[#表紙(表紙.jpg)] 森福 都 目 次  長安牡丹花異聞  累  卵  チーティング  殿《しんがり》  虞良仁膏《ぐらじんこう》奇譚  梨 花 雪 [#改ページ]    長安牡丹花異聞  彩雲たなびく晩春の空に、日暮れを告げる暮鼓《ぼこ》の音が、高らかと響き渡っていた。  大唐の都長安は、花薫る季節である。  筵《むしろ》の上で膝を抱えていた一人の少年が、ゆっくりと眸《め》をあげ、北の方角を仰ぎ見た。坊壁城壁を隔てた遥か彼方に、瑠璃瓦の楼台が霞んでいる。暮鼓は宮城正面、承天門の楼台で打ち鳴らされているのである。  乾物を山積みにした荷車が、土埃を上げて目の前を走り去り、少年は片袖で顔を覆うと咳込んだ。陽と塵を吸った粗末な短衣が、微かに臭う。にわか行商を決め込んだ少年が、市の片隅に陣取ってから、半日近くが過ぎていた。  商い品は一鉢の紅|牡丹《ぼたん》であった。小ぶりの花を二輪つけた鉢植えを売ろうというのだが、少年は商売上手とは言い難い。牡丹が客の目に止まるのを、ただ黙念と待っているだけである。  暮鼓がいよいよ激しく打ち鳴らされた。帝都の京城門はもう間もなく閉じられ、坊門も続く街鼓《がいこ》六百|槌《つい》の連打をもって閉ざされる。  少年の目の前を、小吏が、家僕が、職人が、足早に通り過ぎてゆく。自宅へと急ぐ者ばかりでなく、酒楼や色街を目指す者もあるに違いない。食材や雑貨を扱う市肆《しし》は、日没とともに終業するが、酒肆《しゆし》は夜を徹して賑わうのが都の大市場、東市《とうし》である。  少年は、暮鼓に急《せ》かされる都人の群れに見入っていた。羅のごとき夕闇は、傍らの花牡丹の上にも、緩慢に覆い重なり始めている。暮色が濃くなるにつれ、元来が利発そうな少年の瞳が、次第に輝きを増してゆく。商機は黄昏時にこそあると、少年は知っていたのであった。      一 「良や、良や、どこにいる」  まだ夜も明けやらぬ頃、竈《かまど》の火を起こしていた黄良《こうりよう》の耳に、母の険しい声が届いた。急いで奥の寝台に駆け寄ると、母が筋の浮き出た手を伸ばして言った。 「良や、妾《わたし》は喉が乾いて仕方がない」 「ではただ今、水をお持ちいたしましょう」  答えて傍らを離れかける黄良を、母が黄味がかった目で睨む。 「いやじゃ、水は飲みとうない。桃じゃ。桃が食べたいのじゃ」 「けれど母上、今は三月、到底桃が実る季節ではございませんが……」  戸惑う黄良をよそに、母は黒ずんだ歯ぐきを剥き出して言いつのった。 「驪山《りざん》の麓の天子様の離宮には、温泉の熱で育てた早生の桃があると聞く。落果は女官が賜り、女官はそれを集めて東市で売るのが習わしじゃ。良や、妾にその桃を購《あがな》ってきておくれ」  手元には一銭の蓄えも無かったが、黄良は「承知いたしました」と返事をした。母の意に沿うよう努力するのは、子の務めだからである。豊邑《ほうゆう》坊は棗巷《そうこう》に住む少年黄良は、近隣でも評判の孝子であった。  ときは天宝五年(七四六)、皇帝玄宗の治世下にして、寵姫|楊玉環《ようぎよくかん》が貴妃として冊立《さくりつ》された翌年にあたっていた。  逆心を隠した雑胡《ざつこ》安禄山が大乱をひき起こすのは、さらに十年後のことであり、楊一族の名のもとに、やがて専横を極める楊国忠は、いまだ市井の無頼であった。うち続く太平の世に、未曾有の大繁栄を謳歌して、後に「盛唐」と呼ばれた爛熟の時代が天宝年間なのである。  しかし、世の中がいかに潤っていようとも、足萎えの母を抱えた十五歳の少年に、驪山の桃はいかにも高価であった。母の望みを叶《かな》えるには、いくばくかの才覚が必要と思われた。  食事の支度を終えると、黄良は下働きに雇われている園芸師|宗倫《そうりん》の花圃《かほ》に赴いた。桃の代金を作るため、心中には一計を案じている。花圃は豊邑坊の外れにあり、この時期であれば、数千株もの鉢植えの牡丹が、美しい蕾《つぼみ》を風にそよがせていた。宗倫は顧客である貴族や豪族に、屋敷を彩る花々を納めていたのである。  黄良は花圃に入ると、水やりに始まって、堆肥運び、苗床作り、害虫取りと、与えられた仕事を大車輪でこなしていった。そうして、宗倫の妻の下穿きの洗濯まで終えたところで、ようやく暇を貰うことができたのだった。  宗倫の花圃から足早に出てきた黄良は牡丹の鉢を小抱きにしていた。師匠が捨てた屑株を、許しを得て園の隅で育てていたのである。芍薬《しやくやく》の根に継ぎ木された牡丹の小木は、折り良く可憐な花をつけていた。  豊邑坊より十三里離れた左街には、都の二大市場の一つ、東市《とうし》がある。隣坊には富豪や高級官僚の邸宅が多く、庶民で賑わう右街の西市《せいし》とは異なって、贅沢品の需要が多かった。  一鉢の牡丹を抱えた少年|振売《ふりう》りが、その東市の市門前に現れたのは、正午を大分まわった時刻であった。      * 「その牡丹花、価はいくらだ?」  声は遥か頭上から唐突に降ってきた。ふいを突かれた黄良が顔を上げると、胡風の長靴、続いて胡風の上衣が目に入った。胡とは西域の異民族を意味する言葉である。すなわち、相手は異国風の出で立ちだった。 「女への手土産に、早咲きの牡丹一鉢というのも悪くない。おい豎子《こぞう》、この紅牡丹、いくらで売る?」  鉢を指さしているのは、堂々たる体躯の若い男だった。禁中の警備につく羽林《うりん》の兵を思わせる精悍さの一方で、胡風を気取る浮薄さは、市にたむろする遊侠の徒のようでもあった。 「お代は五十銭でございます」  黄良は、生真面目な調子で返事をする。 「豎子、五十銭と言ったか。米一斗は目下二十銭で買える。しかるに、この貧相な牡丹一鉢が、五十銭だというか」  男の声は途端に厳しくなるが、帰り支度を始めた周囲の振売りたちの注意を引くほどではない。そこで少年は、相手の顔色を窺いつつ、恐る恐る反論を試みた。 「一株の富貴花に、数万銭を費やす方々もいらっしゃると聞き及びますが……」  言い終わらないうちに、黄良は男に襟首を掴まれて引き立てられた。 「その数万銭の牡丹花がどのようなものか、おまえはしかと心得ているのか」  咬みつくような男の口調に、黄良は慌てて首を横に振る。園芸師のもとで働いてはいても、そのような高価な花には、手を触れたことも、目にしたことすらないのである。 「都人士《とじんし》が千金を投じて求める牡丹花とはな、名高い沈香《じんこう》亭の花のごとく、色が日に四度変わるか、あるいは花房が人頭よりも大であるか、はたまた花弁が万重に折り重なっておるか──兎にも角にも、世に二つとない奇花ばかりであるぞ。慈恩寺の花賞翫《はなしようがん》の宴のことは、おまえも聞き知っておろう。かの花賞翫で一席を射止めるほどの珍種であればこそ、牡丹狂いの長安の阿呆どもが万銭をはたくのだ」  唐代において、花と言えば百花王、富貴花──すなわち牡丹のことである。  晩春ともなれば、花に憧れた都人は、こぞって熱に浮かされたようになる。今日は延康坊の西明寺、明日は晋昌坊の慈恩寺と、花の名所を訪ねては宴を張り、咲き競う花の麗姿を愛で、終日芳香に酔い痴れるのだ。  人々はまた、新種の牡丹の株を求めては狂奔した。名花奇花を得ようとして、貴族や豪族が財を費やす様は、まさに「牡丹妖艶人心を乱し、一国狂うが如く金を惜しまず」と詩人|王叡《おうえい》によって詠われた通りであった。  もとより黄良とて、そのような事情を知らぬわけはない。 「私は何も万銭と申し上げたわけではございません。まして、これもまた珍しい花であれば、五十銭は決して高くないと存じます」  黄良は、喘ぎながらも頑張った。驪山の桃は、一個の価が五十銭なのである。五十銭以下で花を売るわけにはいかなかった。 「どこがどう珍しいというのだね。珍しい花ならば、このわしが買ってもよいが」  奇妙に甲高い声が、睨み合う少年と男の間に、突然割り込んできた。驚いた男が手を離したので、黄良は素早く二三歩後じさる。  横あいから牡丹を覗き込んだのは、溶けた乾酪《チーズ》にも似た締まりのない顔に、無数の皺を刻んだ老人だった。おそらく後宮──掖庭《えきてい》宮に仕える宦官なのであろう。身につけた錦繍《きんしゆう》をみれば高官らしく、唸るほどの財を蓄えているに違いないと判断すると、黄良の関心は若者を離れ、老人へと向けられた。  ところが、「珍しいと申せます、そのわけは……」と、説明を始めた少年の言葉は、男によって語気鋭く遮られたのだった。 「聞いても仕方のないことだ。牡丹はたった今この俺が買ったのだ」  若者の突然の変心に黄良は目を見開き、出鼻を挫かれた老宦官は憮然とした。しかし、結局引き下がっていったのは、一見したところ何の変哲もない黄良の花牡丹に、未練を感じなかったからだろう。 「五十銭を負けるわけには参りませんが、よろしいのですか」  念を押す黄良に、男は返事をしないまま、懐をまさぐり財布を取り出した。合点がゆかない黄良は、男の表情を窺うが、ふと思い出したことがあり、口に出してみた。 「そういえば、先程のお方は掖庭宮の内侍《ないじ》様──王学理様ではございませんか。慈恩寺の花賞翫の常連で、珍種の牡丹の収集家としてもつとに名を馳せる……」  園芸師にとって上得意客である宦官王学理の顔と名は、徒弟の黄良も知っていたのである。 「なんの、あの閹人《えんじん》(宦官)が集めるのは、牡丹だけではない」  吐き捨てるように言った男は、黄良に五十銭銀貨を放ると、乱暴に鉢を抱え上げた。 「女も集めるのだ。それも、西域産の美しい舞姫──白皙《はくせき》、巻髪、緑眼の胡姫《こき》には目がないときた」 「宦官が……女を、ですか」  男が黄良の顔をしげしげと見つめたので、黄良も男の顔を無遠慮に見返した。歳の頃は二十二、三とみえる胡国かぶれの巨漢は、血の気が多そうではあるものの、意外にも人懐こい眼差しをしていると、少年は心の内で考えた。 「何を訝《いぶか》ることがある。天子様の信任厚い内侍監──宦官高力士は、都でも評判の美女を娶《めと》ったではないか。世間知らずの豎子《こぞう》だ。五十銭、落とさず帰れよ」  都の空に高鳴る暮鼓の音は、いつしか街鼓の響きにとって代わられた。男が踵を返そうとした、まさにそのときのことである。夕日が雲に覆われたため、薄茜色に染まっていた市の事物が、一斉に翳りをみせた。  ところが男の髭面だけは、ほの明かりを受け、薄闇の中に浮かび上がっていたのである。腕に抱えた牡丹花が、紅白色に発光し、男の顔を照らし出したからだった。  気づいて小輪の花房を見下ろした男の表情は、なんとも複雑な変化を遂げた。驚愕から困惑へ、困惑から陶酔へ……。妖光が射した男の瞳は、異域の血が混じっているのだろうか、深緑色に煌《きら》めいていた。 「暗闇に光を放つ牡丹花……なんと、夜光の富貴花であったのか」  黄良がこくりと頷き、男がにやりと笑った。 「やはり、おまえは世間知らずの豎子だ。この牡丹には五十銭どころか、万銭の値打ちがあるぞ」      二  東市は南の十字街に店を構える高級酒楼「緑柳亭」の末席で、黄良は生まれて初めて葡萄酒というものを口にした。  紅玉の色をした西涼州産のその酒は、白玉杯に注がれて、小卓の上にのっている。卓の下には筵《むしろ》に包んだ夜光牡丹の鉢が置いてあり、向かいには崔融《さいゆう》が腰を掛けていた。  崔融は、数刻ほど前に、黄良から五十銭で牡丹花を買った若い男である。金吾衛《きんごえい》の衛士《えじ》として徴募され、涼州から都に上って一年半になるという。金吾衛は都の治安を預かる警察機構であったから、その衛士は言うなれば警察官だ。強面なのも逞しいのも伊達ではない。  近親を亡くし、一族も没落して食うに困ったため、衛士にでもなろうと思い立ったのだというが、その割りに分不相応な「緑柳亭」へは頻繁に出入りしているようだった。  崔融は、「坊門が閉じられるより前に、家へ帰り着けないのならば、今夜は俺の知り合いのところへ泊まれば良い」と、黄良を伴っていたのである。 「……もっとも、この牡丹がただちに万銭というわけにはゆくまいな」  お互いの身の上話を終えると、話題は自然と夜光牡丹のことになった。 「夜光を放つとはいえ、花房が小さく姿も悪い。だが、大輪で花勢の良いものならば話は別だ。一万銭どころか、三万銭でも投げ出す好事家《こうずか》はきっとあろう。おい、黄良、夜光牡丹は他にもあるのか。夜光牡丹を育てる技は、おまえの雇い主の園芸師宗倫とやらが握っているのか」  ほろ酔い加減の黄良は、赤みの上った頬を膨らませるようにして答えを返した。 「牡丹はこれ一鉢きりです。夜光の技は、宗倫先生もご存じありません。堆肥をかき回していたときに、偶然私が発見し、今朝初めて試みたばかりなのですから」 「今朝だと? 試みただと? それはいったいどういうことなのだ」  眉を寄せて尋ねる崔融に、黄良は夜光牡丹の秘密を得々と語り始めた。あたりを憚った崔融が、慌ててその口をふさぐほどの大声である。 「夜光牡丹は、牡丹の花そのものが発光しているわけではありません。光っているのは、夜光子《やこうし》というものなのです。名は私が勝手につけました。夜光子は、いわばごくごく微小な草木といって良いでしょう。眼にこそ見えませんが、堆肥の養分を吸い、苔や芝のように殖えるのです」  発光細菌──黄良の夜光子とは、そのような類のものであったろうか。動植物に寄生するこの種の細菌が、ときに「光り病」をひき起こすことは、後年知られるようになる。 「私は腐泥の樽の中に夜光子を育て、光を楽しんでいましたが、五十銭工面する必要に迫られて、夜光子を使い牡丹の奇花を作ることを思いついたのです。そこで、夜光子を含んだ腐泥を水に混ぜ、花に吹きつけてみたところ、見事、暗闇で発光する夜光牡丹ができあがったのでした」 「では、夜光花は苗から育てるわけではないのか。花の咲いた木と夜光子があれば、たちまち夜光牡丹を作ることができるのか」  身を乗り出してくる崔融に遠慮もせず、黄良はいつの間にか、手酌で葡萄酒を飲み始めていた。杯に紅色の液体をなみなみと注ぐと、制止がないのをよいことに一気に呷る。 「その通りですとも。樽一杯の夜光子で、西明寺の大牡丹苑の牡丹すら、そっくり夜光花に変えてお見せいたしましょう!」  黄良は、紗のかかった半眼で崔融の顔を一瞥し、そう豪語したかと思うと、次の瞬間、音を立てて卓の上に突っ伏した。  酒楼に満ちた音曲の旋律が、いつしか異国風に変化した。琵琶や太鼓も次第に激しさを増してゆき、客の期待をかき立てる。  一段と高まる胡楽の音に合わせ、錦繍をまとった三人の美貌の舞姫が、五色の綾絹を振りつつ、酒席の中央に踊り出た。「緑柳亭」の売り物は、緑眼白皙の胡姫が披露する胡国の華麗な舞踊──胡旋舞《こせんぶ》なのである。  卓に伏していたはずの黄良も再び顔を上げ、胡姫の艶《あで》やかな舞に熱のこもった眼差しを送っている。崔融は少年の襟首を右手で掴むなり、強引に引き寄せ、耳元で低く囁いた。 「なあ、黄良。考えたのだが、俺とおまえ、二人で組んで、夜光牡丹で一儲けせぬか」 「一儲け……ですか」  胡姫の踊りを追うことに夢中で、話に身の入らない黄良の頬を、崔融が指でつまんで正面に向き直らせる。 「今日は三月十日で、慈恩寺の花賞翫の宴は十日後だ。嬉しいことに、宴には牡丹自慢の都人ならば誰でも出展が叶《かな》う。つまり、豪華な花姿の紅牡丹一鉢を用意して、夜光花に仕立て上げ、花賞翫に展覧しようというわけだ。宴で一席に選ばれた富貴花には、五万銭で買手がつくと聞けば、黄良、俺の言いたいことはわかるだろう?」 「ごまんせん……ですか」  ろれつの回らない黄良を、崔融は辛抱強く説得する。 「俺は今、どうしても金が必要なのだ。それも、二万銭──正確には一万九千銭だが──という大金だ。牡丹で得た五万銭は、俺とおまえとで折半にする。どうだ、悪い話ではないだろう。きっと、力になってくれるだろうな」 「なぜ……にまんせんも……ひつようなのですか」  黄良が緩慢に頭を傾げて尋ねたとき、羯鼓《かつこ》の音がひときわ高く響き渡り、中央の三人の舞姫は、弾かれたように散らばった。  金の鈴を振り鳴らし、銀の帯を翻《ひるがえ》しつつ、胡旋女たちは卓と卓の間を縫い、右に左に激しく旋回する。あたかもつむじ風が胡姫を巻き込み、胡姫がつむじ風を追っているかのようだった。見惚れる客たちの顔も目に入らぬように、この回転こそが胡旋舞の真骨頂と、異国の娘たちは舞いに舞う。 「実は……二万銭は、あれのためなのだ」  崔融が顎をしゃくった先には、華麗な跳躍を繰り返しながら近づいて来る、一人の胡姫の姿があった。三人の胡女の中で最も若く美しく、花のように可憐な舞姫である。 「あの胡姫──西域は曹国《カブダーン》の出で、曹小蘭《そうしようらん》という名だが──あの娘を、俺は身請けしてやりたいのだ」  その瞬間、霞のかかっていた黄良の瞳に、強い意志の光が戻った。 「もちろん、喜んでお力添えさせていただきます」  崔融に向かってきっぱりとそう宣言するなり、黄良は再び卓の上に倒れ伏した。肩を揺さぶる崔融への返事はもはやなく、安らかな寝息が漏れ聞こえるばかりであった。 「融さん……またいらしてくださったのですね」  胡楽の旋律と衣《きぬ》ずれの音に紛れて、美しい声が囁いた。 「ああ、あの腐れ宦官の出方が気にかかるからな。今も居るのか、王学理は?」 「ええ、奥の上席に。私への手土産に牡丹の鉢を買おうとしたところ、人相の悪い大男に邪魔立てされたとかで、少しばかり不機嫌ですが」 「その大男とは、誰あろう俺のことだ。王の奴のやることには、ことごとく横槍を入れずには気がすまないのだ。とりわけおまえを落籍《ひか》し、妾にしようなどという、ふざけた話にはな」 「かといって正面きって王に盾突くような真似は、どうかなさらないでくださいね。なにしろ相手は、宰相すら顔色を窺う内侍様なのですから」 「心配は無用だ、小蘭。いよいよ俺たちにも運が向いてきた。その発端が、あの閹人《えんじん》の鼻先から掠め取った一鉢の牡丹というのだから、世の中は面白い」 「牡丹……でございますか」 「ああ、そうだ。いいか、小蘭、王の奴が何を言ってきても首を縦に振ってはならんぞ。俺と、この子分の黄良とで、十日の内に必ず二万銭を稼ぎ出し、おまえを故郷の曹国へ、きっと帰してやるからな……」  夢とうつつの間をさ迷いながらも、黄良は二人の会話から、おおよそのことを理解した。そればかりか、崔融に子分よばわりされるや、ぴくりと眉を逆立てて、敢然と異議を唱えさえしたのである。      三 「良や、良や、陽はもう高いのですよ。そろそろお起きなさいな」  甘やかな声が耳朶《じだ》を撫でてゆき、黄良は夢の世界からまた別の夢へと誘われた。現実の世へ目覚めたという気はしなかった。身体は柔らかい布団に包まれ、馨《かぐわ》しい香りが鼻をくすぐっている。何よりも、頬に当てられた母の手が、この上もなく優しく暖かった。  現世でないとすると、ここは仏教でいう浄土だろうか? 自分は母を置いて、このように遠くまで来てしまったのだろうか?  朦朧とした意識の中でそう考えると、黄良は急に母に申し訳なく感じ、布団の中で膝を抱え、「母上、母上」と小さく呼んだ。 「お赦しください。悪ふざけが過ぎました……」  声が小鳥のさえずりに似た軽やかさを帯びた。我に返って布団を跳ね退ける黄良の前に、微笑をたたえた美しい娘の顔があった。緑眼、巻髪──胡の国の舞姫である。 「曹……小蘭さん?」 「ええ。黄良さん……ですね。事情は崔融さんから聞かされております。夜光花の技で私たちを助けてくださるのだと。心からお礼を申し上げます」  胸の前で手を合わせる小蘭の優美な仕草に、黄良は慌てて牀《しよう》から身を起こし、拱手《きようしゆ》を返す。頬が火照るのは、昨夜の酒のせいばかりではなさそうだ。気恥ずかしさのあまり、ついそわそわと周囲を見回した。  黄良が寝台を借りたその部屋は、おそらく酒場の上階にあるのだろう、美しい調度を配した小奇麗な私室であった。酒楼の主人に服する身とはいえ、美貌の胡女は「緑柳亭」の看板舞姫として、厚遇されているらしかった。 「黄良さんが、お母様のために驪山の桃を求めておられたことも伺いました。早速小女を買いにやらせてみましたが、桃はすでに売り切れて、次は二十日過ぎでないと市に並ばないということでした」  小蘭は気の毒そうに頭を垂れたが、すぐに明るく言い添えた。 「けれど、花賞翫で夜光牡丹に高値がつけば、百個でも買っておあげになれましょう。私は儒学のありがたい教えを知らぬ者ではありますが、早くに母を亡くしましたので、お母様に孝養を尽くされる黄良さんがとてもうらやましく、また、頭の下がる思いがいたします」  真情溢れる異国の娘の言葉であったが、忸怩《じくじ》たる思いを胸に抱える黄良は、額を曇らせた。身を粉にして働き母を養う少年を、他人は孝子の見本のように言うが、黄良は母を喜ばせることはおろか、苛立つ母の心を宥《なだ》めることすらできないからである。  財政を司る戸部侍郎《こぶじろう》の職にあり、秀才の誉れ高かった父が没したのは、黄良六歳の年であった。父の遺徳に守られて、すぐに生活に困ることはなかったが、虚栄心が強く、奢侈《しやし》好みの母の性が災いした。流行の石榴裙《せきりゆうくん》の仕立てだの、波斯《ペルシア》国より伝わった打毬戯《だきゆうぎ》《ポロ》試合の見物だの、上元節の灯籠祭の振る舞い酒だのといっては贅沢を続けたため、いつしか蓄財は尽き、崇仁坊の大きな屋敷まで手放す羽目になったのだ。  そこへ現れたのが、母の甥にあたる玄衛《げんえい》だった。  言葉巧みに黄良の母に取り入った玄衛は、屋敷を売って得た金を、知り合いの寄付鋪で殖やしてあげましょうと持ちかけた。転居先の小家で意気消沈していた母は、言われるままに金を預けたが、甥はそれきり顔を見せなくなる。  打毬戯狂いの玄衛が千金を積み、特別に調教された競技馬を胡商から手に入れたとの風聞を、黄母子が耳にしたのは一月後のことだった。  憤怒のあまり昏倒した黄良の母は、それ以後歩行が不能となった。豊邑坊の貧民長屋に移ってからは、寝台の上に起きあがることも滅多にない。  しかし、黄良が本当に悲しんだのは、小児に逆戻りしたかのように、何から何まで息子の世話に頼る母ではなかった。小児ですらなくなった母である。  わずかな喜びの情すら持たぬ幼子はないが、怒りと恨みの情念のみを肥大させた黄良の母は、今や喜びというものを完全に忘れ果てていた。一生分の喜びを、世にも愚劣な事柄に、浪費し尽くしてしまったからである。  それは三年前、春の天覧打毬戯試合が催されたときの出来事だった。自慢の名馬にさっそうと跨がった玄衛が、毬を打ち損ねた拍子に馬から落ち、首の骨を折って死んだのである。甥の頓死を伝え聞いた黄良の母は、歓声をあげて大いに笑った。脂気の抜けた青白い顔を皺だらけにし、腹の皮をよじらせて、笑いに笑ったのだった。  隣人も怪しむ大声で、およそ三刻(四十五分)ばかり笑い続けると、母の頬の皮膚はだらしなく緩んだまま、二度ともとには戻らなかった。かつては、桃花にもなぞらえられた美しい顔が、わずか数刻のうちに、妖怪じみた醜悪な容貌へと変化してしまったのである。  以来、黄良の母は何をもってしても楽しまない。黄良がどのように心を砕いて仕えても、母の不機嫌は高じるばかりである。身を削って尽くせば尽くすほど、母はますます横暴になってゆく。  いかようにも母を慰撫することができない黄良は、自分が孝子であるとは到底思えず、この頃は表情も暗くなりがちだった。  しばし鬱々と考え込んだ黄良の顔を、小蘭の翠玉のような瞳が、同情の色を浮かべて見つめていた。黄良の困惑の原因が、季節外れの桃を所望するような母の性にあると、異国に暮らす者に特有の勘の鋭さで、小蘭は悟ったようだった。  しかし美貌の胡姫は、母についてはそれ以上何も言わず、ついと黄良の手を取ると、食卓へと導いた。まずは腹具合から案じてくれたのである。鹿爪らしい顔つきを嘲笑うかのように、黄良の腹は情けない音を響かせていた。  茶を煮立てたり、粥《かゆ》をよそったりと、甲斐がいしく食事の用意を整えながら、小蘭は身の上話をしはじめた。琵琶の旋律にも似た語り口は、夢物語でもしているかのようである。瞬く間に話に引き込まれた黄良は、悩みも忘れて聞き惚れた。 「崑崙《コンロン》の山々のさらに西、砂漠の果ての曹国で生まれた私は、歳は今年で十八になりますが、三つ子のときから父の率いる隊商に混じり、諸国を巡っておりました。安国《ブハラ》、史国《キシュ》、康国《サマルカンド》、そして、遠くはこの唐国までも。美しい紫髯《しぜん》をたくわえた巨漢の父は、商売上手でございました。硝子《ガラス》に楽器に香薬に、象牙に珠玉に顔料と、珍しい品美しい品ならば、何でも商っておりました。高価な綾絹百匹を、今は亡き武恵妃様にお納めしたこともございます」  卓上に湯気のたつ胡餅を並べ終えると、小蘭は黄良の向かいに腰を掛けた。幼い頃を懐かしんでいるのだろうか、けむるような眼差しが艶《なま》めかしい。 「隊商は父を頭に、胡商とその縁者、総勢七十人を数えておりました。駱駝《らくだ》六十五頭に、馬三十頭を引き連れた、大所帯だったのでございます。天山南路をはるばる越え、楼蘭《ろうらん》を経て唐の地に入るとき、必ず通らねばならない門を玉門関《ぎよくもんかん》と申しますが、駱駝と馬を連ねた父の隊商が、その玉門関の門道を粛々と抜けてゆく様を、先頭の二瘤《ふたこぶ》駱駝の背の上で、父の胸に抱かれて眺めたことは、今でもはっきりと思い出されます。きらびやかな荷を山と積んだ長い長い隊列が、大きな熾火《おきび》にも似た夕陽のもと、丹色《にいろ》と黄金色に輝きながら、いつまでもいつまでも門より繰り出されてくる光景が、昨日のことのように眼の前に浮かぶのでございます」  黄良の瞼の裏を、駱駝を引いた西域商人の一群が幻のようによぎって行った。小蘭が父の隊商に寄せる想いの強さには、黄良の心もまた、共鳴せずにいられなかった。 「父はまた、大変愉快な男でもありました。琵琶をこよなく愛し、胡旋舞の名手としても知られておりました。そのうえ、天文を見ることにも、驚くほど巧みでございました。砂漠にあっては雲と風、都にあっては月と塵と語らえば、三日後の天候を言い当てることも可能であると、その昔、父は申しておりました。琵琶も舞も天文も、私はすべて父から教わったのでございます」  小蘭に促されて蒸餅を一つ掴んだものの、黄良は喰いつこうとはしなかった。小蘭の美声に聞き入っているうちは、空腹のことなど忘れていた。 「私が十三になった年、父は東都洛陽で亡くなりました。訶梨勒《かりろく》一斗を呑んで床入し、そのまま目覚めなかったのでございます。酒好き女好きで鳴らした父は、都ごとに酒の大樽と、気に入りの妾女を養っておりました」  小蘭が羽織っている披帛《ひはく》が揺れるたび、黄良の頭の中で五色の光がさざめいた。それが宿酔のためではないことは、少年にも漠然とわかりかけていた。 「父の死後、隊商は盗賊に襲われて、散り散りになってしまったのですが、私は辛くも賊の手を逃れ、父の旧友であった馬正林のもとに身を寄せますと、馬亜父率いる胡舞踊団の舞い手となったのでございます。ところが一年ばかり前、青竜寺で興行を打ったときのことでした。亜父はいかさま博打に手を出して、大借金をこしらえたのでした。負債を緑柳亭の主人に肩代わりしてもらった馬亜父は、借金のかたに私を預けると、都を出たきり戻ってこないのでございます」 「では、その借金が一万九千銭なのですね。借金さえ返済すれば、小蘭さんは自由の身となり、王学理に請け出されることもなくなるというわけなのですね」  卓の上に身体を乗り出し、咳込みながら言う黄良に、小蘭が微笑んで頷いた。崔融と黄良が力を合わせ、自分を救い出してくれると信じきっている笑顔である。  宝玉のような緑眼が、正面から黄良を見つめていた。瞳の中に己の姿を見た黄良は、仙界の高みに引き上げられたように陶然とした。 「崔融さんと出会ったのは、去年の九月九日、重陽節の日のことでした。大路で破落戸《ごろつき》に絡まれたところを、助けていただいたのでございます。それが縁となり、緑柳亭で親しく話を交わすうち……」  黄良が突然席を立ったので、小蘭が驚いた表情で振り仰いだ。  頭のうちの五色の光はかき消えて、代わりに灰色のもやが立ち込めていた。仙界もいつしか苦界となり果てた。束の間の淡い恋情を、懸命に義侠心へとすり換えながら、黄良はことさら重々しく宣言した。 「仔細は相分かりました。となれば、愚図愚図してはいられません。崔融さんにもご協力いただいて、すぐにも夜光子を育てる準備に取りかかります」      四  数刻後、崔融に伴われた黄良は、東市の南宣平坊にある荒れ果てた小宅の庭にいた。崔家の遠縁の者の屋敷で、空家となっていたところに、崔融が住みついているのだという。 「場所に不足はないだろう。樽と漏斗《じようご》と篩《ふるい》はあるが、後は何を揃えれば、仕事が始められるのだ?」  雑草のおい繁った庭を見回す黄良に、崔融が快活な声をかけてきた。涼州出身の偉丈夫は、夜光の技の成功をはや確信しているようだ。  応えて必要な道具を挙げながら、自分が崔融の誘いに乗り、夜光牡丹を作り出そうとしている理由を、黄良は頭の隅で考えていた。  分け前に心が動いたというわけではない。二万五千銭という大金が容易に手に入るとは、黄良には到底思えなかったのだ。では園芸師の徒弟として、夜光牡丹を世に問いたいのかといえば、それも当たらなかった。石国《シャーシュ》渡りの奇術師の得意芸──植瓜の術同様、夜光牡丹はまやかしの一種であると、黄良は承知していたからである。  結局、黄良を夜光花作りに駆り立てるのは、美しい曹国の舞姫を宦官の手から救い出し、その歓心を買いたいと願う気持ちに他ならない。他ならないが、果たしてそれだけの理由だろうかと、黄良は自分自身の心を訝しんだ。  とはいえ、小蘭の翠玉のような瞳を思い浮かべただけで、黄良の胸の内で悪鬼に似た何者かが、立ち騒ぐことは確かであった。肺臓の中に居座ったその者は、所かまわず矛を突き、爆竹を次々と轟かし、火樹をもって焙《あぶ》るのだ。挙げ句の果てに息は詰まり、頭の芯まで痺れてしまう。それが苦しい黄良は、懸命に鬼を押さえ込み、夜光牡丹に考えを集中しようと躍起になる。 「その他に、夜光子を蒔いて殖やす苗床が必要です。堆肥と人糞と藁《わら》とをそれぞれ二十斤ずつ集め、中庭に運び込んでくださいますか」  黄良が出す注文を、崔融はいちいち自信たっぷりに請け負ってゆく。 「堆肥に人糞か……造作もない。任せておけ。ところで、夜光子が十分殖えるには、どのくらい時間がかかるのだ?」 「日に日に陽気が良くなっていますから、夜光子の育つのも早いと思われます。まず一日と半ほど置けば、かなり大量に集めることができるでしょう」 「大輪の花を咲かせた立派な株を、夜光牡丹に変化させられるのだな」 「はい……けれど、そのような牡丹の鉢植えですが、手に入れることはできますか」  ここぞとばかりに胸を叩く崔融に、黄良は頼もしさを感じて安堵した。  打合せを済ませると、宣平坊の小屋を出た黄良は、宗倫の花圃を目指し歩いていった。  大街《たいがい》を西に向かって進むうち、次第に歩みは早くなり、ついには駆け出してしまうほど勢い込む。母の世話と雇われ仕事に追われる暮らしから、少年黄良は大きく踏み外そうとしていたのである。  不思議と母に対する罪悪感は薄かった。母の身辺の心配をせずに済んだからでもある。小蘭が自分の使っている小女を、母の世話に毎日|遣《や》ってくれることになったため、黄良は夜光牡丹作りに没頭できるのだった。  花圃に着いた黄良は、腐泥の樽の中から繁殖する夜光子を丹念に掬《すく》い取り、携えた竹筒に移しかえた。そうして雇い主の宗倫に会い、急な暇乞《いとまご》いを詫びたのだった。万事に慎重で思慮深いはずの黄良が、先々の生計に心を煩わすことすら止めていた。  帰途についた黄良は、心をますます昂らせた。夜光牡丹の技をもって、異国の舞姫を救う光景に空想を巡らせては、少年らしくはやくも胸を躍らせている。棗巷《そうこう》に寄り、母に留守を告げることすら忘れてしまったほどだった。  宣平坊の仮宿に戻りつくまでには、自分が崔融の仲間に加わったもう一つの大きな理由について、黄良ははっきりと悟っていた。  東西十七里、南北十五里の方形を有する唐の都長安は、全体が城壁に囲まれた世界有数の大都城である。なお、唐代における一里は、約五百六十メートルに相当した。  城壁の内は、縦横に走る都大路──いわゆる九衢《くく》十二街によって碁盤目状に区画され、各区画は坊と呼ばれていた。豊邑坊、崇仁坊などは、坊につけられた佳名である。  各坊は高さ一丈の坊壁に取り囲まれ、坊へ出入りするためには、二つないし四つある坊門を通らなければならなかった。坊門には、坊正と呼ばれる管理者が配置され、門の開閉および人馬の通行を司っていた。  坊の大きさは、一辺三百五十歩の正方形のものから、東西六百五十歩、南北五百五十歩という巨大なものまで様々である。坊内には十字街と呼ばれる幹道のほか、曲と称される小路が無数に通じ、民家五千余軒を容することが可能であった。また、庁舎や寺観、貴族の大邸宅なども、坊内で大きな敷地を占めていた。  つまり一坊は地方の州城にも匹敵した。そして、その州城級の坊が実に百十坊と、数十坊分に相当する壮麗な宮城および皇城から成り立っているのが、大長安の都であった。  これほどまでに巨大な都城であれば、治安の維持は一大事業である。坊内の秩序保全は自治組織に委ねられていたが、大街は金吾衛の管轄だった。金吾衛は大街が交わるところに街鋪《がいほ》と呼ばれる交番所を設け、衛士を配して都大路を警備するだけでなく、警察権を行使する際の拠点ともしていた。  夜明け前、朱雀門大街は開化坊南の街鋪に詰めていた崔融が勤務を終えて宣平坊の小宅に戻ってきた。足音を響かせて回廊を渡り、寝間に使っている東の部屋の戸を引き開けた途端、涼州の快男児もとっさに呻き声を漏らさずにはいられなかった。  燭の点らない部屋の中ほどには、薄紅色の牡丹花が五つ、灯籠めいた光をまとって浮かんでいた。光は、四日ほど前、黄良が市で売った花に数倍するほどの強さである。自らの夜光で、花芽や葉脈までも妖々と浮き上がらせ、摩訶不思議な美しさをたたえていた。  崔融はしばし茫然と立ち竦《すく》んでいたが、ついにしゃがれ声を押し出した。 「なんとも、鼻が曲がりそうな臭いだな」  部屋の隅で膝を抱えていた黄良が、むくりと頭を上げた。眠り込んでいたわけではない。 「おわかりになりますか」 「わからいでか。肥壺に頭を突っ込んだように臭うぞ」  牡丹の明かりを隔てたそれぞれの側で、崔融は大仰に顔をしかめ、黄良はか細い声を出した。 「大変光の強い夜光子が取れたので、喜んで花に施してみたのです。最初の夜光花に比べて、桁違いに明るいとはいうものの、このように悪臭がするのでは、顔を寄せて花を愛でることはおろか、花賞翫へ出展さえ許してもらえそうにありません。……いったいどうしたら良いのでしょう」  崔融は鼻に手巾を当てると鉢に寄り、発光する花をためつすがめつ観察した。 「初めの牡丹は臭わなかったではないか」 「使った夜光子入りの堆肥が少量でしたから、気にならなかったのでしょう」 「苗床を替えてみてはどうだろう」 「赤土や黒粘土なども試してみましたが、夜光子は育つどころか枯れてしまいました」 「では、夜光子だけをうまく漉《こ》し取って、花に塗りつけるわけにはゆかないものか。要するに、臭いのは泥と糞なのだろう」  食い下がる崔融に、黄良は眉をしかめて首を振った。考えつくことはすべて試みた後だったのである。 「それはできません。夜光子は、堆肥や糞の養分が溶け込んだ上澄みごと花に吹きかけてこそ、発光していられるのです。養分のない夜光子は、枯れて光を失います」 「しかし、この臭いは何ともはや……」  崔融は無精髭が伸びた顔を歪めていた。黄良は真実悲しげなその表情を、二重に切ない思いで見つめたのだった。      五  酒楼「緑柳亭」はその晩も、銀鞍《ぎんあん》白馬の貴公子から東市を牛耳る豪商に至るまで、大勢の客を迎えて華やかな賑いを見せていた。  ところが、片隅の目立たない席に陣取った二人組──黄良と崔融だけは、鬱々として楽しんではいなかった。夜光子の悪臭を除く術《すべ》を、依然見出してなかったためである。  失意の二人に、さらに追い打ちをかけたのが、王学理の振る舞いだった。 「小蘭のやつ、宦官爺に、何だってあのように手を取らせているのだ」  衝立《ついたて》の奥を透かし見ていた崔融が、いまいましげに唸り声を上げた。胡旋舞を披露し終えた胡姫たちは、得意客の席に侍ると、にこやかに酌を始めたところであった。 「緑柳亭まで来てくれと言ったのは、王の奴に媚びるところを見せようとしてか」 「崔融さん……小蘭さんは、未明に裏口に来るようにおっしゃったのです。それを勝手に店で待っているのですから、そのように怒らなくても」  宥《なだ》め役に回ってはみたものの、常にもなく掖庭宮の大物におもねる小蘭の姿には、黄良の心も騒ぐ。 「おや、あれは何だろう。なにやら壺のようなものが運ばれてきたぞ」  怒りに震えていた崔融の声が、ふいに軽い驚きを帯びた。黄良が衝立の透き間を覗いてみると、胴が一抱えもある大甕《おおがめ》が三人がかりで運び込まれてきたところであった。 「おお、おお、できてきた、できてきた。これが、羊の頭を煮溶かしたとろみ汁、羊頭羹《ようとうこう》であるな。なんとも、食欲をそそる匂いではないか」  王学理は耳障りな裏声で言うと、染みの浮いた醜い手で、小蘭の白い手を撫で回す。  湯気をたてる大甕は、確かに得も言われぬ芳香を漂わせていた。黄良と崔融は、匂いに誘われるように衝立の陰までにじり寄り、中の会話に耳をそばだてた。 「羊の頭の毛を抜き、とろけるほど煮てから骨を取り、口内の固い皮を剥ぎ、目玉は黒いところを用い、脳の肉はさいころ大に切り、雌鳥の出汁でこれを煮る。さらに、魚翅《ぎよし》、鮑《あわび》、貝柱、火腿、豚、鴨、筍、椎茸、山芋、棗《なつめ》を加えて煮詰め、仕上げに駱駝の乳を足し、米の粉でとろみをつけるのじゃな」 「西域では、羊の頭は最高のもてなし料理でございますが、羹《あつもの》に仕立て、駱駝の乳を使いますのは、曹国だけでございます」  小蘭が胡帽に付いた金鈴を揺らしながら漢人様に拱手すると、老宦官はただでさえ皺だらけの白い顔を、潰れた蒸餅のように崩し、満足気に頷いた。 「故国の味が懐かしくてたまらぬと言い出したおまえのために、材料を集め、急ぎ作らせた羊頭羹じゃ。駱駝の乳は用意するのにちと手間どったが、それも懇意の胡商から紅玉と交換に手に入れた。こしらえてみればこれこの通り、何とも言えず旨そうではないか。ほれ、小蘭、味見をするが良い。わしが口まで運んでやろうほどに……」  王学理はしなをつくった宦官ならではの仕草で、羹を器に取り分けると、匙で掬って小蘭に食べさせた。可憐な胡姫に注がれる老閹人の眼つきの淫靡《いんび》さに、怒りで顔をまっ赤にし、拳を握り締めているのは崔融だった。  今にも飛び出してゆきそうなその様子に、黄良は一人はらはらするが、崔融は突然拳を緩め、表情を和らげた。羹を一口味わった小蘭が、「大変おいしゅうございます」と答えたからである。  駱駝の乳入り羊頭羹は、掛け値なしに美味であるということが、覗き見る者にも伝わるほどの、小蘭の笑顔の眩しさではあった。 「融さんは? ご一緒ではないのですか?」  一番鶏も鳴こうかという明け方、東市きっての歓楽街はようやく静まり返る。「緑柳亭」の裏口に、小蘭がすらりとした身体を現したのは、そのような時刻であった。 「そこの角を曲がったところで、待ってらっしゃいます。小蘭さんと顔を合わせれば、愚痴ばかり言ってしまいそうだとかで」 「まあ、相変わらず困ったお方……。王に愛想をふりまいたのは、これを作らせるためだったと、お察し頂けなかったのでしょうか」  そう言って、小蘭が指さした戸口の陰には、たっぷりと羹の入った、例の大甕が置いてあった。 「先刻の羊頭の料理ですね。これをいったい何のために……」  尋ねかけて、黄良は「あっ」と叫ぶ。 「まさか、これで夜光子を育てよとおっしゃるのですか。富豪の家でも滅多に食卓に上らない贅沢な羊頭羹を堆肥と糞尿の代わりに与え、夜光子を殖やせと?」  黄良は眼を剥いてのけ反った。  士大夫の家に生まれついてはいても、今では貧民のたむろする客戸坊に住まい、口を糊するのがやっとという黄良である。宗倫の家の奴婢が時折り持たせてくれる、余り物の餅や粥を馳走と思い、普段は糟《かす》と糠《ぬか》ばかりを食べている身であった。美味にして滋養豊富な富貴の人の食物で、夜光子を育てるという発想に、仰天したのも無理はない。 「昨日、黄良さんから悪臭の話を伺ってから、苗床の素材を私なりに考えておりました。そこで思い当たったのが、懐かしい祖国の珍味、効き目もあらたかな滋養強壮食、駱駝の乳入り羊頭羹のことでした」  滋養豊かな強壮食ということであれば、小蘭が羊頭羹に思い至った理由は、おおいに理解できるとはいうものの、黄良はいまだ困惑気味だった。  目を瞬かせる黄良に、夜目にも艶やかな笑みを向けた小蘭は、鷹揚に言葉を継いだ。 「一株の富貴花に数万銭を投じるのが都人の豪奢な道楽ならば、その数万銭に価する一株を育てんと、豪勢な鳥獣の羹を費やすこともまた、大長安にふさわしい奢侈ではございませんか?」  次第に感嘆の面持ちに変わってゆく黄良に、小蘭はいつものように父の教えを引き合いに出しながら、夜光子の苗床に羊頭羹を使うことを重ねて勧めたのだった。 「加えて、その昔、私の父は申しておりました。隔たりがあるように見えるものほど、存外違いは少ないものであると。農民より施しを受けるのは乞食でしょうか。皇帝陛下もまた、施されているとは言えないでしょうか。ことごとく対立する道観の道士と仏寺の僧侶も、願うところは人の世の安寧ではございませんか。悪臭甚だしい人糞と、芳香を漂わす羹と、夜光子を育む力に、果たして違いはございますでしょうか」  黄良は、いつしか背筋に熱いものを感じて奮い立った。駱駝乳入りの羊頭羹をもってすれば、夜光子は必ず育つに違いないと、少年はついに確信したのである。      六  慈恩寺の花賞翫の宴を明後日に控えた夕刻、黄良は崔家の部屋の片隅で、満ち足りた顔をして眠りこけていた。  傍らにある羹の入った大甕の中では、ふつふつという音を立てながら夜光子が育っていた。夜光子の勢いは驚くほど強く、放つ光で甕は内側から輝いている……。  いや、それは黄良の見る夢であった。夜光子は殖えるときに音を出すわけではなく、いかに光が強くとも、甕が光るはずはない。とまれ、夜光子が小蘭の用意した駱駝の乳入り羊頭羹を貪り食らい、順調に成長していることは確かであった。  大甕を宣平坊の小宅に運び込んだ直後から、黄良は夜光子を羹の中に植えつけるための準備に取りかかっていた。  まず庭に出て、悪臭ふんぷんたる夜光子の苗床をめくり、最も光が強いと思われるあたりの藁を一束抜き取ると、水を薄く張った浅桶に浸して丁寧に洗う。暫く置いた後、上澄みを長さ一尺の竹筒に移し、紐の持ち手を掴んでぐるぐると振り回すのだ。遠心力という言葉はなくとも、現象がないわけではない。空を切って回転する竹筒から、中身がこぼれることはない。  肩と腕とが引きつって痛んでも、なお気合いを込めて竹筒を回し続けると、三刻ばかりたったところで、水中に浮遊していた夜光子が沈殿する。そこで、竹筒の底に錐《きり》で穴を空け、夜光子が濃縮された下層の水を、杯一杯分だけ静かに滴り落とす。この頃には不快な臭いはほとんど消えているが、同時に養分も乏しくなっている。  こうして取り出した夜光子の水は、大甕の中に注ぎ入れられる。甕の中では鳥獣肉の羹が、料理されてから半日以上経たにもかかわらず、依然|馨《かぐわ》しい匂いを放ち、夜光子を育もうとして待ち受けていた。  夜光子を蒔いた羹は、杓で注意深くかき混ぜる。甕は昼は温かい日向に置き、夜になれば家の中に入れて温度を保つ。汁は度々《たびたび》混ぜなければならず、気の抜けない時間が続く──。  夜光子を育てる手順を夢の中で反芻していた黄良は、いきなり肩を揺すられて目を覚ました。驚いて顔を上げると、外から帰ってきた崔融が、少年を楽しげに見下ろしていた。 「おい、飯はまだだろう。胡餅を買ってきたから食え」  差し出された包みを喜んで受け取ると、黄良は胡麻の香りも芳ばしい餅に喰らいつく。 「夜光子の育ち具合は良いか。悪臭はないだろうな? 明日はいよいよ夜光花の技をなせそうか」  胡餅を喉に詰まらせながら、いちいち律儀に頷く少年に、崔融は満足気に頬を緩ませた。手入れの悪かったはずの髭面が、さっぱりと整えられていることに、黄良はふと気がついた。 「……ああ、髭か。昼間、小蘭のところに顔を出して、夜光牡丹に恥ずかしくないようあたって貰ったのだ。あいつは舞を舞わせれば天下一品、胡語漢語に通じて学もある。そのうえ、手先までも器用とくれば、まったく申し分のない女だよ」 「崔融さんは、小蘭さんのことが……本当にお好きなのですね」  四つ目の胡餅を口に持ってゆきかけた手を止めて、黄良がぼそりと呟いた。暗さのこもった声に自分ながら驚くが、武骨漢の崔融が気づく様子はない。 「好きかだと? 当たり前ではないか。小蘭と出会ったばかりの頃、毎日がそれは愉快だったものだ。鞦韆《ぶらんこ》が空に舞い上がるときの心地に似た、浮き立つようなあの気分……俺は一生涯忘れることはあるまいな」 「この頃は……楽しくはないのですか。身請けのことが心にかかっているとはいえ」  訝しげな黄良の顔を素通りし、崔融は細めた目で宙を見つめていた。 「いや……しかし、小蘭は、結局俺に一時の楽しみよりも大事なものを与えてくれたのだ。つまり、志というものだ。小蘭のためにもそいつを果たしたいと、今は一心に願っている」 「志……ですか」 「そうだ。俺はこれまで、涼州のならず者に過ぎなかった。衛士となって都へ来たのも、たいした考えがあってのことではない。ところが、西域の風物や商いの醍醐味について、小蘭から繰り返し話を聞くうちに、俺も諸国を巡って商売をしてみたいという気が猛然と湧き上がったのだ。波斯国に出向いて硝子や絨毯や楽器を仕入れ、蘇州や南昌あたりまで足を伸ばして商いをする。俺は旅が好きだし、金勘定もできる。血筋からいっても素質はあるに違いない。もちろん、小蘭も手伝うと言ってくれている」  駱駝の背の上で寄り添う、漢人の偉丈夫と胡人の美女の幻が、黄良の胸に黒い影を差しかけた。掴んでいた胡餅を包みに戻し、俯く少年の顔を、屈託のない表情に戻った男が覗き込んだ。 「なあ、黄良。おまえはどうなのだ。大望はあるのか。おまえは頭が良いし、名家の出だ。運気さえ捉えれば、官職を得て必ず栄達する男だと、俺は思うのだがな」  兄を思わせる崔融の親身な言葉にも、素直になれない黄良は眸を伏せた。それを含羞《はにか》みと受け取ったのか、崔融が励ますようにおどけて言った。 「官僚となって出世した暁には、宮廷にのさばる宦官連中に一泡吹かせてやれよ。もっとも、昼間のあの陰気な面《つら》からすると、肝心の王学理はもう先が長くなさそうであるが」  唐突に出た王学理の名に、黄良は拗《す》ねていた気持ちを一瞬忘れて、顔を上げた。 「……会ったのですか、王に?」 「ああ、街鋪に立っていると、馬上から例のきんきん声で呼びかけられたので、さすがの俺も飛び上がった。俺の顔を覚えていて、先日買った牡丹花のことをやたらと知りたがるのだ。……そこで、俺は言ってやったというわけだ。あのときの花は夜光牡丹といって、世にも珍しい品種であるから、花賞翫の一席は間違いない、とな。すると王の奴、この衛士ごときがとでも言いたげに、皺の奥から俺を睨んでいたが、睨み返してやると、おたおたと帰っていきやがった。背《せな》を丸め、不器用に手綱を操ってな。宦官の馬術とは、まさにあのことだ」  崔融は王の仕草を真似てみせると、豪快に笑い声を立てた。小蘭への思慕ゆえに、ときに崔融へ反発を感じても、結局は彼の磊落《らいらく》さに引き込まれ、一緒になって笑わずにいられない黄良だった。  翌日の午後、崔融と酒楼を抜け出した小蘭の二人が見守るなか、黄良は花賞翫へ出展する牡丹花に夜光の技を施した。素材となる鉢植えは、平凡な品種ながら大輪の花をつけた姿の良いものを、崔融が約束通り整えていた。  技そのものは単純だった。甕の中から夜光子が密生した上澄みを掬い取り、霧吹きを使って花冠にまんべんなく吹きつけるのだ。作業が終わってみると、花には悪臭どころか馨《かぐわ》しさが加わった。羹は夜光子を植えつけて以来腐敗もせず、相変わらず芳醇な匂いを保っていたのである。  羹の水分があらかた蒸発し、夜光子と養分とが花弁の表面に広がって薄膜を成したところで、黄良は戸を締めて部屋の中を暗くした。  その瞬間、小蘭のあげた感嘆のため息が、誇らしさとなって少年の胸を満たしていった。夜光花を見慣れたはずの崔融すら、喉を鳴らして息を飲んだ。  七房の夜光花牡丹は、七つの宝冠よろしく絢爛《けんらん》たる光をまとっていた。幾重にも重なり合って輝く花弁は、月光で織られた綺羅《きら》のごとく、艶麗にして豪奢であり、同時に幽玄でもあった。自ら放つ妖美な明かりに、枝葉の先まで照らし出された富貴花一鉢は、光の刷毛で描かれた一幅の絵となっていたのである。  神々しいまでの美に陶酔した三人は、言葉を失ったまま人工の百花王に魅了され続けたのだった。 「天子様の花賞翫の野宴は、都合良くも夕刻からだ」  上機嫌で美酒阿婆清を呷《あお》りつつ、崔融は黄良相手に声をはり上げた。前祝いだと繰り出した「緑柳亭」の席である。 「正午の街鼓の音とともに、都人は自慢の牡丹を車に乗せ、幔幕《まんまく》はためく慈恩寺の境内へ、次から次へと運び込む。入口で割り符と引き換えに大切な鉢を預けると、鉢は役人の手によって、順に露台の上に載せられる。このときばかりは、身分の貴賤は問われない。宰相所有の紅牡丹の隣に、車夫秘蔵の紫牡丹の鉢が並ぶこともある。出展者には、一席の栄誉を望む王のような収集家もいるが、変種の花で一攫千金を夢見る輩も多い。もちろん、俺たちはそのお仲間だ」  珍しく王学理の姿がなかったために、卓には小蘭も寛《くつろ》いで侍っていた。しっとりと艶を含んだ眼差しは、崔融と黄良の二人の上に均等に注がれて、少年は、口惜しさと満足の両方を一時に味わった。 「さて、日が傾いて漢の武帝の陵墓にかかる頃、いよいよ天子様の行幸となる。官女高官数百人を従えて、きらびやかな鈿車《でんしや》を連ね、僧|玄奘《げんじよう》ゆかりの名刹にお運び遊ばすというわけだ。いったん大酒宴の幕開かば、そこは庶人の想像及ばぬ絢爛豪華な別世界。爛漫と咲き誇る花牡丹三千鉢、銀燭の明かりにほの浮かび、馨しき芳香風に流れて宵闇に満ち、鳴り響く胡楽の音色も賑々《にぎにぎ》しく……」  野宴の警護に当たったことがあるという崔融は、酔いに任せて滔々《とうとう》とまくしたてていた。深更となっても、いっこうに杯を置く気配がなく、小蘭は微苦笑を浮かべながら耳を傾けていたが、街鋪で王学理に声を掛けられた話になると、途端に額を翳らせた。 「王が陰鬱な顔をしていたのには、もっともな理由があるのです。花賞翫に出展しようと丹精していた牡丹花が、つい一昨日、枯れてしまったからなのです」 「そいつは、なんともお気の毒様だ」と、面白がる崔融を目で制すると、小蘭は真顔で先を続けた。 「昨年惜しくも一席を逃し、今年こそはと入れ込んでいた自慢の橙色牡丹でしたから、それはそれは恐ろしいほどの落胆ぶりでした。王のように男でない男たちは、一つの物事に異常なまでに執着し、またいたずらに虚名を追い求める気持ちが強いものであると、その昔、父は申しておりました。よからぬことを企まねば良いのですが……」  小蘭の声に張り詰めたものを感じた黄良が、思わず立ち上がり口を挟んだ。 「まさか、王学理が私たちの牡丹を盗み出すと、そうおっしゃるのですか」  小蘭の沈黙が危惧に等しいと悟った黄良は、「緑柳亭」を転がるようにして走り出た。遅ればせながら崔融も、ふらつく足で後を追いかける。      七  下弦の月が投げかける淡い光の下で、街路樹の槐《えんじゆ》と柳が黒々とした影を落としていた。  日没と同時に人通りの途絶える大街を、息を切らして走りながら、崔融が衛士であって良かったのか、悪かったのかと、黄良は考える。  崔融が衛士でなければ、夜行の禁がしかれている夜間、黄良を伴って坊門を出、都大路を歩行することは不可能だった。しかしその一方で、金吾衛の兵であったがために、王学理は崔融の住まいを調べ上げ、押し入ることが可能になる。  小蘭の不安に後押しされ、宣平坊の小宅に戻った黄良と崔融は、奥の間に踏み込むなり声も出せないほど驚愕した。鎮座していた夜光牡丹花の鉢が忽然と消えている。崔融の酔いも一気に覚めた。  すぐさま屋敷を飛び出して、必死にあたりを捜したが、怪しい人影はすでにない。そこで二人は、坊門を抜け大街に走り出た。王学理は手下の盗賊に文牒《ぶんちよう》を発行し、逃亡を助けるはずと考えたからである。  文牒とは、夜間の大街の往来を可能にする公式の通行証のことだった。宣平坊の坊門を守る坊卒の話では、文牒を携えた者数人に、門を通ることを許したが、中には鉢物らしい大荷物を運ぶ者もいたという。  黄良と崔融は、王学理が屋敷を構える崇仁坊まで走りに走り、野盗の姿を追ったにもかかわらず、賊の影も形も捕らえることはできなかった。親仁坊や安邑坊の周辺までも捜し回ったものの徒労に終わる。  ついに崔融は足を止めて都大路に膝をつき、頭を抱えて呻吟した。牡丹花が宦官の屋敷に運び込まれてしまった後ならば、一介の衛士と少年には、もはや花を取り戻す術はない。 「なんということだ! なんということだ! 俺が軽々しく自慢をしたばかりに」  槐の幹に額を打ちつけて悔しがる大男に、黄良は掛ける言葉を持たなかった。黄良もまた、泣きたいような気分なのである。  いつしか空が白んできた。絶望する二人の頭上を、いつもと変わらぬ暁鼓の音が、冴々と響き渡ってゆく。いち早く開かれた坊門からは、餅売りの呑気な声が聞こえてきた。 「これから王学理の屋敷に押しかけ、問いただしてみましょう」 「何をたわけたことをと、叩き出されるのが落ちだ」 「けれど、盗人を捕まえるのは、崔融さんのお仕事ではありませんか」 「しかし、相手は掖庭宮の化け物なのだ。証拠もなしに糾弾すれば、こちらの身が危なくなる」  険悪な調子で言葉を交わしつつ、憤怒にまかせて早朝の大路をさ迷い歩く黄良と崔融が、泥酔の与太者二人と行き会ったのは、東市の西門前まで来たときだった。  場末の酒肆で呑み明かしていたものか、与太者の麻の短衣は安酒と獣脂の不快な臭いを放ち、だらしなく緩んだ帯がかろうじて腰のあたりに巻きついていた。  二人は千鳥足で歩いていたが、黄良と崔融の目の前まで来ると、やおら短袴を引き下げて、坊壁めがけ放尿し始めたのだった。  黄良は顔をしかめて行き過ぎかけたが、なぜか崔融に袖を取って引き止められた。そればかりか崔融は、与太者のほうに大きく足を踏み出したかと思うと、突然雷のような声で怒号したのである。 「そこの者、坊壁に小便をしてはならん!」  驚いたのは、遊侠二人組だった。縮み上がった一物ごと振り向くと、仁王立ちの巨漢の顔を茫然と見上げている。 「大街で排泄する者、笞《むち》打ち十五の刑である。そこの街鋪まで来てもらおう」  崔融はそう言い渡すなり、左右の手で酔払いどもの襟首を掴み、荒々しく引き立てた。黄良はわけもわからず、その後を追いかける。 「ただの立ち小便が何だと言うのです。大悪人がのさばっているというときに、そのような場合ではないでしょう」  街鋪に連行した二人の破落戸《ごろつき》を柱に縛りつけた崔融に、黄良が悲鳴のような声で食ってかかった。 「いいか、黄良。牡丹の鉢を盗んだのは、こ奴らだ。一仕事終えた後、報酬で呑んだくれていたに違いない。王学理に雇われたことを、何が何でも白状させてやる」  厳しい表情で黄良を一瞥した崔融はそれだけ答え、与太者二人に向き直った。  気の立った大男の締め上げに、にわか盗賊どもは心底震え上がったようだった。たちまち音を上げると、王学理の指図で夜光牡丹を盗みに入り、王の屋敷まで運び込んだ顛末《てんまつ》を、あっけに取られる黄良の目の前で、代わる代わる告白したのである。 「俺はこれからこいつらを引き連れて、王学理の屋敷の門前で呼ばわってやる。牡丹泥棒の宦官|爺《じじ》いめ、手下が白状したぞ、覚悟は良いか、とな」  縛り上げた二人の小悪党を、荷車に放り上げながら言う崔融に、黄良は不安げに問いかけた。 「……けれど、それで王が牡丹を返してくれるでしょうか」 「それは、わからん。しかし、このままでは済まさんぞ。ひと暴れして、あの腐れ閹人の胆を冷やしてやる」  崔融は全身を怒りで熱くたぎらせていた。もはや何を言っても止まるものではないし、こうなったからには涼州の豪傑児に任せるしかないと、黄良も腹を括ることにする。しかし、破落戸どもを連れ出す前に、一つだけ尋ねておきたいことがあった。 「それにしても、崔融さんにはなぜこの者たちが、夜光牡丹を盗んだとわかったのですか」  不思議がる黄良に、いくらか冷静さの戻った口調で、崔融は逆に問い返した。 「黄良、おまえは、こ奴らの小便を見ていなかったのか?」  しかし、黄良の返事がないとみると、崔融は面白くもなさそうな顔つきで、あっさりと種明かしをして聞かせたのだった。 「朝曇りの空の下、薄ぼんやりと光っていたではないか。こ奴らは盗みに入ったときに夜光子の甕を見つけ、旨そうな匂いに誘われて中の汁を飲んでしまったに相違ない。一緒に飲み込んだ夜光子は、体内を巡り巡った末に、光を放ちながら小便と一緒に出たというわけだ」  黄良はあんぐりと口を開け、崔融の髭面を仰ぎ見た。呆れたような、可笑しいような、はたまた感心したような面持ちである。崔融は、黄良の眼差しに気づいたのか、憮然とした表情で応えて言った。 「ああ、その通りだとも。例の羹を俺も飲んでしまったのだ。実に食欲をそそる匂いであったから、二日ほど前に、ついふらふらとな。……その挙げ句がこの俺も、夜目にも輝く夜光小便野郎ときた」      八  黄良が「緑柳亭」に舞い戻ったとき、小蘭は店の前で悩ましげに空を見上げていた。  曹国の舞姫は憂い顔もまた美しかったが、見惚れている場合ではなかった。崔融は盗人二人組を乗せた車を引いて王学理の屋敷を目指し、黄良は事の次第を知らせるため、小蘭のもとに帰ってきたのである。 「では、融さんは捕らえた手下を切り札にして、王に詰め寄ろうとしているのですね」  事態を素早く理解した小蘭は、しばし天を仰いで考えていたが、ついに黄良の手を取ると決然と言った。 「黄良さん、私たちも王学理の屋敷に参りましょう」  小蘭の手を引いた黄良が、崇仁坊まで駆けつけてみると、壮麗な門構えの王学理の屋敷の前は、すでに黒山の人だかりであった。逞しい若者が、縛された与太者二人の首根っこを押さえつけ、門の奥に立つ屋敷の主人に向かって、大声で怒鳴り散らしていたからである。若者のまわりは屋敷の警護役が取り囲んではいたが、相手のあまりの剣幕に恐れをなしたか、手を出しかねていた。 「あいや、宦官王学理。貴様がこの者たちに命じ、俺の大事な夜光牡丹を盗んだことは、しかと調べがついている。素直に牡丹を返せばよし、白ばっくれるようなら京兆《けいちよう》府へ訴え出、きっと罪に問わずばおるまいぞ!」 「狼藉者が何を吐《ぬ》かすか」  豪奢な部屋着を羽織った王学理が、応えて街路に姿を現した。凄みをきかせ大呼したつもりであろうが、声は縊《くび》られる直前の雉子《きじ》のようである。見物人の間からは、失笑が湧き起こった。 「たしかに、わしは名花夜光牡丹を所有する者であるが、人を使っておまえから盗ませたとは、言いがかりも甚だしい」 「言いがかりだと。ここに捕らえた盗賊二人、銀五百銭で貴様から請け負ったと、たしかに白状しておるのだぞ」 「衛士ごときが、出鱈目を申すでない!」  王学理が一喝した。甲高い声であるにもかかわらず、このたびは笑う者がなかった。権謀術数渦巻く掖庭宮で、五十年近く命脈を保ってきた老獪《ろうかい》な宦官が、ついにその化け物じみた本性を露わにしたのである。  怖気をふるった黄良は思わず小蘭の手を握り締め、小蘭は奇妙に冷えた指先で、おっとりとその手を握り返してきた。 「わしは、そこの二人の者が持ち込んできた牡丹を五百銭で買っただけじゃ。出所など与《あずか》り知らぬこと。盗まれたと言い立てるのならば、その盗人を突き出すが良い」  手下がはやばやと捕らえられたことに、内心動揺しないはずはなかったが、皺の一筋も動かさず、鵺《ぬえ》じみた閹人はあっさりと小者を切り捨てた。  崔融は一瞬言葉に詰まったものの、すぐに荷車の上の与太者の首を締め上げて言う。 「やい、男。おまえは、牡丹を王学理に売ったのではない。王に指図され、牡丹を盗んだのであるな。それをもう一度ここで白状しろ」  しかし、顔色が青黒く変わっても、男は目を剥くだけで口を開こうとはしない。王の恐ろしさを知る者には、白状するもしないも地獄に違いなかった。  形勢が定まったとみたか、王学理の手の者がじりじりと崔融ににじり寄る。老宦官はけしかけるように腕を挙げ、若者は怒髪天を衝く形相で頭を大きく振り立てた。  その途端、曹小蘭の白い手がついと黄良の掌を離れ、可憐な姿は人垣をかき分けながら前に進み出た。不意をつかれた黄良も、慌てて後につき従った。 「しばし、お待ちくださいませ」  小蘭は、夜鳴鶯のさえずりのような声を響かせて、衆人の注意を引きつけた。王学理と崔融も、聞き馴染んだ美声の主をいっせいに振り向いた。 「これは、いったいどうしたことだ。そこにおるのは、小蘭ではないか」  剣呑であった老宦官の顔が、たちまち他愛もなく笑み崩れる。 「はい。たまたま近くを通りがかったところ、この騒ぎに出くわし、見聞しておりましたが、あまりに老爺様の御為にならぬこととて、僭越にもまかり出ましてございます」 「はて、為にならぬとは」 「はい。聞けば、老爺様は夜光牡丹とやらの名花を五百銭でお求めの由。その牡丹は、今宵の花賞翫の宴にて展覧されるのでございましょうか」 「まことに見事な花であるから、その心積もりであるが……」  王学理の返事を聞くなり、小蘭は花のような顔を片袖に埋め、よよと声を漏らした。 「なんと嘆かわしいことでしょう。わずか五百銭ばかりで購った富貴花を、内侍様ともあろうお方が、天子様の御前にお晒しになるおつもりとは」 「いや……しかし、ほんにこの世に二つとない不思議な牡丹花なのじゃ」 「されど、価たかだか五百銭の、しかも盗品の疑いのある花でございます。いえ、五百銭であればこそ、内侍様は盗品をお買いになったとの風評は免れず、ご令名に傷がつきましょう」  美貌の胡姫のもっともな言い分に、後宮の古狸も狼狽を隠せない。 「見れば、こちらの方の必死の面持ちにも、一片の真実があるような気がいたします。盗難に遭ったという言葉に嘘はないのでございましょう。それでしたらいっそのこと、老爺様がこの方から牡丹を高値で買い上げた、という体裁にすればいかがでしょうか。二万銭ほどもお与えになれば、稀代の名花の値打ちに見合って老爺様の面目も立ち、こちらの方も納得されるのではありますまいか」  野次馬たちの賛同のどよめきが、王学理のもとにも届き、老宦官はむむとばかりに渋面を作った。一方、崔融はといえば、車の荷台に片足をかけ、男どもの襟首を掴んだ姿勢のまま、固まったように動かない。  固唾を飲んで成り行きを見守っていた黄良は、小蘭の始めた仲介に、思わず目を丸くした。花賞翫で買手がつけば、五万銭は下らないはずの夜光花を、わずか二万銭ほどで、それも憎らしい王の手に、小蘭は売り渡そうとしているのである。  ところがそのとき、失望しかけた黄良の目を、一枚の紙切れが引きつけた。無造作に崔融の懐に突っ込まれ、角だけのぞかせているその紙は、先刻盗人から取り上げた文牒に間違いない。 「……小蘭さん」  黄良は、胡姫の耳元で囁いた。 「崔融さんは、ご自分では忘れているようですが、破落戸から取り上げた文牒を持っておられます。王学理の名と印が入っているはずですから、用途を問い詰めれば、言い逃れはできません。二万銭よりも、夜光牡丹を取り戻しましょう」  ところが小蘭は、わずかに頭を傾げただけで振り向かず、宥《なだ》めるような小声を黄良に返してきた。 「いいえ、黄良さん。申し訳ございませんが、五万銭を高望みするよりも、二万銭を確実に手にいたしましょう。ご覧ください。体面大事の王学理は、もう間もなく決心するはずです」  小蘭にそう言われては、黄良も従わざるを得なかった。羊頭羹の一件以来、三歳年長の胡女の知恵には、絶対の信頼を寄せていたのである。沈黙を続ける崔融も、おそらく同じ気持ちに違いなかった。  結局、女の前で太っ腹なところを見せたいと思う心には、老宦官も変わりがないのか、小蘭の言葉通り、王学理はついにこう言ってのけたのだった。 「よかろう。ほかでもない可愛いおまえの仲裁じゃ。こ奴のものであったという夜光富貴花の代価として、銀二万銭、支払ってとらそうではないか」  小蘭は牡丹も霞む艶やかさで微笑むと「ありがとうございます」と応え、崔融は合意の印に腰の小剣を抜いて、盗人どもの縄を切った。  与太者二人は、転がるようにその場を逃げ出すが、もはや注意を向ける者はいなかった。盆に載った銀貨二万銭が、王の財力を誇示するかのように、早くも屋敷の奥から運ばれてきたからである。      九  黄良、小蘭、崔融の三人は、王学理の屋敷の前で何くわぬ顔をして別れ、再び「緑柳亭」で落ち合った。  借財分一万九千銭を積み、酒楼の主人を驚かせると、取りまとめた荷物とともに宣平坊の小家に戻り、かねてから用意してあった二頭の馬にうち跨った。黄良を後ろに乗せた崔融が先導し、騎馬姿も颯爽と、男装の小蘭が後を追う。  三人は一刻も早く城外へ出ようとして、都大路を北西に向かってひた走った。小蘭に恋々とする王学理が、落籍に気づき追ってこないとも限らない。崔融に至っては、金吾衛の脱走兵なのである。  ついに、開遠門の三つの門道が見えてきた。九つある長安の京城門のうち、西城壁の最北に位置する門である。  門の内外には、旅人に宿を貸す邸店や、車輛を商う長店などが軒を並べて賑わっており、深目、高鼻の胡商の姿も珍しくない。開遠門は、涼州を経てさらに西域へと通じる公道の、起点として栄えているのであった。  門道を抜けてしばらく走ったのち、崔融は馬を止めると、背中にしがみついている黄良を振り向いた。 「ここまで来れば一安心だ。名残惜しいが、このあたりで別れるとしよう」  後ろを走る小蘭も、手綱を引いて馬を寄せてきた。黄良がしぶしぶと馬の背から滑り降りたので、小蘭も続いて馬から降り、路上で深々と跪拝《きはい》する。 「黄良さんのご親切には、お礼の言葉もございません。ご恩は一生忘れません」  小蘭の手を取ると、黄良もまた膝をつき、「とんでもありません……」と応えるが、溢れてくる涙を見られそうになり、慌てて横を向いてしまうのだった。  傍らに来た崔融も、力強く黄良の手を握り、熱の込もった口調で言った。 「黄良、おまえには本当に世話になった。金の取り分が少なく、小蘭ともども済まなく思っているが、この礼はいつかきっとする。俺は曹国で隊商を仕立て、必ずまたこの長安へ戻ってくるつもりであるから……黄良、それまで、待っていてくれるだろうな」  黄良は、「礼など……」と首を振り、ついにしゃくり上げ始めた。「ただ、お二人とお別れするのが辛いだけです」  こうして三人は肩を抱き合うと、涙を流して別れを惜しんだが、男物の胡服の袖で目尻を拭いつつ、最初に立ち上がったのは小蘭だった。  遥か西の彼方では、傾きかけた春日が砂塵に霞み、麻布のように揺らめいている。 「さあ黄良さん、名残は尽きませんが、夕立ちに遭わぬよう、そろそろお帰りくださいませ」 「夕立ちが来るのですか」 「その昔、父は申しておりました。春の長安で残月が霞み、紅塵が西の空に向かって流れることがあれば、夕方に驟雨《しゆうう》があると。今朝はそのような天候でした」  巨躯を起こした崔融が、持ち前の陽気さを取り戻し、小蘭に向かって混ぜかえすように言った。 「またおまえの口癖が始まったか。親父が昔何を言ったかは知らんが、これからは、せいぜいこの兄を頼りにしてくれよ」  その途端、黄良は不恰好にも尻で後じさり、目を見開く。 「今、兄……と、おっしゃいましたか」 「ああ、そうだ。異腹とはいえ、兄は兄だ。……小蘭が言わなかったのか」 「私は……てっきり、融さんがお話ししているのだと……」  泣き笑いする黄良に驚きつつ、小蘭が手短に説明をした。  小蘭の父親が、かつて涼州に養った漢人の妻との間にもうけた子が、崔融である。出会った当初、二人は兄妹であるとは知らなかったが、お互いの素性を詳しく話すうち、身内であることが分かったのだという。  小蘭の話を聞き終えた黄良は、新たな別離の悲しみに苛まれることになった。しかし、その悲しみは、ほんのわずかではあるが、希望を育む甘美な蜜をも含んでいた。そのことに気がついた黄良は、ようやく思い切りをつけ、都へと続く道を踏み出した。開遠門から母の待つ豊邑坊までは、急げば日没までにたどり着ける距離である。  黄良は重い足どりで東に向かったが、しばらく行って振り向くと、崔融と小蘭の兄妹は馬上から相変わらず手を振っていた。濃淡二対の緑眼が、晩春の夕光を受けて鮮やかにきらめいたのは、そのときのことである。  瞳が放った緑色の光芒を、胸の奥深く受け止めた黄良は、母と暮らす日常を遠く離れ、無我夢中で過ごした十日間に想いを馳せた。そして、いつかまた必ず二人に会えることを確信すると、砂埃の舞う道を再び歩き出したのだった。  結局、西市を過ぎたあたりで夕立ちに降られた黄良は、その雨が五万銭を文字通り水泡に帰してしまったことを、三日後に知った。王学理が絶大な自信を持って花賞翫に展覧した夜光富貴花なる珍種の牡丹花は、一席を獲得するどころか、酒宴ではほのとも発光しなかったというのである。伝え聞いた黄良は、花を銀二万銭で売り急いだ小蘭の機知に、改めて感服せずにはいられなかった。  夜光牡丹が点らなかったのは、慈恩寺の境内で驟雨に打たれ、花弁の上の夜光子が洗い流されてしまったためである。曹国の舞姫は、夕立ちの到来を予測すると同時に、夜光子の運命までも見通していたのであった。  王学理は発光せぬ夜光牡丹で面目を失い、そのうえ執心していた美貌の胡姫にも逃げられて、失意のあまり病の床に就いたと言われていた。また、老宦官は夜光花の神秘の美しさに取り憑《つ》かれ、正気を失ったと噂する者も多かった。その風評が存外的を外れていない証拠には、病が癒えるやいなや老閹人は、五十万銭もの懸賞金を用意して、幻の夜光牡丹を狂ったように捜し求めたという話であった。  宦官王学理が、口さがない都雀から、牡丹亡者と呼ばれるようになったのは、これ以後のことである。      * 「良や、良や、妾は喉が乾いたぞ。驪山の桃はまだ手に入らぬか」  外から帰って来るなり黄良は、母の苛立つ声に迎えられた。しかし、それでも笑みを消さなかったのは、隣巷で私塾を開く老儒学者に、授業の聴講を許可してもらったことが、よほど嬉しかったからである。  孝子であるとの評判が心証を良くしたのか、雑役として働くという条件で、黄良は暖かく受け入れられた。元官吏の老学者は、かつては外交使節として西域を旅したこともあり、求めがあれば四書五経のほかに、地誌や算術の教授も行ってくれるということが、何より少年の興味を引きつける。  広く知識を蓄えたいと考える黄良は、漠然とではあるが、自分の行く末を思い描いていた。もっとも、それは崔融が勧めるように、官僚として登用されることではない。 「母上、桃がようやく東市に並びましたので、早速手に入れてまいりました。ただいまお剥きいたしましょう」  黄良は明るく答え、腰の袋から、表皮の毛ばだった薄紅色の果実を取り出した。  息子が突然家を留守にしたことも、見知らぬ小女が毎日世話に来たことも、なんら意に介さなかった母であるが、桃に対する執着だけは凄まじかった。崔融から最初に受け取った五十銭で購った桃を、黄良が皿に盛って差し出すと、枯れ木のような手が素早く伸び、わし掴みにしていった。  ところが母は、黄ばんだ歯を立てたものの、すぐに囓り取った果肉を吐き出して、金切り声で喚くのだった。 「酸《す》いぞ、この桃は。良や、とても食べられたものではないぞ」 「これは母上、申し訳ございません」 「不味いと言っておるのじゃ」 「けしからん桃売りでございます」  黄良は、ますますにこやかに微笑み続けた。母が喜びを忘れた童子であるのならば、自分は喜びのみを知る童子であろうと、黄良は心に決めていたのである。開遠門の彼方できらめいた緑色の光が胸に射す限り、少年にはそれができるに違いない。  やんわりとかわされて怒りのやり場を失った母は、しばらくすると、今度は哀れめかしたかすれ声で「良や」と、漏らした。 「良や……小女から聞いた話であるが、西域の名物にたいそう美味な料理があるらしいな。舌もとろけるその滋味は、一度口にすると決して忘れることが出来ず、何度でも食したくなるという。いったいどのような珍味であるのか、ぜひ味わってみたいものじゃ。……良や、妾のために、求めてきておくれ」 「承知いたしました。して、どのような料理でしょうか」  朗らかに尋ねる黄良に、母は「羊頭の羹じゃ」と高飛車に答えたが、たちまち面食らった顔をした。 「駱駝の乳入り羊頭羹が……食べたいのじゃ……これ、良や、何を笑っておる。何がそのように可笑しいのじゃ」  黄良は声を立てて笑いながら、懐の奥を押さえていた。当初の期待よりずっと小額とはいえ、黄良は千銭という大金を持っていた。贅沢な羊頭羹といえどもこれだけあれば、椀に幾杯も母に食べさせてやれるだろう。 「承知いたしました。必ず求めて参ります。どうかお任せくださいませ」  そう答える黄良の声は、孝子らしく母の望みを叶える喜びに満ちていた。      *  夜明けとともに暁鼓が高らかに鳴り響き、西の開遠門が開かれた。門外で夜明かしをした胡人と駱駝の群れが幾組も、開門と同時に次々と門道を抜け、まだ薄暗い帝都に足を踏み入れた。天山南路の険しい山道を越え、乾ききった河西回廊を経て、ようやく都に至った西域商人たちのしたたかな姿である。  西市あるいは東市を目指して大路を進む隊商のうち、曹国からはるばるやって来た一行は、少しばかり風変わりであった。総勢十二名の胡商と西域産の品々を満載した駱駝二十頭を、漢人を母に持つ混血の偉丈夫が率い、通辞役として男装の美女が加わっていたのである。  その多少毛色の変わった隊商の頭である大男の崔融と、崔融の美貌の妹小蘭は、朝もやの流れる大街に駱駝の轡《くつわ》を並べ、言葉を交わしつつ歩んでいた。 「苦労の末に親父の国で隊商を仕立て、ようやくこの長安に戻り着いたが、あの豎子《こぞう》……黄良は元気でやっているだろうか」 「もはや豎子ではございませんわ。身の丈も伸び、涼しげな若者に成長なさっていることでしょう。おそらく首を長くして、私たちを待ってくださっているに違いありません」 「もしも黄良にその気があれば、喜んで仲間に迎えたいと、おまえは言うが……」 「はい。黄良さんは機転がきき、しかも粘り強いお方です。きっと、融さんの頼もしい片腕になってくださるでしょう」 「そうなれば、俺としても好都合だが……稀に見る孝子の黄良が、母を都に置き去りにして、胡商の俺たちと旅に出るなど、到底考えられぬ」  崔融は頭を振ってそう言うと、よく手入れのされた紫髯《しぜん》を撫でた。曹国に帰り着いて以来、小蘭の勧めもあって、伸ばしていた髯である。 「いいえ……黄良さんの孝心が厚ければ厚いほど、おそらくすでにもう……」  途中で声を落としたので、崔融が訝しげな顔をするが、小蘭は兄の表情を気に止めてはいなかった。緑柳亭で使っていた小女に、西域の美味羊頭羹について話し聞かせたことを、思い起こしていたからである。  口の軽い小女は必ず崔融の母を相手に羊頭羹の噂をし、息子に難題を吹きかけることが生きがいらしい母親が、その羊頭羹を所望することはまず間違いないと思われた。そうなれば、母思いの黄良は、手持ちの千銭すべてを羊頭羹に費やして悔いないに違いなく、母はとろけるような珍味を、幾度となく心ゆくまで味わったことだろう。  しかし、夜光子をおおいに繁殖させたかの駱駝乳入り羊頭羹は、滋味濃厚で精力を増進し過ぎるがゆえに、女や老人がたびたび食してはかえって身体に毒であると、曹の国では言い伝えられていた。  白々とした顔に一抹の影をよぎらせはしたものの、小蘭は淡々と言葉を継いだ。 「おそらくすでに黄良さんのお母様は、みまかられておりましょう。出立には、何の支障もないはずです」  駱駝の背に揺られる小蘭は、男仕立ての胡服のせいか、いっそう妖艶だった。肉親ながらその横顔に見惚れた崔融は、「なぜ、そのようなことがわかるのか」という問いを、ついにしそびれた。疑問を抱いたことすら、すぐに忘れてしまうだろう。  いずれにせよ、傍らの美しい娘が、成ると言って成らなかったことはなく、その助言に従ってきたおかげで、崔融はわずか数年の内に、これだけの隊商の長になれたのだ。半分だけ血を同じくする、この妹の才覚があればこそ……。  崔融はそう考えたところで、ふいに頬の筋肉を強ばらせ、わずかに身震いをした。早朝の冷気が衣の内に入り込み、背を這い上ってくるようだった。  隊はそろそろ醴泉坊《れいせんぼう》にさしかかっていた。ゆったりと頭を巡らせた小蘭は、後続の駱駝の列と、きらびやかな積み荷の山を、感慨深く見渡した。  再び胡商の一群の先頭に立ち、このように駱駝の隊列を顧みることができようとは、思ってもみないことだった。父によく似た面差しの逞しい衛士の青年が、本当に父の子であったと知るまでは。そして、その青年の耳もとで幾度となく囁いた西域と隊商の物語が、血気盛んな若者の熱い憧れをかき立てるまでは……。  今はまだ、亡き父が率いた大隊商には遠く及ばぬものの、崔融の豪気に黄良の細心が加われば、隊はますます隆盛し、幼い頃に見たあの玉門関の光景が、また一歩、現実に近づくことだろう。  小蘭が再び正面に向き直ったとき、崔融はいつもと変わらぬ精悍な顔つきで、活気づき始めた早朝の都大路を見据えていた。妹に抱いた微かな畏怖心は、いつしか砂漠の蜃気楼のように消え失せている。  美貌の胡女は、傍らの混血の兄を頼もしげに見上げると、馥郁《ふくいく》と咲き薫る紅牡丹さながらに艶然と微笑んだ。  夜光富貴花の麗容が幻となってからちょうど四年のち、天宝九年は晩春の頃のことである。 [#改ページ]    累  卵      一  湖州の別駕《べつが》蘇無名《そむめい》は、おっとりとした丸顔をわずかに曇らせて、平伏する杜五《とうご》を見おろしていた。 「明後日には、旦那様が神都洛陽へ向けご出立というときに、この体《てい》たらく。まことにあい申し訳ございません」 「年を考えず精出し過ぎたのであろう。旅の供は他の者に申しつけるので、おまえは養生するがよい」  無名が言うと、杜五はいっそう体を這いつくばらせ、そのままの姿勢で部屋を出ていった。忠義者の老従僕は、蘇家の墳墓を清掃中、突然腰が立たなくなったのだという。 「はて、代わりの者をどうしたものか」  杜五の哀れにも滑稽な後ろ姿を見やりながら、無名は思案顔をした。地方長官を補佐する要職、別駕の上京ともなれば、吏員は多数随行するが、身辺の世話をする小者は別に必要なのである。 「小父《おじ》様のお供は、この私にお命じくださいませ」  その時、ふいに御簾《みす》の陰から現れ出て、名乗りを上げた者があった。今年十四歳になる謝玉瑛《しやぎよくえい》である。  髪上げを済ませたばかりのうら若い娘の申し出に、無名はあからさまに眉をしかめるが、玉瑛は一歩も引かぬ構えで食い下がる。 「一夜にして孤児となった私が、小父様のもとに身を寄せてからはや数年、いまだ何のご恩返しもしておらず、心苦しい毎日を過ごしておりました。さすれば、このたびのご用には私をお連れになり、いかようにもお役立てくださいますよう」  楚州の従事を拝命した玉瑛の父が、一家を連れて赴任の途中、宋州の街道で盗賊に襲われたのは三年前のことである。父母は六人の家奴もろとも斬り捨てられ、金帛《きんぱく》と家財はことごとく奪い去られたが、玉瑛一人が馬車から転がり落ちて難を逃れた。麦畑の中で失神していた幼い少女は数刻後、たまたま通りがかった蘇無名に救われたのだった。 「恩返しとは言うが、おまえは都に上り、父母の敵《かたき》を捜したいのではないか」  無名の口調に非難の響きはなかったが、玉瑛は赤面すると部屋を飛び出した。双鬟《そうかん》に結い上げられた頭には、髪上げの祝いに無名が買い与えた花簪《はなかんざし》が、仰々しいばかりに揺れていた。  延載元年(六九四)のこの年は、世に言う武氏の周朝の時代にあたる。烈女則天武后が、高祖|李淵《りえん》の建てた唐朝を半ば簒奪《さんだつ》し、史上空前絶後の女帝の位についたのは四年前である。  則天皇帝の即位に伴って、都は長安から洛陽に移されたが、その際、蘇無名は中央の門下省を辞し、郷国である江南道に下っている。阿諛《あゆ》の才に乏しければ、左遷されたのだとも言われていた。  再来年は不惑を迎える無名だが、肉親は老母一人である。妻楊氏とは子をなさないまま十年前に死に別れ、後添えも貰わずじまいであった。  そこで、縁あって手元に置くことになった謝玉瑛を、無名が養女に容《い》れようとしたところ、十二歳になっていた少女に固辞された。「私はいずれ必ず父母の敵の盗賊を捜し出し、仇を報ずる覚悟でございます。小父様の養女となり、安穏と暮らすわけにはゆきませぬ」というのが、その返答だった。  一方、喧《やかま》し屋で鳴らす無名の老母も、声高に異を唱えていた。 「なにしろ玉瑛という娘ときたら、目元は険しく、肌も浅黒、手足は棒さながらにひょろ長い。年頃になったところで良家に縁づき、家運を盛り立ててくれそうな器量では到底ない」と、往年の女傑は公言して憚らなかったのである。  結局、当人のみならず、烈母からも拒まれたとなれば、無名は寝起きのような半眼を瞬《しばたた》かせ、「是非もない」と答える他はない。しかし、正式な縁組こそ見送られたものの、少女の孝心の強さには、さすがの朴念仁も感じ入ったと見え、玉瑛はその後も無名の意向により、実の娘同然に扱われたのだった。  さて、ようやく頑健な下僕を一人選んで供に沙汰すると、無名は自室にこもり、上奏文の推敲《すいこう》に取り掛った。ところが幾文字も書かないうちに、渋草色の袍《ほう》と短袴をつけた少年が許しも得ずに部屋に入り込み、猿のような足どりで傍らにやって来たのである。  突き出した両手には、長さ三尺ほどの艶やかな髪束と、美しい花簪が握られていた。少年と見えたのは、長かった髪を無造作に切り、ざんばら頭を晒《さら》した謝玉瑛だった。 「おまえの決意が、それほどまでに固いのならば……」  爛々と瞳を燃やし、亜父の姿を見据える玉瑛に、ついに無名が根負けしたように言う。 「この度はお前を連れてゆこう。ただし、くれぐれも従者の役目は怠らぬよう」  嬉しさに頬をたちまち上気させた玉瑛は、手にしていた髪束と簪を放り出し、深々と跪拝《きはい》する。その様子を無名はぼんやりと眺めていたが、一言「あたら雲鬟《うんかん》を、思い切ったことをしてくれる」と呟くと、文机に向き直ったのだった。  深々と垂れていた頭を起こしてみると、目の前には書き物に専心する無名の背中があった。その姿を感謝を込めて見上げながらも、玉瑛はいささか困惑せずにはいられない。  広い背を丸め亜父は茫として、いっそ愚鈍とも感じられたからである。ゆったりと筆の先を嘗《な》める挙措なども、凡庸でどこか間延びがして見える。  何を隠そう蘇無名こそ、江南道にその人ありと言われる異才、湖州中の盗賊を震え上がらせる捕物名人と聞かされても、玉瑛にはいまだ信じ難い気持ちであった。      二  湖州を晩秋に発した蘇無名の一行が、長江を渡り、揚州、楚州、宋州と馬を進め、ようやく洛陽に辿り着いたとき、神都は厳寒の季節となっていた。玉瑛は少年のなりで馬にうち跨り、無名の後ろにつき従うが、折りから吹きすさぶ寒風に身を竦《すく》ませていた。 「おまえの家族が盗賊に襲われたのは、都に近いとはいえ宋州だ。しかるにそのときの盗賊が、なぜ今頃、この洛陽にいると思うのだね」  いつの間にか馬を寄せてきた無名が、玉瑛に尋ねて言った。 「はい。神都では近年|偸盗《ちゆうとう》が横行し、貴族や富豪の庫《くら》が、次々と荒らされていると聞き及んだからでございます」 「だがその群盗の中に、おまえの敵が混じっているという確証はない。また、混じっていたとしても、盗賊の顔すら見ていないおまえは、どうやって敵を見分けるつもりだね」 「ご懸念はもっともでございます。けれど野盗どもが狙うのは、金や帛《はく》ばかりではございません。世に名高い宝物の数々もまた、多く掠奪されていると伺います。となれば、盗品を好んで買い取る悪徳商人たちも、自ずと都に集まって参りましょう。父母の敵の盗賊も、そろそろほとぼりがさめたものと考えて、奪い取った謝家の家宝|凝玉晶《ぎようぎよくしよう》を、都で売りさばこうとするのではありますまいか」  凝玉晶とは、西方は波斯《ペルシア》国で造られた硝子製の文鎮で、謝家に代々伝わる家宝である。金字塔を象った錐柱の内部には、紅玉、青玉、翠玉、猫目石、柘榴石《ざくろいし》、血石、虎目石……と、様々な土地で産出する、ありとあらゆる貴石の小珠が数百個、ひしめくように封じ込まれており、硝子を通して美しい光を放つのだと、玉瑛は以前より幾度となく無名に語っていた。  市を訪ねて凝玉晶の消息を探り、売り主を辿るつもりであると言う玉瑛に、「なるほど、そのような深慮があったのか」とのみ答えた無名は、相変わらず馬を並べて漫然と進んで行く。性分とはいえ亜父の素気なさに、玉瑛は失望のようなものを覚えるが、吹きつけていた横風が、いつしか弱まっていることに気がつくと、弾かれたように面を上げた。  風上には無名の巨躯が、防風壁のごとくに聳《そび》えていた。 「こちらは秋官侍郎魏広《しゆうかんじろうぎこう》殿の別宅ぞ。どいつもこいつも、じろじろ中を覗き込むでない」  広大な都城の一画は修文坊まで来たところで、衛士らしい男が大声をあげていた。しかし、無名がかまわず馬を止め、のそりと首をのばしたので、傍らの玉瑛もそれに従った。  二人が見やった先には黒山の人だかりがあり、さらにその向こうには、脩文坊の厚い坊壁がある。ところが頑丈なはずのその坊壁は、穴を穿《うが》たれ無惨な姿を晒していたのであった。高官魏某は、泥棒にでも入られたらしい。 「小父様、あのお方、まるで鼠のような……」  その壁の穴からひょっこりと頭をのぞかした男に驚き、玉瑛は無名の袖を引くが、男が馬上の無名の姿を認め、声をあげるほうが早かった。 「やや、これはなんという奇遇、そこにおられるのは蘇先生ではございませんか!」  衛士の手を借り、慌てて壁から這い出してきたのは、貧相な小男だった。顔色は青ざめ、衣は泥だらけのうえ、髪を振り乱しているために、穴を抜けても鼠さながらの姿である。 「名高い湖州の蘇先生が都へおいでとは、これも天帝のお導き。──後生でございます。この私に、お力を貸してくださりませ」  男は人波をかき分け、土埃を撒き散らしつつ無名のもとへ駆け寄ると、路上に跪拝した。蘇無名とは旧知の間柄、県尉の職にある李粛《りしゆく》であった。  数刻後のこと、蘇無名は懇願する李粛に押し切られ、道徳坊にある県尉の屋敷に立ち寄っていた。建物は広いがどこか乱雑で、中庭からは子供の歓声がひっきりなしに聞こえてくる。 「さすが、神都の治安に重い責任を負う県尉殿だ。捜査のためとはいえ、自らあの狭い壁穴を抜け、泥まみれになられるとは」  常になく社交辞令めいた口をきく無名に、李粛はここぞとばかりに膝を乗り出した。 「実のところ、盗まれた秋官侍郎殿の宝珠など、たいした問題ではございませぬ。ただ、その手口の大胆さから、さる重大な窃盗事件との関連を疑ったのでございます」  部屋は暖かいにもかかわらず、李粛の頬は相変わらず青ざめたままだった。顔色は寒さのせいばかりではなく、抱えているらしい難問のせいなのだろう。 「重大な窃盗事件とは?」  無名はお義理のような口調で尋ねるが、本当に興味がないのかといえば、そうとばかりも言い切れない。 「それが……禁中の庫《くら》に納められた宝物と関わりがあるのです」  李粛は声を潜め、畏れを込めて答えるが、蘇無名はこともなげに言い直した。 「では、皇帝陛下が偸盗《ちゆうとう》の被害に遭われたのであるか」  部屋の隅に控えた玉瑛は、二人の旧友の会話を耳をそばだてて聞いていた。冷え切っていた身体が暖まり、人心地を取り戻すと、「盗賊」「偸盗」という言葉に無関心ではいられない。 「……すると、太平|公主《こうしゆ》様が誕辰《たんしん》の御祝いに陛下より賜った黄金|千鎰《せんいつ》、櫃《ひつ》ごと宮城から盗み出されたと言われるのか」  李粛より難儀の発端を聞かされると、無名は血色のよい頬を膨らませ、口中でぼそぼそと繰り返した。 「愛娘の公主様への狼藉だけに、陛下のお怒りも尋常ではございません。そこで、一月以内に盗賊を捕らえることができなければ、洛州の長史から県尉、吏卒に至るまで、ことごとく処罰するとの詔勅が下されたのです」  李粛は削げた頬をいっそう青ざめさせ、大きく身を震わせている。 「昨今の野盗の多さゆえ、城門を出る荷の検閲は厳しく、大量の黄金はいまだ都城外に持ち出されてはおらぬはずですが、なにしろ厳重な庫の警備をかい潜り、妖術のごとく金を奪い去った偸盗であれば、捕らえる手だてがございません。そこで、藁をも掴む思いで穴くぐりまでし、手がかりを捜していたところです」  県尉の難事が、玉瑛には心底気の毒に思われた。そこで、息を詰めて成り行きを見守るが、肝心の無名は普段と変わらぬ呑気ぶりである。 「さても、陛下がそのようにご立腹とは。しかしながら都大路を眺めた限りでは、この寒空にも民草には活気があり、陛下のお怒りを恐れているようには見えなんだが」 「下々の者は盗難の件を知らず、陛下ご満悦の報ばかりが伝わっておるからです。と申しますのも、かの誕辰の祝いの席で、内《ない》史宗秦客《しそうしんかく》殿がかような祝辞を唱え、評判を博したからなのでございます」  李粛は要領良く事情を説明する。恐慌を来してさえいなければ、日常は能吏なのであろうと、玉瑛は想像した。 「曰く、『その昔、魏の遊説家|范雎《はんしよ》は秦の昭王に説いて、秦国の危急を累卵《るいらん》の危うさにたとえたと申しますが、我が周王朝は則天皇帝陛下を戴いて、国家は安泰、国運は旭日の勢いにございます。陛下のご恩寵|遍《あまね》くゆき渡っておりますがゆえに、たとえ丸く脆《もろ》き鶏卵といえど、我が帝国におきましては、幾層にも積み重ねることが叶いましょう』と。内史殿はその一言で、綾絹千匹を賜ったということです」 「宗秦客殿といえば則天文字を献上した学者、いやはや、如才のないことだ。──それはともかく、貴君は私に何を望んでおられるのか」  蘇無名は出された酒の杯をゆるりと呑み干すと、素気なく李粛に尋ねて言った。 「申すまでもございますまい。盗賊を捕らえるための方策を、私にお授けいただきたいのです」 「財政報告の命を受け、都へ上った地方官吏に過ぎぬ私に、左様なことを言われるか」  無名の霞がかかったような眼差しが、わずかに険しさを帯びた。無名の名声を考えれば、たちどころに妙案が出てくるものと考えていた玉瑛は、亜父の冷淡さを意外に思う。  一方李粛は、ここが説得のしどころとばかり、矮躯《わいく》をますます縮めて平伏した。 「これは、したり。湖州の蘇先生といえば、赴任の先々で奸賊を捕らまえて、悪事の一切を暴いて回るとは、士大夫ならば知らぬ者はおりませぬ。どうか、この粛めを哀れに思い、何卒《なにとぞ》お力添えを願います」 「私の功と喧伝されている捕物は、半ば幸運のなせる業。天運なくば、いくら知恵を働かせ躍起になったところで……ほれ、この者の親の敵すら捕らえてやることができぬ」  無名は片隅の玉瑛を一瞥すると、眉間に皺を立て、苦さの滲んだ口調で言った。  突然引き合いに出された玉瑛は、弾かれたように姿勢を正し、主人に向かって拱手《きようしゆ》する。及ばずとはいえ、玉瑛を保護した直後、無名が八方に手を尽くし、極悪非道な盗賊を追ってくれたことは事実であった。 「しかし、先生に見離されては、この私は……」  李粛はとうとう声をあげて泣き出した。捜査不手際の罪を負い、官位を解かれることにでもなれば、豚児十二人を含む一族郎党三十四人が路頭に迷うと、涙ながらに訴えたのである。父親の言葉に呼応するように、庭では赤子が火のついたように泣き始めた。  そうなるとさすがの無名も断りかねたか、のろのろと腰を浮かして旧友の手を取った。 「良策の保証はできぬが、ともかく思案はしてみよう。長史殿へも助力を願い出ることになろうから、取り次ぎの段、宜しく頼む」      三 「市の様子はどのようであったか? 家宝の手掛かりは、新たに何か見つかったかね?」  宿舎の居間の火桶の前で、無名は大きな身体を縮こまらせるようにして座っていた。海が近い湖州と異なり、都の冬は吐息も凍る寒さである。玉瑛に問いかける間にも、亜父はさかんに鼻水をすすって咳をした。  別駕蘇無名の一行が洛陽に到着し、県尉李粛と出会った翌々日のことである。 「はい……昨日早くも凝玉晶の噂を耳にいたしましたので、本日も勇んで出掛けてみましたが、誰もそのような珍しい文鎮は目にしたことも、話に聞いたことすらないと言うばかりです」  答えて玉瑛はうなだれるが、噂にゆき当たったことが、むしろ幸運であったとのわきまえはある。  前日、玉瑛は南市《なんし》の片隅で、凝玉晶を見知っているという胡商の老人に会っていた。老人の話では、ほんの三日ほど前に、金字塔の形をした美しい文鎮を売りたいと言って若い男が来たが、値段が折りあわず、男は文鎮を持ち帰ってしまったということだった。  喜んで宿舎に飛んで帰った玉瑛は、幸先の良い出来事を無名に告げ、無名はいささか驚いた顔をしたものの、すぐに「それは重畳《ちようじよう》。都におらぬものは、いくら艱苦したとて捕まらぬ」と答えたのだった。  玉瑛は報告を終えると、いったん部屋を退出したが、しばらくすると戻ってきた。 「小父様、これを」と言って、少女が目の前に差し出した茶碗の中身を、無名は怪訝な顔で覗き込む。 「暖めた葡萄の酒に、卵黄を落としたものでございます。私が風邪をひくたびに、亡くなった母は苦労して卵を求め、これを作ってくれました。都におりますと、卵は手に入り易いので助かります」  無名は茶碗を受け取ると、早速一口飲み下し、頬を緩めて「……卵か」と呟いた。  数刻後、茶碗を下げにいった玉瑛が目にしたものは、目を閉じて腕を組み、唸り声を上げている亜父の姿だった。しきりと繰り返される「るいらん」という言葉も不可解だったが、玉瑛が何より驚いたのは、たった一杯の卵酒の効き目である。火桶を遠ざけ、座禅を組んでいる蘇無名は、もはや感冒病みには見えなかった。  翌々日、蘇無名の訪問を受けた洛州長史|許済《きよさい》は、喰えぬ男よ、狡獪な古狸よと、とかく蔭口を叩かれる人物だった。もっとも当人は一向に平気なもので、世故に長《た》けておればこそ、微賤の出にして栄達が遂げられたと信じている。  面会を求めてきた地方官が、著名な湖州の蘇無名であれば、長身を程よく屈め、愛想良く上席を勧める仕振りにもそつはない。 「『累卵の戯《ぎ》』──とやらの催物を企図しておると、李粛から聞いたのだが」  許済は早速本題に入ると、微笑の陰で油断なく無名の表情を窺った。 「いかにも、仰せの通りにございます。内史殿の『累卵の祝辞』が、人口に膾炙《かいしや》しておるようですので、実際に都人に卵を積ませ、陛下のご健勝と周朝の平安を寿《ことほ》いではいかがと、上申いたす次第です」  答える無名の風貌は、許済の値踏みの視線をものともせず、安閑たるものだった。許済は、わずかに当惑を感じたが、努めてものわかりの良い態度をみせる。 「面白い試みではあるが、いかにも時機が悪かろう。稀代の大盗賊を捕まえようと、府庁をあげて血眼になっている折りに、奇抜な技芸の催しなど……」 「ところが、その『累卵の戯』は、盗賊逮捕の契機を作る術策でもあるのです。すなわち、これを『累卵の計』と申します」 「『累卵の計』とな?」 「いかにも」 「黄金|千鎰《せんいつ》を奪った偸盗を、『累卵の戯』を用いて召し捕らえようということか?」 「左様にございます」  表情を変えず言ってのける蘇無名に、許済は眉間に細かい皺を立て、警戒の心を表した。鬼才を謳われる湖州の別駕が奇策を弄し、華々しく盗賊を捕らえるようなことになれば、それはそれで洛州長史の立場がないからである。 「とはいえ、この計略は天運をおおいに頼むことになりましょう。『累卵の計』が功を奏するならば、それは号令をなさる長史殿のご運──長史殿のお手柄に他なりません」  間延びした口調ながら、無名の言葉には真率さがうかがえた。そこで許済は、とりあえず猜疑の矛先を納めることにする。 「いずれにせよ……」  湖州の異才は、わずかに語気を強めて言った。 「卵が高く積まれれば積まれるほど、帝国安泰の徴《しるし》であり、皇帝陛下がお喜びにならぬはずはございません。広く人を募り、卵を高く美しく積み上げる技を競わせて、優秀者には相応の褒美をお約束くださいませ。かような戯芸に、陛下が興を覚え召されれば、ご不快も減じることと確信いたします」  朴訥《ぼくとつ》としているだけに、蘇無名の言には一種独特な押しの強さがある。許済は思わず身を乗り出しかけて止め、鷹揚な態度を取り繕うと、心の内で素早く保身のための計算を行った。  皇帝陛下の目を捜査の手づまりからそらすには、『累卵の戯』なる見せ物はうってつけかもしれぬ。万が一、その催しにより盗賊が捕らえられたならば、功は我が物となし、しくじれば、責めは無名に押しつければ済むことではないか。好都合にもこの湖州の別駕、才物には違いなかろうが、欲心の薄い男と見える……。  洛州長史はついに心を決めると、身についた古狸の表情で、にこやかに拱手して言った。 「貴公の出案、しかと承った。陛下のお許しを賜り次第、『累卵の戯』を段取りしよう」  その晩のことである。許済との会見を終えて帰ってきた蘇無名は、牀上《しようじよう》に長々と寝そべると、玉瑛に腰を揉ませながら、眠たげな顔で少女の報告を聞いていた。 「……残念ながら、凝玉晶の噂は、本日も耳にいたしませんでした。あれほどの逸品が市に出たならば、胡商たちの話題をさらうに相違ございませんから、男はいまだ文鎮を売ってはいないと思われます」 「私が教えたように、市ではさる大夫の使いだと言ったかね。豎子《じゆし》がそのような宝を捜しても、とても相手にされはすまいから」 「もちろん、仰せの通りいたしました。見掛けもこれこの通り、高官の従者そのものでございます」  茶目っ気を含んだ声に、無名がのそりと上体を起こしてみると、玉瑛が胸を反らし両手を広げている。  今やすっかり少年の衣装に馴じんだ玉瑛は、浅黒い肌や硬質な手足も溌剌として、不思議なことに、娘盛りの愛敬すらこぼれていた。湖州の無名の屋敷にあった頃、容貌の難が目についたのは、淑《しと》やかに振る舞おうとするあまり、生気を欠いたせいだろうか。  無名はしばらく細い目を瞬かせていたが、再び身体を横たえると、今度は足を揉むよう言った。 「市では、あれこれ見て回ったのだろう。どうであった? 私が調べるよう……」  無名の声がふいに裏返り、口の端を快感に緩ませた。玉瑛がふくら脛《はぎ》にある「飛陽」というつぼを押さえたからである。 「た、頼んだものは?」 「はい、鶏卵のことでございますね。値段は、おおむね一個が一銭、大きいものですと二銭でございました。この寒さにもかかわらず、かなりの量が出回っておりました」 「そうか。だが、三日後にはその倍、五日後には十倍にまで跳ね上がろう」  およそ無名らしくもなく断言した後、巨漢は腕を枕にして目を閉じた。  玉瑛はやがて始まった長閑《のどか》な寝息を聞きとると、亜父の身体に布団をかけ、足音を忍ばせて部屋を出ていった。      四  三尺四方の台の上に生の鶏卵をより高くより美しく積み上げた者には、その手際の素晴らしさに応じて皇帝陛下より金品が下賜されるとの詔《みことのり》が、神都の民に下されたのは、その翌日のことだった。  螺鈿《らでん》の台が皇城は応天門前の広場にしつらえられ、我と思う者は誰でも、累卵を試みることが許された。ただし、積み上げる鶏卵は、おのおのが持参する決まりである。  累卵の出来栄えの採点は、冬官侍郎《とうかんじろう》ら三人の審判役が合議により行った。三人の高官は終日台の傍らに侍り、累卵像の形状とその得点を克明に記録したのである。  当初は作業の最中に卵を割り、失格する者が続出したが、やがて膠《にかわ》と布海苔《ふのり》を使い、卵殻を接着する男が現れた。卵を高く美しく積むための手段や手順も評価のうちであったから、そのような工夫は奨励される。男は最初の褒賞に与《あずか》った。  しかし、誰もが膠と糊を駆使するようになると、新たな技が要求される。そこで『累卵の戯』に挑む者たちは、今度は積卵の形の奇抜さを競い始めたのだった。  卵で建てられた堂廟《どうびよう》があるかと思えば、竜を模した累卵像も造られた。もっとも、形の複雑さと接着力の弱さが災いして、大半は完成前に崩れ落ちたため、螺鈿の台の下では無数の割れた生卵が、無残に黄身白身を晒すという有り様だった。  洛陽の巷では、弱小貴族の子弟らが、真っ先にこの催しに取り憑かれた。無位無官の身にとって、『累卵の戯』は朝廷に名前を売り込む絶好の機会となるからである。  五色の絹糸を卵の尻に巧みに巻き付けて、色鮮やかな卵塔を組み上げた張家の六男坊は、その中でも群を抜く出世頭であった。美しい卵塔で皇帝を感嘆させた張六郎こと張昌宗は、褒賞を賜るために御前に出、たちまち老女帝の心を捉えてしまう。  後にその兄の張易之《ちようえきし》ともども二張と呼ばれ、則天皇帝の寵愛を独占する美少年張昌宗は、齢《よわい》七十を越えた女帝の執心をよいことに、皇帝が没するまでの数年間、専横を極めることになる。永泰公主を死に追いやり、皇太子すら媚びへつらわせた張兄弟の出仕には、かように『累卵の戯』が係わっていたのである。  一方、市中の任侠の輩にも、累卵に熱中する者が少なくなかったが、こちらは無論賞金が目当てである。しかしながら、繊細かつ美麗に卵を重ねる器用さは、貴族の子弟に及ぶべくもなく、彼らはもっぱら質より量の勝負に出た。卵を寄せ固めて巨大な角柱を築きあげ、台上に六万二千五百個を積み上げてみせる博徒さえ現れた。  桁外れの卵柱には、皇帝も手を打って褒め囃《はや》し、銭千貫の褒賞を与えたのだった。 「小父様のおっしゃる通りになりました。鶏卵の値段は鰻のぼりして、今では一個が十銭もいたします」  南市から息せき切って駆け戻った玉瑛が、宿舎で書き物をする無名に告げた。 「それもこれも、すべて『累卵の戯』のせいでございます。累卵像に使う鶏卵を、皆我勝ちに買い求めたため、卵が品薄になっているのです。その挙げ句、鶏卵の価格は高騰し、卵入りの菓子や餅の類まで、店頭から消えてしまったほどですが……」  玉瑛は一呼吸置くと、亜父に屈託のない笑顔を向けた。もともと細い目をさらに細めている無名は、日が射さないはずの奥の間で、目映《まば》ゆさを感じているかのようだった。 「その一方で、累卵熱に浮かされた者を家族に持つと、食事は割れた鶏卵を使った卵料理ばかりということになり、卵は見るもうんざりという気になるそうでございます」  男装の玉瑛は、久々に少女の澄んだ声色で笑い声を立てていた。釣り込まれたのか、無名もいつになく口元をほころばせる。 「中には、卵酒に化けた卵もあることだろうな」  無名のその言葉を聞くなり、玉瑛は瞳を見開き、顔を輝かせた。自分が亜父のために作った風邪の薬が、『累卵の計』を着想させたに違いないと思い当たったのだった。 「──卵の値は今や十倍に跳ね上がったが、三日後には一個三十銭にまで暴騰しよう。そうなれば、玉瑛、道徳坊へ行き、県尉殿を呼んで来るように」  悠長な無名の口調にもかかわらず、玉瑛は突然笑顔を納め、瞳に厳しい光を宿らせた。鶏卵の値段が三十銭になったとき、無名の采配で何らかの捕物が行われるということを、少女は素早く察知したのである。 「都に跳梁し、あまつさえ天子様の庫を荒らす盗人どもを、小父様がいよいよお捕らえになるのですね」 「さて、そうそう都合良くゆくかどうか……」  再び普段の茫洋とした表情に戻った無名が、玉瑛の期待の籠もった眼差しから逃れるように、緩慢に頭を振った。 「公主様の黄金を盗み出した盗賊は、なかなかに用意周到で機略に富む。警備のわずかな隙《すき》に乗じて庫に押し入り、千鎰《せんいつ》もの黄金を運び去ったのだ。歩哨の交替時間から、庫の間取りまで、念入りに調べ上げていたに違いない。破落戸《ごろつき》の類とは一味違う、頭の切れる連中とみて良いだろう。『累卵の計』の狙い目は、そこにこそあるのだが……」  無名のふくよかな丸顔を見据え、玉瑛は熱心に耳を傾けていた。計略の意図は解せなくとも、感嘆の気持ちが胸の奥から湧き上がり、肺臓のあたりが熱く潤ってくる。  見掛けは大熊猫にも似て物臭ながら、眼前のこの人こそ名高い湖州の蘇先生にほかならぬと、玉瑛は満身で感応していたのである。 「玉瑛、おまえの父母の敵の盗賊も、大量の金品を奪いながら、まんまと私の捜索の網を抜けおおせた。相当目はしの利く奴に違いない。いや、今この洛陽におるものならば、ぜひ……ぜひとも才走った小利口者であって欲しいと願うぞ」  ややあって、赤味の上った頬を震わせながら、無名が吃音気味に言い添えた。  玉瑛は、亜父が激昂していることを、それで知る。蘇先生ともあろう者が、街道の野盗ごときを取り逃してしまったとは、どれほどの屈辱であったかということも。  宮城の黄金泥棒は、すなわち父母の敵でもあると合点した玉瑛は、蘇無名の面子《メンツ》のためにも、『累卵の計』が成功し、必ず偸盗が捕らえられることを、ただひたすら天に祈らずにはいられなかった。      五  鶏卵の値段に関する限り、蘇無名の予想は外れ、はや二日後には三十銭にまで釣り上がった。  折りしも応天門前の広場では、細竹を螺旋に巻いた空間に、巧みに卵を納め込んだ瀟洒な累卵像が賞賛を集め、もはやこれ以上のものは出ないのではないかと、審判役に思わしめていた頃である。  玉瑛は亜父の言いつけ通りに、道徳坊まで駆けてゆくと、県尉李粛を伴い宿舎に帰ってきた。 「これは蘇先生、何ぞ手がかりでもございましたか」  蘇無名の前に出るなり、勢い込んで尋ねる李粛は、数日前に比べすっかり生気を取り戻した様子である。 「いや、いや、手がかりを集めるのは貴公の役目だ。私は集め良いよう、お膳立てをしたまでのこと」 「とおっしゃいますと、私は何をすればよろしいのでしょうか?」 「まず、『累卵の戯』の詔が発せられて以来、この洛州で鶏卵を大量に買い集めた者の名を、吏卒を動員して調べてみて欲しい。その中から資本の潤沢な大商人は除き、突如として鶏卵商売に手を染めた怪しげな者だけを選び出し、資金の出所を突き止めるのだ」 「つまり、盗賊は盗み出した金を、鶏卵の買い付けに使うとおっしゃるのですか?」 「いかにも、その通りだ。豊富な元手と多少の知恵のある者にとって、鶏卵商売はとんでもなくうまい儲け話と映るに違いない。なにしろ、皇帝陛下が『累卵の戯』にお飽きになる気配はなく、都人の累卵熱も高まるばかり。卵の値段がはね上がることをいち早く見越した山師どもは、必ず鶏卵商売に手を染めるであろうから。──都城の外に持ち出せないまま、金帛を手元に置く奸賊もまた、その誘惑に抗し切れぬと私はみた。宮城の庫から黄金を盗み出せるほどの切れ者ならば、なおさらである」  李粛は無名の話に得心すると、礼の言葉もそこそこに、弩弓《どきゆう》で放った矢のごとく宿舎を飛び出して行った。後に残された湖州の別駕は、常にも増してのほほんとした顔つきをしているが、謀計の帰結に自信を持つ者の、それは余裕の表情とも受け取れた。  一方、成り行きを見守っていた玉瑛は、仇討ち成就の予感に総身を緊張させている。 「小父様……私の……私の父母の敵は、間もなく捕まるのでしょうか」  恐る恐る問う玉瑛に、無名は目を細め、いつになく優しげな声をかけた。 「天運を祈るが良いぞ、玉瑛。さすれば謝家の家宝凝玉晶が、必ずやおまえの孝心に応えてくれよう」  以後十日間の神都の騒乱は、『累卵の戯』によって引き起こされた狂躁を、遥かに凌ぐほどだった。というのも、都に跋扈《ばつこ》する盗賊団が、大小含めて十余り、次から次へと召し捕らえられたからである。  都大路のそこここで、巡邏《じゆんら》と野盗の大立ち回りが演じられ、ときには善良な都人をも巻き込んで、逃げ惑う者あり、捕物に加勢する者ありと、戦場さながらの様相を呈することさえあった。  盗んだ金帛を鶏卵商売の資金に回した奸賊は、決して多くはなかったが、盗賊は盗賊同士、様々な裏の連関で繋がっている。県尉李粛は、捕らえた賊を足がかりとし、他を芋蔓《いもづる》式に検挙したのであった。 「このたびの貴公の『累卵の計』、余禄として都を犯す群盗どもを、大量に召し捕らえることができた──とはいうものの、肝心の公主様の黄金千鎰だけは、ついに取り戻すこと能《あた》わず、結局、不首尾に終わったということになるであろうな」  洛州長史許済は、蘇無名を府庁に呼ぶと、重々しい声で経緯を話し聞かせた。  かいつまんで言えば、盗賊団の首領どもは、吏卒に責められるとも黄金のありかを白状せず、隠れ家をくまなく捜してみれば、魏広所有の宝珠をはじめ、貴族豪族の庫から盗まれた宝物が見つかるばかり、肝心の黄金は容物である櫃《ひつ》さえ贓《ぞう》していなかったというのである。 「皇帝陛下は、いたくご失望なされてな……」  許済が眉を寄せ頭を振ってみせると、蘇無名は血色の良い豊頬《ほうきよう》を一瞬強ばらせたように見えた。 「大変ご不快なご様子であったが、『大悪党は取り逃したものの、奸賊どもをからめ捕る端緒を作った蘇無名に功なしとは言えず、何卒寛大なご処断を』と、このわしが奏したところ、しばらく思案にふけられた末、『道理である。黄金の儀はもはや問わぬ』と仰せられ、お咎《とが》めの沙汰はあらなんだ」  一転して親切ごかした口調で言い加えると、許済は大男の表情の変化に注目した。  いかに不調法者の無名といえども、失態を取りなしてやれば、恩義を感じて恐縮するはずである。感謝のあまり、額を床にこすりつけても不思議はない。 「別駕殿、命拾いなされたな」  駄目押しの一言を発しながら、勘定高い洛州長史は、この際湖州の異才に恩を売っておくことも、無駄ではあるまいと考えていた。ところが、当の無名はといえば、礼の言葉一つ漏らすでもなく、世にも情けない面持ちで天を仰いでいたのである。額を叩きつつ、しきりと呻吟している様は、まるで獲物をとり逃した熊である。 「読み違えたか。これは、無念! 私としたことが、読み違えてしまったか!」  許済は怒り呆れながら、無名の言動を疑うが、眼中に長史の姿はないかのような、巨漢の愁嘆ぶりに変わりはない。 「やれ口惜《くちお》しや。賊は網にはかからなかったか!」  許済は憮然としつつも、「捕物とは時の運に左右されるもの……」と、宥《なだ》めにかかるが、ふいに言葉を止めたかと思うと、突然長身を大きく反らし、さも楽しげに哄笑した。  ここにきて、許済は気がついたのである。一風変わった能力とともに、悠揚たる物腰でも知られる蘇無名が、地団駄を踏んで悔しがる様を、自分が目撃しているのだということに。  恬淡として見えて、また二言目には天運を口にしておきながら、無名は己の才幹にこれほどまでの自負があったかと思うと、洛州長史は腹の底から可笑しくて仕方がない。 「そう落胆なされるな、別駕殿」  許済は目尻に古狸らしからぬ清々しい皺を刻むと、茹《ゆ》だったような赤い顔を向けてくる無名に、奇妙な共感を込めて声をかけた。  家名も財産も持たない泡沫貴族あがりの自分が、世智だけを武器に官界を泳いできたように、蘇無名という不器用な大男は、異能のみを頼りに濁世《じよくせ》を渡ってきたのであろう。その唯一頼みとする力が通用しないとなれば、周章狼狽するもむべなるかな。  しかし、このわしが真相を明かしてやれば──。  許済は咳ばらいを一つすると階《きざはし》を降り、渋面を作る無名の耳元で囁いた。 「これから話すことは、禁中で囁かれる噂に過ぎぬから、疾《と》く失念願いたいのだが……盗まれたはずの黄金千鎰、実は太平公主様のお部屋にあったという。つまり、公主様は盗まれたと偽って、さらにもう一千鎰、母皇帝陛下から取得せしめんと謀ったらしい」  聞いた無名は童子のごとく瞠目すると、豊かな頬をいっそう膨らませた。そうして遅まきながらも、許済が望んだ言葉をぼそりと吐いたのである。 「あいや長史殿、かたじけない」      六  玉瑛が買い出しから帰ってみると、入れ違いに宿舎を出てきた人物があった。道徳坊に住む県尉の李粛である。 「報奨金の半分をお受け取りいただけないのはまことに残念ですが、豚児十八人の養育に使えとの仰せであれば、ありがたく頂戴いたしましょう」  李粛は門外でそう言って拱手すると、無名の気が変わることを恐れるかのように短躯を屈め、そそくさと屋敷を離れていった。相変わらず鼠めいたその様に、怒りをかき立てられた玉瑛は、後ろ姿を安穏と見送る亜父に猛然と食ってかかる。 「殊勝な素振りをしておられるようですが、県尉様は卑劣なお方です」  無名が「どうしてだね」と尋ねると、玉瑛は唇を震わせた。 「噂話を小耳に挟んだところでは、県尉様は、このたびの大捕物を立案したのは自分である、この私の機知と精勤で神都は平安を取り戻したのだと、鼻高々でふれ回っているそうでございます」 「そうか……まあ、実際に盗賊を捕まえたのは、李粛であるからな」と答える無名は、旧友が功を独り占めすることを、心底気にしていないふうだった。 「けれど県尉様は、ただ小父様のお指図通りにしただけではありませんか。本当のお手柄は小父様のものですのに、なんと厚顔で恩知らずな方でしょう。それにだいたい、子供は十八人でなく十二人だったはず……」  玉瑛は言い募ろうとして止めた。無名の丸顔が、なぜか悲しげに見えたからだった。 「──玉瑛、親の敵が捕らえられた盗賊の中に居らなかったため、おまえは憤怒のやり場がないのであろう」  声は静かだったが、無名の言葉に少女は棒立ちとなる。  たしかにその通りであった。『累卵』の妙計をもってすれば、必ず父母の敵が捕まるものと信じていた玉瑛は、望みを断たれた苛立ちを、李粛や亜父にまで向けていたのである。  無名の指示を受け、群盗どもは余罪を厳しく追及されたにもかかわらず、三年前宋州で従事一家を襲った賊は、ついに挙がってはこなかった。凝玉晶の消息も、噂が一度耳に達した後は、蜃気楼のごとくかき消えていた。 「父母の仇を討ち果たさぬ限り、おまえは胸の刃《やいば》を除くことが叶わぬか、玉瑛。そのように刃で己を苛《さいな》んでは、眉を吊り上げ、悲憤の叫びを上げることを止めぬのか。だが決して諦めてはなるまいぞ、おまえも、この私も」  無名が「私も」と言ったとき、玉瑛は眉を上げて亜父の顔を見た。  養い子の親の敵をいまだ捜し得ないことで、無名もまた、強い焦燥を感じているに相違なかった。屈辱を晴らし、矜持を保つため、鬼才は我が事のごとく敵捜しに執念を燃やすのだ。玉瑛は、無名の心をそう忖度《そんたく》する。  しかし、それならばなぜ、亜父はあのように悲しげな顔をしたのだろうか? ささくれ立った小娘の心を、憐れに思ったというだけだろうか。 「それはそうと、まさにそのことこそが目的であったとはいえ、鶏卵の高騰を招いた『累卵の戯』は、明日をもって打ち切られる。楽日ともなれば、繰り広げられる累卵の技も、さぞ見応えがあろう。日頃の憂さを忘れ、明日は二人で累卵見物に出掛けようではないか」  玉瑛の困惑をよそに、いつしか茫洋たる面持ちに戻った無名が、のんびりと話題を変えた。玉瑛は拱手で恭しく応えるが、刃があると言われた胸は、沈むように重かった。  そんな玉瑛の気持ちを知ってか知らずか、無名は大儀げに頭を振ると、「今宵は一段と冷える。おまえも寝間には火桶を入れるがよい」と言い置いて、のそりと自室へ引き取った。      七 『累卵の戯』もこれが見納めということであれば、応天門前の広場は、詰めかけた都人でいっぱいだった。雪こそ降りはしなかったが、底冷えのする夜を過ごした翌朝であったので、誰もが毛皮や革衣で着ぶくれて、混雑はいっそうひどくなっている。  無名もまた前日の約束通り玉瑛を連れ、累卵見物に出向いていたが、元来動作が敏捷でないために、人波に押された挙げ句、広場の隅まで追いやられるという体たらくであった。  鈍重な主従を人混みの中に目ざとく見つけ、救いの手を差し延べたのは、洛州長史許済である。許済は人を遣わして無名を貴賓席に招くと、笑って言った。 「連日の累卵像の出来栄えには、いたく興味をお持ちだったときくが、ついに御自ら見物であられるか。別駕殿も、ご自身の始めた催物の幕切れは気になるものとみえる」  無名は曖昧に返事をすると、勧められるまま許済の隣に腰掛けるが、ふと思いついたようにぼそぼそと問い返した。 「長史殿こそ、お忙しいなか累卵見物とは、どのような気紛れからでございますか」  すると、古狸のあだ名を奉られる洛州長史は、朗らかに答えたのであった。 「このわしだとて、術計だの術策だのという生臭い仕儀をときには忘れ、美しい卵像を虚心に見たくもなるのだ」  無名は「それはそれは」と応じるが、声には奇妙な困惑と緊張が感じられ、背後により添うように侍る玉瑛を、おおいに不思議がらせることになった。  そもそも許済の何気ない一言で、亜父が累卵像の出来に大きな関心を寄せていたと知ってから、玉瑛はなにやら意外な心地を抱き続けていたのである。  さて、いよいよ最終日となった『累卵の戯』は、始まりから衆人の目を奪うものだった。王某なる老人が膠を使って素早く積み上げた卵塔が、いかなる仕掛けもなしに振動し、大観衆を驚かせたのである。  種を明かせば、老人は孵化《ふか》寸前の雛に卵の殻をつつかせて、塔を揺すっていたのであった。もっとも、数羽が殻を割って生まれてしまったために、鳴動する卵塔は失格を余儀なくされたのだが。  文字を書いた鶏卵を、次々と籠の中に積んでゆく絡繰《からく》りも、人々をおおいに喜ばせた。卵を傾斜した樋《とい》の上で転がすと、あちこちに突き出している十数本の筆が、一画ずつ線を引いてゆき、卵が樋を転がり出たときには「圀《くに》」という文字が、墨痕淋漓《ぼつこんりんり》と書き上げられる趣向である。 「圀」の字は、かの累卵の祝辞を奉った佞臣《ねいしん》宗秦客が献上し、則天皇帝が制定した新字のうちの一つである。女帝の歓心を買うには、まさに打ってつけの文字だった。  しかし、そのような奇抜な着想も精巧な絡繰りも、次に披露された累卵像の華麗さにはかなわなかった。  四角錐の形に整然と積み上げられたその卵像は、累卵錐とでも呼びたくなる端正さを誇っていた。底辺の一辺は卵二十一個からなり、高さは卵十一段、全体として千七百七十一個の卵が使われてはいたが、見守る群衆にため息をつかせたのは、像の形や卵の数だけでなく、錐状に積まれた卵が、透き通った氷の中に封じ込められていたことである。  おそらく錐形の木型を作り、頂点を下にして卵を詰め、水を注いで凍らせた後、型を外したのだろう。ここ数日の酷寒を逆手に取った素晴らしい累卵の氷錐に、観衆はやんやの喝采を浴びせ、審判役の高官たちも「これはぜひとも陛下のお目に掛けなくては」と、目配せをした。  玉瑛は、真冬の薄い日差しを浴びて、繊細に輝いている累卵錐に目を奪われながら、感嘆とはかけ離れた、物恐ろしい思いにかられていた。  その理由は二つある。一つは累卵錐を作った若い男の顔に、見覚えがあるということだった。そしてもう一つ、少女の心を凍えさせたのは、累卵氷錐そのものだった。謝家の末裔《まつえい》玉瑛にとって、その卵錐は決して新奇な造形ではなかったのである。  氷の累卵錐は則天皇帝の興味を引いたらしく、屈強な吏卒たちによって宮城奥へ運ばれた。男もまた、役人に導かれて応天門の内へと入ってゆき、集まった都人は、半ば祝福半ば羨望の歓呼で、その後ろ姿を見送った。それまでの例ならば、陛下に謁見賜った卵像に対しては、銭千貫が下賜されるのが常だった。  玉瑛は男の様子を目で追いながら、言い知れぬ悪寒に身を強ばらせていた。無名に声をかけることすら忘れていたが、亜父はいつの間にか後ろを振り向き、細い目で玉瑛の青ざめた顔を見つめていた。 「四角の錐形の容物──いわば金字塔の中に、丸い鶏卵がぎっしりと詰まっており、それが氷を通して透けて見える。氷と硝子、卵と珠の違いこそあれ、累卵氷錐は凝玉晶の文鎮に、非常によく似ているのではないか」  ようやく我に返った玉瑛が頷くと、無名が尖った声で重ねて問い質す。 「まさか、玉瑛……おまえはあの男にも心当たりがあるのではないか」 「……襲われる前日に、私ども一家が宿を借りた宋州の豪族の家の息子です。自警団の頭を名乗り、近隣の青年を集めておりました」  記憶の底の出来事を、玉瑛は震え声で告げた。「すると彼奴は官憲に混じり、何食わぬ顔で盗賊狩りに加わったか」という無名の慚愧《ざんき》の言が、異国語のように耳元を過ぎてゆく。  玉瑛は胸を詰まらせ、茫然と立ち竦んでいたが、無名は少女に背を向けると、隣席の許済に何やら耳打ちをし始めた。許済は眉を寄せ訝《いぶか》しげな顔をしていたが、ついに片手を挙げて吏卒を呼び、宮城の奥へと走らせた。  得意満面で登城した累卵氷錐の制作者が、再び都人の前に顔を見せたのは、それから数日後だった。首だけになり、郎党ともども南市の中心に晒されたのである。  主な罪状は、楚州従事一家の殺害及び強盗であった。匿し持っていた凝玉晶の文鎮が、動かぬ証拠となって、男の罪科を告発した。  長史許済の計らいで、凝玉晶が謝玉瑛の手元に返されたのは、さらに十日後のことである。文鎮を胸に抱いた玉瑛は、夜どおし肺腑が溶け崩れるまで慟哭《どうこく》した。隣室では蘇無名が、その声を身じろぎもせずに聞いていた。      八  年も明けた探梅の季節、都での職務を終えた蘇無名の一行は湖州に向けて帰途についた。往路は男勝りにも馬に跨った玉瑛だが、復路は亜父とともに車箱の席に収まっていた。娘の姿に戻った玉瑛のために、無名が馬車を奢《おご》っていたのである。  草木がいっせいに芽ぶく早春の街道を、車馬の列は整然と進んでいたが、玉瑛は突然、不思議なたかぶりを感じて身をよじらせた。洛陽を発してから五日目の昼下がりのことだった。  思わず両手で胸を押さえ、無名の傍らに崩れかかると、亜父は一瞬困惑したかに見えたが、すぐさま御者に命じて馬に鞭を入れさせた。 「いいえ、小父様。急がないでくださいませ。行きは大雨に降りこめられ、このあたりの景色をはっきりと目に納めることができませんでしたから」  玉瑛は短く息を吐くと、そう言って気丈に身体を起こす。 「しかし、玉瑛……」と、なおも気遣わしげな亜父には応えず、少女はまなじりを上げ、遥かに続く麦畑を挑むように見据えていた。  三年前、玉瑛の両親が盗賊に殺されたのは、宋州の外れのこの地である。玉瑛はその忌まわしい地を馬車で行き過ぎながら、父母の霊をいくらかでも慰めたいと、心の内で仇討ち成就の報を告げたのだった。 「幼かったおまえが、襲われた場所を記憶していようとは、思いもよらないことであった。さりげなく通り過ぎるつもりでいたのだが……」  しばらくすると、無名がためらいがちに声をかけてきた。喉元で握り締めていた拳を緩め、玉瑛は亜父に向かって小さく微笑みかけた。 「実を申しますと、はっきりと覚えていたわけではございません。ただ不思議なことに、所は自ずと知れたのでございます」  玉瑛にそれと気づかせたのは、胸に感じた痛みである。しかし痛みはすぐに消え、反対に心の奥底にわだかまる重苦しさが次第に減じていった。まるで胸を苛み続けた鋭い刃が本懐を遂げて溶け流れ、因縁の地に吸い込まれていくかのようだった。  言葉を切った玉瑛を、無名の糸のような目が見おろしていた。茫洋とした眼差しは、常に違わず情感に乏しいが、その朴直とした見掛けの下に、深い知慮が隠されていることを、今の玉瑛は誰よりもよく知っている。  賊が小利口者ならば、必ず凝玉晶を手本に累卵像を作ると推察し、無名が世にも奇抜な『累卵の計』を巡らせたのは、功名心を満たすためではない。捕物にあれほど執着したのは、自負心ゆえではなかったのである……。 「九泉の彼方から、父母が教えてくれたのでしょうか、かの地を通り過ぎるとき、私には自然と得心できたのでございます」  玉瑛は瞳を潤ませ、無名の巨躯を見上げて言った。 「ここは非運にも私の両親が没したところ、そして、今日このときからは、幸運にも私が小父様にお会いした場所、と」  少女の真剣な表情を、無名はおし黙ったまま見つめていたが、やがて街道沿いに広がる麦畑に目を移す。  亜父が除いてくれた刃の跡に、玉瑛は再びかすかな疼きを覚えるが、疼きは次第に熱さへと変わり、胸の奥に広がってゆく。手を置くと、膨らみかけた乳房が、掌の中で小さく震えていた。湖州へ帰れば老継母に「おやまあ、棒きれのようだったおまえも、都の水に洗われて、人並みに丸みが出てきたねえ」と、憎まれ口の一つも言われそうである。  小父様にもそのように見えるかしら。おまえもずいぶん娘らしくなったものだと、思ってくださるかしら──。  ふとそう考えた玉瑛は、ふっくらと肉のつき始めた右頬を、馬車の揺れにかこつけて、無名の太い腕に寄せてみる。 「どうしたのだ? 寒いのならば、披帛《ひはく》をもう一枚羽織るとよい。行李は開くか」  身じろぎをしたかと思うと、うろたえたように言う亜父の、紅潮した豊頬を面白がるように、玉瑛は短髪の頭をますます傾げてゆく。 「寒くはございません。このように小父様のおそばにさえいれば」  畑では青く秀でた麦の穂が、いまだ冷たい浅春の風に吹かれていたが、玉瑛の胸に吹く風だけは、仲春の暖かさを帯びていた。 [#改ページ]    チーティング  広東省における郷試《きようし》の責任者、正考官を拝命した李慶忠は、清帝国の国都北京を五月の終わりに出立した。ときは嘉慶年間のはじめ、在位六十年を越えた乾隆帝が、子に譲位した後も太上皇帝と称し、実権を握り続けていた時分である。  その李慶忠の供に混じっていた俺──范修《はんしゆう》は、広東省の省都広州に入る手前で一行と別れると、郷試の受験生「挙子」の一人として貢院を目指して歩いた。暦はすでに八月に入り、外国船で賑わう港町広州は、清爽な秋の気に包み込まれていた。  俺が赴いた貢院とは、郷試のためだけに建設された広大な試験場のことである。敷地内には、三方を煉瓦の壁に囲まれ、屋根を載せただけの細長い建物が、狭い小路を挟んで何百棟も並んでいるそうだ。上空から眺めれば、おそらく密集した畝《うね》のように見えるに違いない。  建物の内側は人一人辛うじて入れる広さに仕切られ、各部屋は号舎と呼ばれている。独房が長屋のように、延々と連なっているというわけだ。省中から集まった挙子たちは、この号舎に都合七日間たてこもり、知力と体力の限りを尽くして課題と格闘するのである。  つまり、俺がこれから受験しようとする郷試とは、科挙試という途方もない難試験中、最も苛酷な第一試験なのだった。 「あなたは、どちらからいらしたのですか」  八月八日、時刻はそろそろ正午になろうとしていた。貢院への入場者の列に連なっていた俺は、壮年の男から唐突に声をかけられた。  ぶっきらぼうに「仏山からだ」と答えると、俺は口をとがらせて一度は顔を背けた。入場は未明から始まったが、なにしろ二万人からの受験生を、念入りに身体検査してから場内に通すのだから、とてつもなく手間がかかる。退屈と空腹で俺はひどく不機嫌だったのだ。  ところが男は気分を損ねた様子もなく「腹がおすきでしたら、これをどうぞ」と、餅を差し出してきた。少し戸惑ったが、荷物の底から食い物を取り出すのが面倒だったのでありがたく頂戴し、ついでに無愛想な表情も和らげた。我ながら現金なものである。 「そういうあんたは、どの県の受験生だ?」  俺の問いかけに、男は日焼けした顔を皺だらけにし、声も立てずに笑った。 「この私が秀才の挙子様に見えますか」  男は年齢のことを言っているのではなかった。合格者は百人に一人という難関、郷試の受験者ともなれば、中年はおろか白髪の老人も珍しくない。 「私は陳家の若様の従僕です。若様のお荷物を抱え、大門の前までお見送りに来ているのです」  男の視線を追うと、なるほど数人隔てた列の先には陳家の若様──陳護が、ひときわ傲岸な顔つきでふんぞりかえっていた。  言われてみれば、男の筋骨逞しい身体つきは、周囲の受験生とはずいぶんかけ離れている。金持ちの子弟のようでもなければ、鬼気迫る形相の貧乏書生や、哀愁を漂わせる腰の曲がった老学究ともまるで違っていた。 「もっとも、あちらの痩せた方のように、挙子らしく見えない挙子様もおられます。大旦那様の元秘書で、何度も受験を繰り返している方ですが、あの無気力さ加減ときたら、いったいどうしたものでしょう」  陳家の従僕は後ろを見やり、小声で囁いた。そこには青白い顔をした青年が、虚ろな眼つきで棒杭のように突っ立っていた。病人めいたその風体を訝《いぶか》しんでいると、再び男が口を開き、俺の強靭な肝をすこしばかり冷やすようなことを言った。 「そういえば、あなたも幾分風変わりな方ですな。その気さくさはともかくとして、顔の色艶の良さときたら、青春時代を受験勉強一筋に費やした挙子様とはとても思えません……」      *  男が睨んだ通り、十代から二十代の初めにかけての俺は、書物に埋もれて暮らしていたわけではない。それどころか、暇さえあれば女の乳房の間に顔を埋めている、どうしようもない好き者の小僧だった。  その俺が女絡みのいざこざで、家僕を勤めていた英国商人の屋敷から追い出され、広州から北京まで流れていくはめになったのは、七年前のことである。  生きるためには宣教師の馬丁から美人局《つつもたせ》まで何でもやったが、去年あたりから少々運気が向いてきた。池で溺れかけた幼子をたまたま救けたところ、礼部の高官のご嫡男だったというわけだ。  そんないきさつで、俺は李慶忠のたいそうなお屋敷に出入りするようになり、やがて主人から目を掛けられるようになった折りも折り、正考官の人事が発表された。そして、その数日後、俺は李慶忠に呼び出されたのである。 「范修、そなた、ひとつ科挙を受験してみる気はないか」  主人の言葉に、さすがの俺も目を剥いた。試験科目である四書五経など、手にしたこともないのだから当然だろう。 「そう驚かなくとも良い。科挙は県試、府試、院試の各試験に及第し、挙子という資格を得た英才だけ集め、三年に一度行う大試験だが、おまえにそれを一からさせようというわけではない」  俺は胸の内で、「当たり前だ。誰がそんなものにつきあえるか」と悪態をついた。  だいたい、それほどの難関を突破した挙子といえども、科挙という辛く長い道程の第一歩を踏み出したに過ぎないのだ。省ごとに行う郷試の後には国都で行う会試が控え、さらにご念の入ったことには、天子様ご臨席の殿試まであるのだから気が遠くなる。そのたび重なる試験地獄を勝ち抜いた者だけが、進士の資格を得て高級官僚としての将来を約束されるわけだが、庶人の俺には関係のないことだ。詩経を暗誦できなくとも、別に不自由したことはない。  そもそも科挙は万人に門戸を開いているというが、幼時より十何年、いや、しばしば何十年もの間、試験勉強にいそしむことができる者は所詮限られてくる。進士に登第して官僚となり、さんざん甘い汁を吸ってきた連中の子弟がその筆頭ではないか。かくして世の中の不公平は続いてゆく。  ところが、俺の不満などまるで知らぬげに、椅子を下りた李慶忠は、貴人然とした白い顔を耳元に寄せてきた。 「実はな、范修、おまえの才覚を見込んでのことだが、このたび私が取り仕切る広東省の郷試で、おまえに受験生の資格を与え、貢院に詰めさせようと考えている」  目を見開いたまま俺が黙っていると、李慶忠は急ぐ様子もなく先を続けた。 「知っての通り、ひとたび試験が開始されると、二万名の挙子は数百名の試験係官とともに貢院内に隔離される。高い塀に囲まれ、門を固く閉ざされた貢院は、蟻の這い出る隙もなくなるが──そうまでする理由は、言うまでもないだろう」  もちろん不正を防止するためである。しかし、どれほど施設を厳重に閉鎖し、入場時の検査を峻厳にとり行おうとも、『四書全註』などの虎の巻が持ち込まれる危険は依然として残る。そして、いったん持ち込まれてしまえば、試験場が独房形式であるだけに、その効果は絶大だった。  李慶忠が小声で告げた話によると、過去の広東省での試験結果を詳細に調べてみたところ、郷試では頭抜けた成績を取った者が、続く会試では不良な成績しか残していないという例をいくつか発見したのだという。そのうちの数人は名の知れた広州の豪商の一族で、郷試にのみ合格した「挙子」に与えられる「挙人」の資格を得ると、都の官界で一派閥を形成した。そうして潤沢な資金に物を言わせつつ、郷里の一族のために何かと便宜を計っているらしい。 「広州の豪商というと、対外貿易を独占する組合──公行を組織する有力商人たちになりましょう。なかでも発言力が大きいのは楊家と陳家ですが、俺にそのどちらかの一族の子弟を見張らせようという腹づもりですか」  李慶忠は俺の理解の早さを喜ぶように微笑を浮かべたが、すぐに片袖で口元を覆い隠すと、大仰に眉をひそめて囁いてきた。正直なところ、俺は主人の妙にねばついたこんな仕草が嫌いだが、柔和なその外見とは裏腹に、なかなかのやり手であることは知っている。 「おまえが見張るのは、陳家のほうだ。貢院では監視の兵卒が配されるが、答案作成の様子を探るには、同じ受験生である挙子を当たらせるにしくはない。陳家は一族ぐるみで不正に官僚を輩出していると私は睨んでいるが、厳正この上ない採点をごまかすことはできぬから、おそらく特別な手段で虎の巻を持ち込み、高得点を上げているのだろう。その現場を押さえるのが、おまえの仕事だ」 「承知しました」と答えた俺に、李慶忠は銀三両の報酬を約束した。はした金だが、まあいいだろう。  俺がいつになく乗り気だったのにはわけがある。古巣の広州に行くとなれば、昔よしみを通じた女、秋菊の消息もわかるに違いない。寝間では実に奇妙な姿勢で男を悦ばせてくれる可愛い奴だった。まさか英国商人の旦那に身請けされ、西洋へ渡ったということはあるまいな──。  李慶忠の私室を退出すると、屋敷の長い回廊を歩きながら、七年前の夏のことを思い出していた。当時、俺の主人だった英国人の旦那から、娼館に住む秋菊へことづけ物を頼まれた俺は、用事が終わるとそのまま女の暖かい寝台にもぐり込み、ひとしきりじゃれ合っていたが、そこへたまたま会合を早目に終えた旦那が現れたのだ。 「この裏切り者が! 主人を騙しておいて、それで済むと思うなよ。小狡い猿め、出ていけ。二度と顔を見せるな」  俺を信用して秋菊のもとへ出入りさせていた旦那は、わめきながら裸の尻を窓から蹴り出した。そのときの甲高い声は、今でも耳に残っている。たしか「チーティング」と何度も叫んでいた。欺き騙すという意味だ。 「そういえば、試験の不正も英国の言葉では『チーティング』だな。すると、さしずめこの俺は、『チーティング』のために広州を追い出され、今度は『チーティング』のおかげで広州へ連れ戻されるというわけか」  独りごちた俺の目の前を、李慶忠の新入りの妾なのか、秋菊によく似た若くなよやかな女が横切っていった。笑いかけようと思ったが、止めておく。      *  陳護の下僕とも別れ、ようやく貢院の大門を通り抜けると、いよいよ身体検査である。裸に剥かれて、肌着の裏から尻の穴まで覗かれる。怪しい紙片でも発見すれば、係官には褒美が出るらしく皆、真剣だ。  長丁場の試験なので、挙子の荷物は食料から布団にまで及ぶが、次の所持品検査では、布団の綿を探られ、饅頭は餡の中まで調べられる。これを二度ずつ繰り返し、ようやく入場が許されるのだ。あてがわれた号舎に転がり込むと、はや日は傾いていた。  李慶忠の密かな計らいで、俺の号舎は例の陳護の隣である。陳家の若様の陳護こそ、豪商陳一族が中央官界に送り出そうと躍起になるはずの男だった。  顧みれば不正の発端は、陳家が最初に挙人を世に出した九年前に遡る。  郷試は三年ごと──子年、卯年、午年、酉年に行われるが、酉年であった九年前に、陳一族中秀才の誉れ高かった男が郷試に合格して挙人となり、会試では不合格になったものの、国都で官職を得た。科挙試すべてに及第した進士ほどではないが、挙人もかなりの官位にありつけるのである。  その後、男は巧みに大官連中に取り入り、陳家の交易品目の拡大や、最大の輸出品である茶の取り引き量の増加などをしきりと画策した。効果が目立って現れてきたのが、次の子年の頃である。  幸運にもその年、陳一族には郷試の受験資格を持つ者が三人いた。中央との密接な繋がりに味をしめた豪商陳家が、その三人を官僚として都へ送り込むために、手段を選ばなかったことは想像に難くない。案の定、三人は見事郷試を及第し、金離れのよい中級官僚として、何よりも一族の利益のため、有能な働きをしつつある。  そして、三年前は卯年のこと──この年も陳家は二人の官僚候補を生み出した。彼らは郷試では良い成績を収めたものの、会試でははなはだ振るわなかったことも、前回と同様だった。  そこで頭の切れる正考官、李慶忠は考えたのである。巨利をむさぼりたい陳一族は、交易の便宜を計る官僚を何が何でも輩出させるため、必ずや郷試で不正を働いているに違いないと。  俺は机でもある横板の上に寝そべると、狭い独房の中を見回した。仕切りの壁の漆喰はあちこちこぼれ、染みだらけの薄汚い天井には、蚰蜒《げじげじ》が一匹這い回っている。入口に戸などないので、俺も他の受験生を真似て白い垂れ布を掛けてみたが、その布が妙に湿気を帯びた夕風を孕んで揺れていた。  隣の陳護の様子が覗けるように、俺は緩んだ漆喰を鋏でそっと突き崩し、小さな穴を穿《うが》っておいた。陳護は机に突っ伏して、うたた寝をしているようである。お坊っちゃまもさすがにここ貢院では頼る者とてなく、丸めた背はどこか心細げだった。  陳護がどこにどう虎の巻を隠しているかは知らないが、すべては明日、試験が始まってからのことである。俺は陳護の様子を見張り、奴が豆本でも取り出してくれば、ただちに監督官へ通報して取り押さえるという手筈になっていた。      *  監督官の居所までの道順を今のうちに確かめておこうと思った俺は、号舎を出て小路をぶらぶらと歩いていった。  郷試には、正考官を頂点に数百名の係官が携わるが、彼らもまた貢院内に拘束され、合格者が決まるまで一歩も外へ出ることは許されない。もちろん採点時の不正を防止するための措置なのだが、これほどまで事を厳重に運んでも、なお不正は起こるのだから、不正の手段を考えつく人の知恵とは尽きないものなのか、知恵の源である人の欲こそ、げに計り知れないというべきか。  ふと気がつくと、およそ不正とは縁のなさそうな初老の男が、大きな荷物を抱え、足を引きずりながら歩いて来た。粗末な衣に身をつつみ、落ち窪んだ目をせわしなく動かし続ける様は、老いぼれた鶏のようである。おそらく、男は人生のすべてを犠牲にして勉学に打ち込み、それでいて長年郷試に合格することすら叶わないのだろう。そう思うと、さすがに気の毒になり、包みを持ってやろうと手を差し出した。  ところがその途端、「泥棒め、なにをする」という罵声が、俺に浴びせかけられたのである。男は白いものの混じった眉の下からこちらを鋭く睨みつけ、さらに「おまえのような若輩には、まだまだ負けんぞ」と、吐き捨てるように言い放った。  取り残された俺は、貢院の大門をくぐったときよりも、殺伐とした号舎の群れを見たときよりも、科挙試にまつわる妖気に打たれ、身震いせずにはいられなかった。あの初老の男にとって、この俺は多少親切心のある若者ではなく、彼を蹴落とし、彼の代わりに挙人の資格に輝くかもしれない敵なのである。 「どうやら、郷試は初めてのようですね」  背後で聞こえた別の声に、俺は我に返って振り向いた。見れば一つの号舎の垂れ布がめくれ、中から青白い細面が覗いている。それは昼間、陳家の従僕が「挙子らしくない」と評した青年の顔だった。  その「挙子らしくない」男にすら、俺は場違いとみなされたのならば、切れ者李慶忠の人選も、案外的外れであったかもしれない。 「ああ、もちろん初めてだ。鈍才で鳴らした俺だが、どういうものか最前の院試では悪運に恵まれた」  学問の話題になっては困ると思いながら、適当に返事をすると、青年は赤く潤んだ大きな目玉を瞬《しばたた》かせ、俺の顔を不思議なひたむきさで見つめてきた。 「私は今度で四度目の受験です。といっても、合格はとうに諦めていますので、他の方々のように根を詰めたりはいたしませんが」  青年は垂れ布を引き開け、針金のような身体を晒して言った。そばに来て話さないかと誘っているのだろう。俺がその気になったのは、相手に同じ異端者の匂いを嗅ぎ取ったせいである。 「では、挙人や進士に及第する夢は諦めていながら、受験だけはするというのか。なぜそのようなことを?」  お互いに名乗り合った後、俺が尋ねると、柳昌が答えた。それが痩せこけた青年の名前だった。 「私はこの通り見るからに虚弱です。いえ、虚弱だからこそ家業に背き、小地主の家に養子に入ってまで、学問の道を選んだのです。ところが弱冠二十で挙子の資格は得たものの、最初の郷試受験で私はとことん打ちのめされました。肉体的にも精神的にも、私はこの大試験に耐えられない。かれこれ七日間もこんな気味の悪いところへ押し込められて、ひたすら四書題や詩題に没頭することなどできはしない。気が狂ってしまいます。五臓六腑が瘴気《しようき》に溶けてしまいます」 「ならば、なぜ受験を止めない。プライドなのか。挙子としての」  俺は思わず英国人の旦那のもとで習い覚えた言葉を口に出していた。ある種の気持ちを言葉にするときは、異国語が便利なこともある。 「ぷらいど、とおっしゃいましたか。違います。ええ、その言葉が『誇り』を意味するということは、私も知っています。英国人と付き合いのあった妹が教えてくれました。その妹のため、私は受験を続けているのです。なぜなら、養家で私が気兼ねなく学問ができるよう、妹は身売り同然の奉公に出たのですから──」 「だが、あんたが郷試に及第しなければ、いずれにせよ妹さんは奉公先で悲しむだろう」  俺は眉を寄せ、声を落とした。自分で言うのも何だが、根が気のいい俺は、女が苦労する話にめっぽう弱いのである。 「いえ……妹は奉公先からなんとか請け出しましたので、今は家族と一緒に家業に励んでいます。妹を実家に帰しはしましたが、私には形だけでも受験を続ける必要があるのです」  そう言って柳昌は横を向いた。妹を失望させたくないという以上の、深い理由があるようだが、告白しかねている様子だった。いや、そもそも行きずりの俺に向かって、この青年はなぜ打ち明け話など始めたのか──。  突然、柳昌が腹を折って呻いた。衣越しにも肋骨が見てとれる薄い胸を上下させ、吐き気を堪えているようなので、俺は後ろに回って背を撫でてやる。しばらくすると柳昌は「大丈夫です」と喘ぎながらも言い、姿勢を整えたので、俺は手を止めた。 「范修殿、やはりあなたは、他の挙子とはどこか違っています。彼らが知識と引き換えに失った、健やかさを持っておられるようです。そのあなたならば……」  他の挙子とは違うと言われ、柄にもなく狼狽する俺をよそに、柳昌は目を閉じて何事か考え込んでいたが、やがて顔を上げると小声でこう言った。 「明朝問題が配られますが、失礼ながらもしも歯が立たないとお思いでしたら、もう一度ここをお訪ねください。私の号舎の前で、咳払いを三度した後、沓《くつ》を脱ぎ埃を払うのです。そうすれば、私がなんとかして差し上げましょう」      *  その晩、俺はなかなか寝つけなかった。柳昌の言葉から、おぼろげながら不正の絡繰《からく》りが見えてきたせいである。  おそらく、自分の学徒としての限界を悟った柳昌は、挙子の資格を利用して虎の巻の運び屋を請け負ったのだ。柳昌が運搬係ならば、万が一検査で発覚しても陳家の受験生には累が及ばない。そして、一度持ち込んでしまえば、豆本の受け渡しなど貢院内のどこでもできる。  柳昌がそのような悪事に手を染めた理由は、妹を請け出す費用を陳家から借金したために違いない。ところが、その妹がそもそも苦界に身を落としたのは、兄に学問をさせるためではないか──。  苦い夜が明けて、問題用紙と答案用紙が配られた。この日は四書題が三問、韻を指定した詩題が一問と李慶忠から聞いていたが、俺は問題の冊子を開いてみる気も起こらなかった。どのみち答案は白紙で出すという申し合わせである。  覗き穴からは時折り陳護の様子を窺った。しかし、とりたてて不審な挙動もない。殊勝にも、まずは実力で難問に取り組もうということだろう。  そうこうするうちに正午の銅鑼《どら》が鳴り響くが、陳護は饅頭を取り出して囓り始めたものの、依然机の前から離れようとはしなかった。近くの号舎には、よほど余裕のある者がいるのか、七輪と土鍋で煮炊きをしている気配がする。  昼過ぎになると、陳護はさかんに頭を掻きむしるようになった。いよいよ豆本の世話になるかと目を凝らしていたところ、陳家の若様は突然立ち上がり、号舎を出ていった。  後をつけて警戒させるわけにはいかないので、俺はひたすら自分の独房で待つ。かなり長い時間が過ぎ、ようやく帰ってきた陳護は、落ち着かなげに背後の垂れ布を引くと、懐から何やら取り出してきた。案の定、豆本である。四書五経の注釈の類だろうか、一寸角ほどの小さな本を次々と机の上に並べていく。  虎の巻を前にした陳護は、満足げな笑みを漏らし、独り言を言った。「蚊とんぼ野郎め、いいザマだ」と、たしかにそう言った。      *  嫌な予感につき動かされた俺は、号舎をそっと抜け出ると、数十房隔てたところにある柳昌の部屋の前にやって来た。  号舎の様子は、前日とは違っていた。入口を覆う白い垂れ布が、墨で汚れていたのである。いや、震えるような筆跡で、文字まがいの線が書きつけられている。  俺は立ち止まって周囲を窺った。ずらりと並んだ独房からは紙をめくる音や、衣ずれの音がするばかりで、変わった気配はどこにもない。  そこで俺は気を取り直し、柳昌に言われた通り、わざとらしく咳払いを三度すると、号舎の前にしゃがみ込んで沓を脱いでみた。  空咳の合図とともに垂れ布の隙間から豆本が転がり出、俺はそれを沓の中に素早く隠す──そういう手順を予想していたのだが、意に反して白布はさやとも揺れなかった。  俺はおおいに怪しんだ。柳昌は持ち込んだ虎の巻の一部を、俺に貸そうとほのめかしたのではなかったのか──。  もう一度周囲に響くような咳をし、それでも反応がないとみると、俺は墨の散った布を荒々しくめくり、柳昌の独房へ踏み込んだ。  中には、顔に青|痣《あざ》を作り、唇には血を滲ませ、手を墨で汚した柳昌が、紙のような顔で横たわっていた。驚いて抱き起こすと、柳昌は俺を見上げ、消え入りそうな声を出す。 「申し訳……ありません。実は……范修殿に虎の巻をお貸ししようと思ったのですが、別の男に取り上げられてしまいました」 「陳護か。奴に殴られたのか」 「どうして、ご存じなのですか」と驚く柳昌を、俺は適当にごまかした。 「号舎が隣なのだ。問題を解きあぐねてうんうん唸っていたくせに、席を外して帰ってきたときには、鼻歌を歌っていた」  俺は水筒を取り出し、柳昌の口に水を含ませてやった。それで多少気力が戻ってきたのか、柳昌が喘ぎ喘ぎ説明した事情はこういうことだった。  柳昌は──俺が想像したように──虎の巻を運び込むよう陳家より依頼された『運び屋』だった。今年の受験生は陳護一人で余裕があったため、受験場でもう一儲けするつもりの柳昌は、余分な豆本を持ち込んでいた。ところが、運悪くその本が陳護に見つかってしまい、勝手なことをするなと、さんざん殴られたのだという。  話し終えた柳昌は、胸を叩いて咳込んだが、少し落ち着くと、また口を開いた。 「私はこのように、神聖な貢院で不正を働き、そのうえ、范修殿まで巻き込もうとしました。汚れた豆本であっても、あなたのような方をお助けするために使えば、罪が償われるような気がしたばかりに……」  柳昌が再び激しく咳込んだ。どうやら胸を病んでいるようである。 「けれど虎の巻は失われ、もはや私と係わり合いになったところで答案の作成が遅れるばかりです。早くご自分の号舎へお帰りください。……いえ、なぜ最初から通り過ぎてくださらなかったのでしょう。私のような者はやはり信用ならないと、そうお思いにはならなかったのですか」  俺は小さく首を振ると、柳昌に布団をかけてやりながら考えた。  現在虎の巻は陳護のもとにある。証拠とともに不正の現場を取り押さえることは可能だった。しかし陳護を捕らえれば、奴は運搬役の柳昌を名指しするに違いない。そうなれば、陳護に殴られてひどく弱っている柳昌は、役人にこづき回されて必ず命を落とすだろう。柳昌を救おうと思えば、陳護の奴は見逃すしかなかった。  いったん心を決めると、俺はさばさばした気分で柳昌の傍らに座り込んだ。柳昌はもう俺を追い返す気力もないようだった。熱があったので、手巾を濡らして額に当ててやると、幾分楽になったのか眠ってくれた。      *  翌八月十日の朝、秋晴れの空に号砲が轟いた。第一回の試験終了の合図である。ここで受験生は最初の答案を提出し、貢院からいったん退出することを許されるが、翌朝には第二回の試験問題、五経題に取り組むため、再び集合しなければならない。  柳昌を背負った俺は、二万人の挙子に混じって大門を抜け、昔馴染みの娼館まで辿り着くと、離れの一室を借りて病人を寝かせた。医者にも診せたが、柳昌の容体は悪くなる一方だった。 「私のことは……どうかお構いなく、明朝は貢院に戻って受験をお続けください」  柳昌は細い声を出して懇願するが、その願いを曖昧にかわす一方で、俺は枕元で拳を振り回した。 「陳護の奴め、このままでは済まさんぞ」 「不正を告発なさるのですか」 「いや……虎の巻を持ち込んだ方法を証明できない。また、証明するつもりもない。妹を身請けするためやむなくしたことで、病の重いおまえを連座させるにはしのびない」  柳昌は「妹のこと……お察しでしたか」と小さく言うと、俺の制止も聞かず、布団の上に身体を起こした。 「私は今回を含め三度の郷試で、不正に荷担しました。処罰はとうに覚悟しております。豆本を持ち込む方法についても、正直に告白いたします……」  その途端、柳昌が喉を震わせて大きく咳込んだので、俺は慌てて言った。 「そんなことより、先に妹さんの名と居場所を聞いておこう」  柳昌は赤く潤んだ目をわずかに細めると、かすれ声で答えた。 「妹の名は──林三宝。両親とともに広東省から隣の福建省にかけて……旅を続けているはずです。父母も妹も、広州雑技団の一員なのです。私も……幼い頃よりいくつか芸を仕込まれました。とりわけ……」  狭い病室を再び嵐が吹き荒んだ。ひとしきり咳をした柳昌は、胸に手を当ておくびを繰り返していたが、突然顎を大きく突き出したかと思うと、赤子の握り拳ほどもある塊を次々と吐き出した。  豆本だった。唾液の糸を引きながら口から飛び出し、布団の上にころがった極小の書物は、全部で三冊あった。  曲芸師柳昌の得意技は、長剣を口から呑み込む呑刀《どんとう》の術だったに違いない。柳昌は木の薄皮で作った虎の巻を幾つも胃の中に納め、検査を通り抜けた後で吐き出して、陳家の馬鹿息子どもに渡していたのだろう。  俺は豆本の一つをつまみ上げ、中を開いてみた。薄皮の表面は、点と線を組み合わせた得体の知れない文様で、びっしりと覆い尽くされている。眺めているうちに、その文様は崩れて浮き上がり、ついには黒い羽蟻に変身し、次々と飛び立っていくような錯覚に襲われた。視界を羽蟻の群れにふさがれた俺は、生まれて初めて文字というものに憎しみを覚えていた。  柳昌は俺がすべてを悟ったと覚悟したのか、大きな目玉をいっそう潤ませた。 「身体が弱ってきて……思うように吐き出せなかったのですが……それで……全部です。おかげで……気分が少し良くなりました……」      *  気分が良くなったと言ったが、柳昌の死期が迫っていることは、今や明らかだった。  あの糞いまいましい貢院には二度と帰るまいと思った俺だが、そうなると考えを改め、せめて陳護の奴だけでも懲らしめてやろうという気になった。陳護は豆本を広い貢院のどこかに隠し、次の五経の試験でも再び使うはずだと、苦しい息の下から柳昌が告げたせいもある。  試験場に戻った俺の行動は、李慶忠と打ち合わせた通りのものだった。陳護が虎の巻を頼りに答案を作成するところを見計らい、監督官に知らせたのである。現場を押さえられた陳護は暴れたが、俺が柳昌の名代で一発殴ってやると、今度は声を上げて幼児のように泣き始めた。  陳護の連行を手伝った後、俺は再び自分の独房に戻ったが、途中柳昌が使っていた号舎の前を通ったときには、立ち止まらずにはいられなかった。  娼家の女主人に後を託してきたが、柳昌に事の顛末を告げる機会はないだろう。旗竿のような身体をして、口から豆本を吐き出す束の間の俺の友人は、もうこの世にいないに違いない。  荷物が残っている号舎を覗き見た俺は、柳昌が筆跡を残した入口の垂れ布を、形見として妹へ届けることを思い立つ。ところがそいつを外している最中に、妙な予感にとらわれた。  兄に『ぷらいど』という言葉を教えた柳昌の妹、広州雑技団の軽業師の林三宝は、俺が昔|懇《ねんご》ろになった英国商人の妾、秋菊と同一人物ではないだろうか。なぜなら、秋菊もまた英国の言葉を解し、骨のないくらげのように身体の柔らかい女だったのだ。      *  それから半月の後、俺は懐に柳昌の形見の布と少なからぬ金を忍ばせて、広州郊外の道を東へ向かって急いでいた。広州雑技団が福州で興行しているという噂を聞いたからである。  陳家が絡んだ郷試不正事件はといえば、取り調べた李慶忠が、迅速かつ仮借のない処分を下していた。その手腕に舌を巻いていた俺も、しばらくすると主人の部屋に呼び出された。報奨の銀三両は約束通りくれてやるから、今後もいっそう下働きに励めということだろう。  ところが、差し出された金を恭しく押し頂いた後、一転して胸を反らした俺は、主人に暇を願い出たのである。 「范修、おまえにはいずれ家宰の仕事を手伝わせようと考えておったが、それでも出てゆくと申すのか」 「はい。生まれ故郷の広州の喧騒が、やはり俺の性には合っています。通辞として交易船にでも乗り込むつもりです」  李慶忠は「そうか」と言って、もの分かりの良いところをみせた。仕草は粘ついているが、気質はあっさりしているほうだ。もっとも、金に関してはどんなものだろう。 「つきましては、楊家宛にご主人様の紹介状をいただきますれば幸甚に存じます。破廉恥な陳一族の失脚により、今後、広州での交易は『公行』のもう一方の実力者、楊一族の思うがまま。ご主人様の公平無私なお心は楊家より十二分に報いられ、また、そのご意向も重んじられていることでございましょうから」  俺は精いっぱい慇懃《いんぎん》な調子で言いながら、腹の中ではこう呟いていた。「あんたのチーティングも、俺には通用しないぜ」と。  李慶忠は薄い唇を歪めて俺の言葉を聞いていたが、やがて立ち上がると、犬の餌でも放るように、重い財布を投げて寄越した。もちろん、紹介状は書いてくれなかった。      *  福州を目指して歩き続けた俺は、小高い丘の上まで来ると、木陰に腰をおろして一休みした。眼下には広州の町が広がり、その遥か彼方には珠江《しゆこう》の水が霞んで見える。町の外れにひときわ大きな面積を占めるのは、郷試が行われたあの貢院だった。  上から眺めれば、畝に似ているだろうと思っていたが、実際に目にする何百という号舎の屋根は、むしろひた寄せる小波《さざなみ》のようだった。栄誉と役得を欲して集まった挙子たちが、ときに足を掬《すく》われて押し流される、科挙試の不気味な波である。  俺は懐から垂れ布を取り出し、膝の上に広げてみた。柳昌と最後に交わした言葉が、鈍い疼きとともに蘇る。 「私は、あなたの足手まといになることを恐れました。ですから陳護に殴られた後、必死の思いで白布に『請安静。禁止干咳』(お静かに。空咳禁止)と書き、約束を破棄したのです。けれども范修殿は、そのような私に腹を立てるどころか、ことさら咳払いをしてみて異変があったと察すると、ご自分の答案を投げ打ち、私を助けてくださいました」  俺は瀕死の友人に話を止めるよう言ったが、柳昌はきこうとしなかった。 「素知らぬ顔で通り過ぎて欲しいと願う一方で、范修殿ならば警句に不審を感じ、私の様子を気遣ってくださるに違いないと、心の底では信じておりました。本当にその通りになり、私はどんなに嬉しく思ったことか……。范修殿、あなたは身体も壮健で、外国語の素養があるというだけでなく、この清国の官僚にふさわしい徳を備えておいでです。虎の巻など見ずとも、明日の試験では必ずや天のご加護がありましょう。きっと……きっと良い成績で進士に登第なさいます──」  結局、俺は自信ありげな微笑を返し、力強く頷いたのだった。そんな俺のやり方を、英国人の旦那、いや、秋菊ならば、チーティングだと言うだろうか。俺は柳昌を欺いたことになるのだろうか。  柳昌は安心したように目を閉じると、いつしか弱々しい寝息を立て始めた。  とうとう最後まで、俺は柳昌に告げなかった。この俺は李慶忠に送りこまれた偽の挙子だったということ、そして自分の名以外、文字はただの一字も読めないということを。 [#改ページ]    殿《しんがり》      一  空がすっかり白むと同時に、宮殿の南門──通陽門あたりで騒動が湧き起こった。灰緑色の長い毛に覆われた耳をそばだて、私はその様子を聞き取ろうとする。  先刻までは、慌ただしくも密やかな物音──馬の微かないななきや、車輪の軋みや、兵士の長靴の音──が続いていたが、今聞こえているのは、大勢の人間が立ち騒ぎ、揉み合っている音だった。 「大同殿にはなぜ人気《ひとけ》がないのか。陛下はいったいどちらにおられるのか」  参内してきたばかりの廷臣だろうか、壮年の男の声が上がった。問われたのは衛兵らしい。要領を得ない答えをしたようである。男の声に怒気が混じった。 「明け方、延秋門を出立なされたのか。行幸の先は、わからないと言うのか」  私にもようやく事情が呑み込めてきた。つまり、皇帝李隆基はこの長安を、大唐帝国の都を打ち捨てて、いずこともなく遁走したというわけだ。  出奔の原因は言うまでもなく、雑胡《ざつこ》の節度使安禄山である。北の范陽《はんよう》で蜂起した安禄山は、東都洛陽を攻め落とし、数日前には都の東の守りである潼関《とうかん》を抜いていた。長安が陥落するのも時間の問題とみた皇帝は、ついに都落ちに踏み切ったのだ。 「陛下は楊宰相の案内で、蜀の地を目指しておられるようだ」 「蜀だと。では貴妃様の故郷へ蒙塵《もうじん》されたのか」  しばらくすると、周章狼狽した廷臣たちの怒鳴り合う声が、次々と耳に入ってきた。貴妃とはもちろん、皇帝の寵愛を一身に集める当代随一の美女である。 「一刻も早く、我々も後を追わなくては。都に残っておれば、この先どのような目に遭うことやら──」  男の言う通りに違いない。それでなくとも、最近の宮殿の混乱ぶりはひどいものだった。この私にしても、十日というもの放ったらかされ、一片の食物も一滴の水すらも口にしていない。  日が高く上がる頃には、市中にも噂が広がったようだった。貴族然とした声は途絶え、代わりに野卑なだみ声があちこちで飛びかっている。 「天子様は、夜逃げしたそうだ。宮殿は空同然だと言うぞ」  大音響が轟いてきた。ついに通陽門が打ち壊されたのだろうか。無数の足音が続々と近づいてくる。灯籠祭の日さながらの陽気さで、物騒な集団が宮中に踏み込んでいた。 「おい、馬小屋があるぞ。まず、馬を調達しようではないか。お宝を運び出すのに持ってこいだ」  野太い声が仲間を誘う。皇帝が逐電したと知るや、市中の貧民が財宝を掠奪しようと、宮殿に押し寄せたてきたらしい。  宝物に目が眩んだ男たちは性急である。私が住んでいる小屋の板壁にも、いきなり鍬《くわ》が打ち降ろされた。割れた板の透き間に、鍬の頭がこじ入れられ、板壁は瞬く間にはがされてゆく。 「こ……こりゃあ、馬じゃねえ」  小屋の中を覗き込んできた男が私の姿を認めると、前歯を欠いた間抜け面で言う。 「で、でかいぞ。これが、象とかいう化け物か」 「いや、象とはてんで違う。背中を見ろ、瘤《こぶ》が二つある。こいつは、駱駝《らくだ》だ。象ほどもある二瘤駱駝……」  男たちは鍬を放り投げ、奇声を上げながら一目散に逃げ去った。  いかにも、私は駱駝である。それも、普通の駱駝の優に三倍はあろうかという巨大な二瘤駱駝だった。名を「緑耳《りよくじ》」といい、五年前、安西節度使から皇帝に献上された。  入朝した当初はずいぶん珍しがられ、野外の宴席では玉座近くにも侍り、堂々たる体躯と屹立する二つの瘤で百官を圧倒したものだが、飽きられてしまって後は、明義門近くの小屋に押し込められ、傍目には無為の日々を送っていた。  ところがこの日、天宝十五年(七五六)の六月十三日、私は思いがけず自由の身となったのである。百鬼夜行の宮殿暮らしを面白がっていたとはいえ、悪い気分ではなかった。私はゆっくり前脚を踏み出すと、打ち倒された板壁を越え、晴れた空のもとで大あくびをした。  相変わらず騒がしい物音は続いているが、掠奪者の一団はこの興慶宮の中でも、より豪奢な建物、勤政務本楼や花萼相輝楼《かがくそうきろう》を目指して雪崩《なだれ》込んでいったようである。私は庭を悠々と歩きながら、さてこれからどうしたものかと頭を巡らせた。  このまま都に留まるのはたしかに危険だ。では、都を出てどこへ逃れるか。  やはり|亀※[#「玄+玄」、unicode7386]《きじ》へ帰るとするか。遥か西にある砂漠の中の町──私の生まれ故郷の亀※[#「玄+玄」、unicode7386]へ。 『蜀へ行ってくれ、緑耳』  突然頭の中で響いた声に、私は驚いて顔を上げた。天子の後を追えというのか? とんでもない。何の義理があって、この私があの老耄皇帝の──。 『皇帝ではない、貴妃様の後を追うのだ。私が都を留守にする間、私の代わりに貴妃様をお守りしてくれと、おまえによく頼んでおいただろう?』  幻の声に重ねて言われ、ようやく私は思い出した。頼んだのは楊建という名の若者で、楊という姓が表すように貴妃一族の末端に連なる者である。  二年前、楊建は縁故を頼って蜀の田舎から都へやってきたが、貴妃の近親たちのごとく栄華を貪るとはゆかず、ようやくありついたのは総監使という官職だった。名前は厳《いか》めしいが、要するに宮殿の苑圃《えんぽ》を管理する仕事である。苑の片隅で飼われていた珍獣の私もまた、総監使の管轄だったため、楊建はしばしば私の小屋に出入りした。  田舎者らしく素朴で気さくな若者は、私をひどく気に入ったようだった。もともと鳥獣の類が好きなのか、とにかく顔を見れば友人のように声をかけ、畜生相手にお門違いの頼み事さえしてきたのである。  もっとも楊建は、私が人語を解する駱駝であると知っていたわけではない。もし知っていれば、皇帝の寵姫に寄せる密かな想いを、一晩中話し聞かせたりはしないだろう。      二  どこを目指すか決め兼ねたまま、私は開遠門へと向かって、都大路を足早に歩いていった。宮中同様、ここも人と車でごった返している。馬を連ねた高官の一族や、荷車に家財を山と積んだ豪商の一家が慌ただしく通り過ぎてゆく。連中は近郊へ避難しようというのだろう。  貧民たちはその間を縫って逃げ惑うか、あるいは貴族の留守宅に押し入り、掠奪に励んでいた。賊軍の襲来を受ける以前から、都ははや収拾のつかない状態である。  平時ならば、誰もが目を見張ったであろう巨大駱駝の私にも、注意を向ける者はほとんどなかった。私は何の咎めもなく門道を抜けると、無事西へ向かって延びる街道へ出た。  |亀※[#「玄+玄」、unicode7386]《きじ》へ行くにしろ、蜀を目指すにしろ、途中までは同じ道を辿ることになる。このまま進み、行き先は道が分かれたところで決めるとしよう──。  私は漫然とそう考えていた。楊建の頼み事に冷淡なのには理由がある。駱駝の私に貴妃を守ってくれと頼みながら、自分は今頃どこで何をしているのだと、少々腹を立ててもいたのだ。  所用で都を発った楊建は、一年経った今も帰ってくる気配がない。安禄山が蜂起したのは昨年の十一月なのだから、帝国の版図内にいる限り、唐朝の危機を知らないとは考えにくい。では、なぜ楊建は帰ってこないのか。  虚飾に満ちた都の生活に見切りをつけたのだろうか。美しい貴妃を慕う心は消え失せてしまったのだろうか。巨大駱駝の私のことも、とうに忘れ果ててしまったのか──。  紅塵の舞う道を三里(一・七キロ)も歩くと、さすがの私も喉が渇いてきた。乾燥と粗食に耐えるのが駱駝だとはいえ、今日まで十日間飲まず食わずだったのだ。城壁を抜けるまでは、大路の混乱に巻き込まれまいとして水や餌どころではなかったが、ここらで少し腹ごしらえをしておいたほうがいいだろう。  私は柳の若木に近づくと、柔らかい葉を思う存分ちぎって食べ、それからのんびりと水を捜して歩いた。幸い街道を少しそれたところに井戸があり、蛙でもいるのか中から水音が響いてくる。私は前脚を大きく開き、水面まで届けと念じながら、長い首を突っ込んだ。  ところがその途端、私の顔面に何かが取りつき、私の耳と言わず鼻と言わずやみくもに引っ張ってきたのである。肝を潰した私が慌てて首を上げようとすると、その得体の知れないものは、ますます強く私の顔に縋《すが》りつき、甲高く叫んだのだった。 「緑耳! 駱駝の緑耳ね! 私を救けて!」  名前を呼ばれては、私も逃げ出すわけにはいかない。引っ込めようとした首を伸ばしてやると、相手が齧《かじ》りついてきたので、そのまま井戸の外まで引き上げた。  驚いたことに、私の首にぶら下がってきたのは、私も顔を見知っている貴妃付きの宮女、淑珍だった。選りすぐりの貴妃の侍女の中でも、とりわけ器量自慢の女である。 「ああ、ひどい目に遭ったこと」  淑珍は草地になよなよと倒れ込むと、豊満な胸を上下させていたが、やがて濡れそぼった裙子《くんし》を絞り、乱れた髷《まげ》をあれこれ直し始めた。皇帝の一行に混じって都を出たものの、途中誤って井戸に落ちたのだろうか。  水が少なく浅い井戸だったのは幸いだった──と私が思ったのは束の間である。いくら相手が駱駝でも、救けてもらった礼の一言もないことに、次第に腹が立ってきた。  後は勝手にしろとばかりに踵を返すと、私は西へ向かって早足で歩き出す。背後から「待ってちょうだい、緑耳」と、癇性な声が縋ってくるが、私は構わず進んでいった。高慢な宮仕えの女はもともと苦手である。      三  二つの瘤のほぼ真上から、夏の日差しが照りつけている。時刻は正午を回ったようだ。  渭水《いすい》のほとりまでやってきた私は、滔々と流れる黄河の支流をしばし眺めた後、先刻飲み損ねた水を飲むために河原へ降りた。  私たち駱駝が渇きに強い理由は、水を飲めるときに大量に飲み、身体に蓄えておくことができるからである。もっとも、俗に信じられているように、瘤の中に水が詰まっているわけではないが。  巨大駱駝である私は、五十斗ほどの水を一気に飲むと、いよいよ渭水にかかった木橋──咸陽橋を渡りはじめた。川風が吹いてきて、密生した長いまつげと、耳を覆う灰緑色の毛を弄《なぶ》ってゆく。湿り気は好きではないが、熱砂の吹きつける亀※[#「玄+玄」、unicode7386]に戻れば、この風を懐かしく思い出すこともあるだろう。  つまりその頃には、私は貴妃を追い掛ける気をすっかりなくしていたわけである。街道が二つに分かれたら、迷わず亀※[#「玄+玄」、unicode7386]へ通じる右の道を選ぶつもりだったのだ。私の耳の後ろでは、またもや『緑耳! 緑耳!』という声が響き、私の決心を覆そうとするが、駱駝は意志の強固な動物だ。  橋を半分ほど渡ったところで、対岸からやってきた騎馬の男に会った。近衛兵らしいその男は松明《たいまつ》を手にしていたが、擦れ違いざま私に声をかけてゆく。 「陛下の命により橋を焼き払うぞ。緑耳、おまえも逃げ遅れるな」  物見高い私が首を伸ばして眺めていると、近衛兵の放った火は、木橋の床板から欄干へと、瞬く間に燃え広がった。もちろん、男はとうに来た道を引き返している。  近衛兵の後を追って一度は立ち去りかけながら、結局私がその場を動かなかったのは、「緑耳! 緑耳!」と呼ぶ懐かしい声を、今度は確かにこの耳で聞いたからである。  やれやれという思いで身体を返すと、足取りの怪しい馬に跨った楊建が、私に向かって腕を振り回していた。今までどこをふらついていたのか知らないが、見たところ元気そうではある。  馬を駆り立てた楊建は、大声で私の名を呼びながら、一直線に突き進んでくる。私たちを隔てる炎など、まるで目に入らないかのようだった。 「緑耳、緑耳、やっとおまえに追いついたぞ!」  貴妃のことで頭の中がいっぱいに違いない楊建は、「炎何するものぞ」という気らしいが、とんでもない。このままゆくと人馬ともに火だるまだ。仰天した私は胴を大きくよじり、腹を激しく波打たせると、「ええい、ままよ」とばかりに大口を開けた。  飲んだばかりの五十斗の水が、私の四つの胃から一気に吐き出され、燃えさかる炎の上にぶちまけられる。その途端、火勢が一時弱まり、小さくなった炎の上を、楊建の乗る馬が喘ぎ声とともに飛び越えてきた。  私は安堵の息をつくが、楊建は私のとっさの行動に気づいた様子はない。みなぎる気迫が炎を圧倒したとでも思っているのだろう。伴走するように私に合図し、態度だけは意気揚々と、痩せ馬を励まして対岸まで駆け抜けてゆく。      四 「橋さえ焼き払っておけば、頼れるのは渡し舟だけ。これで、賊軍の追っ手を止められますわね」  土手の上に腹這いになった私は、燃えさかる咸陽橋を背に、甲高い声を苦々しく聞いていた。楊建の乗ってきた馬は、荷物の他に女を一人載せていたのである。その女とは誰あろう、井戸端に私が置き去りにしてきた淑珍だった。美女にあるまじき形相でこちらを睨んでいるところを見ると、私を相当恨んでいるらしい。 「もっとも、その賊軍ですが、本当に陛下のご一行を追ってきますの?」 「間違いありません。潼関から逃れてきた王思明殿が、私を抜き去るとき教えてくれたのです」  口調だけは恐ろしげな淑珍に、楊建はきびきびと答えた。若者は私との再会をおおいに喜び、私が貴妃に随行していないと知るとおおいに落胆したが、すぐに気を取り直すと、慌ただしく追走の準備を始めていたのである。  力尽きて動けなくなった馬の背から、大小七つばかりの木箱を外し、私に載せ替えようというわけだが、よくもこれだけの大荷物を運んできたものだと、私は乗り潰された馬に同情した。巨大駱駝の私でも、あまり歓迎したくない量である。  しかも、荷を載せるということは、私はこの先の二股道で、右ではなく左の道へ進むということだ。何の因果でこの私が……と、再び胸の内でぼやきかけたとき、楊建が「頼むぞ、緑耳」と言って首を叩いてきた。  うんざりしつつ見下ろした若者は、一年前と比べ幾分逞しくなったようである。もともと風采は悪くないのだが、惜しむらくは人の善《よ》さが顔に現れ過ぎている。これでは行幸先でも、いいように使われるばかりではないかと心配し、私は自分が蜀に同行するつもりであると気がついた。私は私なりに、楊建という若者の行く末が気になっているらしい。 「偶然にも楊建殿に拾っていただき、本当に幸運でしたわ」  今度は満面に笑みを浮かべた淑珍が、腰をくねらせて楊建にすり寄った。 「乱暴者の衛兵どもに追い回され、井戸に隠れていたときは、死ぬほど恐ろしゅうございましたのよ」  楊建が素っ気なく「お気の毒なことでした」と答えると、淑珍は途端に柳眉を逆立てた。私も女を見やり、「お気の毒さま」という顔を向けてやる。貴妃命の楊建を色仕掛けで手玉に取ろうとしても無駄である。 「さあ、用意が整いました。急いで陛下の行列を追いましょう」  私の腹に木箱を括《くく》り終えた楊建は、私の瘤の間に素早く乗り、膨れ面の淑珍に手を差し延べた。淑珍は優雅に背を上ってくるが、途中足がすべった振りをして、私の腹を一蹴りすることは忘れなかった。  憂鬱の種は幾つかあったが、私は潔く立ち上がり、西を目指して走り始めた。  背後の咸陽橋はいまだ煙を上げていたが、前方には望賢の宿場が見えてきた。楊建が近くを通りがかった農夫に尋ねたところ、皇帝の一行はここで昼食をとったという。すると先行の一群と私たちとの距離は、せいぜい十数里といったところだろうか。意気が揚がった楊建は、私を急かして必死に手綱を操るが、淑珍はおかまいなしに話しかけてくる。 「楊建殿は、西州にいらしたとか。都にはいつ帰ってこられましたの? 途中、陛下のご一行とは行き合わなかったのですか」 「都に着いたのは今朝のことで、天子様の行幸を知り、すぐに追い掛けてきたのです。西州からは|回※[#「糸+乞」、unicode7d07]《かいこつ》の領土を通り、北の雲州経由で長安へ入りましたので、行列と出会うどころか安禄山の進軍に巻き込まれ、大変な目に遭いました」  なるほど、そういうことだったのかと、私は話を聞きながら納得した。それで節度使の反乱を知りながら、楊建は都へ戻るのが遅れたというわけか。 「なぜ、回※[#「糸+乞」、unicode7d07]の領土へなど?」 「西州で知り合った篳篥《ひちりき》の名手が、所用でかつての安北都護府を訪ねることになり、私も同行したのです。手に入れたいものがありましたので」  淑珍が「それは何ですの」と尋ねたが、楊建はぶっきらぼうに「媚玉《びぎよく》の笛です」とだけ答えて、口をつぐんだ。おそらく楊建は、貴妃にふさわしい土産の品を求め、北狄《ほくてき》の地へ分け入ったのではないだろうか。かの地には、媚玉で作られた世にも珍しい紫玉笛があると、以前噂に聞いたことがある。  それにしても、賊軍の行路の真っただ中にいながら、楊建はよく命を落とさなかったものだと、私は感心するより呆れる思いだった。案外この若者は、土壇場での運に恵まれているのかもしれない。      五  望賢を出て三、四里も走った頃だろうか、突然、あたりの景色に異変があった。左右は見渡す限りの黍《きび》畑だったが、まだ若い穂はあちこちでなぎ倒され、ときに踏みしだかれたような跡があったのだ。  楊建は私の背を降りると、畑の中に入ってゆく。先行する貴妃の行列に、不測の出来事が起きてはいないかと気がかりなのだろう。安禄山の追撃部隊が、知らぬ間に私たちを追い越して、皇帝の一行を襲ったとは考えにくいが、行列に内応者が混じっていないとは限らない。もしも、その裏切り者が牙を剥いたとすれば……。 「馬の蹄《ひづめ》の跡ではないようだ。車の轍《わだち》とも違う。強いていえば、大臼を引き転がしたような──」  畑を調べた楊建がそう言いかけたとき、淑珍の金切り声が上がった。 「緑耳! 緑耳! おまえがもう一頭いるわ」  驚いて前方を見ると、なるほど数十丈先に、私と変わらない身体つきの巨大な獣が、夕日を背にして立っていた。 「まさか……本当におまえの仲間だろうか」  駆け戻ってきた楊建は面くらったように言うが、私は首を横に振った。巨大駱駝はこの世に私一頭きりだ。第一、私はあれほど幅広の胴ではないし、身体も美しい金褐色の毛で覆われている。丸太もどきの脚でもなければ、首もすっきりのびている。  相手もこちらを認めたのか、頭を大きく振り立てた。見たところひどく興奮しているらしい。威嚇するように鋭い声をはなち、触手に似た器官を鞭さながらに振り上げた。 「あれは、駱駝ではない。象だ……天竺の動物だ」  楊建は動転して叫ぶが、私は冷静だった。なるほどあれが象かと、鼻を鳴らしただけである。ことあるごとに比較されてきた、あれが世の中で最も大きい獣かと。  敵愾《てきがい》心を刺激され、武者震いをしていると、再び淑珍が「人が……吐蕃《とばん》人もいるわ」と、喚き立てた。見れば遠巻きに象の様子を窺っている、数人の異国人の姿があった。身なりからするとたしかに吐蕃人らしい。彼らは象の主人のようだが、明らかにこの巨獣を持て余していた。畑を踏み荒らしたのも、象の仕業に違いない。  突然、象が鋭い咆哮を上げたかと思うと、地響きを立てながら狂ったように私たちの方へ向かってきた。吐蕃人たちは皆、馬に飛び乗り逃げ去ってゆく。  素早く身構えたにもかかわらず、私は急速に戦意を失っていった。地を揺さぶるような痛苦の声──あの声を昔、どこかで聞いたことがなかったか。  突進してくる象に、私は正面から声を浴びせてみた。産声を真似た声である。象の赤子が産声を上げるかどうかは知らないが、他に象に呼びかける方法を思いつかなかったのだ。  ところがその途端、象は足を止めた。鼻を一振りすると、皺の下から潤んだ瞳で私を見ている。私は、「承知している。安心しろ」という意味で、もう一度忘れかけていた声をはり上げた。象が発した咆哮は、その昔、私がこの世に生まれ落ちるとき、母親の腹の中で聞いた声と似通っていたのである。 「おまえは……雌象だったのか。子が生まれるので、苛立って暴れていたのか」  楊建が象の後ろに回りながら言った。牛や馬の出産に立ち会ったことのある、田舎生まれの若者は察しが良かった。  しばらく見守っているうちに、子象の足が一本のぞいた。しかし、その先はいっこうに出てくる気配がない。母象の息も次第に荒くなってくる。すると、楊建が象の尻に近づいてゆき、やおら子象の足に手をかけた。引き出してやろうというのである。  両腕に力をこめた楊建の額に青筋が立ち、母象が再び唸り声を立てたとき、羊膜に包まれた子象の身体が、ずるりと外に飛び出してきた。 「楊建殿、それに淑珍殿……」  か細い声に私たちが振り向くと、畑中の石垣の陰から女が二人現れ、こちらへ向かって転がるように駆けてきた。先刻までは異国人がいたあたりである。 「あれ、瑞虹殿。小玉殿も!」  同輩の名を呼びながら私の背から降りた淑珍が、二人に事情を問いただしたところ、逃げ出したのはやはり吐蕃人の使者たちだった。長安に入る直前、たまたま皇帝の行列に出会い同行していたが、途中で献上品の象の様子がおかしくなったため、列を離れざるを得なくなったのだという。 「では、なぜ瑞虹殿と小玉殿まで、一緒にいらしたのですか」  楊建が尋ねると、女たちはここぞとばかり袖に顔を埋めて泣き濡れた。 「なにしろ、このたびのような強行軍は初めてでしたので、しばらく歩くと足を痛めてしまい、吐蕃の方に頼んで象の背に乗せてもらったまでは良かったのですが……」  私の見たところ、二人の足は特に障りのある様子はない。要するに、楽をしようと乗った象に暴れられ、行列から取り残されてしまったということだろう。      六  象の名は花舫《かほう》だと、二人の女のうちの年かさのほう、小玉が言った。その花舫は、命じられもしないのに、まだ足どりのしっかりしない子象を連れて、後をついてくる。そして、その先をゆく私は、背に楊建と三人の宮女たちを乗せ、腹には大小七個の木箱を括りつけ、相変わらず西を目指して歩いていた。  途中、都からの早馬が幾組か私たちを追い越したが、この珍奇な集団には、使者たちも皆驚きの声を上げるばかりだった。  それにしても、楊建とはつくづく因果な男だと、私は広い眉間に皺を寄せて考える。憧れ慕う貴妃の行列に、一刻も早く追いつきたいと焦れば焦るほど、厄介な荷物を抱え込んでゆくのである。合流を急ぐのならば、宮女や子連れの象などは振り捨てて、私を全速で走らせるべきなのだが、どういうものかそれはできないらしい。  しかもその宮女どもときたら、宮殿の中では貴妃の権勢をかさにきて、若輩の楊建を鼻であしらってきた者ばかりではないか。  苛立たしさを覚えた私は、背中の楊建を振り返ってみるが、当の若者は多少困惑気味ながら、むしろ楽しげな様子で手綱を握っていたのである。  日がとっぷり暮れた後もひたすら歩き、ようやく|馬※[#「足+包」、unicode8dd1]泉《ばほうせん》と名づけられた泉に辿り着いた。街道を行き交う旅人が必ず立ち寄る水場である。  女たちは一斉に私の背から降りると、水を汲んでは喉を潤し、手足を洗った。  象の花舫は鼻で水を吸い上げ、塵だらけの子象にかけてやっている。私も咸陽橋で吐き出した分の水を補い、雑草で腹ごしらえをした。  楊建は水を飲むと再び街道に出て、西の方角に見入っていた。皇帝一行の夜営の火でも捜しているのだろう。  しばらく休憩すると楊建は女たちに声をかけ、私の背に乗るよう言った。ところが、すっかり寛いでいた宮女たちは、それ以上の行軍をきっぱりと拒絶したのである。楊建が下手に出て頼んでも、もはや一歩も動かないどころか、逆に空腹を訴えて若者をなじり始める始末だった。 「申し訳ありませんが、食べ物は先刻分け合いました焼餅が最後です。取るものも取りあえず、都を出てきたものですから」  淡々と言う楊建に、淑珍が蛾眉《がび》を吊り上げて詰め寄った。 「では緑耳に括りつけた大荷物、あれはいったい何ですの? 食べ物ではありませんの?」  楊建は首を横に振り、「食物は一切入っておりません」と答えたので、私も少しばかり驚いた。たしかに七個の箱は、どれもかさの割りには軽かった。 「では楊建殿は、いったい何を運んでいらっしゃるのですか」  淑珍が再び語気鋭く問いかけると、楊建は訝《いぶか》しげに首を傾げて答えた。 「何、とおっしゃいますか淑珍殿、あなたはご存じと思っておりましたが」  楊建が西州へ赴くことになった事情には、そもそもこの淑珍が一役買っていたと聞く。以前より貴妃は梨園に女胡部──胡楽を専門に演奏する女だけの楽団──を設けており、胡部にふさわしい西域産の名器を多く求めていた。そこで、人を遣わし、楽器を集めさせようと思い立ち、音曲に明るく頑健な若者はいないものかと宮女たちに相談したところ、淑珍がすかさず楊建の名を挙げたのである。 「総監使殿は笛の名手でございます。梨園の方々にも劣りません」と、淑珍は褒めちぎったというが、私が知る限りでは、楊建の吹ける笛とは鳥寄せのための指笛だけだった。  ともあれ、貴妃の一門でもある楊建は、その任にふさわしいとみなされ、正式に貴妃の命を受けて、高昌楽の本場──西州へ向けて旅立つことになった。それが、一年前のことである。  淑珍がどういうつもりで楊建を引き合いに出したか知らないが、おおかた音律に疎い不粋な田舎者を困らせてやれという悪戯《いたずら》心からだったろう。私は宮殿の片隅で閑を持て余しつつ、宮女たちがこの手の与太話に笑い興じる様を、幾度となく目にしたものだった。  ところが、面白半分の推薦を受けたにもかかわらず、若者は貴妃の下命に真剣そのもので取り組んだ。自分が大荷物を抱えて西方から戻ってくれば、淑珍には当然中身の見当がつくはずと、楊建は考えていたに違いない。 「では、あの箱はすべて楽器の類だとおっしゃるの?」 「その通りです。私が西域の町で苦労の末捜し求めた名器の数々です。邏沙檀《らさだん》の琵琶、緑玉の磬《けい》、螺鈿《らでん》の羯鼓《かつこ》……」  楊建の返事を聞いた三人の宮女たちは、口をあんぐりと開けたが、私もいい加減驚いた。そのような不要不急の道具を後生大事に携えて、楊建は雲州から長安、長安から咸陽までひた走り、その先は私の背に載せ替えたというわけか。皇帝は天下の名宝秘宝すら宝物殿に山と残し、蜀への道をひた急いでいるというときに、この男ときたら……。      七  空腹も疲れには勝てなかったのか、女たちもいつしか寝静まっていた。起きているときは姦《かしま》しさに辟易させられるが、こうして上屋の軒先で身を寄せ合い眠っている様は、なかなか麗しいものである。少し離れた所には、象の花舫が子象を抱きかかえるようにして寝入っており、これもまた心暖まる光景ではあった。  私は夏枯れの茅《かや》の上を寝床と定め、膝を折って休んでいると、楊建が傍らにやってきた。半眼を向け鼻を蠢《うごめ》かす私に、若者が思い余ったように口をきき始める。 「明日にも貴妃様にお会いできると思うと、眠ろうにも眠れない──」  ここ数日間、長路を馬で駆け詰めに駆けてきたにもかかわらず、疲れは微塵も感じないのだろうか、青白い星明かりの下でも、楊建の頬は紅潮して見えた。 「初めて謁見賜って以来、明けても暮れても貴妃様のことばかりを考えてきたが、このように五臓六腑が踊り出さんばかりの気持ちは初めてだ。まるで上元節の祭りのただ中にいるようなのだ」  なかなかいいことを言うと、私は口の端を持ち上げた。若者の目には、西州の祭りを彩る華麗な灯樹の明かりがちらつき、耳元では高昌楽の軽快な音が鳴り響いていることだろう。 「なぜ落ち着かないかと言えば……このたびの陛下の行幸は、私にとって千載一遇の機会だからだ」  私はわずかに首を起こすと、大人の拳ほどもある瞳を見開いた。不穏な発言に、興味をかきたてられたのである。 「緑耳……おまえにだから不謹慎の謗《そし》りを気にせず言える。実のところ、私はこの脱出行が楽しくて仕方ないのだ」  日常は後宮の奥深くにあって、花容をかいま見ることさえ難しい皇帝の寵姫といえども、蒙塵という非常事態では、幾重にもあった隔《へだ》てを取り払わざるを得ない。そのことを、楊建は千載一遇と言ったのだろうか。そして、その二度とはない機会に、この若者は何事かしでかそうとしているのだろうか。 「行列に合流した暁には、随行する廷臣も近衛兵も、皇帝陛下すら私の目には入らないに違いない。私の目に映るのは、ただ御車におわす貴妃様のお姿と、貴妃様をお守りしながら傍らを進む、私自身の姿だけだ。私にとって蜀への蒙塵は、貴妃様と二人きりの道行きなのだ」  満天の星の下で、楊建は再び頬を赤くした。私は少なからず失望を感じながら、邪気のないその横顔を見つめている。若者が待ち望んでいた機会とは、他愛もない夢想の舞台に紛れ込む機会だったのか。貴妃に向ける情熱とは、所詮、忠誠心の延長に過ぎなかったのか。  儒教とやらの堅苦しい規範を押しつけられ、五倫五常などという厄介な枷《かせ》をはめられた人間とは、なんと不自由な生き物ではないか。楊建が皇帝の妃を力ずくで奪う気ならば、手を貸してやってもよいとすら考えていた私は、ため息混じりに思った。その窮屈さが、ときに恋情を激しく煽り立てるということを、まったく知らないわけではなかったが。  鼻先に飛びついた蝗《いなご》に驚き、身体を起こしてみると、まだ薄暗い街道に立って東の方角を見据えている楊建の姿が目に入った。一夜明けた六月十四日の早朝のことである。 「西行する人馬が未明から完全に途絶えている。追っ手がすでに街道の中途を扼《やく》し、通行を妨げているのではないだろうか」  私が立ち上がって近寄ると、楊建はそう呟いて眉を寄せた。敵襲の脅威を身近に感じているのか、若者は昨晩とは打って変わって厳しい表情をする。 「もしも、追いつかれたならば、そのときはどうするか……」  そのときはそのときだと思いつつ、私は楊建に一策献上することに決め、象の花舫に向かって首を突き出した。  蜀に至る桟道は細く険しいため、このまま象の親子を連れてゆくことは不可能だと私も知っていた。そこで、いずれどこかで別れるのならば、水も青草も豊富なこの馬※[#「足+包」、unicode8dd1]泉に残し、ついでに一働きしてもらおうと私は考えたのである。  楊建は訝しげに私を見ていたが、やがて思い当たったように手を打つと、象のもとへ駆け寄り、「なあ花舫、おまえに一つ頼みがある……」と、切り出した。  やれやれ楊建お得意の頼み事だと、私は胸の中で苦笑いをする。その頼み事さえなければ、私は今頃亀※[#「玄+玄」、unicode7386]へ向けてのんびり歩いていたはずなのだ。 「これから数刻後か、十数刻後か、あるいは数十刻後か──大勢の騎馬兵が、この水場にやってくる。そうしたら、おまえの太い脚で奴らを蹴散らして欲しいのだ……」  楊建は熱を込めて語りかけるが、鼻を伸ばした花舫は、子象の顔を無心に撫で回しているだけだった。 「象をここに残すのでしたら、あちらの箱も棄ててくださいな。窮屈で仕方ありませんわ」  馬※[#「足+包」、unicode8dd1]泉を離れるという段になって、女たちが険のある声をはり上げ、再び楊建に食ってかかった。楽器の箱は、当然象に積むものだと思っていたらしい。  ところが、それまで忍耐強く女たちの機嫌取りに甘んじていた楊建が、今度ばかりは耳を貸そうとはしなかった。貴妃の命を忠実に遂行することは、若者にとっては真心の証であり、誇りでもあるからだろう。無言で私の腹に楽器の箱を括りつけ、それが終わると女たちを背の上に追い立てた。  楊建が瘤を叩いて出発の合図をし、私が力強い足取りで街道に踏み出したのは、日の出の時刻である。別れ際、それまでのんびりと草を食《は》んでいた花舫親子は、こちらへ向かって小さく鼻を上げたように見えた。  一方、憤懣やるかたない様子の宮女たちは、「言っておきますけれど、貴妃様はここ数か月のご心痛で、女胡部の楽器のことなどとうにお忘れよ」などと、私の背の上で憎まれ口を叩き続けている。結局、箱がさほど邪魔だったわけではなく、楊建の意外な剛直さが、女たちの癇に障ったのだろう。その上「さればこそ、蜀の行宮まで楽器を運び、お心をお慰めするのです」と若者に切り返されたものだから、よけいに悔しがっている。  正午前、金城の宿場に着く頃には、小雨が降り出していた。宿場には夜営の跡があり、皇帝の一行はこの地で一泊したと思われた。早朝宿場を発ったのならば、おそらく夕刻までには追いつけるだろう。楊建は休みたがる女たちを宥《なだ》めながら、再び手綱を握った。  やがて街道が二股に分かれ、私はついに蜀へと通じる左の道へ足を踏み入れた。我ながらご苦労なことだと思わないでもない。  その頃になると雨はやんでいたものの、濃い霧があたり一面にたち込め始めた。金城を出て以来、人の往来もめっきり途絶え、なんとも陰気な雰囲気になってきた。  しかもすでに楊建が気づいていたように、街道を東からやって来る早馬は、ついに一頭もいなかったのである。      八  霧は不快な重みを帯びて、頭といわず背といわずまつわりついてきた。道を見失いかけた楊建は、慌てて私の背から降り、方向を見定めようとするが、霧は四方から絶え間なく流れ寄り、時間と距離の感覚を狂わせる。  さらに気味悪いことには、霧の帳《とばり》の奥から世にも悲しげな女の声が、重なり合うように聞こえてきたのである。 「後生でございます。どうか、どうか、お救けくださいませ」  そう言ってすすり泣く声に、背の上の女たちは恐れおののき、瘤を中心にひしと身を寄せあった。前を行く楊建の肩も強ばったが、懸命に私を導いてゆく。  迷いつつ街道を進む私たちの前に、一本の楡《にれ》の大木があった。声はその木の根元から漏れてくる。楊建が急いで駆け寄ると、三人の宮女が縛られて泣いていた。 「真真殿に蘭芝殿。それから紅娘殿も!」  楊建が名を呼ぶことができたのは、またしても貴妃づきの侍女たちだったからである。  女たちの話によれば、先に楊建を追い越した王思明が行列に追いつき、安禄山が追撃部隊を派遣したとの報をもたらしたため、わずかでも時間を稼ごうとした楊宰相が、宮女たちを街道沿いの木に縛りつけ、追っ手の気をそらすことを考えたのだという。 「なんと酷いことを。貴妃様がご存じならば、このようなことをお許しになるはずがない」  三人の縄を解きながら、楊建はそう言って憤慨した。もちろん、私も一緒になって腹を立てている。新たに加わった三人の宮女を背に乗せるのは、結局のところこの私なのだ。 「このように大揺れするのでは、落ちてしまいます」  瘤の後ろに跨った小玉が悲鳴のような声を上げた。首に乗った淑珍などは、最初から不平の言い通しだが、不服を申し立てたいのは私のほうだ。女たちを全員乗せるのは仕方ないとしても、楽器の箱はやはり余計ではないか。投げ棄てたくなったとしても、誰が責められよう。  霧は相変わらず濃く、轡《くつわ》を取る楊建の歩みは慎重だった。行列が通った証の無数の沓《くつ》跡を丹念にたどってゆくと、やがて幅二十丈ばかりの川に出る。渭水の支流なのだろう。すでに橋はなかったが、雨が降ったせいなのか、焼き払われたのではなく、打ち壊されていた。  霧を透かしてざっと目算したところ、水深は私の瘤の下二、三尺といったところである。流れの速さを勘定に入れても、私が一度に七人を乗せて渡れないほどではない。  しかし、楽器の箱まで胴に括りつけられているとなれば話は別だ。よけいな浮力がつき、水中で平衡を保つことが難しくなる。第一、水に濡れてしまえば、楽器は使い物にならないではないか。  良い機会だと考え、私はついに意思表示をすることにした。  身体を大きく揺すってやると、結び目の緩んでいた木箱の一つが振り落ちた。宮女たちは悲鳴を上げて瘤にしがみつくが、気になどしていられない。蓋が外れた箱からは、羯鼓《かつこ》が一つ転がり出た。なるほどこうして目にすると、楊建が手放そうとしないだけあって、見事な螺鈿細工の逸品には違いない。  ところが、私の行動を見ていた楊建は、黙って羯鼓を拾い上げ、宮女の一人、真真の手に無理矢理持たせたのである。  そうすると私も後には引けなくなった。鼻先と脚とで木箱をこづき、次々と胴から振り落としてゆく。大小の箱の中には、琵琶、磬《けい》、方響《ほうきよう》、箜篌《くご》、拍板《はくばん》……と、様々な楽器が納められていた。いずれも梨園の弟子が持つにふさわしい名器には違いなかろうが、背後に追っ手が迫っている今となっては、愚にもつかない代物である。  楊建にも私の考えはわかったようだった。しかし、若者は若者でいっそう譲れない気になったに違いない。木箱が落とされるたびに中の楽器を取り出すと、ときには叱りつけるようにして、嫌がる宮女たちに一つ一つ持たせていった。──最後は私と楊建の根比べである。 「なにが何でも、貴妃様の許へ楽器をお届けするのだ」  若者は頬を強ばらせ頑なに言い募る。口調も表情もまるで違うが、顔を火照らせて架空の道行きについて語る楊建と、強情にも琵琶や箜篌《くご》に執着する楊建は、どちらも同じく貴妃を恋い慕う者の姿だと私は悟った。若者の貴妃への想いとは、なんとも不可解でときに頑迷な現れ方をするものなのだろう。  結局、私は小さく頭を振って負けを認めた。敢えていえば、その不可解さに負けたのだった。  二つの大きな瘤を波打たせ、私はついに歩き出した。楽器を持たされた女たちが、背の上で口々に悲鳴を上げるのもかまわず、大股で川へと入ってゆく。楊建は照れたような笑顔で「緑耳、恩に着るぞ」と言い、私の首に齧りついてきた。  川は予想していたよりも深かった。川面を覆う不気味な霧のため幾度か方向を見誤り、川底の水苔には危うく足を取られかけそうになる。女たちは楊建の指示で楽器を頭上に捧げ持ち、片手で必死に瘤にしがみついてくる。苦労の末、ようやく対岸まで渡り着いたときには、私たち一頭と七人は期せずして一斉にため息を漏らしたほどだった。  ところが、河原に散らばる橋の残骸を踏み越えて、土手に上がった途端、私は再び身体を緊張させた。霧の流れに乗って運ばれてくる、異様な物音を聞きつけたためである。      九 「どうした、緑耳、毛を逆立てて」  異変に気づいた楊建が、首から滑り降りた。私は対岸を見据えたまま動かなかった。 「敵が……追っ手が来るのか?」  私は首を大きく振って注意を促した。蹄の音が霧の彼方から迫ってくる。  私の見立てでは敵方は百騎余りと思われた。おそらく賊軍の精鋭だろう。橋のない渭水を強引に渡り切り、皇帝の後を追う廷臣たちを街道で次々と斬り捨ててきた連中である。発見されれば、私たちもたちまち同じ運命を辿るに違いない。 「水しぶきの音が聞こえてくる。奴らは騎馬で川を渡るつもりのようだ」  悲鳴を上げかけた瑞虹の口を、気丈にも真真がふさいだ。幸いにもあたりは濃い霧に包まれている。敵の目を眩《くら》ませ、やり過ごすことができれば、助かる道はありそうだった。  しかし、楊建の考えは違っていたようだ。驚いたことに若者は、自分たちの力で敵の急追を防ぐつもりだったのである。  楊建は少しの間、霧の流れを目で追うようにして考え込んでいたが、突然何を思ったか水辺へ走り、橋の一部だった板を二枚抱えてきた。大きさは人を乗せる戸板ほどである。  楊建は私を跪《ひざまず》かせて宮女たちをいったん降ろすと、中心が後ろの瘤の真上になるよう板を慎重に載せ、両端に紅娘と蘭芝を、中央には淑珍をそれぞれ外向きに座らせた。やじろべえまがいの即席台座は、見掛けほど不安定ではなく、私の広い背には足をかける余地も十分あったが、乗せられた女たちは一様に竦《すく》み上がっている。楊建から楽器を手離すなと強く言われたせいもあるだろう。  さらに楊建は前の瘤にも同じように板を置き、真真、瑞虹、小玉の三人を座らせると、自分は女たちの真ん中で、二つの板に足を渡して立った。若者は宮女たちを灯籠になぞらえ、駱駝の上に風変わりな灯樹を作ったのだった。  楊建はこんなときに、西州の灯籠祭りでも思い出しているのだろうかと、私は顔をしかめて怪しんだ。あるいは祭りの光景に、追っ手を撃退する方法を見出したのか。いずれにせよ、この体勢では走って逃げるというわけにもいかなくなった。 「さあ皆さん、髷《まげ》と簪《かんざし》を整え、裙子《くんし》や領巾《ひれ》は美しく風になびかせてください」  抑えた声で言う楊建に、瑞虹が涙声を上げた。 「楊建殿は、私たちを生け贄になさろうというのですか」 「そうではありません」  楊建がきっぱりと否定し、それからもの柔らかな、しかし毅然とした口調で言った。 「私たちは、小吏の私と宮女六人、そして巨大駱駝一頭からなる部隊です。世にも頼りない、奇妙な小隊ですが、それでも皇帝陛下と貴妃様のご一行の殿《しんがり》軍です。殿は追っ手を阻み、先行部隊を守らなければなりません」  つまり盾となり、捨て石となるということではないか。私にはとてもその覚悟はないが、女たちとて同じだろう。 「そのようなこと、私たちにできるわけないではありませんか。たちまち引きずり降ろされ、八つ裂きにされてしまいましょう」  半狂乱の淑珍を、楊建が語気鋭く制した。 「いいえ、できなくともやっていただきます。私に倣《なら》ってやっていただきます。命が惜しければ、やるのです。命がけでおやりなさい──」  楊建は最後の一言を、すんでのところで飲み込んだようだった。「貴妃様の御為に」とは、言えなかったのだろう。女たちを意に従わせるためには、結局その生存本能に訴えかけるしか道はない。  楊建は宮女たちを見回すと、人懐こい顔に悲壮なまでの笑みを浮かべて言った。 「今は灯籠祭りの夜だと思ってください。私たちは仙境から舞い降り、祭りの夜を彩る神仙になりきるのです。──淑珍殿、あなたには仙女の舞をお願いします」  水音がいよいよ近づいてきた。賊軍は馬を背まで水に漬け、川を渡っているはずである。その勢いに押されたかのように、川面の霧が払いのけられる。  霧は急速にはれてゆき、ついに対岸まで見渡せるようになった。川の半ばまで泳ぎ来ている兵馬は数十、後に続こうと岸で待ち構えている者も、数十騎余りである。  さすがの私も身を震わせたとき、突然背の上から鮮やかな篳篥《ひちりき》の音色が流れてきた。  驚いて振り返ると、笛を吹いているのは楊建だった。指笛しか吹けないはずの不調法者が、いつの間に習い覚えたのだろうと訝しみ、はたと思い当たった。楊建は西州で篳篥の名手と知り合ったと言ったが、その男に教わったのだ。  楊建の熱演に促されるように、私は四肢をゆっくり立ち上げると、水辺に向かって静かに足を踏み出した。  川の中央あたりでは、先頭の数騎が棒立ちになっている。濃霧と入れ替わるように姿を現した、対岸の奇妙な一群を怪しんでいるに違いない。「なんだ、あれは」「駱駝だ。駱駝の上に楽人と妓女が数人乗っている」「馬鹿な、あのように巨大な駱駝がいるものか」などと、叫び合う声が聞こえてくる。  楊建はいっそう気迫を込めて篳篥《ひちりき》を吹き鳴らした。旋律は、仙女の舞い踊る様を描いた「霓裳羽衣《げいしよううい》の曲」である。 「私に倣うように」という楊建の言葉を、女たちの中で最初に思い出したのは蘭芝だった。抱えていた琵琶に撥《ばち》を当て、篳篥の音に合わせてかき鳴らし始めると、羯鼓《かつこ》を預けられていた真真が後に続き、曲はいっそう華やかに響き渡った。まとめ役の小玉が拍板で調子を取ると、瑞虹が箜篌《くご》を爪弾いて応じ、紅娘が叩く方響がそれに混じる──。  めいめいが持つことになった楽器は、まったくの偶然だったが、貴妃に仕える宮女たちであれば、何があてがわれようとも、即座に演奏することができるのだった。  私は音楽に合わせて、土手をゆっくりと練り歩きながら、首を巡らせて背の上を見た。一人だけ役目を怠っている女を叱咤激励するためである。  いまだに腹が座らないのか淑珍は青ざめていたが、私と目が合った途端、負けん気を起こしたようだった。ゆっくりと台座の上に立ち上がると、腕と腰を優雅にくねらせ、美しくも妖しい仙女の舞を披露する。  突然、川面から短い悲鳴が上がった。舞に目を奪われた男が手綱を緩めた拍子に、馬が脚を滑らせたらしい。叫び声も空しく、人馬ともに川下へと流されてゆく。  渡河部隊は再び騒然として、互いに喚き合い始めた。「皇帝は神仙を呼び寄せたのか」「いや、このあたりは妖獣の巣窟なのだ」「そうに違いない、馬※[#「足+包」、unicode8dd1]泉では象に襲われ、今度は巨大駱駝ときた」  大将らしい一人は、「幻術だ。これは我々を惑わす、幻覚なのだ。怯《ひる》むな! 進め!」と剣をふりかざして叫ぶが、その声に篳篥の鋭い音がかぶさった。大将の馬は音に驚いたか前脚で水を掻き、その拍子に背の主人を振り落とす。重い甲冑《かつちゆう》に身を包んだ大将は、ほとんど浮き上がることなく、水に押し流されていった。 「おのれ、妖怪め!」と、一人の兵士の怒号が飛んだ。声と同時に矢が放たれ、楊建の篳篥に命中すると、縦笛を遥か後方へ弾き飛ばす。  一瞬皆息を呑んだが、次の瞬間、楊建はないはずの篳篥を吹き鳴らし、高らかに「霓裳羽衣の曲」を奏で続けたのだった。  若者は取り落とした笛の代わりに、指笛を鳴らしていた。気づいた女たちは、感心にも何食わぬ顔のまま、笛に和してそれぞれの楽器を打ち鳴らす。  水音が再び耳につき始めた。川に入っていた数十騎が、じりじりと後退する音だった。篳篥を持たない篳篥奏者を見た騎馬兵は、顔に驚愕と恐怖の色を浮かべている。  華麗に振られていた淑珍の領巾が、ふいに手を離れて宙に舞い上った。そこで私が鼻息を吹きつけて飛ばしてやると、薄絹の領巾は風に乗って流れてゆき、一人の兵士の顔面に生き物のごとくまつわった。  肝を潰した兵士が手綱さばきを誤り、馬ともどももがきながら流されると、巻き込まれるようにして、周囲の数騎が次々と水中に飲み込まれ、溺れてゆく。  悲鳴が上がり、怒号が響いた。狼狽した一人が、矢を放ったところ味方にささり、矢を受けた男は「敵襲だ」と奇声を上げる。そうなると、もはや収拾はつかなくなった。  浮き足立った先行軍に釣り込まれ、後続軍も狂騒した。「妖物だ」「奇襲だ」の声が飛び交うなか、「退却」の号令が下り、安禄山の先鋒部隊はついに渡河を諦めて逃げ去ってゆく。一度も剣を交えないまま失われた兵馬の数は、全隊の四分の一ほどにもなっただろうか。  ふと我に返るとあたりはすっかり静まり返り、楽の音も途絶えていた。  女たちは魂の抜けた者のように、私の背の上で身を寄せ合い、その中央では楊建が、二つの瘤を踏み締め、仁王立ちしていた。持てるだけの胆力をすべて使い果たしたかのようである。  私は首を伸ばして楊建の顔を覗き込み、『お見事でした』と声をかける代わりに、鼻を大きく蠢《うごめ》かせた。それを潮に四肢の力を抜いた楊建は、女たちを一渡り見回し、「皆さん、ご苦労様でした」と労《ねぎら》った。  その途端、真真が泣き声を上げ、続いて瑞虹や小玉もしゃくり上げるが、舞を舞った淑珍だけは泣き顔を見せなかった。しかも私が腹ばいになると、真っ先に背から降り、驚いたことに矢で飛ばされた篳篥を拾ってきたのである。  淑珍は戸惑う楊建に笛を握らせながら、わずかに紅潮した顔で陽気に言った。 「さあ、貴妃様がお待ちですわよ。先を急ぎましょう」  台座に使った板を棄て、楽器を抱えた七人が再び座り直したところで、私は力の限りの早足で街道を西に向かって進んでいった。やがては賊軍の大部隊が追撃してくるかもしれないが、少なくともいくらかの時間は稼いだはずである。こうなれば、一刻も早く皇帝の一行に合流し、その後は一蓮托生ということでいいではないか。  妙にすがすがしい気分の私は、背中の重みも忘れて駆け出した。  この調子ならば、ほどなく馬嵬《ばかい》の村に着くだろう。皇帝の行列に追いつくとしたらそのあたりに違いない。若者の忠誠の証であり、唯一の武器でもあった楽器の数々を携えて、楊建が貴妃のもとに馳せ参じるのは、もう間もなくのことなのだ──。      十  私の話をここで終えることができたら、どんなにか良いだろう。しかし、この後の出来事は、あまりにもよく知られた事実であるがゆえ、口を濁しても仕方がない。  結局、楊建という名の若者は、貴妃に西域産の楽器を届けることができなかった。空想上の逃避行も、淡い夢想のままに終わる。なぜなら私たちが馬嵬の村に着いたとき、傾国の美女楊貴妃は、宦官の手によってすでにくびり殺されていたからである。  蒙塵に随行した近衛兵たちは、このたびの災厄は楊一族の専横に原因があるとして憤怒を募らせ、皇帝玄宗に貴妃の誅殺を迫ったのだという。老皇帝は将兵たちの怒りを鎮めるため、断腸の思いで寵姫に死を賜ったのだった。  貴妃に先立ち、宰相の楊国忠以下、楊一族はことごとく斬られていた。象を置き去りにした吐蕃の使者も、巻き添えを食っていた。  楊姓を名乗る楊建が、辛くも暴徒の刃を逃れ得たのは、殿《しんがり》として奮戦し、軍乱の現場に居合わさなかったためである。皮肉なことに若者の一世一代のその奮闘は、貴妃を守りたい一心からだった。  貴妃の命がこの世から失われた翌日の払暁、私の背に跨った楊建は、密かに皇帝の一行を離れていった。街道を引き返し、再び分かれ道へ出ると、若者は西域へ至る道を選んで進む。  私の記憶に間違いがなければ、楊建は笛を二本持っていた。一つは矢傷を受けた篳篥で、もう一つは煙るような色合いの玉笛だった。おそらく、|回※[#「糸+乞」、unicode7d07]《かいこつ》で求めた紫玉笛だろう。  数十日後、西州を過ぎて亀※[#「玄+玄」、unicode7386]まで来ると、楊建は私の背から降り、轡を外して投げ捨てた。私はついに生まれ故郷に帰ってきたのである。  街道は前途で再び二つに分かれていた。楊建は右の道を行き、私は二つの瘤を揺らしつつ左の道を歩いて行った。  楊建とはその後二度と会うことはなかったが、人気のない砂漠のただ中に一頭きりで暮らしていても、私の灰緑色の耳はときに篳篥の澄んだ調べを聞く。 [#改ページ]    虞良仁膏《ぐらじんこう》奇譚  苑王の正夫人、緯氏《いし》が膚《はだ》に病を得て、さしもの王の寵愛も衰えたりと聞き、文書官|荀育《じゆんいく》ははたと膝を打った。かねてよりこの時を待ち望んでいたと言わんばかりである。  今を去ること二千数百年の昔、赤砂の舞う大陸での出来事であった。  荀育は早速、緯氏の父で四歳になる太子の祖父、令尹緯駁《れいいんいばく》の前に名乗り出て言った。 「それがし、弱輩の頃、諸国を放浪しておりますときに、会塀《かいへい》の七淵奥にて妥夏《だか》先生なる医師を知りました。かの先生こそは、黄疹、丹毒、淋疾から癌種に至るまで、たちまち癒す万能薬、虞良仁膏《ぐらじんこう》の不思議に通じた稀代の名医と存じます。この荀育にご下命あれば、ただちに会塀へ出向き、ご正室様のために妥夏先生を伴って参りましょう」  緯駁は喜んで荀育に十分な路銀を与えると、苑の都を送り出した。  荀育は野兎のごとく原を駆け、猩々《しようじよう》のごとく森を渡り、都から会塀まで、二百里の捷路《しようろ》を急ぎに急いだ。その先の七つの淵を遡るのは、さらに難儀ではあったが、荀育には妥夏をして緯氏の病を治癒せしめ、己は推挙者として恩賞にあずかろうという腹であったので、むしろ嬉々として瀑布のしぶきを浴びた。  雲霧の先にようよう現れた妥夏の草廬《そうろ》は、以前と変わらぬたたずまいであった。安堵した荀育は戸を叩いて呼ばわった。 「もし、我は苑王のご舅、令尹緯駁殿の使いで参った荀育と申す者である。妥夏先生にお目に掛かりたい」  出てきた童子が答えて言った。 「妥夏先生は先年の冬、みまかられました」  荀育は瞬間、昏倒せんばかりに驚いた。妥夏はまだ壮年といってよい若さだったはずである。  夢と消えた恩賞を思い、肩を落とす荀育に、童子が続けて声を掛けた。 「現在はご子息の妥矯《だきよう》先生が後をお継ぎになり、医庵を営んでおられますが、お会いになりますか」  それを聞いて、まだまだ運には見放されていないことよ、と気を取り直した荀育は、用向きの仔細を話し、童子に取り次ぎを頼んだ。  隅に埃の溜った見るからに侘しい一室に通され、待つこと半刻、ようやく簾《すだれ》の外に足音を聞いた荀育は、姿勢を正して医師を迎えた。 「お待たせいたしました。私が妥夏の一子、妥矯です」  そう言って入ってきた相手を見るなり、荀育は再び目を剥いてのけ反った。妥矯と名乗る医者は、歳の頃は十六、七かという、紅顔の少年だったのである。 「あなたが、妥矯先生とおっしゃられるか」  荀育は背に冷汗を吹きながら尋ねた。 「いかにも」 「では、妥夏先生のもと、さぞ幼い頃から医術を修めてこられたのでしょうな」 「いいえ。私はここからさらに三淵奥にある杣《そま》の小屋で、祖父と暮らしておりました」 「それはまた、どのようなご事情で」 「父|妥夏《だか》の五人の妾が、私を疎んじたものですから」 「なんと、妥夏先生は五人もの妻妾をお持ちでしたか。諸侯をも凌ぐ数ですな」 「生涯を通じると十一人を数えます」  妥夏のあまりの絶倫ぶりに、荀育は開いた口が塞がらなかった。それにしても、十一人もの妻妾を持ちながら、子が一人きりとは面妖なことではあると、荀育《じゆんいく》は首を傾げた。 「ところで、ご尊父のご指導を受けておられずして、妥矯先生はいかに医術を施されるのでしょうか」 「父は私あてに、医療の技を細かく記した書巻を残してくれました。それを繰りながら、日々患者を診ております」 「するとお父上が九泉の彼方から、見立ての手助けをしてくださるわけですな」  世辞とも揶揄ともつかぬことを口走ってしまい、荀育は咳ばらいをした。 「いずれにせよ、名医妥夏先生の真髄は虞良仁膏《ぐらじんこう》にあるわけですから、妥矯先生におかれましても、虞良仁膏を駆使されて、さぞや多くの病者を苦痛から救っておられることでしょう」 「いいえ、さほどでもありません」  若い妥矯は眉も動かさず、涼しい顔で答えた。荀育が「ご謙遜を」という表情をすると、妥矯は平然とこう言ってのけた。 「実を申せば、今日に至るまで私が虞良仁膏をもって癒した患者は、ただの一人もおりません」  荀育は絶句した。すると、己は国舅《こつきゆう》緯駁の前で大言を弄したばかりか、艱難辛苦の挙げ句、偽医者を連れ帰ろうとしているのであろうか。  妥矯は荀育の驚愕など眼中にないように続けた。 「しかしながら、緯正夫人のご不快を思えば、私も医を志す一人として黙過はできません。荀育殿のご案内を乞うて、急ぎ都に上りましょう」  若者の壮語を荀育は断ることができなかった。それまで汲々として小吏に甘んじてきた荀育は、緯氏の病を好機と、乾坤一擲《けんこんいつてき》の振る舞いに出てはみたものの、不測の事態を御することなどできなかったのである。  しかし、早々に旅装を整えた妥矯の、はや仁医の風貌を現した白皙《はくせき》を見やると、いやいや先生には恐らく期するところがあってのことだろう、ならば俊才の瞭然たる気負いに我が命運を託そうではないか、という気持ちが湧いてくるのだった。  七淵を一気に下った医師妥矯と文書官荀育は、翌々日には会塀を発ち、街道沿いの富農に宿を乞いながら、都を目指して歩いた。  ある晩のことだった。薬研《やげん》を転がす音で目覚めた荀育が、衝立の陰から隣を覗き見ると、妥矯が熱心に薬草、鉱物の類を砕いては混合する様が窺えた。 「荀育殿ですか」  気配を察した妥矯が声を掛けてきた。 「これは、とんだお邪魔をいたしました。薬研の音が聞こえたものですから、つい気になりまして」 「よろしかったら、ご覧になりませんか。虞良仁膏を製しておるのですが」  荀育は一も二もなく、かの万能薬の製造を見物することにした。 「虞良仁膏は九種の料、七種の元、五種の媒、三種の触、一種の粋から成ります。すなわち、料とは連翹《れんぎよう》、百薬、紅参《こうじん》、香附子《こうぶし》、恵那《えな》、延胡索《えんごさく》、女宜《めぎ》、升麻《しようま》、桂皮の九薬、元とは牛膝《ごしつ》、大黄《だいおう》、流尾、沓倭《とうわ》、麦角《ばつかく》、蛇木《じやぼく》、荊芥《けいがい》の七草、媒とは冬硝《とうしよう》、石膏、膠腎《こうじん》、丹車《たんしや》、竜骨の五鉱、触とは牛黄《ごおう》、鹿茸《ろくじよう》、遊蝋《ゆうろう》の三蓄を指します。これらを、よく砕き、煎じ、留し、あるいは乾して、順を違わず練り合わせねばなりません」 「まこと、英智の結晶ですな。かくも多種の秘薬が混ぜ込まれておるときけば、虞良仁膏の万能であるのも頷けます」  その弁舌の明晰さに、荀育は妥矯を弱輩と侮る気持ちをきれいに捨て去り、ひたすら感嘆して聞き入った。 「いえ、いえ、ここまででは虞良仁膏の効力は、そのあたりに転がる牛の糞と大差はありません。虞良仁膏を虞良仁膏たらしめるには、最後に加える一種の粋こそ肝要なのです」 「して、その粋とは」 「それが、いまだ不明なのです」  妥矯は臆面もなく言い放ち、あまつさえ荀育に向かって、にこと笑ってみせた。 「父妥夏は己の会得した知識をすべて医書に託しましたが、ただ一つ、粋の正体のみ明かしてはくれませんでした。しかしながら、時至れば私にもおのずと粋の意味は知れようとの遺言がありましたので、父亡き後も縷々《るる》日を過ごして参りました。今日まで、私の製する虞良仁膏がいかなる病人も治癒せしめていないのは、かようなわけなのです」  妥矯のあまりの言葉に、荀育は今度こそ本当に後悔の臍《ほぞ》を噛んだ。思えば、鷹の子に烏はおるまいと、実力の程もわきまえず妥矯を信用したのが誤りだったのだ。  失望の色を露にする荀育に、さしもの妥矯も気づいたのか、慰めて言った。 「今更そう悲嘆なされても、詮なきことです。荀育殿が名医を伴って帰らぬも、似非《えせ》名医を伴って帰るも、いずれ結果は同じ。緯駁《いばく》殿の怒りに触れることは間違いありません。しからば、似非名医が真の名医に化けんことを信じ、二人で心を合わせ、時を稼ぐことにいたしましょう」 「すると、先生は都で粋を見つけるお考えか」 「もとより、そのつもりで出て参りました」  少年が切れ長の目を弓形に細め、荀育のそそけた頬には再び血が巡り始めた。医師というよりは、詐欺師と呼びたいような妥矯ではあったが、己とは一蓮托生であると、荀育は肚を決めたのだった。      *  苑の都に入ると、妥矯はひとまず荀育の住むあばら家に旅装を解いた。  荀育は一刻も早く緯夫人に目通り賜らんと気を急かすが、妥矯は落ち着いたもので、のんびりと都見物に出掛けてしまった。  その妥矯が、夕刻手にぶらさげて帰ってきたものは、市で購ったという一匹の狢《むじな》であった。 「これは、妥矯先生、そちらの獣こそが、粋の素材となりますか」  荀育の問いに、妥矯は首を振って答えた。 「粋はいまだその片鱗すら現しておりません。ために、診察を行いつつ時を得るには、すなわち信用を得るにしかず。私がこの青二才の面を晒してはそれもおぼつきませんので、まず容貌を変えてみようと存じます」  荀育が見守るなか、妥矯は鋏をもって狢の皮を剥ぎ、毛を染め、形を切り整え、ついに老爺がたくわえるような髭をこしらえてしまった。  翌日、推挙者の荀育に伴われた妥矯は、苑王の正室、緯夫人が病臥する後宮を訪れた。偽髭と顔料と衣装とで老爺の風体を造り、声や物腰もそれらしく変え、老医師になりすましたうえでのことである。  後宮の一角には、娘の病に夜の目も寝やらず心痛する国舅緯駁が詰めていた。  緯駁は、荀育が会塀の山奥から連れ帰った医師妥矯を引見するや、その有徳の風貌に深くうたれ、すぐさま診察を乞うた。  荀育は室の入口に控え、薬嚢を携えた妥矯のみが御簾《みす》の内に入り、緯氏の容体を診た。妥矯が漏らす「ほう」という長息が、荀育の耳に届いたのは、いくらも経たないうちのことだった。 「これは俗に鰐皮と呼ばれる、乾癬《かんせん》の一種ですな」  女人のか細い声が答えた。 「始まりは銀貨ほどの痒疹でありましたのが、みるみるうちに背中を覆い、陛下の前にこのような醜い身体を晒すわけもいかず、ひたすらひき籠もっておりますうちに、ついに業病の態をなして参りました」  我知らず荀育の喉が鳴った。患っているとはいえ、鈴を転がすような美しい声に、傾国の美女との誉れ高い、御歳十九になる緯氏の麗容を想像したのである。 「まずはその気の病を払われることが肝心です。玉膚は必ずやこの妥矯が取り戻して差し上げましょうほどに」  妥矯は緯氏を慰めると、軟膏を塗り、薬湯を施した後、御簾を出て、隣室で待つ令尹緯駁に告げた。 「ご正室の病、はなはだ重く、癬勢の頑迷なること大です」  緯駁はそれをきいて色を失った。荀育もまた同様だった。 「しかるに、我が秘中の万能薬、虞良仁膏をもって、三日塗布し、一日休み、五日塗布し二日休み、七日塗布し、三日休むことを続ければ、薄皮を剥ぐごとく病は寛癒し、美肌も蘇りましょう」  ひとまず息をついた荀育が隣の大官を窺い見ると、緯駁は再び崇敬の面持ちで、老名医に拱手《きようしゆ》しているのであった。  その日からくる日もくる日も、妥矯は後宮の緯氏の部屋を訪《おとな》った。荀育もまた、文書府の仕事を中断しては、妥矯につき従った。  そこばくの不安が荀育の中にないとはいえない。仮にも妥矯が緯氏の治療に失敗したならば、妥矯を推薦した荀育は官職を追われて匹夫に落とされるか、悪くすれば、首を刎《は》ねられることもあろうかと思われた。  しかし、そうなればいっそう罪は重いはずの妥矯は、老爺の化装を解いてもなお飄々とした態のまま、荀育の家の離れで暇を楽しんでいるように見えた。  ついにしびれを切らした荀育は、ある夜、縁に出て悠然と月を眺めている妥矯に詰め寄った。 「妥矯先生。いったい、緯正夫人ご快癒の見込みはおありなのでしょうか。それがしが見るに、夫人の容体は依然はかばかしくなく、緯駁殿はそろそろ先生の技をお疑いのご様子。加えて、いまだ完成せざる虞良仁膏にいたしましても、先生は敢えて新薬の混合を試すこともせず、無為に日を送っておられるだけではないでしょうか」  妥矯が珍しく双眸に厳しい光をたたえて、荀育を顧みた。妥矯の奮起を促すには、もう一押しとばかり、荀育は口角泡を飛ばした。 「虞良仁膏の効なきまま、緯氏の平癒が叶わずば、妥矯先生とて無事で会塀には戻れますまい。不孝にも名医妥夏先生の名を辱《はずかし》め、そのうえ罪を被ることあらば、亡きお父上に何と申し開きなさるおつもりか」  荀育はいきり立ったが、妥矯はふいに眉を開くと、微笑んで言った。 「私はただ、その父の遺言通り、時満つるを待つばかりです」  妥矯は茫とした眼差しで再び満月を見上げた。その端正な横顔に気をそがれ、荀育は呆れかえって立ち尽くしていると、なんとも邪気のない声が降ってきた。 「ときに荀育殿、このような麗しい月夜には、古今の美女など語りつつ、杯を傾けたいものですが」  荀育は憮然として答えた。 「何分、妻を亡くして久しいものですから、一献の用意にも気が回りませんで」  小柄ながら頑健そうな荀育の身体を、妥矯は医者の眼でふと窺ったが、すぐにまた淡々とした顔つきに戻った。 「これは、ふつつかなことを申してしまいました」  そう言ったきり黙り込んだ妥矯を残し、荀育は沓音《くつおと》も高く立ち去った。  憤懣やるかたない荀育であったが、翌日の往診にはやはり従った。  いつものように御簾の内に消えた妥矯を待っていると、室の奥で犬の吠える声がした。緯夫人がかわいがっている狆《ちん》の醜郎の声である。  どうやら狆は夫人の寝台のあたりを駆け回っている様子であった。眉を寄せて聞き耳を立てていると、突然、「あっ」という男女二人の叫びが聞こえ、同時に、醜郎が簾の中から走り出して来た。  荀育はとっさに畜生の短い胴を掴み、狆を捕らえたのだが、醜郎が口にくわえている物に気づくと、同じように「あっ」と声を上げた。  それは、妥矯が狢の毛でこしらえた偽髭であった。  荀育は狆の口から髭をもぎ取ると、周章狼狽の態で奥を窺うが、御簾の内はしんと静まりかえり、こそとも音は漏れてこなかった。  人影はたしかにあった。寝台に横臥する佳人の影と、その傍らに立つ老爺の仮面を剥がれた者の影が。しかし、その二つの典麗な影は毫《ごう》も動こうとはせず、ただ荀育のみが冷えた胆をさすり、途方に暮れていた。  やがて、一つの影がものを言った。しわがれた擬声ではなく、若者の凜とした声であった。 「荀育、狆から狢は取り戻したか」 「はい」と答えた荀育に、再び声が言った。 「では、狢を卓に置き、栄陽門にて我を待て」  荀育は諾々と声に従った。豹変した妥矯の威厳に屈するや、自ら考える力を失ったのは、小吏の悲しさであろうか。  妥矯がもと通りにつけた狢の髭をなでながら、後宮の栄陽門に現れたのは、それから一刻後のことだった。  荀育の不安げな顔には一暼もくれず、鹿爪らしい表情のまま、老医師妥矯は都大路を徒歩で帰ってゆく。もっとも、その後ろ姿を眺めた者があれば、さて、老人にあるまじき意気軒昂さよと、怪しんだに違いない。  主従が都の西の外れにある茅屋に戻り着いたとき、日はすでに暮れかけていた。  二人の謀《たばか》り事が、夫人の口から令尹緯駁にどう伝わるかと、荀育はひたすら気を揉み続けるが、妥矯は相変わらずだんまりを決め込み、取りつく島とてなかった。  悶々として一夜を過ごした荀育は、朝になってみて驚いた。離れから薬研の音が聞こえてくるのである。  恐る恐る物陰から覗くと、寛衣にたすきがけをした妥矯が、盛大に広げた生薬類を計り、砕き、煎じ、練っている様子が目に入った。 「妥矯先生、ついに、虞良仁膏の粋を見出されましたか」  荀育は庭に走り出て、離れの軒下にひざまずいた。 「否、否」  妥矯は手を振るが、その声には若者らしい張りが溢れていた。 「緯夫人より絶大な信頼を受くるも、遺言にかこつけ、ただ座して待つのみであった己の愚昧が痛感されたのです」  その一言で、妥矯の化装を緯夫人が咎めなかったことを知り、荀育は安堵に胸を撫でおろした。  しかし、きびきびと調薬に励む妥矯の、それまでとは打って変わって熱心な姿を眺めるうちに、ふと別の疑念が荀育の心に芽生えるのであった。 「本日もお出掛けは、いつもの刻限でよろしいでしょうか」  荀育は遠回しに探りを入れてみたつもりである。 「しかり。供をよろしく頼みますよ」  明朗なその答えに、杞憂に過ぎなかったかと喜んだのも束の間、往診した緯氏の室の前で、荀育はまたもや妥矯によって煩悶させられた。 「荀育殿には、ここでお待ちください」と、妥矯は扉の内に荀育を入れようとはしなかったのである。しかも、悪びれることなく、こう言い置いた。 「今日は、ちと荒療治をいたしますゆえ、緯夫人のお声が上がるかと思いますが、ご心配なさらぬように。声を聞きつけた方々にも、そうお伝えあれ」  妥矯が病室に入ると間もなく、夫人のうめき声が漏れ聞こえてきた。その声のほのかに甘みを帯びるを知るや、荀育は生きた心地もしなかった。妥矯が天下の大罪を犯していることは、もはや明白である。  しかしながら、荀育がその一身を保たんとすれば、妥矯の暴挙を止めることも能《あた》わず、ただ張り番に徹するより他はなく、いよいよ罪を深くするばかりであった。 「どうしました。化け物にでも出くわしたように狼狽《うろた》えなさって」  室を出てきた偽老医師妥矯は、荀育の恐慌の色を見咎めて言った。 「これが取り乱さずにおられましょうか」  荀育は万感の恨みを込めて、妥矯を睨《ね》めつけた。 「無体なことをしでかして、何が緯夫人の信頼ですか。万が一これが余人の知るところとなれば、我々二人ともども、刻まれて肥壺に投げ込まれるは必至です」  顔を赤くした荀育は、拳を振り回して詰め寄るが、妥矯に動じる気配はなかった。 「荀育殿のご不安、私には解り兼ねます。不肖妥矯、医の本分を尽くしましたので、恥じるところはありません。緯正室の病は、時をおかず内の合谷《ごうこく》大腸経から快方へ向かい、虞良仁膏の仕上がりをもって、本復いたすことでしょう」  妥矯は白髭に隠れた青年の顔をほころばせた。玲瓏《れいろう》と輝く瞳に見つめられた荀育は、はて、これは己の不明が招いたあらぬ疑いであったかと、思わず考え直すのだった。      *  なにはともあれ、妥矯がついに粋の秘密を解き明かし、名医妥夏直伝の万能薬虞良仁膏が完成に至ったは間違いないところであった。  妥矯は荀育の家の奴婢を指図して、材料となる九料、七元、五媒、三触を集めにやらせると、庭先に据えた大鍋の湯をたぎらせて、神薬の最終的な調合に入ったのである。  丸一日かけて練り上げられた虞良仁膏は、その凄まじい色と臭いとで、荀育に怖気をふるわせた。黒褐色の泥土さながらの神薬は、脂のごとき照りを放ち、糞尿にも似た醜悪な臭いを発していた。 「なんとも奇怪な薬膏ではありますな。しかし、それだけに効き目もあらたかな霊薬という気がいたします。ところで、秘中の秘でありましょうから、軽々しく口にはできないとは存じますが、妥矯先生にはいったい如何して粋の秘事を物されましたか」  答える妥矯に驕慢さは見えなかった。 「思い返せば父の遺言通り、時至ると同時に、粋はおのずから私の前に現れて参りました。その自然なること、あたかも熟柿が落ち、我が掌に納まるごとくでありました。粋の本質とはつまり、生きとし生けるものの春秋の営みの本体を汲み取ることにあったのです」  妥矯のいう理が解せぬ荀育は、怪訝な目つきで医師を窺った。妥矯はそれ以上説くことをせず、話題を転じた。 「ところで、緯夫人が治癒なされたあかつきには、お沙汰もあろう褒賞のことなのですが」  荀育は褒賞と聞いて、我に返った。妥矯との係わりは、そもそも恩賞目当ての欲心が発端だったはずである。  しかしながら、妥夏の後継妥矯の未熟を知って以来、身から出た錆の災いを恐れ、一命を惜しむことばかり考えていた荀育は、褒賞のことなど遠く忘れ去っていたのであった。 「かねてより約された金品と官位に加え、荀育殿にはぜひ、美しい宮女を妻に賜れと、私から夫人に奏しておきました」  貧相とはいえ、まだまだ男盛りの身を荀育は乗り出した。早くも武骨な頬を赤黒く染めている。 「なんと、美姫三千人の苑王の後宮から、宮女が鼠輩《そはい》荀育のもとへ嫁すとおっしゃるか。いや、妥矯先生、先生のお心遣い、なんと感謝してよいやら」 「いえ、いえ、礼には及びません。荀育殿には久しく閨房の寂しさをかこっておられたであろうと、少しばかり差しでがましい真似をしたに過ぎません」  その後、荀育の身に立て続けに起こった出来事は、かの小官吏を舞上がらせるに十分であった。  まず、妥矯が予見した通り、緯夫人の病は日を経ずして根治した。夫人の玉膚を取り戻した霊薬虞良仁膏の名はいやが上にも高まり、医師妥矯とその推挙者荀育もまた衆目を集めた。  その妥矯であるが、頃合いをみて化装を解き、医術の確かさに似合わぬ歳の若さと、貴公子めいた秀麗な容姿とで、都人をいっそう驚かしたのであった。  さらに、苑王より拝謁を賜るに至っては、雲の上を歩む心地の荀育であった。寵妃の美身が蘇り、いたく満足した苑王は、荀育と妥矯を王宮に招いたのである。  おびただしい金品を下賜された帰り道、妥矯は荀育に言った。 「私はしばらくの間、都に留まり施薬所を営もうと考えております。荀育殿にも、ぜひご協力いただきたいものですが」  荀育は是も非もなく承知した。 「つきましては、荀育殿の地所をお借りして、建物なども新しく建てたく存じますが、よろしいでしょうか」  家はあばら家でも敷地だけは広いのだから、断る理由はなかった。 「施薬所を普請するついでに、母家のほうも新築なさってはいかがですか、新しく妻をお迎えになることではありますから、私に任せていただければ、すべて良いように取り計らいますが」  いまだ陶然として地に足がつかない荀育は、妻を迎える屋敷までとんと気が回らぬことでもあり、妥矯の申し出に喜んで応じた。  ところが、それから一月余り後、新築の母家を見て回った荀育は、空恐ろしさに背を強ばらせた。一言で言えば、屋敷は豪邸なのである。部屋数にして二十余、とりわけ寝間の数が多いことに仰天した。  采配した妥矯に問い質すと、これくらいでなければ奥様はご不満でしょうと答えて、澄ましている。  新居落成の日は、また、緯夫人の計らいで後宮から宮女が嫁してくる日でもあった。  門前の花嫁の輿《こし》を見て、新郎荀育は再び腰を抜かさんばかりに驚いた。輿の数は五つもあったからである。 「これはいったいどういうわけでしょう。輿が五つもありますが」  狼狽した荀育が問うと、妥矯は平然として応じた。 「私が緯夫人にお願いし、荀育殿の妻にと貰い受けた宮女は五人なのですよ」 「なんと、五人も。そんなに大勢は結構です。妻は一人で十分です」 「あなたには十分でも、虞良仁膏を製するためには、美女五人が必要なのです」  精悍な眼が荀育を正面から見据えていた。この頃では、端然とした中にも、男くさい表情を浮かべることが多い妥矯である。 「虞良仁膏の秘中の一種、粋とは、美女が大幹衝経《だいかんしようけい》への刺激をもって成年男子に放出せしめる液汁から取り出すのです。荀育殿には、その粋の素を提供され、もってこの妥矯の医術に協力いただかんと、こうしてご住居と施薬所を隣接して建てました。荀育殿と私の間柄を鑑みましても、よもや否は言われますまい」  荀育は「あわわわわ」とわけのわからない声を発しながら後ずさりした。  それでは、妻妾五美人というきらびやかな贈り物は、粋の素を産する家畜として己を飼わんとする、妥矯の深謀だったのか。荀育は鬼神の申し子でも見るように、青年医師を仰ぎ見た。  もとはといえば、栄達の手蔓《てづる》になさんと、年若い妥矯を利した荀育であったが、ここに至って、己の小智が大災を招いたことをようやく悟った。  目を白黒させる荀育に、妥矯の冷徹な言葉が追い打ちをかけた。 「今から考えるに、父妥夏は十一人の妻妾の助けをもって、自らの身体に鞭打って虞良仁膏の粋の素を産し続け、その結果、齢《よわい》四十三の若さで亡くなったのでしょう。荀育殿、私は父と同じ轍《てつ》を踏もうとは、ゆめ思ってはおりません」  今度こそ昏絶しようとする荀育の眼裏に、莞爾として笑う妥矯の白面《はくめん》が張りついた。   付記  その後の荀育の運命は伝えられていないが、時代ははるか下った西暦一九三〇年、ホルモン様の強力な生理活性を有する化学物質がヒトの精漿から見出され、スウェーデン人のフォン・オイラーによってプロスタグランジンと命名されたことを知ったならば、彼はいったいどのような感慨を抱いたであろうか。 [#改ページ]    梨 花 雪  大唐帝国建国の立役者にして第二代皇帝、太宗の正妻は長孫氏である。  長孫皇后はその聡明さと謙虚さから、当代一の賢婦人としてよく知られていた。礼法に通じて教養が高く、倹約を宗《むね》として万事に質素であった。臣下の諫言《かんげん》にはよく耳を傾け、自らの身内である外戚の専横を警戒した。また、『女則』という教訓書を著し、婦人の身の慎み方を説くこともした。惜しくも三十四歳の若さで世を去ると、太宗は地に打ち伏し慟哭して止まなかったという。  少女時代にこの長孫皇后の教えに接し、深い感銘を受けたのが、のちに蛮王の妃となる金鈴《きんれい》公主である。公主とは皇室の女、すなわち皇女をいう。太宗の姪にあたる金鈴は、皇后を範として婦徳の向上に努め、西戎《せいじゆう》の国に降嫁が決定すると、王妃たる身の生涯を異国の民の幸福に捧げることを、皇后の御霊に誓ったと言われている。  金鈴公主の輿《こし》入れ先は、崑崙《コンロン》山脈の南に広がる高地の新興国家であった。遊牧を生業とする国民は野卑で貧しく、昔ながらの蛮習に縛られていたが、皇女の感化により生活は次第に改められた。また夫たる蛮王の協力のもと、皇女は寺院を建立して仏教を広め、独自の文字と暦を完成させることにも貢献した。  金鈴公主がその死後も、高地の国の民の尊崇を受け、女神として祭られた所以である。      一  唐国人の李徳秀が、統一されて間もない高地の国を非公式に訪れたのは、凍土の下で牧草が芽ぶき始める貞観八年(六三四)の早春だった。帰国する朝貢使節に混じっての入国である。  十九歳の徳秀は、年齢の割りに老成したところのある若者だったが、学問に熱心なわけではなく、地道な宮仕えも性に合わなかった。そこで、もっぱら辺境の国々を旅行して回るという気儘な日々を送っていたが、それが許されるのは、末席に近いとはいえ、徳秀が皇室李家の一員だったからである。  青海湖へ至る直前まで西行し、巴顔喀拉《バヤンカラ》の峰々を仰ぎつつ南下に転じると、広大な平原を渡り切ったその先に、高地の国の都がある。都へ入った徳秀は、ひとまず国王へ謁見を願い出ようとして、思いがけず熱烈な歓迎を受けた。国王クワンツェン・ラムポは、李姓を持つというだけの無官の若者まで、実に手厚く遇したのだった。 「くる日もくる日も、羊の肉と麦の団子ばかりで恐縮であるが、我が国の宮廷料理とはこのようなものなのだ」  徳秀が高地の国の王宮に滞在して、十日ばかり過ぎた頃だった。晩餐の席で王が達者な漢語を操り、恥入るように言った。なるほど、食事といえば羊肉を銅鍋で煮たものか丸焼きである。それを銘々が腰の短剣で切り取り、手で食べるのだった。美食の国から来た徳秀にしてみれば、とても料理と呼べる代物ではなかったが、若者は陽気に答えた。 「いいえ、大変結構なものです。祖国ではこれほど野趣あふれる羊肉には到底ありつけません。また、肉の滋味をひきたてる貴国の酒も格別です」 「そう言っていただけるとありがたい。この酒は山羊の乳から造るのだ」  四十を幾つか過ぎた壮年の王は、角ばった顔を笑み崩した。中原の文明国に対する憧れを隠さない一方で、徳秀が高地の国の文物を褒めると、無邪気なまでの喜び方をする。  戦場では比類なき勇者であるといい、高地の国の覇者となってからは、内政にも辣腕をふるっていると聞くが、元来は素朴な人柄なのだろう。徳秀はラムポ王に年齢を越えた友情のようなものを感じていた。 「父上が料理の味を気になさるとは心外です」  唐突に響いたやや甲高い声は、同席していたジェンソン・ジェンツェン王子のものである。この年、十六歳になるという王子は、ラムポ王の一人息子であり、高地の国の後継者だった。亡き王妃が溺愛したことに加え、蛮夷の民らしからぬ眉目秀麗な容貌が災いして、臣下の間では軟弱さを危惧されているようだが、徳秀はむしろ王以上の激情家と見ていた。 「父上は王宮での安逸な暮らしを嫌い、一年中遠征に出ておられた。途中おおいに窮乏し、泥水をすすり腐肉を食らったことも、一度や二度ではないと聞いております。予がその味を忘れぬ限り国は安泰であるとおっしゃられ、贅沢を戒《いまし》めた父上が、宮廷料理とやらに興味を示されるとは」  息子の非難に太い眉を上げたラムポ王を、徳秀は客人の礼儀で押しとどめると、三歳年少の王子に向かって言った。 「もちろん、建国の苦労は忘れてよいものではありませんが、国の礎が固まった今、お父上が心を砕くべきは、近隣の国々──ことに唐国とのつきあいです。洗練された文化でもって、外交に臨みたいと考えるのは当然でしょう」  ジェンツェン王子は口をとがらせて横を向くが、ラムポ王は一度は怒りに染まった武骨な顔を徳秀に向け、幾度も頷いた。 「徳秀殿、よくぞ代弁してくださった。予が頭を悩ませておるのは、まさにその外交のことである」  徳秀は刈り整えた髭に手をやると、王の心中を想像した。国を統一したばかりの王が、大唐帝国の脅威を身に染みて感じていることは間違いない。四年前には、あれほど強大だった突厥《とつけつ》帝国が唐に攻めほろぼされている。高地の国を存続させるには、唐との友好は不可欠だったのである。  もっとも翻《ひるがえ》ってみれば、辺境諸国との対立は、唐国にとっても望ましいことではなかった。国境付近が安定を失えば、派遣する軍の費用だけでも莫大なものになるだろう。そこで、中原を支配した歴代の王朝は、蛮夷の民を懐柔するために、様々な方策を用いてきたのである。己も現王朝に連なる身であれば、祖国のためにその策の一つを試みる資格はあると、若い徳秀は考えた。 「王の願いはよく心得ております。我が唐帝国とのより深く長い交誼をお望みならば、皇女の降嫁を願い出られてはいかがでしょう」  ことさら鹿爪らしく進言する徳秀に、ラムポ王は我が意を得たりという顔をする。蛮王の率直さに若者は思わず微笑を漏らし、その口調もつい軽くなった。 「異国の首長の多くが皇室の娘を貰い受け、唐国との絆を強めていることはお聞き及びでしょう。皇女を娶《めと》ることは、辺境の覇権を大唐帝国の皇帝から認められることなのです。王もぜひ彼らにお倣《なら》いください」 「しかし、天可汗《てんかかん》陛下は皇女の降嫁を簡単にお許しになるだろうか。我が国の歴史は浅く、朝貢もこの度が最初であった」  天可汗とは数年前、四夷の首長が長安に集まった際、大唐帝国の皇帝に奉った尊称である。ラムポ王は皇帝を天可汗と呼び、最大限の敬意を表したのだった。  ところが、息子のジェンツェン王子は王の隣で荒々しく酒の杯を干し、大唐の権威がなにほどのものかと言いたげな素振りである。  ラムポ王は苦い顔をして王子を見たが、徳秀は微笑を消さなかった。その気概をむしろ好ましく思ったのである。とはいえ、臣下には厚く信頼され、民衆からは慕われている王が、息子一人に手を焼いている光景は意外だった。 「皇女をお望みならば、まず王の誠意をお示しになることです。求婚の使者は何度でもお寄越しください。及ばずながら私もお口添えいたしましょう」  王子の不遜な態度に対抗するように、徳秀はますます調子の良いことを言い、その徳秀をすっかり信用したらしいラムポ王は、早くも期待に輝く顔を李姓の若者に向けてきた。  一月近く高地の国の都に滞在した徳秀は、ラムポ王が手配した道案内とともに帰国した。|※[#「善+おおざと」、unicode912f]《ぜん》州に至るまでは険しい山道と乾いた砂漠とが交互に続き、苦労の多い旅である。ようやく長安に戻り着く頃には、大唐の都は盛夏を迎えていた。  辺境の旅から帰る度に、徳秀には必ず訪ねる場所があった。伯父にあたる江夏王の邸宅である。徳秀が訪問した日、伯父はたまたま不在だったが、若者は落胆することもなく、勝手知ったる屋敷の庭に出た。午後のこの時刻ならば、金鈴は散歩をしているだろうと考えたのである。  案の定、梨雪亭と呼ばれるあずまやの近くまで来たところ、背後から「お兄様、よくお戻りになられました」という無邪気な声が響いてきた。  徳秀が振り返ると、足元にまつわる紅色の裳裾──裙子《くんし》を片手でつまみ、首にかけた細長い羅の領巾《ひれ》をなびかせて、一目散に駆け寄ってくる少女の姿が目に入った。江夏王の一人娘で、今年十四歳になる従妹の金鈴である。 「なんでも、高地の国にいらしていたとか。まあ、すっかり日焼けなさって」  金鈴は徳秀の顔をしげしげと見上げたかと思うと、逞しい腕に囓りつきながら言った。死んだ徳秀の父と江夏王とが仲の良い兄弟だったため、二人も兄と妹のように親しかったのである。 「こら、こら、金鈴。おまえも、もう十四だ。いくら従兄とはいえ、男の前に気易く顔を見せたり、袖に取りついてふざけたりするものではないぞ」  徳秀は大人ぶって金鈴をたしなめるが、言葉とは裏腹に顔は笑っていた。 「あら、お兄様までそのように固苦しいことでは嫌ですわ。ただでさえこの頃は、結婚間近の娘の心得ですとか、お母様が窮屈なことばかりおっしゃるのですもの。先日は長孫皇后陛下のもとへ無理矢理連れていかれ、『女則』の講義も受けて参りましたのよ」  金鈴がすねたように言って梨雪亭に走り込んだので、徳秀もその後を追った。あずまやの傍らには梨の大木があり、枝いっぱいに茂った葉が、木漏れ日を青緑色に染めていた。春には咲きこぼれた花びらが、あたり一面を白雪さながらに覆い尽くしたはずである。 「金鈴、おまえに結婚話が出ているのか」  徳秀は困惑気味に尋ねるが、十四ならばそろそろ嫁入りの年齢である。もっとも当の金鈴は、真珠をあしらった歩揺を髪から抜くと、子供らしく弄《もてあそ》びながら答えるのだった。 「中書令殿のご長男は美男で秀才の名も高いとか、いやいや吏部尚書殿のご子息こそ、文武に優れて婿にふさわしいとか。お父様とお母様はそのようなご相談ばかりですの」 「なるほど。では、おまえの気持ちはどうなのだ。どちらかの男を夫にしたいのか」  遠慮のない従兄の問いかけに、金鈴は上気した頬を領巾の陰に隠して言った。 「そのようなこと、わかりませんわ。私は父母の命に従うだけですもの。『女則』の講義で、皇后陛下はそうお教えくださいました」  高地の国から国王自ら朝貢に訪れたという話を聞き、徳秀は勝業坊の自宅から宮城まで馬を走らせた。  季節は大路の槐《えんじゆ》並木がすっかり色づく秋である。徳秀が帰国してから、わずか数か月後のことだった。  厳粛な朝貢の儀式が終わり、麟徳殿で歓迎の酒宴が始まると、控えていた徳秀は宴席に招かれた。徳秀の亡き父は皇帝の異母兄だが、母の身分が低かったため、朝廷では影が薄かった。いきおい息子の徳秀も軽んじられたが、風来坊の甥が辺境をしばしば旅して歩くことを、皇帝は知っていたようである。 「ご健勝のご様子、なによりでございます」と、懐かしさを込めて挨拶する徳秀に、ラムポ王は豪快な身振りで返礼した。 「ここ大長安の都で徳秀殿に再びお目にかかれ、喜びもひとしおである。貴殿には、我が国の誠意をとくと御覧になっていただきたい」  徳秀が広間の一角を見やると、朝貢品の山が目に入った。色鮮やかな毛織物、貴石を彫刻した置物、雪豹の剥製、貂《てん》の毛皮、熊の肝の酒精漬けなどが無造作に積み上げられている。とはいえラムポ王の言う誠意とは、王自身の入朝に他ならない。  高地の国で交わした約束を顧みて、徳秀は今頃になって冷汗をかく思いをした。王はいずれ、皇女の降嫁を皇帝に願い出るだろう。そして、徳秀にはその仲介を期待するに違いない。ところが肝心の徳秀は、叔父である皇帝に対し、私見を奏する権限も機会も持ちあわせてはいないのである。 「徳秀お兄様ったら、客間に顔をお出しにもならず、今日はずいぶん大人しくていらっしゃるのね」  江夏王の屋敷を訪ねた徳秀が、梨雪亭で思案にふけっていると、金鈴が突然柱の陰から顔をのぞかせた。髪を垂髷《たれまげ》に結った従妹は、秋らしく桔梗《ききよう》の刺繍をあしらった披帛《ひはく》を羽織り、いつにも増して可憐な様子である。 「高地の国から蛮族の王様がいらしたと、お父様から伺いました」  金鈴は徳秀が座る露台の端に腰を下ろすと、屈託なく言った。 「なんでも、お兄様のご友人だとか」  徳秀は物憂い表情で、額に手を当てている。 「その王様は、阿修羅のように怖いお顔をなさっているのですってね」  他愛のない問いかけは、ふさぎ込んだ従兄を元気づけようという、金鈴らしい気配りだろう。そうと悟れば眉間の皺を緩め、徳秀は笑顔を見せるしかないのだった。 「確かに顔は恐ろしげだが、クワンツェン・ラムポ王は大変礼儀正しく穏やかなお方だ。皇女の降嫁を皇帝に願っているのだから、それも当然ではあるが」 「まあ、皇女の降嫁をですか」と、自らも皇女の身分であり、金鈴公主と呼ばれる少女が甲高い声をあげた。  徳秀とは違い金鈴の祖母と母は、ともに名家の出身である。したがって、皇帝の姪として、有力な皇女として、金鈴は大切にかしずかれている身だった。 「ところが、陛下は皇女の輿入れをがんとしてお許しにならないのだ」  皇帝の返答に落胆するラムポ王の姿を思い出し、徳秀はため息をついた。弱輩なりに徳秀も手を尽くし、皇帝に再三謁見を願い出ては、懸命に皇女の降嫁を上奏した。しかし、ついに良い返事は得られずじまいだったのである。 「皇帝はこのようにおっしゃるのだ──かの高地の国は、冬は厚い氷に閉ざされ、夏は照りつける日に焼かれる。荒涼とした大平原には、夜ごと猛獣がうろつき、国境に聳える険しい山々では、猛禽が屍肉をあさっている。遊牧を生業とする国民は、男も女も無知で醜く、潰瘍病みの老人と大勢の飢えた子供と、痩せた山羊の群れを連れ、草地から草地へ渡り歩く。地面に一本の柱を立て布を張ったものを家と称し、筵《むしろ》に並べた生肉を手づかみで食べているとも言うではないか。そのように野蛮な国へ、可愛い皇女をやるのはしのびない、と」  遠く蛮夷の国の有様を聞き、金鈴は円《つぶ》らな瞳をいっそう丸くした。無理もないことである。深窓で育った大国の皇女には、想像もつかない光景であるに違いなかった。      二  高地の国の覇王クワンツェン・ラムポ王に皇女を賜るとの皇帝の意向を知らされ、東突厥から帰国した李徳秀は、飛び上がらんばかりに驚いた。  貞観律令が公布された翌年、貞観十二年の晩春のことである。王自身が求婚のために入朝してから、すでに四年の歳月が過ぎていた。  その四年間というもの、徳秀はラムポ王と交わした約束に対して、まずは忠実であり続けた。高地の国へ皇室の女を送り込む効用を皇帝に説き、皇女の降嫁を一貫して主張してきたが、その願いがついに叶ったのである。  ところが、皇帝の言を耳にするや、徳秀の心に真っ先に浮かんだ思いは、「なぜ、今なのか」ということと、「本当ならば、困ったことになった」というものだった。  四年前とは違い、朝廷における徳秀の立場には大きな変化があった。相変わらず無官の身であり、本人もそれで満足していたが、気の置けない親族として皇帝のそば近くに侍ることが多くなったのである。ラムポ王入朝の際、辺境諸国に関する徳秀の事情通ぶりが、皇帝の関心をひいたことが発端だった。  非公式な使者として異国へ赴くことも多く、あれは皇帝直属の隠密なのだと、まことしやかに囁く者もあったが、当たらずとも遠からずといったところである。  その徳秀の進言に、皇帝が早晩心を動かしても不思議はなかったが、当の徳秀は「困った」と感じたのだった。 「突然の降嫁の許可、不思議に思っているようだな」  皇帝の問いに、徳秀は「はい」と率直に返事をした。 「つまり、こういうことだ。朕は高地の国に対する認識を改めたのだ」  皇帝は思わせぶりに言うと、玉座からわずかに身を乗り出した。 「先頃、国境付近で高地の国の民が大挙して乱暴を働き、我が国が軍を派遣して収めたことがあったが、高地の国の王はその陳謝のために王子を寄越してきた」 「王子をでございますか。すると、私が不在の間、ジェンソン・ジェンツェン王子が入朝してきたのでしょうか」 「そのとおりだ」という答えに、徳秀はめまぐるしく考えを巡らせたが、不審は募ってゆくばかりである。四年前の印象では、王子は決して大唐帝国に好意を持っていなかった。その王子が使者に立ち、果たして皇帝の寛恕《かんじよ》を乞うことができたのだろうか。 「なに、実際に雄弁をふるったのは副使であった。王子のほうは、教えられた口上を棒読みするのみだ。不本意な役目と言わんばかりであった。ところがだ──」  皇帝の声が途端にくだけると、口元に含み笑いが浮かんだ。 「歓迎の宴には選りすぐりの宮女を侍らせ、舞など舞わせてみたところ、王子はたちまち頬を染め、瞳を輝かせるではないか。いやはや若いということは良いことだ」  徳秀は二十になっているはずの、ジェンツェン王子の姿を想像した。かつてはやや柔弱だった少年も、今ではすっかり逞しい若者に成長していることだろう。  日ごろ同族の女からちやほやされていようとも、都長安の女は特別である。領巾《ひれ》の陰から目配せする唐国きっての美女たちに、辺境の国からやって来た若い王子が、たちまちのぼせあがったとしても不思議はない。 「ラムポ王は勇者ではあるが無謀者ではない。現在の高地の国に、我が国を侵そうという野心はない。だが、かの国の後継が、あのジェンツェン王子ならば話は違ってくる。王子は反唐の情を胸の内に秘めておろう」  徳秀は緊張のあまり喉を鳴らしたが、高地の国をジェンツェン王子が受け継ぐのは、まだ当分先のことだとも思っている。 「ところが、その硬骨漢の王子は唐国の美女に弱いときた。順序というものがあるので、皇女はまず父親のラムポ王に輿入れさせるが、いずれは王子にも器量の良い皇女を与えよう。それであの若者を骨抜きにできるのならば、安い代償ではないか」  そういうことであったかと、徳秀は納得するしかなかった。ただし、「安い代償」である皇女の身を思うと胸が痛む。 「ラムポ王にはすでに使者を送り、皇女が降嫁する旨を伝えた。徳秀、おまえには婚礼の采配役としてせいぜい働いてもらうことになるぞ」  深々と頭を下げて跪拝《きはい》しながら、徳秀はほとんど恐怖に近い思いを抱いていた。皇帝の突然の変心はもっともなことであり、再度の変心はあり得ないと悟ったのである。  皇帝の私室を出た途端、若者は悄然と肩を落とし、適齢期にある皇女たちの名を思い浮かべつつ、何度も指を追ってその数を数えたのだった。  徳秀が重い腰を上げ、永興坊にある伯父の屋敷に足を向けたのは、皇帝の引見を賜ってから三日目のことだった。家人に挨拶をすると、金鈴が梨雪亭で待っていると告げられて、面映ゆいような苦いような気持ちを味わった。  この日は寒食節の日だった。焼死した晋の文公の忠臣、介子推を悼み、冷たい物のみを食べる日である。春も極まった都には、桃、海棠《かいどう》、薔薇、木蘭といった花々が咲き乱れ、野外の遊びが楽しい季節でもあった。  徳秀は毎年寒食節になると江夏王の屋敷を訪ね、梨雪亭の名の由来となった梨の大木に鞦韆《ぶらんこ》を吊るしてやり、鞦韆に乗った金鈴の背を押すことが習慣になっていた。去年とその前の年は、旅に出ていて鞦韆遊びはできなかったが、今年は徳秀が都に帰っていることを知り、金鈴は従兄を待っていたのだろう。 「徳秀お兄様ったら、いったいどこで油を売っていらしたの。朝からずっとお待ちしておりましたのに」  満開の梨花の下に佇む金鈴は、萌葱《もえぎ》色の裙子の裾を誘うように翻していた。鞦韆は下僕にでも吊るさせたのだろうか、はや春風に揺れている。  十八の娘盛りの金鈴には、清楚であり華やかでもある梨花の美しさと、どこか通じるものがあった。徳秀は思わず見惚れて立ち止まったが、たちまち我に返ると、再び胸の内の重苦しさに苛《さいな》まれた。大唐帝国と高地の国との縁組みが順調に進めば、西戎の国へ嫁ぐことになるのは、目の前の従妹にまず間違いはないからである。  徳秀が都を留守にする直前、唐国は複数の蛮国から朝貢使節を受け入れた。いずれも油断のならない国々であり、朝廷は彼らを慰撫するために、皇女の降嫁を次々と約束した。  またちょうど同じ頃、若い皇女が数人、相ついで臣下に輿入れした。その結果、現在の皇室には婚期にある皇女が激減し、今や金鈴が未婚の皇女の最年長者となってしまったのである。  皇帝の意向を知った徳秀が、顔の色を青ざめさせたのは、このような事情からだった。 「さあさ、お兄様、いつものように背を押してくださいな。百回揺れたら代わって差し上げますわ」  はしゃぐ金鈴から目を逸らした徳秀は、憮然として腕を組んだ。 「おまえの両親にもあきれたものだ。いい年をした娘が鞦韆遊びに夢中だというのに、叱ろうともしないとは」  たちまち表情を曇らせた金鈴に、徳秀は口中に酸を感じるほど後悔した。しかし、従妹はすぐにまた笑顔を取り戻すと、舞い散る梨花をおっとりと見上げるのだった。 「父も母も、最近では何でも好きなようにさせてくださいますのよ。おそらく、私を不憫に思ってくださるのでしょう」 「不憫」という言葉の響きに、徳秀は胸をつかれる思いがした。  結婚運のない皇女──それが、金鈴につきまとう風評だった。美しい皇女だけに、これまで幾多の名家が求婚してきたが、いずれの場合も納采《のうさい》の準備が整う前に、婿側に何らかの不都合が生じ、婚礼がとりやめになっていたのである。 「そのように、悲しげなお顔はなさらないで、徳秀お兄様。縁談がなかなかまとまらないのは、私の婦徳が足りないせいだと、この頃ようやくわかって参りましたの」  鞦韆に腰を乗せた金鈴は、両手で綱を握りしめ、自分で小さく揺らし始めていた。  かつて金鈴の婿候補であった男のうち、中書令の長男は平康坊の妓女に誘惑されて出奔し、吏部尚書の息子はいかさま賭博に入れあげて全財産をすっていた。二人とも到底金鈴にふさわしい婿ではないと判断した徳秀が、裏で密かに手を回し、そのように仕向けたのだった。  良かれと思ってしたことだが、これが逆運を呼び込んでしまったのか、金鈴はその後も良縁に恵まれなかった。 「今日のことも、そうですわ。男の方と鞦韆で子供のように遊ぶなど、はしたないことだとわかっていながら、徳秀お兄様が都にいらっしゃるならばきっと来てくださるはずと、いそいそと待っておりましたの。いけないことでしたわ……」  金鈴は鞦韆の揺れを止めると、梨花よりも白い顔を伏せた。 「私、これでも毎日少しずつ『女則』を勉強しておりますのよ。難しくて理解できないときは、長孫皇后陛下の優しかったお顔を思い出してみますの。そうすれば、陛下の魂が私の身に寄り添ってこられ、そのお声まで聞こえてくるような気がいたします。わからないところも、なんとなくわかったような気になるのです。──思えば皇后陛下がお亡くなりになったのは四年前、私に『女則』の講義を授けてくださった直後のことでした。未熟な私が、今もお心にかかっていらっしゃるのでしょう」  金鈴は元来さほど学問好きではないことを徳秀は知っている。にもかかわらず、『女則』を読んでいるというのだから、やはり婦徳を高めれば、縁談がうまくゆくと信じているに違いなかった。  しかしその金鈴も、決して蛮王との結婚を望んでいるわけではないだろう。徳秀もまた、金鈴を遠く蛮夷の国へ輿入れさせるくらいなら、どこぞの貴族の馬鹿息子にでも嫁いでくれたほうがましだったと歯噛みをするが、もはや後の祭りである。  徳秀の苦悩を嘲笑うように、目の前で鞦韆が再び小さく揺れ始めた。梨の大木は白い花弁を、いよいよ吹雪のごとく降りしきらせる。  若者はふらふらと足を踏み出すと、従妹の後ろに回ってその背を押した。金鈴は振り向いて目を見開くが、やめて欲しいとは言わなかった。  徳秀の手に怒りにも似た力がこもり、鞦韆がますます宙高く舞い上がると、遠慮がちだった金鈴が笑い声を響かせる。そして、ついには『女則』の教えも忘れたかのように、無邪気な喚声をいつまでも上げ続けるのだった。      三  高地の国の都を目指し、四月に長安を旅立った李徳秀は、※[#「善+おおざと」、unicode912f]州から瑪多《マドイ》に至る難所にさしかかっていた。黄河の源があると言われるあたりだが、赤茶けた広大な大地が強風に吹き晒され、砂塵を巻き上げている風景には、下流の肥沃さを想像させるものは何もない。  徳秀が高地の国を訪れるのは、これが二度目である。前回は私人として入国したが、今回は大唐帝国の皇帝の使者としての公式な訪問である。  総勢十五人の一行は、五頭の駱駝《らくだ》と、十頭の驢馬《ろば》、そして二十頭の馬を引き連れていたが、※[#「善+おおざと」、unicode912f]州を出てからすでにその半数を失っていた。高地の厳しい気象に耐えられなかったのである。随員たちも多くが体調の不良に苦しんでいた。  それでも気温の上がる昼間は気分も高揚したが、辛いのは夜だった。初夏だというのに、雹《ひよう》や雪が降るかと思えば、獣の咆哮が地を震わせることもあった。道沿いに集落を見つけられず、やむをえず野宿となった日の寒さと恐ろしさは格別である。一行は貴賤の別なく焚き火の周りに身を寄せ合い、ことさら卑猥な噂話などして、ひたすら夜明けを待つしかないのだった。 「都一の漁色家といえば、なんといっても殿中侍御史の陳厳殿だろう。年増あしらいならば天下一品ときているので、別宅のある宣陽坊あたりでは寝取られ亭主がごろごろいるという話も、あながちでたらめとは言えぬ」  副使の男が言うと、学者あがりの通辞役が口を挟んだ。 「いや、いや、親の監視が厳しい若い娘をなびかせるのでなければ、真の女たらしとは言えますまい。となれば太子舎人の趙懐正殿こそ、都一の好き者と言えましょう。手八丁口八丁の懐正殿にころりと参った女は、上は宰相の箱入り娘から下は酒楼の妓女まで、手を繋いで並ばせれば、都の城壁を一周できる数だとか」 「では、正使殿に判定を願いたいところだが──さてはご自分こそが、長安一の色男とおっしゃいますかな」  副使の言葉に、全員が一斉に徳秀を見た。徳秀も十代の頃は無頼を気取り、遊郭には足しげく通ったものだった。最近では遊女たちと派手な乱痴気騒ぎを演じ、妓楼の主人がたしなめにきたことも一度や二度ではなかった。同行者たちはその噂を知って、威勢のよい艶笑譚の一つも聞きたかったに違いない。  ところが問われた徳秀は、無言のまま眉をしかめただけだった。  考えてみれば、徳秀が派手な女遊びをするのは、皇女が蛮国へ嫁いでいった直後と決まっていた。辺境の事情に詳しい徳秀は、花嫁の付き添い役として幾度も蛮国へ赴いたが、都から遠ざかる輿の中で、皇女が密かに涙を流すことに気づいていた。役目を終えて長安に帰るなり、妓楼で馬鹿騒ぎせずにいられないのは、意に染まない結婚を強いられた皇女の怨念のせいだったかと、徳秀はふいに憂鬱な気分に襲われたのである。 「そういえば、この高地の国の王子、蛮夷の育ちにも似合わず、なかなかの優男だと聞きましたが──」  無愛想な徳秀に代わり、再び通辞が口を開いた。 「私は宮城で偶然姿をお見かけしましたが、たいそうな美男子でいらっしゃいました」  副使の従者が嬉しげに話に割り込んでくると、その主人がすかさず応じた。 「それでは輿入れなさる皇女殿と良い仲になったりはせぬか、気が揉めることだな」 「なに、それもいっこうに構わぬでしょう。西戎の国では父親が死ぬと、生母以外の妻は息子が受け継ぐと申します。相続が数年早まったと思えばよいのです」  通辞の下世話な口調に、一同は声を上げて笑い合った。幾分機嫌を直した徳秀も、わずかに口の端を持ち上げた。可愛い従妹の金鈴と美男の王子の間には、もはや何の関わりもないと承知していればこそである。 「すると、わが高地の国が賜る皇女は、安善公主殿とおっしゃるのか」  正規の外交使節らしく型通りの挨拶を交わした後、ラムポ王は徳秀を私室に招き、二人は四年ぶりに親しく話をした。その席で王は輿入れする皇女の名を、初めて徳秀から聞かされたのだった。花嫁が皇帝の娘分でありさえすれば、名前はもとより年齢も容姿も不問の縁組である。 「桃花のごとく可憐な安善公主は、信仰心も厚く大変利発なお方です」  徳秀がいわゆる仲人口で、王の未来の花嫁を褒めそやすと、結婚の許可に舞い上がっているラムポ王は、満面に皺を刻んで喜びを表すのだった。 「とはいえ、そのように美しい皇女を我が国にお迎えできるのが、まだ数年先であるとは、なんとも待ち遠しいことだ」  一転して顔を曇らせたラムポ王に、徳秀はことさら厳しい眼差しを向けると、先刻述べたばかりの口上を繰り返した。 「皇女を妻に迎えるにあたって、皇女を住まわせるにふさわしい壮麗な宮殿を造営すべしとは、大唐帝国の皇帝が婚姻に当たって貴国に求める絶対の条件なのです」 「わかっておる。徳秀殿よ、よくわかっておる」  王は顎髭をひと撫ですると、徳秀に向かって何度も頷いた。なるほど大変な条件ではあったが、先の支配者から受け継いだ高地の国の王宮は、あちこちが古びて崩れ落ち、皇女が心穏やかに暮らせるような建物ではなかったことも確かである。 「幸い、宮殿の造営計画は以前からあったのだ。場所も都の中心にあるトルポリの丘と決めてある。天可汗陛下の要請は着工を早める契機となり、むしろ喜んでおるところだ」  徳秀が言葉を尽くして説得するまでもなく、ラムポ王の心はすでに固まっていた。巨費を投じ宮殿を新築してまでも、唐国の皇女は賜る価値があると、王は考えているのだろう。  天竺犀《てんじくさい》のように醜いが、羚羊《かもしか》のように精悍な王の姿を見やりながら、徳秀は宮殿造営を降嫁の条件にするよう、皇帝に進言したときの会話を思い出していた。 「十八歳の金鈴がおるというのに、徳秀、おまえはなぜ年少の安善を推挙するのだ」  そう言って訝《いぶか》しがる皇帝に、徳秀は熱を込めて上奏した。 「金鈴公主にはなにやら不思議な霊力があるようでございます。都に留め置かれますならば、陛下のお心の慰めにもなるかと存じます」  長孫皇后に深く傾倒する金鈴は、亡き皇后の魂を身近に感じ、その声までも聞くと、徳秀は説明した。皇帝が徳秀の言を頭から信じたはずはなかったが、金鈴を都に留めることには興味を持ったようだった。長孫皇后への思慕の強さもさることながら、金鈴公主の類まれな美貌についても、皇帝は聞き知っていたらしい。  とはいえ、やはり安善公主を不憫がる気持ちはうかがえた。 「しかし、安善はまだ十二歳だ。辺境の国へやるには、少々憐れではないか」 「どうか、ご心配なく。私に考えがございます」  こうして徳秀は高地の国に課すべき条件を提案し、皇帝の了解を賜ったのだった。  従妹の身代わりとして、幼い少女を立てたことに後ろめたさはない。もしも胸が疼くようならば、妓楼で馬鹿騒ぎをすれば済むことである。  雪が長安の都をすっかり埋め尽くした年末の朝だった。徳秀は数か月ぶりに自宅に戻っていたが、雪明かりのため朝寝をする気になれず、起き出して身支度を始めた。  貞観十四年のこの年は、大唐帝国にとっても徳秀にとっても、慌ただしい一年となった。砂漠の高昌国が帝国に反旗を翻し、激怒した皇帝は大軍をさし向けて、ついにこれを攻め滅ぼしたのである。  高昌国は大唐帝国の版図に組み入れられ、安西都護府が置かれることになったが、新領土の経営が軌道に乗るまで、徳秀は「伊吾の道」と呼ばれる砂漠の道を何度も往復し、皇帝の目と耳の代わりを務めたのだった。 「お兄様、梨雪亭は凍りつくほどの寒さですわ。雪見ならば客間のほうからどうぞ」  結局、いつものように伯父の屋敷に出掛けた徳秀は、金鈴の暖かい出迎えを受けた。言われたように客間に入り、連子窓越しに雪の庭を見ていると、金鈴が盆を捧げ持ってきた。 「雪見酒をご用意いたしましたわ。重陽節に仕込んだばかりの新酒が届きましたので、お燗をして参りましたのよ」  二十となった今も両親と暮らす金鈴だが、面と向かって会うのは久々である。髪を高髻《たかまげ》に結い、藤色の裙子を着けた従妹は、美貌にもますます磨きがかかり、徳秀はうら寂しい冬景色ではなく、仲春の花圃《かほ》を眺めている気分になった。 「今年の重陽節の日は、大変楽しゅうございましたわ。楽遊原の丘に上り、菊酒をいただきましたの。隣の天幕には、安善様がご一家でいらしたので、少しばかりお話しいたしました。あの方、近々、高地の国へお輿入れなさるのですってね」  杯を口元に持っていこうとした手を止め、徳秀は低く「そうだ」と答えた。 「皇帝陛下のご命令とはいえ、まだまだお若い安善様が、蛮国へ嫁がれるのはなにやら可哀相な気がいたしましたわ」  金鈴が心から同情したように眉をひそめるので、徳秀は間の悪い思いをしながら言い繕わなければならなかった。 「陛下は安善殿に、蛮国の王を慰撫するという崇高な使命を託されたのだ。皇室の女のみが果たせる大切な役目だ。それを可哀相などと言うものではないぞ」  金鈴は浅慮を恥じるように顔を赤らめていたが、やがて「夫となる蛮族の王様とお心を通わせられるのでしたら、お役目も楽しいことでしょう」と、ぽつりと漏らした。  かすかに妬ましげなその口調に、徳秀は内心狼狽した。陽気に振る舞ってはいても、不運な巡り合わせが続き、いまだに嫁ぎ先が決まっていない自分に、金鈴は引け目を感じているに違いない。 「ところで、雪の日だというのに、朝っぱらから傍迷惑な客が来ているようだが」  なんとか話題を変えようとして、徳秀はかまを掛けてみた。先刻、屋敷の門をくぐったとき、雪の上に新しい足跡を見つけていたのである。 「あら、お兄様ったら、ご自分のことは棚に上げて」  金鈴が再び明るい笑顔を見せた。別段強がっているふうでもないのが幸いである。 「俺は構わないのだ。この家では、俺は家族同然なのだから」 「そうでございますか。では、お客様用のお酒はお下げいたします」  軽口を叩くなり、金鈴は酒の載った盆を下げようとした。その後を追って立ち上がった徳秀は、帰りかけた客の顔を御簾の外に垣間見た。 「あれは、太子舎人の趙懐正ではないか」  趙懐正は都きっての漁色家として知られ、前回徳秀が高地の国を訪れた際には、同行者たちの話題にも上った男である。 「ええ、あの方は皇太子殿下のお使いで、お父様のもとへしょっちゅういらっしゃいますの。ときには漢王殿や兵部尚書殿とご一緒されることもございます」  金鈴の言葉には屈託のかけらもなかったが、徳秀は雪見酒どころではなくなった。人のよい伯父の江夏王が、皇太子だけでなくその側近と言われる漢王や兵部尚書とも交際していると知れば、妙な胸騒ぎを覚えずにはいられない。  皇帝は近年、聡明な次男の魏王を偏愛し、長男である皇太子を疎んじる気配があった。魏王が太子に立てられるとの噂まで囁かれ、皇帝と皇太子との確執は深まる一方だったのである。      四  茫漠と広がる大草原のただ中に、李徳秀はのんびりと馬を進めていた。その傍らで、やはり悠然と手綱を取っているのが、クワンツェン・ラムポ王である。初夏の碧空を慕った二人は都を離れ、遠乗りに出ているのだった。  徳秀が三度高地の国を訪れたこの年は、貞観十五年である。前回の訪問が貞観十二年であったので、ラムポ王とは三年ぶりの再会となる。  若者がはるばる長安からやって来た目的は三つあった。一つは、王が約束した新宮殿の工事を検分するためである。もう一つは、この夏の落成が確実ならば、朝廷へ使いを送って花嫁の出立を促すこと、最後の一つは、険しい山道を越えてきた皇女を出迎え、高地の国の王との婚礼を執り行うことだった。  最初の二つの任務は、滞りなく終わっていた。案内された完成間近の宮殿は、赤色と白色を基調とした壮麗な外観を誇り、長安の大明宮にも匹敵する規模で、トルポリの丘にそびえ立っていたのである。  内装もまた、目を奪う豪華さだった。梁や柱には金箔があしらわれ、扉には貴石が象眼されていた。長大な回廊の壁には色鮮やかな壁画が描かれ、広間の床に敷かれた厚い緞通《だんつう》は、手のひらほどの大きさで人一人を一年間養うことができた。  徳秀は心から満足すると皇帝に使者を送り、降嫁の条件は完全に満たされていると報告した。 「あとは花嫁の到着を待つばかり。年甲斐もなく予の気はそぞろだ」  小さな湖のほとりまで来ると、ラムポ王が徳秀に声をかけた。平原では絶えず強風が吹きすさんでいるが、時折それがはたと止む瞬間がある。そのようなとき、翠玉の色をたたえた湖は、水面に高山の峰々を映し出し、高地の国ならではの静謐な美を見せるのだった。 「先王妃──ジェンソン・ジェンツェン王子の母君を娶られた、若き日の興奮が蘇ったかのようでしょうか」  徳秀が笑いながら言うと、王は湖水から遥か遠方の切り立った山肌へと視線を移した。 「たしかに、あれが輿入れしてきた日も、この胸は高鳴っておった。初心《うぶ》であった予は、まだ見ぬ妃の姿をあれこれ思い描き、はち切れんばかりの期待を膨らませておった」  王は言葉を切ると、徳秀が初めて目にする苦い笑みを口元に浮かべた。 「予の妃は想像以上に美しい女であった。しかし、妻となってからは二度と予を昂《たかぶ》らせてはくれなんだ。胸の内に熱情を隠し持っておったが、予に向けられることはなかった。王子が生まれてからは、妃の愛情はもっぱら王子に注がれたのだ」  それは徳秀が初めて耳にする亡き王妃の思い出話だった。と同時に、ラムポ王とジェンツェン王子の気質の隔たりと、ときに反唐感情として現れる王子の父王への反発を、一気に納得させる説明ともなっていた。  王の告白はまた、徳秀に皮肉な感慨をもたらした。亡き王妃が妻でなければ、いかに勇者クワンツェン・ラムポ王といえども、高地の国の統一を成し得たかと考えたのである。王妃との仲が冷めていたからこそ、長期にわたって王宮を留守にし、戦《いくさ》につぐ戦の生活をおくることを、王は厭わなかったのではないだろうか──。 「なにはともあれ、王子の容貌は、美しかったという母君を彷彿とさせるものでしょう」  しばらく沈黙した後、徳秀は冗談めかして言った。前回高地の国を訪れたとき、王子は天竺を旅行中で会えずじまいだったが、今回は七年ぶりに顔を合わせていたのである。  二十三歳となった王子は、少年の頃の繊細な面影を残しながら、目を見張るような美丈夫に成長していた。しかも母譲りなのだろうか、徳秀は王子の瞳の奥に蒼い激情の炎を見る思いだった。 「あれのことを美男だと持ち上げる者もおる」  ラムポ王が角ばった顎を撫でながら言った。苦い表情はいつしか消え、普段の洒脱さが戻ってきたので、徳秀も安心して同調した。 「高地の国、いや、大唐帝国でも指折りの好男子といえましょう」 「すると、王子は貴国の美女の心をも掴めると、徳秀殿はそうおっしゃられるか」  徳秀が首肯すると、四十八歳になる壮年の王は、途端に悪戯小僧めいた顔つきになり、大きな笑い声を立て始めた。そして、その豪快な笑いは、徳秀が怪訝に思い始めるまで止まなかったのである。  新宮殿の正門前で、徳秀は翻る無数の旗とともに皇女の到着を待っていた。先達の者によると、二か月に及ぶ長旅を終えた花嫁の行列は、もう間もなく姿を現すはずである。 「物見台で銅鑼《どら》が打ち鳴らされた。一行が都城の門を抜けたようだ」  ラムポ王はそう言って、ジェンツェン王子と徳秀にそれぞれ頷きかけた。  徳秀の傍らに立つ王子は、いつにも増して惚れ惚れとするような美男ぶりだった。赤褐色の短衣に青色の太い帯を締め、右肩には五色の糸を織った鮮やかな布を羽織っていた。羊皮の長靴にも五色の糸の縫い取りがあり、腕と首には土耳古《トルコ》石をあしらった銀製の太い輪を幾重にも巻きつけている。  徳秀は「いよいよですな」と隣の王子に話しかけるが、王子は無言のまま正面に伸びる大路を見据えていた。無愛想なところは少年の頃のままだが、今日のところは大目に見ようと、徳秀は珍しく鷹揚に考えるのだった。  輿入れの行列は皇帝が付けた従者二百人と、高地の国から派遣された護衛の武人二百人から成っている。総勢四百人の供に守られながら、花嫁の豪華な輿は、宮殿の前庭に入ってきた。  介添え役は、先の礼部侍郎を務めた老官吏だった。老人はラムポ王に跪拝すると、いかめしい口上を長々と述べ立てた。  歓迎の儀式は滞りなく進んだが、婚礼の使節の中に思いがけない顔を見つけた徳秀は、眉をひそめずにはいられなかった。かの好色漢の太子舎人、趙懐正が一行に混じっていたのである。花嫁の輿の後方に侍立する懐正は、やに下がった表情を今日ばかりは引き締めていた。  突然、廷臣たちのざわめきが大きくなり、満面に喜色をたたえたラムポ王が、ゆっくりと一同を見回した。いよいよ、皇女が輿の内からお出ましになるのである。  輿を覆った帷幕《いばく》が引かれ、侍女に手を取られた花嫁が、自分のために造営された新宮殿に降り立った。高く結い上げた髪に真珠の飾りを揺らし、豪奢な刺繍を施した真紅の裳裾を引き、やはり真紅の領巾をあしらった艶姿《あですがた》である。  羅で覆われた花容こそ窺うことができなかったが、話に聞く以上に美しい皇女であろうと、蛮夷の廷臣たちはみな興奮して囁き合った。もちろん、ラムポ王とジェンツェン王子の二人もまた、日焼けした顔を褐色に火照らせて、一心に花嫁を見つめている。  徳秀も目を見張ったが、皇女が歩き出した途端、膝が崩れるような不安に襲われた。  ──安善公主は、あのように豊かな胸をしていただろうか。  ──腕や首筋は、あれほど白かっただろうか。  徳秀が安善公主の姿を見たのは、皇女が十二歳の頃である。醜い少女ではなかったが、三年のうちにこれほど美しく成長するとは信じられなかった。なにより眼前を歩む皇女は、とても十五歳とは思えなかったのである。しっとりと落ち着いた物腰は、どう見ても成熟した女のものだった。  まさか皇帝は身代わりの娘を寄越したのではなかろうかと、徳秀が疑い始めたところに介添え役の老官吏の声が響いた。 「こちらが、貴国にお輿入れなさる公主の金鈴様でございます」  婚礼の儀式は、翌日から始まって二十日ほど続くということだったが、皇女到着の当日にも、盛大な歓迎の酒宴が催された。  会場は新宮殿の豪華な大広間だった。運ばれてくる料理はかつてのように羊肉だけではなく、手づかみの必要もなかった。奏でられる音楽も、妓女たちの舞も、数年前に比べると格段に垢抜けていた。おそらく、この日のために王が長安へ人を派遣し、学ばせてきたのだろう。  皇女に随行してきた唐国人たちは、みな楽しげに酒をくみ交わしていたが、その中にただ一人、険しい目つきで黙々と杯を重ねる若者の姿があった。言うまでもなく李徳秀である。  皇女の名を「金鈴」と聞かされたラムポ王は、当然ながら不審を覚え、介添え役の元礼部侍郎に問いただしたところ、老官吏は悪びれることなく事情を説明した。降嫁が予定されていた安善公主が、出立の三日前になって突然熱病を発し、翌朝には息を引き取ったため、急遽代わりの花嫁が送られることになり、金鈴公主に白羽の矢が立てられたというのである。  若い安善公主の死をラムポ王は謹んで悼んだが、一方で、身代わりとなって輿入れしてきた美しい皇女には、いたく満足した様子が見えた。しかし、敬愛する王の喜びが大きければ大きいほど、徳秀の落胆もまた深まってゆくのだった。 「花嫁の金鈴公主は羅のかぶりもの越しに見ても、観音菩薩のような美しさではないか。蛮夷の王に与えてしまうとは、何とも惜しいことだ」  背後で響いた声に動転した徳秀が振り向くと、太子舎人の趙懐正がにじり寄ってくるところだった。酔いに濁ったその目は、ラムポ王とジェンツェン王子の間で恥ずかしげにうつむいている金鈴を、嘗めるように見つめていた。 「確か、李徳秀殿とおっしゃったな。そう苦り顔をなさらずとも、妓楼ではたまに顔を合わす仲ではないか」  席を立ちたいという衝動をかろうじて押さえ、徳秀は男に尋ねて言った。 「私は先刻、先の礼部侍郎殿より公式な知らせを受けたのだが、どうにも解せない。安善公主が突然の病で亡くなったのは真実か。その安善公主の代わりに、なぜ、金鈴公主が指名されたのか」  懐正は持っていた杯を空にすると、待ってましたとばかりに話を始めた。 「安善公主が急死されたのは本当だ。貴殿への報告も間に合わぬほど、あっけない亡くなりようだった。陛下が代わりの花嫁を立てられたのは、延ばし延ばししてきた皇女の降嫁を、これ以上遅らせることは信義に反するとお考えになったのだろう」 「しかし、なぜ金鈴公主が……。陛下は金鈴を都に置くとおっしゃったはずだのに」  徳秀の呟きに、懐正が酒臭い息を吐いて答えた。 「父親の江夏王が申し出たのだよ」 「伯父が、江夏王が、申し出たとはどういうことか」  思いもよらない理由に、徳秀は懐正の襟首を掴んで揺さぶった。すると懐正は得意気に、金鈴降嫁のいきさつを耳打ちしてきたのである。  その話によると、江夏王が娘の輿入れを願い出たのは、皇帝のご機嫌を取り結ぼうとしてのことだった。皇太子と必要以上に懇意にしていることが、皇帝の不興を買っていると江夏王に注進した者があり、優柔不断な江夏王はすっかり怖じ気づいてしまったのだという。  不甲斐ない伯父にばかりでなく、己に対する強い憤りから、徳秀は思わず呻き声を上げていた。徳秀さえ皇太子の件を伯父に忠告しておけば、金鈴が西戎《せいじゆう》の国へ嫁ぐことはなかったはずである。 「金鈴殿には兄同然の徳秀殿の嘆きはよくわかる」  おためごかしの口調で懐正は言った。 「しかし、この私もまた金鈴殿の従兄であれば、別の悔しさがある。金鈴殿とは、太子の使いで江夏王の屋敷を訪ねた際、二三度顔を合わせたに過ぎないが、通婚の許されない同姓の従兄の貴殿とは違い、母方の従兄の私は、金鈴殿の婿にもなれる身だったのだから──」  婚礼の進行役として最低限の職務をこなした徳秀は、高山から吹き下ろす寒風に身を晒しながら、唐国への帰路を馬でひた走っていた。  悔恨や感傷は荒野に振り払うことができたが、どうしても払い落とせないのが憤怒だった。特に太子舎人、いや元の太子舎人の趙懐正は、最後まで徳秀を苛立たせた。  懐正は皇太子の身辺雑事を采配する身分でありながら、皇帝と皇太子の関係が拗《こじ》れる一方とみるや、江夏王の件をよい機会とばかりにさっさと職を辞していた。付き添い役として花嫁の一行に加わることができたのは、伯母である金鈴の母親に願い出たからだという。  婚礼が終わってからも騎射を習うという名目で高地の国に留まり、金鈴の機嫌を伺うかと思えば、夫のジェンツェン王にも巧みに取り入る懐正に、徳秀は密かに眉をひそめたが、何より腹立たしいのは自分と懐正がともに金鈴の従兄であるということだった。  もちろん、保身のため一人娘を犠牲にした伯父への怒りも大きかった。しかし、金鈴の孝心溢れる言葉を聞いたあとでは、気持ちを鎮めざるを得ないのだった。 「何もご心配なさることはございませんから、徳秀お兄様、どうかお父様をお責めにならないでくださいませ」  婚礼の日の朝、金鈴の部屋を訪ねて言葉を交わしたとき、従妹はそう言って徳秀の袖にとり縋《すが》ってきた。やむなく徳秀が頷くと、金鈴はようやく安心したように、はにかんだ笑顔を見せた。 「ご案じなさらなくとも、文徳順聖皇后陛下が、必ず私をお守りくださいます」  金鈴は長孫皇后の諡《おくりな》を口にすると、皇后の著書である『女則』を文箱の中から取り出して見せた。さほど読み込んだふうもなかったが、金鈴は金鈴なりに考えて、『女則』の教えを心の支えと定め、蛮夷の国に持ち込んだのだろう。  その行いをいじらしく思いつつも、徳秀はつい厳しい口をきいてしまうのだった。 「教訓書もよいが、婦徳だ何だと呑気なことを言っていられるのは、おまえがまだこの国のことを何も知らないからだ」  ところが徳秀の苦言にも、金鈴は澄んだ明るい声で応じてきた。 「いいえ、私、何でも存じておりますわ。お兄様がしてくださった高地の国のお話は、一言漏らさず聞いておりましたもの。厳しい気候のことも、広大な草原と険しい山々のことも、勇敢で篤実な国王のことも、粗野な武人のことも、貧しい遊牧民のこともみな……」  話を続けるうちに、金鈴はなぜか頬を赤く染めてゆく。 「これまで私の縁談が決まらなかったのは、この国へ嫁ぐようにという、長孫皇后陛下のご意志だったような気がしておりますの。いつでしたかしら、お兄様は皇室の女の崇高な使命についておっしゃったではありませんか。亡き皇后陛下は、その大切なお役目を私に託してくださったのですわ」  従兄を見上げる金鈴の一途な瞳から、徳秀は思わず目を逸らしていた。 「らちもない。あれは建前というものではないか。崇高な使命など糞くらえだ。──いいか金鈴、話に聞くことと、そこで暮らすことは、天と地ほどの開きがあるのだ。たとえおまえの住まいが壮麗な宮殿であろうと、おまえにかしずくのは蛮夷の民、おまえを取り巻くのは蛮夷の風土だ」  都から付き添ってきた侍女が続き間から顔を出し、「そろそろお支度を」と目配せしたが、徳秀は無視するように声を荒げた。金鈴の行く末を実の親以上に心配しているというのに、口を開けば気遣いは脅しに変わってしまうのだった。 「徳秀お兄様、どうか怖がらせないでくださいませ。私には文徳順聖皇后陛下の尊いご加護が──」 「皇后が何だというのだ。この先、おまえがこの国で頼りにすべきは、夫たるジェンツェン王子ではないか」  徳秀が吐き出すように言うと、それまで微笑をたたえていた金鈴の顔に困惑の色が浮かんだ。 「私の夫が、ジェンツェン王子……。夫はラムポ王ではないのですか」 「当初はその予定だったが、結局、夫は王子となり、王は舅となった」  先日、徳秀を遠乗りに誘ったラムポ王は、唐国から降嫁してくる皇女は、息子のジェンツェン王子に娶《めあ》わせると告げた。驚いた徳秀が、皇女は王子ではなく王に賜るのだと主張すると、自分は近々退位して王位をジェンツェン王子に譲るつもりだと、王は答えたのだった。  王子もいずれは皇女を賜ったに違いないが、皇帝の意向をもちろんラムポ王は知らなかった。そこで、安善公主の年齢は十五であると聞かされるや、年若い皇女の相手には若い王子を、と王は考えたのである。王子の反唐感情を宥《なだ》める目的もあるにせよ、ラムポ王のなんと潔いことよと、徳秀は心中密かに感嘆せずにはいられなかった。  とはいえ、これほど奇怪な変更は、国同士の縁組だからこそ許されたのである。 「皇帝陛下も身代わりの花嫁を寄越したが、高地の国の国王も花婿を取り替えたのだ。これでおあいこというものではないか」  皮肉な調子で言う徳秀の前で、金鈴がにわかに落ち着きを失っていった。花婿が替わったということを、花嫁はいまだ知らされていなかったのだから無理もない。 「なに、そのように動揺せずともよい。王子は今年中には王位に就く。そうなれば金鈴、おまえは間違いなく王妃様だ。しかも、夫になる王子はあのとおり若く逞しい。せいぜい可愛がってもらうことだ」  金鈴が涙の滲んだ瞳で、徳秀を見上げていた。国の都合に翻弄される皇室の女の運命に、ようやく思い知ったに違いない。徳秀は従妹をたまらなく不憫に思ったが、口を突いて出てくるのは、ぶっきらぼうな言葉ばかりだった。 「いいか、よく覚えておけ。『女則』の教えも、皇女の使命も糞くらえだ。おまえは、自分の幸福だけを考えろ。本当に幸せになれる道だけを、考えていればいいのだ」  冬は例年になく厳しかったが、明けて貞観十六年の人日《じんじつ》の節句を越すと、庭々の梅の花もほころんで、都人が浮かれ喜ぶ陽気となった。  とはいえ、相変わらず鬱々と日を過ごす徳秀は、季節の移り変わりにも無頓着だった。病と称して参内を怠け、書斎でごろ寝ばかりしていたが、折りに触れて思い出すのは金鈴のことばかりである。蛮族の奇異な風習に悩まされてはいないだろうか、高地の国特有の恐ろしい病気にかかってはいないだろうかと、徳秀はひたすら気を揉んだ。  金鈴は案外幸福に暮らしているかもしれないと、半ばやるせなく考える日もあった。  夫のジェンツェン王は、帝国から輿入れしてきた美しい皇女に一目で心を奪われたようだった。婚礼の席では終始俯き加減だった金鈴を、王子は熱のこもった眼差しで、ひたすら見つめていたではないか。夫婦さえ仲睦まじければ、多少の不都合は乗り越えていけるものである。  その徳秀も梨花が咲き匂う頃になると、ようやく外に出掛けてみる気になるが、大路をそぞろ歩く都人の群れに混じり、春らしい気分を味わったのは束の間のことだった。平康坊の西の坊門まで足を延ばしたところ、まるで徳秀を待っていたかのように、元太子舎人の趙懐正が楊柳の陰から姿を現したのである。 「高地の国からいつ帰ってこられた」  懐正に誘われるまま酒楼にあがり込むと、徳秀は開口一番そう尋ねた。 「戻ったのは、つい十日ほど前だ」  向かいに腰を下ろした懐正は、落ち窪んだ目で徳秀を見た。旅の疲れが抜けないのかと思ったが、それにしては色男らしからぬ薄汚れた衣が気になった。 「都に帰ったはいいが、女のところしか行き場がなくてな。伯母のところにも顔を出したが、約束の報酬を貰った他は、とおり一遍の礼を言われただけだった。皇太子の元側近は、冷飯食いというわけだ」  徳秀は肯定も否定もせず、妓女を呼び、店で一番上等の酒を頼んだ。今の懐正ならば、酒でいくらでも口が軽くなるだろう。 「金鈴公主は息災か」とさり気なく問うと、懐正は即座に答えて言った。 「ああ、大変お元気だ。六月には子も生まれるという」 「金鈴に子が……!」  徳秀はかすれ声で聞き返していた。従妹の境遇についてあれこれ思い巡らせていながら、出産という出来事だけは想像外だったのである。 「では、幸せに暮らしているのだな、金鈴は」  徳秀が念を押すように尋ねると、懐正は異様に長い時間おし黙った後、粘りつくような言葉を返してきた。 「ジェンツェン王は妻の金鈴殿に、実に熱い情を注いでおる。妻の幸福とはそういうものならば、金鈴殿は十分幸福だ」  懐正の含みのある言い方は、徳秀の気分を逆撫でした。卓の上に身体を乗り出し、問い詰めようとするが、突然、懐正が妙なことを口走ったので、勢いをそがれてしまった。 「実のところ、俺は身の危険を感じて高地の国を逃げ出してきたのだ」 「身の危険とは、どういうことだ」  徳秀の苛立ちを煽るつもりなのか、懐正はことさらたどたどしく説明した。 「王と二人で狩りに出掛けたものの、羚羊も麝香《じやこう》鹿も、野山羊の姿すら見えなかった。ところが、私の首筋を矢が掠めていったのだ。それも続けて二本。泡を食って逃げ出すしかないではないか……」      五  貞観十七年の春、皇太子の謀叛が発覚したとき、李徳秀は妓楼にこもりきっていて事件を知らなかった。三日ぶりに帰った自宅で家宰から事の次第を聞かされて、慌てて参内してみたところ、すでに事態は収拾していたのだった。  ここ数年来、奇嬌さを父皇帝から嫌われていた皇太子は、次弟の魏王が皇帝の寵愛を占めるようになると、廃嫡を恐れて危機感を募らせた。そこで、側近たちとともに魏王の暗殺を計画し、実行に移そうとしたその矢先、陰謀が露見してしまったのである。  皇太子は廃立されて黔《けん》州に流され、漢王や兵部尚書といった協力者や側近たちもそれぞれに配流された。その一方で、魏王側にも兄を除く動きがあったことが暴露され、皇帝の気に入りの弟もまた、皇太子の座につくことができなかった。新太子には亡き長孫皇后の生んだ第三子、晋王が立てられることになった。  事件がようやく落ち着いた翌貞観十八年の初夏の頃になると、徳秀は以前にもまして頻繁に参内し、皇帝の側に控えるようになっていた。後継者問題の悩みの聞き役として、権力闘争とは無縁の親族、徳秀は適任だったのである。 「朕は十四人の子を持ちながら、皇太子の器量を持つ、たった一人の息子に恵まれておらぬ。新太子は朕の目には凡庸としか映らぬ」  年とともに肥え崩れてきた身体を揺らし、大きく息をつくと皇帝が言った。 「凡庸とおっしゃいますが、陛下は皇太子にどれほどの器量をお求めですか。大唐帝国の建国を成し遂げた、陛下に匹敵するほどの器量でしょうか」  徳秀はやや素っ気なく応じた。皇帝は甥の追従を喜ばないと知っているのである。 「いや、そこまでは求めておらぬ」 「では、陛下の十分の一ほどでしょうか」 「それでは少な過ぎよう」 「ならば、半分あれば良いとお考えになりますか」  皇帝はしばらく考える素振りをしたが、結局「さて、どうであろう」と答えた。 「陛下を基準にいたしましても、次の皇帝に必要な器量を見極めることは、かように難しいと思われます。その計り難いものが皇太子殿下には足りないと、陛下にはなぜおわかりになるのでしょう」  徳秀の突き放したような言い方にも、皇帝はわずかに表情を崩した。 「昔から思っておったのだが、おまえには人を慰撫する才があるようだ」  徳秀は拱手《きようしゆ》して「恐縮でございます」と答えながら、話を切り出すならば今だと判断した。 「実はお褒めいただいた才を生かす道を考えております。ここ数年の間、辺境の国々に降嫁した皇女方を順次訪問し、お慰めしたいと思うのです」  徳秀がそう願い出たのには理由があった。前日、金鈴からの文を携えた使者が、高地の国から徳秀を訪ねてきたのである。  文には、「徳秀お兄様と鞦韆遊びをした日々がしきりと思い出されます。高地の国をぜひともお訪ねくださいませ」と認《したた》められていた。淡々とした手紙だったが、行間に不吉なものを感じ、徳秀はすぐさま出立を決意した。しかし、このところ甥を頼りにしている節のある皇帝から、旅行の許可を得ることは至難と思えたのだった。 「高地の国を訪ねたくなったのであろう。江夏王の申し出によりかの国へ与えた金鈴公主とおまえとは、兄妹のように親しかったときくが」  そこで徳秀が、従妹を気遣う気持ちを率直に述べると、皇帝は心を動かされたようだった。 「よかろう。大唐帝国の皇女がしかるべき尊敬と待遇を受けておるか、行って様子を見て来るがよい」  拝跪《はいき》して感謝する徳秀を押しとどめ、皇帝はさらに言葉を続けた。先の謀叛事件の際、前皇太子に与《くみ》した者の残党が、高地の国へ逃れたという噂があるので、国王に逮捕の協力を要請せよというのである。  四度目の訪問を果たした高地の国は、金鈴が暮らす土地だと思うからか、徳秀にはいつになく懐かしく感じられた。  季節はすでに晩夏となっていた。二人の従者を連れただけの徳秀は、悪路を馬でひたすら駆け続け、通常の半分の日数で高地の国の都へと入った。金鈴が寄越した不可解な文が、気を急かしていたのである。 「お兄様、徳秀お兄様……よくいらしてくださいましたわ」  徳秀が宮殿の前庭で馬から降りた途端、金鈴が駆け寄ってきた。裙子の裾を片手でつまみ、披帛をなびかせながら走ってくる様は、梨花の下で無邪気に遊んだ頃そのままである。変わっているのは、衣の意匠が異国風であることだけだった。 「今日にもおいでになるような気がしていましたので、窓から大路を眺めておりましたの。すると、馬を駆るお姿が見えて……。再びお目に掛かることができ、本当に嬉しゅうございますわ」  二十四になるはずの金鈴は、少女のように頬を輝かせ、息を弾ませていた。美しく健やかなその顔を見る限り、手紙に感じた不安はまったくの杞憂と思えるほどだった。  なぜ自分を呼んだのかという問いをしそびれたまま、徳秀は金鈴の案内で三年ぶりの王宮に足を踏み入れた。 「ほう、おいでになる途中、角の代わりに牙の生えた鹿をお見かけになられたか」  夜には徳秀を歓迎して酒宴が催されたが、その席で最もよく呑み、よくしゃべったのは驚いたことに、ジェンソン・ジェンツェン新王だった。  二十六歳になる王は、結婚当初の王子だった頃に比べると、見違えるように変わっていた。身体つきは高地の国の若者らしく剛健さに溢れ、風格さえ漂っていた。客のもてなしにも如才がなく、かつて剣呑であった王子は、いまや陽気で社交上手な王である。  ジェンツェン王の変化は、息子を早々に王位につけたラムポ前王の狙いが功を奏したためなのか、それとも妻にした金鈴公主の影響なのかと、徳秀は訝しみながら、これだけは昔と変わらない王の端正な横顔を、しげしげと眺めるのだった。 「おそらく徳秀殿は、麝香《じやこう》鹿と出くわされたのであろう。昼間は岩場に隠れ、滅多に姿を現さない獣だが、遠来の客を歓迎したくなったものらしい」  青年王は愛想良く言うが、徳秀はなぜか素直に応じることができず、代わりに向かい合って座るラムポ前王の様子を窺った。  前王もまた、婚礼のときとは人が違って見えた。老け込んだというほどではないが、武骨な風貌に濃い陰影が加わり、どこか苦行者めいてきたのである。かつて徳秀が好ましく思った剽悍《ひようかん》さは、すっかり消え失せたかのようだった。 「金鈴公主が我が国に馴染まれ、息災でお暮らしであるとの報をお受けになれば、天可汗陛下もさぞお喜びくださろう」  徳秀の視線を受けて、ラムポ前王がようやく口を開いた。謹直な話しぶりだけは以前と変わらなかった。 「まさに父上のおっしゃる通りだ。金鈴はこの高地の国に、実によく馴染んでくれた」  ジェンツェン王がよく通る声で後を続けた。秀麗な顔は朱色に染まり、一見したところ上機嫌である。 「蛮夷の風習、蛮夷の衣装、蛮夷の食事、そして蛮夷の家族に。しかも唐国の美風も決して忘れてはおらぬ。——徳秀殿、貴国では徳の根源を何と言われるのでしたかな」 「孝と申します。孝はあらゆる徳の基本となるのです」  徳秀が答えると、ジェンツェン王は鷹揚に頷いた。 「では金鈴はその徳の基本に則って、我が王家の父祖、そして舅である父上に、大変忠実に仕えてくれているというわけだ」  今度は徳秀が大きく頷く番だった。孝のうちで何よりも重要なのは、跡継ぎを生むことである。すでに王子をもうけている金鈴は、立派に孝の徳を果たしている。これこそ『女則』のご利益かと、徳秀は婚礼の日に金鈴が見せた一途な眼差しを思い起こした。 「ところで徳秀殿、せっかく麝香鹿を目にされたのだ。次は捕らえてみたいと思われぬか。よろしかったら、明後日あたり狩りにご案内しよう」  徳秀は喜んで承諾したものの、ラムポ前王の相変わらず厳しい表情を目にすると、かすかに心がざわつくのだった。  滅亡した高昌国から逃れてきたという楽人たちが、賑やかな胡楽を演奏し始め、ジェンツェン王とその側近の武人たちは、ますます派手に呑み騒いだが、徳秀は頃合いをみて席を外した。宴席に現れなかった金鈴の部屋を探して、宮殿の奥まった一角を訪ね歩いたのである。  赤褐色のひときわ豪奢な扉の前に来たとき、赤子の泣き声が聞こえてきたので、徳秀が怪訝に思って立ち止まると、突然、扉が開いて中から金鈴が姿を見せた。 「二人目の子が生まれたとは知らなかった。今度も王子のようだが、めでたいことだ」  手招きされて部屋に入った徳秀は、金鈴の腕の中でさかんに泣き喚く赤子を見て言った。金鈴の裙子の陰からは、幼児が闖入者を見上げている。二人とも母親によく似た色白の愛らしい子供だが、少々変わった形の耳をしていた。 「この子にはおかしな癖がありますの。扉の外に人の気配があると泣き出しますのよ」  金鈴がまだ泣いている赤子を優しくあやしながら言った。先刻、宮殿から走り出てきた少女めいた金鈴よりもさらに美しい金鈴の姿に、徳秀は胸を熱くした。 「乳母には任せないのか」と尋ねてはみたが、徳秀はすでに答えを知っている気がした。目の前にいるのは、慈母そのものの金鈴である。 「乳母はおりますが、乳は私が含ませ、面倒もほとんど自分で見ておりますの。このように可愛い二人の子を、たとえ片時でも手離すことはできませんわ」  徳秀は四肢の力が抜けていくように感じたが、その感覚を安堵と呼ぶしかなかった。  金鈴は幸福なのだ。蛮夷の国の王宮で、夫と二人の子に囲まれ、何不自由なく幸福に暮らしているのだ。徳秀は胸の内で繰り返しつぶやいた。そして、それを確かめた自分はいずれ故国に帰り、美しい従妹の幸福を喜びながら、せいぜい不幸に暮らすだろう。妓楼で馬鹿騒ぎすることも、もう二度とないだろう……。 「なぜ、俺をこの国に呼んだのだ、金鈴」  突然わけの分からない怒りにかられ、徳秀は潰れたような声を押し出した。 「二人の愛らしい王子を自慢したかったのか」 「徳秀お兄様……」 「おまえの降嫁を悲観した、俺の不明を嘲笑いたかったのか」 「とんでもございません。お兄様に文を認めた日、私は不安でたまりませんでした。それでどうしてもお兄様にお会いしたくなったのです。嘲笑うだなど、そのような……」  金鈴の怯えた白い顔に気づくと、徳秀はようやく我に返り、理不尽な言いがかりをつけたことを詫びた。 「下らないことを言って悪かった。しかし、不安とはどういうことだ。いったい何が不安でたまらなかったのだ」  金鈴は胸元で大人しく指をしゃぶっている次男と、やはりとろりとした目付きの長男を傍らの寝台に寝かしつけると、潤んだ瞳で徳秀を見上げてきた。 「実は、この春のことでした。私は妹の婚礼に列席したのです」 「妹とは?」 「王の異腹の妹です。北方の豪族に嫁いでおりましたが、夫を病で亡くし、三年間の喪に服しておりました。婚礼はその喪が明けるのを待って行われたのです」 「なるほど。だが、どうしてその婚礼で不安になるのだ」  徳秀は優しく尋ねたが、金鈴は胡風の衣の袖を一振りし、苦しげな顔を隠すのだった。 「この国には貞女は二夫にまみえずの美徳はございません。万が一、夫を亡くすことがあれば、私も三年の服喪の後、再び嫁ぐことになると知ったのです。ちなみに義妹は、夫の長男──義理の息子のもとに嫁しました」  従妹の心情を計り兼ねている徳秀の目の前で、人妻となった金鈴は涙をこぼした。 「その婚礼の夜のことでした。あれこれ思いを巡らせているうちに、言い知れぬ恐ろしさが込み上げてきたのです。貞女たれと説く長孫皇后陛下の尊い教えに、いつか私は背いてしまうのではないか、夫の身にもしものことが起こってしまうのではないかと……」  徳秀はその夜、驚くようなことを告げられた。夫のジェンツェン王は、刺客に命を狙われているかもしれないと、金鈴が徳秀に訴えてきたのである。  王は「予の命を狙っている者が身近にいる。予は近いうちに殺されるかもしれぬ」と、幾度となく寝言で口走り、その怯え方も尋常ではなかった。しかし、金鈴が刺客のことを問い質しても、目覚めているときの王は一笑に付してしまうのだという。  聞いた徳秀には、心あたりがないでもなかった。かつて気難しかったジェンツェン王は、突然明朗な性格に変わったのではなく、むしろ自棄《やけ》になったのではないだろうか。身の危険を感じた王は、不安を紛らわすために、ことさら陽気に振る舞っているだけではないのだろうか。  一晩考えあぐねた結果、徳秀はラムポ前王に事情を話すことにした。前王が何らかの兆候を感じているのではないかという予感もあった。なぜならジェンツェン王だけでなく、ラムポ前王もまた、三年前とはずいぶん様子が変わって見えたからである。  前王を面白味のない老人に変えた原因が何であるにせよ、苦行僧めいた表情の下にあるものは、ジェンツェン王の怯えに無関係ではないと、徳秀は直感したのである。  ところが、徳秀の話を聞いたラムポ前王は、心底驚いた表情をした。 「ジェンツェン王が……息子が命を狙われているなど、そのようなことがあろうとは思えぬ。金鈴公主がいつ頃からその寝言を耳にするようになったかわからぬが、少なくともこの一年間、王の身辺は平穏無事であった。国はよく治まっており、争い事も多くはない。王に害意を抱くような者はおらぬはず」 「しかし、実際にジェンツェン王は、ずいぶんお変わりになったように思うのです。以前は無愛想でしたが、生真面目でもあった。大唐帝国を嫌っておられたが、それは強い自立心からでした。ところが、三年ぶりにお会いした王には、社交的ながら軽佻浮薄という感じを受けました。あるいは、何事か心にかかることがあり、それを必死で紛らわせているような……」  徳秀が食い下がると、ラムポ前王はしばらく苦しげに眉をひそめていたが、やがて低く聞き取りにくい声で言った。 「息子があのような調子の良さを身につけたのは、結婚後しばらくの頃だ。金鈴公主の付き添い人であった趙懐正なる男と付き合ったためである。懐正は巧みな弁舌と世慣れた物腰とで新王に影響を与えたが、やがてこの国を出て行くことになった」 「その懐正はこの私に、王の嫉妬が原因で自分は高地の国を追い出されたと、暗に申し立てました」  ラムポ前王は、白いものが目立ち始めた顎をわずかに上下させた。 「何しろ、息子は嫁いできた金鈴公主にすっかり心を奪われてしまったのだ。それだけに、疑い深くもなれば、嫉妬にかられて愚かな振る舞いもする。しかし、仮にどこぞの慮外者が言い寄ってこようとも、『女則』なる書物を片時も手離さず、その教えを守らんと努める皇女に間違いがあろうはずもない。金鈴は稀に見る貞女であるが、悲しいかな息子には、この道理がどうにもわからぬらしいのだ」  前王の口調が先刻までとは打って変わって熱を帯びてきた。異国から嫁いできた皇女を庇《かば》いたい一心で、王はかつての力強さを取り戻したかのようだった。      六  夜通し吹き荒れた嵐も朝にはすっかりおさまり、その日は絶好の狩猟日和となった。  ジェンソン・ジェンツェン王は宮殿の前庭に駿馬を二頭用意させると、すっかり身支度を整えて、李徳秀を待っていた。  ところが、王の前に姿を現した徳秀は、いまだ上衣も着けていなかったのである。 「せっかくですが、どうも気乗りがしないのです」  そう言って頭を振る徳秀に、ジェンツェン王は不快さを露にした。 「一昨日、宴の席で約束したことではないか。狩りには必ずお連れするぞ」  刺客に狙われているのが本当ならば、不用意に王宮を離れ、荒野を走り回るべきではないと徳秀は忠告したが、「金鈴が何と言おうと、予は断じてそのような寝言を口にしてはおらぬ」と、王は笑い飛ばすのだった。 「仮に刺客がおったとして、大草原のただ中で、いったいどの方角から予に忍び寄るというのだ。矢を射かけられる距離まで、予が怪しい騎馬の者を近づかせると思われるか」 「しかし、狩り場で待ち伏せされることもあり得ます。先日の王の言は、大勢の者が聞いておりますので、刺客の耳に入っていることも考えられましょう」  徳秀は懸命に説得したが、ジェンツェン王は不敵な笑みを消さなかった。 「そのような裏切り者があれば、予はとうに殺されておるのではないか。誰が何と言おうと予は狩りに出掛ける。従者も護衛もいらぬ。徳秀殿と二人だけで参ろう。無事に帰ってこられたならば、金鈴も刺客など妄想であったと納得するだろう」  見掛けが変化しようとも、持って生まれた気質はそうそう変わるものではない。王の依怙地さを知る徳秀は、狩りを止めることはできないと判断すると、諦めて同行することにした。王の主張にも頷けるところがあったからである。  徳秀は胡服の上に片袖を抜いた羊皮の上衣を羽織り、同じく羊皮の長靴を履いた。背には短弓を負い、腰には長剣を帯びている。色鮮やかな装いは西戎の民そのものだったが、弓や剣の技量がジェンツェン王に遠く及ばないことはわかっていた。  万が一のことを考えると馬上で背筋が強ばったが、徳秀は怖じ気づいた自分を励ました。前門を出ようとして、そびえたつ宮殿をふと見上げたところ、西翼の窓から覗いている白い顔に気づいたからである。遠過ぎて表情まではわからないが、夫を見送る金鈴の不安がひしひしと伝わってくるようだった。  徳秀とジェンツェン王は無言のまま市街を抜けると、北の大平原へ向けて馬を走らせた。その一帯では羚羊や野驢馬が群れをつくって住んでいるほか、麝香鹿が時折姿を見せると聞いていたが、ジェンツェン王は獣が身を潜めていそうな灌木の茂みや、岩場のわきを通り過ぎると、さらに北を目指して馬を進めたのだった。 「徳秀殿のご忠告に従うことにした。いつもの猟場は避け、滅多に人が行かぬあたりで獲物を追ってみることにしよう」  すかさず同意する徳秀に、王は片頬をわずかに緩めて応じた。  しばらく行くと、前夜に降った数年に一度という大雨のため、地面がひどくぬかるんだ場所に出た。 「私はいまだ一人身ゆえ知りませんでしたが、赤子とは実に可愛いものですな」  馬の歩みが緩慢になったので、徳秀はよい機会とばかりに王に話しかけてみる。 「王子のことを言われておるのなら、予は賛成できぬ。子供とは騒々しいばかりで天竺で見た猿の子と何も変わらぬ」  王は冷淡に答えたが、徳秀にはまだ笑みを見せるだけの余裕があった。 「なるほど、ご自分もかつては猿であったとおっしゃられるか」 「猿は猿でも、素性の分からぬ猿だ。予自身も、予の子と言われておる猿どもも」  ジェンツェン王の暴言に息を呑んだ徳秀は、思わず手綱を引いて馬を止めた。 「予は息子たちを可愛がらぬと、貴殿は誰ぞに吹き込まれたようだな」  先んじていた馬の首を巡らせ、王が徳秀の真向かいに戻ってきた。その口元には、数年前には決して見せなかった冷笑が浮かんでいる。  王が言い当てたとおり、徳秀は王子の乳母から、王は幼い息子たちを疎《うと》んじると聞かされていた。半信半疑だったが、王の表情を見る限り信じないわけにはいかなくなった。 「教えたのは金鈴ではあるまい。あれは夫に逆らわぬ賢婦の鑑だ。もちろん、クワンツェン・ラムポ前王でもない。不義の子を養育する腹立たしさをよくご存じの前王は、予を非難することはできぬであろう」  王の言葉は二重三重の意味を持っていたが、徳秀が怒りを爆発させたのは、ジェンツェン王が金鈴を賢婦の鑑と呼びつつ貶《おとし》めたからである。  徳秀が腰の剣に手をかけ、馬上に身を乗り出すと、ジェンツェン王は応じる気配を見せた。ますます逆上した徳秀は、柄を握った右手に力を込めるが、その途端、王の哄笑が草原を吹き荒れる風の音を圧した。 「そう興奮なさるな、徳秀殿。冗談だ。貴殿をからかっただけなのだ。この耳を見るがよい。予の耳は亡き母と似て耳朶が長く、先が尖っておるが、二人の王子たちもそっくり同じ耳をしておる。王子は予の子に間違いない」  王は胡帽に隠れた耳を出して言ったが、質の悪い戯れ言に徳秀の怒りは容易に収まりそうもなかった。しかし、剣の柄を握り締めた己の右手に気づくと、この剣で何をするつもりだったのかと空恐ろしくなった。ジェンツェン王の身辺を気遣うべき自分が、王に危害を加えようとしたのである。 「王子たちのことは、予の分も金鈴が可愛がっておるからよいではないか。金鈴は二人の息子が愛おしくて仕方がないのだ。紛れもなく予との間にできた子であれば、愛しい者の血を引いた子よと、それこそ目に入れても痛くないほどの溺愛ぶりだ」  ジェンツェン王はそう言うと、不自然なほどの大声で笑ったが、切れ長の目の奥には冷たい光が透けて見えるようだった。  王は金鈴を愛しつつ、憎んでもいた。並外れた妬心ゆえかと徳秀は考えたが、嫉妬は幼い自分の子にまで向けられるものなのだろうか──。  再び馬を進める王の後を追い、ぬかるみの中に無数の足跡を作りながら、徳秀は釈然としない思いにとらわれていた。  強い日光を受けて徐々に干上がり始めた湿地帯を抜けると、枯れかけた夏草が表土を一面に覆いつくす平原に出た。  ジェンツェン王が突然馬を止めたので、徳秀も急いでそれに倣った。一刻も早く都へ戻りたいという気持ちは募ったが、王の案内なしでは、もはやそれもおぼつかない。とりあえず、狩りに専念するより仕方ないのである。 「岩陰に白いものが動いた。羚羊の尻だ。近づいてみよう」  王は遥か前方の赤紫色の大岩を見つめて言った。岩までの距離は、矢の射程距離の五倍ほどである。徳秀には何も見えなかったが、平原の民族であるジェンツェン王には、特別な視力が備わっているのだろう。 「予は西から大きく回り込んでみる。貴殿はこのまま進み、獲物が飛び出したところで、二人同時に矢を射かけようではないか」  王は興奮気味に言うなり、轡《くつわ》を西へ向けて岩場を迂回し始めた。徳秀は王の動きに合わせながら、そのまま慎重に馬を進めていく。屈託を抱えていようとも、いざ獲物を前にしてみると、やはり狩猟本能が働くのだった。  二人の狩猟者と岩場との距離は、徐々に縮まっていった。ジェンツェン王が背の矢筒から矢を取り出し、短弓につがえる様が遠目に見えたので、徳秀も同じようにした。とはいえ、徳秀の弓術は決して自慢できたものではない。追い立てられた羚羊が、自分の側に逃げてこないことを祈るばかりである。  湾曲した角と白い尻が空中で躍ったのは、高地の強烈な日差しに、徳秀が思わず目を細めたときだった。  人の気配を察して岩陰から飛び出してきた羚羊は、焦る徳秀の目の前で二、三度飛び跳ねたかと思うと、急に向きを変え、西に向かって走り出した。ジェンツェン王が待ち受ける方角である。  王は疾駆する馬上で、すでに弓をいっぱいに引き絞っていたが、獣は白い尻を激しく左右に動かし、走る方向を次々と変えるので、狙いを定めるのは容易ではないようだった。徳秀は南側から馬を突進させ、羚羊を追い詰めようとするが、その直後、ジェンツェン王の放った矢が、羚羊の胴をかすめていった。  王は素早く次の矢をつがえるが、身軽な獣はすぐさま身を翻し、今度は徳秀が待ち受ける方向へやみくもに駆けてくる。徳秀は反射的に矢を放ったが、目標を大きくそれた。  死にもの狂いの羚羊は、ついに東へ向かって疾走を始め、徳秀もまたその後を懸命に追った。羚羊は逃げに逃げたが、徳秀もまた不可解な欲求につき動かされて、羚羊を追いに追った。馬が低木の枝に脚をかけてつまずき、徳秀を放り出さなければ、馬か羚羊か、どちらかの心臓が破れるまで走り続けたことだろう。  枯れ草の上に背から落ちた徳秀は、羚羊の白い尻が照り返しの彼方に消えてゆく様を茫然と見送っていた。仰向けのまま痛みを堪えていると、やがて馬の蹄の音が聞こえてきた。自分を振り落とした馬が戻ってきたのか、それともジェンツェン王が追いついてきたのかと、徳秀は期待を込めて考えたが、そのどちらでもなかった。 「大物を逃してしまいましたな、徳秀殿」  聞き覚えのある声が頭上から降ってきた。徳秀が苦労して顔を上げると、馬から降りてきた男が逆光の中に立った。目に入ったのは剥き出しの白い歯だけだったが、相手の正体はすぐにわかった。 「趙……懐正。なぜ、このようなところに」  徳秀はかすれ声で問いかけたが、すでに一つの可能性に思い当たっていた。ジェンツェン王の命をつけ狙う刺客とは、この趙懐正ではないのだろうか。少なくとも、以前王に殺されかけ、恨みを抱いている男である。 「貴殿こそ、はるばる高地の国まで何用でお越しになられたのだ」  懐正は慇懃無礼に言うと、起き上がろうとしてあがく徳秀を尻目に、地味な胡服の袖をまくり上げ、日焼けした太い腕を見せつけた。 「皇帝の信任深い徳秀殿は、すっかり文弱の徒になられたようだ。それに引き換え、この俺は、これこのとおり、今ではいっぱしの荒くれ者だ。元の太子舎人というだけで、皇太子の罪に連座させられたおかげでな」 「そのおまえがなぜ、この国に……」  ようやく身を起こした徳秀に、懐正は再び歯を見せて小さく笑ったが、かつて都の女を夢中にさせた面貌は、見る影もなく荒んでいた。 「従妹の金鈴殿が無性に懐かしくなり、配所の黔《けん》州を抜け出してきたというわけだ。もちろん金鈴殿のたいそう嫉妬深い夫、ジェンツェン王のことも忘れてはおらぬが」  徳秀は背中の痛みも忘れて跳ね起き、「金鈴に何をするつもりだ」と詰め寄るが、懐正は下卑た笑いで応酬した。 「従妹殿に手を出す気はないので、安心するがよい。昔は俺もずいぶん言い寄ったものだが、さすがは『女則』を手放さない皇女様だ。あくまでも節度ある態度を貫かれた。だが、この俺が皇女のまわりをうろつくと、気が気ではない者はいるだろう。俺は従妹殿のご機嫌伺いを諦める代わりに、その男からわずかばかりの褒美を貰うことにした」 「では、さっさと貰って出て行くがいい。欲をかくと、今度こそ本当に矢が喉元を突き通るぞ」  徳秀は精いっぱい凄味をきかせる一方で、目の前の男は刺客ではないらしいと考えた。ジェンツェン王を殺しても、懐正には何の得にもならないのである。懐正は愛情や怨恨ではなく金で動く男だということが、徳秀にも次第にわかってきた。 「なに、危険を冒す気はないのだ。だからこそ相手を一人で呼び出し、旅支度をすっかり整えて、荒野のただ中で落ち会うことにした。ところがどうだ、こんなところで呑気に狩りをする徳秀殿に出くわすとはな」  懐正は声を上げて笑っていたが、ふと真顔に戻ると、腰の剣をゆっくりと引き抜いた。      七 「続きをお知りになりたいか」  目の前で息を詰めているクワンツェン・ラムポ王に、李徳秀は静かに尋ねた。  徳秀がジェンツェン王と狩りに出掛けた日から半月過ぎた、ある夜のことだった。徳秀の部屋を訪ねてきたラムポ王は、狩りの日の出来事を包み隠さず話し聞かせて欲しいと、懇願していたのだった。 「もちろんだ。先をお話し願おう」  そう答える王の表情は厳寒の荒野のように険しかった。半月前に比べると肩の肉は落ち、頬も削げている。しかし、窪んだ、両眼は炯々《けいけい》と輝き、浅黒い肌は硬く張り詰めていた。 「ただし、その前に私にも質問させていただきたい。今宵はお互いが胸襟を開くという約束でしたから」  ラムポ王が承知し、徳秀はいまだ不自由な身体を寝台の上に起こすと、改めて姿勢を正した。 「趙懐正のことですが、あの男は都を遠く離れた平原で人を待っていた。その相手は、あなただったのですか」 「いかにもそのとおりだ」という王の答えは、徳秀にも予想がついていた。名うての女たらしを金鈴から遠ざけようとしたのは、やはり金鈴の舅たるラムポ王だったのだ。相手がジェンツェン王ならば、そのように回りくどいことをするはずはない。  とするとラムポ王はなぜ、懐正に金をやろうとしたのだろうか。なぜ、毅然として懐正を追い出さなかったのだろうか。  徳秀が疑問を口に出すと、王は太い眉を寄せ、眉間の皺を深く刻んだ。 「金はただくれてやるつもりではなかった。文と引き換えという約束だったのだ」  文とは何のことかと尋ねる徳秀に、王が淡々と説明した。  徳秀が高地の国を訪れる直前、趙懐正もまたこの国の都に密かにやって来たが、接触を持った相手は、金鈴公主でもなければジェンツェン王でもなく、ラムポ前王だった。そして前王と会うなり、自分は金鈴公主から貰った文を持っていると言ったのである。 「金鈴からの文を! 金鈴があの色事師に手紙を書いたというのですか」  徳秀が驚いて叫ぶと、王が片手を突き出して宥めた。 「誤解して貰っては困るが、決して恋文などではない。前皇太子の罪に連座し、都を追放された不運な従兄を心配し、自分が力になれることがあれば何でも言って欲しい、もしも、高地の国へ来れるのであれば相談にも乗ろうと、そういった内容の温情溢れるものだった。手紙は公主の筆跡で書かれ、公主の印もある本物である。ところがあの男は、公主の好意を悪用しようとしたのだ」  王は拳を震わせたが、なぜその手紙が恐喝の対象となるのか、徳秀には理解ができなかった。 「もしも、文を買い取らなければ、唐国の皇帝陛下に送りつけると、懐正はそう脅したのだ」  ようやく徳秀にも事情が飲み込めてきた。不遇な従兄を案じる金鈴の文も、深読みをすれば、謀叛を起こした前皇太子を擁護するものと取れる。前皇太子の一派が高地の国に逃げ込んだとの噂もある折り、そのような他愛のない手紙であっても、唐国の皇帝の目に触れることを、ラムポ前王は嫌ったのである。 「予は皇女を仲立ちとした、帝国との友好を大切にしておる。金鈴公主が前皇太子に肩入れするのは、わが高地の国の差し金ではあるまいかと、間違っても皇帝陛下に勘ぐられたくはなかったのだ」  ラムポ王はそう言って頭を垂れた。祈っているとも詫びているともとれる姿だった。  襲ってきた刃からかろうじて身をかわしたものの、飛びすさった拍子に、徳秀はぬかるみに足を取られて転倒した。その上へ懐正が剣を振りかざしながら、のしかかってくる。 「この場へ偶然来合わせたということは、貴殿の間抜け面を見ればわかるが、俺の大切な用事の邪魔をせぬよう大人しくしてもらおう」  目を血走らせた懐正は、剣の柄を徳秀の首に押し当てると力を込めた。徳秀は息を詰まらせるが、絶望はしなかった。泥に半ば埋まった右耳が、近づきつつある蹄の音を聞いたからである。  突然、懐正が奇声を発してのけぞったかと思うと、身体を大きくよじって泥の中に突っ伏した。背には矢が深々と突き立っている。跳ね起きた徳秀が顔を上げると、馬上で弓を構えるジェンツェン王の姿が目に入った。  痛む喉を押さえつつ、徳秀は王に向かって「かたじけない」と叫んだが、その頬を一本の矢がかすめていった。茫然とする徳秀の目の前で、ジェンツェン王は悠然と次の矢をつがえ始めた。 「王……いったいどういうおつもりか。なぜ、この私に矢を射かける……」  とっさのことに、徳秀はただ声を震わせるばかりだった。不愉快な戯れ言を口にはしても、ジェンツェン王は徳秀に殺意までは抱いていなかったはずである。 「目障りな男を一人成敗したついでと思って貰えればよい。趙懐正が都に舞い戻ったという噂を聞き苛立っていたが、これで気分も晴れた。幸い今日は絶好の狩猟日和だ。獲物は多ければ多いほど楽しかろう」 「馬鹿なことを。私を射殺して事が簡単に収まると思われるか」  徳秀は剣の柄に手をかけ、後ずさりながら言った。弓のほうは落馬した拍子になくしていた。 「残念なことだが、狩猟に事故はつきものだ。恨むのならば、金鈴の誘いに乗ってこの国へ来た己を恨むがよい。刺客などという金鈴の世迷言を信じた己を恨むがよい」  ジェンツェン王は興奮を隠しきれないように言うと、矢をつがえた手を離した。  徳秀は逃れようと地面を転がるが、脇腹を鋭い衝撃に貫かれた。無意識に腹をまさぐった手は、血のついた矢を引き抜いていた。 「なに、分かっておる。貴殿も趙懐正も金鈴と通じてなどいないことは。だが、金鈴に近づく男を、予は許しておけないのだ。そうだな、身代わりと思って諦めてくれ。最も遠ざけたい男を、予は遠ざけることができないのだから」  ジェンツェン王は癇性に笑うと、馬から降りて徳秀の横腹を長靴で蹴り、続いて隣で倒れている懐正の肩をつついた。ところが、だらりとした動きを見せるはずの懐正の肩は、腕ごと素早く屈伸したかと思うと、掴んでいた剣を王の胸元目掛けて投げたのである。  剣をまともに受けた王は、よろめいたが倒れなかった。  しかし、そこへ瀕死とみえた懐正が躍りかかり、王の胸の剣をさらに押し込んだ。二人は組み合ったまま、泥の中にもんどり打って倒れ込み、お互いに手足を数回ばたつかせた後は、二度と動かなくなった。  徳秀は半身を起こして一部始終を眺めていたが、何の感慨もわかず、傷の痛みすら感じなかった。ただ、血を吸って次第に重くなる羊皮の胴衣を見下ろし、顔をしかめただけである。感情という感情はすべて、茫漠と拡がる大草原に拡散していったかのようだった。  腹の傷に当てられた湿布が取り替えられるたびに、徳秀は薄目を開けてぼんやりと周囲を見回した。身体はほとんど動かず、意識も朦朧としていたが、獣さえも滅多に通らない平原のただ中で、自分は野垂れ死にすることなく、誰かに救けられたということだけは分かっていた。  わずかに頭を起こした徳秀が、口をきく素振りを見せたのは、負傷した日から十数日を過ぎた頃である。このとき枕元に付き添っていたのは金鈴だった。 「お兄様、徳秀お兄様……とうとうお目覚めになりましたのね」  徳秀の手を取った金鈴が泣き笑いしながら言うので、徳秀もかすかに微笑み返した。 「半月も眠り放しでしたので、どれほど心配しましたことか……」 「俺のことなどより……王は、ジェンツェン王はどうされた」  徳秀が臆しがちに尋ねると、金鈴が無言で目を伏せたので、答えは聞くまでもなかった。よく見れば、金鈴がまとっている簡素な衣は高地の国の喪服である。 「そうだったか」と声を落とす徳秀に、金鈴は俯いたが、間もなく部屋を出ていった。扉の外では幼児の甲高い声が母親を呼んでいた。  意識が戻り食事がとれるようになると、徳秀の体力は急速に回復していった。看護役の侍女たちから、眠っていた間の事情を詳しく聞き出し、自分を発見したのがラムポ前王であったことを徳秀は知った。  ジェンツェン王の葬儀はすでに終わっていた。王は唐国の謀叛人から唐国の客人を庇ったのだとされ、高地の国では国をあげてその死を悼んだという。  金鈴公主が夫の突然の死を気丈に乗り越えたこと、そのため皇女には同情と尊敬が集まったこと、そして、新国王には幼い王子ではなく、ラムポ前王が再び即位したということも、徳秀は侍女たちから教えられた。  復位したその国王が病室を訪れ、事件の真相を問い質したのは、徳秀の意識が回復してから二日後のことだったのである。 「──ところで、金鈴が書いたという文はどうなりましたか。死んだ懐正の手元にあったのですか」  苦渋に満ちた息をつくと、王は首を横に振った。 「いや、悪知恵の働く男のことだ。引き渡しの方法に工夫を凝らしていたらしい。もしも、自分に危害が加えられれば、文は思わぬ方法で皇帝の手に渡ると懐正は脅したが、今となってはどうでも良い。手紙は結局見つからなかったが、息子のジェンツェン王も亡いのでは、どれほどの意味があろうか。予が恐れていたのは、金鈴公主の文が原因で、皇帝の不興を買うことだけではなかった。皇帝の怒りに反発した息子が、血気にはやり反唐の暴挙に出ることだったのだ」  ラムポ王は譲位の後も、向こう気が強く狷介な新王を憂い、高地の国の将来を案じ続けたのだった。しかし、その前王の苦労を、ジェンツェン王がどれほど理解していたかと考えたとき、徳秀の胸元につかえていた小さなしこりは、硬く大きく変わっていった。 「ジェンツェン王は最後まで刺客などおらぬと言われたが、現実に王は亡くなった。ジェンツェン王が夢にまで恐れた殺人者とは誰のことだったのか、王には本当に心当たりがないのですか」  徳秀の険しい眼差しに、ラムポ王は一気に十歳ばかり老いたような表情をした。しかし、徳秀は追及を止めなかった。最初にこの国を訪れたとき、王に感じた友情がそうさせるのだった。 「亡き王は私に向かって、自分はラムポ王の実の子ではないという意味のことを言われた。冗談めかしていたが、もしも事実であるとすれば──」  生来の無謀さから国を危うくしかねない文字どおり不肖の息子を、あなたはどう処遇するつもりだったかと、徳秀が尋ね終わらないうちに、ラムポ王は両手で顔を覆い嗚咽した。青ざめた額に食い込む王の指は人並外れて異様に長く、その声は野獣の断末魔のように低く哀切だった。 「あれが予の息子でないわけがあろうか。あれは間違いなく予の愛する息子であった。しかし、そのようなことをあれが言ったのならば、実の親子でなければむしろ良かったと、そう思ったのであろう。予は息子に済まぬことをした……」  徳秀の目の前で慟哭するラムポ王は、どう見ても「刺客」ではあり得なかった。しかし、ジェンツェン王の言う「金鈴から遠ざけたかった男」ならば、十分あり得ることだった。      八 「もう何年も前に太子舎人の職にあった趙懐正という男を覚えておるか。一時は都きっての好き者で鳴らしたときくが」  皇帝の私室に呼び入れられた李徳秀は、突然その名を聞かされ、驚くよりも訝しく思った。皇帝はつい今しがたまで、天竺帰りの高僧、玄奘《げんじよう》と仏法について話し合っていたはずである。それがどうして、取るに足らない懐正のことなど言い出したのだろうか。 「覚えておりますが、その男がどうかしたのでございましょうか」  徳秀は答えながら、今年は貞観二十一年であるから、趙懐正が死にジェンソン・ジェンツェン王が死んでから、もう三年が経つのだなと考えていた。 「それがな、徳秀。高地の国へ招かれておった玄奘の弟子が、先頃帰国したのだが、旅の途中、得体の知れない男に袖を掴まれ、これを唐国の皇帝に手渡して欲しいと、文を一通託されたのだそうな。大勢の手を経てきたのかずいぶん汚れており、朕に渡すべき理由も定かではなかったが、興をそそられて弟子が持ち帰ってしまったため、生真面目な玄奘は無視することもできず、朕に届けてきたというわけだ」  皇帝はそう言って、一枚の紙片を差し出してきた。その途端、軽い眩暈《めまい》とともに、徳秀の記憶は数年の時を一気に遡ったのだった。 「高地の国に嫁いだ金鈴公主から趙懐正へ宛てたもので、本物らしいのだが、特に艶事めいた内容ではない。これがいったいなんだというのか、朕にはさっぱり分からぬので、おまえの意見を聞いてみようと思ってな」  文を手に取った徳秀は、しばらく筆跡や印を確かめていたが、やがて静かに答えた。 「この手紙のことならば、よく存じております。茶番じみた話ですので、陛下のお耳を汚すまでもないのですが、知らぬままでいらっしゃるのも、かえってお気にかかりましょう。つまり、こういうことだったのでございます……」  趙懐正の恐喝についてかいつまんで話しながら、徳秀は三年前、金鈴と別れた日のことを思い出していた。 「おまえは俺に救けを求めてきたというのに、とうとう力になってやれなかった。おまえの夫の命を守ることができず、すまなかった──」  傷もようやく癒え、唐国へ帰ることになった徳秀は、名残を惜しむ金鈴に頭を下げた。三人の男がいかに殺し合ったかの真相は、ラムポ王以外知らないことである。 「お兄様自身ひどいお怪我をなさったというのに、そのようにご自分をお責めになるものではありませんわ」  金鈴は頼りにならない従兄を反対に慰めるが、徳秀の気持ちが晴れるはずもない。 「心残りは、おまえの今後の身の振り方だが……」 「どうかご心配なさらないでくださいませ。私には可愛い二人の子がおりますし、骨の髄からこの国の女のつもりでございますから」  腕の中でむずかる次男をあやしながら、金鈴が微笑んだ。夫を亡くしたばかりの寡婦のものとも、蛮国に一人取り残される皇女のものとも思えない、艶やかな笑みだった。  徳秀はのろのろと床に膝をつくと、金鈴の裳裾の陰にいた長男を引き寄せ、頬まで伸びた髪をかきわけた。ジェンツェン王に似たという王子の耳を、もう一度見ておきたいと思ったのである。  ところが、そのときふと注意を引きつけられたのが幼子の手だった。小指も親指も人一倍長いその手は、子供の祖父にあたる男の手に、あまりにもよく似ていた。  徳秀は王子を抱いて立ち上がると、幼い兄弟の手を見比べ、耳を見比べた。そして、ジェンツェン王を経て二人の王子に流れこんだ、ラムポ王の血の証を認めたのだった。 「金鈴……」  徳秀は髭を引っ張る兄王子にも構わず、静かに問いかけた。 「金鈴、おまえはジェンソン・ジェンツェン王に嫁ぎ、幸せだったか」 「はい。長孫皇后陛下の尊いお導きがございましたから。お陰様で、舅に仕え、夫に尽くし、子を授かることができました。日々婦徳を心がけ貞節を守る、大変幸福な暮らしでございましたわ」  金鈴はおっとりと答えると、徳秀に少女のように愛らしい笑顔を向けた。 「ただ一度だけ、思い惑ったことはございました。嫁いだ日の朝、徳秀お兄様が私におっしゃったような幸せとは、いったいどのようなものであろうかと」 「──すると、この文が引き金となり、息子が唐国に造反することを父王は危惧したというのだな。ジェンソン・ジェンツェン王とは、そこまで向こう見ずな愚か者であったということか。いやはや、クワンツェン・ラムポ王には同情を禁じ得ぬ」  皇帝は真情のこもった声で、巨体を揺らしながら言った。皇帝もまた、息子の不甲斐なさに頭を痛める一人の父親だったのである。  とはいえ、唐国の優柔不断な皇太子と、高地の国の亡きジェンツェン王を同列に比べることはできないと、徳秀は胸の内で考えていた。金鈴公主さえ娶っていなければ──二人の蛮王の間に金鈴さえ現れていなければ、若い王の情熱はあるいはずっと有意義に働いたのではないかと、その巡り合わせを哀れに思うからだった。 「しかしながら、王の死は気の毒なことをした。おまえと趙懐正という一筋縄でいかぬ男が、若くはやり気なジェンツェン王のもとにいちどきに集まり、挙げ句の果てに事が起こったわけであるから。その偶然こそが、王を害した刺客であったな」  険しさを増す甥の表情に気づいた様子もなく、老いた皇帝はいつになく冗舌だった。 「さて、不運にも夫と死に別れた金鈴だが、玄奘の弟子が知らせてきたところによると、三年の喪が明けたので、先月再び輿入れしたそうだ。相手はなんと、舅のラムポ王である。死んだ父の妻は子が受け継ぎ、死んだ子の妻は父が受け継ぐ──我々唐国人には奇異な風習としか思えぬが、蛮国ではそれが伝統とあれば致し方ない……」  打たれたように頭を垂れた徳秀は、ぎこちない手つきで再び金鈴の文を開き、見落としていた部分を探して目を凝らした。金鈴がその文を書いた日を知りたかったのである。 「幸いにも、ラムポ王と金鈴公主は仲睦まじく、皇女は夫の深い理解のもと、かの国のため様々に力を尽くしておるそうだ。唐国より僧を招いて仏教を広め、施薬所を設けて病者を労《いたわ》り、建築や製紙を学ばせるために留学生を送り……」  皇帝の声は、もはや徳秀の耳に入っていなかった。金鈴が母方の従兄に宛てた文の中に、ある日付を見出したからである。まったく同じ月と日は、もう一人の従兄である徳秀が、金鈴から受け取った文にも記されていた。  三月初めのその日には、高地の国では名残の雪が、大長安の都では梨花雪が、冷艶と舞いしきっていたことだろう。  単行本 一九九七年四月 文藝春秋刊 〈底 本〉文春文庫 平成十七年七月十日刊