[#表紙(表紙.jpg)] 記憶の絵 森 茉莉 目 次 [#1字下げ]薄闇の中  祖母  銭湯  伊予紋  着物  洋服  薬  よく走る馬  足弱・腕弱  ヤッタルデ  続・ヤッタルデ  鋏  本屋  鴎外の味覚  庭  犀星と鰻  借金  続・借金  萩原葉子  萩原葉子の「天上の花」  機械恐怖症  春の野菜  卵  ダイアモンド  失くなった紅玉  鴎外の怒り  続・鴎外の怒り  しんかき  犬たち  旧かなと新かな  怒りの虫  続・怒りの虫  手紙の雪  貴族と庶民  尋常一年入学  尋常一年  親子どろぼう  陸軍省の木蔭道  歯医者  鴎外夫人  凄い美人  鴎外  好きな鴎外とわからない鴎外  裁縫  市橋先生  仏英和高等女学校  続・仏英和高等女学校  妹の羽織  妹の幼稚園入学  続・着物  亀井伯爵夫人とバナナ  写真  お刺身とサイダー  料理と私  明治の新劇  明治の新劇の人々  大正の新劇と、その人々  カフェ・プランタン  家に来た役者たち  婚約者  続・婚約者  結婚披露宴  三田台町の食卓  鮭の白ソオス  三田台町の降誕祭  谷中清水町の家  続・谷中清水町の家  苺アイスその他  洋行  続・洋行  恋愛  続・洋服  巴里  続・巴里  欧羅巴の中にあるもの  ホテル、ジャンヌ・ダルク  続・ホテル、ジャンヌ・ダルク  二人の教師  続・二人の教師  巴里の食物  続・巴里の食物  巴里の銭湯  巴里の中流社会  巴里の夫婦  巴里の悪魔  カルメン役者マルトゥ・シュナァル  巴里のバレ・リュッス  巴里で演じた「能」  ニジンスキイ夫妻と「能」  矢田部達郎  巴里の降誕祭  続・巴里の降誕祭  午前零時の接吻(一)  午前零時の接吻(二)  父の死  伯林の夏  続・伯林の夏  欧羅巴の悪魔  帰国  関東大震災  震災風景  目白時代  続・目白時代  花火  続々・目白時代  大和村の家  冬の木  続・大和村の家  続々・大和村の家  後記 [#改ページ]   記憶の絵 [#改ページ]     1966,2〜6 [#改ページ]   薄闇の中     ——三歳の記憶——  部屋の中は七時をすぎていてまだ電灯はつけていない、そんな位の薄暗さである。七時すぎと書いたが困ったことに私の部屋は七、八年来ずっと電灯は夜昼|点《つ》けっ放しなので、何時頃が今私の想い出の中に浮んでいる暗さなのかわからない。ともかく新聞の大きな活字も朧気《おぼろげ》にしか読めない位の暗さである。だがこれも又現在の私の視力で言っているので正確ではない。その私の視力が又おぼろげであって、今普通の電灯の百ワットを点けているが朝しか新聞が読めない、かと思うと親友の萩原葉子の部屋に行くとこれが読めるので、愕いてきいてみると、彼女の部屋は普通電灯、螢光灯、合せると全部で百三、四十ワットだというのである。四十位の時眼鏡というものを誂えたが、かけたり外したりしていると神経が疲れるし、あっと愕くほどよく見えるその見え方も好きではなかった。天然色映画のようで、いやに綺麗すぎて、昔眼のよかった時の光景では絶対にないのである。それでなんとなく見えている幽明の明《あか》りの中に今生きている。どうしてこうすべてが朦朧《もうろう》としているのか、不便なことである。さて、その度《ど》の判らない暗さの中に黒い洋服(軍服である)の男がこっちへ向いて座っていて、その後はうっすらと明るい障子である。私とその男との間の畳の上に灰色の小さな、いろいろな形をしたもの、丸いもの、なぞが十五、六並んでいる。これが私の最初の記憶で、女中の背中にくっつけられる怒りや、銭湯の湯気の中の真暗な湯槽《ゆぶね》の恐怖、又その時の、一寸冷えて、雫だらけの、底の方に温かみのある母の体に密着した記憶などはもう少し後の記憶である。  母親にきくとその時の黒い男は凱旋したばかりの父親で、灰色のものはゴム毬やゴム人形で、動物もあったのだそうだ。それは父親が失望して、私を見ていたところだというのである。戦争中、満洲へ遣った母の手紙で父親は私の成長した姿や、言葉、動作、なぞを知っていて、大変に会いたがって帰って来たのだが、私が仲々懐かなくて、頼むようにして抱こうとすると(一寸だけよ)と断って抱かれるので父親は失望した。私は父親より祖父や母親に抱かれたがり、女中にさえ「オンプ、オンプ」といって背負《おぶ》さるのを喜んだ。私がゴム人形が好きなので父親は出る度にさまざまのゴム人形を買って来てご機嫌を取っては、「パパ(パパァだったか、パァパだったか、父親は独逸の子どもの発音で言わせようとしたのだろうと想像するが、私の方ではパッパと言いはじめたので、その頃は母親も、祖母も、親類中の大人たちが皆父親をパッパと言っていた)のところへおいで」と言って膝へこさせたがっていたのだそうだ。私と父親との恋愛は、だから始めは父の方が恋をして、最後の別離の時には私が捨てたような形だ。事実はホオムスパンの背広の婚約者のフランス文学的殺し文句に一時傾斜しただけのようである。 [#改ページ]   祖母  薄い、骨のような膝の上に私は乗っていて、細い、かさかさした手が私を抱いている。私は緋色地に薄紅色の暈《ぼか》しのある白い大きな牡丹の模様の、メリンスの綿入れを着ていて、まるで綿の団子のようだ。抱いているのは祖母で、茶の間のボンボン時計の下である。 (もういくつ寝るとお正月)と、祖母が歌っている。祖母の声は撫でるように優しいが、私の暈《ぼんや》りと開いている眼は、祖母の顔から何かを視、祖母の声の中から何かをききとっていた。それは祖母が、その痩せた、骨のような胸の中にもっていて、彼女が隠さなくてはいけないと思っているものだ。祖母は、私とは異う母をもった兄を哀れんでいた。彼女は私をも愛していたが、愛していながら、愛することが出来ない。そこから彼女の寂しさが生れ、冷たさが生れた。その冷たさを私は陽の当る縁側から差し込む温い光で、牡丹の花が明るく浮き出ている、メリンスの肌目《きめ》と一緒に、吸いこんでいた。祖母が、藍色の男帯を小さく結んだ、痩せて小さな背中を見せて草むしりをしている。苔の中に出てくる、小さな白い蕾《つぼみ》のついた雑草を一本一本引きぬくのである。いつもそうやっているから、私は「又いた」と思う。そばへ行くと「於菟《おつ》ちゃんに遊んでお貰い」と、後を向いたままで言った。(兄さんなんかいやしない)私はそう思って、彼女のそばを離れた。観潮楼と言っていた二階へ上がる梯子段は急で、途中で一度よじれていて、曲るところは段の右側が三角形に尖っていた。私は上野の山の森まで見える明るい二階の廊下へ出るうれしさを夢みながら、よく一人でその暗い梯子段を(もう一つ、もう一つ)と思って上がった。真中辺の暗いところを上がっていると、谷底のような下の方で、(まりちゃん、危いよ)という祖母の声がしたが私は黙って又一つ、一つと上がって行った。祖母の口癖は(於菟ちゃんが角帽になって、茉莉ちゃんが海老茶になったら……)と言うのだったが、そんな祖母の声の中に愛情を感じて、私はふと、祖母の顔を見た。或日祖母が私の手をひいて砂利を敷きつめた、大変に広いところへ伴れて行った。黒い蟻のような群衆が真中辺に円陣になって固まっている。その中では何かやっているらしいが、祖母は私の手をひいてその円陣の廻りをうろうろ廻っているばかりだ。すると親切そうな兵隊が来て、二人を一番前列に連れ出してくれた。そうしてひそめた声で(そこに居られるのが陛下です)と言った。一間位離れて、猫背の老いた軍人がいた。それは明治天皇だった。明治天皇は、胸の厚みの辺りの、釦と釦との間が少したるんでいて、そこに内容が詰っているような、愛情があるような、大変に懐しい人間像を、私に感じさせた。それは観兵式だったと、後でわかった。 [#改ページ]   銭湯  明治三十九年の冬の夜、本郷(文京区ではない)団子坂上の通りはカチンカチンに凍って、稀《たま》に通る人の下駄の音がカリカリと氷を引掻《ひつかく》ように鳴った。その下駄の音の中に、私が半纏《はんてん》おんぶ[#「おんぶ」に傍点]でおぶさっている女中の下駄の音も混っていた。日露戦争が済んで、父親の日露戦争の留守の間、母親と、母親の実家の長屋(実家の持家《もちいえ》で明舟町にあった)にいた私は、父の凱旋(軍医で行ったのでなんとなく凱旋はおかしいが、軍医用の、凱旋に当る言葉がないのである)後《ご》は晴れて(一寸、そういう感じなのである)千駄木町(団子坂の上)の祖母や父親、兄のいる家に住むようになってから一年目の冬である。女中におぶさって団子坂通りの銭湯へ行くところである。千駄木の家の、内玄関の一間《ひとま》奥の茶の間の縁側から下駄をはいて行くようになっている、小さな小屋のような湯殿があった〈狭い空地《あきち》に面した高窓は、武家屋敷の仲間部屋の窓のような出来になっていて、冬でも簾《すだれ》が下がっていた〉のを覚えているが、その家はかなり贅沢《ぜいたく》な家だったので湯殿を後から思いついて建てたとも思われないが、湯槽の故障の時に銭湯に行ったのかも知れない。四歳の私は女中の紡績か、瓦斯銘仙、木綿なぞの、太い縞とか絣の綿入れを着た、太った背中に、メリンスの幅広のおぶい紐でがっちりと結《ゆわ》えつけられる運命を嫌っていたが、うまく口も利けないから少し抵抗してから後《あと》は、無言で怒っていた。〈抵抗するといっても全く知れたもので、内心の怒りを現わそうとしても、体力が殆どないので、病気の猫の抵抗のようである。太く紅い女中の腕には勿論、青白くて繊いくせにいやに勁《つよ》い母親の腕の力に会っても、ひとたまりもなかった。父親は全く暴力的な力というものを加えなかったので父親は力が無いのかと思っていた。子供の時から神経戦に弱く、そのくせ内部《なか》には不満や怒りが入っているから、私の人生は終始泣きっ面《つら》の人生である〉女中の木綿の綿入れの背中は体温と綿とで火のように熱く、安い香油の香《にお》いがした。(当時はそれがなんの香いかわからないから、ただ熱くて、嫌いな香いがするのである)銭湯につくとようようその背中から解放され、着物を脱がされ堺《さかい》の硝子戸を細く開けて手を差出す裸の母の手に手渡される。一寸冷えた、雫だらけの、しん[#「しん」に傍点]の温いような母の体に密着したと思うと、母はそろそろと歩いて浴槽に近づいた。湯気のもやつく底に黒く、深い、鈍い光と一緒にたゆたうものがあり、私は母の体と密着したまま、その中に沈みこんだ。そこから上がると小桶の中に入れられ、母が洗い始める。湯気の中には神を恐れているのか、空気に遠慮しているのか、体を折り曲げた紅い女たちが蠢《うご》めき、その中から二三人が小桶に汲んだ湯を争って母に勧める。その中には湯の中にいない時でも紅い、皺のある顔の、生薬《きぐすり》屋のおかみさんもいた。 [#改ページ]   伊予紋  明治の後期というのは不思議な時代で、どこの人が倫敦《ロンドン》からコックを招いたのか、菓子職人がどこから紛《まぎ》れこんだのか、なかなか立派な英国風西洋料理、西洋菓子が現れ、風月堂や森永が擡頭してシュウクリイム、ビスケットにチョコレエト、と出て来た。又どこからどう入って来たのか庶民の中にフランス語があって、田舎の親爺がシャッポ= Chapeau =を被って三越で孫のマント= Manteau =を買い、芸者は仲間に「お前さんシャボン= Savon =を貸しとくれな」といい、小使いはズボン= Jupon =をはき、尾崎紅葉はランプ= Lampe =の下で「金色夜叉」を書いた。美人というものも時代の要求から出てくるのか、チョコレエトの箱の蓋の英国油絵美人がハイカラな母親の胎教に影響したのか、町の中にも邸の中にも、一輪、二輪と薔薇のように咲き出した英国美少女があり、絵入りの洋書が手に入る人もあったからか、伊太利美人も出たのである。その中に父親がお茉莉以外でほめた亀井伯爵夫人、田中正平夫人、母方の叔母の荒木愛子、従妹の南都子がある。その中で荒木愛子を私は、今まで見た美女の一位においている。穏しい、悪いことなぞの出来ない女《ひと》である。が天性、薔薇の美の中に秘密の香《にお》いがあり、魔がある。(秘密があっても秘密の香いのない顔もある)矢絣の着物で薔薇の造花を顔の辺りに持った彼女の見合写真が、若し英国の新聞に載ったら二、三人の英吉利貴族が結婚を申込んだことは受けあいである。その荒木愛子の結婚披露宴が伊予紋であった時、私は五つで、白と濃い紅《あか》の二色《ふたいろ》の友禅|縮緬《ちりめん》に鬱金《うこん》(黄色)の裾廻し、紅い縮緬の付け紐の着物で、幅の狭い、織物の帯の横|八《や》の字、白いリボンを両方の耳の辺りに結んで、父母と行った。いつも黙っている私がどうしたのかはしゃぎ出して、座敷の真中に出て行って高砂やの真似をしたが、その夜は私が、他人から綺麗だと認められた最初の夜だった。私も幼い頃は、明治の薔薇でないこともなかったのである。後《うしろ》の廊下が開いては、暗い廊下から女中が入って来て、すり足で酒や料理を運んでいたが、その内にその中の一人が私を何処かへ伴れて行こうといって誘いはじめた。明るい灯の中の陽気な宴会の渦の中にいて、両側には父親と母親もいる。どこへ行くのか知らないが暗い廊下へ出て行くのは厭だったので私は取り合わないでいると、女中の勧誘はしつこくて、その内に勧める女が二、三人にふえた。父親と母親とは微笑《わら》って私を見返えるのである。その内に女中たちは紙に包んだ菓子を持って来て、それを持って行って、あちらでいただきましょうと言いはじめたが、私はどうしても行こうとしない。女中たちは困っているようだったが、その内に丸髷の女が座敷に入って来て、挨拶をし、そうして私を見て何か言った。それは伊予紋のお内儀《ないぎ》で、女中たちが私を見せに行こうとしても動かないのでとうとう自分で見に来たのであった。 [#改ページ]   着物  私が最初に縮緬の他所《よそ》ゆき〈外出着、という味もそっけもない言葉は、昔はよそゆき、であった。外出着では精勤看護婦の稀《たま》の休暇の、ゴツゴツした和服を連想する。もっとも戦前によくいた優秀看護婦の稀の外出着のゴツゴツした姿には又別な立派さがあったが〉を拵えて貰ったのは三歳の帯解きの祝いの時である。父親が三越で選んだ。ごりごりした縮緬の元禄袖で、白と濃い真紅《あか》とに大きく染め分けられたところへ、白地のところには紅、紅地へは白ぬきで、列をつくって飛ぶ燕が出ていた。袖口と裾廻しは鬱金の縮緬、幅広の緋縮緬の付け紐、帯は白茶地に花模様入りの立枠の織物を狭く仕立てたのを横八の字に結んだ。風呂から上って、火桶一つの部屋で、その縮緬の綺麗な着物が冷たく、重く、体を包んだ時の感覚は今も覚えている。私は子供だったが、明治の女の人の色気と情緒にはいろいろ原因があるが、冷たい縮緬を皮膚に感じるところからも出て来たものだと思う。七歳の祝いにはひわ色と退紅色〈薄い紅《べに》がかった樺色〉との染め分けに、焦茶の匹田で桜なぞが出た紋羽二重の振袖で、これも父親が選んだが、この着物は私がこれまでの一生を通じて最も好きな柄である。今、着物を買うとしたら、焦茶に共薄《ともうす》の、熨斗目《のしめ》式の絣のお召にこれと同じ柄の長襦袢、帯は退紅色の、金糸を織り込んだ織物、金糸は古くなって光らなくなっている、というのが理想である。七歳の祝い着の帯は退紅色に白で、薔薇の花の茎が絡み合ったような地模様があって、そこへ紅《あか》と白とお納戸《なんど》の鉄線の花が大きく出ている繻珍《しゆちん》だった。縮緬とか、紋羽二重とかいうものにはやさしい情緒があって、このごろの化学繊維の織物のような非人間的な冷たさがない。〈女の靴下も薄い絹だった昔は、バ・ド・ソワといって、巴里の女の最も数を欲しがるものだった〉  大体、金のある家にも、部屋によっては多少の冷たさがあって、肌ぬぎをして襟白粉を塗って貰う時の、ぞっとする冷たさも、一つの情緒であって、そこから、女の人の美しさや柔《やさ》しさも出て来ていた。白絹や縮緬の半襟を合せた、襟白粉をつけた女の頸に、十二月の、又は一月の、寒冷は、千も万もの柔《やさ》しい針のように刺さって、胸の上で掻き合わせる袖のふりから藤色やとき色(薄紅色)の無地の八ツ橋(布地の名)の長襦袢が滾《こぼ》れる。庭に咲いている梅も、襟白粉も、ふとした風の加減で、微かな、品のいい香いを感じさせる。冷たい手。白い足袋がかじかんだ爪先きを包んでいる。このごろの着物を着た女の人と、昔の女の人とのちがいを、この私の下手な文章から想像していただければ幸である。だが日本の着物というものは不思議なもので、電気暖房の部屋で裸になり、洋服の下着を着た上から着ても、着る人と着かたによっては素晴しい情緒が出る。日本の着物というものは、不思議な魔法の衣《きもの》である。 [#改ページ]   洋服  私が最初に買って貰った洋服は一寸変った冬服だった。今|流行《はや》っている濃い紺地に同じ紺と緑の細《こま》かいチェックで、四角く開いた襟と提灯袖の袖口、スカアトの縁に、濃い真紅《あか》の幅広いふちどり(木綿地)がついていて、ベルトも同じ木綿の真紅《あか》である。これはよく似合った。繊い美少女だった(本当である)五、六歳の私はそれを着て、肩まで長く垂らした髪に白に細《こま》かい水玉が繻子目で出ている、細いリボンを耳の辺りに二つかけ、黒木綿の長靴下に同じく黒の横で止めるゴム靴をはいてひょろひょろと歩いていた。帽子は鍔の狭い黒のビロオドを深く襞をよせたのへ、火のように真紅《あか》い絹のリボンがこれもシャーリングのように襞をよせて巻いてあった。その帽子を黒いゴム紐を顎にかけて被《かぶ》ると、モオパッサン時代の子供になった。帽子の下から暈《ぼんや》りした二つの眼がどこを見るともなく見開かれていた。その洋服がドイツから来た年の夏、白にレエスのある夏服と、変った編みかたで荒く編んだ、深めの麦藁帽子が来た。クラウンをとり巻いた白いサテンのリボンはひと処で円く襞を寄せてあり、廻りが淡い薄紅の蔓薔薇でかこまれていて、清楚で華やかな帽子だった。母親はこれに白い靴下を履かせようとしたが、父親は黒だと主張した。そのころ洋服を着ている子供は、夏は白の靴下に白い靴をはいていたが、はなやかな麦藁帽子にレエスの夏服、黒木綿の靴下、というのは、たしか伯林の小娘の感覚で、客が来ると拡がったスカアトの縁《へり》を両手で軽くもち上げ、右足を後へ退《ひ》いて腰を一寸落とし、小首をかしげる、宮廷風のお辞儀《じぎ》をするとぴったりの服装《なり》だった。夜睡る前に母親からきく話は〈赤頭巾〉だったり、〈ハンスとグレエテ〉—本式にはヘンゼルとグレエテルらしいが、父親がどういうわけか、ハンスとグレエテと言っていたのでこの方がなつかしいので、私はいつもそう言っている。今、子供の本には〈白雪姫〉となっている話も、父親は何故だか〈雪白姫〉と母親に伝え、母親の、「ゆきしろひめがね……」、低い声で囁くように言った声と、私の上に上半身をかがめている彼女の着物の胸の辺りのかすかな清心丹の香《にお》いとが忘れられないので、私は雪白姫と信じている。ドイツ語の原名は知らない—なぞだったから、全く、ドイツ人の子供のようだった。おまけに父親の顔はカイゼル・ウィルヘルム二世に瓜二つで、葉巻をふかし、ドイツ語は口下手なドイツ人よりペラペラだったのである。十二、三の時にドイツから来た箱を開けると、そこら中ドゥロンウォークした、蜘蛛の巣のように細い絡み合ったようなレエスの、真白な夏服が出て来て、私は狂喜した。それからモザイクの黄金《きん》の頸飾り。それを着る時、内心父親の訳した〈ファウスト〉の中の美しい娘、グレエトヘンを気取っていたのだからいい気なものである。私は従姉妹たちと芝居遊びをする時にも、グレエトヘンの役になりたがった。 [#改ページ]   薬  私が生れて最初に意識して飲んだ薬は、牛の血を固めた大きな丸薬《がんやく》=明治時代には錠剤とは言わなかったのか? 私の父親が好みで丸薬と言っていたのか、知らない=である。牛の血を固めたままのものだから異様な味がして、表面はザラザラし、それに平たく丸くて角《かど》があるので呑みこむのが大変だった。そこへ私は呑みこむのが下手で、現在飲んでいる小さな毒掃丸の錠剤でさえ始終呑みこみ損《そこ》なっては厭な味にへきえきし、その度に喉頭癌になったのかと思うのである。どうしても呑みこめなくて、つい噛んでしまうと、厭な味が口の中一杯に拡がって私は顔を歪めた。「噛まないで。呑みこむんですよ」とせっかちの母親が、青白い美しい顔で睨む。透明な壜に赤黒いざらついた色を透かせて、その丸薬が父親の部屋のちがい棚に、いつもひっそり存在している。青葉の影で畳が薄緑にそまり、青い風が吹きぬける夏座敷で、父の傍にねころぶ楽しい刻《とき》も、その薄白い半透明な壜の存在に眼が行くと、嫌悪すべき味が舌の上に拡がって来て、私はその壜を呪った。父親はそれを飲ませる役を母におしつけていたから、厳しい母親はいよいよ私に嫌われていた。壜には横線のある白い罫紙が張ってあって、羅馬字が濃藍色のインクで並んでいた。今考えると、父親はその壜を好きでそこに置いていたのだ。部屋に置くものの好き嫌いが私は父親にそっくり似たらしい。薬壜の傍には、牛乳《ミルク》に珈琲を落したような薄茶に白く Rintaro Mori と、浮彫りされている、銀の蓋つきの陶器の麦酒|洋杯《コツプ》があり、黒塗りに、アイヌの着物の模様のような図案が渋い緑と赤茶で線書きになっている煙草の筐、又|薄衣《うすぎぬ》を着た美しい少女が腕を延ばしている彫刻のある銀の灰皿、なぞもあった。少女の胸は小さく、丸く、薄衣をもち上げていた。風邪をひくと飲まされる、杏仁《きようにん》の入った淡黄色の水薬も、嫌悪すべき飲みものだった。丸薬の方は甘いチョコレエトの口直しで比較的すぐ味が消えたが、水薬の方はいつまでも厭な味が残った。白い粉の風薬は苦くて、一寸砂糖を入れた葛粉の味がし、いやでなかった。百日咳に冒った時に腎臓炎を併発して、水薬を貰ったが、その味の拙さは言語に絶していた。酸っぱくて、へんに悪甘いのである。  私は一生涯の病気を七八歳までに全部し尽してしまったらしく、その後はあまり病気には縁がなかったが、戦後のヴィタミン剤ブウム以来、薬道楽が始まり、ヴィタミンを随分飲んだがもう飽きて、最近は毒掃丸にブレナミン(グルタミン酸入りで、自律神経にいいというので、ノイロオゼに利くと信じている)、アリナミン(これはすべての栄養や薬の吸収をよくするというのを信じている)それと肝臓や心臓、高血圧の予防のための漢方薬を、倦《う》まずたゆまず飲んでいる。私は未開人のようなところがあって、何でも信じるので薬の霊験はあらたかなようである。 [#改ページ]   よく走る馬  私は鉛筆が一人で削れない、靴も上手《うま》く履けない、というような状態で、尋常小学校に入学した。(靴は横止めのだったが、ホックのような金具の出っぱりを紐に開けてある穴へ入れるまでも大変で、やっと入れても呼吸が下手だからなかなかパチンと嵌らなくて、突張ったままなのをもて扱っている。私が靴を履くのを見ていると皆、苛々した)それだけではない。学校の勉強の方は入学前にもう、仮名から漢字から、数字も日本式と西洋式とで百まで書け、足し算、引き算も一寸は出来、自分の名前も漢字と羅馬字で書けるように、いささか山雀《やまがら》の芸当か、猿廻しの猿めいてはいたが、仕込まれていたが、(五歳の頃家に石川啄木が来て、四畳半の客間に待っていた時、出て行って、自分の名を羅馬字で書いて見せたことがある。それが嘘ではない証拠は、啄木の明治四十年頃の日記にちゃんと、その時のことが書いてある)母親のどうした手抜かりか、時計の見方を教えなかったので、時間がわからなかった。朝は(時間ですよ)と女中か母親に人力車に乗せられるので無事遅れずに登校出来るというだけで、教師が「明日から八時半始まりですよ、皆さん判りましたね」と言っても、皆さんの中で森さんだけは判らなかった。授業中に教師が時計を見に遣《や》るのが、扉口に最も近い隅の席の子供に定まっていたのは幸《さいわい》である。そんな風だから入学前はひどかったが、何から何まで人にして貰いながら言うことだけは生意気で、明治四十一年頃コッホが日本に来て(細菌学者だと思うが、細菌学者という部門があるだろうか? 当時売り出された彼の写真入りの絵葉書に、顕微鏡でみた黴菌のいろいろが、薔薇色の円形で囲った中に紅や紫、黒なぞで写っていたからだが、はっきりしたことは判らない。とにかくコレラ菌を発見した学者だということは間違いないようだ)帝劇で何か催しがあり、私は父母の会話からコッホという名と、コレラ菌の学者だというのを聴き覚えていた。そうして叔母や従姉が(コッポ)と言うと、(コッホよ)と訂正をし、コレラキンの学者だと、つけ加えた。四、五歳の時母親に、(お刺身)、(いり卵)、(ご飯)と、一|匙《さじ》毎に注文してはたべさせて貰っているのを、同じ年の子供を伴れて遊びに来ていた女中が見て愕くと同時に大いに軽蔑し、「家の子供は何でも自分で致しますし、よく走りますです」と言った。彼女は私が走るのが遅《のろ》いのを知っていたのである。するとお刺身を噛んで呑み終った私が言った。「それでは読本の馬のようですね」。女中は私が小学一年の読本にある(走れよ小馬)の文句を知っているのに又もや愕いて黙った。七つ位まで大病のやり通しで、看護婦に食べさせてもらった癖がついていたとはいえ、又母親が滾《こぼ》してそこらを汚すのを嫌ったからもあるとはいえ、四、五歳になっていて、御飯をたべるのに口ばかり動かしていたとは呆れたことである。 [#改ページ]   足弱・腕弱  昔は女の人を旅に伴れて歩くのを足弱伴《あしよわづ》れと言って大変優に柔《やさ》しい表現で、常磐《ときわ》御前《ごぜん》を連想する感じだったが、私は優美ではないがまさに足弱である。立派に一人で歩けるようになってからも、馬に西洋人参を遣《や》るといっては馬丁に抱き上げて貰い、菊人形を見に行くといっては女中に抱かれて出かけた。京都から出て来て家に宿っている叔父なぞが、散歩に伴れて行こうというと、歩き出そうとはしないで立って叔父を見ている。車宿《くるまやど》なり、電車まで、抱いて行ってくれるものと思っているので、今の言葉で言えばつきあい切れない、というような意味のことを叔父が母に言ってこぼしたらしい。祖母は(もう、よう抱けん)と言ってあやまってしまった。女中は重くて困ったろうが、女中に持ち上げるようにして貰って団子坂の菊人形の人波を見下ろして行くのは愉快だった。明治半ばの秋は、夕やけの名残りと一緒に紅《べに》を含んだ薄紫に暮れかかって、物見遊山のざわめきが、底に熱いものをひそめている。(こちらは植半《うえはん》でござい)、(こちらは種半《たねはん》でござい)と、菊人形を催している植木屋の呼び声が喧ましく、菊の花の香《にお》いがどこからか漂ってくる。その中の一つへ入って行くと、呼びこみの男は私を見るとにこにこして、「お嬢さんは大勢お客をつれて来てくれるからお代はいらないよ」と言うので、私はいつも木戸御免だった。親類の人や、来客があると、私が女中に抱かれて案内に立ったからだ。菊人形のある間は菊蕎麦は連日満員で、菊見煎餅の板の間では七、八人の職人が藍地に白で菊を染め抜き、襟には菊見煎餅と抜いた半被《はつぴ》で勢よく丸や四角の堅焼を、よく熾った炭火で裏表と返して焼いていた。お客に出すので三日に上げずこの店にも行った。菊蕎麦は戦前までやっていたが、今は今晩軒の名でやっている。ところで抱かれて歩いてばかりいた私は学校へ行くようになると、女学校卒業まで車で通った。だから遠足にはひどく参った。だが、私の足の力の無さは異様で、子供の頃抱かれて歩いたからとか、車で学校へ通ったからとかいうのでは説明がつかないようだ。怠け者のせいだけではなく、私は歩行するどころか座るのも立つのも嫌いな方で、腕の方も力が無く、腕弱の感じで、自分でもまるで海月《くらげ》のような気さえする。極く軽い小児麻痺に冒って、知らない内に治癒したのではないかと、考えるより、考えようがない。二十代からよく往来で転び、その度に膝をすりむいている。この頃は六十を越したので、ひょろつく度に人々が哀れんだり、おかしがったりする模様で、どっちにしてもうれしくない。普通の人間は荷を積んだ自転車位のものが打っからない限り転ばないように出来ているようだが、私は本屋で立ち読みをしている時、背中を人が強く擦《す》って通る度にひょろけて、ふみとどまるのが容易なことではない。足弱《あしよわ》で腕弱《うでよわ》という、変な人間のお話である。 [#改ページ]   ヤッタルデ  この世で褒《ほ》めたたえられるものは(根性)を持つ人間である。大松精神の如きものを持つ人間である。という通念がこのごろ特に盛り上って来ている。このヤッタルデ精神は野球、その他の選手の気構え、入学試験にとりくむ学生の勉強のやり方から、小説を書き、戯曲を書き、詩を造る人々のやり方、すべてに蔓延していて、よく勉強する子供や、一寸骨のある、しっかりした若い女優などを見ると、この子は根性がある、この女優は根性を持っている、というような讃めたたえ方がされていて、まさにヤッタルデ時代である。ヤッタルデ精神は、オリンピック以来いよいよひどくなったが、所謂根性的な、凝り固まった人間は私の好きでない感じの人間なのである。何故好きでないかというと、見ていて息苦しくなってくるからだ。  眉宇に、相手を打ち負かし、捻《ね》じ伏せなくては止まぬ精神を漲らせ、小鼻のあたりはキンキンに緊張し、口元は歯ぎしりしそうに結ばれている人間はたしかに、大変に勇ましそうだが、そういう人を見ていると、だんだん呼吸が詰まってくるのをどうすることも出来ない。私は日本の運動の選手たちが、他の国の選手と競技《ゲエム》をする場合、鉢巻きをし、体中の筋肉がこりこりに緊張したようになってやり、優勝すると抱き合って泣き、負ければ口惜し涙にむせぶのを見る度に、可笑しくなる。新聞には試合、打倒何々、というような殺伐な言葉が目白押しに並ぶ。他の国ではゲエムであり、日本では試合いである。外国の選手たちは子供が遊びで勝った時のようににこにこしている。これはもともと日本には昔からあった根強い精神らしいが、武士にしろ、剣道の先生にしろ、ずばぬけて偉い人物の中には、いかにも根性を持っているぞ、と言わぬばかりのこちこちの人は見当らないようだ。ピイタア・オトゥウルを見ていると(こう言っても映画好きでない人にはなんのことか判らないかも知れないが、「アラビアのロレンス」を主演した近来の名優で、批評家が全部賞讃している男である)小学校の時には授業時間中いつも窓から空を見ていたのではないかと思われるような男であり、自分の靴の紐を結ぶのものろくさそうな男であるが、ピイタア・オトゥウルに根性がないはずはなかろう。私は根性でこちこちになっている人を信じることが出来ない。熱心はみとめるが、そういう人間の仕事には或限度の山があると思う。仕事というものはすべて、ある限度の山を越えて、その上に出ているかいないかで、優れた仕事か、平凡な仕事かが定まるのだし、数学とか、化学とかいう仕事も、或地点を越えれば芸術の世界と同じで、そこからさきはむやみに緊張するばかりの所謂根性ではやって行けないのである。 [#改ページ]   続・ヤッタルデ  私たちがともかくも、守らなくてはいけない(正義)。これもしゃっちょこばった感じで守っている人をみると、私は呼吸《いき》が詰まってくる。(ともかくも守るというのは、明治生れの老婦人の言葉としては変であるかも知れないが、私としては正しいことは、或程度の余裕《ゆとり》をつけて守るべきだと思っている。人に迷惑をかけない、という限度を守った上で、多少の振幅をつけて守る方が、正しい道を踏み外さないで行かれるやり方だと考えている)  私の敬愛しているフランスの大衆作家の(大衆作家というのはきらいな名称であるが、他に言葉が見つからない)ジィプ夫人は、彼女の名著の「マドゥモアゼル・ルウルウ」という愉快な、抱腹絶倒の戯曲の中で、主人公の、少女ルウルウにこんな言葉を言わせている。ルウルウは、父親と森《ボワ》に、朝の遠乗りに行き、すれちがう馬や、貴婦人、父親の友人を批評しているところである。〈パパ、あの人の馬、正義みたいにこちこちね。黄金《きん》のまぐさをたべさせてるみたい〉私はその白《せりふ》が大変に気に入り、好きな言葉として覚えている。  私たちは人の家に火を点けてはいけないし、人を殺してもいけない、のは勿論、他人《ひと》のものをひそかに持って来てはいけないし、他人《ひと》の財産を悪辣《あくらつ》な手段で巻き上げたり、卑怯なやり方で他人《ひと》に迫害を加えたり、すべて法律で禁じていることはしない方がいいのであって、それが正義を守ることなのだが、或種の人々のように、あまりにこちこちに正義づいていると、余裕というものがないので、息苦しさをおぼえ、柔かみのある、素晴しい人間は感じられない。こんな感想は私だけだろうか? 私だけなら、黄金《きん》のまぐさをたべている馬のような正義派の人々をみとめよう。世の中にたった一人で、何ものかに反撥を唱えるとしたら、その人は変な人間であって、その説は引っこめなくてはいけないからである。  文学の世界にも、根性時代は来ていて、のびやかなものを持った小説。愉快な笑いをもった小説。きれいな風のようなものが、その中を吹きぬけているような、透明な美しさを持った小説は重んじられない。欧羅巴の、その人間が生きていた間は理解されなくて、排撃され、投獄された作者の、思想を中にひそめている小説、なぞ、すべて正義を守り、醇風良俗の中で息を詰めて、生きている人々が苦々しいと思うような小説は、少数の秀れた作家、大家といわれる人々が書いた場合に限って認められている。私なぞのように、どこかそういう傾向にあるらしい、(らしいというのは自分ではっきり自覚しているわけではなくて、書いている内に、そんな方向に向いてくるのだからである)勉強中の人間はいつも落胆させられる。非常に困ることがらである。 [#改ページ]   鋏  私には切り抜きをする趣味がある。このごろでこそ、小説を書くために、その小説のイメエジに合った人の顔の写真とか、景色、静物なぞを切り抜くようになったので、私の切り抜きは趣味というより、必要な仕事になったが、私の切り抜き癖は幼い時からである。幼い時私の父親が、ノオトブックに独逸の雑誌から写真を切り抜いて張り、それぞれの写真の下にわかりやすい説明を書いてくれた。クリイム色をおびた紙は明るい方へかざすと、女王の横顔や、西欧の武士の顔なぞが透かしになっている、上等のノオトブックである。今でも覚えているのは、女の子の写真がフィルムのように五枚続きで、表情が少しずつ違っている楽しい写真である。女の子の顔は微笑《わら》いかけたり、きょとんとしたり、一喜一憂している。最後のは満面に笑いを湛えている。「ママがいらっしゃった」、「チョコレエトだわ」「下さるかしら?」「ああ下さる」「下さった」。たしかこんなことだった。もう一つは鳥の羽や、リボンを飾った鍔《つば》の広い帽子を被った貴婦人の半身像で、(帽子を被った奥さん)と書いてあった。厚い帳面で三、四冊はあったのに、その二つ位しか記憶がない。みんな失われた記憶の中に埋もれてしまっている。父親が切り抜きをしてくれたためか、私は幼い時から切り抜きをするようになった。私は画用紙に人形を描いて切り抜き、千代紙と色紙で着物、羽織、洋服と無限に造った。幼い私の着物、帯、リボン、草履への欲望は無限で、たべるものでももっと、もっと、と欲しがって際限がなかった。枝から枝へ奔走して餌を運ぶ鶯と、嘴《くちばし》を大きく開けたきりの雷鳥の雛の映画を見た私は、幼い私をそこに見たようで、思わず心の内で笑った。晩年になった今、着物がまるで無い同様になったのは、欲ばりの罪が罰せられたのかも知れない。  父親は独逸製の、鈍く光る銀色の鋏を持っていて、彼も独逸の雑誌なぞから何か切り抜いていたが、すべて私の望みをかなえてくれる彼が、その鋏だけは使わせてくれても直ぐにとり返した。「これは子供の使う鋏ではないのだよ」彼は言った。  私はこの鋏の事だけでは父に反抗し、その鋏をそっと隠してやりたいように思った。その鋏で滑らかな西洋紙を切ると、豆腐を切るようで気持がよかった。ゾリンゲンという剃刀で有名な町がある位の国だから刃物は優秀だったにちがいない。私は誰でも使っている爪切りが使えないので、尖端《さき》が綺麗な形に反っている、指を通すところも細い、華奢《きやしや》な鋏を使っているが、独逸製ではないかも知れないが、小さな刃物店にはないので、店員にきいてみると手術《オペ》の糸を截るためのものだそうである。 [#改ページ]   本屋  幼い頃、神田の中西という本屋によく行った。巌谷小波のオトギバナシ、ドウブツ、なぞの箱入りの小型本を買いに行ったのである。  記憶に残っているのは不思議に冬の町、それも歳晩風景で、小川町の辺りは、黒い闇の中に細長い提灯が薄紅く、黄色く浮んで、冷い風に笹の葉が縮れ上ったようになってさわさわ鳴り、時折電車が橙色の光を投げ、地響きをたてて通りすぎる。時計や指環、金鎖、なぞを飾り立てている貴金属の店、小間物屋なぞだけが、黄金色《きんいろ》に光って人の眼を吸い寄せていた。  本屋の中には落ちついた雰囲気があって、本を買う人は静かに入って来た。写真入りで、新聞の半面を潰すような広告はその頃はないから、どの人も小さな広告で見つけて、熱心な気持で買いにくる人である。本の広告が品がよく、落ちついているから、本屋も品がいいし、本を買いにくる人も、品がよかった。本を買うと、洋菓子店に寄って珈琲をのみ、煙草をふかし、買った本を一寸開いてみる。その人が家に帰ると、家には本を読む青年がい、本を読む子供がいた。  この頃は本屋に入って行くと、本の広告が騒々しいせいか、棚に詰まっている本の間々から広告の声が、拡声機つきでどなっているようで、本の色も派手で、模様が多い。本自身は黙っているいい本もあるが、広告ががやがやしているので、その広告の声が勝手に本の間から鳴り出し、本たちがそれぞれおいらんの顔見せのように、色眼を使っているようである。  十八、九の時、伯林《ベルリン》で、夫だった人に従《つ》いてよく本屋に入ったが、古い、石造りの建物だからでもあるが、落ちついていて、寂《じやく》としていた。夏でも、厚い石の壁のせいか美術館に入った時のようにひんやりして、薄暗く、天井に近い、古い本の並んでいる辺りには濃いグリィンや海老茶、渋い茶色、なぞの皮表紙の本の背に、鈍い黄金色《きんいろ》が光っている。眼を凝らすと、幼い時に父の本で覚えたゲエテ、シルレル、ストリンドベルヒ、シュニッツレル、なぞの懐しい名が読める。棚に梯子《はしご》をかけて、人々は本に眼をくっつけるようにして、選んでいる。伯林の本屋には本というものの霊がいるように思われる。私が本の霊たちにとり囲まれながら下に立って凝《じつ》と見上げると、暗い棚の辺りに、ゲエテやシルレルの顔が表れ、グレエトヘンの柔かな胸が現れ、本の頁の中で、メフィストフェレスとヴァレンチンの搏《う》ち合う剣の音が響いてくるような気がした。  本が沢山売れてはいけないか? 文学者が昔のように貧乏である方がいいのか? といわれると困るが、文学の本というものはそんなに売れる筈のないものなのである。現代のような文学時代でも、いい本は一定の量で止まるということを、私は或先輩の作家の談笑の中から、知った。 [#改ページ]   鴎外の味覚  私の父親は変った舌を持っていたようで、誰がきいても驚くようなものをおかず[#「おかず」に傍点]にして御飯をたべた。どこかで葬式があると昔はものすごく大きな饅頭が来た。葬式饅頭といっていたもので、ふつうのお饅頭の五倍はある平たい饅頭で、表面は、釣《つ》り忍《しのぶ》に使うあの、忍草《しのぶぐさ》を白く抜いて焦がしてある。いつからあれを人がくれなくなったか、このごろでは稀《たま》に菓子屋の硝子箱の隅に見えるが、やっぱり造《こし》らえたてのを奇麗な箱に入って送られたのでなくては、どこかの葬式に造《こし》らえた残りがおいてあるようで、買う気はしないのである。その饅頭を父は象牙色で爪の白い、綺麗な掌で二つに割り、それを又四つ位に割って御飯の上にのせ、煎茶をかけて美味しそうにたべた。饅頭の茶漬の時には煎茶を母に注文した。子供たちは争って父にならって、同じようにしてたべた。薄紫色の品のいい甘みの餡《あん》と、香《にお》いのいい青い茶〈父親は煎茶を青い分《ぶん》の茶と言っていて、母親も私たちもそう言うようになっている〉とが溶け合う中の、一等米の白い飯はさらさらとして、美味しかった。これを読む人はそれは子供の味覚であって、父親の舌はどうかしている、と思うだろうが、私は今でもその渋くいき[#「いき」に傍点]な甘みをすきなのである。たしかに禅味のある甘みだ。父親は又果物を煮て砂糖をかけるのも好きで、五月末ごろの梅の実に始まり、六月の杏子、八月の水蜜桃、八月末には真紅《あか》くて煮ると綺麗な桃色の汁と一緒に、白い器の底に沈む天津|桃《もも》と、それらの果物群は毎年初夏から真夏までの父の楽しみだった。父の死んだ年の梅から水蜜桃へのうつりかわりは母の胸をえぐった。父は七月九日に死んだので、水蜜桃のごくはしりまでをたべて、死んだ。秋は栗を煮たが、秋から冬にかけては何も煮る果物がなかった。どうしてだか桜桃は煮なかった。私はこういう父親と一緒に食事をしたので、今でも甘いおかず[#「おかず」に傍点]を時々|造《こし》らえる。梅も煮るし、杏子を見つけると狂喜する。上等の煮豆屋の鶉《うずら》豆に白砂糖と清酒を加えてざっと煮たもの、平目の黄味酢の甘いのや、胡瓜と固茹で卵の甘酢もおかず[#「おかず」に傍点]にする。大体父親は貧乏な医者の家で育ったので、茄子や枝豆の煮たもの、そばがきなんかが好きだったが、家《うち》でたべる西洋料理は、塩胡椒の味だけで白ソオスも、トマトソオスも使わない、挽肉から出る肉汁《スウプ》だけでたべるキャベツ巻き。上等の牛肉をキャベツと一緒に繊維の形にバラバラになる程煮込んだ、これも塩胡椒の味つけのもの。挽肉と人参のみじん切りを馬鈴薯の漉したので包《くる》んで揚げたコロッケ、ドイツ・サラダ等で、どれも私の最高に好きなものだ。栗や薩摩芋を醤油と砂糖で煮たもの。牛乳入りココア。そうして葉巻は何より好きだった。私は鴎外の子でよかった。父親のように想っていた犀星の好きなのは冷えて油が凝固した鰻にゴリ、支那のお菓子、いずれもヘキエキである。卵焼きだけはよろしい。 [#改ページ]   庭  私は家はあまり欲しいとは思わないが庭にはまったく憧れている。雨が降る時、大きな広い葉や、小さな細かい葉の上に、微かにちがう音で降りそそぐ雨の音を聴きたいと思う。風がひどい日も雨のあととか、野分け(野分けといっても、二百十日といっても若い人の中にはわからない人もあるかもしれないが、九月のはじめ頃にくる暴風雨のことで、戦後からキティとかエリザベットとかいう女の名になり、=アメリカ人が台風に女の名をつけたのは、アメリカでは女が男のように荒れるからかも知れない=このごろは台風第一号、第二号、になった)の後の風なんかは、庭があるととても趣きがあってうれしい日になってしまう。春のいやな強風の日でも、家の中にいて、硝子戸が方々で鳴るのも(それには広い家が必要になってくるが)いいし、古道具屋でボンボン時計でも買ってくれば、三時がくればボンボン時計が、長閑な音で紅茶をのむ時間を報らせる。マルセル・プルウストの失われた時の再現のように、私は幼かった過去の中に還ることが出来る。その硝子戸の音も、ボンボン時計のひびきも、庭がなくては趣きがない。  大して立派な家でもない、ごく普通の日本建ての家に、家のわりには広い庭があって、片隅に薔薇の花壇がある。(アーチなぞはない)それも、大した腕前の薔薇造りでもない主人が、ただ好きで造っている。そんな家に、夏の終りの夕方なぞに行くと、まだ薔薇がのこっていて、まだ十《とお》を越えるほど、薄紅色《うすべにいろ》や白に、夕やみの中に浮び上っているのなんか、とても好きである。小説の中で造った、魔のようなものを持った少女が、その庭に立っていて、少女を愛している青年が薔薇を截って上げようと言うと、(この人は好きだけど、家は大きくないし、綺麗でもない。でも薔薇は欲しい)そう思って、黙って凝《じつ》と青年を視、顎だけで肯く。そんな場面を想像するのである。その庭は私の上の息子の友だちの庭で、私はその庭を一度しか見たことがない。私の知っているもう一つの庭、濃く青い、翳ったような芝生で、塀のぐるりや家の際《きわ》にリラの木なぞが少しあるきりで、とてもよく、半日位眺めていたい庭である。風のない、夏の夕方がいい。昔|欧羅巴《ヨオロツパ》で、どこの町だったか忘れたが、夫と人気《ひとけ》のない田舎道の崖の上を歩いていた。ふと崖の下を見ると、眼も心も吸い寄せられるような庭があった。家はどうだったか覚えていない。見もしなかったのである。林檎の木と、何だか白い花のある木なぞがぽつんぽつんと立っていた。木はどれも根元の周囲《まわり》を草花で丸く囲んであった。ただそれだけの、全体に手入れなぞしてない、ぼやぼやとした庭である。私は今でもその庭を覚えている。どんな人の家だったろうとも、考えない。私は夫に頼んでその庭を撮ってもらったが、戦災は他《ほか》の宝物と一しょに、この写真も灰にしてしまった。 [#改ページ]   犀星と鰻  室生犀星のところへ行くと、少しいたと思うと、すぐ夕飯の時刻になる。夕飯の時間をねらって行くわけではないが、すべて動作がのろくて、裁縫とあまり変りがないので、どこかへ行こうとして家を出るのはどうしても午後三時になるからだ。一時まで、というような時には夜明け前から肉汁《スウプ》やサラダを造り、長い髪を解いて結うという作業を早く済ませようとしてヤッキになるのである。  夕飯の時間がきても私は図々しく座っている。最初の内はすごく気を遣《つか》って殆ど行かない位といってよかったが、いつからか月に一度は行くようになり、夕飯をたべるのも定《き》まったことのようになった。犀星が「夕飯をたべていらっしゃい」と言うと「はい」と答えるのである。さて夕飯であるが、その度といっていいほど出るのが鰻だった。五反田の、犀星のひいき[#「ひいき」に傍点]の鰻屋の蒲焼が自転車で運ばれてくると、すっかり冷たくなっている。犀星は冷えた鰻がとくにお好みである。鰻の油は冷えて、はぜたようになった肉の襞の間や、皮と肉との間に凝固している。鰻の他にもいろいろあるが、鰻を喜んでたべないと、わざわざとりよせた好意に対して失礼である。私は鰻を嫌いではないが、尻尾の細いところが好きで、むろん焼きたての方がおいしいのだ。私はまず冷えた鰻をおいしそうな顔で平らげ、次に牛肉と野菜のスウプ煮や、煮魚、卵焼、なぞで口直しをした。ところが或時、「紅い空の朝から」という、ずいひつのような小説の中で、鰻が出て困ると書いてしまった。それを読んだ犀星は、鰻をとる時には朝子氏(犀星令嬢で作家)に命じて別の煮魚なぞを私のためにつけさせた。いくら言いわけをしてもだめで、困った。事実、その文章にも(犀星が美味なものとして出すものは、私にとっても美味なものである。私は美味なものとしてたべている)と書いてあったのである。そのことがあって間もなく、私は自分の小説の中に出てくる犀星に甍《いらか》平四郎という名をつけた。犀星が「杏つ子」の中の自分につけた平四郎という名がいかにも犀星らしいので、どうしてもそれが使いたかった。それで苗字だけ苦心して変えたのである。私はその名が自慢で或日、朝子氏に予告すると、朝子氏はそれをすぐに犀星に言った(お父さまの名甍平四郎ですって)。すると犀星は「ふん」と軽く肯いた。詰らなそうな顔だとは思ったが犀星はその時、甍平四郎を、田舎平四郎、と聴きちがえて怒っていたのだった。私が帰ると犀星は急に不機嫌になって、(森茉莉が鰻がきらいだというならくわすな)と怒ったので、朝子氏はなんのことかわからなかったと、後になって私に話した。やがて次の号の新潮を読んだ犀星は朝子氏に〈なんだ甍か〉と言ったそうだ。不思議なことに犀星の死後、私は大変な鰻好きになった。冷たい鰻をたべてみたいと、思うこともある。 [#改ページ]   借金  私は近所の銀行に、ほんの少しの預金をしていて、そこへ入って来た金を持って行って入れ、又そこから要る金を出して来て、生活しているが、いつも頭がぼけているので、銀行へ行くことを忘れていたことに気がついて、さて行こうと思うと不思議に土曜日の午後である。  或土曜日、例によって「失敗《しま》った」と思ったが、次の瞬間ひやっとした。前に引き出した時に、判が紛失していて無かったのを、無理に懇願して判なしで出して貰ったのだが、それをそのまま忘れていたので、今度は紛失届けと改印届けをした上でないと金を出すわけにはいかないのである。紛失届けと改印届けを出し、それが受け付けられて定《き》まった手続きを踏んだ後、ようよう金が出せるのであるから、少なくとも五六日は無一文で暮さなくてはならない。先ずいつものように萩原葉子に電話をかけると、憎らしいことに出かけている。私はそういうことになる度に、紅茶もミルクも、牛肉、人参、玉葱も、蜂蜜も、チョコレエトも、すべてピタリと鼻の先《さき》で扉をたてられたように買うことが出来なくなるのを怒り、自分の金なのにどうして出せないんだ、と、銀行員というにくむべき存在を呪って怒るのである。仕方なく、前によく、珈琲代がない時に本を売った店に行って借金を申込んだ。いずれ萩原葉子からも借りるとしても二千円は借りたいところだったが、いざとなると多すぎるような気がするので五百円と言ってしまった。忽ち無くなって次に葉子に借りたが、これも又無くなり、電話をかけると又留守である。室生朝子氏にかけると家にくるようにということなので行くと、朝子氏は犀星に面白い借金の理由を話した。犀星は背中にある戸棚の抽出しから札の入った皮の紙入れを出し、(二千円では足りんでしょう)と一枚、二枚、と数えて五千円を出し、又後から白い封筒を出して札を入れて火鉢ごしに差出した。私はひどく感動して受とったが、犀星が床につく九時が来て朝子氏の住む離れに行こうという時、その大喜びで受取ったばかりの封筒を犀星の、中央公論から貰った置時計のある棚において来てしまった。それを朝子氏が私を車で送る途で栃折久美子を誘って酒場に入った時、思い出した。朝子氏がハンドバッグを探り、(丁度ここに持っていたから、同じでしょう?)と言って五千円を出して渡そうとしたが、それでは甚だ不満であった。私は何か妙な考えにとり憑かれると、それがどれほど馬鹿げているかということも、人に迷惑なことであるかということも一切わからない状態になるので、(やっぱり先生の下さった、あの封筒に入ったのでなくては)とだだをこね、翌々日速達で、首尾よく望みの白封筒を受とったが、その送料に金がかかって朝子氏が迷惑したことは御存じなしである。「私《あたし》に借りればいいじゃないの」と無理を言って眼を三角にした萩原葉子が、送料が大体百円かかったろうという、親切な進言でようやくお気づきになった。 [#改ページ]   続・借金  或日、田村俊子賞の授賞式で(倉橋由美子氏がその日は貰った)鎌倉の東慶寺に行った時私は財布を忘れて行った。満七歳の尋常一年から延々五十何年と忘れものをし続けていて、財布を忘れてバスに乗ったり、タクシに乗ったり、は年中である。私が安心した顔でバス、或はタクシに乗っていれば、財布を持っている幸福な日である。バスは一《ひと》停留所であやまって下りるが、タクシの時はアパルトマンの前から隣りの家の方へ塀を一間位走っただけで百円をまき上げられる。だから出かけたと思うと財布をとりに舞い戻るが、萩原葉子が同行の時には待合せの喫茶店に行く途中で気がついても図々しく構えて、引返そうとはしない。その日は萩原葉子が出してくれるからだ。時々葉子に千三百円借りているなあ、と思っていると、いつのまにか私の方が貸した金と差引きであと二百円でいいと葉子が言う。そうかと思うと又私の借金の方がはね上がっていてギョッとするが、けちで欲張りのフランス精神であるから、その内又減るだろうと思っていると絶対減らない。どこかへ持って行く果物を買う時、(葉子さんの頂戴。私出しとくから)といって千円札を二枚ひらひらと出すと、(あああったわ。そうそうこの間貸したの、これ貰っとくわ、あと三百円よ)なんて言って葉子は私の手から千円札を一枚無慈悲にも取り上げる。なんで急に思い出すのか、全く気の知れない葉子である。困っている時親切に貸してくれた友だちが当然返すべきものを持って行くのを、なんで思い出すのかと怒《いか》っている。誰にきかせたって直さなくてはいけない図々しさであり、我儘であるが、当人は内心、≪プルウストは大作家になった晩年でも魂は十歳の幼児で、生きた鼠を下男に帽子の留針で突刺させて喜んだ。私はえらくはないが幼児性が残っているところはプルウストである≫と得意になっているのであるから、つける薬はない。神様も匙を投げているらしい。  ところで萩原葉子の財布によりかかって会場に着いたが、着いた頃には葉子の財布が心細くなって来た。帰りの汽車賃がやっとだと言う。そこでどうしたかというと私は瀬戸内晴美氏に会費の借金を申込んだ。ちょく[#「ちょく」に傍点]で、一番気楽に貸してくれそうだったからだ。見当をつけられたのは瀬戸内晴美の災難である。それだけならいいが、大《おお》黄金餅《がねもち》が出て、二、三人の人がお土産の分を注文した時、私は財布がないのを忘れて、二百円の箱入りを注文した。全くどうなっている頭なのか、注文してから気がつき、又もや瀬戸内晴美に、あやまりながら頼んだ。莫迦《ばか》ねえと葉子が睨んでいる。私がこういう頭に生れたということは私の不幸というよりも、はたの人間の不幸のようで、瀬戸内晴美は私が大抵の日忘れていたのと、会う機会もないのとで翌年の田村俊子賞の日まで返金して貰えなかったのである。それも萩原葉子が時々思い出させてくれ、その日も催促してくれたから、返金出来たという次第である。 [#改ページ]   萩原葉子     ——余裕のある根性家——  前にも、ヤッタルデを嫌いだということについて書いたが、わが親友、萩原葉子について今日は書きたい。何故なら彼女は根性の人であるが、私の嫌いなヤッタルデではないからだ。一寸説明がむつかしいが、彼女を見ていると、なにか、たっぷりした、という印象をうける。大きいのである。(どうせ太ってるわ)という彼女の声がするが、体の容積よりも、気持の大きさである。私同様、彼女は小さなことを気にしてはびくついているが、それでいて、どこかぬけていて、詰り、たっぷり、なのだ。これを書くと、彼女の眼が三角になって来てこわいのだが、彼女の勉強部屋(彼女も私も、自分たちの部屋を仕事部屋と称することがきらいである。若い女優なぞが「お仕事、楽しいですか?」なぞと互いに言い合っているのを新聞なぞでみると、歯が浮いて来るのである)の壁には、精密な時間割りが張ってある。それはよく女学校の地理の教科書に、円形を細かに分けて、※[#網掛け]、※[#細かい網掛け]、なぞで塗り分け、農産物、水産物、なぞの産出量を表示している図があったが、あれと同じの円形の表である。彼女がその時間表を全部守っているとは到底信じることは出来ないが、ともかく大変な窮屈な時間表を掲げている。又、戦時中の、撃ちてし止まん的な言葉を、中学生風にしたような、勇ましい言葉も書いて、張ってある。彼女は椅子にかけて机に向い、私なら見通しになってしまう筈のテレヴィに背中を向けて、小説なぞを書いている。しかるに、彼女は所謂(ヤッタルデ)ではないのである。私はその表示図や、張り紙の言葉に驚愕して笑い出したが、その感じは可笑しいだけで、少しも息苦しくはないのである。もっとも、ナマケモノ、という名の獣《けもの》のように怠惰な私が、肝胆相照らしている(人間と人間のことだから、どこまで照らし出しているかは不明であって、バカなところのある私は始終誤解をしては怒り、彼女は眼を四角にしたり、三角にしたりして弁明にこれ努めるのである)人間が、キンキラキンのヤッタルデであるわけはない。  親友といっても私の方が変人で、しんみりする、ということが絶対不可能の人間であるから、(気持は絶えずフワフワと浮き上っていて、所謂親身になって考えるというようなことは、彼女の方だけの片道切符であって、人生を考えることもない私の方では、ただなんとなくもやもやとした中で、私なりの、透明で頼りない真心《まごころ》を抱いている、という、へんな関係である)萩原葉子は言う。(いいのよ、知ってるわよ、マリさんは性格がないんだから)と。残念ながらこの彼女の言葉は当っている。私はただ、自分では一種変った性格があると信じていて、それを小説の中の女主人公に設定して、延々と描写してみたりするのである。 [#改ページ]   萩原葉子の「天上の花」  私と萩原葉子とはへんな関係の親友であって、私は彼女の性格や、書く小説を大変好きであるとは言えないし、萩原葉子は葉子で、私の性格には解っていながら困っているし、私の小説には興味がない。理由は簡単であって、私の小説には粋《いき》な色男が大抵は登場するし、うぶな男と幼い娘が出て来ても、その関係を、粋《いき》な男の眼で見ているのであるのに、彼女は粋《いき》というものに興味がない。又私には彼女の質実な性格が、確実には掴めないし、彼女の小説は大きく分ければ私小説であって、空想好きの私としては熱心に読みたい小説ではない。ところが、空想好きで、私小説嫌いの私が(これは自分に書けないからかも知れない)、驚歎したのが、今度の彼女の「天上の花」である。もともと彼女の小説は、事実小説の中にフィクションを含んでいて(それは事実を変えるということではなく、彼女の事実小説は彼女のフィクションによって、より事実となって光るのである。養殖真珠のやり方よりももっと微妙、且天才的な方法で、彼女は輝くような事実を造る)私は彼女の「父 萩原朔太郎」の中の最も事実らしいところがフィクションだと知って、驚いたことがある。「天上の花」はあまり傑作で、褒める言葉がむつかしいが、つまり、激情家で、稚く、厳しく潔癖な詩人の三好達治という人物を敬愛をもって活写したものである。詩人を活写した葉子の眼は、微妙な堺《さかい》でふと光り、その光の屈折によって、そこにあるものが反射してくる、というような、スイスの名人の磨き職人が磨いたレンズであって、ここに至っては私小説も空想小説もない堺であって作者のレンズは空想の中に突っこんでいる。稚拙な文章を言う人もあるが、稚拙な文章もここでは問題外である。秀れたレンズは人生を捉え、人間を捉えていて、私は「天上の花」を昭和の名作と信じていて、それは決して親友の身びいきではない。萩原葉子の伯母さんの手記の形になっているところは、彼女の硝子の力が、彼女の見ていない場所での詩人を捉えたところであるが、ここの詩人の姿は凄惨であって、埃だらけの寒々とした家が見えてくる。現今《いま》の金で十何万円に当る千円札を、どこでどうやって造ったのか造った詩人の哀れさが、何気ない描写の外に滲《にじ》み出ている。  私はこの小説を、雑誌の出た日、いつも立ち読みしている本屋で二度繰り返して読んだが、最初の時には手記のところに驚歎したが、二回目には、地の文の方に、彼女の本領の、地味で深いものが出ていて、より光っていると感じた。私は少しばかり先にこの道に歩き出したことによって、彼女を後輩扱いしていて、彼女が知らない内に脱皮していたのを知らずに、彼女がこの小説の取材の意味で前橋に旅行をしたときいて一寸莫迦にしていたので、一層愕いたので、あった。 [#改ページ]   機械恐怖症  私の部屋にある文明の利器といえば、明治の昔からある普通の電灯、トランジスタア・ラジオ、電気湯たんぽ(通例アンカと称しているものだが、その語感を私は嫌悪している。ついでに言うがポオル・アンカというのも下品で不愉快な男である。それに湯たんぽはマルセル・プルウストが愛用していたという、高貴な暖房器具である)それからプロパン瓦斯、の四種の神器で全部である。電流、生《なま》瓦斯、又、すべての機械がこわいので、これだけの器具が私に使える限度、というわけである。現在《いま》強国たちが、地震、海嘯《つなみ》、雪崩、すべて防げなくて、(日本では洪水は年に一遍あり、必ず、ノアの箱舟的世界を現出することになっている)それで、月に上陸しようとしているのは、人類を破滅の危険に晒そうという意識がなくて偶然原爆の素《もと》を造った学者たちとは違って、意識してやっている、人間を犠牲《ぎせい》にしてやる、世界制覇への欲望だと信じているが、とにかくそういう科学発達時代としてはおかしな人間であるが、いくらこれではおかしいと思ってもこわいものは仕方がない。電流のピリリが絶大の恐怖であるから、今、最近距離にある電気屋の番頭が揃って二人とも親切な人であることは神様のお助けであって、私の部屋がどんなに陽当りが悪くても、亡き室生犀星先生が心から勧めて下さっても、引越さない理由の一つにそれが入っているのである。大体、電気は捻子《ねじ》を捻《ひね》ると点《つ》くものである。瓦斯は扉を開けて、マッチを近づけると点《つ》くものである。と思っている人間である。機械で動くものはすべて恐怖であるから、自動車《くるま》が走ってくると、真剣な顔つきになって、広い道路の場合でも、溝《どぶ》の際までわきへよけ、溝に落ちそうになって塀に手をつくというさわぎである。遥《はる》か向うに自動車《くるま》がみえている時でも、今にも自分にぶつかりそうな気がする。こわごわ前を横切ろうとする時、一層速度を増して矢のように疾走してくる自動車《くるま》の恐ろしさには、心臓が冷たくなる。このごろの運転手は気のせいかもしれないが意地が悪くて、人が恐怖していると、わざと警笛を鳴らし、飛びかからんばかりに走ってくる。こわがる人間をおどかすことにサディストの歓喜を味わっているかの如き彼らである。横断歩道を渡る時には信号が青になった直後の他は渡る勇気がない。同伴者がある時には観念して渡るが萩原葉子と同行二人の時には絶対一緒に渡らせるので萩原葉子はふくれている。一人歩きの場合でも五、六人渡る人があると一緒になって恐る恐る渡るが、そのようすは我ながらこっけいである。  その私が、雑誌の用で飛行機に乗った時の気持は今想い出しても深刻だった。友だちは口々に大丈夫よ、と言うが、誰一人、絶対の保証をくれることの出来る人間はいないのである。私は犀星先生に戴いた豚革鞄を手に、屠所の羊のような姿で飛行機に近づき、萩原葉子はその私の姿を、廻廊の硝子|扉《ど》の向うに立って大きな眼で見ていたのである。 [#改ページ]   春の野菜  私は筍、蕗、蕗のトウ、山椒、根芋、芹、田芹、クレッソン、なぞの春さきの野菜がなんともいえなく好きで、秋の焼松茸とか、松茸飯、栗、なぞも大すきだが、松茸飯は筍飯より劣ると思うし、栗よりも新|馬鈴薯《じやがいも》の、微かに塩を入れた白煮(甘く煮たもの)の方がすきである。春の新じゃがいもには筍や蕗にあるような渋みのようなものが一寸ある。  ほろ苦い、渋みのある味や香《にお》いはずいぶん強いけれども、濃くはなくて淡泊なので、松茸ならうまく、さっと仕上げれば御飯と一しょにバターでいためても、おいしいが、筍では味も香《にお》いも薄くなってしまうのである。莢エンドウも大すきでまだ若い時から毎日のように、醤油と清酒とかつおぶしで淡味に煮ておかずにする。中の豆が煮てる内に飛び出して皺になるようになった莢エンドウはことに好きである。むきエンドウの御飯(淡い塩味だけ)も、おかずが要らない位好きだ。じか鰹で一寸辛く煮た筍も素敵だが、筍飯の冷たくなったのは何よりおいしい。三田台町のお芳さんは春になると鯛と筍の押し寿司を造らえた。彼女は、鯛の酢のものを造る時のように、鯛の皮を酢の中でもみ、その酢で二杯酢をつくる。その白く濁った酢に浸けて表面が一寸白くなった鯛を用意しておき、その淡泊《あつさり》した酢と魚で寿司飯を造らえて大阪風に型で押し出すのだが、その時上に銀杏切りの淡泊に煮た筍を一枚と、皮つきの小鯛を斜《はす》かいにのせ、木の芽をそえる。東京ではあまりみないから、広島風なのか、お芳さんの発明だろう。私は春の日本料理の中では母親が造らえた筍飯の冷たくなったものと、お芳さんの筍ずしがすきである。弟の奥さんの造る、油揚げなんかを入れない、筍と椎茸、卵の薄焼、青豆位のあっさりした筍のちらし、母方の叔父の奥さんの造る鯛の酢じめと三つ葉、人参、筍なぞを入れた白い、酢味のおからもおいしい。(これは従妹が継承している)  筍飯に、油揚げが入ったり、栗飯に小豆が混入したり、鰻丼に卵を流したりというのは、すべてきらいで、へんにごちゃごちゃした着物の柄と同じで嫌厭している。日本料理屋でいろいろな形に造らえたり、染めたり、生の魚が動いているとか、そういう凝りすぎたのもきらいである。私が子供の時、稀に行った伊予紋や八百善のお料理はそんなところがなくて、普通だった。柳川や、鰹を酒と醤油で煮、下ろし際に木の芽を入れて一寸煮たもの(母に習った)も、新牛蒡や木の芽で素敵になる。お芳さんがどうかすると小声で歌った。「奥山に、雉ときつねとおねこと犬とが、あつまりて、なんというて鳴いた……」の小唄(?)の声音《こわね》、義姉の一人が(うちがこのごろ遊んで困る)といった時(あそぶの)と軽くきき返した、お芳さんの皮肉な、言葉の軽い味は、春の野菜の苦みであった。日中は埃まんまんとして野暮衆《やぼしゆ》たっぷ、おそるべであるから、春はうちにいて美味しい料理をたべるのが一番である。 [#改ページ]   卵  私は異常なほどの卵好きで、高血圧が早く来ることを予防するために、蛋白質の多い白身をやめてから三カ月になるが、一つの痛恨事である。一週に一度位の割で白身も使う卵料理を造る。ふだんは黄身だけを肉汁《スウプ》に落したり、茹でてサラダに入れたりしている。  私の卵好きはたべることだけではない。まず形がすきで、店先に新鮮な卵の群を見つけると、家に買い置きがあっても又買いたくなる。あの一方の端が少し尖った、不安定な円い形が好きだ。楽しい形である。私は人間の赤子も、あんな殼に入って生れて、両親で温めると或日|破《わ》れて生れ出るのだったら、清潔で楽しいだろうなぞと奇妙な空想を浮べる。新鮮な卵の、ザラザラした真白な殼の色は、英吉利|麺麭《パン》の表面の細かな、艶のある気泡や、透明な褐の珈琲、白砂糖の結晶の輝き、なぞと同じように、楽しい朝の食卓への誘《いざな》いを潜めているが、西班牙《スペイン》の街の家のような、フラジィルな(ごく弱い、薄い)代赭《たいしや》、大理石にあるような、おぼろげな白い星(斑点)のある、薔薇色をおびた代赭、なぞのチャボ卵の殼の色も、私を惹きつける。たべるのには代赭色のが美味しく、薔薇色をおびて、白い星のあるのはことに美味しいが、楽しむために、真白のも買ってくる。朝の食卓で、今咽喉に流れ入った濃い、黄色の卵の、重みのある美味しさを追憶する時、皿の上の卵の殼が、障子を閉めたほの明るい部屋のように透っているのを見るのは、朝の食卓の幸福である。卵の味には明るさがあり、幸福が含まれている。フライパンにバタを溶かし、片手にとった卵を割り入れ、固まりかけたところを箸で掻きまぜながら三つ折りにして形を造り、二三度返して皿にとる。その楽しい黄色に焼け上ってくる時が楽しい。銀色の鍋に湯が沸《たぎ》って渦巻いている中に、真白な卵が浮きつ沈みつしているのも、なんともいえない楽しさだ。新鮮な生卵をかけた熱い御飯、柔かく焼いたオムレツに塩胡椒を添えたもの、半熟卵は最上の美味である。茶碗蒸しに炊《た》きたての白米、卵粥、黄味を混ぜた鶏挽肉の淡味煮、笹身の極上を入れた親子丼、卵入り煎《い》り豆腐、固茹で卵を醤油と清酒でさっと煮たもの、固茹で卵入りの独逸サラダ、フウカデン、菜の花のような煎り卵、戦前の江戸っ子(上野、御徒町)の卵焼、同じく戦前の味醂と醤油の香《にお》いのする厚焼卵の寿司。又卵のブランディー、長崎のカステイラ(文明堂の出来ぬ前のもの)、卵入りクリイムの美味しかった戦前の風月堂のシュウクリイム、ヴァニラの香《にお》いの中にはっきり、卵黄の味がした戦前の上野風月堂のアイスクリイム(私は野蕃な戦争が烈しくなって来た頃、〈昭和十九年〉上野の風月堂に毎日のように並んで、四つ盛りのアイスクリイムをたべ、その上に持参の魔法壜に詰めて貰って、下車坂の勝栄荘に引上げた)。ともかく私にとって卵は、幸福と楽しさの源泉の中の一つなのである。 [#改ページ]   ダイアモンド  ころは明治三十二年、昭和生れの人なんかにとっては大正時代でさえ昔であるから、それこそ昔の昔の大昔である。ロシアに革命が起ってロマノフ皇帝一族が殺され、宮廷の人々は散り散りになって、それらの人々の持っていた宝石の類も、どこへともなく人の手から手へと渡ってしまった。そのおびただしい宝石の中の一つが、古物商の鞄の中に入って或日、私の母の家に運ばれた。微かに淡黄《たんおう》をおびていたが、一カラット七十のダイアモンドである。母の父親が母のためにそれを買った。  眼の大きな明治美人の顔と痩《や》せ形《がた》の姿、ことに母の青白くて指の長い手に、ダイアモンドはところを得たというように固く、冷たく光っていた。まるで無色の暗い炎である。やがて私のものになったダイアモンドは、私の顔には不満だったかもしれないが、手の方は淡黄で、美しかった私の父の手に似ていたから、直接住む場所としての私の指にはそれほど失望していなかったと思う。ところが、ダイアモンドが私の指の上で輝く機会は全くわずかだった。私は女であるから虚栄心はあって、それを嵌《は》めて歩くのはうれしかったのだが、出かける時に嵌めるのを忘れる時が多かった。それに指輪を嵌めていると指の根が擽ったくなる癖があって、外出先でも直ぐ抜いてしまったからだ。  戦後、売る運命だと知っていたら、もっと忘れずに方々に嵌めて行けばよかった。掻くなっても我慢して嵌めていて、自慢すればよかった、と今になって後悔しているのである。私はその指環をよく指に嵌めて見入っていた。私は極上品といわれている、真白に輝く種類よりも、暗く、冷たく光るその宝石《いし》の色が好きだったし、微かに淡黄なのも気に入っていた。それに私を溺愛した父親とどっちかという程、私を愛してくれた母方の祖父の手にふれたことがある、ということが懐しかった。その指環が私の手から永遠に離れ去ったのは、終戦後、銀座の裏通りにある、或宝石店の卓子の上でであった。終戦後の或日、とうとう一文無しになる日が近づいて来たので、弟の奥さんの縫った袋にその指環を入れ、帯止めに結びつけて疎開先から上京した。銀座へ出て、御木本、ダイアモンド商会、白牡丹、等を廻った末に、或一軒の宝石店で、私のダイアモンドは私の手から、禿頭の爺さんの手に、渡った。特筆しておきたいのは御木本の番頭の態度が立派だったことである。彼はけちなぞをつけず、今|家《うち》では入れませんので、と断った。宝石《いし》を売って、落したら一大事の大金を受取った私は、恐る恐るそれを直ぐ近くの銀行に一時入れ、その金の千分の一で新宿で上生《じようなま》を買って帰った。おかしかったのは緊張したので、宝石店の出口に下っていたベッ甲の大亀におでこを打つけたことである。後《うしろ》では爺さんが「あれっぽっちの金で泡をくっているわ」と思って見ていたにちがいない。 [#改ページ]   失くなった紅玉《ルビイ》 〈もしお許し願えるなら、再び宝石について語りましょう〉(これは映画の題名をもじった文句である。映画ばあさんの私はすぐにこんな書き方をしてしまう)  ダイアモンドの次に私の指に輝いたのは一カラット弱位しかなかったが性《しよう》のいい紅玉《ルビイ》である。欧羅巴《ヨオロツパ》に行った時、倫敦《ロンドン》で買った。夫に、贅沢な友達がいたので、その人の紹介だったろう。倫敦《ロンドン》のホテルに手摺れた黒革の鞄を抱えた背の低い宝石商が現れ、おもむろに鞄をひきよせると、一顆の紅玉《ルビイ》を出して卓子の上に置いた。私も夫も一眼で気に入ったが、その筈で、それは Pigeon blanc(ピジョン・ブラン=白い鳩)という最上品で、宝石商の説明をきくと純白の鳩の胸を剣で突き刺した時に迸る血のように真紅《あか》いのでその名がついているのだそうだ。巧みな商人は最初に最上品を見せたので、後《あと》から出てくるのはどれも詰らなくみえた。白い鳩は私に、もう一つ大きさは私のより大きいが質は二番目位のを妹に買った。私のが五百円、妹のは三百円だったが、昔の人は長幼の順がきびしかったものだと思う。私の父は月給取りに過ぎなくて、文筆の収入は生きている内は僅かだったが、もう二百円出せなかったのだろうか? 入浴の順でも、妹はすべて損だった。(その宝石は父が夫に頼んで買って貰ったのである)もっとも父親には八百円が限度だったのかも知れない。  私は Pigeon blanc が気に入り、丁度その時父親が日本で死に瀕していたのも知らずに、箱から出しては眺めた。真紅《あか》いヴェニス硝子の洋杯《コツプ》に葡萄酒を入れて、灯に透かしたような、といったらいいだろうか? 真紅《あか》い硝子の中に火が燃えているような、といったらいいだろうか? その真紅《あか》い色はレニエの(復讐)の、老人とその甥との、鏡を張り廻《めぐ》らせた広間の、豪華な晩餐の洋杯《コツプ》、果物。又はヴェネチアの夜の宴に、レオネルロの短剣の一撃で流れ出たロレンツオの胸の血を、連想させた。後《のち》にその紅玉《ルビイ》が失くなった時、私はロレンツオの死後、彼の館《やかた》の外壁にある花型の、血のような色を想い浮べた。  私は年をとって髪が真白になったら、黒い服装《なり》をして、大きなダイアモンドだけが指に光っている素敵な老婦人になろうと、生意気にも企《たく》らんでいたが、ダイアモンドは二十万円のお札に変り、忽ち麺麭に化けてしまったし、紅玉《ルビイ》は戦後、弟の家の女中部屋に箪笥をあずけていた時、年中鍵をかけ忘れたので、いつのまにか無くなってしまった。夫が婚約の時呉れた白と薔薇色との二顆の真珠を、父親が博物館の工芸の方の人にたのんで、七宝細工の中に嵌め込んだ素晴しい帯止めも、失くしてしまった。すべて私の宝物《たからもの》は、消え失せる運命にあるらしいが、最近、昔父親が独逸からとりよせてくれた伊太利《イタリア》モザイクの頸飾りが幻の出現のように見付かったことは驚異である。古びたために、ボッチチェリの(春)の女神の頸飾りのようである。 [#改ページ]   鴎外の怒り  私は小さい時、学校のことでわからないことがあると父親のところへ行って訊いたが、算術は、尋常五、六年になってからはあまり訊きに行かなかった。算術は彼も下手らしくて、いつでも私の見せた問題とは関係ない丸や四角、三角などをあっちこっちに混ぜて足したり引いたりし、「こうすれば答えは楽に出る」と言っていた。今考えるとそれは代数のやり方らしいが、それでは答えは出ても、学校に出すわけにはいかないので全然役に立たなかったからである。国語の方は訊けば確実に役に立ったが、そう度々は訊きに行かなかった。何故かというと、私の父親に読本を見せて「ここがわからないの」と言うと、一寸座り直すような感じになり、いやに落ちついて、「まず」と言い、わからないところから一頁も前のところを、爪の真白な、琥珀色の美しい手で指差しながら、ゆっくりゆっくり説明しはじめるのである。「ここだけわかればいいのよ」と言うと、「ここからわからなくては本当にはわからないのだ」と言ってきかない。それが自烈ったくて我慢が出来ないからだった。それに字を間違えると、「それは嘘字《うそじ》よ。お茉莉。こう書くのだ」。そう言って、うるさく書き直させた。そういう時、彼はいつもの大好きなパッパではなくなって、なんだか底の方で偉きな、恐ろしい怒りのようなものが、静かだが烈しく、むくむくともち上がっている、へんな人間になってしまっていたからだ。大きな声も出さないし、怒鳴りもしないのに、逃げ出したくなるような執拗な、うるさくてたまらないものが、彼の心臓の奥底の方でもえ上がっているようだった。私が「もういいわ」と言って、読本と帳面を持って逃げると、まだ何か言いたそうにしていた。フランス語をきくと、マ・スウルとはまるで違う発音で、(その発音は今考えると、巴里《パリ》的ではなくて、独逸《ドイツ》なまりなのか、ひどく荘重だった)一字一字、ゆっくり言うので、これも自烈ったかった。私が途中で逃げてしまうので、翌朝学校へ行く途中で、白山上の通りなぞで、(神田の仏英和女学校に行っていたころ、私は陸軍省に行く父親と白山上まで歩き、白山上から電車に乗って、三崎町で私だけ下りた)「お茉莉。ゆうべのフランセェはわかっているか? もう一度言ってごらん。La lune a palue=ラ、リュウヌ、ア、パリュウ=(月が出た)」なぞと声を張って言った。父親の言いかたが荘重で、巴里の古典劇の名優が、舞台で朗々と白《せりふ》を言う時のようだったから、すれちがう人や八百屋の小僧が何ごとかと振り返った。紅い羅紗《ウウル》で鍔広の、紅と白のを捩《よ》り合せた紐がクラウンを取り巻いている帽子を被り、紺の水兵服《セエラア》に黒の|上っ張《タブリエ》りの子供と、カイゼル髭の軍人とは全く、白山上で眼立った。父親が私に何か教える時、奥底でもえていたものが、私の間違った字やフランス語への怒りだったことを私は知らなかったが、全くなんともいえなく、うるさかった。 [#改ページ]   続・鴎外の怒  大変な美人だが、色が黒いのだけが欠点の母親の娘が、その色の黒いところだけ似たとしたら困るが、私と父親の関係がそれに似ている。私が彼に一番似ているのは下らない、どうでもいいことを腹の底から怒るという点なのである。それで銀座のボオイにもカッと怒り、全力を出して打ち負かそうとする。私の父親は店員とか車夫、ボオイ、小僧、なぞが自分をどこかの田舎の爺さんと踏んで、馬鹿にした態度をするとひどく腹を立てた。だが、困ったことに、父親は夏だと、灰色の縮みの単衣に白茶の壁お召みたいな柔かな地の博多の帯(どういうわけか、くけてなくて、二つに折って締めていた)をへんな格好に締めて、素足に下駄を履いている。それは別におかしくはないのだが、父親の顔がカイゼル・ウィルヘルム皇帝に生き写しで、独逸人の顔である。それに手に持っているのは黒檀かなにかの太くて真直《まつす》ぐで飾りのない洋杖《ステツキ》で、ジャン・ヴァルジャンが持っているのを見てテナルジェが逃げ帰ったような、オォギュスト・ロダンか、昔ならヴィクトル・ユゴオに似合いそうな欧羅巴風のものだったし、冬なら伯林《ベルリン》の洋服屋から取り寄せたすごく大きくて長い釣鐘マント(色は黒でフワフワの柔かな生地)の下から袴の裾が出ていて、ジュピタアか、アグリッパ位の大きな頭のために、へんに横に平たく大きくみえる灰色のソフトを被り、ジャン・ヴァルジャンの洋杖《ステツキ》を持っていた。夏はカイゼルが四谷怪談の宅悦の浴衣を着たようだし、冬は冬で、日本では子供しか着ないマントを着た異様な人物に見えた。それで車夫やボオイの眼には尊敬すべき人物と映らなかったから、彼らが嘲笑《あざわら》いを浮べて父親を見たのは当然だった。そういう格好で私を伴《つ》れて精養軒へ入《はい》って行き、ボオイを呼んで、「この子供がくうのだから挽肉の料理をくれ」と言うと、ボオイは片頬に冷笑を浮べて「ナントカペラペラペラでよろしゅうございますか?」なぞと、英語で答える。すると父親はカッと怒って、ボオイよりも正確な英語で命じ直した。或日父親と二人で上野の坂下から人力車に乗って家に帰ろうとしたが、又その車夫が父親を田舎爺と思いちがえて、父親が「団子坂の上までやってくれ」と言ったのをよく聴きもしないで、丁度開催中の博覧会の入口に梶棒を下ろした。父は又カッと怒って、「団子坂と言ったのだ。もういい。ここで下りる」と言って、車夫が小馬鹿にした顔で持ち上げかけた梶棒をむりに下ろさせて、黙って紙入れから博覧会場までの車賃の二倍のお金を出して渡し、「お茉莉も下りろ」と言うので、私は真紅《まつか》になって下りるより他なかった。いよいよ馬鹿にしてへらへら笑う車夫と、何事かと集まって来た人々を後《うしろ》に、父親は私の手を引いて歩き出した。父はどういうわけか怒ると金を倍出した。私は博覧会の長い長い塀を曲ってしまうまで、背中に人々の好奇の視線が張りついているようで、羞しくて困った。その上翌日学校へ行くと友達が寄って来て、「森さんきのう博覧会の前で車下りたわね」と言ったのには閉口した。 [#改ページ]   しんかき  しんかき、とは筆の名である。明治生れで、字を書くのが好きな人なら知っている筈だが、それは私が小学校のころ、細筆《ほそふで》といっていて、お清書に名を書く時に使った筆よりも又一層細く、軸が綺麗な臙脂色に染めてあり、持つところの辺りに、鋭い刀《とう》で彫りつけたように斜めの細い線が入っていた。毛さきは錐《きり》の先きのように細い。言葉に気難しい私の父親が(しんかき)と言っていたのだから、たしかな名称にちがいない。私の父親は日本紙ではなく、真白な西洋紙の罫のないのへ、そのしんかきで原稿を書いた。 [#ここから2字下げ] (ミス、キョルヌ、紅い花束を持ちて登場。) 或は、 (「哲学も、文学も、美学も、あらずもがなの神学も、ことごとく研究して、さうしてここにかうしてゐる、気の毒な、莫迦な、俺だな」) そうかと思うと、 (何々夫人「それはさうなさつておあげなさらなくてはなりますまいかと存じます」) [#ここで字下げ終わり]  なぞという一種独特の文章が、区切りのところに来なくては墨を新しくつけない、昔の本式の書き方で、しんかきの先きから流れ出た。私は自分もしんかきを買って貰い、それで夏休みの日記を書いたが、気が散りやすい、というのを通り越して、絶えまなしに気が散っている私は、すぐに書きそこなった。すると父親が来て、 「よし、よし」  と言い、間違えた字の部分《ところ》の紙の下に半紙を一枚敷き、硯の水を間違えた字の上に滴らすと、筆の軸で字の上からこまめ[#「こまめ」に傍点]に幾度となく軽く叩いた。すると間違えた字の墨が次第に滲《にじ》み出して、下の半紙の方に移った。その念入りな作業のあとでは、間違えた字は殆ど全く消え去るのだ。絶えまなく間違うから、父親のこの作業は私が日記その他、筆で書く宿題が、すっかり終る日まで日に何度となく、えいえいとして繰り返されたのだ。  前にも書いたように、父親にわからないところを質問するといやに落つき払って 「まず。」  と言い、私が指さす、わからないところの一頁も前のところからゆっくりと読み始めるじれったさにいやになって来て、「もういい」と言って説明を止《や》めさせようとする私も、この永遠のように長くかかる、墨の字を消す彼の作業にはひどく敬服していて、間違えると、父親を呼びに行った。  にくらしい間違えた字が少しずつ薄くなって、ついには亡霊のように、消え去るのを、私は頼もしげに眺めた。 [#改ページ]   犬たち  私は全く記憶にない頃から犬と遊んでいたらしい。私の父親は日露戦争に軍医で出征したが、父親が凱旋してから少間《しばらく》経って一匹の大きな犬が送られて来た。父親が捕虜の将校から託されたのだ。ジャンというその犬は、当時の私より背が高く、耳が大きく毛足の長い、種類はセント・ベルナァル種らしく、白と黒の斑《ぶち》だった。私はよくその犬の首を抱いていたそうだが、覚えていない。次に飼ったのは白と茶の斑の雑種で、名はそのころ漫画にあった犬の名を取って、ポンコだった。ポンコが生んだクロ(黒)チビとチャア(茶)チビという二匹の小犬が、ひところそこらに転がったり、じゃれたり、していたが、或夕方私が花畑に行くと、(家の北側にあった花で一杯の庭)父親が、嵐で倒れた草花を竹を立てては紐で結えつけていたが、つと立ち上ると何かを掴んで地面に投げつけた。黒チビだった。犬の体が地面にぶつかる固い音と同時に、「クヮン」というような声がした。声というより、無意識に脳から出た音のようだった。薄暗い中に長い雄芯に煙っている花魁草《おいらんそう》が、薄紫にぼうぼうと立ち、花も木も灰色に包まれている。塀際は一層暗く、顰めた父親の顔も、暗い影のように、みえた。あまりおどろいたので、次の瞬間どうなったか、全く覚えていない。役所で不愉快なことがあったのか? 母が苦情を言って困らせたのか? 私の母親という人は直情で怒りっぽいので、傍に幼い娘が睡っていようとかまわないで、大きな声でけんかを始めた。それで私は、母が怒る時の、父の不愉快な顔はよく見ていたのである。その夕方の、薄紫に青ざめた花魁草が、薄《すすき》の原のようにぼうぼう、立っている暗い庭に立っていた父の顔はその顔より深刻だった。私の母親はソクラテスの妻と同じ位、父の悪妻として有名だったから、私がこういう弁明を書いても、疑わしい眼で眼鏡をかけ直し、私の文章を何度も見返す人が沢山いると思うが、美人で正直で怒りっぽい、愛すべき母のために、ひと通りは弁明をしておくのである。そのころ父は陸軍省に通っていて、「文学なんというにやけたものをやる片手間で役所の仕事をしている」と、一部の人から言われていたのである。  次に飼ったのは父がメフィと名をつけた茶色で耳の立った鋭い気性の犬。次の犬は結婚後飼ったキャピという大変な弱虫犬だ。往来で他の犬に会うと、向うが何もしないでも尻尾を脚の間に巻きこんで逃げ帰った。次は弟と飼った森《ボワ》である。支那産かなにかのを、秋田だと欺されて買った赤犬だったが、或日突如として鶏を咬み殺したと思うとそれが習性になって、方々から苦情が来て困った。どの犬もそれぞれ犬という名に価する、正直で、忠実な、愛すべき者たちだったが、私が最も好きだったのはポンコだった。彼女は或夜一人で物置に入って、死んだ。 [#改ページ]   旧かなと新かな  私は私の父親が文部省で旧かなを新しいかなに変えようとした時、その会議に出ていて、長い長い話をして、かなづかいを変える案を葬ってしまった、ということを知った時、すごく感動した。又その会議の日に、父が会場に入ろうとした時、誰だったか、文部大臣が、(存分にやれ)と、言ったということにも感動した。  フランスでも、ドイツでも、文明国はみんな、昔の言葉を変えないようである。たとえば私たちが巴里で珈琲店《キヤフエ》に入って珈琲を誂え、ギャルソン(給仕)が紙切れに、腰に紐で吊した鉛筆でun cafe, tarte, demi blonde. なぞと書くのを覗くと、そこに書かれる言葉はすべて、バルザックの小説の中にある同じ言葉と全く同じ綴りである。今の日本の状態から考えると、不思議なことだが、フランスではそれは不思議でもなんでもない、当前《あたりまえ》すぎることなのである。言葉だけではなくて、珈琲店の卓子や、洋杯《コツプ》、ギャルソンのなり[#「なり」に傍点]、鉢植えの青々とした蘇鉄は、モオパッサンの小説の挿絵と同じである。  観光国家として徹底していることも関係しているらしいが、つまりは美や情緒を大切にしているのである。方々の国の巴里狂がそこに腰をかけて、心をうつつに漂わせることが出来るようになっている。巴里の人間も心の奥底にまでは這入らせないのだろうが、或ところまでは外国人を迎え入れ、抱き取るような感じだ。話が外れたが、どこの国でも自分の国の言葉を大切にし、その美しさを自慢している。自分の国の王様を誇り、過去の英雄を誇り、詩人を誇り、画家を誇っている。  日本人は(一部を除いて)旧かなは覚え難《にく》いとか、なんとか、自分の国の文字をまるで野蕃な、未開の言葉ででもあるかのように恥じて、変えようとする。過去の名人の描いた画も、外国人が褒めるとはじめて、まだ少しもじもじしながら自慢をしはじめる。全くおかしなことである。私はきれいなものが好きで、旧かながきれいなので使っているが、このごろになって一つの発見をした。新かなづかいも或条件のもとでは、大変にきれいに見える、ということである。  あるパァティで北杜夫氏に始めてお眼にかかった時、双方の父のことから国語の話が出た末、北氏が、(僕は旧かなの方がいいと思っていますが旧かなで書くと、老人に思われると思って新かなで書き始めました)と、言った。私は北氏の文章を旧かなだと、信じていたのである。私は文章によって、新かなが旧かなにみえることに気づいた。富岡多恵子、白石かずこ、滝口雅子、吉行理恵等の若い人たちも新かなを使って私に、旧かなを使っている文章と同じ感じを見せてくれる。  薔薇香水は蒸留の方法が新しいものに変っても、昔の香水と同じ薔薇の香いを漂わせてくれるものだと、わかったのである。 [#改ページ]   怒りの虫  銀座のレストランというのはどういうわけか、巴里の一流の料理店より、私には可怕《こわ》い場所である。(銀の塔)より(黄金《きん》の鶏)が、私には可怕いのである。先ず階上《うえ》に上って、卓子《テエブル》の間に車付きの小卓子があって、古びたラベルの、あらゆる種類の洋酒が満載されているのを見つけても、立止まって見てはいけないのである。それは可笑しいことなのである。銀座の高級料理店《レストラン》に入るお客連中というものは、どんなに見馴れないものがあっても、耳馴れない楽《がく》の音《ね》が聴えても、こんなものは何千遍も見た、或は聴いた、という顔で済まし返っていることになっている。料理をたべに来た、という気楽なようすはなくて突張っている彼らは、(いずれを見ても山家育ち)で大したことはない。卓子についてボオイに(犢《こうし》のカツレツを下さい)と言うと変に首を傾《かし》げて「ペラペラペラのペラペラですか?」てなことを言う。二度押問答をした私の頭にふと、犢《こうし》のカツレツのフランス語が浮んだ。(これで行ってやれ)と思った私は、「フランス語ならコトゥレットゥ・ドゥ・ヴォオよ」と言うと、ボオイは黙って向うへ行き、今度は別のボオイが犢のカツレツを運んで来た。ちゃんと通じていたのである。レストランに限って、日本人に日本語が通じないというのは困ったことである。巴里の料理店《レストラン》のボオイは、万国からお客が集まってくるから(まるで万国博覧会である)それこそ引っくり返って笑いたいようなお客も往々あるにちがいないが、巴里のボオイが笑ったのを見たことがない。恋人にするような、やさしい微笑《わら》いで迎えることはあるが。もっとも銀座のボオイにはそんな素敵な微笑《わら》いはやろうとしたって出来ないだろうから、微笑《わら》えとは言っていない。面胞《にきび》を削った瘡《あと》が真紅《まつか》な、いやにかさかさ白い、硬《こわ》ばった顔面神経で下手に微笑《わら》われると、こっちは寒気がしてくるのである。巴里のボオイには商売人的な利口さも、又徹底した観光客向けの精神も、むろんあるが、彼らは、美味しい料理をたべようと、楽しんでやってくる異国の奇妙な女の子に対《むか》って、つい柔《やさ》しく微笑《わら》ってしまう、というようなところがあるのである。(日本人の女の顔は殊に凸凹が少ないから、十八の私は十四、五で結婚した女の子にみえたらしかった)私は、偉い先生達が糺弾する不道徳もむろん、条件と状態によっては悪いが、こういう、善良な人間を揶揄《からか》う小さな悪意をひどく憎んでいる。メニュウにある英語だけを覚えこんだというだけで、全智全能になった気のボオイたちは要するに、真物《ほんもの》のレディというものを見たことがない。真物《ほんもの》のレディは珍らしいものがあれば見入り、ボオイなんかにも柔しく微笑《わら》いかけるものである。私は巴里では酒の壜の台は部屋の隅にあったし、壜が皆古いので大変珍しかったのだ。私はその日、洋酒の台を面白がった私を、場所馴れないトンチキの客だといわないばかりの顔で軽蔑した、一山《ひとやま》百文で売っているような顔のボオイを、ひどく憎んだのである。 [#改ページ]   続・怒りの虫  銀座のボオイ、銀座の店員、と銀座ばかり目の仇《かたき》にするようだが、私の嫌いなそういう人々は別に銀座には限らない。つまり高級店の人々のことなのだが、私は凝った、特種の店には行かないので、私の怒りの虫は定《き》まって銀座で爆発する。  銀座では手袋を買おうとしても、洋傘を買おうとしても、親切に選ばせてくれたことがあまりない。私は気に入るものが極く少ないし、特殊だからそう彼らの希むように手早く選んでさっさと金を払って、彼らの前から姿を消すというわけにはいかない。そうかといって、彼らが、ゆっくりと選ぶことを当然と思うような、お買い上げを有難いと思うような貴婦人でもない。彼らは、上等なものを購《か》いつけている、という様子をし、何々さんの令夫人である、という顔をして、店員に顎で命じる戦後貴婦人でないと貴婦人とは認めないのである。「これを見せて下さい」とやさしく言うと、「この品を一寸見せていただけませんでしょうか?」と、商人に卑下している女の人かと思うらしい。一つは戦後のお客の態度もよくない。戦争中にじゃがいもを下さい、麦でもいいから下さい、と哀願した癖がとれないのか、高級店の店員は偉いものだと思うのか、よく理由はわからないが、戦後の令嬢、奥様は、ものを買うのに(すみませんが)とか、(恐れ入りますが)とか言ってあやまっている。威張るのは醜いが、普通に、やさしい態度で命じればいいのである。家の近所の魚屋で一度、品のいい令嬢が、(恐れ入りますが、犬にやるアラを下さいません?)と言っているのを見て一驚した。寿司屋とか料理屋で常連が、特別なことをして貰って、「御馳走さま」と言って立ち上るのはわかるが、皆と同じ料理を出して貰って、ちゃんと代金を払った人が「ご馳走さま」と粋《いき》がるのはおかしい。戦前はなかった光景である。私は毎日のように行っていて親しくなっている下北沢の「バンガロオル」や「スコット」でしか「ご馳走さま」は言わない(それらの店では漬物を出してくれたり、番茶をくれたりするから、その親切に対して言うのである)。呉服屋や、既製洋服店では彼女らは「あら、さようでございますか? これが流行でございますか? これが私には似合いますか?」といった調子で店員の意見に従い、平身低頭している。そこで店員たちはますます頭《ず》が高くなるのである。戦前、資生堂で買物をした時、三つ位欲しいものがあったが、財布の都合があったので「これも好きだけど、そんなにはあれだから」というと男の店員が「どういたしまして……」と微笑《わら》ったが、おべんちゃらの調子もなく、軽蔑した色もなく、なんともスッキリして、岩清水の流れを見たようだった。この頃は銀座で陶器店へ入《はい》って行くと、何も言わないさきに「頒布会ですか」とくる。私はお菓子のほかはお金があっても頒布会に入る人種ではない。全く銀座はいやなところである。 [#改ページ]   手紙の雪  或日私は友だちと喧嘩をして、友だちから「マリさんこそ交際家よ」と言われ、大いに怒った。勿論私も、その友だちも、所謂交際家ではない。友だちは父親の知人関係のグルウプの会がいくつもあって、そのどれにも律義に出席するので、私が会おうとする時いつも留守になるので、私が怒って、「八方美人」と言ったので友だちも怒り、最近、若い詩人や画家の友だちがふえて、婆さんの癖に若者たちの夜明しパァテイなぞに出席する私を見て「マリさんこそ」と言ったのである。彼女は若者たちのさわぎを白い眼で見る中年婦人では決してないが、私のように一緒になって浮かれられないたちなので退屈し、私を引張って帰らせようとやっきとなるのが、いつものことだ。  その友だちは得《とく》に出来ていて、人と向い合っている時自然で、話がなくて苦悶することがない。従って相手も楽で疲れないのである。私の崇拝している室生犀星先生なぞは、その友だち以上に世間話がうまく、犀星と植木屋とのつき合いなぞが、どんなに素晴しかったかが、彼の随筆を見るとわかる。  私はというと、自分のすきな話を喋るだけで、それも面白くきかせることが出来ない。自分だけで面白がっているので相手は唯顔を見ている。自分の小説を読んでいて、それをわかってくれる人以外の人とは話が皆無である。私の小説をみとめてくれている編輯者の人と会っていても、話が自分の小説から離れると、トタンに言うことがなくなり、苦悶に陥る。相手もぎごちなくなり、私はそれをみるとますます話がなくなる。そうしてその人が帰ったあとは疲労|困憊《こんぱい》である。  相手が私の小説を大変すきだと言ってくれる人だと、ねじの壊れた機械のようになって喋りつづけ、終りがなくなり、あっという間に四、五時間が過ぎる。相手は喜んでくれるが、内心はよほどおどろいているようである。私は怒って友だちの女詩人に書いた。「私が交際家なら、日本中の人が交際家のわけである。そうなると、日本中の人が交換する白い手紙で、郵便局は屋根も見えないように手紙の雪で埋ってしまう。そうして人々はお互いにパァテイを開いては招《よ》び合うから、日本中の家は大抵空屋になって、日本中泥棒だらけになるのだ」と。その手紙を受取った女詩人が書いた。「マリさんの言う、手紙の雪で埋まる郵便局は、丸ビルのような固い、四角いのではなくて、メルヘンに出てくるような、西洋の小さな村の郵便局みたいな建物でしょう。それは美しい画のようで、ほんとうにスバラシクテスバラシイことです」と。私は自分の娘のような、年下の友だちに褒められたことで慰められ、大いに満足した。 [#改ページ]   貴族と庶民  私の父親という人は貴族主義というか、貴族好きの人物だった。世間には私の父親の貴族好きとはあべこべに、貧民好き、というような人もあって、彼らは大きな家に住み、自動車《くるま》に乗って歩いているのに、二言《ふたこと》目には庶民、庶民、と言うのである。現在の暮しについて語るのはきらいで、昔の貧乏だった頃の話をよくするが、その話し具合には(自分は庶民だった。従って庶民のことがよくわかる。だから自分は庶民の味方である)と言っているようなニュアンスがある。無論、金は昔より持っていても本当の庶民でいる人もある。地味な私小説を書く人の中の或人々である。私の親友の萩原葉子は、父親の萩原朔太郎の印税がまだ入って来て、本人もいくらかは稼いでいるにも係らず、庶民である。萩原朔太郎の父親は相当に金持ではあったが町の開業医、私の祖父も細い収入の町医者だった。それなのに萩原朔太郎も、私の父親も、同じような意味で貴族だった。だから貴族的だったり、庶民だったりするのは、本ものの貴族や、本ものの庶民を別にすると、それぞれの人間のたちによるものらしい。  室生犀星は晩年しか目で見てはいないが、庶民なぞという言葉を口から出したことがなく、貧乏時代を文学にこそしたが自慢にすることはなかった。そうかといって貴族好きでもない。彼は金が入るようになるのに従って自然に身について来た様子、いってみれば金のある小説家、という感じの人になり、全く自然だった。子供の時地位の低い侍と、心の柔《やさ》しい女との間に生れて、大酒呑みの女に養子にやられ、貧乏ぐらしをし、やがて文学を志し貧乏書生になり、だんだん偉くなって金のある小説家になったのである。彼は庶民好きでも貴族好きでもなく、金持ぶりたくもなくて、単純に生《き》のままだった。若い頃(馬込に家を持ったころ)の彼の写真を見ると、全くの庶民である。彼はそのころ本当の庶民ぐらしだったのだ。  私の父親や、萩原朔太郎の場合は、貴族ぶっていたのではなくて、天然自然に貴族的であって、従って彼らの文学は高踏的だった。私は地位が出来、金もいくらか入るようになってからの父しか知らないが、どこにも貧乏な町医の伜《せがれ》の感じはなくて、彼が立ったり座ったり、何か言ったり、又は何かしているところ、たべているところを見ても、貧乏の匂いがなかった。萩原朔太郎も、エリート族の子供ではなかったし、金もあまり入らなかったが、どの写真を見てもじつに貴族で、ロシアの落魄《らくはく》した貴族、ナザァロフの息子、というような感じである。彼は私の父親より体も細く、坊ちゃんで育ったためだけではなく、金のことはまるでわからない、という感じである。私の父は彼の詩〈月に吠える〉を読んで愕いて絶讃したが、それと同時に、高踏的、貴族的なところも、ひどく気に入ったのにちがいない。 [#改ページ]   尋常一年入学  早生れなので、精神年齢が低くてまだ全くの幼児であるのに、お茶の水師範の小学校に入学した。お茶の水の小学校には入学試験がある。  紫の矢絣の銘仙の着物と羽織の対の元禄袖に官女の袴のような緋色の小さな袴。前髪を下げたお河童の私は、黒のゴム靴をはいてぼんやりと試験場に入った。正面の黒板に桜と菜の花の絵がかかっていて、教師が鞭で指し示しながら(これは何の花ですか?)と質問した。私はその日が来るまで、殆ど絵を見て暮していたようなもので、自分でも絵を描いたり、色を塗ったりしていたのですぐにわかったが、生れて始めて、高い所に立っている人間から尋問されたような状況に出会ったので度胆を抜かれて、桜と菜の花とをあべこべに答えた。その絵をめくると今度は女が井戸端で洗濯をしている絵が出た。これは出来て次の場所に導かれると、卓子《テエブル》の上に1から10までの数字を書いた丸い紙の札が各々二枚|宛《ずつ》ごちゃまぜになっていたが、教師は更にそれを一寸まぜ直して9の札を指さし、(これと同じの札がどこにありますか?)と訊いた。次は6を指した。眼は馬鹿に早い方だからこれは直ぐに見付かった。一部と二部があって、試験が全部出来れば一部に入るのだが、桜と菜の花をまちがえたので二部に入った。その日付添って行った母親は、数字は100まで教え、片仮名と平仮名も全部、猿を仕込むようにして教えこんであったのに、桜と菜の花をまちがえて二部になったので失望した。もっとも教室の都合で二部に分け、何か便宜上やり損った子供を二部にしたのらしく、その試験はただ普通一通りの智能があるかどうかを試すために一応やったのに過ぎず、問題の当り外れよりも、中の方に隠れた智能とか、頭の働きの速さを見るためで、年配の教師が試験官になっていたらしい。何故ならお茶の水は師範学校という位で全国の学校から上等な先生をすぐって集めていて、今想い出してみてもたしかに悠揚せまらないようすをした立派な教師ばかりで、道徳を口先ばかりで押しつける感じはなく、どれも大体本物の道徳先生だった。大体というが、大体にしろ本物の道徳先生なんていうものはその頃もごく少なかったと思う。歴史の大塚先生、理科の堀先生、私が退学した五年の時受持ちだった岡井二郎先生、なんかとても立派で、大学の先生が勤まりそうな先生で、三十八、九から五十位の年齢だった。岡井先生は、後に私が転校するのでお別れの挨拶に廻った時、(やめるのか? この日記、先生に記念におくれね)と言って、紅く丸い顔の中の丸い生き生きとした眼で私を見た。その時私は一寸、後悔した。大塚先生は老いた楠正成の感じ、堀先生は活気に溢れていて、よくふざけた。私が靴の釦をのろのろはめていても、生徒全部が馬なら速歩で走っている時、並歩位の感じで走っていても、白い眼でみる先生はなかった。立派な上に、現代の先生のように甘かったのである。 [#改ページ]   尋常一年  たしかにお茶の水の先生たちは、児童心理学をもうその頃研究していたのかどうか知らないが、今で言えば理解があって、今生きていればもう一度会いたい位である。師範学校だから、毎年四月になると教生《きようせい》という若い先生が入って来て、先生学を見習い、又お茶の水の先生たちから試験されているらしかった。誰も教えなくても生徒たちは、その先生たちの位置を見ぬいていて、男の子たちは(あれは教生だぞ)なぞと莫迦にした。お茶の水小学校は男女共学で、私の隣りは松本さんという色の白い美少年で、私がぼんやりしているのを心配した母親が、(あなた、この子を教室へ入る時つれていって下さいね)と頼むと(はい)と答え、いつも必ず私を見つけて、手をひいて席までつれて行った。倉持さんというのは一寸青白いが顎の張った、松緑の若い時のような顔の子供。小松さんという顔の丸い、女の子のようにきれいな子供は声がよくて、先生に指名されると教壇に上がり、ウィーンの少年合唱団の少年のような透明な声で歌い、みんなしん[#「しん」に傍点]として聴いた。槇山さんはいつも鉛筆をなめてばかりいる。岡井先生が(槇山。鉛筆がうまいか?)と言うと頭を掻いて止《や》めるが、すぐに又なめた。鈴木明さんは鮭のように紅い顔の子供だったが綴り方がうまく、よく私と二人教壇の上で綴り方をよませられた。私の方は「黄色い花が一つ落ちていました」なんていう文章だったが、鈴木さんは「庭に下り立てば」なんていう、まだ先生も教えない文語を使っていて、皆びっくりした。女の子の中では郷千枝さんという郷誠之助という実業家の子供が眼立っていた。淡泊《あつさり》した、白い花のようで、眉が一寸八の字にひそんでいて、細い、美しい眼がよく光り、薔薇色の薄い唇の間から白い歯をみせて爽やかに微笑った。象牙色に黒い太い筋の入った、インデアン・ヘッドのような目の荒い上っ張りが二枚あるのか、いつもピンピンに硬ばった、洗いたてのを着て、籐製のバスケットにハイカラな料理やパン、それに壜に入った、いい香《にお》いのする水を入れて来た。姉さんの花子さんは一部で、二人乗りの俥で待合せて帰った。花子さんは西洋菓子の箱の少女のようだった。私と郷さん姉妹だけが俥で通っていたが、俥も比べものにならない程、郷さんの方が立派で、二つの輪は銀白色に輝いていたし、車夫も私の方のは「キサ」(喜三郎)という頭の後《うしろ》に銭禿《ぜにはげ》のある、小さな男なのに、郷さんの車夫は色が白く、頬がぼうっと紅く、髭の剃り跡が薄緑で、眼鼻立ちがぱらりと立派な、美男で、これもすごく高価そうな膝かけを腰に巻きつけ、足を悠々と組んで、にやりと微笑って私を見た。キサは父親が与えたオリイヴ色の格子に薄オリイヴ色の絹の縁をつけた膝かけを肩から被って鼻汁をすすり、足を揃えて腰かけていた。オシッコをしてしまった鈴木さん、平安朝時代のおでこの美人のような小山田さん、よく出来る、顎の尖った小林さん、なぞもいた。 [#改ページ]   親子どろぼう  私が幼い時、私の父親はたまに宮中に行って、天皇陛下のお席からはるかに、はるかに遠いところで御馳走をいただいた。大正天皇のお葬いの列の中を、父が歩いているのをニュウス映画で見たが、よっぽど後の方にいた。その時は宮内省に勤めていたのだから、それでそんなだから、昔は軍人といっても軍医だし、軍人と小説家の兼業ではそんな時、天皇陛下のお顔はずいぶん小さく見えただろう。殆ど見えなかったかも知れない。天皇陛下から遠く離れていたからやった、というわけではないだろうが、父親はデザアトに出た(宮中のデザアトには銀紙包みのカラメルや、クリイム入りチョコレエトの玉が出たのだろうか?)チョコレエトや、紅粉で染めたざらめを上皮《うわかわ》にし、薄緑の砂糖の蔕《へた》をつけた苺の形をしたものなぞの干菓子を、そっと軍服の隠しに滑りこませて持って帰った。別にお土産として、銀の入れものに入ったボンボンも戴いたのだから、ずいぶん慾ばりだった。又、これは晩年に上野の山の博物館に通っていた時だったが、不忍池の水際で子供が捕《つかま》えておもちゃにしていた亀の子を買いとって、池へ放さないで、外套の下に隠して家に持って帰った。そのころ不忍池には蓮番小屋があり、蓮番人がいて、池の蓮の花もとってはいけないことになっていた。雁はむろんである。(今では蓮も減り、鴨が一羽浮いているだけだ。こんなことにしてしまったのは誰なのだ)亀の子だっていけないに定《き》まっている。不忍池と上野の山とでは警察や交番でいえば管轄ちがいかも知れないが、ともかく上野の山にある役所の長をしている人間が、禁じられている池の亀をひそかに持って帰るというのはどうかと思う。それは一寸したどろぼうである。その証拠には彼は外套の下に隠して帰ったではないか。軍服の隠しから銀紙に包《くる》んだ菓子を出して私にくれる時、亀の子を子供に見せる時、父親は恋の秘密をうち明ける人のような翳《かげ》のある顔で微笑《わら》った。  親が親なら子も子である。六つの時、ピアノの教師が手の甲の上に載せて練習《ルツソン》をさせた銅貨をぼんやり手に持ったまま家に帰ったのは無意識だったが、その時から間もなく母親の実家《さと》で、従姉の人形の、小さな袴を手に持っていた時、「帰りますよ」という母親の声がして従姉も友だちも皆ばらばらと立ち上った。私は従姉が持っている、紋織お召の上り藤立枠のや、紋羽二重の暈しの、小さな人形の着物が欲しくて我慢出来なかったが、特に紫繻子の袴は羨ましかった。私はどうしても袴を手から離すことが出来なくてそのまま、手に持って母と俥に乗った。見られてはいけないという意識がないので隠さなかったが、誰も気がつかないで家まで帰った。父親は微笑《わら》っていたが、母親の青くなった顔色と、直ぐさま私をつれて引返して、祖母や叔母たちの前に手を突いた母親のようすで、大変な事だと解った。親子どろぼうの、お話である。 [#改ページ]   陸軍省の木蔭  私の父親が陸軍省の中の医務局というところに、毎日行っていたのは明治四十年頃のことで、私は四つ位になっていた。懐しい、好きでならない父親が、毎日朝出て行くと、或一定の時間、姿を消していて、その間は何処にいるのかわからない。部屋に行ってみると、広々とした空間があって、葉巻の香《にお》いが残っているだけである。それが私には不思議で、又ひどく不満であった。或日、母親に伴れられて長いこと電車に乗り、やがて二人は大きな、厳《いかめ》しい門を潜った。青々とした樹立ちに蝉が喧しく鳴いている道を、私の手をひいて行く母親の青白い横顔は、独逸から送って来た淡茶地で、縁に太い焦茶の糸で縫い取りをした洋傘の影に、透徹るようである。何かを考えている顔だ。父親をひどく愛していた母親は、父親の愛情を独占したい、だがそれが出来ない、という悩みに捉われていた。私の父親には学問や小説への、底に熱のある愛情と、周囲の人々への平らな、万遍のない、きれいな愛情があって、その人々への、灼熱しない、穏やかな光のような愛情が母親にも分けられている、というようなところがある。母親に分けられる分はいくらか多かった、としても。父親のいなくなった晩年の母親は陽気でよく喋ったが、父親の傍にいる間は、曖昧性のある父の性格と、平等なその愛情の配分とにいつも、悩んでいたのだ。母親は私に、(パッパには、自分の子供も、他所《よそ》の子供も同《おんな》じのようなところがあったよ)と、言った。電車に乗る時、他人や他所の子供を右に左に突き飛ばして、自分の細君《さいくん》と子供を先きへ乗せようとする男に比べれば、私の父親はたしかにキリストのお化けのような人間にもみえたのだ。私の父親は自分の頭の中が、特別な時計のように、薄い、黄金色《きんいろ》の機械《からくり》になっていて、その機械《からくり》が静に、正確に、動いているのを、楽しんでいた。その楽しい、おだやかな気分が彼のいる辺りに、静かな光のようなものをどんな時にも、宿させていた。彼は母親の直情的な、がむしゃらな子供のような苦情や、祖母の、聡《さと》い、母親よりは遥かに女らしい、言葉とは反対の意味を隠している、やさしげな訴え、なぞの、柔かな、生《なま》温い饂飩《うどん》のようなものを、細いピンセットで巧《うま》く挾んではどけていた。子供の問いや話は、頭の機械《からくり》の動きに障りがない。そんな時、父の頭の機械は一層楽しげな音をたてた。母親はその、父親の静かな楽しさに、嫉妬をしていたようなものである。  悩みの母親と私とが無言で歩いて行く、大きく迂《うね》った道の果てに、崩れたような石の間々に雑草の茂った、三段ほどの段があったが、その下まで行くと驚いたことにその石段の上に父親が立っていたのである。陽を背中に負って、蔭になった父親の顔が微笑《わら》っている。(パッパ)。私が叫びざま、一足《ひとあし》でも早く父親に近づきたいと駆け出し、もろに転んだ。父親が昼の間かくれていた医務局の建物は、その石段を上ったところに建っていた二階建ての西洋館であったのだ。 [#改ページ]   歯医者  歯医者に行くということは私にとっては死刑場に自らおもむくことである。子供なんかが「二本抜いて来たよ」なぞと、言って笑うのを見ると、平気だということを多分に誇示しているらしい点を差し引いても、おどろく心を抑えられない。私は歯の治療の途中で卒倒に近い状況になることもある。「一寸失礼いたします」と言うつもりが、「一寸……」になり、死刑台の如き治療椅子から下りて、部屋の隅にある椅子に行こうとするが、その椅子に手をかけたかと思うとへなへなとうずくまってしまう。団子坂下の歯医者は「おや」と言ってどこかへ行き、計量コップに何か生ぬるい液体を入れて持って来た。脳貧血の薬かと思って飲むと、水道の水割りのウイスキイだった。内幸町の大坂ビルの二階に治療室を持っていた、鈴木操さんという歯医者に通ったのはもう二十年以上前のことである。子供のころ甘いものをたべすぎたので三十代で前の上歯が真黒に欠けて来た。母親が喧しくいうので通いはじめたが、一人では心細くて、中年の家政婦と行ったが、その人が都合が悪い日は、母親の碁の相手に来る正ちゃんという十四位の男の子に行って貰った。鈴木さんはにこにこ笑っている。色が白くて紅みのある顔の下に、苦笑や、呆れ果てた顔をうまく隠して、私を迎えた。  アメリカに十年いたという人なので、患者もアメリカ人が多く、彼らが入ってくると、フワァとした感じの流暢な英語で話していた。最初の日、私のかけている死刑椅子の肱つきに右手を軽くかけ、低めた体の足を軽く組み、微笑して私の歯を覗いた時、私はもの凄い責苦の予感の中にも、これはヴェテランだ、という安堵感を覚えた。仕事にファイトを持っている人物で、治療にかかる時、右手の指を、スペインのジプシイが、カスタニェットの代りに指を鳴らす時のように、ピシッと鳴らした。私の、殆ど前歯皆無の真黒状態は、たしかに彼の仕事への意欲をそそったことだろうと思う。幸、脳貧血も一度も起さずに、私の前歯はちゃんと揃った。というのは、彼がうまかったこともあるが、付添い人を常につれて行った上に、母親は電話をかけて、「二分位しましたら休んで下さいまし」と申請するというように念を入れたからでもあった。この厄介な患者は、それだけでも充分困るところへ、よく遅刻した。或日鈴木さんは言った。「森さん、アメリカではこんな、子供でも(と、手で小さな子供の背丈を示して)何時と言えばその時刻に戸を開けると、そこに立ってますよ」。しかし何といわれても糠《ぬか》に釘である。その時は、なるほどと思うのだが、出かける時になると、(大抵大丈夫だろう)という、長閑な精神状態になるのである。その上死刑椅子と、うれしそうな死刑執行人の顔を想い浮べると、足は速くは動かないのだった。 [#改ページ]   鴎外夫人  夏、子供に飲ませる麦湯が父親の衛生思想によって喧しくて、前の日の麦湯が薬鑵の底に一滴でも残っていると忽ち腐敗するから、熱湯でゆすいでよく乾いてからその日の分を入れろ、というさわぎ。又冷蔵庫から何かを出し入れする時、ぐずぐずしていてはいけない、意味なく開けてはいけない、等々大変だったが、父親は人から感じ悪く思われることは全部母親にやらせる主義だったので(主義でもないが、彼は気が弱くて、人が厭な顔をするのを見るのがいやなのである)女中たちは麦湯のことでもすべて喧しいのは母親だと思っていた。父親は女中が傍へ行って何か言う時なぞ、やさしく微笑して(フン、フン)と言っているからだ。祖母も女の人は殆ど持っている狡《ずる》さで、女中たちにも上手にしていたから、おやさしいご隠居様、おやさしい旦那様に、可怕い奥様だった。新聞や雑誌の編輯者なぞに何かを断る時も、父親は母親に断らせた。その上に凄い美人で、愛嬌がちっともなく、ものの言い方は切り口上で、言い廻しも、言葉の飾りもなく、ぶっきら棒に断るから、断られた人には、父親は厭がっていないのに、奥さんが出しゃばって来て断るように見え、中にはにくらしいと思って一生覚えているというような感じの人もあったらしい。又母親は感情を隠さない人なので、意地の悪いような人には言い方も一層ツンケンした。男に生れて、殿様にでもなればよかったろうが、女で、奥さんという位置では一寸まずいのである。殿様でもひょっとすると信長的で、明智光秀に殺されたかも知れない。  母親という人は(女の意地悪)というものが全くない人だったが、その代り、先方が冗談に紛らせて、上手に皮肉や悪口を言うと、カッと怒って、自分の方は歯に衣《きぬ》着せずにやり返した。それだから、先方は悪くないことになって、母親は悪ものになった。皮肉を言うようなことのない人に対しては困る位お人好しだった。出刃庖丁を横に咥え、藍弁慶の着物の、はな[#「はな」に傍点]色(赤みのある紺)の裾を高く端折り、白縮緬の腰巻を出したお人好しである。お人好しだから、見たところは妲妃《だつき》のお百でも、ほんとうは父親と同様、人がやっつけられた顔を見ることが苦痛だったようで、よその家に行くと、そこの家の人の厭がることには触れない。たとえばそこの家で長男は栄転し、三男は落第しているというような場合、必ず長男について話して、三男のことには触れないのである。私が離婚をした時、女の客は座るや否や(茉莉子さんはどうなさいまして)と訊くので母親は弱っていた。これはなにもそういう女の人たちが特別悪いのではないので、母親の方が特別らしい。特別な人というものは損なものである。その上彼女は不運なことに鴎外夫人だった。文豪で善良、父性愛の権化の鴎外、の巨像の光にさえぎられていいところは少しもみえなくなってしまった。 [#改ページ]   凄い美人  最初の記憶に残っている母親は薄藍色地に共薄《ともうす》で二本|縞《しま》のある糸織の普段着を着ているが、完全な姿となって残ってはいない。清心丹(上野の守田宝丹で買った)を常に懐《ふところ》に入れていたために、清心丹の香《にお》いがする胸とか、抱かれた膝なぞが断片的に見えてくるだけだ。今でもはっきり見えてくるのは、千駄木町の家の奥座敷の廊下に、硝子戸に寄りかかって、何か想っているような母である。白地に薄い灰色で細かい石垣のような模様のある単衣に、銀糸の織り出しで桐の葉が、お太鼓の所や前に出るところに大きく出ている黒い紗《しや》の夏帯を締めている。いつも洗ったばかりのような束髪の横顔は、庭の青葉が映ったように青白く透っていて、十五世羽左衛門の明石の島蔵にそっくりである。私のようなうす暈《ぼ》けた長円《ながまる》の顔の娘が生れてきたことが信じられない、凄い美人である。今は言葉の意味が昔とちがってきて(凄い美人)といえば(大変な美人)という意味にすぎないが、母親の顔はその頃の意味での凄い美人である。伝法な、悪事をしかねない、という感じの凄さである。母親が親類の法事に行くために結った髪がそのままになっている毛手柄《けてがら》(丸髷の手柄の代りに手柄の形に毛を巻く結い方)の丸髷《まるまげ》で、鼠《ねずみ》弁慶(灰色と黒の弁慶格子)のお召にお納戸《なんど》博多の丸帯、黒|縮緬《ちりめん》の羽織、という造《こしら》えで部屋に入ってくると、父親が(お母ちゃんは中味はお嬢さんだが、外から見たところは羽左衛門の妲妃《だつき》のお百だから、伝法ななり[#「なり」に傍点]が似合うのだ)なぞと言ったが、その通りだった。母親にとっては父親が「ボルクマン」を訳したり、それにつれて役者が家に来たり、歌舞伎座で父親の「日蓮上人辻説法」を演《や》ったり、歌舞伎座や明治座の楽屋を廻って談話筆記をしていた鈴木春浦が父親の「ノラ」や「稲妻」の口述筆記をしに家に来たり、という風だったことは全く幸いで、もし単に陸軍中将の奥さんだったらとてもそんな好みの着物は着られなかっただろう。父親は許しても、その頃は境遇で服装が定まっていたからだ。女の人が紋付の羽織を着て歩くのは軍人か、官吏、又は校長先生の奥さんか、芸者だけだった。私が母親と、向島へお墓詣りに行った帰り、浅草でお料理をたべたり、南京玉《ビイズ》や人形、ままごと道具等を買って貰い、さて、何台も満員の電車をやりすごして、ようよう乗り込み、私は母親の腰の辺りにくっついて中の方へ進んでいると、二三人の職人が母親を見て、(ヘン、女でも紋付きを着りゃあご婦人だ)と大声で言ったりした。母親が黒縮緬の羽織を着るとすごく粋《いき》だった。外出の時、すっかり帯を締めてしまってから、母親が黒縮緬の羽織を空《くう》に泳がせるようにしてはおると、羽左衛門(十五世)の福岡貢が黒い紗《しや》の羽織を着るところのようで、きれいな風が起るようだった。喜多村緑郎の浪子も河合武雄の満枝も吹っ飛ぶ美人だった。 [#改ページ]   鴎外  私の父親はずいぶん幼い時から袴なんかをはいて(父が東京へ遊学—彼のことだからただ東京に出たのではなくて遊学である—する前に撮った写真には袴をはいて写っている)漢文の本を読み、ミュンヘンで「ファウスト」を読んで翻訳(父の場合は訳《やく》ではなくて絶対「翻訳」である)しはじめたのは十八の時であるから、五十八年間位本の読み通しだったのである。それだからもあって知識人としては偉《おお》きかったが、小説を書く人としてはそう偉くはなかった。理屈の骨が小説の中にがっしり建っていて、その理屈の骨が鋭く、綺麗で、父の小説はそのために、「秀れた小説の面白さや深み」以上といってもいい位の、一種の知的な美を光らせているというようなところもあったが、やっぱり荷風の「おかめ笹」とか「※[#「さんずい+墨」、unicode6ff9]東綺譚」、漱石の「吾輩は猫である」、犀星の「杏つ子」(最初の部分の書き方と勢いで終りまで走ったとしてである。新聞の読者に合わなければどうして書き下ろしにしなかったのだろう。犀星は新聞の魅力に負けたのだ)や、「蜜のあはれ」のように面白い、素晴しい小説ではない。それで私の父親は知識人だということと、翻訳の素晴しさが認められる。彼の翻訳は原文の羅馬字と全く同じ美を持っていて、原作者が和文、漢文を判っていて読めば必ず満足すると思う。もう一つ、文体が、象牙の上に繊く鋭い、尖ったもので彫ったように綺麗で、その文章の中には神も入っていて、きれいな光を放っている。その(美)の出てきたもと[#「もと」に傍点]は彼の人間の善さと、きれいさである。ただ困るのは彼は読者からあんまり愛されないようである。(好きな人は別)それは独逸の美学とか、わけのわからない知識の中から首を出していて、誰にも読めない字を書き、文章の質《たち》がいかにも威張ったように見える。会ってみればあぐらをかいた膝を揺《ゆす》りながら、俯向きがちに「クッ、クッ、クッ」と笑っている。少しも威張っていないようだ。わけのわからない知識を持っている癖に「どうだい?」という顔もしない。そうかといって威張っていないぞというところを見せようとするのでもない。そういうところが、ものを見抜くことのない人(天才詩人位しか見抜くことは不能らしい)にとっては(気にくわない奴)である。世間には学問にも文体の美にも全く無縁の人がいて、そういう人から見ればあまり小説も面白くないのにへんに大きな顔をしているので、何が偉いのかさっぱりわからない。そういう点が愛されない原因である。彼の文学に悪魔がいないのは一寸嫌いである。 [#改ページ]   好きな鴎外とわからない鴎外 (鴎外)というのは、私が大人になってから、その人の書いたものを読んだ、あまりよく知っているとはいえない人間である。私を膝にのせて揺《ゆす》ってくれたり、膝枕をしている私の背中をさすってくれた父親と同じ人だと思うので大好きなことは大好きだが、小説家としては永井荷風氏や三島由紀夫氏が言う程偉くはないような気がする、という人物である。議論の文章がうまいので、議論はわり合いにわかるが、ハルトマンとか、審美学とかが出てくると弱い。私は不肖の子で、(鴎外)を識る人が一番いいと口を揃える「澀江抽斎」はじめ、一連の歴史小説は退屈で死にそうである。「澀江抽斎」で一つだけ面白いのは抽斎がなめくじが嫌いで、闇の中を歩いていても、いるのがわかったというところで、私も極度のなめくじ嫌いで、なめくじがいればすぐわかるので困っているからだ。父の家の湯殿が古くてよくなめくじがいたが、何人入っても知らずに上ってしまうのに、私は入るや否や彼らを見つけて、全身がすくみ、大声で女中を呼ぶ騒ぎだった。なめくじを嫌いな人の霊感が大変面白くて、あんなに面白いことは他《ほか》の本には書いてないのである。大名の家の紋が並んでいる本を陽なたにならべて干し、鷹の羽の羽箒で丁寧に虫の卵や虫の死骸を払っていた父親の姿を想い出すと、大変にいい仕事だと信じていたらしいので、わからなくては済まないような気もする。  私の大好きなのは「花子」である。ロダンの家に学士らしい青年が、花子をつれて行って引き合わせる話である。地中海的な、フランス的な美が、明るく耀いていて、欧羅巴気ちがいであるせいか、私はあの小説を読むと、いろいろ好きでない小説たちの、茨や、背の高い痛い草の中を抜けて、明るい、清麗な場所に出たような感じがする。その場所は私の父親が晩年になるまで、憧れていた場所である。幼い時、父の部屋に入って行くと、父親は楓《かえで》や青桐の緑の影で、海の底のような部屋の中に、白縮《しろちぢ》みの襯衣《シヤツ》と、襯衣と同じ縮の下《した》洋袴《ズボン》〈袖口と足首のところは細い、付紐《つけひも》で結んである〉で畳に肱をついて座って本を読んでいたり、除虫菊の鑵の上に新聞紙をのせた枕で睡っていたが、その時父親は、その今書いた明るい世界に座っていたのだ。幼い私は、どこに座っているのかわからなかったが、たしかにどこかの、大変に楽しい、そうして大変に静かな場所に父が座っているのを感じた。父の背中に飛びついて行く私の心の中には、そのわけのわからない場所で、楽しそうにしている父への怒りがあって、父の心を私の方へ向かせようとしたようだ。そういう欧羅巴的なところに座っていた父親が、いつ私は、抽斎や、古本や、紙魚の世界に引越したのか、私は知らずにいた。(犀星は昔から庭師とロシア文学が混合したところにいたらしいが)だが私は誰が何と言っても植木屋や紙魚の匂いは嫌いで、父親の小説の中では「花子」が好きである。 [#改ページ]   裁縫  糸を指で切って(鋏を使うと糸は針を絶対に通らないのである。歯で噛み切るのは日本式の美人がやると素晴しいが、私には不可能な芸当である。私には糸切り歯が無いらしい)針を通し、教師の言うような姿勢と手つきで布の中に針をくぐらせるという作業が、私には出来ない。しかも針が導く糸の縫い目の大きさは揃っていて、その小さな縫い目の列は真直ぐでなくてはいけないというのである。  お茶の水の小学校に入って三年目になった四月から、私はこの作業を強制されることになった。  大体、真直ぐ、ということが苦手の子供である。真直ぐに歩けといわれると蛇のように蛇行し、帳面に書く字の列は曲り、定規《じようぎ》をあてて線を引いても、定規そのものが曲り、母親が父親の意見で買い与えた独逸製2Bの鉛筆は定規にぶつかる。ぶつかったな、と思って握り締めた鉛筆を弛めると、線は山のような曲線になる。  そういう私にとって裁縫の時間の運針や、雑巾縫いは苦手中の苦手だった。その上に、柔い皮製の指ぬきには、針の頭が当っても滑らないようにまんべんなく穴があけてあるにも拘らず、私の針は指ぬきの上を滑っては指の甲《こう》にぶつかる。どういうわけか体の出来が完成されてない感じで、胴の骨と、脚の骨との繋ぎ具合もよくないが、皮膚は、もう少し厚くなるところを出来かけで生れたらしくて、サンダルの皮にネルが張ってあっても、一町も行かない内に擦れて皮が剥け、血が出る。血が滲《にじ》む段階になるとそれからさきは歩けないのである。指の甲の皮膚も同様に出来ているから、忽ち穴が出来、破れて血が滲《にじ》む。  哀しみながら縫っていると、涙が汗になって指ににじみ、針はいよいよ動かなくなる。糸と針で布を縫うのには糸のしっぽに結び瘤を作らなくてはならないが、その結び瘤の製造が又ひどくむつかしい。するりするりと糸は瘤にならずに指の間を抜けてしまう。やっきとなってやるとどうしたのか、馬鹿に大きな、でこぼこの、結び瘤の特製が出来る。裁縫の教師は本を見ていることがないから、窓の外に青々と透って、赤ん坊の掌のように何枚かの葉を開き、楽しい五月の空気を呼吸している藤の葉を、そっと羨むことも出来ない。長いお河童の髪が襟首にうるさく、水色木綿の長めの提灯袖の独逸の洋服の胸が汗ばみ、下着の襟が冷たい。  運針は出来るだけ早く仕上げなくてはならない。出来上ると生徒は得意げに席を立って、教師のところへ持って行くのである。放課時間が近づくに従って椅子を後に引く音が方々で、ギイ、ギイ、と鳴る。私の緑色の糸や赤の糸は上り坂になったり下り坂になったり、「ハ」の字になったりして、ゆっくり、のろのろと、進むのである。  裁縫の時間は私にとって、煉獄で、あった。 [#改ページ]   市橋先生  裁縫の教師は市橋先生という人だった。たっぷりと大きく面長《おもなが》な顔は、白粉を刷《は》いたように艶のない白い色で、小皺でしわしわになっている。ものを言う度に唇の片側を下へ曲げる癖があった。大きくこちこちに芯を入れて膨らませた束髪《そくはつ》は、染めているように真黒で一本の後《おく》れ毛もない。その、明治天皇の女官たちの束《たば》ねをする最古参の女官のような、歌舞伎なら岩藤のような、威厳のある恐ろしい顔が、見るたびに大変に大きく見えたのは、私の裁縫というものへの恐怖から来る幻影も、多分に加わっていたかも知れなかったが、とにかく大きく、しわしわで、私の頭の上からのしかかってくるようだった。市橋先生の前で、病気の猫のようになっていた私の中に、だが何か突張っているものがあった。裁縫という憎むべきものへの自信をかさ[#「かさ」に傍点]に、着物の胸も袂も、長く引摺った袴も大きい、山のような体の中に、細く尖った針を隠してのしかかってくる彼女に、私は必死に抵抗した。中の方の突張るものが永遠に中に入ったままなので、私は半分泣いた顔になって苛められているより他に仕方のない人間である。実際としては市橋先生は、自分がこの上なく巧者な裁縫を、低能のように不器用にやる生徒に苛々し、それが一種の憎みになっているらしかったが、私のぐにゃぐにゃの抵抗も、見抜いていて、それも憎らしかったかも知れない。彼女が時折にたっと笑うのが、私には自分を嘲笑《わら》っているように見えた。  五年の三学期の或日、受持の田中先生という人が参観に来て、市橋先生と一緒に席の間を回りはじめた。二人の草履の音が背後に逼った時、私は糸に結び瘤《こぶ》を作っていた。糸は何度でも私の指の中で空解《そらど》けた。下着まで汗になって結ぼうとするが成功しない。その時私の頭の上で、市橋先生の声が言った。 「これですからねえ」。私には彼女の伴《つ》れの女教師を振り返り、顔を見合ってにたりと嘲笑《わら》う顔が、見ないでもはっきり解った。ぐにゃぐにゃな猫の中の私の怒りが燻《くすぶ》った。私は次の日の朝、学校へ行くのを厭がって、母が手を引張ると柱に巻きつき、どうやっても動かなかった。私は市橋先生から重大な侮辱をうけたと、思っていた。訳をきかれて訴えると母は苦笑し、父親は大いに同情した。母親が市橋先生のことを髪が真黒で後れ毛一本ない、色の白い、御殿女中のような女《ひと》ですと、父に話すのを、夜床の中で聴いた私は、その言葉の中に意地悪な女だというニュアンスをきき取り、大いに我が意を得た。父と母との相談で転校することになり、次の学校が定まるまで家で遊んでいられるという大幸福がふりかかったのはよかったが、一日母に伴《つ》れられて学用品をまとめ、それから教員室へ行って先生の一人一人にご挨拶をするという、ひどい羽目になった。市橋先生の席に行って母が何か言って少し笑うと、先生も笑ったが、その顔に案外悪気がないのには拍子抜けがし、又いやにがっかりした。 [#改ページ]   仏英和高等女学校  市橋先生とけんかをしてお茶の水の学校を止めることになった私は、自分では重大な侮辱をうけてそれに反抗したつもりだったが、母と市橋先生のお別れの挨拶のようすを見て、自分が子供扱いされていたことを知るとすっかりいやになって、父母たちが選んだ仏英和高等女学校に、やけのような気味でただぼんやりと入学した。  そのころ神田三崎町の市電の停留所前にあった、紅煉瓦造りの本館を真中に、右に小学校、左に女学校が向い合っている仏英和高等女学校は、私の転校の一年後にそこの幼稚園に入った当時七つの妹によると(ふつうええわじょがっこう)であった。フランスの修道院が修道女を派遣して建てた学校で、一種の宗教学校だが強制ではなくて、入りたい人だけが本堂にあるおみどう(どう書くのか知らない。まさか御々堂ではないだろうから、おみおつけの伝で、誰かが言い出したのだろう)で洗礼をうけて、基督の花嫁になるのである。建てたのは日本の大工だろうが、本国の命令だろうから修道女たちのいる本館だけが紅煉瓦で、木材も上等、透明のニスが塗ってある玄関のホオルも、廊下も、どこもかしこもピカピカである。玄関を入ってすぐ右の門の方に面して窓のあるピアノの部屋で、マスオギュスチンこと、スウル・オギュスチイヌの薄薔薇色に透る鼻の穴をチラチラ見ながらルッソンを終って五時頃玄関へ出ると、ピカピカの廊下一杯に築地精養軒のような西洋料理の香《にお》いが漂っていた。もっとも生徒が演《や》る「ル・パラプリュイ・ア・ドンキショ」(ドンキホオテの雨傘)なぞという誰の原作だかわからないコメジこと、喜劇をみる位しか楽しみはないし、いったん病気に冒れば診察も、手術も出来ないで死ぬのであるから(他人に肌を見せることを宗教が禁じているので乳癌のスウルは椅子に腰かけたまま死んだのである)ごちそう位贅沢でなくては気の毒というものである。校長はメエル・ア・ジョゼフという鶏《にわとり》の卵を前掛けに包《くる》んでにっこり微笑う田舎女《ペイザンヌ》のような福徳円満の修道女で、教頭的な存在に、スウル・アマンダという頭の切れる、偉きな包容力を持っていることが子供にもわかる偉物《えらぶつ》の修道女がいた。女中の修道女=支那人と日本人と一人|宛《ずつ》いた=がこの人にだけアマンダ様と、様をつけて呼んでいた。あとはスウル・オギュスチイヌ、スウル・コスカ=青白い唇の紅い美人で、巴里へ行ってみて彼女が巴里女(パリジェンヌ)なのがわかった=スウル・ジェルトリュウド、シスタア・ジョゼフ(これは英国人)なぞで、一人だけ独逸人がいたが男のようにポキポキして歩いているのを見たが、フランス人のボッシュ(ドイツ人の仇名)嫌いはスウル仲間でもあまり変わらないようだった。たった一人山本先生という、権力があって、スウル・アマンダと対等に口を利く日本人の修道女がいて、それが私の組の受持だった。日本人の先生も大勢いたが、ともかくフランスから来ているのでフランス人の尼さんたちが優勢の学校だった。 [#改ページ]   続・仏英和高等女学校  仏英和に入るとまず外国語はフランス語と英語とあるから、どっちか選べ、と言われる。そのころは英語しか通じない(今でもそうだが今よりもっと英語が盛だった)世の中だったので半数位は英語を選んだ。私の家では父親が、始めからフランス語をさせるために入れたらしいので、無論フランス語である。ところで哀れをとどめるのは何も知らずに英語の方に入った生徒たちである。校長がフランス人だし、フランスの学校だろうということは解っていても、学校の中で、それほどフランス勢の勢力が根を張っているとは気のつく親はなかったが、仏英和高等女学校に於けるフランス人の修道女の優勢と、英吉利のそれの劣勢というのはひどいもので、生徒たちも入学すると間もなくそれにいやでも気付かなくてはならなかった。第一英吉利人のシスタアは一人しかいない。何があってもフランス語の組の方が優先で、卒業式のコメジもフランス語の組の方が先きだし、コメジに使う衣裳を造ったりするのも、女中の修道女がフランス組の方を先きにやるのである。芝居も、フランス組の方が衣裳も多く要する大がかりなものを演《や》った。フランス語の生徒たちは忽ちエリイト意識を持って、英語の生徒たちを莫迦にし、英語の生徒たちはなんとなく小さくなっていた。フランス組と英語組の生徒が同時に雨天体操場に出て来て、そこで修道女に別れの挨拶をすることになる。するとフランス組の方がスウルも、生徒も意気揚々で、生徒は声を張り上げて「メッシ、マッス、オルヴァ、マッス」と唱えるように繰り返すと、英語組は隅の方に固まって「サンキュウ、シスタア、グッドバイ、シスタア」と心細い声で言うのである。西園寺公の孫だとか、フランス大使のナントカとかいう人々が大へんによく出来たり、スウルたちとペラペラ話したりするのは別として生徒たちは大体外国語に熱心ではなかった。フランス語の生徒も、教科書にある以外の言葉は意味もわからずに喋っていた。スウルが(これ、誰が落しましたか?)と落し物を高く差し上げてみせると、落し主は(セ、タ、モァ)とか(セ、パ、モァ)とか叫ぶし(これはお前のか?)と言うと(セ、モァ)なぞと答えるが、綴りを知っているわけではない。スウルが(メッシャントゥ)といえば怒られたのだと思い、(トレ、ビヤン)といえばほめられたのだとわかる。その外には(セ、フィニ)——もう書けました——位を知っていて課題が出来上ると(マスセフィニ)と大声を上げた。稀《たま》に本国から偉い司祭かなにかが来て、その人が来ると即製でラテン語の歌を覚えさせられて、≪ヴェニ、クレアトオル、スピリトゥウス≫(聖なる造物よ、栄あれ)なぞと歌って後《あと》は休みである。又スウルたちはどういうわけかきれいな菫色のインクを使わせた。スウルたちの音もなく、滑るように書く、菫色のフランス文字はひどく綺麗であった。 [#改ページ]   妹の羽織  私の母親は自分が、明治の典型的な美人だと言ってもおかしくない顔と姿を持っていたので、娘である私と妹の顔には怒りに近い不満を抱いていた。だが私の方は粧り栄えがすると言っていて、子供の頃から熱心に選んだ友禅縮緬の元禄袖を着せたり、独逸から送って来た洋服を着せたりし、髪も、鏡の中の私の顔を覗き覗き、似合うように結んだ。お招ばれとなると大騒ぎで湯をつかわせ、髪を洗い、舶来の石鹸で磨き上げて、冷やりと冷たい縮緬の着物を着せかける。そうして、リボンをかけるのにも、やさしく、綺麗に、蝶が止《と》まったような形になるまで遣り直した。妹の方は、どうせどう遣ったって駄目だと言って、構わなかった。幼い時の妹は、いつもお姫様のように綺麗にしている私に憧れていて、自分も私のようになりたいと、熱望していた。だが依然彼女は洒落るということに関しては、母親から見離されていた。来る客たちも、妹の存在を忘れたかのように、私にだけ贈り物をしたので、稀《たま》に自分にも美しい草履が贈られたりすると妹は狂喜して、その草履を胸に抱いて、そこらを跳ね歩いた。  母親の、私を粧わせて美人らしく見せようという執念は、私の婚約が定まるやいよいよ尖鋭化した。私の婚約が調ったのと同じ頃、兄の婚約も定まって、兄の婚約者の家から私と妹とに美しい反物が贈られた。両方とも黒地のお召で、私に贈られた方は橄欖《オリイヴ》色と黄土色との太い棒縞、妹の方は、派手な緑と青竹色の暈《ぼ》かしのと、華やかな臙脂《えんじ》とピンクとの暈《ぼ》かしとの、これは私のよりもっと派手な縞だった。ところが、私の着物を揃えることに夢中になっていた母親は私に贈られた方を単衣物に仕立て、妹へ来た方も私の袷羽織にしてしまった。妹は絶望して、赤い小鬼のようになって泣いた。私という人間が又妙な人間で、可哀そうだから妹に遣ろうと、いうのでもなく、それかといって、妹に全く同情がない、というのでもない。自分のこと以外にはすべてに無関心であるから、どんな時でも不得要領《ふとくようりよう》な状態である。父親が(それは杏奴が気の毒だ)と言って、妹を慰め、三越へ行って妹の羽織にするための友禅を買って来た。父親が選んだのは渋いグリインに濃いグリイン、代赭《たいしや》、黒、なぞの線描きで、松なぞの出た、粋であると同時にハイカラなもので、それは妹に誂えたように似合った。妹は、今ではその友禅を何よりも大切なものに思うようになっているが、買って来たのを見た時には失望していた。気の毒な彼女は、義姉の家から贈られたお召のような、臙脂やピンクの入った柄を空想していたのだ。 [#改ページ]   妹の幼稚園入学  私が仏英和高等女学校の小学部の六年になった時、妹の杏奴が同じ幼稚園に入ることになった。私は自分に興味のあることには、暈りとした目ながらに凝と見開いていて、大人たちの会話もなんとなく耳に入れていたが、妹が幼稚園に入ることになるかどうか、ということには関心がなかったので、事件にも、その進展にも殆ど、気づかずにいた。ところが彼女の幼稚園入学は私にとって、大変なことであったのだ。私は幼児の時から、鏡に向って顔に白粉を塗ったり、頬紅を塗ったりしていたが、その頃は、紫の銘仙《めいせん》の着物に白羽二重《しろはぶたえ》の襟を細く覗かせ、海老茶の袴で、長い髪にはタフタか繻子のリボンを結び、殆ど笑わず、ものも言わぬほど気取っていた。妹の方は、母親が彼女のことは万事二の次にしていて、余り構わなかった上に、彼女自身、男の子のような野生児である。髪は前髪を真中《まんなか》から二つに分けて、両方を護謨紐《ゴムひも》で結わえているのだが、機嫌を悪くしたり泣いたりすると、その護謨紐《ゴムひも》が角のように見えるのだ。仏英和ではその頃、強制的ではなかったが生徒に黒いタブリエ(袖のあるエプロンで、巴里の子供が透徹るような白い額にぴったり黒のベレを嵌《は》め、短いタブリエの下からこれも真白な膝小僧を出して、囀るような仏蘭西語を喋りながら走ったり、跳ねたりしているのは、極度の美なのだが、仏英和の生徒たちのは仕立てが神田三崎町の得体のしれない仕立屋であるのと、子供たちが格好よくないのとで、綺麗に見える子供は全校に二三人位である。ことに着物の上に着ている子供は不格好だった)を着せていたが、妹は綿入れの着物と羽織の袂、その中には襦袢の袖も重なっている、大型の元禄袖を巻紙のように巻き、その太い筒を赤い紐で結えて、その上からタブリエを着ているので、彼女のタブリエの両袖はポンポンに膨《ふく》らんでいた。妹がその格好で学校へ来始めると、私は慌《あわ》てた。同じ俥に相乗りで通うのであるから、一人だけ気取っている訳にいかないのだ。何かぐずり出すと妹は大声で泣き、俥の蹴込みにしゃがみこむので、俥の幌が片方だけ瘤《こぶ》のように出っ張り、そこから泣き声の出る俥を人々は驚いて見まもり、車夫の喜三郎は跳ね上がる梶棒を押さえやろうとして怒《いか》らせた肩越しに、困り果てた顔で「エヘヘ」と、笑った。或日、私が教室で気取っていると、聴き馴れた泣き声がして、幼稚園のスウルに伴れられた妹が、先生の入る扉から入って来た。妹は護謨紐《ゴムひも》の角を生やし、真紅《まつか》な小鬼と化しているのだ。「まあ、どうしたの」なぞと言いながら、私は小鬼を自分の席につれて来たが、羞しさのために辺りが見えなくなり、そこへ気取っているところを邪魔された怒りも混入している私は、(どうしてこんな妹が生れたのだろう)と、泣き熄《や》んで隣の席にかけている妹を横目で見た。 [#改ページ]   続・着物  私が十五になった時、父親は、美しい振袖を拵えてくれた。母方の従姉が十七島田に結って写真を撮るというので、私は唐人|髷《まげ》に結って〈唐人髷というのは明治時代に雛妓《おしやく》が普段に結った髪で、下町の髪だったが、私の母はそのころ山の手の女の子が結った桃割れという髪は趣味が悪いといって、唐人髷に結わせ、高島田も私には背が高くなりすぎるからといって、結綿《ゆいわた》という、芝居で下町娘が結う髪に結わせた。唐人髷に結う令嬢はなかったが、結綿に結う時には山の手の女の子は上品ぶってひわ色ととき色なぞの布《きれ》をかけたりしたが母は真紅《あか》の絞りをかけさせた。私はどんなことをしても山の手の女の子の感じだったので、却って不思議な面白みが出た〉一緒に写したが、従姉も布地は縮緬だったが、柄は私と同じに染めた。父親が三越に頼んで染めた模様は御所解《ごしよとき》風の模様だったが、黒地に桜と紅葉の地紋のある紋羽二重に、模様も桜と紅葉を多く使い、所々に縫いを入れたが、そのころドイツに誂えた洋服にあるような濃い紅や藍色〈父は濃い紅は猩々緋、藍色は海軍|青《あお》といっていた〉、昔からある退紅色や白に近い肉色(黄色みをおびた薄紅色)、なぞに糸を染めて貰った。下着はさや形の地紋のある退紅色の紋縮緬だった。  その写真は特別によく写って、父親は「お茉莉は雛妓《おしやく》よ」と大機嫌だった。雛妓《おしやく》といえば、京都の舞子は観光用に残されているのに、東京の雛妓《おしやく》が児童ナントカ法によって廃止になったのは不公平である。昔は雛妓《おしやく》を見るのは一つの楽しみで、夏、明治座の廊下なぞに、薄《すすき》の簪《かんざし》や団扇形の簪を差し、紺地友禅の絽の振袖なんかのおしゃくを見ると、全くぞくぞくする程素敵だった。歌舞伎の女形のように腰が細くて舞子のように仇気なくない、ませた魅力だった。  十六になって婚約が定《き》まると、父親は博物館で調べたりして、宝づくしの模様の黒地の振袖と、松の芽生えを図案化した(松ぼっくりを松の青葉が抱いているような、茶せんのような模様)模様の紫地の振袖と、四つ花菱の模様の紺地のを誂えた。黒のには白羽二重、紫のには緋にさや形の地紋の紋縮緬、紺のには明るい緑の、裾には表と同じ裾模様の入った下着を重ねた。髪は花嫁が結綿というわけにもいかないので、島田だったが、背が高いからというので、いち[#「いち」に傍点]を低めにしたら、婚家先の親類の中に、下品だと言った人があったらしく、父親は怒っていた。  私は成長するに従って父親や母親の一種変った趣味がきらいになって、折角父親が苦心をして染めさせた振袖より、婚家で染めた平凡な、白茶の雲形に花模様の入った紫地の振袖と、白地に紅入りの熨斗模様の帯が気に入っていたし、母親が歎くほど肥って、顔が丸く、頬は紅くなってしまったのだから、親不孝な娘だった訳だ。他の他所ゆきなぞにも色々と注文をつけて、母親を怒らせた。 [#改ページ]   亀井伯爵夫人とバナナ  私の父方の祖父は津和野の殿様の侍医だったので、家《うち》では亀井家のことを亀井様と言っていて、年に何度かよく知らないが父親は、東京の亀井様のところにご機嫌伺いに行っていた。又そこの家令の増野《ましの》さんの奥さんに、増野|季子《すえこ》という人がいて、よく家に来ていたが、戦後の或日、私の部屋に少間《しばらく》話して居てから丁度台湾から出て来て宿っていた兄のいる奥の部屋へ行きながら、「於菟さまにおもの[#「おもの」に傍点]を申上げてこなくては」といって私をおどろかせた。華族の家で使う言葉らしかった。一年に一度ずつ下されものがあって、大抵反物で、紋羽二重や、羽二重の白無地や、友禅だった。私の着物や羽織になる時が多かったが、緞子《どんす》をいただいた時は客用の座蒲団《ざぶとん》になった。茶色と紺との緞子の時には座蒲団の裁《た》ち残りの細長い布《きれ》で、祖母の男帯を造らえた。薄桃色の緞子は、母親の少女の頃の着物だったらしい紫地に枝垂《しだれ》桜と手毬《てまり》の模様の布《きれ》と合せて、芝居の殿様が敷いているような額縁の座蒲団を造った。眼が醒めるような綺麗な座蒲団で、私が雛祭や誕生日に友だちを招《よ》ぶ時とか、女客の時に主《おも》に使った。  或日水野錬太郎という人から父親が何かの宴会に招《よ》ばれたが、都合が悪くて兄と私が代理として行った。築地精養軒だったが、控え室に入ると大勢の中に亀井伯爵夫人がいた。私の父親はよく「西洋の貴族の女は、人が大勢いる時に一人や二人にだけ話すようなことはない。満遍なく周囲《まわり》の人間に一寸なにか言ったり、微笑《わら》いかけたりするものだ」と言っていて、母親が「そうですか、でもあたしにはそんな上手なことは出来ません」というと「お母《かあ》ちゃんのは黙って座っているのだから貴婦人以上だ。王族だね」と笑っていた。亀井夫人は父親の言った通りだった。肱掛椅子にゆったりとかけ、美しい微笑《わら》いを浮べて話す人の方を見たり、又誰かに一寸何か言ったりしている。夫人の微笑《わら》いは、自分を取り囲んでいる五、六人の人々の、その後の方にいる人人にも柔《やさ》しく投げかけられる。私はすっかり感動して、美しい夫人ばかり視ていた。私は時々、こんなようすをしてみたいと思うが、やっぱり、夫人を敬っている人々で、辺りが一杯だから出来る芸当である。私なんかがやれば、見物人のいない役者のようなものだ。やがて食堂に入ると、素晴しいことに私の真前《まんまえ》が亀井夫人だった。私が夫人の一挙一動を一心に見ていると、果物の時になり、ボオイが果物の盆を差し出した。夫人は私と同じにバナナが好きらしくバナナを取った。そうして皿の上にとったバナナの内側の方をナイフで一皮きれいに剥き、中の身にはす[#「はす」に傍点]にナイフを入れてからフォオクで口に運んだ。「なんて素敵なんだろう」私は感歎して、以来会なぞに行ってバナナが出ると、誰かが見ていますように、と思いながら、亀井夫人の通りにするのである。 [#改ページ]   写真  写真というものがなんであるか? 二十世紀が半ばを過ぎた現代、それを知らない人はない。だが筆者と同様、なんらかの科学的現象によって人物なり、花なりが、ゼラチンの硬化したようなフィルムなる物の上に焼きつくものだ、(焼きつくのか、どうなるのか知らないが、専門家が焼きつけ、と言っているのでそう書いたまでである)位の知識しかない人は多いのである。私はそれを信じたくないが、恐らくカメラがカチャリと鳴ると同時に、疑いを挾む余地のない、厳粛な科学現象が起って、被写体は正確にそれ自身と寸分ちがわない影像を、左右に穴の開《あ》いた硬化ゼラチンの上に焼きつけられるのだろう。それは物体のゼラチン体への正確無比な移植であって、それを疑うものは、宇宙を飛び歩く人間が撮影した月の写真を見て、こんなにでこぼこな筈はないと言い張る人間のようなもので、事実を否定する阿呆人間と言われても仕方がないだろう。だが、しかも尚私は、写真の科学現象を疑っている。それは何故かというと私の顔が、十五、六歳までは実物と同じ人間だということを誰も信じないほどの美人に写ったのが、現在では妖婆にうつるからである。一点|汚《けが》れのない白雪姫が、継母《ままはは》が化けた、邪悪の老婆に変ったのである。いくらか整って撮れたかと思うと、晩年の藤蔭静枝にそっくりである。  永井荷風の恋人に似て写るのは光栄であるが、八十五歳になり、脳出血を患って、少し頭がぼんやりとした藤蔭静枝が、弟子たちに髪を梳《と》いて貰って、枕を支えにわずかに起き上った所の顔にそっくりなのである。二十歳の上老けているのである。  その上に尚且悲哀なのは、私の写真を見る人も、みる人も、少しもおどろかないことである。彼らは口を揃えて、(よく撮れてますわ)、或は(まあ、お若く撮れましたね)と言って祝福するのである。私の方はというと、実物より一寸でも落ちて写っている他人の写真を見れば、(ずっと悪く撮れていますね)と言うのである。実物より綺麗な場合は、(そっくりね)と言うことにしている。ただここに二人の女の人がいて、私を悲哀から救ってくれた。一人は私が「ボッチチェリの扉」という拙い小説の主人公のモデルにした、魅力の充分な、シレェヌのように、人を惹きこむような微笑をする美人の矢野裕子さんであった。もう一人は或パァティで始めて会った女の人である。矢野裕子さんは私の写真をひと目みると、(まるでちがう)と、彼女特有の、可愛らしいアクセントのある言い廻しで、叩きつけるように言い、もう一人の人は私を見て、(まあお若くて、失礼ですけれどお写真の方は……)と語尾を消した。なんの失礼なことがありましょう。写真とそっくりね、と言って下さる方々こそ失礼である。実は悪く写るという恐怖が悪く写る原因らしく、知らないでいるところを撮った写真は四十位の可愛らしいばあさんである。 [#改ページ]   お刺身とサイダー  私と妹とは六つちがいだから、妹が「仏英和」の幼稚園に入った時、私はもう同じ学校の六年だったが、子供扱いされて育った私は妹と一つか二つちがいの仲間の感じだった。お洒落だった私はうわべ[#「うわべ」に傍点]こそ白羽二重の襟を細く出して、紫地銘仙の袂の着物に海老茶(臙脂色のことである。昔は大学生は角帽と言い、女学生は海老茶袴と言っていた)の袴で、白いタフタ(木目《もくめ》織り)のリボンなんかをかけて気取っていて、妹はそういう風俗の私が俥に乗って学校へ行くのを見て、一種の憧れと、尊敬とを抱いていたが(今ではあまり尊敬もしていないようで、その点は萩原葉子も識り合った当時はともかく、だんだん、たよりにならない人物と解ってからは尊敬せずに、母親ぶるようになってしまった。怪《け》しからん話である)中味は妹とあまり変っていない。妹は大変な自然児で、男の子を引率して遊び歩き、交番のお巡りさんに天ぷらそばをおごって貰う、というような生活をしていて、お邸《やしき》の子である私に対して妹は町の子だった。泣くと小鬼《こおに》のような顔になった。杏奴《アンヌ》という名も恥かしいので、友だちにきかれると、「安子《やすこ》っていうんだけど安《あん》ちゃんといっているのよ」なぞと嘘をついた。少女期には詰らないことが死ぬ程恥かしいものである。(青春期になってからは妹は苦みのある微笑《わら》いを持つ、独逸の白い薬草のような女になった。妹の名誉のために断っておく。)  淑やかそうに気取ってはいても精神年齢が低い私は、妹と喧嘩をするといい勝負だった。私は手筐《てばこ》の中や、用箪笥の抽出しを片付ける時に妹を呼び、手伝ったら何かやる積りで、それを言って手伝わせたが、片付けている内にみんな惜しくなって来て、とうとう何もやらなかった。父が「それはお茉莉が悪い」と母に言ったときいた時、私を悪い、とは一度も言ったことがないのに、と思って内心怒った。説明をすればにこにこするだろうとは思ったが、その内に忘れてしまった。千駄木の家ではどういうわけか、土曜日の昼はお刺身と定《き》まっていた。それで私と妹とは楽しみにして帰ったが、私は誰もいないのを見すまして茶の間に入り、妹の皿の上のお刺身を二切れ位、自分の皿に移動させて、知らぬ顔をしていた。やがて食卓についてひそかに見ると、いつのまにかお刺身の数は同じになっている。妹も同じことをやっていたのである。又私は腎臓炎をやって、サイダーを日に大《おお》洋杯《コツプ》に四杯も飲まされて弱っていたが、妹は女中がサイダーの盆を運ぶのを見つけると、どこかに潜んでいて、女中が出て行くとそっと廊下を通りかかる。そうして電光石火部屋に入って来て、サイダーの大洋杯を平げてくれた。日に三度のサイダーの時間における限り、私と妹とは仲よしであった。 [#改ページ]   料理と私  私は料理が好きで、それもなかなか上手《うま》いのだということを人に話すと、誰でも例外なくにやにやと笑う。全く信じようとしないのである。もっとも私がそれをきかされた側の人間だとして考えてみても、たしかにそれは信じられないだろうと思う。のろのろと、不器用に外套《オーヴアー》に手を通す私の格好を見ただけでも、料理に限らず、何一つ家庭の用事が出来る人だとは思われないだろう。人に後《うしろ》から着せかけて貰っても、すらりとは着られない。私が難なく外套を着られたのは、巴里の給仕《ギヤルソン》に着せかけて貰った時だけである。私の父親の小説「ヰタ・セクスアリス」の中に出てくる、男の人の足袋を脱がせる遣手婆さんのようなところが、巴里の給仕や、仕立屋《クウチユリエ》の女にはある。私が外套を着まいとしても着てしまうような着せかた、靴を履きたくないと思っても、履かせられてしまうようなところが、巴里の給仕《ギヤルソン》や、靴屋の美人店員にはあった。私は大体、何もしたくない人間で、小学校の時から靴を履くのも、ランドセルを背負《しよ》うのも下手だった。私は戦時中、雪国に疎開していたが、雪靴の紐が切れると私は雪の中に立ちすくんで、心の中で泣いた。そうして笠置の山を落ちて行った後醍醐天皇が、二人の家来を伴れていたことを羨ましく思った。だが料理は器用だけで出来るものではない。私が上手《うま》いのは料ではなくて専ら理の方である。  人々は私が料理が好きで、結婚時代には正月の黒豆を、水飴で照りをつけて造り、戦後始めて卵を手に入れた時には、ニュウムの弁当箱で二色《にしき》卵を造《こし》らえた、なぞと言っても、にやにやと莫迦にしたように笑い、尚も言いつのると、やや真面目な顔になり、子供の話を聴いてやっている大人の顔になる。男の人の中にはなかなか感心な人間がいて、或若い画家はただちに信じた。もっとも彼は彼自身も、顔つきやものぐさな様子に似合わない料理の名人だからで、私は感激して彼に、巴里の下宿で習ったヴェルミッセルの肉汁《スウプ》の、恐らく日本ではコックも知らないだろうと思う秘伝を授けた。  私の料理は天性らしく、(料理以外は洗濯も、掃除も、裁縫も、小さな紙切れを失くさずに取っておいて、期日までに金を収めたりするようなことも、家庭の用事は一切駄目である)料理に喧しかった母親は、病身になってからは私の造ったものしかたべなかったし、舅だった人も料理にはうるさくて、新橋の芸者だったお芳さんという女《ひと》が造ったもの以外たべなかったが、私の西洋料理を喜び、お芳さんが真似をして造ったほどである。私の腕を信じないで、失礼な言を弄していた萩原葉子は、或日、私が持って行った、鯛と若布、うど、葱《ねぎ》の、白味噌のぬたを試食しておどろき、猫のように小さな胃袋に、大型弁当箱に入ったのを七分通り平らげた。而る後彼女は私に不明を詫び、彼女と同じように私の腕前を信用しないもう一人の友だちに、確かに上手《うま》いと伝えることを私に誓ったのである。 [#改ページ]   明治の新劇  夢をみているのかと思うような、暈《ぼんや》りした眼をあいている小さな顔が、白い羅紗の、広い鍔《つば》がたわんだようにうねうねした、クラウンの平たい、へりに橄欖《オリイヴ》色のびろうどをめぐらし、クラウンを取り巻いた幅広の白いリボンが鍔を通して顎の下で大きく花のように結ばれている帽子と、これも白の毛皮の、マッフ付きの襟まきとの間に埋まったような、西洋の子供のような幼女が、黒の長いマントゥの下から洋杖《ステツキ》の先と袴の出ている、カイゼルのような顔の五十位の男と、お堀端《ほりばた》の暗い闇に、黄色い宝石のように光っている帝国劇場の階段を上って行った。ナポレオン時代の小さな令嬢のような白い帽子の子供と、異様な黒マントゥの魔もののような二人伴れに、人々は眼をそばだてた。それはその日帝国劇場で上演されている「ジョン・ガブリエル・ボルクマン」を訳した鴎外という男とその娘で、着ているのは男がよく似ているのを自慢にしているカイゼル・ウィルヘルムの国から海を渡って来たものである。褐色の髪の、これもカイゼル型の大きな頭。髭は鏝《こて》でねじ上げていて、下り加減の三角の鋭い眼と調和を保っている。そのころ私は後《のち》になって伊太利の黄金色《きんいろ》の午《ひる》の中を歩いては暗い美術館《ミユゼ》に入り、又、午《ひる》の中に出たように、或期間楽しい、明るい日が続いたと思うと、暗い、暗鬱な舞台の前に伴れて行かれた。その舞台は帝劇のこともあり、有楽座のこともあり、どうかすると明治座のこともある。それは不思議な夢だった。恐ろしい夢。何故かそのころ上演された北欧や独逸の芝居は一つ残らず暗鬱で、若い男が暗殺されて、真紅《あか》い帷《とばり》の蔭からその脚が出ていたり、可愛らしいおとめが真白な寝衣の胸を燃えくるう花のような、真紅《まつか》な血で染めて死んだりするようなことが起り、壁に模様のある部屋の中を椅子を動かし、靴の音をたてて歩き廻る男たちも女も、すべて何かの影を曳いていて、表情の動きや、手の動きにも、何かの恐ろしい意味をひそめていた。(モルヒネです)と言い放つエルハルトの白い手は、胸の隠しを抑え、狂気したような眼は哀れな母親を視るのだ。(鍵はここに持っています)。そう言ってブラウスの胸を抑え、狂気したサビイネを見下《みくだ》す世話娘は、サビイネの夫と共謀《ぐる》になって彼女を苦しめているのだ。サビイネが殺そうとしたエジトと寝台《ベツド》をとりかえて、母親に刺され、胸を真紅《まつか》にして父親の腕の中に倒れかかるのは、初めの幕で、(いもうとよ、いもうとよ)と歌っていた、エジトの姉娘のエンミイだ。ボルクマンと、夫人、恋人のエルラの複雑な、陰鬱な争闘も、なんとなく私には解って、私は小さな、狭い胸をどきどきさせたり、固くしたりして、それらの人々の眼や、悪意の潜む言葉、動作に眼をつけていた。悪い奥さんのエルガァは伯爵の膝にかけて、伯爵と情人のオギンスキイとの間に交される恐ろしい言葉を聴いていた。私の幼い心を怯やかしたそれらの暗い舞台の、引摺るような靴の音、冷笑の声音は、今も水底《みなそこ》の音のように、私の耳の中に残っている。 [#改ページ]   明治の新劇の人々 「ボルクマン」、「ファウスト」なぞの、日本で最初の新劇を演《や》った人々は、上山《かみやま》草人、同浦路、伊庭孝、衣川孔雀、東儀鉄笛、加藤精一、酒井米子。歌舞伎役者の市川左団次(先代)、猿之助(猿翁)、寿美蔵(寿海)、松蔦《しようちよう》、左升、等々だった。左団次のボルクマンなんかは、イプセンの写真を見ながら顔を造ってなかなか上手《うま》く、松蔦は後《のち》に岡本綺堂ものに左団次とコンビで出た頃、大正初期の青年たちが女優と信じこんで、憧れて通《かよ》った位、頸が細くて華奢《きやしや》で可愛らしい顔なので自然だったが、大抵の役者は赤毛が似合わなかったし、ゴツゴツの大男《おおおとこ》が山猿のような顔を白く塗り、どういうわけか髷がお供えのように二つ重《かさ》なった赤毛の束髪に肩の怒《いか》った洋服で、水玉模様のエプロンをした女形なんかは(これは「馬泥棒」の街娼の一人)すごかったが、主な役の人は皆|上手《うま》かったし、(他《ほか》の人も熱心で、舞台にたるみを見せるような役者は無かった)小山内薫《おさないかおる》の演出がよかったらしく、芝居は例外なく面白かったようだ。私にとってはそれ以上、どれもこれも恐怖と感動の舞台だった。白いブラウスの厚い胸に手を遣って、(鍵はここに持っています)と憎々しく言い放ってサビイネを苛《いじ》め、私の小さな胸をドキリとさせた女形は誰だったろう。(モルヒネです)と言って、チョッキの隠しを母親に示し、私を怯《おび》やかしたのは猿之助だった。ダァウィンのような上山草人(彼は書斎の場はよかったが、メフィストフェレスの魔法で若返って、羽飾りのある大きな帽子を被り、ちゃんちゃんこのように袖の無い外衣《ガウン》のようなものを着て、真白に白粉を塗ってからは全くいただけなかった)が(哲学も医学も文学も、あらずもがなの神学もことごとく研究して、そうしてここにこうしている。気の毒な、莫迦な、俺だな)なんて言って天を仰いで悩んでいる暗い書斎に、音もなく現れた伊庭孝のメフィストフェレスは、きびきびと、生きた海老のようで、ノオトゥル・ダムの怪物《シメエル》の中の痩せたののような顔の額の真中に昆虫の触角のような雉《きじ》の尾羽を尖らせて、薄暗い中を自由自在に飛び廻った。彼がファウストの顔を窺って、(胸には黄金《きん》の飾りがついています)と言うと、私には彼がファウストを誘惑しているのがわかる。私はまばたきもせずに息をつめた。何しろ日本ではじめて、ゲエテの「ファウスト」をやる、イプセンの芝居をやる、というさわぎだったから、役者たちは熱心の塊《かたまり》になって、若い役者は(僕は若いんです)と年中言い、歌舞伎の若者は(家《うち》の親父《おやじ》は頭がない)と言ったりし、親父は親父で、(何をいやがる。世の中に頭の無い人間があるものか)なぞと言っていたらしいが、日本の新劇の黎明《れいめい》の鐘の音は、それらの騒然とした中に、鳴りひびき、東京の中にいる限りの芝居好き、文学好きの若者たちは黒い蜂の群のように帝劇に、有楽座の三階の立見席に蝟集《いしゆう》し、彼らは、紺絣の腕を組み、厚い羅紗のマントの体を寄せ合って、それはまるで一つの青春と憧憬との黒い群像であった。 [#改ページ]   大正の新劇と、その人々  明治の新劇は引きつづいて、さかん[#「さかん」に傍点]で、「寂しき人々」「マクベス」「幽霊」「出発前半時間」「夜の宿」なぞをやっていて、「マクベス」は特に印象が深く、「画に描いた鬼を見てこわがるのは子供のことでござりまする」なんて言って夫のマクベスをけしかけ、王の寝室へ追いやり、自分も手伝って王を殺させる、マクベス夫人という悪女が、王の暗殺後に発狂して、血がついた記憶の除《と》れない手を夜中に起きて洗うところも面白かったが、魔女の洞窟の入口に立つマクベスに魔女たちがした、王の義勇軍に敗れる最後の日の予言が、最後の幕で当るところも白《せりふ》まで覚えた。その内に松井須磨子が現れて、「人形の家」や「海の夫人」「マグダ」「トスカ」なぞを演ったが、大正に入ると「カルメン」「復活」「モンナ・ヴァンナ」「緑の朝」を演り、ことに「復活」のカチュウシャが評判になって、須磨子は「復活」を持って全国、でもなかったかもしれないが主《おも》な都市は殆ど廻ったらしかった。カチュウシャ巻きという髪やカチュウシャ止《ど》めという丸いお下げ止めも流行り、酒屋の小僧は「カチュウシャ可愛いや別れのつらさ」と歌いながらお味噌を配達していた。「復活」は上野の納涼博覧会でも演り、母親と妹とで見に行ったが野外劇で、すごい人出だった。九つ位の妹はわけがわからずに芝居が好きで、人混みを分けて行く母の手を引っぱって前の方へ出ようとして夢中になっていた。一条汐路なぞも出た。須磨子は器用ではないが体当りでなんでもこなし、「マグダ」や、「モンナ・ヴァンナ」なぞを想い出すと、たしかに一人の大女優だった。島村抱月の演出もよかったらしい。須磨子は自由劇場の衣川《きぬがわ》孔雀のように特異な凄みと魔力のある女ではなかったが、魅力があって、島村抱月をとりこ[#「とりこ」に傍点]にし、楽屋では大変我儘で、抱月が死ぬと生きていられなくなって哀れな自殺を遂げた。私の父親は衣川孔雀が須磨子に比べて芸に謙遜なところが好きで、美も認めていたが、母の方は須磨子が好きで彼女が或日家に来た時は喜んでいた。四畳半に行ってみると須磨子が、盛り上ったような太い膝で、派手な明石の着物でかしこまって坐っていた。これも太い指には牛乳の中に虹が光っているような指環を嵌めていた。(オパアル?)子供の眼にも、どこかふとい[#「ふとい」に傍点]ところのある、だが可愛らしくもある感じだった。太い声に驚いた。衣川孔雀は父親が「千人切り、千人切り」と口癖に言っていた男で、その父親に抱かれて寝ている内に千人切りが大変偉いものだと思いこみ、すごい魔力のある女に成長した(上山草人の小説を信用するとだが)という女《ひと》で、後に歯科医の奥さんになって、誰かが訪ねて行くと、地味な大嶋に濃い紫の前掛けをしていたそうだが、そういうなり[#「なり」に傍点]は眼の大きな鼻の高い、所謂美人がやると、変にいき[#「いき」に傍点]すぎるが、眼立たない、一寸女学生風の孔雀がすれば素敵にちがいない。 [#改ページ]   カフェ・プランタン  帝劇から、真暗な中にお堀端の柳が仄《ほの》かに見え、その後《うしろ》にお堀の水が暗く、黒く沈んでいる外に出た、真白な帽子のお化けのような子供と、黒い、長いマントォの下から出た仙台平の袴をシュル、シュル鳴らし、黒檀《こくたん》の太い洋杖《ステツキ》を突いた男との二人連れは、日比谷公園の角を曲って銀座に出た。ここにも暗い中に柳が暈《ぼんや》りと立ち並び、土や雨に湿った木煉瓦《もくれんが》の舗道が続いている。明治の銀座は暗く、店々の黄金《きん》色の電灯の光が洩れ、微《かす》かな、だが厳然としたといってもいい位の、確りした西欧文明の香《にお》いが、商店の中に、人々の服装《なり》に、誰かが|隠し《ポケツト》に入れている外国煙草やパイプに、居据《いすわ》っていて、カルダン、プレタポルテ、オォトゥ・クウチュウル、なんて言う広告文句のバカ騒ぎと一緒に入って来る(巴里の流行)なんかではない、ほんものの西洋文明が、あった。神経のある、西洋のわかる人々だけが西洋のものをたべ、舶来|唐物《とうぶつ》を身につけていた傾向があったからだ。一方、明治になる前の江戸的なものも、これ又厳然と残って、根を浚われないでいた。田村屋の唐棧縞の浴衣《ゆかた》、さのやの足袋、菊秀の切り出しや、鏡花の出刃打ちが持つような出刃、そういう老舗《しにせ》がひっそりと栄えていて、くさやの干物で夕飯をたべた老舗の旦那がカフェ・パウリスタや、メゾン鴻の巣で珈琲をのみ、外国煙草をふかす、という感じだった。銀座から話がはみ出すが、不忍池は上野の山の下に鈍い銀色に光り、蓮番人の古びた小舟がもやっている池は夏になるとガワガワと重なり合う蓮の葉で一杯になり、上野の杜の明け烏が鳴きわたる前に、薄紅と白との蓮の花の開く幽《かす》かな音がした。フランス人が涙の木といっている柳がこの池のまわりにも立っていて、冬は焦茶色の木になり、面白い形に折れた蓮の茎や、蓮の実と一緒に素晴しい風景を造り出していた。  さて黒マントの男と白い帽子のお化けのような幼女とはカフェ・プランタンに入った。卓子《テエブル》について、白い帽子と白い毛皮の小さな肩かけとマッフをとって貰った私は明るい店の中を見た。帝劇にいた黒い蜂の群はここにも群がっていた。劇場の中では、憧憬と熱情を内にひそめて、しんと鎮まっていた彼らは、ここでは透徹った黒い翅をブンブンふるわせて、喋り、笑っている。劇場で黙っていた若ものにも、カフェでがやがやしている若ものにも、異様なほどの熱気が孕んでいて、それが幼い私にも電気のように伝わった。やがて運ばれて来た珈琲の茶碗を私は父親がミルクと砂糖を入れるや否や口へもって行った。珈琲がはじめての私は父親がミルクや砂糖を入れたのをみてよほど美味《うま》いものだと思ったのだ。父親が「お茉莉、熱いぞ」と言ったのも間に合わなかった。すると手もとが狂って、熱い珈琲が胸にかかった。父親は私をつれて店の奥へいって、ボオイに絞ったナフキンを貰い、着物の胸を拭いてくれたが、驚いた私の頭の中は「ボルクマン」の舞台の恐怖と母に怒られる不安とがすっかり入れ交ってしまった。どっちも恐怖である。 [#改ページ]   家《うち》に来た役者たち  或日父親のそばにいると隣りの花畑の部屋(草花だけの庭に面した部屋で、私と父のいた部屋は父の書斎といえば書斎だが、本棚もなにもなく、白河楽翁公の机に模して造らせた経机のような殿様の肱つき机を一寸幅を広くした位の小机と手廻りの書物やペンなぞがおいてあるきりで、二間開け放してあって、両方とも客間になっていた)との堺の敷居際に、体の容積だけ光を遮切って大きな男が突っ立っていた。恐らく玄関から案内されて入って来たのだろうが、私は俄かな大きな人間の出現に驚いて、その男を見た。額際から逆立った、真黒な太い髪は完全に鴨居にくっついている。骨太で、頬骨が高く、大きな口元さえ骨の一部みたいにごつい男で、又ごつごつの木綿の着物がつんつるてんで太い骨のような脛がにゅっと出ている。人に馴れない山から来た恐ろしい鳥のようだった。それは上山草人だった。メフィストの魔力で若くなったファウストの顔はたしかにそのゴツゴツした顔を白く塗ったものにちがいなかった。教会へ行くための、粗末だが聖《きよ》らかな白い衣《きぬ》を着た孔雀のグレエトヘンが、寄り添って、肩に頭をもたせかけ、緑色のアイ・シャドオのせいか青みをおびた眼の、瞳を上瞼《うわまぶた》にひきつけて、見上げているのが、なんともいえなく綺麗なのに、その寄りかかっているファウストの方が真白く塗った大猿のようで、しかも大きな口でにやりと微笑ったのには失望した。伊庭孝(いばたかしというのだろうが父母はいばこうと言っていた)と衣川《きぬがわ》孔雀とは、小味で、切れる役者だった。伊庭孝は白面《はくめん》の貴公子で、家《うち》へ来て話していても眼から鼻へぬける感じがあり、ようすも小粋《こいき》だった。父親と彼が話していると、ファウストとメフィストフェレスのようにも見えた。「出発前半時間」(巡業中のオペラ役者の楽屋に彼を恋した貴夫人が来て、ピストル自殺をする軽い芝居)の話が出て、母親に「奥さん、奥さん(その貴夫人役のこと)でお出になりませんか」と言うところなんかギャランだった。その時母親の顔がかすかに紅くなったが、こんなよろめきは許されるだろう。母親は父親に命がけのように恋していて、絶対によろめきはしないからだ。三十五、六の母は少女のように恋をしていたのである。父親はにこにこ微笑《わら》っていた。伊庭孝は或日、青葉の影で薄青い奥の部屋で父と向い合って座っていたが、父親が「君、どうしても止めるのか」と言うと黙って庭の方に顔をそむけた。彼が上山草人たちの劇団を抜ける話をしに来たのである。父親の淡泊な、それでいて、止められるものなら、という気持も(多分両方に親切な)たしかに見える、様子と、青葉の反射で青白かった伊庭孝の片頬とは、ひどくきれい[#「きれい」に傍点]な記憶である。父親の、柔《やさ》しい、だが淡泊な性質と、ふと後《うしろ》めたくなった伊庭孝の、一寸|狡《ずる》いような感じが、青葉の影の中に、浮き出ていた。 [#改ページ]   婚約者  山田珠樹が婚約者となって、千駄木町の家に現れたのは大正七年十月の初めか、或は九月の末だった。赤坂第三聯隊第五中隊に一年志願兵で入隊中の見習士官だった山田珠樹は、始めは日曜日だけに来た。見合いの時の、見習士官の軍服を脱ぎ捨てて、紺の背広で颯爽として、山田珠樹が千駄木町の表玄関に現れた時から、パッパのお茉莉はその傾く目盛りを百度とすれば二、三十度がた珠樹の方に傾いた。時は大正七年で、まだ明治の尻尾がどこかにたなびいている。女学校の生徒の間で Sex に関係した会話がひそかに交わされるというようなこともなかったようだし(成績の悪い二、三人の不良分子の間にはあったかもしれない)その上爺さん婆さんの間に育った一寸法師的な私は、幼い時とあまり変っていない。凝《じつ》となにかを視ている間に、周囲にあるものの中から、何かの隠されたもの、真実を、見つけ出す能力のようなものが幾らかあるばかり。presentiment はあるから、紺の背広の青白い青年に、父親とは全く異ったものを見つけたのは事実らしいが、正直のところ、父親の愛情の他《ほか》にもう一つの幾らか異った愛情を、つまり甘い豊富《たつぷり》ある蜜の他に少し味の変った菓子を見つけて、その二つともを右と左の手に持っていたい、という心境である。父親と自分との甘い蜜の世界を、絶対のものと、思っていて、母親も兄も、妹、弟も、その圏外の人間だと思っている。  紺の背広の山田珠樹になるまでの、見習士官服の山田珠樹は私にとって「いい人らしい」、にすぎなかった。軍隊にはオーダアの洋服は売っていないが、特大肥満の青年用はあったらしく、広い肩幅からも胸の幅からも、カアキ色の見習士官服ははみ出して、余っていた。父親の顔や姿を認識しはじめた三つのころから、ロンメルに扮したジェムズ・メイスンよりずっと高級、学識の美と見識の香気がカイゼル・ウィルヘルム二世に文学の煙を纏わせたような顔と姿とに燻《く》ゆっている、いかしにいかした[#「いかしにいかした」に傍点]軍服の男を見馴れた私の眼にはいただけなかった。紺の青年は十月末になるや、或日ホオムスパンの青年紳士に変った。(これはホオムスパンです。父が造ってくれました)と青年は誇らしげに言ったが、父親が醸しだしている一九一〇年代の独逸のハイカラを呼吸している母娘にはその布の名がわからなかった。だがわからぬなりになんとなくいい織物である。市川左団次から「虞美人草」の甲野さんに憧憬が移っていた少女の眼に、山田珠樹の唇元《くちもと》を左へ曲げる癖のある皮肉たっぷりの微笑《わら》いと、これも又皮肉味のあるものの言い方、額の秀でた青白い幽愁の美は容易に滲透した。(友だちが山田の笑い方は皮肉だって言うんですよ)。このフランス文学銀時計の青年の殺し文句も勿論、低いとこに流れる水のように滲透した。大悪党ではない。普通の、一寸した不良の青年であるが、真白な卵のようなお茉莉にとって、この水はチフス菌入りで、あった。 [#改ページ]   続・婚約者  千駄木町、団子坂上の左角に交番があり、交番と対角にある八百屋や生薬屋《きぐすりや》、質屋、物集家《もづめけ》、なぞがかたまった一廓を囲んで大工の曲り尺のような形に建ち、後には酒井子爵邸を控えている大きな家の中(私の家の左隣りの野村酒屋は酒井邸の、通りに面した一部を侵略していた。侵略したわけではなく、始めから建っていたのだが当時としては一寸そんな感じなのである)に、「桃太郎」の爺さん婆さんのような父母が、柔かな木の枝や、布切れを集めて造った巣があって、その中に真白な卵が入っていた。紳商山田陽朔(山田珠樹よりずっと人物が偉きい明治の紳商である)の長男の大正人山田珠樹は、その白い卵が「虞美人草」の甲野さん(無論「虞美人草」が新聞的すぎただけで甲野さんは立派である)にひそかに憧れていた(これは父親も知らない少女の秘密だった)という希ってもない偶然の地の利を得て、その上に立っていたから、婚約者としてのいい意味での誘惑にせよ、彼の白い卵への誘惑は、全くスラスラと進行した。その上に、私には「ファウスト」の時の伊庭孝のメフィストフェレスの、小気の利いた、皮肉な、ノオトゥル・ダムのシメェル(怪物)的な顔と、敏捷な動きを持った、紅いところに黄金《きん》の刺繍のある姿にも(音のない、悪魔的な、時々跳ねるような、川の中を走る蛇のような彼の動きは、たしかに小山内薫の演出の域から一寸ばかりはみ[#「はみ」に傍点]出した演技だったのに違いなく、翻訳をした父親も認めたし、批評家の人々の中にあった〈あれは江戸っ子のメフィストである〉という揶揄《からかい》は、私の幼い眼に残った印象からも、当っていないと、私も稚な心に[#「稚な心に」に傍点]信じている)相当にいかれていた傾向があったし、素顔で奥座敷に現れた、青白い伊庭孝にも、十二歳の頭で憧れたようだ。そこにも山田珠樹の婚約者としての誘惑を滑りをよくした原因があったようだ。事実、山田珠樹は伊庭孝のメフィストに動作が似ていた。父親がファウスト、母親がマルテ、珠樹がメフィスト、私がグレエトヘンで、「ファウスト」の読みの真似をやった時も、彼のメフィスト役はぴったりしていた。私が一寸ぬけて、彼がグレエトヘンの白《せりふ》をやった時、(だぁって……)と言った彼の口調はたしかに、相当のお嬢さん殺しだった彼の近い過去の気配が窺われたが、私はなんとなくそんな風に思っただけで、むしろ誘惑を覚える結果になったようだ。(後になって私は殺されたお嬢さんに会ったが、その時偉い学者のその女《ひと》の父親が書物机《かきものづくえ》に片肱をついて、顔を斜めにして私を視た、薄暮の部屋の光景は今も頭に残っている)そんなわけで、婚約者山田珠樹は、小山内薫的美貌と、甲野さん的、メフィストフェレス的表情、或は動作によってやすやすと白い卵に淡い色彩を与え、稚い、無言の応えを得た。話は別だが伊庭孝のメフィストは柄に助けられはしたが、優秀だった。もしあれが小山内薫の演出なら、他の役者たちももっといい動きをした筈だからだ。 [#改ページ]   結婚披露宴  私は紺の背広で千駄木町の家の玄関に現れ、唇の端を右へ歪める、メフィストの微笑いを浮べ、友だちの御木本隆三の店(御木本真珠店)で買って来た薔薇色と白との大粒の養殖真珠を、紺の背広の隠しから手品師の手つきで取り出して私に呉れたり、(その時母親が「まあ、指輪にしましょうかねえ」と言うと「茉莉ちゃんに掌の上に転がしていて貰いたいな」と言い、私は素敵なことを言われたような、自分がお姫様になったような気になったが、母親は彼が帰ると、「きざなことを言うねえ」と笑ったのである)父親の本が入っている土蔵に私をつれて入り、二階の、お染久松の土蔵の窓のような窓から私が黄金色《きんいろ》に眩しい庭を見下ろすところを後《うしろ》から腰を抑えるようにしたり、帝劇のローシー歌劇の「ファウスト」を観た時には、右隣りの母親に知れぬように何か言う時、脚の上の方を突ついたり、或は又「ポオル、エ、ヴィルジニィ」の話をしたり、というような、どこか仏蘭西文学の香《にお》いのするやり方で私という白い卵を温め始めてから、前にも書いたように、そのころはブリアリ(フランスの役者)のような男の人がいるとは知らないから(もっとも大正時代ではフランスでも、ジャック・カトランとかいった大甘にしてかつ大甘の役者を、又もっと古くしたような役者がいたのだろうから、青白くて、少し浅いが虞美人草の甲野さんでないこともない珠樹の方がましかもしれない)、パッパのお茉莉は二、三十度珠樹に傾き、三田台町へ遊びに行くようになると、珠樹の家族たちの間での甲野さん的あり方や、仏蘭西文学の本に囲まれた、暗い、彼だけの城のような、一寸カレエニンの部屋のように冷たい、二階の書斎を見るに及んで、いよいよ傾斜の度合いは大きくなった。茶の間で姉たちと少間《しばらく》いてから、「茉莉ちゃん一寸」と先に立ち、黒っぽい着物から出た青白い脚と黒繻子の足袋の白い底を見せて書斎の方へ導くような時、長尾幾子が「茉莉さんフランス語?」と、意味あり気に微笑うと、私はなんとなく困って急ぎ足になり、逃げるようにあとを追った。だが、である。ほんとうに傾斜したのではなかったようで、その証拠には結婚式にも感動しなかったし、披露宴でも、美味しい料理に神経が集まっていたり(もっとも大体そういう人間ではあるが)山田陽朔がニイチェのような髭をもくもくさせて「準備万端、不行届き」と喋べるのをじろじろと視たりしていたのである。しかも父親のところへ来た賀古鶴所に酒を運んだ時、秘密で廊下で酒をなめて見たことがあって以来好きになっている日本酒らしいものをボオイが注いで去ると、あたりを窺い、間違えたふりをして少し宛飲んで北叟笑んでいたのである。シャアベットが出た時、父親がそっと席を離れ、私の後へ来て、囁いた。 (お茉莉、今来たのは酒が入っているから飲むな) [#改ページ]   三田台町の食卓  私が山田家に、嫁ぐことになると=もっとも私の場合は嫁ぐというようなニュアンスはなかった。嫁に行くというのに、教訓らしいものは何一つ与えられない。後になって映画で、嫁に行く娘が父母の前に両手を仕えて、育ててくれた恩を謝すのを見て、魂の底からおどろいたのである。その上米を磨《と》ぐことも炊《かし》ぐことも知らない。出来るのは鮭の白ソオス位のものである=父親は「お茉莉が毎日西洋料理をくうだろう」と言って、微笑《わら》った。私が、嫁に遣る娘として甚だ心細い娘なのを知る父母たちは、金持ちから来た話を躊躇なく受けた。そこで私を溺愛していた父は、今のようなことを言って微笑っていたのであるが、その父親の歓びはみごとに、外れた。山田家にはお芳さんという料理の名手がいたが、西洋料理というものはオムレツ一つ造らなくて、オムレツも早川亭という近所の、岡持《おかもち》みたいなもので運んでくる西洋料理屋からとった。陽朔が毎朝たべる半熟卵とトオスト位が台町の西洋料理である。  台町で困ったのは入浴の順番で、私が一番後なのである。親子、兄弟の順で、男は女より上である。年は私より一つ上だが、たった一人だけ私より順番が下の義妹と一緒に入った。何故それが困るかというと、私は化粧も着物を着るのものろいので義妹は先に化粧がすむ。隣の茶の間の食卓では皆が揃って、私の現れるのを待っているのである。「茉莉や、お化粧はもうそれ位でええや」と舅が隣から言うと、夏はあとからあとから汗が出た。その上に三日にあげず嫁いでいる義姉とその夫、子供たち、中村のおじさんという、関係のよくわからない人物なぞが来て、夜の食卓は二十人を越える。牛鍋と刺身と酢の物にお椀、それに法蓮草の浸しなぞが出るが、牛鍋というものは一緒にたべるものに定っているとして、刺身も一緒盛りである。立派な鯛や平目であろうと、錦手《にしきで》の皿についていようと、一緒盛りというのは、このごろ流行《はや》るパァテイの料理同様、苦手である。  実家では、一人前を自分のものとして確保していたのにも拘らず、妹の分《ぶん》を二切れこっちへ移動させた位の刺身ずきの私は、先ず三切れ位小皿にとっては窃かに様子を窺った。それでお芳さんが粋《いき》な発音で、「一しょ盛りにして頂戴」というのを聴く度にがっかりした。舅が「茉莉や、一杯飲めや」と盃をくれたり、早川亭のものの中では出色の、ロオスト・チキンを割《さ》いたのを分けてくれたり、豆腐を小皿にとる私の手もとを見て「茉莉は箸遣《はしづか》いがうまい」とほめたり、その合間合間に私は刺身をねらい、牛肉をねらった。そこへ又大きい方の義弟が遠くから箸をのばして来て、牛肉は生煮《なまに》えのうちにどんどん義弟の口に放り込まれてゆくのである。すべてに「お先《さき》へ」「お後《あと》へ」と挨拶の喧ましい家で、義妹の富子以外は私は「お後《あと》」の方であるから、目上の人の箸とぶつかってはいけない。とにかくしんの疲れる食卓であった。 [#改ページ]   鮭の白ソオス  魚藍《ぎよらん》坂を上がって三田通りへ抜けるごみごみした狭い道に、大きな家が三つだけあった。一つは賀陽宮《かやのみや》の家、一つは岸という人の家、(岸さんの隣といえば誰にでもひと言で通じたが、私はどういう人だか知らなかった。今も知らない。私は芸術方面の人以外の名前を知らないので、私の前で有名な人の名を言う人は、反応のない私の顔を眺めて隔靴掻痒の感を味わうのである)もう一つはその隣の石塀の家で、それは私が結婚した山田珠樹という人の父親の家である。その宏大な家の最左端の、日本館の二階に移り住むようになってから間もないころ、夫の姉婿の長尾恒吉という人物が実家に来て、私の父親に言った。「茉莉さんは台町《だいまち》の台所に一度も出ないようだが、そんなことでは困る。少しずつでも馴れるようにして貰いたい」。お茉莉に甘い父親でなくてもそれは難問題である。舅の陽朔の妾《しよう》のお芳さんによって采配をふられている、三田台町の台所は、三年位料理の習練を積んだお嫁さんにも手の出せない台所である。新橋、吉三升《よしみます》に半玉から出ていた、一流ではなかったらしいが相当の、新橋村育ちのお芳さんは、女中たちは高野さんと呼び、家族はお芳《よう》ちゃんと呼んでいるが、母親、奥さん、の称号を与えることを、つまりナントカ、ダッチェス、ウィンザアの称号を与えることをはばんでいるのは珠樹一人である。穏《おとな》しい、意地悪のない女《ひと》であるが賢くて、陽朔の故郷の広島の料理をマスタアし、それを粋化《いきか》した料理の名手である。五、六人の、茉莉より七つ位年上の、背も体格も大きい女中がそれぞれ煮方、焼き方、洗い方をやり、静かで乱れのない、お芳さんの采配で、手早く料理は出来上る。お芳さんは陽朔を脅かすのも、すねるのも静かな戦法で、芸者にも暴れるのも、金切り声を出すのもいるだろうが、彼女は無口でいつも静かである。「クレピュスキュウル・デ・ナンフ」(ニンフの黄昏)の中で希臘の置屋のマダムがやる教育に似た新橋村のしつけ[#「しつけ」に傍点]である。そこへお茉莉が飛びこんでも運び方もむつかしい。「お芳さんの統率している台町の台所では茉莉にはむつかしいでしょう。あれで家ではなかなかうまい料理を造りますよ」と、父親は言って、綺麗な微笑を浮べて恒吉を見た。母親も危ながったが、お茉莉はどうしたのか敢然実行した。お芳さんが意地悪でなかったからである。その日お芳さんは座敷に引っこんでいた。鮭の切身を十七、八枚買わせたのは滑稽だったが、女中をこわごわ使ってやると、神の助けか成功で、家族が擽ったい顔を隠してズラリと並ぶ食卓へ、薔薇色の鮭の上に卵入りクリイム色の、だま[#「だま」に傍点]一つない白ソオスをかけたのが次々と運ばれた。西洋料理は料理店のしか知らない舅も家族たちも満足した。「このソオスはどうなさいますんですか?」お芳さんは小型の髷《まげ》(丸髷のこと)の髪を傾けて、白ソオスを口もとに運びながら言った。 [#改ページ]   三田台町の降誕祭《クリスマス》  生れた家で毎年、洋室といっていた、たった一間《ひとま》の西洋間の真中に大木《たいぼく》のようなツリイを小さな樽位の鉢に立て、父親と母親とで二《ふた》晩がかりで飾りつけ、三人分の子供への贈物が、その大木の根元に山のように積み上げられた、夢のような降誕祭《クリスマス》をやって貰っていた私は、結婚してから最初の降誕祭を山田の家でやった時にはいささか、もの足りなかった。山田陽朔はイリス商会という貿易商社で育ったので、降誕祭《クリスマス》をやるという習慣は知っている筈なのだが、若い時から相当の遊び手で、結婚後は新橋の吉三升《よしみます》からひかせたお芳さんをうねめ町《ちよう》に住まわせていた、粋《いき》趣味の人なので、西洋式の降誕祭なぞはやらなかった。結婚後最初の降誕祭といっても、十一月二十七日に結婚したのでその年は親類廻りをしたり、私が風邪をひいたりで、結婚した翌年のことである。  地味ななり[#「なり」に傍点]を渋い茶色の、男のもじり[#「もじり」に傍点]のような角《かく》袖コオトで包んだお芳さんと、彼女と対《つい》の外套にらっこの襟巻と、トルコ型の帽子(若い人は「ドクトル・ジバゴ」の、オマァ・シャリフのジバゴが被っている毛皮の帽子だと言えば解るだろう)の山田陽朔、≪外套の下は普段着らしかった。そのことは彼にあまり気がないことを示していて、盛大な降誕祭をやって貰う習慣を持っている私が一員として家族に加わったために、その年から始めたらしい形跡もあった。何故なら珠樹の腹違いの弟の俊輔《としすけ》、豊彦《とよひこ》、妹の富子なぞが、いやに勇み喜んでいたからだ。彼らは私と殆ど同じ年なのにも拘らず、私よりずっと大人で、毎年の例になった降誕祭をやるからといって、そんなに嬉々としたものを表わす筈はないからだ。山田陽朔は、お芳さんを正妻に直すことに大反対の、長男の珠樹が、やっていることといえばわけのわからないフランス文学だし、彼は自分のしていることは軟文学でも厳然たる明治の男子《なんし》であって、にやけ文学を嫌い、漢詩を紙に書いたりしているから、余り珠樹を愛していないが、嫁の茉莉の父親が軟でない方の文学で、且又長男の出世と関係がある。金が目当てでない茉莉も気に入っている、なぞで、その夜の演出になったようでもあった≫慶応の学生服にオーヴァアの俊輔、豊彦、雛妓《おしやく》のような富子、それに私とはハイヤーに乗り込み、銀座をさして走った。資生堂や白牡丹に車を止め、私と富子は天鵞絨《びろうど》の肩掛(私のはお納戸、富子は紅い臙脂)と、珊瑚の入った束髪の飾ピン、男の子たちもそれぞれ高いものを選んだ。男の子達は車の奥にかけた儘のお芳さんが、陽朔のを預かった皮財布からとり出す札を受取り、自分たちだけで車を下りて行った。陽朔はらっこの毛皮に挾まれた関羽のような、髭の顔で窓の外を眺めてい、車の奥に髷の首を据え気味にしているお芳さんは、明治の芸者上りのご新さんというものをその一身にあらわしていた。お芳さんもその夜は陽朔の財布から、クリスマスの贈物、という、ハイカラなお札を貰ったのに違いなかった。 [#改ページ]   谷中清水町の家  谷中清水町、といっても今の若い読者にはわからないだろうが(と明治老人ぶるが、私も住んだから知っているのにすぎない)谷中清水町というより上野動物園裏といった方が誰にも直ぐ場所がわかるが、長唄の「よいやまち=宵は待ち=」の終りのところにある鐘は上野か、浅草か、の上野の鐘の方の、谷中寛永寺にほど近い、=と一葉ぶろう=上野の山下と、菊人形の団子坂から上野の山へ抜ける、菊見煎餅のある道とを繋ぐ電車道の裏側の通りである。団子坂から上野の山に抜ける道から先へ行くと坂下町になり、護国寺になり、西新井となって、もう田舎になってくるのである。池之端にも近い。つまり守田宝丹にも、十三屋にも、揚出しにも、蓮国庵にも近い。池之端から団子坂へ折り返す市電の辺りには今もあるかもしれないが先代の三津五郎の家があった。三津五郎の家があるから粋《いき》なのではないが、江戸三座の時代からその辺は役者が多く住み、又妾宅なぞもあったところらしい。その証拠には、山田珠樹が越す前に、本の山を柳行李詰めにして幾つも幾つも送りつけたら、(今度来るのも役者だよ)と近所のお内儀さん、酒屋の小僧、下女、娘っ子なぞが期待したというのである。第一、その家には男の人の手洗いがなかった。妾宅用に建てた家に次々と役者のような、粋《いき》な家を希む人間が住んでいたらしい。その辺は上野の鐘が近くきこえる、粋な町住居的横丁だったのである。津和野の藩主亀井の殿様に仕えた侍医の子供の森林太郎という、江戸的情緒と絶対関係のない、むしろ氷炭相容れない上野の戦争なら錦布《きんぎ》れの方の父親を持ち、学校はお茶の水、生れ落ちるから山の手令嬢(令嬢は良すぎる。ただ林太郎が鴎外になり、その鴎外の家の感じの中では、令嬢の感じになってしまったのである)の私だったが、引越すや否や、その町筋の一種名状すべからざる粋なたたずまいを感じ取らざるを得なかった。その谷中清水町一番地なる家が私と山田珠樹との新婚の家である。狭い玄関を上ると奥の台所との間にある玄関の間《ま》には通りに面したところが連子《れんじ》窓になっていて竹の簾がかかっていた。玄関から右へ入ろうとするとお茶室式にアラビアの扉のように上が円くなった形に壁がくり抜いてあり、その部屋は天井も七分までは普段の天井だが、三分程からは庇のように傾いていて、これも茶室式である。その奥がどう見ても寝間《ねま》で=寝室ではない=隣りとの堺は待合か小料理屋式の庭があり、庭に面して濡れ縁がある。それも料理屋風に切った鮑のような風に斜めに段々が切りこんである。濡れ縁から手洗いになっていて、前にも言ったように男の人の手洗いはない。越してみるともう竹の手拭いかけに片《かた》っ方《ぽ》の端を藍壺に浸して染めたような手拭いが家主の気遣いで(家主は大工)かけてあった。 [#改ページ]   続・谷中清水町の家  さていよいよ山田珠樹が奥さんを伴れ引越してくると、役者どころか(顔は役者の感じなのだが新劇役者である。メフィストフェレスの伊庭孝である。もっとも明治四十二、三年のイプセン騒ぎの時、「僕は若いんです」と親父を怒らせた役者がいい爺さんになって近くに一人位いたとすれば「おや、おや、小山内薫に似ているな」と言ったかもしれない)青白い老《ふ》けた書生のような男で、文部省嘱託というわけのわからないお役人で、毎日上野の山へ登って行っては帰ってくる。奥さんは(婦系図《おんなけいず》)=泉鏡花=の令嬢をみっともなく太らせて西洋くさくしたような女であるから、近所の女たちはがっかりした。山田珠樹は平常から、(僕より上の奴はもうそれ以上には行かない。年下の奴はこわい)と言っていて下役の人や学生には「君、君」と友達のようにし、あんちゃん、あんちゃんと妹に親しくし、私の母親は「鴎外夫人」以上には出世しないからか(しかも間もなく未亡人に下降の筈)あんまり親切にしなかった人物であるが、それとは別に、出入りの者とか、タクシイの運転手、女中、書生も友達扱いだったので家主の大工や近所の人にも愛想がよかったが、清水町界隈の人々は子供の時から山田さんの坊っちゃんだった伊皿子の町の人々や千駄木町の近所の山の手出入りの商人とはちがうのでにこにこしても寄りつかなかった。奥さんの方はぽかんとして何一つ出来ないらしく、お里《さと》からついて来た婆やさん(その婆やは今の私より五つ六つ若かった筈だが、もう腰が曲がりかけているすごい年寄りだった。昔の女は苦労がありすぎたからだろう。この婆やは資生堂で白薔薇クリイムを買っておいで、と言うと「朝すずの内に行って参ります」と言い、夕方は夕景《ゆうけい》であった。「伜は日本橋のキントーに勤めております」と年中自慢していたが、私は日本橋の塗物屋は黒江屋位しか知らないのでどこだか判らなかった。二階で喧嘩していると長い木の枝を折ったような格好で上って来て、悲劇調で「まあ、おくさま……」というので珠樹も私もうるさがると、「お為を思ったのに」と泣くが大しておため[#「おため」に傍点]を思っていなくて、好奇心旺盛の気味があった。三田台町に滞在中も度々新派を発揮した。山田家の姉の一人が新派だったので=この方はほんとうに私のためを思っていた=困った。とにかく驚いたことに、というところを、思いきや、なぞと言って変な婆さんだった)に一切やって貰っているので愕いたらしいが評判はよかったらしい。この家で私は鰈《かれい》一|切《きれ》十五銭、乞食一銭などと家計簿をつけたりし、鏑木清方の画にあるような、煮豆屋や納豆売りのくる横丁が気に入り、七軒町のお千代の丸髷で田村屋の浴衣を着、メフィストフェレスの山田珠樹と、早瀬主税とお蔦気取りで暮した。この谷中清水町の家は私の新婚家庭だったわけだが、ともかく鴎外訳の「ねんねえ旅籠」的夫婦だったので、新婚家庭のおもむきはあまりなかった。 [#改ページ]   苺アイスその他  清水町の家の格子を開けて、仏蘭西語を囀《さえず》る早瀬主税と、円い顔で太ったお蔦が散歩に出て寄るところはいろいろとあったが、〈山田珠樹が早瀬主税じみて見えたのは、家や町が粋《いき》だったからもあるし、彼自身仏蘭西文学をやってはいても、新派のまだ旺《さかん》だった大正人間だったからでもあるが、もう一つの理由は、彼が結婚するというのでお芳さんが造らえたたて縞の浴衣や、紅葉山人が普段に締めていそうな、薄い藍鼠《あいねず》の端に絞りのある兵児帯《へこおび》なぞから来る印象のせいでもあった〉私が感激したのはおかしいことに氷水屋だった。私の父親は、日本陸軍のだか、独逸の軍隊のだか、委《くわ》しいことは知らないがもの凄い衛生思想を持っていて、夏は湯ざましか麦湯を飲ませ、果物はすべて煮たものを与えていた。それで私は親類の家で水蜜桃の生をたべてはその美味に驚き、谷中清水町では氷水を覚えた。緑色に塗った不細工な機械が絶えずカチャカチャ言っている氷水屋の椅子にかけて苺アイスという、バケツの水だか、どこの水だか判らない水に紅いドロドロを混ぜて凍らせた、名状すべからざる代物を注文すると、小女《こおんな》が(いちアイ二つ)と叫んだ。千駄木の家は一種の特殊地帯で、父親が(西洋料理屋のドロドロはあらゆる鍋や杓子に触れる度に、方々で黴菌がつくから不潔だ)と、嘘字をみつけた時のような顰め顔で言い、家で造れと母に命じるので、バタの匂いの嫌いな母は鼻を撮《つま》んで造らえた。又肉やしゅん[#「しゅん」に傍点]の野菜、しゅん[#「しゅん」に傍点]の魚、果物、菓子等を、ふんだんにたべさせたから、たっぷりたべ放題だったが、贅沢な特別階級のたべるものは名も知らずに育ったので、内紫《うちむらさき》(ザボン)、チャトニ(印度の福神漬の如きもの)、カヴィア、ポンカン、なぞも三田台町ではじめて知った。〈千駄木町では団子坂上の春木屋という鳥屋と、本郷追分の西川牛肉店が定まった店で、「春木屋さんですか? 笹身と赤身を二百目と卵を二円届けて下さい」というのと「西川さんですか? 牛肉のいいところを二百目、お刺身のように切って届けて下さい」という女中の声が交り交りにしていた。菓子は本郷通りの青木堂、薬は瓜生《うりゆう》や高嶋屋、野菜は団子坂では大きかった、店先に水道のあった≪水道の八百屋≫だった〉自動車に乗ったのもたしか結婚式の日に父母の間に挾まれて乗ったのが始めてで、何かというと人力車だった。だから山田陽朔がらっこ[#「らっこ」に傍点]の帽子に同じくらっこ[#「らっこ」に傍点]の襟つきの二重廻しで背中を後にもたせ、その頃自動車には大抵ついていた、揺れる時に掴まる紐に肱を入れ、ゆったり袴の膝を開いて、葉巻を燻らすのを見て、成程これがお金持というものであるかと、感心した。たった一度私が十三位の時千葉の帰りに山下から家まで、父親が私たちをオープンカアに乗せてくれた。車が疾走しはじめるや私たち三人はキャア、キャア声を枯らして叫びつづけ、往来の人々が皆ふり仰いで笑ったのを覚えている。 [#改ページ]   洋行  四十年前に私がフランスに行ったころは、まだ外国へ行くことは(洋行)であった。夫だった人(離婚しているのでこう書くのである)は一年先に巴里に行っていて、私は丁度ドイツへ行く兄と二人で後《あと》から行ったので、私は別に何かを勉強するために行くわけではなかった。私の父親も私に、フランス語を勉強してこいとも、何とも、言わなかった。私は奥さんだった。それも何一つ家事も出来ない、内助の功皆無の奥さん、という、ほんとうの無駄飯くいであった。それでも人々は「茉莉さんが洋行する」と言ったものである。夫は将来、フランス文学の教授をやるための勉強、準備のために行くのだから、立派な(洋行)である。そこで、その夫に従《つ》いて欧羅巴をうろうろ歩き廻ることになった私の旅行も、ついでに(洋行)と称してくれたのだろう。  私が巴里で、ピアノを習ったのも、フランス語を習ったのも、向うへ行ってから二人で思いついたことだった。しかしともかく(洋行)であるから大変である。心配の権化のような母親は、航海中船が沈没すると大変だから上等の浮袋を持たせてやろうと言い、(私の家では金がないのに、何でも上等を買った。父親が店に入って行って、上等という言葉を出さなかったためしがない。天晴れ、貴族ずきの人間であった)父親はふざけて、「太平洋の真中に浮袋につかまって浮いていれば、鱶《ふか》や鮫《さめ》が足からくうから却って大変だ」と言って、笑った。丁度そのころ夫の長姉の子供がはしかかなんかに冒った。父親と母親とは、そこへ私が見舞いに行けば伝染するかも知れない。もし伝染した病菌が潜伏していて、シンガポオル辺で発病したとすると、父親も母親も、夫も、駈けつけても間に合わない場所で死ぬことになる、という意見が一致した。(私の父母は、子供に関することではいつも琴瑟相和した)それで私を見舞いに行かせなかったので、夫の次の姉がカンカンに怒り、舅も困ったようだった。その怒った姉は愛子といって、私に一番やさしかった人だったが、怒りっぽかった。私は或日、夫の家から実家へ行く途で、怒っている姉の家に車を止めたが、姉は会わなかったので、玄関で帰った。舅は後《あと》で、「よく行ってやってくれた」と、一寸新派悲劇的に言ったが、私はそういう気分で行ったのではなかった。それに私は、世の中に大事件というもののない人間で、満十七ですべてに平気だというと偉い坊さんのようだが、どこか抜けているためらしいのだ。今だにどこか水が洩っているために、困った事件がよく起る。玄関で断られても大して悲劇とも思わず、そうかといって平気の平左でもなく、なんとなく車に戻った。怒った方も考えればもっともだったが、私の父親と母親の方としても一大事だったわけである。何にしても(洋行)の前は、いろいろと大変であった。 [#改ページ]   続・洋行  私は夫の姉が二人とも怒っていても(長姉の方もむろん怒っていたらしいが利口な人なので黙っていた)ケロリとして、洋服を誂えたり、靴を買ったりがうれしくて欣然としていた。  洋服は巴里に行ってから拵らえる方がいいのはわかっていたが、着物でマルセイユに下りるわけにもいかないので、こっちでつくることになったが、誰から勧められたのか、布地と見本を持ってやって来たのは、横浜の支那人の洋服屋だった。父親が見本を見て、選んで誂えたが、ろくなのは出来上らなかった。白に灰色のストライヴのブラウス(襟元に黒リボンのボウがついている)なんかは一九〇八年のドイツの女学生のようで、父親の訳した「寂しき人々」(ズウデルマン?)に出てくるアンナ・マアルみたいだった。白無地にレエスのブラウスは気に入ったが、もう一枚の、オールド・ロオズなる色のサテンに、黒で胸や袖に刺繍のあるのは(袖の形はキモノスリーヴというので、先が広くなっていて、それが流行だと洋服屋は言ったが、二三年遅れの流行だったらしい)支那《チヤイナ》式だった。黒の形の悪いスウツに、黒い外套、巴里ではみんな肌色の靴下を履いているとは、夢にも知らないので、靴下も黒だった。靴は桜田本郷町の角に、なかなか洒落たのがあった。靴はとくに気に入って、私は黒い絹の靴下をはき、靴をはめてみて、内心得意で、早くこの靴で巴里を歩きたいと思ったのだから恐れ入る話である。 (洋行)といっても楽なもので、父親と母親とが、一寸法師のじいさんばあさんのような騒ぎで、(舟はじいさんの汁の椀)といった感じだったし、旅券から何から、すべて兄がやり、私は自分の足で船に乗っただけである。向うでの旅行では夫が鞄に荷物を詰め、私の化粧道具だけを寝台《ベツド》の上に出し、時計を見ながら待っている、といった調子。このごろはとうとう一人ぽっちになったが、旅行の時には萩原葉子(今度偉い文学をものしたのでそろそろ今までのように後輩扱いをしていばっていることも出来なくなりそうだが)が父母と夫の代りをやってくれる。どこまで悪運が強いのか知れない。しかも一切気を使わないのであるから天皇陛下の旅行以上である。次に母が心配したのは、兄と二人なので女の相談相手がないということだった。そこで、工藤さんという同じ船で行く奥さんに伝手を求めて頼みこんだ。工藤夫人は支那語が出来る。香港で夫人と私とを乗せた車夫が、行く先もきかずに走り出し、どこへ行くのかわからなくて恐怖に陥った時、夫人が何か言うと、車は無事|元《もと》の場所に戻ったので、青くなって立っていた兄もほっとした。そんな訳で私は、人を怒らせたり、厄介をかけたりした揚句、東京駅で父と哀しい別れをし、豪華な食堂のある船に乗って王女の気分で航海をし、兎にも角にもマルセイユの港に、到着した。 [#改ページ]   恋愛  なんだ、どこが恋愛の話だと言わないで、黙って終りまで読んでいただきたい。私の父親は私に婚約者が出来ると、なんとなく変った様子になって来た。私が「パッパ」と言うと「ふむ、ふむ」と柔かな微笑で返事をする。何か言って微笑《わら》えば、前と同じように微笑う。影の深い、なつかしい微笑いが返ってくる。ふざけて膝に乗れば、柔しい掌が背中を軽く叩《たた》いた。だがそれがどこか前とちがっている。その微妙なちがいは、私が我ままな恋人だったとしても責めることは出来なかったろう。たとえば、横を向いていた人間が、微かに、微かに、わからない程その角度を変えた。そういう感じだった。説明のむつかしい哀しみと、恨めしさが、私の心のどこかに宿った。いくら見ても、前と同じようなのが、いいようもなく寂しい。寂しさというものが、形のあるものなら、その寂しさの影のようなもの、といったらいいだろう。私が舅のくれた干柿(広島の祇園坊の)を三つだけ(私は常に吝《けち》である)父に持って行ってやったことや、父親が白い菫を掘って押し花にして、奈良から送ってくれたことや、楽しいこともあったが、だがやっぱり、いつのまにか、ふっと生れた、父と私との間の弱い、透明なような寂しさは、いつもあった。会えばいつも、一種の冷たさともいえない冷たさ、薄い黄金色《きんいろ》の蝋燭の火の、その又影のような寂しさだ。私と夫との、子供の女と大人の男との生活のような、甘い砂糖菓子のような世界にはだから、いつでも一滴の苦い汁が混っていた。やがて一足《ひとあし》先に渡欧した私の夫から父親のところへ、舅が私を呼ぶことに同意しないからなんとかしてくれという手紙が来はじめた。最後の手段で父親は郵船の知人に事を明《あ》かして船室を予約してから舅に会って一時間話をした。既に萎縮腎が起きていた父親は、それをやった後《あと》で母親に(俺は生れて始めて悪いことをやった)と言った。事後承諾で、舅の金で私を西洋にやったのだからだ。彼の私への微妙な変化を気づいて訊いた母に、(お茉莉はもう珠樹君に懐かなくてはいけない。俺はわざとしているのだ)と言った、ということを、私は後になって知った。さて私の出発の日が来た。父親は朝から心持青い、むつかしい顔で黙っていたが駅にくると見送りの人々の一番後に立って俯向いている。俯向いている父親の顔が、私はひどく気になった。今の今まで父との間の寂しさを恐れ、どこかで恨んでいた心が急に消えて、なんだか(行くな)といって寂しがっている父親をふり切って夫のいる巴里へ発とうとしている自分が悪い、ひどい娘に思えて来た。父の窃かに引きとめる心は柔しくて、弱々しい生れたばかりの薔薇の、薄紅の棘のように心臓の奥に刺さってくる。発車のベルが鳴った時、チラと見ると、父は二三度深く肯いた。(みんなわかっている)と、父の顔が言っている。昔の顔だ。死が三、四カ月後に来ることを知っていた父はとうとう仮面を脱いだのだ。私は顔中を涙にして泣いた。その柔しい薔薇の棘は私の心臓の真中に、今も刺さっている。これは私の恐ろしいほどな恋愛である。 [#改ページ]   続・洋服  さて横浜の支那人の洋服でマルセイユに上陸、むろんその儘のなりでパリのギャアル・ドゥ・ノォル(北駅)に下りた。真黒な合《あい》の外套(幅広のバンドつき)に絹ではあるが黒い靴下。黒の小さな靴(九文半という支那美人的のおみあしのため、滑稽な位小さい靴になった)は足の甲の上に革のバンドが猫の肋骨のようにたてよこキの字に交叉している。年は十八だったが今の数え方では十六であって、年よりずっと子供だから、巴里の人々は支那かどこかの東洋の修道院(修道院で小学校、女学校の課程を終えさせるのである)の生徒がどういうわけかパリに出て来たと、思ったにちがいない。  だが二週間もしない内にこの支那の修道院の生徒は毛虫が蝶になるようにしてなんとも面白い巴里女(パリジェンヌ)に孵化した。髪はコワフウル(髪結い)で鏝をあてて大人の女の髪に結い、鉄錆赤(ルイユ)のムクムクのカアディガンを横浜の黒のスウツの上から着、肌色の絹靴下にピネ(靴屋)の横止めの靴をはいて鏡に自分を映した私は大いに満足した。夫の生活はソルボンヌに通う以外は勉強のためにオペラ、芝居と出歩く生活だったから、早速ギャルリ・ラファイエット(百貨店)でぶら下りのソワレ(夜の袖のない洋服)をひと揃え買うという幸福がふりかかった。濃い、いくらか紫を帯びた薔薇の色で襟が広くあき、肩から腕の出るソワレには同じ布のサッシュがあり、そこに寒冷紗(透ったサラサラした布地)のココア色の暈《ぼか》しの大きな花が橄欖《オリイヴ》色の葉をつけた長い蔓の先に下がっていた。それに白いなめし革の肱上までの手袋とテクラ(養殖真珠ばかり売る店)の真珠のコリエ(頸飾り)、黒のエナメルの靴を買って、オペラ、コメディ・フランセエズ、オペラ・コミック、ヴィユ・コロンビエ(以上劇場)とボロタクシィで歩き廻った。又、支那人のスウツは脱ぎすてて、黒のクレェプ・ドゥ・シィヌ(一越縮緬のようなもの)のスウツを造り、洗い晒したように薄い薔薇色の、薄地木綿に白糸で刺繍のあるのや、深い真紅《あか》の絹編みの丸首、薄い藤色の木綿のシャツ型、黒い縁《ふち》どりのある白い絹、等々のブラウスを買い、濃紺と黒との麦藁の帽子二つ、靴も黒いのを二、三足。すっかり巴里女(パリジェンヌ)気取りでプリュニエ、イタリヤ料理、お婆さんのやっている菓子店と歩き、サン・ミッシェルやトロカデロや、プラス・コンコルド近辺のキャフェのテラスにのんびり腰かけて通る人々を眺め暮し、森《ボワ》を歩き、ルウブル美術館で暈《ぼんや》り休み、といった生活をした。その内いよいよ巴里づいて、紅色で細い縁《ふち》どりをした薄灰色のと、黒の縁《ふち》どりで燻んだ薔薇色の絹靴下なぞを靴下専門の店で買い、銀の鎖で薔薇色の貝を磨いたものを繋いだ頸飾、栗鼠《リス》のストオルなぞも買ったので、お洒落の私はほくほくだった。私は(仏蘭西絹の肌ざわり、ピネの靴の履きごこち)なぞと詩にもならない言葉を心に呟き、巴里の雨に濡れ、巴里の風の中を、歩いた。 [#改ページ]   巴里  ギャアル・ドゥ・ノォル(北駅)に着いて、がたがたのタクシに乗り、車ごと踊るようにしてリュウ・ドゥ・ラ・クレ(鍵通り)の下宿まで行く道で私は≪巴里≫を直覚し、以後≪巴里≫を毎日呼吸していたといっていい。雨は巴里の雨であったし、風は巴里の風だった。薄汚《うすぎたな》いでこぼこの敷石、家々に沿って一人しか通れない細いトロットヮアル(人道)が曲りくねり、葡萄酒の色が滲《し》みた大きな樽《たる》が錆びた鉄の枷《たが》を嵌めて道路に転がっている。腹のつき出た爺さんが何を見ているのか、ぼんやり立っている。二階の窓にもくもく盛り上がった、料理なら特別大盛りというような胸を、これも脚のように太い腕で抱えこんだ内儀さん風の女が、屋根屋か錠前直しみたいな痩せた男と上下で声高に喋っている。(巴里の年増の乳房は、子供に呑ませた牝牛のような乳房をコルセェで下から突き上げるからすごいヴォリュウムである)花の巴里、という言葉から、硝子の宮殿が並んで照り映え合っているような町を漠然と考えていた私は一眼みて、(これが巴里か)と思い、そう思ったトタンに不思議にも体ごと、魂ごと、パリの中に浸《つか》りこんだ。巴里に到着したのは朝だったが午《ひる》になって下宿の近所の町を見ると、小太《こぶと》りのや、背の高いのや、プゥル(下級娼婦、巴里の男が「フェエル、ル、ジュウ。アシュテ、デ、プゥル」と言うあのプゥルである)が黒のクレェプ・ドゥ・シィヌのスウツの着古しに肌色の靴下、首の後《うしろ》に貧弱な狐色の毛皮の尻尾《しつぽ》を垂らし、その尻尾の先をふりながら腰で調子をとって歩いている。夜は男と一緒で、男は女の腰に腕を廻し、二人の人間が完全に一人になって、人生に感動し、愛《アムウル》に感動するのは今のこの時間しか無い、という感じで歩いている。日本には一生に一度も人生のない人がいるのに比べて、巴里の、ことに下町の人間には毎日違った人生がある。二人が一人になって歩いているのはプゥルと客の男だけではない。セーヌの川添いには黒い紗のヴェエルを垂らした未亡人と、水色の軍服(帽子は真紅《あか》の縁どり)の兵隊が二つの人生をその瞬間は完全に一つにして歩いている。そうして誰もふり返えらない。現代の外国、及び日本のようなSEXはお茶を飲むより軽くて、空気を吸うのと同じ、という、そんなものではない。凝《じつ》と見つめ合う代りに或時間は接吻しているのであって、愛《アムウル》の中に魂と、自分たち二人の各々|異《ちが》った人生とを一しょに投げ入れ、そのことに酔って、夢か、うつつか、の状態に入っているのである。巴里の雨は恋人たちの髪を濡らし、巴里の嵐は恋人たちを鎧扉《よろいど》の窓の中に閉じこめる。巴里の朝の陽は、一つの寝台《ベツド》で夜を過した恋人たちが首を二つ並べて出している屋根裏の窓に輝き、森の巣の中の二羽の小鳥の濡れ光った羽の上に、輝く。それがどうして、悪いことだろうか? 巴里は夕方になると、家も樹も人間も、犬も、水色の靄の中に沈む。色で言うと薄紫の町、巴里は恋の町である。 [#改ページ]   続・巴里  巴里の下宿のマダムの部屋で鏡の前で髪を解《と》くと、マダムは「Oh!」と感歎詞を発した。私の髪は背中を厚く蔽う程多くて、ユウゴオの(噫無情)時代の女の髪だったからだ。鏝をあて終ると、黒のスウツの上に金茶色に白い縁《ふち》どりのスウェータアを着た、十六歳の私が映っていた。「尼様が私の髪に鉱《かね》の鋏をあてて截《き》ったら、基督様の外套が出来ますわ」と昂奮して叫んだミュッセの(恋を弄ぶ勿れ)のカミイユの髪のような髪が、波を打って輝いている。その時、なんともしれぬ歓《よろこ》びが私の胸の中に、小鳥の羽がバサバサするように、騒いだ。巴里は人間に、どこかで人生をおしえる。人生というより、人生の歓びをおしえる。今の数え方で十六だった私が丁度、女に成長する時だったのかもしれないが。  すでに私は巴里で十数日を送っていた。眼が醒めると巴里の朝だ。苦いキャフェと、プチ・パンの朝食を寝台《ベツド》の中で摂る。私たちをとり囲んでいるのは白に、水色の縞と、縞の間に小さな薄紅の花つなぎを描いた壁紙を張った、巴里の安ホテル特有の壁で、寝台《ベツド》は鉄製、金茶色の、羽の少なくなった羽蒲団、安ものの鏡。暖炉の台に載っている瀬戸物の洗面器と水入れには十七、八世紀風の人物のいる風景画が薔薇色で描かれている。細い板を並べた床、繩を巻きつけた椅子。モオパッサンの小説の挿絵を見たことのある人、ルネ・クレエルの下町映画を見た人なら、すぐにあれか、とわかる部屋である。日本にいてさえ(用事のない奥さん)だった私はいよいよすることがない。夫がソルボンヌへ行った後《あと》は又新聞を読んだり—読むといっても所々飛び飛びに綴字《フラアズ》がわかるだけで全く意味をなさない。主としてコメジア(演劇新聞)の写真をみるのである—、睡ったりしている。イルマ(女中)が呼びにくれば階下の食堂に下りて行く。食堂へ下りて、又上るだけが用事である。私はそういう生活になんの抵抗もない。私は巴里に行ってみて、遊び歩く以外は一日ねころんで何か口に入れ、お洒落の雑誌や、詩的な小説や、ユウモアのある小説を読む、というのが自分の理想の生活であったことに気づいた。日本の生活では、用のない奥さんでも朝は起きて座っていなければならない。私は巴里で、はっきり自覚をした怠け者になったようだ。  又プチ・ブルジョワの最底辺であろうと、かなりの生活をしていた奥さんは、イルマの持ってくる剥げた瀬戸引《せとひき》の盆の上にぢか[#「ぢか」に傍点]に置いたパンとキャフェに侘しさを感じるだろうが、私にとってその朝食(プチ・デジュネ)は胸が一杯になるほど楽しいものである。人々は巴里に来ても日本人だったし、いつも巴里の外《そと》に立っていて、味噌汁を欲しがり、畳を恋い慕い、元日に旗や屠蘇や雑煮のないのを哀しんだ。全く不可解である。巴里は偉大な映画監督のように私の中から希代の怠け者をひき出し、怠惰の楽しさをおしえた。巴里が自分のほんとうの国であり、自分のほんとうのいる場所である。と、私は想った。 [#改ページ]   欧羅巴の中にあるもの  私が支那人の洋服に桜田本郷町の靴で、マルセイユの美術館の階段を上った時、窓の外には海の香《にお》いのする(その海には巌窟王のダンテスが閉じこめられたシャトオ・ディフが幻《まぼろし》のように浮んでいる筈である)マルセイユの街があり、階段の壁にはシャヴァンヌの画があったが、その瞬間から、漠然とした香《にお》いのようなものが私を包みはじめた。なにか偉《おお》きな、だが圧縮された、深い香《にお》いのようなもので、それは考えると、「欧羅巴」という魔神(女)がその身《からだ》に纏っているヴェエルの端《はし》で私を軽く払ったのだ。つまり、欧羅巴は彼女の持つ魔の力の、ほんの切れはしを私に見せたのだが、私の頭は茫漠の中にいた。  だが魔性を持っているものは、その自分の持っている魔の力を、どんな相手にでも見せたい、わからせたいと思っている。執拗に、わからせたいと思っている。そのくせ、投げやりで、わからない相手は放っておくこともある。その後私はその漠としたものをどこかで見、どこかで感じはじめた。凸凹したトロットヮアル(歩道)を商売女《プウル》の後《うしろ》から歩いている時、プリュニエの牡蠣《かき》が、地中海の香《にお》いをたてて舌に溶ける時、両掌で温めて、酒精分の香《にお》いの去った古い葡萄酒を舌にのせた時、「アン、ボック!」「ドゥミ、ブロンド!」と呼ばわりながらいつまでもとぐろを巻いている巴里の男たちに混ってキャフェの椅子に暈《ぼんや》りしている時、自分を視ているように思われる、巴里のやくざの酒に酔ったような流し眼に眼をあて、まるで母親の袖の蔭から男の子たちを窺いみる高校生のように、夫の肱に手をかけ、寄り添いながら歩いている時、歯の欠けた大年増のプウルの、据わった眼が、ふと深海に住む怪魚の眼のように私を視て動いたように思われる時、ホテル、ジャンヌ・ダルクの浴室や、一人一人個室になった巴里の街場の浴槽に入ろうとしながら、ドゥガの裸の女が、浴槽に片脚をかけている素描を想い浮べる時、いろいろな時に私は、マルセイユに上陸した時から自分を包みはじめた、香《にお》いのようなもの、どこか恐ろしい陥穽《わな》のようなものを、漠とした中で、うけとっていた。 (どうしてここにこんなものがあるのか?)(それは何なのか?)と、そういうように明確《はつきり》考えていたわけではない。はじめて出会うもの、はじめて感じとるものには恐れがあるから、私はどこかで恐れていたが、表面の私は相変らず青黒い、異様な練り薬を塗って腕の産毛を除るという騒ぎをして、紫薔薇色のソワレに肱まである白の鞣《なめし》皮の手袋、ピネの黒靴でオペラなぞに行き、階段の踊り場にボンボンを並べている婆さんが、(おや又来たね)という顔でにこにこ渡してくれるボンボンの小箱を受けとり、不思議さと、奇妙さと、異国的なものへの一種の感歎とで見送る巴里の紳士、美人の間を抜けて席におさまり、デコルテの婦人の黄金《きん》色の産毛の靄に包まれた肉感的な白い腕の群を見回したりしていた。 [#改ページ]   ホテル、ジャンヌ・ダルク  私が巴里で宿っていたのはソルボンヌ(大学)の前の通りをプラス・モオヴェエルの方へ寄った四つ角の直《す》ぐ裏手に建っていた五階建ての安下宿だったが、名前は大へん立派(ホテル、ジャンヌ・ダルク)だった。しかも入り口には、イングリッシュ・スポークンと書いてあったが、主人のジュフォオルが一寸|片言《かたこと》が言えるだけだ。又達者な英語を必要とするようなアメリカの金持の客が入って来るわけでもなかったから、イングリッシュ・スポークン、の看板は、ジュフォオルの虚栄心を満足させているだけのものだった。  汚《よご》れ、すり減った絨緞に靴の踵がひっかかる狭い階段が建物の真中を五階まで通っていて各階に(コ)の字型に六室ずつ部屋がある。表通りに向いた窓は人間が一人立てる位の張り出し窓で、窓掛けは薄茶の碁盤目の細《こまか》いレエス。階下には表通りに面して応接間と、主人夫婦の居間があった。私たち夫婦は三階に三部屋を借りている上客だった。寝台《ベツド》の部屋と化粧部屋、客間、にそれを使っていたが、夫が、私という怠け者が巴里で生活すれば朝もおそくまでごろごろしているということを、私が行く前に見通していたからか、安かったからか、これがリュ・ドゥ・ロペラ(オペラ通り)か、リヴォリ通りだったら、一寸したブルジョワか、女優のような借り方だった。本の買い集めと、オペラと芝居を全部観ることと、英国、伊太利、スペイン、ベルギイ、と旅行して廻ることとに金を使って、洋服はぶら下り、たべものはホテル、ジャンヌ・ダルクの硬くてよく噛めないビフテキや、化物《ばけもの》平目(両側の枕木のように並んだ身のところ、即ちえんがわが、もの凄く太く大きくてたべで[#「たべで」に傍点]がある、地中海で捕れるのかどこの海で捕れるのか、大へんな平目で大味である)ムウル貝(烏貝とそっくりで美味)のフレンチ・ソオスなぞに、裏庭にいる鶏の生んだ卵、という貧弱なもの、という生活だったとしても、ホテル、ジャンヌ・ダルクほどの汚ない下宿でなくてもよかったらしかったが、凱旋門辺りのホテルに宿って、ルウヴルとエッフェル塔を見物して帰る、という所謂巴里の旅行者になることを厭がって、巴里のカルチエ・ラタンに住んで、ほんとうの巴里を味わうのだ、という私の夫や友人たちの中の二、三の人々の一種の誇り、だったようだ。金はある人々だったからだ。それにたべものは三日にあげず巴里の真中のレストランへ行っていたから、栄養の点にも心配なかった。私たちの生活はジュフォオル夫婦はじめ、止宿人たちを魂の底から愕かせた。日本という支那の隣か、隅っこにある、地図でもわからない国の、これはよほどの豪族の子弟たちだと、彼らは思っていたらしかったが、おまけに、自分たちも知らないラシイヌ、コルネイユ、自分たちが自慢にしているヴィクトル・ユウゴオも読破している模様で、辰野隆なんていう人物は忽ちラルゴ(俗語)を混えてペラペラ冗談を言う。全く驚異だったらしい。 [#改ページ]   続・ホテル、ジャンヌ・ダルク  その上に私たち日本人は、希臘人の学生ジョオジ・アデス、支那の留学生の陳と陽の三人よりインテリで、自分たち巴里人のユウモア感覚も通じるし、服装《なり》のこのみも巴里人がわらうことの出来ないものを持っている。チップも多い。辰野隆、矢田部達郎、と私たちムッシュ・ヤマダ、エ、マダァム・ヤマダの四人はホテル、ジャンヌ・ダルクの寵児だった。  おかげで単なる一人のナマケモノで、用のない奥さんの私も王女の如くもてなされ、一寸お腹が悪いというと、大切な鶏の卵を焼いて「ビャン、ショオ、アッタンシヨン、マダァム」と後から差出す。黒のスカアトに黒の靴、肌色の靴下で、頭髪はコワフウルで巴里式に縮らせ、鉄錆《ルイユ》赤の毛糸のジャケットのポケットに両手を突込み、すっかり巴里女気取りの私はわがもの顔にホテルの中を濶歩していた。又、夫や友人たちの生活様式のおかげで、私は巴里というものの中に嵌りこんでいて、まるで(巴里)を舌の上にのせて、アイスクリイムのように溶かしていた。  彼ら巴里人たちも全くの巴里人の生活を私たちの前に隠さないわけで、私は全くのところ、モオパッサンの小説の頁の中にいる自分を感じていた。それに前にも書いたように巴里に生れたのかと、わが身を疑ったほどの私にとって、他の日本人の奥さんなら一日も我慢出来ないいろいろの不自由も平気の平左、歓びだけがある、毎日だった。いつも薄い微笑《わら》いを浮べて音をさせずに歩き、ナイフとフォオクを人に持たせられた感じに、落しそうに手に持って、笑いながら食事をする気狂いの博士一人だけは私たちに無関心だったが、ベルナルジニも、ジベルニイ夫婦も、学生三人も、五十六位の婆さんとその男妾の二十五位の薄化粧している男も、私たちには一目おいている有様。彼らフランス人は食堂で、昨夜から持ち越しのジュフォオル夫婦の喧嘩に、二手《ふたて》に分かれて参与し、カンカンガクガクのお喋りをするかと思うと、政治を論じたり、苺にクリイムをかける方が美味しいか、レモンの方がいいかでも二手《ふたて》に分れて談論風発。仏英和女学校卒業の、一言《ひとこと》も喋れない私もつりこまれて、巴里人になった気で片言で喋り出した。  巴里に着くとすぐに春になって、灰色だった空はどこまでも深く青く、マロニエの並木の緑は、海草のように透って、巴里の家並みの谷間に燃え上った。その年に流行った藤紫《モオヴ》がチラチラと混る、黒い色の多い群衆が、来る日も来る日も巴里の大通りや、キャフェのテラスを埋《うず》め、藤紫や薄赤のシャツのアパッシュやマクロオ族の兄哥《あにい》たちが色眼を流しているカルチエ・ラタンにはキャフェから流行歌、エレオノオルが流れていた。ブウランジェという学者の爺さんにフランス語を、コラという女教師にピアノを習う他は自由のナマケモノは我が世の春とばかり浮かれ、夫の友だちの一人の、仏蘭西製的悪魔を観察したり、素晴しい巴里女に憧れたり、していた。 [#改ページ]   二人の教師  巴里で私がフランス語を習ったのはブウランジェという六十位の爺さんだった。ブウランジェというのは麺麭屋のことだから麺麭屋何兵衛というわけである。誰の紹介だか、どういう経歴の人か私は知らなかったし、名前も苗字しか知らない。日本の奥さん(奥さんに限らない、旦那様も令嬢も、お婆さんもお爺さんもそうであるが)のように、今日会った人は、誰々さんの奥さんの実家の兄さんの、その又奥さんの知人で、旭電気の、或は三菱化成の、重役の妹である、というようなことを一度で覚えることがないし、大体そういうことに興味がない。夫も、私にそれを言っても、どうせ「あら、そうなの?」と興味を示さないし、覚えもしないのを、婚前一年間の交際当時から以後二年の夫婦としての交際で知っていたので、糠に釘を打つのがばかばかしいから言わなかったらしい。或日夫と下宿の前の四つ角を渡って一寸行くと、ホテル、ジャンヌ・ダルクにまさるとも劣らない、汚ない建物があった。ブウランジェはその三階に姪と住んでいたが、少し経つと姪ではなくて恋人なのがわかった。その姪は鹿のような優しい顔の、背が高く体格のいい美人で、どこかに勤めているらしく、最初の日は出て来たが、殆どいなかった。ブウランジェは巴里の爺さんらしく好色な人物だったようで、夫や辰野隆氏に、背中だか、どこかに何か仕掛のある、変な人形を見せて、にやにやしたそうである。そういう人だということはいくらかは感じたが、その姪が本当の姪ではないことも私が発見したのではない。その爺さんは太っていていかさ[#「いかさ」に傍点]ないし、美人の姪の方も私は魅力を感じなかったので、私のカン[#「カン」に傍点]は全く働かなかった。興味がなかったのである。ブウランジェは、夫に、「マダァム・ヤマダと私とは交換教授をしましょう」と、いった。それは私を子供扱いにして言ったのはわかったが、私は半分本気にして、交換教授をしている気だったのはこっけいである。或日「日本に匙があるか」ときくので、「(ちりれんげ)というのがある。それは日本で仏様を信仰する人が死ぬ時、天《そら》から散ってくる蓮華《れんげ》という仏様の花の花片の形だからである」と、出鱈目を教えた。出来ないフランス語で一生懸命にそれをわからせたのだが、ブウランジェは次に夫と一緒に行くと、「マダァム・ヤマダが川に落ちても助けなくていいよ。彼女はどうにかやって上ってくるから」と言って、笑って私を見た。時々紅茶に、田舎の家で造った蜂蜜を入れてくれるのが何より楽しみだった。砂糖を倹約しているらしかった。爺さんは或日いつもより長い時間教授をしたが、何とか派という宗教の苦験僧が、背中を出して輪になり、互いに鞭で背中を打ち合う話をしている内に、眼がいやに光って来たので一寸こわかったが、そんなことはその日だけだった。私は興味のない人物のことなので、その日のことも下宿に帰るまでに忘れた。 [#改ページ]   続・二人の教師  フランス語を習うのは、面白がるためにやることではなかったが、蜂蜜が出てくる日しか楽しくないので、西欧羅巴の旅に行ってからあとはなんとなく止めてしまった。爺さんは日本語を研究している学者だったので、私との交換教授は半分は本気で、向うも失望していたかもしれない。だが私の前に交換教授をした何とかいう大学の先生より、私の話の方がよくわかる、と夫に言ったのはおせじだったらしい。私は子供のままで大人になってしまった人物で、デパアトの食堂ではお子様用の高い椅子に乗り、兎の顔の刺繍のあるエプロンを首に結び、お子様ランチをたべるのが似合う位の人間なので、十八歳になっていても知識慾も、勉強の慾もなかった。それで今でも女学校卒業というだけの教養を使って盲目《めくら》滅法に小説書いているのである。その私も六十歳を迎えたので、よく知っている人の他は(カンのある人はひと眼でわかるが)子供の筈がないと思うらしく、中にはカマトト的演技者と信じている、という莫迦げた人間もある。  私はあまり人を憎まないが、自分を客観するようになって来たので、他人のような眼で、子供の自分を判らない人を、可哀そうな自分という人間のために、憎んでいる。ブウランジェは或日、夫と一緒に行った時、寝室に案内したが、部屋の真中にある大きな寝台《ベツド》の、枕元の壁に十字架にかけられた銅製の基督が打ちつけてあり、全く何一つおいてない森閑《しんかん》とした部屋で、パアテル・セルギュウスか、サン・タントワアヌの寝室みたいだった。フランスの、恋人と住む爺さんの寝室というものは変ったものである。私はその部屋の壁に、苦験僧用の鞭が下がっているような錯覚を、一瞬起した。  もう一人のピアノを習った女の教師はコラという妙な名で、西洋人には珍らしく低い鼻が上向いて、鼻の下がそいだようになり、鼻の穴が細長くなっていて、一寸レプラに患った人の鼻のようで、顎がしゃくれ、横から見ると三日月が笑ったようだった。私のピアノは日本で小松先生という人が内心あいそを尽かしたほどのもので、少しも上達しなかった。或日コラ先生は大きな鍔《つば》の裏に真紅《まつか》な布を張った帽子を被って来て、授業の間もソワソワしていたが、夫が入ってくると、「私は今度、結婚することになりました」と言い、とめどなく喋り、かつ笑い、という有様で、私は愕いて、三日月様の横顔が真紅《あか》い帽子の蔭で、横に長い、薄い唇が、箪笥の環のような形に動くのを眺めた。顔が美人とはあまりに距離のある顔である上に、どういうわけか、どこにも巴里女《パリジエンヌ》らしいところがなく、裾の長い大柄の洋服で、まるで私の父親が訳した、一八〇〇年代の芝居に出てくる女のようで、顔さえもう少しよければ(人形の家)のリンデン夫人のようにみえるにちがいなかった。巴里にも不美人はいたが、コラさんほど美人でない女はみたことがなかった。 [#改ページ]   巴里の食物《たべもの》  巴里人はグウルマンである。グウルマンとは食いしん坊のことである。前にも書いたことがあるように、苺(苺といっても巴里のはフレェズ・ドゥ・ボア、つまり森の苺で、小粒の、いかにも野生の果物という感じだった)にミルクをかける方が美味しいか、レモンをかけるがいいかで、食卓についている十五、六人の人間が二手《ふたて》に別れて議論が沸騰する位で、巴里の人間と美味しいものとは決して切り離せない関係にあった。彼らの味覚は江戸人のそれに共通している。或秋の日、料理屋にいくと、秋刀魚によく似た油の多い魚のバタ焼きが姿のまま白い皿に載っていて、雲丹《うに》が日本の刺身の大根おろしのような形に附けてあった。巴里のバタは宮内省のバタのように淡泊で味が深いから(濃いのではなく、深いのである)、その料理はほんとうに秋刀魚の塩焼きに似ていて、その一皿《ひとさら》は全く粋《いき》だった。鰯や秋刀魚に柚《ゆず》をかけてたべさせれば、巴里人なら飛び上って歓《よろこ》ぶと、私は信じている。コトゥレットゥ・ドゥ・ヴォオ(犢のカツレツの意味だが、巴里のカツレツは粉やパン粉はついていなくて、ビフテキと同じ焼きかたである)や、ビフテキは、馬鈴薯の狐色に揚げたのとクレッソン(田芹)がついていて、塩と煉り辛子でたべるから、刺身や塩焼きと同じで、牛肉や犢の肉の味そのままである。ビフテキに鳶色《ブラウン》ソオスのどろどろや、英国のウスタア・ソオスなんかをかける野暮はしないのである。私は醤油と辛子をつけ、御飯を添えるというのも好きで、自分の家《うち》のようになっているレストランでは醤油を貰うが、これは昔、銀座の中嶋でたべた相鴨の蒸したのと御飯の味に似ている。  どこかの川岸のレストランでたべたグゥジョンや、ソオル(川魚)のバタ煮(三枚に下ろしたのが銀の大皿の上でぶくぶく煮えながら車附きの卓子で食卓の傍まで来るのである)も塩味だけで淡泊《あつさり》していて、これも小串の鰻の味である。魚料理屋で出る、栗のいがのような中に入った生うにも素晴しい。巴里のレストランで料理人を雇う時、オムレット・ナチュウル(実のないオムレツ)をやらせるというのも、東京の寿司屋で卵やきを造らせるのと似ている。巴里のオムレット・ナチュウルや、オムレット・オ・フィーヌ・ゼルブ(三つ葉やパセリのような香《にお》いのいい葉入りのオムレツ)はオムレツ好きの私には気に入った。不思議なことに巴里一流の銀の塔(トゥウル・ダルジャン)の血で煮た鴨は美味しくなかった。悪魔がすきで、恋の遊びの犠牲になった無垢な処女《むすめ》の胸の血(無論空想や小説の中でだが、それは白鳩〈ピジョン・ブラン〉の紅玉《ルビイ》のように綺麗だ)は好きでも、現実の血の味はだめらしい。とにかく巴里の料理はすてきで、近所のレストランの、肉汁《スウプ》のゼリイで固めた卵、ウフ・ジュレも、胡瓜の酢漬けとハムのサンドウィッチも、よかったし、チップの効果があらわれてからはホテル、ジャンヌ・ダルクのボルドオ風の茸(バタ煮)、ヴェルミッセル(素麺)入りの肉汁《スウプ》も、なかなかいけたのである。 [#改ページ]   続・巴里の食物  梅の木(プリュニエ=魚料理屋)に行くのは大きな楽しみの一つだった。巴里が薄水色の靄の中に沈んで、北の海や、地中海の底で、又は巴里の魚料理屋の暗い水槽の中で、黝《くろず》んだ紅い伊勢海老が針のある長い触角を動かし、鯉に似た魚が白い腹や、寺院の屋根瓦に似た灰色の鱗をみせてゆっくりと鰭を動かしている時、古い葡萄酒が、料理店の地下の穴蔵の棚に埃と蜘蛛の巣を被《かぶ》って並んで横たわっている時、私たちはサン・ミッシェルのキャフェで食前酒(アペリチフ)を飲み、ぼろタクシイでプリュニエに行った。絵の額や派手な色彩《いろ》の壁、テカテカ光る床、階段、そんなものが気になって落ちつかないような家ではなくて、薄暗い階段を上ると壁紙の模様もわからない位に燻んだ、飾りのない部屋に入る。窓の外には薄水色の巴里の街が沈んでいる。  いつも一番はじめは生牡蠣で、一|打《ダース》ずつ誂えるが、一打で済んだことはない。誰もがアンコォル、ユンヌ、ドゥウゼエヌ、シルヴプレ、(もう一打)と、黙って立っているギャルソンに言いつけた。地中海の牡蠣は、味は日本のと同じだが、とこぶしをもっと薄く、平たくしたように薄手で、銀座の御木本に飾ってある真珠貝のような形の殼に入っている。表面が燻んだ緑色で、牡のあわびの色に似ている。形態がすっきりしていて綺麗で、歯ごたえがある。酢と、薄紅い葡萄酒を混ぜたのに浸けてたべるのである。生牡蠣を充分たべると次は浅蜊貝入りのピラッフをとる。次はサラドゥ・ロメエヌ。レタスをたてに二つ割りにして切り口を上にして盛り、上に薄切りのトマトと玉葱がごく少し載っていて、酢と油のソースがかかっている。それで終りで、あとは濃い珈琲《キヤフエ》と果物とチイズである。チイズはキャマンベエルや、ロックフォオル、伊太利のゴルゴンゾラ等で、果物の他に胡桃をとる時もある。この献立は誰が発明したのか、はじめにそこへ行った人がギャルソンに相談したのか、大変気が利いていて、お腹にも丁度よかった。大体|階下《した》にある大きな水槽にはいろいろな魚が泳いでいるが、黒鯛のようでもあり、鯉のようでもありで、たしかに判別出来る魚がなく、伊勢海老にそっくりの海老も、たしかに伊勢海老と同じの味だとは信じられない。名をきいたってわからないから、貝が主の献立になったらしい。とにかくこの順序はうまく出来ていて、何度繰返しても飽きなかった。  巴里は料理がいき[#「いき」に傍点]な上に麺麭が素晴しくて、松葉で炊いた越後米の御飯と比べても負けない。まるで水の味がなくて、微かな塩味があり、表面がカリカリに固い。巴里の麺麭の塩の分量は秘密になっていて、よその国に秘密を洩らした麺麭職人はものすごい罰金を取られるという噂がある。私は上等の御飯と干物とか、沢庵・海苔茶づけ。それと巴里の麺麭とチイズと葡萄酒。この二つにかなうものはどこにもないと思っている。三分の一米もある日常用の麺麭(パン・ドゥ・メナァジュ)も素敵だ。私は支那料理もきらいではないが、支那料理にはいきなところがない。 [#改ページ]   巴里の銭湯  仏蘭西の人間は(少なくとも私の周囲にいた人間は)入浴は殆どしない。ではどうしているのかというと、水で拭くのである。鴎外流である。欧羅巴の裸女《ニユウ》画には洗面器をおいて、体を拭いているところがある。ジャンヌ・ダルクにも階段の下に風呂場はあったが、使う人間は殆ど無い。手拭いに石鹸をつけてごしごし洗い、ざあざあ湯を被《かぶ》る日本人が考えると、ひどく気持の悪い習慣のようだが、巴里で暮してみて、彼らがそれで平気な理由がわかった。巴里は空気が乾燥していて垢がつき難《にく》い。そこへ欧米人は皮膚の肌目《きめ》が荒いので、日本人が思う程のことはないらしいのだ。或日ジャンヌ・ダルクの風呂の釜が壊《こわ》れたので、近くの銭湯に行くことになった。詰り法湯《フランとう》である。行ってみると巴里の銭湯は浴室が横に一列に並んだだけの監獄《かんごく》のような建物で、内部《なか》は殺風景を極め、浴槽はジャンヌ・ダルク以上に汚ない。やくざやプウル(商売女)が代る代るに入って、その特別悪性の黴菌が附着しているのではないか、という恐怖で私は顫え上ったのである。銭湯を出て、鍵町《リユウ・ド・ラ・クレ》の通りをジャンヌ・ダルクに向って歩いていた夫と私とは、ホテルの近くまで来た時、喧嘩を始めた。私の方が滅茶苦茶を言い出したのである。珠樹は急に踵《きびす》を返してホテルの方へ歩き出した。私たちはジャンヌ・ダルクを通り越して、プラス・モオヴェエルに踏みこんでいたので、珠樹は私が恐れをなして直ぐに後《あと》から来るものと定《き》めている。私は怒って、引返えさずに前に進んだ。既に人通りはなくて、凸凹に削った石を波形に埋めこんだ石畳の上に瓦斯灯の光がちらちら落ちている大通りは無限のように広く、私の前に拡《ひろ》がっている。どの珈琲店《キヤフエ》にも人間は一人もいない。だが人間が一人だけ、いたのである。ガランとした珈琲店《キヤフエ》のテラスの前に腕組みをした給仕が立っていて、私をジロリと見た。その目はいかにも玄人《くろうと》っぽい目だが余裕《ゆとり》があって恐ろしくはなかったが、私は前に進む勇気を失い、給仕《ギヤルソン》の目を見たかと思うと向きを変えて、引返した。プラス・モオヴェエルの珈琲店《キヤフエ》の多くは珈琲店《キヤフエ》は表向きで、裏では賭博《とばく》、誘拐なぞの犯罪が行われているのだと、きいていたからだ。私はその大きな目を明瞭《はつきり》と、想い浮べることが出来る。獲物を狙《ねら》い待機している目ではあったが、雑魚《ざこ》なんかはなんとなく逃がしてしまう、というような余裕のある、悪党としての大人の目である。その給仕が普通の給仕で、私を見て(何だい、此奴は)と思ったのか、或は私の恐れたように、何かの悪事の張り番だったのか、それは判らないが、ともかく彼は≪巴里のギャルソン≫であった。或は≪巴里の悪党≫で、あったのだ。 [#改ページ]   巴里の中流社会  山田珠樹の義兄の長尾恒吉が、私の渡欧が定《き》まると、言った。「巴里へ行ったら中流社会を見て来なくてはいけない。仏蘭西は上流も下流も腐敗していて、中流だけで保《も》っているんだからね」と。私は暈りと聴いていたが、巴里の中流社会というものを見るのにはどうすればいいのか、わからないのだ。この長尾恒吉という陸軍少佐は何かというと私の家事をしないことについて文句を言ったり、教訓めいたことを言ったが、彼は目上の人間というものはそうするものだと、思っている、前時代にはよくいた人物だったのだ。  ところで巴里へ来てみると、中流どころか、中流の下《げ》の下《げ》にしても、私たちは大体普通の家庭の人間とは無縁であった。前にも書いたように羅典街《キヤルチエ・ラタン》の安ホテルに住んでいて、部屋代と、ホテルの主人夫婦への心附け以外は、送ってくる金は全部|書物《しよもつ》代と、芝居とオペラ、料理店、珈琲店《キヤフエ》なぞに遣《つか》い、珠樹は乞食のようなポオランド人の爺さんの縫った背広を着、私は百貨店《マギヤザン》のぶら下りを着ている、という生活であるから、交際する人間はすべて映画の(巴里祭《キヤトルズ・ジユイユ》)に登場するような人物たちである。私に教訓を与えた長尾恒吉自身にしても、(彼も後《あと》から巴里に来たのである)邸町に一戸を借りていて、その家主は或は、中流家庭だったかも知れないが、家主と交際している様子はなく、従って別に、中流社会を観察しているらしくもなかったのである。私は巴里の百貨店《マギヤザン》の食堂やボワ、又は公園なぞでよく、子供なぞを連れた中流家庭の男や、奥さんを見たが、大体巴里の中流の真面目階級の人間というものは、(少なくともそれらの中の大部分は)政治をやるとか、美術館の監理をするとか、又は観光局、学校、銀行、郵便局、公園の事務所、市役所、税務署なぞの上役級の仕事、詰り、雑多の書類、調書、切符、教科書、切手、なぞに関したことにたずさわっている人間であって、言いかえれば私には判らない仏蘭西語の書いてある種々さまざまの建物と、書類とに関係している人物たちである。彼らはたしかに巴里の重要な一部分であって、彼らがいなくては巴里の動きは止まってしまうし、巴里を味わうことも出来ない仕組みになっているには違いないのだが、彼らは、私や夫、夫の友人たちが見たいと思っている≪巴里≫の部分として、味わうべき(もの)、或は(人間)とは無関係な、少なくとも直接には無関係な人々である。要するに、それらの人間は私たち、ホテル、ジャンヌ・ダルクに群拠していた大正梁山泊の人々にとって、稀に街で出会い、ただ互いに無感動にすれ違う、というだけの存在であったのだ。而して、長尾恒吉の教訓は彼自身にとっても、私たちにとっても、不発の弾丸《たま》のようなものであった。 [#改ページ]   巴里の夫婦  巴里では男が旅に出て、女房を十日以上一人にして置けば、留守の間に女房が他の男と間違いを起こしても仕方がないことになっている。であるから、これが逆の場合は無論、残された男が浮気をしない方がおどろくべきことであるのは当然のことである。そこでマダァム・デュフォオルが、亭主のデュフォオルを一人置いて丸二日何処かへ行っていたということは全く莫迦気たことであった。デュフォオルは早速その晩、一人のプウル(商売女)を伴れて帰って来た。オペラから帰った珠樹と私とがいつものように、玄関脇の居間兼客間に顔を出すと、正面奥の長椅子《デイヴアン》に女と並んでかけたデュフォオルがにやりと、片目を潰った。女は派手な藍色《ブルウ》の絹の洋服で、洋服と同じ布《きれ》を張った鍔広の帽子《シヤポオ》にはぐるり[#「ぐるり」に傍点]に、烏の羽毛《はね》を挿したような羽飾りがついている。やっぱり女房と反対の女がいいとみえて、マダァム・デュフォオルが、顔は西班牙美人の型と言って言えないことはないが、ごつごつの浅黒で、怒りっぽいのに比べて女は真白のぼてぼてで、いやに落ついた毒婦型である。値段がようよう折れ合って従いて来たらしい女は、ふて腐れた顔でデュフォオルにくっついている。ナポレオン時代の騎馬将校だか、騎馬巡査だかの石版画の額が掛かっている、縞と薔薇の模様のある壁紙。帽子の出来かけ、飾り紐、又はありとあらゆる端布《はぎ》れを突っ込んだ箪笥《アルモアアル》。ミシンの上に睡っている斑《まだら》猫、その猫の毛が散らばり、附着した儘の絨緞《じゆうたん》、長椅子の上の下宿の親爺とプウル。すべては正《まさ》しく、モオパッサンの挿絵がその儘生きていた、一九一七、八年度の、巴里の一市民の居間兼客間の風景である。  モオパッサンの光景はいいが、大変なのはその翌々日の昼の食卓である。マダァム・デュフォオルは硬い顔を俯向けて肉刺《フオオク》を使っているが、時々むらむらとなってくると顔を上げ、怒ると一層|平《ひら》べったくなる上唇を反《そ》らし、上《うわ》ずった声で止め度がなく怒り出すのだ。デュフォオルはその間隙を狙《ねら》って「マ、ジャンヌ」(俺のジャンヌ)「オオ、マ、ジャンヌ」と、せいぜい愛情を籠めた声で合の手を入れるより術《て》がない。お附合いで夜明しをしたらしいルイズが紅く腫れ上がった眼を上げてジャンヌに味方をする。そこへ卓子の連中が、デュフォオルの弁護をする者と、女房の方につく者との二手《ふたて》に別れてがやがやと口を出す。関係のない顔でいるのは男妾を伴れた顎の三つある婆さんと、にやりにやりと周囲《あたり》を見廻している気違い博士だけで、あった。 [#改ページ]   巴里の悪魔 [#ここから1字下げ] ≪Me donne un baiser mユamie, que la bague aux doits≫(僕に接吻をくれるだろうね。僕が遣《や》った指環をその指に嵌めて……) [#ここで字下げ終わり]  矢田部達郎の破《やぶ》れたような、嗄《かす》れた声が、静寂《しづか》な羅甸街の闇の中に馬鹿に大きく響いた。一高経由帝大出の、デカンショ声である。歌は『ファウスト』でメフィストフェレスが歌う誘《いざな》いの歌である。それはたしかに悪魔の歌であって、止《と》めのところの悪魔の哄笑はとくに凄かった。『巴里の屋根の下』でアルベエル・プレジャンがやくざたちに囲まれ、「好きなのを取れ」と言って並べて見せる刃物の一つを取った場面のような、瓦斯灯の下である。 [#ここから1字下げ] ≪Que la bague aux doits, que la bague aux doits,……≫ [#ここで字下げ終わり]  矢田部達郎の悪魔の声は悪魔の黒い翅のように、嗄《かす》れながら、ふわり、ふわりと闇の中に千切れ飛んだ。  オペラで『ファウスト』を観た帰りの私たち、石本己四雄、山田珠樹と私とは、矢田部達郎をとり囲んで歩いていたが、私を除いた後の人々は矢田部達郎の悪魔には馴れっこになっていて、(こいつは本当の悪魔だな)と、歌を聴いて改めて感じ入るようなこともない。私だけが、矢田部達郎の独逸語の ach の音に似ているメフィストの哄笑につりこまれたようになっていた。私たちがそれから何本目かの瓦斯灯の下に来た時、どこからともなく一人の痩せて小さな爺さんが出て来て、何か恐ろしいものを見るような眼で矢田部達郎を見上げた。 「おい爺さん、君んとこに娘がいるね、小柄で可哀い……」  矢田部達郎が破れ鐘のような声で言うと、彼の悪魔の声と、髪も眉も濃く、髭の剃り痕の青い東洋人の顔と、射るような眼の光にすくんでいた爺さんはいよいよ体を小さくした。と、矢田部達郎の眼がとたんに柔《やさ》しい微笑《わら》いに崩れ、彼は爺さんの肩を大きく一つ、二つ叩いた。「嘘だよ、嘘だよ」爺さんは洞《うろ》のように開《あ》いた眼をしょぼしょぼさせると逃げるように去った。  矢田部達郎はフランス語の発音の勉強だと言って、手あたり次第に街の人々に話しかけるのを常としていたが、その夜のは明らかに彼の悪戯《いたずら》だったのだ。彼は『ファウスト』を観てメフィストの歌に魅せられ、夜更けの巴里の町を一高育ちのデカンショ声で歌って歩いていたところへ現れた気の弱そうな、小さな爺さんが、自分を恐ろしそうに見るのを見てふと揶揄《からか》いたくなったのだ。  その小さな爺さんにとってそれは胸の潰れるような、悪魔の夜だったのだ。 [#改ページ]   カルメン役者マルトゥ・シュナァル  巴里人はものすごいカルメン好きである。「C, a, l, m, e, n」の六字がコメディア(演芸新聞)や、街の広告塔の紙に出ると、ロペラ(オペラ座)は超満員になる。集まってくる人々は皆、「カルメン」の曲を空で覚えているらしくて、或熱気のようなものが場内にみちてくる。棧敷では爺さん婆さんの夫婦がそっと手足で拍子を取り、小さな声で曲をなぞっている。なんという楽しい観客たち。私は日本の音楽会は嫌いである。気取らないで入って行くと、場ちがいのバカおばさんと言わぬばかりの眼が集まる。日本人は音楽を聴きに来たのか観客を見に来たのか判然しない。私はもし人間の眼玉が高く売れるものなら、こっちを見たところをちょいちょいくりぬいて集めて売れば、小説を書こうとして苦しむ必要がないな、と思いながら、とくに女のは意地悪く残虐な、それらの眼を見るのである。カルメンは何度も見たが、席について幕開きの音楽が湧き起るともう、歌劇「カルメン」の魅力にひきこまれた。音楽のことも、オペラ界のことも知らないから、世界一のカルメン役者が誰だか知らないが、私の見た中では誰がなんと言ってもマルトゥ・シュナァルである。マルトゥ・シュナァルのカルメンを見た私は、十八の時だったせいもあるだろうが、まるでビイトルズに夢中になる現代の女の子そこのけに惚れこみ、私の眼は舞台の彼女に吸いよせられて、決して離れなかった。若い私の魂は幕開きの音楽から誘惑された男のようになる。絶えず肱を張って手を腰にあてているシュナァルの腕や肱の皮膚は、後《あと》になって読んだピエェル・ルイの「女と人形」にある表現の通りの感じだった。≪C ait sa chair, son odeur…≫(それはコンチタの肉であり、香《にお》いであった)。全部書きたい位だが三つの素晴しい場面を書くと、まず誘惑されたホセが捉《つかま》えていた繩を放すや、肱を立て、襞の多いスカァトを掴み上げるようにして舞台奥の階段を駈け上がるところ。次はホセを訪ねて来たミカエラと、ホセの廻りをゆっくり一廻り歩き、二人の真中に腰を下ろして太い咽喉をみせて仰向き、煙草の煙を空に真直《まつすぐ》吹き上げるところ。そのようすに心を奪われ、哀れな許婚者の前でカルメンに見入るホセ役者も、シュナァルを好きなのかと思った程|上手《うま》かった。又最後の刺される場面が出色で、どの女優のカルメンもかなわなかった。闘牛場からざわめきに混ってエスカミロの闘牛士の歌が聴えてくるとカルメンは地団駄踏むようにしてホセを振り払い、真《ま》っしぐらに闘牛場の入口に走り寄る。追い縋ったホセの短剣がカルメンの背中の真中を、標本の蝶を止《と》めるようにして突刺すと、シュナァルのカルメンは両腕を上に延ばしたままの形でどさりと仰向けに、大の字に倒れた。他のカルメンのようによろめいたり、哀れな言葉を言ったり、変に形をつけたりしなかった。私はメリメの「カルメン」も、ビゼェの作曲も大好きである。 [#改ページ]   巴里のバレ・リュッス  私達が巴里にいた一九二二年の夏は、ニジンスキイ夫妻の率いるロシアのバレがロングランを続けていて、コメディア=東京新聞を文芸欄と芸能欄ばかりにして、そこへ美術雑誌も加入させたような新聞で、いい画家がのびのびとした線で描いた役者の似顔の素描《デツサン》が毎日のように出ていた新聞=にバレ・リュッスの写真や記事が出ない日はなかった。今でもはっきり眼に残っているのは、ペトゥリュシュカの第一幕の幕開きである。モスコオらしい街角で、人形|遣《つか》いが箱に入った三人の人形を並べて、客寄せをやっている場面で、大勢の群衆が(五十人はいた)単調な音楽の中でなんとなくがやがや動いていた。人形劇が始まる前の群衆のざわめきが音楽にも、役者たちの動きにも混然と現われていた。古典の踊りなのに、まるで現代の映画の画面のように自然だった。終りに近く、角笛《つのぶえ》を吹きながら踊り回る美人人形の軽い足どりは、誇張なく、生命《いのち》の歌を歌って大気の中を飛び交う、春の蝶そのままだったし、美人人形に恋した黒ん坊人形が、低い寝椅子に仰向けに寝て、手足で毬を放り上げては受けとめる時の、単調な動きとメロディもよかった。ことに驚いたのは失恋した黒ん坊人形が自殺して、仲よく椅子にかけている美人人形と男人形の後《うしろ》にある衝立《ついたて》の上から、頭と両手をだらりと垂らして死ぬところで、文楽の人形が、役の魂を離れてガクリと手足を垂らす形を盗《と》ったのかと思うほどそっくりで、日本の歌舞伎役者が人形ぶりで演る時の、遣い手の腕にだらりとなるところよりも真に迫っていた。生命《いのち》のない人形そのものになっていた。黒ん坊人形になったのはたしか、レオニィドゥ・マッシンで、ニジンスキイ夫妻の一座では誰より上手《うま》い踊手だった。映画の(赤い靴)で、靴屋になった役者である。次に素晴しかったのは、〈牧羊神《フオーン》の午後〉=その頃の新作だが現代《いま》の新しい踊りと並べて上演しても、新鮮さで目を奪うにちがいない作品である=で、犬のような斑点《ぶち》のある肉襦袢で、一列に横に並んだ牧羊神が、印度舞踊のような形をしたまま少しずつ、弛いリズムで上手《かみて》から下手《しもて》へ動く場面だった。題は忘れたが、田舎娘が、塀の外を列になって通る兵隊の顔(これは木製の人形)が、一人残らず自分の方を見ているので母親に訴えると、母親が、自分の若い時にもその通りだったと答える、滑稽な、寸劇のような踊りも面白かった。ニジンスキイ夫妻の一座とは別だったが、トゥレフィノオヴァという女優の踊りが又素晴しかった。この女優を私は、オペラが閉場《はね》てから、ボワに近い珈琲店《キヤフエ》で見た。灰色の陶器の洋杯《コツプ》に入った、フランボヮアズのアイスクリイムに夢中だった私がふと眼を上げると、真中で分けた、黒い、艶《つや》のある、真直《まつす》ぐな髪が額にぴったり張りついている白い顔は、夜、沼の中から顔を出した妖精《ナンフ》のようで、私は一瞬アイスクリイムを忘却した。唇が毒のある森の苺のように、真紅《あか》かった。 [#改ページ]   巴里で演じた「能」  巴里でバレ・リュッスが大喝采を浴びて、ロングランを続けていた時の或日、全く変ったことが起った。誰の口からどこへどう伝わったのか? 誰が誰にどこで会ってどうしたのかを、当時ホテル、ジャンヌ・ダルクにいた人もいなかった人も、周囲の人は皆知っていたが私は知らない。ともかく私たちとジャンヌ・ダルクにいる石本己四雄という人が十年お能を習っているということが大使館方面に伝わって、二百人位|入《はい》れる或小劇場で石本己四雄が踊ることになった。新聞には出なかったが、大使館関係の人やきき伝えた人々が二百人位はいたらしく、満員にはなった。だが鼓を打つ人なんかは巴里にいた人の中に、本職に近い人がいたが、謡《うたい》は山田珠樹、その他がインスタントで稽古をして謡ったのだし、肝心の石本己四雄が素人であるから、大分心細い話だった。だが辰野隆をはじめ、みんな、巴里人にお能を見せるのだというので張切り、一番難しい衣裳は誰かがカンヴァスに張る布のような、ごわごわの布を買って来て、そこの奥さんがどうやら縫い、これも誰かの伝手《つて》で、藤田嗣治の家に持ちこんで頼んだ。私も一緒について行ったが、藤田嗣治は玩具の三味線や、お祭の半纏、豆絞りの手拭いなんかが、壺や絵具台、ごちゃごちゃした描きかけのカンヴァスなんかに混って置いてある広い画室に、フランス人の奥さんといた。腰の大きな奥さんは木綿に荒い唐棧縞の、よく呉服屋が反物を包んでいる大型風呂敷で造《こしら》えたスカアトに、小さな穴が一つ開いたのをはいて、地味なブラウスを着ていたが私を見て、「シャルマントゥ」と言った。魅力があるという意味ではなくて、可愛らしい位の意味だったろうが、その時は一寸得意だった。藤田嗣治は黒縁の眼鏡の中の、小さくて丸い鋭い眼を、茫洋と据えて私たちを見たが、やがてごわごわの布を床にひろげ、はじめから襯衣《シヤツ》一枚だったが、とにかく大童《おおわらわ》になって能衣裳や、揚げ幕まで塗ったり、模様を描いたりした。藤田嗣治の父親は軍医で、私の父親とよく逢っていたらしいが、その軍医はひどく頭の切れる人物だったようで父親が、(あんな頭のいい男は珍しい)と言っていたそうである。嗣治もその父親の頭をうけ継いだらしく、茫洋として人を視る眼差しの中に、得体のわからない賢《かし》こさと不逞な精神が、見えていた。藤田嗣治が塗った衣裳を着て石本己四雄は一生懸命になって踊ったが、日本の「能」の神髄を伝えるのには、役者も鼓打ちも、(謡はことに駄目だった)未《いま》だしの感が深かったので、あんまり評判にもならないで了《おわ》った。カンヴァスの布みたいな布地の能衣裳も困ったが、生れて初めて能衣裳を縫った人の謹製なので、後から見える程深く合わさる筈の上前《うわまえ》がよく合わなくて、足が見えたのも困った。ノエル・ヌェットゥが見に来て、(C'est pittoresque)=奇怪だね=と言った切りだったので辰野隆、山田珠樹等の面々はがっかりした。 [#改ページ]   ニジンスキイ夫妻と「能」  巴里の小劇場で石本己四雄の「能」公演があったと思うと、今度は又一層驚くべきことが起った。ニジンスキイとニジンスカアヤの二人が、公演の噂を誰かにきいたのか、それとも公演の観客の中に彼らの弟子でも紛れこんでいたのか、是非見たいと申込んで来たのである。その辺は例によって山田珠樹によって、いい意味でつんぼ棧敷におかれていたから、或日、「石本のお能をニジンスキイ夫妻に見せるんだよ」と言われてはじめて驚き、どこへでもお洒落をして出かけるのは好きな私は、歓《よろこ》んで仕度にかかった。日本を発つ時、父親と母親が新調してくれた総模様の留袖《とめそで》=お納戸地に小豆色や青磁色、珊瑚色《さんごいろ》、白、なぞで蝶と鳥の図案を大きく出した一越《ひとこし》で、白い絹糸で桜の花の刺繍のある帯に、珊瑚色の丸ぐけの帯止めだった。草履も帯地で造った珊瑚色《さんごいろ》だった=を着てショフウル(運転手)が眼を丸くしているタクシに乗りこんだ。夏は襯衣《シヤツ》に安ジャンパア、冬は、猟師が撃ちそこなった兎かむじなの毛を集めて繋いだような毛皮(毛の長さが不揃いで、色も茶や白、灰色のまだらである)をぼやぼやさせている巴里のショフウルである。ロペラやコメディ・フランセェズで巴里美人の中に混ってお得意の私はいざご帰館となると、こういうボロうんちゃんのオンボロタクシに乗った。矢田部達郎も石本己四雄の紋付、袴、を包んだ風呂敷包みを持って乗りこんだ。  行ってみるとニジンスキイ夫妻の宿っている巴里の豪華ホテル=豪華ホテルといっても古い巴里の建物の中に同じく古い時代の家具がどっしりと鎮《しず》まり返っている中に、そのころの流行の洋服のなりの巴里女がしっくりした調和で溶けこんでいるホテルであって、桐の間とかナントカの間があって、毒|茸《きのこ》のような卓子《テエブル》のある、入《はい》ったとたんに心臓が切なくなってくるような現代日本のホテルのようなのではない=かと思ったら、ロオゼンシュタイン(薔薇色の石という意味だが素晴しい名もあるものだ)というニジンスカアヤの女弟子のアパルトマンの広間で、もう他の弟子たちや、きき伝えた役者なぞが集まっていた。ジャンヌ・ダルクの面々は当時三十代で青年の覇気にみち、俺たちのように偉い奴はないという気持でジャンヌ・ダルクを梁山泊になぞらえていたが、わざわざ(自分たちは帝大名誉教授の卵である)なぞと先方へ言わなかったのだろうから、ニジンスキイ夫妻としては東洋の日本という国から来た学生達位に思っていたわけで、女弟子の家に招んで、そっと見に行こうという仕掛けになっていたらしい。少間《しばらく》すると高弟たちや、知り合いの役者たちに取囲まれたニジンスキイ夫妻が入って来たが、石本己四雄が始めると、流石はバレ・リュッスの名人である。彼らの眼はぴたりと、石本己四雄の爪先きの静かな動きに当てられた。その夜は矢田部達郎がロオゼンシュタインの憧憬を自分のものにした夜でもあった。 [#改ページ]   矢田部達郎  矢田部達郎は疲《くたび》れた紺の背広の片手を洋袴《ズボン》の隠《かく》しに、自分の椅子の背を持ってぐいと後《うしろ》へ引いた。ホテル、ジャンヌ・ダルクの食堂には透明な巴里の明《あか》りが、漂っていたが、彼が椅子を後《うしろ》へ引く荒々しい音と一しょに、その明りは漂っているというよりどこか張り詰めた感じに、変った。ショミイが一緒に入って来て彼と筋向いに掛けたからだ。そうして可哀そうなルイズが彼の隣の椅子にいたからだ。「メシュ、ダァム」(皆さん今日は、の略である)。矢田部達郎は両掌を卓子の上に軽く握って置き、眼をチカリと光らせて山田珠樹を視た。「ゆうべは」すると山田が言った。「眠ったかい?厭な奴だよ君は。議論の行手《ゆくて》に陥し穴をしかけておいて負かしやがるんだから」。矢田部達郎は紅い唇でにやりと微笑《わら》うと肉汁《スウプ》の匙を取り上げた。一高経由帝大卒の心理学者である矢田部達郎は、十年を数えたばかりで、すっかり大正の色に変ってしまった中で明治人間のスケエルの偉《おお》きさをがっちり[#「がっちり」に傍点]体につけていて、彼の傍若無人の恋愛状態は、周囲の誰にも既に家常茶飯事《パン・ドウ・メナアジユ》となっていた。蝋涙《ろうるい》の滴《したた》る瑕《きず》だらけの机の上で、一晩《ひとばん》でショオペンハウエルを平げる、といった、明治後期の一高の寮生の、一種野蕃な知性をもった魅力が紺の背広の下にまだ荒々しく息づいている。こう言っても現代の読者には一つの明瞭《はつきり》した映像《イメエジ》が浮ばないかもしれないが、当時の巴里で、矢田部達郎が発揮した大正初期の一高的な魅力は、昭和のジェムス・ディーンの原型と思って貰えば略《ほぼ》当っている。(彼にはディーンの幼児性はなかったが)動作は荒々しいが、ひどく洗練されている。気概と自信が荒鷲のように内に羽搏《はばた》いている彼は、ニジンスキイの女弟子のロオゼンシュタインの家で友だちが能を演って見せ、そこへニジンスキイ夫妻が見に来た夜も、一高生的背広に捩《よじ》れたネクタイで、風呂敷に包んだ即製の能衣裳を持って現れ忽ちロオゼンシュタインの心臓を捉《とら》えた。箕作《みつくり》新六の子供の光子のナンスだったフリィダ、ジャンヌ・ダルクの女中のエルネスチィヌ、すべて矢田部崇拝患者で、憧憬の眼差しはいつも彼を囲んでいた。だがはっきり恋愛をしていたのはルイズとショミイである。「今日は微笑《わら》わないの?」矢田部達郎は俯向いて肉汁《スウプ》をすくっているルイズの口元を覗きこむようにして、言った。「君の可愛らしい唇で」。(ヴォオトゥル、シャルマントゥ、レェヴル)という彼の発音はショミイに習ったばかりで完全である。ルイズはわずかに微笑った。睫毛は伏せた儘である。シュニッツレルのクリスチィネは、大正十年の巴里にはまだ、生きていた。私は私の父親の訳した北欧や独逸の近代劇の舞台面がそこにあるのを見た。彼がその頃の役者でなかったことが口惜しいほどだ。彼が歌う、メフィストがグレエトヘンの窓の下で歌う誘惑の歌は、凄味があった。彼は私を、愛する山田の奥さんとして愛していてくれ、私も彼を慕っていた。彼は悪魔の奥底に、素晴しい善良を持っていた。 [#改ページ]   巴里の降誕祭《クリスマス》  巴里の降誕祭は、ホテル、ジャンヌ・ダルクの主人のジュフォオルが、友だちの家が、ミジ(仏蘭西の中部地方)に行くので空くから、そこの家でやろうというので、辰野隆、矢田部達郎、山田珠樹(私の夫だった人)と私、それにジュフォオル夫婦と彼らの養女のルイズ、矢田部達郎のフランス語の会話の女教師のマドゥモァゼル、ショミイの八人で、その空家《あきや》へ行くことになった。料理はマダム、ジュフォオルが造って持ちこんだが酒はシャトオ・ラフィットの紅《あか》と、シャトオ・イキュエムの白をジュフォオルに金を渡して買わせた。料金は辰野隆と山田珠樹が一本宛負担した。赤茶色の髭がぶつぶつ顔一面にあるような感じのジュフォオルは、いつもの狡猾《キヤリイヌ》という形容詞そのものの微笑《わらい》を浮べて、辰野隆と山田珠樹との部屋の扉を叩いた。彼は(少し値段が片っぽうが高いが、お前はどっちにするか)と訊き、辰野と山田とが口を揃えて高い方を負担する、というのをきいて、両方から高い方の料金を受け取った。フランス人というのは、直《す》ぐにばれる嘘を吐き、八百屋の番頭の目を胡麻化し、一|法《フラン》でも、玉葱一つでも儲けようと、虎視眈々としている。どんなに少しの金でも出したがらない。そうして、ゴム紐十|糎《センチ》でも儲けた時はごきげんという人種である。貰うものはスリッパ片方でも喜ぶ。(il a gagn・/T-FONT>〈イラギャゲ〉)=あいつは得した、というのが、彼らの常用語である。八百屋の前を通りかかった婆さんの足元に、玉葱が一つころがってくる。婆さんは目にも止まらぬ早さでそれを拾い、その時何かしていた八百屋の小僧が振り返ると、にっこり笑って玉葱を差し出すのだ。(Merci madame)。小僧は礼を言って玉葱を受けとる。勿論小僧が振り返らなければ、玉葱は婆さんの前掛けの中へ入るのである。ホテル、ジャンヌ・ダルクの主人にとって客のだれかから食事をおごられて、主人夫婦と、ルイズとの三人分の食事の一回分が浮くことは素晴しい出来事である。(Cユest une f腎e!)=こいつは素晴しい=。皺の中に白粉を埋めた婆さんが、これも白粉と口紅で化粧をしたリロンデル(燕)と腕を組んで出かけようが、気ちがい博士が一人でにやにや笑っていようと、そんなことは彼らには関係ない。白粉婆さんが山田珠樹より多くの pourboire(チップ)を出せば、婆さんの方を尊敬するのである。考えるのにあの気ちがい博士が快く置いて貰えたのは、下宿代だけは決して忘れないか、或は頭がおかしいために規定より多く払っていたか、のどっちかだったのにちがいない。  ルイズは私の部屋に来て、緑色と赤と、黄色の三本の糸を見せ、(これを黒い洋服の襟に並べて刺繍するのだが、どの順に並べた方が調和がいいだろう)といって相談したり、去年の帽子の縁《へり》にリボンをまつりつけ、自分で造った花束を同じ色のリボンで囲んだ飾りを縫いつけたのを持って来て見せたりする。徹底してエコノミックな彼女たちだが、魚屋のおかみさんまでレジャー・マダムになった現代《いま》の日本よりは数十段立派である。 [#改ページ]   続・巴里の降誕祭  辰野隆、矢田部達郎、山田珠樹、同じく茉莉、ジュフォオル夫婦、同じくルイズ、マドゥモアゼル、ショミイの同勢八人が各々ボロタクシで集合したのは寂寥索莫《せきりようさくばく》とした空家《あきや》である。巴里の夜の中に蒼然と建っている建物に入って行くと、別に出た矢田部達郎がたった一人灰色の階段に腰かけていて(やあ)と言って立ち上った。〈向ケ岡健児の蕃《ばん》から〉という生地《きじ》が、洗練された神経で出来上った一人の三十八歳の男の中に、荒々しく残っている。紺の着古した背広に大分よじれた斜め縞のネクタイの矢田部達郎は、内部に欧羅巴の悪魔を巴里に来ない前から持っていたにちがいない。短日月の間に急いで仕込んだものとはみえなかったからだ。鋭く光る眼が暗い中で光った。空屋は一月《ひとつき》や二月《ふたつき》の空屋とは思えない。(暗いな)、(懐中電灯が要るね)。褐色の髪を真中から分け、自分で縫った黒|天鵞絨《びろうど》のロオブに養殖らしい真珠の頸飾のルイズは恋するムッシュ、ヤタベをみて弱く微笑《わら》うと、黙って、これも布地《きれじ》を買って造ったレエスのストオルの合わせ目を抑え、俯向いて階段を上った。家具は古い卓子と椅子だけを残して取り払われ、長い間火が燃えたことのない暖炉がガランと口を開いた灰色の部屋に蝋燭が点き、持って来た冷肉に腸詰《ソーシツソン》、サルジィヌ、サラダ位の料理がルイズとマダム、ジュフォオルの手で並んだ頃遅れてショミイが来た。小柄で赤褐色の髪に眼鏡、紅く薄い唇。ルイズのような可愛らしさはないが、医者と窃《ひそ》かな関係を持つ看護婦、といったような型で強《したた》かなところがある。会社の帰りの黒のスウツでブラウスだけが薔薇色の新調だが、アメリカ人的なショミイが着るとピンクの感じだ。どうも空屋《あきや》の荒れた感じが皆に降誕祭《クリスマス》らしくない索莫感を与え、辰野隆の巧妙な諧謔《かいぎやく》ももう一息パッとしない。ショミイは矢田部達郎の会話の教師だが彼と恋愛中であることは誰も知っていた。ボオドゥレェルなぞも読んでいる賢《かしこ》いルイズは、二十四、五歳の遅い恋心を矢田部達郎に捧げていたさなか[#「さなか」に傍点]にショミイが出現したのである。矢田部達郎とショミイは暖炉の上の飾り棚の両脇に立って話している。無論二人だけの会話ではないが、矢田部達郎がショミイと言う時の発音は、ルイズ以外の人間の耳にも相当に意味の深いアクセントを含んで聴えた。髭の剃り痕が青く、唇の真紅《あか》い達郎の、蝋燭越しに光る眼は、ルイズを意識することで一層鋭いものを出している。宴《パアテイ》が終りに近づいた頃、私の足元に座って、少し酔ったルイズは、平気を装っているが、合わせ目にうねりのある美しい唇の微笑に寂寥の影が差し、投げ出すようにしている青みのある白い腕や肩は、恋の苦悩の脂を浮べて、艶を湛えている。ルイズの苦悩と、恋仇の心臓を食う魔のようなショミイの真紅《あか》い唇を見て私は思った。〈これは矢田部達郎が紺色の背広の片腕を立て、午飯の肉を切るような風に、軽々と切り下ろして私に見せた、血を滴《したた》らす、生々《なまなま》しい人生の一つの截《き》り口なんだ〉と。 [#改ページ]   午前零時の接吻(一)  巴里には一月一日の午前零時きっかりに出会った女に気に入ったのがあれば、接吻をしていい、という、大変に粋《いき》な習慣がある。私がそれをきいたのは大正十年の大晦日の十二時前で、その時私はオペラの帰りで、夫と辰野|隆《ゆたか》とソルボンヌの前の通りをいつものキャフェ、ラビラントゥに向って歩いていた。ラビラントゥに入り、席について少間《しばらく》すると、三十になったかならないかの美しい男が入って来た。後《うしろ》へずらしたソフトの下に、黒い髪がぴったり張りついた白い額があらわれている。男は一瞬、店内を見渡したと思うと真直ぐに私の前に来て夫と辰野隆に振り向き、 「ヴ、ペルメッテ?」(いいでしょうね) と言い、私に眼で、起つように促した。暈《ぼんや》り起ち上った私の顔を夫たちから隠すように、男は片腕を壁に突っかい、一方で手でソフトを後《うしろ》に弾《はじ》くと、男の目を避けた私の片頬に軽く接吻した。  私が済んだ、と思った時、耳の傍で男の声が言った。「フォ、ランデ」(返さなくっちゃ)。困惑の極に達した私の目の前に、横顔を見せている男の頬が、煌々とした灯火の下に、無限の壁のように拡がった。私の唇が触れようとした時、男は素早く顔の位置をずらせたので、危うく恋人の接吻をしそうになり、私は愕《おどろ》いて顔を離した。腰をかけながら、大跨に向うへ行く男の後姿を見た時、私は店の中が異様にざわめいているのに気付いた。笑った顔が皆こっちへ向いていて、(ブラヴォオ、ブラヴォオ、)という声が彼方《あつち》此方《こつち》に起っている。大分前からうつつには聴いていたが、何がなんだかわからなかったのだ。湯気に曇った硝子戸に囲まれたラビラントゥの中は愉快な気分で爆発している。目の縁を青くマキヤァジュをした、四十格好の、あぶれたプウルが笑って拍手をしている。だがその中に二人だけ、不快な顔の男がいるのを、私は目の端に感じない訳にはいかない。二人の男のいる場所《ところ》だけが陰々として、滅入っている。私は平常巴里の粋を礼讃《らいさん》している二人の男の、情けない有様に腹を立てたが、(殊に辰野隆の方は平常、巴里の色事のことなら俺に聴け、といわぬばかりなのだ)不機嫌を露わな二人の男の後《あと》から、悪事をした人間のようにすごすご従《つ》いて出た自分の惨めらしさにも同時に腹を立てた。  この二人の仏蘭西文学者は、私の稚い接吻の場面に憂鬱と退屈を吹き飛ばして拍手し、笑った、巴里の淫売婦の前に恥ずべきである。 [#改ページ]   午前零時の接吻(二)  部屋に入ると夫は、「含嗽《うがい》をしろ」と吐き捨てるように言い、さっさと寝仕度をして寝台《ベツド》に入ると、壁の方を向いてしまった。含嗽をする必要はないのである。私と男との頭が、男の片腕に遮られていたからか、粋《いき》な行事を姦通場面のように思っているので見る勇気がなかったのか、夫は接吻が全くなされなかったことを知らないのだ。私は止むを得ず含嗽をして寝台《ベツド》に入ったが、氷山の角のように尖った夫の肩がたまらなく不愉快なので自分も背中を向けて掛け布《ぬの》を被り小卓のスタンドの紐を引いた。そうして闇の中に眼を開きいよいよ睡りが襲うまでの何分かの間、心の中で、夫と辰野隆とに向ってわけのわからない怒りを燃やし続けた。  翌朝は晴れ渡った元日である。夫はソルボンヌに行ったと見えて、私は寝台《ベツド》の真中に来て寝ていたが、意識が明瞭《はつきり》してくると、先週誂えた土耳古《トルコ》石の頸飾りが出来上っている日だということを思い出した。私はイルマの運んで来た麺麭《パン》と珈琲をゆっくり摂《と》り、コメディア(新聞)とエクセルシオール(新聞)とをこれ又ゆっくり眺め、大分ごろごろしていた後仕度をして、アパルトマンを出た。巴里で唯一度の単独の外出である。なぜならその宝石屋は、アパルトマンの前を右へ真直に行ったところにあって、道の皆目わからぬ私にも一人で行くことが出来たからだ。巴里の元日は平常《ふだん》の日と全く変りがない。少間《しばらく》行くと後《うしろ》から足速やに来た男が、追い越すのかと思っていると私と並んで、連れのようになって歩いている。見ると、昨夜の男とは似ても似つかない薄汚ない中年男である。(お前はジャポネエズか?)と言って男は私の顔を覗くようにした。私が、男を向うへ行かせるのに最も適切な言葉を一心になって探しているのを知らない男は黙っている私を見て、うまく行きそうだと、思ったようだ。(お前の旦那にゃあ言わないぜ)、なぞと言っている。言葉が出て来ないので並んで歩いていると男は急に、肩で押すのでもなく、腰に手を廻すのでもないのになんとなく私を横丁へ誘いこむようにする。薄汚なくても、中爺さんでも、巴里の男である。危うく曲りそうになりながら見ると、怪しげなホテルが並んでいる横丁である。私は(ノン)と言って真直ぐに歩いた。二三間前を行く爺さんが興味で一杯の目で、時々ジロリとふり返える。十一時近くなって、鍵町《リユウ・ドウ・ラ・クレ》の通りは大分人通りが混んで来た。ふと天来の福音の如く言葉が浮んだので、私は立ち止まった。 「ヴォートゥル、ノン、シルヴプレ」(貴君のお名前を仰言って下さい)  男は後脚に尻尾を巻きこんだ犬のように立去り、興味を失った爺さんは急に速足になって歩き出した。 [#改ページ]   父の死  大正十一年の春、私と山田珠樹とは巴里のギャアル・ドゥ・ノオル(北駅)から、ホオムに売りにくるパニエ〈茶色のボオル箱に赤葡萄酒一本と、薔薇色のハムと橄欖《オリイヴ》色の胡瓜の酢漬を挾んだコッペが入っている〉を買いこみ、ドオヴァアに向った。スエズの運河を通った時以来二度目に、たしかに地図の上を通っていることを感じながら、カレ=ドオヴァアを大揺れの船で渡り、イングランドに上陸、倫敦《ロンドン》に着くと、ホテルは病院のように真白、料理は味がなく、人々は柱のように背が真直ぐに高く、洋杖《ステツキ》やこうもり傘と一緒に棒のように歩いて、人を細長い鼻の穴で見下ろすし、面白くない街である。ファイブ・オクロック・ティ(五時のお茶)なるものを必ず摂るという習慣があり、日本の戦前の三好野の如き大衆的な菓子店が街の方々に散在していて、五時が鳴るとサッと満員になり、人々は不味くも美味《おい》しくもなさそうな顔で菓子をたべて出て行くという妙な国民であるが、その菓子店の一つに或日私は寂しそうな顔で、モソモソ菓子をたべていた。山田珠樹が「独逸へ行こう」と言い、私は黙って肯いた。私は倫敦のホテルで父の危篤、と死との二つの電報を受け取ったので、その時はその直後だった。父親は自分が死ぬまで憧れた欧羅巴で青春を送っている娘を考えて、決して病気のことも死のことも報らせてはいけないと、母に言ったが、長男の兄が伯林《ベルリン》にいたので母親は長男である兄に報らせない訳には行かなかった。又、母親は恋人の死で混乱していて私に報らせるなという言葉を添える余裕がなかっただろうし、兄は兄で当時は母親が自分より頼っている珠樹に報らせないわけには行かなかったのである。「キトク」の電報が来た時には私に言わずにいたが「シス」の電報が来た時、珠樹は私に言った。「パパが病気で、大変悪い」と、言ったのである。それは夜中で、倫敦のホテルの真四角な窓から月の光が流れて、掛布の皺がはっきり見えた。一晩泣き通しに泣いた翌朝、私は今直ぐ帰るから船を頼んでくれと言った。珠樹は朝飯を辰野隆の部屋で食おうと言い、私を彼の部屋に伴れて行った。「茉莉子さん、パパの病気は船で帰る間には直るものなら直っているし、駄目なら間に合わない。茉莉子さんは今パパの娘であると同時に珠樹君の奥さんである。今帰ると珠樹君の勉強が中断する」と言った辰野隆の言葉で、帰り着かぬ前に死ぬのだと覚った私は、巴里に帰ったらブウランジェさんと勉強する約束が出来ているということを電報で報らせてくれと、頼んだ。辰野隆は「長いのを打って来ます」と言い、外套を来て出て行った。そうして大分経ってから帰って来た。菓子をボソボソ噛んでいる私の頭に東京駅で私を見て肯いた父親の顔が浮かんでいた、又、(もう一度、欧羅巴へ行きたい)と何度も言った、彼の言葉が私の胸を苦しくしていた。これから彼の永くいたミュンヘンや伯林に行くのだ、という、深いなつかしみだけが、その時の私をなだめていた。 [#改ページ]   伯林の夏  私の父親が死ぬまで夢にみていた伯林の、リンデンの並樹の下を歩いたのはそれから直ぐ後だった。ウンテル・デン・リンデン、ストラッセから遠くないシュタイン・プラッツにあった、パンジョン、シュタイン・プラッツの、濃い緑の実をつけた焦茶色の木の葉模様の壁紙を張った部屋に入った時、そこは紛れもない伯林だった。窓からリンデンの並樹の幹が見え、午《ひる》の明《あか》りが流れこんでいる。がっしりした卓子《テエブル》に椅子が三つ、長椅子。パリの、水色の縞と薔薇との壁紙の部屋が、冬空の下でも明るいのに比べて、この部屋は明るい午の光の中にあってもどこか暗い影が沈んでいる。千駄木の家の奥の部屋で、父親が鈴木春浦に口述していた「稲妻」の、「幽霊」の、「人の一生」の、そうして「寂しき人々」の、部屋だ。伯林の夏はリンデンの並樹の、濃く厚い緑に蔽われ、黄金色《きんいろ》の産毛の、白い衣=ここではどうしても洋服ではなくて衣《きもの》である。何故なら父親の翻訳では衣《きもの》で、たとえば、青い衣《きもの》を着たミス・キョルヌ、手に薔薇の花を持ちて登場、という具合だからで、私にとっては伯林の町は父親の翻訳小説や戯曲の町以外のなにものでもないからである=を着た娘たちは薔薇色で、粗野で、山の桃か野茨《のばら》のようで、女学生は青い梨を噛り、白い歯で笑って歩いているが、こんな娘たちの中の優雅なのがグレエトヘンなのだろう。事実、大正十一年という年代には、独逸にはグレエトヘンが、維納《ウインナ》にはクリスチィネが、又東京の下町にはお玉が、いたのである。(自分の境界の中にじっとしていて、ふと生まれた恋も偶然の運命で失った、恋人の岡田が投げた石で死んだ雁が象徴しているところの可憐なお玉は、いつからか「雁」〈お玉が主人公の小説〉の広告にも、所謂、境遇に抵抗して目覚めたり、起き上がったりする、自覚の女として紹介されるようになった。映画なら監督する人の作品だから、切角希臘神話をひそめたような話だと思うが、別に言うことはないが、小説の広告まで映画に釣られては困るのである)パンジョン、シュタイン・プラッツは千近くも部屋があり、鍵も鬼のように頑丈で、私がもし一人で下宿していたとしても、どうやっても紛失《なくな》しようのないような、薩摩芋位の大きさの木製の楕円形の球《たま》に部屋の番号を彫った鉱《かね》の板が張ってあるのが、ぶら下がっていた。伯林の下宿人には私のような落しものの名人が多かったのかも知れない。パンジョン、シュタイン・プラッツには学生のチンメルマン、珠樹の独逸語の教師、ハインリッヒ・カハァネ、フロイライン、フリィダ等が出入りし、辰野隆、矢田部達郎、箕作新六等の梁山泊の面々も引越して来ていた。山田珠樹の卓《つくえ》の上にはストリンドベルヒの「ファアテル」(父)が置かれてあったり、私の映像《イメエジ》の中の、(パッパの伯林)にふさわしく、「アルト・ハイデルベルヒの想い出」や、ワグネルのオペラ、「ロオヘングリィン」、「ヴァルキュウレ」などの舞台が、私達の前に展開した。 [#改ページ]   続・伯林の夏  大体において音楽は退屈なものだと思っている私が、ワグネルの「タンホイゼル」「ヴァルキュウレ」にヘキエキし、三晩続きで聴かされた「ロオヘングリィン」に至ってはヘキエキの極に達して、わずかに幕合いに地下室でたべた生挽肉と玉葱のサンドウィッチに、そこへ行った価値を見出したり、そうかと思うとお茶の水小学校の教室のように狭くて埃っぽい部屋で、教壇そっくりの台の上に現れたクライスラア(手が届くような所に出て来たのである)が一礼して弓を楽器にあてるや、静かな、どんな荒れ狂ったヒステリィ女も鎮まるような、きれいな音が流れ出したことに感動したり、(それは、どこからかふっと出て来た風のような天地《あめつち》の間にふと湧いたような、音だった)「アルト・ハイデルベルヒ」のケテイが衣川孔雀《きぬがわくじやく》の足元にも及ばないことに失望したり、そこの卓《つくえ》の上で、父親が翻訳した「ファウスト」を推敲したということをきいた、ホッホブロイの酒場で感動して、(我はきく、ホッホブロイの酒場にて、よくこしというわが父の声)なんていう阿呆な歌を書きつけたりしている一方、髯の剃りあとの青い、唇が紅く、眼が鋭い、ラスプウチンから政治悪と野蕃と、醜い顔とをとり除いたような矢田部達郎の、欧羅巴的な悪魔の香《にお》いのあるフリルテに感心し、(矢田部達郎のフリルテは「今日は何日?」とか「これ、君の?」とかいう日常語の中から隼《はやぶさ》のように素速い、恋の毒を塗りこめた矢が放たれて、確実に相手の胸に突刺さった)矢田部達郎というものを眼鏡のようにして大人の世界の一部を窺い、ひたすら、凄みのある世界に憧憬の眼をあて、早く凄い奥さんになりたいと希っていた。矢田部達郎が、愛する山田の茉莉子さんとして愛しているだけでも満足だったが(竹林の七賢たちの私に対する気持は皆同じだったが、矢田部達郎の愛情は一人だけ特別に純粋で、世俗的社交の香《にお》いがなかった)とにかく彼の世界が憧憬だった。矢田部達郎はそれを知っていて、チカリと光る眼を眩《まぶ》しそうに細めた眼尻に皺をよせ、私を見下ろした。鋭い眼が私の心臓の奥まで窺《のぞ》いて微笑《わら》っている。室生犀星が、「小説を二つ書いて……」と言い、「たった二つばかり書いて、生意気いうな」という後《あと》の言葉は呑みこんで、チラリと私を視た、笑いの影のある眼のようである。(室生犀星、三好達治なんていう面々は直ぐに私に揶揄《からか》い顔をしたものである)十八歳の小娘奥さんは口惜しくてならない。私は或日大人の奥さんのように矢田部達郎を揶揄ってやろうと思って、キュルフュウルステンダムの菓子屋に皆で行く途で、生垣の傍を過ぎながら私は彼を見上げた。(フリィダが矢田部が好きなのね?)。矢田部達郎は眼を眩しそうに細め、私を肩越しに見下ろして、言った。(フリィダはね、言ってますよ。ムッシュ山田やムッシュ箕作はマダァムがあるけど、ムッシュ矢田部はマダァムがないからなんでも相談出来るって)。 [#改ページ]   欧羅巴の悪魔  夫の肱に捉《つか》まって、伊太利《イタリア》の熱い太陽の下を歩いていたかと思うと薄暗い、冷え冷えした美術館の中に入る。又そこを出て太陽の光の中に出る。そういう日日の間《あいだ》で、私は或る日、マルセイユに上陸して以来私を包みはじめた、深い香《にお》いのようなものの根元《もと》、欧羅巴の中にある漠然とした魔力の核のようなものを見たように思った。学問の積み重ねで出来上った知性があって、その知性に照して見たのではないから、ほんとうにあったのか、どうか、それが欧羅巴の魅力のもと[#「もと」に傍点]かどうか、わからない。(ゆめ)のような話である。それは見たこともない偉きな神と、その神と同じ位偉きな悪魔である。その時にはただ(あった)と思っただけだったが、今考えるとその欧羅巴の悪魔は、神に抵抗し、神をねじ伏せようとしていたようで、いつか彼は、自分の中にある黒い魔の毒を神の中に混ぜこみ、その魔の毒の、フォア・グラのようなきめ[#「きめ」に傍点]の細かな摺りものを、神の裳裾の端にすりこんだらしい。へんなことを言うけれども、たしかに、私たち人間の仲間によくいる神様的な、清く正しい人間というものは、あまりに神様的すぎていやみである。蒸溜水を飲むと吐きたくなるが、鉱物や、微生物さえ入っている水は美味しい。ところでその神と悪魔をどこで見たかというと宗教画の中や、貴族の肖像の邪悪な眼差しの中にもいたようだが、彼らの存在を強く感じたのは、フィレンツェの美術館で天井を見上げていた時だ。美術館の天井は空のように広く、高くて、その亀裂《ひび》のある壁の空に、薄藍のと、薄紅との裳《も》を着た二つの神が、裳《も》を靡かせて左右から天翔り、差し延べている二つの神の掌は指先が今にも触れようとしている。夫の説明によると聖霊を授けているところなのである。私は何故とも知らず恐怖して、夫の肱にかけた手に力を入れ、灰色の壁の空を仰いだ。二羽の巨大な鷲が、その大きな翅で空を蔽いかくしているかのような恐怖である。幼いころから、月のある、星のある、明るいものと想っていた私の空を、黒い翼の影が蔽ってしまっていた。その時|巨《おお》きな、豊かな、翼の音がして、私は欧羅巴の神と悪魔とを見たのだ。その神は基督とも異っていたようだ。神は真実《ほんとう》に清らかで恐ろしく、悪魔は底しれない魅惑を持っていた。美術館を出ると、熱い伊太利《イタリア》の午《ひる》が黄金色《きんいろ》に輝き、運河は鈍く重い橄欖《オリイヴ》色に澱んでいる。青い空を押し上げ、辺りに張り漲《みなぎ》っている黄金色の中には神がい、邪悪を吹き上げる鈍色《にびいろ》の運河の中には悪魔がいる。私たち二人の前に、後《うしろ》に、鳴りわたる寺院の鐘の音と一しょに、私たちは魂のないもののようになって、その光景の中に、偉きな神と悪魔が朧気《おぼろげ》な形を私に見せている、伊太利の懶い午の中に閉じこめ、塗りこめてしまうように、思われた、魅力の中にある(魔のようなもの)というものは怖ろしいものである。 [#改ページ]   帰国  伯林からミュンヘン、ニュウルンベルヒと歩き、西班牙《スペイン》では煉瓦のような紅殼色の土と、地面にあぐらをかいてオレンジを売っている女の、教養とか、良識とかの軽羅《ヴエエル》のかかっていない生《なま》の、獣のような眼と暑さに愕き、ジプシイの女には失望した。ジプシイの中に、コンチタやカルメンのような女がいるとは思っていなかったが、汚なくても、ぼろを着ていても、自分が男だったとして、野蕃さにヘキエキはしながらも、一度位はつきあって見たいという気持を起こしてしまうような、なにかを持った女がいると信じていたのである。コンチタの皮膚を持った女位はいると信じていたが、痩せてかさかさした、うんざりする程魅力のない女たちだった。病身で婚期の遅れた、薬屋の姪みたいである。明治女だったら頭痛膏を張りそうである。甲野さんのように、驚く内は幸《さいわい》がある、なんて言ってはいられないのである。グラナダのアルハンブラ(西班牙)と、檸檬《レモン》の木の並んだアマルフィの海岸(伊太利)は綺麗だった。一度巴里に帰って又芝居なんかを見、荷作りをして帰国した。矢田部達郎が白と代赭《たいしや》のペンキを買って来て、大トランクや帽子の箱にT. YAMADAと書いて呉れたが、ペンキ屋より上手《うま》かった。私は依然として、矢田部達郎の中にある悪魔に憧憬していて、珠樹に何か言いながら、がっしりした紺の背広の肩を沈めて、書いているかと、起ち上がって手に提げているペンキの缶を下におき、「今度は帽子の箱だな」と言って、横にあった鎧櫃のような重い帽子箱をずらせながら動かしたりしている矢田部達郎を見ていた。(大きな奴やいろいろの帽子《シヤポオ》が入っているんだな)というような顔で、私を見て微笑った。心から可愛らしい人間だと、思っている、胸の底から出て来た微笑いだ。私はその幾らか細められた、三角に光る眼に眼をあて、自分が凄い女でないことに、そうして矢田部達郎が自分をそのように扱っていないことに、物足りなさを抱きながらも、深いなつかしみを、覚えた。私は他にもう一人、こういうヴェテラン悪魔を知っているが、偶然なのかも知れないが、その二人とも悪魔の中に親切な、善い人間を隠し持っていた。そういう人物は、一面、ほんとうに人間を愛する魂を抱いているようだ。荒鷲の翼の中にひそむ温かな温度。だがその、羽毛《うもう》の洋袴《ズボン》をはいたような両脚は孤島の岩に立ち、その両脚の爪は抑えつけた若い女の心臓に突き刺さっているのだ。そう思って私は矢田部達郎を見た。  作業がすむと矢田部達郎は扉《と》を開けて出て行ったがもう一度|扉《と》を細く開け、眼を眩しそうに細めて言った。(今夜は又ご馳走だな)。その日私たちは彼とレストランに行くことになっていたのだ。行きは賀茂丸だったが帰りは諏訪丸という、賀茂丸よりずっと大きな船で再び印度洋を通って、山田珠樹と私とは帰国した。一種の栄転だったからでもあるだろう。食堂で一人のボオイが、(前に賀茂丸に居りました)と、言って、挨拶した。 [#改ページ]   関東大震災  八月の盛りに帰国して直ぐ、上総一の宮の山田別荘に行き、帰京したのが大正十二年の九月一日だった。両国駅に着いて義妹の富子と長男と三人タクシイに乗り込み、車が隅田川の川ぶちに出たと思うと、乗っている車がぐらぐら揺れ、狂ったように、顎を空へ向けて嘶《いなな》く馬の首が車の前に斜めに突き出た。瞬間馬が気が狂ったのかと思ったが、眼が川に行った時、驚いた。平らな筈の隅田川の水面が房総の海の、それも時化《しけ》の時のように大波が立っている。運転手の家も同じ方面だったのか? 義務感の強い男だったのか? というより車の上にいた私達は運転手も含めて、大地震の実感が薄かったようだ。一寸躊躇したのを頼んで走らせると段々事態はわかって来た。両国の通りでは潰れた家の下から顔が平たく倍位になり、薄紫になった浴衣の女を運び出している。松屋の下にくると、てっぺんが無気味に、丁度恐ろしい夢の中にいるような状態の狂人が頭をゆらゆらと振って歩くような具合にうっすらと大きく揺れた。富子と私が真中の長男の上に被さった。丸の内にくると、大武写真館のそばにあった二階建ての料理屋の辺と、宮城の左横の日比谷公園の脇を陸軍省の方へ上る道の辺と、どこだか行手の遥か向うと、三方に火が見える。会社員風の男がばらばらと五、六人車をめがけて駆け寄り、皆、車の方向を訊き、その中の一人はあっという間に屋根に登った。私も義妹も夢中で、中に乗るように言うことも考えつかなかったようだ。家に着くと門の前に青い顔で陽朔が立っていた。門も家も無事だったが、裏の石塀が一部倒れて犬が一匹死んでいたそうだ。犬は高いものの下へ駆けて来たのだろうか? 茶の間に通ると私たち(後の車で来た珠樹と二人の義弟との六人)の為に用意されていた、鯛の刺身、あら煮、茄子の甘煮《うまに》等が、天井のごみや壁土で胡麻をふりかけたようになっている。そういう場合に逐一食卓の上を眺め渡し、それを又今だに覚えているのは、非常に残念だったからで、呆れるより他はない。その日お芳さんが見えなかったと思うと翌日の夕方庭の向うから土産物の包みを抱えて、晴れ晴れした微笑い顔で帰って来た。お芳さんは芸者屋の娘分だったらしく、行けば近所に昔のお客が来ていればご挨拶ということもあるかもしれないからだろうが、彼女が親元へ行ったのは陽朔が喧しいらしく、十年の間にその日だけだった。次の日に田中正平〈カイゼル二世が、日本ではこんな学者に勲章を遣《や》らないのか、と言ったので日本で慌てて勲章を出したという学者で父親の知人。夫人は母親の友達だった〉が車で私の安否を訊ねに来たが、女中が取次がなかったので大分後で知った。にやけた若い男が来たのではあるまいし、全く困ったことである。もっとも彼は父親と同じに、女中のような人々に偉く見えない人物ではあった。 [#改ページ]   震災風景  例によって私は地震でも平然として、自分の中に閉じ籠っていろいろなものを見ていたので次の日廊下ですれ違ったお芳さんに「奥さま、きょうはお風呂がお庭ですよ」と言われてやっと湯殿の壁が落ちたのかと思った。地味な縞の浴衣に墨絵で雁と葦の白地の夏帯のお芳さんにはその時どこやら水にかえった魚のようなところがあった。それは、事実は大分待合じみてはいたのだが、彼女としては野暮なお邸の中に来たわけで、その日は二階の廊下からまる見えの、庭の池に渡した石の上に湯桶を据え、葭簀《よしず》で囲っただけで次々と女たちが入るのであるから、彼女の生い立った芸者屋で地震があったらそんな風なことになるだろうと、容易に想像のつく風景が、お邸の中に展開したことになり、それがなんとなしに彼女を生き生きとさせたのに違いなかった。まして芸者家の空気にふれて来た直ぐ後《あと》である。家が半焼けになって三田台町に来ていた斎藤愛子は三十三だが、その頃の三十三歳は今の四十の女位大人だから、歌麿の感じに不足がない。お芳さんは衰えてはいたが、芸者の裸の感じ充分で、これは全くの浮世絵。(彼女の育った世界のヘチャな女は猫の絵草紙=猫が人間の女の体で銭湯に入っている=そっくりだったのである)大正の半玉と令嬢との混じりの富子は桃色で、裸になるといよいよ大人である。母親が一応、たて膝をして入浴する日本の女の形を示していたのにも拘らず、(彼女は浮世絵式ではなかった)私はそういう形はするものの、どこか形が出来ていない。言いたくないが巴里で十九になって、その時は二十、富子ほどではなくても充分ませていていい筈であるのに、まだ子供の分子が残っていた。そういうドゥロオル、フィイユ(奇妙な娘)の私も混って次々と入浴した。  金沢の兼六公園によく似た、池には鉄? の鶴が立っている日本庭園の、遥か彼方《あなた》、塀際に煙る樹々の梢のその又向うの空のあなたに、どこかの二階がありそうな、そこから見えそうな、一種の不安と、広い処に出ると自分が空気の中に分解してしまいそうに不安になる癖が裸のために一層ひどかったこともあって、妙な気分で入浴した。上がって富子と二人、浴衣を着て葭簀を二、三歩出ると、二階の欄干に俊輔と豊彦が見えたので二人は駈け出したが、敵は近くにあったのである。富子の方はそれほど驚かず、どうやらそれを知っていたらしいのにも愕いた。陽朔のせいではないが、三田台町は固いようで軟い家庭だった。漢文も読み、いい字を書く陽朔は挨拶なぞも喧しかったが、その点は、姉さん芸者の前を黙って通ったら大変だとか、着物を畳んで寝るとかいう、花柳界の経験を持ったお芳さんと一致した模様である。警防団に加わり、天水桶に腰かけて冷酒を飲んだために腹をこわして寝ていた珠樹の枕元に直ぐ行った私は、あずけておいた指環を嵌めてくれる珠樹も、それを知っているらしいのを、感じた。 [#改ページ]   目白時代  欧羅巴から帰国以来、一時三田台町暮しをしたが、長く居る積りではなかった。山田珠樹が助教授になる日は近かったし、陽朔は巴里へ行く前の清水町の家のように、名題《なだい》と名題下の中間にぶら下がっている役者の住家《すみか》か、月二百円のお妾さんの家のような、小さな家にも住まわせられない、というので(想像であるが)半年位で今度は大きな家を借りて移った。目白駅から一寸雑司ケ谷の奥へ入ったところである。人間の生活にはやっぱり、その後《うしろ》には海のような底の見えない、深いものがあって、(一緒に住んでいる人間の間に仮に何もない場合でも、庄野潤三の「静物」のようなものが一種きれいに流れているものだろうし、そういう風に大してなにもない方が寂寞かもしれないが)山田珠樹と私との生活も表面に見えるものだけではむろんなかったが、紅いスレエトの屋根の家にフランス文学の青年と、円い顔の細君と五つの男の子がいて、子供の国(大正十三、四年の子供雑誌)や積木が散らばり、岡本帰一の画の下の、≪缶のミルクがとよ、とよ≫という児童詩の通りにミルクが滾れ、五つの子供は≪ムッキイはどうして偉い勇士です。或日ムッキイは言いました。お父さん、お母さん、僕はアフリカへ獅子狩りに行きたいんです≫と暗誦し、日曜日には青い顔の男と円い細君が週刊朝日のクロスワァドをやっている、というような、楽しそうな家庭の画面が形成されていた。珠樹も茉利も、前に居た人が花を抜いて行った跡に花を咲かせる興味がないので、お天気の日にはかなり広い庭の空地に砂埃《すなほこり》が立ったが、苦労のなさそうにも見え、十四、五歳の子供が困惑している顔のようにも見える、頬の紅い、円い顔を無雑作な髪がとりまき、絣銘仙の普段着に娘時代の帯を半幅にしたのをくしゃくしゃに締めた上から海老茶(臙脂)の前掛けの私が、子供の自動車を押して廻りながらふと振り返る、庭に面した書斎の窓に、青白い珠樹の顔が映っていて、それは、単に趣味の目で見れば、イプセンの舞台を見、祖母の止むを得ない冷たさを見て育った細君と、第二の母や異母きょうだい、父の妾《しよう》なぞの間で、仏蘭西文学を読み尽していた青年との、幾らかの暗さをもった生活風景ではあった。青白い顔が本を読む合の手にひねり潰すゴオルデン・バットはマジョリカの灰皿の上に燻った匂いをたて、巴里や伯林の本屋から漁りに漁った仏蘭西文学書に埋まった書斎の暖炉の上には巴里のアルルカンの人形、西班牙の舞踏会用の仮面、ブリュウジュの、人形の首のついた酒壜の栓なぞがごちゃごちゃに置かれている。袴地で造った海老茶色の前掛けの端布《はぎ》れで、女中が縫った、蔽いをかけた寝室のスタンドの、葡萄酒色の光も、生活の暗い澱を無関係にすれば、現代《いま》は既に無くなってしまった、(現代は立派すぎ、或は、立派らしすぎるのだ)明治の文明が行き着いた、一種の岸田国士の作品的風景ではあった。 [#改ページ]   続・目白時代  円い顔は栄養もよく、結核の病人のように高頬が紅い。大きな眼鼻がパラリとしている。そういう顔の奥さんの、これも円い二つの眼にいつからか暗い影が差し、元来のろい動作はいよいよ鈍《のろ》くなったようだ。その暗い、暈《ぼ》けた顔の奥さんと、こっちはいよいよ苦みが増し、巴里好みの黒っぽい背広に黒の外套《オオヴアア》、黒に白の二本縞の絹編みのマフラをした、草臥《くたび》れた甲野さんのような山田珠樹とは目白の奥は雑司ケ谷旭出の紅い屋根の、生垣に囲まれた家に住んでいたが、その生垣の影が落ちた陽の当る道も、どこか暈《ぼん》やりと昏《くら》んでいた。奥さんと子供は林檎をたべ、その種を庭の隅の樫の木の隣に埋《うず》め、母親の方は五寸位の苗木の生えてくるのを期待し、子供は林檎の実《な》った大きな樹を空想した。又は子供の国を開いて、〈杏《あんず》の葉っぱは杏の香《か》がする、それでも葉っぱははっぱっぱ〉なぞというのを飽き飽きするほど読む日が何日も続くと、砂と太陽に飽きたアラビア人のようになり、母親と子供とはよく似た、同じように暗く暈やりとして来た眼を、なんとなく不機嫌に見合わせると、目白の庭に照りわたっている黄色い太陽が一瞬薄白く昏み、生垣の外を玄米麺麭売りの声が(今出来ました玄米パンのほや、ほや)と、これも何故か陽が暗くなるようなものをひびかせるのだ。こういうぼやけた家庭光景は山田珠樹が一種の疑いのようなものから、陽朔がお芳さんにやったことを世襲相続して私の外出に微妙な難色を示し始めたことから出て来たものであろう。お芳さんが親元や芝居に行けば、昔の知り合いに出会ったり、役者の中に昔交際のあった人物もいないとは限らないが、私の方は実家へ行こうが芝居へ行こうが、特殊の知人は無い、芝居もただの表だけの観客である。そこのところが混同しているのが困ったことである。むろん私が、暴れない鯰か、暈やりした大鯉のように、活気のない怠け者であって、奥が三人に女中が三人ですることもないとはいっても、女中に率先して稀《たま》には畳を拭くとか、漬物をつけるとか、クッションのカヴァーに刺繍をほどこすとか、やればやることは無限であるが、一寸でも手を出せば女中の前で真赤《まつか》な恥をかく、という低能奥さんであり、威張っている無精奥さんの体裁で胡麻化していて、それなら何か勉強をするかというとそうでもないという、無駄めしくいであることも困ったことで、困った人間同志のぶつかり合いである。山田珠樹は小人閑居して悪事をなすという孔子の言葉を憂いていたのかも知れない。とにかく山田珠樹の何の憂鬱から出たのかわからない猜疑ががっちりと存在している。(マリは矢田部のような奴だ)と、或日彼は苦々しげに言ったが、その彼の言葉の意味が、何かし出かしたいと思っている奴、ジュリアン・ソレルみたいな奴、という意味に、うけとれたことでも、それはわかった。 [#改ページ]   花火  大正十四年の或夏の夕方、どういう気象現象が起ったのだろう。空から庭一面、薔薇色に染まったことがある。染まったというより、火の色のような濃い薔薇色の中に空も庭も、すっぽりと沈みこんでいるのだ。子供は何処に行っていたのか。子供もいず、女中たちの影もなかった。玄関を飛び出し、門を出てみると道も空も樹々も、目に見える限り濃い薔薇色の世界である。わずかの間に夕暮れが深まったのか、薔薇色はどこか深い、血の色を帯びて、私をもその中に包みこんだ。暗い、重い、だが幸福の火照《ほて》りのような薔薇色である。自分に何かの幸福がくる報らせではないだろうか?私は夢の中にいるようにして、立っていた。  やがて薔薇色が消えて、普段の夕方の色になった時、矢田部達郎が木戸を開けて、入って来た。夫と、子供と、縁側にかけて庭を見ていた私は、薔薇色の消えた、暗い、現実の世界の中で、矢田部達郎の目が白く光るのを見た。無数の蛇を咥えこみ、それを餌《えさ》にして育った鷹のような彼の目は、薔薇色の光の中よりも現実世界の暗がりの方が似合っている。「先刻紅《さつきあか》かったね」矢田部達郎が言った。薔薇色の不思議は目白の一部だけだったのだ。そうしてそれを見たのは、目白|界隈《かいわい》では、そうして私の知っている人間の中では、矢田部達郎と私だけだったのだ。と、私は想った。矢田部達郎は縁側の線香花火の束を見ると子供を見て、「遣《や》ってやろうか」と言い、一番太いのを一本取って、垣根の極《き》わにある花壇の跡の篠竹の尖端《さき》にそれを仕掛けた。傍に来た子供に、(危ない)というように縁側に戻らせておいて、火を点《つ》けると、彼は子供の後《あと》から此方《こつち》へ来る。  と、シュル、シュル、という音がして、大きな黄金色《きんいろ》の火花の塊が非常な勢いで巴形《ともえがた》に廻転したかと思うと、再び前にも劣らぬ勢いで、逆転した。私と|※[#「木/爵から爪を除いたもの」]《ジヤツク》との、二人の大小の子供の目が、暈《ぼんや》りした、幾らかの生気を出して、その黄金色《きんいろ》に廻る火花に、当てられた。 [#改ページ]   続々・目白時代  或日、奥さんと子供とは庭と縁側とで話していた。(杏の種を蒔きましょうか?)。(駄目、杏は秋蒔きだよ)。母親が寄木細工の種の箱を再び箪笥の上に返した時、玄関の呼鈴《ベル》が鳴り、行くと、茶っぽい絣の着物に羽織の、一寸田舎染みた男がもっさり立っていた。珠樹の親しい友達だと名乗った男は、私の仏英和時代の上級生の兄であることがわかった。たしかに小倉さんと言ったその三級上の女生徒は或日私が、その日誕生日だったマ・スウルに上げろと言って父親が持たせた花束を持って階段を上った時に上から下りて来て、黙って私を見て微笑《わら》ったことがある。その生徒の顔は玄関に立っている顔と全く同じである。その頃生徒の間にSという言葉が流行っていて、私はそれが生徒同志で仲のいい人たちのことだ位の意味までは判っていて、その時その言葉がなんとなく頭に浮んだ記憶があった。珠樹はいなかったが私は「お上りなさい」と、言った。例のないことだが私はよほど退屈していたようだ。二十三歳と六つとの、二人の暗い子供は小倉さんに従いて二階に上った。小倉という男は善良そうな人物で、障子のところに立ち、煙草の煙を輪にして吹きかけて見せてくれた。二人の暗い子供を一寸の間遊ばせて帰って行った小倉は間もなく重い病気に冒り、珠樹は見舞いに行ったが、帰ってくると言った。(小倉が茉莉子さんを外へ伴れて行って遣れよ、って言ったよ)と。彼がつい言ってしまったらしいその言葉から私は、山田珠樹の抱きはじめた一種の疑いのようなものが、友達の間に広く伝播していたことと、小倉が暗い顔で倦みはてていた母子を見て、珠樹の疑いが猜疑だと見ぬいて、そうして気の毒に思ったこととを知った。この出来事は山田珠樹を愛して、彼の言葉を忽ちに信じた辰野隆等々の七賢の面々が知らずにいた、一つの挿話《エピソオド》である。矢田部達郎は、山田珠樹の持っている暗黒なものを誰からも知らされていないようで、近くに住んでいる彼が庭の木戸を開けて入ってくることは暗い母と子との歓びだった。彼は疑惑の父を混えた親子三人とも、母子二人とも、遊んだ。四人で目白の女子大の塀の続く暗い横丁にあった小さな氷屋で氷水を飲んだり、花火をしたりした思い出がひどく楽しい。二十三歳になった私に軽いフリルテの言葉を投げるようになっていた彼が或日、私に(どこかへ行かない?)と言った時私は、(珠樹が今度一緒に行くと言ってるから)と、小さな声で言っている自分に気づいて愕いた。ごく軽い意味だと解っているのにも拘らず、目白の家の門が、明るい小道に向って毎日毎日無駄に開け放たれているのを哀しみで一杯で眺めていたのにも拘らず、珠樹がその頃下谷で遊んでいたのにも拘らず断ったからだ。私は自分の体の中に、自分でも知らずにいた固いものがあるのを、みた。山田陽朔が駒込駅に家を建て、そこへ移る日が近づいていた。大正の終りの年である。 [#改ページ]   大和村の家  駒込駅から橋を渡って線路づたいに右へ入り、少し行って左に曲ると、大和村と称する分譲地があり、大きな屋敷ばかりが既に七分通り建ち並んでいた。その中の角地の一つが、陽朔の建てた今度の山田珠樹の家である。どの家も灰色で、同じ傾向の技術を持った大工が建てたのだろうが皆同じ型の四角な家で、そこら一体妙に明るく、空気までほの明るい灰色に見えた。金持の家ばかりのようで、当時の総理大臣だった若槻礼次郎の家は最も大きく、広大な庭のある辺りを通りかかると雉子《きじ》の鳴く声を聴くことがあるという評判を、商人たちがしていた。私はその塀の辺りを通って丸山町の市電の停留所に出ることがあるので、通る度に耳を澄ましたが、ついに一度も雉子の声は聴えなかった。私は父親が戴いて帰った宮中の料理で、雉子の肉の味を知っていて、形は動物園で見ており、死んでぐにゃりとなったところは春木屋(鶏肉屋)でお眼にかかることがあるので、これで声を知れば、雉子という山鳥については略《ほぼ》完全な知識を持つことになると思って、通る度に耳を澄ました。出入りの商人と世間話をすることがなく(出来てもしないのなら上品な奥さんだが、私の場合はしようと思っても出来ないのである)女中たちから出入りの商人直輸入の隣近所の噂というものを、間接輸入することも全く無い、という変人であるから、陽朔だか、お芳さんだかから聴いて若槻礼次郎邸を知っていただけである。目白時代には、赤屋根の家であることや、邸町ながらに開放的なところがあり、もの売りの声も長閑で、自由に出て行くわけにはいかなくても表の小道にも燦々《さんさん》と陽が当っていて、珠樹の中のどこかに潜んでいるらしい魔もののせいで珠樹との間にいくらか冷ややかなものが流れて来ていたとはいっても、家は一寸馬鹿げた位に明るかった。それで缶のミルクがとよ、とよ、お葡萄もおやすみ、グッドナイ、なぞといって、子供の国を読む母子の姿も、黄色く光る午後の陽光の中では、雑誌の絵も、辺りも明るく、どこか温かいものにつき纏われていたが、石塀の家の、灰色の光の中では、戸棚から出してくる雑誌の絵もそっけなく、冷い。ガランと四角い、何もない庭に、或日陽朔がよこした植木屋が楓を十二、三本運んで来て、何処に植えましょうと、言った。丁度矢田部達郎が来ていて、珠樹と達郎という造庭知識皆無の人の命令で、楓の若木がひょろひょろと塀際と、寝室の窓の下に二本を植えられた。甲野さん的陰鬱が一段と加わった珠樹が大嶋の羽織を長身に短く引っかけ、懐手で立ってあれこれ言い、オマァ・シャリフそっくりの達郎が黒地絣の銘仙に下駄ばきで(ここに一本植えろよ)なぞと言って定めた。それはたしかに大正の色のまだ濃い時期の、心理とフランスとの、帝大助教授の風俗だった。窓から暗い顔を一寸面白そうにして眺めている、西洋式に束ねた髪で円い顔の私は又大正の奥さんであった。 [#改ページ]   冬の木  或冬の日、珠樹と私と矢田部達郎と三人が、どういうことだったのか、試写会に行ったが、何の映画だったかは覚えていない。場所もはっきり記憶がないが、日比谷公園の中だったことはたしかである。試写が終って外に出た三人は公園の中を交叉点に面した公園の出口まで歩いた。六時頃だった。冬の空は暗く、青く、裸の木々がその空に鋭い枝を突き刺していた。ふと珠樹が「洋杖《ステツキ》を忘れた」と言って、引返した。矢田部達郎と私はゆっくり歩いていたが、不意に矢田部達郎が言った。「茉莉子さん、お乳飲まれるといい気持?」。瞬間私の頭のからくりが四五日前に巻き戻され、珠樹の書斎で腰かけ、亨(次男)を抱いて乳を飲ませている自分と、傍で話していた珠樹と矢田部達郎とが、黄ばんだ電灯の光の中に浮び上ったが、私はその時、矢田部達郎の目が自分の胸にあてられたのを、知らずにいた。私は矢田部達郎のフリルテをなんとなく面白いと思っていたのに過ぎない。矢田部達郎と私との関係は一人の男と、その男の友だちの稚い奥さんとの間柄であり、一人の大人の男と少女との、あまり危険のない繋《つな》がりで、あったのだ。 (あの時だ)と思うと同時に彼の言葉をわからぬふりをした巧妙な言葉を、思わず知らずのように言っている自分に気づいた。「それはいい気持よ。張ってるのを飲まれるんだから」。私は一種の不思議な感情をぼんやりと、感じた。ふと見ると、夕ぐれの暗い光の中に矢田部達郎の、チチアノの女の唇の色のような、濃く紅い唇が次の言葉を囁くのをみた。「そうじゃなくさ」。いつのまにか二人は立止っていたが、私がふと後を振むき、矢田部達郎も、同時に振り返った。二十間位向うに洋杖を持った珠樹の姿が見えた。  矢田部達郎はそれきり沈黙した。私と矢田部達郎とは同時に、足早やに来る、遠い、小さな珠樹のようすの中に、何かを感じとった人間を看たのだ。映画がなんであったかも三人がどんな風に並んで映画を見たのかも、すべて私の記憶の中で無くなっているのに、暗く青い冬の空と、その空を上へ向けた枝で、鋭く突き刺して並んでいた黒く、逞しい冬の木々と、矢田部達郎の言葉と、その低い声、それだけが濃い色の、暗い絵のように、残っている。矢田部達郎の言ったことも強烈ではあったが、一つにはそういう、フランス文学のような言葉の無い場合でも、又は彼の恋愛場面ではなくても、矢田部達郎のいる風景はどれでも不思議に、鴎外の訳した独逸の芝居のような色の濃さがあったからのようだ。 [#改ページ]   続・大和村の家  大和村に移った翌年の夏、いつのまにか助教授になっていた山田珠樹は、大学の何かの用でプレジデント・ジャクソンという船に乗ってアメリカのニュウヨオク、ボストン、フィラデルフィア等々〈多分図書館のある所を廻ったのだろう。彼は帝大の、図書館の司《つかさ》のような役らしく、文車《ふぐるま》が古書を積んでぐるぐる歩いている図書館の一隅に自分の個室を持っていて、そこでも甲野さん的陰鬱をまといつかせて卓《つくえ》に向っていたからだ〉を二ケ月ほど廻る旅に出た。彼が出発して、子供と、プレジデント・ジャクソンていう船なんだね、なんて言っているのにも倦《あ》きて、四角い家といつも同じ楓の立っている四角い庭と、自分と同じ暗い、暈《ぼんや》りした顔をしている子供と、女中たちも厭になってくると奥さんはアメリカへ手紙を書いた。むろん面白い返事は期待していない。もう巴里で経験ずみで、山田珠樹の手紙は、自分でそこへ行ってみるとひどく面白いのに、こんなつまらない処があるだろうかと思うように書いてある。素晴しい巴里も珠樹の手紙では(メトロ=地下鉄=で行ってメトロで帰る)というようなものになるのだ。奥さんの方はその家の建つ前からあった窓の傍の栗の木の梢を眺めながら書いたせいかひどく浪漫派的な手紙になった。新しい奉公先で部屋なんか貰うと、花や舞妓《まいこ》なんかの絵入りの便箋を買って来て、やたらに夢のような手紙を出す女中が昔よくいたが、奥さんはそういう女中に似たところがあるのだ。留守の間義弟の俊輔が泊りに来たが、どこかに行っていて殆ど夜中に帰るので或日泥棒が入った。遊びに来ていた母親を玄関に送って居間に帰ると、窓枠の外に茶色の禿頭が引込むのが、三日月のように見えたので、足が動かないほど愕《おどろ》いたが、女中たちを全部集めて二階の寝室にたて籠り、一人の女中が金盥《かなだらい》を窓から乗り出して叩こうかと提案するのを怒って止《と》めた。寝室の真下の書斎で音がしていたと思うと、書斎の窓の傍から上の寝室の窓まで届いている楓の木に三角形に組んで渡してあった丸太に乗ったらしく、窓硝子を擦って落ちる手の影が映った。俊輔が帰って扉を叩いたのでやっと寝室を出たが、その時はもう退散していた。しばらくして陽朔が大工を寄越して寝室の窓に太い鉄を嵌めこんで、泥棒事件は落着したが、今度は矢田部達郎事件が起った。珠樹の友達が二人来て、或件で自分たちは矢田部と絶交することにした、と言った。いかにも日本人らしい、重大なことを言っているような彼らの様子を私は心の中で笑い、彼らは恋愛事件を共同で起してくれる女の人がないのにすぎない、と心の中に思った。私にとっては窓から入ろうとした泥棒の方が重大である。こっちの方は命が危い。私は留守に一度来て、紙を四角く切って薬局でやるあの独特な粉薬を包む折りかたを子供に教えていた矢田部達郎を一人、食堂に立ち、今そこにいるように眼に浮べ、懐しくてならない心を抑えた。 [#改ページ]   続々・大和村の家  やがて山田珠樹はニュウヨオクで購ったポオタブルと、十枚のレコオドを携え、今度はプレジデント・ウィルスンという船で帰国した。カルウゾオの(アディオ、ナポリ)や(シエロ、チュルキイノ)の赤盤に削った竹針を落とすと、伊太利の歌い手の、咽喉一杯に歌う、楽しい鳥のような生命《いのち》の歌が流れ出し、薄《うつす》らと白い、空虚の部屋の中に、声高らかにひびきわたった。この世の楽しさと哀しみ、人間の生命《いのち》の歓びと哀しみが、竹の針の尖端《さき》から楽しい汎濫のように溢れ、既に楽しさが遠くに去った私の耳に響いた。矢田部達郎はむろん来なくなり、他の友だち連は、ぶらりと来て、珠樹がいなくても上がって行くというようなことが前からないので、完全な醇風良俗のご家庭同志の交際《つきあ》いとなり、私の部屋は風と音楽の他には吹き通うものがない日が多くなった。小学一年になった子供が学校から帰ると、(アサヒ、マツ、ツル、シカ、ウシ、ツノ、シカのツノ)なぞという母子の声がし、それが止むと何やら熱心に囁きあうのが聴える。目白の家で生れた次男が喋り始めたかた言《こと》を、大学ノオトに書き込んで、山田亨の語彙《ごい》集を造ろうとするのである。二十五になっても、精神に未発育の部分があるのか、母親は相変らず柿をたべても、蜜柑をたべても、種を持って子供と庭へ出て行く。斎藤愛子が呉れた白犬が冬の始めから一員として加わった。クオレ(小説)に出てくるキャピという犬の名をつけられた犬は、義姉の丹精で白く輝いていて、デュウレルの肖像画の老人の髪のように、耳や腰、尾の辺りは美しい巻毛になっていたが、家族の世話は殆ど女中たちによってされるこの家で、女中の中に犬好きがいなかったために、デュウレルの巻毛は忽ち艶を失った。艶を失っただけではなくだんだん抜け落ち始め、キャピは閉め切った硝子扉の向うに、白い魔のように走り廻った。山田珠樹と、茉莉、とを愛していた矢田部達郎が来ないようになってから茉莉が植木屋に植えさせた芝生の色がまだところどころ青を残しているのが、白い魔の後《うしろ》に蒼ざめて拡がり、斎藤省三の会社から入れたスチイムは、山田珠樹以外に扱えないのでどうかすると火が消えて、家は忽ち隈《くま》なく冷えわたった。大学から帰った珠樹が、痩せた体に普段着を能衣裳のように後から上前が見える程キリキリに巻きつけ、左手は懐手でシャベルで石炭を、帝国ホテルの冷蔵庫位ある釜の焚口に放りこむと、火は忽ち地獄の業火のように燃え上った。山田珠樹にも茉莉にも、どうすることも出来ない、珠樹の中の憂鬱の虫が因《もと》で、この壊れかけたピアノのような家庭がとうとう壊れる日は暈《ぼや》けた風景の中で近づいたが、白犬が抜け毛を振り落して駈け廻ったり、高価なスチイムが年中|止《と》まったり、私のいるところに起ることというものは常にどこか滑稽である。相談をしたかった父親も、矢田部達郎も、一人は土の下に、一人は九州に、去っていた。私は一人で考え、一人でこの家を出た。 [#改ページ]   後記——原稿紛失の記——  このたびは(こういう文章を書く時には、今度《こんど》はと書くより、この方がいいのである)。百人一首の中の一つを私の父が詠《よ》むのを聴くと、このたび[#「このたび」に傍点]はこぬたび[#「こぬたび」に傍点]である。  ≪こぬたびはぬさもとりあへず手向《たむけ》山、もみぢのにしきかみのまにまに≫と、彼は詠んだ。(子供の時に聴いたのであるから、聴きちがえかも知れない)父が詠むと百人一首もいろいろ変っていて、≪ありあけの月をまちいづるかな≫は≪ありあけの月をまちいでつるかな≫になる。又、父が詠み手になると、百人一首を詠む時の一種の節をつけないのでなんとなく取りにくいのである。  無駄ごとはおいて、このたび、この(記憶の絵)という本を出すについては、吉岡実氏のお協力をわずらわした。だが、協力をして戴いたのに、大変なお厄介をおかけする結果となった。私という人間に何ごとかでかかりあう人々は誰でも、大変な厄介なことを引きうけたことになるのである。今度の出版についてはどんな厄介ごとが起ったかというと、次の如くである。吉岡氏が暑い最中を何度か、私の部屋の近くの邪宗門という喫茶店にお出でになる内に、本の造りのことも定り、頁数が少し足りないのを補うための書き足し十篇(三十枚分)も出来上り、推敲も終り、吉岡氏の夫人が、熊本日日新聞の切り抜きを一枚、一枚原稿紙に張って下さった部厚い原稿と、その三十枚の書き足しとは筑摩書房の厚いハトロン紙の袋におさまり、印刷所に廻すばかりになったが、書き足しをもう二三篇たそうと思い、吉岡氏も賛成であったので、その大きな袋を持って私は部屋に帰った。ところが大切な袋を屑屋が持ち去ったのである。私が本にする大切な原稿を部屋に持ち帰ったことは今までに数え切れぬ程なのだが、今度に限って紛失したのである。暑さに呆《ぼ》けたのか、(寒い時でも、丁度いい季候の時でも、春夏秋冬呆けているのではあるが)私はその袋を、部屋の入口の、屑屋に持って行かせる新聞紙の山の上に一寸載せておいて、部屋に入った。直ぐに部屋に入れるつもりだったのだが、私はそのまま書き足しの文章にとりかかっている内に疲れが出て、(この一年と八ケ月の間、私は何か書いている時でも、歩いている時でも、二六時中、睡眠中と好きな食べものをぱくついている時以外は、目下、二枚書き出したままで止まっている続きものの小説のことで苦悩しているので、時間、場所をえらばず睡りに陥ちるのである。邪宗門に何か書きに行って睡ってしまい、恥をかき、門限に起きて帰ることも屡々である=〈注〉熊本日日新聞にこの本の原稿を書いたのは三年前である。この本は睡りながら書いたのではないのである)睡りに陥ちてしまった。目が醒めて、ハトロン紙の袋が新聞の山とともに消えていることに気づいた時には、さすがの私も(私という人間は何が起っても動じないこと山の如くである。それは胆がすわっているからではなく、どこかが水が洩っているためで、考えるのに、神経が緊張する筋《きん》の攣縮度《れんしゆくど》が生れつき弱くて、弛《ゆる》んでいるためのようである)頭のしんが冷たくなった。直ちに吉岡氏にお報らせすれば、ハトロン紙の袋はまだ屑屋の家にあったかも知れぬのに、私はそのことにも心付かず、吉岡氏が呆れかえり、且つ内心で不愉快になられることを恐れて、三日間青息吐息でくらした。三日後、吉岡氏に電話で報告し、邪宗門でおめにかかった時には、ウェイトレスが病気ではないかと言って、傍へ来てきいてくれた程、私は妙な顔をしていたらしい。紛失を知って愕かれた吉岡氏と、屑屋の仕切場を四軒歩いたが、既に大切な原稿と書き足し十篇分とは袋ごと、どこかの溶解炉の中で溶けてしまった後《あと》である。それから、熊本日日新聞の東京支社にお願いし、熊本の本社の方と、支社の方とのご好意で写しを戴き、一方私は書き足しを苦心して再生して、一ケ月おくれてようよう印刷所に入れることが出来た。私は、紙屑の溜まり場を仕切り場と称することも始めて知ったし、その仕切り場を訪問したのも始めてだったが、屑屋の仕切り場というものはどれもどれも、ごみごみした町の横丁の、又その奥といったようなところに在るので、吉岡氏は道々、店の人なぞに尋ねては仕切り場の存在場所を探され、私は恐縮しながら氏の後に従ったが、その仕切り場探しは大変に面白く、私は絶望の中で興味を覚えた。今書いたように、世田谷、又は奥沢なぞのごみごみした町であるし、屑屋の仕切り場を尋ねては横丁から横丁へ歩くので、どこかフリイマン・クロフツの小説に出てくる人物の地味さと、燻銀のような味わいを、背広の感じにも、性格にも宿していられる吉岡氏が、牛肉屋の中僧や、トラックの運転助手のような男なぞに尋ね尋ね、露路から露路を歩かれるのを見ている内に、私はいつか、クロフツの「樽」や、「クロイドン発十二時三十分」の世界にいるような気がして来たのである。その日はひどく暑い日であったので、一つの仕切り場から次のところに行く時、吉岡氏はタクシを止められたが、吉岡氏は車の扉《ドア》が開くや否や、飛鳥のようにひらりと乗りこむのである。その素速さは三十歳位の人のようである。私は氏が三十の人のようにお元気なことを喜んだが実のところ心から愕いた。四十は幾らか越していられるとは思っていたが、伺うと四十九になられるそうであった。私は又改めて愕き直したのである。私は久しぶりで、小学校の時の牛若丸の唱歌を想い出した。≪ここと思へば又あちら、燕のやうな早業《はやわざ》に≫という、あの唱歌である。その日の次にお目にかかったのは氏と、高橋睦郎氏と、もう一人の青年と、私との四人で赤坂の「Mugen」に行った時であったが、私がその時冗談に、氏はレディ・ファアストでない今時珍らしい方であると言った。(全くのところ、私が六十を越えているとしてもレディにはちがいないのであるから、先に乗せて戴いてもよくはなかったかと、愚考した次第である)皆笑い出したが、氏の言によると、車を止めるところでない往来で止める場合、出来るだけ早く乗らぬと運転手にも済まないし、又危なくもある、ということであった。しかし、氏の後から森マリさんがごゆっくりと乗ったのであるから、氏の配慮はその日に限って無駄な配慮に終ったので、あった。  終りに臨んで、私の最初の本「父の帽子」の出版を引受けてくれた筑摩書房で、再びこの本を出版する運びになったことを、私は大変にうれしく思うと同時に、「父の帽子」を出版することにして下さった竹之内静雄氏に改めて感謝を捧げたい。それから私のこの特種な随筆を長い間連載して下さった熊本日日新聞社に厚くお礼を申述べたい。 森茉莉(もり・まり) 一九〇三年、東京に生まれる。森鴎外の長女。五〇歳を過ぎて作家としてスタート。一九五七年に、父を憧憬する娘の感情を繊細な文体で描いた随筆集『父の帽子』で日本エッセイスト・クラブ賞を受賞。小説著書に『恋人たちの森』(田村俊子賞)『甘い蜜の部屋』(泉鏡花賞)『枯葉の寝床』、その他著書に『貧乏サヴァラン』(早川暢子編)『私の美の世界』『森茉莉全集』全八巻などがある。 本作品は一九九二年二月にちくま文庫に収録された。