[#表紙(表紙.jpg)] ほんとはこわい「やさしさ社会」 森 真一 目 次  はじめに   第一章 やさしさを最優先する社会[#「やさしさを最優先する社会」はゴシック体]  1 やさしいきびしさ・きびしいやさしさ  2 治療《ちりよう》としてのやさしさ・予防としてのやさしさ  3 実効性のあるルールとしてのやさしさ   第二章 きびしいやさしさの特徴《とくちよう》[#「きびしいやさしさの特徴《とくちよう》」はゴシック体]  1 敬意の過大評価・修復の過小評価  2 対等性の原則   第三章 どうしてやさしさルールはきびしくなったのか?[#「どうしてやさしさルールはきびしくなったのか?」はゴシック体]  1 人生の自己目的化  2 楽しさ至上主義  3 能力開発への情熱  4 仲間うちでやさしさルールがきびしくなった理由   第四章 やさしさ社会のこわさ[#「やさしさ社会のこわさ」はゴシック体]  1 こわいひとびと  2 伝わらないやさしさ  3 やさしさとかげぐち  4 思いやりの落差拡大と暴力   第五章 気楽なやさしさのすすめ[#「気楽なやさしさのすすめ」はゴシック体]  1 家畜《かちく》をめざすやさしさ社会は、いいものか?  2 人生は楽しいことばかりじゃない  3 やさしさより、気楽さ・気軽さ  4 攻撃《こうげき》の知恵《ちえ》  あとがき [#改ページ] ————————————————————————————  はじめに ————————————————————————————  この本のねらいを紹介《しようかい》しておきます。  現代社会では、やさしさが人間関係のルールとなっています。それはとてもきびしいルールです。その結果、やさしさとは逆の「こわい」現象が起きています。どうしてこのような皮肉なことになっているのでしょう? その理由や原因を考えるのが、本書の一番のねらいです。  現代社会では、「やさしさ」や「やさしいこと」は、ほとんど無条件に「善いこと」とされています。しかし、じっさいに自分の生活をふりかえってみると、かならずしもそう言えないことがわかります。やさしさ社会がもたらしている「しんどさ」や「こわさ」に、あらためて気づくだろうと思います。そこで、もう少しクールにやさしさについて考えることができれば、「しんどさ」や「こわさ」もましにできるのではないか。そんなことを考えて、本書を執筆《しつぴつ》しました。  わたしは社会学を専門にしています。ですから、社会学的な視点で論じています。ただし、むずかしい用語は使っていません。「社会学的に考えるとは、こういう感じなのか」と、社会学のニュアンスを感じとってほしいからです。だから、社会学について何も知らなくても、大丈夫《だいじようぶ》です。  さっそく第一章から、やさしさが現代日本社会できびしいルールとなっていることを説明したいと思いますが、そのように言うと、もう最初からひっかかるひとがいるでしょう。�やさしさが現代社会のルール? いまの社会、ルールなど、あるのか?�と。  たとえば七九|歳《さい》男性の投書(『毎日新聞』二〇〇七年四月二九日付朝刊)をみてください。 [#ここから1字下げ]  社会のルールが守られていないと思う。身近なことで言えば、信号を守らない人がなんと多いことか。/バス停で待つ時も、バラバラ団子になって、バスが着いてから乗降に時間がかかっている。大人だから言われなくても二列ぐらいに並んだらよいのに、といつも思う。今の人たちは「人は人、自分は自分」という自分中心的になっていて、自己主義ではなく利己主義ではないかと思う。そしてお互《たが》いに譲《ゆず》り合《あ》うということもしない。温かみを感じない冷たい心になっているのではないかと思う。/振《ふ》り返《かえ》ってみるに、戦後は混乱もあったが、ここまでの冷たさはなかったように思う。今は物も豊かで生活レベルも当時とは比べものにならないほど上がっているのに、人の心は冷たいと感じる。日本人の気質が変わったように思う。/人にはうっかり注意も出来ない。反発を食らうからである。反発を恐《おそ》れるため何も言えない。だから自分勝手な行動をするようになる。よい傾向《けいこう》ではない。なぜそうなったのかは、よく分からない。 [#ここで字下げ終わり]  「なぜそうなったのか」。過度にやさしいひとが増えたから、やさしさ社会になったから、というのが本書の仮説です。では次章に移って、現代のやさしさとはどういうものなのかから論じていきます。 [#改ページ] ————————————————————————————  第一章 やさしさを最優先する社会 ————————————————————————————  1 やさしいきびしさ・きびしいやさしさ[#「1 やさしいきびしさ・きびしいやさしさ」はゴシック体]  やさしさの意味[#「やさしさの意味」はゴシック体]  この章で説明したいのは、現代社会ではやさしさがもっとも優先される対人関係のルールとなっていること、このルールはきびしいルールで、守るのがたいへんであることです。  そこでまず、やさしさということばについて考えておきましょう。  やさしさということばの意味は、たくさんあります。『広辞苑《こうじえん》(第五版)』の「やさしい」をみると、 [#ここから1字下げ] ㈰身も痩《や》せるように感じる。恥《は》ずかしい。 ㈪周囲や相手に気をつかって控《ひか》え目《め》である。つつましい。 ㈫さし向かうと恥ずかしくなるほど優美である。 ㈬おだやかである。すなおである。おとなしい。温順である。 ㈭悪い影響《えいきよう》を及《およ》ぼさない。 ㈮情け深い。情がこまやかである。 ㈯けなげである。殊勝《しゆしよう》である。神妙《しんみよう》である。 ㉀(「易しい」と書く)ア 簡単である。容易である。 イ わかりやすい。 [#ここで字下げ終わり]  とあります。すっかり定着した「地球、環境《かんきよう》にやさしい」や「肌《はだ》にやさしい」などは、「㈭悪い影響を及ぼさない」に相当します。本書がテーマにしているやさしさは、この㈭に「㈪周囲や相手に気をつかって控え目である」を加えた意味に近いと思います。  『日本人は「やさしい」のか』(竹内整一著、ちくま新書)によると、やさしさ(やさし)ということばの意味は、古代から現代までのあいだに、かなり変化してきています。やさしいということばには、羞恥《しゆうち》・美的理念・倫理《りんり》・情け深さといった意味が次々につけ加わっていき、現在は、ひとを傷つけることに関連した意味あいで使われることが圧倒的《あつとうてき》に多いと、この本は指摘《してき》しています。  とすると、さきほどの「㈭悪い影響」とは、現代では「ひとを傷つけること」を指すと言えそうです。やさしいとは「悪い影響を及ぼさない」ことですから、現代のやさしさとは、�ひとを傷つけないように気を遣《つか》う態度やふるまい�という意味になります。  ただし、ひとを傷つけないという方法はひとつにかぎられません。現代的なやさしさにも、いろいろあるということです。それを、�やさしいきびしさ�と�きびしいやさしさ�を例にあげて説明します。  やさしいきびしさ[#「やさしいきびしさ」はゴシック体]  �やさしいきびしさ�はやや古いタイプのやさしさです。基本的には相手にきびしく接します。ただし、そのきびしさはやさしさにもとづきます。  たとえば、将来、相手が苦労したり傷ついたりしないように、いまは相手にきびしく接して、反省させたり、ある態度や技術を身につけさせるような場合です。  きびしく接するので、相手を傷つけることもあります。しかし、それは、将来の相手のことを思っておこなう行為《こうい》です。�いまきびしくしないと、将来、相手が一人前にならなかったり、恥《はじ》をかくかもしれない。だから、傷つけるかもしれないけれども、相手のことをほんとうに大切に思うなら、ここはきびしく接することにしよう。傷は、いつかは治るのだから�という態度です。  いまではほとんど使われませんが、かつて「愛のムチ」ということばがありました。これはやさしいきびしさの典型例です。職人の世界やスポーツの世界などには、あたりまえのように存在したやさしさのあり方だと思います。  ただし、「愛」の名を借りた、不条理な処罰《しよばつ》やうさばらしがおこなわれていたことは、容易に想像できます。ですから、「愛のムチ」を賛美するつもりはありません。  けれども、やさしいきびしさを実践《じつせん》しない親や指導者は、�甘《あま》やかし�と言われて、周囲から非難されたのも事実です。だから、やさしいきびしさは、ひとを一人前にするのに不可欠な接し方だったと考えられます。  きびしいやさしさ[#「きびしいやさしさ」はゴシック体]  一方�きびしいやさしさ�は、あたらしい、現代的なやさしさです。それは、いま傷つけないように全力を尽《つ》くすこと、を要求します。さきほどのやさしいきびしさが、いまは傷つけるかもしれないが将来を思えば仕方ないと考えるのとは、対照的です。  傷つけないようにする点では、やさしいと言えます。しかし、�絶対にやさしくしないと許さないぞ! もし傷つけたら、それなりの仕返しをするからな!�というような、きびしさが感じられるのです。  具体例として、「謝《あやま》るぐらいなら、最初からあんなことするな!」という発言をあげます。  いまから一〇年ほどまえ、神戸《こうべ》の自宅近くの歩道を歩いていると、女子高校生たちが熱心に何かを話しながら、わたしの横を通りすぎていきました。そのとき、ふと聞こえたのが「謝るぐらいやったら、最初からあんなことせんかったらええのに!」ということばでした。  だれか(A)がこの発言の主(B)に不快なことをしてしまい、それをAは謝罪したのですが、Bには謝罪だけでは気がすまなかった、ということなのでしょう。  これを聞いて、わたしは変な感じがしました。そういうフレーズを使った覚えがなかったからです。わたしの世代がよく使うのは、「ごめんですむなら、警察いらん」です。  そして、次のようにも感じました。�謝罪することになると最初からわかっていれば、AもわざわざBが不快に感じることなどしなかっただろう。どのようなことをしたら相手に不快感をあたえ、傷つけることになるか、すべてをあらかじめ知ることなどできない。だから謝罪することに意味があるのに。もし謝罪が受けいれられないなら、何もできなくなるではないか。きびしい性格の女の子だなあ�と感じたのです。  この発言は、きびしい性格を持つ、この高校生だからこその発言だろうと、そのときは考えていました。  ところが数年後、三重《みえ》県|伊勢《いせ》市で働くようになって、ふたたび、女子高校生が「謝るぐらいなら、最初からあんなことするな!」と話しているのを耳にしたのです。さらにしばらくして、今度は同僚《どうりよう》の先生が、おなじ発言をしていました。  こうなってくると、神戸でわたしが聞いた発言は、たんに彼女《かのじよ》のきびしい性格ゆえの発言だとは考えにくく、ひとつの社会的ルールをあらわしていると推測されます。もちろん、わたしのまわりに、たまたまきびしい性格のひとがいただけ、という可能性もあります。しかし、このような発言にあらわれている考え方は、若者を中心にすでに定着している、とわたしは感じています。  この、「謝るぐらいなら、最初からするな」という発言にあらわれた考え方こそが、�きびしいやさしさ�です。傷つけないようにする点で、この考え方はやさしいと言えます。しかし、そこには、�相手を不快にしたり、傷つけたりしないよう、いま全力をあげて努力しろ!��もしわたしを傷つけたら、許さないぞ�というきびしさがうかがえます。だから、きびしいやさしさ、なのです。  2 治療《ちりよう》としてのやさしさ・[#「2 治療《ちりよう》としてのやさしさ・」はゴシック体]       予防としてのやさしさ [#ここで字下げ終わり]  きびしいやさしさという現代的ルールをさらに具体的に描《えが》くため、ここでは精神科医|大平健《おおひらけん》の『やさしさの精神病理』(岩波新書)を参照します。  この本で大平は、「行きすぎたやさしさ」とでも言いうる態度を示す若者が増えてきていることを指摘《してき》しています。  電車でお年寄りに席をゆずろうと思ったけれども、気分を害するかもしれないと考え、寝《ね》たふりをして周囲の「無神経なおとな」の視線をやりすごした女の子。一度性的関係を持った女性にやさしくするため、相手のことをたいして好きでもないのに結婚《けつこん》しようとする二八|歳《さい》の男性。親の期待した高校に進学できず、親をがっかりさせてしまったことを後悔《こうかい》し、今度は親をよろこばせるために塾《じゆく》に通って短大に進学しようと決意したものの、塾の費用など、お金の話をしてふたたび親をがっかりさせたくないし、と考えているうちに不眠症《ふみんしよう》になった女子高校生。これらが「行きすぎたやさしさ」の例です。  大平によると、やさしさが若者を中心に価値を持ちはじめたのは、一九七〇年前後のことです。その後急速に日本社会が豊かになるにつれて、モノや身体に傷がつくことに、ひとびとは敏感《びんかん》になりました。そしてこの敏感さは、こころにまでおよびます。 [#ここから1字下げ]  こういう風潮の中で、やさしさ[#「やさしさ」に傍点]もさらに変化してゆきます。それは、治療としての「やさしさ」から予防としての�やさしさ�へという変化でした。お互《たが》いのココロの傷を舐《な》めあう「やさしさ」よりも、お互いを傷つけない�やさしさ�の方が、滑《なめ》らかな人間関係を維持《いじ》するのにはよい。そういうことになったのです。(大平健『やさしさの精神病理』、傍点《ぼうてん》原著者) [#ここで字下げ終わり]  治療としてのやさしさ(以下、治療的やさしさ)も、予防としてのやさしさ(以下、予防的やさしさ)も、こころが傷つくのは良くないことだとみなし、やさしくすることで滑らかな人間関係を保とうとします。  ただし、こころの傷への対処法が異なります。治療的やさしさは、相手につけてしまった傷をことばで癒《いや》すことこそ、やさしさだ、と考えます。一方の予防的やさしさは、相手に傷をつけないようにすることこそ、やさしさだ、とみなします。  この違《ちが》いは、「傷」についての考え方の違いに由来するように思います。やさしいきびしさや治療的やさしさでは、傷はいつかは治るもの、ととらえています。しかし、きびしいやさしさ・予防的やさしさは、傷はいつまでたっても傷のまま残る、と考えているふしがあります。  傷がつくことを過大に考える点で、治療的やさしさと予防的やさしさをくらべると、後者のほうが守るのがよりむずかしく、きびしい対人関係のルールと言えるでしょう。  治療的やさしさには、�ひとはそのつもりがなくても、思いがけずだれかを傷つけてしまうことがある。そのときには、ことばで癒してあげればいい、それがやさしさだ。傷はいつかは治るのだ�という余裕《よゆう》があります。  それにたいして、予防的やさしさには、その余裕がありません。傷をつけたら一生消えないかのように考えます。しかし、何をすれば相手が傷つくのかを、最初にすべて正確に予測するのは不可能です。その不可能なことを要求するのが、予防的やさしさというルールなのです。  しばらく、わたしの身近にあった予防的やさしさの例を紹介《しようかい》します。  ㈰「わたし、〜が好きかもしれない」[#「㈰「わたし、〜が好きかもしれない」」はゴシック体]  これは、学生同士が会話しているときに登場したフレーズです。ふたりの学生が、好きな映画|監督《かんとく》について話していました。一方の学生が、A監督は好きだが、Bは嫌《きら》いだ、と述べたのにたいし、もう一方の学生は「わたしはBが好きかもしれない」と応じたのです。  この会話は、わたしには奇妙《きみよう》に聞こえました。ここにいない第三者の感情や好みを推測するときには、�Xさんは〜が好きかもしれない�と言うでしょう。だから、自分の感情や好き嫌いについて、�わたしは〜が好きかもしれない�と言うのは、自分のことなのにまるで第三者の好き嫌いを推測するかのような発言であり、変な感じがします。  けれども、この発言も、発言がなされた状況《じようきよう》を考慮《こうりよ》にいれれば、変ではなくなります。「Bが好きだ」と断定するような言い方だと、「Bは嫌い」と述べた友人を否定し、傷つけてしまうのではないか、と無意識のうちに判断したのです。そこで、相手を傷つけないよう配慮しながら自己主張した結果、「好きかもしれない」という言い方になったのだと思われます。  ㈪教室での私語[#「㈪教室での私語」はゴシック体]  いまから七〜八年前、大学の校内を歩いていると、学生同士がベンチに腰《こし》かけて、何かを熱心に話しています。そのそばを通りすぎるとき、次のように言うのが聞こえました。「話しかけてきたヤツに悪いから、つい話に乗ってしまうよな」と。  この発言をした学生は、おそらく悪いことをしているなと感じながら、授業中に私語してしまったのでしょう。それを後悔しているような口ぶりです。私語したことに自己|嫌悪《けんお》している感じでした。もしかすると、直前の授業で先生に怒《おこ》られたか、教室を追いだされたのかもしれません。  もちろん、私語したことについてのたんなるいいわけともとれます。ですが、それだけではないような気がするのです。大学で私語が増加している原因の一端《いつたん》が、ここにあると思います。  授業中に話しかけてきた、隣《とな》りの席の友人の話に応じないと、相手を傷つけてしまうかもしれない。その結果、授業|終了《しゆうりよう》後のつきあいがギクシャクし、仲間はずれにされるかもしれない。そうならないためにも、相手の「いま話したい」という気持ちを気遣って、善くないと思いながらもつい私語してしまう。そして、そんな自分に嫌悪感を持つ。そういうことが、あちこちの大学で起きているのでしょう。  もちろん、やさしさだけが、授業中の私語増加の原因だと言うつもりはありません。授業に楽しさ・おもしろさをもとめる学生が増えたこと、不本意入学者が増えたことなども関係があるでしょう。  けれども、予防的やさしさも重要な要因のひとつと考えられます。少なくとも、私語を発生させるきっかけになり、私語を続けさせる要因になっていると、推測されるのです。  ㈫わざと顔をゆがめて友人とプリクラを撮《と》る[#「㈫わざと顔をゆがめて友人とプリクラを撮《と》る」はゴシック体]  これは、わたしが知人から聞いた話です。その知人はテレビで、ある女子高校生のエピソードを知ったとのことでした。  その高校生は、友人とプリクラを撮るとき、わざと顔をゆがめて「ブス」に写るようにするそうです。友人が周囲のひとにプリクラをみせるとき、傷つくことがないようにと考えてそうするのだ、とテレビでは話していたそうです。  この話を聞いてまず感じるのは、彼女にたいする不快や反発だと思います。もし、当の友人がこの話を知ったら、�あんた、何様のつもり?!�と怒るでしょう。  しかしここでは、読者のみなさんに百歩ゆずってもらって、この高校生(A)の立場になって想像してみます。  もしかするとAには、次のような経験があったのかもしれません。いっしょにプリクラを撮った友人Bが、ある日、知りあい(C)にそのプリクラをみせたとき、「いっしょに写っている子(A)、すごくかわいいね」と言われた経験があって、そのエピソードをBがAに伝えます。そのときAは、�Bを傷つけてしまった、わたしは配慮が足らなかった、今度は気をつけよう�と反省し、その後Aは顔をゆがめてプリクラを撮るようになった、と。  これは、わたしの勝手な想像にすぎません。しかし、予防的やさしさがこれだけ浸透《しんとう》していれば、こういうことが起きても不思議はないと思います。この高校生の傲慢《ごうまん》とも思える奇妙なふるまいも、本人としては真剣《しんけん》にやさしくしようとした結果ではないか、と思うのです。  ㈬あだ名とケンカの消滅《しようめつ》[#「㈬あだ名とケンカの消滅《しようめつ》」はゴシック体]  最後の例として、あだ名とケンカの消滅をあげましょう。  最近、友人の呼び方が、あだ名ではなく、ニックネームのようなものになっています。典型的なのは、氏名を縮めるものです。たとえば「もりしんいち」なら「もりしん」というふうに。あとは、名字や名前に「〜っち」や「〜りん」をつけるぐらいでしょう。  しかし、わたしの小学校一年生のときのあだ名は「もりゴリラ」でした。からだが大きいので、そう呼ばれたのです。  わたしの場合のように、かつては、そのひとの身体的|特徴《とくちよう》をあらわすことばが、あだ名としてよく使われていました。たとえば、中学時代は「だちょう」というあだ名の同級生がいました。名前のうえに「チビ〜」とつけるのもよくあるパターンです。  こういうあだ名は絶滅しかけているようです。相手を傷つける、と思われているからです。かつて、「ゴリラ」も「だちょう」も、相手を傷つけるために使われたのではありません。むしろ、親しみをあらわすためだったと思います。しかし、いま、このようなあだ名で呼べば、相手を傷つけてしまう、と多くのひとは判断するでしょう。いじめととられるおそれもあります。  ただし、相手が目の前にいないときには、この種のあだ名はひんぱんに使われています。憎《にく》しみやからかい、怒《いか》りをこめて。  また、ケンカしているひとも、すっかりみかけなくなりました。これも小学校時代の話ですが、わたしは名前のことで毎日のようにケンカしていました。わたしの名前は「もりしんいち」、母親が「もりみつこ」。親子で芸能人とおなじ名前なのです。それをネタに、しばしばわたしはからかわれ、ケンカになりました。でも、それはわたしにかぎりません。授業中に突然《とつぜん》つかみあいや殴《なぐ》りあいがはじまることは、日常|茶飯事《さはんじ》でした。  現在の小学生もたまにはケンカするでしょうが、かなり少ないように思います。たとえば、むかしは「おまえのかあさん、デーベーソ」というような悪口歌・はやしたて歌が小学校などでひんぱんに歌われました。けれども一九九〇年代から減ったそうです。いまは、はやしたては「いじめ」と受けとられ、また悪口を言われても言いかえすことがないとのことです(『朝日新聞』二〇〇七年八月二七日付朝刊)。  おとなについても同様です。わたしが子どものころには、おとながケンカしているのをよくみかけました。けれども、最近はほとんどみかけません。一方的にだれかがだれかに怒鳴《どな》っているのをみかけるぐらいです。とくに、中年の客が従業員に怒鳴りつけているというケースが多いです。  これはテレビで聞いた話ですが、かつては番組作りのことでプロデューサーとディレクターがつかみあいのケンカをすることなど、めずらしいことではなかったそうです。いまではそんな場面をみかけることがなくなったと、あるタレントが話していました。  このような、あだ名・ケンカの消滅も、予防的やさしさの浸透をあらわしている、とわたしは解釈《かいしやく》しています。  3 実効性のあるルールとしてのやさしさ[#「3 実効性のあるルールとしてのやさしさ」はゴシック体]  効力のあるルール・ないルール[#「効力のあるルール・ないルール」はゴシック体]  さて、ここまでは、現代のやさしさが「やさしいきびしさ→きびしいやさしさ」「治療的やさしさ→予防的やさしさ」というふうに、変化してきていることを論じてきました。本書がとくに問題にしているのは、きびしいやさしさと予防的やさしさです。  そして現在、このきびしいやさしさ・予防的やさしさこそが、多数のひとにとってのやさしさであり、対人関係のルールなのです。  念のために確認《かくにん》しておきますが、きびしいやさしさや予防的やさしさが「ほんとう」のやさしさだなどと言いたいわけではありません。また本書は、ほんとうのやさしさとは何かを考えるのが目的でもありません。現実に多くのひとが実行しているやさしさについて考えるのが目的です(以下、たんにやさしさと言う場合、きびしいやさしさ・予防的やさしさのことを指しています)。  話を戻《もど》しましょう。社会にはさまざまなルールがあります。ルールとは�ひとが何かを判断・評価したり、行為するときの基準�です。この意味で、やさしさはひとつのルールです。多くのひとが、友だちや周囲のひとといっしょに行動するとき、やさしさを基準に行為しているからです。  しかもやさしさは、さまざまなルールのなかでも、数少ない、実効性のあるルールです。  ルールにはじっさいに効力・効果のあるものと、あまりないものがあります。実効性があるかないかをわける基準は、ルールを守らなかったひとがいたとき、それをみかけたひとが違反者《いはんしや》にすぐ処罰を加えようとするかどうかにあります。あるいは、違反者自身も、ルールに違反している自分に罪悪感を持つような場合、そのルールには実効性があると考えられます。  実効性があまりないルールのひとつは「駐車《ちゆうしや》禁止」のルールです。道路交通法という法律によって、道路のある部分には駐車してはいけないというルールが定められています。けれども、警察官や民間交通|巡視員《じゆんしいん》ではない一般人《いつぱんじん》が、違法駐車をしている車をみつけたとき、違反者に注意して違反をやめさせたり、違反者をにらみつけたりすることはありません。だから、駐車禁止というルールの実効性は比較的《ひかくてき》低い、と言えるでしょう(だからといって、駐車禁止のルールに従わなくていいということでは、もちろんありません)。  もうひとつ例をあげましょう。関西の京阪神《けいはんしん》地域を走る阪急電車には、「携帯《けいたい》電話電源OFF車両」が設《もう》けられています。一番前と一番後ろの車両では、携帯電話の電源を切らなければならないというルールがあるのです。けれども、阪急電車に乗ったことのあるひとなら知っていると思いますが、電源を切るどころか、携帯電話でメールしている乗客はいくらでもいます。車内アナウンスでくりかえし注意していますから、他の車両より少なめですが、けっこういます。でも乗客はだれも注意しません(恥ずかしながら、わたしもです)。一度だけ、品の良さそうなおばさんが、隣《となり》でメールしている大学生風の女性に注意しているのをみかけたことがあります。でもその一度だけです。だから、このルールも実効性はほとんどないと言えるでしょう(阪急電車のひとに叱《しか》られそうですが)。  一方、やさしさのルールは、はるかに実効性があります。以下、そのことについて説明していきます。  まず、道路や電車内といった公共空間では、ルールが少なくともふたつに多層化しています。一方の層は�公式ルール�、他方の層は�非公式ルール�です。  前者の公式ルールには、「駐車禁止」のように、議会や行政府が決めた法、あるいは、「携帯電話電源OFF車両」のように、企業《きぎよう》が公共の秩序《ちつじよ》やマナーを考慮して決めたルール、その他、学校の校則、「常識」という名のルール、などがふくまれます。公式ルールは、どういう場所ではどういうことをしてはいけないかなどが、明確に決められており、ことばではっきり書くことができます。  非公式ルールは、いつのまにかひとびとのあいだにできている暗黙《あんもく》のルールです。だから、はっきりことばにあらわされることも少なく、内容も法律のように明確ではありません。非公式ルールの代表が、やさしさのルールです。  現代の公共空間には、公式ルールと非公式ルールに葛藤《かつとう》が起きることが多く、わたしはそれを「マナー神経症」と呼んだことがあります(拙著《せつちよ》『日本はなぜ諍《いさか》いの多い国になったのか』中公新書ラクレ)。葛藤が、神経症の本質的特徴だからです。  やさしさルールのパワー[#「やさしさルールのパワー」はゴシック体]  葛藤するふたつのルールのうち、実効性の強さでいえば、非公式ルールのほうが強力です。公式ルールに違反しても、違反の現場にたまたまいあわせた一般人が直接、違反者をとがめ、処罰することはめったにありません。もし違反者を注意すれば、注意したひとが�目の前の相手に恥をかかせてはいけない�というやさしさのルール、非公式ルールに違反して、制裁が加えられます。  たとえば、次の投書(『毎日新聞』二〇〇二年四月一四日付朝刊)をみてください。 [#ここで字下げ終わり]  最近、他人を注意することをためらっている。誰《だれ》もが常識的と思っているマナー違反を注意した時、反対ににらまれてしまったためである。例を挙げる。/路地から飛び出して来た犬が自転車に衝突《しようとつ》しそうになった。自転車の後ろを歩いていた私は思わず「危ない」と声を上げ、飼い主の女性に放し飼いを注意。/また、バス乗車前から携帯電話をかけ続け、乗車してからも話しっぱなしの女性。車内放送で注意されても知らん顔。思わず降りる時に声を掛《か》けた。/だが、いずれもにらまれてしまい、情けない気持ちになった。一言でいい、謝罪の言葉が聞きたかっただけなのに、なぜにらまれなければならないのか。/一日中気分が悪かった。当たり前のことなど注意はしたくない。そのうち注意したら殴られるなんてことになりかねないので、やはりためらってしまう。 [#ここで字下げ終わり]  投書者は、�ペットは飼い主が責任をもって管理し、放し飼いなどしてはいけない�という公式ルールに違反している飼い主に注意しました。すると、注意された飼い主は、注意した投書者をにらみつけたのです。次に、�バスなどの公共交通機関を利用するときは、周囲のひとの迷惑《めいわく》を考えて、携帯電話での通話は控えるべき�という公式ルールに従わない女性にも注意しました。ふたたび投書者は相手ににらまれてしまいました。  公式ルール違反者への注意という処罰。非公式ルール違反者を「にらむ」という処罰。どちらがより効力を持つかといえば、後者でしょう。なぜなら、投書者はもう注意するのをやめよう、と考えたからです。これからは非公式ルールに従うことを、投書者は選択《せんたく》しようとしているからです。「はじめに」で紹介した七九歳の投書者もおなじでした。  さきほどわたしは、やさしさルールは非公式ルールの代表、と言いました。そういう意味では、投書者は「やさしくない」ひとでした。しかし、にらまれるという処罰を受けた結果、「やさしい」ひとになっていきます。目の前にいるひとに注意して恥をかかせるようなことを避《さ》ける、予防的やさしさのひとへと変身していくわけです。  こうして、公式ルールに従うひとは、非公式的やさしさルールに駆逐《くちく》されていきます。これが、やさしさが最優先される社会のパワーです。  さて次章では、きびしいやさしさ・予防的やさしさの特徴を、さらにつっこんで考えていくことにしましょう。 [#改ページ] ————————————————————————————  第二章 きびしいやさしさの特徴《とくちよう》 ————————————————————————————  1 敬意の過大評価・修復の過小評価[#「1 敬意の過大評価・修復の過小評価」はゴシック体]  近代社会は人格を崇拝してなりたっている[#「近代社会は人格を崇拝してなりたっている」はゴシック体]  まず、そもそも社会はどのようになりたっているのでしょうか。  社会学では、社会は何らかの共通の道徳にもとづいて成立する、と考えます。たとえば、ほとんどの社会にはこれまで宗教という共通の道徳が存在し、それを信じるひとびとによって社会がなりたってきました。 �社会を形成するほうが、われわれの生活にとって効率的だ�というような合理的な判断によってではなく、何が善で何が悪かを教えてくれる道徳を信じるという、一種の非合理的な感情によって社会はできている、というわけです。  時代が下るにつれ、それぞれの社会は、たとえば商業的利益をもとめて、交流することが増え、結びつきを緊密《きんみつ》にしていきます。すると、さまざまな文化や伝統・道徳を持つひとびとが、自国にも増えていきます。とくに、都市がそうです。また、生産力を上昇《じようしよう》させるため、分業がおこなわれるようになると、ある特定の仕事を専門にするひとたちがあらわれます。彼《かれ》らもまた、それぞれ独自の考え方を持つようになります。  この、近代化と呼ばれる社会変動は、多様な道徳を持つひとびとで社会をつくるという危機をもたらしました。なぜ危機かというと、共通性が欠如《けつじよ》しているからです。この危機を近代社会はどのように乗りこえたか。「人格崇拝」というあらたな道徳を生みだすことによってである、と社会学では考えます。  それぞれのひとが信じる宗教や道徳は違《ちが》うかもしれない。けれども、それぞれのひとには「神聖|不可侵《ふかしん》な人格」がそなわっているという点で、共通している。この共通点をあらたな「道徳」の基盤《きばん》として、近代社会は登場した。神に代わって人格を神聖なものとして崇拝することで、近代社会はなりたっている、というわけです。  人間関係には思いやりと自尊心が不可欠[#「人間関係には思いやりと自尊心が不可欠」はゴシック体]  この道徳は、「相互行為儀礼」を通して、維持《いじ》されています。相互行為儀礼とは、相手と自分の人格やメンツ、プライドを守るためにおこなう、日常的な儀礼的行為です。  まず、相手の人格を守る「敬意」があります。たとえば、相手を認めていることを積極的に「提示」する行為です。あいさつする、相手の目をみて話を聞く、微笑《ほほえ》みながら話す、相手の話はおもしろくないけれども楽しそうに熱心に聞く、相手をほめる、といった行動です。また、相手の人格やプライドを傷つけそうなことは「回避《かいひ》」しようとします。相手が話しているときにあくびをかみ殺す、相手の失敗をみてみぬふりをする、相手を傷つけそうな話題を持ちださない、といった行動です。こういった提示行動や回避行動によって、「わたしはあなたの人格を神聖なものと認めている」というメッセージを、暗黙《あんもく》のうちに伝えているのです。他者への配慮《はいりよ》、思いやりの側面と言えるでしょう。  一方、自分の人格を守るための「品行」行動もあります。その集団や場にふさわしいふるまいや話し方をする、からかわれたときには怒《おこ》ってみせるといった行動のことです。品行を通して、「わたしにもあなたとおなじように、傷つけてはならない神聖な人格がそなわっている」というメッセージを送っているのです。  日本社会では、へりくだった態度が重視されますが、どこまでもへりくだっていいわけではありません。それが卑屈《ひくつ》のレベルにまでなると、周囲のひとはかえって居心地《いごこち》が悪くなってしまいます。  たとえば、『一番大切な人の怒らせ方』(制作・発売元/ビクターエンタテインメント)というDVDがあります。架空《かくう》の大学教授が登場して、家族や友人を怒らせるための方法を紹介する、エンターテインメントです。そのDVDで、友人の怒らせ方のひとつとして紹介されているのが「卑屈」です。カラオケに行こうと誘《さそ》いにきた友人たちにむかって「しょせん、オレなんて……」とくりかえすだけ。ほんとうにこれを実践《じつせん》すれば、たしかに友人たちはあきれ、怒るでしょう。  だから、うそでもプライドをみせないと、周囲のひとも困ってしまうのです。自分を守ることもできなくなり、いじめられる一因ともなります。人間関係がなりたつには、自尊心が必要というわけです。  このようにひとびとは、敬意(思いやり)と品行(自尊心)によって、たがいに相手と自分の「神聖」な人格を守ります。でもときどき失敗することがあります。あいさつするのを忘れたり、思わぬひとことが相手を傷つけてしまうような場合です。このとき、「修復」行動がおこなわれるのが一般的《いつぱんてき》です。その典型が謝罪です。  謝罪は敬意でもあり品行でもあります。「すみません」と謝《あやま》ることで、�わたしはあなたを傷つけるつもりではなかった�というメッセージを送り、相手の「神聖」な人格を認めていることを伝えます。同時に、自分が謝罪のできる礼儀をこころえた人間であることを示して、自分にも「神聖」な人格があることを伝えるのです。  きびしいやさしさと相互行為[#「きびしいやさしさと相互行為」はゴシック体]  近代社会では、ひとびとの関係が敬意・品行・修復でなりたっていることを説明してきました。では、きびしいやさしさ・予防的やさしさは、相互行為儀礼として、どのような特徴を持っているのでしょう。  それは、敬意を過剰《かじよう》に強調し、修復の意味を過小評価する態度です。  この傾向《けいこう》は、前章で紹介した「謝るぐらいなら、最初からするな」という発言にもあらわれています。この発言には、�傷つけないよう、全力をあげて努力しろ! もし失敗して傷つけたら、謝ったぐらいでは許さない!�というきびしさがあります。失敗したら謝ればいい、という余裕《よゆう》は感じられません。そういう意味で、修復の重要性が小さくなっている、と考えられるのです。  治療的《ちりようてき》やさしさと予防的やさしさについても、同様のことがいえます。治療的やさしさは、不本意にも相手を傷つけてしまったとき、その傷を癒《いや》そうとすることが、やさしさでした。修復こそがやさしさ、なのです。  一方の予防的やさしさは、傷つけることを回避することがやさしさです。ということは、修復は最初から考慮にいれられていないのです。傷つけたら終わり、という感じです。そう考えると予防的やさしさは、やはりとてもきびしいルールなのです。  ただし、敬意の過大評価・修復の過小評価という特徴は、相手が比較的距離感《ひかくてききよりかん》のあるひとか、それとも仲間や友人なのかによって、多少異なります。  距離感のあるひとが相手の場合は、敬意のうち、回避が多く実践されるようです。たとえば、『やさしさの精神病理』に登場する、ある少女の発言をみてください。 [#ここから1字下げ]  この間、学校へ行く時、ふだんなら坐《すわ》れないのに、突然《とつぜん》、前の席が空いて坐れちゃったのね。そしたら次の次(の駅)ぐらいの時、オジイさんが私の前に立ってェ、私、立ったげようかなって思ったけど、最近の年寄りって元気な人、多いじゃないですか。ウチのおばあちゃんなんかも私たち孫以外の人がオバアさんなんて言ったら、もうプンプンだからァ、このオジイさんも年寄り扱《あつか》いしたら気を悪くするかなあ、なんて考えてたらァ、立つのやめた方がいいか、なんて考えてェ、寝《ね》たふりをしちゃったの(中略)寝たふりしたのはねえ、私たちのやさしさ分かんない大人とかが、「この子、席も立たないで」みたいな目つきでジロジロみるからなのよ。 [#ここで字下げ終わり]  この少女にとって、電車でたまたまいっしょになった見知らぬお年寄りは、少し自分から距離があると感じられるひとです。そういう相手にたいして、席を代わることを控《ひか》えるという仕方で、気を悪くさせないようにしています。つまり、回避によって予防的やさしさを実践しているのです。  それにたいして、友人や仲間関係では、回避だけでなく提示も大切になってきます。�みんなといて、楽しい!�ということを積極的に提示することで、おたがいを守っているのです。具体的には「キャラ」的人間関係の実践です。  「キャラ」的関係について論じる前に、きびしいやさしさの重要な特徴である、対等性の原則について説明します。  2 対等性の原則[#「2 対等性の原則」はゴシック体]  上から目線にムカつく[#「上から目線にムカつく」はゴシック体]  対等性の原則とは�人間関係、とくに仲間うちの人間関係は、対等であるべき�という原則を意味します。たとえば、前章で紹介した、わざと顔をゆがめてプリクラを撮《と》る女子高校生の例が、この原則にあてはまります。友人との優劣《ゆうれつ》関係を何とかなくそうとしていたからです。  また、多くの若者が友人には悩《なや》みを相談しないようなのですが、この現象も対等性の原則から理解可能です。  学生に、�あなたは友人に悩みを打ちあけるか、打ちあけないとしたらその理由は何なのか�というテーマのレポートを何年かだしてきました。  すると多くの学生が、友人に悩みを打ちあけたり相談したりしない、と答えたのです。学生があげた理由はさまざまですが、とくに目をひいたのが、「もし相談したら、相談した自分が相手よりも一段下の立場になり、対等な関係でなくなるから」という答えと、「友人といっしょにいる時間は限られているのだから、せっかくの時間を相談のような重い話題で暗くせず、あたりさわりのない明るい話題をして、楽しくすごしたい」という答えでした。  このふたつの答えはリンクしています。�相談して友人関係に重い空気が流れたり、上下関係ができると、楽しくなくなるし、一段下の立場になったひとは傷ついてしまう。だからこそ友人には相談しない�というわけです。  対等性の原則を示す別の例として、価値観や意見の押《お》しつけにたいする強い嫌悪感《けんおかん》、があげられるでしょう。価値観・意見の押しつけは、現代人がもっとも嫌《きら》うことのひとつです。価値観や意見を述べるだけで、そのつもりはないのに「押しつけ」と受けとられることも多いようです。  このような雰囲気《ふんいき》ができあがっているのも、対等性の原則が強化してきて、上下関係になりそうなことがらに敏感《びんかん》になってきているからです。つまり、意見や価値観を表明するひとが上位・優位を占《し》め、それを聞かされる側が下位・劣位にいるかのように感じるのです。意見を聞かされる側は、その意見に自分をあわせないといけないかのように感じ、それが下位・劣位にいる自分を思わせるのでしょう。だから、押しつけと感じ、強い嫌悪感を持つわけです。  もうひとつ例をあげましょう。いつのまにか定着した言いまわしに「上から目線」があります。「○○は�上から目線�でもの言うから、めっちゃムカつく!」などという表現をしばしば聞きます。偉《えら》そうな話し方をする相手の態度を批判しているのです。  「上から目線」が定着したのも、身近な人間関係における対等性へのこだわりがあるからです。相手が対等な関係を持とうとしているかどうかに敏感だからこそ、「上から目線」という表現が日常会話にひんぱんに登場してくるのです。  さらに別の例をあげます。大学一年生が入学当初、大学で知りあったひととどんな話をして盛りあがっていると思いますか。彼らは熱心に、高校時代の偏差値《へんさち》について話しているのです。�高校〜年生のときは、模試で偏差値○○だったけど、そのあと△△にさがって……�といった話です。  どうしてこういう話題に熱心なのでしょう。不本意入学をしたという思いから、�ほんとうはもっと偏差値の高い大学に入れたんだぞ�ということを暗に示しているのかもしれません。しかしわたしの考えでは、偏差値の対等なひとを友人にしたいと無意識のうちに思って、それで高校時代の偏差値についての情報|交換《こうかん》をしているのです。たとえば、ある男子大学生は「受験偏差値プラスマイナス5前後の大学生と入学後も付き合う」と語っています(原孝《はらたかし》『喋《しやべ》りたい若者たち 喋らせない大人たち』文眞堂《ぶんしんどう》)。  対等性の原則にこだわるひとたちの様子が、わかってもらえたでしょうか。  少しのあいだでも上下関係になりたくない[#「少しのあいだでも上下関係になりたくない」はゴシック体]  対等性の原則は、あらゆる差異を認めないわけではありません。たとえば横の差異は認めます。縦の差異、上下の差異が容認《ようにん》できないのです。  横の差異は、ファッションや身につけるもの、趣味《しゆみ》の違《ちが》いなどを意味します。それら横の差異も、縦の差異になりえます。たとえば、センスの良《よ》し悪《あ》し、家庭の経済状態の格差などによって、ファッションセンスの良いひと/悪いひと、というふうに縦の差異が生じるおそれがあります。じっさい、街を歩いているときや大学構内で、たがいに相手のファッションや持ち物、化粧《けしよう》の仕方などを一瞬《いつしゆん》のうちに格づけしあい、「勝った!」「負けた……」と、こころのなかで一喜一憂《いつきいちゆう》している女性は多いようです。  けれども、友人といるときには、どんなにこころのなかで「勝った」と思っても、対等性の原則に従う彼ら・彼女《かのじよ》らが、それを表にだすことはありません。そういった縦の差異を�趣味が違うから�というふうに、横の差異へと変換して、上下関係が表面化しないよう配慮するのです。  それにたいして、友人の意見を受けいれるとか、友人に相談するという行為は、「意見を言うひと=上位/意見を聞かされるひと=下位」、「相談されるひと=上位/相談するひと=下位」というふうに、上下の違いが明確で、しかも横の差異へと変換しにくいために、嫌悪されるのでしょう。だから、これらの行為を慎重《しんちよう》に避《さ》けようとします。  自慢話《じまんばなし》など、もってのほかです。そんなことをすれば、すぐ「自己チュー」のレッテルを貼《は》られてしまいます。友人とのあいだに上下関係ができてしまうことを考慮にいれず、自分の言いたいことだけ言っている、という意味で「自己中心的」と判断されてしまうわけです。  ただし、友人への相談などが、上下や優劣の関係とはならないケースも存在します。おたがいに悩みを打ちあけあうような場合が、それです。たとえば、ある日AさんがBさんに悩みを相談します。その時点では、AがBの上位(A>B)かもしれません。しかし、また別の日に、今度はBがAに相談したとすれば、ここではA<Bとなり、長い目でみると、AもBも対等と考えられます。  このように上下関係が固定しないで、ある時点では一方が上位に、別の時点では他方が上位に、というふうに、ある時間|幅《はば》のなかで上位・下位の役割を交代すれば、トータルでは対等な関係を持つことができます。  理論上はそうなのですが、じっさいには相談も自慢話もしない。ほんの少しのあいだでも友人と上下関係になりたくないと強く感じている証拠《しようこ》です。対等性の原則は、それほど強力なルールなのです。  このことは、きびしいやさしさ・予防的やさしさの特徴である、「現在」の強調とも関連します。�いま、傷つけないようにふるまうこと�がもとめられるからです。それにたいし、�やさしいきびしさ�は、�いまは傷つけてしまうかもしれないが、将来に役立つだろう�と考えてきびしくしたのでした。視線は未来・将来にあるのです。  「現在」の強調は、上下関係ということで言えば、�いま、この場で、優劣関係をつくるな!�となります。まさしく�少しの時間も優劣関係になりたくない�という願望と重なるのです。  上下・優劣の関係を回避しようとする理由は、若いひとたちの自信のなさや心理的な弱さにある、と考えるひとは多いでしょう。そういうケースもあるとは思います。  しかし、それでもこの種の見解に違和感《いわかん》があるのは、自信があるひとも対等性の原則を守ろうとするからです。対等性の原則に従うのが、自信のない心理的に弱いひとたちだけなら、この種の見解にも妥当性《だとうせい》があるでしょう。けれども、対等性の原則を守るかどうかと、自信があるかないか、心理的に弱いかどうかは、無関係に思えるのです。  「キャラ」は楽しくすごすための発明[#「「キャラ」は楽しくすごすための発明」はゴシック体]  なぜ対等性の原則を多くのひとは、これほどまじめに守ろうとするのでしょうか。その最大の理由は、「楽しく時間をすごす」ことと関係します。ここで重要となってくるのが、さきほど指摘《してき》した、「キャラ」的関係です。  集団で楽しく時間をすごすための人間関係の作り方として、若いひとたちを中心に、「キャラ」が「発明」されました。「キャラ」には、つっこみ役、つっこまれ役、なだめ役、かわいいキャラ、キレキャラ、クールキャラなど、たくさんあります。  わたしの解釈《かいしやく》では、「キャラ」は「お笑いタレント」と呼ばれるひとたちのふるまいを参考にして、素人《しろうと》の若者たちが日常生活にとりいれた、人間関係の作り方です。  「キャラ」はもちろん「キャラクター」の略で、「配役、登場人物」という意味の英語です。小説や劇、映画、マンガなどに登場する、ひとつひとつの役柄《やくがら》が「キャラクター」です。「キャラクター」は、映画などの物語全体を結末にむけてスムーズに進行させ、またストーリーをわかりやすくするためにも、それぞれ固有の特徴・性格を持っていなければなりません。言いかえれば、小説の作者や映画の脚本家《きやくほんか》は、固有の性格・特徴を持つ役柄を設定しなければならないわけです。この設定作業が「キャラ立ち」です。  「キャラ立ち」はお笑いの世界でも重要です。たとえば漫才《まんざい》の場合は、よく知られているように、つっこみ役とボケ役からなりたっています。ただし、昔ながらの漫才では「キャラ」ということばが使われることはありません。このことばがひんぱんに使われはじめたのは、「お笑いタレント」とか「お笑い芸人」と呼ばれるひとびとが登場してきてからです。  漫才師や落語家は、まず師匠《ししよう》に弟子入《でしい》りして、それなりの修行《しゆぎよう》を積んだ後に舞台《ぶたい》にあがる、というプロセスを経て、プロの芸人になります。それにたいしてお笑いタレントは、プロデューサーなどのテレビ関係者に「おもしろい」「使える」と認定されてプロになったひと、と言えるでしょう。  ですから、プロデューサーに「おもしろい」と認められれば、すぐにでもテレビに出演できます。つい昨日までは「おもしろい素人」にすぎなかったひとが、今日はもう「お笑いタレント」になれます。  ここでのポイントは、お笑いタレントと素人の差は、かつての漫才師・落語家と素人の差ほど、大きくないことです。だとすると、お笑いタレントの芸や技術は、素人にもすぐまねしやすいものと言えます。  彼らお笑いタレントは、落語家のように師匠のもとで修行するかわりに、自分たちで笑いを研究し、独自の笑いを編みださなければなりません。そのさい、もっとも重要なのが、自分の「キャラ」を立てることでしょう。  「キャラ」こそ、お笑いタレントたちの「売り」であり「芸」だからです。というのも、お笑いタレントの活躍《かつやく》の場は「お笑いバラエティ番組」です。この種の番組は、歌手や俳優にお笑いタレントが加わって、小集団で視聴者《しちようしや》を楽しませるようにできています。「バラエティ」なのですから、バラエティに富んだ性格・個性を持つひとびとの集まりでないといけません。その個性の演技が「キャラ」です。  だから、バラエティ番組でおなじ「キャラ」のひとがいる(「キャラがかぶる」)状態は、望ましくありません。そこでお笑いタレントは、いままでにない、独自の「キャラ」を開発し、それを「売り」にしなければならないのです。  また、視聴者を楽しませるには、出演者自身が楽しんでいる様子をみせなければなりません。ですから、出演者みずからがバラエティ番組を楽しんでいる演技をするための役割分担が、「キャラ」だとも言えます。  バラエティ番組内で、しばしばお笑いタレントたちは「キャラ」を話題にします。彼らにとって、おたがいの「キャラ」は最大関心事だからです。「○○の�キャラ�が変わった!」とか「オレはそんな�キャラ�じゃない!」というふうにです。  彼らは「キャラ」という役割分担をすることで、お笑いバラエティ番組をなりたたせています。だから、だれかが急に役割を変更《へんこう》すれば、全体のバランスがほんの少し崩《くず》れ、自分はどの役割をはたせばよいのか、一瞬とまどってしまうのです。たとえば、いままで「つっこみ役」だったひとが急に「ボケ役」になってしまえば、いままで「ボケ役」を演じていたひとは、「つっこみ役」にまわればいいのか、それ以外の役割のほうがいいのか、とまどうでしょう。  また、だれかが「キャラ」を変更すれば、もしかするとその他の出演者と「キャラがかぶる」ことになってしまい、そこに競争関係が発生するかもしれません。たとえば、「つっこみ役」がふたりになってしまえば、どちらのほうがよりおもしろいつっこみをするか、出演者も視聴者も、その上手下手を評価することになるので、よりよい評価をえるために競争しなければならないわけです。  「キャラがかぶる」恐怖《きようふ》[#「「キャラがかぶる」恐怖《きようふ》」はゴシック体]  さて、お笑いバラエティ番組でのタレントたちのふるまいは、いつのまにか、わたしたち素人の日常生活にまで浸透《しんとう》しています。われわれが、その手の番組を好んで視聴し、ふだんの人間関係をつくる方法として参考にしてきたからです。  その理由は、わたしたちが日常での人間関係を「楽しい」ものにしたいと強く願っているからです。わたしたちは、友人といるときには、いつも笑っていたいのです。いつも笑っていなければならないかのような雰囲気さえ存在します。そこで参考になったのが、お笑いバラエティ番組に登場するお笑いタレントのふるまいかたです。  けれども、「キャラ」的関係は不自然です。なぜなら、集団全体のバランスがとれるように、いつもバラエティに富んだ「キャラ」がそろっているわけはないからです。おなじような「キャラ」のひとばかり、かたよって存在しても不思議ではないはずです。テレビのバラエティ番組なら出演者集団のバランスがとれるように、メンバーを選択《せんたく》して集めます。しかし日常生活は、テレビ番組ではありません。  ですから、たとえば、ふとしたきっかけで、あらたにだれかが仲間集団に加入する、というようなことが起きます。すると、「キャラがかぶる」事態が発生することもあります。日常生活は、テレビ番組のような予定調和の世界ではないのです。  「キャラがかぶる」ことは恐怖だ、と語る学生がいました。彼女の授業中のレポートです。 [#ここから1字下げ]  特に女の子は思うのかもしれませんがキャラかぶりは恐怖です。同じような人は二人いなくてもイイというか、同じような人二人で上下を決められてしかも下だったら恐怖といいますか、競争とかで人間関係がこじれるのを恐《おそ》れてキャラ分けしてるのかもしれません。違うレーンを走ってたら勝負しなくていいですから。 [#ここで字下げ終わり]  この学生が言うように、「キャラがかぶる」と、そこには優劣関係や競争関係が生じます。「キャラ」の演じ方が上手/下手、という上下の差がでてきてしまうのです。上下関係が入りこんでくると、下位(劣位)におかれたひとが楽しいわけはありません。「キャラ」を導入したのは、楽しくすごすためですから、上下関係や競争関係はぜひとも回避しなければならない問題となります。  しかし、「キャラ」的関係は、「キャラがかぶる」ことさえなければ、対等性の原則を守ることができ、仲間と楽しくすごすことのできる対人関係法です。とてもうまい方法を発明したものだ、とわたしなんかは感心してしまいます。  さて、この章では、予防的やさしさの特徴について論じてきました。ひとつの特徴は、敬意の過大評価・修復の過小評価でした。謝罪しなくてもいいように、前もって傷つけない努力をすることを重視する態度です。もうひとつの特徴が、対等性の原則でした。仲間うちでは優劣関係ができないよう配慮すべし、というきびしいルールです。そして、「キャラ」的関係が、対等性の原則にもとづきつつ、楽しく仲間たちとすごす対人関係法として日常生活に導入されていることを、描いてきました。  次に考えるべきは、なぜやさしさはこれほどまでにきびしいルールとなったのか、です。それが次章のテーマです。 [#改ページ] ————————————————————————————  第三章 どうしてやさしさルールはきびしくなったのか? ————————————————————————————  1 人生の自己目的化[#「1 人生の自己目的化」はゴシック体]  この章では、きびしいやさしさが登場してきた原因について考えます。  その原因としてもっとも重要なのは、人生の自己目的化だと、わたしは考えています。人生の自己目的化とは、人生を自己のためだけに使う態度のことです。言いかえると、自己こそが人生をささげるべき、もっとも価値あるものとみなす価値基準です。よくわからないかもしれません。そこでまず、人生が自己目的化されていなかった時代の説明からはじめます。  『をんな紋《もん》』[#「『をんな紋《もん》』」はゴシック体]  かつての日本人にとって、自己は、もっとも価値あるものとはみなされていませんでした。ひとびとは、自己以外の何かを優先させ、それに人生をささげるように生きてきたのです。たとえば「イエ」です。その点を、『をんな紋』(玉岡かおる著、角川文庫)を参考に説明してみます。  紋とは「代々その家に伝わる家のしるし」(『広辞苑《こうじえん》(第五版)』)です。「紋付き袴《はかま》」とか「家紋」ということばは聞いたことがあるでしょう。あの、紋です。  ただし紋は、父親から息子へと受《う》け継《つ》がれていきます。それにたいして女紋は、文字通り、母親の母親のそのまた母親から……というふうに、女系の先祖から受け継いできた紋です。地方によって違《ちが》いはありますが、かつて女性は結婚《けつこん》するとき、嫁入《よめい》り道具に女紋の入った着物やお椀《わん》、鏡、たんすをもって嫁《とつ》ぎました。  女紋は、一昔前の日本人が祖先や子孫とのつながりを意識しながら暮らし、イエや土地、血筋を守るために生きたことを象徴《しようちよう》するもののひとつです。  小説『をんな紋』の舞台《ぶたい》は、明治後半(明治四三年)から敗戦直前(昭和二〇年)にかけての、兵庫県|播州《ばんしゆう》地方です。その地方に住む地主や商家の一族がおもな登場人物です。彼《かれ》らは、それぞれ自分の所属するイエ・土地・血筋を守ることを最優先しながら生活しています。主人公の柚喜《ゆき》は、自分が地主の青倉家の跡《あと》とり娘《むすめ》、惣領娘《そうりようむすめ》であることをしばしば意識し、それにふさわしいふるまいと態度を示そうとします。正確に言うと、惣領娘であることを、周囲のひとびとからつねに意識させられてしまうのです。  たとえば、柚喜は師範《しはん》学校の生徒です。当時は、「女は無学であるべき」と思われていましたから、周囲には、柚喜だけでなく、柚喜の進学を勧《すす》めた母親|津多《つた》のことを悪く言うひともいます。叔母《おば》のサトも、そのひとりです。柚喜と津多を前に、サトが柚喜の進学について皮肉まじりに非難するシーンで、津多は次のように切り返します。 [#ここから1字下げ]  この子ぉには、いずれ養子をとって、青倉の家を継いでもらわなあきまへん。けど、養子に来るんが万一あほな男やったら、それこそこの子ぉの代で青倉も潰《つぶ》れてしまいます。けど、この子ぉさえしっかりしとったら、なんぼ養子がぼんくら[#「ぼんくら」に傍点]でも持ちこたえますわな。それに母親が教師やねんから、自分の子ぉも賢《かしこ》ぉに育てますやろ。青倉は、二代先までは安泰《あんたい》、いうことです。(傍点《ぼうてん》、原著者) [#ここで字下げ終わり]  そう津多はサトに言います。それは同時に、柚喜へのメッセージでもあります。サトに話すという仕方で、隣《とな》りにいる柚喜に間接的に伝えているのです。�おまえを学校へやっているのは、おまえが跡取り娘だからだ。それゆえ、しっかり勉強しなさい�と。  また柚喜は、自分とおなじく教師を目指す、壮児《そうじ》という男性が好きになります。ある日、壮児のことを想《おも》いながら生活していると、津多から手紙がやってきます。手紙には、「青倉家のできごとは全《すべ》て報告を受け把握《はあく》しておくのが跡取り娘の義務だ、と言わんばかりの詳細《しようさい》さ」で、イエで起きているこまごまとしたことが綴《つづ》られているのです。  こうした日常のちょっとした会話や手紙を通して、いやでも柚喜は跡とり娘であることを自覚させられます。だから柚喜も、惣領娘として適切なふるまいはどういうものか、とつねに意識しながら行動することになります。  しかしだからといって、彼らがみな、イエ・土地・血筋を最優先する価値観をこころの底から信じきっているわけではありません。登場人物たちはしばしば葛藤《かつとう》を経験します。自分の気持ちや願望と、イエ・土地・血筋を守る義務とのあいだで、です。  たとえば、柚喜の母津多は、先祖代々の土地を守るため、自分がほんとうに想うひととは添《そ》いとげられません。 [#ここから1字下げ]  津多は自分が義弟の心を踏《ふ》みにじり、多くの犠牲《ぎせい》を強《し》いることを知りながら、みずからあえて鬼《おに》になる道をとったのだ。すべて、新池のために。この土地のために。(中略)どうして叔父《おじ》と一緒《いつしよ》にならなかったのか、どうして土地を守ることがそんなに大切なのか、問うたところで、それは愚《おろ》か者《もの》の質問でしかない。なぜなら柚喜も、やがては津多と同様、この土地を守るためだけに生きることになる惣領娘であったのだから。 [#ここで字下げ終わり]  柚喜もおなじく土地を守るため、イエの名誉《めいよ》を守るために、壮児との結婚をあきらめ、他家に嫁ぐことになります。最後まであきらめきれない壮児は「旅は、人生は、いつでも降りてやり直せるはずや」と柚喜を説得します。けれども、柚喜は応じません。「後もどりなど、始めから選択肢《せんたくし》の中には入れられていない川の流れのように、自分はまっすぐ歩いていくのみなのだ」と自分に言いきかせて、彼への想いをふりきります。  「川の流れ」を守ることが人生の目的[#「「川の流れ」を守ることが人生の目的」はゴシック体]  『をんな紋』は三部作の小説で、それぞれには「まろびだす川」「はしりぬける川」「あふれやまぬ川」と副題がついています。「川」が共通点ですね。それは著者玉岡かおるの、「人は生きていくかぎり、受け止めたものを先へと繋《つな》いでいく川の流れのような存在なのだろう」という考えがもとになっています。  たとえば、小説の冒頭《ぼうとう》で、柚喜の娘|千代《ちよ》は、祖母の津多から女紋について説明されたとき、次のように思います。 [#ここから1字下げ]  とても幼い子供だったはずなのに、わたしはその話(女紋の説明:引用者)をちゃんと理解した。/祖母から繋がる女はわたし一人だけ。母に伝えられたものをさらに次に受け継ぐのがこのわたしだということを、この時はっきり、重大な任務として受け止めた気がする。(中略)始まりと終わりだけが見えている物語に向かう時のように、いつか自分が紋とともに生き、やがて朽《く》ち果《は》ててその紋を残す場所を思った。 [#ここで字下げ終わり]  津多や柚喜、千代をはじめとする、敗戦までの日本人は、先祖とのつながり、子孫とのつながりを意識して生活しました。先祖から子孫へと流れる「川」の一部になることに人生の意味をみいだしていました。上の世代から受け継いだイエ・土地・血筋を傷つけないように守り、次世代へ渡《わた》していくために、世代のあいだを「川」がちゃんと流れるように生きてこそ、自分の人生には意味がある、と考えていたのです。  あるいは、そう自分に言いきかせながら人生をまっとうした、と言ったほうがいいかもしれません。たとえば、地主の家に生まれた惣領娘柚喜にとっては、「人は家のために生きるものであって、好きだの何だの個人の感情で生きることは、守るべき家も財産もない下級の人間が言うもの」と自分に言いきかせる必要がありました。  なぜなら、この「川」は、ほうっておいても勝手に流れる「自然の川」ではないからです。各世代のメンバーが努力し犠牲をはらってはじめて流れるのです。だから、「川」の流れをとめそうな自分の感情や願望は、むりやりにでも抑《おさ》えつけなければなりません。  それゆえ、親は家族にたいしても、きびしく対応します。やさしさが優先されることなど、ありません。ただし、前章で紹介《しようかい》した�やさしいきびしさ�に近い、と考えることもできます。たとえば津多は、柚喜が将来、しっかりとイエや土地を守っていける人間になれるよう、また近隣《きんりん》社会のメンバーに認められるように、と考えてきびしくします。その柚喜も母親となってからは、津多とおなじ態度で子どもに接します。  それは子どもの将来を考慮《こうりよ》にいれての行動という意味では、やさしさと言えそうです。しかし、そこに�やさしくしなければいけない�という意識は皆無《かいむ》でしょう。何より優先されるべきは、イエ・土地・血筋が世代間で「川」が流れるように継承《けいしよう》されていくことです。  しかし、そうしたからといって、イエのメンバーが幸せに暮らせるわけではありません。『をんな紋』でも、実家の土地に有利になるように商家に嫁いだ柚喜は、四人の子を産み、りっぱに育てあげ、嫁ぎ先のイエを切り盛りしていきます。しかし、夫とのあいだには親密な関係はありません。また、実家との関係はこじれ、長男の嫁は自殺します。村のひとびとのうわさやデマに悩《なや》まされることも、ひんぱんに起きます。「いままでの生き方・やり方で、よかったのだろうか」と、苦しむこともしばしばです。  それでも、先祖代々継承してきた土地で生きる以上は、イエの名誉を守り、血筋を残すという目的を優先させるしかありません。「家や血筋を受けつぐことが人生の第一番目の目的」だったのです。「強い者にはさからわず、長いものには巻かれてしまう。それは土地を守ってほそぼそ命を繋いでこなければならなかった百姓《ひやくしよう》としての知恵《ちえ》だった」のです。そうして柚喜は壮児との結婚をあきらめ、土地の有力者と良好な関係を維持《いじ》するためだけの結婚をします。個人としての幸せは、二の次なのです。  彼らのなかには、自己のために生きる、という意識はみあたりません。もちろん、自己のためという部分がゼロではないでしょう。イエ・土地・血筋を守るのは、自己を守ることでもあります。けれども、それらを守ってこそはじめて自分も守れる、「川」が流れてこそ、自分も生きた証《あかし》をのこせる、というように、間接的に自己を守るのです。  家永続の願い[#「家永続の願い」はゴシック体]  なぜ「川」を流し続けることに意味があったのでしょうか。その理由は、日本社会が農耕社会で、日本人のほとんどが農業を営んでいたからです。農業は土地がなければ不可能だったので、「土地を守ってほそぼそ命を繋いでこなければならなかった」わけです。また、幕府も農民から年貢《ねんぐ》をとりたててはじめて成立しましたから、政治的な意味もあるでしょう。  こういう解答もありうるかもしれません。先祖の霊《れい》を祭り、自分も死後、子孫に祭ってもらうため、という解答です。  それを象徴するエピソードを紹介しましょう。民俗《みんぞく》学者|柳田國男《やなぎたくにお》の「明治大正史世相|篇《へん》」(昭和六年)からです。 [#ここから1字下げ]  珍《めずら》しい事実が新聞には時々伝えられる。門司《もじ》では師走《しわす》なかばの寒い雨の日に、九十五|歳《さい》になるという老人がただ一人|傘《かさ》一本も持たずにとぼとぼと町をあるいていた。警察署につれて来て保護を加えると、荷物とては背に負うた風呂敷《ふろしき》包みの中に、ただ四十五枚の位牌《いはい》があるばかりだったという記事が、ちょうど一年前の朝日新聞に出ている。こんな年寄の旅をさまよう者にも、なおどうしても祭らなければならぬ祖霊があったのである。我々の祖霊が血すじの子孫からの供養《くよう》を期待していたように、以前は活《い》きた我々もその事を当然の権利と思っていた。死んで自分の血を分けた者から祭られねば、死後の幸福は得られないという考え方が、いつの昔からともなく我々の親達に抱《いだ》かれていた。家の永続を希《ねが》う心も、いつかは行かねばならぬあの世の平和のために、これが何よりも必要であったからである。これは一つの種族の無言の約束であって、多くの場合祭ってくれるのは子孫であったから、子孫が祭ってくれることを必然と考え、それを望み得ない霊魂《れいこん》が淋《さび》しかったのであろう。(中略)土地を利用する職業が重んぜられたのも、単に食物の家永続を保障するものを産するというだけでなく、土地に即《つ》かない婚姻《こんいん》の、末々は霊魂を祭る人から、引《ひ》き離《はな》してしまうという危険を防ごうとしたので、位牌の漂泊《ひようはく》は九十五歳の老人にとって、ただに身一つの不幸ではなかったのである。(『柳田國男全集26』ちくま文庫) [#ここで字下げ終わり]  かつて、日本人の多くが先祖代々の土地に執着《しゆうちやく》し、イエを永続させ血筋を絶やさないように努力した理由は、先祖の霊を祭ってあげたい、死後は自分も子孫に祭られたいという願い・期待のためだった、というのです。「死後の幸福」「いつかは行かねばならぬあの世の平和」のためというわけです。  せきとめられた「川」[#「せきとめられた「川」」はゴシック体]  しかし、この願いはかなえられなくなります。「川」が流れなくなるのです。  新聞記事のおじいさんは、「四十五枚の位牌」だけを持って、あてもなく歩いていました。位牌は一枚一枚、先祖から受け継がれてきて、このお年寄りの親が亡《な》くなったところで、四十五枚になりました。でも、どういう事情か、生まれ育った土地を追われ、このお年寄りの次に位牌を受け継ぐイエも家族もないようです。その結果、このお年寄りは、亡くなった後に自分を祭ってくれる子孫がいないばかりか、四十五人の先祖もおなじく祭ってもらえなくなってしまったのです。  上流から流れてきた位牌は、このお年寄りの代で、いわばせきとめられ、行き場をうしなってしまいました。世代間を流れる「川」は、もう「川」ではなくなったのです。  現在では、死後どころか、老後の生活の幸せを、子どもに期待するひとも少数派でしょう。多くのお年寄りがそろって「子どもに迷惑《めいわく》をかけたくない」と言います。介護で世話になるのも、葬式《そうしき》やお墓のことで迷惑をかけるのも、気がひけるのです。  葬送問題などが専門の、第一生命経済研究所主任研究員小谷みどりは、次のように言います。 [#ここから1字下げ]  近年の種々の世論調査をみると、老後の生活はもちろん、たとえ介護を必要とする状態になっても、「子どもには頼《たよ》りたくない」、「迷惑をかけたくない」と考える高齢者《こうれいしや》が多い。「自分のことはできるだけ自分でやろう」という思いを持った人が増えているのだろう。/死後についても同様で、自分たちのお墓の維持を子どもたちに頼りたくないと考える人たちがいる。(中略)昨今、日本には、高度成長期に故郷を離れ、大都市でサラリーマンを経験した人が多い。そうなると、子ども世代が生まれ育った地域に先祖のお墓があるとは限らないから、なじみのない土地にあるお墓を子どもや孫たちが定期的におまいりするとは思えない。娘しかいなければ、結婚して名字が変わった娘に実家の墓の世話をさせるのは申し訳ない、と思う人も少なくない。/そんなわけで、子どもに迷惑をかけないために、生前にお墓を用意しておこうと考える高齢者はとても多い。しかも、お墓の掃除《そうじ》や継承、墓参りなどで負担をかけずにすむようなお墓でなくてはならない……と、悩みは尽《つ》きない。/一方、先祖のお墓はあるのだが、それをどうしようか、悩んでいる人も少なくない。先祖のお墓があれば、子どもたちに継承する役割を押《お》し付《つ》けてしまうからだ。そのため、先祖のお墓が故郷にあれば、現在の居住地に持ってきたり(中略)、先祖のお墓の永代《えいたい》供養をお寺にお願いしたりして、子どもたちの負担を減らそうと画策している人もいる。(小谷みどり『変わるお葬式、消えるお墓【新版】』岩波書店) [#ここで字下げ終わり]  子どもたちや子孫にたいして、現代の高齢者がいかに気遣い、遠慮し、迷惑をかけないよう努力しているか、よくわかるでしょう。もう子どもには、「川」を流すことに犠牲になったり、がんばったりしてほしくない、とお年寄りたちは考えているのです。  このような状況《じようきよう》では、「川」の一部になることで人生の意味をみいだす、という生き方はむずかしくなります。  こうして、「川」の流れを守る努力を放棄《ほうき》した日本人は、自己のためだけに生きる努力をはじめたのです。  「自分が自分であること」の願い[#「「自分が自分であること」の願い」はゴシック体]  「川」の流れには、力と勢いがあります。それはひとびとの行動をある方向へと導く力です。その力にも、善《よ》し悪《あ》しがあります。  祖先と子孫の目からみて恥《は》ずかしくないように生きること、彼らに認められるように生きることは窮屈《きゆうくつ》で堅苦《かたくる》しく、自分勝手にできる自由はほとんどありません。イエや血縁《けつえん》関係以外にも、地域社会のきびしい目が光っています。みんなが土地に縛《しば》られて生活している以上、近隣にどのような人間が住んでいるのか、おたがいに監視《かんし》しあうのは当然でしょう。  しかし一方で、自分が何をしなければならないのか、使命と役割ははっきりしています。あるイエに生まれたときから、有無《うむ》をいわさず、これをするのがおまえの仕事、と決められています。  その仕事をはたしているかぎり、周囲からの承認《しようにん》、祖先と子孫からの(想像上の)承認がえられます。こういう状態はしんどいけれども、「川」の流れにのって生きる力強さがあると思います。  けれども、近代化とともに、このような社会的|拘束力《こうそくりよく》は弱まります。たとえば、『をんな紋』の主人公柚喜は、青倉家の惣領娘として生涯《しようがい》を送ることが決められていました。しかし、柚喜とおなじく壮児を愛した妹の佐喜《さき》が、壮児とスキャンダラスな事件を起こし、親戚《しんせき》や地域の有力者との関係で、イエは危機におちいります。それを円満に解決するため、佐喜と壮児が結婚して青倉家を継ぐことになり、柚喜は他家に嫁ぎます。しかし、壮児と佐喜の仲はうまくゆかず、子どももできません。壮児は労働運動に参加し、小作人たちに土地をただ同然で売ってしまい、地主としての青倉家は没落《ぼつらく》します。ここで青倉家の「川」はせきとめられてしまったのです。  これらのできごとが青倉家に起きた明治〜昭和初期は、「川」があちらこちらでせきとめられはじめた時代でもあります。たとえば、一八八〇年から一八九〇年にかけて、日本の人口は三五〇〇万から四五〇〇万に増加しますが、おなじ時期の農村・農業人口は減少しました。土地を捨て、ムラから都市へ、農業から商工業へと移動しはじめたのです(アンドルー・ゴードン『日本の200年(上)』みすず書房)。  日本人の多くがそれまでたずさわってきた農業を捨て、生まれ育った土地を離れ、都市に流入し、農業以外の産業に従事するようになりました。先祖代々の土地を捨てるというのは、世代間の「川」を流すことの放棄です。先祖代々の土地を守り、継承していくことが、「川」の流れる基礎《きそ》だったからです。そのまた基礎に、柳田國男が指摘《してき》していたように、先祖を祭り、死後の自分を子孫に祭ってほしいという願いがあったのでしょう。その願いも放棄せざるをえなくなったことは、さきほど指摘しました。  開国から産業革命を経たこの時期、日本社会のあり方は大きく変化しました。大規模な社会変動は、日本人の意識を大きく変え、その結果、社会はさらに変動していきます。変化した日本人の意識のひとつは「自分」です。それは「大正デモクラシー」の時代に先鋭化《せんえいか》します。 [#ここから1字下げ] 「自分が自分であること」——これこそが大正デモクラシーの時代を貫《つらぬ》く民衆の願望であった。その「自分」とはまず何よりも「人格」として意識された。(中略)自分たちにも人間らしい扱《あつか》い(を)求める「人格」承認要求は、労働運動や農民運動だけでなく、この時期の被差別《ひさべつ》部落の運動や女性の運動などさまざまな運動に共通した願いであり、その意味でこの時期の「自分」とはまず何よりも「人格」としての「自分」にほかならなかった。(荒木敏夫《あらきとしお》、他『日本史のエッセンス』有斐閣《ゆうひかく》アルマ) [#ここで字下げ終わり]  国家、企業《きぎよう》という「川」[#「国家、企業《きぎよう》という「川」」はゴシック体]  このように述べると、大正期から日本人は「自己」を優先させてきたかのように思えるかもしれません。しかし、しばらくは「自己」以外のために生きる時代が続きます。  イエ・土地・血筋に代わって、日本人は国家のために生きました。とくに、太平洋戦争中の日本人は、まさしく国家のために生きて、多くのひとが亡くなりました。敗戦後は、戦争へと国民が「流された」ことを強く反省し、国家のために生きようとすることは、ふたたび戦争へとつながるかのように考えられています。  戦後は、「会社人間」「企業戦士」ということばがあったように、日本人は会社・企業のために生きました。しかし、「バブル」崩壊後《ほうかいご》の不況時には、「リストラ」という名の人員整理が情け容赦《ようしや》なく実行されました。どんなに尽《つ》くしても、会社・企業は、自分の都合で社員を切り捨てることが、はっきりしてしまったのです。  イエ・国家・会社のためにひとびとが生きていたとき、それらは彼らにとって「聖なる」存在でした。たとえば、家名を汚《けが》さないことこそ、もっとも大きな使命だった時代がありました。戦時中は国家を批判することは大罪です。いまでも「神の国」発言などにみうけられるように、国家こそ「聖なる」ものと考えるひとはいますが、少数派でしょう。  これらの集団のために生きることの弊害《へいがい》を、いやというほど聞かされながら、わたしたちは育ってきました。イエのために生きることは、「家父長制批判」というかたちで、長男とそれ以外の兄弟との差別、男女差別の温床《おんしよう》とされてきました。国家のために生きた結果、戦争につながったと言われています。会社のために生きても、「リストラ」されたり、そうでなければ「過労死」したり、うつ病になったり、一流企業でも倒産《とうさん》するようになりました。  イエも国家も会社も「聖なる」存在の地位から追いやられたのが、日本の近現代史のひとつの特徴です。  こうして、現在の日本人は、自分のために生きるしかなくなりました。そして、イエや国家、会社の神聖さが衰退《すいたい》するにつれ、自己が相対的に神聖さを増し、もっとも「聖なる」存在となったのです。バブル崩壊後の不況期を経て、企業のために生きることをやめたひとびとが大多数を占《し》めるようになった結果、日本社会も「人格|崇拝《すうはい》」が実効性を持つようになってきたのです。  「水たまり」としての人生[#「「水たまり」としての人生」はゴシック体]  さて、イエ・国家・企業の「川」を流すことに生きる意味を感じなくなった日本人は、いわば「水たまり」のような存在です。  「川」から解放された「水たまり」は、「川の流れ」に人生がのみこまれることはなくなりました。だから、自由です。親はイエや血筋を残すように、子どもに期待しません。もし期待すれば、親のほうが世間から非難を浴びるでしょう。「子どもの意思や自由を尊重していない!」「子どもには子どもの人格がある!」というふうに。  子どもには子どもの人生があり、だれもそれを邪魔《じやま》してはいけません。その人の人生は、その人個人のものとなったのです。  「水たまり」は、そもそも「川の流れ」が持つ勢いを否定的にとらえています。たとえば、親の要望を聞きいれて不本意なことをしなければならないときや、周囲の目を気にしてやりたくないことをしてしまったとき、親の期待や周囲の目に「流された」と言って、自分を責めます。すでに触れましたが、国家や企業に「流される」ことにも否定的です。  このように考えると、自分のためだけに生きることを「わがまま」だとか、「自分勝手」「利己主義」とは言えません。自己のためだけに生きざるをえない状況、自己以外の力によって「流される」ことに罪責感・劣等感《れつとうかん》を感じざるをえない状況があるからです。  人生の自己目的化の第一の産物は、自己がもっとも「神聖」な存在となる状況であることを論じてきました。つぎに第二の産物に移りましょう。  一度きりの人生[#「一度きりの人生」はゴシック体]  人生の自己目的化の第二の産物は、「人生は一度きり」という思想です。  かつて主流であったイエや血縁、国家、会社のために生きるひとびとにとって、「人生は一度きり」という意識は、現在ほど強くなかったでしょう。自分の生は自分が死んだら終わり、とは思わないからです。  人生が自己目的化する以前、自分の生はイエ・国家・会社という「川」の中流に位置することで意味を持ちました。この場合、死後も自分の生はこの「川」の流れのなかに生き続けていく、すなわち、子孫、未来の国民、未来の会社に生き続けていく、という幻想《げんそう》を抱くことができます。そして、自分が持っているものをすべて自分が使い切るのではなく、後継者に残しておこう、というこころの余裕《よゆう》もできます。  しかし、そういう後継者の幻想が持てないときは、逆です。たとえば、あなたが大金持ちで、それを遺《のこ》してあげたいと思う相手もいないとき、そしてもうすぐ死ぬことがわかっているとき、その大金を使い切ってしまおうとするでしょう。一度しかない自分だけの人生が続いているうちに使ってしまわないと、もったいない、と思うからです。  「もったいない」とは「そのものの値打ちが生かされず無駄《むだ》になるのが惜《お》しい」(『広辞苑(第五版)』)と思う気持ちです。「人生は一度きり」と思っているわたしたちは、自分の人生の「値打ちが生かされずに無駄になるのが惜しい」と考えています。  人生の「値打ち」をむだにせず活《い》かすこと。それはふつう、自己実現、と言われます。  つまり、人生の自己目的化の第二の産物は「一度きりの人生」という思想であり、それは自己実現を重要視する価値観でもあるのです。  「だって一度の人生だもん※[#ハート白、unicode2661]」[#「「だって一度の人生だもん※」」はゴシック体]  中村うさぎという小説家が、漫画家《まんがか》のかなつ久美と『だって一度の人生だもん※[#ハート白、unicode2661]』(秋田書店)というエッセイつきマンガをだしています。中村うさぎはかつて、住民税や公共料金を滞納《たいのう》してでも高級ブランド品を買いあさる小説家として、有名でした。このマンガは、中村の派手な買いものぶりと、ゲイバーなどの夜遊びスポット紹介記事から構成されています。  マンガのタイトルがあらわしているように、中村の人生・生活は�とにかくほしいものはかならず手にいれ、楽しそうなことは楽しみ尽くそう! だって一度の人生だもの�という考え方にもとづいています。  それは、このマンガをだしてから以降の中村の人生にもあてはまります。  ブランド品の収集熱が一段落すると、今度はホストクラブに通いつめ、ホストとの恋愛《れんあい》にはまります。同時に、さまざまな美容術を体験し、少しでも若返ろうと努力します。その後、「デリヘル嬢《じよう》」という性風俗業の仕事に短期間|就《つ》いて、自分の「女としての商品価値」を試《ため》そうとまでするのです。  デリヘル嬢としての体験を綴った『私という病』(新潮社)のまえがきは、次のようにはじまります。 [#ここから1字下げ]  「どうして私は、女であることを、おおらかに正々堂々と楽しめないのか」/これが、私の長年の疑問であった。(中略)デリヘルをやってみようと思い立ったきっかけは、じつに単純な「私だって、女として認められた〜い!」といった願望に過ぎなかった。 [#ここで字下げ終わり]  女として認められることは、女としての価値を認められることです。「女という能力」を発揮できる自分を認められること、とも言えるでしょう。  中村の生き方には、人生が自己目的化した現代人の想いが集約されています。「人生一度きり」「だから、人生を楽しみ尽くし、自分の能力はすべて発揮したい」という想いです。  こうして自己実現には、大きくふたつの意味がふくまれることがわかりました。ひとつは、人生を楽しみ尽くすということ、もうひとつは能力の開発、です。  2 楽しさ至上主義[#「2 楽しさ至上主義」はゴシック体]  楽しまないと「もったいない」[#「楽しまないと「もったいない」」はゴシック体]  「人生は楽しむためにある」という決まり文句があります。これは、「人生は一度きり」と考えたときに生まれてくる典型的な態度です。�人生はほかのだれのためでもなく、自分のためにある�そして「人生は一度きり」と考えた場合、�だから、生きているうちに、楽しみ尽くしたい��楽しまないと、もったいない�という態度があらわれるのも当然でしょう。  人生の自己目的化、あるいは自己実現には、「幸福」のイメージがつきまとっています。イエや血縁、国家、会社のために尽くしても、不幸になるかのように、何度もメディアで言われてきました。そして、自己のために生きること、自己を充実《じゆうじつ》させること、自己を実現することが、幸福への道だ、と言われてきたのでした。だから、自己を目的として生きることは、幸せにつながるはずだ、とわたしたちは考えています。  その結果、わたしたちは日常生活で、幸せ(ハピネス)をもとめて、仲間と楽しい(ハッピー)時間をすごそうとします。できるだけ、不快なことを避《さ》けようとします。このような態度が「楽しさ至上主義」です。  がんばらずに楽しむ[#「がんばらずに楽しむ」はゴシック体]  楽しさ至上主義の具体例をあげましょう。  近年の流行で言えば、オリンピック出場選手や高校野球の選手の発言があります。「オリンピックでは楽しんできます!」とか、「試合には負けましたが、甲子園でのプレーを楽しむことができて、満足してます」という言い方が、いつのまにか定着しました。  ついこの前までは、「日本のためにがんばってきます!」や「○○県代表として、恥ずかしくないプレーをしたいです」というような言い方が、一般的《いつぱんてき》でした。  「楽しむ」という発言の裏には、「集団のためにがんばる」ことへのイメージの悪さがあります。㈰「集団のためにがんばる」→㈪「とてもおおきなプレッシャー」→㈫「ふだんの力がだせない(勝てない、記録が伸《の》びない)」という連想が、日本人のあいだにゆきわたったからです。この集団が会社の場合には、㈫のところに「うつ病」「過労死」「自殺」が入ります。  そして「がんばる」代わりに「楽しむ」ことが、選手たちにはもとめられました。選手のほうはおそらく「がんばろう」と相変わらず考えているのですが、彼らは「楽しんできます」とインタビューでは答えます。  また、応援《おうえん》する側も、楽しめればそれでいいと考えています。  『AERA』二〇〇二年一月二八日号で、「私に「感動」を押しつけないで 絶叫《ぜつきよう》中継に白ける真っ当な人々」という記事が掲載《けいさい》されました。記事は、近年のスポーツ中継、とりわけオリンピックやワールドカップといった世界大会をテレビ中継するさい、アナウンサーがひんぱんに「感動」を叫《さけ》ぶことや、それらの大会に関心を持たないひとへのバッシングがあること、をとりあげています。  たとえば、一九九四年、フィギュアスケートの世界選手権で、ある選手が金メダルをとったとき、各スポーツ紙がそれをとりあげる様子をみて、金メダルに感動しろと強要されているようだったと語る女性。彼女は、一九九七年、フランス・ワールドカップのアジア予選で、日本の初出場がかかったイラン戦の夜、社員がみんな残業せずに帰宅するのをみて、「今夜、何かあるの?」とたずねると、「非国民!」と言われたそうです。  このような冷めた態度にたいして、あるイラストレーターは反論します。「スポーツ観戦に熱くなる人がそうでない人に向ける目には、熱くなったほうが楽しいよ、という親愛の情がこもっているんですよ」と。  さて、この記事にみられるように、テレビ局のアナウンサーが視聴者《しちようしや》に「感動」を強要するのは、楽しさ至上主義に従うからです。オリンピックなどの世界大会は、期間限定のイベントです。�いましか楽しめない��楽しまないと、損�というわけです。それに熱中する視聴者や観戦客も、イラストレーターが言うように「熱くなったほうが楽しい」と考え、楽しそうにしているのです。  イベント化したスポーツを楽しもうとしないひとを「非国民!」と非難するのも、常識化した楽しさ至上主義に従わない態度への反発にすぎません。  ちなみに、楽しさ至上主義に従って応援しているひとは、とても情熱的に応援しているようにみえますが、じつは選手やチームとのあいだに距離感《きよりかん》を持っています。選手やチームへの思い入れがあるようで、それほどない、と思います。距離がないと楽しめません。また、距離があるからこそ、それを埋《う》めるために、あんなに「感動をありがとう!」などとアナウンサーやファンは言いたがるのだと、わたしは勘《かん》ぐっています。  場の空気を読めというルール[#「場の空気を読めというルール」はゴシック体]  「キャラ」的関係も、もちろん楽しさ至上主義のひとつですが、前章で論じましたので、それに関連するルール、「場の空気を読め」をここではとりあげましょう。  「場の空気を読め」は、学生がよく口にするフレーズです。たとえば、「○○さんは、場の空気が読めないから、だめだ」といったかげぐちは、よく聞きます。ゼミやコンパの場などでも、ある学生が発言して、その場がシ〜ンとしてしまうと、その学生にむかって「空気読めよ!」と冗談《じようだん》まじりに非難の声がとびます。ある女子学生は、理想の男性像を質問されて、「場の空気が読めるひと」と答えました。これほどまでに、「場の空気を読む」ことは、たいせつに思われています。  きびしいやさしさ・予防的やさしさを重視するひとびとは、場がスムーズに流れ、人間関係がなめらかであることを、重視していました。そのための基本的なこころ構えが「場の空気を読む」ことなのです。  これまでも日本人は「場の空気」を重視しました。評論家山本七平の有名な『「空気」の研究』(文春文庫)があきらかにしているように、日本人は、その場に醸成《じようせい》された「空気」に従って行動することをあたりまえと思ってきました。  では現代の特徴は、どういうところにあるのでしょう。それは、わざわざ「場の空気を読めよ」と声にだしていう点、「場を読めるひとが理想の男性」という答えがスッとでてくるところにあります。それぐらい、この能力が重要視されているところです。  では、「自己チュー」なひとが増えたから「場の空気を読む」ことが大切になってきたのでしょうか。わたしはそう思いません。たとえば、ゼミの場をシ〜ンとさせてしまった学生は、自分のことばかり話していたわけではありません。また、「自己チュー」な行動が目立つタイプでもありませんでした。  「場の空気を読む」必要性をみながもとめるのは、「空気を読む」能力が低下しているからではなく、その能力を発揮するようおたがいに高い期待をしあっているからです。それほどまでに、場がスムーズに流れ、しかも楽しくあらねばならない、と考えるひとが多く、場を盛りさげることのないスムーズな人間関係をますます必要としているのです。  また「場の空気を読む」のが下手なひとは、いわゆる「痛い」ひと、になってしまいます。「場の空気を読む」という点で一段|劣《おと》っているひとは、対等性の原則に反します。そして、なめらかな関係をこわし、楽しいはずの場をシラケさせてしまいます。本人には、そのつもりはまったくありません。もし意図的に場をシラケさせるひとであれば、周囲からの反感・怒《いか》りを買うことになります。しかし「痛い」ひとは、そういうつもりはありません。むしろ、何とか場を盛りあげようとする行動が、かえって場をシラケさせます。だから、周囲のひとたちは、いたたまれなくなるのです。周囲のひとびとを「痛々しい」気持ちにさせるのが、「痛い」ひとです。  とすると、集団で楽しむ技術が高度化しているなかで、そのレベルについていけないひとが「痛い」ひと、と言ったほうがいいかもしれません。「痛い」ひとは、楽しさ至上主義の副産物なのです。  3 能力開発への情熱[#「3 能力開発への情熱」はゴシック体]  「人生は一度きり」という意識は、�だから人生、楽しまなければ!�という楽しさ至上主義につながっていることを論じてきました。この意識はもうひとつの価値基準にもつながっています。�能力をぜんぶ発揮したい�という価値基準です。  わたしは小学生のころ、雑誌か何かで、「人間の脳は死ぬまでに数パーセントしか能力を発揮しない」という話を読んだことがあります。そのとき強烈《きようれつ》に、「せっかく脳にはいろんな能力が備わっているのに、何ともったいないことか」と残念に思ったことをおぼえています。  自分はその持てる能力・可能性を残したまま死んでいく。これを、自己のためにだけ生きる現代人が、もったいないと思わないはずがありません。「人生は一度きり」だからです。  「低下論」の流行[#「「低下論」の流行」はゴシック体]  最近、テレビでよく、いじめ問題やしつけ・教育問題がとりあげられています。討論《とうろん》形式の場合が多く、親の代表と学校・教師代表が意見をたたかわせています。親側は「学校が悪い!」「教師の教える力の低下だ!」と叫び、学校・教師側は「親がしつけの責任をはたしていない!」「家庭の教育力の低下だ!」と言います。そこに評論家が「現代の子どもはコミュニケーション能力が低下していて……」とコメント。  こういう番組をみていて、いつも思うのです。そんなにみんな、能力が低下しているかな? と。  現在、いろんな「低下」が常識のように語られています。いまあげた「教師や親の教育力低下」「コミュニケーション能力低下」のほか、「学力低下」「勉強・労働意欲低下」「想像力低下」「感情コントロール力の低下」「モラルの低下」などです。「下流」ということばが流行ですが、これも「低下」の一種でしょう。  「現代人の○○が低下している」ととなえる主張を「低下論」と呼ぶことにすると、現代は「低下の時代」あるいは「低下論の時代」と言えるでしょう。  関心の「上昇《じようしよう》」が「低下」のイメージをつくる[#「関心の「上昇《じようしよう》」が「低下」のイメージをつくる」はゴシック体]  こういう時代だからこそ、「低下」をくいとめるための本や雑誌はたくさんあります。「コミュニケーション力をつけるための本」などが、書店のビジネス・コーナーや心理学コーナーにたくさん並んでいます。  最近流行なのは「父親の家庭教育力アップに役立つ雑誌」でしょう。『AERA with Kids』や『プレジデント ファミリー』『日経Kidsプラス』など、この手の雑誌が次々発刊されています。  これらの本・雑誌の流行、いじめや教育・しつけをとりあげるテレビ番組の増加から、少なくとも、子どもの能力への「関心」はとても強くなってきていると言えるでしょう。  能力「低下」をうるさく言う時代、「低下論」が常識になっている現代は、能力への関心が「上昇」している時代なのです。能力への関心が「上昇」しているからこそ、能力が「低下」しているように感じ、能力「低下」について大騒《おおさわ》ぎするのです。  ある能力への関心が高いということは、しばしば、その能力への期待が高いことをもあらわしています。期待するから関心も高くなるのです。  能力への期待が高まると、それまでの能力レベルではものたりなく感じます。  たとえば、どの科目もだいたいテストの点数が六〇点前後の生徒がいるとします。この生徒の親は、�まあ、この子の能力なら、こんなものだろう�と思っているとしましょう。ある日、親が�これからの時代は能力主義の時代�という新聞記事を読みました。そして、�そうか、これからは年功序列も終身|雇用《こよう》もなくなるんだなぁ、大手の企業も倒産するような時代だし……�と考えはじめました。すると、親は子どもに口うるさく�勉強しろ! 学力をつけろ!�と言いはじめます。一応、子どもは親の期待に応《こた》えようと、勉強します。でも、子どもの能力が急にアップするわけはありません。だから、次のテストでもいつものような成績です。この成績をみて親はますます�これではいけない�とあせりはじめるでしょう。まるで子どもの能力が落ちたかのように感じてしまうからです。  この親に起きていることが、現在、社会全体で起きている、とわたしは思うのです。  検定ブーム、脳力開発ゲームブーム[#「検定ブーム、脳力開発ゲームブーム」はゴシック体]  現代社会がこの親のようになってきているのは、「低下論」をとなえる学者や評論家、彼らを登場させるマス・メディア、および一部の企業経営者が、能力への期待(と不安)を煽《あお》っているからです。  煽られた側のひとびと、能力を評価される側のひとびとも、能力の開発に強い関心と情熱を持っています。  たとえば、次々に登場している「検定」がそうです。「京都検定」や「神戸《こうべ》検定」といった地域にかかわるもの、「タイガース検定」などの趣味《しゆみ》にかかわるものがあり、それぞれ一級・二級と序列化されています。程度の差はあれ、どの「検定」も多くの受験者をあつめているようです。  なぜみんな、こんなにテストが好きなのでしょう。「英検」のような就職・仕事につながる検定試験合格をめざすのは、よくわかります。けれども、「神戸検定」や「タイガース検定」の一級に合格しても、その後の人生におそらく何の影響《えいきよう》もないでしょう。  �仕事や資格に関係ないから、純粋《じゆんすい》に楽しめる。だから、この種の検定が好きなんだ�という理由もあると思います。遊びのように楽しみながら、しかも達成感がえられる。つまり、楽しさと能力開発が並存するところに、検定ブームがあるのでしょう。ですから、自分の能力を少しでも開発したい、という動機も関係しているわけです。  もちろん、タイガースが好きだからとか、神戸が好きだから、という動機のひともいます。しかし、わたしの印象では、検定好きのひとは、ある検定で一級に合格すれば、また別の検定の一級合格に挑戦《ちようせん》します。検定を受けるのが趣味だから、という「検定マニア」もいるでしょう。その場合も、�いろんな能力を少しでも開発しなければ、もったいない�という動機があるように思えます。  「脳力」開発ゲームが人気なのも、おなじ動機からでしょう。ゲームを楽しむという要素プラス、少しでも「脳年齢」を若返らせたい、という動機です。青年期をすぎると、年齢とともに、脳も老化すると言われています。そうであるなら、「脳年齢」の若返りは、能力開発とおなじ意味を持ちます。  そもそも「人生は一度きり」という考えは、「死んだら終わり」という考えであり、「なるべく老化を遅《おく》らせたい」という願いにつながります。美容整形やアンチエイジングがはやるのも、おなじ理由からだと思います。  4 仲間うちでやさしさルールがきびしくなった理由[#「4 仲間うちでやさしさルールがきびしくなった理由」はゴシック体]  さて、ここまで、日本人の人生が自己目的化してきた結果、㈰自己がもっとも「神聖」なものとなる状況、㈪楽しさ至上主義、㈫能力開発への情熱、が登場してきたことを論じてきました。  これらをもとにして、なぜ友人・仲間関係では、「キャラ」的人間関係のようなかたちで、予防的やさしさルールが守られるかを説明します。  楽しさと能力開発の葛藤[#「楽しさと能力開発の葛藤」はゴシック体]  現代日本人は仲間関係において、対等性の原則をきびしく守ろうとします。  一方、能力開発への情熱は、この対等性の原則に反します。能力の開発には、競争関係がふくまれるからです。  競争は優劣をはっきりさせてしまいます。そもそも能力を開発しようという動機には、ほかのひとより抜《ぬ》きんでたい、という動機もふくみます。  ただし、ここで言う能力開発は、さきほどの検定試験のような知的能力にかぎられません。たとえば、人間の「力」は、暴力、権力、金力、魅力《みりよく》、論力(議論で相手を負かす力)、と大きく五つにわけられます(宮原浩二郎《みやはらこうじろう》『論力の時代』勁草書房《けいそうしよぼう》)。こういった能力のうち、自分がこれと思うものを少しでも伸ばし、他者よりも抜きんでたい、というわけです。  この、能力開発は、「結合作用」と「分離作用」をおよぼします。  たとえば、金力が違うと、仲間集団でいっしょに買いものや食事に行こうとしても、おなじ店に行きづらい、ということがあります。AとBはおしゃれな店で食事したいと思っても、CとDはファストフード店なら行ける程度しか、こづかいがない、ということが起きるわけです。能力の差が仲間集団をばらばらにするはたらき、これが「分離作用」です。  AとBがCとDにおごるというのも、なかなかできません。両者の関係が対等ではなくなるからです。かといって、一方が他方にあわせても、楽しい食事はできないでしょう。現実問題としては、お金があまりないほうにあわせることになるでしょうが、次回は金力の似かよったAとBだけで会う、ということにもなりがちです。  とすると、能力の開発は、似たような能力レベルのものとだけつきあう傾向《けいこう》に、つながります。それはたとえば、前章で紹介した「つきあってきた友だちは受験|偏差値《へんさち》プラスマイナス五前後の大学生」と話す男子大学生に典型的にあらわれています。この側面が「結合作用」です。能力レベルが似たもの同士が集団をつくると、いままでは問題にならなかったような小さなレベルの違いが気になってきます。たがいに似ているから、です。たとえばそれは、たんに以前よりやせたとか、化粧《けしよう》がうまくなった、というような、些細《ささい》とも思えることかもしれません。しかし、似たもの同士の集団や関係では、大きな違いに思えてくるのです。  つまり、能力開発に情熱を持つひとびとのあいだでは、結合作用以上に、つねに分離作用が強くはたらいてしまうわけです。  ではまた、あらたに似たもの同士の集団・関係を形成すればよいではないか、という考え方もありうるとは思います。しかし、これをくりかえしていけば、最後は孤立《こりつ》するしかありません。じっさい、孤立してしまったひとは、多いでしょう。  孤立せずに仲間集団を維持していく方法、それは能力の違いを隠《かく》して、みんな対等と思える関係をつくることです。その方法のひとつが「キャラ」的関係です。メンバーがそれぞれ自分の「キャラ」を設定し、縦の違いではなく、横の違いによって結ばれていることにして、楽しく時間をすごそうとするのです。これは、対等の原則と能力開発の情熱の葛藤《かつとう》をやりすごすための、ひとつの知恵でしょう。  こうして、友人や仲間といるときであれば、場の空気を読んで、スムーズな会話や「ノリ」が実現できる技術が必要となります。楽しさというあらたな「結合作用」が不可欠だからです。それがないと、集団はバラバラになるかもしれません。言いかえると、楽しく時間をすごすことで、はじめておたがいが友人・仲間であることを確認し、仲間集団が維持できるのです。だから、ひとを傷つけて、「場がシラケる」ことのないように、予防的やさしさというきびしい非公式ルールが成立し、多くのひとがそれを守っているのです。 [#改ページ] ————————————————————————————  第四章 やさしさ社会のこわさ ————————————————————————————  前章までは、現代人のやさしさがとてもきびしくなっていることと、その理由について考えてきました。  けれども、�やはり腑《ふ》におちない。現代人の特徴《とくちよう》はやさしさというより、むしろ、冷たさやこわさではないか?!�と思うひとも多いでしょう。たとえば、この本の「はじめに」で紹介《しようかい》した投書者は、現代日本人はこころが冷たくなっている、と述べていました。  わたしもどちらかというと、そう感じることが多いです。�現代人は、よそよそしくて、冷たいし、すぐ暴力をふるうようなこわさがある�と。  しかし、この「よそよそしさ」や「冷たさ」、「攻撃性《こうげきせい》」は、ひどくやさしいからこそ生まれてくる、というのがわたしの仮説です。皮肉なことに、やさしさルールがあまりにもきびしくなって、過剰《かじよう》にやさしくしなければならないからこそ、逆に、こわい現象も起きている、というわけです。  ただしここで言う「こわい」現象とは、かならずしも冷酷《れいこく》な態度や、攻撃的・暴力的|行為《こうい》だけを意味しません。「やさしさとは対極にあると思われる現象」ぐらいの、ゆるやかな意味で使っています。  1 こわいひとびと[#「1 こわいひとびと」はゴシック体]  「腫《は》れもの」「こわれもの」としての自己[#「「腫《は》れもの」「こわれもの」としての自己」はゴシック体]  きびしいやさしさや予防的やさしさからは、修復(謝罪)の意義を過小評価する態度が読みとれる、と第二章で指摘《してき》しました。しかし、また別の態度を読みとることができます。  それは、ひとを「腫れもの」に触《ふ》れるかのようにとりあつかう態度です。  小包や配達物に、「こわれもの」「取扱《とりあつか》い注意」と書いた紙が貼《は》ってあるのをみたことがあるでしょう。�ガラス製品など、こわれやすいものがなかに入っているので、配達するひとは気をつけろ!�という注意書きですね。あれとおなじ注意書きが、それぞれのひとに貼りつけてある感じです。  あるいは、爆発物《ばくはつぶつ》が入っている荷物、とたとえることもできそうです。爆弾《ばくだん》などの爆発物が入っていると知っていれば、それをとりあつかうひとは、こわくてかなり慎重《しんちよう》になるでしょう。  うかつに触れればすぐ傷ついてしまう「腫れもの」「こわれもの」、あるいは「爆発物」としての自己。これが、現代人の自己の特徴です。  子どもを傷つけるとこわいことが起きるという神話[#「子どもを傷つけるとこわいことが起きるという神話」はゴシック体]  たとえば、『朝日新聞』一九五八年九月四日に掲載《けいさい》された『サザエさん』にも、その特徴があらわれていました。そこには、波平が「おそろしい少年犯罪/そうだんあいてのほしい年ごろ/家庭のりかいと愛情」という見出しの新聞を読んで、急にカツオにやさしくしはじめ、ボタンをとめてやったり、つめを切ってやったりする様子が描《えが》かれています。  このマンガが掲載された日の前日の夕刊には「子供と家庭と地域の問題 女高生殺しの教訓」という見出しで、女子高校生殺人事件の容疑者である男子高校生の逮捕《たいほ》が報じられています。この記事は、男子高校生が愛情のない家庭|環境《かんきよう》で育ったこと、かといって成績にこだわったり子どもにいちいち干渉《かんしよう》したりするのも「ゆがんだ愛情」であること、を紹介しています(『朝日新聞』二〇〇五年四月九日付「サザエさんをさがして」)。  おもしろいのは、波平の態度です。新聞記事を読んで、�愛情をじゅうぶん注がないと、こわいことになる�と不安になって、ふるえているのです。そして、カツオを「腫れもの」「こわれもの」「爆発物」のようにあつかうようになります。こわいことが起きないように、それを予防しようとしているのです。  そのマンガが掲載されて五〇年が経とうとしています。このあいだに、親はみんな「波平」のようになりました。子どものこころを傷つけることが、凶悪《きようあく》犯罪や精神病理、あるいはひきこもりやニートにつながるかのようなイメージが、すっかり定着したからです。  この傾向《けいこう》に大きな影響《えいきよう》をあたえてきたのは、ウルズラ・ヌーバー『〈傷つきやすい子ども〉という神話』(岩波現代文庫)が指摘《してき》するように、「心理学」です。とりわけ「子どものこころを傷つけたら、こわいことが起きる」と声高《こわだか》にさけんできた、一部の臨床《りんしよう》系の心理学者や精神科医でした。そのように言われれば、あの波平のように、子どもを「腫れもの」「爆発物」としてあつかうようになっても不思議ではありません。  ということは、この五〇年のあいだに生まれた日本人の多くが、「こわれもの」「腫れもの」あつかいされて成長してきたことになります。�こころに傷をつけたら、こわいことになるぞ�と親たちは考えながら、子育てしたということです。それはどのような結果を生んだのでしょうか。  現代日本人は、身分差のない武士[#「現代日本人は、身分差のない武士」はゴシック体]  それは�恥《はじ》をかかせたりして、傷つけたら、いつでも爆発してやる�と無意識のうちに考える日本人の大量生産、という結果です。言いかえると、�自分はばかにされていないか�とつねに気にする日本人の大量発生です。  日本は「恥の文化」だと言われます。社会学の世界では、ほんとうにそうかどうか、さまざまなむずかしい議論がなされてきています。ここではそういう高度な学問的議論はおくとして、多くの日本人はじっさいに、恥をかかないためにいろいろ苦労しながら行動していると言ってまちがいないでしょう。  「恥の文化」を指摘したルース・ベネディクトの『菊《きく》と刀』にあるように、かつて恥を重んじたのは武士たちでした。  予防的やさしさを実践《じつせん》する現代日本人は、�恥をぜったいかきたくない��恥をかかせてはいけない�と強く考える点で、気位だけは[#「気位だけは」に傍点]武士みたいな存在です。  江戸《えど》時代の身分制の頂点にあった武士階級は、その内部にもこまかい身分の違《ちが》いがありました。ですから、身分の違いによる敬語の使いわけにも、たいへん気を遣《つか》ったのです。  それにたいして現代日本人は、身分の差はないことになりました。だから、敬語の使用もそれほどやかましくは言われません。ただしそれは、ことばづかいに気を遣わなくてもよいということではありません。むしろ、ちょっとしたことば遣いの違いで�恥をかかされた!�と怒《おこ》ります。その点だけが、武士並みなのです。  たとえば、電車が混んできたので、近くの乗客に�奥《おく》に少しつめてください�とお願いされただけで、その乗客にたいして「ムカつく」ひとはいくらでもいます。注意する・注意されるという上下の差ができてしまい、注意されたひとは一段下におかれた感じがして�ばかにされた! 恥をかかされた!�と怒るのでしょう。  もうひとつエピソードを紹介します。先日、NHK教育テレビで「ワタシのみたニッポン」という番組をみました(二〇〇七年六月一七日放送)。日本に留学にきている外国人たちが、日本社会や日本人についてスピーチするのです。そのなかのひとり、アメリカ・カリフォルニア州出身で、京都の大学に日本文化を学びにきている二二|歳《さい》の男性は、こう言いました。「アメリカ人は親しさを伝えるためにあいさつします。でも、日本人は尊敬をあらわすためにあいさつしているように感じます」と。  おそらくアメリカ人のあいさつにも敬意の意味はあるでしょう。けれども、日本人のほうが、あいさつに尊敬の意味あいをこめる程度は強いと推測されます。  尊敬していることが伝わるようにあいさつしないと、怒りだすような雰囲気《ふんいき》が、たしかにあるようにわたしも感じます。それほどまでに現代日本人は、相手のあいさつの仕方をこまかく観察して、�自分をばかにしていないかどうか�を判断しているのです。  先程も述べましたが、いまの日本人は、身分差のない武士的存在です。みんな平等にもっともエライひと、なのです。じつは、自己が「川」の流れから自立して、もっとも「聖なる」ものになるということは、日本の場合、武士的になる、ということだったのです。  武士はちょっとした礼儀《れいぎ》上のミスでも「無礼者!」とはげしく怒り、ミスをした家臣や町人を手討《てう》ちにします。�相手は自分をばかにした!�と言って、斬《き》り殺《ころ》すわけです。とてもこわい存在ですね。だから、家臣や町人は「腫れもの」や「爆発物」をあつかうかのように、慎重でなければならなかったでしょう。  これは身分制があった時代のことです。いまは、対等が原則です。しかし、この対等を守らなければ、かつての武士のように怒りだす、こわいひとが増えたのです。  身分制の時代は、武士にたいしてだけ気をつけていれば大丈夫《だいじようぶ》でした。一方、民主主義の現代、全員が武士的存在となってしまった結果、おたがいを「腫れもの」「爆発物」としてあつかい、対等性の原則を何としても守らないといけなくなったのです。  念のために断っておきますと、これは、民主主義のせいだと言いたいわけではありません。日本人の人生が自己目的化したからだと、わたしは考えています。  また、友人・仲間関係でも、たがいに「腫れもの」「爆発物」あつかいするところはあります。けれども、見知らぬひととの関係が一時的であるのにたいして、友人・仲間関係はもう少し継続的《けいぞくてき》な関係です。つまり、これからまだしばらくこの相手とつきあわなければならないわけです。だから、�恥をかかせた�と思われないよう予防的やさしさを実行すると同時に、�恥をかかされた�と思うことがあっても、かんたんには「爆発」しないようにがまんします。  あいかわらず、対人|恐怖症《きようふしよう》[#「あいかわらず、対人|恐怖症《きようふしよう》」はゴシック体]  ただし、この現代の武士は、対人恐怖症的です。ひとがこわいくせに、こわがってはいけない、という葛藤《かつとう》につきまとわれているからです。  たんにひとがこわいだけなら、逃《に》げればすみます。しかし、そのこわさをないものにしようとか、克服《こくふく》しようと努力します。あるいは、こわくないぞ! というふりをしたがります。そこに葛藤があるのです。  葛藤があるので、対人恐怖症のひとには二面性があります。対人恐怖症|治療《ちりよう》の草分け的存在であり、森田|療法《りようほう》で有名な森田正馬《もりたまさたけ》は、次のように言います。  「対人恐怖は、恥《はず》かしがる事を以《もつ》て、自らふがいないことと考え、恥かしがらないようにと苦心する「負《ま》けおしみ」の意地張り根性《こんじよう》である」「対人恐怖の患者《かんじや》は、自ら小胆《しようたん》ではいけない、恥かしがってはならないと、頑張《がんば》り虚勢《きよせい》を付けようとするために、恥をも恥とせず、却《かえ》って益々《ますます》恥知らずとなる」「(他者からみられることをおそれる「視線恐怖」の患者には:引用者)自分は気が小さくて、人と面と向《むか》って話すことができないと苦にして、にらむことを稽古《けいこ》するものがある、……甚《はなは》だ無礼である」と。  森田のこれらの発言を紹介している、精神科医|内沼幸雄《うちぬまゆきお》によると、一般《いつぱん》に対人恐怖症の患者は、いったん対人恐怖になると、ひとと会うのが怖《こわ》くなり、対人関係上の些細《ささい》なことに動揺《どうよう》する自分を、なんてふがいない人間なんだ、なんて弱い人間なんだ、と思《おも》い悩《なや》みます。その結果、一部のひとは、ますます対人関係から逃《に》げ腰《ごし》になります。しかしたいていの患者は自分の弱さを克服するため、何らかの自己|鍛錬法《たんれんほう》を試みるそうです。たとえば、坐禅《ざぜん》、ボクシングなどのはげしいスポーツ、大勢を前にした弁論術の訓練などで、ものに動じない精神を鍛《きた》えようとします。ごくまれには、暴力団に殴《なぐ》りこみにいく患者もいるとのことです(内沼幸雄『対人恐怖』講談社現代新書)。  こういう特性は対人恐怖症患者にかぎらず、日本人一般にみられます。人生が自己目的化した現代人には、とくにあてはまります。  ㈰ばかにされないように、恥をかかないように、たえず周囲に気を配る。→㈪そういう自分にふがいなさや無力感をもつ。→㈫負け惜しみの感情がわきおこり、些細なことで自分がばかにされたと感じ、キレる。→㈰キレた自分を反省し、二度とひと前で恥をかかないように努力する。→㈪そんな自分を弱い人間のように感じる。→㈫負け惜しみ……。  こういうサイクルにおちいっているひとは、多いように思います。現代日本人の場合、㈪の部分が強くなるからです。人生が自己目的化し、自己以外に「聖なる」存在がなくなり、小さいころから「腫れもの」「こわれもの」「爆発物」のようにあつかわれてきた現代人は、恥をおそれる自分、�ばかにされていないか�と周囲に気を遣《つか》ってばかりの自分、をゆるせないからです。  思えば、近代以降、とりわけ戦後は、恥ずかしがることなく、ひと前で堂々と自分の意見が主張できるひと、周囲に流されず自分の考えに従って行動できる自律・自立したひとになることを、日本人は目指してきたのでした。  では、恥の恐怖が克服できたのかというと、それはむりなのです。対等性の原則を無視して、周囲から浮《う》いてしまったり、「場が読めないヤツ」と思われることは、耐《た》えがたいことなのですから。  それで、ますます自分がゆるせなくなり、他人の目などおそれないふりをして、相手をにらみつけるような、こわいひととなる。つまり、森田が対人恐怖症患者の特徴としてあげた、はなはだ無礼で恥知らずなひと、となったのが、現代的武士としての、現代日本人なのです。  2 伝わらないやさしさ[#「2 伝わらないやさしさ」はゴシック体]  「〜しない」やさしさ[#「「〜しない」やさしさ」はゴシック体]  きびしいやさしさや予防的やさしさがもたらす、もうひとつの皮肉な結果は、やさしさが伝わりにくいことです。やさしさどころか、思いやりの欠如《けつじよ》、マナー・礼儀知らず、とみなされることも、しばしばです。  なぜなら、予防的やさしさは�〜しない�というかたちをとりがちだからです。たとえば、第二章で紹介した、老人に席をゆずらず寝《ね》たふりをした少女がそうでした。ほかにも似たような例を、わたしの授業にでていた学生のレポートから。 [#ここから1字下げ]  (わたしの予防的やさしさは:引用者)先生や両親に叱《しか》られている時に、黙《だま》っていることだ。もしそこで反抗《はんこう》したり口答えしたりすると、相手のプライドを傷つけてしまったり、相手に「こっちは正論を言っているのにバカにされた」などと思われ、余計に傷つけ、余計に怒られてしまうからだ。黙って聞き流していれば、相手は自分に怒るだけ怒り、言うだけ言って去っていく。黙っていれば全《すべ》てうまくいくワケではないが、相手のことを思うとつい黙ってしまう。自分にとって黙っていることは相手に対する見えない優《やさ》しさだと考えている。 [#ここで字下げ終わり]  席を代わらない、何も言わない、というように、本人たちは「〜しない」ことでやさしくしているつもりでいます。けれども周囲のひとたちは、席を代わらないこと(=席にすわりつづけること)、何も言わないこと(=黙って聞いていること)をやさしさとは気づきません。  レポートの学生が述べているように、みえないやさしさなので、周囲のひとたちに気づかれにくいというところがあります。  また、わたしたちは、席をゆずらないことや、叱られているときに「すみません」のひとことも言わず黙っていることを、やさしさとは想定してきませんでした。だから、やさしさとは気づかれにくいのです。そして、冷たさ、礼儀知らず、思いやりのなさ、などと誤解されてしまうのです。  けれども、高齢者《こうれいしや》に席をゆずらないなどの行為・態度を選ぶのは、思いやりがないからではなく、極度に慎重だからです。  ちなみに、このような慎重な態度は若者にかぎられません。六六歳の女性の投書を紹介しましょう。 [#ここから1字下げ]  最近、東京|近郊《きんこう》の電車やバスの優先席に、平然と座《すわ》っている学生や若者が多いのには驚《おどろ》かされる。高齢者が立っていても席を譲《ゆず》ったものかどうか迷っている様子でもない。/高齢者の仲間入りをした私も、優先席に座ることが多くなったが、目の前に同年配の人が立たれた時、譲るかどうか迷ってしまう。かえって失礼にならないかと思い、勇気が出なくて寝たふりを決《き》め込《こ》んでしまうので、他人のことをとやかく言えるような自分ではないと反省している。/しかし空けた席に座ることを固辞されたときほど困ってしまうことはない。先日、つえを使っている私より若いと思われる女性に、勇気を出して席を譲った。「すぐ降りますから」と言われ、一瞬《いつしゆん》「シマッタ!」と思った。と、その時、「ありがとうございます。せっかくですのでかけさせていただきます」と会釈《えしやく》をされ座ってもらえた。親切はするのもされるのも、少し勇気のいることだと思った。(『毎日新聞』二〇〇七年八月三一日付) [#ここで字下げ終わり]  この女性も、相手に失礼なことをしない[#「しない」に傍点]よう、とても慎重です。思いやりの欠如どころか、過剰にやさしいのです。  この慎重な態度に関連するのが、「ひとそれぞれ」という認識《にんしき》です。  個別性と慎重さ[#「個別性と慎重さ」はゴシック体]  メディアを通して、現代人は「ひとそれぞれ」という思いを強く持っています。たとえば、�席をゆずったら感謝してくれる高齢者がいる一方で、怒りだす高齢者もいる、席をゆずられることひとつとっても、よろこんでくれるひと、怒るひと、「ひとそれぞれ」なんだ�、というような思いです。  このような思いを多くのひとが持つのは、社会で「ひとそれぞれ」が強調されるからです。「ナンバーワンよりオンリーワン」という言い方に象徴されるように、現代社会では、ひとそれぞれの個別性が、もっとも大切なこととして宣伝されています。「生徒ひとりひとりの個性を伸《の》ばす教育」「高齢者の個別のニーズに対応した介護《かいご》」「お客様ひとりひとりにあわせたサービス」など、数えあげたらきりがないほどに、個別性が重要だ、と唱えられています。  そもそも、�ひとを傷つけてはならないこと��こころの傷�を強調する社会は、個別性を強調する社会でもあります。以前は、�お年寄りにはこうすればよい�、という多くの高齢者に応用可能な接し方がありました。それが「年寄りあつかい」です。けれども、�お年寄りにもいろんなひとがいるのに、ただ見た目だけで「年寄りあつかい」され、傷ついたひとがいる�というようなことが叫《さけ》ばれはじめました。このように、�ひとを傷つけることがいかにひどいことか�と、「ひとそれぞれ」は、同時に強調されるのです。  「ひとそれぞれ」で�他者を傷つけてはならない�のであれば、ひとはかなり慎重に行動しなければならなくなります。高齢者だからといって、ひとくくりにできません。目の前にお年寄りがいる、席を代わったほうがいいかな、でも、老人あつかいされたくないかもしれない。席をゆずったら、気を悪くするかも。どっちなんだろう。そう考えれば、慎重になるほかありません。  席をゆずられたお年寄りがみな、よろこんでくれるなら、もう少し状況《じようきよう》は異なっていたでしょう。それほど慎重にならずにすむからです。でも、席を代わられて怒るお年寄りもいます。怒るお年寄りは、�ほかの年寄りといっしょにするな!�と、自分の個別性を重要視しているのでしょう。  このように、社会全体で、個別性と予防的やさしさをきびしく守ろうとしているのですから、ひとびとが慎重になっても、まったく不思議ではありません。  やさしさとサンダーバード事件[#「やさしさとサンダーバード事件」はゴシック体]  話はややそれるかもしれませんが、二〇〇七年四月二一日夜にJRの特急電車サンダーバードで起きた婦女暴行事件も、この慎重さが裏目にでたケースと考えられます。おなじ車両に四〇人も乗客がいるなかで、二一歳の女性が車内で暴行を受けた事件で、「四〇人の乗客、みてみぬふり」というような報道があちこちでされましたから、まだおぼえているひとも多いでしょう。  あのとき問題にされたのは、四〇人の乗客たちの行動でした。車掌《しやしよう》に知らせなかった、女性を助けようとしなかった、何て冷たく無関心なひとびとなのか、といった非難や、容疑者の犯行をとめようとすれば、逆に被害《ひがい》を受けるかもしれないから、助けようとしなかったのだ、という発言が多かったようです。  これらの意見はもっともなものだと思いますが、別の要因もあったのではないか、と思います。  わたしはもちろん現場にいたわけではありませんから、想像にすぎないのですが、まず乗客たちは、何が起きているのか、はっきりわかっていなかった可能性があります。特急電車ですから、新幹線のように、通路をはさんで左右に二列ずつ座席がならぶ配置になっています。乗客は進行方向をむいているので、おたがいに視線があうことも少ないでしょう。容疑者のほうをみて、にらまれた乗客がいたようですが、こういう配置では、他の乗客が何をしているのか、多くの乗客にははっきりとわからなかったと思われます。  第二に、乗客たちは、自分たちが予想もしないことが起きているなどとは当然予想していませんでした。�まさか自分がいる車内で、婦女暴行が起きるなんて……�と、事件のことを知って、乗客は驚いたことでしょう。婦女暴行が起きるかもしれない、などと予想して電車に乗るひとはいませんから。しかも、予期しないことは、突然《とつぜん》起きます。事件に対処する準備ができていたひとなど、ひとりもいないのです。  第三に、現代社会には、�他人に手をさしのべよ�という公式ルールと、それとは矛盾《むじゆん》する�他人のことにかまうな�という非公式ルールがあります。たとえば、『アサッテ君』(『毎日新聞』二〇〇七年二月二二日朝刊)で、おばさんが天気予報をみながら「人んちの洗濯物《せんたくもの》を心配しちゃいけない時代にもなったんだねえ」とつぶやいています。  雨が降ってきて、おとなりさんに「雨ですよ! 洗濯物が濡《ぬ》れますよ!」と知らせたら、もしかすると、「ほっといてくれ!」とか「他人の家の洗濯物を監視《かんし》してるのか!」などと、怒られてしまうかもしれません。  この場合、�他人のことにかまうな�という非公式ルールのほうが、実効性があるわけです。おなじことがサンダーバード事件にも言えると思います。  第四の要因が、第三の要因とも関連する、慎重さの要因です。�何か女性がいやがっているような声がするのだが、注意したり、やめさせるべきだろうか。もしかすると、たんにイチャイチャしているだけなのかもしれないし……。もしまちがっていたら、相手に恥をかかせてしまうし、自分も恥をかくことになる。どうしよう……�と慎重になった乗客もいたのではないか、と想像します。  また、婦女暴行犯への対処の仕方など、日頃《ひごろ》練習したことがないので、�うまく対処できるだろうか�と考えて慎重になる場合も想像できます。わたしたちはふだん、どんなことでも�うまくやらねば�というプレッシャーを受けています。小さいころから、周囲の目にさらされて、恥をかかないように�うまくやる�ことを習慣としてきているからです。ですから、はじめて何かをするときには、�うまくやれるだろうか�という緊張《きんちよう》と慎重さが強くなるのです。  ほかにも要因はあるでしょうが、いずれにしても、これら多様な要因がからまりあって、あのような事態になったと推測されます。  ですから、これらの要因のどれかひとつでも欠けていれば、事態は変化していたかもしれません。たとえば、現代人が相手に恥をかかせてしまうことにそれほど慎重でなければ、多くの乗客が「何をしてるんだ?」と容疑者に干渉《かんしよう》していたでしょう。  ですから、予防的やさしさが浸透《しんとう》していなければ、あの事件はなかった可能性が高い、とわたしは思います。しかしここまで論じてきたように、現実は正反対で、ひとを傷つけるような軽率《けいそつ》な行動をしないよう慎重にふるまうのが、予防的やさしさを身につけた現代日本人です。  そういう意味で、予防的やさしさが非公式ルールとなった現代社会では、サンダーバード事件とおなじような「こわい」事件がこれからも起きると予測されます。  3 やさしさとかげぐち[#「3 やさしさとかげぐち」はゴシック体]  毒舌《どくぜつ》がはやる?[#「毒舌《どくぜつ》がはやる?」はゴシック体]  ずいぶん以前になりますが、『ブロードキャスター』(TBS系)という番組で、「いま、毒舌がウケる」という特集を組んでいました(二〇〇三年一二月六日放送)。お笑いタレントやマグロ解体職人、町工場の社長、政治家の毒舌を紹介し、大学の先生が「いま、毒舌がウケる」理由を解説するという構成です。  「閉塞感《へいそくかん》のある時代・社会を打破するようなパワーがあるから」「ほんとうのことがみえにくい時代に、真実を垣間《かいま》みせてくれるから」などと、先生たちは説明していました。  何となく日常生活にも毒舌をはくひとが増えて、人気者になっているかのような印象をあたえる番組構成でした。しかし、みなさんのまわりに、ひんぱんに毒舌をはくひとはいますか? とくに、友人関係や仲間集団に、そういうひとはいますか? お笑いタレントのように、目の前にいる相手が傷つきそうなことを言って笑いをとれるひとはいるでしょうか?  とても仲のよい友人同士の場合は別として、そのようなことのできるひとはあまりいないだろう、とわたしは推測しています。毒舌をはくひとはメディアの世界にだけいて、視聴者《しちようしや》はそれをみて楽しんでいるだけだと思うのです。  くりかえし述べてきたように、予防的やさしさの社会では、自分も他者も傷つかないよう慎重にことばを選んで人間関係をつくるのが通常だからです。  第二章でわたしは、いまの若者たちはテレビのお笑いタレントの芸を学習して「キャラ」的人間関係を形成している、と言いました。しかし、この毒舌という芸は、その学習の対象になっていないようです。綾小路《あやのこうじ》きみまろのように、目の前にいるひとを対象とした毒舌は、たんなる悪口になって、相手を面とむかって傷つけることにひとしいからです。  しかし、仲間以外のひとや目の前にいないひとについては、話は別です。当事者がいないところで、そのひとの悪口を言ったり毒舌をはくこと、つまりかげぐちは、逆にたいへん活発におこなわれています。  ネットいじめのこわさ[#「ネットいじめのこわさ」はゴシック体]  ここでとりあげたいのは、従来のかげぐちではなく、最近メディアでもよく話題にされる「ネットいじめ」です。  たとえば「学校裏サイト」というものがあります。読者のみなさんのほうがくわしいかもしれませんが、『AERA』二〇〇七年三月二六日号にもとづいて紹介すると、学校裏サイトとは、学校の公式サイトとは別に、在校生らが勝手に立ちあげた掲示板です。そこに、携帯《けいたい》電話やパソコンでアクセスし、ハンドルネームで自由に書きこみができます。  問題なのは、生徒にかんする誹謗《ひぼう》・中傷・悪口が学校裏サイトに書きこまれ、いじめになっている点です。  ある高校の学校裏サイトには、次のような書きこみがあったそうです。 [#ここから2字下げ] 〈匿名《とくめい》さん〉 3年の○○|わ《ママ》ストーカーだから気を付けてねぇ。子持ちの男と不倫《ふりん》してんだって 〈○○〉 ストーカーで悪いかい 〈匿名さん〉 もうやめなよ 〈破壊《はかい》希望〉 バカどもが [#ここで字下げ終わり]  ○○の部分には、いじめの対象となった生徒の名前がひらがなや当て字で書かれているそうです。  こういったネットいじめのこわいところは、いじめてくる相手がだれだか、まったくわからない点にあります。  NHKの『週刊子どもニュース』という子ども向けの番組で、ネットいじめの特集をしていました(二〇〇七年六月三〇日放送)。番組中、ネットいじめを受けたことがある男子高校生のインタビューが流れました。  この高校生はクラブ活動を休んだことがきっかけで、いたずらメールが大量に携帯電話に届くようになりました。そこでメールアドレスを変更《へんこう》したのですが、それでも「何で学校にきたんだよ!」といったいやがらせのメールがどんどん送られてきたそうです。また、学校裏サイトでもいじめに遭《あ》い、家に火をつけて焼死させてしまえ、とまで書きこみされました。  さて、この少年がもっともこわいと言っていたのは、学校ではだれも自分のことを嫌《きら》っておらず、笑顔《えがお》で話しかけてくることだそうです。これは想像するだけでも、かなりこわいです。メールアドレスを変更して、あたらしいアドレスを知らせるのは、自分が親友だと思っている相手だけです。この親友のだれかが、あたらしいアドレスを悪意のあるひとたちに洩《も》らしているのです。しかも、それがだれなのかは、わからないのです。  この場合、学校でやさしく笑顔で接してくるひとたちと、ネットいじめするひととは重なりあっています。でも、それがだれなのかはわかりません。彼《かれ》は友だち不信になって、学校に行けなくなりました。当然といえば当然でしょう。ネットいじめは究極のかげぐちだと思います。  面とむかっては、傷つけないようにやさしい態度をとる。しかしみえないところでは、どんどん傷つけようとする。やさしさとこわさは反比例するようで、じっさいには比例関係にあるのです。  さきほどの『週刊子どもニュース』によると、ネットいじめによる被害は平成一三年には二〇〇〇件にすぎなかったのが、平成一八年には八〇〇〇件にまで増加したそうです。現在ほどきびしいやさしさの人間関係ではなく、傷つく・傷つけることにもう少し寛容《かんよう》な社会であれば、ネットいじめもこれほどには広がらなかったのではないか、と思います。  かげぐちは、原始的な人間関係形成法[#「かげぐちは、原始的な人間関係形成法」はゴシック体]  また、ネットいじめの隆盛《りゆうせい》は、楽しさ至上主義とも関連しています。かげぐちには、それほど親しくないひと同士をかんたんに結びつける作用があるからです。  みなさんも経験があると思いますが、共通の話題や趣味《しゆみ》がないひととでも、たがいに知っている同級生や先生のかげぐちを言うことで、かんたんに話題を盛りあげることができます。かげぐちは、もっとも原始的でかんたんな人間関係形成方法と言えるでしょう。  ですから、かげぐちはホンネとはかぎりません。ここまでは「かげぐち=ホンネ」を前提として論じてきましたが、かならずしもそれはただしくないのです。かげぐちをたたきあっている相手と調子をあわせるため、ほんとうはそう思っていないことをホンネとして発言することはしばしばあります。  ネットいじめの場合も、おなじく、その中傷はホンネとはかぎらないでしょう。とにかく盛りあがりさえすればいいのです。さきの『AERA』の記事では、誹謗中傷が目立つ、ある中学校の裏サイトを管理する中学生が、次のように語っています。「リーダー格の子がやっているのかと思ったら、みんなおとなしい感じの子でした。彼らが一番気にするのは掲示板が盛り上がること。書き込みが増えて注目を集めるには、わいせつな画像や誹謗中傷は欠かせないんだと思う」と。  このように、ネットいじめも「キャラ」的人間関係とおなじく、楽しさ至上主義の産物と考えられます。楽しくすごすために、とにかく「ノリ」を重視するからです。  ただし、「キャラ」的関係では、盛りあがるための高度な技術が必要なのにたいし、ネットいじめはかんたんです。とにかく、誹謗中傷すればよいのです。  むろんネットいじめの原因は、やさしさの高度化にだけあるわけではありません。そもそも、インターネットや携帯電話がなければ、ネットいじめはありえないのですから。  それでもわたしは、あまりにも傷つく・傷つけることに敏感《びんかん》であるがゆえに、相手にたいして感じていることを率直に言うこともできない状況が、やさしさとは対極にあるネットいじめの増加につながっている、と思っています。やさしさがこわさにかわっているのです。  4 思いやりの落差拡大と暴力[#「4 思いやりの落差拡大と暴力」はゴシック体]  結合定量の法則[#「結合定量の法則」はゴシック体]  かげぐちやネットいじめの問題とも関係するのですが、仲間や友人にたいしてあまりにもやさしすぎると、仲間以外のひとたちにはやさしくなくなってしまうという、こわい現象もあります。  仲間や友人の集団を「内集団」、それ以外のひとびとのあつまりを「外集団」と社会学では呼びます。内集団と外集団の問題は、社会学でも、また日本社会論においても、ずいぶん以前からあつかわれてきています。たとえば日本社会論では、仲間にはひじょうに気を遣うのに、それ以外のひとにはまるで無関心、という思いやりの落差の問題が、これまでもよく論じられてきました。  わたしがここで説明したいのは、思いやりの落差は拡大中、ということです。  社会学には「結合定量の法則」という概念《がいねん》があります。ひとが他者と持つことのできる人間関係の量は一定だ、という法則です。  たとえば、あなたが就職して、仕事が終わってからも取引先のひとたちとしばしば連絡《れんらく》をとらなければならないようになると、恋人《こいびと》や友人たちにむけられる意識や、会う時間・回数も減っていきます。しかし、人間関係の総量(他者全体にむけられる意識やじっさいにいっしょにすごす時間・回数など)は、おそらく就職以前と以後とで、それほどかわらないでしょう。これが結合定量の法則の意味です。  この法則が妥当《だとう》しない例外もありますが、この法則を前提にして考えると、現代日本人の思いやりの落差は拡大しつつあると推測されます。  迷惑をかけて団結する[#「迷惑をかけて団結する」はゴシック体]  まず、予防的やさしさを実行するために、内集団のメンバーに配慮《はいりよ》する度合いが高いでしょう。「キャラ」的関係のように、「場の空気」を適切に読んで、「ノリ」を良くして盛りあがるための努力も必要です。とすると、仲間といっしょにいる場への集中力というのは、かなりの高レベルでしょう。  しかも、その場にいない仲間からの関係もからんできます。携帯電話へのメールや通話です。その結果、仲間との人間関係に忙殺《ぼうさつ》されることになります。  これだけ仲間との関係に意識が集中してしまうと、たまたまおなじ場にいる、仲間以外のひとびとへの配慮はむずかしくなります。つまり、思いやりの落差が、やさしさルールがきびしくなるとともに、拡大している、と考えられるのです。  たとえば、電車内で携帯電話で通話しているひと、化粧《けしよう》するひともそうです。このひとたちは、いま・ここにはいない仲間との関係を配慮して、たまたま目の前にいるだけの、一時的にしか関係のないひとたちへはほとんど配慮しないのです。  また、仲間以外のひとびとへ迷惑をかけることで、仲間意識を高める、ということもあります。たとえば、電車のなかで傍若無人《ぼうじやくぶじん》にはしゃぐ若者たちをみかけます。まわりがまったく目にはいっていないという可能性もありますが、むしろみんなでまわりに迷惑をかけることで仲間であることを確認しあっているようにも思えます。  それは、仲間集団が不安定だからです。仲間集団が安定するには、おたがいに信頼《しんらい》しあう必要があります。しかし、予防的やさしさを実行するために、対等性の原則を守り、自分の悩みも打ちあけられない関係では、なかなか信頼関係は育ちません。  だからこそ、みんなで仲間以外の乗客たちに白い目でみられるというような経験が必要なのです。みんなで悪いことをしていると意識することで、仲間意識を高めるのは、よくあることでしょう。  冷静に注意できない理由[#「冷静に注意できない理由」はゴシック体]  こういった行為にたいして、予防的やさしさの価値基準をそれほどもたないひとは、叱《しか》ったり注意したりします。じっさい、第一章で紹介した投書者は、バスで携帯電話を使い続けていた女性に注意しました。  また、治療的やさしさのひとも注意するかもしれません。治療的やさしさのひとは、ひとを傷つけることはなるべく避《さ》けたほうがいいけれども、傷つけてしまうこともある、そのときは謝《あやま》ればいい、謝るのがやさしさだ、と考えるひとのことでした。ですから、マナー違反《いはん》と思われる行為にたいして、注意することがあります。  また、年長者も注意することが多いでしょう。携帯電話でつながっている、その場にいないひとを重視する若者とは違って、年長者は、そのときその場にいるひとへの配慮を重視すると推測されるからです。  注意されると、予防的やさしさという非公式ルールに従ってきたひとは、ムカついて、注意してきた相手をにらみつけたりします。なぜなら、彼らはマナー違反と思われることがあっても、対等性の原則を守るために、注意することを控《ひか》えるからです。人生が自己目的化した社会では、注意しないのが実効性のある非公式ルールですから。  また、注意したひとにたいして暴力をふるうこともありえます。予防的やさしさのひとからすれば、注意するひとのほうがルール違反であり、マナー違反であり、「悪いこと」です。悪いことをしたひとを処罰《しよばつ》することは、「善いこと」です。だから、注意するという「悪」をおこなったひとに、極端《きよくたん》な場合は、暴力をふるうのです。  一方、注意する側の問題もあります。注意する側のひとも、ふだんから注意しなれているわけではありません。注意したら相手を傷つけるかな、という思いがあるので、注意する経験がそれほどないのです。  注意するひとは、�注意したら傷つけるかな��相手は怒るかも��みんなの注目を浴びて恥ずかしいな��注意するなんてこころが狭《せま》くて大人げないかも�などと考えて、最初は注意しません。でも、だれも注意しないので、迷惑行為はそのまま続きます。それで、�やはり注意したほうがいいのかも……、でも、傷つけるのでは……怒りだすのでは……�と逡巡《しゆんじゆん》したすえに、おもいきって注意するのです。  おもいきって注意するとき、ひとは熱くなっています。しかも注意しなれていません。だから勢いあまって、語気あらく注意することになりがちです。クールに、冷静に注意するということにはなりにくいのです。  さらに、その場にいるひとに配慮して、自分もほんとうは携帯電話で話したいが、それをがまんしている年長者も、熱くなりやすいでしょう。�自分はがまんしているのに!�という意識がある分、がまんしないひとに腹がたつのです。そのうえ、公式ルールを守っているという意識がありますから、自分は「正義」の側にあると思い、つい注意する口調があらくなります。  こうして、年長者が若者に注意するときのことばはきつくなり、説教口調になりがちです。このことが、注意された側の、予防的やさしさのひとの怒《いか》りを増幅《ぞうふく》させるのです。  電車のなかは、公式ルールを守るひとと非公式ルールを守るひととが臨戦態勢にある、こわい状態なのです。 [#改ページ] ————————————————————————————  第五章 気楽なやさしさのすすめ ————————————————————————————  1 家畜《かちく》をめざすやさしさ社会は、いいものか?[#「1 家畜《かちく》をめざすやさしさ社会は、いいものか?」はゴシック体]  家畜になれば傷つけない[#「家畜になれば傷つけない」はゴシック体]  ここまで、きびしいやさしさ・予防的やさしさの特徴《とくちよう》、それが登場してきた理由、およびやさしさが生むこわさ、について論じてきました。  さて、ではどうすればいいのでしょうか。  じつはわたしは、やさしさ社会がそれほど悪いものとは思っていません。ただ、もう少しやさしさの程度が下がればいいな、と思うだけです。予防的やさしさから治療的《ちりようてき》やさしさにレベルが戻《もど》ればいいのに、気楽なやさしさでやっていければいいのに、と思うのです。  たしかにやさしさ社会のこわさはあります。また、殺人や強盗《ごうとう》などの凶悪《きようあく》犯罪、家庭内暴力や児童|虐待《ぎやくたい》、電車などの公共空間での暴力が、毎日のように起きています。  けれども、いまほどやさしくない社会にも、独自のこわさがあるはずです。また、現在のやさしさ社会で起きている暴力の多くは個人的な暴力か、少人数による暴力です。戦争などの大規模な暴力ではありません。  もちろん、個人的な暴力なら許されるとは言えないでしょう。しかし、せめて他国と戦争してもいないし、内戦状態にもなっていません。  にもかかわらず、メディアでは、現代日本社会がまるで最悪の社会であるかのように語られます。�いっさいの犯罪、暴力、不幸、不安は、ほんの少しもあってはならない!�と叫《さけ》びます。それらの発生を予防することやセキュリティが最優先課題であるかのようになってきました。その結果、たとえば、監視《かんし》カメラをあちこちに設置したり、二四時間三六五日の警備体制をとる街(ゲートタウン)をつくりはじめています。  予防的やさしさは、人間関係の非公式ルールであることを超《こ》えて、社会全体で達成されようとしています。しかも、パーフェクトにやさしい社会を目指していると思われます。  もし、犯罪も暴力も完璧《かんぺき》になくしたいなら、人間を家畜にしてしまえばいいのです。それぞれが個別のカゴにいれられ、接触《せつしよく》することもなく、一日中エサだけもらって経済的利益を生むブロイラーみたいになれば、犯罪も暴力も傷つくこともない、パーフェクトにやさしい社会が実現するでしょう。じっさい、そうなりつつあるかもしれません。  遺伝子《いでんし》にプログラミングされたやさしさ[#「遺伝子《いでんし》にプログラミングされたやさしさ」はゴシック体]  ニコラス・ウェイドという科学ジャーナリストが書いた『五万年前』(イースト・プレス)という本があります。おもに遺伝学と人類学の知見をもとにして、五万年前に誕生した現生人類の生活ぶりを描《えが》いた本です。  この本によりますと、四、五万年ほど以前から人類には「幼形進化」が起きているようです。これは、野生動物が家畜化するときなどに起きるもので、中途半端《ちゆうとはんぱ》な段階で成長がとまってしまう現象を意味します。たとえば、イヌはオオカミから進化して家畜となりました。そのイヌの頭骨は、幼いオオカミの頭骨と似ているのです。つまりイヌとは、成長の中途半端なオオカミというわけです。  人類の場合も、初期の現生人類の化石人骨は大きくてがっしりしていたのが、四、五万年前ころから頭骨が華奢《きやしや》になり、歯やアゴも小さくなってきているようです。その理由は、現生人類自身が好戦的であることをやめて、自らを飼《か》いならし続けてきたからだそうです。つまり、自分を家畜化しはじめたというわけです。  それでも近代国家が形成されるまでは、日常的に残酷《ざんこく》な闘争《とうそう》がくりかえされてきました。また、現代の戦争は、大量|破壊《はかい》兵器によって一瞬《いつしゆん》のうちに何千万人ものひとを殺戮《さつりく》できます。では、その戦争を起こすひとは残酷なひとなのかというと、そうともかぎりません。兵器の殺傷能力が大規模になったために、効率的に大量のひとを殺戮可能となったのであって、現代人が残酷になったからではないのです。  それにたいして、太古の人類はかなり残酷です。原始的な戦闘は、奇襲《きしゆう》、待《ま》ち伏《ぶ》せ、不意打ちがあたりまえで、捕虜《ほりよ》などはいません。捕《つか》まえれば、すぐ殺すからです。敵を絶滅《ぜつめつ》・根絶させるのが戦闘の目的でした。  食人風習も世界中に広まっていたようです。その証拠《しようこ》のひとつが、かつて狂牛病《きようぎゆうびよう》と呼ばれた「牛海綿状脳症(BSE)」がそれほど流行しない点にあります。脳内タンパク質プリオンの異常で起こる、プリオン病のひとつと言われるBSEは、この病気にかかった牛の神経組織を食べた人間の脳をも破壊します。それで、牛丼《ぎゆうどん》が食べられなくなる! とみんな大騒《おおさわ》ぎしたのでした。  しかし、BSEは予想ほどには発生率が高くありません。その理由は、プリオン病から保護してくれる遺伝的特性が多くのひとにあるからです。この遺伝的特性を多くのひとが持つのは、現在生き残っている人間の祖先が食人していたからです。人間を食べてもヒト・プリオンに感染《かんせん》しなかった祖先だけが、淘汰《とうた》されて生《い》き延《の》びたからです。  ではわれわれの祖先は、だれを食べてきたのか。戦闘に負けた相手の戦士を食べていたのです。BSEの発生率の低さは、人類の好戦的性格や残酷さを示しているわけです。  けれども、幼形進化にみられるように、人類はおだやかに、やさしくなることを選んできました。五万年も前からです。幼形進化は現在も進行中といわれます。この、自分を家畜化する進化の延長線上に、現代のやさしさ社会もあるのでしょう。とすると、やさしさへの傾向《けいこう》は、遺伝子にプログラミングされているのかもしれません。  しかし、かりにそうであったとしても、いま以上にやさしい社会、パーフェクトにやさしい社会を目指すのは、やはり違和感《いわかん》があります。それは前章で論じた、やさしさ社会のこわさに関係します。ひとつには、楽しさ至上主義のこわさです。もうひとつは、気楽さのない、とても窮屈《きゆうくつ》な社会がやってきそうだからです。最後は、攻撃《こうげき》についての知恵《ちえ》が、やさしさ社会では継承《けいしよう》されてきていない点です。せめて、これらの問題点をましにする方法はないのでしょうか。以下で、それぞれについて考えます。まず、楽しさ至上主義のこわさからとりあげます。  2 人生は楽しいことばかりじゃない[#「2 人生は楽しいことばかりじゃない」はゴシック体]  楽しさ至上主義は、ひとをあせらせる[#「楽しさ至上主義は、ひとをあせらせる」はゴシック体]  楽しさ至上主義は、�いつでもどこでも楽しくないとだめ�、�人生は、楽しいのがホント�という思想でした。この思想は、非現実的です。人生がいつも楽しいなどということはありえません。楽しいこともありますが、かなり少ないです。むしろ、つらいこと、悲しいこと、苦しいこと、腹のたつこと、退屈《たいくつ》なことのほうが多いのです(もしかしたら、わたしだけかもしれませんが)。にもかかわらず、いつも楽しいのがホント、と考えるのは、だから非現実的ですし、ウソです。  この思想を信じてしまうと、あせります。自分以外のみんなは、まるでいつも楽しいことだらけのような気がしてくるからです。そしてイライラし、怒《おこ》りっぽくなってきます。  やさしいから、虐待がとまらない[#「やさしいから、虐待がとまらない」はゴシック体]  たとえば、子育ては楽しいものというのも、すっかり定着しましたが、おなじく現実的ではありません。でもこのウソを信じてしまった親もいます。その結果、幼児・児童虐待をおこなってしまう親がでてきてしまう、と想像されます。  子育ては楽しいものと信じると、親と子のあいだにはいつも楽しく笑顔《えがお》でいられる関係があるべき、という義務感を親は持ちがちです。また、子育ては楽しいと考える親はたいてい、子どもに愛情を注ぐ努力を人並み以上にします。そうすれば、子どもは笑顔でいてくれると期待するからです。  しかし子どもは、親のそのような期待に応《こた》えません。一日中|泣《な》いて、怒って、騒いでいます。ものは壊《こわ》すし、汚《よご》すしで、「楽しく笑顔でいられる」時間など、ほんの少しです。  このとき、最初から「子育ては楽しいもの」などと考えてこなかった親は、�やはり子育てはたいへんだ�と思うだけです。また、子育てをはじめてから�「子育ては楽しいもの」というのはウソだ�、と現実に気づいたひとも、それほど問題はないでしょう。  問題なのは、現実に直面しても、相変わらず「子育ては楽しいもの」と信じる「まじめな」親です。この種の親は毎日、子どもに裏切られているような気がしてきます。�楽しくしよう、やさしくしようとがんばっているのに、どうしてこの子はわたしの努力に協力しないの?!�と、子どもが憎《にく》くなってくるのです。その結果、「まじめな」親の一部が、子どもに暴力をふるってしまうのです。  子どもが最初から憎くて暴力をふるうケースもあるでしょう。ただ、このケースは暴力がそれほどエスカレートしません。エスカレートするのは、子どもに愛情を持っているのに虐待してしまうケースです。このケースは、虐待と愛情の注入をくりかえします。虐待→反省→愛情の注入→虐待→反省……という循環《じゆんかん》に、はまってしまうのです。  この種の親は、子どもに葛藤《かつとう》を持っています。子どもに愛情を注ぐべきという気持ちと、子どもに裏切られたという憎しみの気持ちのあいだで、葛藤しているのです。愛情を注ぐ努力をしている分、親の期待にそむいた子どもへの憎悪《ぞうお》が大きくなってしまい、暴力という罰《ばつ》をあたえることは正当なことであるかのように感じてしまうのです。だから、暴力を自制しにくくなって、エスカレートしやすくなります。こころのどこかで、�裏切り者への暴力は正当だ�という声がささやいていますから、暴力がとまらなくなるのです。  ゆえに、幼児・児童虐待がとまらない親は、こころの弱い親でも冷酷な親でもありません。「子育ては楽しいもの」と信じてしまった、やさしくてまじめな親です。そう信じさせたのは、やさしさ社会であり、楽しさ至上主義なのです。  「人生はいつも楽しいわけではない」と考え続けることのむずかしさ[#「「人生はいつも楽しいわけではない」と考え続けることのむずかしさ」はゴシック体]  ひとをあせらせたり、虐待にむかわせてしまう�人生はホントは楽しいもの�という考え方は、このように多くのひとを苦しめていると想像されます。  そこで「人生は楽しいことばかりではない」という平凡《へいぼん》な考え方が大切になってきます。  しかし、ずっとそれを持ち続けるのは、意外と困難です。なぜなら、テレビ番組やCMなどが、�人生は、ホントは楽しいんですよ(お金を使って消費すればね)�というメッセージを流し続けるからです。だから、テレビをみていると、いつのまにか�楽しくないいまの生活は、まちがっているのかも……�と思えてきてしまいます。  「楽しむな」と言っているわけではありません。楽しむことがまるで義務のようになっている現状は、逆に人生を楽しめない状況《じようきよう》をつくっている、と言いたいのです。  「楽しくないほうがふつう」と考えれば、せめて楽しさ至上主義のこわさは少しぐらいましになるのではないか、と思います。  3 やさしさより、気楽さ・気軽さ[#「3 やさしさより、気楽さ・気軽さ」はゴシック体]  謝らない日本人[#「謝らない日本人」はゴシック体]  やさしさ社会は、対人関係について、気楽さ、気軽さのない社会です。予防的やさしさは、たがいを「腫《は》れもの」「こわれもの」としてあつかいますから、気楽に人間関係を持つ、ということができにくくなります。  日本人の人間関係で気楽さが欠如《けつじよ》していることは、日本人が謝らないという事実に、あらわれています。  よく「日本人はすぐ謝る」と言われます。しかし、それは条件によります。  まず、企業《きぎよう》が不祥事《ふしようじ》を起こしたときは、たしかにすぐ謝罪します。不祥事の原因がはっきりせず、その企業に責任があるかどうか判明していない段階でも、とりあえず謝罪しておこうという感じです。  次に、知りあいや仲間うちにたいしても、すぐに謝ります。たとえば、日本に住みはじめた外国人が最初に覚える日本語は「ごめんなさい」とか「ごめんね」だそうです。それぐらいひんぱんに日本人は「ごめんね」を使います。  ただしそれは、近所のひとや職場の同僚《どうりよう》などにたいしてであって、知らないひととぶつかっても「ごめんなさい」「すみません」と言うひとはほとんどいません。満員電車の乗客も、駅に着いて降りようとするとき、ひとこと「すみません」と言えばいいのに、無言で周囲の乗客を押《お》しのけてむりやり降りようとするだけです。  それにたいして、わたしが行ったことのある範囲《はんい》にかぎられますが、外国では、多くのひとがすぐ謝ります。たとえば、ショッピングセンターのトイレに出入りするとき、道でちょっとぶつかったときなど、英語を話す国であれば、「Sorry」「Excuseme」ということばが気軽に口からでてきます。  気楽に生きてはいけないのか?[#「気楽に生きてはいけないのか?」はゴシック体]  この気軽さ、気楽さが、現代日本にもっとも欠けているところだと感じています。  「対人|恐怖症《きようふしよう》の武士」である現代日本人にとって、見知らぬひとに「すみません」と言うのは、プライドが許しません。�なんでこんな他人に、すみません、なんて言わないといけないのだ?!�という感じです。一方、「すみません」と言うのが恥《は》ずかしい、という気持ちも同時に持ちあわせます。葛藤しているのでしょう。対人恐怖症ですから。  対人恐怖症なのは、すぐにはなおせません。でもせめて対人恐怖であることをすなおにみとめれば、もう少し気軽に「すみません」「ごめんなさい」と言えるのではないか、と期待しています。  しかしその考えも、甘《あま》いのでしょう。気軽さ・気楽さが現代にない大きな要因のひとつは、経済にあります。どんな職業・職種に就《つ》いていても、その職を守るための努力はかなり高レベルのものが要求されています。  職を守るために、みんな必死です。たとえば、客にたいしては、下げたくない頭を下げて「お客様」あつかいをしなければなりません。ちょっとしたことで「お客様」から理不尽《りふじん》な文句をつけられ、言いかえしたくても、そのことばをぐっとのみこまなければなりません。「それができなければ、いつでもやめていいよ、代わりはいくらでもいるから」、と上司はいいます。このような経験が毎日続けば、なかには「お客様」からされた理不尽な要求を、自分が「お客様」になったとき、無関係な従業員にたいしてするというひともでてくるでしょう。なんだか、みんながおたがいに首を絞《し》めあっているような状況です。  会社に忠誠心《ちゆうせいしん》がある場合には、このような状況も耐《た》えられるでしょう。しかしすでに述べたように、会社は都合が悪くなればいつでも従業員を「リストラ」します。だから人生の自己目的化がさらに進んだのでした。それでもなぜ職を必死で守るのかといえば、当然お金のためです。収入がないと、楽しくすごすことも能力の開発もできません。  お金のために、みんながおたがいに首を絞めあうような社会でわれわれは生きています。その傾向は、今後もしばらく続くでしょう。民営化、能力主義、市場原理、グローバリゼーション……これらが過度の競争を推進するからです。  このような経済状況下では、気楽さとは正反対の、深刻さや、少しでも隙《すき》があればだしぬこうという雰囲気《ふんいき》に満ちています。みんな必死になって、生き残りをかけているのです。そのような時代に、気楽さ・気軽さの重要性を唱えるのは、それこそ「気楽でいいね」と言われたり、「甘ったれるな!」と怒鳴《どな》られそうです。  けれども、すぐに実現できなくても、気楽さ・気軽さの重要性に変わりはないと思うのです。気楽に話し、気楽に失敗を認め、気軽に謝り、気楽に許すことができる社会。どんなテクノロジーの発達より、わたしはそれのほうが大切だと思っています。  4 攻撃の知恵[#「4 攻撃の知恵」はゴシック体]  悪口祭[#「悪口祭」はゴシック体]  最後に考えたいのは、攻撃の問題です。ただしここであつかう攻撃はおもに、悪口などのことばによる攻撃です。  前章では、ネット上のかげぐちであるネットいじめをとりあげて、予防的やさしさの高度化とかげぐちという攻撃の悪化が、コインの裏表の関係にあることを指摘《してき》しました。  悪口はもちろん、現代のやさしさ社会に特有のものではありません。どんな時代のどんな社会でも、ひとびとは悪口を言ってきました。ときにはうわさ話として、ときにはスキャンダルとして、ひとびとは悪口をはいてきました。また、かつての日本には、日常話される悪口とは別に、「文化としての悪口」が存在していました。  たとえば、山本幸司『〈悪口〉という文化』(平凡社)によると、江戸《えど》時代、宮城《みやぎ》県の塩竈《しおがま》神社には「ザットナ」という行事がありました。毎年|陰暦《いんれき》の一月一五日の夜におこなわれます。町ごとに子どもたちがあつまって、ふだんのおこないの悪い住人の家までやってくると、そのひとの悪口を声をそろえて叫ぶのです。ほかにも「悪口祭」と呼ばれる祭が全国各地にはあったとのことです。地方によって祭のおこなわれ方は異なりますが、だいたいは決まった日の夜、神社にひとびとがあつまって、闇夜《やみよ》にまぎれながらたがいに悪態をつくのだそうです。  さて、ザットナ行事や悪口祭はなぜ存在したのでしょうか。たまったうっぷんを晴らすため、憎悪の対象をやっつけるため、たんなる娯楽《ごらく》、といろいろ考えられます。『〈悪口〉という文化』の著者の山本は、行事や祭の日に悪口をおおっぴらにはくことが、共同体の秩序《ちつじよ》を守り、紛争《ふんそう》を解決することにつながっている、と主張します。事実、家の前で悪口を言われた住人は、秘密が町中に知れわたってしまうので、以後、行動を慎《つつし》むようになるそうです。つまり、悪口は実効性のある制裁なのです。  ネットいじめと悪口祭の違《ちが》い[#「ネットいじめと悪口祭の違《ちが》い」はゴシック体]  前章で紹介《しようかい》した、ネットいじめの対象となった高校生は、部活動を休んだことがきっかけで、いたずらメールが来るようになりました。ということは、最初にいたずらメールを送りはじめたひとは、部活動を休んだことへの制裁のつもりだったのかもしれません。  また、悪口祭では暗やみにまぎれて悪口を言いあい、ザットナでは複数の子どもがいっしょに悪口を言って、終わるとばらばらに別れてどこかへ行ってしまいます。つまり、だれが悪口をはいたのか、言われたひとにはわからない、というわけです。この点でもネットいじめと共通します。  このように考えると、ネットいじめは現代に復活した悪口祭と言えそうな感じがしてきますが、両者には相違点もあります。特徴的な違いは、効果の点と、悪口祭にはいろんなルールがある点です。  たとえば、制裁としての効果という点で、悪口祭やザットナは実効性があります。悪口の対象となったひとは行動を改め、秩序を守ろうとするのです。それにたいして、ネットいじめの場合、制裁を加えるだけで、いじめの対象者には、何が悪くていじめられるのかわかりません。だから、どのように行動を修正すればよいのかも理解できないのです。そういう意味で、ネットいじめに制裁としての実効性はあまりないと言えるでしょう。  また、悪口祭やザットナは、年に一度、決まった時間に決まった場所でおこなわれます。そして、「これは祭かぎりのもの、この場だけのもの」という了解《りようかい》が参加者には共有されていました。それにたいして、ネットいじめはいつでもどこでもおこなわれ、いつまでも続くようです。  悪口祭は、神社でおこなわれます。それは、「神様」という神聖で超越的《ちようえつてき》な力を悪口は代理・代表している、と共同体のメンバーが理解していることを意味します。�神様が注意している�という設定になっているのです。一方のネットいじめには、そのような存在はいません。  さらに、悪口祭の場合、悪口の内容にルールがあります。たとえば、最勝寺悪口祭では、泥棒《どろぼう》・姦夫《かんぷ》(既婚《きこん》女性と性的関係を持とうとする男)・らい病(ハンセン病)ということばが禁句だったそうです。一方、ネットいじめでは、そういったルールやタブーはないでしょう。  攻撃はいつも悪いのか?[#「攻撃はいつも悪いのか?」はゴシック体]  このように、悪口祭やザットナに制裁としての実効性があり、悪口を言うひとびとがルールを設定して、無規範状態にならないのはなぜでしょうか。  わたしの推測にすぎませんが、それは他者を攻撃することが、完全に悪いこととは考えられていなかったからです。攻撃は必要なときもある、と近代以前の日本人が考えていたから、というのがわたしの答えです。 [#ここから1字下げ]  悪口が社会の中で、いつでも否定的な存在だったかというと、そうとは限らない。人類社会の歴史を繙《ひもと》いてみると、多くの社会では悪口というものに、一定の社会的役割が与《あた》えられていた。(中略)相対的に言えば、近代文化の成立以降、悪口が社会の片隅《かたすみ》や日陰《ひかげ》に追いやられるようになったという傾向性は指摘できるだろう。(中略)人間の社会には、長い歴史の間に培《つちか》われてきた「智恵《ちえ》」の伝統がある。それは主として人間同士の関係をいかに築き上げ、いかに維持《いじ》していくか、あるいはお互《たが》いの葛藤をどのように処理していくか、といった事柄《ことがら》に関する「智恵」である。しかし、最近の社会現象を見ていると、どうもそうした「智恵」が、うまく継承されなくなっているのではないかという懸念《けねん》を感じる。誰《だれ》が発明したというわけでもなく、誰が伝えたというわけでもなしに、社会に継承され蓄積《ちくせき》されてきた「智恵」。(中略)「悪口」というのも、実はそうした「智恵」の一つなのだ。(山本幸司『〈悪口〉という文化』) [#ここで字下げ終わり]  山本のこの主張にあるように、攻撃としての悪口は、ひとつの文化的・伝統的智恵です。それがルールによって規定され、効果・効力のある智恵となりえたのは、攻撃はときには必要なのだ、という現実的な認識《にんしき》をひとびとが共有していたからだと、わたしは思います。  ただし、悪口という攻撃がいつも善い効果を発揮するとは、昔のひとも思ってはいません。悪口を言われたときの不快な気持ちを、ちゃんと理解していたでしょう。有効だし必要だけれども、むやみに使うものではない、ときちんと理解していたので、悪口は文化となりえ、暴走することもなかったのです。  逆に、ネットいじめが無規範になるのは、やさしさ社会だからです。やさしさ社会では、攻撃は完全に「悪」で、徹底的《てつていてき》に排除《はいじよ》すべきものとなっているからなのです。  じつは、現代日本人も悪口の制裁機能について気づいているはずです。だから、日常生活で、ひとつの秩序維持機能としての悪口に、有用性を感じていると思います。  けれども悪口は「悪」ですから、公然とは使えません。でも、使いたい。この葛藤の結果、悪口の使用法が屈折《くつせつ》してしまうのです。しかも、抑《おさ》えが効かなくなりがちなのです。その典型例がネットいじめなのは、言うまでもないでしょう。  部活動を休んだことが善くないことだったのなら、面とむかってそう言えばいいのです。しかし「部活動を休むな!」と口にだして言うことは攻撃になってしまう、と当人は思うのでしょう。やさしさ社会では、面とむかっての攻撃は、タブーです。だから言えません。しかし、休むのは善くない、ということは言いたい。葛藤するうちに、だんだん休んだひとへの怒《いか》りが大きくなります。その怒りは、相手からはみえない場所からの攻撃となって爆発《ばくはつ》するのです。そして裏サイトに悪口を書きこんだり、いたずらメールを送るよう掲示板《けいじばん》で誘《さそ》います。ここに「ノリ」良く便乗していっしょに誹謗中傷《ひぼうちゆうしよう》してくれる匿名《とくめい》の仲間が登場し、一時的に盛りあがってくると、もう抑えることは困難になるのです。  攻撃は絶対悪と決めつけた、やさしさ社会だからこそ、このような抑制《よくせい》の効かない攻撃を生んでしまう。この皮肉な現象を少しでも減らすには、攻撃の、限定的で条件つきの有用性・必要性を認識しなければなりません。そうすれば、コントロールの効かない攻撃、意味のない攻撃は減るだろうと推測できます。  ますますやさしい社会になろうとしている現在、あるいはますます「楽しければそれでいい」と考えるひとが増えている現在、むやみに攻撃の有用性を唱えることはとても危険です。それに便乗して、攻撃をエスカレートさせるひとがあらわれると予想できるからです。だから、むずかしい課題ではあると思います。  それでも、やさしさ社会の陰湿《いんしつ》な攻撃を少しでも減らすには、条件つき攻撃の必要性を多くのひとが認識して、文化としての「智恵」を継承していくのが、大切なことだと思うのです。  この章では、やさしさ社会のこわさやしんどさを少しでもましにする方法を考えるのが目的でした。けれども課題を指摘するばかりで、具体的な方法を示すことができずに終わってしまいました。適当な「解答」を述べて終わらせるよりは、このほうがましかな、と考えたからです。ひとまず、これからもこの課題にとりくむことを約束して、本書を終えたいと思います。 [#改ページ] ————————————————————————————  あとがき ————————————————————————————  本書では、やさしさ社会のありようが、そしてこわさが浮《う》き彫《ぼ》りになるよう、いろんな具体例をだして説明してきました。もちろん、これがやさしさ論の決定版というわけではありません。むしろ、もし本書を読んでおもしろいと思ってくれたなら、自分なりのやさしさ論、やさしさの社会学を発展させていってほしいと思います。  そのためにも、本書の執筆《しつぴつ》では直接参照しませんでしたが、やさしさとそれにまつわる問題を考えるのに役立つ文献《ぶんけん》を紹介《しようかい》しておきます。  まず、やさしさの社会学の古典的文献として、栗原彬《くりはらあきら》『増補・新版やさしさの存在証明』(新曜社)をあげたいと思います。楽しさ至上主義との関連では、堀井憲一郎《ほりいけんいちろう》『若者殺しの時代』(講談社現代新書)、八柏龍紀《やがしわたつのり》『「感動」禁止!』(ベスト新書)をおすすめします。  第四章で、身分制と敬語の関係にふれましたが、その点についてくわしく知りたいひとには、橋本治《はしもとおさむ》『ちゃんと話すための敬語の本』(ちくまプリマー新書)がおもしろいでしょう。  サンダーバード事件のような、一見冷たいひとびとの行動がそうともいえないことについて考えたいひとは、ラタネ=ダーリー『冷淡《れいたん》な傍観者《ぼうかんしや》』(ブレーン出版)を読んでみてください。やさしさとかげぐちの関係については、奥村隆《おくむらたかし》『他者といる技法』(日本評論社)をぜひ参考にしてください。  最後に、学問に関心がある若い読者にひとこと。  わたしは、本書で言うところの、人生が自己目的化した現代人の典型です。本書では若者のやさしさを中心に分析《ぶんせき》しましたが、じつは私自身の分析でもあったのです。やさしさの問題はほかでもない、わたしにとって切実な問題だということです。たんに学問上、研究上の問題ではないのです。自分にとって切実な問題でないと、考える気にもならないので、わたしの勉強の仕方は偏《かたよ》っていますし、そもそも不勉強です。  でも、開き直るつもりはありませんが、あなたも自分にとって切実な問題にだけとりくめばいいのです。何が自分にとって切実な問題なのかもわからず、勉強したり研究したりしているように(私の目には)思えるひとはいくらでもいます。「たった一度の人生」、それではもったいないのでは、と思います。  問題に時間をかけてとりくむうちに、いろいろと知識や情報をあつめざるをえなくなってきます。不勉強なわたしが書いたこの本も、社会学の本ではありますが、歴史や遺伝子の話がからんでくることになりました。  入り口は、社会学であろうと、心理学であろうと、歴史学であろうと、どれでもかまいません。あなたが自分の問題を切実に解決しようとすれば、いつかは入り口とは別の学問や知識が必要となるでしょう。必要になったとき、はじめて知識はあなたの身につくのです。それがあなたの経験と直結すれば、「智恵《ちえ》」となっていくはずです。  なんだか変な話になりましたが、最後まで読んでいただき、ありがとうございました。  二〇〇七年一〇月一日 [#地付き]まだ「智恵」の足りない 森真一《もりしんいち》  (謝辞)いつも考えるネタとヒントをくれる、皇學館《こうがくかん》大学文学部コミュニケーション学科の学生たちと、やさしさについて改めて考えるチャンスを下さった、ちくまプリマー新書編集部の四條詠子さんに、この場を借りて感謝します。 森真一(もり・しんいち) 一九六二年生まれ。神戸市外国語大学卒業後、関西学院大学社会学部卒業。同大学院社会学研究科博士課程修了。博士(社会学)。現在、皇學館大学文学部コミュニケーション学科教授。専門は、理論社会学、現代社会論、消費社会論。現在は、日本の消費社会を「お客様」社会と捉える研究に挑戦している。「お客様」社会化が接客業の領域を超えて、医療・教育・介護・娯楽の領域にまで広がっていること、およびそれがもたらす暴力などの問題を分析中である。著書に、単著として『自己コントロールの檻——感情マネジメント社会の現実』(講談社選書メチエ)、『日本はなぜ諍いの多い国になったのか——「マナー神経症」の時代』、共著として『変身の社会学』、『常識の社会心理』、『現代文化の社会学入門』などがある。 本作品は二〇〇八年一月、ちくまプリマー新書の一冊として刊行された。