森 瑤子 風物語  目 次 1 都会の風だった 潮の匂《にお》いのする懐しいあの風が もはや当分自分とは無縁になるのかもしれないと思うと 加世子は通りの真中で思わず立ちすくんだ 2 もしも車を高速で飛ばせば 間にあうかもしれない という思いもあった たとえ彼には逢《あ》えなくとも 彼を乗せた飛行機が飛び立つ瞬間には ぎりぎり間にあう 3 加世子は食卓の上の汚れものを キッチンの流しに運ぶと 黙って洗いだした 不意に涙が溢《あふ》れて澪《こぼ》れ落ちたが それが誰のために流す涙なのか 4 枕元《まくらもと》のスタンドを消すと 暗闇《くらやみ》の中で ぼうぜんと座っていた 娘から見放された自分と夫は 当然のむくいを受けたのだ 娘の心を傷つけてきた共犯のよしみだった 5 青山のマンションへの引越しに思いを馳《は》せた 篠田がジャガーのスピードを緩めてレストランの駐車場に乗り入れると 潮の匂いが一段と激しく 波の音がした 6 期限つきの恋愛なら それも仕方ないだろう 二人が別れられなかったら 加世子の躰《からだ》がぐらりと揺れた 不安と焦燥と嫉妬《しつと》の感情が 彼女を呑《の》みこみ始めた 7 加世子はその夜二人の女のことを考えながら 床についた 一人はロンドンで潤一郎と暮すパトリシア もう一人は藤野が再婚したいと望んでいる今村京子 8 病院を後にすると 前庭の駐車場には初冬の不透明な夕日が 斜めに射《さ》していた 風のない おだやかな夕暮れだった 淡い一日の終りの陽光は微《かす》かに肌を温めた 9 乾いた冷たい風が街に吹く 人々は何ごとかにせきたてられて せかせかと歩いていく あの陽気なジングルベルの鈴の音は なんと薄汚れて耳に聞こえることだろう 10 まさか三人が同じマンションに寝泊りするわけにはいかない 加世子は潤一郎が同棲《どうせい》中のパトリシアを同伴で帰国する前日に 実家に入用な身のまわりのものを移した 11 自分はこの愛を放棄したのだろうか 放棄しようとしているのだろうか 潤一郎は何ひとつ確約しなかったし 彼女を安心させるような言葉さえ残して行かなかった     1  ほとんど終日|凪《な》いでいた海上に、日が沈みだす頃《ころ》から風が吹きだした。  太平洋に迫《せ》りだしている半島の突端では、いつもだしぬけに風が起こる。最初の一陣が顔を掠《かす》めたと思ったら、海上にはもう無数の棘《とげ》のような白浪《しらなみ》が立っている。一陣また一陣と軽やかに疾走する風が小高い丘までくると、樹木が囁《ささや》くような葉音をたてた。春先の夕暮れ時に吹きだす風は、いたって優しい。 「風がくると言ったろう。やっぱり予想した通りだった」 「私はまさかと言ったのよね。そんな気配は微塵《みじん》もなかったもの」 「気配はあったさ。きみが注意していなかっただけだ。風が吹きだす少し前に、潮の匂《にお》いが一段と濃くなる。それが風の予告だ。あとは一気にくる。ごらんのとおりだよ」  寛《くつろ》いだ男女の会話を、風が口元からさらっていく。  週末が終ろうとしていた。  宵《よい》の口のおぼつかない光があるうちに、残った食料品や身のまわりのものを詰めた小さなスーツケースをガレージの車に運びこむ。三人とも少しずつ沈黙がちになって、最後の一瞥《いちべつ》を、食堂や寝室に通じるドアの上に投げかける。  今週もとても楽しかったから、潮風でいたんでしまった板壁や、すっかりさびた蝶番《ちようつがい》や、色あせたペーズリー模様のカーテンのひとつひとつ、襞《ひだ》の一枚一枚に、口づけをして廻《まわ》りたいくらい。  そうするかわりに加世子は、サキの痩《や》せて骨ばった小さな肩に手を置いて、「出発!」と明るい声で言った。十一歳になる彼女の娘は、軽く肩をひねって母の手から逃れると先に立って仄暗《ほのぐら》くなった表へ走り出ていく。  だんだんむずかしい年頃《としごろ》になると、加世子はサキのスカートが海からの風にひるがえるのを眺めながら溜息《ためいき》をついた。いきなり抱きついてくるかと思うと、今のようにこちらの手の中から旋風《つむじかぜ》のように逃げていく。いつまでもあの子と別々に住むのは良くないのだ。今年中にはなんとかしなくては。彼だってその点についてはわかっていてくれる。問題は二人の関係だけ。サキと潤一郎との。多分大丈夫だろう。サキはまだ自分の方からは彼に話しかけないが、潤一郎が声をかければ、うんとかはいとか返事だけはするようになった。最初の頃にくらべればよほどの進歩といわなくては。少なくともサキに敵意のようなものがなくなっただけでも救いだと思わなくては。あとは時間の問題だ。こうやって、何回も週末を三人で一緒に過ごしているうちに、解決の兆しが見えてくるだろう。 「戸閉《とじま》りはもういいの?」  加世子がいつまでも家の中から出て来ないのを案じて、潤一郎が車のところから引き返して来て、言った。 「来週は多分、僕の都合がつかないから、ガスの元栓も閉めておいた方がいい」 「ちゃんと閉めたわ。いつも元栓閉めるのよ。さあ、行きましょう」来週彼はどうして都合がつかないのだろうと、頭の隅《すみ》で考えながら、そう加世子が答えた。  二人は並んで、雲間からのぞき始めた星の下をゆっくりとガレージに向った。セドリックの車内|灯《とう》がついていて、後座席に座っているサキの白い横顔が見えている。いつもあんなふうに、加世子の座る助手席のまうしろに、扉にぴったりと身を寄せて、あの子は座る。灯台からの光の帯が、十二秒ごとにめぐってきて、一瞬あたりの風景を白々と浮び上らせておいて、次には更に深い闇《やみ》の中に置き去りにしていってしまう。車も、レンガのパティオも、潮と風雨に荒らされた崖《がけ》っぷちの潤一郎の週末の家も、彼の横顔も、温かい大きな手も、加世子自身も、パッと照らし出されて、暗闇の中に捨てられる。右手下に広がる海上に、船の灯《あかり》がひとつ。陽《ひ》のあるうちに帰りそびれたヨットだろう。潮風は南の方から吹いてくる。春が近い。暖かい雨の、湿った気配もする。  だしぬけに、加世子は幸せだと感じた。何の脈絡もなく、その思いが躰《からだ》の奥から突き上げて来て、彼女の足もとをよろめかせた。潤一郎の手が咄嗟《とつさ》に伸びて、彼女の腕を支えた。 「どうした?」  彼女は自分の腕に置かれた彼の手の上に、彼女自身のもう一方の手を重ねて、微笑《ほほえ》んだ。一体どうやって、この気持を伝えたらいいのかしら? どんな言葉を使ったら、幸福という言葉が彼の耳に唐突に聞こえないですむのだろうか。南の水平線から吹いてきた一陣の疾風がもたらせた目眩《めまい》。幸福の予感。そうなのだ、今度こそ幸福にならなくては。 「だんだん季節が良くなってくるわね。春になって、夏になるのが待ちどおしいわ。いいえ、来週のウイークエンドでさえ待ちどおしくて待てないくらいよ。私、ここがとても好きなの」  潤一郎が無言のまま、慰めるように彼女の腕においた手に力をこめた。 「あら、来週だめだったのよね」軽い失望が声に滲《にじ》んだ。「どうしてだめなの?」  潤一郎の手が、離れる。彼は立ち止り、車の中のサキの顔に視線を注いだ。 「あの子は、ほんとうに楽しんだのかな」加世子の質問が聞こえなかったはずはないのに。ポツリと、彼は言った。 「もちろんよ。サキの瞳《ひとみ》の輝きをみればわかるわ。あの子、週末をそれは楽しみにしてるのよ、あなたを、だんだんに好きになるみたい」 「それなら、よかった」潤一郎は再び歩きだす。「じゃ来週はきみたち二人で来ればいいさ。車はきみが使えばいい」  昇ってきたばかりの三日月を、流れる雲が隠したので、急に闇が深くなった。理屈抜きの幸福感が、訪れたと同じ唐突さで、彼女の中で凋《しぼ》んでいく。潤一郎が開けてくれたドアから、車の助手席へ滑りこみながら加世子が呟《つぶや》く。あなたがいない週末なんて、つまらない。  車が動きだしてからも、胸の中がざわついていた。なぜかしら。潤一郎と過ごせない週末のせいだろうか。でもこれまでにだって何度か、そういうことはあった。社用にしろ私用にしろ、働き盛りの男が週末の全《すべ》てを自由に使えるはずはなかった。そうじゃない。加世子の胸を騒がせるのは、別のことだ。なぜ、彼は質問に答えなかったのだろうか。あんなふうに、さり気なく、質問をかわしたけど、そのさり気なさゆえに、逆に疑惑がつのる。  きっと思いすごしだと、加世子は自分の心を笑った。だって、この週末もあんなに素敵だったんですもの。——窓から射《さ》しこむ淡い月光に、彼女の裸体は象牙《ぞうげ》色に染っていた。彼の燃えるような重い手に焼かれ、熱い乾いた唇《くちびる》が押しつけられるたびに、象牙色の躰は点々とバラ色のアザをつけた。寝室の窓からは夜の相模《さがみ》湾がまるで一枚の銀色の布のように横たわるのが見えていた。彼と彼女はたゆたう小舟のように、大海原の中へと手に手をとって漕《こ》ぎだしていった。次から次へと打ち寄せてくる波に打ち砕かれ、ばらばらになり、それでも漕ぐことを止《や》めなかった。やがて彼女は牙《きば》をむき、爪《つめ》をたてて、長い悲しい動物の雄叫《おたけ》びのような——実際には隣室にサキがいたので声をあげはしなかったけど——声にならない悲鳴をあげながら、深い海中へと急速に落下していった。彼は、何度も何度も海底から彼女を引き上げて、怒ったように又はひどく傷ついた人のように、彼女を犯した。なぜ、一体どういう理由で。まるで迫《せ》きたてられ、追われる人のようだった。あるいは性愛の中に、求める解答でも隠されているかのように、震える指でそれをまさぐり続けた。結局、欲しいものを彼は手に入れたのだろうか。あるいは、彼が得たものは、死のような深い眠り。完璧《かんぺき》な眠り。それだけだったのかもしれない。満たされて、彼女は、幸せだった。恐《こわ》いほど、哀《かな》しいほど、幸せだった。 「サキが眠っている。風邪《かぜ》をひくといけないから、何か掛けてやったほうがいい」  潤一郎がバックミラーの中へ眼《め》をやって、静かな声でそう言った。  淡島《あわしま》の加世子の実家の前に、車が停《とま》る。 「サキちゃん、いいこと? ベッドに入る前に歯を磨くのよ。おばあちゃまに言われなくとも、ちゃんとしてね」加世子は娘が車から降りるのに手を貸しながら言う。 「ママはいつも同じことばかり言う。よくあきないね」サキが小声で憎まれ口を返す。加世子はそれを無視して、「佐々木さんにおやすみなさいは?」と柔らかく娘の肩を押す。  サキはちらと運転席の母の愛人を一瞥したが、口は結ばれたままだ。 「おやすみ、また今度ね」潤一郎が少しも媚《こ》びのない声で、サキに言った。子供に媚びないところが、このひとの良いところだ、と加世子は思う。サキが身をひるがえして、実家の裏門の中へ消える。まるで怯《おび》えた小動物のようだ。 「ろくに挨拶《あいさつ》もできないなんて、情けないわ」加世子が言い繕《つくろ》った。 「できないわけでもないさ。する時がくれば、いちいち言わなくてもやるようになるよ」 「少し待っていてくれる? 母の顔をちょっと見てくるから」 「たまには、ちょっとでなくゆっくり顔見てくればいいのに。僕の方はかまわない」 「いいのよ。長くいるとすぐ愚痴が始まるんですもの」 「愚痴を聞いてやるのも親孝行のうちだよ」 「そうだけど。やっぱり今夜は止めておくわ。せっかくの楽しかった週末が、最後に来て台無しになっちゃうもの。すぐ戻るわ」  そう言って足早にサキの後を追う加世子の背に、潤一郎が重ねて言った。 「泊りたければ、泊ったらいいのに」  今夜にかぎってなぜ彼がそんなに、このことにこだわるのかと思いながら、加世子は手を否定的に振って、自分の意志を伝えた。  茶の間に上ると、加世子の母はNHKの大河ドラマを見ている。 「あいかわらずね」 「何が?」画面から眼を外《はず》さずに、母はおうむ返しに訊《き》いた。 「別に。いいのよ、じゃね、お母さん。サキをお願いしますね。多分来週末こっちに泊るわ。その時、いろいろと」  母親がようやくテレビから視線を剥《は》がすようにして、三十四歳になる娘を見たが、「泊るなんて珍しいわね」と言うと、再びひどく大仰《おおぎよう》で固い演技ばかりが目立つ時代劇の方へ注意をむけた。その疲れと老いとで寂しげに見える横顔に、わざとおどけて敬礼の仕種《しぐさ》をしておいて、加世子は実家を辞した。母を引きとって楽をさせてやるのが筋道なのに、自分はまだこの年になっても楽をさせてやるどころか逆に孫まで押しつけている。もうちょっと待ってよね、お母さん。今、幸せをつかみかけているんだから、きっとつかんでみせるから。今度こそ、きっと。  セドリックの助手席に滑りこむと、佐々木潤一郎が訊いた。 「どうだった?」 「ええ。母がよろしくって」  加世子はさり気なく嘘《うそ》をつき、彼もそれが罪のない嘘であることを見抜いた上で、うなずいて車をスタートさせた。母は何も彼を毛嫌いして会おうとしないのではない。ただ、加世子が前夫との離婚が成立してもいないのに、別の男と夫婦同然のつきあいを始めてしまったということに、反感を抱いているのだった。最初はサキをまきこむのにも良い顔をしなかった。  それどころか、「わたしの孫を、そんなふしだらな関係の共犯者にしないでもらいたいね」と、加世子の痛いところを激しく突いたりした。  サキが潤一郎の三浦《みうら》の別荘へ連れていかれるのは、たまの週末だけだったので辛うじて黙認していたが、娘の恋愛にはあいかわらずそっけなかった。 「それはそうと、今晩どうする?」  淡島通りを渋谷《しぶや》に向いながら、潤一郎がふいに質問した。 「どうするって?」  質問の本意をつかみそこねて、加世子が訊《たず》ねかえした。 「僕のところに来る?」  加世子は思わず、運転席の恋人の横顔を見た。何時《いつ》だって週末海の家で過ごした後は、そのまま彼の青山《あおやま》のマンションに直行するではないか。何もわざわざ改まって聞くほどのこともない。反対車線を走ってくる対向車のライトを浴びて、潤一郎の鋭角の横顔が、こころなしか青白く強《こわ》ばっている。 「そのつもりだったけど」と瞹眛《あいまい》に彼女はフロントグラスの中に視線を戻しながら答えた。  厳密には同棲《どうせい》してはいないが、加世子の家が池袋《いけぶくろ》の先にあるので、三浦半島からの長いドライブのあと、更に彼女を池袋へ送って青山に帰るのはめんどうだということで、日曜の遠出の後は青山に泊るのがほとんどこの六か月あまりの習慣のようになっていたのだ。 「都合が悪いのなら、私——」と、言いかけると、潤一郎はあわてて、「いや、そんなことはない」と、ハンドルを握り直した。「別に都合が悪いわけじゃない。ちょっと聞いてみただけさ。きみにだって何か予定があるかもしれないと思ったまでだよ」  前方の信号が黄色になったので、そのまま強引に道を突っきってしまおうと、彼はアクセルを踏み込み、「ただ——」と呟きかけたが、そのまま運転の方に注意をむけてしまった。 「ただ、なあに?」  日曜の夜、加世子に別の予定などありはしない。日曜にかぎらず、加世子には潤一郎に関する以外のことで、予定などないし、そんなものは作りたくもないと思った。やっぱり、最初の頃に彼が提案したように、潤一郎のところへ移り住んでしまうことを真剣に考えた方がいい。そろそろ池袋の家の処分についても本腰を入れなくては。  ところが土地は加世子の亡くなった父親から彼女に相続されたものだが、その上に建てた家は、別居中の夫の名義になっていた。そのことでも、あのひとに逢《あ》って話をしなければならないと考えると、彼女はひどく憂鬱《ゆううつ》になるのだった。結局、夫は離婚届けには簡単には印を押さないだろう。家も処分する気はないと、男の意地と沽券《こけん》で態度を硬化させるのは目に見えている。原因はむろんそれだけではない。夫婦が駄目になるというのは、双方に問題があったのだ。それがもつれにもつれて、他人のうかがいしれないみぞを広げる。自由になるために、どんな代償を払ったら良いのだろうか。たとえ土地を夫にくれてやっても、今はその自由が欲しかった。 「ね、何か言いかけたじゃない、あなた。なんなの?」  少し暗くなった眼つきで、彼女は前方を凝視したまま潤一郎に再び話しかけた。今夜にかぎって、彼は少し変だ。いつもの彼らしくない。どこがどうとはうまく言えないが、たとえば今みたいに何か言いかけて、そのまま止めてしまったりする。 「そうだったっけ? 忘れてしまったよ。たいしたことじゃないさ、どうせ」  案の定、そう言って、何か考え事のある時のくせで、左手の親指の爪を噛《か》み始める。そんな時の彼は、急に少年のような表情になる。三十八歳の男の中に彷彿《ほうふつ》する少年の面影を見ると、加世子の胸はいつも理屈ぬきに愛情で一杯になってしまうのだった。 「変なひと」ほとんど愛撫《あいぶ》するような声で彼女は言った。「ほんとうに変よ」 「何が?」少し上の空に男は訊き返す。見憶《みおぼ》えのある店が両側にちらつき始める。青山の彼のマンションはその先を左に入ったところだった。 「何がって——何もかも」それほど深刻に思いつめていたわけではなかったので、彼女はドライブの終りに近づいた安堵《あんど》から、助手席の中でわざとのびをしてアクビを噛み殺しながら、何気なく言った。「淡島の家に一泊させたがったり、今も池袋へ追い返そうとしたり」わざと冗談めかしてそんなふうに言ったのは、彼が笑いながら、「バカだな、何もそんなつもりはないよ」と直《ただ》ちに打ち消してくれることを信じて疑わなかったからだった。ところが期待に反して、潤一郎は眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》を寄せると表情をくもらせた。そして固く口をつぐんだままマンションの地下駐車場に車を進めたので、加世子はなんだかひどく傷つけられたような、あるいは、たとえば濡《ぬ》れた手を、拭《ふ》くものがないためにいつまでも濡れたままにしておく時のような、不快な感覚を味わった。彼は無言のままキイをひきぬいた。すぐには車から降りようとはせず、そのまま夜の地下駐車場の静寂にじっと聞き耳をたてるような、そんな姿勢のままじっとしている。  エンジンを切ってしまったので、周囲のコンクリートの冷たさが、じわじわと這《は》いこんでくるようだった。彼女は六階上にある彼の部屋の温《ぬく》もりを思った。ふかふかしたクッションや、暖かそうな木目の家具や、居心地の良い東南アジア製のラタンの椅子《いす》や、食堂の窓から見渡せる夜の街のきらびやかな光景などが次々と瞼《まぶた》に浮んだ。するとこの駐車場の非人間的な冷たさ、味気なさが身にしみた。まるで死体置場か墓場みたいだ。六階の部屋がはるか遠くに感じられる。一体潤一郎は何をぐずぐずしているのだろう。  そう考えて、うながすように彼を見上げたのと、彼が口を開いたのと、ほとんど同時だった。 「実は、前々からきみに話そうと思っていたんだが」と、言って彼はまるでどこかが痛むかのように顔をしかめた。その声の調子から、何か重大なことが語られようとしていることが感じられた。重大な事を話すのに、どうして私の眼を見ないのかしら。加世子は緊張して待った。  実際には数秒の間でしかなかったろうが、彼女には十分にも三十分にも思われた。良いことかしら、悪いことかしら。良いことなら、彼はもっと楽しそうにしているはずだ。とすると、悪いニュースなのだ。  サキの小さな不安な顔が浮んだ。それに母親の延子の、それごらんというような苦笑まじりの諦《あきら》めの表情が重なる。 「はっきりしてからの方が良いと思って、話すのを延ばしていたんだが」ツイードの上着のポケットからポールモルの紙袋をとりだして、潤一郎はまたしても一呼吸おいた。  前置きばかりで、肝心なことが中々口をついて出ない。緊張がつのって加世子の胃がひきつれる。 「良いニュースじゃなさそうね」  車の中に沈黙が流れる。 「考えようによっては」と、潤一郎が考え深い声で言った。「良いニュースだと僕は思うよ。少なくとも、良いニュースだったと後で言えるかどうかは努力次第だよ、僕たち二人の」 「じゃ、話して」覚悟をきめて、加世子は椅子に背を沈めて眼を閉じた。 「ロンドン赴任の辞令が出たんだ」潤一郎は短く必要なことだけを喋《しやべ》った。そのために言葉は宣告のように無慈悲に響いた。 「長い間?」感情をできるだけ交えずに彼女は訊いた。 「とりあえず、一年」 「とりあえず?」 「つまり一年したらひとまず帰国して、こちらの問題を整理して、それから今度は本格的に長期の転勤になると思うんだ」  加世子は生唾《なまつば》を呑《の》みこんだ。しかし上手《うま》く呑みこめず、まるで数個の画鋲《がびよう》のように喉《のど》に何か固いものが突き刺さった。これは、別れ話なのだろうか。それとも別れ話は一年後まで保留ということなのか。 「一年して、こちらの問題を整理するという中に、私のことも含まれるのかしら」質問というよりは、かぼそい悲鳴のような声。 「整理するという言葉が適切ではなかったかもしれない。もっと建設的な意味をこめて言ったつもりだよ」潤一郎はそこで加世子の眼の中を覗《のぞ》きこんだ。「確かにそうだよ。一年して戻った時には、きみとのこともきちんとして、次に赴任する際には妻として同伴したいと思っている。もっとも、きみの考えはまだ聞いていないけどね」 「だって、あなたまだ、私にプロポーズもしてくれていないじゃないの」  普通の時なら、その言葉はジョークとして笑えただろう。しかし、その時、ジョークになりそこなったその言葉は、固く、ぎこちなく二人の耳に響いた。 「人の奥さんにプロポーズするわけにはいかないからな」  彼も又、会話を笑いにすりかえることに失敗した。重い空気が流れた。 「だけど、人の奥さんとはあなた、平気で寝るくせに」  潤一郎は低く声を出して笑い、加世子もつられて笑った。笑いは固く、すぐに不自然に途切れた。 「この一年を、反省も含めて、僕たちの関係をいい方向にもっていくための準備期間だ、というふうに考えれば、——そんなに悪くはないさ」少しして潤一郎が口調を変えた。  あるいは、冷却期間というふうにも考えられるわけだ、と、加世子はわざと皮肉に考える。一年も、どうして彼と離れて暮せるだろう。そして、一年の後に彼が自分の手元に戻ってくるという保証は、どこにあるのだろう。そんなものはありはしない。人の心を繋《つな》ぎ止める鎖など、存在しない。もしかしたら、愛がその鎖なのかもしれないが、愛が鎖のように感じられるとしたら、こんなに切ないことはない。 「そうね。一年もあれば私の方の問題も解決できるだろうし」  そして一年もあれば、様々な新しい事態だって起こり得るわけだ。離婚はしました。その代償に家も土地も失いました。その上に、帰ってくるはずの潤一郎が、戻らなかったら? 一年のうちには、色々なことがあり、たくさんの出逢《であ》いがあり、そして心変りが、ある。 「頼むよ。是非そうしてもらいたい」潤一郎は力強く言って、加世子の肩を抱き寄せた。「そのときこそ、きみは僕のものだよ。いいね?」  何度もうなずきながら孤独な気がしてならなかった。置いて行かれる、私は置き去りにされるのだという被害者意識が胸に渦巻いて、彼女を苦しめていた。私はどんなふうに生き、どんなふうに変っていくのだろう。潤一郎のいない世界で。 「もっと強く、抱いて」  男の腕に力がこもったが少しも充分ではなかった。「もっと強く」  どんなにしっかりと抱きしめられても、乾いた砂が両手の指のすきまから少しずつ滑り落ちていってしまうように、加世子の中から何かが剥がれ落ちていく感がぬぐえない。せっかく、サキと一緒につかみかけた幸せが、手の先から零《こぼ》れ出ていくみたいだ。 「一年なんてあっという間だ。すぐにたつさ」 「そうね。すぐね」だがそれは待つ身にもあてはまるだろうか。「出発は、いつ?」 「二週間後」 「そんなに、すぐ——」  あと二週間の命だと言われても、これほど絶望することはないのに違いない。 「なぜもっと早く言ってくれなかったの?」 「きみの様子を見ていると言えなかった。きみが失望すると思って言えなかった」 「それでぎりぎりまで延ばしていたのね。私が可哀想《かわいそう》だから? 少しでも苦しむのを短くしてくれようとしたわけ?」コンクリートの駐車場の中を、男が一人、横切って行って、一台の車に乗りこむのを、ぼんやりと見届けておいて、加世子は続けた。「でも、違うんじゃない、本当は。あなた自身のためなのよ、あなたはご自分が厭《いや》な思いをするのがつらくて、それでぎりぎりまで延ばしてきたのよ。私のためだなんて——。本心はあなた自身のためなのよ」哀しみのあまり、語調が強くなる。 「そうとりたければ、そうとってもいいよ」  少し鼻白んで、潤一郎が言った。「どうせこんなふうになるのはわかっていたんだから。もめるなら出来るだけ短い期間がいいにきまっているさ」 「こんなふうって?」 「勝手な理屈をつけて、きみがごねることだよ」 「そんなふうに思うなら、いっそのこと前日まで私に黙っていたらよかったのよ」 「僕もそうすればよかったと思い始めているところだよ」  二人は別々の方角に顔を背けあいながら、石のようにおし黙った。厚い壁のように手に触れそうな沈黙が、二人を遠く他人のように隔てていた。サキと三人で、三浦の海辺にいたのがはるか昔のことのようだ。 「こんなところで何時《いつ》まで座っていてもしようがない」潤一郎が先に沈黙を破った。「上へ行こう。言いたいことがあるなら場所を変えて、部屋で一杯飲みながら聞くよ」 「私があなたのロンドン行きに反対しているみたいな言い方するのね。とても一杯飲むような心境にはなれないわ」 「だって現に、きみは反対じゃないのか。少なくともきみの態度からは、そう受けとらざるを得ないよ」 「私が問題にしているのは、あなたがたったの二週間しか、私に時間をくれなかったってことなのよ」 「何のための時間? あれやこれやと思いわずらう時間のこと? それなら二週間で充分じゃないのか」 「でもそうと知っていたら、私たち、もっと——」相手の皮肉を無視して言いかけた。 「もっと、何だい? もっと、どうだったっていうの?」 「つまり——」加世子は追いつめられたような気がして言葉につまった。「つまり、もっと一緒にいる時間を大事に——」 「へえ、じゃ何かい、今まできみは僕と一緒の時間を粗末にしていたのか? うつうつと楽しまなかったというのか」 「私が楽しんできたのを一番知っているのはあなたじゃないの」 「それじゃ一体、きみは何を言わんとしているんだ? 何を証明したいんだ?」 「…………」 「僕たちは何だってこんなくだらないことを何時までも話しあっているんだろう。もうあまり時間がないんだ。もっと別に話しあっておくことが山ほどあるんじゃないか」  そう言って、彼は胸の内ポケットから手帳をとり出して、開いた。少しのあいだ、手帳を眺め、頭を上げると、言った。 「今週は、木曜日の夜しかあけられない。それを外すと、連日のつきあいや会合で次にいつきみに逢えるかわからない」  一瞬、唖然《あぜん》とした表情で、加世子は恋人の顔を眺めた。それからすぐに、その言葉に偽りはないだろうと、思った。ロンドン行きを前にして、彼は秒|刻《きざ》みのスケジュールに追われるのだろう。  それにしても、次にいつきみに逢えるかわからない、と彼が口にするのを聞くのは、奇妙な気持だ。自分に与えられる時間が木曜の一晩だけかもしれないと知ると、愛するゆえに理不尽な怒りがつのった。二週間のあいだ、ずっと僕の側《そば》にいてくれと、なぜこのひとは言わないのだ?  彼がつきあいで遅く帰ってきたっていい。朝、同じベッドで一緒に目覚めることさえできれば、それでいい。出発前のこまごました身のまわりの世話だって、加世子は自分の手でぜひとも整えてやりたかった。  しかし彼は、そんなことは明らかに望んでいないらしかった。 「木曜日は都合がわるいってこと、あなた知っているじゃないの。サキが塾の帰りに私のところへ泊りに来るの、毎週木曜日だって知っているでしょう」  サキのことなんて、ほんとうはどうにでもなることだった。 「サキのことは、忘れていた」と、潤一郎が言った。「むろん、無理にとは言わないよ」  かつて耳にしたこともない冷えた声だった。違うのよ。違う。そうじゃない。無理を言って欲しいのよ。サキのことなんて来週もあるじゃないか、と無理を通して欲しかった。第一、サキのことなんて、無理でも何でもない、彼を試すための口実でしかなかったのに。だがもう後へはひけなかった。 「ごめんなさいね。あの娘《こ》を失望させたくなかったの」 「わかるさ。電話する」  彼からの電話を待つ自分の姿が瞼に浮んだ。惨めさがつのった。 「じゃ、私、今夜は帰るわ」  なんとなく成り行き上、彼女はそう言って扉にうちひしがれた手をかけた。 「そうか」計りかねるように潤一郎が彼女の表情をうかがった。「こういう話しあいの後できみを一人にするのは、気が進まないけど」かといって積極的に引き止める素振りは示さない。 「あら、だって私たち別れ話をしたわけじゃないんでしょ? 違うの? それとも、今のは別れ話だったのかしら」わざと陽気に、加世子は首をかしげてみせた。 「もちろん、別れ話なんかじゃないさ」潤一郎は加世子の肩に手を触れた。「今夜、どうしても帰りたい?」  今夜泊れば、明日の朝の別れはもっと辛《つら》くなる。更に離れ難い思いに苦しめられる。それに多分、再び口論が始まるだろう。 「せっかくだけど」彼女は勇気をふるいたたせるように髪を揺すって微笑した。「帰るわ、やっぱり。送らないでいいのよ、もちろん。タクシーを拾えばすむことだから」  扉を押して外へ一歩片足を踏みだすと、潤一郎の手が肘《ひじ》をそっとつかんだ。ふりむくと、祈るような眼の色をした愛する男の顔があった。祈るような、試すような、哀れむような、諦めたような、ほっとしたような眼の色だった。その眼にむかって、加世子は笑いかけた。 「大丈夫よ。だって孤独に馴《な》れなくちゃ、私。今のうちから孤独に馴れる練習をしておかなくちゃ」  笑い顔が泣き笑いに変りそうだったので、肘をつかんでいる男の手を振り切って、彼女は身をひるがえすと、無人のガレージの中を歩きだした。自分の靴の音だけが、やけに空《うつ》ろに響き渡った。追ってくる靴音はいつまでたっても聞こえてこなかった。  少しして、車をロックする音が、遠く耳についた。その固い金属の響きを聞くと、加世子の気持は急速になえた。彼の気が変って追いかけてきても、今夜は戻るつもりはなかったが、追いかけてはこないとわかると、やたらに寂しかった。  青山の裏通りに出ると風が吹いていたが、それは夕方海辺に吹いていた南の風とは似ても似つかなかった。  ガソリンや、ごみや人いきれや埃《ほこり》などを含んだ都会の風だった。潮の匂いのする懐しいあの風が、もはや当分自分とは無縁になるのかもしれないと思うと、加世子は通りの真中で思わず立ちすくんだ。     2  彼女はふいに眼《め》を覚ました。それからいつものように、カーテンの背後の空の色を想像しようとして、無意識に窓を眺める。そしてまさにその瞬間、つい今しがたまで自分の眠りに襲いかかっていた重苦しいものの正体が、鮮やかに蘇《よみがえ》った。——あの人は、今日|発《た》つ……。そのことが眼覚めのずっと前から、彼女を揺さぶりつづけていた真の理由だった。  加世子は再び瞼《まぶた》を閉じる。そうすることによって、現実を見なくてもすむかのように。あるいは、現実を忘れてもう一度安全に眠りの中に滑りこめるかのように。  けれども彼女を激しく不安にかきたてるものは外部にあるのではなく、彼女の鳩尾《みぞおち》のあたりでとぐろを巻いているので、苦しみのあまり躰《からだ》を二つ折りにすると、胎児のような姿勢で、呻《うめ》いた。あのひとは今日発つ。結局、何も約束しないまま——。  眠りさえすれば。たとえそれがとろとろと浅い悪夢のような眠りでも、眠ってさえしまえばこの身の置き場もないような絶望から自分を守ることはできる。そしてうまくいけば眠っている間に、佐々木潤一郎が成田《なりた》を発ってしまうだろう。加世子は枕《まくら》に顔を埋めて、ほとんど祈るように眠りの訪れるのを待った。  彼をのせたBA機が離陸してしまえば、このどん底から浮び上れるはずだった。彼がまだ日本にいて、自分と同じ東京の埃っぽい早春の空気を呼吸していると思うと、いてもたってもいられない。なぜならば、まだ彼女には行動の選択の余地があるからだ。  彼のマンションに駆《か》けつけるか、成田へ送りに行くか、電話をするか、彼にむかって叫ぶか、泣くかあるいは笑うかの。  苦しみの元兇《げんきよう》は、希望の綱が完全には断ち切れてはいないことにある。一縷《いちる》の希望の光こそ、まさに苦しみそのものなのだ。一縷の望みとは、今の場合、彼が世間ていや周囲の思惑など無視して、彼女に「一緒に来て欲しい」と告げること。今すぐでなくとも少なくとも一か月後には、彼を追ってロンドンへ来るように、指示すること。  行くか行かないかは加世子の問題だ。彼女はもしかしたらロンドンへは行かないかもしれないが、彼が彼女を望んでいるという思いを胸に、一年待つのと、見捨てられたような気持で待つのと、三十四歳の女の一年の意味はまったく違ってしまう。どたんばになって、ぎりぎりのところで、あのひとの感情が理性をくつがえすということは、絶対にありえないとは言えない。たとえ〇・一パーセントほどの可能性でも。その可能性にかけるせっぱつまった気持が、彼女の心を乱すのだった。  眠れそうにもなかった。手探りでナイトテーブルの上の睡眠薬の瓶を探した。  カプセルを二つ取り出して、呑《の》み下そうとしたが、何かが喉《のど》の下の部分にびっしりと貼《は》りついているようで、薬がつかえてしまう。起き出して、ふらつく足で洗面所へ向った。  コップ一杯の水で、カプセルを胃に流しこむと、彼女は窓際に立った。微《かす》かに震える手で、カーテンを押し開く。ガラス窓の外はまだ暗澹《あんたん》として闇《やみ》だった。暁の気配さえない。彼の出発までまだ十時間以上もある。その考えが、改めて彼女を打ちのめす。  再びベッドに横たわったが、毛布をたぐり寄せる気力さえなかった。瞼を閉じて、眠ったふりをする。それともなければ死んだふりを。寒い。ばかみたい。躰が冷える。  どれだけ刻《とき》が過ぎたのだろうか。眠ったふりと死んだふりを交互にくりかえしているうちに、さっき閉じ忘れたカーテンの透き間が、ほんの少し白んでいる。  加世子は枕の上で首だけねじむけて、期待を裏切ったナイトテーブルの上の青い薬瓶をみつめた。それを手に取ると、更にカプセルを呑み足すかわりに、いきなり壁にむけて力一杯投げつけた。瓶は壁をななめにかすめて、青い瓶は弱々しい弧を描くと床に落ちた。すると猛烈な怒り——悲しみと区別のつかない怒りで窒息しそうになった。あんなにもろいガラス瓶でさえも満足に割ることができないのか、と、束《つか》の間、絶望の種類をすりかえて、彼女は嘆いた。  それから部屋着をつけると、キッチンへ行きメリタのコーヒーメーカーをセットした。  コーヒーが出来上るのを待つ間、たてつづけに四本|煙草《たばこ》を吸った。煙草は冷えびえと苦い味がする。  時計を見るとまだ六時を少し過ぎたところだ。潤一郎は眠っているだろう。加世子は無意識に電話に眼をやる。あと一時間だけ待って、彼に電話をしよう。昨夜の惨めな会話について、謝りたかった。是が非でもそうしたかった。何らかのしこりを抱いたまま、彼を発たせるわけにはいかない。成田で、他にも大勢いる見送りの人々が見守る中で、何が言えるだろう。一時間、今はそれをどうやってやり過ごすかが問題だった。  それにしても、昨夜はどうしてあんな会話になってしまったのだろうか。私は待っていたのだ。彼がたったひと言、語りかけてくれるのを。一緒に来て欲しいと。無理を承知で。ヒルトンの李白《リツポー》バーでのカクテルの時も、それから、�欅《けやき》�レストランに席を移して長い時間をかけた食事がすんでも、彼はその言葉を口にしなかった。そして、たくさんの別の事を喋《しやべ》った。  デミタスのコーヒーカップの中で、エスプレッソが濃厚な香りを放っていた。 「私、明日成田へ送りに行くのよそうかしら」そうなにげなく、むしろ冗談めかして言ってしまってから、加世子は自分が本気なのに気づいて驚いたくらいだ。 「そんなのないよ」潤一郎は笑って取りあわなかった。「誰《だれ》もかれもが来てくれるんだよ。きみが見送りに来ないって法はない」 「だから遠慮するんじゃないの」と、彼女は心とは反対のことを言った。「結局、私はあくまでも日陰の身ですからね」使い古された言葉。口が寒い。 「そのことがまるで、僕のせいみたいに言うね、きみは」  潤一郎は辛抱強く応対した。出発ま際の口論を避けようとする意図が、ありありと見える。 「僕の方にはいつだってきみを迎える用意があったことを、一番良くわかっているのは君だったはずだよ」  理不尽なことに、相手のそういう優しい努力が逆に胸をえぐるのだった。  加世子は一点の染みもない、純白の麻のテーブルクロスの上に視線を落した。テーブルクロスの白さが眼にしみた。一点の染みさえないレストランの麻のクロスって、なんて哀《かな》しいんだろうと、胸の中で呟《つぶや》いた。  ふと眼を上げると、潤一郎はデミタス・カップのほとんど空になっている中身を見つめている。少し憂鬱《ゆううつ》そうだった。彼女は小さなテーブルごしに、彼を眺めた。見なれた顔なのに、光線のせいなのか、それとも頬骨《ほおぼね》の上に落ちる伏せた睫毛《まつげ》の翳《かげ》りのせいなのか、初めて見る人のような気がした。この人と少なくとも週に一度は同じベッドに寝てきたけれど、彼について自分はどれだけのことを知っているのだろうか、とふと疑問が湧《わ》いた。手を伸ばせば、相手の顔に届く距離にいながら、なぜか彼は遠かった。  その額は疲労のために少し蒼《あお》ざめていたし、手には静脈が浮き上っていた。背中が心なしかゆがんでいる。だしぬけに、潤一郎の手の甲の静脈のひとつひとつに口づけをしたい、と思った。 「あなた、猫背なのね、気がつかなかった」 「そして君は、ここに縦皺《たてじわ》を寄せる僕の知らない癖があったんだね」  そう言って、潤一郎は指の先で、彼女の眉間《みけん》に刻まれた深い苦悩の縦皺をそっと撫《な》でた。良くないよ、この皺は良くないよ、と囁《ささや》きながら。それからボーイを呼んで会計を頼むと、改めて加世子をつくづくと眺めて言った。 「さてと、言い残したことはないね。話すべきことは、全《すべ》て言い尽くしたみたいだな」  加世子は驚いて眼を見張った。本気なのだろうか。言い残した言葉があるじゃないか。話しあいなどしなかったも等しいじゃないか。 「私、何かを話しあったようにはとうてい思えないわ」 「どういう意味だい?」潤一郎の右の眉《まゆ》がぴくりとあがった。神経質になっている時の兆候だった。 「私をいじめないで」 「どういう意味かと訊《き》いただけだよ」 「声が高いわ」加世子は思わず首をすくめて、周囲《あたり》のテーブルをうかがった。右横のソニアのニットを着た女が、じっと潤一郎の横顔を見ていた。 「何も話しあわなかったって?」加世子の注意を無視して、彼は声を高めた。額のあたりがうっすらと赫《あか》く染っている。ワインのせいでないことだけは確かだ。 「そういう意味じゃないの」弱々しく抗議したが、相手は聞く耳をもたなかった。 「ごまかすなよ。じゃ一体この二週間、電話と——そうだな最低五回の長電話と、先週のランチの時と、今夜僕が非常に無理をして時間を作ったこの話しあいは、何だったというつもりなんだ。みんな無駄話だったのかい」  レストランの中のざわめきが、急に引いていくようだった。好奇心を剥《む》き出しにした人々の視線が自分たちから外れるのを待ってから、加世子が答えた。 「肝心なことは、話しあわれていないわ」低い、消え入りそうな声だった。 「たとえば?」 「私たちのこと」 「きみと僕のこと?」 「ええそう、あなたと私のこと」加世子はまっすぐに男の瞳《ひとみ》の中を覗《のぞ》いた。「私たち、どうなるの?」 「そのことなら非常にはっきりしているじゃないか。きみが自由の身にさえなれば、僕の方はいつだってオーケイだよ。そう百回も君に言ったぜ、僕は」 「じゃ私が言ったことをちゃんと聞いていなかったのね」と、彼女は暗い眼つきをした。「藤野は離婚には同意しないのよ。これだけは確かなの。そのことを前提にして考えてくれたことある? 私は絶対に自由の身になどなれないの。それがわかっていて、何かと言うとあなたは離婚さえ成立すれば、とか自由の身になったらとか言って逃げるのよ」 「逃げる?」押し殺した声。こめかみの上に青い筋が一本、くっきりと浮きだしていた。「絶対に離婚できないと、どうしてきめてしまうんだ。僕がロンドンから戻るまで一年あるじゃないか。時間をかけて藤野さんを説得したらいいんだ。僕にできることがあれば、何でもするよ。逢《あ》えと言うのなら、いずれ逢うし、手紙を書いてもいいと思っている」 「でも駄目なの。もう何をしても無駄なのよ」 「逢ったのか、彼に?」  加世子は首を振った。 「電話だけ。逢ってもくれないの。最後に何て言ったと思う? 離婚の申したてができるのはむしろ彼の方で、夫を裏切った妻じゃないって。それに、私やサキを他の男にくれてやるほどお人好しじゃないって。意地でも死ぬまで藤野の戸籍に縛りつけておくって」  そう言って、彼女は顔の前で両手をきつく握りしめると、その上に額を押しつけた。 �用件は何だ�と、彼は送話器の中からぶっきらぼうに訊いた。 �電話で話すようなことじゃないんです。ちょっと逢えないかしら� �電話でいいよ�にべもなかった。 �池袋の土地のことなんですけど�遠回しに話をすすめようとして、加世子が切り出した。急に用心深くなって沈黙する相手の気配が伝わってくる。 �もしもし? � �ああ、聞いてる。あの土地がどうかしたのか� �手放そうと思うの� �……君の土地だ。好きにすればいい� �でもあなたの名義の家が建っているわ。わかるでしょう、簡単じゃないのよ� �俺《おれ》にどうしろと言うんだ……もしもし� �あなたに引きとってもらえないかと思って……� �そんな金はないね�ぴしりと遠ざけるように藤野|恭《きよう》は言った。 �お金の問題じゃないの�加世子は口ごもった。 �よかったら、あなたの名義に�と、途中まで言いかけたとたん、相手がいきなりさえぎった。 �つまり、手切れ金ってわけか? えっ? もしもし、聞こえないよ。そうなんだな? 狙《ねら》いはそこだな�受話器のむこうから、忍び笑いのような声がしばらく続いた。それから、加世子の夫が続けて言った。 �日本の女もずいぶんと変ったものだな。手切れ金というのは、男が女に払うものだと思っていたけど、最近じゃハリウッド並みに、めざわりな亭主をやっかいばらいするために、女が払おうってわけだ�夫はなおも笑って続けた。 �リズ・テイラーが、エディ・フィッシャーと別れるのに、何百万ドルも支払ったっていうじゃないか。ところがあいにく俺はエディ・フィッシャーじゃないからな、何百万ドルくれてお払い箱ってわけにはいかんよ �  そんなふうに会話はかみあわなかった。とうとう、加世子は電話口で涙声を出した。 �少しでもまだ私やサキのことを思う気持が残っているのなら、せめて、私たちの幸せのことも考えて下さい �  受話器の中が一瞬死んだように沈黙した。やがて、藤野の低い声がした。 �俺の幸せは、じゃどうなんだ? 俺の心の中を、一度くらいお前は考えてみたことはあるのか�その直後、彼は言ったのだ、他の男に加世子やサキをくれてやるほどお人好しじゃないよ、と。 「土地のことなど、下手に持ち出すからだよ。そういう小細工をするから、まとまる話もまとまらないのさ」  潤一郎が歯の間から押し出すように、そう言った。 「きみは男のプライドってものが、よくわかってはいないんじゃないか」  潤一郎にまで批判されると、身がねじれるほど辛《つら》かった。 「だからどうすればいいの、私? 藤野は離婚はしないと言うし、あなたは私が自由の身にならなければ駄目だと言うし」 「一年間、辛抱してみないか。それだけ時間をかけて説得すれば、藤野さんも考えを変えるかもしれない」 「変えなかったら?」  少し投げやりに、加世子が言った。 「その時に考えるさ」 「やっぱり離婚が成立しないかぎり、私たち駄目なのね」 「海外赴任ともなると、今までみたいにはいかないよ。君を連れていきたくとも会社に報告をしなければならないし、コソコソはできん」 「コソコソだなんて」 「第一、報告書に何て記入すればいいんだ? 人の奥さん、とそう書けばいいの?」 「つまり、万事休すってわけね」  加世子が両手をホールド・アップのように挙げてみせた。そのみせかけの陽気さにつられて、潤一郎が笑った。  ボーイが請求書を持ってきたので、会話はそれきりになった。  加世子は今、昨晩と同じホールド・アップの仕種《しぐさ》をしてみる。それからその手をゆっくりと降ろしてじっと眺めた。うちひしがれた瀕死《ひんし》の鳥の羽のように見える。  この手をどうしよう、とだしぬけに思った。下げたらいいのか上げたらいいのかわからない。こういう時には髪をかきむしるべきなのか、ただ躰の両側に無様にぶらさげておけばそれでいいのか、どんな役割を与えるべきなのか、ぜんぜんわからなかった。もてあました。そこで彼女は、両腕を振り上げるといきなり拳《こぶし》で壁を叩《たた》きはじめた。  いつだって、このようにつかみかけた幸せが逃げていくのだ。白い砂が指の間からこぼれていくように。もう少しで、それは確実に加世子のものになるはずだった。今度こそ娘のサキと家庭の暖かさというものの中へ、滑りこんでいけると信じて疑わなかった。二週間前まではそうだった。  佐々木潤一郎のロンドンへの単身赴任がぎりぎりになって明らかにされた時、加世子は、自分がつかみかけていた幸せのはかなさに呆然《ぼうぜん》とした。何ひとつ確実なものはなかったのだ。男と女の間に、確実なものなど存在しないのだ。この二週間加世子が見つめてきたものは、孤独への予感とその恐怖だった。  サキという娘がいるではないか、と何度自分に言いきかせても無駄であった。自分が不幸で窒息しかけている時には、幼い娘の存在は重荷以外の何ものでもない。サキを幸せにしてやりたいが、それにはまず加世子自身が満たされていなければならなかった。心の中が疑惑や不安や恐れや不満などで泡立っているとしたら、どうして他人に対して——たとえ血を分けた娘でも、今の場合彼女にとっては他人だった——手を差しのべられよう。  佐々木潤一郎を責めるのは、実際は的外れなのである。彼の考えはまちがってはいない。まだ他人の戸籍に入っている女を、ロンドンへ同伴できるわけはない。そのことはすべて加世子側の問題で彼女が処理すべきことであったが、それにしても、正しいことが納得できるかどうかは、別の問題だ。加世子は潤一郎の冷静さがうらめしかった。彼の理性を、憎んだ。彼女の将来と計画をめちゃめちゃにしてしまった彼のロンドン行きを呪《のろ》った。  室内にはコーヒーの香りが漂いだしている。それは彼女の無感覚な冷たい肉体を包みこんで、わずかではあったが慰められるような気がする。カップに注《つ》いで、飢えたようにコーヒーを口へ運んだ。知る人は少ないがメリタの真空パックされたコーヒーは、極く上等である。普通より細かく、粉状にひかれた豆から放たれる香りの良さは、いつも朝の食卓を楽しくしてくれた。時計の針が七時半を指している。潤一郎は眼を覚ましているだろうか。成田へなど行くものか、とひとりでに言葉が唇《くちびる》からこぼれでた。  多分、親類や会社の関係者などがつめかけるだろう。そうした人々の頭や背中ごしに、愛する男を眺めるのはどんな気分だろうか。一度か二度、二人の視線は深くからみあうだろうが、それだけのことだ。  人々の背後にいて、彼の眼差《まなざ》しが自分の上に注がれるのを待つのは耐えがたい。彼の視線をその他多勢の人々の上から自分の方へすくい上げようとする女の心根がうとましい。  加世子が成田に顔を出さなければ、潤一郎は心配するだろう。心配するがいいのだ。何度も何度も腕時計に眼をやって、彼女の姿を探せばいい。その方が、男の胸によほどこちらの存在感を植えつけられるというものだ。不在ゆえの存在感。黒い染みのような不審な思いを抱いて、日本を離れていくがいい。ロンドンへの道づれは、加世子の不在感だ。  でももし、潤一郎が加世子の不在などさして気にもとめなかったとしたら? それよりも、送りに来なかったということを、二人の関係の終止に進んで結びつけてしまったとしたら? 加世子は手が冷たくなるのを感じた。それならば、その時のことだ、と、彼女は髪を揺すった。私は雌犬みたいに、主人の顔色やご機嫌をうかがって、成田くんだりまで行ってうろうろしたり、尻尾《しつぽ》をふりたてたりなど決してしないわ。  彼女は、電話をじっと凝視した。  電話をかけてよこすべきなのは潤一郎の方ではないか。加世子からもはや言うべき言葉は何ひとつなかった。  長いこと、電話機を眺めながら思案にふけった。そして彼女が選んだのは、苦しみの原因から逃避することだった。どこかへ、身をひそめてしまうこと。自分はきっとどたんばぎりぎりになって、成田へかけつけてしまうだろう、と彼女はほとんど確信していた。しかしどこへ。どこへ自分を監禁すればいいのだ? 娘や淡島の母のところへ逃げこんでも、あの二人の肉親の前で自分をとり繕《つくろ》えはしない。  加世子の頭に一人の男の名が浮んだ。彼女は額を曇らせると、長いこと考えこんだ。それからバッグの中から手帳を取り出すと、頁《ページ》をめくり始めた。  数回ためらった後に、震える指でダイヤルを回した。三回呼び出し音が鳴った時、やっぱり止そうと受話器を戻しかけた。と、その瞬間相手が出た。 �もしもし……。藤野です、藤野加世子です � 「よお、久しぶり」  と言いながら電話で呼び出された篠田辰也《しのだたつや》は加世子のむかいの席ではなく、彼女の横にいきなり座った。「何年ぶりかな?」 「三年くらいじゃないかしら」 「へえ、もうそんなか」  そう言って彼は、加世子の喫《す》いかけの煙草を無造作にとって、口へもっていった。  そういうやり方を、昔は大人の男の仕種だと魅せられたが、今は、少し不潔な気がする。  彼女はそっと眼の隅《すみ》で、男を観察した。ヴァレンチノの革のジャンパーを着ているせいで若く見えるが、服装のせいばかりではなかった。この男《ひと》は年相応に上手に老けていけないタイプだ、と思った。 「三年前より綺麗《きれい》だよ」  篠田は煙草を彼女の指にもどしてやりながら言った。「少し痩《や》せすぎだけど、その程度なら大目に見るとして」と腕時計におおげさに視線をやる。「今日は何時《なんじ》までフリー?」とごくさり気なく訊《たず》ねた。  潤一郎の飛行機は一時二十分に発つ。その時間まで潜伏していることさえできれば、それでいい。 「一時二十分」と、加世子は答えた。 「なんでまた。たったの二時間ちょっとしかないじゃないか」 「二時間あれば、何だってできるわ」  それを聞くと、篠田はニヤリと笑った。その笑いは、細面の浅黒い男の顔を少し卑しく見せる。胸が微かに痛んだ。 「二時間ジョギングしてごらんなさいよ、もてあまして悲鳴をあげるわよ。それに二時間あればたとえば映画だって一本見れるわ」 「まさか。三年ぶりに二人で映画を見るために、土曜の早朝ボクを電話で叩き起したんじゃないだろうね」 「土曜の午後映画を見て過す男と女はたくさんいると思うけど」 「それにしてもさ、ボクたちはもう少し違う時間の過ごし方ができると思うけどね」声がわずかな湿り気を帯びている。  結局そういうことなのだ。篠田辰也と逢うということは、そもそもそれ以外の過ごし方など、最初から考えられないということだった。夫との関係が段々に息苦しいものになっていき、加世子が夫を裏切る以外の方法で、彼から精神的にも肉体的にも遠ざかる手段が見つからなかった時、篠田がたまたま彼女の近くにいて、彼女を欲望していたから、二人の関係が成立したのだ。彼は、加世子が勤めていたPR関係の小会社を設立した若いスタッフの一人だった。加世子はそこを、佐々木潤一郎と知りあうようになって、夫・藤野恭との離婚を本気で考えだす頃《ころ》、止《や》めている。篠田ともそれ以来、逢っていなかった。  隣に座った男の体温が自分の脇腹《わきばら》に感じられた。彼女はコーヒーカップにのばされた篠田の手を眺めた。躰や顔はほっそりしているのに、彼の手だけは労働者のように大きくて骨太だった。その手は彼に全然似合わなかった。  けれどもその手が、彼女の上に置かれる時、どんな動きを見せるかを、加世子は知っている。その固くて無骨な手がどんなに熱いか、そしてその指がどんなに残酷に彼女を荒らすかを。加世子はテーブルにのっている篠田の手から少し熱くなった眼を上げた。二人の視線がからみあった。  いこうか、というように彼が微かに眉を上げた。  並んで喫茶店を出ると、加世子は腕時計をちらっと見た。十一時十分。まだ二時間と十分ある。通りに居並ぶ店の前にある公衆電話が眼にとびこんでくる。しかし、もう大丈夫だ。今からではどこへ電話をしたって、潤一郎はつかまらない。深い溜息《ためいき》が唇の間からもれた。  でももしも車を高速で飛ばせば、間にあうかもしれない、という思いもあった。たとえ彼には逢えなくとも、彼を乗せた飛行機が飛び立つ瞬間には、ぎりぎり間にあうのではないか。  そう考えると動悸《どうき》が速くなり、足がもつれた。篠田がふりむいて彼女の腕をつかんだ。「どうしたの、気でも変ったのかい」足がもつれたのを誤解して、そう言った。「この頃じゃ十四や十五の女の子だって今のキミよりはるかに平然としたものだぜ。今更気どるなよ」 「痛いわ。その手を放して」加世子は身をよじった。「それに別に気どっているわけでもないわ」  三十を過ぎた大人の男と女が、都心の歩道でそんな会話をかわしていることに、加世子は急に嫌気がさした。 「私たちこんなところで一体何を言い争っているのかしらね。さっさと車を拾ったらいいじゃないの。あなたの思い通りホテルへでもどこへでも、私を連れこんだらいいんだわ」 「ボクの思い通りだって?」篠田がからかうように言い返した。「仕かけ人はキミの方だぜ。キミの思い通り、と言い直してもらいたいね」  彼はほんの軽口のつもりだったかもしれないが、加世子の顔色が変った。篠田のその言葉は彼女を打ちのめした。彼女をもののみごとに打ちのめしたのは、しかしその言葉自体ではなく、それがまぎれもなく事実であったからだった。  表面上は男に誘われたような形で、無理矢理にホテルへ連れこまれるという段取りだが、そうしむけたのは女の方であった。その何よりの証拠に、出てくる前に加世子はていねいにシャワーを浴び、髪を洗い、真新しい下着をつけてきたではないか。  自分に対して面目を失うということは、そして自分に対して釈明しようとして、その言葉が見つからないということは、なんとせつないことであろうか。屈辱に蒼白《そうはく》になりながら、加世子は指先で髪をかき上げた。それからその手を上げて、通りがかりのタクシーを止めた。 「その調子。そう来なくちゃ。陽気にやろうよ」  加世子の動作が居直った女のように見えたので、篠田辰也がなれなれしく彼女の肩に腕をかけた。個人タクシーが二人の前に止った。彼女は肩の上から男の腕をそっと、だがきっぱりとした態度で外すと、言った。 「私の方から誘惑しておいて申し訳ないけど、気が変ったの」  呆然としている男にかまわず車に滑りこむと、運転手にむかって素早く言った。 「成田空港。すみませんけど、急いで」  何が起ったのかまるきり訳がわからないというように、肩をすくめ両手を広げている篠田の姿が、バックミラーの中で遠ざかる。彼には悪かった、と、加世子は固く瞼《まぶた》を閉じた。  再び眼を開いた時には、タクシーは高速道路に入っていた。道は意外に混《こ》んでいた。 「お客さん、飛行機は何時ですか?」と運転手が訊いた。一時二十分、と、加世子は答えた。 「冗談じゃない」と、彼はミラーの中の加世子の顔に言った。「この分じゃ、絶対に間にあわないですよ」 「いいんです」と、加世子は呟《つぶや》いた。「とにかく行くだけ行って下さい」  彼女をのせたタクシーは度々渋滞に巻きこまれて、止っては進み、また止ってはのろのろと成田へむかって少しずつ進んでいった。     3  不在。それは何を意味するのか。自分をとりかこむ風景が変ってしまう、というようなことなのか。  ためしにコップの底を透かして室内の一隅を眺めてみると、普段の光景が厚いガラスの中に凝縮されて遠ざかる。そこには、まったく別の世界が出現する。人の気配の微塵《みじん》もない、しんとして、閉ざされた空間。見なれているのに、見知らぬたたずまい。  不在は、コップの中に閉じこめられた光景に似ていると、加世子は思う。温《ぬく》もりもなく、日常の一切の物音からも遮断《しやだん》されて。  愛する男《ひと》をロンドンへ発《た》たせてから数週間が過ぎようとしている。この間、彼女は自分の感情をまとめることができず、まとめようとさえもせず、生きるために最低必要な量も食べず、濃くて苦いコーヒーと煙草《たばこ》だけで命をつないできた。  そしてある朝、ふと眼《め》ざめてみたら、そこは彼のマンションの寝室であった。  ミルクコーヒーのような色をしたレースのカーテンを通して、五月の陽光が浅く床に射《さ》しこんでいる。  まるでこの場所を癌《がん》細胞か何かのように避けてきたのは、なぜだろう。  答えは簡単だ。怖かったのだ。彼の不在を最も端的に再確認するのには、正にうってつけの所だったから。  加世子はキッチンへ行って、三杯目のコーヒーを入れるために、粉状の豆を濾紙《ろし》に入れた。  ゆうべ真夜中にやってきたのは、明りさえつけなければ何も見なくてすむからだった。そこここに愛するひとの不在のあとを認めるのは、翌朝まで延ばしたかった。人間は夜よりも朝の方が、勇気をもって現実にたちむかえるものだから。  いま彼女は眼ざめて、入れたてのコーヒーを手に、朝食のテーブルのいつもの自分の席に座っている。当然一人きりだった。彼が少し遅れて起きてくるのを待つふりをしたって、しようがない。  テーブルの上の、なじみ深い煙草の焼けこげの跡がひとつ。彼が誤って作ってしまったものだ。加世子の口の脇《わき》に、微《かす》かな笑《えみ》が滲《にじ》んだ。指の先で、ほとんど愛撫《あいぶ》するように、木肌の上の黒いこげ跡を撫《な》でながら、彼女は自分に問いかけるのだった。なぜおまえはここにいるのか、と。  なぜって、多分逃げまわっていることにうんざりしたからだ。彼女は半分ほどになったコーヒー茶碗《ぢやわん》の中身を眺めながら考えた。  彼がもしかしたらまだどこかにいて、ふいに眼の前に現れるか、電話でもかかるのではないかと、信じるふりをするのに飽々《あきあき》していた。だから徹底的に彼の不在を確かめるつもりなのだ。食器戸棚の中もベッドの下も、備前《びぜん》の大壺《おおつぼ》の傘立ての中も覗《のぞ》いてみたっていい。バカみたいにカーペットもめくってみたっていい。  しかし、そんなことをしてみるまでもない。この部屋、この花のない食卓、この初夏の朝、すべてが現在あるがままの状態で彼女の眼に映っていた。色|褪《あ》せてもいなければ、過去の染みを色濃く滲ませてもいない。  彼の残していった家具のひとつひとつが、かつて彼が触れたものたちが、ことごとく彼の不在を叫びたて暴きたてるかと覚悟をきめてきたのに、そうした予想は見事に外れた。  そしてその朝、加世子は、最悪の時が突然何の前触れもなく終ったのを感じた。最も辛《つら》い時期が一夜の間に過ぎていったのを、確かな皮膚感として受けとめることができた。  そうしたものは徐々に彼女から去っていったのではなかった。事実、今朝の眼覚《めざ》めの直前まで、彼女の浅い眠りに重くのしかかっていたのだから。  けれども、透明な暖かい陽光が幾条もの光の束となって、窓から射《さ》しこんでいるのをベッドの中から目撃した時、何かがはっきりと変ったのだ。季節が変るように——。  事実昨日までは気懈《けだる》いような憂鬱《ゆううつ》な春だったのが、一夜明けてみると忽然《こつぜん》と、陽気な初夏になっていたのだった。すると、胸の中を黒く染め上げていたせつないものが、急激に薄まり、退《ひ》いていくのがわかった。  窓を大きく開けると、加世子は久しぶりに胸一杯、蒼々《そうそう》とした早朝の冷気を吸いこんだ。もうそれは前のようにヒリヒリと肺にしみなかった。  それから自分の心臓の鼓動が、もはや喪失の哀《かな》しみのあまりたえだえに打つのではなく、新しい調子で規則正しく脈打っているのを知って、不思議な感動を覚えた。  なぜだろうか。こんなにあっけなく、突然に愛する人を失った苦しみから、なぜ解放されてしまったのだろう?  それはとても意外だったから、彼女はちょっと寂しいような気がした。心変りをした薄情な女のような、後めたい気もしないでもない。だけど私は充分に苦しんだではないか。充分すぎるほど——と、加世子は自分に言いわけをした。  どんな傷も、時が癒《い》やしてくれる。おそらくこのマンションを思いきって訪ねたことで、何かがふっきれたのだろう。あまりにも愛の思い出に満ちた部屋に飛びこんでしまって、それで全てが燃えつきてしまったと、考えてもよい。  加世子はテーブルの上のこげ跡にもう一度視線を戻した。あの焼けこげはかつて熱かったのだ。それが今は、ひえた黒い染みでしかない。人の苦痛も同じような経過を経て、癒やされる。  こうしてようやく、愛する人の不在を不在として受けとめることができるようになった朝、彼女は久方ぶりに居間の鏡の中に自分自身の姿を映しだして、しげしげと眺めた。なんと見事に痩《や》せてしまったことか、と彼女は他人事《ひとごと》のように呟《つぶや》いた。そうよ、あなたは充分に苦しんだのよ。今日から私があなたのめんどうを見てあげる。誰《だれ》かが見てあげなくちゃならないもの——。  さしあたっては、何か食べなくては。事実、数週間ぶりに、加世子は自分がひどく空腹であることに気づいたのだった。  受話器のむこう側から、眠そうな女の声がだしぬけに�今、何時《なんじ》?�と訊《き》き返した。�八時二十五分過ぎ�加世子は腕時計をちらっと見て、受話器の中に答えた。 �まだそんな!! なんでこんな時間にひとを叩《たた》き起すのよ�相手は鼻を鳴らして喚《わめ》いた。 �悪かったわ、もう起きてると思ったの。あとで又、かけ直すわ�そう加世子が謝って電話を切ろうとすると、 �冗談よ、バカね�と相手の女が急に声音を優しく変えて言った。もう少しも眠そうな声ではなかった。�加世子でしょう? やっと電話をくれる気になったのね。待っていたのよ、わたし。早朝に叩き起されようと、真夜中だろうと、たとえセックスの最中だろうと、あなたがいつ電話をくれるかと、わたしはじりじりしながら待っていたの�  惟《ゆい》の声は少し掠《かす》れ気味で、低く、人を慰めるような響きをもっていた。それに仕事をしている女のてきぱきとした調子も加わって、加世子はこの女友だちの声を聞くのがいつもとても好きだった。 �ありがとう、惟�  誰かが、どこかで自分の身を心配していてくれたのだと思うと、目頭が熱くなるほどうれしかった。�わたしも何度もあなたに電話しようと思ったの� �でも、してこなかった——。いいのよ、加世子。わたしたち、女が女を慰めることなんて、所詮《しよせん》出来るわけないって、知っているんですもの。せいぜい一緒に泣くぐらいかな。——もしもし、今、わたしに出来ることはなあに? 一緒に泣いて欲しい?�  加世子は見えない相手にむかって微笑した。 �ううん、もういいの、泣き飽きた、それより頼みがあるの、聞いてくれる?� �オーケー、言ってみて� �あなたのお得意の科白《せりふ》がでたわね、その調子で、頼まれると、すべての男にオーケーしちゃうんでしょ� �いいえ、とんでもない、男に関しては非常に厳しい選択の基準がございますの。それより、あなたの頼み事って、何? 早く言って� �お昼をね、一緒に食べてもらえないかと思って——� �なんだ、そんなことか�惟は低く笑った。�お安いご用よ、と言いたいんだけど、ちょっと待って、スケジュール見てみるわ……�  素早くノートの頁《ページ》をめくる音がして、再び惟が続けた。 �ああ、申し訳ない、一時に打ち合わせが入ってる。一人は連絡つくんだけど、もう一人のひとは現場で撮影に入ってるから、連絡のつけようがないわ、悪いわね、加世子� �あなたのそういうところが好きなのよ。もしあなたが何が何でも女友だちのために仕事をキャンセルしようとしたら、かえってあなたを信用しないかもしれない� �それ、一応ほめ言葉というふうに受け取っておくわね。ところで、加世子、ランチはだめなんだけど、朝食ならつきあうわよ、あなたもう食べた?� �実はまだなの� �それじゃ、ブランチというのはどう? わたしのところで、十時に?� �ほんとうにいいの? 今のところ仕事をしている女《ひと》はあなたなんだから、あなたの言う通りにするわ� �じゃきまり、十時よ、遅れないでね� �何か買って行くものない? フルーツとかミルクはある?� �そうね、フルーツが少ないかもしれないわね。じゃ適当にお願いよ�  そして二人は電話を切った。  加世子は長いこと、受話器の上に手を置いたまま、じっとしていた。それから小さな声で�ありがとね、惟�と呟いた。口に出さなかったけど、洋画の字幕スーパーの翻訳をしている惟が、午前中を仕事の時間にあてているのを、加世子は知っていた。  青山の潤一郎のマンションには、当分来ることもないだろうと思い、ていねいに掃除をして、カーテンを閉じた。月に一度、たまった埃《ほこり》を払いに来れば充分だと思い、それから、彼が戻るまで十二回通えばいいだけだ、と考えた。なんだ、たったの十二回だけじゃないか、あっという間に一年なんて過ぎてしまう、自分はなんであんなにも彼の不在を怖《おそ》れ嘆いたのだろう? まるで十年も離れて暮すみたいに思ったりして。それもつい昨日まで、そうだった。  加世子は最後の一瞥《いちべつ》を室内に投げかけてから、マンションの外へ出た。足取りは来る時のそれとは較《くら》べものにならないほど、軽かった。  服部惟の住んでいる代官山《だいかんやま》までタクシーで行こうとして、加世子は考え直した。潤一郎は彼の口座のキャッシュカードを残して行く時、毎月の生活費は今までどおりこっちに振りこむよう会社に手配してあるから心配しないようにと言っていたが、彼が居る時なら何でもなかったが、全然居ないのに彼の口座からお金を引き出すのはなんとなく気がとがめた。タクシーは止《や》めて電車を乗りついで行くべきだ、と自分に言いきかせた。それが身分相応というものだった。  地下鉄の外苑前《がいえんまえ》に向う途中、フルーツを求めた。これまでの飢えからくる反動もあるのか、やたらと甘いトロピカルフルーツが食べたかった。惟に対する感謝の気持もあったので、つい高価な果物に手が伸びる。マンゴーとパパイヤを一つずつ、アボガドを二つ、キーウィフルーツを四つ、ピンクのグレープフルーツを二つ、レジに出すと全部で三千百円だった。タクシーを節約したのに何もならない、と少しばかりうらめしかった。その時だった、加世子は働きに出よう、とそう思ったのは。  それは最初、漠然《ばくぜん》とした思いつきに過ぎなかったが、考えてみるとまんざら悪い思いつきでもない。悪いどころか是が非でもそうしなければならないような気がした。  潤一郎を失ったばかりの時には、その喪失ばかりに気をとられて、再び仕事をするなどという考えは浮ばなかったし、第一そういう気力などどこを探してもなかった。それが今朝は違う。彼女は仕事をしている惟の姿を想像して、うらやましいと心から思った。そして胸が激しく高鳴った。 「まあ驚いた。アウシュヴィッツからたった今出て来たって様子しているじゃないの」  玄関で加世子を迎えるなり、惟が痛ましそうに顔を顰《しか》めた。 「でも見かけほどでもないのよ、わたし。タクシーのお世話にもならず、駅から歩いて来たんですもの」  フルーツをキッチンの水道の下に置きながら、加世子はサバサバと言った。「それより、あなたに謝らなくちゃ」 「謝るって、何を——?」 「だってあなたの貴重な仕事の時間帯に、無理矢理に割りこんじゃったんだもの」  加世子が洗い終ったフルーツを、テーブルの上のカゴに盛りつけながら、惟は肩をすぼめた。 「ま、そう気にしなくてもいいのよ、仕事の方は夜にまわすから。一晩くらいお酒飲めなくとも、男とメイク・ラブしなくとも、死ぬわけじゃないもの」 「相変らずなのね」加世子はタオルで、濡《ぬ》れた手を拭《ふ》きながら笑った。 「お酒と男? もちろんよ、この二つがなかったら、何のために生きているのかわからないじゃないの」 「どっちかひとつっていうわけにはいかないの? それでよく躰《からだ》がもつわね」 「だめだめ、お酒っていうのはね、飲めば飲むほど寂しくなっちゃうものなの。一人寝なんてできますか。それにメイク・ラブするのに、とてもじゃないけど素面《しらふ》でなんて、考えられないわ」そう言って惟はコメカミのあたりを指で叩いた。「ここのところが麻痺《まひ》していないことにはだめなの。羞恥心《しゆうちしん》とか自尊心とかいうやっかいなものが、アルコールで温められてもうろう模糊《もこ》としていなかったら、あのような淫《みだ》らでかつ屈辱的な姿態は、とれないのでございますよ」  そう言いながら彼女は、クラシックな銀製のパーコレーターからコーヒーをカップに注《つ》いだ。 「真面目《まじめ》な話、わたしにはそこのところがわからないわ」加世子は食卓につくと惟を見上げて言った。「愛しあっている男と女の間で羞恥心や自尊心などがどうして問題になるのかしら?」 「愛しあっている男と女の間なら、そういうことは確かに問題にはならないわね。そもそも問題なのはね、愛してもいない男たちと寝ることなのよ」  加世子は戸惑って惟の顔から視線を逸《そ》らせた。 「愛してもいない男のひとたちと、よく寝る気になれるわね」 「だからお酒がいるんじゃないの。それも浴びるほど——。あら、加世子、そんな痛ましそうな顔してわたしを見ないでよ、何も悲愴《ひそう》な決意を抱いて行きずりの男たちに身をまかせるっていうわけじゃないわ」そう言って惟はコーヒーカップをソーサーごと、加世子の前にそっと押してよこした。 「たった一人の男を守って愛しぬくっていうのもひとつの生き方だし、わたしのように肉体的に快《こころよ》い不特定多数のアミを選んで——これでも一応厳しく選択はするのよ——今日はどのドレスを着ようかなっていうのと同じようにその日の気分で男を変えるのも、やっぱりこれはこれでひとつの生き方。良いとか悪いとか、男の質とか、そんなことは関係ないのよ。少なくともたった一人の男を愛して裏切られるってことがないだけ救いよ——あっ、加世子、悪い。ごめんなさい。つい口が滑ったのよ、悪気があったわけじゃないの。潤一郎さんのことが頭にあったわけじゃなく、一般論で——」 「わかってるわ、いいのよ」  加世子は、やさしく微笑して女友だちの手の甲に自分の手を置いた。「あなたに悪気がないことくらい、知らないはずないでしょ?」  二人は急に黙ってコーヒーを飲み、焼きたてのマッフィンにバターを塗った。惟はダイエット中だと呟いて、カッテージチーズをそれにのせたが、加世子には栄養をつけなくてはと言ってレバーパテをすすめた。言われるままにパテをのせて、マッフィンを一口食べた。 「潤一郎さんのことが話に出ちゃったついでに、彼のこと少し話してよ。それとも、まだそんな気分になれない?」 「ううん、そんなことないわよ。もう最悪の時は乗り切ったから」 「そうだろうと、思ったわ。そうでなかったら、あなたは今こうやってわたしとブランチなんて食べていないだろうし、電話もかけて来なかったろうと思うもの」惟は口まで運びかけたマッフィンを皿に戻して、加世子の瞳《ひとみ》の中を深々と覗きこんだ。「だけど、考えてもみてよ。女友だちって、ずいぶんと水くさいものだと思わない? 一番|辛《つら》い時は顔もみせないで。修羅場《しゆらば》など死んだって女の友だちには目撃させないで——つまり辛い思いを分けあおうなんてこれっぽっちも思わないのね。そしてなんとか修羅場を脱け出たとたん、晴ればれとした声で、ランチを一緒にどう? なんて声をかけてくるのよ」 「怒ってるの?」 「そうね、怒ってるわ、わたし。ううん、怒っているっていうのは正しい感情じゃないわね、淋《さび》しいって言ったら近いかもしれない。事実、この二か月ばかり、わたしはすごく淋しい思いを味わったわ。あなたが苦しんでいるのを知っていても、側へも近寄れない。声もかけてあげられない。なぜならあなたがそんなものを必要としなかったし、わたしの方にもかけるべく適当な言葉がなかったし。女が女を慰めることなんて出来ないのね、女が女を本当に傷つけることができないのと同じように。つまり女が女を抱けないかぎり——わたしたちはたまたまレズじゃないから——決定的に慰めることも傷つけることもできないってこと。女の傷は男によってのみ癒やされるんじゃないかなあ。つまり男に優しく労《いた》わられたり、傷口を嘗《な》めてもらうこともそうだけど、時には見ず知らずの男の前に躰を開いて、心身ともに引き裂かれる——荒らされ濫用《らんよう》され、娼婦《しようふ》のように扱われる——そういうことも救いになることがある。わかる、加世子? そういうこと、全然なかった?」  加世子は篠田辰也の横顔を思い浮べた。潤一郎が成田を発つ二時間前まで一緒に過ごした男だった。 「あるわ」  ぽつりと、彼女は呟いて下唇を噛《か》んだ。もう少しでそうなるところだった。愛してもいない男のベッドへ横たわることで、潤一郎への面当てにしようとした。危機一髪のところで踏み止《とど》まったけど。  だが踏み止まったことをとりたてて評価する気にもなれなかった。なぜならあの時の加世子の心情はすでに荒れていたのだから。そういう意識を心の底に秘めて男を誘いだした段階で、彼女は既に不貞を働いたようなものだった。 「あるわ、一度だけ、そうなりそうになった」 「それで良いのよ。そう聞いて、むしろわたしは安心したわ」惟の声は慰めに満ちていた。「何かを忘れるために、そういうことがあってもいいのよ。傷口を毒でふさぐってやつね。これはひどく痛むし滲《し》みるけど、そして一番乱暴な手当の方法だけど、効果は抜群よ」 「でも、惨めだった。そういう自分が厭《いや》だった。自分を憎んだわ」辰也の手を振りほどいてタクシーに飛び乗った瞬間のことを思いだして、加世子が顔を曇らせた。 「もっと憎みなさい。恨みつらみや憎しみの対象が相手から自分に移る、相手から一瞬でも眼が逸れる、それが救いになるんだから。自分を憎む、捨てた相手じゃなくね。人間というものは他人に対しては理不尽に厳しいものだけど、こと自分自身のこととなると、大目に見たり甘やかしたりするものよ。他人に対する憎しみは長い間持続するけど、自分自身をそう長く憎み続けることは、不可能なのよ。すると、ある朝、あなたは急に、『もういいや』と、思うわけ。もう疲れた、もう自分を許しちゃおう、とこう思うわけ。そうやって傷は案外早く癒えていくものよ」  加世子はふと、惟の表情に注意をとめて、だしぬけに胸が塞《ふさ》がれるような気がした。もしかしたら惟も又、誰かを、あるいは何かを忘れるために、彼女自身の傷口に夜毎、毒を塗りつけているのではないだろうか?  数年前ひっそりと何時《いつ》のまにか別れてしまった男のことだろうか。妻と子がいる男なのだとしか知らされていなかった。その男《ひと》が、今でも惟の傷なのだろうか?  男の話になると包みかくさないはずの惟が、彼のことだけはめったに口にしなかった。加世子も自分の方から質問しなかった。惟は叫びたてもしなかったし、泣き喚きをもしなかった。ただ数か月の間、蒼《あお》ざめて以前より仕事に没頭しているように見えただけだった。  ちょうど加世子が潤一郎のことで泣いたり叫んだりしなかったように、女は女の慰めにならない、と二度同じ言葉をくりかえして言った惟の心の中が、今、まざまざと加世子に見えるような気がした。  それにしても惟の傷口はことの他、大きいように思われた。あれから何年もたつというのに、彼女がアルコールや男たちを必要とするのは、その傷がまだ生々しく口を開いているからなのではないか? 「コーヒー、もう一杯どう?」惟が切れ長の眼を上げて、長い睫毛《まつげ》をすかして加世子を見た。三十代前半の女だけが持つ殺《そ》いだような頬《ほお》の線に、緊張感が漂っている。 「うん、頂く。美味《おい》しいコーヒーね」 「そうでしょう、わたしも気に入ってるの。駒沢《こまざわ》の茜屋《あかねや》っていうお店で、特別に分けてもらうのよ」  加世子がフルーツカゴの中からパパイヤをとり出して半分に切る。それからタネを取り出して二つのガラス皿に分け、ひとつを惟に手渡した。 「このフルーツ、見ためにちょっと卑猥《ひわい》な感じしない?」惟は急に悪戯《いたずら》っぽい表情をすると、一切れ口に含んだ。「それに、味もなんとなくセクシーだわね」  加世子はつられてパパイヤを口にして、言った。 「ほんとね、セクシーね」  それから二人は顔を見合わせて、くすくすと笑った。いったん笑いだすと止まらなくなり、しまいには喉《のど》をのけぞらし、眼に涙を滲ませて二人は笑い続けた。  すっかり笑いが退くと、静寂が戻った。二人の女の手におえないような思いがけない深い静寂だった。奇妙な虚《むな》しさが支配していた。加世子は言葉を探そうとして、舌の先で唇《くちびる》の内側を嘗めた。その時だった。自分の顔にそそがれた惟の視線の固さに気づいて、内心たじろいだのは。思わず眼をふせて、椅子《いす》の背にかけておいたバッグから、煙草の箱を取りだした。  煙草に火をつけ、一服吸ったところで再び惟の顔を見ると、ちょっと前の固い探るような眼の表情は嘘《うそ》のように消えていた。彼女は微笑して、加世子の娘のことを訊いた。 「サキちゃん、どうしている?」 「元気よ。この前なんて�ママは男運が悪いね�なんて言うのよ。十一歳の女の子がよ」 「で、何て答えたの?」面白そうに身を乗りだして、惟が質問を重ねる。 「事実ですもの、思わず絶句したわよ」 「ふふ、絶句ね」と惟は口の両側を温かい感じにほころばせた。「でも十一歳の娘に変に慰められるよりは、いいじゃない」 「わたしがとっくに母親失格だから——今度こそ、潤一郎さんと三人で上手《うま》くやっていけると思っていた矢先の彼のイギリス行きでしょ、突然だったので、かなりうろたえちゃったのは事実よ」 「わかるわ」同情するようにうなずく惟。 「どっちみち私たちの関係はそう容易にはいかないんだけど。藤野は離婚に同意するつもりはないし」 「——元気なの?」 「藤野?」  惟は眼を伏せたまま、微かにうなずいた。 「忙しくしているみたいよ」と、相手の顔に視線をあてたまま、加世子が答える。 「ああいう建築の仕事は、現場が多いでしょう。話があってもつかまえるのが大変」 「そうでしょうね」遠くを見るような眼差《まなざ》しで、窓の外を見ながら、惟が相づちをうつ。声が沈んでいる。そういえば全身が影のようなものに包まれて見える。つい今しがたまで陽射《ひざ》しの下でキラキラ輝いていたのに、急に陽が翳《かげ》ってしまったような感じだった。 「時々、逢うことあるの?」  強いて声の調子を上げるように、惟は訊いた。 「それが全然。いつも電話よ。もっとも話すことといえば一方的にこちらからの離婚の要求ばかりだけど」  テーブルの上に力なく投げ出された惟の手が、固く握りしめられるのに気をとられながら、加世子が上の空に答えた。  だしぬけに、ある考えが稲妻のように彼女の脳裏を刺しつらぬいた。そして思わず、まさか、と口に出して呟いて、その考えを振るい落すように、二度三度首を強く振った。「まさかよね、そんなこと」  惟が不安そうに顔を上げた。二人の視線が激しくぶつかって、そして絡んだ。微かな狼狽《ろうばい》の色が、惟の瞳の中を過ぎるのを見たように、加世子は思った。  だが次の瞬間、惟はほほえんでいた。雲間から再び太陽が顔を出したような感じで、晴ればれと温かく屈託のない微笑だった。 「まさかって、何が——?」と、彼女は美しくそろった前歯を見せて、さりげなく訊き返した。  なんでもないの、と答えようとして、加世子は束《つか》の間、押し黙った。あまりにも自然で、そのあまりにも屈託のない微笑が、逆に加世子の疑惑をつのらせたのだった。彼女は惟のキラキラとしたシニカルでいて自信に溢《あふ》れたその微笑を凝視した。疑いが一気に確信にまで高まった。 「三年前の、あなたの恋の相手が今、やっとわかったような気がしただけよ」  加世子はほほえもうとして失敗した。声は固く少し軋《きし》んだように響いた。 「気がするだけというのなら、言わない方がいいんじゃない?」いっそう明るく、更に笑いを拡《ひろ》げながら、惟がこともなげに言った。「もし、確信がないのだったら黙っていた方が賢明よ、加世子。それにもうとっくに終ってしまったことだし」 「ほんとうに終ったの? わたしは、あなたの傷口はまだ塞がっていない、というふうな印象を、さっき受けたんだけど」加世子は同情するように言った。「わたしのことならいいのよ、心配しなくても。わたしはもう、藤野に未練はないもの」  惟の顔の上で、一瞬微笑が凍りついたかのように見えた。しかし次の瞬間、再び彼女はそれを取り戻してこうきっぱりと言った。 「ほんとうに終ってしまったことなのよ」それから彼女は腕の時計を見て、小さく叫んだ。「あら、もうこんな時間!」 「ほんと、気がつかなかったわ。あなたこのままにして出かけてちょうだいよ。あとはわたしが片づけておくから。それから適当に帰るわ」 「そうね、お願いしちゃおうかしら。まあ、困ったわ、お化粧する時間もないじゃないの」  あわてて洗面所にむかう女友だちの背にむかって、加世子が声をかけた。 「素顔のままで充分あなたは綺麗《きれい》よ」 「ありがとう!」洗面所の中から明るい声が返ってきた。「ついでに言っとくけど加世子」と、その弾んだ声は続いた。「わたしがかつて欲しかったのは、妻や子に愛されていた男なのよ。そしてどうしようもなく妻と子を愛していた男なの」顔を洗っているのか、言葉が少しの間とぎれて、そして再び喋《しやべ》りだした。 「冗談じゃないわよ、妻子に捨てられた男なんて、誰が今更拾ってやりますか」  そして何も聞こえなくなった。しばらくして水をつかう音が、かなり長いこと続いた。  加世子は食卓の上の汚れものを、キッチンの流しに運ぶと、黙って洗いだした。不意に涙が溢《あふ》れて零《こぼ》れ落ちたが、彼女にはそれが誰のために流す涙なのかわからなかった。そしておそらく惟も同様の涙を零して、一体自分が誰のために泣いているのかと、訝《いぶか》っているのに違いないと、そう思った。     4 �もしもし�  それは藤野恭の声だった。  別居中の夫の方から電話がかかることは、これまでほとんどなかった。六月最初の土曜の昼少し前。加世子は、これから淡島の実家に行くつもりで戸閉りをしていた手を止めて、何も考えずに受話器をとった。すると例の無関心を装った低い声が、彼女の手の中の黒い機械から、響いた。 �俺《おれ》だ�  その瞬間、加世子の耳に、過去の無数の夫の電話の声が、よみがえる。同じように、俺だ、で始まる声が——。  俺だ、で始まる過去の声は、たいてい手短に、彼女に要件だけを伝えて、一方的に切れた。  ——俺だ、今夜は遅くなる。  ——俺だ、食事はいらない。  ——俺だ、今夜は帰れない。  程度の差こそあれ、加世子を失望させ怒らせ、絶望を与えて来た電話ばかりだった。仕事中の男たちが、そういう声と話し方でしか喋《しやべ》らないものだとわかるまでに、ずいぶん時間がかかった。  そのうちに夫は、電話以外でも、一方的で短い会話しかしなくなった。なれようとしたが、加世子はとうとうそれになれることはできなかった。  団欒《だんらん》の夕食を期待したり、早く帰ることを望んだり、優しい言葉をかけてくれるのを待ったり——要するに、日常の非常にこまごまとしたこと全般を、相手にあまりに期待しすぎるから、失望させられるのだとようやく気づいたが、相手に期待を寄せないことによって得られる心の安らぎなど、真の安らぎとは言えなかった。少なくとも加世子にとってはそうだった。  それはやがて彼女の中に別の泡立ちを生み、その泡立ち騒ぐ自分の心を鎮める手段は、もはや加世子にはなかった。夫を傷つけ、夫を裏切り、夫から歩み去る以外には——。  それは同時に彼女自身を傷つけ、裏切ることでもあった。  けれども、人は自分自身に失望しても、自分から歩み去ることだけはできない。自分で自分を置き去りにすることは、できない。人は自分の中に、見捨てられた、あるいは見捨てようとしている自分自身を閉じこめるだけだ。己れの囚人を。  加世子は、一瞬の沈黙の中で以上のようなことを、無秩序に考えた。 �ちょっと話しあいたいことがあるんだがね�と、恭が電話の中から言った。  厭《いや》な予感が、苦い|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》のように、口に広がる。 �話って何のこと?�と言うつもりで、思わず、�なぜ�と訊《き》いてしまった。自分で意図したよりずっと高飛車な調子だった。  相手にはいっそう横柄に聞こえたのだろう。 �なぜかは、会えばわかるよ�と、声に敵意が新たに加わった。 �その調子では、きっと不愉快なことなんでしょうね�  過去何十回となく繰り返された不毛な会話が思い出される。相手のスキや弱みに噛《か》みついたり、毒のある言葉の矢を放ちあったり、話しあいというよりは、相手を痛めつけること、自分を相手より優位に立たせることのみに終始しあった、たくさんの言い争い。壊れていく夫婦の会話というものは、荒れ果てた庭のようなものだ。毒ダミや厭な臭いのする雑草がぞろぞろと生えてくる。 �不愉快なことになるかどうかは、おまえさんしだいだよ�  彼はそうつき放したように答える。 �嫌な思いをすると最初からわかっているような話しあいなら、今更したくないわ� �もしもし、よく聞けよな�恭はわずかに声に怒気を滲《にじ》ませた。�俺はね、君が何が嫌だろうと、俺が何をどう気に入るまいと、そんなことはもうどうでもいいんだ。俺たちのことなんか問題じゃないんだ。今俺たちが考えなくてはいけないのは、サキのことなんだよ�  サキという名を別居中の夫の口から聞くと、加世子の胸がキリにでも刺されたかのように、痛んだ。そして次に不安が、あたかも突然おそってくる吐き気のように、胃の奥からこみあげてきた。 �サキのことについて、話しあいたいというの?�  加世子は急に慎重になって問い返した。 �正確にはサキの幸福について、話しあう必要があるんじゃないかな�  幸福ですって?  長いこと自分や娘のサキの幸福に無関心で冷酷だったのが、何を今さらという思いが激しくつのった。怒りのために胸がむかむかして、本当に今度こそ吐き気がした。今でも夫が加世子の中に、哀《かな》しみから殺してやりたいという激烈な衝動にいたるまでのありとあらゆる感情を呼び起すことができることが、歯ぎしりするほどくやしかった。  だが考えてみれば藤野恭はサキの父親としては、決して悪い父親ではなかった。少なくとも娘に悪意はもっていなかったし、彼なりに娘を愛していたのかもしれない。ごく一般の日本人の若い父親とそうひどい差があるわけでもなかった。彼女は辛うじて冷静さをとりもどすと、 �何時《なんじ》に、どこへ行けばいいの?�と訊《たず》ねた。 �飲みながらというのはどうかね� �とてもじゃないけどそんな気になれないわね、あなたとお酒を飲みながらなんて�加世子はにべもなく受話器の中へ言った。 �それもそうだ�と夫はすぐに訂正した。 �どうせなら、酒は楽しく飲みたいからな�  それで、四時に渋谷でということにして、加世子は受話器を置いた。まるで重い錨《いかり》でも置くような具合だった。  待ち合わせた場所は、時間が中途半端なせいか、ほとんど客はいなかった。  英国の古いビクトリア調の造りを模したパブで、白い壁とニス塗りの柱やカウンター、そしてブドウ酒色の椅子《いす》と、落ちついた配色を示している。  呼びだしておいて、恭は遅かった。加世子は飲み終ったコーヒーカップを押しやって、ウエイターにカンパリソーダーを追加注文した。  電話ではああ言ったが、できることなら顔など合わさずにおきたい夫と、止《や》むをえず逢《あ》わなければならない苦痛を、少しでもやわらげるには、アルコールの助けが是非とも必要だった。  カンパリソーダーを半分ほど飲んだ頃《ころ》、彼が入口に現れた。  あたりを見まわし、窓ぎわに彼女を見つけると、無意識なのだろう、首がきゅうくつでならないとでもいうように、Yシャツの衿《えり》と首の間に指を入れて、衿をゆるめるような無意識の仕種《しぐさ》をしながら、近づいてきた。  テーブルまで来ると、恭は真向いではなく、彼女の顔を真正面から眺めずにすむ、はす向いに静かに腰を下ろした。 「元気だったかい」と彼は、ほんとうに彼女の健康を気づかうというよりは、儀礼的にそう訊ね、彼女はそれに答えて、 「お蔭《かげ》さまで」と低く言った。それから夫の儀礼的な出かたの裏に何が隠されているのかと考え、椅子の中で油断なく身がまえた。  ウエイターが現れて注文をとる間、彼女は椅子の背にもたれて、じっと夫を眺めた。  完全に別居をしてから二年と少しになるが、その間夫に逢ったのは数回だった。それも、ごくたまに、彼がサキと週末を過ごすために迎えに来た時に数分、いやもっと短い時間、ちらっと相手を盗み見るようなやり方で、正確には逢ったというような感じではない。  建築現場の仕事が多いせいで、恭はよく日焼けしており、数年前よりあきらかに太り、たくましい感じがした。一時は着るものに神経を配りきれなくて、汗臭いような格好をしていた時もあったが、眼の前の夫は、きちんとしていた。グレーのズボンには、アイロンのすじめが通っているし、Yシャツも清潔だった。  テーブルの上にのった加世子のカンパリソーダーを一瞥《いちべつ》しておいて、彼は、 「トマトジュースにウォッカを入れてよ」と注文した。 「ブラディー・メリーですね」と念を押して、ウエイターが下がった。  恭の飲みものが来るまで間がもちそうもなくて、加世子は煙草《たばこ》を取りだした。夫が微《かす》かに眉《まゆ》をひそめるのがわかったが、かまわず一本口にくわえた。彼は女の喫煙を、というより妻が煙草を喫《す》うことをひどく嫌っていた。  あきらかに何か言いかけて、恭は口をつぐんだ。彼がそんなふうに自制するのを見ると、加世子はひそかに残酷な喜びを覚えた。  ブラディー・メリーがくると、彼はそれを眼の高さまで掲げて、 「イギリスにいる彼は元気なのかい」と訊いて、返事も待たずに一口啜《すす》った。特に悪意や皮肉の響きはなかった。  加世子はそれには答えず、彼の設計事務所の景気はどうかと、あまり熱意もなく訊き返した。すると夫は、肩を軽くすくめて、 「まあまあというところだ」と、言った。  そしてそれが限度だった。彼女は額に落ちている髪をさっとかき上げると、 「サキの幸福って、どういう意味なの?」と、ほとんどだしぬけに切りだした。 「まあそう急ぐなよ」  と恭はわざと妻の苛立《いらだ》ちを無視して、言った。 「物事には順序ってものがある」 「でも私、あなたや私の健康のことや仕事のことを話しに来たんじゃないのよ」 「俺だってそうだよ」 「それならすぐに本題に入って下さい」  加世子は二口ほど喫った煙草の火を、ぐいと灰皿に押しつけるようにして消した。 「サキを、二週間ばかりあずかろうと思うんだ」  灰皿の中で押しつぶされた喫い殻から、加世子の顔へ視線を移して、恭がそう切りだした。本題に入れと言っておきながら、彼女には夫の言葉に対する受け入れの用意が、ぜんぜんできていなかった。 「なんですって?」時間をかせごうとして、訊き直した。 「聞こえたはずだ」 「どういうことなの?」彼女は言い直した。 「二週間ってどういうことなの? あずかるって、何よ?」  恭は彼女の攻撃をかわすように、躰《からだ》を引いて、椅子に背をあずけた。 「つまり、サキの夏休みにあわせて、今年は俺も休みをとろうと思うんだよ。軽井沢《かるいざわ》にうちの事務所で設計した知人の別荘があるんでね、好きな時に使っていいって言うからそこへサキを連れていってやろうと考えたわけだ」  彼は非常に注意深く言葉を選んで喋っているように見えた。 「要するに二週間だけ、父親の真似《まね》ごとをしようってこと?」  加世子は鼻先で笑った。「一体何の風の吹きまわしなんでしょうね。それとあなたが電話で大見得《おおみえ》をきったサキの幸福ってことと、何か関係あるわけ? 十一年間私やあの子にほとんど無関心だったのが、何故《なぜ》かは知らないけど——知ろうとも思わないけど、今度の夏休みの二週間だけ、父娘水入らずで軽井沢の他人の別荘で過ごすと、もしかしたらサキの人生がなにかバラ色の幸福な光にでも包まれると、そう思うわけ? それでどうなるの? 二週間の父親の真似ごとをやった後はどうなるの? 大きな荷物みたいに、淡島へ配達して、又何年か先に、再び気まぐれが起ってお父さんごっこをやるまで、あの子を置き去りにするのなら、最初から何もしないでもらいたいわ。あなたの気まぐれであの子を傷つけて欲しくないのよ、それだけは断じておことわり、私が許さない、絶対に許さないわ」  喋っているうちに自分の言葉に刺激されて、加世子は一気に怒りを爆発させた。 「それで言いたいことは全部かい」と、彼女の夫は、長い沈黙のあとうってかわって押し殺した不自然な静けさで言った。  それはひどく危険な静けさであった。以前の経験から、彼が妻に平手打ちをくわせたい気持を必死で抑えているのが感じられた。怒りを内側へ無理矢理に引きこんでいる証拠に、彼の日焼けした額やこめかみに、汗が滲んでいた。  その時パブの入口に人の気配がし、若い二人連れが、そして別のサラリーマン風のグループが数人入ってきた。  気取った蝶《ちよう》ネクタイの給仕がどこからともなく現れて、二組の別々の客たちを、恭と加世子の傍《そば》のテーブルに案内してくる。  人眼《ひとめ》があるおかげで危機はひとまず去った。恭の眼から兇暴《きようぼう》な光が薄れていく。  彼女は一瞬肝を冷やしたが、同時にその恐怖がある種の自虐的な快い刺戟《しげき》をもたらしたのも、又事実であった。結婚生活が日毎に下り坂を一気に転がり落ちていく時、夫の暴力や、兇暴さと痛みをたたえた怒りで燃え上る眼の色をみることなどは、彼女にとって最後の陰惨な楽しみだった。彼を痛めつけ傷つけることによって、自分も又痛めつけられ、それは束《つか》の間、偽りの親密さを二人にもたらした。憎しみと渾然《こんぜん》一体となった愛。その混乱の中で繰りひろげられた性愛——半ば犯されて——。そして二人は石のように押し黙る。それ以来彼らは、お互いの感情をやわらげあわないことによって、お互いを見捨てたのだった。 「俺はね、父親の真似ごとをしようなんて気は、さらさらないんだ」と恭は怒りを押し止めた後の少し青ざめた表情で言った。「君の言う通り、俺はかつて一度として模範的な父親であったことはない。そうありたいとも強いて望まなかったしな。今、サキに必要なのは、友だちなんだ。あの子はそういう年齢に達している。話を聞いてやる、友だちなんだ。俺は確かに無器用で無能な父親だったが、友だちにならなれると思っているよ。盲目的に抱いたり、なめてやることにかけては俺の出る幕はなかったが、相手を一人の人間として認め耳を傾けてやることなら、俺のような男にもできる。是非ともそうしてやりたいんだ。サキの最初の男友だちになってやりたいんだ」  加世子は夫の声に耳をかたむけているうちに、反発とは別にある種の感動に打たれて、うなだれた。それは恭の言葉に含まれる真実の響きであった。彼は続けた。 「つい先日、久しぶりにあの子に逢ったよ」  何気なく言うけど、何日《いつ》だろう、と加世子は思った。淡島の彼女の母親も、サキも、昨日電話した時には一言もその件に触れなかった。 「その時、あの子の瞳の暗さに、俺は驚いた。いや打ちのめされた」ふいに恭の声に憎しみがこもった。黒い染みのような憎しみ。「君はサキに何をしたんだ?」夫はうめいた。「違う、そうじゃない。何もしてやらないんだ。この数年、君は色恋|沙汰《ざた》に眼の色変えて、サキは淡島のお袋さんのところへあずけっぱなしだものな。母親の役目さえろくに果しちゃいない。俺のことをとやかく言うが、きみだって母親としては完全に失格だ。サキの瞳の色はな、孤児の瞳の色だ。見捨てられ、忘れられ、置き去りにされた人間の眼の色だ」 「私だけをせめるのね? 自分のことは棚にあげて、私だけのせいだというのね」  最も痛いところをつかれて、加世子の心は半狂乱になった。 「そうは言っていない。だからこそ遅まきながら、今、俺は君に提案しているんだ。あの子の友だちになってやりたい、と」 「ずいぶん遅まきだわ」 「だまれ」  とつぜん恭がぴしりと言い放った。両隣の二つのテーブルで、会話がピタリと止んだ。恭はそんなことにはおかまいなく、続けた。 「へらず口をたたくなよ。意地を張ったり、俺へのあてつけであの子の人生を台無しにするのはよせ。なぜ素直に、君もあの娘の友だちになってやろうとは思わないんだ? 親としての務めが俺同様果せないのなら、せめて友だちになってやる気はないのか? 俺が憎いと、あの子まで愛せないのか?」 「それどういうこと?」 「どういうことか、君が一番よく知っているはずだ」 「どういうことかって、聞いているの。答えてよ」  サラリーマンの一団が、ニヤニヤ笑いながら二人を見ていた。 「はっきり言ってよ。もし胸に何かあるんなら、ここで吐きだしてよ」 「なら言うが、君がどういう暮し方をしているか、君も俺も知っている」恭は感情を一切ぬいたような言い方で喋った。「従ってその点についてここでくわしく話す必要はないと思う」 「私がどういう暮しをしていると言うの?」  加世子の声がだしぬけに大きくなった。カウンターの陰で新聞を読んでいたウエイターが顔を上げて、じっとこっちをみつめる。 「少なくとも十一歳の女の子に目撃させたくない内容なことは確かだな」 「人を愛して、そのひとと幸せになろうと努力することが!?」 「物は言いようだな」と恭は冷笑した。 「同じことを、こういうふうにも言えるんだぜ。——不道徳で不潔な考えを子供に吹きこんでいる、とな」 「不潔ですって? ひとを愛することが不潔ですって!! 私が潤一郎さんを思う気持は、かつてあなたに対して抱いた気持と、同じなのよ」 「少なくとも大きな声でいばれる関係ではないだろう。法的にはおまえさんは今でも俺の妻なんだぜ。結婚している女が、他《ほか》の男と——俺の知るかぎり一人じゃないよ、そういう淫《みだ》らな関係を君が男ともったのは——。まあそれは今ではもうどうでもいいがね。要するに俺が言いたいのは、君という女は心理的にも道徳的にもサキを正しく育てるには不適任だ。  どんな生き方をしようと、それはそっちの勝手だ。しかし、俺の娘を、夜毎違う男にまかせる気は、俺には毛頭ないからな」 「とうとう本音が出たじゃないの」と、彼女は無意識に薄く笑った。「それだったのね、あなたの狙《ねら》いは。サキを私から取り上げようという魂胆《こんたん》」  そう言いかけて、はっと彼女は夫の折り目のついたズボンや、染みひとつないネクタイや、さっき汗をふくために無造作にとりだされた、きちんとアイロンのあたっていたハンカチのことなどを、素早く思った。  何故すぐに気づかなかったのだろうと、彼女は内心歯ぎしりした。夫には誰《だれ》か女がいるのだ。彼のめんどうをこまごまとみている女が、確かにいる。そうでなければ軽井沢で二週間も、どうしてサキと二人で暮せるものか。  加世子は自分の手が震えているのを感じた。かつては一緒に住み、食事を作ってやり、汚れものを洗い、そして肉体を与えあった歳月を思った。女に対する嫉妬《しつと》ではなかった。自分が夫から与えられなかったものを、おそらく彼女が今与えられているのかと思うと、理屈を超える無念さに襲われた。 「はっきり言ったら良いじゃないの。女がいるならいるって」  驚きが夫の顔に浮んだ。 「いきなり何を言いだすかと思ったら——」 「女がいるんでしょう」 「もしそうならどうだっていうんだ。君も男が——男たちが、いたじゃないか」夫は開き直った。 「やっぱりそうなのね」加世子は身を守るような仕種をして、胸の前で両腕を交差させた。「そういうことなら、断じてお断りします」 「断る?」 「サキを二週間、軽井沢へやるの、お断りします」 「馬鹿《ばか》な奴《やつ》だ」と、恭は吐きだすように言った。 「自分の意地や悪意のために、何が大事なのかすっかり見失ってしまっている。いいか、おまえさんなんか、どうでもいいんだよ、おまえの自尊心も、意地も、そんなものはこの際問題じゃない。大事なのはサキのことだけだ。俺自身のことでもむろんないさ」  加世子は自制心を失って、両手で顔をおおった。泣きたかったが、涙はでなかった。少しして、顔をあげると、 「知らない女に、あの子をあずけるのは厭よ。それだけはカンニンして」  と、気力の失《う》せた声で言った。 「いずれ君には話すつもりだった」と、長い沈黙のあと、藤野は穏やかに話しだした。 「サキのことで順序が逆になったから、君が逆上したのも無理はないが、俺の本意はあくまでもサキが優先で彼女の幸せを思ってのことだ。わかってくれないか」 「何をわかって欲しいの、サキを思う父親の気持? それとも、あなたの女のこと?」  既に敵意の消えた声で、加世子は言った。 「俺の女のことで、君なんかの理解を求めるつもりはないよ」 「じゃ何を、私に理解しろと言うの」 「つまり——いずれサキを引きとりたいと思っている」 「引きとるって、あの子は今でも、あなたの籍に入っているわ」 「…………」恭は加世子の出方をうかがっている。 「そして、私もね」  再び沈黙。 「君は離婚を望んでいたと、思ったが」  と、やがて彼は注意深く言った。 「あなたは断ったわ。私が少なくとも四回は、真剣に土下座せんばかりに頼んだのを、どろぼう猫でも追い返すように、私を追い払ったわ。覚えている? 一生、藤野の籍に縛りつけてやるって、あなた、そう言ったわ」 「————」 「あなたの言葉通り、実行したらいいじゃないの」そこで加世子は、躰中の血を失ったような疲労感を覚えた。 「あの時は、男としてのプライドが許さなかっただけだ。……しかし今は、話しあいの用意がある」彼はできるだけ落ち着いた口調で言った。 「何の話しあい? 離婚の話しあい? 今頃になって、私に離婚してくれるっていうの? 離婚をめぐんでくれるっていうの? 冗談でしょ、離婚をめぐんで欲しいのは、今はあなたの方じゃないの、なぜそうはっきり言わないの、男らしく言ったら良いじゃないの、女ができたから離婚をしてくれ、って土下座したらいいじゃない」  加世子の頭の隅《すみ》でチラっと、これは彼女自身の脱出になる又とない機会だという思いが過《よぎ》った。今なら、夫と文句なく離婚ができる。そうなれば、ロンドンの潤一郎の元へ大手を振って飛びこんでいけるわけだ。自分はあれほど離婚を望んだではないか。それがあっけなく、実現しようとしている。あまりにもあっけなく——。 「離婚をしてもらいたい」  眼の前で、急に恭がいずまいを正すような動作をして、頭を下げた。どれほど彼の自尊心が傷ついているか、顔色を見れば明らかだった。  夫が私に頭を下げて頼んでいる。私は、ついに勝ったのだ、と加世子は考えた。  勝った? 何に勝ったというのだろうか? もしかしたら、これは敗北なのではないか? 勝利の仮面をかぶった敗北なのでは? 「厭です。離婚はしません」  加世子の口から、もれて出た言葉は、彼女自身を誰よりも驚かせた。「あなたがだれとどんなふうに暮してもいいけど、私は一生、あなたの籍から出ていかないわよ」  夫の申し出を拒絶することによって、潤一郎をも遠ざけてしまった。後悔が、黒い煙のように、胸に充満した。  恭が無言で立ち上るのが見えた。歩み去る前に、彼は「頭を冷やせよ。そして充分に考えて冷静になったら、俺の方にはまだ話しあう用意があるからな」と、言いすてて立ち去った。  淡島の実家で、母親の延子とサキの三人で夕食を終えると、加世子は洗いものを母にまかせてサキを散歩に誘いだした。  雨がきそうなので、サキはレインコートを大人のような仕種で、はおった。まだ小さな躰のくせに、時々、娘のそういうちょっとした手つきに母親である加世子は眼を見はらさせられる思いだった。  衿が内側にめくれこんでいるので、直してやろうとすると、サキは微かに身をひいて、「ママの手は香水くさい」と母親の手を逃れた。  淡島通りを渡って、静かな住宅街を歩きながら、加世子が何気なく言った。 「ねえ、サキ、すぐってわけなんじゃないけど、又、ママと暮さない?」  サキは産毛の光る白い、ひどく華奢《きやしや》な首筋をみせてうつむきながら、 「うん、いいよ」と答えた。「……いつからよ?」 「それなんだけど、ママね、又働きに出ようと思うの。六月からなんだけど。だから仕事になれるまで、少し待ってくれない? 多分——そうね一月くらいかな。そしたら、一緒に住もう?」  サキは返事をせずに、せまいツツジの咲き乱れる路地を右に曲った。 「お勤めに出ると、ママあなたのめんどうみてあげられないけど、あなたもきっと淋《さび》しい思いするかもしれないけど、それでもママね、サキと一緒に暮すことが大事だって気がするのね、わかる?」  サキは黙って石をそっと、ける。立ち止まらず、ずんずん歩いていく。きっと十一歳の少女には、母親の意見——ほとんど命令に等しい——にあらがう言葉が見つからないのかもしれない、と加世子はふと可哀想《かわいそう》に思った。しかし無理じいをするつもりはなかった。第一、無理じいをする必要など、ないではないか。血のつながりあった母と幼い娘が、一緒に暮し始めるということの方が、はるかに自然なことなのだから。 「ママが新しいお仕事になれるまで、サキ、あなた軽井沢で夏休みを過ごしてみない?」  結局あんなふうに拒絶したけど、あれは夫への反発と拒絶であって、決してサキの楽しみを奪うつもりではなかった。夫の言う通り、サキの夏休みが少しでも楽しければ、それがまず優先すべきだった。 「軽井沢にね、パパのお友だちの別荘があるのよ。そこで二週間過ごさないかって——」 「……ママも来るの?」  立ち止まりもせず、サキがぽつりと訊ね返す。 「だから八月はママ、お仕事だって言ったでしょ。——でもパパが一緒なのよ。あなたのめんどうみてくれるって」  その時、パラパラと雨が降りだした。  加世子は傘を開いて、一緒に入るように言った。サキは、レインコートの帽子を立てて、かまわず歩き続ける。  あまり行かない内に、雨が本降りになったので、二人は散歩を早々に切り上げて帰り道を逆戻りし始めた。家につくまで、サキは加世子のさしかける傘に入らなかった。  十時近くなって、サキが眠っているかどうか子供部屋を覗《のぞ》くと、彼女が寝返りをうつのが見えた。肌がけが足の方にかたまっている。それを直してやっていると、不意にサキが言った。 「ママ、あたし、ママと暮さなくちゃどうしてもいけない?」 「あら、まだ起きていたの?——どうしてもってことはないけど」内心傷ついて、加世子は娘を眺めた。 「あたし、ここにいたい。おばあちゃん、一人ぽっちになっちゃうし。それに学校、又変るんでしょ? あたし嫌だ、転校するの」 「でも、すぐになれるわよ。お友だちなんて、すぐにできるわ」 「…………」 「大丈夫よ、サキ、すぐお友だちできるわよ」 「……だけど、いつまでよ、今度はいつまであたし、ママといるのさ? 又、あの人がロンドンから戻ったら、おばあちゃんとこなんでしょ? ママの勝手で、あっちこっち移るのもう嫌なんだ」  加世子には返す言葉がなかった。『サキの瞳《ひとみ》の暗さに、俺はショックを受けた』と言っていた夫の言葉がよみがえった。  母娘が共に暮すのはサキのためと短絡的に考えた自分の浅はかさが惨めだった。サキのためなんかじゃない、私は私の後めたさをごまかすために、娘を利用しようとしたのにすぎない。潤一郎が戻ったら、サキの言う通り、将来はともかく、当面は再びサキを実家の母にあずけなくてはなるまい。それにもし、ロンドンへ彼女が行くようになれば……。 「そうね、あなたの言う通りかもしれないわね。もう少し、考えてみるわ、ママ。あなたと暮したいけど、もう少しガマンしてみる」  サキは小さな手をホホの下に入れると、眼を閉じた。 「それから夏休みに軽井沢、行かなくてもいい?」と、眼を閉じたまま訊いた。「パパに頼んで、くれる? サキ、あんまり行きたくないんだ」 「どうして——? 楽しいわよ。それに自転車やテニスができるし」 「いいのよ、あたし。二週間も、パパと何していいかわかんないもの。おばあちゃんといるよ」  次の瞬間、サキは軽く寝息をたて始めていた。加世子は枕元《まくらもと》のスタンドを消すと、暗闇《くらやみ》の中で、ぼうぜんと座っていた。それからこういう形で娘から見放された自分と夫は、当然のむくいを受けたのだと思った。その瞬間から、彼女は夫に同情した。娘の心を傷つけてきた共犯のよしみだった。     5  日がすっかり沈んで、けれども夜の闇《やみ》が完全にあたりを包みこんでしまうには、まだ大分時間があった。太陽の残していった金色の微粒子が、都会の底で次々と音もなく弾《はじ》けて、光を失いつつある黄昏《たそがれ》時。  やがて空気は急速に蒼《あお》ざめ、ショーウィンドウの中の明りやネオンサインが生き生きと息づき始めると、束《つか》の間の宵《よい》の口を経て、夜の支配下に入る。  一日のうちで最も美しいこの時刻を、加世子はどうしようもなくもてあましてしまう。  ビルの半地下にある彼女のオフィスから、斜めにはめこまれた窓ガラス越しに、刻々と変化するあたりの気配を眺めていると、この時刻のもつノスタルジックなかぐわしさゆえに、美しさゆえに、打ちのめされたような気持になり、思わず胸の前で腕を交差して自分自身の肩を抱きしめるのだった。  夏の黄昏時から宵にかけてのこの無限の色彩の変化が、加世子の内《なか》に掻《か》きたてるのは、底無しの孤独感だった。  昼のうちには、仕事の忙しさにまぎれて忘れていた感情——打ち捨てられ、置き去りにされている人間が抱く寂寥感《せきりようかん》——が、一日の終りの気の緩みと共に、ずっしりと襲ってくるのだった。  そして自分が支えきれなくなると、彼女は机の前から立ち上って、窓に寄った。ちょうど眼《め》の高さにパティオ風のよく手入れされた空間があり、紫陽花《あじさい》が咲き乱れている。その後方に麻布台《あざぶだい》のひっそりとした裏通りがあって、煉瓦造《れんがづく》りの今風のマンションの一部と、硬化ガラスと大理石とでできた小綺麗《こぎれい》な玄関が見えている。そこにも紫陽花が、いくつかの鉢に植えられて置かれている。  加世子の背後に人の気配がして、 「どうしたの、いやにぼんやりして」と篠田辰也の声がした。「それに寒そうだよ。冷房がききすぎるかな」  加世子は振り向かずに、首だけ振る。篠田は横に並んで立って、彼女と同じ光景を眺める。 「それともそろそろ疲れが出る頃《ころ》かもしれないな。仕事に復帰してどれくらいになる?」 「二週間よ」と加世子はぽつりと答えてしまってから、今では再び上司となった篠田に対する返事の仕方ではなかったと反省して、言い直した。 「正確には十六日です」 「十六日か。緊張と気の緩みとがキミの中で上手《うま》くバランスがとれなくなる時期なんだよ。ま、ゆっくりやりたまえ、何もそう急ぐことはないさ」 「ええ、そうします」  アルファPRの事務所《オフイス》には、既にもう他に人はいなかった。二人いる秘書の若い女の子たちは、五時になると帰ってしまったし、篠田と共同でこの会社に出資している小出三郎は、クライアントとの打ち合わせに出たまま、戻っていない。他にいる三人の中堅スタッフも同様で、もう少し後にオフィスに戻るのもいれば、そのまま仕事先の要件が終り次第、帰ってしまう者もいる。  篠田の手が、そっと加世子の肩に置かれた。熱い男の体温が、肩先に滲《し》みる。それはいかにもさり気なく、慰めに満ちていたので、こんな孤独な夕暮れ時には特に、そこにそのまま置かれた状態はとても快かったが、加世子は相手に気を悪くさせない程度に身を引いて、男の手から逃れた。  篠田はゆっくりと自分の机に戻り、報告書《レポート》の続きに視線を落しながら、 「今夜の予定は?」と訊いた。 「あら、ご存知《ぞんじ》かと思いましたけど」と加世子は再び言葉使いを正しながら答えた。「今度新しくうちでやることにきまった、Cワイン協会の方たちを、ヒルトンの�欅《けやき》�にご招待することになっています」 「ああそうだったな、キミのアルファPR復職最初の担当になる件だね、うっかりしていた。小出君が、出席するんだろう?」 「ええ。仕事先から直接ヒルトンへ向うことになっています。他の方たちとも、あそこのバーで七時半に——」 「李白バーか……。ところでキミね、ひとつ個人的な頼みがあるんだがね」 「なんでしょうか」  加世子はわずかに緊張の色を浮べて待った。 「そう固くならないで」と、彼は苦笑して、「頼みというのはね、キミの他人行儀というか、バカていねいというか、その言葉使いを止《や》めてもらいたい」 「でも、そうはいきませんわ」と加世子は微《かす》かに笑って言った。「他《ほか》の人たちの手前がありますもの」 「でも以前は、そんな風には喋《しやべ》らなかったぜ。もっとフランクだったし、ざっくばらんで、第一その方が意志の疎通もはるかにスムーズだった。前のようには喋ってもらえないかなあ」 「以前とは、状況が違うから——、女の子たちも変ってしまったし、男のひとも二人新しいスタッフが増えているし」 「じゃ言うけど、これは命令だよ」 「おかしなことを命令なさるのね」  とうとう笑いだしながら、加世子が言った。 「じゃこうしましょう。他のスタッフのいない所では、もっとフランクに喋らせてもらいますわ」 「そう言う矢先から、ほら又、慇懃《いんぎん》無礼な口のきき方して。言い直し!」 「わかったわ、篠田さん。おおせの通り乱暴にやらせてもらうわ——、これで、いい?」 「オーケー」  二人はそこでようやく視線を合わせた。考えてみれば、三年前まで勤めていたアルファPRに再び職を求めて二週間、篠田辰也の視線をつとめて避けるように自分はしてきた、と思う。彼女が彼から眼を伏せるようにするのは、春の終りの頃のあの一件について、ひどく恥じ入っていたからだった。  彼とは、潤一郎と知りあう以前のある短期間、情人関係にあったのだが、その関係はきわめて気持の良いもので、いわゆる大人の男と女とが、ちょっと凝ったフランス料理屋で食事を一緒にするような、あるいはその延長上の、さりげない関係であった。  加世子の前に潤一郎という別の男性が現れた時、二人のそういう関係はごく自然に終了したが、そのことについて彼女はくどくどと言い訳をしなかったし、篠田の方でも恨みがましいことも、嫌味も一切言わなかった。彼はただ一言、 「わかったよ。キミが幸せになれるなら、ボクは喜んで身を引くよ」と、言っただけだった。そして二人の友情は残った。  それなのに、つい二か月ほど前の昼下り、加世子は彼を、自分を見捨てていく潤一郎への面当てのように、利用しようとした。  結果的には、どたん場になって彼女は逃げ出したのだった。それというのも、篠田自身に彼女の本音を見透かされて。  ——仕かけ人はキミの方だぜ。キミが先にボクを誘惑しようとしたんだ。だからボクの思い通りにことを進めたらどう、なんて言い方はしないでもらいたい。キミの思い通りと訂正してもらいたいね。  と、確かそんな風なことを、いざホテルへ行く段になる直前に、篠田は言ったのだ。加世子には返す言葉がなかった。  彼に自分の傲慢《ごうまん》さ、破廉恥かげんを指摘されて、屈辱のあまり立ちすくんだ一瞬。それから、言いわけも、謝罪も何ひとつなく、くるりと背を向けるようにしてその場から逃げだしたこと——、そうした過去の事実の全《すべ》てが、加世子を身の置き場のないような恥ずかしさの中に落しこむ。だから彼女は、再び彼に拾われて、昔の職場に戻った時、二重の負い目を感じたのだった。篠田辰也の視線に、まともに自分の視線を合わせられない道理である。  加世子は再就職の職場を選ぶ際、そういった事情でアルファPRだけは、念頭に置かなかった。置けるはずもなかった。  考えれば考えるほど、一時の気の迷いとは言え、愚かなことをしてしまったと、自分を呪《のろ》った。篠田との友情すら、完全に失ってしまった、と、いくら後悔してもし足りなかった。  PRという仕事は、彼女が七年間勤め上げて、その性質も職種の何であるかも隅々《すみずみ》までわかっている唯一の職業だった。復職するなら、再びPR関係しかなかった。  しかし彼女には、篠田に電話をして自分の方から謝ることはできなかった。謝るのなら、とうの昔にそうしているべきで、今からではまるで仕事欲しさにそうしていると受けとられても仕方がない。  そんな理由で、アルファPRを念頭から外して、言ってみれば昔のライヴァル会社の幾つかに面接を申しこんでいた矢先であった。篠田の方から電話がかかって来たのは。 �仕事に戻るんだって?�彼は屈託のない陽気な声で、そう電話の中から語りかけて来た。 �キミが昔の古巣を敬遠する理由が知りたいね� �まあ、こんなに早くあなたの耳に入るなんて、思ってもみなかったわ�加世子は当惑した。 �この業界は狭いからね、どこがどのクライアントをとって、どこの誰《だれ》が担当しているかなどという情報はたえず手元にあるよ。もっともキミはそんなこと百も承知だろうがね� �…………� �藤野加世子が又仕事を始めるらしいというニュースは、一番最初にキミが『グローリアPR』にコンタクトをとった一時間後には、ボクの耳に入っていたよ�  さすがに加世子も言葉を失って、受話器を握り直すだけだった。 �もしもし、聞いてる?� �はい、聞いてます� �というような訳で、ボクとしては、いや『アルファPR』としては、この問題をみすみす見過ごすわけにはいかないのさ� �なぜでしょう?� �なぜ?�篠田が思わずすっとんきょうな声を上げた。 �おいおい、まさかこの世界の仕事のやり方を忘れたんじゃないだろうね� �三年もたっているから、自信はありませんわ� �そうじゃないよ。僕が言うのはね、もし、あるクライアントを欲しいと思ったら、我々がどんな手段を講じるかということだよ� �色々あるけど……�と加世子は考えてから続けた。�まずライヴァル会社の、その担当者を、スカウトするとか……� �その通り。ということは、わが『アルファPR』としては、往年の凄腕《すごうで》PR担当だった藤野加世子に、敵方に回られたくない、ということは、これは、常識じゃないか� �あら、『アルファ』から私が昔担当したクライアントを横取りするなんて、そんなことこれっぽっちも考えたことありませんよ� �今はね。しかしいずれ考えるさ。この仕事がどれだけシビアだか、キミは骨身に滲みて知っているはずだ� �わかりました�と加世子は下唇《したくちびる》を噛《か》んだ。 �じゃ、戻ってくれるね、僕らのところに?� �私を敵に回したくない——口どめということもあって、私をひき取って下さるということね� �それもあるよ。しかしほんとうはもっと積極的な理由で、来てもらいたいんだ。今この業界で最も切実に求められているのは、仕事の出来る大人の女性だよ。酸《すい》も甘いも噛みわけた、したたかで、それでいてナイーヴな、そういう人材なんだ。要するに、ズバリキミのような女性なんだよ、僕が右腕として必要とするのは�  篠田辰也の言う意味は、加世子にはよくわかった。以前彼女があるフランスの装飾品に関するPRを担当していた時、彼女自身がいつも歯がゆい思いをしたのは、自分の年齢やそれにともなう人生経験の浅さであった。特に外国のクライアントの眼には、それでなくとも日本人の年齢は若く見られがちだった。加世子は二十九歳であったが、二十四、五にしか見られなかった。そのために二重にも三重にも説得しなければ、相手が重い腰を上げようとはしないことが、再三あった。もし、年相応に、あるいは三十を幾つか過ぎて、人間としての重みや洗練を身につけていたら、はるかに容易に仕事が出来たろうと、実に度々嘆いたものだった。もっともクライアント側から見れば、たかだか二十四、五歳にしか見えない若い女に、年間何千万ものPR費を担《まか》せるのだから、不安や疑問はあって当然なのだ。  しかし現在の加世子なら、それがやれる。篠田の言う意味はそういうことだった。 �どうしたの、まだ何かこだわっているのかい?�と受話器の中から彼が言った。 �そうなの�と加世子は消え入りそうな思いで答えた。�一体どんな顔してあなたの前に出たらいいかと思って……�  相手は陽気な笑い声をあげた。 �実はボクも、藤野加世子がどんな顔をして現れるかと思って、楽しみにしてるんだ� �…………� �冗談だよ、冗談。何も気にしちゃいないさ� �ほんとうに?� �そういうこと。もっともあの日は猛烈に腹が立ったけどね。おかしなことに怒りという感情を抱き続けては、ボクという男は三日と生きてはいけないものだと、発見したよ。というわけで、こっちは、もう何もこだわっちゃいない� �ごめんなさい�と、初めて加世子は素直に謝った。�でも、私の方はそうはいかなくて。あんな卑劣なことをあなたにして、どうしておめおめと——� �そのことはもういいじゃないか。第一、もし仮にボクがそれにこだわって腹を立てたり、キミを恨んだりしていたとしても、こっちとしてはそのことはそのこととして自分の腹に収めておいて、やっぱりキミを『アルファ』に是が非でも引っぱるためにくどいたろうと思うよ。いいかい、これはビジネスなんだ。非情なものさ。男の沽券《こけん》や自尊心など、ビジネスの前では木《こ》っ端微塵《ぱみじん》さ� �じゃやっぱり、こだわっているんだわ、男の沽券や自尊心に� �さて、どうかな�と、篠田は浅く笑った。 �あなたが私のしたことにこだわっていると正直に言っておいて下さった方が、私は楽よ、この気持わかってもらえるでしょうか?� �まあね、わからなくもないけどね。じゃこうしよう、あのことはボクの貸しということで、いずれ貸しは返してもらう、というのではどうかな?� �そうね、いずれ貸しを返すということで、許してもらえるのなら——�と彼女は少し間を置いて考えてから言った。�私、喜んで『アルファPR』で働かせてもらいます� �よし、それできまり。ありがたい。肩の荷が降りたよ。キミにあくまでもノーと言われたらどうしようと、実のところ内心ヒヤヒヤだったんだ�  そういうことで加世子の再出発の職場が決定した。  加世子が篠田辰也の視線をまともに受け返せないのは、現在までのところ、その借りをどのような形で返すのかあてがないからだった。おそらくは仕事でめざましい成績を上げることが、その答えなのかもしれない。  二人は宵闇《よいやみ》の黒い粒子がかち始めたオフィスの薄暗い一隅で、視線を絡めた後、それぞれの机の上の報告書に眼を戻した。 「さっき、今夜の予定は、とボクが訊《き》いたのは、ほんとうは食事にでもつきあってもらおうかと思ったんだよ。その内にどう? 霞町《かすみちよう》の交差点の近くに、新しく、あんがい美味《うま》いフランス料理店ができたんだ。一度一緒に行ってみないか?」 「喜んでご一緒するわ」報告書から顔を上げて、加世子が答えた。 「ほんとうに? 無理してもらいたくないんだな。ボクに借りがあるからといって、何もかも無条件で承知してもらって欲しくない。キミが自分の心に折れてまでボクのご機嫌をとる必要はないんだ。借りを返してくれるとしたら、それを本心喜んで返してくれるのでなければ、返して欲しいとも思わないよ、わかるね?」 「ええ、もちろん……」 「それじゃ改めて近々食事に誘い直すよ。オーケーかノーかは、その時の正直な気持で、いい」 「わかりました」 「言い直し!」 「わかったわ。ありがとう、篠田さん」  篠田はうなずいてから、こころもち横顔を引きしめて、報告書を読み始めた。 「あなたのプレゼンテーションを読みましたよ。|大変気に入りました《ベリーグツド》、|ありがとう《サンキユー》」  と、李白バーの薄暗い席で、Cワイン協会の広報官であるポール・スチュワートがそう加世子に言った。  |ありがとうございます《サンキユー・ベリーマツチ》、と答えて、彼女はゆったりとした椅子《いす》の中で座《すわ》り直した。三年前の加世子なら、そこでニッコリ笑って口をつぐんだろうが、今はそうしなかった。相手が話しかけることに相づちを打つだけでは、あまりにも能がない。若い女だった時には、まだ若すぎるからと、それも大目に見過ごされたろうが、現在はそうはいかないと思う。 「特にどの箇所が気に入って頂けましたか、ミスター・スチュワート?」  と加世子は柔らかではあるが、一歩つっこんで訊き直した。  ポール・スチュワートは、少し表情をひきしめると、誠実そうな茶色い瞳でまっすぐに加世子の視線を受けとめた。もし、単にアリガトウと微笑するに止めていたら、この誠実そうな瞳に、熱意と興味がそれとわかるほど浮ぶことさえ、見ることはできなかったろう。加世子は姿勢を正した。その表情には、女だからという甘えはもはや微塵もなかった。 「特にボクが気に入ったのは、我々のワインのターゲットを、女性にしぼった点。かなり冒険だとは、思うけどね」  ポールはそう答えて、片目をつぶってみせた。 「冒険だと思われるのは、どういう理由でしょうか?」 「我々は、日本はまだまだサムライの国——つまり男性社会だと考えているからね」と、もう一人のクライアント、B・G・ホールズが口をはさんだ。  横で小出三郎が、全員の飲み物のおかわりを、眼顔でバーテンダーに合図する。彼は、必要とあればすかさず加世子のバックアップに入ったが、そうでなければたいていニコニコと笑って、他人事《ひとごと》のような顔をしている。どちらかといえば神経質な篠田とは、その意味で対照的な人物だ。 「ところがミスター・ホールズ、それはもう伝説に過ぎませんわ」と加世子がにこやかに言った。 「日本では、財布のヒモを握っているのは妻たちですの。彼女たちはいちいち夫に、日常品の買い物の相談なんてしませんのよ」 「しかし、アルコールをたしなむのは、圧倒的に男なんじゃないかな?」と、ホールズ。 「かもしれませんわ。でも、ショッピングに行くのは妻です。だから私たちは、まず彼女たちを説得する必要があるんです。Cワインを選ぶと、これこれこういうメリットがありますよ、って彼女たちの耳の中にくりかえし吹きこむんです」 「けれど、あなたのプレゼンテーションには、独身の若い女性もターゲットとして重要な部分を占めているね、それはどういうことかな?」  加世子は答える前に、カウンターの上のトールグラスを手にとって、塩なしのソルティー・ドッグを一口飲んだ。 「二つの理由がありますわ。ひとつは、彼女たちが主婦予備軍であるということ。今の内に情報を頭に叩《たた》きこんでおく必要があるんです。もうひとつは、彼女たちには驚くほど自由に使えるお金があるってことなんです」 「ほんとうに?」ポールはちょっと首をかしげた。「アメリカやヨーロッパの若い娘たちは、ひどく貧乏だけどね、生きることに追われて、始終ピイピイしているよ」 「それは、多分、欧米の若い女の人たちが自立しているからだと思います」 「自立? 当然ですよ。日本の若い女性だって同じじゃないのかなあ」 「中にはむろん真の意味で自立している人はいますけど、結婚前の大部分の女たちは、半分以上親がかりですわ、日本では。彼女たちが働いて得る収入は、ほとんど彼女自身の小遣いに使われていますから」 「家賃とか食費がかからないんですよ」と、初めて小出が喋った。「だから彼女たちの小遣いは、ボクら中年の働き盛りの男たちより、はるかに多いくらいだ」 「Cワインを毎日食卓に、ということが可能なわけなんだな」とポールがニヤリと笑う。 「金銭的には可能ですわ」 「なるほど」 「と同時に、彼女たちは驚くほどファッションに敏感ですからね」と再び小出、「我がミス・フジノのアイディアは、おたくのワインをファッション的に飲ませようというわけです」  李白バーでの会話はそこまでで終った。顔合わせの時には緊張していた二人のアメリカ人は、すっかり寛《くつろ》いだ様子で、小出の案内で場所をレストランに移した。 「さて、ミス・フジノ。ビジネストークは今夜はこれくらいにしておきましょうか」とホールズが、レストランの手前で笑いながら加世子に言った。 「いいね」とすぐにポール・スチュワートが相づちを打った。「それと、ひとつ頼みがあるんだが。これからはボクのことポールと呼んでもらえないかな」 「ボクは、バズ」 「おっしゃるとおりに。そちらがクライアントなんですから」と加世子は二人を笑わせておいて、右手を差し出した。「わたくしはカヨコ。カヨコと呼んで下さい」 「ボクはサブロー」  小出がすかさず言って、四人はすっかり、打ちとけて笑いあった。 「正直に答えると約束してくれますか?」  と、食事の途中で、ポール・スチュワートが三百五十グラムの分厚いステーキを切っていた手を休めて、加世子に訊いた。 「質問にもよりますけど」と彼女は微笑した。 「たいていのことなら、正直にお答えできると思いますわ」 「ボクが是非知りたいのはね、カヨコ、あなたは個人的にCワインを買ってまで飲むかということ。好き? それとも好みに合わないかな? あなたは、毎日、Cワインを食卓に用意するだろうか? 日本人の一人の若い女性としてだけど」 「つまりPRを外れて、お答えしろということですね?」と加世子は、舌ビラメのムニエルから視線を上げると顎《あご》の下で指を組みあわせた。 「それはとてもむずかしいご質問ね。それに第一、私は若い女性じゃないから——」 「|冗談でしょう《キデイング》!。あなたが若い女性でなかったら、日本中の女性はぜんぶ年寄りってことになる」 「でも本当ですわ。私は若い女を卒業して、センシティヴな年代に入った人間ですから」 「じゃまあ、センシティヴな年代ということにしておこう。センシティヴで、魅力的《アトラクテイブ》な年代ね」 「さっきのご質問に答えなくてはいけませんわね」加世子は、ちょっと考えてからこう続けた。 「私なら週の内、五日、Cワインの小びんを食卓に置きますわ。そして土曜日には、フランスのブルゴーニュのワインを、自分におごります」 「日曜は?」 「日曜はアルコール分を抜く日。だって、そうでもしなかったら、完全にアルコール中毒よ」  食卓になごやかな笑いが流れる。  食事の終りに、小出三郎が会計をしている間に一足先にホールに出た時、ポール・スチュワートがさり気なく加世子の耳に小声で言った。 「このあと、ボクの部屋で一杯飲み直すというアイディアは、どう?」 「Cワインを?」 「何を隠そう、実はブルゴーニュの一九六八年があるんだ」 「まあ素敵ね」 「じゃ、オーケー?」  加世子は、自分より頭ひとつ大きなポール・スチュワートを見上げた。その顔は熱心に彼女を見おろしていた。多分、この身体《からだ》の大きな、少し不器用な感じのするアメリカ人は、私より二歳くらい年下なのかもしれない、と思った。 「それ、クライアントとしての命令? それともポール・スチュワート個人としての誘惑?」  それを聞くとポールの瞳の中に少年のような悪戯《いたずら》っぽい微笑が浮んだ。 「必要とあればクライアントとしてのプレッシャーをかけてもいいよ」 「それなら、私断るかもしれなくてよ」加世子は、ポールの瞳の中に彷彿《ほうふつ》とした少年の面影のせいで、心を和らげて、言った。断ると言いながら、イエスと聞こえるような言い方だった。 「では、ボク個人として誘惑するとしたら?」  と、彼は言い直した。 「ということなら、喜んで」と、加世子は答えた。ポールの大きな温かい手が、そっと彼女の腕に触れて、感謝に似た意を伝えると、すぐに離れた。  ホテルの前で、タクシーに乗りこもうとしている二人にむかって、バズ・ホールズが両手を広げて言った。 「おやおや、これはお安くないね。ボクらは置いてきぼりかい?」 「冗談じゃない、ビジネスだよ」とポール・スチュワートが片眼をつぶった。「これからちょっと我がCワインの試飲をしようというわけ。もっとも良かったら、あなたがたもどうぞ」 「ほんとうにCワインの試飲だけかね、怪しいものだぞ。しかしまあ、今夜はお断りしよう。口直しにワインというのは、ボクの趣味に合わないしな。それにヤボな役割を割り当てられるにきまっている」 「僕もご同様」小出三郎が大真面目《おおまじめ》に頭を下げる。そこで加世子とポールは口元に微笑を滲《にじ》ませたまま、タクシーに乗りこむと、夜更けの赤坂《あかさか》方面へと走り去った。  広尾《ひろお》のポールのマンションの前でタクシーを降りると、加世子はこれから自分が言わなければならない科白《せりふ》の愚かさかげんにうんざりしながら、長身のアメリカ人を見上げた。しかし、どんなに愚かしい言葉でも口にしなければならない瞬間というものがある。その時がそうだった。自分たちがこれからしようとしているのは、いわば一種の大人のゲームのようなものだ。ゲームにはルールがつきもので、ルールを守らなければ、ゲーム自体も成立しない。 「ポール」と言って、加世子は大きな黒ガラスの扉の前で足をとめた。「ポール、私——、あなたのお部屋に行く前に言っておくことがあるんだけど」 「そうくるだろうと思っていたよ」  ポールはひきしまった口元でニヤリと笑った。 「でなければ、あまりに事が簡単に運びすぎると、タクシーの中からずっと怪しんでいたんだ。あなたの口から聞くまでもないさ、言いたい事はわかっているつもりだよ」「そう?」 「男の部屋を初めて訪れる女の常套文句《じようとうもんく》さ。�あなたのお部屋へは行くけど、それだけよ、ベッドまでついて行くなんて早合点しないでね�どう、ズバリ? 当ったとあなたのきれいな顔に描いてあるよ」  そう言って、ポールはおかしそうにくすくすと笑った。事実、男の口から聞くと、その科白のバカさかげんがなお強調されて響いた。 「ご親切ね。おかげでこちらの手間がはぶけたわ。あなたはそれに対して失望もしていないみたいだし、私ずっと気が楽になってよ」  黒ガラスの中に、車のテールライトが次々と遠ざかっていくのが映っていた。ポールの横顔も浮び上っている。人生にまだ深く傷ついたことのない人間らしい柔和さが漂い、優雅で、快適な男性のように見えた。 「まだ今のところはね、失望などしていないよ」と、彼は茶色い瞳に微笑を滲ませた。「それどころか、ボクは有利な札を一枚握っているからね」 「あら、どんな札?」 「今夜はだめでも、いつかあなたをボクのベッドに招待できるかもしれないってことさ」  そう言って彼は扉のノブをひいて、加世子を先に、玄関ロビーに通した。 「ボクの非常に乏しい人生経験からおし計ったところで、そもそも女性というものは、絶対に寝たくもないような男の部屋になど、のこのこと付いて行きはしないということさ。今すぐはだめでも、いずれこの男となら寝てもいいと思わなければ、決して見ず知らずの男の部屋になど上りはしない。違っていますかね、ボクの言うこと?」  そう言ってからポールはエレベーターのボタンを押した。「つまり、ボクって男の存在は、現在のあなたという女性にとって、生理的に決して好ましくない、ということではない、とボクは受けとめているんだ」 「なんだか、ややこしい言い方ね、頭がごちゃごちゃしちゃったわ」  エレベーターの扉が眼の前で開いた。加世子は、ほんのわずか躊躇《ちゆうちよ》したが——それは一秒の十分の一ほどの迷いだったので、ポールには気づかれなかった——、その中に足をふみ入れた。ポールが続き、そしてエレベーターの扉が背後で静かに閉じる気配だけを、感じた。 「要するに、滑り出しは好調ってことだよ」とポールが陽気に言った。  十四階にあるポール・スチュワートのマンションのドアの前では、もはや加世子は少しも躊躇しなかった。これまでの会話の中から、ポールという人間の、人となりの概要はつかめたと、思った。彼女は彼の第一印象と、その大ざっぱにつかんだ人となりに、好感を抱きつつあった。それに、一体、何を躊躇することなどあるのだろうか。十六歳の娘ではあるまいし、失うものなどたかが知れている。最悪の事態が起ったとしても、ソファか床の上に押し倒されることぐらいではないか。そんなことが死ぬほど嫌だと思ったら、最初から男の部屋になど来はしない。その点では、ポールの言う通りだ。生理的に好ましくない男となど、仕事以外の一切のかかわりをもちたくない。  ただひとつだけ用心しなければならないことは、彼がクライアント側の人間だということだった。それも年間五千万円近いPR費用を出させることになる大口のひとつのクライアントである。加世子の頭からは、一時もその事実は去らなかった。 「素敵な部屋ね」  敷きつめたブルーグレーのカーペットの中に、靴のヒールが深々と埋まってしまったので、靴を脱ぎながら彼女が言った。  広いリビングルーム。四十畳はあるのに違いない。けれども、家具類は極端に少なくて、マレンコのソファ、日本の古い漆の円卓。二つある肘《ひじ》かけ椅子は、ひとつはフィリピン製のアンティークと、もうひとつはアーリー・アメリカン風の簡素でいてかなり重厚なものだ。どれもこれも、互いにデザイン的な共通点も、つながりもないのに、全体として眺めると微妙な快い調和を保っている。よく外国人の主婦が、漆の椀《わん》に、アイスクリームをよそったり、あるいはディップを盛ったりするのと、同じ趣向だろう。日本人がちょっと思いつかないような発想だった。  壁際には、二つの韓国製《コリアン》の箪笥《チエスト》が並んでいて、漆の赤は円卓の漆と同系色で、鉄の飾りわくの黒が、マレンコのソファの黒と同じだった。  壁には絵が一点もなくて、かわりに土臭さのするような壁掛け——インド製、あるいはメキシコ、アメリカ・インディアンのハンドメイドのもの——が、数点、壁をおおっている。  リビングルームの奥に寝室が二つと、左手にキッチンとダイニングなどがあるのが見えた。 「どこでも好きなところに座って」と、ポールが優しく手で椅子の方を示した。  加世子は、マレンコのオットマンに浅く腰を下ろした。  キッチンから氷を運んできたポールが、それを見て、笑った。 「よりにもよって、一番座り心地の悪いやつを選ぶとはね」  加世子は苦笑して肩をすくめた。 「飲みものは、何にする?」 「私たち、ワインの試飲をするんじゃなかったかしら?」 「もちろん、あなたがワインが良いというのなら、そうするけど。ワインは何にする?」 「いいのよ、ほんとうは、別のものが頂きたいの」 「と思ったので、氷を用意したんだよ。それともブランディーなんか、どう?」 「まずウィスキーの水割あたりを頂こうかしら」 「|OK《オーケー》」  ポールは部屋の隅の移動式の車のついたバーから、バランタインの瓶を探しだして、二つのグラスにたっぷりと注《つ》いだ。それを両手にもつと、軽やかな氷のぶつかり合う音をさせながら近づいて来て、加世子にひとつを差し出した。 「そこは背もたれがなくて疲れるから、あっちに移ったら?」と、顎で横の巨大な黒いソファを指した。 「でも、なんだかこの椅子、ベッドを連想させるんですもの。座るというより、ハリウッドの女優がよくやるように魅惑的なポーズで横たわらなくちゃ、さまにならないんじゃないかしら」 「ピンクの光るセクシーなサテンのナイトドレスなんかまとってね」  アーリー・アメリカンの椅子にゆったりとくつろぎながら、ポールが相づちをうつ。「ボクのためだったら、遠慮せずに魅惑的なポーズでもなんでもとったらいいのに」 「そうしたらあなたは立っていって、どこかにあるカセットのスイッチを入れて、ムードミュージックを流すんでしょう? それから、手の中で喜ばしげに氷のかけらを鳴らしながら、自信あり気に、なぞめいた微笑を浮べつつ、私に近づいてくるの。そして魅惑的に横たわった私の上に、ちょうどかつてクラーク・ゲーブルがやったように身をかがめ、耳の後に触れるか触れないかの、蝶々《ちようちよう》のようなキスをして、こう言うわ。�ほらね、やっぱり、ボクたちはこうなる運命なんだよ�って。おあいにくさま、ポール、その手には乗らなくてよ、そのソファはまだ私に危機感を抱かせるわ」  ポールが大げさに頭を左右にふりながら、声をあげて笑った。子供っぽい、心から楽しそうな笑いだった。「それじゃこっちのラタンの椅子はどう? やっぱりエロティックな想像力をかきたてられる?」  加世子はすぐに答えずに、ウィスキーを口に運んだ。少しも刺激のない、上等の味だった。ポールの笑いが彼女をずっと寛がせていた。 「その椅子だと、魅惑的な横ずわりってわけにはいかないでしょ。どうしてもこう、足を広げるか、片膝《かたひざ》を立てるかの、エマニエル風のしどけないポーズをとらないと、似合わないんじゃないかと思うの、そしてフィッツジェラルドなんか読むってわけよ」 「ボクだったら、かまわないよ。それどころか、しどけないポーズとやらを是非見てみたいね」 「とんでもない。そういう姿態を見せてあげられるのは、|親密な関係《インテイメイト》な男にだけよ」 「それじゃさっそく、ボクたちも親密な関係を結ぼうじゃないか」  試すような、からかうような眼で、ポールが加世子を眺めた。彼女は笑いながら首を横に振った。 「あなたが私のクライアントであるかぎり、そういうしどけない姿態を見せてあげることはないと思って下さった方が良くてよ。さもないと、重要な企画のミーティングの席で、私がどんなに大真面目で企画書を読んでも、絶対に説得性に欠けるもの。昨夜のみだらで親密な姿態が眼の前にチラついてごらんなさいな、あなただって口元が緩んでみっともないことになってよ。あげくの果てに、私は担当を変えられてしまうか、下手《へた》をすると私の会社はあなたのところの仕事を失ってしまうか、そんなところよ。ポール。私の言う意味、わかるでしょ?」 「いや、わからないね、ボクは」  とポールは空になったグラスを手に立ち上った。「プライベートな時間と、仕事とは全く別々なものさ」  彼は新しくウィスキーと氷とを注ぎ足して、再び自分の椅子に腰を下ろしてから、じっと加世子の顔に視線をあてた。「ボクの言うことは違うだろうか」 「いいえ、その通りよ。別々なものだわ」 「それならいいんだ。あなたもそう考えているなら、それでいいんだ。ボクは今のところそれで満足さ」  それだけ言うと、彼は新しくした飲みものを、一口にあけてしまった。  その後、空になったグラスの中の氷の破片を、ポールは、まるで何か初めてみる奇妙な物体ででもあるかのように、しげしげと眺め始めた。柔らかそうな栗色《くりいろ》の髪が、酔いのためにわずかに乱れて、額にかかっていた。そのせいで、こめかみから顎にかけて、濃い陰影が走り、彼を別の男——ただ甘いだけの優しい無器用なアメリカ人ではなく、どこか孤独な影を漂わせた大人の男——に見せていた。 「もしかしたら、あなたは少し退屈しているのかもしれないな。人生というのはおそろしく混沌《こんとん》とした堆積《たいせき》だから」 「まあどうして退屈なんてするの? 第一、私にはそんなひまはないわ」 「でも、自分ではそうと知らずに退屈していることもあるし」  ふと、ポールが眼を上げたので、加世子は心の中でたじろいで、視線を自分の手元のグラスに落した。ポールの視線は、ウィスキーのせいで、焦点が定まらなく、ぐらぐらと揺れ動いているような印象を与えていた。そろそろ引き上げる潮時だ、と加世子は思った。それはポールのぐらぐら揺れ動く燃え輝くような眼のせいというよりは、一瞬間うつむいていたポールの、乱れた髪に対して抱いた彼女自身の欲望のせいだった。加世子は、その軽くカールした柔らかそうな髪の中に、自分の指をそっと差しこんでみたい、という押さえがたい誘惑にかられたのだった。ポールの髪を、自分の指にからめて、そのさらさらとする感触を指先に味わってみたいと熱烈に思った。  そうした衝動が自分の胸を過《よぎ》ったからと言って、恥じ入ったわけでもないし、自分を責める気持もなかった。ただ、引き上げる潮時だ、と、そんな風に加世子は感じたのだった。  彼女が口の中で小さく、そろそろ失礼した方が良いと思うんだけど、と呟《つぶや》くと、ポールは意外なほど素直にうなずいた。 「あんまりあっさり同意されると、なんだか私が帰るのを喜んでるみたいにとれるわね」  加世子はわざと不満そうに言いながら、脱ぎ捨てた靴を探した。 「実を言うと、何を隠そう、ボクは喜んでいるんだ」とポールが、真面目くさって、答えた。 「もし、あと一分、いや三十秒あなたがあそこでじっとしていたら、ボクはきっとあなたに虎《とら》のように襲いかかって、骨まで喰《く》らいつくしていたかもしれない」  どこまでが本気で、どこまでが冗談だかわからなかったので、加世子はあいまいに笑った。 「ソファの上でハリウッド製のポーズをとらなくとも、ラタンの椅子の中でしどけない姿態をみせなくとも、あなたはただあそこで膝をきちんとそろえて座っているだけで、圧倒的にセクシーだったよ。それよりカヨコ、是非又、逢《あ》えるだろうね、ボクたち?」 「ええ、月曜日の二時に。お忘れ? 私たち、あなたのオフィスでミーティングのアポイントメントがあったでしょ?」 「ボクの言う意味がわかっているくせに」  一瞬だけ、初めてポールは何か不安そうな表情を見せて、訴えるような眼の色で加世子を見た。 「ええ、わかっています」加世子も神妙にうなずき返した。「ただし、深夜になると虎に豹変《ひようへん》しないと約束するならの話だけど」 「出来るだけ、そうならないように努力するよ」  ポールは下まで一緒に降り、通りがかりのタクシーを手を上げて止めた。それから加世子の手をとり、何か非常に貴重なものでもあるかのように、それをみつめた。彼女も自分自身の手をみつめた。手の甲に栗色の巻き毛のある男の手の中で、自分の手が普段とは別の表情をみせているような気がした。多少青ざめてはいるがどこか毅然《きぜん》とした手。  次の瞬間、加世子は身をひるがえすようにして、タクシーに乗りこみ、運転手に行き先を告げた。ポールの�おやすみ�という声を聞いたが、振り返らなかった。彼女は眼を閉じ、座席の背もたれに深々と躰《からだ》をあずけた。ポールの大きな手の中で、いかにもたよりなげに小さく見えた自分の手が、いつまでも瞼《まぶた》に焼きついて離れなかった。  深夜のタクシーの中で、束《つか》の間ではあったが加世子が感じていたのは、幸福感であった。幸福とは言えないまでも、幸福感に、少なくともよく似ていた。  思えば、そんなふうにささいなことで人が幸せな気分になれるということは、なんとほろ苦いことだろうか。ポール・スチュワートとどうなるというつもりも、その予感もない。ただ彼の手の温《ぬく》もり、声の優しさが、突然彼女の額に飛礫《つぶて》のように——幸福という飛礫のように——ぶつかったのだ。そう、まるで小さなアクシデントみたいに。潤一郎をロンドンに発《た》たせた時、自分の肉体の一部を無理矢理にもぎとられるような、切実な痛みがあった。それは、つい昨日のことのように真新しい痛みだ。気分はウツウツと重く、身をもがいて抵抗し、自分を守ろうとあせっていた。そして、だしぬけに幸福の飛礫が飛んで来て、私の額を打つ——。  ふいに電話がなる。彼女はびくりとして、それをみつめる。  考えてみれば、電話が何か良いことをもたらしてくれたためしはない。たいてい事務的な用件か、そうでなければめんどう事、悪い知らせ。 �ママ?�サキの声が甲高く響く。 �あっ、サキ。あなたから電話をくれるなんて、めずらしいこともあるのね�  骨ばった娘の肩が眼に浮ぶ。私はもっとひんぱんにあの子を胸に抱きしめてやらなければならない。�何か、特別の用? 三時頃おばあちゃまのところへ行くつもりなのよ、ママ� �うん、わかってる。だから電話したの。ゆうべも何度か掛けたんだけど、留守だったよ、ママ。パパがね、どこか連れて行ってくれるって言うのね、お夕食をして、八時頃にはサキを送ってくれるって� �あら、そう、パパが……、いいわね、たまには�急に気持が強張るのを感じる。�あなたがそうしたいなら、いいじゃないの� �あたしは、どうでもいい、ほんとうは。そういうこと、大人たちがさっさときめることでしょ。サキは、言われた通りにするしかないでしょ�  精一杯の抵抗が、その無器用な言葉を通して、母親の加世子には感じられる。 �厭《いや》ならそう言えばいいのよ。でも、私もパパもあなたのことを思って色々言うんだってこと、忘れちゃだめよ� �そんなことわかってるよ�サキは急に怒ったように言うと、慌ただしく続けた。�今まだ学校の赤デンワなの。十円しか入れてないから、もう切るね�そして、電話がふいに死んだ。  加世子はうつむきかげんに、無意識に中庭に出る。  庭は長いこと手入れされていないので、雑草が生え放だいだった。亡くなった父が見たらどんなに嘆くだろう。  けれども、雑草が密生する空間は、妙に人の心を安める。そして実に強烈な草の匂《にお》い。夏の香りだ、と彼女は思う。どこか遠くに海を連想させる空気。少女の頃から女へ至るあらゆる瞬間、彼女が吸い続けた懐しい匂いだった。それはあらゆるものを孕《はら》んでいた。光、闇、過去。眼前に広げられた巨大な一日、未来。その豊饒《ほうじよう》さ、あるいは残酷さを。生と死とを。  あるいは乾いた砂の匂いを、又は熱と湿っぽさとを、男たちの髪の匂いや皮膚の香り、乱れたシーツ、雨、孤独、そういった一切のものたちを、この夏の日だまりの中に、加世子は嗅《か》ぎとるのだった。  ああ、あと何年、自分はこの空気をこんなふうに胸をしめつけられながら呼吸することが出来るのだろうか。それまでどれだけの歳月が残されているのか。美しいものを見てそれを美しいと感動し、夏の雑草の香りが、ある種の快感で私を金縛りにするのは、まだ充分に若いという証拠であるけれど、それは果して何時《いつ》まで続くのか——。  五年、十年、運が良ければ十五年先に、同じようにこの孤独の荒れ果てた庭先に立ち、私から離れていった歳月と、愛や苦痛や男たちを——その肉体の温《ぬく》もりとともに——思うのであろうか。  幸福とは、多分、まだ誰かが自分を必要としている、と感じることも含まれるのではないだろうか。誰かが私の肉体を欲し、私に触れたがっているという事実を確認できる瞬間の堆積を、人は幸福感と呼ぶのではないか。潤一郎、夫の藤野恭、篠田辰也、昨夜のポール。そうだ私は夫との離婚を成立させて、潤一郎と結婚すべきなのだ。でなければ、私が情熱を燃やすことを欲しなくなる年齢に達した時、どんなに孤独なことか。潤一郎が急に恋しく思われた。彼のにおいのする場所にいたかった。青山のマンションでしばらく暮したらどうかと思った。そうして悪い理由は何もない。潤一郎もそれを望んでいたのだから。  ポールは昨夜、私が退屈している、と言った。あるいは退屈していることに気づかず退屈しているのかもしれないと。そうだろうか、果して私に退屈している時間など、あるのだろうか。そんなとてつもない贅沢《ぜいたく》が、許されるのだろうか。フィッツジェラルドの小説のことなんか口にしたから、ポールはそんなふうに感じたのに違いない。  夕方近くなって、篠田辰也から電話があった。 �土曜のこんな時間に家にいるなんて、キミもアブれた口だな�と、そんなことを言ったが、声がさえない。 �そうなの、娘にデイトをすっぽかされて、くさっているの� �くさっている者同士、夕飯を食うっていう計画は、どうだい?� �誘っておきながらあんまり乗り気じゃないみたいな声よ� �乗り気じゃなければ最初から誘わないさ�一瞬の沈黙があった。それから、いかにもどうでもいいけどといった調子で、彼がつけ加えた。�ポール・スチュワートのイタリア製のソファ、坐り心地は良かったかい?�  加世子は受話器を握りしめながら、眉《まゆ》をひそめた。しかし、篠田同様、そっけないほどさり気なく、こう答えた。 �白状すると、マレンコのソファは快楽の舟、欲望の筏《いかだ》ってところね。まだ頭の中がぐらぐらしてるわ� �…………� �もしもし、他にご質問は?� �夕飯を一緒に食う気があるのか、ないのかまだ答えていないよ� �もしあなたがポールとのことであることないこと咎《とが》めるんだったら、お断りするわ。どうして私がポールのマンションに行ったとわかったの? 小出さんが、言ったの?� �小出三郎はそんなことを吹聴《ふいちよう》して歩くような男じゃない。彼の名誉のために言っておくよ。ボクがカマをかけたのに、キミがマンマと引っかかっただけさ� �してやられたってわけね。でもいいわ、別に後ぐらいことをしているわけじゃないもの。もしあなたが商売のことで死ぬほど心配していらっしゃるなら、その点は安心してもらって結構よ� �つまりプライベートとビジネスは全く別にってことか� �もちろんよ、それで安心して下さいな� �それと言うまでもないことだけど——� �言うまでもないとお思いなら、おっしゃらない方が良いわ。それとも私の口から言いましょうか?『仕事をとるためにクライアントと寝る必要はない』って、そう言いたいんでしょう、違いました?� �キミの良識を信じているよ� �ええ。——信じて頂きたいわね、是非とも� �わかった、謝る。カマをかけたことも、出すぎた忠告も、全《すべ》て悪かった。もしもし、夕食、つきあってくれるかい?� �そういうことなら、いいわ�  薄暗くなりはじめた庭先が蒼味《あおみ》を帯びて、黄昏《たそがれ》の底に沈んでいる。今夜も暑い晩になりそうだと、加世子は思った。空気には夜と、微《かす》かなガソリンの匂いとがあった。家の前を、この一、二年の間、車が通るようになって、時々渋滞さえするのだ。 �葉山に海のみえるフランス料理屋があるんだけどね� �素敵ね、話には聞いたことがあるわ、そこへ連れて行って下さるの?� �一時間で、迎えに行くよ�  そう言って、篠田は電話を切りかけ、思い出したようにこう訊《たず》ねた。�ポールのマレンコのソファの座り心地は、本当にそんなに良かったの?� �そんな風に訊ねられると良心が痛むわ、ずるい人ね、あなた。本当のことを言うと、私、あれには座らなかったの� �じゃ、一時間後に�  心なしか安堵《あんど》の混じった声でそう言って、電話が切れた。  そしてきっかり二時間後、加世子は海ぞいに走る篠田の黒いジャガーの助手席にいた。二人の前には曲りくねった海岸道路が延々と横たわり、窓からは潮の香りと、夜の熱気とがたえず吹きこんでいた。加世子は唐突にポールの手の中にあずけた自分の青ざめた手を思い出し、それから明日、青山の潤一郎のマンションへの引越しについて思いを馳《は》せた。篠田がジャガーのスピードを緩めて、レストランの駐車場の暗がりに乗り入れると、潮の匂いが一段と激しくなり、波の音がした。     6  郵便受けの中に、青と赤の短い斜め縞《じま》でふち取られた封筒が二つあった。日づけを見ると一通は六月の中旬に、もう一通はそれより二週間前の消印がある。とすると一か月以上もそこにそうして放って置かれた訳だ。加世子の胸が鈍器で打たれでもしたかのように、痛んだ。  潤一郎に最後にこちらから手紙を出したのは、再就職を知らせたもので、五月の終りだったと思う。その後はPRの仕事に忙殺されてしまい、気にはなっていたのだが便箋《びんせん》を広げるような心の余裕はなかった。  彼女は、二通の航空便をリビングルームの窓際にセットしてある食卓の上に置いて、いかにも彼らしい屈託のない筆跡で書かれた宛名《あてな》を眺めた。KAYOKO FUJINO となっている名前の前には MISS も MRS も記されていない。ヨーロッパで、特にフランスの知的な人々の間で、親しい相手に出す手紙の宛名の前にムッシュウやマダムやマドモアゼルを記さないやり方が流行《はや》っているという話を、何かで読んだか、人から聞いたかして覚えているが、潤一郎がそれを知っていたとはちょっと思えない。単純に思いあぐねて、冠詞を取り除いたのだろう。そう考えると、そこに彼の迷いや困惑、躊躇《ちゆうちよ》などが見られるような気がした。  もっとも冠詞ぬきの名前こそ、加世子の現在の立ち場を言い得て妙だと、彼女はそんな風にわずかに自嘲《じちよう》する。法的にはまだミセスではあるが、日常の生活は完全にミスで通している。  拝啓で始まる最初の手紙にはこう書かれている。  ——再び仕事をするという君の決意に、驚くと共に、僕は安心も覚えました。驚くという意味の中には多少|淋《さび》しさが含まれていることは事実だけどね。それとわずかばかりの嫉妬《しつと》もだ。それでなくとも僕たちを隔てる物理的な距離は遠いというのに、更に君が遠のくような淋しさと、世間に出てそこで君が出逢《であ》うであろう男たちに対する羨《うらやま》しさのことだよ、有り体に言うと。  一方では、君が僕の不在の部屋で僕の帰りだけを待ち続けるような生活を続けないでくれて、真実ほっとしている。勝手な言い草を許してくれるなら、非常な解放感だ、と言っておきます。それにしても淋しいね。ちょっと待って下さい、この奇妙に立ち騒ぐ胸の内の波立ちを鎮めるのには、ひとつだけ方法があってね、そう、金色の液体というやつのことです。  ……。  うん、酒はいい。こいつだけは人を裏切らないからね。もっともあまり甘く見ると時に手酷《てひど》いしっぺ返しをくうこともある——二日酔のことです。  さて、どこまで書いたんだっけ、——読み返すのが億劫《おつくう》でね、これは酒のゆいいつの弊害だ。白状するとね、二行ばかりの空白のあいだに経過した時間が三時間、その間ペンのかわりにグラスを握り続けたという訳です。うん、そうだ、君の仕事のことだ。いずれにしろ頑張って下さい。僕も頑張っている。こうやって飲んだくれていない時には、こっちだって頑張っているのさ、安心するように。  では、頑張っている君に乾杯。君のPRの仕事に乾杯。現在|只今《ただいま》飲んだくれている僕に乾杯。それから二人に乾杯、そして二人がこれから犯すすべての過ち、すべての損得に乾杯(この最後の言葉は残念ながら僕のじゃない。偉大なるアーネスト・ヘミングウェイ氏の偉大なる小説からの引用だよ)——  そこで手紙は唐突に終っている。加世子はもう一度初めから読み直して、無意識に髪を指で何度も梳《す》いた。心に何か引っかかっている時の癖だった。それからセイラムの箱から、メンソールの煙草《たばこ》を一本抜き出して火をつけた。  そして二通目の手紙の封を切る。  ——この前に書いた手紙は結局読み返さないで送ってしまい、今その事を実に後悔しています。翌朝になって読み返す気になれないような手紙など、投函《とうかん》するべきではないね。以後改めます。  その後仕事はどうですか? 以前と比べて、どうなんだろう? やりにくいようなことはないのだろうか、それとも、君のことだから、年齢と体験が加わって案外したたかにやっているのかもしれない。そうだといいと思います。  実は、七月、八月というのはヴァカンスの季節でね、誰《だれ》もかれもが休みを取る。僕の場合も二週間ばかりだが、出来たら君と過ごしたいと思ったわけです。  どうなんだろうか、やはり仕事を始めたばかりの身では、二週間の休暇を申し出るのはむずかしいのだろうね。  もっとも最近日本でも、夏の盛りに一、二週間の休みを取る企業も増えてきているから、それに僕としては期待を寄せるのだが。君に是非ロンドンへ来てもらいたい、というのが偽らざる本音です。無理を承知で言っている、是非、なんとか努力してもらえないだろうか?  それが駄目なら、僕は一人でシシリーへでも行くことにします。本当なら、東京へ君の顔を見に戻ればいいんだろうけど、休暇をとれないくらいだとすれば君は仕事で一日の大半留守だろうし、何もせずに君の帰りをぼけっと待って暮すには、真夏の東京は最上の土地とはとても言えないわけだしね。せっかくヨーロッパにいるのだからこの機会にどこか美しい海の近くで身体《からだ》を休めたいという誘惑にも勝てそうにないというのが、まあ正直なところです。だからと言って、君の顔が見たくないというのでは決してないよ。その点わかってくれると思うけどね。それどころかこのところ加世子のことばかり考えている。特に加世子の腿《もも》の間にあるもののことをね、もし一緒にシシリーへ行けるなら、毎晩、一晩中君を眠らせない。それから朝もね。そしてシェスタの時もだ。  出来るだけすぐに返事をもらえませんか? 飛行機の切符の手配やホテルの予約を急がなければならないんでね。出来たら七月の後半に行きたいんだ、もちろん電話でいい。僕も二、三度そこと君の自宅の方に電話を入れてみたのだが、両方とも留守だったのでね。                    潤一郎   藤野加世子様  P、S、夜中の二時|頃《ごろ》まで一体どこで何をしているのかと心配した。しかしまあ、君は大人の女だからね、僕が大人の男であるのと同様に。これ以上は追求すまい、考えまい。  P、S、㈼ 加世子の唇《くちびる》と、加世子のあそこに接吻《せつぷん》を贈るよ。  加世子は日づけを見直した。六月の十六日となっている。一月以上も前だ。正確には四十五日たってしまっている。彼女は下唇を血のでるほど強く噛《か》んだ。事実、少し切れたのだろう、温《ぬる》い鉄錆《てつさび》の味が舌に触れた。  ひどく悔やまれてならなかった。とりわけ、東京の加世子から何の連絡もないまま梨《なし》のつぶてでシシリーに発って行ったのであろう潤一郎の落胆——おそらくは腹立ちも——を思うと、いてもたってもいられなかった。  むろん彼女に二週間の休暇を取ることはむずかしかったろうし、会社の方へわざわざ申し出ることもなく自分からそれを諦《あきら》めていたろうと思う。ちょうどCワイン協会のキャンペーンに入ったばかりの頃で、それが彼女の初仕事であってみれば尚のこと、抜けられる道理はない。  それはそうだが、かと言って潤一郎の身になって考えれば、加世子の沈黙は不可解だったのに違いない。おそらく何度も電話がかかったのだろうが、このマンションには住んでいなかったし、池袋の方の家にかけたとしても六月一杯と七月の上旬は、夜中の十二時前に家へ帰れたことの方がまれだった。  加世子は腕時計をちらっと見て、キッチンのカウンターに置かれている薄緑色の電話のところまで歩いて行った。  しかし、受話器を取り上げたところで、ちょっと考えて、再びそれを元に戻した。現在東京が午前十一時だと、八時間遅れのロンドン時間では午前三時だ。いくらなんでも、人を叩《たた》き起す時間としてはいかにも不親切だった。夕方まで待ってみようと思った。日曜だし、あちらが午前中の早い時間ならつかまるだろう。それにシシリーへのヴァカンスはとっくに終ってしまっているはずだから、もう一刻を争う必要もない。  加世子は窓際《まどぎわ》の食卓に戻ると、放心したように椅子《いす》に腰を落して、最後の数行のところに視線を走らせた。中々文字が意識の中に入ってこない。  数回同じ行を空《むな》しく追っていたが、ようやく言葉が意味をなしてくる。P、S、夜中の二時頃まで一体どこで何をしているのかと心配した。しかしまあ、君は大人の女だからね、僕が大人の男であるのと同様に。これ以上は追求すまい、考えまい。  でも私は、大人の女であることを証明しようとしていたわけではないわ、と加世子は思わず声に出して呟《つぶや》いた。あなたが発ってしまってから四か月半になるけど、一度だって他の男と寝たことなんて、ない。そういうチャンスは何度もあったけど、進んで欲望に身を委ねる気持にはなれなかった。といっても何も潤一郎に操《みさお》をたてるといった大袈裟《おおげさ》なものでもないのだけど、性愛に対して必要以上の価値や期待を抱いていないが、だからと言って、自分に偽ってまで劣情に顔を立てることもないと思っている。潤一郎とて同様であろう。しかし彼は男なのだ——。  四か月半か、と、もう一度加世子は一人ごちた。そんなに長い間、自分の肉体の上に何も起らなかったということが、驚きでもあった。第一、そんなに長い月日がたってしまったという実感がないのだった。加世子の視線が次の行を追う。  P、S、㈼ 加世子の唇と、加世子のあそこに接吻を贈るよ。  その瞬間、彼女は潤一郎が欲しかった。切実に欲しかった。肉体の中心が疼《うず》き、熱をもつのが感じられた。  むろん自分で自分自身を慰めることもできたわけだが、その夏の遅い朝、加世子は欲望を鎮め消し去ることの方を選んだ。そこで立ち上ると浴室へ行って冷たいシャワーを浴びた。長いこと浴室でシャワーの流れる音が続いていた。  四か月半ぶりに再び住むつもりになった潤一郎のマンションの中を一通り掃除して、クッションや軽い羽根ぶとんなどに日を当てておいてから、加世子は冷蔵庫の中味を買いに出かけるつもりだった。  ふと思いついて娘のサキにこちらへ引越したことを知らせておこうと、電話をしたが、出てきた加世子の母は、サキが昨晩父親の所へ泊ってまだ戻ってきていないのだ、と告げた。帰りの時間を訊ねたら昼過ぎだろうと言う。  このところ、仕事にかまけて娘を放ったらかしにしすぎている、と彼女は良心がひどくとがめる。週に最低一度、土曜と日曜日を一緒に過ごすという約束を、この二か月ばかりほとんど守っていない。かわりに夫の恭が時々サキを連れ出してくれているようだった。  食料品の買い物に出るには出たが、なんとなく気が重い。ふと通りかかった子供用ブティックの店先に、きなりの綿セーターがバーゲンの札をぶらさげて掛っているのが眼に止まると、歩みを止めた。  秋口にかけてサキが重宝するだろうと思い、それに合いそうな色合いのキルトのスカートを探した。最近では子供服のサイズを以前のように年齢で示す代わりに身長で分けている。加世子には、自分の娘の身長が百四十センチなのか百五十センチなのか、わからなかった。そのことが切実に辛《つら》かった。  店員に訊くと、小学校五年生くらいのお嬢さんだと、平均して百四十センチくらいじゃありませんか、と答えた。それでも大きい子は大きいから一概には言えないんです。  サキのためにセーターとスカートを買ってしまうと、加世子は食料品の買い出しは夕方に回すことにして、タクシーとバスを乗りついで淡島の実家へ向った。  サキは恭に送られて二時過ぎに戻ってきた。加世子は夫と久しぶりで玄関口で顔をあわせた。 「すみませんでした」と言ってしまってから、自分のその言い方があまりに他人行儀だと気づいて苦笑した。 「すまながることはないさ」と、恭もそのことに気づいて皮肉な口調で言った。「サキは俺《おれ》の娘でもあるんだからな」  口を開くやいなや、二人の間の空気はピリピリと震えて険悪なものになる。加世子は慌てて、靴を脱いでいるサキに話しかけた。 「ゆうべはサキ、何をご馳走《ちそう》になった?」 「あたしとパパは、ステーキ」靴のヒモを解きながら、顔を上げずに、彼女が答える。あなたとパパは、ステーキだったのね、と加世子は娘の言葉を胸の内にくり返した。ということは、他にも誰かが夕食の席にいて、その誰かは別の物を注文した、という風にとれた。 「古巣に戻ったそうじゃないか」と恭があたかも加世子の胸の内を見通したかのように急いで話題を別のことに転じた。「仕事のことだよ。眼《め》つきに張りが出ているところを見ると、調子は良いみたいだな」 「おかげさまで」と、加世子はひどく他人行儀に答えた。今、この瞬間私の眼に張りがあるように見えるのは、疑惑で眼つきが尖《とが》っているからだ、と言ってやりたい気持を内側にねじこみながら、「お上りになる?」といかにも気のすすまない声で、一応つけ足した。 「いや、止《よ》しておくよ」 「無理にはすすめないわ」 「そういうところは、少しも変らんな。皮肉じゃないぜ、正直なのは君の取りえだよ」 「でも、誉めているようにも聞こえないわね」昨夜の夕食に、サキと恭のテーブルへ同席した女は誰だろうと考えながら、加世子が言い返した。  両親の間の空気が堪えられないのか、サキが靴を並べ終るなり奥の部屋へ駆けこんでいく。  きちんとそろえて並べられた小さな靴は、真新しかった。おそらく藤野が昨日か今朝買ってやったのだろう。そのことはたいして彼女の自尊心を苦しめはしなかったが、靴をきちんとそろえて並べるという行為に対して、加世子の胸は痛むのだった。それは母親である加世子が口を酸《す》っぱくして教えこんだ行為では、なかった。  もし、サキが靴を脱ぎっぱなしで、片方ずつ玄関の端と端に転がっていたとすれば、彼女は声を張り上げて娘を叱《しか》るだろう。サキちゃん! あなたなんていう脱ぎ方をするの!!  娘が少しずつ躾《しつ》けられて良い子になるということは、いいことなのだ、と自分を納得させようとした。いいことでも、ひどく寂しいことだ、と彼女の内部の声が叫ぶ。私はむしろ靴を脱ぎ散らかしていく小さな娘の背中にむかって、声を張り上げたいのだ、とそう切実に思う。 「少し外を歩かないか」と、恭が言った。 「君が来ているとは思わなかったけど、久しぶりに会えたのだから——」  加世子は気が重かったが、無言で靴の中へ足を滑り込ませて、夫の後から玄関の外へ出た。  日射《ひざ》しの中に立つと真夏の熱気が釉薬《うわぐすり》のように皮膚にまといつく。 「しばらくブランクがあったんで、きついだろう、仕事は」恭が歩調を妻に合わせながら、言った。 「ええ。休みの日はもう死んだみたいにしてるわ」 「だろうね」 「このところずっとサキのことも母にまかせっきりだし」 「知っている」 「サキが言ったの?」 「いや。君のお袋さんに、俺が訊《き》いた。このところずっと週末にも来ないと、言っていたよ」指の背で額の汗を拭《ぬぐ》いながら恭が続ける。「だが非難しているふうではなかったな。お袋さんはむしろ君に同情していた」 「あなたは同情なんてしていないわよね」と、加世子は藤野の駐車している車の前で、立ち止りながら言った。「私があの子を放っときすぎるって、心の中で非難しているんでしょう、わかるのよ、あなたの考えていることくらい」 「俺が、君を非難する? そいつはどうかな」と恭は頭を振った。「第一俺に君を批判できるかどうか疑問だしな。サキのことに関するかぎり、俺たちの責任は五分五分だと思っている」 「それで昨日は、その五分の責任の一部を果したってわけなのね」  恭のセドリックをはさんで、加世子は敵意のある声で、言った。 「何もしてやれないんでね、夕食ぐらい一緒にしてもよかろう」 「父親が娘とご飯を食べに出かけたって、別に誰も咎める筋合はないわね」 「何が言いたいんだ?」  太陽の光が正面から眼に差し込むので、藤野恭はどこかが痛みでもするように、表情を顰《しか》めて、そう訊いた。 「わかっているでしょう」 「はっきり言えよ」 「あなたのやり方、汚いわよ。こそこそ裏工作なんかして」とうとう加世子は先刻からの疑惑を口に出して言った。 「俺が何をしたって?」 「サキがうっかり口を滑らせたのはお気の毒だったけど、女が一緒だったんでしょう」 「…………」 「やっぱりそうね」 「だとしたら?」居直ったように、藤野が顎《あご》を突き出す。 「止めて頂きたいわ」 「俺に何を止めろって?」  道路上に駐車している車をはさんで、二人の口論が続く。時々道を行く主婦らしい女たちが好奇心|剥《む》き出しの表情で、何度も振り返りながら、角に消える。 「女のひとに逢《あ》うのは、そりゃあなたの自由、勝手です。あなたがどこの誰と、どんな女と逢おうと私には全然関心ないけど、サキを同伴した夕食の場に、その女《ひと》を同席させるのは言語道断だわ。サキに新しい母親なんていらないの。あの子には私っていう母親があるんですから」 「立派な母親がね」  鋭いジャブのように飛んでくる夫の言葉を上手《うま》く避けそこなって、加世子の表情が歪《ゆが》む。しかしそれを無視して、 「父親の女に、逢わせるなんて、非常識よ、サキの年頃《としごろ》の女の子がどれだけ動揺するか、考えられないわけじゃないでしょう」 「それほど動揺したように見えなかったがね、俺には」 「深いところで傷ついているかもしれないじゃないの」 「その点なら、もうとっくにあの子は深いところで傷ついているさ。俺たちが傷つけたんだ」  二人は、そこで黙りこむ。加世子は泣くのをこらえるように、口に握りしめた手を押しつけて、眼を伏せた。 「もう止《よ》そうや」  とやがて恭が言った。「彼女が同席したことで、サキが動揺したということは、無いと思うよ。その点は俺が保証する。むしろサキは俺と二人でいるよりはよほど、はしゃいでいるように見えたよ、とても自然にふるまっていたし」  自然にふるまえばふるまうだけ、陽気であれば陽気なだけ、心に受けたショックが大きかったとは絶対に言えないだろうか。しかし、加世子はそのことを口にしなかった。 「一番大事なのは、いつも言うけど、俺のことでも、君のことでもない。サキが一夜を楽しく過ごせた——それでいいじゃないか。事実、あの子はずっと笑っていたよ。実に良い表情をしていた。それでいいということにしてくれ。そうめったにあることじゃないんだから」  それが止《とど》めの言葉だった。実際、加世子の胸にはずっしりと応《こた》えた。そうなのだ、要はあの子が楽しみさえすればいい。ほんとうに楽しかったのならの話だが——。 「例の話、その後考えてみてくれたかい?」と、別れ際、恭が訊いた。 「離婚のこと?」 「ああ」一瞬だが、祈りに似た色が、夫の瞳《ひとみ》の中を過《よぎ》るのを見たような気がした。 「いいえ、まだよ、それどころじゃなかったの」と、加世子は静かに、悪意の消えた声で答えた。 「でも、考えてみるわ」 「頼む」  セドリックが走り去る。ガソリンの匂《にお》いと、一抹の寂しさを加世子に押しつけて——。  ロンドンの潤一郎に電話が通じたのは、午前四時、東側の窓があるかなきかに白み始めた時間だった。相手の時刻は夜の八時頃だろう。  その前に何度か電話をかけたのだが、留守らしく呼び出し音が空しく鳴り続けただけ。  受話器が外れる音がして、ハロー、と女の声がした。  その瞬間ぎょっとして加世子は躰《からだ》を固くした。  ——ハロー?  ロック風の音楽が流れており、もう一度女の、今度は少し尻上《しりあが》りに言う声が流れた。  ——ミスター・ササキのお宅でしょうか? と、咄嗟《とつさ》に加世子はしどろもどろの英語で訊いた。  ——イエス、と相手は答えた。ミスター・ササキにご用ですか?  ——イエス、プリーズ、と加世子。潤一郎ではなく、いきなり女が出たので気持が奇妙に波立っている。  ——どなたからと、伝えましょうか?(メイ アイ ハヴ ユア ネーム プリーズ)  ——カヨコ。カヨコと言って下さればわかります。  ——オーライト、ちょっとお待ちになって。(ジャスト モーメント プリーズ)  しばらくの間、ロックのリズムだけが聞こえていたが、やがて潤一郎が出て、  ——やあ、そっちは何時《なんじ》? といきなり訊いた。  ——午前四時です。もうじき夜が明けるわ。そちらは、にぎやかね。音楽と女を指して言ったのだが、潤一郎は屈託なく、  ——うん、ちょっとパーティーをやっているんでね、と答えた。それに合わせるように、背後のロックが急にボリュームを増したような気が、加世子にはした。  ——どうしていたんだい、長いこと梨のつぶてで、僕の手紙、受け取らなかった?  ——ええ。でも一月以上も遅れて読んだもので、と加世子はこの間の事情を説明した。  ——どうりで。いくらそこへ電話をかけても出ないはずだ。  ——シシリーはどうでした? シシリー、結局いらしたんでしょう。  ——行ったよ、と、海外通話のせいで二秒ばかり相手の返事が遅れて伝わった。君がこれなかったんで、残念だった。  ——でも楽しかったんでしょう、シシリー?  ——うん、と相手は答え、もう一度、だけど君がいけたらもっと楽しかっただろうと思ったよ、と言った。  ——一人で行ったの? と加世子はさっき電話口に出た女を意識して、だが、できるだけさり気なく訊いた。  ——もしもし、何? よく聞こえないよ。  ——一人で行ったの、と訊いたのよ。ロックのボリュームをもう少し下げるように、さっきの女《ひと》に言ったら?  急に相手が黙りこむ気配が伝わり、少しして音楽が低くなった。  ——ロック狂いが何人かいてね、と、やがて再び相手の言いわけするような言葉が聞こえてくる。——ええと何だっけ、君の質問?  ——いいのよ、もう。他に人なんかいないのに、と加世子は暗澹《あんたん》と考えた。パーティーなんて開いてもいないくせに。  ——仕事はどう? ずっと気になっていたんだよ、と潤一郎。  ——心配なさらなくてもいいのよ。私は大丈夫。  ——正月には、そっちへ行くよ。正月はやっぱり日本で過ごさないと年が新しくなった気がしないからね。  ——お待ちしています。それじゃ詳しいことは手紙ででも。  ——うん、僕も書くよ。電話を、ありがとう。  そして懐しい声がふっつりと消えた。加世子はその後すっかり夜が明けて、太陽が昇りきり、仕事に出る時間がくるまで、ほとんど身動きもせずに、電話機を膝《ひざ》の上に乗せたままベッドのふちに浅く腰をかけていたが、やがて立ち上ると、それをキッチンのカウンターへ戻すために、プラグから引き抜いた。  しかしだしぬけに電話をベッドの上に放り投げると、力つきたように膝を折って床に崩れ落ち、ベッドのふちに額を押しつけて声を殺して泣いた。  彼女は非常に静かに泣いていたので、もし誰かが急に入って来てその姿を見たとしたら、ベッドの傍に跪《ひざまず》いてお祈りでもしているように映っただろう。  ひとしきり泣くと、立ち上り顔を洗った。それからコーヒーだけを二杯飲んで、加世子は麻布台のオフィスへと出勤して行った。  その日の夕方、早目に社を出ると、加世子はまっすぐに青山のマンションに戻った。  午後六時を回ったばかりだった。夕暮れ時の蒼《あお》い空気が部屋の隅々《すみずみ》を支配し始めていた。  明りをつけずに、たて続けにセイラムを二本|喫《す》い、昨日の朝読んだ二通の航空便を広げて、各々を二度ずつ読み返した。  六時四十分。加世子は傍の緑色の電話機を引き寄せる。だが、まだ決意はつかない。  ——無理を承知であえて頼むのだよ、是非来てくれないか——という文面の上に、何度も視線が吸い寄せられる。もし、無理をしてロンドンへ行っていたとしたら、今朝(ロンドン時間では昨夜の八時に)あの部屋にあの女はいなかったかもしれない。潤一郎は既に何かを予期していたのだ。きっとそうだ。それはあの電話の女と無関係ではないだろう。自分は、ずっと彼を放っておいたのだもの、たとえほとんど不可抗力であろうとも、彼を放ったらかしておいたという事実に変りはない。  加世子は、受話器を外し、長い番号をゆっくりとゆっくりと回していく。ロンドンでは午前十時半頃であろう、と考えている内に、相手が出た。  ——ハローと答えたのはあの前回と同じ女の声であった。  ——ハロー? どなた? と、その声は言った。  前よりもきびきびとした若い調子。一晩眠って、満ちたりた女の声の感じがよく響いてくる。もはや、疑う余地はなかった。  ——ハロー? どなたでしょうか? と、相手の声に不審な響きが混じった。  ——カヨコです、潤一郎の妻の。  思わず、彼女はそう言っていた。自分でも意外なほど冷静な声で。  ——ジュンの|奥サマ《ワイフ》?  おうむ返しに問い返す女の声に、驚きがあった。けれども、それがどのような驚きであれ、彼女が次に口を開いた時には、消えていた。  ——それで、ご伝言があります? もしおありなら、ご主人にお伝え致しますわ。その声は固かったが、ていねいで、皮肉とか嫌味などは全く含まれていなかった。  ——いいえ、ただ、妻から電話があったと、それだけお伝え下さい。ありがとう。  ——どういたしまして。  加世子は、相手が受話器を置くのを待って自分のを掛けようとしたが、相手も同じ思いなのか中々切らなかった。見知らぬ女のそうした目には見えない仕種《しぐさ》は、一瞬加世子の胸を温かくした。  ——どうぞお先にお切りになって、と、受話器の中から、笑いを含んだ女の声が響いた。  ありがとう、と言って、加世子は先に受話器を置いた。  もしかしたら、自分の存在をおびやかすことになるかもしれない、いわば敵なのに、束《つか》の間、加世子はその女に好感を抱いている自分を発見するのだった。ただ彼女が電話を先に切らなかった、というだけの理由で。きっと美しいひとに違いない、と彼女は思った。聡明《そうめい》なきれいな人にきまっている。加世子自身が、篠田辰也やポール・スチュワートなどの精神的な支えのおかげでどうにか生きていけるように、潤一郎もまた一人の女性を得て支えられているのだろう。期限つきの恋愛なら、それも仕方ないだろうと思った。でも期限が来ても二人が別れられなかったら?  そう考えたとたん、加世子の躰がぐらりと揺れた。不安と焦燥と嫉妬の感情が、次第に彼女を呑《の》みこみ始めた。加世子はそのどす黒い感情から逃れるすべもなく、今ではすっかり暮れてしまった暗い部屋の中で、立ちすくんでいた。     7  時間はとうに夜の九時を回っていた。加世子は打ち損じたタイプ文字を、専用の消しゴムで消して、再びキイを叩《たた》き続ける。もう五時間近く、タイプライターにむかっている。 「一息入れようか」  と、壁際のデスクから、篠田辰也が声をかけた。彼は、加世子の打ち上げる、S社への英文によるプレゼンテーションを、一枚一枚チェックしているのだ。 「あと三枚ばかりだから、やってしまいましょう」加世子はキイを指先で打ちながら、言った。 「一気に済ませてしまった方がいいわ」  一息入れるために、席を離れ来客用のソファに身を沈めたら、そのまま二度と立ち上る気力など湧《わ》いてこないだろう。それほど彼女は疲れていた。 「わかった、そうしよう」  篠田はそう言って、再び加世子の打ち上げたタイプ用紙を取り上げた。残り三枚の英文によるPRのプレゼンテーションを仕上げるのに、更に二時間近くかかった。最後の単語を打ち、ピリオドで止めると、加世子は一瞬|目眩《めまい》を覚えて椅子《いす》の背に躰《からだ》をあずけた。 「ごくろうさん」  篠田がつとめて元気よくそう声をかけてよこした。「これで|〆切《しめき》りになんとか間にあった。恩にきるよ」  けれども彼の顔にも疲労が滲《にじ》んでいた。S社へのアプローチは、もう六か月ほどかけている。  最初は、フランスの有名な香水会社であるS社が当時から使っていたPR会社の仕事に不満を抱いているらしい、というかなりあいまいな情報からスタートしたことだった。火のないところに煙はたたんよ、と、篠田はさっそく密《ひそ》かな調査に乗り出した。  調べてみると、なるほどS社が年間支払っているとみなされる予算に見合うだけのPR活動が行なわれていない、という印象を受けた。特に印刷媒体に関して、弱いようだった。  言ってみれば、同業者から大口のスポンサーをひとつ奪いとる汚い仕事である。弱肉強食の世界。うかうかしていれば、こちらだって同様の憂きめに会うのだ。この業界では、いつ敵に寝首をかかれるかと、油断もスキもあったものではない。  なにしろPR業というのは、眼に見える商品を売る、という職種ではない。アイディアと、強力で幅広い人間関係を売る仕事だ。  篠田辰也はS社へのアプローチ第二段階としてこれまでのPR状況をデーターにまとめ、数字に表わす作業に入った。これに三か月を要した。  この数字を見れば、S社のPR活動の弱点が一目でわかった。  第三段階では、我が社なら同じ予算でこれだけのことがやれるということを証明することだった。ここから加世子が仕事の一員に加わった。最初のプレゼンテーションである。テレビ、新聞、雑誌、催物、タイアップといった各媒体ごとに計画を紙上に再現した。それをもってようやく篠田がS社へ乗りこんだのである。  S社はこの企画書に興味を覚えたが、右から左へPR会社を変えるようなまねはしなかった。これは篠田たちが容易に推量したことである。原因の最大のものが調べてみると、S社の担当の一人とPR会社の重役が遠縁にあたるということが判明した。  こういうコネクションを断ち切るのは、困難なことである。しかし、明らかに数等上の企画をもっているということは、こちらがわ——アルファPR社の強みでもあり切り札でもあった。  篠田は持ちまえの魅力——嫌味のない押しの強さ、豊富な人間関係とたくみな弁舌——そういったものを駆使して、三日にあげず担当者の一人一人にアプローチした。その結果、プレゼンテーションにいくつかの手入れをして再提出せよ、ということになった。一週間前である。  あとはもう相手の裁断を待つしかない。やれることは全《すべ》てやったという、一種|空《むな》しいような疲れがあるだけだ。 「これでだめなら、S社の損失さ。みすみす才能のある我々アルファPRの協力を逃がしたということで、いずれ苦い薬を飲まされるハメになるよ」  結論は早々に出るだろう。来年度のPR活動に入るには、時間的にギリギリだからだ。S社は早急に決断を下さなければならない。  企画書を十枚ずつコピーすると、それぞれファイルに収めて、二人はオフィスの電気を消して、外へ出た。 「少し飲んでいかないか」  と篠田がさそった。「気分転換になるよ」 「でも、明日一番でS社へ出るんでしょ? お互いにやつれ果てた顔して行ったんじゃ足元を読まれるわ。今夜は、ぐっすり寝た方がいいんじゃない?」 「だから寝酒だよ。一杯くらいいいじゃないか」  そう言われて無下に断れなかった。二人は夜中の二時まで開いている六本木《ろつぽんぎ》のパブへ歩いて行った。  三杯目のウィスキーを、手の中でもてあそびながら、突然篠田が呟《つぶや》いた。 「キミのベッドにする? それともボクのベッド?」  加世子は、その言葉に対して、ゆるやかな反応をした。ひとつには酔っていたこと。そして、ひどく疲れていたこと。酔いと疲れとが、不思議なことに彼女を少しセクシーな気持にしていたことは事実だった。  しかし彼女は冷静に自分を制した。「私たち、くたくたなんじゃなかったの?」そう言って相手の誘惑をやわらかくかわした。  篠田は肩をすくめた。「ボクはクライアントをくどき落すのは自信あるんだが、どうもキミにかかるとその自信もひどく怪しくなるな」  苦笑して、伝票を取り上げると、彼は、行こうか、と加世子をうながした。「家の前まで送るよ」  二人が六本木を後にしたのは、午前二時に今少しの時刻だった。  翌朝早く、加世子は電話のベルで叩き起された。  深い眠りの底から、いきなり目覚めて反射的に受話器を取った。枕《まくら》に頭を沈めたまま�もしもし�と言った。不機嫌な声だった。 �ママ? あたしサキ�電話の相手が甲高い声で言った。 �なんだ、あなたなの�加世子はあいている方の手で、卓上時計を取り上げて、時刻を読んだ。 �一体|何時《なんじ》だと思っているのよ、まだ七時じゃないの � �まだ寝てたの、ママ?� �当り前ですよ。毎晩遅くまで働いてくたくたなんだから。こんなに早くなんだっていうの� �だってママ、今日の午後の予定忘れていない?�  加世子ははっとして片肘《かたひじ》をついて上半身を起した。 �そう言えば予定が入っていたわね�  娘のサキの担任教師と、二時に会うことになっていたのだ。来年中学の受験をひかえて、このミーティングは教師にとっても生徒にとっても父母側にとっても重要なものだった。 �困ったわね�と加世子は下唇を咬《か》んだ。十一時に篠田とS社へ行って、企画書の内容を説明した後、一時からS社の担当者数人をホテルオークラの昼食に招待してあった。抜けられるとしたら、その後になるだろう。ということは少なくとも三時までは不可能ということになる。  たいていのことなら、この際仕事を誰《だれ》か他《ほか》の人間にかわってもらうことも出来るが、今度のS社に関するかぎり無理であった。しかも今日が大詰めの最後の詰めである。 �なんとかするわ、サキ�と加世子が受話器の中へ言った。 �なんとかって? ママ来れないの?� �そうなの、今日は特別の仕事でママ行けそうもないのよ� �この前の父母会だって、そう言ったよ�加世子は娘に自分の弱点をズバリと指摘されて、理不尽にもかっときて言った。 �ママが嘘《うそ》ついてると思うの?�  母親の声の固さに傷ついて、子供は黙りこむ。加世子はすぐに反省して、 �ママが忙しくしているのは、あなたやおばあちゃまのためでもあるのよ。誰かが外へ出て働かなくちゃならないでしょう?�  自分の言葉が言い訳がましく響くのに、彼女は眉《まゆ》をひそめた。 �とにかくあなたは心配しないで。ママがどうしても駄目ならパパにだって頼めるんだから。ママかパパかどちらかが必ず二時に学校へ行って、先生にお逢《あ》いするわ� �うん、わかった�  感情を押し殺した声でサキはそう言った。  加世子は娘の電話を切ると、起きていってバッグの中から電話帳をとり出し、夫の藤野の電話番号を調べた。  相手はやはりまだ眠っていたのか、電話口に出るまでかなり待たなければならなかった。  加世子は別居中の夫に、用件を手短に伝えた。 �受験の相談となると、なんとかしてでも行ってやらなければなるまいさ� �時間の都合つきそう?� �ふん、なんとかしなければな� �そんなあいまいなことじゃ困るわ。行けるの、行けないの?�つい加世子が詰問の口調になる。 �おまえさんは絶対に行けないんだろうが。だったら、こっちで何とかするしかあるまい� �嫌味たらしい言い方ね。S社の仕事をとることがうちの社にとってどういうことを意味するかは、もう何度も説明したじゃないの� �そいつは聞いたよ。七パーセントの増収につながるというんだろう?� �私たち、その件でもう一週間連日徹夜でがんばってきたのよ。あと一押しのところなの。なんとか助けてちょうだい�  電話口で相手が冷笑するのが聞こえた。 �何よ、何がおかしいの?� �クライアントと君が昼食をするかしないかで、仕事の成否が左右されるのかね� �私が昼食の席に不必要な人間だと思えば、とっくにサキの件を優先してるわよ� �とにかく俺《おれ》の方で今日のことはなんとかしよう�と最後に藤野は言った。  最初から引き受けるつもりがあるくせに、加世子の仕事にひっかけて皮肉や嫌味を言うのはまいどのことだった。 �じゃおまかせしていいのね�  彼女は念を押した。 �遊んでる訳じゃないぜ、こっちだって�と、もう一度相手が抵抗した。�今日の午後は会議がひとつ入っているんだ。こっちの件も君に劣らず重要なんでな� �はっきりしてちょうだいよ�  受話器をもっていない方の手を握りしめて、加世子はとうとう金切り声を上げた。 �じゃひとつだけ訊くが、俺の会議がキャンセル不可能だと答えたら、どうするつもりだ?� �おばあちゃんをやるわ、それしかないでしょう� �冗談言うなよ�と、不意に語気が強まった。 �それくらいなら俺はたとえアメリカ大統領との会議だって断って、サキの教師に逢いに行くぜ� �じゃそうしてちょうだい�  そう冷たく言い放つと、加世子は受話器を叩きつけるように置いてしまった。  おそらく藤野の会議は、加世子の昼食会に劣らず、いやそれ以上に重大なものに違いないと、彼女は思った。それでも夫はサキの面接に行くだろう。それなのに私ときたら——。  朝刊を取りに行って、郵便受けにある一通のエアメールに気がついた。昨夜は、遅かったのと疲れと、酔いのために覗《のぞ》いてもみなかったのだ。  差し出し人は佐々木潤一郎であった。  一か月前ロンドンへ電話をしたのが最後だった。若いイギリス人の女の声が応対した。潤一郎に電話をくれるように伝言を頼んでおいたが、彼からの連絡はなかった。  幸いS社へのキャンペーンで忙殺されていたため、一日の大半は彼のことを考えずにすんだ。といって彼からの何らかの説明を待つ気持は、片時も心の隅《すみ》から離れなかった。潤一郎は釈明をすべき立場にあった。 [#ここから1字下げ] 拝啓  何度も手紙を書きかけました。何を書いても、言い訳にしかならなくて、つい破り棄《す》てた。僕は君に言い訳などしたくないからね。断じて。  そこで事実だけを伝えることにします。君がすでに疑惑を抱いている通り、確かに僕は今ある女性と同棲《どうせい》しています。パトリシア・ラング。二十八歳。大学で心理学の非常勤講師の仕事をしている女性だよ。君のことは、かつて僕が結婚したいと強く望み、将来おそらく結婚するだろう大切な女性《ひと》だと、彼女には話しておいた。事実だからね、違うかい?  パットはもちろんよく理解してくれたと思う。  更に正直に言わせてもらえば——君もそれを望むと思うけど——現在僕はパトリシアとかなり快適な毎日を送っている。  お互いに自由だということ、お互いからさえも自由だということ——この関係から生ずる緊張や優しさなどは、実に良いものだ。おそらく男女の関係のあり方の中で、ベストなのではないか、とそんなふうに考えています。  もっともそれが可能なのは、子供のこと、家のこと、将来のこと、財産のことといった生活そのものを共有することのない、言わば行きずりの人間同士だからだね。それはそれでかなり切ないわけです。  時々パットを愛しているのではないかと自分に問うことがあるけど、だが愛ではないよ、絶対に。なぜなら愛というものは自由な精神とは相容《あいい》れないものだからね。僕と彼女とは、お互いに相手のためになどいかなる犠牲も払うことなどなしに、つまりごく自分勝手に、ある意味ではごく自然に、やっているんだよ。  こういう言い方をすると君は腹を立てるだろうが、加世子という存在があるからこそ、現在の僕とパットの快適な関係が可能なんじゃないかと思っているくらいだ。そして多分それが事実なのです。  一方、一日のうちに何度も——いや何十回も、加世子のことを考える。健康に充分気をつけて下さい。クリスマスには君とサキに両手に抱えられないほど、プレゼントを持って帰るからね。 敬具  一九八二年九月十日                   潤一郎   藤野加世子様 [#ここで字下げ終わり]  予想した通りだとはいえ、潤一郎からそれを知らされるのはやはり辛《つら》かった。彼女は長いこと、肩を落してテーブルの一点を凝視《みつ》めていた。人生には耐えなければいけないことがたくさんあると思った。しかも辛いことというのは一時にまとめて我々に襲いかかる。  ふと見ると出勤の時間がせまっていた。彼女は洗面所で、そうやれば悲しみが洗い落せるかのように、時間をかけて顔を洗った。  S社での企画書の説明会が予定より三十分早く終ったので、ホテルオークラの食事が始まったのは十二時半だった。そして一時半にはコーヒーが配られ、それを機会に食卓の話題は仕事を離れた。  今出ればまだ間にあうかもしれない、という考えが、チラリと加世子の脳裏を掠《かす》めた。  サキの教師とは夫の藤野が会ってくれることになっているが、夫婦そろって会って悪いということはない。ここで自分の役割は充分果したはずだった。 「篠田さん、私ちょっと早目に失礼して良いかしら?」と、小声で訊《たず》ねた。 「こんなに早く予定が進むとは思わなかったので、先約をキャンセルしたんだけど——」と、娘の小学校での二時からのミーティングの件を簡単に説明した。 「そういうことなら、すぐ行きたまえ」と篠田は快く承諾した。「もっと前に言っておいてくれれば良かったのに、何で遠慮したの?」 「遠慮じゃないわ。状況的に判断したのよ」  加世子は笑いながら席をたち、まだ寛《くつろ》いでいるクライアント側の人々に軽く目礼して——途中で席を立つ失礼の理由と謝罪は篠田にまかせて——レストランを出た。  淡島までタクシーを飛ばし、小学校の前に着いたのが二時三分過ぎ。受けつけでサキの教室を訊ね、長い廊下を急ぎ足で渡った。  五年三組と書かれた教室の前は無人だった。藤野はすでに中に入っているのだろう。椅子が一つ、ぽつりと父兄のために用意されている。次の面接の人は二時半からなので、まだ来ていなかった。  加世子はドアの前でスカートの皺《しわ》を伸ばすような仕種《しぐさ》をしてから、ノックした。  人が立ち上って近づいてくる気配がして、ドアが細めに開かれた。  何か? というような表情で、サキの担任の女教師が彼女を見上げた。小柄でまだ若い顔つきの中で、愚かさというものがみじんもない瞳《ひとみ》が印象的だった。 「藤野サキの母でございますが、お世話になっております」加世子はていねいに頭を下げた。 「本日はギリギリになってしまいましたけど仕事の都合がつきましたので、駆《か》けつけてまいりました。主人はもう?」  加世子は教師の背後に藤野の姿を探した。 「サキさんの、お母さまですか」  女教師は急にどぎまぎして視線を落した。「これは困りましたね」 「主人と一緒にお話をうかがうわけにはいきませんか?」  ふにおちない思いで、加世子が問い返した。 「ええ、それはよろしいんですけど」  担任教師は当惑したように、教室の中を振り返った。加世子の立っている位置からは、整然と並んだ机と椅子だけが見えていた。  その時教室の中から澄んだ女の声がした。 「どうぞ藤野さんの奥さまに、お入りになって頂いて下さい」  呆気《あつけ》にとられている加世子の前に、二十代後半の女性の姿が現れた。彼女は教師の方に一礼してから加世子にむきなおり、 「今村京子と申します」と深々と頭を下げた。 「藤野さんから頼まれまして、私のようなものが差し出がましくうかがいまして申し訳ありませんでした」  色の白い顔が更に青白く透きとおるようだった。きちんと首の後で束ねた髪が、頭を下げると肩にかかった。 「では藤野はやはり会議から抜けられなかったのですね」と加世子は、相手ではなくむしろ自分自身に言い聞かせるような口調で呟いた。 「はい。たいへん困っていらして、それで私に——」そう言って今村という藤野が現在つきあっている女は、もう一度頭を下げた。 「いえ、こちらこそ申し訳ありませんでした。勝手なことばかりしてしまって」  加世子は自分でも意外なくらい、柔らかいまなざしを女に投げかけた。  交代は、担任教師の前ですみやかに行なわれた。今村京子は目礼して教室を出て行き、かわりに加世子が中に入った。  教師は彼女に椅子をすすめ、彼女はつい今しがたまで藤野の女が座《すわ》っていたその同じ椅子に、浅く腰を下ろした。まだ女の体温でぬくもっていた。彼女はそうして座ったまま、廊下を遠ざかっていく低い足音に耳を傾け、それがすっかり聞こえなくなると、改めて教師にむかって頭を下げた。 「見苦しいところをお見せして、すみませんでした」 「いいえ」と答えて、彼女は事務的にファイルを取り上げて、サキの頁《ページ》を開いた。「時間があまりありませんので、すぐ本題に入ってもよろしいでしょうか?」 「よろしくお願い致します」  加世子自身には、自分たち夫婦の問題を教師に打ちあけるつもりはなかったし、今しがたの今村という女の立ち場を説明する意思もなかった。そしてありがたいことに、サキの担任も、個人の生活に興味を示すようなタイプではなかった。二人はそれから二十分ばかりのあいだ、熱心にサキの教育方針、中学の進路などについて話しあった。  そしてその夜遅く藤野から電話が入った。 �悪かったな。引き受けておいて、やはりどうしてもキャンセルできなかったんだ�と彼はどこか弱々しい声で言った。 �私より、今村さんて女《ひと》に謝った方がいいんじゃないの?�加世子は、皮肉をこめずに答えた。 �今度のことで一番傷ついたのは、あのひとだと思うわ�  加世子は教室の外を遠ざかっていく彼女の静かな足音を思いだしながら、言った。 �君が行けるとわかっていれば、むろん彼女をやりはしなかったよ� �私もどたんばになって、急に行けるようになったのよ。連絡のしようがなかったわ。それに、あなたが行っているとばかり思ったから� �いずれにしろ、俺が悪かった� �いいのよ�と、加世子は言った。�私やあなたの沽券《こけん》なんて、どうでもいいって、いつもあなた言ってるじゃないの。ほんとうにそうよ。それより、今村さんて女《ひと》、よく耐えてくれたわ。開き直ることも出来たのに、むしろ私の立場を立てることに気をつかってくれて。こう認めるのは大いにしゃくだけど、あの女《ひと》いい人ね。もしもし、あなた聞いているの?� �ああ、聞いているよ�声に笑いが混じる。 �かといって良い気になっちゃだめよ。私がほめたからといって、サキの母親のような顔されるのはたまらないわ� �彼女は何もサキの母親面しているわけじゃないよ�と藤野は改まった声で言った。  加世子はサキの担任と話しあった内容について簡単に夫に説明して、電話を切った。  加世子はその夜二人の女のことを考えながら、床についた。一人はロンドンで潤一郎と暮すパトリシア・ラング。そしてもう一人は藤野が再婚したいと望んでいる今村京子。加世子の中で、この二人の女のイメージが自然に重なっていく。二人には、国籍も肌の色も違うのに、どこか共通点のようなものがある、と思った。  それは何なのだろう?  やさしさではないだろうか? 先月、たまたまパトリシアが電話口に出て、加世子が高飛車に自分は潤一郎の妻だと名乗ったにもかかわらず、応対はていねいで、しかも最後に加世子が先に置くまで受話器を掛けようとはしなかった。加世子も相手が切るのを待ったので、パトリシアが海の向こう側で低く笑った。そして言った。「どうぞ、お先にお切りになって」  そして今日、今村京子は「私のようなものが、さし出がましくうかがいまして申し訳ありませんでした」と頭を下げた。おそらくは藤野に懇願されて不本意に承諾したのだろうに、そんなことは|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にも出さなかった。やさしい女たちだ、と加世子は思った。  それに比べると、自分という女はなんて余裕のないひとりよがりの生き方をしていることだろう。自分自身のことで精一杯で、他人をいたわる心の余裕などなかった。自分の心が豊かでなかったら、他人に分け与えることなど所詮《しよせん》出来るわけはないのだ。藤野は、いい女に巡りあった。そして、これは認めるのは辛いが潤一郎も又、いい女性に巡りあったのだ。先のことはわからない。誰にもわからないだろう。けれども、現在この瞬間は、寂しいけど彼らの選んだ女たちを、自分は認めざるを得ない。  そんなことをとりとめもなく思いわずらううちにトロトロと眠りかけ、電話のベルで飛び上った。真夜中に近かった。 �篠田だ。起してすまなかった。一刻も早くキミに知らせようと思って。S社はうちに内定したらしい。非公式だが、確かだよ。もしもし、聞いてる? うん、キミのおかげだよ。明日は休んでいいよ。久しぶりにゆっくりしたまえ�  加世子は微笑しながら、ゆっくり受話器をおいた。人生は、常に辛いことばかりではない、と思った。時にはむくわれることもあるのだ、と。     8  その電話が鳴り響いたのは、普通では考えられない時刻だった。  深い眠りの底から、強制的に連れ戻そうとするベルの音を、加世子は、無意識にみっつ、よっつ、いつつと数え、六回目の呼び出しで、受話器にいかにも眠たげな手を伸ばした。  枕《まくら》の中に顔の半分を埋めたまま、彼女は、もしもし、と弱々しい声で言い、別の手でサイドテーブルをまさぐって腕時計を取り上げ、顔にくっつけるようにして文字盤を読もうとした。洗面所の扉の下からわずかにもれてくる明りで、辛うじて午前三時少し前と読めた。  そのような時間にかかってくる電話に対する怒りと不安の感情とが半々に、胸に湧《わ》いた。 �もしもし�  受話器の中から、答える声が聞こえないのに苛立《いらだ》って、加世子の声音が高くなる。しかし、依然として、相手は無言だった。  よくある悪戯《いたずら》電話かと判断し、切ろうとした矢先に、耳に、荒い息使いが聞こえた。不規則で、苦し気にも、エロティックにも聞こえる不気味な呼吸のしかただった。 �いやらしい悪戯電話、止めて下さい。一体|何時《なんじ》だと思っているの�  思わずかっとして、送話器の中へ言い、今度こそ本当に電話を切りかけた。その正に切れてしまう直前に、加世子は自分の名を呼ぶ、か細い女の声を聞いたような気がして、あわてて受話器を耳に押し戻した。 �もしもし、加世子です。——どなた?�しかし相手は、又しても応《こた》えない。不自然な呼吸の乱れが感じられるだけだ。胸をしめつけられるような切迫した不安が、彼女を襲った。眠気が一気にさめ、 �どなたですか? もしもし、こちら加世子です、もしもし�と語調が緊迫する。 �……わ、た、し……�非常に努力してそれだけの音声を舌の先へ押し出すような気配が伝わってきた。掠《かす》れた苦し気な声。低くていまにも消え入りそうな、それでいて必死な声。誰《だれ》だろう? 誰だろう? 一体誰だっていうのだろう? ひどく酔っているみたいな声。ろれつが回らないような——。 �わたしって、どなた? お願い、名前を言って�  理由のわからない強烈な不安に掻《か》きたてられて、加世子自身の声までもつれた。  再び、電話は死のような沈黙を、伝えてくる。切れてしまったのだろうか、と下唇を噛《か》んだその瞬間、相手の声がした。 �……ゆ、い……�  ゆいと言って、語尾が急に遠のいた。 ��惟? 惟なの?�加世子の空いている方の手が枕の端を握りしめる。�惟なのね、もしもし、そうなの? 惟?�  親しいと呼べるただ一人の女友だちだった。最後に彼女の代官山のマンションを訪ねたのは、もう四か月も前のことだ。その時は、加世子が潤一郎の突然のロンドン行きで、ひどくまいっている時だった。洋画の字幕スーパーの翻訳家の服部惟は、ブランチに加世子を呼んで慰めてくれたのだった。——彼女流のやり方で。 �何かあったの? もしもし、惟、聞こえるの? 何かあったのね?� �……ね、む、い、の……�  辛うじて聞きとれる低い呻《うめ》き声で、相手が言った。 �ねむい? なんだ酔ってるのね、あなた? 又、お酒を飲み過ごしたんでしょう�——  しかしそんなことは、めったにするような女ではなかった。よほど、胸にこたえることがあったのだろうか。 �もしもし惟、聞いてる? わたしに行って欲しいの?�もし彼女が自分を必要とするなら、何時《いつ》でもかけつける用意が加世子にはあった。  それに対して惟は、絶望的な努力をして何か喋《しやべ》ろうとしたが、どんなに耳を研《と》ぎすましても加世子には何を言っているのかわからなかった。最後に、惟が呟《つぶや》いたのは、さ・よ・な・らという切れ切れの音だった。  そして、電話はぷっつりと切れた。  長いこと、加世子は、受話器を枕の上に置いたまま、薄闇《うすやみ》を見つめていた。何かがひどく気にかかるのだ。何だろう?  もちろん、全《すべ》てが気にかかると言えば言えた。こんな時刻に、泥酔して電話をかけてくるなどということは、およそ惟のやりそうなことでは、なかった。むしろ、そういう甘えを、彼女は最も嫌悪する種類の人間だった。  絶対に何かが変だわ。何だろう? あのひとの言った言葉だろうか? 彼女は何を喋ったのだったっけ? ほんのわずかだ。二言か三言。名前を名乗った。それから、ね・む・い・のと言った。それだけだ。ね・む・い・の——。  そのあと、確か何か言おうとしたけど、舌が猛烈にもつれて、意味をなさなかった。まるで、遅まきのテープの声を聞くみたいな、まのぬけた、ある意味では気味悪い声だった。そして、さ・よ・な・らと言って電話が切れた。それだけだ。それ以外に聞きもらしたことがあるのだろうか。  外したままの受話器が突然、甲高い警報音を発したので、加世子は飛び上って、電話機に戻した。  正にその瞬間、何が彼女の胸をしめつけるほど不安にした原因だったのかが、だしぬけにわかった。  さよならと惟が言ったこと。それだった。加世子はベッドから飛び起きると、クローゼットを開けて一番手近にあるウールのスカートとセーターを素早く身につけ始めた。  服部惟は、さよならを絶対に口にしない女なのだ。ずっと昔、同じ高校から別々の大学へ進んだ後、二人は相変らず親友で始終会っていた。文学少女だった惟は大学の文芸部に入りたてで、言葉というものに非常にこだわっている時期だった。その頃《ころ》、彼女が語ったことを、加世子は今でも忘れない。 �わたし、さよならって言葉、厭《いや》なの。さよならって、きれいな言葉だし、音も美しいけど、絶対に使いたくないな。あまりにも美しいから、大事に取っておきたいって気もあるのね�そう言ってじっと考えこんだ。�使うのは一度だけ。たったの一度だけよ。一番最後に、人生の終りのどたんばに言うわ。さよならって�。その時は笑っていたが、考えてみれば、惟が一度でもさよならと言うのを、加世子は耳にしなかった。「じゃ、又ね」とか、「バーイ」とか言って、ひどくつっけんどんな別れ方や、電話の切り方をするのが、彼女のくせであった。  まさか、冗談じゃないわ、と、加世子は呟きながら、ウールのコートを肩にはおり、玄関口へ走った。とぎれとぎれに響いてきた、惟の最後のさよならが、彼女の胸を掻きむしる。死ぬなんて、惟が死ぬなんて、とんでもないことだわ。主としてショックと不安から、彼女は震えながらエレベーターのボタンを押した。  何が起ったのだろうか? 彼女を死に追いやるような決定的な何が起ったというのだろう?  あの朝のブランチ以来、服部惟に会っていないことが、ひどく悔まれた。電話で話したのも一回だけ。もっともダイヤルはひんぱんに廻《まわ》したのだが、多忙な彼女がつかまらなかったのだ。  電話では、自分の再就職の報告を一方的に喋ってきかせるだけで、今思えば惟の方の近況を詳しく訊《たず》ねる気持の余裕がなかった。近々会いましょうよ、と約束をしあって、それが一日延ばしに延びてしまっていた。  自殺を計るほど彼女を苦しめていたものは、おそらく男の存在なのに違いないと、加世子は青山の通りに出てタクシーが通るのを待ちながら考えた。あるいは男の不在、か——。  冷気が足元から腰へ走りぬける。加世子はじりじりとして腕時計を眺めた。  死なないでちょうだい、と、悲鳴のような声が、彼女の口元からもれた。親友の内的生活に、まったく無関心だった自分を、呪《のろ》っても呪いきれない思いだった。見上げると、初冬の空は黒々と澄みわたり、夥《おびただ》しい星が全天を覆っていた。なんてきれいなんだろう、と思い、悲しみがいっそう募った。  必ずしも、惟の内的な不幸に無関心だったわけじゃない、と加世子は自分に言い訳をした。ただ、惟の方が心を開いてみせなかっただけだ。ほとんど頑《かたくな》なほど、むしろ心を閉じていたではないか、惟は。  ようやくタクシーが加世子の前に止まった。冷え切った躰《からだ》を座席に移して、彼女は行く先を告げ、急いで下さいと言い添えた。  惟を自殺に追いやるような男の存在について、——あるいは不在について——加世子は考えるのが恐ろしかった。漠然《ばくぜん》とではあるが、四か月前のブランチの会話の中で、もしかしたらその相手は加世子の夫であった藤野恭ではないかと、直感し、それはほとんど確信にまで変ったが、結局、惟の口からは決定的な事は何も語られなかった。  男の話になると包みかくさないはずの惟が、三年半ばかり前に、貝のように沈黙した時期があった。相手は妻と子のいる男なのだ、とだけ知らされたが、それ以上一言も喋らなかった。その時は、佐々木潤一郎と出逢《であ》う前だったので、夫婦の間にまだ決定的な亀裂《きれつ》は生じていなかったから、加世子は親友の好きな男が、自分の夫であるとは、夢にも思わなかった。たとえあの当時、それがわかって問いただしたとしても惟は口が裂けても、真実を語らなかったろう。  それがわかったのは、全く偶然で、あの四か月前の朝、娘サキの話や、夫のことに話題が触れた時のことだった。藤野の話が出た時、それまでテーブルの上に力なく投げだされていた惟の白い手が、ふいに固く握りしめられるのを、加世子は見た。あまり固く握りしめたので、血が通らなくなり手の甲がみるみる青ざめていくのを、加世子は呆然《ぼうぜん》と眺めていた。  加世子の胸の中は複雑だった。最初の驚愕《きようがく》が引くと、自分が少しの間とは言え二人に——夫と親友に——騙《だま》されていたのかもしれないという認識は、非常に辛いものだった。辛《つら》く、憤りを覚えるものだった。  しかし、最後まで惟の口から一度として彼女が愛した男は藤野恭なのだ、と明言する言葉は聞かれなかった。あの時、あの強がりは、ひどく不自然だったと、加世子は思う。もしかしたら、惟は藤野をあきらめきれなかったのではないか? そして自尊心のめったやたらに強い彼女のことだから、そのことで加世子などが計りしれないほどの苦しみを嘗《な》めつくしてきたのではないだろうか? そして、つい最近、服部惟を死に追いつめるような、なにか決定的なことが起ったのだ。  代官山の惟のマンションの前でタクシーを降り、八階で止っているエレベーターを待ち切れず、三階まで加世子は階段を駆《か》け昇った。  ベルを押したが、予期したとおり反応はなかった。それから彼女はもう一度下のロビーに降り、管理人室の扉を叩《たた》いた。  いきなり起された管理人夫婦は、初めは不愉快な対応をしたが、加世子の話の内容に、異状を嗅《か》ぎとると、合鍵《あいかぎ》をもって三階の惟の部屋まで同行した。 「酔っぱらって、白河夜船ってとこなんじゃないでしょうかねえ、どうせ、そんなところでしょうよ」  鍵穴にキイを差しこむのに手まどりながら、四十七、八の男は、そうぶっきらぼうに言った。加世子はそれには答えなかった。  扉が開くと、室内は暗かった。アルコールの匂《にお》いが強く鼻をついた。加世子は入口の壁のスイッチを押した。  室内に乱れはほとんどなかった。ダイニング・テーブルの上の灰皿に、異様に喫《す》い殻が貯《たま》っているのが、ゆいいつ、眼《め》についただけだった。  奥のベッドルームに通じるドアは閉っている。まっすぐそっちへ向いかけた彼女は、何かにつまずいて足を止めた。シーバースのびんが転がっている。中味は空だった。そのあたりのカーペットが黒ずんでいるので、指を触れてみると、湿っていた。ウィスキーがこぼれてできた染みなのだろう。それで室内に濃く漂うアルコール臭の理由もわかった。  それごらんなさい、というように、管理人は、カーペットの上の空きびんを一瞥《いちべつ》した。  しかし加世子は眉根《まゆね》をきびしく寄せたまま、奥へ突き進んだ。  三十四歳の独身の洋画字幕スーパーの翻訳家は、小さなベッドルームの、ベッドの中央に横たわっていた。膝《ひざ》をお腹《なか》のあたりまで引き寄せて、片方の手は頬《ほお》の下に、まるで小さな女の子のように、彼女は見えた。  何も変ったようなところはなかった。表情も穏やかで、唇《くちびる》がほんの少し開きかけている。  しかし、よく見ればおかしなところがないわけではなかった。まず衣服がきちんとしすぎていた。眠っている人間が、首のところまでボタンを止めたブラウスを着ているのは、奇妙だった。髪は、きちんと三つあみにあんである。  加世子は、ベッドの傍にかがみこんで、女友だちの名を呼んだ。惟はぴくりとも動かなかった。顔に手を触れてみると、まだ温かい。けれども、呼吸は非常に微《かす》かで、あるかなきかだった。脈をとろうとしても、動転しているせいもあって、加世子の指先は脈を探しあてることさえできなかった。  管理人が乱暴に惟の肩を揺すった。惟は骨なしの人形のように、されるまま、ガクガクと首を振ったが、瞼《まぶた》はぴくりとも動かない。男の手が彼女の蒼白《そうはく》に近い頬をぴたぴたと打ち始めた。不安が適中して、加世子の膝から力が抜けていった。 「電話だ、電話」  管理人が怒鳴《どな》って、サイドテーブルの上の電話を顎《あご》でしゃくった。  加世子は反射的に受話器を外したが、指先が震えて、とうていダイヤルなど回せそうにもなかった。管理人が彼女の手から受話器をもぎとると、一一九番を回した。 「自殺しかけた女がいるんですがね」と、彼は送話器の中に慌しく言った。  胃洗浄が行なわれたが、惟の生命は依然として危険だった。彼女は数種類の睡眠薬を服用しており、それも大量だった。更に悪いことには、初めに飲んだ一びんは、夜の十時頃と推定され、その分はとっくに胃を通過してしまっていたからだった。  病院にかつぎこまれて五時間たった朝の九時になって、ようやく医者は加世子に、惟が一命をとりとめたことを、告げた。  彼女の昏睡《こんすい》状態はまだ当分続くだろうということで、意識が回復したら知らせてもらえるよう看護婦に頼んで、加世子はひとまず惟の身のまわりのものをととのえるため病院を後にした。  管理人に、惟が一命をとりとめたことを伝え、途中で気がついて買い求めた菓子折りを渡して、鍵を借り部屋に上った。  ざっと見たところ遺書のようなものは、みあたらなかった。どこかに日記でもあるのかもしれないが、命をとりとめた以上、詮索《せんさく》は無用だった。たとえそうでなくとも、それをやるのは加世子の仕事ではなかった。  気をとり直して、あとで惟の病院に届ける着替え類を、小型のスーツケースにつめこんでおこうとベッドルームへ行った。  下着の入ったドレッサーの引き出しをあけて、何組かを選《え》りわけていると、ハラリと白い封筒が膝の上に落ちた。  封筒はごくありきたりの白いものだったが、その白さに加世子はドキリとした。薄物の下着のあいだから出て来たということが、何か秘密を盗み見してしまったような、後めたい気持に、彼女をさせていた。  そのまま元に戻しておこうとして、彼女は黒インクで書かれた文字に、眼を止め、思わず息を呑《の》んだ。服部惟様と住所のあとに書かれた字体に、強い見覚《みおぼ》えがあった。反射的に裏を返すと、藤野恭の名が、黒々と加世子の眼を射た。  眉間《みけん》に深い縦皺《たてじわ》を寄せて、彼女はもう一度封筒の表面を眺め、消印を見た。二日前に届けられた手紙であることが、消印の日付けで明らかだった。  この手紙の内容と、今度の自殺未遂事件とが無関係ではないことは、明らかだった。それを確かめるのは、加世子には非常に強い抵抗があった。予感が適中したという思いと、それ以上何かを知りたくないという思いとが激しく交錯する。何が書かれているにしろ、藤野の手紙が彼女を絶望のどん底に突き落したことだけは明らかなのだ。女をそんなふうにどん底まで落してしまうような——特に惟のようなあらゆる意味で自立した、自由な大人の女を——そういう手紙の内容を知りたい、という気持は皆無ではなかったが、加世子の自尊心はかろうじて好奇心をしりぞけたのだった。  彼女は、封筒を再び元の引き出しに戻すと、数枚の薄物の間に忍ばせた。  バスタオルとバスローブをスーツケースに詰めている最中、ベッドルームの電話が鳴った。  病院からの連絡だろう、意外に早く惟の意識が回復したらしい、よかったと、そんなことを考えながら電話をとった耳に響いてきたのは、他《ほか》ならぬ藤野の声であった。 �やっぱり単なる脅迫だったんだな�と、いきなり夫の声が言った。加世子の聞いたこともない悪意のある声だった。加世子に対して浴びせかけたたくさんの声があったが、そのどれとも似ていなかった。夫の別の面を見せつけられるようで、彼女は怯《おび》えた。 �死ぬ死ぬと喚《わめ》きたてるような人間にかぎって、死ねるわけがないんだよ、絶対にな�  藤野は、電話の相手が惟だとばかり頭から信じて、そんなことを喋り続けた。  加世子は、聞くべきでない科白《せりふ》を聞いてしまった身の置き場のないような後めたさにすくみ上りながら、必死で相手の言葉をさえぎって、言った。 �もしかして惟に話しているんでしたら、人まちがいよ�  息を呑む気配がして、相手が沈黙した。 �加世子です�と、彼女は改めて言った。 �うん�わかったという意味を言外に滲《にじ》ませて、別居中の加世子の夫がようやく口を開いた。 �そこできみが何をしているんだ?�  疑惑で、夫の声が掠れた。�まさか?� �ええ、そう、あのひと病院よ�と、病院の名を冷静に告げた。 �で、助かったのか� �一命はとりとめたわ。後遺症のことは、まだわからないそうよ� �きみが、発見したのか�  とやがて、藤野が声にわずかに落ちつきを取り戻しながら、訊《き》いた。 �そういうことね。幸か不幸か私が尻《しり》ぬぐいをやらされているわけよ� �すまん�と藤野がわびた。�きみだけには、知らさずに終らせたかった� �そりゃそうでしょうね�冷たく、加世子は答えた。�闇《やみ》から闇に葬りたかったんでしょうよ。そうして頂きたかったわ。私だってまきこまれるのは、迷惑よ。今も今後も� �まきこみはせんよ。もう終ったことなんだ。きみは聞く耳をもたんだろうが、俺《おれ》と惟の関係は三年以上も前に、一応終っているんだ� �愉快な告白じゃないわね�加世子は突き放すように言った。�三年前には、まだ私たちちゃんとした夫婦だったわ� �わかっているよ。きみには決して気持の良い話じゃない。だからきみだけには内緒にしておきたかった� �三年前に終った話が、なんで今頃になって自殺未遂に発展したのかしら� �気持の上では、終っていたんだが——� �気持の上で?� �大人の、男と女の関係は、続いていたということさ�藤野の声が暗く自嘲《じちよう》気味にそう答えた。 �俺は単なるセックス・フレンドと割り切っていた。彼女の方もそうとばかり思いこんでいたがね。なにしろきみも知っての通り、サバサバした女だろう、胸の内が見抜けなかったと言えば、俺もばかだったんだろうが� �もういいわ、それ以上言い訳みたいなこと私に聞かせないでちょうだい� �しかし、もっと現実的な、大人の女だと思っていたんだけどね、俺は�口惜《くや》しそうな口調だった。 �現実的で大人の女だって、人を死ぬほど好きになることはあるわ�加世子は冷たく言った。 �実は手紙を出したんだ� �知ってるわ� �読んだのか� �読みたいとも思わなかったわ。でも内容は想像がつくわね。今村京子さんのことで、ご自分の身辺をきれいにしたいってことでしょう� �…………� �勝手なひと。私との離婚さえ成立しないうちに、そうやって何人もの女たちを苦しめるんだわ� �そいつは、お互いさまだよ。きみがそれを言うんなら俺の方にもゴマンと言い分があるんだぜ�  二人はお互いに自制しようとして黙りこんだ。やがて、藤野が思い直したように言った。 �ゆうべ遅くだけど、服部惟が電話をかけてきたんだ。手紙を読んだ、と言った。奇妙な声だったよ。それからもてあそばれたって、彼女いきなり叫んだね。三十四にもなるいい年した女が、もてあそばれたはないじゃないかと、こっちもそれを聞いて気持が完全にさめきってしまったもんでそう言い返した。すると半狂乱になって、死んでやるって喚き始めたんで、電話を一方的に切った。しかし気になって、朝のうちに電話を何度かしたんだが——� �…………� �きみには、ほんとうに不快な思いをさせたと思っている� �——お見舞には行くつもり?� �いや、すぐには止《よ》しておくよ。何も残ってはいまい。憎しみと軽蔑《けいべつ》以外にはな� �…………� �そっとしておいてやることだ。勝手なようだが、それが今、唯一の思いやりさ。俺は、彼女の自殺騒ぎなど、なにも知らない。それでいいんじゃないか。それでやっと服部惟という女の尊厳が救われるんじゃないか� �さあ、私には何とも言えないわ� �あとは時間が解決してくれるさ�  そして二人は電話を切った。  病院から電話がかかったのは午後三時過ぎ。着替えを届けた病室の前で、看護婦が加世子を引きとめた。 「どなたにも、お逢いしたくないって、言うんですよ、患者さん」  加世子はうなずいた。 「当分ひとりきりにしておいて欲しいって」若い看護婦は、加世子の手からスーツケースを引き取りながら、気の毒そうに言った。 「もし、伝言があれば伝えますけれど」 「そうね、もう一度使っちゃったんだから、�さよなら�は二度と言えないって、そう伝えて下さい」 「�さよなら�は二度と言えない、ですね?」看護婦は神妙に加世子の言葉を復唱した。  病院を後にすると、前庭の駐車場には初冬の不透明な夕日が、斜めに射《さ》していた。風のない、おだやかな夕暮れだった。淡い一日の終りの陽光は、微かに肌を温めた。健康であることが、——身心共に健康であることが、つくづくと嬉《うれ》しかった。この喜びを、ぜひとも他人と分かちたいと思う気持が募った。おそらく、しゃぼんだまみたいに、次の瞬間には消し飛んでしまうのかもしれないが。  束《つか》の間で、しゃぼんだまみたいな幸福な思いだからこそ、一刻も早くそれを誰かと共有したかった。  加世子は公衆電話を探して、ダイヤルを回した。 �篠田さん?�弾むような声で彼女が言った。 �ええ、もういいの。会社を休んですみませんでした。全部すんだわ。無事に。……えっ? 私がとても陽気ですって? そうよ、とても素敵な気持なんですもの。とてもきれいな冬の夕暮れだし、私は誰よりも今健康だし、好きな仕事があって、娘がひとりいて、結婚したことがあって、挫折《ざせつ》したことがあって。それに愛する人が一人いて、その人は遠い外国にいるけど、いつか私のところへ戻ってくると信じているからよ。それから、一人の上司がいて、初めは気障《きざ》でカンにさわる嫌な男《ひと》だと思っていたけど、この頃では尊敬できるようになったから——� �もうそれくらいにしておきなさいよ�とアルファPRの篠田辰也は、笑いを含んだ声でさえぎって言った。�その上機嫌が変らないうちに、ひとつデートの約束をしないかい? その最後にあげた気障でカンにさわる上司と夕食を食べるというのは、どう?� �喜んで�  加世子は電話を切ると、もう一度だけ病院をふりかえって眺めた。あの中に身も心もうちひしがれた一人の女友だちがいるのだと思うと、再び胸に暗い影が射した。  真白い建物にもかかわらず、病院は薄汚れて見えた。全ての病人が、なんとなく不潔な印象を与えるのとよく似ていた。  篠田と約束した時間までまだ三時間はたっぷりあった。青山に帰ってゆっくりバスを浴びる時間があるのがうれしかった。     9  乾いた冷たい風が街に吹く。  十二月は不思議な月だ。人々は何ごとかにせきたてられて、せかせかと前かがみに歩いていく。  一様に深刻な、追いつめられたような表情を浮べて。  そして冬の巷《ちまた》に響きわたるあの陽気なジングルベルの鈴の音は、なんと薄汚れて耳に聞こえることだろう。  夜はまだいい。人工の雪にうっすらと積もった埃《ほこり》を浮き上らせていた冬の斜めの淡い陽射《ひざ》しが沈んでしまうと、闇《やみ》がたいていのものを包み隠してくれる。それに夜はずっと寛大だ。夜はガラスをダイヤモンドの光に変える魔術をもっている。  金や銀のモールがあやしくきらめき、ポインセチアの赫《あか》が色づく。そしてひいらぎの緑で夜がふちどられる。無数の人造の星たちがビルの谷間という谷間で輝き、男や女は精一杯華やかに飾りたてられたショーウインドウの前で溜息《ためいき》を、つく。無数の溜息が乾いた冷たい風にのって、冬の夜空に舞いあがる。そして加世子は憂鬱《ゆううつ》だった。  あれほど待っていたクリスマスがくるというのに。潤一郎が休暇でロンドンから戻ってくるというのに。いっそのこと、あのひと戻って来なければいいんだわ。ショーウインドウの明りから顔をそむけながら、彼女はつい声に出して呟《つぶや》いた。  しかし近くにいた人たちは、彼女の呟きに振り返ってもみない。不幸をもてあましている女の呟きになど、気を止めている余裕などないのだろう。都会の孤独は深まるばかりだ。  昨夜届いた潤一郎の電報のおかげで、加世子の一日は台無しだった。幸いスポンサー回りで一日中人に会っていたので、気が紛れることは紛れたのだが、こうして仕事から解放されると、とたんに自分を支えるものがなくなってしまう。彼女を待っている冷えきった部屋へ、まっすぐ帰って行く気にはなれなかったので、あてもなく六本木の街へさまよいだした。 「二二ヒ 四ジ ナリタツク パツト ヲ ドウハンシタシ タダシ シンパイ ムヨウノコト」ジユン  電報は一方的な宣言だ。おそらく電話にしないのは加世子の反対を予想してのことだろう。  誰《だれ》かが肩に手をかけたので振りむくと、篠田辰也だった。 「どうしたの、まるで何か大事なものでもなくしちゃったみたいに、げっそりとした後姿だぜ」  そうなのよ、大事なものをなくしちゃったみたいな気持なの。  けれども加世子は微笑して、 「疲れただけよ」と答えた。「ちょうど良かったわ。ちょっと一杯飲んで帰りたいところだったの、つきあって下さる?」 「もちろんつきあうよ。ただし、ひとつ仕事を片づけてからね」 「あら、まだ仕事?」 「そううんざりした顔をしなさんな。すぐすむよ、P社に企画書を届けるだけでいいんだ」  P社は溜池《ためいけ》にある。 「一緒に来る? それともそこいら辺でコーヒーでも飲んで待っているかい?」 「どうしようかしら」  そんなどうでも良いようなことさえ、きめられない今夜の加世子だった。 「じゃ一緒に来なさい」  強引な感じでそう言うと、篠田は彼女の肘《ひじ》をとった。「なんだか変だよ。放っておいたらフラフラとどこかへさまよい出していきそうじゃないか」 「そうかしら」 「そうだよ」足早に溜池方面に歩き出しながら篠田が答えた。 「じゃ、つかまえていて。私がどこかへさまよい出さないようにちゃんとつかまえていて」加世子の顔に苦笑が滲《にじ》んだ。 「だからさっきから、キミの肘をしっかりつかんでいるよ」  P社での用件は十五分ほどで済んだ。二人は再び六本木へ向う坂道を無言で登っていった。 「どこへ行こうか」  何時もなら、さっさと勝手に行き先をきめてしまって、加世子は案内されるだけなのに、珍しく篠田がそう訊《き》いた。 「お酒が美味《おい》しく飲めるところ」  タクシーが交差点からずっと渋滞していた。その赤いテイルランプが延々と坂を頂上まで這《は》い登《のぼ》っている。見なれた夜の六本木の光景だった。 「酒が美味しく飲める場所ねえ」と、篠田が反復して言った。「それはむずかしい注文だな」 「むずかしい注文じゃないと思うわ」と、加世子は自分から篠田の腕に腕をからめた。 「氷と、いいウィスキーと、水だけがあればいいの」 「それだけかい?」 「いい音楽が欲しいわね」 「たとえば?」 「ケニー・ロジャースの『ルシール』とか、ね」 「そういう心境なの?」  さりげなく、篠田は質問する。加世子は答えない。 「氷と良いウィスキーと、水。それにケニー・ロジャースの『ルシール』。だいぶターゲットが狭まったな。他に注文は?」 「座《すわ》り心地の良い椅子《いす》と、疲れた私の可哀想《かわいそう》な足を投げ出せるオットマンと、ベッド」  篠田はチラと眼の隅《すみ》で加世子を見たが、何も言わない。 「ベッドは何のためか、聞かないの?」 「きまってるもの。ベッドの使い方は二通りしかないさ。眠るためか、愛しあうため」 「あるいは、その両方。愛しあってから眠るためとかね」  二人はしばらく無言で坂をゆっくりと登り続けた。 「きみの希望にそうような場所が二つだけあるな」と、篠田がやがて口を開いた。「ボクの部屋か、あるいはキミの部屋。どっちにする?」 「ずいぶんせっかちですこと」 「そりゃそうさ。きみの気が変らないうちにと、こちらとしてはあせるよ」 「でも私、何か約束する気はないのよ。まずはただお酒を飲みたいの」 「それでけっこう。きみは寛《くつろ》いで靴を脱ぎ、オットマンの上に足を投げ出す」 「寛いで、そのまま眠ってしまうかもしれなくてよ。とても疲れているの」とても惨めなのと言おうとして、辛うじて言い換えた。 「それもオーケー。ベッドに運んであげるよ。ついでに服を脱がせて、ボクのパジャマに着替えさせてあげてもいい」 「お願いするかもしれないわね」  篠田が右手を上げ、止っているタクシーに合図する。車のドアが眼の前で開き、加世子は押しこまれるように、車中に入った。 「どうしてこんなことになっちゃっているのかしら」と、加世子は少しおかしそうに呟いた。彼女は手に望みどおりウィスキーのグラスを持ち、背を壁にもたせて、暖炉に燃えるガスの炎を眺めていた。ただし足は、オットマンの上ではなく、篠田の手の中にあった。彼は彼女の細い足首をさっきから、ゆっくりと撫《な》で続けていた。  彼自身もウィスキーを飲みながら寛いでおり、時々|愛撫《あいぶ》する手が伸びて、加世子のスカートの中へ滑り込んでいったが、彼女は、だめよとは言わなかった。それで、男の手の動きが少しずつ大胆になっていく。 「今夜は陽気だね」 「そうよ、私、陽気」本当は全然逆なのに。 「どうしてかな。その訳を知りたいような気もするね、ボクは」 「止《や》めた方がいいんじゃない? ヤブヘビになるってこともあるわよ」 「それは忠告かい?」  言葉は少なからず加世子をギクリとさせたが、篠田の手はあくまでも優しく彼女のふくらはぎから膝《ひざ》の裏側を撫であげていく。 「そうやって、少し酔って、陽気にしているときのきみは、実にエロティックだよ」  男の手が彼女の下着のふちにかかって、そのまま制止した。ずいぶん長いこと、彼はそのきわどい位置に指をかけたまま、下からじっと加世子を見上げていた。彼女は相手の視線を避けて、手にしたグラスの中の氷をみつめた。やがて、低い声で篠田が言った。 「なぜ陽気なふりをするの?」  それを聞くと、加世子の肩から力が抜けた。それが自分でもわかった。 「陽気とはほど遠い気分でいるのに。仕事場でも一日中そうだったじゃないか、きみは。ついさっき、ボクが街の真中で声をかけるまで、惨めを絵に描いたようだった。それが、一体どうしたんだい?」 「お願いだから、何も聞かないで。いいじゃないの、篠田さん、私がふりをしていようとどうだろうと、陽気ならそれでいいじゃない。私、楽しんでいるのよ、お酒も、あなたの手の愛撫《あいぶ》も。あなただって、そうじゃないの? 寛いでいるように見えるけど」 「きみが陽気なふりをするのと同じように、ボクは寛いだふりをする」 「じゃこのまま、演技を続けましょうよ」  加世子の声は投げやりで、少し悲しかった。 「いいとも」  篠田はわざとらしく肩を引いて頭を下げる仕種《しぐさ》をした。「男のボクとしては、願ってもないことだからな」  二人はじっと見つめあった。 「できることならボクは、何かを忘れようとしているきみじゃなく、ボクという一人の男に対して欲望してくれる一人の女として、キミを抱きたいね」 「————」 「しかし、それも無理な望みらしいな」  篠田の口調が急に変った。「ということなら、キミの計画どおりのボクの役割とやらを演ずるとするか」  そういうと、いきなり篠田は加世子の足首をつかんで、ぐいと引いた。彼は有無を言わせぬ荒々しさで彼女の衣服を剥《は》ぎ取った。加世子はそうやって、ほとんど痛めつけられるような具合に男に愛されながら、このように自分をめちゃめちゃに傷つける以外に、潤一郎から受けた苦しみをまぎらせる方法がなかったのだ、と自分に言いきかせ続けた。これでいいのよ。これで、よかったのだ、と。何もかも終った時、彼女は上から自分を見おろしている篠田の眼の色をみて、激しい驚きを覚えた。  猛々《たけだけ》しい欲望の消え去ったあとの男の眼の色は、ただひたすら哀《かな》しみに満ちていた。二人は無言で躰《からだ》を離した。 「さっきまでの陽気さは、どこへ置いて来てしまったのかい」と、ウィスキーを新たに作りながら、篠田が聞いた。眼の中にキラリと怒りに似た光が通り過ぎた。 「もっとも目的を果してしまったんだから、陽気なふりをして、ボクをこれ以上誘惑する必要もないんだろう」 「目的って?」  加世子は相手の言葉を聞きとがめた。 「わかっているだろう。キミは、面白くないことがあって、とにかくそいつを忘れたかった。酒でもまぎらわせないようなことだ。そいつを忘れる方法はただひとつ。男と寝ること。どうだい、目的は達しましたかね? ボクはきみの望み通り、卑劣漢が演じられましたかね」  加世子は思わずうつむいた。 「前にも同じようなことがあった」と、篠田は続けた。「その時も、キミには何か非常に辛《つら》いことがあって、ボクに呼び出しをかけてきた。ボクは応じた。キミの呼び出しになら何時《いつ》だって応じるんだ、ボクってバカな男は……」 「もう止めてちょうだい」 「前回の時には、危いところでキミはキミ自身のまちがいに気づいて、身をひるがえして逃げ出した。キミは救われ、ボクも又、救われた。つまり前の時には、ボクは卑劣漢を演じずにすんだというわけなのだよ」 「————」 「考えてもみてくれよ。こんなかたちでしか、ボクはキミという女の苦しみや悲しみをいやしてやれないのか。キミの両脚を力ずくで押し開いて、飢えた野獣のようなやり方でキミを犯すことしか許されないのか」  篠田はそうしたことを、むしろ静かな口調で語った。加世子の頬《ほお》を涙が流れた。  涙を見ると、篠田は黙った。そして無言のまま彼女の頭を自分の胸に抱き寄せた。 「初めっから、こうすればよかったんだ。何も説明することはないから、ただボクの胸に頭を寄せて、涙を流してくれればよかったんだ。なぜそうしなかった? ボクがそれを拒むとでも思った?」  加世子は篠田の胸から顔を離した。それが出来るくらいなら。誰か男の胸を借りて泣けるような女なら。 「素直じゃないのね、きっと」と、加世子は寂しそうに笑った。 「そいつはこっちも同罪だ」  篠田は思い直したようにグラスを挙げた。 「とにかく乾杯しよう。何のために? そう何のためだろうな。ボクらの過ちのために、ということにしておこうか」  加世子はふいに、前に潤一郎が書いてきた手紙の、ヘミングウェイの引用を思い出した。 「私たちの過ちのために。そしてこれからも私たちがしでかすかもしれないたくさんの過ちのために、乾杯」  二つのグラスのふちがふれた。 「ありがとう」  とやがてポツリと加世子が言った。 「何が?」と、篠田が眼《め》を伏せたまま訊いた。 「それでもまだ私を見捨てないでくれて」 「もう少しで見捨てるところだったけどね」  グラスごしに遠くを眺める眼つきをして、篠田が言った。  加世子は微笑した。 「私たち戦友みたいなものなのね、きっと」 「そいつは言い得て妙だな。だってベッドこそまさしく男と女の戦場だものな」  篠田が手をのばして、加世子の髪に触れた。「この次には、もっと別の愛しかたをしようよ。敵同士のようにではなくさ」  加世子は男の掌《て》の中に、そっと口を押しつけて、うなずいた。  潤一郎とパトリシアが、到着する一時間前に、加世子は二人を迎えるために成田に来ていた。篠田が一緒だった。彼女が頼んだのではなく、彼の方が強引にそうしたいと言ったのだ。  加世子は少し考えて、承知した。その方が潤一郎の気持が楽になるだろうと思ったからだった。  思いつめたような不安と嫉妬《しつと》と猜疑《さいぎ》の表情を浮べて出迎えたら、潤一郎の気も重いだろう。三人が三人不快な思いで休暇を過ごすよりは、嘘《うそ》でもいい、とにかく明るくふるまうことだ。おそらくそれこそが潤一郎を取り戻す最善の方法なのだろう。 「私、今日も又、あなたを利用しているのよ、それがわかっているんでしょうね」  加世子は、到着口に視線を配りながら、優しくからかうような声で、篠田に言った。 「わかってますよ。要するにボクは恋のあてうま」 「いじわるね。本当はそうじゃないこと、説明したでしょ?」 「でも少しはあてうまの要素もあるんだろう? それは、認めろよ」  加世子は答えなかった。答えずに、笑った。  顔の上の笑いが途中で強ばった。潤一郎の姿を認めたのだ。そして、傍の外国人にしては小柄な栗色《くりいろ》の髪の女性も。  潤一郎の右手が大きく頭上で弧を描き、その表情がパッと輝いた。彼は小柄な女性の耳もとで何ごとか囁《ささや》いた。すると、彼女の表情も又、彼に劣らないくらい明るく輝いたのだった。  加世子の体が思わずぐらりと揺れた。篠田が右手をそえてさりげなく傾いた体を支えた。  潤一郎は人目もはばからず、外国人のように加世子を両腕に抱きしめた。それから傍のパトリシアの腕の中に、彼女を押しこんだ。「ね、僕が話したとおりの女性だろ?」 「お逢《あ》いするの、とても楽しみにしていましたの」  弾む息の下から、パトリシアがそう言った。化粧気のない素朴な顔の中で眼もとに知的な輝きがあった。 「私も。でも、急なので少しびっくりしましたけど」  皮肉を交えずに言うのはむずかしかった。  潤一郎が篠田の手を握った。 「あなたの会社に再びお世話になっているそうで」 「助かっているのはこっちです」 「わざわざ迎えて頂いて、恐縮です」 「いやいや、独身の男には日曜は退屈なものですからね。渡りに舟とばかり藤野くんについて来ました」  潤一郎は篠田をパトリシアに紹介した。 「こちらね、カヨコが働いている会社の方」それから篠田にむかっては、パトリシアをこう紹介した。 「ミス・パトリシア・ラング。僕の女|友達《ともだち》です」  そして四人は、篠田の会社の車が停《と》めてある駐車場に向って、歩きだした。  潤一郎の瞳《ひとみ》の中に、予期していたとおり、安堵《あんど》の色を見て、加世子の気持は複雑だった。     10  まさか三人が同じマンションに寝泊りするわけにはいかなかった。そう考えたので、加世子は潤一郎が同棲《どうせい》中のパトリシアを同伴して帰国する前日に、淡島の実家にひとまず入用な身のまわりのものを移しておいた——しかし、もしパトリシアがマンションを訪ねたら、必ず眼に触れざるを得ないような場所に、さりげなく女らしいものを置いてくることは忘れなかった。たとえば、バスルームの扉の裏のフックに、ついしまい忘れたかのように見せかけて、絹の肌色のガウンを掛けておいたり、ドレッサーの上にはマダム・ロシャスの香水、キッチンには小ざっぱりとしたエプロンというふうに——  かといって、自分たちが一緒に暮していたところへ、パトリシアを泊らせるとは、ほとんど思っていなかった。潤一郎はそこまでやらないだろうと、彼の常識を信じていた。  けれども、彼が、自分とパトリシアとどちらの女と——ありていに言えば、どちらのベッドで眠るのか、ということが、加世子の気になるところだった。そんなことは|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にも出せず、成田から篠田辰也の運転する車の中では陽気にふるまってはいたのだが……。 「日本の初印象はいかがです?」  と、篠田は前方から眼を離さずに、後座席に潤一郎と並んで車外の景色を楽し気に眺めていたパトリシアに声をかけた。 「ナイス」弾んだ声。「人々がとてもフレンドリーね。それをまっさきに感じました」 「京都へは、当然行かれるんでしょう」  ハンドルを軽く扱いながら、彼はバックミラーの中にチラと視線を投げた。 「そのつもりですがね」と、潤一郎がかわって答えた。「どうでしょうねえ、今からいいホテルに予約できるだろうか」 「むずかしいかもしれませんね、こうおしせまると」篠田は社用のベンツを百二十キロで飛ばしながら、胸ポケットから煙草《たばこ》を一本抜きとって、口にくわえた。 「せっかくいらしたんだから、僕も何とか手を打ってみましょう」 「いやいや、ご心配なく。年末にかけてお忙しいのはわかっています。僕らは休暇ですから、のんびりと、スケジュールも組まずに過ごしますよ」  僕らは、と潤一郎は言った。その中に加世子は当然含まれていない。彼女は助手席の窓から、冬の空を見上げた。 「どうしてもだめとなれば、箱根《はこね》をあたってみようと思っています。多少は無理のきく旅館が、湯本に一軒ありましてね」  その宿なら知っている。加世子は紅葉を観《み》に、毎年秋に、娘のサキと共に、潤一郎に連れていかれたのだ。清潔で、神経のいきとどいた気持の良い宿。旅館らしい最後の旅館という感想を抱いた。おかみが潤一郎の従妹《いとこ》にあたるということだった。 「君のスケジュールも聞かないといけないね」  潤一郎がバックミラーの中で加世子を見た。二人の視線が、実に七か月ぶりで深く絡みあった。 「あら私?」加世子はわざととぼけて言った。 「私は仕事。のんきに温泉につかっているわけにはいかないわ」 「うちの社では、休みは二十九日から正月の五日までですよ」横から篠田が助け舟を出すつもりで言った。 「じゃ三十日には発《た》てるね」と潤一郎は加世子の背中に訂《ただ》した。 「まさか、三人で温泉につかる計画を立てているんじゃないでしょうね」  笑いながらそう言って、加世子は後をふりむいた。笑ってはいたが、とりつくしまもないような拒絶の響きが、その声にはあった。 「僕は何も……」と一瞬、潤一郎は口ごもった。「悪気で言ったわけじゃない」 「もちろんそうでしょうとも。善意でおっしゃったことくらい、わかるわ」  帰国早々気づまりな空気が流れた。 「滑稽《こつけい》よ、三人だなんて。ヤジキタ道中もいいところ」  加世子はその場の固い雰囲気を救うつもりで、言葉を探した。 「じゃ四人というのはどう?」  ふいに、運転中の篠田が、会話に割りこんだ。 「四人なら、数のバランスがとれる。もし、僕も参加させてもらえるならの話ですがね」 「ご冗談でしょう」  にべもなく、加世子は即座に言った。 「いや、冗談でなく、篠田さんさえよければ——」  と潤一郎が言いかけたのを、加世子はぴしりとさえぎって、 「じゃお聞きしますけど、誰が誰と寝るわけ? それとも組み合わせは毎晩変るのかしら?」  と、ニコリともせず口早に言った。言葉の意味は通じないが、その口調の容赦のなさが伝わったのか、パトリシアが瞳を曇らせた。  数分間、誰《だれ》も喋《しやべ》らなかった。加世子がぶちこわした会話だから、彼女が繕《つくろ》わなければならない。 「みなさんのご好意はうれしいけど」と、ようやく素直な気持をわずかにとりもどして、彼女は口を開いた。 「この際、旅行はご遠慮したいの。そういう気持になれないというのが、正直なところなのね。それにお正月休みくらい、娘と一緒にいてやりたいし、のんびりもしたいし。お二人で行って頂きたいわ。それが一番良い方法だと思うの」  それから彼女は、パトリシアにむかって、ゆっくりとした英語で話しかけた。 「みんなで日本語喋ってごめんなさいね。実はね、潤一郎が三人で旅行しようと言ってくれたんだけど、断ったの」 「でも、それじゃ公平じゃないわ」  パトリシアは冷静に抗議した。「私がジュンを一人じめするわけにはいきませんもの」 「だけど考えてみて、パトリシア。今もその事が問題になったのだけど、三人が一つのベッドに眠るわけにはいかないんじゃない?」  この言葉には説得力があった。パトリシアは、口をつぐんでうつむいた。  潤一郎は、新宿のホテルにパトリシアの部屋を予約していた。加世子は内心ほっとした。  四人でホテルのレストランで夕食をとった後、彼はパトリシアの両肩に手を置いて、 「きみの荷物は、ボーイが部屋に運んでくれたよ。明日の朝、電話をする。飛行機では眠れなかったから今日はよく眠りなさい」と言った。 「ええ、ありがとう」  パトリシアは潤一郎の手に自分の手を重ねて、微笑した。  それから、彼はごく当然のことのように、加世子をうながし、篠田にむかって言った。 「では僕らはここからタクシーを拾いますから。今日は送って頂いてほんとうに助かりました」  二人の男は立ち上って握手をした。  三人はエレベーターの前までパトリシアを送り、彼女が乗りこんで扉が閉まると、二手に別れた。篠田が遠ざかるのを待って、加世子が言った。 「パトリシアにホテルの部屋をとって下さって、私感謝するわ。ほんと言うと、あなたはずっと彼女と過ごすんじゃないか、と内心|怯《おび》えていたの」 「僕は、きみと過ごすよ」  しかしその言葉は加世子にとって少しもうれしくなかった。 「どうした、浮かない顔だよ」 「無理していただきたくないからよ」 「無理などしていない。僕は加世子といたいんだ」 「駄々っ子みたいな言い方ね。でも、大人の男女の世界じゃそんなこと通らないわ」通ったらたまらないと思った。「第一、フェア・プレーじゃないわ」 「フェア・プレー?」 「二対一になるのは、フェアじゃないと思うの。立場が逆だったら——私が一人だとしたら、やっぱり気持が波立つわ。彼女が一人でホテルなら、私は淡島か池袋に帰るべきだし、あなたも一人で青山へ行くべきよ」 「しかし何かい、僕はわざわざ一人寝するために、はるばるロンドンから帰って来たってことになるのかい」半分冗談のように潤一郎は苦笑した。 「たまには一人寝もいいものよ」加世子はそれに皮肉で応じた。 「じゃ何もパットのためにホテルの部屋をとる必要はなかったわけだな」  この男《ひと》は女の気持なんてこれっぽっちもわかっていない、と加世子はかっとした。 「なんなら、彼女のところへ今からエレベーターで昇っていったら?」 「冗談だよ。冗談も言えないのかい」 「言っていいことと悪いことがあるわ。私だって耐えているのよ。どういうつもりか知らないけど、ロンドンで同棲している外国女なんていきなり連れて来て。あなたはそれでお得意かもしれないけど、私は悲しいわ。そして、もしかしたらパトリシアだって、心の中で耐えているのかもしれないじゃないの」 「僕は得意でもなんでもないよ。それにきみが悲しみと闘っているのも知っている」 「ではなぜあえて、彼女を同伴したの?」 「パトリシアに逢っておいてもらいたかった。僕が現在どんな女と生活しているか、きみにありのままを知っておいてもらいたかった」 「その必要があるのかしら。男の側の勝手な理屈じゃないの」 「そうとりたければとってもいい。僕はこそこそしたくなかっただけだ。ロンドンに女がいて、日本にも女がいて、適当にやるというようには器用に立ちまわれないんだよ」 「私としては器用に立ちまわって頂きたかったわ。もっと毅然《きぜん》として欲しかったわ」 「僕にずるくなれというのか。それになぜ男だけが毅然としなければならないんだ? 問題は僕一人じゃない。僕たち三人に深く係わりがあることじゃないか」 「じゃ、じゃんけんできめましょうか」  加世子はそう言って笑おうとした。しかし笑えなかった。 「あのひとを、愛しているのね」やがてしんみりと彼女は呟《つぶや》いた。 「そして僕は、きみも愛している」潤一郎は少し間をおいて、静かな口調で言い添えた。 「いずれどちらかにきめなくちゃね」できるだけさりげなく言おうとしたが、あまり成功しなかった。 「いずれね」潤一郎は急に迷い子の少年のようなまなざしになって、ロビーの中を見回した。 「私はかなり分《ぶ》がわるいわね」と、加世子は心細そうに呟いた。「子持ちだしいまだに離婚もきちんとしていないし……。第一、若くもないわ」 「それに、最近は仕事にのめりこんで、夜中に電話をしても家にいたためしはない。そして、浮気だ。篠田辰也と何もないとは言わせないよ」 「…………」 「黙っているところをみると、やっぱりそうだったんだな。しかしまあ、こっちだって勝手なことをしているんだから、きみだけを責めるのは筋違いというものだ」 「そういうことなら、結論は出たようなものね」  加世子は苦しまぎれに自分の方から遠ざかるようなことを言った。 「いや、結論はまだだ」まるで彼自身に言いきかせるような口調。「きみがとても好きだしね。理屈ではないんだ。きみの弱さも強さも全部ひっくるめて——。それに僕はきみの躰《からだ》が好きだよ。匂《にお》いも好きだ」  男の揺れ動く心がじかに伝わってくるようだった。「今から一緒に青山へ帰ろう、加世子を抱きたい」  加世子はもう少しでイエスと言うところだった。辛うじて自分を制して言った。 「寝ることなんて、簡単じゃない? 特に私たちの間ではそうよ」だけど、この際にかぎって、あまりにも安易なような気がした。「私にも自尊心てものがあるし。それを無視してあえて寝れば、自分が尊敬できなくなる。あなたも尊敬できなくなる」彼女は誠実で卒直なまなざしを潤一郎の顔の上に注いだ。「今日のところは、淡島へ帰るわ」 「わかった」  潤一郎がうなずいた。「きみの考えを尊重するよ。いやそれどころか、もしかしたら僕の尊厳も——というと大げさだけど——これで救われたのかもしれない。礼を言うべきだな、僕は」  二人は互いに理解しあえたことからくる温かい安堵感《あんどかん》の中で、見つめあった。それから潤一郎が右手をさし出し、加世子がそれを握った。まるで恋人同士というよりは古くからの友だちみたいだ、とふと彼女は思った。そう思うと胸が締めつけられるように辛《つら》かった。  潤一郎のたっての提案で、娘のサキをクリスマスの食事に連れだそうと電話をした時、実家の母が出て、風邪《かぜ》ぎみなのでサキは外出はひかえた方がよいと告げた。 「それよりクリスマスなんだから、いい年をした大人が浮れていないで、具合の悪い娘のそばにいてやったらどうなんだろうねえ」  と、チクリと刺すような事を、母は加世子に言った。電話を通して相手に浮れていると思わせるほどに、声が明るかったのだろうか。 「風邪って、たいしたことはないんでしょう?」  淡島の実家の薄暗い居間で過ごすより、キラキラ飾りたてたマキシムで一刻を過ごす方が、サキにとってもずっと楽しいに違いない。帰りには、山のようなプレゼントを両腕にかかえて、頬《ほお》を紅潮させている娘の姿が眼に浮ぶようだ。 「少し熱があるんですよ。食欲もないみたいだし、連れ出さない方がいいと思うよ」 「そう言うんなら寝かせておいて、後で必ず行くわ。少し遅くなるけど。サキに、今夜遅くサンタクロースがプレゼント一杯もって来るからって、言っておいてちょうだい。お願いね、お母さん」 「藤野さんがさっき電話してきてね」 「あっそう。来るって?」 「いえ。大阪だって。仕事で帰るのが月曜になるから、サキの贈物は誰かに届けさせるって。あんたもあんたなら、むこうもむこうね」  その誰かは今村京子だろう。 「……じゃ、とにかく後でね。サキをくれぐれもお願いします」  電話を切ると、後めたさがつのった。マキシムでクリスマスディナーをすることが、さほど楽しいことでもなくなった。今村京子が藤野のプレゼントを届けに来るというのも気にいらなかった。自分がやるべきことをしていないから、よけい苛立《いらだ》つのだった。しかしディナーはキャンセルしたくなかった。加世子がぬけたら潤一郎をパトリシアの手の中へ押しやるようなものだ。  それに篠田を誘ってあった。まさか加世子のぬけた席に彼が顔を出すのも、奇妙なものだろう。結局加世子は予定通りに出席することにした。できるだけ早くきり上げるしかなかった。  しかし実際に淡島の家に帰ったのは、翌朝ほとんど明け方だった。ゆっくりとしたアペリティフに始まり、ローストダックを中心にしたクリスマスディナーは延々と続いた。  マキシムを出たのは十一時だった。マキシムではちょっとした気づまりな会話があった。 「昨夜はおたのしみね」とパトリシアが食卓につくなり加世子にむかって言ったからだ。彼女らしくもない、ユーモアもゆとりもない調子だった。ライバルの心の破綻《はたん》に接して、加世子は首筋の産毛が逆立つような気持になり、相手の誤解を訂正してやるかわりに、「ええ、とっても。ありがとう」と顔中に作り笑いを浮べて言った。篠田が視線をテーブルのグラスに落とし、潤一郎が眉《まゆ》をひそめるのがわかった。  けれども潤一郎は、昨夜は加世子と別だった、と加世子の嘘は指摘せず、ひとこと、 「パット、そういう言いかたは、キミには似合わないよ」と、パトリシアの方をたしなめたのだった。 「でもジュン、覚悟はしていたけど、やっぱりわたし、とても辛いわ」  大きなハシバミ色の眼を見開いて、彼女は悲痛な声で訴えた。加世子は自分もそんなふうに心の思いを素直に吐露することができればどんなに楽だろうと、考えた。  篠田が道化役を買って出て、その場はそれでなんとなく収まった。アルコールが回るにつれて、ぎこちない空気が消え、作為的な陽気さが支配した。そこで六本木に出て、腹ごなしに少し踊ろうということになった。加世子はチラと公衆電話を眺めた。九時|頃《ごろ》電話を一本入れて、サキの様子を聞いておくべきだった、と思った。十一時ではいくらなんでも遅い。もし大事がなければ、せっかく寝入りばなの年寄りを叩《たた》き起すことになる。それに大事など、起るわけもなかった。アルコールのせいで彼女はそう楽天的に考えた。  今すぐに帰ろうと、もう少し後になろうと、こうなっては大差はなかった。明朝、サキが眼の覚める前に、枕元《まくらもと》にプレゼントを置いてやればいい。  四人は六本木で二時頃まで踊って飲み、又例によってパトリシアをホテルに送り、次に潤一郎を青山で下ろし、加世子は淡島で篠田に別れを告げてタクシーを下りた。両手にプレゼントの入った紙袋を四つもぶらさげてとっくにほろ酔気分を通りこして、酩酊《めいてい》寸前の怪しげな足取りで、彼女は玄関口にむかった。  玄関の鍵《かぎ》がかかっていないのに、嫌な予感がした。もうろうとした頭のしんで、何かが警告を発していた。  奥で物音がして、加世子の母の青白い顔が現れた。 「いったい何時まで遊んでいれば気がすむんですよ」ときつい声で言った。「娘が救急車で運ばれて行ったっていうのに」 「サキが、何ですって?」 「入院したんだよ」 「だってお母さん、電話でちょっと風邪をひいただけだって、そう言ったじゃないの」うろたえながら、加世子は母親を見上げた。 「夜になって様子が変ったんだよ」 「それでどうなの?」 「急性肺炎で、手当てをうけたよ」 「つきそっていなくて、いいの?」 「今村さんって人が……」 「今村京子? なんであの人がサキにつきそっているのよ」  いきなり加世子の声が大きくなった。「なんでお母さんがついていてやってくれなかったの。無責任ですよ、それじゃ」 「無責任なのはあんたでしょうが。胸に手を当てて考えてみればいいよ。今村さんが何もかもやってくれたんだよ、救急車の手配から、病院のことも何から何まで。元、看護婦していた人だっていうじゃないか。それで私もつい甘えて、あんまり言うもんだからさ、サキをまかせて来たんだけど——」 「わかりました。とにかく私行ってきます」  加世子は両手に持ったままの紙袋を母に押しつけると、外へ飛び出した。頭の中が後悔と、京子に対する複雑な感情でぐらぐらした。十分ほどの距離にある国立小児病院まで、ほとんど走り通した。  病室は薄暗く、そっとドアを押すと中で人影が微《かす》かに動いた。点滴の容器がにぶく光っているのが仄白《ほのじろ》く見えていた。 「すみませんでした」  加世子は小声で言って頭を下げた。 「もう一安心ですわ。よく眠ってますし」温かい、人を安心させるような声が返ってきた。 「たいそうご迷惑をおかけして」 「いいえ、迷惑だなんて」  サキの担任教師との面接の時のことが、加世子の胸に浮んだ。これで借りが二つに増えた、と薄灯りの下で下唇《したくちびる》を噛《か》んだ。 「あなたに急場を助けて頂いたの、これで二度めですね」  不本意な響きが声に滲《にじ》んだ。自分の大人気のない態度に一層腹をたてながら、加世子は固い声で、 「改めてお礼をさせて頂きます。どうぞ今夜はこれで……。あとは私がおりますから」 「お礼などと……どうかそんなこと……」  京子は、相手のとりつくしまのないような態度に一瞬|怯《ひる》んだ。二人の女は視線を背けあった。 「母も母ですわ。あなたにつきそいを押しつけて帰ってしまうなんて」  やり場のない怒りを、そこにはいない母の延子にむけて、加世子は吐き棄《す》てるように言った。 「あの、どうか……私が無理矢理にお願いしたんです」 「それにしたって」 「ほんとうに私が……。看護婦さんやお医者様を味方につけて。お年寄りには深夜のつきそいは躰にこたえますものですから」 「そんなこと、わかっています」 「すみません。でもどうかサキちゃんのおばあちゃまをお責めにならないで。奥さまがお腹だちなのはよくわかっています」 「あら、そう?」  加世子は京子が頭を下げれば下げるほど、意地悪さを加えて、片方の眉を高々とあげた。「後でサキの実の母親がかけつけて、その時あなたを見たら、実の親ってものがどんな気持になるか、少しは考えてごらんになった?」 「申しわけございませんでした」  京子は深々と頭を下げて何度も謝った。顔を上げた時、その眼には涙が光っていた。 「失礼します」  彼女が背中に悲しみを漂わせて部屋を出て行ってしまうと、加世子は急に疲労感を覚えて、ベッドの傍のストールに腰を下ろした。なぜあんなふうに今村京子に辛くあたったのか、自分でもわからなかった。ほんとうに責められるべきなのは、母親である彼女自身であったのに。  サキの意識が戻ったのは翌日の昼近くだった。 「サンタクロース、来た?」  というのが、彼女の第一声だった。 「うん、来た、来た」と加世子はほっとして笑った。「ベッドの上に大きな紙袋が四つも投げ出してあったわよ」 「デパートの紙包みでしょう」  まだ顔色は悪かったが、サキはニヤリと笑った。 「お姉ちゃんは?」 「ママと交替して、帰って頂いたわ」 「つまんないの。眼が覚めたら、編み物教えてくれるって、あれほど約束したのに」  サキはベッドの下におしこんであった紙包みを母に取らせて、中味を開いた。毛糸のマフラーと手袋のセットで、見るからに手編みらしい温かい組み合わせだった。 「京子さんが編んでくれたのね」 「編み方、教えてくれるって言ったのになあ」 「ママだって、編めるのよ」 「へえ、ほんと」 「編み方、教えてあげようか?」 「いいけど、いつさ」 「そうね、お正月」 「お正月かあ、まだ先じゃない」 「すぐよ。それにサキはまだベッドでじっとしていなくてはいけないの」  その午後、電話で潤一郎にサキの一件を伝え、おそらく暮れまで病院につめなければならないから青山へは戻れないと告げなければならなかった。 「サキちゃんが病気じゃ仕方がないね。普通の時と違って、僕らのわがままは通らない。こうしよう、お正月はサキちゃんも君のお袋さんもみんなそろって箱根へ来ないか。僕たちは一足先に行っているから、あっちで落ちあおうよ」  潤一郎との関係をそれでなくとも白い眼で見ている延子が、パトリシア同伴で戻った彼をどう思うか予想に余りある。 「さあ、サキがそこまで回復するとは思えないんだけど」 「そういうことならやむをえないね」  潤一郎の声に失望が混じった。しかし、かといって自分たちの箱根行きを中止するとは言わなかった。そうしなければならない理由もないし、仮に中止しようかと加世子に訊《たず》ねれば、彼女は即座に、その必要はないと答えるのにきまっているが、それでも加世子はどうしようもなく寂しく無念であった。     11  愛の放棄によって人の心は死ぬ。誰《だれ》の言葉だか忘れたが、加世子はそんなことを考えながら服部惟の電話のダイヤルを回した。潤一郎がパトリシアと共にロンドンへ発《た》っていってから二日目の夜である。  自分はこの愛を放棄したのだろうか。あるいは放棄しようとしているのだろうか。潤一郎は成田空港で何ひとつ確約しなかったし、彼女を安心させるような言葉さえ残して行かなかった。むしろそれを避けるような気配さえ感じられた。  もっともその話題を避けるように感じられたのは、心の底で別のなり行きになることを死ぬほど恐れた加世子自身の不安の投影であったかもしれない。別れの風景は、もの足りないくらいにさりげなく展開されていった。  相手の受話器の外れる音がして、少し掠《かす》れ気味の低い女の声が応対した。以前と変らぬ声、人を慰めるような温かさにみちた響き。加世子は安堵《あんど》して心の緊張を解いた。 �あなたのその声を聞いてホッとしたわ�と、名乗りもせずいきなり正直な気持を送話器の中へ加世子が言うと、 �わたしも�と、ただちにこちらの正体を察して、相手の声に笑いが混じった。  そして二人の女たちは、電話の前で一瞬言葉を失って黙りこんだ。  自殺未遂で運びこまれた病室で、絶望のあまり誰とも逢《あ》おうとしなかった惟。病室に入ることさえ拒絶されて、加世子は傷つけられたような気がした。苦しみのどん底にいる友人に手を貸してやれないという無力感もあった。  その上、すんでしまったこととはいえ、かつては愛したこともある夫の藤野と惟との密通の発見は、決して気持の良いものではなかった。加世子はそれを意識の片隅《かたすみ》に追いやろうと努力してきたが、思った以上に自分が打ちのめされているのを知るのだった。むろん藤野に対する愛情は既に冷え切ってはいる。嫉妬《しつと》という感情ともありがたいことに無縁であった。  にもかかわらず、惟を許していない自分に気づかざるを得なかった。不貞であった夫よりも、ひそかに友情を裏切っていた惟に対する失望の方が大きかった。自殺未遂でもなんでもして、充分に苦しんだらいい、それが当然のむくいというものだった。  そして一月半が過ぎた。�愛の放棄によって人の心は死ぬ�その言葉が二重三重の意味をもって、心にのしかかる。  自分の方が惟を見捨てたつもりだったのに、意外なことに自分自身も又友から見捨てられたように感じることだった。 �私、恐《こわ》かったのよ。電話してもあなたが切ってしまうんじゃないかと思って�  束《つか》の間の沈黙の後で、とうとう加世子は正直な気持で言った。 �私の方こそ、あなたに顔があわせられなかった……� �でもそろそろ顔あわせてもいいんじゃない? お昼でも一緒にどうかしら� �あなたから二度と声がかかるとは思わなかった。あなたに許してもらえるとは……�  一時間ほど加世子は事務的な仕事の処理と、午後からのスケジュールに眼《め》を通し、TV局にいくつかの連絡をとっておいて社を出た。  約束の場所へは、惟の方が先に来ていた。二人は昨日の続きのように軽くうなずきあって席に向いあった。惟はひとまわり痩《や》せて、表情に透明感があった。 「すっきりした顔している」と加世子は卒直に言った。「とてもきれいよ、あなた」 「でも痩せたでしょう? 胃を半分切りとっちゃったの。おかげで念願のソニアのニットが着れるけど」 「胃を切ったの?」加世子は眉《まゆ》をくもらせた。「薬の後遺症で?」 「それもあったんだけど、前から後生大事に育ててきた潰瘍《かいよう》が悪化しちゃって」 「じゃ当分飲めないわね、お酒」 「そうなの。それが困るのよね。何が楽しみってお酒だけが楽しみで生きてきたような女でしょう、私ってひとは」 「でもいいじゃない、飲み歩くお金が全部貯金できるわ」 「ところがそうもいかないの、なにしろソニアってすごく高いのよ。飲んでた方がずっと安いわ」  運ばれてきた和食のランチにハシをつけながら、惟は改めて、 「入院費、あの人が全部払ったわ」と言った。 「藤野?」 「ええ。……この話|厭《いや》?」 「いいえ、かまわないわよ」 「ごめんなさいね。でもこの際喋《しやべ》ってしまいたいの」 「それであなたの気持が楽になるのなら、どうぞ」 「ありがとう」惟はハシを置き、続けた。「入院費をあの人が払ってくれたことがわかった時、わたし、すぐ送り返そうと思ったの。冗談じゃない、よりにもよってあの人のお金なんてビタ一文だって受けとりたくないわよ」急に語調が上る。 「…………」 「そうでしょう? それがプライドってものよね」 「そうかしら。でもまあいいわ。先を続けて」 「その言い方、気になるわ、加世子。お腹の中に何かあるんなら、この際だから全部吐きだしてくれない?」 「わかったわ」と加世子はうなずいた。「私はね、男と女のことは五分と五分だと思うの。どっちが捨てたとか捨てられるとかいう問題じゃなくて……。だって一度は心から愛したんでしょう?  だったらそういう言い方はして欲しくない、そんなに汚なそうに言ってもらいたくないのね。少なくとも藤野は、今でも私の娘の父親なんですもの」 「悪かったわ」惟がうなだれる。 「わかってもらえればいいの。で、先を続けて。お金は結局、返したの?」 「なんだか話しにくいな」 「それこそ惟らしくもないというものよ」 「私も意地張ってたのよ。結果を言うとね、お金、黙って彼に払ってもらったの。もちろん、こちらの気持からすれば、そんなお金受けとれないわよ。送り返せば、わたしはスッキリする」 「じゃなぜそうしなかったの?」 「そこなのよ。わたし、つい相手のことを考えちゃって……。こっちの入院費や手術代を出すことで、もしあの人がわたしとの間に何か結着をつけたような気持でいたとしたら、この際送り返すのは酷じゃないかって」 「なるほど……やさしいのね」 「ううん、そうじゃない、やさしい気持からではないのよ。保険がきいていたからそうたいした額じゃなかったし、まあそのていどで彼の気がすむっていうのなら、すませてあげようじゃないのって、そんなところが正直な気持だったわ」 「知らぬが仏ね。藤野も気の毒」 「ごめんなさい。気を悪くした?」 「あの人とは色々あったけど——殺してやりたいと、ほんとうにやりかねない時もあったけど——でもそれも今では過ぎてしまって、どうでもいいわ。あの人が生きようが死のうが誰と再婚しようが誰を愛そうが、誰を捨てようが、ほんとうにもうどうでもいいのよ」加世子の口調は淡々としていた。「かと言って、今あなたと一緒に藤野の悪口を喚《わめ》きたてる気にもなれないの」 「…………」 「ほんとうはそうできたらいいんでしょうけどね」叫んだり喚いたり悲鳴をあげたりすれば、人生はもう少し楽かもしれない。「でもそれが性分なのよ。ところで、惟、私来週あの人と離婚するわ」 「そう……。正式に?」 「ええ、離婚届けに印を押すことにしたの」 「色々あったものね」 「私が離婚してもらいたい時にはあの人の方で意地張ってたしね。彼に女が出来て、じゃ離婚しようって言われると、ほんとうは渡りに舟なんだけど、これが面白くなくて、今度はこっちが首をなかなか縦に振らなかったりして」 「夫婦ってそんなものなのかしら」 「さあね、他《ほか》の夫婦がどんなだか、当事者にしかわからないことだから」 「ここにきて、離婚届けに印を押す気になったのは、又、なぜ?」 「サキのためよ」 「サキちゃんの?」 「あの子に一番必要なのは、今家庭なのだと思うの。それを私は与えられない。今後も与えられないかもしれない。未《いま》だに不安定路線をガタピシしながら突っ走っている状態だから、とてもサキを同乗させられない。  藤野にあずけた方がサキは幸せなのよ。今村京子という相手の女《ひと》にも、二度逢ったわ」 「どんな女《ひと》?」微《かす》かな痛みが走り抜けでもしたかのように、惟の表情が一瞬ゆがんだ。 「藤野を愛しているわ」 「それだけ?」 「それだけで充分じゃない?」  惟や加世子のように、相手からひたすら奪うような愛ではない、愛。 「私もあのひとを愛していたわ」惟はうめくように呟《つぶや》いた。 「それなら、私もよ。私もかつて、藤野を愛したわ」沈黙が流れた。 「まあ冷静に考えてみれば、サキちゃんをこの際手放した方が良いかもしれないわね。身軽になって仕事に打ちこめるし、潤一郎さんとのことだって、すっきり進むじゃないの」  惟は気を引きたてるように、そう言った。 「それも先のことよ。どうなるかわからないの」 「まさか。彼、四月に戻るんでしょう?」 「戻るけど。案外青い眼のお嫁さん連れて帰って来たりして」 「また、冗談じゃないわよ」 「ほんとうよね、冗談じゃないわよね。でも時々ね、私の人生は眼もあてられないくらい惨敗に終るんじゃないかと、怖くなるのよ」  誰のせいでもなく自分自身のせいで、世の中の他の誰も、積極的に他人を不幸にしたいなどとは望みはしないのに。 「だけど潤一郎さんや藤野さんだけが男じゃないわよ。世の中にはもっといい男がゴマンといるわよ」 「変な慰めかたね。それにあなた、男なんて当分こりごりだと思ったわ」 「何言っているの。お酒を厳禁させられていたら、残る楽しみは男しかないでしょうが」 「喉元《のどもと》過ぎれば熱さを忘れる」  加世子は笑った。惟も笑った。加世子は、この人はもう大丈夫だろう、と思った。二度と男のことでしくじることはないだろう。  サキを手放そうと決意をしたのは、久しぶりで母娘が水入らずでお正月を過ごしている最中だった。話題がサキの中学進学のことに触れた。 「山中先生はね、あなたが絵とか音楽に才能があるみたいだから、T学園の中等部を受験したらいいとおっしゃるんだけど」 「だめよ」とサキはとりつくしまのない、ぴしりとした声で即座に否定した。 「どうしてよ、受けてもみないで、だめかどうかわからないでしょうが」 「それ以前の問題」  と、ませた言い方。「何にもやっていないんだよ、あたし。お絵描きとか、ピアノとかバレエとか。そういうの小さい時から習っていないとだめなの」 「今からピアノでも習ってみる?」 「わかっていないんだから、ママ。遅すぎるわよ、ぜんぜん」 「だって何も将来ピアニストになろうっていうんじゃないんでしょう。ただ——」と言いかけた母親の言葉をさえぎって、 「ピアニストにならないんなら、習うことないじゃないか」  とサキははねのけた。その卒直な言葉が加世子の胸には、ひどくこたえた。  普通、小さな子供がおけいこごとを習わせてもらえる時期、自分たち夫婦は口論ばかりしていた。二人の間に次第に口を広げていく亀裂《きれつ》に気をとられて、サキの情操教育に対する気持の余裕がもてなかった。自分たちのことで精一杯で、相手を攻撃することと、相手の攻撃から身をかわすことで年月が過ぎていった。 「そうね、ピアニストになるわけでもないのに、ピアノ習ってもしかたないか。サキは、大きくなったらなにになりたい?」 「もうきまってるのよ」 「あら、そうなの、何よ?」 「看護婦さん」 「…………」今村京子の影響なのかと、とっさに考えた。しかしそれを口に出して問い質《ただ》す勇気は、加世子にはなかった。彼女は動揺した視線を宙に投げかけた。  その視線がまともにサキの視線とぶつかった。サキはゆっくりと母親の顔から自分の視線を剥《は》がした。それは一人の女が別の女を眺める眼つきだった、と加世子は思った。十一歳の少女が母親を見る眼つきではなかった。背筋が冷えた。  一人の女が、冷静に観察している視線なのだった。共感も同情もなかった。かといって批判もないのだった。見放されてしまった、と加世子は胸の中で呟いた。十一歳の実の娘にすら、見放されてしまった。まだまだ子供だ、まだ時間があると、母親の義務を一日延ばしに延ばしているうちに、娘の方が、先へ歩き出してしまっていた。 「サキちゃん」と、加世子は低い声で言った。「パパとママは今度正式に離婚することになったのよ」声が喉にひっかかる。「その時、あなたがどちらと暮すか、もっとむずかしくいうと籍っていうんだけど、どちらの籍に入るか、きめておかなくちゃいけないの。つまりパパと私とどちらと一緒に住むかってことだけど」既に加世子には、ある決意があった。 「おばあちゃんとでいいよ」 「もうおばあちゃんと住むってわけにはいかないのよ。この間の病気のようなこともあるし、あなたの受験のこともあるし、おばあちゃんには手に余ることばっかり」 「じゃママとでしょ」疑惑が少女の顔を走る。 「ママもそうしたいのよ。だけどよく考えてみたの。サキちゃんのためには、今ママと住むことが一番良い方法かどうか、すごく疑問なのね」それが嘘《うそ》いつわりのない真実の言葉だったが、十一歳の少女の前ではなんと空々しく響くことだろう。「つまり、ママは今までもそうだったけど、自分のことで精一杯で、とうていサキの受験や日常のこまごましたことまでめんどうみる時間も心のゆとりもないの。これではきっとあなたもママも、不幸な気持になると思うの。だからパパと京子さんにお願いするのが一番良い方法だと考えたのね。違うかしら? パパが京子さんと結婚することは、サキ、知ってるね?」 「新しいお母さんなんて、あたしいらないからね」 「もちろんよ。新しいお母さんだと思わなくてもいいのよ。京子さんだって、そう思われたら、きっと途方にくれてしまうと思うわ。第一、サキのママは、どんなに欠陥ママでもこの私だけよ。これは事実でしょ?」 「だからおばあちゃんでいいってば」 「おばあちゃんだって、そろそろサキのめんどうみるのに疲れていると思うんだ。年でしょう? 反対におばあちゃんのめんどうを見てあげなくちゃいけないくらいなのよ」 「じゃあたしが見るから」サキはあくまでも現状にしがみつこうとする。 「それよりパパのところへ行ってくれないかな、そうしてくれるとママもおばあちゃんも助かるんだけどなあ。パパが第一、それをとっても望んでいるしね。サキは、京子さんのこと好きでしょう? 看護婦さんになりたいって言ったのも、京子さんが好きだからでしょう?」 「…………」サキは頑《かたくな》に唇を引き結んで答えなかった。 「ママは、好きよ」 「どうして好きになれるのよ、パパをとっちゃった人だよ」  子供というものは時に驚くほど残酷な見方をするものだ。 「あらほんとうにそう思うの? でもそれ、違うのよ、サキ。ママとパパが離婚するのと京子さんのことは、直接に関係ないの。京子さんて女《ひと》が現れなくとも、ママたちは離婚していたと思うのね。このことはちゃんと覚えておきなさい。同じことが佐々木さんのおじちゃまについても言えるわ。おじちゃまもママをパパから取っちゃったんじゃないの。そう前にも何度か話したでしょう?」 「じゃ、サキのせいなんだ、そうなんだね、サキのせいなんだね? サキはみんなのお荷物なんだよ。ママのところへ行ったり、おばあちゃんのとこへ行ったり、パパのところへ行ったり、サキには家がないんだ。いつだって、ちょっとのあいだだけあずけられているみたいなんだ。みんなサキをもてあましているんでしょ。きっとそうなんだ」サキは生れて初めて、心のたけをそんな風な言葉で吐露した。加世子はショックのあまり、すぐには言葉が出なかった。 「どうして? サキのせいなんかであるはずがないじゃない。サキが生れなかったら、私たちもっともっと前に、ずっと簡単に離婚していたと思うわ。ママとパパがうまくいかなくなったのは、もっと別のことが原因なのよ」 「…………」  自分たちの夫婦の失敗をどのように語って聞かせればよいのだろうか? わかりやすい言葉で語ることができるだろうか? たとえわからなくとも、この際、事実を卒直に言ってきかせるのが一番正しいのではないか? 後に訂正しなくてすむように。 「たとえば、結婚ていうのは大海原を航海する船みたいなものだと考えたらどうかしら。藤野丸という名前の小さな小さなお船よ。  ところがこの藤野丸には、船長さんが二人いたのね。普通、船には船長さんは一人でしょ? 船長が西へ進むと言えば、一等航海士が『ハイ』と言って、船を西に進める。それで船は波の上を進む。  藤野丸には船長が二人いて、一人は西へ行きたいと言い、もう一人は東へ進むと言いはったの。そして、どうしてもゆずりあわなかったの。どうなると思う?  船は進まないわね。それでも両方が無理に自分の言い分を通そうとすれば、ぐらぐら揺れて、ネジがゆるんだり、水が入ってきたりして、最後には沈没してしまう。船が沈んだら、パパもママもサキも溺《おぼ》れてしまうでしょう? だから沈む前に、船長の一人がおりなければならなかったの。藤野丸の名前はパパのものだから、当然ママがおりるわね。その時ね、ママは小さな救命用のボートに、あなたを連れて乗りこんだわけ。だけどすぐにそれがまちがいだってことに、ママは気づいたの。だって救命ボートはちょっとでも大波にあうとすぐ引っくりかえりそうになるんですもの。  で、ママはやむをえず、おばあちゃん丸にサキをあずけたんだけど、おばあちゃん丸は老朽船だったから、ここにも長いことあずけるわけにはいかない。  今度藤野丸に新しい一等航海士が入ることになったのよ。それが京子さん。とても心のやさしい人で、船長さんを愛して尊敬しているから、航海も順調らしいのね。でね、ママはサキを藤野丸に送り返そうと思ったの」 「だけどママは、どうするのよ? ママの救命ボートは波にあうとひっくりかえっちゃうんでしょう?」サキは子供らしい不安を顔に浮べて、母親を見上げた。 「そう簡単にはひっくりかえらないと思うけどね」それに、佐々木丸という船がもうじき太平洋を横断してくるから、うまくいけば、それに乗りこめるかもしれないと、加世子は心の中で自分をはげました。たとえ、泳いででも。 「船長さん二人はだめよ」とサキが大人《おとな》びた口調で言った。 「そうね、ママもこりたわ」  やがてサキはぽつりと、 「パパのところへ行ってもいいよ、サキ」と言った。加世子はほっとした。ほっとすると同時にひどく寂しかった。娘のものわかりの良さが、不憫《ふびん》だった。  藤野恭は加世子から渡された離婚届けを広げると、彼女の署名と捺印《なついん》の箇所をじっとみつめた。  それから背広の内ポケットからモンブランの万年筆を取り出した。十三年前、結婚の届けを書いたものと同じだった。捺印し、乾くのを待って元通りに折りたたむと、用紙を加世子の前にそっと置いた。 「よろしく」 「確かに。明朝一番に出してきます」  そして二人にはそれ以上交わすべき言葉がなかった。藤野は喫茶店の通りに面したガラス窓の中に視線を投げ、道を行く人々をぼんやりと眺め、加世子の方はコーヒーカップのふちを見ていた。 「そうそう、惟に逢ったわ」 「ふむ、どうしてた?」  加世子が何を言いだすのか、とわずかな苛立《いらだ》ちが、その眉根《まゆね》に浮んだ。 「胃を二分の一切ってしまってお酒が飲めないから、男以外に楽しみがないなんて例の調子で言っていたわ」 「彼女らしいね、すっかり元に戻ったわけだな」 「そういうことらしいわね」 「そいつはよかった」安堵《あんど》が声に滲《にじ》んだ。「で、君はどうなんだ?」 「私のこと、気になるの?」 「ならないわけはないさ」 「彼は四月に戻るわ」わかっているのはそれだけだった。しかし加世子はそれ以上の言葉をひかえた。 「そいつはよかった」と藤野は同じ言葉をくりかえした。 「サキのことだけどね」と、再び藤野が口を開きかけた。 「あの子のことは、電話でお願いしたとおりです」急に加世子の声が固くなった。 「無理してもらいたくないんだよ」 「無理なんてしていないわ。是非ともひきとって頂きたかったのよ」 「それならいいんだが。実は、今まで言わなかったんだが——」 「今まで言わなくてすんできたことなら、今更言わなくてもいいんじゃない?」  それにはかまわず藤野は言葉を続けた。 「実は、京子は子供が生めないんだ。それで今度のことを、どんなに胸の中で喜んでいるか」 「関係ないわ、はっきり言って。私京子さんのためにサキを差し上げるんじゃないもの。サキのために、お願いしたの」 「それはそうだが。——後になって、気が変ったとかなんとか、サキを京子から取り上げるような真似《まね》だけは、してもらいたくない。それが出来そうもないと君がそう思うんなら、今この場で考え直してもらいたいんだ」 「冗談じゃないわ。サキは荷物じゃないんですからね。そう簡単にあっちこっち移されちゃたまらないわ。それじゃサキがあんまり可哀想《かわいそう》よ」 「その言葉をしっかり覚えておいてくれよ。サキは荷物じゃない、確かにそうだよ。俺《おれ》は君に、そのことを認識してもらいたかっただけだ」  そこで元夫婦は視線を合わせた。先に眼を背けたのは加世子の方だった。 「じゃこれで」  藤野はそれだけ言い残すと、立ち上った。  じゃこれで、か。別居の期間が長かったとは言え、十三年間結婚していた夫婦が最後に交わす言葉が、じゃこれで、か。しかし他に、どのような言葉があるのだろうか。せめて、お幸せにね、という言葉すら返せなかった自分自身の心を思って、加世子は空《むな》しかった。  ウェイトレスが来て、テーブルの上を片づけ始めても、彼女はじっとして席を立たなかった。  正月気分がぬけると、PR関係の仕事は又平常の忙しさに戻った。  加世子は三つのクライアントを担当していたので、新製品が出るといっては、都内のホテルの小宴会場を借りて、プレス関係へのレセプションをしなければならなかったし、普段でも製品のイメージ、記事の売りこみなどで、マスコミ関係者との接触はきめ細かくとっていなければならない。  新年度の新たな目標を練り、アタックするための会議は、仕事が一段落した午後八時|頃《ごろ》から行なわれることも、まれではなかった。  潤一郎へ何度か手紙を書きかけては、結局、一行も書けないまま、日が過ぎていく。  そして一月最後の金曜日、企画会議が終ると、篠田辰也が、ちょっとつきあわないか、と加世子に声をかけた。暮れにパトリシアを交えて四人で食べたり飲んだりして以来、サキの肺炎とか、離婚手続とかで、ずっと彼とは私用で会っていなかった。篠田の方でも、こちらの様子を察して、遠慮していたような、節があった。  断る理由がなかったので、加世子は地下の駐車場から彼の車の助手席に入った。  食事は会議の前にすませていたので、二人は赤坂の行きつけのバーへ行った。 「ボクはまずコーヒー」  と、彼はなじみのバーテンダーに言った。 「じゃ私も」  バーに来て、アルコールでないものを注文すること自体がひどく異例だったので、加世子は気をつかって相手に合わせた。  バーテンダーが注文したコーヒーを二人の前に置いて、反対側のコーナーに引き下ってしまうのを待って、篠田が口を開いた。 「どう、その後?」 「色々ありましたけど」と加世子は口ごもった。 「色々あったけど、急に整理がついちゃったみたい」手短に、離婚の件とサキのことを話した。  篠田はずっと黙って聞いていたが、加世子が喋り終ると、何も言わずに、手を彼女の背中にそっと置いて、すぐに離した。  二人は、沈黙を守ったまま、コーヒーを飲んだ。 「佐々木氏からは?」  と、やがて篠田がさりげなく質問した。 「別に何も……」加世子も相手と同じさりげなさで答える。再び沈黙。 「そう……」少しぎこちない間を置き、「実は……」と再び口ごもった。やがて決意したように、篠田は重い口を開いた。「むろん佐々木氏にくらべれば、ずいぶんと分が悪いのはわかっているんだがボクも求婚者の一人に加えて欲しいんだ」  非常に静かな、むしろ自分自身に言いきかせるような調子だった。  加世子は椅子《いす》の上で躰《からだ》を固くした。意外といえば意外だし、こんなことが起るのを心のすみで予感していたといえば、そのような気もする。 「すぐに答えなくてもいいよ。むしろ、あまり性急に答えを出してもらいたくないね。今ではなくて、四月に佐々木さんが戻るまでに答えてくれればいいんだよ」 「…………」 「きみたちが予定通り一緒になるということになれば、ボクはむろんその決定に敬意を払うし、真面目《まじめ》に受け入れるよ。ほんとうはボクもその結果を待ってプロポーズすればいいんだろうが、それではこっちのプライドが許さなかった。負けるのはいい。同じスタートラインに立って、負けるのなら、いいと思うんだ」 「おっしゃる意味、わかりますけど」加世子は神妙に答えた。 「でも今は、そのこと撤回して頂けない? もし、私と彼が結婚しないということになったとしても、それじゃって、あなたに乗りかえるみたいなこと、できないわ。結局、お断りするしかないわ。そうすればあなたまでも失ってしまうことになるでしょう」  長いこと、篠田は眼を閉じて動かなかった。カウンターの内側から射《さ》す温かみのある光が、彼の横顔を浮き上らせていた。変ったな、と加世子は思った。女はセックス・ フレンド以外の何者でもないと考えていた篠田辰也が、今は驚くほど謙虚に、愛の苦悩を滲ませているのだ。 「では一応、撤回しよう」  そう短く言い切ると、カウンターの奥に声をかけて、ブランディーを二つ注文した。 「さあ緊張した話はこれで終り。あとは飲むだけだ」  しかし彼は二杯めを注文せず、加世子を車に乗せると、淡島まで送り届けた。 「少なくともこのことだけは覚えておいてくれないか」  別れぎわ篠田が言った。「一緒になろうがあるいはなれまいが、ボクの気持は変らない。それと、ボクの気持は気持として置いておいて、仕事とは関係ないからね。このことは覚えておいてもらいたいんだ。もしかしたら、ボクはキミを失うかもしれないが、アルファPRがキミを手放すわけにはいかないんだ」  加世子はドアに手をかけながら、 「でももし、私とあなたが結婚するということになったらどうするつもり? 同じ職場の共稼ぎっていうのは不和の元よ」  と、緊張を笑いに変えようとして言った。 「その時はだね、喜んでキミを首にするよ」 「まあ、勝手な人」温かいものが胸の底に湧《わ》いた。  加世子を残して、篠田の車が走り去った。  今では母だけが住む淡島の家の玄関にそっとカギを差しこんで、家の中に入った。  すぐに奥で母の延子が立ってくる気配がした。時計を見ると十一時を回っている。とうに延子は床の中にいる時間だった。一瞬嫌な予感がした。 「藤野さんから電話があったんだよ」と、加世子の母はいきなり言った。「サキが夜になっても戻らないから、こっちへ来ていないかって」 「それ何時?」加世子はいきなり頭を鈍器で撲られたように、よろめいた。——サキにはお家がないんだ。いつだってちょっとのあいだだけ、あずけられているみたいなんだ。みんなサキをもてあましているんでしょ、と叫んだ娘の声が耳の底にはっきりと蘇った。 「七時頃だったかね」 「だってもう十一時よ」加世子は悲鳴のような泣き声をあげた。「警察へは届けたの?」 「藤野さんはすぐに届けると言ってたよ」 「私、探してくるわ」  そう言って、彼女はいきなり外へ飛びだした。  探すといってもあてがあるわけではなかった。加世子は闇雲《やみくも》に淡島の家の周囲を歩き回った。——サキはみんなのお荷物なんだ、とあの子は言っていたっけ。そう思わせたのは加世子であり恭だ。二人とも自分たちの不幸、自分たちの愛に目がくらんで娘のことを二の次にしてきた。今度のことだって、サキによかれときめたことだが、それも結局は大人が勝手にきめてしまったことなのだ。自責の念で身がねじきれそうだった。  どれだけ歩き回ったのだろうか。加世子は寒さに耐え切れず家へ戻りかけた。玄関先でコートを脱いでそのまま飛び出してしまったのだ。  商店街から住宅街に入るところで延子と出逢《であ》った。手に加世子のコートを持ったまま 「探し回ったよ」と疲れの滲んだ声で言った。「サキが警察に保護されて。藤野さんたちがそっちへむかってるって、三十分前に連絡が入ったんだよ。いきなり飛びだして、あんたも心配させるじゃないの」 「警察? 保護されたの? どこよ、どこの警察よ、お母さん」 「甲府《こうふ》だって」 「なんだってそんなところへ!!」加世子は安堵と悲しみのあまり膝《ひざ》の力がぬけ、その場にへたりこみそうになった。 「そんなこと誰《だれ》にもわからないよ。サキにだってきっとわからないのよ」延子は淋《さび》し気に首を振った。 「私、行ってくるわ」加世子は母親の手からいきなりコートを取り上げながら言った。 「お止《や》めよ」延子がいつになく厳しい口調で止めた。 「何言ってるのよ、お母さん。死ぬほど心配したのよ、私」 「心配するなとは言ってないよ。いくらでも心配したらいいのよ。だけど甲府まであんたが行くことはないって言ってるの」 「だって私は母親なのよ。母親が行くのは」  そこまで言ったとたん、延子の手が加世子の頬《ほお》を打った。母親に打たれたのは、後にも先にもこの時が初めてだった。加世子はショックのあまり青ざめて延子を見つめた。 「あんたはもうサキの母親じゃないのよ。藤野さん夫婦にまかせておきなさい。今さら母親面して出ていけば、いっそうサキを混乱させるだけじゃないか」  それから延子は語調を少し和らげて続けた。「あんたがサキを藤野さんに渡した時から、あの子の悲しみも苦しみもひっくるめて全部渡したってことなんじゃないのかい。あるいはそんなものがあるとすればの話だけど、あの子の幸せや喜びもね、あんたは二度とサキとそういったものを分けあうことはできないんだよ、あたしはそう思うよ」  延子が先に立って歩きだし、加世子は無意識につられてそれに続いた。 「ずっと先の話だけど、あの子が結婚するようなことがあっても、あんたは娘の花嫁姿は見れませんよ。それくらいの覚悟は今からしておきなさい」  母の言葉は、まるで酸の雨のように加世子の胸を濡《ぬ》らした。それは皮膚を焼き、肉に喰《く》いこみ、骨まで滲《し》みた。 「ああ、そうそう、佐々木さんから手紙が届いていたっけ。机の上に置いときましたよ」延子は、静かな慰めるような口調で最後にそう言った。  自分の部屋に入り、ガスストーブをつけておいて、加世子はコートを脱いだ。航空便は机の上にきちんと置かれていた。  手を伸ばしかけて、彼女の表情が曇った。封筒はひどく部厚かった。  厚いということは、おそらくは良い知らせではないのだろう。手紙は、説明やら言いわけの言葉に満ちているのに違いない。加世子はベッドのふちに腰をかけ、机の上に置かれたままの潤一郎からの——おそらくは別れの手紙を、怯《おび》えたように長いことみつめていた。  その時、窓ガラスを軽やかに叩《たた》く風の気配があった。吸い寄せられるように窓により、ほんの少し開けると、湿った土の匂《にお》いがした。  東風かしら、と加世子は声に出して呟いた。束の間、この一年間に吹き過ぎたさまざまな風のことに思いを馳《は》せた。それから、机のところまで戻り、手紙を手にとると、ゆっくりと封を切り始めた。 角川文庫『風物語』昭和59年6月10日初版発行          平成6年7月10日32版発行