ、我々には関係ない。極言すれば、二十歳の娘の心と肉体を弄び、挙句に妊娠させて自殺に追いやった男がどんなに卑劣漢であれ、どうでもよい。  それより、我々がしなければならないことは、何とか間宮が殺された晩の目撃者を捜し出すことと事件のスジを見つけることだ」 「事件のスジは、やはり、玉木由加利による妹の復讐《ふくしゆう》じゃないでしょうか」  一人の刑事が言った。  と、「うむ」と三好が応じるより先に、犬飼の横で、鬼塚と鷲尾が大きくうなずいていた。  犬飼も同感である。  兼岡昭一郎の容疑が薄れれば、再び玉木由加利に対する疑いを強めざるをえない。 「ただ、兼岡を犯人とする見方と同様に、玉木由加利を犯人とする見方にも大きな問題がある」  三好が言った。  そうなのだった。これは、犬飼たちだって承知していた。  もし玉木由加利が犯人だとしたら、彼女はどうして、妹・沢祥子に暴行を働いたのが石崎一に刺殺された角倉裕之ではない、と分かったのか。どうやって、それが松井と吉久保と間宮の三人だと突き止めたのか。自分の素性を知られずに[#「自分の素性を知られずに」に傍点]、どのように、松井を意のままに動かすことができたのか——。  これらの問題を解明しないかぎりは、玉木由加利を犯人だと決めつけるわけにはゆかなかったし、犬飼たちが何度ぶつかり、追及しようとも、由加利は落ちそうになかった。 「では、三好警部は、事件のスジは他にあると……?」  鬼塚が訊いた。 「あるかもしれませんし、ないかもしれません。私にも見当がつきません」  同じ警部だからか、三好が丁寧な言葉で答えた。正直な胸の内だろう。 「そうですな……」  と鬼塚が同調し、その後、誰も意見を述べる者がなく、室内がしんとした。  と、犬飼の脳裏に、不意に一つの可能性が閃《ひらめ》いた。  これまで事件に関係があろうとは想像もしなかったある事実を思い出し、もしかしたら……と思ったのである。 「あの、いいでしょうか?」  犬飼は沈黙を破って言った。  すると、下っ端刑事の彼が発言を求めたからだろう、鬼塚と鷲尾が半ば咎《とが》めるような目を向け、 「何だね?」  と、三好も面倒臭そうに訊いた。  犬飼はちょっとひるんだが、 「松井の運転免許証が昨年の八月に再交付されていた件[#「松井の運転免許証が昨年の八月に再交付されていた件」に傍点]をご存じでしょうか?」  と、思い切って言った。  この事実は、平戸港で松井の死体が上がったときから分かっていた。所持していた運転免許証から身元が確認されたのだから。が、平戸中央署の梶警部たちだけでなく、梶に免許証を見せられた鷲尾と犬飼も、その再交付——再交付された免許証は免許証番号の末尾の数字が0ではなく1になっているので一目で分かる——に意味があろうとは考えもしなかったのだった。 「いや、知らんが……そんな事実があるんですか?」  三好が、途中から鬼塚と鷲尾のほうへ目を向けて訊いた。  実況見分調書の中の「死者の着用、所有していたもの」の項で一言触れられていたはずだが、鬼塚は注意して見ていなかったのだろう、首をかしげた。  だが、犬飼とともに免許証の実物を見ている鷲尾は、 「あります」  と、少しむすっとした調子で答えた。  その答えを聞いて、三好が「ほう」と多少興味を引かれたような目をし、 「それで?」  と、犬飼に視線を戻して説明を求めた。 「これまで、昨年八月の再交付ということで、当然その直前に遺失したものと思い込んでいたのですが、もしかしたらそれよりずっと前に失《な》くしながら、再交付の申請をしないでいた可能性もあるのではないか、と気づいたんです」  犬飼は本筋のとば口に立った。 「いつ失くしたのか、誰にも知られたくなかったから、というわけだな」  三好が言った。 「はい。その間、適当な口実を設けて車の運転を控えていればいいわけですから」 「で?」 「もし、元の免許証を失くしたのが五月四日の夜だったとすれば、事件に関係しているのではないか、と……」 「どのように関係しているのかね?」 「やはり、沢祥子を襲ったのは松井たちだった、そして逃げるとき松井が免許証を落とした、ということです」 「よく分からんな。確かに、松井がそのとき免許証を落とした可能性はないではない。だが、たとえそうだったとしても、それがどのように今度の事件に結び付くのかね」  犬飼は困った。  きちんと考えていなかったからだ。  それでも、彼は答えた。 「免許証を誰かが拾い、どういうルートを経《へ》てかは分かりませんが、それが玉木由加利のもとに届いたのではないか、と思ったんです」 「なるほど。経路はともかく、玉木由加利は、妹の沢祥子が襲われた晩に現場に落ちていた松井の免許証を手にした——。こういうわけだな」  三好が助け船を出してくれた。 「はい」 「もし、きみの言うようなことがあったとしたら、玉木由加利は、自分の素性を知られずに松井に探りの電話をかけることも、松井のアパートを見張って彼の行動を探ることも可能だな。免許証には写真も現住所も載っているんだから。そして、彼女は、この一年の間に、妹の沢祥子を襲ったのが松井と吉久保と間宮の三人だと確信することができた、か……」 「はい」 「分かった。問題はあるが、松井が去年の五月四日の晩に平戸で運転免許証を落とし、それが玉木由加利の手に渡ったのではないか、という想像は面白い。だから、この先は、明日まで、みんなに考えてもらうことにしよう。松井の落とした免許証を、玉木由加利がどのようにして手に入れたのか。彼女は、どうして、最後まで松井に素性を気づかれずに彼を意のままに操れたのか——。  これらの点が解明できれば、玉木由加利が犯人である可能性が一段と高くなるし、彼女を攻め落とすための武器が手に入るかもしれない」  三好が話を締めくくり、その後、翌日の分担を決めて、会議は終わった。  犬飼は鷲尾とともに、由加利が松井の落とした運転免許証を持っている可能性をそれとなく探るという新たな目的をもって、彼女を訪ねることが決まった。 [#改ページ]   第六章 長崎へ      1  翌二十五日(土曜日)の朝——  美緒と壮は、ホテルで朝食を済ませた後、チェックアウトし、博多駅へ行って二人のボストンバッグをコインロッカーに入れた。午後二時前までには博多駅へ戻るつもりで、鹿児島本線、香椎《かしい》線と乗り継いで、終点の西戸崎《さいとざき》まで行き、バスで志賀島へ向かった。  昨夜、美緒たちは、「博多ユニバーサルホテル」の玄関で安達江美、玉木由加利と別れた後、美緒の友人の薬師寺知世《やくしじともよ》に電話をかけ、神奈川県警捜査一課の警部補である知世の兄・薫《かおる》に、ある依頼をした。だから、今日中に東京へ帰るかどうかは、「午後二時に県警本部にいる」という薫に連絡を取ってからでないと決まらない。  志賀島は、玄界灘に長く延びた海の中道の先端にある米粒のような形をした周囲約十一キロの島である。いや、名に「島」と付いているが、島ではない。かつては満潮時に海の中道から切り離されたので、島と呼んでもよかったが、現在は橋によって完全に海の中道と陸つづきになっている。  志賀島は、弥生時代に後漢から贈られたという金印——「漢委奴国王《かんのわのなのこくおう》」の印——の出土した地である。このことは中学の教科書にも載っているし、非常に有名だが、鎌倉時代・弘安《こうあん》の役のとき蒙古《もうこ》軍に占領され、主戦場になった史実はあまり知られていないようだ。  実は、美緒と壮も、志賀島を訪れて初めて知った。  美緒たちはまず、島の西側にあるその元寇《げんこう》ゆかりの蒙古塚——台風で死亡した蒙古兵たちを弔った塚——までバスで行き、車が通るたびにひやひやしながら海沿いの狭い道を金印公園まで歩いて戻った。  公園は、金印の出土地だという丘の斜面に造られていた。大きな公園ではないが、登ると、汗が噴き出た。すぐ前に能古島《のこのしま》が、その左手かなたに白っぽくかすんだ福岡の街の塔やビルやドームが見えた。  道路に降り、再びバスに乗って、島の中心らしい入口の集落まで戻った。島の東側の森の中腹に建てられた志賀海《しかうみ》神社にお参りしてきてから、新鮮な魚貝類の定食を売り物にしているらしいレストランで昼食を摂《と》った。  来たときと同じように、またバスとディーゼルカーを乗り継いで帰ってもいいが、レストランの裏が市営の渡船場だった。渡船は、海の中道に抱かれた湾を突っ切って、博多|埠頭《ふとう》まで約四十五分だという。  美緒たちは、新築間もない感じのターミナルビルで十分ほど待ってそれに乗り、三週間前、美緒がサユリ、佐知とともに壱岐行きのフェリーに乗った博多埠頭に午後一時十五分に着いた。  薬師寺に電話する約束になっている二時まで、まだ間がある。  早すぎては県警本部にいないかもしれないので、美緒たちはバスで天神に出て、コーヒーを飲んでから博多駅を通る福岡空港行きの地下鉄に乗った。  昨夜、美緒たちは、薬師寺に電話する前に安達江美、玉木由加利と一時間半ほど話し合った。江美と由加利から話を聞いた後、いろいろ推理した。  推理の出発点は、 〈五月四日、由加利と、松井・吉久保・間宮が壱岐の「サンライズ・サンセット」に泊まり合わせたのは偶然とは考えがたい〉  ということである。  ここまでは警察の見方と同じだが、美緒たちは、�吉久保を殺した犯人は由加利ではない�という前提(仮定)に立っていた。  だから、美緒たちは、 ≪由加利が犯人でないなら、由加利と江美が「サンライズ・サンセット」に宿泊申し込みをした後、松井たち三人を、同じ日、同じ宿に泊まるように強制した[#「強制した」に傍点]由加利以外の人間がいるはずである≫  というように考えた。  ——それは、安達さんか玉木さんの周囲にいて、二人の予定を知りえた人か、兼岡さんを通じて玉木さんの宿泊予定を知りえた人……どちらかということになりますわね。  美緒は話を進めた。  すると、由加利は緊張した顔で肯定したが、江美は、  ——ううん、違うわ。その前に、私と兼岡のおじさまとおばさまがいるわ。  と、言った。  そうなのだった。  由加利を外せば、江美の言った三人こそ真っ先に疑われなければならない。  それは美緒とて承知していたが、三人には吉久保殺しのアリバイがあったので除いたのだった。  ——でも、私と違って、安達さんと兼岡さん御夫妻には、吉久保さんが殺されたときペンションの食堂か厨房《ちゆうぼう》にいた、というアリバイがあったんでしょう。  美緒の考えを由加利が代弁した。  ——そうだけど、ただ、玉木さんの予定を知っていたという点だけから見れば……。  江美が応《こた》えた。  ——それじゃ、三人も一応入れておきましょう。  美緒は言った。  ——五日の朝、私たちがガッシャーンという音を聞いたとき殺人が行なわれた、という確かな証拠があれば、三人のアリバイは完璧《かんぺき》になり、除外すればいいわけですから。  ——分かりました。  と由加利が応じ、それに江美がつづけた。  ——そうすると、問題は、私と兼岡夫妻の他に、玉木さんと私の予定を知ることができたのは誰か、というわけね。  ——ええ。  美緒は答えた。  ——私の場合は、父と母はもちろん、会社の同僚にも話したし……少なくとも十人ぐらいはいると思うわ。  江美が言った。  ——私も、連休に休みを取りたいと言い出したときから、壱岐へ行くって話していたから、整形外科の看護婦はみんな知っていたはずだし、寮の人たちもかなり知っていたと思うし……先生や患者さんにも、連休はどうするのかって訊《き》かれて話したような気もするし……何人ぐらいか、見当がつかないわ。  江美につられたのか、由加利も普段のものらしい言葉づかいになった。  ——とすると、もし意識的に玉木さんの予定を探っていた者がいたとすれば、その人間は容易にそれを知りえた、ということですね。  壮が言った。  まさか、置物だと思っていたわけではないだろうが、ずっと美緒の横で黙っていた男が不意に口を開いたからだろう、江美と由加利が驚いたような顔をして彼を見た。  ——……は、はい。  と、由加利がワンテンポ遅れて答えた。  ——黒江さんは、誰かが意識的に玉木さんの予定を探っていた、とお考えなんでしょうか?  美緒には馴《な》れなれしい口をきいていた江美も、丁寧な言葉づかいで訊いた。  ——松井さんたちを玉木さんと同じ場所に行かせたうえで吉久保さんを殺害しようと計画していた人間がいたのだとすれば、その可能性が高いと思います。  壮が答えた。  ——病院に出入りして……?  ——そうかもしれませんが、玉木さんの同僚か友人を通じてさりげなく聞き出すこともできたはずです。  ——あの……。  と、由加利が遠慮がちに口を挟んだ。  ——その人は、やはり私の妹・祥子の復讐《ふくしゆう》をしようとしたんでしょうか?  それは、さっき美緒が保留にしておいた犯人は誰か、という件だった。  ——おそらく違うと思います。  壮が即答した。  由加利が小さく息を呑《の》み、江美が、  ——違う……!  と、驚いたらしい声を漏らした。  ええ、と壮がうなずいた。  ——なぜ、そう考えられるんでしょう?  江美だ。  ——もしそうなら、その人間は、どうして沢祥子さんのお姉さんの玉木さんに警察の疑いがかかるようにしたんでしょう。祥子さんの恨《うら》みを晴らすために殺人までしようという人間が、玉木さんに恨みを抱いていたとは思えません。  ——玉木さんに疑いがかかるようにというわけではなく、ただ単に犯人である自分に対する警察の疑いの目を逸《そ》らそうとした、とは考えられませんか?  ——いずれ玉木さんに対する疑いは解けると見て、ですか?  ——ええ。  ——しかし、犯人にとって、なぜそんな必要があったんでしょうか。いずれ玉木さんに対する疑いが解ければ、結果は同じはずです。警察に疑われるおそれがあるなら、多少早いか遅いかの問題にすぎません。  ——そうか……そうですわね。  江美が、考えるような目をして何度もうなずいた。  ——それじゃ、あなたは、犯人の動機は祥子さんの自殺された件とは関係なかった、と見るわけね。松井さんたちを玉木さんの泊まる予定になっていた壱岐のペンションへ導いたのは、警察にそう思わせるための……事件が祥子さんの件と関係していたように思わせるための、犯人の奸計《かんけい》だった、と?  美緒は訊いた。  ——そうです。  と、壮が答えた。  ——あ、でも、松井さんが祥子のことを報じた新聞の切り抜きを持っていた事実はどうなるんでしょうか?  由加利が首をかしげた。  そうなのだった。  いや、沢祥子の事件との関連を暗示するものは他にもある。  美緒がそう思っていると、それを江美が口にした。  ——他にも、祥子さんの亡《な》くなった去年のゴールデンウィークに松井さんたち三人が平戸に行っていた事実や、今度、松井さんが祥子さんと同じ平戸港に身を投げて自殺した事実などの符合がありますわ。こうしたことは単なる偶然だったんでしょうか?  ——偶然とは考えられません。といって、いま玉木さんと安達さんの言われた符合は、犯人の意思でもありませんが。  壮が当然のように答えた。  ——じゃ、どういうこと?  美緒だ。  ——僕にも分かりません。今の僕に想像できるのは、去年の五月四、五日頃、平戸で松井さんたち三人の関わった何か[#「何か」に傍点]……おそらく犯罪に類する出来事があったのではないか、ということだけです。それは、祥子さんとどこかで結び付いていたのかもしれませんし、まったく別の件だったのかもしれません。  いずれにせよ、今度の一連の事件は、そのときの何か[#「何か」に傍点]が因《もと》になって起きたのではないか、そんなふうに僕は考えています。  ——犯人は、その何か[#「何か」に傍点]と同じ日に同じ平戸で起きた祥子さんの事件を利用して、警察の目をそこへ向けようとした。そのために、祥子さんのお姉さんである玉木さんの行動を探っていた、こういうことでしょうか?  江美がまとめた。  ——そうです。  ——とてもよく分かりましたわ。  江美が壮に向かってにっこり微笑《ほほえ》むと、  ——これで、きっと玉木さんの疑いも晴れるわね。  と由加利に言った。  ——ええ。  と由加利はうなずいたが、こちらはいま一つすっきりしない感じだ。  当事者なので当然かもしれない。肝腎《かんじん》の何か[#「何か」に傍点]というのが分からないわけだし、まだ不安なのだろう。  ただ、美緒としては、いま由加利たちと話して、由加利に対する疑いをほとんど解いていた。  それは壮も同様のようだ。  となれば、壮が言ったように、犯人は、玉木由加利に疑いの目を向けさせ、事件の筋が去年の沢祥子の事件にあったかのように思わせようとした人間としか考えられない。  ——次は、具体的にどうするかですね。  美緒は話を進めた。  ——今度、刑事が玉木さんを訪ねてきたら、いま黒江さんに伺った話をして、見当違いの自分に目を向けているかぎり真犯人は突き止められないと言ってやったらいいわ。  江美が言い、「ね?」と由加利に顔を向けた。  ——そのつもりだけど……。  と、由加利が受け、  ——それでも、警察が私に対する疑いを解かない場合はどうしたらいーい?  と、江美に問い返した。  ——きっと、解くわよ。  ——でも……。  ——大丈夫。  江美に太鼓判を押されても、由加利はまだ不安そうだ。  その様子を見て、美緒は言った。  ——もし、警察がいつまでも玉木さんをしつこく疑いつづけるようだったら、この人が何とかできると思います。  江美と由加利だけでなく、不意に自分のことを持ち出された壮も驚いたような顔をした。  ——神奈川県警に私たちの懇意にしている刑事さんがいるんですけど、その人を通して長崎県警に働きかけられますから。  美緒はつづけた。  美緒たちが懇意にしている神奈川県警の刑事というのは、もちろん知世の兄の薬師寺薫である。  壮は了解したようだが、江美と由加利はまだ呑み込めない顔をしていた。  ——以前、横浜と長崎で起きた連続殺人事件があったんです。そのとき、神奈川県警と長崎県警が合同で捜査に当たったので、私たちの懇意にしている刑事さんは、長崎県警に知り合いがいるんです。実は、この人が事件の解決に協力したんですけど。……あ、もしかしたら、長崎県警の中にもこの人を覚えている刑事さんがいるかもしれません。  美緒は説明を加え、  ——知世のお兄さんなら、力になってくれるわよね。  と壮に確認した。  ええ、と壮がうなずいた。  江美と由加利も納得したらしく、由加利の顔には安心したような色が広がった。  これで、�由加利の問題�は何とかなりそうだな、と美緒もほっとした。由加利たちを壮に会わせた甲斐《かい》があったのである。  しかし、問題はまだ残っている。 �壮の問題�だ。  なぜなら、壮の前には、 ≪事件の真相はいかなるものか? 犯人は誰か?≫  という、未解明の大きな謎《なぞ》がぶらさがったままなのだから。その謎を解くための手掛かりを与えられずに。  これでは、�謎解き習性犬�とも言うべき壮は、高い木に吊《つ》るされた美味《おい》しいエサを下から眺めさせられているようなもので、欲求不満になる。  実は、そのこともあって、美緒は薬師寺の話を持ち出したのだった。つまり、美緒は、たとえ警察がしつこく由加利を疑いつづけなくても[#「たとえ警察がしつこく由加利を疑いつづけなくても」に傍点]、薬師寺に頼んで長崎県警のつかんでいる事実を聞き出してもらおう、と考えていたのだった。  もし、長崎県警の握っている情報が薬師寺を通じて壮にもたらされれば、あとは美緒は何も言う必要がない。壮の頭脳に埋め込まれたコンピュータが、エサを手に入れるための方法を求めて、自動的に働き出すにちがいない。 「博多ユニバーサルホテル」を出て、江美と由加利と別れた後、美緒は壮に自分の考えを話した。  壮は、すぐにはそうしようとは言わなかった。  歩きながら考えていた。  薬師寺に余計な仕事を作ることになるからだろう、迷っているらしい。  だが、結局、目の前にぶらさがった謎というエサには勝てなかったようだ。  筑紫口へ抜けるために博多駅のコンコースに入ったとき、  ——それじゃ、少し遅いですが、薬師寺さんのお宅に電話してみてくれませんか。  と、言ったのだった。  美緒たちが博多駅で地下鉄を降り、地上へ出たのは、午後二時四、五分前。  約束の時間にちょうどだった。  昨夜は美緒が薬師寺兄妹が住んでいる横浜のマンションに電話して、途中で壮と代わったのだが、今日は壮が神奈川県警本部に電話した。  薬師寺は電話を待っていたらしい、五、六秒かかって取り次がれると、すぐに彼が出たようだ。  壮が話したのは二分足らず。  が、結果は、美緒が予想していた以上だったらしい。  壮は受話器を掛けると、 「これから長崎へ行くことになりましたが、いいですか?」  と、訊いた。 「いいけど……」  詳しく話して、と美緒は目顔で説明を促した。 「間宮事件を担当している三好という捜査主任官が、僕たちに会ってもいい、と言ってるそうなんです」 「警察の握っている情報を、直接教えてくれるのね」 「というか、僕たちを尋問するつもりなのかもしれませんが」  壮が言って、苦笑いを浮かべた。 「それじゃ……」 「何とかなるでしょう。三好という主任官は、以前、薬師寺さんと一緒に横浜・長崎の連続殺人事件を追った警部だそうですから」 「え、そうなの!」 「偶然ですが。とにかく、荷物を出して、切符を買いましょう」  壮が美緒を促し、歩き出した。そして、付け足しのように言った。 「その警部は、当時、薬師寺さんから聞いただけの僕の名も覚えていたそうです」      2  美緒たちは、午後二時二十一分発のL特急「かもめ23号」に乗り、終点の長崎には四時半に着いた。  長崎へ行くつもりなら、昨夜、安達江美と玉木由加利を福岡まで出て来させる必要はなかったのだが、予想していなかった行動なので、仕方がない。  南山手署へは、駅前から市電で大浦天主堂下まで行き、五分ほど歩いた。  受付で三好警部への面会を求めると、右の廊下を行った応接室へ通され、待つ間もなく四人の男たちが現われた。  そのうちの二人が、美緒の顔を見て、一瞬驚いたように足を止めた。  吉久保が殺された朝、「サンライズ・サンセット」の食堂で事情を聞かれた鷲尾という団子《だんご》っ鼻《ぱな》の中年刑事と、背のすらりとした犬飼という若い刑事だった。  二人は怪訝《けげん》な表情を浮かべたまま、美緒たちのほうへ近づいてきた。  三好から、黒江壮という男については聞いていても、美緒がなぜ一緒に……と思っているにちがいない。  あとの二人は初めて見る顔で、そのうちの一人、四十歳前後の目つきの鋭い精悍《せいかん》な顔をした男が三好と名乗り、つづいて鷲尾たち三人もそれぞれの名を言った。  次いで壮が名乗り、美緒を非常に親しい友人だと言って紹介した。 「壱岐で吉久保さんが殺されたとき、二人の友達と一緒に同じペンションに泊まっていたんです」  壮が付け加えると、三好が鷲尾に問う視線をやり、鷲尾がそうだというようにうなずいた。  三好が美緒たちの正面に腰を下ろし、その横に、手帳を手にした平井と名乗った三十二、三歳の男が、美緒たちの右手、斜め前の椅子に鷲尾と犬飼が掛けた。 「神奈川県警の薬師寺さんによると、何でも黒江さんは捜査の参考になる話をしてくれるそうで」  と、三好が壮にひたと目を当てて切り出した。 「いえ、そういうわけでは……」  壮が困ったようにもじもじした。 「違うんですか?」 「いえ、そうですけど……」  と、美緒は代わりに答えた。  すると、八つの目玉が、なんだこの生意気な女は……とでも言うように、一斉に美緒に向けられた。  が、美緒は怯《ひる》まない。  刑事たちのこうした対応の仕方はもう慣れていたからだ。 「それじゃ、話してもらいたい」  三好が、感情を抑えたような事務的な調子で言った。 「お話ししますけど、それには、刑事さんたちのつかんでおられる事実を先に教えていただかないと無理ですわ」  美緒は応じた。 「そんな話は薬師寺さんに聞いておらん」  三好が心持ち声を高めた。  嘘《うそ》に決まっている。薬師寺が美緒たちの意を伝えないわけがない。彼は、壮のコンピュータがいかに優秀でも、充分なデータをインプットしてやらなければ働かないのをよく知っているのだから。 「変ですわね」  美緒は殊更に首をかしげた。 「変であろうとなかろうと、聞いていないものは聞いていない」 「そうですか。では、せっかく参ったんですけど仕方ありませんわ」  美緒は言い、「帰りましょう」と壮を促した。  三好の顔が赤くなった。  自分は平気で威張るくせに、相手から少しでも反抗的な態度を取られると、すぐにカッとする手合いのようだ。相手が女だけに——女性差別の表われなのだが——なおさらなのかもしれない。 「あ、いや、ちょっと待ってください」  と、脇《わき》から鷲尾が美緒を引き止めた。「私は、笹谷さんに伺おうと思っていた件があるんです」 「何でしょうか?」  美緒は鷲尾に訊《き》いた。 「安達江美さんから聞いたんですが、笹谷さんと片平さんと桑野さんは、五日の夕方、虹の松原で松井と会われたそうですね」  鷲尾が言った。 「ええ」  と、美緒は答えた。 「どうして、それを私たちに知らせてくれなかったんですか?」 「すみません。でも、松井さんが、自分から警察に行って事情を話す、と言われたものですから」 「松井は来なかったんですよ」 「ええ……」 「松井が警察へ出頭したかどうかを確認してほしかったですな」  松井が自殺したと江美から電話で聞いたとき、美緒も、そうすべきだったかと悔んだのだった。そうすれば、もしかしたら、彼の自殺を止められたかもしれない、と。  といって、美緒たちがそうしなかったことを警察に責められるいわれはない。松井が自殺するなんて想像できなかったのだから。  だが、美緒はそうは言わずに、「すみません」ともう一度謝った。鷲尾がさらにしつこく絡んでくれば反論するつもりで。  鷲尾が、そうした美緒の心の内を読んだのか、 「まあ、済んでしまったことは仕方がないとして……」  と、話を進めた。「そのとき松井と話したことを詳しく教えてくれませんか」  分かりました、と美緒は素直に応じた。  そのとき、ちらりと三好の顔を窺《うかが》うと——もしかしたらカッとしたのを恥じているのかもしれない——赤みの退《ひ》いた仏頂面をしていた。  美緒は、虹の松原における松井との遣《や》り取《と》りと美緒たちの受けた印象を詳しく鷲尾たちに話した。  鷲尾は、その中で、 〈松井は吉久保が殺されたのを知らなかっただけでなく、そうした事件が起きようとはまったく予想していなかったらしい〉  という美緒の話に、特にうんうんと納得したようにうなずいた。  鷲尾たちは、すでにそうした判断を下していたらしく、自分たちの判断に間違いなかった、と思ったようだ。つまり、�松井は、吉久保と間宮と三人で五月四日に壱岐の「サンライズ・サンセット」に泊まるようにある人間に指示されたが、その人間が自分たちを殺そうとしているとまでは想像していなかったらしい�と。 「どうも……。これで、松井の役割がいっそうすっきりしました」  鷲尾が美緒に頭を下げた。  今度はこっちが尋ねる番である。  さっき、美緒は壮に「帰ろう」と言ったが、あれはゼスチャーだった。わざわざ長崎まで来て何の収穫もなしに帰る気など、毛頭ない。駆け引きである。  刑事たちだって同じはずだ。あっさりと美緒たちを帰す気はないだろう。薬師寺と話した三好には、特にその気持ちが強いと思われる。彼は、かつて難事件の解明に力を借りた壮の名を覚えていたという。だから、壮に会ってもよい、と薬師寺に伝えたのだろう。とすれば、彼は期待を抱いて壮が来るのを待っていたにちがいない。  美緒はそう確信すると、 「あの、それで、刑事さんたちは玉木由加利さんを疑っておられるんでしょうか?」  と、切り出した。  穏やかだった鷲尾の顔が歪《ゆが》み、途端に不機嫌そうな翳《かげ》が目元に広がった。 「そんなことは、あんたたちには関係ないだろう」  鷲尾の代わりに三好が言った。  美緒は三好のほうへ顔を戻した。  さっきの応接を少しは反省したのか、口調はきつかったが、表情は険しくなかった。 「いいえ、関係があるんです」  美緒は応じた。 「どういう関係かね?」 「刑事さんのどなたか、今日、玉木さんに会われましたか?」  美緒は答える代わりに訊いた。 「ああ、たった今、鷲尾部長たちが会ってきたが、それがどうだというのかね」  三好が訊き返した。  警察は、由加利が博多から帰るのを待ち受けるようにして彼女を訪ねたらしい。  それなら、話は早い。 「でしたら、玉木さんは、別の犯人が存在する可能性を話されたと思いますが」 「そんな可能性など、我々だってとっくに気づいとる」 「じゃ、なぜその可能性を追求されないんですか」 「追及している」 「そうなんですか」 「もちろんだ」 「それで……」 「そんなことより」  と、三好が美緒の話を遮り、「我々が玉木由加利を疑っていることとあんたらの関係を聞かせてもらおう」  薬師寺は、三好に電話したとき——三好をできるだけ刺激しないようにだろう——壮が三好たちの疑っている玉木由加利に会ったといった話はしなかったらしい。  美緒はそう思いながら、言った。 「昨夜、私たちは、玉木さんと福岡でお会いしたんです。ですから、玉木さんが今日鷲尾さんたちに言われた可能性は、この人の考えなんです」 「なるほど。あんたたちが玉木由加利に入れ知恵をした、というわけか」  三好が、美緒の横に黙って座っている壮をじろりと一瞥《いちべつ》し、唇に皮肉な笑みをにじませた。 「どう取られても結構ですけど、玉木さんに目を奪われていたら、いつまで経《た》っても真犯人に到達できませんわ」  美緒ははっきりと言った。 「余計なお世話ですな」  三好が唇から笑いを消した。 「刑事さんは、�犯人が玉木さんの予定を探り出して、松井さんたちを五月四日に玉木さんと同じペンションに泊まるように仕向けた�この可能性を考えないんですか?」 「考えたと言っとるだろう」 「玉木さんの予定を知りうる可能性があった人を、すべて調べたんですか?」 「我々がどうしたかなんて、あんたたちに一々説明する必要はない」  三好が美緒の追及から逃げ、「それより、ついでだから、黒江さんに一つ聞きたいことがある」と壮に目を向けた。  いよいよきなすったな、と美緒は内心ほくそえんだ。 「何でしょうか?」  壮が言った。 「今日、玉木由加利が鷲尾部長たちに言ったことが、あなたの考えだとすれば——」  と、三好が切り出した。  あんた[#「あんた」に傍点]があなた[#「あなた」に傍点]になり、これまでにない真剣な目つきに変わっていた。 「あなたは、去年の五月四、五日頃、平戸で松井・吉久保・間宮たち三人の関わった何か[#「何か」に傍点]……おそらく犯罪に類する出来事があった、そう見ているわけですか?」 「そうです」  と、壮が肯定した。 「それは、沢祥子が自殺した事情とどこかで結び付いていたかもしれないし、まったく別の件だったかもしれない。ただ、いずれにせよ、今度の一連の事件は、そのときの何か[#「何か」に傍点]が因《もと》になって起きたのではないか、そう考えておられる?」 「ええ」  と壮がうなずき、つづけた。「犯人は、その何か[#「何か」に傍点]と同じ日に同じ平戸で起きた沢祥子さんの出来事を利用して、警察の目がそこに向くように仕向けようとした、そのために、祥子さんのお姉さんである玉木由加利さんの行動を探っていたのではないか——このように考えています」 「それに、我々はまんまと騙《だま》されている、と?」 「え、ええ、失礼ですが……」  壮が三好から目を逸《そ》らして肯定した。  が、三好は怒らなかった。 「確かに、松井と吉久保と間宮の三人は、沢祥子の自殺事件が起きた去年の五月四日、五日と平戸へ行っていました」  彼は言った。「ですが、そこから、どうして黒江さんの言われる�何か�が出てくるんでしょう? つまり、その犯人の動機が、なぜ、沢祥子の事件と同じ日、同じ平戸で起きた松井・吉久保・間宮の関わった犯罪だと考えられたのか、ということですが」 「沢祥子さんが自殺されたとき、松井さんたちが平戸に行っていたのは偶然にすぎない、犯人の動機は平戸とは関係なく、別の日、別の場所で起きた何かだったかもしれない、というわけですね?」 「そうです。もちろんこれは玉木由加利が犯人ではないと仮定した場合の話ですが」 「僕は、昨夜、安達江美さんと玉木由加利さんに話を伺っただけなので、詳しい事情は知りませんが、松井さんのアパートの部屋に沢祥子さんの自殺を報じた新聞の切り抜きがあったとか?」 「ありました」  と、三好が認めた。 「今度の事件に、沢祥子さんの自殺が関係なかったとしたら、それをどう考えられますか?」 「特に意味はなかった、偶然だった、ということですかね」 「ということは、松井さんがこれといって深い意味もなくたまたま切り抜きを持っていた事件、沢祥子さんの自殺を、犯人は利用した、と?」 「そうなりますな」 「吉久保さんの殺された後で、松井さんは、沢祥子さんと同じ平戸港に身を投げて自殺したわけですね」 「そうです」 「この符合も偶然でしょうか?」 「偶然とは考えられませんな」  三好が答えてから、急に強い視線を壮に当て、「ですから、黒江さんの仮定が間違っているんじゃないですかね。�今度の事件に玉木由加利が、そして沢祥子の自殺が関係なかったとしたら�という仮定が。  要するに、�関係があった�ということです。関係があったから、松井は沢祥子の自殺を報じた切り抜きを持っていたのだし、関係があったから、吉久保が殺されたのを沢祥子の関係者の復讐《ふくしゆう》と知って……おそらく松井は罪の意識を感じていたんでしょう……沢祥子と同じ場所で同じように自殺した——。  そう考えるのが自然じゃありませんか。つまり、玉木由加利が犯人だ、と」  なるほど、と美緒は思った。  三好の言うのももっともだったからだ。  というか、そう考えたほうがむしろすっきりとしていた。  昨夜、美緒たちは、�玉木由加利は犯人ではない�という仮定の上に立って論を進めたため、壮は、沢祥子の事件と同じ日に同じ平戸で、今度の事件の原因になるような�何か�があったのではないか、と考えた。  しかし、今度の事件で見られた沢祥子の事件とのいくつかの符合は、三好たち警察のように、玉木由加利犯人説に立ったほうがはるかに明快に説明がつく。 「確かにおっしゃるとおりですね」  と、壮が三好の考えを認めた。 「我々が玉木由加利を最も強くマークする理由を納得してくれましたか」 「ええ、まあ」 「では、去年の五月四日か五日、平戸で今度の事件の因《もと》になるような�何か�があった、という説は撤回されるわけですね」 「いいえ。刑事さんたちが玉木さんに強くこだわる理由は納得しましたが、それは撤回できません」  壮がはっきりと言った。 「えっ、なぜです。あなたはいま、�今度の事件に玉木由加利が、そして沢祥子の自殺が関係なかったとしたら�という仮定は間違いだった、と認めたんじゃないんですか?」  三好は詰問口調になっていた。 「そのとおりです。その仮定から出発したのは間違いでした」 「じゃ……?」 「≪玉木由加利さんは犯人ではない≫——そう、はっきりと分かったんです。それは、仮定ではなく[#「仮定ではなく」に傍点]、結論だった[#「結論だった」に傍点]んです。昨夜ははっきりしませんでしたが、いま、刑事さんと話しているうちに分かりました。ですから、その結論[#「結論」に傍点]からひるがえって考えれば、やはり去年の五月四日か五日に平戸で�何か�があった、そう考えるのが妥当なんです」 「玉木由加利が犯人でないというのは、仮定ではなく結論だった……!」  三好が、呆気《あつけ》に取られたような顔をして壮の言葉を繰り返した。  彼は訊いた。 「いったい、どこからそうした結論が出てくるんですか?」 「松井さんの行動と間宮さんの死、です」  壮が答えた。      3  犬飼は、初め、黒江壮と笹谷美緒の二人に強い反発を感じていた。神奈川県警の薬師寺という警部補と話した三好が�こちらの情報は明かさずに向こうの話だけ聞けばいいのだから損はない�と言うので鷲尾とともに会う気になったが、この忙しいとき、どうしてそんな素人《しろうと》の「御託」を聞かなければならないのか、と。  だが、犬飼は、次第に黒江壮という男の話に引き込まれ、その論理に納得せざるをえなくなっていった。  壮は、三好と話しているうちに�玉木由加利は犯人ではないという結論を得た�、と言った。そして、三好が、どこからそうした結論が出てきたのかと問うと、�松井の行動と間宮の死だ�と答え、さらに次のように説明を加えたのだった。  ——もし今度の事件の動機が沢祥子さんの自殺で、玉木由加利さんが犯人なら、松井さんには、自分と間宮さん吉久保さんの三人を壱岐へ行かせようとしている者が誰か、おおよその見当がついたと思うんです。すぐには分からなくても、調べれば容易に。  なぜなら、その人間は、沢祥子さんの自殺の原因が松井さんたちの行為だったと言って脅迫したにちがいありませんから[#「沢祥子さんの自殺の原因が松井さんたちの行為だったと言って脅迫したにちがいありませんから」に傍点]。それを仄《ほの》めかさなければ、松井さんがその人間の言いなりになるわけがありませんから。  その脅迫者としては、当然、最有力候補に沢さんの両親と姉の玉木さんが入っていたはずです。沢さんの家族を調べれば、二人姉妹の姉が母方の姓を名乗っているのぐらいすぐに分かります。  それなのに、松井さんは、玉木由加利さんと壱岐のペンションで顔を合わせ、氏名を名乗り合っても、全然不自然な様子が見られなかったようですし、一緒に酒を飲みにまで行っています。  これだけでもおかしいんですが……一歩譲り、それは、松井さん自身の意思によってか玉木さんの命令によってか、気づかないふりをしていたとしてみましょう。  それでも、説明できないのは松井さんの自殺です。吉久保さんを殺した犯人の見当がついていながら、何も対抗手段を取らずにあっさりと自殺してしまった、というのはどうにも解せません。たとえ沢祥子さんの件で罪の意識を感じていたとしても。  その後、間宮さんまで簡単に同じ犯人に殺されたのだとしたら、松井さんは自殺する前に間宮さんに連絡を取っていなかったんじゃないかと思いますが、いかがですか?  壮が説明の途中で三好に質《ただ》した。  三好が、そのとおりだと認めた。  ——でしたら、なおさらです。  と、壮がつづけた。  ——松井さんは、虹の松原で会った美緒さんたちから吉久保さんが殺されたと聞かされ、顔色を変えていますね。ということは、松井さんは、犯人に脅されてその意のままに動いても、自分たちが殺されるとまでは予想していなかったと思われます。しかし、吉久保さんが殺された。としたら、当然、次は自分か間宮さんの番だと思ったんじゃないでしょうか?  ——確かに、松井の遺書とも見られる走り書きにはそう書かれていましたよ。もう、どうあっても逃げられないのだ、と。  三好が、明かした。こちらの情報は教えずに相手の話だけ聞くと言っていたのに。  ——どうあっても逃げられない、と?  ——ええ。  ——それなら、ますますはっきりしました。松井さんには[#「松井さんには」に傍点]、脅迫者が誰か見当がついていなかった[#「脅迫者が誰か見当がついていなかった」に傍点]ということが。  もし見当がついていたら、どうあっても逃げられないと思うわけがありませんし、ましてや、あっさりと自殺するわけがありません。当然、間宮さんと連絡を取り、対応策を講じたはずです。たとえ自分たちのした行為で良心の呵責《かしやく》を覚えていたとしても。  その点は犬飼たちも何度か考えていた。そして、出した結論は、�松井が何の対応策も取らずに自殺してしまったのは、脅迫者が誰か分からなかったからにちがいない。つまり脅迫者には自分の素性を感づかれずに松井を自由に操る方法があったのだろう�という想像であった。  しかし、よく考えてみると、壮が言うように、脅迫者が理由を言わずに松井を自由に動かせたとは到底思えなかった。そして、その理由が沢祥子の自殺に関する件だったとしたら、松井が真っ先に姉の玉木由加利に目を向けないはずはなかった。  ——僕が玉木由加利さんが犯人ではないと結論した理由は、それだけじゃありません。最初に言ったように、もう一点、間宮さんの死があるからです。  壮がつづけた。  ——結論を先に言いますと、もし玉木由加利さんが犯人なら、間宮さんは、絶対に犯人がくれたキャラメルなど食べるはずがありません。  刑事さんたちは、松井さんの部屋で沢祥子さんの自殺を報じた新聞の切り抜きを見つけた後、間宮さんを訪ねて沢さんの事件との関わりを追及されたと思われますが、いかがですか?  壮に訊かれて、三好が鷲尾に問うような目を向けた。  鷲尾が、確かに追及したと認めた。  ——それは何日ですか?  壮が鷲尾に訊いた。  ——平戸港で松井の死体が上がった日だから……八日の夜だった。  もうこうなったら隠しても始まらないと思ったのだろう、鷲尾が答えた。  ——そのときの間宮さんの反応はいかがでしたか?  ——そんな件に自分たちは関係ないと否定したが、顔色が変わったよ。  それは、もちろん犬飼も知っていることだった。  ——では、間宮さんがもし沢祥子さんの自殺事件に関係していたとすれば、遅くとも八日の夜の時点で、〈なぜ、吉久保さんが殺され、松井さんが平戸で自殺したのか〉想像がついたはずですが、いかがでしょう。  ——うん。  と、鷲尾がうなずいた。  ——とすれば、間宮さんは、吉久保さんが殺されたとき近くにいた人間の中に沢祥子さんと関わりがある者がいなかったかどうか、調べたはずです。自分の生死に関わる問題ですから、必死になって。  それから間宮さんが殺された十三日の夜まで、まる五日ありました。五日あれば、玉木由加利さんが沢祥子さんの姉である事実を突き止めたのは確実だと思います。  ——ということは、十三日の夜、間宮が玉木由加利に呼び出されたとすれば、相当緊張し、用心していたか……。  三好だ。  ——そうです。それなのに、毒入りキャラメルなど口にするでしょうか。 �絶対にしなかった�僕はそう思います。  ですから、間宮さんがチョコレート入りのキャラメルで殺された——この一事だけ見ても、玉木由加利さんは犯人ではない、そう言えると思っています。  こうして、黒江壮は、玉木由加利は犯人ではないと「証明」して見せた。  それには、三好だけでなく、鷲尾と犬飼もうなずかざるをえなかった。 「この結論[#「結論」に傍点]から出発すると、犯人の動機は、去年の五月四日か五日に平戸であった�何か�と考えざるをえないのです」  壮が話を戻した。「いま、鷲尾刑事さんから、間宮さんに沢祥子さんの件との関わりを質したときの様子を伺い、僕は自分の考えにいっそう確信を深めました。間宮さんがそれを否定しながらも顔色を変えた、という話です。  いま得た結論[#「結論」に傍点]によれば、松井、吉久保、間宮の三人は、沢祥子さんの件には直接の関係はなかったはずなのです。それなのに、松井さんは沢さんの自殺を報じた新聞を切り抜いていましたし、間宮さんはその件との関わりを追及されると顔色を変えた——。  なぜでしょうか?」  壮が三好に問いかけた。 「勘違い[#「勘違い」に傍点]……もしかしたら、彼らは勘違いしていたということでしょうか」  三好が言った。 「私もそう思います。というか、他にはないように思います」  壮が答えた。「ただ、勘違いしていたのは沢さんの事件の後しばらくで、そう長い間ではなかったはずです。僕の想像ですが、沢さんの恋人の警官が不動産会社の経営者を刺し殺した時点で、彼らは勘違いに気づいたのではないでしょうか。なぜなら、ずっと勘違いしつづけていたとすれば、松井さんは、脅された時点で調べて、玉木由加利さんと沢さんの関係をつかんでいたはずであり、ペンションで玉木さんに会ったとき、平静でいられるわけがありませんから」  犬飼は壮の話を聞きながら、松井の机の奥に小さく丸まっていた新聞の切り抜きを思い浮かべていた。壮の言うとおりなら、あれは、沢祥子の自殺の直後に切り抜いて入れ、勘違いに気づいてからも、忘れてそのままになってしまったということだろう。 「なるほど」  と、三好が応じた。「勘違いにはすでに気づいていたものの、間宮にとって、沢祥子の事件は思い出したくないものだった。そのため、鷲尾部長がその件との関わりを質すと、彼は顔色を変えた。そこから、自分たちの行なった類似の犯罪[#「類似の犯罪」に傍点]を連想して——。こういうわけですか」 「そうだと思います」 「ということは、沢祥子が角倉という不動産屋に暴行された晩、松井[#「松井」に傍点]・吉久保[#「吉久保」に傍点]・間宮の三[#「間宮の三」に傍点]人も[#「人も」に傍点]、平戸で別の女性を襲っていた[#「平戸で別の女性を襲っていた」に傍点]。それが、黒江さんの言われた去年の五月四日に平戸で起きた�何か�だった……?」 「昨夜の時点では僕もそこまで想像が及んでいたわけではありませんが、沢さんの件と勘違いしていたと考えると、そうなりそうですね」 「とすると、今度の事件の犯人は、そのときの被害者の女性か、女性と非常に深い関係にある者か、いずれかと言えそうですね」 「ええ」 「しかし、松井たちの暴行事件は表沙汰《おもてざた》になっていないようですし、そのときの被害者を特定するのは難しそうです」 「手掛かりはあります」 「といいますと?」 「まず、犯人になりうる者としては、玉木由加利さんの予定を知りえた者、殺されるかもしれないと警戒していた間宮さんに毒入りキャラメルを食べさせられた者、という二つの条件があります。  また、もし被害者の女性本人が犯人なら、その女性は去年の五月四日に平戸へ行っていたはずですし、女性の身内なり恋人なりが犯人なら、犯人は三人の人間を殺そうという意図を持ち、実際に二人まで殺しているわけですから、被害者の女性に重大な結果[#「重大な結果」に傍点]が生じている、そう思われます」 「重大な結果とは、間宮や松井の暴行を受けたその女性も、もしかしたら沢祥子と同じように自殺しているとか……」 「そうです」 「確かに……」  と、三好が緊張した顔で唾《つば》を呑《の》み込んでからつづけた。「たとえ暴行を受けても、女性にその後何事もなければ、女性本人ならともかく、その身内か恋人が三人の男たちを殺そうとまでは考えないかもしれませんね」  壮と三好の遣《や》り取《と》りを聞きながら、犬飼は口が渇くのを覚えた。  重大な結果。その後、沢祥子と同じように自殺しているかもしれない——。  そう聞いて、ある事実が犬飼の胸を騒がせていた。  事件の関係者の中に、もう一人、自殺した女がいたからだ。 「いいですか?」  鷲尾が言葉を挟んだ。 「どうぞ」  と、三好が応えた。 「兼岡ミドリの自殺は、関係ないでしょうか?」  鷲尾が訊いた。  それこそ犬飼の考えていたことだった。 「兼岡ミドリさんというと、『サンライズ・サンセット』のオーナー、兼岡さんのお嬢さん……?」  美緒が言った。 「そうです」  三好が答えた。 「兼岡さんには長崎の大学へ通うお嬢さんがお一人いらっしゃったが、亡《な》くなった——安達さんからそう伺っていましたけど、自殺されたんですか?」 「そうです。去年の七月初めに首を吊《つ》って。ただ、�動機は失恋�とはっきりしているんですが」 「それでは、事件には関係ないのでは……?」 「そう判断したんですが、いま黒江さんの話を伺って、また気になり出しました」 「その自殺の事情について、詳しく話していただけませんか」  美緒が言った。  三好が相談するように鷲尾の顔を見たが、たぶんそこに反対の意思を示す表情は見られなかったのだろう、すぐに、 「いいでしょう」  と、応じた。  黒江壮の意見を期待してのことにちがいない。  三好は、兼岡ミドリに関して判明している事実を説明し、ついでに間宮事件のときの兼岡昭一郎の所在——長崎へ来て安達モータースの二階に泊まっていたという事実——にも触れた。 「とにかく、去年の五月の連休に兼岡ミドリが平戸へ行った形跡があるかどうか、調べてみます」  と、彼は説明の最後に言った。 「その結果、もしミドリさんが平戸へ行っていたと分かれば……?」  美緒が、心持ち青ざめたような表情をして訊いた。 「犯人は兼岡昭一郎か、兼岡と妻の共犯ということになりそうです」  三好が答えた。 「で、でも、兼岡さんに、どうして松井さんたち三人がミドリさんを死に追いやった犯人だと分かったんでしょうか?」 「実は、兼岡には、それを知る手掛かりがあったんです」  三好が言って、ちらりと犬飼の顔を見てから、「ミドリを襲った現場に松井が運転免許証を落とした可能性があるんです」  それは、昨夜、犬飼の言い出したことだった。 「その免許証を、ミドリさん自身が拾っていたかもしれない?」 「そうです。ミドリのアパートにはありませんでしたが」 「では、どこに……?」 「壱岐の実家です。実家へ帰ったとき、ミドリは自分の部屋に置いておいた可能性があります。事情を記したノートのようなものと一緒に。遺書には、そうした事情は全然触れられていませんでしたが、両親以外の者には知られたくなかったのかもしれません」  三好の語調は弾んでいた。  そうか、と犬飼も思った。  これで、もし兼岡ミドリが去年のゴールデンウィークに平戸へ行っていたとなれば、兼岡か兼岡夫妻が犯人だったと見て九分九厘間違いない。  犬飼の胸も興奮に弾み出した。  そのとき、 「ああ、いま気づいたんですが……」  と、鷲尾が言い出した。「もし今度の事件が沢祥子の件と関係なかったとしたら、松井が彼女と同じように平戸港に身を投げて死んだのはなぜですかね」  確かにその説明が必要だった。 「偶然ですかね」  三好が首をひねり、問うように壮の顔を見やった。 「偶然と言えば偶然ですが、松井さんたちの犯罪行為が女性に対する暴行事件だと想像がついてみれば、たとえ彼らと沢祥子さんとの間に直接の関係はなくても、松井さんが平戸港に身を投げて死んでもおかしくないような気がします」  壮が答えた。「松井さんは、一度は沢さんの自殺を自分たちの行為の結果だと勘違いしました。そのため、沢さんの死は彼の記憶に強く刻印されていたはずです。勘違いだったと気づいてからも、彼の中では、自分たちの行為の被害者と沢さんが時にはダブっていたと思われます。としたら、もう逃げられないと観念して死のうと考えたとき、彼の頭に、自分の故郷である平戸が、さらには沢さんの自殺した平戸の海が浮かんできたとしても不思議ではありません。というより、その連想はごく自然だったんじゃないでしょうか」 [#改ページ]   第七章 偶然と必然      1  翌二十六日(日曜日)午前十時半——  美緒は壮とともに壱岐へ来ていた。  兼岡昭一郎所有のログハウスの中である。  彼らの前にいるのは、三好警部と壱岐島署刑事課長の鬼塚警部。鬼塚が、吉久保宏殺害事件の実況見分調書(鬼塚の説明参照)を開き、三好に説明している。  美緒たちは、調書に添付された図などを後ろから�勝手に�覗《のぞ》き込み、二人の遣《や》り取《と》りを�勝手に�聞いていた。要するに、�三好や鬼塚たちは壮に協力を求めたわけではないが、壮が自分の意思で謎《なぞ》を解明しようとするのは阻まない�というわけである。  美緒たちは、昨日、長崎の南山手署で三好たちと話した後、間宮の死体の見つかった現場を見て、県庁に近いホテルに泊まった。そして今朝、八時四十五分に長崎空港を飛び立つNAW(長崎航空)の第一便——八人乗りコミューター機——で、三好らとともに壱岐へ飛んだ。  壱岐空港は、島の南東の端——石田町の錦浜、大浜海水浴場の近くにあった。印通寺港から三キロほど東へ行ったところだ。  長崎・壱岐間は、列車と船を乗り継ぐと半日がかりだが、飛行機ならわずか三十五分である。  美緒たちは、迎えに来ていた壱岐島署の覆面パトカーに便乗。壱岐島署に寄るという三好や鷲尾たちより一足先に「サンライズ・サンセット」まで来たのだった。  宿泊客がチェックアウトした後らしいペンションでは、手伝いの主婦たちが部屋の掃除を始め、兼岡夫妻は厨房《ちゆうぼう》で朝食の後片付けをしていたようだ。  そこに、三週間前に東京から来た客が突然現われたのである。当然ながら、玄関へ出てきた兼岡夫妻は、驚いた顔をして美緒たちを迎えた。  美緒は壮を紹介し、仕事で福岡まで来たので、この人に壱岐の素晴らしい景色を見せたくて足を延ばした、と嘘《うそ》をついた。壮の行動は兼岡(夫妻)を追いつめる結果になる可能性が高いのに、知らん顔をして彼らの協力を求めるのは心苦しいが、彼らが殺人犯人であるかぎりは仕方がない。  兼岡(あるいは兼岡夫妻)が、昨日美緒と壮が三好たちに聞いたような事情から吉久保と間宮を殺害したのだとすれば、殺された間宮たちこそ責められるべきであろう。一人娘を狼たちの餌食《えじき》にされて失った親の悲しみ、怒り、悔しさは、想像に余りある。美緒はまだ人の子の親ではないが、もし彼女が彼らの立場だったとしても、同じような行動(復讐《ふくしゆう》)に走っていたかもしれない。  しかし、娘を死に追いやった犯人たちがどんなに憎かろうとも、法治国家においては個人的な裁きは許されない。法を犯した者は、いかなる理由があろうとも、罰せられなければならない。  といって、美緒たちは刑事でも検事でもない。そんな理屈は二の次だった。ただ、兼岡(夫妻)が犯人だった場合、警察の疑いの目を自分《たち》から逸《そ》らすためとはいえ、妹がミドリと同じような目に遭って死んだ玉木由加利に罪を被《かぶ》せようとした点だけは許せない、と思った。  だから、由加利の無実を晴らすためにも、事実を明らかにしなければならないのだった。  美緒は、ログハウスを現在も工作所として使用していることを確かめると、見せてほしい、と頼んだ。  兼岡は怪訝《けげん》な顔をしたものの、まだ今日は開けてないが自由に入って見てよい、と鍵《かぎ》を貸してくれた。  美緒たちは礼を言い、ペンションの玄関を出た。庭の端まで行って、雑木林の中を斜めに下り、さらに下の小道を七、八十メートル下った。  美緒たちが壱岐へ来た目的は、兼岡のアリバイを検討するためである。兼岡が犯人であると言うためには、兼岡本人か彼の妻に吉久保の殺害が可能だったことを示さなければならない。それには、五日の朝、美緒たちが兼岡と一緒にペンションの食堂で聞いたガッシャーンという音がする前に吉久保を殺しておき、ペンションへ戻ってのち天井から吊《つ》り下げられた電灯で窓ガラスが割れるように工作した、と証明しなければならない。要するに、何らかのトリックを使った、と。  しかし、警察が徹底的に調べたにもかかわらず、そうした工作が行なわれたことを示すような物や跡はどこにもなかったのだった。  といって、兼岡であれ他の誰であれ、五日の朝、ガッシャーンという音がしたときペンションの食堂か厨房にいた者には、警察が来る前に工作に使われた物を持ち出したり工作の跡を消したりすることはできなかったのである。  そのとき、ログハウスへ駆けつけたのは、兼岡と美緒とサユリと佐知と安達江美の五人。江美は警察と救急車を呼ぶためにすぐにペンションへ戻ったので、ログハウスの中へ入ったのは兼岡と美緒たち三人。もちろん美緒たち三人はどこにも触れていないし、兼岡も同様であることは美緒たちが一番よく知っている。兼岡が吉久保の死を確認したのは美緒たち三人の見まもっている前でだったし、その後外へ出てから警察が来るまで、彼は一度もログハウスの中へ入っていない。  警察は、窓ガラスは前もって割っておき——前日の夕方まで割れていなかったのは確かなので、夜か犯行日の早朝、音をたてないように注意して割っておき——八時二十七分頃は、別のときに録音しておいたガラスの割れる音をテープレコーダーで流したのではないか、といった疑いも抱いたようだ。  が、その可能性は二重に否定された。  一つは、ガラスの割れ方から見て、夜や早朝の静まりかえっているとき、ペンションにいる人間に気づかれないように割るのは極めて難しい(結果としてできたとしても、前夜もしそれらしい音を耳にした者がいたら墓穴を掘ることになる)、という点。もう一つは、美緒たちの聞いた音がもし再生されたものだったとしたら、小型テープレコーダーから流れた音などでは断じてないのに、周辺のどこからも大きな音を出せる機器類は見つからなかったという点、である(音がしてから警察が来るまでの間に、一人きりになった時間があるのは、警察に連絡するためにログハウスからペンションへ戻った安達江美しかいない。ずっと美緒たちと一緒にいた兼岡にも、手伝いの主婦と一緒にいた彼の妻の綾にも、それを処分するのは不可能だった。もちろん、玉木由加利を連れてすぐに美緒たちのところへ戻ってきた江美に、そうした機器類を警察に見つけ出されないように隠す時間がなかったのは言うまでもないだろう)。  天井から長く吊り下げられた、琺瑯引《ほうろうび》きの笠《かさ》の付いた電灯——。  笠にはガラス粉が付着していたし、新しくできた小さな疵《きず》も認められた。  これを窓の対面の入口側に引いておいて放せば、大きな振り子のように動いて窓ガラスを直撃し、かなり高い確率でガラスは割れただろう。  だから、犯人がトリックを使ったのだとしたら、この電灯の�振り子�を利用したのは間違いない。犯人は、自分がペンションへ帰った後で振り子が動くように工作したにちがいない。  鷲尾たち警察はそう考えたようだ。  だが、〈現場に何の痕跡も残さずに[#「現場に何の痕跡も残さずに」に傍点]、振り子を一定時間留めておいて解き放つ方法〉は誰も思いつかなかったらしい。というか、そんな方法はない、と彼らは結論した。  しかし、一度消えた兼岡犯人説が再び大きく浮上した。兼岡が犯人であると言うためには、兼岡(か彼の妻)に吉久保の殺害が可能だったことを示さなければならない。つまり、兼岡が使ったと思われるトリックを解明しなければならなくなったのだった。  昨日、美緒と壮は、美緒も事件の関係者として多少は知っていた、以上のような事情を聞いた。  三好たちがそうした事情を話したのは、口にこそ出さなかったが、壮の力を借りたかったからだろう。  が、壮とて、おいそれと答えが見つかるわけがない。  道々考えながら、間宮の殺されていた現場を見て、電話で予約しておいた近くのホテルへ引き上げた。  長崎空港までバスで行って、東京行きの最終便に乗れないことはなかったが、兼岡ミドリに関する三好たちの調査結果——去年の五月の連休にミドリが平戸へ行った形跡がないかどうか——を聞きたかったので、泊まることにしたのだ。  結局、去年のゴールデンウィーク中のミドリの所在、行動ははっきりせず、調査は翌日(今日)に持ち越された。  夜八時過ぎに壮がホテルから三好に電話して尋ねると、三好が明かしたのである。  三好によると、壱岐島署の鬼塚が兼岡夫妻を訪ね、鷲尾と犬飼が安達江美を訪ねて訊《き》いた。すると、兼岡夫妻は、ミドリが去年のゴールデンウィークに壱岐へ帰らなかったのは確かだが、そのときどこかへ行く、あるいは行ったという話は聞いていないと言い、江美は、去年の連休中は神戸にいる兄のところへ遊びに行っていたので分からない、と答えたのだという。  しかし、ゴールデンウィークに実家に帰っていないということから、そのときミドリが平戸へ行っていた可能性はある。というより、その可能性が高いのではないか。  壮から三好の話を聞いた後、美緒がそんな感想を述べているとき、壮が不意に明日壱岐へ行ってみないかと言い出した。  三好が、明日壱岐へ行って兼岡夫妻に会い、ログハウスを自分の目で見てみるつもりだと言ったことに触発されたのかもしれない。  ——私たちも壱岐へ?  美緒は訊《き》き返した。  ——ええ。飛行機なら三十分ほどで行けるんでしょう。  ——そうだけど……。  ——夕方、福岡へ飛べば、明日中には東京へ帰れます。  ——それはいいんだけど、三好警部さんたちが何というか……。  三好たちは今、だいぶ友好的になっている。それなのに、臍《へそ》を曲げられたら、元も子もなくなってしまう。今後、情報を手に入れ難《にく》くなる。  ——やっぱり、ログハウスを実際に見ないと駄目?  ——分かりませんが、できれば見てみたいと思ったんです。  それはいつものことだった。  壮とて、必要なデータが揃《そろ》っていないと解答を出せない。だから、彼は、謎を考えるとき、できるかぎり自分で現場まで足を運んだし、どうしてもそれができないときは、彼をよく知っている警視庁の勝《かつ》部長刑事か薬師寺が彼の足と目の役割を果たしてきた。  今回、壮の足と目の役を務めたのは鷲尾であり、美緒である。  美緒は、鷲尾から聞いた話を補足するように、ペンション「サンライズ・サンセット」とログハウスの位置関係、ログハウス内の配置、吉久保が殺されていたときの室内の様子などを壮に説明した。室内の様子については、特に詳しく。  それでも、壮は、自分の足で壱岐の現場に立ち、自分の目でログハウスの内と外とを見てみたいと考えたらしい。  ——分かった。それじゃ、三好警部さんたちに黙って行くわけにはいかないから、知らせておくわ。  美緒は言うと、三好に電話をかけ、壮の意思を伝えた。  と、思ったとおりだった。三好は、  ——困りますな。  と、不機嫌そうな声を出した。  美緒は、けっして捜査の邪魔をしないから、と強調した。  三好が、それじゃしばらく待ってくれと言って、電話を切った。  彼からは、十五分ほどして電話があった。  たぶん、鷲尾たちとどうすべきか相談したのだろう。  その結果、トリックを解くのに壮の頭脳は有効かもしれないと判断したようだ。  勝手に壱岐へ行って、警察と関係なくログハウスを調べるのなら構わない、と返事をしてきた。  壮は今、鬼塚の広げた実況見分調書とログハウス内を交互に見やっては考えている。  トリックの跡を示すようなものは何一つなかったという鬼塚の説明を聞きながら。  手品に種があるように、トリックには必ず何らかの工作が必要である。誰かが後で消さないかぎり、その工作の跡がまったくないといったことは考えられない。  それがない、というか、�犯行直後に見つからなかった�ということは、  (1)、兼岡(夫妻)は犯人ではなく、そもそもトリックなど存在しなかったか、  (2)、兼岡が、壮や刑事たちの盲点を突いた非常に巧妙なトリックを使ったか、  (3)、兼岡が、事件の後で美緒たちの目をかすめてその痕跡《こんせき》を消したか、  いずれかである。  これらのうち、これまでは(1)であろうと考えられてきたのだが、現在は、(2)か(3)ではないかと疑い、あらためてその可能性をさぐっているのだった。  まだ、去年のゴールデンウィークに兼岡ミドリが平戸へ行ったかどうかさえ分かっていない。だから、兼岡を犯人だと決めつけ、彼がトリックを使ったと断定するのは早計である。  とはいえ、今や、三好たちだけでなく、美緒と壮も、その疑いが非常に濃い、と考えていた。  そのため、厚い壁を前にして困惑しているのだった。  美緒と壮は、三好たちが到着する二十分ほど前にこのログハウスへ来た。中へ入って、事件のときの配置とほとんど変わっていない大きな作業台や机や棚、天井から吊り下げられた琺瑯引きの笠と百ワットのボール電球の付いた電灯、割れる前と同じにガラスの嵌《は》められた窓などを見た。壮は、電灯を振り子のように手で動かし、それを反対側に引いておいて放せば、窓ガラスに当たることを確かめた。ドアや柱の傷などを調べた。その後、ログハウスの外側の壁、周囲の松林や藪《やぶ》なども見て歩いた。  しかし、不審な点は何一つとして見つからなかった。  五日の朝、美緒たちがガッシャーンという音を聞いて駆けつけると、錠が壊されてドアが開いており、作業台の下の床に吉久保が倒れていた。吉久保は両足とも素足で、脱げた靴が床に転がり、割れた窓の右上で換気扇が回っていた。また、部屋の中には、作りかけの工芸品やその材料、工具、煙草の吸殻、四角いブリキ缶の蓋《ふた》、蚊取線香の欠けらなどが散乱し、さらに、蚊取線香の灰が床や作業台の上一面に散っていた(五日の朝警察が来るのを待っている間に兼岡に聞いたところによると、蚊取線香は去年の使い残しをブリキ製菓子缶の蓋に入れて三段ある棚の最上段に載せておいたものだという。蓋の四分の一ほど棚の端から外にはみ出ていたというから、犯行時に何かが触れて落ちたにちがいない。また、最上段の棚は電灯より上に位置しているからだろう、昨日の鷲尾の説明では、蚊取線香の灰は床や作業台の上だけにとどまらず、電灯の笠にまで散っていたという)。  こうした、鷲尾の説明と美緒の話の中で、壮は、蚊取線香の灰が一面に散っていたという点と換気扇が回っていたという事実に引っ掛かったようだった。  といっても、蚊取線香あるいはその灰で電灯を振り子のように動かすわけにはゆかないし、換気扇にしても同様である。また、それらによって、何らかの工作の跡を消すことができたとも思えなかった。  鷲尾の話によれば、床に落ちていた煙草の吸殻三本は、吸い口に付着していた唾液《だえき》の血液型から吉久保が吸ったと見てほぼ間違いないという。とすれば、鷲尾の言ったように、換気扇は、犯人か吉久保が吉久保の吸った煙草の煙を外に追い出すために点《つ》けた、と見るのが妥当であった。 「やっぱり、兼岡はシロなんじゃないですかね」  と、鬼塚が言った。  三好が黙って首をかしげた。 「あなたはどう思う?」  美緒は、三好たちの会話とは関係なく、傍らの壮に小声で訊いてみた。  壮が、三好と同じように首をかしげた。  どちらとも言えないし、分からない、という意味のようだった。 「その判断は、もうしばらく待ってみましょう」  と、三好が言った。「兼岡ミドリが、去年の五月四日に平戸以外の別の場所にいた事実が判明すれば、私たちは大きな回り道をしたことになります。ですが、逆に、もし、そのとき彼女が平戸へ行っていたとなれば、私たちの狙《ねら》いは正しかったと言えそうです。そのときは、どんなに厚く堅固でも、前を塞《ふさ》いでいる壁を突破しなければなりません」  美緒たちは、三好たちと別れ、郷ノ浦港に下った。  壱岐まで来たが、もう壱岐ですることはなかった。あとは、壮が、いま見てきた吉久保の殺されたログハウスを頭の中に浮かべて考えるだけである。  しかし、東京へ帰ろうにも、博多行きの船も福岡行きの飛行機も、午後二時過ぎまでない。まだ十一時半前なので、約二時間四、五十分ある。  美緒たちは、二時十分に芦辺港を出る高速船ジェットフォイルで博多へ行き、新幹線で帰ろう、と話し合った。それまで島内を巡るためにレンタカーを借りた。      2  同じ日曜日——  美緒と壮が牧崎の「鬼の足跡」へ行き、天然の芝生に覆われた断崖《だんがい》の上を歩いている頃、犬飼は鷲尾と平戸に来ていた。  去年のゴールデンウィークに兼岡ミドリが平戸へ行ったかどうか、兼岡夫妻と安達江美は知らない、という。兼岡(夫妻)が犯人なら、二人は嘘《うそ》をついているはずだが、知らないというものはどうにもならない。他に知っているかもしれないのはミドリの大学の友人たちだが、姉妹のように親しかったという安達江美さえ聞いていないのだから、その可能性は薄い。  といって、もちろん、ミドリの学友たちに当たらないわけではない。今頃、三好の部下たちが、これまでに話を聞いたことのある彼らの自宅やアパートを訪ね回っているはずだった。  ただ、それとは別の角度から同じことを調べるために、鷲尾と犬飼は平戸行きを命じられたのである。  犬飼たちは今、平戸中央署の梶警部の協力のもとに、彼の部下たちと手分けして平戸市内のホテル、旅館を当たり始めていた。片っ端から。  この方法も、去年の五月四日にミドリが泊まったことを突き止められる確率は、けっして高くない。去年の連休にミドリが平戸へ来ていたとすれば、江美にさえ予定を教えていないという事実から推し、ミドリは一人ではなく、氏名不詳の恋人と一緒だった、と考えられる。予約やチェックインの際、彼女の名を出しているとはかぎらない。いや、十中八九出していないだろう。とすれば、犬飼たちがミドリの写真を示したところで、一年以上も前に来た客の顔を旅館やホテルの従業員が覚えている可能性は極めて低い。実際、犬飼たちがこれまでに訪ねた二軒のホテルでは、ミドリらしい女性の影さえ認めることができなかった。  それでも、手をこまねいているわけにはゆかない。少しでも可能性があるかぎり、犬飼たちはその可能性を追求しなければならなかった。今や、今度の連続殺人事件の動機は兼岡ミドリの死にあったのではないかと考えられ、彼女が自殺した原因は�去年の五月四日の平戸�にあったのではないか、と想像されるのだから。  しかし、それらはまだ推理の段階である。兼岡(夫妻)が犯人ではないかと考えても、ミドリが去年のゴールデンウィークに平戸へ来ていた事実を突き止めないことには、何も始まらない。それが判明して、やっと一歩、兼岡犯人説は事実へ向かって前進し、現在厚い壁に阻まれている�兼岡による吉久保殺し�が可能だったことを立証するための原動力も得られることになる。  犬飼たちは、「紅梅亭」という大きなホテルを出て、遊歩道をもうひと登りした。  右手上の林の中に建った、「平戸スカイホテル」という薄いブルーのこぢんまりとしたホテルの玄関が見えてきた。  ザビエル記念碑やジャガタラ娘像、三浦按針《みうらあんじん》の墓、展望所などのある、丘の斜面を拓《ひら》いて造られた崎方《さきかた》公園の一角である。  ホテルの玄関へ向かう前に足を止めて振り返ると、木の間隠れに下に平戸港が覗《のぞ》き、港の向こう、緑の丘の上には平戸城が周囲を見下ろすようにして建っていた。  ホテルの玄関は、遊歩道から十四、五メートル斜めに登ったところだった。車は別の道から登ってくるらしく、庭にホテルのマイクロバスと乗用車が二台|駐《と》まっていた。  犬飼たちは、静かな庭から、同じようにひっそりとした玄関を入り、フロントへ向かった。  時刻は、二十分ほどで正午だった。  昨夜の客がみなチェックアウトした後なのだろう、余り広くないロビーだけでなく、フロントにも人の姿がなかった。  それでも、犬飼たちがカウンターに近づくや、気配を感じたのか、ドアの開いていた事務室から四十歳前後の蝶《ちよう》ネクタイの男が出てきた。 「いらっしゃいませ」  男は、値踏みするような目を鷲尾と犬飼に素早く走らせてから、頭を下げた。  鷲尾が、「長崎県警の鷲尾、犬飼といいます」と名乗って、警察手帳を示した。 「警察の方が、何か?」  男の顔に、不安というよりは警戒の色が浮かんだ。 「去年の五月の連休に泊まった客について、お尋ねしたいんです」  鷲尾が言った。 「去年の連休、ですか……?」  男が繰り返した。 「だいぶ前のことで申し訳ないんですが」 「どういうことでしょう?」 「去年の五月四日の夜、兼岡ミドリという長崎から来た若い女が泊まっていないかどうか調べていただきたいんです」  鷲尾が言うと、ミドリの写った三枚の写真を示し、「この女性です。年齢は当時二十歳。カネオカのカネは兼ね備えるの兼、オカは岡山の岡、ミドリは片仮名です」  男は、ちょっと首をひねりながらミドリの写真を二度見返していたが、 「もうだいぶ前のことなので、はっきりしませんが、もしかしたらうちにお泊まりになったお客様かもしれません」  と、言った。 「えっ、それじゃ、見たことがある!」  鷲尾が驚きの声を上げた。  九十九パーセント、�さあ、分かりませんね�といった返事がかえってくると思っていたからだろう。  それは、犬飼とて同様だった。 「あ、いえ、私の勘違い、思い違いかもしれませんが」  男が慌てて言いなおし、「とにかく、宿泊カードを調べてみましょう」 「お願いします」 「申し遅れましたが、私は当ホテルのマネージャーの新藤と申します。ご覧のように、たいしたホテルじゃありませんので、フロント係を兼ねておるような次第でして……」  よろしくお願いします、と鷲尾がもう一度言った。 「去年のカードはすでに箱詰めにしてしまったので、少し時間がかかりますから、あちらの椅子《いす》でお待ちいただけますか」  新藤と名乗ったマネージャーが、ロビーのソファを示した。 「分かりました」  と、鷲尾が答えてから、「あ、ただ、兼岡ミドリは、誰かと一緒に泊まったのかもしれないんです。その場合、彼女の氏名は宿泊カードに記されていないかもしれません」 「いや、この写真の方がもし私の記憶にある方でしたら、お一人でお泊まりです」 「去年の五月の連休に?」 「ええ」  新藤がうなずいた。  犬飼は生唾《なまつば》を呑《の》み込んだ。 「どうして、そんなに前のことを……」  鷲尾が言いかけると、 「それは、カードを見つけてきてからお話しします」  と新藤が遮り、事務室に引っ込んだ。  犬飼は、鷲尾と顔を見合わせた。 「間違いないかもしれませんね」  小声で言うと、鷲尾が「うむ」と強張《こわば》った顎《あご》を引いた。  ただ、それが兼岡ミドリだとすると疑問がないわけではない。彼女はゴールデンウィークになぜ一人でこんなところへ来て泊まったのか——。  しかし、その疑問もやがて解けた。  犬飼たちがロビーのソファに掛けて十分ほど待っていると、新藤が一枚のカードを手にフロントカウンターの中から出てきて、 「ありました。去年の五月四日、確かに、兼岡ミドリ様は当ホテルに泊まっておられました」  と、彼らに近づき、その理由を説明したからである。  新藤は犬飼たちの前に腰を下ろすと、まず一枚の宿泊カードを犬飼たちに読みやすいようにテーブルに置いた。  カードの日付は去年の五月四日。兼岡ミドリの本名と長崎市の住所、宿泊者数が女性文字で記されていた。  宿泊者数は一人である。 「ありがとうございました」  鷲尾がカードから顔を上げて新藤に礼を述べたのに合わせ、犬飼も頭を下げた。  胸が昂《たかぶ》っていた。  予想もしなかった幸運から、早々と第一の関門を突破し、昨日の推理の一つが裏づけられたのだった。 「なぜ、一年以上も前の宿泊客のことを覚えておられたのか、先ほどの説明をお願いできますか」  鷲尾が言った。 「もちろんご説明しますが……刑事さんたちは、どうしてこんな前のことを調べておられるんですか」  新藤が訊き返した。 「今は、ある事件に関係あるかもしれないので……としか申し上げられないのですが」 「この方が何かしたんですか?」 「いえ、そうじゃありません。兼岡ミドリは去年の七月、長崎で自殺してしまいましたので」 「この方は自殺したんですか……! 実は、うちにお泊まりのときも、どこか様子がおかしいので、注意していたんです」 「ここに泊まったときも、自殺しそうな様子だった?」 「はっきりとそんなふうに見えたわけじゃありませんが、何となく気になって……。  とにかく、なぜ私がこの方を覚えていたのか、順を追ってご説明しましょう」  新藤は言うと、説明を始めた。  それによると——  宿泊の予約は電話で成されたのではなかったか、という。連休中の宿泊なので、遅くとも二週間以上前に、〈五月四日・二人で一泊〉と、兼岡ミドリ名で[#「兼岡ミドリ名で」に傍点]予約が入っていた。ところが、四日、ミドリは、一緒に来るはずだった友人に急用ができたからといって一人で現われた。  応対した若いフロント係が、どうしますかと事務室の新藤に訊きにきたので、新藤が出て行き、空《す》いているときならともかく、ゴールデンウィーク中に予約に違反して一人で泊まるなんて困ると文句を言うと、二人分の料金を払うから泊めてほしい、とミドリが頼んだ。青い顔をして、思い詰めたように懇願するミドリを見て、新藤としては、何か厄介なことを引き起こすのでは……と嫌な感じがし、泊めたくなかった。といって、ここまで来ている相手を追い返すわけにもゆかず、結局、一・五人分の料金をもらうという条件で泊めた。  新藤は、自分がミドリに注意しただけでなく、フロント係や部屋係にもそれとなく注意するように言っておいたが、別にこれといった問題を起こした形跡はない。翌朝、自殺したと見られる若い女性の死体が平戸港で上がったと聞いたとき、新藤は一瞬ぎくりとしたが、別人と分かり、ほっとした。なお、ミドリと一緒に泊まるはずだったのは、ミドリの口ぶりでは女友達のようだったが、男だった可能性もないではない——。  犬飼たちは、新藤からミドリの宿泊カードを借りて、「平戸スカイホテル」を出ると、坂を下って平戸中央署へ急いだ。  いま新藤から聞いた話を梶警部に報告し、一刻も早く壱岐島署にいるはずの三好と鬼塚に知らせたかった。  犬飼たちは、去年の五月四日、ミドリと一緒に「平戸スカイホテル」に泊まるはずだった友人というのは男だったのではないか、と足をゆるめずに話し合った。  もし女友達との旅行なら、友達の都合が悪くなった時点でホテルをキャンセルし、自分も旅行を取りやめたのではないかと思われたからだ。  つまり、ミドリは、(相手が来ないのなら)男と泊まるはずだったとマネージャーやフロント係に思われたくなかった、それで、女友達のようなニュアンスで話した、というわけである。 「しかし、ミドリの相手が男……恋人だったとしても、男の都合が急に悪くなったというような事情なら、ミドリはやはり同じように宿泊予約をキャンセルして、旅行を中止したんじゃないかね」  鷲尾がつづけた。 「私もそう思います」  と、犬飼は同調した。 「ところが、ミドリは一人で平戸まで来て、泊まっている。思い詰めたような顔をしてマネージャーに頼み込んで。これは、特別の事情を想像させるな」 「ええ」 「そしてそれは、ミドリが間宮たちに襲われた事件とも関係していそうだな」 「どういうことでしょう?」 「ミドリは、ゴールデンウィークに恋人と一緒に旅行するつもりで、『平戸スカイホテル』に自分の名で予約した。が、恋人はミドリの願いを退けた。ミドリの遺書にあった失恋が事実なら、この頃から二人の仲はしっくりといっていなかったのかもしれない。それはともかく、恋人に断わられたミドリは、意地を張って一人で平戸へ来て、泊まった。あるいは、心のどこかで、一度は行かないと言った恋人が来てくれるかもしれないと期待していたのかもしれない」 「だから、思い詰めたような顔をして、どうしても泊めてくれと頼んだ、というわけですね」 「俺の想像だが」 「私も、おそらくそのとおりだったのではないかという気がします。  しかし、ミドリの願いに反し、恋人は現われなかった。電話もなかった」 「たぶん」 「そのため、ミドリは傷心から夜ホテルを出て、一人で人気のない崎方公園のあたりを歩き回った。頭も気持ちも恋人のことでいっぱいで、おそらくいつもより無防備になっていた。そこに、間宮たち狼に狙《ねら》われるスキが生まれ、ミドリは彼らに襲われた——」 「うん」  これらは犬飼たちの想像である。  今となっては、このときの状況やミドリの気持ちは誰にも分からない。  が、当たらずといえども遠からずではないか、と犬飼は思った。  たとえ、ミドリと恋人との関わりについては想像が外れていたとしても、 〈去年の五月四日から五日にかけて、ミドリが平戸に来ていた〉  という点だけは確実になったのだった。しかも、四日の夜、周りに人家のない丘の中腹のホテルに一人で泊まった事実だけは。  犬飼たちは、飛ぶような足取りで平戸中央署へ通じる橋を渡った。      3  午後一時四十分——  美緒と壮は、芦辺港のフェリーターミナルに着いた。待っていたレンタカー会社の社員に、正規のレンタル料と乗り捨て料金を支払って車を返し、ターミナルビルに入って、博多までの切符を買った。  対馬から来る二時十分発の便は高速船なので、普通のフェリーに比べ、およそ半分の一時間で博多港に着く。美緒たちは、港から博多駅までタクシーで行き、博多発午後四時の「ひかり54号」か、四時二十分の「のぞみ24号」に乗るつもりだった。  東京着は「のぞみ」なら九時二十四分、「ひかり」なら十時十四分。どちらに乗ったとしても今日中に西荻窪の自宅に帰れる。 「せっかくまた壱岐まで来たんだから、父と母にお土産《みやげ》、買ってくるわね」  美緒は言うと、壮に待合所の椅子《いす》に置いた荷物の番を頼んだ。  軒下に、味醂干《みりんぼ》しやら何やらの魚貝類を並べた店が出ていたからだ。  美緒がビルを出て、売り子のおばさんの愛想《あいそ》のよい笑みに招かれたとき、黒塗りの乗用車が勢いよく広場に入ってきた。  美緒の前に停《と》まるのと同時にドアが開き、一人の男が降りてきた。 「あらっ!」  美緒は思わず声を出した。  男も美緒に気づき、足を止めた。  三好だった。 「どうも……」  三好が頭を下げた。 「警部さんもこのフェリーで博多へ帰られるんですか?」 「あ、いや……」  では、もしかしたら自分たちに会いに来たのでは……と美緒が思ったとき、待合所にいた壮も三好に気づいたらしい、二つのボストンバッグを両手に提《さ》げて、外へ出てきた。 「どうも……」  三好が壮に挨拶《あいさつ》した。  壮は怪訝《けげん》な顔をして、黙って頭を下げた。 「お帰りのところ、申し訳ありません」  三好が言う。  いま一つ目的がはっきりしないが、その言葉から判断すると、どうやら美緒の想像したとおりだったようだ。  さっき、レンタカーを借りた後、二時十分のフェリーで帰ると壱岐島署に電話を入れ、三好に伝言しておいたのである。 「で、その後、いかがですか?」  三好が、壮にとも美緒にともなく訊《き》いた。  まったく工作の跡を残さずに窓ガラスを割る方法——。この謎《なぞ》を解くヒントぐらいつかんだか、ということらしい。 「残念ながら、まだ分からないようです」  と、美緒は答えた。  壮があれからずっと考えつづけているのを、美緒は知っている。美緒に叱《しか》られるので、適当に彼女の話に合わせていたが。綺麗《きれい》な景色を見ているときだけならまだしも、レンタカーを運転しながらも。 「そうですか」  と、三好が、がっかりしたような声を出した。  やはり、彼は壮の頭脳に期待していたらしい。 「警部さんもご存じのように、私は、五日の朝、ガッシャーンという音を聞いて現場のログハウスへ駆けつけた一人です。あのときの状況はよく知っています。警部さんやこの人の考えているような方法なんて、そもそもなかったんじゃないでしょうか」  美緒は言った。 「うむ……」  と、三好が曖昧《あいまい》にうなずいた。  どうしようかと考えているか迷っているような目だ。 「それは、兼岡さんは犯人ではないということですけど」  美緒はつづけた。 「いや、兼岡は犯人です」  三好が思い切ったように言った。  その断定に、壮が〈えっ!〉と驚いたような目をした。  すると、三好が、 「あ、いえ、まだ確証はありませんが、九割がた犯人に間違いないと思います」  と言いなおした。 「何か新しく分かったんでしょうか」  壮が訊いた。 「え、ええ」 「もしかしたら、兼岡ミドリさんが去年の五月四日に平戸へ行っていた事実でも?」 「そのとおりです」  三好が明かす気になったらしい、壮の想像を肯定した。  三好はつづけた。 「実は、一時間半ほど前、平戸へ行っていた鷲尾部長から報告が届いたんです。兼岡ミドリは、去年の五月四日、一人で平戸のホテルに泊まっていました」 「一人で……?」  美緒は思わずつぶやいた。 「それには事情がありまして——」  と、三好が、鷲尾たちがホテルのマネージャーから聞いた話と、鷲尾と犬飼の推理について説明した。ミドリは「友人」と二人で泊まるつもりで予約したが、「友人」が来なかったこと、ミドリはその「友人」を女性のようなニュアンスで話したが、ミドリの秘密の恋人だったと見て間違いないのではないかということ、など。 「そのとき、兼岡ミドリさんが松井さんたちに襲われたということは?」  美緒は訊いた。 「そこまでは分かりません。ですが、兼岡ミドリが去年の五月四日に平戸へ行っていたのではないかという昨日の私たちの想像は、まさにどんぴしゃりだったわけです。今度の事件のスジが彼女の自殺にあったことは間違いない、と思います」  三好が答えた。 「そうですわね」  美緒も同調した。 「ところが、兼岡夫妻は容疑を否認しています。現在、私たちは二人を壱岐島署まで任意で同行し、別々に事情を訊いている最中なんですが、彼らは、ミドリが去年のゴールデンウィークに平戸へ行っていたなんて知らない、それは昨日鬼塚警部に答えたとおりだ、と言い張っています。また、自殺したミドリは、アパートの部屋で見つかった遺書以外には手紙や日記の類《たぐ》いを何も残していなかった、ましてや松井の運転免許証など見たこともない、とも」 「そうですか」 「もちろん、二人のそうした反応は当然予測していたことですが」  三好は言ったが、尋問の途中で捜査の責任者である彼が抜け出してきたのだから、兼岡(夫妻)のアリバイの壁を前にして、彼らは相当困っているにちがいない。三好は、それを破る手掛かり、あるいはヒントを壮から得たかったのだろう。 「アリバイを崩さないかぎり、どうにもならない、というわけでしょうか」  美緒が訊くと、 「ええ」  と、三好が認めた。「兼岡は、私たちがしつこく追及すると、自分にも妻にも吉久保が殺せなかったことははっきりしているのに、なぜ疑うのかと食ってかかる始末です。そして、もしこれ以上疑うのなら、まず犯行が可能だったことを示してからにしろ、と」  三好が悔しげに唇を噛《か》んだ。 「そうですか……」 「また、兼岡はこうも言っています。  本当にミドリが平戸で松井たちに襲われて自殺したのだとすれば……そしてそれを自分が知っていたとすれば、自分は、後先の見境もなく彼ら三人を鉈《なた》で叩《たた》き殺していたかもしれない。しかし、自分は知らなかった。今でもそんなことがあったとは信じられない。だから、何もしていない、と」  三好の話を聞いているうちに船が着き、下船したらしい人々の姿が増え、タクシーや乗用車も動き出した。  待合所の中を見ると、荷物を持った人々が並んでいたから、乗船者の改札が始まるらしい。 「失礼しました。そろそろ出港ですね」  と、三好が言った。 「せっかく壱岐までご一緒させていただいたのに、お役に立ちませんで……」  美緒は如才なく返した。  相手が礼儀をわきまえた応対をすれば、こちらだって突っ張らない。 「今日中に東京へ?」 「ええ。でも、東京へ帰ってからでもこの人が何か気づきましたら、すぐにお知らせしますわ」 「そうですか。……ああ、薬師寺さんに会われましたら、よろしくお伝えください」 「分かりました」  美緒は、壮から自分のボストンバッグを取り、それじゃ……と三好に挨拶《あいさつ》した。  壮も黙礼する。  三好に見送られて待合所の中へ入ると、ちょうど人々の列が動き出したところだった。  美緒たちはその最後尾につき、改札を済ませて乗船した。  高速船「ヴィーナス」の博多港着は三時十四分。美緒たちはすぐにタクシーに乗り、博多駅に着いたのは三時三十二分だった。  まだ、「ひかり54号」の発車時刻・四時まで二十八分ある。  美緒は壮にボストンバッグを預けてコンコースの端に待たせ、みどりの窓口へ乗車券と特急券を買いに行った。  始発なので、自由席である。  四、五分かかって戻ると、壮がいない。  美緒は、どこへ行ったのかとあたりをきょろきょろやるが、ボストンバッグを二つ提げた相棒の姿はどこにもない。  美緒は首をかしげた。  トイレでも買物でも、行くなら行くと前もって美緒に言ったはずである。  といって、大勢の人が行き来しているこのコンコースで、大の男が神隠しに遭うわけもない。  どこへ行ったのか、美緒には想像がつかなかった。道路や駅のホームで突然何も見えず聞こえずの「考える人」になったことはあっても、相棒がこんなふうに消えたことはこれまで一度もなかったからだ。  時計を見ると、三時三十八分。  改札口を入って新幹線のホームへ行くまで五分は見ておかなければならないから、あと十七分しかない。  焦りが生まれた。  焦りと腹立たしさ……。  この場所をあまり離れるわけにはゆかないので、美緒は右に十メートル、左に十二、三メートルと動いて、捜した。  しかし、壮はどこにもいない。 〈どこへ行っちゃったのかしら?〉  美緒は少し心配になり出した。  時計の針は三時四十分を回った。  あと十五分以内に現われないと、自由席特急券を「のぞみ」の指定席券に買い替えなければならない。  と、美緒が思ったとき、美緒の位置から見てコンコースの右手、筑紫口のほうから歩いてくる壮の姿が見えた。  彼も美緒を認め、足を速めた。  美緒は、ほっとすると同時に腹立たしさがよみがえった。気づかないふりをして横を向いた。  壮が近づいてきた。  美緒は知らん顔を装う。  壮が多少息を荒くしながら横に立ち、 「すみません」  と、謝った。 「すみませんって、黙ってどこへ行っていたのよ?」  美緒は相棒を見て、難詰した。 「筑紫口の外まで……」 「筑紫口の外って、何をしに行ったの?」 「何かをしにというわけじゃないんです。ここを、四、五歳の男の子がゴムの付いた風船で遊びながら母親と一緒に通ったんですが、そのあとについて行ったようなんです」 「行ったよう……?」 「気がついたら、外に出ていたんです。すみません」  壮がぺこりと頭を下げてから、「でも、おかげで、解けました」 「えっ、解けたって、アリバイの謎が!」 「ええ」 「もしかしたら、男の子の持っていた風船がヒントになったわけ?」 「そうです」 「どんな風船?」 「よく縁日などで売っている、水の入った、テニスボールぐらいの大きさの風船です。四、五十センチのゴムが付いていて、指にゴムをはめてボンボンと手のひらで突いて遊ぶ……。男の子が、母親に急《せ》かされながらも、なかなかうまく突けず、足を止めてはその風船と格闘していたんです。それを見るともなく見ていたとき、〈そうか、ゴムか……〉と思ったら、いつの間にか男の子のあとについて歩き出してしまったらしいんです」 「ゴムを使えば、まったく工作の跡を残さずに窓ガラスを割る方法が可能だった、というのね」 「いえ、まったく工作の跡を残さずに、なんて無理でした。ただ、五日の朝、美緒さんたちと一緒にログハウスへ駆けつけた犯人には、美緒さんたちに気づかれずにその工作の跡を消す方法があったのではないか、ということです」 「どういう……」  訊きかけて、美緒は時計を見た。  三時四十六分三、四十秒。 「あ、もう行かないと、四時の『ひかり』に間に合わなくなるわ。乗ってから、ゆっくり聞かせて。三好さんに電話してあげるのも、列車の中からでいいでしょう?」  壮がうなずいた。  美緒は、彼の手から自分のボストンバッグを取った。 「行きましょう」  と歩き出すと、すぐに壮が並んできた。 「やっぱり、あなたが壱岐まで行った甲斐があったわね」  美緒は、足をゆるめずに相棒の顔に微笑《ほほえ》みかけた。  これで、三好たちは前に立ち塞《ふさ》がっていた壁を崩し、事件は解決に向かうにちがいない。そう思いながら。      4  美緒たちは、禁煙車両の二つ並びの席を辛うじて確保した。  荷物を網棚に載せてほっと一息ついて間もなく、列車はホームをすべり出した。 「教えて。犯人はどういうトリックを使ったの?」  美緒はさっそく壮に説明を求めた。 「いつものことですが、分かってみるとコロンブスの卵……実に簡単な方法です」  壮が言った。 「でも、どう考えなおしてみても、五日の朝、私たちに気づかれずに工作の跡を消す方法があったなんて、思えないわ」 「美緒さんは……いえ、美緒さんだけでなく、僕も三好警部さんたちも、工作が行なわれたのなら、その跡はログハウス内に残っているはずだ、少なくとも室内に何の痕跡《こんせき》もないなんてことはありえない、と考えていたために、これまで分からなかったんです」 「では、室内には、工作の跡は何もなかった?」 「いえ、ありました。工作の主要な部分は外でしたが。ただ、中の痕跡は、巧妙にカムフラージュされていたため、誰も工作の跡だとは気がつかなかったんです」 「その跡って……?」 「ログハウスの床や作業台、さらには電灯の笠《かさ》に散っていた蚊取線香の灰です」 「蚊取線香の灰?」 「美緒さんたちが駆けつけたとき、床には、去年の使い残しの蚊取線香を入れて棚に載せておいたというブリキ缶の蓋《ふた》、そこに入っていた蚊取線香と灰、それに、吉久保さんが吸ったと思われる煙草の吸殻などが落ちていた、という話でしたね。また、警察が調べたところ、電灯の笠にも蚊取線香の灰がかかっていたという話でした。これらのうち、蚊取線香の灰の一部[#「蚊取線香の灰の一部」に傍点]は犯人のトリックの跡であり、蚊取線香の欠けら、床や作業台の上一面に散っていたという灰、煙草の吸殻などは、そのトリックを隠蔽《いんぺい》するための偽装、カムフラージュだったんです。  また、回っていたという換気扇……煙草の煙を追い出すために点《つ》けられたのではないかと考えられた換気扇も、実は蚊取線香の煙と臭いを追い出すためのものだったんです。  僕たちは、犯人の巧みな偽装工作に騙《だま》されていたんです」 「でも、蚊取線香の灰をどんなふうに利用したら、窓ガラスを割れるのか、私にはさっぱり分からないわ」 「灰を利用したわけじゃありません。蚊取線香の熱を利用したんです。現在ではいろいろなものに使われていますから、美緒さんも知っているでしょう、熱すると元の形に戻る形状記憶合金というのを」 「それなら、知っているけど……」 「順を追って説明すると、美緒さんたちが駆けつけたとき、ログハウスのドアが開いていましたね、それがトリックを成り立たせる重要なカギだったんです。  そして、トリックに利用されたのが、さっき話したボンボン風船や紙飛行機のプロペラを回転させる動力などに使われている細くて丈夫なゴム四、五メートル、形状記憶合金の針金六、七センチ、それに、たぶん二、三十分で燃え尽きるように折られた蚊取線香……渦巻の外のほうではなく、付属の台に刺しておくための小さな穴があいている渦巻の中心部分です」  壮は、美緒の出したノートに簡単な図を描いて、説明を加えた。 「まず、天井から電灯を吊《つ》り下げているコードの一番下、つまり笠のすぐ上にゴムを結び付け、電灯が垂直から四十度ぐらい斜めに上がるまで、窓の反対側……入口のほうへ引きます。そのままゴムを持って、ドアを開けておいた入口から外に出て、ログハウスの裏側……北側へ回ります。  ログハウスの北側には窓がなく、灌木《かんぼく》と草の藪《やぶ》になっていましたね。その灌木の一本の根元に近い幹……草に隠れて見えないところにゴムの残りを巻きつけ、外れたり緩んだりしないように結び付けます。  そうしたら、ログハウスの中へ戻り、電灯が揺れないように支えながら、コードに結び付けたゴムを外し、電灯を静かに垂直に戻してやります。  次に、そのゴムの端を持って、もう一度ログハウスの北側まで行き、ゴムをまとめて草の中に隠しておきます。  これで、準備は完了です。ここまでは、吉久保氏がログハウスへ現われる前——五日の早朝か前日にやっておきます」  美緒にも、壮の考えていることの輪郭だけは分かってきた。 「次は、何らかの理由をつけて吉久保氏を密《ひそ》かにログハウスへ呼び寄せ、油断を見すまして殺害した後です」  壮が説明をつづけた。「ドアを開け放して北側へ回り、藪の中に隠してあったゴムを取って、端に鉤形に曲げた形状記憶合金の針金[#「鉤形に曲げた形状記憶合金の針金」に傍点]を結び付けます。そのゴムを引っ張って伸ばしながら室内へ戻り、天井から下がっている電灯を斜めにして、コードの下端に鉤《かぎ》を引っ掛けます。そして最後に蚊取線香に火を点《つ》け、線香の渦巻の中心に付いている穴に鉤の先端を差し込みます」 「煙草の吸殻を捨てておくといった偽装工作は、いつしたのかしら?」 「たぶん蚊取線香に火を点ける前でしょう。吉久保氏のポケットから煙草を取り出し、自分の唾液《だえき》がつかないようにパイプを使って吹かし、火を消してから吸口を吉久保氏の唇に押しつけ、床に捨てたんだと思います」 「それから、棚にあった蚊取線香の入った缶の蓋を取って中身を撒《ま》き散らし、換気扇のスイッチを入れた——」 「ええ。そして最後に蚊取線香に火を点け、誰にも見られないように林の中を通り、ペンションへ戻ったんだと思います。  これで、蚊取線香が徐々に燃えていって終わりに近づき、その伝導熱によって熱せられた形状記憶合金が、鉤形《かぎがた》から元の棒状に戻れば、針金がコードから外れ、電灯は大きな振り子のように揺れて反対側の窓ガラスに勢いよくぶつかる、というわけです。  一方、形状記憶合金の針金はというと、ゴムの縮む力で引っ張られて、ドアの開いた入口へ、入口からログハウスの外へ、さらに丸太の壁を回って北側へ、と飛んでゆきます。そして、ゴムと一緒に藪の中に落ち、見えなくなるはずです」 「そうか。兼岡さんは、そのゴムと針金を、私たちに気づかれないように回収してポケットにでも入れた、というわけね」 「そうかもしれませんし、もしかしたら、木の切り株の穴にでも隠しておき、後で処分したのかもしれません」 「確かに、それなら可能だったわね。兼岡さん、一人だけでログハウスの周りを見てきたことがあったから」  美緒は、五日の朝のことを思い起こしながら言った。  吉久保の死を確認してログハウスを出た後、美緒たちは兼岡と一緒に建物の外を見て回った。が、その後、美緒たち三人が入口の見える場所に立って江美が戻ってくるのを待っていたとき、兼岡だけもう一度建物の周囲を調べてきたのだった。 「とすると、これで、兼岡さんのアリバイは崩れたわけね」  美緒は、相棒に尊敬の(こもっているにちがいない)眼《まなこ》を向けた。 「たぶん。三好警部たちに、ゴムと形状記憶合金と蚊取線香を使って実験してもらわなければなりませんが」 「じゃ、早く、電話してあげたら」  美緒が言ったとき、列車がトンネルに入った。  もうじき小倉だが、小倉を過ぎると山陽新幹線はトンネルを出たり入ったりがつづき、とても長い話はできない。 「そうか、これからトンネルばかりか」  美緒はつぶやいた。「困ったわね」 「二時間や三時間遅れても、犯人が逃げ隠れするわけじゃないですから、たいした違いはないでしょう」  壮が言った。 「三好警部さんたちは、一刻も早く知りたいんじゃないかしら」 「ですが、結論だけ伝えても、説明が途中で切れてしまったんでは、犯人を攻めるための駒《こま》にはなりません」 「そうか、そうね」 「それに、アリバイの謎は解けても、まだ大きな疑問あるいは問題が残っています。兼岡氏は今度はそれを新たな楯《たて》として持ち出すかもしれません。ですから、電話する前に、その点も考えてみたいと思っています」 「疑問て、兼岡さんが犯人なら、深夜間宮さんを呼び出し、どうやって毒入りのキャラメルを食べさせたのか、ということね」 「それも一つです。間宮氏が最も警戒していたのは、昨日も言ったように、沢祥子さんの姉だと突き止めたにちがいない玉木さんだと思いますが、間宮氏は、吉久保氏の殺されていたログハウスの所有者である兼岡氏に対してだって当然用心していたはずです。深夜会うとなったら、なおさらです。それなのに、間宮氏は、その相手がくれたキャラメルを口にしただけでなく、飲み込んでいるわけです。どうやったら兼岡氏にそれができたのか——兼岡氏を追い詰めるためには、この点を解明しなければなりません」 「一つって言ったけど、他には?」 「間宮氏を殺害する方法の前に、そのとき使った青酸ソーダをどこから手に入れたのか、という問題があります。この点は僕があれこれ考えてもどうにもならないので、警察に調べてもらうしかありませんが。  あと一つは、兼岡氏が、ミドリさんに対する松井氏たちの行為……去年の五月四日の平戸における事件をどうして知ったのか、という問題です」 「最後の点は、昨日、三好警部さんの言ったとおりじゃないのかしら。ミドリさんが、松井さんの落とした運転免許証と一緒にそのときの事情を記したノートのようなものを壱岐の実家に置いておいたという……」 「僕も、たぶんそのとおりだろうと思っていたんですが、今は疑問を覚えています」 「なぜ?」 「一人娘のミドリさんが死ぬだけでも悲しみ嘆くだろう両親……その両親をいっそう苦しめるだけにしかならないそうしたノートや松井氏の免許証を置いたまま、ミドリさんが自殺するだろうか、と思ったんです」 「そうか……」 「もしそうしたものが実家に置いてあったとしたら、自殺する前に帰って焼き捨てるか、あるいは、アパートに残した両親|宛《あて》の遺書に、読まないで処分してくれと書いておくか、したんじゃないでしょうか」 「そうね。私がミドリさんだったら、確かにそうしたわね」  美緒は、ちらりと父と母の顔を思い浮かべて言った。 「もし、ミドリさんがそうしたものを残しておいて、平戸の出来事が自殺の動機の一つだと知らせたかったのなら、遺書に全然触れられていなかった点はおかしいですし、かといって、両親にだけそのことを知らせて、自分の復讐《ふくしゆう》をしてくれと言いたかったわけでもないでしょう」 「自分で復讐する気ならできたのに、両親を殺人者にするようなこと、するわけがないわ」 「ええ。ただ、そう考えると、大きな疑問というか問題が出てくるわけです」 「もしミドリさんがノートも免許証も残していなかったとすると、兼岡さんは、どうしてミドリさんと松井さんたちの関わり……平戸の出来事を知ったのか、というわけね」 「そうです」 「それを知る、どんな方法があったのかしら?」 「分かりません。ですが、兼岡氏が犯人であるかぎり、それを知ったのは今や間違いないわけですから、何らかの方法があったはずです」 「それを考えてみようというのね」 「ええ」  壮が答えたとき、列車が地上に出た。  もうすぐ小倉だった。  吉久保殺しのトリックが解明されて、事件はもう九分九厘解決かと美緒は思ったのに、そうではなかった。まだ二つの大きな謎が残っていたのだった。  一つは、どうやったら、深夜、兼岡が間宮を呼び出して毒入りのキャラメルを食べさせられたのかという点であり、もう一つは、兼岡がどうして娘のミドリと松井たちの関わりをつかんだのか、という点であった。  吉久保殺しの不可能性の壁を突破しても、この二つの謎を解明しないかぎり、兼岡を落とすのは難しい。 「二つの問題とも、私にはどう考えたらいいのか見当さえつかないわ」  美緒は言った。  窓外の景色の流れが見るみる遅くなり、列車が小倉駅のホームにすべり込んだ。      5  列車は小倉駅を出た。  壮が考え始めたようなので、美緒は話しかけるのをひかえた。  美緒も、壮の言った問題を頭に浮かべてしばらく考えたが、眠くなった。  今日は、朝六時半に起きて、長崎、壱岐、博多と動いてきたので、疲れたようだ。  と思っているうちに、いつの間にか眠りに落ちた。  どれくらい眠ったのか分からないまま、美緒が目を覚まして外を見ると、列車は丘の間を走っていた。 「どこ?」  と壮に訊いたが、答えがない。  時計を見た。  五時七分。  ということは、四時二十分に小倉を出て間もなく新関門トンネルに入った記憶まではあるから、四十分ほど眠ったらしい。  そう思いながら、 「小郡を過ぎたのね。停まったのに気がつかなかったわ」  話しかけたが、相棒からは何の反応もかえってこない。 「どうしたの?」  と、前から顔を覗《のぞ》き込んで、美緒は小さく息を呑《の》んだ。  眠っているように見えなかったので、話しかけたのだが、相棒は背筋を伸ばし、両眼を開いたまま、何も見えず聞こえずの「考える人」になっていたのだ。  いつそうなったのか、美緒は眠っていたので分からない。ただ、一旦《いつたん》こうなったら、醒める[#「醒める」に傍点]時刻は予測がつかない。五分後なのか、一時間後になるのか。だから、歩いているときになられ、歩道の端へ押して行って、通行人にじろじろ見られながら待ったり、美緒はこれまでにどれだけ苦労したか。だが、今回はいい。安心である。何時間「考える人」になっていようと、構わない。終点の東京に着くまで五時間以上あるのだから。  美緒がそんなふうに思いながら、外を見ていると、列車は長いトンネルに入った。  そして、あと六、七分で広島に着こうというとき、壮が突然美緒に顔を振り向けて、言った。 「さあ、美緒さん、降りましょう」 「えっ?」  と、美緒は驚いて相棒を見返した。 「降りましょう、美緒さん」  壮が繰り返す。 「降りるって、まだ東京じゃないわよ」 「何を言っているんです、美緒さんは」  壮が呆《あき》れたというように笑った。「眠っていたからって、いくらなんでもそんなに早く東京に着くわけがないじゃないですか」 「分かっているわよ、それぐらい」  美緒はカチンときて、言い返した。「次は広島だわ」 「広島? 小郡ですよ。もうじき小郡に停《と》まるんです」 「あなたこそ、『考える人』をやってた[#「やってた」に傍点]から時間が狂ってしまったんだわ。小郡なんか、とっくに過ぎたじゃない。時間を見れば分かるわ」 「えっ?」  と、壮が腕時計を見やり、「五時十八分か……。小郡着は四時四十分頃でしたから、確かにそうですね」  この宇宙人、自分が「考える人」になっていた間のことは頭にないのだ。 「小郡でも広島でもいいわ。それより、どうして、こんなところで降りるの?」  美緒は肝腎《かんじん》な点を訊いた。 「さっきの問題が解けたんです」  壮が答えた。 「二つとも?」 「ええ」 「そうか。それで、列車を降りて、三好さんに電話するわけね」 「いえ、違います。下りに乗って、博多へ引き返すんです。犯人に会いに行くんです。犯人に会って、僕の考えが正しいかどうか確かめたいんです」 「じゃ、また壱岐へ? でも、フェリーがあったかしら」 「壱岐じゃありません。長崎です」 「…………!」  美緒は息を呑んだ。  相棒の顔を食い入るように見つめた。 「ど、どういうこと? 犯人に会いに長崎へ行くって、いったいどういうこと?」  詰問するように訊いた。 「言葉どおりです」 「犯人は長崎にいるの?」 「ええ」 「ということは、兼岡さん御夫妻は犯人じゃなかった——」 「そうです。僕らは重大な誤りを犯していたんです」 「それじゃ、あなたがせっかく解明した兼岡さんのアリバイの謎……さっきのアリバイ崩しは意味がなかったの?」 「そんなことはありません。あれは大いに意味があります」 「だって……ううん、いいわ、後で。それより、肝腎の犯人を教えて。犯人は誰?」 「ミドリさんの恋人です」 「ミドリさんの秘密の恋人が犯人……!」 「ええ」 「その恋人は、ミドリさんを妊娠させて捨てたんじゃなかったの?」 「ミドリさんが失恋したというか、失恋したと思い込んだのは事実だと思いますが、彼女が身籠《みごも》っていたのはその恋人の子供じゃありません。松井、間宮、吉久保三人のうちの誰かの子だと思います」  壮は松井たちを呼び捨てにした。 「では、ミドリさんは、平戸で襲われたときに……!」 「そうです」 「頭の中がこんがらかって、何がなんだか分からないわ」  美緒は頭を振った。 「長崎へ行って、犯人に会えば、何もかもはっきりしますよ」 「でも、その人がどうして長崎にいると分かるの。あなたはその人を知っているの?」 「知っています」 「何という人?」 「ヒントは、間宮に警戒されずに毒入りのキャラメルを食べさせられた人。そして、吉久保事件に関して兼岡さんと同様のアリバイがある、美緒さんも知っている人です」  壮が答えたとき、列車は間もなく広島に到着するというアナウンスが聞こえた。 「とにかく降りましょう」  と、壮が立ち上がり、網棚から二つのボストンバッグを下ろした。 [#改ページ]   第八章 殺意の不等式      1  美緒たちは、「ひかり49号」で博多まで戻り、博多で長崎本線のL特急「かもめ37号」に乗り継いで、昨夜泊まった長崎へ引き返した。  長崎駅に着いたのは九時半。  改札口を出るや、美緒がすぐに壮から聞いた犯人の自宅に電話をかけた。  犯人は、美緒たちが長崎にいると聞いて、驚いた。さらに、どうしても話したいことがあるので中島川公園まで出てきてほしいと美緒が言うと、怪しんだようだ。その時点で、�もしかしたら……�というおそれぐらいは胸をかすめたかもしれない。  しかし、犯人は、 「こんな時間に、どんなお話かしら……」  と言いながらも、美緒の申し出を拒否はしなかった。  美緒たちは市民会館の裏までタクシーで行き、川縁《かわべり》に長く伸びた中島川公園に入った。眼鏡橋の近くまで歩き、柳の木のそばで待っていると、犯人は五分もしないうちに現われた。 「お話って、どういうことかしら?」  何でもないことのように訊《き》いたが、青白い街灯の光を受けた顔が強張《こわば》り、全身が緊張しているのが分かった。  電話を切った後で、次第に不安がふくらんだのかもしれない。 「今夜は、あなたの知っている事実を話していただきたいんです」  壮が静かに言った。  ベンチはあるが、立ったままだ。  夜、川風に吹かれて散歩するにはまだ時季が早いからだろう、近くに人影はない。 「私の知っている事実? もうすべて話しましたけど」  犯人が応《こた》えた。 「それでは言い換えます。ありのままの事実を[#「ありのままの事実を」に傍点]、と」 「どういう意味か、言われていることが分かりませんわ」  犯人が首をかしげた。 「では、はっきりと申し上げます。兼岡ミドリさんの恋人[#「恋人」に傍点]だったあなたが、ミドリさんを襲って妊娠させた間宮たち三人に復讐《ふくしゆう》するために立てた計画の詳細と、その計画に沿って吉久保、間宮の二人を殺害し、松井を自殺に追い込んだ行動の詳細です」  犯人は応えなかった。  壮から目を逸《そ》らし、視線を美緒たちの背後の薄暗がりに向けた。  懸命に考えているようだった。  どうすべきか。どうしたらいいのか。  壮も何も言わない。彼は、ここへ来たときよりいっそう青ざめたように見える犯人の顔をじっと見つめていた。  犯人が、ゆっくりと、視線を壮と美緒の顔に戻した。 「どうやら、私は……」  と、静かに口を開いた。「玉木由加利さんを助けようとして、自分の墓穴を掘ってしまったようですわね」  頬《ほお》のあたりには薄い笑みが浮かんでいるように見えた。諦《あきら》めと自嘲《じちよう》の入り交じったような。  それから、犯人・安達江美は、壮の言ったとおり、自分がミドリの秘密の�恋人�だった事実と、ミドリを酷《ひど》い目に遭わせて死に追いやった三人の男たちに復讐しようと計画し、吉久保と間宮の二人を殺害した事実を認めた。  江美はつづけた。 「私が、玉木さんと兼岡のおじさまに警察の疑いの目が向くように仕組んだのは事実です。ですが、二人のどちらかに最終的に無実の罪を被《かぶ》せようとしたわけではけっしてありません。一時的に二人を苦しめることになるかもしれないとは考えましたが、いずれ容疑が晴れるだろうと思っていましたし、もし晴れなければ、真犯人は別にいる、と警察に知らせるつもりでした。  一昨日の夜、福岡のホテルで、�犯人は玉木さんに無実の罪を被せようとしたわけではないのではないか�と私が申し上げたのを覚えておられるでしょうか。黒江さんは疑問を呈されましたけど、本当だったんです。あれは、それとなく犯人である私の本心を申し上げたんです」  江美が、壮と美緒の反応を見るように言葉を切った。  美緒は江美の話を信じた。それは壮も同じようだ。二人は黙って江美の顔を見つめていた。 「では、第一の殺人の舞台を兼岡のおじさまの所有する壱岐のログハウスにし、そこに私が玉木さんと一緒に行ったのはなぜかといいますと、それは警察の捜査を混乱させ、真相を見え難《にく》くするためでした。そうして、私が安全圏へ逃れるためでした。兼岡のおじさまが長崎へ来て、うちの工場の二階に泊まった夜、間宮を殺害したのも、同じ理由からです。おじさまには、一人娘であるミドリさんの復讐のためなのだから、それぐらいの犠牲を払っていただいてもいいだろう、と思ったのです」  江美がつづけた。 「また、玉木さんは、私が最愛のミドリさんを失ったように、同じ晩、同じ平戸でミドリさんと同じ目に遭わされた妹の祥子さんを亡《な》くしていました。犯人は祥子さんの恋人に刺し殺されていましたが、犯人に対する憎しみは私と変わらないはずです。それなら、もしかしたらその晩ミドリさんではなく、祥子さんを襲っていたかもしれない卑劣な狼たち——祥子さんを自殺に追いやった犯人と同類の男たち——に復讐するのに力を貸してもらってもいいのではないか、そんなふうに考えたのです。  勝手な理屈であるのは、重々承知しています。ですが、兼岡のおじさまにも玉木さんにも、最終的に罪を被せるつもりだけは本当にありませんでした。  これだけは、どうぞご理解ください」  江美が訴えるような目を向けた。 「分かりました」  と壮が応え、美緒もうなずいた。 「ありがとうございます」  江美が深々と頭を下げた。 「それでは、何でも訊いてください。正直にお話しします」  目を上げて、言った。  壮が、ミドリの自殺の真相を江美がどうして知ったのかという点から質問に入り、犯行の動機、計画へと質問を進めた。  江美は、言い訳や言い逃れを一切しなかった。壮に尋ねられるままに、あるいは自分から進んで——おそらくありのままを——淡々と語った。  その大筋は列車の中で美緒が壮から聞いた彼の推理のとおりだったが、詳細は次のようなものであった。  江美がミドリの自殺の真相を知ったのは、彼女の自殺死体が発見された当日、江美のもとに届いたミドリの手紙からだった。  そこには、妊娠に至った平戸の事件について記され、犯人の一人が落としたと思われる物として松井良男の自動車運転免許証が同封されていた。  差出人は、〈ドーリー・K〉という、江美とミドリの間だけで使われるミドリの仮名になっていた。だから、江美の留守中にその書留郵便を受け取った母も、「だれ、この人?」と不審げに訊いたものの、ミドリからの手紙だとは想像しなかったようだ。  江美は自室に入って、十五枚の便箋《びんせん》にびっしりと書かれた手紙を読むと、布団《ふとん》に顔を押しつけて哭《な》いた。  ミドリを死に追いやったのは自分だ、と思った。ミドリを自殺に追い込んだ一番の責任は、ミドリを襲って妊娠させた男たちよりも誰よりもこの私にある、と思った。と同時に、今更ながら、ミドリが自分にとってどんなに大切な存在であったかを思い知らされた。  江美とミドリは幼い頃から姉妹のようにして育ち、その関係はミドリの一家が壱岐へ引っ越してからも変わらなかった。夏休みや冬休みには、どちらかの家でずっと一緒に過ごした。その仲の良い「姉妹」の関係が、「恋人」の関係になったのは、ミドリが大学入学のために長崎へ出てきてしばらくしてからだった。江美がミドリのアパートを訪ねたとき、二人で一緒に風呂《ふろ》に入り、戯れにそのまま裸でベッドに入ってふざけ合っているうちに、「私、お姉ちゃん、大好き。だから、お姉ちゃんがそばにいれば、恋人もボーイフレンドもいらない」と言ってミドリが江美に抱きついてきた。ミドリが恋人もボーイフレンドもいらないと言ったのは、風呂に入っているとき、江美が、「恋人かボーイフレンド、できた?」と訊いたからだった。ミドリが江美の裸身を抱きしめながら同じ言葉を繰り返し、顔を江美の乳房の間に埋《う》めた。江美の肉体は、ミドリの軟らかな肉の感触に、かつて男友達と交わったときには感じなかった快感と興奮を覚え始めていた。あとは、熟していた柿が落ちるだけである。江美は、「私もミドリちゃんが大好きよ。大好き、大好き、大好き、ミドリちゃんを誰にも渡したくない!」と言って、ミドリの頭を抱きしめ、揺すった。  江美とミドリは、その晩から�仲のよい姉妹�ではなく、�秘密の恋人同士�になったのだった。  二人はこれまで以上に頻繁に会い、互いの部屋に泊まったが、誰も二人の仲を怪しむ者はなかった。両方の親たちも、「本当に血のつながった姉妹みたいね」と言い合うぐらいだった。  しかし、恋人同士になると、互いにすねたり、嫉妬《しつと》したりして、時には「痴話喧嘩《ちわげんか》」もするようになった。  去年の五月の連休にミドリが一人で平戸へ行って泊まったのは、江美が高校時代の男友達と喫茶店で話しているところをたまたまミドリが見かけて嫉妬したことに端を発していた。  江美は、昔のボーイフレンドと久しぶりに街で会って誘われたので一緒にコーヒーを飲んだだけである。だから、そう言ったのだが、ミドリは疑わしげな目で江美を見て、二人はとても親しげでまるで恋人同士のように見えた、と言うのだった。ミドリとて本心から疑っていたわけではないと思われるが、江美が若い男と楽しそうに話していたのが我慢できなかったらしい。ミドリのいつになくしつこい嫉妬に、江美が「私のことが信じられないんなら、勝手にしなさいよ」と怒ると、ミドリも口を尖《とが》らせ、「勝手にするわ。私だって、ボーイフレンドぐらいいるんだから」と言った。  こうした言い合いをしても、たいていはすぐに仲直りするのだが、そのときはちょっとこじれた。江美は、ミドリが手配してあったゴールデンウィークの平戸旅行に行かない、と口にした。「私なんかより、ボーイフレンドと一緒に行ったらいいわ」と。すると、売り言葉に買い言葉……ミドリも「そうするわ」と応えた。  といっても、このときの江美は本気で旅行に行かないつもりはなかったし、ミドリも同様だったと思われる。  しかし、相手が謝ってくるのを待って、なんとなく互いに我《が》を張り合っているうちに、ゴールデンウィークがきてしまい、江美は三日の晩、「じゃ、私は神戸の兄のところへ行くから、精々ボーイフレンドと楽しんできて」と、わざわざミドリに電話をかけた。このとき、「お姉ちゃん、ごめんなさい」という一言が返ってきたら、翌日一緒に平戸へ行くつもりで。ところが、ミドリの口から出たのは、「うん、そうする」という言葉だった。江美もそうだが、ミドリもへんに意地っ張りなところがあるのだった。  江美は、よほど自分のほうから折れようかと迷いながらも、ミドリの電話を待って、翌日の昼近くまで自宅にぐずぐずしていた。  が、遂《つい》にミドリからの電話はなく、江美は心を決めて神戸へ行くために家を出た。ミドリが、江美と二人で泊まるつもりで予約したホテルに一人で行くとは考えられないので、キャンセルして平戸行きを中止するだろう、と思いながら。  ところが、ミドリはミドリで、江美が後から来るか、たとえ来なくてもホテルに電話をかけてくるにちがいないと考え、予定どおり一人で平戸へ行ったのだった(このとき、ミドリは、急に都合が悪くなって来られなくなった同伴予定者を女友達のような口ぶりでフロント係に話したという。それを聞いた鷲尾刑事たちは、女友達ではなく恋人だったにちがいないと考えたわけだが、彼らの想像は半分外れ、半分当たっていたと言える)。  以下、ミドリの遺書とも言うべき江美|宛《あて》の手紙によると——  夕食後、ミドリはひとり、江美からの連絡を待ちつづけたらしい。  そうと知っていれば、江美は、神戸からでも電話しただろうが、ミドリが平戸へ行っていようとは想像しなかったのだから、どうにもならない。  ミドリは、十時を過ぎたとき、諦《あきら》め、外へ散歩に出た。  ホテルの建っているところは丘の斜面を切り拓《ひら》いて造られた公園の隣接地で、近くに人家はない。  普段のときなら、人一倍|臆病《おくびよう》なミドリは人気のない夜の公園などへ足を向けることはないのだが、そのときは、怖さなど感じなかった。なぜばかな意地を張ったのだろう、という後悔でいっぱいだった。素直でなく、嫉妬深い、嫌らしい女……。江美は本当にこんな私が嫌いになったのではないか、それで電話もくれないのではないか、とも思った。  どこにいるのかもほとんど意識せず、人気のない小道を歩いて行った。  そのとき、突然、林の中から飛び出してきた三人の男たちに囲まれた。  驚きと恐怖に声も出ない。蛇ににらまれた蛙のように身体が竦《すく》み、動けなかった。  次の瞬間、三人の中の一人が襲いかかり、ミドリが「助けて」という声を上げたときには、太い腕を首に巻き付けられ、大きな手で口を塞《ふさ》がれた。  その後、林の中の草むらへ引き摺《ず》り込まれ、口にハンカチのようなものを詰め込まれた後は、どうされたかよく覚えていない。自分の身体を蹂躙《じゆうりん》したのは三人のうちの二人ではないかと思うが、はっきりしない。  男たちが去っても、草の上にぼろ布のように横たわったまま動けなかった。声も出なければ涙も出なかった。何かをしようとする意思や考える力だけでなく、感じる能力さえ失われてしまったようだ。  といっても、それは長い時間ではなかった。ミドリは身体を起こして立ち上がると、近くに投げ捨てられていたパンティとスカートをはいた。風呂に入った後、ブラジャーはしていなかったので、上半身は下着とブラウスとセーターがまくり上げられただけで、破られていないようだった。  それらを整え、髪を指で梳《す》き、ハンカチで顔を拭《ぬぐ》った。  そのとき、足下にパスケースのようなものが落ちているのに気づき、拾い上げた。  遊歩道に出て、街灯の明かりで見ると、松井良男という男の運転免許証だった。  ミドリは、自分を襲った男たちの一人が落としたにちがいない、と思った。どうするというはっきりした考えはなかったが、とにかくそれを持って、ホテルへ帰った。  灯《あか》りの下に立って、セーターやスカートに草がついていないのは確認したが、誰とも顔を合わせたくなかった。かといって、非常口から入るわけにはゆかない。意を決して玄関からロビーへ入った。酔っ払った中年男が二人、若いフロント係に半ば絡むように議論を吹っかけていた。そのおかげで、じろじろ見られずにキーを受け取り、部屋へ戻ることができた。  ミドリはバスに浸り、念入りに全身を洗った。特に男たちに触れられたと思われる部分は皮が剥《む》けそうになるほど擦《こす》った。  風呂から上がって、冷蔵庫からビールとウイスキーを出して飲んだ。  人間、あまりにも日常から離れたショッキングな目に遭うと、現実感を取り戻すのに時間が必要らしい。さほどの苦労をせず、今夜の出来事を意識の表面からシャットアウトできた。  が、そうした体験は、本人も気づかない意識下に強い記憶を刻んでいるものらしい。アルコールの力で眠りに落ちたミドリは、何度も自分の悲鳴で目を覚ました。  翌早朝、ミドリが最初に感じたのは恐怖だった。言いしれぬ恐怖に全身が震え、しばらく止まらなかった。  次に感じたのは、激しい後悔だった。江美のボーイフレンドに嫉妬して、つまらない意地さえ張らなければ……と、何度も何度も悔んだ。素直に一言「ごめんなさい」と謝ってさえいれば、江美に捨てられることはなかったし(ミドリは本気で捨てられたと思っていたらしい)、このような目に遭わずにも済んだのだ、と思った。しかし、すべては遅かった。取り返しがつかなかった。  ミドリは、もう生きていても仕方がないと感じた。脳裏に�自殺�の文字が浮かんだ。江美のいない人生なんて考えられなかった。今更ながら、自分にとって江美がどんなに大きな存在だったかを思い知った。  死のう、とミドリは思った。昨夜自分を襲った男たちのことを記した遺書と一緒に松井良男という男の免許証を残し、平戸大橋の上からでも海に飛び込んで死のう。  父と母の顔が浮かんだ。  自分が死んだら、父と母はさぞかし悲しむだろうな、と思った。  すると、初めて目に涙が湧《わ》いてきて、溢《あふ》れた。「ごめんなさい、お父さん。ごめんなさい、お母さん。ごめんなさい……」と、ミドリは父と母に謝った。  ミドリは、ホテルの便箋二枚に昨夜の出来事を記すと、それを松井の免許証と一緒に封筒に入れてバッグに収め、シャワーを浴びて身仕度を整えた。  朝食を摂《と》らずに、ホテルを出た。  坂を下り、バスターミナルへ向かった。  バスに乗って、平戸大橋の袂《たもと》まで行くつもりだった。  バスターミナルの近くまで行くと、何やら人の動きが慌しい。さっき、ホテルで遺書を書いているとき、救急車かパトカーのサイレンの音が聞こえたが、警官の姿も見える。  タクシーのそばに立っていた運転手に何があったのかと尋ねると、若い女性が海に飛び込んで死んだらしい、という返事。  ミドリは強い衝撃を受けた。自分と同じように……いや、自分より一足先に海に飛び込んで自殺した女性がいたなんて。  ミドリは、なぜか死ぬことにためらいを覚えた。理由は、ミドリ自身にもはっきりしない。  が、結局、ミドリは平戸大橋の袂でバスを降りなかった。  連休の終わった後、江美は何度かミドリに電話をかけた。アパートも訪ねた。  わずかの間にミドリは人が変わったように無口になり、暗い顔つきになっていた。  話から、五月四日にミドリは一人で平戸へ行ったらしいと分かった。そのため、江美に腹を立てているのかと思ったが、そうではないらしい。  江美は、仲直りしようと、それとなく誘いの言葉をかけた。だが、ミドリは悲しげに「もう駄目なの」と言う。「どうしたの、何があったの。話して」と江美が言っても、「ごめんなさい。私が悪かったの。もう私は元に戻れないの。元のようにお姉ちゃんに優しく抱いてもらえないの。ごめんなさい……」と応《こた》え、はらはらと涙を落とすばかり。  ミドリの手紙によって、江美は後で知ったことだが、この頃のミドリは、江美が自分を嫌いになったわけではないらしいと知って喜んだものの、自分の身体は男たちによって穢《けが》されてしまい、もう江美と愛を交わし、江美の愛撫《あいぶ》を受けるわけにはゆかないと考えていたらしい。  しかし、江美は、平戸でミドリの身に起きたことなど想像もつかない。だから、もしかしたら、ミドリは本当にボーイフレンドと一緒に平戸へ行ったのではないか、と勘繰った。�もう元に戻れない�のは、男とのセックスを経験してしまったからではないか。江美のことを嫌いではないが、男に抱かれてしまったために、元のような関係に戻るわけにはゆかない——その思いがミドリの涙の意味ではないか。  この江美の想像は、六月も終わりに近づいた頃、ミドリに悪阻《つわり》らしい症状が現われたとき、決定的になった。妊娠しているのではないかと江美が指摘すると、ミドリは気づいていなかったのか、蒼白《そうはく》になったが、身に覚えがあったからだろう、否定しなかったのだ。  これは、江美にとっても大きなショックだった。それまでは、ミドリが男と交わったのではないかと思っても、証拠はなかった。自分の思いすごしではないか、ミドリは別のことで苦しんでいるのではないか、と考えられた。が、妊娠の事実——まだ実際に妊娠しているかどうかははっきりしないが、ミドリがその可能性を否定しなかったという事実——は、何よりも雄弁に男と性交渉のあったことを物語っていた。  江美は、ミドリに訣別《けつべつ》の宣言をした。もうあなたなんか勝手にしたらいいわ、と。  その結果が、ミドリの自殺であり、江美に宛《あ》てた手紙——身の潔白と江美への変わらない愛を訴える長い手紙——であった。  だから、江美は、その手紙を読んだとき、ミドリを自殺に追いやったのは自分だ、と思ったのである。      2  ミドリの自殺は、両親|宛《あて》の遺書により、失恋ゆえの自殺と片づけられた。たぶん妻子ある男に妊娠させられて捨てられ、絶望して命を絶ったのだろう、と。  江美もミドリも、二人の同性愛の関係を誰にも気づかれないように秘してきたし、友人たちには男の恋人がいるように仄《ほの》めかしてきたからだ。また江美は、自分宛の遺書とも言えるミドリの手紙を誰にも見せなかったからだ。  ミドリが死んだ後、当然ながら、江美は、ミドリを襲って妊娠させた男たちに対する激しい憎しみを覚えた。ミドリに加えられた男たちの行為を想像すると、怒りに全身が震え出し、絶対にこのままにはしておかないと思った。といって、江美の内に彼らに対する復讐《ふくしゆう》計画がすぐに生まれたわけではない。具体的にどうするか、どうしたらいいか、は分からなかった。  思い切ってミドリの手紙と松井良男の運転免許証を警察に見せ、警察にミドリを襲った犯人たちを捕まえてもらおうかとも考えた。しかし、現場に松井の運転免許証が落ちていたといっても、それだけでは松井がミドリを襲った犯人の一人だという証拠にはなりえない。被害者のミドリが死んでしまった現在、松井が否認すればどうにもならないだろう。たとえ松井たちが強姦《ごうかん》犯人だと特定できたとしても、ミドリを絶望の淵《ふち》へ落とし、挙句の果てに死に追いやった彼らが、わずか数年の自由を奪われるだけで元の生活に戻れるのでは、ミドリが浮かばれない。  江美がそんなふうに考えていた八月初め、ミドリが平戸で襲われた五月四日にやはり平戸で男に襲われて自殺した女性——ミドリの手紙によると、五月五日の朝ミドリに自殺を思いとどまらせた女性——に関わる事件が大きく報道された。女性の恋人だった警官が、女性を襲ったと見られる不動産会社の経営者を刺し殺したのである。  その警官の行為は、江美の心の奥に生まれていた考えを一気に意識の表に引っ張り出した。彼女は、自分の手で松井たちがミドリを襲った犯人である確証をつかみ、ミドリの復讐をしてやろう、と思い始めた。どんなに難しく危険であろうと、他にはない。これがミドリを誤解して自殺させてしまった自分にできる唯一の償いだ、と。復讐とは男たちの殺害であるのは言うまでもない。  江美のそうした決意とは直接の関係はないが、その頃、高校時代の女友達から、意外な話を聞いた。平戸で自殺した女性は、江美たちの高校の同期生で希望会中央病院の看護婦をしている沢由加利の妹だという。  ——高校を卒業してから、戸籍の上だけお母さんの両親の養子になったとかで、今は玉木という姓になっているけど……。  江美が図書館へ行って五月六日の朝刊を調べてみると、佐世保の信用金庫に勤めていたという自殺者の名は沢祥子。由加利の旧姓と同じ姓だし、友達の話に間違いないようだった。  江美は、玉木由加利と同じクラスになったことはない。だが、親しくしていた級友の友達だったので、会えば挨拶《あいさつ》ぐらいはした。  沢祥子の姉の由加利。子供の頃からミドリの姉のような存在であり、この二年間はミドリの恋人だった江美。  似ていた。いや、似ている、と江美は思った。由加利と自分の立場が。  二人の妹(恋人)は、奇《く》しくも同じ日、同じ平戸で男に襲われ——一方は直後に、一方は二カ月経ってから、という違いはあるものの——自殺したのだった。  江美は、由加利に急に親近感を覚えた。  この時点では、由加利を利用しようなどという考えはまったくなく、ただ由加利と親しくなりたいという思いから、時々薬をもらうだけの不眠症の治療を近くの医院から希望会中央病院に代《か》え、由加利に近づいた。  希望会中央病院で、偶然出会ったようにして由加利と口をきくようになった頃、江美は、いよいよミドリの復讐に着手した。  といっても、殺害計画は相手がはっきりしないでは立てようがないので、まずはミドリを襲った三人の男たちの氏名、住所、勤め先などをつかもうとした。  もし松井良男がミドリの事件に無関係だった場合、江美には犯人の特定は不可能になる。だが、松井の運転免許証の落ちていたのが広場や遊歩道ではなく、ミドリが襲われた林の中の草むらだったという点から見て、彼が犯人の一人であるのは九分九厘間違いないと思われた。  そこで、江美は、免許証の住所から松井の電話番号を調べ、勤め先の玩具《がんぐ》工場で作っているボイスチェンジャーを送話口に当てて松井に電話をかけた。  ボイスチェンジャーを通すと、ひどいしゃがれ声になる。男の声というよりは、ただ耳障《みみざわ》りな嫌な声だが、間違っても女の声には聞こえない。  その声で、電話に出たのが松井良男であると確認すると、「五月四日、平戸の夜を忘れるな」とだけ言った。  相手の息を呑《の》む気配が伝わってきた。  江美は、その反応に満足して、電話を切った。  それから、江美は、数日おきに松井に同じ電話をかけつづけた。こちらの素性はもとより目的も明かさず、相手を恐怖させるためである。  松井は、「あんたは誰だ?」とか「どういうことだ?」とか「言っている意味が分からない、何が目的なんだ?」とか訊《き》き返すようになった。落とした運転免許証を握られているらしいとすぐに見当がついたらしく、平戸なんて知らないとは言わなかった。相手がどう言おうと、江美は一言も応《こた》えずに受話器を置いた。  最初の電話から一カ月ほどした十月初旬、江美は電話を切らずに、松井に言いたいだけ言わせた。すでに、松井が福岡市内にある私立・華咲学園高校の国語科教師であることは調べてあった。松井は、これまでに口にした言葉を繰り返し並べた。要約すると、�平戸は自分の故郷なので時々帰るし、ゴールデンウィークにも帰ったが、自分は脅迫を受けるようなまねは何一つしていない�と。  ——それじゃ、俺[#「俺」に傍点]が、五月四日の夜、おまえら三人に崎方公園の林の中へ引き摺《ず》り込まれ、暴行された親しい娘[#「親しい娘」に傍点]から聞いた話を公表してもいいんだな。  と、江美は男言葉で言った。  ——そのときの状況を詳細に書いた手紙を、警察だけでなく、新聞社、テレビ局、おまえの学校の理事長と校長、さらにはおまえの担任している二年B組の生徒の家すべてに郵送してもいいんだな。もちろん、現場に落ちていた、おまえの運転免許証のコピーと一緒に。  松井は言葉を失った。  江美の話に、犯人と被害者しか知らないはずの事実が出てきただけでなく、もし江美の言ったような行動に出られたら、破滅だからだろう。たとえ裁判では証拠不十分で無罪になろうとも。  ——それでも構わなければ、シラを切り通せばいい。  江美はつづけた。  ——ま、待ってくれ。  松井がかすれた声で言った。  ——じゃ、認めるのか。  ——認めない。あ、あんたの話は嘘《うそ》だ。出鱈目《でたらめ》だ。僕も新聞で読んだが、五月四日の夜暴行された女性はその晩のうちに自殺してしまったじゃないか。そして、犯人は女性の恋人の警官に刺し殺されたじゃないか。  松井は、自分たちの暴行した相手が沢祥子だと思い込んでいるのだろうか。それとも、別人だと気づいていながら、江美がどこまで事実を知っているのか探ろうとしているのだろうか。  ——初めは勘違いしたかもしれんが、おまえだって、もう気づいているんじゃないのか。あれは別口だよ。同じ晩、平戸で偶然二件の婦女暴行事件があったんだ。その一件の犯人がおまえらなんだよ。  ——ち、違う。俺たちは関係ない。俺たちは何もしていない!  ——俺たち、と認めたか。  ——そうじゃない。その日、僕は友達と一緒に平戸へ行っていた。それで、俺たちと言っただけだ。  ——それじゃ、その友達の氏名と住所を聞きたい。  ——言う必要を認めない。  ——悪いことをしていないんなら、教えたって構わないだろう。  ——どこの誰とも分からないあんたに、そんなことを教えなきゃならないいわれはない。だいたい、あんたこそ名乗ったらどうだ。  ——おまえがそんな生意気な口をきけるのも今のうちだけだ。俺はいつだって、おまえらの罪状を書いた手紙をさっき言った宛先に送ることができるんだからな。それを忘れずに、俺の質問にどう答えるか、よく考えておくんだな。  江美は言うと、相手の言葉を待たずに電話を切った。  江美はその後、四、五日に一度の割合で松井に電話をかけ、一方的に「五月四日の平戸を忘れるな」とだけ言いつづけた。松井の神経を参らせるのが目的だった。  具体的な復讐計画は、松井以外の二人の男たちの素性がはっきりしてから練るつもりだったが、来年の五月四日か五日に三人のうちの一人をまず殺そう、と決めた。  そう考えると、準備の期間はたっぷりとあり、焦らずに事を進められた。  松井と話して一カ月半ほど経った十一月の中旬、いつものように「五月四日の平戸を忘れるな」と言うと、松井が「待ってくれ!」と悲鳴にも似た声を出した。  ——話す気になったか?  と、江美は応じた。  松井がごくりと唾《つば》を呑《の》み込んだのが感じられた。  ——そういうわけではなく……。  松井が言い出したので、  ——それなら切るぞ。  ——ま、待ってくれ。  ——二人の仲間に俺の電話について話し、どうするか相談したのか?  ——し、していない。  ——強姦《ごうかん》の犯行現場に免許証を落とすといった致命的なへま[#「へま」に傍点]は、仲間にも言えないか。  松井は何も応えなかった。  肯定もしないが、否定もしない。強姦の事実さえ。  これは、松井が半ば犯行を認める気持ちになっていることを示しているようだった。同時に、�現在の困難を招く原因になった己れの失敗については仲間にも告白できないでいるのではないか�という江美の想像が図星だったことを。  江美は、�松井がもし二人の仲間に自分の電話について話していなかったら�という想定のもとに一つの方法を考えていた。  松井と他の二人を分断する方法である。松井たちの行為と運転免許証を公表しないという条件で、松井を意のままに操り、彼を介して他の二人も動かす方法である。  ——あんたの態度次第では、俺は、今ここに持っている手紙をコピーせずに破り捨ててもいい。  江美は、「おまえ」を「あんた」に替えて言った。  ——コピー……?  コピーの意味が分からなかったのか、松井が訊いた。  ——前に言った、あんたらのした行為を詳細に書いた手紙だ。警察だけでなく、新聞社とテレビ局、それにあんたの学校の校長や生徒の家に郵送するためには、この手紙とあんたの免許証を七、八十枚はコピーしなければ足らんだろう。  松井がまた唾を呑み込んだ。  ——どうだ?  ——どういう条件ですか?  ——自分の罪を認め、仲間の二人の名前を話すという条件だ。  松井は応えない。  考えているようだ。  ——あんたは教師だ。しかも女子高のな。それが婦女暴行犯人だと知られたら……。  ——俺はやっていない!  松井が叫んだ。  ——やっていないだと!  江美は怒りを吐き出した。  ——い、いや、確かに女性を襲った。間宮に誘われ、酔いに任せて女性を襲うのは手伝った。だが……だが、俺は犯してはいない。犯したのは間宮と吉久保の二人だ。  遂に松井が犯行を認めた。  ミドリの手紙に、実際に彼女を凌辱《りようじよく》したのは二人だったような気がすると書いてあったから、松井の言葉は事実かもしれない、と江美は思った。といって、それで松井を免罪するわけにはゆかなかったが。  ——仲間の名は間宮と吉久保と言うのか?  確認した。  ——そうだ。大学時代からの友達だ。  松井が答えた。  江美は、二人のフルネーム、住所、職業、電話番号、さらには二人の性格や犯行時に果たした具体的な役割などを質《ただ》した。  松井はもう答えを渋らなかった。刑事の取り調べに「落ち」た容疑者のように、すらすらと話した。  これで、仲間を完全に裏切った松井は、脅迫者(江美)の存在について間宮と吉久保に明かすおそれはほとんどゼロとなり、今後、江美の言うなりに動くはずであった。  江美は満足し、「また連絡する」と言って電話を切った。  江美の読みどおり、その後、松井は彼女のロボットになった。約束どおり罪を認めてすべてを話したのだから、もういいかげんに勘弁してくれと要求したり、いったいあんたは何を狙《ねら》っているのかと江美の目的に不審と不安の念を示すことはあっても、江美に逆らうことはなかった。  ——俺だって、約束どおり手紙をコピーして郵送するのを中止した。だが、あんたを許すと言った覚えはない。自分のしたことを、よく考えてみろ。これぐらいで許されると思ったら、大間違いだ。あんたを許すかどうかは今後のあんたの態度次第だ。  江美はそう言って、時々松井に電話をかけては彼の様子を探り、間宮と吉久保に関する情報を引き出した。  それと並行して、同じ長崎市内に住んでいる間宮については、こちらの顔を覚えられないようにサングラスやマスクをかけて何度か遠くから観察し、吉久保については正月に福岡の実家へ帰る予定を松井から聞き出し、自宅を見張って顔を確認した。  その頃には、江美の計画の輪郭はでき上がっていた。 〈五月四日か五日に、ミドリの実家・壱岐の「サンライズ・サンセット」で吉久保を殺し、次にミドリが自殺した長崎でミドリ強姦の主犯である間宮を殺害し、最後にミドリが襲われた平戸に松井を呼び寄せて殺す〉  という計画である。  吉久保が殺された段階で、松井は当然、「脅迫者」の犯行だと気づくだろうが、構わない。女の江美がその正体だとは絶対に見破られないだろうし、間宮と吉久保を裏切って「脅迫者」に取り込まれ、間接的に殺人に協力した彼には、間宮にだって事実を明かせないはずである。ましてや、平戸の強姦事件を公にできない彼が警察に真相を話すことは絶対にないだろう。  江美はそう思った。      3  夜の川縁の公園で江美は話しつづけた。わずかに声を高めることはあっても、静かに落ちついた口ぶりで。時には胸の内で盛り上がる悲しみや怒りを理性の力で制御しているらしい。  壮と美緒は、ほとんど質問する必要がなかった。初めのうちこそ、江美は壮の質問に答えるかたちで話していたが、今では自分で順序よくまとめて話した。  江美の話は、復讐《ふくしゆう》の計画の段階から実行の段階へ……吉久保と間宮を殺したときの具体的な説明へと移った。  それによると——  松井をつかって、五月四日に松井、間宮、吉久保の三人を壱岐の「サンライズ・サンセット」へ呼び寄せたのは、鷲尾たち壱岐島署の刑事たちが調べ、推理したとおりであった。また、ゴム紐《ひも》と形状記憶合金を使ってログハウスの窓ガラスを割ったトリックは、犯人を兼岡から江美に置き換えれば、ほぼ壮の考えたとおりであった。  ただ、ログハウスの北側の灌木《かんぼく》にゴム紐を縛ってセットしたのは犯行の当日(吉久保がログハウスに現われる直前)だが、トリックの準備を始めたのは一カ月半前だという。三月の彼岸《ひがん》にミドリの墓参りを兼ねて「サンライズ・サンセット」を訪れ、一人でログハウスへ行って入念にトリックを検討し——形状記憶合金は玩具《がんぐ》に使われているので手に入れるのは簡単だったらしい——、必要なゴム紐の長さを計って、そこに結び目を作っておいたのだった。  五日の朝、松井を始発のフェリーで呼子へ渡らせると同時に吉久保をログハウスへ呼び出すのには、ワープロで打った手紙を使った。前夜、街へ降りたとき、酔いを醒《さ》ましたいと言ってスナックの外へ出て戻り、松井だけそっと呼んで、手紙と睡眠薬の入った封筒を渡したのだという。「いま、外でサングラスをかけた髭《ひげ》もじゃの男の人に、これを松井さんに渡してくれって頼まれたの」と言って。「表通りに停《と》めてあった車に乗って行っちゃったけど、何だか薄気味悪い人。すぐにトイレで読めって言ってたわ」。  その手紙には、  ㈰ 今夜、ペンションへ帰ったら、部屋で酒を飲みなおし、そのとき気づかれないように間宮にだけ睡眠薬を飲ませるように、  ㈪ 明朝七時に起きて、誰にも見られないようにペンションを出て街へ降り、タクシーで印通寺港へ行ってフェリーに乗るように、  ㈫ 明朝部屋を出るとき、吉久保をそっと起こし、�秘密を要する重大な話があるので、間宮にもペンションのオーナー夫妻にも気づかれないように、七時四十分にログハウスへ来い。俺は先に行って待っている。詳しくはそのとき話す�そう言うように、  という三つの指示を書いておいた。  ペンションの部屋へ帰ってからしたことは、由加利に、松井に渡したのと同じ持続性のある睡眠薬の入ったコーラを飲ませたこと。これで、彼女をぐっすりと眠らせ、朝、江美が部屋を出て行っている間に目を覚まさないようにしたのだった。  翌朝五時四十分、江美はまだ外が薄暗いうちに起き出し、黒いパンツと黒いブラウスを着て、部屋を抜け出した。  玄関のドアはセミ自動錠で、内側からは自由に開けられることを知っていた。また、兼岡家の住居は厨房《ちゆうぼう》に接したペンションの裏側なので、兼岡夫妻が朝早く表に出てくることは滅多にないことも。  江美はそっと玄関を出ると、二階のどの窓もカーテンが閉じているのを確認し、素早く前の雑木林の中へ駆け込んだ。  下の小道へは、食堂の前の庭から斜めに歩道が付いているが、雑木林の中を抜けて降りることもできる。  この時間、小道を歩いている者などいない。だから、腰を屈《かが》めて手前の林寄りを歩けば、ペンションの二階の窓からも見えず、目撃される危険はなかった。  ログハウスに着いて、江美が最初にしたのは、ドアの錠を壊すことだった。  錠は、「鍵《かぎ》が掛かっていますよ」と示しているだけの簡単なもので、組み立て式のドライバー一本あれば簡単に壊せるしろものだった。三月に来たときに江美は調べて帰り、長崎で同型の錠を買って試したのである。  充分、時間に余裕を持たせて来たが、それはわずか六、七分で壊れた。  次に、江美は、用意してきたゴム紐を持って北側へ回り、目当ての青木の木の根元に二回まわし、結び目を作って印を付けておいた位置で縛った。形状記憶合金の鉤《かぎ》は、すでにゴム紐の他端に結び付けてある。その鉤付きのゴム紐を、からまないように注意して藪《やぶ》の中に隠し、ログハウスへ戻った。  凶器に使う予定の大型|釘抜《くぎぬ》きが入口右手の棚の下段にあるのは、昨日、由加利と来たときに確認してある。  それを、作業台のそばの棚の中段に移し、机の下から椅子《いす》を引き出して、作業台の前に置いた。  これで、準備完了。  一時間半ほどして、吉久保が現われ、ログハウスの中に江美がいるのを見て、怪訝《けげん》な顔をした。  不審げだが、警戒をしている様子はない。相手が女性だし、まさか自分を殺そうとしているとは夢にも思っていないからだろう。  ——いま、事情をお話ししますから、入ってください。  江美が言うと、入ってきた。  ——誰にも見られませんでしたか?  江美は秘密めかして声を低めた。  ああと吉久保が答えて、周りを見回し、  ——それより、松井は?  と、訊《き》いた。  ——街へ降りたんですが、もう戻ってきます。ここに掛けて待っていてください。  江美は時計を見て言い、作業台の前の椅子を示して、吉久保と位置を入れ代わった。  吉久保が言われたとおりに椅子に掛け、  ——どうして、あんたがこんなところにいるわけ?  と、顔を上げた。  ——もうちょっと待ってください。それも松井さんが帰ったらお話ししますから。  江美は答えた。  吉久保が質問を諦《あきら》め、煙草を出して使い捨てライターで火を点《つ》けた。  換気扇を回しておくために、吉久保が煙草を吸ったように見せるつもりだった江美にとっては願ってもない展開だった。  兼岡は煙草を吸わないので灰皿はなかったが、曲がった釘やネジを入れたアルミ皿があったので、江美は中身を横の木箱にあけ、それを吉久保の前に置いてやった。  江美は、透明なマニキュアを指に塗ってあるので、指紋がつくおそれはない。  ——窓を開けさせてください。  言って、さりげなく吉久保の背後に回り、棚から釘抜きを取った。  江美は女性でも、身長が百六十九センチある。五十センチほどある大型の釘抜きを思いきり吉久保の頭に叩《たた》きつけると、一撃で彼は煙草を落とし、床に崩れた。  わずかに床の上でもがき、呻《うめ》き声を上げたが、もう反撃はおろか、助けを呼ぶ力もなく、江美が見下ろしている間にがくりと首を折り、息絶えた。  時計を見ると、七時五十一分。  予定の行動であり、予想していた結果とはいえ、江美はしばらくその場に呆然《ぼうぜん》と立っていた。後悔はなかったが、恐怖はあった。自分を力づけるために、吉久保たちがミドリに襲いかかる場面を想像し、当然の報いなのだ、と思った。「こんなケダモノを殺しても、罪の意識など感じる必要はない」と口に出してつぶやいた。「それよりも、絶対につかまらないようにしなければ——」。  江美は、念のために釘抜きをハンカチで拭《ふ》いて床に捨て、床に落ちていた吉久保の煙草を取ってアルミ皿で火を消した。吉久保が作業台の上に置いてあった煙草の箱からさらに二本抜き取り、持参したパイプで吸ってから、彼の唇の中に押しつけて唾液《だえき》を付け、やはりアルミ皿に捨てた。  ログハウスを出て、北側の藪の中から、用意しておいたゴム紐を伸ばして引っ張ってくると、天井から長く下がった電灯を振り子のように斜めに引き、コードの下端に鉤を引っ掛けた。  嫌だったが、吉久保の靴を脱がせ、それを持ってログハウスの外へ出て、履き替えた。これから床に散らす灰に自分の靴の跡を残さないためである。  中へ戻り、作業台の上に載っていた工芸品の材料、工具、煙草の吸殻の入ったアルミ皿などを手で払って適当に散らせた後、棚の上段から去年の夏の使い残しの蚊取線香と灰の入った缶の蓋《ふた》を下ろした。一巻きの線香を取り、約三十分で燃え尽きる長さに渦巻きの中心部分を折り取って——線香の燃える時間については長崎の自宅で実験済み——棚に確保しておき、残りは適当に折ったり砕いたりして、灰と一緒に電灯の笠《かさ》、作業台、床とぶちまけ、缶の蓋も吉久保の身体から四、五十センチ離れた床の上に伏せて置いた。  抜かりがないかどうか周囲を見回して最後の点検をした後、換気扇のスイッチを入れ、棚に確保しておいた蚊取線香を取って、火を点《つ》けた。渦巻の中心の穴に、コードに引っ掛けた鉤の先端を刺した。  外に出て、衣類に血も灰も付いていないのを確認してから、自分の靴に履き替え、吉久保の靴は彼の死体のそばに投げ置いた。  途中、指に塗ったマニキュアを落とし、林の中にドライバーを埋めて、ペンションへ帰った。窓辺にも玄関にも人の姿がないのを確認してから素早く中へ入り、二階の部屋へ上がった。  作用の発現は遅いが、効力が長くつづく持続性の睡眠薬のせいで、由加利は熟睡していた。  衣類を脱いでパジャマに着替え、たったいま目が覚めたように装って、由加利を揺り起こした。  由加利を急がせて顔を洗い、一緒に食堂に降りた。食事の途中で由加利が部屋へ戻ったのは、急にトイレへ行きたくなったかららしく、江美の計画外のことである。  食堂に出てきた兼岡と話しながら、時間を気にしていると、ほぼ計画どおり、八時二十七分にガッシャーンという音が響いた。  江美は当然ながら、兼岡や美緒たちと一緒にログハウスへ駆けつけた。  吉久保の死体を確認してから警察が来るまでの間に、一人で北側へ回る機会を作るつもりだったが、それは願ってもないかたちで実現できた。兼岡が美緒たちと一緒にログハウスの中へ入り、江美が警察と消防署に連絡するためにペンションへ戻ることになったのである。江美は、兼岡と美緒たち三人が中へ入り、死体に注意を奪われているとき、「それじゃ、行ってくるわ」と声をかけ、小道のほうへ駆け出すように見せて、ログハウスの北側に回った。そして、青木の根元に縛ってあったゴム紐を外し、その他端に付いた形状記憶合金の針金(鉤型から棒状に変わっていた)とともに回収し、ズボンのポケットに入れた。  ログハウスの中にいる人間から死角になった林の中を回り、小道へ出た。途中、前もって調べておいた朽ちた切り株の深い穴にゴム紐と針金を落とし込み、上から枯れた落葉を掛けて隠した(できるだけ早くドライバーと一緒に持ち帰り、処分するつもりでいるが、その後壱岐へ行く機会がないので、まだあるはずである)。小道を駆け、ペンションの庭へ登って行った。  松井は、口を噤《つぐ》み通そうと警察に泣きつこうと前途には破滅しかないと悟ったらしく、自殺してしまった。少しは罪の意識を感じていたのか、自分たちが罪を犯した郷里の平戸まで行って。  となれば、あとは間宮だけだった。  吉久保が死んでも、間宮の内には江美に対する疑いは生まれなかったらしい。彼は、壱岐から長崎へ帰るや——友達が殺された直後だというのに——二度も江美に誘いの電話をかけてきた。江美は、間宮のあまりの節度のなさ、図々しさに頭に血がのぼり、この男がミドリを……と思うと、我を失いかけた。しかし、間宮の態度は江美の計画にとっては好都合この上なかった。江美は怒りと嫌悪感をぐっと呑《の》み込み、適当な返事をして焦《じ》らしておいた。そして、兼岡が翌週の月曜日に長崎へ出てくると聞いた十日(金曜日)、間宮の携帯電話を呼び出し、十三日の夜会いたい、と伝えた。十一時ジャストに家を出て、賑橋のほうへ向かって歩いていれば、車で行って拾うから、と。間違っても、間宮が誰かと一緒に来たり、家族に江美のことを話すおそれはなさそうだったが、念のために、�吉久保事件のことで内密に話しておきたい件があるので誰にも言わずに出てきてほしい�と付け加えた。  松井が自殺すると、間宮は、由加利が沢祥子の姉だと突き止めたらしく、もしかしたら吉久保を殺した犯人は由加利ではないかと疑い始めたようだった。が、江美に対しては、露ほどの疑いも抱いていなかったらしい。由加利について、いろいろ遠回しに江美に尋ねてきていた。だから、江美が、�吉久保事件のことで内密に……�と言うと、彼はてっきり由加利についての話だと思ったようだ(実はそう誤解させるように江美が仕向けたのだが)。  十三日(月曜日)——  江美は、安達モータースの二階の小部屋へ泊まりに行く兼岡を両親とともに玄関に送り出した後、一旦《いつたん》自室へ戻った。そして、部屋の灯《あか》りを消し、そっと家を抜け出した。間宮殺しに使うために作った青酸ソーダ入りのチョコレートキャラメルを持って。  青酸ソーダは、江美が時々社長の使いで訪ねる鉄板工場から手に入れた。その鉄板工場は、メッキに使う青酸ソーダの管理が杜撰《ずさん》なことを江美は前から知っていた。去年の秋から機会を狙《ねら》い、この二月、作業員が現場を離れたすきに缶から少量盗み出し、酸化して無毒にならないように、菓子の缶に入っていた脱酸素剤と一緒にサランラップに包んでおいたのである。  青酸ソーダの性質や毒性については、本で調べた。それによると致死量はわずか○・二〜○・三グラム。キャラメルは、チョコレートクリームをキャラメルの殻で包んだもの。しばらく嘗《な》めているか噛《か》むかすれば、中のチョコレートが溶け出す飴《あめ》菓子だ。このキャラメルに穴を穿《あ》けて、中のチョコレートの一部を抜き取り、残りのチョコレートに青酸ソーダの濃縮液を注射器を使って致死量混ぜ込んだ。別のキャラメルの殻を溶かして封をし、接着面は熱したピンセットを使って修復した。これを元の赤い紙に包んで用意しておいたのである。  江美が、夕方借りて近くの空地に駐《と》めておいたレンタカーを乗り出し、市民会館前を通って賑橋を渡り、鍛冶屋町《かじやちよう》通りのほうへ向かって行くと、前方から歩いてくる間宮の姿が見えた。彼女は、前後に人も車もいないのを確認してから近づき、素早く助手席に乗せて発進した。  間宮は気がかりな様子で、事件に関して話しておきたいことって何だと訊いた。  ——ううん、たいしたことじゃないの。あれはあなたに会うためのコ、ウ、ジ、ツ。  江美は笑いながら答えた。  ——なんだ、気にするじゃないか。  間宮がちょっと非難するように言ったが、ほっとしたように感じられなくもなかった。  江美は、そのまま一方通行の道を東へ向かって車を走らせた。  ——どこへ行くんだい?  ——どこでもいいでしょう。人も車も通らないところ。  江美は意味ありげに言い、鍛冶屋町通りにぶつかったところで右に折れた。  思案橋の交差点で大通りに出ると、また右折し、市電の線路に沿って中島川河口に近い海岸通りまで行った。長崎税関ビルの横から水上警察のほうへ入り、手前で左折して、警察から離れて車を止めた。  日が暮れたら人っ子一人通りそうもない、岸壁に建った倉庫の陰だ。  ——キスして。  江美は助手席のほうへ首を突き出して、言った。  間宮が上体をひねり、応《こた》えた。江美の頭を抱き、さらに強く吸い、やがて江美の唇を割って舌を押し入れてきた。  江美は、いっときされるがままになっていてから間宮の顔を押し放し、  ——待ってて、そっちへ行くから。  囁《ささや》くように言って、相手が「そっちへ行くよ」と言う前に、車から降りた。  助手席のシートはぎりぎり後ろに引かれ、背もたれが倒されていた。  江美は間宮の股《もも》に跨《また》がった。  彼の股間《こかん》はすでに固くなっていた。  ——キャラメル、嘗《な》める?  訊いた。  ——キャラメル?  と、間宮が怪訝《けげん》そうに訊き返した。  ——そう、美味《おい》しいキャラメル。  ——キャラメルなんかいらないよ。  ——でも、一個だけ食べて。私が半分嘗めてからあげるから。それならいいでしょう?  江美が甘えるように言うと、間宮が「うん」とうなずいた。  ——すぐに飲み込んじゃっていいわ。そうしたら、ね?  江美はセックスしてもいいと仄《ほの》めかし、間宮を押し倒した。  ポケットから用意したキャラメルを取り、包みを解いた。  緊張に指が震えた。  ——ちょっと嘗めて、噛《か》まずに飲んで。  間宮の目に言ってから、キャラメルを自分の口に入れた。  青酸ソーダを混入したチョコレートがすぐに溶け出すおそれはない。  それでも、恐ろしかった。  間宮の上体に伸《の》しかかり、彼の口に自分の口をつけた。  唇を割り、キャラメルを間宮の口の中へ移した。そのまま舌をつかって、彼の喉《のど》のほうへ押しやり、「飲んで」と、言葉にならない声で促した。  キャラメルは大きくないし、江美が嘗めて角が取れている上に充分な唾《つば》に包んでおいたので、なめらかだ。  間宮がごくりと飲み込んだ。  それを確認して、江美は彼の口から自分の口を離し、  ——あ、そうだ、あれ[#「あれ」に傍点]を使って。用意してきたから。  と、避妊具を取りに戻るように装ってドアを開け、降りた。  運転席に戻り、バッグの中を探しているふりをしていると、間宮が胸を押さえて呻《うめ》き、苦しみ出した。  ——ううっ……な、なんだ、何を飲ませたんだ?  江美は応えない。  ——ど、毒を飲ませたな。なぜだ、なぜなんだ?  江美は苦しむ男を見たくなかった。が、この男にだけは、はっきりと死の意味を知らせてやりたかった。  ——去年の五月四日の夜、平戸。忘れたとは言わせないわ。  江美は言った。  間宮の目に驚愕《きようがく》の色が浮かんだ。  ——あのとき、おまえたちに襲われたのは私の恋人だったのよ。恋人は、おまえに妊娠させられ、自殺したわ。  ——恋人……?  ——そう、私の恋人よ。  江美はそれだけ言うと、車を降り、男が死亡するのを待った。  十分とかからなかった。  それから、江美は、間宮の死体を平戸に縁の深い出島のオランダ商館跡まで運び、捨てた。 �オープン博物館�の出島門の入口に張られた鎖すれすれに車を停《と》め、男の身体を助手席から引き下ろすと、鎖留めの杭《くい》と塀の間を通って通路の側溝まで引き摺《ず》ったのである。  江美の長い告白は終わった。  美緒たちには言うべき言葉がなく、暗い照明の下でかすかに紅潮しているように見える江美の顔を、じっと見つめていた。  すると、江美が、自分は二人の人間を殺した殺人者になってしまったが後悔はしていない、と言った。  わずかの間に顔から赤みが退《ひ》き、目のあたりに暗く寂しげな表情が漂っていた。  美緒たちは、もちろん江美の殺人を肯定できない。かといって、彼女を責めることもできなかった。 「聞いてくださって、ありがとう」  江美が美緒たちに微笑《ほほえ》みかけた。 「いいえ」  と、美緒は首を振った。 「それじゃ、行きましょう」  気を変えるためか、明るいとも感じられる調子で江美がつづけた。 「行く……?」  美緒は思わず訊いた。  どこへ行こうというのか、一瞬、理解できなかったからだ。 「警察よ。一緒に付いてきてくださるんでしょう」  美緒が壮を見やると、壮が黙ってうなずいた。 「ありがとう」  江美が言い、先に立って歩き出した。  美緒たちは、江美につづいて市電通りへ出た。  偶然か、タクシーがよく通るところなのか、二、三分で空のタクシーが来た。  江美は、美緒と壮にリアシートを勧め、自分は助手席に乗り込んだ。  ドアが閉まる。 「南山手署までお願いします」  と、江美が落ちついた声で告げた。 [#改ページ]   エピローグ  雨が降っていた。  しとしとと冷たい雨が降っていた。  新聞の梅雨入《つゆい》りの見出しを見たのが先だったか、雨の降り始めたのが先だったか、はっきりしないが、四、五日前に降り出し、時々やむかに見えては降りつづいている。  六月十一日(火曜日)午後三時四十分過ぎ。美緒はコートを着て傘をさし、中原佑二という作家からもらったばかりのワープロ原稿とフロッピィーの入ったショルダーバッグを抱きかかえ、東横《とうよこ》線の中目黒《なかめぐろ》駅へ向かって急いでいた。  今更いくら急いだところで、約束の四時までに東京駅には着けない。といって、話好きの中原の話を途中で断ち切って席を立つわけにはゆかなかったのだ。  東京駅の八重洲《やえす》地下街にある喫茶店「桂」で午後四時に——。  それが、昨日、用事で長崎から東京へ出てきて、今日、寝台特急「さくら」で帰るという玉木由加利との約束だった。  そこには壮も来ることになっている。  が、遅刻常習犯の彼が時間どおりに来て、美緒が行くまで由加利の相手をしてくれているといった可能性は、皆無に近い。もっとも、奇跡が起きて、もし約束どおりに壮が現われたら、美緒が着くまで、由加利は話の継ぎ穂に困ってしまうだろうが……。  由加利には悪いが、待っていてもらうしかない、と美緒は思う。「さくら」の東京駅発は五時五十八分だというから、十五分や二十分遅れても、乗れなくなるおそれはない。その点は少し気が楽だった。それに、�せっかく東京へ出てきたので、できれば一言礼を言いたい�と由加利から電話があったので会うだけで、重要な用件があるわけではなかったし。  中目黒駅に着くと、うまい具合にすぐに日比谷《ひびや》線直通の電車がきた。  次の恵比寿《えびす》で山手線に乗り換えれば、東京駅で降りてからは八重洲地下街に近いが、地下鉄のほうが早そうなので、美緒はそのまま|霞ケ関《かすみがせき》まで行き、丸ノ内線に乗り換えた。  脳裏に、最後に会った日の由加利の顔が浮かんできた。  安達江美が壮と美緒に付き添われて自首した翌日、五月二十七日(月曜日)の朝、美緒たちが由加利の勤務している浦上の希望会中央病院を訪ねたときのことだ。  美緒の話を聞いて、由加利は目を皿のように丸くした。その、驚き、茫然《ぼうぜん》自失した顔……。  美緒だって、前日、新幹線の中で壮から犯人の名を聞いたときは声が出なかったのだから、当然であったが。  その日——美緒たちが博多で乗った新幹線「ひかり54号」を広島で降りて長崎へ引き返した夜——から、二週間余りが経《た》っていた。  この間に江美は起訴され、事件はひとまず落着したらしい。  三好警部から壮に二度、報告と礼の電話があったのだ。  それにしても、壮の推理が凶悪な殺人犯人を追いつめたのならいいが、今度のような場合は、いま一つすっきりしない。美緒は、晴ればれした気分で相棒の頭脳を誇る気になれない。  犯人よりも、自殺した松井を含めた被害者三人のほうが何倍も凶悪で卑劣だった。だからといって、殺人という復讐《ふくしゆう》行為が許されるわけではないが、間宮が首謀者だったらしい兼岡ミドリの強姦《ごうかん》事件さえなかったら、ミドリは自殺しなかっただろうし、江美は罪人にならずに済んだのだ。そう思うと、美緒はつい江美に同情してしまい、彼女を追いつめてしまったことを悔む気持ちが心のどこかにあるのである。  丸ノ内線の電車は、四時十一分に東京駅に着いた。  といっても、JR東京駅の西側から東側へ抜けなければ、八重洲地下街へ行けないから、「桂」に着くのは約束より十五、六分遅れることになるだろう。  そう思いながら、美緒は階段を上り、改札口を出て、地下のコンコースを北口・動輪《どうりん》の広場のほうへ急いだ。  広場の隅から通り抜け通路に入り、急ぎ足の人々の流れに乗る。  同じ地下にある東京駅名店街を抜け、八重洲地下街のエリアに移ったのは四時十四分だった。  案内板で見てもはっきりしないので、だいたいの見当で「桂」を探す。  角を曲がり、〈あ、あそこだわ〉と三十メートルほど前方に紫の看板を見つけたとき、それより手前に知った姿があった。  美緒と同じように左右をきょろきょろやりながら歩いている相棒である。  やっぱりね、と美緒は思う。いや、十五分程度の遅刻なら、早いぐらいだ。  美緒は足を速め、知らん顔をして、腕が触れ合わんばかりに右側を追い越した。  それでも、相棒はすぐには自分の恋人だと気づかず、美緒が「桂」の前で立ち止まったとき、やっと、 「あっ、美緒さん」  と、言った。 〈何が�あっ、美緒さん�よ、のんびりと歩いていて〉 「今、何時?」  美緒は、近づいてきた相棒に訊《き》いた。 「四時十六分ですね」  壮が時計を見て答える。 「約束の時間は?」 「確か、四時か四時半だったような……」 「四時よ」 「そうでしたか。とすると、ちょっと遅刻ですか」  いつだって、こうだ。  美緒が時間を守るように言っても、暖簾《のれん》に腕押し、馬の耳に念仏、糠《ぬか》に釘《くぎ》、蛙の面に何とか……全然|応《こた》えない。  謎《なぞ》を解くときだけは天才的でも、どうにもならなかった。 「そうね、あなたにしたら、ちょっとね」  でも、私なんか、玉木さんが待っていらっしゃるかと思うと、もう気が気じゃなかったんだから——そうつづけようとしたが、美緒は言っても無駄だと諦《あきら》めた。 「行きましょう」  と、相棒を促した。  傘をビニール袋に入れて、自動ドアを入った。  店内は和風のインテリアで統一されていた。  由加利がすぐに美緒たちに気づいて、笑みを向けてきた。  彼女は、自分を利用した江美を全然恨んでなんかいないと電話で言っていた。ただ江美の行動力に感嘆し、共感している、と。  殺人に感嘆、共感は穏やかではないが、妹を強姦《ごうかん》されて失った由加利の正直な気持ちにちがいない。  由加利がボリュームのある腰を上げて、美緒たちを迎えた。  美緒は、遅れたことを詫《わ》びた。 「こちらこそ、すみませんでした。お忙しいところお呼び立てして」  由加利が心底すまなそうな顔をした。 「いいえ、忙しくなんてないんです」  美緒は言いながら傘を椅子《いす》の端に置き、コートを脱いだ。由加利の前に壮と並んで腰を下ろし、つづけた。 「今日はたまたま原稿を取りに行って、すぐに帰れなくなってしまっただけなんです」 「でも、黒江さんはご研究が……」 「この人はただの遅刻常習犯にすぎません。遅れたのと研究とは全然関係ないんです」  美緒は言った。  語調が思わず強く高くなったからかもしれない、由加利がくすりと笑った。  壮はというと、美緒の隣りで居心地が悪そうに身体を縮めていた。  それを見て、美緒はちょっと反省し、でも、と口の中でつぶやいた。 〈でも、遅刻常習犯でも、ぶきっちょな宇宙人でも、私は、あなたを誇りに思っているわよ……〉 角川文庫『長崎・壱岐殺人ライン』平成14年3月25日初版発行