水上 勉 雁 の 寺(全) 目 次  第一部 雁の寺  第二部 雁の村  第三部 雁の森  第四部 雁の死  あ と が き [#改ページ]  第一部 雁 の 寺     1  鳥獣の画を描いて、京都画壇に名をはせた岸本|南嶽《なんがく》が、丸太町|東 洞院《ひがしのとういん》の角にあった黒板塀《くろいたべい》にかこまれた平べったい屋敷の奥の部屋で死んだのは昭和八年の秋である。  老齢に加うるに持病のぜんそくがひどかったせいもあって、蟷螂《かまきり》のように瘠《や》せた南嶽の晩年は意志だけが生きのこっているように思えた。死なはる時はまるで虫喰《むしく》いの枯木が倒れたようどした、と居合わせた弟子たちが口ぐちにいったほどだから、精力家としても知られ、女あそびも人一倍だった生前を知っているものにとっては、殊更《ことさら》、南嶽の死際《しにぎわ》がそのように思われたのかも知れない。彼は一昼夜、大いびきをかいて寝ていたが、最後は、やはり咽喉《のど》をならし、苦しみもがいて死んだ。南嶽は六十八であった。  岸本南嶽が死んだ日の前日、正確にいうと十月十九日のことであった。夫人の秀子がちょっと外へ出た留守に、見舞かたがた立ち寄ったといって、衣笠山麓《きぬがささんろく》にある孤峯庵《こほうあん》の住職、北見|慈海《じかい》が訪《たず》ねてきた。和尚《おしよう》は首に白絹布《しろけんぷ》の護襟《ごきん》をまき、黒の被布《ひふ》をきて、どこかの回向《えこう》の帰りとみえ、裾《すそ》から紫衣《しい》の襞《ひだ》をのぞかせていた。 「どうや、どんなあんばいや」  慈海和尚は、玄関に出た顔見知りの女中にそんな言葉をあびせながら、つかつかと入ってきた。と、そのとき、うしろに、まだ十二、三歳としか思えない背のひくい小坊主《こぼうず》が立っていた。この小坊主も和尚の後ろを上ってくる。  岸本家は、孤峯庵の檀家《だんか》であった。名誉総代にもなっていたから、和尚がこうして奥の間にさっさと通っても不思議ではないのだが、折から、枕元《まくらもと》に坐っていた弟子たちの中で、病人の口もとを水綿でしめらせていた兄弟子の笹井《ささい》南窓が、ちょっと気に病んだ。縁起でもないと思ったのである。師匠はいま虫の息で医者からも見放されている。そこへ、菩提寺《ぼだいじ》の和尚の来訪だった。南窓は、皆にしぶい顔をしてみせた。女中が、茶菓をとりに廊下へ下ってゆくと、弟子たちの顔色をまるで無視したように、慈海は風をたてて枕元に歩みよった。臥《ね》ている南嶽の顔をさしのぞいて、 「どうや、どんなあんばいや」  と和尚はいった。声がたかかったので、ひくい天井にまでそれはひびき、襟《えり》もとまですっぽり絹蒲団《きぬぶとん》をかぶって朽木《くちき》のようにねている南嶽の耳を打った。とじていた瞼《まぶた》を南嶽はうっすらと半びらきにあけると、 「和尚《おつ》さんか」  と、苦しそうな声をとぎれとぎれにだした。  これは、わきにいた弟子たちを驚かせた。朝から南窓がいくら師匠の名をよんでみても南嶽は押しだまっていた。それなのに、いま乾いた口をわずかにひらいて南嶽はかすれ声でいったのだ。 「来てくれると思うとった」 「いやな役目やな」  和尚は、ずんぐりした肩を落して南嶽の顔をさしのぞいてから、横柄《おうへい》な物言いでいった。 「わしは、あんただけは迎えにきとうなかった」  そういうと、広い十畳間に南窓と三人の弟子が坐っているのを、はじめてみるような眼つきで見廻して、不意にケラケラ笑いだした。笑い終ると、先程から縁先に立って、じっと庭の色づいた蔦《つた》のからみついている石燈籠《いしどうろう》に見入っていた小坊主をよんだ。 「おいおい、慈念《じねん》」  小坊主は、びくっと肩をうごかした。首だけこっちへ廻して部屋をみている。剃《そ》っているので、頭の鉢《はち》の大きなのがへんに目立つ子供である。額が前にとび出ていた。ひどい奥眼なので顔がせまくみえる。 「こっちへおいで」  慈海和尚は手招きした。小坊主は畳のへりをよけて静かに歩きだした。擦《す》るような歩き方である。 「慈念いうてね。昨日、得度式《とくどしき》がすんだ。庭もきれいに掃除してくれる。ようなったら、いっぺん寺へあそびにきてもらわねばならんの」  立ち寄った理由は、これであったか、侍者《じしや》を育てることになったあいさつのようなものだったか。南窓はつるつるに剃った大きな頭の小坊主の横顔をじいっと瞶《みつ》めていた。ずいぶん陰気な感じのする小僧を入れたものだなと思った。禅寺で小僧が得度式をあげた場合、これを檀家総代に披露目《ひろめ》するのがしきたりだったのである。  和尚はやがて枕もとから踵《きびす》をかえして縁の方に歩きだした。と、このとき、南嶽がまたかすれ声をだしていった。 「和尚《おつ》さん、さとを頼《たの》んますよ。あれは、孤峯さんの娘《こ》や」  そういったかと思うと、瞼を閉じた。声をだしたのがわるかったとみえて、南嶽ははげしく咳《せ》き込みはじめた。南窓がにじりよって、湿綿を口に何どもあてた。  和尚は、その有様をふりかえってみていた。大きく会釈《えしやく》しながら見下ろしていたが、そのとき南嶽の顔はもはや草色であった。 「大事にな」  いい置いて、ほんの四、五分間のやりとりであった。慈海は得度式がすんだばかりの小坊主の頭を一つ撫《な》でると、小股歩《こまたある》きにせかせかと岸本家を退去していった。  翌日まで、南嶽はひと言も口をひらかなかった。大いびきをかいて苦しそうに咽喉をならしていたかと思うと、それが急にとまって息をしなかったりした。息をひきとるときは、口をかすかにあけた。何かいったようなので、弟子たちはのぞきこんで耳をかたむけたが、「さと」ときこえたようであった。  弟子たちは枕元の夫人秀子の方をみた。秀子は袂《たもと》を顔に押しあてて、むせび泣きはじめていた。きこえないらしかった。  南嶽が死ぬ間際にたのんだ、さとというのは桐原里子のことで、南嶽が上京区の出町の花屋の二階に囲っていた女である。木屋町の小料理屋につとめていたのを、南嶽がひっこぬいて晩年入りびたりになった相手であるが、この女のことは弟子たちも、慈海和尚も会って知っていた。三十二だが、小柄で、ぼちゃっとしており、胴のくびれた男好きのするタイプでかなり美貌《びぼう》であった。なぜ、南嶽がこの里子のことを慈海に頼んだか。考えてみると理由がないとはいえない。  健康であったころの岸本南嶽は、遠くは中国にも、欧州にも旅をしたけれど、念の入った大作となると、いつも孤峯庵の書院を借りて仕事をする習慣だった。衣笠山周辺から落葉樹林のある寺のあたりが好きだったらしく、ここが、晩年のアトリエになっていた。十年ほど前のことだが、南嶽はひと夏じゅう仕事もしないで孤峯庵の書院で暮らしたことがある。そのとき、つれてきていたのが里子であった。 「これはな、わしの描いた雁《がん》や」  里子をつれて、孤峯庵の庫裡《くり》の杉戸から本堂に至る廊下、それから、下間《げかん》、内陣《ないじん》、上間《じようかん》と、四枚|襖《ぶすま》のどれにも描かれてある雁の絵をみせて歩いた。  襖は金粉がちりばめてあった。根元の大きな古松が、池に匐《は》うように大きく枝をはっていた。針のような葉が一本一本克明に描かれていた。雁のむれは、その枝にとまったり、羽ばたいたりして宿っていた。とび立ちかけて白い腹を夕空に輝かせている一羽もいるかと思えば、松の幹の瘤《こぶ》の一部のように動かずにすくんでいる一羽もいた。子の雁もいた。口をあけて餌《え》を母親からもらっている雁もいた。それらの幾羽とも知れない雁は、墨一色で描かれていたが、一羽とて同じ雁ではなかった。画家が情熱をこめて、一羽一羽に念を入れて描いていった筆の音がきこえるようであった。雁は生きているかにみえた。  これは南嶽がその年のまだ二年ほど前の春、精根かたむけて描いたものであった。本人が自慢しても、はばからないほど卓《すぐ》れた絵である。 「わしが死んだらの、ここは雁の寺や、洛西《らくせい》に一つ名所がふえる」  酒気をおびていたので南嶽は、里子の首すじに手をやりながら微笑していった。 「啼《な》き声《ごえ》がきこえるようやわね」  と、里子は本堂のうす暗い光りの中で恍惚《こうこつ》とつぶやいた。南嶽は微笑しながら、そんな里子の首すじをいつまでも弄《もてあそ》んでいた。  死んだ南嶽が、慈海和尚に里子を託したのは、この夏のことが忘れられなかったからであろうか。  事実、慈海も書院でよく三人で酒を呑《の》んだものである。慈海は南嶽より十歳も若かったが、南嶽に負けないほど精悍《せいかん》な躯《からだ》と顔をしていた。里子とも性が合った。 「和尚《おつ》さん、耳の穴の毛ェだけはぬいとくれやすな」  里子が酔いのまわった眼をほそめてそういうと、慈海は笑って二人をみつめている。その眼には好色な光りが宿っていた。慈海には妻はなかった。よく里子は南嶽に、 「和尚《おつ》さんの眼ェがこわい」  といった。慈海が自分を好いていることを知っていたのだ。  慈海も南嶽も、好みが一致していた。女も酒もすべて話が合った。南嶽はいつまでも慈海が妻帯しないことに不満らしかった。孤峯庵は燈全寺派の別格地だといっても、本山|塔頭《たつちゆう》の寺院でさえ、すでに匿女《かくしおんな》は大びらであった。庫裡《くり》の奥に、どの寺も女をかくしていた。好色でもある和尚が独身を守る理由がないと面とむかって南嶽はいったものだ。しかし、慈海はへらへら笑って相手にしない。しつっこく南嶽がいうと和尚はこういった。 「髪を断ずるは愛根を断ずるなり、禅家《ぜんけ》の剃髪《ていはつ》の趣意じゃがの」  初七日がきたとき、桐原里子は喪服《もふく》を着て、細い白い腕に褐色《かつしよく》の瑪瑙《めのう》の数珠《じゆず》をはめて孤峯庵の門をくぐった。この日は曇り空で、風があった。小松の茂った衣笠山は、盆を伏せたように煙っていた。なだらかな裾《すそ》一円は、すっかり葉の疎《まば》らになった落葉樹林にかわっていたが、山の赤い地肌《じはだ》のすけてみえるあたりに、紅葉した楓《かえで》がいくつもはさまれて映《は》えている。  孤峯庵には、山門のわきに鉄鎖のついた耳門《くぐり》があった。里子が草履《ぞうり》の音をさせて入ってくると、この鉄鎖はキリキリと音をたててあたりの静寂を破った。応対に出たのは、里子には初対面の慈念である。鉢頭《はちあたま》の大きな、眼のひっこんだ小坊主は、少し長目の青無地の袷《あわせ》をきて板の間に膝《ひざ》をついていた。それが庫裡の煤《すす》けた柱を背にしていやに大人っぽくみえる。里子はちょっと途惑《とまど》った。 「出町がきたと和尚《おつ》さんにいうとくれやす」  里子は、上りはなの踏石に立って、そういった。 「はい」  慈念はすぐ隠寮《いんりよう》の方に下ったが、まもなく、奥から廊下を歩く早足の音がして、白衣《びやくえ》の袷《あわせ》に角帯をしめた慈海が出てきた。 「あがんなはれ、あがんなはれ」  里子は、なつかしそうに和尚をみた。むっちりとした里子の躯はいつものとおりしゃきしゃきしていたが、顔だけは思いなしか心もち蒼《あお》く澄んでみえた。そんな里子をみて、慈海和尚は喜悦《きえつ》の声をあげた。和尚は里子を書院に通した。そこは、里子にも思い出の部屋であった。南嶽の葬式は、すでにここですんでいた。築山《つきやま》と池のみえる静かな部屋である。里子は掌《て》を畳について瞼をうるませていった。 「和尚《おつ》さん、お久しぶりどす」  里子は、南嶽の葬式に列席するわけにはゆかなかった。出町の花屋の二階でその死を知り、葬式の日取りも知ったが、一人で故人を偲《しの》んでいたという意味のことを語った。 「早《は》よおまいりしたい。和尚《おつ》さん、あの人の絵をみせとくれやす」  里子はあまえるようにいい足した。  本堂に案内され、やがて里子は打敷《うちしき》のかかった戒壇の上に、まだ新仏の位牌《いはい》が特別に飾られてあるのをみて息をつめていた。  秀嶽院南燈一見|居士《こじ》。  慈海がつくった院号の戒名であった。岸本南嶽はいま、一尺たらずの短冊型《たんざくがた》の板にその躯をちぢこめて立っていた。  里子は香を焚《た》いた。十畳ほどの内陣は香煙で白くなり、煙が畳の上にたゆたいはじめると、南嶽の描いた襖の雁が、霧の中で動きはじめるように思われた。美しい雁であった。里子はふと、南嶽が成仏《じようぶつ》しただろうと思った。  下間の襖の中央部に、白い腹毛をふくらませた二羽の雁が目についた。その一羽は松の窪《くぼ》みにちぢこまって一羽の雁の脇下を嘴《くちばし》でくすぐっていた。里子はいつまでもその襖絵をみていた。と、このとき、慈海がうしろからいった。 「さ、あっちへゆこ、いっぱい薬酒をさしあげよう」  慈海はうきうきしていた。里子は隠寮の六畳にはじめて通った。そこは慈海の部屋であった。膝をついて、座蒲団を出してくれる小坊主を顎《あご》でしゃくった慈海は、里子にいった。 「これがの、わしの女房がわりや、 慈念いうてのう、ついこのあいだ得度したばかりじゃがの」  慈念はぺこんと頭を下げ、ひっこんだ奥眼をきらりと光らせて、里子をみていた。やがて、はにかんだように、さっと顔を伏せ、足早に去っていった。 「玄関ではじめてみたとき、びっくりしたわ。妙な子供さんや思うて……いくつ?」 「十三や」 「へーえ、学校は?」 「大徳寺の中学校へいっとる」 「和尚《おつ》さんの跡取り?」  慈海は、里子の顔をみただけで返事をしなかった。うしろの仏壇の下の小襖《こぶすま》をあけに立った。一升|瓶《びん》の酒が幾本もみえる。その中から沢之鶴を出して、 「今日はこれをあけよ」  そういうと、慈海は子供のように頬《ほお》をほころばせて手をたたいた。慈念が顔を出した。 「熱燗《あつかん》でもってきてくれんか」  慈念は瓶をかかえて廊下に消えた。顔に似合わず小まめに働く子供だと里子は思った。膳《ぜん》の用意をして、徳利と盃《さかずき》を運んでくる。里子ははじめ、慈念の顔をみたとき、変になじめないものを感じた。しかし、見馴《みな》れてくると、頭の大きなこの子がいじらしくさえなってくるのは妙だった。 「えろう働かはる子や、ええ小僧さんもちなはった」  酔ってくると里子は慈海にいった。  里子は久しぶりに呑《の》んだ。ひどく廻りが早かった。夜になった。よく南嶽も入れて、三人で呑みあかしたこともあるから、里子は落ちつけた。 「わしは南嶽からたのまれたぞ」  慈海がそういったとき、里子は黒眼の大きな慈海の瞳《ひとみ》にキラリと光りが宿るのをみた。 「あんたの面倒をみてくれといいよった。あの男は、わしがあんたを好きなことを知っとった。あんたはきいてくれるかの」  慈海は白布の袷の膝をはだけて寄ってきた。じっと返事をまっているようだった。里子はだまっていた。だまっていることがかえって慈海に手だてをあたえる時間をつくった。座蒲団をうしろへ蹴《け》った慈海はうしろから羽掻《はが》いじめにして唇《くちびる》を吸いにきた。里子はこんな日のあることは予期していたと瞬間思った。抵抗はしなかった。和尚の精悍《せいかん》な躯がやがて裾を分け入ってきた。里子は細眼をあけ、その視線のあたった下手《しもて》の障子にふと何かが動く影をみた。里子ははっとした。  慈念のように思われた。しかし、それは何でもない影のようでもあった。里子はすぐ意識が遠のき、和尚に力強く躯を吸われた。 「きてくれるかの」  慈海はあえぎながら何どもいった。顔を畳にすらせ、乱れ髪のまま里子は幾度も首を振っていたが、やがてそれも億劫《おつくう》になった。  桐原里子が、孤峯庵の庫裡に住むようになったのはこの翌日からである。ありていにいえば、里子はこのまま帰らなかったのだ。南嶽の初七日が、里子の入山式になっている。  桐原里子が、孤峯庵の内妻に入った理由を分析してみると、まず経済的な事情が作用している。南嶽が死んだあと、里子は自活の道を考えねばならなかった。里子は岸本家から茶掛一本ももらっていない。夫人はそのような思いやりを示す女でもなかった。もちろん手切金もなかった。もらえなくてもまた、当然のことでもあった。死んでわかったことだが、南嶽は相当の借金を残していた。無頼《ぶらい》な生活をしただけに予想もせぬところから債務が出てきて、夫人は丸太町の家だけ残したのが精一杯であった。里子はつとめに出ようと思ったが、三十をすぎたその年では料理屋の仲居《なかい》ぐらいしか口がない。三十すぎて、これから昔の苦労をするかと思うと億劫だったし、イヤでもあった。もとの古巣にもどるのも、同僚に笑われる気がしたのだ。  だから里子にとって、孤峯庵は決してわるい場所ではなかった。本山燈全寺派の別格地でもあるし、寺には檀家も多かった。慈海の妻になれば、まず喰うに困るということはないだろう。それに酒好きの慈海の相手をしておればすむことである。長いつきあいから慈海の性格はよく知っている。  また、里子は、孤峯庵は京都のどの寺よりも好きであった。衣笠山のなだらかなたたずまいを起き伏しに見てすごせるのも魅力であったし、甘柿《あまがき》や、ぐみや、枇杷《びわ》に囲まれた寺の庭も好きでならなかった。  それに、本堂には南嶽の描いた雁の絵がある。  十年間──南嶽といっしょにくらした里子は、孤峯庵にも南嶽と同じ愛着があったようだ。今から思うと、雁を描いて慈海から一文も取らなかった南嶽は、死後をここに委《ゆだ》ねるつもりでいたのだろうか。南嶽がそうであるならば、里子もまたこの寺が最後の家である気がした。  慈海は禅坊主らしからぬ俗気のみえる顔立ちをしていたし、稚気のある笑い顔をするのも里子の好くところである。 「南嶽にたのまれてのう」  慈海が、そういって寄ってきたとき、里子は、つきあげてくる嬉《うれ》しさとかなしみが混って膝を固くした。しかし、慈海に躯をゆるそうとした瞬間、障子にうつった影は何だったろう。里子はふとおびやかされている自分を知った。慈念であったかも知れない。鉢頭の大きな小坊主の影はすぐ障子の向うに去り、里子の酔った脳裡《のうり》からは消えた。固い畳に押しつけられ、里子は若者のような慈海の力の下で、背中を吹きぬけてゆく風の音をきいていた。このときみた影が何であったか。わかったのは年数がたってからのことである。     2  孤峯庵《こほうあん》の裏の竹藪《たけやぶ》から、衣笠山《きぬがさやま》の裾《すそ》にさしかかる疎林の中に、一本の椎《しい》の木《き》があった。この椎には葉も枝もなかった。まるで黒い巨大な棒が空に向ってつき出ている風にみえた。根もとは二た抱《かか》えもありそうな太さである。  いつやらほどから、この椎の木の天辺《てつぺん》に一羽の鳶《とび》がとまるようになった。木の先はまるでぶち切ったように丸く折れているので、とまった鳶は白い空を背景にして剥製《はくせい》の置物のようにみえた。  しかし、この鳶は、ときどき、孤峯庵の庫裡《くり》と本堂の上を旋回していた。円を描いてゆるやかに飛翔《ひしよう》するのである。ときどき、庫裡の屋根瓦《やねがわら》の端にある鬼瓦にとまって、白砂利を敷いた庭先をへいげいしていた。そんなとき鳶の眼は四囲にむかってキラキラ動いた。 「ああ、こわ、和尚《おつ》さん、|とんびん《ヽヽヽヽ》がまた椎の木にとまってる」  里子は隠寮《いんりよう》の奥の廊下の端から爪《つま》さきだって叫んだ。 「池の鯉《こい》をねらっとる。けしからん奴《やつ》ちゃ」  と慈海はいった。里子ははれ瞼の眼を見ひらいて和尚の方をみた。 「人の眼をぬすんでな、鯉が水の上に顔をもたげると、さっと下りてきよるんじゃ」 「大きな鯉をとんびんが獲《と》らはる。そんなん、どうしてはこばはるの」 「鳶は、かしこいでの、くちばしでつついて、足ではさんでもちあげよる。空にあげて落しよる。鯉が地に落ちて死ぬ。そいつを巣にもって帰る。えらい奴ちゃ」 「いややな、池に網張ったらええに」  里子は子供のようにいったが、慈海は馬鹿なことをいえ、といった顔をして部屋に入りこんだ。  里子は退屈であった。何もすることがなかったのである。慈海は、檀家《だんか》廻りや、本山出頭など、毎日ほど用事に追われていたが、里子は一日じゅう庫裡の奥のこの隠寮の奥にじっとしていねばならない。はじめは、寺の生活が珍しく、煤《すす》けた庫裡の台所や、副司寮《ふうすりよう》、納戸《なんど》など、伽藍《がらん》の隅々《すみずみ》を見て目新しく思ったものだが、それも馴《な》れてくると、床のたかい寺院の雰囲気《ふんいき》は、やはり、花屋の二階の六畳とはちがって、寒々とした感じがした。  里子の部屋は慈海の部屋の奥にある六畳で、南に障子が四枚あるきりだった。三方が壁になっていた。里子はその部屋のまん中にヤグラ炬燵《ごたつ》を置き、出町から運んできた絹布の紅《あか》い花柄の蒲団をかけて、足をつっこんでいた。  慈海は、暇があると、里子のわきに足を入れた。慈海の性欲は、南嶽《なんがく》とは比べものにならなかった。それは、慈海が雲水《うんすい》時代から独身を通してきて、今日までためてきたものを噴出しているように里子には思われた。事実、慈海は、朝も昼も里子に求めたのである。里子はべつにその慈海に嫌悪《けんお》は抱かなかった。南嶽はどちらかというと、里子のくびれた胴のあたりや、臀《しり》のあたりを撫《な》でたり、眺《なが》めたりして楽しんでいるような夜が多かった。慈海のように実行動を楽しむといったことは少なかった。南嶽に不満であったことが、慈海を知ってから里子にもわかるようであった。里子は寺にきて女になった。  慈海とのあいだは、喧嘩《けんか》一つすることもなく過ぎていったが、里子に、なじめないのは小僧の慈念であったかも知れない。  正直いって、里子はなぜか慈念を好かなかった。だいいち、この少年は、頭が大きく、躯《からだ》が小さく、いびつに見えたからである。気性はそうでもなく、素朴なところがあって、いうことも素直にきく子だったが、見た目の暗い陰気さは里子にはたまらなかった。 「和尚《おつ》さん、あの子、どこで見つけて来やはりましてん」  里子は和尚と寝ていてたずねたことがあった。 「あれか」  と慈海はいった。 「若狭《わかさ》の寺大工の子での、本山の普請《ふしん》で話を耳にしてたのんでみたのじゃが、若狭本郷の西安寺の和尚がつれてきよった。成績のええ子じゃいうのでたのんでみたのじゃが、頭はええ。大きな脳味噌をしとる……」  なるほど、あのとび出た額から、うしろにつき出ている後頭部までが脳であったら、脳味噌も重たくてきっと頭もいいであろう、と里子は思った。 「中学は成績はええのんどすか」 「一等賞をもらいよった。たのしみな子や。田舎《いなか》でもな、酒井藩《さかいはん》の藩主から、奨学金をもろたというて賞状をもってきておったが、小学でも一等賞ばかりもろとる。賢《さか》しい子で往生しとる寺は本山の塔頭《たつちゆう》でもうんとあるでな。あんなのは大物になる。かわいがってや」  慈海はそういうと、いびきをかいて眠りだした。性欲をはき出してしまうと、いびきをかいて一時間ばかり寝るのが慈海の習慣になっていた。  若狭の寺大工の子供が、十歳のとき、母親からはなれてこの寺に小僧にきているのであった。寺大工の家庭の事情は里子にはわからないにしても、よくも、まあ、小さい子をこのような寺へ出したものだと考えざるを得ない。そういえば、慈念のひっこんだ奥眼のどこかに、かなしみに充ちた光りがあふれている日がなかったかと里子は思いかえしてみる。自分なら、子供を外には出すまい。里子はそう思うのだ。  実際、慈念は、孤峯庵では孤独であった。庫裡の玄関横の三畳の板の間が慈念の部屋になっていて、板の間の奥に一畳だけ畳が敷いてあったが、そこで慈念は柳行李《やなぎごうり》を一つ足もとに置いて、黒い木綿地《もめんじ》の蒲団を敷いて寝ていた。三畳の窓は慈念には背の届かないほど高い格子《こうし》の一方窓で、陽《ひ》は一日に三時間ほどしかささない。本堂の屋根の端にさえぎられて折角の東向き窓が暗いのであった。格子縞《こうしじま》になって入ってくる光りの中で、慈念は、日課の観音経《かんのんぎよう》を写している。  慈念の日課は、朝五時起床。洗顔。勤行《ごんぎよう》。飯炊《めした》き。それがすむと、庫裡の台所に茣蓙《ござ》を敷いて朝食。八時半に寺を出て、山道から鞍馬口《くらまぐち》に出る。千本通りを通り、北大路の大徳寺の西隣りにある紫野中学に通う。この中学はもと禅林各派が徒弟養成のために経営した「般若林《はんにやりん》」が学令によって中学になったもので、学校教練もあった。制服にゲートルを巻いて登校しなければならなかった。しかし、前身が般若林であるから、学校の課程も寺務に多忙な小僧たちのために考えられていて、午前中に授業はすんでしまう。慈念は校舎を出ると、すぐ衣笠山に向って帰ってくる。一時に帰りつく。昼食。二時から作務《さむ》である。作務は掃除だ。時には薪割《まきわ》りもある。庭の草取りもあるし、雪隠《せつちん》に糞《くそ》がたまれば汲《く》み取《と》りもしなければならない。作務は日没と共にすむ。六時に庫裡に戻る。食事の用意。夜食が終るのは八時だ。それから、経文の筆記であった。就寝十時。  慈念の生活をみていると、禅寺の修行というものはつらいものだな、と里子は思わざるを得ない。普通の家の子供ならば、まだ、親にあまえている年頃でもあるし、きめられたこのような日課を判で押したように守ってゆくのも辛労《しんろう》なことだろうと里子は思うのだ。頭の痛いときや、熱っぽい躯で何もしたくないような日があってもよさそうなものだが、子供というものはそうした変調もないのであるか。慈念がついぞ病気を訴えたということもきかなかった。黙々として働き、日課をつづけてゆく子供に里子はふと、好奇なものをもった。 〈この生活が、あの子にはありがたいのか!〉  きっと、寺大工の家はまずしかったにちがいあるまい。温かい蒲団にくるまり、親たちにあまえられた子供だったら、寺につれてこられて、あのように課業を守るなどできるものではない。里子は、そう思うと、慈念がどういう家に育ってきたか、どういう理由でいまの生活をありがたく思っているのかをきいてみたくなった。  冬があけて、まだ、風のつめたい三月はじめのことである。里子は隠寮の裏から庭下駄をつっかけて裏庭に出てみた。慈海が檀家に出かけて留守のときであった。  慈念は池の向う側にある築山《つきやま》の楓《かえで》の下で草取りをしていた。草取りといっても、まだ、庭の杉苔《すぎごけ》の中に丈《たけ》高い草が生えるわけはない。しかし、慈海は作務にはきびしかった。茶褐色の根をもちながら先へゆくほど青みを帯びる杉苔は、三月はじめはまだ、茶色く枯れたような色である。その杉苔のあいまに、小指程の草がむらがり生えてくる。この草は放置しておくと無数に繁殖して、杉苔を傷《いた》めてしまう。慈海は春のうちにこの草の根絶を慈念に課していた。だから、慈念は、学校から帰れば、このごろは草取りであった。小さい草は冬の土を割って出てくるから根は強い。慈念の小さい指の力ではとれないから、竹でつくった小刀を慈念は使う。小刀を地面にさし入れて、拇指《おやゆび》で草をおさえ、根切りしながら、一本ずつ抜いていくのである。草はみかん箱大の厚板の箱を用意しておいてそれに入れてゆく。  慈念は無心に草を取っていた。池に落ちてくる衣笠山からの引き水が音をたてている。里子が庭下駄をつっかけて築山の石段を上ってきたのには気づかないようであった。 「慈念はん」  里子は、茶室の前から少しはなれて声をかけた。 「いっぷくおし、和尚《おつ》さんは留守や」  里子は袂《たもと》にしのばせてきたかき餅《もち》を二枚茶室の縁に置いた。 「さ、こっちィ、おいでんか」  慈念はおびえたような眼で里子をみていた。里子は、その眼つきが気になった。よろこんで飛んでくると思ったのである。 「さ、おいでんか」  慈念はまだ、草入れの箱のへりに手をかけてしゃがんでいた。膝坊主の破れたもんぺの下に、すり切れた木綿の袷《あわせ》が出ている。よくみると、慈念の顔は心もちはれ上っている。泣いたあとのように瞼がはれぼったく、充血しているのだった。そう思って、里子がじっとみてみると、たしかに、泣いたらしくて、両瞼とも、手の土がついたものかよごれているのだ。 「慈念はん、あんた、捨吉いうたかいな」  里子はそんなことで話にひき入れようと思った。 「はい」  慈念は、はじめて返事した。 「お父《と》はんも、お母《か》はんも達者?」 「はい」 「手紙きてる」 「はい」 「こっちへきなはれ、ほら、かき餅や」  茶室は六畳ひと間の数寄屋風《すきやふう》のもので、築山の上に飾りのようにつくられたものであった。めったに戸をあけたことがない。雨露の滴《しずく》が埃《ほこり》のたまった敷居《しきい》や縁の板をよごしているので、里子はぷうーっと息をふきかけてからそこに坐った。  慈念はゆっくり上ってきた。里子のそばにきたとき汗くさい男の頭の臭《にお》いを嗅《か》いで里子はむうっとした。かき餅をやると、腹がへっていたものか、音をたてて口に入れている。歯の白い子である。 「あんた、お母はんのこと思うやろなァ」      里子はいってから、ふと、ずいぶん無責任なことをいったようで顔が赧《あか》らんだ。この子は、母親を忘れて、いっしんに仏門の修行に入っているのである。そのことを考えてやらなかった自分を恥じる気持が擡《もた》げると、里子は押しだまってかき餅を喰《く》っている慈念にこんなことをいった。 「うちかて、慈念はん、お父はんがいるえ。むぎわら膏薬《こうやく》いうて、膏薬つくってはるんや。もうお爺《じ》いちゃんやけどな。精出して膏薬つくってはるんやァ」  慈念の顔がかすかにその話で明るみをましたように思われた。里子はつづけた。 「お母はんは死んでしもた。けど、継母《ままはは》がいてな。うちは小さいとき奉公にだされたんや。それからいろいろ苦労して、今日、ここの和尚《おつ》さんのお世話になっとるけど、小さいときは、みんなあんたと同じように、つらい思いをしたわな」  慈念はくぼんだ眼をしょぼつかせて、じいっと聞いている。 「慈念はんは、坊さんにならはるのやろ。ええなあ。将来はもうきまってしもとる。和尚《おつ》さんについて修行積んで、これから僧堂へいくんやろ。学校出たら、僧堂へ雲水に出て、お寺の和尚さんになるんやな。和尚《おつ》さんもそういうてはる。ええなあ。うちら、女《おな》ごやさかいあかへん。なんぼきばったかて、人の世話になるしか道があらへんしなァ」  慈念はじいっと里子の顔をみつめていたが、急に里子が沈んだ表情になったので、早口にいった。 「奥さん、むぎわら膏薬て、どないしてつくりますねん」 「膏薬かいな」  里子は白い餅のような二重顎《にじゆうあご》をくくくくと動かしてわらった。 「松ヤニをへぎに敷いて、むぎわらを五本ならべて、ぺたんと柏餅《かしわもち》みたいに重ねてな。それで、膏薬やんがァ」  慈念もわらった。里子は慈念の笑った顔をみたのはこれが最初ではないかと思った。里子はしかし、生家のことを話したことで、珍しくしんみりしていた。ついぞ思いだしたことのない八条|坊城《ぼうじよう》の伊三郎のことを、どうして、こんなとき口にだしたのか、自分でも不思議なくらいだった。  十三のとき、五条坂の料理屋へ奉公に出されたが、里子が八条の家へ帰ったのはかぞえるほどしかない。父の伊三郎は、慈念にいま話したようなささやかな膏薬卸業者であった。竹の皮や、へぎを四角に切って、松脂《まつやに》と黒粉をまぜて七輪《しちりん》の上の鍋《なべ》で煮たどろりとした液体を、ブラシにつけてひとはけ塗ると、その上に麦藁《むぎわら》を割箸《わりばし》の長さに切ってならべるのである。脂が乾くと、両側から麦藁をはさみ、松脂を塗ったへぎを重ねる。伊三郎はそれに、木版刷りの和紙に、�桐原才天堂謹製、むぎわら膏薬。うちみ、いたみ、りょうまちによろし�と印刷されたものを貼《は》りつけた。定価はそのころ三銭であった。今でいう貴真膏かトクホンのようなものなのだが、値段は安い方ではなかったらしい。伊三郎はそれを籠《かご》に入れて、自転車に乗って、京都の南部、鳥羽《とば》、伏見《ふしみ》、久世《くぜ》の村々に卸していたのである。里子はよくこの父の仕事場、松脂の煮える鍋に近よって叱られたものだった。母親の死んだあと、いまの継母のたつが来るまでは淋しがって泣いてばかりいたものだった。伊三郎が出た留守は戸に鍵《かぎ》をかけられ、里子は八条の軒のひくい長屋の暗い奥で待っていたものだ。 「慈念はん」  里子はいった。 「苦労はするほどええもんや。な、しんぼうおし、あんたも、えらい和尚《おつ》さんになってな」  里子は茶室の縁から立つとき、鼻緒《はなお》のゆるい庭下駄が石にはさまれたので、ちょっと半身をかたむけた。膝がしらがひらいて、里子は赤い湯文字《ゆもじ》をだした。  慈念の眼が、里子を睨《にら》んだのはそのときであった。里子は、あら、あら、と声をたてて、倒れそうになった躯をおこした。片手です早くまくれた裾を押えたが、風をうけた内股《うちまた》に気がつくと、思わず慈念の方をみていた。澄んだ慈念の眼に、鳶のような光りが走ったのを里子はみのがさなかった。 〈この子は!〉と里子は思った。 〈やっぱり、あのとき、見たのや!〉  直感であった。しかし、里子はこのとき慈念から眼をそらせただけで何もいわなかった。築山の石段を下りるときふりかえっていった。 「早よ、草取りしもうて、上りにしなはれ。和尚《おつ》さんは、今日は法事でよばれてはる。また酒よばれて酔うて帰らはる。早よ上って、部屋で休みんか」  慈念の姿は既に、茶室になかった。大頭だけが楓の枝の下を向うへ走っていた。     3  慈海和尚の里子に対する愛撫ぶりはかわらなかったけれど、言動や、挙措のどこかに変化をみせはじめたのは、夏のはじめである。顔はいつも酒焼けがしていて、てかてか光っていたのが、六月の梅雨があけるころから、色が冴《さ》えなくなった。瞼の下もたるんできて、黒い隈《くま》がでた。慈海は人一倍大きくひらいた耳とふくよかな耳下の顎の線を誇っていたが、その両頬からも艶《つや》が失《う》せた。五十八歳であるから、もう中老に入った年輩といえぬこともない。頬や掌《て》に斑点《しみ》のできはじめるのはこの年ごろからであるから、さして気にすることもなかったわけだが、日頃から旺盛《おうせい》な体力と色艶を誇っていただけに、容貌《ようぼう》のあせてきたのは目立ったのである。 「和尚《おつ》さん、どないか、しやはったん」  里子は心配になって訊《き》いた。 「なんともない。どこもおかしなとこはない!」  と慈海は女の危惧《きぐ》を一笑に付した。 「お前がみんな吸うてしもうたンや」  たしかに里子がきてから、慈海は、二十代のような精力を里子に注《つ》ぎこんだといえたが、しかし、それも、一年になるかならずでこんなに顔色に変化がくるものか、慈海自身が風呂の中で驚くほど蒼黒《あおぐろ》くなった。しかし内臓がわるいとか、食が進まぬといったことはないのだから、慈海は問題にしなかったのだった。 「わしも、もう五十八じゃからな」  と慈海はいった。その言葉のうちには、老《おい》の意識がはっきりわかったが、慈海が、気短かになり、怒りっぽくなっていることに本人は気づいていなかった。  里子と慈念だけが知っていたのである。慈海は酒を呑んでも、昔のように、興が湧《わ》くと褌《ふんどし》一つの丸裸になって、踊りはじめるというような陽気なところがなくなり、盃を重ねる量は殖《ふ》えこそすれ、酔いも注意してみると沈んできている。 〈和尚《おつ》さんも、かわらはった……〉  里子は相手をしていて、そのことをはっきり感じとったが、原因は何であるかわからなかった。寺に不幸があったわけではない。和尚はいつものとおり、慈念の学校へいっている間は客の応接に忙しい。檀家廻りも、本山|勤行《ごんぎよう》もちゃんとつとめている。外へ出たとき、何かかわったことに出会《でくわ》して、気でも悪くしてそれがしこりに残っているのではないか、といった風にもみえたが、そんなこともなさそうであった。気短かになったのは、里子に対する挙動にも出ていたし、慈念にはもちろんのことである。  朝の勤行は慈念が一人でつとめるようになったのは里子がこの寺へきてからのことだが、慈海は里子を抱いたまま眠ることでもあり、朝になって、旺盛《おうせい》なときは、眠っている里子を起した。隠寮と本堂とは廊下づたいに行けたけれども、書院をへだてていたので距離はあった。しかし、朝早い五時すぎの慈念の読経《どきよう》の声や、磬子《けいす》のひびきは里子の部屋にまできこえた。慈念は本堂で約二十分の勤行をする。それがすむのは、磬と木魚の音が緩慢になりはじめるのでよくわかる。本堂には釈迦牟尼仏《しやかむにぶつ》がまつられてある。本尊に経をあげ終った慈念は、引磬《いんきん》をもって、般若心経《はんにやしんぎよう》を唱じながら廊下をわたってくる。引磬は紐《ひも》でむすんだ金の棒で、力強く磬をたたくので、本堂の磬子よりは強くひびいてくる。廊下を歩く足音はしないが、引磬の音で慈念の歩いている場所ははっきりわかるのである。慈念は心経を唱じつつ、庫裡にくると、玄関わきの畳二枚敷きつめた奥にある韋駄天《いだてん》に読経をはじめる。韋駄天の読経は約十五分で終る。ここには木魚はないが、韋駄天はちょうど慈念の背の高さまでの段の上に壁をくりぬいて廟《びよう》がつくられているので、慈念は立ったまま読経しているのである。この声はさらに里子の部屋にはっきりきこえる。韋駄天の経が終ると、慈念は衣と袈裟《けさ》をとり、着物だけになって、湯沸しと飯炊きにかかるのだが、この音をきいても、慈海はまだ眠っていた。里子は慈海が眠っている方がよかった。時には慈念の読経をききながら、慈海は里子を撫《な》でることがあるからである。日課は修行であり、侍者《じしや》である者の務めかもしれぬが、住職である和尚が、女を愛撫《あいぶ》している時間に、侍者が勤行しているのは里子にも気になった。しかし里子は慈海のいうなりである。反抗したことは一どもなかった。心に思っただけで、そのことはいわなかった。  七月はじめのむしむしするような日のつづいた朝まだきであった。いつもの慈念の読経の声がしなかったとき、眠っていたはずの慈海がむっくり里子のわきから起き出ていった。  里子はおやと思った。和尚が珍しく起き出たからではなかった。慈念の読経がきこえなかったからだった。廊下を走るように慈海が出てゆく。耳をすましているとその足は庫裡の玄関横の三畳のあたりで止った。何か慈海の怒っている声がきこえた。里子は眼を醒《さ》まして、じっと聞き入っていたが、二、三分すると慈海はもどってきた。 「阿呆《あほ》めが寝とぼけくさって、本堂へもまいっとらなんだ。ぐうぐう寝とりくさったわ」  慈海は吐きだすようにいって、卵色の麻布《あさぬの》のふとんをまくって里子のわきへ入った。 「つかれてはんのや、学校で毎日教練どっしゃろ」 「教練? そらなんや」  慈海は大きな声をだして毛の生えた耳をひらいた。 「そうどすがな。このごろは新聞よむと、どんな中学にも兵隊さんが配属されてはります。生徒はんが鉄砲かついで、兵隊さんの訓練してはるんどすがな」 「阿呆いえ」  慈海は里子の鼓膜《こまく》がふるえるほどの声をだした。 「禅寺の子弟に兵隊ごっこ教えて何になる。けしからん中学や」 「そんなこというたかて、きめやからしかたあらしまへんが」  慈海は怒った眼をすこしやわらげた。 「きめやてか。だれがそんな阿呆なことをきめよった。禅寺の小僧に鉄砲もたして何になる」 「そら知りまへん。だれが決めはったか知りまへんけど、みんなよろこんで鉄砲もってはりまっせ」 「何ぬかす」 「慈念はんも教練で疲れてはるんどっしゃ。ねむいのしかたないわ」 「そんなことで、修行中の小僧がつとまるかい」  慈海は眼をむいた。里子は、自分が叱られたような気がしたが、腹の中では一日ぐらい寝すぎたって慈念を叱るにはあたるまいと思っている。きっと慈念は疲れきっているのであろう。四尺そこそこの小さい躯に、あんな大きな鉢頭を重そうに支えているのだから、勤行、作務《さむ》、学校、と不死身の躯でないとつとまるはずがない。里子は慈念を無意識にかばっていた。 「まあ、ええわ、あしたから縄《なわ》でくくって引っ張ったる」  慈海は舌打ちしてそういうと、鳥の足のようにしわのよった眼尻を下げて、ぬくもった里子の腰巻の紐をまさぐりにきた。朝になって躯を欲しがるのが習慣になっていた。慈海はますます眼を細め、毛の生えた短い指で里子の襟《えり》もとをかきわけ、乳房を弄《もてあそ》びだすのである。  その夜、慈念は、日課の写経の終った九時三十分ごろ、隠寮の縁に膝をついていた。 「和尚《おつ》さん、これでよろしおすか」  力のない陰気な声であった。音もたてず、障子のすきまからこっちをのぞいている。暑かったので、敷蒲団《しきぶとん》の上に立膝のまま団扇《うちわ》をつかっていた里子はびっくりして股《また》を合わせた。 「何や」  慈海は障子の方を向いた。 「これどす」  慈念は障子のすきまから白い麻縄のはしをのぞかせた。 「よし、よし、それでええ」  慈海は麻縄のはしをもって夜具の近くまでひっぱった。 「ええか、そっちのはしを、お前の手にくくりつけるんや、ええか」  と慈海はいった。障子の向うにいる慈念は、庭の月光で背のひくい小人のような影を映しだしている。 「ええか」  慈海はその影にまたいった。 「はい」  小さくいって、床を擦《す》るような歩き方で向うへ消える。麻縄を廊下につたわせて、庫裡までひっぱっているのだった。慈海は翌朝この麻縄の端をひっぱる楽しみに頬をふくらませていた。慈念は三畳の戸をあけ、隙間《すきま》から麻縄をとおし、一畳の畳の上の枕元にひっぱった。ゆっくりかかって縄のはしに丸い輪をつくると、冬の霜焼け跡ののこっている紫色がかった手首にそれを通して、ごろんと横になった。本堂の磬子《けいす》の余韻《よいん》のようにわんわんと啼《な》き声《ごえ》をたてて蚊がまつわりつく部屋であった。慈念には蚊帳《かや》はなかった。  麻縄は眼醒《めざまし》時計の代用であったから、翌朝、慈海はめずらしく五時かっきりに眼をさまして、麻縄をひっぱった。二、三ど、ぴくぴくとひくと、遠くの庫裡まで廊下をつたっていた麻縄は三ミリほど浮いて一直線に張った。やがて、慈海の手に応《こた》えがあった。ぴくぴくと慈念がひいたのである。慈念は慈海の考案どおりに麻縄をたぐりよせていった。それで起床したことが老僧にも判る仕掛けである。  慈海は縄のはしが床をすって見えなくなると微笑した。  この慈念の過眠を戒める方法は、里子には、「ずいぶん、殺生《せつしよう》なことをしやはる」と思われたが、しかし、慈海が毎朝早起きして、ゆっくり痴戯《ちぎ》に入ってくれる習わしに嫌悪は感じなかった。里子の躯は慈海を待っていた。なぜ躯が燃えるのか。躯は朝になると下半身からじわじわとほてりはじめ、苦しいほど胸が灼《や》けた。和尚を自分から求める時もあった。慈念が小磬《しようけい》をならし、廊下をすって歩いてゆく音と、韋駄天でよむ読経の声が隠寮のそれと唱和した。  いっしんちょうらいまんとくえんまんしゃあかにょうらい、しんじんしゃありほんじほっしんほうかいとうば、があとうらいきょう、いいがげんしんにゅうがあがにゅうぶつか、じーこがあしょう……  韋駄天の読経は六時ごろにこの偈文《げもん》で終るのが習慣だった。里子は次第にこの偈文をおぼえた。  実際、里子の躯は孤峯庵にきて丈夫になった。目方もふえた。むっちりした餅肌《もちはだ》は昔どおりに艶々していた。しかし裸になってみると胴のあたりは昔のようなきりっとしまったくびれを失っていたかもしれない。下腹部には肉が漲《みなぎ》り、筋がついて、心もちたれはじめていた。この躯は、むぎわら膏薬の伊三郎のわきにいて、七輪の火をあおいでばかりいた母親の梨枝《なしえ》とそっくりといえた。頑健《がんけん》であったはずの梨枝は、里子の六つのときコレラで死んでいた。避病院の金具の錆《さ》びた寝台で死んでいた母は、生きているようにふくよかだったと里子は思う。母親もむっちりして、小肥りだった。器量よしだった。里子はその血をうけていたのである。  慈海の方は顔色こそ冴えなくなっていたけれど、房事《ぼうじ》だけは一日も欠かさなかった。里子の躯が、それに耐えた理由もあるのだが、何よりも慈海は、里子の躯の見あきない部分を探り、底知れぬしびれをおぼえていたのであろう。 「南嶽は十年もお前を放したがらなんだ。今になって、ようわかるわ。お前は、さと。お前は、わしの仏や、愛根じゃ」  慈海はうわずった声をだして里子にいった。あらんかぎりの痴態をつくすのだが、里子は激しい本能の燃えが終ると、小一時間も眠ってまたけろりとしていた。  六月の梅雨があけて七月がくると、慈海には棚経《たなぎよう》に歩かねばならない盆が近づいていた。檀家のうちでも信心ぶかい家はとくに命日をえらんで月まいりは欠かさないが、盆の十六日だけはどの家も仏壇の扉《とびら》をひらいて、菩提寺《ぼだいじ》の和尚の勤行を待つのが習わしだった。棚経は、この日に限っていた。在家《ざいけ》は新旧の仏をよび戻して、仏壇の位牌《いはい》を床の間か、それとも棚段に移し並べ、地蔵盆までの七日間をまつるのだった。蓮《はす》の葉にのせた胡瓜《きゆうり》、薩摩藷《さつまいも》、トマト、団子、菓子、果物などが供物《くもつ》になっていた。本山からの扶持金《ふちきん》の少ない小寺にあっては、この盆は財源の書き入れ時といえた。  孤峯庵には、五十八軒の檀家があった。京都市内の中心部と、西陣あたりの機屋《はたや》が多かったが、慈海は五十八軒の檀家を一人で廻ったわけではない。一級、二級、三級と檀家の格式を勝手に分類して、三級の家には慈念を廻らせた。慈念は現在、観音経を写経している段階にあるが、すでに棚経をつとめるぐらいの経は暗誦《あんしよう》していた。慈海は今日までにその経文を全部|口伝《くでん》で教えたのである。  檀家の経文は、般若心経、大悲心|陀羅尼《だらに》、消災妙吉祥陀羅尼、仏頂尊勝陀羅尼、観音経|普門品《ふもんぼん》第二十五などが主であって、これで大方の勤行はすむのであるが、慈念はいま観音経の写本を必要とするだけであった。  七月はじめのある日、慈海は、隠寮に慈念を呼んだ。 「盆がくるな。去年のようにまいってもらわんならん。単衣《ひとえ》の白衣は汚れとったらあかんぞ。洗濯《せんたく》したか」  と慈海はきいた。 「はい」 「観音経の写経はどれぐらいすすんだ」 「はい、世尊妙相具《せいそんみようそうぐ》まできてます」 「もってきてみい」  慈海は疑ったわけでもないのだが、どんな写経をしているか見たかったのである。 「はい」  慈念は畳に頭をすりつけてから立ち上ると、学校教練でならった廻れ右をして出ていった。すぐ庫裡からもどると、慈海に和紙の綴《つづ》りを手渡した。上漉《じようすき》の藁半紙《わらばんし》をコヨリで綴《と》じたものだった。表紙に「|妙法蓮華経 観世音菩薩普門品《みようほうれんげきようかんぜおんぼさつふもんぼん》第二十五」と書し、孤峯庵侍者慈念記す、と書いている。 「うーむ」  慈海は得意のときのくせでソバカスの浮いている小鼻をふくらませて、ゆっくり半紙をめくった。爾時無尽意菩薩《にじむじんにぼさつ》と慈念は楷書《かいしよ》で経文を一字一字たんねんに書いている。墨書《ぼくしよ》であった。 「よし、よし」  慈海はちょっと機嫌《きげん》のいい眼つきになって慈念をみた。そして話題をかえた。 「お前、学校で、教練なろとるてほんまか」 「はあ」 「どんなことするんか、いうてみい」  慈海はぎろりと眼を光らせている。しかし、こんなときにも慈念は無表情に、奥眼をキラリと動かしただけでこたえる。 「みんな村田銃もたされてます。鉄砲の掃除と、撃ち方をなろてます」 「兵隊がきとるんかや」 「はあ、特務|曹長《そうちよう》です。金筋三本の肩章つけてはります」 「そら、学校の先生になっとるんか」 「はあ、先生みたいなもんです」 「お前も鉄砲もたされとるんか」  慈念はちょっとだまった。慈海もそのとき、こんなこときいたのは背のひくい四尺そこそこの慈念が、いくら教練だとはいえ、兵隊の担《かつ》ぐ鉄砲をもっているなど想像だに出来なかったからにほかならない。 「はあ、私は村田銃やありません」  慈海はほっとした顔になった。しかし、慈念はいった。 「騎銃をもちますのや」 「キジュウ?」 「はあ、騎兵が背中に負うている鉄砲どすわ。鉄砲はみなのより少し短いどす。でも、わいの肩ぐらいあります」  慈念は作務着のシャツの肩を示してそういった。無表情にじいっと和尚から眼をそらせている。わきで二人の問答をきいていた里子は、慈念が何を思っているのか、心の底がはかりかねるのである。師匠の質問にこたえてはいるけれど、何かほかのことを思いつめているような表情にみえる。慈念の無表情な冷たさ──里子が最初から感じているものなのだ。慈海は裾をはだけ、膝坊主をだしてしゃがんでいたが、股間《こかん》の奥の方で、ゆるんだ褌《ふんどし》から浅黒い睾丸《こうがん》がたれているのがみえる。里子は声をあげた。 「和尚《おつ》さん、和尚《おつ》さん、ちょっと、こっちへきなはれ」  慈念を無視していった。 「あんた、肝心のもん、慈念はんに見られてますがな」  慈海は、里子のいう意味がわかると、お、そうか、そうかと口走って、裾《すそ》をかきあわした。このときも慈念の表情はひっこんだ白眼の部分を瞬間だけ動かしたにすぎない。 〈強情な子やなァ〉里子は和尚のほどけた帯をうしろから締め直しながらそう思った。 〈けったいな子やなァ、何おもてはんのやろ、さっぱりわからん!〉  しかし、慈海の足もとに置いてある観音経写本表紙は、里子にもびっくりするほどの達筆に思われた。  里子が慈念に恐れを感じはじめたのはこの頃からかも知れない。慈海は慈念の師匠であるから、慈念が、いくら押しだまっていても、相通ずる何かがあったのだと思う。しかし、里子には慈念の沈黙の裏側はわからないのだった。慈念と慈海が話している時は尚更《なおさら》、疎外された気持がした。嫉妬《しつと》ではなかった。あくまで慈念が里子にだけ蓋《ふた》を閉じて見せないものがあると思った。慈念は里子を逆に観察している眼つきである。  盆がくるまえの暑い夜なかであった。里子は隠寮の部屋の障子をあけはなして、シュミーズ一枚きりで横になっていた。寝ぐるしい夜で、慈海は一日留守だった。檀家から、本山の法類《ほうるい》である源光寺に廻り、和尚と碁《ご》を打って帰ったのは、一時すぎである。だいぶ酔っていた。里子はいつものように和尚にサラシの腹巻をさせ、|じんべ《ヽヽヽ》のような寝巻をきせた。慈海は前合わせの紐を結ぼうともせず、すぐにシュミーズの肩紐に手をかけてくる。寝苦しい夜なので、里子は和尚の好むままに裸になった。いつものように躯は燃えたが、汗だくになる。慈海が腹の下方をなめ廻すので、思わず、押し殺していた声を出したとき、足が宙を蹴った。和尚は酒気のかげんもあって、いつもよりしつこい。押しかぶさってくる慈海のうしろに、何やら黒い影が走ったのをみたので里子ははッとした。障子はあけ放してあるのだ。廊下はガラス戸になっている。月明りが庭の池の面を照らしていて、その反射が千本たるきの軒までを透けてみせている。声がしたように思った。 「和尚《おつ》さん」  たしかに廊下から影の声であった。 「和尚《おつ》さん、よばはりましたか」  慈海は思わず、里子をつっ放していた。 「何や」  慈海は|じんべ《ヽヽヽ》の前をかき合わせると廊下へ出た。そこに慈念が立っている。 「よばはりましたんとちがいまっか。麻縄がひっぱられましたんどす」 「寝呆《ねぼ》けちゃあかん、呼んでへん、呼んでへん」  慈海はそういうと、 「ええ、ええ、もどって寝ェ」  とどなった。里子は息をつめていた。宙を蹴った里子の足が、縄の端をもつらせてひきずっていたのである。 〈見たにちがいない。あの子にまた見られたわ〉  里子は鉢頭のひっこんだ慈念の眼を思いだした。すると、燃えさかっていたはずの下半身がたるみだし、力がぬけたように冷えていった。  慈海は、障子をしめると、また暗がりの中で里子をよんだ。     4  慈念の通学している紫野大徳寺にある中学から、蓮沼《はすぬま》良典という教師が孤峯庵《こほうあん》をたずねてきたのは七月二十二日のことだった。この日、折悪しく慈海は風邪《かぜ》をひいて寝ていた。  玄関に出たのは、慈念である。受持ち教師の来訪は慈念の顔色をかえた。しかし、教師の来訪を和尚に告げないわけにゆかない。慈念が隠寮《いんりよう》にきて、その旨をいったとき、慈海は発汗のため厚着していた蒲団《ふとん》から頬《ほお》のこけた髭面《ひげづら》を出して、 「ここへ通しなさい」  といった。  慈念がひき下ると、黒被布《くろひふ》の上に、|紫 綸子《むらさきりんず》の絡子《らくす》をかけた背のひょろ長い四十年輩の蓮沼がきて、鄭重《ていちよう》に礼拝した。敷居の所で手をついている。 「寝とりますねや。どんな用かしらんが、まあ上らっしゃれ」  慈海はそれでも元気な声をよそおったが、すぐに咳《せ》き込んだ。里子は奥の間との間仕切りの襖《ふすま》を閉め、枕もとにきて、蓮沼に低頭してから、ゆっくり教師の顔をみた。何か慈念のことでいいにきたにちがいない直感が走った。  蓮沼良典は茶をすすってからゆっくりいった。ひくい声の江戸っ子弁だった。 「慈念さんのことでまいりました。今学期中の登校日の少ないのが気になりましてね、ちょっと伺ったわけですが、今期中に、二十五日も休みをなさっています。学務課では、休校届のない場合は操行上の採点とも睨《にら》み合わせるようにしておりますが、一期に二十五日の休みというと、約三分の一に近い日数になります。もし、和尚さんとこの仏務や法要で休校されたのでしたら、これからは届を出していただきたいと思うんです」  紋切り型のこの言葉に、慈海はもちろん、里子も眼をまるくした。この男は何をいうのか。慈海ははげしく咳きこみながらいった。 「なんじゃと、慈念が無断でやすんどると……そんな阿呆《あほ》な。寺は毎日出とる」  里子も大きくうなずいた。  蓮沼良典の方がこんどは眼色を変えた。 「とすると、慈念さんが勝手に」 「勝手に休んどる。高い月謝を払うとるに勿体《もつたい》ない」  慈海は大声でいった。 「さと、ここへよんでこい」  里子はおろおろした。呼んできていいものか。教師の前であった。叱りつける慈海がわかったし、熱がひどくなると考えて止《よ》そうかと思った。 「阿呆な奴ちゃ。早よここへよんでこいいうたら」  慈海は怒りだすときかない。里子はしぶしぶ庫裡《くり》に出てみたが、慈念は三畳の部屋にいなかった。本堂の縁を廻って呼んでみたがどこにもいない。庭下駄をつっかけ、築山《つきやま》の方から茶室を廻った。楓《かえで》の木の下の杉苔《すぎごけ》の上で、慈念は草取り箱をおいて無心に草を取っていた。 「慈念はん」  里子はよびかけた。 「和尚《おつ》さんが呼んではる」 「は」  慈念は小さく返事すると立ち上った。 「あんた、だまって学校休んどるそうやないの。先生が叱りに来やはったえ」  里子はしかしこの言葉をなるべくやわらかくいったのである。すると、慈念は、 「教練がいやや、鉄砲持つとくたびれるんや」  訴えるようにいって里子を仰いだ。ひっこんだ眼がぬれていた。両瞼《りようまぶた》が充血している。泣いていたのだな、と里子は思った。草取りをしながらここへ泣きにきていたのか。 「教練がいやなの」 「は、鉄砲もつと、すぐだるうなるんどす」  慈念はいっそう訴えるような眼になった。哀願するようなその眼もとが里子の胸を打った。 〈小さな躯に鉄砲もって、きめやから仕様ないちゅうものの、学校もひどいことしやはる……〉 「そやかてな、先生が来てはる、和尚《おつ》さんも怒ってはる。ちょっと隠寮へきてんか」 「は」  慈念は竹小刀を杉苔の上に投げつけた。と、その小刀は生きもののように地面につきささり、ぶるんぶるんと音をたててふるえた。  里子が慈念をつれて隠寮にくると、慈海と蓮沼は何か笑い興じていたが、急に話を中断した。 「慈念」  和尚は蒲団を半分に折って起き上った。 「お前、なぜ学校休んだか。なぜ、高い月謝払うとる学校をきらうんか、わけをいえ」  蓮沼も里子の顔をちょっと気がねしたように見てからいっしょに慈念の顔をみている。慈念は草の汁のついた泣きはらした瞳《ひとみ》をちょっと動かしただけである。しかし、こういった。 「教練があるのでいやなんどす。和尚《おつ》さん、教練があると死にとうなります」 「なんやと」慈海は思わず里子の方をみて、いいだそうとした言葉を口ごもった。 「いやだといったってこれは教課ですからねェ」  と蓮沼が口をはさんだ。 「文部省の中学校令施行規則によって定められているのです。仕方がありませんね。中学二年から徒歩教練は執銃《しつじゆう》教練に移行します。このように指示されております……」  慈海にとも慈念にともつかない物言いになって蓮沼はつづける。 「つまり、この教課は一単位でありまして、教練をうけなけれぱ、卒業はできません。配属将校の進学会議の発言は大きいのです」  慈念はうつむけた顔を慈海にむけて、どもりながらいった。 「和尚《おつ》さん、教練で鉄砲をもたないようにたのんで下さい。鉄砲は肩の上まできますし、よう持てまへん」 「ああ」  と蓮沼は妙な音を口の中で出してからいった。 「やっぱり、そういう理由だったのですね」  蓮沼はこんどは慈海の方をみて、 「校庭で訓練をしております二年生をよく窓越しにみるのですが、なるほど、慈念君は人よりうんと躯《からだ》が小さい。最後尾にならんでいますね。たとえば横隊で、右に向きをかえたり、左に向きをかえたりするときは、慈念君だけは人より二倍の駆け足をしなければ追いつかないンです。見ていてかわいそうな気がします。横隊の場合は、右翼にいる背の高い生徒はかんたんに左右いずれか命令どおりに向けばいいわけですが、最左端におります慈念君は駆け足でその線にまで進まねばなりません。鉄砲を担いでおれば尚更《なおさら》です。しかし、そのことは当分の辛抱です。いまに大きくなりますよ。ね」  とこんどは蓮沼は慈念の方を見た。 「中学生なんだから、中学校の教課を終えなければ何んにもならない」  里子はじいっとだまってきいていたが、慈念の厭《いや》がるのもわかる気がした。この躯で、鉄砲が皆といっしょにもてるものではない。中学校教程では、標準|背丈《せたけ》の生徒を想定して、教範をつくっている。慈念は小学校三年くらいの背丈しかないのだ。 「わかった、わかった」慈海がこのとき、大声をだした。 「慈念、あしたからその教練をつとめい。月謝がもったいないわ。中学を出んければ、雲水にもなれんぞ。ええか。辛抱して学校へゆけ、ええか」  慈海は蓮沼に、失礼して……といって横になった。寒気がするらしかった。  慈念は廊下の隅でまた泣いていた。その姿を蓮沼良典は冷《ひや》やかにみていた。困った子供をあずかったという表情だ。同情してもはじまらない。特殊学級をこの子のために造る予算はないのであった。 「大きゅうなるまで、辛抱して、学校へ通うてもらいましょう」  と蓮沼はいうと、里子にも会釈《えしやく》して立ち上った。 「御病気中のところをおさわがせしてすみませんでした。欠席問題さえなければ、学課はいうことのない成績をあげています。慈念君は欠点のない生徒なンです。よろしく来学期からの登校を実現して下さるよう願います」  教師が紋切り型の言葉で結んで帰っていったあとで、慈海和尚は熱をだした。慈念には何もいわなかった。  蓮沼良典を玄関に送った足で、里子はまた本堂の裏へ廻った。孤峯庵の本堂は廻り廊下になっていた。内陣の仏壇のある部分はうしろに突き出ているので、その下は倉庫になっている。施餓鬼《せがき》の旗や、地蔵盆の式台など、ゴタゴタしたものが入っている物置だが、里子がこの物置の蔭にきたとき、何げなく裏庭をみて足をとめた。慈念が池の面をじっとみつめて立っていたからであった。茶室のわきの築山の草取りをしていると思ってきたのだが、慈念は池の中の島につっ立って水面をみて動かなかった。廊下に立っている里子には気づかないらしかった。池は水面にうす緑の葉のヒシをうかべ、針のついた果《み》がところどころに浮んでいた。水音がしているので、少しの足音くらいは消されてしまうらしい。里子は慈念が何をみているのか気になった。池の鯉《こい》かと思った。と、とつぜん、慈念は掌を頭の上にふりあげたと思うと、水面に向ってハッシと何か投げつけた。鉢頭がぐらりとゆれて、一点を凝視《ぎようし》している。里子もしゃがんだ。廊下から池の面を遠眼にみつめた。瞬間、里子はあッと声を立てそうになった。灰色の鯉が、背中に竹小刀をつきさされて水を切って泳いでゆくのだ。ヒシの葉が竹小刀にかきわけられ、水すましがとび散った。それは尺余《しやくよ》もある大きなシマ鯉であった。突きさされた背中から赤い血が出ていた。血は水面に毛糸をうかべたように線になって走った。  里子は、慈念を叱りつけようと思ったがやめた。 〈こわい子や。何するかわからん子や〉  里子は廊下をそっと本堂の横にそれ、隠寮にもどった。慈海は湯気の出る顔にぬれタオルをずらせて、いびきをかいて寝ていた。  裏庭でみたことは慈海にも話さなかった。  慈念が池の鯉の背中に、草取り道具の竹小刀を投げつけて突きさしたのは、学校の教師が告げ口にやってきて、和尚に欠席したことが露見した憤懣《ふんまん》を、池の生物に投げるしかなかったのだと里子はみたのである。慈念は孤峯庵では孤独なのだ。誰に当ろうとしても、面当《つらあ》てする場所はない。わめき散らすこともできない。そんな声を出せば慈海にどやされる。慈念は壁に向って消えるしかない。楓の下、築山の下で、泣くしか方法がない。里子は慈念を哀れだと思った。すると、また、慈念が不憫《ふびん》でならなくなり、捨吉といった頃の慈念の子供時代に想像がいく。  ところが、里子には若狭《わかさ》の寺大工の子だとわかっているだけで、くわしいことはよくわからない。慈念に感じる恐怖感をとりのぞくためには、慈念の全部を知ること以外に方法はなかったのだが。——里子は、暇さえあれば慈海和尚に慈念の田舎のことをきいてみる。が、慈海も素姓はあまり知らないらしかった。頭の大きな背のひくい子。こんな子を生んだ母親は、どういう気持で、寺へ手放したのか。  母親の顔が見たかった。いや、母親に育てられたころの慈念の生活が知りたかった。やはり孤峯庵にいる時のように、押しだまって、ひねくれた表情をして、上眼づかいに物をみただろうか。里子の興味は今や、慈念の過去に集中していた。  ところが、里子に、願ってもない朗報があった。一通の書信が、孤峯庵にきた。それは盆がすぎて秋風のふきはじめた頃である。差出人は福井県|大飯郡《おおいぐん》本郷村底倉部落にある西安寺の住職木田|黙堂《もくどう》であった。宛名はもちろん、慈海大和尚|侍史《じし》としてあった。里子は封を切ることが出来なかったが、書信をよんだ慈海がいった。 「さと、西安寺和尚が寺へくる」 「なんか用事で来やはるのどすか」 「本山に出張する用があってな」 「お泊りはどこだす」 「泊りは本山やろ、法類も塔頭《たつちゆう》もあることやから、何も、うちが心配せんでええわい」  と、慈海は里子の質問の趣旨をそのようにとっていた。 「和尚《おつ》さん」里子はわきから問うた。 「慈念をつれてきやはった和尚《おつ》さんでっしゃろ」 「そや、あの子は西安寺和尚がつれてきよった。もう四年になる。見たかろなァ」  と慈海はいった。自分の子ではないにしても、在の村を出た大工の子供である。父親の大工も西安寺住職が口をきき、本山の下働きによんだことがあったわけだ。それが縁で、慈念はもらわれてきている。 「くれば寄るじゃろう。寄れば、酒の好きな和尚じゃからの、いっぱい、お前も入れて薬湯を進ぜよう」  里子はその日のくるのを首をながくして待った。  木田黙堂が、尻からげをして、絽《ろ》の黄衣の裾を膝頭まであげ、毛ずねをだし、大股で、孤峯庵の耳門《くぐり》のくさり戸をあけてやってきたのは、それから三日目であった。里子は初対面であったが、思ったより若いのにびっくりした。まだ四十四で、十四年前に建仁寺の僧堂を出て、すぐ若狭の西安寺に赴任していったそうだ。鼻が高くて額のひろい聡明《そうめい》そうな顔立ちだった。役場の書記もかねているとかで、陽焼けしたその顔は、造作が整っている。それだけに、いっそう動作や身装《みなり》の田舎っぽさが目立つようだった。  黙堂和尚は、玄関に入ってくるなり、応対に出た侍者の慈念をみて、たかぶった表情を露骨にだした。 「捨《すて》、捨、大きゅうなったなァ」  慈念は床の板に手をつき、相かわらず無表情な顔で、黙堂の顔をみていたが、 「村の和尚《おつ》さんや」  ひと言驚いたようにいった。  捨吉とよばれて、どんな感情がわいたか、顔色に出さなかった。黙堂は慈念の捨吉を、苦労をして、大人になったと見た。落着きも出てきていると見た。 「捨よ。おっ母《か》も、お父《と》うも元気だや、安心しや」  と黙堂はいって、上りはなから奥の隠寮を気にしながら、頭陀袋《ずだぶくろ》に手をつっ込むと、すぐ何やら紙に包んだ四角いものと、封筒のようなものを取り出した。 「これは、おっ母ァからや、これはマツジの手紙や」  といってから、 「ほしてな」  和尚は小さい声で鉢頭の横にとび出している小さな椎茸《しいたけ》のように黒ずんだ慈念の耳もとに口をつけた。 「これは、わしの思いつきや、銭《ぜん》コや、一円やる」  ちゃりんと頭陀袋の中で音がした。黙堂は五十銭銀貨を二枚、拇指《おやゆび》と人さし指でこすり合わせながら、無表情にひざまずいている慈念の手ににぎらせたのである。 「さ、わしがきたと隠寮へいうてきや」  里子も慈海も珍客で笑顔になった。慈海は酒がのめる相手がきたのだから子供のように頬をほころばし、庫裡と隠寮の間の廊下にまでむかえにきた。  木田黙堂は、部屋に入ると三拝した。三ど畳に手をついて頭を畳にすりつけて礼拝するのである。禅寺の格式もさることながら、慈海は燈全僧堂で奇峨窟《きがくつ》独石和尚に師事して印可《いんか》を得ている。田舎寺の若い住職には、師家級《しかきゆう》とも見えたのは当然といわねばならない。  さっそく、慈念のつくった浜ちしゃのゴマヨゴシや、豆腐汁が出て、酒が始まった。里子もそばに坐って給仕をする。  いくらか酔いが廻りだしたころ、里子は瞼の赤くなったのを気にしながら、 「慈念はんが大きゅうならはりましたやろ」  といった。 「大きゅうなりました。おかげさまで、奥さま、行儀もおぼえましたな。あんまり立派になっておりますで見まちがえました」  黙堂はお礼の意味か頭を何ども下げた。慈海がいった。 「去年の秋に得度式がすんだ」 「左様ですかや」 「葬式もするし、棚経《たなぎよう》にもゆける。法事もできる。えろうお経のおぼえもようての」  そういってから慈海はあらたまった口調になった。 「しかし、中学がのう、卒業できるかできんかのさかい目じゃ」 「どうしてですか」  黙堂は心配顔になってきいた。 「教練がイヤじゃいうてのう。教練のある日は学校へゆきともない、困った性分じゃな」  何のことやらわからぬといった顔をしているので、里子は慈海の言葉をひきとって説明した。  と、木田黙堂の顔がわずかばかり暗くなって行った。 「そら、また、心配かけますなァ」  黙堂はそういった。しかし、何かほかのことを考える顔つきだった。里子にもそれがわかった。 〈あの子は村にいたとき何かあった。……それが、あの子を、あんなに無口にしている。陰気な子にしている……〉 「和尚《おつ》さん、西安寺の和尚《おつ》さん、よかったら、今晩慈念はんの小さいときのことをきかしてくれはらしまへんやろか。あたしら、それ聞いとかんと、あかしまへん。あの子も大きゅうなってくると、困るときがありますさかい」  木田黙堂は盃をグググと音をたててひと口に呑みほしてから、ちょっと声をおとしていった。 「妙な子でしてなァ。あの子はあんた、阿弥陀堂《あみだどう》に捨ててありましてン」   慈海は知っていたのか、微笑していた。しかし里子の顔は蒼《あお》ざめていた。 「そらほんまどすか、和尚《おつ》さん、いつ知ってはりましてん」 「わしか」  慈海はめんどうくさそうに徳利をもちあげてからいった。 「捨ててあったから捨吉じゃろ、それがどうしたかな。さと」     5 「阿弥陀堂というのは、底倉の部落《むら》の西のはしの乞食谷《こじきだに》にあるお堂でしてね。ここが冬場になりますと、物乞《ものご》いの宿になりますのや。堂には大きな木像の阿弥陀さんがまつってありますが、ちっとはお供えもあるんですのや、お供え目当てに腹へらした乞食どもがあつまります……」  黙堂は興がのってくると、庫裡《くり》の方を気にしながらも、声が高くなった。 「その堂にお菊ちゅう、さあ三十二、三でっしゃろかな。毎年秋になると餅《もち》もらいにくる乞食女がおりましてな、この女が、その年にはらんでましてなァ。雪の多い年でしたが、堂の中で産をするちゅうんで、あんた、村の者はふとんを運ぶやら、湯を沸かしてやるやらで大騒動だったですが、生れたのが男の子で、……」  里子は蒼ざめた顔でじっと黙堂の話に耳かたむけていた。 「つまり誰がお父っつぁんやらわからしまへんのやな。ま、村の若い衆か、それともヤモメ男だろというとりますが、名のり出る男はありやせん。困りましてな。お菊は乞食ですさかい、また春がくると他所《よそ》へ物貰《ものもら》いに出にゃならん。誰かこの子をあずかる者がおらんか、というとりますと、角さんがひょっこり仕事場からもどってきましてな。よっしゃ、わしが養うたる、ふたつ返事で、おかんさんにいいつけましたんや」  慈海は微笑して盃をかさねていた。興味をもってきいている眼もとではあるけれども、ときどき酒の燗《かん》の方を気にしている。里子は先がききたい。 「それから、どないしやはりましてン」 「どうしたいうたかて、あんた、角さんのとこには五人も子ォがあります。そこへ赤味噌《あかみそ》をつれてきた。赤味噌がふたりになりますと、おかんさんはいくらごろごろ子ォ育てるのが上手やいうても、乞食の子はいややいいます」 「それで、どないしやはりましたン」 「角さんは男気《おとこぎ》のある人ですさかいな。とうと、おかんさんを説得して、大きゅうしましたや。困ったことに、冬場、お菊が阿弥陀堂のボロの中で、ごろんごろん赤ん坊の頭を押えつけて寝たとみえましてな。たぶん、寒かったんでっしゃろ、乳のあるうちははなすわけにゆきませんよってに。抱いてねているうちに、あの子の頭はあんなカタチになりましたんやろ」 「さいづち頭というんでしょう」 「さいづち頭? 村ではあんた、子供らは軍艦あたまちゅうて、いじめました。学校もよう出けたええ子ォですがな。いつやらほどから自分の名の捨吉という名が気にいらんちゅうて、お父うにとりかえてくれいうてきかなんだといいますがな」  里子は全部がわかる気がして、意外な事実に顔が蒼ざめた。と同時に、里子にこの話はある満足をもたらせたのも皮肉といえた。 「捨て子じゃからそれでええ、それがどうした、のう西安寺」  酔いのまわった慈海は里子の蒼ざめた顔をみてそういった。里子は胸がつまった。 「ほな、若狭の和尚《おつ》さん」  里子は声をおとして、 「あの子は、実のお母はんやとおもてますのんどすか」 「思《おも》てます。おかんさんはわが子らとちっともかわらんように育てました。頭が大きゅうて、ガラの小さいのが難だけですて……かしこいことは村一番でしたさかいにな」 「へーえ」  と、里子は思わず声をだした。数奇な運命などという言葉をきいたことがあるが、慈念こそ、それだ。里子はいつか茶室の縁にすわって父親がむぎわら膏薬《こうやく》を売っていたころの話をした、そのときの慈念のだまっていた顔つきを思いだした。里子のような苦労話はざらにある。里子には父親も母親もあった。だが、慈念にはそれがなかった。 「それから、お菊ちゅう乞食はんは、もう来やはらしまへんのどっか」  西安寺の住職は口のはたを手でふきながらいった。 「会っとりません。おかんさんは同じ養うのならもうわご子や、村へ餅もらいになぞくるな、と叱ったそうです。それ以来、ふっつりこなくなりましてな。春になっても、夏になっても、お菊は物乞いにこなくなりました。乞食じゃいうても、捨吉はやっぱり子じゃからのう、ふびんではある話ですがの」  里子は大粒の涙をおとした。  そのとき、庫裡の方で小磬《しようけい》のチンチンというひびきがきこえた。慈念が韋駄天《いだてん》の夜の経をあげる時刻であった。  慈海はその夜、珍しく躯をほしがらずにすぐ寝ついた。だが里子は眠れなかった。慈念の生い立ちについての事どもが、脳裡《のうり》からはなれないのだった。慈念について考えていたことが、音をたてて変るような気がした。慈念の大きな頭、ひっこんだ眼、白眼をむいたあの眼つき。誰にも好かれないようなあの風貌《ふうぼう》が、いま、里子に、哀れをともない、殊更《ことさら》いとおしかった。里子は慈海の床から、しずかに起きあがると、隠寮を出た。庫裡の三畳で、慈念がどうしているかを見たかったのだった。もう慈念は眠ったかもしれない。もし起きていたら、話しかけてみたかった。里子は足音をしのばせて廊下を通って三畳の入口に立った。と、部屋の中に灯《あか》りがともっていた。里子は中を覗《のぞ》いた。慈念は畳の上に坐っていた。小机に向って写経しているのだった。 「慈念はん、あんたまだ起きてはったの」  里子はわきによった。びくっとして慈念は里子の方をみたが、やがて筆をおいて、上眼づかいに里子をみた。 「なんでそんな眼ェするン」  里子は慈念の傍《そば》に坐りこんだ。 「慈念はん」  胸もとにつきあげてくるような愛《いと》しさがあった。それをこらえきれないままに里子は不意に慈念を羽掻《はが》いじめに抱きしめていた。 「慈念はん、あんた、かわいそうや、うち、みんなはなしきいたえ」  里子はやさしくあえぐようにいった。慈念は、ふくよかな白い里子の乳房の上へ頭をすらせて、じっとしていた。その眼はうるんだようにみえた。里子は膝の中へ慈念をはさんだ。汗くさい慈念の顔が乳房を撫でている。激情が里子をおそった。彼女は乳房のあいだへ慈念の顔を押しつけると、 「なんでもあげる。うちのものなんでもあげる」  といった。すると、慈念は急に躯ごと力を入れて、里子を押し倒した。格子戸《こうしど》の外に風が出て、庭木の葉ずれがはげしく鳴った。  慈海の風邪はこじれた。ようやく床をあげたのは、西安寺の黙堂和尚が帰ってから十日目である。庭の紅葉も、山の楓も、美しく色づいたころ、南嶽《なんがく》の一周忌の二十日がきた。  南嶽の夫人の岸本秀子は弟子の南窓と二人で孤峯庵に現われた。静かな本堂まいりであった。慈海は、里子を表には出さず、南嶽の位牌《いはい》を位牌堂からぬき出して戒壇の金襴《きんらん》の打敷《うちしき》の上に置きかえていた。香炉に粉を焚《た》いて読経したが、経を読みながらときどき咳きこんだ。病み上りなので、南窓にも秀子にも和尚の顔は、一年前よりこけてみえ、髭《ひげ》はそっていたけれど、病人相はかくせなかった。慈海が内陣の緋《ひ》の大座蒲団に坐ると、維那《いのう》(経の先唱僧)の小座蒲団に慈念が坐った。魚の彫刻のある大きな木魚を、慈念は鉢頭をふりながらたたいていたが、慈念の回向《えこう》が唱じ終るころから、かげっていた白砂利の庭に陽が照ってきた。本堂の中は明るくなった。南窓は、秀子と襖の絵をみて歩いた。 「いつみても、雁が生きとる」  南窓は師匠の思い出にひたりながら下間《げかん》から上間《じようかん》の四枚襖をゆっくりみて歩いたが、ふと足を止めると慈海にきいた。 「和尚《おつ》さん、南嶽師匠はどれぐらいここにおりましたかな」 「そうやな」  慈海は小磬をもちかえ、首をかしげながら、無造作に、 「十年もいたかな」といった。 「十年——左様ですか」 「十年ここをかりてはりましたか」  秀子が口をはさんで、 「孤峯庵はええ、何ともいえん。ええ、いうてばかりいやはりましたどすわ」  秀子は南嶽と五つちがいだったから、六十を出たばかりの年である。南嶽が生きていた頃よりふっくら頬の肉づきがよくなっているのはどうしたことか。慈海は面長で小鼻の大きな秀子の横顔をみながら、 「あなたは、ちっともかわりなさらん」  といった。秀子は喪服《もふく》の袂《たもと》からハンケチを取りだしてせわしく額にあてた。この女も祇園《ぎおん》にいたのだった。だらしのない南嶽は、どの女も料理屋だの、芸者屋だのと、手あたり次第にさがし歩いて家に入れてすぐ別れていた。どの女も二流どころからえらんでいる。秀子は八坂下《やさかした》の東新地の「豊川」の芸妓《げいぎ》だった。この女が、南嶽の息をひきとるまでを看取《みと》ったわけである。慈海も昔の秀子を知っていたから、ずいぶん、この女とも長いつきあいだと眺めざるを得ない。 「和尚《おつ》さんも、ちっともかわらはらへん。元気で結構どすなァ」  と秀子はいった。本堂を出た南窓と秀子はやがて衣笠山《きぬがさやま》の下にある孤峯庵の墓地にまいった。慈念が手桶《ておけ》と火をつけた線香をもち、煙をうしろへ流しながら先にたって案内した。南窓は軍艦頭の背のひくい慈念をみていて、師匠の臨終の前日を思いだした。「さと」といった南嶽の苦しげな顔も思いだした。  衣笠山は、小松の下の地面に墓地の端あたりから裏白《うらじろ》の葉がしげっていた。しめった落葉のある土を踏むと樫鳥《かしどり》がとび立った。南窓と秀子は慈念のすきとおるような墓経《はかぎよう》の声をきいた。土葬でそこに埋められている南嶽の墓石は丈の高い自然石である。秀嶽院南燈一見|居士《こじ》と刻まれた字には青かびが生えかけていた。秀子はなんまんだぶ、なんまんだぶと念仏をとなえながらその石の頭に手桶の水をかけた。  読経がすんだあとで、岸本秀子は、塔婆《とうば》のたてかけてある墓石をぬって歩きながら慈念にきいた。 「慈念はん、和尚《おつ》さんには、奥さんがいやはりますのン」  慈念はだまってさいづち頭を振っただけであった。そのひっこんだ奥眼が秀子の胸を衝《つ》いた。この子供にたしなめられたような気がした。秀子は慈念のあとからだまりこくって孤峯庵に帰った。 「おかしな小僧はんや!」  このことを丸太町の家に帰ってから南窓にいった。返事をしなかった慈念に対する不愉快な感情が、家にかえるまでつづいたのである。 「けったいな小僧はんがいやはる」  慈海への非難も出ていたが、庫裡の奥にかくれていた里子を頭においた言葉だと、南窓は黙ってきいていた。  上京区の今出川千本から東へ少し入った地点にある久間《ひさま》平吉は、孤峯庵の檀家だったが、慈海の等級別表によると、二流に属していた。その久間家から、使いがきて、亡父の三周忌だから読経をたのむといってきたのは十一月の七日のことである。慈海は、使いの者を帰すと、慈念をよんで、 「お前、久間の家へ行って経あげておいで。和尚《おつ》さんは源光寺にいかにゃならん」  といった。慈念はだまってうなずいた。 「大悲心|陀羅尼《だらに》と施餓鬼《せがき》を読んでな。それから観音経をあげて回向をしなさい。あとは消災咒《しようさいじゆ》でよろし」  といってから慈海は本堂に慈念をつれていった。維那机《いのうづくえ》の抽出《ひきだ》しから過去帳を繰って久間家の三年前に死んだ平太郎の戒名《かいみよう》をしらべた。過去帳は死んだ日付別になっている。死人の登記簿である。居士だとか信士だとか信女だとかの戒名をかいた金粉のふきつけてある部厚い綴《と》じ帳《ちよう》であった。指につばをつけてぺらぺらめくっていたが、 「あった。あった。これや、ようおぼえとくんや」  と慈海はいって、芳香智山居士——と書いたところをみせて、 「ええか、よんでみい」 「ほうこうちさんこじ」  慈念は棒よみに読んだ。そうしてまだ口の中でその戒名を口ずさんでいた。  慈念が出かけたのは二時すぎである。孤峯庵から、等持院の裏林に出て、東亜キネマの撮影所のわきから、白梅町に出た。北野天神をぬけて、上七軒を通ればすぐ千本今出川であった。慈念は背がひくいわりに、足は早かった。劣等感を、速足《はやあし》によって補っているようにみえた。衣笠山から千本まで、三十分ぐらいで歩くので大人よりも早い。墨染の衣を着て、小股歩きに、頭を前につき出して歩く慈念の姿は、町の人の眼をひいた。 「おもろい坊《ぼう》さんが歩いてはる」      そんなことをささやきあう者もいた。町の人のそんな眼に慈念は馴れていた。盆の棚経には朝から十何軒もの檀家を廻ったが、人の眼を気にしていたら一軒もまわれない。紫野の学校へゆくのは、詰襟服《つめえりふく》にゲートルまきである。しかし小さい中学生の姿は途中の人に馴染《なじ》んでいた。慈念はわき目もふらずに歩く。人から蔑視《べつし》されているのを知っているから尚《なお》のこと早く歩く。  久間家は、工業薬品卸業で今出川通りの市電道路に面して在《あ》った。久間平吉は、慈念が店から上ってきたとき、おやと思った。慈海が来なかったからである。和尚は檀家を等級に分けているのだ。慈念がきたのは一階級落ちたのか。平吉は不服そうな顔で、慈念が仏間に通るとき、よびとめた。 「和尚《おつ》さんは」 「うちで寝てはります」  慈念はそうこたえただけで、奥に入った。まもなく、読経の声がきこえた。仏間へゆく途中に、平吉の兄が寝ていた。ぜんそくである。日当りのわるい中の間で蒼い顔した病人は慈念の経文をききながら目を閉じていた。平吉はうしろにきて、お布施と菓子を包んで盆にのせ、坐って待っていた。慈念は、観音経の段になると、ふところから写本を出して拝みながらよむので、ずいぶん時間がかかった。ていねいなおつとめだとも思うが、和尚とちがって、慈念の読経はどことなくありがたくないような気がする。病人がいる上に、店の番もしなければならない。平吉は気がせいていた。ようやく、経がすんで慈念は磬《けい》をたたいてうしろへ向き直った。中の間の病人が少しうごいた。その方をじっと慈念はみていた。平吉の兄は喀血《かつけつ》を二どして、もう医者が見放しているという噂《うわさ》は慈海からもきいている。その平三郎はいま大きないびきをかいていた。があーッと咽喉《のど》に風がとおるような音をたてて、すぐ吐く息がとだえたりする。 「こうして、意識不明で三日目どす」  平吉は膝に手をおいてあきらめたようにいった。細君はどこかへ使いに出たものか、いなかった。慈念は、うすい灰色の蒲団をかぶって、やせた四十男が工業薬品の罐《かん》の奥に、失意の顔を天井にむけているのをみつめながら、急に思いついたようにいった。 「和尚《おつ》さんは、修行に出たいいうてはります」 「和尚《おつ》さんが?」  平吉はおかしなことをいうなと耳をうたがった。平吉は信心の厚い方だし、死んだ親から慈海老師は燈全寺派でも師家級の僧だときいていた。孤峯庵は本山|塔頭《たつちゆう》の上位にある別格地の寺だ。金閣寺や銀閣寺のように拝観客こそないけれど、衣笠|山麓《さんろく》では、竜安寺、等持院とならんで、歴史もふるいし、開山は夢窓国師である。寺格も高いと自慢にしていたことだった。その住職の慈海和尚が、まだこれから修行をしたいというのはどういう意味か。 「へーえ、勉強なこってすな」  平吉は慈念のいった意味をそのようにとって、慈念にきいてみた。 「お小僧はんはどないしますのや」 「はよ中学出て、僧堂へゆきたい思います」 「左様か。僧堂もえろおますな。寒いのに托鉢接心《たくはつせつしん》もせにゃならん。見ていて気の毒なほどや……坊さんの修行もえらいですなァ」  平吉は禅門の修行というのは、あの雲水《うんすい》の修行さえすれば、もうそれで、悟りがひらけて住職になれると思っていた。慈海がこれから修行しようとすると、その修行とはどんな修行なのか。理解にくるしんだのである。 「もどったら、和尚《おつ》さんによろしゅいうとくれやす」  店まで送ってきて、慈念が敷居をまたいで市電通りへ出るのを、思い切ったように呼び止めて、平吉は腰をかがめて、慈念の耳にいった。 「もうじき、兄がいきますのや。兄がいんだら、また葬式だしてもらわんならん。和尚《おつ》さんによろしゅうたのんどったいうて下さい」  慈念は無表情な眼を通りのアスファルトに投げていた。折から焼芋屋《やきいもや》の車がうしろから通った。  焼芋屋のヤキモーウと長くひっぱる声に慈念は耳かたむけている。やがて、その車のうしろから慈念は歩きだした。と、今出川通りが千本通りと交叉《こうさ》する地点のわずか手前に、菊川金物店という刃物屋があった。そこの店に三十年輩のお上《かみ》が坐っていた。焼芋屋の車のうらから、にょっきり頭の大きい小僧が出てきたのでびっくりした様子である。慈念は店の前で立ち止った。庖丁《ほうちよう》と鎌と、鋏《はさみ》が台の上にならべてある。西陽をうけてその切先が光っているのをうっとりみていた。 「へえ、おいでやす」  お上はお寺さんの客だと思った。慈念が何かを買うらしいと、客になれた眼で知った。 「これ」と慈念は小さくいって、肥後守《ひごのかみ》を指さしていた。鉛筆けずりにでもつかうのかとお上は思った。 「ヘーえ、二十三銭どすなァ」  慈念はちょっと眼を光らせた。神妙な眼つきだった。頭陀袋《ずだぶくろ》の中へ手をつっ込んだ。まもなく、五十銭銀貨を一枚とりだした。西安寺の住職がくれた金にちがいなかった。  里子は夕方ちかく、本堂の裏廊下へ出て、裏山の景色をみていた。ついさっき、慈海は源光寺に碁を打ちに出かけて行った。ちょうど慈念が今出川へ出た直後、慈海はすぐ隠寮にきて、里子を裸にした。永らく病気でもあったから、慈海が欲しがったのはわかる気もしたし、里子も少し間をおくと、躯がほてった。慈海はいつもより汗をかいて早くすませてしまうと、里子に着物をきせた。自分も、他所《よそ》ゆきの白衣《びやくえ》にきかえるらしい。いつもなら里子が箪笥《たんす》から衣と被布《ひふ》を出すのに、慈海は、小まめに自分で出したのである。 「めずらし、雨がふるわ」  里子は冗談《じようだん》をいった。手鏡でみだれ髪を直していたが、慈海がどうして、その日にかぎって、自分で箪笥をあけ、身仕度をしたのか気にかかった。その時は、それはすぐ何でもないのだと思った。慈海は愛撫《あいぶ》も激しかった。里子は死にそうだ、と訴えるくせになっている。慈海はそんなとき手をやすめて力をぬく。一人で身仕度をしたのは、つかれている里子へのいたわりだったかもしれない、そんな風に思った。  源光寺にゆけば慈海は必ず夜おそくなる習慣だった。酒が出るからだった。  里子は裏廊下から冬にちかい衣笠山をみていた。山の眺めは好きでならなかった。同じ廊下の同じ地点で、里子は岸本南嶽に耳をくすぐられながら、この山の美しさについて話をきいたことを思いだしている。  年月がいくらたっても、丘のようなまるいこんもりした山は、男松が育たないという。そういえば、赤い幹の小松ばかりが頂上にまでつづいている。麓《ふもと》は常緑樹と、葉の落ちたこまかい疎林の傾斜である。その傾斜にいま|さ《ヽ》霧がまいおりてくる。  里子は、疎林の中の一本の椎《しい》の木《き》をみつめた。いま、そこに鳶《とび》がとまっていた。あの鳶は昔からいるのだろうか。南嶽とすごした十年前にも、その鳶はそうしてそこにとまっていて寺の庭を見下ろしていたような気がした。里子がみているまに鳶はとび立った。上空をゆっくり旋回した。すぐ、また、もとの椎の頂にもどった。頂にとまるとじっと動かない。  玄関の方で、誰か歩いてくる音がした。慈念の擦《す》るような足音であった。里子は廊下に立って慈念の方はみずにじっと山をみている。慈念は作務《さむ》のシャツの上につぎの当った黒いズボンをはいている。シャツは和尚が小僧の時分に着たもので、メリヤスのつぎはぎだらけだ。さしこにぬった糸が、柔道着のように線をえがいている。 「慈念はん、早かったなァ」  里子の方から声をかげた。 「いま、うちは、あのとんびん見てたんや」 「とんびん」  慈念もそういって山の方をみたが、珍しくこんなことをいった。 「奥さん、とんびん、なにしてるか知ってはりますか」 「とんびんがなにしてるって、あそこにとまって何もしてへんがな」  里子はいつになくよく喋《しやべ》る慈念をみて、 「とんびんが何してるって、何してるのや」  くすんとわらった。 「とんびんはな、あそこに貯《た》めてんのや」  妙なことをいうと思った。 「貯めてるて何をいな」 「椎の木のな、てっぺんに大きな穴があんのや。暗い壺《つぼ》があるのや。このあいだ、学校ゆきしなに、のぼって見たンや」 「のぼった」  里子は壺のような穴があるときいてぎょっとなった。耳を塞《ふさ》ぎたいような気がした。だが、つづけて喋ってくる無心な慈念の話をきかないわけにゆかない。 「のぼってみたら、天辺《てつぺん》に壺みたいな穴があってな。下はまっ暗やった。じいーっと見てたら、底の方に何やらうごいとる。蛇やら魚やら鼠《ねずみ》やらが仰山《ぎようさん》うごいとる。蛇は赤いのもいたし、白いのもいた。みんな鳶が地面で半死《はんじに》にしてからくわえて運んだんや」  鳶の餌《え》の貯蔵所だというのであった。朽《く》ちかけた椎の頂に、停《とま》って動かない鳶は、餌を貯《たくわ》えてじっと眺めていたのだ。壺のような穴の底に、死にかけた鼠やら魚やらをいっぱいためている。半死の蛇がその中でうごめいている。 「やめてんか、こわ、こわ、やめてんか」  里子は眼をつぶって大声をあげていた。その声が紅葉した樹々の枝をぬって山にこだました。気がついたときは慈念はいなかった。築山の裏へ頭だけがうごいてかくれた。  里子はその夜夕食をすませて、隠寮の部屋にとじこもっていたが、慈念からきいた鳶の巣のはなしは脳裡を去らない。壺の中でみたという蛇のうごめく光景がうかび、食事もまずかった。ふッとたべたものを茶碗《ちやわん》にはき出したが、吐き出した物をみると、また、いっそう気味のわるさがつのった。 〈いやなこといやはる慈念はんや!〉  部屋に下って、新聞をよんだり、雑誌をよんだりしたが、いつまでも鳶の姿ははなれなかった。  慈念が鳶のはなしをしたのは、あの夜のことが心のどこかに作用して、里子をいじめたくなってあんなことをいったのではないかと思った。すると里子は、あの夜の気の狂ったような自分の行為がふかく後悔された。あれはいけないことだった。もう二どとあんなことはすまい。里子は心に誓ってみるのだ。  だが十二時をすぎても、里子は眠れなかった。こんなとき、和尚《おつ》さんがいてくれれば、と里子は孤独を感じた。夜半から風が出てきた。裏戸が鳴りはじめた。衣笠山はひくいために、孤峯庵のうしろの藪《やぶ》は風をまともにうけてななめにしなうのである。  一時。二時。里子は三時の音をきいたが、慈海は帰らなかった。  北見慈海はこの日孤峯庵から去っていた。寺で最後にみたものは、里子であった。里子は房事のあと、箪笥の抽出しをあけて慈海が身仕度をする後ろ姿をみただけだ。     6  十一月八日は、孤峯庵には内外からの出来事が生じた。それは慈海が帰ってこないので、里子が極度の頭痛をおこし、目角をつりあげ、慈念にあたり散らしたことである。慈海はこれまで、いくらおそくなっても帰ってきた。檀家《だんか》廻りにいって、酒をよばれても、二時までには帰った。外泊する場合は、最初からいい置いて出る。だから、慈海が帰ってこないのは、|何かあった《ヽヽヽヽヽ》という気がした。しかし、異変が起きたら、源光寺の住職から報《しら》せがあるはずであった。大酒呑《おおざけの》みの慈海のことだから、どこかで脳溢血《のういつけつ》にでもなって倒れたとしても、病院か通行人かがしらせてくれるはずである。正午になってもどこからも消息がなかった。 「慈念はん、和尚《おつ》さんはあんたにどういうて出やはったん」  里子は荒い言葉になった。 「知りまへん。本堂へよんで、私に僧堂のはなしをしてくれはりましたんや」 「いつ?」 「はあ、久間はんとこへお経あげにゆく前ですがな」 「僧堂のはなして、あんたに、どんなはなししたの」 「雲水《うんすい》になったら、旦過詰《たんがづめ》(修行の一課程で一室内に閉じこめて坐禅と断食を課すること)がある。辛抱《しんぼう》して奥へとおしてもらうまで、そこに坐っとれ、いやはりましたンや」  妙なことを慈海はいったものである。里子は寝物語に、僧堂の雲水生活をきかせてもらったことはおぼえている。 「それだけかいな」 「久間はんの戒名おしえてもらいました」 「それから」 「大悲心|陀羅尼《だらに》と施餓鬼《せがき》をよんで、あと観音経の普門品《ふもんぼん》を写本でええからよめいうて……二時に出ましたンで、あとのことは知りまへん」  とび出た額の奥の眼をギロリと慈念は里子にむけている。里子はまた、この眼に射すくめられた。昨日、慈念が出たあとで、慈海は自分を裸にして戯《たわむ》れた。そのことも、慈念が見ていたような気がするのだ。 〈そんな阿呆《あほ》なことないわ。この子は今出川へお経よみにいったんや。あの時刻は、わてと和尚《おつ》さんだけや。誰も知らへん〉  里子のこのような思いを慈念はいま見透すように睨《にら》んでいるのであった。 「ほんな、すまんなァ、あんた、ちょっと源光はんにいってくれへんか。うちの和尚《おつ》さんどないしやはったいうてきいてきてえな」 「はあ」  慈念はわずかに顔色をかえただけで部屋へいった。外出の用意をしている様子だった。  耳門《くぐり》のくさりがキリキリと鳴りひびいて、玄関に入ってくる足音がした。  久間平吉がたっていた。慈念が床板に膝をそろえていると、平吉はいった。 「和尚《おつ》さんはいやはりまっか」 「留守です」  慈念はきっぱりこたえた。 「どこへゆかはったんどす? ま、昨日《きのう》はおおきに!」  と平吉は慈念に低頭して、 「やっぱり、兄はいきましてン。今朝方、ぽっくりいきましてン。ええ往生どした。そいで、あしたのひるから、葬式だしとくれやすな。たのみまっさ。和尚《おつ》さんにな、よういうとくなはれ、帰らはったらな」  平吉は小僧だけにいいおくのもちょっと心配げであったようすだが、今出川の取り込んだ家が気になったらしく、そそくさと帰りかけた。が、すぐ戻り足になって、 「和尚《おつ》さんに、そやな、二等ぐらいのとこで、たのんどくんなはれいうて」  そういってから、平吉は頭を下げて出ていった。  慈念は耳門のくさりが重石《おもし》をことんと音たてて落ちるまで見ていた。やがて隠寮《いんりよう》にきた。 「久間はんのおっつぁんが死なはったそうどす。今朝やったそうどす。あした葬式たのんますいうてきやはりました」  つり上った里子の眼尻《めじり》がぴりぴりと動いた。 「それで、慈念はん、あんた、どういうて返事しなはったン」 「二等ぐらいで坊さんたのんでおくんなはれいわはりましたさかい、和尚《おつ》さんが戻らはったらいいますというときました」  慈海の行方《ゆくえ》が知れない。久間平吉にそんなことをいったのではないかと思ったのだが、落ちついている慈念をみてほっとした。 「そんならな。とにかく葬式もあるで源光さんに行って、わけをいうてんか」  里子はまだのんきにかまえていた。慈海はどこかで寝ているぐらいだと思っていたのである。 「そんならいってきます」  慈念が神妙な顔つきで孤峯庵を出て、小股歩《こまたある》きに等持院の茶畑の方に消えるのを里子は見送った。  禅寺には法類という寺仲間がある。つまり親類寺《しんるいでら》とでもいうべきものである。燈全寺の塔頭《たつちゆう》には、本山宗務所のある烏丸上立売《からすまかみだちうり》東の山内に、恵春、春光、玉鳳《ぎよくほう》、源昌、林泉、光明、普広、峨山《がざん》など十二に及ぶ塔頭寺院があった。それぞれ、住職がいて、本山の寺務を分担したり、葬祭、恩忌、懺法《せんぽう》などの行事に参列するのであるが、このほかに、市内に聚閣《じゆかく》・鹿園寺《ろくおんじ》、叢閣《そうかく》・慈源寺をはじめとする山内以外の末寺もあったわけである。孤峯庵はその部類に属した。世襲制度の禁じられていた当時は、住持の進退に関する規定は、まず法類が集議し、のち本山執事長、管長、老師の間で論議され、この結果が発表されるわけで、孤峯庵の法類には、源光寺、瑞光院《ずいこういん》、妙法寺、明智院などの末寺仲間があった。  このうち、源光寺は、山内にはなく、下立売御前通りを東に入った川ぞいの住宅街のなかに、庫裡と本堂の別棟《べつむね》が卵色の築地塀《ついじべい》に囲まれてひっそり建っていた。  住職は慈海と同年輩の宇田雪州である。雪州は僧堂を建仁寺で送ったこともあって、慈海とは雲衲《うんのう》仲間であった。酒も好きなところからよく往来した。慈海がヒマがあると衣笠山から下立売御前まで歩いて碁を打ちにゆくのであった。  十一月八日の午《ひる》すぎごろ、孤峯庵の小僧の慈念が、源光寺の門を入ってきて、山茶花《さざんか》の植わっている踏石づたいの庭をつっ切り、庫裡の玄関をあけたときには、雪州は縁の日向《ひなた》で剃髪《ていはつ》していた。小僧の徳全が応対に出た。和尚のいる縁にひざまずいて、 「孤峯庵から慈念はんがきやはりました。和尚《おつ》さん、来てはらへんかいうてはります」 「慈海和尚がうちへか?」  雪州は剃刀《かみそり》をあてていた後頭部から石鹸《せつけん》の泡《あわ》で濡《ぬ》れた手をはなして、 「妙やなァ」  といった。ここのところ、慈海和尚はきていない。こちらが誘っても、碁を打ちにこなかった。 「慈念がきたのか」 「へえ」 「こっちへ通せ」  雪州は脚《あし》のついた小桶《こおけ》をまたぎ、半分だけうしろ頭の毛をのこしたまま、庫裡の部屋に入った。慈念は早足で、台所口に廻って、縁から上ってきた。敷居のところに膝をついている。 「和尚《おつ》さん、いつ出なはったンや」 「昨日《きんの》どす」 「何時《なんじ》ごろや」 「へえ、奥さんが二時半ごろやいうてはります」 「うちへ来とらんぞ」  雪州はちょっと不審な顔つきになった。慈念の顔がいやに緊張していて、しかも蒼《あお》ざめていたからである。眼つきのわるいのは、この少年の額が人一倍とび出ていて、奥眼のかげんであることは充分知っている。しかしどこやらその眼の光りがすこし違っている。 「里子はんは知らんのか」 「へえ、源光さんへ行かはったらしいから、迎えにゆけいわはりました」  困ったことである。慈海は来ていない。どこへいったのか見当もつかない。 「おかしなこっちゃな」  雪州はまだ腑《ふ》に落ちない顔だった。と、慈念がいった。 「今出川の久間はんとこの人が死なはりました。葬式してくれいうて来やはりました。和尚《おつ》さんと約束だったそうどす。用意もせんなりません」 「葬式?」 「へえ」 「久間はん? 檀家か?」 「今出川千本東へ入ったとこの工業薬品売ってはる店どす」 「ああ、そうか、あそこにそんな檀家があったな。慈海和尚と法事にいったことあるわ」  雪州は久間の店の構えも、平吉の顔もうろおぼえに知っていた。しかし困ったことだった。肝心の住職が戻ってこない留守中に、葬式をしなければならない。本山にきこえたら、執事長の越山窟《えつざんくつ》から大叱責《だいしつせき》を受けることはわかりきっている。 「慈念」 「へえ」  雪州はじっと下を向いている慈念の後頭部をみていった。 「誰にもいうな。里子はんにもあんまり世間へふれるなといいなさい。ええな。葬式は法類でしたる。ええか。早よ、いんで本堂の飾りつけしなさい」  慈念は床板に額がひっつくほど低頭した。  雪州は徳全をよぶと、法類の諸寺へ使いにゆかせた。徳全は中学を出ていたし、僧堂にゆく寸前にある侍者《じしや》であった。先程から慈念のいっていることもきいて了解している。彼は慈念といっしょに門を出ると左右に分れた。 「困ったことやなァ、和尚《おつ》さん、どこで酔いつぶれはったンやろ。暢気《のんき》な話やなァ」  慈念にそういうと、徳全は北野社の方へ大股で歩きだした。  慈念が孤峯庵に帰ったのは四時近くだった。里子は一人で帰ってきた慈念をみて、 「なんや一人かいな」  といった。 「はい、源光さんに行ってはらしまへん」 「なんやて」  白いこめかみがまたぴりりと動いた。 「そんな阿呆な、和尚《おつ》さん、自分で箪笥から白衣だして着て、碁打ってくるいうていかはったンやないか」  慈念はだまって里子を見あげている。 「それで、源光さん、どないいうてはるン」 「ここのところ和尚《おつ》さんは来たことあらへんいうてはります」  里子は仰天した。慈海はたびたび源光寺へいって酒をよばれてきたといって帰っていた。あれは嘘《うそ》なのか。 「そんなら、和尚《おつ》さん、どこへゆかはったンや、慈念はん、あんた、どう思うンや」  だまっている慈念の顔に切羽《せつぱ》つまった声を里子はあびせた。 「わかりまへん、これから、久間はんの葬式の用意せにゃなりません。源光さんは法類仲間で、本山へ知れんように葬式すましたるいうてはりました」  里子はいっそう蒼ざめた。源光寺の雪州和尚の思いやりはわかる気がした。けれども、葬式は、どうせ、二級でやらねばならないから、法類仲間の役僧に来てもらわねばならないことはわかっている。そうすれば慈海の不在はかくしようがない。  慈念は思案にくれている里子の前をうつむいて通って本堂にいった。葬式の用意をするのである。小まめに働く慈念がいてくれればこそ、酒呑みの慈海が助かったともいえるのだ。里子は、落ちつきはらって本堂の方へ歩いてゆく慈念をありがたいとふと思った。なるほど、源光寺の和尚のいうとおり、檀家の守《も》りも忘れて遊んでおれば、本山から大目玉を喰《く》うことは必定であった。里子はしかし、気だけあせっても、表に出て差配するわけにゆかない。本堂の什器《じゆうき》一切に手をふれたことはないし、また葬式の仕度などというものはどうすればいいか見当もつかないのだった。 〈あんじょ、たのみまっせ〉  慈念に手をあわすしかないのであった。  隠寮へもどると、イライラしたが、ふと、慈海は源光寺へゆかなかったのなら、どこへ行ったのかと、そのことに関心がふかまった。  里子が、寺へきたのは、去年の秋だから、まる一年たつ。そのあいだ、最初のころは、慈海は寺に居たきりで、毎晩里子を抱いた。いや、夜ひるとない房事がつづいたことを里子は憶《おぼ》えている。しかし、本山へゆく、法類へゆく、檀家へゆく。いろいろの出先をいって出かけてはいた。法事にゆけば、お布施、菓子、そんなものを袂《たもと》か頭陀袋《ずだぶくろ》に入れてかならず土産《みやげ》に帰ってきたから、行先をうたがうわけにゆかない。  とすると、病気がなおってから、一、二ど外へ出たのは、源光寺ではなくて、里子にも秘密の行先があったのだろうか。ムラムラと嫉妬《しつと》が胸をさかなでた。 〈べつにまた女《おな》ごはんつくってはったンとちがうやろか!〉  ありそうなことにも思われる。源光寺へゆく途中にでもひょっこり昔の女に慈海は会ったのかも知れない。焼けぼっくいに火がついた。女の家をたずねていく。そう思うと、あの日、自分で白衣を着て出たのもうなずけるのだ。  しかし、この疑問は瞬時で消えた。そんなはずはないと思う。里子はそれを知っていた。慈海は南嶽から妻帯をすすめられても断わってきた男である。自分が好きだったのだ。里子を寺に入れただけで、もう慈海は満足だった。それは里子の躯《からだ》が知っている。  五時になると、久間家から二人の使いがきた。慈念が玄関で相手をした。 「うちはせまいよってに、和尚《おつ》さんにたのんでおきましたんやが、今晩のお通夜は本堂でさしてくれはらしまへんやろか。とにかく、奥の間にペイントの罐入《かんい》りが仰山《ぎようさん》入りましたんで、いっぱいどすのやな」 「和尚《おつ》さんの約束してはったもんならよろしいでしょ。どうぞ」  慈念がそういった。 「おおきに。そんなら、たのんます」  平吉の使いの者はすぐひきかえしていった。慈念は、本堂の内陣の戒壇に白布をかけ、金襴《きんらん》の三角打敷をかけた上に、内陣の奥から白磁《はくじ》の香炉を出してきて置いた。膳《ぜん》も、燭台《しよくだい》も、維那机《いのうづくえ》も、白木一式のものでやらねばならない。葬祭屋は入るけれども、職人は主として久間家で仏を棺《かん》にいれたり、棺を白布でつつんだり、金銀の造花をそれに供えて運んだりする仕事ぐらいで、いったん仏が寺に入れば、葬祭屋はひき下るのがしきたりになっている。だから慈念はいそがしいのであった。法類に笑われてもいけないし、檀家の久間家に粗末な感じをあたえてもいけない。このことは、たびたび、慈海が葬式をするたびに慈念に教えたことなのだ。慈念は慈海和尚に教えられたとおりの什器をそろえた。下間《げかん》の襖《ふすま》をひらいて、畳の上に白布を敷いた。白布はついでに敷居の上も覆《おお》うようにした。上間《じようかん》はそのままにしておく。久間の親類縁者は下間に坐ってもらい、焼香にくる人たちは本堂前廊下に整列してもらえばいい。これも慈海がいつもしているとおりである。物置から慈念は茣蓙《ござ》を取り出してきて、広い縁に敷いた。丸めた茣蓙を廊下の端に置き、くるくるとまき戻していると、里子が上間にきて、 「慈念はん、源光はんから、徳全はんが手伝いにきてくれはりましたえ」  といった。  雪州和尚が慈念一人でてんてこ舞いをしてはいないかと、案じた結果であった。 「へえ、おおきに」  慈念は茣蓙を向うのはしまで、ひっぱってゆき、小股歩きに、その茣蓙のしわを足でのばしながらまたこっちへ歩いてくる。里子のうしろに徳全がいた。 「和尚《おつ》さんから何もまだいうてきまへんか」  里子はその徳全の眼にちょっと気になる光りをみた。 〈あては知るかいな!〉 「何もいうてきまへん」 「そうどすか。そんなら、どこへ行かはったんやろな」  徳全もたびたび酒の相手をさせられているから知っているのである。 「徳全はん、和尚《おつ》さん、ちかごろ、源光はんへゆかはったのは、いつごろどすか」 「そうどすな。だいぶ永いこと来やはらしまへんどしたなァ」  やっぱりそうなのかと、里子は慈海の行先を考えざるを得ない。 〈あてにだまって、どこに女《おな》ごをつくってはったンやろ!〉  女が相手でないかぎり、他所《よそ》に泊るような男でないことは里子の躯はよく知っている。 「徳全はん、そんなら、よろしゅ、たのんますわ」  里子は本堂のことを慈念と徳全にたのんで、隠寮にもどった。部屋に入って、箪笥をあけたり、袋戸棚をあけたり、慈海にきた手紙をしらべてみたり、目角をつりあげて、そこらじゅうの慈海の秘密のありそうなものを調べた。何も心あたりのものはでてこなかった。 〈和尚《おつ》さん、和尚《おつ》さん、あんた、どこへゆかはったン。あてひとり残して、どこへゆかはったン〉  里子は畳の上にどさりと丸い尻《しり》を落した。瞼をおさえて、いつまでも所在のないまま紅蒲団《べにぶとん》の上へうつぶせになっていた。  久間平三郎の棺は七時半に孤峯庵についた。霊柩車《れいきゆうしや》から下ろされると、平吉、塗装職人で従弟《いとこ》でもある猪之吉《いのきち》、作造、伝三郎の四人が棺を大門から、本堂の庭先に入る小門をあけてかつぎ入れ、慈念と徳全が衣をきて待っている縁にいったん下ろすと、白足袋《しろたび》のままの裸足《はだし》で、庭の白砂利を踏み、正面の上り段から内陣の間に入れた。慈念が赤い打敷の三角巾《さんかくきん》をたらしている台の上に、塗装職人であった大男の平三郎の棺は横におかれた。なんまいだぶ、なんまいだぶ、三ど口ずさんでから、平吉は、ぺこりと慈念に頭を下げ、 「ほんなら、よろしゅ、たのんます」  といった。慈念は平吉を見あげて、落ちついた口調できいた。 「通夜は何人みえますか」 「兄の嫁と、わたしと、親類のもんが二人きます。けども、あしたは、田舎《いなか》からも汽車でつきますよってん、大勢になりますけど、通夜はほんのうちうちで済ましまっさ」  慈念は低頭した。  通夜の読経は、かけつけた源光寺の雪州が書院の間で紫衣《しい》に着かえて、徳全を侍者にしたてて、すませた。慈念が維那《いのう》をつとめた。下間《げかん》の間に久間家の四人は女一人の嫁を入れて読経のあいだは沈黙して坐っていたが、雪州和尚が|曲※[#「碌のつくり」] [#「碌のつくり」]《きよくろく》(僧の坐る椅子)から下りると、何やらぼそぼそ話していて、すぐ順番に焼香にきた。香がたかれると、上間の襖に煙が霧のようにたなびき、南嶽の描いた雁がまた羽ばたきはじめるのである。雪州はしばらく、その襖絵をみていたが、徳全に目くばせすると、本堂を下った。慈念もついてきた。 「どや、通夜は慈念、徳全の二人でできるな」 「へえ」  慈念は低く頭を下げた。 「書院に、詰所がつくってあります。泊りたい人には、蒲団を出しときました」 「そらええ、在家の人は、通夜いうても、夜どおし起きとらせん。交代やなァ」 「はい」 「徳全もそれでは、孤峯庵に寝るか」  徳全は頭を下げた。 「そんなら、わしはいったん帰る」  いい置いて雪州和尚は、隠寮の方に曲る廊下をとっとと奥の方へ入った。  里子は部屋の蒲団に頭を付けてうとうとしていたが、うしろの廊下で足音がするので、背中をのばしてふりむいた。 「やっぱり戻ってこんかの」  雪州の大きな赧《あか》ら顔《がお》が障子のすきまからみえると、里子はびっくりしていった。 「しらべましたら、墨染の普段衣と、黒袈裟《くろげさ》がおまへんのや。そんなもンもって、どこへゆかはりましたんやろ、あの人」  雪州は首をひねった。 「おかしなものをもって出たんやなァ」 「ここにあった文庫もありません」  と袋戸棚の上を指さしている。 「文庫が?」  雪州はちょっと考えていた。が、すぐにいった。 「そら、まるで雲水に出たみたいな話や。なに、あんたが知らんうちに誰かに貸したンじゃろ、心配せんでええ、和尚は明日《あした》の朝になるとケロリとして戻ってくる。久間はんの家の葬式は知らんのじゃから、暢気《のんき》にどっかで寝とるんじゃろ」  そういうと、雪州は廊下を行きかけたが、またあと戻りして、里子のはれぼったい顔をのぞいて眼尻を下げ、 「あんた、いじめすぎたンとちがうかいな」といった。 「いやな、和尚《おつ》さん」  里子は顔を赧《あか》らめた。慈海が、源光寺へ行って何をしゃべっているのか見当がついたからである。雪州は笑い声をのこして廊下を曲って消えた。  通夜は、慈念の差配ですすめられた。下間で久間家の四人が待機し、十一時に読経を徳全がすませると、書院の八畳に蒲団が敷かれた。交代に久間家の者を休ませることにした。徳全も庫裡との境にある四畳半に下った。慈念は平吉にいった。 「和尚《おつ》さんからよくいわれてます。通夜は香を絶えさせてはなりまへん。私が気ィつけてます。あしたのこともありますから、どうぞ、お休み下さい」 「おおきにな」  猪之吉がそばからいった。作造も、伝三郎もひる間働いているので、眠りたいのが顔に出ている。職人だからわかることでもある。慈念はそんな四人をゆっくり見廻して、 「交代にひとりずつ起きて下さいますか」  ときいた。 「へい、交代で起きとります」 「それではそうして下さい」  慈念は内陣のまん中に坐り、観音経の写本をよみはじめた。通夜の読経は声をはりあげないこと。小さく、ゆっくり読むように慈海から教わっている。明け方まで読まねばならない。慈念は維那机《いのうづくえ》から磬子《けいす》を中座の横にもってきた。下間には平吉が静座していたが、やがて、平吉は襖にもたれると、居眠りはじめた。十二時がすぎ、慈念が三どめの観音経を読み終ったときは、平吉はぐっすり眠っていた。 「もし、平吉はん」  平吉はとつぜん慈念におこされた。 「風邪《かぜ》ひきます。あっちで、交代の人が起きはりました。さ、書院へもどって休んで下さい」  二時ごろであったかと思う。うしろの庭で鯉がはねた。平吉は慈念のうしろから、寝呆《ねぼ》けた足どりで書院につれられていったが、障子を透かして、うす明りの中で三つの蒲団がどれもふくらんでいるような気がした。誰か起きてくれたのか。そう思っただけで、平吉は慈念に指示された蒲団に入ると、疲れがおしよせて寝入った。 〈長いこと看病さして、とうとう兄も死んでしもた。ああ、長いこと看病さしよった……〉  平吉は今出川の暗い奥の間で、兄のよこで寝ているような錯覚をおぼえた。兄の溲瓶《しびん》がまだわきに置いてあるような気がした。 〈兄は往生して孤峯庵でいま安楽に寝とる……〉  天井の高い孤峯庵の書院はせまい工業塗料店の家よりも、平吉にはいま大きな安息感をあたえたのである。  慈念が書院を出て、香を焚《た》きに本堂の廊下へ出る。擦《す》るような足音が、平吉にうっすらときこえる。隠寮では、里子がまだうとうとしていた。慈海はもどってこないのだった。 〈和尚《おつ》さん、和尚《おつ》さん、どこへ行かはったん。あて一人のこして、どこへ行かはったん!〉  里子は蒲団の中で、うわ言のようにくりかえしていたが、やがて、彼女にも波のような眠りがおそった。  孤峯庵の夜は更《ふ》けた。やがて、もう明け方が近づきつつあった。  葬式は源光寺の雪州和尚の引導《いんどう》で行われた。内陣に瑞光《ずいこう》、妙法、明智各法類の和尚たちが役僧に立って、太鼓と梵磬《ぼんけい》の紅い房をたらしてならんだ。維那はしきたりからいって慈念であった。徳全、大仙《だいせん》、慈照、易州、奇山の各法類の小僧たちが、和尚たちの対面に黒衣をきて回向《えこう》に唱和した、久間平三郎の戒名は、「香俊智道居士」であった。雪州は、いつもなら慈海が坐らねばならない|曲※ [#「碌のつくり」]《きよくろく》に坐り、割れるような地声で平三郎に引導を渡した。一時にはじまった読経は三時に終了したが、上間、下間に集まった久間家の縁者は二十八人いた。通夜をうけもった平吉、猪之吉、作造、伝三郎は、親類たちから、ねぎらわれるたびに、寝足りた顔をほころばしていた。彼らはかいがいしく働いたが、朝早くに、山麓の久間家の墓地に穴掘りにゆく人選がはじまったとき、元気な猪之吉がいった。 「ゆんべ、ゆっくり寝さしてもろたで、わいが兄やんの穴掘らしてもらうわ」 「そんなら、そうしてくれるか」  平吉が承諾したので、猪之吉と伝三郎が穴掘りに出かけていった。和尚連は読経が終ると書院にひと先《ま》ず下った。棺は昨日にかわって、平三郎の田舎である福知山の山奥からきた叔父の助三、喜七、それに熊太郎、幸太という平吉の次の弟たちが担《かつ》ぐことになった。慈念は、書院の和尚たちに茶を出していたが、本堂へきて出棺の用意ができたのを見届けると、また、和尚連を導いた。赤、紫、黄、橙《だいだい》、法類の和尚連のまとうた衣は、白砂利の庭に列をつくり、遺族たちの前であざやかな色どりをみせた。白布に包まれた棺が唐門《からもん》を出るとき、曇った空一杯の雲がわずかばかり割れて陽がさしてきた。  ちん、ぽん、じゃらん  ちん、ぽん、じゃらん  先導の雪州和尚の読経に唱和して小磬《ちん》、太鼓《ぽん》、梵磬《じやらん》が鳴った。衣笠山に向う役僧のあとから棺はつづいた。そのあとを二十六人の親族がてんでに数珠《じゆず》をもみながらついていった。  埋葬は四時にすんだ。平三郎は小松の茂った麓の黒竹の藪の傍《かたわ》らに埋められた。棺は伝三郎と平吉が寺から借りた鍬《くわ》でずり落す黒土にかくれた。地下の棺の量だけあまった土がまるくその上に盛られた。慈念の用意した白木の小さな膳が、湯葉の汁と箸《はし》をたてた盛り飯の茶碗をのせて、土の上におかれた。  山の横面をふくきのこくさい風が膳の上の汁を波だたせていた。     7  久間家の一族が孤峯庵《こほうあん》を去ったのは六時ごろである。孤峯庵は葬式のあとの花輪や、造花や、竹細工の焼香台など、ごたごたしたものが、本堂のわきに散らばっていた。ところが、寺内はそんなものの整理どころではなかった。  せめて、葬式の最中ぐらいには、ひょっこり帰ってくると期待されていた慈海が、まだ戻ってこなかったからである。法類が寄り集まったことでもあるし、善後策が協議された。  書院の奥の間に、明智院の老僧|照庵《しようあん》、瑞光院の新命和尚|竹峯《ちくほう》、妙法寺の海翁《かいおう》和尚、それに源光寺の雪州である。はじめに竹峯和尚が源光寺の方をみて口をきった。 「おかしな話やな。源光さん、慈海さんは、あんたンとこへ碁を打ちにいくいうて出たんやろ。それが行っとらんいうのンはおかしいやないか。なにか、そうやったら、もう一軒どっかに匿女《かくしおんな》でもあったのとちがうかね」 「うちへはきとりません。ここのところずうーっときとりませんのや。じつは、女のことで私も考えてみたのですがね。おるものなら慈海さんのことやから、私にいうはずですわいな。奥の里子さんにきいても、そんなことはないやろというとられるし、やっぱりこりゃ事故かなんぞとちがいますかいな」  と雪州がいった。 「事故やったら、誰ぞ、寺へいうてくるはずやないか」 「それが不思議や、何もいうてこんとこをみると、やっぱり、和尚、どこぞに潜伏しとると思うてええのやないかな」  と海翁和尚がいった。 「しかしですな」  源光寺はちょっと声をおとして、 「里子はんにきくと、和尚は雲水《うんすい》当時の文庫をもって出とるちゅう話で……」 「文庫を。おかしなこっちゃな。持鉢《じはつ》も袈裟《けさ》も入れてかね」 「どうもそうらしいんですよ」  明智院の老僧が、眼をしばたたいた。 「今ごろになって雲水でもなかろう。ちょっと、何というたかな、ここの小僧を呼んでみなされ」  源光寺は、周囲をちょっと見まわしたが、慈念の足音がそこいらにしないので、よっこらしょ、と声をたてて立ち上ると、廊下に出た。すでに先ほどまで、混雑していた孤峯庵の中は、まるで潮がひいたように静かである。床の上も、埃《ほこり》っぽいし、ザラザラした板の間を、雪州は、白足袋が汚れるのを気にしながら、ぽいぽいととぶような歩き方で庫裡《くり》にきて、 「慈念」  声をかけてみたが、そこいらにいる気配はなかった。 〈おかしいな。本堂かな?〉  もっとも、一人きりの孤峯庵の小僧であるから、責任の重い立場でもある。まだ、本堂の跡片付けでもしているのではないかと、雪州は廻り廊下をひと廻りして下間の方にきた。と、雪州はちょっとびくっとした。裏庭の池のはたで、煙がみえたからである。みると、慈念が襷《たすき》をかけ、青の無地の袷の尻をはしょって、さかんに何やら焚いている。 「慈念」  雪州は大声でよんだ。慈念は無心に焚火《たきび》の上に生竹やらしきびの木やらをかぶせている。炎がぱっと上ったかと思うと、とたんにそれが下火になって、白煙がもうもうとさかまきだした。葬式のあとの屑物《くずもの》を焼いていることは一見して知れた。 〈なかなかの働き者じゃな!〉  雪州はそう思ったが、会議の中へ慈念を入れて聞いてみないことには結論が出そうもないので、もう一と声、大きく叫んだ。 「慈念」  その声で慈念はもっていた竹棒をぱたんと落した。驚いたようであった。雪州の方をきょとんと見ている。 「ちょっと、こっちへおいで」 「はい」  鉢頭を前のめりにさせて、足早に裏廊下の下へきた。雪州を見あげている。とび出た額に汗が出ている。 「掃除はええから。まあ、ちょっと、書院へきておくれ」  やさしく雪州はいった。 「はい」  おとなしく慈念は廊下にあがった。うしろをふりかえって火を気にしている。まだそこでは白煙がのぼっている。しきびの燃える生ぐさい臭気が庭をおおった。雪州の鼻にもつきささるように匂《にお》った。  書院に慈念を連れてくると、四人の和尚連はこの小僧の躯《からだ》が畸型《きけい》であることにあらためて気付き、まじまじと瞶《みつ》めた。明智院の老僧が、 「慈海和尚はお前さんに何かいわなかったか。七日の日でなくても、前でもよいが」  慈念は上眼づかいに白眼をむいたような眼つきになった。 「はあ、和尚《おつ》さんは、七日の日、僧堂のはなしをしました」 「僧堂の?」 「はあ、旦過詰《たんがづめ》の話です」 「そら、わしらでもいうことがある。それからほかになにかいわなかったか」 「庭詰(玄関前に数日放っておく修行)のはなしをしてくれはりました」 「庭詰はわかった。どこへゆくともいわなんだかな」 「和尚《おつ》さんは寺を出て旅したいというてはったことがあります」 「旅を。いつのことや」 「いつやって、修行のはなしをしやはるときは、あとで、ぽつんとそんなことをいやはりました」 「自分が出たいとな」 「へえ」  白眼をむいた慈念の奥眼に、四人の老僧連の眼は集中した。 「ふーむ」  明智院の老僧がまず溜息《ためいき》をついた。 「これは、困ったことじゃな。慈海和尚は、東福寺の管長のように遁走《とんそう》しやしゃったんか」  源光寺が眼を大きくひらいた。 「ほな、やっぱり」 「何かな」  驚いた眼を海翁が雪州和尚に投げると、雪州は小声になって、 「そうかも知れん。あの女《おな》ごはきついでのう。和尚は逃げたんやな」  まさか、といった顔を一同はしたけれども、あり得ないことでもない。 「それじゃ、源光さん、里子さんをここへよんでみたらどうや」  隠寮へ源光寺が使いに立って、里子を書院につれてきた。蒼白《あおじろ》い顔をうつむけて書院に坐った里子は、放心したような眼もとであった。 「七日のひるすぎまで、和尚《おつ》さんはいつものとおりどした。久間はんの店が先代の命日でお経をあげてくれ、いう使いがみえたので、慈念はんにゆくようにいやはりました。いつも和尚《おつ》さんがいかはるのに、おかしいなと思ってますと、隠寮にもどって、ちょっとしてから、源光はんにいって碁を打ってくる、こないいやはりますンで、そうどすかいうてますと、自分で箪笥のひき出しあけて、かってに白衣だして着てゆかはりましたんどす」 「文庫は?」 「へえ、気ィつけてみてしまへんさかいに、あとで袋戸棚みてみたら、いつもある文庫がみえまへんよってに……」 「ふーむ」  明智院の老僧は里子のむっちりした膝のあたりをじろりとみながら言葉をついだ。 「あんたには、雲水の話をしなかったかね」 「雲水の? そら何どす」 「僧堂へゆくちゅう話や」 「和尚《おつ》さんがですか」 「そうや、旅をしたいという話や」 「そんなこと初耳どすがな」  里子は何のことやらわからぬといった眼もとで、色ざめた厚い唇をあけて老僧をみている。 「慈念」  明智院の老僧はいった。 「えろう火が燃えとる。危ないな。いっておいで」  それまで、だまって部屋の隅《すみ》に坐っていた慈念が立ち上ると、擦《す》るような歩き方で廊下を出ていった。なるほど、障子があかく色づくほど庭で火が燃えている。 「奥さん」  老僧はいった。 「和尚はひょっとしたら、旅に出たかもしれんのう!」 「何どす?」  里子が膝をにじりよせた。 「待ってみて、もし、音沙汰《おとさた》がなければの話やがの。旅に出たのじゃ、きっと。わしらでも時に、そんな気持のすることがあるが……何やかや寺の財政やら、ごたごたしたきりもりに頭を悩ませておるとのう、嫌《いや》になってしまうことがある。のう、そうかも知れんのう」  老僧があとの文句を和尚連にいうと、みなはそれぞれの表情でうなずいている。  これが、結論のようなことになった。しかし、孤峯庵の住職北見慈海が、突然、寺を出たとしたら、法類としては、黙っているわけにもゆかない。いちおう、雲水になって出たという判断が成立つにしても、かりにそうではなくて、どこかで行き倒れにでもなっているとしたら、警察へも届けておかねばならないのではないか。しかし、慈海はまだ五十八歳である。普通人よりも元気だし、行き倒れになって、行路病者のようなぶざまな最期をみせるようなことはまずないとみてよかった。結局、警察へは、もう少し、時を待って届けて出る方がいいのではないか。  四人の老僧たちは、それぞれの侍者を先に寺へ帰していたので、久間家からのひき出物は持たずに、手ぶらで七時すぎに孤峯庵を出た。  慈念の焚いた火は消えていた。  ふたたび孤峯庵は主人のいない夜を迎えた。  慈海が|遠くへ《ヽヽヽ》いったにちがいないという確信を最初にもったのは里子であった。里子は、慈海が七日二時半ごろ、寺を出る前に自分を裸にした挙動を思いだしてみた。裸にするのはべつにあの日にかぎったことではなく何も珍しいことではないのであったが、あの時の行為を思い起してみて、どこかいつもとちがった感じがしないでもないのだった。なぜだったろう。病気あがりでそうだったのかとあの時は思ったものだが、今になって考えてみると、それはすこし違うようだ。慈海は、一方的に里子を押し倒した。いつもなら、乳房や脇や、足や、手や、里子の訴える部分を慈海は心ゆくまで舐《な》め廻した。慈海は里子が死にたいと漏《も》らすまでは行為にうつらなかった。ところが、あの日は、どこか一方的に前戯を端折《はしよ》っている。源光寺へゆくというのは嘘《うそ》だとしたら、何を考えてあんな一方的ないじめ方をしたのか。慈海はすでに、あのとき、寺を出る決心でいたのではないだろうか。そうでなければ、源光寺へ碁を打ちにゆくなどと嘘をいうはずはないではないか。 〈ああ、うちはやっぱりだまされてたンや〉  そう思った瞬間、里子の頭にひらめいたものは、なぜ、慈海が自分を裏切らねばならなかったのか、という一事であった。 〈慈念だ! 慈念がいったのだ!〉 〈あの夜、自分は何ということをしたのだろう。慈念が三畳で写経しているのをみたとき、最初そんなことをするつもりはなかった。あのとき、若狭からきた西安寺の和尚《おつ》さんからきいたことで、いいしれない慈念へのいとしさをおぼえた。慈念があわれでならなかった。いとしさとあわれみから夢中になって抱いてしまった。慈海に言わないでくれ、とあとで口留めしたのに、慈念はひょっとしたら、和尚《おつ》さんにいうたのではないか〉  慈海が自分を愛していたと思いたいのなら、里子は裏切られた理由はそれ一つだと考えざるを得ない。そのように思うと、慈念のとび出た額や、奥眼や、無表情なすべてが、いま里子の前に大きな壁のように押しかぶさってくる。里子はいてもたってもいられなくなった。  里子は、隠寮を出た。庫裡へ走った。たしかめねばならない。あんな子供に手玉にとられてたまるものか。 「慈念はん」  慈念は三畳の間の隅でひっそりしていた。寝ているようであった。 「ちょっと起きてェ」  里子は叫んだ。月の光りが高い格子窓から入りこんで里子の乱れた裾を縞目《しまめ》にてらした。慈念のいる方は暗くてみえない。 「あんた、うちのしたこと、和尚《おつ》さんにいうたやろ」  慈念は起き上ったようすだった。鉢頭がうっすらと見える。黒い蒲団を手でぽんぽんとたたいているのがわかった。 「何かいいおし、だまってないで、いいおし」  里子は躯をふるわせていった。 〈それをいってくれなければ、和尚《おつ》さんの行方はわからない……〉 「いいおし」  慈念はだまっていた。寝呆《ねぼ》けているのか。慈念の顔をみようと里子は前に躯をつきだした。と、慈念が隅の方でぽつんといった。 「いいまへん。あんなこと、いえしまへん」  里子はしゃがんだ。嘘ではないのか。部屋の隅をすかしてみた。洟《はな》をすするような音がしている。里子はじいっと聞耳をたてて慈念の方に眼をすえた。  慈念は泣いていた。洟をすする音はせわしくなった。 「いいまへん、あんなこと、誰にもいえしまへん……」  里子は慈念の方に走りよった。汗くさいつるつるの慈念の頭と肩をいっしょに里子は抱いた。 「いわへなんだか。いわへなんだか」  里子はそんなことをつぶやきながらいい現わしがたい興奮におそわれた。はげしく咽喉がかわいた。慈念がいわなかったことに安心したと同時に、いままた、心の奥の方で、いっそのこと、和尚にそのことをいってほしかったような、残酷な快感を味わってみたい気もした。いや、それらはもうどうでもいいような気もした。里子はもう一ど、慈念を力強く抱いてやりたいと思った。 「慈念はん、あんたはええ子や、いわへなんだか、いわへなんだか」  里子は慈念のくりくりとしまった躯をあらん限りの力で抱きしめた。 「慈念はん、うちら、もうこの寺出んならん。和尚《おつ》さんが帰らはらへなんだら、うちらもうお払い箱や。うちらもう用はすんだ、何も用あらへん」  慈念は泣くのを止《や》めて、里子の胸もとで息をつめてきいている。 「せやないか。和尚《おつ》さんは雲水にならはったンや。うちら放ったらかしといて遠いとこへ行かはったんや、な、そうやろ、慈念はん、あんた知ってるか。和尚《おつ》さんが僧堂のはなししやはったこと。禅宗の坊さんは、欲が出たらあかんちゅうて、欲が出たらしまいやいわはった。そいで、うちは和尚《おつ》さんのいわはるとおり欲が出ると捨ててきたわ。うちら、もう何にも欲あらへんのに……和尚《おつ》さんは出やはった。寺捨ててどこかへ行かはった。うちら、何にも欲あらへんのに……」  里子は慈念の鉢頭の上へ、大粒の涙を幾すじも流した。  慈海が孤峯庵に戻らなくなってから十七日目に、法類代表の明智院住職小寺照庵から、正式な届書をうけた万年山燈全寺宗務所は、これを宗務会議へかけ、法類代表が詮議《せんぎ》経過を述べているとおり、北見慈海の失踪《しつそう》について、果して、慈海が、雲水を志して、一大発意《いちだいほつい》をなして出たものかどうかについて疑問をもった。もしそうならば全国どこかの僧堂に入衆《につしゆ》した旨の報告があって然るべきである。何も江戸時代の出家生活とちがって、いまは徒歩|行脚《あんぎや》で、虎渓《こけい》や伊深の僧堂の門をたたくものとは限っていない。汽車にのって、駅弁を喰いながら旅をする時節である。かりに遠くとみて岐阜県下の僧堂についたとしたら、何かそこからハガキ一枚でもよこすのが当然ではないか。法類一同が連署して提出したこの届書に、宗務所長である春光院住職寺崎義応は不審なものを感じたのだった。 〈酒呑みでだらしなかった和尚のことだ。一日と十五日の祝聖《しゆくしん》にさえ、本山に出頭しなかった慈海のことだ。どこかでゴロンと横になって、そのまま死んでいるのではないか……〉  宗務所長の疑問も尤《もつと》もなことといえたのである。本山にはまた評議員の塔頭僧《たつちゆうそう》がおり、ここで孤峯庵問題は再び俎上《そじよう》にのぼったが、結論はでなかった。困りぬいた評議員は、管長の裁決に一切を委《まか》したらどうか、ということになった。失踪事件が檀家《だんか》から知れわたれば、嘗《かつ》て東福寺の管長が失踪したときのように、遁世《とんせい》住職として新聞をにぎわし、世間の物笑いになる。  そうなれば孤峯庵一寺の問題ではない。一山の恥だ。  その時の燈全寺派管長|奇峨窟《きがくつ》杉本独石老師は、この宗務会議の結果を春光院住職からうけとると、しずかに微笑した。奇峨窟は高齢九十歳の老骨である。歯の抜けた口もとをくちゃくちゃと動かしながら、心配げな寺崎義応の顔をみていった。 「慈海が寺を出たか。それもええではないか。あれはまだ雲衲《うんのう》じゃ。放っとけ、放っとけ」  義応は九拝して隠寮を出た。この旨を評議員に告げた。  新聞が、孤峯庵住職北見慈海の失踪を書きたてなかった理由は、この奇峨窟の判断を尊重したためであろうか。     8  十一月七日、久間家の葬式の前々夜のことである。  慈念は、午後九時ごろ庫裡《くり》の玄関から廊下をつたって本堂裏へきた。内陣のうしろの倉庫の扉をあけ、手さぐりで棚の上の肥後守《ひごのかみ》と竹小刀をとりだした。山から吹き下ろしてくる風は慈念のあけた倉庫の扉を二、三どがたがたとゆるがせていた。慈念はいそいで桟《さん》をはめた。床下をすかしてみた。普通の家の床よりいくらか高い床下は風をくくんで砂ぼこりが舞っている。慈念は鉢頭を床板の裏につけて、じっと眼をすえていた。床下の向うに表庭の白砂利が線をひいたようにみえる。慈念はしゃがんで三、四分床下をにらんでいたが、やがてゆっくり、廊下に上《あが》った。ことりとも音がしない。風の音が強かった。  慈念は本堂から庫裡に帰った。玄関横の三畳にもどった。外は荒れている。濃い鼠色《ねずみいろ》の空が、格子窓《こうしまど》の向うにかすかにみえる。慈念は畳の上に坐った。手に竹小刀と肥後守をもっている。慈念はやがて、静かに立ち上ると玄関に出て、表庭の暗がりに消えた。  一時すぎ。大門のあたりでキリキリと鎖《くさり》のきしむ音がした。耳門《くぐり》があいたのだ。  慈海だった。ひどく酔っていた。鉄鎖《てつさ》の重石《おもし》を慈海は被布《ひふ》の裾《すそ》でこするようにして入ってくると、礫石《こいし》の石畳から、蕗《ふき》の生えている百日紅《さるすべり》の下へふらふらとよろけた。と、そのときだった。何やら黒犬のような影が足もとへとびかかってきた。  慈海はあばら骨の下に激しい痛みを感じた。痛みは、腹の中につきささった竹小刀のためであった。竹小刀が胃袋の左脇でぐいっと上部へ移行して心臓を大きくえぐったのだ。つづいて、慈海の腹はもう一本の肥後守でとどめをさされるように力強く突かれた。血がふき出した。慈海はよろめき、前のめりに二、三歩進むと、百日紅の木に掴《つか》まろうとしたが、その手はつるつるした樹肌《きはだ》をすべって力なく空《くう》を掴んだ。う、う、うっと慈海はうめき声をだしたが、やがて、その声はうすれ、地べたへどうと倒れた。  蕗の葉の上でけいれんを止めた慈海の躯を黒い影が抱き起していた。影は本堂との間にある中門を押した。慈念である。扉はかんぬきがかかっていない。すうーっと開いた。慈念は慈海をひきずって、床下にもぐりこんだ。  床下には七輪があった。そこに餅焼網がかかっていた。鯉の骨がいっぱい散乱していた。ひもじい時に、慈念が竹小刀で射止めてたべたものであった。背のひくい慈念は、床下をさっさと歩いた。ひきずってきた慈海の躯を内陣の倉庫の暗がりにおくと、そこにあった筵《むしろ》をかむせた。  慈念は慈海の胸に耳をあててじっとしていた。やがて鉢頭をうなずかせて立ち上ると表庭へもどった。百日紅の下の蕗の葉を手くらがりの中でむしり取りはじめた。この作業は一時間余かかった。慈念の手は蕗のアクで黒くよごれた。慈念はその葉を床下に何どもはこんだ。  風はますますひどくなっていた。慈念は裏庭から本堂裏に上った。廊下を擦って三畳に帰った。  翌八日は未明に起き、庭へ出た。蕗の葉はのこっていた。蕗にも砂利にもどす黒い血がとび散っていた。慈念はきれいに掃き清めた。  久間家の平吉と猪之吉たちが平三郎の棺を下ろしたのは午後七時半ごろであった。慈念は本堂の内陣の台に棺をのせ、源光寺の雪州が読経にくるのを待っていた。雪州は徳全と本堂にきて、慈念の維那《いのう》で通夜経をすませると、すぐに帰っていった。  夜、十二時、慈念は本堂にきて、下間《げかん》に猪之吉、伝三郎、平吉、作造がいる前で経をよんだ。よみ終ると、 「交代でひとりずつ起きてて下さいますか」  ときいた。 「へい交代で起きとります」 「それではそうして下さい」  作造、伝三郎、猪之吉が書院へ退いた。そこには四人分の床がとってあった。  慈念は中座にすわった。維那机《いのうづくえ》から観音経の写本をとりだした。ゆっくり読みはじめた。写本の最後がくると、また最初にもどった。また読む。最後がくると、また繰《く》りかえした。午前二時、下間で平吉は睡《ねむ》りこけていた。 「もし、平吉はん。あっちへいって休みまひょ」  平吉は慈念の抹香《まつこう》くさい衣の袖《そで》に頬をなでられて、うす眼をあけた。 「交代どす。さ、あしたがまたえろおすさかい、ちいと休みまひょ」  平吉は押しよせてくる激しい疲労と睡魔を感じた。 「ほんなら、ほんなら休ませてもらおか」  と平吉は口の中でぶつぶついい、慈念に手をひかれて書院にきた。そこに蒲団がしかれてある。うすあかりの中で、一番手前に平吉は入りこんだ。  慈念は平吉の寝たのを見届けると、本堂にきた。  慈念は百目|蝋燭《ろうそく》の炎を消した。そうして、ゆっくり平三郎の棺をなでた。香を鷲掴《わしづか》みにしてたいた。経をよんだ。  みょうしゃかいしつだんえ、そくとくげえだつ、にゃくさんぜんだいせん、こくどまんちゅう、おんぞくういつ、しょうしょしょうにん、さいじじゅうほうきょうかけんろ、ごうちゅういちにん、さあぜしょうごん、しょうぜんなんし……  唱じながら慈念は柱掛けの下をくぐって、位牌堂《いはいどう》の隅に手をのばした。釘《くぎ》ぬきと金槌《かなづち》とが兼用になっている丁字《ていじ》の金槌があった。  慈念は唱じながら、平三郎の棺の白布をはがすと、棺の上蓋《うわぶた》をこじあけはじめた。トントンという音が静寂《しじま》を破った。  せえおしゅう、じょう、にょうとうにゃくしょうみょうしゃ、おうしおんぞくとうとくげえだつ……  蓋のすきまに金槌がテコになって入り込み、それを押し込むと慈念の力はギイギイと蓋を押しひらいた。ギイギイギイとまだ音は激しくつづき、やがて、ぽこんと短い響音がしたと思うと、蓋は生き物のように自然に四方の釘をはがして浮きあがった。平三郎の髭面が箱の底の方で片眼だけあけていた。硬直した頬は死斑《しはん》が出ていて庭石のようによごれている。慈念は平三郎の顔と棺の蓋とのあいだの幅をゆっくり目測した。平三郎の冥途《めいど》の持ち物ははっぴと着物と生前使っていた塗装の道具だった。慈念は着物といっしょにそれらを、隅にまとめた。  やがて、慈念は棺の上に白布をかぶせた。そうして維那机のわきにあった底のまるい大磬子《だいけいす》を抱くと、渾身《こんしん》の力をこめて畳に下ろした。慈念はやがて、その磬子をくるくると廻しながら、早足で下間から裏口に出て、廊下に磬子を置き、床下におりた。慈海の死体は筵の下で強《こわ》ばっていた。ひきずってくると、慈念は慈海の躯を階段をずらせて廊下にひきずりあげ、まるい磬子の上にのせた。強ばった慈海の躯は、お尻を空洞《くうどう》の磬子にのせた恰好《かつこう》になった。わずかにぐにゃッと動いて、磬子の中におさまった。慈念はふたたび磬子をくるくるとまわしながら下間から内陣の方へ運んだ。慈海の死体は椀《わん》にのせられた一匹の鯉に似ていた。慈念はやがて死体を廻し運びながら、内陣の棺のわきまできた。白布をとった。慈念は慈海の躯を力いっぱいもちあげた。棺のはしに硬直した頭がひっかけられた。力を出して、躯を棺のへりにずらせると、慈海はすっぽりと中へ入った。平三郎の向きと逆にしてつめこまれた慈海の顔は、平三郎の垢《あか》のついた毛ずねに押しつけられ、足は心もちひらいていた。平三郎の胸と顔が中にはさまれて、慈海の足は、両わきのすき間にさし込まれた。慈念は平三郎の職人時代のはっぴをひきぬいた。そうしてそれを慈海の背中にかぶせたのである。蓋をしめた。釘を打ちつけた。白布を元どおりに包んだ。  慈念は蝋燭《ろうそく》に火をつけた。中座にきて、また観音経を唱《しよう》じだした。  ねんぴかんのんりき、とうじんだんだんえ、わくしゅう、きんかあさ、しゅうそくひちゅうかい、ねんぴかんのんりき……  と、慈念は、唱じながら横眼で襖《ふすま》をみていた。が、急に唱経をやめた。慈念の眼が百目蝋燭の炎のゆれる中でキラッと光ったのはこのときであった。  雁がみえたのだ。雁は、羽ばたき動いている風にみえた。炎のゆれるたびに雁は啼《な》いた。  慈念は経をよみながら、立ち上り、床下にもどった。棺から出した平三郎の荷物といっしょに筵の始末をした。ゆっくりまた本堂へもどった。中座に坐ると、ふたたび経をよみはじめたが、そのときはもう衣笠山の小松林の梢《こずえ》が白々とあけはじめていた。  九日の朝、葬式は二十八人の久間家の家族を前にして行われた。法類の和尚たちが二列にならび、雪州が引導をわたした。棺が出るとき、担《にな》い手《て》になったのは、平三郎の田舎の福知山からきた叔父、弟たちであった。前日担いだ猪之吉と伝三郎は穴掘りに出ていたし、平吉と作造はほかの仕事をしていた。 「どえらい重たい仏やな」  丹波《たんば》で炭焼きをしているという熊太郎がかすれた声でそうつぶやいたが、誰かが力をぬいておれば重みが自分にかかることでもあった。しかしこの声は四人の役僧と五人の小僧連の唱和する経文の流れで消された。唐門があいていた。白砂利の上を棺は通り、雪州が先導にたった。赤、紫、黄、橙の袈裟と衣がつづいてゆく。赤い大傘を雪州の頭上にかざしている維那《いのう》の慈念は、棺のうしろから、へっぴり腰で担いでゆく熊太郎や、幸太の後ろ姿をみた。やがて棺は衣笠|山麓《さんろく》の墓地に入った。  すでに穴はあいていた。棺は八人ががりで下ろされて、数分のちには黒土をかぶった。  慈念は寺に帰ったがすぐ火を焚《た》いた。葬式のあとの散らかった生竹や造花や筵や蕗の葉やら、それに平三郎の荷物も、また用意してあった慈海の雲水時代の文庫をも焼いたのだった。  焼いた灰はのこしてはならなかった。慈念は火があかあかと燃え、それらのすべてが燃えつきるまで見つめていた。慈念はこのとき、孤峯庵にきてからのきびしい生活に打ちひしがれた月日を思いうかべていた。慈念は若狭《わかさ》の村にいても、京都にきても、孤独であった。孤独な心のもってゆき場所のない慈念は、どんな夢をみてきただろうか。中学へいってもそれはなかった。あるものは、きびしい教練への嫌悪《けんお》であった。いま、慈念の頭に、騎兵銃《きへいじゆう》をかついで京都の町々を皆のうしろからチョコチョコと歩いた屈辱がよみがえるばかりである。それでは寺の生活にどんな夢があっただろう。つらい日課のあいまに、慈念が頭にえがいた夢は一つきりだった。それは苦しいながらも、なじんできた寺の生活を利用して、時間さえうまくやれば葬式の棺桶《かんおけ》に死体を詰めて殺人ができるという思いつきであった。しかし、これはあくまで夢をえがいたにすぎなかった。慈海への殺意と直接結ばれてはいなかった。ところが里子に犯された夜、慈念はいい知れぬ里子への憎悪と愛着の混濁した衝撃に打ちのめされたのである。甘美な陶酔のあとに慈念を襲ったのは慈海へのはげしい憎悪のほかには何もなかった。手のしびれるほど、麻縄《あさなわ》でひっぱり起した和尚を憎んだのだ。和尚のしていたことは鳶《とび》の巣の穴の中に、うごめいていた蛇のようではないか。覗《のぞ》きみた和尚と里子の連夜の狂態。  その慈海をこの世からついに葬ってしまったのだ。  久間家の葬式がすんで十日たった日の朝、慈念は本堂にきて、内陣に入ったが、南嶽《なんがく》の雁をみたとき、慈念の眼は異様な光りをたたえていた。松の葉蔭《はかげ》の子供雁と、餌《え》をふくませている母親雁の絵の前であった。慈念は力いっぱい母親雁の襖絵に指を突込んで破り取ったのである。そこだけに穴があき、和紙の下貼《したば》りが出て桟木《さんぎ》が露出した。  孤峯庵から、慈念が姿を消したのは、その翌日のことであった。住持北見慈海が失踪《しつそう》して、じつに十三日目のことである。 「和尚《おつ》さんのゆかはったとこを旅しますワ」  二、三日前から慈念はそんなことを里子にいっていたが、まさかと思っていた里子は翌朝、起きてみて、慈念の姿が庫裡にないので驚いた。 「慈念はん、慈念はん」  里子は大声でよび廻った。どこからも慈念は出てこない。玄関横の三畳の板の間の畳に、柳行季《やなぎごうり》が一つおいてあり、慈念が使いふるした蒲団がたたんであった。  里子は本堂にきた。一人ぼっちになったと思った。内陣の南嶽の絵をみつめた。この絵を、南嶽に耳をくすぐられながらみた十年の歳月が走っては消えた。 「孤峯庵は雁の寺や、洛西《らくせい》に名所が一つふえるやろ」  南嶽がたびたびいったその言葉が、里子の耳たぶの奥でいまも生きていた。と、里子は、四枚目の襖の下方をみたとき、一羽の雁が、そこだけむしり取られているのをみた。 「誰が、こんなことしたのやろ!」  すぐ、慈念の仕業《しわざ》にちがいないと思った。そこに描かれてあった雁の絵は、白いむく毛に胸ふくらませた母親雁であった。綿毛の羽毛につつまれて啼く子雁に餌をふくませている美しい絵であった。  里子は蒼ざめた。慈念が、よく内陣へ入るたびに、この襖絵の一点をみつめていた姿を思いだしたからである。里子は母親雁をむしり取った慈念に哀れをおぼえた。ところが、ふとそのあとで、慈念が母親雁を破いたことと、慈海の失踪したこととが連関しているのではないかという奇妙な疑惑を抱いたとき、彼女の背筋に恐ろしい戦慄《せんりつ》が走った。  里子は、慈海が帰らなかった七日の風が吹き荒れた孤独の深夜を思った。あの夜、里子はいいようのない恐怖で眠れなかったのである。そうして、慈念が、今出川の久間家に読経に行って、死にかけていた平三郎を見たはずなのに、帰ってから何もいわなかったことを思いだしたのだった。平三郎の死は八日に報《し》らされている。あの時なぜ慈念は久間家の兄が寝ていたことをいわなかったのだろうか。里子は、ひょっとしたら、慈念が恐ろしいことをしたのではないか、と思った。だが、その恐ろしいこととは何だろう。里子の心に芽生えた疑惑はとうてい口にだせないものであった。里子は慄《ふる》えた。そうして首を振ってこのおそろしい疑惑を打ち消した。  桐原里子は一カ月たって実家に帰った。孤峯庵には、里子が去ってから二カ月目に、新しい住職の晋山《しんざん》があった。前住北見慈海と侍者《じしや》慈念の行先は誰も知らない。孤峯庵に住んだ里子を含めて三人にまつわる風評はやがて絶えたのである。  洛西孤峯庵の本堂には、いまでも岸本南嶽の描いた雁の絵の襖がのこっている。金粉のちらばった大襖は、歳月を経た今日ではくすんだ小豆色《あずきいろ》に変っているけれども、老松の枝々にうずくまった雁のむれは美しく生きている。  むしり取られた母親雁のあともそのままである。 [#改ページ]  第二部 雁 の 村     1  若狭《わかさ》海岸を走る小浜線《おばません》が、京都府境の舞鶴から、終着駅敦賀へ向う途中に若狭本郷という小駅がある。駅は海に近い水田の真中にぽつんとある。本郷村はこの駅のある地点からやや谷へ入っていて、両側に小高い山がせりあがり、村の東端から海へそそぐ佐分利川《さぶりがわ》が、西南へ向って、山峡をまがりながら入りこんでいる。途中は水田地帯であるが、谷はちょうどながい扇子を半すぼめにしたあんばいに、奥へゆくほどせばまって、とっつきには丹波境の連峯が屏風《びようぶ》をたてたように高く、川にそう土堤道を奥に向って両側を望むと、左右いずれにも小谷があり、菊の葉型に入りこんでいた。そしてこの谷にも少なくて十戸ぐらいか、多くて六十戸ぐらいの部落が、竹藪《たけやぶ》の多い山ヘヘばりつくようにかたまっていた。どの家も藁《わら》と茅《かや》をまぜた入母家造《いりもやづく》り。三角型にとがった屋根をつきたてて、煙ぬきの煤《すす》けた穴のわきにも、軒にも、ぺんぺん草が生えていた。耕地の少ない所だから、家屋敷をおごる者はいなくて、軒下三尺が石垣《いしがき》である。すぐ隣家が接近し、あっちをむいたりこっちをむいたり、思い思いに建っていた。谷がせまいから、陽のさす時間も短いのであった。南面を尊ぶ一般の建築常識からいえばおかしい話だが、道なりに勝手勝手に戸口をかえる姿は、どの部落も共通していて、白壁の土蔵をもつ家などはかぞえるほどしかなく、大半は母家のわきにトタンぶきの作業|小舎《ごや》、杉皮ぶきの鶏舎、漬物小舎などもちながら、ひしめきあっていた。だが、この眺めは、ひらけた海岸の駅でおりてすぐのけしきなので、旅人にとっては、どことなく閑雅にみえたかもしれない。バスの通る大道から、各部落へ白い一本道が吸いこまれてゆくのも絵でみるようなのどけさである。  底倉の部落は、この谷の二つ目の左手にあった。戸数六十戸。谷では大きな方だが、しかし、どこよりも入りこみが深くみえたのは、背山が高くて、まわりに孟宗竹《もうそうちく》が密生し、それが部落をつつんでいたせいかもしれない。昭和十一年八月はじめの夕刻である。この佐分利川の土堤道から、底倉部落へさしていそぐ僧衣姿の若者がいた。若者といっても、じつは、この男、まだ十六歳の堀之内慈念である。京都の衣笠山《きぬがさやま》の孤峯庵《こほうあん》を出て、二年の歳月がたっていたが、そういえば、頭鉢《あたまはち》のひろい額も、軍艦頭も、ひっこんだ眼も、しなびた椎茸《しいたけ》のような耳も、持ち前ゆえにかわるはずもないが、ひとまわり大きくなっていた。衣《ころも》の裾《すそ》をたくしあげるのに、腰に紐を結んで膝《ひざ》から下を丸出しにしているが、スネには毛がみえ、ちびた八つ割り草履《ぞうり》をひきずるように歩く姿は、どうみても乞食《こじき》坊主としか思えぬが、足を地めんにする歩き方もこれは京都でよく見たこの男のくせである。ちょっと見だと、どこかの若い雲水《うんすい》が托鉢《たくはつ》から帰る途次のような恰好《かつこう》でもあった。慈念は、網代笠《あじろがさ》を手にもち、ふり分けにした小荷物を、左肩にかつぎ、時々その荷へ手をそえてやや前かがみに急いでいた。  底倉の部落は段状になっている。慈念の目ざす寺大工堀之内角蔵の家は、左手の乞食谷とよぶ谷にあった。夏のことだから、稲穂もおもたげな水田が、早稲《わせ》だけははや色づきはじめて、角蔵の谷の方まで段々にせりあがっている。まがった畦道《あぜみち》をのぼりつめる頃に向い山にのこっていた陽が落ちた。  慈念が入母屋のひしゃげた荒家の前に立つと、戸のスキ間から火をたいているらしい内をのぞいて、しばらく、息をころして立っていたが、やがて戸をゆっくりあけた。内からもう四十五、六にちがいないおかんが、束ね髪の上に手拭をまきつけていたのをとりはずしながら出てきたが、外に立っている子をみて息をのんだ。 「捨か」  とおかんがいった。 「うん」  慈念はこたえた。前ぶれもなく、忽然《こつぜん》、そこに立ちもどった捨吉に、おかんはいま、ことばがなかった。信じられないような顔で、眼をすえていると、炉端の子供らが、火に照らされた顔を破れ障子の穴によせ、こっちをうかがうのがわかる。松治と定治である。慈念には義弟の仲だが、どっちも出てもこない。 「おどは」  と慈念はきいた。 「越前へ普請にゆかんした。まだもどってこんわな。お前、それよりどこにおったな。ま、とにかくあがるか」  とおかんはいったが、すぐ、急に思い直すように、 「寺へいったか。和尚《おつ》さんが待ってござったで」  といった。慈念は、このとき、奥の方をすかすようにみていた。そこに、はっきりとみえる義弟の、異様に敵視する眼があった。ああ、この顔だ。慈念はいまうしろ首を年下の二人にひきすえられたかのように脅《おび》えて、視線を伏せた。おかんがいった。 「うちに一服してゆくのもええけんど、とにかく寺へゆかにゃ。和尚《おつ》さんは心配して、そこらじゅうを探しておいでだわな、さ、とんかくあいさつしてからのこっちゃ。うちへ入るよりも寺や」 「和尚《おつ》さんは寺においでるか」 「ああ、役場も退けたでおいでる、おいでる。お前をみたら大喜びや」  おかんはせきたてるようにそういった。慈念はくるりとうしろ向きになった。 「わい、ほなら、寺へ行ってくる」 「ああ、奥さまも待ってござる」  とおかんはいった。もうこの時、柿の木の下をくぐりこむように坂へ消える慈念を、おかんは追うようにしてみたが、すぐ慈念の姿は消えた。 〈やっぱりもどってきた……〉  おかんはまだ信じられなかった。そこに立ってすぐ消えた子が、あの捨吉だとは。夢を見ている気がした。ながいあいだ、消息を絶っていた捨吉だ。しかも僧衣姿でもどってきた。心配したことはなかったのだ。どこかで、小僧をつとめて、ひょっこり里心がついてもどったのである。しかしそれでは、あの子は二年間もどこにいたのだろう。京だろうか。名古屋だろうか、よび入れて、多少でも、今日までのことをいろいろきいてみたかったが、しかし、菩提寺《ぼだいじ》の和尚からことづけがあって、捨吉が姿をみせたら、家へ入れる前にすぐ寺へよこせといわれていたのである。  おかんは、いまもう少しそこにとめておかなかったのを後悔したが、しかし、それは考えてみると詮《せん》ないことでもあった。仲のわるい子が二人いる。めったに気のあったことのない兄弟仲だけに、いま、かりに家へ入れてもうちとけてくれたろうか。 〈ハガキもしてこずに、もどってきよった。風のようにもどってきよった〉  おかんはそう思うと、長いあいだ心配していたことがやっとこれで片付いた安堵《あんど》もおぼえて、土間へ入ると、まだ障子の穴に顔をよせている子供らに、 「捨がもどったぞォ。寺へいったぞォ」  といった。二人の子は、黙って、人影のない表をにらんでいた。  村の奥の、一だん高い中腹地に西安寺があった。杉木立の背山がずり落ちるように迫っているそこは、やはり少し奥へえぐれていて、庫裡《くり》と本堂の棟つづきになった茅ぶき屋根が傘をひろげたように建っていた。いま、夕靄《ゆうもや》でかすんだその屋根へ、西陽の映えがわずかにあたっていたので、橙《だいだい》いろに寺はういてみえた。慈念は戸口に立ってしばらくためらっていたが、やがてしずかに戸をあけた。  内側にうす明りがみえる。和尚のいるけはいだが、障子がしまっているのでわからなかった。 「和尚《おつ》さん」  と慈念はよんだ。 「誰や」  声があった。障子があいて、白襦袢《しろじゆばん》の下にもんぺをはいた木田黙堂の小造りな顔がのぞいた。 「和尚《おつ》さん、せんどぶりどす。わしどす。いま京都からもどりました。ながいあいだ、手紙もせず、すみませんどした」 「………」  黙堂は、じっと外げしきを背に立つ黒い顔の男をすかしみた。やっぱり捨吉だ。 「捨か、慈念か」    と黙堂は上りはなへ降りてきてよく見た。 「そうどす」  と慈念は顔をあげた。疲労のみえる汗ばんだその顔は、二年前の子供だった顔をひとまわり大きくしてひきしまってみえる。木田黙堂の顔は、それで急にあかるく変った。 「そうか、そうか。もどってきておくれたか」 「………」 「京におったんか……」 「はえ」 「心配しとった。とにかく、ま、あがれ。たつ枝もおるぞ。さ、あがれ」 「………」  慈念は、ぺこりと一つお辞儀すると安堵したように、 「和尚《おつ》さん」  とまたいった。黙堂がどうしたかとふりむくと、 「わい、いま、乞食谷の家へいってきました。松治と定治がいたで、家へゆくのがいやんなりました。わい、あこはもどりとうない」 「そらそうやろ。お前はもうあの家の子やない。出家しとるんやさかい、それにあそこではまた喧嘩やろ。もうお前には寺しか、帰るところはないのや」  黙堂はそういうとにっこりして、手でさし招いた。  慈念は土間へ入り、八つ割り草履をぬいだ。右手の上りはなから、本堂にゆく四尺廊下が一段高くのびている。そこにもいまかすかに西陽の映えが影をおとしている。慈念は、だまって、すり足であがり、法事の寄附額を楷書で書いた紙きれが、短冊をつるしたみたいにはりつけてある長押《なげし》をくぐると、内陣中央へきて、そこに静坐した。正面戒壇の奥に釈迦牟尼仏《しやかむにぶつ》の立像があった。慈念はそれに向って鄭重《ていちよう》に合掌礼拝した。黙堂は、上りはなから、それをみていたが、やがて慈念をそのままにしておくと庫裡の北の部屋へ走りこんでいった。 「たつ、捨がもどった」  と黙堂はいった。細君のたつ枝は耳が少し遠かった。針をとおそうとしていた手をやすめてふりかえったが、この時、本堂の方から、読経の声がひびいてきた。慈念がよむ心経であった。磬《けい》が三つなった。 「きこえるか、捨がもどって経をよんどるのやぞ」  たつ枝は、一重瞼《ひとえまぶた》のひっこんだ眼をぎろりと光らせて、 「どこにいたのやろ。和尚《おつ》さんもどってきましたか」  立ち上って、難聴者独自の眼のすえ方で台所からしずかに本堂へ通じる廊下まできたが、そこからは入らずに内陣をうかがった。軍艦頭の慈念が維那机《いのうづくえ》のよこに背すじをのばし、正面に向って合掌している。流暢《りゆうちよう》な読経である。大人びた声である。信じられないほど成人した捨吉がそこに読経しているのにたつ枝は魂消《たまげ》た。 〈あの子が、戻ってきた……和尚《おつ》さんあの子がもどってきた。二年間も音沙汰をしなかった子が、ひょっくりもどってきよった!〉     2  慈念がもどってから、村では葬式が夏のうちに二つ出た。本盆、うら盆の回向もあった。また近在の部落の菩提寺では、役僧に慈念をたのみにくることもあった。読経の上手な慈念はひっぱりだこになった。汽車にのって、舞鶴の方へゆくと、二つ目の駅に高浜という町があったが、ここの禅寺の法事や葬式にも出て、慈念は維那をつとめた。  孤峯庵で慈海和尚から教えこまれた本山仕込みの回向の節《ふし》と、節度の正しい行事作法を身につけた慈念は、田舎寺の和尚たちには真面目にみえたし、重宝がられた。底倉の部落の人たちも、本郷村の人びとも、鉢頭の大きな異様な眼つきの慈念が、墨染の衣を着て擦《す》るような歩き方で回向に廻るのをみて、 「西安寺の小僧はんが行かはるで」  というようになった。慈念は包み菓子やお布施をもらってくると、これを奥の八畳にいるたつ枝に手渡した。布施は維那職の慈念にも、他の部落の役僧たちと同じ額面が入っていた。欲のふかいたつ枝はこのときだけは慈念のさし出す紙包みをうす皮のはったような眼を光らせてうけとった。黙堂は役場の書記をつとめて月給をもらっている上に、小僧の慈念が役僧で稼いでくる。たつ枝はほくほくでひき出しにしまいこみ、こっそり自分名義の貯金でへそくった。和尚が死ねばたつ枝は寺にとどまるわけにゆかない。たつ枝は鶏舎に鶏を三十羽も飼って、本郷からくる仲買人に卵を売ってせっせと貯金もしている。 「慈念はん、ちょっと坐りなはれ」  たつ枝は、慈念が戻って一カ月ほどたった秋末のとある一日、慈念が隣村の法事から帰った時、座敷へよんで、 「あんた、京へ行きとうないのか」  ときいた。慈念は白眼をむいて、何とも返事をしない。 「京のほうがええやろ。大きゅうなったら僧堂へもゆけるし……あんた、えらい坊さんにならはるつもりはないのんか」 「へえ」  慈念はそろえた膝の上に手をつき、たつ枝のきこえない耳へ一語一語ふきこむようにいった。 「ここの小僧にしてもろて、兵隊検査がすんだら僧堂へ入れてもらいます」 「そうか、そのつもりか。そんなら和尚《おつ》さんに、ようたのんだげる。和尚《おつ》さんは役場やさかい、あんたがおると助かるのや。けっこうなこっちゃわ」  と、たつ枝は耳をよせて微笑した。黙堂の考えもきかねばならないことながら、慈念を見た時から、気もちがかわってきていることに気づいている。  月日がたつと、たつ枝は慈念の風貌《ふうぼう》に、憎めない一面があることにも気づくようになった。茶棚《ちやだな》の小抽出《こひきだ》しから菓子をとりだして、 「さ、おあがりィな。あんた、孤峯庵出てからどないしとった。どこへ行ってたんや、話してきかせてえな」  何げなくきいてみるのだが、慈念は相かわらず上眼づかいにたつ枝を見あげるだけで、だまるのである。たつ枝がしつこく訊《き》くと、 「いろんなことしてました。大徳寺の中学の先生のとこやら、よその寺やらへ行って、掃除したりお経よんだりしてました……」 「そこに比べたら、若狭の村がええか」 「へえ」  慎重な慈念の返事の裏側が、読みの浅いたつ枝にはわからない。たつ枝は、え、え、えと耳のうしろで手をひろげて、横に向けた顔を慈念の汗くさい顔に近づけながら、かすかな不安をともなう眼つきで、いつまでも慈念をみているしかなかった。  慈念のあたえられた部屋は、本堂裏の廊下から、裏庭にはり出した三方障子の六畳の間であった。ここは、葬式の折などは、役僧や縁者のたまり場になる部屋で、寺を訪れる遠客の寝所になったりすることもあった。日頃空いているので黙堂はこの部屋を慈念にあたえたのだ。  寺は高台にあった。慈念がこの部屋の障子をあけると村の眺めが一望できた。反対側の障子をあけると、庭先に覆いかぶさるようにしてせり上っている椎《しい》や楢《なら》の黒い常緑樹のしげった山肌が、屏風をたてたようにみえた。孤峯庵の、畳一枚しかなかった寝所とくらべれば格段の相違があったといえたかもしれない。  慈念は夜になると、九時すぎに部屋にもどった。山風が障子をふるわせていた。脳裡に焼きついているのは、慈海の死んだときの顔である。何故、慈海は死んでしまったのだろう。慈念は自分が慈海を殺しておきながら、呆気《あつけ》なくどうと倒れた慈海が納得がゆかないのであった。とがった竹小刀を酔った慈海の腹につきさした感覚は、右掌《みぎて》になまなましく残っていた。慈念は、慈海に憎しみをもって飛びかかった自分は確認出来るが、そのことと倒れた慈海の姿との間には、開きがあった。重い慈海をかついで、平三郎の棺の中につっこんだ時は、夢中の行動であった。しかし、いま二年前のすべてのことが幻《まぼろし》じみて見える。昼にくらべ、夜になると、それらのことが生々しく思いかえされて、胸もとをつきあげるような激しい恐怖が襲ってくる。 〈誰も知らない。誰も気づいていない……〉  慈念はそう思うことで、安心しようとした。  冬になると、山の巨木の洞穴《ほらあな》に巣喰うむささびが啼《な》きはじめた。むささびは羽の生えた猫のような獣である。慈念は小さいとき、椎の木から、地べたに落ちてきた一匹のむささびを見たことがあった。部落を訪ねてくる二人か三人組の猟師が、むささびのいる洞穴をみつけて、枯れた巨木の根元をとんとんと竹の棒でたたいた。洞穴では、三匹か四匹の親子のむささびが巣くっていた。慈念は遠くから猟師たちがいっせいに洞穴の口に鉄砲をかまえるのを見た。  竹棒でつつかれた洞穴は、ひびきのある空音をたて、やがて猫のような小さな顔をしたむささびがのぞいた。と同時に銃声がパアーンと起った。ゲヤーッとつんざくような啼き声がおき、茶褐色《ちやかつしよく》の風呂敷のようなものがふわりと空にとび出た。咽喉首を撃たれたむささびだった。必死になって他の喬木《きようぼく》にしがみつく。爪立てて上部へはいのぼろうとする。木の天辺《てつぺん》まで登ってしまうと、また風呂敷のようにふわりと別の木に降りる。爪をたて何ども登りだす。だが、それも何どめかで息絶えて地面に落ちた。猟師たちは狐いろの胸毛を血に染めている獲物を荒縄でくくり、腰にぶら下げて村を出ていった。  暗闇《くらやみ》の山の中で啼くむささびの声をきいていると、慈念は、ふとおかんを思いだした。  あれは五つか六つの時ではなかったろうか。まだ、おかんの家には、勘治も助治も咲治もいた。慈念はおかんとふたりだけで山根道をあるいていた。秋の末である。山根道から、小谷をわけ入って、栗の木のある山道をのぼっていた。おかんはまだ乳の匂いがした。白髪もなかった。木綿の汗くさい立縞《たてじま》の野良着に、おかんはかるさんをはいていたが、色の白い太股《ふともも》と腰巻がわきからのぞいていた。 「捨」  とおかんは山の傾斜が茂みをましてせり上ってゆく森口にきていった。 「ちょっとここに待っとれや。動くでないぞ。ええか、あっちの山ィいって栗ひろてくるで、ええか」  慈念はうなずいた。おかんはまるいお尻をせわしなくふって遠ざかり、急傾斜の山を腹ばいに上った。やがて森に吸われた。  慈念はどれぐらいそこに待っていたろう。おそらく二時間も待たされたにちがいなかった。おかんが待っておれといいつけた場所はうす暗い森のかかり口である。奥の方は暗くて底知れぬような湿った森がつづいていた。八幡森といわれる谷であった。慈念はたいくつなまま少しずつ歩いて、そこの暗い穴の方に近づいて行った。皮のはげた朽木が横たおしになっていた。前方にはまっ黒な葉の重なった枝があった。数知れぬ椎が密生しているのだ。慈念は朽木のわきによった。ぷーんとカビくさい匂いがした。と、この時、何やら朽木のわきで音がしたように思った。慈念は腐った表皮がコボコボになってはげ落ちている部分に灰色のキノコが幾本もならんでいるのをみた。と、そのときだ。やにわに慈念の足もとに向って二匹の重なりあったイタチのような獣が朽木のわきからとび出てきた。むささびであった。二匹のむささびは喧嘩しているのか、戯れあっているのか、慈念にはわからなかったが、ゲアゲアと啼きさけびながら、地べたをくるくる廻転しはじめた。慈念は恐怖のあまりそこで石のようになった。 「おかあん、おかあん……」  慈念は山の傾斜にむかって泣き叫んだ。  あれはむささびの夫婦であったにちがいないと慈念はあとになって思うのだが、それにしても、底倉の村にはなんとむささびが多いことか。西安寺の奥山、八幡谷の奥山、乞食谷の阿弥陀堂《あみだどう》の裏手、宮の森。それぞれむささびの巣のある森ばかりがつづいている。  冬になると、わずか四十戸たらずの村の家を取り囲んだそれらの森から森へ、むささびは啼き声をかわし、夜っぴて鉢型の空を風呂敷をまいたようにとび廻った。  慈念に一人友だちが出来た。部落の山のはなにある木樵《きこり》の家の辰之助という十六になる子だった。辰之助は父親の伊之助に似て、ながいしゃくれ顎《あご》とずるそうな眼をしていた。慈念がまだ村にいたころ、よくあそんだこともあるので、辰之助は旧交を取りもどした形といえた。無口で、あまり人とはなしたがらない性質の子だったが、ませた所があって仕事のヒマな冬場に、ひょんなことから、慈念の部屋をたずねてくるようになった。 「村のもんはな」  と辰之助は大人っぽい好色そうな眼を烱《ひか》らせていった。 「女子《おなご》は縄ないと菰《まこも》つくりや。男はみんなごろごろしとる。いっぺん、夜さりに覗《のぞ》いてみるか」  慈念はしゃくれ顔の辰之助をじろりとみた。何をいっているのかわからなかったからである。 「男と女が藁屑《わらくず》ン中で寝とる。捨、一しょに見にゆこか」  慈念はひっこんだ眼を光らせて、辰之助のぴくぴく動くこめかみのあたりをじいっと見いっていたが、咽喉をごくりとならした。 「寝とるて、何しとるねや」 「九平のおっつぁんは花助の妙《たえ》ちゃん、万吉の武さんは六助のきよ子や、ほれからな、堂裏の常さんは庄助のキイちゃんや。おもろいで……いっぺんみたろか」  夜這《よば》いのことをいっているのだ。夜這いは底倉の村の習慣であって、夏冬となく、女を襲う男たちの性欲はむささびに似ていた。二十歳前後から四十代にかけての男に多いが、夜になると、村道の隅でよく女の悲鳴がきこえた。子供たちがそれを覗きにゆく。慈念は辰之助の顔をみつめた視線をずらせて考える。 〈阿弥陀堂にきたお菊にいどんだ男は誰だろう。そいつがわしの親爺《おやじ》やもしれん……〉  慈念は辰之助のように夜這いを見にゆく興味はなかった。 「わいはいやや。お前ひとりいってこい」慈念は首をふった。  冬があけて、春がきた。ひとしきり、谷田の苗代から苗をぬいて田植する村は柏餅《かしわもち》のできる六月さ中まで多忙がつづいた。  見知らぬ僧侶が村へきたのは、山ぞいの新田に行儀よくならんだ苗が、根をはり、黒みがかったみどりにかわり、葉ずれの音がしだした七月はじめである。年は三十七、八。背の高いやせた僧で、着ている黒の絽《ろ》の衣も、単衣《ひとえ》の白衣《びやくえ》も清潔だった。どこか由緒ある寺院の新命か雲水に思われる。僧侶は純白の象牙《ぞうげ》のカンのついた絡子《らくす》をかけ、その上から丸い紫の紐を二重にまきつけていた。尻高く裾をたくしあげ、肩先で振り分けた文庫を片手でささえ、陽に焼けた褐色の網代の笠を胸の前に伏せ、底倉の村へ入った。通りすぎる村の戸口から、この僧侶が西安寺へゆくであろうことは誰にもわかったが、役場へ出ていた黙堂がちょうど留守なので、寺にいた慈念が玄関へ応対に出た。 「たのもう」  と、その僧は底力のある声で訪問を告げた。 「へえ」  慈念は上りはなに作務着《さむぎ》のかるさんの膝をそろえて僧の顔をみた。 「わたくし、美濃の正眼《しようげん》僧堂の副司《ふうす》をいたしておりました宇田|竺道《じくどう》と申します。和尚《おしよう》は御在宅ですかな」 「へえ」  慈念は僧の白い襟《えり》もとから出た長い首をみていった。 「和尚《おつ》さんは役場へ出てはります。もうじき戻られます。何ならお上りになって本堂で待たはりますか」  下間《げかん》を指さしてみせると、宇田竺道と名のった僧はにっこりしていんぎんにお辞儀を一つしてから、草鞋《わらじ》のひもを解きはじめた。慈念は庫裡から外へ出た。水を入れた手桶《ておけ》をもって玄関に廻った。 「これで、洗うてください」 「恐縮です」  僧は鄭重すぎる物言いで、一拝して手桶を受けとった。上りはなをあがって左手から下間の間《ま》に通ると、僧は内陣の中座に坐具を敷いて、ゆっくり本尊に向って九拝をつづけた。その間に慈念は台所の奥へ走りこんでいた。 「奥さん」  慈念は、部屋にうずくまって針仕事をしているたつ枝の耳に口をつけて、 「美濃の和尚《おつ》さんが来やはりましたで」 「美濃の和尚《おつ》さんが」 「へえ」 「美濃て、うちの和尚《おつ》さんの知りあいのお方やろか」 「正眼僧堂で副司をしてはったいうてはります」 「それで、あんた、どないしたん」 「和尚《おつ》さんは役場へ出とってやから、もうじき戻られます、それまで待ってて下さいいうて、下間の部屋に通しました。菓子ありまっか」  茶棚から物馴れた手つきで慈念は茶器を取りだしたが、来客用の菓子はたつ枝の指図をうけねばならないしきたりである。 「そうやな、法事にもろた柏餅がある。それ二つ盆にのせて出しなはれ」  たつ枝は茶棚の上のザルに入れてあった、むし柏葉の色のかわった重ね餅を出すと、慈念のさしだす盆に半紙を敷いてならべ、 「用事は何やろな、よう、きいてみんか」  といった。 「へえ」  慈念は胸高に茶菓をもちあげ、畳を擦るようにして歩いてゆく。  下間にくると、僧は座蒲団の上に端坐して眼をつぶっていたが、慈念の音でゆっくり眼をあけた。 「えろう涼しいお寺で……結構なところでございますな」 「へえ」  慈念は茶菓をならべてさし出し半身をうしろへひいて、 「お客さんはここの和尚《おつ》さんとお知りあいでござりますか」 「燈全寺でお会いしたことがあります」 「燈全寺で?」  慈念は白眼をキラリと動かした。宇田竺道はにっこりすると慈念をじっとみつめた。 「そういえばあんたさんも、どこかでみかけた人のようじゃが……どこで見かけたのやろ……」  ひとりごとのようにつぶやく。しずかに眼をそらせる。太い眉だ。澄んだ眼が下間の襖《ふすま》の一点をみつめてうごかない。慈念はだまって僧が膝においている毛のはえた手をみていた。 「さ、どうも思いだせん、どこぞでたしかに会うたようじゃが。何かな、京におられたことがありませんか」 「ヘえ」  慈念は視線を落して口ごもった。 〈この聞きとり方に他の意図はないか。何しにここへきたか。燈全寺のことを知っているなら、孤峯庵も知っていよう〉  だまっていると不審をいだかせることになると思った。黙堂が帰ってくれば、当然、自分のことが話に出て孤峯庵のことを喋《しやべ》るにきまっている。 「京におりました」  慈念はぼそりとこたえる。 「衣笠山の孤峯庵におりました」 「孤峯庵に」  おどろいたように宇田竺道は顔をうごかした。 「すると、あんたは、失踪《しつそう》なされた老僧の……」 「へえ」  慈念は畳の目をかぞえた。 「老僧の下《もと》で喝食《かつじき》を……」 「へえ左様です」 「………」  不意の客はだまった。そうして、さしだされた湯呑みを両手で拝むようにして捧げながら口もとに近づけていった。音のしないしずかな呑み方であった。ふた口で呑み終えると、空になった湯呑みをもう一ど口にもっていってしずくを呑みほし、ゆっくり朱塗りの茶卓の上に置いた。 「孤峯庵の老僧もどこへゆきなさったか。その後、行方がわからんそうじゃが」 「はえ」 「あんたはそれで、どうしてここへ」 「へえ、わしの在所ですさかい」 「在所?」 「はえ」  慈念は宇田竺道の澄んだ眼が、好奇な色に変ってきているのを知った。 〈|あのこと《ヽヽヽヽ》を調べにきたのではないか……〉  考えたことはそれだけだ。     3  黙堂和尚はその日は役場の仕事を終えて、六時すぎに帰った。慈念が玄関にむかえて宇田竺道の名をいうと黙堂は首をかしげた。 「正眼僧堂の副司さんが」 「へえ、むかしから知ってはる口ぶりどした」 「何しにきたのやろ。ま、とにかく、会うてみよ」  黙堂は半袖シャツにズボンの役場着をぬいで汗をふいてから、衣を着て絡子《らくす》をかけた。下間《げかん》の襖をあけて入っていった。  慈念は庫裡の板の間でうかがっていた。和尚の顔つきでは、親しい間柄でもない様子である。だが黙堂は部屋からすぐには出てこない。話がはずんでいるとみえて、ときどき、笑い声がきこえた。 〈やっぱり昔の知り合いやった……〉  慈念は安堵のようなものをおぼえた。 〈知り合いやったのなら、自分のことを調べにきたのではないだろう……〉  三十分ほどたつと黙堂は庫裡へきた。 「おい、おい」  慈念をよんだ。 「へえ」 「薬石《やくせき》(夕飯)の用意や。お客さんはお泊りや」  と黙堂はいった。そのあとで、黙堂は奥の八畳へきて、たつ枝にいった。 「むかしな、正眼僧堂で副司をしてなさった方で……鞍馬《くらま》の正覚寺のお弟子さんや。ちょっとの間《ま》、掛錫《かしやく》したいいうてござる」 「掛錫って、和尚《おつ》さん、ここにいやはるんどすか」 「そうや、……書院の間で二週間ほど坐ってみたいいいなさるで」  たつ枝はうすく上唇のめくれた口もとをひらいたまま和尚の方を呆《あき》れ顔でみた。やがてその唇がゆがんできた。 「ごはんはどないしますのや」 「うちの者と一しょのもンでええ。なに、慈念がおるで、ちゃんと面倒はみてくれよる」 「慈念はんに」  黙堂ははずんだ調子でたつ枝の小さい耳たぶに口をつけた。 「いくらことわってもな。これだけはとってくれと、いわっしゃる。ほら、これ」  袂から紙に包んだハガキ大の紙幣の入った封筒を黙堂はわたした。  たつ枝はひらいてみた。五円紙幣が一枚ぱらりと畳に落ちる。 「この夏は涼しいこの寺で、ゆっくリ坐ってみたいと思うて、わざわざたずねて下さった。ええか、お前もあいさつにこい」  黙堂はたつ枝の手をひくと下間の間にみちびいていった。たつ枝がきょとんとした顔で尾《つ》いてゆくのを見送りながら、慈念はこのはなしを板の間できいていたが、また新しい不安がかすめた。  黙堂はたつ枝を紹介し終ると、庫裡にきて、慈念にいった。 「慈念、副司さんがしばらくここに坐らはるぞ。お前、朝晩の守り役をしたげんならん、ええか」 「ヘえ」  慈念は白眼をわずかにうごかしただけであった。新しい珍入客に対する奸奇なものと、ここへきた目的は修行にあるときけば安堵も頭をよぎるのだ。  宇田竺道はその夜、書院の奥の間に泊った。庭に面した六畳の間である。そこは下間からつづいた内陣横の部屋になっているのだが、丸窓のついた書院づくりのこの部屋は、孤峯庵のように別棟で建てられた書院と勝手がちがう。本堂の建物の中にある。  慈念は離れの部屋がこの書院と向きあっているので窮屈な思いがした。今までは一人だから気ままだったが、窓が向い合わせている。先輩の僧が寝起きしていると気づまりなのである。 「和尚《おつ》さん」  慈念がきいた。 「副司さんいうたら、僧堂ではどれぐらいのくらいの人どすか」 「もうじき老師にならはる手前のお人や。僧堂では一ばん上でな、孤峯庵の慈海和尚も燈全寺の僧堂でながいこと副司寮をしておられた。もうじき大きなお寺に坐らはる人やが」 「へえ」  わきからたつ枝がきいた。 「ほんなら、和尚《おつ》さん、むかし知ってはった人やおへんのか」 「美濃の正眼僧堂は臨済《りんざい》でも一、二を争うきびしい僧堂でな。美濃は虎渓、伊深というて、禅の大僧堂がある。正眼寺の副司さんやから、京あたりの僧堂の生臭さとちがうわいな」  たつ枝はあきれたような顔を慈念にむけている。すこし勝手すぎはしないか……そんな僧を一つ返事でかんたんに泊めることに応じた和尚をなじるような眼になって、 「和尚《おつ》さんも人がええいうたら程がある。あんた毎日汗ながして役場へいって、人の世話するために月給取りしてはんのどすか……」  黙堂はたつ枝の角だってくる顔をみたが、何もいわず頬をわずかにうごかしただけであった。慈念にもたつ枝が無理をいっていることがわかる。  孤峯庵にいた時でも、寺をたずねてきた諸国|行脚《あんぎや》の僧はいくたりもいた。慈海和尚もぶつぶついいながら泊めたものである。禅寺にはそういう掟《おきて》があった。一文の金がなくても、行雲流水の境地を求める修行僧には、各派の末寺が道場とならねばならないことは当然といえた。禅寺が昔から妻帯を禁じ、禁欲と修行|三昧《ざんまい》の住職をいかなる末寺にも置いた理由はそこにあったといえる。しかし、このころは既に、古来の修行をする雲水はいなくなっていた。底倉部落の西安寺をたずねてきて飄然《ひようぜん》と宿を求めた宇田竺道も、何が故にこのような貧乏寺を一夏の掛錫《かしやく》にえらんだのであろうか。  慈念は心の奥で風のようによぎる不安を感じねばならない。 〈ひょっとしたら、掛錫と偽って、|あのこと《ヽヽヽヽ》を調べにきたのではないか……〉  慈念は身構える。 〈なに、あのことだけは誰も知ってはいない。衣笠山の裏白の茂った墓場の平三郎の棺を掘り起さないかぎり、露《あらわ》れはしない。面白半分に人間が人間の墓をあばくことができるものか……よほどの証拠がないかぎり、警察もうごくまい。……〉  慈念はわれとわが心に力強くいいきかせた。 「あるき」に出ていたおかんが、むし麻の漬けてある洗い川に落ちて、怪我をしたのは八月のはじめのことであった。おかんは長《おさ》の六右衛門へ、朝早くに用事があるかどうかを聞きにいってから、ふれごとがあれば仕事をもってかえって、定治と松治に飯を喰わせてから村へ出る村小使をしている。定治は六年生、松治は四年生だったが、ちょうどその日は夏季休暇のうちの登校日にあたっていたので子供らは家にいなかった。  おかんは村下の甚吉の家からせまい石ころ道を歩いてきたとき、足を踏みはずした。底倉の部落は、三方山に囲まれ、道が急なために石ころが多かった。菊の葉型のようにいくつもの小谷があって、そこから村なかを流れている小川に小さな流れがいくつもそそいでいる。どの川も、部落の人たちの洗濯場であった。朝晩は食器を洗う台所にもなった。川の水は小石がみえるほど透きとおっている。やまめや、うぐいが人びとの歩く影の中ですばやくウロコを光らせて泳いでいた。ちょうど八月はじめは、この川に麻糸をとるためむし麻が漬けてあった。どの家も川のそばに大きな釜をすえ、束にした丈高い麻をたてて蒸すのであった。麻はもともと山畑で栽培したもので、蚊帳をあんだり、野良着をつくったりするための糸の原料になる。二番草を取りおえ、盆前でもある、いくらか手のすく時期に村人は麻の収穫につとめた。丈の高い桶の中で、一日中とろ火で蒸された麻は、汚れたみどり色から、茶褐色に変り、細長い蕗《ふき》のようなやわらかさになる。そのころを見はからって、表皮のはぎやすいように麻束を洗い川に漬けるのである。水に漬けておけばそれだけまた柔かくなる。  おかんは甚吉の家の川口を歩いていて、筵《むしろ》の上に乾してある麻ガラをふんだ。その日の「あるき」は、本盆を八月十四日、ウラ盆を二十一日にするという毎年の行事をふれ廻っていたのである。観音堂の広場に館《やかた》をたてるのは十四日、阿弥陀堂の前で「舞い」をするのは二十一日の「虫送り」。区長の通達である。おかんは四十軒の家々をふれ歩いた。筵の上の麻ガラをおかんはふんだ。道がせまかった。朝方から、少し頭も重かったそうだ。甚吉の洗い口を見ていたら、ふらふらと宙にうく心地がして、視界がとつぜんぼやけた。おかんはよろめいた。おかんの躯《からだ》は地べたをころげて川の中へ落ちた。  川には麻が束になって漬けてある。おかんは麻の上に躯をのめらせたが、いったん這《は》いつくばった恰好になって大声をあげた。命に別条はなかったけれど、落ちるときに石垣にこっぴどく肩を打ちつけていた。  麻束を抱いて浮いていたおかんをみたのは、午睡をすませて釜の火をみにきた甚吉だった。甚吉はおかんを抱きおこし、大急ぎでおかんの家へはこんだ。おかんは日射病にかかっていた。毎日の「あるき」と、小作の草取りで無理がたたったのである。肩の骨にもヒビが入っていた。  駅のある本郷村から、髭を生やした医者がきて、注射を打った。医者はこの時枕もとにすわっている二人の子をみた。 「ちいと『あるき』をやめた方がええ。お父《と》はどないしたな。躯の使いすぎや」  不機嫌にそういうと、医者は肥満体の躯を、垂れの下った人力車にのせて部落を去った。  このはなしが寺にきこえたのは夕刻だ。         「あんた、見舞いにいってきなはれ」  たつ枝が慈念にいった。慈念は夜になってからおかんの家へ出かけた。六畳ひと間に、板ばりのだだ広い土間しかないおかんの家は、乾菊の蚊やりがくすぶっていた。枕もとで定治と松治がすわっておかんの寝顔をみていた。 「おかん」  慈念は戸口の暗がりから、ランプの明りのみえる奥へ声をかけた。 「だれや」             と定治が板をならして歩いてきた。 「わしや、捨や」  慈念は上りはなに立っていた。定治がだまって会釈した。慈念は居間へあがった。  おかんは板の間に茣蓙《ござ》を敷いて、箱枕して寝ていた。おかんの躯はひとまわりやせたように見えた。足裏がみえた。餅のひびのようなあかぎれがある。慈念は板の間に坐った。 「あんばいはどうか」  ふたりの子は返事しなかった。ザンバラ髪が額の上でぬれ光っている。うす眼をあけたおかんはいびきをかいて寝ている。定治と松治はだまって何もいわない。 「川へ落ちたんやてな」  定治がうなずいた。 「傷は」 「肩の骨が痛いいうて。足は何ともなかったけど、あしたから歩けるいうとってや。いま、寝やんしたとこや」  松治がつけ足した。おかんの大きないびきはこの家をゆさぶった。慈念はふと、三年前に、今出川の久間家に読経にいったさい平三郎がかいていた大きないびきを思いだした。 「おかん」  慈念はやがて立ちあがると、定治と松治に会釈しただけで家を出て来た。もう夜になっていた。慈念が西安寺の庭先を通って離れの部屋に入ろうとしたときだった。竺道が明けはなした窓からにゅっと顔を出して慈念に声かけた。 「おかんさんのぐあいはどうじゃった」  竺道は食事の時にたつ枝からきいたのだろう。  慈念はだまって通りすぎようとした。 「どうじゃというとる。お母《か》ァのあんばいじゃが」 「大きないびきをかいて寝てはりました。ま、安心です」  慈念はぼそりとこたえた。竺道がいった。 「ちょっとこっちへおいでや。あんたは般若林《はんにやりん》にいっとったちゅうがほんまかいな」 「へえ。大徳寺のよこの学校どす」 「そこで何年までおった」 「へえ」  慈念は暗がりの中で白眼をむいた。 「二年の二学期までどす」 「ほほう」  竺道はきざみタバコをちぎって指の上でまるめ、煙管につめて口にくわえると、器用に蚊取線香の火でつけた。螢《ほたる》の尻ほどの火がぴかッと橙色に光る。 「蓮沼《はすぬま》という先生を知らなんだかの」 「へえ」  慈念は口ごもった。 「わしらの担任どした。禅宗史と、英語と国語を教わりました」 「蓮沼さんはええ先生やったやろ」 「そうどすな」  頭の中には孤峯庵をたずねてきた時の蓮沼の冷たい眼と歯ぎれのよい江戸っ子弁がよみがえってきた。 「こわい先生どした」  ぽつんと慈念はいった。 「ほほう」  竺道は興味ぶかげに窓へ半身をせりだしてきた。明りを背にしているので、顔ははっきりみえなかったが、黒眼の大きな澄んだ眼が急に光りをおびていた。 「中学になってから坊《ぼん》さんに教練せいいうて、わしら鉄砲もたされました。それがきらいで、教練のある日は学校ィゆくのがいやで、いつも衣笠山を歩いてさぼっとりました。ほれで、蓮沼先生が寺へ叱りにみえたことがあります」 「孤峯庵へか」 「へえ」  なぜこんなに宇田竺道は自分の過去をききたがるのだろう。慈念はうっかり喋ったらボロが出るぞと警戒せざるを得ない。話題をかえる必要があった。 「和尚《おつ》さん」  慈念は竺道の眼にチラと視線をあててきいた。 「和尚《おつ》さんも般若林どすか」 「いや、わしは般若林やない」 〈それならどうして蓮沼良典を知っているのだろう……〉  慈念は動揺をおぼえた。慈念はすばやくいう。 「和尚《おつ》さん、悟りをひらくということはどういうことどすか」 「悟りか」  竺道は唇をあわせてじいーっとだまった。が、やがて、ぽつりとその口をひらいた。 「なんというてええかな。自分を知ることやな、つまり」 「自分を」 「そう」  竺道は慈念の顔にじいーっと眼をすえた。明りをうけてこちらの顔はよくみえる。慈念の肩は大きくふるえる。 「和尚《おつ》さん、わしらは一生自分がわからんわな。和尚《おつ》さんは自分を産んでくれはった人を知ってはりますか」  竺道はわずかに顎をひいて、微笑したが、 「お母《か》はんにうんでもろた。お母はんは大切やど」 「そんなら、お父《と》はんは」 「お父はんも大切や」  経を唱ずるように竺道はいった。 「ほんなら、なぜ出家しますか。大切なお母はんやお父はんを捨てて……」 「迷いのきずなを捨て去るためや」 「すると、お母はんを思うことは迷いどすか、そら矛盾しとるわな」  慈念はつづけた。 「わしらはお母《か》あもお父《と》うも知りまへん。この世に生きているものやら死んでいるものやら知りまへん。捨てんならんお父うもお母あもあらしまへん。どこにいるのかわからん。けども、わしは、そのお母はんに会いたい思います、お父はんが誰であるか知りたい思います。これ迷いどすやろか。わしはやっぱりええ坊《ぼん》さんになれまへん。和尚《おつ》さんらは坐禅して眼ェつぶらはると、お母はんに育てられた温《あ》ったかい日が思いだされますやろ。わしらは眼ェつぶったかてむささびの啼く声しかきこえしまへん。和尚《おつ》さんらにこんな心わかりまへんやろ」  慈念は投げ捨てるようにいうと、鉢頭をすばやく振って、暗い庭先を突っきって走ろうとした。と、 「待ちなはれ」  竺道が強い声でよびとめた。じいっとこっちをみている。慈念は不意に、竺道の澄んだ眼にいいあらわし難い慈悲の光りがあるように思った。この人は自分に愛情をもってくれている、そう思った。  慈念は竺道の眼の奥をみた。澄んだ眼の底に新しい微笑が宿っている。なぜ竺道はこんなに微笑するのだろう……。ひょっとしたら、竺道は自分のしたことを知っているのかもしれぬ。いや、そんなことはあるまい。どうして知れるわけがあろう。暗い庭先で、慈念はそんなことを考えつめた。竺道は相かわらず、口のはしに小皺《こじわ》をよせて瞶《みつ》めているのであった。慈念はこの竺道なら、自分のしたことを知ったとしても、誰にも知らさないでいてくれるかも知れないと思ったと同時に、すでに何かを嗅《か》がれているという不安も新しくつのった。  慈念は部屋にかけ上って障子を閉めた。 〈里子はん……〉  慈念は心の中で叫んだ。不意に部屋の壁にうつったのは、慈海和尚の裸の腹の下で、魚のようにぬれた足をひろげていたあの里子の姿であった。  慈念は眼をつぶった。押入れから蒲団をひきずりだすと、すぐにもぐり込んで汗くさいべとべとの躯《からだ》を折って眼をつぶった。 〈里子はん……〉  蚊がむらがってきた。慈念は孤峯庵で馴れていたから、藪蚊にかまれても平気だった。眠れないままに眼をつぶっていると、乞食谷の家で、いびきをかいて寝ていたおかんの顔と、里子の顔がいつまでも瞼《まぶた》の裏にうかんでは消えた。     4  八月十四日が本盆の日であった。十三日の前夜、木田黙堂は慈念を庫裡の八畳の間《ま》へよんだ。 「あしたは棚経《たなぎよう》や」 「へえ」  慈念は白眼をむいた。 「京で棚経にいったことがあるな」 「へえ、三級の檀家《だんか》をまわりました」 「村には一級も三級もない。わしは中の村と上村を廻る。お前は……」と黙堂はいった。 「下の村と乞食谷をまわれ」 「へえ」  慈念は、このとき乞食谷の家で寝ているおかんの寝姿を思いうかべた。底倉の部落は洗い川の区劃《くかく》で四区に分れている。おかんの家は山ぞいの大谷で乞食谷のとば口にある。 「おかんの家の仏にも回向《えこう》せい、ええか」 「へえ」  翌朝になると、たつ枝が縫った慈念の白衣が八畳に用意されていた。肩と腰に縫いあげした黒絽の衣が衣桁《いこう》にかけてあった。慈念は新しい足袋《たび》をはいた。  朝早くから、庭先の裏の高台に、墓参にくる村人の行列がつづいた。村人は十二日ごろから新しい竹筒の花立てを用意して、墓掃除したり、塔婆《とうば》をあつらえにきたりしていた。  西安寺は何かと忙がしかった。十四日は、本堂で、祝聖《しゆくしん》、祖師回向、檀家回向の勤行《ごんぎよう》がある。黙堂が中座にすわって、維那《いのう》を慈念がつとめた。木魚は賓客宇田竺道がたたいて金剛経を誦《じゆ》じた。  本堂の勤行が終ると、慈念は衣を着て、朝九時に寺を出た。村道の洗い川には、浴衣を着た村びとが、鶏の毛をむしったり、若狭鯖《わかささば》を料理したり、葱《ねぎ》を洗ったりしていた。京や大阪からもどった身内の者の接待であった。慈念は道順を考えて、先ず村はずれのおかんの家の隣りにある万吉から廻った。  藁《わら》ぶきの万吉の家の奥座敷は、一年中畳をあげて板の間にしていたが、盆の七日間だけは青畳を敷きつめ、庭先から縁を通って上るように掃き清められてあった。靴ぬぎの石に水も打ってある。  慈念は数珠《じゆず》をまさぐりながら、万吉の川戸《かわと》までくると、紅い小蒲団の上にくくりつけた小磬《しようけい》を鳴らした。 「坊《ぼん》さんがきたぞ、坊《ぼん》さんは捨やぞ、捨が経を読むぞ」  と万吉の子らが白眼の多い眼を光らせて庭先まできた。子供らのうしろに、慈念は長女のおえんの姿をみた。おえんはたしか廿一になるはずであった。慈念は村にいたころ、おえんの背中に負われて、「釈迦釈迦《しやかしやか》」に出た記憶がある。「釈迦釈迦」とは二月十五日の涅槃《ねはん》の日に、朝四時起きして子供たちが村の家々の戸をたたいて歩く行事であった。雪がふりつもっていて、どの家の門口《かどぐち》にも軒雪が塀《へい》のようにふさいでいたが、この日だけは雪除けがしてあった。家々では、菓子、せんべい、豆など煎《い》って竹籠《たけかご》に入れ、子供らが戸をたたいてくるのを待っていた。「釈迦釈迦鳥《しやかしやかとり》の糞《くそ》」と子供らは誦じるように唱いあい、列をつくって村じゅうを歩きまわった。五つになると、この行事に出ることを許される習慣になっていたが、慈念はある年の冬に、おえんの背中に負われて「シャカシャカチョリのクソ」といって廻った日のことを思いだした。  庭先を横切って、小磬をチンと鳴らして通る慈念を、白粉をぬったおえんが見ていた。おえんは眼のすきとおった鼻じわの深い顔をしていたが、子供のころは成績のいい優等生であった。滋賀県の官吏のもとに嫁にいっていたが、里帰りしてきているのだ。  慈念は子供らのうしろに立って、眼もとを紅《あか》らめて僧衣姿の自分をみつめているおえんの顔をみたが、すぐ視線をそらした。慈念は鉢頭《はちあたま》をふり縁先からつかつかと座敷にあがり、「摩訶般若波羅密多心経《まかはんにやはらみたしんぎよう》」と最初の経文を誦じた。  万吉の仏壇には紅い打敷《うちしき》がかかっていた。死んだおえんの母親の位牌《いはい》が新しく追加されている。慈念はきゅうりや薩摩藷《さつまいも》や、団子の供物のわきに、五寸ばかしの金箔押《きんぱくお》しの位牌になってしまっている万吉のおかんの生きていたころのお歯黒の顔を思いだした。  読経は十五分ほどですんだ。慈念は出された茶をすすり、だまって奥座敷から庭へ出た。 「捨」  万吉のやせた六十すぎの爺《じい》が踏石のところに待っていた。「きさまは、りっぱな坊主になった、おかんの家へ早よいってやれ」と腕組みしていった。子供らが縁に坐って歯をだして笑った。おえんだけがだまっていた。  慈念は万吉のせまい川戸をとび越えると、おかんの家に登る坂道に出た。柿の木とあんずの木の間に、おかんの家のぺんぺん草の生えた屋根があった。うす苔《ごけ》が生えて絨毯《じゆうたん》みたいに光っている、くず屋根のおかんの家は、村じゅうのどの家よりもみすぼらしかった。 「おかん、あんばいはどうや」  と慈念はいった。板の間の茣蓙《ござ》の上に、汗ばんだ|じんべ《ヽヽヽ》を着たおかんが、白髪のまじったザンバラ髪をのばして慈念を待っていた。 「まんだ肩の骨がいとうて。盆じゅうは寝とれとお医者さんがいうとる」  とおかんがいった。 「お父《と》うは」 「越前や」 「捨よ、経あげてくれるか。ありがたいのう」  慈念は立小便して角蔵に叱られたことのある庭先を通った。草|茫々《ぼうぼう》の庭は盆だというのに荒れたままにしてある。座敷にあがっても、仏壇には打敷もなく、団子もなかった。 「松治」  慈念は座敷から板の間に出ると、雑巾《ぞうきん》をもってこさせて、ほこりだらけの仏壇をふいた。  慈念はおかんの家の位牌をゆっくり目読した。  有徳童女——。定治の上に生れて三つのときハシカで死んだ女の子である。きみ子という名だった。  芳香|徹定《てつじよう》信士——。徹治という長男で、山の木馬《きんま》ひきに出て谷へ落ちて死んだ。  大安恵方大姉。慈念もおぼえている盲目の祖母である。小豆のサヤで眼をついて盲目になったが、慈念が村を出て京都の孤峯庵にいる時にはまだ生きていた。おえんに負われたようにして、慈念は盲目の祖母に負われてやはり「釈迦釈迦」に出た記憶がある。  慈念は仏壇を清掃すると、ゆっくり小磬をならして、観音経を誦じた。ふところから、孤峯庵で浄書を終えた経文をとりだして、ゆっくりと誦じた。  みょうほうれんげきょうかんぜおんぼうさふうもんぼんだいにいじゅうご。  にいじむうじんにぼうさ、そくじゅうざあき、へんだんううけん、がっしょうこうぶつにいさぜえごん、せえそんかんぜえおんぼうさ、いがいんねん、みょうかんぜおん、ぶつごうむうじんにいぼうさ。  慈念は万吉の家よりも長文の観音経を誦じ終ると、きみ子、徹治、祖母の戒名を誦じて回向をおえた。小磬をならして三拝してから坐具をしまい、うしろをむいた。おかんが坐っていた。 「おかん」  慈念はいった。 「寝とらんとあかんで」  松治がうしろでおかんの背中をささえた。病みあがりのやせこけたおかんは黒眼の大きな眼を光らせて慈念をだまってみつめていた。やがておかんはかすれ声でいった。 「捨、大きゅうなった、一人まえの坊《ぼん》さんになった」  慈念はだまって白眼をむいて立った。 「ほんなら、|晩げ《ヽヽ》は墓まいりしたげる。おかん、棚経すんだら、墓まいりも|さんまい《ヽヽヽヽ》もまいったげる。安心して寝とって」  慈念は庭に出たとき、暗がりの座敷をふりかえった。  おかんの顔は蝋《ろう》のように白くみえた。  乞食谷から下村を廻った。慈念が十八軒の棚経を全部誦じ終えたときは、もう迎え火の松明《たいまつ》を川に流す夕暮れがきていた。慈念はどの家の洗い川にも、蕗の葉を敷いた上に団子がもられ、そこに一束の線香が燃えているのをみた。底倉の村は、どの家も川戸で迎え火をたいていた。夕靄のように空はけむった。  慈念は西安寺へ帰った。黙堂はもどっていなかった。すぐ、その足で、庭を横切り、石段をのぼって、裏の墓地にいった。  おかんの家の墓は草が生えていた。その草の中に、慈念は本堂からもってきた百目蝋燭《ひやくめろうそく》をともし、香も焚いた。家の格式の差別によって、墓の石塔は御影石のすべすべした先祖累代の墓であったり、棒切れのような墓標だったりしたが、四十戸の部落の墓地には、数百本の石塔や墓標が林のように立っていた。夕闇の落ちるまでかかって、慈念はおかんの家の墓経をよんだ。  墓経を誦じている家はどこにもなかった。慈念はおかんの家だけは、仏のきみ子も、徹治も、祖母も、今日は安らかに眠ったであろうと思った。  二十一日には「阿弥陀《あみだ》の舞」があった。  阿弥陀の堂は村下《むらしも》の乞食谷のさんまい(埋葬地)にゆく途中に竹藪と茶畑に囲まれて建っている瓦ぶきの堂で、小さな六畳ひと間ぐらいの土足で上れるものだった。正面の壇には木像の阿弥陀如来像が一体安置されていた。ここは村に新仏が出ると葬式場になる広場であった。  夕刻五時になると、村の子供らは五歳から全員集合して、村じゅうをふれ歩いた。松明を背中に背負い、高等科の子が高張提灯《たかはりぢようちん》を掲げもっていた。子供らは、 「松がいくぞォ」 「松がいくぞォ」と唱和して歩いた。  どの家々も、迎え火の消えたところで、仏壇の前で年寄りたちが鉦《かね》をたたいて御詠歌を誦《よ》んでいたが、子供らのふれがはじまると静寂にもどった。  人びとは晴着の浴衣をきたり、新しい下駄をはき下ろしたりして、夜の色の落ちた阿弥陀堂へいそいだ。  六十歳から七十歳までの爺《じじ》ィ連が、尻からげして堂前の隅の高張提灯の下にうずくまっていた。そこへ、上村《かみむら》の観音堂を出発した青年団の一行が、直径一メートルもありそうな大きな太鼓をかついできた。  みんな頬かむりしていた。暗がりの中で、うす暗い高張提灯だけの灯《ひ》が堂前の広場を照らしている。  太鼓と鉦のからみあう鈍い音がやがて起り、堂の屋根をこえて背後の山に吸われた。  と、このとき、松明を背負った子供らが高張提灯をななめにして走ってきた。子供らは、   ワッショイ、ワッショイ、   ワッショイ、ワッショイ、  と声をあげて堂前の広場を廻った。そうして、ふたたび、村なかに出た。そのあとを青年団が太鼓と鉦をかついで、村下《むらしも》へ出た。田圃《たんぼ》に火がともった。「虫送り」の火であった。  子供らは、田圃の小道を走り、それぞれの麻《お》がらでつくった松明に火をつけていた。松明の火は田圃の中を右に左に走りして、やがて、土堤へあがって一列にならんだ。   ドオン、ドオン、ドオン、   カン、カン、カン、  青年団の太鼓と鉦がなった。高張がゆっくり、土堤に向った。燃える四十戸の松明が、子供らの手に高々とあがって夜空をこがした。これが虫送りである。  人びとは、阿弥陀堂の前にあつまって眺めていた。  慈念も、西安寺を出て、堂前の暗がりから、じいっと火をかかげて走る子供らをみていた。  やがて、火が消えると、土堤から子供らが阿弥陀堂へ走ってきた。   ワッショイ、ワッショイ、   ワッショイ、ワッショイ、  かけ声をかけながら、堂の中へ入りこんだ。  田圃へ送り火に出ていた青年団の太鼓が広場にもどる。六十から七十までの爺ィ連が太鼓のわきを取りまいた。   ドオン、ドオン、ドオン、   カン、カン、カン、カン、  青年団の一人が太鼓と鉦に調子をつけてたたいた。堂の中から、子供らの声がした。   あーみーだーのまえに何やら光る、   ドオン、ドオン、  大人たちが太鼓を打った。   ごぜ(瞽女)の目がひかる、   目が光る、  と年寄りの中の一人がしわがれ声でこたえた。   ドオン、ドオン、ドオン、  子供らはやかましく戸をたたき出した。やがて、子供らがいった。   むかいの山に竿《さお》さしわたーす、   ワッショイ、ワッショイ、   ワッショイ、ワッショイ  太鼓が鳴り、子供らの足踏みと喧《やかま》しい板戸を叩《たた》く音が静まると、また年寄りの一人がいった。   のぼれば間《あい》の遠さよ   先はじよじよむけもとはしやぐま  慈念は暗がりの中でじっと、この大人と子供のやりとりをみていたが、一年に一どしかないこの行事が、いったいどのような目的で行われるのか知らなかった。しかし、慈念は、五つになってはじめて、子供らの仲間に入って松明をもって走った記憶はあった。  慈念は背がひくく、頭が大きかったので皆と一緒に走れなかった。だから、いつも慈念は草履拾いをやらされた。子供らの中には、手拭や草履を失うものがいたので、うしろから、小提灯《こぢようちん》をもって地べたを見てあるく役目だった。慈念は毎年、この日がくると、村人の見ている前で草履拾いしている自分がみじめではずかしかった。  なぜこんなに躯が小さく生れたのだろう。なぜ、こんなに恰好のわるい鉢頭になったのだろう。小提灯を地べたにひきずるようにして、子供らの走り去ったあとからついてゆく慈念は、いつも、そのことばかり考えていた。  慈念は京都の孤峯庵にいたとき、大徳寺の中学で、学校教練を強制的にやらされた時の屈辱感をよみがえらせていた。  それは自分にだけ、丈のひくい騎兵銃をもたせた配属将校への憎しみにつながるものであった。同級生の誰もが三八式歩兵銃や村田銃を担《かつ》いでいるのに、自分だけは半分ぐらいしかない騎兵銃を担いで演習に出た。京の町中を、行軍していると、町の人びとは背のひくい慈念が一人だけ騎兵銃をもって尾《つ》いてゆくのでわらった。その時も、阿弥陀の舞の行列で草履取りの小提灯を地べたにひきずっていた八月二十一日の夜を思いだしたものだった。小提灯をもった慈念にささやきかける子がいた。 「捨よ。われが生れた阿弥陀堂やど。われが生れた阿弥陀の舞やど」  意地の悪い子供らが何げなく漏らしたこの言葉は、はっきり事実はわからないままに、生涯忘れることのできない劣弱意識に慈念をたたき落している。   阿弥陀の前になにやら光る、   瞽女《ごぜ》の目が光る、   目が光る、 〈ごぜとはいったい何なのだろう……〉  堂での行事は八時に終った。慈念は暗がりの村道を西安寺の方へ一人で歩いた。  乞食谷の端にもどって、「舞」に出た松治と定治の留守ちゅうにおかんがどうしているか、のぞいてみたい気がしたが、慈念は足がすすまなかった。細い竹藪づたいに裏道をとおって、西安寺の方へ歩いてくると、とつぜん暗がりから女の叫び声がきこえた。  桑畑の暗がりから、頬かむりした浴衣着の男が走り出て消えた。慈念は足をとめた。暗がりをじいっとすかしみた。星空の夜目の中を走り去る女がいた。前合わせをひろげ、しどけない恰好のその女は、洗い川へよろめくようにして消えた。阿弥陀の舞の夜は、娘や後家が襲われるのであった。堂の前に来ていなければ、それを待っていると見られても仕方のない習慣であった。慈念は友だちになった木樵《きこり》の辰之助がしゃべった夜這《よば》いのことを思いだした。慈念は暗い村の道を、西安寺の方へゆっくり歩いた。     5  慈念が西安寺へ戻ってくると、黙堂と、区長の家の次男がうす暗い炉端で碁を打っていた。慈念は和尚にあいさつをすませて、寝所に入った。  慈念の胸は、まだどきどき音をたてて波打っていた。敷蒲団を出して横になったが、なかなか寝つかれなかった。  慈念は障子のすき間から、宇田竺道のいる書院を見た。  竺道は背すじをのばして坐っていた。昨日剃ったばかりの頭が半紙のように白く光って、微動だにしない。竺道の坐像は堂に長い影をひき、うしろ壁までのびていた。 〈ごぜとはいったい何だろう……〉  慈念は庭下駄をつっかけると、書院の窓の下へきた。  その音で竺道の閉じていた眼があいて、やわらかな微笑が頬に出た。 「おかんの家へいったか」  竺道は窓に片手をかけてきた。 「へえ、棚経もすませました。行ってみたら、庭先も、仏壇もよごれたままやで雑巾でふいてから、観音経あげてきました。よろこんどりました」 「まだ起きられんのかの」 「へえ、わしらのうしろにきて松治に背中ささえてもろて、仏壇に手ェあわしてました。まだ無理のようです」 「そら困ったなァ」  竺道はそういうと、白い顔を憂い気にかげらせて、だまった。 「和尚《おつ》さん」  慈念はきいた。 「和尚《おつ》さんは、|ごぜ《ヽヽ》て何やかしってはりますか」 「ごぜ?」 「へえ」 「阿弥陀の舞の|ごぜ《ヽヽ》のことか」  竺道は眼をつぶった。 「知ってはったら教えて下さい。ごぜの眼が光るいいます。『阿弥陀の前に何やら光る、ごぜの眼がひかる』これ何でっしゃろ。むかしからの村の行事らしいですが、子供らも口にいうだけのことで、わけを知りません。何でっしゃろ」 「|ごぜ《ヽヽ》はな」  竺道は手を組んだ。 「盲目の歌うたいや」 「盲目の?」 「三味線ひいて、歌をうとうて、物もらいにくる女《おな》ごのことや……」  慈念は竺道の影の濃い顔を凝視した。 「なにか。そのごぜがどうかしたか」  竺道はしずかにいった。「なんでもおへん」といって慈念は、書院の窓からはなれてあるき出した。  慈念は庭先をゆっくりあるいた。部屋に帰ると、横になった。桑畑の中を走り消えた男と女の姿が思いおこされた。 〈三味線ひいて、歌うとうて、物もらいにくる女ごがごぜか……〉  慈念は何ども口の中でつぶやいていたが、やがて、深い眠りに落ちた。  十六年前——。  若狭|比丘尼《びくに》といわれる四、五人の女づれが、赤茶けた白衣に角帯をしめ、頭に白い頭巾《ずきん》をかぶり信玄袋《しんげんぶくろ》を手に手にして、海沿いの村々を歩いていた。どの女も三十前後の年ごろだったが、襟首《えりくび》に濃い目の白粉をぬっていた。どこからくるのか、毎年、夏がすぎて、秋の穫り入れがすみ、松尾寺の開帳がはじまるころになるとこの盲目の女たちはやってきた。安来節《やすきぶし》だとか、口説節《くどきぶし》だとか、刈萱《かるかや》だとか、熊谷《くまがい》などの段物を、彼女たちは底倉の村の家々の戸口でうたった。新米のとれた頃だからいくらか景気がよかったので、ひえのまじった餅《もち》をついて、女らのくるのを心待ちしている家もあった。比丘尼といっても、髪をのばした女たちは、美声をはりあげ、猥褻《わいせつ》な替歌《かえうた》の越後|追分《おいわけ》なども歌ったりした。祝儀の餅をもらうと信玄袋に入れた。そうして乞食谷の阿弥陀堂に宿をとる習わしだった。  阿弥陀の堂は、子供らが足踏みしてたたいたあとだったので、板戸は破れ放題だった。この板戸を比丘尼のために張ってやるのが寺大工の角蔵の役目であった。  角蔵はどの普請場にいても、秋風が吹きはじめると戻ってきた。阿弥陀の堂に板囲いをするためだった。ごぜたちは、角蔵の囲ってくれた堂にこもり、村人のさし入れた筵《むしろ》の上で、寝起きした。朝から底倉の村を出ると、父子《ちちし》、万願寺、岡安、福谷、神崎、など佐分利川にそうた部落を流し、餅をもらっては、歩いて帰ってきた。  その中にお菊がいた。  お菊は細い眼をした瓜ざね顔で、白いきめの細かい肌をしていた。ほかのごぜと同じ白装束に身をかためてはいたが、お菊だけは赤い脚絆《きやはん》をつけ、裾下一寸ほどに紅腰巻をたらしていた。女たちは、夜になると訪ねてくる暗がりの男を待つのだった。お菊も同じだった。しかし、ごぜの頭株である四十五、六になった背のひくい女は、年下のお菊だけをかばうようなところがあった。お菊は美貌《びぼう》だが、脳がよわかった。物言いも鼻にかかったぬけたようなひびきがあった。  お菊が妊《みごも》ったとき、相手は誰であるかわからなかった。阿弥陀堂の筵の上で、お菊は冬に捨吉をうんでいる。捨吉という名はあとで角蔵がひき取ってつけた名であった。お菊は春がくるまで名前のない子をはなさなかった。雪のひどい冬じゅうお菊は阿弥陀の像の前で火を焚き、捨吉とゴロ寝してすごした。捨吉はよごれた板の間の上にころがされていた。  お菊が底倉の村を去ったのは、春がすぎて、捨吉が乳ばなれした頃であった。角蔵はお菊に多少の金銭とおかんの古着をあたえたが、堂を出るときにお菊にこういった。 「また、気ィが向いたら村へこんかいや。せやけど、捨はもううちの子やぞ。餅もらいにきたかて、子ォの名よんだらあかんでェ。ええか」  白痴じみたお菊はいくらか頬のこけた顔を角蔵にむけて、おとなしく聞いていたが、やがてにんまりわらった。甲高《かんだか》い声で追分をうたいながら田圃道を遠ざかっていった。  お菊の姿を慈念は知らない。     6  寺大工の角蔵が越前から戻ってきたのは、おかんの容態がはかばかしくない旨を、区長の六右衛門が旅先へ報《し》らせたからであった。  角蔵は十月はじめの朝早い時刻に、ひょっこり底倉の部落へもどった。メリヤスの仕事着に紺のはっぴを着、陽焼けして赤銅色《しやくどういろ》になった首すじにタオルをまきつけ、肩に道具箱をかついでいた。山根道にはまだ朝露がのこっていて、コハゼの切れた地下足袋は水をくぐったように濡《ぬ》れていた。  おかんは相かわらず板の間の茣蓙《ござ》の上に寝ていたが、角蔵が門口《かどぐち》で小鼻をしゅんとかむ音で、夫が帰ってきたことを知った。 「お父《と》がもどった」   松治と定治が裸足《はだし》で飛んで迎えた。  縁先に道具箱をおいた角蔵は、板の間のうす暗がりの箱枕の上に頭をのせ、カマキリのようにやせたおかんが寝ている白髪に一瞥《いちべつ》をくれた。 「どうや、どんなあんばいか」  おかんはだまってわずかに顔をうごかした。 「肩の骨が折れた」  と松治がわきから説明した。 「わしに見せい」  角蔵は地下足袋を庭先にぬぎ捨てて、急いで縁にあがると、おかんは、 「お父《と》」  といった。 「寺へ行ってみやんせ。捨が大きゅうなってもどっとる。盆の棚経《たなぎよう》も捨がしてくれた。誰も仏壇掃除してくれるものがなかったで、捨がみんなしてくれた。墓まいりも|さんまい《ヽヽヽヽ》もの……」 「捨がか」  角蔵は金壺眼《かなつぼまなこ》をキロリとうごかした。 「いつもどってきよったんや」 「去年の夏やった。大きゅうなってなァ。ええ坊《ぼん》さんになっての」  おかんはうるんだ瞼を何どもしばたたいた。  角蔵はやせたおかんがはずみにうごいたとき、|じんべ《ヽヽヽ》の襟がひらいてあばら骨がうき出るのをみた。つばをのんで眉をしかめた。 「痛いか」  右肩の先から背中にかけ、大きな黒い貴真膏《きしんこう》が貼ってあった。ぷーんと垢《あか》くさい匂いが鼻をつき、はれあがったおかんの肩は、そこだけ草餅をひっつけたように肉高になっている。 「冷《ひや》さんとあかんのやろ」  角蔵はやがて川戸《かわど》ヘ出ると、手拭をぬらしてきておかんの肩をゆっくりしめらせた。 「図面がええかげんで、普請が長びいた……えらいこっちゃ」  角蔵はぼそりといった。いいわけのようにきこえたが、おかんはもちろんそんなことはきいていない。だまって天井をみていた。角蔵はやがて立ち上ると、 「ほんなら、寺へ行ってみてくる」  そういって家を出た。村なかを通るのは気がひけるとみえて、角蔵は裏山をぬけていった。濃い常緑樹の森をくぐって西安寺の墓地へ出るには三十分ぐらいかかった。裏庭から庫裡の窓をこつこつとたたいた。  寺には黙堂はいない。たつ枝と慈念はいたが、慈念は庭先の草取りだった。作務着《さむぎ》のボタンのとれたメリヤスの下から、七年ぶりでみる慈念の成育したもりあがった肩がのぞいている。 「捨」  角蔵ははなれた所から声をかけた。  角蔵の方を、慈念はだまって白眼をむいて見た。どことなく狡《ずる》そうにみえる角蔵の脂ぎった寸づまりの顔を、慈念は見ていた。が、何もいわず、眼を伏せてまた草をむしりはじめた。角蔵は、慈念の押しだまった表情の裏がわからぬでもない。おかんを放ったらかして仕事にでていたことをなじられていると思ったのである。 「角さんか」  とこの時、たつ枝が窓をあけた。 「早よもどらんとなにしとったね。おかんもわるいいうし、阿弥陀の舞もすんでしもたに。板戸もはらんならんしに。あんたの仕事はいっぱいのこっとる。和尚《おつ》さんもな、一生けんめい役場づとめして……今年の冬は内陣さんの造作と鶏小舎の建てましや」  角蔵はしょぼついた眼をたつ枝に媚《こ》びるように投げて、膝を一つたたいた。 「これから阿弥陀の板戸でも削らしてもらいますで。おおきにな。奥さん、捨がまた厄介になっとりますなァ」  角蔵はぺこっと卑屈なお辞儀を一つした。    くわえ釘をした角蔵が、手馴れた手つきで杉板をはってゆく。そのたびに阿弥陀の堂はゆれる。底倉の部落では、この建物がいつごろ建てられたものであるか誰も知らない。おそらく、江戸時代に、庄屋の一人が部落の埋葬場をかねて阿弥陀浄土の旅出の門口にふさわしくするため、どこかの仏師にたのんで彫ってもらった像をまつったものに相違あるまい。柱もたるきも虫喰いしている。等身大の阿弥陀像も金網の中で埃《ほこり》をかぶっている。木目の荒い像は、よくみると、象の肌のように皺があった。ふくよかな如来の頬と、つりあがった眼のかたちが、いかにも阿弥陀本尊らしい寂しさをただよわせている。角蔵は一日かかって、子供たちのたたき壊した堂のまわりをはり終えた。周囲の板壁がつくられると、破れ堂は阿弥陀堂らしくなった。  角蔵は六時ごろに、乞食谷の家へ道具箱をかついで帰っていった。  餅もらいのお菊が、底倉の部落へたちよったのは、早稲田の刈り入れに忙がしい村人たちが、谿々《たにたに》の段々になった汁田圃《しるたんぼ》に舟をだして稲つみをしている最中であった。  三角屋根の煙出しからたなびき流れる白煙が空を被《おお》い、山も田もすでに乳色に暮れかけていた。お菊の歩いてくる田圃には、壁のようなハサ(稲架け)がつったっていて、そこには穂先のぬれた稲が逆さにかかっていた。  お菊は赤茶けた白衣の単衣《ひとえ》をきて、相かわらず紅脚絆と手甲をつけ、まるい指先まで白粉をぬっていた。昔のようにはち切れた肉づきではなかったが、どことなく歩いていく後ろ姿には、くずれた色気があった。お菊は底のまるい信玄袋を背負い、ハサのならんだ山裾道を通って阿弥陀堂へきた。  お菊の姿をみたのは、山裾の稲田で、胸までつかる水田で早稲を刈っていた辰之助とその父親の伊之助であった。二人は冷えきった水田で手をやすめて、お菊が阿弥陀堂の前の茶畑と竹藪の間に吸われてゆくのをみた。 「お菊がきたぞ」  伊之助がぽつりというと、わきにいた辰之助の眼が光った。今晩から男たちが堂へゆくぞ、と辰之助は思ったのだ。  と、不意に辰之助の頭をおそったのは、西安寺の離れにいる慈念のひっこんだ眼と軍艦頭のとび出た顔である。 〈捨にいうたろ……捨のお母《か》ァがきたんや……〉  辰之助は早仕舞いにかかった。  夕飯が終ったとき、辰之助は乞食谷の家を出た。  月が出ていた。しかし、秋さなかの村は死んだような静寂だった。どの家も仕事でつかれているので早寝をするのである。  辰之助は西安寺の石段をあがると、墓地をぬけ、そこから慈念のいる離れの窓下へとび下りていった。部屋の障子はしまっていたが灯《あか》りがあった。  こつこつと障子をたたいた。 「捨」  辰之助は暗がりからよんだ。 「捨」  部屋の中で、何やら動く気配があった。 「おるか。わしや、辰や」  辰之助は小声でいった。向きあった書院には宇田竺道が坐禅を組んでいる。知られてはいけなかった。 「ちょっと用があるねや。起きとったら出てくれや」  辰之助は障子に口をつけて小さくいった。  中でまた動く気配があった。慈念は眠らずにいたのだ。  立ってくる影がうつった。軍艦頭が浮きあがって静止した。 「誰や」  障子の向うで慈念の声がした。 「わしや。辰や。お母《か》ァがきとる。捨、お前のお母ァや。阿弥陀へいけや。はよ行かんと、あかんで。村の若い衆が眼ェつけとるで。ええか」  早口で押し殺したように辰之助はそういうと動いていた影が静止した。大きくうなずいているのが見えた。  辰之助は庭をつっきると崖をよじのぼってまた墓地の暗がりに消えた。  慈念が西安寺の部屋を出たのは十一時すぎだったろうか。墓地にたった慈念は、墨染の衣をきて、脚絆をはいていた。文庫も、風呂敷包みもきれいな振りわけの荷にまとめていた。この姿は、一年前に、飄然と本郷の駅に現われた姿と同じであった。変っていたことといえば、たつ枝の縫ったもので身綺麗になっていたことである。慈念は墓地の上から、うす苔の生えた大きな寺の屋根が、月と光りにぬれているのをしばらく眺めやった。  西安寺の境内は静かだった。山の樹々の葉ずれがしているだけであった。木田黙堂も、たつ枝も、いびきをかいて寝ていた。  慈念は塔婆《とうば》の林立した墓地を、ゆっくり、擦《す》るような歩き方でぬけた。  墓地から、上村の洗い川の上流に出る。そこから曲りくねった石ころ道が夜目の中に白くういていた。  慈念は草履の足音をなるべくさせないように静かに歩いていった。目ざすのは阿弥陀堂であった。  慈念は洗い川の水音に足音をまぎらせて歩いた。下の村を通って乞食谷に出る。黒い森がみえる。森をはずれると、高い埋葬地に月影のくまがひき、そこだけがうっすらと灰色にうかんでいる。  慈念はおかんの家と万吉の家の下を通るとき、もうおかんは寝たかな、と思った。いや、まだ肩の肉ばなれがなおっていないから、板の間の茣蓙の上で眼をあけているかもしれぬ。  村をはずれて、乞食谷に入ると風がひどくなった。谷の風をまともにうける場所であった。慈念は茶畑に入った。  阿弥陀堂の小さな建物が竹藪と椎の木を背景にぽつんとみえた。慈念は茶畑に身をひそめ、じいっと堂前の広場と堂の入口をうかがっていた。  眼が馴れてくると、白い板が新しく打ちつけられているのがわかった。角蔵の打ちつけた板だった。生板の匂いが風にのって鼻をついてくる。  慈念は堂のまわりに、誰も人のいないことをたしかめると、茶畑をとび越えた。  とそのときであった。堂裏の椎の木で何かが動く音がした。慈念は足を止めた。と、キキキキーッとむささびが啼いた。慈念はすり足 で堂の入口にきた。紅白の布を綯《な》ってたらした大鈴の紐を握った。にぶい、かすかな、鈴の音が、コロロンとひびいた。 「だあれ」  と中から女の声がした。慈念は膝がしらがふるえて声が出なかった。  女は鼻をかすかにならしたようだった。板をすって歩いてくる。やがて足音は近くなり、戸口でそれは停《とま》った。 「だあれ、おはいりィな」  とお菊の鼻にかかった声が慈念の耳をたたいた。 「………」  慈念は息をつめた。板戸に手をかけるのと同時に中から力が加わってすべるように戸があいた。蝋燭の火が大きくゆらめいて、そこに紅い腰巻をしどけなくまきつけたお菊が立っていた。お菊は帯をといてだらしなく前をはだけていた。白衣が肩から背中にかかっているだけで、赤い襦袢《じゆばん》から白い胸が出ていた。蝋燭の明りの中でつぶれた眼の白い顔がゆれている。 「はいりんか」  と、お菊は手をさしのべた。 「風が入る。風が入ると火ィが消える。はよ、入って閉めてェな」  お菊は手さぐりできて慈念の袖をつかんだ。盲目のわりに力はつよかった。慈念はひきよせられるように堂へ上った。茣蓙の上に、お菊はいったんすわったが、やがて、うしろへのけぞるように顔を仰向かせると、うしろ手をついてよこになった。壇の上の阿弥陀如来が、じいっとお菊の寝姿を見下ろしているように思えた。 「………」  慈念は咽喉がつまった。  見えぬ眼を糸のようにすぼめて、こっちに向ける顔は媚《こ》びをふくんでいる。 「こっちへおいでんか。誰やの、あんた、誰やの」  とお菊はいった。慈念は立ったままで足もとのお菊の顔をみていた。  慈念はいま、自分の母だといわれる盲目の女の顔をみていた。これが母だろうか。母であるものか。眼の前で蒸れるように匂う躯を仰向けて、男を誘う顔は異様であった。慈念は息を呑んだ。慈念は堂の外へ走り出ていた。  夜のしじまを、つんざくように啼くむささびの音がした。椎の森と孟宗藪のしげった広場は、山襞《やまひだ》をつたってくる潮くさい風の中でしずもり、あけ放した堂にろうそくの火がいつまでもゆれていた。  堀之内慈念が、底倉の部落から姿を消したのは、昭和十二年十月二十九日の夜のことである。慈念がどこへ去ったか、知るものはなかった。  木田黙堂は三十日の朝、慈念の顔がみえないので、作務《さむ》の疲れが出たものか、それとも、風邪でもひいたのではないかと思って、離れをのぞいたが、慈念はいなかった。  蒲団がたたまれていて、衣裄《いこう》にかけてあった衣も袷の白衣もなかった。失踪《しつそう》したことがわかった。朝食のとき黙堂は、宇田竺道にきいた。 「あんたにも日頃から寺を出たいようなことはいうてませんでしたかのう」 「さあ」  と宇田竺道は首をかしげた。 「どこへ行ったやら。あれは 風来坊主。またふらりと戻ってくるでしょう」  竺道はそういうとひと口に茶を啜《すす》った。  宇田竺道が西安寺を去りたい旨を告げたのは、阿弥陀堂からお菊が信玄袋を背負って歌をうたいながら村を去った翌日である。 「絽では寒うなりましたな。花背の風が恋しゅうなりました」  と竺道はいった。  京都府花背山正覚禅寺侍者宇田竺道が、第二十三世万年山燈全寺派専門道場|師家《しか》に招聘《しようへい》されたのは、この年の冬であった。竺道は、越峯窟《えつぼうくつ》と号し、翌年あけて二月十一日に晋山《しんざん》を本山燈全寺で挙式した。孤峯庵住職北見慈海が失踪して足かけ五年の月日がたっていた。法堂に集まった全国末寺の雲衲《うんのう》、和尚たちの中で、慈海和尚の噂をするものはなかったが、しかし若狭本郷村から出向していた木田黙堂が、本儀が終って、箒目《ほうきめ》のついた白砂の敷かれた庭のみえる方丈《ほうじよう》の廊下を歩いていたとき、師家|隠寮《いんりよう》にもどろうとした越峯窟竺道が声をかけた。 「西安寺さん、あの子はその後戻りましたかな」 「いいや、どこへ行ったものやらわかりません」  と黙堂がこたえると越峯窟は微笑して隠寮に消えた。  福井県の若狭海岸にある本郷村底倉部落は、三方壁のような深い山襞に囲まれて静かなたたずまいで現存している。秋近い一日がくると、村じゅうの人びとが集まって行われる「阿弥陀の舞」の風習は現在も同じである。京都衣笠山麓にある孤峯庵の襖絵から破り去られた母子雁の絵と、底倉部落から消えた堀之内慈念の行方は誰も知らない。 [#改ページ]  第三部 雁 の 森     1  御室仁和寺《おむろにんなじ》の朱《あか》い山門の前から、西へ約三丁ばかり。石ころまじりの乾いた道を、嵯峨野《さがの》に向って歩いてくると、路傍に、もちの木や、楓《かえで》や、櫟《くぬぎ》や、栂《つが》などの、かたちのいい植木林がある。古松と常緑樹の混成林になったこの林は、間近にある背後の山まで椀《わん》を伏せたようにのびている。宇多野の森だった。  昭和十三年の秋末の夕暮れ、二人の僧がこの森に向っていた。一人は年のころは四十六、七。薄茶の絹衣《きぬごろも》の上に、黒の被布《ひふ》を着て、白い護襟《ごきん》の衿《えり》に短い首を埋めている。見るからに田舎寺の和尚とおぼしく、陽焼けした浅黒い顔も、剃髪《ていはつ》したての特徴のある先のとがった頭も、地肌が褐色に光ってみえる。胸にかけ下ろした絡子《らくす》の白いカンをみてもわかるように、この僧は禅寺の住職にちがいなかった。  僧のうしろから、墨染の木綿衣を着て、素足に竹皮の鼻緒のちびた下駄をはき、肩をまるめるようにして、胸前下に両手を組んだ、背のひくい十六、七の小僧がちょこちょこと歩いてゆく。頭の鉢のとび出た軍艦頭と、ひっこんだ奥眼は特徴があった。四尺二、三寸しかないであろうと思われる小柄な躯《からだ》は、ひどく貧弱に見えながら、よくみると、こましゃくれた顔と躯つきだ。道ゆく人の足を二人の僧は時どき立ち止らせた。 「慈念」  先を歩いてゆく僧がしわがれ声で小僧の名をよんでふりかえった。 「宇多野へきた、もうじき奇崇院や。ほら、あすこに山が見えるじゃろ」  年輩の和尚は、厚いくちびるをひらいて黄色い歯を出して、顎《あご》を心もち上向け、曇り空のどんよりした北の方角を指さした。 「白砂山。あの山のふところに、奇崇院が建っとる」  和尚の黒ずんだ、額のせまい顔は疲れを現わしていた。吹きぬける風が山の香をまじえて冷ややかなのに、額にじっとり汗をにじませている。慈念といわれた小僧はいわれた方をだまって見ている。前に組んだ手をちょっと先へつき出すようにうごかしただけでぺこりとお辞儀する。 「えろう近いとこにおますのやな、海音寺の和尚《おつ》さん」 「遠いとこやと思うたんか」 「ヘえ」 「宇多野から周山街道へ入ればすぐやで。ええ道じゃから、坂道も、何ともない、さあ、ゆこ」  海音寺の和尚は、怒り肩の背中をせわしなく左右に振りながら、急ぎ足になった。その道に暮色が落ちかかった。  南の方はだらだら坂の下町になっている。はるか南に松の濃いみどりにおおわれた|雙ケ丘《ならびがおか》の低い丘陵が煙っている。西の方はまばらに建った家々の屋根の上に、乳いろにかすんだ小倉山から、嵐山の連山が静かに横たわっている。この白い道はふた股道にきた。海音寺の和尚は、右側の方をみて細い道を北に向う。  右 槇尾道《まきのおみち》  みかげ石の古い道標が立っている。そこにも、もはや、うす墨色の黄昏《たそがれ》の色が落ちかかっている。町並はすでにまばらになって、大きな塀の屋敷が長く両側につづきはじめているが、海音寺の和尚はその道を早足に歩きながら、 「ええか、慈念、わしが越雲和尚にたのむあいだは、じいーっとだまってうつむいているんじゃぞ、ええか」  といった。 「へえ」  慈念はこっくりうなずいた。 「孤峯庵におったときのような苦労はないわさ、奇崇院は、大寺《おおでら》じゃから、嵯峨天徳寺本山の別格地じゃで。小僧も多い。お前ひとりが苦労せんならんということはない。兄弟子衆に教えられるとおり、いうこときいておれば、それでええ。お前は、おつとめも出来るんやから。越雲和尚もお前が維那《いのう》が上手じゃというたら、たいそう喜んでおられた」 「………」  慈念は白眼の部分の多い眼をひからせた。 「若狭あたりを乞食してること思うたら、なんぼましか知れんで。慈念、それにお前は般若林を二年生まで行っとる。越雲和尚はもったいないいうてござった。妙心寺の横にある花園中学へ入れたろいうてござった。おそらく、あしたからでもお前は二年生へ編入させてもらえるはずじゃど」 「へえ」  慈念の顔に血がのぼった。人の好さそうな海音寺の和尚が、いま、自分に向って投げてくれる親切が、永いあいだ、凍え通してきた心にしみ通るようでもあるのか、血色のわるい下顎のとがった顔を、心もちうつむけて、押しだまって歩くのである。  やがて、三丁ほどゆくと、大きな石塀のある家がとぎれ、深い孟宗藪《もうそうやぶ》がつづいた。右にそれると砂利を敷いた細道が見える。古びたかなり大きな門が立っている。  万年山奇崇院。  墨太の字で書かれた古い掲額が門の軒にあった。 「一の門や」  海音寺の和尚はなつかしそうにみた。 「ちっともかわらんわ、昔のとおりや。わしが小僧のときも、みんなこのとおりやった」  若狭の青葉山の北方につき出ている半島に、半農半漁の音海《おとみ》という部落があった。その村にある、菩提寺海音寺の住職竜村宗海が、ある年の夏の終りに、飄然《ひようぜん》と迷いこんできた行脚《あんぎや》の小僧を泊めてから四月《よつき》たっている。宗海は、禅家の習慣で、行脚にきた小僧に請われるままに、役僧がわりに、寺に置いた。これまで何をしていたと訊《き》いても、昔、衣笠山の孤峯庵にいたことがあるというだけで、くわしいことは何も喋《しやべ》らない。年のわりに、ちょっと薄気味わるいような面《つら》がまえをしているのが気になったが、はなしてみると、一途《いちず》なものがあり、慈念は面構えに似あわず素直で、作務《さむ》に熱心なところがあった。このまま乞食坊主にして置くのも勿体《もつたい》ないと考えた。で、宗海は自分が育った、京都の宇多野にある万年山奇崇院に、慈念の入籍を懇願してみる気になったのであった。  竜村宗海が、ふらりと掛錫《かしやく》にきた小僧のために、よけいなおせっかいをやいたのには理由があった。音海部落の海音寺は嵯峨にある亀竜山天徳寺派の三等地で、小さい寺ながら、喰べてゆけるだけの檀家《だんか》はあった。寺領の山林も田畑も少しあった。しかし宗海には妻はあったが子はなかった。慈念の働きぶりをみていて、この小僧が跡目をついでくれたらと、欲が起きた。だが、跡目をつがせるにしても、今のままではどうにもならない。禅寺の住職になるには宗門立の中学校を出なければならない。僧堂へも行き、所定の雲水生活を送ってこなければ、本山から認可は下りない。といって、小僧を育てて中学校の学資を送る金は海音寺になかった。よく働く日頃の作務ぶりをみていて、勿体ない気がした宗海は、どうにかして、慈念を一人前にしてやりたいと思った。同時に、奇崇院へ世話することによって、恩を売っておき、やがて雲水になった暁には、海音寺へ戻ってきてくれることをかすかに願った。  田舎寺の住職にしろ、永年、その寺を守りしてくると、山裾の古びた伽藍《がらん》でも愛情が湧く。勝手に本山から送られてくる後任住職に、たんせいした寺を取られるのも厭な思いのするのは当然で、ましてや、永年つれ添ってきた妻は、和尚が死ねば路頭に迷ってしまう。小僧をもらって、跡目を相続させておけば、妻も年老いてから庫裡《くり》の隅にかくれて生きてゆけるというものであった。この考えは、底倉部落の西安寺の黙堂和尚の、慈念をみたときに欲を出した事情と似通っている。  竜村宗海が、京都の宇多野の奇崇院へ慈念をあずけようとしたのは、奇崇院の堂森越雲和尚が小僧を養うのが好きだったことも大きな理由になっていた。越雲和尚に金を出させて、慈念を中学へ入れ、雲水になるまで面倒をみてもらう。そのあとを貰《もら》いうけたいというのが腹を割ったところの魂胆だった。  奇崇院住職堂森越雲は、小僧を育てるには一種の偏執的な情熱をもっていた。この年、越雲は七十二だった。すでに、奇崇院に住して四十五年になっていたが、今日までに三十人近い小僧を養育してきた。竜村宗海も十三のとき、若狭の村からこの寺へきた。越雲に養育された小僧として年長の部類に入る。  越雲は、よく旅をした。一つは、養育しておいた弟子どもが、国々の住職に納まっているのを見るのが楽しみだったし、寺で泊るのも楽しみにしていたようだ。だから、同じ小僧を見つけてくるにしても、旅先の諸国からみなし子同然を貰いうけて、一人ずつ養育するのを趣味にしているようなところがあった。 「中学を出てから、僧堂にいっとる兄弟子は七人はおるじゃろ。いま、寺に、十三人小僧がおる。越前、越中、近江、美濃、そこいらじゅうの子供をもろうてきて、長老はんは養うてござる。お前は若狭の子ォや。ええか。わしも、若狭から奇崇院へ行った最初の弟子じゃった。慈念。わしのように辛抱してな、中学を出してもらえ。そうして僧堂を出てな、ちゃんと一人前の雲水になるんや」  竜村宗海は、出発するときにしつこく慈念を説得した。慈念はだまって、きいていたが、 「宇多野というと、衣笠山の近くどすか」  と、とつぜん白眼をむいて訊いた。 「ああ。けんども、孤峯庵の在るところからだいぶはなれとる」  と宗海はいった。 「どれほどはなれていますか」 「孤峯庵から、西へ、等持院、竜安寺、御室仁和寺、ずいぶん大寺《おおでら》が山裾にならんどる。奇崇院のあるところは大覚寺の広沢池にゆく途中の道を山奥へ入ったところやから、近いいうても、だいぶあるわな」 「すると、和尚《おつ》さん、山は衣笠山とちがいますか」  慈念はまだ寺の位置にこだわってきいた。 「ちがう、ちがう、山は白砂山いうて、赤松のしげったきれいな山や。この山を背中にして、奇崇院は、孤峯庵よりも大きな庫裡もある、本堂もある。庭もひろい。池やって、二つも三つもあるぞ。大きな寺や。何せ、小僧が十三人もおるんじゃから」  慈念は安心したような顔にもどってうなずいた。相談が出来ると、宗海は京都へ手紙をしたため、堂森越雲に懇願した。すぐ来い、と返事があった。もちろん、宗海は慈念の経歴について、衣笠山麓の孤峯庵で苦労をして、経もならい、勤行《ごんぎよう》作務もおぼえている旨を誇張して書き加えておいた。小僧を養うことの好きな越雲が、それを読んで食指をうごかすことは計算されていた。小学校出たての、泣いてばかりいる子を貰いうけるより、慈念のように十七の年齢はすぐ役にたって手間がはぶけるのである。慈念はまともに通学しておれば中学四年生の年齢であった。  その奇崇院が、いま、宗海と慈念の歩いてゆく前方に近づいてくる。一の門を入ると砂利を敷いた一本道が一丁ほどのびている。古松の植わった坂の途中にまた中門があった。山門よりは少し小造りな門だった。しかし、この門も古びて、木目の出た太い柱が、由緒の深い寺を物語っている。中門をくぐると、道はくの字に曲って、せまくなった。竹藪と松林の中を上り勾配《こうばい》になってつづいた。 「あれが聖天《しようでん》さんや」  右側に梅林に囲まれた池があって、まん中に、萩のしげった築山がみえる。島のような築山の中に、小さな金網をはった祠《ほこら》が黒ずんで建っている。 「一日と十五日は、あすこでお経をあげんならん。聖天さんは、夫婦《みようと》の仏さんや」  宗海はぼそりとそんなことをいった。  一本の松の木も、池の水も、小さな祠のみえる築山のたたずまいも、すべて自分の育った、なつかしい寺の所有物だと自慢するみたいな物言いであった。慈念をふりかえりふりかえり、宗海はしわがれ声で説明した。 「わしら小っちゃい時に聖天さんの屋根に上って長老はんによう叱られたもンや。聖天さんの裏に梅の木があってのう、大きな大きな実がなりよる。その梅を喰うて、長老はんに腹こわすいうて叱られたもんや」  やがて、松の林の中に、大きな鬼瓦のみえる庫裡と、それにつづいた広い|そり《ヽヽ》棟の屋根のみえる本堂が目に入った。白い五線の入った土塀が、絵のように伽藍を取りかこんでいた。塀の中に、目立って太い松と庫裡の大屋根がへいげいするようにおいかぶさるあたりに、大きな門が建っていた。 「ええか。隠寮へ通ったら、だまって、わしのそばでおとなしゅうしとるんやで」  宗海は何どもいってきたことをくりかえした。慈念はこっくりうなずいた。が、ふと、門の石畳に足を踏み入れようとした時、とつぜんこんなことをきいた。 「和尚《おつ》さん、奇崇院には奥さんがいやはりますのんか」 「奥さんかいな」  宗海和尚は立ち止ってちょっと慈念の顔を見た。 「おられる、喜代子はんいうてな。わしらのおるときには松子はんという人やったが、いまの喜代子はんは二どめでな。ええ奥さんやいうこっちゃ。小僧らが十三人もおるのに辛抱できるお人《ひと》やから、心配はいらん。きっと、お前も可愛がってくれはるやろ」  慈念は眼の隅に光りをうかべて、浅黒い顔を宗海にむけた。 「なにか、お前、奥さんがそんなに気ィになるんか」  宗海は心配げに慈念の顔を覗《のぞ》きこんだ。 「孤峯庵とちごうて、ここは大寺や。奥さんは隠寮の隅の方にかくれて暮らしてござる。小僧らと顔をあわすこともない。心配せんでええ、わしも、ときどき会うたことがあるでよう知っとる。美しい奥さんや」  宗海は、黄色い歯をだして口もとをほころばせた。  堀之内慈念は眼を光らせたままじっと立っていた。 「さあ、ゆこ、長老はんに会うて、あいさつしょ」  竜村宗海はみかげ石のとびとびになった苔《こけ》の道をせわしく肩を振って歩いた。  刈りこんだ円筒型の菩提樹《ぼだいじゆ》が両側にならんでいる。大きな格子戸《こうしど》のはまった玄関が黒く煤《すす》けた中をみせてあいていた。そこにいま十五、六と思われる背のひくい小僧がぽつんと立ってこっちをみていた。 「おいでなさいまし……」  どこから貰われてきた子なのか、ひどく生気のない頭のとがった子だった。  宗海と慈念の来訪の趣意を聞きとると、洟《はな》をすすりながら、小僧は奥へひっこんだ。     2  堂森越雲は、五尺七、八寸もあろうかと思われる背の高い和尚だった。やせてはいたが、七十二という高齢に似合わず、白い肌がつやつやしていた。しかし、咽喉のあたりから右側の頬にかけて、老いの象徴である、胡麻粒《ごまつぶ》のようなシミがあばたのように出ている。ひきしぼった大きな口をうごかすたびに、散ったり集まったりして一しょにうごいた。若狭の竜村宗海は、書院の間に通されると、越雲の前に三拝した。鄭重《ていちよう》な物言いであった。 「この子でござります。手紙にもかきましたように、なかなかまじめなとこがありまして、田舎寺に置いておくのも勿体ない思いがして……どうぞ、よろしゅうおたのみ申します」  越雲は、護襟をだらしなくひろげ、薄茶の絹の袷の前合わせを少しひろげて、骨ばった膝坊主をのぞかせた。歯のぬけた紫色の歯ぐきを、くちゃくちゃと音だててせわしくうごかす。やがて、唇をぴたりと静止させると、じろッと慈念の方をみた。 「孤峯庵にいたてのう」 「はい」  慈念はいすくめられたようなおびえた眼になった。越雲の眼は黒眼が大きい。太い眉が達磨《だるま》の絵でもみるように長い。じっとにらまれて、鉢頭をうつむけた慈念は、畳をみている。 「あの寺も大寺や。燈全寺派の別格地やった、和尚《おつ》さんは、どないしなさった?」 「へえ」  慈念は白眼をむいて越雲を見た。 「どこへゆかはったか知りまへん。寺を出たきり戻ってきやはらしまへん。跡目《つぎ》の和尚《おつ》さんが坐ってはりますけど、その和尚《おつ》さんにはお目にかかったことはおへん」  口の中で、ぼそぼそっとこたえた。 「そうか、お前さんは孤峯庵で、般若林にいっとったというがほんまか」 「へえ、二年生まで行っとりました」 「うちへきたら、般若林はやめてもらわんならん。うちは、みな花園中学へ行っとる、ええかな。明日にでも転校の手続きをしてもらわんならん。三年生に編入できたらええが、長い休学やで無理かもしれんのう」  と越雲は海音寺の和尚と慈念を交互にみた。 「編入試験うけてうかればよろしいと思います」  とわきから宗海が頬ぺたをほころばせていった。 「成績はええほうどすさかい、きっとこの子はうかりまっしゃろ」  慈念は顔を心もちゆがめた。永いこと学校を休んでしまっていたことが気になる。じっと池の方をみている。  書院から、本堂裏の眺めは、孤峯庵と似ている。自然石と枝ぶりのいい小松と芙蓉型《ふようがた》の池とが、いま夕陽をうけ、うす明るく映えている。紅葉した楓の枝が舟型になって、池の上にさしでている。水面にヒシの実がういている。ヒシのみどりと楓の紅い葉とが、にしき染めの織物でもみるようだ。 〈とうとう、また、京の寺へ来てしもた……〉  堀之内慈念はそんな顔をして庭をみている。  海音寺の和尚は、この夜八時ごろまでいて奇崇院を辞去した。慈念さえあずければ、もうそれで用事がすんだ。越雲が泊ってゆけとすすめたのにもかかわらず、宗海は京都へきたついでに、村の檀家から出ている知人宅へも挨拶《あいさつ》にゆかねばならないといい、気ぜわしそうに闇《やみ》の落ちた門を出て行った。  書院に取りのこされた慈念は、やがて、越雲和尚につれられて、玄関の韋駄天《いだてん》の前を通って、庫裡につれてこられた。孤峯庵の庫裡よりも三倍はありそうな広い煤けた庫裡である。井戸は孤峯庵のように外ではなく、台所の中央にある。竃《かまど》と井戸の間は丸竹を張った床になっている。いま、そこに夕食をすませた小僧たちが、釜を洗ったり、ぞうきんで床をふいたり、薪《たきぎ》を小舎《こや》の方へもどしたりして甲斐甲斐《かいがい》しく働いている。先程玄関で取次いでくれた子もいる。背のたかい二十七、八の大男を越雲は、「宗温……」とよんだ。 「この子ォや。仲間《なかま》へ入れてやって。あしたは花園へ転校の手続きもせんならん。よう、はなしきいてな。あんじょういうてやって」 「つれてきやはった和尚《おつ》さんはどないしやはりました」   と宗温はきいた。 「海音寺か。去《い》んでしもた」  越雲はそういうと、堀之内慈念をそれでもう仲間にあずけたぞ、といった背中をみせて、奥の隠寮へ、唇を音だてながら消えた。  慈念のことを前からきいていた兄弟子の宗温は、八時半になると、十人の小僧たちをまだ雑巾でふいたあとのしめりののこっている庫裡の板の間に、茣蓙《ござ》を敷いて集合させた。  小僧たちは、庫裡の隅でつっ立ったまま、足の指をちぢめたり、のばしたりしている慈念の方を、時々盗み見ながら取りかたづけをしていたが、やがて、茣蓙の上に年の順にならんだ。そろいの紺の無地の袷を着ている。角帯をだらしなく締めて前合わせをひろげているのもいた。兄弟子の宗温の前へ坐ると、小僧たちは無言で、せまい茣蓙の上に膝をよせ合って掌《て》を組んだ。 「ええか」  と宗温は丸い大柄な顔を、十|燭光《しよつこう》の電燈の下で心もちひきしめていった。 「若狭からきやはった慈念はんや。今日から、一しょに暮らさんならん。前もっていうとくが、年は勇《ゆう》|ぼう《ヽヽ》より上やからな。勇|ぼう《ヽヽ》以下|保次《やすじ》、等《ひとし》、祐吉《ゆうきち》らは、慈念はんのいうことようきかんならんで、ええか」  十人の中で、四人のまだ得度式をあげていない小学生がいたのである。この四人は下手のへっついのわきにかたまってこっちをみている。宗温の前にひきすえられるように正坐したまま、じっと鉢頭を動かさずにいる新米の奇妙な小僧の顔を瞶《みつ》めている。 〈変てこりんな頭しとるな……〉  どの小僧の眼にもそれが出ている。 「そんなら、順番に名前を教えとこ」  と宗温はいった。 「こっちのはしから、宗順《そうじゆん》、宗典《そうてん》、宗育《そういく》、宗光《そうこう》、宗峯《そうほう》、宗英《そうえい》、勇司《ゆうじ》、保次、等、祐吉や。二階には宗喜《そうき》はんと宗庸《そうよう》はんが病気で寝てはる」  鉢頭の慈念の眼が白くなった。ならんでいる十人の初対面のそれぞれ特徴のある顔を眼でおぼえようと努力している有様が、天井の高い庫裡の空気を瞬間、しんとさせる。 「大勢おるでの、ぼちぼちおぼえるんやぞ。ええか」  と宗温はいった。 「部屋は、宗英と勇司と一しょや。二階の六畳がええ。宗英、仲良うしてな、ええか」  蒼白い顔をした中学三年生の宗英は、鼻の歪《ゆが》んだ大人びた細長い顔をぺこりと下げた。慈念はじろりとその宗英の方をみた。 「そんならみんな部屋へもどってよろしい」  宗温の勿体ぶった紹介は五分間ほどですんだ。宗英と勇司は、庫裡の板の間から、一だん低くなった上り口に下りて、煤けた階段のついている暗がりへ慈念を案内した。 「ここの階段あがるんや、ここがわしらの部屋や」  宗英が、歪んだ鼻をひくひく動かして、穴のような階段を先に上った。  妙な部屋だった。庫裡のそり棟になった大屋根の梁木《はりぎ》の上へ、床を張っただけのものである。ふつうの二階ではないから、窓がない。屋根につきぬけた煙突のような穴があって、よごれたガラスが貼りつけてある。若狭や北陸あたりの茅屋根《かややね》の家では、ツシと名づけて、葺《ふ》きかえ茅を入れておく倉庫のような部分になっているところだ。そこが、畳を敷いた部屋になっている。慈念は背のひくい小学生の勇司のうしろからあがってくると、入口に端坐して、部屋の中を見廻した。  天井は煤けて真黒だった。屋根の裏側は露《あら》わにみえる。そこには古新聞がいっぱい貼ってある。五燭の裸電球が明りだ。ひきだしのない一閑張《いつかんば》りの小机が二つならべられてある。「小学五年読方」「小学五年算術」とした教科書が無造作に置かれている。その向い側の机に、英語の字引きが置いてある。教科書は木目の荒い木製の本立ての中で、どの本も表紙が薄汚れてすり切れるほどになっている。宗英は机の前に坐って、慈念をみつめた。 「机はあした、長老はんにもろたる。せやけど、ふとんあるかいな」  ひとりごとのようにいって、部屋の隅へいった。そこには、うすいしめっぽい木綿の麻柄の蒲団が重ねてあった。柱に、釘がうちつけてあり、ボロのような着物と学生服がぶら下っている。 「冬ンなったら、一枚よけいもらわんならんなァ。ま、これでええか」  宗英は大人っぽくいうと、慈念の所へもどった。 「あんたの国は若狭か」 「へえ」 「今日きた人はだれや」 「わいの育った村の、近くの和尚《おつ》さんどす」  慈念は白眼をむいた。わきで、勇司が眠そうな眼をあけてしょぼんとしている。 「般若林へいってたんか」 「へえ」 「何年や」 「二年の途中でやめました」 「花中へくるんか」 「そうやいうてはります」 「そんなら、二年へ編入やな、何学期でやめた」 「二学期どす」 「試験うけて、三年へ入れるかもしれへんなァ」  と宗英は歪んだ鼻をうごかした。自分は三年生だから、慈念が何年生に編入されるか重大な問題だといわぬげに眼をむいている。やがて宗英は、勇司の方をみて、 「お前もう寝え」  勇司はしょぼついた眼をこすると、部屋の隅からふとんをひっぱり出して、柏餅《かしわもち》に折り、そのあいだへ、袷をきたまま躯を入れた。明るい方を背にすると、くるくると蒲団ごと奥の方へころがった。まもなく、寝息がきこえた。 「御室の小学校へいっとる、下から四ばんめの子や、美濃のマッチ石の出る池田からきよった」  と宗英はいってから、慈念にも蒲団を敷いて寝てもいいといった。慈念は疲れている。 「ほんなら、寝さしてもらいます」  先程、勇司のしたように、隅にかさねてある蒲団を一枚ひき出すと、柏餅に折って、その中へもぐりこんだ。  軍艦頭だけを畳の上に出してまもなく寝息をたてはじめた。その慈念をみつめて、宗英はしばらく眼を光らして立っていた。 〈けったいな小僧が入ってきよった……〉  玄関へ村の和尚につれられて入ってきたときから慈念に対する何ともいえない不安なものが、いま宗英の頭をかすめた。これまでに見たことのない奇妙な顔だちだ。頭鉢の大きな寸づまりの顔は、陰気で、とてもなじめそうにない。横になってすぐ、大きないびきをかいている。宗英はこの奇妙な新入者の寝顔をみてそう思った。やがて、五燭の電球をひねって消すと、自分も柏餅に折ったふとんにもぐりこんだ。同じ部屋で寝起きしなければな らない宗英が慈念に抱いた思いは、この夜、奇崇院の十一人の徒弟の誰もが感じたにちがいない好奇心をそそるものであった。 〈長老はんは、どえらい小僧を見つけて来やはった……〉  宗英が寝ついて間もない時刻、谷底のようなうす暗い庫裡の床にすり足の音がきこえた。その足はゆっくり階段を上ってきて、戸口で止まった。 「宗英はん」  と女の声がした。 「ヘえ」  宗英は柏餅のふとんからぬけ出て、手さぐりで電球をさがした。球《たま》をひねった。  新聞紙を貼った襖戸《ふすまど》がゆっくりあく、と三十四、五の背高い女が立っていた。細面の、眼尻の心もちつり上った、白い顔だちだが、うす明るい五燭光の下で蝋《ろう》のような艶が出ている。喜代子であった。 「今日きやはった慈念はんいう子もう寝ったの」  奥の隅の方を喜代子はすかしみるふうにみて、 「あすこに寝てはんのが、そうかいな」  眠っている慈念の軍艦頭がみえる。 「へえ、勇ぼうと一しょに寝てますわ。汽車ンのって若狭から来やはったさかい、疲れてはんのどっしゃろ。横になった思うたらもういびきかいてはりました」  宗英は眼をこすっていった。喜代子は紅いもみ裏の銘仙《めいせん》の着物の前合わせに手をやりながら、 「荷物は」  ときいた。 「なんにもあらしまへん。手ぶらできやはりましたさかい」 「へえ」  と喜代子は、慈念の寝顔をみていたが、急に肩をふるわせると、 「長老はんがえらい頭の大きな子ォやァ、いうてはったさかい、うち、いっぺん見せてもらお思うて来たんやがな。宗英はん、あんたもう、おやすみ」  といった。 「へえ」  喜代子は階段口ヘ向いながら、 「長老はんはなんや、かわいそうな子ォや、いうてはったさかい、あんたら、いじめんよう、あんばいしたげてや。勇ぼうやら、保やら、等らァに、あした、よういうてきかしてやってな。……ええな」  越雲和尚も隠寮にもどってから、慈念の風貌が気になったらしい。で、わきで寝ていた喜代子に話したらしかった。小僧たちの中でも、好き不好きがあっていろいろと悶着の絶えない庫裡の模様を喜代子は知っているのである。 「長老はんも、宗英にいうとけいうてはったさかい、云いにきたんえ」  喜代子は、階段を降りていった。  庫裡の柱時計が十時を打った。小僧たちの部屋は板の間を中心にして、宗英の部屋と反対の同じ位置にある二階の二部屋。その下に六畳半の二部屋があてがわれていた。どの部屋からも寝息がきこえた。日ごろの作務が激しいから、横になると小僧たちは死んだように寝てしまう。喜代子が去った庫裡は海の底のような静けさになった。     3  奇崇院は京都の禅宗|古刹《こさつ》でも一風変った寺といえた。宇多野の森に現在の伽藍《がらん》が建立されたのはいつごろか詳《つまびら》かではないけれども、伝えるところによると、建徳年間、足利三代将軍義満が悪夢になやまされたのを機縁に自己の延命を祈念して、創建した寺だといわれている。のちに義満が北山に造営した金閣寺の先駆をなすものだといわれた。  開山は知覚普明国師妙葩《ちかくふみようこくしみようは》である。足利尊氏、義詮《よしあきら》、義満の三代には、京都には数多い禅宗寺院の伽藍の建立をみているが、普明国師は足利三代にわたって尊信を得た高僧で、特に義満がもっとも帰依《きえ》したといわれている。奇崇院由来記によると、足利義満は、普明国師を開山に招請すると、この地に万年山興福妙宝禅寺という大伽藍を創建した。五山十刹を定めたときにも、この寺を上位に置いた。元中元年に国師が入寂《にゆうじやく》すると、義満は妙宝禅寺の中に開山堂を建て、さらに一院を営んで奇崇院と名づけた。だが、盛観をきわめた妙宝禅寺も、応仁の乱の兵火に焼け、奇崇院一寺のみをのこして現在に至ったということが記録されている。  なるほど、庫裡や方丈の建て方も、総門、中門《ちゆうもん》、唐門《からもん》と、約二千九百坪からある白砂山の麓に構えた全体の姿からみて、金閣|鹿苑寺《ろくおんじ》と相似していた。あのような池畔の金閣はないけれども、芙蓉の池、心字の池とよばれる寺内庭園の池と数百個の古石をつかった枯山水《かれさんすい》の築山は普明国師自らによってつくられたもので、配石の妙には枯山水の絶品の好さがあった。  庫裡、方丈、開山堂、それに舎利殿《しやりでん》があったが、いずれも、重層の屋根のあいだから、なだらかな白砂山の容姿がうかんでみえる。その配置は、借景法のすぐれた名園として、北山を背景としている金閣に似ていた。  堂森越雲は、堀之内慈念が入門したその年から約四十五年前に、この寺に晋山《しんざん》してきた。越雲は嵯峨天徳僧堂で修行を終えた人で、奇崇院新命となってまもなく前住和尚の遷化《せんげ》にあい、二十九歳の若年で後住の座に推挙された。そのころは、越雲は天徳一山の中でも衆望があった。由緒ある奇崇院だけは、本山も別格地として、山内|塔頭《たつちゆう》の寺院より、上位においていたから、住職選任もなかなか難航するのが習慣だったようだ。  その点、若くしてここに坐った越雲は、本山にはうけがよかったといわねばならないが、しかし、後年、五十を越えるころから、あまり塔頭寺院ともつきあわなくなった。法類には天徳寺内の三光院、慈照寺、天命院などがあったけれども、よほどの用件でもないかぎり、目と鼻の宇多野と嵯峨の距離にありながら、往来していなかった。一つは、越雲に、女が出来たからだ。もともと越雲は、女道楽に派手なところがあり、四十歳にして、松子という女をどこからかつれてきて隠寮に匿《かく》していた。松子が、六十五歳のとき、死亡すると、越雲はすでに老年でもあるから独身を過《すご》すと思えたが、三年前にとつぜん、現在の喜代子をめとるに至った。  喜代子は慈念がきた時は三十五歳。姓を福谷といい、もともと、越雲の生れた福井県南条郡|王子保村《おうじおむら》の出の女で、血縁こそなかったけれども、越雲とは知り合い筋の家に生れていた。喜代子は京都に出て、御池寺町の近くにあった株屋の横井英太郎家に嫁していたが、横井は、成金時代に、檀家として奇崇院に多大の金を寄進した。当時、荒廃の極に達していた伽藍の修築や、鐘楼の新築などに、横井はその資金の大半の力となった。越雲は横井家には特別の恩義を感じ、盆と正月には、紫衣をまとって、挨拶を欠かさなかった。横井英太郎は株屋らしい眼光のするどい小柄な男だったが、福井から出ていた喜代子を、花見小路の茶屋で見つけて正妻に迎えた。横井が三十七、喜代子が二十だったから、相当の年のひらきがあったわけだ。しかし、横井は昭和八年の暴落景気で身代を失ってしまうと、失意のどん底で肺を患い、御池の家を売り払うと、千本西大路の、貧民窟のような小さな家に移って、翌年そこで死んだ。  越雲が、喜代子に会ったのは、まだ御池の家当時のことだった。面長で、やせてみえるようだけれども、胴から尻にかけてむっちり太っている喜代子の容姿が男をそそるので魅《ひ》かれた。あまり物を言わない性質の女だった。夫のわきにいて、越雲が冗談をいうと、やや厚めの小さい唇をほころばして、気恥しげに眼をほそめている。そんな喜代子を越雲は気にいった。喜代子を越雲が、ゆっくり眺めたのは、横井の葬式の夜であった。喜代子が、西大路の六畳ひと間しかない掘立小屋のような家から、横井が死ぬときに遺言した「奇崇院へ頼んで埋めてもらってくれ」という言葉どおり、棺桶《かんおけ》に入れた夫の死骸《しがい》を人夫にもたせ、文子、悦子という娘二人をつれて寺の門をくぐってきたときは、さすがの越雲も驚いた。喜代子は泣きはらした瞼《まぶた》を赫《あか》くして、よごれた無地の袷に茶色っぽい縞《しま》の羽織を着、手編のセーターを着た二人の娘の手をひいていた。越雲は棺桶を本堂に入れ、書院に喜代子を招じると、 「横井は、和尚《おつ》さんに始末してもろてくれいうて……何もかも、ほったらかしで死にました。……よろしゅ、和尚《おつ》さんたのみます。葬式してもろういうたかて、うちには一文もおへんし……こないして、和尚《おつ》さんをたよりに子ォつれてお願いにあがりました」  打ちしおれた喜代子をみて、越雲は、生活苦と看病に疲れ果てた女が、血色のない蒼白い肌をしているとはいうものの、むっちり肥っているのに眼をとられて、 「いくつになりなさる」  ときいた。 「三十二になります」 「若いのう」  越雲はするどい眼を精一杯なごめていった。 「心配せんでええ、横井はんは奇崇院には大事なお方やった。あんたは知らんやろけど、寺の鐘楼を建てる時も、方丈の屋根瓦ふきかえるときも、みんな横井はんがしてくれはった。……恩のあるお方や。心配しなさんな。うちには大勢の小僧もおるし、役僧を呼ばんでも、結構、葬式はできる。心配せんでええ」  喜代子は急にむせびはじめた。  当時、まだ、九歳と七歳であった文子、悦子の娘が、書院の廊下を物珍しそうに走りまわっていた、父親の死んだ日の姿としては、この母娘は越雲の眼をくもらせたのである。 「あんたは、王子保の生れやったな」 「へえ」  ついぞない自分の村の名を、和尚の口からきいた喜代子は、はれぼったい瞼をあげ、なつかしそうにこたえた。 「もう、お父《と》つぁんも死なはりました。お母《か》はんはわたしの七つのときに死んで、おりませんし。身内いうても、叔母がひとりおりますきりどす」 「叔母はんいうと、福谷姓かな」  いつのまに、本姓を和尚が知っていたのかと喜代子はびっくりし、 「福谷の多いところで、村の半分は、みんな福谷姓です。叔母もその福谷へ嫁にいっとります」 「そうやった、そうやった」  と越雲は浅黒い手で膝をたたいてなつかしそうにいった。 「そうすると、わしも、あんたの家を知っとるわ」  喜代子は、奇崇院という大寺《おおでら》の和尚が、自分と同じ村の出であることにびっくりしたと同時に、そのときは夫が死んで、打ちひしがれたどん底の気持でいただけに、こみあげてくる嬉しさをおぼえた。 「よろしゅ、たのんます。和尚《おつ》さん、よろしゅたのみます……」  喜代子は咽《むせ》び泣いた。坐高のたかい越雲は、その喜代子を髪の上から見下ろすように眺めていたが、 「心配せんでええ、葬式すんだら、ちっとのま、寺におれ、寺におって、行先のことを考えなはれ」  といった。  福谷喜代子は、二人の娘をかかえて、行くあてのない身だった。それを、夫の葬式の日に、菩提寺の和尚に拾われたかたちになった。越雲は、哀れげにみえた喜代子に同情する心はもちろんあったけれども、その躯《からだ》つきや、容貌が、昔から気にいっていたので、急にこの時|肚《はら》がきまったといえる。  葬式をすませたあと、越雲は、横井英太郎の棺を白砂山の麓にある無縁墓地に埋め、小僧たちが取りかたづけしている本堂の隅で、二人の娘を抱えている喜代子にむかって、 「さあ、すんだ、すんだ。くよくよしててもどうにもならへん。あとのことはよお、相談しょ」  娘も一しょに隠寮へつれていった。そこは、つい四年前、松于が住んでいた部屋であった。自室の六畳の隣りに、女の匿し部屋として八畳の間をあてがっていたが、この部屋は四枚障子が二方にひらいて、ずいぶん明るい。がらんとした部屋へ母娘をすわらせると、 「ここは、あんたの部屋や、当分、ここで考えた方がええ、子ォつれて、どこぞへ働くということもでけんでのう」  と越雲はいった。越雲は隠事寮の宗温を手をたたいてよぶと、松子ののこして行った行李《こうり》一ぱいの衣類や、蒲団の類を、隠寮つづきの土蔵からとり出させて喜代子にあたえた。  夫の横井が景気よかった頃、奇崇院のために、どれほどの金を寄進したか知らなかったが、和尚がこんなに面倒をみてくれるところをみると、悪たいをつきとおして死んでいった横井の晩年の顔が思いだされ、「あの人もいいことをしておいてくれた」という気がしてくるのである。  しかし、喜代子は越雲から当分いてもよいといわれた時には、まだ現在のような梵妻《ぼんさい》におさまることなど夢にも考えていなかった。だいいち、和尚は六十九の高齢である。顔の肌だけはつやつやしているものの、鼻のわきや、耳下からうしろ首あたりにかけてすでに老醜といわないまでも、太いタテ皺《じわ》が何本もきざまれている。躯を求めてくることなど考えてもみなかった。だが、この予想は早く裏切られた。葬式の翌日の夜、八畳の部屋で、文子と悦子を寝かしつけたあと、西大路の家から運んできた、文子の学用品やら、着換え物など整理していると、襖ごしに声かけられた。お茶が入ったから呑みにこいというのだった。寝巻の上へ羽織をひっかけ、喜代子は襖をあけて小仏壇のある隠寮に入った。と、越雲は白布のかかったコタツに入っていて、何やら帳簿のようなものをつけていたが、 「こっちへこんか」  とやさしい声でいった。気づいたことであるが、越雲は、ふつう、ものをいわないときでも、咽喉の奥の方をひくひくと動かすくせがあった。しじゅう、ごろごろ痰《たん》がうごくようなかすかな咽喉音をたてる。それは老衰のかんじではなくて、老いても、まだ、生に対するはげしい執着が出ているようだった。 「入りなされ」  越雲はコタツぶとんのはしをあけて、喜代子を招じ入れた。喜代子は盆の上に茶器が出されるのをみた。小僧の宗温が今し方、ここに置いていったものである。喜代子は自分で、茶を淹《い》れようとした。と、越雲の手がのびた。喜代子はびくっとして手をひき、たるんだ越雲の咽喉をみつめた。枇杷《びわ》の実ほどもありそうな大きな咽喉仏が激しくうごいている。手を力強くひっぱられて抱きよせられた。 「ええな」  と越雲は耳のそばでいった。喜代子は声をたてるわけにゆかなかった。西大路の家で高熱で寝ていたきりの横井と長いあいだ同衾《どうきん》していなかった。越雲の手にふれたとき、ひろがってゆく自分の躯に赧《あか》くなった。 「ええかの」  越雲は六十九歳に似合わぬ若やいだ声をだして喜代子の首をなめた。  夫の初七日のこないうちの出来事である。福谷喜代子は、この日から松子のあと釜におさまっている。  考えてみるに、慈念が最初に侍者となった孤峯庵の内妻桐原里子と福谷喜代子の事情は酷似していたといえよう。禅宗寺院の和尚たちが、匿し女を見つけだして隠寮に入れる手管《てくだ》は似たりよったりであったといわねばならない。世間ぜまい寺院のことである。檀家に知れないように極秘裡に女を得ようとすれば、その檀家からこぼれた適当な女を拾って娶《めと》ることがかんたんな道だったのだろう。  堀之内慈念が、若狭からつれてこられた昭和十二年の秋は、ちょうど福谷喜代子が奇崇院へきて三年目の歳月を迎えていたのである。     4  奇崇院の小僧たちは、新しく入山してきた堀之内慈念を加えてつごう十四人になった。このうち得度式をあげて僧名をもらっている者は九人いた。ふつう、禅寺で、一山に十三人もの侍者を育てるということは珍しかった。奇崇院がどの寺よりも変っていたのは、何よりも侍者の数が多かったということである。  前述したように、越雲は諸国からみなし子同様の子供をもらって育てるのを趣味としたが、他の寺院では、徒弟の教育はだいたい一名か二名に止まり、多くて三、四名なのが慣習になっている。寺務多忙のため、もっとも侍者を多く養育した金閣鹿苑寺でさえも、当時は十人に満たなかった。奇崇院の場合は例外といえる。といって、越雲和尚に、それほど金があったわけではない。寺の収入は、檀家総数百五十軒からあがってくる供養料と、葬式法事の類の布施が財源であったことはいうまでもない。しかし、奇崇院は、宇多野の森といわれる白砂山一帯にかなり広大な地所をもっていた。中門から総門までのあいだの両側にある竹藪を切りひらいて、ここを住宅地にして、十戸の家に借地料を取りたてている。どの家も閑静な地であるところから裕福な家が多かった。この地代は馬鹿にならない。七十二歳の越雲に、このような才覚があることは、嵯峨の本山天徳寺でも詳知していた。  奇崇院の伽藍は、鬼瓦のあがったそり棟の巨大な建物の庫裡だけでも、裏書院もふくめて、屋根の下に大小合わせて二十三の部屋があった。侍者たちの部屋は大玄関から右に入った台所の周囲にある板の間、乃至《ないし》、例の屋根裏の三角部屋で、これらの部屋にも等級があって、年数がたつほどに、喝食《かつじき》侍者は部屋とともに昇格する仕組みになっていた。  最高年齢の宗温はその年二十九歳。中学を出て、いったん建仁寺の僧堂に入ったが、住職の口が決まりかけて奇崇院へ帰った。つづいて、二十七歳の宗順、二十六歳の宗典、二十四歳の宗育、二十一歳の宗光と宗喜、十八歳の宗庸、十七歳の宗峯、十六歳の宗英の順である。越雲は中学を卒業させると、約二年ほど寺内で作務《さむ》を教え、本人の好む僧堂へ旅立たせることにした。しかし、この年二十九歳の宗温を頭にして、二十一歳の宗喜まで、六人もの雲水に近い侍者がいたのは、宗喜と宗庸が、ともに岐阜県にある伊深と虎渓の僧堂から、胸を患って帰っていたからであった。宗喜と宗庸は枕をならべ、慈念の入った上りはなの暗い二階とは反対側のいくらか陽当りのよい細長い部屋で寝ていた。二人は病気であったから、実際の勤行作務に従事するのは六人である。  侍者たちは朝五時に起床した。これは孤峯庵と同じだった。洗顔をすませて黒衣を着ると袈裟《けさ》をかけ、まず、本堂に三人、開山堂に二人、韋駄天に一人というふうに当番をきめて読経をした。読経がすむと、庫裡、玄関、方丈、開山堂の板の間に雑巾をかける。これがすむと、飯炊き当番が、朝飯の用意を告げにくるまで、表門、中門の松林の道を掃く。食事がすむと、中学へゆく者は登校、寺にいる者は、裏庭や、池畔の草取りや清掃に従事する。小学校へいっている勇司、保次、等、祐吉の四人は、兄弟子のうしろについて、読経や、作務を教わってゆく。  慈念が育った孤峯庵のように、ひとりで、何もかもしなければならないということはなかった。大勢で働くのだからして、孤峯庵の四倍もある大きな方丈や庫裡の廊下は、きわめて時間的に早くすませることができた。また、つらくても、他の者もしているのだから、出来ないということはなかったし、自ら努めるような気風も生じてくる。考えてみると、越雲和尚は、表面は、野育ちに侍者を育てているようにみえても、侍者自身から、修行にいそしむ心の湧くのを待った、といえた。越雲は隠寮にこもりきりで、喜代子と寝食を共にした。隠寮では、その年小学校五年生になった文子と、三年生になった悦子が一しょに寝起きしていたが、侍者たちの庫裡の生活とは断ち切られていた。  福谷喜代子は、堀之内慈念が奇崇院へ最初にきたとき、頭の鉢の大きな、眼のひっこんだ子ときいただけで、夜おそく庫裡へわざわざ寝顔を見にきたほどである。  喜代子は、小僧たちにあまりなじんでいなかった。同じ庫裡の下で、寝起きはしていても、隠寮は住職の部屋だ。小僧は隠事寮という当番以外は勝手に立ち入ってはならないとされていたから、小僧の誰とも顔を合わさないですぎる日もあるくらいだった。  喜代子は三十五の自分の年齢と、七十二という越雲の年を考えると、いつも、小僧たちに、変な眼で見られている気がした。年長の宗温から、宗光に至るまで、みな二十歳を越した、男ざかりの、脂肪《あぶら》ぎった、にきび面の男である。夫が死んで葬式を出す金もなく、菩提寺へ始末を願いにきて、そのまま、そこの住職と同衾《どうきん》してしまっている自分を、小僧たちがどのように思っているかと思うと、耐えられない屈辱感におそわれる。わけても、隠寮には、先夫の子供である文子と悦子もいる。庫裡の裏口から、かくれるようにして出入するにしろ、宇多野から五丁ばかりある御室小学校に入学している娘たちをみて、もう町の人たちは、奇崇院に二人の子をつれた女が入りこんだと噂もしていた。喜代子は小僧に遠慮を感じた。 「何にも遠慮せんでええがな、みんな、親なし子や。二十九になる宗温やかて、今はあんなに一人前になりよったが、何のことはない、あれは近江の今津いうてな、湖につき出てた旅館に捨てられとった。塩津の念照寺の和尚が、見るに見かねて寺へつれてきた。ここで小僧になったおかげであないに大きゅうなった。宗順も宗典もみな似たような捨て子やった。お前が隠寮にいて気がねするようなことはないわな」  と越雲はいった。そうして、喜代子に、小僧たちにどしどし用事をいいつけてもいいというのだった。 「そやかて、どことのう、みんなあたしをみるときに変な眼ェしてはるのがみえます」  と喜代子はいった。 「そら思いすぎや」  と越雲は一笑に付したが、喜代子はあらたまってきいた。 「和尚《おつ》さんは、こんなによその子ォぎょうさん育てはって、どんな得《とく》がありますのん」 「得?」  越雲は顔つきをかえてききかえした。 「得て、そらなんや。わしは得しよおもうて小僧は育てとらんぞ……」 「みんなゆくゆくは寺の和尚《おつ》さんになってしまはるンどっしゃろ。和尚《おつ》さんがこんなに年よりやのに、だあれも面倒見てくれはる者があらへんのどっしゃろ。誰が|ねき《ヽヽ》にいて、将来|和尚《おつ》さんの面倒みてくれはりますのや」  折角育てあげた子に修行をつませても、ゆくゆくはみな地方の村々の住職になってしまう。若い時は旅にも出て、それらの小僧たちの世に出た姿をみながら宿を得て楽しんでおれたろうが、今は、越雲はどこへもゆかない。身近に育ての親であるべき老僧を見守ってくれる小僧のないことに喜代子は思いをやって、和尚の孤独がわかるという意味のことをいうのだった。すると、越雲は喜代子にいった。 「阿呆《あほ》なことをいえ、お前がおる。お前がおるからわしも永生きができる。お前がおるから小僧らァも遠慮して入ってこんのや。それでええ。それであんじょういっとる」  越雲は奇崇院へきて、ますますふくらみのましてきた喜代子をかわいがった。情事は、夜昼のけじめがなかった。隣室の子供たちがいなくなると、きまったように喜代子のわきへ這《は》いよってくる。  喜代子の躯は、越雲が御池の横井家で想像したとおりの、好みに合った躯といえた。女ざかりのぴちぴちした下半身は、いつも、しめっていた。シミ一つない卵のようなつるつるした臀《しり》だった。越雲はその喜代子を毎夜撫でた。 「けったいな子ォや。頭が大きゅうて、眼ェがひっこんでて、気色がわるい」  五年生の文子が、慈念のことをそんなふうにいったのは、冬ちかい一日のことだ。 「そんな顔してはるか」  喜代子は眉をひそめた娘の口ぶりがおかしかった。まだ寝顔しか見ていなかったので、慈念がどんな顔しているか想像もつかない。  庫裡と隠寮とのあいだには、長い煤けた廊下がつづいている。途中に風呂場や、便所があり、丸竹を張ったすだれ床の洗濯場もある。ある日、喜代子はこの廊下へ出たとき、うす暗い便所の前で、うずくまっている慈念を見た。 「どないしやはったの」  喜代子は声をかけた。うつむいた慈念の顔は軍艦頭にかくれてしまいそうなほど寸づまりで小さかった。 「どないしやはったの」  喜代子はさしのぞくようにみた。イガ栗頭に脂汗がにじみ出ている。慈念は腹痛にでも耐えている眼つきだった。 「慈念はん、どないしたん」  慈念はゆっくり頭をあげた。 「こわい眼ェして、腹痛《はらいた》か」  慈念は首を振ったが、ひくい声でぽつんといった。 「なんや、ふらふらしましてん。しょんべんしよおもて、ここへきたら、ふうーっと、気もちがわるいよってに、いま、ここでうつむいてましたンや」  喜代子は、ほっとした。しかし、そういって立ち上った慈念の眼の白眼の部分が、いやに澄んでいて、心なしぬれているのがわかった。嘘をいっている気がした。別の理由でそこにそうしてしゃがんでいたのだという気がした。喜代子はわけをきこうとすると、慈念はふりきるようにして庫裡へかくれた。 「和尚《おつ》さん、あの子ォ、やっぱりみんなとあんじょういってへんのとちがいますか。けったいな顔やさかい、ほかの子となじめへんのとちがいますか」  喜代子が越雲にいった。 「いじめられとるのをお前みたのか」 「今日、庫裡の廊下で、しゃがんで泣いてはりました」 「あの子ォが泣いとった。ほんまかいな」  越雲はわらった。 「泣く子やない。泣くような子ォやない」  と越雲はいった。 「あの眼ェをみてみい。どこぞに芯《しん》のつよいとこ持っとる。わしは海音寺がつれてきよった時にじっとみたが、あれは孤峯庵でどえらい目ェに会うてきた眼や。孤峯庵の和尚も一風変った和尚やった。お前よりもちいと若い嫁をもろうとったが……どういうわけか知らん、その嫁も小僧も捨てて、ぷいと寺を出てしもた。燈全寺山内が心配していろいろ捜したが、……どこへ行ったもんやか、音沙汰がしれん。酒もよう呑む和尚やった。どこぞに酔いつぶれてぽっくり死んだんやないやろか、それとも雲水になってどこぞへ修行に出たんやないやろか、女ごでもつくって逃げたんやないやろか、いろいろというて、天徳寺でもひとしきり話題になっとったが……そんな寺に育った子ォや。うちらァの小僧とちごうて、作務も勤行も盆の棚経《たなぎよう》もあの子ォがひとりでつとめたいうこっちゃ。ちっとやそっとで泣く子ォやない」  喜代子は越雲が慈念のことを賞めていうのか、それとも、やはり、気味わるがっていうのか、どちらともとれる物言いなのに、気をとられた。 「けったいな話どすなァ」  と喜代子はいった。 「寺の和尚《おつ》さんが、出たきりでもどってきやはらへん、どこへゆかはったんやろ。和尚《おつ》さんも気ィつけとくれやっしゃ」 「わしはどこへもゆかんぞ」  と越雲は眼尻をさげて喜代子をみた。 「せやけど、和尚《おつ》さん、どことのう、気色のわるい子ォどっせ。なんやしらん、眼ェが|あて《ヽヽ》をみると、ヒコヒコしておびえてますわ」 「お前をみて、おびえる?」 「へえ、そんな眼ェしてはります」  いつまでも越雲は喜代子の顔をみていた。     5  梵妻の喜代子が、堀之内慈念が小僧たちと仲間割れして孤独でいるのではないかと判断したことはまちがっていなかった。  宗温や、宗順、宗典などはすでに年輩であったから、頭鉢の大きな慈念に対して好奇な眼をなげたにしても、いったん、この子が、奇崇院の弟子になるときまったからには、どの弟子ともわけへだてをするものではないと考えていた。  しかし、十七歳の宗峯あたりから、宗英までは、慈念に他所他所《よそよそ》しい態度をとるようになった。無理もない。慈念の容貌には、普通の喜怒哀楽の表現がない。笑うと寸づまりの顔がゆがみ、怒るとどことなく人を小馬鹿にしたような風にみえた。十三人のどの小僧たちにもない異様な表情をしている。そんな慈念への嫌悪感を小僧たちは表に出したのだ。そのため、慈念は卑屈になった。いよいよ仲間はずれになっていった。  元来、禅寺の修行のうちでもっともきびしいといわれる僧堂生活は、年齢や学歴は、位階順位に作用しない。  どちらが先に庭詰、旦過詰《たんがづめ》を通過して、この僧堂に入衆《につしゆ》したかによって先輩後輩の順位がきまる。新参者はあくまで、年下の先輩といえども、頭のあがらない仕組みにできている。僧堂への準備段階が、小僧時代だとしたら、やはり、新参者は年少の者の下で、奇崇院の作法をおぼえてゆかねばならないのだった。  慈念は、音海の竜村宗海からよく教えられていたので、宗英と勇司と一しょの部屋をあてがわれたときから二人にぞんざいな口をきいたり、威張ったりすることはなかった。小学五年生の勇司にさえ頭を下げた。  ところが、勇司、保次、等、祐吉たちは、まだ経文もおぼえていなかったし、袈裟のたたみ方や、衣のしまい方なども知らない年少だった。兄弟子の宗温が、新しくきた慈念の下につけ、と最初に命じたのもそのためだが、このことが、まず、四人の頭にきたのであろう。 「けったいな奴ちゃ。般若林から花中へうつりよるらしいけど、試験うけるのに、何にも勉強しとらん、一ン日、あいつ、庫裡の隅で空みてよる」 「威張ってんのや」  と、等と祐吉がいった。慈念は、このような会話をきいてもきこえないふりしていた。ところが、これが、庭掃除の作務などになると、事情がちがってくる。兄弟子は竹箒《たけぼうき》をもって掃く。年少の者は、担架やゴミ入れを白砂山の竹藪まで捨てにゆかねばならない。作務にも分のわるい仕事と分のいい仕事があるわけで、たとえば慈念が竹箒をもって庭に出ると、 「こらッ」  と小学三年の祐吉がどなる。 「なんしてン、われは、|みい《ヽヽ》もってこいッ」  慈念はぴくっと首をひっこめておびえる。 「箒もってどこ掃くんや。われは、ゴミ集めせえッ」  慈念はいわれるままに、竹箒をもとにかえすと、祐吉や等が背丈に似合わず、大きな大人用の箒ではきあつめてゆくゴミを、|みい《ヽヽ》でかきあつめるのだった。中門と総門のあいだは、犬や猫が放ち飼いしてあるので、ゴミに汚物がいっぱいまじっている。これを素手でかかえて、|みい《ヽヽ》に入れる仕事はイヤだった。慈念は最新参者であるから、つとめねばならない。  こんなことは掃除だけにとどまらなかった。朝の勤行も、方丈でまず経を読む。開山堂でも読む。一日、十五日は、庭の聖天像の前でも読経だ。たとえば雨の降っている日など、率先して、雨中を走ってゆくのが新参者の心得だった。慈念は、小僧たちのイヤがる仕事を、先廻りして走っていった。それがいっそう小僧たちにこましゃくれた感じをあたえるのだ。慈念は、奇崇院へきて以来、何をしても白い眼で見られた。  般若林二年生の二学期修了の証明をもって、慈念が花園中学に転入試験をうけたのは、十二月はじめの一日であった。慈念は兄弟子たちの各部屋にゆき、ていねいに低頭して礼をのべた。 「あんじょやってこいや」  と宗温や宗順はいったが、勇司や保次は意地悪な眼でいった。 「うからなんだらお前、一年だけルンペンやどォ」 「へえ、きばってきます」  と慈念は年下の子供たちにも頭を下げて寺を出た。その日慈念は宇多野の森をはじめて出ている。御室からだらだら坂の広い街道を妙心寺北町までくるのに、二十分ほどかかった。  慈念の足は早かった。妙心寺の石畳の道ののびる山内を通りぬけると、花園木辻町へ出る。慈念が校門を入ったとき、二年前に般若林からこの中学へ転任して、国語教員になっていた蓮沼良典が行きあわせた。  蓮沼は、孤峯庵にいた慈念であることを確認するのに二分とかからなかった。頭と風采に特徴があったからである。蓮沼は眼を疑った。  慈念は袖口の短い陽焼けした学生服を着ていた。事務室の丸窓へ頭をにゅっと出して転入願書をさし出した。 「慈念君か」  蓮沼良典はうしろから歩みよった。慈念はぴくっと肩をすぼめ、首をちぢめ、台の下に頭をすりつけるようにしてすくんだ。が、やがて、くるりと大頭を廻すと、 「先生」  といった。 「おぼえてますか」  と、蓮沼良典は下ぶくれした血色のよくない顔をほころばせて、 「長いこと会わなかったな」  眼鏡の下へ、白墨の粉のついた人さし指を入れて蓮沼は瞼をこすった。 「どうしたのかね、また孤峯庵にもどったのかね」  慈念はだまって、おびえた顔をむけていた。あいかわらずむっつりした顔だった。しかし、 「奇崇さんからここへ通わしてもらうことになりました」  とこたえた。般若林で、騎兵銃をかついで、皆のあとから半泣きの顔して走っていたころにくらべると、いくらか、大人びている、と、蓮沼は思った。 「奇崇さんて、宇多野のか」 「へえ」 「そらええとこへいったな。ここへも兄弟子がきとるな」 「四年生に宗峯はん、三年生に宗英はんがきてはります」 「慈念君は何年にくるんか」 「二年の三学期に編入さして下さい」                  ひっこんだ眼をむけて、哀願するような顔をしている慈念に蓮沼はいま、真剣なものをみた。哀れをおぼえた。  あれからこの少年はどこを放浪していたのだろう。孤峯庵を出たということはきいていたが、まもなく、自分も般若林をやめたので、慈念のことは気になりながらも忘れかけていた。般若林で、二年生の二学期を終えているのなら、どちらも中学校条例による学校故、花園への転校は可能だと思われる、いま蓮沼は慈念の顔をみて、この転入を骨折ってやろうという気になったのだった。 「それこっちへ渡しなさい」  慈念は編入願書を手渡した。  堀之内慈念はこの日に花園中学二年生への転入許可を得ている。偶然ながら、これは蓮沼良典教諭の、事務的な処理に負うところが多かった。  慈念はその日、奇崇院へ帰ってくると、兄弟子たちに鄭重に報告してあるいた。みなは、慈念がかんたんに転校したことについて首をかしげた。 〈あいつ、あんなに見えても心臓のつよいとこがあるんやな〉  そんな判断が小僧たちの中で新しく芽生えた。こうしたことも、勇司や保次や等や祐吉の反感を買う材料になった。  どんな目にあっても耐えていかなければならないと慈念は思っていた。この寺に身を潜めることが、どの方法よりも生きる道だと考えていた。自分は恐ろしい犯罪を犯した人間である。幸い、慈海和尚の噂は消えてゆくようである。完全犯罪は成立している。自分さえ口を割らなければ、露見するものではない。あれから、京都を逃げ、若狭の底倉西安寺、音海の海音寺と三年のあいだ慈念は転々流浪したが、悪事露見の恐怖におびえてばかりいた。が、誰に疑われることもなく、また京都へこれたのだった。  人の好い宗海が、自分の育った奇崇院のはなしをして、そこには、全国からあつまった親のない子や、片親の子が、禅坊主になるためにあつまっているときいて、慈念は、そのような仲間に入っておれば、狐峯庵住職殺しの恐怖からのがれられ、官憲がきても、わからないだろうと判断した。森にかくれてしまえば、どの木であるかわかりはしない。衣笠山と地つづきにある白砂山の奇崇院に、まさかそのような大罪を犯した子がかくれていようとは、誰も思いはしないだろう。  慈念のその考えはあたっていたかもしれない。蓮沼良典も慈念のために入学に骨折ってくれた。慈念が奇崇院へきてから、誰も慈念を疑うものはなかった。  堂森越雲が、堀之内慈念の僧名を宗念と改名し、亀竜山天徳寺の侍者名簿に記入されたのは、慈念が花園中学に入って半年目五月のことである。  慈念は兄弟子からは宗念とよばれ、年下の勇司、保次、等、祐吉からは念さんとよばれた。  御室小学校の校門を出て、今し方授業を終えたばかりの女の子たちが、坂道をのぼってくる。その中に奇崇院の文子がいた。セーラー服の上に桃色のセーターをきていた。坂道は一本道のかなり長い細道である。仁和寺の山門のある広い通りにつき当ると、それまでかたまっていた子供らは、四方に別れた。福谷文子だけ一人きりになった。 文子は六年生だが、ずいぶん、上背がある。お下げ髪にして、うしろで二本に束ねて元結でむすんでいるが、耳うらから顎のあたりにかけて、母親そっくりだつた。  文子が山門の下にきた時、葉の茂った門前の太い老梅の木の根に眼をとめた。慈念がぽつんと佇《たたず》んでいたからである。文子は慈念が、そこに立って何もしないで地面をみているので不思議な気がした。  文子は、走っていって声かけた。 「宗念はん」  慈念は文子をみた。 「なにしてンのや、もう学校すんだん」 「うん」  慈念はうなずいた。 「そんなら一しょに帰《い》の」 「うん」  文子がさそうと、慈念はゆっくりあるきだした。と、慈念が、 「文子はん、こっちへ上ってみィひんか」  仁和寺の石段をあがりはじめた。陽ざしが、門の中を明るくしている。背のひくい梅がみえて、地面に絵のようにくっきり影が落ちている。 「いこ」  と文子もいった。ふたりは一しょに参道の石畳を歩いて、右手の五重の塔をひとまわりした。 「文子はん」  と慈念がいった。 「あんた、お母はんあってええな」 「………」  文子は立ち止って慈念の顔をみた。ひっこんだ白眼が細まっている。 「宗念はんには、おかはんないのん」 「ない」  と慈念はこたえた。 「うちもお父はんあらへん」 「せやけど、あんたは長老はんにかわいがってもろてる」 「かわいがってもろても、うちのお父はんやないもン」 「せやな」  と慈念はいって文子をみた。文子がいった。 「お母はんがいうてはった。宗念はんは苦労したンやて、ほんま」 「………」  慈念は肩をぴくっとうごかした。 「どないいうてはる」 「どないて、宗念はんは長いこと、若狭にいやはった。宗念はんの田舎は、うちらのおばはんのとこに近いんやて」 「ほんまか」  慈念の頬がぴくりと動いた。 「越前のな、王子保ちゅう村や。山の中のここ、そこにおばはんがいてはる。そこと近いんやて」  慈念はきょとんとした眼をむけた、 「越前はわいのお父つぁんがよう仕事に行ったとこや。文ちゃんらもそこか」  こんどは文子の方がきょとんと母親似の切長な眼を大きくした。 「うちら、生れたんは京やけど、お母はんの生れはったとこは越前や」  慈念はうなずいた。と、文子がいった。 「宗念はん、うち宗喜はんとこへいったら宗念はんに用あるいうてはったえ……きいたか」  慈念は文子の顔を見た。 「宗喜はんなんの用やろ」 「知らんけど」  と文子はいって、やがて一目散に先をかけ出していった。  文子のうしろ姿が朱塗りの山門下に消えるのをみていて、慈念は肺結核で寝ている兄弟子の宗喜が何用があるのか、気になった。慈念は自分の部屋の反対側の二階に寝ている宗喜と宗庸にはまだ二、三どしか顔を合わせていなかった。  薬石《やくせき》とよばれる夕食がすむのは六時。侍者たちは、庫裡の板の間に茣蓙《ござ》を敷き、コの字なりにうす板の卓をかこんで、中の鍋敷きにのせた釜と汁の大鍋に合掌してから、音をさせてはならない静かな食事をする。この食事後、病気で寝ている宗喜と宗庸の二階へ粥《かゆ》がはこばれる。  ちょうど、慈念が文子と御室の山門下で会った夜、二階へはこぶ役目の保次が、汁のふきこぼれた床を雑巾でふいているのをみて慈念は、 「保次はん、わいが宗庸はんとこへはこんだげる」  といった。丸盆にのせた片口の粥と、梅干の入った小皿を捧げもって、慈念は二階へ上った。  八畳ぐらいの変型の部屋だった。煙突のような穴があいていて、屋根にはめこんだガラスから光りがはいってくる。これは慈念の部屋とかわりなかった。ちょうどその光りが、いま、すり切れた畳の上に丸い輪をえがいたように、|橙 色《だいだいいろ》の明りを落している。真下に蒼白い地肌のすけてみえる二つのイガ栗頭をならべて小僧が寝ている。どちらも眼だけがぎょろりととび出て、頬の肉も、首のあたりのふくらみもない。病気が胸をむしばんでいることがわかる。  宗庸と宗喜は、天井をみている。黒木綿の掛蒲団の綿は、ところどころはみ出ているので、ボロをかぶったようにみえる。 「当番は誰や」  宗庸が元気のない声できいた。 「宗念どす」  と慈念はいって、低頭して二人の枕もとに丸盆をさし出した。左側に寝ていた宗喜がじろっと慈念をみる。慈念は、 「用事てなんどすか」  ときいた。宗喜は無精髭の生えた口を心もちうごかした。 「薬石がすんだら、たのまれてほしいのや。手紙にかいたる」  敷蒲団のあいだからうすいハトロン封筒を一枚とりだすと、ぽいと慈念の前へ投げる。 「おまえ、本気でたのむんか」  このとき力のない声で宗庸がいった。いったあとで急に咳きこみはじめた。うつ伏せになってしばらく頭をかかえてじっとしている。  宗庸には宗喜の手紙の内容がわかっているらしかった。 「そんなら、いただきます」  といって、宗庸は起き上ると、枕もとの包みを解いて、僧堂で使っていた椀をとりだし、布袋から黒ぬりの太い箸をだした。寝巻きのまま枕もとに正坐した。やがて宗喜もならんで宗庸のするように正坐した。二人は合掌して、片口の粥をしずかに椀に入れはじめた。慈念は、病人の汗くさい匂いと、しめった部屋の、カビにむせていた。袂に入れた宗喜の封筒が気にかかった。 〈頼みごとは何だろう…………〉  不安がいりまじった。慈念は、二人が粥をたべ終るのが待ち遠しかった。やがて、薬石が終ったとき、宗喜がいった。 「返事は、紙にかいて、誰にもわからんようにな」  見つめる眼がつきささるようだった。鼻のひくい細顔だが、二十二の宗喜の顔は、年よりも老けてみえる。それがいまかすかに歪《ゆが》んで、眼だけは、兄弟子の命令だぞ、といわぬげにするどく光っていた。 「阿呆やな……」  とこの時、宗庸が茶ぶきんで椀を洗い、廻し拭きしながらいった。 「ほんなこと、わかっとるこっちゃ」  そういうとケケケと蔑むように笑った。宗喜の眼は慈念をにらんでいる。二人とも医者にかかっていなかった。もう右肺が結核菌に犯されているのだという。肩の肉の落ちた二人が、やがて蒲団に入りこむのをみて、慈念は盆をささげて階段を下りた。  慈念はその夜、八時に自室に帰った。袂に入れていた宗喜の封書が早くよみたい。宗英と勇司のいないスキをみていそいで封を切った。読みづらい字であった。五燭光の電球の下で、その小さな楷書の字はよめた。  夜さりに、宗温の部屋と宗順の部屋をのぞけ。宗光が一しょに寝とるか。しらべてくれ。  何のことかわからない。文面だけをよめば兄弟子宗温と宗順の寝所をのぞいて、宗光が同室していないかどうかを調べてくれとたのんでいるのである。慈念は封書を渡されたときの宗喜の切迫した眼と、わきにいた宗庸がひやかし半分に笑ったことが思いかえされ、何か、自分は二人に弄《もてあそ》ばれているような気がした。妙な文面ではないか、しかし、兄弟子の命令である。きかねばならなかった。  宗光というのは播磨からきた二十二になる男だが、色白で細面の顔をしている。あまり慈念とは喋らなかったが、美しい切長な眼をしていて、作務の時など、重いものをもつとき、白い首が女のように真赫《まつか》にそまることがあった。荒くれた小僧の中で、この小僧だけが柔和な感じがする。  その宗光が、宗温と宗順の寝所にいるかどうかしらべてくれという。  十一時を打ったころ、慈念は宗英と勇司の寝しずまるのを見届けてから、しずかに庫裡へ下りた。見つかれば、小用に起きた風を装えばいい。宗温の部屋は韋駄天裏の四畳半である。隠事寮にもなっている。ここは長老越雲和尚の室と庫裡を連絡する部屋である。そこまでゆくには、かなり長い廊下をわたらねばならない。慈念は草履をぬいで裸足《はだし》になり、暗がりの廊下を、音のしないようにすり足であるいた。うす明りのともっている隠事寮の障子の前で足をとめ、しずかに身をひそめて中をうかがった。  慈念の耳にきこえたのは男の聞きとりにくいささやきだった。宗温が一人寝ているはずである。しかしいつのまに、宗光が入ったのか。宗喜の手紙にかいてあったとおりである。慈念の胸に動悸《どうき》が打った。やがて二人の声はぴたりと止んだ。と何か、カサカサと動く音がした。床がきしんでいる。慈念は及び腰になって、障子のすきまに、眼をあてた。ふとんの上に宗光が裸になって仰向けに寝ており、毛むくじゃらの宗温が馬乗りになっていた。うめき声は宗光であった、ささやいている声は宗温であった。  慈念の眼は光った。いったい何をしているのだろう。眼を放そうとしたが、思いなおして慈念は眼をスキマにつけた。宗温の躯は上下に大きくうごいていた。宗光はかすかなうめき声をたて、いつまでも宗温の猛《たけ》りに身をゆだねていた。  慈念は四年ほど前に、孤峯庵でみた慈海と里子の狂った姿態を思い出した。男と男が重なっている。慈念は躯がふるえた。  奇崇院の夜は更けてくると、古松の梢《こずえ》でよくふくろうが啼いた。池の鯉も水音をたてず、しんとした静寂が庭にも庫裡にもおしよせていた。慈念は廊下をすり足でわたった。そして次の宗順の部屋をのぞいた。宗順の部屋からは、いびきがきこえるだけで、同室している者の気配はなかった。  翌日、慈念は、朝粥を宗喜のところへ運んだ。 「なんにもあらしまへなんだ。宗温はんも宗順はんも、ひとりで寝てはりました」  と、慈念は嘘をいった。そうして盆をささげもって階段を下りた。宗喜の眼が嬉しそうに光っていた。慈念は、宗喜が宗温がしていたように宗光を弄んだことがあったのではないかと思った。     6  その男が奇崇院の玄関のタタキに立ったのは、夕刻であった。四時すぎから、越雲と喜代子が外出したので、侍者たちが留守をしていた。ひょろりとした眼つきのわるい男で、心もち猫背の肩をおとすようにして、玄関の上りはなまでくると、応対に出た宗順に、    「わたくし、岐阜県の多治見警察の玉木助太郎といいます。警部補を致しております。お宅さんに、刈谷宗喜さんというお弟子さんが帰っておられますか」  ときいた。 「へえ」  宗順は下顎のしゃくれた男をみてどきりとした。 「もどっとります、なにしたんどっしゃろな……」  悪いことでもしたのかと宗順は心配顔になった。警部補は手帳をうなずきながら見ている。庫裡にいた小僧らは障子の裏にしゃがんで耳すましていた。 「あなたは責任者の方ですか」  と警部補はきいた。 「長老はんはあいにくと出かけてはります。わたしが……お聞きしてもよろしおす」  と宗順はいった。 「じつは」と玉木助太郎は上りはなに腰かけて、 「宗喜さんは虎渓の僧堂におられましたね」 「へえ」 「去年の九月十五日に僧堂を出られたことになっとりますが、お寺さんへは、何日に帰られましたか」  宗順はあぐら鼻をうごかして考えたが困ったような顔になった。刑事は半年以上も前のことを訊《たず》ねにきたのである。古いはなしだ。しばらくして、思いだしたように、 「九月の十九日どしたな。たぶん、その頃やったと思います」  とこたえた。 「としますと、五日から四日間の空白がありますねえ。まじめに汽車で帰られたとすると、十六日には京都へついていなければならないはずでしょう。僧堂は御病気で仮退山しておられますんですから。病人さんがこの四日をどこを歩いておられたんでしょうな……」 「………」  宗順の眼が光った。警部補はつづける。 「じつは、多治見在の頼母木村《たのもぎむら》のお百姓さんの娘さんが、虎渓村へ苗代の苗を売りにゆかれた帰り道で、衣を着た出家さんに強姦されたんです。その上金銭を略奪されたえらい事件がありましてね。お金はわずか苗代の代金五円でしたが、……黙っていた娘さんの口からでなく、今月になって親御さんから訴えがありましてね」 「………」  宗順の眼はくらくらとした。障子の裏にいた小僧も息をのんだ。警部補はぼそりとした声でいう。 「しらべましたところ、虎渓の僧堂を出た雲水さんは、当日の十五日に、頼母木の村へ向われた宗喜さんだけしかおられません。宗喜さんにちがいないという目撃者も出ているンです。わたくし、西陣署へこれから行ってみようと思っとりますが、いちおう宗喜さんが御在宅かどうかをたしかめてから、お訊ねしようと思ってうかがいましたんです」  刑事の理づめな物言いは、応対している宗順はもちろん、障子の内側で耳をすましている宗温にも、宗光にも、宗典をも驚かせた。 「ちょっと待って下さい。本人はいま病気で寝とります、ちょっとよんできますわ」  と宗順はいって立ち上ろうとすると、警部補は、手をのばして、 「待って下さい」  といった。 「本人にお訊ねするまえに、あなたに訊《き》いておきたいことがあるんです。宗喜さんは、生れはどこのお方でしたかな、ここへはいつ小僧さんにこられたンでしょうか。くわしくはなして下さいませんか」  宗順は、この警官に、ようやくかすかな嫌悪の眼を向けはじめた。 「加賀です。小松の在の生れですわ。片山津の旅館で、『ひいらぎ』いうとこの子ォどす。もうその親御はんは死んでいやはらしまへん。うちの長老はんに七つの時にもらわれた子どす。私より六つ下で二十二どす。小さい時のことは私もよう知っとりますが、京へきてから学校を出て、僧堂へいったンです。はじめ妙心僧堂におりましたが。あとで岐阜へいきました。病気になったいうハガキをうけて、長老はんがもどってこいいわはってここへ呼ばはったんどすが。戻ってからずうーっと寝たきりどす」 「よほど、悪いんですか」と警部補は少し気の毒そうな眼できいた。 「へえ」  宗順は眼をしばたたいて、 「熱はありまへんけどな……ま、あの病気は寝てんとあきまへん。栄養とって寝てんとあかん病気で」  警部補は眼をしょぼつかせる。 「病名は何です」 「肺結核どす」  吐息をついて玉木助太郎は宗順をみた。だが、きっぱりといった。 「お気の毒ですが、歩けるようでしたら、私は多治見まで宗喜さんを連行せねばなりません。本部長の依頼をうけて参りましたんで……和尚さんのお帰りはいつでしょうか」 「へえ」  宗順は、越雲と喜代子が一緒に外出すると、帰ってくる時間がはっきりしないことをこれまでの経験で知っていた。わからないとこたえた。すると警部補は腰をあげて、 「それでしたら、また参ります。これから、わたくしは、西陣署へちょっと連絡にいってきます。ご病気が、ひどくおわるいようならば、立会人つきで訊問《じんもん》しなければなりませんし、御本人にはまだ、何もいわないでおいて下さい。こんなことは取り越し苦労かもしれませんが、宗喜さんをかばったり、逃がしたりなさると罰せられますよ」  と玉木助太郎は、語気を強めていった。暮色の落ちかかった菩提樹《ぼだいじゆ》のわきのタタキを迂回して、玉木はやがてそそくさと小股歩きに門外にきえた。  宗順が庫裡へもどる時、侍者たちは蒼い顔でだまっていた。二階の階段をにらんでいた宗光が、この時血ののぼったカン高い声をだした。 「やっぱりそうや。おかしい思うとった。宗喜はんの文庫から、紅い女もちの財布が出てきたもんな」  宗温の顔がぴくりと動いた。宗温は侍者をにらみつけると、 「誰もあがってくんなッ」  と、怒鳴るようにいって急階段を走りのぼった。  二階に宗喜の姿はなかった。蒲団の中へ手を入れると冷たかった。宗庸だけが寝ていた。宗温がきいた。 「どこへいった」 「ついさっき、小便に下りはった」  頬のこけた宗庸が寝とぼけた顔でいった。その眼に憎しみにみちたものがあった。宗温は興奮しているので、宗庸の眼が何を意味しているかわからなかった。  本堂からつづいた開山堂の太鼓橋の下で、欄干にくくりつけた角帯に首を縊《くく》って宗喜が死んでいたのはその夜の八時すぎである。まだ越雲と喜代子は帰っていなかった。宗温を先頭に暗がりの寺内を捜索していた侍者の中で、宗喜のかわり果てた姿をみつけたのは宗光だった。  太鼓橋の下は、ちょうど屋根をふいたようになっている。地面はそこだけ苔《こけ》もなければしめってもいなかった。宗喜がそこに死んでいはしないかと思ったのは宗光であった。宗光は血ののぼった桃いろの顔をふるわせて、宗喜の死骸の下で泣いていた。鼻汁をたらして、だらりと頭を下げた宗喜の死体は地めんからほんの一尺ほどのところで足が宙にうき、内陣の経机が一つ足もとにすえてあった。この上に乗って宗喜は欄干にたらした角帯で首をくくっていた。  刈谷宗喜の死骸は門前の仏大工の鳥原伊助のつくった寝棺に入れられた。葬式は奇崇院の侍者たちに囲まれ、しめやかに行われたが、導師の|曲※[#「碌のつくり」]《きよくろく》に紫衣の躯をすえて引導を渡した越雲はどこか力がなかった。喝《かつ》ッと大声をはりあげるのに、いつもの檀家の葬式の場合とはちがっているかのように元気がなかった。  白砂山の墓地にある寺墓に宗喜の棺は埋められたが。山から帰ってくる途中、越雲は、ひと言も侍者にしゃべらなかった。顔は蒼く、苦りきり青筋をたてていた。 「かわいそうな子ォやった」  隠寮へもどると、喜代子にだけつぶやくようにいった。袈裟《けさ》をうしろの方でたたんでいた喜代子が、 「いうたことや、おへん。和尚《おつ》さんは、そないして大勢のお弟子さんに裏切らはります。小ちゃい時から手ェかけて、苦労して育てても、何にもならしまへん。よその女子《おなご》はんを手ごめにして、お金を盗む小僧はんを育ててはりましたんや。うちは、宗喜はんに、ちっとも同情する気はしいしまへん」 「そうか」  と越雲はいって、力なく護襟《ごきん》の白布をとりはすし、 「そない思うのももっともや。けどな……あの子ォはわしにはやさしい子ォやった。ながいこと僧堂で、禁欲しとったさかい……山道で美しい娘はんみたら、つい、ふらふらっとしてしもたンやろ」 「お金を盗まんでもよろしやないか」  喜代子のつり上った眼をみて越雲はいった。 「何もいうな。宗喜のことはいうな」  このことは、隠事寮の宗温にも喜代子の口から伝達された。宗温は庫裡の茣蓙の上に十二人の侍者をすわらせて、 「気の毒な人やった。みんな宗喜はんのことを思いだしたら、自分のことのように思うて戒めにゃあかん。片山津の宿でうまれはったかわいそうな子ォやった。長いこと修行してきやはったけんど、心に欠陥があったんや。みんなまねることはないぞ」  慈念のおびえた顔に、宗温はこの時視線をとめて、 「大人になっても、宗喜のような阿呆なことするんやないで……」といった。  慈念の眼はこの時宗温をにらんでいた。 「宗喜のことは誰にもいうな。人にきかれてもいうな」  と宗温はかさねていって、隠事寮に消えた。  堂森越雲が、血痰《けつたん》を吐いて、隠寮の便所の中で倒れたのは、宗喜の葬式がすんで三日目のことであった。  花園中学から、授業を終えて帰ってきた宗英と慈念の二人が、門を入ってくると、宗順が衣の裾をたくしあげて、血相をかえ、 「宗英、宗念」  といった。 「長老はんが倒れはった。長老はんが寝つかはったぞォ」     7  越雲は隠寮の大奥で仰向けに寝ていた。小仏壇に頭をむけて、こんこんと眠っている。枕もとには、庫裡の二階から起きてきた宗庸が、青白い顔をひきしめ、しょんぼり坐っていた。そのわきに喜代子が洗面器につけたタオルをしぼって越雲の顔をふいていた。足もとに、宗育と宗光が坐っている。 「喜代子はん、どないして、気づかはりましてン」  宗光がきいた。 「悦子のセーター編んでたのよ。ほしたら、長老はん、どっこいしょいうて、隠寮のうらの便所の方へ行かはった。何やな、えろ、おかしい思うたんはそのときやった。着物の前はだけて、フラフラと足するように縁に出やはった思うと、そこんとこの柱につかまらはって、何やら、ぜいぜい咽喉の音が大きいンで、あて、どないしやはったん和尚《おつ》さん、どないしやはったん、声かけたら、何でもない、何でもない、いうて、手ェふって、あっちへゆかはるのよ。おしっこや思うて、また編み棒もってじっとしてたら、せやなァ、十分間ほどしたら何やら声がするやろ、変や思うて、とんでいって、うんこの方の戸をたたいたんや」   喜代子ははれぼったい眼を宗光に向けてつづける。 「ほしたらな。あんた、中から、うなってはる声やろ。そんなこと、ときどきあったよってン、長老はん、どうどす、またえらいんどすかいうて、戸ォをあけたら、便器にこないにしてうつ伏せになってはるんや」 「それからな、喜代子はんが、二階へとんできやはって、長老はんが倒れはったいうさかい、大騒ぎやな……」  と宗庸は蝋《ろう》のような白い手をせき込む口もとにあてていった。  医者のきたのは間もなかった。宇多野の南町にいる田野川という眼鏡をかけた五十年輩の医者は、青坊主の侍者のならんだ越雲の枕もとにズボンの膝を気にしながら坐ると、ふくれ上った黒鞄を置いて、ゆっくり診察しはじめた。脈をみたり、胸の骨を、たたいて打診していた。越雲はこんこんと眠っていた。医者は首をかしげながら上瞼《うわまぶた》をめくった。と、越雲はかすかにかいていたいびきをとめ、う、う、うと唇をうごかした。しかし、すぐまたくちゃくちゃと歯ぐきをならして寝入った。医者は唇や口腔内を所見していた。 「弱ってはる。おいくつどしたかな」 「七十三どす」  喜代子がひくい声でこたえた。医者はかがめていた躯をおこして、じろっと喜代子をみた。喜代子のはれぼったい眼が医者の視線をはずして畳に落ちた。 「血痰の方は止まったようですな。けど脳出血の疑いはあります。病院へ入れるにしても、絶対安静が必要です。熱のあるうちは冷やして下さい。出血を喰いとめんなりまへんさかいな」  黒鞄から注射器をとりだして、ゴム管で白と鼠色の斑点《はんてん》の出た越雲の腕をめくって強く結わえると、アンプルを割って黄色い液体を注射した。越雲は医者のなすままにしていた。意識がないようであった。足もとに坐っていた宗温と宗順が顔を見合わせた。 「田野川先生、どうでっしゃろ、兄弟子らは遠い国にちらばっておりますさかい、電報打って、もう、呼びよせた方がええのとちがいまっしゃろか」  医者は注射器を黒鞄に入れながらじろっと眼鏡越しに宗温をみた。 「そうやなァ、遠いとこの人は間に合わんとわるいさかい、呼んどかれてもよろしいでしょう」  喜代子がとつぜん、洗面器をよけていざりよった。 「和尚《おつ》さん、和尚《おつ》さん」  とよんだ。越雲はいつもの怒ったような顔で眠っている。喜代子は医者が立ったあと、すぐ座をはずして八畳の境の襖《ふすま》をあけるとそこにいる文子と悦子のところへいった。 「和尚《おつ》さんがな、和尚《おつ》さんがな、死なはるえ、死なはるえ」  と喜代子はへなへなと膝を落した。  侍者の一ばんはしっこに、勇司が眠そうな顔をして坐っており、そのうしろで慈念は白眼をむいて立っていた。七十三歳の老僧が、いびきをかいて意識を失っている。慈念は越雲の顔を見すえていた。  宗温が隠事寮へきて、宗順と宗育をよび、兄弟子たちに、越雲和尚が悪化しつつあることを報じた電報をだしたのはその夜であった。送り先は次のように、十四人の地方の住職ならびに修行中の雲水に送られた。   静岡県田方郡多喜村     瑞泉院  佐藤宗泰   石川県|鳳至《ふげし》郡輪島町     東海寺  古沢宗司   新潟県岩船郡村上町     見性庵  谷 宗誉   秋田県仙北郡大曲町     林光寺  林田宗応   富山県高岡市外     西方寺  松宮宗節   兵庫県東条郡新野木村     安足寺  足田宗禅   和歌山県|東牟婁郡《ひがしむろぐん》敷屋村     三光寺  尾内宗空   京都府|綴喜郡《つづきぐん》木屋     大安寺  三木宗道   京都府加佐郡神崎村     臨山寺  戸川宗謙   京都市建仁寺僧堂内          鮎川宗逸   岐阜県加茂郡虎渓僧堂内          来島宗通   福井県|三方郡《みかたぐん》十村     竜宝庵  矢野宗文   福井県|大飯郡《おおいぐん》青郷村音海     海音寺  竜村宗海   京都市相国寺僧堂内          大谷宗磧  これらの僧は、越雲和尚が、四十五年のあいだに育てた小僧であった。  名前に宗の一字が冠せられていてわかるように、越雲が、字引きをひいて考えながら名づけた僧名だった。  この電報を打ち終えると、宗温は侍者をうす暗い庫裡の茣蓙の上に集めた。 「みんな来やはるぞ。ええか。わしらはひょっとしたら、長老はんの最後の弟子になるかもわからへん。ええな。はずかしいことのないように、ちゃんとして兄弟子さんらを書院におむかえせんならん、ええか」  熱をおびた口調で宗温は何度もいった。  越雲和尚の昏睡状態は四日もつづいた。隠寮に寝たままで、ひとことも口をきかず眠りつづけた。電報をうけてかけつけてきた兄弟子は十一人いた。静岡と秋田と、富山県からは、病気で寝ているからゆけないという折り返し電報があり、結局集まった十一人は、隠寮にとおって、それぞれ昏睡状態でいる越雲に面接し書院に下った。  最古参の弟子は、青郷村の竜村宗海と兵庫県の安足寺の住職足田宗禅であった。みんなは、それぞれの旅装束を解くと、書院で、夕飯をとり、酒好きな連中もいたので、門前の鳥原酒店から沢之鶴をとりよせ、茶碗酒を呑んだ。年齢の差があるとはいえ、みんな奇崇院で雲水となり、諸国に散った仲間だ。いま、その連中が、師匠の危篤で集まったとはいうものの、中には十年も会わない顔もいる。話ははずんだ。ある者は、もう越雲の死を予知して、葬式に参列するための白足袋、色袈裟、香奠《こうでん》など用意してきている。  酒がまわりはじめると、京都府下からきた宗道が、 「えろう、べっぴんさんの嫁はんを長老はんはもろてはるねやな。ちっとも知らなんだ」  と、いった。喜代子が隠寮の八畳で、かくれるようにして坐っていたのを、みなは一瞥《いちべつ》したのである。 「まんだ三十二、三にみえるの、ぽちゃっとして、ええ女子《おなご》はんや。長老はんは、何か、七十三までつづけっ放しやったンか」 「昔から元気なお人やった」  と年長の安足寺が酒のまわった赭ら顔でいう。 「どこで見つけはったんやろ」 「あれは越前の女子《おなご》で、長老はんと同じ村の出や……」  と福井県の三方からきている矢野宗文が長い顔をつき出した。 「株屋へ嫁入りしてはった人を、長老はんがうまいことしやはった」 「へーえ」 「もっとも、旦那はんが死んでからや。ほら、わしらまんだ小僧の時に、長老はんが、鐘楼を建てるに仰山《ぎようさん》のゼニを寄付しやはった御池の横井はんいう人がいたやろ。あの人の奥さんやな。ここへ葬式にきて、そのあと、長老はんがうまいことしやはった」 「へえ、ほんなら、松子はんをあんたらおぼえとるか」  と、石川県の東海寺が、口をはさんだ。 「ああ、あの人も、美しい人やった。けど、松子はんも好きな人で五十になるまで、長老はんと一しょに寝てはった。赤い腰巻して……三光寺、そちは、夜さり、隠寮へのぞきにいったん忘れたンかいや」  三光寺といわれた小柄な猫背の僧がにやりと下品な笑いをうかべると、 「あれは、道《どつ》さんやな。わしはゆかん。せやけど、長老はん裸で寝とらんすのをみたときは、びっくりしたわ」 「かんじんのときに眼ェつぶって逃げて来よった」  と、いって、けけけけけといやしい笑いをする者もいる。座は次第に堕ちた話になってきた。兄弟子たちの中を縫って、夜ふけまで、宗温、宗順は酒をついで廻った。と、このときだった。徳利をはこんできた鉢頭の慈念をみた兄弟子らは急に話を止めた。 「あの子はいつきた」  と宗温にきいた。 「去年の秋末どす。花園中へいっとります。いま、三年生どす」 「けったいな頭しとるな」  誰もがびっくりしているのだ。と、ふいに、福井県の矢野宗文が慈念の方をみた。 「どこぞで見た顔や」  ぽつりとつぶやいたが、ほかの者は隠寮にいる喜代子のことで話がはずんでいたので、矢野の声をきかなかった。 「長老はんが死んだら、喜代子はんは困らはる。子ォはいちばん上は何年生や」 「六年生どす」 「下にもう一人やろ」 「下は四年生、えらいこっちゃ。在所へ去《い》ぬいうても家はあらへんちゅうこっちゃし」 「誰かもらいうけるもンはおらんか」  冗談とも、本当ともつかぬ声が出ると、同じ田舎寺であっても、最近、美術史家の眼に見出されて、本堂の如意輪《によいりん》観音象が国宝になった、大安寺の和尚がにやにやしだした。 「そういえば、ええ女子《おなご》やのう、もらいうけたいもンは、三光寺さんか、海音寺さんのところへ内緒で手紙出すこっちゃ……」  歯ぐきの出た口をみせて、この和尚も下品に笑った。廊下のはしに立って、慈念は、じっとこの兄弟子たちをみている。  越雲和尚の昏睡状態はまだつづいている。奇崇院の夜は、何十年来の華やかな弟子の集まりで、ひそひそ話がいつまでも続いた。  白砂山の峯の上に丸い月が出ている。慈念は廊下の暗がりに立って、いつまでも池の月をみていた。     8  堂森越雲は、翌朝九時三十分に息をひきとった。大往生だった。田野川医師も予告していたのではたの者は死ぬのを待っていたといえる。死ぬ直前、越雲は五日ぶりにはじめて声をだした。八時ごろのことである。とじていた眼をあけ、いびきをかくのも止めて、くちゃくちゃと歯ぐきをうごかした。朝から枕当番を交代した宗温が、わきの八畳にいる喜代子をよんだ。喜代子が庫裡へ走ってゆくと、宗光がとんできた。書院ではちょうど地方の住職たちが朝飯をすませたあとだった。みなは宗光の急報で、隠寮に集まった。  せまい六畳が、二日酔いで寝とぼけたイガ栗頭や、そりたて頭でいっぱいになった。越雲は、くちゃくちゃと歯ぐきをうごかしていたのをとめて、うっすらと細眼をあけて、弟子たちを見まわした。 「長老はん」  宗温がよんだ。 「長老はん、みんなきてはりまっせ」  青郷村の海音寺の宗海がとつぜん首をつきだすようにしていった。 「長老はん、あんたに育ててもろた弟子がみんな来とります。三人だけ病気でこれしまへんどしたが、あとはみんなここに集まっとります。長老はん、みんなの大きゅうなった顔をみとくれやす」  四十すぎた海音寺が、つまった声をだすと、府下の綴喜郡からきた和尚が半泣きの声をだした。 「長老はん、あんたに、拾うてもろて、ようようわしらも、喰えるようになりましたわ。長老はん、長老はんのおかげで、ええ寺もたしてもらいました。うちには、嬶《かかあ》もおります。子ォもおります。ええ村の寺を世話してもろて、今日までそくさいでつつがのう暮らしとります。いっぺん、長老はんにきてもらいたかった……」  その声で周囲の三、四人がしんみりした。洟《はな》をすすって、何どもうなずく者がいた。越雲はすぐに眼を閉じた。しかし、吐く息が荒くなった。 「長老はん」  宗温がまた耳もとヘ口をつけて叫んだ。と、このとき、越雲はうす眼をあけて、くちゃくちゃと唇の音をたてた。 「何か、いわはる」  と宗温がいった。皆の耳は皿のようにひろがって、眼は越雲の口にそそがれた。苦しそうな声がきこえた。 「ふみこ、えつこ」  と越雲はいった。弟子たちは耳をひらいて、老僧の口もとを凝視した。越雲のくちびるはそのまま閉じられた。  そして、また大きないびきがはじまった。そのいびきは遅くなったり早くなったりした。  喜代子は八畳の襖に手をつかえて、弟子たちのうしろから越雲の顔をのぞいていたが、急に腰を落すとすすり泣きはじめた。 「うちの子ォらを、長老はんは坊《ぼん》さんにでけんいうてはった。女の子やさかい坊さんにでけんいうてはった」  喜代子はうしろ向きになって、そういって大粒の涙をこぼした。  昭和十三年五月二十六日の朝九時三十分だった。越雲は、苦しそうにもだえ、唇をうごかして大きく顔を歪めたかと思うと、そのままこと切れた。歪んだ越雲の顔は、弟子たちが、指先でどのように戻そうとしても、歪んだままであった。  通夜は二十六、七日の二夜にわたって行われた。縦七尺、横三尺もある巨大な棺がつくられ、棺は白布につつまれて、方丈の内陣の間の祭壇の上に置かれた。  宗温以下の侍者はいそがしかった。地方から集まってきた兄弟子はようやくほっとしたような顔いろを露骨にだしていたが、それでも、二十八日にとり行われる密葬、二十九日の本葬についての準備に忙殺された。市内の檀家百五十軒から、それぞれ通夜にも参列してくる重だった信者があった。方丈は白黒が幔幕《まんまく》で飾られ、めったに開けない唐門《からもん》がひらかれた。  堀之内慈念は、通夜の夜は庫裡にいて、配膳をうけもたされていた。夜十時ごろから、檀家総代や法類寺の和尚たちが集まって書院はにぎやかになった。酒がよくうれた。三方郡の矢野宗文が慈念に声をかけたのはこの夜である。 「宗念いうたな、ちょっとこっちへこんか」  しゃくれ顎の矢野はすでに酔っていた。 「お前は、どこぞで見た。どこで見たんやろ、思いだせんが」  慈念はおびえた眼もとで、矢野宗文の前に坐った。 「わしは、若狭の三方《みかた》の竜宝庵や、音海の海音寺さんに拾われてきたいうとるが……それまで、どこにおった」  慈念はだまっていた。 「海音寺さんも知らんいうてござる……、お前は孤峯庵にいたんか」 「へえ」  慎重な顔つきで慈念はゆっくり口をひらいた。 「孤峯庵さんに十のときに小僧にゆきました」 「ほう、それで、いくつまでおった」 「十四です」 「十四で……出てから、どこへいった?」 「若狭へもどりました。底倉の西安寺さんで、お世話になっとりました」 「底倉をどうして知っとった」 「へえ」  慈念はキロリと矢野宗文をみて、 「生れ在所ですねや」といった。 「底倉が……ふうーん、それでわかった」  と矢野宗文は酒くさい息をはいて、とつぜん、大声をだした。慈念は瞬間、ぴくりと肩をちぢめた。 「西安寺の黙堂和尚を知っとるか。あれは燈全寺の僧堂でいっしょやった」 「そうどす。和尚《おつ》さんの名は黙堂いわはります」 「すると、お前は高浜か、小浜か、どこぞの寺へ法事にきたことなかったか」 「ありました。長福寺さんで大きな葬式がありますと、西安寺の和尚《おつ》さんと一しょに汽車にのってゆきました」 「そうや、そうや」  矢野宗文は思いだしたように、また大きな声をだした。 「そんなら、お前はやっぱり角さんの子ォや。大工の角さんの子やろ」 「………」  慈念は息をつめて矢野の顔に眼をすえた。 「お父《と》うの名は堀之内角蔵いいます。大工をしとります。わしの育ての親どす」 「育ての親」 「ヘえ」 「角さんは、お前がほんまの子やいうとったぞ。お母《か》ん知っとるか」 「………」 「お前は知らんのか、お菊を知らんのか」  慈念は白眼をむいて宗文をにらんでいる。 「だまっとったらわからんがな、どや、そうやろ」  慈念は重い口をひらいた。 「和尚《おつ》さん、なんでわしのお父とお母を知ってます。いうて下さい」 「角さんに」  矢野は勿体ぶった物言いになった。 「うちの普請をしてもろてのう。その時にきいたはなしや。角さんは、いま、比良《ひら》の観智院の三重の塔を建ててござる……」 「比良の……」  慈念がぎろっと眼をむいて口走った。 「そうや、嘘いうて何になろ、比良や」 「和尚《おつ》さん、お父は、わいのおっ母のことを……底倉の堂にきとったひとやといいましたか」 「そういうとった。おもろい大工さんや、物言わずやが、若狭一の寺大工でな、宗念、お前、えらいお父もったな」 「………」  慈念は大きく唇をふるわせて、だまっていたが、つと立ち上ると、 「和尚《おつ》さん、わしには底倉におかんおります。わいを育ててくれたお母《か》んがおります」  といった。慈念の眼はぬれていた。矢野宗文は、真剣な慈念の眼をみて、急に白けた顔になって押しだまった。  通夜の酒は檀家や法類和尚が帰ってゆくと、荒れ模様になった。考えてみるに、奇崇院で育てられた二十四人の弟子どもは、みな堀之内慈念のような境遇に育った薄倖の子ばかりといえた。越雲和尚が、四十五年間にわたって、苦労しながら育てた小僧たちだった。いま師匠の眠った棺の前で、二十四人は二十四様の感慨をおぼえて茶碗酒に酔いしれていた。  慈念は、ひとりで書院をぬけると、本堂にまわった。廊下には白布が敷きつめてあり、青竹のそりたった花筒がならんでいる。しきびの束が森のように、廊下を圧している。慈念は香のけむった内陣へ入った。  白木の戒壇に越雲の棺があった。慈念は煙の中に立って合掌した。 〈角さんがお父はんで……お菊がお母や。お前は知らんのかいな……〉  竜宝庵の矢野宗文が、いまし方、しゃくれ顎をつきだしていった言葉が慈念の頭をはなれなかった。  慈念は越雲の位牌《いはい》の前にぬかずくと、大きな白木の香箱から香をつかんで焚《た》いた。 〈和尚《おつ》さん、なんで死なはった。和尚《おつ》さんのことは、慈念は、生涯忘れまへんで。和尚《おつ》さん、なんで早ように死なはった。慈念は和尚《おつ》さんのこと一生忘れまへんで……〉  慈念は心によびかけながら、いくども香を焚いた。  慈念は比良の山を知らない。しかし、父の角蔵がくわえ釘して、底倉の阿弥陀堂の板戸を打っていた姿が思いうかぶのであった。村の人はいった。 〈お菊がもどってくると、角さんもどこからか戻ってきてのう。阿弥陀の舞のあとの戸板をうちつけるんや。冬は寒いからのう、お菊が風邪ひかんように……角さんはどこにいても冬がくると戻ってきよる。戸板を打ちに戻ってきよる……〉  寺大工の角蔵が、もし、自分の父だったとしたら、やはり、母はおかんなのだろう。お菊のような女が母親であるはずがない。慈念はふと、ムササビの啼いていた夜のことを思い出した。蝋燭のゆれる下でほの白くういてみえたお菊のよごれた肌が思いだされた。 〈比良へゆこう。父の普請場へいってきいてみよう。父にきけば、お菊のことがはっきりとわかるだろう……〉  慈念は香を掴《つか》んだ。 〈長老はん。わしは長老はんだけが好きどした。喜代子はんも、宗温さんも、宗光さんも、今日、集まってはる、大勢の兄弟子さんはみんな嫌いどす。長老はん、わしは、長老はんだけ好きどした。なんで死なはったンや〉  慈念の眼にいく条も涙が流れた。慈念は泣きながら白木の香炉に何ども香を入れた。煙は内陣の天井にのぼって、深い森のようなしきびの花筒をぬって流れた。  万年山奇崇院住職堂森越雲の密葬は昭和十三年五月二十八日の正午から、奇崇院方丈で行われた。  この日、嵯峨《さが》天徳寺派管長久川太宗老師を筆頭にして、万年山燈全寺派管長宇田|竺道《じくどう》、天徳寺|塔頭《たつちゆう》法類三方院、慈照院、弘善寺、松源院、長徳院、三宝院各住職をはじめ、洛中《らくちゆう》の諸禅寺から、五十数名の役僧が参列した。  葬儀の導師は久川太宗師がつとめ、客僧、役僧につづいて、越雲和尚が生前養育した二十四人の弟子が加わり、金襴《きんらん》の袈裟や緑、紫、黄、青の衣《ころも》をまとった僧たちの衣裳は、白砂と青苔の生えた方丈前の広庭を埋めつくした。  白布に包まれた越雲和尚の棺桶は四弟子によってかつがれた。  前をかついだのは、若狭の海音寺の住職竜村宗海である。導師を先頭に、小鈴、梵磬《ぼんけい》、太鼓と、数列にならんだ役僧たちの打ち鳴らすちんぽんじゃらんの音は、白砂山の墓地に流れて、梅雨空の黒い森をゆるがせた。堂森越雲は、永年住んだ白砂山の杉木立のわきにある墓地の赤土の穴に埋められた。埋葬がすむと、参列の檀徒がかわるがわる焼香に立ったが、皆の口にのぼったのは、越雲和尚がいかに大勢の弟子を育て、その弟子たちが大きくなって、地方の諸寺に住職として成人しているかという讃辞にみちた言葉であった。 「えらい和尚《おつ》さんやった。越前の片田舎で、父《てて》なし子に生れはったんそうやが、それが奇崇院の先住さんに拾われてきて修行をつみ、天徳寺の僧堂で、副司《ふうす》さんまでつとめる雲水仲間でもええ位置にゆきなさった。頭のよく出来たお方でのう、僧堂では道場にのこって師家の道をすすんでくれと懇願しやはったそうやが、どうしても先住さんが放さなんだそうや。越雲和尚さんは二十九で、新命さんになった。和尚《おつ》さんは、自分が孤児やったさかいに、可哀そうな小僧を育てはったとみえる」  檀徒総代は感激のこもった口調でそういい、いつまでも人びとにはなしながら、墓地をはなれた。  埋葬を終った行列が、奇崇院の裏側にある隠寮の横を通ろうとしたときだった。人びとの中に、五線の通った美しい土塀《どべい》の内側で、二人の娘をかかえて小仏壇の前で、放心したように端坐している福谷喜代子がいることに、気づいたものはなかった。  唐門をくぐって、本堂に帰った客僧、役僧、檀徒総代の一行は、斎膳《ときぜん》の座についた。上間《じようかん》の間《ま》に、天徳寺派管長、この日、越雲とかねてから懇《ねんご》ろであったという理由で、客僧として列席していた万年山燈全寺派管長の宇田竺道が向きあって坐った。膳がはこばれて、酒が出た。宇田竺道は前に坐って給仕をする慈念に眼をとめた。 「慈念やないか」  竺道は柔和なまなざしをなげていった。 「慈念じゃろ、ちがうか」 「………」  だまっているので、さらに老師は声をやわらげた。 「忘れたんか。わたしじゃ、底倉で世話になった……」 「わすれまへん」  と堀之内慈念はこたえた。 「わすれていなけりゃ、それでええ」  と竺道は自分にいいきかすようにいった。 「お前は、いつからここにおる」  慈念はぎろりと白眼をむいた。 「去年の十一月末に、音海の海音寺の和尚《おつ》さんときました」 「海音寺。海音寺和尚は、ここの出か」 「へえ」  わきから、徳利をもってそこに坐った臨山寺の宗謙和尚が赭《あか》ら顔《がお》をひきしめて、 「左様でござります。奇崇院一の弟子にござります。青郷村の海音寺住職をいたしております、竜村宗海さんのことでしょう。あの方がこの子をつれてきました」 「そうか、そうか」  と、竺道はにっこりして、 「慈念、ついでくれ」  盃《さかずき》をだした。 「へえ」  慈念の徳利をもつ手がふるえて、酒がかすかに盃からこぼれた。 「西安寺の和尚はどうしておられる」 「そくさいで村におられます」 「それはよかった」  竺道は機嫌よい顔で、席がさわがしくなりはじめても、慈念を前に置いたまま言葉をかけた。 「慈念、その後、お母《か》はんに会うたか」 「………」 「お父《と》はんには会うたか」 「………」  慈念はこたえなかった。白眼をむいて、じっと老師の顔を見ているだけだった。 「そうか、まだ会うておらんか」  そういうと、ひとりうなずいて竺道は自分にいいきかせるようにいった。 「いつかは会えるじゃろ。修行の道をまじめに積んでおればいつかは会える……慈念」  竺道の艶やかな顔は、四年前に若狭の国の底倉部落でみたときと少しもかわっていなかった。ただ、変っているのは、慈念を見つめる眼であった。その眼に柔和な慈愛の光りはなかった。鋭かった。慈念は畳に眼を落して、根をはったように坐って、竺道の視線をうけて凍えていた。  京都市右京区宇多野にある万年山奇崇院から、福谷喜代子とその娘文子、悦子が姿を消したのは、越雲和尚の本葬が終って三日目であった。福谷喜代子には家財道具は一つとてなかった。かつて千本西大路の貧民窟から奇崇院へきた当時のままの着衣で、娘たちの手をひいて去った。文子と悦子は越雲に買ってもらったセーラー服を着ていた。この母娘が、寺を出て四日目に堀之内慈念の姿も消えた。  万年山奇崇院は、昭和二十八年春に、原因不明の怪火で開山堂、方丈、庫裡の三|伽藍《がらん》を焼いた。警察は火元を調べたがわからなかった。夜更けに、開山堂のあたりから火が出て、全伽藍に延焼したのである。乞食の焚火《たきび》からだという説もあったが、焼けた寺はなかなか再建のめどがつかず、わずかに残った書院の一部に僧たちは寝起きしていた。白砂山のふもとにある宇多野の森にそびえた、美しい三層の屋根の重なりあった奇崇院のたたずまいは、もう人びとの記憶にのみ残っているだけである。  堀之内慈念の行方を知る人は誰もいない。 [#改ページ]  第四部 雁 の 死     1  比良は滋賀県と京都府との境界にある南北に細ながくのびた山波である。南の方で一ばん高いのは蓬莱山《ほうらいさん》といい、北に向って、打見山《うちみやま》、比良岳、烏谷山といった順につらなっていた。琵琶湖岸の西近江路からみると、いわゆる表比良《おもてひら》の山容はずいぶんけわしくて切りたっているが、北へゆくほど、この山波はゆるやかな傾斜をみせて、低まった。奥比良高原であった。武奈岳《ぶながたけ》、コヤマノ岳、シルベカ岳、蛇谷峯《じやのたにみね》といった扇状型の高地が遠くまでギザギザになってつづいて、どことなく、奥比良は平凡にみえるのは山が低いせいだった。しかし、この奥比良の高原が、北の丹波山系との間で、剃刀《かみそり》で削り落されたみたいに切りはなされているのは、琵琶湖にそそぐ安曇川《あどがわ》渓谷が入りこんでいたからである。安曇川は湖の近くで直角に西に入ったけれど、丹波山系につきあたって急に分岐して、裏比良の山襞《やまひだ》へわけ入っていた。この渓谷は深かった。  曲りくねって蓬莱山のふもとまでくると、川はさらに奥へ入り、京都の北部、八瀬大原《やせおおはら》からくる途中峠につづく、比良八里といわれる暗い日蔭の道がつづいていた。  この山道は、むかしから、若狭街道とよばれ、京都と若狭とをむすぶ唯一の道であった。道が嶮岨《けんそ》であったため、旅人はあまり利用しなかったが、旅行好きといわれた貝原益軒などは、その西北紀行の中で、 『竜華|橡生《とちう》といふ所|有《あり》。荒川を出てここまで七里の間、すべて朽木谷《くちきだに》なり。信濃なる木曾路の他に、いまだかかる長き谷を見ず』  と書いていた。よほど、そのころから峻嶮《しゆんけん》な道であったと想像される。  物語の起きた場所は、この裏比良の渓谷の、ちょうどまん中あたりの山間にあった。詳述しておくと、滋賀県高島郡坊村字明王という村で、わずか三十戸しかない、石置き屋根の粗末な家だとか、藁《わら》ぶき入母家《いりもや》の古風な家などが散在したありふれた部落である。だが、この村から約三百メートルほど、東の山へ分け入って、明王谷といわれる幽谷へくると、小高い台地があり、そこに観智院という臨済宗の古刹《こさつ》がかくれていた。  観智院は同じ臨済宗でも少し変っていた。開山は比叡|延暦寺《えんりやくじ》の相応だといわれて、桓武天皇の后《きさき》、旅子の創立にかかわると記録されて、古くは天台宗であったらしい。それが、どういうわけか、足利時代になって荒廃の極に達していたのを、臨済宗本山燈全寺の開山夢窓国師がこの寺を修築した。仏堂伽藍一切を建てなおし、そのころから、観智院は、燈全寺派の別格地として禅宗に改宗したものである。  寺内に、千手観音をまつった天台名残りの三重の塔のあるのも珍しかったが、こけらぶきの古びた方丈や、開山堂や祖師堂、参禅堂や鐘楼、庫裡《くり》など、すべてが昔のまま残っているのも珍しかった。庭はまた山ふかい枯淡のたたずまいがあって、京都五山のどの塔頭《たつちゆう》にも見られない風格があった。  閑雅な山奥に孤立しているという条件もあって、代々、この寺は師家級《しかきゆう》の老僧が住した。寺内の参禅堂は、坐禅|三昧《ざんまい》の修行をするには好適の修道場である。全国から集まる雲水《うんすい》も多く、この道場は有名であった。  そり棟の美しい古びた総門から観音をまつった三重の塔あたりまで、伽藍をめぐる石垣は、京の禅寺にみられる五線の御所塀にくらべると、いかにも山寺といったかんじのする自然石の大石がつみかさねてあったにすぎない。だが古びているから、その石垣までが幽邃《ゆうすい》な面影を濃くした。  しかし、何といっても、三重の塔のそびえる東側の、塔の基台となった岩石から、下方へ約五十メートルもありそうな絶壁はすばらしかった。それは支那の古寺の風格があった。断崖の下は観智池である。杉木立と葦《あし》の生えた岸に囲まれた古沼のように深い静かな池であった。  水は澄んでいた。ときどき、雲水たちが作務《さむ》でよごれた躯《からだ》を水浴している姿をみる以外には、人影はめったにない。この池の北部の崖穴《がけあな》にこんこんと湧き出る清水があったが、これは旱天《かんてん》の真夏でも渇《か》れたことがなかった。手をつけると切れるように冷たい。崖上の禅寺で水が渇れた場合は、雲水たちはこの湧水《ゆうすい》を手桶《ておけ》に汲んで崖道を列をなして運んだ。  観智池に雁《がん》が舞い下りてきた。雁は、毎年、比良連峯を南北にゆきかえる道順としていたが、あかるい表比良のふもとの広々とした琵琶湖へ下りないで、なぜ裏側のこんな古刹の池に舞い下りたのか、不思議といえる。動物の習性として、人影絶えた古刹の山裾に眠ったこの池が、どこよりも安全な棲処《すみか》に思えたのだろうか。雁は二日も三日も、水中にもぐったり、池畔を歩いたりして去らなかった。  岸べりの葦は、季節がくると、下半分は黒緑色の葉をみせて、上半分灰色のシベを黒い杉木立を背にして煙ったようにつき出していた。雁の下りる夕方は、葦のシベは、乳いろにかすんでほのかに染まりはじめ、雁の羽ばたく水音は、沼の水面から葦間をぬけると、杉木立をつきぬけて、薬石《やくせき》を待つ雲水たちの腹をへらした参禅堂の屋根にとどいた。  昭和十三年の秋の中頃だった。観智池の水鳥たちを驚かせる槌音《つちおと》が空に木魂《こだま》していた。断崖の上の三重の塔の修築工事であった。住職の湖海峻道《こかいしゆんどう》はこの年六十二歳。京都建仁寺僧堂で、竹田黙雷老師から印可をうけ、燈全寺派別格地観智院の師家として招聘《しようへい》されて二十年目になっている。集まる雲水は二十三名。師を先導にして、朽木の町に出て、安曇川ぞいを湖畔に出て、町々へ托鉢行脚《たくはつあんぎや》し、衣食の喜捨をうけて生活する慣習であったが、古い建物の中で、老僧がとくに気にしていたのは、朽廃目立った千手観音塔である。大風でも吹こうものなら倒壊しかねないほどくさりかけていた。で、昭和九年以来、峻道は修復祈願の行脚をつづけた。三年目にようやく費用を得たので、春四月から工事にかかり、秋には塔の骨格と重層の屋根組も大方出来上り、あとは瓦をふくのと、堂宇三階の内陣の普請さえすませれば、竣工をみるというところまで漕《こ》ぎつけていた。  寺大工の棟梁《とうりよう》は、京都市上京区大徳寺町に住む小原祐吉郎という社寺専門の請負師で、職人は十名ばかりいた。その中に、若狭からきた六人の大工がいたが、棟梁の小原は京都から時どき工事の進捗《しんちよく》を見にくる程度で、差配をしているのは、梶本《かじもと》伝吉という猫背の五十近い寺大工であった。ずんぐりした肥満体に似合わず、この男は高い三重の屋根にさしわたしてあるZ型の足場板を、キコキコと撓《たわ》めながら器用に登っていった。  手下の職人は、伝吉の命令にしたがってよく働いた。塔下の畑地につづいた隅の方にトタンぶき板囲いの飯場《はんば》をつくってもらって、そこに生活して半年になる。どの職人もよく働く。朝六時に起きて現場へ出る。暮れかけの六時、足もとが見えなくなるまで飯場へは帰らない。職人たちが精を出すのは、一つは近接してる僧堂で、木鐸《ぼくたく》が朝五時に鳴り、雲水たちが祖師堂であげる読経が朝靄《あさもや》をふるわせるからであった。寝ているわけにゆかなかった。時どき、老僧の峻道が濃い眉のギロリとした眼を光らせて現場を見にくる。老師は雲水をつかって、大工の削ったカンナ屑や、木っ端の類を、チリを拾うみたいに、きれいに貯えるので、大工は薪造りに追いまくられてゆく恰好で、仕事はよくはかどった。  二、三日前から、越前瓦が坊村の辻までオート三輪で運ばれてきていたが、これも雲水たちがリレー式に断崖の上へ運んだから、屋根ふきも目睫《もくしよう》にせまっていた。  十月三日の朝のことであった。この観智院の総門の古びた石畳をふんで、顔つきは十六、七にみえるが、恐ろしく人眼をひく身体つきの小僧が訪ねてきた。頭の鉢《はち》がとび出て、ひっこんだ白眼の部分の大きな、背は四尺一、二寸しかない。怒り肩の張った上半身だけいびつな小僧である。墨染の衣に、文庫を振分けにし、手甲《てつこう》、脚絆《きやはん》に草鞋《わらじ》をはいていた。堀之内慈念である。  慈念はいったん総門を入ったが、庫裡の玄関に通じる掃き清められた御影石の石畳をみて、おじけづいたように足を止め、しばらく、庭内をうかがっていたが、何思ったか、衣の袖を振って門を出た。と、例の擦《す》るような歩き方で寺の外をまわりはじめた。杉木立の上に朝陽が出ている。枝をわけてさしこんでくる光りはいく本もの橙いろの線になって垣根を照らしていた。  慈念はゆっくり歩調をとって、石垣ぞいに崖っぷちへ出た。観智池が足下に黒い穴のように沈んでみえる。水面にヒシが浮いていて、紋でも落したように光っている。慈念はうつむいて池と絶壁をながめ、次第に修復中の三重の塔を仰ぎみた。  はっぴをきた大工の二、三人が高い足場をのぼって仕事をしていた。大工たちは何重もの本だるきの打ちこまれた重層に、各階に分れてシタミの板を打ちつけているのだった。パンパンと板をたたく音と、釘をうつトントントンというカン高い音が、朝靄の静寂をやぶって杉木立の梢にはねかえる。  堀之内慈念は、塔の上で小さくみえる大工の姿をじっとにらんでいたが、五分間ほどすると、またくるりと向きをかえて、総門の方へもどりはじめた。ふたたび門を入った。石畳をしずかに歩いた。先程のおじけづいた顔つきはなかった。意を決した歩き方で、彼は庫裡の格子《こうし》障子の丸い穴に両手をさし入れて力づよくあけた。たのもう、たのもうと慈念は二ど、ひくいけれど、よくとおる声で寺内によばわった。声は煤《すす》けた庫裡の、高い天井をつつぬけて、奥の方へよくきこえた。 「どうれェ」  というドラ声の応答があった。出てきたのは知客寮《しかりよう》の赤松集英という古株の雲水であった。托鉢で陽焼けした浅黒い顔をしている。集英は、眼前に、いま、朝陽を背中にして、黒いかたまりのように立っている異様な小坊主をみて、眼つきをかえた。いつもの掛錫《かしやく》を請うてくる雲水と違ってみえたからだ。ずいぶん背がひくい。子供かな、とふと思った。  と、頭鉢のとび出た黒い影は、両手を胸もとに組み合わせると、鄭重《ていちよう》に頭を下げた。 「入堂をお願い申します」  とはっきりした口調でいった。入山希望者だなと集英は思い、しきたりの応答に出る顔にもどって、 「当山は、あなたのような、みるからに御立派な衣鉢を持たれた方の入山なさるところではない。立ち去られい」  といった。慈念は三拝した。障子のきわの一だん高い上りがまちに上ると、両掌《りようて》を合わせ、頭をすりつけるようにして腰を落した。庭詰の儀式といわれる作法である。入山者の誰もが、いったん断わられてから三日間を絶食してこの上り際で待たねばならない。赤松集英は、小柄な入山者に背をむけて、知客寮の部屋にもどった。この時、部屋にいた同僚の古田大宗にいった。 「えろう小さい奴がきよった」 「二十四人目か」  と古田大宗は微笑していった。一人でも入堂者のふえることは喜ばしいことにちがいなかった。知客寮は、老師の身辺にいて、日常一切の面倒をみる隠事《いんじ》と連絡を密にし、入山者に応接する役目をもっている。このところ半年ほど入山者はなかったから、素直に嬉しさがこみあげたのである。入山者のふえることはそれだけ峻道老師の名声が国じゅうにひびいていることにもなる。だが、新参者についてはよく吟味しなければならない。修行がつらくて逃げ帰るような者は文字通り入山を拒否した方がよいからだ。重要な役目だから、知客寮は古参の雲水がつとめる。 「へんに眼つきの悪い奴ちゃ。頭の鉢がどえらい大きい。子供だか大人だか見当がつかん」  と赤松はいった。徴兵令が布《し》かれていたころだから、僧堂入門は二十一歳を過ぎたものでないといけない建前になっていた。が、是非ともというわけではない。徴兵検査は僧堂から赴けばいい。もし、年少者だと、そうしたことも考えねばならないのだった。 「明日はわしが対面しよう」  と顎の四角ばった古田大宗は、意地悪そうな眼角のつりあがった顔をうごかして、くくくくと咽喉をならした。三日間を知客寮は、入山希望者に「立ち去られい」を告げるだけで、放ったらかしておくしきたりである。腹がへっても、寒くても、眠くても、じっと玄関先に掌をついてお辞儀していなければならない新参者の挙動を、彼らは時どき観察するのも任務であった。  古田と赤松はときどきすり足で廊下を渡ってきて、玄関口に低頭している小僧を覗《のぞ》き見た。小僧はいんぎんに頭を下げ、手を組んで、微動だにしなかった。意志堅固なところがみえる。  翌日になった。慈念は去らなかった。こんどは古田が赤松の代りに応対に出た。判で捺《お》したように入山拒否を告げたが、慈念は文庫からハトロンの封筒に入った書類を取りだして古田に渡した。これも例式になっている。古田は、じろりと慈念の顔をみた。赤松のいった通りだと思った。封書をうけとると、古田は、 「おあずかりします」  といって奥へ入った。 「妙な奴ちゃ。ほんまに子供やか大人やかわからんなァ」  そういってあぐらをかくなりペリペリと封書の封を切った。二枚の罫紙《けいし》に墨書された文面をひろげてみる。一枚は履歴書であり、一枚は入山者の推薦者の誓願書である。誓願書の方をみた赤松集英が急にほうと溜息に似た声をだして眼つきをかえた。次のようによめる。    京都府京都市右京区宇多野町万年山奇崇院徒弟 [#地付き]堀之内宗念(十八歳)  右者年少なれども、貴僧堂に入山いたしても作務勤行に耐えうる志と体躯をもち居ると考え申し候。貴下の許に参禅いたしたいとの本人のかねての懇望もあり、責任をもって推薦仕り候    京都市上京区烏丸上立売東入ル      万年山燈全寺派宗務総長 [#地付き]佐分利順応  [#3字下げ]湖海峻道老大師猊下 「本山からの推薦や」  ぽつんと赤松がいうと、古田も首をかしげた。 「えらい推薦者やな。奇崇院ちゅうと、お前さん、半年前に遷化《せんげ》された堂森越雲老師の寺や。和尚が死んで、小僧が散らばったと聞いたが、本山の推薦状もそれで呑みこめる。筋はええの……」  赤松集英は、ていねいに封書をしまいこむと、机の上にそれを置き、 「意志のしっかりしたような顔をしとる。ものになるかもしれん」  といった。  三日目に庭詰が終り、堀之内慈念は旦過詰《たんがづめ》にうつった。せまい風呂場と台所のあいだの窓のない三畳の間に五日間の投宿をみとめられる形式である。ここでは入山希望者は、朝夕の粥を恵まれた。五日間の正坐生活がすむと、晴れの入堂となるわけであるが、堀之内慈念は、十月十日にようやく入堂の許可を得た。  師家湖海峻道がはじめて入室をゆるしたのはこの日であったが、峻道は堀之内慈念が敷居際で三拝した頭をあげたとき、チラリとその特徴のある頭鉢とひっこんだ眼をみた。暗いようだが、病的に澄んだ眼だと思えた。ただ者でないかんじもした。峻道は本山の佐分利順応とは建仁僧堂で同期でもあった。懇ろでもあったから、 「宗務総長は達者じゃったか」  ときいた。 「お達者でございました……」  と慈念は言葉少なにひくい声でこたえた。 「奇崇院の老僧が遷化されて、いく月になるの」 「半年《はんとし》になります」 「もう、そんなになるか」  老師はまだ慈念の白眼の澄んだ深い眼を、微笑しながら、するどくにらんでいた。 「年が小さいから、つらいこともあるじゃろう。先輩のいうことをよくきいて、つとめい」  老師はそういって、隠事寮に慈念をあずけた。隠事は昭田黙徹という、 これも四十年輩の古株が受け持っていたが、峻道老師は昭田の耳に小声でささやくようにいった。 「年は若いが根性がある。よう面倒みてやれ」  めずらしいことだといわぬげに昭田黙徹は師の顔を見あげた。     2  慈念の入堂は、雲衲《うんのう》たちの眼をとらえるに充分であった。理由は何よりも躯が小さいことと、頭鉢の大きな、ひっこんだ眼の容貌にあったことはいうまでもない。しかし、このような風貌の子供なら、京都のどこへいっても馬鹿にされて、都ではつとまらなくなり、比良の山奥にある辺鄙《へんぴ》な僧堂へきたいと思う気持も納得ができるようでもあった。だが慈念の入堂したことで、驚いた者が他に一人いた。  祖師堂の畑の隅にある飯場の大工のひとりである。若狭の底倉部落からきた見習大工の音吉であった。音吉は堀之内角蔵の手びきで、この現場へきていたが、十月十五日の朝、坊村へ欅《けやき》のたるきが到着したのを見にいった帰りに、托鉢に出てゆく雲水たちとすれちがった。雲水たちは五名ずつ一隊をなして出てゆく慣習になっていた。音吉は何げなく丸い網代笠《あじろがさ》が五つ、坂道を下りてくるのをみて、最後尾の網代笠がずいぶん背がひくいので眼をとめた。音吉は僧たちがすれちがう時に背のひくい網代笠をのぞいた。と、ぎょっとなった。 〈捨吉だ!〉  慈念は網代笠の白紐で顎をゆわえていたが、丸型の頭を入れる笠の裏側の支えが卵型にゆるむほど、大きな頭をしていた。音吉は六年生のときに、捨吉が小学校にあがるのを見ていた。  軍艦頭、軍艦頭といってはやしたてた記憶もあったし、いま、横顔をみたとき、ひっこんだ眼も、忘れもしない同じ底倉の村に生れた捨吉の顔である。 「捨ッ」  音吉は思わず一、二歩あゆみよって叫んだ。と、慈念は網代笠をわずかにふって、音吉の方をちらとみたようすだったが、瞬間、さっともとにもどすと、前向きになって、無表情に擦るような歩き方で遠ざかったのである。  音吉は呆然と立って見送った。やがて彼は飯場へ戻ると、たるきの数の報告も忘れて仲間の若狭からきている大工の亀右衛門に耳打ちした。 「捨をみたぞ」  と音吉はいった。亀右衛門は音吉のとび出た眼玉をぎろりとみた。 「捨ちゅうと、角さんのか」 「そうや」 「阿呆な、捨は京へいっとったはずや、こんなとこへくるかいな」  と亀右衛門は相手にしなかった。 「ちがう、ここの僧堂つとめとる」  音吉は眼をぎょろつかせた。 「………」  亀右衛門はだまって音吉をにらんだ。六十近い小柄なこの大工は、村にいる時はさし物大工だった。けれど、これも堀之内角蔵の手びきで普請場にきていたのである。角蔵と永年の友人でもあったので、角蔵の家にいた捨吉の慈念のことはよく知っている。 「ほんまか」  最初は疑いぶかげに問いかえした。しかし、すぐそのあとで、亀右衛門はありそうなことだとも思った。捨吉が京の衣笠山麓にある孤峯庵へ小僧に出たのは八年前だ。その寺は燈全寺派のお寺だと聞いたことがある。観智院は同じ燈全寺派の僧堂であるから、比良の山奥へ修行にきても不思議ではない。亀右衛門は微笑して、墨壺でよごれた口もとを皺《しわ》よせ、 「へーえ、そら珍しいこっちゃ、角さんに報《し》らせたか」 「まだや」  と音吉はいった。その堀之内角蔵は、いま、陽の照りつける三重の塔の足場を登っている。ヘっぴり腰で前かがみに登ってゆく。くわえ釘をした角蔵は長いシタミの板を肩にしている。足場はZ型に組まれていてすべり止めの縄がまいてある。気をつけて登らないと踏みはずす。踏みはずせば、命はない。五十メートルの断崖に落ちて、観智池にはまりこむか、基盤の固い岩石に頭を打ちつけるかどちらかであった。声をかけようとした音吉は、角蔵がいったん二重層の屋根に片足をつけるまでだまって見ていた。角蔵の先に屋根へ上った梶本伝吉の威勢のよい腹がけ姿もみえた。音吉は坊村へいって算えてきた、たるきの報告もあったから、足場をのぼった。  音吉は上りしなに、捨吉は、角蔵が坊村につれこんでいるお菊の子だということを思いだした。ひょっとしたら、捨吉は角蔵の子ではないだろうか、という疑いも起きていた。その角蔵に、捨吉の慈念が、施主である観智院の僧堂にきていると告げたら、どんな顔をするか。興味もあった。音吉は、差配の伝吉に坊村についた、たるきの数量を報告したあとで、シタミのまだ打ちつけてない屋根上の足場をわたった。仕事の分担上、あまり層の上には上ったことがないので、音吉はへっぴり腰で気をつけながら角蔵のわきへ近寄った。高い三重の塔の中程にある二重目の屋根にいるのだから、断崖の下の観智池は奈落の底のようにみえる。杉木立の梢が足もとにつきあげてくるようにとがっている。木立の向うは比良の山波だ。反対側の渓は坊村の石置き屋根がとびとびに光っている。音吉が寄っても、角蔵は、だまって端の方にしゃがみこんで、トン、トン、トンとくわえ釘を一本ずつ片手でひき出しながら巧妙にうっていた。 「お父《ど》う」  音吉はたるきにつかまりながらわきにきていった。 「捨がきとるでェ」  角蔵は金槌の手を不意にやめた。きょとんとした顔をむけた。無精髭の生えた顎のほそい顔は音吉をみ、心もちふるえた。 「捨が、僧堂へ入っとる」 「………」  角蔵は唇をつき出すようにして、眼を光らせた。くわえ釘をべっと掌に吐いた。 「捨が」 「そうや、いまな、坊村から帰る途中でよォ、托鉢にいく坊さんらに会うた。一ばんケツからどえらい背のひくいのが行きよる。誰やしらん、見かけん思うて、しゃがんでみたら、お前、誰や思う、捨や」 「ほんまか」  角蔵はくわえ残りの釘をまたべっとシタミの上に吐いた。 「せやないか、頭のかっこうも、眼つきもむかしの捨にそっくりや。捨は村出て何しとったんやろ、お父《ど》う」 「音海《おとみ》のな」  角蔵は尻をたるきの上へゆっくりすえてからいった。 「海音寺の和尚《おつ》さんの世話で、京の宇多野の奇崇院ちゅう寺へいっとったはずや。それから、どないしたか音沙汰はなかったが、まさか、お前、嘘やあらへんやろな」 「嘘いうかい、あんな顔やないか。村のもンやったら誰でもおぼえとる。まちがいはない捨や」  音吉は自信ありげにいった。 「そうか」  と角蔵は溜息をついた。亀右衛門と同じように、角蔵もありそうなことだと思うのである。ここは全国から雲水が集まる僧堂である。ましてや、捨吉が昔いたことのある孤峯庵も同じ燈全寺派ならうなずけるはなしである。  だが、角蔵には、そんなに捨吉が早く一人前になったのか、という驚きと、ここへ入堂してきたからには、父親の自分が働いていることを知らなかったのであろうかというかすかな疑惑も生じたのであった。 「音」  と角蔵は急に音吉を呼び捨てにしていった。 「お前、捨に何かいうたか」 「何にもいわん。捨は、坊さんの尻から、ちょこちょこ歩いて行ってしもたァ」  と音吉は上眼づかいに角蔵をみた。角蔵は黙ったまま、音吉をみていた。次第に無精髭の顔が蒼ざめてきた。 〈困ったことになったぞ〉  と角蔵は思った。角蔵は、飯場の飯炊きに使っているお菊と一しょにくらしていた。お菊は坊村の笹沢伊助という鶏飼いの家のはなれにいる。  角蔵は下職人の中でも、特別に寺普請の技術をもっていて、他の者と一しょに飯場に寝泊りしないで、伊助の家のはなれから通っていた。 「そうか、ほんまやろなァ」  と角蔵は溜息まじりに音吉の顔を疑いぶかく見た。 「嘘やない、この眼ェで見たんや。あの捨吉の顔は忘れやせんわい。お父《ど》う」  そうだと角蔵もうなずく。角蔵とて、いま捨吉の慈念をみても、それが捨吉であるかどうかはひと目でわかろう。それほど慈念の顔は角蔵の頭にこびりついていた。  角蔵が、慈念の出現におびえをいだいたのには理由があった。お菊が慈念を生んでいたからである。だが、そのことは、底倉の部落で育った十歳までの捨吉の慈念には、一切秘密にしてきていた。底倉のおかんの子だといい、本当のことはいうな、と角蔵はおかんを説得して来ていた。  慈念は二年前に、一年ほど底倉の西安寺に帰っていた。しかし、この時も、まだおかんを実母と思って慕っていた形跡があった。角蔵は安心していた。お菊が阿弥陀堂へきた秋に、慈念はちょうど村に居あわせていて、村の者たちと一しょにお菊の姿をみたことはあったにしても、まさか、餅もらいにくる白痴女が、自分の母親であろうと信ずるわけがないと思う。  角蔵はいま、そのことを、自分の胸に強くいいきかした。本当のことはいってはならない。本当のことをいってしまえばあの子が不幸になるのだと。  しかし、それにしても、当のお菊と一しょに暮らしている現在の角蔵には、そのことを慈念に見つけられたら何と説明してよいか口実がみつからないのであった。慈念が底倉のおかんを母と思っているのなら、自分は父である。尚更、今日の生活を見られることは慈念に説明のしようもない。  角蔵は底倉の村を出て、若狭近辺の寺普請に歩いていた時、餅もらいのお菊と何ども出会った。いつやらほどからお菊を普請場へつれてきて飯炊きをおぼえさせるようになった。お菊は、村々の阿弥陀堂や、無人の藁小舎《わらごや》に住みながら流浪してきた白痴女にすぎない。しかし毎年、きまったように底倉に顔をみせるようになったころ、角蔵は一どお菊を犯したことがあった。阿弥陀堂の板戸を打ちつけているときだ。豊満なお菊の躯をみて欲情したのだ。お菊に誘われるままに堂の中へ入って角蔵は戸を閉めた。子を七人も生んで、しなびた梅干のような顔をしているおかんよりも、若いお菊の躯ははちきれるように大きかったし、すべすべしていた。風呂へ入らないから、埃じみていこそすれ、お菊のある部分は百姓女の誰よりも均斉がとれていて、餅のように白かった。角蔵はお菊を美しいと思った。底倉では、一どしか角蔵はお菊を犯していなかったが、この春、三方郡にある十村の竜宝庵の普請にいっていたときに、偶然またお菊と再会している。不思議と、お菊は角蔵をおぼえていて向うから媚《こ》びてきた。  年齢は本人が言わないからはっきりしないけれど、おそらく四十前後かと思われる。そのお菊が、まだすべすべした躯をしていて、物言いもいくらかましになっているのをみて、角蔵はびっくりした。自分をおぼえていてくれたことが嬉しかった。お菊を飯場へよんで、人なみな物言いをするお菊を角蔵は奇異な眼でみた。ひょっとしたら、このまま普請場におけばこの女は癒《なお》るのではないか。角蔵はそのまま普請場のカンナ屑の中に休ませて、お菊を泊めてやるようになり、洗濯物や、飯炊きを教えた。お菊は、はた目にも自然な炊事婦にみえるほど働いた。角蔵は三方郡でお菊とふた月ほど暮らした。そうしてこのたびの比良の観智院の仕事を見つけると、底倉ヘは帰らずに、そのまま十村からお菊をつれて坊村へきた。  おかんという妻がありながら、乞食女の経歴をもつ炊事女を、なぐさみ者にしている罪の心はあるにしても、角蔵はお菊に対する憐愍《れんびん》は捨て去ることができなかった。紺地に茶色の縞柄の木綿の着物に、紅柄襟《べにがらえり》の襦袢《じゆばん》をお菊はよろこんできて、坊村の宿で角蔵の帰るのを待っていた。  そんな姿をみると、角蔵は、お菊をふたたび外へ放ってしまうことはできなかった。離れ難かった。なぜ、このようにお菊にひかれるのかと、角蔵は自分に聞いてみるが、お菊の躯に愛着が残っていることもあるが、ひょっとしたら、お菊が捨吉を生んだということにもよるのではないか、と思ってぞっとした。  捨吉の本当の父親はわからない。当時、お菊は村々の誰でも相手にしていたから、捨吉の父親を探し出すことは今となってはおそらくできないだろう、と角蔵は思う。あるいは、捨吉はひょっとしたら自分の子ではないかという気もすることはたしかにある。しかし、それは、瞬時にして消えてしまうのだ。あの大きな軍艦頭と、ひっこんだ眼は、自分のものではない。  ましてや、お菊のものでもない。まるで、鬼子のように、あのような容貌をした男の子をお菊は生んだ。  そう思うと、角蔵は、冬の一日、阿弥陀堂からおかんにつれかえらせた赤ん坊の泣き声が今でも耳に残っている。まだ白痴のひどかったお菊の姿も一そう哀れでならない。 「音」  と角蔵は、たるきにつかまっている音吉にいった。 「捨にいうな」 「なにをいな」  と音吉はとぼけた顔をしてたずねた。額のせまい卵型の顔をしたこの若者は、どこへいっても永くつとまらず、在所の底倉に戻ってぶらぶらしていたのを、道具かつぎに傭《やと》いはじめたのが縁となって、仕事場へ一しょについて廻るようになった。 「音吉」  と角蔵はいった。 「お菊のことを、捨吉にいうな」 「うん」  と音吉はうなずいた。瞬間、若者の眼に狡《ずる》い光りがはしったのを角蔵は見のがさなかったが、しかし、その音吉の顔へ哀願するような、複雑な眼を角蔵はむけていった。 「承知せんぞ、いうたら」 「うん」  音吉は顎をしゃくってうなずいた。  その日の午食の時、堀之内角蔵は、観智院の参禅堂の重いきしみ戸をあけて入った。暗い堂内は両側に雲水たちの坐る腰高ほどの高さの台があって、そこに四、五人の衣を着た僧が洗濯物をたたんでいた。 「ちょっくらお訊《き》きしたいことがありますねや」  角蔵は鉢巻の手拭をとっていった。一人の僧がふりむいて、大工だとみると、 「なんやね」  と愛想のいい声できいた。 「こんどはいってきた坊さんのことです。何ちゅうお人《ひと》や教えてほしいんどすねや」 「こんど入ってきたあ」  と僧はつやつやした下ぶくれの顔を老大工に向けて、不思議そうな眼をした。 「僧堂のか」 「へえ、雲水にならはった人どす」 「ネンソウか」  とわきにいる年上の僧が背中をむけたままいった。 「ネンソウやったら、背のひくい子じゃろが」 「ネンソウ」  と、角蔵はきょとんとしてつぶやいたが、背のひくい子だと問われてすぐにうなずいていた。と、わきからまた若い僧がいった。 「背ェのひくい、頭の鉢の大きな子ォやろ……」  まちがいはない、と角蔵は思った。 「そうどす。その子ォどす」 「知客《しか》っさんにきかんとわからん、わしらにはわからん」 「知客っさんちいますと」  角蔵が腰をまげてきいた。 「玄関の方へゆきなはれ、年とった英《えツ》さんと宗《しゆツ》さんがおる」 「へえ」  角蔵は参禅堂の戸を閉めて外へ出た。庫裡へ廻るのは、中門を出て、もちの木の植わった白砂の庭を横切る。それから表庭に出てゆかねばならない。角蔵はどうしても、慈念のことをはっきりきいてみたかった。  角蔵は、踏石づたいに庭を走っていった。やがて、総門のみえる表庭へ出ると、タタキをふんで格子障子をあけ、うす暗い奥へ声をかけた。 「ごめん下さい」 「どうれェ」  と声がした。出てきたのは赤松集英であった。時々現場にも顔を出す僧なので角蔵も顔は知っている。 「なんやね、大工さん」  と集英はぬれた手をぶらんとひろげるようにして床に立ったままでいった。 「新しい雲水はんが入らはったそうどすな。そのおひとの名前が、教えてほしいんですねや」 「ネンソウのことか」  と集英はいった。この僧も、老大工の切羽つまった顔に瞬間好奇な眼をなげている。 「堀之内宗念いうて、京の宇多野の小僧はんや」  ごくんと角蔵の咽喉仏が大きくうごいた。今しがた飯場ですませた午飯の入った胃袋が、急に痛むような衝撃を角蔵はうけた。 「なんやね、びっくりした眼ェして……おっさん、何か、あの子ォ知っとるンかいな」 「………」  角蔵は瞬間、のどまで出かかった言葉を押えた。自分の子供ですということが、慈念を苦境に陥れる。慈念は出家した子である。  そのことは、底倉部落の黙堂和尚からもよくきいた言葉であるし、慈念の生いたちや、底倉の部落でのことは、なるべくいわない方があの子のためになると角蔵は直感したのだった。 「いいえ、ただ、ちょっと、知りあいの人と似とりましたもンどすさかいに、ちょっとおたずねにあがりましただけどすねやが」  角蔵はしどろもどろに顔をうつむけて取りつくろった。赤松集英は不審な思いがしたにちがいない。 「知りあいちゅうとなにかいな、おっさんの仕事先でか」 「へえ、わしは京やら、越前へよう仕事にゆきます。どこやらで、見かけたおひとやなあ思いましたもンで、ちょっときいてみたんどすねや」 「そら、そうやったら、京で会うたんやろ、あの子ォはな」  と赤松集英は今まで忙しそうに立っていたのを、しゃがみこむと、ゆっくり説明しだした。 「京の御室の近くに奇崇院という本山の別格地のお寺があって、そこで小僧さんしとってやったお人や。堀之内宗念いうて、若狭に生れて、小さいときから燈全寺派の末寺を転々としてなさった。なかなか苦労しとる子ォで。なんか、あんた、見おぼえがあったんかいな」 「頭の大きな背ェのひくい子ォどっしゃろ」 「せや、せや」  赤松集英は歯をだしてわらった。角蔵もつられて笑ったが、その笑いは急に強《こわ》ばった。やがて角蔵は低頭すると、おおきに、といって庫裡の玄関を出た。 「あんたも、寺大工さんやから、そこらじゅうの寺へゆきなさる。どこかで会いなさったんじゃろ」  と角蔵のうしろへ赤松集英はいった。いま、赤松は大工の角蔵を見ても、それが戸籍上の慈念の父親であることに気づくはずはなかった。十日ほど前に古田大宗と一しょに調べた履歴書の頭書に、福井県大飯郡本郷村大字底倉九号七番地、堀之内角蔵六男俗名捨吉と記されていたことを思いだしたにしても、その父親がいま眼前にいるひょろりと背の高い、六十近いやせた浅黒い顔の大工であることは知らなかったのである。もっともといえる。この父子は顔も躯つきも似たところがなかった。     3  堀之内慈念は入山十日目に「相見香《そうけんこう》」を|※[#「火+主」]《た》いて老師湖海峻道に相見する式を迎えた。この日、慈念は、知客寮《しかりよう》から、観智院禅堂の規矩《きく》について、くわしい説明をうけた。主として教えられたのは、堂内集団生活の朝夕の礼儀作法や作務《さむ》、托鉢のことである。  僧堂に於ける首座職の僧は直日《じきじつ》という位にあり、ここでは田山育文という四十二歳の広島市にある燈全寺末寺からきた丸顔の年輩の僧が受けもっていた。育文は、十八歳というにしては背がひくい上に、一面子供子供したかんじの、またひどくひねこびたものを持っている慈念の大頭に、見入りながら、 「相見いうて、老師さんに会うて、はじめて正式のおはなしをもらう日や」  慈念は鉢頭をひくく下げて、この直日僧《じきじつそう》のとりすました顔をちらと見ただけであった。  その眼はすでに相見の式については熟知している眼である。ひどく澄んでいるようでもあり、何か強い意志を表わしているようにもみられた。田山育文は慈念に、袈裟《けさ》をつけさせ、それから、禅堂の正面の壇へつれていった。そこには煤《すす》けた金箔《きんぱく》の仏像のまつられた仏壇がある。桔梗《ききよう》の花が銅器の花瓶にいけてあった。像は文殊菩薩《もんじゆぼさつ》である。  堂内は、雲水たちの起居する「単」といわれる段が両側にあり、そのあいだは冷たいセメントのタタキになっていた。菩薩の像は、衆僧の座をじいっと瞶《みつ》めているかのようにみえた。セメントの上はよく拭いてあるので、一方出口の格子戸からさしこんでくるうす陽をうけてつや光りを放っていた。「単」の上りがまちも、ぴかぴかに光っている。  二十三人の雲水たちは、両側にならんでことりとも音をたてずに坐っている。一番下手の「単座」に入った新しい集団生活者は、奇妙な躯をしているぞと、それぞれの好奇にみちた眼をいま慈念の鉢頭にそそいだ。慈念は文殊菩薩の前のタタキの上で、袈裟の手首にかけた墨染の坐具をといて、しずかにひろげた。  慈念は菩薩の像に合掌した。坐具に頭をすりつけて三拝する。衆僧の中からはしわぶき一つきこえず、ただ直日の田山の吐く息だけが、静寂の堂内の空気をかすかにふるわせた。  慈念の三拝は念のいったものであった。ひどく落ちついていた。十日以上もの、庭詰や旦過詰の生活で腹をへらし躯を酷使してから間がないはずである。半病人のような状態で、入堂と相見の式をうけるわけだが、普通の入堂者の場合は、文殊菩薩への三拝はつい足もとがふらついてしまうことが多い。  しかし、緊張した慈念の顔には、きりっとした厳しいものがただよっていた。直日の田山の口角が思わずゆるむほど三拝の式も作法にかなっていた。慈念は衆僧の正坐している「単」前を、田山につれられてきて、最下位の「単」に案内される。 「ここが、お前さんの座や」  ぽつんと田山は、親切なひびきと、強い説得のひびきの入りまじったひくい声でいった。片手をさしのべ、慈念に「単」へ上ることを告げた。そこは慈念のもってきた衣鉢と文庫のわびしい荷物だけぽつんと置かれてある。慈念は直日に合掌して、静かに席へ上った。この畳半畳の周囲しかない「単」が、これから慈念の生きてゆかねばならない「場所」だった。慈念が正坐すると案内役の僧がきた。 「新到参堂ッ」  と大声でよばわった。と、別の背のひくい顔の蒼い僧が、いつのまに用意していたのか、茶礼の湯桶《ゆとう》をはこんでくる。慈念の禅堂生活はこの日からはじまるのである。式は一同への新任のあいさつであった。茶礼がすむと、慈念は田山のうしろから、老師の起居する隠寮の方にゆく黒ずんだ古い床板の廊下を歩いた。途中で、田山は「相見香」を焚《た》かせた。慈念は灰のうまった青磁色の陶器の中から細い煙をたなびかせ、湖海峻道の部屋へすすんだ。  香を焚くことによって、新入山者は、今日より老師を自己の禅指導者と仰ぎ、忠実に教育をうけるという意味の誓約をするわけである。慈念は老師の部屋の敷居際にふたたび坐具をひろげて三拝した。峻道は薄茶いろの麻衣に痩身《そうしん》の躯をつつみ、白衣の襟を心もち強くかきあわせた姿で一輪の秋草の活けてある床の前に正坐していた。慈念を瞶める眼は初めての時より、いくらか角だっていた。慈念の三拝が終ると、老師もしずかに合掌した。老師のうしろには古障子がひらかれていた。縁先の庭がみえた。  地を匐《は》うような枝ぶりのいい赤松と、楓《かえで》のしげみがみられ、赤松の股には蔦《つた》の葉がからみ、楓の葉とともに、それは橙《だいだい》いろにあせていた。杉苔の生えた広い地面は、枯葉一つないほど掃除がゆきとどいている。ことりとも音のしない静寂さだった。やがて、禅堂で茶礼の用意をした僧が、ここへ、朱塗りの茶盆に大きな素焼きの茶碗をのせてはこんできた。彼は老師の前に合掌して茶をさし出すと、次いで慈念の敷居ぎわにも小さな素焼きの茶碗をおいた。慈念はその茶をしずかに啜《すす》った。僧が去ると、峻道は一文字にしていた口をゆっくりひらいた。 「十八じゃから、まんだつらかろ」 「………」  慈念はじいっと老師の長い眉の下に細められている眼をみている。 「お前さんは、若狭の子じゃったの。お父さんは何をしてござる」 「大工どす」 「大工?」 「へえ」  老師は慈念をちらとみた。その眼にはいすくめるように強い光りがあった。慈念はこの時、老師の視線から眼をわずかにそらせた。峻道は何もいわず瞑目《めいもく》した。「相見の式」はこれで終ったのである。  式がすむと、作務がはじまった。作務とは勤労作業のことである。雲水は坐禅|看経《かんきん》のほかに、掃地採薪いっさいの労役につくことが課せられる。作務の合図は、禅堂にある「大請鼓《おおじんく》」の鳴物一つで告げられ、みなは作務着をつけねばならない。脚袢《きやはん》、手甲、紐、作務道具は文庫の中に入っている。それらを手早く取りだして身につけて、先輩のうしろから慈念は庭に出ていかねばならない。  その日は観音塔の飯場近くで、仕事をしている大工のカンナ屑や木っ端を集めて、これを炭俵に保管し、木小舎に運ぶ仕事であった。慈念の躯が、こまめに衆僧の中でちょこちょこ走りに動いているのを、三人の大工がじっと見ていた。先ず三重の塔の屋根の上から、角蔵がすだれの破れ目に顔をすりつけて下をみていた。 〈捨吉や……〉  角蔵ははっきり慈念を確認した。高い屋根の上からみているから、慈念の鉢頭は楕円形にみえ、その蔭にかくれた目鼻立ちははっきり見えない。しかし額のとび出た重そうな頭を前のめりにして、上半身をのばして歩く姿は慈念だけの特徴である。底倉の村で、村の子供たちに、軍艦頭軍艦頭とはやしたてられていた捨吉の頭である。 〈やっぱり捨や……〉  カンナ屑を俵につめ、それを禅堂の裏の木小舎に運んでいく作務姿の慈念は、まめまめしく見えるけれど、角蔵にはなつかしさと哀れさがこみあげてきてかすんでみえた。 〈お菊の生んだ子ォが……〉  角蔵はふっと、坊村の伊助の家のはなれにいるお菊の顔を思いだした。じつは角蔵は、音吉から捨吉のことを知らされた夜以来、お菊によほど生んだ子のことを訊いてみようかと思ったが、やめていた。  十八年前のお菊は完全に気がふれていたから、おそらく、あの雪の日に底倉の阿弥陀堂で生んだ子のことは忘れているだろうと思った。で、角蔵は、十村の竜宝庵で再会して以来、お菊に昔のことを根掘り葉掘り訊くことは禁じていた。お菊が流浪の生活のあいだに生み落した子は、ひょっとしたら、捨吉だけではないかもしれない、という気もしたし、そのような古疵《ふるきず》を告げることで、お菊の心が急に痛みはじめ、また、もとの狂人になってしまいはせぬかという恐れもあったことはたしかである。角蔵は、奇崇院を出た捨吉が、その後、どこにどうして暮らしていたものか。音海の海音寺の和尚も、底倉の西安寺の和尚も、捨吉の行方については何も知らせてくれなかった。おそらく、捨吉が、この比良の山奥の僧堂に掛錫《かしやく》していることも、二人の和尚は知らぬだろう、と思った。 〈おかんに、知らせてやったら安心するやろな!〉  と角蔵は思った。筆無精の角蔵は絶えて底倉には手紙を書いたことがない。もっともお菊のこともあって、うしろめたいせいもあるが、億劫《おつくう》なまま底倉に文通はしていない。どこにいるものやらわからなかった捨吉が健在で、こうして働いていると思えば、おかんに知らせてやりたい心はわく。だが、いま、角蔵は、足場板をかけ下りて、慈念に声かける勇気はなかった。 〈いつかゆっくりはなす日もくるやろ。……〉  と、角蔵は腹の中でつぶやくと、坊村のお菊の姿さえ慈念に見せなければ、それで、いくらここに捨吉が長くいてもうまく事態が切りぬけられる気がした。何といったって、慈念はまだ十八の子供だ。だませばいい。本当のことを知るのは、もっともっと年を取ってからでいい、角蔵は自分にいいきかせた。  だが、三重の塔の下の四分板屋根の仕事場で、欅のたるきを削っている音吉と亀右衛門は、堀之内角蔵とはちがった心境で慈念を見ていた。二人とも底倉の村を出てからの捨吉の顔をゆっくりみたのははじめてであった。二人は四、五年前から角蔵につれられて、寺普請のある地方を廻っているが、ちょうど、慈念が孤峯庵を出て、底倉に帰った年は、二人は村にいなかった。音吉も、亀右衛門も、頭に焼きつけていたのは、捨吉の小さいころの面影だけである。いま、大男の雲水にまじって、カンナの腹が吐きだす削り屑を、待っているようにしてこまめに俵につめてゆく慈念は大人になっている。紺無地の木綿あわせの裾を腰紐で、きゅっと膝がしらまでたくしあげた姿はきりっとしていて、村の小道で、子供らに阿弥陀の子ォや、阿弥陀の子ォやとはやしたてられ、泣いてばかりいた幼少時の面影はみじんもなかった。  頭の鉢がとび出て、ひっこんだ白眼の奥の方で光っている容貌にはかわりはないけれども、しかし、顔ぜんたいはふたまわりも大きくなっている。眼も口もひきしまってみえる。それは、捨吉が、十歳の時に村を出て、京都の寺へ小僧にゆき、転々とするあいだに、身につけたこの世への畏《おそ》れをあらわしている眼ざしにみえた。音吉は、慈念がそばによった時になつかしさがこみあげて、雲水たちが、わきの方へ離れていった時を見はからって声かけた。 「捨よ、わし、おぼえとるか」  と、音吉はカンナを休めてきいた。炭の入っていた古俵を利用しているから、捨吉の手は黒くなっている。カンナ屑へ手をつっ込んだまま、黒いその手は瞬間、静止した。 「捨よ。わいやな、九郎左衛門の音や。底倉の音や」  と音吉はカンナを削り板の上においていった。慈念はうつむけていた顔をあげた。 「知っとる。音さん」  と慈念はいった。 「おばえとってくれたか。乞食谷の栗林へようお前と山ずりにいったなア。大きゅうなったなァ」  と、五つ上の年齢である音吉は、なつかしさのあまりに、 「捨よ、お父《ど》うが来とるの知っとるか」  といった。 「………」  慈念はカンナ屑に手をつっこんだままだった。こっくりうなずくと、 「知っとる」  といった。 「そうか、塔の上に上っとらんす。お父うは達者や」  そういうと音吉はちょっとわきにいる亀右衛門の方をみて、 「おかんに会いとうないか」  と低い声できいた。慈念は怒ったように眼をそらせた。音吉は急に口つむって、カンナを削り板の上で無意味にうごかしていた。と、このとき慈念がいった。 「音さん、お前、この飯場に寝とらんすんか」 「そうや、ここに寝とる」 「お父うは」 「お父うは」  と、音吉は亀右衛門がだまっているのをちらと見て、 「お父うは、坊村や。お父うとも、いっぺん、はなししよ。ヒマがないか」 「ヒマはない」  と慈念は小さくいった。 「十日ほど前に入堂さしてもろたほやほやや。大工さんと知りあいやいうこともいうてへんし、お父うのこともな、かくしたる。けど、ヒマ盗んでいっぺん、飯場へくる」 「そや、六時になると手許が見えんさかい、仕事をしまう。ここで、ランプつけて、亀爺さんの浪花節きいて寝とるさかい」  と、音吉は人の好さそうな卵型に拡がった顔をほころばせた。このとき、年輩の雲水が、慈念のうしろに近づいてきたので、音吉はそしらぬふりをつくった。カンナを削り板の上手にすらせると、巧妙な手つきで、また下方へ走りながら削った。シュッシュッとカンナの音は低い四分板屋根の仕事場をふるわせた。塔は普通の家屋のような細材のたるきではなく。どのたるきもつぎめなしの長物《ながもの》であるから走り削るのである。音吉はうしろへ走るたびにせまい額に脂汗をにじませた。 「夜さりにでもこんか、捨よ」  と、亀右衛門が、雲水の足が遠のくのをみていった。 「底倉のおかんは達者や。松治も定治も高等科へいっとるし、兄たちはお前、三人とも小浜と舞鶴へ出てのう。おかんに銭《ぜに》送ってくるいうて、おかんも昔のようなことないでェ。心配せんでええ、おかんはほくほくやァ」  といって慈念をみた。慈念は耳だけひらいてひと言も聞きもらすまいといった顔つきをしていた。やがて詰め終った俵をひょいと肩にかつぐと、擦るような歩き方で木小舎の方へ消えていった。 「苦労したで、あいつはしっかりしとる」  と亀右衛門は皺くちゃの小造りな顔を歪めて音吉にいった。 「われと、どんだけちがうんか」  音吉が「五ツや」というと、亀右衛門は溜息を大きくついて、 「そうか、お菊もえらい子ォをうんだもんやなァ」  塔をあおぐと、角蔵が差配棟梁の伝吉のわきでしきりに腹がけの袋に手をつっ込んで釘をくわえこむ姿がみえた。 「角さんも会いたいやろ」  亀右衛門がひとりごとのようにいうと、音吉は、 「小さいときに、捨は、阿弥陀の子ォや阿弥陀の子ォやいわれたけんど、ほんまに腹を痛めたお母はんは、お菊やいうこと知っとるやろか」  とつぶやくようにきいた。 「知るもンか」  と亀右衛門はカンナの頭を金槌でカンカンとたたきながら、 「おかんがいうはずなかろ。おかんが生みの子ォやいうて育てた子や、村の子ォらが阿弥陀の子ォやいうたかて、本人がどうして、そんなかなしげなことを信じるじゃろ。音よ。いうてならんぞ」  と、叱りつけるように亀右衛門は、六十よりも老けてみえる鳥の足みたいに皺よった眼尻に力を入れて音吉をにらむのであった。 「うん」  と、音吉はうなずいて押しだまった。庭の方をみると、雲水たちは薪作りから、庭掃除にうつるらしかった。手に手に新しい竹箒をもち、襷《たすき》がけで掃きはじめていた。大勢いるから広い庭もみるみるうちに掃かれてしまう。先輩たちの掃きだめていった塵埃《ちりほこり》が、小さな山になって、残されている。それを、慈念は、ひとりで、せっせと|みい《ヽヽ》に熊手でかき入れていた。大きな籐《とう》であまれた扇型の|みい《ヽヽ》は、小柄な慈念の躯より大きいので、つめこんだ木の葉や塵の山を、慈念は頭にちょんとのせて歩きだした。 「見れや、亀さん」  音吉は呆然としてその慈念の働きぶりをみつめていた。塵埃の|みい《ヽヽ》がひとりで動くみたいに見える。小さい慈念に、どこからそのような力が出るのか不思議だった。 「えらい修行やな、これから、あの子ォは、ここで、老師さんに練られて、えらい坊さんになるか、あかん生臭坊主になるかのさかい目やな。気張っとる。気張っとる」  そういうと、亀右衛門は皺くちゃの分別くさい顔にカンナの腹をもちあげて、片眼をつぶり、すかしみるようにして刃の出具合を吟味してから、ゆっくり削り台にひっつけた。年をとっているので、音吉よりは亀右衛門は小さなシュッシュッという音を立てる。     4  秋がふかまると、比良の山々は曇りがちになった。晴れた日は、紅葉した混成林の山肌が、綾織《あやおり》のように繊細な色あいをみせて、いくつもの壁になって、映え輝いてみえるけれど、曇った日は、武奈岳やコヤマノ岳の頂上は雲にとざされて見えもしなかった。風の日が多くなった。安曇川の渓谷はうなり声をたてて樹々が騒いだ。観智院は高台にあったし、一方は沼の上の絶壁に面しているから、背高い杉木立で風はいくらか弱まるとはいうものの、仕事場の葦《あし》すだれはぱたぱた鳴り、三重の塔は大きくゆすぶられてばかりいた。冬までには、竣工させねばならない。  越前瓦の屋根師たちがくるまでには、二重のシタミ板をうち終えねばならなかった。大工たちは多忙であった。崖上にある飯場は、秋風をうけると急に冷えこんだ。年寄りの亀右衛門はぜんそくの気味があって、咳き込みはじめると、用材の仕上げ係である下職の中では若い音吉の躯がたのみにもなる。  風の吹く日は、雲水は、「大請鼓《おおじんく》」の音で朝早くたたき起され、暗がりのうちに山へ消えていった。それは深い比良の山なみを分け入って、山の幸《さち》ともいえる栗、椎《しい》、あけび、松茸、椎茸、山柿、ぐみなどに至るまでの、食糧といえるものをすべて集めるためであった。山狩りと称して作務の一つにきめられた日課であった。寺内はいつもしんとしていた。大工たちは四分板屋根の飯場のまわりに藁囲《わらがこ》いをしただけの暗がりから出て働いた。そんな風のつよい日の午《ひる》すぎのことである。  角蔵が、木材《きざい》の注文で朽木の製材所まで出かけた留守に、ひょっこり、慈念が飯場をのぞいた。音吉はびっくりした。シタミ板の一方だけを削りとっていたのだが、慈念が禅堂の軒下のタタキから出てきて、こっちにくるのをみた時、 「捨ェ。みんな山やのに、お前だけどないしたんや」  といった。慈念は白眼をキロリとうごかして、 「延寿堂や」  とこたえた。 「エンジュドウて何やねん」  音吉は畑の隅の焚火へ慈念を招きながらきいた。 「病気や」  と、慈念はいった。 「病気か」 「うん、朝から寝たらようなった。病気なら休ませてもらえる」 「エンジュドウて病気か」 「そうや」  と慈念はいった。雲水生活で延寿堂といえば、病人を看護する係のことであった。いずれも同輩の雲水が任にあたることになっていたが、慈念は山狩りがつづいていた上に、雨にぬれて帰った日から発熱して、延寿堂に入って一日の作務を休む許可がもらえたといった。 「へえ、おもしろいよび方をするンやな、」  と音吉はかんしんしたようにいった。そういえば心もち生気をなくしたようにみえる慈念の澄んだ眼である。 「お前も、えらい修行でつらいやろ」  と音吉はいった。しかし、慈念はだまっていた。 「ここへきとるン見つかったら叱られるんとちがうか」 「………」  と慈念はちょっと唇をつき出すようにして、 「延寿堂はんに散歩してくるいうて許可をもろた。かめへん」 「そうか、いっぺんな」  と音吉はしゃがんで、火箸でオキ火をつまんで煙管につけてうまそうに煙をふきだしながら、 「夜さりにでも、ぬけ出してあそびにこんかいな思うて、亀さんとはなしとった。亀さん、咳して、かげんわるうてなァ。若狭へ去《い》のかいうて、気弱いこというねン」 「去《い》ぬ」  慈念の眼が光った。 「去ぬて底倉へかいの」 「そうや」  と、このとき、飯場の奥から調子をあわせたように当人の亀右衛門の咳がきこえた。 「だいぶ悪そうや」  そういってから慈念はぎろりと三重の塔を探っている。眼は角蔵をさがす眼だった。音吉はみていてわかった。 「今日は、お父《ど》うは製材所ゆきや。シタミがたらんのや。大けな塔やさかい、普通の家の何倍かかかる板やろ、老師はんがうるさいよってに、節《ふし》のあるようなもン使われへんで、木材《きざい》を見ィに行った」 「………」  慈念はちょっと眼つきをかえただけでうなずいた。しかし急に、火のそばにしゃがむと、衣の裾をまくってスネを出し、両手をこすりながら、こんなことをいった。 「音さん、お前いつ若狭を出たンや。おかんのこと、もういっぺんはなしてェな。おかんは舞鶴の助治と咲兄ィから銭《ぜに》がくるいうけど、ほんまにラクか。お父うは相変らず、底倉へは去《い》なんのやろ」 「………」  音吉は顎をひいて、慈念をみた。うっかりしたことはいえないぞ、という心構えであった。しかし、音吉はいった。 「亀さんのいうたとおりやで。兄やんがしっかりしとるで、おかんもラクや。舞鶴は鉄工所やけんど、こんど、海軍工廠のとなりに軍需部が出けて、そこの仕事をひと手にうけるようになったさかい、鉄工は軍需景気でボロいちゅうはなしや。銭《ぜに》も、わしらとちごて仰山取るちゅうての。咲は桶屋やろ。店は伏見の酒樽の注文うけて、大きゅうのばさはったや。咲はんも、お前、もう一人前で、年とった主人にかわいがってもろてはるちゅうて、嫁はんの音がしとる」 「………」  慈念の口角にかすかに微笑がやどったように思えたが、すぐ、それは消えた。 「とにかく、おかんはもう村|歩き《ヽヽ》はやめとる。息子から、銭送ってくるのに、何も村小使せんでええ。それにな、いつやらの夏に、川ン中へ落ちた日ィから神経痛がひどうなって、坂道もよう歩けん。|歩き《ヽヽ》もなかなかの仕事や。何もそんな苦労して働かんでええ、六右衛門の区長さんがそないいうて|歩き《ヽヽ》はやめたちゅうはなしや」  音吉はそういうと、にんまり白い顔をほころばせて言葉をかさねた。 「お前も、おかんのこと思うやろ」 「………」  慈念は無表情で火をみつめていた。峻道老師がしまりやであるために、大工たちが飯場で火を無造作に焚くことも禁じられているのであった。そのために、この焚火は、峻道老師の足音がすると足で踏み消さねばならない性質のものであった。音吉はときどき、祖師堂と禅堂のあいだの紅葉した楓の植わっている斜《はす》かいの道を気にしながら慈念にいうのだ。 「せやけんど、お父《ど》うは仕事|し《ヽ》やで。底倉へは去《い》なんけんど、あそび呆《ほ》けてンのとちがうで。お前も知ってのとおり、おかんの家は乞食谷のボロボロや。あれが仏大工の家かいな、いうて、みんな指さすぐらいや。その家をな、六十すぎて、建て直さんならんちゅうて、お父うはきばっとる。賃銀ためて、大きな家建てんならん。舞鶴にも嫁もらわんならん。と、今までのような親許をみせては嫁さんの来てもないわいな。お父うも働きもンや。わしら、こんな高い三重の塔へのぼって、恐ろしゅうてよう金槌つかわんけど、お父うは毎日屋根にのぼって音頭とる。お父うは仕事|し《ヽ》や、うらんだらあかんでェ、捨よ」  音吉はそういうと、慈念の素顔をゆっくりのぞきこむように見た。慈念の眼は白く光っていた。  慈念は、飯場の中の亀右衛門の方を気にしながら小声できいた。 「いうてけれや、坊村の鶏屋《とりや》のはなれにおる女子《おなご》はだれやな。お父うの飯炊きしとる女子はだれや、いうてけれや」  音吉はう、う、うと口つまらせて眼をむいた。慈念の光った眼が吸いこむようににらんでいる。その視線をまともにうけながら、音吉は、そんなことを慈念がいつのまにしらべたのかと驚いたのだ。 「知、知らん、どんな女子《おなご》がおるか、わしは知らんでェ、捨」  と、音吉はあわてて否定した。すると慈念は、くるりとそっぽをむいて、新しい藁がこいのしてある飯場へ行って中をのぞいた。 「亀右衛門さん、若狭へ去ぬんやったら、そんとき、ちょっと声かけてェな」  と、なつかしそうにいった。うす暗がりで、黒い木綿地のせんべ蒲団にくるまっていた亀右衛門が、洟汁《はなじる》をすすっていった。 「わしゃ、いなん、去《い》にはせんで。塔がでけるまで去にはせん。捨よ。鶏屋のはなれには女子はおらん。そら、何かのまちがいやど。お父うは鶏屋のおばはんに飯たいてもろとる。そら、鶏屋のおばはんのまちがいやろ」  亀右衛門は骨ばった手を顔の前でふって打ち消した。「ほうか」と慈念はいって、こっくりうなずくと、禅堂の方へ消えた。そのうしろ姿を、音吉は見送ってから、大急ぎで飯場へ走りこんだ。 「困ったこっちゃ。角さんに早よいわんならん。いつかはばれてしまう」  音吉はヤニのつまった煙管をズウズウと音たてて、亀右衛門の顔をにらんでいた。  坊村の鶏飼いである笹沢伊助の家は、安曇川の川底の出た渓《たに》を渡った向う岸に在った。坊村は、渓|界隈《かいわい》では大きな村の部類に入っているけれども、ばらばらに散らばった付近の部落を集めて総称しているために地域的な拡がりをみせているにすぎない。伊助の家の近所は、花崗岩層《かこうがんそう》の見える急な傾斜地で、家には敷地の部分にだけ、石垣をつみかさね、わずかな平地をつくって、古風な藁ぶきの入母家《いりもや》づくりの家を建てていた。屋根の傾斜が鋭角度につくってあるのも、小舎や物置の檜皮《ひはだ》ぶきの屋根に大きな石ころが置いてあるのも、すべて雪が深いからであった。伊助は、それでも、母家のまわりに、裏の背へのびる一町歩ばかりの狩地を開墾した畑をもっていた。そこに五十羽ほどの鶏を飼っている。百姓をするといっても、渓にそうたせまい水田は限界がきているのであった。  畑も、傾斜地だから、肥料は雨にながされて、痩せている。冬は炭を焼き、夏は養蚕をやるぐらいが副業であるが、伊助は副業の養蚕を繭《まゆ》の値下がり以来止めていた。いまは鶏飼いに精出している。  堀之内角蔵とお菊の借りているはなれは、じつは昔の養蚕小舎のあとを造りかえた、六畳ばかりの板敷きを家のかたちにしたもので、作業場に毛のはえた粗末な小舎であった。  角蔵は、この小舎を借りうけ、軒からひさしを自分でつけ足し、表にせり出した台所、といっても、水は母家の井戸からもらうのである。板囲いの中に竃《かまど》だけを据えて簡易台所をつくった。お菊がそこで炊事をする。もっとも、角蔵は、お菊の前身を伊助夫婦にははなしていない。付近の信仰の対象でもあり、菩提寺でもある観智院の普請にきた若狭の寺大工のことだから、信用もあった上に、普請さえすめばまたどこかへ行ってしまう家族である。二つ返事で貸してくれた伊助夫婦も、正直のところ、角蔵のつれてきているお菊に対しては、ちょっと不審を抱いていた。  お菊は、身だしなみはよい。寺大工の嫁にふさわしい垢《あか》じみたものは着ていなかった。けれど、何を着ても、どことなく、ふしだらにみえる。朝夕のあいさつをかわすことはたまにあるが、それもペコリと子供のように頭を下げるだけで、伊助夫婦の母家へ出張ってはなしにきたことはない。あまり、つきあいたがらない点が気にいらないのだった。 「ここがね、ちょっとかるいのやないやろな」  伊助は妻の繁子にいった。指をさしたところは頭である。つまり脳がかるいのだと伊助は頭できめていたのだ。お菊はそれほど、はた目に、どことなく腑抜《ふぬ》けたようにみえた。無理もないはなしである。つい三年ほど前は、餅もらいの乞食女であった。  角蔵がお菊と再会してお菊に抱くようになった哀れみは、いまでは離れがたい愛情のようなものになっている。だから角蔵もお菊を客観的にみる力はなかったかもしれない。角蔵はお菊をあまり人前に出さなかったし、伊助夫婦ともはなしをするな、と、いいふくめていた。  お菊は軒のひくい陽当りのいい裏縁側に出て、せり上ってゆく比良の山を放心したように眺めくらしていた。もとより、炊事と洗濯以外に仕事のない身であるから、それでよかったわけだ。山をみている顔つきは、造作がととのって、普通なら美貌であるとしか思えぬ整いすぎたほどの高鼻の顔であった。それがいっそう白痴じみた感じを伊助たちにあたえた。  お菊は、時には小さい割れた鏡台に向って、白粉をつけていた。首すじまでぬった。乞食時代にくらべると、食事も人なみになっているので、上背のある躯はむっちり肥り、くびれた胴や、切れあがった長い足にも何ともいえない色気が漂っていたが、均斉のとれた躯を惜しげもなくみせて腰巻をみせたまま、ぽかんと横坐りしている有様は伊助にはどこか艶《なま》めかしかった。 「おとなしい、ええ嫁さんや」  と伊助は腹の中とは裏腹なことを角蔵にいったりしたが、しかし、正直のところ、角蔵のお菊を愛している理由も、おぼろげながら伊助にはわからぬでもなかったのである。  角蔵が珍しく、明るいうちに伊助の家の門口から、はなれの畑地へまがって帰ってきたのは、朽木の製材所で用事がすんだからであった。観智院へ帰る途中にちょっと覗いてみたかったのだ。角蔵は、正直、慈念が僧堂に現われてから、そわそわと落ちつかぬものにとりつかれはじめていた。 「お菊」  声かけて戸口から縁の方へまわると、戸が閉まっている。中から返事がなかった。角蔵はお菊が寝ているのではないかと思った。地下足袋をはいたまま、腹ばいになって、縁に手をのばして障子をあけた。と、お菊は、無心に縫いものをしていた。 「なんや、おったンかいな」  角蔵は地下足袋をぬいで部屋へ上った。 「なに縫うてンねや」  みると、紅い古布を行李《こうり》の底からひき出してきたとみえ、何やら、小さい赤ん坊のきもののようなものをお菊は縫っている。雑巾《ぞうきん》でもつくっているのかと最初はみたのだが、小さな襟のようなものがみえるのに角蔵はドキリとした。 「それ、なんや、菊」  お菊は顔をあげ、にんまり鼻じわをみせてわらった。そうして、急にうつむいてだまった。 「どうしたンや。そんなもんつくってどうしたンや」  胸がさわいだ。お菊に子が宿ったのではないかという恐れだった。しかし、このことは、お菊がすでに四十をこえている年齢であるし、角蔵も六十なのだから、まさかと思うものはあった。しかし、あり得ないことではなかった。お菊の躯は若かったのだ。無心に針先のうごきを止めもしないで、赤い着物を縫っているお菊をみていると、角蔵はうちのめされた気持になった。 「赤が出けたンかァ」  ときいていた。 「………」  お菊はだまって角蔵の白髪まじりのイガ栗頭をじっとみていた。 「菊や、赤が出けたンかァ」  とまた角蔵はきいた。と、お菊はこの時こっくりうなずいた。涼しげな眼だった。角蔵はどきっとして、 「菊」  とまたお菊の眼をにらんだ。お菊はこっくりとまたうなずくのである。 「誰がきても会うたらあかんぞ。ええか。寺の坊《ぼん》さんがきても会うたらあかんぞ、ええか」  と角蔵は二、三日前からいいづめの言葉を無意味になげて縁先へ出た。 「早よもどってくる。ええか、待っとれや」  と角蔵はいった。お菊はこっくりとうなずいた。角蔵は早足で畑を通りぬけたが、伊助の女房が、井戸つるべをきしませているのにあいさつもしないで、渓へ下り、丸木橋をとぶように走っていた。 〈菊が子を産む……〉  角蔵は底倉の部落で、今ごろ村歩きをしているかもしれないおかんの顔を思い浮べていた。おかんは神経痛の足をひきずっていた。松治と定治の洟汁をたらした顔もうかんでは消えた。 〈菊が子を産む……〉  角蔵は、恐ろしい刑罰の宣告をうけたように眼をひきつらせて谷の道を走った。     5  下顎の細まった顔を、蒼白にさせた堀之内角蔵が、息つまらせて飯場の口に顔をみせたときに、たるきの角材を足場の上り口ヘならべていた音吉がとんできて、 「お父《ど》う、捨が来た」  といった。角蔵はギロリと眼を光らせて、若い音吉の、小馬鹿にしたような言葉をきいた。 「病気でな、みんな、山ィ行っとるに、自分は休んだいうて、ひょっこり、ここへきよった」 「そいで」  と角蔵は音吉をみた。 「あのな」  音吉はちょっと考えてからいった。 「捨は、お菊のこと知っとるでェ。誰から、きいたんや知らんけど、坊村の鶏飼いにおる女子《おなご》は誰やいうてききよった」 「ほんまか」  と角蔵は大きな声をだした。 「今さっき、火ィのねきにおった」 「お前はなしたんか」 「なんもこっちははなしやせん。若狭のおかんのことをきいたさかい、兄ィらが出世して、おかんに銭《ぜに》送ってきとるというた……お父《ど》う、捨は、お前のことを何どもきいとったぞォ」  と、音吉はうすい唇をつき出して眼をむいた。 「わしのことか……」 「お前がなんで、底倉へ帰らんのやろというとった」 「………」  角蔵は小造りな顔を、音吉にともなく、自分にともなく大きく歪めた。お菊が子を産むというのにいま、また慈念が、お菊のことをすでに知っている。一大事であった。 「不満そうにいうとったか……お前はどない返事した」  角蔵は問うた。 「わいか」  と音吉は顔をかいて、 「お父《ど》うは乞食谷の家を建て替える一心で精出しとる。お父《ど》うはなんも、あそんでばかりおるんじゃないいうた。きつういうてきかしてやった」 「ほんまか」   角蔵は猜疑《さいぎ》走った眼を音吉にむけたが、急に、このとき、激しい後悔と嫌悪の情に責めさいなまれはじめた。  おかんのことを捨吉はどう考えているだろう。おかんの苦労を捨吉は知っている。とすると、おかんに憂き目をみせている自分を恨んでいるに違いない。  それに、角蔵は、慈念の母親のお菊をつれてきているのであった。しかもお菊にいま新しい子を妊《みごも》らせている。捨吉に憎まれても憎まれ足らない父親だという気がして、角蔵は頭を抱えて、狂いまわりたい衝動にかられた。 「角さんや」  と、表のはなしを聞いていたとみえて、このとき、亀右衛門が飯場から声をだした。 「お菊とは別れた方がええで。お前はおかんにも捨吉にも、顔むけのたたんことをしとる。わる気があって、そんなことしとるとは思わんけど、角さん、お前は昔から人のええ、さっぱりした男やが、裏の方では、身内ちゅうもンをいじめてきとる男や。お前の心にどういうわけか、二匹の虫が棲んどるわ。おかんにも松治にも、定治にも、父親の愛情ちゅうもンがない、冷とうて少しも温かみがないわ。わしは嬶《かかあ》に死なれてから、そこのところがようわかる。死んだ嬶ァの顔をみたとき、わしは、もうちいと、ええ目をさせてやったらなと、大声で泣いて、さだこ、さだこいうてよんだもんや。せやけどな、死んでしもたらもうあかんわいな。あとのまつりや。生きとるうちにちゃんとしたらにゃあかん。ちゃんとしてやっていてこそ、外であそんでもええのンや。ところがや、お前は、うちのことは放ったらかし。外ばっかり気のええ男で通して来とる。お前のような男と一しょになった女子《おなご》は気の毒やな。お前は、おかんに七人もの子ォうませた。寺普請で地方を歩いて銭もうけても、何一つおかんにしてやっとらん。七人の子ォを育てたンはみなおかんや。おかんがお前をうらみながら汁田圃《しるたんぼ》へ胸までつかって、よそのいやがる小作田圃を守りしたからこそ、七人の子ォは育った。そんなけうとい家へ、お前は年に一、二ど去《い》ぬけど、なにもしてやらん。秋ぐちになって、乞食女が阿弥陀堂へ泊りにくるころを見はかろうてもどっていくだけや。お前の了見を村の者は噂しとる。おかんもひょっとしたら、お前が長らく家をあけるのは、お菊のせいやないかと思うとるやも知れん。よう考えてみい。お前はお菊の産んだ子ォを、おかんにあずけて養わせた。十になったとき、その子ォを寺へあずけた。それが慈念や。おかんはあの子ォ放すとき、産んだ子ォのように思うて泣いて村道を走った。おかんはえらい女や。お前はおかんのそんな気持に少しでも思いをかけてやることはなかったやろ。お前はいまお菊と一しょにくらしとる。捨吉が眼の前に現われたからというて、苦い顔したってはじまらんやないか。角さん、ええ見切りどきや。お菊を放してしまえ。別れてしまえ。いわんこっちゃない。ずるずると長びけば情がうつるばかりや」  亀右衛門はそういうと、わが言葉に酔うたように何どもうなずいて、皺くちゃの顔を歪めて咳きこみながらつづけた。 「慈念がどこで聞いたか知らんけんど、お前の坊村の家に、女子がおるときけば見にゆくにきまっとる。お前が会わさんようにしたとて、母と子やないか、血ィがよびよせるわ。きっと慈念は会いにゆきよる。慈念は鶏飼いの家におる女子は誰やと音吉にきいとった。何ともいえん顔しとった。……角さん、いまに罰があたるどォ。慈念にお前は復讐《ふくしゆう》されるかも知れんどォ。いや、慈念ばっかりやないで、底倉のおかんの育てた子ォらも、お前をうらんで暮らしとることやろ。お前は今のままの仕放題のことしとったら、ひどい目ェにあう。わしは友だちやからいう。わしのいうことようきいてくれ、角」  と、亀右衛門ははじめて角蔵を子供のときのように呼びつけにした。わきにいた音吉はだまってうなずいている。角蔵は二人をじっと見つめた。 「そうか」  やがて、角蔵はぽつりといった。 「捨吉がそんなに思いつめておるんか。わしにはわからんわ。あの子は、十の時に寺へいった。出家したんや。わしは、何も、好きこのんで、あの子ォを寺へ出したわけやない。おかんがあの子を手放す時かなしがったとお前はいうが、それは、女子《おなご》の浅はかさちゅうもんや。長い眼ェでみたら捨吉は坊《ぼん》さんになって、よかったと感謝する日がくる。いや、きっとくる。乞食女の子に産まれたという、かなしいことを知らぬまに出家して、在家のことも忘れて修行をつんどる。きっとええ坊さんになれるとわしは踏んだ。正直、わしは、このあいだも、塔の足場から、捨の大きゅうなった姿見て、涙がこぼれるほど嬉しかった。阿弥陀堂でうまれた子ォや、あれがようあんなにまでなったやと涙がこぼれた。亀さん、お前のいうことはようわかるが、わしは何もおかんをいじめておるわけやないぜ。おかんは生来があんな働き者や。息子らァが、銭を送ってくるようになっても、村あるきの仕事を辞《や》めん働き者やった。おかんの働きぶりみて、わしが銭おくらんためやというのもおかしいわな。わしかて、一生懸命働いとる。寺普請のある村々を、犬ころのように探し廻ってこうして山の奥まで手づる求めて働きにきとる。物好きに乞食女とくらしたいためでもなんでもあらへん……わしは何とかして底倉の家を建て直したいんや」  と、角蔵は大きく溜息をついてつづけた。 「お菊もかわいそうな乞食女や。わしが助けてやらなんだら、村の男のなぐさみ者になって、親の知らん捨吉のような子ォを何人も産んで……餅もらいの旅しとったやろ。その女を、わしは、亀さん、わしの力で、正気にもどしてやった。わしはあの子と一しょに暮らすようになって、不思議なことに、仕事するにもハリが出たわな。お菊はわるい女やない。お菊は、亀さん、仏みたいな女や。きれいな心をしとる。欲のない、美しい心をしとる」   いい終ると、角蔵ははっぴをぬいで小舎の天井の釘にかけ、腹がけ一枚きりの姿になって、足場の口にそろえてあったたるきを一本肩にかけると、馴れた足場を走りのぼっていった。 「仕事や、仕事や。この塔が出来んことには、何をいうても始まらん」  と、角蔵は足場の途中でふりかえっていった。  古い塔の内部には、千手観音像が金網の中で金いろに映えていたし、二階には五百|羅漢《らかん》の木彫が腰高の壇の上で顔を並べて坐っていた。その仏像に、まるでまたがるようにして角蔵は足場をのばった。 「仕事や、仕事や。仕事をすませんとあかん……」  そういいながら、角蔵はシタミ板を打ちはじめた。 〈お菊が子ォを産む、お菊が子ォを産む……〉  角蔵は暮れかけた二重の屋根の上にあぐらをかき、金槌を耳上までふりあげて一心に三寸釘をうった。  東の空にそびえている武奈岳の頂に、満月にちかい月が出ていた。寝しずまった観智院の方丈前は、杉木立の影が墨を流したように浮いてみえる。禅堂の重い扉《とびら》がかすかなきしみ音をたてても、茣蓙《ござ》の上に寝ている二十三人の雲水たちは起きなかった。山狩りの作務で疲労しつくしていたからである。深夜二時ごろであった。  背のひくい影が、扉のあいまからとび出た。慈念であった。慈念は足音をしのばせて、庭石づたいに唐門にむかった。カンヌキをはずすとすうーっと門扉《もんぴ》は音もなく開いた。慈念は表庭に出た。庫裡の軒下は真っ暗であった。慈念は総門のくぐり戸を手さぐりであけて、猿《ましら》のように表へとび出た。その足は石垣にそうて坂道を下り、坊村の方角に向った。  明王の谷はかなり深い。安曇川の大川と合流する地点までくると、渓谷の両側の山襞《やまひだ》は月光でま昼のように明るい。慈念の足は早くなった。石垣をつみかさねた家々のあいまをぬけて、一ばん上部にある笹沢伊助の家の戸口にきた。笹沢の家は戸口から自由に畑へ廻るように道がついていた。月はこのあたりも隈なく照らしていて、慈念の眼前にいま堀之内角蔵のいる石置き屋根の小舎がはっきりとみえた。  慈念は、台所口から裏に廻って、縁側の戸のすきまからもれるうす明るい光線に眼をあてた。やがて板戸をトントンとたたいた。中から声はなかった。トン、トン、トン、トンと慈念はたたいた。と、まもなく、家の内から角蔵の咳きばらいがきこえた。 「お父《と》う、あけてくれ」  と慈念はいった。ギシギシ床を踏む音がした。がすぐに戸はあかなかった。外をうかがっている気配である。 「あけてくれや」  と慈念はいった。 「お父《と》う。捨や、あけてくれ」  すると、中から眠たげなかすれ声で、 「こんなにおそう、なにしにきたや」  と、角蔵がいった。 「あけてくれや」  角蔵はカンヌキをひいた。一枚だけ戸をあけると、月光が縁にさした。障子は閉まっているので、部屋の内側はみえなかった。しかしランプの明滅がいまにも消えいりそうにその障子を照らしていた。角蔵は立ったままで、外にいる慈念をみた。 「何しにきた、はなしがあるなら、仕事場ではなせばええに、お前はちっとも顔を出さん、どないした」 「お父《と》う」  慈念は切羽つまった声をだした。 「おしえてけれ、お父《と》う、わしのおっ母《か》は誰や。底倉のおかんか、お父《と》う」  慈念の眼はギロリと光って、射すように角蔵をみつめた。角蔵は顎をひいてじっとその捨吉をみた。 「何をいうかと思うたらそんなことか。捨、お前のおかあはおかんのほかにどこにあろ。底倉のおかんや」 「………」  慈念の眼は光った。猜疑と哀願のいろが顔に出ている。 「何を、あほなことをきく。お前のお父はわしや。お母あはおかんや。捨、どうしたやな」  角蔵はしゃがみこんで、ふるえ声でそういうと、捨吉の顔をのぞきこむようにした。 「ほんまか」  と慈念は問うた。 「嘘をいうもンか捨。お前は呆《ぼ》けとるのやないか。子供のころに、よォ、阿弥陀の子ォやといわれたもンで、やから、ついそんな阿呆《あほ》なことを信じとるんやないかいな。捨、お前は阿弥陀の子ォやない。おかんがうんだわしの子ォや」  角蔵がそういった時奥から、 「誰やあ」  というお菊の声がした。角蔵は部屋へ入って、 「何にもあらへん、寝とれ、寝とれ」  といった。お菊は起きてきた。障子に寝乱れた影がうつった。 「お父《と》う」  と慈念は角蔵をにらみつけてきいた。 「そこの女《ひと》は誰やな」 「飯炊きのおばはんや。誰でもない。さ、捨、僧堂へ帰《い》ね、早よ帰《い》なんと老師さんに叱られるど。無断で外出したンがみつかると、ケイサクでどやされるど」  慈念は角蔵の言葉をふりきるようにしていった。 「お父う、嘘やないやろな、ほんまにそのひとは飯炊きのひとやろな。お父う」 「お前に嘘ついて何になろ。お前はわしの子ォや。おかんの子ォや」  うわずるように角蔵はいった。 「お父う」  慈念はいった。 「そんでは教えてくれや。わしが今でも眼ェつぶると、阿弥陀の堂の葬式花の輪がうかぶのはなぜやな。葬式花の輪がうかぶと、風が轟々《ごうごう》吹いてきて、むささびがいっぱい泣きだしよるンはどういうわけやな。お父う、教えてくれや。嘘をいわんと教えてくれや」  慈念は泣き出さんばかりに顔を歪めた。角蔵はまた縁に出てしゃがんでいった。 「むささびの声は宮さんの木ィからや。乞食谷の椎の木におった。お前はおかんの背中に負われて歩きをしたことをおぼえとるやろ。忘れたんか捨よ。風呂をもらいに冬の夜中をおかんと文左衛門のお婆《ばあ》の家まで雪道ふんで歩いたン忘れたか。葬式花は宮さんの前の、まいまいこんこをする広場じゃった。乞食谷の墓にも花輪はあった。おかんの家の窓からみると、乞食谷へくる葬列が、みえたやろ。花の輪の行列がみえたじゃろ。おかんが背負うてお前を育てた。乞食谷の花輪じゃ。お前はおかんの子ォや。むささびの啼《な》く声も、風呂もらいの夜さりにきいた声じゃろ。捨よ。お父うも、眠るとむささびの啼く声がするぞ。おかんの家の窓からみえる村の墓場の葬い花もみえるど。お前ばかしやない。捨、お前ばかしやないど」  と角蔵はうなされたようにいった。と、このとき、奥の部屋にじっとしていたお菊がうごいた。障子があいた。角蔵は手をのばして閉めようとしたが、部屋へさしこんだ月の光りに、お菊の白い顔が白蝋《はくろう》のようにうかぶのがみえた。慈念は声をのんで佇立《ちよりつ》していた。 「お父《と》う」  慈念は急に、顔を伏せると角蔵の前から消えた。畑をふみこえて、伊助の家の方へつっ走ってゆく足音だけがいつまでもきこえた。角蔵は縁先に呆然と立っていた。 「どないした、お父《と》う」  お菊が寄ってきた。 「お父う、誰やった」  お菊の瞳には、いままでそこにいた慈念をわが子だと確認した影はなかった。  角蔵はほっとして、 「寝よ、寝よ、さ、寝よ」  とお菊にいった。     6  梶本伝吉の指図で、三重塔宇の屋根にシタミ板が貼りめぐらされたのは十一月二十日。葦すだれのすきまからみえる三重層の屋根は、秋晴れの陽をうけてキラキラ輝いた。下から仰ぐと、ぴんと張った四すみの角やたるきの複雑な組み合わせが模様のようにみえて、表に出た部分は、とても修復されたとはみえず、新築されたような堂々とした塔宇に見えた。  越前瓦の卸元から、鬼瓦、切込棟瓦、丸に二の字の足利代々の紋章を形どった丸瓦などの、特注品が運ばれてきたのは、二十三日だった。畑の隅に新しい飯場がたち、瓦師たちも、仲間に加わった。いずれも高層塔宇専門の、いわゆる屋根師の中でも特殊技術を習得した年輩の者ばかりであった。峻道老師は、屋根師が揃うと、早く全重層に瓦のふかれる風景がみたいといい、朝から仕事場へ出ていた。雲水たちも同様であった。半年近くかかった工事が、ようやく竣工する。禅堂から、祖師堂へゆく廊下を通るたびに、雲水たちはいつも塔をみあげた。  シタミ板を貼っていた角蔵の仕事は一段落した。大工たちには、塔宇の内部にある階段や、羅漢像の横物の虫喰いを取りかえる仕事がのこっていた。仕事場はいちおう音吉と病気のなおった亀右衛門が主となり、四分板屋根の仕事場でノミをつかったり、カンナをかけていた。角蔵はヒマになった。  角蔵が仕事を休んだのは、二十四日だった。その夕方音吉が仕事をしまおうとした時、衣をきた慈念が、瓦師の降りた足場をちょこちょこと例の擦る歩き方でのぼってゆくのがみえた。音吉は、おやと思った。 〈お父をさがしているのだろうか……〉  それにしても、暮れかけると、危険な足場なので、音吉は不安にもなった。足場の下へ走っていった。が、そのときはもう慈念が二重屋根の上へ立っていた。慈念は二重層の上から奈落の池をみていた。 「危ないぞォ」  と音吉はどなった。と、慈念はくるりと足場の方にむきなおると、ゆっくりした足取りで降りてきた。 「捨、危ないど、気ィつけんとあかんと、どなんしたな」  音吉は降りてきた慈念のわきに寄ってきいた。慈念はだまっていた。白眼をギロリとむいただけであった。だがぽつりとひくい声でいった。 「お父《とう》はどこいったな」 「休みや」  と音吉はこたえた。慈念が屋根へのぼったのは、やはり角蔵を探していたのだ。 「お父に何か用か」  と音吉はきいた。慈念は心もち蒼ざめた顔で首を振った。 「あしたはな、瓦師の瓦ならべや。角さんも一しょに屋根へあがらんならん。すんだら、飯場でいっぱいよばれる日や。京都から、棟梁もくる」  と音吉はいくらか浮いた調子でいった。慈念はだまってきいていたが、うなずくと、音吉の方をみないで、暗くなりかけた禅堂へゆっくり歩いていった。その慈念の怒ったような眼が音吉にいつまでも残った。 「今なァ」  と音吉は飯場の火をおこしている亀右衛門のわきへきていった。 「捨が、屋根へのぼっとったわ」  亀右衛門は音吉をみて、妙なことをいうといった顔になった。 「捨がかえ」 「けったいな奴ちゃ。お父うをさがしとったんで、何か用やときいたら、何にもないいうた。眼つきが変で気色わるかった」  亀右衛門はますます変な顔つきになって、 「角さんはなんで休んどるんかいな」  といった。 「さあ」  と音吉は首をかしげて、 「知らん。シタミ打ちでいそがしかったから、骨やすみしたんとちがうか」  といった。これは音吉の推測にすぎなかった。明日は棟梁の小原祐吉郎が、京都から現場を見にくる日取りになっていたし、差配の梶本伝吉もいそがしくしていた。休む理由がなければ、当然出てこなければならない日であった。瓦師たちが瓦をそれぞれの場所に幾十枚となく積みかさねて、明日の瓦ならべにひかえているのがみえるが、シタミの欠陥が出れば、貼りなおさねばならない用事もある。無断で休んだことが不審に思われた。  しかし、翌二十五日は、角蔵は朝早く出勤してきた。飯場をのぞいた時、音吉が、「お父《ど》う」といった。  角蔵はどきりとしたように立ち止った。顔がひどく蒼ざめていた。音吉は具合でもわるいのかと思ったほどである。 「夕方やったが、捨がなァ、屋根へのぼってお前を探しとった」  というと、角蔵の顔はぴくっとふるえた。 「どんな顔しとった」  と性急に角蔵は訊いた。 「どんな顔て? 怒ったような顔しとった。わいがなんぞ、お父うに用があるんかときいたら、何にもないいうた。けったいな子ォや」  角蔵は、音吉の顔をのぞきこむようにして、 「そいで……どないした」  ときいた。 「わいもだまっとったら、禅堂の方で木鐸《ぼくたく》が鳴ったンで、とんで帰りよった」  角蔵は、腹がけに釘を入れて、瓦師たちのうしろから足場をのぼっていった。屋根に上った慈念が、奈落の絶壁の下の観智池をのぞきこんでいた光景が頭を走ると、角蔵は足場をわたる足もとがふるえた。 〈怒ったような顔をしていた〉  角蔵は上りながら、亀右衛門のいつかいった言葉を思いだした。 〈お前を憎んでおるもンは慈念だけや思うと大間違いや。底倉の、おかんもそうや。松治や定治や、舞鶴の兄ィも、憎んどるやもしれんぞ。お前は、外だけは人がええけんど、身内の者には、冷たいところがある。おかんのもとへ早う帰《い》んでやれ〉  角蔵は考える。 〈お菊とは別れられん。お菊はきれいな心の女子《おなご》や。仏のような女子《おなご》や……おかんもかわいそうやけど、おかんはもう六十や。舞鶴の助治と咲治の仕送りでラクに暮らしとる。もう行末は安心や。それにくらべたら、お菊はこれから闇や。わしが放したらまた乞食して歩かんならん。……お菊を捨てるわけにいかん……〉  角蔵は釘をくわえると、また、前日のシタミの釘どめの不足しているあたりへ金槌をふるった。  湖海峻道老師は二十五日の夕刻、小鈴を鳴らして隠寮に隠事の昭田黙徹をよんだ。黙徹は敷居ぎわに低頭した。峻道は内陣の小仏壇の下の襖をあけて、一升瓶に入った銘酒「沢之鶴」を抱えて昭田の前へきた。 「徹僧《てつそう》、これを飯場へもってってやれ」  黙徹は微笑して押しいただくようにして両手でそれをうけとった。 「瓦師もふき終えたころじゃろ。おっつけ日が暮れる。わしはあした早うに塔をみてみたい。早うに寝る。雲水も休め」  老師はそういうと小鈴をチリンチリンと振った。どことなく晴れやかな顔だった。  昭田黙徹は直日《じきじつ》の田山育文にこのことを告げ、知客寮の古田と赤松にも告げた。大宗と集英は、隠事僧の抱えた酒二升に眼を光らしたが、老師が大工の飯場へ持参しろといわれた旨をきくと、二人は瞳をあげた。 「どれ、わしらも、それでは月夜の塔を見るとしよか」  黙徹は微笑して、二人をつれて玄関から総門をくぐった。塔の方へやってきた。飯場の前に火が焚かれていて、そこに魚を焼く匂いがした。三人の雲水は鼻をもぐもぐさせて、煙の出ている方へ廻った。と、そのときであった。葦すだれの蔭から黒い影がさっと飛び出て、足場をまっしぐらにかけのぼるのがみえたのである。折から、瓦師たちの六人のうち二人がまだ二重屋根の上にのこっていたが、三重の屋根の方には角蔵が一人のこって足場づくりをしていた。影は一重の層から二重の層へす早く鳥のようにかけのぼった。と、三重の屋根の上でぴたりと止った。角蔵は釘を打っていたが、すでに手許が暗くなりはじめている。屋根師たちが、明日から、膠着剤《こうちやくざい》の壁土をとりつけるための、すべり止めの足場をつくっていたわけであった。月は杉木立の上にあがっていて、もう角蔵の手許は、夕方の光線よりも月光の方が強まりかけていた。角蔵は、三重屋根のまん中につき出た細長い法輪から、 「お父《と》うッ」  という慈念のよぶ声をきいた。角蔵はぎょっとして顔をあげた。不意のことであった。角蔵は思わず、腰をうかした。法輪に片手をつかえた慈念が、黒い岩のように、こっちを向いて佇立している。 「なんや」  と、角蔵は瞬間、猫なで声でこたえた。手をやすめて慈念の方をみた。 「お父《と》う」  と慈念はまた怒鳴るようにいった。 「なんや」  父親はますます猫撫で声になった。慈念は必死な顔をしていた。角蔵は腰をうかして、シタミの下の角だるきを両手で握ってまたしゃがみ直した。と、慈念がいった。 「お父《と》う。おっ母《か》はお菊やろ、な、いわんと承知せんど。ほんまのこといえや。阿弥陀堂のお菊はわいのおっ母やろ」  慈念の声は泣いているようにきこえた。角蔵はむっとして、 「捨。ちがう」  と金槌を腹がけにはさみながらいった。 「ちがう……お菊やないど」  角蔵のしゃがんでいる場所はちょうど屋根のまん中あたりになっている。上から順に三本の足場をつくっているのだから、まだ、棟の先端へもう一本の足場をつける仕事がのこっているのであった。角蔵は早くしないと暮れてしまう。角蔵はいらいらしながら、 「お前のお母は底倉のおかんや。おかんにちがいないがな」  と角蔵はいった。 「嘘や」  と慈念はどなるようにいった。 「お父、そんなら、お父はなぜ、お菊といっしょにおる。わしのおっ母やからおるんやろ。……せやろ、お父」  慈念の、おっ母ぁといった言葉が、いま角蔵の胸をつきさした。 〈誰かに聞いたンだ。そうでないとこんなに確信ありげにいうはずはあるまい……〉  角蔵は瞬間、そう思ったことで、さらに慈念に余裕をあたえることになった。 「ほら、黙っとるな。都合のわるいときはだまっとる。お父のわるいくせや。お父、今日という今日は本当のことをいわせるど。お父、わしは、お父が阿弥陀堂でお菊にうました子ォやろ。そのわしの顔を見るのがイヤなんで、わしを寺へ小僧に出したんやろ。お父、わしは今日まで禅宗のお寺で修行をつまされてきたけれど、何にもならんだ。産んでくれたお母もお父もわからんようなこつでは、修行はできなんだぞ」  慈念は哀願するようにいった。頬をつたういく筋もの涙が月光の中で光ってみえた。  角蔵は、いま、ここで真実をいった場合、慈念がどのような態度に出るかと思ってぞっとした。角蔵はごくりと咽喉を鳴らした。と、この時閃光のようにひらめいたある恐ろしい考えがあった。それは慈念が、いま自分に殺意をもっていはしないかということだった。跳びかかられて、つきとばされたら、奈落の池へ落ちこんでしまう。角蔵の顔は急に艶を失い、恐ろしい断末魔を見るような恐怖と不安におののきはじめた。ところが、角蔵はやがて、ゆっくりすわり直すとやさしい細い声をだした。 「わかった。捨よ。いうてきかしてやる。わしのそばへこい。ここへこい。お前の生れた時の本当のことをいうてきかしてやる。離れておると下の職人さんに丸ぎこえや。さあ、こい……」  慈念はこっくりうなずくと、一番の足場に足をずらせて、法輪をにぎっていた手をしずかにはなした。しゃがみ腰になって下へ降りてくる。 「さあ、早よ、足場へこい。お前のうまれた本当のことをいうてやる」  そういった時、慈念の右足は、足場に力を得ようとして大きくのびた。と、この瞬間、角蔵はぽいと、自分のふんまえていた足場を跨いで瓦の上にとまって、うしろ足で慈念のかけた丸太を蹴っていた。  慈念は足場へ右足を押しつけた後だったので、そこだけ止め釘の打ってなかった丸太がころころと瓦の上を廻転するのにつれて、躯を櫛《くし》めになったたるきの端へつんのめらせた。あッと慈念は空に泳いで声をあげた。 「お父《と》うッ」  慈念は口惜しそうにさけんで角蔵の方をみた。 「お前のお母は、おかんや」  と角蔵がいった声と、あっと叫んだ声とが、もつれあうように夜空に消えたかと思うと、丸太に押された慈念の躯は、針金止めのしていない丸瓦の一つを蹴って奈落へ落ちた。 「お父ーッ」  というつんざく声がした。それはちょうど一羽の蝙蝠《こうもり》が落ちたようにみえた。衣の袖をはためかせて、落下した慈念の姿を目撃した者は誰もなかった。  塔の下で魚が焦げる匂いがしていた。知客寮の古田大宗と赤松集英は、とつぜん頭の上で叫び声をきいて、顔を見あわせていたが、やがて崖っぷちへ走った。 「慈念が落ちたどおーッ」  と角蔵のとり乱した声がきこえた。やがて角蔵は足場をつたって走り下りてきた。音吉も亀右衛門も、越前の瓦師たちも、まわりへきた。古田と赤松は、瓦師のうしろに立って奈落の池を覗いていた。慈念の影はなくて、黒い鏡のような水面が、一つの満月をうかべているだけであった。 「落ちたぞッ、落ちたぞッ、捨が落ちたッ」  と足場を降りてきた角蔵は眼をむいていた。 「どこやな、池かいな」  と皆の者はあつまってきた。角蔵はふるえながら三重の塔の欠けた一本の丸瓦を指さしてみせた。しかし、それは下からはみえなかった。皮肉だった。慈念の踏みはずした足場丸太は端だけ一本の五寸釘に打ちとめられていて、そり棟の三重から、割箸をつき立てたようにのこっていたのである。  人びとは観智池の上にいつまでも眼をそそいでいたが、不意の事なので、信じられない顔つきだった。一人の若い僧が、つい三、四分前にそこへ落下して死んだという実感は誰ももてなかった。  呆然と池の水面を見つめている人びとの眼に、慈念がたしかにそこで落ちたというあかしが起きたのはまもなかった。池の岸辺の枯葦の合間から、バタバタと十数羽の親子雁の羽ばたきを見たからであった。雁は夜空へ羽ばたきあがると、十数羽の行列をくの字につくって、いったん黒い杉木立の梢にまい上ったが、やがて灰色の比良の山さして一瞬のうちに消え去った。  万年山奇崇院徒弟宗念こと堀之内慈念の死は、観智院の修築成った千手観音をまつる三重塔下に居あわせた雲水と屋根師と大工との合計十七人の人びとの証言によって確実とみられた。朽木村にある巡査部長派出所から係官がきて、観智池の死体引揚げを三日にわたって行ったが、不思議なことに堀之内慈念の死体はどこからも出てこなかった。三重塔上からの墜落死が落下当時の目撃者(?)によって証言されたにもかかわらず、池底のどこを浚渫《しゆんせつ》しても、発見できなかったのである。  ただ慈念が落下した際に、ほぼ五分ほどおくれて、とび立った雁の群だけが警察官をうなずかせた。  池畔の葦から急にとび立った十数羽の親子雁は、比良の山に消えるまで、かすかな炭切れのような形になって人びとの眼に残っていた。  堀之内慈念の行方は誰も知らなかった。作者も知らない。 [#改ページ]  あ と が き 「雁の寺」四部作は、別冊文藝春秋に発表した四篇の連作を、一冊にまとめて刊行したものである。初版の出たのは昭和三十九年四月だから、もう十年たつことになる。じつは、この四部作の改稿は、十年近い前からの宿題になっていた。というのは、一部の「寺」はまあ辛抱できるにしても、「村」「森」「死」がいかにも荒っぽい。読みかえして、どうしてこんな粗雑な形容や、歯ぎれのわるい物言いをしたのだろうと、われながらあきれる箇所が無数にあった。それで、改訂を申入れていたものだが、なかなか時間がとれなくて、今日にいたった。私はとにかく、今日まで、一作々々創作してきて、出来あがった作品に、前途を教えられてきたように思う。そのため旧作を読むと、なつかしい思いがすると同時に、今日の眼や頭では、とてもこんな文章は書けぬと思われる箇所に出喰わして汗をながしてばかりいる。それにしても、「村」「森」の杜撰さはひどくて、改訂にながい月日を費したのだった。出来あがって、校正刷で読み通してみて、いくらかましにしあがったのでほっとしたが、これも「文春文庫」に入れていただくことのめぐりあわせによるものだった。わがままを聞き入れて下さった版元にあつくお礼をのべたい。この「文庫版」発行を機に、旧版「雁の寺」四部作は絶版することにしたい。 [#5字下げ]昭和四十九年六月十二日 [#地付き]水 上   勉 〈底 本〉文春文庫 昭和四十九年十月二十五日刊