ロードス島戦記外伝 黒衣の騎士 水野良 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)一|艘《そう》の帆船 [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#ここから目次] -------------------------------------------------------  黒衣の騎士    目次   船 出   暗黒の覇者   海 魔   永遠のはじまり   上 陸    解 説     村川 忍 [#地付き]装丁/出渕 裕  [#改ページ]    船 出  闇《やみ》の森を焼きつくす炎を映して、北の空が赤く燃えていた。  もうもうと立ち上る煙は、雨雲のように空に厚く広がりつつある。そのうち、空は覆いつくされるだろう。  それは、神の慈悲のようにピロテースには思えた。それとも、邪神の気紛れだろうか。  邪悪な|妖魔《ようま 》と恐れられているダークエルフとて、故郷の森を大切に思う気持ちはハイエルフたちと変わりない。古《いにしえ》の時代に生を受けた森の妖精であるという点では、同じなのだ。ただ違うのは、森の木々には光の性質とともに知られざる闇の性質があり、ダークエルフはその闇の性質を強く受け継いでいるということだ。それは収奪であり、寄生である。  ダークエルフが他の種族を支配しようとするのは、妖精族として本質なものかもしれない。森は恵みを与えるだけではなく、誰も知らぬところでは、奪いつづけているものだから……  ピロテースは、今、港の沖に浮かぶ一|艘《そう》の帆船のうえにいる。  先刻から、何度も甲板に上がってきては、港から北へと延びる街道に視線を向ける。潮風に躍る銀白色の髪が、浅黒い肌の頬《ほお》や額にかかるのを邪険に払いのけるのも、街道から歩いてくる人影を見逃すまいと思ってのことだ。  その街道の彼方《か な た》には、マーモ帝国の帝都である|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》ペルセイがある。  だが、その帝都はもはや蹂躙《じゅうりん》されたであろう。ロードス本島から遠征してきた正義を自称する軍勢によって。  妖魔と魔獣たちの聖地であった闇の森は炎に包まれ、完全なる自由を教義とする暗黒神ファラリスの大神殿も敵の手に落ちたようだ。大神殿を守護していた邪竜ナースが、東の空に飛び去ってゆくのが先刻、目撃されている。  暗黒の島と恐れられたマーモは、もはや征服されたのだ。ロードスの統一を目指した野望の帝国は、滅び去ったのだ。  そして、生き残った帝国の住人たちは、今、船出の準備をしている。新天地を目指して、故郷の島を脱出するための。  それは、ある男の意志であった。その男は、黒衣の将軍と呼ばれている。名をアシュラムという。ピロテースが忠誠を誓った、ただひとりの人物である。そして、百年を超える生涯で、初めて愛を捧げた男。  アシュラムの帰還とともに、船団は出航する予定であった。  しかし、その姿はまだ見えない。  そのとき、真っ赤に日焼けした男が近寄ってくるのに、ピロテースは気づいた。虚空を漂っていた心が、現実に引き戻される。  やってきたのは、武装商船団の団長ドレットであった。  彼の船団は平時には他国の商船を襲ったり、沿岸の村々を荒らしてまわる。戦時には帝国の軍船として、兵員や物資を運んだり、他国の軍船と海戦を行う。簡単に言えば、帝国直営の海賊である。 「出航の準備はまだか?」  心の動揺を押さえながら、ピロテースは団長に尋ねた。  ここ何週間というもの、彼と彼の手下たちがほとんど不眠不休で働いているのは知っている。それを承知のうえでの質問だった。北の空があの様子では、敵がいつ攻め寄せてきても不思議ではない。 「完全な準備など何年先でも無理に決まっている。こんな船団で外海に出るなど、死にに行くようなものだぞ!」  潮焼けした顔を紫に変えて、ドレットは怒鳴った。 「この島に残れば、確実に死ぬのだ」  ピロテースは、わざと冷たく言い返した。 「おまえたちは、どうせ数十年で尽きる命。ここで捨てても、惜しくはなかろう」 「寿命がいくらあろうと、死にたくないのは同じだ! 食料や飲み水の積みこみは終わっている。それぞれの船には、我が船団の腕利きの船乗りたちを乗せた。海に出るだけなら、いつでも出られる」 「だったら、最初からそう答えればいい」  皮肉っぽく言ってから、ピロテースは団長を労《ねぎら》うために微笑を浮かべた。  それが森の精霊ドライアードの魅了《チャーム》の呪文《じゅもん》のように働くことは、もちろん心得ている。ダークエルフの女性にしては豊かな胸が、人間の男たちにとって魅惑的であることと同様に。 「あの方が戻られたら、すぐにでも出航しよう」  ドレット団長は当惑したような表情になり、ピロテースに背を向けた。そして、船尾の方へ足早に去ってゆく。  金と女、それから酒に目が無い欲望の塊のような男ではあるが、やるべきことはやる。カノン王国からのマーモ軍撤退を成功させたのは、彼の手腕によるところが大きい。 「今度も頼む……」  ピロテースは、心のなかで声をかけた。  それにしても、これほどまで暗黒の島の住人が団結したことは、かつてなかったろう。ベルド皇帝が存命だったときでさえ、従属する勢力のあいだでは暗闘が行われていた。  しかし、今、|妖魔《ようま 》の族長ルゼーブは闇《やみ》の森とともに灰となった。暗黒神の教団は崩壊し、大司祭ショーデルも暗黒神のもとへ往《い》ったろう。宮廷魔術師団を指導してきたバグナードも、配下の魔術師たちをアシュラムに頼み、何処《い ず こ》かへ去った。  安易な死ではなく、困難な生を求めたマーモ帝国の住人たちは、皆、黒衣の将軍アシュラムの帰還と命令を待っている。  だが、その黒衣の将軍は、まだ姿を現さない。  アシュラムは暗黒騎士団の精鋭を率いて、脱出準備の時間を稼ぐために、北の港街サルバドに拠《よ》って戦った。  |影の街《シャドーシティ》サルバドでの戦いは激しいもので、騎士たちの約半数が壮烈な戦死を遂げている。しかし、その犠牲によって、出航の準備は何とか整った。  騎士たちの生き残りは、昨日、この港に到着している。ただひとり、アシュラムだけが来ていない。副将ヒックスの話では、アシュラムは帝都ペルセイに立ち寄ったという。玉座へ、最後の|挨拶《あいさつ》をするためである。  だが、その玉座に、もはや主人はいないのだ。苛立《いらだ 》ちと|嫉妬《しっと 》が|錯綜《さくそう》したような感情を、ピロテースは覚える。  結局のところ、マーモ帝国は偉大すぎた建国皇帝ベルドの影響から逃れられなかった、ということだろう。  アシュラムほどの英雄でさえ、そうだった。ベルドの名声を超えることはできなかった。それはおそらく、彼自身が超えられぬと思いこんでいたためだろう。  ピロテースには、それが歯痒《は がゆ》く思える。  死者を超えることなどできるはずがない。伝説の彼方《か な た》に去った英雄を、倒せる者は誰もいないのだ。  それに気づきさえすれば、今日のような敗北を迎えることはなかったのかもしれない。  二代目の帝位に就こうとする者は誰もおらず、ベルドによって帝国が興される前に|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》を支配していた評議会の制度を復活させ、四人の実力者による合議制で帝国は運営された。その結果、マーモ軍の統率は著しく弱まった。全軍がひとつの意志のもとに動いていれば、戦《いくさ》の勝敗は違ったものであったかもしれない。  だが、それも過ぎてしまったことだ。過去の戦いより、これからの航海のほうが苛酷《か こく》に違いない。この航海を無事、成功させるには、強力な指導者が必要である。その大任を担えるのは、アシュラムをおいて他にはいない。  祈るような気持ちで、ピロテースはふたたび街道に目を向けた。  すでに日は西の空に傾き、辺りは薄暗くなっている。もっとも、北の空だけは夕焼けのように赤い。  街道の彼方に人影が見えたのは、そのときだった。  人影は三つ見えた。  そのうちのひとりは馬に跨《また》がっており、その手綱をひとりの男が手に取っていた。そして、もうひとりは子供のように思える。 「アシュラム?」  ピロテースは目を凝らした。  ダークエルフの視力は、人間よりもはるかに優れている。しかも、|精霊使い《シ ャ ー マ ン》である彼女は、普通の人では捕らえることのできない光を見ることができ、暗闇《くらやみ》のなかでも視力はほとんど衰えない。  近づいてくるにつれ、その三人のうちの一人が、アシュラムであることに確信がもてた。馬に乗っている男だ。胸にわだかまっていた不安が、霧が晴れてゆくように消える。  他の二人は誰なのだろうと疑問に思ったが、それはアシュラムが無事戻ってきた事実に比べれば、たいした問題ではなかった。  ピロテースは近くにいた船員に、黒衣の将軍が無事、戻ってきたことを告げた。そして、迎えの小舟を出すことと、日が落ちぬうちに船団を出航させることを改めて命じた。 「アシュラム|卿《きょう》が!」  その船員は輝くような表情を浮かべ、黒衣の将軍の到着を声高に告げながら、船尾で指揮を執っているドレット団長のもとへ走っていった。  その声に応じて、船員たちが次々と甲板に上がってくる。そして、到着したアシュラムを一目見ようと、ピロテースのいる舷側《げんそく》に集まってくる。  重心が変わって、船が傾《かし》ぐはどだった。 「持ち場に戻りやがれ!」  船尾の方から、ドレット団長の怒鳴り声が聞こえた。  迎えの小舟が海面に降ろされ、船乗りたちは次々と海に飛びこみ、乗り込んでゆく。 「馬鹿野郎! いっぱいに乗ったら、アシュラム卿が座る場所がなくなるだろうが!!」  団長の叫び声がふたたび聞こえた。 「帰りは泳ぎますから」  誰かが答えた。  ピロテースは、自分も迎えにゆこうと思っていたのだが、完全に出遅れてしまった。こうなっては、もはやアシュラムが乗船してくるのを待つしかない。  苦笑を浮かべながら、ピロテースはふたたび街道に目を向けた。  その瞬間、表情が凍りついた。  アシュラムたちの背後から、二十騎ほどの騎士が姿を現したのだ。その全員が純白の甲冑《ス ー ツ》に身を包んでいる。 「聖騎士か?」  ピロテースは緊張した。  追撃してきたのが彼らだけか、それとも後続がいるのか判断はつかない。だが、少なくとも、今、姿を現した二十騎は、アシュラムが乗船するより先に、追いつくだろう。眼下を見れば、迎えの小舟に乗りこんだ船乗りたちは、ほとんど武器らしい武器を持っていない。しかも、彼らは事の次第に、気づいていないようだ。 「|水の精霊《ウ ン デ ィ ー ネ》……」  ピロテースはロードス語でもエルフ語でもない不思議な響きの言葉をつむぎながら、船から落ちないよう舷側に張ってある縄を飛び越えた。  放物線を描きながら、ピロテースは海へと落ちてゆく。そして、彼女は海面に降り立った[#「降り立った」に傍点]。あたかも、そこが固い大地であるかのように。  水の精霊を支配し、水面を自由に歩く精霊魔法の呪文《じゅもん》を唱えたのだ。  夕凪《ゆうなぎ》の海は穏やかで、ピロテースは全力で走ることができた。ダークエルフの俊敏さは誰もが知るところで、たちまち小舟を追い越し、港の岸壁に上陸した。  まばらな人家を抜けて、アシュラムのもとへとひた走る。  彼女がたどりつくより早く、戦いは始まっているだろう。だが、アシュラムがそう簡単に倒されるはずはないと信じてはいる。  とはいえ、相手の数はいかにも多い。それも、神聖王国ヴァリスの正規の騎士たちなのだ。|妖魔《ようま 》や民兵などの雑兵とは訳が違う。魔法とは異なり、剣で多人数を相手にするのは苦しいものだ。  走りながら、ピロテースは精神を集中させていった。精霊魔法で黒衣の将軍を援護するためだ。魔法の助けがあれば、戦士たちはその実力を何倍にも発揮することができる。  港を抜けると、街道はなだらかな上り坂になっている。  その坂を上りきったところで、アシュラムと聖騎士たちは睨《にら》みあっていた。  聖騎士たちはアシュラムたち三人をぐるりと取り囲み、いつでも攻撃できる態勢である。  アシュラムは馬上で剣も抜かず、聖騎士のひとりを睨みつけている。 「アシュラム様!」  ピロテースは、声をかぎりに叫んだ。  まだ、距離はかなりあるが、聖騎士たちのうち何人かが彼女に気づき、振り返った。  だが、彼女の方へ駆けてくる者はいない。まるで、|呪縛《じゅばく》されたようにアシュラムを包囲したまま、動かないでいる。  ピロテースは最後の距離を一気に駆け抜け、聖騎士たちから二十歩のところで、立ち止まった。胸の前で腕を交差させ、いつでも魔法を唱えられる姿勢になる。 「出迎え、ご苦労」  馬上から、アシュラムが声をかけてきた。そして、聖騎士など気にもしていないように、馬を進めてくる。  聖騎士たちの包囲の輪が、アシュラムに合わせて動いた。 「よく、ご無事で……」  胸がつかえ、声がかすれた。  涙が滲《にじ》みそうになったので、あわてて手で押さえる。ありふれた小娘のような真似はしたくない。アシュラムも、そのようなことを望んではいないだろう。 「その者たちは?」  聖騎士ではなく、アシュラムの両側にいる二人のことを、ピロテースは尋ねた。 「わたしの従者だそうだ。こちらが望んだわけではないのだがな」 「従者……ですか」  アシュラムにそう言われて、ピロテースはあらためて二人を観察した。  子供のように見えたのは、驚くべきことに草原の妖精グラスランナーだった。ロードスには、この妖精族の集落はない。北の大陸から渡ってきた旅人だろう。  聖騎士たちにぐるりと囲まれても、まるで怯《おび》えた様子もなく、陽気な笑顔を見せている。腰には小剣を吊《つ》るし、懐には短剣を数本、忍ばせている。彼らは生まれながらにして手練《てだ》れの盗賊であり、狩人なのだ。聖騎士たちが本気で切りかかっても、彼の身体にはかすりもしないのではないか。そう思わせる雰囲気が、この小さな妖精にはあった。  もうひとりは、戦《いくさ》の神マイリーに仕えている神官戦士のようだ。鎖かたびらのうえに、マイリーの紋章が刺繍《ししゅう》された神官衣を纏《まと》っている。堂々たる体格の持ち主である。年齢は、四十を過ぎたぐらい。片手に|戦 鎚《ウオーハンマー》を構えつつ、周囲の聖騎士たちを無言で威圧している。 「出航の準備は整ったか?」  アシュラムが問いかけてきた。  あいかわらず周囲の聖騎士など、眼中にない様子である。  助けにくるまでもなかったな、とピロテースは思った。たとえこの倍の数の聖騎士を相手にしても、切り抜けたことだろう。 「いつにでも」  ピロテースはかるく頭を下げながら答えた。 「ご苦労だった」 「労《ねぎら》いの言葉は、ドレット団長にかけてやってください。それから、間もなくここにやってくる船乗りたちに」  アシュラムとピロテースの短い会話のあいだに、聖騎士たちは我に返ったようだった。包囲の輪をわずかに縮め、剣と楯《たて》とを握りなおす。 「逃しはせんぞ、黒衣の将軍!」  聖騎士の一人が言った。 「追ってきたのは、ヴァリス王の命令か?」  アシュラムはその男を睨《にら》みつけると、そう問いかけた。 「国王はおまえたちを追うな、と仰せられた。だが、わたしたちは、おまえを逃すつもりはないぞ。おまえが、ヴァリスの臣民に対して行ったことは、万死に値する罪なのだ」 「王命に背くとは、おまえたちそれでも聖騎士か。戦《いくさ》の勝敗が決したあとの殺戮《さつりく》は、神の望まれることではないぞ」  戦の神の神官戦士が、厳しい口調で聖騎士たちに言った。 「邪悪な者を倒すは、至高神ファリスの正義!」  その迫力に圧倒されながらも、いちばん若い聖騎士が言い返した。 「貴様たち、オレに私怨《し えん》があるのか?」  アシュラムは、その若い聖騎士に冷やかに問いかけた。 「我々、聖騎士は、そのような理由で戦ったりはしない!」  若者は、勢いこんで答えた。 「ならば、功名のためか?」  アシュラムは、さらに問うた。 「王命に背いてのことだ。誰も、功名など考えてはいない。我らは至高神の正義を守るために、貴様を討ちにきた。聖騎士ではなく、自由騎士としてだ」 「自由騎士、だと?」  若い聖騎士の答に、アシュラムの|眉《まゆ》がわずかに動いた。 「貴様らは、自らを自由騎士と名乗るのか!」  アシュラムは言うと、馬の鞍《くら》に吊りさげたままだった剣を掴《つか》んだ。  黒き刃の大剣である。  その魔法の大剣は、かつてロードスを破滅の一歩手前にまで追いこんだ魔神王《デーモンロード》が持っていたものだ。それを先帝ベルドが奪い、アシュラムが引き継いだ。  しばし、他人の手に渡ったこともあったが、いつの間にか彼のもとに戻ってきた。�魔神王の剣�とも、|�魂砕き�《ソウルクラッシュ》とも呼ばれるこの魔剣が、持ち主を選ぶと|噂《うわさ》される所以《ゆ え ん》だ。真の勇者でなければ、手にすることはできないのであろう。  アシュラムは鞘《さや》に付いた掛け金を左の親指ではずした。金属製の鞘が、地面に落ちて甲高い音を響かせる。  聖騎士たちのあいだに、緊張が走った。 「オレは真の自由騎士を知っている。その男は神の教義からも、王の権威からも自由だった。ただ、その心にのみ忠実であった。神にすがり、国を頼る貴様らには、自由騎士を名乗る資格などない。私怨であれば、功名のためであれば、生かして帰すつもりであった。だが、もはや容赦はせんぞ」  アシュラムは片手で大剣を振り上げると、正面にいた聖騎士に向かって、無雑作に馬を進めた。 「討ち取れ!」  もっとも年配の聖騎士が、警告の声をあげた。  騎士隊長だろう、とアシュラムは見当をつけた。おそらく、この男が追撃を決意したに違いない。自由騎士という言葉を用いて、配下の者をうまく乗せたのだろう。 「風の王よ……」  そのとき、ピロテースが、精霊魔法の呪文《じゅもん》を唱えはじめた。  それを聞いて、アシュラムは、 「手だしは無用!」  と、叫んだ。  反論を許さない強い調子であった。ピロテースは、ただちにその命令に従った。  神聖魔法を唱えはじめていた神官戦士も、詠唱を中断していた。もう一人のグラスランナーは、最初から戦うつもりはなかったようで、笑顔を浮かべたまま、アシュラムと聖騎士たちの戦いを見物しようとしている。  アシュラムは最初の一振りで、正面にいた聖騎士を切り捨てた。  肩口から胸までを切り裂かれた聖騎士が、血しぶきを噴きあげながら、地面に落ちてゆく。その両隣にいた聖騎士たちが、剣を振るったが、間合いが遠く、アシュラムには届きはしなかった。  アシュラムが着ている闇《やみ》色の甲冑《かっちゅう》には、敵の攻撃を誤らせる魔力が秘められている。闇の精霊シェードの力による|�影身�《シャドウボディ》の呪文と同じ効果があるのだ。  アシュラムは切りかかってきた二人を、それぞれ二撃ずつで葬った。  一人は頭を割られ、もう一人は腹を切り裂かれた。脳漿《のうしょう》と内臓をぶちまけながら、二人は馬上につっぷして息絶える。 「集団でかかれ!」  騎士隊長と見た男が、甲高い声で命じた。  その命令に応じて、若い聖騎士ともう二人が馬を並べながら、アシュラムに突撃《チャージ》してきた。武器も、剣から馬上槍《ランス》に替えている。  捨て身とも思える勢いで、三人の聖騎士が迫ってくる。  アシュラムは平然と、それを迎えた。�魂砕き�を、下段に構える。  三人の聖騎士たちの馬上槍が、アシュラムへ伸びてきた。それが甲冑に届こうかという寸前、アシュラムは魔法の大剣を跳ねあげた。  三本の馬上槍が、残らず弾《はじ》かれた。  四頭の馬が交錯し、ぶつかりあった。手綱を操りそこねて、二人の聖騎士が落馬した。アシュラムは片手で素速く手綱を操り、そのうちの一人の頭部を馬の蹄《ひづめ》で踏みつけた。  頭蓋骨《ず がいこつ》の砕ける鈍い音が響く。  もう一人が立ち上がりかけたところを、今度は馬の後脚で蹴《け》りあげた。胸部に強烈な打撃を受け、その聖騎士は宙に舞い、地面に叩《たた》きつけられた。低い呻《うめ》き声をあげて、その聖騎士は悶絶《もんぜつ》した。  間をおくことなく、アシュラムはなんとか馬上に留っていた若い聖騎士の喉《のど》に、�魂砕き�の突きを入れた。  狙《ねら》いは違《たが》わず、口から血の泡を噴きながら、若い騎士は仰向けに地面に落ちていった。 「化物か……」  騎士隊長が、震える声でつぶやいた。  一瞬のうちに六人の仲間を失って、数人の聖騎士が悲鳴をあげながら、逃走をはじめた。 「それが自由騎士たる者のすることか!」  逃げる聖騎士たちの背に、アシュラムは嘲《あざけ》りの言葉を叩きつける。  聖騎士たちの囲みが解けたので、ピロテースがアシュラムのところへ走り寄ってきた。 「あの者たち、逃がしてよろしいのですか?」 「捨てておけ」  アシュラムは無関心そうに答え、残る十騎ほどの聖騎士たちにゆっくりと向き直った。 「アシュラム卿《きょう》!」  そのとき、遅れていた船乗りたちが、ようやく駆けつけてきた。  気勢をあげながら聖騎士たちに襲いかかろうとする船乗りたちを、アシュラムは大剣を掴《つか》んだ右腕をまっすぐ横に伸ばし、無言のまま制した。  訓練された兵のように、船乗りたちは立ち止まる。誰も一言も発しなかった。  彼らのうちの何人かは船乗りがよく使う反り身の短剣を手にしていたが、ほとんどの者はまったくの素手である。だが、アシュラムの命令さえあれば、いつでも襲いかかってゆきそうな様子だった。 「その顔は、後悔している様子だな」  アシュラムは、聖騎士たちに声をかけた。 「せっかく戦《いくさ》に勝利したというのに、このような形で命を落とすことになるとはな。自らの愚かさを呪《のろ》うがいい」 「まて!」  騎士隊長らしき男が、手にしていた剣を投げ捨てて言った。 「降伏する。望むなら、身代金を支払ってもいい」 「あいにくだが、受け取る暇がないのでな」  アシュラムは、残酷な笑みを浮かべた。 「貴様ら至高神の信者は、死んでも天国とやらへ行けるのだろう。ならば、恐れることなど何もなかろう!」  アシュラムは�魂砕き�を頭上に振り上げ、聖騎士たちのあいだに飛びこんでいった。  最初の一刀で、命乞いをする騎士隊長の胴を鎧《よろい》ごと両断する。それからは、まさに一方的な戦いであった。  覚悟を決めた聖騎士たちは、必死になって剣を振るったが、アシュラムに怪我《けが》のひとつも負わせることができなかった。  最後の一人が首を刎《は》ねられ、馬から落ちたとき、アシュラムは息さえ乱していなかった。  ピロテースは息を飲んで、アシュラムの戦いぶりを見つめていた。この男が、優れた剣の使い手であることは、もちろん知っていた。だが、二十騎の騎士をこれほど鮮やかに破るとは思いもしなかった。  先帝ベルドの戦いぶりを髣髴《ほうふつ》とさせた。 「お見事です」  何事もなかったように戻ってきたアシュラムを、ピロテースは敬意を込めて見つめた。  不思議なことに、間の悪そうな表情を彼は浮かべていた。 「この魔剣を振るうのは、最後にしたいものだ」  アシュラムは意外な言葉を言った。 「戦いに飽きられたのですか?」 「まさかな。ただ、剣で勝ったとて、何の意味もないことを思い知らされただけだ。あの男と剣を交えて、分かった」 「もしかして、自由騎士パーンですか?」  だからこそ、アシュラムは自由騎士を僭称《せんしょう》した聖騎士たちに怒りを覚えたのだろう。  ピロテースは、パーンという男を見たことはない。だが、カノン王国に駐留していた間、アシュラムはその男と戦いつづけてきた。カノンの支配と解放をかけた戦いである。  ここ何年かというもの、自由騎士はアシュラムにとって、最大の敵だった。 「帝都の王城の廊下で、奴《やつ》と出会ってな。剣を交え、互いの力を確かめた。百回戦ったとしたら、オレが五十一回勝つと思えた。それだけ、分かれば十分だった。あの場で命のやり取りをしても、無駄なこと。双方、武器を収めたよ」 「それは、不思議なこと。自由騎士には、あれほど苦しめられたというのに」 「まったくだな」  アシュラムは苦笑を浮かべた。 「だが、おかげで思い知らされた。かつて、オレはベルド陛下を超えようと、ひたすら剣の修業に打ち込んだ。だが、たとえ剣の腕であの御方に勝ったとて、超えたことにはならないのだ、とな」 「恐れながら、将軍は先帝にこだわりすぎておられます。死者を超えることなど、できるはずがありません」  ベルドの名が出てきたので、ピロテースはつい本音を言ってしまった。 「それは違うな」  アシュラムは、ピロテースを見下ろしながめた。その表情はいつもどおりで、気分を害したわけではなさそうだった。 「死者を超えることはできるぞ」 「どうすれば、できましょうか?」  アシュラムが意味するところが分からず、ピロテースは訊《たず》ねた。 「簡単だよ。それは、自らも死者となることだ。口うるさい吟遊詩人どもが、評価を下してくれようさ」  聖騎士たちの懐から、金目の物をあさっている草原の妖精《ようせい》を、アシュラムはちらりと振り返った。その視線に気づいたのか、グラスランナーは屈託のない笑顔を浮かべた。 「さすがに、聖騎士は金持ちだねぇ。新しい王国は、お金が通用するようにしてよ」 「そう祈っていろ」  アシュラムは答え、畏《かしこ》まって熱い視線を送りつづけている船乗りたちを振り返った。 「御苦労だったな」  アシュラムは、彼らの前に高脚で馬を進めた。蹄《ひづめ》が地面を打つ音が、軽快に響く。  そして、�魂砕き�を天に掲げ、 「出航するぞ! 我らが新天地を目指して!!」  と、高らかに宣言した。  それが、合図であったように、神妙にしていた船乗りたちが快哉《かいさい》の叫びをあげはじめた。その声は、港に浮かぶ船団にも届いたようで、潮風に乗って黒衣の将軍の到着を喜ぶ声が沸き起こりはじめた。  ピロテースは、知った。  この日、マーモ帝国は失われた。だが、マーモの民は新たな王を得たのだ。  明日からは、アシュラムを黒衣の将軍と呼ぶ者はいなくなるだろう。彼は、王と呼ばれるに違いない。そう、漂流王と冠されることになるだろう。故郷を脱出し、新天地を目指し航海をはじめる漂流民たちの王であるのだから…… [#改ページ]    暗黒の覇者      1  ロードスという名の島がある。  アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。大陸の住人のなかには、呪《のろ》われた島と呼ぶ者もいる。人を寄せつけぬ魔境が各地に存在し、激しい戦乱がうちつづくゆえに。  そんなロードス島の東南に、マーモ島という小さな島がある。暗黒の島と恐れられるマーモは、邪悪が支配する禁断の場所だ。  この地は破壊の女神カーディスが斃《たお》れたところとされ、その呪いが大地を腐らせているとされる。事実、木々はねじくれ、草花はちぢれている。近海の魚には、致命的な毒素を持つものが少なくない。そして、森には邪悪な|妖魔《ようま 》たちや恐るべき魔獣どもが棲《す》んでいる。  人間たちはこの苛酷《か こく》な環境のなかで生活しなければならない。もっとも、この島に住むのは、ロードス本島から罪を犯して逃げだしてきたり、追放された悪人たちがほとんどだ。それから、魔獣と妖魔の跳梁《ちょうりょう》する森に住む土着の狩猟民である。  そんなマーモ島にあって、最大の都市は|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》ペルセイである。川と丘とに挟まれた平地に周囲を城壁で囲んだ城塞《じょうさい》都市として、マーモ島のなかでもっとも栄えている。北の港湾都市サルバドが第二の街。他に人里といえば、このふたつの街の周辺に点在する村々、だけ。村には、貧しい土地を耕し、作物を育てる農奴たちが住んでいる。  この島を支配する正統な領主はいない。|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》は、街の有力者たちからなる評議会によって治められており、その支配は|影の街《シャドーシティ》サルバドにも及んでいる。だが、闇《やみ》の森に住む蛮族たちや妖魔たちは、彼らの命令に従いはしない。  評議会を構成する武装商船の商会や農奴を支配する大地主、暗黒神ファラリスとその従属神の教団、盗賊ギルドといった組織の結束も強固なわけではない。それぞれは自らの利益のために、裏にまわれば暗闘を続けてきた。この島には法もなく、秩序もなく、あるのは暗闇のごとき自由だけ。その自由のもとに、弱者たちは隷属を強いられるしかないのだ。  だが、ここ数年、邪悪ながら安定の続いていたマーモ島に変化の波が押し寄せていた。  それは、一人の英雄と一人の無名の若者とがもたらしたものだった。  翳りの街の東門は、|廃墟《はいきょ》のごとき建物が並ぶ無人の地区だ。  石畳も剥《は》がされ土煙《つちけむり》の舞う道を、男が歩いている。  見るからに盗賊ふうの男だった。足音さえたてない滑るような歩き方。屈《かが》められた背は小刻みに揺れ、遊んでいるように見える両手は、いつでも懐へと動き、毒塗りの短剣を投げることができる。油断なく周囲の建物に視線を巡らせながら、足を運んでいる。  その足下に、弾《はじ》けるような音がして、新たな土煙が舞った。  小石か何かを投げつけられたのだ。  男は心臓が止まるような衝撃を覚えた。気配は何も感じられなかった。 「驚くことはないだろう。オレに用があってきたんじゃないのか」  嘲《あざけ》るような笑い声が響いた。  左手にある廃墟の屋根から、ひとりの若者が姿を現した。まだ二十歳にもなっていまい。もっとも、身長は並の大人よりはるかに高い。黒い髪と驚くほど白い肌の持ち主だった。涼しげな|容貌《ようぼう》を見るかぎり、何百という人間の命を奪っていることは想像すらできない。そのなかには、盗賊ギルドに所属する腕利きの暗殺者《アサッシン》が何十人もいるのだ。 「おまえが、アシュラムか?」  盗賊は、押し殺した声で言った。 「そうだよ。琥珀《こ はく》の日のミストラ。それとも、ディッツと呼んでやろうか?」 「て、てめえ。なんで、それを」 �琥珀の目�と呼ばれた男には、胸に短剣を突きつけられたような感覚が走った。ディッツというのは、盗賊仲間でさえ知らぬはずの彼の本名なのだ。 「調べる方法はいくらでもある。それぐらいできなくて、おまえたちに喧嘩は売らんよ」 「あれが、喧嘩だと? 戦《いくさ》じゃないのか!」  琥珀の目は、気色ばんだ。  盗賊ギルドの戦闘要員である暗殺者たちは、この男とその手下たちによって、ほとんど壊滅させられた。それを喧嘩とかたづける、この若者の心が知れなかった。  アシュラム一派との抗争により、先代のギルド長《マスター》をはじめ、有力な幹部の多くが命を失っている。もっともそのおかげで、下級の幹部にすぎなかった自分が、盗賊ギルドでも一、二を争う実力者になれた。  怒りと恐怖が、琥珀の目の心に同時に浮かんだ。この若者は狂気に冒されているとしか思えない。はたして赤い血が流れているのだろうか? 心臓は鼓動しているのだろうか? 「目的があれば、戦かもしれない。だが、オレにはそんなものはない。おまえらが気にいらなかった。だから、暴れた。それだけのことさ」  アシュラムは、表情ひとつ変えずに言った。 「おまえはそんな話がしたくて、やってきたのか?」  端正な顔に、残忍な表情が浮かんでいた。殺意が明白にうかがえる。 「おまえに伝えたいことがあってきた」  苦渋に満ちた表情で、琥珀の目は懐から手紙を取りだした。 「翳りの街の評議会からの親書を預っている」 「そこへ置いておけ。内容は、分かっている。あの男を殺せ、というのだろう。六英雄のひとり、赤髪の|傭兵《ようへい》とやらを」  琥珀の目は、うなずいた。  もう驚きもしないが、評議会の情報はすべて筒抜けということだ。  内通者がいるのか、密偵を入れているのだろう。もっとも、それについては、こちらも同様だ。アシュラムたちの内部情報については、ほぼ正確につかんでいる。ただ、その情報を活用できないだけだ。 「みくびられたものだな。評議会はオレたちよりも、奴《やつ》らを恐れたわけか? 魔神王の剣を持つ男と、闇《やみ》の森の蛮族たちを」  赤髪の傭兵と呼ばれるベルドは、二十年ばかり前に勃発《ぼっぱつ》した魔神戦争のときには、百の勇者のひとりとして、魔神の聖地たる地下迷宮に挑み、生き残った六人のうちのひとりとなった。残る勇者たちは、死の迷宮のなかで全員、命を失っている。  帰還した六人は六英雄と讃《たた》えられ、ロードスの伝説に名を残すことになった。そして、その伝説は、今も続いている。  神聖王国ヴァリスの国王となった英雄王ファーンは、ロードスの諸王国と同盟を結び、ロードス本島から戦乱の雲を吹き消した。  大賢者の名称を得た魔術師のウォートは、地下迷宮への入口に塔を建て、その番人となっている。魔神の手で|廃墟《はいきょ》となったドワーフの王国をも封じ、過ちがふたたび繰り返されることがないよう、その目を光らせているのだ。  大地母神マーファに仕える聖女ニースは、ターバにあるマーファ大神殿で教団の最高司祭として、人々から女神の現身《うつしみ》と呼ばれ崇拝されている。辺境の地にあるにもかかわらず、マーファ大神殿にはロードス各地から巡礼者が訪れる。  王国を失った南のドワーフ族の鉄の王フレーベの行方は知れない。生き残った魔神を狩るための旅を続けているとも、滅び去った彼の王国でひっそりと暮らしているとも伝えられるが、誰もその姿を見た者はいない。  もうひとり、�名もなき魔法戦士�は、その正体すら定かではない謎《なぞ》の人物だ。比類なき魔力と剣技の持ち主ながら、まるで他人の目に触れるのを恐れるかのように姿を現さない。その神秘性ゆえ、魔法戦士の存在は吟遊詩人たちが謳うサーガによって、ますます伝説化されている。  そして、最後のひとりが赤髪の傭兵ベルドだ。  魔神王によって最愛の女性を奪われたこと、その魔神王にとどめをさしたことで六英雄のなかでももっとも名高い英雄だ。  そんな英雄が、突然、マーモに姿を現し、島の統一のための戦《いくさ》をはじめた。闇《やみ》の森の蛮族を従え、ダークエルフをはじめとする|妖魔《ようま 》たちもが、彼に味方するという情報が流れている。それゆえ、|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》の支配者たちも、あわてだしたのだ。妖魔たちを味方につければ、何千、いや何万という軍勢になる。  翳りの街の人間が、全員武器を取ったとしても勝利は覚束ない。そして、全員が街を守るために戦うはずがないのだ。住人たちの多くは、この街に安住しているわけではない。恐怖と貧困という極限状態のなかで、日々の暮らしを送っているのだ。  彼らの目には、英雄ベルドとその軍勢は解放者と映っていることだろう。密告を恐れて声には出さないが、農奴や貧民たちがベルドが攻めてくるのを待望している空気が翳りの街には流れている。 「評議会は、おまえを評議員として迎える用意がある。おまえたちだって、この翳りの街の住人だからな」  琥珀《こ はく》の目は、卑屈な笑みを浮かべ、評議会の示した条件を言った。 「愛着を抱けというのか? この腐りきった街に」  アシュラムは高笑いをあげ、小さな瓦礫《が れき》をひとつつかむと、すばやく投げつけた。  瓦礫はまっすぐに宙を走り、隣の|廃墟《はいきょ》の屋根で羽根をやすめていた鴉《からす》にまともに当たった。哀れな鳥は、断末魔の悲鳴をあげて地面へと落ちる。  そこにいたのが人間だったとしても、同じことをしたのではないかと思えるほどの無雑作さだった。赤子が虫の脚をちぎるようなものだ。  琥珀の目は、悪寒が走るのを覚えた。  盗賊ギルドの残忍さは、ある意味で計算されたものだ。その残忍さはギルドを外敵から守る鎧《よろい》であり、組織を維持するための秩序であり、金銀を得るための手段なのである。知恵も技術もないただの悪党では、盗賊ギルドの一員にはなれない。  だが、この若者とその手下たちは、盗賊ギルドをはるかに凌駕《りょうが》する残虐性を示した。路上の物乞いたちを惨殺してまわり、|娼婦《しょうふ》たちの秘所を短剣でえぐりぬいて商売のできない身体にした。  盗賊ギルドに関わりのあった建物にはすべて火をかけた。そのなかには、無関係だった建物も数知れずある。  もちろん、盗賊ギルドも必死で戦った。アシュラムの組織に属する若者を次々と殺していった。死体を街にさらし、警告を与えつづけた。恐怖を知る者、守るべきものを持つ者には、それはもっとも効果のある方法なのだ。  だが、若者たちには、そのいずれもなかった。  彼らには親も兄弟もなく、金も食料もなく、過去も未来もなかった。神への信仰もなかった。信じるものは、仲間だけ。集うことで、奪うことで、破壊することで、やっと自分が生きていることを実感できる。  若者たちの結束は盗賊ギルドとは比べものにならなかった。彼らは暴走する野生馬であり、満たされることを知らぬ空腹の獣の群なのだ。  アシュラムは、若者たちのあいだで英雄と信じられている。彼こそが唯一の法であり、絶対の秩序であった。若者たちは争って彼のもとに走り、この街の支配者である評議会と戦いはじめた。  評議会も黙っていたわけではなかったが、有効な手段はなにひとつ講じられなかった。  それも、当然だろう。評議会を構成する勢力のなかでも暗黒神ファラリスの教団は、秩序の破壊者としてアシュラム一派を容認し、破壊の女神カーディスの信者たちは、アシュラムこそ世界を終焉《しゅうえん》に導く者だと支援さえしている。  そのうちに、もうひとつの脅威のほうが問題になりはじめた。  赤髪の|傭兵《ようへい》ベルドと彼に率いられた闇《やみ》の森の蛮族たちの|蜂起《ほうき 》である。なにゆえ、この島の統一に、赤髪の傭兵が立ち上がったかは分からない。ロードス本島の住人たちは、ベルドが暗黒の島の邪悪を一掃すると|噂《うわさ》しているらしい。  だが、彼が掲げているのはマーモ帝国の建国である。暗黒皇帝を自称してさえいる。それは、際限のない覇権主義の標榜《ひょうぼう》だと感じられる。  翳りの街の評議会へも服従するよう要求している。だが、そんな命令に従えるはずがない。支配の座から降りれば、もはや甘い汁を吸うことはできなくなる。  評議会が下した決定は、アシュラムたちを味方につけて、ベルドの軍勢と戦うことであった。若者ごときは評議会に属し、蜜《みつ》の味を知れば、おとなしくなるものだ。いずれにせよ、若者たちを懐柔せねば、翳りの街の評議会に未来はないのである。彼らは、次代の構成員なのだから。ある程度の期間をおいて、小癪《こしゃく》なアシュラムひとり始末すればよい。  だが、赤髪の傭兵ベルドと蛮族は、外なる敵である。もしも、闇の森の妖魔たちと結んだとすれば、それは人間という種族にとっての敵だ。妖魔たちを支配するダークエルフの一族は、人間たちを赤肌鬼《ゴ ブ リ ン》や犬頭鬼《コ ボ ル ド》といった卑小な妖魔と同様に扱うだろう。  魔神王を倒し、その軍団を滅ぼした六英雄がやることとは思えなかった。魔神に魅入られたと噂する者すらいる。 「ベルドが、おまえたちを仲間と認めると思うか? おまえたちが生き残るためには、我々と手を組み、赤髪の傭兵を倒すしかないのだ」 「オレたちは、死ぬことなど恐れちゃいない。おまえたちとは違う」  アシュラムは懐から短剣を取り出すと、手の甲を薄く切った。  滲《にじ》みはじめた血を、舌でなめとる。唇が紅を引いたように真っ赤に染まった。まるで、女性のような|妖艶《ようえん》さだ。男色家ならば、よだれをたらすような色気に違いない。もっとも、琥珀の目にその趣味はない。  交渉は無駄だった、と琥珀の目は落胆した。  評議会はアシュラムとベルドの二人と戦わねばならなくなった。絶望的な戦いと思えた。唯一の希望は、彼らが共闘しないだろうことだ。  アシュラムのような破壊者と、ベルドとが相容《あいい 》れるはずがない。 「それが、おまえの答か?」  琥珀の目は交渉を切りあげようと思い、問いかけた。 「オレの答は、承知だよ。貴様たちの下心など見えていかが、英雄呼ばわりされているような奴《やつ》はもっと虫酸が走る。ベルドとかいう男、オレが切り刻んでやるよ。盗賊ギルドの先代の長のようにな」  琥珀の目は、そのふたつ名の由来となっている薄茶色の目を見張った。  まさか、この若者が承知するとは思えなかった。先刻までの会話の流れから、とても信じられない。評議会に名を列《つら》ねることを欲したからだろうか?  しかし、この若者は評議会の意図など気づいている、と言った。はったりではないだろう。密偵から情報を得ているはずだ。  そのうえで、ベルドを殺すという。  琥珀の目は、盗賊ギルドの先代の長の死体を思いだした。十五歳の愛人の家で全身を切り刻まれ、臓腑《ぞうふ 》を抜きだされ、両目をくり抜かれて、ゴミと一緒に路上に捨てられた。先代の愛人だった十五歳の少女がアシュラムの一派に加わったためだ。もっとも、その少女はアシュラムの情婦を気取ったために、アシュラム自身の手で粛正されたと聞く。 「本当だな?」  琥珀の目は念を押すように言った。 「オレは気紛れなんだ。あまりくどいと後悔することになるぞ」 「分かった。評議会に伝えておこう」  いぶかしさを覚えながらも、琥珀の目は盗賊の神ガネードの名を心のなかで唱えた。とにかく、役目は無事に果たせた。評議会の構成員たちも、評価せざるを得ないだろう。盗賊ギルドの長《マスター》への階段が、また一歩、近づいた。後は、仕上げるだけだ。  そして、その手はすでに打っている。 「引き受けたからには、オレは評議会の一員なんだな」  アシュラムが、確認するように言った。 「もちろんだとも」  琥珀《こ はく》の目は急いで答えた。 「評議会は、喜んでおまえを迎えるぞ」  アシュラムは鼻を鳴らしただけで、何も言わなかった。  琥珀の目は彼の決心が変わらぬうちに、と背中を向け、来た道を足早に戻りはじめた。      2  琥珀の目の背中が見えなくなるのを待って、アシュラムは|廃墟《はいきょ》の屋根から飛び降りた。  同時に、近くの廃墟のなかから金髪の若者が姿を現した。ずんぐりとした体格で、背中を丸めるようにして歩いてくる。  だが、その動きには、山猫のようなしなやかさがあった。  オーエンという名で、アシュラムの片腕ともいうべき若者である。彼だけは、アシュラムの生まれも育ちも知っている。  アシュラムは�千年王国《ミ レ ニ ア ム》�と呼ばれているロードス北東部の大国アラニアで生まれた。五代前には王族に連なるという名門の貴族の嫡子としてである。八歳のときまで、アシュラムは王都アランで何不自由ない暮らしを送っていた。父は武人であり、アラニア騎士団の隊長を務めていた。近々、副団長に推挙されることが決まっていたし、おそらく騎士団長まで昇りつめるだろう、と|噂《うわさ》されていた。  それほどに、父の剣技は優れていたし、厳格ながらも公平な人柄で、騎士たちの信頼も厚かった。  だが、それが父にとって不幸となった。  同僚の騎士隊長の不正を知った父は、その男を告発した。だが、その騎士隊長は、ある王族の腹心の部下だった。その王族は告発の証拠を隠滅し、証人に脅しをかけ、父に不利な証言をさせた。  裁判が終わったとき、罪を犯したのは父であり、告発相手にその罪をかぶせようとした|卑怯《ひきょう》者とされていた。父は流刑に処せられ、ここ暗黒の島に流されてきた。罪はアシュラムと母にも及んだ。  このとき、同じ船で流されてきたなかに少年のオーエンがいた。彼は見習いの盗賊で、盗みに入ったところを騎士に咎《とが》められ、養父であり師匠でもある盗賊を逃がすため、囮《おとり》となって捕まえられたという。  その後で、彼を捕らえた騎士から、意外な事実を聞かされた。オーエンたちが盗みに入ることを密告した者がいたのだ。しかも、その密告者が、養父その人だというのだ。 「おまえは、はめられたんだよ。父親に裏切られたんだ」  と、騎士はオーエンに言った。  だいぶ前になるが、アシュラムはなぜ養父である盗賊がオーエンを裏切ったのか尋ねてみたことがある。 「なぜでしょうね」  肩をすくめながら、そのときオーエンはこう答えた。  オーエンは、ただの盗賊ではなく暗殺者《アサッシン》として養育されたのだという。暗殺者は、幼い頃から特別な訓練を受ける。盗賊ギルドに対する絶対的な忠誠を叩《たた》き込まれ、苛酷《か こく》な訓練を課せられる。その訓練のなかには、拷問に耐えるため苦痛に対する耐性をつけることや、感情を殺すことなども含まれているという。 「暗殺者に選ばれた見習いは、かならず年下の女の子と一緒に育てられるんです。ほとんど妹同然に。そして、その女の子は、最初の殺しの練習相手にされるんです」  オーエンは冷たい笑いを浮かべながら言ったものだ。 「その子を殺すとき、わたしはどうやら冷静にやりすぎたのかもしれません……」  おそらく、オーエンは優秀すぎたのだ。養父である盗賊にも恐れられるほどに。  文明の進んだ王国なればこそ、アラニアの盗賊ギルドは、もっとも非情な組織である。暗殺者がもっとも活躍しているのは、この千年王国だという。 「この暗黒の島の盗賊ギルドなど、ぬるすぎますよ」  オーエンは、そんな感想を洩《も》らすときがある。  年齢が近かったためか、流刑の船旅のあいだに、アシュラムはオーエンと親しくなった。そして、二人はこの暗黒の島でずっと一緒に暮らしてきた。  アシュラムの母親は、マーモ島に着いてまもなく、苦しい生活と劣悪な環境のため、病にかかりあっさりと息をひきとった。  父親もそのすぐあとに、闇の森のダークエルフたちが行う人間狩りにあい、捕えられた。彼ら森の妖魔たちは、オーガーという人間を好物にしている下等な巨人族を飼い慣らしてぉり、その食料とするために人間たちを狩りたてるのだ。  森に連れ去られた父親がどうなったか、アシュラムは知らない。  だが、ふたたび帰ってくることはなかったので、その想像は簡単につく。  喰われたのだ。巨人族の愚かな末裔の餌となったのだ。  あれほどの剣の達人が、この島でわずか一年も生き抜くことはできなかった。高潔な魂の持ち主は、この邪悪の島に拒絶されるからだろう。  それゆえ、アシュラムはちかった。生き残るために邪悪になろう、と。  どうせなら、この島を飲み込むほどの邪悪に……  アシュラムのちかいは、果たされつつある。その間、オーエンはつねにアシュラムの腹心だった。 「いよいよ、盗賊ギルドも終わりですね。あんな男でも幹部になれる」  オーエンの言葉に、アシュラムは不敵な笑みを浮かべてうなずいた。 「そうなるように殺してきたんじゃないのか。今、残っているのは技術はともかく、頭の働かない連中ばかりさ」 「それは、オレたちも同様でしょう」  まるで臣下のごとき態度で、オーエンはアシュラムに接する。  出会ったときから、ずっとそうだった。アシュラムも、それを当たり前のように受け入れてきた。オーエンの忠誠は、おそらく彼自身が裏切りにあったことと無関係ではないのだろう、とアシュラムは思っている。 「赤髪の傭兵の蜂起《ほうき 》で、我々の結束も緩んでいます。英雄ベルドの名に憧《あこが》れる連中は、かなりいるようで……」 「伝説のままでいればいいものを。現実に降りてきた偶像ほど面倒なものはない」  いまいましげに、アシュラムは言った。  年齢相応の若さが瞬間、顔を覗《のぞ》かせる。もちろん、オーエン以外の者には、決して見せない表情だ。 「評議会が恐れるのも当然だ。この島の現状を歓迎しているのは、ほんの一握りの人間。大多数の人間は改革を、解放を夢見ている。赤髪の傭兵ベルドは、まさにその夢を実現しようとしている」  アシュラムは若者たちを、暴力と恐怖で支配してきた。徹底すればこそ、それらは畏怖《いふ》となり、崇拝へと昇華する。  若者たちにとって、アシュラムは導き手となった。先の見えぬ人生に苦悩し、何をなすべきかも分からぬ若者たちを従え、目的を与えてきた。  それは、無差別の破壊だった。  ありとあらゆる禁忌を侵し、後悔をさせない。暗黒神の教団や破壊の女神の教団が、自分たちを支持するのも当然だろう。完全なる自由、限りない破壊へと、アシュラムは若者たちを駆り立てた。自らが先頭に立つことによって。  それは、冷酷な計算に基づくものであったが、手下たちに悟らせてはいない。若者たちは、自分たちが暴走しているとしか思っていない。アシュラムに野望があり、そのために動いているなどとは夢にも思っていないだろう。 「さて、赤髪の傭兵。どうやって、倒しますか?」  オーエンが問いかけてきた。 「オレでは、奴《やつ》に勝てないと思うか?」 「伝説が真実ならば」  オーエンの率直な答に、アシュラムは苦笑を洩《も》らした。 「伝説など、誇張されて伝えられるものだ。それに、奴はもはや五十に近いはずだ。体力的にも、衰えているだろう。勝機は、きっとある」 「まさか、一騎打ちを挑むつもりですか?」  オーエンは、かなり驚いたようだ。不安の表情がかすめる。 「最後の手段としては、それも考えている。だが、奴を倒すには、剣も毒も魔法もいらないはずだ」 「剣も毒も魔法も……」  オーエンは、首をひねった。 「難しい|謎かけ《リドル》ですね。わたしには、さっぱり」 「ベルドは英雄だ。それこそが奴の武器ではあるが、同時に弱点にもなりうる。その名声を地に落としてやればどうなる?」 「期待は失望に変わり、羨望《せんぼう》は嫌悪に変わる……」  なるほど、とオーエンはうなずいた。それから、思い出したように笑みを浮かべ、 「あなたと同じ、というわけですか」  と言った。 「そうかもな……」  アシュラムは|曖昧《あいまい》に答えた。  だが、オーエンの言葉が的を射ていることは、自分自身がよく承知していた。  アシュラムも、若者たちの間では英雄視されている。だが、その性質は異なっている。ベルドの英雄性を支えるのは過去の偉業であり、名声である。アシュラムの場合は強さと残酷さでしかない。  だからこそ、本物の英雄ベルドの出現で、仲間の結束が緩みはじめたのだ。アシュラムよりも間違いなく強い人間が出現したのだから、それも当然だろう。赤髪の傭兵は竜《ドラゴン》よりも強い、魔神王《デーモンロード》を倒した英雄なのだ。  それゆえ、アシュラムが若者たちの絶対的な信頼を保つためには、どうしても英雄ベルドを除かねばならない。  評議会からの協力の要請は、アシュラムにとって、むしろ好都合だった。評議会の無能どもなど、後からどうにでもなる。 「問題はいかにして、ベルドの名声を落とすかですが……」 「策ならある」  アシュラムは、自嘲《じちょう》的な笑いを浮かべた。 「卑劣な策だがな」  オーエンは、それだけですべてを悟ったようにうなずいた。 「だからこそ、評議会と」  アシュラムは|侮蔑《ぶ べつ》の表情を浮かべ、地面に唾《つば》を吐いた。 「汚名は、奴らに負ってもらうさ」 「それでは、さっそく」  軽く頭を下げて、オーエンはアシュラムに背を向けた。次の瞬間には、滑るように動きだしている。  アシュラムは、満足げにうなずいた。  難しい仕事だが、絶対にやりとげるという確信があった。アシュラムが命じたことで、彼が仕損じたことはただの一度もないのだ。      3 「|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》の評議会から返事がきたわ」  弾《はじ》けるような若い女の声で、ベルドは浅い眠りから目覚めた。  薄く目を開けると、戸外から差し込んでくる光を背に受けて、若く引き締まった肢体が影絵となって見えた。素肌に毛皮を巻きつけただけの粗末な服装。文明化された場所に住む者には、想像もできない衣裳《いしょう》だろう。 「あなたの要求に、従うつもりはないようよ。それどころか、わたしたちに従属を求めてきたわ。闇《やみ》の森の支配権を認める代償として、食料を納めろとね」  ベルドが無言でいるのを見て、娘は言葉を続けながら部屋の奥へ入ってきた。  娘は、ここ闇の森を住みかとする狩猟民の族長のいちばん末の妹である。名前をレーテという。長兄にあたる族長ソロンは、ベルドへの絶対の忠誠を誓い、その証《あかし》として彼女に身の回りの世話を命じた。  レーテは喜んで、それを受けた。  部族のどの男よりも、ベルドは強く、逞《たくま》しかった。この勇者の子を生もうと、レーテは勝手に心に決めている。だから、彼女のほうから望んで、身を委《ゆだ》ねた。  干し草を積みあげ、そのうえに猛獣の毛皮を敷いただけの|椅子《いす》ともベッドともつかぬものに、ベルドは身体をあずけている。腰と腹のあたりに毛布をかけているが、身体には何も着けていない様子であった。 「あなたの言葉ひとつで、我が部族の戦士たちはあの汚れた街を灰にするわよ」  赤髪の|傭兵《ようへい》は、まだ意識が眠っているかのように緩慢な動きで右手をあげた。その視線は、天井に向けられている。 「なに?」  レーテは小首をかしげながら、ベルドのすぐ近くまで進んだ。  具合でも悪いのだろうか、とベルドの様子を覗《のぞ》きこむ。もっとも、この男が健康を害するはずはないと信じている。魔神王の呪《のろ》いか祝福か、彼は老いからも解放されているのだ。死すべき定めの者ではない。 「ベルド……」  声をかけようとした瞬間、ベルドの手が伸びてきて、レーテの細い腕を掴《つか》んだ。  あっと思った瞬間、レーテの頭はベルドの胸に引き寄せられていた。 「どうしたの?」  裸の胸に額《ほお》ずりしながら、レーテは驚きの声をあげた。 「夢を見ていた……」  レーテは、どんな夢とは尋ねなかった。彼が見る夢はひとつだけだ、と知っていたから。最も深き迷宮——魔神の聖地での戦いの夢だ。 「魔神どもは、もういないわ」  レーテは、ベルドの頬へ手を伸ばそうとした。 「残念なことにな」  ベルドはつぶやくと、レーテの身を包んでいるただ一枚の衣服を強引にはぎとった。  勢いで、レーテは仰向けに転がった。  裸の胸に、ベルドの手が伸びてくる。  強く、揉《も》みしだかれた。  空気を求めるように、レーテはわずかに喘《あえ》いだ。  この勇者が自分を愛していないことを、レーテは承知していた。  それでもよかった。  たとえ、ただの欲望の捌《は》け口であっても。この勇者に抱かれているあいだ、レーテは女としての幸せを感じることができるから……  数刻の後、レーテは火照《ほて》った身体をもてあましながら、黒と黄色の縞《しま》模様の毛皮のうえに、身を横たえていた。  ベルドはすでに起きあがり、衣服を身に着け、魔神王《デーモンロード》の剣を腰に帯びていた。 |�魂砕き�《ソウルクラッシュ》という銘《な》の、柄も刃も真っ黒な大剣である。|鍔《つば》のところに、瞳《ひとみ》のような形の赤い宝石がはめこまれている。 「翳りの街を攻める」  レーテが物憂げに上体を起こしたとき、ベルドは静かに言った。 「はい」  無邪気な笑みを浮かべて、レーテはうなずいた。  毛布を跳ねのけ、毛皮の服を巻きつけるようにして身につける。 「ところで、あの男はどうしている?」 「若者たちが崇拝している黒髪の男ね。評議会に懐柔されたと聞いたわ」  一瞬、考えてからレーテは答えた。  ベルドの言葉は唐突であり、言葉足らずで、いったい何を言いたいのか理解するのが難しいときがある。  答を聞いて、ベルドは不思議そうな表情で、レーテを振り返った。 「なぜだ?」 「なぜ、と言われても……」  理由など知らない。  翳りの街の評議会は、あの若者にどんな条件を出したのだろう。 「あんな若者、恐れることは……」  レーテはベルドに笑いかけたが、すぐに真顔に戻った。ベルドが真剣に何かを考えこんでいる様子だったからだ。 「|妖魔《ようま 》の族長に知らせようか?」  微動だにしないベルドに、レーテはそっと声をかけた。  妖魔の族長ルゼーブは、ベルドに服従する旨、使いをだしてきている。戦に敗れたわけではなく、向こうから申し出てきたのだ。ソロンをはじめ部族の戦士たちは、妖魔たちを完全には信用していないが、ベルドはそんなことは気にもせず、翳りの街を攻めるときには兵を出すよう、ルゼーブに申し渡している。  彼らの忠誠を試すためだ、とレーテは勝手に思っている。そして、ついにそのときがやってきたのだ。 「行ってくる」  ベルドの沈黙に耐えきれないように、レーテは衣服の紐《ひも》を結びながら、開いたままの扉を抜け、外へ飛びだした。  扉近くの地面には、革製の鞘《さや》に収まった幅広の短剣が無雑作に置かれていた。レーテが愛用している狩猟用の短剣である。  レーテは愛用の短剣を拾いあげると左手にしっかりと握りしめた。  そして、森のなかへと駆けこんでゆく。  若い牝鹿《め じか》のように軽やかな走り。森の木々が、飛ぶように後ろへ流れてゆく。  ダークエルフの集落に着くには、半日ばかり森を走らなければならない。レーテは日が暮れるまでに、ベルドのもとへ戻るつもりだった。  レーテたち狩猟民と妖魔たちとは、時に戦うこともあるが、基本的には互いの存在を認めあっている。相手を滅ぼそうと思って戦ったことは、ただの一度もない。  だが、妖魔たちが信用できる相手でないのは確かだ。ダークエルフたちは、自らをもっとも優れた種族であると思っている。事実、彼らは恐るべき魔法使いであり、優れた戦士でもある。しかも、寿命というものがない。  ダークエルフたちは赤肌鬼《ゴ ブ リ ン》や犬頭鬼《コ ボ ル ド》などの下等な妖魔たちを支配下におき、この森の主人であるかのごとく振る舞っている。  そんな彼らも、人間には敬意を払っている。あるいは、警戒している。  多くの人間が愚鈍であることを、彼らは承知している。だが、人間たちのなかには、正真正銘の英雄が現れることも同時に知っているのだ。  たとえば、赤髪の傭兵ベルドのような……  そんな英雄たちには、自分たちが劣ることを、彼らは長い歴史のあいだに学んできたのかもしれない。ベルドが現れ、レーテの部族が彼に協力することを約束したとき、ダークエルフの族長は、すぐに使者をたてて友好を求めてきた。  ベルドは、それに応じた。だが、友好の証《あかし》として、何かを求めたわけではない。人質を出させようとかする気もないようだ。  ほとんど空約束のようなものである。はたして、彼らはベルドとの約束を守るだろうか?  レーテには、半信半疑だった。  だが、|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》を攻めるとなれば、レーテの部族だけでは戦力不足だ。妖魔どもは、ダークエルフの族長が命令すれば、全員が武器を取って戦う。ダークエルフを例外にすれば、たいして強くはないが、それでも万の単位ともなれば確かな脅威となる。いかに堅固な城塞《じょうさい》都市とはいえ、翳りの街などすぐ攻め滅ぼせるはずだ。  翳りの街が炎に染まる光景を想像したとき、レーテは背後で足音がするのに気がついた。 「妖魔なの?」  レーテは怪訝《け げん》に思い、足をゆるめ、やがて立ち止まった。まだ少ししか走っていない。妖魔たちの領土には入っていないはずだ。  部族の仲間だろうか? いや、もしそうなら、真っ先に声をかけてくるだろう。  それでは、いったい誰が……  レーテは左手に握りしめていた短剣の柄《つか》に右手を添えた。  周囲は深い森で、自分が走ってきた獣道の両側には、大小の茂みがある。そのひとつひとつに、レーテは視線を巡らせていった。  怪しいものは何も見えない。足音も、すでに聞こえない。だが、さっきの足音が空耳であるはずはない。まるで自分の後を|尾《つ》けてくるようだった。  神経をとぎすまして、レーテは周囲の気配を探った。まるで、自分が狩りの獲物になったような気分だった。  と、背後の茂みでがさりと音がした。 「そこか!」  反射的に短剣を引き抜き、レーテは背後を振り返る。  それを待っていたように、右手から人影が襲いかかってきた。背後の音は囮《おとり》だったのだ。 「何者!」  レーテは身を翻しつつ、人影に向かって短剣で切りつけた。  激しい金属音が響き、右手に痺《しび》れが走った。あわてて剣を握りなおそうとした瞬間、黒い塊のような物が右手の手首に振るわれた。  鈍いが重い衝撃が走った。たまらず、レーテは短剣を取り落とす。拾わなければ、と身を屈めた瞬間、今度は相手の足が伸びてきて短剣を蹴り飛ばされた。まるで、こちらの行動を見透かしたように、相手は先手、先手を打ってくる。  レーテのかなう相手ではなさそうだった。  唇を噛《か》みながら、顔をあげた。  初めて相手の顔が見えた。翳りの街の住人に違いなかった。布の服を着て、金色の髪は短く刈っている。まるで表情というものがなく、何のために襲ってきたのか読みとれなかった。まだ、若い。小太りの体形からは、想像もできないような敏捷《びんしょう》さだ。  評議会の密偵か、とレーテは思った。それとも、アシュラムとかいう若者の手下かもしれない。 「どうして、わたしを……」  問いかけようとしたその言葉を、最後まで発することはできなかった。  後頭部に、さっき右手を打った黒い塊が、ふたたび振りおろされたからだ。  一瞬のあいだに、意識が遠ざかってゆく。 「ベルド……」  愛する男の名を呼びながら、深く暗い闇《やみ》のなかへと、レーテは落下していった。  その翌日——  翳りの街のあちらこちらに評議会の名で高札が立てられた。  そこには、こう記されていた。  娘を取り戻したければ、赤髪の|傭兵《ようへい》がひとりで来るように。そして、友好のための話し合いをしよう、と。そして、交渉の日時と場所とが示されていた。      4 「やってくるかな?」  アシュラムは東門の上に立ち、丘の頂きに目を凝らしていた。  東門から出た街道は、その丘の頂きを越えて、視界から消える。その先を行けば、この暗黒の島の面積のおよそ半分を占める闇の森が広がっている。そこは|妖魔《ようま 》と魔獣、野蛮な狩猟民どもの巣窟《そうくつ》だ。  約束の刻限が迫っていた。  足下にある街の大門はいっぱいに開かれ、外来者を迎える態勢である。  アシュラムは背後を振り返って、手下たちの様子を確かめた。  大通りの中央に太い柱がひとつたてられ、そこに蛮族の若い娘が縛りつけてある。  気丈な娘で、捕らえてからというもの、何度となく自殺を試みている。やむなく、さるぐつわをはめ、両手を縛った。この三日間というもの水も口にしていない。  かなり衰弱しているが、若くて健康な娘なので、命に別状はないだろう。  柱のそばにはオーエンが立ち、たえず周囲に気を配っている。その周囲の乾いた廃墟《はいきょ》には、手下である若者たちの姿が見え隠れしている。アシュラムの号令ひとつで、彼らは行動に出るはずだ。  もっとも、若者たちが今度の決定に不満があることをアシュラムは知っていた。彼らのなかには、ベルドと協力して評議会を打倒すべきだ、と考えている者が多い。彼らの若い純粋さが、ベルドという英雄に憧憬《どうけい》を感じさせているのだろう。  その気持ちは、分かる。若者たちは束縛されずに生きることを望みながら、同時に指導者と人生の指標を欲しているのだ。  アシュラムは、彼らを翳りの街の支配者による圧政から解放し、その若い力を好きに発散させてきた。何をしていいか分からぬ者には、その目的を与えてやった。  それは、禁忌を侵すことであり、破壊することである。それらは若者にとって快楽となりうる。だが、それらによって快楽を得られるのは、長い間ではない。暴走している彼らの若さは、いつか破壊とは違う方向へ向いてゆくだろう。  そのときこそ、アシュラムは若者たちに新たな目標を与えるつもりだった。この暗黒の島に、自分たちの王国を築きあげること。国王にはもちろん、アシュラムが就く。評議会の武装商船団を直属とし、大海軍を作りあげる。そして、父を罠《わな》にかけ、家族ともども流刑に処した祖国アラニアへの復讐《ふくしゅう》を果たすのだ。  オーエンという優れた片腕の助けもあり、計画は順調に進んでいる。誰にも邪魔をさせるつもりはない。たとえ、それが六英雄と呼ばれる真の勇者であっても……  アシュラムは、西の空を振り仰いだ。  夕日が川向こうの山に沈もうとしている。先日、街の随所に立てられた高札には、今日の夕刻を会談の日時として指定していた。場所は、ここ東門。日没までにベルドが姿を現さなければ、娘を処刑することを高札の文面は暗示している。  もちろん、蛮族の集落へも、同様の内容を伝える使者を送ってある。 「兵を連れてくる」  アシュラムは、そう予想している。  人質の娘が、蛮族の族長の血族であることは調べてある。ベルドの身の回りの世話をするように命じられていることも。ベルドと娘には、肉体関係もある。要するに、政略結婚のようなものだ。人質ともいえる。  その娘をさらわれたのだから、ベルドの威信は著しく傷ついているはずだ。誇りにかけても、娘を奪いかえしにくるだろう。  だが、ひとりで来るはずはない。それは、死ににくるようなものだ。誰がどう見ても、評議会が罠を仕掛けていると思うはずだ。  事実、評議会はベルドと会談するつもりなどない。かならず息の根を止めてくれ、と依頼している。ベルドさえ殺せば、すべての問題が片付くと信じているからだ。  その判断は正しい、とアシュラムも思っている。妖魔も蛮族も、ベルドに率いられればこそ、|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》と戦うつもりになったはずだ。あの英雄が死ねば、ふたつの勢力が共闘することはないし、闇《やみ》の森から出ようともしないはずだ。  この件が片付けば、アシュラムは評議会の一員となり、この支配組織を内部から食いつぶすつもりだった。十年、いや五年もすれば、アシュラムは翳りの街を都とするマーモ王国の王となっているはずだ。  それが実現できるかどうか、運命は今日という日にかかっているといってもよい。  ベルドが、どれだけの兵を率いてくるかは分からない。数が少なければ、自分の手勢だけで始末できる。多ければ、街の中心へと退却して、追撃してきたところを街中に潜ませている評議会の|傭兵《ようへい》たちで挟撃する作戦を立てている。単純な作戦ではあるが、よほど訓練された兵を連れていないかぎり、罠にはまるはずだ。蛮族たちは皆、勇敢であり、熟練の戦士だが、組織的な戦いには不慣れである。しかも、戦場は、翳りの街の市街。地の利は、こちらにある。  これで勝てないようでは、はじめからこの戦《いくさ》、負けなのだ。翳りの街は、滅ぶしかない。  評議会もこの戦いに勝たねば、後がないことを知っているから、全力で戦うだろう。  アシュラムは、もう一度、西の空を見た。  夕日が、西の山にかかりはじめている。空は赤く燃えて、山肌も炎に包まれたかのよう。美しい光景だが、この島で見るとなぜか自然の非情さを感じることが多い。  破壊の女神の終焉《しゅうえん》の地であるためか。  一方、故国アラニアは、大神殿があることからも分かるように、創造を|司《つかさど》る女神マーファの聖地である。アラニアは自然の恵み豊かな国なのだ。だからこそ、四百年もの長きにわたって栄えることができた。  だが、統治する貴族たちは腐敗しており、統治される街の住人たちも頽廃《たいはい》している。ひと揺れあれば、アラニアは崩壊するに違いない。  そのひと揺れを起こすのは自分だ。  それにしても、とアシュラムは思った。間もなく日は沈もうというのに、ベルドが姿を現す気配はない。  来ないのか、と自問してみる。  その可能性も、十分にある。  蛮族たちの肉親に対する考え方は、街の住人のそれとは異なっているのかもしれない。ベルドにせよ、蛮族の娘にさほどの愛情を抱いているわけではないのだろう。大切な女なら、ひとりで歩かせたりはすまい。  もっとも、それはそれでいい、と、アシュラムは、思っている。  刻限までに来なければ、ベルドの英雄性は失われたも同然だ。守るものも理想もない者ほど、異性への愛を至高のものと考えるもの。そういう若者たちにとって、愛した女を救おうとしないことは、それだけで十分に|卑怯《ひきょう》なのだ。  愚かなことだ、とアシュラムは思う。人間として生まれてきたのに、たかが女を愛し、子をなして死ぬだけの人生に、何の意義があろう。  アシュラムが見つめる東の丘は、もはや薄暮に包まれていた。背後の廃墟で控える若者たちの心のざわめきが伝わってくるようだった。 「ベルドは、賢明だよ。女ひとりのために、なにゆえ危険を冒さねばならない」  アシュラムは、若者たちにそう呼びかけてやりたかった。  真の英雄などいない。  英雄など民衆が創《つく》りだす偶像にすぎないのだ。英雄となりたければ、彼らの望むとおりに、己の虚像を見せてやることだ。アシュラムが、若者たちに対してそうしてきたように。  約束の刻限は、もはや過ぎた。  これで、若者たちがベルドに憧《あこが》れるようなことはあるまい。  不思議な安堵《あんど 》感をアシュラムは覚えていた。心の底では、ひそかに恐れていたことがあったからだ。  もしも、その不安が現実のものとなれば、覚悟を決めねばならないと思っていたのだ。 「女を殺すべきか? それとも、逃がしてやるべきか?」  考えが、別の問題に向けられたときだった。  丘のうえに小さな影が現れるのに気づいた。  緩みかけていた緊張が、ふたたび心をしめつける。  影はひとつ。  薄闇《うすやみ》のなかで定かではないが、それに続く影はないように見えた。 「まさか……」  アシュラムは背後を振り返り、オーエンにうなずきかけた。その合図に気づき、オーエンがアシュラムのもとへと駆け登ってくる。代わって、数人の若者が蛮族の娘のそばに張りついた。 「どうしました?」  尋ねてくるオーエンに、アシュラムは顎《あご》で丘の方を示した。  丘の斜面を下ってくる影がひとつ。  めったなことでは動じないオーエンだったが、息を飲んで、それを見つめた。 「赤髪の|傭兵《ようへい》!」 「間違いないか?」  アシュラムは、念を押すように尋ねた。  オーエンだけは、蛮族の集落へ忍びこみ、ベルドの姿を遠目に見たことがある。 「間違いありません。魔神王の剣を手にしてますから……」 「そうか……」  アシュラムは、拳《こぶし》を握りしめた。果物を絞ったように、指の隙間《すきま 》から汗が滲《にじ》みでてくる。 「どうしますか?」  オーエンは不安げに尋ねてきた。 「伏兵はいないか? 丘の向こうに兵が隠れているようなことは?」 「おそらく、ないでしょう。隠す意味がありませんから……」  そうだろうな、とアシュラムは思った。  兵が姿を現した瞬間、アシュラムたちはベルドを殺す正当な権利を得る。それから、兵が全力で駆けてきても、ベルドを救うことはできない。 「なぜ、ひとりでやってきた?」  アシュラムは、握りしめた拳を石垣に叩《たた》きつけた。 「女ひとりのために、命を捨てる気か? それとも、オレたちの実情を知っているのか?」 「弓の用意をさせます」  深く吸い込んだ息を吐きだしつつ、オーエンは言った。 「赤髪の傭兵が十本の矢をかわすなら、百本の矢を放てばいい。百本の矢をかわすなら、千本の矢を放てばいいのです。いかに六英雄の戦士とて、全身に矢を受けて、生きていられるはずがありません」 「それができればな」  アシュラムは、自嘲《じちょう》的な笑みを浮かべた。  あの男を目の前にして弓を射られる者が、自分の手下にはいないことは間違いない。アシュラムの手下たちは、訓練された戦士ではない。しょせん、烏合《う ごう》の衆なのだ。  これこそがアシュラムが恐れていたことだった。  ベルドが、ひとりでやってくること。  最後に残った手段は、もはやひとつしかない。  あの赤髪の傭兵を、一騎打ちで倒すこと。それ以外に、アシュラムがあの男にまさる英雄であることを示すことはできない。  アシュラムは腰の剣を確かめた。父が遺した唯一の形見ともいえる剣。魔力を帯びている。もっとも、その魔力は魔神王の剣とは比較にはなるまい。  強力な魔剣を持った英雄と謳《うた》われる戦士。 「だが、勝つ!」  アシュラムは、自分自身に命じるかのごとく言った。 「あなたには、二千人の手下がいるのですよ」 「オーエン……」  アシュラムは穏やかな笑みを浮かべ、長年、片腕として尽くしてくれた男を見つめた。  オーエンにとっては、初めて見る笑顔であった。糸を引いたような両眼《りょうめ》の奥に、黒燿《こくよう》石のような瞳《ひとみ》が輝いていた。 「わたしが手伝ってもいけませんか……」  問いかけているのではなく、それは確認だった。  アシュラムは、ゆっくりと首を横に振った。 「ならば、赤髪の|傭兵《ようへい》に降伏してはどうですか。仲間たちの多くが、望んでいるように。あの男は、本物の英雄かもしれません」 「かもな」  アシュラムは、石垣に手をかけながら言った。 「オレが負けたら、おまえたちはそうしろ。だが、オレは他人の下に立つつもりはない。オレは王になるのだ。この暗黒の島の邪悪な民のな。その思いがあればこそ、今日まで生きてきた。望みもしない放火も、人殺しもやった。ここであきらめるぐらいなら、最初から|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》の支配者たちに服従していた」 「アシュラム……」  懇願するように、オーエンはアシュラムの袖《そで》を掴《つか》んだ。 「見ていろ、オーエン。オレの戦い方を」  もはや、恐くはなかった。気持ちは、不思議なくらい澄んでいた。これまで幾度も戦い、何人も殺してきた。それは生き残るためであり、目的を達成するためであった。  この戦いも、もちろん、生死をかけたものになる。  だが、それ以上に人間としての大きさをかけた戦いになろう。勝てば英雄、負ければ骸《むくろ》。その単純さが、アシュラムには満足できた。  アシュラムは石垣を乗り越え、地面に飛び降りる。  赤髪の傭兵は、すでに門から十歩ほどのところまでやってきていた。      5 「おまえが、赤髪の傭兵か?」  アシュラムは、ベルドの行く手を遮るように両手を大きく広げた。 「おまえは?」  アシュラムから五歩のところで止まると、相手は声をかけてきた。  太く低い声。心臓を鷲掴《わしづか》みにするような迫力がある。  左手には、鉄の鞘《さや》に収めた大剣を握っている。その鞘には掛け金が施してあり、それを外せば鞘が落ちる仕組みになっている。 「オレは、アシュラム。この街の評議会の代表だ」  ここに至っては、虚勢を張るつもりもない。アシュラムは普段どおりの口調で言った。 「ベルドだ。赤髪の傭兵というのは、過去の呼び名。今は、皇帝を名乗っている。暗黒の島の皇帝と……」 「暗黒皇帝か。誰がそれを認めた?」 「誰が認めなくともよい」  ベルドは答えると、一歩、足を踏みだしてきた。 「女を返してもらうぞ」 「まだ、話は終わっていない」  アシュラムはいつでも戦えるよう、わずかに姿勢を低くした。 「おまえが皇帝を名乗るのはいい。だが、それは闇の森のなかだけにしてもらおう。評議会は、おまえを闇の森の領主として認める用意がある。その代償として、闇の森は一万|樽《だる》の食料を納めるのだ」 「貴様の本心を言え。評議会の愚者どもの言葉など聞くつもりはない」  ベルドは、まっすぐにアシュラムを見つめてきた。鋭い視線が、アシュラムの瞳《ひとみ》を貫こうとする。  アシュラムは、思わず片足を引いていた。 「この男は、嵐《あらし》か?」  心の中で自問する。ただ向かい合っているだけだというのに、吹き飛ばされてしまいそうな圧迫感を受ける。 「おまえの目的は何だ? このマーモの統一か、ロードスの征服か!」 「いずれも然《しか》り」  ベルドは表情ひとつ変えずに答えた。 「何故、それを望む?」 「ロードスがそれを望むゆえ」 「おまえは狂人か? 誰もそれを望んでなどいない!」 「ならば、我が望みは潰《つい》えよう」  アシュラムは目を見開いて、赤髪の傭兵を見つめた。  五十を過ぎているはずなのに、ベルドの肉体はせいぜい三十代にしか見えない。鍛え抜かれた筋肉が、むきだしの腕や肩からうかがえる。真っ赤な髪は、この男の燃えあがる野望を象徴しているように見えた。 「おまえは、本当に人間か? 魔神王ではないのか?」 「貴様が見ているとおりの者だ」  アシュラムの問いに、ベルドは答えた。 「交渉は決裂したとみるが?」  アシュラムは、門の内側にちらりと視線を向けた。 「娘の命は、失われるぞ」 「好きにせよ。たとえ、骸《むくろ》となっていようと連れ帰る」  ベルドはそう言って、一歩、前に進みでた。 「評議会の名において……」  そう言いかけて、アシュラムは心のなかで自らを笑った。 「我が野望のために」  と、言い換える。 「おまえを通すわけにはゆかん!」 「ならば、どうする?」 「おまえを倒す! この剣で!!」  ベルドの表情がわずかに動いた。口許《くちもと》が弛《ゆる》み、その瞳に不思議な輝きが浮かんだ。 「相手になろう」  言うなり、ベルドは掛け金に指をかけた。  その瞬間、アシュラムは剣を抜き、そのままの勢いで切りつけた。この抜き打ちだけで、アシュラムは何十人という人間を倒してきた。  だが、ベルドは大剣を鞘に収めたままで、難なくその攻撃を受け止めた。二振りの剣の魔力と魔力とがぶつかりあい、青白い火花が散った。 「ほう」  ベルドが、うなった。 「その若さで、ずいぶん人殺しを重ねてきたものだな」  そう言って、ベルドは魔神王の剣を鞘からはずす。 「翳りの街では、人間よりも家畜の命のほうが高価なのだ!」  アシュラムは叫び、第二撃を加えた。  息もつかせぬ速攻こそ、アシュラムの身上である。父から基本の型を習い、そして、実戦のなかで剣の腕を磨いてきた。己の剣技が人の命で培われたものであることは、アシュラム自身が承知している。 「この男を倒せば、オレはもっと強くなれる」  アシュラムはそう念じながら、息もつかせぬ連続攻撃で攻めたてた。  だが、ベルドは魔神王の剣を片手で操り、すべてそれを受け止めてゆく。恐るべき腕力だった。並の人間ならば、持ちあげることさえできないような大剣を、まるで棒切れのように扱っている。  遊ばれているような気になってくる。  アシュラムは攻撃の手を一瞬、弛めると足下の砂を蹴《け》りあげた。砂埃《すなぼこり》が、ベルドの顔にまともに当たる。 「なるほど」  片手で顔を覆いつつ、赤髪の傭兵が楽しそうな声をあげた。 「これがオレの戦い方だ!」  アシュラムは勝利の叫びをあげながら、渾身《こんしん》の一撃を相手の胴を狙《ねら》って放った。目が見えないとあれば、いかに魔神殺しの英雄とはいえ、かわせるはずがないと信じていた。  狙いは違《たが》わず、ベルドの胴を切り裂いたように見えた。しかし——  ベルドは仰向けに地面に倒れ、アシュラムの必殺の一撃をかわした。  そのまま後ろに転がって起き上がったとき、ベルドの目はすでに普通に開かれていた。 「おまえで、四人目だ」  ベルドが、声をかけてきた。  見れば、ベルドの服の腹のところが裂けている。そして、緩みのない腹筋に赤い線が一筋、入っていた。どうやら、アシュラムの剣の切っ先がかすめたようだ。  傷をつけたのが、四人目という意味だろうか。 「次は、はずさない!」  アシュラムは気合いの声をあげながら、ふたたび嵐《あらし》のような攻撃をはじめた。  一心に精神を集中させ、肉体の限界まで力をふりしぼり、知っているかぎりの技巧を尽くして、アシュラムは剣を振り、払い、突いた。  だがベルドはそれらの攻撃を、今度は剣で受け流そうともせず、身体をわずかにそらすだけで、残らずかわしていった。 「なぜ、当たらない」  剣を振りまわしながら、アシュラムは次第に自分が道化のような気になってきた。まるで、力量が違う。アラニア一の剣の使い手と謳《うた》われた父でさえ、この男には勝てないだろう。五歳の頃、父にはじめて稽古《けいこ 》をつけられたときのことがふと頭を過《よぎ》った。  ベルドは、反撃する素振りさえみせない。戯れるかのように、アシュラムの剣をかわしつづけるだけだ。  死ぬな、とアシュラムは思った。  不思議に怖くはなかった。いつも死は、もっとも身近なところにあった。あれだけ人を殺してきて、自分が死ぬのを恐れるのは|卑怯《ひきょう》というものだ。  アシュラムは、数歩下がって、ベルドとの間合いをとった。  最後に勝負をかける気になった。息が荒く、整えるのにも苦労する。ベルドを見れば、最初に対峙《たいじ 》したときと、微塵《み じん》も変わらぬ様子だった。  アシュラムは、剣を下段に構えた。  それを見て、ベルドが魔神王の剣を両手に持ち替えた。 「本気を出してくれるのか」  アシュラムは祈るようにつぶやいた。それは慈悲だと思った。虫けらをつぶすような殺され方は、されずにすむ。 「行くぞ!」  アシュラムは、七歩ほどの距離を跳ぶように駆けた。  ベルドの大剣が振り下ろされてくる。雷のような鋭さだった。かわしようがない。  アシュラムは、自らの命を捨てた。ただ、せめてもう一撃は与えようと、剣を跳ねあげた。そのまま、切っ先を前に突き出し、身体を預けるように飛びこんでゆく。  その突きがベルドに届く寸前、肩に鈍い衝撃が走った。  瞬時にして目の前が真っ暗になり、アシュラムは地面に叩きふせられた。  だが、意識はすぐに戻った。そのとき、目の前には埃《ほこり》っぽい地面があった。口のなかに砂が入り、ざらざらしていた。唇が切れたらしく血の味がした。 「なぜ、生きているのだ」  アシュラムは、不思議に思った。  剣は、目の前の地面に落ちている。その向こうに、誰かの足が見えた。  顔をあげると、赤髪の傭兵が昂然《こうぜん》と見下ろしていた。右手に黒い魔剣を握りしめているが、刃に血の痕《あと》はない。  肩に痛みはあるが、切り裂かれた鋭いものではなく、ひどい打撲を受けたような鈍い痛みだった。痛むところにちらりと視線を向けたが、血は流れていない。ベルドは剣の平で、打ったのだろう。 「なぜ、殺さなかった?」  アシュラムはベルドを睨《にら》みつけ、恨みの声をあげた。 「死にたかったのか?」  ベルドが、問い返してきた。  死にたかったわけではない。だが、こうまで辱められて生きていたくはなかった。 「死にたければ、目の前の剣で喉《のど》を突けばいい」  そう言い残すと、ベルドはまっすぐ東門に向かって歩きはじめる。 「待て!」  よろめきながらアシュラムは立ち上がり、ベルドを呼びとめた。 「なぜ、ひとりでやってきた。殺されるとは思わなかったのか?」  ベルドはアシュラムを振り返り、不思議そうな顔をした。 「評議会の使者は、ひとりで来いと言っていたが……」 「罠《わな》だと思わなかったのか? それとも、オレたちの実情を知っていたからか? ひとりで行っても、殺されないと確信していたのか」  その問いには、ベルドはまるで答えようとしなかった。  ふたたび、東門に向かって歩きはじめる。  そのときであった。 「そこまでだ。赤髪の|傭兵《ようへい》!」  嘲《あざけ》るような声が、響いた。  アシュラムは、声のした方を見た。声は、頭の上から聞こえてきた。|翳りの街《ダ ー ク タ ウ ン》を取り囲む外壁の上部。そこには、防戦のために通路が設けられている。通路の外側は、石垣が積まれ、その所々に弓や弩弓《いしゆみ》を射るための窓が造られている。  先刻まで、アシュラムが立っていたところだ。 「オーエン……」  アシュラムは、息を飲んだ。  いつの間にか、外壁の上には弓を構えた兵士が並んでいた。それは、アシュラムの手下ではない。評議会が雇っている傭兵たちだった。 「なぜ、ここに」  アシュラムは、我が目を疑った。 「面白い見せ物でしたよ。実力差がありすぎて、見事な一騎打ちとはいえませんがね」  オーエンは、皮肉っぽく笑った。 「どういうつもりだ!」  アシュラムは、オーエンに向かって叩《たた》きつけるように言った。 「見て分かりませんか? こういうことですよ。あなたたちには、この場で死んでもらいます」 「なんだって?」  アシュラムは驚いた。  オーエンの口から、そんな言葉が出るとは思わなかった。 「わたしは結局、盗賊なのですよ。あなたが英雄になろうと、わたしはその影にしかすぎない。影だって、本当は自由に歩きたいのですよ。それができるのは、しよせん闇《やみ》のなかだけ。光があるところでは、影は離れませんからね」 「本気で言ってるのか?」  アシュラムは信じられないというように、何度も首を振った。  この十年近くのあいだ、オーエンはアシュラムの忠実な従僕であった。片腕と思ってきた。そして、心の底では友人だとも思ってきた。 「本気なんだよ」  別の声が、答えた。  その声に、アシュラムは聞き覚えがあった。そして、声の主人はすぐに姿を現した。 「琥珀《こ はく》の目……」  その姿を見て、アシュラムははっとなった。 「オレとオーエンとは五年のあいだ、連絡を取っていたのさ。おまえたちが殺した盗賊のほとんどは、ギルドのなかでもオレと敵対する一派なのだ。オレの邪魔をするものはもはやいない。オレは、盗賊ギルドを締める。オーエンには、幹部として働いてもらうのさ」 「なぜだ?」  アシュラムはまだ信じることができず、オーエンに問いかけた。 「なぜ、ですって? 気がつきませんでしたか。わたしは、この機会をずっと狙《ねら》っていたのです。あなたの影で、なくなる日をね」 「ならば、なぜオレに手を貸した!」  アシュラムの声は、ほとんど絶叫に近かった。 「今、どんな気分ですか?」  アシュラムの問いには答えず、オーエンはそう尋ね返してきた。 「降りてこい! その身体、やつざきにしてくれる!!」  オーエンは石垣に両手をかけると、顔を伏せるように忍び笑いをはじめた。ふたたび顔をあげたとき、オーエンは至福の表情を浮かべていた。 「なるほど、裏切るっていうのは、こういう気持ちなんだ。けっこう爽快《そうかい》ですよ。あなたは、わたしより優れていたかもしれない。だが、勝ったのは、わたしだ。あなたがわたしを信じたとき、あなたは負けたんだ」  オーエンは高らかに笑いながら、崩れ落ちるように石垣の向こうに姿を消した。ただ、笑い声だけが、いつまでも続いている。  だが、それは唐突に途切れた。そして、次の瞬間—— 「矢を放て!!」  という号令が轟《とどろ》いた。  それはまぎれもなく、オーエンの声だった。  その瞬間まで、アシュラムは心のどこかで、オーエンが自分を救うために芝居を演じているのだ、と信じようとしていた。  だが、今の声ではっきりした。オーエンの声には明らかな殺意があったから。 「オレはこの程度の男にしかすぎなかったのか?」  悔しさより、怒りより、むしろ自分の愚かさが情けなく感じられた。これまで信じていたものが、残らず音をたてて崩れ去ってゆく感じだった。  アシュラムは、その場で|膝《ひざ》を落とした。  弓を引き絞った傭兵たちが石垣に進みでて、アシュラムとベルドに矢の狙《ねら》いをつける。 「まだ終わってはいない」  ベルドがそんなことを言ったときだった。  矢が、次々と放たれた。わずかな距離を、何十という矢が瞬時にして駆けぬけた。  全身を射抜かれた、とアシュラムは思った。  しかし——  矢は一本も当たらなかった。  どういうことだ、とアシュラムは朦朧《もうろう》とした意識のなかで怪訝《け げん》に思った。 「剣を取れ! アシュラム!!」  ベルドが叫ぶ声が、聞こえた。 「生あるかぎり、戦うのだ! 二度とふたたび敗れるな。勝ちつづけてこそ、望みは達せられる。それとも、おまえにはもはや望みはないのか?」 「望みだって?」  アシュラムは、思った。  どんな望みを抱けばいいというのだ。先刻の一騎打ちでは無様に敗れ、信頼していた者には裏切られ、|侮蔑《ぶ べつ》しきっていた評議会の|傭兵《ようへい》どもに射殺されようとしている。  もはや、すべての望みは潰《つい》えたではないか。もはや、望むことなど……  だが、その瞬間、アシュラムは気づいた。  心の奥底から突きあげてくるような思いがあることに。もっとも、その思いが言葉になるまで、しばらく時間がかかった。 「オレは、おまえを超えたい……」  この期《ご》におよんで、何を言うのかと自分でもあきれた。だが、言葉にしたことで、その思いはさらに膨れあがり、押さえきれぬばかりとなった。 「人間に天分があるのは知っている。オレには、それがないのかもしれない。だが、試してみたいのだ。オレは、おまえを超える英雄となれるのか。おまえと戦って、倒せる男となれるか」  器の大きさを知りたければ、水を注ぐしかない。己を大器と信じていても、入れる水がなければ真実は分からない。だが、この大海のごとき男を飲みこむことができたなら、その人物は間違いなく真の英雄であるだろう。 「なってみせろ」  赤髪の傭兵は騎士に命令を下す国王のごとき荘厳さをもって言った。  アシュラムは、足下に落ちている剣を拾いあげた。 「そうだ、戦え! 命失われるまで、負けたわけではない」  そのあいだにも、矢は容赦なく射続けられている。だが、目に見えない壁に守られているかのように、ベルドもアシュラムも避けている。  事態の異常さに、ようやくアシュラムは思い至った。  見上げれば、評議会の傭兵たちは半狂乱になっている。わざとはずしているのではないことがそれで知れた。だとすれば…… 「魔法か」  アシュラムは、ようやく悟った。 「危ないところでした」  そのとき、突如として声が聞こえた。  声のした方を振り向くと、そこにひとりの男が立っていた。  先端のとがった耳に、瞬時、視線が奪われた。浅黒い肌が、周囲を包みこむ薄闇《うすやみ》のなかに溶けこみそうだった。 「族長ルゼーブの命により、あなたをお守りいたします」  恭《うやうや》しくベルドに礼をしながら、声の主はアスタールと名乗った。 「ダークエルフ!」  この森の|妖魔《ようま 》は、精霊魔法の使い手だ。そして、精霊魔法のなかに風を操り、矢をそらしてしまう呪文《じゅもん》がある。�|風の精霊《シ  ル  フ》の守り�と呼ばれていたと記憶している。  ダークエルフたちが|�姿隠し�《インビジビリティ》の呪文を好んで使うことを、アシュラムは同時に思いだしていた。最初からベルドに付き従っていたのだろうか? それとも、後から現れたのだろうか?  ベルドを振り返れば、魔神王の剣を片手に東門を潜り、街のなかに入っていた。  アシュラムの手下である若者たちは、ひとり残らず|廃墟《はいきょ》を出て、唐突すぎる状況の変化に茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。 「ベルドを殺せ! 殺した者には、一万枚の金貨を約束するぞ!!」  琥珀の目が、絶叫した。  だが、その声が合図であったように、戦意を失っていた傭兵たちは、外壁のうえの通路を全速力で逃げはじめた。  琥珀の目も、あわてて後を追いはじめた。  ベルドは、ゆっくりと進みつづける。その行く手には、柱に縛りつけられた蛮族の娘がいた。そして——  娘の傍らには、いつのまにかオーエンの姿があった。彼の足下には、数人の若者たちが倒れている。  オーエンの右手は血に染まった短剣を握っている。その短剣は、アシュラムの剣と同じく何人の命を奪ってきたか知れない。 「時機を過《あやま》った、というところですか。まさか、このような展開になるとはね」  オーエンは、自嘲《じちょう》の笑いを浮かべていた。 「娘を返してもらうぞ」  ベルドが言いながら、ゆっくりと柱に近づいていった。 「そうはゆかない。おまえは、ダークエルフを伴っていた。約束を違《たが》えたのだから、その報いは受けてもらう」  それは、あっという間の出来事だった。  オーエンの短剣が手品のように動いたかと思うと、蛮族の娘の喉《のど》が真一文字に切り裂かれていた。鮮血がほとばしり、娘の胸から足、そして地面を濡《ぬ》らしていった。  さるぐつわをはめられていた娘は、声もあげることさえできず絶命した。息を引き取る間際に、わずかに胸が波打っただけ。 「オーエン!」  アシュラムは叫び、剣を振りあげ、走りだした。 「吠《ほ》えないでください。オレたちが、今までさんざんやってきたことでしょう。この女と裏通りの娼婦《しょうふ》とどこが違うんですか?」  オーエンの言葉は、アシュラムの耳にほとんど聞こえなかった。  理由のない憎悪に燃えていた。この男を殺すこと以外、何も頭に浮かばなかった。  だが、ベルドの横を通りすぎようとしたとき、 「やめろ」  と、この英雄が言った。  空いていた左腕が伸びて、走るアシュラムを制止する。 「やめろ、だって? この男は、おまえの女を……」  信じられない言葉だった。  ベルド自身が怒り狂って、オーエンに切りかかって当然ではないか。そんな素振りは見せもせず、アシュラムがそれをしようとするのさえ止めるとは…… 「ダークエルフが、同行していたことは事実だ」  ベルドは理由らしきことを言った。  それから、オーエンに向き直ると、この場から立ち去れと言った。 「命が惜しければ、この島から脱出することだな。闇《やみ》の森の狩猟民たちは、決しておまえを許さぬ。おまえを狩ろうとするだろう」  オーエンは、まったく表情を動かさなかったし、何も言わなかった。  ただ、ベルドの言葉には従って、くるりと背中を向けると、滑るように走りはじめた。そして、アシュラムが長年、片腕と信じてきた男の姿は|廃墟《はいきょ》のあいだに消えていった。  そのあいだに、ベルドは蛮族の娘のところに進み、彼女を戒めから残らず解放した。その骸《むくろ》を片手に抱き、東門に向かって戻りはじめた。 「ついてくるか?」  アシュラムの脇《わき》を通りすぎるとき、ベルドは静かに尋ねてきた。 「もちろん、だ。そばにいなければ、おまえを超えられたかどうか分からない」 「我が望みは、大きいぞ」  アシュラムは、うなずいた。  この英雄は、本気でロードスの覇王となろうと思っているのだ。  その野望を共有しよう、とアシュラムは心に決めた。その実現のために、己のすべてを捧げようとも。  だが、もしも、この英雄を超えることができたなら、覇王の座につくのは自分だ、とアシュラムはひそかに誓った。  英雄戦争が勃発《ぼっぱつ》するのは、この後、十年のことである。 [#改ページ]    海 魔  風もなく、波もない。  海面は鏡となり、暗黒の島を脱出してきた漂流民たちの船団を映しだしていた。海面を境界として、世界がふたつに分裂したような錯覚にかられる。  海を覗《のぞ》きこむと、己の分身が鏡の世界からこちらを見つめてくる。  おまえも同じ思いをしているのか、とアシュラムは水鏡のなかの自分に向かって、心のなかで呼びかけた。  この海域に入りこんで、はや三日が過ぎている。  そのあいだ、風はまったく吹かなかった。帆は力を失ったように重く垂れさがり、船は微動だにしない。  船団のほとんどは手漕《てこ》ぎの船ではあるが、櫂《かい》には重く海草がからみつき、腕にいくら力を込めようと、ほんのわずかしか進むことができなかった。  船団は、完全にこの海域に閉じこめられた。  アシュラムは、海について多くの知識を持っているわけではない。  だが、この海が異常であることぐらい分かる。船乗りたちは、彼らのあいだに|噂《うわさ》として流れている�船の墓場�ではないかと怯《おび》えている。  このままこの海域から脱出できなければ、餓死するのは必至である。やがては船も朽ちて、海の藻屑《も くず》となるだろう。まさに、船の墓場だ。  もちろん、アシュラムとて手をこまねいているわけではなかった。ダークエルフのピロテースや魔術師のグローダーらに命じて、この海域を調査させている。  その結果が分かるまで、アシュラムにできることは待つだけだった。  もっとも、待つことにも勇気がいる。怯えが高じれば、恐慌をきたすこともある。アシュラムは威厳に満ちた態度を片時も崩さず、できるかぎり人々の目に触れるよう、甲板を歩き、小舟に乗って他の船の様子を視察に行ったりした。  その効果はあり、人々は何とか平静を保っている。だが、無駄に日数を費やせるほど、十分な食料を蓄えているわけではない。飲料水のほうは、もっと心配だ。  目指す新天地は、まだまだ遠い。  ロードス島の南に位置する|未知の大陸《フ ァ ー ラ ン ド》。名前すら知られていない謎《なぞ》多き大地だが、ロードスに数倍する大きさがあるという。 「アシュラム卿《きょう》……」  聞き慣れた声がして、アシュラムは振り返った。  ピロテースだった。彼女はアシュラムの前までやってくると、片膝《かたひざ》をつき|挨拶《あいさつ》した。彼女の後ろには長衣を着たグローダーの姿があり、こちらはかるく会釈をした。 「どうであった?」  アシュラムは、ふたりに尋ねた。 「わたしの専門のほうではありませんでした」  グローダーがもってまわった言い方で答え、ピロテースに視線を向けた。 「原因は精霊力の異常です」  後を引き継いで、ピロテースが言った。 「そして、精霊力の異常を引き起こしている主は、海の底にいました」 「海の底に?」  アシュラムは怪訝《け げん》な表情を浮かべた。そして、何者なのだ、と重ねて尋ねる。 「古代樹です」  ピロテースは、簡潔に答えた。 「古代樹だと? 海の底にか」  その答も、意表をついたものだった。  古代樹ならば、アシュラムも知っている。すべての草花、樹木の始祖に�世界樹《ユグドラシル》�と呼ばれる伝説の存在がある。偉大なる神々や竜王ともども、始源の巨人の骸《むくろ》から誕生した太古種族のひとつである。  世界樹は�生命の実�をたわわに実らせており、神々はこの神聖なる果実から、あまたの動植物や妖精《ようせい》、精霊を誕生させた。もちろん、人間もそのなかに含まれている。  生命の果実をもぎ取られた世界樹は著しく衰え、枯死寸前にまでなった。神々はこの植物の始祖を異世界に封じ、大切に保護した。この異世界こそ植物の精霊界に他ならず、樹木や草花が|司《つかさど》る精霊力の源泉でもある。  古代樹は生命の果実からではなく、神々の手によって、世界樹の新芽を大地に差し芽することで誕生した。その役割は、豊かな森林を育《はぐく》むことであった。  古代樹が植樹された場所には古代の森が誕生し、大地に広がっていった。  ロードス島にも、世界樹に守られた森がいくつかある。アラニア王国とカノン王国のあいだに広がる�帰らずの森�やモス公国の北に位置する�鏡の森�などがその代表だ。故国マーモの�闇《やみ》の森�にも、世界樹は生えていたと記憶している。  だが、海の底に世界樹が生えているとは、どういうことだろうか。 「海にも、植物は育ちますからね」  アシュラムの疑問を見透かしたように、グローダーが言った。 「海に潜って調べてみましたが、この辺りの海底には巨大な海草の森が広がっています。その中心に古代樹が生えており、精霊力を支配しています。海流を操り、風さえも鎮めているのです」 「我々を束縛しているのは、その古代樹の意志ということなのだな?」  ピロテースは、沈痛な表情でうなずいた。 「御苦労だった」  アシュラムは、二人に労《ねぎら》いの言葉をかけた。 「それで、いかがなされます?」 「知れたことよ。原因さえ分かれば、この海域を脱出するのは容易《た やす》かろう」  ピロテースの声に、アシュラムは不敵な笑いを浮かべて答えた。  戦士の顔に、戻っている。 「御自身がなされますか?」  グローダーが尋ねると、当然だという視線をアシュラムは返した。 「古代樹は海底に根を張っており、精霊さえ操ります」  ピロテースは言ったが、アシュラムの決意が固いことは承知しているようだった。 「だからこそ、行くのだ。騎士たちを派遣しようにも、相手が海の底ではな。おまえの精霊魔法を使えば、わたし一人ぐらいなら、水のなかでも戦えるようにできるだろう」 「もちろん、できます。アシュラム卿とわたしのふたりまでならば……」  ピロテースは、微笑を浮かべながら答えた。  水の精霊ウンディーネを力の源とする精霊魔法のなかには、水中での呼吸を可能にする呪文《じゅもん》と水圧の影響から解放される呪文とがある。 「あえて言いますが、あなたはもはや近衛《こ の え》騎士ではないのですよ。我々、漂流民を統《す》べる王なのだということを忘れないでください」  グローダーが、忠告めいたことを言った。  先帝ベルドと宮廷魔術師バグナードが、似たような会話を交わしていたことを思いだす。 「だからこそ、行くのだ。わたしとて、もはや無益なことで剣を振るうつもりはない」  かつては、ベルドに仕える最高の戦士であればよかった。  だが、今は立場が違う。アシュラムが忠誠を誓った英雄は、もはやいない。そして、暗黒の島を脱出した漂流民たちは、アシュラムを王に戴《いただ》くことを決めたのだ。  アシュラムは、それを受けた。国土もなく、財宝もない王国の住人にとって、せめて王でもいなければ頼る者がいない。彼らにそれを強いたのは、他ならぬ自分なのだから、その後始末はつけねばなるまい。  領土を得れば、財宝がたまれば、王権を奪おうとする者も現れよう。真の王は、それから決めればよいのだ。 「海底に行ける人数が限られている以上、最高の戦士を送らねばなりませんからな。ですが、このようなことはこれで最後に願いますよ」 「そのようにするのが、おまえのこれからの役割だろう」  アシュラムは意地悪く言った。 「心得ておきましょう」  苦笑を洩《も》らしながら、グローダーは深く頭を下げた。  グローダーはマーモ帝国の魔術師団をまとめているが、自身は魔術を使うことはできない。彼の師匠である�黒の導師�ことバグナードによって、�制約《ギ ア ス》�の呪文をかけられたためだ。呪文を唱えようとすれば、彼の全身に耐えがたい苦痛が走るのである。  実は、その黒の導師にも、同じ禁忌の呪文はかけられていた。  アラニアの魔術師ギルド�賢者の学院�で修業をしていたとき、禁断の魔術に手を染めたとして、当時の学長ラルカスによってかけられたものだ。  もっとも、黒の導師は全身を走る苦痛をものともせず、呪文を唱えた。長時間の儀式魔法さえ行うことができたのである。  魔術に対するバグナードの執念が、呪縛に耐えさせるのであろう。  グローダーは一度だけ呪文を唱えようとしたが、その全身を引き裂かれるような痛みを知って、あっさりと魔術を捨てた。  それ以後、魔術の使えぬ魔術師として、アシュラムに仕えている。  だが、グローダーの豊富な知識と優れた頭脳は、大いにアシュラムの役に立っている。目指す新天地に到着し、王国を興すときには、彼には宰相として辣腕《らつわん》を振るってもらうつもりだった。扱《こ》き使う、と言い換えてもいい。 「水の精霊ウンディーネよ。形なき乙女よ。我らは水に|溺《おぼ》れることなく、その重みにも潰《つぶ》れることなく……」  ピロテースが、精霊魔法の呪文を唱えはじめた。  彼女の呪文が完成すると、不思議な力がアシュラムを包みこもうとした。アシュラムはその力にあらがうことなく、心を空白にして受け入れた。  ふいに息苦しくなった。空気を呼吸するのが不自然に感じられたのだ。  アシュラムは息を止めてみたが、肺のなかに異物が入りこんでいる違和感が残った。 「まいりましょう」  ピロテースが声をかけてきた。  アシュラムは、闇《やみ》色の甲冑《かっちゅう》の止め金をはずそうとした。 「鎧《よろい》はそのままでも大丈夫です。陛下の身体は沈むこともなく、浮くこともなく、望むところに移動できます。もちろん、そのためには泳いでもらわねばなりませんが……」 「窮屈そうだな」  アシュラムは|�魂砕き�《ソウルクラッシュ》の鞘《さや》をはずし、この魔神王の剣を両手で持った。そして、柵《さく》を乗り越えて、頭から海へ飛びこんだ。  ピロテースが、それに続く。彼女は細身の剣《レイピア》を手にしている。  海に飛びこんだ瞬間、柔らかな感覚がアシュラムを包みこんだ。重い金属鎧を着込んでいるというのに、まったく沈む気配がない。周囲の水が柔らかく彼を受け止め、あらゆる方向から支えてくれるような感覚だった。まるで、水と同化したような気持ちになる。  思い切って、胸に水を吸い込んでみる。海水が喉《のど》から肺に向かって流れこむ感触があった。胸がしめつけられたようで、アシュラムは激しく咳《せ》きこんだ。  口から激しく泡が出る。だが、それも一瞬のことで、泡が出なくなったなと思うと、|嘘《うそ》のように楽になった。  悪いものではない、とアシュラムは思った。  アシュラムは剣を片手に持ち替え、空いている手で水をかいた。  海底に向かって、わずかに進む。手を動かすのを止めると、動かなくなる。ピロテースの言ったとおり、地上にいるのと同じ感覚だった。歩けば進み、止まれば動かない。  ただ、地上と違うのは、この世界は前後左右だけでなく、上下にも動けるということだ。  そのとき、遅れて海に飛びこんだピロテースが、アシュラムの隣にやってきた。彼女は、水の妖精《ようせい》マーメイドさながらの華麗な泳ぎを見せていた。  周囲には黒緑色の海草が、海面に向かって無数に伸びており、その合間を大小の魚たちが、気持ちよさそうに泳いでいた。海面を見上げれば、ガラス張りの天井のようであった。光が揺らめいてできる縞《しま》模様すらない。それほど、完全に海は凪《な》いでいるのだ。  まさしく森だな、とアシュラムは思った。獣が魚に、樹木が海草に替わっただけにすぎない。群れる魚の数から、この海の森がきわめて豊かであることが知れた。  だが、アシュラムたちにとって、ここは魔の海なのだ。 「御案内いたします」  ピロテースがアシュラムの手を握ると、海底へと誘《いざな》った。  アシュラムは素直にその案内を受けることにした。ピロテースは緊張のなかにも、どこかしら楽しそうな様子をかいまみせていた。  ここにいるのは、二人きりだということ。互いの立場を忘れて振る舞うことができる。  それは、アシュラムにしても同様だった。彼にとって、このダークエルフ女性だけが気の許せる相手であった。  過去には、命を狙われたこともある。それはピロテースにとって、アシュラムは兄の仇《かたき》だったからだ。それが、今では男女の関係になっている。運命という言葉はアシュラムのもっとも嫌うところだが、不思議な縁《えにし》であるのは認める。  ピロテースのやや冷たい手の感触を味わいながら、アシュラムは海底に向かって泳いでいった。透明度は高いが、海草の密生した海の森は、すぐに暗くなる。  海の底はまったく見えない。深く潜れば潜るほど、海水は暗くなり、やがて完全に闇《やみ》に閉ざされる。 「|光の精霊《ウィル・オー・ウィスプ》を召喚するつもりか?」  アシュラムは尋ねた。 「暗いのは、しばらくのあいだです。古代樹は黄金色の光を放っておりますゆえ」  ピロテースは、首を横に振りながら言った。 「古代樹を滅ぼさねばならないとして、おまえは平気なのか? おまえたちダークエルフは、森の妖精だろう」  彼女らダークエルフは森が|司《つかさど》る自然力のうち、闇の性質を受け継ぐ者なのだ。 「わたしたちが守るのは、陸《おか》の森だけです」  ピロテースは、毅然《き ぜん》として言った。 「それならばよいが……」  アシュラムはピロテースの横顔に一瞬、視線を走らせた。  その表情に迷いはないように思われた。もちろん、古代樹を倒さずとも問題が解決するようなら、それにこしたことはない。だが、そのための方法を模索している余裕はない。  アシュラムは、もっとも簡単な方法でけりをつけるつもりだった。  同じ立場になったとして、|傭兵《ようへい》王ならばどう振る舞うのだろうか。そして、あの自由騎士ならば……  そんな考えがふと脳裏に浮かんだが、無意味な思索だとすぐに頭の片隅へと追いやった。  その後は、海の底に向かって、無言のまま泳いでいった。いったいどれほど潜ったのだろう。周囲は闇に閉ざされ、見上げても、もはや海面は見えなくなっている。  全身を包みこむ海水にも違和感を感じなくなり、上下の感覚すら薄れてきた。虚空を漂っているような幻覚に襲われる。  そのなかにあって、ピロテースの手の感触だけが、現実との唯一の接点だった。  遠方にかすかな光が見えたのは、そのときのことだ。  淡い黄金色の輝きだった。 「あそこです」  ピロテースが、細身の剣の先端を光の方向に向けた。 「あれこそ、古代樹が放っている輝きです」  古代樹が黄金樹とも呼ばれていることを、アシュラムは思い出した。古代樹の葉が黄金色に輝くことから付けられた名である。  海の底に生える古代樹がどのような姿形をしているのか興味をひかれた。まさか、陸上の樹木と同じではないだろう。  想像のなかでは、巨大な海草だと思っていた。もし、そうなら�魂砕き�をひと振りするだけで、片がつくに違いない。  近づくにつれ、光はより大きく鮮明になっていった。最初は光の塊にしか見えなかったのが、黄金樹の姿を見分けられるまでになった。  古代樹は、網の目のように無数に枝分かれした幹を持っていた。  葉はない。浜辺を歩けば、似たような形の海草はいくらでも打ちあげられている。だが、さすが古代樹だけあって、想像を絶する大きさだった。ちょっとした規模の砦《とりで》ほどはある。  古代樹に近づいてゆくにつれて、古代樹の周囲を何隻もの沈没船が取り巻いていることに気づいた。この海域に入りこみ、脱出することがかなわず、朽ち果てていった船の残骸《ざんがい》だろうか。  沈没船のすべてが旧式のガレー船であることが、それを物語っているように思えた。  古代樹の輝きに導かれて集まっているのか、色とりどりの魚たちが泳ぎまわっていた。無数とも思える小魚の群れもあれば、巨大な魚が突然、目の前を横切ったりする。人間を知らないためか、魚たちは近づいても逃げようともしない。  幻想的な光景であった。  現世のことは忘れて、このままこの世界で暮らせたら、と思う。  だが、それはできない。暗黒の島を脱出してきた船団を、沈没船の仲間に入れさせるわけにはゆかないのだ。 「行くぞ!」  アシュラムは気合いの声をあげ、古代樹の根元まで最後の距離を一気に泳いだ。  緊張を漂わせながら、ピロテースが従う。  古代樹の幹は、樹齢千年を数える杉の大木に匹敵する太さがあった。熟練の木こりでも、切り倒すのに、半日はかかるに違いない。  だが、それほどの時間をかけているわけにはゆかない。ピロテースがかけた精霊魔法の効果は、無限に続くわけではないのだ。  アシュラムは�魂砕き�を振り翳《かざ》し、その暗黒の刃を古代樹の幹に叩《たた》きつけた。  重い手ごたえがあった。  �魂砕き�は、古代樹の幹に深く食いこんでいった。願っていたとおり、硬さはそれほどでもない。百回も振るえば、切り倒せそうに思えた。  アシュラムは勇気を得て、ふたたび剣を振りあげた。  異変が起こったのは、そのときであった。  それまで、海水はその存在を感じさせないほど、穏やかだった。  だが、突如、激しい水流が起こったのだ。アシュラムは近くの岩場に叩きつけられ、こめかみのあたりを岩の角で切った。血が煙のように水に噴きだす。  アシュラムは歯を食いしばって岩にしがみつき、岩の|隙間《すきま 》に足を挟みこませるようにして、足場を確保した。  だが、異変はそれだけではすまなかった。  それまで平和に泳いでいた魚たちが、突如、群れをなして襲いかかってきたのだ。付近に林立していた海草たちも、その黒緑色の葉をゆらゆらと伸ばしてくる。 「雑魚《ざこ》どもを頼む!」  アシュラムはピロテースに呼びかけた。  海草や魚たちは、古代樹に操られているに違いない。無視するわけにはいかないが、相手にしていればきりがない。 「水の流れよ、我が意のままに……」  ピロテースが、精霊魔法の呪文《じゅもん》を唱えはじめた。  呪文の完成と同時に水流が変わって、アシュラムの周囲で渦を巻きはじめた。  渦の中心にいるアシュラムは、ほとんど流れを感じないが、アシュラムに群がっていた魚や海草は、渦に完全に翻弄されている。  おかげで、古代樹にだけ集中することができた。  古代樹の枝も苦悶《く もん》するようにうち震え、悲鳴をあげるように海底も揺れた。無数の泡が湧《わ》きあがり、視界が完全に遮られた。  それでも、アシュラムは剣を振るいつづけた。  強大な魔力を秘めた大剣は、古代樹の幹を一刀ごとに確実に削りつづけていった。  どこかで、弦楽器のような不思議な音が鳴っていた。 「……なにゆえ」  それが声だと分かったのは、さらに十回は剣を振るったあとだった。  しかも、その声は耳から聞こえているのではなく、心のなかに直接、響いていた。 「何者だ!」  アシュラムは手を休めることなく、言った。 「なにゆえ、我を拒むのか。なにゆえ、我を傷つけるのか……」  心に響く声は、同じ意味の言葉を何度も繰り返していた。 「おまえは……」  アシュラムはようやく声の主が誰なのか、悟った。  古代樹なのだ。  古代樹が、意志を送っているのだ。 「我を、受け入れよ。我は、この地の守護者なり。海底の森と森の住人の育《はぐく》み手なり。異世界より訪れし者、汝《なんじ》、我が王国の住人となれ」  古代樹の心の声は、次第にはっきりと聞こえるようになってきた。異質だった精神の波長が同調しはじめたためだろうか。 「我らは陸に住む者だ。誰ひとりとして、貴様の王国に住むことは望んでおらぬ」  アシュラムは叫び、剣を振るう腕にさらに力を込めた。 「我は豊穣《ほうじょう》を約束するもの、繁栄を実現せしもの……」  古代樹の声は、なおも心のなかに響きつづけた。  なぜ傷つけるのか、重ねて問いかけてくる。もっとも、その声は心なしか苦しげに思えた。すでに古代樹の幹は半分ほどが削れ、いつ倒れてもおかしくない様子だ。 「貴様がいかなる者であれ、わたしは貴様を倒さねばならぬ。わたしを王と呼ぶ者がいるうえは、わたしは彼らを守らねばならぬのだ。それこそが王の使命」  アシュラムは精神を集中させ、心を閉ざす。  そして、先帝ベルドから受け継いだ魔法の大剣を、一心に振り続けた。  気がついたときには、古代樹は輝きを失っていた。  根元から幹を切断され、もっとも近くに沈んでいた沈没船にもたれかかるように倒れかかっていた。  周囲を見回すと、あれほどたくさん泳いでいた魚たちの姿がまったく見えなくなっていた。周囲には、ちぎれた海草が雲のように漂っていた。水泡も完全に消え去り、辺りは木の葉を落とした冬の森さながらに閑散とした風景であった。  古代樹は光を失っていたが、周囲はほのかな輝きに満ちていることに、アシュラムは気がついた。青白い光であった。 「ピロテースか」  アシュラムは、ゆっくりと背後を振り返った。 「御見事です」  ピロテースは、笑顔を見せて言った。だが、その顔には激しい疲労がうかがえる。  彼女の背後には、光の精霊ウィル・オー・ウィスプが浮かんでいる。彼女が召喚したのだ。アシュラムが古代樹と戦っているあいだに、彼女はいったいどれほどの呪文《じゅもん》を使ったのだろう。  アシュラムは彼女のところへ泳ぎ、無言でその細い身体を片手に抱えた。  ピロテースは驚いたように一瞬、身体を強《こわ》ばらせたが、すぐに力を抜いてアシュラムに身を委《ゆだ》ねる。 「アシュラム……」 「森には闇《やみ》の性質があり、おまえの種族はその性質を受け継いでいるのだったな」  海面に向かって泳ぎながら、アシュラムは言った。  ピロテースは、うなずいた。 「森は恵みを与えるだけではありません。誰も知らないところで、奪いつづけています。風の精霊力を、水の精霊力を、そして光の精霊力を。ドワーフ族は森林を大地に寄生する呪《のろ》われた存在として、嫌悪しています」 「この海の森も、同じということか?」 「おそらく……」  ピロテースは、答えた。 「魚たちにとって、沈没した船は格好の魚礁《ぎょしょう》となります。|溺《おぼ》れた船乗りたちの肉は、餌《えさ》になります。あの古代樹は、海底に森林を育《はぐく》むことを目的として生みだされた生命ゆえ、王国に入りこむ異質なものは、すべて同化しようと望んだのでしょう。それを責めることは、誰にもできません」  ピロテースの言葉には、古代樹を悼《いた》む気持ちがうかがえた。 「責めたりはせん。これは、生き残るための戦いであったにすぎない。古代樹が支配する海底の王国と、我々の王国とのな。おそらくこれからも、同じような戦いを経験することになろう」  ピロテースは目を閉じて、そっとうなずいた。 「それでも、あなたはきっと勝ちます。この海底の王国は、あなたが征服した最初の王国でしかありません」  意識がゆっくりと遠くなってきた。それを耐えようとする気持ちさえ、起こらなかった。 「今は、休むがいい。我が手のなかで」  アシュラムの声は、夢の向こうから聞こえてくるようだった。  暖かな安らぎに包まれながら、ピロテースは眠りについた。  深い深い眠りに…… [#改ページ]    永遠のはじまり      l  軍馬に跨《また》がった騎士の一行が、整然と街道を進んでゆく。  騎士の数は、およそ二十騎ばかり。その先頭にいるのは、長い黒髪の男だった。照りつける陽光を残らず吸いとるような闇《やみ》色の甲冑《かっちゅう》を身にまとい、青鹿毛《あおか げ 》の軍馬の鞍《くら》には両手持ちの大剣をくくりつけている。精密な細工を施された大剣の鞘《さや》が、人目を惹《ひ》く。  街道沿いの田園で畑仕事をしていた農夫たちは、わざわざ道端まで進みでて地面に平伏し、行列を見送る。そして、何事も起こらないことを祈りつつ、騎士たちが通りすぎるのをじっと待つ。  先頭を進む黒騎士の名が、アシュラムであることを彼らは知っている。  黒衣の将軍とも呼ばれている。マーモ帝国の騎士団を統率する者だ。そして、このカノン王国の実質的な統治者でもある。  先の英雄戦争のおり、先帝ベルドに率いられたマーモ軍の手によって、この緑豊かな王国が占領されて、はや五年余りがすぎている。  カノンの民はもはや服従することにも慣れ、生きてさえいれば、それ以外のことは望まなくなっている。  英雄戦争が終結するまでは、隣国ヴァリスの英雄王ファーンが立ちあがり、解放してもらえると信じていた。だが、その英雄王は、マーモ帝国の暗黒皇帝と壮絶な一騎打ちのすえに、相打つように斃《たお》れている。  英雄王を失った神聖王国ヴァリスは混乱し、マーモ帝国に占領されたままだった国土の東の領域を、先頃ようやく回復したところだ。�神官王�の名で呼ばれる現王エトは、至高神ファリスの名において、カノン解放の聖戦を行うと宣言しているが、それがいつかは明らかにしていない。  英雄戦争とそれに続く国土奪回の戦《いくさ》により、ヴァリスは著しく疲弊しており、隣国の解放のために遠征を行う余裕はないだろう、と|噂《うわさ》は伝えている。  頼るべきカノンの王族は英雄戦争のおりに皆殺しにされ、唯一の生き残りである第三王子レオナーの行方も、大戦以前に王国を出奔したまま杳《よう》として知れない。それゆえに、マーモによるカノンの支配は永久に続くのだ、と絶望的な思いで、人々は日々の暮らしを送っている。  隷属と搾取にあえぐ暮らしである。だからこそ、生きていることに価値を見出す以外に、この境遇に耐えることはできなかったのだ。  黒衣の将軍の一行は、静々とカノンの領民の前を通りすぎていった。  一行の姿が街道の向こうに消えてから、ようやく人々は顔をあげた。安堵《あんど 》のため息を洩《も》らしつつ、畑仕事に戻ってゆく。かつては、作物の大半は己の私有物となった。だが、現在は半分以上を、帝国に租税として差し出さねばならない。マーモ帝国に征服される前は、余剰の作物を売って、金銀を得ることもできたが、今では自分たちが食べる分を確保するだけで精一杯だった。それすらも、不足がちなのだ。 「黒衣の将軍という人物は、厳しいが公平な御方だそうだ」 「規律を定め、それを破った者はマーモの人間でも厳罰にすると聞くぞ」 「王都では、婦人に無礼を働いた兵士の首を叩《たた》き切ったらしい」  農夫たちはそう|囁《ささや》きあい、期待をこめたまなざしで、騎士たちの一行が消えていった方向を見つめた。その先には、カノン王国の同名の王都があるのだ。  この五年の間、マーモの支配者による恐ろしい圧政が続いていたが、黒衣の将軍がカノンの統治者に赴任したのと同時に、改善の兆しがみえている。  それが苦難に喘《あえ》ぐカノンの民にとり、たった一筋の光明だった。黒衣の将軍アシュラムの名は、カノンの民にとり希望そのもののように広まりつつあった。  農夫たちはその希望がかなうことを祈りながら、仕事へ戻っていった。  彼らの姿がすべて畑に消えてから、街道沿いにぽつりと建っていた小屋の陰から、ひとりの女性が姿を現した。  先端のとがった長い耳に浅黒い肌、そして白い髪の持ち主だった。森の|妖魔《ようま 》であるダークエルフに他ならなかった。  人間たちはこの闇《やみ》の種族を、死そのもののように恐れる。事実、ダークエルフは姿を消して忍び寄り、毒塗りの短剣で襲いかかる恐るべき暗殺者《アサッシン》だった。英雄戦争のおり、神聖王国ヴァリスの宮廷魔術師エルムがその刃により命を落としたことは記憶に新しい。  そして、ダークエルフたちは、カノンの森に住んでいた光のエルフたちの集落を、ひとつ残らず滅ぼしてもいる。かつて美しかったカノンの森はその輝きを失い、ダークエルフが守護する�闇の森�へと|変貌《へんぼう》しようとしている。暗黒の島マーモの国土のおよそ半分を占めるその魔の森は、妖魔と魔獣の巣窟《そうくつ》なのだ。  人間が自分たちの種族をどう思っているか、小屋の陰から姿を現したダークエルフ女性はもちろん知っている。そして、そんな人間たちを軽蔑《けいべつ》しきっていた。 「あれが、黒衣の将軍か……」  ピロテースという名のダークエルフ女性は、そっとつぶやいた。 「どれほどの人物か、確かめさせてもらおう」  それから、不思議な響きの言葉を唱えはじめる。  そして、唱え終わった瞬間、彼女の姿は周囲の風景に溶けこむように消えていった。  ロードスという名の島がある。  アレクラスト大陸の南に浮かぶ辺境の島だ。大陸の住人のなかには、呪《のろ》われた島と呼ぶ者もいる。人を寄せつけぬ魔境が各地にあり、忌まわしい大戦がうちつづくゆえ。  五年前にロードス全土を震撼《しんかん》させた英雄戦争は、呪われた島の名を象徴するような大戦であった。暗黒皇帝ベルドに率いられた暗黒の島マーモの軍勢がカノン王国を奇襲し、その征服下においたのだ。  時を同じくして、�千年王国《ミレニアム》�として栄華を誇った大国アラニアでも変事が起こった。国王カドモスが暗殺され、王弟であるラスター侯爵が王位宣言を行ったのだ。だが、国王を暗殺したのは、その王弟に他ならぬとして王族のひとりであるノービス伯アモスンは正統な王位継承権を主張して軍勢を召集した。  アラニアは国を二分する内戦となり、やがては国民を無視した内戦に対して、王国北部の街や村々で独立運動が起こるまでにいたった。  内戦の炎は、小国が群立するモス地方でも燃えあがった。�竜の鱗《うろこ》�ヴェノンが盟主であった�竜の炎�ハーケーンの王公を暗殺し、モス統一の戦《いくさ》を開始したのだ。竜の名を冠する他の国々も、それぞれの国の領土の拡大と諸国の盟主の座を目指して戦いはじめた。  英雄戦争はマーモ帝国とヴァリス王国、フレイム連合軍とがロイド近郊の平原で決戦を行い、一時代を築いたふたりの英雄、ヴァリスの英雄王ファーンとマーモの暗黒皇帝ベルドの死によって終焉《しゅうえん》した。  両軍とも犠牲者の数が著しく、その後、戦いは膠着《こうちゃく》状態となった。  五年前に、ヴァリス王国が占領されていた国土を奪回した後は、小競り合いがつづくのみで、大きな戦いはない。だが、それが嵐《あらし》の前の静けさであることを、ロードスの誰もが承知していた。近い将来、英雄戦争を超える規模の大戦がかならずやこの島を覆いつくす。そんな不安を、ロードスの住人は抱きつづけていた。  カノンの王城は、王都カノンの郊外にある。 |�輝ける丘�《シャイニング・ヒル》と呼ばれ、ロードスでもっとも美しい城と讃《たた》えられていた。だが、先の大戦のとき、天空より召喚された|星の子《メテオ》によって城壁を破壊され、漆喰《しっくい》を塗った純白の城は、無残にも焼け焦げた。  城は修復され、その機能は完全に回復している。城の防御力という点では、以前よりも遥《はる》かに強化されている。だが、美観は損われたままだ。かつては夕日を反射して、黄金色に輝いたものだが、焦げた漆喰がそのまま残る外観はまるで|廃墟《はいきょ》のようで、城の主人が魔物なのではと思わせる。そして、カノンの都の住人にとって、魔物とマーモの支配者たちとは変わるところがなかった。  四階建ての城の最上階には、かつてはカノンの国王とその家族が住んでいた。だが、現在は、マーモ帝国の暗黒騎士団長である黒衣の将軍アシュラムの居室となっている。  アシュラムは、ここからカノンの街、村に散らばった領主に命令を下している。その命令に従って、領主たちは領土と領民を治めている。カノン各地から税として納められた食料や財貨の大半は、港街ルードからマーモ島へと送られるのだ。  アシュラム自身は、富に関心はない。ただ、来《きた》るべき戦のために、この城にかなりの量を蓄財している。軍資金と食料がなければ、戦には絶対に勝てないからだ。  ありがたいことに、アシュラムの前任者が言葉にできぬほどの悪政を行っていたため、それをわずかに弛《ゆる》めただけでも、民は安心したように感じられる。  今の生活に満足しているわけではなかろうが、これ以上、悪くならないことを強く願っているのだ。その意味で、カノンの住人たちは現状を肯定している。  恐怖と安心とを適度に与えて、人々を支配するのはアシュラムが得意としている人心掌握の方法だった。昔の話になるが、アシュラムは同じ手段で、マーモ島の若者たち数千人を組織したことがある。  その若者たちは、アシュラムがベルドに屈服したときに、あの英雄の軍勢として吸収された。ベルドがマーモ統一を果たしたとき、彼らが中心となって暗黒騎士団が組織されたのである。  アシュラムは最初、近衛《こ の え》騎士隊長となり、英雄戦争後、暗黒騎士団すべてを統率する将軍となった。もっとも、ある使命を果たすことができず、評議会によって平の騎士隊長にまで降格された。将軍の座に返り咲いたのは、アダン郊外での戦に大敗し、ヴァリス領からマーモ軍が撤退を強いられたとき、向後を憂いた騎士たちの推挙があったからだ。だが、評議会は、この就任を正式に認めているわけではない。  開け放したままの窓から、梟《ふくろう》の鳴く声が聞こえてくる。  天空の神々がため息を洩《も》らしたような秋の風が、カーテンを軽やかに踊らせている。  アシュラムは机に座したまま、ひとりの騎士隊長からの報告に耳を傾けていた。  ひとつは、カノン自由軍なる野盗の暗躍についての報告であり、ふたつめはマーモの評議会からの命令書である。評議会が任命したカノンの統治者を罷免し、本国に追い返したことについてである。マーモへの反逆行為である、と明言している。  それを聞いて、アシュラムは冷笑を浮かべた。 「評議会の抗議など、放っておけ。我が騎士団の力がなければ、カノンの統治などできぬに決まっている」  アシュラムは、騎士隊長にそう言った。 「暗殺者を派遣してくる可能性はありますまいか?」  騎士隊長は同じ笑みを浮かべたあと、表情を硬くして言った。 「派遣してくるだろう」  アシュラムは断定するように答えた。 「そのようなことを恐れていて、暗黒騎士団の将軍を名乗ったりはせん」  アシュラムの答に、まだ若い騎士隊長は頼もしげに、アシュラムを見つめた。  蝋《ろう》人形を思わせる白い肌と刃のように鋭い瞳《ひとみ》が特徴的である。頬《ほお》から顎《あご》にかけて線が細く、漆黒の髪を長く伸ばしていることもあり、どこかしら女性的な印象もある。  だが、その剣の技量は間違いなく帝国随一であり、ロードス全体でも屈指だろうと|噂《うわさ》されている。剣匠の誉《ほまれ》高いフレイム王カシューを倒す者がいるとすれば、黒衣の将軍をおいて他にはいないだろう、と若い騎士たちは噂しあっている。 「評議会よりも、問題なのはカノン自由軍のほうかもしれぬ」 「レオナー王子が帰還して、組織したという噂が流れております。そして、竜殺しの自由騎士が加わっているとも……」 「レオナー王子に、自由騎士パーン」  本当だと思うか、とアシュラムは騎士隊長に問いかけた。  もちろん、答えられるはずもなく、騎士隊長は無言で首を横に振った。 「将軍はどう思われますか?」  そう切り返されて、アシュラムは苦笑いを洩《も》らした。  真偽は、もちろん、分からない。だからこそ、意見を求めたのだ。  腕を組み、考えにふける。  どちらかといえば、レオナー帰還の噂は、偽報のような気がした。  もしも、自分が王子の立場であれば、カノンが征服された直後に、ヴァリスかフレイムに姿を現しただろう。そして、正統のカノン国王であることを宣言し、祖国奪還を謳《うた》う。占領された祖国に舞い戻り、祖国解放の運動をするのは危険すぎるし、成功の可能性もはるかに低い。  だが、自由騎士は、パーンという男は違う。  あの騎士は危険を顧みることなどない。自由騎士が解放したいのは、カノン王国ではなく、そこに住む民たちなのだ。そして、あの男は目的を果たすために、もっとも直接的な手段を選ぶのだ。  五年前、アダンの街を巡る闘いで、ヴァリス軍を勝利に導いたのは、自由騎士だとアシュラムは思っている。支配の王錫《おうしゃく》を巡る戦いのときも、彼の力によってアシュラムの目的は潰《つい》えさせられた。  もしも、自由騎士とふたたび見《まみ》え、一騎打ちで戦ったならば、アシュラムはかならず彼を倒す自信がある。それは、アダンの街の戦いのとき証明済みだ。だが、そんな自信が何の役に立とう。  自由騎士パーンの真に恐るべきは、彼自身が己に課した使命をかならず達成しているということだ。もっとも、アシュラムが知っているのは風聞でしかないから、それをすべて真実とすればであるが……  誘拐されたヴァリスの王女フィアンナを救出し、フレイムでは対立していた炎の部族の守護神を浄化し、風と炎の砂漠を呪《のろ》いから解放した。アラニアではザクソン村を中心に起こった王国からの独立運動を軌道にのせて、モス地方では滅亡寸前だったハイランド王国の窮地を救った。  これらの偉業が、パーンという名の若者ひとりの力で達成されたものでないのは、噂も伝えている。だが、その中心にはかならず、自由騎士パーンの名があるのだ。  彼に関する噂の信憑《しんぴょう》性は、彼の生まれや育ちがほとんど伝えられていないという点にある。無名の人物が伝説になるのは、真に偉業をなしえた証《あかし》だと思える。  その行動力、意志力が、アシュラムには脅威だった。評議会が送ってくる暗殺者など、問題にさえならないほどの……  それに評議会に対しては、アシュラムの片腕ともいえる魔術師のグローダーが、工作を進めている。任せておいて問題ないはずだ。 「討伐隊を組織しましょうか?」  騎士隊長が提案したが、アシュラムはすぐに首を横に振った。 「まずは、情報を集めるのだ。兵を出すのは、それからでいい。むしろ、村々の領主たちに落度なく領土支配するよう徹底させろ。マーモの支配を民衆が認めれば、レオナーの名前など、何の意味もなくなるのだからな」 「努力します」  騎士隊長は答えたが、その表情はちょっと苦しげだった。  カノンの領主たちは、全員が暗黒騎士団の人間ではない。評議会に直結している領主たちも多数いるのだ。  そういった領主たちは、自分の領地を好き勝手に統治している。私財を肥やすことしか考えぬ者は、住民から搾りとれるだけ、搾りとっているのだ。  アシュラムは、そういった領主たちに断固たる態度で臨むつもりだが、完全なる自由を教義とする暗黒神ファラリスがマーモ帝国の国教であり、法を定めることができない。それゆえ、彼らに規範を守らせることは難しいのだ。  先帝ベルドは君臨したが、ほとんど統治はしなかった。帝国の人間には、あらゆる自由を許していた。だが、賄賂《わいろ 》により取り入ろうとしたり、偽りの発言を行った者には、苛酷《か こく》な罰をくだした。  ベルドが求めたのは皇帝と帝国に対して誠実であることと、自己の能力を示してみせることのふたつだった。それだけで、帝国が運営されていたのは、奇跡とも思える。だが、マーモの人間は、驚くほどの従順さで帝国のために働いた。武人は命懸けで戦い、文官は与えられた役割を忠実に果たした。  それは、ベルド皇帝の英雄性《カ リ ス マ》のゆえだろう。  アシュラムには、同じ|真似《まね》はできない。暗黒騎士団の武力を背景に、不文律の法を遵守させることによって、このカノンを統治するしかないと心に決めている。  評議会との暗闘は避けられそうにない。だが、暗黒騎士団の武力と豊かなカノンを支配していることから、この戦いは有利に運べるはずだ。同時に、カノンの支配を確かなものとすれば、マーモ帝国はきたるべきヴァリス、フレイムとの再戦にも敗れることはない、と確信している。  恭《うやうや》しく一礼してから部屋を辞す騎士隊長を送りだして、アシュラムはほっと息をついた。  このところ、休む暇さえない。近衛《こ の え》騎士隊長だった日々が、懐かしく思える。あの頃は、戦いだけに専念していればよかった。ベルド皇帝は、もとより護衛を必要とするような人物ではない。 「領土を支配するのも、戦《いくさ》のひとつか」  自らに命じるようにつぶやき、アシュラムは|椅子《いす》を蹴《け》るように立ち上がった。      2  アシュラムの私室は、かつてカノン国王の居室だった部屋である。  広間と呼べるほどの豪華な部屋だが、アシュラムは護衛も侍女も置かず、この部屋でひとりで住んでいる。そのほうが、気が休まるからだ。  執務室から廊下をわずかに移動して、私室の扉を開けると、部屋の中は真っ暗だった。盗まれて困るような物も置いていないので、|鍵《かぎ》さえかけていない。 「明かりよ……」  部屋の奥に進みながら、下位古代語《ローエンシェント》でそう声をあげた。  アシュラムの声に反応して、部屋のあちらこちらで青白い光がともった。  魔法の光である。もちろん、アシュラムが魔法をかけたわけではない。魔法王国と呼ばれた古代カストゥール王国の時代に創造された魔法の宝物が魔力を発揮したのだ。  カストゥール王国時代の日常語であった下位古代語の声に応じて、魔法の明かりをともすことも、反対に部屋を暗闇《くらやみ》に閉ざすことも思いのままである。古代王国の遺跡では数多く見つかる宝物だそうだが、これだけの数を集めるには|莫大《ばくだい》な費用がかかっただろう。  ランプをつければ済むというのに無用な贅沢《ぜいたく》である。だが、燃料を補充する必要がないので、アシュラムもそのまま使っている。  心身ともに、ひどく疲れていた。|�闇纏い�《シャドウ・ウィルダー》と渾名《あだな 》される甲冑《かっちゅう》の金具をはずす手も、滑りがちになる。やっとの思いで甲冑をはずし、ベッドの脇《わき》に置いてある人型の台に、この魔法の鎧《よろい》を装着させた。  アシュラムが室内の空気がいつもと違うのに気づいたのは、そのときであった。  異物が喉にからみついたような不快感がする。 「さっそくか……」  アシュラムは、心のなかでつぶやいた。  部屋のなかに、何者かが潜んでいるのだ。おそらくは、評議会から派遣されてきた暗殺者であろう。  物陰などに隠れているような感じではない。刺客は、姿を消しているのだ。盗賊ギルドに属する暗殺者ではなく、ダークエルフの刺客に違いなかった。  精霊魔法の|�姿隠し�《インビジビリティ》の呪文《じゅもん》を使っているのだ。だが、姿を消しても、気配を断つことはできない。盗賊ギルドが派遣した手練《てだ》れの暗殺者ならば、気配を感じ取るのはもっと難しかっただろう。  アシュラムは完全に平静を装い、ベッドのうえにごろりと横になった。護身用の短剣さえ、ベッドから離れた机に放り投げる。  |隙《すき》を見せていれば、そのうち襲ってくるに決まっている。  アシュラムは、大胆にも眠りに入ろうとした。眠っていても、異質な気配を感じれば、目が醒《さ》める自信がある。暗黒の島マーモで育ったがゆえに、身についた反射ともいえる。そして、相手には間違いなく油断しているように見えるはずだ。  下位古代語の合言葉を唱え、部屋の明かりを消す。相手が姿隠しの呪文を使っているのならば、明かりなどあってもなくても同じことだ。  アシュラムは、すぐに眠りについた。  どのくらい、眠ったのかは分からない。起きたのは、何者かが近づいてくる気配を感じたからだ。暗殺者が油断しきっているのは、無雑作な動き方からすぐに感じられた。  気配はベッドのところまで近づいてきた。呼吸を整えるかすかな音がする。  その呼吸が、止まった瞬間、アシュラムは気配のするほうに横に転がって動いた。  風を切って硬い物が振り下ろされ、布に何かが突き刺さった音がした。  アシュラムは、腕を真上に振りあげた。それが、何かに当たったとみるや、それをすばやく捕らえた。  それが何者かの腕であることは、すぐに分かった。それを引き込むようにして、暗殺者をベッドのうえに投げ飛ばした。  暗殺者は一回転して、ベッドに背中から落ちた。  息を詰まらせたような短い坤《うめ》き声が聞こえてくる。  アシュラムは相手の手首を探りあてると、力をこめて捻《ねじ》りあげ、まだ手にしていたままだった武器を手放させた。 「明かりよ!」  下位古代語で叫び、室内の明かりを灯す。  暗殺者の姿が、浮かびあがった。だが、まばゆい光に目が慣れず、完全に相手の正体を見極めることができない。  その隙をついて、暗殺者の反撃がやってきた。鋭い蹴《け》りが、後頭部を狙《ねら》ってくる。  アシュラムは空いていた腕で、それを防いだ。鍛えた筋肉が、蹴りの衝撃を完全に止めた。暗殺者は動きこそ素速いが、非力な感じだった。掴《つか》んでいる手首も棒のように細い。  その手首をさらに捻りあげて、アシュラムは相手をベッドにうつ伏せにした。もう一方の手で首を押さえつけて、身動きを取れなくする。  暗殺者は、束縛から逃れようと必死で身を捻るが、アシュラムはさらに力をこめて、相手の動きを封じた。 「それ以上、動けば、腕の骨をへし折るぞ」  アシュラムは、押し殺した声で言った。  その脅しが効いたのかどうか、暗殺者はおとなしくなった。  思ったとおり、ダークエルフだった。白い長い髪から、先端のとがった特徴のある耳が、突きでていた。髪と同じ色の衣服を着ているが、そこから伸びる細い手足は、日に焼けたように浅黒い。  首を押さえていた手を離し、ベッドのうえに落ちていた短剣を拾いあげる。刃には毒が塗られているらしく、濃緑色のどろりとした液体が塗られていた。  ダークエルフが使う刃毒は、かすり傷を与えただけでも、相手の命を奪うことができると聞いている。先の大戦のとき、この毒の刃で敵の要人が何人も暗殺されたのだ。 「こちらを向け」  アシュラムは、鋭く命じた。  そして、その首筋に短剣の刃を平にして押し当てる。  ぴくりと肩を震わせ、ダークエルフの暗殺者はうなずいた。  ダークエルフは寝返りを打つように、仰向けになった。 「ほう」  その顔を見て、アシュラムは思わず声をあげた。  暗殺者が、女だったからだ。  胸のところが大きく開いた服を着ており、胸の谷間から臍《へそ》のあたりまで、素肌が見えでいる。ダークエルフにしては、豊かな胸である。仰向けになってもほとんど形が崩れることなく、挑戦するように天に向いている。  女の顔に、見覚えはなかった。  彼らとて、同じ帝国に属する者だ。ダークエルフの数はさほど多くないこともあり、顔を見れば誰か分かると思っていたのだが。  女は首を持ちあげ、アシュラムの顔に憎悪の視線を叩きつけている。  炎のような瞳《ひとみ》をしている。それが、不思議に思えた。  暗殺者が命を狙《ねら》うのは、与えられた使命を果たすためだ。  だが、この女はどうだ。個人的な怨恨《えんこん》でも抱いているような目をしている。だが、アシュラムに心当たりはない。ダークエルフとは、ほとんど一緒に行動したことがない。命を奪ったことも、侮辱したこともないのだ。 「おまえの名は?」  アシュラムは、問うた。  答を拒絶するように、女は顔をそむけた。 「名は何という?」  アシュラムは、重ねて問いかけた。  押さえた口調ではあるが、相手の心を貫く鋭さがあった。  ダークエルフは一瞬、表情を強ばらせ、アシュラムに視線を戻した。気圧《けお》されまいとするように、歯をくいしばっている。 「もう一度しか聞かぬぞ。おまえの名は?」 「ピロテース……」  ようやく、女は答えた。  聞いたこともない名であった。 「ひと思いに殺せ。それとも、わたしを犯してからか」 「あいにくだが、女には不自由しておらん。カノンの貴族どもが、争って娘を差し出してくるからな」  それらの娘たちは人質もかねて、この王城で侍女として給仕させている。彼女らのなかには、マーモの騎士の情婦におさまっている者もいる。アシュラムも気に入った娘には、ときおり夜の相手をさせていた。 「ならば、すぐに殺すがいい! わたしは、何も話さないぞ」 「話してもらわずともよい。誰が差し向けた刺客かは、自明だからな」 「ならば……」 「殺しはせんよ」  アシュラムは言うと、手にしていた毒塗りの短剣を、正面の壁にかけられていた風景画に投げつけた。  短い乾いた音をたてて、短剣は絵画のうえに突き立つ。 「甘いな……。機会があれば、わたしはまた命を狙うぞ」 「勝手にしろ。おまえを殺したとて、新たな刺客がさしむけられるだけ。新しい暗殺者がおまえよりも無能であるとはかぎらないからな」  侮辱されたと思ったのか、ダークエルフの視線がさらに鋭さをます。 「後悔することになるぞ!」 「それは、どうかな」  アシュラムは|眉《まゆ》ひとつ動かさず、窓を指差した。  ピロテースという名のダークエルフは、悔しそうに顔を歪《ゆが》め、ベッドから転がると床のうえに降り立った。  そのまま、窓のところに走りより、ひらりと身を躍らせる。  ここは四階だが、二階下には宴の間から通じる広いテラスがあり、そこまではたいした高さはない。身軽なダークエルフならば、かるく飛び降りることができる。  ダークエルフの姿が消えてから、アシュラムはもう一度、灯りを消した。そして、ベッドに身を横たえる。  余興としてはおもしろかったが、これが毎日続くと思うと、さすがにうんざりする。だが、暗殺者を始末したところで、問題は何も解決しないことは分かりきっていた。評議会に、この暗闘が無益であることを気づかせるしかないのだ。  カノンの王城の中庭にはえた木の上で、ピロテースは飛びだしてきたばかりの窓を見つめていた。  先刻まで灯されていた明かりも消え、室内はふたたび闇《やみ》に閉ざされている。だが、窓は開け放たれたままで、カーテンが夜風に揺れているのが、手に取るように見えた。  ピロテースは、握りしめた拳《こぶし》を木の幹に叩《たた》きつけた。  胸をかきむしって、叫び声をあげたい気持ちだった。  暗殺は、完全に失敗だった。あの男が自分に気づいていたとは思いもしなかった。本当に、眠っているのだと信じて疑わなかった。  だが、毒塗りの短剣を振りかざし、振り下ろした瞬間、黒衣の将軍は待ちかまえていたように動いた。 「裏切り者の、黒衣の将軍を殺すのだ……」  族長ルゼーブの声が、耳に甦《よみがえ》ってくる。 「おまえにとって、兄の仇《かたき》でもある憎むべき男だ」  ピロテースの兄、アスタールは、アシュラムに同行して古代魔法王国の秘宝�支配の王錫《おうしゃく》�を探索する旅に赴いたのだ。  だが、その探索に、アシュラムは失敗した。  兄をはじめ、同行したマーモの勇者たちは、皆、命を落とした。逃げ帰ったのは、魔術師グローダーと探索行を率いたアシュラムのふたりだけ。  失敗は当然、償わねばならない。  グローダーの導師であった宮廷魔術師バグナードは、いちばんの高弟であったこの魔術師に、禁忌の呪文《じゅもん》をかけ魔法を封じた。そして、宮廷魔術師団から放逐することで、罰した。評議会は、暗黒騎士団を率いる将軍であったアシュラムを、平の騎士隊長に降格する決定を下した。  だが、アダンの街で暗黒騎士団は手酷《て ひど》い敗戦をし、新しく就任した将軍は戦死を遂げた。その混乱に乗じて、アシュラムは評議会に無断で将軍の座に返り咲いたのだ。  重大な反逆行為である。評議会は、再三再四、評議会が新しく任命した人物に将軍の座を譲るよう命令した。  だが、アシュラムはそれに従うどころか、カノンの統治者に任命されていた人物を拉致《らち》し、マーモ本国に送りかえすという暴挙を行った。そして、あたかも皇帝のように振る舞っているという。  もはや、反乱に等しい。  だからこそ、族長ルゼーブは、ピロテースにアシュラム暗殺を命じたのだ。  その無能ゆえに兄、アスタールを死に追いやったアシュラムの息の根を止めるのだ、と。 「あの男が無能だって?」  ピロテースは、自分に問いかけた。  だったら、そんな男にあしらわれた自分は、何なのだろう。  黒衣の将軍との格闘が思い浮かぶ。  人間よりも体力で劣るのは承知していることだ。だが、動きの素速さで人間を翻弄できる自信があった。  だが、あの男はピロテースに反撃を与える|隙《すき》をほとんど与えなかった。無様に押さえつけられ、情までかけられた。  先帝ベルドの|寵愛《ちょうあい》だけで近衛《こ の え》騎士隊長になったとの|噂《うわさ》もあったが、マーモ帝国でも一、二を争う剣技の持ち主だとも聞いていた。  噂など、そんなものだ。良い噂もあれば、悪い噂もある。先刻の格闘から判断すれば、あの男を評価する噂のほうが真実に近いと感じられた。 「アスタール……」  ピロテースは、兄の名を呼んでみた。ダークエルフの部族のなかでも、族長に次いで優れた精霊使いであり、戦士であった兄。  その兄が火竜山の戦いで死んだと聞いたとき、ピロテースは生まれて初めて涙を流した。  兄が力及ばずして死んだのならば、やむをえないと思う。だが、兄が命を落とした原因が、族長の言うとおり、黒衣の将軍の無能さゆえなら、決して許せはしない。 「これから、どうするか……」  ピロテースは自問した。  黒衣の将軍の顔がふと頭をよぎる。漆黒の髪と白い肌、整った顔だちには、気品すら溢《あふ》れていた。暗殺されようとしたのに動じた様子もなく、無言でいてもその威圧感には息が詰まりそうであった。  族長のもとへ帰り、失敗を報告するのは、誇りにかけてできなかった。 「機会をうかがって、使命を果たすのだ」  ピロテースは心に決めた。  だが、そのためには、もっとあの人間を知る必要があるだろう。      3 「……レオナー王子の帰還は、間違いないようです」  騎士隊長はひととおり報告を終えると、結論づけるように言った。  数日前にアシュラムが命じた調査でこの若い騎士隊長は現地に赴き、丹念に情報を収集してきたのだ。その報告は、よく整理されており、アシュラムはカノン自由軍の実体が、だいたいにおいて理解できた。  自由騎士パーンとレオナー王子とが、どこで知り合ったのかは分からない。彼らは、カノンの山岳地帯を根城にしていた山賊たちの協力を得たようだ。  そして、カノン住民の解放に立ち上がったのだ。それも、住民たちをカノン国外に脱出させるという驚くべき方法で、だ。  土地を糧《かて》に生きる者たちが、その生活手段を放棄するとは、普通では考えられない。  だが、レオナー王子への信頼が、人々を思い切らせたようだ。脱出したカノンの民は、最近、フレイム領に組入れられたばかりの�火竜の狩猟場�と呼ばれる平原の開拓民になったという。そして、レオナー王子が王国を取り戻した暁には、人々にカノンへ帰ってくるよう言っている。その時のために、わざわざ台帳を作り、土地の所有者が誰かを記録してあるのだそうだ。 「よくぞ調べた」  アシュラムは、騎士隊長に労《ねぎら》いの言葉をかけた。 「あの自由騎士が、レオナーの名前を使ったのか、と思ったがな」  自由騎士には何人かの仲間がおり、そのうちのひとりが北の賢者と呼ばれる魔術師であることを知っている。アラニアにおいて独立運動を指導してきた人物で、賢者の学院出身の秀才らしい。軍師としても優れており、アダンでの戦いにマーモ軍が敗れたのは、将軍ジアドの無能もさることながら、彼によって仕組まれた計略にはめられたがゆえである。  国王を装った囮《おとり》の一行を仕立て、それをダークエルフの暗殺部隊に襲撃させ、この森の|妖魔《ようま 》の戦士たちの大半を討ち取った。だが、国王の暗殺には成功したと思わせるため、喪章をつけて決戦に臨ませた。  それがヴァリス軍の計略だとは、アシュラムも見抜けなかった。  国王を失って、士気が低下していると甘く見たマーモ軍は、�聖戦�の呪文《じゅもん》によって恐れを知らぬ戦士と化していたヴァリス軍に散々に打ちのめされた。  アダンの住人の|蜂起《ほうき 》もあり、マーモ軍はヴァリス領からの撤退を余儀なくされたのだ。  自由騎士とレオナーが手を組んで行動しているとすれば、これはまさに脅威であった。 「いかがいたしますか?」  騎士隊長が判断を仰いできた。 「レオナー王子とは、どのような男なのか?」  アシュラムは、逆に問い返した。  この国の王族の始末は、すべてアシュラムがつけた。武器を取って戦おうとする者は、ひとりもいなかった。自ら命を断つか、ありのままに運命を受け入れるような者ばかりだった。財産を差し出して、命乞《いのちご》いをするような者もいた。  そんな王族たちとは、レオナーはあきらかに違っているようだ。 「レオナー王子の剣技は、この国で並ぶ者がいなかったそうだな」 「フレイムの|傭兵《ようへい》王カシューの正体が、レオナー王子なのではないかとの噂《うわさ》もありました」  カシューの名が出て、アシュラムはあからさまに顔を歪《ゆが》めた。  火竜山の決戦のとき、アシュラムはカシューと一騎打ちで戦い、完膚なきまでに叩きのめされた。傭兵王カシューは、先帝ベルドを卑劣な手段を用いて倒した男である。だが、剣匠のふたつ名に偽りはない。不敗の剣だと聞いていたが、まさにその通りであった。  次に戦っても、勝てる自信はない。 「とにかく、評議会へも報告しておこう。奴《やつ》らが、これを重視するとは思わぬがな」  アシュラムの言葉に、騎士隊長は意外だという表情をした。 「狩りださないのですか?」 「相手の居場所さえ分からぬというのに、今、兵を出しても成果は得られまい。あまり過敏に反応しては、かえってレオナーたちの望むところのように思える。カノンの住人たちは、今、絶望しているのだ。我々の支配を受け入れるしかないと思っている。そう思わせれば、我々の勝ちだ。レオナーの名は、人々にとって希望だろう。だが、それはあまりにも細く頼りない希望でしかない。だが、統治者である我々は、目の前の現実なのだ。ほんのわずかであっても、現状を改善するような統治を行えば、レオナーではなく我々にすがりついてこよう」 「そして、カノンの住人は、アシュラム卿を王と呼ぶわけですな」  騎士隊長は、胸をそらすようにして言った。  追従の言葉とは思えなかった。本心から言っているようだ。 「誰がどう呼ぼうと、知ったところではない。だが、わたしはマーモ帝国に仕える身であり、カノンを代理統治しているにすぎぬ」  アシュラムは、部屋の片隅に一瞬、視線を向けてから言った。 「評議会には、帝国を維持する力はありません。帝国には皇帝が必要なのです。それは、アシュラム卿をおいては……」 「わたしには先帝陛下を超えられぬ。超えられぬ以上、皇帝になるつもりはない。わたしが帝位を僭称《せんしょう》すれば、マーモ帝国は内乱となろう。それは、カシューやエトに侵略の機会を与えることになる」 「それでは、どうすれば……」  騎士隊長は身を乗りだすように言った。 「英雄が現れるのを待つしかないな」  アシュラムは、あっさりと言った。 「わたしが剣を捧げるにふさわしい英雄が、な」 「絶望的ですな」  騎士隊長は、恨めしそうな表情を見せた。 「わたしがあなたならば、皇帝位を狙《ねら》うのですがね」  皮肉めいた言葉だったが、アシュラムは怒りもせず、苦笑で答えた。 「とにかく、今は戦よりも国力を蓄えることが大事。レオナーごときに、つけいる隙を与えぬためにもな」 「分かりました。暗黒騎士たちは血気にはやってますが、なんとか押さえましょう。とにかく、領地を遺漏《い ろう》なく治めよ、とアシュラム卿の名で命じておきます」 「そうしてくれ」  騎士隊長は、恭《うやうや》しく一礼して足早に去っていった。 「……戦よりも、国力を蓄えることが大事とは、ね。暗黒騎士団を率いる将軍の言葉とは、とても思えない」  部屋の隅から、突然、声が響いた。  先程、アシュラムが視線を向けたところである。そこには、太い柱が一本、通っている。そして、その柱の陰から、ダークエルフ女性がひとり姿を現した。  ピロテースである。  数日前の夜、アシュラムの暗殺に失敗してからというもの、彼女はいつもアシュラムのそばにいて、身を潜ませている。あるときは魔法を使って己の姿を隠し、あるときは物陰に隠れて息をひそめている。  もちろん、アシュラムは彼女の存在に気づいていたが、あえて手出しはしなかった。  彼女を殺すのは難しいことではないが、それをしても、新たな刺客が送られてくるだけだからだ。 「帝位に就く意志がないと言ったのは、わたしが潜んでいたからか?」  皮肉めいた口調で、ピロテースは言った。 「まさか、な。本心を言ったまでよ。信じられぬのなら、好きに報告すればいい。評議会がわたしをどう思おうと、それはかまわぬ。ただ、邪魔はしてほしくはないものだ。わたしがやりたいのは、陛下の遺したこの帝国を栄えさせることなのだ。それは、評議会にとっても、利益になると信じているのだが」 「それは、殊勝なこと……」  腕を組みながら柱にもたれた姿勢で、ピロテースは皮肉な笑みを浮かべた。 「誰が考えても分かるはずだ。ここまで肥大したマーモ帝国を、ヴァリスやフレイムが放っておくと思うか? いつか必ず戦いになる。そのとき、我らが抗争しているようでは、勝てるはずがない」 「そう思うのなら、評議会が命令したとおり、降格されたままでいればよかったろう」 「そうするつもりだったよ。だが、それを許してくれぬ者が多くてな。おまけに評議会が抜擢《ばってき》した暗黒騎士たちは、無能者ぞろいだ。ヴァリス領アダンでの失敗を、この国で繰り返したくはない」  評議会が将軍に任命し、最前線であるアダンの街を統治させたのは、ジアドという名の騎士だった。怪力だけが自慢の男で、頭のなかにあるのは、私腹を肥やすことだけだった。  アダンの街の統治に失敗し、街の住人を|蜂起《ほうき 》させて、愚かな采配《さいはい》で戦にも敗れた。  評議会に取り入ろうとした暗黒騎士は、その程度の男ばかりだった。評議会にしてみれば、暗黒騎士団を支配下におくための人選だっただろうが、その結果が先の大戦でせっかく獲得した領土を失うはめになった。  権力争いなど、ロードス全土を統一してから、ゆっくりとやればいいのだ。 「ベルド皇帝は、恐怖で帝国を支配してきた。だが、おまえは、まるでカシューやエトのようにこの帝国を統治しようとしている。それでは、邪悪な民はついてくるまい」 「笑止だな。恐怖だけで、支配が続くものか。ベルド陛下が帝国を支配できたのは、真の英雄であったからだ。宮廷魔術師バグナードも、|妖魔《ようま 》の族長ルゼーブも、闇《やみ》の大僧正ショーデルも、皆、陛下に対しては忠実だった。だが、それは陛下を恐れていたからではない。陛下に心酔していたからなのだ。願わくば、陛下に捧げた忠誠を、現在の帝国にも捧げてほしいものだな」 「ならば、なぜ戦わぬ? 評議会を倒して、おまえが皇帝になればいい。そうすれば、おまえが思ったとおりの帝国にできるぞ」  ピロテースは意味ありげな微笑を浮かべた。 「あいにくだが、先刻、言ったとおりなのだよ。わたしは皇帝になりたいとは思っておらぬ。ベルド陛下を超える英雄が現れれば、喜んで忠誠を誓うだろう。それが、偽りのない、わたしの本心なのだ」 「……変わった男だな。権力を手にしたい人間は、掃いて捨てるほどいるぞ」 「わたしは国を治めているより、戦っているほうが好きな人間なのだ。それも、戦を指揮するより、剣を振るってるほうがな。相手が血を流して地面に倒れたときにこそ、勝利を実感することができる」 「そんな人間が、さっきのような命令を下すのか?」 「好き嫌いで判断して、すべてがうまくゆくならな」 「そうしているか……」  そこまで言って言葉を切り、ピロテースは入口の扉に視線を走らせた。それから、開け放たれたままの窓に向かい、小走りで移動する。その窓の外には、小さなベランダがある。  アシュラムも、もちろん、気がついていた。  何者かがこの部屋に近づいてきているのだ。 「おまえが、やりたいようにやればいい。だが、くれぐれも油断するな。この前は、不覚を取ったが、次も同じとは限らないのだからな」 「そちらこそ、気をつけるがいい。わたしがいつまでも、おまえを生かしておくとは思わないことだ」  ダークエルフの娘から、答は返ってこなかった。  ただ、彼女が去った窓からは一陣の風が吹きこんできて、アシュラムの執務室をひとめぐりすると、ふたたび外へと駆け戻っていった。  部屋の扉を叩《たた》く音がしたかと思うと、アシュラムの返事も待たず、濃緑色の長衣を着た男が入ってきた。  入ってくるなり、室内をぐるりと見回す。 「誰かが部屋にいたかと思いましたが……」  アシュラムの前まで進みでると、男はそう切り出した。  男の名は、グローダーという。かつては、宮廷魔術師バグナードの高弟であったが、今は魔法を封じられ、アシュラムの側近となっている。  その知恵と豊富な知識は、カノン王国を統治するにおいて、なくてはならないものだ。 「気のせいだ」  アシュラムは、あっさりと答えた。  グローダーは露骨に表情を歪《ゆが》め、疑わしげにアシュラムを見つめる。  だが、そのことについては、それ以上、追及せずに、 「お願いですから、護衛をおいてください。評議会には、いえバグナード様には、くれぐれも油断なさらないように」  と、話題を変えた。 「必要ないな。その護衛が裏切ることを考えれば、結局、危険は同じだろう」 「それは、その通りですが……」  グローダーは、苦笑を浮かべた。  マーモの人間に、忠誠を期待するのは難しい。欲に誘われれば、力により脅されれば、容易に心を変える。  アシュラムの強さは疑いのないところだ。だが、人数をもって襲われれば、苦戦は免れまい。そういうときにこそ、護衛は役立つのだ。 「その件についてはこれ以上、話す気はないな。それより、おまえがそのようなことを言いだした理由を聞きたいものだ」 「さすがに、お見通しですな」  グローダーは、満足そうにうなずいた。 「ダークエルフが数人と、評議会配下の|傭兵《ようへい》が港街ルードに上陸したとの情報があります」 「人数は?」 「三十人あまり。密偵に命じて後を|尾《つ》けさせたのですが、どうやら消されたようです」 「何のために、やってきたものか……」  アシュラムは、ひとりごとのようにつぶやいた。  やはり、自分を始末するためだろうか? 評議会は暗黒騎士団を骨抜きにしてまで、直轄下におきたいのだろうか。 「それで、本国の様子はどうだった? 評議会に接触したのだろう」 「もちろんです。宮廷魔術師団には、わたしの弟子がまだ何人も残っております。バグナード様も、わたしの魔術を封じただけで、それ以上、罰するおつもりはないようです」  グローダーは周囲をはばかるように、アシュラムの耳もとに顔を寄せた。 「バグナード様にお会いしまして、評議会にアシュラム|卿《きょう》のことを容認してもらえるよう、交渉を進めてきました。バグナード様には格別、反対はなく、むしろ強硬に反対する他の評議員を説得しているとのことです」 「黒の導師が?」  思わず尋ねかえしてしまったほど、グローダーの言葉は意外であった。 「マーモ帝国の将来を憂えてのことではありますまい。早々に滅びてもらってはこまるからでしょう。あの方は、自身の目的を果たすまで、マーモ帝国という城壁を守っておきたいだけなのです」  そして、グローダーは、バグナードが何かを企てており、そのための準備を進めている、と言った。 「支配の王錫《おうしゃく》の探索も、そのひとつでした……」  バグナードがグローダーに下した命令は、表面的にはアシュラムに協力し、支配の王錫を奪取することであったが、真の使命は�魂の水晶球�という古代王国の秘宝を持ち帰ることだった。 �魂の水晶球�は、青竜島に棲む水竜エイブラによって守られていた。激闘のすえこの古竜を倒し、グローダーは命令どおり、魂の水晶球を手に入れた。だが、ひとりの草原の妖精《ようせい》に、むざむざと盗みとられてしまった。 「魂の水晶球を用いて、何をしようとしていたのかは、分かりません。ですが、それはマーモ帝国のためでないのは明らかでした。おそらく、ご自身だけのために必要とされたのでしょう。」  グローダーは、バグナードを尊敬していた。だが、バグナードのために、無意味に命を投げだす気はなかった。黒の導師に仕えていることで、自分にも利益が返ってくると信じればこそ、忠誠を誓っていたのであり、危険を冒してきたのである。  だが、あの事件によって、それが信じられなくなっていた。  だから、魔術を封じられ追放されても、さほど苦しまなかった。アシュラムという、新しく仕えるべき人物を見出したこともあり、むしろ、これでよかったとさえ思っている。 「つまり、当面、バグナードは、我らの味方だと思っていいわけか?」 「全面的には、信用できませんが……」  そして、グローダーはこの王城に、バグナードが訪れる用意があることを報告した。 「バグナードが、この城にか?」  アシュラムは、驚いた。下手をすれば、暗殺される危険さえある。もっとも、彼ほどの魔術師を暗殺するのは、並大抵のことではないが…… 「公式な訪問ですから、これを迎えれば、評議会はアシュラム卿を認めたことになります」 「黒の導師を接待しろというのか? 追従の笑みを浮かべて……」  アシュラムは思いきり、顔をしかめてみせた。 「それで、評議会との抗争に終止符が打たれるとは思えんがな。わたしを除きたがっているのは、バグナードではないのだろう」 「ダークエルフの族長ルゼーブが、急進的だそうです。それから、名目だけの暗黒騎士団の団長ですな。暗黒神の最高司祭殿は、いつもと同じだそうです」 「汝《なんじ》の欲するところをなせ……か」 「はい、そして、司祭殿も自らの欲するところをいたします」 「いったい、何を望んでいるのやら」  アシュラムは、ふんと鼻を鳴らした。  ショーデル司祭は得体の知れない人物だった。表だっては何ひとつ動こうとしない。だが、裏でどのような采配《さいはい》を振るっているかは想像もできない。 「分かった。おまえが、せっかくここまで準備してくれたのだ。黒の導師を、この城に迎えるとしよう。あの男も危険を冒してやってくるのだ。ここは、奴《やつ》に敬意を表して、存分にもてなすように。ただ、バグナードのことだ、どんな罠《わな》を仕掛けてくるかもしれん。くれぐれも警戒は怠るなよ」 「ぬかりはありません。アシュラム卿も、身辺にはくれぐれも注意してください」  別れ際に、グローダーはそう言った。  だが、アシュラムがそれを取り合った様子はなかった。椅子《いす》に深く腰かけて、何かを考えこんでいる様子だった。 「やれやれ……」  ため息をつきながら、グローダーはアシュラムの執務室を辞し、毛足の長い絨毯《じゅうたん》が敷かれた廊下を歩きはじめた。長衣と絨毯がこすれる、乾いた音がする。 「まだ、ベルド陛下の近衛《こ の え》隊長のつもりでいるのか」  愚痴でもこぼすように言って、グローダーははた、と歩を止めた。  その顔に笑みが浮かんでいた。 「なるほど、それもいいかもしれん」  そうつぶやいて、グローダーは急ぎ足になった。      4  王城の裏庭の茂みの陰に身を潜め、ピロテースは王城の建物を見あげていた。 「ルゼーブ様は何故、わたしに命じられたのか……」  そう、つぶやく。  兄アスタールは、敵地に赴き帰らぬ人となった。あるいは、それはアシュラムの無能さに責任があるのかもしれぬ。だが、その無能者に協力するよう命じたのは、他ならぬルゼーブ族長なのである。  なにゆえ、兄は死んだのだろうか? その理由が知りたいと思った。不利と知れば、どのようにも逃げられたはずなのだ。それさえできないほど、追いつめられた状況だったのだろうか……  そのとき、ピロテースは背後に人の気配を感じた。  短剣を抜いて、気配のした方に向き直る。 「失敗したのかと思ったら、生きていたとはな。兄の仇《かたき》を目の前にしながら、手も足も出ないということか?」  声がして、空間から滲みでてくるように、ダークエルフがひとり姿を現した。  ピロテースはもちろん、その顔もその名も知っていた。 「わたしを侮辱するつもり?」  ピロテースは、言った。毒塗りの短剣をかまえて、威嚇するような視線を向ける。 「その顔なら、まだ使命を果たす意志はあるわけだな」  ダークエルフの男は言って、にやりとした。 「だったら、オレに協力しろ」 「協力……だと?」  ピロテースは、いぶかしげに|眉《まゆ》をひそめた。 「知れたこと。アシュラム将軍を始末する。それが、おまえの使命だったろう」  その言葉に、ピロテースは表情をひきしめた。 「そう、わたしの使命だ!」  声が大きくならないよう気をつけながら、だが、語気には相手を切り裂くような気合いをこめた。 「ならば、なぜ実行しない」  そう反論されて、ピロテースは黙った。  |隙《すき》がないからだ、と言っても、おそらく納得されまい。ピロテース自身にも、それだけが理由だと思えなかった。  隙がないのなら上位精霊の力を借りて、叩《たた》きつぶしてもいい。族長や兄、アスタールのように上位精霊を支配する力まではないが、強力な精霊魔法を使うことはできるのだ。 「……族長は、いったい何を望んでいられるのだ。アシュラムを暗殺して、我々にどんな利益がある」  不思議なものでも見るような目で、ダークエルフはピロテースを見つめた。 「族長は、もはや人間には従うつもりはないそうだ。バグナードもショーデルも、帝国を支配する器ではない。アシュラムを除いて、暗黒騎士団を無力化すれば、帝国の実権を握ることも|容易《た やす》い。族長はこのロードスを、我々、闇《やみ》の妖精《ようせい》が支配する島にしたいのだ」 「この島を……、我々が支配する」  ピロテースは、驚いた。信じられない言葉だった。 「それは、族長の本心なのか? 人間は愚かだが、決して油断してはならぬと、ルゼーブ族長はいつも言っていたはず。それなのに……」 「昔とは、状況が違っている。カノンを併合し、食料にはもはや不自由しない。妖魔たちは、際限なく増えてゆくぞ。その大軍団の力があれば、このロードスを征服することなど、容易いこと。十年後には、妖魔たちは何十万という数に膨れあがっていよう。マーモ帝国において、それを阻む武力があるとすれば、アシュラムと暗黒騎士団だけなのだ」  男の言葉を、ピロテースは茫然《ぼうぜん》と聞いていた。  族長の心が、いつ変わったのかは分からない。先の戦いで人間たちに協力し、ダークエルフの部族は多くの仲間を失った。妖魔たちも、何千、何万と死んだ。  だが、得られたものはといえば、カノンの森と山野だけだった。街や村、それに耕地は人間たちが領地としている。 「我らは、人間たちに利用されただけだと……」 「その通りではないか? だが、これからは、我らが人間たちを支配する時代がくる。そのためには、邪魔なアシュラムを抹殺しなければならない」  男は力をこめて、言った。  そして、アシュラムを謀殺するための手立てを話しはじめる。  緻密《ち みつ》な計画だった。成功は、ほぼ確実なように思えた。ただ、気になることがひとつあった。その企てに、黒の導師バグナードが一枚、からんでいることだった。  バグナードはアシュラムに対して、むしろ、好意的であったと聞いている。 「取り引きをしたらしい。アシュラムを倒すために、バグナードは一度だけ協力する。だが、それに失敗したら、黒衣の将軍の評議会への復帰を認めよ、とな」  バグナードの意図は、なんとなく理解できた。マーモ帝国の内紛が、長引くのを嫌っているのだろう。アシュラムが死んでルゼーブが実権を握るもよし、アシュラムが生き長らえて、マーモの権力者に返り咲くもよし、ということだろう。 「確かに伝えた、ぞ」  そう言い残し、男は去っていった。  呼び止めようとしたときには、すでに男は建物の角を回っていた。  ピロテースは額を押さえて、その場にうなだれた。  自分がどうすべきなのか、分からなくなっていた。族長の考えは、危険すぎると思えた。人間たちがおとなしく妖魔の支配を受けるとは思えない。もし、そのような動きを見せれば、マーモ帝国の人間たちも、妖魔と戦うために立ち上がるだろう。 「この世界は妖精界とは違うのだ……」  族長は、多分に感情的になっているように思えた。多くの仲間を失って、衝撃を覚えているのだろう。こんなはずではなかった、と考えているのかもしれない。  確かに、闇の森から出なければ、このようなことにはならなかったのだ。ピロテースは、まさにそのことを危倶《きぐ》していた。だからこそ、闇の森から出ようとせず、先の戦いにも加わらなかった。 「族長は森を出て、さらに遠くへ出ようとしているのか……」  ピロテースは瞑目《めいもく》した。  心を鎮めると、精霊たちの声が聞こえてくる。  だが、精霊たちが何を教えてくれるわけではない。自分で考えねばならないのだ。  族長に従い、闇の妖精の王国を築く手伝いをするか、それとも……  評議会の重鎮であるバグナードが、�輝ける丘�を訪れたのは、それから十日後のことだった。魔法を使わず、船と馬とで護衛を伴っての来訪だった。  カノン城では、黒の導師を迎えるための宴が、華やかに催された。  もっとも、バグナードは宴にはほとんど関心がなく、必要最小限の食べ物を口に入れただけで、洒は一口も飲まなかった。  宴に参列している騎士の姿は、ほとんどなかった。  先日、西の国境でヴァリス軍の不穏な動きが報告され、カノンに駐留の騎士たちの大半が出動していたのだ。  現在、カノンには街を守るためのわずかな兵士しか残っていない。もっとも、それはバグナードの警戒を和らげる役割も果たすと思われた。  アシュラムは宴のあいだほとんど無口で、バグナードとは主にグローダーが会談していた。かつての導師ではあるが、グローダーはそのようなことをおくびにもださず、あくまでアシュラムの補佐役として振る舞い、カノンの現状などバグナードに説明をしていた。  バグナードのほうは普段と変わらぬ調子で、グローダーからの報告を聞き、確認したいことがあれば、それを口にする。さらに問題点をいくつか指摘し、改善を求めてきた。その指摘はさすがに的確であり、アシュラムは善処することを約束した。  表面的には、黒の導師との会談は、順調なように見える。だが、この魔術師の腹のうちまでは、まったく見えなかった。  当初は、緊張していた面持ちの騎士たちも、宴の途中からは好きに騒ぎはじめ、侍女を連れて何処《い ず こ》かへ消える者も現れた。  アシュラムは、騎士たちの好きにさせた。  バグナードの来訪で、評議会はアシュラムをカノンの統治者として承認したことになる。アシュラムの評議会への復帰も近いだろう、とバグナードは言った。  アシュラムは内心の不満を押さえ、黒の導師に謝意を述べた。  評議会に屈服したようで、屈辱を感じる。だが、ここで依怙地《いこじ》になっていては、これからの仕事がやりにくくなる。  来《さた》るべき戦《いくさ》に勝利するためにも、レオナーやパーンに足下を掬《すく》われぬためにも、カノンにおけるマーモ支配の浸透を急がねばならないのだ。  公的な話し合いは、それで終わりだった。その後は、たわいのない話がつづいた。  夜も更けて、宴もそろそろ終わりに近づいたとき、異変が起こった。  城門警備の衛兵が飛びこんできたのである。そして、カノンの市街に自由軍が侵入したとの報告をもたらした。 「カノン自由軍だと!」  アシュラムは、手にしていた酒杯を投げすてると詳細を尋ねる。 「敵の規模は、分かりません。騎士たちの館《やかた》に火をかけ、市民たちに|蜂起《ほうき 》を呼びかけているようです」  衛兵はアシュラムの剣幕に怯《おび》えながら、答えた。 「騎士団の留守を狙《ねら》ったのか? それとも、黒の導師の来訪を知ったからか?」  アシュラムは、自問してみた。  あまりにも、できすぎている。誰かが故意に情報を流したとしか思えない。  カノンの統治が成功していないことを、バグナードに印象づけ、自分の追い落としを狙ったものだろうか。 「足下を反乱軍に攻めこまれるとはな?」  思ったとおり、皮肉めいた笑いを浮かべて、バグナードが言った。 「これでは、評議会を説得するのも難しいかな」 「言われずとも、分かっている。反乱軍が動いてくれたのは、むしろ好都合。わたしが、この手で粉砕してくれる!」  アシュラムは|�魂砕き�《ソウルクラッシュ》を握りしめ、宴の間から飛びだした。その場にいる騎士たちに、ついてくるよう命令する。 「万が一のことがある。わたしは、魔術を使って本国へ帰るとしよう」  バグナードは楽しげに笑うと、グローダーの肩をかるく叩《たた》いた。 「どうだ、魔術の修業は続けているか?」 「はっ?」  何を言いだすのか、とグローダーは、かつての導師を見つめた。 「バグナード様が、封じたのではありませんか? 魔術については、もはや、あきらめました。今は、知恵だけを武器に戦っております。幸いにして、アシュラム|卿《きょう》はわたしを重用してくださいますので……」 「……そうか」  一瞬の間の後、バグナードは小さくうなずくと、上位古代語《ハイ・エンシェント》の呪文《じゅもん》を詠唱しはじめた。 「おまえは、立派な文官となろう。アシュラム卿の補佐を、しっかりとやれ」  最後に、そう言うと、バグナードの姿はかき消えた。 「仰せのとおりに……」  グローダーは深く頭を下げながら、心のなかでは舌打ちしていた。  辛殊《しんらつ》な皮肉である。バグナードの魔術に対する熱意は尊敬しているし、知恵も知識も及ぶところではない。だが、自分には活躍の場が与えられている。黒の導師の最後の言葉どおり、アシュラムを補佐していれば、才能を存分に発揮できるのだ。  己のことしか考えぬバグナードよりも、世俗的にいえば影響力はあるのだ。  そして、グローダーは、自らを俗物と認めている。  バグナードの言うとおり、優秀な文官になってやろう、と心に誓う。アシュラムを皇帝位に就け、自らは宰相として、権力を振るおうと思う。たとえ、王にならずとも、理想の国を創《つく》ることはできるのだ。  ひとしきり憤ると、気持ちが収まった。  バグナードにとって、自分は裏切り者なのだから、あの程度の皮肉は言いたくもなるだろう。むしろ、寛容なぐらいだ。  そう思ったとき、バグナードの最後の言葉が、もう一度、グローダーの脳裏に浮かんだ。  アシュラム卿の補佐をしっかりとやれ……  バグナードは、そう言った。  突然、奇妙な胸騒ぎが襲った。バグナードの言葉は、言わずもがなのことである。そのようなことを、なぜ、あえて言ったのだろうか? 「そうか!」  グローダーは大声をあげて、走りだした。魔術を使えぬ身が、今は恨めしく思う。  間に合ってくれ、と願わずにはいられない。  グローダーは、生まれて初めて神に祈った。どの神でもよかった。自分の願いを聞き届けてくれるのなら……      5  アシュラムは数十騎を従えて、街を駆けた。  夜空を焦がす炎で、目的の場所は容易に分かった。悲鳴と怒号の入り交じった音が、聞こえてくる。  アシュラムに従う騎士の数は少ないが、全員が暗黒騎士団の精鋭である。五倍ぐらいの敵ならば十分、相手になると思えた。レオナー王子や自由騎士パーンを除けば、あとは野盗の集まりだ。  レオナーたちの首を評議会に送りつければ、傷ついた威信は回復できる。内憂を一気に取り除く格好の機会である。  アシュラムは、これを逃すつもりはなかった。敵の退路を断ち、カノン自由軍を全滅させる算段を、アシュラムは心に描いていた。  戦いの現場は、街の西北部にあたる一画だった。この辺りは、カノン貴族たちの屋敷が建ち並んでいる一画で、現在ではその多くをマーモの騎士たちが館《やかた》として使っている。  その多くは国境へ遠征しており、館には家族や召し使いたちが残っているだけだ。  いくつもの館は燃えあがり、逃げ惑う人々の姿が見られるようになった。  気炎をあげる男たちの声がする。 「ぬかるな!」  アシュラムは号令をかけ、騎士たちを三隊に分けた。それぞれ、異なる方向から進ませて、敵兵を街から逃がさぬよう指図する。  アシュラムは最短距離を通って、まっすぐ敵へ向かった。  敵の姿は、すぐに目に入った。  片手には剣を握り、もう片方の手ではたいまつを手にしている。火矢をつがえている男の姿もあった。 「覚悟せよ!」  アシュラムは�魂砕き�の鞘《さや》を外し、この黒き刃の大剣を高々と掲げた。  そして、突撃を始める。 「暗黒騎士団だ!」  敵兵のひとりが、警告の叫びをあげた。だが、次の瞬間、その男はアシュラムの剣に、首を刎《は》ねられ、息絶えていた。 「迎え討て!」  近くの門から、数十人の敵が走りでてきた。  全員が鎧《よろい》を着ており、剣や楯《たて》も手にしていた。  山賊あがりにしては、充実した武装である。  アシュラムは自由騎士の姿がないか、捜し求めた。  ひとり突出しているアシュラムに、群がるように敵が迫ってくる。  アシュラムは片手で馬を操りながら、�魂砕き�で切りつけている。血しぶきがあがり、次々と敵は地面に倒れてゆく。  騎士たちも駆けつけ、たちまち乱戦となった。アシュラムは、右に左にと剣を振るい、敵兵を倒してゆく。  だが、思った以上に敵の数が多く、新手があちらこちらから次々と駆けつけてくる。 「こやつらカノン自由軍ではないな……」  しばらく戦ううちに、アシュラムはそのことに気づいた。  倒した敵のひとりに見覚えがあったのだ。カノンの下級貴族である。アシュラムに取り入ろうと、接近してきた男だ。  アシュラムは、まったく取り合わず、ただ差し出してきた賄賂《わいろ 》は没収した。 「カノン貴族の不平分子というわけか」  アシュラムは、|侮蔑《ぶ べつ》の表情を浮かべた。  服従を誓った貴族たちには、アシュラムは寛容な政策を取ってきた。暗黒騎士団のなかには、カノンの騎士たちからなる一隊を組織したりもした。  これからも、優秀な人材は登用するつもりである。だが、卑劣で無能な人間は不要である。そういう輩《やから》は、次々と財産を没収し、騎士資格を剥奪《はくだつ》してきた。  蜂起《ほうき 》したのは、没落した貴族と騎士、それにその従卒たちだろう。  警戒はしていたが、まさか、武力蜂起するとは思いもしなかった。油断であったかもしれないが、むしろ、何者かの扇動があると思えた。 「何人かは、生捕りにしろ!」  アシュラムは、配下の騎士たちにそう命じた。 「御意」  ひとりの若い騎士が馬を寄せてきて、深く一礼した。  若者が手にしている剣も、鎧も返り血にまみれている。何人もの敵を|斬《き》りたおしたに違いなかった。自身も少し、手傷を負っているようだ。 「無理はするな」 「これでも、怠けすぎかと思っていたぐらいですが」  若者は答え、不敵な笑みを浮かべる。 「それは、厳罰ものだな。ならば、存分に働け!」 「はっ」  若い騎士は馬の手綱を短く持って、敵の真っ只中《ただなか》に突進していった。  勇敢というより無謀な戦いぶりだが、そんな戦い方しかできない時期は誰にでもある。  そういう男のなかで生き延びた者だけが、歴戦の勇者となれるのだ。命を落とせば、それまでの男ということになる。  苦戦はあいかわらずだが、敵を追いつめているという実感があった。騎士を三隊に分けたのはちょっとした賭《か》けだったが、敵を包囲しているのは間違いない。  そのうち、街の各地に散っている衛兵が集まってこよう。  アシュラムは�魂砕き�の新たな生贄《いけにえ》を求めて、先へ先へと馬を進めた。この蜂起に加わった者は、ひとりとして生かしておく気はない。捕らえた者も拷問にかけ、洗いざらいを白状させ、広場で公開処刑にするつもりである。  マーモ帝国に刃を向けることの愚かさは、カノンの住人すべてに教えこまねばならない。  アシュラムが、後方から一軍が近づいてくるのに気づいたのは、馬に乗った敵の首領格とおぼしき男を倒したときだった。  衛兵たちが、ようやく駆けつけたかと思い、後方を振り返る。  だが、その考えが間違っていたことを、アシュラムはすぐに知った。  そして、もうひとつ知ったことがある。  罠《わな》にかけられたのだ、ということだ。  やってきたのは、衛兵ではなかった。武装も不揃《ふ ぞろ》いの傭兵《ようへい》たちである。そして、彼らを雇っているのが誰かは、容易に見当がついた。 「黒の導師!」  アシュラムは、怒りの叫びをあげた。  包囲していたはずが、前後を挟まれる形となった。まさか、味方の増援がやってこず、敵の伏兵が姿を現すとは思いもしなかった。  傭兵たちは、皆、かなりの手練《てだ》れと見えた。その数は、二十を超えている。切り抜けるのは、難しい人数だ。しかも、傭兵たちのうちの数人は、歩兵槍《パイク》を手にしており、軍馬の突撃に備えている。 「新手ですか?」  ひとりの騎士がやってきて、信じられないというように首を横に振った。 「貴様らは、正面だけに集中しろ。奴《やつ》らは、わたしが引き受ける」 「しかし……」 「命令が聞けぬとあれば、その首、叩《たた》き斬るぞ。わたしが防ぐあいだに、血路を開け!」 「御意」  震える声で答え、その騎士は馬を進めた。 「さあ、来い! いくらで雇われているか知らぬが、わたしの首はそう安くはないぞ!」  先刻から戦いづめだが、疲労はそれほどでもない。 �魂砕き�が哀れな獲物の魂を吸収し、その力を分け与えてくれているためかもしれぬ。 「存分に、魂を喰らわせてやるぞ!」  アシュラムは黒き刃の魔剣に向かって囁《ささや》き、慎重に馬を進めた。  敵も殺到してくる様子はない。ゆっくりと、距離を詰めてくる。 「……|風の精霊《シ  ル  フ》よ、自由なる乙女よ」  近くで、突然、呪文《じゅもん》の声が響いた。  アシュラムの周囲に、突然、風が巻きあがった。  反射的に、アシュラムは声がした方に剣を振るった。  黒い影が、動いた。  塀のうえから、ひとりのダークエルフが、地面へと飛び降りる。 「おまえは……」  ピロテースという名のダークエルフ女性だった。火災の炎に照らされて、髪が夕焼けに染まっているように見えた。 「これで、借りは返したぞ」  ピロテースは、言った。  同時に、風を切り裂いて、四方から短剣が飛んできた。  突然のことに、さすがに反応しきれなかった。二本は剣で払ったが、残りはかわしようがない。  だが、  アシュラムの身体に当たる寸前に、短剣はいきなり方向を変えた。 「|風の精霊《シ  ル  フ》の守り? おまえが、かけたのか……」  思いもよらぬ展開が続き、アシュラムもさすがに混乱した。  だが、傭兵たちが攻撃してきたので、迎え撃つのに忙しくなった。どういうつもりかは知らぬが、ピロテースはアシュラムの援護をするつもりらしい。 「ピロテース、裏切ったのか!」  闇《やみ》のなかから、声があがった。 「黒衣の将軍は、兄の仇《かたき》だ! おまえたちには、渡しはしない!!」  ピロテースは、塀のうえに舞いあがると、周囲を見回して叫んだ。  アシュラムの耳にもはっきりと、兄の仇という声が聞こえてきた。  もちろん、心当たりはない。ダークエルフを殺したこともないのだから。暗殺に失敗したとき、彼女がアシュラムに向けた憎悪の視線の理由がようやく分かった。  とんだ濡《ぬ》れ衣である。吹きこんだのはルゼーブだろうか。それとも、バグナードか。 「早々に、退くがいい! さもなければ、暗黒騎士の増援と戦わねばならないぞ。そして、このわたしともな!!」  ピロテースは、叫びつづけている。  予定の行動を狂わされたことを悟り、周囲の建物の陰から、いくつかの気配が闇のなかへ散っていった。  傭兵たちに任せておけば、目的を達成することを確信したからでもあるだろう。  ピロテースの言葉は、ただの脅しにすぎない。暗黒騎士団は、ほとんどがヴァリス国境へと出撃しており、引き連れてきた人数の他には、予備の部隊などない。  アシュラムは傭兵たちを相手に、この絶望的な戦いをどれだけ続けられるかに全力を傾けている。このような状況になっては、もはや、逃れるのは不可能である。  だが、最期のときまで、戦いつづける覚悟だった。  死ぬかもしれぬという恐怖は、まったくない。むしろ、力が溢《あふ》れ、血が滾《たぎ》ってさえくる。己が戦士であることを、つくづく思い知らされる。 「それは、おまえが皇帝の器ではないということだよ!」  心のなかで、自分自身に呼びかける。  アシュラムは、マーモ帝国の滅亡を確信した。真の敵は砂漠の彼方《か な た》にいるというのに、目の前にいる邪魔者を消すために、このような罠《わな》を仕掛ける。邪悪な民ゆえの限界というべきだろうか?  そのとき、聞き慣れた声が、風に乗って届いてきた。  アシュラム卿《きょう》、と声は言っているように聞こえた。 「グローダーか?」  アシュラムは、もはや驚きもしなかった。  状況は一瞬ごとに変化し、その変化に自分ひとりが取り残されている。ただ、目の前の敵を振り払うのに必死なだけで…… 「アシュラム卿!」  声はもう一度、今度ははっきりと聞こえた。  叫んでいるのが、グローダーであることは確信できた。そして、その声に混じって、蹄《ひづめ》の音が轟《とどろ》いている。 「暗黒騎士団の新手だぞ!」  傭兵たちの後方で、誰かが叫んだ。  目の前の傭兵たちが、あきらかに動揺しはじめた。 「今も、言っただろう。早く逃げないと、手後れになるぞ」  ピロテースが、高らかな笑い声を響かせた。  死神の笑い声を聞いたように、傭兵たちが逃走しはじめる。それを追いかける気力は、もはやアシュラムにはなかった。  ふと気がつけば、背後からも戦《いくさ》の音が聞こえなくなっている。カノンの不平貴族たちは、鎮圧されたのだろう。  しばらくすると、グローダーが二十騎ばかりの騎士を引き連れて、姿を現した。  騎士たちは楯《たて》のうえに、同じ模様を一様に描いていた。それは、アラニアの貴族であった頃の、アシュラムの家紋だった。 「……どういう趣向だ?」  アシュラムは、ひとり近くにやってきたグローダーに尋ねた。  騎士たちは四列に整列して、馬上で不動の姿勢を取っている。全員、若い騎士ばかりである。もちろん、全員に見覚えがある。アシュラムがひそかに目をかけていた若者ばかりだった。カノン自由軍の調査に功績のあった騎士隊長の姿もあった。 「思うところがありまして、近衛《こ の え》隊を組織してみました。わたしの目に狂いがなければ、彼らはアシュラム卿のために、いかなる危険をもかえりみることはありません。ただ、お忘れなきように。彼らがそうするのは、自らの利益になると信じればこそです。アシュラム卿が、頼りにならぬ人物と判断すれば刺客となるやもしれません」 「おまえと同じというわけか? 盲目的な服従より、そのほうがよほど信用できる」  グローダーは深々と頭を下げた。 「ご無事で何よりです」 「借りを作ったな」 「ご心配にはおよびません。高利をつけて、返していただきますゆえ……」  アシュラムは苦笑を浮かべ、背後を振り返った。  高利な借財をしたのは、もうひとりいる。  ピロテースの姿は、まだ塀のうえにあった。  火災を起こしていた建物は、あらかた燃えつき、辺りは薄暗くその表情まではうかがえない。 「ひとつだけ、聞きたいことがある」  ピロテースはゆっくりと口を開いた。 「おまえの兄のことか? 名前は何という」 「アスタール……」  その名は、もちろん覚えていた。  ピロテースが、自分を仇と呼んだことにも合点がいった。 「アスタールの妹ですか? いつの間に、お味方に……」  グローダーが意味ありげな視線を、アシュラムに送った。 「味方では、ないな。兄の仇をその手で討つために、助けてくれたにすぎぬ」 「仇……ですか? アシュラム卿が」 「そうではないのか? グローダーとか言ったな。おまえも、確か支配の王錫の探索行に同行していたはずだ。わたしは、知りたい。兄が何故、死んだのか? それは、兄が力不足だったゆえか? それとも、アシュラムが無能であったためか?」 「知ってどうする?」  アシュラムは一歩、前に進みでた。 「兄が死んだのがおまえの無能のゆえなら、わたしはおまえを殺す!」  ピロテースは言って、ふわりと地面に降り立った。 「アスタールは|傭兵《ようへい》王カシューとその配下によって殺された。申し訳ないが、殺されたところは見ていない。あれほどの精霊魔法の使い手が倒されるとは思いもしなかった」 「なぜ、おまえは死ななかった?」  ピロテースは、非難の視線をグローダーに向けた。 「負けたからだよ。わたしが戦った相手は優れた魔術師だった。北の賢者だと教えられたのは、最近のことだがね」  北の賢者スレインの名は、ピロテースも知っていた。 「敗北を知り、わたしは魔法で逃れた。もちろん、命が惜しかったためだが、目的はもうひとつあった……」 「それは、何だ」  ピロテースは、静かに尋ねた。 「アシュラム卿をお救いすることだ……」  グローダーは、アシュラムをはばかりつつ答えた。  アシュラムは沈黙を守り、|眉《まゆ》ひとつ動かそうとしない。 「あのとき、カシューたちが勝つことを、わたしは予見した。だから、わたしは瞬間移動の呪文《じゅもん》を使い、マーモ本国へと戻った。そして、わたしを呼び戻すために用意されていた強制送還の呪文を使った。間一髪だったが、わたしは目的を果たすことができたのだよ」 「アシュラムは、カシューに敗れたのだろう。それは無能だからではないのか。それなのに、なぜ、おまえはアシュラムを救う気になった?」 「正直に言えば、わたしにも分からない。ただ、あのとき、そうしなければならないという衝動に突き動かされたのは確かだ。この人物を失っては、マーモ帝国に、そして自分に大きな不利益になる、とな」 「……分からない」  ピロテースは、何かを打ち消そうと激しく首を振った。 「今も罠《わな》にかかり、その男は命を落としかけた」 「まったくだ。わたしの忠告を聞いていてくだされば、な」  グローダーは、アシュラムを横目で見た。  アシュラムの表情は、まったく動かない。まるで、他人の批判を聞いているような態度である。 「それでも、わたしはアシュラム卿をお助けした。わたしの後ろに並んでいる若い騎士たちも。そして、おそらく、おまえの兄アスタールも……」 「兄も、だって?」  グローダーは、静かにうなずいた。  それから、煙にかすむ夜空を見上げて、小さく何度もうなずきながら視線をピロテースに戻した。 「支配の王錫の探索行は、苦しい戦いの連続だった。古竜と戦い、カシューたちとも剣を交えた。わたしがあの旅に参加したのは、バグナード様に命じられてのことだ。アスタールは、ルゼーブ族長の命令であろう。暗黒神の司祭ガーベラも教団の指示により、旅に加わった。闇《やみ》の森の蛮族スメディひとりが、アシュラム卿の配下だった……」 「それは、聞いて知っている」  苛立《いらだ 》ったように、ピロテースはグローダーの言葉を遮った。 「だが、これは知るまい。旅のあいだに、我々には仲間意識のようなものが芽生えたのだよ。口にするのも、恥ずかしいがね。水竜エイブラを倒した頃から、わたしたちは、この旅を成功させることだけを真剣に考えるようになった。アシュラム卿が支配の王錫を手にすれば、マーモ帝国の千年王国《ミ レ ニ ア ム》が築けると本気で信じたのだ。そのために、わたしはバグナード様から密《ひそ》かに与えられていた使命さえ捨てた。報いは、きっちり与えられたがね」  そしてグローダーは、バグナードによって制約《ギ ア ス》の呪文をかけられ、魔術が使えなくなったことを言った。 「わたしは魔法で逃れたが、アスタールたちはアシュラム様を守って、最後まで戦ったに違いない。そして、そのことに後悔はしていないと思う……」 「|嘘《うそ》だ! そのようなこと、信じられると思うか!!」 「信じる必要はない。アスタールたちが死んだのは、わたしの無能ゆえだ。それは、間違いない」  アシュラムが、ようやく口を開いた。 「アシュラム卿だけではない。わたしたち、全員の力が及ばなかったのだ。傭兵王カシューに、北の賢者や自由騎士たちに、わたしたちは敗れたのだ」  グローダーはあのときの屈辱を思い出し、|拳《こぶし》を硬く握りしめた。 「だが、負けたままでいるつもりはない。来《きた》るべき大戦に勝利し、全ロードスをマーモ帝国の領土とする。それを可能ならしめる人物は、黒衣の将軍をおいて他にない、と信じているのだ……」  アシュラムは手綱を引いて、馬首を巡らした。 「わたしは、王城へと帰る。これ以上、グローダーの世辞を聞くのは耐えられぬからな……」 「ご同行いたします」  グローダーは答え、それからピロテースに向き直った。 「わたしの言葉など信じなくてもいい。おまえ自身の目で、アシュラム卿を見ればよかろう。それで判断を下して、好きにしろ。ただ、これだけは言っておく。おまえがあくまでもアシュラム卿を暗殺するつもりならば、我が野心のために、わたしはそれを阻止してみせる。たとえ、おまえがアスタールの妹であろうとな」 「心しておこう」  ピロテースは、答えた。  グローダーに言われるまでもなく、そうするつもりだった。  この男が言うほどには、アシュラムという人物を評価はできない。だが、これまでに見たマーモの人間とは明らかに違う何かを、黒衣の将軍は感じさせた。  それが何かを見極めれば、自分が取るべき行動も自ずと決すると思えた。  焦る必要はないのだ。死すべき定めの人間とは異なり、自分には時間は無限にあるのだ。  それが、たとえ永遠であっても…… [#改ページ]    上陸  海原に、波がうねっている。  空は雲ひとつなく、青い布を敷きつめたよう。黄金《こ が ね》色の陽光が、弓から放たれた矢のごとく海に突き刺さる。  波間には、船が浮かんでいた。数百という大船団である。大きさも、形もさまざま。いかなる目的のために組まれた船団かは、ひとめ見ただけでは想像もつかないだろう。  そのうちの一隻、ひときわ大きな帆船の船首に、アシュラムは立っていた。漆黒の髪、強い日差しを残らず吸いこむかのような闇《やみ》色の金属|鎧《よろい》をまとっている。髪と鎧の暗さに、色白の肌が強調されてみえる。  アシュラムの傍らには、ダークエルフのピロテースが片膝《かたひざ》をついて控えていた。アシュラムとは対照的に、銀白色の髪と浅黒い肌の持ち主である。  かつて、アシュラムは黒騎士とも黒衣の将軍とも呼ばれていた。今は、王の名で称せられる。故郷である暗黒の島マーモを脱出し、新天地を目指すこの航海のあいだに、そう呼ばれるようになったのだ。漂流民の王、�漂流王�アシュラムと……  そして、今、アシュラムの視線の先には断崖《だんがい》がある。黒光りする岩肌の絶壁だった。爬虫類《はちゅうるい》の鱗《うろこ》を連想させる模様が、全面に刻まれている。 「陛下……」  ダークエルフが、遠慮がちに呼びかけた。彼女の名は、ピロテース。 「これ以上の航海は、もはや……」 「分かっている」  アシュラムの双眸《そうぼう》が、刃のように細くなった。まるで、目の前の断崖を切り裂かんとするかのように。 「食料はすでに尽き、水さえも底をつこうとしている。病に冒され、立ち上がることすらできぬ者も、ひとりやふたりではない」  アシュラムの言葉に、ピロテースはうなだれるごとくうなずいた。 「神はかくも無慈悲なのか? 故郷の島を正義を僭称《せんしょう》する者どもに蹂躙《じゅうりん》され、わずかな希望を抱いて船出したというのに。苦難に満ちた航海のすえ、ようやくたどりついた新たなる大地さえ断崖で閉ざし、上陸を拒む……」  アシュラムは|拳《こぶし》を握りしめ、船首から突きだした鉄製の衝角《ラム》に片足を踏みだす。 「これが、神の意志なのか? 邪悪なる者には、生きる資格さえないというのか? 答えろ、神よ! 答えろ!!」  魂が咆哮《ほうこう》をあげるような叫びであった。その叫びは海を駆け、断崖にこだまし、主人のもとへ遅れて戻ってきた。  己の声を聞きながら、アシュラムは絶望という言葉の意味をかみしめていた。  だが、あきらめるつもりはない。それならば、祖国と運命を共にしていた。暗黒神ファラリスの最高司祭やダークエルフの族長らとともに……  あのとき死んでいれば、かくも苦しむことはなかったろう。だが、まだ苦しみは終わらぬ。生きているかぎり、続くのであろう。  望むところだと、アシュラムは思った。楽に死ぬよりも、苦しみぬいて生きることを、祖国の滅亡のときに誓ったのだから。 「神よ! わたしはあきらめぬぞ。いかに貴様らが運命を閉ざそうとも!!」  アシュラムはふたたび叫ぶと、ピロテースを振り返った。 「動ける者には、皆、櫂《かい》を持たせろ! この断崖とて、無限に続くわけではあるまい。航海を続けるぞ!!」 「かしこまりました」  ダークエルフはわずかに笑みを浮かべ、漂流王にうなずいた。その答は、彼女の予想したとおりであったから。  しかし、次の瞬間、その表情が翳《かげ》りをおびた。  目の前の男の変化に気づいたからだ。アシュラムは、まるで雷にでも撃たれたかのように硬直し、両目をかたく閉じている。 「……我が心に呼びかける者よ、おまえは誰なのだ!」  ゆっくりと目を開きながら、アシュラムは虚空に向かって言った。  心のなかで、何者かの声が聞こえたのだ。その声には、圧倒的な力が感じられた。魔術師が、心話の呪文《じゅもん》で語りかけているのではない。  「我が名は、バルバス」  答が返ってきた。  「バルバスだと?」  アシュラムは断崖を見上げながら言った。心に響く声は、そこから投げかけられていると感じられたから。 「我が名は、バルバス。支配を|司《つかさど》るもの」 「おまえは、神か?」  アシュラムは問うた。 「かつて神であった。魂は今も、変わらぬ。だが、姿は変わった」  なにゆえ神が、とアシュラムは疑問に思った。司祭ならぬ身であり、神の声を聞くのはこれが初めてだった。先刻の呪詛《じゅそ 》の言葉を、このバルバスという神は聞いたのだろうか? 「その通り。汝《なんじ》の声はルーミスの結界を越え、我が聖地に届いたのだ。それゆえ、我は呼びかけた」  アシュラムの疑問に答えるように、バルバスの声が響いた。 「陛下……」  ピロテースが、不安そうに声をかけてきた。  アシュラムは片手で彼女を刺すると、案ずるなというようにわずかにうなずいた。不安を拭《ぬぐ》ったわけではなかろうが、ピロテースはふたたびその場で畏《かしこ》まる。 「支配を司る神よ、我が声を聞き何とする?」  アシュラムは、もはや声は出さず、心で念じた。 「汝の願いは、新天地を目指す哀れな漂流民を救うことであろう。その望み、かなえよう」 「いかにしてだ?」  アシュラムは、尋ねた。 「汝が目にしている断崖《だんがい》は、この大地を完全に閉ざしている。我々は、その断崖をルーミスの結界と呼んでいる」 「この断崖が?」  確かに、この大地を発見してから五日。断崖は際限なく続いていた。だが、アシュラムは信じていた。いつか断崖は途切れ、上陸が可能な美しい砂浜が姿を現すことを。 「この大地は、閉ざされているのだ。外界からの混沌が入りこまぬために」 「それが真実だとして、いかにして我らを救うというのだ」 「ルーミスの結界を破り、我が支配する大地を開く。そして、我に従う民に、汝らへの助力を約束させよう」 「大地を開く?」 「海の高さにまで、我が支配する大地を降臨せしめよう。それで、汝らは上陸できる」  無論であった。この忌まわしい断崖さえなければ、たとえ泳いででも陸地に上がる。  しかし…… 「わたしは、神の慈悲など信じない。先刻も、祈ったのではなく、呪《のろ》ったのだ。それにもかかわらず、我々を助けようとする。代償は、何だ。我らが信者になることか?」 「代償は、ひとつ」  バルバスは、厳《おごそ》かに言った。 「汝の肉体。我が魂の器となりうる汝の肉体」 「わたしの肉体だと?」  さすがに、アシュラムは驚いた。神がなにゆえ、人間の肉体を望むのだ。生贄《いけにえ》だろうか?  だが、自分は無垢《むく》な乙女などではない。それどころか神聖という言葉からもっとも縁遠い男だと思っている。 「汝の肉体でなくてはならぬのだ。汝が我らを呪う言葉は、ルーミスの結界をも破った。それは、汝の魂が我らに匹敵することのあかし」  おそらく、ルーミスというのも神なのだろう、とアシュラムは思った。 「今、我が魂の器となっているのは、猛《たけ》き獣の肉体。この器では、我が能力《ち か ら》は限定されるのだ。だが、汝が器となれば、神であったころの力を取り戻せるのだ。汝《なんじ》ら人間は、神の姿を受け継いでいるがゆえに」 「おまえには、従う民がいると言った。ならば、そのなかから器を選べばよいのではないか? おまえの民も、人間なのだろう」 「我が民には、我が魂の器となりうる者はいないのだ。汝のように強き魂を育《はぐく》む者は……」  そして、バルバスは決断を迫った。民を救うために、肉体を差し出すか否かを。  アシュラムの心は、すでに決まっていた。  バルバスが、いかなる存在なのか確証は持てない。だが、民が救われるというなら、この肉体などくれてやってもよい。それが、王としての務めというものだ。 「まず、大地を降臨せしめよ」 「盟約はなされたぞ!」  バルバスが、高らかに叫んだ。  同時に、目の前の断崖に異変が起こった。地響きが轟《とどろ》き、断崖が大きく震えた。海は激しく波立ち、船は木の葉のように揺れた。 「いったい、なにごと」  ピロテースが、|驚愕《きょうがく》の叫びをあげた。 「うろたえるな」  アシュラムが、それを制する。 「これは、奇跡なのだ。我々は助かるのだ」 「奇跡……、我々が助かる……」  何が起ころうとしているのかまるでつかめず、ピロテースは混乱した。  ただ、何者かとアシュラムが会話をしていたというのは、雰囲気から察知していた。もっとも、間近にいたピロテースでさえ、その会話を聞くことはできなかった。いったい、会話の相手は誰なのだろう。  ピロテースが息を飲んで見守っていると、目の前の大地が沈んでいることに気づいた。厚い灰色の雲に包まれ、その高さすら分からなかった断崖の頂きまでが望めるまでになっている。 「大地が……」  ピロテースは、息を飲んで見つめた。  船の揺れはますます激しく、立っていられないような状態である。ピロテースは片膝《かたひざ》を落とし、この信じられない光景をただ見つめた。 「誰なのです。いったい、誰がこのような奇跡を?」  アシュラムは楽しげな表情で、ピロテースを振り返った。このダークエルフが狼狽《ろうばい》する姿を見るのは、はじめてであった。 「おまえにだけは、教えておこう」  アシュラムはピロテースを招き寄せると、彼の心に呼びかけてきた神の名を語り、その神が何を望んだかを言った。 「陛下の肉体を!」  返ってきたピロテースの声は、ひどくかすれていた。 「どういうことなのです?」  問い詰めるようなピロテースの言葉に、アシュラムは何も答えなかった。同じ説明を繰り返すつもりはない。  しばらくすると、ピロテースもすべてを理解したようだった。蒼《あお》ざめた表情で、アシュラムを見上げてくる。 「それでは、陛下はどうなるのです。バルバスの魂を受け入れた陛下の魂は!」 「分からぬよ。最高位の司祭は、自らの肉体を器として神を降臨させるではないか。邪神の司祭にいたっては、生贄《いけにえ》の肉体に神を降臨させる」 「神を降臨させるとき、器となった者の魂は砕け散ると聞いています。神の魂の巨大さに耐えきれず……」  アシュラムは、ふたたび沈黙で答えた。  その目を見て、ピロテースは悟った。  アシュラムが犠牲になろうとしているのではないことを。戦うつもりなのだ。バルバスという名の神と……  先帝ベルドが、ちょうどそんな人物だった。立ち塞《ふさ》がるものは誰であれ、倒そうとする。その相手が魔神《デーモン》であろうが、神であろうが、あの皇帝にとっては関係なかった。  アシュラムを信じるしかないのだ、とピロテースは覚悟を決めた。  その覚悟は、アシュラムにもはっきり伝わった。大きくうなずいて、新天地を振り返る。  すでに、大地は完全に海の高さにまで降りていた。深い密林に覆われた大地が、はっきりと見てとれる。 「あの大地が、我々の新しい王国だ」  アシュラムは、緑の大地を指差して言った。  この奇跡に気づいた暗黒の島の民たちが歓声をあげはじめる。その歓声には、漂流王アシュラムを讃《たた》える言葉も混じっていた。 「新しい王国の名は、ベルディアとせよ。わたしに、もしものことがあったときには、グローダーやホッブ司祭とよく相談して、王国を運営するように。国王を必要とするならば、騎士隊長のヒックスが適任であろう。バルバスなる神に従うもよいが、自由な民であることの誇りを失うではないぞ」 「……かしこまりました」  唇をかみしめんばかりの表情をしながら、ピロテースは深く頭を下げた。  民が救われたという安堵《あんど 》感が、アシュラムの心を満たしている。これからバルバスなる神の魂を受け入れようとする彼にとって、憂うべきことはない。  新王国と民たちの苦難は、まだまだ続くだろう。だが、この暗黒の島の民たちは、いつまでも苦境に甘んじているような善人ではない。状況を打開するために、あらゆる手段を講じるだろう。  王としての使命は、もはや終わった。 「わたしの用意はいいぞ」  アシュラムは心のなかで叫びをあげた。  肉体を与えるとは言った。だが、魂まで与えると言った覚えはない。自らの肉体に、バルバスの魂が入ってきたとき、おそらくこの器の支配を巡る戦いになろう。その戦いに敗れれば、肉体から魂が放逐されるに違いない。人間にとって、それは死を意味するのだ。  アシュラム自身が生き残るためには、バルバスという神の魂と戦い、これに勝利をおさめねばならぬのだ。  アシュラムは、この未知なる戦いを楽しもうとしている己に気づいていた。  もはや、彼は漂流王ではない。  戦いつづけることを宿命づけられた、永遠の戦士であった。 [#改ページ]  解 説 [#地付き]村川 忍 『ロードス鳥戦記』と『クリスタニア』。水野良の二大ファンタジー世界をつなぐミッシング・リングが、ついに見出された。  マーモ帝国のベルド皇帝に仕える近衛《こ の え》騎士として登場し、最後まで、主人公パーンの好敵手であり続けたアシュラム。暗黒の民を率いてクリスタニア大陸を訪れ、民の受入れと引き換えに、自らの肉体を支配の神獣王バルバスに差し出した漂流王。  この二人が同一人物であることは、水野ファンの間では周知の事実だった。しかし、二つの作品をつなぐエピソードは、これまで語られることはなかったのだ。 『ロードス鳥戦記』の最終巻で、暗黒の島マーモを捨て、生き残りの暗黒の民を率いたアシュラムは、どのように旅立ったのか。アシュラムを取り巻く二人——ベルドとピロテースとの出会いは。そして、クリスタニアにたどり着き、神の城壁に阻まれたときの彼の思いは……。本書には、こうした疑問の答がすべて書かれている。この短編集はまさに、ロードス島とクリスタニア大陸をつなぐ一本の航路なのだ。  読んで、そして楽しんでほしい。作者は、作品の中で語るべきことを語り、読者は、読み取るべきことを読み取る。そこにあえて、解説を加える必要はあるまい。  ただ、読者の中には、こんなふうに思う人もおられるだろう。「いったいどうすれば、こんな作品が書けるんだろう」「ロードス島やクリスタニアは、どんなふうに生まれたんだろう」と。そんな疑問に多少なりとお答えできれば、この小文にもそれなりの存在価値はあろうというものだ。少しの間、お付き合い願いたい。      l  水野良のエッセイに、「僕がクリスタニアを書いたワケ」という作品がある(『ザ・スニーカー』'95年6月5日発売号掲載)。このエッセイは、水野良のファンタジー作品を理解する上で、重要なテキストである。彼の作品世界が構築されてきた過程を、作者自身の言葉によって、具体的に検証していくことができるからだ。  前述のエッセイによれば、『ロードス島戦記』の原型は作者の高校時代に形成された。水野良の空想世界にテーブルトーク・ロールプレイング・ゲーム(TRPG)が大きな影響を及ぼすのは大学時代のことで、高校生の作者は、パトリシア・A・マキリップなど、幻想性の濃いファンタジー小説が好きだったという。 ——当然ながら、このころのロードス島世界は、幻想的な雰囲気に満ち満ちていたのである。(「僕がクリスタニアを書いたワケ」より)  大学時代に、水野良はTRPGに出会い、ファンタジーRPGに傾倒してゆく。当時の状況を、作者は次のように語っている。 ——当時のTRPGには、ルールとデータ、世界観[#「世界観」に傍点]はあるが、オフィシャルな背景世界のないTRPGが多かった。(中略)必然的に、これらのゲームで遊ぶには世界を創造する必要があった。僕は迷うことなく、ロードス島世界をゲームに利用した。(「僕がクリスタニアを書いたワケ」より)  現在では、『ロードス島戦記』『ロードス島伝説』として発表されているエピソードを、水野良はTRPGのシナリオとして遊んでいた。作者自身の言葉を借りれば、その過程で、彼の空想世界は�変質�したのだ。  ファンタジーの舞台となる空想世界は、本来私的なものである。  これは、言うまでもないことだろう。絶対的な創造主として、空想の翼を広げ、壮大な架空世界を造り出す。それはきわめて個人的で、私的な営みだ。  たとえば、その空想世界を小説などの形で表現した場合は、どうだろうか。  それでも、作者の空想世界はあくまで作者のものである。小説、コミック、映像、コンピュータゲーム——これらの表現形態は、作り手から受け手への一方通行のコミュニケーションであり、その限りにおいて、作者の空想世界はやはり私的なものだからだ(急いで付け加えておくが、そのことは作品の価値とは何の関係もない)。  ところが、空想世界をTRPGの舞台にしたら——。この瞬間に、世界は決定的な変容をこうむる。では、いったい何がどのように変わるのか。先のエッセイでは、�変質�の具体的な内容は明らかにされていない。その変質はどのように起こり、水野良の作品世界にどのような影響を与えたのだろうか。      2  TRPG——Table-talk Role-playng Game。字義通りに訳せば、「会話によって進められる役割演技ゲーム」という意味になる。数人の仲間が集まり、一定のルールに従って、架空の冒険を楽しむ。それがTRPGという遊びだ。仲間の一人はゲームマスターとなって、冒険の筋書き(シナリオ)を用意し、ゲームの進行を管理する。残りの仲間はプレイヤーと呼ばれ、冒険に登場する主人公(キャラクター)を演じ、その行動を決定する。  水野良は、このTRPGをどのように遊んだのだろうか。もう一度、先ほどのエッセイに戻ってみよう。 ——魔神王と戦った六英雄、ファーンとベルドとで争われた英雄戦争と灰色の魔女の暗躍を大道具として使い、プレイヤーたちにはその周辺のエピソードを独立シナリオや連続シナリオでプレイしてもらったのだ。(「僕がクリスタニアを書いたワケ」より)  注目すべきなのは、ここでは作者が考えたメインストーリーは背景に退いており、�周辺のエピソード�がシナリオの中心に据えられている点だ。  TRPGにはさまざまな魅力があるが、ゲームマスターとプレイヤーの共同作業によって物語を紡いでいくことが、中でも大きな部分を占めていることはまちがいない。ここで重要なのは、�共同作業�という部分だ。ゲームマスターが用意した物語を、ただなぞるように遊んでも、TRPGの本当の面白さはわからない。だから、ゲームマスター水野はすでにできあがっていた六英雄の物語ではなく、新たなキャラクターによる新たなエピソードを選んだ。そして、その中からパーンやディードリットは生まれたのだ。  TRPGにおける空想世界とは、ゲームマスターとプレイヤーが共有する物語の背景をなし、彼らの共同幻想——生成されるストーリーを支える基盤である。TRPGは、空想世界の論理をルールの形で体系化することで、恣意《しい》的なゴッコ遊びから知的なゲームへと進化した——世界を律する規則を定めたからこそ、そこに生きるキャラクターもリアリティと深みを備えることができるのだ。  ここで指摘しておきたいのは、ルールとして体系化された空想世界は、すでに作者の所有物ではないということだ。それは、誰もが利用できる物語生成の道具であり、作者自身も、ゲームに参加する限りその法則に従わなければならない。いったんゲームが始まれば、作者といえども、勝手に世界の法則を変えることは許されない。そんなことをすれば、空想世界を支える共有の基盤が失われて、ゲームが成り立たなくなるからだ。  そこには、絶対者としての作者の特権はない。作者個人のものだった私的な空想世界は、TRPGのルールに体系化されることで、公的な客観性を備える。それこそが、TRPGがもたらす�変質�の核心なのだ。      3  TRPGのフィルターによって�変質�した空想世界は、作者にとっては不自由なものである。現代小説を書くときに、現実の世界を支配する物理法則や社会通念を無視できないように、体系化されたファンタジー世界の法則は、物語を拘束するからだ。その意味で、現実世界と体系的な架空世界は等価であり、だからこそ作者は、現実世界と同じ重さで人間を描くことができる。そして人間こそ、水野良が一貫して描き続けているテーマなのだ。  水野良のフォーセリアは、いわば�超越者のいない世界�である。その点においては、ロードス島であれ、アレクラスト大陸であれ、クリスタニア大陸であれ、変わりはない。  もちろん、フォーセリアにはさまざまな神がいる。しかし、彼らもTRPGのルールとして体系化される以上は、超越的な存在ではありえない。同一のルール上で表現される限り、どれほど力の差があろうとも、人間と神は同列の存在でしかない。極端な話、人間が神に勝つことだってできるのだ(本書の主人公、アシュラムを見よ)。  神々が超越性を失った世界。逆に言えば、それは人間が自分たちの手で、運命を切り開ける世界でもある。そこには、神々の代理戦争を繰り広げる英雄の勲《いさおい》はない。運命に操られて破滅の道を辿《たど》る英雄の悲劇はない。代わりに、自らの意志で懸命に生き抜こうとする人間たちがいるのだ。だからこそ我々は、水野良のファンタジーに感動し、彼のキャラクターに共感するのだろう。  水野良のファンタジーは、言わば�超越者なき英雄物語�であり、人間のファンタジーである。そしてRPG小説こそ、そうした物語を描くのにふさわしい手法なのだ。 ——すべては、連続しており、同時に変質を続けている。きっと、これからも……(「僕がクリスタニアを書いたワケ」より)  水野良のエッセイは、この言葉で結ばれている。『ロードス島』『ソード・ワールド』『クリスタニア』……魅力的な世界と物語を、作者は次々と提示してきた。そしてこれからも、新たな魅力に満ちた作品を、新たな意匠に彩られた作品を発表していくだろう。そこには、TRPGによって培われた手法が、確かに息づいているにちがいない。 [#改ページ] 「暗黒の覇者」「上陸」は「ザ・スニーカー」'95年6月号に掲載した作品に加筆・修正したものです。 「船出」「海魔」「永遠のはじまり」書下しです。 [#地付き](編集部) 底本  カドカワノベルズ  平成七年 七月三十一日初版発行  平成七年 十二月 十日六版発行