TITLE : もめん随筆    もめん随筆   森田 たま   目次 東京の女・大阪の女 夙川雑筆 借家の庭 大阪言葉小片 男の魅力・女の魅力 あぶら蝋燭 あひ状 芥川さんのこと 七月廿四日 東京の涼 人妻 秋の匂ひ 冬を迎へるこころ 芝居の雪 ポオの遺産 日暦 我儘散題 花の色 もろきう あやめ草 桃花扇 猫を飼ふ 面影 家庭日記 萩の楊枝 奈若 夏の話 故郷をさがす 絹もすりん 屋島の狸 女の紋章 大阪の雨 ねずみの年 柳は風の吹くままに 木の芽 よまき 露 横顔 十三夜 木綿のきもの 伊勢の春 楊柳詩抄 夏虫 昔をいまに 一本の草 晩春恋慕 雨 孔雀の羽根 女ごころ ひとり寝 楊柳歌 おなじく秋となりて 着物・好色 ブロンズの脚 姉と妹との縺れを評して 愛情について ふるさとの若き女性へ もめん随筆   東京の女・大阪の女  大阪にゐた時分、東京から転任してきた新聞社の人が大阪には美人がゐないと云つてこぼしてゐるのをきいたことがある。阪急電車の神戸線にお乗りになつたら、とさしで口をすると、僕はその電車でかよつてゐるのですといふ返事であつた。商売柄花街との縁も深い人なのになほかつ大阪には美人がゐないと断言してはばからぬのである。灘五郷の銘酒さへ最上品は東京へとられてしまつて、本場へ残るのはその次ぎの品とかいふ話もきく程で、何によらず東京は最上品の集中場であらうが、しかし又東京へ行つてからいろいろに混合されるらしい最上酒よりも、地元に残されたその次ぎの品にかへつて純粋な酒の味があるやうに、大阪には大阪の美人がゐるにちがひないと思ふのだが、それならばとひらきなほつて何処にゐますかと問ひかへされるとこちらが当惑する。どこにでもゐませうと答へるよりしかたがないからである。  それから一年程たつて東京から転任してきた若い会社員がやはりおなじ事を云つた。「東京ではいたるところに——つまりバスの中でも省線電車でも街を歩いても必ずひとりは美人がゐますがね。そして一週間に一度ぐらゐはあツと思つて一ト眼で惚れこんでしまふやうな美人に会ひますが、大阪へきてみるとさつぱりそんな人がゐませんね。憂鬱ですよ」  街を歩いてゐる美人は彼女自身でも気づかぬあひだに自然に街の花となつてゐるわけで、結婚の未来をもつ若いサラリイマンたちにとつては、毎朝の一杯の紅茶か珈琲とともに、なくてはならぬ存在であるらしい。この人も阪急の神戸線で大阪へかよつてゐるので、そんなに美人に会はないのは時間がわるいからに相違ない、おひるまへの十一時頃から一時頃までの間に乗つてごらんなさいと私はすすめたが、さて自分が東京へきてみると、時も処も超越してまつたくいつ何処へ行つてもかならずひとりやふたり美人を見かけぬ事はないので、東京の美人といふものはいつでも街ばかり歩いてゐるのかと変な錯覚を起した程であつた。だがバスの中などであまり近近と顔をあはせて長い間一しよに乗り合はせてゐると、はじめは美しいと思つた人の顔にもだんだんあらが見えてきて、紅や白粉やまゆずみをおとしたあとの素顔はなんとなくざらざらしてゐるやうにおもはれ、大阪の女の人の一やうにきめのこまかな、さよりかなんかああしたすきとほるさかなのやうな、あぶらの程よくのつたむつちりとした肉つきを好もしくおもひだすのである。美人をみる眼もいろいろで、先年東京へ遊びに来た大阪の叔母さんは、東京は美人のゐないところだといひ、事のついでに東京の女は染めのわるい着物をきてゐるとわらふのである。  この叔母さんは——叔母さんといつてももう六十近い老婦人だが、おうやうに肥つてぬけるやうに色が白いためいくつ位とはいへないがとにかく若やいで見え、鼻すぢがとほつて双頬のふつくらとしてゐるあたりやはり大阪美人の名残りをとどめてゐる。若い時はうつくしい人であつたさうである。富裕な家に生れ富裕な家に嫁いで一生生活の苦労をしらぬ彼女は、おのづから自負心の強いのも無理からぬ事ではあらう。叔母さんが東京見物の第一日第一番に私に案内させたのは日本橋の山本であつた。そこで彼女は上等の海苔を百円あまり買つた。私は海苔ばかり百円も買つてどうするのだらうと驚いたが、その中へ包み紙を五十枚程入れておいてほしいと注文してゐるのをきいてああとうなづけた。三でふ五帖十帖とそれぞれに包みわけてお土産に配るのである。海苔は鑵に入れて贈るものとばかり思ひこんでゐた私は、百円もの尨大な海苔ををばさん一人でたべてしまふかのやうに思つて驚き、鑵代の倹約といふ事には気がつかなかつたのである。  そこを出て二人は上野へ行き、やがて動物園にはいつた。をばさんは河馬を見てこんな面白いものは大阪にはないと云ひ、三十分の余も檻の前に立つて河馬が醜い口をがばつとあけてあくびをするのを熱心に眺め入るのであつた。あまり長いあひだ起つてゐたのでをばさんはすつかり疲れてしまひ、これから地下鉄に乗つて浅草へ行きませうかと行つても、自動車ですうつと町中まはつて見ませうかと云つてもどれもこれもいやで、私はかうしてゐるのが一ばんよいとベンチに腰かけてみかんをむいてゐた。お姑さんとお嫁さんがならんだやうに、しよざいなく私もそこに腰かけて風に吹かれてゐたものである。  木挽町の宿へ帰つてきて一ト休みしてから、夜の銀座を歩きませうと誘ふとをばさんはもう動きたくないといふ返事である。ツイそこですよ、二町とありはしませんよと云つても、銀座は朝とほつたからもうよいと云ふのである。別行動をとつてゐた叔父さんが帰つてきて、浅草へも銀座へも行かなかつたときいていやな顔をした。私は自分の案内下手を恐縮した。  東京劇場のこけら落しがあつた春で、をばさんと私は翌日そこへ行つた。満員であつた。ここでこそ東京の美人を見てもらはねばと私は幕あひごとにをばさんを廊下へ誘ひださうとするのだが、をばさんは初めから終りまで行儀よくきちんと椅子の上にすわりこんだまま決して動かうとはしないのである。絵はがきも土産ものも私に買はせて食事の時より席をたたず、それで何も見てゐないのかとおもふといまこの傍を通つていつた人はこんど貰つたうちの嫁に肖てゐる、しかしあの人よりはうちの嫁の方が美人だといふのである。くらべられたのは細おもての鼻すぢのとほつた人であつた。  老夫婦は翌朝はもう松島へゆくために、木挽町から昭和通りを上野まで自動車をはしらせてゐた。その自動車の中で朝の早いひつそりとした町並を眺めながらをばさんのいふには、東京といふところは町幅ばかりひろくてそのわりに人出もすくなくて一向にさびしいところだ、道頓堀や心斎橋や堺筋やあんな人の多くて賑かなところはどこへいたかてあれへん、つまらんところや。そらそうやと叔父さんがそれを受けて、東京の人は一たいに大阪の人ほど遊び好きでないと見える、そやけど人の多いすくないを云ふのやつたら朝の八時か九時頃東京駅の前へ行つて起つてみてゐるがよい、あの中から吐きだされてくる月給取りの数といふものは何千何万あるものやら、その中には女子《をなご》も交つてまるで人間の市がたつたやうなものぢや、あれだけは大阪では見られんけしきやな。叔父さんは電気倶楽部であつたか工業倶楽部であつたかとにかくそんな処へ招待されていつて丸ノ内界隈を見てきたので、実感かそれとも他から注入された感想かいづれにしても東京はつとめ人の町だと叔母さんにいひきかせてゐるのであつた。  つとめ人の町といへばそのとほりで、職業婦人の数の多い事も大阪の比ではない。したがつて他人に見られるための化粧がうまくなるのも道理であらう。大阪の女はなんといつてもまだまだ家の中で旦那さんひとりを対象に生きてゐると云つても過言ではない。大阪には貴族階級がないのだから万事くだけてゐるだらうなどと思つたら大ちがひで、縁談などでも格式や家柄のやかましい事は想像の外である。一つ家の中でも主人に絶対の権威がある事は封建時代そのままで、先年私達が初めて大阪に住んだ時、夫の生家から手伝ひに来てゐた女中が帰るとすぐ、夫は生家へ呼ばれて家兄からこんなことをいはれた。「おまへの家では細君も子供もおまへとおなじ食卓につくさうだが、それでは家長を敬ふ家族主義に反するし、第一家庭経済の上からいつてもさういふ事はよろしくない……」  たべものにまで差別をつけられてそれでよく我慢ができると思ふのは私達のせまい考へで、細君は細君なりにそのへんの事はよく心得てゐてふだんはつましい食事で辛抱し、たまたま買物に出た時など下はデパートの食堂から上は「いせや」や「つるや」あたりまで女同士誘ひあはせてたべに行くのが楽しみのひとつとなつてゐる。東京なれば夫婦が肩をそろへて行くところであらうが、大阪では男は男同士女は女同士、はつきりと線がひかれてゐて、亭主を大切にする事はよそのみる目もうつくしい……とはいふやうなものの多少は舌たるい感じがせぬでもない。東京生れの気の勝つた細君に閉口して別れた後、今度もらふ時は気のやはらかな関西の女をもらひたいと云つた人があつたが、さて実際にもらつてみたらどうであらうか。私の身内には亭主を大切にするあまり旦那さんのおかずは全部別鍋でこしらへるといふ細君があつた。ある時お客があつて台所でお膳をそろへてゐると、猫が出てきて鯛のつくりみをなめはじめた。あれツと目ざとく見つけた女中が猫をおひながら、御寮ンさんどないしまひよとたづねると「しやうがない、それやつたらええ方を旦那さんにつけて、猫のなめたアる方お客さんにつけとき」猫がなめても味に変りはなかつたであらうが、あいにくとその日のお客は主人の伯父にあたるいはばそこの家では目上の人であつた。一しよに台所に出てゐて細君の言葉をきいた親戚の若い娘が多少憤慨してその話を自分のうちへ持ちかへつたので、あそこの家へはめつたにお客にも行かれへんと親類うちの笑ひばなしになつたが、それでもそんなにまで夫を大切にするといふ気持には好感を持たれてゐた。大阪の多少余裕のある家の主人はみなさうであるやうに、そこの主人も放蕩者である事に於ては人後に落ちなかつたが、さうした夫にまめまめしく仕へてゐる細君の心づくしは、近松の浄瑠璃に出てくる天の網島のおさんなどをしのばせ、末ながいちぎりをうたがふ者もなかつたのに、一たん夫が没落して昔日の体面を保ち得ずとなるや否や、その細君はふらりと家を出て行衛をくらまし、やがて離縁の請求状をよこすやうにさへなつた。九條武子夫人に肖て端麗な人であつた故新しい縁の見つかる事も早かつたのであらう。で、さうなつてみるとそれも又仕方のない事と周囲の者もあきらめてゆるさうとする気もちのあるのは、やはり結婚が個人と個人の結びつきではなく家と家との縁である事に起因するせゐかともおもはれる。亭主関白もその家の富が細君の実家と釣合のとれてゐる間だけの事で、一たん没落の経路を辿りはじめると亭主に亭主の資格は失はれてしまふのである。あれ程よくしてくれるのだからなどと男の方で細君の実意を自惚れてゐると足を掬はれる。亭主の放蕩はゆるしても貧乏はゆるしがたいのである。  一たいに零落した男をたてすごすのは本妻よりも妾の領分となつてゐるやうだがそれとてもすこしは男に見どころのあるうちの話で、はつきりと末の見込がたたぬときまると、女はぷいと身をひるがへして余裕のある男の手へ逃げてしまふ。日陰の出来事だけに会ふも離るるもたやすく、なかにはさういふ女のころげこんでくるのを待ちかまへてゐるずるい男もゐるのである。多額の落籍料は先きの男に出さして自分は手をぬらさずに女を獲ようとする魂胆である。私の知つてゐる限りでも、十年の余も好きな男の世話になつて贅沢のかぎりをつくし、小春治兵衛のやうに美しく死にたいと口ぐせのやうに云つてゐた女があつたが、いざとなるとやはり別れて他によい旦那を見つけた。それを当然の事として自他ともに怪しまぬのは、大津絵の唄の文句にも金子よりだいじな忠兵衛さんとあつて、生命より大事とはいはぬやうに、金子《か ね》が人生の一歩手前のものではなくて最後のものであるところの大阪気質の現はれで、世人は去つた女をとがめるよりも逃げられた男の無能を嘲笑する。考へやうによつてはそれだけやはり女が骨董品同様に品物視されてゐる訳でもある。  金子を最後のものとする考へは大阪ばかりではない、ちか頃一般の流行らしく、東京のお嬢さんたちでも恋愛は恋愛としてたのしみ結婚は生活の保証のある男とでなくてはせぬなどと勇敢に放言してゐるけれど、いさぎよくそれを実行した話を耳にしないのはやはり口先きだけの事で、東京の女はそれほど実際的に勇ましくはなりきれぬところ、金銭を賎しんだ祖先の遺産があたまの中でまだ充分に清算しきれぬためであらうか。「そらなあをばさんわたしかて、親がゆるして財産をつけてあの人のところへやつてくれはるのやつたらよろこんで嫁《い》きまつせ。そやけど親のゆるしも得んと無一文でとびだしてどうして暮してゆかれます? 百円の月給取りでは活動ひとつ安心して見られしめへんやないか」いつぞや親類うちの娘さんにちよつとした恋愛事件がおきて、がらにもなく私がその説教役にひつぱり出され、さて何と云つて思ひ切らせたものかと思案してゐるあひだにかへつて相手の娘さんの方からすらすらと説教されて、まぬけな顔で私はひきさがつた事であつたが、そのいとさんもいまは巨万の富をかかへて幸福にくらしてゐる。きけばそのお友だちもみんなおなじ事で、恋愛と結婚とはおのづから別だといふ信条を遵守した人ばかりである。なかには千万円の紙幣を傍につんで写真をうつしたとかいふ家へ嫁いだ人もあつて、どんな贅沢も思ひのままであらうと羨ましがられてゐる。大阪のいとさんたちは口には何にも理窟をいはないが、黙つて決然と目的へ飛躍する。しかもその態度は、夏の夕べの蛾をはたき落す猫の如く、正確にして敏捷である。ねらひをあやまるといふ事がないのである。意地や張りやつまらぬ義理だてからずるずると深味へはまつて、一生あぢきない日を送るなどといふ事は、断じて彼女たちのとらぬところである。  むかし新橋でお座敷芸にさかだちのうまかつた妓《ひと》といへば、ああと思ひだす人もあるかもしれない。まだレビユウなどのはやらぬ頃に彼女は片足を高く鴨居のあたりまであげてみせたりするのが得意であつた。そんな風に気さくな性質だつたのである。落籍された旦那といふのがべつに好きな人でもないやうにきいてゐたが、そのうちに旦那が病気をしてどうしてかくらしの道もたたぬやうになると、彼女はかひがひしく昔の知己をたよつて、しやぼんや歯みがきなどの行商をして歩いた。もちろんそれで男をたてすごしたのである。好いた男なればともかくさまで心に染まぬ旦那のためにさうした苦労をかさねる事は江戸つ子の美徳といはうか。金子が最後のものとなつたいまの世の中ではかへつて悪徳かも知れぬ。  悪徳といへばこれもそのひとつで、赤坂から出てゐる妓であつたが、日本橋の大きな木綿問屋の息子さんで当時慶応ボーイであつた人とおもひあひ、いくら頼んでも親がゆるしてくれぬところから思ひあまつた二人は死場所を関西に求めてかけ落ちした。さうして須磨の海岸で、月の美しい夜、ざぶざぶと海の中へはいつていつたがまだ春先の事で水は冷たくはあり、容易には死ねさうにもなし、二人とも死ぬのがいやになつて又ざぶざぶとひきかへしてきたといふのである。ところでひき返してきて顔を合せてみると二人ながら狐つきがおちたやうな気もちで、それなりに別れてしまつた。大島の高かつた頃で女は大島の対を着てゐたが、なんの事はない、その二百円とか二百いくらとかの大島を、わざわざ須磨の海まで捨てにいつただけのものである。周囲のとしよりが、もつたいないことをする人だとたしなめると、「だつてさ、着物をぬいで死ぬ人もないでせう」と本人は朗かに笑つてゐる。としよりがもつたいないと云つた言葉のうらには、金子《か ね》にしようと思へばできる相手に何の要求も出さないで別れてしまつた事を諷してもゐるので、彼女は自分の純情を金子で換算されるのがたまらないのであらう、知らぬふりして、東京の何とか何とかでさつきの鯉のふきながしと爪弾きで唄つてゐた。まつたく五月の鯉のふきながしのやうな気だてで「その人に会ひたくはないの」とたづねると、「え。どうせ一しよにはなれないんですもの、死ぬか別れるか。——もう死んぢやつたんですよ」と笑ふのであつた。自殺でもするのでないかと周囲の者は警戒したが、そんな事もなくてすんだらしい。なぜか私を好いてくれてよく遊びにきたものであつたが、それでゐて往来で会ふとすうと顔をそむけて通るのである。ふしぎにおもつてたづねると、「だつて芸者なんかに知りあひがあつちや御迷惑でせう」その答をきいてふつと私の目頭はあつくなつた。いまはどうしてゐるかとおもふ。幸福であつてほしいとおもふが、あのやうに東京人特有の遠慮がちな、はにかんだ気持を多分にその胸に住まはせてゐるのでは、いつも人の知らない苦労をしてゐるのではないかと、案じられる。  それにくらべると大阪の婦人は、無遠慮といつてもよい程率直で、見も知らぬ往きずりの他人に声をかける位はなんでもない。「あんさんのコートこらなんちふ生地でんね」「どこの店でこさへはりましてん」ある年の冬、すこしばかり変つた生地のコートを着て出ると、あちらでもこちらでもさう問ひかけられてすつかりまゐつてしまつた事がある。それでもまともからきいてくれるのはまだよい方で、心斎橋のたしか寺世といふ店であつたと思ふが、女のあたまのものばかりあきなふ店で買物をしてゐると、突然私の左の袖が何かにはさまれたやうにグイと重くひかれた。驚いてふりむくと中年の奥さんが二人、両方から私の袖をひつぱりあつて、そのコート地を品評してゐるのである。私は呆気にとられてしばらく茫然とその奥さんたちのなすがままに眺めてゐたが、奥さん達は私の存在とコート地とは全然別種のものであるかのやうに悠然とその会話をつづけるのである。 「鹿の子やおまへんで」 「さうでんな、なんやゴリゴリしてまんな」  奥さん達は一枚の袖をつまんでみたりひつぱつてみたり撫でてみたり心ゆくまで鑑賞した末に、なんやわかりまへんなとやうやくその手を離してくれた。ふうとこちらの方で汗をかくやうな気もちであつたが、そのかはり大阪の婦人の着物に対する知識の深さはたうてい東京の女の及ぶところではない。西陣に近いせゐでもあらうが、おなじ友ぜんを見ても、これは千さうのものこれは千々のものとちやんと区別がつく。お召は矢代で帯はたつ村で、しまがらよりも織元の名の方を尊重して買ふのは、桐生のお召は柄《がら》は新しいがひけるときは膝がしらなどよく使ふところから切れてくる、やしろのお召はどこといふ事がなく生地一たいに弱つてくるからすこし位ねだんは張つてもこの方がよいといふのであつた。中年の女の中には、河合さんのお召はよろしおました、品《しな》がようて柄が新しうてとなつかしんで話す人もある。河合さんといふのは長塚節氏の菜種日記に出てくる長春居の河合さんである。よい織元でなかなか新機軸を出されたさうだが、おしまひには逼塞して物故されたとやら、さういふ話をきかしてくれる婦人達の口ぶりの中には何か親身なものがこもつてゐる。さういふ知識の一般にゆきわたつてゐる証拠には、デパートなどでも染織逸品会を催す折出品のひとつひとつに織元の名前が出してあつて、人々は丹念にそれを見比べてゐる。東京でも此頃はどうであらうか。私が大阪でそれを知つたのはもう十年も前の話で、この頃では東京の大彦の品など大彦好みとわざわざ一劃区切つて並べてあるので、東京にゐてさへ大彦を知らぬものも多いのに、その上に又黒の紋付きは東京の竺仙がよいなどと、あれやこれや大阪の婦人の豊富な知識にはあたまを下げるほかないのである。ただそれほどに殆ど専門に近い知識をもちながら、さてその着物を着た姿のすつきりとしないのはどういつたわけであらうか。どんなに盛装をこらした人でもどこか腰ひものゆるいやうなところがあつて、事実街を歩いてゐる女の中には帯どめがはづれて帯がほどけてゐるのにも気のつかぬ人さへある。空が明るく気候があたたかで物資のゆたかな土地柄から、そとに対して身をよろふ必要はすこしもなく、自然に解放的になるのであらうか。さういへば性的にも羞恥や秘密を知らずに育つて「あのなああしこのお母ちやんがなあ、あの末娘《こ い》さんと学生さんと一しよに寝かしはつたんやて。そんでややさんがでけはつたんやて」などと十八にもなるお嬢さんが友達の身におきたまちがひを家常茶飯事に話してゐる。わたしやおまへにほうれん草、嫁菜になつたら云云と幼ない子供に子守唄がはりに唄つてきかせてゐるお母さんもゐるのである。「東京へいたらなんやさうでんな、雨が下からふりますさうなな」と大阪の人は皮肉をいふが、まつたくその通り、雨風のはげしいむさし野に育つ少女は、荒い自然に抗するためおのづから小褄をキリリとひきあげて歩くのかも知れぬ。   夙川雑筆    一  平原に生れた自分は必然に平原を愛し、山の近くに住む事は何か恐怖に近い感情であつたが、思ひがけない夙川の住居に朝夕見馴れてゐる間には、山には山の感情のある事がおのづから私にもわかつてきた。雨あがりの曇り空の下に連なるひるまへの六甲山は、夙川の松林を前景にして参百年昔の感情をそのまま見る人の胸へうつす。一抹の刷毛でぼかしたやうな山の姿は、見てゐるまにさぎりの間に霽れていつて、山のひだひだから煙のやうに白い靄がたちのぼり、判然とあらはれてきた山の峰峰は、やがて裸の山肌をあらはに自分の眼前に展開して見せるのだつた。それは呼べば応へさうに近い。そして立樹の一本一本さへが数へられると思ふ程にはつきりとしてゐる。山の姿はあらはな肉の角角を持つ故一そう自分に親しいのかもしれなかつた。やがて自分はあの山へのぼる折がきたら今よりなほ一そうあの山を親しく感ずるであらう。人は秀麗な富士山を見て、見るだけで満足せず、のぼつて汚ない処を歩き失望して帰るのを自分は愚かな事と思つてゐたが、それは男女の関係に於ても同様である事を、自分は今頃にやうやく気がつくのであつた。汚ないと思つて歩きまはつた富士山も又離れて見る時それは変りなく美しい富士山で、人はそれにのぼつてきた事で一そう断ちがたい愛着を感ずるのだ。山の汚なさはさう思へば女の肉体の汚なさと酷似してゐる。山の秘密も又女の肉体の秘密にひとしい。波にたはむれる海辺の人をもし刹那の感触に酔ふ官能派とするなら、山をきはめる登山家は永久に女の秘密を探る猟奇者と見てもよからう。自分は雨の霽れてゆく六甲山を見てゐるうちに、ついこんな事を思つた。    二  いつであつたか、心斎橋まで買物に出たついでに活動写真を見る気になつて、戎橋際の松竹座に入つた事があつた。昼間の事だから空いてゐるだらうと思ひのほか立錐の余地もない満員で、これはこれはと思つたが今更ら仕方もなく、二階の席へ上つてゆくと此処はさすがにまだ空席がある。しばらくすると私の隣へさやさやと衣ずれの音をたてながら来て腰かけた人があつた。その衣ずれの音に惹かれて見るともなく見ると、藤色の華美な訪問服に白地にぬひとりのある帯をきつちりとしめて、まるで婦人雑誌の口絵からぬけ出したやうな美しい若夫人である。私は幸福になつた。美しい人といふものはいつも男のためにばかりあるのではない、彼女の存在は時として女をも子供をも愉しくさせる。私はいい匂のする花を嗅ぐやうに隣席のその若夫人が身動く度にただようてくる甘い香水の香をうつとりと吸ひながら映画を見てゐた。私は若い男のやうに幸福であつたが、ただ少少そぐはない事には映画はハロルド・ロイドの喜劇で、私はそんな美しい人の隣で、笑ふ事などは出来るだけつつしまうと思つたにもかかはらず、ついくすくすと忍び笑ひがもれてしまつたのである。  と突然、私の隣からぎやつといふやうな奇声があがつた。ちやうど蛙がふみつぶされる時とそつくりそのままの、世にも奇怪な声音である。私は瞬間茫然としてゐたが、やがてそれが、肩をすくめて笑つてゐる隣席の美しい夫人の笑ひ声であつたと知つて、再び茫然としてしまつた。しばらくすると何となく悲しいやうな気がしてきて、私は席を起つて映画館を出てしまつた。出て見ると戸外《そ と》はもうちらちらと灯のつき初めるやうな暮れ方で、そんな時刻だといふ事までが何か私は悲しかつた。べつにはつきりと、東京を思出したわけでもなかつたのだが……  そのまま家へ帰つてしまふ気持になれず、私はぶらりぶらりとその辺の裏通りを歩いてゐた。うつかりと、どういふ処とも気がつかず歩いてゐると、不意に私の袂をひかへて「遊んでいつたとくなはれ」といふ人がある。六十に近いやうなお婆さんで、白髪の多いあたまに小さな丸髷をのせてゐる。私はただまじまじと起つてゐた。「なあ貴女《あ ん》さん、あがつたつとくなはれ、皆からだがあいてますよつて、どの妓かてかめしめへん。遊んだつとくなはれイな」  やうやく私には、自分の歩いてゐる町がどんな処かわかつてきた。一現茶屋とか芝居裏とかいつて、通りすがりの旅人でも雑作なく遊ばしてくれるお茶屋があるときいてゐたその町並なのであつた。だがそれにしても、私は男ではないではないか。 「遊んでゆけつて、だつておばあさん、私は女ではありませんか」 「何をおつしやる。男はんかて女子はんかて、お客さんにはかはりがおまつかいな。女子はんの方がこどもらかてからだがらくでよろこびまつさいな。なあ、あんさん、ひまで困つてまんのだつせ、遊んだつとくなはれイな」  なるほど、さうしたものかと私は感心して、大阪ではそれでは女のお客もあるのかと私の好奇心は動いて、どんな処かちよつと上つてみたいやうな気持になつたのを、いやいやと思ひ返した。上るのはよいがさてそれから、どんな事をすればよいものやら、私にはわかりにくい大阪言葉にかこまれて、唖のやうにただにやにやしてゐるばかりの自分の姿を想像すると、折角の好奇心もたじろいでくるのである。私は家に子供が待つてゐるのだからと断わりを云つてやつとその袂を離して貰つたが、それであとから気がついてみると、自分がひよつとそのお茶屋へ上つて見たいやうな気持に誘はれたのは、あのとしよりのねばねばとした、どこまでもからみついてくるやうな言葉のせゐではなかつたかと思はれる。いまどきのはやりに髪にこてなどあてた若い奥さんには、何かそぐはぬ心地のされる大阪言葉も、白髪の多い丸髷を小さくいただいたとしよりの口から聞けば、ピタリと胸に応へてくるのはふしぎである。「男はんかて女子はんかてお客さんにかはりがおまつかいな」私はひとりで口の中にまねて呟いて見たが、かんの高い東京の調子では上すべりがするばかりでいくら真似てもうまくはゆかぬ。私はあきらめるより仕方なかつた。ただその時以来、どんな美人の口からどんな奇怪な笑ひ声をきいても、一向悲観などしなくなつたのは、おなじ日に会つたあの客引きのとしよりのおかげである。    三  大阪の言葉はわかりにくいが、しかし大阪の人の話術にたくみな事も又私ひとりの驚きではなからう。彼女等はどこの奥さん達もさうであるやうにやはりおしやべりが好きだが、その話はいつも途中でいく本にも岐れ道に入りながら、そのままに終る事なく、いつか又もとの本道へ戻つてくる。しかもその間決して相手に口をひらかせないのである。あるひは私が訥弁でその間に口をさしはさむ術を知らないのであるかも知れぬが……ある時親類うちの若いお嫁さんと洗張の話をしてゐると(なんと世帯じみた話であつたのだが) 「そらをばさん、東京は洗張へたですわ。私呆れてしまひましてん。去年の秋わたし東京へ行きましたやろ。その時早慶戦見に行きましてん。ええお天気でしたよつて迎ひの自動車もいらへんやろと断わつておきましたらざあツと俄雨で、羽織から着物から長じゆばんまですつかりとほつてしまひましてん。わたしばかりやおまへん、女の人みなさうですねん。帰らうとおもたかてあそこは迎ひの自動車以外には、入れしめへんやろ。急いで電話かけて迎ひに来て貰はうとおもたかて、その電話かけるのが又大変ですねん。やうやく電話かけてもろて、自動車迎ひに来て貰ひましたけれど、ほんまにえらい目にあひましたわ。着物ぐらゐそらたんとありますけどな、旅先でつしやろ、ええ着物三枚と羽織二枚とだけより持つていつてしめへんね。早慶戦見にいくのやからと思て、ええ方のを着てやつしていきましたんや。清瀬さんなあ、をばさん知つてなはる? あの人が席とつておいてくれはりましてん。応援団のまん中ですの。恥しかつたけどよろしおましたわ! 清瀬さんいい顔でんねん、さあさあどうぞ云つてまはりの人みな席あけてくれはりますねん。あの年、ブリウブリウ云ふ応援歌が新しく出来て、勝つた時は幼稚舎の子がそれをうたひましてん、よろしおましたわ! わたし、それおぼえて帰りました。ええ、わたし慶応びいきですもの、町田でしたやないか。慶応勝つてうれしかつたわ! そやけどをばさん、早稲田は上手でんなあ! その時なあをばさん、ええお天気やつたのに、俄雨がふりましたやろ、女の人みな気の毒にずぶぬれになつてしまひましてん。わたしも旅館へ帰つてそれぬいで見ましたけど、もうとても着られしめへん。しやあと解いてしもて洗張に出して貰ひましてん。築地の有明館でつしやろ、下駄いうたら阿波屋、半ゑりいうたらゑり円と、一流の店ばつかりはいつてる家やよつてまちがひないと思て、東京一の店へ出しとくなはれと頼んで帰りましたんや。それで、あとから仕あげて送つてくれたのを見ましたらな、下手くそも下手くそ、どだいなつてエしめへんね。すぐ又小丸太にしなほしにやりましてん。えらい目にあひましたわ……」    四  又ある時、裁判所の判事をしてゐる人が遊びに来て、子供の時に鳥打ちに行つた話をした。その人の言葉は実にゆつくりしてゐて、判事なぞといふ職業から聯想されるテキパキとしたところはみぢんもなく、しかしその、どこといつて区切りのない紐のやうにずるずると引ずつた話しぶりのために、反つて相手は一言も言葉をさしはさむ隙を与へられないのであつた。その人が話すには、 「僕、君の兄さんとな、てつぽ打ちに往た事あるんや。そやなあ、十七位の時やつたかなあ。子供で鑑札貰へへんよつて、君とこの男しの名でとつてあつたんや。  二人でな、それ持つて出かけたんや。たしぎがええ云うてな、たしぎのゐるとこへいたんや。たしぎ仰山ゐよるんや。そこでねらひをさだめてドーンと打つたらな、たしぎばたばたつと皆逃げてしまひよつたんや。はあみな逃げてまひよつたと思とつたらな、そこらからごそごそと人出て来よつたんや。百姓や。なんでわいの手エ打ちよつた云うてえらいけんまくや。僕、たしぎ打たんと人間の手エ打つてもうたんや。左の手エでナ、たま三発もかすつて血みどろや。さあなんで打つた、云うてるうちに君の兄さんを見てな、坊《ぼん》でしたかいナ、云ふんや。君とこへ出入りの奴やつたんやな。何でも君の家で菓子料出して、すましてくれたちふ話や。  それからな、こんどは僕一人でてつぽ打ちに往たんや。だいぶあとの話や。御陵さんとこな、ぎやうさん鳥ゐよるねん。打つたらいかんと云ふ事になつてるのやけど、僕そこへ往てドーンと打つたつてん。鳥ばたばたと飛んでまひよつてん。するとごそごそと人出て来たんや。僕てつぽ打つと、いつかて鳥逃げて人出てくるのや。なんでてつぽ打つた、御陵さんでてつぽ打つたらいかんと云ふ事知つてるやろがと大きな声でどなりよつてん。それから僕見てな、あんたでつかいナ、云ふんや。僕、御陵さんの番人心易いのや。鳥どないしました云ふのや。鳥あんじやう逃げてまひよつたんや。そこら探したかてあれへん。あつたら番人にやろと思たんやけどな。あんた御陵さんの中で打つたのやおまへんやろな云ふんや。そやないそとから打つたんやと云うたけどな、ほんまは中で打つたんや。中で打つたかて僕のてつぽはあたらへんのや……」  おなじ事柄がもし東京の言葉で話されたとしたら、内容までがちがつたものに感じられはしないだらうか。いつか宗右衛門町の宿屋で、女中がかけてゐた電話に、 「あんまりあつちやこつちや浮気しやはるさかい、そんな事になりますのどつせ。そいで旦那はん、いまその女子はんのところにゐやはりまんのか。……まアま、こはいこと」  その、まアまこはいこととひどく声を落して云つたのが、沁みいるやうに応へてきて、私は思はず微笑をさそはれた。静かな昼の事で、私はそこの下座敷にひとり人を待つてゐたのであつたが、電話を切つた女中が朋輩に話してゐるのを聞くと、前夜女を連れて泊りに来た客が、女を置いて自分だけ先へ帰つたのだが、その足で又別の女を連れて他の宿へ行つてゐる。しかし自分の家の者にはこの宿にゐると云つてあるのだから、家から電話でもかかつてきたならやはりこの宿に泊つてゐると云つておいてほしい、自分は明日は又この宿へくるからと、そのお客から女中へかけてよこした電話なのであつた。だがついでに客は、自分の残して出た女はあれからどうしたか、無事に一人で帰つたか、それとも電話をかけて他の男を呼んでこちらに泊りはしなかつたかとたづねたのださうである。「阿呆らしい」と女中達は笑ひ興じてゐたが、それは阿呆らしさうでなくて面白さうであつた。大阪といふところは私などが今迄に、取りすまして幾重にも重ねて着てゐた着物を、一枚一枚はがしていつてくれる土地かも知れぬ。   借家の庭  わづか三坪ほどの庭なのだが、石を惜しまない此の地方の特色で、くつぬぎの大きな自然石をはじめとして大小のとび石、もくこくの根元の岩のやうなすて石。庭の前面は一体に高く土を盛り上げてそこも大小の石でかためて、石と石との間には、さつき霧しま柘植平戸など丸くひくくつくつた樹が植ゑてあるので、飛石と向う側の盛土の石との間はそれらの樹でおほはれてあるため、まるでいつもせんけんと水の流れてゐる小流れのやうな錯覚をおこさせる。つまりこれ等がごく普通な借家の庭のこしらへ方なのであらう。塀も下の半分は石でたたんでその上に丈の低い焼板をめぐらし、土を盛り草を植ゑ、そと側は美しいかなめを揃へてある。板塀の上からあをい緑のかなめがあたまを出してならんでゐるが、こちらからの眺めでは石垣の感じの方が強くて、まるで石ばかりで出来た庭のやうな気がされる。塀に沿うて半頃に一本亭亭とそびえる松の樹の根もとには一基の化燈籠もすゑてある。樹は松、斑入りのまさき、しんぱく、もくこく、けやき、つげ、八つ手、南天、よくもこの小さな庭にこれだけの樹が入れられたものである。殊に八つ手は東南に突出した厠の目かくしに植ゑてあるのだが、その大きさは厠の屋根をこさうとして、つねに涼しげな緑のかげを厠の中へおとしてゐる。この家を建てた人は何か風流な好みの人と見え、小さな家には不似合に厠はたつぷりと余裕をとつて辰巳の方へつき出してあり、黄いろい壁土をたたきつけたやうに塗つた壁づくりで、一間の格子窓と小さな書院窓とをとつてあるため、それは厠といふより離れ座敷への廊下ででもあらうかと思はせる。厠に灯のつく時は八つ手の葉うらが緑に透けて、庭中にほのかな明色がただよふ。まことに初夏のけしきである。厠のむかう側には木犀と乙女椿の樹があるのだが、それはこちらからは見えないで往来の人の眼にふれるばかりである。厠と松の樹との間、一けんばかりの処を遠く緑の葉がくれに汽車が通る。家の前は往来をへだてて二階が建つてゐるのだが、その左側は田圃で、汽車の線路まで一軒の人家もなくひろびろと展けてゐるせゐである。線路は高架線になつてゐて土地よりはだいぶんに高いため、汽車の通るのは部屋に坐つてゐても見える。おひる時、南向きの座敷で食卓をかこんでゐると、遠くから、からからからと耳に快よい軽らかな響が伝はつてくる。あ、つばめが来たと自分達はしばらく箸をおいて、あのスマートな昼の急行列車の東上する姿を、八つ手の葉ごしにかなめの塀の上に眺めるのである。いま神戸を出てきたばかりのつばめは、その響の明朗なる如くその姿も颯爽として、初陣の若武者といつた感じがし、後尾の展望車が通りすぎた後は、毎日の事ながら一抹の郷愁を自分の胸へ落す。東京を遠く離れて思はぬ土地にすまひする者の無理からぬおもひであらう。つばめの響は近くで聞くとどの列車にもまさつて強烈な物凄い地響きであるさうだが、このあたりで聞くとまるで車輪が線路の上をとんでゐるかと思ふ程ごく軽いタツチで、からからからからと、五月の空によくまはる矢車のやうに聞えてくる。おなじつばめは夕方にもやつてきて、それもおなじくからからとやつてくるのだが、その時は特別に眺め入る気もおこらぬのは、自分勝手な感情である。もうあと十分ほどで神戸へ着くつばめは、すこし旅疲れのした気持であり、屋根には埃がたまつてゐさうで、そこにはもはや何のあこがれもないのである。もしも東京が、神戸よりもまだ西にあり、夕方のつばめがそこへ上《のぼ》るものとしたらどうであらう。われわれは夕餉の仕度の忙しい中からでも、つばめは? と座敷まで、その時間には必ず見にくるであらうに。……   大阪言葉小片  五年程前の事と思ふが、岡本の谷崎先生のお宅へ伺つた折、あの眸の美しいお妹さんとしばらく話をした事がある。いづれは女同士の当りさはりのない日常茶飯事で、どこのデパートは買物がしよいの、どこのデパートはよい品が安くてあるのと他愛もない話だつたが、そのうちにお妹さんはくつくつ笑ひだして、何ですわね、こちらの人はものを買ふ時によくはりこむといひますわね、とそんな言葉がをかしくてならないといふ風に云はれるのであつた。はりこむといふ言葉の意味は私もよく知つてゐたので、それから又しばらく二人の間には大阪言葉のわかりにくい話が栄えた事であつたが、東京生れの人が大阪の言葉に同化するのは調子の具合やいひ廻しのちがひやいろいろ差しさはりがあつて、どうやらだいぶ難しい事であるらしい。私が最初に大阪へゆく時東京から随いて行つた女中など、三年大阪にゐたけれど到頭大阪言葉を何一つわからずに帰つてしまつた。  この女中の話はその時もお妹さんとの間の話題に上つて、二人で笑つた事なのだけれど、ある時、夫の生家から出入の小作人に車を曳かせて届けものをしてくれた事があつた。頼んでおいた古い椅子などの上に、畑で出来た葱やキヤベツの類を積んで、河内から玉出までごとごとと曳いてきてくれた彼は、朝早く河内を出るといふかねての約束だつたにもかかはらず、どうしたのか昼を過ぎてもまだ着かなかつた。どうしたんでせう。まさか自動車と衝突したのでもないでせうねと話しあつてゐる二階へ、慌しくこの女中が上つてきて、 「いま河内の方《かた》が、伊藤松坂屋の前でどうかなさいましたさうです」  胸をつかれて私達は問ひただすまでもなくドドドと階下へ降りてみると、玄関の入口に両手をさげて畏まつて起つてゐるのは、そんな報知を持つてきてくれた警察の人ででもあるかと思ひの外、やはり河内から車を曳いて来た本人であつた。 「どうした」と夫が声をかけると、 「へえ、おそなりましてすんまへん。わたし途《みち》でちよつと転《こ》けましてな、膝すりむいて痛うおまつさかい、なんぞくくるもんおくなはれ云うて、いま女ごしさんに頼んでまんでんねん……」  伊藤松坂屋の前は、いたうおまつさかいのまちがひとわかつて私達は笑ひだしたが、女中は不機嫌で、 「あの方の仰有ることはまるで外国語のやうです」と云つてゐた。  その女中が東京へ帰つてしまつて、代りに河内生れの女中がくると今度は私がまごつかねばならなかつた。はいと返事はしてゐても私のいひつけた事は先方にわからず、先方の云つてゐる事は私にわかりにくいのである。つまらない細かい日常の事にいちいち通弁がいるので、東京の女中が外国へきてゐるやうなといつた言葉を成程と思出して感心するのであつた。お勝手のことをはしりもと、おはちといへば丼で、飯をいれるおはちはおひつ。おへらがしやもじ、しまつておくことはなほしておく。お互ひにゆづりあつておぼえるのだが、ものを投げやりにしておく事を道楽にするといひ、いたづらつ子を叱るのに、このどろぼうメといふのでは、その言葉に対するべつの観念がこちらにあるために、いくへんきいてもまごつくのであつた。いちびるとかほたえるとかいふ言葉もなかなかおぼえにくかつたが、おぼえてしまふといちびるのはいちびるのであり、ほたえるのはほたえるのであつて、それを東京の言葉になほしてみようとしても、つけあがるでもはしやぐでもどうにもピツタリとしないのだからふしぎである。私はよく人から、 「大阪言葉はわからないでせう」と云はれ「ええ」と答へると、 「大阪弁て実にいやだな」 「さうですか、私は又あれが好きなのですけれど……」  わからないところに私の夢があるのではなからうかと考へる。大阪といふ町の正体は、住めば住む程わからなくなり、わからなければわからない程、私は大阪を好きになつてゆくらしい。 「東京へいたらなんやさうでんな、洗濯して糊するのに、干さないでそのまま糊しますさうなな、そんな事したら糊が損でんがな」  私を驚かしたこの言葉は、親類うちのとしよりが云つた事だが、私はその言葉がわからなくて驚いたのではなくよくわかつて驚いたのである。だから私は、東京の嫁さんは贅沢やといふ非難にすこしも腹がたたない。さういふ非難はむしろ温かく私を甘やかしてくれるのかも知れぬ。   男の魅力・女の魅力  松にからまる藤の花といふ古い比喩がある。  新緑の五月、奈良へ遊ばれた人は必ずや記憶せらるるであらう、あの春日神社への坂をのぼる途すがら、右手の森深くうつさうたる杉木立の頂き高く懸つて、ゆらゆらとたわわな紫の花房が滝津瀬のやうにしだれ咲いてゐるうつくしさを。——藤の花といふもののほんたうの美しさを私はあそこで初めて知つたと云つても過言ではない。そして、男を松や杉のやうな颯爽とした緑樹にたとへ、女をなよやかな藤の花としてそれに配置した諺の巧みさをもそのとき同時に悟りえたのである。  松といふ樹の梢にはいくら風がわたつてもその葉がそよぐといふことがない。ポプラやプラタナスやわづかばかりの風にもすぐに応へてひらひらと葉をひるがへす饒舌な樹木にくらべて、いかにも沈着ながつしりとした感じが手頼しく思はれるのであらう、日本の庭をつくるといへば何よりもまづ第一に考へられるのは松の樹で、枝ぶりの面白い松を池にのぞませそれに藤の花をあしらうた風景は、閑雅な中に一点の艶かさを添へるものとして誰にも好まれた定石のひとつではなかつたかと思はれるのだが、この頃ではさういふ庭はおひおひに我我の眼前から失はれて、赤瓦の文化住宅にふさはしく明るいローンの庭が新しい美を訴へようとしてゐる。男にたよる事ばかり考へてゐた蔦や藤の花のやうな女性が、自ら街頭へ出て働く事をおぼえつつあるいまの時代では、松の樹の魅力はしぜんに彼女等のあたまからうすれて、秋になればその葉が黄ばみ初夏は新鮮な緑の影を舗石の上におとし、風にそよぎ雨にぬれそぼつプラタナスやポプラのやうな、自然に対する感受性の豊かな、つまりは話題の多いものわかりのよい男が好もしく思はれだしてきた事は否めない事実であらう。細君が戸外《そ と》に出て働き夫は家にゐて薔薇の虫でもとつてゐようといふ家庭は、私達の周囲にも加速度にふえつつある。失業洪水のもたらす一風景にちがひないが、昔はそんな男はどうやら男の数には入れて貰へなかつたもののやうに思はれるけれど、この頃ではちやんと旦那様で通るのである。細君は学校へ出て英語を教へその上にまだ家庭教師までして終日孜孜として働いてゐるのに、その夫は家にゐてただ書物ばかり読んでゐるといふある家庭の話が出て、男も男だがその細君の気が知れないと評したのは齢知命を越えたある大学教授であつたが、それでいいのではありませんかと反駁したのは彼女自身職業戦線へ出て働く可能性を持つた婦人であつた。さういふ女達にとつては何かにつけて亭主の威厳をふりまはし、気むづかしくかまへてゐるやうな手数のかかる男は最早や必要がないのである。  だがそれなれば、亭主は気易くものわかりさへよければどんな怠け者でもかまはないのかと反問されるならば、ちよつとお待ち下さいと私は答へる。ある女学校の同窓会できいた話だけれども、多額納税者の次男のところに嫁いで何不足ない若い夫人が、クラスメートの羨望の質問にせめたてられてただ一言、わたし別れようかと思つてゐるのと答へた。とんでもないと昔の主任教師が眼をまるくしてどうしたのです、何かそんな原因がお二人の間にあるのですか、あなたがとても辛抱できないといふやうな……と暗に富有な男にありがちの女のまちがひでもとたづねると、若い夫人は頭をふつて、いいえ主人はとても私を愛してゐてくれますのと別に鼻白みもせず答へたのであつたが、続けていふには、しかし主人は何にも仕事をしないのです。わたしそれが厭なのです。——その真剣な語気にうたれて級友達は瞬間しんと静まり返つたといふのである、どのやうに彼がゴルフの名手であつても、どのやうに彼が音楽のフアンであつても彼自身燃えたつ仕事慾を把握してゐないかぎり、その愛妻の心をつなぎとめる事は不可能であるらしい。建設と独創の才に恵まれぬ女性の特質として、自分に欠けてゐるところのものを男性によつて満たさうとし、それを育てあげるためには一身を犠牲に供してなほかつ悔いることがないのは、古今を通じて女の胸に流れる本流ではないかと思はれる。家にゐてただ書物ばかり読んでゐる夫のために孜孜として働く婦人も、形の上には現はれずともその夫の心の中に渦巻く仕事慾を見ぬいての事であるかも知れぬ。しんそこからの怠け者を唯唯として養ふ程に女はまだ力もなく、又それ程に寛容ではない筈である。女はいつの世になつてもナポレオンが好きにちがひないのである。  他人の批評はどうあらうとも、妻は戸外に出て働き夫は家にゐて書物ばかり読んで暮される家庭などは、お互ひの心持のピタリとしてゐる点で羨ましい限りだけれども、さういふ家庭はまだまだすくなく、いまの世の中では恋愛結婚までしてもうまくゆかないで別れる夫婦の方が、かへつて多いのではないであらうか。私の身内にも不幸にして二度も三度も細君と相合はず別れてしまつた男がゐる。いまでは子供まであつてよそ目には幸福に暮してゐるけれど、家庭といふところは別に楽しいところではない、誰でもただ楽しさうな顔をしてゐるだけの事であらう、さう思つて自分もこの頃はそれ程面白くない事でも面白さうに笑つて暮してゐるのだと彼は述懐するのである。敢て立身出世を望まずただ申分のないよい細君をもらつて申分のない第二の国民を得たいといふ事だけを一生の願ひとしてゐたのであつたが、その素直な彼の願ひを遂に満足させ得なかつた女達について考へる時、私は女が女らしくある事のいかに難きかを思ふのである。彼女等はいづれも勝れて美しく利口な女であつたにもかかはらず、どうやら女の魅力に欠けてゐたのではないかと思はれる。魅力の正体はただ一言、女らしさにつきてしまふのだが。  昔、細君こいといふ歌をきいた事がある。お顔がきれいで姿がよくつてついでに持参金を沢山持つて、学芸優等で、品行方正で交際上手な細君こいつたら細君こい、細君こいてば細君こいといふのでその虫のいい註文にふきだしてしまつたおぼえがあるのだけれど、私の親戚の男の註文もその歌とあまり変りがなく、当時私達はそんな三国一のお嫁さんがほんとにあるのかしらとかげで噂しあつたものだが、東京の大学を卒業してちやんと銀行につとめてをり、次男の事故姑のうるささはなし、分家する時には相当の財産も分けて貰つてその上に男振りも悪くはないといふ条件は、お婿さんとしてなかなか有利なものであつたらしく、まつたく驚く程多く美人の写真が集つてきて、本人は望み通りの細君をその中からえらみ出す事ができ、私達は唖然とした。お顔がきれいで姿がよくつてついでに持参金を沢山持つてとあの歌のとほりの細君が彼のところへ嫁いできたのである。  花のひらいたやうに幸福な事であらうと私達は彼の生活を推してゐた。だから一年程経つて突然彼がその細君を返してしまつたと聞いた時には、私達は再び唖然とするばかりであつた。見合結婚とはいひながらこれならばと打込んで貰つた細君なのである。別れようと思ひながらまだ一緒に暮してゐたある日の事、ふらりと大阪の町を歩いてゐてむかうからくる美人に心を惹かれ、お、あんな女をこそ貰ひたいものだと近寄つてゆくとそれが自分の細君であつた、とそんな挿話さへある程みめかたちは気に入つた細君なのである。  おほかたの男はみめかたちさへ気に入つた女なれば多少の我儘も愚鈍も辛抱してしまふものらしいのに、彼にはそれができなかつた。いや、さうではない。彼の細君は愚鈍でも我儘でもなかつた。新婚旅行に東京へ来て何を一番先に見たいかと云はれ、言下に上野の音楽学校へ行つて見たいと答へた程ハツキリしたあたまの持主であつた。花嫁はヴアイオリンのたしなみがあつたのである。そして夫も音楽は好きであつた故この点でも趣味の一致した似合の夫婦といはねばならなかつた。だがそれ程揃つた夫婦であつたにもかかはらず、別れてしまつた破綻の一因は既に新婚の初夜にあつたのである。  この頃は性教育といふ事がやかましく云はれてゐる。あまりに神秘の奥深く閉され、時には若い娘の恐怖の源とさへなつた秘密の扉をひらいて、人間生活の正しい認識を与へようとする教育は勿論望ましい事にちがひないのだが、過ぎたるは及ばざるに如かず、あまりもの事をハツキリさせてしまふと、昔は眩しいもののやうに思はれてゐたその夜の気持までひどく事務的なものになつてきて、男の方が反つて照れてしまふ場合もおこつてくるらしく、彼のこの頭のよい花嫁もやはりそのお仲間で、新婚の夜の部屋の床の間に挿された一瓶の花を眺めて、あれは誰が生けたのかとたづね「法にかのてしめへんな」と突込む程、理智的で冷静であつたのである。花嫁は夫に仕へる態度に於て欠くところはなかつたが、彼等は新婚旅行から帰つた日、東京で買ひ残した土産ものを揃へるために三越へ行つて、出てくると戸外は雨であつた。夫婦は梅田の駅まで出迎へた本家の番頭の傘をかりて、乗物のあるところまで仲のよい相合傘で行くのだつたが、ふと途中でうしろをふり返つた若い夫は、そこに頭から濡れながら随いてくる番頭の姿を見ると思はず云つた。「お、房吉は濡れてかあいそやな」言葉の終るか終らぬに花嫁は凜と答へたのである。「一本の傘に三人もはいれしめへん」……  理窟やなア。……と此のいきさつを私に語りきかせた彼の長兄は云ふのである。そやけどと彼はつづけて、これやがな、嫁さんの方がうしろ向いて房吉濡れてかあいさうな云うて、亭主の方が一本の傘に三人もはいれんやないかと云うたのやつたらなんにも問題はおこらへなんだのや、あべこべやつたよつて難儀な事になつてしもたんやと長兄は嘆ずるのである。「一本の傘に三人もはいれしめへん」……あつと私も驚いて、花嫁の冴えた頭に感じ入つたが、さて落着いて考へてみると成程やはり長兄のいふ通りに、これが反対であつた方が事はおだやかであつたらうと思はれてくるのは是非もない。理智に冴えわたつたあたまは近代の花嫁としてもつとも好もしいものに相違ないけれども、いきなりむきだしの理窟はせつかく新婚の夢に酔はうとする夫の眼をさむざむと白けさせてしまふばかりで何の効果もなく、反つてこの女はおもひやりに欠けてゐると若い夫は一ぺんに胸を冷たくしてしまつたのである。だがしかし、女房といふものはどうしてかうも眼下の者におもひやりがないのであらうと、その後いくへん貰ひ更へてもおなじ欠点をその細君に見出した彼は、つくづくと匙を投げてしまつたのだが、私も彼と同様に、時代が変れば女の魅力の内容も変つてくるのは当然の事ながら、それにしても初夜の羞恥と日常の温かいおもひやりだけは、いつになつてもその胸にすまはしておいて欲しいものだと望まずにはゐられない。このやうに考へる私は結局、下を向いて咲く藤の花の美しさを女の魅力と思ふのかもしれないが、どうやら古くさいこの比喩がやはり真理ではないかと思はれてくるのである。   あぶら蝋燭  どんなたべものを一番好むかと聞かれるより、どんなたべものが一番きらひかと聞かれる方が返答がしよい。即ち一番きらひなものなど何もないからである。どうやら私は異常な体質と異常な食慾を持つて生れた人間らしく、およそ普通一般のたべものならどんなものでもたべられぬといふ事がほとんどない。それはあたりまへではないかと人はいふかもしれないが、さうではなくて、世の中にはあれこれ好ききらひのある人もなかなか多いらしいのである。  私の知つてゐる限りでも、ある人はさしみと酢のものがきらひだといふし、ある人は又、こんにやくは牛のたべるもので、らつきようは朝鮮人のたべるもので、トマトは羊のたべるものでと、いちいち相応した理窟をつけてその食物を忌避する。さうかと思へば軟体動物は一切受附けぬといふ人もある。あはび、とり貝、くらげ、たこ、いか、——軟体動物で思ひだすのだが、いつか佐藤春夫先生にお会ひした時、話の最中に先生は突然生まじめな顔になつて「あなたは人間が折折軟体動物になる事を知つてゐますか」とたづねられた。教壇の上から生徒に質問されるやうな厳粛な態度であつたから私もはつと畏まつて考へたが、どうにも答へが出て来ない。おそるおそる「存じません」とこたへると「わかりませんかね、ちやんと昔の文献にもあるのですがね」文献と聞いて私は一そうはつと堅くなつた。と直ぐに先生はつづけていはれたものである。——「いかになりゆくわが身の上」  はんぺんとあだ名をつけられたお嬢さんがあつた。白くてふはりとしてゐたからである。白くてふはりとしたものに昔流行つたマシマロといふお菓子があるけれど、あれはもともと舶来品なのであらう、多分のハイカラさをふくんでゐて、そしてかわいた感じがする。綺麗で洋風の応接間向きだが、はんぺんの方はまつたくのお惣菜で、その点親しみやすく気のおけないお嬢さんであつた。  ただ少し大柄な人であつたので彼女の恋人は「何だか夢の中で大きなはんぺんを一口に頬張つてしまはなければならぬやうな気がして、少し困るんです」といつてゐた。「それにあれではないでせうか、はんぺんはやはり軟体動物の一種ではないでせうか」彼も軟体動物のきらひな一人だつたので、そんな贅沢をいつてゐるうちにお嬢さんは何の前ぶれもなく突然結婚してしまつた。「明暗」の中の清子があつといふ間に結婚してしまつたのとよくにてゐて、取残された津田と同じやうに彼も亦一度相手に会つてその心持をきいてみたいといふ心願を抱いてゐたが、おなじ土地に住んでゐながらふしぎと出会ふ折がなく、いつか五年の星霜が過ぎてしまつた。  当時は一介の学生に過ぎなかつた彼もいまでは一人前の会社員となつて、きらひな軟体動物もくらげや鱶のひれぐらゐはたべられる迄に進歩した。女給をからかふ事もおぼえ、断髪のタイピストから恋の手紙も貰ふやうになつて、往年のはんぺんの夢など残らず忘れ果てたやうに見受けられたが、めつたに手紙などよこさぬ彼からこの春突然厚い封書が届いたので、多少訝りながらひらいて見ると、五年ぶりで思ひがけなく昔の恋人に邂逅したといふしらせで、もちろん往きずりにちらりと眺めただけで言葉をかける気にもなれず行き過ぎてしまつたとあつたが、さすがに心が平かではないのであらう、いま午前三時です、ウヰスキイを飲んで酔つぱらつてゐますと終りのところに書いてあつた。  五年ぶりに会つて見た彼の印象によると、むかしのはんぺんのやうな彼女は、こんどはなめくぢに似てゐたさうである。あたまが小さくてからだの方がふはりとして、そして大へん水つぽく見えたさうである。なめくぢではどうにもなりませんからねと書いてあつたのは、いよいよたべられなくなつてしまつたといふしやれのつもりなのであらう。なめくぢとよく似てゐる蝸牛の方なれば、白ソースで煮るとおいしいといふ定評があるけれど、なめくぢをたべるといふ話はあまり聞かないやうである。——私はそんな事を書いてよこす彼の手紙に思はず微笑を誘はれたが、だが一概に笑つてばかり居られぬやうな心持もした。  それからしばらく経つて、こんどは偶然にも私の方が彼女と会ふ機会を得、しかもおなじ宿に泊りあはせて夜おそくまで二人きりで話しこむやうな事になつたのである。私も彼女には五年前に別れたきりで、結婚してから後の彼女に初めて会うた訳であつたが、私の眼に映じた彼女は娘時代の贅肉がよい加減にけづりとられてしたたるやうに瑞瑞しく、ちやうどよく熟れた梨瓜かなどのやうに歯ごたへのある柔かさで、ぼつとりと好もしく見えたのである。  あの人は、——と彼女の方からあつさりと、まるで学校の同級生の消息をでも聞くやうに彼の動静をたづねるので、私は彼がまだ独身でゐる事などを話した末に思ひ切つて、べつに喧嘩をしたやうにも見えなかつたのになぜ別れたのかと昔の事を問うて見た。すると彼女は「さうでんなあ。あの人はあたまもええし、気だてかてわるいことはないし……」とちよつと上眼づかひに空間を見つめるやうにして考へたが、と思ふとすぐいきいきした眼つきになつてずばりといひ切つた。「さうです。——多分あの人には、男性のイツトといふものが欠けてゐたのやろと思ひます」  私は十四五の少女の頃、二葉亭四迷の訳したツルゲネフの「うき草」といふ本を持つてゐた。それはたしか箱ではなく珍しい帙いりの厚い書物で、中をひらくと全部の頁の天地に、薔薇か何かの小さなもやうが紅い色刷りになつてゐて、一ばん最初の頁には、ばらばらと大粒のにはか雨が通りすぎた後の草木の葉には、雨の滴がきらきらとダイヤモンドのやうにかがやいてゐるといふやうな美しい言葉が書かれてあつた。  私はその本を大切にして何べんとなく読み返したものだけれども、いまではその中に出てくる人物の名前さへ、ルウヂン一人をのぞいては全部忘れてしまつてゐる。ただ忘れ難いのはその中の皮肉屋の誰かが女について語つてゐる言葉で、たとへば男といふものはどんな男でも二二が四でいつでもちやんと割り切れるけれども、女ときたら二二が三とか五とかの間違ひならばまだしもの事、二二が脂蝋燭とくるからなあといふやうな意味であつた。  小さな女学生の私には、その二二が脂蝋燭といふ言葉がわけもなく面白くて、何かといへばあぶら蝋燭をふりまはして同級生を笑はせてゐたが、その言葉の意味を成程とうなづけるやうになつたのは、どうやらすこしづつ世の中といふものがわかりかけてきたかと思ふ二十過ぎてからの事である。そしてそれから長い間私は女は脂蝋燭だと思ひ暮して来た。女自体があぶら蝋燭か、それとも社会がさうしたのか、ともあれ女がはつきりと二二が四と割り切れた場合、世の中が異端視して通してくれなかつた事だけはたしかである。  だがいつのまにやら私の周囲も、この比喩を訂正せねばならぬやうに変つてきつつあるらしい。私はむかしのはんぺんのお嬢さんから、あまりにはつきりした答を聞いて、瞬間茫然とした。私はそんなはつきりした答はまるで予期してゐなかつたのである。だがそんならばどんな答を予期してゐたかとたづねられると、私のあたまからは何の言葉も出て来ない。この若い夫人のいふ事がいかにも正しく、その言葉に打負かされた形で私には何の考へもまとまらないのである。——ああ、二十年のむかし、女はイツトといふ言葉さへ知らなかつた。……  十七になる私の娘は今度大阪から出て来て東京で一ばん自由だといはれてゐる学校へ入学した。はいつて見るとそこは噂に聞いてゐたよりももう一そうよい学校で、何から何まで気持のよい話ばかりだが、今迄かなり官僚的な学校で教育された彼女にとつては、あれもこれも物珍しさの限りで、毎日学校から帰ると勢こんでその日の出来事の総てを私に話さずには居られないのである。「ね、あのね、今日ね」と彼女はうるさがる私につきまとつてしやべらうとする。 「あのね、今日ね、数学のお時間にね、先生がグラフの説明をなすつて、此処をXとしてと仰有つたらすぐ誰かが、Xでなくたつていいぢやないの、○でも△でもいいぢやないのつて云つたのよ。驚いちやつた」 「ほう」と私もついひきこまれて「それで先生は?」 「先生はふりむきもなさらないのよ。そりあ○でも△でもいいさ、だがここではXとしてつてずんずん説明していらしたの。……みんなその先生のこととても好きなの」  Xが○でも△でもよい事を知らなかつたために今迄の女は、二二があぶららふそくで暮さねばならなかつた。もし知つてゐたにしたところで、Xと習つたものはどこまでもXで説明しなくては通してもらへなかつたのである。だがいまの女はすくなくともXを○とも△ともいひかへるだけの自由は獲得した。あの人にはイツトがないからとはつきりといへる時代がきてゐるのである。これは進歩でなくて何であらう。しかし、——  府立の中学の二年生である小さい息子は、姉と母の話を傍聞きして、ふと気負つていつたのである。 「そりやその場合は○でも△でもいいかも知れないけれど、XはどこまでいつてもXでなくちやならない事だつてあるでせう」  彼の小さなあたまで考へたのは単に数学の問題だけに相違ないが、この差出口ははつと私の胸を打つた。彼女等の進歩を喜びながら私の危惧は一点そこに懸つてゐたのである。もしも彼女等はXを○とも△ともいひ得る歓びのあまり、Xでなくてはならぬ場合にさへ○でも△でもかまはないと考へてしまひはせぬであらうかと。  多分私は、笑はれるにちがひないのである。ひよつとすると彼女等にはもうXも○も△もどんな区別もないのかも知れないのである。彼女等は朗かに男性とつきあつて朗かに他の男性に嫁いでゆき、そして男の方は、軟体動物は困るのですなどといつてゐるうちに取残されてしまふのである。Xはどこ迄行つてもXでなくてはならぬ等と思ふのは、処女尊重の男性の身勝手な夢かも知れぬ。——  私は最近に、「手術」といふひとつの短篇小説を読んだが、そこにゑがかれた女主人公には実在のモデルがあるといふ話である。若くて美しくてそして聰明で、芸術的才能にまで恵まれた一人の近代女性が、つぎからつぎへと惹起する異性とのスキヤンダルを、彼女自身は有名になるための手術と考へてごく事務的に通過するといふ風の小説でどこにも暗い陰などのない真昼のやうにはつきりした話であつたが、だが読み終へて受けた感じは何か病的な、つまり本人が明朗であればあるだけ一そうさしぐまれてくるやうな、かつての女性の凡てがさうであつた陰鬱症に対してこれは又、一種の明朗症とでも名づけたいやうな、おなじやうに儚く脆い心地がしたのである。  かしこいあなた方よ。——私はいひたいと思ふ。あなた方自らのあり余る才に恃み過ぎて、せつかくわりきれた二二が四を、再び別種の脂蝋燭へ陥し入れる事のないやうに。私はただその一事をのみ望みたいと思ふのである。   あひ状  急に宿替をせねばならぬ事となつて、どうせさういふ時には猫の尻尾の存在でしかあり得ないのだけど、それでも自分は自分なりにぽつぽつ手廻りのものを片附けてゐると、久しくあけて見ない手許筥の中から、厚さ一寸ばかりの半切の束のやうなものが出て来た。不審におもひながらほどいて見ると、天だけを紅で染めた半きれに、村野様ゆへはや〓〓お越しまち入候、でんぼや、若としさまへ。すつかり忘れてゐたが、大阪の芸者のあひ状なのである。お菓子のレツテルだのマツチの箱だのと愚にもつかぬものをあつめかけて、すぐ又忘れてしまふ悪癖があるのだが、このあひ状もその中のひとつで、もう四五年越しまるで思出した事がなかつた。あつめる時にはまづ北の新地からはじめてそれから新町、南、となかなか意気込んでゐたものだけど、その北の新地さへほんの一部で忘れるともなく忘れてしまつたのである。もともとこんなものは退屈ざましの煙草の一服のやうなもので、一としきりうつとりと心をやすませたあとでは、忘れ去るのが当然であらう。それにいつまでも執着するのはかへつて放蕩的な気持かも知れないと思はれるが、偶ま筐底に見出でてそれを眺め返してゆく事は、やはり昔の自分の姿にめぐりあうたやうになつかしいのである。女の人の中には写真といふものが好きでよく折折の自分の姿を写真にをさめておく人が多いが、写真のきらひな私は多分こんなところにその時時の自分の姿を残しておくのかも知れなかつた。  芸者のあひ状といふものは東京にもあるのかどうか、私は大阪で初めて知つてその優しげな文句に心を惹かれ、会ふ程の妓《ひと》に頼んでは貰ひ受けたものであつた。配り手拭や団扇などとおなじやうにやはりこれにもその家家の好みがあつて、紙から印刷の文字から文句までそれぞれちがつてゐるのである。何何様おまちかねすぐにとせきたててゐるのもあれば、何何様お越しにて御出待ちおり候とゆつたりしたのもある。何何様お越しゆへ鳥渡にても御出まち入候と叮重なのもあるが、大体に於て何何様ゆへはや〓〓御越しまち入候といふ文句が多く、そしてそれが一ばんぴたりと色里らしく情をふくんで聞えるやうである。平鹿豊田屋あたりのはどんな文句かしらと、引越の忙しさなどいつか忘れてひとつひとつめくつてゆくと、紅梅いろの半きれに紅梅の家の名をしるした一枚が出てきた。あ、と私は思出した。ここは古い友達の玉置氏がつれて行つてくれたお茶屋である。  毎日新聞社の玉置氏は廿年来の友達で、そして私が大阪へゆくと必ずどこかおごつてくれるよい友達なのである。いつか今橋のいせやへ連れてゆくといひ、昨日行つたと云ふと、それではつるやにしよう。つるやは約束があるのと答へたら怒つてはり半をおごつてくれた事がある。夏行つた時、鮎の茶屋へ行かうと云はれ、返事をするとモータアボートで行くといふので私は忽ちおそれをなして止めてしまつた。自動車でも行かれるからとすすめられたけれど何となくおつくふになつて到頭行かなかつた。紅梅といふ家へ行つたのはその時の事か、それとも又後の事かはつきりしないが、夏であつた事だけはたしかである。  糸目の古びた簾の落着いた座敷へ妓《をんな》が四五人あつまつて三味線をひいた。玉置氏はどこで勉強したのか常磐津をおぼえてゐて、それを語るのである。この人は僕のお師匠さんだと妓達に私を紹介してわるい事は何でもみんな私から教はつたのだといふのであつたが、それは冤罪で、多分氏は廿年前の、額ぎはにふさふさと生えてゐた頭髪について、私を証人にしたいのらしかつた。玉置氏は五尺八寸の巨躯に程よく肥りながら、その頭は額ぎはから見事に禿げ上つて、最早や年配の重役のやうに見えるのである。そして誰もが、氏もかつて禿げない頭の所有者であつたといふ事を肯定しないのである。  玉置氏は戻橋と関扉を梅幸と幸四郎の声色入りで語つて、今度は延寿張りの保名をやると云つた。若い一人が調子をあはせて弾きだすと突然階下の座敷の縁側から、かん高い声が上を向いて簾越しに吹きあがつてきた。 「しつかり弾きなはれや、お師匠はんきてはるで」  その家の女将さんの声らしかつた。妓達はおうこはと顔を見合せて膝を坐り直した。座敷がお稽古場のやうな気がしてきたが、玉置氏の声もさすがに疲れて、高ねの花や折る事もないた顔せずのあたりへくると勝手な節廻しで、ゴボンゴボンゴボゴボゴボと三味線まで自分でつけてゐる。 「けつたいな節やなあ」と一人が笑ふと 「これ、きちがひ」  三味線を弾いてゐる若い細おもての女は、にこりともせずその心持ちしやくれたあごでちよつとしやくつて受けて、そのまま三味線を弾きつづけた。私は思はず横を向いてふきだしながら、なんといふうまい言葉を持つてゐる人だらうと、その当意即妙に感服したのである。  名前さへきかずにしまつたが、私はその後ながくその女の、これきちがひと云つた調子が忘れられなかつた。だんだん思出してゆくと、うす藤色の地に白で麻の葉をそめだした単衣が、私の常識を裏切つて透きとほらない着物であつた事にも気がつくのである。東京なれば当然絽ちりめんか明石の季節なのだが、誰か一人絽目のこまかい平絽を着てゐたきりであとの四人はすべて透きとほらない単衣であつた。さういへば普通一般の家庭でも、木綿絽の肌のあらはなゆかたなど着る人はすくなくて、昼間は上布か紺のちぢみの黒つぽい単衣をつつましやかに着て、夜になつて初めてあゐぞめの浴衣の高い香にくつろぐ。うすものを着ればもう一枚長じゆばんがいるからなどと皮肉な評をする東京の女が、朝からあぢさゐ色のゆかたを着てゐる曲のなさにくらべて、私は大阪の女の自然に会得してゐる色つぽさに今更らながら驚くのである。むつちりとあぶらののつた白い肌は、つつめば包むほど匂ひこぼるる風情があつて、大阪の女の人が吉野織やゆふきちぢみなどの厚地の単衣を好んで着るのも、もちがよいといふ以外に自ら生かす術をよく知つてゐるのである。それらの術を彼女等は母から祖母から曾祖母から順順に伝へられて、あゐつぼの中からぬけ出したやうに深く、しんの底まで沁みとほつてゐるのである。さうして大阪の倹しさをわらふ事より知らぬ東京の女は、もともと諸国からあつまつてきて、大東京のるつぼの中でおなじやうな色に染めつけられたいはば染め返しの着物に過ぎないので、従つて彼女たちの心の底にはめいめい生れた国の縞柄がしみこんでゐるために、気随気儘に朝からしぼりのゆかたを着て見たり、ボイルといふへらへらの布地を好んだりするのである。  幼ない折、家にあつた豊国の版画に、屋敷女の十二ケ月をゑがいたのがあつて、春は下屋敷の筍掘り、夏はすばらしく大きなぎやまんの鉢に金魚をいれてつるし、年頃のお姫様がたのしげにそれを眺めてゐる図があつた。文月としるしがあつて、お姫様は透きとほる白絽の単衣に紅の下着をかさね、たしかぬひとりのもやうがついてゐたやうにおぼえてゐる。子供心に美しいと思つて飽かず眺め入つたものだが、ああいふ豪華な夏姿はいまでも東京の上流社会に残つてゐるにちがひないと思ふけれど、それは巷に見られる美しさではないために、われわれには縁が遠いのである。簡単服といふものがはやつてどこの町でもこの頃は、女といふ女がそれを着てゐる。つまり昔の手拭ゆかたに黒繻子の帯といふ程度で、着てゐる人は気楽らしいが、見る眼のなじみはまだ浅いせゐか、やはり私などには暑苦しい心地がする。一たいに和服といふものはそばで見る方が美しく、遠眼には洋服の方が見よいやうに考へられてゐるらしいが、私の発見ではあれは全く反対である。私は以前大阪の郊外の千里山といふ処に住んだ時、一日中窓際に坐つて、はるか麓の停留場を往来する人人を眺め暮したが、近くで見ると涼しげな西洋婦人のボイルの服が、折からの夕陽の中でへんに埃つぽく、腰のまはりのひだひだまでが小うるさく汚なげなのに引かへて、さり気ないあゐ色のゆかたに半幅帯をきゆつと引き結んだ和服の人の腰の形がいかにもふくよかに、そして両の袂の大らかなあふりが、洋服のひだひだとは比べものにならぬ程美しいのに驚いた事があるのである。それ以来私は、日本に於ての洋装にはあまり尊敬を払はぬやうになつたのである。  七月の肌着はそれでは何かと問はれるならば、私は七月の海辺に見出す若い彼女等の皮膚それ自身こそと答へたいのである。もともと着物といふものは皮膚の一部ともいへるもので、同時に馴らされた裸の皮膚はすでに着物にちがひないのである。私は毎年夏がきて鎌倉の海へ行く度に、彼女等の海水着が年年ちひさくなつて、むきだしの皮膚の区域が年毎にひろくなるのを、好もしく眺めるのである。美しい少女ほどその皮膚も美しく、こまかなきめに桃のやうなうぶ毛の生えた栗色の肌は、殺風景な毛織の布でおほふにはあまりに惜しい心地がする。彼女等は出来るだけ多くその皮膚をあらはにして、人人の眼を愉しませるとともに、光と熱と空気とを慾深くその肌に吸ひとつて、若樹のやうにすくすくと思ふ存分の呼吸をして伸びればよいのである。さういふ彼女等が夜は湯浴みをして天与の肌着の上にもう一枚、秋草もやうのゆかたなぞ着けて、団扇を携へてうす暗い教会のあたりを散歩する姿は、これは又何といふ少女らしい優しさであるだらう。  そして彼女等がもう少し成長して、恋を知る年頃になれば私は夜の彼女に、うすい水色の羽二重のピジヤマを着せたいと思ふのである。絹特有の冷たい感触の中に、彼女のよく泳いだ熱つぽい脚がすんなりとやはらいで、淡い緑色のシエードをくぐつた光が、彼女をたつたいま海の底から出てきた人魚のやうに、なよらかに浮き上らせて見せるにちがひないからである。こんな事を思つてみる私は、いつぞや芥川さんのところで見せて頂いた尾の二つある人魚の画の記憶を、あたまの奥にたたみこんであるせゐかもしれぬ。   芥川さんのこと  内田百〓先生に連れられて、婦人速記者のKさんと一しよに田端の芥川さんのお宅へ伺ふと、玄関のくつぬぎの上にうす藤色に銀鼠のかかつた鼻緒の新しい駒下駄が一足、こちら向きにそろへてあつた。そしてその傍に派手な緒のすがつたぢかばきがもう一足、おなじやうに行儀よくそろへてあつた。  二階のお客間へ通されると先客があつて、しかしその人達も又別の先客のためにその部屋で待たされてゐるらしかつた。若い洋服のハイカラ人が二人、あとから聞くと一人は小笠原プロダクシヨンの小笠原さんであつた。女の人が一人、眸の大きなはつとする程美しい人で、やせぎすの肩がすこしいかつて見えた。何となく葉山三千子さんではないかと思つたらやはりさうであつた。三人は一かたまりになつて土佐犬がどうとか闘犬の話をしてをられたやうである。訪問先きで主人の居ない部屋に知らぬ人達と長い間坐つてゐるのは、お医者さんの待合室で顔見知りの知らない人と向きあつてゐるのとおなじやうでへんに気づまりな、足の裏がむづがゆいやうな心地である。内田先生は一人皆から遠く離れて、床の間の横の壁際にぽつんと一脚忘れもののやうに置かれてある古びた籐椅子に、深ぶかと腰をおろしてぢつと身動きもしないで居られる。べつに何を考へるといふ事もなくぼんやりとして居られたのかも知れないが、こちらの片隅に坐つてもぞもぞとしてゐる者の眼からは、四辺のざはめきを睥睨してゐるかの如く見えるのである。  あたたかい春の風が、樹の多い庭から吹いてきて折折座敷の中を横切つていつた。「木蓮や、塀のそとふく俄風といふのはどうです。……」私はさつき駒込の通りで、一陣の突風におもてをそむけながらその風の中で内田先生の云はれた言葉を思ひ出した。何処かの邸の塀のそとであつた。あの時あんなに気軽るであつたお方が、いまはまるで中学生を叱る先生のやうにむうつと押黙つて居られるのである。私はつぎ穂のない心地がした。 「こはいよ。——こはいねえ」  芥川さんがつかつかと上つてきて、部屋の中へ一あし踏み入れたと思ふと忽ちその先を閾のそとへひいてすこしのけぞるやうな形になつて云はれた。刻んだやうに細おもての芥川さんが、すらりとした姿でつと足をひいてきまつた形は、私にふと桜間金太郎氏の舞台をおもひ出させた。——そんな聯想をおこさせる程長く、芥川さんはそのままの姿勢で云はれるのである。 「こはいよ。さうやつてそんなところでぢつとして、眼ばかり光らしてゐられるとこはいねえ。……まつたく怖いよ」  私は芥川さんがふざけてゐるのかしらと考へた。内田先生がいくら籐椅子の上でむつつりとしてをられても、不機嫌とおもふばかりでべつに怖くは感じられなかつたので、芥川さんの云はれる怖いといふ言葉が私には飲みこめなかつたのである。内田先生はそれに応酬して何と云はれたか、多分口の中で言葉にはならぬ返事をされたのではないかと思ふ。私にはかへつて内田先生の方がびつくりした顔附きをされたやうに見受けられた。  若い三人の先客に向ひ、芥川さんはその、怖いよのつづきの元気のいい声で話をされた。何か紹介状のやうなものを書かれたやうであつた。さうしてそのお客さん方が帰つてしまはれると芥川さんは私達を階下のお座敷の方へ誘はれた。  一しよに席を起つて賑やかに笑ひながら廊下へ出たところで、私はひとりおくれて、多分芥川さんは甘いものがお好きなのだらうと考へて持参した長門の木の芽田楽を取り出すと、軽く一揖されたまま通りすぎる事とばかり思つてゐた芥川さんは、突然私とおなじやうに縁側に膝をつき、それからその板の間に両手をついて鄭重に礼を云はれるのである。余りにも律儀な御挨拶に私はかへつてまごついてしまひ、今迄の元気のいいさも無雑作らしい芥川さんとは急に別の人の心地がするのであつた。 「失敬しちやつた。実は白蓮さんがきてゐたんだよ、——女中さんを連れてね」  階下の離れの座敷に落着くと、だが芥川さんは以前通りの元気のいい声ですぐさう云はれた。そのお座敷につい今し方まで白蓮さんが坐つてをられたらしかつた。私はそれでは白蓮さんと芥川さんは女中さんの世話までされる程家庭的にお親しいのかと思つたが、そのうちだんだん気がつくとさうではなくて、白蓮さんはひとり歩きをなさらず、女中さんを連れてたづねて来られたといふ話らしかつた。玄関のくつぬぎに揃へてあつた二足の下駄が私のあたまにひらめいた。芥川さんがわざわざ白蓮さんがとくり返される口ぶりに、何となく何かありさうな心地がして、私はすぐと持ちまへの好奇心で話のつづきを待つたけれども、内田先生は一向に気乗りのしない顔つきでさうですかとただ一ことお愛想らしく答へたきりである。気がついたやうに芥川さんはふと口をつぐまれ、話をかへてこちらの用事を話題にされた。 「漱石先生の逸話でしたね。逸話はまゐつたなあ」 「しかし何かあると思ふけれど」 「それや話はあるよ、……いろいろあるけれどね」  芥川さんはちよつと遠いところを見るやうな眼つきをされた。と思ふとすぐさつきからの威勢のいい声で「まあぽつぽつ思ひ出してゆかう。君も今日はゆつくりしていいのだらう」  Kさんがさらさらと紙の音をたてて速記の用意をした。私のところで本屋をはじめる事になり、それについては漱石先生の逸話集を出版してはどうかといふ計画があつて芥川さんをおたづねしたのもその用事のためなのである。——ちよつと待つた、と芥川さんは時どき速記者の手許をのぞきこむやうにして声をかけた。 「ここから先きは書いては困るのだよ。……いいですか、書かないで下さいよ」  気のせゐか、書いてはいけないといふ話をされる時、一層溌剌と芥川さんの言葉の調子に熱意がこもるやうに感じられた。私は芥川さんの語られる一言半句も聞きもらすまいと、ぢつと息をつめてゐた。書けない話はどれも面白かつた。だがそれにしても芥川さんはなぜ書いてはいけぬといふ事を、口ではかまはず話されるのであらうか。……ふしぎに思へたその疑問もいまとなれば、芥川さんはそれとなく内田先生に告げたい事を、よそ事になぞらへて話されたのではなかつたかと思ひあたりもするのである。  いつのまにかあかりがついて、日がすつかり暮れてしまつた。ふとうしろを振り返ると思ひがけない壁際の掃出窓のやうなところから、ぼうつと黄いろい光がさしてゐる。私は何となくびくつとし、ああ驚いたと我知らず声を出すと、 「お隣りの灯ですよ。香取先生のうちのあかりがこつちへさしてくるんだ」  そして芥川さんは私の驚いた事をさも愉快げに「びつくりしたでせう。ひよつと振り向いてあれを見ると、誰だつて驚くからね」  その時分内田先生に何処からか二千円といふお金子《か ね》のはいる話があつた。いよいよそのお金子のはいる前夜、内田先生は私の家で遅くなり、到頭皆で話し明かした。何なりと好きなものを買つてあげる、何がよいか考へてお置きなさいといふ話から、その二千円を何に使はうと皆で寄つて考へた。さうだ、ひとつ芥川を驚かしてやらうかなと内田先生が云ひ出した。東京市中の郵便局を片端から歩いて廿円づつ貯金をする、二千円でちやうど百冊の通帳が出来るからそれを持つて芥川さんのところへ行き、何にも云はず黙つて芥川さんの眼の前にその通帳を積んで見せる。 「芥川は変な顔をして通帳をあけて見るでせう、廿円と書いてありますね。それを閉ぢて次ぎのをあけて見る、それも廿円。その次ぎをあけて見る、又廿円。あけてもあけても廿円で、芥川きつと半分も見ないうちに蒼白な顔になつて、ちよつととか何とか云つてそのまま裏口から消えてしまふにちがひない。愉快だな」  聞いてゐるうちに面白くつてをかしくつてその場の様子が見えるやうで、私はお腹の痛くなる程笑つた。けれども芥川さんが驚いて裏口から逃げ出すといふ事はすこし信じられない心地がした。それつぽつちの悪戯で顔色かへて逃げ出すなどありさうもない気がしたのである。私は芥川さんといふお方に、それまでにただ一度よりお眼にかかつた事がなく、だから何にもわからなかつた。  ——びつくりしたでせう、誰だつて驚くからねと愉快げに云はれた芥川さんの甲高い笑ひ声を耳にとらへた刹那、私ははつと内田先生の通帳を思ひ出し、何となくあつといふ気もちがした。芥川さんの笑ひ声にどこか調子のはづれたやうな、ふしぎな響がこもつてゐるやうに私には聞えたのである。  あんまり遅くなつてしまつて、時分どきになつたけれどとひとり心の底で気を揉んでゐるうちに、いつの間に云はれたのか私達の眼の前に大きなうなぎ丼と小皿ものが運ばれた。芥川さんは御自分の膝の前にまぐろのおさしみと麦酒をならべ、このおさしみは半分君に提供するよと内田先生に麦酒をつぎながら云はれるのである。私達の御馳走はちやんとちやぶ台の上にのつてゐるのだけれど、芥川さんのおさしみは畳の上にぢかに置いてあつて、おさしみをはさんで口へ運ぶお箸の先きから、時どき醤油の雫がしたたつて畳の上に赤黒いしみをつくつた。文章の上から考へてゐた芥川さんはひどく潔癖なお方であつて、身の周囲の事なども塵一つないやうにきちんとして居られる事とばかり思つてゐた私には、そんな風に畳を汚して平気でゐる芥川さんが、何となく気がかりな、へんな気もちがされてならない。変といへば芥川さんは、夢の中で見る色彩は紅と緑が一ばん鮮やかだと何心なく云つた私の言葉をすぐとらへて、 「さうでせう、ちやんと色が見えるでせう。——でもそれは変なんだ、あなたももう変なのですよ」  ずばりと切るやうにさう云はれた。  芥川さんは点点と畳のしみをふやしながら、ぐいぐいといふ風にいくらでも麦酒を飲まれた。威勢よくまるで水でも飲むやうにがぶがぶと飲まれるのだが、なぜかその飲み方がおいしく飲んでゐるやうには、——楽しさうには見えなかつた。 「そんなに飲んでいいのか知ら」  内田先生が気づかはしさうに注意した。 「いいんだよ、大丈夫だよ、——此頃は飲めるのだ」  昂然と肩を張るやうにして答へる芥川さんの、コツプを持つ手がぶるぶると小刻みにふるへてゐる。いくら飲んでも一向に酔はれるけしきなく、ただ一すぢ紅い絹の糸を濡らしてすつと刷いたやうに、まぶたの上にほのかな紅の色のにじんでゐるのがかへつてお顔の色の蒼さを深めて、ぢつと見てゐると何となく肌が寒くなつてくるやうなふしぎな感じを与へられるのである。そのくせ話ぶりは何処までも快活な芥川さんで、夏目先生の奥さんがたしか長唄のお稽古をしてをられた事もあるといふ話に、まるで中学生のやうに眼を光らせ、あの奥さんが三味線を三味線をと激しい笑ひにむせびながら、 「三味線の畳をゐざる夜寒かな。——それやきつと三味線の方でゐざつていつたにちがひないよ」  そんな諧謔も弄される。  小穴さんと堀辰雄さんがつぎつぎに見えられて一座はますます賑やかに、芥川さんと内田先生の話のやりとりはちやうど小学生がじやん拳ぽんのグーチヨキパアをするやうに、私などにはとてもわからぬ程ぱつぱつぱつと速かつた。臍がどうとか尻尾がどうとかどちらが何を云はれたのかまるでおぼえがないけれども、何かの拍子で座を起つた内田先生の後姿を障子のそとへ見送りながら、芥川さんはいまいましいといふ顔つきで、 「あの先生には臍がないんだよ、だから、臍の話をするとあんな妙な顔をするのだ。——しかしその代りあれには尻尾があるんだよ。怖いねえ」  芥川さんはつづけて「見つけたり蛙に臍のなき事を。内田百〓には臍がないのさ」  愚直な私は傍からおづおづと、 「それはいま芥川さんがおつくりになつたのでせうか」とおたづねした。 「いえ」と答へながらちらりと上眼づかひに私を見た芥川さんの眼の色に、いぢめつ子がからかふやうな、はつとさせる光があつた。 「芭蕉の句です」  ほんたうに芭蕉の句なのかそれとも一茶の句なのかやつぱり芥川さんの即興であつたのか、私は誰にもたづねて見ないからいまだにそれを知らないでゐる。  更けて静かな屋敷町の帰りに、ひつそりとした丁字の匂ひをかぎながら、私は思ひ切つて内田先生に、芥川さんはどうかしていらつしやるのではないでせうかと云つて見た。なぜ? とおだやかな先生の声が私の不安を打ち消した。「そんな事はありますまい」   七月廿四日  昼のうたた寝に芥川さんの夢を見た。しんとした屋敷町のせまい路を芥川さんと二人で歩いてゐる。真昼の事で空も地面も白白と明るいのにどこからか暗いかげがさして夜中のやうな心細い気もちがする。芥川さんのお宅には何か取込事があつて大勢集まつて騒いでゐるらしいのに、芥川さんはそれをよそにしてこつそりと抜け出して来られたらしい。芥川さんの行かれる先きが何となく気がかりで、私はしきりに芥川さんの御機嫌をとりながら随いてゆくと、何処からか若いやうな老けたやうな女の人が一人出てきて、芥川さんの手に血みどろの赤児を渡した。私は突然ぞつとするやうな寒気におそはれ、それでもまだ芥川さんを見失ふまいと、石くれと土でこさへた段段のやうなところを一トあし一トあし降りていつた。血みどろの赤児を抱へた芥川さんと私とのならんだ左手に、ゆさゆさと空をおほふやうに枝をのばした大きな樹が、鬱蒼とまるで森林のやうに茂つてゐる。——  眼がさめるとびつしより盗汗をかいてゐた。をかしな夢を見たものだと思ふよりもさきに、しんとした四辺の気配が夢の中の真昼のやうにぞつと身に沁みて、私はわつと声をあげながら飛び起きた。さんさんと明るい午後であつたのに、子供の時黒い板硝子に眼をあてて日蝕をのぞいたやうな、きらきらとした太陽の銀盆が半分欠けてゐるやうな、何か手頼りない寂しさが四辺から迫つて来た。  その年の夏は暑かつた。七月の廿四日、とりわけて暑い日に、おなじ矢来うちにかねがね頼んでおいた古風な家をやつと貸して貰へる事ときまり、汗をふきふき引越しの荷ごしらへを初めてゐた。芥川さんが死なれた、——といふ思ひもよらぬ出来事を、私は汗と埃の荷物の中で耳にした。一どきに疲れが出てくたくたと坐りこみ、涙さへも出なかつた。  やうやくにその事が事実であるとわかりかけると、今度は又とめどなくほろほろとこぼれる涙のあひまから取りとめもなくあれこれと芥川さんの事が思ひ出された。まことに浅い御縁であつた。だが浅い御縁であればあるだけたつた二度よりお眼にかからないその時時のありさまが、写真にとつて残しておいたやうにこまごまと思ひ出されてくるのである。初めてお眼にかかつたのはその年の二月九日、漱石山房の夜の事で、帰りがけには他の先生方と御一緒にうちまでお寄り下すつた。一時すぎにもなつたと思ふ深夜、矢来の交番前から田端のお宅までお送りしたその時の自動車代が、後から見るとちやんと支払ひずみになつてゐる。その上に又短冊まで書いて頂いて、お礼にも伺はぬうち突然逝つてしまはれた。気もちの上の事はもとよりながらそんな些細な事までも芥川さんには借りばかり、芥川さんは貸しばかり残して御自分ひとりいきなりちがふ世界へ行つてしまはれたのかと思ふとくやしかつた。親切ばかり残された人の心といふものがどれ程みじめなものであるか、芥川さんに訴へたい。その、その芥川さんが最早や永久に私達の周囲から姿を消してしまはれた。  翌朝は腫れぼつたい眼のままに、物憂い身体を起して田端まで伺つた。その年の四月三日に初めて内田先生に連れてきて頂いた事があるのだけれど、道が何だかごたごたしてまるきりわからないので運転手に聞いてもらつて通りに車を待たせておき、ゆるやかな坂道をひとり歩いてゆくとすぐ石くれと土でこさへた段段につきあたつた。そこをのぼつて左へ折れるとひつそりとした細い路で、小ぢんまりとした家家が曇り日の下にならんでゐる。私の前をいかにも山の手の奥さんらしい若いけれども落着いた感じの人が、小さな赤ちやんを抱きながらもの静かに歩いてゐる。さうだ、この奥さんには前にも会つたと思ひながら行くうちに、何処からか女中が出て来て奥さんに蛇の目の傘を渡し、さうして赤ちやんを奥さんの手から受け取つた。二人は私を道の傍へよけ笑ひながら話してゐる。——蛇の目の傘ではなかつた筈だ、私はなぜだかそんな事を思ひながら、ぼんやりと芥川さんの門をくぐつて、又ぼんやりと帰つて来た。石くれと土でこさへた段段を降りながら、左手の方に榎であらうか空をおほふばかり鬱蒼と茂りあうた樹立を眺めて、ああこの樹も前に見た樹と思つた。  引越しを一日のばして、手伝ひの人達にも帰つてもらひ、疲れた身体をすこしでも休めようと横になつても眠られなかつた。新しくきまつた家には庭に枝ぶりのいい松があり、私はそれを見た時すぐその家へ芥川さんに入らして頂く事を考へた。桜があつたり楓があつたり、裏口には矢来で二番とかいふ大きなとちの樹があつたり、さうかと思へば庭のまん中に大根花が咲いてゐたりして、まるで山家へ行つたやうなその風情を、芥川さんはきつと好いて下さるだらうとひとりぎめして考へたそれも無駄になつてしまつた。くすんだ萌黄の糸のはいつた古風な格子縞の着物に、筑波織とかいふ茶人風な羽織をかさねて、それがよく身について見えたのは二月九日の夜の芥川さんである。私が鈴木先生に短冊を書いていただく傍から、僕にもとねだられて、たしか紅の短冊に、珊吉おすゞと三重吉先生は御自分の可愛いお子さんのお名前を書いてあげられた。——「涙が出るぞう」と酔うてほんたうに涙を浮べられた鈴木先生に、幾度かうなづき返して「わかる。わかる。……僕も涙がこぼれます」と眼をしばたたいた芥川さん。その短冊を大切さうに背中へさし入れてお帰りになつたが、あ、もうあの時からうすうすと今日の覚悟がおありになつたのではなからうか。  しんと更けた夜の机の前にただ一人坐つてゐると、又新しい涙がながれてきてひとしきりむせんだあと、私は蚊遣りの匂ひの眼にしみいるのをこらへながらただぼんやりと空を見つめてゐた。あけ放したままの縁側の向うに、すこしばかりの庭樹がよりあつて、いきものが黙つたやうに音もなくぢつとしてゐる。——不意に私は背中から水を浴びせられたやうにぞつとした。さつき通つたあの樹立のわきの道、石段段のある道は、あれはこの前百〓先生と御一緒に行つた時の道ではない。一度も通らぬあの道をまへにも来たとばかり思つてゐたのは、——さうだ、あれは初めて芥川さんのお宅へ伺つてから三日目の、四月六日のふしぎな夢の中で芥川さんと御一緒に歩いた道であつた。  明るい朝陽がさしてくるまで、私はものにしばられたやうに机の前から動けなかつた。手をふれると自分のからだがせともののやうに冷えてゐる。ほんの偶然にすぎぬのであらう。幾度となくさう思つたが、しかしその日は一日ぢゆう私は無暗に寒かつた。   東京の涼  うすものを一枚染めて貰はうと思ひたつて銀座の百貨店へ行くと番頭の和井さんは私の出した紺絞りの見本のきれを、これは洋服地の方のジヨーゼツトでございますねといひながらひろげて見たと思ふと、あ、奥さま、これはいつぞや新橋演舞場に初めて文楽のまゐりました時、廊下を歩いていらして肩に煙草の吸ひがらを落されて焼焦げの出来ましたあれでございましたなといつた。和井さんは実にものおぼえのよい人で、着物の事はいふまでもないが時計や帯止のたぐひまで、あのいつかのトルコ玉の帯止、あれはどうなさいましたと旧い事を思ひ出してきいたりするのである。あああの四十八カラツト、まだ持つてゐますよあれは私の誕生石なんですものと答へながら、和井さんのお客さんは一体何百人あるのか知らないけれども、それ等の人人の着物や持ち物やさては家庭の事情までいちいちおぼえてゐて、一人一人にふさはしい相手をするといふ事は、これは実に大変な事だといつも心ひそかに敬服するのである。  デパートの番頭さんといふ商売はずゐぶんと気骨の折れるものらしいが、よその見る眼はなかなか花やかで、売場にお客のたてこんで来た時など、どの御婦人も番頭さんを独占しようと矢つぎ早やに相談を持ちかける有様は、これまた一風景で、ちやうどスポーツの選手がフアンに取巻かれてゐるのと変りのない光景なのである。ねえ和井さん、あんたは一体いつになつたら私の鏡台かけを染めてくれるんでしよ、いま何月だと思つてんのようと甘えた声の主に和井さんは笑顔を返して、はああれはまだでしたかなあと答へる傍から、ちよつと、この柄はすこしぢみではないかしら、どう、仕立てたら派手になるか知ら、ちよつと見て頂戴、ひさ子ぢやない貞子の方のよと、そこにはゐないお嬢さんの明石の反物をつきつける奥さんもゐる。あたしが鏡台かけをお願ひしたのは一月よ、冬よ、私の鏡台はずつと裸のまんまよ、もつとももう夏だから裸でも構はないやうなもんだけどと島田に結つた人は辛辣な事をいふ。秋になつてもいいから忘れずに染めてよねと起つてゆく後かげへ、もしもしと和井さんは呼びとめて、あのこの間たから家さんからお話のありましたお祝ひの品は、御一緒のものでよろしうございませうか。ええ結構、さうしといて頂戴。……ああさうさう、私こなひだ宝家さんでいはれちやつたわ。和井さんてばいつまでたつても鏡台かけを染めてくれないのよつていつたら、あらさう、あたしんとこのは何でもすぐ染めてくれるわ、あんたきつと此頃しくじつてんのよ和井さんをあさつて……そのまますつと行つてしまつた。くろうとの女の人は面白い事をいふものである。  これは和井さんから聞いた話だけれども、女給でもなし芸者でもなしさうかといつて堅気の婦人では勿論なく、年頃は廿五六と見受けられたが、二年あまりヒタと足を絶つたあとで久久に顔を見せたので、これはお珍しいと先づ如才なく愛想をふりまいて、ええとこの人は何といふ名であつたかしらんと慌しく記憶をさぐつたけれどもどうしても思ひ出せない。届けものにかこつけて、それで只今のお住居はとさり気なくたづねたところ、ええ家はこれこれのところですがそれで名前はといひかけてその婦人はいとも無雑作に、ねえ私この前来てゐた時は何といつてましたつけと逆に和井さんへ問ひ返した。筑前琵琶とやらを稽古して、いまはその方のお師匠さんをしてゐる人なさうである。  負けましたなア、と和井さんは驚いてゐる。さういふ話を見たり聞いたりして帰つてくると、何となく気が軽くなる。人間事の好きな私は多分デパートへ涼みに出掛けるのかも知れなかつた。   人妻  今度の関西の暴風雨は思ひのほかにひどかつた。天王寺の五重の塔が飛んでしまつたときいて夢のやうな心地がするにつけても、思出すのは初めて大阪へ行つた時の事である。十月初めのうすら寒い夕方、信越線を廻つて塩尻で乗換へ名古屋で乗換へ亀山で乗換へ、東京から大阪までの旅に二日もかかつた私達は、やうやくの思ひで天王寺の駅へ着いたのであつた。震災直後の秋の事である。  亀山からの汽車の中で私達は年増の女中をつれた新婚旅行の人人と乗りあはせた。新婚旅行に女中をつれて歩くのも東京ではあまり見馴れぬ風習だが、そのお嫁さんは黒地に大きく梅の花を木ごと染めだした羽織を着て、その柄の奇抜さはもの珍しく眼に残つた。お嫁さんは白く丸くつきたてのお餅のやうな顔をしてゐて、女中とばかり話した。奈良からは子供を連れた遠足帰りらしい家族連れが大勢乗り、車内は急に賑かになつた。その一行の婦人達は乗つてくるなり手提の中から酢こんぶを出して噛みながら、よくしやべりよく笑つた。その人達の手折つてきた一枝のうす紅葉があみ棚の上にあり、私達が天王寺の駅で降りてからも、汽車はその一枝のうす紅葉をのせて湊町へ向いて疾走していつた事を、なぜかいまなほ忘れ難い。  大阪に三年暮し、私は戸外へ出る度に腹をたててばかりゐた。何処へ行つても旦那さんばかりが大切に扱はれて、殊にたべ物屋の階段を上る時なぞ、いくら夫が手を差出しても下足番は執拗に私に合札を握らせねば承知しないし、たべ終つて座をたつ時女中はあるだけの荷物全部を必ず私の手につきつけるからである。ある百貨店の食堂では、偶ま先きに椅子についた夫が私のために一杯の茶を汲んでくれた時、女給仕はクスクスと笑ひ出し、すぐ友達を呼んできて私達を指してもう一度笑ひ直した。大阪の奥さん方は戸外へ出てまでこんな差別待遇を受けながら、それでよく黙つてゐると私は他人の事にまで又余計な腹をたてた。しかしいまでは大阪も加速度にひらけてきて、もうこんな事はない。  退屈で何にもする事がなかつたから、仏蘭西語を習はうと思つた。谷町といふところに聖母女学院といふ仏蘭西の宗教学校があつて、そこの先生のふらんすの尼僧達が放課後に個人教授をしてくれる。仏蘭西語の他にもピアノや刺繍やペンペンテイング——あのペンのさきに油絵具をつけて刺繍のやうに絵を描く方法なども教へるので、花やかな令嬢や若夫人がいつも応接室に二三人は時間を待つてゐた。元気のいい女学生達の帰つたあと、急に静まり返つた教室の窓から、青草の伸びるがままに茂つた中庭が見渡され、大阪の市中とは思へぬ程しんとした感じで、折折の風に草の匂ひが流れた。ボンジユウル、マメエル、コンマンタリヴ? そつと足音もなくはいつてくる尼僧に私は大いそぎで挨拶をするのだが、いつも私の声は四方の壁からがんとはね返つてきて、私はその度にびくりとした。気持が冷たくなつてくる程ひつそりとまるでお寺のやうな学校であつたが、それでも応接室だけはさすがに賑かで、やがて私にもものをいふ相手が出来た。「あんたのハズさん何してはるのん」「銀行員。——あんたのとこは」「うちとこ大阪に事務所あるねん」何の商売とも云はなかつたが、家は蘆屋にあつて、大村さんといふその若夫人は蘆屋から出てくるのであつた。大柄な色の白い、すこし怒つた肩つきがかへつて品よく見える人で、いつも帯から半衿から草履の先まで手のこんだ刺繍づくめの贅沢な服装をしてゐた。「うちあんた好きやねん、友達になつてほしいわ」見込まれて友達になつたけれど、別に手紙のやりとりをするのでもなく、お互ひの身の上話をするのでもなく、ただ学校の帰りに一しよに心斎橋をぶらぶらして、先生の噂などしながらお茶を飲んで別れるだけの事であつた。大村さんはピアノを習つてゐた。大きな教則本を重さうに抱へながら、自分も前には仏蘭西語をやつてゐたのだけれど、あの尼僧の先生は復習を怠るとひどく怒るから面倒になつて止めてしまつた。「あんたもう何べんぐらゐ怒られたん」と隔てなくきくので、一ぺんも叱られない、それどころか大へんよい生徒だとほめられてばかりゐる「ビヤンビヤントレビヤンて云はれるわ」と先生の身ぶりをして見せると「ふうん」とちよつと羨ましさうな顔をして「うちも又仏蘭西語して見ようかしらん」仏蘭西語だつてピアノだつて好きでもきらひでもないけれど、何にもする事がないから習つてゐるまでの話である、だからいつ止めてもいいし、いつ初めてもいいのだと云つた。一年ほどのつきあひに旦那さんの話はただの一度もしなかつた。私はそれが気に入つた。後年私は谷崎先生の「まんじ」を読み、あの中の柿内未亡人がそつくりそのままあの大村さんに思はれてならなかつた。いつも何か物憂いやうな焦点のない表情で、それでその一ト皮下に激しい情熱がうかがはれた。とき色とかうす藤色クリイムなどのとけいるやうな淡色ばかり身につけて、眉の下のぼうつとして見える大村さんは、いつも自分では何を探してゐるのかわからなかつたのであるかも知れない。つきあひが絶えてからもう七八年も経つけれどいつまでも忘れ難く、ばたんばたんと草履の先で土を蹴つて歩く癖までがなつかしく思出されてくるのである。  人妻の美しさは源氏物語の紫の上に、人妻のあはれさは十三夜のおせきにと、馬鹿の一つおぼえで身に沁みてゐるけれど、二つながらいまの世では到底会へさうにも思はれない。奥さんといふものは家に台所があるやうに軒並にありながら、さてどの人もつきあつてはどうやら玉葱をむくやうになかなかつきあひにくいのである。むいてもむいても皮があり、うつかりしてゐると泣かされる。この広い世の中で旦那さんひとり大切にしてゐれば、まづ衣食住には事欠かぬ奥さん家業の職業意識が、不知不識他の女に対していつも油断のない身がまへをさせる事になるのであらうか。男女同権といふ言葉がすたれて男女協力と云はれるために、此頃はどこの家でも主人を大切にする事が一般に流行つてゐる。郊外の小住宅区域に暮すと日ぐれ方、新しい袷の銘仙を着た若い奥さんが、お白粉とほほ紅で鮮かに彩つた顔を門口に晒して旦那さんの帰りを待つてゐる。近所隣の奥さん方と一ときの社交の時間でもあるらしいが、然し何となく昔の吉原の張店を想起させ、あまり見よいものではない。おや今日は隣の細君の方が……と洒落た亭主なれば思はぬこともなからうとそんな失礼な推察までされなくもないのである。若い夫婦が連立つて美しく装つて出掛けるのはよその見る眼も爽かだが、若い細君は化粧をしたら必ず家の中に居るべきで、断じて門口に立つてお喋舌をしてはならぬ。待つてゐる者が一夜の夫でも一生の夫でも変りなく見えるからである。   秋の匂ひ  虫干しのほそびきを縦横に張りわたし、部屋一ぱいにさぼした衣服の下にかびの匂ひをききながら坐つてゐると、とりとめもなくさまざまなことが浮んでくる。思ひ出は着物にしみたかびの匂ひとおなじものであるかもしれない。おもひ出して何の役にもたたぬことながら、年に一度つづらの底を払ふとひろげた衣裳のあひだから黴の匂ひがたつやうに、ふるい昔が思ひ出されてくるのである。  十九の秋、札幌から東京まで一人旅をして、向島の長唄のお師匠さんと知り合ひになつたことがある。お師匠さんは六十あまりのでつぷりと肥つたお婆さんで、仙台の花柳界へ出稽古の帰りだといひ、大勢の芸者が見送りにきてゐた。お師匠さんは汽車が動き出すと直ぐとから、ひとりぽちの私に眼をつけてまるで孫娘をでもいたはるやうにお菓子を紙に包んでくれたのである。 「若いもんは若いもん同士、さアさアこつちへきて賑やかにおやんなさいよ」  お婆さんはさういつて無理に私を自分の席の方へ連れてゆき、同行の若い学生風の二人に紹介した。 「この人達はネ、変りもんでネ、美術学校へ行つてるんだけど、私の秘蔵弟子でネ、この福井さんといふのは唄がいいし、町田さんはとても三味線がうまくてネ、私の代稽古をしてるんですよ、二人ともほんとに息子みたいなもので……」  ふつくらして脊の高い人が福井さんで、小柄のやせぎすの人が町田さんといつた。お師匠さんの仙台滞在があまり長くなりすぎてぬけられなくなつたので、東京から二人に迎ひにきてもらつたのださうである。東京へ帰つたら是非遊びに入らつしやいとお師匠さんはひどく私を気に入つて、いい娘だいい娘だとほめてくれた。  向島といふところは大変遠い気がしたし、また大変イキなところのやうにも思はれてついお師匠さんをたづねそびれてゐるうちに、町田さんからお手紙がとどいた。何だかむづかしい言葉が多くてよくわからなかつたけれども私が汽車の中で鏡花の小説を読んでゐたことが胸に応へたといふやうな話で、誰が見てもさしつかへのない手紙だつたのに、私の周囲の人は、汽車の中ですぐさういふ風に若い男の人と心易くなるのは不謹慎だと私を非難した。  私は周囲の人の反対をおしきつて町田さんに返事を出したと見え、そのうちに町田さんが私のところへきて三味線をきかしてくれることになつた。春さきのすこし埃だつ日に、黒い眼がねをかけ黒いケースに入れた三味線を提げて町田さんは私をたづねてきてくれた。さうして狭い二階の六畳で娘道成寺をひいてきかしてくれた。けれども田舎ものの私にはそれがどれほど上手な三味線かよくわからなかつた。ただビーンと耳の聾するやうな激しい音《ね》いろだけが感じられた。  町田さんが帰つて十分ほどすると、近所にすむ山田流のお琴の若いお師匠さんがきて、私に会ひたいといつた。何の御用でせうと玄関へ出てゆくと、お師匠さんは束髪のほつれ毛を二すぢ三すぢ頬にまつはらせて何となくのぼせたやうな声で、突然出ましてまことに失礼ですけれどいまお宅で三味線をおひきになりましたのはどちらのお師匠さんでせうか、あまりお立派なのできいてゐるうちにわくわくしてきまして失礼をかへりみず伺ひましたといふのである。いえお師匠さんではありません、まだ学生さんですけれどといふとお琴のお師匠さんは息をひくほど驚いて、それでは何とも恐れ入りますけれど今度またお見えになりました時一度私と手合せをして頂けますまいか、ぜひそのことをお願ひしてみて下さいといひ置いて帰つていつた。お師匠さんよりも私の方がよつぽど驚いてしまつた。  その秋にもう一度訪ねてきてくれた町田さんは、今度は三味線を提げて来なかつた。野分になりさうな夜の気配で、窓の障子の鳴る音を気にしながらむきあつてゐたが、風のせゐか何となく話が落着かなかつた。私が常磐津の稽古をしてゐるといふと町田さんはそれは無意義ですねといつた。藤間流の踊りを習つてゐるといふと、古いものはもう行きづまつてゐますよといふ。自分のしてゐることをいちいちけなされるやうで私は内心不服であつた。日本の音曲はもうすべて行きづまつてゐる、一度すつかりそれをこはして新しいものを建設しなくてはならない、——町田さんはさういふことをいろいろと難しい言葉で熱心に話されたが、私にはやつぱり何のことかよくわからなかつた。だから賛成も反対もできなかつた。  町田さんを見送つてそとへ出ると、どこかで栗を焼く匂ひがすうつと風にのつてきた。ひどく親しい匂ひであつた。町田さんは昂然と肩をそびやかすやうにして風の中を歩いて行かれたが、私のあたまにはその町田さんのうしろ姿と栗を焼く匂ひとが一つのおもひでとなつて残つた。  この間新聞のラヂオ欄を見てふと気がついた。伶明会の町田嘉章さんといふえらいお方がひよつとあの昔の町田さんではないかしらといふことである。もつとも私の知つてゐる町田さんは博三さんといひ、嘉章さんとはお名前がちがふけれども、何となくおなじ人のやうな気がされる。美術学生であつた町田さんはあの秋風の夜に別れたきり、消息が絶えてしまつた。私の音痴によくよく愛想をつかされたのであらうが、私はその後常磐津のお稽古はやめてしまつた。しらずしらず町田さんに感化されてゐたのであらう、長唄といへばいまはすぐ娘道成寺があたまへくる。町田嘉章さんがむかしの町田さんとおなじお人であつてもなくてもさしつかへはないのである。私はただそんなことを思ひ出せるのが愉しい。   冬を迎へるこころ  暑い暑いとかこつてゐたのはつい昨日の心地がするのに、自分はもう縁側の硝子障子をしめきり、座布団を持出して日向を恋うてゐる。季節のうつりかはりの慌しさは、年を追うてますます激しくなりまさつてゆく。紙と木の家に住む自分は、縁側からすぐ土の黒い庭へつづく起居を毎日楽しんでゐたのに、いま硝子障子をしめきつて陽のぬくもりをなつかしみながら、もし家をたてるならばと思ふ事には、何よりも第一に完全な暖房装置のある部屋がほしい。それにはどうしても洋館でなくては、障子と襖ではいくら電気ストオヴをたいてみたところで、ほんたうに暖かいといふ訳にはゆかぬであらう。硝子ごしにすぐ日光が身体にあたる窓のある部屋。厚い壁と一枚の重いドアとですべてのものから絶縁され、完全に一人きりになれる部屋。さういふ部屋で自分はひとりぼんやりと日光浴をしながら、誰にも煩はされる事なく、越年する草木のやうに黙つて暮したいと思ふのである。子供たちにどんな家が欲しいかとたづねると彼等は言下に西洋館と答へる。まつたく彼等は洋服を着て育ち、椅子に腰かけてよみ書きを習ひ、食事の時は純粋の日本料理をきらつて、ハムとかカツレツとかさういつたものを好んでたべる。その日常に、洋館の方をどんなに住みよいかと思ふのは無理からぬ話であらう。家に一脚のソフアがあれば彼等は寝ころぶ時決して畳の上には横にならず、すこし勉強に疲れたと云つては身軽るにソフアの上へ足を伸ばしてゐる。その姿は見てゐる者の眼にもいかにもらくさうで、又ほんのちよつとのくたびれ休みといふ気持にふさはしい。しかしそれなれば彼等は見るものも聞くものも凡て西洋のものがよいかと云へば、決してさうではないのである。縦に書く文字を習うてゐる彼等は考へる事もやはり縦に書く思想で、よらば斬るぞの剣劇や印を結ぶ忍術の魅力は、いつになつても消えるといふ事がないらしく、家では買つてやりもしないのに教育講談全集などといふ本を友達に借りてきて熱心に読み、忠臣蔵の話はいつでも飽きる事なく聞きたがるのである。彼等は成長すれば必ず一度は忠臣蔵の芝居を見、浪子と武男の芝居も見たがるであらう。いまは洋館を欲しいと思ふ自分も又、夏がくるとその考へは変り、畳から縁側へ縁側から庭への、家と外との区別すらはつきりしない日本の住居を、ぜひこれでなくてはと思ふであらう。その時西洋館の事を思へば、あの脊の高い窓ばかりの部屋では、息がつまると考へるにちがひない。  時の文相がパパママを禁止すると新聞に出て以来、そちこちの小家庭で時時それが話題になる。「坊ちやん、パパはおうちですか」「パパは今日からゐなくなつたの、お父さんならゐるの」そんな漫画が何処かに出てゐた。子供がそれを見つけて、「やあ、うちとおんなし事が書いてある」と手を拍つて喜んだのは、あの新聞記事が出た日の朝、父親が非常に威張つて、「さあ今日からはお父さんと呼ばせて、絶対服従を命令する。信坊煙草を持つてこい。新聞をとつてこい」と宣言したからである。「ちつとも怖くないや」と子供は笑つて逃げていつたが、まつたく今からではもう遅すぎる。十数年のあひだパパと呼び慣はした親しみを、お父さんの観念にかへるには、子供も又相当の時日を要する。  パパママといふ言葉は実際あまり品のいい、奥床しい言葉とは言ひかねる。それはちやうど文化住宅で、畳の上に椅子を置いて、カレーライスをたべるやうな、上辷りのした感じである。心ある人は初めからその浮薄を避けてお父さんと呼ばせてゐる。だがさういふ家庭の子女が凡て親を尊敬してゐるかと云へば、あながちさうばかりではないらしい。親に理解がなくて困ると不平をもらしてゐる家の子は、必ず躾が厳格である。家では思ふ存分云はして貰へない鬱憤を、自然戸外へ出てはらす事になるのであらう。  幼ない日の自分をふりかへつて、やはり私にもおなじやうな悩みのあつたのをほろ苦く思出す。私の生れたのは札幌で、そこはある意味では日本の外国とも云ふやうな土地であつたが、進歩的な父に引かへ、母は極く旧式な口叱言の多い人であつた。父が私に洋服を着せておくのをひどく嫌つて、西洋人の子供と遊ぶ事にも余りよい顔をしなかつた。それで家へは誰も連れて来られなかつたが、私が病気をして寝てゐると、ふだん遊びにくる日本人の子は寄りつきもしないのに、ミリアムさんといふ牧師さんの子供は必ず見舞に来てくれた。そして私が薬を厭がつて母に叱られてゐるのを見ると、大人のやうな生まじめな顔で忠告をするのである。 「ママのいふ事をよくきいて早くよくなりなさい」  非常に日本語のうまい子であつたがなぜか、お父さんお母さんといふ言葉が云へないのである。いつもあんたのママはあんたのパパはと云ふので、私も自然にうちのママがうちのパパがと話すやうになつてゐた。お母さんと云ふよりも、ママといふ方が何か自由で、子供心にものびのびと青空を見るやうな思ひがした。戸外へ出てミリアムさんに、うちのママがねと云つてゐると、女の子といふものはと箸のあげおろしに叱言をいふ厭なお母さんの姿が消えて、優しいハイカラなものわかりのよいママの顔が浮んで来、私は幸福になるのであつた。そのママは私が本を読む事も木登りをする事も縄飛びをする事も決して叱つたりなぞしない。いつもにこにこと見てゐてくれて、そして時には私の考へたお伽噺を、それから、それからと優しくきいてくれさへするのである。  しかし、だからと云つて私は自分の子に、パパママと呼ばせようとは夢にも思つてゐなかつた。パパとかお父さんとかいふ呼称の区別といふものは、年がたてばおのづからどうでもよくなつてくるし、私は長女の生れた時何も考へずお父さんお母さんと云つてゐた。ところがつむじまがりのその娘は、なぜかまるで唖のやうに、いつまで経つてもその言葉をおぼえようとはしないのである。誕生過ぎて幾月かたち、よその子供さんは皆しきりに巣立ちした鳥が囀るやうに絶間なくしやべつてゐるのに、娘はたつた二つの言葉より云ふ事が出来なかつた。ヂヂ、トブとそれだけで、ヂヂはお祖父さん、トブとはお豆腐の事なのである。だがそのほかにもう二つだけ、彼女は誰からも教へられずひとりで云ひだした言葉があつた。パッパ、マンマ。——その頃の私は片言をひどく嫌つて、足をあんよとか御飯をまンまとかそんな風に云つた事は一度もないので、或ひはそのためにも一そう言葉がおくれたのであつたかも知れないが、さういふ彼女がいたいけな姿で、おぼつかなく縁側の硝子障子をたたきながら、マンマ、パッパとひとりで自分の言葉をたのしむやうに繰返し繰返し云つてゐるのを見た時には、思はずはつとした。  文化住宅といふものを私は昔からきらひである。見つきもよく間取りの都合にも無駄のないその住居は、ちやうどカロリーとビタミンとをはかりにかけてこしらへた栄養料理とおなじ事で、住みよくはあるが味がない。雲丹やこのわたの妙なうま味が忘れかねる自分などには栄養料理は苦手であるが、しかし子供は雲丹やこのわたなど喰べる必要がないのである。子供はしびれを切らしつつ坐つて御飯をたべるよりも、椅子に腰かけて喰べる方が第一身体のためによい事を、否定する人はないであらう。趣味ではない、必要である。  戸外へ出て働く必要から、男は早くから洋服を着、和服は最早や贅沢品とさへなりつつあるいま時に、女の洋装はひどく遅れて、やうやく此頃一般的にならうとしてゐる。むかし富有な上流婦人は金にまかせて贅沢な洋装をし、何も持たない貧困な下層婦人も又いち早く簡易なアツパツパを着用した。ひとり質実な中産階級の婦人のみは、経済的な立場から去年の浴衣を又今年も着、洗ひざらしの銘仙を袷にして綿入れにして何年となく着続けた。その銘仙が施す術なく切れてしまつたところでやつと彼女は便利な洋服に更へたのである。流行を追ふ虚栄心や新しさをてらふ好奇心からではなく、彼女はそれが必要であるためにさうなつた。  奥さんが家の中に坐つてゐて、何でもかんでも御用聞きに持つてこさせた時代は、遠く我我の間に過ぎてゐる。それは今では富有な階級にだけゆるされた事であつて、いまの我等は降つても照つても一日に一度は籠を携へて市場まで行かねばならない。限られた経済の中で夫や子供により安くよりうまい食事をさせるためである。雨のふる日に足駄をはいて蛇の目の傘をさし、裾やたもとを濡らしながら重い荷物を抱へて、足許に気を配りつつ帰つて来ねばならぬ厄介さにひきかへて、一枚のレインコートはどれ程便利なものであらうか。その上にちよつとレインハツトをかぶれば多少の雨には傘など要らなくなつてしまふのである。暴風雨さへも最早や怖れる必要がないのである。洋服は戸外へ出て働く婦人ばかりではなく、家庭の女にとつても又欠くべからざる必需品となつてきてゐる。彼女はそれを夫や子供のために、よりよく家庭を処理してゆかうとする自分の、便利な仕事着として取りいれつつあるのである。それは最早や洋服ではなく、消化された和服である。  やつと此処まで来たのである。  パパママといふ言葉に奥床しさやうま味はないが、それを云ふ子供の声にはのびのびと人怖ぢしない朗かな響きがある。昔私がその言葉にひろい青空を見たやうに、いまのわが子も又おなじく、胸一ぱいにせいせいと空気を吸つてゐるらしい。ママやパパも洋服のやうに既に消化された愛称で、いまはその愛称で親を呼ぶ子供も、やがて大人になればその言葉の稚なさを恥ぢて自らお父さんと改めるかも知れず、そして忠臣蔵の好きな彼等は、おひおひに雲丹やこのわたまで喰べようとするであらう。さういふ彼等にママパパは栄養料理の一種に過ぎぬ。   芝居の雪  何かちよつとした調べものをしようと思ふと、ふだんの心掛けがわるいので大さわぎをしてあちこちひつくり返さねばならない。古いスーツケースだの支那鞄だの手筥だの埃だらけのものを引き出してきて探すのだけれど、ふしぎな事にはいつもきまつて目的のものは見当らず、代りにとんでもないものばかり出てくるのである。このあひだもあるお方から戴いた一枚の古葉書をさがすために押入れを一つ空つぽにしてしまつたが到頭それはなくて、ふるい謡の稽古本と清元の反故紙とのあひだからお正月の箸紙がたくさん出てきた。もう七八年も前大阪にゐた時分気に入つたのがあつて買ひためておいたのに、それからあとは何処へしまひ忘れたのかどうしても見つからなくていまごろひよつくり顔を出したのである。さあ今度はもう逃がさないぞと早速別な箱へ入れて眼につき易いところへしまひなほしたが、そんな品ものに出あふと何だか先方も心あつてかくれん坊でもしてゐたやうなへんな気もちがされなくもない。私は麻雀の習ひはじめ、吃《チイ》をする牌を思はず「つかまへた」といつてつかまへてしまつたのでいまだに家中のもの笑ひになつてゐるけれども、探しものをしてゐて思はぬところから以前に探した品を見出した時はやはり「つかまへた」といふ気がするのである。  お菓子のレツテルを手筥にいつぱい持つてゐる。大阪の鶴屋のものばかりで全部おなじ寸法のがそろつてゐるから、ときどき手筥をあけてさらさらと畳の上へ振りこぼすと、ちやうど芝居の雪を降らせてゐるやうで愉しい。それにしてもよくも親類うちからこれだけのお菓子をもらつたものと思ひ、今更のやうに大阪にゐたあひだの暮しがかへりみられるのである。貰ふものはお菓子ばかりではなくいまごろなれば河内のぶだう、高槻の松茸、秋もやや更けては大和の御所柿、年を越えて二月になれば灘から酒粕を、三月には千里山の筍、四月は堺から鯛を贈られ、六月一日には朝早く吉野川の鮎をもらつて四季折折の食味に欠くるところがなかつたが、書生そだちの私の何より心をなやませたのはさういふ届けものの使におためと云つて包む金子のふりあひで、すくなくてはもちろんいけずといつて多過ぎてもまたほどを知らぬと非難されるので、相手が番頭であつたり小僧であつたりいちいち釣合ひを考へねばならぬのが、まことに思ひがけない苦労であつた。家風にあはぬといふ言葉がいまだに生きてゐることをしみじみ身に沁みたのもそのころである。  何のためにこんなお菓子の紙なぞしまつておくのか自分ながら訳がわからないが、役にもたたぬがらくたをすつかり捨ててしまつて、押入れをきちんとしておく生活を考へると、病院できまりきつた栄養料理をたべさせられるやうな味気ない心地がする。十二年前の震災の時私は池袋に住んでゐたが、ちやうど漢口から妹夫婦が帰省してゐて、要心のいい夫婦は動乱にも馴れてゐるせゐかせつせと鞄をつめたり毛布を巻いたりして、第一の必要品第二の必要品と区別して逃げ支度をせねばならぬと教へてくれるのであつたが、私は取り散らされた家の中の何から先きに手をつけてよいかわからず、要ると思へば押入れの隅のがらくたまで一つ残らず必要であり、要らぬと思へば何もかもいらなかつた。その後大阪と東京といく度か住居をうつしてその度に家具や書籍は手放したが、手筥の底には相変らずおもちや番附だの千代紙だのらちもないものをしまつてある。芝居の雪を手筥にいつぱい持つてゐても初まらないが、煙草好きが煙草の匂ひをいつも指さきに嗅いでゐるやうに、私もやはり自分の雪を時時ふらして見たいのである。   ポオの遺産  晩の御飯のすんだ後卅分ばかり炬燵に集つて雑談を交すのが此頃の習慣になつてゐる。  食後の雑談は昔からであるが炬燵をかこむのはこの冬初めての経験なので、子供等は珍しくて耐らぬのであらう、さあもう彼方へ行つて勉強なさいと一度や二度云つてみたとてなかなかきくものではない。ねえパパ、パパが鳳鳴義塾へ通つてゐた時のお話してよ、ほら、坂本さんとかいふお家で毎晩炬燵にあたりながらたべた柿の味が忘れられないつて云つたでせう、あのお話又してよとうまく父親の懐旧感をそそつて、卅分の約束が一時間にも二時間にもなつてしまふ。昔、私の父は炬燵といふものをひどく嫌つて、あれは人間の気持を退嬰的にするからいけないと排斥してゐたのを、いま初めて成程と感ずるのである。  私は炬燵の味といふものを知らずに育つた。もつとも北海道のやうな寒さのきびしい土地では炬燵なぞ防寒の役には立たないのであるが、それでもやはり大抵の家には内地風の炬燵があつて家中の者がそれへ集つてゐたやうである。お宅のやうにどこもかしこもストオヴばかりといふのは珍しい、まるで西洋人の家へ行つたやうで大変暖かくておかげ様で私共まで仕合せしますといふ出入りの人達のお世辞を、父は内心得意できいてゐたのかも知れなかつた。七十二歳で死ぬまで、しかも脳溢血で十年間も半身不随でゐながら洋服より着た事のない父は、西洋人の様だと云はれる事が何よりも満足であつたのであらう。子供の育て方もアメリカ風であつたらしく、我我の勤労に対してはその都度お金子を支払つてくれた。たとへばお正月の年賀状の上書きは一枚につき幾銭といふ風に。それから又上手に出来た作文や図画などもその出来栄によつてそれぞれ高く安く買上げてくれもした。  金銭を儲けるのはどんな馬鹿にも出来る仕事である、ただ難かしいのはそれをどう使ふかといふ事で、それ一つで人間の値うちが定まるのだと父はつねづね子供達を教訓したが、しかしさういふ父自身あんまりよい使ひ方をしなかつたと思ふのは、父には酔ふと必ず銀貨をばらまいてそれを子供達に拾はせる悪癖があつたのである。  身体の忙しい父はいつも殆ど家にゐる事がなかつたが、吹雪の続く二月頃の夜はさすがに大抵家で晩の御飯をたべ、猪口に三杯ほどの晩酌に酔ふと必ず例の銀貨まきが初まるのであつた。十二畳の居間一杯に敷きつめた絨毯の上にばらばらと五十銭二十銭十銭の銀貨をふりまいて皆に拾はせるのである。ラムプの光の届きかねるうす暗い隅の方に折折人の見残した五十銭銀貨があつたりして、きやつきやつといふ騒ぎを父はストオヴの傍でお膳を控へながら楽しさうに見てゐるのである。さうしてその父の傍に冷然と蔑すむやうにその騒ぎを眺めてゐる十二三の子が私であつた。しかしその遊びがすんだ後で父は必ず私の掌に相当の銀貨を落し、お前は他の姉妹のやうに金子を欲しがらないから大変よろしい、これはお前の態度を賞めて天がお前に下されたのだなどと云つてそれを与へた。  こんなに貧乏してゐてどうしてさう泰然としてゐられるんでせう、他人事ながらじれつたいと此間ある人が来て私を歯がゆがつてくれた。気がついて見ると成程途方もなく貧乏であるのだけれども、さてそれなればどうしようといふ気も起らないのは父の教育のせゐにちがひないのである。何にもしないでただ黙つて坐つてゐても父が銀貨をくれたやうに、何処からか誰かが私の手へお金子を入れに来てくれるやうな気持の習慣性で、それで泰然としてゐるのかも知れないのである。  それにしても子供達はどんな気持でゐるのであらうか、自分の貧乏は心柄で致し方もないけれど、子供に迄巻添の苦痛を味はせるのは親甲斐もない次第と恥入りながら半ばあやまる気持で、あなた達貧乏でつらくはないのときいて見ると、子供達は貧乏だと思つた事がないと答へて母親を驚かせた。「だつてママお金子がどんなに沢山あつたつて何にも費はないで蔵つておくだけなら貧乏とおなじでせう。お金子がすこしもなくたつて買ひたいものが何もなかつたらお金持とおんなじ事だわ」  金子は費ふために儲けるものだと云つた父の教訓が私のからだをくぐりぬけて、いつか子供達の方へ流れてゐたのであらうか。さう云へば私は不知不識父の遺風を受けついで冬の寒さはストオヴでばかり凌いで来た。去年の秋、飼つてゐた仔猫が病気をしてそのために初めて炬燵を買つたのであるが、猫は到頭死んでしまつて炬燵だけ残つたのである。仔猫は全身真黒でポオと呼ばれてゐた。それで私達は残つた炬燵をポオの遺産と称へて今年の冬から使ふ事にしたのだけれど、子供達があんまり離れるのを厭がつたりするやうではやはり止めた方がよいかとも思ふのである。しかし炬燵は四角いから親子四人の団欒には大変都合がよく、ストオヴでは何となく気が散るやうにも思はれてどちらがよいかよくわからないのである。   日暦 ヒメクリハマイニチマイニチトシオトル トシノクレニハシンヂヤウヨ ニンゲンハオシヨウガツニトシトツテ マイトシマイトシトシトツテ 一トウオシマイニハシンヂヤウヨ ニンゲントヒメクリトオンナシコトオシテイルヨ  古い支那鞄をひつくりかへして調べものをしてゐると、大学ノートに交つて一冊、藁半紙をつづりあはせたやうな粗末な雑記帳が出て来た。ぱらぱらと何心なく頁を繰つてみると、紫鉛筆のたどたどしい片かなでこんな事が書いてある。子供の日記帳なのであつた。この童謡のやうな感想は、子供が六つの年の暮に鉛筆のさきをなめなめ、おぼつかない文字をあやつりながら自分で書き記したものである事を、私は思ひ出した。  その年のいつ頃からか、子供は日暦をはがす事に熱心な興味を持ち初めたのであつた。毎日茶の間の柱の下へ椅子を運んでいつて、それによぢ上つては暦をはがすのである。常にはいくら背伸びをしても到底届きかねる高い処へ、やすやすと手のふれる事がどれ程うれしかつたのであらうか、女中の誰かが何心なくむしりとつてしまつた時ひどく泣いたので、それ以来みんなが敬遠して日暦をはがす事は彼の日課の一つとなつたのであつた。ひどく動作の緩慢な子なので、毎朝玄関にある姉の勉強机の前から小さな椅子を持出してきて、それを又玄関まで返しにゆくのがなかなかの大仕事であつたが、人手を煩はさずに自分ひとりでそれをするのがいかにも愉しさうであつた。ピーターパンといふ映画が来てそれを見せに連れていつた時、大きな茸の家に住む愉快げな子供たちを眺めながら、坊やもいつまでもあんな風にして遊んでゐたいでせうと、こちらは大いに子供の心を察したつもりで云ふと、ううんと首を振つて、坊や早く大人になつていろんな仕事がしたいのと答へた。いまでは彼も中学の二年生となり、なかなかの怠け者であるが、早く大人になりたいといふ気持だけは変りなくつづいてゐるやうである。 「ねえ、明日《あした》はいつくるの。——坊やまだ一ぺんも明日に会つた事がないなあ」  さう云つて母親を返答につまらせたのもその頃の事であるが、彼は又かうも云つた。 「昨日はもう一生かへつてこないの? ねえ、坊やがもう一ぺん会ひたいと思つて、ぜひぜひ会ひたいと思つていくら待つてゐてももう決して帰つてこないの? ええ」……  大晦日のくれ方、掃除のあとのごみを裏庭で焼きながら、ああさうさう日暦ももういらないのだつたと父親が思出して云ふと、子供はたつた一枚残つた日附を惜しさうに抱へてきて、これも焼いてしまふのと元気なく云つた。その代り明日つから又新しい日暦があるからいいぢやないか。うんと子供はうなづいてゐたが、やつぱり元気がなかつた。しばらくして家へはいつて見ると、彼は茶の間の畳に腹這ひになつて、鉛筆をなめながら一心に書いてゐたのである。——ニンゲントヒメクリトオンナシコトオシテイルヨ。  まだ若い母親であつた私はそれを読むとふと胸がつまつて、一種の無常感にあやふく涙がこぼれかけ、年の暮といふものはこんな幼ない童児にもこんな事を思はせるのかと驚いた。だがいまにして思へば、幼ない童児であつたればこそ、そんな事も感じたのであらうと云へなくもないのである。  烏兎〓月は河水のやうに流れ、永久に会へない昨日と明日の間にはさまれて、母も子もいまはただ今日を生きる事にのみいそがしい。つくづく思へば身にあまる重荷をせおつて、日暦と競争で生きてゐる必要もなささうに思はれもするけれど、大人になりたいといふ願望が子供の胸から消えぬかぎり、やはり自分も生きてゆかうと思ふのである。今年といふ峰をひとつふみ終つて、又来年といふ新しい峰へ足をかけ わが夜夜のいね難くとも あけぼのに鳥啼くかぎり わが敵の呪はんかぎり 抱く稚子の笑まふかぎりは わが生きて世にあらまほし  と春夫先生のうたはれたやうに、やはり私も生きたいと切実に思ふのである。   我儘散題    一  寒中に、苺をたべたいと思ひついた事があつた。二十年ほど以前の話である。いま時ならば寒中に苺をたべたいといつたところで、珍しい話でもなければ別段贅沢な事でもないのだが、しかしその頃は、寒中の苺は二十四孝の筍とそれ程大差のない時代であつた。苺はない事はない、土橋の和泉屋へ行けば必ずあるのだつたけれど、ただその値段が——、たぶん一粒四五十銭位にはついたかと思ふ。二十粒で十円……そして私はその時それだけの金子は持つてゐたのである。  だが、私のまはりの人は私がそれをたべるといひ出した時、途方もない事を思ひつく人間だといつて驚愕した。勿論とめられて、その上ながながとお説教までされてそれは実現しないでしまつた。まはりの人は云ふ。——それにもう十円足せば西陣お召の上等が一反買へるではないか。いやそれだけの金額でも買へぬ事はない。片側帯や小粋な机や本箱や、それから又それだけの金子があればちよつとした旅行も出来る。それをたつた二十粒の苺、つぶしてミルクをかけてみたところでたつた一皿の苺、そんなものに費してしまふとはあまりに勿体なさ過ぎるではないか。  しかし私は云ふ。私がいま欲しいのは反物でもない、帯でもない、机も本箱も、まして旅行なぞ思ひもよらぬ事である。私はただ苺がたべたいのだ、そして苺は和泉屋へ行けばあるのだ、食べる人があればこそ売つてもゐる、そして私はそれだけのお金子は持つてゐるのだ、その私がなぜいま苺をたべてはいけないのです。  まはりの人はいふ。百万長者なら知らぬこと、身分がちがふよ。  身分とはどんな身分? と私は問ひ返す。私はいま自分の好きに使へる十円を持つてゐる、何につかはうとそれは勝手で、誰に迷惑のかかる金子でもない、十円で二十粒の苺をあがなふ事が百万長者の身分なら、私自身がいま現在その百万長者ではないか。  無茶な事をいつては困る。世の中には三度の食事さへ満足には出来ぬ人もあるのだ、その人人の事を考へてみたら、……  それはたしかにさうであつた。だがそれを考へ出したなら、私は毎日の三度の食事さへ何か済まぬ心地で摂れなくなつてしまふではないか。毎日の事だからこの方はかまはぬといふのか、私は反対であつた。毎日の事なれば心にかかりもしよう。時たま自分の自由になる金子を得て、それで一番欲しいと思ふものをあがなはうとするのに、それさへはばからねばならぬ世の中なら、それ程きゆうくつな世の中なら、私は生きてゐたいとは思はない。苺が買へぬといふのならこの十円も自分にとつては最早や何のねうちもない不用のものとなつてしまふ。何のために持つてゐるのやらわからない。捨ててしまひませう。  ますます勿体ない事をいふ人だと、まはりの者は驚くのである。捨てるなどとはもつての外である。しまつておけば又何か欲しいものも見つかるだらう、さうだ、芝居を見に行つてもよいではないか、旅行はいやでも芝居なれば面白からう。  いや、いや、もう何もかもいやです。芝居に行くのも自分の慰み、旅行をするのも自分の慰み、着物を買ふのも自分の慰み、そして苺を買ふのも自分の慰みではないか。それなのに他の慰みはみなよくて、苺をたべる事だけがいけないとは、そんなわからない話があるものか。  そんな事をいふ本人こそわからないのだ。われわれのまはりを見るがよい、十円で旅行や芝居を見に行く人はあるけれど、十円で苺をたべてしまはうといふ人は見た事も聞いた事もないではないか。  ほかの人はほかの人、わたしはわたし。ほかの人はほかの人の楽しみをとればよいし、わたしはわたしの楽しみをとればよい。お互に迷惑のかかる話でもないのに、なぜ私も他の人とおなじ楽しみをとらねばならぬといふのであらう。私はそれではすこしも慰められはしないものを。……  さういふのを我儘といふのだ。相手の人は即座に私を、我ままの一句で片づけてしまつた。  私とまはりの人との問答は、どこまで行つても平行線であつた。決してお互にゆづりあふ事がなく、お互に相手をわからなかつた。私は相手を気の小さいけちん坊と思つたし、相手は私を我儘な途方もない人間だと考へたのである。この考へは両方ながらあたつてゐる。相手はいつもきちんとこの世の中の軌道にはまり、私はいつも軌道の外へはみだす人間であるらしい。だがこの世の中には軌道の外へはみだす人間の、生きてゆく道もない事はないと思ふのである。    二  苺で思ひ出す事のひとつに、昔、季節になるといつも苺の箱を提げてきてくれる人があつた。いふまでもなく私はよろこんで感謝の意を表し、すぐにそれを洗つて新しい牛乳とまつ白な砂糖をそへて客間へ持ちだした。当然の権利として、それを提げてきた人が一番多量に摂つた事はもちろんの話である。  私はよろこんだ。しかしさういふ事が二度三度とかさなり、やがて何回となく繰返される頃になると、私は苺を貰ふ事によろこびよりもむしろ迷惑を感じ始めた。さうして、苺を提げてくる人が彼自身を気前のいい親切なお客と思ひこんでゐる事を知るに及んで、私の迷惑は憎悪にさへ変らうとしたのである。女といふものは元来が、食べる事や着る事に対して何となくその根性がケチくさく出来てゐるのかもしれないが、或ひは又私がさうしたケチくさい女のひとりなのかもしれないが、私は苺は季節でいくらでも安価に手に入る事を思ひ、べつにそのお客を煩はさずとも苺を買ふには事かかず、却つて新鮮な牛乳やクリイムや白砂糖の価格を考へて、さういふ事を考へる自分の量見をさもしく思ひ、自分にそのやうな事を考へさせた相手を憎むほどの気持になつたのである。私は苺を貰つてもそれを食卓へ持出さねばよいのであるが、書生づきあひの間柄でそんな水臭い事はできぬと思ひ、いつまでもおなじ事を繰返す自分の弱気が、だんだんと自分に腹立しくなつてゆくのであつた。    三  友達の一人が「私はたとへばお客さんにね、お茶を出すとするでせう、せつかくおいしく淹れてあげたのに相手がすぐそれを飲んでくれないと、この人はひとの親切を無にする人だと思つて、ぢりぢり腹がたつてくるの」 「それあさうかも知れないけれど、……でもあれぢやない? お茶をおいしく淹れて出すのはこつちの親切だけれど、それを飲むか飲まないかは先方の自由意志で、そこまで強ひたらせつかくの親切が親切でなくなるやうに、私にはさう思はれるけれど、……」 「ぢやああんたは、それで腹がたつたといふ事はないのね」 「さう。ないやうに思ふな。——それよりもあたし、自分でお茶なんか淹れたくない時に、相手が欲しさうな様子をすると、めんどくさくつて腹がたつわ」  傍できいてゐた人があとで私に向つて、あなたは冷酷な人ですねと云つた。さうかも知れない。だがさうでないやうにも思ふ。お金子を借りにゆくと、こまごまと用途をきいた上で貸してくれる人と、何にもいはず黙つて貸してくれる人とある。どちらが親切かしらと思ふ。こまごまとたづねる人はその用途が納得出来れば貸してくれるけれども、さもない場合は断わられるおそれがある。黙つて貸してくれる人には此方から二度と借りには行けなくなつてしまふ。どちらがほんたうに有難いのだかよくわからないのである。  お金子が何にもなくなつて困つたから、夫の長兄のところへ借りに、——といふよりは貰ひに行つた。私の話を逐一聞いた上で長兄がいつた。 「あんたのやうにさう正直に、これとこれとあれと買つて、こんな風に費つてしまつたから金子を出してくれと云ふのは困る。それではまるで私があんたの浪費を奨励してゐるやうな事になるやないか。まあ一度家へ帰つてよく考へて、何ぞプランをたてて出直しておいでイな。嘘言でもかめへん。かういふ事業をしたいよつてこれこれの金子が要りますといふ工合に、誰が見ても納得でけるプランを持つてきたら何時でも出してあげます」  兄の言葉によると、相場や競馬などですつてしまつたといふのは差支へがないのださうである。何故ならそれは儲けようと思つて投資したのにあてがはづれたといふ事になるからださうである。私は兄の教へに従つて、東海道をごとごとと夜汽車に揺られて家へ帰つた。そして早速事業のプランをたてて又大阪まで出掛けて行つた。 「ずゐぶん競馬でとられてはるな」  兄は私の差出した報告書を見てにやにや笑つた。それから新しい事業の計画書を丹念に読んで 「ふむ。この事業は面白いには面白いが僕としては賛成出来ん。しかし折角のお話やからお祝ひとして全額の十分の一だけ出してあげまへう」  お金子は貰つたが、私はひどくがつかりした。嘘言から出たまことで、いろいろと計画を書いてゐるうちに私はほんたうにその仕事をやつて見たくなつてしまつたのである。   花の色  小文をつづつて芝居の雪と題し、ポストへ入れてしまつてから、さういふ題は自分が初めて考へたものではないやうに感じて気にかかり出した。誰がどんな文章にもちひたのか思ひ出せないけれども、たしかに使つた人があるやうな気がする。偶然おなじ題をつけたところで、もともと小文の事ではあるし、さしつかへないとは思ふのだけれど、やつぱり気もちはさらりとしないのであつた。そのくせ誰が使つたのか、思ひ出せさうで思ひ出せないのがよけい苛立しい。  昼寝をして眼をさました瞬間に思ひ出した。二十年むかし、夢二が呉服橋のほとりに「みなとや」といふ店を出してゐた頃、そこで発行された千代紙の中に芝居の雪といふのがあつたのである。紅味の勝つた紫地に、緑や紅や黄やうす藤など色とりどりの不規則な三角形が入り乱れて、いかにも芝居の雪らしい美しい図柄であつた。はいばらの千代紙とは実にはつきりした相違で、いまなほ心に残つてゐるのは、それが在来の千代紙の型を破つて非常に幻想的なものであつた事よりも、若いお嬢さんの羽織にしてどんなによいだらうと考へて眺めたせゐであるかもしれない。だが今思へばああいふ柄をそのまま布地に移してみて、それをうまく着こなせる人があつたかどうか、少し疑はしい心地もされる。  みなとやはその時分半衿が評判で、夢二好みの溶けるやうな色が多かつたが、中でも一トきは淡いにくいろの、それもどこかにくろずんだ紫のかげをひそませた生地に、ぶだう色の濃い糸でべたにさくらんぼを縫とつたのがあつた。ゴリゴリとしぼのあらい縮緬で、私よりすこし年下の友達がその高価な半衿を惜しげもなくふだんにかけてゐたけれども、あたりまへの人がかけたのではなかなか似合ひさうもない風変りな色のさくらんぼが、まるでその友達一人のためにつくられたもののやうにピツタリとしてゐた事をなつかしく思ひ出す。一たいにみなとやの半衿は立派すぎて、額に納めて眺めてゐたいほどのものだから、ふつうの人がそれを身につけると半衿ばかり眼にたつて、きれうはたしかに三割がた劣つてみえたくらゐだけれど、その友達の場合にはまことに会ふべき人に会つたかたちでかけてもらつた半衿もいきいきとさぞ愉しかつた事であらう。音楽学校でピアノを習つてゐて、卒業もしないうち若くて死んでしまつたが、いつもどんな着物を着てゐたかどんな帯を締めてゐたかよくは思ひ出せないのに、ただそのさくらんぼの半衿だけは、ロセツチの画とそつくりの情味ゆたかな唇と、こころもちしやくれた異国風のあごの下に、なくてはならぬものとして浮んでくるのである。  私はなぜか昔から半衿といふものにはあまり興味がなく、それでゐて何処の店へいつてもいきなり気に入るやうな色はすくないので、四五年このかたは自分で好みの色をあはせて染めたもので間にあはせる事にしてゐるが、ただ一すぢの半衿でもさうやつて自分で手をつけてみると、染めものといふものの難かしさが今更のやうに身にしみる。おなじ生地だからこの前とおなじ色にあがるだらうなどと思つたら大へんなまちがひだし、おなじ時に染めてもちよつと生地の組織がちがふと決しておなじ色は出ない。もちろん素人の悲しさにはちがひないけれど、本職にはまた本職の、人に知られぬさまざまな苦心があらうと察しられもするのである。いつか大阪できいた話に、お正月までに納める筈の振袖がまにあはなくて、呉服屋の番頭さんが自から京都まで飛んでゆき、工場の人と一しよになつて寒風に吹かれながら切られるやうな鴨川の水に足を浸してやうやく仕あげたといふ事をきいたけれど、さういふ時にはつくづくと番頭さんもらくではなからうと思ひやられる。  染めものの面白さは、だが十枚が十枚ともおなじ色に仕あがらぬところにあるので、金子と閑のある婦人は好みの下絵を自分で描いたり描いてもらつたりして染めに出す楽しみを、もつともつと一般的に享受されてもよいのではないかと思ふ。それはちやうど苗床に種子をおろして花の咲く日を待つ楽しみと似てゐて、殊に朝顔の種子などは決して去年とおなじ花のひらかぬところ、年毎に咲かせて飽きぬゆゑんであらう。染めにやつた模様が下絵よりも趣ふかく出来てきた折のうれしさは、更に初めてそれに手を通した時の心のはずみは、よくぞ女に生れたると身に応へるよろこびであるにちがひない。   もろきう  三月初めの夜ややおそく、市ケ谷から塩町の方へ出る道をひとり歩いてゐると、そろそろ戸を閉しかけた両側の店並の中に一軒非常に電燈の明るい店があつた。店さきにみかんや林檎やバナナなど一ぱいならべてあつて、それが美しく電燈に照り映えてゐるので、初めはくだもの店かと思つてみると、奥の方にいろいろな青い野菜があつて、そこは八百屋だとわかつた。大きな蕗の葉つぱの上に、細いきうりを四五本のせて奥の方の高いところにおいてある。オレンヂ色のくだものを見た眼で見たせゐか、その青さが突然しみいるやうに映つてきて、あ、あれにとろりともろみをつけてたべたいなと思はず思ふと、子供のやうにこくりとつばを飲みこんでしまつた。我ながら意地汚なしだとひとりでふきだしたいやうな気持で歩いてゆくと、冬の外套を着た背の高い男が向うからやつてきてすれちがひざまに顔をのぞきこんで、「今晩は。いかがです」といふ。もちろん見も知らぬ男である。私は歩きながらにやにや笑つてでもゐたのであらうか。——笑ひ話に他人に話す事さへ気がひける程見つともない話ではある。  家へ帰つてきて黙つてゐたが、黙つてゐるせゐかだんだんにもろきうをたべたいといふ慾念が強くなつてゆくのであつた。子供が地面に埋めたまま忘れてゐた銀貨を、学校の教室で不意に思出したやうに、ゐてもたつてもたまらぬ心地がする。胡瓜は今迄にもたびたび見てゐたのに一向たべたいとも思はなかつたのが、不意にこんなに激しくとらへられるのはやはり季節のせゐであらうか。私はふしぎに春になると、必ずもろきうがたべたくなる。しかし大阪にゐる間はそれでよかつたが東京へきてしまつた今ではもうどうしようもない。…… 「私このあひだから、もろきうがたべたくつてたべたくつてしようがないんだけれど」 「なんだ、そんな事で苦労してたのか。もろみぐらゐわけないぢやあないか、二幸にだつてどこにだつてある」……  去年一ばんおしまひにもろきうをたべたのはメーデーの日であつた。偶然その道筋を通りかかつて、見物人のうしろに控へさせられ聞くともなく耳にした批評——和服に下駄をはいた年配の男や靴下はだしの少年職工や年頃も服装もまちまちな一団がやつてくると、見物人の中の青いオバオールを着た二人連れが「こいつら不細工ななりしよるナ、エー、セルの揃ひでも着てもうちつとかつこうつけてこんかい」……その、メーデーにセルの揃ひといふ言葉がいかにも大阪の若い者らしいと思つて忘れがたく頭に残つてゐる。そんな遠い思出でも話しあつて、せめてもろきうの事を忘れようと口に出してみると、阿呆らしいと大阪の言葉で云つた方が適切な程で、もろみはすぐ手近にあつたのである。で、その晩の食卓には早速私の願ひがかなつて清水焼の染付の平皿に瑞瑞しい胡瓜が二本、ぼとりと赤黒く田舎びたもろみを添へて出されてあつた。そとの気候はずゐぶんと暖かになつたが、水道の水はまだなかなか冷たいので、水で洗はれた、青い雫のしたたるやうな胡瓜をカリリと噛むと、まるで冷蔵庫へ入れておいたかと思ふ程清冽な冷たさが、からだの中へ沁みとほる。うつらうつら夢のさめぎはに、何かの拍子ではつと眼がさめて、あたりのものが一時にはつきりと見えた心地である。二幸で買つたもろみはかやく入りと瓶の紙に書いてあつて、中には茄子のきざんだのが入れてある。大阪でなじんだもろみの味とはすこしへだたりがあるやうだが、それでも私は満足であつた。こんなにおいしいものをなぜもつと早く、手近にある事に気がつかなかつたらうとたべながら私は自分の迂濶さをくやしく思つたが、もろきうといふものを最初におぼえたのは大阪のたこ平とか浜作とかいふ家であつたために、大阪まで行かねばそれはたべられぬものと、私はあたまから思ひこんでしまつてゐたのである。かうした迂濶さは何もたべものの事ばかりではないが、いまも二本の胡瓜を息もつかずにたべ終つて、さて、ああおいしかつたと余裕のできた気持で思ひ返すと、何の事だ、浜作はとうから東京にもあつたのではないか。……だがしかしもう一度思ひ返してみると、もろきうはやはり大阪でたべる方が一ばんおいしいのではあるまいか。私にはいつまでたつてもわかりにくいあのねばねばとした大阪言葉の伴奏で、あつさりと素直な胡瓜の味が一そうその淡さを忘れがたいものにさせるのではないかと思はれるからである。   あやめ草  蚤は茶臼のいせの山、ぽんと飛んであいたたあやめ草《ぐさ》。ぽんと飛んでといふところで蚤が跳ねたやうに一跳ね跳ねあがり、あいたたと膝をついてその膝がしらをさも痛さうにさすつて、あやめ草《ぐさ》でおじぎをする。それでおしまひである。  近所に若い綺麗なお妾さんが住んでゐて、その頃三つか四つであつた私にこんな踊を教へてくれた。もう一つ、金時は熊をふまへてまさかり持つてといふのを教へて貰つたけれども、この方は何となく性に合はなかつたらしい。あんまり踊りたくなかつたし、見物人たちもあやめ草といつておじぎをするところが可愛らしいと、蚤は茶臼のいせの山の方ばかり所望した。見物人といつても女中や書生や出入りの髪結さんなどで、雪どけ頃の何となくそはそはした、しかも退屈な午後の慰みに、幼ない私をからかつて遊んだのであらう。単調な踊に調子を合せるやうに、タタタタタタとごく軽いタツチで洋太鼓《ド ラ ム》をたたくやうな水滴の音が絶えずひびいてゐた記憶を、いまも鮮かに耳底に蔵してゐる。軒の氷柱のとける音であつた。  時時、父の晩酌の楽しみに踊らされた事もあつた。若いお妾さんはまへに芸者をしてゐた人で、お嬢さんはすぢがいいからぜひ本式に仕込んでおあげなさいと再三母にすすめたさうである。人を馬鹿にしてゐる、芸者の子ではあるまいしと私の踊を見ながら母が怒つて父にいひつけてゐた。父が何とこたへたかおぼえてゐないが、私の生れた札幌の町では一般に日本在来の遊芸の稽古を卑しみ、踊や三味線は商売人だけが習ふものとして軽蔑する気風があつた。大抵の家にオルガンがあつて、初夏の長い薄暮の頃など町を歩くと、ちやうど此頃のラヂオのやうに軒なみにおなじオルガンの音が、見渡せば青やなぎと、教則本の譜を鳴らしてゐるけれども、堅気の家から三味線の音が洩れるといふ事は絶対になかつた。石狩平野の真中に縦横にすぢを引つぱつて新しい町をこしらへる時、頼まれて来た外国の技師と一しよに宣教師もやつてきて、みんなで寄つて清教徒風の窮屈な町をこしらへあげたためなのである。十歳位になつて生田流のお箏を習ひに行つたが、その時地唄の三味線も一しよに習ひたいと思つたのを、どうしてもゆるして貰へなかつた恨みは、一生忘れる事が出来ないのである。  かつぽれ。深川。奴さん。若いお妾さんが私を可愛がつて始終自分の家へ連れていつてそんな踊を教へるので、おしまひに私の家で腹をたててお妾さんのところへやらないやうにしたらしい。それともお妾さんの方で何処かへ越していつてしまつたのか。とに角私は何も教へてくれる人がなくなつて、いつまでもふるい踊ばかり繰返してゐるのはつまらないので、そのうちに自分でいろいろと出たらめの唄をうたひながら出たらめに踊る事を考へ出した。母がよく病院通ひをして留守の時が多いのを幸ひに、近所の子供を呼び集めて出たらめ踊の伝授をした。先づ手拭で鉢巻をし、めいめいが刀の代りにものさしを一本づつ持ち、それをいろいろに振りまはしながら踊るのである。二尺に三尺に八尺で、あはせて六尺これやどうぢやと、ものさしから思ひついた私の出たらめ歌をみんなも一しよになつて、日清談判破裂してといふその頃はやりの歌の節でうたひながら、硝子戸をしめきつた縁側の日向の中を、往つたり来たりぐるぐる踊りまはつてゐるうちにみんなだんだん気が荒くなつてきて、あはせて六尺これやどうぢやとものさしの先きでやたら硝子戸をたたいて、がちやんがちやんとどの戸にも結晶硝子のやうなひびを入れてしまつた。母が帰つてきて、ひどいお仕置きをされた。紫色のあざが牡丹の花のいれずみのやうに、半年経つてもまだ消えなかつた程ひどく、私はお尻をひねりあげられたのである。  この間の晩、夢を見た。  星も月もないまつ暗な晩なのだが、何処か遠くの町でお祭があつて、そこの家家にかけつらねた提灯の灯がぼうつとほの紅く、ぼかしたやうに暗い空の一端を染めてゐる。私は自分の家の門前に立つて、そのぼうつと紅い空の方角を眺めてゐると、不意に足もとの地面の中からわいたやうに高い音じめがきこえて、りんりんといふやうに冴えた三味線をひきながら門附がやつてきた。門附が私の前に起つて唄ふのである。 わたしの父さん八丈で 子供の着物がみな出来た チリチリチリチリツルテン あなたはたつた一丈で それではお困り尺ではござりませぬかえ チリチリチリチリツルテン  まあいい唄だことと思つた途端に眼がさめてしまつたが、耳の底にはなほしばらくその三味線の冴えた音色がしみついて離れないのであつた。私は生来音痴であつて、毎晩見る夢の中でさへ色や匂ひはあつてもよい音楽をきいたおぼえは殆どなく、独唱とヴアイオリンが、二三度あるきりで、三味線は全く初めての夢なのである。何のはずみでこんな夢を見たのかしらと、枕許のあかりをつけて、はつきりと眼をさまして考へてゐると、深い深い井戸に滴るかすかな水の音をきくやうな遠い思出が、やがてぽつかりと浮みあがつてきて、ああと私は一人でうなづいた。四つ五つの頃ものさしを振りまはして踊つた記憶が夢の中に蘇つて、そしてもう一度新しいものさしの歌をこしらへ、振りをつける代りに今度は節をつけたのであるらしい。母にお仕置きをされた怖しさが身にしみわたつてゐて、夢の中でも振りをつける事は憚かつたのであらうと思ふと、私の眼にうすい涙がにじんだ。  小さな男の子と女の子が一しよに遊んでゐる様子を傍から眺めてゐると、女の子は何の前ぶれもなく突然一人で、ぴよんぴよんと跳ねて踊るやうな仕草をよくする。日ぐれ方、御飯ですよと呼ばれてはあいと答へながら帰る時、お母さんに連れられてうれしさうに買物にゆく時、道を歩く女の子は十中の八九迄必ず、ぴよんぴよんと跳ねて踊りながらゆくのである。十年来気をつけて見てゐるのだけれど、かういふ衝動的な仕草は男の子には珍しく、女の子は殆ど全部が全部といつていい程どの子も必ず飛び跳ねる。なぜかしらとふしぎに思ふ。  感情の抑制力に乏しい女の性質が、そんなにも幼ない時からはつきりと表はれるのであらうか。それとも女といふ女はすべて舞踊家の素質を備へて生れてきてゐるのか。それはともあれ此頃の子供は、いくら跳ねても踊つても、それで叱られるといふ事はないのである。羨しい次第である。   桃花扇  二十年アメリカへ渡つたきり杳として消息の知れなかつた人が、突然訪ねてきてくれた。カアネギーの秘書になつてゐるさうである。早川雪洲によく肖た堂堂たる美丈夫で、立派な洋服を着、指に宝石の指環をはめ、胸に太い金鎖をからませてゐた。うらうらと空が霞んで、桃の花の咲きだす季節であつた。  私は大阪郊外の千里山といふ処に住んでゐた。そこはもと大きな桃山であつたのを、新京阪の土地会社が切り拓いて文化住宅を建てたので、何処の家の庭にも二株三株づつ桃の樹が残つてゐた。二十年ぶりで会つた伊吾さんは、二階の窓をあけて起つたまま珍しさうに四方を眺めてゐたが、一ト眼で見下せる小さな家家の、赤や緑の屋根瓦がひどく貧弱に見えたのであらう、庭の一隅にほのかな紅の蕾をふくらませてゐる桃の樹には眼もくれず、フムとうなるやうに云つて坐ると今度は、部屋の中をじろじろ探索するやうに眺め廻した。 「毎日何をしてゐるのかね、……」 「何にもしてゐないわ」  伊吾さんは自分が成功したやうに、私も何か偉い者になつてゐるのでなくては気がすまないらしかつた。 「何でもあんたは文士になるとかなつたとかいふ話をきいてゐたのだが、……」 「ごらんの通り人の細君よ」 「わかつてるよそれは。——自分があたまがいいと思つて、この伊吾さんを馬鹿にしてはいけない」  伊吾さんに可愛がつて貰つた幼ない日のことが、にじむやうに胸に浮かんできた。伊吾さんは私が十歳の時中学を卒業してそのままアメリカへ苦学をしに行つたのである。伊吾さんのお父さんは何をしてゐたのかよくわからないが、お母さんは町一番の髪結ひさんでその上恰幅のいい、女親分といつた風の顔の売れた人であつた。伊吾さんはそのお母さんに顔立なり気性なりそつくりで、学校の成績は余り香しくなかつたらしいけれども、剣道とか柔道とかそれから又雪合戦などでは校内を牛耳つてゐた。大変いい家のお嬢さんが伊吾さんにのぼせて夫婦約束をしたとかしないとかそんな噂を聞いたけれど、真偽の程はわからない。とに角伊吾さんは何処の家へも気易く出入りして、何処の家でも好かれてゐた事だけは確かである。私の家では、二晩三晩も泊つてゆく程親しかつた。  伊吾さんは若い娘なんか面倒臭くて、子供と遊ぶのが一番好きだといふので、子供達の間に大いに人気があつた。カルタやトランプがうまくて素晴らしく声がよかつた。腰に白い海軍毛布をまきつけてそれをスカートに見たて、私達の帽子を被つて西洋婦人の身振りをかしく英語の唱歌を唱つてきかせた。やはり泊りがけで来てゐる盲目の按摩さんが、一生懸命それを習つた。春の弥生の曙にといふ歌で、お終の方にオーハウビユウテフル何とかとしてといふ文句があるのを、按摩さんはおお萩をうんと喰つて……云云とうたひかへて女中達をきやつきやつと云はせた。  伊吾さんにお花見に連れていつて貰つた事がある。記憶がおぼろだけどもなぜか私一人だけであつたらしい。円山神杜の桜の樹の下を伊吾さんに手を曳かれて歩いてゐるうちに、私は行つても行つても人の顔ばかり見えるのがうるさくなつて、いま直ぐお家へ帰らうと駄駄をこねた。すぐ帰らうと云つたつて其処にも馬車も俥もないのである。「よし」と云つて伊吾さんが私に背中を向けた。 「さあおんぶしな、そしてしつかり眼をつぶつてゐるんだよ……伊吾さんが韋駄天走りでお家へ連れてつてやるからね」  伊吾さんの背中で眼をつぶつて揺すぶられてゐるあひだに、私は眠つてしまつた。そして幾時間経つたかわからないけれども、何処からかスウスウ涼しい風が吹いてくるやうな気がして眼をあかうと思つた拍子に、耳の傍でやあ! といふ聞き馴れない声がした。 「やあ、この子は口をあけて眠つてら」 「口をあいて眠つてたつて、その子は神童なんだぞ」  隣の部屋とおぼしい見当から伊吾さんのどなるのが聞えた。と直ぐ続いて何か云ふ女の声がして、どやどやと四五人起つて此方の部屋へ来る気配がした。伊吾さんが何処か私の知らない家へ連れていつて、座敷に寝せておいたのである。私は見世物の不具の子のやうに四方から取巻かれ、めいめい勝手な批評をするのを耳にしながら、閉ぢたくてもいまは閉ぢる事の出来ない口に唾がたまつてきてそれがいまにも涎となつて流れさうで、身体中にじわじわと冷汗がにじんだ。  伊吾さんがアメリカへたつ日は狐雨が降つてゐた。私達は姉妹三人俥をつらねて停車場へ送りに行つたが、何かのはずみで汽車に間に合はなかつた。俥を走らせてゐる停車場通りのアカシヤの並樹の下を、家の書生さんが畳んだ蛇の目の傘を大刀のやうに小脇にひつ抱へて、足駄ばきで駆けてゐた。やはり伊吾さんを送りに行くためであつた。アカシヤの葉が鮮かな緑にすきとほつて、濡れながら陽にきらめいてゐた。  初めのうち、伊吾さんはよく絵葉書をくれた。アメリカの景色や建物が私達に珍しかつた。裏を返すとインキのきれいな字で文句が書いてある。いつも極つて親愛なるわが玉子嬢よといふ書出しで、身体は丈夫か、よく勉強して偉い者にならなくてはいけないと励ました末に、永久に御身の忠実なる下僕伊吾と署名してあつた。伊吾さんは方方のお嬢さんにおなじやうな絵葉書を配つたのであるかも知れない。  桑港の大地震以来伊吾さんは消息を絶ち、伊吾さんのお母さんは幾へんか、もう死んだものとあきらめると云つた。しかし伊吾さんが二十年ぶりで独身のまま帰つてきて見ると、むかし絵葉書を配つたお嬢さんの大抵は死んでしまひ、一番弱かつた私が曲りなりに生きてゐると聞いてわざわざ札幌から大阪まで会ひにきてくれたのである。だが伊吾さんは気の毒にも、此処でも又、偉い者になれなかつた私に失望せねばならなかつた。  じろじろと部屋の中を不満さうに眺めてゐた伊吾さんは、やがてその眼を私の上に移すと、「何だい、その着物は」といきなり呆れたやうに云つた。 「そりや紡績ぢやないかね、ええ? いくらふだん着だつてあんまりだよ。せめて銘仙を着なさい、銘仙を。……」  私は微笑みながらだまつて、その朝の暖かさに羽織をぬいで着更へたばかりの黒地に白い亀甲絣のぶつぶつとした着物の袖を、鳥の翼のやうにひろげて眺めた。 「あなたのハズはどういふ人か知らないが、最愛の妻にそんな着物を着せてそれでよく平気でゐられるね、それとも金子がないのか。金子がないのならこの伊吾が買つてやるよ、伊吾が買へば銘仙なんてケチなものは買はない、上等のお召を買つてやる」  これはね伊吾さん、紡績のやうに見えてもさうではないの、結城縮なの、これ一反で銘仙が十反あまり買へるんですよと、私は笑ひながら云はうとしてゐた言葉を不意に飲みこんでしまつた。会ひもしない先から夫を非難された事が、まだ若かつた私にはぐつと応へたのである。  私はひろげた袖を見ながら云つた。 「これよりいい着物を買つてくれるの?」 「さうとも。お召の一反や二反でひびの入るやうな伊吾の身代ではないよ。——さあ行かう。いま直ぐ買ひに行かう」 「まあ止めにしときませう。御好意は有難いけど私はこの紡績絣でたくさんなの」  それからやがてもう十年近く経つ。だんだん年をとるにつれて、私はあの時伊吾さんを二重に失望させたまま帰した事を、若気の至りとは言ひながらつくづく後悔するのである。私は伊吾さんの振りまはすカアネギーが気に喰はなくて素気ない顔をしたのだけれど、伊吾さんはあれなり日本に留つてゐるのか、それとも又アメリカへ行つたのか、いまは誰に聞く術もない。桃の花の咲く季節が近づくと毎年おもひだし、今度もう一度会ふ折りがあつたらその時は伊吾さんの言ふがままに、何でも買つて貰はうと思ふのである。   猫を飼ふ  子供の折、犬の子供を育てた事があつた。五つぐらゐの時とおもふけれども、長年飼はれてゐた犬がたつた一匹の仔犬を生んで死んでしまつた。生れるとまもなくみなし児となつたその仔犬を、私は寝ても起きても傍からはなさず、まるでしんみの姉妹のやうに親しく育てた。隣近じよの人達が見るたび驚いたさうである。開け放たれた風通しのよい部屋に羊の毛皮を敷いてその上に寝ころび、一つのビスケツトを一トかけづつ犬にたべさせては自分もたべたべしてゐた記憶がある。一つのお茶碗の中からおなじ牛乳を飲んで叱られた記憶もある。幼ない子供にとつては犬と人間の区別などはなかつた。  その犬は健やかに育つて年年子供を持つた。世の中が鷹揚な頃であつたから、皆がよろこんでその仔犬をもらつて行つた。親犬はからだのちひさな、テリヤとポインタアのあひのこのやうな犬であつた。利口であつた。人間の子とおなじやうに育てられたから人の言葉がよくわかるのだらうと噂されてゐた。  その犬は十三年生きてゐて、私が十七の年にやはりただ一匹の仔犬を生んで死んでしまつたが、もうその残された仔犬を育てる熱心さは私になかつた。私はそろそろ家の内の事よりも家のそとの事に眼が向きだした頃である。仔犬は女中の手で犬らしく育てられ、その翌くる年私は東京へ出て犬を飼ふやうな生活とはすつかり遠ざかつてしまつたのである。  烏兎〓いつのまにやら自分もささやかな家の主婦となつてみると、子供は親の血をひいて生れたものか、犬さへ見れば夢中になつて飼ひたい飼ひたいといふ。そのうち、外国から帰つた人にアイリツシユセツタアの猟犬をもらつた。容子のいい犬であつたから皆は寄つて可愛がつたが、この犬は初め、その家の細君に愛されてベツドの中で育てられ、何一つ教育される事がなかつたため、持つて生れた猟犬のよい素質を一つも発揮できないで、持つてこいさへも知らないのであつた。この犬は馬鹿だといはれて、それなればこそ置いて行かれもしたのであらうが、彼自身は晴れた日の昼など庭につながれたまま風に向つてしきりに高鼻をきいてゐる事がある。畸形に育てられてもやはり猟犬の素質はそんな処に出てくるのかとあはれであつた。猟はだめでも愛玩用として美しい犬であつたから、油断をしてゐる間に盗まれてしまつた。それ以来もう犬は飼はない。  犬に対する愛情は、そんな風に家中がそろつて、道ばたに寝ころぶ醜い犬にでもお愛想を云つたりあたまを撫でてやつたりする程だけれど、それが猫となると昔から私がきらひだと主張するために誰も飼はうといふ者がない。私は猫をきらふのは歩く時にすこしも足音をたてないからで、猫を見てゐるとよく、人の秘密をそつと盗み読んでおいて知らんふりをしてゐるやうな憎憎しさを感ずるのである。十七八の頃であらうか、自分が神妙に裁板の前に坐つて針仕事をしてゐると、ものさしだと思つて何気なく取りあげようとした手先に、ヒヤリと冷たい湿つぽいものがふれて、私は思はずきやつと飛びあがつてしまつたが、それは猫の鼻であつた。ものさしを置いたところへいつか猫がやつてきて、そつと坐つてゐたのである。足音がしないから私にはわからなかつた。さうして私はその時針仕事をしながら、自分ひとりの物思ひに耽つてゐた。猫が人の秘密を盗み見たらうと思ひ初めたのはそれ以来である。猫は憎らしい以上に怖ろしい。  震災の年の初夏であつた。どこからか白い猫が一匹迷ひこんできて、朝早く私の寝床の傍に坐り、苦しさうになきたてた。まるで魔物にでもやつて来られたやうに私はふるへあがつたが、よく見るとこの猫はお産がしたいらしかつた。起きて家中大さわぎして、行李の中に綿や古い浴衣を入れ、座敷の隅に産所をこしらへると猫はうれしげにその中へはいつて四匹の仔を生んだ。ひい、ふう、みい、よう、と生れた順で名をつけたが、ひいは全身まつしろでお姫さまのやうに品がよく、ふうは白黒の普通のぶちで、みいは白いところへ、背中に梅の花形の黒い斑点があつた。ようはおしつぽが長くて一番醜かつた。こんな猫の仔なぞ生れてどうするのかしらと心配してゐると、貰ひたいといふ人がすぐ猫の数よりも多くなつた。  せつかく家で生れたのだから一匹だけは家にも残しておかうとなつて、どれを取らうといふと皆が皆全身純白なのがよいといふ。私一人が背中に梅の花形のある男猫を残しておかうといふ。男猫はねずみをとらないよ、それに梅の花の形なんかついてゐて何だか変ぢやないかといふ。その梅のかたちが好きなのと私も負けずに云ひ張つて、さうしてどれともきまらぬうちにふしぎな事に、ただ黒いばかりと思つてゐたその梅花の斑点に、茶色の毛の交つてゐる事が日数とともにはつきりとわかつてきた。足の先きにもぶちがあつておなじく茶色である。まがふかたなくこれは男の三毛猫で、さうなると誰も彼も一議もない、寵愛はたちまちみい一匹にあつまつて他の姉弟はそれぞれ望まるるままに貰はれていつた。あの大震災のひるまは、親猫とみいとが食卓の傍に控へてゐたが、ちやうどおかずが小鯵の煮付だつたので、ひつくり返つたちやぶ台の傍で猫共は思ふ存分御ちそうにあづかつたらしく、一しきり静まつてから家へはいつてみると茶の間に骨が散乱して、猫は二階から階下からまだ揺れやまぬ家中を、からからと世にも楽しげにかけ廻つてゐた。人間にとつては此上ない脅威であつたあの大地震も、猫族にとつては愉快なスポーツの一種に過ぎなかつたのかもしれぬ。  震災の余波を受けて私共は関西へ行く事となつたが、まだ東海道線は通らず、遠いところをまはつて乗換へ乗換へしてゆくのに猫どころではないので、御近じよの方にあげていつた。後年東京へ出てきた時、あの猫はどうなりましたらうとおたづねしたら、あれは死にましたといふお返事であつた。死なすくらゐなら連れてゆけばよかつたと思つたのはぐちである。大阪へ行つてしばらく、子供たちは仔猫さへ見ればみなみいにみえると云つてさびしがつた。  再び東京へ出てきて居を定めた渋谷金王の町には、どういふものか犬よりも猫が多い。近所に空家が多いせゐか、自家の屋根の上をミシリミシリ人間のやうな音をたてて歩くのは大きな野良猫である。ぶちやら三毛やらトラ猫やら、さまざまな種類の猫がわがもの顔に縁側のひさしの上を濶歩する。一つには、そこにベランダ風の植木鉢をならべる床《ゆか》ができてゐて、猫が日向ぼつこするのに非常に都合がよいからでもある。大きなぶちの野良猫など見るから気もちわるく、私は縁起がわるいといつて始終追ひ払つてもらつてゐた。  その床へ、ある日ちひさなきじ猫がきて、ミヤオミヤオと悲しげにちひさく、いかにも控へ目に啼いた。縁側の硝子障子をあけてやるとうれしさうにミヤオミヤオといつてそこいら中からだをすりつけて歩くけれど、家の中へはいつてこない。こんなちひさな野良猫はないでせう、きつと迷ひ猫よと私は子供たちにいつて、いまにお家が見付かるでせうと放つておいた。  小さな猫はしかしその後も毎日やつてきて、床の上に遠慮勝ちに坐つてゐる。私が猫をいやがるので家の人達は二三度追ひ払つたのださうだけれど、やはり毎日やつてくる。他の野良猫は追はれたらもう来ないが、この猫はおどおどしながらも何処か人馴れしてゐるところ、早春の陽だまりにぢつと行儀よく坐つてゐる姿が、主人を探してゐるのだらうと哀れになつて、折からふり売りのみがき鰊があつたのを幸ひ、それをゑさに家の中へ誘ひ入れた。  一週間たたぬうちに猫は忽ち肥つていかにも家つきの猫らしく、食卓の下などに形のいいかう筥をつくつてゐるやうになつた。飼つてみるとこれはなかなかよい猫で、行儀もよく姿もよく、どんな時にも取り乱した事をせず、うるさくなくて物ねだりせず、それに何よりの取柄は、眼が深い海のやうな緑で、声が非常に愛らしい事である。家の中に猫がゐるのは卓の上に花があるやうなもので、あつてもなくてもよいけれども、あれば何となく温かい心がわいてくるのはふしぎである。深夜ひとり起きて書きものをする私の傍の椅子の上に、ミミと名をつけられたこの猫はおとなしく眠つてゐる。二時、三時、やうやく書きものに倦んだ私はほつと吐息してペンをおくと、まるでそれを知つてゐたかのやうに、猫もしなやかに身をおこして、さて力一杯のびをする。ミミと呼んでみても、この猫は決してこたへない。まるで貴婦人のやうな物憂げな様子で椅子から降りて、机の脚にからだをこすりつける。のどの奥がごろごろとなり出す。私は机の上に用意しておいた紐をたらしてやると、猫はそれに手を出して遊び初める。  ちりんちりん、一としきり鈴の音をたてて遊んでゐるうちには私も疲れるので、ミミもうこれでおしまひよと紐を机の上にたくしあげてしまひこむと、猫もさり気ないやうすをしてあちらを向いてゐる。私は又書きさしの紙の上へ眼がゆく。ペンをとりあげる。といつか猫も又傍の椅子の上にきて眠るのである。  こんな風にしてミミと自分とは毎夜人に知れぬやうにこつそりと遊び、そして昼間はお互ひに知らんふりをしてゐるのだが、さうした猫の薄情らしいところが、どうやらだんだんと私には好もしく思はれだしてきたのである。犬のやうに、向うから呼びかけて可愛がつてもらふやうな事は何もない。こちらが遊びたい時だけ遊び、いやになればすぐ横を向けばよい。叱る事もいらないし、可愛がつてやる必要もない。まつたく自分の方だけのおもちやに過ぎぬやうである。私はいつか犬の愛情には疲れてしまつたのであらう。向うから働きかけてくる愛情にはそびらを向け、このやうに自分勝手なおもちやだけを愛するやうになつたとみえ、此頃では町を歩いても、その辺に寝ころぶ犬たちに声をかけたいとは思はぬやうになつてしまつた。   面影  アルバムを買つてきて古い写真をみんなそれへはりつけてしまはうと思ひ、写真箱のほこりを払つてゐるとすぐ子供が見つけて自分よりもさきに箱の中をかきまはし、あらこれは誰と大形の一枚を取り出した。菊五郎かしら、でも眼の色がすこし変ねといふ。  黄八丈とおぼしい衿つきのぢみな着物に花もやうの帯をしめた娘さんの立ち姿で、胸にかきあはせた袂から友ぜんのじゆばんの袖がこぼれ、艶やかな島田にはピラピラのかんざしがゆれていかにも初初しい風情だけれども、明るくうすい眼の色が一ト眼で異国人とおもはせる。ああそれはねと私も傍からのぞきこんで、エリセエフさんといふロシアの人よ、むかしむかし日本の大学へ来てゐた人なのといつてゐるうちに、むかしむかしといふ言葉が自分の胸に応へてきて遠い日の事を思ひ出した。写真のうらに大正三年正月六日とたどたどしい毛筆で書いてあるが、たしかその年の七月か八月にエリセエフさんはお故国《く に》へ帰つてしまつたのだと思ふ。  ドストイエフスキイの小説の中に時時出てくるエリセエフ製の酒——エリセエフさんはその旧家の末子に生れた人だときいたやうである。お兄さん達が革命党員でつぎつぎに殺されてしまふので、お母さんが心配してエリセエフさんを日本へ逃がしてよこしたのだといふ事であつた。エリセエフさんは日本で大学へはいり和服を着ておさしみを食べた。お習字と清元と踊のお稽古に通つて柳橋で遊んだ。もつとほかのお稽古事もしてをられたのかもしれないが、私がお知合ひになつたのは矢来の藤間勘次さんのところだから、その範囲の事よりわからない。エリセエフさんは日本語が大へん上手で、殊に巻舌のべらんめえは得意であつたけれども、お手紙には、久しぶりでお眼にかゝりませんでした。と書いてよこす事もある。まあいい柄ね、これどこでおみとめになつて? と私の縞お召の羽織の袖をつまみながらきいた事もある。日本人の非常にうまい外国語にも、やつぱりそんなまちがひがあるのではないかしらと思つた。  私が初めて会つた頃、エリセエフさんは「子守」を習つてゐた。松前殿さのもちものは、いかたこなまこにちぬの魚、チリトツチンチリと短かい稽古棒を両肩へまはして舞台に膝をつき、右左かはるがはる肩を傾けて、棒の先きで舞台を叩いてゐた。ジヤイアントがお仕置きでもされるやうにきう屈さうであつた。だがそれから起きあがつてくるりと一ト廻りするところで、エリセエフさんは何と思つたのかきりきりと二へんまはつてしまひ、ぱつと袴のすそがひだを失ふほどふくらみ上つて、そのテムポの早さと大らかな動きとは実に鮮やかな美しさで私の眼に残つた。あ、あれが西洋の踊りだなと突然眼の展いたやうな気持がした。  エリセエフさんは日本髪のかつらをかぶつた写真を、どちらかといへばお得意でくれたのだけれど私はやはりあたり前の、ろしあの青年らしい背広姿の方を貰つておけばよかつたと思ふ。かつらをつけて菊五郎のやうに見えるエリセエフさんの素顔は、柔かな頬に桃のやうにうぶ毛が生えてゐて若若しかつた。  エリセエフさんは上流社会の貴婦人令嬢のあひだに人気があつたさうで、富豪の若夫人から贈られたといふ高価な大島やお召を着てゐる事があつた。さういふ貴婦人たちはもつと大切なものまでエリセエフさんにあげたのかも知れない。上流社会の貴婦人にくらべるとあなたは野の花のやうに素朴で可憐だとエリセエフさんは云つてくれたけれども、野の花だの可憐だのといふ言葉は私は内心不服であつた。だがまつたく私は何一つ贈るべきものを持たず、いつもただ先方の好意に甘えてゐるばかりで、お別れの挨拶にと招待された帝劇へまでのほほんと出掛けて行つた厚かましさは、いま考へると赤面の至りだけれども、しかしその折そこで出会つた一つの事柄は、エリセエフさんの親切のおかげといつまでも忘れられない。  菊五郎の狂言座が何か新作を上演した時で、たしか三月の末の短期興行と思ふけれども、それとも四月であつたかしら。坪内博士の浦島を試演したらしい気もされるのに、舞台の記憶がまるでないのは、その時二階正面の自分の席に近く夏目先生がいらしたからで、大空の太陽ほどに遠く眩しく仰いでゐた先生と思はぬ同席の光栄に、ただわくわくして耳も眼もあいてゐながら盲ひてしまつたのである。一生の願ひにただ一度、先生の前へ起つてお辞儀をしたいと思つたり、いやいやそんな失礼は到底ゆるされぬと自から戒めたり、徒らに両手の中ではんけちをもみくしやにしてゐるあひだにやがて休憩の時間がきた。ぞろぞろと席を起つて廊下へなだれる人波に交つて遅い歩みをつづけながら何心なくふと振り返つた自分のすぐあとに、あまりにも思ひがけなく夏目先生の半白のお鬚の美しい顔があつて驚愕した。ドキツと心臓のとまつた心地で無意識に横へ退り、夢中で下げたあたまの前を、先生は軽く一揖しながら通りすぎてしまはれたが、その先生のうしろ姿を、鼠色の洋服の肩に品のあるうしろ姿を、私は高貴な真珠の薬でも飲んだやうな興奮で、終生忘れまいと見つめてゐた。  芝居がはねてから銀座へ出て、マツダランプの階上のヴヤンナといふカフエをエリセエフさんがおごつた。ヴヤンナの紅茶は一杯十五銭で大変高かつたかはりに、おいしい生《なま》クリイムがついてゐた。生クリイムといふものを初めてたべた心地がする。小宮先生や森田先生や漱石門下の方方が御一しよで、部屋の中はいつか電燈がかすむ程煙草のけむりがたち迷ひ、そとは紫に深く靄がこめて美しく夜が更けた。——私の記憶のまちがひで、晴れた星月夜であつたかも知れないが、気持のうへではどうしても深深と靄がこめてゐたのである。  東京駅がまだ駄目で、エリセエフさんは新橋からたたれたやうに記憶する。七月か八月の朝涼の折柄で、プラツトホームにあふれた見送りの人の中には粋な姿の美しい人も目立つてゐた。エリセエフさんは見送りの一人一人に握手して、手が痛くならないかと心配な程だつたが、やがて時刻が近づくとおなじお国の人らしい男の人と抱きあつては、幾へんとなくキスをした。チユツ! チユツ! と音楽的な高い響きが大勢のざわめきを圧して、驚いたのは私ばかりではないであらう。いつかしんとなつた日本人の群の上に雲雀の囀るやうな音ばかりが高かつた。さうして今迄の、和服を着て紫檀の机につやふきんをかけてゐたエリセエフさんの姿は、そのむきだしな激しい情熱の中に見る見る遠く消え去つてしまつたのである。   家庭日記  今夜は大変珍しい人に会つた、誰だかあててごらんと、遅く帰つてきた夫がネクタイをほどきながら云ふ。珍しい人つてさあ誰かしらと、久しく会はない人人の顔と名前を一どきに思出さうとしたけれど、あんまり長い間戸外へ出た事がないので、どの人も珍しいやうであり又珍しくないやうにも思はれる。好きな御馳走のありつたけを一ぺんに眼の前にならべたてて、さあ早くおあがりなさいと急きたてられてゐるやうで気迷ひする。そんな中からたつた一人選み出さうとするのは無駄な努力だと気がついたので、考へる事はすぐ止めて、誰なのわからないわと降参すると、驚いてはいけないよ、ハナだよ、そら、お前の一ばんお気に入りだつたあのハナだよ。  馬鹿馬鹿しい。お酒を飲んで遅くなつた照れかくしに、夫は最大級の言葉を使つて私の注意をそらさうとしたにちがひないのである。誰が驚くものですか、ハナなんか珍しくもないと私は頬をふくらましたけれども、夫が何やら鼻唄をうたひながら寝てしまつて、ただ一人夜更けの机の前に坐つてゐると急にハナに会ひたくなつた。葉がきを書いて明日の朝速達で出して貰はうと思ひついた。同潤会の住宅に住んでゐるさうである。ハナとおなじ頃に書生をしてゐた遠野君とその友人と、それからハナの義理の姉さんと四人で共同生活をしてゐるといふ話は以前から耳にしてゐたけれども、いま聞くと遠野は去年の春神田の私立大学を卒業して故郷へ帰り、友人の方はその前から引越してしまつて、ハナは義理の姉さんと二人きりで住んでゐるのださうである。若い女がたつた二人で家を借りて、一体何をして暮してゐるのかしらとふしぎに思ふ。  ハナが家に使はれてゐたのは最早や七年も前の事である。僅か半年にも満たぬ短かい期間であつた。二三ケ月働いてゐるうちにカフエの女給になりたいと云ひ出して、いろいろと混雑したのである。私は女給になつた方がかへつてよいと思ひ、しかしハナは某県の農民組合長と協調会の農村課長との世話で家へ来たので、その人達は私の意見に絶対反対であつた。  七年前の梅雨どきの昼ながら薄暗いやうな小雨の日に、ハナは初めて家へ来た。農民組合長を手頼つてきたといふ事から、何となく肩幅のひろいがつちりしたその頃流行のいはゆる闘士型の少女を予想してゐた私は、会つて見てその少女のすんなりと伸びた手先の柔かさに驚いたのであつた。少女はセルの単衣に帯を胸高にしめ、耳の横にもみあげの毛を短かく断髪のやうに揃へて濃く口紅を塗つてゐた。何処かついその町角の喫茶店でレコードをかけてゐたのが、不意に思ひついて出て来たといふ風で、少女のうしろからかけ放しにされたレコードが遠くひびいてくるやうな気がされた。何といふ名前ときくと、少女は銀目の猫のやうに碧い眼をみはつて、玉本たま子と申しますと云つた。まるでこしらへたやうな名前である。 「それはほんたうの名前なの」 「はい」 「ほんたうの名前ね」  なぜそんなに念を押されるのか分らなかつたであらうが、本人はほんたうの名前ですといつて茂みのやうな長い睫毛をパチパチした。一軒の家におなじ名前が二つあるのはお互ひに迷惑する。この際は奥さんの方の顔をたてて貰ふ事として、そちらにハナといふ新しい名前をつけた。座敷から声を張つて「はアなア、……」と呼ぶと、台所の方で「はいエー」と遠い田舎の宿屋へ行つたやうな返事をする。  前からゐた女中のキヨが、ハナちやんは奥さまのお気に入りだといつて機嫌をわるくした。長い病気のあとで、まだ寝ついてゐた私は、天井を眺める事に飽きると時時床の上から「はアなア」と呼んで見たからである。何べん呼ばれてもハナは「はいエー」と尻上りのおなじ返事をした。遠野さん、あなたも私よりハナちやんの方がいいでせうと、キヨは遠野に向つて云つたさうである。キヨはハナより三つ年上の廿一であつたが、何処かで美人投票があつたら出したいと思ふ程端麗な顔をしてゐた。紀州の道成寺の石段の下で生れ、今清姫とあだ名がついてゐた。一人娘であつたが美容術師を志して東京へ出てくると、和歌山の新聞がそらこそとばかり、清姫遂に恋人のあとを追うて上京すと書きたてたさうである。日活か何かが道成寺へ撮影に来てその折キヨは村の娘のエキストラに頼まれ、ほんたうの女優にならないかと云はれた事があつた。その時の俳優と怪しいと世間は騒ぎ立てたのだけれども、もとより根もない噂に過ぎぬ。  キヨが初めて家へ来た日は、春の雪が降つてつめたかつた。挨拶をして起ち上つた時、着物の裾からチラと馬のやうな茶色の足が見えたのでびつくりし、よく見るとキヨは足袋ではなく靴下をはいてゐるのであつた。雪の降る日は足袋よりも靴下の方が、暖かくてしかもハイカラであると考へてゐたのかも知れない。目鼻立は驚く程美しいのに、顔一面もやもやと生毛が生えてゐて、どこやら鼠の子に似て見えたので、なぜ顔をあたらないのかときいて見ると、アメリカでは剃刀を使はないさうですからと答へた。あとからきいたところによるとキヨの家の近くにアメリカへ行つて来た女の人がゐて、いろいろアメリカの話を教へたのださうである。  紀州の百姓家に生れて一切世間を知らないのだと承知してゐても、都会風な美しい顔を見てゐるとつい錯覚をおこし、キヨのする事にいちいちびつくりした。おしたぢを持つてきてといふとソースを持つてくるし、炭を出してきてといふと、春日の炭斗一杯にころころと石炭を詰めてくるからである。四ケ月経つてもまだ誰のお茶碗がどれやらわからず、紀州ではお茶碗もお箸も皆一緒なのに、此処の家はやかましいとこぼしたさうである。キヨが四ケ月かかつておぼえられなかつたお茶碗とお箸を、ハナは一日ですぐわかつた。だがその翌日、洗面所の方から俺のタオルを切つたのは誰だと夫が呶鳴り、はい私ですとハナがにこにこして云ふのであつた。そこの剃刀を使つてそれをタオルで拭いたらタオルが切れたのです。とんでもない事をする、俺の剃刀を無断で使つて貰つては困るではないか。はい、うちでは剃刀は一つよりなくて、みんながそれを使ひましたからと、ハナはやはりにこにこしてゐた。キヨもハナも二人ながら親にそむいて家出して来た点はおなじであつたが、私の家に落着いたと聞いてもキヨの親からは葉書一枚のたよりもなく、新潟のハナの方は直ぐ兄さんから丁寧な依頼状が来た。手紙の冒頭に、ああおなつかしき奥様よ、春の花秋の紅葉を見るにつけてもおなつかしき奥様の面影のみ思出して居りますと書いてあるので私は面喰らつた。ハナの兄さんはまへに近衛の兵隊で東京に来てゐたさうだけれども、いふまでもなく私は一度も会つた事なぞないのである。  奥さま、ハナちやんは鏡台なんか重たくて持てないと云つてをります。そんな馬鹿な話がありますか、病気でなければ私だつて持てるのに、直ぐハナを呼んできて頂戴。ハイ奥さま、私はキヨちやんがからかつてゐるのだと思つて、鏡台なんて持てないつてさう云つたのです。  こんな小ぜりあひが毎日あつてなかなかうるさかつたが、いひつけにくる顔がそれぞれに美しいので、どちらにも腹は立たないのである。家の中に若い美しい女が居る事はいつもストオヴに火が燃えてゐるとおなじやうに、心が和んでよいものだと思つたがそれは私ばかりではないのであらう、台所の方へは眼に見えて新しい御用聞きがふえ、遠野君のところへは一層頻繁に友達が遊びにくるのであつた。遠野はキヨとおなじ郷里であつたから、たづねてくる学生達の中にはキヨと小学時代の同級生があつたりして、玄関と台所は折折茶話会をひらいて賑はつた。遠野は酒も煙草ものまず真面目一方に見えてキヨからもハナからも遠野さん遠野さんと頼母しがられてゐたけれど、しかしオーヴアを二着持ち、靴を三足持つてゐて私には気に入らなかつたのである。和服は何枚あつたのか、神楽坂の古道具屋で箪笥を買ふと云ひ出して、何処へおくつもりなのと私をひどく怒らせた。二人の美女を両脇に侍らせてお給仕をさせながら、悠悠と食事する遠野を見る度に私はなぜか気分がもやもやして、いつもいつもさう殿様みたいにしてゐないで、たまには自分でよそつてたべたらいいぢやないのとヅケヅケ云つたが、ああとかううとか口の中でもぞもぞ云ふばかり眉一つ動かさぬ。いひつけられた用事は骨身を惜しまず働いたが、それ以外にはこちらがどんなに忙しくしてゐようと自分から起ち上る事はなかつた。宵の口から端然と机に向つて夜中まで身動きもしなかつた。遠野君は起きてんぢやないのよ。ああやつて眠つてるのよと子供が云ふのを、初めはまさかと思つてゐたが、やはりそれはほんたうであつた。坐つたまま不動の姿勢で四時間も五時間も眠りつづけるなどとは、ふしぎな術を会得してゐるものだと私は驚いたが、遠野は夏休みで帰省した時、汽車の中から葉書をくれてもつと私を驚かせた。汽笛一声ジヨージスチブストンの発明せる蒸汽車に乗りて吾は東京駅を出発せりとその葉書には書いてあつたのである。  夏休みにはハナも新潟へ帰つた。廿日経つても出て来ないので、もう東京はあきらめたのであらうと噂してゐると、ある朝早く突然私の枕許に坐つて、唯今帰りましたとお辞儀をした。膝のそばに大きな風呂敷包みをひきよせて大切さうに置いてあるので、何を持つてきたのときくと、にこにこしてそれをほどくはずみに、風呂敷の中でカサコソと枯れた木の葉のすれあふ音がした。笹巻であつた。生まの糯米を砕いて三角形の笹で巻き、ぐつぐつと気長に煮たものださうである。黄粉をつけてたべるとおいしいですと云つたけれども、何しろ夏のさなかである。折角ながら昨日の笹巻は敬遠して、お台所へくる御用聞きにたべてもらふ事とした。風呂敷に一杯あつたからいろいろな人が振舞はれて、中には迷惑した人もあつただらうと思ふけれども、みんな喜んでゐましたとハナはすましてゐた。  新潟から帰つて来て突然女給になりたいといひ出した。綺麗な着物をきてぶらぶらと遊んでゐられるからだと云つた。新潟でそんな友達にでも会つたのであらうか、静脈のすきとほるほつそりとした手を眺めてため息ばかりついてゐる。女給もらくではないといくらいひきかせても、でも綺麗な着物が着られますからと遠い処を見つめてゐた。怪しからない事をいふ、そんな子はすぐ故郷の方へ送り返して下さいと農民組合長の言葉を農村課長が取次いで、さる病院の博士に健康診断をして貰ふなど物物しい騒ぎの末に、心臓が弱いから女給には向かぬといふ口実で故郷の方へ送り返した。せめてもの心ゆかせに派手な紫の着物を餞別した私の親切が、かへつてあだとなつたのであらうか、故郷へ帰つて一月のちに何処とも知れずその着物を着て行衛不明になつてしまつたと風のたよりに聞いたのである。秋の蝶一つ、ひらひらと紺碧の空につばさをかへして消え去つたおもひがして、夜半の寝ざめに心が痛んだ。  東海道の三嶋とやらにゐるさうで、義理の姉さんが百数十金を携へて連れ戻しに行つたと、遠野から知らせてよこしたのはそれから三年程も後である。私達は東京を引払ひ大阪へ帰つてゐた。遠野とハナの義理の姉さんがいつ何処でそのやうに親しくなつたのであらうと怪しむうち、遠野からはつづけて、ハナの更生を守るために義理の姉さんと自分と友人と四人で家を持つ事としたと云つてよこした。東京への往きかへり西宮まで寄り道して、二晩三晩泊つてゆく遠野は、紀州土産の梨子や清姫せんべいを私の前にならべ終ると、奥さま煙草を吸ひましてもよろしう御座いませうかと断わつて、バツトの箱をポケツトから取出す程いつの間にやら都会なれた風であつた。だが、遠野から来た手紙をたたんで封筒へ納めた私は、不意にキヨとハナにお給仕をさせて食事してゐた昔の遠野の、田舎者らしいふてぶてしさを思出し、あの折のむかむかとした胸わるさが、松毛虫をつまんだやうにぞつと背すぢへ走るのであつた。ハナの姉さんとやらもやはり新潟の女であつて見れば、すべすべと肌が白いのであらう。私はふしぎな腹立しさで、ハナと一緒に暮すのなればもう家へは来ないでくれるやうにと遠野へあてて手紙を書いたのである。   萩の楊枝    一  下頤の奥の方のむし歯が呼吸もできない程痛むので、私は仔犬のやうにまるくなつて座敷の隅にちぢかまつてゐた。五つの時であつたと思ふ。前の晩の夜中から痛み出して、朝になつてもお昼になつても痛みはすこしもとまらないのである。母は無教育な人であつたから子供の歯の衛生など考へた事はなかつたのであらう。それに又その頃は激しいヒステリイのために、私だけを連れて田舎の林檎畑へ出養生にきてゐた時なので、汽車に乗つてわざわざ札幌の歯医者のところまで私を連れてゆく気も出なかつたものらしい。どうしたのか広い家の中に母の声も女中の声も聞えず、しんかんとした午後であつた。昼寝をしてゐたのかも知れない。座敷の障子はすつかりあけ放されて、すぐ庭さきを流れる小川にあをく空の色が映つてゐた。小川の向うはお隣りのやはり家とおなじい林檎畑で、茂りあつた林檎の梢にさわさわと風がわたつてゐる。やや紅らみかけた夏林檎の実が葉洩れ日にかがやきながら、かぼそい一茎の青い柄にそのつぶらな実を重たげにささへて、風の吹きすぎる度静かにゆらゆらと揺れてゐる。……私はひどく心細く、悲しかつた。その、あやふく揺れつつ落ちもせずかがやいてゐる林檎の実をぢつと見てゐると、だんだん不安な気もちがつのつてきて、私は歯痛のためばかりではなく、何かおそはれるやうな耐へ難い心地にわつと声をあげて泣き出したくなつてくるのであつた。世界中にたつた一人置いてけぼりにされたやうに、沁みわたるやうに心細く、だが私はぢつと喰ひしばつてそれを耐へた。泣く事さへも怖しいやうな気もちであつた。  そんな風にしてどれだけ時間が経つたものか、それともほんのちよつと間の事であつたのか、ひつそりとした村の一角で突然ポオオウと高い法螺の貝の響が鳴りわたつた。ポオ、オオオオとながく余韻をひいて、村中を一どきに揺りさまさうとするやうにこだまを返しながら、やがてその音はだんだんと家の方へ近づいてくるのである。私ははつと耳をたててその音の近づくのを聞いた。自分の気のせゐかと半ば疑ひながらも急にいきいきと生き返つたやうな心強さで、近づく法螺の貝の音を聞きすました。しんとした夜中にただ一人眼をさまして、ふと汽車の笛の音をきいた時とおなじやうな安心が、いつかゆつたりと柔かく、身体中の筋肉をときほぐしてくれてゐた。  何処からか女中が出てきて、おまじなひをしますからいらつしやいといふままに、女中のあとに随つて玄関の方へ出てゆくと、玄関の戸を開け放した往来に、白い着物を着て高い足駄をはいた山伏が立つてゐた。白い着物のうしろにすぐ空があをくつづいて、行者の脊が見あげるやうに高かつた。——むし歯かな、すぐなほると玄関へ一ト足ふみこんで行者が私の顔を見ながら云つた。障子のかげに子供のやうに小さく坐つた母が、口の中で何かぶつぶつ云つて頭を下げた。  女中が半紙と硯箱を運んで来たやうでもあるし、私の行つた時にもうそれ等の品が母の傍に置いてあつたやうにも思はれる。行者が私を起たせておいて片足を前へ出させ、足の裏へベツトリと墨を塗つた。さうしてその足で畳の上にひろげた半紙を踏ませた。ヒヤリと氷の上をわたつたやうな冷たい感触が、薄荷のやうに気もちよく頭の先きへぬけていつた。足形をとつたのであつた。  それでそれからどうしたのか、何もおぼえがないのだけれど、しばらくすると家の中をさらさらと風が吹き通つて、私は歯痛がとまつたらしく、せいせいとした心もちで座敷の熊の毛皮の上に寝ころんでゐた事だけ、はつきりとおぼえてゐる。萩の爪楊枝と梨子を断たなくてはいけないとその行者が云つたさうで、私はずゐぶん大きくなるまで梨子をたべさせて貰へなかつた。    二  学校から帰つてくると、門口の処に小さい方のふじといふ女中が起つてゐて、何だかどろばうにでもはいられた時のやうな変な顔をしてゐる。 「どうかしたの」ときくと、 「いま勘兵衛さんの憑きものをよび出すところなんでございます、お嬢さん」とうしろを振り返つて、うしろから憑きものが追ひかけてくるやうな怯えた様子をした。それを聞くと私はいきなり内へ駈けこんで、奥の座敷へ行つて見た。  勘兵衛といふのは私の母方の身寄りの者で、その頃廿歳位であつたかと思ふ。いつから来て働いてゐたのか知らないが、すこし頭がわるいのではないかと、私は子供心に折折思つた。女中をからかふのにいつもきまつておなじ事を云つた。女中部屋へはいつて行つては、屁こかうこかうおもたがようこけなんだ勘兵衛さんのゐぬまにすうつとこいたと節をつけて云つて、おまへらさうやろと部屋の空気を嗅ぐやうな仕草をするのである。野卑な冗談をいふと私は苦苦しい心地がするのだつたが、それでもからかはれた女中達は必ずあはあはと笑ひ転げるのである。ひとつには彼の上方弁がをかしかつたせゐもあらうが、温和しくてよく働いてその上男振りのよかつた彼は、女中達の間に人気があつたのかも知れないのである。  その勘兵衛が、夜になると眼の見えなくなる鳥目になつた。  いくら手をつくしても一向しるしがないので、祖父が占ひをして憑きものを呼び出す事になつたのである。祖父は母の父で、やつぱりいつ頃から家へ来てゐたのかよく分らないが、おつとりした顔立の静かなもの優しい老人であつた。  祖父は浄るりが好きで、毎晩晩酌を一本飲むと、茶の間の大きな炉のそばへ坐つて浄るりを一段づつ語つた。母の話によると、祖父は人形浄るりに凝つて祖先からの田畑を失ひ、生れ故郷の淡路島を出てこんな日本の果ての北海道まで移住するやうな事になつたのださうである。祖父の従兄には大阪の文楽座で太夫をしてゐる男があると、祖父はそれが唯一の自慢でよく人に話した。太夫といふものはどんなものかわからなかつたが、私は祖父の口ぶりから推してよほど偉い人なのだらうと尊敬してゐた。祖父は朱筆のはいつた稽古本を小さな行李に一ぱい持つてゐて、いくらねだつてみてもそれはくれなかつた。子供といふものはなかなか慾ばりなもので、人が大切にしてゐる品を見ると、自分にはそれがどんなに不用のものであつても片端から欲しくなつてくるのである。殊にその中には太夫からゆづられた稽古本がいろいろあると聞いたので、私は一層欲しくて耐らないのであつた。  もう一つ私の欲しがつたのは筮竹と算木で、祖父は毎日ひとり机の前に端坐して、それをさらさらともみながら占ひをするのである。別に人から頼まれたといふ訳ではなく、自分一人の慰みに、碁好きが一人で碁石をならべて見るやうに算木をならべて見るらしかつた。机を据ゑた窓のそとには楓の大きな樹があつて、その青葉の色が深深と祖父の姿を染め、皺の多い輪廓の正しい顔が能面のやうに、ひどく神秘的に見えるのであつた。私はさういふ租父を絶対に信頼した。祖父は私のむし歯が痛み出す度に、半紙に歯の形を書いて痛む歯をくろぐろと塗りつぶし、東北の隅の柱に打ちつけてお呪ひをしてくれた。お腹の痛む時には成田山のお札を飲ませてくれた。私の病気はいつもそれでなほつたけれど、他の姉妹の場合にはさうはいかなかつたやうである。  祖父は真言秘密の法といふのを会得してゐて、毎朝神棚の前で天地八百万づの神神を拝んだ末には、いろいろな呪文をとなへて印を結んだ。それかられいの窓際の机の前に端坐してさらさらと筮竹をくるのである。さういふ祖父の傍へ行つていろいろな事をきいて見るのは私ばかりで、祖父はいづれこの術はあんたに伝へるつもりだと云つた。占ひといふものは心がまつすぐで、世間からは阿呆といはれる程の人でなくてはあたらないものださうである。私は阿呆な子供で他の姉妹からは除者であつたが、しかしそれだからよいと祖父はほめてくれたのである。  祖父が真言秘密の法で生霊や死霊をよび出すといふ話はときどき聞いてゐたけれど、実際に行ふのは一度も見た事がなかつたから、勘兵衛の憑きものをよび出すときいて大いそぎで座敷へ行つてみると、神棚の上に明るくお燈明がついて、見た事もない中年の女の人と勘兵衛がその下にさし向つて坐つてゐた。そして二人ともおなじやうに両手を拝むやうに合せて、その手の間に真青な榊と白い御幣とを握つてゐる。祖父は二人のまん中に、神棚の方を向いて坐つて大きな声で一心に御祈祷をあげてゐた。  私は座敷の隅の母の傍へ小さく坐つて息を凝らしてゐた。祖父の声がだんだんだんだん大きくなり、高くなり、部屋一ぱいになつて、ちやうどゴム風船がだんだんとふくれてきておしまひにパンとはじけるやうに、部屋がパンと破れたやうな気がした刹那、勘兵衛と女の人の榊を持つた手が同時にぶるぶるとふるへ出した。見る見るそのふるへが激しくなつて、女の人は突然ぎやあつと一声獣がしめ殺されるやうな叫びをあげたと思ふと、両手の榊と御幣をぱつと投げ出してしまつた。憑きものが出てきたのであつた。女の人は榊を投げ出したあとの素手を軽くまるめて、ちよいちよい空をひつかくやうな仕草をした。猫に似てゐた。猫が出てきたのである。  猫は呼び出して貰つたのがうれしいと云つて、変な手つきをしながら涙と洟水と一しよくたにしてしばらく泣きつづけた。涙や洟水がいくら流れても決して拭かないから、顔がどろどろになつて一層猫らしく見えるのである。その猫は三年前の冬のある日、道ばたで酷い殺され方をしたのだが、その時傍に勘兵衛が起つて見てゐて、ああ可哀さうだと思つたその心もちがうれしくて、勘兵衛にとり憑いたのださうである。殺した相手が憎らしくて取り憑くといふのなら話はわかるけれど、うれしくて取り憑くなどとは大へん迷惑である。猫なんてうつかり可哀さうだと思つてやれはしない。  猫はさんざ泣いたあとで、心願を達してお礼を云つたのだから、これからはもう決して取り憑かないといふ約束をして出てゆく事になつた。祖父が大きな声で何か気合のやうなものをかけると、女の人ははあつと前のめりに突伏して、そのまま死んだやうにぢつとなつてしまつた。祖父は又神棚に向つて御祈祷をあげ初めた。私は女の人が死んだのではないかと心配で耐らなかつたが、そのうちに祖父の長い御祈祷がすむと、それを合図のやうに女の人はむくむくと起き上つて、私の方を見て、「お嬢さん、かしこいですねえ」とあたり前の声でお愛想を云つた。顔をよく見たらにこにこしてゐてすこしも猫のやうではなく、涙のあともなかつた。 「あの人はブリキ屋のお久さんといふ半《はん》白痴《ば か》なんでございますよ」とあとから大きい方の女中が教へてくれた。勘兵衛の鳥目はその晩からなほつた。御祈祷の間ぢゆう家の戸口には全部鍵がかかつてゐたのに、猫は何処から逃げたのかしらとあとで気になつてたづねて見たら、猫ははばかりの窓から逃げましたとやはりその女中が教へてくれた。八つの年のおもひ出である。   奈若  既に百鬼園日記帳の上木された以上さしつかへはないと考へ、書簡集はいつ頃出るのでせうとおたづねしたところ、それだけは勘弁して下さいと内田先生は苦い顔をされた。  だが私の考へによれば日記帳も書簡も人眼にふれずしまはれてあつた点に於て——書簡の方は相手の眼にふれてはゐるけれどこれはただ一人の事だからやはり日記帳とあまり変りがない。それなのに日記帳だけ美しい本となり、書簡の方はいろいろな他人の筐底に空しくいつまでも秘められてあるなどとは甚だ片手落ちのさたではないかと思ふのである。ちやうどみめ麗はしい双生児の、一人は縁あつて花やかに嫁ぎ、一人はいまなほ深窓に取り残されてゐるやうなもので、一層奥床しさがまさりはするものの、周囲の者の身になつてみれば、その令嬢の美しければ美しいだけ殊更ら一日も早く明るい世に出したい心地のされてくるのも無理からぬ願ひであらう。百鬼園先生にお眼にかかつて最早や十年、その間に頂戴したかずかずのお手紙は、葉書の一枚も欠かす事なくしまつてある。一枚の葉書といへども其処にはかならず百鬼園先生の面影がありありと浮き上つて見えるからである。私にとつてこれは話にきく小倉の色紙のやうなもので、自分の手許にあるそれがこの上なくめでたいものに感ぜらるるにつけても、他の方方へあげられたお手紙もさぞかしとしのばれ、散りぢりに別れてそれぞれの人の手にある色紙を、一ときも早くあつめて眺めさせて頂き度い願望をおさへる事が出来ないのである。先生御昇天のあかつきなどと気の長い事を云つてゐる間には、自分の方が一ト足お先きへ参つてしまふかも知れないのである。  百鬼園書簡集、それは非常にいいですね。さうしてその中の手紙の持ち主が銘銘に印税を貰ふ事とする、なほいいですねとある人が云つた。私はそれには気がつかなかつた。云はれてみれば私の小倉の色紙はますます小倉の色紙となつてくるのであつた。  先生がまだ此頃のやうにどんどんつづけて本をお出しにならない頃、いまのうちにと思ひついて、額にしたいから字を書いて下さいと手紙でお願ひした事があつた。すぐお返事がきて字はいつでも書きますから先づその前に唐紙、硯、墨、筆、毛氈、座敷、庭、庭のはるかむかうに塀、これだけ揃へて下さい、すぐ書きますとあつた。どうすればよいかわからなくてそのままになつてしまつたけれど、あとで人にその話をすると、訳ないぢやありませんか、百鬼園先生をその時だけさういふ処へ連れて行けばいいぢやありませんかと相手が云つた。しかしそれではいけないと私は思ふのである。  これは最近のことだけれど、よそから貰ひもののナイフとフオークがあつたので、半端ものながらお届けするとすぐお葉書を頂いた。——奈若、芙奥、御芳志ト共に頂戴仕候頓首。但し書きに、奈若ヲ余リ考ヘ込マレルト失礼デスカラ仮名ヲツケマセウ奈若《ナイフ》。学東西ニアマネカラズンバカウ云フ含蓄ノアル字ハ使ヘマセンネ。  それ程に書かれてあつても、若をなぜイフと読むかわからないのである。家内一同集つて協議してみたけれどもやつぱりわからなかつた。  翌日の午後、中学三年の子供がただいまと靴をぬぐ間ももどかしさうに玄関から駆けあがつてきて、いきなり「ママ、あの内田先生の葉書の字わかつた?」ときいた。 「なによ、……」  だしぬけで訳がわからず不愛想な私の調子を子供は耳にもかけずはずんだ声で 「ほら、あの奈若のイフといふ字よ、ね、僕今日おひる休みの時学校の運動場でふつと気がついちやつた。イフといふのは英語のifでせう、イフは若し、——」 「あつ」とさすがの私もやつと気がついて声をあげたけれども、かういふ勘のにぶい人間を相手にされるのでは、百鬼園先生もさぞお骨の折れる事であらうと、お気の毒でもありをかしくもあつて、しばらくは笑ひがとまらなかつたのである。   夏の話 ○Sのいふには、大阪市中に初めて電車のとほつた時、折柄浜寺の海水浴場へ水泳の稽古にかよつてゐた自分は、どうか乗りたいものだとおもひ、帰りがけに電車のところへ行つてみたが、さて切符を何処で売つてゐるのかそれがわからない。見てゐると人は皆どんどん乗つてゆき、電車も人を乗せてどんどん走つてゐる。切符を売るところは何処にも見当らぬが、電車に乗る人は以前から何処かで切符を買つてきてゐるのだらうか、誰かに訊かうと思ふのだがそれも何だか恥しい。それに京都の電車は手をあげると何処でもとまつてくれるといふ話をきいてゐたが、ここの電車は手をあげなくてもとまつてゐるし、又手をあげてとめてゐる人もない。どうもわからない。それで、電車について歩いて見てゐる間には何とかわかるだらうと思つて、到頭難波の駅から天王寺まで電車と一しよに歩いて行つたが、やつぱりどうして乗るのかわからなかつた。天王寺から汽車に乗り、家へ帰つて兄達にきくと、切符は電車の中で売つてゐるのだといふ事で、なんだと手づまの謎がとけたやうだつたが、それにしても子供といふものは実に見栄坊なものである。十二の高等二年生の夏の事である。 ○子供のいふには、麻野君の家へゆくと面白いのよ。夏になるとお父さんがさる又一つで、のつしのつしと家の中を歩きまはつてゐるのよ、ちやうどパパみたいに。それでお玄関から麻野君と呼ぶと一番ちひさい妹が出てきて、あらちがつた、兄さんのお友だちと云つて引つこむの。するとその上の弟が出てくるの。その弟がなんだ兄さんかつて引つこんでゆくとこんどは麻野君の兄さんが出てくるの。それから学校へ行かない子も出てくるの。そして一ばんおしまひに女中さんが出てきて、麻野君は留守ですつていふのよ。でもそれまでにきつと五人位ぞろぞろと出てきてそれがみんなさる又一つきりの裸ん坊ばかりなのよ。それやをかしいのよ。(麻野君のお父さんは大審院の判事なのである。子供のあたまにその事があるらしかつた) ○Rがいふには、お昼頃阪神電車に乗ると、なか頃のよりかかりのある端の席に、四十代の中婆さんで、白の富士絹の簡単服を着て草履をはき、かうもりがさと手さげ代りの大きな袋を持つた人が乗つてゐた。その洋装のおばあさんがさかんに居ねむりをする。口をあけてよだれを流しながらがくりと倒れかかるのだが、それがよりかかりの方へ倒れないで隣の人の方へ倒れるのである。隣に腰かけてゐるのはやはり四十あまりの、これはちやんと和服を着た中婆さんで、膝の上に唐草もやうの大きな風呂敷包みをかかへてゐる。その中婆さんが云ふには、「あんた、こつちやへこけたらあつおまんがな、暑うてかなひまへんがな、あつちへこけなはれ」と手でおしかへすと、ゐねむりの女ははずみでよりかかりの方へ倒れるが、すぐ又首をもたげて新しく和服の婆さんの方へ倒れてくる。お婆さんは又、暑おまんがな、あつちへこけなはれとおなじ文句をくり返して向うへ突いてやる。さうして二人の中婆さんはおなじ仕草とおなじ文句を、片方のお婆さんが降りるまで繰り返してゐた。 ○もう一つ。 やはり昼頃の空いた車に、朝鮮人の家族が乗つてきた。人を使ふ程の身分らしく、うす汚ない服装の召使をつれてゐた。主人と細君と娘と召使と四人連れである。娘は牡丹色のはなやかな上衣を着て、細君と二人でしきりに何か楽しさうに話をして笑つてゐた。主人は広い座席でのびのびと居ねむりをしてゐたが、何処かの停留場で電車ががくりととまつた拍子に、はずみでシートの上へすてんと引つくりかへつてしまつた。細君も娘も一せいに笑ひ出し、乗客も皆思はずふきだした。本人は眼をさましてきよとりとしたが、すぐ素知らぬ顔で窓の方を向いて、そとの景色を眺めてゐる。居ねむつてゐる間ぢゆう巻煙草をくはへてゐたのだが、それが遠くの方へ飛んでしまひ、細君や娘は笑ひながらそれを指して召使に拾はせ、召使は拾つた煙草を恭しく主人に渡さうとしたけれども、彼はいかめしい様子で窓のそとへ眼をやつたまま、振り向きもしないのである。その又巻煙草といふのが、吸口を二十あまりもかさねた途方もなく長いものであつた。 ○さつきの荷物をかかへたお婆さんの話。 和服を着たお婆さんは尼ケ崎で降りるので、隣に腰かけた汗くさいやうな水兵服のおさげの子に、このつぎは尼ケ崎ですかとたづねた。田舎の女学生らしいその子はよく知らないと見えて、はあさうですと答へた。けれどもお婆さんはすこし不安な気がしたらしく、電車がつぎの駅に近づいた時、今度は前に立つてゐるRに向つて、ここ尼ケ崎ですかときいた。いいえ此処は大物で、尼ケ崎はこのつぎですとRが教へると、お婆さんは大層よろこんで、いよいよ尼ケ崎で降りる時にもう一度Rに礼を云つたが、隣の女学生の方は睨みつけて降りていつた。その女の子はRとおなじ年頃であつたが、しかし睨まれても何の感じもないやうに一向平気な顔をしてすましてゐる。   故郷をさがす  今年も又夏の休みが来て、苦しい学課から解放された子供達はいそいそと旅装を調へて海へ山へ出掛けて行く。なかにはお故郷《く に》へ帰るといふ子もすくなくはないのである。 「ね、村上君のお故郷福岡なんですつて。今夜すぐたつんだつて、ずゐぶん早いのねえ」  成績簿と一しよに子供はそんな報告をもたらして帰つてくる。だがそれを母親に伝へる子供がべつに羨ましい顔もしてゐないのは、彼も又今年の夏は大阪へ行く予定になつてゐるからである。子供達は大阪を自分等のいはゆるお故郷だと思つてゐる。  子供は東京で生れ、東京で育つた年数の方が多いにもかかはらず、大阪に暮してゐた時分東京の話が出ると、東京へ帰ると云はず行くと云つた。江戸つ子江戸つ子と同級の小学生にはやしたてられ、自分でもそれをみとめてゐながらやはり東京がお故郷とは考へられぬらしかつた。学校の教室に西宮市の地図がはつてあつて、その中に鷲尾本邸とあるのをこれは僕の親類の家と云つたら、友達に嘘つきだと云はれたと泣き顔をして帰つて来た事があつた。 「江戸つ子が鷲尾さんの親類でなぞあるものか」  小さな愛郷者は肩を聳かして云つたさうである。昔ながらの伝統を重んずるその土地では、辰馬氏の事を本家、鷲尾を鷲尾さんと小学生迄がさんづけにして呼んでゐる。その鷲尾さんと風来坊の東京者なぞが親類であつてたまるかと彼等は肩を聳かしたにちがひないのである。 「だつてあそこはお祖母ちやんのお実家ぢやないの、ねえ。そんなら親類にきまつてるぢやないの」と子供は口をとがらしてゐたが、大阪にはその祖母さまの生れた家をはじめとして、父親の生れた古い家、伯父伯母大きな従兄姉達、それぞれにやはり昔ながらの家に暮してゐる。新宅して分家する者はあつても、転転と借家を移りすむ者は一人もない。  さういふどつしりとした生活ぶりが子供の心にも何か安らかな感じを与へて、いかにもお故郷らしい気持をおこさせるのであらうか、——お故郷といふ気持の中には伝統といふ色彩が強くふくまれ、変化のない事が第一の条件であるらしい。親類もなく家もない東京の土地を、子供が故郷と考へにくいのは又無理からぬ感情であらう。  夫は大阪に生れて大阪に育ち、まつすぐに大阪が故郷である。そして子供等は父親の故郷を自分の故郷と思ひ、そこへ行く事を楽しんでゐる。お祖母さまにはどんなお土産がよからうか、従姉の子供には何をあげようかと毎日小さなあたまをしぼつてゐるのを見ると、ふと私もそれにつられて、自分もどこかそんなお故郷へ土産物を携へて帰つてみたいと思ふのであつたが、私には帰るべき故郷がないのである。私の宿はどこですかとよくお上りさんの笑ひ話にあるけれども、私もそのやうに、私の故郷はどこですかと人に問うて見たい程の心地がする。  生れたのは札幌で、而も十七の年まで其処で育つたにもかかはらず、私が札幌を故郷と思ひ難いのは、子供等が生れた東京を故郷と思ひ難いのと、おなじ気持であるかもしれない。もちろん札幌には身よりもなく、生れた家は火事に焼けて、ただ父の建てた白壁の土蔵だけ変りなく残つてゐるさうであるが、それにまつはる少女時代の感傷はあつても、だから故郷だとは思ひ難いのである。内地、——といふ文字を新聞なぞで見ると、いまでもふいと胸の熱くなる時があるけれど、さういふ気持を知つてゐるのは、どう考へてもあまり幸福とは云へないやうである。内地。内地。北海道に暮してゐる程の人でその言葉を口にせぬ者は殆どなかつた。  内地は暖かくて、春になると練菓子のやうに真紅な椿の花がぽつてりと咲くさうである。五月、蜜柑の花の咲く頃になれば、紀伊の国から海をわたつて淡路島まで、胸のすくやうな花の匂ひをのせた風がふいてくるさうである。秋になればつぶらな柿の実がちやんと樹の枝に実つてゐて、可愛い小鳥がそれをつつきにくるさうである。内地は空まで明るくて、そこに住んでゐる人は皆物腰がやさしく淑やかなさうである。お行儀がよい。第一御飯の時にお漬物から先に食べたりなぞしないと私はよく母に叱られたが、その母の郷里は淡路島であつた。父は秋田の人間で、しかし祖先は京都の出で平親王将門の後裔だといふのが父の誇りであつた。将門の後裔はともかく、父の生れた秋田の僻村では全村殆ど同姓を名乗り、名前は先祖代代の小二郎小六郎といふのがあつて、将門の一族である事だけはどうやらたしかであるらしい。相馬の戦に破れた彼等が北方へ逃げのびて、羽後の山間にその余生を送つたものであらうか。村では言葉までが普通の秋田弁とちがつて一種の風格を持してゐる。  北海道に暮す人は一やうに内地へ帰る事を楽しみとし、いまに成功して内地へ帰るのを唯一の望みに働いてゐるやうであつた。父もよくそれを口にした。秋田のやうな田舎へ帰つても仕方がないから、東京へ家を建てて暮さう。死んだら鶴見の総持寺へ墓をたてて貰ひたい。いや墓はいつそ淡路島の方がよいかもしれぬ。あそこは日本で一番最初に出来た島だし、それに京都へも近いしなどと。そして父は待遠しさのあまり多額の費用をかけて白壁の土蔵なぞ建てて見たのかもしれなかつた。雪の国に白壁の土蔵はあまりに不似合だが、それが父のあたまに描かれた内地であつたのであらう。いまにして思へば胸が切ない。  だが両親のそれ程激しい思慕にもかかはらず、子供の私には内地がお故郷とはどうしても思へなかつた。それはあまりに遠すぎた。日常の環境から内地の人の生活を想像すると、まるで雲の上をさぐるやうに手頼りなく、つかまへどころがなかつた。淳仁天皇のお墓所をてんのの森と云つて、椎の木ばかりのこんもりとまるく茂つた美しいお山で、そのお山の麓に芝居で見る阿波の鳴門のおつるのやうな小さな巡礼の娘がやすんでゐる事もあるなどと聞かされても、それはまるで夢のやうな話で、芝居のつづきとより思へなかつた。菱の実が菱形をしてゐたり、ざぼんといふ香り高い果物があると聞いても想像がおぼつかなく、むしろ自分には飜訳小説で読んだろしあの人の暮しの方が、いきいきと身に近かつたのである。  空が、一ばん深い海よりも碧くひろかつた。さらさらとポプラの梢をわたる風の音は土用半ばに既に秋であつた。白樺の森、楡の林、小説の中に出てくる樹木が日常眼に親しいばかりでなくキヤベツのスープ、小麦粉のパン、酢づけの胡瓜や玉葱や花びらのやうに白い粉をふいたポテト。台所の天井には袋入りのハムがぶら下つてゐて、母はその下でグースベリイのジヤムをつくつた。しぼりたての牛乳、つくりたてのバタ、私は小説の中の人達とおなじやうなものをたべてゐるのである。野には蜜柑の花のかはりにほろ苦くあまいホツプの花の香りが流れて、長い薄暮にかつかつとまるで毛皮のズボンをはいたやうな逞ましい輓馬が、山のやうに積みあげた牧草の車を曳いてくるのに出会ふと、私にはその牧草が小麦粉の袋のやうに思はれ、その馬車に美しいアレキサンドラが乗つてゐはしまいかと眼を輝かせた。アレキサンドラといふのはその頃自分が熱心に読んでゐた「うき草」の中に出てくる地主の若い未亡人であつた。そして自分は恋をする少女ナタシヤになつたやうな気持で、朝早く、ろしあざらさのひだとレエスの多い洋服を着て、ボンネツトといふものをいただき、露の深い草原を散歩した。父は後年私を外国へ送るつもりで、そんな風に育てたのである。  ジヨンといふ遊び友達は金髪のイギリス人の子で、ミリアムさんはメソヂスト教会の牧師さんの娘であつた。紅いジヤケツを着てゐた。町には教会が五つも六つもあり、日曜日には休業する店が多かつた。冬の吹雪する日は白い沙漠のやうな往来に二日も三日も人通りが途絶え、農学校の時計ばかりが、怠りなく正しい時刻を告げてくれる。くらべるものもないあの清澄な音色を吹雪の中で聞いたものは、恐らく終生忘れ得ぬ響をその胸にたたみこんだであらう。交通の途絶えた町に一時間おきに正しく時計が鳴るといふ事は、天候に虐げられた人間にとつてまるで救ひの鐘のやうに心強く頼もしかつたのである。私はストオヴの傍で編物をしながら、その農学校の最初の校長さんであつたクラーク博士の事を考へた。偉いクラーク博士は小さな私のあたまの中で神様のやうに偉かつたのである。そして私には日本の歴史といふものが、内地とおなじやうに遠くはるかのやうな心地がした。  いま私は、父や母があんなにも帰りたがつた内地に住んでゐる。だが私は内地に住んでいつも何となく坐りのわるいかすかな不安を感じつつある。父母の墓は淡路島にたてたが其処を故郷とは思ひにくいし、東京はもとよりの事。それなれば札幌こそまがふ方なく故郷であるべき筈なのに、やはり私にはうなづけないのである。札幌にはもう誰もゐない、その事が私の心を疎くするのであらうか——ああほんたうに誰も彼も帰つてしまつた。クラーク博士は夙くの昔であるが、ミリアムさんもジヨンさんもおしやべりのグレースさんもそれぞれアメリカへイギリスへ帰つてしまつた。父母は骨になつて淡路島へ帰つてゐる。私は何処へ帰ればよいのであらうか。  私は小さい時から怒りつぽく腹立ちやすい少女で、おまへは多分滝夜叉姫の生れ変りであらう、だからそのやうに人に逆ふのであらうと父はよくからかつたが、その性癖はいまもなほらず、ママは怒つてさへすればきげんがいいのねと子供等まで心得てゐるが、長い間私は自分の腹立ちぽさを体質のせゐと考へてゐた。それは勿論一因ではあらうが、もつと重大な原因は、帰るべき故郷を持たぬ不安さにもとづくのではなかつたかと、此頃になりふと気がついたのである。松杉を植ゑる、——と昔の人は云つたやうだが、さういふ故郷を持つ人は幸福である。故郷なぞどうでもいいではないかといふ人でも、さすがに自分は日本人かと疑つて見た事はないであらう。私はまちがひなく日本人でありながら、あたまの何処かがぼんやりとぼやけて、折折自分の故郷はどこか遠い遠い、行つた事もない外国の、野の果に風車のまはつてゐる片田舎ででもあるやうな、へんな錯覚をおこすのである。  帰る帰ると云ひ暮した父母の言葉が身にしみて、やはり私も何処かへ帰らねばならぬやうに、ちやんと内地に住んでゐながら、いつも前のめりの椅子に腰をかけてゐるやうな危い心地がするのである。私は自分の松杉をどこへしつかり植ゑればよいのか、それがきまれば、日常のつまらない腹立ちはみんな消えてしまふだらうと考へるが、それは一たいいつになる事か。  私は大阪へ持参する土産ものを子供と一しよに考へてやりながら、やはり自分ひとり取残されるやうに、心細さをとどめ難い。   絹もすりん  このあひだ林芙美子さんがお書きになつた小説の中に札幌の事が出てゐた。何心なく雑誌の頁を繰つてゐると、ふと札幌といふ字が眼についたのでそこを読んでみると、一生に一度でもいいから札幌見物がしてみたいと何処か田舎の宿屋の女中さんが云つてゐる。芙美子さんだなと直ぐ思ひ、子供が当てものをする時のやうな愉しさではらはらと頁を返して作者の名を見た。やつぱり芙美子さんであつた。私は机の前に坐り直して、こくこくと搾りたての牛乳を飲むやうに読んでいつた。  自分の生れた土地の姿を人の筆で読む事は自分のうしろ姿を思ひがけなく見せてもらつたやうになつかしい。いまでは家も身寄りもなく故郷といふ言葉に遠い心地もするが、十七年のあひだその土地から一歩も出た事のなかつた身には、白白と長いアカシヤの垂れ花の匂ひのやうな切なく甘い思ひ出が胸をしめつけるのである。私は読み終へてのちしばらくは茫然と空を見あげたまま机に頬杖をついてゐた。頭の中でさわさわと豊かな楡の葉ずれの音がしてゐる。楡の樹かげにペンキ塗りの粗末な洋館があつて、窓が展いてゐる。白い絹もすりんの矢飛白の単衣を着た少女が、額ぶちにはめられたやうに胸から上を見せてオルガンを弾いてゐる。……君は谷の百合みねのさくらうつし世にたぐひもなしと唱ひながら弾いてゐるその少女は、遠い日の自分の姿であると同時に又、友達の誰かれの姿でもあつた。私達はどんな真夏の盛りでも浴衣といふものを着た事がなく、それから又どんな時にも三味線といふ楽器を手にした事がなかつたのである。  十八の時初めて上京して、ふとした機会から踊のお稽古に通ふやうな事になつた。御縁があつて牛込の藤間勘次さんに教へて頂いたのであるが、踊などといふものは三つ四つの頃近所に若いお妾さんがゐて、退屈しのぎに私を借りていつては深川だの奴さんだのを教へてくれた事があるきりで、手の出しかた足の踏みかたてんで見当のつけやうもなく、つるつると滑つこい舞台の上を、ただ辷るまいといふ一心で浮腰に歩き廻つた。爪先立つていまにも転びさうな私の足許へぢつと眼をそそいでゐたお師匠さんは、やがて一緒にお茶を飲みながらさり気なく云はれるのである。 「おたまさん、あなたの足袋は幾文なの」きかれても私は知らなかつた。 「家から送つてきたのをそのまま穿いてゐるんですけど、……」 「さう。道理で変だと思つた。その足袋はきつとあなたには大き過ぎるんですよ、一ぺん足袋屋へいつて寸法をはかつてお貰ひなさいよ。足袋だけはきつちりしたのを穿かなくつちやね。……」  私はお師匠さんに教はつた通り早速通寺町の美濃屋へ行つて寸法をはかつて貰つた。八文の足袋がきつちりと合つた。あらためて家から送つてよこしたのを調べると、こはぜに九文と刻んであつた。  神楽坂の夜店に金魚売りや虫屋が幅をきかす頃になると、女の人の姿が眼に立つて美しくなり、散歩に出る人の数が急にふえてゆくやうに思はれた。人間洪水といつていいやうな凄まじい群集の間をくぐりぬけて、矢来のお師匠さんのところまで辿りつき、黒つぽい縞もすりんの単衣の袂からたたんだ手巾を出して顔を拭いてゐると、二階から降りて来たお師匠さんが私を見て「暑いでせう」と声をかけた。 「おくにでは今頃でもやつぱりさういふ風にもすりんを着てらつしやるの」 「ええ、……」と私は頤をひいて自分の衿を見るやうにした。 「夜のお稽古は浴衣でいいんですよ。……昼間だつてお稽古の時はねえ、汗になりますからねえ」  夜の神楽坂を歩く女の人が急に美しく見え出したのは、くつきりと鮮やかな浴衣のせゐであつた事にやつと私は気づいたのである。  浴衣は人形町へ行つて買ふものだと教へてくれた人があつたので、直ぐと人形町まで買ひにいつた。浴衣を着た時は足袋を穿くものではないとまた人が教へてくれたので、私はあゐ染めの縮に黒繻子の帯をしめ、素足に日和下駄の歯の音をたてながらお師匠さんのお宅へゆくと、神楽坂の人ごみをぬけてきた足が埃でざらざらした。毎晩女中さんに頼んで濡れ雑巾で拭かして貰ふのが何となく気がひけたけれど、それでも自分はこれでもうしきたりに於て些かも欠けるところがないのだからと、顧みて自ら慰めた。  ある晩、池の端の納涼博覧会へ行かうといふ話になり、お師匠さんも私もその年流行の養老縮の滝じまに鹿の子織の帯をしめて「浴衣に足袋はあれだけれど、電車に乗るのだからやつぱり穿いてゆきませう」お師匠さんがさう云ひながら足袋のこはぜをかけるのをうしろに坐つて扇いであげながら、私は突然お腹の中で火のもえるやうな心地がした。手拭につつんでしまひこんだお稽古の足袋をそつと取出して、燈火の消えた舞台の陰で人に知れないやうに穿いていつたが、かつと熱くなつたお腹の中がいつまでもほてつてゐて、納涼博覧会はおしまひまで暑かつた。  廿年会はなかつた友達が京都から出て来たについては、その頃の連中が集つてお茶の会をするから是非出席するやうにとの案内状を受取つて日比谷の松本楼へ行つてみると、通された三階の広間に座布団ばかりがずらりとならべてあつて、お客さんはたつた一人しか来てゐない。西洋風に展いた硝子窓の向うに爽やかな緑が揺れ、近くのテニスコートで打つのであらう、ポーンとゆるやかな球の音が空にひびいてかへつてくる。口数すくない先客とぽつりぽつり話してゐると、しんとした四辺の気配にふと札幌にゐるやうな思ひがけない心地がした。放課後の校庭でくらくなるまでテニスの練習をした記憶が、ゆるやかなボールの音に誘ひ出されてゐたのである。  いつの間にやら人が集り、いつの間にやら窓のそとの緑が黒ずんできて、みんなはお酒にでも酔つたやうに、そちこちで甲高い話声が乱れた。京都から出て来た友だちが私に向つて、家への道すぢをたづねるままに「あたしんちはね」と答へかけると「あつ」と友達は不意に手を挙げて私の言葉を遮つた。 「ちよつと待つて。……まあなつかしい、私東京弁をきいたわ。あたしんちつてそれ東京弁よ、まあなつかしい。……」  友達は日本橋に生れて下谷の府立第一を卒業した生粋の東京つ子なのだけれども、廿年京都に住み馴れていまでは優しい京なまりがちらちらとのぞくのである。 「そして、それから?」としばらくして友達は、すつかり照れてしまつた私を顧みて促した。 「ええそれからね、此処んとこをまつつぐ行くと、——」 「あつ」と友達は又叫んで手を振つた。「それ、それ、そのまつつぐつてのそれ東京弁よ、まあなつかしい」 「いやだわ。私こそ今日は皆さんの東京弁を伺つて勉強しようと思つてきたのに、——」  林さんの小説の中の宿屋の女中が、一生に一度でもいいから札幌見物をしてみたいと思つてゐるやうに、この年年大阪に対する執着が強くなつて、一生に一度でいいから笠屋町辺に住んでみたいと願つてゐる私は、いつとはなしに東京の習慣も言葉も忘れ去つて、自分では標準語以外に何にもわからなくなつた気がするのに、ふかふかの九文の足袋をはいてゐたむかし、築地明石町あたりを逍遥つて、身体中を耳にしながらおぼえこんだ言葉のかずかずが、いまなほ身体の何処かに沁みついてゐるのかと思ふと、我ながら浅間しいやうな、そのくせ昔なつかしい心地がされなくもないのである。  遠くから話を聞き咎めて「あら、……」と青山生れの友達が歯ぎれのいい美しい声で云つた。 「おたまさんは江戸つ子ぢやなかつたの、まあ驚いた。私いま迄あなたは東京の、それも下町に生れた人だとばかり思つてゐたわ」  うまくお土砂をかけてくれるのである。 「ええ、私むかしね、田村俊子さんにさう云はれた事があるの。あなたは深川生れね、かくしたつて駄目よつて。——つまりあれなんでせう、北海道育ちの荒いところが、怪我の功名で本場の人を欺いたわけなのね」  田村俊子さんほどの人からさう云はれた時には身内がひきしまる程うれしかつたが、それと同時に拾ひあつめた孔雀の羽根でかざる烏の嘆きを、身に沁み沁みと痛く感じた。どのやうに孔雀らしく見えようとも所詮烏は烏に過ぎぬ。と云つて私の生れた札幌には、日常のしきたりに何の伝統もよりどころもなかつたのである。  震災以来大阪に住み馴れて、初めのうちは大阪の女の人が真夏の夜に、もすりんの単衣を着る事を野暮の骨頂と冷笑してゐたが、一ト夏上海にゐた妹から、ふらんすの婦人服地だといふ白地にラヴエンダ色の細かい縞のはいつたもすりんを贈られて、気まぐれに仕立てて見ると、さらりとした肌ざはりが思ひの外に涼しく、軽くてしかも透きとほらず、暑さの耐へがたい真夏の夜など煽風器に吹かれながらゐるには此上なく快適の着物だといふ事を知つたのであつた。やはり大阪の婦人は一歩を先んじてゐるのであつたと心ひそかに敬服しながら、此頃では足袋も昔のやうに木型にはめたやうにきつちりとしたのをやめて、いくぶん大きい目のものを穿いて足を休めるやうにしてゐるが、浴衣や足袋の苦労を忘れて以来、何となく身も心ものびのびとして再び少女の頃にかへつたやうに、一切の附焼刃をふり落して気らくになつた心地がするのである。夏は何よりもそれが涼しい。   屋島の狸    一  志道先生からお手紙を頂戴した。小学校で生徒に試験の答案を書かせるやうな藁半紙に、鉛筆で書いてある。  オ手紙拝誦  一昨日阿氏ガ帰来、マダ△△△△ノ稿料ヲ貰ツテヲラレヌトノ話ヲキキマシテ外ノ事ハトモカクモ、又イロイロノイキサツガアリマセウトモ ソレダケハ甚ダ面白クナク、小生ノ身ニ引キクラベテ疳ニサハリ申候間  昨日早速△△△△社ヲ襲撃シテヤリマシタ、両名トモ息ヲ殺シテ不在デシタカラ帰ツテ来テ手紙ヲヤリマシタ、原稿ノ件ニツキ行キ違ヒガアツタサウダガ、間接ニシカキカナイカラ小生カラハ何トモ申上ゲラレナイケレド、ウチノ者ガ所用デ森田サンヲオタヅネシタ節、稿料ガマダトキイテ帰ツタ、ソレハドウイフ御都合ニシロイケナイト思フ、スミヤカニ届ケルベシ、右ハ森田サンカラ頼マレテ申スニアラズ、小生御紹介者トシテ申入ルルナリト云ツテヤリマシタ、屋島ノ狸ニ類シタカ知レマセンガ(狸ノ一件ハ御存知デセウネ)シカシ大変暑クナリマシタ、頼マレタノデナイカラウラミマセヌ  木田先生の処へ行つて、志道先生から頂いたお手紙の話をした。「両名とも息を殺して不在だつたさうです」といふと木田先生はふふふふとふくみ笑ひをしてをられたが、そのうちに突然何か思ひついたやうにあははと笑ひ出された。 「志道さんが行つてくれたのですか。それはよかつた」 「屋島の狸つてなんでせう。先生御存知ですか」 「知らないねえ。……それは志道さんにきいたらわかるでせう」  二タ月ほど前に、私は志道先生の御紹介である雑誌へ随筆を書いたのであつた。ちやうどその時私のものが中央公論にものる筈だつたので、それとかちあはぬやうにと再三念をおしておいたにもかかはらず、その雑誌社ではいろいろと勝手なことをしてしまつて、世間知らずの私はただ驚くばかりであつたが、その上にまたどうしたのかいつまで経つても稿料をくれないのであつた。それでもそんな場合にはどうすればよいのかわからないので、万事を木田先生にお願ひして、自分は手を束ねて茫然としてゐた処へ、志道先生からのお手紙が届いたのである。文中に阿氏とあるのは志道先生の奥さんのアダ名なので、用事で私をたづねて来て下すつた折、ツイ雑誌社の話も出たのである。  それから半月あまり経つたけれど、雑誌社からはやはり何とも音沙汰がなかつた。風の涼しい晩に志道先生のお宅へ伺ふと、先生はスポーツシヤツ一枚でビールを飲んでをられたが、失礼ですがといつてそのままの姿で面接された。 「ええと、晩の御飯はもうおすみになつた事と思ひますから、それについては何も申上げませんが、しかし何か差あげたいですね。どうぞ何なりと仰有つて下さい。冷蔵庫の中には氷をはじめとしてあらゆる食料品が貯蔵されてありますから」 「あら。氷のほかには何もありませんわ」と支那婦人のやうにきめのこまかな小がらな奥さんが色の白い頬を赧くされた。 「これは辞令と申すものさ。あなた方にはわからないのだから黙つておいでなさい」  志道先生が辞令を弄されるのは機嫌のいい時である。私はのんきに雑誌社の話をはじめた。するといきなり先生が大きな声を出した。 「わたくしは腹をたててゐるのですよ」 「ええ、それは……」と私はちよつと驚いて反射的に何かいはうとするのにすぐかぶせて、 「それは雑誌社に対しては勿論ですが、あなたにも腹をたててゐるのですよ」 「なぜです」 「なぜですつて雑誌が出てから一月経つてもまだ稿料を貰はないなんて、そんなじれつたい人がありますか」 「貰はないのではありません、くれないのです」 「それはさうですが、しかしじれつたいですよ、あなたがさ。……わたくしはまた雑誌社へ行きますよ」 「はあ、有難うございます。でもわざわざいらして頂くの大へんですからちよつとお端書でも……」といつてゐるうちに私は屋島の狸を思出した。 「あ、さうさう。屋島の狸つてお手紙にありましたけれど、あれはどういふ事なんでせう」 「あれツ」と志道先生はまるい眼をくるりつと一回転させて、ちよつとのび上るやうな容子をされた。 「あなたは狸の一件を知らないのですか、驚きましたね。……それではこれから質問いたしますが、まづ屋島は御存知でせうね」 「ええ知つてます。平家の負けたところでせう」 「いや、歴史の話ではないのですよ。屋島をごらんなつたことがあるかどうかおたづねしてゐるのです」 「地理の方ですか、それでは落第ですわ。第一瀬戸内海のどこにあるのだか地図を持つてきて探さなくてはわからないのですもの」 「いやだな、屋島を知らなくては話が通じにくいのだけれど。……屋島といふのはこんな風に(と先生は両手で空間に屋根の形をこしらへてみせて)まるで屋根のやうな形をして海に浮かんでゐるのですがねえ。わたくしなんかは毎日その島を眺めながら育つたのですが、その屋島に平家の落武者が暮してゐましてね、島の狸がまたその平家に大へん同情してひいきにしてゐるのですよ」  それで屋島の狸はいつも何か平家の手助けをしてやりたいと思つてゐるので、たとへば明日は屋根を葺き更へようなどと家の中で話してゐると、狸がそれを聞いて夜の間に屋根の藁をみなぬきとつてしまふのださうである。ところが藁をぬく時はいちいち揃へて束ねておかねばならないのでそれが面倒なのに、狸はただもう矢たら無性にひきむしつてそこいら中藁を投げつ散らかしておくものだから折角の親切が平家にとつては反つて有難迷惑に終つてしまふ。それで平家が何かしようと思ふ時にはいつも狸に知れないやうに、そつと内緒で相談しなくてはならないのださうである。 「おわかりになりましたらうね」 「ええ、よくわかりました」  氷のはいつた水を御馳走になつて私は自家へ帰つて来た。    二  屋島の狸の親切を人に施して迷惑がられたことはずゐ分あるのだらうけれど、他人の心理はこちらにはわかりにくいから、知らないで過ぎてゐる。その代り人から屋島の狸の親切を受けて困つたことの方は、志道先生のお話を伺つてゐるうちに二つ三つ思ひ出した。ひよつとすると私といふ人間は何かしら間がぬけてゐて、人からじれつたがられるやうな性質に生れついてゐるのかも知れぬ。……五年ほど前のある春先の事だが、私は大阪の北の方のある宿屋に十日あまり泊つてゐたことがある。俗に北の新地といふあの曾根崎の花街の中で、そんな処で宿屋でもしようといふ女将は、やはり昔芸妓をしてゐた人であつた。  さして広い家でもなかつたが二階にも階下にも一室づつ、奥まつた離れのやうな隠れ部屋があつて、階下のその部屋には寝台を入れて普段はおかみさんがそこに寝てゐた。洋室を好む客があると女将はその部屋を明渡して表の方の居間へ来るのだが、ある夜おそく、所在なさのあまり散歩でもして来ようかと私が階下へ降りて行くと、表のその居間におかみさんをはじめとして妹のおせさんやおうんたんや女中の誰彼、事ありげな顔をそろへてひそめいてゐる。自然に私の足はその前にとまつた。 「何かあるんですの」とたづねるとおうんたんが、——ほんたうの名前はおうのといふのだけれど、おかみさんがおせいさんの方をおせさんと呼び、おうのさんはおうんたんと呼んでゐるので、ここの家ではそれが通り名になつてしまつてゐる。そのおうんたんが丸い肩をすぼめるやうにして「いま奥のお客さんのところへ別ぴんがきやはりまんね。奥さんもここにゐて見物しといなはれ」と教へてくれた。しばらくすると門に自動車がとまり、女達は鳥のやうにざわざわと起上つて出迎へた。おうんたんが案内して急ぎ足に廊下をわたつてゆく女の人の派手な訪問服の裾模様ばかりが、ちらりと障子のかげの私の眼に映つた。「女給さんでつせ」とやがて戻つてきたおうんたんはすこし興奮したやうに鉄瓶の白湯を湯呑についでがぶがぶのみながら私に告げた。おせさんもおうんたんも一度嫁ぎながら不縁になつて、まだ三十前の若い身空で姉の商売を手伝つてゐる不幸な人達であつた。  堅気の旅館など儲かりもしなければお客もくすんでゐて面白くないけれど、新派の俳優で相当きこえたその夫が商売柄にも似合はず地味な性質で、席貸しなどの派手な商売をひどく嫌ふので止むを得ず旅館を、それも出来るだけ堅くやつてゐるのだといふ女将にとつても、たまたま連込のお客は何か心をそそるものがあるらしく、彼女は強ひて私を引とめて茶だんすの中から甘納豆など出したりするので、一つ二つつまみながら私の腰もいつかそこに落着いてしまつた。「あんなお客さん始終あるんですの」ときくと「そらあんた、この辺で旅館《りよくわん》してたらなんぼ堅うにしたいと思たかてしようがおまへんわ。そいでもうちの人がゐてはる時やつたら、断わつてしまへてそらやかましおまんね」女将は細面のきりりとした顔に、ちよつと首をすくめるやうな表情を見せて笑つた。そのやかましい旦那さんはちやうど旅興行に出て家にゐなかつたのである。おうんたんは思出したやうに、 「いろいろなお客さんがおまつせ。せんどももう仲よう寝やはつたやろとおもてる頃にヂーと鈴がなりまんね。なんやしらと思ていて見たら、女の方はしくしく泣いてるしお客さんは怒つていまから帰るいうてはりまんね。まあまあとわてがなだめて話をきいたら、約束がちがふいひまんね。女は十五円貰ふつもりやつたといふし、お客さんは七円位やとおもてたいひまんね。そいでわてが女に向て、いまから帰つたかて誰もあんたの潔白信じる人あれへんよつて、災難やとおもて十円で辛抱しときなはれ。お客さんもお客さんや、七円は安すぎまつせ、いまどき飛田へ往てくさつたやうな女買うたかてぢき十円は飛びまつしやないか。あつさり十円出して他になんぞ土産もんでも買うたげなはれイないうて納めましてんわ。そいでその晩はまあまあよかつたと思て寝ましたんやけど、あくり朝二人連れだつていちやいちやして帰つてゆかはるの見てたら、なんや阿呆らしなつてきて御飯が味なうなつてしまひましたがな。お客さんかて女の方かてほんまにえげつない人ばつかりだつせ」  一ぱし姐御気取りで粋な裁きを見せたおうんたんにも、若い血は沸つてゐるのであらう。抑圧された情熱のはけ口は時時女中達への叱言となつて爆発したり、電話口に起つて、知らぬが仏の細君へそこの家の亭主の秘密を教へたりもする。私が初めてこの宿に泊つた翌日の午後、客の皆出払つた静かな家中に響きわたる明けつ放しの声で電話をかけてゐたのは、いまから思ふとまちがひなくおうんたんであつた。「あんたとこのお父ちやんいま家にゐてはる?」電話の話はそんな問から初まつたやうに記憶する。「さうやろと思た。いまうちのお松どんのとこへ自働電話がかかつてきてなあ、お松どんが急用がでけたいうて外出したんやけど、その自働電話があんたとこのお父ちやんくさかつたよつて、あんたが知つてはるのやつたらかめへんけど、あんな女子にかかりあうてたらあんまりええ事ないよつて……うむ、うむ、ううん、別ぴんやないねん、へちやむくれやねん。うむ、うむ、そらさうや。うむ、そんな心配はいらへんやろ、小遣のちつとも渡したら文句いへへん、そらわてがいはせへん。うむ。とにかくどんな女子か見においなはれな。うむ、そやそや、あははは」とその電話は面白さうな笑ひ声の中に切れてしまつたが、その時もこの居間に女達は集つてゐたらしく「あのねえさんはまたぽつぽと湯気たててきやはるで」と女将の笑つていふ声も聞えた。一ときほど経つて女将の部屋はまた賑やかになり、くどくどと何か嘆くやうな新しい声が交つてゐるので、おほかたそれが電話で呼びよせられたねえさんなる人であらうと、私の好奇心も動いて二階の廊下から中庭ごしに表の方を窺ふと、見馴れないぢみな丸髷のあたまが障子のかげに見えかくれしてゐた。その丸髷の人の亭主と訳があるといふ噂の主は、どうやらその朝食膳を私の部屋まで運んできた京都なまりの若い女中であるらしく、ぽつてりした顔に白く白粉をぬつて、赤いてがらの丸髷がすこし傾いてゐるところなど少少むつとするやうな感じであつたが、しかしものごしは落着いておだやかであつた。  私は晩のお給仕に又あの女中がくるかと心待ちしてゐたが、遂にその女は姿を見せず、小柄なおせさんが文楽の人形の着るやうな古い黄八丈の着物を着て、黒い給仕盆を神妙に控へてゐた。お松どんはあれなりこの家へは帰つて来なかつたらしい。私はそれをいま思ひ出してきいてみると「奥さんはお松どんを知つてはりましたんか」とおうんたんは意外さうな顔をしたが、あの女は京都で仲居をしてゐたのだが、あまり働き過ぎてからだをわるくしてしまつたので、堅気になりたいといつてうちへ来たのだけれどやはり長続きせず直ぐ暇をとつていつたといふのであつた。「そいでもあの子はふしぎに流行つてようお客さんがてつぱつたさうだす」とおうんたんがいつた。私はてつぱるといふ言葉がわからないので「それなんのこと」と問ひ返すと「奥さんは江戸つ子やよつて知らはらしめへんのやろ。てつぱるちうたらかちあふことでんが。お客さんとお客さんと一と晩のうちにかちあひますのや」とおかみさんが笑ひながら説明してくれた。  そんな話をしほに「さあそれではもう休ませて頂きませうか」と席を起たうとすると女将はいふのであつた。「お松どんとちごて奥さんは又、毎晩おひとりでさみしおますわなあ。ほんまに旦那はんもすげなうおまつしやおまへんか」慰め顔な女将のその言葉に、私は早速の返事も出来ずまごついてゐると「ほんまやわ。わてこないおとなしい奥さんみたことあらへん」とおうんたんがすぐ引取つて「わて、あしたはきつとあの旦那はんを泊らせてみせるわ」とひどく気負つていふのである。私の大阪行きはちよつと手紙ではわかりにくい急用ができて夫に会ふ為であつたが、行つて見ると折柄母方の親戚に危篤の病人があつて夫は其病院へ詰切り、宿へは帰つて来ないのであつた。それでも一日のうち一度はぬけ出して来たが、一時間と落着いてはゐられなかつた。すこし頭の狂つたやうな病人が、誰のいふことよりも夫の言葉をきくので、其ため夫は病床を離れられなかつたのだが、さういふ事情を幾へんかきいてゐながらやはり女将やおうんたんは、どうしても淡淡たる夫婦の間柄といふものは飲みこめず、わざわざ東京から追ひかけてきて嫌はれてゐるとより見えない細君のために、満腔の同情を寄せるのであつた。ひとつにはこの宿で夫の兄達が集つて生活のことの協議などした折、お前の処では細君が主人と同格であるのがいかんなどと、内輪の叱言も出たのを傍ぎきしたおうんたん達が、どのやうに権式ばつた奥さんかと想像してゐた私が、会つて見れば案外にも彼女達に親しみ易く見えたところから、会議の折に威張つてゐた兄達への反感も手伝つて一そう私をひいきにするのである。  今度話がまとまつて金子を出して貰へば、それが最後のものだなどいふことまで聞き知つた彼女達は、それでどんな商売を初めたらよからうかといろいろに案じてくれる。「奥さんいつそ大阪へおいなはれな。奥さんが大阪で席貸しをしやつたら、そら必ず儲りまつせ。奥さんの東京弁《えどつこ》がそらきつと売れまつせ、わてが保証しまつさ」と女将が自分でやりたい職業を私におしつけるとおうんたんも「この奥さんはべつに別ぴんといふのやないけど、笑ふと口のへんに愛嬌があつて、かういふ人が商売をしやはつたらきつと儲りまつせ」と私の顔をつくづく見ながら人相見のやうなことまでいふのである。「席貸しといふと東京の待合ね。あんなむつかしいもの私には出来さうもないなあ」と答へると「そらその時はおうんたんをつけてあげますわな。おうんたんはこれでちよつと席貸しの経験もありまんね。奥さんは何も心配せんとただ東京弁《えどつこ》をつこてなはつたらそれでよろし」私はどんな商売もする気はないのですよと真面目に断わるほどの話でもなく、といつてふんふんと聞いてゐるとどうやら先方はだんだん乗気になつてくるらしく、好意はうれしく感じられるものの何か坐りのわるい心持だつたが、おひおひ帰京の日も近づく私のために、是非一度夫を泊らせようとさまざまに心を砕いてくれる彼女達の親切は、一そう断わるに断われず、冗談口のきけぬ私はうまくはぐらかす言葉を知らず、おひおひと冷汗のにじみ出る心地で一日も早くその宿を逃げ出したいと思ふのであつたが、ある日も洗面所へ行かうとして階下の奥座敷の前を通ると、ちよつととその中から私を呼びとめたおかみさんが、そこに積まれた新しいちりめんの布団を指していふのであつた。「このお布団なあ、奥さんに着て頂かうと思てせいだい急がしていまやつとでけてきたとこでんね。どうでつしやろ、あての好みは」  贅沢な布団の好きな女将は、くすんだ宿に似気なく派手な布団をつぎからつぎへとこしらへてひとり楽しんでゐる様子だつたが、紅地によい好みのうす色で大きく牡丹花を染出した表に、黄味の勝つたひは色ちりめんの裏をめぐらした新しい布団は、ふつくらと柔かく真綿が入つて、愛らしく着心持がよささうである。私がそれをほめると「お気に召しましたか、フム、フム」と女将はくせの鼻をならして機嫌のいい顔を見せたが「そやけど奥さん、お一人やつたらあきまへんで」……私は赤面するより先に、むしろ茫然して起ちすくんでしまつたやうにおぼえてゐる。私は彼女達の好意に疲れ、もはやそれを受けることの苦痛に耐へ難かつた。  その年の秋に、私は大阪へ移り住むこととなつた。彼女達が案じてくれたやうな席貸しを営むためではなかつたが、とにかくそこで根を下したいと思つた私の生活は、四年越し苦労をかさねて遂に成らず、再び東京へ帰る日に思ひついて北の新地の宿をたづねてみると、そこは代が変つてゐてあの親切な三人姉妹は、どこか遠い郊外の方へ越して行つたとのことであつた。会へぬと思へば一そうなつかしく、屋島の狸の親切はひよつと自分の願望を人に強ひるのではなからうかと、皮肉に思へば思はれもするものの、やはり今ごろ三人ともどうしてゐるであらうと、あのころの親切が忘れ難なく思ひ出されてくるのである。   女の紋章  これはわたしが嫁入りのときに着たもので、いまはもう何の役にもたたぬけれど、ひよつとべうぶにでもしたら変つてゐて面白いかもしれぬと、このあひだ大阪の姑《はは》からうちかけを一枚贈られた。何といふ生地なのか、このごろよく袋帯などに見かけるしぼの荒いうねのある織方のゴワリとした手ざはりで、うす藤の地いろに背中いつぱい花ぐるまと、それを曳きながら遊んでゐる唐子《からこ》が十人あざやかに染め出されて、ところどころどつしりと金糸の繍ひがはいつてゐるのである。織模様なればともかく、こんな厚地のしかもうねのあるものに、まるで描いたやうに染め出す事は一方ならぬ技術を要するのであらう。京都の千総で染めたものださうだけれど、牡丹の花びらの一枚一枚のぼかしぐあひ、桜の枝の薄墨をかすつたやうな筆の運び方など、そのままに下絵が眼に浮んでくる程くつきりとあがつてゐる。かういふものの下絵は大てい高名な画家に描いてもらふ事にきまつてゐて、その潤筆料だけでもなかなかの金額であるさうだが、姑はどなたに描いて頂いたのやら忘れてしもた、とにかくふるい話やさかいと自分の嫁入り支度などは前の世の話のやうに執着がない。その当時灘随一の物持ちの家に生れた姑は、豪華な嫁入り支度もとりたてて身にしみる事がなく、このうちかけも何枚かの中の一枚であつてみれば、細かい事は忘れてしまつたといふのも当然の話かもしれぬ。  着物は着るものであつて着られるものでない事は誰でも知つてゐる。だが、素晴らしく豪華な衣裳に着られるといふ事は、それもまた女にとつて素晴らしい快楽の一つではないであらうか。——私は姑から贈られた唐子のうちかけを眺めながら思はずさう考へたのであるが、しかし私自身はこのやうな豪華な衣裳に着られたよろこびはもちろん知らず、日常の着物をすらほんたうに着たといふ快感を味はふ事なく、夏は単衣の帯の下ににじみ出る汗を嘆じ、冬は寒さをしのぐ綿入れのおもさに起居思ひのままならぬをかこちつつ暮してゐるのである。わづかに春秋の二季かろやかな袷の着心地をたのしむだけであるが、それさへも新しくこしらへたものは自然とよそゆきの方へまはされて、常着はいつもふるいものを着てすますやうな事になるから、一向に感興もわいてこないのである。着物も廿年着ふるしてしまふと、今更ら何をこしらへてみてもふるい夫の顔を見てゐるやうにこれといつて心のはずむ事もない。  子供の時をふり返るとそれでもいろいろと、新しい着物をこしらへて貰つてうれしかつたり、着せてもらつて楽しかつたりした記憶があつてなつかしい。私の生れた札幌では小学校も女学校も木綿のつつ袖ときまつてゐて、父の郷里の秋田へ頼んで織らせたごぼう縞のつつ袖を着て通つたが、学校から帰るとすぐ秋田八丈の元禄袖と着換へさせられ、急に肩が軽くなつてふはりと身体が浮くやうな感じがするのを、毎日の事ながら着更へてしばらくは何か手頼りない心地がして落着かないのであつた。子供のときは柔らかい絹ものよりも手応へのある木綿の方がかへつてぴたりと身について気もちに添ふのではないであらうか。関西生れの私の母は、木綿ものを着せると肩がこるといつて通学着の手織じまにも裏は紅絹をつけてあつたが、それは無用の心配ではなかつたかと思はれもするのである。  ぜんまい織といふのがあつてやはり秋田で出来たのだけれど、ぜんまいの繊維で織つたものださうである。初夏のネルから単衣へうつるほんのわづかの期間だけ着せられ、私はそれが好きであつた。うす地のセルのやうな手ざはりで、鼠いろに黒のもやうのくすんだ柄であつたが、あの頃はさういふ色がはやつたのであらうか、真岡の単衣地にもおなじやうなうす鼠色のがあつてこの方は洋服に仕立てて着せられた。この二三年背中にかざりのある洋服がはやるやうだけれども、私がその時分に着た浴衣地の洋服もやはり背中に兵児帯でも結んだやうに、ともぎれで大きな蝶形のかざりがつけてあつた。そんな型はだれが考へたのか知らないけれど、中うろこといふ呉服屋があつてその店でこしらへてくれるのである。札幌といふところはもともと西洋人が寄つて設計した町であるためにいつまでも遠い国の匂ひが残つてゐて、子供たちが浴衣地の洋服など着てアカシヤの並樹の下を歩いてゐる姿は、何かのびのびと清新な感じがされるのであつた。道庁の或る事務官のお嬢さんが、年頃の姉妹三人そろつて純白なひだの多い洋服を着、したたるやうな並樹の下を散歩してゐたある夕暮れの一ときが、いまでもくつきりと映画の一トこまを見るやうに瞼のうちに浮ぶのである。  中うろこでよそゆきの洋服を一枚こしらへてもらつた。白地にこまかい花もやうをおいたろしあざらさで、高価なレエスを惜しげなく配してあつた。まるで昔の貴婦人の着るやうなこましやくれた服で、それを着るといつも急に脊丈がのびたやうな、ほんたうによそゆきらしい心地がして、大人になつたやうにうれしいのであつた。後年自家から火を失して何もかも焼いてしまつた中に、その服だけはもう誰も着る者もなくて土蔵の箪笥へしまひ忘れてあつたため、かへつていつまでも手許へ残るやうな事になつたのもやはり縁が深かつたのかもしれない。  その洋服を自分の手でちひさく縫ひちぢめ、五つになる長女に着せて私はその子とならんで東京駅の婦人待合室に腰かけてゐた。震災の前年の八月中旬であつた。閑散な午後の待合室にふと睡気ざすやうなぼんやりした気もちでゐると、突然入口のところに片上伸さんの豊かな姿があらはれ、片上さんはそのまま颯爽と私共の方へ歩いて来られるのであつた。キユツキユツと靴の音がして何か四辺を払ふやうな、舞台へ浮き出したやうな片上さんの歩きぶりを、異国の人をでも眺めるやうにぼんやりと眺めてゐた私は、まつすぐに歩いて来られた片上さんが私の前まで来て初めてピタリといふ感じに足をとどめた時、はつとそれが自分達の待つてゐた片上さんである事を思ひ出してうろたへた。私はびつくりしていきなり起ち上つたけれども、何をいふのだつたか忘れてすぐ又腰をおろしてしまつた。 「ほお! 麗子ちやんはきれいなお洋服を着てゐますね。」  片上さんは私の迂濶さを気にも留めぬやうに、挨拶をぬきにしてそのまま子供の傍へ腰をかけながら云はれるのであつた。「まるでお伽噺の国からぬけだしてきた王女さまのやうぢやありませんか。……」  それから片上さんは子供の洋服をなでて、これはろしあざらさですねとなつかしさうに云はれ、私はさういふ言葉のあひだにやつと自分を取戻してゐた。私の妹が片上さんのすぐの弟へ嫁ぐ事になつてゐて、しかもお婿さんは漢口の汽船会社につとめてゐてなかなか帰つてこられないので、夏の講演に支那へ行く片上さんがついでに妹を連れてゆくと云ひ出されたのである。普段はべつにおつきあひもなく、さういふ御縁で顔をあはせたあひだがらでは、殊に慌しい出立間際の待合室などで話らしい話もないのを、片上さんは如才なく子供の洋服などほめて話らしくしてをられたのかもしれなかつた。だがほめられたふる洋服は仕合せである。子供ごころに長女もその時の事をおぼえてゐて、あの洋服まだあるかしらと夏休みの一日に思ひ出してきくのであつた。見せてと云はるるままにつづらの埃を払つて取出して見ると、レエスも何もすつかり黄いろくなつてしまつて、いまでは仮装行列の役にさへたちさうではない。ふうむ、もうだめねとつまらなさうに鼻をならした娘は、ひよつと自分の子供にもう一度それを着せようと考へてゐたのかもしれないが、母子二代に役立つた洋服もさすが三代目までは持ちこたへられないのであつた。  それにつけて思ひ出されるのは子供のときに読んだ西洋の小説の中に、おばあさまからゆづられたレエスを婚礼の晴着に使ふといふ話のあつた事で、さういふ習慣は向うの国でもいまは遠い昔がたりに過ぎなくて、——第一レエスなどといふものがどんどん新しく上等の品が出来て昔のものを顧る必要などなくなつてゐるのかもしれないけれど、幼ない日の柔らかいあたまに沁みこんださういふ物語は、いかにも女らしい優しい人情を伝へてゐるやうな心地がしていつまでも忘れ難いのである。いそがしい今の世の中に、一枚のふる着を祖母から母へ又その娘へと代代に伝へてゆくなどなかなか望み難い事であり、又さういふ悠長さは人の嘲笑をかふ事であるかもしれぬけれど、私にはそのやうにして祖母から母へ母から娘へと大切にゆづられてきた着物は最早や単なる一枚のふる着ではなくして、代代の女の、——母といふものの濃まやかないぶきにあたためられた一つの魂のやうにさへ感じられてくるのである。  大阪地方では娘の嫁入り支度に母親の紋章をつけ、父親の紋章をもちひるといふ事はほとんどないやうである。父の紋章は男の子がつぎ母の紋章は女の子がつぐのである。関東では紋章といふものは一つにきまつてゐて、よそへ嫁げばすぐ又その家の紋章をつける事になり、行届いた婚家なれば婚礼の際にぜひ一トかさね自分の家の紋章のついた振袖を贈つてよこす習慣があるくらゐで、一軒の家は必ず一つの紋章で統一されてゐるけれども、大阪はさうではなく、姑の紋章と夫の紋章と妻の紋章と、一つの家に三つの紋章が対立してゐてべつに怪しむ者もないのである。さういふ風にしておくと万一不縁になつた際、もとの嫁入り支度がそのまま役にたつからで、これも関西人のそろばんから出た風習であると教へてくれた人があるけれども、私はさうは思はない。一家のうちで男と女と紋がちがふといふ事は、男の子は父親に女の子は母親にと、はつきり区別されてゐた封建時代の遺風には相違ないであらうが、しかしそれがいまではただ遺風であるだけではなく、かへつて女にとつての新しい勢力となつてきつつあるのではなからうかと思はれる。いつたい大阪といふところでは女はおもてむき一人前の扱ひを受ける事がなく、女子供とひとからげに次の間へおしやられてゐるのではあるが、しかしその反面、お家はんなり御寮人なり一家の女主人である人は隠然たる勢力を持つてゐて、ある点では夫や息子を支配さへしてゐるのである。これはひとへに大阪の土地柄から来てゐる事で、もともと商人でなり立つてゐるこの町では、細かいところまで気のとどく女の鋭い眼を商売上にぜひ必要とし、又さういふ婦人に尊敬の念を払ふ事に吝かではないのである。男尊女卑の思想は牢固としてぬき難いにもかかはらず、その一方には金儲けの腕のある女を自分より以上のものとして崇拝する気風があり、そこに何等の矛盾をも感じぬのが大阪人一般の通性であるために、お家さんや御寮人は次ぎの間にひかへながらも堂堂自分の紋章を支持してそれを娘につたへ、娘は更にそれを己れの娘に伝へ、そのやうにして女の紋章はまつすぐに孫から曾孫へとつぎつぎに伝へられて、無限に生きてゆく事が出来るのである。それを思へば東京の母親の、特別に自分の紋章といふものを持つてゐない事は夫婦の地位が同等であるためとわかつてはゐても何となく物足りぬ心地がされ、一抹の不安が感じられるのはなぜであらうか。  むかし自分が結婚する時は、まはりの人の反対をおしきつて自分勝手に生活をはじめたので、もちろん式服も紋章も考へてみた事はなかつた。むしろ一夜かぎりの衣服に千金を投ずる事のおろかさを軽蔑してゐたのであるけれど、いまとなつてはやはり自分にも一枚の振袖があつてその紋章を娘につたへる事は、決して無意味ではないと思ふのである。  結婚といふことはむづかしい。妹が支那へたつ時は片上さんの末弟の竹内仁さんも見送りに来てゐて、長身の細おもてにしじゆう微笑を絶やさなかつたが、気のせゐかその笑顔はへんに寂しさうであつた。仁さんはいい人だと妹はよく私に話し、許嫁の人とのあひだが面白くないさうだけれど、うまくいつてくれればよいと心配してゐた。そのお嬢さんといふのはいくつなのととしをきいて、まあまだ十六、それでは仁さんの方が無理だわと私は同情がなかつたけれども、仁さんの寂しさうな笑顔を見てからは、何とかうまくいかないものかしらと心ひそかに案じられた。仁さんはするどい自分のあたまを恃んで、自分の妻は少女の時から自分の思ひどほりに教育しなければならぬといふ意見を持ち、意見どほりにそれを実行してゐたのだけれど、局外者の私たちの眼からは、どうやら仁さんはその的をあやまつてゐるのではないかと気づかはれもするのであつた。いくら天才であつてもまだ廿ちそこそこの青年には、女の素質を嗅ぎあてる事はなかなかむづかしいのである。仁さんのお母さんは実に立派なお方であつたさうだけれど早く死に別れ、仁さんはお母さんのあたたかい愛撫を知らずに育つたのであつた。許嫁の人のお母さんを、あんな心のあたたかい人はないといつもほめてゐたさうで、その言葉をおもひだすと涙のにじむ心地がする。ひよつとすると仁さんは、お嬢さんよりもさきにそのお母さんの人がらを好もしく思つて、それでお嬢さんと婚約したのかもしれないのである。  仁さんがあんな惨事を惹きおこしてしかも自決してしまつたのは、東京駅で会つてから二タ月ぐらゐ後であつた。あんな物静かな人がと驚かれ、無口な人ゆゑかへつて思ひつめた気もちを察しられるのであつたが、それにしても仁さんにほんたうのお母さんがあつたならば、——お母さんが生きて居られたならばかういふ事にはならなかつたであらうと惜しまれた。仁さんのあの行動にはいろいろの原因があらうけれども私には何もかもお母さんのなかつたせゐと考へられ、仁さんが死んで十幾年になるけれども私はまだその考へをあらためようとはしないのである。子供にとつてはある場合、父の紋章よりも母の紋章の方が、ずつと重大な意義をもつと、私はひとり考へてゐる。   大阪の雨    一 「あんさんあひ状あつめてはりまんのか、それやつたらこんどええのためといてお届けしますわ、ちよつとおところここへ書いて頂戴。あれは大阪だけらしおすな、京都かてあれしめへん。万亭はんだけ時どき出しはりますけど、やつぱり上の方紅でそめてな、おなじやうなもんだす」  髪にこてをあてた若い芸者が三つ折にした小菊をふところ鏡の上にのせて、ちよつとおところここへ書いて頂戴といひながら差出すのであつた。あひ状をあつめてゐたのはふるい話なのを誰かが思ひ出して云つたものらしい。云はれるまま素直にところ書きを書いてわたすともう一度、こんどは慶応の応援歌をちよつと書いとくれやすと書かされた。祇園にゐた妓と見え京都なまりがまじつてゐる。 「京言葉はやさしいてよろしな。Tさんうれしおまつしやろ、奥さんとおなじ京都で」  女将さんがそんな事を云つてTさんをからかつてゐる。いつのまにか虎になつたTさんは、なんでえ京都がどうしたんでえと云つたが、やはりちらりと家を思ひ出した風であつた。Tさん、お家までお送りするわもう散会しませうと、提議すると僕の事は心配せんでもよろし、まあ飲みたまへと盃をさしてよこす。だめよ私は飲めないんぢやないのと断わるのに、ナニ飲めん事があるものか、飲めなくつても飲みたまへ。  時どきさあつと雨がきて、窓のそとのすだれへばらばらと大粒の音をたてるかと思ふと、又潮がひいたやうにしんとなつて、むしむしと蒸すのである。煽風器をかけると何か肌が粟だつやうであり、かけねばじつとり汗ばんで息苦しい。その息苦しさはだんだんとつのつてきてちやうど九月一日のあの震災の朝のやうなへんに落着かぬ気持がする。けつたいな晩でんなあと一時をすぎたせゐか妓達はぼんやり疲れた顔を見合せ、ダンスでもしまひよかと、一人が云ふと賛成賛成とすぐ応じてたちまち蓄音機が運ばれ、卓は片隅へよせられて軽快なメロデイが座敷へ流れるのであつた。  レコードを二枚ほどかけると、しかしみんな飽きてしまつて再び卓の周囲へあつまり、いま迄あまり飲まなかつた妓までこんどはぐいぐいと麦酒や酒をあふるやうに飲み出した。Tさんは常磐津ならうまいけれどダンスはきらひの筈とおもひのほか意外に鮮かなステツプを見せたので、いつのまにそんなおけい古をしたんですときくと、 「このごろTさんはな、カフエーやとかダンスホールやとかああいふハイカラな方へ転向しやはりましてん。モダンな女子はんがゐやはるよつて」と女将さんが笑ふのである。 「さういふ訳ぢやないよ。さうぢやないよ。僕がダンスを初めたのはそらいつか徳田さんと尼ケ崎へ行つた事があつたねえ、あれ以来さ。徳田さんがダンスをやるのにさ、あの御老体がやるのにさ、われわれ若い者がどうしておめおめ指をくはへて見てられますかつてんだ」  もうあんまりお若くもないと思ふのだけれど、それを云ふと御機嫌を損じさうだからふむふむと謹聴して、それぢやあれね、徳田先生も思はぬところに一人お弟子を得た訳ね。まあさういつた訳ですかな、一ついきませうと、何かにつけてTさんは飲ませねば承知しないのである。  さあつときてふと降りやむ雨の、気がつくといつかしたしたと軒に雨だれのたえぬ本降りとなつたらしかつた。明日ぶじに東京へ帰れるかしら、瞬間不安なおもひがかすめたのを、又れいの取越苦労とすぐ打消した。むかし特急の富士で、それ程でもないと思つた雨が山北松田間で不通となり、夜中の二時に東京へ着いて弱り切つた経験があるために私は大阪の雨にはひどく神経質になるのである。  ホテルへ帰つて床へはいると何処かで三時を打つ音がした。窓をたたく雨あしがだんだん強くなるやうで、それに又カフエーやお茶屋で夜を更かすとどうしても眠られぬくせがあつて、明日は汽車だから疲れぬやうにと思へば思ふ程眼が冴えてくるのである。さうだ、宇野さんへ手紙を書かうと思ひついてベツトの上に起きなほつた。大阪の芸者はふしぎといつ会つてもフアミリイアで、いま三味線をひいてゐたかと思ふともう東京は家賃が高いだらうといふ話をし、尾張町の交叉点がこはくつて通れないから東京へ行くのはおつくふだといふ。さうかと思ふとぜひ一度巴里へ行つて見たいともいふのである。巴里の事から思ひついたのか、応援歌を書かせた芸者が小原良節をひきながらふと、宇野千代さんといふお方の罌粟はなぜ紅いといふ小説はほんまに面白おまつせと云ひ出した。私は驚いてまちがひではないかと思ひ、それはどういふ小説ときくとその妓は三味線を下へおいて、初めからおしまひまで丹念に筋を話してくれたので私は一層驚いた。 「そんでなあ、しまひにその人が瓦斯自殺をしやはりまんね」  そんな風に話されると宇野さんの小説の人物が、ついお隣にでも住んでゐるやうにひどく身近な心地がして、ふしぎな愛情を感じさせられるのである。芸者の言葉をそのまま書いて、北の新地であなたの小説の筋をきかうとは思ひがけませんでしたと書いてゐるうちに雨の音が雹でも交るかと思ふほど激しくなり、それに気を奪られるともう手紙の筆はすすまなくなつてしまつた。Tさんはどうしたかしら、あれから家へ帰つたであらうか、さつき蘆屋まで送つて行つたらいま頃は阪神国道の自動車の中でこの激しい雨の音にすくんでゐねばならなかつた。送つて行かなくてよかつたと思つた。  まつたく送つて行かなかつたから助かつたのである。送つていつたら阪神間の水の中で立往生してしまつたにちがひないのだが、それでも号外を見るまでは昨夜の雨がそれ程のものとは思はなかつた。夜があけてなほ降りつづく雨に、つばめに乗るのを見合せはしたけれど、私が案じたのは京都からさきの事で、阪神間に水が出るとは実に思ひもよらなかつた。咽喉もと過ぐれば熱さを忘る。あしかけ四年西宮に暮してゐて、大阪とあの辺とでは距離にすればほんの東京と川崎ぐらゐの事ながら、一方は六甲の山をひかへて雨量や雪にずゐ分と差があり、そのため思はぬ失敗さへした事があつたのを、すこし東京に住み馴れてはいつのまにやら忘れ去つてゐたのである。それにしてもTさんは、今朝はうまく新聞に間にあつた事であらうか。私はTさんが出したのかも知れない、——それとも昨夜あれから蘆屋へ帰つてしまつて間にあはなかつたかも知れない一片の号外をつくづくと眺めながら、ふと偶然か必然かと身にあまる大事を考へた。    二  このあひだうちから新聞でさわがれてゐた颱風が、急に思案をかへて東京の空をとほり、おかげでやうやく新秋の爽かな涼風を吸ふ事ができたけれども、そのかはりせつかく楽みにしてゐた萩がすつかり枝を折られてしまつた。宮城野といふ紅萩でべつに珍しいものではないが、私はその花のやや盛りをすぎた頃、いやしい色の花びらのまるで紅皿からこぼれたやうに一面に地に散りしく趣きをこの上なく愛してゐるのである。萩といへば阪神西宮の広田神社の白萩の美しさはいまもなほ忘れ難いが、あの見事な白萩もこの秋はどうであらう。六月末のあの暴風雨には持ちこたへたかもしれないけれど、八月の二度目の水禍は広田の池をつぶしたといふ。萩もつつじも枝を折られ根を浮かされた事と傷しい。  萩やつつじばかりでない。広田の池がつぶれたなら、西宮にゐる間ぢゆう住み馴れた常盤町の平家も、ひとたまりもなく水中へ没し去つた事であらう。長年なじんだ家の柱に濁水のなだれこむありさまを思ふと、自分のふところへ水がはいつてきたやうに肌寒い。  あの家へはよく東京からたづねて下さる方があつた。徳田秋声先生が旅のついでにお寄り下さり、Tさんと一しよに尼ケ崎のホールへ行つたのもその家にゐた時である。森田草平先生が法政大学の講演に下関まで行かれた帰途立寄つて下すつたのもやはりその家で、さきに記した思はぬ失敗はその時惹き起した事なのである。  一たい西宮といふ土地はふだんから水が豊富で、阪急山手の別荘地には大きな屋敷の塀のそとへ清らかな流れをひきまはして、あやめかきつばたなど植ゑこんだ見るから涼しげな家もあれば、西洋風の建築にコンクリートでたたんだ浅い小みぞへ美しく水を走らせた瀟洒な家もあつたりして、常には町を歩いてゐてせいせいとするのだけれど、一たん豪雨となるとたちまちそれ等の小みぞへ水があふれ、あふれた水は道路へおし出して山手から下町へ、路を川にして滔滔と流れるのである。それに備へて大ていの家は道路よりも五寸か一尺、石をきづいて土台を高くしてあるので家へ浸水する憂ひは殆どないけれど、見る見る家の前の道路が一筋の川と化して、激しい勢ひで流れる水を見る心地は、いくら馴れても凄じかつた。そのくせ元来が砂地のせゐで、雨があがれば水のかわきも早く、一ときのまに又もとと変りない道路になつて、ぬかるみとか水たまりとかそんなものは見たくも見られぬ。何処へ雨が降りましたかといふ風で、さつと顔を洗つたやうにさつぱりとしてしまふのである。  七月の初めの事で、前夜は美しい星空であつたにもかかはらず、朝になつて突然烈しいゆふ立が来たかと思ふともう家の前はいつもの通りの川になつた。土佐堀の宿屋の方で森田先生が待つてゐて下さるので、お約束の時間までにぜひ伺はねばならないのだがどう手のつけようもない急流で、半町程離れたところへ電話をかけにゆく事さへ出来ぬやうな状態である。あせりながら手をつかねて茫然と時を過ごし、やうやくおひる前に大阪の宿へ行くと、先生は苦い顔で、僕は朝の六時から眼がさめてぼんやりとしてゐるのだよ、読みたいと思つても本一冊手許にはないし。……先生のお鞄は西宮の家におあづかりしてあつたので、なほさら恐縮な次第なのであつた。  こちらは降らなかつたのでせうかとおたづねするまでもなく、大阪へきて見ると穿いてきた足駄がきまりわるい程かつとした日照りである。それや降るには降つたがほんのすこしだつたなと、先生には私のいふ西宮の豪雨がどうにも信じられぬ御様子なのを、とにかくもう一度自家までおいで下さいと無理に西宮まで入らして頂いたが、さつきまで滔滔と川であつた家の前はいまは掃いたやうに美しく、からりと空が晴れてゐる。私は一層面目を潰したかたちで、もう一度降らないかしらと空を恨んだ。  東京へ帰られた先生からお叱りのお手紙を頂いて、私はしばらく気が鬱した。だがそれが機縁となり、自分の書いた小文が世へ出るやうになつたいきさつはこみいつてゐてちよつと書けないけれども、すべて森田先生のおかげなのである。その時森田先生が肝癪を起して下すつたおかげなのである。雨も風も私には偶然か必然か思ひ分ちがたい心地がされる。   ねずみの年  もと書生をしてゐた遠野君がきて僕の就職口は年内にありませうかと云つた。去年の春神田の大学を出て田舎へ帰り、ちやんと電力会社につとめてゐたのに、急に又東京へ来たくなつてやめてしまつたのである。世智辛いいまの時勢に勿体ないやうな話だけれども、本人はわりにのんきなやうな又心配のやうな顔をしてゐる。さうね、何しろもう十二月ですからどちらも忙しくてね、それにあんたは酉の一白で今月はあまり運勢がよくないのだからまあ来年まで気長に待つのだわねと云ふと、は、と畏まつて何か考へてゐたけれど、しばらくすると顔をあげて、あの僕は来年もやつぱり酉の一白でせうかと云つた。あんまり思ひがけない質問だつたので、つい笑ふ事も忘れてなぜ? とまじめに問ひ返すと、来年はねずみになるのではないでせうか。  子供たちまで一せいにふき出して遠野君は来年ねずみになるのともう一度笑ふのにつれて遠野君もをかしさうに笑つたがやつぱりよくはわからぬらしかつた。遠野君に会ふのは二年振りで、背広をきちんと着てあたまを美しくわけた遠野君を見てゐると、もうすつかり一人前の月給取りらしく、むかしブリツヂを一しよにやると切札をみんな捨ててしまつたり、お使ひに出すと行く先きざきから、ただいま此処へつきましたと電話をかけてよこした頃の面影は更にない。  遠野君はハイカラになりましたよと昔から御存知の志道先生に吹聴すると、さうでせうねと一応合づちを打たれてから、遠野君といへばいまでも眼鏡をかけてゐますかと問はれた。眼鏡に何か事件があつたのかもしれないけれど、私は思ひ出せなかつた。何しろ遠野君は東京へ出てきてまもない時分志道先生のお宅まで使ひにやると、森田さんからまゐりましたが志道といふ人はゐますかときいてみんなを仰天させた英雄なのだから何処にどんな話が残つてゐるかわからない。  一しよに夕飯の卓へつきながら私は志道先生のお言葉を思ひ出して遠野君の顔を眺めた。ちやんと眼鏡をかけてゐた。ただ以前はたしか鉄ぶちのちひさなものだと思つたのに、いま見るとべつかふのロイド眼鏡である。何となく思ひの外の気もちで私はわざわざ、遠野さんあなたのかけてゐるのはロイド眼鏡ねと念をおしてみた。はいロイド眼鏡ですと遠野君は言下に答へ、ああ遠野君もロイドめがねを愛好する程に進歩したのだなと私の考へた瞬間、遠野君はつづけて云つた。セルロイドめがねです。友達にもらひました。  遠野君はやつぱり来年はねずみになつて、もつと素ばしこく立廻つた方がよささうである。もつとも私は遠野君がねずみにならなくともこのままで就職出来る事を望んでゐるのだけれども。   柳は風の吹くままに  男を横暴と考へた事はただの一度も、——無いと書きかけてあつと気がついた。私は大変な嘘言をつくところであつた。若き廿歳《はたち》の昔、この世の中で男程身勝手な憎むべき存在はないと思ひ暮してゐた事をすつかり忘れてしまつたのである。  さてその廿歳の頃、男は専横極まりなきものと思ひ暮しながら、ふとしたもののはずみから私はふらふらとその憎むべき相手と結婚してしまつた。爾来二十年いまではこの世の中に男程親切な優しい人種はないと思つてゐる。従つて男にどんな不平があるかとたづねられても、咄嗟には何事も思ひ浮んでは来ないのである。女同志のつきあひがちやうど場ちがひのするめをたべるやうに、噛めば噛む程筋が残つてくるのに引かへて、男の友人は西洋のお酒のやうに、月日がたてばたつ程まつたりとした味の出てくるものである事を二十年の歳月が私に教へてくれた。  振返つて二十年の人生航路に、波風がたたなかつたとは云ひ難い。およそ人の細君でその夫から一度も打たれた事がないといふ女は稀であらう。私もその例にもれず、物差しで打たれたあとは、火箸で打たれたあとは、平手で打たれたあとはと、その傷の色が紫から緑色にやがて黄色となつて消えてしまふまで、それぞれ幾日間かかるといふ事を身に沁みて体験した。ある時なぞは左の眼の中に日の丸のあざが出来て、瞼が累のやうに腫れあがり、一ト月あまりも眼帯をかけて不自由なおもひをしたがこれはまだまだよい方であつて、ある奥さんは耳を打たれたために中耳炎を起して聾となり、ある奥さんは旦那さんに咬みつかれた傷から黴菌がはいつて大切な右の手を切断してしまつたし、又ある奥さんは外国土産の病気のために一年有余も病床に呻吟して、やうやく起き上つた時には片足が短かくなつてしまつてゐた。つまり跛になつたのである。だがこれ等の事に関しては最早や男を責める必要はないのであつて、女軍が鼓を鳴らして詰めよる以前に男自身充分に己れの非を悔いてゐるにちがひないのである。打たれた女はその瞬間から凡ての責任を相手に転嫁してしまへるけれども、打つた男の方は永久に自分一人でその責任を負はなければならないのであるから、まことにお気の毒な次第である。男を自分よりも一段と偉いものに思へば不平も不満もきりがないが、理窟に負けた時は腕力ででも勝たうとする男は結局大きな駄駄つ子に過ぎないとわかつて見れば、腹のたつ事は何もなくなつてしまふのである。  若い従兄が結婚して夫婦仲も睦じいときいて、私は姑になつた叔母さんに会つてお慶びを述べた。お嫁さんは千万長者のお嬢さんで、そして美人で、叔母さんにも大そう気に入つてゐた。 「うちの嫁はんはなあ、そら繁ちやんを可愛がりまつせ。朝起きて顔洗ふ時かて嫁はんがいつでもちやんと傍についてて、楊子に歯みがきまでつけてわたしてやりますねん。着物も着せたるし帯も結んであげるし、……」  叔母さんはにこにこしながらさう云つた。私はもう一度お慶びを云つて引退つたが家へ帰つてきて考へると何となく変である。叔母さんの言葉の何処かが間違つてゐるやうに思はれてくるのである。——うちの嫁はんはなあ、そら繁ちやんを可愛がりまつせと口の中で幾へんか繰返してゐるうちに私ははつと気がついた。さういふ場合世間では、嫁さんが旦那さんを可愛がるとは云ひはしない、よく仕へるといふのが一般の挨拶なのを、ひとりでに可愛がるといふ言葉を使つた叔母さんの卓見に私は感じ入つたのであつた。まつたく世の中の男といふ男は、細君に奉仕されてゐるつもりでその実ころころと細君の手の中にまるめこまれてゐるのである。しかも、俺は女の影響なぞ断然受けた事がないとそり返つてゐる男程この傾向は著しいので、亭主がいくらそり返つてゐようとも細君の方は頓着なく、あらあなたお羽織の衿が折れてゐませんわ、あらあなたお帽子がまがつてをりますよ、あらあなたお頭の毛がうすくなりましたのね、あらあなたそんなに考へ事をなすつてはお身体に毒ですわ、あらあなた女はみんなそんなものですわ、あらあなた世の中はみんなそんなものですわと何時か自分の意見を通さないではおかないのである。一国の大臣といへども連れ添ふ細君によつては、パパとなつたりお父さんになつたりするといふ噂もある位で、なべての男たるもの自分の妻の影響についてはくれぐれも心すべきである。  一体男の人たちは、日頃は女子と小人は養ひ難しなどと大変悟つたやうな口をきくくせに、一向女といふものの正体がわかつてゐないらしいのはふしぎである。ある時、某新聞社の運動部に勤めてゐる人と一緒に踊のおさらひを見に行つて、帰りがけに寄つた酒場でその人が云つた。 「奥さん、僕に女房を世話して下さい。ああいふ踊のうまいお嬢さんをひとりぜひ、……」 「踊がうまくなくてはいけませんか」 「ええ。何なら長唄位でも辛抱しますが、しかし両方出来るのだつたらこの上なしです」 「それならお嬢さんなぞよりあのひとがいいぢやありませんか」  当時その人には新橋に深い馴染の女があつて、器量なり気質なり一二度顔を合せた私にも申分なく思はれた。踊がうまいときいてゐたので私は笑ひ出しながら 「どうぞ御遠慮なくあの方をお貰ひなさいまし、お仲人役は喜んでつとめさせて頂きますから」といふとその人はあわてて「いやあれはいけませんよ、あれは駄目ですよ」 「なぜ」 「なぜつてあれは芸者ぢやありませんか」  芸者ではなぜいけないのですと訊くと、勤めをした女は裏道を、——たとへば昼遊びなどといふ事でもよく知つてゐるから欺しにくい、其点素人のお嬢さんはおつとりとしてゐて扱ひいいにちがひないからといふ返事であつた。素人も玄人も女のやきもちに変りのあらう筈はなく、知らないだけにかへつて、お嬢さんの方が揣摩臆測を逞しくして、どんな弁解も甲斐なきものであるかもしれぬとはその人は心附かないのである。欺しにくい事は素人も玄人も優り劣りはないのであるのに、素人ならばと思ふところに男の迂濶さがあるのである。私は世の中の男の悉くが酒を飲み女を買ひ、さうしてもつとうまく女を欺すやうになつて欲しいと思ふのである。柳は風の吹くままに、うまく欺されて暮したならば楽しからうと思ふのである。   木の芽  ある雑誌社から好きな食べものについてといふ回答をもとめられ、好きな食べものはあんまり沢山ありすぎて、何が一ばん好きなのか自分ながらわからないので、その時すぐ食べたいナと思つたものを順序もなく書いてみた。独活と浜防風を生《なま》のままからし酢みそであへたもの。からすみ、すつぽんの雑炊。白たんぽぽのおひたし。  活字になつてからそれを読み返してみたら、みんな春先にふさはしいたべものなのでちよつと妙な気がした。それを書いたのはまだ十二月の事だつたからである。どうやら私はいつも季節にさきがけたものに食慾を感ずるらしい。一つにはいま現在ないものばかり欲しがるあまのじやくの性質なのであらう。私は常に自分ほど気の長いものはないと思つてゐるのだけれど、もうせんにゐた女中の一人は奥さまほどせつかちなお方は見た事がございませんと云つた。なぜかしらと聞いてみたら、それでも奥さまはお裁縫《しごと》をなさると夜明しで縫ひあげておしまひになるのですもの、私が前に御奉公して居りました家の奥さまは、やりかけたお裁縫を五日も十日もほつたらかして平気でいらつしやいましたといふ返事であつた。あまのじやくはたべものの事ばかりではない。私は眠くない時は二日でも三日でも平気で起きてゐるので、堅いお屋敷から来た女中にはそれがふしぎでならなかつたのであらう。やりかけた裁縫が仕あがるまで、——つまり勝気で起きてゐると解決してやつと得心したらしいのである。  眠くない時いつまでも起きてゐるかはり、その代り眠くなつたら今度はまた三日でも四日でも眠りとほす。最高の記録は一週間で、そのあひだたつた一度水を飲んだきりであつた。それも無理におこされて飲まされたので、その頃私はお医者から見離された病床にあつてそんなに眠つたものだから、いよいよ昏睡状態に陥つたとお医者さままであきらめてしまつた。一週間目に眼が覚めると世界が新しくなつたやうにせいせいして、いきなり田原屋の豚カツが食べたくなつた。いまから八年前の三月の話である。  その日からきつかり一月のあひだ毎日お昼に田原屋の豚カツを食べ、晩に鶏のたたきと蕗のうま煮とを食べた。さうして病気が治つた。自分ながら少少うす気味のわるいやうな身体である。これが白魚の玉子とぢとか、うぐひす菜のおひたし、せめて桜鯛のあらだきとあれば春らしくもあり女らしくもあつて、やさしい情趣も浮ぶかも知れないけれど、病床にゐて一ケ月豚カツを食べつづけましたではグロテスクの見本そのまま浅ましさの限りである。  十数年来殆ど台所へ出た事がないので、主婦の威厳を保つため一年に一度、お正月のごちそうだけは全部自分の手でこしらへる事にしてゐるのだけれど、関西に暮してゐるあひだはそれさへも近所の料理屋にまかせきりで、その方がおいしかつた。  春の山行きのおべん当などでも、ふきの水煮に高野豆腐としひたけゆばの甘煮、さはらのてりやき、いかと筍の木の芽あへが必ず入れてあつて、さらしたやうに白く煮あげた烏賊と、こがね色の筍に青青と木の芽がまぶしてあるのは桃の花の下にひらいて清清とうつくしい。黒ぬりのお重にさういふものをつめてもらつてもう一つのお重には家でこしらへた幕の内とたくあん紅しやうが奈良漬などを持つてゆくのが、いかにも春の行楽にふさはしくてよかつた。東京ではぶらぶらとのんきらしくそんな大げさなお重をさげてゆく気もしないし又中にいれるおいしい木の芽あへもない。関西のやうにちよつと裏の仕出し屋でといふ風に手軽にいかないから万事おつくふになつてしまふのである。木の芽といへばむかしは東京の町なかで、思ひがけない横丁に木の芽田楽と染めぬいた赤い旗の出てゐる事があつた。むきみ屋八百屋歯入れ屋などのならんだ見すぼらしい小路の中で、柔かな風に吹かれてゐる赤い旗をふと見出すと、ああ春になつたと今更のやうに感じたものである。お豆腐屋で木の芽田楽をこしらへ始めたしらせなのであつたが、やすくておいしくて晩酌の相手によかつたし女子供のおかずにもなつた。  あんな大衆的でしやれたたべものはないと思ふのに、もう幾年かさういふ旗を見た事がない。第一豆腐屋さんといふものがみんな何処へ越していつたのか、大へんすくなくなつたやうである。あらゆるものが何何市場の中へかたまつてしまつて、便利ではあるけれど趣きはすくなくなつた。夏の氷屋の硝子のすだれと同じやうに、ああいふのんびりした赤い旗は、春の景物の一つとしていつまでも残しておきたい心地がする。世の中が便利になるのは何よりだけれど、それにつれて新鮮な味覚はだんだん失はれてゆくやうで心細い。  子供のとき自分が神さまになつて四季を支配し、いつでも自分の好きなくだものをたべてみたいと願つた事があつたが、いまぼちぼちとその復讐をされてゐるのかもしれない。むかしは寒中のくだもの屋にたつた一箱、ほんの六粒か七粒宝石のやうにならんだ苺を眺めて、春の息吹きを吸ふやうな胸のときめきを感じたものだけれど、この頃では苺なぞ暮のちまたの慌しさの中につやのないうどん粉のやうな粉さたうをひきかぶつてならんでゐる。デパートの食堂の入口の見本棚の中にさういふ苺を見ると、誰にともなく腹立しい気がしてくるのである。  二十年まへの三月、尾張町のかどのライオンでひき茶と苺と盛りわけにしたアイスクリームを食べて、これこそ春のアイスクリームだと感激した事があつたが、いまはもうアイスクリームも魅力を失つてしまつた。今年の春は白たんぽぽの種子を植ゑて、それがおひたしにできる程ふえるまで、くる年もくる年もぢつと気長に待たうと思つてゐる。   よまき  親類にお金持があつてよく何かとものをもらひます。着物だの帯だの、——だがお金子はくれません、お金子をよこすとみんな私がたべてしまふと思つてゐるらしい。甚だ面目ない話ですが実際さう警戒されても仕方ない程私はくひしん棒に生れついてゐるやうで、時時どうしてこんなにたべたいのかしらと自分ながら持てあます。むかし上山草人氏がおぜんの上に廿いろほどの小ぶたものをそろへて、一とはしづつたべるといふ話をきいて実にうらやましいと思つた事がありますが、私のたべたいのもその流儀で、うまいものがただ一品さへあればといふ食通とはちがふのです。いつか見た維納の映画「会議は踊る」で、コンラツト・フアイトのメツテルニヒが朝起きてきて寝まき姿のままパンをたべるところで、ジヤムかマーマレードかまあそんな風のものでせうけど、何だかとろりとしたつやのあるたべものがいく種《いろ》も、きらきら輝く銀のいれものにはいつてならんでゐるのです。それをあつちから一としやくひ、こつちから一としやくひパンになすくつてたべるのを見てゐましたら、あんまりおいしさうで、おしまひには自分の身が儚なく情けなくなつてくるやうでした。  いろいろさまざまな味のものが一とはしづつたべたい。お椀、酢のもの、うま煮、おさしみに焼ざかなと、つまりいつでも会席膳でなくては満足しないのです。議会が解散したり選挙があつたりするとよく元老がたのたべものが新聞に出る事がありますが、どのお方も大てい五いろか六いろ揃つてゐて、お昼も晩もそんなのをたべてゐられるといいナと思ひます。  父親がやはりくひしん棒であつたと見え、それを主義と一致させてゐました。つまり衣は寒暑をしのげば足り、住は雨露を防げば足るといふのです。ひとり食のみは人間活動の源泉であるから努めて滋養分を摂らねばならぬ。この頃ならカロリーとかビタミンとかいふのですが、その時分は一口に滋養分といひました。だが父は滋養分に名をかりて美食をしたのかもしれないと思ふのは、糖尿病で死んだからです。  小さい時からしじゆう料理屋へつれていつてもらひました。御馳走は会席膳でなくてはと思ひこんだのもその影響でせう。忙しい人でしよつ中宴会があつて、お正月なぞは一晩も家にゐないで、その代りきつと折詰を提げてきます。ふはりとだしと青味がはいつてうまさうに焼けた玉子、キシキシと歯ごたへのあるまつしろなかまぼこ、焦茶いろのとりの何とか揚げ、ぶだうやあんずの砂糖煮、そんなものが翌日のおべん当箱にお雛菓子のやうにポツチリづつ詰まつてゐる、おべん当をひらくのが実にたのしみでした。それでいまもおべん当がとても好きです。  小説を読んでもそんなですからすぐたべものの事ばかり眼について、子供の時「紅葉全集」の中に題は忘れましたがお銀とお鉄といふ二人の姉妹の話を書いたのがありました。姉のお銀はきれうよしで、望まれて官員さんのところへかたづいてゆきます。その嫁入り先きへ遊びに行つた母親が、身分ちがひだとか何とかいふ面白くない話をきかされて帰つてくる。お鉄といふ妹娘がちやんと御飯の支度をしてゐるのです。肴屋さんがみそ煮にしなさいつておいてつたからと云つて、鯖のみそ煮とおはの漬もの。お鉄が香水の匂ひのする紙幣を見つけて、姉さんから貰つたんでせうとはしやいでゐる傍で母親は何か考へ考へみそ煮をちよつとつついたきりで、あとはお葉づけでお茶漬サラサラといふところがありました。その、鯖のみそ煮にお葉づけといふおかずが大そう珍しく、江戸つ子がたべるのだからイキなものにちがひない、大きくなつて東京へ行つたら何でもかんでも鯖のみそ煮をたべなくてはならないと決心してゐたのですが、さて東京へきてそれをたべて見ると、期待ほどにおいしくはなくて気ぬけがしてしまひました。しかしお葉づけは実にうまく、多分東京の菜つぱが独特の味を持つてゐるのではないかしらと思つてゐますが、菜つぱといへばやはり紅葉の小説の中に、心だてはやさしいのにきれうがわるいばかりに、理学士の旦那さんにきらはれる可哀さうな奥さんの話がありました。八百屋が御用ききにくると、奥さんの味方をする親切な女中と寄つて、邪けんな夫のために何か珍しいものをとえらぶところがあります、三河島のよまきもあらばと奥さんが気をつかふのですが、読んでゐて子供の私にはまるで見当もつかないのです。八百屋が持つてゐるからには野菜にちがひないとは思ふけれど、三河島のよまきは大根人じんごばう玉ねぎ、豆やキヤベツや白菜やじやが芋や、自分の知つてゐるあらゆる野菜のそのほかのものだと思ふと、実にふしぎでたまらない。お友だちの兄さんが東京の外語へ通つてゐましたので、手紙を出してきいてもらつたのですけれど、やつぱり知らないといふ返事でした。  やや長じて、三河島といふのは三河島菜の事だとわかりましたけれど、よまきといふのはやはり誰にきいてもわからないのです。夜播きといふ事かしらと一人想像してみたり、でも夜まくとなぜ柔らかいのだらうと考へたり、東京へ出てきてからは、折ある毎に八百屋でもたづね、小説を書く先生がたにもおたづねしてみたのですが、どういふものかどなたも知らないねと云はれるのです。二十数年わからぬままに過ぎてきて、いまではもうそれを知らうとは思ひませんが、おなじやうにわからなかつた事で、露地ものといふ言葉があります。それも東京へ出てきてから先生がたにおききしても御存知のお方がなく、何となく心ひそかに意を強くしたおぼえがあるのですが、この頃はちやんと新聞の家庭欄にのるやうになつて、知らない人の方が珍しくなつただらうと思ひます。  日本の小説よりも西洋の小説の方がどうもたべものの話が多いやうです。もつともこの頃の西洋の小説はどうか知りませんが、むかし読んだ飜訳ものにはお茶だとか晩餐だとか飲んだりたべたりする話ばかりあつて、西洋人は何だかつまらないお菓子ひとつでも皆よつて大さわぎしてたべるやうな気がしました。学校の帰りに友だちと二人でぶらぶら南一条通りといふ目貫の町を歩いてゐると、ある食料品店のかざり窓に、罐詰や西洋料理のお皿やバタ入れやいろいろ目新しいものがならべてあつて、その中に白いちりめん紙の四角いのにすみずみをあつさりと西洋草花なぞ染め出したのが、巻いたり重ねたりして置いてあつた。あれナフキンよと友達がいふのです。  ちがふ、ナフキンはきれで出来てるものよと私が主張すると、あーらをかしいナフキンがきれだなんて、うちのお父さま東京からあれとおんなじのを買つてらしたんですもの、ナフキンは紙よ。西洋の小説をよむとナフキンにアイロンをあてたり、頭文字をぬひとつてあるといふ事があつて、きれでないものを洗濯など出来る訳がないと思ふのだけれど、東京からと云ふ友だちの言葉は何よりも強い力で私をおさへてしまひ、ちがひますつて、ナフキンはきれだわと反駁する言葉に確信がなくなつてしまふのでした。それでもなかなか負けないで、おしまひには喧嘩別れになつてしまつたのですが、多分十二くらゐの時だつたでせう。ガラクタを入れるたんすの中に中幅のまつしろな西洋反物が一反はいつてゐて、ほどいてみると浮織の模様があり、その模様の具合からどうも日本の手拭のやうに一枚づつ切つて使ふものらしく、私は子供ごころにそれがナフキンではないかしらと考へ、家へ帰つて母にきくと、ナフキンなどといふものは知らぬと云はれました。その反物は父が、くにへ帰るふらんす人のところから買つてきたのださうで、お父さんはふきんにしろと云はれたけれど、ふきんには大きすぎるし、ふろしきには小さすぎるし使ひやうのないものだと母はもてあましてゐたのです。  その時分からぽつぽつ、ハムと酢漬のきうりのサンドヰツチといつたものの味をおぼえたやうです。テンピでかすてらやビスケツトを焼いてもらふと実においしいと思つたのは、やはり西洋の小説の感化なのでせう。日本の餡ものやお汁粉をたべたいと思つた事は一度もなかつたのですが、いつか長塚節氏の小説に、どこか田舎のちひさな町のちひさな医院で、暗いつりらんぷの下でお汁粉をたべながら主客が語りあふところがあつて、それを読んでから時どきお汁粉をたべて見たいと思ふやうになりました。お汁粉をたべたあとでおしたぢの黒くしみたお葉づけを手でつまんでたべるといふところがあつたやうです。何ともいへない素朴な味でした。  長塚さんの小説には「お房」の中にも金つばの話が出てきますし「土」ではそばがきをたべるところがフウフウと湯気がたつやうで忘れられません。毎日毎日どんな人間でも食事はするのですから、それを書くのはごくあたりまへの話でゐて、そのくせ一ばんむづかしいのではないかと考へます。それとも日本人にはやたらに人前でものをたべない習慣が残つてゐるため、それをくどくど書く事も煩はしく思はれるのでせうか。この頃は朝朝、横光さんの新聞小説「家族会議」を楽しみの一つにして眼をさますのですけれど、せんだつて重住家の法事のところで、さてどんな御馳走が出てくるかと期待してゐましたのに、余興ばかりで御馳走の事はなかつたので実にがつかりしました。一週間ほど、精進料理かしらそれとも普通の御馳走かなとひとりで考へこみましたが、横光さんは人物の着物の好みなどは可なりくはしく書いて下さいますので、ついでにたべものの方も読まして頂けたならと切望してをります。   露  生れつき向うみずの性格と見え、一方に又父親の教育のせゐもあつて、若い時分は男の人と肩をならべて遊びに行く事を何とも思つてゐなかつた。そのためにいろいろと面倒な事が起り、迷惑された人もあつたかもしれないが私も非常に迷惑するやうな事があつて、誰にといふ事もなくただ無暗に腹がたつた。さうして人の顔を見るのも物憂く口をきくのもいやになつたので、世間の起きてゐる昼のあひだは眠つて人の寝静まつた夜中に起きてゐる事とした。さういふ身勝手な暮し方はいまもまだたたつて、いくら努めてみても昼間は眠いので困つてゐる。  三十をこえてやうやく自分も人様とおなじやうに笑つたり泣いたり、人を好いたり好かれたりして見たいと思ふやうになつたので大勢のあつまる場所へ出掛けて行つた。何処へ行つても男の人がたくさんゐて、自分はこの中のどの人をでも好きになれるのだと思ふとわくわくする程楽しかつたが、さてどの人がいいだらうと思つて眺めると自分より年配の方方は一せいに口をひらいて、それぞれに異る意見で私の欠点をのべたてさうな気がした。それで今度は若い人の方へ眼を移すと、若い人は先づ私のふところをのぞいてそれからでなくては口をきいてくれさうもないやうに思はれた。  さういふ男の方方ばかりあつまつてをられたのではない。私の方がさういふ意固地な憎らしい気だてを持つてゐるのである。原因は己れにあると気がついたからさつぱりと、人なみに享楽したいなどといふ不遜な考へは捨ててしまつた。従つて男の人に関する媚めかしい記録といふやうなものは何もない。すこしは寂しい心地がせぬでもないけれど、心がらでいたしかたもないとあきらめてゐる。  大阪の芸者がある時私に云つた。こんな商売をしてゐるとずゐぶんえげつない事をいふお客にも出会ふ、一しよに戸外へ出てから宿屋へゆかうとうるさくせびる人もある。そんな時若い芸者なれば何云つてはりまんねとつき放してとつとと自分だけ帰つて来られもするけれど、私らのやうに二度目のつとめでは一人のお客も大切である。折よく警官の姿など見つけてよい幸ひに、宿屋ぐらゐいつ行つてもよろしいが臨検をされてはお名前にもかかはりませう、あの巡査さんも、見なはれ、あしこの旅館から出て来たにちがひない、此頃は何や一そうやかましなつてるさうだすよつて、今晩はおとなしう家へ帰つて奥さんを大事にしてあげなはれ、わてがおたくまで送つてあげますさかいとなだめすかして送つてゆく事が多い。  はぐらかされてゐるとも知らず芸者に送られていい気もちさうに帰つてゆく男をあまいものだと思つたらまちがひで、さういふ事情は一も二も承知の上で駄駄をこね、芸者に家まで送らせて細君の牽制策にしようといふ魂胆かもしれないと、私はその芸者の話を聞きながら考へたが、そのうちにふと、なぜ自分はこんなに迄男を疑らねばならないのかと気がついて茫然とした。女の人のいふ事は何でもまともに信じて、あとからまごつく事が多いくせに、男の人の言葉だとひつくり返しひつくり返し考へる、だまされるといふ事がどうしてそれ程怖しいのか訳がわからない。  僕はね、いくら好きな女が出来ても決してその女だけ呼んだりはしませんよと云つた人があつた。大がいおなじ年頃のばかり四人なら四人いつも必ず一しよに呼ぶ事にきめておくんです、それでもお座敷の都合で皆が皆いつもあつまるといふわけにはいきませんからね、二人の時も三人の時も、たまには好きな女が一人きりの時もありますね、でも僕は自分からは決して好きだなどと口に出さないのです、それとなく素振りには見せるやうな事があつてもね。それでそんな風にしてしばらく遊んでゐるうちには誰がのぼせたともなくみんながのぼせてきて、僕まだ学生の頃でせう、いい成績がとれるやうにといつて一人がお茶だちをすると一人は塩だちをする、一人は八幡さまへお百度をふむといふやうになつてくるんです、女ほど眼の前の競争意識に囚はれるものはありませんからね、さうして最後にはきつと僕の好きな女が一ばんのぼせて自分から身を投げ出してくるんです、それやもう必ずさうなるんですよ、的をはづれた事がありませんよ。  田舎の病院の若いお医者さんであつた。外来の人にも入院患者にも受けがよくて、ある金持ちの未亡人は退院してから後もよく食事に招くといふ噂があつた。半年も入院してゐるヒステリーの若い奥さんが、発作が起るとそのお医者さんでなくては納まらないといふ話もあつた。何しろしもの世話まで僕にさせるんだから助からない、医者になぞなるもんぢやないですよと本人が云つたのだからたしかである。帰省中に子供が病気をして入院したため私はその人と親しくなつたのであるが、もともと家の人達は知つてゐたので、いつのまにやら足繁く遊びにくるやうになつてしまつた。さうしてだんだんつきあつてゐるうちに、女をのぼせさす事など訳ないと色魔のやうな口をきいてゐるその人が、何となくお人よしの素直な性質に見え出した。  ある晩更けてからたづねてきて、すみませんがちよつとその辺を散歩して頂けませんかといふ声が気のせゐかしよんぼりとしてゐるので、女学校を出たばかりの妹を語らつて一しよにそとへ出て行つた。三人でしばらく家の前を往つたり来たりしたけれど、どうしたのかその人は首をうなだれて黙黙と歩くばかりで、妹がまあ美しいと月をほめても見あげもしない。くさむらの露は氷のやうに冷たくてからだ中さむ気だつてきたので、もう家へ帰つてやすみませうよとたちどまると、その人はいきなり袂の中へ手を入れて何やら白いものをぎゆつと握つて私の眼の前へつき出した。きらりとこはぜのしんちゆうがみがいた爪のやうに光つた。女の足袋のかたかたなのであつた。  家までくるみち、いくら捨てようと思つても、月の光のひろびろと流れた道端に白足袋がかたかた落ちてゐる光景をおもふと、女の足が足くびだけ一つぽつんと切り捨ててあるやうで薄気味がわるくて、足袋が生きて追ひかけてくるやうでどうしても捨てられなかつたのださうである。なぜ又そんな女の足袋なんか持つてゐるのと妹がきくと、昨夜何か宴会があつて其処へきた若い芸者が、かねて病院で顔を知つてゐる間柄なのでどうしても送つてゆくと云つてきかない、お酒を飲んでひどく酔つて到頭送つてきたのださうである。下宿してゐる家の部屋へはいり、ちやんと床が敷いてあるのを見ると今度は泊つてゆくと云ひ出していきなり其処へ寝てしまつた。さうして苦しいと云つては帯をとき、暑いといつては足袋をぬいで、あげくの果てはぐうぐうと眠つてしまつた。朝になり眼がさめて自分のゐる処がわかるとひどく驚いて、ものも云はずにせかせかと帯を結んで、呼んで貰つた俥のほろを深くおろして帰つた、よほどあわててゐたと見え、すぐそのあとから下宿のおばさんが、まああの芸者はよつぽど頓狂な女ですね、私の下駄をかたつぽ穿きちがへて行きましたよと刺すやうな声でいふのに気がついて部屋の中を見廻すと、穿くまももどかしく袂の中へ投げこんだ足袋が、布団の向う側に一つだけこぼれ落ちてゐたのであつた。  僕もあわてて着物の袖へかくしたまま病院へ行つたんです。さうして帰つてきてから風呂へ行つたり飯をくつたりしてすつかり忘れてゐたんだけれど、さつき机に向つてゐて何かの拍子に袂へ手を入れたら足袋のこはぜがさはつてね、その時はからだ中の神経がさはつたやうな気がしましたよ。それからいきなり家を飛び出してふらふらつとお宅の前まで来てしまつたものだから、つい失敬な事をお願ひしたんですけれど、まつたく僕はどうしていいかわからなくなつちまつた。弱つたなあ。  その足袋をどうしても自分で捨てる事が出来なくて私に処分してもらひたかつたのかも知れないけれど、私もまだ若い頃ではあり、お酒に酔つた芸者の足にはいたものなどへ手もふれたくない潔癖を持つてゐた。ぽーんと投げちやいなさいよと妹は高飛車に云つたが、それが出来ないからまゐつてるんだとその人は首を振つた。酒興の一夜に思ひがけないわけができてしまつて、どうしていいかわからないといふのは足袋のことではないのかも知れないと気がつかぬでもなかつたが、私は自分のお腹の中で、さういふ事に気がつくのは卑しい気もちだと考へて恥かしかつた。  十七八年も昔の話である。何のために芸者の足袋なぞわざわざ持つてきて見せたのか、いまでもその人の気もちがよくわからないけれども、技巧家と思へば技巧家のやうでもあり、不意の出来事に我れながらびつくりしてその驚きをそのまま持つて来たのだと思へば此上なく正直である。女に好かれる男といふものはいつも、心の奥に赤ん坊の皮膚のやうな柔らかいいたいたしいところを持つてゐて、どうかするとそれをむきだしに晒してみせるため、女はすぐそれをおほつてやりたい衝動に駆られて近づくのかも知れなかつた。いまでは年賀状のやりとりさへ絶えてしまつたけれども、思ひ出してさらさらと肩をすべる粉雪の音色をきいてゐるやうにその頃がなつかしい。   横顔  まだ木の香のたつやうな新しい二階の縁側に、眼のさめるやうな友ぜんの蒲団のふくふくとほしてある景色はあまりに幸福さうで妬ましくなつてくるくらゐである。何の因果かさういふお家と向ひあはせに住みついて、夙川でくらした二年のあひだ、気にするまいと思つてもやはり気にせずにはゐられなかつた。借家ながらも家賃は五十円とか六十円とか相当なものなのに、奥さんと小婢と二人きり、いつも門をしめきつてひつそりと静まつてゐたからである。門にはただ槇とだけで名前のないのも気にかかつた。金持の家の新夫婦が一時の別居生活かもしれないが、それにしては旦那さんの姿が見えず、又ほかに訪ねてくる人のないのもふしぎであつた。初めのうち旦那さんは洋行してゐるのかもしれないと考へそのつぎには奥さんが胸の病気で出養生に来て居られるのかもしれないと思つた。ああそれで毎日お蒲団をほすのねと子供まで合点したが、しかし御病人のものにしてはその蒲団は派手すぎた。  秋晴れの一日に二階の八畳と六畳を開け放つて虫干しをされた。人気のすくない部屋いつぱいに眼も彩にさまざまな衣裳がかけつらねてあるのを、こちらの二階から眺めてゐると、明るい紅絹のうらや友ぜんのじゆばんの袖から何かしんとした一抹のさびしい匂ひがたつてくるやうに感ぜられた。派手な大しまが一枚、白絹の裏に紫紺の裾まはしをめぐらして、花やかな色どりの中にただ一人すつきりと若衆が起つたやうな感じであつたが、さういふ好みに何となく奥さんの人柄がしのばれて、ひよつと素人のお方ではないかも知れぬと思はれた。  たつた一度ちらりとうしろ姿をお見掛けした事があるきりで、まともに顔をあはせた事がないからはつきりとは云へないが、どうやらあくぬけのした美しいお方のやうな気がされる。月のうちに一度くらゐもう薄暗くなつた裏口から女中さんがかけ出して、お豆腐とおねぎを抱へて帰つてくる事がある。こちらの思ひなしかさういふ晩はお向うの電燈が急に明るくなつたやうで、かすかに笑ひが漏れてきたり蓄音機が鳴つたりする。ある朝珍しく階下の縁側のガラス戸があいて、浅黒く頬のひきしまつた長身の人が起つてゐた。さうしてその傍の籐椅子に奥さんの半身が見え、うつむいて紅茶茶碗をかきまはしてゐるらしい横顔の、白いうなじと旧式な束髪に結んだ髪の艶やかな色とが、烙きつくやうに眼に残つた。三十前後のその長身の人が御主人にちがひなかつたが、誰もそのお方の門をあけて出這入りされる姿を見た者はないのである。  お向うの女中さんが東京の新聞を借りにいらつしやいましたと或る時女中が二階へあがつてきて云ふので、私は眉をひそめた。こちらではさき様の事を何にもわからないのに、あちらでは私のところでとつてゐる新聞まで知つてをられるかと思ふと何となく不満な心地がしたのである。早速お入用の日にちの新聞を探して貸してあげたが、それから一週間ほど経つて思ひ出してきいてみると、お向うの女中さんは新聞を持つていつたきりまだ返して下さらないと云ふ。本来なら新聞なぞどうでもよいのだけれど、東京の新聞がなつかしくて取揃へてあつたので、一日でもぬけると何となく東京と自分との間にすきができるやうでいやであつた。私はそんな風の神経衰弱にかかつてゐたのである。奥さんが忘れたのかしらと思ひ、女中さんが忘れたのかしらと思ひ、たかが一枚の新聞を返して下さいと云ひにゆくのも大人げないとあきらめて、さき様が思ひ出して返して下さるのを待つてゐたが、到頭その新聞は返つてこなかつた。  貸家にしてはがつちりと親切な家のたて方がいかにも関西らしい感じがするので、ある日思ひついて二階の縁側へ椅子を持ち出し、一時間ばかりかかつて丹念にお向うの家を写生した。二階も階下もぴたりと硝子戸がしまつてゐてちらとも人影がささないから、ゆつくり腰を落着けて描く事ができたのである。描きあがつた鉛筆のその画は我れながら見事な出来栄えで、小村雪岱ゑがく以上かもしれないと上機嫌で壁へはりつけたが、油絵を習つてゐる娘が、私にはとてもこんな細かい線はかけないわと云つたきりで誰もほめてくれないので、すぐ又はがして鞄の底へしまひこんだ。  このあひだ探しものをしたついでにその画が出てきたので、久しぶりに壁へとめて見ると、ちひさな屋根をいただいたちひさな門がいまにも開いて、あの髪の艶やかな首すぢの白い奥さんが出て来さうでなつかしかつた。実際には一ぺんもそんなところをお見掛けした事がなくて過ぎてしまつたのだけれども。   十三夜  東京のやうな人の多いところへ出てゐてはいつどんな災難にあはないともかぎらない、神信心が何よりも大切ですと故郷の母からたよりの度に書いてよこすので、神信心をしようといふ気になつた。観音さまが守本尊だときいてゐたので浅草へ月詣りをして、帰りにはかならず仲見世のいせ勘で飛んだりはねたりを一つづつ買ふ事とした。ひよつとするとそれが買ひたさに浅草へ通ふやうになつたのかもしれないが、とにかく他のおもちやは何を買つてもかまはないけれど、飛んだりはねたりだけはお詣りをしたしるしに一つづつときめてしまつたので、帰りがけにいせ勘の店の前に起つて、硝子の戸棚の中に新しい飛んだりはねたりがいく種もならんでゐるのを見るとわくわくする。どれを買はうかしらと思ひ、あれも欲しく、これも欲しく、その中からたつた一つだけえらばねばならぬと思ふとときどき何か運命的な気もちになつて汗がにじんだ。翌くる月の十七日を待ちかねて行つてみると、このまへ心を残して帰つたおさむらひだの蛙だのがもうすつかりなくなつて、また別の新しい品のならんでゐることが多いからである。  神楽坂の島金といふ料理屋の横をはいつた露地の奥に住んでゐたが、うへが一ト間下が二タ間形ばかりの小庭にざくろの樹があつて竹垣の塀のそとは朝の箒目が夕方までのこるほどひつそりとしてゐる。二軒つづきのお隣は南へ向いて、庭もひろく屋敷もひろいらしいのになぜか若い女の人が、ただ一人で住んでゐた。居るか居ないかわからぬくらゐ夜も昼もしんとしてゐると思ふと、ある晩急に陽気な笑ひ声がして、それから三味線の音がきこえた。格子戸のそとでおたまさんおたまさんと艶つぽい声で呼ぶ人があるので、あわてて出てみると、家の前には人影がなくて、開いたのはお隣の格子戸であつた。 「いいお月さまよ。ちよつとそとへ出てごらんなさいよ」  お隣へ遊びに来たお客さんが帰つてゆくところらしかつた。島田にゆつた若い二人連れである。私は自分の耳のあやまりを自分で照れながら暗い玄関の中に起つて、さざめきながら家の前を通りすぎる人達を眺めた。一人の女の首にまいた白いショールに月がさえてゐた。  ときどきお隣へ旦那さんがきて晩御飯のあとで二人揃つて出掛ける事が私にもわかつてきた。お隣でポインタアの雑種らしい仔犬を飼つたからである。るすになるとその仔犬が床下をもぐつてきて家の玄関の板の間を頭でつきあげクンクンとなきたてる。初めのうちはすぐ板をあけて出してやり、隣の人の帰るのを待ちかねて女中にだいてゆかせたが、だんだんそれがかさなると、又かといふ心地がして隣の人の不始末をすこし不満に思ひ出した。犬もちひさいうちは人間の子供とおなじ事だから、長い間ひとりぽつちに放つておくのはかあいさうである。仔犬を飼ふくらゐならそのために女中を一人置くとよい。それが出来ないなら戸外へ出る時一しよに連れてゆくとよい、それも出来ないのなら出掛けにちよつと家まで抱いてきて、お願ひしますと置いてゆけば、家でも床下をもぐつてきた泥だらけの仔犬にブラシをあてる手間が省けてどんなによいか知れないのに、どうしてそれがわからないのかと何となくいらいらした。仔犬はかあいさうだけれどお隣の人の仕打ちが気にいらないから、今度からはいくら鳴いても知らぬふりをしてゐようと申合せたが、クウンクウンといつまでも闇の中で鳴かれるとついその声にほだされて、あけておやりといつてしまふ。まるで家の犬のやうに尾をふつて飛びついてくるのをやつとおさへて、縁側へつれて行つて泥を落すと今度はほんたうの家の犬が、庭さきできやんきやんとなきたてて、自分も家へ上りたいとさわぎ出すので閉口した。  家の犬は茶目といつてもとは道端で拾つてきたアイリツシユセツタアの雑種だが、ちひさい頃は家の中で育てられた事をおぼえてゐて、庭さきへおろされてからの生活が不服でたまらないのである。仕方がないから家の犬も足をふいてあげてやると、大きな茶目と白黒の小さなぶちと二匹がもつれあつて狭い座敷中駆けまはつた。さうして到頭おしまひには床の間にまで駆けあがつて、私がそこにしつらへたおもちや戸棚をひき倒した。  あつといふまもなく二匹の犬は転がるおもちやに飛びついて、ものもあらうに一ばん大切な、飛んだりはねたりを一つづつ口にくはへて駆け出したので、私は夢中で叫びながら座敷中追ひかけたが、捕まへた時はもう二つともぐしやぐしやに噛み砕かれて、竹の台ばかりがズルズルと歯形を残して濡れてゐた。三つ四つ頭をぶつてそれでもまだ憤りが納まらないので二匹とも庭へつまみ出し、もうもうどんな事があつたつてお隣の犬なんかかまつてやらないからと力み返つた。  今度こそお隣のおくさんに困りますからつていふんですよ、忘れずにいふんですよと私は息を切らしながら女中にいひつけたが、故郷から来てゐるちひさな女中は、やはりその時も先方へは何にも取次がぬらしかつた。お隣のおくさんは大へんおきれいな方なんですと何となくおどおどして、遠慮がちにするのである。駄目ぢやないのと女中にはえらさうに叱りつけたが、さういふ自分も東京へ出て漸く三年目の秋の事で、まだ何となく御近所へ身がひけてならなかつた。殊にお隣のおくさんは芸者であつたときいてから眩しいやうな心地がして、私は長唄のお稽古にかよつてゐるくせに、家では一度もそのおさらひをする事が出来ないのである。お隣のおくさんは小玉さんといふ名前で芸者をしてゐたさうである。それではほんたうのお名前も私とおなじであるかもしれない。いつぞやの晩の声は私のききちがひではなかつたのだが、だがそんな事はともかくも、犬は来ないやう何とかしてもらはねばいつまでも果しがない。  静かな夜更けに帰つてくる足音が隣の家の前にとまつたのをききすまして、私は仔犬を抱いて出て行つた。女中ではいつまでもらちがあかないから思ひ切つて自分でいはうと決心したのである。格子戸をあけると同時に白い卵なりの顔がふり返つて「今晩は」と挨拶した。その声に何ともいへぬ丸味があつて、私は咄嗟に自分の心がまへを忘れてしまつた。 「あのおたくのポチちやんがうちへいらしてるんですけれど……。」 「まあ。すみません」  言葉が一すぢの淡い煙になつてふうつと消えた。青い月が出てゐてさうして霧がこめてゐるのである。私は自分とおなじ年ごろの脊かつかうもあまりちがはない小玉さんの胸へポチを渡しながら、 「あのもうヂステンパアはおすみになりましたのですか」 「はあ、……」  と小玉さんは何となくおぼつかない返事をした。 「さうですか。それぢやもう御心配はありませんね。……」  家へはいつて長火鉢の前へ坐ると、ひどく咽喉がかわいて出がらしの番茶を息もつかず飲みほした。女中はお風呂へ行つたるすで、私は猫板にぼんやりと頬杖をついたまま、お腹の中でもう一度不首尾に終つたいまの会話をおさらひした。あのう、おたくのポチちやんがうちへいらしてるんですけれど、……  急に酒の酔ひがまはつたやうにかつと頬が熱くなつた。ポチは犬であつたことにやつと気のついた私は熱くなつたり冷たくなつたりして、誰もゐない部屋の中でただ一人いつまでも顔を赧くして坐つてゐた。   木綿のきもの  陸軍被服本廠被服協会といふいかめしいお名前のところから、ふだん着には何を着るか、又その品をどんな店で買ふかといふ問ひ合せのお葉書をいただいてすぐお返事を書いた。常着よそゆきの区別なくお召を着てゐる。お召が一ばん皺にもならず丈夫だと思ふからで、それも西陣の品がよいやうに思ふと正直に書いて出したところが、その葉書はついたのかつかなかつたのかその後べつに雑誌も頂戴しないので何となく気にかかつてゐる。自分の言葉が空中に吸ひとられて行方不明になつたやうな何かおちつかぬ心地である。  もつとも初めの言葉は向うからかけられたので、こちらはそれにお返事をしたまでの事だからそれで一応事は落着してゐるのだけれど、いはゆる葉書回答といふものは殆ど全部それが印刷されてもう一度自分のところへ帰つてくるので、それ一つだけはやはり迷子になつたやうな気がされるのである。ふだん着にお召を着るとは贅沢だと思はれたのかしらん、木綿を着ると書いておいたら質素に見えてよかつたかしらなどと、つまらぬ事まで考へてみた。  たしかこの春の頃と記憶するけれど、佐野繁次郎画伯が着もののはなしをお書きになり、大へんたのしく読ませていただいた。その中に木綿の着物を推称されるお言葉があつて、それはもちろん男の着ものの事に違ひなかつたが、それにしても木綿の着物を日常にピンと着てゐるといふ主張は贅沢の中の贅沢と、思はず眼をみはらされた。よほど手のあまつてゐる家かそれともよほどまめやかな主婦のゐる家でないかぎり普通には到底望みがたい事であつて、もし忙しい中から旦那さんにいつもピンとした木綿ものを着せておく奥さんがあつたら、その奥さんはたつたそれ一事で十分に御はうびを貰ふねうちがあると思ふ。  木綿の着ものを労働着としてくしやくしやに着るのは訳ないが、それをしやつきりと着る手数は野菜料理の贅沢さと優り劣りがないやうである。いふまでもなく佐野さんはただ価が張つてゐるだけで薩摩や結城を最上とおもふ人へ、もう一つその上の木綿の贅沢を教へられたにちがひなかつた。  のぶ女さんといふ方が抗議文をお書きになり、それも面白く拝見した。結城のはなしがややこしく、最初は寝間着にしてきる程のそれほどの本結城でなければ東京では結城とはいはないといふ主張が、すこしばかり私には腑におちかねる心地がした。  父が若い二十の頃、東京で買つた結城が絣と縞と二枚ばかりいまだに残つてゐて、品質の堅牢さはゴリゴリする手ざはりでも知れるのに、惜しい事に衿と膝の色が変つてもう人前には着て出る事が出来ないのである。  こんなものを寝間着に着たら着てゐるうちに色が変つて生地がしなやかになつた頃には役に立たぬのではなからうかとそんな疑惑を抱きながら銀座の百貨店へ行つてみると、番頭の和井さんがやつぱり佐野さんの愛読者ですぐと結城の話をした。結城は人の思ふ程丈夫なものではないといふ。「実は私も商売冥利に結城ぐらゐ着なくてはと着てみましたが、いけませんなあ。三月とほして着ましたらすつかり駄目になりました」  ちよいと着てはちよいと洗ひといふ風に、しじゆうまめに手入れをして休ませておかなくては結城は保たないさうである。それではやはり木綿同様、贅沢なきものである。  遅い朝食のあとの新聞をひろげると障子紙はいばらといふ広告が眼について思はずああと声をたてると傍から子供がのぞきこんだ。なあに、障子紙? 障子紙ならこのあひだから角の小間物屋でも売つてゐるわとさもあたりまへのことにいふ。それがね景品つきなのよとめつたにそとへ出ぬ私を慰め顔に弟の方がすぐあとをひきとつて云ふのである。二本買ふと新しい刷毛をひとつくれるし、一本だとなまふのりをあげますと書いてあるの。なまふのりはよかつたとみんな笑ひ出したが本人はすこし不服で、ぢや生きふのりとよむの? そんなのなほをかしいぢやないか。  中学の三年にもなつてゐて生ふのりをなまふのりと読んでくる子供の迂濶さもさる事ながら、それにしても男の子と女の子とのちがひはこんな茶飯事にもうかがはれるやうで面白い。新しい合帽の輸入広告が男の眼をひくやうに、障子紙や蒲団綿の広告に季節を感ずる女の気もちは何かしみじみと自らいたはりたいやうな思ひがされなくもないのである。長い夏のすだれを払つて新しく閉める障子の紙の白さは、日本の家に住む主婦の家族へ贈る心づくしの一つであるが、思ふばかりで実際には手のとどかぬ事が多い。  震災の前年からその年へかけて池袋に住んでゐた。樹の多いしつとりとした一廓でおなじやうな家並の住み手はお役人や軍人さんの御家族で、従つて一年のあひだにも思ひがけない転任でうつり変りが多かつた。陸軍大佐で赤羽の工兵隊の大隊長が筋向うにをられたが、少将に昇進され遠くへ転任されて家をひき払つてゆかれる時、その慌しい旅支度の最中に夫人みづから手を下して二階から階下から家中の障子といふ障子をことごとくまつ白に新しく張り替へてしまはれた。おたちになつたあとからその話を耳にして今更のやうに感じたが、そのおくさんには私もいろいろと御世話になり、思ひ出すといつも何か清涼な風に吹かれるやうな心地がする。  その頃はわけても神経質であつた私が、胃腸の弱い子供を気づかつて殆どそとへ出さないのをおくさんがあはれがり、毎日のやうに連れていつて遊ばせて下すつた。私がかうしてお茶の間からお針をしながら見てをりますから、まちがひはございませんよ。さういつておうちのお嬢さんとお庭で遊ばせて下すつた。お八つの時には紙に包んだお菓子を、一度お母さまに見せてからとうちまで持つて帰らせて、私がさしつかへないといふと又引つかへして皆さんと御一しよにいただくのである。  いへば何でもないやうな事ながらそれだけの親切はなかなかつくしがたいものである。肌寒いある夕方道ばたに行きあふと、ほつそりと細おもての美しいおくさんは両の袖を胸にかきあはせて、おさむうございますことといはれた姿が、清方の一枚絵でも見るやうに清清《すがすが》とうつくしかつた。かきあはせた両の袖がぢみな染絣であつたのに、まるで切りたての結城のやうにきりりしやんと着てをられたのである。  この春の新聞に、その将軍が満洲から凱旋された記事が出て、昔ながらのまるまるとにこやかなお顔をなつかしく拝したが、私の眼にはその向うにほつそりと清らかなおくさんの面影がありありと浮みあがつた。木綿の着ものはあのやうな夫人に着られてこそ初めて生きがひを感ずるであらう。私には資格がない。   伊勢の春  短冊形の大根にささがし牛蒡、竹輪せり〓肉、それに焼いた切餅を入れ青のりをふりかけて七種《いろ》になる。これが私の生れた札幌のお雑煮。白味噌仕立で大根人じん頭の芋、お餅は丸いので花がつををそへてたべる。これは関西の夫の家のお雑煮。  家を持つて初めての新年にはどちらのお雑煮をするかきまらないで困つた。普通なれば一も二もなく夫の家の風に従ふのだらうけれど、年よりのゐない気楽さにはそんな必要もなく、それに第一東京では丸餅をこしらへて貰ふのもちよつと厄介で、切餅となると自然に私の主張の方が通つた。大晦日の年取りの御馳走なども夫の方は何もないのに、こちらは山海の珍味をならべて家内一同おなじ祝ひ膳につく風習があつたから、夫の方でその勢におされた形でもあつた。お年取りに御馳走がないんですつてまあけちくさいと、私は自分の生家のしきたりをひけらかして、鯨のお汁はぜひなくてはならないんですから探してきて下さい、とその頃はまだあまり見掛けなかつた皮鯨を下町まで買ひに行つてもらつたりした。その鯨のみそ汁に茶碗むし、さしみ焼物は云はずもがな、口取りは大皿にこてこてと盛りあげて見ただけで満腹するくらゐ、それから手拭を一筋とみかんを二十ばかり、御祝儀袋をそへてお膳の傍におくのよと云つたら、ふんそれはわかつたが俺の祝儀袋には誰が金子を入れてくれるのかねと問ひ返され、あなたのだけはないのですと云ふと、それではおまへさんのおつしやる自由平等にならないぢやないか、俺だつて金子はほしいからね。  ぎやふんとまゐつて口がきけなかつた。つねづね私のうちは自由平等主義で女中も一しよにおなじ食卓に向うのですと自慢してゐたのを見事にやられたのである。云はれてみれば父だけは食事の時間がちがふので、いつも一人でお膳をひかへてゐたのだから、女中さんが家族と一しよに向上したのだか、女子供が雇人と一しよに下落してゐたのかよくわからない。  御馳走御馳走と眼の色をかへてさわぐのは、ふだんおいしいものをたべてゐない恥をさらけ出すやうなものだと気のつく頃には子供もだいぶ大きくなつて、男の子は白味噌のお雑煮がよいと云ひ、女の子は〓肉や竹輪のはいつた賑やかな方がよいと云ひ、子供の好みに従つて或る年はお元日を白味噌に二日をお清汁に、次ぎの年はそれを逆にといふ風にくり返してきたが、年取りのお膳に御祝儀袋をそへるのは父の存命中東京でお正月を迎へた時に一度、夫からみんなへ配つて父を喜ばせた事があるきりなので、子供達は御祝儀袋の中からお正月のお小使ひを出してみて、多かつたりすくなかつたり、買ひ初めの胸算用に忙しい大晦日の夜の味は知らないでゐる。  昭和八年の元旦、二見ケ浦の宿屋で新年を迎へた。家を持つて以来初めての経験で、年こし蕎麦のついた晩御飯をたべてしまふとあとは何にもする事がなく、手持無沙汰で困つた。風が吹いて寒さうなので戸外へ出てみる勇気もなく、もう一度おふろにはいつて早くから寝てしまつたけれども、あんまり早く寝たのでかへつて眠られない。枕に近く波の音が通ふやうでもあり、それはただこちらの気のせゐのやうにも思はれる。二見ケ浦といふからには海岸にちがひないけれども、宿へつくまでどこにも海は見なかつたので、何となくあやふやな気もちで思案してゐるうちにそれでもうとうとしたらしく、波の音がだんだん近づいて来、高まつてすぐ部屋のそとまでおしよせてきたと思つたらはつと眼がさめた。どうしたのか大変そとが騒がしい。  ぢやりぢやりがらがらと小石をふみしだくやうな下駄の音に交つて絶えまなく人の話し声がつづき、何だか知らないけれども大勢の人が大変いそいで何処かへ行くところらしいので、何事が起きたのかとあわてて廊下へ出てみると、宿の中はしんとして何の気配もなく、騒ぎはただ戸外だけの事なのである。明方の寒さにふるへながら宿のどてらをかさねて今度は硝子障子のはまつた縁側の方へ出て見ると、縁側のすぐさきは砂地の広場でまばらに松の影が見え、松の樹の向うは低い柵にくぎられてもう往来になつてゐるらしく、ひしめきあひながら通る人人の姿がそのへんのあかりに幻燈のやうに浮いて見えた。みんなおなじ方角をさしていそぐのである。  自分には関係のない事らしいけれども、やつぱり気になつて眠られない。それに又枕の上に頭をのせてゐると、次第次第に早くなる戸外の足音が地響きをして伝はつてくるやうで、ぢつとして居られない。起きてみたり寝てみたり、炭斗の炭をありつたけつぎたして顔をあぶりながら途方にくれてゐると、さすがに子供まで眼をさまして、火事なの? とはね起きた。いいえさうぢやないけど何だかもうさつきから無暗に人が通つて、そしてそれがだんだん駆け足になるやうなのよ、ねえ、どうしたんでせう、ベルをならしてきいてみませうかと云ふと、ぼんやりと寝ぼけ顔で煙草を吸つてゐた夫が突然ふきだした。  初日の出を拝みにゆく人達だつたのである。あ、成程と子供の時から見なれた二見ケ浦の絵はがきを思ひ出し、あのしめを張りわたした岩と岩とのあひだから初日がのぼるのね、ふーんそれを拝みにゆく人達なのねと感心したけれど、事情がわかつてみるとあんまり気をつかつたせゐかがつかりして、俺達も見に行かうと誘はれてももう一ト足も部屋から動くのはいやである。僕は行つてくると男の子の駆け出したあと、縁側の椅子に腰かけて、おひおひ白んでくる朝の光の中に往来の人人の顔のはつきりしてくるのを眺めてゐると、その往来のすぐ向うに霧がはれてゆくやうに海が見え出した。あをいちりめん紙をのべたやうな海が見えた。  岩と岩とのあひだから、海から朝日がのぼるのは三月のお彼岸頃だけで、初日は山の方からさし出るのださうである。女中さんにさういふ話をききながら新年のお膳について、おとそとお重詰を祝つたあと大きなお椀のふたを取ると、黒いお椀の底にまつしろなお餅が二つ丸くかさなつて、二寸ばかりの若菜が白い根をひきながらふはりと末広なりに鮮やかな緑を浮かせてゐる。おつゆは水のやうに澄んでゐて、あまりの清らかさにお箸をつけるのがためらはれた。  水のやうに色のないおつゆに得も云はれぬ味があつて、こんなおいしいお雑煮は生れて初めてたべると思つた。子供たちまでそれから後は白味噌も〓雑煮もよろこばなくなり、来年はきつと伊勢まであのお雑煮をたべに行きませうねと、お正月のお膳に坐る度くり返してゐるけれども、それからまだ一度も行かれない。風はあつたが空はよく晴れてゐて、二見から山田まで走らせる自動車の中はぽかぽかと陽が暖かかつた。雲雀がないてゐさうであつた。お正月は伊勢参宮にかぎりますと私は人の顔さへみればすすめたい気がしてゐる。   楊柳詩抄    夏虫 音になもらしそ 夏虫の 身は灼かるるとも——    昔をいまに あはで過ぎにし月日をうらみ 身をうらみ 昔をいまになすよしもがな    一本の草 君が庭に春きたり もろもろの樹はその枝につややかなる紅の若芽をつけ 草はかなりやのにこげの如き色もてしなやかに身を起すらん あはれ一本の草にだにしかざるわが身 いつの日か君が眼にふれ いつの日か君に摘まるる折のあらんや。    晩春恋慕 つくつくし 摘まむと野辺へ来てみれば 杉菜ばかりが青あをと なくてぞ人の思はるる わが心ぞもつくつくし 杉菜となりてぜひもなき    雨 雨ふりいでぬ 雨のまま夕となりぬ 雨のまま夜となりぬ あめのおと夜もすがら わがなげき夜もすがら    孔雀の羽根 孔雀のまねして笑はれし 烏のこころ思ふ時 身にしみじみと悲しかり われもうとまし烏にて 孔雀の羽根はひろへども かざしになさんすべは知らなく。    女ごころ 道成寺を見れば泣けてくる 女ごころの切なさよ ふつつりりんきせまいぞと たしなんでみてもなさけなや エエをなごにはなにがなる—— 思ひあまれどすべもなし 女ごころの儚かなさよ    ひとり寝 ひとり寝のわが枕辺に きりぎりす夜もすがらうたふ 佳き人のかのねやのうち むつ言に夜やあけぬらん 朝を佗しといふは誰が子ぞ。    楊柳歌 浅黄の空にをち方の 柳芽ぐむとふみ書かな 春はきたれどわが部屋に 君来まさねば冬枯れの こころ寒しとふみ書かな もろともに窓より見てしをち方の しだれ柳は芽ぐみそめたり    おなじく秋となりて しだれ柳の葉は枯れぬ 人とあひ見ぬ一ととせの なげきぞながきしだり葉の やなぎは散るとふみ書けど いまは寄せなむ方なきを いたづらに散りゆく柳 ぬるるわが袖   着物・好色  秋——  秋のこころは内にこもつてたのしい。  あけ放してあつた部屋部屋の仕切りに襖をいれる。見通しの広間はそこで一つ一つの愛すべき小部屋となる。晩餐のあとの卓がいつまでも歓談の泉となつてゐたながい夏の習慣が自然にあらためられて、家族のものは晩の食事が終るとまもなくめいめいのそのちひさな部屋へひきこもる。ピタリと窓を襖をしめきつても秋の夜の空気は清冽な水のやうに胸にすがすがしい。襖をしめた部屋の何とプライベイトに親しいことか。そのしめきつた部屋のなかでおのおの自分ひとりのこころを取り戻す。いつも外に向つてひらかれてゐた長い夏のこころを、おもむろに自分ひとりの中へ取り戻す。そのひとりきりの部屋で彼等はめいめいに読み、書き、考へ……そしてわたしは、女であるところのわたくしは、電燈のコードをながくのばして裁縫をする。——  ちりりりりろろろろ……縁先で、勝手もとで、こほろぎはすみ透つた声をはりあげる。それにうながされるまでもない、肩させ、裾させ、冬を控へた主婦の仕事は押入れの中にありあまつてゐるのだ。まづ第一に自分は子供達の秋ごろもを取出して、すくすくとこのひと夏に伸びきつた身体にあふやう、そのゆきたけを揃へてやらねばならない……  色濃い紫の絹のきもの。久しぶりに見る紅絹《も み》うらの手ざはりのなつかしさ。わたしは女の子を持つたことのよろこびを今さらのやうにしみじみと味はひながら、紫の絹糸を針に通して新しい寸法の腰あげを縫ふ。去年はわたくしとおなじ脊丈であつた。今年は——どうだらう、一寸五分もおろしてやらねばならないのだ。来年はわたくしと連立つて戸外を歩くのはすこしきまりがわるい程成長するにちがひない。娘は母親をこえて伸びてゆく。そしてもうすぐ彼女は花のひらくやうに美しい年ごろとなるであらう……  紫の着物はその年ごろの娘が着るにふさはしい艶やかさを持つてゐる。わたしは腰あげをおろした着物にふぢ色の羽織をかさね、長じゆばんのえりにはうす紅のちりめんを、そこに誰かが着て起つてでもゐるかのやうに胸もとをきちんとかさねあはせて衣紋竹につるして見た。……さやう! 羽織のゆきも着物のゆきもちやうどいい。これならばもういつ深い霜の朝がやつてきてもまごつくといふことはない……  ——不意に、自分はほろほろと涙をこぼした。ほ! この思ひがけないなみだは何だ。自分は自分の考へに、涙をこぼしてみて初めて気がつくのであつた。なんと愚かな事を自分は考へたものであらう。わたくしにはそこにつるされた一そろひの衣裳から、美しい年ごろの娘のからだがぬけだしていつて、彼女の着馴れた着物ばかりがここに残されたのだ……といふ風に思はれたのである。わらふべき瞬間の錯覚ではある。だがその瞬間に、わたしは取残された彼女のあはれな恋人であつた。捨てられた男の切切とかぎりない恋慕が不意にわたくしの胸いつぱいにふくれあがり、そして自分は思はずはらはらと涙をこぼしたのである。……ふ、ふ、ふふ、わたくしは笑ひだしてしまふ。さうしてまた思ふ。泣いたり笑つたり、人が見たならば気ちがひと思ふであらう。だがここは自分ひとりきりの部屋だ。笑はうと泣かうと何を思はうと、だれに掣肘されるといふこともない。ひとりきりの部屋の気易さ!  わたくしは眼には涙をたたへ、口許は笑ひにほころばせつつ、まだその一揃ひの衣裳をながめてゐる。と……気まぐれな思想には羽根が生えて跳躍する。  ——バーンス氏は、といきなり自分は思ひだす。バーンス氏といふのは何処の国の人だか知らない。しかしその人が研究したのはアメリカの女性についてだといふから、それはやつぱりアメリカの学者なのであらう。で、その学者がアメリカの女子について研究したところによると、女子で男性を理想とするものが、九歳の時には全数の二分の一であるが、十八歳の時には三分の二であるとの事である。それほどに「時に女もまた男でありたい」願望はひろく女性の間を貫いてゐるさうである。とすれば、東洋の桜さく国ニツポンの女たちが、気狂《きちが》ひのやうに着物を買ひたがる心理を、時にまた男でありたい望みに外ならぬといつたら、人はその言葉の奇矯さをわらふであらうか。……  私はかつて、かぶと町で有名なある仲買店主の夫人の奇癖について聞いたことがあつた。その夫人は町に出て、美しく気に入つた柄の反物があると必ず買はずにはゐられないのだといふ。買つて帰つたその反ものを、仕立させて自分に着るでもない、似あはしい人を見つけてやるのでもない、彼女はただそれを奥の蔵へとしまひこんで何人にも手をふれさせないのである。メリンスなどは一巻《まき》づつ買つてきて、そのまま蔵の中へ投げだしておく故、すぐ虫がついて無数の穴があいてしまふといふ。わたくしはその話をきいた時、ふつと蔵の中にむしくはれてぼろほろと朽ちる一巻《まき》の友ぜんは、目ざむるばかりあでやかな姫君の、しばられて蔵へ入れられて髪もひざもあらはにとり乱して悶えてゐる横顔のやうにゆくりなく眼に浮んだのだが、そのいたましくもしどけない姫君の横顔を思ひ浮べた瞬間、わたしは自分の身体中の血潮が、ぐい! と逆流するやうな興奮をおぼえたのであつた。惨酷な蕩心! それをわたしに教へてくれたのは見も知らぬその夫人の奇癖なのである。  後年、自分はいささかの余裕を得たとき、町へ出ては新しい反物を買つて、人人にたしなめられた。「いりもしないものをむやみに買つてどうするのです……」まつたく私は、買つた着物をすべて着るわけではなかつた。わたくしの慰みはただその新しい反物に、じよきりとはさみを入れさへすればよかつたのである。新しい反物を買つてきて、日当りのいい部屋でそれをほどいて、じよきり、とはさみを入れた刹那の、胸のしびれるやうな惨酷な蕩心! それはおそらく男でさへも知らぬ男の蕩心ではなかつたらうか。——女は着物を買ふ。あらゆる女は着物を買ふ。買へぬ女は盗みさへする。だがその凡てが、己れを美しく装はうて男に愛されたいがためにほかならぬとは、どうして断言することができよう……  女は知らないかもしれぬ。彼女自身、何のために着物を買ふかを彼女もまた知つてはゐないかもしれぬ。だが、仕立上つた一枚の着物であるよりさきに、それはすでにひとつの独立した生命あるいきものではないか。着物自身の持つ年齢。着物自身の持つ雰囲気。それは持主とはなんの関係もなく厳然として独立したひとつの存在ではないか。わたくし達は一枚の着物のむかうにいつもその着物のスピリツトであるところのひとりの女性を見るのである。一まいの着物を手に入れることは一人の美女をあがなふことにひとしい。男でありたい女にとつて、これほど素晴らしい秘密の快楽が、どうして他にあり得ようか……  わたくしはこの秘密を知つて以来、餓鬼のやうに着物をあがなふ一切の女性を軽蔑せぬこととした。わたしはただ、いたましく悲しい微笑でそれをながめる。女にゆるされる情慾の世界は、……この世に於てゆるされる範囲はそれ程までにせまいのである。彼女等は道徳の林の中でわづかにこのぬけ道へ息をふきこんで生きるのである。「着物はいく枚も持つてゐるのですがね、殆どそれは着ることがないのです。いつも質素なものを着て満足してゐる。さうして時どきたんすの中から着ない着物を出してきて眺めて楽しんでゐるのです」ある夫はふしぎさうにさう語つた。夫はその細君が、なぜ着ない着物をほしがるのかと思ひ、細君もまたなぜ買ひたいのかとわれながらあやしまれつつ、而もその慾望は抑へ難いのである。何事も経済と結びつけずにおかないわが関西地方では、着物は女の財産と見なされ、だから女は着物を買ひたがり、買つた着物は大切にたんすの中へしまふのだと主人も細君も信じてうたがはないのだか、関東にくらべて一そう男の放蕩の自由である関西では、女の着物に対する執着もまた、関東の女のそれより数倍色濃いものであることを人人は知つてゐる、着物を財産とおもひこんでゐる女たちの、それは彼女自身にも気づかぬ好色の数字表ではなかつたらうかとおもひやるわたくしの独断を、人人よとがめたまふな……  ゆるく、ねぢがほどけたやうな音いろで時計がなつてゐる。ひとつ、ふたつ、とかぞへるともなくかぞへてゐた自分は、まだ九時であつたのかといまさらに水のやうなあたりの静けさに驚くのである。自分はぼんやりとながめてゐた紫の衣しやうの前からたちあがり、もう一度押入をあけて、新しいぬひものをとりだしてくる。さうして再び電燈の下で、あたらしいきぬ糸を針にとほしつつ、こんならちもない考へごとを、いつまでも、うつとりとつづけてゐられるたのしさを、秋の夜ながのたまものとしみじみおもふ……   ブロンズの脚  母親は娘にふらんす語を習はせ、ピアノの稽古と、それから折折はゆらゆらと長い袂をなびかせて和服も着て通へる女学校へ入れたいと望んだ。十三歳の娘の脚は、ハガネを入れたやうにまつすぐで、打てばカンカン音がしさうであつた。母親は金属性のその美しさをみとめない訳ではないが、日露戦争以前の彼女の夢は、そこからは生れて来なかつた。母親はそのブロンズの脚をしなやかなキモノの裾でつつむことによつて、やうやく自分の夢を満たさうとし、娘は母親の満足に副うて日傘をさして踊の稽古に通ひ、ブロンズの脚はキモノの中でしとやかに坐ることを稽古せねばならなかつた。その代り娘は母親から学校の勉強を強ひられたことは一度もなかつた。娘は何らの掣肘を知らず、ただ草のやうに茫然と伸びた。 「あの子に学問をさせようとは思つてをりませんの」  母親はしばしば人に向つてもさう語り、家の中でもその点では優しすぎる母親であつた。そして、母親の第一の誤謬はそこにあつた。彼女は自分を理解のある母と考へ、その考への中で娘を侮蔑してゐる事には毫も思ひ及ばなかつたのである。——父親が会社員で母親が女学校の卒業生で、世間並に平和な彼等の家庭では母親の誤謬が訂正される日は永久に来さうにも思はれなかつた。けれども……  自然は明るい眼を持つてゐる。彼はどんな些細な誤りをも、遂にその明るさに照し出さずには置かないのだ。月給取りであるために平和な彼等の家庭は、月給取りであるためにその平和を傷附けられることは、当然のまはりあはせであつたが、恒産を持たぬ彼等は、やはり生活の保証を得るために、その月給にしがみつかねばならなかつた。会社は何故か時時その使用人を別な土地へ送ることを好み、彼等はやうやく住みついてあたりの風物にも馴染の出来たところで、また引越をせねばならぬ折は、あまりにしばしばであつた。そして彼等は従順な犬のやうにその事に馴らされてゐた。  会社は学校ではなかつた故、転勤を命ずる時期を、子供のためになぞ考へてはくれなかつた。娘は大切な六年生の二学期の半ばに、親に従うて新しい土地へ移り、学校をかはらねばならなかつた。東京から関西へ、会社は突然彼等の生活を三百五十哩移したのである。 「さて」——  母親はかつて、人からこんな話をきいたことがあつた。ある有名な琴の師匠の許に弟子入りしてゐる小盲人の話である。田舎から出て来たばかりで、あまりカンのよくないその少年は、人とむきあうてゐるつもりでいつも襖や壁に向つて坐つてゐるが、時時だしぬけに、 「さて!」といつてぽんと膝を叩く。お、何をするのかと驚いて人が振返ると、小盲人はさて! といつたばかりで、別に起ち上る訳ではなく、やはりぢつと静かに坐つてゐるのだ……といふ話であつた。  母親は、新しく移つて来た阪神沿線の山の見える二階で、一通り品物を片づけ終り、ひつそりとした秋の空気の中に坐つてゐて、ふと「さて!」と口に出していつた。いふと同時に小盲人の事を思ひ出し、話にきいたばかりで、見た事もないその少年の、壁に向つて坐つた姿が感傷的にしみついて来るのであつた。彼の郷愁の切なさが、そのまま自分の胸に応へて来、そしてその気持は新しい教室で新しい言葉の中に交つた娘の、所在ない姿に延長し、夢の中でやにのついた長い腸を噛まされるやうな、噛んでも噛んでもかみ切れないやうなやりきれなさに、ジワジワと身体がしまつた。何か触れてはならない気持がその苦さの中に沈んでゐるやうであつた。 「私達、いつたいいつまで転任して歩けばいいんでせう!」  ちひさな姉妹達がいつもめいめいの脊丈をはかりに行つた茶の間の柱、横にひかれた鉛筆の細い線にまで母親は名残りを惜しんで、しばしばその言葉を夫の前に嘆いてみせたが、その事さへも今では遠い思ひ出となるほど、母親の気持は動かなくなつて来た。あの時分はまだ子供達もちひさかつた。母親も若かつた。嘆きながらも明日の日が予想された。楽しく、朗かに。  子供達が自分から壁のらく書にさへ心を残すほど成長するにつれて、母親の頭には何か払つても払つても払ひきれないモヤモヤしたものが、おほひかぶさつてゐるやうな物憂さがしみつき始めた。うんざりする! さういふ感情さへ今では母親の頭にハツキリとは考へられなかつた。彼女はただ疲れ、そして黙つて荷物をまとめ、からつぽな頭で汽車に揺られた。新しい土地、新しい空気、考へるさへ物憂かつた。だがしかし、娘は女学校の入学試験を受けねばならない。——  母親はまるきり空手であつた。それについて何の用意もなかつた。転校は始めての経験ではない、それが彼女を安心させた。学問一点ばりの学校でなくともよい。さう思ふことは二重の安心であつた。そして彼女が茫然と手をつかねて日を送るうちに、東京とはまるで違ふ事情が、春の山雪のやうに思ひがけなく、母親の頭上へなだれ落ちて来た。  娘は三年生の時に一度、東京の中で、郊外の私立の小学校から市内の市立小学校へ転校した経験を持つてゐた。それはやはり二学期の半ばすぎで、程度の低い学校から高い学校への転学であつたから、成績の下ることは十分覚悟してゐたにも拘らず、二学期の通知簿は以前の学校とおなじ表であつた。 「こちらではまだ日が浅くて、はつきりとわかりませんから、推定で以前とおなじ成績を差上げておきます。三学期からは、こちらの学校の採点方法でいたしますから、落ちないやうにしつかりなさるのですよ」  若い女の先生の思ひやりのあるその伝言は新しい学校にまだ馴染みにくかつた母子二人に、温かい息を吹きこんでくれた。娘は学校に興味を持ち、それ以来一度も落ちることなく、ずつとおなじ成績を通し得た。彼女は別に頭のよい子ではなかつたが、普通の全甲を貰ふだけの力は持つてゐたのである。  母親のあたまには、まだその記憶が鮮かであつた。それ故二学期の末になり、新しい学校で貰つて来た成績表をひらいた時、彼女は油断してゐた足をどんと不意に突きとばされた気がした。八点、八点、八点、体操、唱歌、図画、書方、裁縫、おおそれらは全部主観的なものばかりではないか—— 「こつちの学校の人たち、みんなよく出来るの?」  おぼつかない娘を相手に、母親はきいて見ないではゐられなかつた。 「わからないのよ、みんな何でもかくしてばかりゐるんですもの。それに第一入学試験の準備ばかりで、なほのことわからないわ」  さう答へる娘は、母親よりも一層茫然として、手頼りなげな顔であつた。娘は一時に六冊も買はされた参考書を机に積み重ねて、ただその高さを眺めてゐた。何からどうすればよいか、まるで手のつけようがなかつた。楽しい日光行きや伊勢参宮や、それから神宮外苑のマスゲームや、高い秋の空の下で胸一杯息をして、試験準備なぞまるきり考へもしなかつたあの小学校からやつて来た娘には、新しい学校での試験準備のものものしさは、驚きを通りこしてむしろ馬鹿らしくさへ感じられるのだつた。あつちの学校では……母親にも娘にもそれが考へられた。あの学校では、——  その小学校では、生徒の成績は全部はばかりなく公開されてあつた。教室の壁にグラフが貼りつけてあり、力だめしの結果によつて一ト月ごとにその表は新しくされた。従つて生徒達の気持は明るく、朗かにお互ひにかくしあふところは少しもなかつた。返された答案を見せあひ、採点の仕方に不審のある時は、揃つて先生の処へたづねに行つた。(先生とて神ではない故、おなじ答へに対して、違ふ点数をつけてしまふ場合もある)——その上になほ月に一回づつ、作文や書方、図画なぞの成績品が各自の家庭へ廻されて来たから、親は家にゐても、学校へ行つたとおなじやうに級全体の成績程度を知ることが出来た。では成績のよくない子までそのことを人に知られ、肩身をせまくしてはゐまいか。……一応考へられるこの疑問はしかし、問ふ者の頭のにぶさを示すにすぎない。それほど明らかにされた成績については、子供達は些かも拘束されることがなかつた。そこでは、学校の成績ばかりがその子の価値ではなかつた。彼等はかくしだてのない朗かな環境の中で、お互ひのよさをみとめあふやうに自然に教育されてゐたのである。 「東京の学校は、教育程度が低いてさういふの。府立を受ける資格は全然ありませんて」  もうすぐ願書の受付が始まる二月末のある夕、娘の受持教師をたづねて帰つた母親は、よそゆきの羽織のままで火鉢の前に坐り、興奮から頬を紅くして饒舌になつてゐた。彼女の心にはいま聞いてきた教師の言葉と、それを反ばくする自分の言葉とが、をさのやうに交錯した。「この学校では前の学校の成績は一切考慮に入れぬことになつてゐます」「さうですか、しかし医者は患者の既往症を知らないで、正しい診断が出来るでせうか」……  母親は教師の前では、何もいはなかつた。従順に、ひたすら席順の事を懇願したばかりであつた。郷に入つては郷に従へ、母親は胸の中に苦笑を噛みながら、気負つた教師の暴言を唯々としてきいてゐたのであつた。東京の教師は一体何を教へてゐたのか、私の級ではあんな成績では二十番以下です、他の子は皆もつとよく出来ます……  そのよく出来る子達の成績品を、母親は一ト目も見ることは出来ないのだから、言葉の返しやうもない訳であつた。東京の学校より知らぬ母親が、何処もおなじやうに成績は公開されてあるものと思ひこんでゐたやうに、此処の教師はまた、母親は必ず贈物を携へて挨拶に来るべきものと思ひこんでゐるらしい。その喰ひちがひが彼女にはをかしかつたが、おなじ日本のおなじやうな都会の小学校教育にさへ、こんな差があるといふことは、おもむろに母親の胸をゆり動かす問題であつた。おなじ月給取りの切ない中産階級ではありませんか、途中で転校して来た子供を、そんなにムゴク突き落すのは、結局お互ひの身をけづりあふことになるでせうに……  さう思ふ彼女自身がしかし、まだフランス語とピアノの夢から抜けてはゐない小市民であつた。娘は優しく、美しく成長しなければならない。学校は別に府立でなくともよかつた。ただ母親の心には「不当」に対する憤りが沈潜した情熱に思ひがけない火をつけてしまつてゐた。いはれなく侮辱された東京の教師の冤をそそぐためには、娘はぜひ府立に入学しなければならない。だが選挙のさわぎのやうな準備教育をよそに、のんびりと画を描いて過ごして来た娘にその大任が果せるであらうか。母親の懸念はそこにあつた。そして彼女はいまひそかに、あまり放任に過ぎた過去を悔いた。  娘は両親の前へよばれ、自分自身の意志で学校を選むやういひ渡された。娘はためらはず言下に府立と答へた。 「学院の方ならば伝手もある。お母さんもよからうといつてゐる。府立は受持の先生が資格がないと断言してゐるのだよ、わかつてるのか」 「ええ、知つてるの、でも私ぜひ府立を受けたいの」 「なぜ? なぜそんなに府立が好きなのだ」 「あたしお医者さんになるつもりなの。だから府立へ入つておきたいのです」 「お医者さんに?」あまりの唐突さに母親は呆然と娘を見た。「お医者さんに? それはまたどうして?」 「だつてお母さん、世の中には病気になつても、貧乏なばかしに、お医者にみて貰へない人がたくさんゐるでせう。私女医になつて働いて、さういふ人達をみてあげたいの」  女医になる……娘のその志望は読本の中のナイチンゲールの話から思ひついたものかも知れなかつた。だが、もし落第したらどうすると念を押されて「その時はゑかきになる」といつた言葉は、女医を志望する彼女の気もちが本質的のものであることを母親にうなづかせた。医者とゑかき、そこには必然的な結びつきがある。——  それにしてもこのをさなげな娘が、いつの間にそれほどの考へを自分のあたまに植ゑつけてゐたものであらうか。母親はまだ前髪さへ切りさげた娘を、もの珍しく見入つた。いつの間に彼女はそんな実際的に世の中に役立つ人間になり度いと、考へはじめてゐたのであらうか。をさない彼女にそれを考へさせたものは何か。  ハツキリとした一つの志望の前につきあたり、母親は自分の考へを振り返つてみて、では自分は娘に何を望んでゐたらうか。フランス語とピアノを習はせ袖の長いキモノを着せて、そしてそれからどうするつもりだつたらうか。母親は自分自身のとりとめなさに、冷たい汗がにじみ出て来た。彼女はやうやく自分の誤謬を知つた。娘は草のやうに放置され、しかも自分の道を見出してゐたのである。  受持教師の反対を押しきり、府立を受けるといふことは、凡てに困難な問題だつた。百パーセントを期する先生は、見切りをつけてゐる生徒に対し、親切であり得るはずはなかつた。娘は敢然と先生の皮肉に対抗し、それを母親に洩らすことはすくなかつたが、さういふ教室を想像する母親の、傷附きやすい心はその痛みに耐へかね、原因をさぐり求めて落附かうと焦慮するのであつた。受持教師は何故百パーセントを期せねばならぬか。そして校長は、そして視学は、……  母親の思考の波は次第にひろがり、小波をよせてはまた胸に返した。さういふ自分が、なぜ子供を育てる時おなじ学校に六年間通はせ得ないのか。それはひとへに、自分達の生活が月給によつて支持されてゐるために外ならなかつた。それが大方の恒産を持たぬ学校卒業者の生活なのだ。あはれむべき無産知識階級。彼等はお互ひに手をつながねばならない。そのくせ彼等はその小さな窮屈な知識をよろひのやうに着込んで、仲間をおどすことばかりに熱心なのだ。……  人は浜辺に行き、しつとりとしめつた砂をふんで歩く時、いつとも知らず素足になつてゐるであらう。自然が人をさうさせるのである。だが彼等はいはば自然にそむき、浜辺にゐながらいつまでも足袋をぬがぬ人達ではないか。ささやかな生活の安定が彼等に卑屈な足袋をはかしておく。そして母親自身もまたおなじく足袋をはいた一人にちがひなかつた。  娘は試験に合格した。よく出来るといはれた同級生をぬいて合格したのであつた。彼女は身をもつて「不当」をはね返し、志望の第一階に正しく足をふみ出して行つた。それは生れながらに足袋をはくことを知らぬブロンズの脚であつた。まつすぐに伸びたハガネ入りの脚であつた。   姉と妹との縺れを評して  兄弟は他人の初まり。  子供の折さういふ言葉を耳にして何ともいへぬ驚きに打たれた記憶はいまもなほ鮮かに残つてをります。それは実にいひ様なく冷酷無情な感じでちひさな魂を脅かしたのでありましたが、成人するにつれてその言葉も又一面の真理である事を知るとともに、女ばかり三人姉妹のまん中に生れました私はもう一層激しい言葉を心の底に思ふやうになつたのであります。「姉妹は敵の初まり」  人間生きるための争ひの浅間しさは親兄弟の間柄といへども遠慮会釈もなくその爪をとぎたてずにはおかないものですが、それにしても男の兄弟の場合にはやがて各自家を出て社会の一員として独立する将来が約束されてあるためにその競争心もどこか明るく、いくら反目してもせいぜい他人の薄情さであつさりと片づいてゆくのに反して、女姉妹の場合にはそれが何処までも家庭のうちに内訌し自分の心に内訌して救はれ難い恨みをさへふくむやうになるのは女の境遇上止むを得ぬ事とは申しながら顧みてそぞろ肌寒い感じを抱かずにはゐられませぬ。漱石先生のたしか「行人」であつたと思ひますがその中の学者の妻直子が義弟に向つて述懐するのに「私なんか植木鉢みたいなものよ、何処へ行きたいと思つたつて自分では動く事が出来ないんですもの、ただぢつとして人の運んでくれるのを待つてゐるだけ」言葉はちがふかもしれませんがたしかかういふ意味で、いかにも女といふものの今迄の境遇をはつきり云ひ表はしてゐると思ふのですが、現在とてもそれはあまり変りがなく、娘が自分でそとへ出かけて自分の配偶者を見つけるといふのはなかなかの至難事です故、さういふ家庭に一人の好もしい青年がはいつてきた時、いま迄仲よく睦みあつてゐた姉妹の身内にたちまち女の本能の血がたぎつて百年の敵となるといふ悲劇は方方でくり返されてゐる事だらうと思ひます。  それにつけても姉と妹の問題はひとり当事者だけの問題ではなく、必然に父母と娘の、——つまり母子の問題となり、同時に又それは女と社会との重要な問題にもなると思ひます。二人以上の女の子を持つた親達は、ちひさい時からその子供等をどういふ風に導けばよいであらうか、その両親の心がまへ一つで娘達の生涯は暗くもなり明るくもなるといふ事実は、世の親達のよくよく噛みしめておくべき事ではなからうかと思ひます。  私は北海道の札幌で生れましたが町にただ一つの庁立高等女学校は又全道に唯一つのものであつたのでせうか、あるひは函館にはあつたかも知れませんがとに角首都の事ではあり地理上の関係もあつて全道の小さな才媛がその学校を目指して集り、従つて高等二年、いまの尋常六年ですがその高等二年からなぞ入学出来る子は極く極く限られてゐましてその名誉はいはば帝展へ初出品の初入選といつたくらゐのものでした。私共の御近所に落葉松の垣根でかこまれた広いお邸がありまして明るい芝生の向うの洋館の中にお伽噺の国に住むやうに双生児の御姉妹が住んでおいででした。お揃ひの洋傘でも靴でもすべて東京からぢかに取りよせたものばかりで、御姉妹が町を歩いたあとは花をふりこぼしたやうによい匂ひがしたものですが、その御姉妹にもやがて女学校へ上る日がきて揃つて試験を受けた結果、妹さんの方が見事に合格してお姉さんが落ちてしまはれたのです。姉といひ妹といつてももともと双生児のおなじ資格と思ふのですがそれだけに又余計複雑な問題があつたのかも知れません。そこのお宅ではお妹さんのそれ程の栄冠を無雑作に捨てさせて、お姉さんと一しよにもう一年高等小学校へ通はせました。  さて翌くる年あらためて受けた結果は惨酷にも今度はお姉さんだけが合格したのです。ちやうど幸にその年小樽にも庁立女学校ができましたので妹さんはそちらを受けて合格し、さういふ大家のお嬢さんが一年間小樽の他人の家へ寄宿して、その次ぎの年やうやく札幌へ転校して来られたのでしたが、この事件は私の子供ごころに深くしみついて、人様の親ながらその親御さんの取られた方法を非難せずにはゐられない気もちでした。あるひは家庭の中には何か人に知れぬ事情があつたのかも知れない、だが表面へ表はれた事実だけではその妹さんをお気の毒に思はずにはゐられないと共にそのお姉さんの方も又他人からいかにも自分ひとり得をしてゐるといふ眼で見られてゐる事がお気の毒に思はれたのです。多分その親御さんは女姉妹の繊細な感情の動きを気づかふのあまりさういふ方法を取られたのでせうが、これがもし男の子であつた場合、難かしい試験に兄が落第したからと云つて折角合格した弟まで止めさせてしまふ親があるでせうか。それを思へば女と生れた身の消し難い一抹の哀愁をおぼえさせられます。  いづれ劣らぬかきつばた。御姉妹は美しく成人されてそれぞれ幸福な家庭にはいられたと聞きましたが、時時思ひ出してはあの子供の時のお二人の心もちをきいてみたいやうな気がします。あの御家庭にはなかつたかも知れませんが、世間には往往子供に対する親の愛情に偏頗があつて、さういふ事も女姉妹の場合には非常に強くひびくやうに思はれます。殊に母親は自分も女であるせゐか、姉ばかり大切にしたり妹ばかり可愛がつたり、とかく愛情にムラがあるやうで、さういふ愛情の支持を受けてゐる姉なり妹なりの方が家の中で幅をきかす事は云ふまでもありません。その事実のはつきりと感ぜられますのは野崎雅子さんの場合で、お父さんのないあと家をせおつて起つた雅子さんに対して、お母さんは絶対の信頼を感じながらも何となく煙たいやうな心地があつて、自然甘えつ子のお妹さんの方を気楽に思はれるやうなところがおありなのだらうと察しられます。野崎さんがお妹さんを一人前にしようと骨折られた気もちはよくわかりますが野崎さんの重大な過失はあまりにそれに囚はれすぎて御自分の婚期を逸したことで、又お母さんもなぜもつと早く野崎さんの結婚を考へてあげられなかつたのか、妹さんの婚期が迫つてきてからでは遅すぎます、今朝咲いた花は昨日の花より美しい、その新鮮な花と競ふためにはお姉さんの方に人並すぐれた美貌がなくてはならない、いやいや美貌といへども若さの前には膝を折らねばならぬ場合があります。私はもう一度お母さんになぜもつと早くとくり返し度く思ひますが、しかしその責任の一半は野崎さん自身にもあると思ひます。つまり野崎さんは初めから一人前であつた、しつかり者であつた。それで周囲の者は野崎さんに手頼る事ばかり考へ、手頼らせる事を忘れてしまつたのです。お妹さんを愛したその佐々木氏にしても。  野崎さんと正反対の対照は永井喜代子さんで、野崎さんのしつかりした生活力の強みが思ひがけない弱みとなつたのにひきかへ、永井さんの不具といふ弱みは何人も抗する事の出来ない強味であります。加ふるに永井さんには慈愛深い父君があり、永井さん自身の透徹した忍耐力があつて、実に恵まれた人の一人だと思ひます。残念なのは永井さんがつつましやかな姉の心からせつかくの縁談を妹さんにゆづらうとなされた事で、自分に与へられた幸福は誰に遠慮もなくまつすぐに自分で受くべきであつた。永井さんの親切は妹さんを幸福にしなかつたばかりではなく、妹さんの不幸な性格を一層不幸にした事を惜しいと思ひます。永井さんは自分の幸福を妹さんにかきまはされた感じが強いでせうが、負けたのは妹さんであつて永井さんは初めから終りまで終始動かぬ勝利者です、いづれ又必ずよい御縁があるにちがひないと思はれます。  義弟といふものの物珍しさからつい浮浮した気もちになつたばかりに妹さんの縁談の破れた自責を感ずるみち子さん、病気のお姉さんと義兄との間にあつて、ふと男と女との微妙な気もちの動きを見た驚きに人間の心の醜さを悲しむ吹上さん、どちらもその清らかな心もちに女のよさの溢れてゐるのを感じますが、更に容貌の美醜以外何事も考へられぬ変態のお姉さんに仕へて辛抱したK子さんは自分が美しくて誰からも愛されるといふ強味のために耐へられもしたのでせうが、しかし世間一般にはさういふ場合美しい妹さんの方が孔雀のやうに羽根をひろげるもので、自分の美しさを内に潜める事の出来たK子さんはやはり恵まれた一人と申すべきでせう。これ等の方方の書かれましたものを拝見して何より心を打たれましたのはどのお方も実にけがれのない魂でまつすぐに物を見つめ、この切ない姉妹間の愛憎の波に身を投げ出して苦しまれたといふ事実です。さうしてこの方方を通じてそのかげに云はねども幾千幾万の若い女の人たちのかやうな姉妹間の心のゆらぎに悩んでをられる姿を手に取るやうに見受けられる心地がしましてここにも往きつ戻りつする女の問題が一つあることをしみじみ思ひました。私ども廿年のむかし愛情や金銭の問題に直面しまして姉妹の執拗な妬心を知りました際、いづれはこのやうな醜い争ひも女自身にしつかりした生活力がつくに従つて消えるであらう、さうしてさういふ時代は十年を出ずして来るであらうと思ひましたにもかかはりませず、今日依然として昔日の自分とおなじやうな悩みの中にある若い人人の心持を知りますと、すべての女が自活力を把握するといふ事のいかに前途遼遠であるかを思ひ、自活力のない姉や妹のために自活力を持つてゐる者の方が苦しむ日のいつまでつづくかを思ひ、又一方に濃まやかな愛情を持つて生れたために一層苦しまねばならぬ女自身の宿命といつたやうなものの哀れさが身にしみます。人間は誰しも親しかつた者程お互ひに反目しあつた時、相手を深く傷附けるものですが、日夜一つの家に起き伏した姉妹の間にさういふ問題が起つた場合その反撥は取りわけてすさまじくお互ひに結婚してからのちのちまでも、あるひは一生涯憎みあつて過ごすといふ事実もすくなくはありません。久米正雄先生の「紅頬褪する時」でしたか、あれに書かれた姉妹の妹は遂に姉を自殺させ、菊池寛先生の「貞操問答」に現はれた三人の姉妹もめいめい愛情は持ちながら一面は憎みあつて暮してゐる心情、怖しいまでにはつきりと掴み出されて面をそむけたいやうでしたが、それなれば女の姉妹は何処に自分の救ひをもとめればよいか、私考へますに何よりもまづ自分自身をつつぱなす、血と血のつながりといふ事をつつぱなして、姉をもあかの他人と思ひ妹をもあかの他人と観ずる事によつてかすかながらも一すぢの道が拓けるのではないかと思ひます。  男の兄弟は子供の時から他人の初まりと覚悟がさだまりそれ故どんな醜悪な事実に打突かつても取り乱すといふ事がない、これに反して女の姉妹は姉といひ妹といふ感情にあまりにも深く囚はれすぎてゐるところから、些細の事にもすぐ姉でありながら妹でありながらと咎めだてする気もちが多く、果てはそれ程の事でなくても非常に裏切られたやうな感情を持つ事になるのではないかと思はれます。  お互ひに他人と思へばどんな醜い感情を晒け出しあつたところで平気で相手をさげすむ事も出来るし嘲笑ふ事も出来ます。この平気で相手をさげすむといふ気もち、これは一見非常によくない事のやうですが、これだけの余裕を持つてさてあらためて姉なり妹なりに対した場合、そこから自然にわき出してくる愛情はもう動かす事の出来ないもので、さういふ愛情によつて結ばれた姉と妹の間柄こそ何ものにもまして美しいものではないかと思ひます。  意あつて文足らず何やら舌のもつれたやうな心もちにて思ふところをつくしませんが、とにかく女の姉妹は、他人の初まりと観ずる事によつて一歩前へふみ出し、自分の自活能力に関心を持つ事によつて更に一歩進まれたいと念じて筆を擱きます。   愛情について  思ひ切つて自分の恥を記さうとおもひます。もともと何によらず、書くといふ事それ自体がひとつひとつの恥をさらしてゆく事だと云へば云へなくもないのですから、今更らあらためてためらふ訳もない筈ですけれど、それでもやはり二十年の若き昔、自分があはれな自殺未遂者の一人であつたといふ事実は、いまなほ顔をそむけてゐたい思ひ出であり、かつは今迄一度もそれにふれる事がなくて過ぎてきましたのも、痛い傷にはできるだけさはるまいとする自分の弱さの一つなのでありませう。だがとにも角にもただ一すぢの道を死に於て見出し、まつしぐらにそれへ走つた者が、思ひがけなく生きて明日の太陽を見た時の心もち、——そのたとへやうもない虚しさはおなじ断層へ飛びこんだ人人のみが知るところのものであるかもしれませぬ。衆人環視の中に裸身のままひき出されてさんざんに打ち叩かれ、一切の感覚も思考力も失つてしまつたやうな、そのくせ羞恥ばかりは髪の毛のさきまでしみついてしまつたやうなその後の日日は、いま思ひ出してよく気がちがはずに過ぎた事だとそれがふしぎに感ぜられる程みじめなものでありました。  それにしてもなぜ自分は死なうと思つたのであらうか。ささやかながら生活の苦労は知らず、親もあり許嫁の人もあり、よき友よき師にかこまれて不足どころか恵まれすぎた境遇にありながら、突然死をえらんだ事は周囲の人人にとつて思はぬ驚愕であると同時に解きがたい謎でもあつたらしく、いくら考へても原因の見当らぬところから、つまりは若い女の気まぐれに過ぎぬとせられ、遂ひにはアブノーマルといふレツテルをはられて終りました。  人には申しませんが自分一人の胸のうちには、かずかず原因がかさなつてをりました事故、気まぐれの非常識のといふ非難にはおさへがたい憤りを抱かずにはゐられませんでしたが、しかし二十年後の今日つくづく思ひ返してみますと、やはり自分はある意味で非常識であつたと痛感されてまゐります。当時重大な原因とおもつたさまざまの事柄、それはいづれも枝葉末節にすぎなくて根本の原因はただ一つ、自分はそのやうに周囲の人人から愛されながら、しかし自分では人を愛する事を知らなかつた、敢て人のみではありませぬ、天地万物を真に愛するといふ事を知らなかつたため、遂ひには己れを生きて甲斐なきものと思ひこんでしまつたのであります。まことに愛こそは人間生活の源泉であり、しかも人はただ愛されるばかりでは生きられませぬ。愛する事を知つてはじめてほんたうに生活の正しい眼がひらかれるのではないかと存じます。これは実に平凡な真理で今更ら取りたてて申すまでもなくだれでもが承知のこと、古めかしいことを云ふと笑はれるかもしれませんが、ともあれ人間はとかく平凡な真理ほど忘れやすく、知りすぎる程知つてゐるといふ安心から、いつのまにやらそれを日常茶飯事のあひだに見失つてしまひ、そのくせ自分ではまちがひなくわかつてゐるとおもひこんで、気にもとめないやうな事が往往あり勝ちではないかとおもひます。私ども果していま現在、愛情に対する正しい認識をしつかりと握つてゐるでせうか。あなたはほんたうに己れを愛し人を愛することを御存じですかと問はれて、はいと即座に何の躊躇もなく確信をもつて答へ得る用意がまちがひなく出来てをりませうか。この頃の世情のさわがしさ。耳をおほひ顔をそむけたいやうな事柄がつぎからつぎへと捲きおこつて、暗雲空をおほふの感じ深きものがありますにつけてもいま一度、この愛情の問題をさまざまな面から考へてみたいと切実におもひます。  いふまでもなく当時は私にしましても、自分が愛情を知らぬなどとは夢にも思つてみたことがなかつた。自分は花を愛し犬を愛し人形を愛し、乞食にあつた夕べは御飯がのどをとほらぬ程、隣人愛に於ても欠けるところがないと自負し、自分を愛してくださる方方へは己れも亦おなじ愛情でむくいてゐるとのみ思ひました。だがふしぎな事にはいつからともなく私は周囲からそそがれる愛情に耐へがたい重荷を感ずるやうになり、そのままおなじ状態がつづけばいまにその愛情の重圧におされて息がとまつてしまひさうな焦躁感をさへ抱くやうになつたのでした。もちろんそれはよく云へば素直な、正しく批判すれば個性のない水のやうな自分の性格に起因する事でしたが、ちやうどイソツプ物語の中の驢馬を売りにゆく老人のやうに、徒らに人のいふ事ばかりききすぎて、四角な器にいれられれば四角なりに、三角なれば三角に丸ければ丸くそのまま器のなりに納まつてゐるため、相手の人も亦めいめいに、自分の好みに添うて私を育てようとしたのでありませう。私自身どのやうな花を咲かせる種子であるかを見とほす事なく、ある人は紅い花をよいとし、ある人は白い花を望み、ある人は紫の花を見ようとしてつねに親切な忠言を与へてくれたのですが、こちらは身一つで赤にも紫にも白にも咲けるわけがなく、どれか一つをえらばねばならぬとしても自分の本質はいづれにあるか、あの道もあぶないこの道も下品と、あまりにいましめられた結果は到頭自分のゆくべき本道がわからなくなつてしまつたのでした。誰もそれを悪意でしたのではない、皆が皆好意を持つて導かうとしてくれたのですが、そのせつかくの好意も私といふもののほんたうの素質を見ぬいての上ではなく、極言すればめいめいが魂のない人形を愛翫するやうな自己満足な愛情であつたため、私にとつては好意が逆に作用し、遂ひには死の究極にまで追ひつめられるやうな事にもなつたのですが、かやうな親切はなるほど一応は親切にちがひないやうなものの、果して真実の親切であるか否か、愛情は人を育てるべきものでこそあれ断じて殺すべきものではありませぬ。さればこれ等の忠言はすべて親切らしく見えながらその実よけいな「おせつかい」に過ぎなかつたと断言しても決して誤りではないでありませう。古往今来世の中にはいかにこの愛情の仮面をかぶつた「おせつかい」が大手をふつて横行濶歩してゐる事か。さうして又いかに多くの青年子女がその「おせつかい」の愛情になやまされ、すくすくと伸びゆく若芽を摘みとられふみにじられてしまふか。殊にこの誤まれる愛情は一番よく子供を知つてゐなければならぬ筈の母親に於て一番多く見出されるといふ事実、これは女であるわれわれのよくよく考へねばならぬ問題ではなからうかと思ひます。  あるひは世のお母さまがたは云はれるでありませう、私どもはそのやうなわからずやではないと。私たちは若い娘の頃、封建時代の遺風からぬけ出すためになみなみならぬ苦労をかさねてきた、犠牲も払つた、だからいま自分の子供に対して充分の理解を持つてゐるつもりであると。それはまつたくその通りにちがひありませぬ。だが日進月歩、時代はつねに休みなく動きつつあります。昨日のものさしをもつてしては今日の何ものをも計ることは出来ない。私ども果して今日の新しい世代をはかる正しいものさしを持つてゐるでせうか。わが子とともにいつも新しい時代の息吹きを吸ひとり、それに対する批判の眼をはつきりと見ひらいてゐるでせうか。母の愛情も亦時代とともにつねに新しく教育されねばなりませぬ。  あるひは又云はれるでありませう。女には母性愛といふ尊いものがある。それはあらゆる時とところを超えた絶対のものである以上、母の子に対する愛にまちがひのあるべき筈はないと。ああ母性愛! これこそはまことに曲者の中の曲者、仮面の中の仮面でなくて何でありませうぞ。敢て奇言を弄し人を驚かせるのではありませぬ、われ人ともにむかしからいかに母性愛の美名に眼をくらまされ、正しい批判を失つて幾多の悲劇を惹起したか、而していまもなほおなじ悲劇をくり返しつつあるか。いまこそこの仮面をひきむいて美名の下にかくされた本体を見極めるべきではないかと思はれる、一般に無雑作に信じられてゐる母性愛といふものが、果して純粋無垢のものであるかどうか、子に対して何等の報酬をも予期しない犠牲的精神にのみ終始するものであるかどうか考へてみたいと思ひます。いやそれよりもさきにまづ、母は何かの危険に際し身をもつて子をかばふと云はれてゐる本能愛についても一応注意を払つてみたいと思ひます。といふのは私どもデパートの特売場においてあまりにしばしば母親をもとめて泣き叫ぶ迷子に出会ひ、添寝の乳房で子供を圧死した母親の新聞記事を、いつまでも読まされるからであります。  最近の事ですが自動車に乗り中野昭和通りのせまい路を通つてをりましたところ、むかうから母親の手にひかれてきた三つぐらゐの小さな女の子が、どうしたはずみか突然母親の手を離れてちよこちよこと自動車の前へ駈け出し、あつと私は思はず腰を浮かせて、あぶないツと叫んだ刹那、自動車はぐぐつととまつて今度は私があぶなく胸を打つところでしたが、それで母親はと見るとこれ程の大事をも知らずに、そこの雑貨店のかざり窓を一心にのぞいてゐるのでした。あるひは夫のため子供のための何かを物色してゐたのかも知れませんが、それにしても自動車のくるのは見てゐた筈。このせまい通りで子供の手を離すとは何事ぞと、まあお母さんがついてゐながらどうしたのでせうと安堵のといきと共にもらした一ト言へ運転手はすぐ応じて、まつたく女ほどひどいものはありませんよ、いまのなんざまだいい方で、曲り角で不意に出あつた時なんかせつかくいままでひいてきた手を離して自分だけ逃げちまふのがありますからね。電車に轢かれたのなぞでもよくきくと大がいさうですね。それでいざ死なれてみると今度は気ちがひみたいに泣きわめくんだからいい気なもんですよ。落度はみんな轢いた方にあるやうな事になつてしまつてね。  この運転手は最早や四十すぎのいろいろの世の中を経てきた人間らしく、かうやつて毎日危ない車を運転してゐるものには女の無責任が実によくわかるといふのです。子供に対する愛情が女親の方がすぐれてゐるなどとはまるまる嘘の皮である、その証拠には試みに子供を連れて町を歩かして見るがよい。男親はかならず危険のない軒下の方を子供に歩かせて自分はしよつちゆう往来の方に気を配つてゐるけれど、女親ときたらどれもこれも例外なく自分が軒下の方を歩いて、かざり窓に見惚れてはつい手を離したりするものだからどうしても事故が起りやすい、「第一最初の心掛けからしてちがふんですからね、女なんかには安心して子供をまかせておけませんよ」  女であるところの私はこの運転手の体験から出た直言には返す言葉もなく、ただ苦笑をもつて聞き流すのみでしたが、この日の出来事は自分が眼のあたり見た事だけに深く身にしみわたるものがあつて、本能愛のいかに頼むべからざるものであるかをしみじみと感じさせられた次第でした。世間一般に本能愛即母性愛と見る向きが多く、それはどんな無智な女にもあるものとされてゐるやうですが、私の見た童女と母親の場合、又運転手が始終見馴れてゐる母親風景はいづれも明らかに彼女等の無智から来たものである事がうなづかれます。ここで私の申します無智、これは無教育の事ではありませぬ。教育ある母親のあひだにもかやうな無智は存在し、教育なき母親のあひだにも純粋の母の愛情を持つた人が多くあります。さき頃世上をさわがせた保険金搾取の母親などは、教育ある無智な母親の代表者とでも云ふべきでせうか。あの事件の発表されました折、あり得べからざる事と世人は色を失ひましたが、その驚きは今迄あまりに母性愛といふものを過信してゐたせゐでありませう。自から手は下さずとも下したと同様、誤まれる愛情からわが子を死地へおとしいれる母親のどんなに多いかを忘れてはならぬと思ひます。母親の偏愛が一家の中にかもし出す空気、ひいては社会におよぼす影響。私なども母親には気に入らぬ娘の一人で姉が十九で病死しました際、ああよい子は死んでわるい子が残つた、お前が姉さんの代りに死ねばよかつたのにと母から云はれました一言が、うら若い少女の胸にはどれ程つらく切なく応へましたことか。もちろん最愛の娘を失つて取り乱した際の言葉とはわかつてをりましても、その後ながく夢の中でいつも母からのどを締められ、又は刃物を持つて追はれる悪夢にうなされる事多く、おしまひには夢と現実との区別がはつきりしかねて、母の顔をまともに見られないやうな時代さへありました。  父は勉強せよと云ひ母は勉強など女には無益のわざであると云ふ。一家のうちにすでにこの意見の相違がありますのに、そとへ出れば又世人は待ちかまへて、ああでもないかうでもないと引き廻さうとする煩はしさ。たまたま自分の力で得た金をすら自分の思ひ通りには使へないやうなことさへあつて、世間といふもののうるささから逃れようとあせつた結果、たしかデカルトの言葉でしたらうか、「我れおもふ、故に我れあり」それを鵜のみにして穿きちがへ、我れあり故に太陽ありとそのあとへつづけて考へ、自分が眼をとぢれば太陽も滅し世界もなくなると、一図に死の道をえらんだ訳でしたが、さて偶然にも生命たすかつてあたりを見廻した際、第一にあたまへきましたのは、自分が死んでも太陽はあるといふ一事でした。まことに幼稚な書くもお恥しい考への混乱ですが、その時は実際にさう感じ、さうしてそれが又非常に新しい発見のやうに思はれもしたのです。そればかりではなく、万一私が生きかへらなかつた場合には、私の主治医であつた女医と看護婦とは自殺してお詫びをする覚悟であつたときかされて、はつと一時に心眼がひらけたやうに、自分の身は決して自分一人のものではなく、まちがひなく社会の一員である事を痛感したのでした。無責任な自分の行動があやふく二人の人を殺さうとしてゐたのかと気づいた時には、真実脊すぢがぞつとする寒気を催し、その二人の人が自決したあとのその家庭の方方へおよぼす波紋を思ひやると、それからそれへ唐草のやうにつながつた社会図がはつきりと浮みあがつてきて、生命とはそのやうに大切に守られてあるものかと思ひ、わがものにしてわがものにあらず、自分も亦責任をもつてわが生命を守つてゆかねばならぬと思つたのでありました。  わがものにしてわがものにあらず。この考へは又そのままに母親のわが子に対する愛情にうつし植ゑてまちがひはないとおもひます。むかし私の知つてをりましたある髪結さん、もちろん教育などある筈もなく、バケツをパキツだの西瓜をらつかだの感冒かぜがはやるのと勝手な言葉をこしらへて使ふ人でしたが、大切な一人息子が中学を卒業してアメリカへ行きたいと云ひ出した時「ふン、男の子だもの、やりたいだけの事をやつてみるサ」と何のみれんもなく、つましい暮しの中から貯めた貯金全部をひきおろし、それを持たせてさつさとアメリカへやつてしまつたのです。他人の方がかへつて心配して、さびしいでせうと慰めるのに、ごらんのとほり貧乏でろくな事もしてやれなかつたが、それでもまあ私どもの身分で中学だけは卒業させたのだから、これで幾分か親の役目も果したといふものさ、あとはあの子の考へ次第、腕一本で出世をしようと乞食にならうと、それとも亦碧い眼の嫁さんを連れて帰つて来ようと好きなやうにしたらいい。私はあの子の厄介にならうとは思つてゐないのだから。なんの子供を育てるのは親の役目さ。それが天道様への御奉公さ、息子は息子で又自分の子供を育てなければならないのだもの、親までしよひこんでたまるものかね。さう云つて煙草をくゆらす横顔にさすがに一抹のさびしさの漂ふのは見逃されませんでしたが、それにしてもよくもそこまで考へ到つたもの。育てられた恩返しに子は親に孝養をつくすべきものといふ考へがまだ一般の常識とされてゐた時代にこれだけの事を云つたのですからこの髪結さんなどはあるひはかくれたる新しき女の先駆者かもしれませぬ。それはさておきこのごろ仕事を持つた御婦人がたのあひだに、女は経済上の独立は出来ても精神上の独立は出来ないのではないかといふ事が問題とされてゐるやうですけれど、この髪結さんはそれをも三十年の昔に解決してゐる、もちろん感情の粗さもありませうが、この人はつね平生から夫や子供にたよらうとする考へはみぢんもなく、まつたく精神的にも独立して「天道様へ御奉公」といふ信念に安心立命を見出してゐたらしいのです。しかもこの人は夫にも子供にも実に細かく気がとどいて、留守の戸棚にはいつあけてみても何かうまいものが入れてあり、子供の着物はいつも小ざつぱりと糊がついてをりました。実にいそがしいからだで、とても自分では手を下してやつてゐられないのですが、人手ながらもいつもむらなくさういふ風に気を配つてゐる点、世の大方の母親の学ぶべきところすくなくはないと思はれます。  この髪結さんの息子は後年出世をしてアメリカから帰つてまゐりましたが、世界中で自分の母親ほどありがたい母親はないと云つてゐるのをききました。母がすこしも私慾のない純粋の愛情で愛したればこそ、子供の方でもまつすぐに愛する事を知つたのでありませう。この場合、愛するといふ言葉は生きると書きなほしておなじ事ですが、わが子をほんたうに愛するためには、わが子を正しく生かすためには母親は何よりもさきに自分自身精神的に独立する事、それが一ばん肝要なのではないかと思はれます。敢て子に対する道ばかりではありませぬ。夫に対してもそれは同様であつて、細君が精神的に独立してゐるとゐないとでは家庭の色彩といふものがまるでちがつてくる、私は以前からときどきふしぎに思つたのですが、女の経済上の独立といふ事は非常にやかましく云はれながら、精神上の独立といふ言葉を殆どきかないのはなぜであらう。あるひは私ども子供の時代にさういふ事が高称されてゐたけれども、何ぶんにもこれは眼に見えぬ心の中だけの問題であるところからツイごまかされやすく、いつのまにか皆がそれを家庭生活のあひだに取り落して忘れてしまつたのではないであらうか。もつとも経済上の独立のないものに真の精神上の独立もあり得ないといふ見地から、まづ経済問題の方がやかましく取りあげられたのかもしれないと思ひますが、さて女の経済上の能力がみとめられました今日となつては、同時に精神上の独立をも獲得する事が母として妻として正しい生き方であらうと思はれます、独立といつても何も一家の中で肘を張つて旦那さんと席を争ふのではありませぬ。むしろその反対に、家庭生活を滑らかにするため愛情の油をそそぐのであつてその油をまちがひなくそそぐためには精神上の独立が必要だといふ事になつてくるのであります。つづめて申せば女はもつと聰明になればよいので、聰明から出発してゐない愛情に純粋なもののあるべき道理がありませぬ。女ほど愛情のまん中に暮しながら愛情のわからないものはないと云はれ、女は悧口である、だが聰明ではないと云はれる事について、私ども自から省みるべき点がいろいろありはしないかと思はれるので御座います。  さき頃ちよつとききました話に、若い御夫婦の方で二人とも職業を持つてゐる家庭なさうですが、毎日の実に些細な事で女の方がなやんだあげく、いつそ別れようかそれとも自分の方が職業を捨てようかと思つてゐるといふ事をききましたが、その衝突の原因といふのが、旦那さんが実に鷹揚に奥さんを使ひたてる。自分は長火鉢の前に腰をすゑたきりで、オイ新聞とつてきてくれ、煙草もつてきてくれ、お茶をくれといふ調子で、奥さんがまたおとなしくハイハイと運んでゐるのださうですが、疲れてゐる時にはつい腹のたつ事もあつて思はず、あたしだつて働いてるんですよと口走ると、働いてるのがどうしたといふやうな事から喧嘩がおきるのださうですが、私はそれをききながら悧口ではあるが聰明でないといふ言葉をおもひ出して何かヒヤリとした気もちがしたのでした。女がそとに出て一人前の職業婦人でありながら、家へ帰つてはやはり昔ながらのやさしい妻のつとめを果さうとする。それは一応うるはしい愛情のやうに見えながら実はこれ程おろかな生活態度はないので、それでは女の方が疲れてゐる上にも疲れて二重の負担を負ふ事になり、果てはヒステリツクに、あたしも働いてるんですよと云はでもの事を口に出してますます自分を低くするばかり、夫も妻もそれで幸福になれよう筈がありませぬ。夫といへども完全に手足はついてゐるのですから、自分のものは自分で始末すべきであつて、妻がそれに手を出すのはよけいなおせつかいに過ぎず、そのまちがつた奉仕癖が遂ひにはせつかくの家庭を破壊するやうなことにまでなつてしまふのです。殊に女が職業を持つてゐる事に何か特殊な優越を感じ、その自分が家庭では夫への奉仕にも欠けるところがないと二重の優越感を抱くとすれば、女にとつてこれくらゐ危険な事はないでありませう。なぜと云つて男はどんなヤクザな男でも、そとで働いてきて俺は働いてきたのだと恩にきせるやうな事は云ひませぬ。働く事を当然としてゐるのにひきかへて、職業を持つ女はなぜか働く事を特殊なものに思ひやすい、私は働いてゐるのだからといふ気もちがとかく先きだちやすいのは、身をもつて女の生活の浅さを証明するやうなものでなぜ女も男と同様に、働く事を当然と思ひ得ないであろうか。悧口ではあるが聰明でないといふ言葉は、実に女の痛いところをぴしつと打つて容赦がありませぬ。  さて思はぬ方へ筆がそれ、愛情の問題がいつか下積みとなりました事、まことに日常生活における女の姿とおなじで我れながら苦笑を禁じ得ませんが、ひろげたまま行衛不明になりましたさまざまな事柄につきましては他日又記す機会もあらうと存じ、いま一度デカルトの言葉を自分勝手に借用してこの小文を終らうとおもひます。「我れ愛す、故に我れあり」   ふるさとの若き女性へ  札幌山鼻教会の聖合唱団の中から二人の大へん若い作曲家を出したといふ記事を何かで読んで、すぐその方のお名前と曲の名をひかへておいたのに、その紙片れをどこへやつてしまつたのか、いくら探しても見当らない。音楽の知識がまるきりないので、それを失つては何も云へず、又ラヂオがきらひできいた事がないからその作品がいつ放送されたのかもわからないのだけれど、とにかく素晴らしい事だと思つて興奮した気持だけはいまもなほ変りなくつづいてゐる。ひよつとするとその方方のお母さまと自分とがおなじ小学校に通つた事がありはしまいか。それともあの落葉松の垣根の中の女学校で顔をあはせた事がなかつたであらうかなどと考へて一層なつかしかつたが、さういふ素晴らしい青年たちの生れた札幌にはやはり素晴らしい少女たちが住んでゐるにちがひないと思つてうれしかつた。札幌といふ町が日本の都市の中でも際立つて特異な美しさを持つてゐるといふ事はもう誰でも知つてゐるけれど、そこに住む若人たちの性格にも又おなじやうな美しさのある事はまだ殆ど知られてゐないやうに思ふ。  何と云つても明治維新と一しよに生れたやうな町だから伝統といふものは何もなく、私などでも若い頃にはそれが一ばんさびしく、自分の感情まで粗くなるやうでまだ見ぬ内地の柔らかさに憧れたものであつた。流浪者の子供といふ気もちがいつも胸にこたへて佗しかつたが、いまではやはりあのやうな新鮮な土地に生れ、あの激しい気候にもまれた事を、幸福であつたと思つてゐる。今年は東京も冬がきびしくて、やうやくといふ思ひで春になつたせゐか、此頃は毎日垣根のそとをちんどんやが通り、そのあとから近じよのちひさな子供たちが隊を組んで、あなたと呼べばとうたひながら歩いてゆくが、札幌ももう雪が消えて、小さな人たちは半年ぶりに足もとからたつ土埃を、さぞ楽しんでゐるであらうとなつかしい。私たちがちひさい時には精一杯胸を張つて、主われを愛すと讃美歌を讃美歌とも知らずにうたつて歩いたが、いまの子供はどんな歌をうたつてゐるであらうか。離れてひさしふるさとの並樹の花のアカシヤの白い垂り花に、いま一度頬をふれてみたい思ひが胸を切なくする。  南一条東四丁目、——さういふところに私は生れた。西は円山公園の方へ十何丁目といくらでものびてゐるけれど、東はわづか五丁目六丁目で豊平川に区切られ、川の向うは豊平村となつてゐた。豊平川は淵もあり瀬もあり河原もあつて相当大きな川なのに、その水の色の美しさはまるで泉のやうにいつもすきとほつて清らかであつた。冬のうちは一面にうす氷が張りつめてひつそりとしてゐるが、春先きの一夜突然溢れるやうな水音が枕にひびいてきて夢をやぶられる事があつた。山の雪がとけてなだれ落ち、一夜に水量がますのであつたが、それは春のあしおとにしてはあまりに荒荒しく激しくて、私たちは歓びよりもむしろ恐怖にちかい感情を抱かせられた。よその土地ではしのびやかに軽くくすぐるやうに一日づつ近づいてくる春が、札幌ではこんな風にしてちやうど洪水のやうにただ一夜でやつてくるのである。あらゆる樹樹が一時に芽をつけ葉を出し花を咲かせる。一時に草が萌えたんぽぽが咲きたんぽぽの綿毛がとぶ。学校の垣根の落葉松は青青と色づき、青くなつたとおもふともう枝をそろへねばならぬほど伸びてしまふ。何もかもが一時にぐんぐんといふ勢で伸びてゆく目覚ましさは。  だが私たちの性格にもいつかさういふひたむきなものを養ひ、長い冬の耐へがたい重たさにも耐へてきた私たちは、しらずしらず落葉松のやうななだらかな抵抗法をも会得してしまふ。きびしい寒さの中にまるで枯れ切つたやうに見えながら、新しい芽はいつも油断なくその奥深く用意されてある。私たちはどんな圧迫の中にあつてもいつも自分の生活に希望を失はず、ひたすらに上向く心を持つてゐるらしい。  自然がそこに伸びる樹木や果実とおなじやうに、少女たちをも育てるのであらう。私の瞼にうかぶ札幌の少女は夏林檎のやうにほのぼのと肌白く、頬はさくらんぼのやうに染まつて、苺のやうに情味の深い唇をしてゐる。さつと林檎をくだいたやうな涼しい匂ひを持つてゐる。さうしてその眼は、心の窓といはれる眼は八月の空をのぞいたやうに深く澄みわたつてゐるのである。  札幌を見た事のない人にはいくら云つてもあの空の深さとひろさがわからないやうに、札幌にだけ住んでゐるあなた方にもまだ自分自身の眼の美しさはほんたうにわかつてゐないかもしれない。私などでもまへには、女の眼の澄んでゐる事は当然と思つて気にも留めなかつたのを、東京へ出て初めて澄んだ瞳のすくない事に驚き、大阪へ行つて更に濁りない眼は暗夜の星のやうに貴いものである事を知つたのであつた。関西の女の人はよく眼を伏せて話をするけれども、札幌の少女の眼はいつもぱつちりと輝いてゐる。もしいまのあなた方のあひだに物思はしく眼をふせる事がはやるとすれば、それはあなた方自身を見失ふ一ばん不愉快な流行である。あなた方の字引に卑屈といふ字はなかつた筈である。私たち少女の頃なにか思ふ時には顔をあげ、空を仰ぎながら考へたものであつた。私はさういふ少女の中の一人として、小学一年から同窓の素木しづ子といふ友だちを思ひ出すのだけれど、その名前はあなた方のお母さまの耳にも親しい事であらう。おしづさんは十八の若さで片脚を失ひ、胸にも病ひを持ちながら健気にも一管の筆で起ちあがつた人である。「黄昏の家の人人」といふ詩情豊かな作品を書いて、第二の一葉とうたはれながらわづか二十四で逝つてしまつた。そのおしづさんが画家の上野山清貢さんと結婚して、結婚して後も上野山さん上野山さんと呼んでゐるのを、をかしいと笑つた人があつておしづさんは私に憤慨したものであつた。「だつて上野山さんは上野山さんぢやないの、ねえ。それを結婚したから急にあなたと云はなけれやならないなんて、それこそへんぢやないの」  夫婦生活はおしづさんにとつて、征服者と被征服者の毎日ではなくどこまでも対等な友だち同志の暮しであつたのだけれど、因襲にとらはれた世間の人にはそれが奇異に思はれもしたのである。私たちにはおしづさんの態度の方が自然でよかつた。いまの若いあなた方もおそらくさういふ風に、すくすくと曲みなく育つてゐられる事と思ふ。  芥川さんがマヨネエズをかけて喰べたいと云はれた博物館の芝生も、いま頃は鮮やかな緑にもえてゐる事であらう。十七年のあひだ朝夕に見なれた藻岩山も紫にかすんでゐる事であらう。いつか三角山のスロープを夢に見て、さめてから後しばらく涙がとまらなかつたが、ふるさとの町はそんなにもなつかしくいつも心に生きてゐるらしい。ゆさゆさと豊かに揺れる楡の大樹、あの大らかな葉ずれの音をいま一度聞きにゆきたい。  まつすぐな道路とおなじやうにあなた方もまつすぐな心を持ち、その清らかな澄んだ瞳をいつもはつきりとみひらいて、怖れずたじろがず真理をもとめてほしいと思ふ。アカシヤの花やリラの匂ひを身に吸ひとつて香り高い女性となつてほしいと思ふ。あなた方は人に媚びる事を知らないけれど、あなた方の情熱は、さう、私はむかし雪の夜半に赤煉瓦の道庁の焼けるのを見た事があつたが、氷に燃えるあの火華の美しさはそのままあなた方の情熱ではないかと思ふ。  ふるさとの若いあなた方に期待する事の愉しさ。女は郷土色が強ければ強いほど女として勝れてゐる。いつも自由で新鮮なあの町に生れたあなた方はどんな道を進まれる事であらうか。それを思ふのは愉しい。 この作品は昭和二十六年十一月新潮文庫版が刊行された。 Shincho Online Books for T-Time    もめん随筆 発行  2002年5月3日 著者  森田 たま 発行者 佐藤隆信 発行所 株式会社新潮社     〒162-8711 東京都新宿区矢来町71     e-mail: old-info@shinchosha.co.jp     URL: http://www.webshincho.com ISBN4-10-861185-3 C0893 (C)Noriyuki Kanayama 1951, Coded in Japan