房総・武蔵野殺人ライン 深谷忠記 著  目 次 プロローグ  第一章 事件 第二章 暴行(事件の八ヵ月前) インタールード 遠い記憶 第三章 追及(事件の七ヵ月前) 第四章 発見(事件の二ヵ月前) 第五章 公判 第六章 事実 第七章 転回 第八章 究明 第九章 衝撃 第十章 真実 エピローグ 主《しゆ》が与え、主が取られたのだ。 主の御名《みな》はほむべきかな。 (旧約聖書ヨブ記一ノ二十一)  プロローグ  十月四日(土曜日)午後一時過ぎ。  金井利彦は、中央線の大久保駅に近い新宿区百人町の路上で、あの人と出会った。相続問題でもめている依頼人と駅で別れ、事務所のあるビルへ向かって歩いていたときである。あの人が「仮出所した」と義兄の小池に聞いたのは、もう五年ほど前になるが、会うのは十年ぶり……まさに一日の狂いもなく十年ぶりであった。  苦難に満ちていたであろう十年の歳月は、当然ながら、あの人の顔をずいぶん変えていた。それでも、利彦は一目見てすぐに分かった。足を止めて見つめると、向こうも彼を思い出したらしく、一瞬大きく目を見開いて見つめ返した。  しかし、彼がかけるべき言葉を探しているうちに、あの人は、黙って頭を下げ、足早にすれ違って行った。  利彦は、体を巡らして見送った。  そして、昔より一回り小さくなったように感じられるその後ろ姿が、ビルの陰に消えてから、ゆっくりと歩き出した。 〈十年か……〉  利彦は口の中でつぶやき、十月四日という日付の因縁について思った。胸にはあの人の身についての、歳月の流れについての、複雑な感慨が去来した。  十年前の十月四日。  終わりの日であり、同時に始まりの日だったともいえる、あの日……。  友人二人と共同ながら、現在自分の法律事務所を開いている利彦が、まだ司法試験に合格する前である。その最後の関門である口述試験にのぞもうという前日だった。あの人にとっても、彼にとっても、生涯忘れることのできない多くの事が起きた日であった。そして、東京地方裁判所八王子支部の法廷で、彼があの人を見た最後の日でもあった。  利彦は、あの人が裁かれることになった殺人事件を思い浮かべた。それも、やはり十年前に起きたのだった。あの日から五ヵ月ほどさかのぼった初夏のある夜。都下武蔵野市の井の頭公園に近い、アパートの一室で——。  第一章 事件 1  昭和五十×年五月十五日土曜日の深夜——正確には十六日午前一時半過ぎ——新宿歌舞伎町のクラブに勤める久米由紀は、吉祥寺駅南口に近い井ノ頭通りでタクシーを降りた。客の室井昭も一緒である。  歩道には、まだチラホラ人影があるが、昼の喧騒が消え、車の急発進する音とブレーキの音だけが、遠く近く響いてくる。  由紀は、料金を払っている室井をあとに、独りで歩き出した。いつもより飲み過ぎたせいか、脚がふらふらした。 「おい、待てよ」  すぐに、室井が追いついてきて、由紀の顔に、アルコールと煙草の脂《やに》の臭いの混じった息を吐きかけた。腰に腕を回し、口元をニヤッと笑わせる。目の中には、これからの楽しみを期待する色が浮かんでいた。  由紀は、そんな男の思惑を無視する顔で、大きなビルの角を曲がった。薄暗い裏通りである。  少し行くと、一杯飲み屋、ラーメン屋、麻雀荘、歯科医院などが雑多に並んでいたが、すでにみな戸を閉めている。  室井に腰を抱かれたまま、由紀は十字路で右に折れた。左側は不動産会社やサラ金などの入った小さな雑居ビル。ビルと「トン吉」という小料理屋との間に幅一メートルほどの路地があり、その奥が彼女の住んでいる「井ノ頭ハイム」の二階へ上る玄関だった。  ハイムとはいうものの、実体は上下二部屋ずつの古いアパートである。しかも、階下の一室は、家主の電器店が倉庫代わりに使っているため、人の住んでいるのは三室だけ。  狭いので、由紀は室井の腕を外して、先に路地へ入って行った。もう、「トン吉」も明かりを消している。十五、六メートル進み、突き当たりの錠のかかっていないドアを引いた。左の部屋には若い男が住んでいるが、階下の部屋は反対側に出入り口が付いているため、由紀は名前を知らない。 「へー、ここか」  室井が、周りを見回しながら言った。 「静かにして」  由紀はたしなめ、狭い三和土《たたき》で先にパンプスを脱いだ。そのとき、プンとガスの臭いがしたような気がした。 「ね、ガス臭くない?」  彼女は神経を鼻に集めながら、室井を振り返って訊いた。 「ガス?」  室井が答えて、犬のようにクンクン鼻を鳴らし、「さあ」と首をかしげた。 「よく、かいでみて」 「俺、酒飲むと、鼻、駄目だから」 「私もそうだけど、やっぱり、するわ。きっと漏れてるのよ」  由紀は緊張した。酔いが、いっぺんに覚めてしまった感じだった。室井の顔も、真剣な表情に変わった。 「漏れてるって、どこから?」 「隣りの部屋か上の部屋よ。そういえば、上の部屋、まだ窓が明るかったわね」  階段を上ったすぐ左の部屋には、工藤良男という三十少し前くらいのヤクザっぽい男が住んでいた。その奥が、由紀の二Kの部屋であった。 「とにかく、上へ行ってみるわ」  由紀は言うと、階段を上り始めた。  ガスの臭いが、強くなる——。  ということは、元は、工藤の部屋のようであった。 「ああ、俺にも臭ったよ」  ついてきた室井が言った。 「ええ、工藤っていう男の人が住んでいるんだけど、ここね」  由紀は体を強張《こわば》らせて答え、ひと呼吸おいて、ドアをノックした。  返事がない。  工藤の名を呼びながら、ノブを引いた。  ドアは抵抗なく、すっと開いた。同時に、ガスの強い臭いが襲いかかってきた。  由紀は思わず鼻と口を手でおさえ、後ずさった。代わりに室井が前に出て、部屋の中を覗き込んだ。 「ひ、人が寝ている!」  彼は慌ててドアを閉め、引きつった顔を振り向けて、言った。「二人か三人……」 「寝ているの?」 「倒れているのかもしれない」 「じゃ、あんた、中へ入ってすぐガス止めて。私、警察へ電話するから」 「ああ」  室井がかすれた声で答え、片手を鼻に当てて、部屋へ飛び込んで行った。  由紀は、ハンドバッグから自分の部屋の鍵を取り出した。それを鍵穴に差し込む手が震えた。  部屋へ入る。  電話機に走った。  そのとき、隣りの部屋から、室井が勢いよく窓を開け放す音が響いてきた。 2  由紀の通報後、五分ほどして最初のパトカーがやってきた。次いで救急車、消防車、ガス会社の車、さらに警察の車……と、次々サイレンを鳴らして到着。午前二時頃には、井ノ頭ハイムの周りの狭い通りは、車でいっぱいになっていた。  工藤良男の部屋では、三人の若い男たちが死亡していたのである。死因は一酸化炭素中毒と推定されたが、詳しいことは、解剖してみないと分からなかった。  工藤の部屋は、一DKの造りである。ドアを入った右側が四畳半程度の台所で、奥の窓側が六畳の和室だ。といっても、境の襖が取り払われてしまっているので、一つの部屋のようにしか見えない。  三人は、和室の中央に置かれた座卓を囲んで、死んでいたのだった。倒れるというよりは、眠くなってごろりと横になった、という恰好で。  三人のうちの一人は、由紀によって工藤良男と判明したが、あとの二人の身元は分からなかった。  酒を飲んでいたらしく、テーブルには、ウイスキーの特大瓶とグラス、水、アイスペール、ピーナッツやイカの燻製《くんせい》などが、載《の》っていた。  警察は、室井昭の証言を重視し、彼が部屋へ入ったときの、ガスコックや窓の状態を詳しく質《ただ》した。  室井によると、台所のガステーブルは、上に何も載せられないまま、二つのコックがともに全開になっていたという。そして、ドア、廊下側の台所の小窓、奥の窓とも、すべて閉められていた——。  この話が事実なら、事故のセンは考えられない。  他殺か、三人のうちの一人が他の二人を道連れにして自殺を図ったか、であった。  警察は、当面その両方の可能性を追うことにしたが、間もなく〈他殺〉のセンが、有力になった。誰かが指紋を拭き取ったらしい形跡が見つかったからだ。つまり、ドアのノブからは由紀と室井だけの、ガスコックからは室井だけの指紋しか検出されなかったのである。  翌日、正確には同じ十六日の昼近く、死者の身元が、工藤良男(元暴力団組員)、松岡勇(大学生)、山野辺英夫(スナック・バーテン)と全員判明し、さらに〈他殺〉を示す事実が明らかになった。  そこで、警察は、彼らの死亡時刻前後の目撃者捜しと、交友関係の調査を中心に捜査を進め、事件発生から六日目の二十二日——一人の人間を殺人の容疑で逮捕した。  第二章 暴行(事件の八ヵ月前) 1  さわさわと、松の梢が鳴った。  残暑のひいた後の夕風が、大掃除をして汗ばんだ肌に、心地よい。  散歩にはちょうどよい時刻だった。  冴子は、疎《まば》らな雑木と松の木立に囲まれた別荘の庭から、通りへ出た。母の康代と石野祐子も一緒である。  少し先の左手に、海岸へ出る小道が岐《わか》れていた。三人は、談笑しながらその白い小道へ入って行った。両側には、海辺特有の丈の低い松が、砂地に押しつけられるように密生している。  二百メートルほど進むと、両側の松林が切れ、小道はわずかに上り勾配になった。急に視界がひらけ、砂浜の向こうに灰色の海が見えた。道はそのあと、砂浜の手前を左へ大きくカーブしながら七、八十メートルつづいて、終わっていた。  夕闇の降り始めた、夏が過ぎた浜辺に、人の姿はない。前方の行き止まりに、白っぽい乗用車が一台、ひっそりと駐まっているだけだった。  一段低くなっている砂浜の方へ寄ってから、振り返った。すると、黒い樹海の上に、ホテルや国民宿舎の灯が、明るく浮かび始めていた。  冴子は二十歳。東京|田無《たなし》市で内科医院を開いている、西広一郎の一人娘だ。今、彼女は、西医院の看護婦をしている石野祐子と母とともに、ここ千葉県|一宮《いちのみや》にある別荘へ来ているのである。父の広一郎と婚約者の木島真吾は、仕事の都合で一足遅れ、これから来ることになっていた。 「いい気持ち……」  冴子が海の方へ目を戻して言うと、 「ええ。連れてきていただいて本当によかったわ」  顔に散りかかる長い髪を、手でおさえながら、祐子が応えた。  祐子は冴子より六つ上の二十六歳。細面の優しい、綺麗な顔立ちをしていた。 「ほら、あれが、さっき話した太東《たいとう》岬よ」  冴子は、右手かなたに黒く迫《せ》り出した半島を指差して、祐子に教えた。「あの手前までが、九十九里浜……」 「灯台があるんですね」 「そう、無人灯台らしいんだけど」 「明日は、みんなで、あの先端まで行くんでしょう?」 「ううん、真吾さんと父は分からないわ」 「あら……」  どうして? というように祐子が小首をかしげた。 「二人は碁を打つのが楽しみで来るのよ。真吾さんは、もしかしたら我慢して父に付き合っているのかもしれないけど」 「ねえ、それより、お父さんと真吾さん、ちゃんと会えたかしら」  康代が、横から少し心配そうに話に割って入った。 「連絡がなかったんだから、会えたのよ」  冴子は言った。  広一郎は、途中で真吾と待ち合わせ、車に乗せてくる約束になっていたのである。 「だったら、もうそろそろ着く頃ね。心配するといけないし、帰りましょう」 「大丈夫。明かりが点《つ》いているんだから」 「せっかく、真吾さんがいらっしゃるのに、いなかったら失礼でしょう」 「いいの、いいの。真吾さんはそんなこと気にする人じゃないわ」  言いながら、冴子は、真吾のがっしりとした体躯と端整な顔を思い浮かべた。  二人は、ともに九段下にある城北大学の学生だった。冴子は文学部仏文科の二年生、真吾は冴子より六年先輩で、医学部大学院の博士課程《ドクターコース》二年生である。テニス部員の冴子を、クラブOBの真吾が見初《みそ》め、互いの友人を交えて交際を始めたのが一年前。その後、半年ほどして、冴子は、兄妹のようにして育った金井利彦に真吾を引き合わせ、彼のプロポーズを受け入れたのである。  真吾は、茨城県土浦の出身であった。中学時代までは東京の南千住に住んでいたが、父親が事業に失敗して、郷里に引っ込んだのだという。  彼は、現在の両親の実子ではないらしい。詳しいことは、話さないので分からないが、彼の入籍後しばらくしてから生まれた義理の弟が一人いる。そうした事情からか、できれば西家の婿養子に、と望んでいる広一郎と康代に、彼は多少含みをもたせた返事をしていた。 「ちょっと、波打ち際まで行ってみない?」  冴子は祐子を誘った。 「でも、やっぱり、もう帰った方がいいんじゃないかしら」  祐子が、康代に遠慮して言った。  来たときよりだいぶ暗くなっていたが、まだ完全には暮れきっていないし、月が出ているので、近くにいる相手の表情は分かる。 「平気よ。お母さんも一緒に行こう?」  冴子は、母の方を向いた。 「サンダルが砂にとられて、歩けないわ」  康代が言う。 「私が手をひいてあげる」 「あなただって、危ないでしょう。もう、砂の中に何があるか見えないんだから」  康代は、多少心配性だというだけで、今では、このように普通の人と変わらない。  だが、冴子たち一家が北池袋から田無に越してきた十六年前から数年間は、半年おきぐらいに入退院を繰り返していたのだった。  当時、冴子は「お病気」としか聞かされていなかったが、やがて小学校の高学年になった頃、近所の人の話から、それが精神の病《やまい》だったことを知った。すると、かつて母が時々、不意に叫び出したり、泣き出したり、笑い出したりしていた姿がよみがえり、大きなショックを受けた覚えがある。 「危ないものなんて、落ちてないわよ。ねえ?」  冴子は、祐子に加勢を求めた。 「ええ、でも……」  祐子が困ったように返事をにごした。 「行こう?」  冴子は両手で康代の手を取り、左右に振った。 「本当にこの娘《こ》は、駄々っ子みたいなんだから」  苦笑しながらも康代がようやく同意した。  そこで、冴子は彼女と手をつないで砂浜へ降り、廃船の横を通って、波打ち際まで歩いて行った。  康代と祐子は貴重品を入れたセカンドバッグを持っていたが、冴子は運転免許証と財布を母に預けて、手ぶらだった。  膝近くまで足を濡らし、祐子とキャッキャッと声をあげながら、波と追いかけっこをして遊んだ。砂の上を掃きながら退《ひ》いてゆく波に暗い海へ引き込まれるような感覚が、恐く、楽しかった。  こうして、十分ほど波とたわむれた頃だったろうか、独り離れて立っていた康代が、また広一郎たちのことを気にして、帰ろう、と言い出した。  冴子も、今度は逆らわなかった。  祐子に借りたハンカチで濡れた足を拭き、サンダルをひっかけて、元の道の方へ引き返し始めた。  廃船の陰から不意に三人の男たちが姿を現わし、彼女たちの前に立ちはだかったのは、そのときだった——。  祐子が、息を吸い込むような驚きの声を洩らし、手を口に当てた。 2  冴子は康代に体を密着させ、その手を握りしめた。すぐに、祐子も、反対側から康代に身を寄せてきた。  三人の男たちのうち、真ん中の一番背が高くがっしりした体躯の男だけが、頭からナイロン・ストッキングを被り、右手にナイフを握っていた。  冴子は、恐怖に声も出ない。  のっぺらぼうの、無気味で異様な顔。月の光を白く反射しているナイフ。それらは、彼らの邪悪な意思を、はっきりと示していたからだ。 「そこをどいて、通してちょうだい」  祐子が半歩前に出て、康代と冴子を庇《かば》うように両腕をひろげ、強い調子で言った。  彼女は幼い頃に父を亡くし、やはり三年前に亡くなったという母と二人、かなり苦労したらしい。それだけに、何不自由なく育った冴子など、思いもよらない芯の強さを見せるときがある。 「お願い、私たちに何もしないで」  康代も震える声でつづけた。  が、男たちは答えない。首謀者と思われるのっぺらぼうを真ん中にして、じりじりと間を詰めてくる。 「近寄らないで! 大きな声を出すわよ」  祐子が声を高めた。 「出したきゃ出したらいいさ」  右側のアロハシャツを着た男が、笑いを含んだ声で言った。「泣こうと叫ぼうと、誰にも聞こえやしない」  冴子の脳裏に、さっき見た白っぽい車が一瞬希望を閃《ひらめ》かせたものの、それはすぐに、〈この男たちこそあの車の持ち主にちがいない〉、という絶望に取って代わられた。  男たちが冴子たちを囲み、のっぺらぼうがナイフの刃で祐子の頬を軽く叩いた。 「怪我したくなかったら、お互い、離れるんだ」  のっぺらぼうの意を代弁するように、アロハの男が言い、いきなり祐子の腕を掴んで冴子たちから引き離した。  今度は、ナイフが康代の喉元に突きつけられる。  冴子は思わず小さな悲鳴を洩らし、体を縮めた。 「大丈夫よ」  康代が励ますように言う。冴子の手をいっそう強く握りしめる。娘のために、必死で恐怖と闘っているのが、密着させた体に伝わってくる震えから分かった。 「手ェ、離すんだよ」  のっぺらぼうがナイフの刃先をさらに康代の喉に近づけ、初めて、低い、くぐもった声を出した。  冴子は、康代と握り合った手をゆるめた。  と、すかさず、左側の男が冴子の腕を取って乱暴に引いた。三人の中では、一番気の弱そうな感じの男である。顔を近づけてきたとき、右頬に十円硬貨ほどの楕円形のアザがあるのを、冴子ははっきりと認めた。 「お願いします。その娘《こ》には……その娘にだけは、何もしないでください」  康代が顔を振り向けて、哀願した。  だが、のっぺらぼうはそれを遮《さえぎ》るように彼女の胸元を掴み、自分の顔の方へぐいと引き寄せ、 「フン、婆ァが最初か。まあいいだろう」  とつぶやいた。  どうやら、品定めをしたらしい。それで、小柄で固い感じのする冴子やほっそりした祐子より、四十二歳のまだ十分肉感的な康代を先に選んだ、ということのようであった。  男は康代と体を入れかえた。ぐいぐい廃船の方へ押して行き始める。 「お母さん!」  冴子は叫び、あとを追って、飛び出そうとした。  だが、その彼女の右腕を、アザの男が後ろへねじり上げた。 「奥さま……!」  祐子も、もう一人の男に押さえられて、動けない。 「祐子さん、お願いね。冴子のこと、冴子のこと……お願いね」 「お母さん! お母さん!」  冴子は狂ったように叫んだ。  渾身の力をこめて、アザの男を振り切ろうともがいた。  男の手が少しゆるんだ。冴子に引かれて男が前|屈《かが》みになる。その顎を、前に回そうとした冴子の右肘が偶然とらえた。  鈍い音がした。  男は、一瞬ひるんだようだ。  それでも、冴子が駈け出すよりは、男の立ち直りの方が早かった。思わぬ抵抗に狂暴性が鼓舞されたのだろうか、彼の手は冴子の首筋に爪の痕を掘り、ワンピースの後ろ襟を引き裂いた。  冴子は引き戻され、左頬に強烈な平手打ちをくらった。 「冴子さん!」  祐子の声。 「祐子さん、祐子さん……」  冴子は祐子の方へ走り寄ろうとしたが、その前に砂の上に引き倒されてしまった。  アザの男が、馬乗りになって覆いかぶさってきた。  冴子は手足をばたつかせ、あらんかぎりの力で抗《あらが》った。  男の両脚が、胴体を締めつけてくる。両手は、冴子の腕を万歳の恰好に砂の中に圧《お》しつけてくる。  男の顔が、冴子の目の前に迫った。荒い息が、顔中をなめる。酒臭い息。煙草の脂《やに》の、胸が悪くなるような臭い。口で、口がふさがれる。冴子は目を閉じ、首を激しく左右に振って、男のざらついた唇から逃《のが》れようとあがいた。 「畜生……」  男が顔を起こした。  冴子の抵抗の激しさに腹を立てた声だった。  彼女の腕を押さえつけていた両手を離すや、今度は、いきなり左右の頬を連打してきた。  冴子は、もう恐怖を通り越していた。痛みも感じない。ただ悔しかった。悔しくて、涙があふれた。  冴子の体から、わずかに力が脱けた。  それを、男は観念したと取ったらしい。  馬乗りになった体を前へ少しずらし、まくれ上がった冴子のワンピースの裾から手を入れてきた。  冴子は、反射的に体を縮めた。再び激しく暴れ、抵抗する。 「畜生、このアマァ……」  平手打ちが、また冴子の頬に鳴った。  一度、二度……。  いや、二度目が鳴るより一瞬早く、男の体が横にはね飛んだ。  誰かが冴子の手を取って引き起こしてくれる——。 「冴子さん、逃げて!」  祐子だった。  しかし、祐子はすぐに追ってきた別の男に髪を掴まれ、後ろへ引き倒されてしまった。 「早く、逃げて……」  祐子の声をあとに、冴子は駈け出した。サンダルなど、とっくにどこかへ飛んでしまっている。裸足だった。逃げられる可能性が生まれ、最初の強い恐怖がまた彼女をとらえていた。  アザの男が起き上がり、追ってきた。  荒い息が迫る。  手が、冴子の肩に触れた。  彼女は、夢中で体《たい》を横にかわした。  そのとき、「痛ェー!」と、後ろで男の悲鳴があがった。  何かを踏んだのか、それとも、足首でも挫いたのだろうか……。少しずつ差のひらいてゆくのが、感じられた。  それでも、冴子は足をゆるめなかった。振り返らなかった。一気に道へ駈け上る。康代と祐子のことさえ、頭になかった。ただ、恐怖と危険から逃《のが》れようとする本能だけで、灯を求めて飛ぶ虫のように、自動車通りの明かりを目指して走った。 3  西広一郎は、黒塗りのクラウンを別荘の庭へ乗り入れた。  予定よりだいぶ遅れ、八時近かった。  首都高速の三宅坂付近で七キロの渋滞にあい、そのうえ、一宮に来てから近道をしようとして、逆に知らない道に迷い込んでしまったのだ。  彼は一人だった。冴子の婚約者の木島真吾を途中で拾ってくる予定になっていたのだが、抜けられなくなってしまったので一時間ほど遅れて電車で行く、と家を出る直前に電話があったのである。 〈これじゃ、彼とあまり違わんのじゃないかな……〉  そんなふうに思いながら、広一郎は冴子の赤いシャレードの横にクラウンを駐め、運転席から降りた。  別荘は、彼の父親が建てたものだった。潮風にかなり傷《いた》んだ古い平屋である。  電気が点《つ》いているのに、窓が全部閉まっていた。  広一郎はベランダへ上って行き、 「やっと着いたよ」  と、声をかけながら、鍵のかかっていない入口のドアを引いた。  だが、入ってすぐの居間には誰の姿もないし、奥にある三つの部屋のどこからも人のいる気配は感じられない。台所や浴室にいる様子もなかった。 「どこへ行ったのかな……」  車があるので近くへ散歩にでも出たのだろうとは思ったが、少し不用心だな、と眉をひそめながらつぶやいた。  スリッパに履きかえて居間へ上がると、籐椅子に腰をおろした。  途中で一度休んだが、五十近い体に、四時間以上の運転はさすがに応えた。あちこちに疲労がよどんでいる。  目を閉じ、首を軽く二、三度回した。  ふっと自嘲的な気持ちが湧いた。  今回、彼には別荘へ来る予定がなかった。それが、木島真吾を招待したからぜひあなたも……と妻の康代に言われ、無理して、予定をやりくりしたのである。 〈俺は……俺と妻は、なんとかして、少しでも木島真吾に気にいられようとしているのではないだろうか〉  冴子に木島真吾との仲を打ち明けられた日のことが、よみがえった。広一郎は、ショックだった。結婚なんて早い、まだ若過ぎる、と言って反対した。が、そんなのは、後からくっつけた理由にすぎない。本当のところは、ただショックだったのだ。自分が長い間大切に護《まも》り育ててきた娘を、泥棒猫のように突然横からさらっていこうとしている木島という男が許せない、と思った。  しかし、父親の彼がどんなに反対しても娘の気持ちを変えることはできない、とやがて悟らされた。それは、初めのショック以上に寂しかった。その寂しさを紛らすためには、結局彼の方から折れ、冴子の顔に明るさを呼び戻す以外になかった。  こうして、彼は二人の婚約を受け容《い》れ、木島真吾が現在の両親の実子ではなく、西家の婿養子になる気がないわけではない——と知ったとき、それを己れの気持ちの妥協点にしたのだった。  広一郎は頭を振り、目を開けた。  立ち上がった。  ここにこうしていても仕方がないので、風呂にでも入ろうと思ったのである。  浴室の方へ歩きかけたとき、ベランダで物音がして、ガラス戸が勢いよく開いた。  振り返ると、髪を振り乱した冴子が、全身で荒い息を吐いて立っていた。 「さ、冴子! ど、どうしたんだ?」  ひと目見て、事態の異常さを直覚し、彼は駈け寄った。 「お父さん……」  その足元に、冴子が上体を投げ出し、ワッと泣き出した。ワンピースの背中は裂け、裸足だった。 「どうした、何があったんだ?」  屈《かが》みこみ、肩を抱き起こしながら訊いた。 「お母さんが……お母さんと……祐子さんが……」 「落ちつけ、冴子。落ちついて、きちんと話すんだ」 「今、そこの砂浜で、三人の男に……」 「襲われたのか?」  冴子がしゃくり上げるようにうなずいた。 「よし」  広一郎は立ち上がった。  そして、さっき道に迷ったとき駐在所の前を通ったことを思い出し、 「お父さんは、これからすぐ行ってみる。だから、お前は駐在所へ知らせてくれ。そこの道を向こうへ行って最初の十字路で左へ折れ、二番目の枝道を右へ入れば、赤い灯が点いているので分かる。車で行くんだぞ。気をつけて。いいな」  言うだけ言うと、そのままベランダから庭へ飛び降り、あとも見ずに駈け出した。  通りを渡り、少し行って、海岸へ通じる松林の間の小道に入る。  と、前方から、ヘッドライトをぎらつかせた車が、猛烈な勢いで突進してきた。  彼は松林の中に飛び込み、あやうく難を逃れた。 〈もしかしたら、こいつらが妻たちを……〉  そう思い、素早くナンバープレートを振り返った。  多摩——。  瞬間、その文字が網膜を掠《かす》めたような気がした。  だが、数字を読み取るより先に、車はタイヤをきしませて曲がり、エンジンの音を高く響かせて遠ざかって行った。 〈自分たちと同じ、多摩ナンバー! どういうことだろう。妻や娘を襲ったのは、やはりこいつらだろうか……?〉  再び海岸へ向かって駈け出した彼の胸に、いっそう強い不安が衝《つ》き上げてきた。 4  それから四、五十分した頃——。  駐在所の巡査、佐々木実は、西家の別荘の居間に座っていた。  彼の前にいるのは三人の男女だ。  二人の娘は、衣服だけは着替えたらしいものの、まだ恐怖のさめやらぬ血の気のうせた顔をしてうつむいている。  その横に、田無で内科医院を開いているという西広一郎が座っている。広一郎は、佐々木と同年の四十七、八歳くらいか。青ざめ、苦渋に満ちた表情をしているが、品の良さを感じさせる整った顔立ちの男である。彼の妻の康代は、ショックで寝《やす》んでいる、と姿を見せていない。  浜辺で暴漢に襲われたという娘が駐在所に駈け込んできたのは、佐々木が風呂へ入ったばかりのときだった。  そこで、彼は、とりあえず妻に娘を保護させ、慌てて体を拭いてシャツとズボンを付けた。  話を聞いて、すぐに本署へ連絡——娘は別荘へ帰らせて、自分はバイクで現場へ向かった。  彼に前後して、パトカーも到着した。署員たちと、廃船の陰から砂山の起伏まで、隈《くま》なく捜した。  だが、誰もいない。  それで、娘の父親が救《たす》け出して連れ帰ったのだろう、と判断し、彼女の話した別荘を訪ねた。  佐々木たちは、戸惑った顔をした男に迎えられた。男は、西広一郎と名乗る。妻たちはみな軽い怪我だけですみ、無事なのでこのまま引き取って欲しい、という。  ——それで、犯人たちは?  彼の言葉を無視して、パトカーの署員の一人が訊いた。  ——私が駈けつけたときには、車で逃げた後でした。  ——あなたは、その車を見たのですね?  ——ええ……。  ——ナンバー、あるいは車種、逃げた方角は分かりますか?  海岸から出てきた角を、別荘とは反対の左へ曲がって行ったが、ナンバーや車種までは、分からない——と広一郎が答えた。  佐々木は、署員たちと相談して、パトカーには先に帰ってもらった。そして、「事情だけは一応聞いておかなければならないから」と広一郎を説得し、居間に上がりこんだのだった。 「すると、犯人の男たちは先に車で海岸に来ていた、それは白っぽい色の車で、多摩ナンバーだった。こういうことですね?」  ひと通りの事情、経過を聞いた後で、佐々木は確認した。 「いや、多摩ナンバーというのは、事実かどうか分からないんです」  広一郎が答えた。  彼は、「そんな気がした」と話してから、言ったことを後悔するように、しきりに言い訳しているのである。 「海岸へ行ったとき、石野さんたちには、ナンバープレートまでは見えなかったわけですね?」 「ええ」  石野祐子がうなずいた。  彼女は、西医院の看護婦だという。駐在所へ駈け込んできた娘、西冴子より年上のようだ。ほっそりとして優しい顔立ちをしているが、しっかりした気丈な娘らしい。  さっきからのやりとりの中で、佐々木はそんな印象をうけていた。  彼は、手帳に目をおとした。  そこには、車に関する件の他に、  犯人が、三人組の若い男だったこと。首謀者と思われる一番がっしりした体躯の男だけがストッキングで覆面をし、ナイフを持っていたこと。もっとも気が弱そうに見えた男の右頬には、十円硬貨大の楕円形のアザがあったこと。現場に東京小岩の「バロン」という喫茶店のマッチが落ちていたこと。  ——などが、記されていた。 「バロン」のマッチは、冴子がアザの男ともみ合ったあたりに落ちていたのだという。犯人たちが逃げ出した後、貴重品を入れていたセカンドバッグとサンダルを捜していて、祐子が見つけたのである。それは、事件に関係のない人間が前に落とした可能性もある。が、それにしては、まったく湿り気がなく、ラベルの色も鮮やかだった。 〈もし、これがアザの男の落とした物なら、犯人追及の手掛かりになるな……〉  佐々木は、そう考えながらテーブルの上のマッチに視線を移し、オヤッと思った。今まで気づかなかったが、灰皿の陰にある、小さなフィルムの切れ端のようなものが目に止まったのだ。  よく見ると、それは、ハーフサイズの白黒のネガフィルムを一コマだけ切り取ったもののようであった。  祐子も冴子も触れなかったので、事件に関係ないものかと思ったが、 「何か、フィルムのようですが、これはどうしたんですか?」  と、彼はとにかく訊いてみた。  すると、祐子が困ったような顔をして、意向を窺《うかが》うように広一郎を見た。 「やはり、犯人たちに、関係のあるものなんですね?」 「砂浜に落ちていたんです」  ひと呼吸おいて、広一郎が答えた。 「暗くて広い砂浜で、こんなものがよく見つかりましたね」 「…………」 「どういうことでしょう?」 「石野君、お話ししなさい」  広一郎が口元を歪めて、言った。 「はい」  と答え、祐子が話し出した。 「冴子さんの姿が砂山の陰に消えると、犯人たちは誰かを呼んでくると思ったらしく、慌てて逃げ出しました。そこで、私はすぐに、廃船の横にいる奥さまのところへ、駈けつけました。そして、お体についた砂を払ってさしあげているとき、そばに落ちていたブラジャーの裂け目に挟まっている、そのフィルムを見つけ、奥さまには黙って、一応取っておいたんです」 「ブラジャーの裂け目というのは?」 「表地が少し裂けていたんですが、その内側です」 「では、犯人がわざと残していった?」 「え、ええ。でも、はっきりとは……」 「たまたまそこに落ちていたのが、犯人に抵抗しているとき、裂け目から入ったとも考えられます」  広一郎が言った。 「まあ、絶対にありえないとは言い切れませんが、その可能性は小さいですね」  言いながら、佐々木は、かすかな興奮を感じた。田舎の駐在所勤めの彼にとって、それは、数年前の水産物加工業者殺しの捜査にタッチしたとき以来の興奮だった。  犯人たちは、被害者と同じ多摩ナンバーらしい車に乗り、主犯格の男は�覆面�をしていた。さらに加えて、この故意に残されたらしいネガフィルム。単なる通りすがりの暴行事件ではないような気がした。  祐子も冴子も——広一郎に訊いてもらったところ康代も——覆面の男に見覚えはないという。が、たとえ見知った人間でも、暗いところで見るストッキングの覆面は、まったく別人の印象を作り出していただろう。だいたい、彼らに顔を知られていなければ、それを隠す必要がないのである。ということは、事件は、顔見知りの犯人による計画的な犯行であり、このネガフィルムこそが、その犯人の意図を伝え、彼らの正体に迫る手掛かりを与えるものである可能性がある。  佐々木は——今さら無駄だと思ったが、指紋を消さないよう一応注意して——爪の先でフィルムの端をつまみ、明かりにかざして見た。  どうやら、戸外に立っている女の全身スナップのようであった。 「女の人のようですが、誰なのか、どなたも心当たりはないわけですね」  言ってから、すぐに無理な質問だと彼は気づいた。白黒逆のネガだというだけでなく、三十五ミリのハーフサイズなので、小さすぎるのだ。 「ちょっと無理ですかな」 「ええ。それに、私たちの知った人間であるはずがありません」 「そうですか……」  広一郎の返事を待って、佐々木はフィルムをテーブルに戻し、 「では、念のためにお尋ねしたいんですが」  と、質問を変えた。「今日あなたがたがこの別荘へ来られる、ということを知っていた人は、どれくらい、いるでしょう?」 「そんなことが何のために必要なんです?」 「参考までに伺っておきたいんです」 「あなたは、今夜の出来事が計画的なものだとお考えなんですか?」 「その可能性もないわけでは……」 「ば、馬鹿な! 妻や娘や石野君が、いったい何をしたというんです? 私だって、他人の恨みを買うようなことは何一つしていないというのに」  広一郎が声を高めた。 「別にそんなふうに考えたわけではありません。恨みなどなくても、良からぬことを企《たくら》む輩《やから》はいますから」 「そうでした。失礼……」  広一郎が、ムキになったことを恥じるように、声をおとして謝った。その顔は、今まで以上に苦しげに見えた。 「かなり多くの人が知っていたと思います」  彼は佐々木の質問に答えた。「私が別荘へ来るのを決めたのは一週間ほど前でしたが、妻たちの計画は、半月くらい前からのものでしたから。近所の人たちや親しい患者、それに、これから来る予定になっている娘の婚約者……さらに、その周囲の人たちも聞いていたかもしれません」 「お嬢さんの婚約者というのは、どういう方なんでしょう?」 「木島君といって、城北大学医学部の大学院生です」 「これから一人で見えるわけですか?」 「そうです。私と一緒に来るはずだったのですが、急に都合が悪くなってしまったんです。もう、着く頃だと思うんですが……」  広一郎が言って時計を見たので、佐々木も自分の腕時計に目をおとした。  四、五分で九時半であった。  訊くべきことは訊いた、と思った。  そこで最後に、渋る広一郎を説得し、祐子と冴子に傷害の被害届を書かせた。 「バロン」のマッチとネガフィルムを互いに触れ合わないようにハンカチで包み、協力の礼を述べて、腰を上げた。  佐々木がバイクを庭から乗り出そうとしたとき、道にタクシーが停まり、一人の大柄な男が降り立った。  男は、軽く佐々木に黙礼して、入れかわりに庭へ入って行った。 〈今のが、きっと冴子の婚約者の木島という男だな……〉  佐々木はそう思い、アクセルを回して、スピードを上げた。  ずっと胸の中にわだかまりつづけていた疑問について考えながら、暗い道を、本署へ向かう。  それは、康代のことだった。  若い娘たちが健気《けなげ》にも立ち直っているというのに、康代だけがなぜ姿を見せなかったのか。彼女だけが、どうしてそれほど強いショックを受けたのか。広一郎が終始苦しげな顔をし、事件を不問に付そうとしていた事実を考え合わせると、どうしても一つの想像——康代だけ強姦されたのではないか、という想像にゆきついてしまう。  ところが、そう考えるのにも、無理があるのだった。時間である。  祐子によると、冴子が難を逃れて駈け出したのは、康代が覆面の男に廃船の陰に連れて行かれて、間もなくだったという。そして、その直後には、三人の男たちは身の危険を感じて逃げ出している。いくらナイフで脅したといっても、当然激しく抵抗したであろう康代を自由にするには、それはあまりにも短すぎるのだった。  以上はどう理解したらいいのかよく分からない点だが、他にもう一つ、佐々木には気になっていることがあった。  それは、犯人が〈三人組〉で、その中に〈右頬にアザのある男がいた〉という事実である。  ここ一宮から南へ四、五十キロ下った鴨川に近い前任地にいた二年前の夏、臨時の海岸警らに駆り出されたときのことだ。やはり、〈右頬にアザのある男を含む三人組による婦女暴行事件〉が起きたのだった。  現場は、花畑で有名な南房総・和田の海岸。襲われたのは、夜のドライブに来ていたらしい若いカップル。女は犯人たちに車で連れ去られ、男が近くの民宿へ助けを求めて駈け込んだ。  そこで、通報を受けた佐々木たちは、民宿へ急行した。  ところが、背が高くなかなかの美男子だったというその男は、なぜか一足違いで姿を消してしまい、犯人たちも検問に引っ掛からなかったのだった。 5  翌朝、冴子たちは、十時近くに遅い朝食を取った。  康代は食べたくないと言って、姿を見せないので、真吾をいれて四人である。誰もが押し黙ったままの、重苦しい食事だった。  冴子の頭からは、昨夜、広一郎と祐子に抱きかかえられるようにして帰ってきた康代の姿が焼きついていて離れない。  康代は、裸同然であった。衣類は引き裂かれ、引きちぎられていた。男の凌辱だけはなんとかまぬがれたらしいものの、ショックで口がきけず、しばらくは虚《うつ》ろな目をして震えていただけだった。  そんな康代を見て、広一郎は「病気」の再発をもっとも恐れたらしいが、その心配だけはどうやら遠のいたようだ。今朝はだいぶ落ちつき、冴子とも挨拶を交わした。  それはいいのだが、冴子は今、強い自責の念と後悔に苦しめられていた。  昨夕、散歩に出ようと初めに言い出したのは冴子である。波打ち際へ行こうと誘い、渋る康代の手を取って無理やり促したのも冴子だった。あのとき、もし自分が誘わなければ、母の言う通りに帰っていれば……何度もそう思った。  また、昨夜は自分のふがいなさを思い知らされ、ショックを感じていた。  情けなかった。  祐子に比べて、恥ずかしかった。  ふだんはいっぱしのことを言っているくせに、いざとなると何もできないことが分かったのである。自分は気の強い負けず嫌いの方だと思っていたが、それも上辺《うわべ》にすぎなかった。昨夜は、その己れの裸の姿を、自分の目ではっきりと見てしまった。祐子に助けられて逃げるときは、ただ脅《おび》え、気が動転し、廃船の陰に連れ込まれた母のことすらほとんど念頭になかった。そして、父と祐子と母が戻り、佐々木巡査が来てからも、何も筋道立てて考えることができず、腑《ふ》抜けたように祐子の横に座っていただけであった。  朝食の後片付けがすみ、昼前に東京へ引き揚げよう、と話し合っているとき、佐々木のバイクが庭へ入ってきた。  もしかしたら主犯格の男は顔見知りではないか、とほのめかした昨夜の佐々木の言葉が、ふと冴子の頭に浮かんだ。  考えてみると、確かにその可能性がないとはいえなかった。  薄闇の中のストッキングの覆面——。  それは、陽光の下で見るどんな人間をも想像させないほど不気味でグロテスクで、悪意に満ちた雰囲気を作り出していたのだから。  康代のブラジャーの破れ目に入っていたネガフィルム、広一郎の見た多摩ナンバーの車——も、その想像を補強している。  とはいえ、その見方には疑問もあった。佐々木の想像に従えば、彼らの犯行は当然計画的だったことになるが、冴子たちが夕方砂浜へ散歩に出たのは、まったくの偶然だったからだ。広一郎と真吾の到着が遅かったために、急に冴子の言い出した行動にすぎなかったからだ。  ただ、次のような可能性は考えられる、と冴子は思った。  犯人たちは、冴子たちの別荘行きの予定を知り、先回りして機会を窺《うかが》っていた。そこへ(偶々《たまたま》彼らが車を駐めていた人気《ひとけ》のない浜へ)、女三人だけで現われるという好機が到来した——。  佐々木がバイクのスタンドを立て、冴子たちに笑みを向けた。人のよさそうな顔である。ベランダに上り、ガラス戸の開いている居間の方へ回って来た。 「昨夜は遅くまで失礼しました」 「いえ」  広一郎が、硬い表情をして椅子から立って行き、「今日は何か?」と、佐々木の視界を遮るように彼に対した。 「昨夜のネガを焼いてみたものですから、一応見ていただこうと思いましてね」  佐々木は言うと、胸ポケットから一枚の写真を取り出し、広一郎に差し出した。  広一郎が手に取った。  その彼の体が一瞬強張ったのを、後ろにいた冴子は感じた。 〈父は写真の人を知っている!〉  彼女は直感した。  胸が震えた。  いったい誰だろうか。 「いかがですか?」  佐々木が訊いた。 「知りませんね」 「まったく見覚えがない?」 「ええ」 「では、お嬢さんと石野さんは、いかがでしょう?」  佐々木が、広一郎の脇から顔を覗かせて冴子たちに言った。 「たぶん娘たちも知らないと思いますよ」  広一郎が体を巡らし、冴子に写真を手渡してよこした。そのときの彼の目と言葉に、冴子は父の〈ある意思〉を読み取った。  写真に目をおとした。  誰が写っていても驚かないつもりでいたのに、彼女はその�女の顔�に、思わず息を呑んだ。 「ご存じなんですね」  すかさず、佐々木が訊いた。 「い、いえ……」 「本当ですか?」 「はい」 「しかし、なんだか、びっくりされたようですが」 「ええ、最初に見たとき、お友達のお姉さんに似ているような気がしたんです。でも、よく見なおしてみたら、別の方でした」 「私も見たことのない人ですわ」  横から覗き込んでいた祐子が言った。  彼女は、本当に知らない人間であった。会おうにも、会えないのである。 「それでは、念のために奥さまにも見ていただいて……」  いないのが分かっているのに、佐々木が目で探す素振りをした。 「妻は気分がすぐれないので、ちょっと部屋で休んでいるんです」 「お怪我が思ったより酷《ひど》かったとか?」 「そんなことはありません」  広一郎が佐々木の質問を途中で封じ、 「私が見せて訊いてきましょう」  と、冴子の手から写真を取って奥の部屋へ入って行った。  そして、二分ほど何やらボソボソ話していて、戻ってくると、 「やはり知らんそうです」  嘘をついた。  その感じから、〈母には写真を見せなかったのではないか〉——冴子は、そんな気がした。 「そうですか……」  佐々木は応えたものの、納得しかねる様子で首をかしげ、 「でも、おかしいですな」  と、少し間をおいてから言った。「どなたもご存じないとなると、犯人は、なぜ、わざわざあんなネガを残したんでしょう? あなたがたの誰かが見れば、当然意味の分かる、犯人のメッセージだと思ったんですが」 「単なる悪戯《いたずら》じゃないんですか」  冴子の後ろから真吾が言葉を挟んだ。 「あなたは、木島さん?」 「そうです。ネガフィルムを残してゆくことによって、犯人たちは、自分たちの行動をいかにも意味ありげに見せようとしたんじゃないでしょうか」 「しかし、写っているのが、名もない特定の個人であるという点が、どうも引っ掛かりますな」 「佐々木さん、あなたがどうお考えになろうと勝手ですが、私たちとしては、知らんものは知らんのです」  広一郎が言った。「昨夜も申し上げたように、フィルムは前から砂浜に落ちていたのかも分からんでしょう。どうか、もう放っておいてくれませんか。幸い、みな軽い怪我だけですんだわけですし、妻と娘と石野君にとっては、嫌な記憶をできるだけ早く忘れるのが一番なんですから」 「それは、事件を公にしたくない、ということですか?」 「そうです」  強い意思のこもった声だった。 「もちろん、大袈裟に騒ぎ立てるのは、私の本意でもありませんが」 「では、ご配慮いただけますか」 「西さんのご意向は、本署の上司に伝えておきましょう。ですが……この写真は置いて行きますので、後で何か思い出したり、気づいたりしたことがありましたら、必ず知らせていただけますね?」 「分かりました」  広一郎が幾分ホッとした声で言い、佐々木が挨拶して、ベランダから降りて行った。  その後ろ姿を見送りながら、冴子は、佐々木を呼び止めなければと急に思った。今、彼を呼び止め、自分の知っている事実を話さなければ、犯人たちは永久に捕まらずにすんでしまうだろう。それで、いいのか——。  冴子は、父の広一郎の態度に納得できないものを感じていた。それは、疑惑といってもよかった。  父が母の心の病《やまい》の再発をおそれる気持ちは分からないではない。だが、もう母は大丈夫なのだ。凌辱されたわけではないし、やがてショックは薄れ、立ちなおるだろう。  としたら、母を、自分と祐子を、あれほど酷い目にあわせた犯人たちを放っておくことはできなかった。彼らが許せなかった。このままでは、どうにも悔しかった。父だって、妻と娘が襲われ、似たような気持ちでいるはずである。それなのに、父は、なぜか犯人たちを捜し出す手掛かりを潰してしまおうとしているのだった。  冴子たちが佐々木に見せられた写真には、一人の女性の全身像が写っていた。場所は、どこかの川の土手らしい。白黒なのでよく分からないが、季節は秋だろうか。女の背後には、ゆったりとした大きな川の流れがあり、対岸のかなたには煙突が一本、高く空に突き出ていた。  その写真が昨夜の出来事にどう関係しているのかは、冴子にも分からない。が、それが犯人たちによって意図的に残されたものであり、彼らに迫る重要な手掛かりであることだけは九分九厘間違いない、と思った。  川風に長い髪をそよがせて、微笑んでいる女——。  それは、かつて西医院が北池袋にあった頃、看護婦をしていた大町志津——十六年前に自殺した、冴子の大好きだった「お姉ちゃん」なのだから。  佐々木がバイクにまたがり、エンジンをかけた。 「お父さん、やっぱり私……」  それまで迷っていた冴子は、心を決めてベランダへ飛び出して行こうとした。  すると、広一郎が、 「冴子!」  低いが、鋭い声で制止した。広一郎には珍しい、厳しい表情だった。  冴子は驚き、躊躇《ちゆうちよ》した。  その間に、佐々木のバイクは木立の中を抜け、通りへ出て行ってしまった。  インタールード 遠い記憶  頭がぼんやりして、腕や脚がなんとなくだるかった。冴子は夜となく、昼となく、眠った。昼、起きているときは、よく天井の隅にある大きな染みに目を向けていた。それは、そのときどきによって、朝露の玉を浮かべた双葉のようにも、首を伸ばして泣いている子亀のようにも見えた。  母屋《おもや》と背中合わせに建てられた、父の経営する医院の二階。窓にピンクのレースのカーテンが下がった病室。ベッドは、三つあった。二つは空で、冴子は真ん中のベッドに寝かされていた。お腹《なか》をこわしたのだったろうか。それとも、風邪をこじらせたのだったろうか……。  初めのうちは、目を覚ますと、たいてい母の顔が心配そうに覗き込んできた。  が、二、三日して元気になると、看護婦の志津のいるときの方が多くなった。  志津は、親切で優しかった。冴子が前から欲しいと思っていた人形を買ってきてくれた。父と母に内緒で、チョコボールを食べさせてくれた。童話の本を読んでくれた。赤城山が見えるという、彼女の育った村の話をしてくれた。子供好きで、明るい、ときには童女のようにあけっぴろげな志津。  冴子は、そんな志津をこれまで以上に好きになった。  間もなくだるさがすっかり取れ、早く起きて遊びたい、と思っていた頃だった。病室には冬の午後の陽射しが溢れ、冴子は心地よい夢うつつのたゆたいの中にいた。  足の先の方では、さっきから父と志津らしい男女が、何やら小声で話している。何を話しているかは、分からない。二人の声は、覚めきらない、冴子の鈍い意識の表層をかすめてゆくだけ。  ところが、突然、 「——いけ!」  男の押し殺した、それでいて強い怒りを含んだ声が、冴子の夢うつつの均衡を破った。  驚いて、目を開けた。  横向きに寝ていた冴子の前で、空きベッドの白いシーツに映ったレースの花模様が、まぶしく揺れた。 「出て行け! 今すぐ、ここから出て行くんだ。そして、二度と冴子に近づくことは許さん」  今度は、はっきりと意味が取れた。父の声である。冴子は体を縮めた。なぜか分からなかったが、首を起こして見るのが、はばかられた。初めて聞く父の怒声が恐かったのかもしれない。  それでも、少し待っても志津が何も言わないので、そっと布団の襟を下げ、足元の方を窺った。  向き合って立った二人の横顔が、目に入った。今まで冴子が見たこともない、父の強張った表情。一方、志津も、ふだんの彼女からはとても想像できない、ふてぶてしい薄ら笑いを唇の端ににじませ、父をにらんでいた。  と、不意に志津が体を巡らし、冴子の傍らを通って出口へ向かった。  ドアを引いた。  アッという、志津の驚きの声。  冴子は、声の方へ顔を向けた。  志津の向こうに母が立っていた。 「……失礼します」  志津が頭を下げて出て行き、代わりに母がドアの内側に入った。目は父に向けられている。その顔は、青白く引きつっているようだった。 「うん? 冴子を起こしてしまったかな」  父が言い、母も冴子を見た。 「パパ、お姉ちゃんを叱っちゃ、いや」  冴子は言った。 「叱っちゃ、いないよ。お姉ちゃんが冴子のところにばかりいて、お仕事をしないので、ちょっと注意していただけなんだ」  父が……つづいて母が、四歳の子供の目にもどこかぎこちない感じで表情をやわらげ、冴子の枕元へ近寄ってきた。  志津がアパートの自室で自殺したのは、それから一ヵ月ほどした頃だった。  第三章 追及(事件の七ヵ月前) 1  体育の日が過ぎたばかりの、秋晴れの爽やかな日である。  午前中、建物の角を鋭角的に浮き出させていた真っ青に澄みきった空気は、午後になってわずかに白みがかり始めていたが、それでも、まだ空には雲一つない。気温も、日向《ひなた》にいると、ただ座っているだけで汗ばんでくるくらいだった。  グラウンドの東側にある土手の中腹に腰をおろしていた金井利彦は、薄いカーディガンを脱ぎ、Tシャツ一枚になった。生協食堂で遅い昼食をとってきたばかりなので、自然に瞼《まぶた》が重くなってくる。すぐ下のテニスコートでは、冴子たちの若々しい白い姿態がまぶしく弾んでいたが、ボールを打つ軽やかな響きがいっそう眠気を誘う。  図書館の机の上には、民法コンメンタールを開いたままであった。今日のノルマは、まだだいぶ残っている。早く戻って読まなければ、刑法の予定に食い込んでしまう。そう思いながらも、彼は陽光の下の快い気怠《けだる》さを断ち切り、うそ寒いレンガの壁の中へ帰って行く決心が、なかなかつかなかった。結局、頭の後ろに両手を組み、そのまま上体を芝生の斜面にあずけた。  利彦は、冴子と同じく、城北大学の学生である。法学部法律学科四年生、二十六歳。年を食っているのは、一度同じ学部の政治学科を卒業した後《のち》、司法試験の勉強をするために学士入学したからだ。  東京都下のK市に就職した彼が、司法試験を受けようなどと思い立ったのは、弁護士をしている義兄の小池泰明の影響が多分にあった。  といって、むろん、それだけではない。  あるとき、同僚と、定年まで勤めたときの退職金や年金の話をしていて、ふと、それまで感じたことのない寂しさとも虚しさともつかない思いにとらわれたのだ。  目の前に広げた年金試算表には、自分のこれからの人生がはっきりと計算され、描かれていた。そのレールから一歩も踏み外してはならぬ、とでもいうように。  むしろ、そうしたレールに乗る気楽さに惹かれ、好きな碁を存分に打てるなら、と思って選んだ公務員であった。それなのに、彼はそのときから、時々かすかな焦りを覚えるようになった。配属されていた選挙管理委員会の仕事がおもしろくなかった、という事情もあったかもしれない。  やがて、焦りに不安が加わり出した。具体的に、〈これをしたい〉というものがあるわけではないのだが、何かしなければ、今のうちに何とかしなければ……と、真剣に考え始めた。  そんなとき、身近にいたのが小池であり、司法試験を目指している学生時代の友人たちだったのである。  そこで、彼は在職のまま友人たちの勉強会に入れてもらい、一年後、意を決して退職に踏み切ったのだった。  しかし、仕事を辞めて勉強に専念し始めたからといって、すぐに合格できるほど、司法試験は甘いものではない。択一式と論文式の筆記試験、さらに口述試験と、三つの山を乗り越えなければならないのである。最初の択一式試験は憲法、民法、刑法の三科目だが、最大の難関である論文試験と、最後の口述試験には、新たに商法、刑事訴訟法(または民事訴訟法)など、四科目が加わる。そして、利彦の場合、今年はなんとか七月の論文試験を受けるところまでいったのだが、去年と在職中に受けた一昨年は、いずれも五月の択一式試験だけで涙を呑んだのだった。  顔が暑い。  額の髪の生え際に汗がにじんでいた。  少しウトウトしたらしい。  利彦は、頭の後ろで組んでいた手を解《と》いて汗を拭うと、目を細く開け、冴子の姿を探した。  彼女は、コートを移動し、さっきとは別の女子部員と乱打をしていた。  利彦と冴子とは、彼女の一家が田無に越してきた十六年前からの隣人同士である。  そのとき利彦は小学校四年生、冴子は幼稚園児だったので、幼馴染といえる。  その後、冴子は我が家同然に利彦の家へ出入りするようになり、姉しかいない彼は、妹のように彼女をかわいがった。  利彦が冴子に�女�を意識するようになったのは、彼女が高校へ入ってからだ。小柄で引き締まった体、短い髪のよく似合うボーイッシュな顔立ち……と、どちらかというと奥手の容姿だったが、あるとき、何かの拍子に触れた胸のやわらかいふくらみに、思わず体が熱くなるような狼狽を覚えたのが、そもそもの初めである。  一人っ子のせいだろう、冴子は多少|我儘《わがまま》だった。負けず嫌いで、こうと思い込んだら、とことん強情を張る意地っぱりな面もある。それでいて心根は優しく、寂しがり屋で、意外なところで女性らしい細やかな思いやりや心くばりを見せた。  そんな冴子を、利彦はいつしか将来の伴侶として考えるようになっていった。  だが、残念ながら、それは彼の独り相撲にすぎなかったのである。冴子の方は、いつまでたっても、彼を仲の良い幼馴染か兄のようにしか見てくれなかった。  そして、半年ほど前、正門近くの喫茶店で木島真吾に引き合わされ、婚約者とするにふさわしいかどうかの意見を求められた。  中肉中背で平凡な顔立ちの利彦に比べ、木島真吾は体格も立派で、美男子であった。しかも、アルバイトをしながら、いつ合格できるとも分からない司法試験を受けている彼と違い、すでに医師免許を持つエリートでもある。  反対すれば、自分がいっそう惨《みじ》めになるような気がした。いや、反対したところで、冴子の心はすでに決まっているようでもあった。  そこで、彼は、  ——冴ちゃんが好きだというんなら、僕には何も言うことなんかないよ。  と、少しぶっきらぼうに答えたのだった。  ただ、これは、利彦の反感あるいは自尊心から出た偏見かもしれないが、木島真吾の如才ない話術とにこやかな笑みの裏には、どこか信用のおけないものが隠されているように感じたのだったが……。  打ちそこねたボールを追って、冴子が土手の下まで走ってきた。 「利彦さん、いつまでお昼寝しているの?」  彼女は足を止め、利彦を見上げて言った。 「昼寝じゃないよ。食後の一服さ」  だって、と彼女はボールを拾い、 「もう二時半よ。早く図書館へ戻らなきゃ駄目じゃない」  笑みを含んだ目でにらみつけ、元のコートへ駈け戻って行った。  その後ろ姿を見送りながら、ようやく以前の冴子らしい元気が戻ったようだな、と利彦は安堵した。  二十日ほど前、一宮の別荘から予定を繰り上げて帰ってきて以来、冴子たちの一家は様子がおかしかった。冴子は何か悩み、苦しんでいるようだったし、広一郎と石野祐子も、笑いのない暗い表情をしていた。  康代にいたっては、閉じ籠りきりで、利彦はまだ一度も顔を合わせていない。彼の母の絹子さえ、家の中にいる姿を、外から二、三度見かけただけだという。  別荘かその周辺で、康代に何かあったのではないか——利彦はそう思い、冴子に訊いてみた。だが、康代の加減がちょっと悪くなっただけだ、としか答えてくれず、理由が分からないまま、彼は心配していたのだった。  何があったにせよ、冴子に元の明るさが戻ってよかった。 「さて、じゃ、俺も、もう少し頑張ってやっちまうか……」  利彦は、独りつぶやきながら上体を起こした。  そのとき、テニスコートより一段高くなっているグラウンドを、医学部新館の方から斜めに突っ切って駈けてくる白衣姿が、目に映った。  木島真吾である。  慌てている感じだった。  真吾はテニスコートを挟んで、利彦の向かいに立った。数秒、目で探し、 「冴子さん!」  言うや、白衣の裾をひるがえして跳んだ。  冴子は、ちょうどきたボールを打ち返したところだった。 「ちょっと待ってね」  打ち合いの相手に手を上げ、 「なーに? どうしたの……」  と、真吾に駈け寄って行く。  二人は、コートの後ろで向き合った。  真吾が、冴子の肩に両手をおいた。  じっと彼女の目を見つめるようにして、何やら話し始める。  すると、不意に冴子の体が沈むように崩れ、真吾の腕が抱き支えた。 〈どうしたんだろう、何があったんだろうか……〉  利彦は緊張し、脱いであったカーディガンを掴んで土手を駈け降りて行った。 2  冴子は、仲間の女子部員に助けられながら着替えをすませると、利彦の停めていたタクシーに真吾とともに乗り込んだ。  つづいて利彦も前の助手席に乗り、低い声で行き先を告げる。  タクシーが正門前を離れ、靖国通りへ出ると、冴子は真吾の腕を抱きしめた。肩の下に顔を埋め、目を閉じる。今は利彦の目も気にならなかった。母が死んだ、母が死んだ……と、いまひとつ実感のともなわない、それでいて絶望的な思いが頭の中を駈けめぐっている。  瞼《まぶた》の裏には、今朝、冴子を玄関に見送ってくれた康代の笑みを含んだ顔が焼きついていた。一宮の事件以来、彼女が初めて冴子に見せた笑顔である。どことなく暗い翳《かげ》を漂わせてはいたが、瞳には、娘を優しく慈《いつく》しむ光がこめられていた。  一宮の海岸では、康代がもっとも酷い目にあった。彼女のショックがどれほど大きかったかは、あの晩の彼女の姿を思い浮かべれば分かる。  それも、家へ帰って二日、三日と経つうちに和《やわ》らぎ、次第に元の彼女に戻ってゆく様相を見せていた。  ところが、五日目を境にしてまた逆戻り。いや、なぜか、彼女は初め以上に暗い苦悩をにじませた顔になった。そして、今朝「気をつけるのよ」と、冴子を笑顔で送り出すまで、ほとんど広一郎とも冴子とも口をきかない状態になっていたのだった。  母がなぜそれほど苦しんでいたのか、なぜ自殺したのか——冴子には今もって分からない。だが、今朝、自分を送り出すとき、すでに自殺を決意していただろうことは想像できた。だからこそ、無理して最後の笑顔を娘に見せたにちがいない。  それだというのに、母がようやく元気を取り戻し始めた、と冴子は勝手に解釈していたのだった。そして、真吾の研究室に「母が死んだ」と父から電話があり、それを知らされるまで、長い間胸にかかっていた厚い霧が晴れた思いで、久しぶりにテニスボールを追っていたのだった。  それを考えると、冴子は自分の判断の甘さが悔まれてならなかった。  車は、走っては停まり、停まっては走りした。道路は、かなり混んでいるらしい。が、冴子には、時間の感覚がなかった。 「もうすぐだからね」  と真吾に言われて、顔を起こすと、すでに見覚えのある田無の商店街を走っていた。  タクシーは、警察署のある十字路で、青梅街道から左へ逸《そ》れた。少し進んで、住宅街の狭い道へ入って行く。冴子と利彦の家の前には、パトカーが三台と黒塗りの乗用車が一台駐まっていた。  その乗用車の手前でタクシーを降りた。  料金を払っている利彦をあとに、冴子は真吾に抱き支えられるようにして診察室の横に付いた小道を入り、棟つづきになった母屋《おもや》の玄関へ急いだ。  ドアを引くと、中から青ざめ強張った顔の祐子が迎えた。 「祐子さん!」  冴子の胸で、今まで辛うじて抑えられてきた感情が、堰を切った。泣きながら奥へ駈け込んで行こうとした。  すると、祐子が、 「冴子さん、待って」  と、慌てて前に立ち塞がり、「今、警察の方がいろいろ調べているの。だから、もうちょっとここに待っていて。先生の言いつけなの」  冴子は、激しくいやいやをする。 「お願い……」  祐子が必死の面持ちで言った。  しかし、一度堰を切ってほとばしり出た、一刻も早く母の顔を見たいという感情の奔流は、冴子から理性的な判断を奪っていた。祐子の腕を振り払い、彼女の体を押しのけようとした。 「冴子さん、我慢して。お願い……」 「冴ちゃん……」 「冴子さん」  利彦の戸惑ったような声につづいて、真吾の強い声が呼びかけた。  冴子は、その声にようやく祐子を押しのけるのを諦《あきら》め、涙にかすんだ目を振り向けた。 「お父さんは、冴子さんに、綺麗になったお母さんと対面させたいんだよ。だから……」  冴子は、激しく泣きじゃくりながら、真吾の胸に身を投げていった。 3 「叔父ちゃん、由美ちゃんね、もう帰るんだって」  テレビの前で友達と遊んでいた姪《めい》の美佐子が立ってきて、不満そうに告げた。 「うん? ああ、そうか……」  座卓に頬杖をついて冴子のことを考えていた利彦は、顔だけちょっと美佐子の方へ向けて、気のない返事をした。 「叔父ちゃん、帰っちゃ駄目って言って」 「由美ちゃんが帰りたいんなら、しようがないじゃないか」 「だって、由美ちゃんちのおばちゃん、五時になったら帰りなさい、って言ったのよ。でも、まだ五時じゃないでしょう? だから帰っちゃいけないの」  美佐子が訴えている間に、斜め向かいに住む内村由美は「バイバイ」と手を振って、茶の間から玄関へ走り出て行った。 「由美ちゃんなんか、イーだ」 「美佐ちゃんも、イーだ」  互いに顔を突き出しての別れの「挨拶」がすむと、 「美佐子、つまんない。おばあちゃんのところへ行きたい」  と、美佐子が利彦の肩を揺すって、駄々をこね始めた。 「だーめ」  利彦は頬杖を外して、言った。 「だってェー」 「美佐子は、叔父ちゃんと二人でお留守番していなさいって、おばあちゃんに言われただろう」 「どうして、おばあちゃんのとこへ行っちゃいけないの? ねえ、どうして?」 「おばあちゃんはね、今、お隣りでお仕事を手伝っているの」 「どんなお仕事?」 「すっごく、忙しいお仕事さ」 「ふーん。じゃ、叔父ちゃん一緒に遊んで」 「そうだな……」 「ねェー」 「よし、何をするんだ?」 「お人形の着せ替え遊び」  利彦は美佐子に腕を取られ、紙の衣装が散らばっているテレビの前へいざって行った。  美佐子は、二年前乳癌で死んだ利彦の姉、隆恵の遺児であった。友人と中央線の国分寺駅前に法律事務所を開いている父親の小池と二人、近くのマンションに住んでいるが、彼の仕事が不規則で出張も多いため、毎日ここから幼稚園に通い、週のうち半分近くは泊まっていくのである。 「これが、エミリーちゃんかい?」  美佐子と由美のやりとりを思い出して、利彦は言った。 「違うわ。エミーちゃん」  美佐子が訂正し、漫画本の付録らしい女の子の紙人形を取り上げた。 「あら、今朝はお寝坊しちゃったわ、早く着替えをして、お食事にしなくっちゃ……」  紙人形からパジャマの絵を取りのけ、代わりにスカートとブラウスの絵を載せる。 「でも、今日はワンピースの方がいいかしら? そうね、こっちにしましょう……」  独りで遊び始めた美佐子の手許をぼんやりと見つめながら、利彦は再び自分の思いの中へ還《かえ》っていった。  真吾の出現以来、冴子の中で自分の存在が次第に重みを失ってゆくのを、利彦は日頃から感じていた。とはいえ、今日ほど強く思い知らされたことはなかった。今日の冴子には、彼などいないも同然だった。女が一人の男を愛するようになるということは、かくも判然と他のすべての男がその存在理由を失うという意味なのだろうか。もし、そうなら、男の利彦には、不思議な気さえした。  冴子の悲しみを少しでも和らげられるものなら、利彦はどんなことでもいとわないつもりでいる。文字通り、火の中、水の中へでも、飛び込む用意があるといっていい。  それなのに、今や彼には冴子のために何もしてやる力がないのだった。  そのことが、康代の死を悼む気持ち以上に寂しく……同時に、そんなふうに感じている己れのエゴイズムが彼の胸に小さなこだわりを作っていた。 「叔父ちゃん、ねえ、叔父ちゃん」  美佐子が、利彦の膝を揺すった。 「うん?」 「今度は、叔父ちゃんがやってみて」 「ああ、よし」  利彦は美佐子から紙人形を受け取り、 「エミリーちゃん……いや、エミーちゃんは、まず、朝、目を覚ますんだったな。そして、あら、お寝坊しちゃったわ……」  美佐子の口真似をしながらパジャマの絵を剥ぎ、代わりにブラウスの絵を載せ……。 「違うわよ、スカートが先」 「そうか。でも、ブラウスから先に着たって、いいじゃないか」 「駄目」 「どうしてだい?」 「スカートが先じゃないと、パンティが見えちゃうもん」 「なるほど。じゃ、先にスカートをはいて、と……」  美佐子の理屈に感心しながら、利彦が人形の着せ替えをつづけていると、玄関のガラス戸の開く音がして、 「ただいま」  という、太い声が聞こえた。 「あっ、パパだ」  美佐子がパッと目を輝かして立ち上がり、駈け出して行った。  利彦も人形を置いて、あとにつづく。  すでに薄暗くなりかけた玄関に、美佐子を片腕に抱いた小池の大きな体が、もっさりと立っていた。 「すみません。事務所へ行けなくなってしまって」  利彦は明かりを点けながら言った。  彼は週に三日、夕方から小池の法律事務所で事務整理のアルバイトをしているのだ。 「いや、電話、聞いたよ。西さんの奥さんが亡くなったんだって?」 「ええ、自殺したんです」 「自殺?」  小池の細い柔和な目に、驚きの色が浮かんだ。 「どうしたんだろう?」 「僕にも分かりません。でも、前に話しましたけど、おそらく一宮の別荘へ行ったとき何かがあり、それが原因じゃないか、と思うんです」 「そうか……」  小池の坊主頭が深刻気にうなずいた。  彼は、どちらかというと、民事より刑事を得意とする弁護士である。年齢は三十五歳。百八十センチ、八十キロの巨躯。真夏以外はいつも似たような冴えないブレザー……と、服装などには頓着しないが、意外に繊細で、物事に非常にこだわる一面があった。利彦の両親がいくら再婚を勧めても全然その気を見せないことといい、二年前から坊主頭を通していることといい、自分がそばにいながら、隆恵の病状の悪化にまったく気づかなかったことに対する贖罪《しよくざい》の気持ちからではないか、と利彦は考えていた。  また、小池は気骨《きこつ》のある男でもあった。熱血漢というのとは少し違うが、抵抗があっても、自分の信念に忠実に生きようとしている姿勢が見えた。 「それにしても、義兄《にい》さん、今日はずいぶん早かったですね」  利彦は言った。 「うん、お義母《かあ》さんも、何かと忙しいんじゃないかと思ったものだからね」 「とにかく、上がりませんか」 「いや、久しぶりに早く帰ったんだから、家へ行って美佐子と一緒に風呂にでも入るよ。西さんには、美佐子の加減が悪いといっちゃ、いつもお世話になっているので、俺も明日伺うから、とお義母さんに伝えといてくれないか」 「分かりました」 「君も、これから冴子さんのところへ行ってあげるんだろう?」 「いえ、僕なんか……」 「何も婚約者に遠慮することなんてないよ。君たちは兄妹みたいなものなんだから」  小池は利彦の心の内を見透かしたように言うと、美佐子を靴の上におろした。そして、屈んでそれを履かせてやり、 「さあ、帰ろう」 「叔父ちゃん、バイバイ」  美佐子が胸の前で小さな手を振った。 「バイバイ」 「君がそばにいてあげれば、冴子さんだってきっと心強いさ」  小池が美佐子の手を引いて出て行った。 4  真吾は、出直してくると言って、二時間ほど前に帰った。階下では、祐子と近所の人たちが通夜の準備のために立ち働いている。冴子は広一郎とともに弔問客の応対をしていたのだが、上へ行ってしばらく休むように言われ、今は、夕闇の立ち込め始めた自分の部屋に明かりも点《つ》けずに座っていた。  何度も、目の前に母の姿が浮かんできた。それは、独り、鴨居に紐をかけている母の姿だった。  自分の首を吊るための紐を準備する……。人間にとって、これほど孤独な作業があるだろうか。これほど絶望的な行為が、他にあるだろうか。その光景は、さっき対面した母のやつれた死顔と重なり、そのたびに冴子の目に新たな涙を溢れさせた。  しかし、やがて、その涙もかれたとき、冴子は、母を死に追いやった男たちに対する激しい怒りと憎悪が、自分の内にふくらんでいるのを感じた。  康代の遺書は、便箋一枚の短いものだった。そこには、母を許して欲しい、冴子は真吾と幸せになるように……としか、書かれていない。だから、康代が死を選ぶまでの心の軌跡は、分からなかった。一時、元気を取り戻し始めていたのが急変した事情から考え、もしかしたら、母の死は昔の病気と関係があるのかもしれない。冴子や広一郎の気づかないところで、病気が母の心を再びむしばんでいたのかもしれない。  だが、たとえそうであったとしても、と冴子は思う。母の病気を再発させた原因は明らかだった。母を死に追いやったのが一宮の事件であり、あのときの三人の男たちであることは、確実だった。  事件の晩の母の姿は、今でも冴子の脳裏に焼きついている。衣類を引き裂かれ、剥ぎ取られ、ショックと恐怖で口もきけなかった母。虚ろな目をして、ただ震えていただけだった母……。 「憎い!」  と、冴子は低く言葉にして怒りを吐き出した。  母を辱《はずか》しめ、苦しめ、挙句《あげく》の果てに孤独な死に追いやった犯人たちが憎かった。八つ裂きにしてやりたいほど、憎い。いかなる理由、事情があろうとも、絶対に許せなかった。このまま彼らを放っておいたのでは、母は決して浮かばれないだろう。  冴子は視線を暗い宙に止めた。 〈男たちを捜し出さなければならない〉  そう、強く思った。  なんとしてでも彼らの居所を突き止めなければならない。そして、彼ら自身の身をもって、母の死をあがなわせなければならない。  彼らを捜し出す方法は、二つあった。  一つは、大町志津のセンからたぐってゆく方法であり、もう一つは、小岩のバロンという喫茶店を足掛かりにしてアザの男を見つけ出す方法である。  バロンのマッチは、アザの男が落としたものかどうか、はっきりしていない。たとえ、そうだったとしても、彼が今後その喫茶店に現われるという保証はどこにもない。  だが、佐々木の指摘した「マッチに全然湿り気がない」という事実から、それがアザの男のものだったと仮定すれば、喫茶店の場所が新宿や渋谷といった繁華街ではなく、東京の端の小岩であるという点に、多少望みがある。  どういう喫茶店か、行ってみなければ分からないが、常連の客がかなり高い比率を占めている、と推定されるからだ。つまり、マッチを落とした人間も、小岩に職場があるか、住んでいるか、仕事の都合などでよく訪れている……といった可能性が高い。  もう一方の道、大町志津の関係から犯人に迫るのは、いっそう確実なように思われた。彼女の写ったネガフィルムは、犯人が意図的に残していったことが、ほぼ確実だからだ。さらに、主犯格の男だけが覆面をしていたという事実、犯人たちの車が多摩ナンバーだったらしいという点は、その男が冴子たちの周辺にいるらしいことを想像させる。  自分たちの近くにいて、大町志津に何らかの関わりのある人間——。  ここまで条件が絞られれば、志津の生前の生活について広一郎に尋ね、彼女の家族や友人に当たれば、その男を見つけ出すのは、さほど困難な仕事ではないだろう。 〈それにしても……〉  と、冴子は一宮の別荘における広一郎の態度を思い出して、改めて首をひねった。  志津の写真を見て、父はなぜ知らないと言ったのだろうか。なぜ、自分にも嘘をつくよう、暗に強要したのだろうか。  あのとき冴子が感じたように、父は、奥の部屋に寝ていた母に写真を見せていない。後で、「もしお母さんに訊かれたら知らない人だったと答えるんだぞ」と口止めされたからだ。そして、東京へ帰ってから母に、「警察の人が言っていた写真て何? どんな人が写っていたの?」と尋ねられ、冴子は父に言われた通りに答えたのだった。  いや、そういった父の態度より先に、志津と何らかの関わりがあると思われる人間が、どうして自分たちを襲ったのだろうか。なぜ、志津の写ったネガフィルムなど残していったのだろうか。  自分たちを襲ったのは、当然何らかの恨みがあったからであろう。そして、フィルムは、佐々木が言ったように犯人のメッセージとしか考えられない。父か母に宛てた。  では、冴子の大好きだったあの「お姉ちゃん」と、父か母の間に、いったい何があったのだろうか。  冴子の脳裏に、病室のベッドに寝ていた十六年前の冬の午後がよみがえる。  足元の方で、父とにらみ合っていた志津の顔。病室を出て行こうとして、母と顔を合わせたときの彼女の慌てた様子。その後の、父と母のぎこちない笑み……。  志津はあれから一ヵ月ほどして自殺したのだったが、彼女の自殺に父か母が関係していたのだろうか。  分からない。  いや、たとえ何らかの関係があったとしても、と冴子は思う。志津が死んで、すでに十六年も経つのである。志津と関わりを持った人間(覆面をしていた男がその可能性が高いかもしれない)は、なぜ今頃あのような行動に出たのだろうか……。  コツコツという、誰かの、遠慮がちなノックの音が聞こえた。  冴子は、現実に還った。  ホッと、救われた思いがした。  湧き起こってくる疑惑に、身じろぎひとつできずにいたからだ。  真吾かもしれない、という期待が胸をかすめた。もう、だいぶ経っているので、出直してきてくれたのかもしれない。  冴子は立って行って、電灯のスイッチを入れ、ドアを開けた。 「やあ……」  真吾の代わりに、利彦の心配そうな顔が覗いた。 「利彦さん」  冴子は、内心ちょっとがっかりしながら、言った。 「明かりも点けずに、独りで、何をしていたんだい?」 「ううん……」 「冴ちゃんのために、俺には何もしてやれないんだけど、どうしているかと思ってね」 「ありがとう」 「独りでいるより、みんなのところへ行っていた方がいいんじゃないか」 「ええ、でも、もう大丈夫」 「本当に?」 「うん」  冴子は、胸に温かいものが広がるのを感じ、わざと子供っぽくコックリして微笑んで見せた。 5  ドアを開けると、消毒薬の匂いの染み込んだ診察室特有の空気が、広一郎の鼻孔を刺激した。たった一週間、遠ざかっていただけなのに、彼はその匂いに懐かしさを覚えた。  革張りの大きな肘付き椅子に腰をおろし、パイプに火を点けた。身も心もくたくたに疲れきっているはずなのに、胸の奥には、なおも彼を休ませない気掛かり、疑惑がしこりを作っていた。  康代の自殺につづく、落ちついてものを考える暇もなかった数日間。そして、嵐が過ぎ、人々が去った今、急に広くなったように感じられる家の中を支配しているのは、深い悲しみと、寒々とした静けさだけである。  そこに残されたのが、広一郎と冴子、それに彼の疑惑と気掛かり、康代を死に追いやった犯人たちに対する、激しくも静かな怒りであった。  しばらくして、廊下を近づいてくる足音につづき、ドアをノックする音が響いた。  冴子以外にない。祐子はここ数日の労をねぎらって休ませていたし、電話で頼んだ派出婦も、来るのは明日からだからだ。  広一郎は、心持ち緊張しながら、椅子をゆっくりと入口の方へ回した。  パイプを口から離し、 「入りなさい」  と言うと、ドアが静かに開き、冴子の小柄な体が入ってきた。  頬はやつれ、瞼《まぶた》はまだ少し赤く腫《は》れていたが、瞳は強い意思のこもった光を湛《たた》えて冷たく澄んでいた。小さな口を、固く結んでいる。  この娘は、何か心に決めると、子供の頃からいつもこんな顔をした……。  広一郎は、そう懐かしく思い起こしながら、一方で、今日こそあの件に触れざるをえないのだろう、と心の準備を整えた。康代の自殺した晩、冴子に尋ねられた、大町志津の死んだ事情について——。  だが、彼はそんなことは忘れたように、 「どうしたんだね?」  と、さりげなく訊いた。 「落ちついたら話してくださると言った、お姉ちゃん……大町志津さんのことを聞きたいんです」  冴子はひたと彼の目を見つめ、最初から切り出した。 「ああ、あの件か。でも、これといって特に話すことはないんだが……」 「志津さんはどうして自殺したんですか?」 「まあ、失恋が原因だろうね」 「だろうねって、はっきりしないの?」  詰問するような口調だった。 「そりゃ、自殺の動機など、他人にははっきり分からんよ」 「失恋ということは、誰か好きな男の人がいたわけね」 「うん、結婚を約束した男がいたらしい。ところが、その男は彼女を裏切って、出世につながる縁談に飛びついてしまったらしいんだ。その後で、彼女は自殺した」  半分は事実だった。 「じゃ、志津さんの自殺に、お父さんもお母さんも、まったく関係なかったの?」 「もちろんさ」  広一郎は、少し強い調子で言った。冴子には、そう言う以外になかった。 「本当に?」 「当たり前じゃないか。父さんも母さんも、むしろ被害者なんだ。大町志津は、急病のところを助けてやったのが縁で、うちで働くようになった。それなのに、うちから持ち出した薬を飲んで自殺し、私たちはいろいろ事情を訊かれたりして迷惑を被《こうむ》ったんだよ」  広一郎の胸に苦いものがこみ上げてきた。嫌な思い出だった。  この十六年間、あのときのことを忘れるために……妻に忘れさせるために……彼は、生きてきたようなものであった。それが、今、妻の死という最悪の形で思い出させられた。  冴子には黙っているが、一宮から帰って五日目、妻が急変した事情を彼は知っている。原因は志津の写真だ。彼や冴子に訊いても事実を答えてくれないと見た妻は、佐々木巡査に電話し、密かに志津の写真を送らせていたのだった。 「でも、それなら、私たちを襲った犯人は、なぜ志津さんのネガフィルムなど残していったのかしら? 当然犯人の一人……たぶん覆面の男が志津さんと何らかの関係のある人間じゃないか、と思うけど」  冴子が、さらに追及してきた。 「分からんね」 「じゃ、お父さんは、あの写真を見たとき、どうして知らないって答えたの? どうして私にもそう言うように合図したの? どうしてお母さんには見せなかったの?」 「母さんがどんなにかショックを受け、まいっていたかは、冴子だって知っているだろう。それなのに、あれ以上騒ぎ立てたら、どうなっていたと思うんだね。母さんの、人一倍もろい神経は、どうなっていたと思うんだね。父さんは、母さんの身を心配しただけなんだよ」 「お母さんに対する思いやりは本当だと思うけど、それだけじゃないわ。お父さんは、私に何か隠している……」 「隠してなんかいないよ」 「嘘! もし、お母さんと志津さんの間に何もなければ、東京へ帰ってまで、私に写真のこと口止めする必要ないじゃない」 「それじゃ、冴子は、どうしても、父さんか母さんが大町志津に何か酷いことでもした、と考えるのかね?」  言いながら、広一郎は、なぜ十六年も経った今頃、突然に……という疑問を感じていた。もう、十分償ったではないか。妻はあの後、心を病んで入退院を繰り返し、自分だって、若い情熱のすべてをかけていた総合病院設立の夢を捨てた。 「そうは言ってないわ。相手が誤解して、勝手に恨むことだってあるから。でも、それならそれで、何かがあったんじゃないか、と思うの」 「何度も繰り返すように、何もない。だから冴子、もう忘れよう。過去を引っくり返して、もし犯人の一方的な思い込みによる動機が分かったとしても、今さらどうなるものでもないだろう」 「私は、忘れられないわ」 「冴子」 「私は、本当のことが知りたいの。そして、犯人を突き止めたいの」 「そんなことをしても、母さんはもう帰ってこないんだよ」 「お父さんは悔しくないの? お母さんが可哀相じゃないの? お母さんはあんな酷い目にあわされ、殺されたのよ」 「だが、冴子が危険な目にでもあえば、母さんはかえって……」 「許せないのよ!」 「冴子……」 「どんな理由があっても、私は許せないの。お母さんにあんな辛い死に方をさせた男たちが、絶対に許せないの。だから、きっと見つけ出して、復讐してやるわ」  冴子の目に、暗い炎が宿った。唇が引きつり、震えていた。  それを見て、広一郎は、娘の昂《たかぶ》りがおさまるのを待つために、口をつぐんだ。  彼とて、決して悔しくないわけではない。むしろ、彼の内には、冴子以上の怒りと悔しさが、捌《は》け口なく沈んでいた。「十六年前のこと」は、そもそもが大町志津の理不尽な要求が発端である。それでも、彼は、自分の人生をもって償ってきた。その結果が、妻の死だ。彼こそ犯人たちを捜し出し、自分の手で絞め殺してやりたかった。  だが、そうすれば、十六年前の誤った「事実」が再び公になる。誤っていても、絶対に釈明のできない「事実」が、冴子にも知られる。そうなったら、冴子はどんなにか辛い思いをするだろう。  それを考えると、いかに悔しく無念でも、犯人たちを放置する以外にないのだった。 「父さんだって、もちろん悔しい。犯人たちが憎い。でも、そんな憎しみに駆られた行動から何が生まれるんだね」  冴子の興奮が多少鎮まってきたらしいのを見て、広一郎は静かに言った。 「何も生まれなくたっていいわ。私は、ただお母さんのために……」 「母さんは、喜びゃしないよ。私や冴子が危険を冒すのを望むわけがない」 「…………」 「そうだろう?」 「…………」 「冴子、父さんは、おまえに辛い嫌なことを一日も早く忘れてもらいたいんだ。そして、母さんの分まで幸せになってもらいたいんだよ。母さんだって、それを一番望んでいることだと思うしね」  冴子の小さな口は、彼女の決意の強さを示すかのように固く閉じられたままであった。 「冴子、父さんのお願いだ……」  広一郎を見つめていた冴子の瞳が、不意にふくらんできた。口元がゆるみ、頬に大粒の涙がこぼれた。 「お父さん、ごめんなさい。でも、このままじゃ、お母さんが可哀相で仕方がないの。だから、私、どうしても、どうしても許せないの。犯人たちが許せないの……」  冴子が泣きじゃくり始めた。  広一郎は、何も言わなかった。こうなったら、もうテコでも動かぬ冴子の性格を知っていたからだ。  その代わり、彼は、 〈冴子を決して危険な目にあわせまい〉  と、別の決意を固めた。どんなことがあっても、冴子だけは自分が護ってやろう。この命を賭《と》してでも。  目の前で泣いている冴子に、幼い頃の面影が重なった。  笑顔、泣き顔、寝顔。  かわいかった……。  彼にとって、冴子は常に宝だった。生きる希望だった。この宝を奪おうとする人間を、どうして許すことができようか。十六年前のあのとき、この冴子のために、自分の夢と野望を捨ててもいい、と彼は決意したのだった。 6  十月末の金曜日、正午近く、冴子は群馬県の前橋駅前から出るバスに乗っていた。  テニスの対外試合があると言って七時過ぎに家を出て、西武線、JR八高線、両毛線と乗り継ぎ、たった今、前橋に着いたのである。  目的は、大町志津に聞いていた彼女の郷里、勢多郡北見村を訪ねることであった。  五分ほどして、バスは駅前広場を出て走り出した。両側に欅《けやき》並木がつづく、ちょっと原宿を思わせる、しゃれた通りである。だが、すぐにその通りを抜け、少し行って上毛電鉄の中央前橋駅前を過ぎると、あとは、どことなく乾燥した感じのする低い街並がつづいていた。  乗り降りを繰り返す近在の人たちに混じり、ハイカー姿も目についた。これから日曜日にかけて、赤城山の紅葉の中を散策するつもりなのだろう。  横に座っている若い男女のグループに目をやり、冴子は、ふっと寂しさを感じた。そこは、彼女がほんの二、三週間前まで属していた世界……にもかかわらず、もはや二度と戻ることのできない世界のような気がしたからだ。  今、冴子は彼らと同じバスに乗り、彼らと身を接して座っている。それでいて、絶対に交流不可能な世界にいるのだ。正へ向かう人間と、負へ向かっている人間のように。  冴子は、先日の広一郎の説明に、どうしても納得できなかった。彼は、志津との間に何もなかったと言うが、そんなはずはありえない。自分たちを襲った犯人の目的は、何らかの復讐以外に考えられないような気がするからだ。  志津が死んでから十六年も経った今頃になってなぜ……という疑問は、冴子にもある。が、それも、裏返せば、十六年も過ぎてからあのような形で復讐するには、当然それ相応の具体的な理由がなければならない、ということになろう。  冴子の記憶に残っている志津は、「優しいお姉ちゃん」である。陽気で人懐っこい、大柄な女であった。子供好きで、別棟の医院の方へ遊びに行った冴子を誘い出しては、アイスクリームやチョコレートパフェを食べさせてくれた。今、思うと、少し崩れたところがあったような気がしないでもないが、反面、ガラスのおはじきを大切に集め、冴子にだけ秘密めかしてたまに見せてくれるなど、子供のような一面もあった。どこでも、平気で大声をあげて笑う女だった。そんな志津に、康代は時々、眉をひそめていたような気もするが、冴子の知るかぎりでは、彼女も特に志津を嫌ったり、憎んだりしていた様子はない。  ただ、なぜか気になるのは、冴子が病気で寝ていた、十六年前の、あの冬の日の出来事だったが……。  沿道の景色は、似たような小さな家が並ぶ郊外の住宅地から、次第に水田や桑畑へと変わっていった。見たところ気づかないが、道は登り坂になっているらしく、バスは小まめにギアを替え、アクセルを吹かした。  しばらくして、冴子は、北見村のほぼ中央に当たる小田というところでバスを降りた。十五、六軒の家がかたまって建っている、十字路の角である。周りは田圃《たんぼ》と畑で、前方に、雲にかすんだ赤城山がそびえていた。  道端で、群馬県地図を取り出して見る。電車の中で何度も開いた地図だ。村といっても、北見村は、赤城山の裾野に広大な地域を占めていた。その一点に現実に立ってみて、冴子は急に心細さと不安を感じた。  志津の実家は見つかるだろうか。場所が分かったとしても、バスの便の悪いところだったら、どうやって行ったらいいのだろうか。実家の誰か……志津の母親か父親か兄弟が、もし、一宮で自分たちを襲った男と共犯だったとしたら……。  真吾の姿が浮かんだ。彼の笑顔とたくましい体が。事情を打ち明け、同行してもらえばよかったのだろうか。彼の都合がつかなかったら、利彦か祐子にでも……。 〈駄目! 何もしないうちから、もう弱音を吐いているの〉  冴子は、自分の甘えをたしなめた。  これは、冴子個人の問題である。真吾や利彦、祐子を巻き添えにしてはならなかった。それができないなら、広一郎の言葉に従って何もしなければいいのだ。 〈さあ、勇気を出して……〉  冴子は自分を励まし、地図を畳んで、まず、すぐ先の雑貨屋とパン屋で尋ねてみた。  だが、いずれも、大町などという姓は聞いたことがない、という返事だった。  地図で見ておいた村役場の位置は、十字路を左へ折れて、二キロほど行ったところである。  これは、役場を訪ねた方が早いかもしれない……。冴子がそう思い、歩き出そうとしたとき、道の反対側で彼女の様子を見ていた七十歳前後の老婆が、どこかを探しているのか、と声をかけてきた。 「はい、大町さんという家を探しているんです」 「大町?」  冴子は、車が来ないのを確認して、道を渡って行った。 「ご存じないでしょうか?」 「どっがで聞いだこと、あるような気もすんだが……」  老婆が首をかしげてつぶやいたとき、生垣に囲まれた庭から背のずんぐりした中年男が顔を出し、昼食だと呼んだ。  すると、老婆が、 「あ、おめェー」  と振り向き、「大町という家、知らねェベか?」 「大町? 知らんが、どこの者《もん》だえね?」 「それが分がんねがら、訊いてんだんべ」 「とにかく、小田にゃおらんぞ」  言いながら男は門から出てくると、 「大町なんていうんですか?」  と、標準語で冴子に尋ねた。 「十六年前に東京で亡くなった大町志津さんという方の実家なんですけど」 「あんたも東京から見えなすった?」 「はい」 「大町志津、大町ね……」  男がぶつぶつ言いながら首をひねっていると、不意に老婆が背を伸ばし、 「ほれ、おめェ、横窪の石塚信吉さんとごさ、いだ、信吉さんの妹の……」 「おうおう」  男の髭面が嬉しそうに崩れた。「そうだえね、あれが確か大町といったわいね」  冴子は、つと緊張した。何が出てくるか分からないが、とにかく訪ねるべき志津の実家が判明したからだ。  ところが、冴子がそう思うのも束の間、男は予想外の事実を彼女に告げた。  ここ小田の隣りの集落、横窪というところに、確かに大町カツという女が住んでいた。石塚信吉という男の妹で、東京へ嫁いだのが戦時中に疎開し、そのまま信吉の畑に小さな家を建ててもらい、住みついていたのである。夫は戦後、復員し、しばらく小間物の行商をしていたが、病弱で、間もなく死んでしまった。  その後、カツは農家の手伝いなどをして細々と暮らしていたが、やはり五、六年前に死亡。そして、石塚信吉の一家も彼女の死と前後して家と田畑を売り払い、前橋へ引っ越してしまったのだという。 「志津といったかどうかは知らんが、確かに娘が一人おった。東京で看護婦だか薬剤師だかしていたらしいが、なんでも、自殺したというような噂でしたえね」 「志津さんに、兄弟はなかったんでしょうか?」  冴子は訊いた。もしかしたら、一宮で自分たちを襲った犯人の一人は志津の身内の人間ではないか、という気がしていたからだ。 「一人娘だったように思いますがね」 「では、志津さんの家族の方は、もう誰もいらっしゃらない?」 「ああ、家も、建っとらんし」 「石塚信吉さんという方の前橋の住所をご存じでしょうか?」 「さあ、わしは知らんが、横窪の者なら……いや、それより役場へ行った方が早いかもしれない」  言って、男は、村役場へ行く道を説明し始めた。  すると、横から老婆が、 「あんた、お昼、まだだんべ?」  と、冴子に訊いた。 「ええ」 「なら、おめェ……」 「ああ、そうか」  老婆に言われて男は何か思い出したらしく、「それじゃ、あそこのソバ屋ですませたらいい。昼過ぎなら、わしも役場まで行く用事があるで、車に乗せてってやるから」  老婆も、そうするよう勧めた。歩いて行くのとほとんど違わずに着けるから、と。  初めから他人の好意に甘えすぎては、気がくじける。冴子はそう自戒した。が、結局、二人の親切を受けることにした。緊張していたのであろう、食事のことなど忘れていたが、考えてみると、朝牛乳を一本飲んだだけだったからだ。 7  それからおよそ三時間後、冴子は中央前橋駅前でバスを降りた。  七、八十メートル戻り、十字路の角を右へ曲がる。歩道の両側に、商店の低い家並が真っすぐ伸びていた。地図で見ると、上毛電鉄の線路とほぼ並行して、桐生《きりゆう》の少し手前までつづいている県道である。頭上の電線が目につく通りだった。  冴子は、途中の信号で反対側の歩道へ渡った。商店の看板に注意しながら歩いて行く。北見村役場で聞いた話によると、石塚信吉はこの通りの左側で漬物店を営んでいる、ということだったからだ。  小型トラックに乗せて行ってくれた諸沢という男の紹介で、冴子は、吏員から志津の戸籍について話を聞いた。  それによると、大町の戸籍は、筆頭者寛助、妻カツ、長女志津と全員の死亡により戸籍簿から除かれ、現在は除籍簿として保存されている、その前に分籍した者はいない、つまり志津の兄弟姉妹はいない、という。  石塚漬物店はすぐに分かった。小さな店である。コンクリートの床には大小の樽やカメが並べられ、隅で小学校五、六年生くらいの少女が漫画を読みながら店番をしていた。 「おじいちゃんなら、奥にいますけど」  石塚信吉さんはいるかという冴子の問いに、少女はおとなびた口調で答え、「どうぞ」と、漫画本を置いて立ち上がった。  冴子は、少女につづいて奥のカーテンを分け、薄暗い通路を抜けて、プレハブの建物に入って行った。  そこは工場になっているらしく、裸電球の下で三人の男女が働いていた。醗酵した塩水や醤油に様々な野菜エキスの混じった匂いが充満している。  三人が一斉に冴子の方を見たので、彼女は足を止め、黙礼した。  そのまま立って待っていると、少女が三人の中の最年長者——前掛けを付けた六十七、八歳の大柄な男を連れてきた。 「石塚信吉ですが、私に何か……?」  男は、怪訝《けげん》な顔をして訊いた。  褐色の肌には年相応のシワが深く刻まれていたが、体つきは筋肉質で、がっしりしている。目が思ったより優しそうなのに、冴子は少し安堵した。 「私は、東京の西冴子と申します。突然お邪魔して失礼ですが、大町志津さんについて、ちょっとお話を伺えたらと……」 「志津とはどういうご関係ですか?」 「はい、実は——」  冴子は、正直に説明した。そうする以外、志津のことを聞き出す方法が、見つからなかったからである。また、ありのままに話すことによって、相手がどのような反応を示すか見るのも、一つの目的であった。  一見したところ、目の前の男が今度の事件に関係しているようには思えなかったが、間接的にであれ、もし関わっていたとすれば、当然それなりの反応を示すだろう、と思ったのだ。  しかし(案の定というべきか)、冴子が注意深く観察していたにもかかわらず、石塚はそれらしい反応を見せなかった。  彼は、話を聞き終わると、 「そうですか……」  と、感慨深げにうなずき、冴子を中庭に導いた。  狭い店先に比べ、広い家だった。中庭の反対側が母屋の縁側になっていて、玄関は表通りとは別の道に面しているらしい。 「婆さんも嫁も出ていて、お茶も出せませんが、まあ、かけてください」  石塚は言い、自分から先に薄い西陽の当たる縁側に腰をおろした。そして、汚れた前掛けのポケットからハイライトを取り出し、冴子が少し離れたところにかけるのを待って、 「今頃、志津について聞きに見えるというのは、どういうわけですか?」  と、改めて訊いた。 「申し訳ありません。今は詳しい事情をお話しできないのですが、志津さんの自殺の原因について、はっきり……」 「自殺?」  マッチを擦ろうとしていた石塚が、手を止め、冴子の方へ目を上げた。「やはり、そうでしたか」 「ご存じなかったんですか?」  意外に思って、冴子は訊いた。 「いや、だいたいのところは察しておりましたし、そんな噂もたったんですが……」  石塚が煙草に火を点けた。「ただ、アレの母親は……私の妹ですがね……自殺したとは頑《がん》として言わなかったんです。誤って睡眠薬を飲み過ぎただけだ、とずっと言い通していたんですよ。狭い村の中で肩肘張って生きておりましたし、私の女房とも折り合いが悪く、一人娘が自殺したなどと他人に言われるのが、たまらなかったんでしょうな」  彼は深々と煙草を吸ってから、 「それにしても、志津はどうして自殺なんかしたんですかね?」  冴子は落胆した。自分が訊きたいと思って来たことを逆に質問されたからだ。 「私も、小さかったので何も知らないんですが、父の話では失恋されたらしいんです」 「そうですか、失恋ですか。あの娘《こ》は、母親に似て気性が烈しく、思い詰めると何をしでかすか分からない、といったところがありましたから……」  何をしでかすか分からない——。  冴子は石塚のその言葉にちょっと引っ掛かりながら、 「お母さんも亡くなられた、と北見村で伺いましたが」 「ええ、五年前に死にました。東京の友達のところへ行った帰りに急に加減が悪くなり、戻ってきて一週間ほどで死んでしまったんです。心筋梗塞だという診断でした」 「東京に、親しいお友達がいらしたんですか?」 「妹が結婚する前から親しくしていた女《ひと》らしく、食べ物を抜いてまで交通費をやりくりして、出かけて行ってましたね」 「その方のお名前と住所を、教えていただけないでしょうか?」  それほどカツと親しくしていた友人なら、志津についてもいろいろ聞いているかもしれない、と思いながら、冴子は言った。 「それが、分からんのですよ。東京とは言ってましたが、実際の住所は、都内じゃなく千葉か埼玉あたりだったかもしれません。妹が死んでも、手紙一通残ってなく、葬式の通知さえ出せなかったんです」 「向こうからこちらへは、いらっしゃらなかったんですか?」 「十六年前、志津の葬式のとき一度見えたっきりですね」 「そんなに親しい方が、どうして……?」 「ちょっとした事情がありましてね、私どもと顔を合わせたり、関わり合いになることを避けていたんですよ。手紙が一通も残っていなかったのだって、死ぬ前に妹が処分したにちがいないんです。ただ、妹が死んだことは間もなくどこからか知ったんでしょう、その後、時々墓参りに来ているらしく、私どもがお盆や彼岸に行くと、花が供えられていることがあります」  冴子は、その「ちょっとした事情」というのを聞きたかった。カツの友人は、なぜ北見村へ来なかったのか。カツは手紙を処分してまで、なぜその友人と石塚たちを会わせたくなかったのか。もしかしたら、そこに冴子の知りたいことが潜んでいるかもしれない。  だが、石塚が言葉をにごしているのに、他人の冴子の方から、どうして踏み込めるだろう。もし無遠慮に踏み込めば、いろいろ話してくれている彼の口を、逆に閉ざさせる結果にもなりかねない。  冴子はそう思い、 「志津さんは、いつ頃、東京へ出られたんですか?」  と、仕方なく質問を変えた。 「中学を出て、二年ほどしてからでした。初め前橋の喫茶店に勤めたんですが、そこで、妻子ある店の主人と心中未遂事件を起こしましてね」 「心中未遂?」  志津は十六年前の自殺以前にも、死のうとしたことがあったのか! 「ええ、結局その男に捨てられ、働きながら看護学校へ行くといって上京したんです」 「上京後、こちらへは、よく帰ってこられたんですか?」 「初めのうちは、月に一度くらい帰ってきてましたかね。ところが、それがだんだん年に三度になり、二度になり……死ぬ少し前は、私もほとんど会っていません。妹は病院が忙しいからだと言ってましたが、厚化粧して池袋の街を歩いているのを見かけたという村の人もあり、私どもには、志津が本当に看護婦をしていたのかどうかさえ、分からなかったんです。でも、あなたの話を伺って、看護婦をしていたのだけは本当だったと知り、なんとなくホッとしましたよ」 「志津さんは、私をとてもかわいがってくださいましたわ」 「負けず嫌いできつい性格ですが、子供だけは好きな娘でした。失恋したくらいで、自殺なんかしおって、馬鹿な奴だ……」  石塚は、自殺した姪《めい》を非難するようにつぶやくと、悲しげな仔牛のような目を、中庭の隅にある柿の木の方へ向けた。  その向こうの隣家の屋根の上には、うっすらと赤味を帯びた空がひろがっていた。  他に訊くことはないか、と冴子は考えた。  さっきの「ちょっとした事情」が気にかかっていたが、それを除くとなさそうだった。  思いきって、その事情を問い質すべきかどうか、冴子は迷った。  石塚の顔を窺った。彼は何かを考えているような目を、じっと柿の木の方へ向けたままであった。何も言わない。このままでは、冴子は礼を述べて、腰を上げなければならなかった。  焦りを感じた。……と、石塚がゆっくりと冴子に顔を戻し、言った。 「西さんは、志津に弟がいることをご存じですか?」 8 「えっ!」  あまりに唐突で意外な質問に、冴子は驚いて石塚の目を見つめ返した。 「聞いておられない?」 「ええ、は、はい……」 「そうでしょうな」 「ほ、ほんとに……志津さんには、弟さんがいるんですか?」  信じきれずに、訊いた。 「おります」  冴子の胸は激しく鳴り出していた。口が乾いた。朝は「あるいは」と考えていたもの……だが、北見村役場を訪ねてからは完全にその可能性が断ち切られていたもの……それに、まったく思いもよらない形でぶつかったのだ。 「それで、その、弟さんは、今、どこにいらっしゃるんでしょうか?」  声がうわずった。 「どこで何をしているのかは、私にも分かりません。なにしろ、一度も会ったことがないんですから。ただ——」  石塚は言葉を切って、煙草を取り出し、一本抜き取った。そして、フィルターを、黒い筋の入った親指の爪にトントンと叩いていたが、やがて顔を上げ、 「何もかも、お話ししましょう」  と、心を決めた口ぶりで言った。  ——カツが二人目の子供を身籠《みごも》ったのは、戦後も間もない、昭和二十×年頃であった。復員して日の浅い夫の寛助はまだ職もなく、志津たち一家は文字通り食うや食わずの生活を送っていた。そこで、カツは、満足に食えないくせに子供だけは人並に作る……などと言われるのを嫌ったのだろう、妊娠の事実を兄の石塚にさえ明かさなかった。  だが、そうしたことは、いつまでも人の目から隠しおおせるものではない。  初めに石塚の妻が気づき、やがて村の人々の噂にのぼるようになったとき、カツは寛助と志津を残して、しばらく村から姿を消した。友達の仕事が急に忙しくなったため手伝いに上京した、というのが寛助の下手な言い訳であった。 「後で私が訊くと、妹は、友達夫婦の世話で男の子を産んだ、という事実までは何とか認めたものの、子供はすぐに死んでしまった、とあくまで言い張りました。でも、それが嘘だということくらい、妹の顔を見ていれば分かりましたよ。おそらく、友達夫婦には子供がなかったんですね。で、妹の子は初めからその夫婦の実子として届けられ、育てられたんでしょう。だからこそ、友達夫婦は村へ来なかったんですよ。  あの腹では堕ろせなかったはずだから、妹は必ずどこかで産んでいるにちがいない。村では、そうささやかれていました。そこへ、友達夫婦が子供を連れてくれば、妹の子だと誰に見破られるかもしれません。そうなれば、あることないこと噂に尾鰭《おひれ》がつき、やがては、大きくなった子供の耳に入らないともかぎりませんからね。妹は、子供のために、きっとそれを一番恐れていたんです」  石塚は、ちょっと言葉を切って腰を上げると、足元に投げ捨てた煙草の吸殻を、雪駄《せつた》の先で踏みつぶした。 「妹は、可哀相な女でしたよ」  彼は再び元の場所にかけ、しみじみとした調子で話をつづけた。  ——カツは、痩せて少し尖った顔をしていたものの、若い頃は色白で、村で一、二の美人だった。気が強かったが、頭も良く、尋常小学校での成績は常にトップ。当時の村では珍しく、前橋の女学校にまで進んだ。その後、上京して一流銀行に勤める寛助と恋愛し、横窪中の人々に羨ましがられて結婚した。  そんな彼女が、戦後、志津と体をこわした寛助を抱え、いわば負け犬として生まれ故郷で生活を始めたのである。 「妹は、人に負けるということが、子供の頃から死ぬほど嫌いでした。それが、何とか仕事をもらって食べてゆくためには、昔、自分が馬鹿にした人間にも、頭を下げなければならなかったんです。たぶん、腹の中で、歯ぎしりしていたんじゃないかと思いますね。  妹は、あの北見村に死ぬまで暮らしていながら、いつも村から出て行くことばかり考えていたような気がします。表面では笑顔をふりまきながら、内心、私の妻や村の人々を軽蔑し、敵意にも似た反感、憎しみを抱いていたんじゃないか、と思うんです。だからこそ、友達夫婦に預けた子供だけは、何としても村と私どもから無縁なところで育てたかったんじゃないでしょうか……」  石塚に当たっていた西陽がかげった。  彼の顔に、急に疲れが浮き出たように見えた。 「西さんが、志津によくしてくださった方だと聞き、つい繰り言めいたことまでお話ししてしまいましたが、ご迷惑だったんじゃありませんか?」  彼は、冴子の方を向いて言った。 「いえ、そんなことありません。私の方こそ理由も申し上げずにいろいろお尋ねして……とても参考になりましたわ」 「そうですか、それならよかった」  石塚に対し、冴子は急に後ろめたさを感じた。自分は彼の甥《おい》を捜し出し、もしそれが母を死に追いやった犯人なら、殺人を含めた相応の復讐をするつもりだったからである。  冴子は、石塚の家を辞して前橋駅まで歩いた。  陽が沈むと、秋は夕闇の垂れこめるのも早い。  少し待って上野行きの直通電車に乗ると、街の灯は、電車のスピードに合わせるように刻一刻と明るさを増していった。  冴子は、四人掛けボックスの窓際に座り、見るともなく窓外に目をやりながら、今後のことを考えつづけた。  志津には弟がいた。カツの妊娠時期から推定して、現在二十六、七歳(石塚はカツの出産が昭和二十×年か、その翌年か、はっきりしないという)。その弟が、犯人の一人である可能性……少なくとも犯人と密接なつながりのある可能性は、かなり高いように思われた。  だが、姓名、住所はもとより、どこで生まれ、どこで育ったのかも、分からない。年齢を除き、何一つ手掛かりがない、といってよかった。それを、自分はいかにして突き止めたらいいのか……。  電車が高崎を過ぎた。車内は、勤め帰りの人々で混んでいる。街を外れて、郊外に出ると、闇が次第に濃くなっていった。  こうなったら、たとえ不確かな手掛かりでも、バロンという喫茶店のマッチに頼るしかないかもしれない、と冴子は思う。そこからアザの男を捜し出す以外に、犯人たちに到達する道は、ないかもしれない。  今まで漠然と感じていたにすぎない前途の多難さを、強く意識し、冴子は息が苦しくなった。勇気がくじけそうだった。逃げ出したい誘惑が、疑問が、心の隅に萌《きざ》した。自分はいったい何をしようとしているのか。何のために、こうした危険と困難の中に、進んで身を置こうとしているのか。  母を酷い目にあわせた犯人たちが憎い。母を死に追いやった男たちが憎い。彼らを絶対に許せない。志津と両親との間に何があろうと、犯人の一人が志津の弟であろうと、この怒りは変わらない。  しかし、彼らを見つけ出して報復したところで、そこから何が生まれるのか。すでに死んでしまった母にとって、何になるのか。単なる自己満足……いや、自分にだって、もしかしたら虚しい徒労感しか残らないかもしれない。  それなら、いっそ、父の言うように——。  そう、後ろを振り向けばいいのだ。振り向いて、駈け出すだけでいい。そうすれば、すぐにも、昼、バスの中で会ったハイカーたちの世界へ戻ることができるだろう。  だが、そう思いながらも、冴子は振り向かなかった。体を固くして、暗い窓外に顔を向けていた。自分はもう決めたのだ。どんな困難があってもやり抜く、と誓ったのだ。振り返るわけにはいかない。  一宮の夜の母の姿を思いおこせ。母の悔しさを思いおこせ。独り自らの首を括《くく》って死んだ母の孤独を思いおこせ!  第四章 発見(事件の二ヵ月前) 1  外には、冷たい雨が降っていた。  夕食後、広一郎は、回覧板を届けにきた利彦を居間へ上げ、ガス・ストーブに火を点《つ》けた。  台所からグラスを二つ取ってきて、ブランデーを注ぎ、 「勉強の方は、予定通り進んでいるかね?」  と、彼の前に腰をおろしながら訊いた。 「ええ、まあ、何とか……」  利彦が、どことなく暗い顔をして答えた。  司法試験の勉強の悩みだけでなく、彼が冴子の身を案じてくれていることは、広一郎には分かっていた。 「最初の試験は、五月だったね」 「五月の第二日曜日です」 「すると、正味あと二月《ふたつき》ないわけか」  言いながら、広一郎は冴子のことを考えていた。今日は三月十七日だった。康代が自殺してから五ヵ月、冴子が家を出て行ってから四ヵ月になる。 「冴ちゃんから——」  と、手で転がしていたグラスの液体から目を上げて、利彦が訊いた。「最近、何か言ってきましたか?」 「うん、二、三日前の夜、電話があった」  広一郎は、嘘をついた。先月の末に一度帰ってきて以来、冴子からは何の連絡もない。ただ、彼には、冴子が毎晩どこへ行き、何をしているのか、分かっていたが。 「どんな様子でしたか?」 「元気にやっている、と言っていた。君は大学で会わないのかね?」 「このところ、僕はあまり大学へ行っていないんですけど、冴ちゃんも来ていないようなんです」 「木島君とはたまに会っているらしいし、そんなことはないと思うが」 「いえ、テニス部の女子部員に訊いても、ほとんど見かけない、と言っています。冴ちゃんは、本当に、夜フランス語学校へ通うために、ここを出て市谷のマンションへ移ったんですか?」 「冴子が私に嘘をつくわけはないから、本当だろうね」  広一郎は、言いながら、あの日の出来事を苦々しく思い浮かべた。去年の十一月初め、冴子が突然、家を出て部屋を借りたい、と言い出した日のことを——。  彼には、ある理由から、冴子の心の内が手に取るように分かっていた。だから、当然強く反対した。ついには、父親としての威厳も捨てて哀願した。が、冴子は頑として聞かなかったのだ。  グラスを包んでいる掌《てのひら》に、冴子の頬を殴ったときの、熱い痛みの感覚がよみがえった。己れの心を打ったような痛みである。広一郎が冴子に手を上げたのは、あのときが初めてであった。 「フランス語学校だけなら、ここからだって十分通えると思うんですが」  いつになくしつこく利彦が言った。 「私も、そう言ったよ。だが、毎晩だと疲れてしまう、と言ってね」 「ここを出てからの冴ちゃんは、会うたびに顔色が悪くなり、心も尖《とが》っていくようでした。いくら訊いても、僕には教えてくれなかったけど、何かをしようとして、苦しんでいるのは確実だと思うんです。他人の僕が差し出がましい口を挟んでは……とずっと遠慮していましたが、おじさんは、それを知っているんじゃありませんか?」 「いや、知らんね」  あのときの冴子の目——。  あの日、冴子は、最後まで涙を見せなかった。そのしばらく前、康代が死んで一週間ほどした頃、診察室へ志津について質しにきたときのようには、泣かなかった。一瞬、驚いた目をして左頬を押さえ、あとは、恨めし気に広一郎をにらんでいた。卑怯者と蔑《さげす》むかのように。  翌日、冴子は家を出て行き、広一郎は部屋を借りる金と当座の生活費を祐子に託し、冴子の相談相手になってやって欲しい、と頼んだのだった。 「教えていただけないわけですね」 「本当に知らんし、君の考えているようなことはないよ」 「そうですか」  利彦が、グラスの底のブランデーを一気にあおった。 「じゃ、僕はこれで失礼します」  立ち上がった。  寂しそうだった。広一郎も冴子も、彼には何一つ打ち明けないからだろう。  利彦が心から冴子を心配してくれていることは、広一郎も知っている。彼は利彦が好きだったし、木島真吾なんかより利彦が冴子と結婚してくれた方がいい、とさえ思っている。ただ、だからといって、この件だけは、話すわけにいかないのである。  玄関まで送って出ると、雨はまだ降りつづいていた。春には珍しい、三日つづきの冷たい雨であった。  利彦の後ろ姿を見送って、ドアの錠をかけようとしたとき、不意に広一郎の脳裏に冴子の姿が浮かんだ。この冷たい雨の中、冴子は今夜も小岩のバロンへ行っているのだろうか。アザの男捜しをつづけているのだろうか。  そう思うと、広一郎の胸に、冴子に対するいとおしさが潮のように押し寄せてきた。いじらしく、哀れでならなかった。独りで懸命に突っ張っている我が子が、不憫《ふびん》でならなかった。 「冴子、帰ってこい。帰ってきてくれ……」  彼は、遠くの娘に呼びかけた。 2  総武線小岩駅から南へ伸びる駅前通りに、バロンはあった。模造レザー張りのボックス席が六つ並んだだけの、何の変哲もない小さな喫茶店である。  少し前に三人連れの男たちが帰り、十一時半の閉店時刻まで残っていたのは、今夜も冴子だけだった。  彼女は、開いたままほとんど読まなかった文庫本を閉じてショルダーバッグに入れ、レインコートを着ると、レジに行って千円札を出した。  釣銭を受け取る代わりに、〈アザの男〉が来たら知らせて欲しい、と念を押す。二十一、二歳の若い女には似つかわしくないこうしたやり方にも、いつしか抵抗を感じなくなっていた。  生っ白《ちろ》い顔の四十前後のマスターが、 「見かけたら、すぐにお電話します」  と、どことなく人を小馬鹿にしたような笑いを目の中に浮かべて、言った。  ドアを押して、屋根のついた歩道へ出たところで、冴子はあたりを見回した。  どこにも人影はなかったが、最近、誰かに見張られているような感じがして仕方がないのである。人混みの中で、時々誰かの視線を感じて振り向くと、その目は消えているのだが。  駅へ向かって歩き出した。歩道はアーケードになっているが、雨が車道を叩いている。さっきより激しい降りになったようだ。タクシーが、無数の小虫を潰しているような音をたてて走り抜けた。  明日は彼岸の入りだというのに、空気が冷え冷えとしている。沿道の店はみなシャッターを下ろし、アーケードの支柱に取り付けられた造花の桃の花だけが、寒そうにカタカタと震えていた。  冴子の足は重かった。今日も一日徒労だったという思いが、体の芯に重い疲労を沈めている。冷えたせいだろうか、時折、膝にしびれに似た痛みが走った。昼から何も食べていないのに、空腹は覚えない。その代わりのように、いつの間にか持病になってしまった胃が鈍く痛む。膝のしびれも胃の痛みも、テニスコートを飛び回っていた半年前までの冴子には、まったく無縁のものであった。  右にゆるくカーブしている前方から、人の姿が現われた。電車が着いたらしい。  冴子は反射的に左側に寄り、近づいてくる先頭の男の右頬に視線を当てた。たとえ無駄であっても、彼女はすでにそうすることを習慣づけられていた。  時々、何のためにそんなことをしているのだろうか、と考える。  もちろん、アザの男を見つけるためだ。  が、そんなとき、最終的な目的を忘れていた。ただアザの男を捜し出すことにのみ、半《なか》ば惰性化した執念を燃やしている自分に気づき、慌てて最初の決意を思いおこすのだった。  男、男、女、男……と、人々は一様に速い足取りで近づき、冴子の視線の中を通過して行く。  アザの男はいない。  ふと、冴子は、彼らはなぜそんなに急ぐのか、と思う。妻や子の、父や母の、そして安らかな眠りの待つ、暖かい家庭があるからだろうか。その家庭の温《ぬく》もりが、昆虫の雌雄を引き合わせるフェロモンのようにでも、駅を降りたとたんに漂い出すのだろうか……。  去年の十一月以来住んでいる市谷のマンションの部屋が、目に浮かぶ。父も母もいない無人の部屋。冷たいベッドと眠れない夜だけが待っている、小さな部屋。  まだ一年も経っていないのに、遠い遠い遥かかなたに輝く思い出のような気がする。あの、田無の我が家の夕食後の光景が——。  そこには、コーヒーをいれる母の姿が見える。  母の笑いがある。  父が、ゆったりとパイプをくゆらしている……。  もう、二度と戻れなかった。母は死んでしまったのだ。そして、父との間にも——時々家へ帰ることはあっても——以前のようには決して融け合えない、深い溝が生まれてしまっていた。  最後の男が背後へ去ったとき、冴子は軽い溜め息をついて、視線を数歩先の歩道へおとした。  すると、アザの男など実在しないのではないか、という疑いが、急に胸にふくらんできた。この疑いは、これまでも、何度となく冴子を絶望させそうになったものである。  月の薄明かりがあったとはいえ、夜のことだ。顔のアザなど、いくらでも本物らしく描くことができる。としたら、やはり——今まで何度も考えたように——犯人たちは、万一の場合に備えてわざとそうした目立った偽《にせ》の特徴をつけ、追跡者の目を誤った方向へ導こうとしたのではないだろうか……。  駅前に着いた。冴子は広場を回って、駅舎の階段を上って行った。  切符を買い、改札口へ向かう。  そのとき、改札口の内側にいる男に何気なく目をやり、冴子は息を呑んだ。右頬に、十円硬貨大の楕円形の青黒いアザがあったからだ。  脚が硬直した。  口がカラカラに乾いた。  心臓が激しい動悸を胸に伝えてくる。  その男は、もう一人の男と立ち話をしていた。年齢は二十二、三歳か。中肉中背で、鼻の下に髭をたくわえ、ちょっとネズミのような顔をしている。  冴子は、男の顔に視線を固定させたまま、少し後ずさった。  男が仲間と別れ、オーバーの襟を立てた。  改札口から勢いよく飛び出してきた。  冴子の前を通り抜ける。  冴子は、はっきりと見てとった。男の顔から髭を取りされば、一宮の海岸で自分に襲いかかった男にそっくりになるであろうことを——。  冴子は、呆然と立っていた。あまりにも突然で、あっけない出会いに、追跡しなければならないのも忘れて。だから、慌てて駅舎の外へ飛び出したとき、男の姿はすでに昭和通りにあった。  足が速い。  冴子は小走りに広場を横切り、彼のあとを追った。  バロンのある駅前通りと違い、昭和通りにはアーケードがなかった。雨は、相変わらず激しく降りつづいていた。コートの裾と足がすぐにびしょ濡れになったが、そんなことに頓着している余裕はない。傘を上向け、男の背中をにらみつけるようにして冴子は歩いて行った。  しばらく行って、男が不意に左の小道へ消えた。  冴子はバッグを抱え直して、その角まで走った。荒い呼吸を抑えながら、おそるおそる、小道の奥を覗く。  三、四十メートル先の正面、突き当たりに、二階建てのアパートが建っていた。男は、その外側についた階段を上って行くところである。鉄板の階段を叩く靴の音が、暗い雨の筋を縫って響いてきた。 〈緑荘二十三号室 山野辺英夫〉  それが、冴子が長い間捜し求めていた、母を死に追いやった犯人たちの一人と思われる男の氏名であった。  だが、それをようやく突き止めた今、冴子の胸に単純な喜びは湧いてこなかった。これまでは頭の中だけで考えてきた計画を、明日からは実行に移さなければならない。そう思うと、喜びより、恐ろしさの方が先に立った。  冴子は、ほの暗い路地の隅で、独り震えていた。雨に濡れた寒さのためばかりではない。震えは、胸の奥に凝縮した恐怖から次々に生まれ、波のように体の表面に広がってきた。  冴子はまず、山野辺が犯人の一人である、という証拠をつかまねばならない。次いで、彼の口から、他の二人の名を聞き出さなければならない。そのためには、彼に接近し、最悪の場合は、自分の体を投げ出さなければならなくなるかもしれないのだった。  父の広一郎の顔が……つづいて、真吾の顔が、闇の奥に浮かんだ。 「真吾さん」  冴子は、小さく声に出して呼んだ。  すると突然、身震いするような激しさで彼のものになりたいと感じた。愛する真吾の手によって女になりたい。憎むべき犯人の一人に、万が一、汚《けが》される前に。いや、今はただ真吾のたくましい腕に抱いてもらいたい。彼の温もりと、優しい言葉によって、この恐怖を、震えを、止めてもらいたい……。  冴子はアパートの前を離れ、傘もささずに表通りの電話ボックスまで走った。  四谷の真吾の下宿のダイヤルを回す。  呼び出しベルが繰り返し鳴った。  ようやく出た女の声には、怒気が含まれていた。 「あなたね、非常識よ。今、何時だと思っているの」  真吾を呼んで欲しいと頼んだ冴子に、家主の妻らしい女が言った。 「申し訳ございません。どうしても、という急用ができたものですから」  再び、長い待ち時間であった。  今にも電話が切れてしまうのではないか、と冴子はおそれた。 「もしもし……」  あたりをはばかるような真吾の声。 「真吾さん!」  冴子は思わず、涙声で叫んだ。 「冴子さんだね? 今頃、どうしたんだい、何かあったのかい?」 「会いたいの、会いたいの、あなたにどうしても会いたいのよ、今すぐ……」 「どこにいるの?」 「小岩。来て、お願い」  電話の向こうに、戸惑いとためらいの気配の生まれるのが感じられた。 「お願い……」 「総武線の小岩駅でいいんだね」  真吾が意を決めたように言った。「なんだかよく分からないけど、……タクシーですぐ行くよ」  その夜、冴子は初めて真吾とホテルに泊まり、朝まで彼の腕の中で戦《おのの》きつづけた。  だが、自分がこれから取ろうとしている行動については、結局打ち明けなかった。  もし一言でも洩らせば、その瞬間に自分の決意がくじけてしまいそうな気がしたからであった。  第五章 公判 1  五月十五日夜、吉祥寺のアパートで起きた三人の男たちの殺害事件は、事件発生から六日目の同月二十二日、西広一郎が被疑者として逮捕された。  西広一郎は、警察および検察の調べに対して、犯行を自供。  そこで、検察官は彼を殺人の罪で起訴し、六月二十九日、東京地方裁判所八王子支部において、第一審公判の審理が開始された。  正面の扉が開き、黒い法服に身を包んだ三人の裁判官が姿を見せた。 「起立」  廷吏の声に、利彦は隣りの冴子を目顔《めがお》で促して立ち上がり、裁判官たちが席につくのを待って、腰をおろした。  ざわめきがおさまり、廷内に静寂が戻ったとき、 「これより、被告人、西広一郎に対する殺人事件の審理を開始します」  と、裁判長が告げた。  午前十時三分。第三〇×号法廷。合議制事件(原則として懲役一年以上の罪に関係する事件)のための、八王子支部唯一の法廷である。そのために、傍聴席も七十二と多く、今はその三分の一ほどが埋まっている。  裁判長は、吉本一男という五十年配の男だった。痩せた長い首、その上の黒縁眼鏡をかけた角ばった顔……と、一目見たとき、利彦は高校の日本史の教師を連想したが、そう思って見ると、声や話し方までどことなく似ているような気がした。  右陪席判事は三十五、六歳の眠そうな目をした馬面の男、左陪席はまだ二十代と思われる良家の坊っちゃんタイプの男である。  検事は、東京地検八王子支部の岩田隆三郎であった。  利彦は、珍しくネクタイをつけ、傍聴席の最前列右端——弁護人の小池にもっとも近い位置に座っていた。  五月の択一式試験に合格し、七月十日から四日間ぶっつづけに行なわれる論文試験に向けて最後の追込み中だったが、冴子のことを考えると、来ないではいられなかったのである。  彼の横には、冴子、祐子と並んでいる。  もしかしたら都合がつかないかもしれない、と言っていたらしい木島真吾は、結局現われなかった。その方が利彦には嬉しいはずなのに、冴子の落胆した様子を見ていると、何となく気がとがめ、木島の薄情さを恨む気持ちが湧いた。 「被告人、前へ出なさい」  裁判長に言われ、利彦たちの前の仕切り柵を背に、拘置所の看守に挟まれて座っていた広一郎が、立ち上がった。  証人台まで進み出る。  出廷しているのが被告人本人に間違いないことを確かめる、人定尋問である。 「被告人の姓名は?」  裁判長が訊いた。 「西広一郎です」 「年齢は?」 「五十歳です」 「本籍は?」 「東京都田無市本町×の××番地です」  とくに悪びれた色もなく、といって虚勢を張っているふうでもなく、広一郎は淡々とした調子で答えた。やつれた顔から予想していたのよりは声に張りがあり、しっかりしていた。  吉本裁判長は次いで住所、職業を尋ね、広一郎を元の被告人席に戻すと、検事の方へ顔を向けて、言った。 「検察官、起訴状の朗読を……」  こうして、西広一郎に対する裁判——冴子から小池に弁護依頼があり、詳しい事情を聞くまでは、広一郎が人を殺したとは、利彦にはとうてい信じられなかった事件の裁判——は、いよいよ本筋に入ったのである。  岩田検事が立ち上がった。  座高があるのか、座っているときは目立たなかったが、立ち上がると百五十四、五センチの短躯である。  年齢は四十二、三歳。色が浅黒く髭が濃い。その子供のひねこびたような顔が、さっきからいかにも憎々しげに広一郎をにらんでいたのは、「お前の悪は決して許さんぞ」という一種のポーズだろうか。 「起訴状——。左記、被告事件につき、公訴を提起する。昭和五十×年六月二十九日。東京地方検察庁八王子支部……」  岩田は左手に起訴状を持ち、顔をわずかに傾けて読んでいった。気負った様子がないのは、すぐ後に冒頭陳述が控えているからであろう。  朗読は、広一郎の住所、氏名などを書いた被告人を特定する事項から、起訴状の中心である訴因の部分、つまり〈公訴事実〉に移った。  それによると、検察官が裁判所に処罰を請求している�主張�は、次のようなものであった。  昨年九月、被告人の妻康代は、千葉県一宮海岸で三人の男たちに暴行を受け、それが因《もと》で二十日後に自殺した。そのため、被告人は犯人たちを恨み、彼らの一人が顔にアザのあること、別の一人が以前被告人の医院で看護婦をしていた大町志津の弟らしいということを手掛かりに、それが工藤良男(二十七歳)、松岡勇(二十四歳)、山野辺英夫(二十一歳)の三人である事実を突き止め、密かに報復の機会を窺っていた。すると、本年五月十五日、突然工藤から電話がかかり、吉祥寺の彼のアパートに三人集まっているので話し合いたいと、逆に呼び出しを受けた。そこで被告人は、殺害の目的をもって自宅医院の薬品棚から睡眠薬を持ち出して、午後八時五十分頃工藤宅へ赴き、九時二十分頃スキを見て三人のウイスキーグラスに睡眠薬を入れ、彼らが眠り込んだところで、十時頃コンロのガスコックを開き、中毒死させたものである。 「罪名および罰条——」  岩田検事は起訴状から顔を上げ、少し声を高めた。 「殺人。刑法第一九九条」  これで、起訴状はすべてである。  朗読は、五分とかからなかった。  このように、起訴状が簡単なのは、裁判官に予断を抱かせるおそれのあるものを記載したり添付したりすることは、刑事訴訟法(第二五六条)によって禁じられており、供述調書等の引用は、起訴そのものを無効にしてしまうからである。  検事が事件について詳しく述べ、立証方針を明らかにするのは、すぐ後の冒頭陳述においてであった。 「裁判長」  岩田検事の着席するのを待ち、小池が言いながら立ち上がった。「起訴状の内容に関して、検察官に釈明を求めたいと思います」  刑事訴訟規則には、訴訟関係人は裁判長に対して釈明の発問を求めることができる、とある。  だから裁判長がうなずくと、彼はすぐに岩田検事の方へ顔を向け、挑戦するように言った。 「起訴状によると、被告人は、工藤ら三人の殺害の目的をもって自宅医院の薬品棚から睡眠薬を持ち出したことになっていますが、被告人の中に殺意の生まれたのがいつなのか、明示されておりません。それは、五月十五日、睡眠薬を持ち出そうとしたときなのか、工藤ら三人が彼のアパートに集まると聞いたときなのか、それとも、もっと前なのか、いずれにしても、その日時をはっきり特定していただきたい」  小兵《こひよう》の岩田検事が、大男の小池の顔を正面から見すえて立ち上がった。 「それは、犯行の当日、五月十五日、工藤から突然被告人に電話があり、彼らが工藤のアパートに集まると聞いたときです」 「時刻は何時頃ですか?」 「午後四時前後ですが、この点については、冒頭陳述の中で、さらに明確にするつもりです」  言うだけ言うと、岩田はさっさと腰をおろした。殺人の事実がはっきりしている以上そんなことはたいした問題ではないが、これで文句はないだろう、と言わんばかりに。 「弁護人、よろしいですか?」  裁判長が言い、小池が軽く黙礼して着席した。 「では、被告人、前へ出なさい」  そこで、吉本裁判長は再び広一郎を証人台に立たせ、黙秘権の告知と罪状認否の質問に移った。  被告人は、言いたくないことは証言を拒否できる。だが、法廷で発言した以上は、自分に不利なことであれ、有利なことであれ、すべて証拠として採用される。  こうした決まりを初めに告げて注意しておくのが、黙秘権の告知である。  そして、「被告人自身、自分を有罪と思うか無罪と思うか」と尋ねるのが、罪状の認否である。 「いかなる事情からにもせよ、工藤たち三人を殺してしまったという事実に関しましては罪を認め、厳罰を受ける覚悟でおります」  広一郎が、裁判長の罪状認否の問いに答えて、言った。「しかし、睡眠薬は、数日前旅行のとき持って行った残りが、偶々《たまたま》ポケットに入っていたのであり、殺害の目的をもって持ち出したものでは絶対にありません。工藤らと口論中それに気づき、身の危険を感じて、いっとき眠らせようとスキを見てウイスキーに入れたのですが、後で目を覚ましたらどんなに酷い仕返しをうけるだろう……そう思うと、急に恐ろしくなり、つい、ガス栓を開いて逃げ出してしまったのです」  殺意の発生がいつであれ、とにかく彼は、有罪を認めたのであった。  殺人罪を構成する要件は、〈殺意をもっての殺人〉である。もし、事件が刃物あるいは鈍器による殺人なら、傷害致死罪……場合によっては過失致死罪を主張することも可能だったかもしれない。  だが、本件の場合、睡眠薬で眠らせたうえでガス栓を開いているのである。誰が見ても殺意は明らかであり、もしこれを、「殺すつもりがなかった」などと言えば、かえって判事たちの心証を悪くするにちがいない。  そこで、小池は、殺人が決して計画的なものではなかったという点で争い、できるかぎり量刑の減軽を図ろうとしているらしい。  利彦はそう思った。 2  利彦の横では、冴子が、父広一郎の後ろ姿をじっと見つめていた。  彼女は、一瞬たりとも父から目を離すことができなかった。  広一郎の髪はパサパサに乾いていた。白いものが目立って多くなっている。さっき腰縄をつけられて法廷に入ってきたとき、冴子を見て無理に微笑んで見せたが、そこにはかつての端整な父の面影はなかった。目は落ちくぼみ、全体に黄色味を帯びた顔には、おちぶれ、やつれ果てた敗残兵の絶望にも似た表情が張りついていた。その父が、今、目の前で自らの罪を認めている。シャツにサンダルという姿で衆人の目にさらされ、殺人の罪で裁かれようとしているのであった。  父は自分を事件に巻き込むのをもっとも恐れたようだ、と冴子は思う。だから、工藤らの死を知って冴子が田無の家へ帰った先月十六日、父は何も聞かずに真っ先に彼女の「偽アリバイ」を用意し、警察に訊かれても何も知らないとあくまで主張するよう、強く言ったのだろう。  冴子は、殺人そのものとは確かに無関係である。  だが、父を殺人という行為に踏み切らせ、現在の立場に追い込んだのは、すべて、彼女のせいであった。因《もと》は、父の反対を押し切って行動を起こした、彼女にあったのである。そして、あの冷たい雨の降る晩、頬にアザのある男、山野辺英夫に出会ったことに。  何が起こったのか、冴子には、まだ信じられない思いだった。この七、八ヵ月、冴子は自分であって自分でなかったような気がする。夢を見ていたような、あるいは熱に浮かされていたような……。そして、覚めてみると、目の前に三つの死体が転がり、傍らに父が立っていたのだった。  罪状認否の問いに対する父の答えを、小池が簡単に補足し終わると、いよいよ冒頭陳述に入った。  裁判長に促され、岩田検事が広一郎に憎悪の籠った目を向けながら立ち上がる。  彼の小柄な体が急に大きくなったように、冴子の目には映った。  岩田検事は手にした書類を読み上げ始めたが、それは、さっきの起訴状の朗読の仕方とはまったく違っていた。妙な抑揚をつけ、ときには顔を起こして広一郎に言葉を叩きつけ、あるいは、怒りの目で彼をにらみつけながら、読み進んだ。  利彦によると、冒頭陳述とは〈検察側の描いた事件の全貌〉だという。それは、 1、被告人の略歴 2、動機および事前準備 3、犯行  と、三つに大きく分かれていた。  すでに冴子の知っている事実が多い。が、父の過去や、父が自分を尾行していたこと(時々見張られているような気がしたのは、そのせいだったらしい)など、初めて聞く事柄もあったし、完全に事実と違っている主張も混じっていた。  岩田検事が腰をおろした後で、冴子が頭の中で整理してみると、〈警察・検察側から見た事件のあらすじ〉は、次のようなものであった。  ◎ 昨年九月二十日、康代、冴子、祐子の三人が千葉県の一宮海岸で三人の暴漢に襲われ、康代はショックで口がきけないほど酷い目にあわされた。  ◎ 康代の引きちぎられたブラジャーの裂け目には、かつて北池袋にあった西医院の看護婦をしていた大町志津の写ったネガフィルムが差し込まれ、冴子が顔にアザのある暴漢の一人に抵抗した場所には、小岩の喫茶店「バロン」のマッチが落ちていた。  ◎ 翌朝、駐在所の佐々木実巡査が、ネガフィルムをプリントした写真を持って西家の別荘を再訪。それを見せられた広一郎は、写真の女など知らないと答え、冴子にもそう答えるよう促したが、内心、暴行事件は志津に関係のある人間によって計画的に企《たくら》まれたもの、と確信した。なぜなら、志津は彼と情交関係があり、それを康代に見つけられて罵《ののし》られ、十六年前(現時点からなら十七年前)、自殺していたからである。  ◎ 康代には、志津の自殺後、強度のノイローゼになって入退院を繰り返した、という病歴がある。そのため、広一郎は、康代に志津の写真を見せないようにしたが、康代はどうしても気になり、密かに佐々木巡査に電話して、写真を送ってもらった。そして、彼女は、暴漢たちに襲われた心の傷に加え、彼らの行為が自分と夫が自殺に追い込んだ志津に関係しているらしい、と知り、ショックを受けて自殺した。  ◎ 冴子はそうした詳しい事情を知らないまま、母を死に追いやった暴漢たちに強い怒りと憎しみを感じ、彼らを見つけ出して何らかの報復をしようと決意する。そこで、犯人たちと志津との関係を調べるべく志津の郷里へ向かい、前橋市内で漬物製造販売業を営む彼女の伯父、石塚信吉に会った。  すると、冴子の動きに注意していた広一郎も、数日後、前橋へ赴き、志津には戸籍上他人になっている弟(二十六、七歳)が東京近辺にいるらしい、冴子が石塚を訪ねた直後、その弟から石塚に電話があった、という話を聞き込んだ。  ◎ 冴子は広一郎の止めるのも聞かずに市谷のマンションへ移り、「バロン」のマッチを手掛かりにアザの男を捜し始めた。そこで、広一郎は、娘を危険な目にあわせないためには、彼女より先に男を見つけて何とかしなければならない、と考え、「バロン」のマスターに五万円与え、アザの男を見かけたら自分だけに知らせるよう依頼した。  ◎ 三月十七日、冴子はアザの男を発見。男は、御徒町でスナックのバーテンをしている山野辺英夫と判明。冴子は髪型、化粧を変え、大関美智代の偽名で山野辺に接近し、彼のスナックに頻繁に顔を見せる工藤良男(元パチンコ店員)と松岡勇(神田大学学生)を知った。冴子は三人の関係を山野辺に尋ねるが、彼は、二、三年前の夏、偶然知り合った遊び仲間だとしか言わない。  ◎ 冴子の行動に注意し、ときには尾行していた広一郎も、彼女に前後して山野辺、松岡、工藤の存在を知り、彼らが時々工藤の車で遠出する事実を突き止めた。そこで彼は、三人が康代たちを襲った犯人らしい、と推測。年齢から考えて志津の弟である可能性の高い工藤を中心に、彼らの身元を調べ始めた。  ◎ その結果、工藤は東京の墨田区出身、両親も兄弟もいない、元暴力団員で覚せい剤の密売人、バーテン、パチンコ店員などをしていたが、現在は半ば女のヒモのような生活をしているらしい、と分かった。  しかも、彼は西医院に数回診察に訪れていた事実も判明した。広一郎は覚えていなかったが、工藤の写真を見た祐子がもしかしたらと言い出し、カルテを調べたら彼の名があったのである。康代も医院の事務を手伝っていたので、彼と顔を合わせていた可能性があった。これで、三人のうち一人だけ覆面をしていた事実、彼らが西家の別荘行きの予定を前もって掴んでいたらしい事実とも、符合した。  ◎ 広一郎は、工藤ら三人が一宮の犯人と確信。彼は、志津の自殺に対する自分の責任を棚に上げ、康代の恨みを晴らすと同時に冴子を護るため、三人に対して早急に「殺人を含めた何らかの報復手段」を取ろう、と考えていた。そんな五月十五日、午後四時頃、工藤という人から電話だといって、二階の書斎にいた彼の許へ、通いの家政婦・坪井カヨが上がってきた。  電話の内容は、自分たち(工藤、松岡、山野辺)を尾《つ》け回し、調べているのは何のためか、と因縁をつけてきたのだった。素人探偵の悲しさ、彼の動きは相手に筒抜けだったのである。  暴行の証拠がないせいか、広一郎と志津の関係を知っているせいか、工藤は高飛車だった。ちょうど今夜、松岡と山野辺が飲みに来るので、九時に自分の吉祥寺のアパートへ来い、話をつけよう、と凄んだ。  そこで、広一郎は、妻を死に追いやった犯人のその態度に強い怒りと憎しみを覚え、同時に、生かしておいてはこれから長い将来に亘って逆に脅されると考え、このとき、はっきりと三人に対する殺意を固めた。  ◎ 冴子と祐子以外に、自分と工藤ら三人の関係を知る者はいない(祐子には隠し撮りした工藤たちの写真を見せていた)。だから、彼らを殺しても、アパートの出入りにさえ気をつければ、疑われるおそれはほとんどないだろう。広一郎はそう判断し、三人を同時に殺すには、睡眠薬で眠らせたうえでガス栓を開くのがもっとも安全確実だと考え、自宅医院の薬品棚からアモバルビタールを準備し、夜八時過ぎ、タクシーで中央線の武蔵境駅まで行き、そこから国電に乗り換え、吉祥寺へ向かった。  ◎ 工藤のアパート「井ノ頭ハイム」は井の頭公園に近いところにあった。一杯飲み屋、ラーメン屋、麻雀荘、電器店などが雑多に並んだ裏通りの一画である。  そこへ広一郎が着いたのは八時五十分頃。誰にも見られないように用心して、四階建ての小さな雑居ビルと小料理屋「トン吉」に挟まれた路地を入った。突き当たりの二階住人専用の入口で靴を脱ぎ、階段を上って行くと、六畳の和室に四畳半程度の台所のついた工藤の部屋では、すでに三人がテーブルを囲んで酒を飲んでいた。三人は、広一郎にもウイスキーを勧めた。そして、一宮の件や志津については一言も触れず、近所や知り合いの間をいろいろ聞き回られて迷惑を受けた、慰謝料として三百万円出せ、と脅してきた。  ◎ 広一郎は、ここで彼らの行為を非難しては危険だと考え、適当に言い訳し、あるいは言葉をにごしながら、手の中に隠し持っていた睡眠薬を自分のグラスに入れて溶かし、彼らのグラスにそれを注ぎ入れる機会を窺っていた。  ◎ 好機は九時二十分頃訪れた。松岡が煙草を買いに外へ出たとき工藤に電話がかかり、二人きりになると何となく落ちつかなげだった山野辺が、ふいとトイレに立ったのである。広一郎は、工藤の目に注意しながら素早く自分のグラスの中身を三人のグラスに注ぎ分け、彼らが戻ってくると、三百万円払うと告げて、機嫌を取り結んだ。  ◎ 三人がその場に横になって眠り込んだのは、十時少し前である。広一郎は、彼らが途中で目を覚ますおそれがないのを確かめてから、北側のビルに面したガラス窓を閉め、自分の使ったグラスを洗って台所に伏せた。触れた可能性のあるテーブル、窓、ドアのノブなどをハンカチで拭き、最後に手袋をはめ(このとき、K・Nのイニシャルが刺繍されたハンカチを落としたらしいが気づかず)、ガステーブルのコックを二つとも全開にし、部屋を出た。  ◎ 隣室は不在らしく暗かったが、階下の部屋は電灯が点《つ》き、窓も少し開いていたので、足音をたてないように注意して階段を降りた。そして、急いで路地を抜け出そうとしたところ、途中で不意に「トン吉」の勝手口から出てきた仲居の藤代アヤに会い、慌てて顔をそむけた。  ◎ 翌十六日、久米由紀と室井昭によって発見された工藤ら三人の死はまずテレビで大きく報道され、冴子がもしや……と思い、驚き、心配して家に帰ってきた。すると広一郎は、「何も言うな、奴らの死は天罰なんだ」と、頭から彼女の質問を封じ、その後、二十二日の逮捕直前に自供するまで、平然と診療をつづけていた。 3  冒頭陳述がすむと、岩田検事が証拠の提出に移り、自分の机に積んであった書類の山を判事たちの前の壇上へ運んだ。  その間に、利彦は、ちょっと冴子の方を見た。  冴子は、検事の長い冒頭陳述が終わっても、身じろぎ一つしなかった。じっと、正面を向いたままである。  何を考えているのか、と彼は思う。果たして、冴子は検事の言葉を聞いていたのだろうか。眼前に展開する、父広一郎に対する断罪劇を、本当に見ているのだろうか。かつては小麦色に輝いていた肌、白い歯の美しかった陽に焼けた顔。それが、ここ十ヵ月足らずの間に、不健康そのもののような色に変わり、今はそれがいっそう青ざめて見えた。  冴子のために何一つ具体的にしてやらなかったことを、利彦は悔んだ。何かあるにちがいない——そう気づいていながら、事件が起きて広一郎が逮捕されるまで、結局は試験勉強に気を取られ、動かなかったからだ。  冴子の隣りの祐子を窺う。  祐子は、検事の申請した証拠の目録に目を通している弁護人席の小池を、真剣な眼差しで見まもっている。その顔も、緊張に青く強張っていた。  利彦は、小池が祐子に強く惹かれ始めているのに気づいている。たぶん、この一ヵ月余りの間の冴子と広一郎に対する彼女の献身ぶりを見たせいだろう。  祐子が西医院に勤めるようになったのは、古いことではなかった。まだ一年数ヵ月だ。だから、どういう過去を持った人なのか、利彦は詳しくは知らない。幼い頃父を亡くし、その後、母と二人、ずっと文京区本駒込に住んでいたが、その母も三、四年前に急死した、ということくらいである。  おそらく苦労したのだろう、多少暗い感じがしないではない。だが、優しく、芯のしっかりした女性だった。患者には好かれているようだったし、以前、美佐子が病気したときも、親身になって看病してくれた。  もしかしたら、小池は、その頃から、彼女を憎からず思っていたのかもしれない。それが、今まではさほど親しく接する機会がなく、また死んだ妻の家族の手前もあって、遠慮していただけなのかもしれない。  いずれにしても、祐子ならきっと美佐子の良い母親になってくれるだろう、と利彦は思った。そして、祐子の方も小池の気持ちに気づき、好意を寄せ始めているらしいことに、暗い事件の中にも、一つの明るい灯を見る思いでいた。 「弁護人、意見を述べてください」  小池が目録に目を通し終わる頃合を計り、裁判長が言った。  すると、小池が腰を上げ、書証番号を読み上げては、〈同意〉か〈不同意〉の別を告げていった。 「以上、弁護人の同意した書証についてのみ検察官申請の証拠として採用し、証拠調べを行ないます」  小池が終わるのを待って裁判長が言い、今度は岩田検事が立ち上がり、証拠として採用されたものについてだけ要旨を述べ始めた。  それによると、小池が同意した書証は、久米由紀と室井昭の供述書、トン吉の仲居藤代アヤの供述書、「バロン」のマスター秋元洋一の供述書、石塚信吉の供述書、監察医の死体検案書、解剖医の鑑定書などで、冴子、祐子、佐々木巡査の供述書などは不同意にした模様であった。  つづいて、大町志津の写ったネガフィルム、工藤の部屋に落ちていたK・Nのイニシャルのついたハンカチ、西医院の薬品棚にあったアモバルビタールの錠剤などが物証として提出され、次はいよいよ証人尋問に移った。  今日の証人は、検察側があらかじめ呼んでおいた津金という警部一人である。  傍聴席から利彦の右をかすめて前へ出て行った津金は、でっぷりした体を濃紺のダブルに包んだ四十六、七歳の男だった。  彼はまず裁判長の問いに住所、氏名などを答え、宣誓書を読み上げた。  つづいて、 「証人は、自分が刑事訴追をうけるおそれのあることについては証言を拒否できますが、そのほかのことについて、虚偽の証言をした場合、偽証罪で処罰されますから注意するように」  という、裁判長による〈証言拒絶権の告知〉と〈偽証の警告〉がすむと、 「では、そこにある椅子に座って、これから尋ねられることに答えなさい」  言われるままに、証人台の下から小さな椅子を引き出し、窮屈そうに腰をおろした。  彼は検察側の請求した証人なので、先に尋問(主尋問)をするのは岩田検事である。  岩田は立ち上がると、津金に捜査員としての経歴などを簡単に述べさせた後、本事件との関わりを訊くことから、本題に入っていった。 「本年五月十六日午前二時頃、変死体発見の報を受けて現場へ駈けつけ、捜査本部が設けられてからは、捜査主任官として犯人の逮捕、取調べに当たってまいりました」  津金が岩田の方へ顔を向けて答えた。 「変事は誰に発見されたのですか?」  津金は、久米由紀と室井昭がガス漏れに気づいたときの様子から、室井が部屋に飛び込んでガスを止めた模様などを説明した。 「警官が駈けつけたとき、部屋の中の三人の男たちは死亡していたのですか?」 「そうです」 「死因は?」 「一酸化炭素中毒です。現場は、一酸化炭素を含まない天然ガスに、まだ切り替わっていないものですから」 「ガスコックの開かれた時刻は、何時頃と推定されましたか?」 「部屋の広さ、気密度、死亡時刻などを考慮して、十五日午後九時から十一時の間と推定しました。ただ、工藤の部屋の真下に住んでいる森隆二の証言を得てからは、それがさらに絞られ、十時前後と見て間違いない、と考えました」 「その理由を述べてください」 「井ノ頭ハイムは、上下二部屋ずつ四部屋あるのですが、階下の一つは電器店の倉庫になっているため、事件のとき、そこに住んでいたのは工藤良男、久米由紀、森隆二の三名です。その森が、当夜十時頃、上の部屋の窓が閉められる音を、聞いていたからです」 「森隆二の証言によって�十時頃らしい�と考えられた、ガス栓の開かれた時刻は、その後どうなりましたか?」 「被告人の供述によって、完全に正しかったと確認されました」 「質問を戻しますが、工藤ら三人の死を事故や自殺ではなく、他殺と断定した根拠を述べてください」 「コンロに何も載っていないのに、コックが全開にされていた事実から、事故のセンはまったく考えられません。残るは、三人の中の一人による無理心中か他殺ですが、ガス栓とドアのノブから発見者以外の指紋が検出されなかったこと、死者に該当する者がいないK・Nのイニシャルの刺繍されたハンカチが部屋に落ちていたこと、ガス栓が開かれた直後と推定される十時五分頃、五十年配の男がアパートから出てきて隣家の小料理屋の仲居と顔を合わせ、逃げるようにして立ち去っていること——こうした事実からです」  このあたりは、すでに報道されている内容であり、新しい事実は何もなかった。 「では、証人はどのような捜査方針を採って、被告人に到達したのですか?」  検事は質問を継いだ。 「生前の被害者について、芳しくない噂が多いため、何らかの恨みによる殺人ではないかと考え、三人の交友関係を中心に聞き込み捜査をつづけました。彼らの周辺に、イニシャルK・Nの五十歳前後の男がいないかどうか、注意したのは言うまでもありません。  その結果、男は見つからなかったのですが、工藤と山野辺に特定の女のいた事実が分かりました。  工藤の相手は、髪を真っ赤に染めて厚化粧した街娼風の女で、一年以上前から、時々くわえ煙草でアパートに姿を見せていたそうです。一方、山野辺の女は、事件の一、二ヵ月前に初めて彼の勤めるスナックに現われ、急に親しくなった大関美智代という女子大生です。  我々は、山野辺に計画的に近づいた疑いのある大関美智代に、より注目しました。しかし、偽名を使っていたのか、身元がどうにも掴めません。また、工藤に半ばヒモのような生活を許していたらしい女の方も、関わり合いになって自分が突つかれるのを嫌ったのか、名乗り出てきませんでした。  ところが、こうして我々が少し困っていた十九日、願ってもない情報が、相次いで二件、寄せられたのです」 「それは、具体的に、どういう情報だったのですか?」 「一件は、千葉県一宮町の佐々木実という巡査からのものでした。テレビで被害者の写真を見てずっと迷っていたが……と前置きしたうえで、去年の九月、右頬にアザのある男を含む三人組が一宮海岸で婦女暴行未遂事件を起こしており、その被害者が西広一郎の妻康代、娘冴子、西医院の看護婦石野祐子の三人である、と知らせてくれたのです。  そして、もう一件は、小岩のバロンという喫茶店のマスター秋元洋一からのものです。彼は、去年の十一月から今年の三月まで、西広一郎と冴子が、小岩近くに住んでいると思われる右頬にアザのある男を必死で捜していた、という事実を通報してくれました」 「それから、証人は、いかなる手段を取りましたか?」 「K・Nのイニシャルを持つ西広一郎の写真を密かに手に入れ、工藤の家族関係や出生地などを訊き回っていた男と同一人物らしい、という感触を得てから、本人を呼んで事情を聞きました」 「冴子の方はどうしたのですか?」 「大関美智代を名乗って山野辺に近づいた事実を調べたうえで、もちろん事情を聞いています。しかし、彼女の場合、犯行のあった十五日の夜は、石野祐子と祐子の友人の向田久子と三人で、八時から十二時頃まで小平市の祐子のアパートにいた、という事実が確認され、疑いを解きました」 「被告人は、犯行を認めましたか?」 「初めは否認していたのですが、現場に落ちていたハンカチが被告人のものである、と家政婦の坪井カヨが証言して後《のち》、犯行を自供し始めました」 「犯行当日の午後四時頃、工藤から呼び出しの電話があったというのは、被告人の方から話したのですか?」 「これも、電話を取り継いだ坪井カヨの話を聞いて、質したところ、話したのです」 「被告人は、睡眠薬について、どのような供述をしましたか?」 「工藤の電話のあった時点で殺人を決意し、それには三人を眠らせたうえでガス栓を開くのが一番安全にちがいない——そう考えて、薬品棚からアモバルビタールを持ち出した、と述べています」 「すると、睡眠薬は偶々《たまたま》被告人のポケットに入っていたわけではないのですね?」 「少なくとも、私は、一度もそのようには聞いておりません」 「三人の殺害方法については、被告人はどのように供述しましたか?」 「持って行った睡眠薬を工藤のアパートの下で手の中に隠し、彼の部屋へ入ってウイスキーを勧められると、テーブルの陰で、そっとそれを自分のグラスに入れ……」  津金の答弁を聞きながら、利彦は、すでに裁判の結果が見えたような気がしていた。  広一郎は、殺人の事実をはっきりと認めている。そのうえで、計画性の有無だけを争おうとしている。  だが、いくら「睡眠薬は偶々《たまたま》ポケットに入っていたものだ」と主張したところで、いずれ証拠として提出される被告人の自白調書(刑事訴訟法第三二二条によりこの提出については弁護人の同意が不要)を覆《くつがえ》すことは、客観的に見て、不可能に思えた。 4 「それでは、証人が大町志津という女性について知ったのはいつでしょうか?」  利彦が悲観的になっているうちにも、検事の質問は進められた。 「さきほど申し上げた佐々木巡査が、一宮の事件の説明の中で、西康代の引きちぎられたブラジャーの裂け目に、女の写ったネガフィルムが差し入れられていた、と言ったときです。ただし、それが大町志津という名であることは、むろんまだ知りませんでしたが」 「そのフィルムは、これですね?」  岩田検事は、書記官席の机から、さっき提出した小さなフィルムをつまんで、証人台に歩み寄った。 「そうです」  津金がそれを手に取り、ちょっと透かして見て、答えた。 「証人は、どのようにして、このフィルムを見る機会を持ったのですか?」  岩田は検察官席へ戻って、再び尋問をつづけた。 「佐々木巡査に聞いた後、千葉県警を通じて送ってもらいました」 「フィルムに写っているのが大町志津という女性である、と知ったのは、被告人の自供からですか?」 「違います。それを焼き付けた写真を持って捜査員たちが被告人や被害者の周辺を当たったところ、かつて被告人の一家が住んでいた北池袋の主婦より、西医院の看護婦をしていて十六、七年前に自殺した大町という人に似ている、という話を聞き込んだのです」 「その主婦は、大町志津と被告人との関係についても、何か話しましたか?」 「二人の間には情交関係があり、そのもつれから大町志津は服毒自殺した、と言っておりました。これは、当時その近所に広まった噂ですが、噂が真実であったことは、志津が母親宛に残した遺書を見た比留間幸治という、元警察官の証言によって裏付けられております。遺書の内容は……」 「その件については、いずれ比留間氏に証人として出廷してもらうことになると思いますので、結構です。それより、近所に広まった噂の結果、どうなりましたか?」 「康代は酷いノイローゼになり、また、被告人もその地で医院をつづけてゆくことが困難になり、現在住んでいる田無市へ引っ越したのであります」 「異議あり!」  突然、野太い声がして、小池が勢いよく立ち上がった。「ただいまの証言は、証人の単なる推定、臆測にすぎません。尋問と答弁の内容を制限していただきたいと思います」 「異議を認めます」  吉本裁判長が、言った。「証人は、自分が直接知り得た事実だけを述べ、勝手な推測を加えないように。検察官も、その点注意して、尋問をつづけてください」  小池の異議申立ては、争点になっている立証事項には関係がない。だが、調子の波に乗った感のあった検察官のペースを崩すには、多少の効果があったのである。  岩田検事は裁判長に軽く頭を下げてから、再び津金の方へ顔を向けて、訊いた。 「証人は、大町志津と被告人の間に情交関係があり、そのもつれから志津が自殺した、と知ってから、どうしたのですか?」 「前橋に石塚信吉という志津の伯父がいる、と冴子に聞き、捜査員を派遣しました。その結果、被告人も、冴子が訪ねた数日後に石塚の許を訪れ、志津には戸籍上は他人になっている弟がいる、という話を聞いて帰った、と分かりました」  実は、この冴子と広一郎の訪問の間に、それまで石塚が見たことも声を聞いたこともないという志津の弟から、「一度会いたいので近いうちに訪ねて行く」という電話がかかっていたのだった。 「そのときまで、被告人は、大町志津に関して何も話さなかったのですか?」 「初めは、ネガからプリントした写真を見せても知らないと言っていたんですが、我々が彼女の身元を突き止めると、十七年前の関係だけは認めました。しかし、今度の事件と志津とは関係ない、とあくまで言い張っていたんです」 「石塚信吉を訪ねた事実を、証人たちが掴んだ後はどうですか?」 「さっき触れた、工藤の周辺をいろいろ調べ回っていた動機が、単に工藤が妻や娘を襲った犯人であるという証拠を見つけるためだけではなかった、と自供しました。年齢から推して彼が志津の弟ではないかと考え、それを確かめるために、彼の家族関係や出生地まで調べていたのです」 「なぜそんなことをする必要があったのか、言いましたか?」 「相手の正体、意図が分からないと不安だったから、と述べています」 「それで、工藤は大町志津の弟だったのですか?」 「工藤にはすでに両親がなく、兄弟もいないため、はっきりしたことは確かめようがありません。父方の叔父が二人と母方の伯母が一人いますが、遺体を引き取りに来た叔父の一人に訊いても、戸籍に載っている以上の事実は分からない、と言っています。ただ、被告人の供述によると、被告人はそう信じていた模様です」 「昨年の九月二十日、一宮海岸で康代たちを襲った犯人は、工藤、松岡、山野辺の三人に間違いないのですか?」 「夜とはいっても、冴子と石野祐子は、覆面をしていなかった二人の男を近くで見ています。この彼女たちの証言、吉祥寺に住んでいた工藤がわざわざ田無の西医院まで診察を受けにきていた事実、などから、間違いないと思います」  岩田検事は手にしていた書類に目をおとして二、三枚繰った。それから徐《おもむろ》に顔を上げ、尋問の終了を告げた。  次いで、小池が反対尋問に立った。  だが、彼はほんの二、三の点についてのみ津金に質し、多少有利な返答を引き出したにすぎなかった。  もし、被告人が工藤の呼び出しを受けた時点で殺意を固めたのなら、なぜ睡眠薬を持ち出したのか。途中で気づかれるおそれのある睡眠薬とガスを使うより、即効性の毒物の方が、安全確実ではないか。医院の薬品棚なら、そうした毒物があり、医師である被告人は当然その作用を知っていたはずなのに、証人は被告人の供述を聞いて、不自然さを感じなかったのか——?  小池の尋問が終わったのは、十二時を十分ほど回った頃である。  吉本裁判長が次回公判の進め方について検事と弁護士の意見を求め、岩田検事が、西家の家政婦・坪井カヨ、一宮の巡査・佐々木実、十七年前大町志津の自殺をあつかった池袋署の警官・比留間幸治の三人に対する証人尋問を請求した。  つづいて、三人の予定をにらみ合わせ、次回の公判は七月二十一日午後一時から、と決定された。  吉本裁判長は、それを被告人の広一郎に告げると、 「では、今日はこれで終わりにします」  早口に言い、帳簿を抱えてさっと立ち上がった。廷吏の号令に傍聴人たちがざわざわと腰を上げるより早く、二人の陪席判事を従えて正面のドアへ向かった。  三人の姿が消えると、傍聴人たちも私語を交わしながら廊下へ出始めた。  看守に手錠と腰縄をつけられながら、広一郎が利彦たちの方へ顔を向ける。唇には無理に作った笑みを浮かべていた。娘の冴子を励まそうとするかのように。  彼は、利彦たちに目礼し、看守に前後を挟まれて、廊下とは反対側のドアから出て行った。 5  その晩、冴子が祐子と二人で簡単な夕食をすませ、居間の暗いテレビの前にぼんやりと座っているとき、利彦と小池が美佐子を連れて訪ねてきた。  広一郎が逮捕された後、冴子は市谷のマンションを引き払ってここに戻り、祐子にも一緒に住んでくれるよう頼んだのである。  美佐子は、冴子にもよく懐《なつ》いていたが、祐子にはそれ以上だった。訪ねてくると、もう片時もそばを離れず、独り占めにする。今も、持ってきた漫画を祐子に読んできかせ、彼女が冴子たちの話に加わろうとするのを許さなかった。  祐子が気をきかして美佐子を部屋の隅へ連れて行き、冴子は利彦と小池にコーヒーをいれた。  小池に午後からの仕事が詰まっていたため、昼は、裁判所を出るとすぐに別れてしまった。だから、今日の公判の様子から見た今後の見通しについて、ほとんど聞いていない。  小池は、砂糖を入れずにミルクだけたっぷり入れたコーヒーを少しすすると、深刻な面持ちで話し出した。 「正直いって、非常に難しい。たとえ睡眠薬が偶々《たまたま》西さんのポケットに入っていたという事実が立証できたとしても、これが殺人罪の否定につながらないことは、何度も話した通りなんだ。もちろん、僕は、工藤らの凶悪さを強調し、西さんの殺人動機に十分同情すべき点のあったことを訴えるつもりでいる。しかし、この点……もし、工藤が大町志津の弟なら、彼にも冴子さんのお父さんとお母さんに対する復讐の動機が一応あったことになってしまう。  検事が次回公判に呼んだ三人のうち、比留間と佐々木の二人は、西さんと大町志津の関係をつまびらかにし、西さんが彼女の写真にどのような態度、反応を示したかを明らかにするための証人だと思う。そして、もう一人の坪井カヨは、たぶん、西さんの犯行が計画的なものであったことを印象づけるための証人だろう。  こうして、検事は、今度の事件も一宮の事件も、元をただせば西さん自身の蒔《ま》いた種から出てきたものであることを強調し、そのうえで、できれば犯行の計画性をも立証しようと……」  冴子は、小池の話を聞きながら、今日の冒頭陳述と検事の証人尋問の内容について、頭の隅で考えていた。  幾つかおかしな部分があったが、その中でも、どうにも分からない点が一つ、昼からずっと気にかかっていたからだ。  広一郎は、五月十五日午後四時頃、突然工藤から電話を受け、九時にアパートへ来いと言われた、と刑事や検事の前で述べているらしい。そこで、九時少し前に工藤の部屋へ行き、九時二十分頃睡眠薬を飲ませ、十時にガス栓を開いて部屋を出た、と。  これは、明らかに嘘の供述であった。冴子にだけは分かっている。冴子の知っている事実から見るかぎり、広一郎は——遅くとも九時半頃には工藤の部屋を出ていなければならない——のだ。  父は、いったいなぜあんな嘘の供述をしたのか、と冴子は思う。小池は、このことを知っているのだろうか。父の嘘の供述と、小料理屋の仲居の目撃が不思議に一致しているのはなぜだろうか。もしかしたら、この供述の裏に、父と小池の秘策といったものでも隠されているのだろうか……。 「あの……父は小池さんにも、工藤の部屋へは九時少し前に行って十時頃に出た、と言っているんですか?」  冴子は、疑問を解くために訊いてみた。 「ええ」  小池が冴子の目を見つめ、「それが、何か?」 「あ、いえ、別に……」  逆に問い返され、冴子は慌てて言葉をにごした。 「本当ですか? 冴子さんは、何か知っているんじゃありませんか?」  いつもは柔和な小池の細い目が光った。  坊主頭のもっさりした外見に、知らない人はつい油断するが、彼には非常に鋭いところがある。そう言っていた利彦の言葉を、冴子は思い出した。 「いえ、何も知りません」 「そうですか。それならいいんですが、僕には、西さんが何か非常に重要な事実を隠しているような気がして仕方がないんです。で、もしかしたら、冴子さんもそれを知っているか気づいているんじゃないか、と思ったものですから」  小池が煙草を一本抜いて、火を点けた。  まだ、内心疑っているようだった。  考える目をしてソファに背をもたせた。  冴子は確かに〈ある事実〉を知っている。それを明かせば、今後の審理に多少の影響は及ぼすかもしれない。だが、広一郎の罪を軽くするためには、おそらく、何の役にも立たないだろう。それなら、誰にも——小池にも話さない方がいい、と考えていた。もし話せば、冴子も事件の渦中に巻き込まれる。そうなったら、広一郎を今以上に苦しめ、悲しませることになるのだから。 「木島さんから、何か言ってきたかい?」  小池の横でずっと黙っていた利彦が、訊いた。 「まだなの」 「まだって、今日の様子を……」 「きっと忙しいのよ」  冴子は、利彦の言葉を途中で遮り、なんでもないことのように言った。  しかし、内心、真吾が恨めしく、悲しかった。こんなときこそ、彼にそばにいてもらいたい。それなのに、傍聴に来てくれなかっただけでなく、電話さえないのだ。  広一郎が殺人犯人として逮捕されてから、真吾の態度が少しずつ変わってきているように冴子は感じていた。思いすごしかもしれないが、研究を口実に、だんだん自分と会う機会を減らそうとしているような気がする。 「ねえ、パパ」  美佐子が駈けてきて、小池の膝を揺すりながら言った。「あたし、今日、祐子お姉ちゃんとお風呂に入る」 「おいおい、危ないよ」  煙草の灰を落としそうになり、小池が慌ててそれを灰皿に押しつぶした。 「ねえ、いいでしょう?」 「だめ。祐子お姉ちゃんは忙しいんだから」 「でも、お仕事、もうすんだんだって。だから美佐子と一緒におうちへ来て、泊まればいいでしょう」 「そんなことしたら、冴子お姉ちゃんが独りになっちゃうじゃないか。だから、できないの」  小池は途中で祐子の方を向き、 「すみません。すぐ図に乗って、勝手なことを言い出して」と、謝った。 「いえ……」  祐子が顔を赤らめ、うつむいた。  二人が惹かれ合っていることは、冴子も気づいていた。傍《はた》から見ていると、もどかしくなるような恋である。が、それは、たとえゆっくりとではあっても、確実に互いの人格の理解と結びつきに向かって進んでいるようだった。だんだん離れていこうとしている、自分と真吾の場合とは逆に……。 「利彦君の勉強もあることだし、遅くまでお邪魔しては迷惑だろうから、そろそろ帰ろうか」  小池が、利彦にとも美佐子にともなく言って、立ち上がった。そして、冴子の目にひたと視線を当て、 「冴子さん、何か僕に話したいことができたら、いつでも電話してください。待っています」  冴子が何か隠していることを、小池はやはり気づいているらしい。 「はい……」  冴子は彼の視線から目を逸《そ》らして、曖昧にうなずいた。責めたり、詰問したりしないだけに、父をこれ以上苦しめないためとはいえ、本当のことを話さないでいるのが心苦しかった。 「じゃ、冴ちゃん、俺はずっと起きているので、何かあったら窓から呼んでくれれば、いつでも駈けつけるから」  利彦が言いながら腰を上げた。 「ありがとう」 「はい、美佐子ちゃん」  祐子が、漫画本を持ってきて、美佐子に手渡した。 「お姉ちゃん、うちへ来ないの? つまんないな」 「美佐子が良い子にしていれば、いつか来てくれるかもしれないよ」  利彦が言った。 「良い子にしていれば?」  美佐子が彼の方へ顔を上げた。 「そう。ひょっとしたら、ずっと、美佐子のうちに泊まって、美佐子のママになってくれるかもしれない」 「本当!」  美佐子は目を輝かし、それを祐子の顔に戻すと、「ほんと? ねえ、お姉ちゃん、ほんと? お姉ちゃんが美佐子のママになってくれるって」 「叔父さんの冗談だよ」  祐子の困ったのを見て、小池がひょいと美佐子を抱き上げた。そして、彼自身の戸惑いを隠すように、 「さあ、帰るぞ」  と、先に立ってドアの方へ歩き出した。  冴子は、彼らを玄関まで送った。  祐子と二人だけになると、気が抜けたように家の中がひっそりとした。  冴子は、無性に真吾の声が聞きたくなり、彼の下宿へ電話をかけた。  しかし、応対した家主の妻は、彼はまだ帰っていない、と告げた。  第六章 事実 1  七月二十一日。  昨日までつづいていた梅雨空は、まるで学校が夏休みに入るのを待ちかまえていたように、一転して真夏の空に変わっていた。  利彦は、冴子、祐子と八王子駅前で昼食を取ってから、明神町の裁判所まで歩いた。  一週間前に、司法試験中最大の山である論文試験が終わり、少し肩の荷をおろした気分だった。自分の採点によると、できもそう悪くない。結果は九月初めにならないと分からないが、後は運を天に任せ、とにかく口述試験の準備を進めるしかなかった。  裁判所は、京王八王子駅前を越して四、五百メートル行った、甲州街道沿いの五叉路の角にあった。四階建ての白いビルで、横に東京地検八王子支部のくすんだ建物が並んでいる。  利彦たちが三階まで上って行くと、第三〇×号法廷の前の廊下に、五十歳前後の男が、建物の中庭を見おろしながら煙草を吸っていた。彼は、冴子と祐子を認めて、ふっと顔をほころばせかけたが、慌ててそれを引き締め、戸惑ったように黙礼した。  中へ入って、傍聴席に座ってから訊くと、彼が一宮の佐々木巡査だという。  一時十二、三分前に、廷吏につづいて岩田検事が風呂敷包みを抱えて入ってきた。 「急に暑くなって、まいっちゃうね」  などと、廷吏と言葉を交わしている。被告人を前にしたときの、いかにも憎々しげに唇を歪めた仏頂面からはとても想像できない、人のよさそうな笑みを浮かべて。  廷吏の机で、佐々木、坪井カヨ、それに比留間という元警官だろう……三人が証人カードに署名しているとき、左右のドアから広一郎と小池がほとんど同時に入ってきた。  広一郎は冴子、利彦、祐子に、それぞれ目顔で挨拶し、手錠と腰縄を外してもらって、腰をおろす。  一方、小池は、鞄を置くと、立ったまま尻ポケットからハンカチを取り出し、顔、首筋、さらに坊主頭を拭った。  利彦たちの後ろには、三人の傍聴人がいるだけである。殺人事件とはいっても、争点らしい争点のない裁判に、マスコミは早々に興味を失ってしまったのだろう。また、被害者の肉親たちにしても、決して「耳触《みみざわ》り」がいいとは言えない裁判の傍聴に、わざわざ遠くから足を運ぶ気になれなかったのかもしれない。  書記官が席に着いて二、三分してから、先日の三人の裁判官が登場し、第二回公判が始まった。 「今日、尋問が予定されている証人は、みな出廷していますね?」  全員が着席した後で、吉本裁判長が廷吏に訊いた。 「はい」  廷吏が立って行って、壇上に置いた紙を示しながら、何やら説明した。 「では、証人尋問に入ります。証人は前へ出なさい」  言われて、証人台へ進み出たのは、看守を挟んで広一郎の並びに座っていた、坪井カヨである。  あとの二人、佐々木と比留間は、利彦たちの後ろの傍聴席に来ていた。刑事訴訟規則には、〈後に尋問すべき証人が在廷するときは、退廷を命じなければならない〉とあるが、実際は、特に差し障りのある場合を除き、細かいことは言わないらしい。  吉本裁判長は、坪井カヨの住所、氏名、職業などを確認した後で、宣誓書を読み上げさせた。  次いで、多少易しい言葉で〈偽証の警告〉を行ない、それがすむと彼女を椅子にかけさせ、検事の尋問を促した。 「証人は、この被告人を知っていますか?」  立ち上がった岩田検事は、簡単に坪井カヨの経歴などを尋ねてから、訊いた。  知っている、とカヨが硬い表情で答えた。 「どういう関係ですか?」 「去年の十月末から今年の五月末まで、私は双葉派出婦会から派遣されて、週三回この方のお宅へ家政婦として伺っておりました」  坪井カヨは、四十六、七歳の小太りの女だった。八年前に夫を病気で亡くし、今は高校生の息子と二人で暮らしているらしい。祐子の話によると、陰日向なくきちんと仕事をする人間だという。 「では、辞められる直前の五月十五日、証人は被告人の家へ行っていますか?」 「伺っております」 「どうして、はっきり言えるのですか?」 「私は、西さんのお宅へ火、木、土……別のお宅へ月、水、金と伺っていたのですが、五月十五日は土曜日でした」 「その日、あなたは、被告人に電話を取り次ぎましたか?」 「はい」 「何度?」 「看護婦の石野祐子さんが帰られた後、一度だけです。たいていは、旦那さまか石野さんがお出になっていましたから」 「電話のかかってきた正確な時刻と、相手がなんて言ったか覚えていますか?」 「時刻は、夕方四時少し過ぎだったと思います。男の声で、工藤という者だが先生いるか、といきなり言われました」 「で、あなたはどうしたのですか?」 「患者さんにしては乱暴な口のきき方だなと思いながら、とにかく、二階の書斎まで旦那さまを呼びにまいりました」 「工藤から電話だ、とはっきり相手の名前を告げたのですね?」 「はい」 「そのとき、被告人は、どのような反応を示しましたか?」 「私は部屋の外におりましたので、よく分かりませんが、『工藤……?』と一度怪訝そうに訊き返され、それから慌てた様子でドアを開け、私の先に立って階段を降りて行かれました」 「電話のやり取りは、聞かなかったのですね?」 「私は、決して盗み聞きのようなことはいたしません」  カヨが、心持ち語調を強めて答えた。 「いや、これは別に証人の品性を疑っての質問ではないので、誤解のないように。もしかしたら偶然耳にされていないか、と思ったのですが、聞いておられなければ結構です」  こんなことでカヨの機嫌をそこねては大変……とばかりに、岩田は言い訳し、 「では、その日、証人は何時頃、被告人の家を出られたのですか?」 「いつもと同じ、六時少し過ぎです」 「当然、被告人に挨拶してから、帰られたわけですね?」 「はい」 「被告人はどこにいましたか?」 「診察室です。居間にも書斎にもいらっしゃらないので、離れの診察室まで行ってみたのです。すると、窓にはカーテンが下りていて、明かりが点いていませんでした。それで、私は一度戻りかけたのですが、念のためと思い直し、ドアを引くと、入口に背を向けた旦那さまが、テーブルに屈み込むような恰好で何やらしておられたんです」  利彦は、心の内でアッと叫んだ。坪井カヨがここまで証言するとは、予想していなかったからだ。 「ドアを開けて、被告人を見つけた証人は、どうしましたか?」  岩田検事は、自信に溢れた声で、質問を重ねた。もちろん、広一郎が睡眠薬を〈前もって準備した〉ことを立証しようとしているのだった。 「誰もいないと思っていましたので、びっくりして、『あ、すみません、帰らせていただこうと思いまして……』と、慌てて申しました」 「それに対し、被告人の方は?」 「やはり驚かれた様子で、『あ、いや、どうもご苦労さま。ちょっと調べものをしていたので、こっちこそすまなかった』と、言われました」 「テーブルの上には何があったのですか?」 「旦那さまが体で隠すようにされたので、見ていません」 「隠すようにした? ということは、故意に体を前に広げたわけですね?」 「そんなふうに見えました」 「言葉通り、調べものをしていたのなら、隠さなければならないものなどないはずですが、おかしいとは感じませんでしたか?」 「ちょっと感じました」 「もしかしたら、調べもの以外の別のことをしていたのではないか、と思ったんじゃありませんか?」 「異議あり!」  小池が言って、立ち上がった。「ただいまの質問は明らかに誘導尋問です。取り消していただきたいと思います」 「異議を認めます」  吉本裁判長がすぐに裁定した。「検察官、質問を変えるように」  岩田検事は裁判長に軽く頭を下げ、言われた通り、次のように質問を変えた。 「五月十五日の午後六時頃……証人が診察室へ入って行ったときですが、部屋は、何か読んだり、調べたりするのに、適当な明るさでしたか?」 「いえ、診察室は三方が外に面していて窓も多いのですが、カーテンが引かれていて、もうかなり薄暗かったと思います」 「それなのに、被告人は電灯も点けずに、テーブルに屈み込むようにして、何かをしていたのですね?」 「はい」 「その診察室に薬品棚はありますか?」 「ございます」 「尋問を終わります」  岩田検事は言って、ゆっくりと腰をおろした。  髭の濃い、黒い顔は、満足気だった。冒頭陳述の〈殺意をもっての睡眠薬の準備〉という主張に、有力な状況証拠を提出しえた、という自負があるからだろう。 「弁護人は、この証人に何か尋ねることがありますか?」  吉本裁判長が小池に訊いた。 「ございます」 「では、反対尋問を行なってください」  裁判長に促され、小池は検事の尋問中にメモしていた紙を見ながら、のっそりと立ち上がった。まだ、方針を頭の中で懸命になって検討している、といった感じである。  それは当然だ、と利彦は思う。国の組織と権力をバックにした検察官が、周到な準備のもとに行なった証人尋問に対し、弁護士は個人の力で、しかも即座に有効な反撃を加えなければならないのだから。 「五月十五日のことですが……」  と、小池が坪井カヨの方へ顔を向けて、尋問を始めた。「午後六時頃、あなたが診察室へ入って行ったとき、被告人はテーブルの上のものを体で隠すようにしたと言われましたが、具体的にいうと、どういう恰好をしたのですか?」 「何となく体を広げるようにして、テーブルの前に立ち塞がったのです」 「被告人は初め、ドアに背を向けて、テーブルに屈み込むようにしていたのですね?」 「はい」 「でしたら、そのまま体を起こして振り向けば、自然にあなたの言われたような恰好になるんじゃありませんか?」 「…………」 「いかがでしょう?」 「…………」 「証人は答えなさい」  カヨが困ったように黙りこんでしまったのを見て、裁判長が言った。 「そうかもしれません」 「すると、被告人は、必ずしもテーブルの上のものを隠そうとしたわけではないのですね?」 「異議があります」  岩田検事が立ち上がった。「弁護人は、自分の意見、推測を証人に強要しようとしており、尋問として不相当です」 「テーブルの上のものを隠そうとした、という先ほどの証人の証言こそ、単なる証人の意見、推測であり、それについて質すのは正当な権利です」  すかさず、小池が反論した。 「異議は却下しますが、弁護人も訊き方に注意するように」 「分かりました」  裁判長の裁定に小池は答え、 「それでは、被告人が体でテーブルの上のものを隠そうとした、と証人が感じた具体的な根拠を述べてください」 「…………」 「証人は、弁護人の質問に答えるように」  裁判長が促した。 「根拠、なんて……ありません」  カヨが不満そうに答えた。  そこで、小池が尋問を終えた。  予想外の坪井カヨの証言に対し、彼も一応の反撃をした。  だが、それでも、カヨに見られたとき〈広一郎は睡眠薬を準備していたにちがいない〉、という利彦の心証は崩れなかった。ということは、おそらく三人の判事たちも同じであろう。  吉本裁判長と左陪席の判事が二、三尋問すると、坪井カヨは放免され、次は佐々木巡査の証人尋問に移った。 2  冴子は、父広一郎に対する有罪判決が一歩一歩確実に近づいてくるのを感じていた。  広一郎は、三人の人間を殺している。冴子自身の手で殺そうとした男たち……母を死に追いやった、憎い、凶悪な男たち、である。それでも、法の下では平等なのだった。  このうえ、広一郎と志津の関係がつまびらかにされ、一宮の事件も今度の事件も結局は彼の過去の行為に起因している、と断じられたら、いったいどうなるのか。ひょっとして、死刑の判決が下るのではないだろうか。小池も利彦も、死刑には絶対にならないと言うが、冴子の胸の底には、単なる不安を越えた強い恐怖があった。  自分が行動を起こさなかったら、父は殺人など犯さずにすんだ。こんなところへ引き出されることもなかった。母の死に対する無念さは、生涯自分の中から消えることはなかっただろうが、少なくとも表面は平穏無事な生活がつづいていたはずである。毎日父と二人で食卓に向かい、大学へ行き、テニスをし、真吾と会い——。 〈真吾さん……〉  と、冴子は彼の顔を思い浮かべた。  もう十日以上会っていなかった。  真吾が自分から遠ざかろうとしているのを、今や冴子ははっきりと感じていた。認めざるをえなかった。博士論文の準備が忙しいといって、今日も姿を見せていない。たぶん、口実だろう。  悲しくはあったが、冴子は仕方のないことだと自分に言いきかせ、諦め始めていた。母の復讐を心に誓ったときから、こうした事態がくるのは覚悟していたのである。あのときを境に、冴子は真吾とは別の世界へ踏み込んだのだから。  真吾は陽の世界の人間だった。これから光の道を歩み出そうとしている人間だった。それに対し、冴子は、殺人者の父とともに奈落の底へ落ちて行こうとしているのである。こんな彼女が、真吾にとって邪魔にこそなれ、何の益するところがあるだろう。 「すると、証人がネガフィルムを焼き付けた写真を直接見せたのは、被告人、冴子、石野祐子の三人だったわけですか?」  佐々木に対する、岩田検事の尋問がつづいていた。去年の事件の翌朝のことを訊いているのだった。 「そうです」  きちんとネクタイを締めて黒っぽいスーツを着た佐々木が、多少しゃちほこばった感じで答えた。 「それで、三人とも、知らない女だと言った?」 「はい」 「被告人と冴子は、嘘をついていたわけですね?」 「そのときは分かりませんでしたが、写真の女が以前、西医院で看護婦をしていた大町志津という人だと聞いて、そう思いました」 「そのとき分からなかったということは、被告人と冴子の受け答えに、不自然さが感じられなかったのですか?」 「いえ、被告人は何かを必死で隠そうとしている感じでした。また、娘さんの方も、そうした父親の意に従おうとしているらしい様子が窺えました」 「だったら、証人は、なぜもっと追及しなかったのですか?」 「二人とも加害者ではなく、被害者ですから、あまりしつこく追及する気にはなれなかったのです」 「その後、被告人の妻の康代から何か言ってきましたか?」 「二、三日して、別荘で被告人たちに見せていた写真を送って欲しい、と電話がかかりました」  これは、先日の冒頭陳述で冴子が初めて知った事実である。これによって、元気になりかけていた母が急変した理由、さらには彼女の心が自殺へ傾いていった事情が呑み込めたのだった。 「証人はどうしましたか?」 「被告人が見せているはずなのに、おかしいな、と思いながら写真を送り、着いた頃、見知った人かどうか電話で尋ねました」 「被告人は証人に、康代に写真を見せた、と嘘をついていたわけですね?」 「そうです」 「証人の問いに対する、康代の返答は?」 「やはり知らない、ということでした」 「尋問を終わります」  岩田検事の尋問が終わった。  代わって、小池が立ち上がる。  このままだと、広一郎は都合の悪い志津との過去を必死で隠し、裏でそのセンから犯人たちを追っていた、という図式ができてしまいそうだった。  その図式の定着を小池が少しでも妨げてくれるのを願いながら、冴子は彼の尋問を待った。 「ただいま証人は——」  と、小池の太い声が短い沈黙を破った。 「頬にアザのある男を含む三人の男たちが殺害された、というテレビニュースを見て、すぐに去年秋の一宮の事件を思い出したと言われましたが、アザの男、あるいはその暴行事件は、それほど証人に強烈な印象を残していたのですか?」 「そうです」  佐々木がはっきりと答えた。 「理由はなぜでしょう?」 「実は、頬にアザのある男を含む三人組の婦女暴行事件に、三年前の夏、私は前任地にいたときにも多少関わりを持ったことがあったからです」 「アザの男を含む三人組による婦女暴行事件……少なくとも去年の一件は未遂だったわけですが……それが、過去に二度あった?」  小池が意外そうな声を出した。佐々木の答弁は、彼にとっても、予想外だったらしい。 「はい」 「それは……三年前の方ですが、どういう事件だったのですか?」 「異議があります」  岩田検事が遮った。「弁護人の質問は、明らかに主尋問に現われた事項とは無関係であり、反対尋問として逸脱しております」 「刑事訴訟規則第一九九条の四には、反対尋問は、主尋問に現われた事項及びこれに関連する事項について行なうとあり、逸脱しているとは思われません」  小池が反論した。 「それほど深く関連しているとは思えませんが、参考までに聞きたいので、証人は弁護人の質問に答えてください」  吉本裁判長が、婉曲に岩田検事の異議申立てをしりぞけた。 「はい」  と、佐々木が答えて話し出した。 「それは、三年前の八月初旬、花畑で有名な南房総の和田町で起きた事件でした。夜八時半頃、私が別の警官と二人で海岸を警らしていると、すぐ『花里』という民宿へ行くよう、無線の指示が入ったのです。たった今、民宿の近くの海岸でアベックが襲われ、女が車で連れ去られたらしい、というのです。  私たちは、『花里』へ急行しました。しかし、そこには、助けを求めて駈け込んできたという男は、すでにいませんでした。民宿の女主人が警察へ電話している間に、どこかへ行ってしまったのです。  そのため、詳しい事情は分からないのですが、女主人の話によると、被害者たちは車から降りて砂浜の方へ歩きかけたところを突然三人の男たちに取り囲まれ、男がナイフで脅されている間に女の方が車へ引きずり込まれたらしい、ということでした。助けを求めてきた男は、真っ青な顔をして唇を震わせていたが、背のすらりとした二十五、六歳の美男子で、犯人の一人の右頬に十円硬貨大の丸いアザがあった、と言ったそうです。  被害届はなく、犯人たちも捕まらず、事件はそれきりになってしまったのですが、去年一宮の事件が起きたとき、私は、真っ先にその件を思い出しました。そして、今度、アザの男を含む三人の男たちが殺されたと聞いたときも、去年の事件と一緒にこの三年前の事件を思い出したのです」 「なるほど。すると、証人は、過去の二件の暴行事件の加害者と今度の被害者がもしかしたら同一人ではないか、と思ったのですね?」 「そうです」 「こういう凶悪な男たちなら、誰かの恨みを買って殺されても不思議はない、ひょっとしたら誰かを脅して正当防衛といった形で殺されたのではないか。そんなふうに考えたんじゃありませんか?」 「そこまで具体的に考えたわけじゃありません。ただ、同一人なら、何かの理由で殺されても違和感……というか、不自然さがない、というような……」 「で、あなたは、しばらく迷った末、こちらの警察へ電話をかけ、過去の二つの事件について知らせたわけですね?」 「はい」 「ところが、こちらの警察は一宮の事件だけを取り上げ、和田の事件は黙殺した?」 「そのへんの事情は私には分かりませんが、調べたうえで無関係だと判断したんだと思います」  警察が和田の事件について調べたかどうかは分からないが、結局それは今度の事件と無関係だったのだ、と冴子は思った。工藤たちの命を狙っていたのは冴子自身であり、彼らを実際に殺したのは父の広一郎だったのだから——。 「今度は、去年の一宮の事件の翌朝のことをお尋ねします」  小池が質問を変えた。「先ほど証人は、被告人が何やら必死で押し隠そうとしているようだった、後で……というのは本事件が起きてからですが……それは、写真に写っていた大町志津についてだと分かった、と言われましたね?」 「はい」 「では、そう分かったとき、被告人が、なぜそれほど志津のことを隠そうとした、と証人は思いましたか?」 「自分の不都合な過去を知られたくなかったからだ、と思いました」 「それなら、被告人は、志津と自分との関係をすでに知っているはずの妻の康代に写真を見せなかったのは、なぜでしょう?」 「さあ……」 「康代は、かつて志津の自殺後に強度のノイローゼにかかっています。凶悪な犯人たちに襲われてまいっているその妻に、さらにショックを与えたくなかったためだとは、思いませんか?」 「そうだったかもしれません」 「もし、証人の示した写真が志津だ、と被告人か冴子が認めた場合、それが奥の部屋に寝ていた康代の耳に届いた可能性はいかがでしょう?」 「私たちのやりとりを聞いていて、後で私に写真を送ってくれるように電話してきたのですから、当然届いたと思われます」 「すると、志津の写真をその後も妻に見せなかった事情と考え合わせ、被告人は、自分の過去を知られたくなかったためというより、ただただ妻に志津の写真について知らせたくなかったために、必死で写真の人物を押し隠そうとしていた、とも考えられるのではありませんか?」 「そうですね」  小池が佐々木に頭を下げ、尋問の終了を裁判長に告げた。  つづいて、岩田検事の尋問(再主尋問と言うらしい)がもう一度あったが、その間中、冴子は小池の尋問について考えていた。  彼女にもよく分からなかった。父が志津の写真について隠そうとしたのは、母のためだったのか、父自身のためだったのか。  やがて、佐々木がしりぞき、代わって比留間という池袋署の元巡査部長が証人台に進み出た。 3 「証人が、被告人に最初に会われたのは、いつですか?」  裁判長による形式的な質問と告知がすむと、岩田検事が尋問に入った。 「日にちまでは覚えておりませんが、今から十七年前、昭和三十×年の二月です」  証人台の椅子にかけた比留間が、検事の方へ眼鏡をかけた顔を向けて、心持ち緊張した声で答えた。  しらが混じりの髪を短く刈り上げた、六十代半ばの小柄な男だった。眼鏡の縁から覗いている、やはり白いものの混じった眉毛が濃く、長く、それが何となく頑固者といった印象を与えていた。  もしかしたら冴子は会ったことがあるのかもしれないが、当然、記憶に残っていなかった。 「どういう事情で会われたのですか?」 「当時、私は池袋署の刑事課に勤務していたのですが、被告人が、自分の医院で看護婦をしている大町志津という女が死んでいる、と通報してきたのです。そこで、同僚と一緒に現場の大町志津のアパートへ駈けつけ、被告人と面識を持ちました」 「現場の状況、遺体発見の模様などを簡単に話していただけませんか?」 「現場は、北池袋の被告人の医院から歩いて十分ほどのアパートの一階です。大町志津は自室の六畳の和室に敷いた布団の中に横たわり、毒物を飲んで死んでいました。その日、定時を過ぎても医院に出勤してこないため、被告人が別の看護婦に様子を見に遣り、発見したのです。ドアには鍵がかかっていなかったそうですが、部屋にはまったく乱れたところが見られず、机の引出しに母親宛の自筆の遺書があったため、我々は自殺と判断して、遺体を行政解剖に付しました。その結果、毒物は被告人の医院から持ち出したらしいストリキニーネ、それを飲んだのは前夜の十一時頃と判明しました」 「遺書はどうしたのですか?」 「念のために筆跡鑑定をし、大町志津本人が書いたものに間違いないと分かってから、群馬県から上京した彼女の母親に渡しました」 「母親は一人で出てきたのですか?」 「そうです。志津の父親はすでに亡く、彼女には兄弟もいない、という話でした」 「母親は、上京後どこに泊まっていたのですか?」 「彼女の友達の家です」 「親類ではないんですね?」 「親類ではないが、それ以上の深い付き合いをしていると言っていたような気がします」 「場所、あるいは苗字は分かりますか?」 「連絡場所として聞いたはずですが、都内だったということしか覚えていません」 「もしかしたら、工藤という苗字じゃなかったですか?」 「さあ……。当時の手帳などを引っぱり出して調べてみたのですが、それらしいメモはどこにもないんです」 「では、また遺書に戻りますが、証人がそれを志津の母親に渡したとき、彼女の示した反応はどのようなものでしたか?」 「気丈な、しっかりした女性でしたが、読み出すや、涙をぼろぼろ流し、傍らにいた被告人に、『畜生、畜生、おまえたちが志津を殺したんだ、この人殺し、志津を返せ、志津を返せ!』と、殴りかかっていきました」 「被告人はどうしましたか?」 「黙ってうつむき、されるがままになっていたような気がします」 「大町志津の母親は、確かに『おまえたちが志津を殺したんだ』と言ったんですね?」 「はい」 「証人は、その遺書を読みましたか?」 「読みました」 「内容を覚えていますか?」 「細かい点は忘れましたが、おおよそでしたら……」 「どういう内容でしょう?」 「自分は……大町志津ですが……被告人に半ば暴力的に犯され、情交関係を持つようになった。それなのに、二人の関係が妻に知れるや、自分から誘いかけたように被告人に言われ、彼の妻から激しく責められ、罵られた。悔しいが、非力な自分にはどうすることもできないので、抗議の意を込めて死を選ぶ。こんな内容だったと記憶しています」 「すると、母親の言った『志津を殺したおまえたち』というのは、被告人と妻の康代だったわけですね?」 「そうだと思います」 「遺書は、その後どうしましたか?」 「母親が持ち帰りました」 「では、彼女が泊まっていた親類以上の付き合いをしていた友人の家族……もし、そこに息子がいれば、彼もその遺書を読む機会があった、ということになりますね?」 「志津の母親が見せれば、当然そういうことになります」 「尋問を終わります」  岩田検事が言って、着席した。  冴子は、しばし呆然としていた。  志津の死の真相について、初めて具体的に知らされたのである。検事の冒頭陳述で、父と母と志津のだいたいの関係は示されていたとはいえ、十七年前の志津の自殺の現場に立ち会った人間の証言は、やはり生々しく、ショックであった。  小池の反対尋問が始まった。  冴子は、そのやりとりを聞きながら、工藤は志津の弟だったのだろうか……と考えていた。証拠がないので検事は断定しなかったが、もしそうなら、志津の自殺、一宮の事件、母の自殺、そして今度の事件と、すべて父広一郎の十七年前の「卑劣な行為」に原因していることになってしまうのだった。  たとえいかなる理由、事情があろうとも、母を死に追いやった犯人たちを許せない、と冴子は思う。だから、自分の代わりに彼らを殺してくれた父をとがめだてする気は、ない。父を現在の状況に追い込んでしまった、という自責の念と後悔を感じながら、気持ちの別の部分で父の行為に感謝している。  とはいえ、比留間の証言を聞いた今、冴子の中で、父広一郎の像は微妙に変化し始めていた。それは、父娘の情愛を離れた、男としての父親に対する不信感のせいといえるかもしれなかった。父の刑を何とか軽くしたい、父を救いたい。そう思う一方で、志津に対する父の仕打ちは許せない、という気持ちが徐々に彼女の胸にふくらんでいたのだ。 「証人は、その志津の遺書の内容が事実かどうか、被告人に質しましたか?」  小池が訊いた。 「もちろん質しました」  比留間が答えた。 「被告人は、どう答えましたか?」 「大町志津と情交関係にあった事実は認めましたが、半ば無理やり犯したという点、妻の罵倒云々という点については、根も葉もない志津の作り話だと否定しました」 「では、大町志津の自殺の動機については、何と言いましたか?」 「被告人が別れ話をもちかけたので、その嫌がらせに、あんな出鱈目《でたらめ》な遺書を残して自殺したのではないか、と申しました」 「それを聞いて、証人は、どう思いましたか?」 「嘘だと思いました」 「被告人の妻にも、事情を訊きましたか?」 「訊きました」 「彼女の説明は?」 「夫と大町志津の関係など、今まで全然知らなかったと……」 「証人は、どちらを信じましたか?」 「死をもって抗議した人間の、遺書の方を、信じました。死人に口無しで、生きている人間は、どうにでも都合のいいように言いつくろうことができますから」 「確かにそれも一つの真理ですが、己れの犯した罪を言い逃れするのに都合のいい一方的な文書、つまり遺書を残して自殺し、自分を警察の不当な取調べの被害者に仕立てる犯罪者がいるのも、ご存じですか?」 「そうした例にぶつかった経験はありませんが、新聞などで読んだことはございます」 「では、死者すべて正しからず、遺書すべて正しからず……だとは思いませんか?」 「しかし、あの場合は、やはり遺書の方が正しかったと思います」 「その具体的な根拠は?」 「…………」 「だいたい、あなたは、大町志津という女性について少しでも知っているんですか?」 「…………」 「結構です、尋問を終わります」  心持ち語気を荒くした小池が、比留間が返答に詰まったのを見て、尋問を打ち切った。  冴子は、分からなくなっていた。志津の遺書と父母の証言の、どちらが果たして正しかったのか。  ただ、たとえ遺書の内容に嘘が含まれていたとしても、一度彼女の中に生まれた父広一郎に対する不信感、母をだまして志津と情交を重ねていた彼に対する嫌悪感は、消えなかった。  冴子の脳裏に、十七年前の病室での光景がよみがえった。冴子が夢うつつのたゆたいの中にいた、あの冬の午後のことである。  強い怒りのこもった「出て行け!」という父の声。  志津のふてぶてしい薄ら笑い。  あれこそ、汚ならしい関係をつづけてきた男女の別れ話の場、憎み合いの場だったのではないだろうか。そして、母は、それをドアの外で聞いていたのではないだろうか。  第七章 転回 1  夏が終わろうという八月最後の日、利彦は、東北本線の車中にいた。上りの特急「ひばり四号」である。郡山で彼が乗ってしばらくすると、列車は徐行運転になり、すでに四十分以上遅れていた。前の急行「八甲田」に、架線事故があったからだ。  利彦は参考書を読むのをやめ、目を閉じたり、窓の外の景色を見たりしていたが、どうにも落ちつかない。もう一時間早起きして、前の「ひばり二号」にすればよかった、と何度も悔んだ。  八月三十一日、火曜日——。  広一郎に対する三回目の公判が開かれる日だった。第二回目との間が長く空いたのは、七月から八月にかけて、判事たちが夏休みを取るためである。  今日の審理の開始は、午後一時から。  利彦は、それに十分に間に合うつもりで、「ひばり四号」に乗った。時刻表通りなら、列車は十一時少し過ぎに上野に着く。上野から八王子駅まで、約一時間十分。遅くとも、開廷の十四、五分前には法廷に入れる、と計算して。  ところが、予想外の事故にぶつかり、そろそろ大宮に着かなければならない頃だというのに、列車はやっと宇都宮を出たばかりなのだった。  利彦が、福島県郡山市の在にある友人の家へ行ったのは、三日前の土曜日の朝である。司法試験の勉強会の合宿が、仲間の一人の家の離れを借りて行なわれたのだ。  勉強会は、主として来年の試験に向けてのものだった。だから、すぐ後に論文試験の発表を控えた利彦には、あまり気乗りしない合宿だったのだが、今年合格するという保証もないため、前半だけ出席したのである。  焦っても仕方がないので、利彦は裁判の行方について考え始めた。  今日の予定は、被告人質問だった。  被告人が任意に供述する場合、判事、検事、弁護人はいつでも彼に質問できる、と刑事訴訟法には定められている。だが、実際は、それは、すべての証拠調べがすんだ後で行なわれるのがふつうである。それなのに、早々に今日が被告人質問と決まった裏には、弁護側にとって有力な証人がいない、という事情が関係していた。それと見て、検事は、自分の側にも最早《もはや》証人の要なしと判断し、一気に決着をつけてしまおうと考えたらしい。一方、小池は小池で、それなら冴子や祐子などの情状証人を呼ぶ前に、被告人本人の口から事実関係をはっきりさせよう、と検事の挑戦を受けたのであった。  事実関係といっても、だいたいこの裁判には、殺害の事実そのものをめぐっての対立はない。被告・弁護側は初めからそれを認め、計画性の有無と動機の面だけで争い、刑の減軽を図ろうとしているにすぎない。  だから、検察側にとっては、比較的、気楽な裁判であると言える。たとえ殺人の計画性が否定されたところで、決定的な敗北、つまり、殺人罪がひっくり返る可能性は、九九・九九パーセント考えられないからだ。  現在、小池は、大久保調査事務所という探偵社を使い、工藤の過去を徹底的に洗っていた。彼が志津の弟でないことを願い、もし弟でないなら、それを裏づける事実を掴むためである。  また、それと並行し、広一郎と冴子に対しては、何か隠しているなら、ぜひ早く真実を打ち明けてくれるよう、繰り返し申し入れていた。それが聞ければ、新しい局面を切り開くことができるかもしれないから、と。  しかし、そうした小池の考えを聞かされても、利彦は悲観的だった。たとえ工藤が志津の弟ではないと立証できたところで、殺人そのものには関係がないだろうし、広一郎か冴子が、隠している何か(もちろん、そんなものがあったとして)を打ち明けたところで、それが広一郎の有罪を覆すことができるとは思えなかったからだ。  広一郎が逮捕された当初、もしかしたら彼は冴子を庇《かば》い、彼女の罪を代わりに被《かぶ》ろうとしているのではないか、と利彦は疑ったことがある。それで、冴子に厳重に口止めしているのではないか、と。  だが、冴子の態度、様子を見ていて、そんなことはありえない、とじきに結論せざるをえなかった。  あれこれ考えているうちに、列車は、ようやく上野に着いた。  時刻は、十一時五十一分。  利彦は、ドアが開くのと同時に外に飛び出し、山手線のホームへ走った。  山手線、中央線特別快速と乗り継ぎ、八王子駅に着いたのは十二時五十八分。  バッグを抱えて走り、法廷には一時五分、判事たちの登場と同時にすべり込んだ。  最前列の右端には、祐子と冴子に並んで木島真吾がいたので、利彦はその後ろの席に立った。荒い呼吸を繰り返しながら礼をし、着席する。  真吾は無視したが、冴子と祐子が振り向いて、ご苦労さま、と目顔でねぎらった。  その冴子と祐子の顔が、これまで以上に強張っている。  利彦は瞬間的にそう感じた。しかも、冴子のその強張りの底には、微かに明るい興奮の色が差していたようだった。  自分が東京を留守にしていたこの三日の間に、何かがあったのか、と利彦は思う。それとも、冴子の変化は、真吾が横にいるせいか……。  ふっと、彼は、前に座っている肩幅の広い男に嫉妬を覚えた。 「被告人、前へ出なさい」  裁判長の言葉に、広一郎が立ち上がり、証人台へ進み出た。  吉本裁判長が、公判初日の罪状認否の前に行なった〈黙秘権の告知〉を繰り返す。 「では、検察官、質問を始めてください」  彼は、広一郎に椅子にかけるように告げずに、検事に言った。 「承知しました」  岩田検事が勢いよく立ち上がった。全身から、今日の被告人質問にかける意気込みが感じられた。  一方、広一郎の方も、背筋を真っすぐ伸ばし、心持ち仰向けた顔を正面の裁判長にひたと当てて立っていた。肩のあたりに、これまで見られなかった力がこもっているようだった。  冴子のさっきの表情といい、広一郎のどことなくリンとした態度、様子といい、やはり自分が東京にいない間に何かの変化があったのだろうか。 「本年五月十五日午後六時頃、被告人は自宅離れの診察室へ行ったね?」  利彦が考えている間もなく、岩田検事が挑むような視線を広一郎の横顔に当てて、訊いた。 「まいりました」  広一郎が、首だけ彼の方へ向けて答えた。 「そこにいた時間は?」 「はっきりとは覚えていませんが、七、八分はいたと思います」 「被告人が診察室にいた間に、家政婦の坪井カヨがドアを開け、顔を覗かせたね?」 「はい」 「電灯は点いていたのか?」 「いいえ」 「カーテンは?」 「引いてありました」 「じゃ、かなり薄暗かったわけだ?」 「そうだったかもしれません」 「坪井カヨに、ちょっと調べものをしていると言ったそうだが、そんな薄暗いところで何を調べていたのかね?」 「調べもの、というのは嘘で、実は別のことをしておりました」 「嘘! 認めるのか?」 「はい」 「では、何をしていた?」 「薬品棚から箱をおろし、アトロピンを取り出していました」  広一郎が、よどみなく答えた。  利彦は、ようやく落ちつきかけた心臓が再び騒ぎ出すのを感じた。  吉本裁判長も一瞬怪訝そうな表情を浮かべて、弁護人席を窺った。  が、小池は、目を閉じて平然と座っていた。 「アトロピンというのは、どういう薬なんだ?」  岩田検事が、明らかに戸惑いの色を押し隠し、怒った声で言った。 「主に虹彩炎などの治療に使われる、非常に毒性の強い薬物です」 「何のためにそれを取り出していたのか、説明したまえ」 「もしかしたら工藤たち三人を殺すことになるかもしれない、と思い、その準備をしていたのです」  広一郎が答え、廷内から物音が消えた。  気負い立っていた岩田検事も、何がなんだか事情が呑み込めないらしく、立ったまま沈黙した。  すると、それを待っていたように、 「裁判長」  と、小池が腰を上げた。「検察官の尋問の途中ですが、ここで改めて、裁判長から先に、被告人の意見を訊いていただきたいと思います。被告人は、前の陳述を訂正し、すべての事実を包み隠さず明らかにするつもりでおります」 「それは、初めの罪状認否の段階で述べたことを否定する、という意味ですか?」  吉本裁判長が小池に訊いた。 「そうです」 「この法廷で述べたこと、述べることは、有利、不利にかかわらず、すべて証拠として採用される、という意味を被告人は理解しているのですか?」 「もちろん理解しています。初めに罪を認めておきながら途中でそれを翻《ひるがえ》すことが、どんなに不利に作用するか、という点も、被告人ならびに弁護人は十分承知しております」 「検察官、ただいまの弁護人の申し出について、何か意見がありますか?」  裁判長が、岩田検事に顔を向けて訊いた。 「弁護人の要求は、ただやたらに審理を混乱させ、長びかせようとするもの、としか考えられません」 「では、反対なわけですね?」 「いえ、反対とは申しません。被告人の供述の後に質問の継続が約束されるのでしたら、しかるべく」  岩田検事が、ぶすっとした顔で言って、腰をおろした。  一応いちゃもんをつけたものの、彼だって広一郎の話を先に聞きたいにちがいない。さもないと、闇の中を手探りで進まなければならないからだ。  起訴される前、警察と検察の取調べで罪を自白しながら、公判が始まると、一転して無罪を主張する——というのは、かなり多く見られるパターンである。だが、裁判が始まり、罪状認否のとき殺人をはっきり認めた被告人が、途中でそれを翻したという例は、それほど多くないはずである。その稀《まれ》な例を、今、小池と広一郎は一つ増やそうとしているらしい。  そう思うと、自分のいなかった僅《わず》か三日の間に、いったいいかなる展開があったのか、と利彦は強い興味と興奮にとらえられた。  左右の陪席判事と交互に相談していた吉本裁判長が、正面に顔を戻した。どうするか、協議の結果が出たらしい。 「それでは、検察官の質問の前に、被告人は言いたいことがあったら申し述べなさい」  彼は、言った。 2  父広一郎の供述を聞きながら、冴子は三日前、土曜日の出来事を思い浮かべていた。  祐子と二人、昼食の準備を始めたとき、小池から電話がかかり、二人一緒に至急事務所へ来てくれ、と有無を言わさぬ調子で言われたのである。  言われた通り、二人は食事を後にして、すぐに車で中央線国分寺駅前の彼の事務所へ向かった。  事務所は、三階建てビルの二階である。冴子たちが入って行くと、小池と共同で事務所を開いている今野は外出中らしく、部屋にいたのは、小池と事務員の磯村喜美江の二人だけだった。  ——さっき、向田久子に会ってきた。  衝立で仕切られただけの応接室へ通すなり、いきなり小池が言った。  思わず、冴子はソファに腰をおろしかけた動作を止めた。  傍らの祐子の顔も、一瞬、強張ったようである。  ——冴子さん、今日はすべてを話していただけますね? さもないと、僕はお父さんの弁護人をこのままつづけてゆくことができない。  小池の表情と話しぶりには、いつになく厳しいものが感じられた。そして彼は、「でも先生……」と言いかけた祐子の言葉さえ、  ——あなたも知っていたんですね。  と、少し残念そうな、非難の響きがこもった声で遮った。  ——いえ、祐子さんは何も知りません。  冴子は言った。  ——祐子さんと向田さんには、父が無理に頼んで、私の偽アリバイの証人になってもらっただけなんです。そんな必要もなかったんですが、父は、私を事件に巻き込みたくなかったんです。それで、私にあの晩のアリバイがないのを知ると、詳しいことは何一つ尋ねず、祐子さんに……そして、祐子さんだけでは警察が信用しないかもしれないからと、向田さんにも、一緒にいたと口裏を合わせてくれるよう、お願いしたんです。  ——確かに、私は詳しい事情は知りませんでした。でも、冴子さんが事件に関係のないことだけは、すぐに信じました。それで、先生に「頼む」と言われ……あの晩、私は独りでアパートのお部屋にいたんですけど……向田さんと三人でいたことにし、口裏を合わせたんです。今まで、小池先生にお話ししなかったのは、私がお話しすれば、冴子さんのためを思ってした先生を裏切ることになってしまいますし……いえ、それだけじゃなく、お話ししても、裁判にそれほど良い変化を与えるはずもない、と素人考えで思っていたからなんです。  ——ええ、私もそう思いました。  ——良い変化を与えない?  小池が言った。  ——そういう勝手な判断は困るんです。西さんの弁護に役立つかどうか、役立たせられるかどうかは、専門家の僕に任せ、とにかく話して欲しかった。  ——申し訳ありませんでした。  ——すみません……。  祐子につづいて、冴子も謝った。  だが、内心、自分の知っている事実を小池に話したところで、裁判の結果にどれほどの影響を与えられるだろうか、と彼女はまだ懐疑的だった。広一郎は、はっきりと三人の殺害を認めているのである。冴子の知っている事実から見ると時間的におかしな点はあるものの、あの晩、彼が工藤の部屋へ行ったことは、現場に落ちていたハンカチ、小料理屋の仲居の目撃からも明白なのである。  冴子がその疑問を口にすると、  ——では、冴子さんは、お父さんの口から三人を殺した、とはっきり打ち明けられたのですか?  と、小池が訊いた。  ——いえ。私は恐くて、とても父に問い質す勇気なんかありませんでしたし、父からも何も言い出しませんでした。  ——あなたの偽アリバイを確保するについては、何て言われたんです?  ——いずれ警察が調べにくるにちがいないが、お前はあくまでも祐子さんの部屋にいたと言い張るんだ、いいかって。それで、私は、父が犯人で、私を巻き添えにしまいとしているのだな……と思ったんです。  ——お父さんは冴子さんが犯人だと考え、身代わりになろうとした、とは思わなかったんですか?  ——私の身代わりに? でも、私は三人を殺してなんか……。  ——ええ、でも、冴子さんが三人に接近しているのを気づいていたお父さんが、そう勝手に思い込んだ可能性はあるでしょう。  ——しかし、私でも父でもないとしたら、三人は誰に殺されたんですか? そんなこと、ありうるでしょうか?  ——工藤たち三人は、かなり悪を重ねてきた奴らなんですよ。あなたがたの他に奴らを憎んでいた者がいたとしても、不思議じゃないでしょう。  ——そ、それじゃ、父は……?  冴子は声がかすれた。広一郎の逮捕以来、冴子の胸に初めてほのかな希望の光が灯《とも》ったのだった。もしかしたら、もしかしたら、父は殺人犯人ではないかもしれない……。  ——そうです、無実の可能性だってあるのです。あの晩、工藤の部屋を訪ねているのだけは事実のようですし、その点は引っ掛かりますが……。もちろん、僕は、月曜日の午前中に面会し、質してみます。ですから、その前に、偽アリバイを作らなければならなかった冴子さんのあの晩の所在について、話してもらいたいんです。  磯村喜美江がコーヒーを運んできた。  冴子は、それで喉を湿しながら、五月十五日の夜の行動を詳しく語った。  ——何か隠しているんじゃないか、と思ったが、まさかそこまでは僕も想像できなかった。こんな重大な事実を、なぜ、もっと早く話してくれなかったんです?  十五日の夜〈冴子も工藤の部屋を訪ねた〉という事実を打ち明けると、小池が驚きの色を目に浮かべて、言った。  ——すみません。でも、さっき言ったように……。  ——まあ、僕が鈍かったんだから仕方がない。それより、冴子さんの話をまとめてみますから、もし付け加えたり、訂正したりすることがあったら、言ってください。  小池が冴子の言葉を遮って、メモに目をおとし、  ——まず、あの晩、工藤たち三人が彼の部屋に集まることは、数日前、山野辺の口からそれとなく聞き出していた。そこで、あらかじめ木島君のいる研究室から盗み出しておいた青酸カリをウイスキーに混入し、それを持って〈九時四十分頃〉工藤の部屋を訪れた。山野辺を迎えにきたという口実で彼らの仲間に入り、手土産のウイスキーを飲ませて殺害するつもりだった。ところが、ドアをノックしても応答がなく、ノブを引くと、ガスの臭いがして、部屋の中央に置かれたテーブルの周りに、三人が倒れていた。  あなたは、彼らを殺すために来たはずなのに、それを見て、ただもうびっくりし、ドアを閉めて一目散に逃げ出した。そして、市谷のマンションへ帰り、青酸カリ入りのウイスキーはトイレに空けて処分した。  あなたが工藤の部屋を覗いたとき、中には電灯が点き、窓は完全に閉まっていた。ノブの指紋を拭いた覚えはない。  以上ですが、おかしな点がありますか?  小池がメモから顔を上げて、訊いた。  ——いえ、その通りです。  ——工藤の部屋へ行ったのが、九時四十分頃だというのは、間違いありませんね?  ——はい。  ——だったら、これでもう、九時少し前に工藤の部屋へ行き、二十分頃睡眠薬を飲ませ、〈十時頃ガス栓を開いて部屋を出た〉というお父さんの供述と合わないでしょう。変だと思わなかったのですか?  ——時間的にはおかしい、と感じましたけど、他に犯人のいる可能性なんて、全然、頭に浮かばなかったんです。ですから、父の記憶違いじゃないかと……。  ——記憶違いどころじゃなく、完全に創作していたんです。もしかしたら、西さんは、冴子さんが工藤の部屋を訪ねたのを知っていたのかもしれない。それで、あなたが犯人だと、頭から思い込んでしまったのかもしれない……。  そのとき、小池は想像でそう言ったが、やがて、広一郎の告白により、その通りの事実であったことが分かったのだった。 3  利彦にとって、広一郎の供述はまさに驚くべき内容だった。  いや、利彦だけでなく、それは、判事や検事にとっても、まったく意外なものだったろう。  広一郎は、五月十五日工藤の呼び出し電話を受けて確かに彼の部屋へ行った、と改めて明言した。殺人予備罪に問われるくらいは覚悟のうえであろう、自宅診察室から毒薬を持ち出した事実も認めて。  しかし、準備した薬は睡眠薬ではなく、工藤の部屋へ行った時刻も、検事が冒頭陳述で述べた八時五十分頃より一時間遅い、九時五十分頃だという。工藤の電話は、冒頭陳述の〈九時頃来い〉というものではなく、〈十時頃来い〉というものだったので、その少し前に着くように行った——。  そのとき、広一郎は、吉祥寺駅で、自分の降りた上り電車に冴子そっくりの女が慌てて乗り込むのを目撃した。それで、もしかしたら冴子も工藤の部屋へ来て、何かしたのではないか……と不安に駆られながら井ノ頭ハイムへ急いだ。すると、案の定、部屋にはガスが充満し、テーブルの周りに三人の男たちが倒れていたのだった。  彼は、部屋へ飛び込むと、まずガス栓を止め、窓を開けた。念頭には、冴子を殺人者にしてはならない、という思いしかなかった。毒薬を持参した自らの決意など忘れ、医師の目で三人を診た。  三人とも、まだ生きていた。  このまま放置すれば、元通り元気になるにちがいない。そう思い、自分と冴子が触った可能性のある場所をかたっぱしからハンカチで拭いた。こうして、アパートを出たとき、路地で「トン吉」の仲居・藤代アヤと顔を合わせてしまったのだった。 「家に着く直前、ハンカチを落としてきたことに気づきました。ですが、すでに目を覚ましている者がいるかもしれず、また誰かに見られるかもしれない危険を考えると、結局取りに引き返すことができませんでした」  広一郎の真剣に訴えかける声は、シンと静まりかえった法廷に響きつづけた。  三人の判事たちは、ほとんど表情を動かさず、じっと彼の顔に目を向け、話を聞いている。  それに比べ、岩田検事の顔は、不機嫌そのものといった表情に変わっていた。目には、怒りの色がふくらんでいる。その怒りの大部分は、もちろん、今になって突然前言を翻した広一郎に対して向けられたものだろう。が、そこには、ちょっと突っ込めば嘘と分かる冴子のアリバイを鵜呑《うのみ》にし、きちんと裏を取らなかった警察と(検察庁の)捜査部の甘さに対する怒りも、多少混じっているように見えなくもなかった。さらには、被告人が殺人を認めた簡明な事件と見て、無意識のうちに気をゆるめていた、己れに対する怒りと腹立たしさも……。  広一郎が果たしてすべて真実を語っているのかどうか、利彦にも、まだ判断がつかなかった。少なくとも冴子に関する部分は事実だろうし、他の部分もそう信じたかったが。  ただ、いずれにしろ、これで裁判の争点が殺人に対して有罪か無罪か、というところに移った点だけは確かであった。つまり、検事は、広一郎が工藤の部屋へ行ったという事実だけでなく〈彼がガス栓を開いた〉ということを立証しなければならなくなったのであり、弁護側は、広一郎の供述に傍証を用意しなければならなくなったのである。  日本の現在の裁判は、事実の認定は、証拠によらなければならない(証拠裁判主義)。疑わしきは被告人の利益に——という原則もある。そうした点から見ると、起訴事実に関して挙証責任を負っている検察側に不利になったことは否めない。  だが、証拠裁判主義に並んで、刑事訴訟法には、〈自由心証主義〉の規定もある。すなわち、証拠の証明力に関しては、裁判官の自由な判断に任されている。だから、たとえ、広一郎が工藤たち三人を殺したという直接の証拠がなくても、他の状況証拠からそう見るのが妥当である、と判事たちが判断する可能性は十分あり、被告・弁護側としては、それを阻止するために全力をあげなければならないのである。 「——以上のような事実を、私が初めの罪状認否のときに述べなかったのは、すべて、娘の冴子を思う誤った親心からでした」  広一郎はつづけた。 「私の閉めたガスコックがまた開かれ、開けたはずの窓がまた閉められていた——。朝のニュースでこの事実を知ったとき、私には、吉祥寺駅で見かけた冴子が途中で何かの手抜かりに気づいて引き返した、としか考えられなかったのです。他の可能性など、頭をかすめもしませんでした。ですから、事実を冴子に確かめてみることさえせず……というより、何か言いたそうな娘に『何も言うな』と話すことを禁じ、偽アリバイ工作をし、いざとなったら私自身が娘の身代わりになろう、と勝手に決めてしまったのです。  ところが、昨日、私は冴子の無実を弁護士さんから知らされました。冴子が十五日の晩九時四十分頃工藤の部屋へ行ったのは事実だそうですが、そのとき、すでにガスコックは開かれていたのです。それで、ただ夢中でアパートを逃げ出し、二度と戻ることなく、市谷のマンションへ帰ったのだそうであります。  ——以上、すべて真実を申し上げましたが、これまでそれを隠していて、ご迷惑をおかけしたこと、深くお詫びいたします」  広一郎がようやく話を終わり、裁判長に向かって頭を下げた。  今、広一郎は一方的に話しつづけたが、刑事訴訟法の決まりのうえからは、裁判長の質問に答え、任意の供述をしたことになるのである。 「では……」  と、吉本裁判長が軽く咳払いしてから言った。 「被告人は、起訴状に述べられた公訴事実について、改めて、無罪を主張するわけですね?」 「そうです」 「弁護人の意見は、いかがですか?」 「被告人とまったく同じ意見であります」  小池がちょっと腰を浮かして答えた。 「それでは——」  裁判長が検事に首を回し、「検察官は、被告人に対する、先ほどの質問をつづけてください」  岩田検事が、顔に怒りの色をあらわにして立ち上がった。そして、胸の忿懣《ふんまん》を広一郎に叩きつけるように、言った。 「被告人は、裁判の進行が自分に不利と見るや、根も葉もない作り話を、でっち上げたのではないのか?」 「作り話ではありません」 「五月十五日の夜、工藤の部屋へ行った被告人も冴子も、三人を殺していない? それなら、誰が殺したんだ?」 「分かりません」 「同じ晩、三人の人間が工藤たちを殺す目的で彼の部屋を訪れた? こんな話が、信じられると思うかね?」 「私自身も、冴子が無実だと弁護士さんに聞いたとき、初め信じられない思いでした。でも、事実なんです」 「あんたは、頭から冴子が犯人だと信じ込んでしまったと言ったが、なぜ一言、問い質さなかった?」 「娘の口から殺人を告白されるのが、恐かったんです」 「恐い? 頭から犯人と信じ込んでいたはずなのに、矛盾しとるじゃないか」 「確かにそうかもしれません。ですが、一度娘の口からはっきり聞いてしまったら、もう隠しおおせないような気がして、本当に恐かったんです。それで……娘の方は私を疑っていて質したかったらしいのに……何も言うな、と頭から口を封じてしまったんです」 「それでは、被告人は、初めに進んで認めた工藤ら三人の殺害を、あくまで否認するんだな?」 「はい」 「被告人が工藤の部屋を訪ねたのは、八時五十分ではなく、九時五十分だった。そのとき、部屋にはガスが充満し、すでに三人は倒れていた。そこで、急いでガス栓を閉め、窓を開けた。こう主張するんだね?」 「そうです」 「すると、非常におかしなことが、少なくとも一つ出てくる。工藤の部屋の階下に住んでいる森隆二は、あんたが窓を開けたと主張している十時頃、窓の閉まる音を聞いた、とはっきり述べているんだ。この矛盾をどう説明する?」 「窓の開け閉《た》てなど、音だけでは判別できないと思いますが」 「いや、工藤の部屋の窓は片側だけ立て付けが悪く、開けるときは決してガラガラ、ピシッという音はしない。ところが、森隆二は、事件の晩十時頃、ピシッと窓枠と柱のぶつかる音をはっきり耳にした、と言っておる。これでも、被告人は、自分の嘘を認めないつもりかね?」 「嘘じゃありません。森という人の真意が分かりませんが、私は、確かに窓を開けたのです。それから三人が生きているのを確認して、アパートを出たのです」 「では、なぜ指紋を消した?」 「後で自分と冴子が警察に調べられては面倒になる、と考えたからです」 「おかしな話だ。あんたは、医師の目で工藤ら三人の生存を確認した。それなら、彼らは、死ぬことはありえないし、当然警察に調べられることもありえない。それなのに、どうして、指紋を消す必要がある?」 「きっと気が動転していたんだと思います」 「またまた妙だ。気が動転していたのなら、指紋になど気が回らないのがふつうじゃないのかね?」 「分かりません。自分にも、そのときの行動がよく説明ができません」 「都合の悪いことは、説明できないと言って逃げるわけか」 「本当です。さっき述べたことは、すべて事実なんです」 「質問を終わります」  岩田検事が言って、腰をおろした。  広一郎の供述の不自然な点、矛盾する点を突いて、少しは溜飲を下げたような顔になっていた。まだ彼は今後の方針が立たず、かなり戸惑っているはずなのだが、今日のところは、とりあえず広一郎の供述の信用度を減殺《げんさい》できれば良し、としたのであろう。 「弁護人は、被告人に、何か尋ねることがありますか?」  吉本裁判長が、小池に訊いた。 「一点だけございます」  小池が立ち上がり、広一郎に柔らかな眼差しを向けて問いかけた。 「五月十五日午後十時頃、工藤の部屋の窓を開けるとき、あなたは、それを勢いよく開けましたか? それとも、静かに開けましたか?」 「よく覚えていませんが、慌てていましたので、必要以上の力を入れて勢いよく開けたのではないかと思います」 「これで質問を終わりますが——」  小池が裁判長の方へ視線を移し、「ついては、ここに工藤の部屋の階下の住人、森隆二の証人尋問を請求いたします」 「今、ここで、という意味ですか?」  裁判長が訊いた。 「そうです」 「その人は、現在、当裁判所の構内にいるのですか?」 「傍聴席に来ております」  呼んでおいたのであろう、小池が答えた。  刑事訴訟規則によると、証人が裁判所構内にいる場合にかぎり、召喚しないで尋問できるのである。  利彦は、裁判の流れが大きく変わったのを感じた。結果はどう出るかまだ分からないが、今までの検察官ペースが完全に狂い始めたのだけは、確実であった。 「検察官、いかがですか?」  吉本裁判長が検事の意向を質した。 「しかるべく」  岩田検事が、苦々しさを満面に表わした顔で短く言った。彼が森隆二の供述を引き合いに出すであろうことまで、小池に読まれていたのだから、当然である。不意の証人尋問に異議を唱えなかったのが(異議を申立てれば、不意打ち排除の原則から阻むことができる)、不思議なくらいだった。 「では、弁護人の請求を認めます」  裁判長の言葉を受け、小池が利彦たちの後ろに座っていた二十三、四歳の脚と腕の長い男を前へ呼び寄せた。  すると、廷吏が近寄って行って、証人カードに署名、捺印させる。  つづいて人定尋問、宣誓、偽証の警告などの後、小池による主尋問が始まった。 「証人は、工藤良男という男をご存じですか?」 「名前は後で知りましたが、顔だけは前から知っていました」  中野にある大手スーパーに勤めているという森隆二は、さほど緊張した色もなく、小池の質問に答えた。 「どういう関係ですか?」 「吉祥寺の井ノ頭ハイムで、私は彼の部屋の下に住んでいました」 「言葉を交わしたことはありますか?」 「いえ、顔は時々見かけても、一階と二階で入口が違うため、直接口をきいたことはありません」 「本年の五月十五日、工藤の部屋で殺人事件のあった日ですが……証人は、何時頃アパートへ帰りましたか?」 「九時十分頃です」 「それから四、五十分後の十時近く、何をしていましたか?」 「ベッドに寝転んでテレビを観ていました」 「そのとき、工藤の部屋の窓が開閉される音を聞きましたか?」 「はい」 「どういう音がしたのですか?」 「勢いよくガラガラッと鳴り、ピシッという音が響きました」 「証人はどうしましたか?」 「どうもしません。ちょっと首を起こし、安普請《やすぶしん》なんだからもう少し静かに閉めろ! と天井をにらんだだけです」 「閉めた、と思ったわけですね?」 「ええ」 「なぜですか?」 「立て付けが悪いらしく、開けるときはいつも柱に当たる前で止まってしまい、ピシッという音がしないんです。でも、そのときは、私の部屋の窓まで少し揺れるくらい、ピシッという大きな音がしたからです」 「なるほど。ところで、証人は、工藤の部屋の窓を、実際に自分で開け閉《た》てしたことがありますか?」 「ありません」 「では、ピシッという音のしたときが閉めたときで、音がしなければ開けたときだ、とどうして判断するようになったんですか?」 「上でテレビがついていれば、すぐ分かります。開けたときは音が大きくなりますし、閉めたときは小さくなりますから」 「その経験の積み重ねから、テレビの音などがしていなくても、閉めたか開けたか判断できるようになったわけですか?」 「そうです」 「五月十五日の件に戻りますが、あなたがガラガラ、ピシッという音を聞いた後、上の部屋の物音に何か変化がありましたか?」 「前も後も静かだったと思います。誰か歩き回っているような感じが、ちょっとありましたが」 「すると、そのとき、上で�窓を閉めた�と思ったのは、まったく経験的な勘からだけだった?」 「はい」 「その勘が一〇〇パーセント正しい、という証拠はどこにもないわけですね?」 「まあそうですけど……」 「そのとき、証人の部屋の窓まで揺れるくらいピシッと大きく響いたと言われましたが、前にもそういうことがあったんですか?」 「いえ、あのときが初めてです。それで『なんだ!』と思い、覚えていたんです」 「なんだ! と思ったというのは、かつてないほど強い勢いだったので驚いた、という意味ですか?」 「それに、腹を立てたというか……」 「では、それほど勢いよく窓を動かせば、開けた場合にも、窓枠と柱がピシッとぶつかる可能性があったとは思いませんか?」 「あったかもしれません」 「尋問を終わります」  小池が裁判長に告げて、腰をおとした。  満足気な表情だった。  もし必要なら、工藤の部屋の窓に関する証拠調べを請求できるが、そこまでやらなくてもいい、と判断したのであろう。あるいは、事件から三ヵ月半も経っているため、それをしてもあまり意味がない、と考えたのかもしれない。 4  小池に代わって、岩田検事が立った。  だが、彼は、窓の開閉に関しては、森隆二の「経験的な勘」の正しさを裏付ける二、三の証言を引き出しただけで、すぐに別の質問に移った。  刑事訴訟規則には、反対尋問は〈主尋問に現われた事項及びこれに関連する事項、並びに証人の供述の証明力を争うために必要な事項について行なう〉とある。さらに、〈反対尋問の機会に自己の主張を支持する新たな事項について尋問する場合は、裁判長の許可を必要とし、それは主尋問とみなす〉と規定されている。  だから、岩田検事が小池の主尋問に現われなかった事項について質問を始めるや、当然小池から異議申立てを受けた。  そこで、彼は裁判長の許可を求め、改めて主尋問として、つまり、実質、自分の呼んだ証人として、森隆二に対する尋問を始めたのである。 「五月十五日の夜、証人は、何時頃まで起きていましたか?」  彼は訊いた。 「十一時四十分にテレビを消し、トイレに入ってから寝たので、眠ったのは十二時頃じゃないかと思います」  森隆二が答えた。 「証人の部屋は、窓がどちら側に付いていますか?」 「北側です」 「工藤の部屋と同じ側ですね?」 「そうです」 「一階と二階の窓の間は、どれくらい離れていますか?」 「正確には分かりませんが、二メートルまでは離れていないと思います」 「間に、何か突き出ていますか?」 「いません」 「前は、隣家のビルの壁ですね?」 「はい」 「窓とその壁との距離は?」 「窓から身を乗り出せば手が触れますから、一メートルくらいです」 「五月十五日の夜、証人の部屋の窓は開けてありましたか?」 「寝ようとして十一時四十分頃トイレに立つまでは、二、三十センチ開けてありました」 「十時頃、ガラガラ、ピシッ、という上の部屋の窓の音を聞いた後で、ガスの臭いがしませんでしたか?」 「気がつきませんでした」 「もし上の部屋にガスが充満していて、そのとき窓が�開けられた�のなら、上下の窓が近接していて、間に何もないという条件、前がビルの壁に塞がれているという条件から考え、当然ガスが証人の部屋に流れ込んできた……つまり、ガスの臭いに気づいたとは思いませんか?」  小池が異議を唱えるか、と利彦は弁護人席を見やったが、彼は顔を上げず、しきりに何やらメモを取りつづけていた。 「さあ……」  と、森が困ったように首をかしげた。 「証人はそのとき風邪をひいていたか、前に鼻の病気をしたことがありますか?」 「風邪などひいていませんし、鼻の病気をしたこともありません」 「その証人が、まったくガスの臭いに気づかなかったのは確かなわけですね?」 「はい」 「では、十時から証人が寝入った十二時までの間に、証人は、もう一度工藤の部屋の窓が開閉される音を聞きましたか?」  十時に広一郎がガスを止めて窓を開けたのが事実なら、その後、再び工藤の部屋へ入ってガス栓を開き、窓を閉めた者がいる、というわけであった。 「覚えていません」 「覚えていないというのは、聞かなかった可能性が高いんじゃないですか?」 「そうかもしれません」 「やはり十時以後、証人の部屋の横を誰かが出入りする物音、階段を上り下りする音、あるいは、上の部屋を歩き回る足音を聞きませんでしたか?」 「気がつきませんでした」 「証人の住んでいる井ノ頭ハイムは、木造のうえ、かなり古いんじゃありませんか?」 「そのようです」 「誰かが階段を上り下りしたり、上の部屋を歩いた場合、いつも気がつきませんか?」 「いえ、たいてい気がつきます」 「尋問を終わります」  岩田検事は、〈広一郎の後に工藤の部屋を訪れた人間などいない〉と判事たちに多少印象づけることに成功して、尋問を終えた。 「弁護人は何か訊くことがありますか?」  吉本裁判長が、小池に尋ねた。  岩田の反対尋問が途中から主尋問に切り替わったため、小池に反対尋問の権利が生じたのである。 「ございます」  と、小池が、さっき何やらメモしていた紙を手に立ち上がった。 「証人は、先ほど私の質問に答え、工藤の部屋の窓がガラガラ、ピシッと鳴った後、誰かが二階を歩き回っているような感じがちょっとあった、と言われましたね?」  彼は訊いた。 「はい」 「それは、感じがあった、といった程度で、はっきり足音が聞こえたわけではないのですね?」 「ええ」 「では、そのすぐ後、誰かが階段を降りてきて、証人の部屋の横に付いた出入口から帰って行く音を耳にしましたか?」 「いえ、気がつきませんでした」 「ということは、相手が意識的に物音をたてないように気を配っていれば……あるいは、あなたが別の物事に注意を奪われていれば、気がつかない場合もある、ということじゃありませんか?」 「そうかもしれません」 「十五日の晩、あなたは、ずっとテレビを観ていたと言われた。そして、十時頃のガラガラ、ピシッという窓の開閉音をよく覚えているのは、それがこれまでにないほど……あなたの窓まで揺らすほど大きな音のためだった、と言われた?」 「はい」 「だったら、その後、誰かが足音をしのばせて工藤の部屋へ出入りし、意識的に窓を静かに閉めた場合、あなたは気づかなかった可能性が大きいとは思いませんか?」 「そうですね、その可能性もあったかもしれません」 「では、もう一点だけ伺います。証人は、井ノ頭ハイムのあたりは、まだ一酸化炭素を含んだ都市ガスが供給されているのをご存じですか?」 「事件の後で聞きました」 「アパートは、木造の古い建物だと言われましたね?」 「ええ」 「でしたら、隙間もあるはずなのに、工藤の部屋のガス栓が開かれてから、かなり長い時間起きていた証人が、まったくその臭いに気づかなかったのはなぜでしょう?」 「分かりません」 「証人は、ガスの比重についての知識をお持ちですか?」 「ヒジュウ?」 「空気の重さを一としたときの、ガスの重さです」 「さあ、知りません」 「私も正確な数値は覚えていませんが、零コンマ六くらいで、空気よりだいぶ軽いため、空気より重いプロパンガスなどとは違って、漏れてもまず部屋の上の方に溜まるのです。この事実から、証人がガスの臭いに気づかなかった理由はもとより、ガスの充満した工藤の部屋の窓が�開けられた�とき、ガスが階下の証人の部屋に流れ込まなかった事情も説明できる、とは思いませんか?」 「そうですね。ガスが空気より軽いんでしたら、窓を開けても、上の方へ逃げたでしょうから……」 「反対尋問を終わります」  小池が言って、椅子を引き寄せた。  利彦は、真実はいずれにあるのか、と考えていた。  彼としては、もちろん広一郎と小池の主張を信じたい。  が、そうなると、冴子と広一郎が工藤の部屋へ行った夜、もう一人、そこに出入りした人間——犯人——がいる、ということになるのだった。  裁判長が森隆二を帰すと、次回公判の打ち合わせになり、小池、岩田検事ともに、冴子の喚問を請求した。  そこで、多少やりとりがあったが、岩田が請求を取りさげたため、結局、冴子は弁護側の証人として呼ばれることになった。  他に祐子、向田久子、冴子が事件のときに住んでいた市谷のマンションの住人、水木陽亮の証人尋問が決められ、第三回公判は終わった。 5  冴子は、利彦や祐子と京王八王子駅前で別れ、真吾と二人、渋谷へ向かった。  小池に広一郎との接見の模様を聞いた昨日から、冴子は、父は無実にちがいない、という思いを強めていた。そこで、今朝真吾の研究室を訪ね、忙しいという彼を強引に誘い出したのだった。  こうして、彼と一緒に今日の公判を傍聴した現在、冴子の思いは完全に確信に変わっていた。  たとえ無実でも、これからそれを証明し、無罪の判決を勝ち取るまでには、多くの困難があるだろう。だから、不安は残っている。が、その不安の一方で、これで自分は再び元の世界……真吾と同じ〈陽の世界〉へ戻れるかもしれない——そう思うと、無性に真吾と激しい夜を過ごしたいような、心の昂りを感じるのだった。  ところが、そんな冴子の気持ちとは逆に、真吾にはどことなく屈託が感じられた。電車に乗って二人だけになってからも、何か考えごとをしているように、むっつりと黙り込んでいる。そして、冴子が話しかけると、時々上の空の返事をした。  冴子には、真吾の心がつかみきれなかった。自分はもう殺人犯人の娘ではない。真吾も今日の裁判を傍聴して、そのことを分かってくれたはずである。それを彼自身の目と耳で確かめてもらうために、強引に誘ったのである。それなのに、彼はなぜもっと素直に喜び、以前のように自分を励ましてくれないのだろうか。彼の気持ちは、それほど自分から離れてしまったのだろうか……。  明大前で乗り換えて、渋谷に着いたのは、五時二十分だった。  少し早かったが、ワインを飲みながら食事をし、その後で宮下公園へ行った。  道路より数メートル高くなった公園は暗かった。  ベンチにかけ、冴子は真吾の肩に頭をもたせかけ、目を閉じた。  待った。  しかし、真吾は体を固くして黙っていた。肩を抱き寄せもしなければ、唇を近づけてもこない。 「どうしたの? さっきから、何を考えているの?」  冴子は頭を起こし、少し責める口調で言った。 「別に……」 「今日の真吾さん、変だわ」 「そんなことはない、ちょっと疲れているだけさ。いよいよデータを整理して論文の執筆にかかるんだけど、そのために、実験の最後の追い込みで、このところほとんど大学に泊まり込みだったんだ」 「論文はいつ出すの?」 「十一月いっぱいで書き上げ、多少直すから、暮になるかな。だから、当分、君とも会えそうにない」 「四ヵ月も!」  冴子は思わず真吾の顔を覗き込んだ。 「僕も我慢するから、君も辛抱して欲しいんだ。この論文によって、僕が大学に残れるかどうかが決まるんだよ」 「でも、二十四時間、論文を書いているわけじゃないでしょう? 時々お食事を一緒にするくらい、どうしてできないの?」 「理屈ではそうさ。ただ、気分的にそんな余裕が……」 「真吾さん、何か、私に隠しているわ。今までは会ってくれなくても、殺人犯人の娘だから、と私、諦めてきた。でも、父は無実と分かったのよ。私は、もう殺人犯人の娘じゃないわ。それなのに、どうして? 私が嫌いになったの?」 「そんなことはない。冴子さんのことはずっと好きだったし、今でも愛している。お父さんの件だって、ずっと心配して……」 「嘘!」 「嘘じゃない」 「嘘よ」 「僕が信じられないのかい?」 「じゃ、なぜ会ってくれなかったの? なぜ電話もしてくれなかったの?」  冴子は言いながら、どんどん自分の望んでいたのとは逆の方へ向かって進んでいるのを感じていた。真吾は、広一郎が殺人犯人と知って、自分を捨てようとした男である。認めたくないが、事実だった。それが分かっていながら、冴子は、真吾を諦めきれなかった。彼が忘れられなかった。だからこそ、何とか関係を修復しようと、今日、誘ったのである。それなのに、彼女は真吾を問い詰め、自分から離れてしまった彼の心を確認しようとしているのであった。 「話さないつもりだったんだけどね」  と、真吾が言った。「実は、父と母が連日のように電話してきて、まいっているんだよ。世間の口がうるさい田舎町のことだから、二人とも気にして……」 「私と別れろというのね?」 「まあ、そう……」 「父が無実だと分かっても?」 「昨夜、君の電話を受けてすぐ知らせたんだが、父は、有罪か無罪かなんて関係ない、一度殺人犯人としてあれだけ大きく報道された事実は、どんなことをしたって消せないって言うんだ」 「それで、真吾さんは、なんて言ってくれたの?」 「結婚は僕と冴子さんの問題だから、とこれまで通り説得しようとしたさ。でも、父は、自分たちを町に住めなくするつもりか、と脅すんだ。実の親なら、こんなとき喧嘩したっていいんだが、僕をここまで育ててくれた恩を考えるとそれもできず……で、君としばらく会わずにいて、その間に両親を説得しようと考えていたんだよ」  親を説得するのに、その間、なぜ自分と会わないでいる必要があるのか、と冴子は思った。彼の両親は、別に自分たちを見張っているわけではないのに。完全な言い訳、問題のすり替えであった。  冴子は後悔した。やはり真吾を問い詰めなければよかった、と。彼を問い詰めなければ、彼の心がこれほど自分から離れてしまっているのを思い知らされることだけは、少なくともなかったのだから。  それにしても、真吾の心変わりの原因は広一郎の逮捕だけだったのだろうか、と冴子は、ふと疑問を感じた。他にも何かあるような気が、急にしたのである。想像はつかなかったが、もっと具体的な何かが——。  第八章 究明 1  ふだん、Tシャツなどラフな恰好をしているときの多い冴子が、今日は藤色のスーツにきっちりと小柄な体を包んでいた。そのせいもあってか、傍聴席の利彦の目には、彼女の肩のあたりがひどく強張っているように見えた。 「証人は——」  と、吉本裁判長が冴子の住所、氏名などを確かめてから言った。「証人自身が罪に問われるおそれのあること、また、証人の近親者……たとえば両親などが有罪判決をうけるおそれのある事実については証言を拒否できますが、それ以外は正直に答えてください。もし嘘の証言をすると、偽証罪に問われることもありますから、十分注意するように。いいですね」 「はい」  と、冴子が、よく通る声で答えた。  九月十七日午前十時、第四回公判の開始である。  第三回公判の日から半月余り経っていた。この間、事件に関する新しい証拠は見つかっていないが、利彦にとっては、論文式試験の合格、という嬉しい出来事があった。  論文式試験は、司法試験中の最大の山である。それを乗り越えた現在、利彦に残されているのは、来月五日から行なわれる口述試験だけであった。  当然ながら、口述試験には口述試験の特徴があり、難しい。それは、論文式試験と同じ七科目について、二人の試験官の質問に答えるという形で行なわれる。時間は一科目につきだいたい十五分程度で、場合によっては数十分。これが、十日間のあいだに七回あるのである。だから、受験生の精神的な緊張と疲労は相当なもので、法律知識もさることながら、最後は精神力の問題だ、などとも言われている。ただこの試験の場合、不合格者は、翌年度にかぎり択一式試験と論文式試験を免除され、もう一度チャレンジできる、という救いがあったが。 「証人と被告人の関係を述べてください」  小池による主尋問が始まった。 「西広一郎は、私の父です」  冴子が、椅子の上の体を心持ち小池の方へ回して、答えた。 「証人には兄弟がいますか?」 「いえ、おりません」 「父親にとって娘は特にかわいいと言いますが、証人に対する被告人の態度は、どのようなものでしたか?」 「とても優しく、小さい頃から私の言うことでしたら、たいてい聞いてくれました。『冴子ちゃんはお父さんの宝物だから……』などと近所の人たちによく言われたのを覚えています」 「あなたの被告人、お父さんに対する気持ちや接し方はどうでしたか?」 「もちろん大好きでしたが、我儘で意地っ張りなところのある私は、時々無理を言っては、父を困らせていたようです」 「去年の九月、あなたは、お母さんの康代さん、看護婦の石野祐子さんと一緒に、千葉県一宮の海岸で、顔にアザのある男を含む三人組に、襲われましたか?」 「はい」 「その後、お母さんはどうしましたか?」 「二十日ほどして自殺しました」 「お母さんの亡くなられた後で、あなたは被告人に、大町志津について質しましたか?」 「はい」 「なぜですか?」 「私たちを襲った犯人が、志津さんの写ったネガフィルムを残していったからです。それを手掛かりにして犯人たちを突き止め、母を酷い目にあわせたうえ死に追いやった彼らに復讐してやろう、と思ったのです」 「そのとき……あなたが大町志津について尋ねたとき、被告人は何と言いましたか?」 「私の心の内を見抜いて、何とか思いとどまらせようとしました。私の危険な行動を、亡くなった母も決して喜んでくれないだろう、と言って」 「それで、あなたは、お父さんの説得に従ったのですか?」 「いえ、父に黙って志津さんの郷里へ行き、志津さんには戸籍上は他人になっている弟がいるらしい、と聞いてきました」 「それから、どうしましたか?」 「前以上に強い父の反対に家を飛び出し、一宮の現場に落ちていたバロンという喫茶店のマッチを手掛かりに、頬にアザのある男を捜し始めました」 「家を飛び出したあなたに、被告人はどうしましたか?」 「石野祐子さんにお金と衣類を託し、時々は田無の家へ帰るようにと言ってきました」 「その後、あなたの行動を、お父さんが密かに見張っていたのをご存じでしたか?」 「父が警察に捕まってから刑事さんに聞きましたが、その頃は気がつきませんでした」 「警察でその事実を聞かされたとき、どう思いましたか?」 「父は、万一の場合、私を危険から護るためにそうしていたのだと思い、自分の行動を後悔すると同時に父に感謝しました」 「あなたを危険から護る、というのは、あなたの代わりに犯人たちをどうかする、という意味ですか?」 「いえ、父には、そうした考えはまったくなかったと思います」 「では、次に、本事件の被害者に関係した点をお訊きしますが、あなたは、五月十五日の夜、工藤、松岡、山野辺の三人が井ノ頭ハイムの工藤の部屋に集まるということを、前もって知っていましたか?」 「知っていました」 「いつ、どのようにして知ったのですか?」 「数日前、山野辺英夫の口から聞きました」 「山野辺とあなたは、どうして知り合い、どういう関係だったのですか?」 「バロンのマッチと右頬のアザを手掛かりに捜し出し、髪型と化粧を変えて、彼の勤めるスナックへ毎晩出かけたのです。そして、間もなく、恋人の一歩手前のガールフレンドといった関係に、表面上はなりました」 「山野辺は、確かに一宮の海岸であなたたちを襲った犯人の一人でしたか?」 「去年はなかった口髭をはやしていましたが、私は近くで犯人の顔を見ていますので、間違いありません」 「それでも、山野辺の方は、あなたに気づかなかったわけですね?」 「はい。まさか自分たちの襲った女が近づいてこようとは予想しなかったでしょうし、化粧と髪型を別人のように変えて行きましたから」 「かなり凶悪な男と思われるのに、あなたに対し、暴力的に襲いかかる、といったことはなかったのですか?」 「山野辺は、意外に気の小さい、一人ではたいした悪事もできない感じの男でした。当然のように私の体を求めはしたものの、『私はあなたといい加減な関係になりたくない、いずれ正式に婚約したら』と申しますと、渋々諦めました」 「あなたが、工藤と松岡を知ったのは、いつですか?」 「山野辺を見つけて半月ほどした、四月の初めでした」 「どうして知ったのですか?」 「揃って山野辺の勤めるスナックに現われたからです。どことなく山野辺と秘密を共有し合っている感じがしましたので、紹介してと言うと、山野辺が多少得意気に、�自分の女だ�といったニュアンスで私を彼らに引き合わせたのです」 「彼ら三人の関係は、あなたの目にどのように映りましたか?」 「工藤がリーダーあるいは兄貴分といった感じで、松岡と山野辺は彼を�さん�づけで呼び、少し恐れているようなところが見られました。山野辺によると、三人は二、三年前の夏、偶然知り合ったということでした。詳しく訊こうとすると、山野辺が慌てて話を逸らしてしまった点からみて、それが、先日佐々木巡査の言われた南房総の和田町の事件のときだったのではないでしょうか」 「なるほど。で、彼らを知ってから、あなたはどうしましたか?」 「山野辺からいろいろ探り出し、また、工藤と松岡の体つき、声、雰囲気などから、彼らが一宮で自分たちを襲い、母を死に追いやった犯人たちにちがいない、と確信するようになりました」 「それは、いつ頃ですか?」 「四月末頃だったと思います」 「それから五月十五日までの間に、あなたのとった行動を話してください」 「お友達の木島真吾さんがいる城北大学医学部の研究室を訪ねて、実験用の青酸カリを盗み出し、密かに工藤ら三人を殺す機会を窺っておりました」  冴子が、はっきりと殺意を口にした。  利彦は、思わず吉本裁判長の顔に視線を向けた。裁判長は、これといって目立った反応は示さなかったが、一瞬、眼鏡の奥の目が光ったように感じられた。  殺人を意図して毒薬を準備した場合、殺人予備罪に問われる。刑法第二〇一条には〈情状によって刑を免除することができる〉とあるし、第四三条の〈中止犯の規定〉が準用されれば、刑は必ず減軽または免除されることになる。  とはいえ、小池はなぜ敢《あ》えてそれを冴子の口から明言させたのか、と利彦は思った。なぜ、青酸カリの盗み出しまで明らかにする必要があったのか? 冴子が工藤の部屋を訪ねた理由、口実くらい、多少の不自然さに目をつぶれば、他にいくらでも見つかったであろうに。  いや、と利彦はすぐに思い返した。小池と冴子は、ただ事実を、真実を明らかにしようとしているのかもしれない。有利な事実も不利な事実もすべて公開し、そのうえで広一郎の無罪判決を勝ち取ろうとしているのかもしれない。  としたら、この証人尋問は、単なる駆け引きではないのではないか——。 2 「すると、証人は、三人の殺害の方法についても検討されたわけですね?」  利彦が考えている間にも、小池の尋問は進んだ。 「はい」 「それで、どういう方法を、採ることになりましたか?」 「工藤たち三人が彼の部屋に集まってお酒を飲むと知り、ウイスキーに青酸カリを混入して飲ませよう、と考えました」 「具体的にいうと?」 「青酸カリを入れたウイスキーを山野辺に持参させよう、と思ったのです。ですが、この方法ではうまくいったかどうか確かめられないため、自分で持って行った方がいい、とすぐに考えなおしました。山野辺に会いたくなったので、彼に聞いていたアパートを訪ねてきた、と言えば、彼らは私の不意の来訪を怪しまない、と思ったのです」 「あなたの持参したウイスキーを誰か一人が先に飲んでしまったら、計画は失敗したと思うんですが、その対策は立ててあったんですか?」 「いえ、そこまでは、考えが及びませんでした」 「ところで、あなたが城北大学から持ち出したという薬品ですが、それは確かに青酸カリでしたか?」 「えっ? は、はい、そうです」  冴子が戸惑ったように答えた。どうやら打ち合わせになかった質問のようであった。  利彦は、小池の意図をいぶかった。 「あなたは、それをどうやって確かめましたか?」 「ラベルに|KCN《ケーシーエヌ》と書いてある瓶から、持って行った小瓶に少量移してきたんです」 「おかしいですね。私が城北大学医学部の研究室に問い合わせたところ、その研究室にはKCN、つまり青酸カリはここ一年ほど置いてない、だから、それは人畜無害な塩化カリウム——|KCl《ケーシーエル》の間違いじゃないか、と言うんですがね」  そうか、と利彦は内心感心した。  判例にある、〈犯罪の成立を否定されている不能犯(殺そうとしても殺せない場合)は罰せられない〉という安全弁を、小池が冴子のために用意していたからだ。  冴子が本当にKClをKCNと間違えたのか、青酸カリのような毒物を易々と持ち出されたとなると管理責任を問われる大学側に、小池が逃げ道を暗示したのか、そのいずれが真実なのかは分からなかったが。 「結構です。では、質問を戻しますが、証人は、とにかく青酸カリと信じた薬品を混入したウイスキーを持ち、五月十五日の夜、実際に工藤の部屋を訪ねたのですか?」 「訪ねました」 「時刻は何時頃でしょう?」 「アパートの入口に着いたのが、九時四十分頃でした」 「井ノ頭ハイムに来たのは、初めてじゃなかったのですか?」 「はい。一度、下見してありました」 「近くで誰かに会いましたか?」 「いいえ。誰にも見られないように用心して路地へ入りましたから」 「沓《くつ》脱ぎ場に入って階段を上り、工藤の部屋の前でどうしましたか?」 「下の部屋の方に聞かれないよう、二、三度軽くノックしました。でも、明かりが点いているのに、返事がありませんでした。それでノブを引くとドアが開き、ガスの臭いがしたのです」 「部屋の中を見ましたか?」 「はい」 「そのときの様子を説明してください」 「奥の和室に小さな丸テーブルが置かれ、周りに三人の男たちが倒れていました」 「窓は、入口から見てどの位置ですか?」 「正面、奥です」 「それは開いていましたか、それとも閉まっていましたか?」 「閉まっていました」 「断言できますか?」 「できます」 「それから、あなたはどうしましたか?」 「よく覚えていないのですが、体中がぶるぶる震え出し、ドアを閉めるなり……ただ、それでも階段だけは足音をたてないように注意して……逃げ出しました。それで気がつくと、吉祥寺駅から上りの快速電車に乗っていたのです」 「工藤の部屋へ引き返しませんでしたか?」 「引き返していません」 「途中で、知った人に出会いましたか?」 「途中ではありませんが、市ケ谷駅前のマンションに着いたとき、同じ階に住んでいらっしゃる水木さんという方とエレベーターに乗り合わせました」 「何時頃ですか?」 「自分の部屋に入って時計を見ると、十時二十六分でしたから、その一、二分前だと思います」 「工藤たち三人の死は、いつ、どうして知りましたか?」 「翌朝、テレビのニュースで見ました」 「犯人は誰だと思いましたか?」 「そのときは、まだ見当がつきませんでした。ですが、なんとなく不安になり、急いで田無の家へ帰りますと、父が真っ青な引きつった顔をして座っていて、私が事件の話をし出すや、『言うな、何も言うな、心配しなくてもいい』と苦し気に……しかも強い調子で抑えたのです。それで、もしかしたら父も工藤たちを突き止めていたのではないか、もしかしたら父が彼らを殺したのではないか、と思いました」 「お父さんが、自分で殺した、と言ったわけではないのですね?」 「はい」 「その後、お父さんはどうしましたか?」 「『警察が来るかもしれないが、一切知らないで押し通すんだ、いいね』と言って、石野さんと連絡を取り、さらに一、二度会っただけの向田久子さんにも電話をかけて、私の偽アリバイの証言を頼みました」 「あなたは、そうしたお父さんの行為をどう思いましたか?」 「いよいよ父が犯人らしいと考えていましたから、万一の場合私を巻き添えにしないよう、アリバイを確保しておいてくれるのだな、と思いました」 「あなたは、現在でも、被告人であるお父さんが犯人だと考えていますか?」 「いえ、父は、私を吉祥寺駅で見かけたために私を犯人だと思い込み、身代わりになろうとしただけです。ですから、無実だと信じています」 「では、工藤たち三人を殺したのは誰だと思いますか?」 「分かりませんが、父でも私でもない、第三の人物であることは確かです」  小池が裁判長に尋問の終了を告げ、腰をおろした。  小池に代わって、岩田検事が立った。  彼の尋問は、最初から峻烈だった。  小池の演出で、広一郎と冴子が巧みに口裏を合わせている。そう考えている(少なくともその可能性がある、と考えている)ようだった。  利彦にも分かるが、問題は、五月十五日の夜九時四十分に冴子が工藤の部屋を本当に訪れたのかどうか——という点である。さらには、そのときすでにガスコックが開かれ、窓が閉められていたのかどうか——という点である。  もし、工藤の部屋を訪ねたという冴子の証言が出鱈目なら、広一郎の行動は検事が冒頭陳述で述べた通り、〈八時五十分頃行って、十時頃窓を閉めてガスコックを開き、帰った〉ということになるだろう。  また、たとえ冴子が九時四十分に工藤の部屋を訪ねたのが事実だとしても、そのときまだガスコックが開かれておらず、窓も開いていたとしたら、工藤ら三人を眠らせた広一郎が、冴子のノックの音に慌ててトイレにでも身を隠し、冴子が立ち去った後、窓を閉めてガスコックを開いた、という可能性が残る。  しかし、逆に、もし冴子の証言がすべて事実なら、広一郎に対する公訴事実はほとんど否定される。開いていたガスコックをまた開くわけはないし、閉まっていた窓をまた閉めるわけがないからだ。  そこで、当然ながら、岩田検事の尋問は、広一郎と冴子が揃って以前の供述を翻した�不自然さ�の追及に集中した。  半ば脅しまがいの言葉で証言の撤回を迫り、あるいは、大町志津に対する広一郎の仕打ちの酷さを誇張して、冴子の心を彼から離反させようと図った。  そして、それでもかなわぬと見るや、躍起になって、冴子が父親のために嘘をついているという印象を判事たちに与えようとした。 「では、最後にもう一度訊くが、証人はあくまで、被告人でも証人でもない第三の人物が工藤たち三人を殺した犯人だ、と主張するんだね?」  岩田検事が口元を歪め、内心の怒りを抑えた声で言った。 「はい」 「すると、五月十五日の夜は〈その人物—証人—被告人—その人物〉、と工藤たちに殺意を抱いた三人の人間が入れ替わり立ち替わり彼の部屋を訪れたことになるが、そんな偶然が現実に起こりうる、と証人は本気で考えておるわけだ?」 「私にもよく分かりませんが、現実に起きてしまったのです」 「起きてしまった?」 「そうです」 「それは、あんたの身びいきの仮定、希望から生まれた、架空の結論ではないのかね?」 「父が無実だというのは、仮定ではなく、事実です。何度も申し上げたように、私が九時四十分に工藤の部屋を訪ねたとき、すでにガス栓は開かれ、窓は閉まっていたのです。もし父がそうしたというのなら、階下の森さんという方が音を聞いたという十時頃、なぜ父は窓をもう一度�閉める�必要があったのでしょう?」 「しかし、それらはすべて被告人の一人娘であるあんただけの主張にすぎん。それとも、証人は、それらの証言を裏づける客観的な根拠を示せるかね?」  ——といったように、岩田検事の尋問は堂々巡りを繰り返しながら、冴子の証言の価値を多少減殺しただけで、終わった。 3  岩田検事の後、冴子は裁判長からも二、三の質問を受け、ようやく解放されて傍聴席の利彦の横に戻った。緊張に、膝がまだガクガクしていた。  自分の証言を果たして判事たちが信じてくれたかどうか……。この大きな気掛かりとともに、志津に対する父広一郎の身勝手な仕打ちを強調した岩田検事の言葉が、心に引っ掛かって残っていた。  冴子に代わって、証人台には、祐子、向田久子、水木陽亮の順で立った。  彼らに対する尋問は、みな簡単だった。  祐子と向田久子は、五月十五日の夜は独りで自分のアパートにいたこと、そのため、広一郎に頼まれ、冴子の無実を信じていたので〈三人一緒に祐子の部屋にいた〉と口裏を合わせたこと——などを、はっきり証言して傍聴席へ戻った。  最後の水木陽亮も、冴子とエレベーターで会ったのは出張先の大阪から帰った五月十五日の夜十時半頃に間違いない、と述べ、一度電車に乗った冴子が途中から工藤の部屋へ引き返した可能性を否定してくれた。  水木に対する尋問が終わったのは、十一時二十分だった。それから、裁判長が次回公判の進め方について検事と弁護士に尋ね、小池が二人の証人尋問を請求した。工藤の母の姉河野たね子と、志津の伯父石塚信吉である。 「弁護人は、これらの証人尋問によって、何を立証するつもりですか?」  吉本裁判長が訊いた。 「工藤良男が大町志津の弟ではなかった、という事実を立証できる予定です」  小池が答えた。 「検察官の意見はいかがですか?」 「たとえ工藤が大町志津の弟でないと分かっても、それが本裁判の公訴事実にどう関わるのか理解に苦しみます。無意味な証人尋問かと思います」  岩田検事が言った。 「弁護人、どうですか?」 「決して無意味ではありません。私は、工藤ら三人を殺して被告人に罪をなすりつけた犯人こそ大町志津の弟ではないか、と考えております」 「では、次の証人尋問によって、弁護人は大町志津の弟を特定し、彼が真犯人であることを立証できるのですか?」 「そこまでは分かりません。ですが、工藤が大町志津の弟でないと判明すれば、志津の弟は別にいることになり、志津のネガフィルムが一宮海岸に残されていた事実から、彼と工藤らの間に何らかの繋がりがあったことになります。つまり、少なくとも彼が犯人である可能性は立証できると思います」  小池は控え目に言ったが、その男こそ、工藤らに自分たちを襲わせた張本人ではないか、と冴子は思った。  志津の弟——。  彼がどこにいるのか、何という名なのかは分からない。だが、去年の九月……あの日、自分たちが別荘へ行くのを知っていたとすれば、意外に近くにいるはずであった。  裁判長が、再度、検事に意見を訊き、 「そういうことでしたら、しかるべく」  岩田検事がぶすりと答えた。  その苦虫をかみつぶしたような顔を見て、冴子はハッとした。さっきの、自分に向けられた彼の尋問を思い出したのである。  五月十五日の夜、〈第三の人物—冴子—広一郎—第三の人物〉、と入れ替わり立ち替わり工藤たちに殺意を抱く人間が彼の部屋を訪れるなどという偶然がありうるか——?  そういう偶然は、やはり、ありえないのではないだろうか。  では、実際にそうなったのは、なぜか?  冴子は別にして、第三の人物すなわち志津の弟と、父広一郎の行動は、必然的なものだった可能性が強い。  どういうことか?  すべては、志津の弟の仕組んだワナだった。つまり、彼は工藤をつかって父を呼び寄せ、小池が「なすりつけた」と言ったように、工藤ら三人の殺害の罪を、父に被せようと企んだ——。  志津の弟——。彼は、そんなに父と母が憎かったのだろうか、と冴子は思った。父は、それほど志津に対して酷いことをしたのだろうか。  それにしても、彼は、なぜ今頃になって十六、七年も前の姉の恨みを晴らそうとしたのだろう。彼は工藤らとどう関わり、どうして彼らを殺したのだろう。去年、二十六、七歳と言った石塚信吉の話の通りなら、今は二十七、八歳になっているはずだが、どこで、何という名で暮らしているのだろう。 〈二十七、八歳……〉  冴子はその年齢をもう一度頭の中で転がし、ギクリとした。身近にいる二十八歳の男の顔が浮かんだのである。彼女にとって、もっとも大きな存在である男の顔が。 〈まさか! まさか、そんな……〉  冴子は胸の中で叫んだ。顔から血の引いてゆくのが分かった。 「では、次回公判は十月四日午後一時からですから、必ず出廷するように」  吉本裁判長が広一郎に向かって言うと、二人の判事を従えて出て行った。  検事や弁護人、傍聴人も立ち上がる。  が、冴子は、 「どうしたんだい、真っ青な顔をして。気持ちでも悪いのかい?」  利彦に言われるまで、腰を上げることができなかった。 4  第四回公判の三日後(月曜日)の朝、利彦は、美佐子を預けにきた小池と連れ立って田無の家を出た。  東京駅から外房線に乗り、千葉県の一宮、和田と訪ねる予定であった。  小池がしきりに口述試験のことを気にしたが、大丈夫だから、と利彦は言った。常に頭にかかっていて落ちつかなかったが、今更じたばたしても仕方がない、という多少開き直りの気持ちであった。それに、一応やるべきことはやったという自信のようなものがあったし、小池と今野には、少しでも時間があれば試験官になってもらい、模擬試験を繰り返していた。  高田馬場で西武線から山手線に乗り換え、小池とは上野まで一緒に行って別れた。  小池は前橋に石塚信吉を訪ね、それから信越線経由で長野県の明科へ行き、工藤の伯母河野たね子に会ってくる予定になっていた。  広一郎の無罪判決を勝ち取るには、真犯人を名指すところまではいかなくても、彼でも冴子でもない別の犯人が存在する可能性を、裁判官たちに認めさせる必要がある。それには、大町志津のネガフィルムを、工藤たちをつかって康代のブラジャーに差し込ませた人物がいることを立証するのが、最低の要件だった。  大久保調査事務所の調べにより、工藤が河野たね子の妹の実子に間違いないらしい、ということはすでに分かっている。小池自身、何度かたね子と電話で話した。  が、電話では、いま一つ決め手になる話が聞き出せないでいた。  そこで、彼女に直接会い、その確証を掴みたい、また、石塚信吉からは志津の弟を見つけ出すための何らかの手掛かりを得たい、そう小池は考えたのである。  こうした小池の目的と関連して、利彦の今日の行動もあった。  彼はまず一宮の佐々木巡査に会い、三年前、和田で工藤たちと思われる三人組に襲われた男の駈け込んだ民宿を聞く。つづいてその民宿を訪ね、アベックの身元を探り出すのに役立ちそうな手掛かりを聞き出してこよう、というのである。  この彼の行動は、アベックの男が、もしかしたら大町志津の弟ではないか、という推定から出発していた。もしそうなら、男は西家の人間と工藤たちの両方に強い恨みを抱いていたことになる。そこで、男は自分の狙いを隠して工藤たちに接近し、彼らを利用して冴子たちを襲わせ、さらに広一郎に容疑が向くようにして三人を殺害した——と、考えられるからだ。  小池と利彦の行動に並行して、もう一つ、大久保調査事務所をつかって進められている作業があった。それは、康代のブラジャーに残された大町志津の写真が、どこで撮られたものか、突き止める調査である。  写真は、大きな川の土手で撮られたものである点だけは、見れば明らかだった。さらに、背景の高い煙突や密集した家並、志津が東京に住んでいたという事実から推して、それは東京都内か都の近郊を流れる川の土手である可能性が高い。そこで、江戸川、荒川、中川、隅田川、多摩川、利根川、相模川などの流域を中心に、その場所探しが行なわれていた。  残されていたのがフィルム原画だったという事実は、それを持っていた人間自身かその家族が、その写真を撮った確率が高い。それなら、もし撮影場所が分かれば、そこからネガを持っていた人間——志津の弟と思われる男——の生まれ育った場所、さらには彼の氏名を突き止められないか、と小池は考えたのである。  利彦の乗った東京発九時の特急が、外房線の上総《かずさ》一ノ宮駅に着いたのは、十時半近くだった。  彼は、以前二度ほど西家の別荘へ来たことがあったので、降り立つと、多少記憶が戻った。  駅は海から離れているので、潮の香りもせず、海辺の町といった感じがしない。月曜日のせいか、がらんとしている。まだ九月二十日だというのに、弱々しい陽が雲の切れ間から射していた。  タクシーに乗って、冴子に聞いてきた駐在所の場所を言うと、運転手はうなずき、エンジンをかけた。  広場を出てすぐ線路を越え、半分くらい刈入れのすんだ田圃の中の道を突っ切り、五、六分で駐在所の前まで運んでくれた。  小池から電話を入れてあったので、佐々木はどこにも出かけずに待っていてくれたようだ。先日の背広姿より、今日の制服姿の方が似合っている。法廷ではしゃちほこばっていたが、今は穏やかな笑みを浮かべ、彼の妻の出してくれた茶菓をしきりに勧めた。  利彦は、三年前の和田の事件についてもう一度詳しく聞いてから、アベックの男が助けを求めて駈け込んだという民宿「花里」の地図を書いてもらった。  歩いて駅に戻ったのは、およそ一時間後である。鴨川行きの特急が出た直後だった。次は十二時過ぎの鈍行か、急行しかない。  駅員に訊くと、後発の急行の方が終点には早く着き、和田の方へ行く内房線に連絡がいい、という。  そこで、利彦は、十二時半近い急行に乗ることに決め、昼食には少し早かったが駅前の食堂へ入った。  外房線と内房線は、いずれも安房鴨川が終点であり、始点である。外房線はそこから太平洋岸を回って合流点の千葉へ向かい、内房線は館山、木更津と経て東京湾岸を北上する。  利彦の降りた南房総の和田浦駅は、安房鴨川で乗り換えて三つ目だった。内房線といっても、まだ太平洋の荒波を望む外房である。  海と丘陵に挟まれた海岸線を国道と国鉄の線路が走っている——という簡単な地形のため、民宿「花里」はすぐに分かった。  一つ手前の江見駅の方へ向かって国道を十二、三分歩いた左の山側である。庭は広いが、建物は都会のアパートか下宿屋といった感じの安普請だった。庭の両側と裏にはビニールハウスが並び、前は、国道を越すとすぐ砂浜と海である。佐々木の話によると、二、三月のシーズンには菜の花、キンセンカ、ストック、フリージアなどの花がいたるところに咲き競っているというが、今の季節は、露地もののめぼしい花はないようだった。  人気《ひとけ》のない、ひっそりとした玄関で利彦が案内を請うと、「はい」という返事がして、四十代半ばと思われる女がエプロンで手を拭きながら出てきた。 「いらっしゃいませ」  女は膝をつき、白いきれいな歯をこぼれさせた。どことなく垢抜けした雰囲気があり、農家や漁師のかみさん、といった感じではない。 「いえ、僕は客じゃないんです」  利彦はちょっと戸惑いながら言った。  それでは……というように、女が尋ねる目を向けた。  そこで、利彦は、法律事務所所員の肩書きがついた名刺を差し出し、三年前の件で話を聞きたい、と用件を告げた。 「覚えてはいますけど、あのときのことが、今頃、何か……?」  女が怪訝そうに小首をかしげた。 「ある裁判の参考に、その男の人に会って、どうしても話を聞きたいものですから」 「でも、私はその人の名前も住所も……」  女は言いかけて、「とにかくお上がりください。私の知っているかぎりはお話ししますから」  と立ち上がり、すぐ横の帳場らしい和室に招じ入れた。 「散らかしっぱなしにして……」  女は座卓の上の新聞や雑誌を片付け、一度出て行って茶を運んできた。 「お忙しいところ、申し訳ありません」 「いえ、今日は月曜日ですし、ほとんどお客さまはないんです」  利彦は、女のさっぱりした態度、様子に好感を覚えながら、佐々木に会ってきた事情などを説明し、 「それで、男がここへ駈け込んできたのは、何時頃だったんでしょう?」  と、早速質問に入った。 「確か八時半頃でした。連れの女の方が三人組の男たちに車で連れ去られた、と真っ青な顔をして飛び込んでこられたんです」  そのときの光景を思い浮かべるような目をして、女が答えた。「でも、私がこの帳場へ入って警察に電話をかけ、説明している間に、いなくなってしまったんです」 「他の方はいなかったんでしょうか?」 「いえ、夏でしたからお客さまが大勢おりましたし、手伝いの者もおりました。その人たちが、襲われたときの模様や犯人たちの特徴などを外で聞いているうちに、急に自分の車を見てくると言って、道路へ出て行ってしまったんだそうです」 「それきり、帰ってこなかった?」 「そうなんです」 「犯人の中に右頬にアザのある男がいた、という話は、どなたが聞いたんですか?」 「やはり、外にいたお客さまと手伝いの者たちでした。私も警察の人も、後で聞いたんです」 「男の年齢は、二十代半ばといった感じだったそうですね?」 「はい、二十四、五から六、七くらいだったでしょうか」 「すらりとしていて、なかなかの美男子だったとか?」 「ええ、そのときは真っ青な顔をして唇を震わせていましたが、目鼻立ちの整った、背の高い——」  そこまで言って、女が不意に言葉を切り、「あっ、思い出しましたわ。その方を、後でもう一度見たことが……」 「本当ですか!」  利彦は思わず座卓の上に身を乗り出した。 「あ、いえ、見たと言っても、写真なんですけど」  利彦の反応の強さに、女が少し戸惑ったように付け加えた。 「写真でも結構です。いつ、どこで目にされたんでしょう?」 「忙しい時分でしたから、去年の七、八月頃だったと思います。週刊誌のグラビアに、タレントさんと並んで写っていたのを見たんです」 「なんというタレントですか?」 「それが……思い出そうとしているんですけど、なかなか出てこないんです。同じ歳くらいの若い男のタレントさんなんですが」 「では、どういう題名の写真か……あるいは週刊誌名を覚えていませんか?」 「すみません。お客さまの置いていかれた週刊誌をパラパラやっていて、ちょっと目にしただけなものですから」 「三年前に駈け込んできた男だったのは、間違いないんですね?」 「絶対にそうか、と言われると自信がないんですけど、たぶん間違いないと思います」 「手伝いに来ていた方に、確かめられなかったんですか?」 「そのつもりでした。でも、説明文も読まないうちに、ちょうど団体のお客さまが到着されたんです。それで、後でゆっくり見ようとこの卓袱《ちやぶ》台《だい》に載せておいたんですが、忙しさに取り紛れているうちに忘れてしまい、週刊誌もどこかへいってしまったんです」 「そうですか」 「お役に立てなくて……」 「タレントの名前、どうしても出てきませんか?」 「ええ、申し訳ございません」 「いえ、こちらこそ不意に上がって、無理を申し上げているんですから。どうも、すみませんでした」  言ったものの、一度胸に大きくふくらんだ期待が、急速にしぼんでゆくのを、利彦は感じていた。タレント名、写真の題名、週刊誌名……これらのうち一つでも分かれば、何とか調べようがあるだろう。が、去年の七、八月頃出たらしい週刊誌というだけでは、この週刊誌の洪水の時代、個人の力ではどうすることもできなかった。  彼は、玄関脇に並べられた土産品のうちから鯛味噌と鯵の干物を二軒分買い、「花里」を出た。収穫はなかったが、親切で感じのいい女主人に心から礼を述べて。  ——三月のお花の頃、今度はぜひ遊びにいらしてください。  別れぎわの女主人の言葉とともに、冴子の顔を思い浮かべた。冴子と一緒ならどんなに楽しいだろう、ふとそんな思いが胸をよぎったのである。  西に回った陽に白く光る海を見ながら、駅へ向かって歩いて行った。 5  冴子は誰もいない家の中に引き籠り、〈志津の弟が自分のもっとも身近にいる人間かもしれない〉という疑惑に、独り苦しみつづけていた。  祐子がパートタイマーとして隣市の病院に勤めるようになっていたので、昼は一人きりなのである。  家にいたって、することなど何もない。外に出た方が気が紛れていいのは、分かっている。それでいて、大学へ顔を出したり、どこかへ出かけたりする気には、どうしてもなれなかった。  九月も、残すところ一週間ほどになっていた。次の公判は、利彦の口述試験の始まる前日、十月四日に決まっている。小池と利彦は——利彦は一生を左右する大事な試験前だというのに——それまでに何とかして真犯人を見つけ出したいと考え、必死になって動き回ってくれているようだった。  その後の調べにより、大町志津のスナップは足立区内の荒川土手で撮られたもの、と判明した。  荒川区、北区にも近い、京浜東北線の王子駅から北東へ二・五キロほど行った、江北橋のあたりである。  川の南側の土手に立った志津を、対岸の西のかなた、埼玉県の川口市方面をバックにして撮影したものらしい。大久保調査事務所が、都内の河川を専門に撮り歩いているカメラマンを捜し出し、彼の協力を得て、利彦が現場を見てきたのだ。二十年近くも前と現在とでは、当然周囲の風景が大きく変わっていたらしいが、構図が似ているうえ、明らかに志津の背後に写っていたのと同一の煙突が立っていたのだという。  もう一つ、工藤が志津の弟ではないということも、今や九分九厘、確実になっていた。河野たね子の口から、その証拠ともなるべき事実を小池が聞き出してきたからだ。  このように、彼らは大きな成果を上げつつあったのだが、ただ、肝腎の�志津の弟を特定する�といったところまでは、及んでいなかった。  彼を捜し出し、真犯人として告発するのは弁護士の仕事ではなく、本来は警察と検事の仕事である。だから、具体的に犯人の名をあげられなくても、無罪判決を勝ち取れる可能性は十分にある。〈疑わしきは被告人の利益に〉の精神に従えば、無罪になって然るべきだ。  そう、利彦は強調する。検察側には、父広一郎が工藤たち三人を殺したことを立証する直接証拠は、何一つない。あるのは、殺人の動機、診察室での薬物準備の事実、現場に落としたハンカチ、指紋を消した事実など、幾つかの状況証拠だけなのだから、と。  しかし、利彦も小池も、冴子の前で口にすることと、心の内は少し別のようだった。逆に、それだけの状況証拠があれば、広一郎の無実を裏づけるものが肉親である冴子の証言しかないという点から、判事たちは有罪判決を下すかもしれない——と、おそれているらしい。だからこそ、それを確実に阻止するためには真犯人を明らかにする以外にない、と考え、必死になっているのだった。  それが分かっているだけに、冴子はいっそう苦しんだ。父のために、自分の疑惑を話さなければならない。小池か利彦に、打ち明けなければならない。いや、その前に「彼」に会って、質さなければならない。そう自分に言いきかせながらも、彼女は祐子にさえ相談できずに独りで苦しみ、迷いつづけていた。  利彦と二人だけになったとき、口元まで出かかったことがある。小池に黙って調べてもらおうと考えたのだ。中学時代まで荒川区の南千住に住んでいたという「彼」と、彼の養父母について。  利彦なら、きっと冴子の言う通りにしてくれただろう。  だが、冴子には、利彦の調査結果を聞くのに堪えきれる自信がなかった。  九月二十五日の夕食後、ちょっとしたハプニングがあった。  冴子がついに決意を固め、「彼」に会おうと家を出かけたとき、利彦が顔色を変えて玄関に飛び込んできたのである。 「あ、冴ちゃん、祐子さんいる?」  彼は息を弾ませながら訊いた。 「ええ、いるけど」 「すぐ来てもらいたいんだ。美佐子を診て欲しいんだよ」 「美佐子ちゃん、どうかしたの?」  冴子は、靴をはきかけていた足を止めて訊いた。 「午後から少し元気がないと思っていたら、すごい熱なんだ」 「お医者さんは?」 「ずっとおじさんに診てもらっていたから、知り合いの医者がいないんだ。それで祐子さんに診てもらい、できれば彼女の勤めている病院に頼んでもらおうかと思ってね」 「分かったわ。じゃ、呼んでくる」  冴子は言うと、台所へ走り、片付けものをしていた祐子を呼んできた。  こうして三人で利彦の家へ行ったのは、八時十分頃だった。  真っ赤な顔をしてあえいでいる美佐子の傍らで、利彦の父親の修太郎が独り、なす術《すべ》もなく、おろおろしていた。  母親の絹子は実家の法事に泊まりがけで出かけているという話だったし、小池は広一郎の件とは別の用事で明日の日曜日まで名古屋へ出張中だった。  祐子は熱を計り、脈をみて、もしかしたら肺炎かもしれないと告げ、利彦にすぐ救急車を呼ぶように言った。そして、自分はパートで行っている小平市の病院に電話をかけ、診察を頼んだ。  祐子が美佐子と救急車に乗って行った後、冴子も利彦と一緒にタクシーを拾い、病院へ駈けつけた。美佐子の容体を気遣う気持ちとは別のところで、何となくホッとしている自分を感じながら。 〈私は彼を訪ねるつもりだった。行けなくなったのは、私のせいじゃない……〉  美佐子は、三階の個室に入れられていた。  医師の出て行った後で冴子たちが中へ入ると、やはり肺炎だったらしい、と祐子が告げた。美佐子は、小さな顔に酸素吸入器を当てられ、全身であえいでいた。大丈夫だとは思うが、今夜一晩は用心する必要がある、という。 「私がついていますので、金井さんは冴子さんと一緒に帰ってください。大切な試験前なんですから」  祐子が言った。 「祐子さん一人じゃ大変だわ。私も残るから、利彦さん、帰って」 「俺もいるよ。たいした役には立たないが、何かあったら医者を引っぱってくることくらいできる」  まだ緊張が解けないのか、利彦がまるで怒っているように言った。 「きっと、もう何もないわ。私なら、夜勤の経験だってあるし、一晩くらい平気よ。あ、それより、金井さんのお父さまに早く知らせてあげなくちゃ。独りで気をもんでらっしゃるわ」 「そうか。親父の慌てようったら、なかったからな」  利彦が、自分の慌てぶりを棚に上げて、言った。顔の強張りが、ようやく少し薄れたようだった。 「小池さんにはどうするの?」  冴子は訊いた。 「そうか、義兄さんには、どうしたらいいだろう?」 「知らせれば余計な心配をなさるし、美佐子ちゃん、これで大丈夫だと思うけど……」  祐子が言った。 「うん、でも、やっぱり電話しておくよ。心配はないけど、明日できるだけ早く帰るようにって」  結局、冴子は祐子を残して利彦とともに家へ帰り、翌朝早く、また彼と一緒に病室を見舞った。  すると、美佐子はすでに酸素吸入器を外され、おだやかな寝息をたてていた。  そして、その枕元には、祐子と、昨夜新幹線の最終で駈けつけたという小池が、まるで一人娘を見まもる母親と父親のように、充血した目に安堵と疲労のいりまじった色を浮かべ、静かに座っていたのだった。 6  二十七日、月曜日。利彦は、すっかり熱のひいた美佐子を病院に見舞ってから、その足で小池の事務所へ行った。ちょっと気になっていた判例を、事務所にある雑誌のバックナンバーで調べるためである。  事務所に着いたのは、昼近く。  小池も今野も、裁判所へ行っていて留守だった。  調べものは十五分ほどで終わり、帰ろうとしたとき、事務員の磯村喜美江が、女の人から電話だと告げた。  誰だろう、と思いながら受話器を取ると、和田の民宿「花里」の女主人からだった。先日利彦が訪ねてきてから、ずっと例のタレントの名を思い出そうとしていたところ、昨夜観ていた映画に偶然その男が出てきたのだ、という。 「ここ一、二年あまりテレビに出ていないようですけど、結城峻介……金井さんは、ご存じかしら?」  彼女は言った。 「ええ、知っています」  利彦は弾む声で答えた。  結城峻介といえば、結構有名だった。言われてみると、確かに最近あまり見かけなかったが、二、三年前までは時代劇、冒険アクションもの……と、かなり頻繁に顔を出していた俳優である。 「これだけでは、うちへ駈け込んできた男の方を見つけるのに、あまりお役に立たないかもしれませんけど、一応お知らせしておこうと思いまして」 「いえ、とんでもありません。十分ですよ。これから結城峻介の所属しているプロダクションに電話して、訊いてみます。わざわざ、本当にありがとうございました」  利彦は礼を言って電話を切ると、知り合いの週刊誌記者に、結城が「城プロ」という彼自身が社長をしているプロダクションに属しているという事実を調べてもらい、ダイヤルを回した。 「はい、城プロダクションでございます」  と、若い女の声が応じた。  そこで、利彦はこちらの身分を言い、去年の七、八月頃、結城と一緒に週刊誌のグラビア写真に載った男の名前を教えて欲しい、と頼んだ。 「何という週刊誌でしょう?」  女が訊き返した。 「それが分からないんです」 「それでは、私にも調べかねるのですが」 「そんなに沢山グラビア写真に載っているわけでもないでしょう」 「私は、今年入社したものですから」 「では、誰か、他の人に訊いてもらえませんか?」 「誰もいませんし、結城もマネージャーも当分連絡が取れないんです。『アマゾンの冒険野郎』の現地ロケで、ジャングルへ入ってしまっているものですから」 「電話くらいあるでしょう?」 「緊急の用件以外、呼び出しを禁止されているんです」 「でしたら、番号を教えてくれませんか。僕が直接連絡を取りますから」 「それは困ります。二週間ほどで帰ってきますから、それまで待ってください」  女は言うと、忙しいから、と電話を切ってしまった。  利彦は軽く舌打ちして受話器を置いた。 「どうしたの?」  磯村喜美江が顔を上げて訊いた。  利彦は簡単に事情を説明した。 「だったら、大宅文庫があるじゃない」  喜美江が、こともなげに言った。 「大宅文庫って、あの大宅壮一の?」 「そう。私も行ったことはないけど、あそこには、ほとんどの雑誌の記事が件名、人名別のカードで引き出せるように整理されているらしいわよ」  大宅文庫の名は、利彦も聞いていた。 〈恐妻家〉〈一億総白痴化〉などというマスコミ造語を生んだ故大宅壮一の残した、いわば私設図書館である。が、その具体的な内容までは知らなかったのだ。 「結城峻介のカードもあるだろうか?」 「あれくらい知られていれば、あるわよ」 「場所はどこなんだい?」 「京王線の八幡山から歩けるって聞いたような気もするけど、詳しい道順は知らないわ。駅に降りて、訊いてみたら?」 「そうしよう。じゃ、早速行ってくるよ」 「試験の方、いいの?」 「まあね」  利彦は答えて、事務所を飛び出した。  雑誌名は週刊エポック。グラビア写真の題は、芸能人やスポーツ選手とその旧友の交歓を写した「わが友、わが敵」。そして、結城峻介と肩を並べて笑っていたのは、六本木にある高級装身具店「夏目」の三代目社長・夏目昭一郎、と分かった。  夏目は、「花里」の女主人が言っていたように、背のすらりとした、なかなかの好男子だった。肩幅こそアクション俳優の結城峻介に及ばなかったが、マスク、スタイルとも、こちらもスターと言っていいくらいである。結城とは、東京北区にある私立高校の同窓生で、バレー部のエースアタッカーの座を争った仲だという。  利彦は、捜していた相手が意外な人物だったことに少なからず面くらった。高級装身具店の三代目といえば、おそらくそこの長男であろう。むろん養子である可能性もないわけではないが、漠然と頭の中で思い描いていた大町志津の弟の像とは、かなりへだたりがあるのだ。それに、たとえこの男が志津の弟だったとしても、名の知れた店の若社長という恵まれた環境にいる人間が、過去の復讐といった目的だけで、すべてを失うかもしれない危険を、果たして冒すだろうか。  どう考えたらいいのか、よく分からないまま、利彦はとにかく国分寺の事務所へ戻り、裁判所から帰ってきていた小池に事実を報告した。 「六本木の夏目といやァ、かなり名の通った店だな……」  彼の話を聞いた小池が、考える目をしてつぶやいた。 「この男はシロでしょうか?」 「確かに考えにくいが、ただ表向きはいかに恵まれて見えても、人間にはたいてい裏があるからね」 「じゃ……?」 「うん。とにかく大久保さんにもう少し探ってもらって、必要なら俺が直接その男に会ってみるよ」  小池が一度ここで言葉を切り、 「それより利彦君」  と語調を変えて言った。「明日から君は外出禁止だ。新しい事実が分かったら、俺から報告するから。いいね」 7  小池に申し渡され、利彦は気になりながらも、翌日、翌々日と家に籠って勉強に専念した。  そして、夏目昭一郎に関する大久保調査事務所の調査結果を、二十九日の夜、美佐子を迎えにきた小池から聞いた。  それによると——。  年齢は二十八歳。独身。父親が一昨年死亡したため、跡を継いで「夏目」の社長に就任した。店は六本木だが、住居は北区滝野川。三人兄妹の長子で、戸籍上は両親の実子になっているし、養子だという噂もない。工藤らの殺された五月はずっとパリに行っていたという、本人および周囲の者の証言がある。大久保の問いに対し、南房総の和田町へは一度も行ったことがない、と答えている。 「分かったのはこんなところだが、どうも夏目は大町志津の弟でも、工藤たちを殺した犯人でもないような気がするんだ」  小池が、説明の最後に言った。 「和田町へ行ったことがない、と言っている点はどうなんでしょう?」  利彦は訊いた。 「花里の女主人《おかみ》の記憶が正しければ、それは嘘だろう。だが、その部分は嘘でも、彼には、殺人なんかとは無関係に、女を捨てて逃げたという不名誉な過去を表に出したくない、という事情があるわけだからね」 「すると夏目はシロで、犯人捜しは振り出しに戻ってしまったわけですか」  利彦はがっかりした。夏目は違うかもしれないと思いながらも、心の片隅で〈もしかしたら……〉と期待していたからだ。 「いや、まだ完全に、シロと決まったわけじゃないが」  利彦の落胆した様子を見てか、小池が前言を翻すように言った。「たとえ五月にパリへ行っていたのが事実でも、誰にも気づかれないよう、十五日の前後だけ帰国したという場合も考えられる。だから、大久保さんには、もうしばらく調査をつづけてくれるように頼んである」 「夏目家の実子だという証拠もないわけだから、まだ、可能性としては残っていると思うけど……」 「それに、夏目家が代々住んでいる北区滝野川という場所も多少気にならないではない。王子駅を越して、バス一本で志津が写真に写っていた場所——荒川の江北橋へ出られるんだよ」 「バス路線ですか……」  なるほど、それは一つの着眼点かもしれない、と利彦は思った。彼も先日、御茶ノ水駅前から荒川土手行きのバスに乗り、本郷の東大前、田端駅前と通って江北橋まで行ってきたからだ。  が、そう思う一方で、バス路線まで考えると、荒川の江北橋に結び付く地域が飛躍的に拡大してしまう、という気もした。利彦がその疑問を口にすると、 「まあ、そうだ。だから、滝野川というのは単なる偶然かもしれないが」  小池が答えた。 「もちろん僕も、夏目を引きつづき調べるのは反対じゃありませんが」  利彦は言った。「ただ、彼が犯人でない場合、どうなるんでしょう? 義兄さんの見通しはどうなんですか?」 「うん……」  小池の顔が深刻気にくもった。  利彦は黙ってその顔を見つめた。 「今度の公判で、河野たね子の口を通じて、工藤が大町志津の弟ではなかった、という事実は明らかにできる」  小池が話し出した。「つまり、西さんの他に犯人がいる可能性だけは示せるわけだ。だが、果たしてそれだけで検察側の状況証拠を崩す力になりうるかどうか、判事たちに西さんの無実の心証を与えられるかどうか、という点になると、正直いって自信がない。君も知っての通り、西さんの供述を支えているのは、娘の冴子さんの証言以外にないわけだからね」 「今後、裁判は具体的にどんなふうに進んでゆきそうなんですか?」 「十月四日に明確な立証事項を示して新たな証人を申請できないとなると、次が論告・求刑、その次が最終弁論で結審、となるおそれは十分ある」 「では、四日までに真犯人を突き止めるのが不可能なら、せめて何か新しい証拠、新しい証人を見つけ出して、時間だけでもかせぐ必要があるわけですね?」 「うん」 「新しい証人か……」  利彦は考えながら、つぶやいた。  はっきりと立証事項を示して申請できる新たな証人——。難しかった。 「一応考えているのは」  と、小池が言った。「工藤の下に住んでいた森隆二は気づかなかったわけだが、西さんが十時に窓を開けたのが事実なら、そのとき近所の人の中にひょっとしてガスの臭いをかいだ者がいるんじゃないか、と思っているんだ。ガスの比重が一より小さくても、外には微風くらい吹いていただろうからね」 「そうか。案外、警察はそのへんのところを聞き込んでいながら、隠している可能性もありますね。それじゃ、明日、僕がアパートの周辺を当たってみます」 「君が? いや、それは駄目だ」 「今更ガツガツしたってどうにもならないのは、義兄さんだって知っているじゃないですか。それに、家にいたって、どうせ気になって身が入りゃしないんです。まあ、任せてください。必ず、時間かせぎの材料くらい見つけ出しますから」  利彦は多少明るい気分になって言った。  だが、翌三十日、彼は井ノ頭ハイムの周辺をかなり丁寧に聞き回ったにもかかわらず、小池に約束した〈材料〉を何一つ見つけ出すことができなかった。 8  十月に入った。公判は三日後、口述試験は四日後と迫った。用事はなかったが、家でじっと机に向かっていることができず、利彦は昼過ぎに国分寺へ行った。  駅前広場を出て小池の事務所へ向かうと、反対側の歩道を知った顔が歩いてきた。大久保調査事務所所長の大久保憲治である。年齢は五十二、三歳。色が黒く、痩せていてあまり見映えはしないが、小池によると、口が固く信用のおける男だという。  大久保も利彦の姿に気づき、目に笑みを浮かべて近づいてきた。が、狭いながらも車道を挟んでいるため、言葉を交わすことなく、互いに黙礼して別れた。  当然、事務所へ行った帰りにちがいない。何かいい報《しら》せでも持ってきてくれたのならいいが……。  利彦はそう思い、少し行って、足早に通りを渡った。  昼食にでも出たのか、今日は事務所に磯村喜美江の姿がなかった。  そこで、利彦は黙って中へ入り、衝立の奥を覗いた。  小池が応接セットのソファに背を見せて座り、独り腕組みをしていた。  前のテーブルには、都内の区分地図帳が開かれている。  彼は利彦の入ってきたのに気づかなかったらしい。 「義兄さん」  と声をかけると、ビクッと体を震わせ、腕を解いて顔を振り向けた。 「ああ、利彦君……」  その顔は、利彦が思わず息を呑んだほど暗く深刻気だった。  何があったのか——。 「今、下で大久保さんに会いましたけど、夏目に関して新しい事実でも知らせてきたんですか?」  利彦はテーブルの上の地図に半分視線を向けながら、訊いた。開かれているのは、都区内主要部の総図である。 「いや、別にそうじゃない」  小池が利彦から視線を逸らして言った。 「この地図は総図ですね? 義兄さん、これを見ながら、何やら真剣に考えているみたいだったけど」 「地図は、偶然開いていただけさ」 「じゃ、大久保さんは新しい事実は何も?」 「うん。それで、困り果てていたんだよ。残すところ、あと二日しかないからね」  小池の様子に、利彦はどことなくいつもと違うものを感じた。ひどく暗い表情をしているのである。それでいて目に落ちつきがなく、何かを隠しているような……。  だが、自分に隠さなければならないものが彼にあるはずがない、と利彦は思い返し、 「もう少し裁判を引き延ばすことは、どうしてもできないんですか?」  と、訊いた。 「検事がどう出るかだが、少なくとも、こちらには手駒がない」 「もう一度、昨日の……」  利彦が言いかけたとき、今野と喜美江が笑い合いながら帰ってきた。やはり昼食に出ていたらしい。 「俺はこれから前橋へ行ってくる」  小池がすっと立ち上がった。厳しい表情である。 「前橋?」 「もう一度石塚信吉に会い、この前うっかり聞きおとした点を確かめてきたいんだ」 「大町志津の弟を捜し出す、新しい手掛かりになりそうな事柄ですか?」 「まだ何とも言えないが、そうなるかもしれない。すまないけど美佐子のこと頼むよ」  美佐子は昨日退院し、利彦の母絹子が面倒をみていた。 「それはいいですけど、これからだと遅くなりますね」  うん、と小池が時計を見、 「まあ、十時頃までには帰れるだろう」  ——しかし、小池は、その晩九時過ぎに電話をかけてきただけで、翌二日、土曜日の夜まで戻らなかった。  二日、夜八時過ぎに利彦の家へ姿を見せた小池の顔には、濃い疲労と苦悩の色が、はりついていた。石塚信吉の言葉から手掛かりを得て、数人の男女を訪ね廻ったが、結局、何もつかめずに終わったのだという。  彼は部屋へ上がらずに、そう利彦に玄関で説明し、美佐子をあと二日間、四日の公判が終わるまで預かって欲しい——と絹子に頼んだ。 「何とか、ぎりぎりまで全力を尽くしてみるよ」  彼は、食事と風呂を勧める利彦と絹子の誘いを断わって、出て行った。  その後ろ姿は、絶望の翳を背負っているかのようだった。  利彦は、そんな小池を見送りながら、広一郎の無罪判決を勝ち取るのは、これまで自分たちの考えてきた以上に難しいらしい、と心を重くした。  第九章 衝撃 1  十月四日、第五回公判の日である。  冴子は朝から胸を重く締めつけられていた。志津の弟がとうとう見つからなかった、と昨夜利彦に聞いていたからだ。  ここ半月ほど、冴子は、真吾こそ志津の弟ではないかという疑惑に戦《おのの》きながらも、必死でそれを打ち消してきた。小池と利彦がきっと別の男を捜し出してくれるにちがいない、と期待し……いや、祈りつづけてきた。真吾に会って問い質さなければならない、そう思いながらも、美佐子の病気の後、一日延ばしに決断を遅らせてきた。  だが、今日の公判の成り行きによっては、もうこれ以上引き延ばすわけにはいかなくなるはずである。父広一郎を救けるためには、自分の抱いている真吾についての疑惑を、小池と利彦に打ち明けなければならなくなるはずであった。  冴子の重苦しい気分とは関係なく、秋晴れの爽やかな日だった。昼近くになっても、雲ひとつ湧いてこない。  その真っ青な空の下、冴子は迎えにきた利彦と二人、バスで中央線の武蔵境まで出て、昼食がわりにコーヒーだけ飲み、八王子へ向かった。祐子は今朝早く友達に電話で呼び出され、出先から裁判所へ来てくれることになっていたし、小池は昨夜事務所に泊まり、利彦の家にもマンションにも戻らなかったのだという。  裁判所に着いたのは、一時十二、三分前である。  廊下から法廷を覗くと、岩田検事や小池、祐子はまだ姿を見せていなかったが、二人の証人だけはすでに来て、前の廷吏の席でカードの記入をしていた。  冴子は、廊下で待つように言われて出てきた石塚信吉に挨拶してから、利彦と一緒に中へ入り、傍聴席についた。  間もなく岩田検事、広一郎、小池、書記官と出廷し、一時を回ったとき三人の判事たちが登壇——彼らの着席にわずかに遅れて、祐子が入ってきた。 「遅れて、ごめんなさい」  彼女は急いで来たらしく、乱れた呼吸を整えながら白く強張った顔で謝り、冴子たちの後ろの席に座った。  吉本裁判長が、証人が出廷しているかどうかを廷吏に確かめ、まず河野たね子を呼ぶよう命じた。  それから、形式的な手続きがすむまで、冴子はじっと小池を見つめていた。  髭は当たってあったが、肌は乾いて艶がなく、疲労の色がにじんでいた。目は充血し、ひどく暗く厳しい表情をしていることに、冴子は今日の公判の困難さを予感した。  利彦によると、小池は昨夜事務所に泊まり、ほとんど眠らずに今日のための策を練っていたのではないかという。  それにもかかわらず、結局、彼は打開策を見出せないまま、この公判の席に臨まざるをえなかったのではないだろうか。 「では、弁護人、尋問を始めてください」  河野たね子を椅子にかけさせた裁判長が、小池を促した。  小池が立ち上がる。  そのとき、彼の視線が冴子たちの方へ流れた。  おやっ? と冴子は思った。小池の目の中で、一瞬、微かなためらいの翳が揺れたように感じたのだ。 〈小池は、何を迷い、何をためらっているのだろう……〉  が、冴子が考えている間もなく、小池の顔は証人台の河野たね子に向けられ、最初の質問が発せられた。 「証人は、工藤良男君をご存じですか?」 「はい」  六十年配の商家のかみさんといった感じの河野たね子が、少し上ずった声で答えた。 「どういうご関係ですか?」 「良男は、私の死んだ妹の息子です」 「息子といっても、実子と養子とありますが、良男君はどちらですか?」 「もちろん妹の実の子です」 「証人は、妹さんの出産に、立ち会われたのですか?」 「いえ」 「妹さんの妊娠した体を、直接、ご覧になったことは?」 「ありません。妹が良男を産む前、一年ほどは会っておりませんから」  向かって右側の一番若い判事が、オヤッという顔をして小池の方を見た。冴子は事情を聞いていたので驚かないが、小池の訊き方がまるで検事の反対尋問のようだったかららしい。 「では、良男君が妹さんの実子である、と証人の言われる、具体的な根拠をお聞かせください」 「裁判長」  小池がいよいよ肝腎の質問に移ったとき、岩田検事が立ち上がった。「前回も申し上げたように、弁護人の尋問は本件の審理に直接関係のないものと思量いたします。起訴状で述べているように、本件は被告人が工藤を大町志津の弟らしいと考えていた事実だけが問題なのであり、実際に彼が志津の弟であったか否かは、無関係だからです。それでも、どうしても尋問の要あり、と弁護人が考えておられるなら、裁判長より釈明を求めていただきたい、と思います」  今更なぜ……と、冴子は岩田の意図をいぶかった。尋問の理由は明らかなはずである。それとも、これは、裁判が弁護士ペースで進められるのを嫌った、検事の駆け引きなのだろうか。 「先日の弁護人の説明では、不十分なのですか?」  裁判長が、多少とがめる口調で訊いた。 「不十分というより、論理の飛躍、すり替えがあるからです」  どこがすり替えなのか冴子には分からなかったが、岩田検事の言葉に、裁判長の心が少し動かされたようだった。  彼は、左右の陪席判事たちと目顔でうなずき合ってから、小池に立証趣旨を説明するよう、求めた。 「確かに起訴状では工藤が大町志津の弟だとは断定しておりませんが、かといって、その事実関係が本件の審理に無関係だと主張することこそ、被告人を犯人だと決めつける検察官の手前勝手な暴論であります」  小池が言った。「先日も申し上げましたように、私は、本証人の尋問を通して工藤良男が大町志津の弟ではなかったという事実を明らかにし、次いで、彼らを殺害した真犯人の存在することを立証する予定です」 「今のが、論理の飛躍、すり替えだと申し上げたんです」  岩田検事が反論した。「工藤が大町志津の弟でないと分かっても、それが、どうして被告人以外の犯人の存在に結びつくのでしょう? 志津の写真原画が被告人の妻のブラジャーに入っていたという事実から、確かに彼と工藤らの間に何らかのコンタクトのあったことは窺えます。しかし、だからといって、彼を真犯人と主張するのは、工藤らに関わりのあった者すべてを犯人だと主張するのと同じです。志津の弟が恨んでいたと思われるのは被告人であり、工藤らではありません。志津の弟の関係した可能性のあるのは昨年の一宮の暴行事件であり、本件ではありません。ですから——」  岩田検事がちょっと言葉を切り、唇の端を皮肉な感じに歪ませてつづけた。 「ですから、もし弁護人が、大町志津の弟が工藤たち三人を殺したという事実を立証できるのなら別ですが、それができないのなら、いたずらに審理を長びかせるだけの本証人の尋問を、即刻中止されるよう望みます」 「弁護人、いかがですか? 本証人の証言は、つづけて聞いてみたいと思いますが、その後で、起訴状に対立するような事実、つまり、被告人以外に犯人の存在する事実を、立証できる見込みがあるのですか?」  裁判長が、検事の主張を退《しりぞ》けながらも、小池に質した。  小池の顔を、また逡巡の翳がよぎった。いや、それは冴子の誤解で、彼は、単に返答に詰まっただけなのかもしれない。実際、彼は、非常に苦しそうだった。  そんな小池の様子を見て、岩田検事は目に意地の悪そうな笑みを浮かべた。彼は、小池が志津の弟について何一つ具体的に掴んでいないのを見越したうえで、たとえ志津の弟と工藤が別人でも、その弟が工藤らを殺した犯人とは言えない——そう判事たちに印象づけておきたかったらしい。小池の尋問を中止させるのが目的ではなく、肝腎な質問の前に小池を牽制し、彼のペースに判事たちが乗せられるのを阻《はば》んでおきたかったらしい。  そして、今、検事のその目的は十分に達せられたようであった。 「弁護人、いかがですか? 見込みがあるのですか?」  裁判長がもう一度訊いた。 「ございます」  一呼吸おいて、今度は小池がきっぱりと答えた。心の迷いをふっ切ったような言い方であった。 「その点につきましては、今日予定されている二人の証人尋問の後で、もう一人、私が出廷を要請した者の証人尋問を、お願いするつもりです」  冴子は小池の思いがけない返答に驚いた。もう一人の証人——。それによって、父以外の犯人の存在を立証できる。小池はいつ、そんな人間を突き止めたのだろうか。その証人とは、いったい誰なのだろうか。 〈アッ!〉  と、冴子は心の内で叫んだ。  謎が解けるのを感じた。  小池が今見せた逡巡。尋問の始まる直前、思わずといった感じに自分の方へ向けられた視線。そのとき、目の中に揺れた、ためらいの翳。  他に考えられない、と冴子は思った。小池は、真吾に到達していたのだ。そして、どういう理由をつけたのか分からないが、今日ここへ彼を呼んでいる。そうしていながら、冴子の心の内を思い、小池は、なおも最後の決断を迷い、独り苦しんでいた——。  冴子の胸は激しく鳴り出していた。口が乾き、舌が張りつきそうだった。息が苦しい。間もなく、真吾が現われる。今、ここへ向かっている。証人というより、真犯人として小池に告発されるために。 「検察官、まだ何か意見がありますか?」  裁判長が検事に訊いた。 「ございません。弁護人の言われる通りでしたら、誠に結構です。当法廷にいる被告人以外に、真犯人とやらを明らかにしていただけるのでしたら、速やかに尋問を進め、一刻も早く、弁護人のお好きな抜き打ち証人尋問の請求に移っていただきたいと思います」  小池の返答を聞いたとき、岩田検事の目には明らかに戸惑いと動揺の色が浮かんだ。しかし、彼は今、それを皮肉な言葉の裏に隠して、言った。 「弁護人、それでは、先ほどの尋問をつづけてください」  裁判長に言われ、小池が黙礼して、河野たね子に視線を戻した。 「証人は、工藤良男君は妹さんの実子だと言われましたが、そう言われる具体的な理由を聞かせていただけますか?」 「はい」  河野たね子が、心持ち背筋を伸ばして答えた。 「それは、自分の子供も欲しがっていなかった妹が、他人の子供をもらって育てるわけがないからです」 「妹さんは、なぜ、子供を欲しがらなかったんですか?」 「亭主が半分ヤクザのような男で、働かずにごろごろしていたため、妹が飲み屋で働いていたんです。まだ何もない時代でしたし、生活が苦しく、子供などできたらとても暮らしていけない、とよく言っていました」 「子供のできない体ではなかったわけですね?」 「はい」 「そう言える根拠がありますか?」 「少なくとも良男の前に二度、良男を産んだ後に一度、妹が子供を堕ろしたのを、私は知っています」 「では、なぜ良男君を産んだんでしょう?」 「妹の口から、はっきり聞いたわけじゃありませんが、気づかないでいるうちに堕ろせなくなってしまったんだと思います」 「尋問を終わります」  小池が言って、着席した。  次いで、裁判長が岩田検事に反対尋問を促したが、彼はちょっと腰を上げ、 「ございません」  と、答えた。 2  小池による石塚信吉に対する主尋問が始まった。  だが、検事も判事たちも、自分の傍らで体を固くしている冴子も、この尋問にあまり注意と関心を寄せていないように、利彦には感じられた。見えないが、後ろの祐子や、数人いる傍聴人たちも同様ではないか。この法廷にいる全員が自分と同じように、ただし、それぞれ異なった思惑をもって、さっき小池の予告した新しい証人の登場を待っているのではないか——そう彼は思った。  利彦には、その証人について、一つの予測がある。もしかしたら夏目昭一郎ではないか、と考えている。しかし、一方では、そうでないような気もしていた。もし夏目なら、小池が自分に黙っていた訳が分からないからだ。そして、夏目でないとしたら、彼には見当がつかなかった。  ただ、その証人が誰であれ、小池がそれに関する情報を掴んだのは三日前の昼、大久保からだったのではないか、と思う。大久保と入れ代わりに利彦が事務所を訪ねたとき、小池には何かを隠しているような雰囲気があった。あのときは、思い違いかもしれない、とさほど気にも止めなかったのだが。  また、そのとき、小池は区分地図帳の都区内主要部の総図を開き、ひどく暗い、深刻気な顔をしていた。だから、その情報は、あの地図の頁とも何らかの関わりがあったのかもしれない。 「すると、証人は、妹さんのその友人が東京のどこに住んでいたのか、まったく、ご存じないわけですね?」  小池の質問がつづき、「ええ」と石塚信吉が答えた。 「証人の奥さんの観察では、明らかに妊娠していたと思われる妹さん、カツさんは、どれくらいの期間、北見村を留守にしていたのですか?」 「五ヵ月から半年ほどです」 「カツさんが東京で子供を産んだ、という話を証人が聞いたのはいつですか?」 「昭和二十×年だったかその翌年だったか、どうしてもはっきりしないんです」 「いや、カツさんが村へ帰ってきてどれくらい経ってからか、という意味ですが」 「それでしたら、本人の口から聞いたのは、十日ほどした頃でした。もちろん、だいたいの事情は察しておりましたが」 「証人の方から尋ねたんですか?」 「そうです」 「証人の問いに、カツさんはどのように答えたんですか?」 「友達夫婦の世話で男の子を産んだが、すぐに死んでしまったので一切関係ない、と繰り返しました」 「証人は、その言葉を信じましたか?」 「いえ」 「なぜでしょう?」 「生まれてすぐ死んだにしても、届け出なしにすますわけにはいきませんし……いえ、そうしたことより、血を分けた妹です、顔を見れば、嘘をついているかどうかぐらい、分かりました」 「実のお兄さんであるあなたにまで、カツさんは、なぜそんな嘘をつく必要があったのでしょう?」 「妹はその子……志津の弟を、あくまでも友達夫婦の実子として、私を含めた村から完全に切り離したところで育てたかったのだと思います。これは、その後、友達夫婦が一度も子供を連れて村へ来なかった、という事実からも明らかです」 「妹さんは、どういう性格の方だったんですか?」 「頭が良いかわり、人一倍気が強く、負けず嫌いで、ヒステリー性なところもあったかと思います。自分を侮辱したり馬鹿にしたりした人間を、表面はどうあれ、絶対に許すことのできない女でした」 「かなり烈しいものを内に秘めた方だったわけですね?」 「そうです。娘の志津にも、母親譲りのそうした烈しい一面がありましたが」 「北見村というのは、どういうところだったんですか?」 「今はだいぶ変わってきていますが、昔は村が世界、小さな集落が世界という閉鎖的な農村でした。そこでは人々の関心は隣り近所の問題にかぎられますから、表面にこやかな付き合いの裏で、いつも陰湿ないがみ合い、悪口の言い合いが行なわれていました。よく、隣りの家に蔵が建てば腹が立つ、と言われたくらいです」 「そんな村におけるカツさんの生活は、どのようなものだったんでしょう?」 「惨めなものでした。一度は村中の者から羨《うらや》まれて東京の一流銀行に勤める男と結婚したのに、それが村へ疎開してきて、戦後は病身の夫と志津を抱え、日雇い仕事をもらって、やっと食いつないでいたんですから。かつては優等生で、前橋の女学校まで出た妹にとって、それは、まさに屈辱的な生活だったと思います。内心悔しくて悔しくて仕方がなかったんじゃないか、と思います。私にだけは多少気を許していましたが、私の妻を含めた村の人間すべてを憎みながら、妹は暮らしていたんじゃないか、と思います」 「カツさんが妊娠されたとき、村の人たちは何か言いましたか?」 「ええ、満足に食えないくせに、あっちの方だけは盛んだ、などという陰口がきかれました」 「カツさんが友人の家で子供を産んで帰ったときは、いかがですか?」 「もう堕ろせなかったはずだから、どこかで産みおとし、子のいない夫婦にでも売りつけてきたんだろう——こんなふうに言う者がありました。妹は、そうした噂をむし返されないためにも、志津の弟を完全に村から切り離しておく必要があったんだと思います」 「話は少し変わりますが、証人には甥に当たるそのカツさんのお子さんから、何か、連絡がありましたか?」 「はい、一度だけ電話がありました」 「それは、いつでしょう?」 「去年の十月末、西さんの娘さんが訪ねてこられた四、五日後でした。その少し後に、西さんも見えたのです」 「どういう電話の内容でしたか?」 「『伯父さんですか、志津の弟です』と名乗り、私がびっくりしていると、『今まで知らなかった事情をいろいろ聞きました、一度伺います』と言い、私が住所などを尋ねる前に、『近いうちに必ず伺いますから』と電話を切ってしまいました」 「それ以来、連絡もなければ、姿も見せなかった?」 「はい」 「ということは、電話してきたのが甥御《おいご》さん本人だったかどうかは、確かめようがなかったわけですね?」 「ええ」 「それでは、最後にもう一度確認いたしますが——」  小池がちょっと言葉を切り、「証人は、カツさんのそのお子さんに会われたことは、ただの一度もない?」 「ありません」 「となると、その甥御さんが生きているのか亡くなったのか……いや、もともと志津さんの弟さんなどという人がこの世に存在したのかどうかも、確実なところは分からないわけですね?」 「しかし、妹の……」 「あなたの推測をすべて抜きにして、事実だけを答えていただけませんか?」 「でしたら、私は一度もこの目で見ていないわけですから、そういうことになります」  石塚信吉が不満気に答え、小池が尋問を終えた。  利彦は、小池の意図がますます分からなくなっていた。  大町カツの性格や北見村の様子まで訊いたのは、カツが子供の存在を隠したのには十分な理由があった、という点を明らかにしたかったからであろう。つまり、志津の弟の存在が疑いえないものである、と間接的に示そうとしたのであろう。ところが、せっかくそうしておきながら、最後に、志津の弟など存在しなかったかもしれない、と逆の結論を暗示しているのだ。  なぜなのか、と利彦は思う。小池はいったい何を考えているのだろうか。これは、小池が次の証人として用意している人間と当然密接に関わっているのだろうが、それは志津の弟ではなかったのだろうか。もし志津の弟でないのなら、その人間は、事件の中でいかなる位置を占め、どのような役割を果たしたのだろうか……。  岩田検事は、今度も反対尋問を行なわなかった。広一郎が前橋を訪ねた事実などを記した石塚信吉の供述調書は、検察官申請の証拠として採用されているからであろう。  石塚信吉が廊下へ出て行くのを待って、吉本裁判長が目顔で小池を促した。  小池がゆっくりと立ち上がる。  顔が青ざめ、引きつっていた。 「先ほど申し上げましたように、ここにもう一人の証人尋問を請求いたしたい、と思います」  彼は言った。 「その証人は、当裁判所の構内にいるのですね?」  吉本裁判長が訊いた。  森隆二のときと同様、証人が裁判所構内にいる場合にかぎり、召喚しないでも尋問できる決まりになっているからである。 「おります」 「弁護人の請求に対して、検察官は意見がありますか?」 「先ほど弁護人が述べられた立証趣旨にもとづくものでしたら、しかるべく」 「弁護人は、その証人の尋問によって、被告人とは別の人間が犯人であることを立証できる見込みなのですね?」 「そうです」 「では、尋問を認めますので、弁護人はその者の氏名、住所を述べ、速やかに出廷させなさい」 「証人の氏名は、小池——」  小池の声が上ずった。「小池祐子。当法廷内にすでに来ております」 3  冴子は思わず上げそうになった声を、辛うじて呑み込んだ。  後ろで、祐子の立ち上がる気配がした。  廷内は、水を打ったように静まりかえっている。  あまりの意外さに、冴子はただ驚き、息を詰めて事態の推移を見まもった。  祐子が緊張した足取りで出て行くのを、廷吏が仕切り柵のところで迎える。 「弁護人、この証人は、前回喚問した石野祐子と同一人ではないのですか?」  吉本裁判長が、小池に訊いた。 「そうです。本日、わたくし弁護人との婚姻により、小池と改姓いたしました」  横の利彦の口から、「アァ」というような小さな声が洩れた。冴子は彼と顔を見合わせる。彼の目には、驚愕とも興奮ともつかない光があった。  祐子が、廷吏から受け取った証人カードを手に弁護人席に寄り、小池に何やらささやいた。  と、小池が、エッと驚いたように顔を起こし、前よりいっそう苦しげな表情で、 「裁判長」  と、呼びかけた。「手違いによって、婚姻届が未提出のため、証人の氏名を小池祐子から、石野祐子と訂正いたします」  吉本裁判長が黙ってうなずいた。そして、祐子が証人カードに記入し終わるのを待ち、 「証人は、前へ」  と、言った。  祐子が、証人台へ進み出る。 「証人は石野祐子に間違いありませんね?」 「はい」  一度呼んでいるためか、裁判長は名前だけを確認し、 「では、宣誓してください」  廷吏の「起立」という号令に、冴子たち傍聴人も立ち上がった。 「宣誓」  と、祐子が宣誓書を読み出した。「良心に従って真実を述べ、何事も隠さず、偽りを述べないことを……」  祐子の声は震えを帯びていた。  冴子には、まだ訳が分からなかった。祐子が犯人を知っている。どうしてなのか。真犯人は誰なのか。真吾ではなかったのか。届けを出していないというが、祐子と小池はなぜ突然結婚したのか……。  宣誓した通り嘘をつかないように、という裁判長の注意の後、いよいよ小池の尋問が始まった。 「証人は落ちつき、勇気を出して、どうか私の質問に、真実を答えてください。いいですね?」  小池は祐子の目をじっと見つめ、励ますように言った。 「はい」  祐子も彼の顔にひたと視線を向け、小さいが、はっきりした声で答えた。 「証人は、夏目昭一郎という人をご存じですか?」 「はい」 「では、彼の素姓、証人との関係を簡単に述べてください」 「夏目さんは、六本木にある高級装身具店『夏目』の社長さんです。私とは、三年前、半年ほどお付き合いがございました」 「お付き合いというのは、恋人関係にあったという意味ですね?」 「はい……」 「彼とは、どこで、どのように、知り合ったのですか?」 「三年前の一月、私が看護婦をしていた駒込中央病院に、夏目さんが胃潰瘍で入院してこられたのがキッカケでした。夏目さんは間もなく退院されたのですが、その後、何度かお電話があり、個人的なお付き合いをするようになったのです」  夏目の名は、「どうやらシロらしい」という情報とともに冴子は利彦から聞いていた。そして、その話が出たとき二度ほど、祐子も同席していたはずである。にもかかわらず、祐子は夏目と交際のあった事実など、一言も洩らさなかった。  まだはっきりとは捉えきれない恐ろしい疑惑が胸に広がるのを、冴子は感じた。と同時に、さっきの小池のためらいの視線は自分に向けられたわけではなかったのだ、と思った。後ろの席の祐子に向けられたものだったのだ。 「証人と夏目さんは、三年前の八月、南房総の和田町へ行きませんでしたか?」  小池が質問をつづけた。 「まいりました。正確に申し上げますと、三年前の八月七日、鴨川のホテルに宿を取ったのですが、夕食後、和田の海岸までドライブをしたのです」 「そのとき、あなたがたの身に、何か起こりましたか?」 「はい。車を停めて砂浜の方へ歩き出したとき、突然三人組の男たちに襲われ、夏目さんが男の一人にナイフを突きつけられている間に、私は他の二人に彼らの車の中へ押し込まれ、引きずり込まれてしまいました」  冴子の胸は、抑えようのない激しさで高鳴り出していた。夏目の名が出たときから、あるいは……と思っていたことが、祐子自身の口から明かされたのである。  冴子の中で、�疑惑�は次第にその輪郭を鮮明にしてゆくようだった。 「すると、あなたは、車で連れさられ、三人の否応ない狼藉《ろうぜき》を受けたわけですね?」  小池が、瞬間、祐子から目を逸らして訊いた。 「はい……」 「その三人の男たちの名前を、知っていますか?」 「知っています。工藤良男、松岡勇、山野辺英夫の三人です」 「なぜ、はっきり言えるのですか?」 「私は、彼らに乱暴されてから車で東京まで連れて行かれ、当時工藤が住んでいた亀戸のアパートで、また同じ目にあわされたからです」 「大声をあげて助けを求めるか、スキを見て逃げ出すことはできなかったのですか?」 「途中で腕に何か薬物を注射され、意識がもうろうとしていたのです。そして、再びアパートで代わるがわる乱暴されたときは、薬物は切れてきていたのですが、ショックと恐怖で、声を出すことさえできなくなっていたのです」 「そのとき彼らは、あなたに何か言いましたか?」 「はい」 「何て……?」 「工藤が凄みをきかせた声で、『警察へ知らせたきゃ、知らせたって、いいんだぜ』と、言いました。『その代わり、後がどうなってもいいっていうんならな。たとえ捕まったって、俺たちは、じきに出所できる。そのときは必ずおまえを捜し出し、一生つきまとってやる。結婚はおろか、勤めもつづけられないようにしてやる。それでも、構わないっていうんならな……』」  冴子は息苦しさを感じた。祐子の生々しい告白もショックだったが、それ以上に、真相がいっそうはっきりと見えてきたからだ。 「それで、あなたと夏目さんの関係は、その後どうなりましたか?」  祐子の痛ましい体験を聞いた後、いたわるように少し間をおいてから、小池が質問を継いだ。 「二、三日して、私の住んでいた病院の寮に電話がありました。そして、和田ではすぐ警察へ知らせ、自分も車で近くを捜し回ったが、無駄だった、というような話をされたと思います。すまなかった、会いたい、とも言われました。ですが、私がもうお会いしたくない、と答えますと、それきり何も言ってこられませんでした」 「工藤たちは、どうしましたか?」 「脅しに負けて、私が警察に知らせなかったのがよくなかったのかもしれません。私につきまとい始めました。駒込中央病院を辞め、寮を出て二度アパートを替わったのですが、彼らは特別の嗅覚でも持っているのでしょうか、二ヵ月と経たないうちに、いずれも見つけられてしまいました。思いきって警察へ訴えようか、と私は何度考えたかしれません。でも、彼らが釈放されてくれば、また同じような……いえ、もっと酷い目にあわされるに決まっています。それを思うと……それに、自分の傷を晒すことの強い抵抗も手伝い、結局訴え出る勇気が出ませんでした。  工藤たちを殺す以外に自由になれる道はない、と考え始めたのは、その頃からです。それに、私は彼らが憎かったんです。やっと掴んだと思った私の幸せを壊し、私の人生をズタズタに引き裂いてしまった彼らが。もう、法律の裁きに任せるだけでは気がすまないほど憎い、と感じ始めていたのです」  法廷は咳一つなく静まりかえっていた。 「こうして、工藤たちの殺害を決意すると、私はもう彼らを恐れませんでした」  祐子はつづけた。 「進んで工藤の情婦になったように装い、私の勤め先には絶対に電話したり、顔を出したりしないよう、まず約束させました。そして、私の方も、彼のアパートを訪ねるときは、赤髪のカツラをつけて思いきり厚化粧し、黒や紫のマニキュアをした指に煙草を挟み、近所の人に素姓を気づかれないよう、注意したのです。  その後、しばらくしてから、偶然私は新聞の求人広告を目にし、西医院に勤めるようになりました。すると、工藤は何度か約束を破り、患者を装って様子を見に来ました。でも、私が柔順に彼の言うことを聞き、月々のお給料の大半を渡していましたので、私との関係を気づかれるような振舞いだけはしませんでした」 「西医院に勤めるようになったのは、何か目的があったのですか?」 「はい。とりあえず、先生と奥さまがどういう方か、探ることでした。具体的には、冴子さんと三人がそろっているとき……一人だけで握りつぶすことができないような状態で、大町志津の写真を見せ、お二人の反応を見ようとしたのです」 「その写真を証人が意図的に見せたと分からないように、ということですか?」 「そうです」 「去年の九月、工藤たちが一宮海岸で証人たちに襲いかかったとき、証人はその写真の原画……ネガフィルムを持っていましたか?」 「貴重品を入れたセカンドバッグの中に、持っていました」 「証人は、それをどうしましたか?」 「奥さまを介抱しながら、落ちていたブラジャーの破れ目に差し込みました」 「なぜ、そんなことをしたんですか?」 「先生と奥さまの反応を見る絶好の機会かもしれない、ととっさに考えたからです」  冴子はめまいがした。目の前が暗くかすんでいた。もう逃げ道はどこにもなかった。 「では、証人と大町志津との関係を、述べてください」 「大町志津は、血のつながった私の姉です」  祐子が答えた。 4  祐子は志津の妹——。  その一事によって、すべての疑問と謎が氷解するのを、利彦は感じた。「カツの産んだ子供はいたが、志津の弟など存在しないかもしれない」——そう石塚信吉に証言させた小池の意図も含めて。  祐子が夏目の元恋人だったと小池が知ったのは、やはり三日前大久保を通じてだったにちがいない、と利彦は思った。彼が事務所を訪ねたとき、小池が都区内主要部の総図を開いていたのは、祐子が子供の頃育ったという本駒込と江北橋の位置関係を調べていたのだろう。  工藤たち三人を殺した犯人は、もしかしたら祐子かもしれない。大久保の報告を聞いた小池は、この疑惑に苦しめられたと思われる。そこで石塚信吉を再訪し、石塚がその存在を信じている〈志津の弟〉についてもう一度質した。  すると、石塚が〈弟〉と信じ込むにいたった根拠は、「男の子が生まれたがすぐに死んだ」というカツの言葉以外に何もない、と分かった。石塚は「死んだ」というカツの嘘はすぐに見破ったものの、妹が自分に対して「男の子」「死んだ」と二重の嘘をついていようとは、夢にも思わなかったらしい。  この石塚の思い込みを補強したのが、冴子が訪ねた後、彼にかかってきたという自称〈志津の弟〉の電話であろう。が、それは、石塚の思い込みを知っている者が意図的にかけた、あるいは誰かを使ってかけさせた可能性が、十分考えられるのだった。近いうちに広一郎も石塚を訪ねるであろうことを予想して。  とにかく、こうしていっそう堅固になった石塚の思い込みは、さらに〈一宮の暴行犯人の中に志津の身内がいるにちがいない〉という冴子、広一郎の先入観と結びつき、以後は疑いえない�事実�として定着した——。  こう考えた小池は、前橋から戻ると駒込中央病院時代の祐子の知り合いを訪ね歩き、彼女の過去を調べたのではないだろうか。そして、自分の思い過ごしであって欲しいという願いも虚しく、祐子以外に犯人はいない、という結論に達したのではないだろうか。  一夜おいて、一昨日土曜日の夜、利彦の家を訪ねてきたときの、小池の苦悩に満ちた表情……。あのとき利彦は、てっきり、真犯人を見つけ出せなかったことで小池が悩んでいる、と思っていた。広一郎の無罪判決を勝ち取るメドが立たないことで苦慮している、と考えていた。だが、事実は逆だったのだ。祐子が犯人に間違いない、という絶望的な結論の重みの下で彼はあえいでいたのだ。  その後も小池は、祐子を告発すべきか否かで悩み、苦しみ、迷い……おそらく一睡もせずに今朝を迎えたのだろう。そして、ついに決断を下し、祐子を電話で呼び出したのであろう。  小池の表情を見てすべてを悟った祐子は、犯行を素直に打ち明け、自分の今後を彼の判断に委ねたにちがいない。  そこで、小池は祐子に結婚を申し入れた。自分の愛の変わらない証しにである。小池というのは、そういう男だった。  おそらく、祐子はそれを拒んだだろう。殺人犯人としてこれから裁かれ、刑に服さなければならない身で、どうして弁護士の妻に、美佐子の母になれるだろう。  しかし、祐子の告発を決めたとき、小池は別の決意も固めていた。祐子を自分の妻として、彼女を支え、彼女の苦悩を自分の苦悩としてこれからの人生を歩もうと。だから、祐子を強引に説得し、戸籍抄本を取りに行かせて、田無市役所に婚姻届を出した。いや、彼はそのつもりでいたのだが(おそらく時間がなかったため、必ず出すことを祐子に約束させ、先にこの法廷へ向かったのだろう)、祐子は彼のためを考え、出さなかったのだ。  一度は決断したものの、小池はこの法廷へ入ってからも、祐子の告発を迷いつづけていたにちがいない。彼さえ口をつぐんでいれば、祐子を疑う者はいない。そして、彼女の犯罪はたぶん永久に発覚することがないだろうからだ。  その彼の、最後の決断を促したものは何だったのだろう、と利彦は思う。法律家としての使命感、義務感だろうか。人間としての良心、正義感だろうか。たぶん、それら諸々の複合だったのだろうが、その中に祐子に対する深い愛も含まれていたのではないか、そんな気がした。 「証人が大町志津の妹である、という点に関して、事情を詳しく説明してくれませんか」  小池が言った。  尋問には、一問一答式と物語式供述を求める方法とがあるが、小池は今、後者を選んだのである。おそらく彼は、密室で刑事たちに取調べられる前に、裁判官と検事立会いの席で、祐子に自由に弁明する機会を与えたのであろう。 「私は、昭和二十×年、千葉県の松戸市で生まれました。でも、間もなく両親が離婚したため、母に連れられ、現在も本籍のある文京区本駒込の借家に移り住みました」  祐子が静かに話し出した。  今や、広一郎を裁くための裁判から微妙にずれ始めたが、判事も検事も、異を唱えなかった。 「私の中には、父に関する記憶がまったくございません。幼い頃の思い出に登場するのは、事務員をしながら私を育ててくれた母芳枝、祖母、近所の人たち、群馬のおばちゃんと呼んでいたカツ、それにカツの娘の志津だけです。カツと志津は、自分とどんな関係があるのか分かりませんでしたが、時々やってきては、泊まっていきました。二人とも、私にとても優しく、私はいつも二人の来るのを待ち望んでおりました。  なぜか私は、父親が欲しい、と感じたことは、あまりありません。ですが、兄弟……特に志津のような姉が欲しい、と思っておりました。幼心《おさなごころ》に、志津が自分の姉だったらな……と何度考えたか分かりません。数年後、それが現実のことだと聞かされようとは、夢にも思わずに……」  ——志津が上京して三、四年経った頃であった。すでに志津は准看護婦の免許を取って大塚の病院に勤め、休日のたびに祐子の家へ遊びにくるようになっていた。  その日も、祐子は、訪ねてきた志津と二人、バスで二十分ほどの距離にある荒川の土手へ行き、手をつないで歩いていた。  と、不意に志津が足を止めて体を屈め、子供同士が秘密を打ち明けるときのような目を祐子に当て、言ったのである。本当は、自分たち二人は姉妹なのだ、と。  祐子は志津の目を覗き込んだ。驚きながらも、半分は、冗談好きの志津が自分をからかっているのだろう、と思いながら。またいつものように、「ごめん、ごめんね」と笑いながら、大きく祐子の手を振って歩き出すに決まっている……。  しかし、志津の目は笑い出さなかった。いつになく真剣だった。祐子は胸が苦しくなった。体中に心臓の音が響き始める。志津の手を力いっぱい握り締めた。  すると、志津も、祐子の小さな手を両手で包み込み、  ——祐子ちゃんと私はね、本当は、二人とも祐子ちゃんのお母さんの子供なの。でも、私だけ、小さい頃、群馬のおばちゃんの家へ貰われていっちゃったの。  と、言った。  ——ほんと?  ——ほんとよ。だけど、このことは絶対にお母さんやおばちゃんに話しちゃだめよ。私と祐子ちゃんだけの秘密。いーい?  祐子は大きくこっくりした。まだ完全には信じきれなかったし、胸がドキドキして痛いくらいだった。ただ、そう聞いてみると、子供心にも、親戚でもないカツと志津が自分をこれほど可愛がってくれる理由が分かったような気がした。  その夜、祐子は嬉しくて気持ちが昂り、なかなか寝つかれなかった。 「ところが、それからしばらくして、志津はぴたりと私の家へ姿を見せなくなってしまったのです」  祐子はつづけた。 「母に訊いても、『きっと忙しいのよ』と言うだけで要領を得ませんでしたし、時々やってくるカツに尋ねても、似たような返事でした。母とカツが心配そうに顔を寄せ合い、ヒソヒソささやき合うようになったのも、この頃からでした。  私は心配でたまりませんでした。志津がどうかしてしまったのではないか、と思いました。志津のことを考えると、学校へ行っていても、勉強に身が入りません。  そこで、母には内緒で大塚の病院を訪ねてみよう、と決心いたしました。志津がひょっこり姿を見せたのは、そんなときでした」  ——志津は、以前のように、祐子の好きな土産を買ってきてくれた。「ごめんなさい、お姉ちゃん、お仕事がものすごく忙しかったものだから」そう言う彼女は、相変わらず明るくて、陽気で、優しい姉であった。  それでいて、志津は変わった、と祐子は感じた。単に化粧が濃くなり、服装が派手になっただけではない。はっきりとは言い表わせないが、どこか以前の志津ではなくなってしまったような、自分の手の届かない遠くの人間になってしまったような……そんな寂しさを覚えたのだ。  前ほど頻繁ではないにせよ、志津は再び祐子の家を訪ねてくるようになった。  だが、それから一年余り経った冬の日、また足が少し遠のき始めたな、と思っていたとき、祐子は、突然志津の自殺を知らされたのだった。  カツが上京してきて、三日ほど祐子の家に泊まっていった。  二日目の午後には、白い布で包まれた志津の遺骨が奥の部屋に置かれ、その前でカツと芳枝が泣いていた。カツは、志津の遺書だという封筒の中身を読みながら、  ——志津はあの男に殺されたんだ、あいつらに殺されたんだ、畜生、畜生……。  と、何度も繰り返した。  祐子には、意味が分からなかった。自殺したのに、殺されたというのはどういう訳だろう、と不思議に思った。ただ、そのときの薄暗い部屋の光景と、怒りと絶望に満ちた腹の底から絞り出したようなカツの声だけは、終生忘れることのできないものとして、彼女の記憶の中に深く刻み込まれた。  いつの頃からか、祐子は、志津と同じ道を歩みたい、と考えるようになっていた。そこで、中学校を卒業すると、個人医院の見習い看護婦をしながら看護学校へ通って准看護婦の免許を取り、さらに、定時制高校へ通いながら正看護婦を目指した。  六年前カツが亡くなり、その二年後、祐子が正看護婦の試験にパスした年に、母の芳枝も仕事中に倒れて救急車で病院へ運ばれ、そのまま他界した。  芳枝の寂しい葬儀をすませ、祐子は独り、彼女の遺品を整理していた。  すると、その中に、幾重にも紐で巻かれた小さな箱が見つかった。調べると、中身は手紙や芳枝の若い頃の日記であった。いずれ処分しようと思っていたのに、突然の死に遭い、それが果たせなかったものらしい。  母の秘密を覗き見ることの後ろめたさを覚えながらも、祐子は、結局誘惑に勝てなかった。まず、輪ゴムで止められた手紙から目を通し始めた。そして、カツからきた数通の手紙を読み、驚かされた。  手紙には、祐子の出生の秘密を暗示する記述が随所に見られた。  それによると、志津と祐子は確かに血のつながった姉妹であった。ただし、志津の言ったのとは逆に、祐子の方がカツの子供だったのである。志津は、たぶん幼い祐子の心を痛ませないように、自分がカツの養子だと言ったのであろう。  そう思いながら、祐子はさらに手紙の束を繰っていった。そして、表は〈大町カツ様〉裏は〈志津〉とだけ書かれた一通の白い封筒に目を止めた。  ある予感に、祐子の胸は騒いだ。中身を取り出す指が震えた。  予想通りであった。  なぜそんなものが自分の家にあるのか分からなかったが、出てきた二枚の便箋こそ、あの日……志津の遺骨が運ばれてきた日、カツの読んでいた志津の遺書だったのである。  ——お母さん、どうか、先立つ不孝をお許しください。  遺書はそう書き起こされ、勤め先である西医院の院長西広一郎に半ば暴力的に体を奪われ、その後仕方なく彼との関係をつづけるようになった経緯が、まず簡単に記されていた。  そして、二人の関係が広一郎の妻康代に知られるや、彼は志津の方から誘いをかけたと主張したこと、康代も夫の一方的な言い分だけを信じ、志津の話にはまったく耳を貸そうとしなかったこと、いつもはおとなしくて上品そうに見える彼女が、売女《ばいた》、淫売、と思いつくかぎりの悪罵を志津に向かって浴びせたこと、そこで、彼らに何一つ対抗する手段を持たない非力な志津は、死をもって抗議する以外にない、と思い至ったこと……。  それは、遺書というより、広一郎と康代に対する恨みと告発の書であった。行間から、志津の悔しさと無念さがにじみ出し、抗議の叫びが聞こえてくるようだった。  祐子は、途中から便箋を持つ手がブルブルと震え出した。涙が溢れ、最後の方は読むのに苦労した。  涙にかすんだ目の前に志津の顔が浮かんだ。悲しそうな志津、必死で何かを訴えようとしている志津……。と、そこに、生みの母だと分かったカツの歪んだ顔が重なり、「畜生、畜生」という、腹の底から絞り出したような彼女の暗い怒りの声が耳の奥によみがえった。 「……でも、このときは姉を死に追いやった二人が憎いと思っただけで、復讐といったことを考えたわけでは、決してありません」  祐子は、感情を抑えた声で、淡々と話しつづけた。 5  祐子の意識の底に、憎むべき存在として刻印された広一郎と康代。  この二人が復讐の対象として浮かび上がってきたのは、それから一年数ヵ月後、祐子が工藤らによって一生を滅茶滅茶にされるという事件が起きた後であった。  事件の直前までの祐子は、夏目昭一郎に見初められ、シンデレラの幸福を掴もうとしていた。だから、そのまま何事もなかったなら、広一郎と康代に対する恨みも、たぶん彼女の幸せな生活の裏に風化し、消えてしまっていただろう。  ところが、運命の女神は、皮肉で残酷だった。一転して彼女を奈落の底に突き落とし、さらにしばらくしてから、西医院の看護婦募集広告を見せる、という偶然まで用意したのである。  祐子は、自分のせっかく掴んだ幸せを壊し、なおも自分を蹂躙《じゆうりん》しつづける工藤らを強く憎んだ。そして、その己れの不幸な運命を思うとき、やはり暴力的に犯された姉志津の運命との符合を感じ、姉を辛い孤独な死に追いやった広一郎と康代……特に、卑劣な広一郎に対する憎しみと怒りを、新たにした。すでに工藤たちを殺す決意は固めていたので、それなら、何らかの形で姉の恨みも晴らしてやろう、と心を決めた。  といって、まだこのときも、具体的な復讐方法まで考えたわけではない。姉の遺書で二人の仕打ちは読んでいても、直接にはどういう人間か知らないのである。だから、彼らをどうするかは、様子を見てから、という気持ちであった。  首尾よく西医院の看護婦に採用され、祐子の最初に感じたのは戸惑いである。広一郎も康代も、姉の遺書から想像していたのとは、まるで違っていたからだ。患者や近所の人に好かれる、穏やかな良い人たちだった。  祐子は、時々遺書が信じられなくなりそうだった。  迷いが生まれた。  そのたびに志津の遺書を取り出して読み、「だまされるな、姉がどんなに悔しい思いをして死んでいったか、思い起こせ」と、自らに言いきかせた。  そして、彼らが姉に何をしたかを自分の目ではっきりと確かめるためには、彼らに姉志津の写真を示し、反応を見るしかない、と考えるようになった。それも、どちらかが一人だけで見て握りつぶしたりできないように、冴子を含めた三人が揃った席で。  だが、自分の行為と気づかれないように、彼らに志津の写真を示すよい方法は、なかなか思いつかなかった。  それで祐子が困っているとき起きたのが、一宮の事件だった。  暇をもてあました工藤たちが、祐子たちの別荘行きを知り、車で後をつけてきたのである。  彼らとて、初めから襲いかかる計画を持っていたわけではない。偶々《たまたま》車を駐めていた夕暮の浜辺へ祐子たちが散歩に出る、という偶然が、彼らの邪悪な行為を誘発したのだった。  彼らが自分たちの前に現われたときは、祐子は肝をつぶした。その意外さもさることながら、彼らとの関係を康代と冴子に気づかれるのではないか、とおそれたのだ。  しかし、その危険が去り、彼らが逃げ出したとき、祐子の脳裏にある考えが閃いた。車の免許証ケースの中に常に御守りのように入れてある志津のネガフィルムを残しておいたら……と思ったのである。廃船の陰にいる康代の許へ走る前に、彼女は落ちていた自分のセカンドバッグを拾い、その中から素早くフィルムを取り出した——。  祐子の思いつきは、予想以上の成果を上げた。  フィルムを焼き付けた写真を佐々木に見せられた広一郎の狼狽は、祐子に、志津の遺書が事実であったことを確信させた。  その後、康代が自殺した理由はよく分からなかったし、ショックだった。が、それとは関係なく、この頃から、工藤たち三人を殺し、その罪を広一郎に被せられないか、と祐子は考え始めた。  冴子が犯人追及に乗り出したのは、予想外だったが、それは広一郎を動かし始め、祐子の計画に好都合な状況を作り出した。広一郎は娘の身を案じ、祐子に事情の一部を打ち明け、冴子の尾行、監視を依頼してきたのである。つまり、冴子が石塚信吉を訪ねたり、バロンのマスターに〈アザの男〉の通報を頼んだりした事実を探り、広一郎に教えたのは、実は祐子だったのだ。  逮捕後、広一郎がこの件を明かさなかったのは、「善意の協力者」である彼女に迷惑をかけまいとして、だったのだろう。  ところで、祐子は、芳枝が遺したカツの手紙から、伯父の石塚信吉が自分を〈男の子〉だと誤認している事実を知っていた。  そこで、最後まで自分が志津の妹だと感づかれないよう、その誤解の利用を思い立ち、広一郎が石塚信吉を訪ねる前に、松岡勇を使い、信吉に電話させた。松岡に相手の電話番号を知られないよう、祐子がダイヤルを回し、ちょっとした悪戯だと言って、〈志津の弟〉を装わせたのである。松岡が内心工藤に反感を持っているのを知っていたので、五万円の礼を与え、口止めして。  冴子が山野辺、工藤、松岡を突き止め、さらに広一郎もそれを知った後、祐子はしばらく、広一郎が彼らの周辺を調べ回るのを窺い、三人の殺害の罪を彼に被せる計画を練りつづけた。  そして、工藤たちが五月十五日の夜、彼の部屋で酒を飲むと聞いたとき(実は、祐子がそれとなく三人で集まるよう仕向けたのだが……)、ついに計画の実行を決意した。  計画のカギは、広一郎をいかにして工藤のアパートへ呼び寄せるかだったが、その口実は広一郎自身が用意してくれた。広一郎が調べ回っている事実を工藤に教え、一宮の事件を公にする勇気のない彼を逆に脅せば、金が取れそうだ、と言って焚《た》きつけたのだ。 「工藤は、私の前で自分の部屋から電話をかけ、夜十時に来い、と指定しました。そこで、私は、松岡と山野辺が来ると、三人に睡眠薬入りのウイスキーを飲ませて眠らせ、九時半頃、窓を閉めてガスコックを開き、自分のいた形跡を消して、部屋を出たのです」  祐子は話しつづけた。 「こうして、路地から出て、駅とは反対方向へ少し行った物陰で見張っておりますと、九時四十分から十時頃までの間に、冴子さんと先生が相次いで路地へ入って行っては慌てた様子でまた通りへ姿を現わし、駅の方へ帰って行きました。  冴子さんの出現は予想外のことで、びっくりいたしましたが、とにかく私は工藤のアパートへ戻り、足音をしのばせて階段を上りました。すると、冴子さんか先生か分かりませんが、窓が開けられ、ガスが止められていました。そこで、私は音をたてないように静かにまた窓を閉め、ガスコックを開き、もう二度とここへ来ることはないだろうと思いながら、部屋を出たのです。  隣室の久米さんという方が午前一時過ぎにならないと帰宅しないこと、階下の森さんという方がいつもテレビを大きく鳴らしていることなどを調べておいたのは、言うまでもありません。  その夜、私は、駅のトイレで化粧を落としてカツラを取り、十一時近くに自分のアパートへ帰りました。ですから、翌日先生からお電話があり、冴子さんが私の部屋にいたことにしてくれないか、と頼まれたときは、願ってもないアリバイができたと思い、喜んだのでした。  でも、その後、先生が警察に逮捕され、計画通りに事が進んでゆくに従い、私は、罪の意識にさいなまれ始めました。一連の事件の最大の被害者は冴子さんだった事実に気づいたからです。  先生は姉を酷い目にあわせ、死に追いやった人です。工藤たち三人は、私の一生を台無しにした男たちです。ですから、彼らに対して取った行為を、私は後悔しておりません。でも、冴子さんは別です。何の罪もない冴子さんを、私は不幸のどん底に落とし込んでしまったのです。  ここ四ヵ月余りは、私にとっても、それまでとは違った意味で辛い日々でした。私を信じ、姉のように慕ってくれる冴子さんと毎日顔を合わせながら、彼女を欺き通さなければならなかったからです。工藤たちを殺すまでは、冴子さんにすまない、と思うときがあっても、先生こそこの責めを負うべきだ、と自分を納得させてまいりました。ですが、そうした言い訳が、もうきかなくなってしまっていたのです。  私の長い話を聞いていただき、ありがとうございました。今、私はここにすべてを打ち明け、ほっとしております」  祐子の、長い証言が終わった。  彼女の後ろでは、広一郎が深くうなだれていた。 「これで、私の尋問を終わりますが……」  と、小池が喉に痰のからんだような声で言った。「岩田検事にお願いがございます」 「何でしょう?」  岩田が、座ったまま訊き返した。 「本証人は、閉廷後ただちに警察へ出頭するつもりでおります。つきましては、捜査機関たる検察官同席の場で進んで自らの罪を告白した本証人を、自首として取扱っていただきたいのですが、いかがでしょうか?」  刑法第四二条には、罪を犯してまだ捜査機関に発覚しない前に自首した者についてはその刑を減軽することができる、とある。  この〈発覚しない〉というのは、犯罪そのものがまだ知られていない場合だけでなく、犯人が誰か分かっていない場合も指す。  だから、指名手配犯人が逃げきれないと観念して警察へ出頭したようなときは、刑法上の自首に当たらない。が、祐子の場合、まだ犯人と知られないとき、捜査機関たる検察官の前で自分が犯人だと名乗り出たのだから、当然この規定にあてはまるだろう。  いや、法廷で述べた言葉は検事に対してのものではなく、あくまでも裁判官に対してのものなので、そのへんが微妙なのかもしれない。  利彦は、判例については知らないが、小池は閉廷後ただちに警察へ出頭することを条件に、自首扱いになるよう取りはからって欲しい、と岩田検事に頼んでいるのであった。 「承知しました。二、三の点について尋問のうえ、本証人の供述に虚偽がないらしいと判断しましたら、弁護人のおっしゃるように、できるかぎり取りはからいましょう」  岩田検事が、深刻気な顔をしながらも、素直に約束した。 「では、検察官、反対尋問を行なってください」  裁判とは直接関係のない二人のやりとりを黙認していた吉本裁判長が、言った。 「証人にまず尋ねたいのは、証人が確かに大町志津の妹であるかどうかという……」  岩田検事が立ち上がって、尋問を始めたとき、利彦の左の冴子がすっと腰を上げた。 「冴ちゃん!」  利彦は、声を抑えて叫んだ。  判事、検事、小池が視線を向け、広一郎と祐子も振り返った。  冴子が一つ後ろの席を回り、つっかかるようにドアの方へ歩いて行く。 「冴子さん……」  利彦は腰を浮かし、追いかけようとした。  だが、それを、「傍聴人は静粛に!」という裁判長の鋭い声が抑えた。  冴子の姿が廊下に消えた。 「検察官、尋問をつづけてください」  何事もなかったかのように、吉本裁判長が元の事務的な声に戻って言った。  利彦は、岩田検事の尋問が再開されるのを待ち、そっと法廷を抜け出した。  階段を駈け降り、横の通用口を出て、甲州街道を跨《また》いでいる歩道橋の上まで一気に走った。  しかし、冴子の姿は、道のどの方角にも見あたらなかった。  第十章 真実 1  冴子は腕時計を見た。  午前一時を過ぎている。  乗用車が一台、スピードをおとして追い抜いて行った。  その赤いテールランプが右へ曲がって隠れると、あとには、再び寝静まった住宅街の道がひっそりと伸びていた。  冴子は今、自分がどこを歩いているのか、どこへ行き、何をしようとしているのか、分からなかった。  夕方、八王子の裁判所を出てまず城北大学へ行き、真吾が研究室へ出ていないと知ると、四谷の彼の下宿を訪ねた。  真吾は部屋にもいなかった。  そして、冴子の問いに、「昼過ぎまでいたようだが……」と答えた四十前後の女は、  ——あの、もしかしたら、藤沼病院の院長先生のお嬢さんですか?  と、最後に訊いた。  家主の姪夫婦が新しい管理人になった、と真吾に聞いていたが、その丸い体をした女が姪本人らしかった。  ——え? え、ええ……。  冴子は戸惑いながらも、思わずそう小さな声で答えていた。  すると、女が「やはり」と急に口元をほころばせ、  ——お美しいので、一目見たときから、そうじゃないかと思いましたわ。電話のお取り次ぎをしたくらいで、先日は私たちにまで結構なお土産をいただきまして。あの、もしよろしかったら、木島さんがお帰りになるまで、うちに上がってお待ちに……。  冴子は、「失礼します」と女の言葉を断ち切って、玄関を飛び出した。  四谷から新宿まで歩いた。人混みと明るい光を求めるようにして、歩き回った。そして、気がつくと、いつの間にか新宿の街を外れていたのだった。  それからは、どこをどう歩いたのか、分からない。今度は、逆にできるだけ暗い道を選んで、歩きつづけてきたのだった。脚が棒のように動かなくなり、誰もいない路上で倒れることだけを願いながら。  冴子は、もう誰も信じなかった。誰も信じられなかった。父も母も、祐子も、そして真吾も……。  真吾の顔が浮かんだ。彼の厚い胸。たくましい腕。懐かしく、恨めしかった。  彼は、事件とは関係がなかった。もしかしたら志津の弟ではないか……と考えたのは、自分の思いすごしだと分かった。だが、彼が自分を避け始めた裏には、やはり、「藤沼病院院長のお嬢さんの存在」という具体的な理由があったのだった。  そして、祐子——。  あの祐子が、工藤たちを殺した犯人だったとは。父を陥れた犯人だったとは。私をずっとだましつづけてきたとは……。  いや、祐子のせいじゃない、と冴子は思った。許せないのは、父だった。父こそ、私たちを長い間、欺き通してきたのだ。父の卑劣な行為こそ、志津と母を辛い死に追いやり、祐子に今度の事件を起こさせ、そして私から真吾を奪い取る結果をも引き起こしたのだ。  憎い父。それなのに、なぜか懐かしかった。子供の頃の父と母の優しい面影が、楽しかった想い出が、走馬灯のように冴子の記憶の中で回った。そこには、志津の明るい笑い声も響いていた。  と、場面が変わった。冬の陽が溢れる昼下がりの病室。レースのカーテンの花模様が、傍らの白いベッドに影を映して揺れる……。  ——行け! 出て行け!  父の怒声。父と志津のにらみ合い。優しい父と、明けっぴろげで童女のような志津。二人が薄汚ない情欲で結び付き、憎み合っていたなんて。  そして、あのとき志津と入れ替わりに入ってきた母。母に、今日祐子が法廷で述べたような一面があったなんて。あんな口汚ない言葉で志津を罵ったなんて。  冴子は叫び出したかった。何もかも嘘だ、自分は夢の中にいるのだ、と。  そうだ、こんなことが現実であろうはずがない。きっと夢を見ているのだ。夢に決まっている。小さい頃、恐い夢を見て、夢の中でこれは夢なんだ、夢なんだ、と叫んでいると急に目が覚め、ああ、やはり夢だったのか、とホッとすることがよくあった。それと同じように、今度もすべてが夢なのではないか。父と志津の関係も、母の死も、祐子が志津の妹だということも、真吾が去ってしまったことも、そして、深夜、自分が独りでこんなところを歩いているということも……。 「夢なら、早く目が覚めて」  冴子は足を止め、声に出して言った。  空を見上げた。  月も星もない夜だった。  祈った。  が、願いも虚しく、目は覚めなかった。  代わりに、父広一郎を告発する祐子の声が暗い天空から静かに降りてきて、冴子の耳朶《じだ》を覆った。 2  利彦は、広一郎と二人、西家の居間で冴子の帰りを待ちつづけた。  祐子の自首によって、広一郎の無罪がほとんど確定的になったため、裁判は意味を失った。だから、検察官はいずれ起訴を取り消すだろうが、今日はとりあえず裁判所が勾留の執行停止を決め、広一郎の身柄を自由にしたのである。  小池は十時近くに一度顔を見せたが、上がらずに帰って行った。彼はまだ広一郎の弁護人には違いなかったが、二人の間には強いこだわりが生じてしまっているのを、利彦は感じた。  小池が帰ってから三時間余り、利彦と広一郎は、ほとんど話らしい話もせずに座っていた。広一郎の顔には、無罪の確定を喜ぶ色は微塵もなかった。自分の過去を娘や親しい者たちに知られてしまった戸惑いと、娘の身を案ずる父親の強い不安が、疲労の色に重なって彼の表情を覆っていた。 「利彦君、君は本当に、もう帰って寝《やす》んでくれないか」  広一郎が、何度目かの同じ言葉を繰り返した。 「明日は……いや、もう今日のことになってしまったが、君にとって、一生の大事を決める試験なんだから」 「僕なら平気です。一晩くらい眠らなくても、そう頭の働きに変わりありませんから」  利彦も、似た返事を繰り返した。  内心、眠っておかなくて大丈夫だろうか、という不安がないわけではない。だが、今は、それ以上に冴子の身が気がかりだった。冴子の無事を確認できなければ、どうせ家に帰ったところで眠れやしないのである。 「僕より、おじさんこそ疲れているんじゃないですか。僕が起きていますから、先に寝んでください」  彼は、逆に勧めた。 「いや、私も大丈夫だ。それより、君がもう少しいてくれるんなら、ちょっとアルコールでも飲もう」  広一郎が言いながら立ち上がると、台所へ行って、氷をいれたグラスとウイスキーを取ってきた。 「冴子のやつ、本当にどこへ行ってしまったんだろう……」  ウイスキーを注ぎながらつぶやいたが、そこには不安と同時に困惑の響きがあった。  利彦もそうだが、冴子は当然木島真吾のところへ行っているもの、と広一郎は考えていたらしい。  ところが、十一時過ぎにようやく電話の向こうに木島をつかまえると、  ——夕方、冴子らしい女性が下宿を訪ねてきたようだが、自分は留守だったし、ここしばらく顔を合わせていない。  と、彼は答えたのだった。  それを聞いたとき、利彦は、心にかすかな明かりが灯るのを感じる一方で、強い危惧を覚えた。冴子が親しい友人の家に行っていないことは、すでに分かっていたからだ。  いったい、どこへ行ったのか。どこで、何をしているのか。  それから、時間の経過とともに不安は募る一方である。だが、彼も広一郎も、冴子が帰ってくるか何か言ってくるまで、ただ待つ以外にどうしようもないのだった。 「今日の石野君の証言を聞いて、君も、私を卑劣な男だと思っただろうね?」  少しして、広一郎が訊いた。  彼も利彦も、夕方から何も食べていなかった。そのせいか、三、四回グラスを口に運んだだけなのに、広一郎の目の縁はほんのりと赤らんでいた。  利彦が、どう答えていいのか分からずに返事をためらっていると、 「私は、確かに、大町志津と肉体関係があった」  と、広一郎がつづけた。「だから、公の席で弁明するつもりはない。だが、冴子にだけは、冴子にだけは……」  不意に何かが喉に詰まったように言葉を切り、ウイスキーをあおった。 「では、祐子さんの言ったことは事実じゃなかったんですか?」  利彦は訊いた。 「事実じゃない」 「遺書は……?」 「出鱈目なんだ。誰も信じてくれないかもしれないが、十七年前、私と妻が比留間という刑事に答えた内容こそ、より真実に近かったんだ」  広一郎が微妙な言い方をした。  それはともかく、もし彼の言うのが本当なら、比留間に対する小池の反対尋問こそ、真実を突いていたことになるのだった。〈死者の言、かならずしも正しからず〉という、あの言葉が。 「でしたら、なぜ、はっきりと事実を明らかにされなかったんですか?」  利彦は、疑問を口にした。 「私が事実を明らかにすれば、石野君の胸にある優しい姉の像、姉の想い出が壊れてしまう。石野君が私に対して取った行動の意味を、彼女から奪ってしまうことになる。これから重い罪を背負って生きてゆかなければならない石野君に、それは、あまりにも残酷すぎる。彼女をそんな残酷な目にあわせるくらいなら、志津の死に決して責任がないとは言えない自分が堪えよう、そう思ったんだ」  本当だろうか。広一郎が弁明しなかったのは、本当にそれだけの理由からだろうか。祐子に対する同情も確かにあったかもしれないが、他にも何か理由があったのではないか。  利彦はそんな気がしたが、ひとまずその詮索は措《お》いて、彼の話を聞いてみたい、と思った。 「もし差し支えなければ、僕に本当の事情を話していただけませんか?」  広一郎が、利彦の目を見つめた。 「すみません。他人の僕が、つい立ち入ったことを訊いてしまって」  やはりぶしつけだったか、と反省して利彦は謝った。 「そんなことはないよ」  広一郎が言った。「君が聞いてくれるというんなら、話そう。いや、ぜひ聞いて欲しい……」  彼は、氷だけ残っていたグラスにウイスキーを注いだ。そして、それを一口|苦《にが》そうな顔をして飲むと、遠くを見つめる目を宙に止めて話し出した。 「十八年前、いや、もう十九年前になるか……。君も知ってるように、その頃、私は北池袋で医院を開いていた。医院といっても、こことは違い、入院設備もあれば、医師も私の他に二人いた。それをいずれは大きな総合病院にしたい、というのが私の夢だった。  私は若かった。精力的に働いた。毎日が充実し、希望に溢れていた。私が大町志津と知り合ったのは、そんな頃だった。  当時、志津は、それまで勤めていたという大塚の病院を辞め、池袋のバーでホステスをしていた。傍目《はため》にも、荒《すさ》んだ生活をしているのが分かった。後で聞いた話だが、長い間付き合ってきた医師である恋人に捨てられ、自殺を図ったが死にきれず、捨て鉢になっていたらしい。  そんな志津が、不摂生な生活が祟ったのだろう、ある晩、急にひどい腹痛を起こし、偶々《たまたま》、店に居合わせた私が、タクシーで自分の医院へ運び、診《み》てやった。  これが、私たちの親しくなる、そもそものキッカケだった」  ——志津が広一郎の医院で働きたいと言い出したのは、それから四、五ヵ月した頃であった。二人の看護婦に急に辞《や》められ、困っている、と彼が酒の席で洩らしたときである。  広一郎は冗談かと思った。が、志津は真剣だった。それだけに、彼は面くらい、戸惑った。割り切ったおとな同士の付き合いとはいえ、すでに志津とは数回の肉体的な交渉を持っていたからだ。  もし看護婦に戻りたいのなら別の病院を紹介しよう、と申し出た。しかし、一度言い出した志津は、広一郎のそばで働きたいのだ、と言って受けつけない。  彼は、ますます困惑した。すると、志津はそんな彼の心を読んだように、二人の関係は絶対に口外しないし、誰にも気取られないようにする、という。  その頃、辞めた看護婦の補充がつかず、広一郎は実際に困っていた。  そこで、つい妥協し、今後志津と特別の関係さえ持たなければいいだろう、と自らに言いきかせ、志津ともそう約束し、結局彼女の希望を受けいれたのだった。  志津は約束をよく守った。  元来、陽気で磊落《らいらく》な性格なのか、かつての荒んだ生活が嘘だったように、毎日、明るく楽しげに働いた。  患者には好かれ、医師や看護婦仲間の受けも悪くなく、冴子も「お姉ちゃん、お姉ちゃん」とよく懐いた。  康代だけは女の勘で何かを感じ取っていたのか、あまり好ましく思っていないようだったが、といって、二人の間に表立ったいさかいがあったわけではない。  だから、広一郎は、初めの心配は取り越し苦労にすぎなかったのかと思い、安堵していたのだった。  ところが、そんなある土曜日の夕方、志津は、自分を裏切って捨てたかつての恋人に、街で偶然出会ったのである。  男には、志津より若くて上品そうな娘が睦まじく寄り添っていた。  その夜、当直だった志津は、狂ったように広一郎を求めてきた。偶々《たまたま》康代が冴子を連れて実家へ帰っていたのだ。  何とかなだめ、落ちつかせようとした広一郎も、志津の激しい要求と自分の欲望に抗《あらが》いきれず、結局、彼女を抱いた。  彼はその夜かぎりのつもりであったし、志津も、それを承知したのである。  だが、前と違い、志津は今度は約束を無視した。感情の起伏の激しい女である。時々自分でも、自分の感情が制御できなくなるときがあるらしい。熱に浮かされたように広一郎を求め、やがて、外で会ってくれなければ自分たちの関係をばらす、と脅し始めた。  こうして、二人は、周囲の目を盗みながら関係をつづけることになった。  ——先生が会ってさえくれればいいの。あとは、私、何も欲しくない、何も望まないわ。だから、私を離さないで。絶対に捨てないで……。  行為の後、志津は広一郎の腕の中でいつもこうささやくのだったが、志津が自分に執着すればするほど、広一郎には、彼女と密会を重ねてゆくことが、いっそう堪えがたいものになっていった。  自分たちの関係が、いつまでも他の医師や看護婦に感づかれずにすむ、とは思えなかった。いずれ彼らの誰かに気づかれ、「院長が自分の情婦を看護婦として雇い、ずっと関係をつづけていた」という噂は、患者や近所の人たちの間に広まるにちがいない。そうなれば、当然医師としての信用は失墜し、家庭には波風がたち、それが康代の実家に伝われば、病院建設に対する彼女の父親の援助も沙汰止みになるだろう。  そうならないうちに、何としてでも志津との関係を清算しなければならなかった。  彼は、これまで以上の真剣さで、自分と別れてくれるよう、志津に懇願した。  金なら可能なかぎり出そう。就職口も、自分の医院よりずっと条件の良い大病院を紹介しよう。他に望むものがあれば、できるだけの援助はしよう……。  しかし、広一郎がいくら言葉を尽くしても、志津は、冷ややかな目でじっと彼の顔を見つめ、頑《かたく》なに口をつぐんでいた。そして、彼がさらにつづけると、今度は不意に悲し気に顔を歪め、童女のように大粒の涙を目から溢れさせ、ただ首を激しく振って泣くばかりだった。  それでも、その後しばらくの間は、志津も広一郎を求めなかった。何事もなかったかのように人前で大声をあげて笑い、陽気に働きつづけた。だから、広一郎はひとまずホッと胸をなでおろし、いずれ志津の気持ちが完全に冷えるのを待って、別の病院へ移るよう説得しよう、と考えたのであった。  ところが、一月ほど経った午後である。院長室を訪れた志津は、一通の封書を示して、再び広一郎との関係を迫った。  ——もし先生が私を捨てたら、私は自殺してやるわ。この遺書を残して。  封筒の中身を読んだ広一郎は、唇の端に勝ち誇ったような薄ら笑いを浮かべた志津の顔を見て、強い憤りと恐怖を感じた。  その「遺書」には、祐子が今日法廷で述べたような事実無根の事柄が書き連ねてあったからだ。  もし志津が本当に自殺し、「遺書」が公になれば、広一郎の言い分など誰が聞いてくれるだろうか。誰が信じてくれるだろうか。たとえ刑事的な罪に問われるおそれはなくても、この地で医師をつづけてゆくことは不可能になるだろう。  それにしても、志津はなぜそれほど自分に執着するのか、と広一郎は不思議に思った。理解できなかった。彼女は、そんなに自分を愛しているとでもいうのだろうか。  ——愛しているわ。死ぬほど、愛しているわ。愛しているから、私を捨てようとしている先生が絶対に許せないのよ。私は、これまでに二度真剣に男を愛し、裏切られたわ。一度は前橋にいるとき、一度は先生も知っているように大塚の病院にいるとき。そして、二度とも、死のうと思った。でも、二度とも途中で助けられ、死ねなかった。だから、先生が私を捨てたら、今度こそ……今度こそ、本当にこの遺書を残して死んでやるわ。  もちろん、そんなものは愛ではなかった。憎悪であった。しかも、単に広一郎個人に対する憎悪ではない。かつて志津を裏切り、捨てた男たち……いや、もしかしたら男そのものに対する不信と憎悪かもしれなかった。理不尽にも、彼女はそれを今、広一郎にぶつけようとしているのであった。  広一郎は、志津との出会いを呪った。誘惑と欲望に負け、彼女と深い関係を結んでしまったことを、後悔した。だが、悔み、憎み、おそれながらも、再び彼女と、男と女の交わりを復活させざるをえなかった。  そうして一月《ひとつき》経ち、二月《ふたつき》経った。広一郎はいつしか、志津が本当に自殺してくれればいい、と思い始めた。遅かれ早かれ、破滅のときはいずれ訪れるに決まっている。それなら、いっそ早い方がいい。早い方が、少しは痛手も小さくてすむだろう。  いや、そんな計算よりも、やがて彼は、現在の苦痛から、志津から、一刻も早く逃げ出したいとだけ願うようになった。これ以上、破滅の予感に怯えつづけるのが堪えられなかった。互いに憎み合いながら、志津と、雄と雌の関係をつづけてゆくことが堪えられなかった。神経が参ってしまうぎりぎりまできていた。もし、今の苦しみから抜け出せるのなら、と思った。名誉も、信用も、総合病院建設の夢さえ、捨てたっていい——。 「こうして、私は、志津の要求をきっぱりと拒否した。捨て身だったのだ……」  広一郎が言葉を切り、手にしたグラスを口元へ運んだ。  グラスには、色を失った水が底の方にわずかに残っているだけだった。  広一郎の話がもし事実なら、と利彦は考えていた。それで志津が自殺したのなら、広一郎はすでに十分すぎる償いをしたのではないだろうか。志津と深い関係を結ぶようになったのも、発端は彼の善意である。まだ三十歳そこそこだった彼が、自分の助けた女と肉体関係を持ったからといって、誰が責められよう。男の身勝手だというかもしれないが、若い男にとって、それは半ば自然の成り行きというものであった。  では、志津は、なぜそれほど広一郎に執着したのか。なぜ、それほど彼を苦しめなければならなかったのか。  利彦は、志津の育った環境と、母親カツから伝えられた〈血〉を感じた。閉鎖的な田舎の村で抑圧され、虐げられつづけたというカツ。そのカツの怨念と激しい血は、娘の志津に受け継がれることによって、初めてほとばしり出たのではないだろうか。最初は男への一途な恋情となり、果ては激しい敵意と憎悪となって。  志津だけではない、と利彦は思う。カツの血は、あのおとなしい祐子の中にも流れていたのである。  彼の脳裏に、志津の顔が浮かんだ。プリントされた陽画(ポジ)の画像しか見ていないのに、なぜかその顔は白と黒の反対になった陰画(ネガ)だった。そして、そこに、見たこともないカツのイメージが浮き出し、さらに祐子の顔が重なって、消えた。 「私は、志津の要求を拒否した。だが、それにもかかわらず、志津は——」  広一郎がグラスにウイスキーを注ぎ、再び口を開いたとき、電話が鳴った。 3  冴子は、地下鉄の駅のある広い交差点へ出た。彼女の胸には、次第にある一つの決意が固まりつつあった。  電話ボックスを探して入り、自宅の番号を回した。  ベルの鳴るのを近くで待っていたように、父広一郎の声がすぐに出た。 「さ、冴子か?」 「…………」 「冴子! 冴子なんだろう? 今、どこにいる? 教えてくれ、すぐ迎えに行く」  冴子は何も答えず、ただ受話器を固く握り締めていた。 「冴子、帰ってきてくれ。帰って、お父さんの話を聞いてくれ。昼、石野君の言った志津の遺書は出鱈目なんだ」  遺書が出鱈目——?  今さら、そんなことが、どうして信じられよう。冴子は、怒りが胸の中に凝縮するのを感じた。長い間、周りの者をだましつづけてきた父は、まだ言い逃れをし、自分を欺こうとしているのである。  もう許せない、と思った。  電話をかけながらも迷いつづけていた自分の気持ちに、最後の決断を下した。父を一生後悔させ、苦しませてやる。 「中野よ」  さっき目にした町名標示を思い浮かべ、冴子は固い声で言った。 「中野のどのへんなんだ?」 「車で青梅街道をくれば分かるわ。目印に左のヘッドライトを消してきてちょうだい」 「なんだって! そ、そんなことはできない……いや、分かった、何とかしよう。じゃ、すぐ行くから、今いるところに待っているんだよ、いいね」  冴子は、返事をせずに電話を切った。そして、一度外へ出て四、五分迷ってから、またボックスに入り、受話器を取り上げた。  十円硬貨を三枚入れ、ゆっくりと真吾の下宿の番号を回した。  しばらくベルが鳴りつづけた後で、女が出た。夕方会った管理人らしかったが、誰何《すいか》する声は、別人のように尖っていた。 「すみません、間違いました」  冴子は謝り、受話器を掛けた。  今さら、真吾の声を聞いたところで、何になるだろう……。  彼女はボックスを出て、歩き出した。 4 「冴ちゃんは中野にいるんですか、中野のどこにいるんですか?」  広一郎が受話器を置くより早く、利彦は訊いた。 「青梅街道沿いのどこか、らしい」  広一郎が答えた。 「迎えに行くんですね。僕も一緒に連れて行ってください」 「しかし、君はもう……」 「大丈夫です」 「そうか。じゃ、玄関で待っていてくれ」  利彦が待つ間もなく、広一郎が別室から車のキーを取って、出てきた。  冴子から連絡があり次第すぐ駈けつけられるよう、車はガレージから出して、道の端に駐めてあった。  利彦が助手席に乗り込むのと同時に、広一郎がエンジンをかける。  一度思いきり吹かしてギアをローに入れ、ゆっくりと発進させた。  ギアをセコンド、サードと切り替えながら寝静まった深夜の市街を抜け、青梅街道へ出る。  少し行って西武線のガードをくぐると、もう保谷市だった。前方に赤いテールランプが一つ見えるだけで、後続の車はないようだ。時々、ゴーッという音とともに大型トラックがすれ違って行く。  利彦が、さっきの話のつづきについて、どう訊いたらいいか迷っていると、 「先ほどの話だがね」  と、広一郎の方から言った。目は前方に向けたままである。 「私は覚悟を決め、志津の要求をきっぱりと拒否した……」  彼がアクセルを強く踏み込んだらしい。スピードメーターの針は、七十キロを越し八十キロヘ近づいてゆく。  利彦は、緊張して次の言葉を待った。 「だが、志津は自殺しなかった」  広一郎がつづけた。「いくら待っても、その気配すら見せなかった。そして、皮肉と憎しみと悲しみのないまぜになったような笑みに唇を歪めて、私にこう言ったのだ——。 『先生の心、はっきり分かったわ。先生は私を殺してまで、私から逃げたいのね。先生がその気なら、私は、絶対に死んでなんかやらないわ。誰が先生の……あなたのためになんか、死んでやるもんですか。私は、どんなことがあったってあなたから離れない。あなたがどこへ逃げようと、いつまでも、どこまでも、追いかけてってやるわ』  言っているうちに、志津の目は妖しく燃え出し、もう正常な人間の目のようじゃなかった。その目に、私は、怒りよりもただ恐怖を感じた……」  では……では、志津はなぜ死んだのか、と利彦は強い疑問にとらえられた。どうして自殺したのか? その後で、いったい何があったのか? 5  ぼっと街灯の灯った深夜の街。いや、もう明け方に近いのかもしれない。車は多少通るが、人の姿はまったくない。  冴子は時々、自分が自分でないような、妙な感じに襲われた。そんなとき、自分はなぜこんな見知らぬ街にいるのだろう、と一瞬、不思議な気がした。なぜ、こんなところを独りで歩きつづけているのだろう……。  腰から下は、ほとんど感覚がなかった。脚がひとりでに動いている、といった感じであった。すでに悲愴感は消えていた。代わりに甘い感傷があった。死は甘美な誘いだった。時々我知らず涙が溢れた。  ふっと、眼前に真昼の光景が浮かんだ。  冴子は、真っ白いテニスウエアを着て、コートに全身を弾ませている。それを、利彦が土手の上に腰をおろして眺めている。 〈利彦さん……〉  冴子をいつも優しく見まもっていた利彦の笑顔。それが、急に悲し気に歪んだ。  冴ちゃん、だめだ! 帰ってくるんだ。すぐに。  彼が、叫びながら土手を駈け降りてきた。  しかし、冴子は彼に背を向け、どんどん歩いて行く。  冴ちゃん!  利彦は、本気で怒っていた。背を向けている冴子には見えないはずなのに、彼の顔が、はっきりと見えた。珍しかった。利彦が本気になって冴子を怒るなんて。  冴子の周りに、再び暗夜が戻った。  冴子は、これまでとは違った気持ちを、利彦に覚えた。初めての気持ちである。それが何なのか分からなかったが、胸が痛く、熱くなるような懐かしさに似た思いだった。  冴ちゃん、戻るんだ!  利彦の声が、今度は実際に夜の帳《とばり》の奥から聞こえたような気がした。 「だめなの。もう、遅いの。私は、もう決めてしまったの。父の目の前で死んでやるって。今まで、いつも我儘な私の力になってくれて、ありがとう。試験、頑張ってね。さようなら……」  冴子は、唇を震わせて小さく言った。 6  車は環状八号線との交差点を過ぎ、荻窪駅前にかかっていた。  広一郎がギアをトップに入れたまま、一気に坂を登って、中央線を跨《また》いでいる陸橋を越えた。 「さらに慄然とするようなことが起きたのは、年が明けた一月の半ば過ぎだった」  しばらく口をつぐんでいた広一郎が、また話し始めた。「冴子が誤って睡眠薬を飲む、という事件が起きたのだ……」  広一郎の顔は前に向けられたままである。  その横顔が歪むのを、利彦は感じた。  それにしても、と彼は思う。冴子が睡眠薬を飲んだのを、広一郎が〈事故〉と言わずに〈事件〉と言ったのはなぜだろう。それが志津とどう関係しているのだろうか。 「冴子は二日二晩うつらうつらし通した」  広一郎はつづけた。「そしてその間、志津は実に甲斐甲斐しく冴子を看《み》てくれた。だから、私は志津を見直し、彼女に対する仕打ちを少し反省し始めていた。私だけでなく、妻も、志津の献身ぶりには心から感謝しているようだった。  ところが、冴子が回復し、明日にでも退院させようと思っていたときだった。昼下がりの冴子の病室で、志津が、私にこうささやいたのだ。『あなたが私を裏切りつづけたら、今度こそ、冴子ちゃん、どうなるか分からないわよ……』」 「そ、それでは……冴ちゃんの飲んだという睡眠薬は——!」  利彦は思わずシートから背を起こした。 「そう。志津が何かに混ぜて、飲ませたのだ。量が少なかったので、殺すつもりはなかったようだが……」  利彦は、志津という女の凄まじさに改めて驚かされた。と同時に、女という異性が、男の自分の理解を越える、別の生きもののようにも思えた。志津の持つ一途さ、烈しさ、偏狭さは祐子にも共通しているし、冴子にだってある。 〈冴子……〉  不意に、利彦の胸を不安がかすめた。  冴子の方へ意識が戻ったのである。  冴子は、自分たちが行くまで、何もせずに待っているだろうか。 「志津の口元には、ふてぶてしい薄ら笑いが浮かんでいた」  広一郎が、言葉を継いだ。「それを見たとき、私は心の底から湧き起こる怒りが抑えられず、寝ている冴子の耳も忘れて、『出て行け!』と、思わず怒鳴っていた。  私はもう、志津を許すことができなかった。冴子は私の宝だ。たった一つの、かけがえのない宝だ。他のものは、すべて失ってもいい。が、冴子だけは……冴子を私から奪おうとする者だけは、断じて許せない……」  広一郎の唇は震えていた。  娘冴子に対する彼の深い愛を、利彦は感じた。そして、もしかしたら、と思った。もしかしたら、志津の死は——。  彼の想像を断ち切るように、広一郎が急ブレーキを踏んで、車を停めた。 「どうしたんですか?」  驚いて、利彦は訊いた。 「冴子との約束なんだ」  言いながら、広一郎が降りて行った。  利彦も反対側のドアから降りた。  広一郎がトランクを開け、スパナを取り出してくる。 「冴子が、目印に左のヘッドライトを消してきてくれ、と言うんだよ」 「ライトを片側だけ……?」  利彦は、半ば自分の胸につぶやいた。  おかしい。人通りが多ければ、気づかずに行き過ぎるという場合もあるだろう。が、今は、歩道には犬の子一匹いないのである。冴子の方から車を見つける必要はない。歩道の端に立っていれば、こちらから、すぐに分かるのだ。それなのに、冴子は、なぜわざわざライトを一つ消して来い、などと言ったのだろうか。  利彦は胸騒ぎを覚えた。冴子は何かを意図しているらしい。だが、何を意図しているのかまでは、分からなかった。 「ヒューズでも外せば片側だけ消せるのかもしれないが、あいにく私は車の構造にうといんでね」  言いながら広一郎がスパナを振り上げ、左側のライトを殴りつけた。二度、三度。  ガラスが飛び散り、明かりが消えた。  急に、前方の片側が暗くなった。  利彦の胸騒ぎはさらに高まった。 「僕は、ここから歩いて行ってみます」  強い不安に急き立てられて、彼は言った。広一郎の話の結論を聞きたかったが、今はそれ以上に冴子が気掛かりであった。 「利彦君」  駈け出そうとした彼を、広一郎が呼び止めた。  利彦は足を止めて、振り返った。  広一郎が彼の目に視線を止めた。  が、彼はすぐにそれを外して、 「あ、いや、いいよ。じゃ、頼む……」  手を振って、言った。  利彦は、走り出した。もしかしたら、広一郎は志津の死の真相を明かそうとしたのかもしれない、と思いながら。 7  広一郎は、利彦の後ろ姿をちょっと見送ってから運転席へ戻った。  前方には、薄暗い、広い通りが真っ直ぐ伸びている。車が、時々スピードを上げて通るだけだ。左側の歩道に目を凝らすが、利彦の走って行く姿が見え隠れする以外、動くものはない。  利彦が降りてくれてよかった、と彼はホッとしていた。今夜の自分はどうかしていたのだ、と思う。もし利彦がここで降りてくれなければ、自分は�あのこと�まで話していたかもしれない……。  十七年前、彼は、冴子に睡眠薬を飲ませた志津を許せなかった。冴子にまで手をかけた彼女を放っておくことはできなかった。そこで、ある考えを胸に、以前の「遺書」がまだあるかどうかを、彼女に確かめた。  志津の「遺書」には、広一郎にとって、不都合な「事実」が書かれている。だから、それが公になれば、大きな犠牲を払わなければならない。しかし、それだからこそ、彼の考えているある行為にとって、その「遺書」は最高の隠れ蓑になるはずであった。  まだ机の中に置いてある、という志津の言葉を聞いたとき、彼は最後の決意を固めた。自殺にみせかけて志津を殺そう、と思ったのである——。  ところが、予想していなかった事態が起きた。彼が手を下すより先に、志津はアパートの自室で自殺してしまったのだ。  いや、志津が自殺などするわけがないのは、彼が一番よく知っていた。  では、志津はなぜ死んだのか。  彼は、康代の今にも倒れそうな血の気のうせた顔を見たとき、あの冴子の病室の出来事を思い出し、すべてを理解したのだった。  彼が志津に「出て行け」と怒鳴った直後、志津と入れ代わりに、顔を強張らせた康代が入ってきた。康代は、何も尋ねも問い詰めもしなかった。が、ドアの外で彼と志津とのやりとりを聞いていたのである。そして、彼女は——志津の「遺書」の存在などは知らず——独自に、志津の殺害を計画し、志津が時々飲んでいた栄養剤のカプセルにストリキニーネの粉末を混入しておいたのであった。  広一郎が問い質す前に、康代は彼に〈犯行〉を打ち明けた。彼は康代を責めなかった。ただ、「忘れるように」とだけ言った。そして、十六年間、それを忘れるために……彼女に忘れさせるために、彼は懸命に努めてきた。  だが、人を殺した記憶を、誰があっさりと消しさることができるだろう。その後、長い間、康代は精神を病みつづけた。罪の意識に苦しみ、怯えつづけた。ここ数年、表面はほとんど異常さを示すことがなくなっていたが、心の奥には依然、病んだ部分が残っているのを彼は気づいていた。  去年の秋、志津の写真を見て康代が自殺した裏には、彼だけが知っている、そうした事情が隠されていたのである。  広一郎はギアをローに入れ、ゆっくりと車を発進させた。  セコンド・ギアのまま少し走ると、利彦の姿が見えてきた。  走る足を止めず、首を振り向けてくる。  広一郎は、彼を追い抜きながら、 「私が志津の遺書の内容に関して弁明できなかった最大の理由は、妻の……そして私自身の、この罪の故だったのだよ……」  と、つぶやいた。  すると、バックミラーの中で、利彦が何やら言い、手を上げた。  指が、前方の斜め上を差している。  広一郎は速度をさらに緩め、彼の指差す方を見た。  歩道橋である。距離は、四百メートルぐらい。橋上の明かりの下に人影が動いた。  冴子にちがいない。  そう思った瞬間、強い不安が広一郎の体をつらぬいた。なぜ、あんなところに——?  ライトを一つ消して来いという指示が、彼の不安と疑問に結び付いた。  もしかしたら、冴子は自分を恨み、自分の目の前で死ぬつもりではないか。〈あの娘《こ》ならやりかねない〉  広一郎は、とっさにそう考えたが、歩道橋はすでに三百から二百五十メートルの距離に接近している。  自分の想像通りなら、ここで車を停めたとしても、おそらく冴子はあそこから飛び降りるだろう。  橋上の人影が柵から少し乗り出した。  広一郎の全身に冷たい汗が吹き出た。  冴子の行動を阻止するには、どうしたらいいのか。いったいどうしたら……。  脳裏に一つの考えが閃いた。成功の保証はない。賭である。が、他になかった。  彼はアクセルを踏み込み、ハンドルを左に切った。  腕を突っ張った。  背中をシートに押しつける。  眼前に、ガードレールが迫ってきた。  エピローグ  利彦は、煙草をくわえて窓辺に立ち、外を見ていた。西陽がまぶしかった。  細長いビルの九階に借りた事務所である。  すぐ前には、超高層ビル群がシルエットになってそびえ、その下には、季節のない新宿の街が広がっていた。  あれから十年経ったのか、と利彦は思う。  祐子が犯人だと名乗り出て、広一郎が冴子の自殺の意思を挫《くじ》くために、車をガードレールに衝突させてから——。  あの夜、利彦は冴子とともに広一郎を病院へ運び、たいした怪我ではないという医師の言葉を聞いて、病室を出た。そして、一旦家に帰り、試験会場へと向かったのだった。  十月四日——。  どういう因縁だろう、と利彦は不思議な思いにとらわれる。あの日から数えてちょうど十年目の今日、彼は偶然、あの人……石野祐子に出会ったのだ。  十年前のあの日、小池は祐子に自分の妻として証言台に立つよう、求めたらしい。  彼女が収監され、弁護を引き受けてからも、彼は絶えず結婚を申し入れ、承諾してくれるよう、説得を繰り返したらしい。  だが、祐子は、最後まで美佐子の母になることを自分に許さなかったのだった。  もっとも、小池はまだ待ちつづけている様子なので、いつか二人が一緒になる日のくるのを、利彦は祈っていたが……。  陽が、前のビルの陰に入った。  利彦は煙草の灰を落とすために、応接セットのテーブルの方に体を巡らした。  そのとき電話が鳴り、事務員が「奥さんからです」と告げた。  彼は机に戻り、煙草の火を消して、受話器を取った。 「お仕事中、ごめんなさい」  彼が出るより早く、冴子が言った。「何時頃、帰られるかと思って」 「じきに帰るけど、わざわざ電話などしてきて、どうしたんだい?」 「父がお友達と一緒に、昨日から東京へ来ていることは、お話ししたでしょう。それで、これから行ってもいいかって、今、連絡があったの。先日、電話で話したときは、今回は寄らないという話だったんだけど」  義父の広一郎は、十年前、怪我が治ると、診療所を開いている知人を頼り、山形県の鶴岡市へ移り住んだのだった。 「そうか。だったら、待っている客と話したら、できるだけ早く帰るようにするよ」  利彦は言って、受話器を置いた。  今日、祐子に出会ったことは、冴子と広一郎には黙っていよう。  そう思いながら。 この物語はフィクションであり、実在の人物、団体とは一切関係ありません。 本書は、一九八八年一〇月に刊行された『南房総・殺人ライン』(廣済堂文庫)を改題、一九九四年六月、講談社文庫として刊行されたものです。