森 瑤子 非常識の美学 目 次  恋のイニシアティブは女がとるべき  天《あま》の邪鬼《じやく》  ハンサム・ガール  別れ上手  脱ぎ太りのすすめ  嘘《うそ》上手  |NO《ノー》  女のゴルフ  ドレスアップの仕上げは、 横《エスコート》 に立つ男  あなたに似たひと  タイやヒラメの舞い踊り  一人遊び  遅刻の美学  素通しのプレゼント  嫌いは好きの始まり  立食厳禁  女友達  いいことだけを信じよう  我がままの美学  苦労しようよ  バラとひまわりと造花と  逃がした魚は大きかった  結婚しようよ  無知は罪  みんな天才  ボディコン娘とマリア・カラス  場所がらについて  この世で一番素敵なものは——  ざんばらガウンとローランサンと  愛を忘れた恋のかけひきなんて  愛しすぎないのが、勝ち  なぜか放っとけない女  男殺しの一皿  ロングヘアは、女の媚《こ》びよ  遊び上手と結婚すべし  声の使い分け  当世離婚事情  というわけで、ダイエット  普通の人  色気のないもの  ある接吻  レイコの形見  若い女嫌い  古いものを新しく着る  潜在性デブ体質  不倫性善説  男がだめなのは、女が悪い  中身の問題  男運について  見て見ぬふりの、おもいやり  贈りもののしかた  しゃがむ娘  サバイバル・テスト  自己紹介  占いって何だろう?  魅力的な年齢を重ねるために  恋のイニシアティブは女がとるべき  たとえば結婚。一生の一大事なのに、男がプロポーズしてくれるまで、女は待つしかないという現状。女にあるのはイエスかノーの積極的な選択だけだ。  あのひとと是非結婚したいと願っても、相手がプロポーズしてくれなければ、諦めるしかないのだろうか? もしかしてその相手の男も、ひそかにこちらを思っているのだけど、外見が派手だとか、いかにもぴしゃりと肘《ひじ》てつをくらいそうだとか勝手に解釈して、切り出せずにいるのかもしれないではないか。そういうことって意外によくあることなのだ。  私がまだアンアンの読者と同じくらい若い時、結婚してもいいと思ってつきあっていた男がいた。会社が銀座と八重洲だったので、よく待ち合わせてランチを一緒に食べた。彼がいつも銀座まで出て来てくれたのだ。一年ほどそんな交際が続いた後、彼が急に札幌に転勤することになった。いよいよ明日出発という夜、私たちは食事をした。食事の後も別れ難く、夜の街を手をつないで歩いた。その時私は恋人の兵士を戦場に発《た》たせる心境で、彼が望めばあげてもいいと心の中でひそかに覚悟をし、むしろ彼にそう望んで欲しいと願ってさえいた。  でも彼は少し不機嫌に押し黙り、結局何もしないで私を家まで送って帰って行ったのだ。キスさえしなかった。プロポーズはおろか、自分が本社に戻る日まで待っていてくれとも言わなかった。  キスひとつしてくれなかったんだもの、と、そこで私はきっぱりと彼を思い切り、さっさと別の男と恋愛をして婚約し、やがてその婚約を解消し、結局また違う男と結婚してしまった。  長い刻《とき》がたち、何かの機会にキスひとつせず別れた男と再会した。私たちは共に大人の男と女になっていたので、何食わぬ顔で昔話をすることができた。 「あの頃ね、私あなたが好きだったのよ」 「僕もきみが好きだったよ」 「あの夜、あなたと寝てもいいと思っていたの」 「そんなふうにはとても見えなかったな。実は僕もきみが欲しかった」 「じゃなぜ?」 「食い逃げみたいで嫌だったんだ。明日発つという前日、僕の方からはとても切り出せなかったよ」 「私の方からなんて、もっと言い出せなかったわよ」  そこで私たちは笑いあった。 「でも」と彼が言った。「あの頃、きみと結婚する意志がなかったなら、僕はあの夜きみを誘惑していたと思うよ」 「私と結婚する気持ちがあったの?」  私は心底驚いて今は別の女《ひと》に属する彼をみつめた。 「でなければ一年間も、あんなふうにきみとつきあいはしなかったよ」 「そう言ってくれたらよかったじゃないの。キスもしなかったのよ、あなた」 「あの頃のきみは——」と彼は遠い眼をした。「テレビのコマーシャルで賞を取ったりして、仕事に夢中だった。とても僕の入りこめる余地なんてなかったんだ」  ところが、私はひそかに彼のプロポーズを待ち望んでいたのだ。 「でもキスくらい……」私はあくまでキスにこだわった。 「キスなんてしたら、�何するのよッ�っていきなり平手打ちしそうだったよ。あの頃のきみは」  嘘《うそ》よ、そんな……。しかし全ては取り返しのつかない過去のことだ。  で、私の提案。女の方からプロポーズしたっていいんじゃない? 自分のことだもの。ドレスだって仕事だって自分で選ぶのだもの。男だってしっかり選びとりたい。  男からお声がかかるのを待ってデイトに出かけていくのだってつまらない。たいして好きでもない男と夕食を食べるなんていう時間の無駄使いはなしにして、自分の逢《あ》いたい人だけに逢う。そのためには女がイニシアティブをとるしかない。  天《あま》の邪鬼《じやく》  ミラノの一番|美味《おい》しいといわれているレストランで、私に言わせるとまあまあのイタリア料理を食べた後、一皿のデザートが出た。  お菓子のてっぺんで、チョコレートが粉を吹いていた。胴体は濡《ぬ》れていて、じっとりと汗ばんだような感じだ。 「なんなの、これ?」  と、私はミラノ在住の友達に訊《き》いた。 「ティラミス」  ふぅん、インテリ向きの週刊誌みたいな名前ね、と内心思った。アディダスだかアミダスだかティラミスだか、そんな名前の辞書もなかったっけ?  美味しいわよ、イタリア料理店にしかないのよ、とすすめる友人。私は、くしゃみを誘発するチョコレートの粉を、脇に掻《か》き落として、一口。  ゲゲゲ、こりゃだめだ。吐きだすわけにはいかないので無理矢理に呑《の》み込んだ。ベチョベチョしていて甘いだけ。以来二度とティラミスなるデザートに手を出さない。三年前の話だ。  そのティラミスが今、日本中の女たちを魅了しているという。売り切れるお菓子屋が続出で、お嬢さんたちは行列して買って行く。でも広島では二十人ほどの人がティラミスで集団中毒を起こしたなんて、講演先の地方紙で読んだけど。  何が売れようと、何を食べようとそんなことはどうでもいいのだが、ねぇ、ティラミスって本当に美味しいと思う? 列作って買うほど美味しい? 食中毒の危険もなんのその?  ほんとうにそうだとすると、私は生まれて初めて、自分の舌に自信を失うことになる。  しかし、私の舌のこともまた、どうでもいいことなのだ。食べるものを買うのに行列を作るってことが、みっともないのよ。  お米やパンを並んで買った時代もあったけど、それとは全然話が違う。たかが甘ったるいお菓子じゃないか。 「あたしは並んだりしないわよ。レストランで注文して食べてるわ」  でもそれって、やっぱり行列を作るのと同じじゃない? 右へならえっていう——。猫も杓子《しやくし》もティラミス。付和雷同。満員のイタリアン・レストランを覗《のぞ》いてごらん、全員、浅野温子みたいなヘアースタイルの女の子たちが、似たようなファッションに身を包んで、ティラミスを突っついているから。万が一まちがってこんな場所で恋人と待ち合わせた男は、自分の彼女をみつけるのに苦労するだろうね。みつからないかもしれない。いいじゃない、どの子だって。手近にいる女の子を連れていけば。外見も同じなら中身も同じようなものよ。パスタとサラダとティラミスがぎっちりつまっている。  今でもそうだけど、私の若い頃は、自分が他の人と、どれだけ違っているか、ということが何よりも大事な問題だった。  長い髪が流行《はや》れば反対にバッサリと短く切ってしまったし。音楽学校へ行っている時、オーケストラの時間が苦痛でならなかったのは、二十人いる第一ヴァイオリンの、他と同じように、黒い髪をした奏者の一人でしかなくなるからだった。指使い弓使い、呼吸のタイミング、全て精密な機械のように全員ぴったり同じでなければならなかった。すると息苦しくなった。前後左右のひとと全く同じタイミングで、息を吸って吐くことが、不意にできなくなる。私一人、呼吸のタイミングがずれる。すると弓使いが逆になる。テンポが乱れ、指揮者の声が飛ぶ。 「またきみか。どうしてきみはひとと同じようにできないんだ?」  で、私はオーケストラの時間をさぼりだし、結果的には音楽家になるのを止めてしまった。友人たちがパステルカラーのきれいなブラウスやセーターを着ている時、私は黒いセーターばかり着ていた。当時、若々しくハンサムだった先輩のN響の花、海野義雄に同級生が熱を上げている時、私は油絵の具にまみれ汗臭かった同じ敷地内の美校生を追いまわしていた。そして人々は私を天の邪鬼と呼んだ。  ハンサム・ガール  私に今ひとつ理解できない言葉に、「おやじギャル」というのがある。一体あれは誉め言葉なのか、そうではないのか——。  そもそもは、中年の男たちの遊びであったところの、ゴルフや競馬、カラオケ、赤ちょうちんなどに、若い女の子たちが恥も外聞もなく、くりだし始めたという現象に対する、マスコミや世間の驚きや批判から生まれた言葉なのだろう。 「おやじギャル」なんていう意地悪なネーミング、誰がつけたのだろう? 自分たちのテリトリーを侵されて面白くない中年男たちだろうか? あるいはカフェバーあたりでマルボロライトをくゆらせつつ、ジン・フィズなどなめているマザコンのおぼっちゃマンたちの、牽制《けんせい》なのだろうか?  あるいはまた、浅野温子ちゃんスタイルのカマトト娘たちの、同性に対するねたみ嫉妬《しつと》から出て来た言葉なのだろうか?  言葉の詮索《せんさく》はこの辺のところにしておこう。ゴルフに競馬、カラオケ、赤ちょうちん。良いではないか。このアイテムを見るかぎり、親のお金で遊び回ってはいないことがわかる。立派に自立した女たちに違いない。男並みに自立していると言っても良いかもしれない。  自分の責任において行動し、何があっても決して他人のせいにしない潔い女たちのことを、私はずいぶん前から「ハンサム・ガール」とか「ハンサム・ウーマン」と呼んでいる。 「おやじギャル」は、私が想うに「ハンサム・ガールズ」である。  ただ、「おやじ」になるか「ハンサム」に行動するかの違いがあるとすれば、それは引き際の潔さにあると思う。  マイクをつかんだらいつまでも手放さないのは、「おやじ」。同様に赤ちょうちんで、酔ってからんだり、同性や上役の悪口を声高に言いたてるのも「おやじ」。  ハンサム・ガールズには、引き際の美学がある。男から別れ話を切り出されて、アタシの青春返してヨ、などと修羅場は死んでも演じない。男が別れたがっている気配をいち早く感じとって、自分の方から別れましょうという女たちだ。  そう、その場の気配をいち早く感じとるという感性があるかどうかが問題なのだ。つまり、緊張感があるかどうか。カラオケ唄《うた》っていたって、赤ちょうちんで焼酎《しようちゆう》のお湯割りを飲んでいたって、躰《からだ》のシンのところがちゃんと緊張している女の子であれば、「おやじ」には見えないはずである。  私も、ゴルフや競馬が大好きだし、赤ちょうちんへも行く。カラオケだけは訳あってあまり行きたくない(音痴なのである)。そういう時私は、わざと人の注意を引くような格好をして行く。いわゆるゴルフウエアは着ないし、競馬場には派手できれいな帽子を被って行く。これからの季節なら、赤ちょうちんへは、毛皮を着流して行く。当然人が見る。だから緊張する。目立つから長居はできない。引き際に気を配る。という流れになる。  よく日本の男は、「あの子|可愛《かわい》いよね」などと言う。四歳や五歳の子供ならまだしも二十歳《はたち》をすぎた成人の娘たちまで、「あれで結構可愛いところあるんだよ」と言われる。一応誉め言葉のつもりなのだ。  何を隠そうこの私ですら、つい最近も「モリさんて意外に可愛いですねえ」と、十五歳も年下の男性編集者から言われてしまった。別の男など、どこかの雑誌に堂々と、モリ・ヨーコは可愛い女である、と書いた。  彼らが私を可愛いと言う時というのは、たとえば私が階段を踏み外したり、江戸っ子なので、ひとしが逆になったり、青天のへきれきと言うべきところを舌が回らなくて、へいてんのせきれきなどと言ってしまう時だ。なんのことはない、そそっかしいだけなのである。単におばかさんである場合にも、男は女を可愛いと言うかもしれない。要するに可愛いと口で言ってお腹の中でせせら笑っているのだ。可愛い女を返上して、ハンサム・ガールになろう。  別れ上手  このごろ、男が男らしくなくなってしまったから、女がりりしく頑張らなければならない。  とりわけ、恋愛においてのイニシアティブを取らない(あるいは取れない)男たちがやたらと多い。  カフェバーなどに行くと、女たちから声をかけてもらうのをひたすら待っているとしか見えない男たちが眼につく。ベッドのお誘いなんかも、もしかしたら女の方からするのかしら?  だとするとアレする時も、男は冷凍マグロみたいにベッドに転がって、女がナニしてくれるのを、ドテッと待っているだけかも——なんて連想が広がって困ってしまう。  そんな恋愛のマネゴトが上手《うま》くいくわけがないから、いずれ早々に男は捨てられるわよね。どうせなら徹底的にめめしく振るまって「ボクの青春返してよ」とヨヨッと泣き崩れたりすれば、ストーリーとしては一貫性があるのだが、多分、何も感じないんじゃないかな。捨てられても、女が勝手に声をかけて来たんだからな、と寒々しく嘯《うそぶ》くのがオチかもしれない。  昔の男たちはそうじゃなかったと言ったところで、何の助けにもならない。現代は女がりりしく生きる時代なのだ。  で、昔の男たちは別れ上手だった。女に捨てられたように見せかけて、実は女を捨てていた男たちなのだ。見せかけも実体も、女から捨てられる今の男たちとは、雲泥の差なのである。  別れ上手というのは、別れた後々《あとあと》までも、あいつはいいやつだった、素敵だった、と相手に思わせるような別れ方のことである。  あの女、パブリック・トイレみたいな女だよ、なんて腹いせに言いふらされない方が、良いのにきまっている。  よし、今にみていろよ、あの女がオレと別れたことを百回も後悔するような、いい男にいつか必ずなって見返してやるからな。そんなふうに男を発奮させることができたら、それは別れ冥利につきるというものだ。そのようにいい男の予備軍の種をまいていくのは、人助け、男の質を上げるためにも大いにいいわけで、政府は助成金くらい出すべきだと思う。世の中、近親|相姦《そうかん》めいた母性愛の氾濫《はんらん》の結果、腰抜けのマザコンばかりだから、イラクに出兵となれば、自衛隊の三分の一はやめてしまうそうだからね。多情軽薄な母親族の尻《しり》ぬぐいをさせられるなんて、可哀相《かわいそう》なのはお嬢さんたちだが、あなたたちが結婚の相手に選ばなければならない男は、その多情軽薄なママに近親相姦的母性愛で育てられた男の子たちでしか、所詮《しよせん》ないのだから、ここはあくまでもりりしく、りりしく。男を一応立ててやり、自信を与えてあげなくては、ますます世の男たちは萎縮《いしゆく》し、その結果ロリコンに走ってしまう。つまりあなたたちは、多情な母性愛と不健康なロリータたちの、いわばトリデなのだ。りりしく生きないわけにはいかないではないか。  何でもかんでも、おおよしよしと受けとめてあげるのは、愛とはいえない。今こそ愛のムチを振るう時だ。可愛い子には旅をさせろ、とも。男を捨てるというのは、この旅にあたる部分、男を旅立たせることなのである。そしてどうせなら失意の暗い旅路に追いやるのではなく、発奮と義憤、今にみておれという希望の旅立ちが良いにきまっている。  あんたはダメな男ねと言い続けたら、その男は本当のダメ男になってしまう。どうせ暗示にかけるなら、あんたは偉い、あんたはいつか大物になると言い続けた方が、いい。かのジャクリーヌ・ケネディ・オナシスは、その昔まれにみる誉め上手、おだて上手だったそうだ。あなたは素晴らしい可能性のあるひとよ、きっといつか大統領にだってなれるわよ、とジョンの耳に囁《ささや》き続けた結果、夫は本当に大統領になったのだ。  でも彼女のすごいのはその後だ。ジョンが暗殺された直後のりりしさ、雄々しさ。あっという間に世界一の大金持ちオナシス老人に寝返ったものね。女の鑑《かがみ》ですよ、これは。別れ上手の模範ですよ。  脱ぎ太りのすすめ  太りすぎだと悩んでいるお嬢さん、ダイエットをする前に私の話をきいて下さい。あなたが悩むほど、男性の眼には太っては見えないという話です。  たとえばこの私。色々私について書かれたものを読み返してみると、男たちが抱く共通のイメージがあることがわかる。  なんと、『痩《や》せぎすで、黒いドレスの女』。この私が痩せぎす? 標準体重を軽く六キロはオーバーしている私が、痩せぎすだって?  たとえば建築家の黒川雅之さんも、そのイメージを抱いた男性の一人だ。 ——先日パーティーで偶然お目に掛かった夜、あなたのイブニングドレスは躯《からだ》にぴったりと張り付いて、やせぎすのシルエットが性的で、どきりとさせられました。黒く光るドレスを着たあなたは……(以下省略)——  この文章は、私の小説『熱い風』のために、黒川さんが書いて下さった解説文の一部である。  もう一人、岡田真澄さんもあるところでこんなふうに私のことを書いている。 ——黒のイブニングドレスにドキリとした。(中略)一人、よく日に焼けた長い脚を折り曲げてタクシーに乗りこみ、彼女は渋谷の方角へ去って行った。  二人の男性をいみじくもドキリとさせた、『黒いイブニングドレス』なるものは、実は彼らの私に対するそうあるべきイメージが創り出した錯覚である。黒川さんと偶然|逢《あ》ったパーティーで私が着ていたのは、ブルーのオーガンジーにビーズ刺繍《ししゆう》をしたドレス。岡田さんの時は、なんと純白のドレスだった。白が黒に思えるほど、人の記憶というのは思いこみに左右されるという証拠だ。  もう一人だけ例を挙げよう。近藤正臣さんは、ピアノバーで近々と私を眺めていたのにもかかわらず、こう言ったのだ。 「それ以上痩せたら、気持ち悪いよ」  標準体重が六キロもオーバーしている私に、である。で、ついうれしくなって油断し、節食しなかったために、更に二キロがところ肥えてしまった。  引用が長くなってしまったが、一体どうしてこの私が男の眼に痩せぎすに見えるのか、その理由を考えてみよう。もしかしたらアンアンの皆さんのお役に立つかもしれない。  要するに、着痩せして見えるわけなのだ。別の言い方をすれば、私は、脱ぎ太りということになる。  私が試みている着痩せのコツは次の通りである。 一、頬《ほお》をこけて見せること (頬骨の下にシャドーをつける) 一、肩パッド (脱ぎ太り族には、百万の味方に等しい。上半身が筋張って見え、顔と下半身が小さく見えるのだ) 一、長めのタイトスカート 一、ハイヒール 一、真紅の口紅とマニキュア  それから男たちが勝手に抱いている、『痩せぎす=黒』のイメージも見逃せない。黒いセーター、黒いスカート、黒のコートなどのアイテムは、いいかもしれない。  はっきり言って、男は見た眼や連れて歩く時、痩せぎす風が好きなのよ。だけどいざということになって、シーツとシーツの間にもぐりこんだ時には、絶対に脱ぎ太りがいいにきまっている。嘘《うそ》だと思ったら片っぱしから男に訊《き》いてごらん。ギスギスと骨っぽい女より、適当にお肉のある方がいいと答えると思うわよ。  というわけで私は標準体重六キロオーバーの線に踏み止《とど》まり(正臣さんの言葉で有頂天になった二キロ分は、一応減らしました)、肩パッドを愛用し着痩せにこれ努め、いざという時には脱ぎ太りの効果を満喫し、人生を大いに楽しんでいるのです。美味しいものも食べたいし、男にももてたいと思ったら、これしかないんじゃない?  嘘《うそ》上手  自慢ではないが、嘘をつかない日なんて私にはない。 「今夜、仕事で少し遅くなるわ」 「仕事って?」と夫が訊《き》く。 「編集者のひとと打ち合わせ」  私の主だった担当編集者のほとんどは女性である。彼女たちはたびたび我が家に来て、夫と顔を合わせている。「編集者イコール女性」という図式が、彼の頭にはしっかりインプットされているわけだ(というわけで、アンアンのハンサムな担当編集者は、我が家に立ち入り禁止なのです)。  すなわち、編集者なる言葉は、水戸黄門の印籠《いんろう》みたいなものね。  私だって、嘘などつきたくはない。 「今夜、誰と食事すると思う? 石原慎太郎さんよ!」とか、「ねぇねぇ、聞いて! 五木寛之さんにお逢《あ》いするの!」と、大いばりで言ってみたい、北方謙三と飲みに行くとか、近藤正臣と待ち合わせているとかね。  でもイギリス人の私の夫にしてみれば、相手がどんなに立派な作家だろうと、「男」か「女」の違いでしかない。彼は五木寛之というひととお食事をするということが文壇でどういう意味かを理解しないのだ。結婚している私が、夫以外の男とさしむかいで夜食事をする、ということなど、もっての外、とんでもないことなのだ。  このようなむずかしい国際事情をかかえている私としては、伝家の宝刀「編集者」様に、おすがりするのが、平和共存の唯一の方法論なのである。でなければお互い満身創痍《まんしんそうい》、愛の巣はただちに戦場と化し、悲惨な闘いとなるのは、これはもう眼に見えている。この場合の嘘は、ひたすら思いやり、いたずらに相手を苦しめないための方便なのである。  よく本当のことを告白するのが、愛の証《あかし》だと思うひとがいる。 「黙っていようと思ったんだけど、あなたを愛してしまったから秘密を持ちたくないの」  という前置きで、過去の男(あるいは男たち)とのことをいっさいがっさい告白するのは、愚かとしか言いようがない。たとえ「きみのことは全て知っておきたい。何もかも話してくれ」と男が言ったとしても、実際、いっさいがっさいを聞かされて、冷水を浴びたような気がしないわけがないのだ。下手《へた》をすれば恋のお熱など、それですっかり冷めてしまうことになりかねない。  でも、「嘘をつくのは嫌なの」というアナタ。本当のことを言わないということは、嘘をつくこととは、違うのだ。世の中には、本当のことを言わない方が絶対に良いことが、しばしばあるものなのである。もしも、それを言うことによって、相手が深く傷つくような場合である。  男はどちらかというと、長期型の約束をする。「君だけを一生愛し続けるよ」とか、「オマエを絶対に不幸にさせないからな」とか。  三年もしないうちに浮気をしてそれがバレる。 「あの時あなた、ああ言ったじゃないの。嘘つき!」ということになる。  しかし男に言わせれば、嘘をついたつもりなどないのだ。あの時点では、彼は本当に彼女だけを一生愛し続けるつもりだったし、不幸にさせる気は毛頭なかったのだ。それは信じてあげよう。そう信じた上で、男の長期展望型約束ごとなど、薄紙に包んで神棚に上げて忘れてしまうことだ。  ほとんどの男の嘘というのは、結婚サギとか職業的な嘘は別にして、この長期展望型に属するのではないかという気がする。嘘をついている自覚がないのだ。その点、女の嘘には自覚がある。自覚があるということは、つきつめれば自分のその嘘に対して、責任を取るということだ。「嘘ついたつもりはなかったんだよなぁ、テヘヘヘ」と苦笑して頭を掻《か》いて、それで男の嘘はなんとなくウヤムヤになってしまうが、女の場合はテヘヘヘではすまないということ。私の場合? もちろん離婚を覚悟の命がけ。でもなんで、こうなるの!! 悪いことなんて何にもしてないのにねぇ……。  |NO《ノー》 「ノー」と言うのはなかなかむずかしい。相手が誰であれその申し出を断るのには、エネルギーがいる。  私自身、原稿やその他の仕事の依頼を断るのが下手《へた》で、ついつい無理なスケジュールを入れてしまい、後で脂汗や冷や汗をかくなんて日常茶飯事。  よく外国人はイエスとノーがはっきりしているというが、彼らだってただ冷淡にノーを言うわけではない。英語には「ノー・サンキュー」といういい言葉があるのだ。  拒絶しておいてすぐあとにアリガトウをつけるという発想、すごいと思わない? 「嫌《いや》よ、でも誘ってくれてありがとう」と、ちゃんと相手の心を思いやるわけだ。  結論から言うと、いつもイエスと答える女の子よりも、三回のうち二回はノーを言う女の子の方がもてるはずだ。三回に一度だけもらえるイエスが、思いがけない贈り物のような効果を上げるからだ。  ただし、ノーにも色々ある。相手を切り捨ててしまうノーもあれば、断られたのに気分のいいノーもある。どうせなら、「ノー上手」「ノー美人」の方がいいにきまっている。 「ゴルフやろうよ」と誘われて、「だめ、ゴルフはやらないの」ではケンもホロロ。「でも、ゴルフって面白い? そのうちやろうかな」とつけ足せば、相手は気分を害さない。  ゴルフはやるけど、その人とはやりたくない場合。アッシー君やメッシー君のようなプロ級のゴルフ君がいて、彼と回って徹底的に上手《うま》くなるつもりだということをはっきり言っておいて、「そのうち五十を切ったら、私の方から電話するわよ」と言えばいい。 「ボクが教えてやるよ」と食い下がって来たら、 「だめよ。舟|一艘《いつそう》に船頭が二人いたら、テンプクしちゃう」とかわす。  あなたが若いのにもかかわらずオペラが好きで、そのことを知ってオペラに誘われたとする。 「十二月三日の夜あいている?」とまず相手が訊《き》いてくるだろう。 「ちょっと待って……手帳を見てみるから……(なんとなくスケジュールを調べている感じで、さりげなく探りを入れる)……でもどうして?」 「オペラに誘おうと思って」 「……ええと三日ね……あら、だめだわ、先約が入ってる。残念だわ。出しものは何なの?」 「魔弾の射手」 「不幸中の幸いね。その切符なら私も買ってあるのよ」 「へぇ、いつの?」 「十日前後だと思うわ。友だちが切符持ってるから、今覚えてないけど」  先約が入っているのも嘘《うそ》。切符を買ってあるというのも嘘。従って、十日前後も口から出まかせ。しかしこれくらい徹底して嘘をつかないと、相手を煙には巻けない。ね、ノーって言うのにはエネルギーが必要だという話がわかるでしょ? それと頭脳もね。  でもこんなに苦労するのは、日本の女だけかもしれない。向こうのひとだったら、はっきりと「せっかくだけどお断りするわ。とにかくありがとう」ですませてしまう。 「日にちが都合悪いのなら、別の日でもいいんだよ」と男も引かない。 「問題は日にちじゃないのよ」 「フランス料理がお気に召さない? だったらイタリアンでいい店を知ってるよ」 「お気に召さないのは、料理でもないの」 「じゃ何さ?」 「あなたとデイトすること」 「そいつは残念」 「でもビジネス・パートナーとしては、ご存知の通り、とても高く買ってるわ」 「そいつはどうも」 「ところで、いいイタリアンの店って、どこ? 今度私のボーイフレンドと行ってみるから」  この最後の科白《せりふ》。憎いと思わない? 大人だと思わない? こういうノーの会話が日本でも成立するといいんだけどね。それにはまず相手の男が本物の大人じゃないと、こうはいかない。そしてあなたもね。まずは、日本式ノーの練習から始めよう。  女のゴルフ  あのゴルフウエアというものは、どうしてああも色気がないのだろう。日本人であろうと外国人だろうと、美人でグラマーだろうと、全て非個性的、非セクシーにしてしまうのが、ゴルフウエアだ。  考えてみればゴルフにかぎらず、テニスウエアにもそれが言える。古くはキング女史や近くはナブラチロワ。あの筋肉おばさんたちが短いスカートの下から、スコートのお尻《しり》をチラチラ見せていた図には、同性ながら、ぞーっとしたものだ。  スポーツウエアなるものがいけないのだろうか。筋肉とセクシーさは対極にあるものなのだろうか。あるいは女が髪振り乱してスポーツするということ自体が?  テレビでゴルフの女子プロの試合を見ていて、ゆいいつ許せる気がしたのは、岡本綾子だけである。彼女には、恥じらいがある。あの日焼けした皮膚の一枚下に、身のおきどころのないほどの恥じらいを宿している。  多分、セクシーさとは、この恥じらいの何かと関係しているのかもしれない。自分が今|他人《ひと》の眼にどのように映っているか、たえずチェックするから、フォルムも優雅になっていく。え? あの男まさりの岡本綾子がセクシー? 優雅? と疑うなかれ。あのすがすがしさ、あのりりしさもまた現代的女らしさに通じるものなのである。  女子プロゴルファーたちは、ゴルフをすることで生計をたてているのだから、筋肉おばさんになろうと、公衆の面前で髪振り乱し、女にはあるまじき形相で芝の上を大股《おおまた》で闊歩《かつぽ》しようと、それはいいのである。年に何千万円も稼ぎ出せば、男に養ってもらう必要はないのだから、媚《こび》を売ることもない。  しかし大多数のゴルフ好きのお嬢さんたちは、そうではない。だったら優雅にセクシーにゴルフをやることを考えようではないか。  まず、いわゆるゴルフウエアなるものの醜さを認識しよう。普通のスラックスと、開衿《かいきん》のブラウス、それにカーディガンで良いではないか。ゴルフウエアであらねばならぬ、とか、みんなが着るから私も着るという精神そのものが、すでに発想として非セクシーなのだ。  いわゆるフォーム。腰を落とし、膝《ひざ》をゆるめ、クラブをかまえる一瞬、プードルみたいにお尻をプルプルと振るあの一連の動作。人ごとながらクラブを投げ出して帰ってしまいたくなるものネ。ハーフで五十を切る女に多いフォーム。お尻プルプルは止《や》めようよ。絶対にセクシーじゃないもの。  女だてらに百八十も百九十も飛ばさないこと。グリーンにツーオンなどさせないこと。グリーンの目がじゅんめだとかぎゃくめだとか、うるさく言わないこと。  で、そういう半プロにかぎって、ゴルフバッグがピンクだったりするのよね。  でも、モリヨーコさんだって、ゴルフをしてるでしょ?  はい、してます。酷《ひど》いゴルフです。前半五十九で回ったのに後半七十二なんて叩《たた》いています。  そしてゴルフをしている自分を、どうしようもなく非・個性的、非・セクシーと感じています。下手くそではみっともないし、上手すぎると気恥ずかしいものがあるし、適当にそこそこでは面白くないし。ゴルフって、女のスポーツではないのだと、つくづく思う。絵にならない。それだけは確か。  釣も男のスポーツだし、狩猟もそう。何もかも男と同じように女がしなければならないという理由はないのではないか。  考えてみると、私にとってゴルフの魅力というのは、好きな人たちと一日中、一緒にいられることだ。どうでもいい人や、おつきあいとか、接待とか、そういうゴルフはいっさいしない。それこそお金と時間とエネルギーの無駄使いになるからだ。  ひそかに心ときめかせる男と一日、緑の芝の上を歩き回る喜び。と同時に、女のゴルフがいかに非セクシーであるかを思い、目下私の心は千々に乱れているのであります。ゴルフ、やめたい!  ドレスアップの仕上げは、 横《エスコート》 に立つ男  ほら、よく一流ファッション雑誌のパーティー欄みたいなのがあるでしょう。いわくオートクチュールのデザイナーにより開かれる、ディナーつきのファッションショーとか。新しくオープンしたショップのオープニングパーティーとか。  新製品が出るたびに開かれるお土産つきのアフタヌーンティとかランチパーティーとかね。  目新しいのでは、名門ゴルフ場つきのホテルに一泊しての、女の子だけのゴルフコンペに引き続く、華麗にしてうら淋《さび》しい打ち上げパーティーというものもあった。  華麗なのは、お嬢サマたちの衣装。うら淋しいと言ったのは、女、女、女で、ステキなエスコートがいないこと。  女の子だけのコンペなのだから、仕方ないでしょ! とヒステリーを起こすなかれ。だったら女だけの集まりに、ぎんぎらぎんに正装して行くな、というの。飾りたてれば飾りたてるほど、男《エスコート》なしでは、滑稽《こつけい》なのよ。たかがゴルフコンペの打ち上げパーティーに、女ばかりがきらきら着飾って群れていると、どうしても開店前のキャバレーを連想してしまう。  大体日本という国には、男気なしのパーティーがあまりにも多すぎるのだ。開かれる時間帯にもよるのだろうが、やれお茶会だ、やれお花の発表会だ、やれケーキの作り方教室の何周年パーティーだ、と次から次。エスコートなしということは、ワサビと醤油なしで食べるお寿司みたいなものだ。ということをまず頭に入れた上で(つまり馬鹿みたいということ)、それでも、パーティーに行くわ、というお嬢サマたちに忠告。  いかにも、おしゃれに命がけ、という装いは、ヤボというものよ。一分のスキもないほど完璧《かんぺき》な装いや、宝石で飾りたてることや、指に三つも四つも指輪を重ねるなんていうのは、若さに自信のないマダムのやること。  第一、頭のてっぺんから爪先《つまさき》までピッカピカ、一分のスキもないなんて、およそセクシーじゃないよね。  私はヨーロッパやニューヨークで色々なパーティーを見て来たけど、自分に自信がある人ほど、ケバく飾りたてていなかった。真っ黒のシルク・ジャージーのドレスに、真珠のピアスだけで、もう充分にゴージャスな雰囲気を漂わせてしまうのだ。もちろん横には、よく日焼けしたエレガントな男が、ぴったりと寄り添っていたのは、言うまでもないこと。  もう一度TPOについて考えてみよう。以前に比べるとずいぶん良くなったとは思うが、でもやっぱり何にもわかっていないんじゃないの? というケースがまだ圧倒的に多い。改めて言うまでもないがTはTIME、時間帯。PはPLACE、つまりどんな場所でパーティーが開かれるかということ。OはOCASION。目的というのかな? 何のためのパーティーかということ。  毎年三月頃になると、都心のホテルでくりひろげられる女子大の卒業パーティーのことを、ちょっと思い浮かべてごらん。まだお天道サマがピカピカしているのに、ゾロリゾロリとロングドレスを着て、ロビーをうろつき回る。TもPもOも全部、めちゃくちゃ。それにくどいようだけどエスコートなしのロングのドレスアップは、二流キャバレーのホステスさん以外の何ものにも見えないということ。  悔しかったら、エレガントな男を探しておいで。エスコートつきで堂々とパーティーに乗り込むことよ。どんな高価な宝石よりも、エスコートつきの方があなたを引き立ててくれるから。  その際気をつけるのは、マイナスの美学。そのチャラチャラした腕輪や、耳からぶら下がっているものや、首に巻きついているうるさいものなど、いっさい取ってしまうことね。さもないと、あなたが逆に男の引き立て役になってしまうから。  あなたに似たひと  ひとの持っている物が気になってしょうがない年頃のあなた。そう、最近Y子がこれみよがしに持ち歩くシャネルのバッグに、ついつい眼がいってしまう、たとえばあなたのこと。 「あ、これ? パリのカンボン通りのシャネル本店で買ったのよ。日本に入っていない型なの」Y子は実にそうさり気なく言ったが、そのさり気なさの小面《こづら》憎いこと。あなたとしては素直に引き下がれない。そこで、「アレってコリアンのイミテーションだってさ」と噂話《デマ》を飛ばし、自分ではすぐにはパリまで行けないので、友人の国際線のスチュワーデスに頼んでカンボン通りへ行ってもらう。そして買って来てもらうのは、Y子と寸分違わぬそっくり同じもの。  これって、日本人全般に通じるパターンじゃないかな。「あたしだって持ってるのよ」、人に負けたくない、遅れを取りたくないという思い。  ここであなたは、なぜY子よりいいものを買って、「あたしの方が一ランク上よ、フンだ」という出かたをしないのだろうか。人に負けたくないのなら、勝てばいいのに、あなたはそっくり同じものを買ってしまう。  その理由は何だろう? 一ランク上のものに対する選別眼がないこと。自分もないけどY子にもなかったら、たとえそれが一ランク上だろうとY子にはわからない。相手にしっかりとこちらの価値を知らせるのには、相手が同じものを持っていてその価値を知っていなければならない。だから同じものになる。  要するに自分のためではないのだ。ライバルに、「あたしだって負けていないわよ」というそれだけの思いを伝えるためでしかない。あなたは別にシャネルのバッグなんて欲しくなかったのかもしれない。  で、あなたのまわりを見回してごらん。あなたに似た人がうじゃうじゃいない? M代はどう。M代の頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで見て、そこにかけたお金の総額と、着ているスーツのメーカーの名前まで、ぴんとわかるでしょう? なぜわかるかっていうと、M代があなたのコピーをしているからよ。あるいはコピーをしているのはあなたの方?  ひとより一ランクも二ランクも上のものを選ぶというのには、それなりの鑑識眼も必要だけど、お金もかかるし、アフターケアも大変なのよね。ひとつまちがえると、けばくなるだけだし、そうでなければ口さがない女の子たちに、「アレって、よくできたコピーなのよ」と作意的なデマを飛ばされるのが落ちなのだ。本物を見分けるのには、自分がまず本物を身につけてみなければわからない。あなたにもそれがないように、あなたとそっくりの他の女の子たちにも、本物を見分ける鑑識眼なんてないのよね。だったら何のために一ランクも二ランクも上げて大金を払う必要がある? というのが、世の中、あなたに似たひとだらけ現象の、一番の理由じゃないかな。昔から、出る杭《くい》は打たれるというじゃない。  男の子に対しても同じことが言える。 『三高』だけで男を選ぶというのは、ブティックにつり下がっているスーツを選ぶのと同じ感覚だ。とびきりの一点もののオートクチュールではないが、一応は高級と名がついている。  さて、ピッカピカのブランド新郎と共に、新婚旅行へ。今流行のオーストラリアかアメリカ西海岸あたりへ出かけていく。右を向いても左を向いても日本の新婚さんばかりだ。そしてどれもこれもピッカピカのブランドさん。どれがどれだか、他人の眼には全く見分けがつかない。それもそのはず、同じブランドの、男版あなたに似た人たちだもの。『三高』をクリアした男たちだから、どれでも同じなのだ。そこであなたはホッとする。人よりすばらしくもないけど、人より見劣りがしない夫の肩にそっと頬《ほお》を寄せ、安堵《あんど》と幸せを噛《か》みしめる一時……。 「あの……」という声。「そのひと、あたしの夫なんだけど!」  タイやヒラメの舞い踊り  あれ買って、これ買って、ああしてちょうだい、こうしてちょうだい、雨が降ったから車で迎えに来てよ、あのレストランのキャビアのスパゲティ食べに連れて行って……。  とにかく女の子の要求ときたらやたら多い。アッシー君がいて、メッシー君がいて、高価なドレスをプレゼントしてくれるおじさまがいて、ベッドのことがやたら上手なセックスフレンドがいて、その上に恋人までいて、毎日毎日が、「ああ楽しかった」「ああ得しちゃった」で過ぎていく。  宝石箱にも小つぶながら色々宝石もたまり、クローゼットの中のドレスもタップリ。最先端をいくレストランやカフェバーやディスコを全て征服してしまった。友だちも数えきれないほど増えたし、アタシって毎日が豊かに充実しているんだワ、年のわりには情報もコネクションもたくさん持っているし。そこで大きく満足の溜息《ためいき》。  しかし、それって本当の充足感なのだろうか? 得しちゃった、ただでクィーン・アリスのフランス料理を食べ、ただでジョルジオ・アルマーニのドレスが手に入り、ただで毎晩毎晩が面白おかしく過ぎていくってことは、言ってみれば浦島太郎と同じことじゃないのだろうか。竜宮城でタイやヒラメの舞い踊り、あら珍しや面白やで光陰矢のごとし、玉手箱のフタを開ければ、白い煙が立ち昇るだけ。  あなたの玉手箱の中身について、考えてみない? たかが来年にはもう流行遅れになってしまうドレスや、売れば二束三文の宝石がちょっと、ゴミみたいな情報とガラクタに等しいコネクション。面白おかしく過ごした記憶なんて、ひとすじの白い煙よりも虚《むな》しい。  ただでもらったものが、あなたを豊かにすることはありえないのよ。汗ひとつかかずに手に入れたものには、一夜あければ何の価値もない。他人から物をほどこされて生計をたてるのは、物乞いの商売と同じこと。本当に大切なことは、あなたが何を他人に与えることができるかなのである。知識、真心、誠意、センス、情報、愛、時間……他人からただで奪うことではなく、あなたが何をあげるかだ。  自分のものを与えると、減ると思う? 損したと思う? 損したと思うとしたら、その与えるものが、どうしようもなくツマラナイものだからよ。本当に価値のあるものなら、与えることにより逆にあなたは豊かに感じるはず。与えることで増えていく財産というものがあるの。それは決してフタを開けたとたんに白い煙となって消えていったりはしないものなの。 「でもアタシ、人にあげるものなんてないもの」と、そこで白けたり、不貞腐《ふてくさ》れたりしてはだめ。なかったら仕入れればいいじゃないの。知識とか情報とか。そして本当に人がもらってうれしいのは、あなたの誠意とか真心とか優しさなのよ。そういうものは仕入れて手に入るものではなくて、あなたの中に本来はあるものだと思うのだ。今、世の中がこんなだから、あなたもつい軽いノリで嫌な女を演じてしまっているんじゃないだろうか。周りを見回すとみんな同じような軽いノリの女たちだから、自分一人違うのは格好悪いとか思って、付和雷同しているだけでしょう?  本当にステキな女の子というのは、誰かがあなたに何かしてくれることを期待して待っているのではなく、自分の人生を切りひらいていく女なのだ。そして自分でしたことに対して自分で責任を負えるきぜんとした人なのだ。  タダメシや、男の子を足がわりに使うのはもうやめない? 根性がさもしいもの。ひとつ得すると、あなたの中でひとつ大事なものを失っていくのよ。でもひとつ与えると、あなたの中にひとつ、何かが増える。とてもいいものが。ね、人生って、プラスマイナスの帳尻《ちようじり》がうまく合うようになっているの。浦島花子さんにならないようにね。  一人遊び  キラー通りでタクシーを拾おうとしていた時のことだ。私より前に空車の来るのを待っている娘三人組がいた。同じ場所から拾う場合、当然先着順だ。私は彼女らの少し後に控えて待った。  私はとても急いでいたので、百メートルくらい逆戻りして、お先に失敬という手もあったわけだが、そうするのも良心がとがめて、とにかく大人しく控えていたわけだ。  三人娘はお喋《しやべ》りに夢中だった。例によってあのゾッとするような、舌っ足らず変テコ抑揚下品言葉で、世にも稚拙な戯言《たわごと》を喋っている。  こんな女の子たちがやがて子供を生み日本の平均的なお母さんになるのかと思うと、深刻に祖国の将来を憂えてしまうのであるが、とにかく私は先を急ぐ身だ。空車を今か今かと待った。  やがて、赤い空車のサインを出したタクシーが近づいてきた。それなのに、だ。舌っ足らずの三人娘はお喋りに夢中でそれに気がつかない。あっという間に通り過ぎてしまった。唖然《あぜん》としていると、また空車が来た。 「ほら、来たわよ」  と私は注意をうながした。  ところが何ということだろう。近くのビルから出て来たタレント兼ミュージシャン兼モデルとそのマネージャーとおぼしき二人の女が、当然の権利ででもあるかのように、先に止めて乗りこんでしまったのだ。 「アレェ、アッタマにきたァ」と娘たちが口々に叫んだ。それからそのモデルの悪口を言い始めた。悪口に夢中になって、またまた空車に気がつかない。 「ねぇあなたたち、車に乗るの? 乗らないの?」  ついに私はしびれを切らして、彼女らに言った。彼女らはまるで、私がゾンビか何かのようにジロジロみて、何さこのオバさん、乗るにきまってるじゃない、と言わんばかりの表情。  この鈍感新人類。その場の状況など、まるでわかっていないのだ。ギンギンに着飾っていればいるだけ薄ら寒い光景だ。空車が来たので手を上げた。車が私の前に停まったので、 「早く乗りなさい」と彼女らを先に乗せた。三人娘はありがとうのあの字も言わずにドタドタと乗りこんだ。  三人よると文殊《もんじゆ》の知恵という言葉がある。いや、あったというべきか。今や死語だ。三人よると、知能や感覚、集中力、常識などが三分の一に減退する。  女の三人連れはやめようよ。頭が悪いことを広告して歩いているようなものだもの。  ようやく来た次の空車に乗りこみ、目的地に向かった。六本木で渋滞に巻きこまれ、車はノロノロと進んだ。見るともなく窓の外を眺めると、いるわいるわ、女の三人連れ。  いずれも夜の遊びの服装で非のうちどころのないおしゃれに身をつつんで、信号待ちやら、何となく道幅一杯に、ゾロリゾロリと歩いている。  何を喋っているのか聞こえないが、口もとのだらしなさ、表情のしまりなさから、内容の察しはつく。  知性は顔に出るのよ、読者のみなさん。それはもう怖いくらいだ。大学に行ってるとか、大学を出たのよ、なんてことは、日本では知性の証《あかし》にはならない。その証拠に女子大生の言っていること傍で聞いてごらん。やっぱり変テコ抑揚下品言葉で喋っている。  舌っ足らずで内容ゼロのお粗末ばかり喋っていると、知らず知らずに顔もしまりのない下品なものになってしまうのだ。  それが怖かったら、まず徒党を組むのはやめよう。一人歩きをしてみよう。  一人で歩きながら喋ったりすれば、変だと思われるから、自然口もつぐむだろう。  口さえ開かなければ、結構いい線いっているんだから。ね?  遅刻の美学  いつもボーイフレンドを待たせてしまう、あなた。メイクに手間どったり、着ていくドレスがなかなかきまらなかったり、出がけに女友達から長電話がかかったり、飛び乗ったタクシーが渋滞に巻きこまれたりと、理由は色々あると思う。  いずれにしろ、鼻の頭に汗など浮かべて、アタフタと待ち合わせの場所に駆けつけるというのは、格好がわるい。ヤングレディーの登場の仕方とは言い兼ねる。「ゴメン、ゴメン。またしても遅れちゃったぁ」と、ペロリと舌を出すのも、一度や二度は愛敬だが、毎度のことだと頭の程度が知れてしまう。  どうせ約束の時間に遅れるのなら、ゴメン、ゴメンの世界ではなく、逆手をとって魅力に変えてしまってはどうなのだろうか。遅刻の美学。登場のテクニックだ。  昔、私の男友達で、その登場ぶりの見事さで一人輝いていた男がいた。  約束の時間に一時間遅れなんていうのは、早い方で、一度など六時間も私を待たせたことだってあるのだ。待つ方も待つ方よね、と言われそうだが、六時間待つだけの魅力が、彼にはあったということである。  それは彼自身がチャーミングな男であったということも、もちろんそうだが、その魅力の半分以上は、登場ぶりの見事さにあった。  パーティーが始まり、ほとんどの顔触れが集まった頃、やおら、「やぁやぁ」などと軽いノリで現われるのは、まだまだ修業が足りないのだ。  宴たけなわも過ぎ、帰るにはまだ早いが、パーティーもなんとなく中だるみ。彼、どうしたんだろう? 遅いじゃないの。いつもはもう少し早く顔を見せるのに……などとみんながヒソヒソと本心で気にし始める頃、ようやく、本人が登場するのだ。  わずかに遅すぎる感じで。わずかにとりかえしのつかない感じで。これがコツなのである。  人々の期待の頂点で現われるのではない。このタイミングを外すところが憎い演出なのだ。期待感が失望に変わり始めた頃が、出番の一瞬。  彼もバカだなぁ。パーティーの一番いいところを逃しちゃって。その一番いいところの時間を共有できなかったことに、私たち有象無象は深く失望するわけである。  だからわずかに遅すぎて登場した彼は、その登場が思いもかけぬ贈り物みたいな効果を上げてしまうのだ。不意のプレゼントをもらって、歓《よろこ》ばない人はいない。そのように彼の遅すぎた登場は、私たちを歓ばせ、ホッとさせるのだ。  と同時に何か物足りぬ思いを残すわけだ。充分に時間を共有していないという思い。欲求が完全に満たされていない、不燃焼の感じ。ここのところがポイントである。いつも少なすぎるだけしか自分というものを与えないことによって、次回への期待をいやが上にもつのらせるわけだ。  そして次回も彼は遅すぎる登場をやってのける。それはもう、そのつみ重ねによる相乗効果により、劇的なものである。  六時間も男を待つということは、一時間ごとに彼に対する期待がつのっていくわけだ。と同時に、彼はもう現われないかもしれないという不安もこれまた怪物的に膨らんでいく。この期待と不安の間を激しく揺れながら過ぎる数時間ほど、ドキドキするものはない。やがて彼が現われる。すると私はもううれしくてありがたくて、感謝さえしてしまうのだった。  少しわかった? 遅刻を美学にすりかえる方法、理解してもらえるかしら?  タイミングをまちがわないこと。期待の高まった頂点で現われてしまったら、「あのひと、いつもそうよ。嫌みね」と言われるにきまっている。それを外すのは、かなりの禁欲的なものを必要とする。だってお楽しみはほとんど終わりかけているのだから。食べものも大半は残っていないだろうし……。相手の期待を満たしてやらないということは、自分も自分に楽しみを与えないということだから。人を欲求不満にしておくということは、自分もまた欲求不満に陥る覚悟がいるのだ。でも、やってみる値打ちがあると思うわよ。  素通しのプレゼント  友人の音楽会とか芝居に出かけていく時、花束のかわりに私はシャンパンを一本抱えていくことにしている。  で、シャンパンだが、特上のものをわざと箱から出し、デパートの包装も断って、そのかわり首のところに美しいリボンを飾ってもらう。むきだしのボトルのまま、楽屋へ持っていくのだ。つまり、それは親しさの表われなのである。気軽に粋《いき》にしたいと思うからだ。  ただし条件がひとつある。むきだしにして持参するものは、絶対に上等のものでなければならない。シャンパンで言えばドン・ペリニョンとかルイーゼ・ポメリーとかね。  私が親しい人たちへの贈りものに、包装をしないのには、ほかにも理由がある。今でこそ特別のコーナーがあって、きれいな包装紙とリボンで好きなように包んでもらえるシステムがあるが、その昔はなかった。自分で包み直して贈るしかないが、包装には技術がいる。私はとてもプロのようにぴたりときれいには包めない。それで、デパートの包装紙でがまんするしかなかった。  けれども、デパートの包装紙というのは、どこか公共的で味気ない。個性がない。あげる時ももらう時もドキドキしない。で、包まないことにした。きれいなリボンをかけてもらったり、結んだり、とめつけてもらうだけにした。これが意外に良かった。反応が早い。それに大げさにならないのもいい。  プレゼントにかぎらず、デパートで買いものをする時、私は箱や袋や、包装を全部断っている。大きな紙袋をひとつだけもらって、その中に買ったものをむきだしでポンポン入れてもらう。  それでも家に帰って整理すると、ゴミ箱が山のようになるくらいの不用のものが出る。たとえばストッキングを十足まとめ買いにすると、それを包んでいるセロファンの袋と、ストッキングの脚に入っている台紙などが十セット分、ゴミになって出る。  包装を断らずに黙って帰ってくると、紙や箱やビニールのゴミが小山のように出る。このゴミは月曜と水曜と金曜のどれかに外に出すと回収され、どこかの処理場で燃えてなくなる。  ところで、今のまま世界中の樹が伐《き》り倒されていったら、二〇三〇年には地球は丸ハゲになってしまうという事実がある。その他に地球の温暖化という問題がある。このままどんどん暖まっていくと北極や南極の氷が解けて、東京なんて海の底になってしまうのだ。  地球の表面の温度が上がるのは、地上を覆っている炭酸ガスやフロンガスのせいだ。私たち人間が科学の向上と共に、それを夥《おびただ》しく排出しているわけだ。  空気中の炭酸ガスを浄化する役割をしているのが、森であり緑の樹々である。いずれにしろ、地上から樹が消えてしまったら、私たちは生きてはいけないのだ。  ご存知とは思うが、紙は樹から作られる。ゴミとなって燃やされてしまった紙を、元の樹に戻すことはできない。  過剰包装を止めろとか、くだらないマンガ雑誌を大量に作るなとか言う時代はもう終ったのだ。彼らの自覚を待っていては、もう間に合わないのだ。国が何とかするだろうと期待しているだけでは、必ずとりかえしのつかないことになる。二〇三〇年といったら、アンアンの読者たちはまだ中年の年頃ではないか。  ジョン・F・ケネディの言葉にこういうのがある。——国が何をあなたにしてくれるかではなく、あなたが国に何をするかである——今の日本がそうなのではないだろうか。あなたの身近なことで、あなたがすぐできることから始めよう。デパートやスーパーの過剰包装を断ることもそうだし、燃料を浪費する車のかわりに自転車に乗るとか、歩くとかね。それにしても去年の十二月は異常よね。十二月の一日、私は半袖で動き回っていたし、その前日には台風が来たのよ。地球の危機は思ったより早いのかもね。  嫌いは好きの始まり  昔、といっても大昔、中学生の頃学校の廊下をトトトトと歩いていくと、どこからともなく現われて、いきなり右足を突き出す男の子がいた。とたんにつまずいて、ぶざまに転ぶ。ニヤリと笑って駆けだして行ってしまう悪たれ小僧の、ほんとうに憎らしかったこと。  何度となくそういうことをされて、私は心の底の底からその子を憎み呪《のろ》った。  目鼻立ちのりりしい、スラリとした少年だったので、ひそかに思いを寄せていたのだ。それなのにその仕打ち。二重に傷ついて恨みは深くなった。悲しくて悔しくて憎くて狂わしかった。  明日卒業式という日のことだった。お弁当を入れようとバタンと机のフタを開けると、手紙が入っていた。内容は短い。——ごめん。好きだった。  そしてあの子の名前。狂わしいほど憎っくきあの少年。数えきれないほど廊下で転ばしておきながら、ごめんだって? 同級生や下級生の前で、さんざん恥をかかせておいて、好きだったはないではないか。私は混乱し、一生懸命考えようとした。好きなのに、なぜ? 中学生の私にはその論理の飛躍が理解できなかった。不当に転ばされるたびに重ねていった憎しみの厚さは、いかんともしがたかった。あまりにも手遅れだったのである。子供心にもそれがわかった。手遅れだということが。あの子は悪戯《いたずら》の許容量をはるかに越えてしまったのだ。私は返事も書かず、卒業式ではそっぽをむいたまま無視をした。そしてそれっきり。  今頃になってあの時のことをよく考える。そして思うのだ。あの子は私のことをほんとうに好きだったのに違いない、と。好きで好きでどうしようもなくて、それでサッと右足を突き出してしまったのだ。その時の少年の、火のような心の中を想像すると、今更ながら、胸が痛む。似たようなことが何度もあった。  学生の頃、美術学部にいい男がいて、私はひそかに憧れていた。何とかチャンスをみつけて話しかけ、友だちになりたいと思った。  それなのに、彼は冷たいのである。道ですれ違いでもすると、プイッと顔を背ける。食堂で隣の席にやっとの思いで腰をかけ、煙草の火を借りるようなふりをして、震える声で話しかけると、ケンもホロロに、「煙草、すわねえよ」。更に傷ついたのは、遠くの方から姿を見ただけで、さっと横道に姿を消したりして、私を回避したことだ。何サ、と思った。お高く止って。  で。容姿も何もかも数段上の建築科の学生に切りかえた。これみよがしにベタベタした。件《くだん》の彼は、冷たい軽蔑《けいべつ》の横顔をいっそう背けて、私から更に遠ざかった。ますます傷つき、それまでにも増して恋心がつのった。私は自分の手に簡単には入りそうもないものに対して、闘志が湧くたちなのだ。何サ何サと思い、建築科の男の他に、油絵の学生ともイチャツキ始めた。 ——閑話休題。光陰矢のごとし——。  あるデザイン関係のパーティーで、ひょっこりと昔の冷たい男と顔を合わせてしまったのだ。はっとしたとたん、むこうも私に気がついた。と、どうだろう。私はドキッとして足が凍りつき、彼はプイと顔を背けるではないか。これは反射神経のなせるわざだ。いくらなんでもいい大人になった二人がプイプイと顔を背けあっているのでは、話にも何にもならない。少しの間私は彼を意識しつつチャラチャラと男たちと談笑していた。必要以上に親密を装い愛想を振りまいた。 「あいも変わらないね」という声がした。昔の彼がすぐ後ろにいた。 「あなたもね」私は平常を装って言い返した。 「ボクも?」と彼は意外な顔をした。 「あいも変わらず非社交的」 「社交的にしたくとも」と、彼はふと遠い眼をした。「きみには取り巻きが大勢いて、気の弱いボクなど入りこむ余地など皆無だったものねぇ……」  男って、どうしてこう、取り返しのつかない時になって、本当の気持ちを明かすのだろう?  立食厳禁  ビュッフェのパーティーなどで、主催者側の挨拶《あいさつ》が済んだとたんに、ご馳走《ちそう》の並んだテーブルに人が群がる。  そのたびに、食欲というのは人間の本能の中でも一番コントロールしにくい欲望なのだなと、感慨を深くするわけである。  たとえばセックスがしたいとか、眠くてたまらないとかしても、まさか人前でそんなことはできないから、我慢するし、我慢できる。  食べること、眠ること、セックスをすること、と人間の持つ三大欲望のうち、この食欲だけがむきだしになるのが、私はいつも変だと思う。  そもそも本能をむきだしにすることは、恥ずかしいことなのだ。あからさまな欲望のまま人前でその行為に移るなどというのは、はしたないことなのである。  その一番悪い例が、ビュッフェ・パーティーの立食の際、脇目をふらずにご馳走に群がる人間の姿だ。  きちんとした背広姿の男たちがいっせいに群がる姿も、寒々しいものがあるが、若い女の子たちが、それもきれいに着飾って、あれをするのは、ほんとうに見苦しいの一語に尽きる。別に今は飢餓の時代ではないのだから、あそこまで髪ふり乱すことはないだろうに。  しかも、小さなお皿に山盛りに一杯。熱い料理も冷たい料理もいっしょくたのてんこもり。ご馳走に群がるのもみっともないが、立ち食いは更に見苦しい。しかも正装して、カクテルバッグなど小脇にかかえながら、お皿の上のものをかきこんでいる姿なんて、絶対に好きな男に見せたくないね。百年の恋もいっぺんで冷め果ててしまう。  立ち食いがきれいに見える女の子なんていないのよ。たとえダイアナ妃だって、そうよ。とにかく人前で本能に身をまかせることは止めにしよう。見ている方が恥ずかしい。 「でもお腹が空いてるんだもの」とか、 「つい誘惑に負けちゃって」とか、色々理由はあるだろう。だからパーティーで一人素敵でいたかったら、事前に食事をして行くことだ。  軽くオソバでなんてことは言わずに、たっぷりしっかりと食べてから行こう。でないと、ついビーフシチューに眼が行ってしまう。デザートに手が伸びてしまう。  しっかりと食べていけば、パーティーの席で意地汚く食欲の鬼と化すこともなく、一人クールにジントニックなど啜《すす》っていられる。第一、人との会話もできる。せっかくのパーティーに出かけて行って、誰とも喋《しやべ》らず、ひたすら立ち食いで満腹するなんて、淋《さび》しい光景だと思わない?  パーティーというものは本来人と出逢《であ》うために出かけて行くものなのだ。脇目もふらずに食べてばかりいたら、ステキな男がいたって眼に入らないでしょう?  せっかくご馳走が山のように並んでいるのに、もったいないと思うかもしれないけど、私に言わせれば、食欲のとりこになってステキな出逢いのチャンスを失う方が、はるかにもったいないことよね。  第一、ご馳走っていうけど、ホテルのパーティーで出るものなんて、どれも同じようなものばかりだし、たいして美味しいものじゃない。見ためは豪華できれいだけど、舌に与えられる喜びなんてあまり期待できない。  私くらいの年齢になると、ほんとうに美味しいと思うものを、好きな人たちと一緒に楽しく食べたい。ゆっくりと坐り、ワインを飲みながら、お喋りを楽しみながら。パーティーの立食で、慌ただしく食事を詰めこんで満腹すると、一回の食事を損したような気持ちになってしまうのだ。  だからよく、パーティーの席で友だちにバッタリあうと、「ねえ、このあとどこかで食事しない?」と誘ってしまう。そう、私くらいの年齢になると、事前にモリソバや食事をしっかりして来なくとも、食欲をコントロールすることができるのだ。ジントニックを一、二杯飲む間に、そのパーティーで一番素敵な男をみつけだし、適当に抜けだすなんてことは、朝飯前。それというのも、あなたたちがご馳走に群がっていて、いい男の存在に気づきもしないからよ。  女友達  私には三十年来の心を許した親友が二人いるが、二人とも男である。そして二人とも大恋愛の末すったもんだがあって、お互いに傷つき許しあい、離れ難く、やがて生涯つかず離れずの友情へと移行していった関係である。  親友というのは、最後の駆け込み寺のようなものである。でも駆け込まない。少なくとも髪ふり乱した狂乱状態では駆け込まない。たとえ胸のうちはそうでも、「たまには一杯、飲まない?」と軽くアプローチする。 「いいよ、いつ?」 「今夜は?」  そこで彼は一瞬だけ黙る。急だな、とか、何かあったのか、などということは一切言わず、「よし、わかった」と承知してくれる。  そしてその夜二人は逢《あ》う。たわいのない話が続いて、彼が言う。「で、どうしてる?」 「八方ふさがり」  するとまた彼は黙り込む。そして言う。 「俺《おれ》にできることは?」 「ないわ」 「ふむ」とグラスを長いこともてあそぶ。  琥珀《こはく》色の時間がゆっくりと流れる。絶望している私がいて、私のためになんでもしてやりたいと思っている男がいて、けれども私は何も求めず、彼の方も無理に自分を与えようとはしない。不毛ではあるが、温かく寛《くつろ》いだ一時。 「恋人はいるのか」ふと彼の表情が柔らかくなる。 「いるわ」 「チクショウ」  それから彼はグラスを掲げ、私がこれまでに犯した過ちや、これから犯すであろう過ちに乾杯する。そして、やりのこして来た仕事を続けるために、深夜のオフィスに帰っていく。  かつて私には女の大親友がいた。何かことあるごとに全てをぶちまけ、何もかも相談しあってきた。彼女は私の健康状態から家庭のことから交友関係の全てを、裏も表も知りつくしていた。私もまた彼女の全てを知っていた。  ある時、例によって新しい悩みを打ちあけようとして、私は口を開きかけた。そのとたん、胃に吐き気を覚えた。もし無理矢理に何かを言おうとしたら、本当に嘔吐してしまうだろう。私はその瞬間、親友の彼女のことがすごく嫌だった。私のゴミ溜《た》めのような彼女が嫌だった。私の吐きだしたゴミが、彼女の中で発酵し、腐り、悪臭を放っていた。  私もまた彼女のゴミ溜めだった。私も悪臭を放っていた。彼女の前で私はいかなる尊厳も保つことはできなかった。そのことに突然気づいたのだった。私は彼女をもはや尊敬していなかったばかりか、好きでさえないことに気がついたのだ。彼女も私に対して同じだった。  崩壊は早かった。私の秘密を全て握り、私の弱さやずるさや卑劣さのかぎりを知りつくした彼女の前で、自分が虫けらのような気がした。 「どうしたの?」と彼女が固い声で訊《き》いた。 「何も言いたくないわ」 「わかるわ。たまにそういう気分になるものよ。明日、改めて聞いてあげる」 「明日も言わない」と私も固い声で言った。 「明日もあさっても、永久に言わない」  私は敢然と席を立った。自分自身に腹が立ってならなかった。  それ以来、私は永いこと女の親友を持たなかった。女が信用できないというより、私自身、自分を信用しなかったからである。  ようやくこの十年くらい前から、女の親友を再び持ち始めた。彼女たちも私同様、�女同士の友情�に関して苦く痛い思いを体験しているはずである。  今私は、彼女らに対しても、男と同じスタンスでつきあっている。つまり相手をゴミ溜めにしてしまわないように。尊厳を保ちながら。後々になって恥ずかしくなるような修羅場を演じないということが、男にかぎらず女とも友情を保つコツである。  いいことだけを信じよう  星占いを気にしない女の子なんて多分いないと思う。アンアンの一番最後の頁の私のエッセイは読まない人でも、星占いの頁には絶対に眼を通すのに違いない。  何を隠そう私自身も、送って来る雑誌という雑誌の占い頁は、ついでに必ず読んでいる。  たとえば『今週は人に騙《だま》されるかもしれない』というマイナスの言葉もあれば『あるステキな出逢いがあり、恋に発展するかも』と、うれし楽しい見通しもある。  元来、楽天的な私は、その週の自分の運勢を、『ステキな人との出逢い』だけ期待し、『騙されるかも』の方は無視してしまう。すると不思議、ほんとうにステキな人に出逢ったりするのだ。そして特に騙されもせず、無事一週間が過ぎてしまう。  しかし根が悲観的な人だとどうなるのだろうか? 『ステキな人との出逢い』云々は非常に疑わしいことに思え、かすんでしまうのではないか。そして『人に騙される』不安ばかりが高じて、疑心暗鬼の一週間となる。  もしかして、この人が私を騙すのかも、とか、もしかすると大親友のK子が私を裏切るのかもとか、暗く暗くその週を過ごすより、もしかしてこの人が白馬に乗って現われた私の王子さまなのかしら? とワクワクドキドキする方が、はるかに同じ一週間でも楽しいはずだ。  しかし、性格は性格。白いものを無理やり黒と思えと言っても、これは無理な話。  ただひとつだけ言えることがある。その人の人生というのは、大体の場合、その人の望んだようになる、ということである。マリア・カラスは少女の頃、いつかスカラ座のプリマドンナになりたいという強い願望を抱いていた。ココ・シャネルも子供の時から美しいドレスに包まれた自分自身の姿を夢想しながら、成長した。私自身も九歳の頃、いつか女の作家になりたいと強く思ったことがあり、その当時寝ても覚めてもそのことばかり考えていた。  占いを読む時だが、『ステキな人に出逢えるかも』をどう受けとめるかだ。漠然とタナボタ式に期待するのと、積極的にそれを信じ、信じるだけでなく『絶対に出逢えるし、出逢いたい』という強い願望に変えるのとでは、結果が違ってくる。積極的な強い願望を抱いて一週間過ごす人の方が、それが現実になる確率は高いはずだ。  悲観的な人の人生が、悲観的なものになりがちなのは、いかに人間が暗示に弱いかということの証明で、積極的な願望もいってみれば暗示である。自分の中にたえずある強い思いのエネルギーは、それがいいことであれ悪いことであれ、実現をめざしてしまうものなのだ。  むずかしい言葉でいうと、潜在意識にインプットされた暗示のエネルギーというのは、プラスの思いもマイナスの思いも、区別なく通してしまう。 「今週は悪いことが起こる」と思えば起こるし、「いいことが起こるんだ」と思えばいいことが起こるというのは、そういう理由による。  ついでに、潜在意識の恐ろしい力についてもうひとつ触れておく。たとえばあなたが誰かをとても憎んでいるとする。ほんとうに憎くて憎くて、その人が何かで仕事に失敗すればいいとか、事故にあえばいいとか寝ても覚めてもその人の失脚を願っているとする。  そうするとどうなるのか。その願いは実現するのか? そこが潜在意識の不思議なのだが、仕事に失敗したり事故にあったり、失脚したりするのは、その憎き相手ではなく、それを願ったあなただということになる。なぜかというと潜在意識は一人称の人格しか通用しないのだ。つまりあなた自身だ。  事故にあえばいいという思いだけを受けとるわけだ。誰が? もちろんその思いを抱いた張本人がだ。というわけで、他人を悪く思ったり憎んだり失脚させようという願望は、全て自分に返ってくるのだということも、覚えておいて欲しい。では、良い夢を。  我がままの美学  親しい仲間と食事をしようということになると、私は幹事役に電話をしてこう言う。 「フランス料理は嫌よ。会席も嫌い。中華は色気がないし、お寿司は食べあきちゃった」 「ちょっと待って」と相手が言う。「それじゃイタリアンの他何もないじゃないか」 「イタリアンでいいじゃないの」 「だったら最初からイタリアンでいこうと、言えばいいのに」 「物事を初めから限定するのがいやなのよ」 「結局自分の思い通りにするくせに」と幹事は言う。「君って本当に我がままなエゴイストだねぇ」と溜息《ためいき》をつかれると、アレ? と思ってしまう。私が考えているエゴイストというのは、消去法は使わないはずなのだ。アレとかコレとか断定的に押しつける人間のことだと思っていた。  私が我がままだとか、エゴイストだねぇと溜息をつかれるもうひとつの理由に、イエスとノーがとてもはっきりしているということもある。  これはひとつには、イギリス人の男と結婚したせいもあるのだ。 「今夜、ご飯食べに出ようか」  と夫が誘うとする。 「うん、そうね」と私が答える。日本人同士の場合はこれでいい。イギリス人相手だとそうはいかない。 「うん、そうねって、どっちなの。イエスかい、それともノーなの?」 「あなたが外で食べたいのなら……」言外にイエスを含んで答えているつもりだが、この言い方もイギリス人には通じない。 「イエスかノーか訊《き》いてるんだ!」  とついに夫がカンシャクを起こす。 「あんまり気がすすまないのよ」これも言外にかなりはっきりとノーを含む言い方なのだが、当然通用しない。夫は髪を掻《か》きむしり、地団駄をふむ。 「わかったわよ、イエスよ、イエス。イエスならいいんでしょ!」と、私の方もヤケになって叫ぶ。 「そのイエスはノーと言ってるイエスだぞ」  イエスを三回も言ったのに、なんということだ。そんなことの連続ですっかり傷ついてしまった私は以後、あっさりとしたものだ。 「ご飯食べに行くかい?」 「嫌よ」 「スキーに行こうよ」 「嫌」 「ちょっと現金、貸してくれる?」 「嫌」  これが習慣になって、日本人相手でもイエス・ノーをはっきり言ってしまう。で、評価は「我がままな女」。  私の我がままを分析してみると、自分のしたいことを人に押しつけてはいない。ただし自分のしたくないことは絶対にしない、ということは言える。  食べたくないものは絶対に食べないし、一緒に食事をしたくない人とは絶対にそうしない。そうすることだけで、どれだけストレスが解消できるか計り知れない。  若い時はそうはいかなかった。人とのつきあいもある。目上の人に失礼なこともできない。お腹が空けば不味いものにもつい手を出す。それにまだ自分の好みもかっことしたものがなかった。  私が自分のしたくないことをしないですむようになったのは、ついこの二、三年来のことである。つまり私はそれを勝ち取ったのだと思う。  仲間たちは、またヨーコの我がままが出たと苦笑はするけど、結構それを楽しんでいるむきもあるのだ。 「何飲む?」とバーで男に訊かれて「何でもいいわ、おまかせする」なんて言う女は、私が男だったらカッタルくてとても嫌だ。 「そうねウォッカ・トニック。ただしトニックウォーターとソーダで半々に割ってちょうだい。生レモン半分しぼり入れてね」  でもこういう注文がすんなりと通るのは年の功よね。若い女性が同じこと言ったら嫌味かつっぱりに思われるかもしれない。そうね、我がままだったりエゴイストだったりするのにも年季がいるのかもしれないわね。  苦労しようよ  つい最近、娘と衝突し、結局あれこれ調整したが上手くいかず、ここはひとまず娘が家を出るということで、ひとつのケリをつけた。単なる家出ではなく、かといって勘当でもなく、まずは円満に独立してやってみるという形になり、お互いの顔も立ち、ホッとしたところだ。  私の顔が立つとか潰れるとか、そんなことは実はどうでもよいのだが、どうせなら仲良くやっていくことに、越したことはない。で、仲直りしたとたん、彼女が何と言って来たと思う? 「悪いけど、アパートの敷金出して」だって。もうママの世話にならないと啖呵《たんか》をきった直後だから、我が子ながらガックリきたが、そういう育て方をした親が悪いわけなので、最後の我がままを許した。といっても、彼女が私と一緒の広告に出た時の、ギャランティーを貯めておいた分から出してやったので、私の懐が直接痛んだわけではなかった。  それはさておき、私は娘にはなむけの言葉なるものを、一言訓辞してしまった。古いタイプの母親なのだと自分でも思う。 「人生とは常に選択に迫られるものなのよ」と私は娘に言いきかせた。センタクを洗濯と聞き違えた我が子はキョトンとして「センタクくらい、コインランドリーでやるよ」と答えた。彼女は半分イギリス人なので、あまりむずかしい日本語がわからないのだ。で、私は英語に切り替えた。 「二つにひとつチョイスしなければならないような時」と私は続けた。「少し考えて、自分にとってより苦しい方の道を選びなさいよ」  すると娘は私を異星人でも見るような眼でみつめて、「どうしてよ?」と訊《き》いたのだ。「どうしてわざわざ苦しい方を取るのよ? バッカじゃない?」  あぁそうか、そういうのは新人類には通じないのだ。たとえ英語で説明しようとも。そういえば我が娘たちは私が何か提案すると、二言めには「そういうの楽じゃないよ」と言い返したものだ。 「とにかく、何でもいいから、選択を迫られた時、ママの今の言葉を思い出しなさい」  と、私は説得をあきらめ、そう命令したのだった。  さて、自分の娘さえも説得できないで、どうしてアンアンの読者にわかってもらえるか、はなはだ自信のない今週の私なのである。  一番わかりやすく言うとどういうことになるのかな? 楽チンな方ばかり選んで生きていくと、そうね、顔がどうなるか、例にとると理解しやすいかもしれない。楽チン顔になるわね。つまりしまりのないマシュマロみたいな顔。十六や十七ならマシュマロでもいいけど、三十歳になってもマシュマロじゃ気味悪いし、五十、六十になったら、しなびたマシュマロだ。眼も当てられない。  でも町の中を歩いていると、そういうマシュマロ顔がやたら多いのに驚いてしまうのだ。マシュマロ顔の女子大学生とかOLとか、人妻とか、一児、二児の母とか。  さすが今のところマシュマロ婆さんというのは存在しないけど、それも時間の問題。あと二十年もしたら出現するかもしれない。  顔だけじゃなくて、楽チンばかりしていると体まで楽チンボディーになるということも忘れてはいけない。つまりマシュマロ・ボディー。赤ちゃんの時はみんなマシュマロだけど、普通、人間は成長というものをするものなのだ。知性と筋肉がつき、体がしまってくるはずなのだ。  知性も筋肉もつけず、マシュマロがダイエットすればどうなるか。空気の抜けたマシュマロだ。ベッタベッタして、感触は不気味だわよね。  うちの娘は、結果的には口うるさい親元から逃げだし自由になった。そこまでは、楽チンな選択のつもりだったはずなのだ。ところが、今は、自分のアパートの家賃は稼がなくてはいけないし、食べ物も自分で買わなければいけない。着るものだけは、親が買ってくれたもので当面はなんとか過ごせるだろうが、洗濯は自分でしなければならない。ほらやっぱりセンタクって洗濯のことじゃないのさ、と娘が言いそうだ。  バラとひまわりと造花と  女が目鼻立ちで勝負できるのは十七、八歳まで。可愛《かわい》いわね、と言ったり言われたり。それはそれでいい。  しかし十八歳を過ぎた女に、あの娘《こ》可愛いね、などというのは、本当は名誉ある誉め言葉でもなんでもないのだ。世の男というものは、自分がたちうちできそうもない女とか、とうてい丸めこめそうもないような女に対して、はなから興味の対象にしないからだ。つまり、自分でも何とかできそうな手頃な女の子で、しかも自分に少しは好意を持っているらしいと思われる女の子しか、相手にしないからだ。だからマザコンのつまらない男に「きみって可愛いとこあるね」と言われる女は、マザコン男にふさわしいつまらない女なのだと思った方がいい。  美形の目鼻立ちに生まれた女の子が、その特権を濫用し楽しめるのは、最初に言ったように、十七、八歳までなのだが、日本人は男も女も、世界の平均からみると精神的発育が五歳は遅れているから、まぁ、二十五歳くらいまでは引き延ばせるかもしれない。  蝶よ花よと育った女の子は、玉手箱を抱えているようなもので、面白おかしく過ごした年月の果てに、玉手箱を開いてみたら、白い煙がもっくもく——、あれよというまに老婆になり果てた、という筋書きにある通り、要注意。  私自身にも経験があるが、クラス会などに行くでしょう? その昔、クラス中の男の子の人気を一身に集めた美人のカズコちゃんが、三十歳のクラス会では一番老けていたってこと、あるよね。四十歳の時には、昔の美貌《びぼう》はどこへやら、いたって貧相なおばさんになり果てている。  これって、宝のもちぐされ。自分をたえず磨かなかった怠慢の罰なのよね。だってチヤホヤされ通しで磨く必要もなかったから、ついうっかりしていたんだと思うの。  どんな美しい花だって、放っておいたら枯れてしまう。水をやり肥料をやり、慈しみ育てれば、それなりの効果もあり、長持ちもする。そして私たち女は、誰でもそれぞれに花なのである。バラもあればダリアもある。水仙もあればひまわりもある。  ひまわりは、バラの美しさを羨《うらや》ましいと思うこともあるだろう。ダリアは水仙のそそとしたたたずまいに、人生の不公平を感じるかもしれない。しかしひまわりに生まれたらひまわりの人生を生きるしかない。ひまわりがバラの真似をしたって所詮《しよせん》バラにはなれない。  元気で陽気で、つややかなひまわりになればいいのだ。周囲の人を温かく包みこんでしまうような、ね。  健康優良児みたいなダリアは、青ざめた水仙のお色気を羨ましいと思うかもしれないが、ダリアでもとびきりのダリアになればいいのだ。エネルギッシュではつらつとした魅力を発揮すればいい。いいこと、三十五歳以上になってからクラス会に出席してみてわかるけど、後半の人生でかつての男の子たちを魅了するのは、ひまわりさんやダリアさんなのよ。バラや水仙やスイートピーたちは、すでに水分を失ってしおれかけているんだから。  ところで、それぞれに花である私たち女は、自分で自分に水をやり、肥料をやり、青虫や油虫をとり除かなければならない。それはどの花に生まれても等しく平等に与えられた生き続けるための方法論なのだ。  美人のバラさんや、可憐なスイートピーちゃんは、何もしなくても美しく、可憐なので、つい日頃の手入れを忘れがちだ。忘れないまでも鏡に映る表面的な自分の姿を点検する程度だ。大事なのは根元にやる肥料なのである。 「肥料なんて臭くて嫌よ。気絶しちゃうわ」と可憐なスイートピーちゃんは、それを拒絶さえするかもしれない。臭いもの、苦しいこと、辛《つら》いことが我々花の肥料なのに。  ところでこの頃、まだ若いのに、水分のないようなカサカサした女が多いと思わない? そういう花を造花というのよ。一見きれいだけど、よく見ると味気ない。匂いもない。そしてうっすらと埃《ほこり》すらかぶっていたりしてね。下手に水をやると色が流れ落ちたり、くったりしちゃったり。造花にはなりたくないわね。  逃がした魚は大きかった  由美ちゃんが、大学時代からつき合っていたボーイフレンドと別れて、別の人とお見合いで結婚したのは三年ほど前だった。  元々、恋愛と結婚は別のものと彼女は考えていた。結婚はある意味で家と家との結びつきであり、夫となる相手は世間に出しても恥ずかしくないような人物でなければならなかった。そして何よりも、物質的に彼女の一生を保障してくれなければ困るのだ。  大恋愛の末に結ばれるわけではないから、アバタもエクボということはありえなかった。先行するのは条件である。由美ちゃんは、学歴と収入の高さに加えて、百八十センチ以上と、背の高いことも、必須条件に加えた。  愛してもいない男と結婚するということに関して、彼女はそれほどの危惧《きぐ》を抱いてはいなかった。どんな恋愛だって、いずれは冷めるものだ。かつては熱々だった相手と冷め果てた関係を延々と持続することの方が、寒々しく耐え難いように思われた。  大学生活を通してのボーイフレンドは、最初から遊びのつもりだったので、たいして波風もたたずに別れることができた。彼は面白おかしく遊ぶには良かったが、将来的な出世コースからは外れた若者だった。  お見合いの相手は、理想を絵に描いたような男性だった。由美ちゃんは、そのように結婚したのだった。  一緒に暮すようになってほどなくわかったのだが、夫はほとんど無趣味だった。本など一冊も読まない。あえていえば仕事が趣味だった。たまに家にいると、パジャマのままゴロゴロしてテレビばかり観ている。  趣味がないから、話題にも乏しい。二人の間に最低必要限度の会話しか成立しない。由美ちゃんは昔のボーイフレンドの機知とユーモアに富んだお喋《しやべ》りをよく思い出すようになった。  そのうち、図体ばかり大きくて、ゴロゴロしている夫が、やけに目ざわりに思えて来た。家の中にばかりいるからいけないのだと思い、「働いてみようかしら」と言ってみた。夫は即座に「その必要はない」と答えた。妻を外へ働きに出さずに済むだけの給料は、稼いでいるはずだから、と言うのだった。  退屈な日々がウツウツとして流れた。子供でも生もうかしらと、ふとそう思った。  由美ちゃんは妊娠し、無事子供を生んだ。背の高いハンサムな夫は出世コースの仕事にかまけて、育児には全く関知しなかった。彼女はとり残されたような気がした。小ぎれいではあるがだんらんのない家庭という檻《おり》の中に、つながれているという思いがつのった。退屈しのぎに生んだ子供は今や、足かせとなって、二重に彼女を檻の中に縛りつけるのだった。  そんなある日、彼女は風の便りに昔のボーイフレンドが結婚して今は海外で暮しているという話を耳にした。彼の父親が亡くなり、相続した地方都市の土地と家を売り、オーストラリアに移住したのだという。そこで牧場を買い、つつましく人生の新しいスタートを切ったということだった。  由美ちゃんは、広々とした牧場と、青い空とを思い描いた。そこで手に手をとって動物の世話をする若夫婦の姿を想像した。自分をその妻におきかえてみたりもした。自然と動物に囲まれて伸び伸びと育つ子供たちが、眼に見えるようだった。無限の可能性を秘めた子供たち、若夫婦。彼女は自分が失ってしまったものの大きさに呆然《ぼうぜん》とした。  だけどね、由美ちゃん。私はやっぱり今のあなたの生活が、あなたに一番ふさわしいのだと思う。  もし、昔のボーイフレンドと結婚したとしても、あなたは、彼のオーストラリア移住計画に対して、顔色を変えて反対していたと思うのよ。そんな、海のものとも山のものともつかない無謀な人生計画なんて、とんでもないわ、と。  あなたは、安定した生活の保障だけを求めていた、そしてそれを手に入れた。安定ということが退屈と同義語だということは、知らなかったみたいだけど。  結婚しようよ  日本の女ってどうして黒か白にきめたがるのだろう。結婚か仕事かとか、遊びは遊び、結婚は結婚とか。 「結婚しないかもしれない症候群」なんて新語があるらしいけど(その少し前はクロワッサン症候群だった)、そういう女の行く末を想像すると、寒々しい思いにかられるのだ。一生独身を通すから寒々しいのではなく、そういうものの発想をすること自体が寒々しいのだ。  私の持論だが、人間というのはそのつどそのつど岐路に立たされ、熟考したり苦しんだりしながら、どの道を取ろうかの選択をしてきたと思うのだ。そのようにして人の歴史は作られて来たのだ。  そしてほとんど偶然としかいえないような出逢《であ》いから、男と女が結婚し子どもが生まれる。生まれてくる子供は世界的人口の比率からいうと男と女が約半々である。個人的な片寄りはあるかもしれないが、地球レベルでいえば、半々。男と女は嫌でも出逢っていくように運命づけられているというわけだ。  であるから、岐路に立たされてもいず、たいして熟考もせず、苦しむことを避け、「あたしは結婚なんてしないわよ」と宣言するような女には、必ずや地球レベルの罰が当たると思うのだ。  歩いていて頭上から鉄板が落ちてくるとか、ゴルフをやっていていきなり雷に当たるとか。いらないのは結婚相手だけなのに、男っ気がまるっきり寄りつかなかったり。  私がここで言いたいのは、症候群的に、あるいはそういう風潮に乗せられて、結婚の選択に迫られてもいないくせに、「結婚しないかもしれないわ」などと言うのは、お止めということなのだ。  実際に、そういう問題に直面し、真剣に真面目に結婚か仕事かという選択を行うのならいいのだ。そこでの選択は地球レベルの選択に含まれていくからだ。  けれどもいつも思うのだが、なぜ、結婚か仕事かという選択の問題になってしまうのだろうか? なぜ、結婚も仕事もという積極的な発想になっていかないのだろうか?  結婚を犠牲にして、地位とか名誉、権力を手に入れた女によくありがちな態度、たとえば椅子《いす》に坐る時、どっこいしょといった感じ、足を開いてどっかと坐る感じ(実際には膝《ひざ》はそろえていると思うが、あくまでも開いている感じという意味)、「おうおう、ようやった」というふうに周りの男共を見やる感じなどを発散することはないだろうといつも思うのだ。  イギリスのサッチャー前首相のステキなところは、サッチャーさんは自分の威厳を保つために、男の真似など決してしない、ということである。なぜなら、彼女サッチャーさんは、自分が一人の女として夫に愛されていることを識《し》っているからである。  世のいわゆるキャリア・ウーマン指向の女性の言動が、きびきびしているのを通りこして男性化していくのを見るにつけ、困ったものだと思う。  特に、地位を得ると尚更、その傾向が強くなる。土井たか子さんがよい例だ。  キャリア・ウーマンの男性化の行く末は、孤立だ。地位とある程度の権力のおかげで、部下の何人かは支配下に置くことはできても、そんな関係は一歩職場を出てしまえば、無にも等しい。たったひとりでランチを食べるわびしい姿をさらけ出すことになる。ランチだけでなく、夕食の相手にも事欠くかもしれない。淋《さび》しいではないか。 「あたし、結婚なんて絶対にしないわよ」と、宣言する若い女は、もうすでにその硬化した発想において、かなり男性化の道を進んでいることになる。  どうせ男を真似るのなら、もっと徹底的にその精神構造まで真似ればいいのだ。その証拠に、男が結婚か仕事かの選択に迫られることはない。そこで一大決心をしたりしない。自然のこととして両方を受け入れている。  肩の力を抜いて、柔軟にいきましょうよ、ね?  無知は罪  アラビアの砂漠で戦争が始まった時、テレビニュースがしきりに街頭でインタビューをした。若いオフィスガールや女子学生たちがそれに答える様子を見て、私は積極的に日本の将来を憂えてしまった。 「戦争? 嫌ですねぇ。すぐやめて欲しいと思います」とか、「反対でエす」とか、「戦争は避けるべきだと思う」とか、そんな答えが杓子《しやくし》定規に返ってきた。「イラクがどこにあるか知っていますか?」と、インタビュアーが更に突っこんで質問——、大ざっぱな地図を広げた。 「えー、わかんない」  と、お嬢さんたちは長い自慢の髪をマニキュアのついた指で、かきあげて、「このあたりじゃないんですかァ?」と、南アフリカのあたりを指したりした。別の女の子は、ブルガリアのあたりを、あるいはトルコを指した。それから口に手をあててウァッと笑い、ボディコンの躰《からだ》をくねらせながら、カメラの前から逃げていった。  戦争は悪いのにきまっている。避けられるものなら避けた方が良いのにきまっている。けれども、ある日いきなりソ連軍が北海道から雪崩《なだれ》のように入ってきて、あれよあれよというまに東京を占領し、日本をソ連の属国とすると言ったとする。食料はたちまち不足し、外出禁止令が出、武装した兵士たちが我がもの顔で歩きまわると仮定する。まず、こんなことが起こっていいわけはない。しかしこれが実際にクウェートで起こったのだ。  さて世界中がこの暴挙に怒りを感じ批難し、不法占領者の即時撤退を求めた。不法者はそれを拒否した。日本から敵が立ちのかないというのだ。そこでアメリカを中心としイギリス、フランス他三十カ国からなる連合軍が、日本から敵を追い出してくれるために、戦いを始める。この戦争は敵を追い出すためだけではなく、自由と民主主義を守るための戦いなのでもある。クウェートに起こった暴挙を黙殺すれば、第二、第三のクウェートが生まれることになるからだ。  日本がどこかの国にいきなり占領されたら、「戦争は反対でエす」などと、のんきな事など言ってられないはずなのだ。それが今現実にアラビア砂漠で起こったことなのだ。  アラビアの砂漠があまりにも遠いから、人ごとのようにしか思えないのだろうか。日本は一人の兵士も派遣していないから、アメリカやイギリスやその他の連合軍の若者が犠牲になって死んでも、現実感に乏しいのだろうか。  日本という国は兵士も出さない、できることならお金も出さないですませたいのだ。それは政府の本音でもあり、日本人全体の、そしてあなたたちお嬢さんの気持ちでもあるのに違いない。  それは、民主主義とか国際社会という名の電車に、ただ乗りしているのと全く同じことなのである。息子や娘にベンツを買い与えることができるほどに金持ちの親がいる世界一の金持ち国日本が、ただ乗りするなんて、ずいぶん恥ずかしい話ではありませんか。  さて、少し理屈っぽい話を書いたついでに、もう少しつきあって下さい。湾岸戦争の張本人であるイラクのフセイン大統領が、なぜ全世界を敵に回し、とうてい勝てる見込みのない戦争を避けようとしなかったかという点を考えてみたい。独裁者の奢《おご》りとか計算違いとか色々と言われているが、私はフセインの中に、アラブ人の捨て身の姿を見たような気がするのだ。知っての通り、アラブの石油はあと三十年くらいですっかり空になってしまう。石油のないアラブ諸国は、ただ単に砂漠の国になってしまう。焼けるような砂漠に、何億という人々が放置されてしまうのだ。そういう日が必ず近い将来、くるのである。豊かな樹木や水に恵まれた私たち日本人には、想像もつかない終末の姿なのである。が、それは、もっと先の日本人の行く末の姿であるかもしれないのだ。天然資源は毎日のように確実に減りつつあるからだ。あなたが乗りまわしている車のガソリン、あなたが毎日何枚も何枚も消費するティッシュペーパー。私たち一人一人が自然の資源を減らしながら生きているのだ。  みんな天才  一芸に秀でるという言葉がある。今ではほとんど死語みたいな存在だから、そういう言葉があったという方が正しいかもしれない。多分そういう言葉が生活の中で生きていたのは、アンアンの読者のお母さんたちまでの時代だったのだろう。私もその時代、親から芸事をみっちりとやらされた一人である。  お花とかお茶とかお習字とか、女のたしなみに属することはなぜかやらされずに、ヴァイオリンを徹底的に仕込まれた。六歳から十七年間もその道一筋。ヴァイオリンが好きだったら、ヴァイオリンを奏《ひ》く他に何もしなくても良かったのだから、こんなに楽なことはなかったろう。しかし私はヴァイオリンが嫌いだった。泣きながら毎日何時間も練習させられた。  嫌いだったから、上手にはならなかった。それでも芸大に入って一応はプロの道をめざした。他に、何もできなかったからだ。  けれども結局、プロになることもやめてしまった。十七年間も我慢に我慢をしてきたのだけど、この先一生、我慢しつづけることを拒否したのだ。  で、そのあと長いこと、自分のあの苦しい十七年間は一体何だったのだろうかと考え、虚《むな》しさにおしつぶされる日々が続いた。なぁんにもならなかったじゃないか。あのくりかえしの練習と、苦しい忍耐は、何の役にもたたなかったのだ。ヴァイオリンを完全にやめて、十五年の歳月が過ぎた。私には何の芸事も他にはなかったので、お茶を教えたりお花を教えたりすることもできなかった。自分を役立たずのように感じていた。  ある時、小説を書いて、賞をとった。誰にも教えられないのに、私には小説が書けたのである。国語の成績もあまり良くなかったし、第一、ヴァイオリンばかりやっていたので、他の勉強なんてほとんどしていなかった。それなのに小説が書ける。これは誰よりも私には驚きだった。自分で自分に驚きながら、毎日原稿用紙の前に坐り、せっせとマス目を埋め続けた。  今ではもう十五年目になるが、書いていて苦しいということは一度もなかった。書き出しさえすれば夢中になれる。苦しいのは、机の前に自分をしんとした気持ちで落ちつかせるまでの時間だ。書く状態に自分を持っていくまでが闘いであって、ペンが動きだせばそれは嘘《うそ》のように消えてしまう。  ヴァイオリンをやっている時はそうではなかった。音を出している間中、辛《つら》くてたまらなかった。ああ私は本当にヴァイオリンが嫌いだったのだ、と思う。そして、物を書くことが本当に好きなのだと思う。芸を仕込まれるということと、その一芸に秀でるということの違いは、そこにある。秀でるためには、血の滲《にじ》むような努力の他に、そのことが好きで好きでたまらなければならないのだ。好きで好きでたまらなければ、血の滲むような努力も苦しみでなくなる。  世の中に天才というものはいないのだとよく言われる。天才も九十パーセントは努力のたまものなのだと。けれども私は思うのだ。何かひとつのことを、好きで好きでたまらないほど好きになれるということは、これは生まれつきの贈りものなのだと。これこそ天賦の才なのだと。  そしてこの天よりの贈りものは、誰か選ばれた少数の人にだけ与えられるのではない。誰にも等しく与えられているのだ。あなたにだって、必ず何かそういうものがあるはずよ。好きで好きでたまらないものが。  時々、それが何であるか、なかなかみつからないことがある。私もそうだった。三十五歳までわからなかった。三十五歳のある日、ふっと、突然にわかった。もっと早くそれがみつかる人もいるし、五十歳でもまだみつからない人もいるかもしれない。ほんとうにみつけたいと思えばみつかるし、そうでない人がいても別にかまわない。それぞれの人生だもの。私個人のことでいえば、みつかってよかった。三十五歳までの血の滲むような虚しい人生を補って余りある。年をとることを恐れなくなったし、去年より今年の方が、今年より来年の方がずっと良い年だと思いながら生きてきたし、これからもきっとそうだと思うから。  ボディコン娘とマリア・カラス  いつも同じ香水をつけているのに、あるひとはすごくいい匂いだね、と言い、別のひとは嫌な匂いだと言わないまでも、不快に思うということはよくあることだ。  その匂いのおかげでますますそのひとを好きになったり、逆に敬遠されていく場合もある。  香水のせいだと思うでしょう? 敬遠されたのはその香水の匂いを彼が嫌いなせいだと。  じゃこのあいだ彼がM子にむかって、「その匂い素敵だね」と言っていたのと同じ香水を使ってみようじゃないの。すごく清潔感があっていいって言ってたやつよ。  M子と同じのをふりかけて、意中の彼の周りをうろついた結果、あからさまに鼻の前で空気を払うゼスチャーして顔をしかめたのは、どういうことなのよ!!  M子がつけるといい匂いなのに、あたしがつけると悪臭になるっていうの? 毎朝ちゃんとシャワーを浴び、シャンプーだってしてるのよ、あたし。  さて、そろそろ香水の不思議さがわかって来ましたか? その彼は、香水そのものじゃなくて、M子そのひとが好きなのよね。そして敬遠されたのも香水のせいではなく、あなたを彼は好きじゃなかっただけのこと。  ということはアルマーニを着ようとフェレを着ようと、それも本来あまり関係ないということだ。 「へぇ、きみアルマーニのスーツ着てるじゃない。いかすよ」  なんて言って近づいてくる男がいたら、それは、あなたがいかすのではなく、アルマーニのスーツがいかすと思っているのであって、最初にあなたがアルマーニ以外のものを身につけていたら、見向きもしないかもしれない。失礼しちゃうと思わない? 「でもやっぱり普通、男って、顔とスタイルがいい女を選ぶわよ」と、そこで膨れっこなし。それは、見せびらかすためによ。どうだい俺《おれ》の連れの女、ハクいだろうが。見せびらかされて、男共々いい気分になるような女もたまにはいるだろうけど、来年になれば流行が変わるんだから、その時はお払い箱。  女は男のアクセサリーなんかじゃないんだから、物かなにかのように見せびらかされるのなんて、真っ平ごめんだと思わない?  問題はいつも言うように中身なのだ。高価な香水やアルマーニのドレスにたぶらかされる男の質なんて知れたものなのだ。これもいつも言うことだが、男は自分と同程度の質か、それ以下の女しか求めない。 「でもあのいつも口をぽかんとあけたタレント、大金持の青年実業家と結婚して玉の輿にのったじゃないの」。青年実業家だってピンからキリまであるからね。多分、彼女と彼は二人とも口をぽかんとあけて暮しているのにきまっている。  私は、マリア・カラスを愛人にしたオナシスに、ちょっと一目置いているのだ。ミラノのオペラ座のプリマドンナを張った偉大な歌手、美貌《びぼう》と才能に恵まれた彼女のような女が、何年も——オナシスがジャクリーン・ケネディと結婚して彼女を裏切った後々までも、オナシスと別れなかったということは、決してマリア・カラスがお金に眼がくらんだわけではないと思うからだ。あの巨万の富をもつ小男には、何か別の強い人間的な魅力があったはずだ。  口をぽかんとあけた美人タレントを妻に迎えたことで、その青年実業家は己れの愚かさかげんを暴露して逆に男を下げてしまったが、マリア・カラスのようなすばらしい天分に恵まれた女性を堂々と愛人にしていたことで、あのギリシャの憎まれ者が、どれだけ一方では男を上げたか計り知れない。そして、自分の愛する男の傍にいて男を光らせるのは、厚化粧のボディコン娘じゃ決してないのだ。自分というものをしっかりともっていて、何かを表現できる女性なのだ。  場所がらについて  外国のホテルで朝食をとっていた時のことだった。朝から着飾った若い日本娘が三人、ウェイターに先導されて入って来た。  外国に来るとどうして日本人の欠点ばかりが眼についてしまうのか自分でも嫌になるのだが、神経過敏になっているせいか、やたら気になってしょうがないのだ。  まず入場の仕方から落第だった。ウェイターの後からついて行く三人娘は、お客というよりは、おつきのものといった感じ。それでなくともそのホテルは五ツ星の高級ホテルだから、ウェイターにしろマネージャーにしろコンシェルジュにしろドアマンにしろ、みんなすごくプライドが高くかつ貫禄がある。その貫禄充分なウェイターの後から、おずおずとついて行けば、お小姓に見えないはずがない。  それに彼女たちも場所柄に圧倒され、すっかり上がってしまっているのか、歩き方がひどくぎこちない。どうしてあんなふうに内股《うちまた》になってひょこひょこと歩くのだろう? 日本にいる時には絶対にそんなふうには歩かないだろうに。急に大和なでしこの血がよびさまされたとは思えない。  とにかく彼女たちは無事テーブルに案内された。メニューのオーダーに手まどるが何とか通じ、ウェイターが引き上げる。それからがまた奇妙なのだ。お互い、ひとことも喋《しやべ》らず、ぼんやりと眼の前のグラスや、壁の上の染みなどをみつめている。  これは薄気味の悪い光景である。年頃の娘たちが五ツ星のホテルのレストランに三人向かいあって、朝食を食べている間、ウンでもないスンでもない、ひたすらぼんやりとした視線を宙にすえたまま、黙々としているわけである。  しかも食べ方がなんとも寒々しい。注文した卵料理の半分以上は皿にのこすし、トーストははじからガリガリ噛《かじ》るし、とてもレディにはあるまじき食のマナー。しかし一番いけないのが何も喋らず黙りこくっていること。 「あのさぁ、あたしさぁ」と声高に喋りまくり、「やだぁ、ウソォ、ギャハハハ」と場所柄もわきまえずのけぞって騒ぐギャルもルール違反だが、黙りこくっているのも違反なのである。  やわらかな声でひそひそと会話をし、ほほえみあい、なごやかに食事が展開してこそ、ホテルのレストラン全体がいいムードに調和を保つのだ。そこへ三人の女の子たちが入って来て、ぼんやり焦点の定まらない眼で宙をみすえ、だんまりで食事をしたら、それがいかに調和とムードを乱す異分子であるか、なぜ当の三人娘にはそれがわからないのか、私には不思議で仕方がないのであった。  おじけづくくらいなら、こういう所へ足を踏み入れなさんなと、よっぽど言ってあげようと思ったが、説明するのがばかばかしくなってやめた。自分たちがどんなに異端で、社交の場でのルールを乱しているか気がつかない人間には、説明したって無駄である。このオバさん何をひとりでカッカしてるんだろ? 頭、変なんじゃないの、と思われるのが落ちだもの。  パリも不景気になって、お金さえ出せばアラブの王様だろうと、イギリスの貴族だろうと、日本人のギャルだろうと公平に泊めてしまうが、本来は、たとえお金があろうと二十歳前後の女性は自分の方から遠慮するものなのだ。本人は気がつかないからいい気なものだが、本人以外のみんなが気がつき眉《まゆ》をひそめ、内心日本のギャルと、そういうギャルを送り出した日本国そのものを軽蔑《けいべつ》していることを、隠そうともしない。そのようなホテルを常宿としている日本人もいるわけだし、そういう人たちの困惑も計り知れない。  シャネルのスーツが本来は中年のマダムが着て初めてシックで素敵なように、五ツ星のホテルはギャルたちには全然似合わないし。若い人には若い人の時間とお金の使い方と過ごす場所があるということを、ぜひわきまえて。  この世で一番素敵なものは——  またまた香港へ行って来た。今回はラグビー・セブンの観戦と、新しくできた名所のミドル・キングダムの見学が主たる目的だった。  香港という街は、訪れる度に何か新しい発見のある所だ。それに密集したビル群が作りだすフォルムがなんとも美しい。  昔は買物に眼の色を変えたこともあった。それに飽きると美食三昧の時代もあった。この朝がゆの店、あの飲茶《ヤムチヤ》の店、レーユーモンのあの魚屋で色々買ってあの奥のレストランに持ちこんで料理してもらう。リージェントの中華レストランの洗練された味も捨て難いというわけで、一日三食に、イギリス風ティータイムも入れて、食のプランを精密に練ったりもした。  そして今は、私はあの圧倒されるようなビル群に夢中である。ふと見上げる建物の美しさに胸がドキドキする。  今回は一番新しくできたグランド・ハイアットホテルのスウィートルームに三泊した。香港島側なので、夜景が今ひとつだが、清潔で居心地がよく、なかなか快適な部屋だった。たまたま香港在住の親しい友人の誕生日に招待されて、ビクトリア・ピークの途中にある高層アパートを訪ねたりもした。眼下に広がる夜景の素晴らしいアパートだった。毎晩こんな夜景を眺めながら食事をしたり食後酒を飲んで寛《くつろ》げる彼らが、すごくうらやましかった。 「来年あたり、二、三カ月、アパートを借りて住もうかしら」と私はふともらした。そしたら友人が言った。 「一度《ひとたび》住みついたが最後、ここから離れられなくなるよ」  彼の奥さんも口を添えた。 「私たちは何度ロンドンに帰ろうとしたかしれないわ。でも必ず戻って来てしまうのよ」 「それでもう二十年も住みつづけている。ここは、麻薬みたいな魅力があるんだ」  その意味が私にも分かるような気がした。いいじゃないの、離れられなくなって住みついてしまったらその時はその時のことだもの。  さて今回の本題に入ろう。帰りの飛行機の中でのことである。私たちは素晴らしいスチュワーデスと知り合った。素晴らしいのは彼女の笑顔である。  話しかけるたびにニッコリと笑う。眼が合うとまたニッコリする。何か頼むとニコニコとやってくれる。そんなの当たり前でしょ、スチュワーデスだもの、と思うでしょ? それが全然当たり前じゃないのだ。普通のスチュワーデスは口元で微笑するのがせいぜいだ。いわゆる営業用の微笑だ。その証拠に眼が笑っていない。  私たちが知り合ったその彼女は、眼をキラキラ輝かせ、歯をキラリと見せて、笑うのだ。  そして思った。その笑顔は彼女の財産だと。彼女は何カラットもあるダイヤモンドの首飾りよりも、もっとはるかに素晴らしいものを、持っているのだ。  彼女がニッコリ笑いかけてくれると、自然にこちらも幸せな気分になり、しかもそれを人に分けてあげたくなり、知らず知らずのうちにニコニコしてしまうのだった。そうか、人間の持ちもののうちで一番素晴らしいものは、笑顔なのだ、と改めて思った。美しい顔立ちとか、素晴らしいスタイルだとか長い足だとか、華奢《きやしや》な指とか細い首といったものは、元々生まれながらのものでどうしようもない。しかし笑顔は、神様が等しく誰にも与えてくれたものだ。しかも全ての動物の中で、笑えるのは人間だけである。  それなのに、私たちはこの素晴らしい武器を、あまり上手に使いこなしていないような気がしてならない。こぼれるばかりの笑顔がどんなに素晴らしいものか、普段あまり気づかない。  試しに一日に一時間でいい。ニコニコしてみてごらんなさい。一生懸命にニコニコするのよ。そしたらきっと、あなたもびっくりするくらい反応があると思うわ。ぜひ試してみて。  そのスチュワーデスがあまりにも素敵だったから、私と夫は、今月のベスト・スチュワーデスを選ぶ投票用紙に、彼女の名前を書いて、飛行機を降りる時出しておいた。きっと彼女はベストに選ばれるだろう。もう何度も選ばれているかもしれない。ね? 笑顔にはいいことがあるでしょ?  ざんばらガウンとローランサンと  雑誌の撮影の人たちが、もう三十分も前から私が降りて行くのを待っているのにあと一枚、書き上げてしまわなければならない原稿が残っている。秘書が五分おきに階段をトコトコ昇って来ては「あとどれくらい?」と心配そうに覗《のぞ》いて行く。 「えーッ、まだ着替えてないのぉ?」とそのたびに悲痛な声を出す。それでなくともかっかきている私は、髪を掻《か》きむしり狼みたいに唸《うな》って彼女を追い出してしまう。  ようやく原稿を書き上げると、脱兎のごとくクローゼットと洗面所の間を駆け回り、五分以内に身仕度と呼吸を整え、涼しい表情で「お待たせしちゃって、ごめんなさいね」と、待ちかねた人々の前に現われる。 「うわぁ、モリ先生、いつもおしゃれなんですねぇ」と編集者の人がお世辞を言う。彼女は私が朝からそんな格好で原稿を書いていたと、勝手に誤解をしているのだ。今しがたまでタオル地のガウンの胸元をかき合わせ、ざんばら髪の私の真の姿を知っている秘書は、両手で天を仰ぐ仕種をして、事務室に引っこんでしまった。私は、ざんばら髪を全て押しこんでしまったベルベットのターバンに、ちょっと手をやり内心|溜息《ためいき》をつくのである。  ほんとうのおしゃれというのは、私みたいな女を言うのではない。私は写真を撮られるために、ざんばら髪のガウンおばさんから、ソニアのドレスとターバン姿のモリヨーコさんに一瞬変身しただけで、彼らが引き上げてしまったら、ターバンを脱ぎ捨て再びざんばら髪のガウンおばさんになって、次なる原稿を書き始めるまでのことだ。  ほんとうのおしゃれというのは、雑誌のためだとかデイトのためだとか、何かの目的がある時だけきれいにドレスアップすることをいうのではない。  ある時私の女友達がこんな話をしてくれた。「子供とハズを送り出してようやくホッとして、コーヒーを飲みながら、ふっと窓の外を眺めたの。別に覗き見するつもりはなくても、お隣のパティオが見えるのよ」 「ふむふむ」と私は聞いていた。 「パティオには朝日が射していて、白いガーデンファーニチャーが置いてあるのよ。そしてそこでお隣の女性が一人で朝の紅茶を飲んでいるの」とうっとりとするのだ。 「あなただって、朝日の当たる食卓で一人ゆっくりコーヒーを飲んでいるわけでしょ? 同じようなものじゃない?」 「あたし? あたしなんてパジャマにガウンを着ただけよ。顔だってまだ洗ってなかったわ。ところが彼女は小ざっぱりとした白いドレスをふんわりと着て、まるでマリー・ローランサンかブラジリエの絵の中から抜け出してきたみたいな姿なのよ」  なるほど。朝っぱらからマリー・ローランサンの絵から抜け出してきたみたいな姿で、紅茶を飲んでいるとは、確かに優雅だ。 「何よりもステキなのはね、それが誰かに見せるためのおしゃれじゃないことね。たまたま、うちの窓からは見えてしまうけど、彼女は誰の眼も意識していないの。自分だけのために、朝の一番からきれいにしているのよ」 「よっぽどお金持ちで暇なんじゃないの?」と私はつい憎まれ口をきいてしまった。 「あら、あたしはお金持ちで暇な女の人たちをたくさん知ってるけど」と彼女は言った。「トレーナーか、それに準ずる格好で家の中ではバタバタしてるわよ」 「でも、そんな人日本にいるの。一度|逢《あ》ってみたいわね」と、ついに私もカブトを脱いで素直に認めることにした。 「あなたもよく知っている人よ」と、彼女はちょっといたずらっぽく笑った。 「誰?」 「安井かずみ」  あぁ、彼女……。——きのうの私より、今日の私の方がまた少しステキになっている、そんなふうに一日一日を生きていきたいの——と語っていた安井かずみをふと思い出した。彼女は、ほんとうの意味のおしゃれなひとだ。  愛を忘れた恋のかけひきなんて  恋は無防備だとか、盲目だとかいうけれど、私に言わせればそれは嘘《うそ》。恋ほど人を狡猾《こうかつ》にするものはない。  その証拠に、女たちが意識的あるいは無意識に使う、あの手練手管はどうだ。先人たちの恋の失敗と痛手の数々が、私たち女には生まれながらに刷りこまれているとしか思えない恋のかけひきの多様さ。それと、雨あられのように降りかかる忠告。 「ねぇ、二度くらい食事した程度で男にベッドに誘われても、のこのことついて行ったら絶対だめよ」と、先輩は教えてくれる。 「三度に一度は断った方がいいわよ。でないとイージーな女に思われるわ」そう忠告してくれる女友達は、かつて自分がそれで失敗したのかもしれない。 「もっと自分を高く売りこみたかったら、三度に二度もベッドのことをオーケーしちゃだめなのよ。三回誘われたらそのうち二回は断るべきよ」 「男というものはねぇ」  と、男でさんざん苦労した別の女はこう言う。 「自分が女にお金を注ぎこめば注ぎこむほど、その女に執着するものなのよ。なぜかと言えば、注ぎこんだものの元をなにがなんでも回収しようという本能があるからなの。もちろん情熱も時間もそうよ。自分が注ぎこんだ情熱や時間を取り戻そうとする気持ちは同じ。でもね、何と言ったってお金を注ぎこませるのが一番。情熱なんて重さや数では計れないけど、お金ならいくら使ったか勘定できる。一千万円女に使ったら、男は一千万円分かっきりその女に執着するわよ。一億円なら一億円分の執着よ。執着イコール愛と考えれば、愛とお金の両方でこれこそ女|冥利《みようり》につきるってものね」と入れ知恵は尽きないのである。またテクニック面でも色々教えてくれる。 「恋ってものは暖炉の中で燃えている火のようなものでね、時々かきたててやらないといつのまにか消えてしまうのよ」 「一番効果的なかきたてかたは、相手の嫉妬《しつと》心を煽《あお》るやり方ね。たとえば」とここで入れ知恵はぐっと具体的になる。 「嘘でもいいから、『お見合いの話があるのよ』と言ってみる。恋人の親友のことをしばしば話題に上げ、彼の気をもたせる。  彼と一緒に街なんて歩いている時に、いい男とすれ違ったらわざと振り向いてじっと見る、デイトの最中少なくとも二回か三回は誰かに電話をかけに立つとか」 「要するに、こっちの方が余分に相手を好きだなんていう態度を見せちゃだめってことなの。恋のかけひきでは、余分に好きになった方が、負けなんだから。負けちゃったら、これはひたすら惨めなものよ。全て相手の言いなり。恋の奴隷よ。寝ても覚めても不安で、相手の心が読めなくなり、いつ捨てられるかとか、他に好きな女ができたのではないかとか、妄想が妄想を生み、嫉妬が嫉妬を呼ぶ。こうなったら地獄」と、恋の惨めさもたっぷりと吹きこまれる。 「だからこそ、かけひきが大事なの。わかるでしょ? 約束の時間にぴったりと現われちゃだめよ、いかにも嬉々として見えるから。三十分くらい遅れていく方がいいのよ。ごくたまに、すっぽかすって手もあるわね。荒っぽいやり方だけど。ショック療法みたいなものかな。ま、電話一本くらい入れといてもいいけどね。とにかく相手に安心感を与えるのが一番まずい方法よ。他の男にとられちゃうんじゃないかと、たえず不安感をかきたてるの。だからと言って移り気な女だとか、遊びなれた女に見られたら最悪よ。それじゃ元も子もないからね」 「一番大事なことは、あなた自身がステキであることよ。すぐに他の女とすげ替えができないようないい女、絶対に失いたくないような魅力的な女であることが先決なんだけどね」と最後に実のある忠告。  さて、こうした手練手管を全部身につけて恋に挑んだとする。多分、相手の男はこう言うと思うわよ。 「君、ひとつ訊《き》いてもいい? ほんとうに僕のこと、愛しているのかい?」  愛しすぎないのが、勝ち  悲しいことだけど、恋愛というのは駆け引きだ。そして駆け引きの原則は、向こうの言い値通りにならないこと。少しでもイメージを高く売り込みたかったら、値引き、安売り、バーゲンセールは禁物である。  それに昔から、恋は追いかけっこ、ゲームとも呼ばれている。相手に追わせたかったら、逃げてみなければならない。そこにいつでもジトッといる女なら、追う必要もないわけだから。  逃げては追わせ、追わせてはまた逃げる。  時々はつかまっても、またスルリと逃げる。�鬼さんこちら、手の鳴る方へ�——。  けれどもいつもいつも逃げ回っていたのでは、相手があきらめてしまう恐れがある。特に最近の男の子というのは、あきらめが早いから、やりすぎてはいけません。  時には、あなたも鬼になって、相手をチョコッと追いかける。これが恋の駆け引きなのです。チョコッと追いかけては逃げる。追いかけて追わせる。このくりかえしなのだ。  くれぐれも相手を追いかけすぎないように。立場が逆転してしまう。追えば男は逃げる。必ず逃げる。しかも男の逃げ足は早いのである。だから追う立場になってしまったら、恋のゲームは負けだと覚悟した方がいい。やがて破局が訪れる。  男と女とで一番違うことは、このことなのだ。つまり、男は元々狩人であるという点を忘れてはいけない。獲物を追いかけ回すのは彼らの本能なのであり、そのスリルを彼らはことのほか愛するわけなのだ。獲物を自分のものにするのに、苦労をすればするほど、手ごわければ手ごわいほど、狩りの喜びは増し、一層情熱をかき立てられる。それが男というものなのである。  反対に女に追われるのは、原則として本能に反するわけだ。狩人が獲物に追いかけられては、マンガの世界になってしまう。本能に反する行為に出られると、男は不機嫌になる。熱が冷め、興味を失ってしまう。  一方女の本能は、追われることに快感を覚えるようにできている。自尊心をくすぐられ、虚栄心を満たされる。神様はそんなふうに都合良く男と女を作ってくれたのだ。  追ったり追われたりというのは、言ってみればテクニックの世界である。別の言葉で表現するなら、恋愛においては、あまり相手を愛しすぎないことが、愛されるためには大切だ。 「でも愛は崇高なのよ。ちょびっとしか愛さないでおくなんて不可能よ」  とあなたは考えるかもしれない。現実世界で愛が崇高かどうかはこの際別においておくことにして、私が言いたいのは、愛の表現のしかたであって、心の中で相手を狂わんばかりに愛そうと、それはいいのである。狂わんばかりの愛を、真正面に押しつけてはいけないということだ。だからタイトルの『愛しすぎないのが、勝ち』ということの意味は、心の中の問題ではなく、あくまでも表面のことなのである。 「恋に打算や駆け引きなんて許せないわ。不誠実だわよ」  と、怒り立たないで下さい。そうすると私としては、更に夢を破るようなことを言わざるを得なくなるからです。元来、恋愛というもの自体が、打算や駆け引きの上にしか成立しない、という冷酷な事実があるということだ。親子の愛だけは別です。  前にも書いたことだけど、恋は燃える火と同じで、絶えずかき立てていないと、たちまち消えてしまうという性質を持っている。逃げたり追ったりというのは、この火を絶えずかき立てめらめらと燃やすための、フイゴのようなものであり、新しいマキのようなものである。  ずるく立ち回れというのではもちろんない。賢くあれ、そう願うのである。  なぜか放っとけない女  世の中には、出逢《であ》った男を恋人にしないと気がすまない女がいる。出逢った男全てという意味ではなく、好きになった男という意味だが……。  そしてまた世の中には、出逢った男をみんな友達にしてしまう女もいる。十指に余る男友達の誰と今夜は逢って食事をしようかなと、贅沢《ぜいたく》に悩んだりする。  そしてまた彼女は男友達同士を友達にしてしまう名人でもある。彼女はこんなにステキなたくさんの男友達がいるのに、恋人なんて持つのはもったいないと思っている。それはそれでいいと思う。  さて、私の若い友人のトシコちゃんは、第三のタイプだ。好きになった男を恋人にしないと気がすまない女なのだが、これが激しい気性な上に、恋愛関係が安定してしまうと、なんとなく物足りなくなってくる。 「ねぇ! あたしのこと愛してるんでしょ? 愛してるんならあたしのことだけ見てよ。男友達とつきあう時間があったら、あたしと居てよ。残業なんてしちゃ嫌。あたしを放っとかないで」  トシコちゃんはとびきり魅力的な女だったから、男たちはほとんど言いなりの世界。男同士のつきあいも残業もさぼって、どっぷりとトシコちゃん一筋。  数カ月すると、トシコちゃんから電話がかかって来る。 「ねぇねぇ、今度の彼氏すごくステキなのよ。ヨーコさんに逢ってもらいたいわァ」  短くて数カ月、長くて二年。トシコちゃんに捨てられた男の数は十人を下らない。  捨てられた男たちはさぞかし彼女を恨み憎むだろうと思うでしょ? ところがそうじゃないのがトシコちゃんのトシコちゃんらしいところ。  新しい彼氏と、三代前の彼氏だった男と三人でお酒を飲んでたりするのだ。 「あ、このひとネ、あたしの前の彼氏。ステキでしょう」なんて、ケロリとして周りの人に紹介している。不思議に彼氏も(今の)別に嫌な顔もせず、ニコニコしているし、昔の彼氏もそう。  今の彼氏の前で、 「ねぇ覚えてる? 軽井沢でオールナイトのパーティーした時、あたしが酔っ払って足ねんざしたの。その時あなたがおぶって病院に連れてってくれたのよね。その背中がすっごく大きくて温かかったから、あたし、前の男と別れちゃったのよ」なんて平気で言うのだ。 「嫌だなぁトシコ。おぶって病院連れてったのは大介じゃないか。僕はその時捨てられた方の男」と、前々回の彼氏も彼氏でケロリと答えている。そしてみんなで大爆笑。トシコちゃんの周囲ではいつもこの笑いが絶えないのだ。  私は作家で好奇心も強いから、ついみんなに質問したくなって訊《き》いてしまう。 「ねぇ、昔のボーイフレンドと一緒につきあわされるの、全然抵抗ないの?」 「別に」と今の彼氏たちは答える。 「彼女が機嫌よく、ハッピーなら、僕もうれしいから」  あるいはこう言う。「それに、奴ら気分のいい男たちだから、僕も好きだよ」  今度は前の彼氏たちに質問を試みる。 「全然傷つかないの? 嫉妬《しつと》しないの?」 「そりゃ当初は傷ついたし、殺してやりたいと思ったこともあったけど」と彼らは異口同音に答える。 「でも今はネ、彼女といると、ひたすら楽しいからね。それが一番なんじゃないかな? 気分良く時間が過ごせるって。それに——」と彼らは必ずこう結ぶ。 「トシコって、どこか不安定で放っとけないところがあるんだよ」 「新しいガールフレンド紹介したり、同伴することある?」と私はもう少し突っこんでみる。 「それタブー」と男たちは言う。 「すごいんだよ。トシコの奴、やきもち焼いて、雌のトラみたいに荒れちゃうんだ」  へぇぇ?? この関係、あなたに分かる? 単に我がまま女としか思えないけど、かかわりのあった男たちには、何かを残して来ているのよね。それって、何なのだろう?  男殺しの一皿 「何食べに行きたい?」と男の子に訊《き》かれて、「イタメシ!」なんて答えるのやめようよ。少なくとも、二、三秒深呼吸くらいして、イタメシなどという汚い感じの言い方はしないで�アクア・パッツァ�とか�ヴィノッキオ�とか�イル・ボッカローネ�とか、レストラン名を言う方が、ずっとステキだと思うけど。  おしゃれして、イタリアン・レストランへくり込むのも楽しいけど、たまには手料理で彼を感動させるという手もあるわよ。  もちろん過ぎたるは及ばざるがごとしで、手料理のやり過ぎは禁物。どうせ結婚したらうんざりするくらい手料理の日々が続くのだから。それに、あまり早いうちから自分の手の内を全部見せてしまうのは、女としては賢いとは言えない。  恋愛中は、せいぜい一度か二度にとどめるのがいいんじゃないかな。で、彼を招《よ》ぶ時の料理について。  まず、「今度お料理作るから食べに来て?」なんて、あらかじめ日時をきめて期待させない方がいいと思うわよ。あなたの方も、メニューに凝ったり、テーブルクロスだ、キャンドルだ、食事中に流す音楽だ、とあれこれ大騒ぎになるし、そういう世界って、案外お互い照れくさかったりする。いかにもがんばっちゃったという姿勢が見え見えで、粋じゃない。  それにどんなにがんばったって、とうてい味はレストランの比じゃないんだから、最初から、そういうのは避けた方がけんめい。舞台装置ばかり凝りに凝っても、味がイマイチというのだと食事中、絶対に白けると思う。  そこでモリヨーコさんがアンアンの若いお嬢さんたちに、特別とっておきの、男殺しの手料理を、ご披露しましょう。なんと、『サーディンどんぶり』。 「どんぶり?」なんて腰を抜かさないでね。「そんなの、ロマンチックじゃないわよ、わざわざ、彼氏招待しといて、イワシのどんぶりご飯なんて出せないわよ」と口をとがらす前に、まず先を読んで下さい。  その前に一言。この料理をご馳走する時、してはいけないのは、わざわざ食事にご招待という態度。そうではなく、さりげなくやりたい。 「夜食に、寄ってかない?」と、なりゆきで誘うのが一番効果的なのだ。ただし、お腹が空いていないと、どんな美味しいものでもだめよ。  さて、用意するのは、ホッカホカのご飯と、オイル・サーディンの缶詰一コだけ。簡単でしょ? まず缶詰をあけて、中の油ごとフライパンにあけるの。両面を軽く焦がして、最後におしょう油をじゅっと回しかける。量にして大さじ二杯位。この時、油とおしょう油が混じって、大量に飛び散るから、さっとフタをして、二十秒位、煮つめる。  熱々のご飯を、大きめの漆《うるし》の椀に、軽く入れ(小さなご飯茶碗一杯くらいね)、その上にこのサーディンを六、七匹のせ、のこりの油としょう油の美味しいソースをまわしかけ、アサツキか、なければ青ネギのみじん切りをタップリのせ、七味唐辛子を多めに振って、出来上がり。サーディン一缶が、ちょうど二人分。  ランチョン・マットの上に、庭に咲いている季節の小花で即席の箸《はし》置きを作り、二人で熱い内に食べましょう。出来上がり時間、わずか五分(私はもう何十回も作っているから、二分以内に作れるけど)。 「すっごく美味しい!」って、みんな言うわよ。「あっというまに、こんな美味しいもの作れるなんて、君って、意外な面があるんだね」と、言葉は色々にしても、みんなそう言って誉めてくれる。私のサーディンどんぶり食べた男たち——たとえば、篠山紀信なんて、「ウメェ、ウメェ」とヤギみたいに連発したし、奥田瑛二は奥さんの安藤和津さんの分まで横取りして食べちゃった。弁護士の木村晋介は涙流さんばかりにおかわりを所望したけど、お断りしたわ。これは腹六分目が一番美味しいのよ。他にも数えきれないほどのグルメの男たちがこれを食したが、感激しなかった人なんて一人もいない。「アレ、又食べさせてくれよ」と、顔を合わすたびに男たちが言うけど、アンコールをやらないのも戦術なのよ。  ロングヘアは、女の媚《こ》びよ  ある女性が私にこんな体験を話してくれた。 「モリ先生、男のひとって絶対的にロングヘアの女に、優しいですよォ」 「あら、そ?」  最近男たちが優しくしてくれるので内心喜んでいたショートヘアの私は、憮然《ぶぜん》として言った。憮然としたのは、男たちが優しい理由が今ここで他でもない、お年のせいと判明したからである。 「ほんとですってば」と彼女は力説した。 「あたし自身、体験したんですもの。実はあたし、何年か前までショートヘアだったんです」  彼女の語ることはこういうことだった。きりっとしたショートヘアでいた時は、それほど男たちは優しくもなかった。彼女もそんなものだと、あまり気にもしなかった。  気分転換に、髪を伸ばしてみようかと思いたち、やがてロングになった。  そして驚いた。周囲の男たちが手のひらを返したように優しく扱ってくれるではないか。  周囲の男たちに限らず、見知らぬ男性たちまで、とても親切にしてくれる。たとえば、エレベーターに乗る時も、先に乗せてくれるし、満員電車でも、前みたいにぎゅうぎゅう押されたりしなくなった。  ちょっとでも荷物が多いと、頼まなくたって「持ってやるよ」と手を出してくれるし、この間など、東京駅の階段を大きなスーツケース持って昇ろうとしていたら、全然見も知らない男の人が、「重いでしょう。大変だから僕が持ってあげますよ」と、申し出て、助けてくれたと言うのだ。 「ね? すごいでしょう? 髪が短い時とは同じ女でも大違いなんですよ。男って、ほんとうにロングに弱いんですねぇ」 「ショートだと可愛気《かわいげ》がないのかしら?」と私は溜息《ためいき》をついた。これまで長い年月ショート一筋で過ごしてしまった我が人生——。もはやとりかえしようもない空しさではないか。 「というより、ショートだと、この女、放っといても自分でやれるっていう感じがするんじゃないかしら。ロングだと、何かこう放っとけないような……」  多分、そうなのだろうと思う。 「で、今は満足なのね? ずっとロングのまま切りたくない気持ち?」と私は年がいもなく少しひがんで訊《き》いた。 「ええ……でも」と彼女は口ごもった。 「何だかふに落ちないような気がしないでもないんですよねェ」 「というと?」 「女だからっていう部分だけが表立ってしまって、仕事だとか、人間としての一面が今ひとつ評価されないというか……」 「ショートの時代は、どうだったの?」 「それが全く逆なんですよね。ショートの時は仕事とか人間としての評価の方が、女としての評価より上回っていましたね。もちろん個人差はあると思いますけど、一般的に言って男の人ってそうですよね」 「で、あなたはどっちの評価を先行させたいの?」 「それが悩みの種なんですよ。キャリアを磨きたいから、仕事で評価はされたいんです。でも、ひとたび味わってしまった、この優しく甘やかされる女の喜びも、また放棄しがたくて……」 「だったらセミロングにしたら?」と私は悪ふざけに言った。 「それが一番だめみたい。あたしの経験だけですけど、伸ばしかけのセミロングの頃が最悪だった。どっちつかずでしょ。女としてもダメ、仕事の面も無評価……」  さて、次に久しぶりに逢《あ》った時のことだった。なんと彼女は長かった髪をバッサリと切って、キリリとしたショートになっていた。しかし、その顔色は明るく、若々しく知的で、私としては、ショートの彼女の方が何倍も好き。ロングヘアって、つまりは男に対する女の媚《こ》びなのよね。  遊び上手と結婚すべし  結婚と恋愛とは違うんだっていう考えには、私も賛成だ。  だけどそれを相手の男のタイプによって使い分けようというのには、納得しかねる。第一相手ばかりにこだわって、自分は何なのさと訊《き》きたい。  自分のことは棚に上げて、男のタイプを使い分ければ恋愛も結婚も上手《うま》くいくと考えるとしたら、それは甘いというものだ。 「恋愛相手は多少不誠実でも遊び上手・セックス上手がいいわ。でも結婚の相手は、真面目で誠実で優しい人でないと困るのよ」  これって逆じゃないのかな? だって恋愛っていうのは花火みたいなものだけど、結婚はそうじゃない。長々と続く関係なのだ。だったらうんと遊び上手で、その上セックスもすごく上手な男の方が、絶対にいいにきまっている。いつもいろいろ手を替え品を替えて楽しませてくれる才能に恵まれた男の方が、飽きないし、はるかに楽しいよ。  真面目がとりえで誠実なのはいいけど、面白いこともおかしいことも言えず、会社から帰ってもフロとメシとネルだけじゃ、すぐに物足りなくなるのがオチよ。  その上、マザコンだったり、ベッドのことがすごく稚拙だったりしたら眼もあてられない。ベッドのことでこの際ついでに言っとくけど、最初に下手《へた》な男は、ずっと下手なまんまよ。あのパターンて基本的には生涯変わらないみたい。上手な男は上手に生まれついている、としか言えない。それとナルシシストとエゴイストとマザコンはだめ。自分本位にしかできないから。だからもし、結婚の途中で急に上手になったとしたら、それは誰か別の女が教えたんだと思った方がいい。あなたが教えたんでないかぎりね。  今週のモリヨーコさんはすごいことを言うのね、と少しびっくりしているかもしれないけど、そういう問題を最初にちゃんとしておかないから、後になって浮気とか不倫に走るようになってしまうのよ。  だから私は結婚するなら、恋愛向きのタイプとした方がいい、と言いたい。もちろん、人生の後半を尼さんのように過ごすという覚悟があれば話は別。 「でも、そういう男は後で必ず浮気をして、奥さんを泣かせるようになるのに、きまっているわ」と反論するお嬢さん。どっちみち、日本人の男たちは、多かれ少なかれ、いつかは浮気をするものなのです。  真面目で誠実な男だって、同じこと。むしろ若い頃真面目な男ほど、中年以後、危険なのよ。遊びなれていないこともあって、のめりこんでしまう。若い頃さんざん遊んで結婚した男の方が、かえって中年以降は、大人しくなったりする。  私の見るところ、日本の男の浮気率は九十パーセントね。もっとかもしれない。  日本の女って不幸なのね、とここで深刻に考えこまないで下さい。男が適当に外で遊ぶから、結婚がなんとか安泰に続けられる、という見方もできるのだから。その点アメリカやヨーロッパは厳しい。浮気イコール離婚だもの。第一、浮気はないのよね。本気になってしまう。本気になるから離婚。  日本はその点もファジーなんだと思う。白か黒かはっきりさせるよりも灰色でいる方がずっとくたびれないってこと、年とるとわかってくるのよ。  今日は少し夢を砕きすぎたかな。ごめんね。でも前言はひるがえさない。ユーモアのある遊び上手な男と結婚しなさい。もちろん惚《ほ》れこんだ上でね。愛していればたいていのことは許せるのよ。  でも真面目誠実人間と愛もなく結婚してごらん。将来その男が浮気なんかしたら、もう終《おしま》いだから。ひたすら軽蔑《けいべつ》しか抱けない男と、一緒に暮していける?  結婚する時に、相手に惚れてるか惚れてないかって、とても大事なことだと思う。  声の使い分け  二枚舌っていう言葉があるでしょう? 相手によって器用に言葉を使い分ける厭《いや》な奴のことだけど、これに似たようなことを、ほとんどの女がやっているのだ。  舌を使い分けるのではなくて、女は声を使い分ける動物。その証拠にうちの娘たちがよくこう言ったものだった。 「ママ、今の電話の相手にお熱なんでしょ?」 「どおしてそれがわかるのよ!!」  根が正直な私は度胆を抜かれてしまうわけだ。 「だって、ママったらすっごく可愛《かわい》らしい高い声を出すんだもん。すぐわかるよ」  嘘《うそ》だぁ、と慌《あわ》てて否定するが、年がいもなく恥ずかしい。声に出にけり我が恋は……では、たちまち尻尾《しつぽ》をつかまれてしまうではないか。  と、また電話がかかって来た。出ると夫だ。 「なんだ、あなたなの」 「ほら、ママってば」と横で娘たちが言う。「ダディからだと、とたんに声が一オクターブは低くなるんだからね。もう愛してないっていうことがわかっちゃうよ」  そんな簡単にきめつけられてはかなわないと、娘たちの前で電話で喋《しやべ》るのも戦々兢々《せんせんきようきよう》の今日この頃なのである。  この私ですらそうなのだから、というわけではないが、気をつけて聞いていると、ほとんどの女が、地声とそれ用の声を使い分けているということがわかる。  同僚とは普通の声で喋っているのに、電話をとったとたん、「もしもし、こちら企画課ですけど」と声が二、三度高くなり、「あら、雨宮さん? あたくしですけど、昨夜はどうも」なんてまた更に二度から三度高くなったりする。つまり相手に対する好意の度が増すにつれて、声が甲高く甘くなるということである。  更に分析すると、女が声に媚《こ》びを含ませる場合、二通りあるということだ。ひとつは、職業上の媚び。眼に見えない相手に失礼にならないように、という配慮から、自然に声が少し高く優しくなる。  成田空港に到着して、エスカレーターに乗ったとたん、「エスカレーターのお足元にお気をつけ下さいませ」と流れだすウグイス嬢のベタベタに甘い声を聞くと、ああ日本に帰って来たのだという妙な感慨を新たにするわけである。あの声、ついでに教えておくけど、ほとんどの外人の男たちが、拒絶反応を起こすわよ。日本人の男たちは、耳なれているせいか、平気みたいだけど。  さて、もうひとつは、好きな男に対して本能的に出してしまう媚びの声だ。これはほとんど性ホルモンのなせるわざだから、本人は抑制のしようがない。  考えてみると、すごく厭らしいと思わない? 「あのひと、二枚舌よ」と言われるのと同じくらい、恥ずかしいことじゃない? 相手によって声を使い分けるなんてことを、自分がしていると思うと、ほんとうに穴があったら入りたくなるわ。  これから気をつけよう。それでなくたって大人の女らしく、少し低めの落ちついたハスキーボイスで、ゆっくりと喋った方がセクシーなのはわかりきっているのだから。  で、私は意識的に、声を抑えるようにしてみたのだ。 「もしもし、モリですが」と言ったとたん、 「あ、また掛け直します」と先方が慌てて言うではないか。 「どうして掛け直すんですか」と更に抑えた声で訊《き》く。 「お休みのところを突然起こしてしまったようですから」といたく恐縮するしまつ。 「とっくに起きてますよ。ご用件は?」 「あ、いいんです。またご機嫌のよろしい時に掛け直しますから」  とあたふたと電話がきれてしまう。今度は私の方から誰かに電話をかけてみる。 「あ、もしもし、わたし。……食事でもしない?」 「その声から察すると、悪いニュースらしいなぁ……」と相手は勝手に想像して声を曇らせる。  セクシーな低い声出しても、だめみたい……。  当世離婚事情  熱烈な恋愛の結果ゴールインしたと思ったら、半年かそこいらでパッと別れてしまうカップルがある。  そういう人の言い分を聞くと、あれだけ何もかもがステキだったのが嘘《うそ》みたいに、彼の全てが嫌いになったの、と言う。色の白いのも、手が女みたいにスベスベしているのも、態度が煮え切らないのも、喋《しやべ》り方も、それこそ何もかも。 「ねぇ、彼って素晴らしいの。繊細で美しい手の持ち主で、詩人みたいな静かな声で喋るの。第一すっごく優しくて……」  とあれだけのろけまくったことが全て裏目になって、とにかく嫌なの、顔を見るのも声を聞くのも嫌で嫌でしょうがないの、という変わりよう。  これって、何なんだろうね?  もうひとつの例を考えてみよう。ある若い女性が、ひとりの男に首ったけになり、寝てもさめても彼のことばかり。彼こそ出逢《であ》うべくして出逢った運命のひと。あたしは彼のために生まれて来たようなものなのだわ、と燃えに燃えた。  ついに交際もすすみ、ゆきつくところまで行き、いざその段ということになった。彼が上着を脱ぎ、靴を脱いだ。  ふと見ると、彼は片方の靴下を裏返しにはいているではないか。裏返しの靴下からはヒゲのようなものがあちこちに出ている。  それを見たとたん、嫌ぁな気分になった。百年の恋が一瞬にして醒《さ》めるとは、まさにまさにこのことであった。  すると、あれほど完璧《かんぺき》理想だった彼が、何ともだらしのない不潔な男に思え、ろくにその場もとりつくろえないまま、無我夢中で逃げだした。それっきり、二度と逢わなければ電話もしていない。  靴下を片方裏返しにはいて来たくらいでねぇ……。むしろ可愛《かわい》いじゃないの、と私は思うけど、それが吐き気を催すほど嫌だったというのだから、理屈じゃないのだろう。でもこれって一体何なのだ?  もう一例。ある結婚している女性が、初めて夫とカラオケに行くことになった。素敵な夫婦で人もうらやむ仲の良さ。  夫という人は高倉健さん風の男前。性格も健さんに似て素朴で無口。彼女はそんな彼に惚《ほ》れて一緒になり、結婚二十年たつ今もまだ惚れていた。  さて、いざカラオケバーで、夫がマイクを持って壇上へ。  すると何という変わりようであるか。マイクを手にしたとたん、調子よくリズムはとるわ、ニッカニッカと笑うわ、その唄《うた》いっぷりの軽いこと。そう、健さんがいきなり三波春夫さんに豹変《ひようへん》したようなものである。  腰がぬけそうに驚いたのは、妻である彼女だった。健さんには惚れているが、三波さんは彼女のタイプではなかった。何よりも理解しがたいのは、同一人物とは思えない豹変ぶりの奇々怪々。  こんなニッカニッカと歯を見せて軽いノリで唄いまくっている男、あたしは知らない、と彼女は思ったそうである。それ以来気持ちが三割がた、醒めたと言う。  その三割は修復の余地あり? と訊《き》いたら、なしだと答えた。ああいう一面を見てしまったら一生、三割減のままでしょうね、と淋《さび》しそうに言うのだ。さすがに二十年の結婚の重みで、即離婚というふうにはならなかったが……。  この三例についてとくと考えてみるに、私は思うのだが、人を愛する時、私たち人間はどうしても自分の理想像を重ねて相手を愛してしまうのではないかということだ。  ありのままのその人の姿が見えないのだ。そして勝手にあれこれと想像力で補正して、言ってみれば、ありのままのその人をかなり歪《ゆが》めてしまった姿を、愛していると思いこんでいるのかもしれない。  最後の例でいえば、ニッカニッカと軽いノリの三波さん風の顔も、まぎれもなく彼の一面なのである。それを見て見ぬふりをするから、後になって愕然《がくぜん》とするのだ。  というわけで、ダイエット  私が今やっている激烈ダイエットについて少し詳しく説明すると、男のひとたちの百パーセントが「モリさん、止めて下さい」と言う。 「どうして今以上に痩《や》せる必要があるんですか。今のままでいいじゃないですか」  今のままでいいっていうけど、私はまた太って、健康的平均体重(自分の身長から一一〇マイナスする)を、十キロ前後もオーバーしているのだ。  この十キロの余分のお肉をつけているのは私であって、彼らではない。私が私の余分のお肉をどうしようと私の勝手ではないか。  何も私はファッションモデルのようにギスギスに痩せようとしているわけではないのである。この余分の醜いお肉の重い塊《かたまり》を、スッキリとって人並みになりたいと思っているだけなのだ。 「止めて下さい」と言うのは、人並みになった時点で、もしも私がまだもっと痩せたい、つまり、人並み以上にガリガリになりたいと言った時にこそ、言って欲しいものである。  私が人並みというのは、九号サイズのドレスが着れるということです。私の身長で九号というのは、ごく標準的なサイズだ。もし私が七号を望めば、「止めて下さい」と言われてもかまわない。  元々私は九号サイズの体型の女だったのだ。それが子供を一人生むごとにサイズがひとつずつ上がり、今は上半身が十一号で下が十三号という悲しいサイズ。これを単に元に戻そうというだけの話である。  幸か不幸か、私は極端に着痩せするタイプなのだ。標準体重を十キロ以上オーバーしているのに、「痩せぎすな」という形容詞を実にしばしば頂く。スラリとした長身とかね。  それがいけなかった。実体を知りつつ形容詞に騙《だま》された。痩せぎすの見かけに、自分で自分が騙された。  実は実は、脱ぎ太りなのである。脱いだとたん、ぷるんと十キロの余分のお肉が——。  ついに私は思ったのだ。「いいかげんにせい!」と。自分で自分の体型をコントロールできないで、何が知性だ、何が感性だ、と。  他人の眼にどう映ろうと(実際には他人の前で裸《はだか》になるわけじゃないから、あまり眼に映ることもないだろうが)、問題は自分自身だ。醜いものを醜いと感じつつ(感じなければ全くもって問題などないのだから)、それを放置しておくという、神経の鈍感さに、つくづくと嫌気がさしたのだ。  自分の肉体の十キロ分の余分のお肉に対する鈍感さは、美意識、味覚、嗅覚等全ての感覚の鈍感さを誘発するのにきまっている。これは作家としてはもちろん、ひとりの女としても由々しきことである。  以前私は、若い娘たちのダイエットを批難し、脱ぎ太りをすすめたことがある。そのことを覚えている記憶力の良い読者は「アレ?」と思うかもしれない。言うことが矛盾しているじゃないか、と。  そうではないのだ。必要以上の痩せ願望を批判したのだ。贅肉《ぜいにく》など何もないのに、筋肉までそぎ落としてしまうような、無謀なダイエットはよくないし、若いうちのダイエットというのは、肉体だけでなく、その他色々なものまでそぎ落としてしまう可能性を恐れるのだ。  まず意欲。食べないで栄養が行きわたらなければ精神力も減退する。好奇心も鈍る。ギスギスに痩せて、眼に光のない女の子たちを見ると、世も末だと思うもの。  そうなのよ。ダイエットというのはね、ある程度年をとって(つまり中年)、一応やることをやり、たくさん無駄と体験と、余分のお肉を貯えていったひとが、一段落ついたときにやるものなのよ。  ひとまず余分で無駄なお肉を落としましょう。その時ついでに、お肉と同じようにとり入れてしまったもろもろの精神的贅肉も落としてしまいましょうと、そういうことなのだ。  というわけで、ダイエット。  普通の人  私の父が開腹手術をすることになり、四、五日ほど病院に通った。私自身は入院するような大きな病気をしたことはないので、腕に突き刺さっている長い点滴針が恐ろしいような気がした。そして、きびきびと働く看護婦さんたちを、まぶしいような思いで眺めた。  体温や脈を計ったり、点滴をしたり、顔や躰《からだ》を拭いてくれたり、下の世話までして、更には病気で気が弱っている患者のセラピストの役まで果たしてくれる。  病気そのものは手術で治るかもしれないが、激しく落ち込む入院患者の精神的なよりどころは、看護婦さんたちだ、とそんな気がした。  家族など、全く無能だということをいやというほど知らされる。たとえ一晩中病人の側につき添っていたって、病人が何か要求するたびに看護婦さんの所へ走るだけだ。点滴の針が外れたとか、ノドに痰《たん》がからむとか、急に熱が出たとか、オシッコだとか、痛くてたまらないとか、眠れないとかで、いちいち看護婦さんの手を借りる。  病人も家族の者より彼女たちを信用し頼りきっている。 「どうも胃のあたりが苦しいような気がするんだ」と父が言う。 「大丈夫よ。お腹《なか》を切ったばかりだから、すぐに治るから」と私が慰めるが、父の表情はいっこうに晴れない。  同じことを看護婦さんに訴える。 「大丈夫ですよ。切ったばかりだから誰でもそうですよ。がんばりましょうね」  それで父は安心し、胃の感じもはるかに軽くなるようなのだった。四、五日通う間に私はすっかり彼女たちの存在に脱帽。尊敬と感謝の思いで一杯だった。世の中で最も意義のある仕事をしている彼女たち。決してきれいな仕事ではないし、勤務も楽ではない。他の仕事と比較してお給料が良いというわけでもない。  にもかかわらず、注意してみると、病院には正規の看護婦さんたちの他に、実習見習い中の看護婦さんの卵がたくさんいた。みんなとても若く、私の娘と同じくらいの年頃だ。遊ぶばかりで世の中のために何ひとつしていない我が娘たちに比べて、彼女らがどれだけ気高く見えたかわからない。  お医者様だってそうだ。入院患者をもつ家族にとっては、お医者様は雲の上の人みたいなものだ。その雲の上の人が、雲の上から降りて来て、手術の経過を説明してくれた時には、思わず三歩ばかり下がって謹んで耳を傾けた。先生は、父のお腹の中から切り取った胆嚢《たんのう》を、素手でいじくり、私たちの眼の前でチョキチョキとハサミで切り開き、中に入っていた胆石を二つ見せてくれた。先生の指や手は、胆汁や血で汚れたが、全く気にする様子もなかった。  人間の取り出したばかりの臓器の一部を、まるで私たちが魚のお腹から色々なものを取り出すように、平気で扱っている。魚のお腹さえ始末できない私など、気絶の一歩手前だ。  よく見れば先生の青い手術着のところどころに、手術の跡も生々しい血が飛び散っている。私と母は一通りの説明をしてもらった後、声もなくただただ深く頭を下げるだけだった。  ある朝早く、私は実家から歩いて四、五分の病院に通じる坂道を歩いていた。昨夜一晩、父につき添った私の妹と交替することになっていたのだ。  向こうから、ジーンズにTシャツ姿の娘さんが元気よく歩いて来て、すれ違うなり「お早うございます」とピョコンとおじぎをした。よく見ると、父の世話をしてくれている看護婦さんの一人だった。  ピョコンとおじぎをされて、なんとも言えない感動を覚えた。感謝と尊敬と畏怖《いふ》の念をもって接したあの看護婦さんは、白衣を脱げば、ごく普通の娘さんだったのだ。私は何だかすごく嬉しくなって、坂道を病院へと急いだ。  色気のないもの  システム手帳。例のほら、分厚いスケジュール帳のこと。  世の中に何が色気がないかっていえば、あのシステム手帳を何かというと人前で取り出す女。いろんなデータや書き込みがはさみこんであって、パンパンに膨れている。  見るともなく見れば——こっちは見たくもないのだが、どういうわけか相手は嫌でもこちらの眼に入るような位置でノートを開けたり、眼の前でたった今きめたスケジュールを書きこんだりする——月曜日から日曜日まで、びっしりとスケジュールがうまっている。あ、この人土曜日も日曜日も休まないのだ、な。とたんに、なんだかつまらなくなる。週末、仕事から完全に離れて遊ばない人は、ちょっと喋《しやべ》ってみるとすぐわかる。余裕がないのである。 「もう、三十分刻みにスケジュールがつまっていて」  と悲劇的というよりはなんだかうれしそうに言って、用件だけ勝手に喋ると帰ってしまう。用もないのにぐずぐずしていられても困るのだが、もうちょっと会話にギブ・アンド・テイクが欲しいものだ。一口で言うと、ちょこっと来て三千円くらいくすねていかれた感じ。ちょっと表現がわるいけど、正に、人の時間をちょびっとくすねていったような感じなのだ。 「あら、モリ先生の時間って、三十分で三千円なんですか?」と訊《き》かれると困るが、本当はその三十分を三千円にするのも三十万円にするのも、その人自体なのだ。その人と私の共同作業と言ってもいい。  その三十分というのは、彼女にとっては一日のぎっしりつまったスケジュールの中の大事な三十分であるということはわかる。けれどもそれは同時に私にとっても三十分は三十分である。  言いたくはないが、テレビを観たりお茶を飲みつつ日向《ひなた》ぼっこしている時間から、さくのとは違う。原稿の書きかけ中かもしれないし、その約束のために、前の仕事を頭を下げて早めに切り上げてもらい、駆けつけたのかもしれない。  だから、システム手帳大好き女性と向かい合った時、彼女が私から三千円しかくすねていけなかったのは、彼女の腕の問題でもあると同時に、私の方にそれ以上のものを与える気持ちがなかったとも言える。  彼女もそれでは損だし、私にとってもそれは大変につまらないことなのである。  システム手帳なるものを引き合いに出して、少々遠回りをしてしまったが、今週私が言いたかったのは、人と人との関係で、それが意味のあるものになるか、全く無意味な時間のロスにしかならないかは、あなた次第だということだ。  人から何かを得たかったら、まず自分の方に何かを与える、あるいはさし出す用意があるかということなのである。  たとえば、私は毎週どこかでエッセイを書いている。その文章がどこかで人の心に残ったり、心を打ったりすることができるとすれば、それを書く以前に、私自身がそのエピソードなり出来ごとで、心を打たれていなければ、その感動を読者に伝えることはできないのである。  まず自分が打たれること。それからその体験の上で人にアプローチをするべきだと思う。  自分が何の努力もせず、痛い思いもせず、冷や汗も流さないで、人と関わり合っていこうというのは虫の良すぎる話である。  でも世の中にはそういう虫の良いお嬢さんがたくさんいて、システム手帳のスケジュールをひとつひとつこなしながら、人から人へと渡り歩いているような気がしてならないのだ。  人から何かを得たかったら、あるいはその時間を充実したものにしたかったら、相手がそれを与えてくれるだろうと考えるのは、大きなまちがいである。相手はあなたに見合った程度のものしか与えてはくれない。せいぜい三十分三千円の世界。これが多いと思うか少なすぎると思うかは、あなた次第。  ある接吻  つい昨夜、きわめつきの接吻の話を聞いた。感動のため、躰《からだ》が震えるほどだった。  けれどもこの話をアンアンの読者にどう伝えるべきか、非常に不安である。それと、つい昨夜聞いたばかりの話を、さっそく翌朝エッセイのネタにするのか、と思われるのも少し嫌だ。一生自分の胸の内に納めてネタにしない話もあるし、一年か二年温めておいてから、改めて取り出して書く場合もある。それにしても昨夜の話を翌朝ネタにするというケースは、ほとんどない。  良いワインを得るには、ある程度ゆっくりと寝かせておかなければならないのと、同じ理由による。  しかし、この話を聞いた時、まず私の頭に閃《ひらめ》いたのは、アンアンの読者に話してあげたいという思いだった。世の中には、こんなステキな非常識があるのだということを、私は知ってもらいたい。  前置きはこれくらいにして、本題。私のパリの女友達が、友人の葬式に出席した。彼女はもうパリに何十年も住んでいる映画関係のメイクアップ・アーティスト。『エレファントマン』という映画の、エレファントマンの顔を創ったのは彼女である。他にもたくさんの素晴らしい仕事をしている日本女性だ。  亡くなったのは、若くて美しい男だった。エイズだった。そして葬式を出したのは、ずいぶん昔に別れたかつての恋人の男だった。フランスには珍しい火葬であった。  祭壇にぽつんと置かれた小さな白い箱を遠まきにし、誰も五メートル以内に近づこうとはしなかった。土葬しか知らない人たちなので、人間の骨だけが納められた小さな箱は、彼らにとってたいそう気味の悪い存在なのであるらしい。  人々は遠くから黙礼し、そそくさと帰って行った。ガランとした部屋の中で、白い紙で包まれた箱は、ますます小さく、みすぼらしく、そして淋《さび》しくレイコの眼に映った。  レイコの順番になった。彼女は遠くの方から遺影に向かって黙礼するかわりに、何を思ったのか、いきなりつかつかと前に進み、骨の入った白い箱を両手で抱き上げると、何をするのかと唖然《あぜん》としている参列者の見守る中で、その箱の真正面に、唇をしっかりと押しつけたのである。  真紅のルージュのあとが、白い箱の正面に、くっきりとレイコの唇の型のまま、残った。暗く淋しい葬式の雰囲気が、一転し、寛《つくろ》いで温かいものになったのは、想像に難くない。  数日後、レイコに電話がかかった。葬式を出した男からだった。今もまだ骨を納めた白い箱が部屋においてあるけど、淋しくないよ、レイコが一緒にいてくれるような気がするからね、と言った。  みなさん、映像が浮かびますか? 真白い四角いお骨の入った箱に、くっきりと押しつけられた赤い唇の型を? それがどんなにきれいか、そして一瞬の判断とはいえ、どんなに勇気のいる行為であるか——。 「わたしは」とレイコはその時の心境を私に語った。「たまらなかったのよ。みんな骨の入っている箱になんて、近づこうともしなかった。人間は死んだ時のままの姿で、土に埋められるものと信じている国の人たちだから、骨しか入っていない箱なんて、怖《こわ》いだけなのね。だから、ちっとも怖くないんだ、気持ちも悪くないんだ、彼は今でもわたしの大好きな友達なんだっていうわたしの気持ちを、咄嗟《とつさ》に表現するには、ああするしかなかったのよ」  火葬が一般の国である日本で、レイコと同じことをしたなら、違った意味で大騒ぎになってしまうと思うが、私はその話をとてもいい話だと思った。  現場に居合わせたわけではないけど、殺風景で裏悲しいお葬式が、なんともほほえましいユーモア精神に彩られたことは、容易に想像できる。  白い骨箱にしるされた真紅の唇の型。こんな美しい非常識が、他にあるだろうか?  レイコの形見  ここまで読んでくれた読者なら、パリの私の女友達レイコが、どんなひとかおわかりだと思う。もう忘れた? ほら、お骨の入った白い箱に、キスしたひと。骨箱に真赤なルージュのあとを残したひとよ。この世の中で一番美しい接吻と、私が誉めたたえた話、思い出した? これ以上ステキな非常識が他にあるかしら? としめくくったのだが、今回も引き続き、どうしてもレイコのことが書きたくなった。  そしてまたもや、主題は『骨』である。  前回も書いたように、レイコの住んでいるフランスでは、人が死ぬと普通土葬ということになる。ほら、よく、雨のそぼ降る緑の墓地で、黒服やベールを被った人たちが頭をたれつつ、穴の中に降ろされるお棺を見送るシーンなんか、映画で観るでしょう?  でもレイコは日本人なので、土葬ではなく絶対に火葬にしたいという強い希望を抱いている。遺言でそう書き残せば、例外は認められるそうだ。で、レイコは近々その遺言を書こうと思っている。  ところで彼女には、二十三歳になる日仏混血のそれは美しいスラリとした長身の息子が一人いる。  母親の血を引いて、絵の才能に恵まれ、現在はある有名ファッション・デザイナーのスタジオのチーフ・デザイナーとして活躍している。二十三歳でチーフというのだから、どれだけ才能があるか想像に難くない。  さて、レイコはこの最愛の息子にある時、こんな話をした。 「いいわね、私が死んだら火葬にしてね。そして私の骨を美しい壺《つぼ》に入れて、日本の由布院《ゆふいん》に送ってちょうだい。そこが私の永眠の地なの」 「いいよ、ママ。言うとおりにするよ」  とレイコの息子は答えた。「でも、ひとつだけお願いがあるんだけど」 「いいわよ、何なの?」 「ボクにもママの骨を、ひとつだけ分けてもらえるかな」  つまり分骨ということか、とレイコは納得した。「もちろん、好きなだけどうぞ」 「ボクが欲しいのは」  と彼が言った。「ママの左の小指の骨だけ」  それを聞いた時、レイコの胸は一杯になった。その昔、彼がまだ小ちゃな子供だった頃、眠りにつくまでの間、添い寝しておとぎ話を聞かせてあげていたレイコの、左の小指をぐにゃぐにゃさせるのが、彼の楽しいくせだったのだ。  ちょっと試しにあなたも自分でやってごらんなさい。感触がつかめるから。右手の親指と人差し指で、まず自分の左手の小指をそっとつまむ。そして左手の小指の関節の力をまったく抜く。つまんだ親指と人差し指で、小指をぐにゃぐにゃ動かしてみる。  とっても柔らかいでしょう? 赤ちゃんにとって、そうすることがとっても安心で気持ちの良いことだったわけね。  レイコの息子はそんなふうに、ママの小指をもてあそびながら、眠りについた。ある程度大きくなるまで、それは彼の一番大事な玩具だったわけだ。  もう息子が彼女の小指を必要としなくなって長い長い歳月が流れていた。  ママの小指の骨が欲しい、という言葉は、そんな二人に共通の思い出を呼び覚ました。  この話をレイコから聞いた時、私はこの親子の関係をとてもステキだと思った。  第一、『骨』の話を、まともにするなんて、すごいと思った。死とか、火葬とか、遺言とか、分骨とか、そういう話を、朝の食卓でカフェオレを飲みながら、淡々とするのが、すごいと思った。  レイコの話を聞いている内に、死とか骨とかが、決して醜悪なものではなく思えるようになった。特に骨に対するイメージを変えられた。  レイコの小指の真白い骨。きっととっても小さいだろう。そしてそれはきっととても美しいのに違いない。  詳しい事情は知らないが、レイコは一人で頑張って息子を育て上げると同時に、誰も真似のできない独自のメイクアップ・アートの世界をパリできり開いてきた、すばらしい日本女性である。  若い女嫌い  マサコさんが久しぶりに日本に帰って来た時、二十歳ばかり年下の恋人を同伴した。マサコさんとはもう二十年以上も友達をしているので、彼女の年は四十五、六歳だと思う。  恋人のマイクは典型的なカリフォルニアン・タイプで、健康的で明るく、洗練されたユーモアの持ち主。二十六歳だということだったが、とても日本人の同じ年格好の男の子など、たちうちできそうもない大人度を持った青年だった。  マサコさんはニューヨーク仕込みのセンスで、若作りではあったが、二人が一緒にいるとやはり年の差は歴然。しかもマイクがいわゆる金髪|碧眼《へきがん》、スラリとした長身のハンサムだから、東洋の金持ちマダムとカリフォルニア・ジゴロの取り合わせにしか見えない。  ところでマサコさんはお金持ちではない。マイクの生活もみていないし、スーツや車を買ってあげたこともない。デイトの時の食事代を節約するために夕食はどちらかの家で作って一緒に食べるのだそうだ。ただし、ディスコへ行ったりバーで一杯飲む時には、男であるマイクが当然お金を払う。 「わたしが頼んでつきあってもらっているわけじゃないもの。彼がわたしに惚《ほ》れてるんだから、それくらい当然よ」とマサコさんはニコニコしながら言うのだ。この度の日本への旅費も、割り勘だったそうである。  だから、マイクはジゴロではない。マサコさんも金持ちの遊び人の有閑マダムではない。彼女は舞台美術が専門で、その世界では一目おかれているアーティストなのだ。マイクの職業はカメラマン。ファッションではなく、絵画とか美術品を専門に撮る方だ。二人が愛し合い、お互いを尊敬し合っているのは、五分も一緒にいればすぐにわかることだ。  ある時、私と彼らは連れだって東京のディスコに行った。さんざん踊って私もマサコさんも年並みに疲れ、席でお酒を飲みだしたが、若いマイクはフロアで踊り続けた。  たちまち若いボディコンの日本人ギャルたちが、彼を挑発し始めるのがわかった。マイクを取り巻くようにして何人ものギャルたちが、セックス・アピールしだしたのだ。長い髪をたえず指で掻《か》き上げながら、盛んに流し眼を送る娘、本場のストリップティーズだって赤面しそうな腰振りをやってのける若い女、唇を半開きにして、すり寄る子。 「へぇ日本の女の子たちって、ずいぶん無防備なのねぇ」とマサコさんは驚いたが、私に言わせれば無節操、臆面がないというか、アプローチが直接的で下品である。  やがてマイクが席に戻って来た。 「もてるじゃないの、マイク」と私たちはからかった。「どう? 日本の若い女の印象は?」 「バービードールみたいな子ばかりだね」と彼は答えた。 「セクシーってこと?」 「ノーノー。その反対。どの子もスタイルも顔もセンスもいいけど、どこかの工場で大量生産されて出て来たみたいだ。外見はいいけど、おツムは空だよね」 「ディスコで踊るのにおツムは必要じゃないわよ」 「それにベッドの中でもね」 「もしかして、それってボクをけしかけてるつもり?」とマイクが気を悪くした。 「ボクはネ、自分がディスコで踊るにしろ、ベッドに行くにしろ相手を厳密に選ぶんだ」  それはつまり、相手を尊重すると同時に、自分自身と自分の肉体を尊重することでもあるのだ、というようなことを、マイクは私たちに語った。  その時ふと私は、四、五年前にそっくり同じことを口にした男のことを思いだした。彼もやはりアメリカ人だったっけ。  ディスコやバーで知り合い、その夜のうちにベッドへ行ってしまうような日本の若い女や男たちを大勢知っているだけに、愛とか性愛とかに尊厳を求めるアメリカ人の若者は、私にはある意味で衝撃的だった。ほどなくスローな曲が始まると、マイクはマサコさんの手を取ってフロアに行って腕の中に慈しむように抱き、眼を閉じて踊りだした。ギャルたちの羨望と嫉妬《しつと》の視線を浴びながら、二人はぴたりと躰《からだ》を合わせて静かに踊り続けた。  古いものを新しく着る  私は頭に被るものが好きで、帽子とかターバンの類を少なくとも全部で百以上持っている。もっともそのうち三分の二は、講演会とかテレビに出る時用の、いわば女優でいえば舞台衣装の延長のようなものだ。  講演会をやるのになぜ派手な帽子が必要なのかと思うかもしれないが、一時間から時に一時間半一人で喋《しやべ》るというのはこちらも大変だが、聴く方も大変だ。退屈もするだろう。そのために衣装とかアクセサリーとか帽子なんかが役に立つ。  女というものは他の女の人のおしゃれをとことん眺めるのも好きなのである。特に胸の中であれこれ批判しながら眺めるのはもっと好きなのだ。できることなら隣に坐っている人と、「ねえ、モリヨーコさんの今夜の帽子、ダイアナ妃も真青ってとこね」とか、「ちょっとバランス悪いんじゃない?」とか、「あんなの被ってよく人前に出られるわね。よっぽど目立ちたがりやなのね」とか悪口を口に出して言ったら、もっといい気分だろうと思う。  だから私がど派手な帽子やターバンを被るのには、そういう見られる側としてのサービス精神があるのである。従ってプライベート・タイムには、結構目立たないようなものを身につけているつもりだ。私はよくても相手の男は、帽子を被っているというだけで、気恥ずかしく感じるらしいからだ。概して日本人の男は、帽子を被った女に困惑するみたいだ。  で、夜は比較的こぢんまりとまとまるターバンが多くなる。そして今週はこのターバンの話をしようというわけ。  ターバンというのは、そのためにジャージーなどで作られたものもあるが、私はスカーフやドレスについている幅広の共布のベルトなども、服に合わせて頭に巻いてしまう。  もっともターバンというのは諸刃《もろは》の刃《やいば》みたいに危険で、緊張して被らないと、単にはりきりおばさんになってしまうのだ。「よおし、これから家中の洗濯にとりかかるか!」なんて図が似合うのでは、困るのである。  はりきりおばさん風から、おしゃれなマダム風にするのは、お化粧とドレスと赤い爪とハイヒールの附属品が必要となる。それにプラス、緊張感だ、胸を張り、背筋を伸ばし、下腹をひっこめて、スイスイ歩かねばならない。  ターバンは、美容院に行く時間のない私にとっては、ほんとうに便利な小道具だが、ぼろかくしをぼろかくしのままにするのではなく、それをおしゃれに変えるのには、ちょっとばかり年季がいる。つまり場数をふむということ。年をとるということとは関係ない。場数とは、そのことで自分がどれだけ恥ずかしい冷や汗をかいたかということでもある。  ターバンで思いだすのは、フランソワーズ・モレシャン。彼女といつだったか石垣島の方に旅行をしたことがあった。その時フランソワーズは私以上にターバン好きなのがわかった。  毎日ドレスやシャツや水着に合わせて、しかも一日に何度もターバンの色を替えるのはさすが。そして色合いもまことにシックなのだ。「ねぇ、それ、いい色ね」と私が言うとフランソワーズはくるりと頭から外して広げてみせてくれた。ウグイス色のチリメンのふろしきであった。  それはチリメンだったり、絹だったり、化繊だったりするが、日本のふろしきというものは、ほんとうに色がシックだということを、彼女によって教えられた。それにフランス製のスカーフに比べたら、ものすごく安いのだ。  そんなふうに発想を変えると、日本にはおしゃれなものがたくさんあるのがわかる。私はその旅で芭蕉布《ばしようふ》というゴワゴワの藍染の布で作った筒袖《つつそで》の半てんを一枚買った。カヤみたいに透明なので涼し気だし、カミシモみたいにゴワゴワしているのも面白いので、それを真白いシルク混紡の麻のジャンプスーツと組み合わせてみた。半てんの前を閉めないでジャケットみたいにはおるのだ。袖をラフに二つばかり折る。東京のおしゃれな女友達が、歯ぎしりしてくやしがった。  ちょうど今は、お坊さんが白い着物の上に重ねて着る、透明な黒い僧衣にこっている。極く上等な絽《ろ》という布で、特別に作ってもらったのだ。やっぱり前をはだけて、コートのような感覚で着るのだ。この夏はこれに黒のショートパンツを合わせて、ミラノの街を歩くつもり。着るものも常識的じゃつまらないものね。  潜在性デブ体質  あなた、ハンバーガー好き? ポテトチップスは? コークとかジンジャーエールも? お魚よりもお肉の方が好きね? 揚げたじゃがいものつけ合わせなんて大好物? もちろんスパゲティやイタリア料理には眼がないんでしょうね? 時々ピザの出前もとるの? ティラミスとかデザートなんかも必ずディナーの後に食べるでしょ? ビールや日本酒やワインも好きよね。  だとすると、あなたはまちがいなく潜在性デブ体質ということになる。つまり、結婚して一人の男をつかまえ、安心すると同時に太り始める体質。赤んぼうを一人生むごとに、サイズが一号増えていく体質。ゆくゆくは、もっこりでっぷりの中年おばさんになるっていうわけ。イヒヒヒヒ。  と急にモリヨーコさん、意地悪おばさんになっちゃったのは、そういう知恵をつけられちゃったからだけど。  実はこの間、私の年齢の女たちが三人集まって飲んでいた時のこと。つまりあなたたちのお母さんみたいな年代の女たちだけどね。  ピアノバーでまあまあ楽しく飲んでいたの。あいかわらず日本にはいい男がいないわねぇ、というような話をしていたのだけど、そこへ四、五人若い女の子が入って来た。いかにも夜の遊び人風のスタイルも抜群、顔もそれなりに今風のね。 「近頃の女の子ときたら、まったくもう、同じ日本人とは思えないわね」とフランス帰りの女友達が溜息《ためいき》をついた。「顔も立体的になってきているし、腰も高いし、胸もボインだし」  私たちは同じ日本人としてはうれしいような、しかし食糧難の時代に先に生まれて来てしまった女としては、悔しいような複雑な気分を味わいつつ喋《しやべ》り続けた。 「でもね。あの躰《からだ》つきからみると、欧米風でしょ。食生活も肉食が多いから。ということは、そのうち、イタリアのおばさんみたいにブクブク太り出すっていう体質なのよ」と、フランス帰りが言って、イヒヒヒヒと陰惨に笑ったのである。 「あたしたちみたいに、ろくなもの食べてなくたって、中年ともなれば日々肥満との闘いですものねぇ」と我々は言い合った。私など正に壮絶なる肥満との闘いを目下くりひろげているわけで、体重を五キロなんとか減らしたばかりである。  我々ですら、油断をするとブクブク太ってしまう。我々というのはくり返すが、食糧難の時代に育ち、今でもお肉よりお魚、スパゲティよりは日本そば、フランス料理よりお茶漬の方が好きな人種である。間食にポテトチップスに手は出さないし、コークなど一年に一本も飲まない。食後の甘いものも、歯が浮くようでパス。こんなに粗食に耐えているのに、それでもお腹の周りに醜いお肉がついてしまうのだから、あなたたち恵まれた時代の女の子が、いわゆる肉食やジャンクフードばかり食べ続けていたらどうなるか、想像くらいはつくでしょう?  それに、家事はどんどん便利になっていく一方だから運動不足になるしね。  栄養が足りて運動が不足すると、あとは言わなくてもわかるはずだ。多分今の若い人たちのほとんどが、この潜在性デブ体質に陥っていると思う。時代がいけない。何でもかんでも栄養たっぷりの飽食の時代がいけない。あなたたちのお母さんもいけない。カルシュウムが不足するというと、煮ぼしのかわりにミルクをワンカートンも飲ませ、たんぱく質が元気の素というと、トンカツとかビフテキなどを作る。  何かを作ってくれるお母さんはまだいい方で、お金だけ渡して「お昼はハンバーガーでも食べなさい」と言い、夜はスーパーで買って来たやたらカロリーが高いおかずを、温めて食卓にのせる。  受験生をかかえていたりすると、勉強を見てやれないことや、自分は時々ゴルフに出かけたりする後ろめたさもあって、お夜食など作って娘や息子をカロリー攻めにする。お夜食に六百キロカロリーも食べたら、一日中机の前に坐ってただでも運動不足なのに、困ったものだ。  そうなのだ、あなたは時代が生んだ悲劇の子なのだ。それと無知と怠惰の落とし子でもある。自分の躰は自分で守ろう。ジャンクフードは止めて、ほんとうに躰に良いものを食べよう。あとで肥満に泣くのはあなただもの。体質改善するのなら今のうちですよ。  不倫性善説  私の長女がこの五月にベルギー国籍の青年と結婚した。結婚して数日後、みんなでブリュッセルの街を観光した。ランチを食べるので、シーフードのレストランに入った。メニューを選んでいる時、隣の席にブロンドの若いグラマーガールが坐った。ほやほやの夫であるヤンが、とっさに眼を逸らせて、「見ちゃいけないんだ」と言った。もう結婚してしまったのだから、他の女に眼を移してはいけないというわけなのだ。長女は「当然」という顔をしたが、次女と三女は「へぇ!」と叫んだ。下の二人の娘のボーイフレンドたちはジャパニーズ・ボーイたちなので、デイト中に、ちょっときれいな女の子が通りかかると、遠慮することなくキョロキョロと見るのに、慣れているからだ。  他の女の子を眺めるくらいは罪にはならないが、それでも自尊心は傷つけられる。それでよく娘たちはボーイフレンドとケンカしている。  結婚したら他の女に眼を移さない、という思想は、西洋では当然のこととして実行され、信じられている。日本でも教会の式の時、貞節を誓わされるが、そんなのはお経の文句を読むようなもので、肝に銘じるわけではない。  一般的に浮気という概念が、あちらでは成立しない。遊び程度のことで妻を裏切ったりはしないのだ。浮気は、相手の女に対しても誠実ではないし、もちろん妻に対しても不誠実なことである。第一、そういうことをする自分自身を、あちらの男は許さないのだ。  浮気は成立しないが、本気で他の女を好きになる、ということはありうる。その時は全てに責任を取って、きちんと協議離婚をして妻に慰謝料を払い、その上でその女と再婚するという形をとる。それくらい、今でも男と女の愛の形に対して、彼らは真剣であり誠実であるのだ。  もし、私の他の娘が日本人の男と結婚すると言ったら、私は娘にこう言わなければならないのを、とても悲しいと思う。 「日本人の男のほとんどは、浮気をするわよ」と。私の知っている日本人の男たちで、一度も不倫の関係を持たなかったという男は、一人もいない。「その覚悟をしなさい」と娘に言っておかなければならない。  もちろん例外はある。一生浮気をしない男だっているのに違いない。ただその数がとても少ないことは確かだ。日本人の離婚率がまだ低いのは、浮気が社会的にも家庭的にも半ば公認されている国だからである。日本人の結婚生活というのは、半ば公認の不倫によって、持続されている、というふうにも言えると思う。浮気は男の甲斐性だとか、はけ口だとか、結婚生活に風を通す意味で必要だとか色々言うが、そのあたりをウヤムヤにすることによって、倦怠期《けんたいき》を乗り越えていくことができるわけだ。今流行の言葉で言うと、ファジーな関係。  もともと理づめな国民ではなく、全てファジーな性格の日本人には、浮気とか不倫というものは、長い眼で見ると悪なのではなく、善ということになるのかもしれない。  夫に浮気をされるのが嫌だったら、西洋人のきちんとした男と結婚した方がいい。ただし、西洋人の男というのは、前にも言ったように、妻を嫌になったら我慢をしない。別の女と不倫をして家庭的なうさを晴らしたり、仕事の鬼になって家にはただ眠りに帰る、というようなことはしない。妻が嫌になったら離婚しようと言うだろうし、他のステキな女が現われて本気でそちらに心が移ったら、やっぱり離婚したいと言うだろう。不倫でもいい、浮気してもいいから、離婚だけはしないでちょうだいと頼んでも、それは通じない。つまりファジーではないのだ。黒白がはっきりしているのだ。だから西洋人の男と結婚するのなら、そのあたりの覚悟をきめておかなければならない。離婚されないように、たえず女としても磨きをかけ続けなければならない。一心同体などという思想もなければ、以心伝心という便利な言葉もない。やっぱり、日本人の男と結婚した方が、楽そうね。  男がだめなのは、女が悪い  ある夜お酒を飲んでいてずいぶん時間が遅くなってしまった。時計を見ると、タクシーが拾いにくい時間帯だった。しかも金曜日。  私は夜出かける時はたいてい帰りの車のアレンジをしていくのだが、たまたまその夜は何の手配もしておかなかったのだ。いつも使っているハイヤー会社に電話をしてみたが、急なことなのですぐには配車できないと言われた。  梅雨時のことで雨も降っていた。外で流れてくるタクシーを拾うしかない。濡《ぬ》れるのを覚悟で腰を上げた。 「あらモリ先生、車あるんですか?」と、若い女の子が訊《き》いた。何かのパーティーの流れで色々な人が一緒だったのだ。 「それが無いのよ。でも遅くなるともっとむずかしいから、運を天に待ってみるわ」 「だったらちょっと待って下さい」と彼女は言うと手帳をバッグから取りだした。 「アッシー君を呼びますから」  アッシー君なる言葉の意味くらいは知っていたが、それが現実に使われるのに接したのは、その夜が初めてだった。 「いいの、いいの」と私は慌《あわ》てて断った。 「いいんですよ、どうせひまだから」と彼女は電話に突き進んだ。 「でも私の友達でもない人を、いきなり呼びつけるなんて——」。たとえ友達だってそんなことは私はしない。 「喜びますよ、彼。モリヨーコさんを車で送るなんて光栄ですもの」 「止めてちょうだい」と、私はプッシュボタンを押している彼女に言って、フックを押してしまった。 「そういうの、私は嫌なの」彼女はけげんそうな表情をした。「返せもしない借りをつくるのは嫌なのよ」。まだ瞬きをしている。「人に何かをしてもらうっていうことは、それ以上のことをこっちがしていなければならないのよ。それに」と私は言った。「愛してもいない男の車に乗って、送られるのは、私のモラルに反するの」  彼女はますますわからなくなってしまったみたいだった。その表情を見ている内に、私は自分がひどく堅物のまぬけみたいな気がしてきた。 「そんな大げさなこと言わないで下さいョ」と彼女は急に笑いだした。「彼ってそういうのが好きなんですから。それが生き甲斐なのよ。時々声をかけてやると尻尾《しつぽ》振って駆けつけてくるんですよ。それにそんなに格好悪くないですよ、彼」と言って誰それというタレントに似ているとつけ加えた。 「そういうの格好いい男の子って言わないんじゃないの?」と私はなんだか淋《さび》しくなって彼女に言った。夜中に女の子から呼びだされて、尻尾を振って駆けつける男の子なんて、絶対に格好悪いよ。大体アッシー君なんて呼ばれてニヤニヤしている男の子の性根が、格好悪いよ。  それで思いだしたけど、クリスマス・イヴに千葉のベイシティーのホテルが、若い恋人たちの予約で超満員になるっていう話も、気持ち悪い現象だと思っている。聞くところによると、その夜男の子は、恋人のボディコン娘に、ティファニーのペンダントとか指輪を贈り、ホテルのフランス料理をおごり、バーで夜景を眺め、それから一泊二万円以上するホテルルーム代も全部払わなければいけないんだって。  想像してもみてよ。全部でいくつホテルがあっていくつ部屋があるかしらないけど、そのホテルルームのひとつひとつに、ティファニーのペンダントをした女の子がいて、メイクラブしている光景——何十組、いや何百組という男女がおんなじことをしている光景——すごく滑稽《こつけい》だと思わない? 寒々しいし、考えようによってはちょっと怖い光景でもあるよね。  ティファニーのペンダントも、ベイシティーのホテルの一夜も、女の子がそれを望むから、男の子はそうするんだろうけど、現象としては格好悪いの一言につきる。女の子の言いなりになる男なんて、どうしようもないって気がするけどね。でももっと格好悪いのは、男の子にあれをしてくれとかこれをしてくれとか、やたら頼む女の子たちの方じゃないかしら。くれない族っていうのがあったけど、あれこれ族っていう新種ね。私は嫌いだ。  とにかくその夜、アッシー君のまた借りだけは、なんとかご辞退申し上げた。  中身の問題  アタシ今、大人の女を演《や》ってるのォ、といわんばかりの若い女を時々みかける。たいてい胸元の深い黒いスーツできめて、おそろしく高いヒールの靴をはき、脚を組んで煙草を喫っている。爪と口紅が真紅だ。そして笑うと損みたいな表情でツンツンして、ウェイターが椅子《いす》を引いてくれても、バーテンダーがライターの火を差しだしても、「どうも」と低い声で呟《つぶや》くだけで、「ありがとう」とは絶対に言わない。  少しして同じような大人の女ぶった仲間がやって来て合流する。二人はやたらに煙草をスパスパやりながら、たいして声をひそめずに話を始める。 「ちょっとお面は悪いけどさあ、着てるのはいつもアルマーニでさあ、やたらグルメなのォ。そいでもう一人の方は、今風のいい男なんだけどォ、自分がいい男だってことを鼻にかけててやな男なわけ」 「そういうの面白いじゃん。一度泣かせてみようよ。それで、今夜どこ連れてくって?」 「もちイタリアン。ほら今一番流行のあの店よ」 「半年先まで予約がつまってるって店? すごいじゃん。食事の後は?」 「二組に分かれたがると思うけど、やばいから止めた方がいいよ」 「それはやばい。それ以上はやばいよ」  何がやばいのかはわからないけど、多分怖い病気のことを心配しているのだろう。  食い逃げの相談がまとまった頃、不良中年男どもが現われて、二人をイタリアンに連れ出す。何とも寒々しい光景を目撃してしまったものだ。  大人の女ぶっているけど、本当の大人の女は、男の懐を当てになどしない。男にただ飯を食べさせてもらう相談など、絶対にしない。  黒いスーツをバッチリきめ、赤く塗った爪先に煙草をはさんで、男にただであれこれしてもらったことを、勲章でももらったように話したりはしない。  大人の女にとっては、自分がどれだけ豊かな時間が持てたかということの方が、はるかに大事なのだ。良い一刻を持つためなら、食事代を誰が持とうと問題ではない。相手が出すかもしれないし、場合によっては女の方が出すかもしれない。  そして大人の女は、自分が共有した時間や、相手に対しても責任を持つ。もしその時間があまり楽しくなかったとしても、それを相手のせいにだけはしない。  黒いスーツでバッチリきめた偽ものの大人の女たちは、翌朝電話でこんな会話を長々と交わすだろう。 「あのアルマーニ野郎ったらさあ、テーブルの下であたしの膝をずっと撫でてたんだよ。ネチネチした脂っこい手でさあ、よっぽど脚を蹴とばしてやろうと思ったんだけどォ」 「もう一人の男だって、今風のいい男だとか言ってたけど、たいしたことないよォ。頬《ほ》っぺたから下が貧相だったもん。なのにさあ、なにさ、あの自惚《うぬぼ》れかげん。ちょっといい女が横を通ると、キョロキョロしちゃってェ。失礼だよォ」 「あんなに膝撫でまわされて、イタリアン一食じゃ、安すぎたかもね」  こんなのつまらないと思わない? 大人の女になるっていうことは、脚を組んで煙草を喫うことでもないし、中年の男にエスコートされて、気取ったレストランに出入りすることでもないのだ。損とか得とかの問題でもなく、相手からどれだけ与えられたかでもない。自分自身が、どれだけ、楽しい一刻に貢献できたか、ということの方が大事なのだ。  世の中には煙草を喫わない男だっているのだから、「喫ってもいいかしら?」と訊く配慮もいるし、椅子やドアを引いてもらったら当然の権利みたいな顔をして「どうもォ」なんて言わないで、「ありがとう」と謙虚に言える人の方が、はるかに素敵だと私は思う。つまり外見ではなく、中身そのものが大人になるってことよね。  男運について  男運の悪い女って、いるわネ。それも一度や二度ではなく、めぐり逢《あ》う男全てに運の悪い女。  でもそういう女たちって、意外と明るい。「あたしって、どうしようもなく男運が悪いのよね」と言いながら、どこか達観しているようなところがある。諦めとは少し違う。自分で選んだ男なんだから、自分で責任負わなくちゃ、みたいなニュアンスが感じられるのだ。  だから私は、いわゆる男運のいい女たちより、明るい口調で「あたしってどうも男運が悪いのよ」と言う女の方が、どちらかというと好きである。  もちろん例外もあるが、さばさばと「男運が悪いのよ」と言ってのける女たちは、たいがい自立していて、男の質が悪くても、そういう男を選んでしまった自分の方に、大半の責任があると思っている節がある。けなげなのである。自分の不幸を相手のせいにしないその潔さが、好きなのだ。  それに口では「男運が……」と言いながらも、どこかでそれを面白がっているふうがないでもない。だめ男と薄々知りながら、好きで選んでいるのだとしか思えないこともある。  そういう女たちは、概して仕事のできる女たちである。強い女には、どうも弱い男がくっつくみたいで、それで世の中全体が上手《うま》くいくのだろうか。  ただし、悪い男運を、相手のせいにする女は、だめである。そういうのは、女の風上にもおけない。「あたしじゃなく、男が悪い」と思うわけだから、罪も責任も自分にはない。相手の方だけにあると信じて疑わないのだ。これは女々しい女の発想。  男が女々しいのはまだいいのだ。男の女々しさってのは不思議に色気に通じるからね。でも女が女々しいってのはアイスクリームの上に生クリームがのっていて、その上にチョコレートがトロリとかけてあり、更にイチゴなんかが飾ってあるみたいで、あまりにも過剰。というよりはびしょびしょのバスタオルで躰《からだ》を拭くみたいなものと言った方がピッタリね。  女はむしろ男っぽい気性の方がステキなのよ。女の中にあるこの男っぽさが、これまた女の色気になるの。わかる? 今はまだわからないかもしれないけど、そのうちあなたが大人の女になったら、私の言っている意味が納得できるようになると思う。  大体、女の子は、女の色気ってものを完全に誤解しているのだ。いかにも頼りな気で、いかにも可愛《かわい》くて、なぁんにも知らないような、そういう女の子がいいと思い込んでいる。ところが世の中、誰もそんなのいいなんて、思っちゃいないのだ。  たとえばレストランで食事しても、わざとお皿の中身をいっぱい残したり、ディズニーランドのジェットコースターで気絶するふりをしたり、「アタシって、そういうの好きぃ」とか「嫌いぃ」とか黄色くたどたどしい声で言ったり。これってほんとに気持ち悪い世界よ。だって外見は大人の女の躰《からだ》していながら、声とか言葉とか発想が三歳の幼児の域を出ていないんだもの。自分ではそうするのが可愛いと思ってるんだろうけど、マンガね。特にあの黄色いたどたどしい声。あれはいけません。ドナルド・ダックの妹が喋《しやべ》ってるみたいだもの。  こういうびしょぬれのバスタオルみたいな女の子には、言いたくとも「男運、悪くて」なんてことは言えない。悪いも良いも、「男」にめぐり逢《あ》えない。いい男は、彼女の周りを避けて行ってしまう。一刻も早く甘ったれ声と幼児的発想の世界から卒業しなさい。  それにしても本物の男たちって一体どこに隠れてるんだろう? 「女に悪い運をもたらす男」とか「悪い男」とか「ダメ男」とかは結構いるんだけど、本物がいないのよね。私なんてもう半世紀近く、目を皿のようにして探してるんだけど、五本の指にもならないわ。  見て見ぬふりの、おもいやり  いつだったかミラノで一番|美味《おい》しいという最高級のレストランへ行った時のことだった。ドアを開けたら日本人ばっかりだった。  イタリア人の美男美女を眺めながら、ゆっくり落ち着いて食事をしようと思っていたので、内心ガッカリした。日本からわざわざ来たんだもの、何もミラノで日本人に囲まれて食事しなくてもいいじゃないか。  それにざっと見渡したところ、ミラノで一番いいレストランに食事に来たにしては、人々の服装が面白くない。男は背広にネクタイ。女はワンピース程度。もう少しおしゃれ心があってもいいと思うのだ。デパートの食堂でご飯食べるのとは違うのだから。  もっと良く見ると、男も女も、ベルトにバッグをつけた——何て呼ぶのか知らないが、要するに腹巻きスタイル——ものをお腹のまわりに巻いている。  きっとスリやひったくりにくれぐれも気をつけるよう、耳にタコができるくらい言われて来たのに違いない。しかし、みんながみんな一様に腹巻き型のバッグを腰に巻いているのを見ると異様な感じになる。  別にお高く止っているつもりはなかったが、私たちのグループはマネージャーにそっとチップを余分にはずんで、日本人たちと離れたテーブル、イタリア人たちの中に席を設けてくれるように頼んだ。チップが効を奏して、願いは叶えられた。  あたりを見回すと、夜のドレスアップをした美しいマダムや、コメカミのあたりに白いものが混じる髪をオールバックにしたそれは優雅な男たち。なんという眼の保養。男は女を眺め、女も男を眺める、この見たり見られたりの世界。これがあるから、少しくらい高いお金を出しても、こういう最高級のレストランに足を運びたくなるのだ。  奥まった一隅に押しこめられた日本人の一団には、この見たり見られたりの世界が、全然ないのだ。  私たちはすっかり寛《くつろ》いで楽しく食前酒を飲んでいた。さて、ゆっくりとメニューを広げて何を食べようかという段になった。 「あのぉ、すいませんけど」という声に顔を上げると、腹巻きバッグが眼に入った。 「モリヨーコさんでしょ? ファンなんです。サインして下さい」女の子が二人。  ファンと言われて嫌な気はしないが、しかし時と場合による。周囲に気兼ねしながら、大急ぎでサラサラと書いた。  二人はペコリと頭を下げて帰って行った。「サインしてくれたわよ」という声が向こうの方でした。その後がいけない。「じゃあたしも」という声に続いて、女の子たちの一団がテーブルをぬってドタドタと駆けて来た。もういけません。私は恥ずかしくて顔も上げられなかった。せっかくの見たり見られたりの大人のいい雰囲気がぶちこわし。ぶちこわしてしまったのは、私のせいである。  そんな権利は私にはない。同席した男性が断ってくれた。ちょっと押し問答があって、女の子たちがブツブツ言いながらゾロゾロと引き下がって行った。「だめだってさ」という批難の声が、耳に突き刺さった。  しばらくの間は針のムシロに坐らされている思いだった。イタリア人たちの白い眼を背中や肩や横顔に痛いほど感じた。  そんなことがあってから、私はレストランに行くと、黙って案内されるまま、日本人たちと混じって坐ることにした。どこに行っても、有名な店には日本人がいるのだから仕方がない。ところが皮肉なことに、そういう時には誰もサインして下さい、なんて立って来るファンはいないのだ。人に迷惑をかけまいと思った私の方が気を遣いすぎたらしい。  でも、人気タレントとかミュージシャンはこの種の被害によく遭うという。少なくとも外国では見て見ぬふりをするのが思いやり。マナーでもある。もちろん日本にいる時にも、そうしてもらいたいけど。それから、いいレストランに行く時にはそれなりのおしゃれもね。  贈りもののしかた  人に物を贈るのって、ほんとうにむずかしい。同性へのものならまだいいが、男の子に何かプレゼントしなければならないと、半日近くデパートを駆けずり回ったあげく、結局いくつあってもいいだろうとネクタイの線に収まってしまうのがオチ。  それではあまりに能がなさすぎる、と半ばヤケになり、ネクタイ六本とか一ダースとか物量でめんぼくを保ったことも私はままある。  でもたいていの男は言うのよね。「女にもらったネクタイは、どうもいまひとつピンとこなくて——」  多分それはそうなんだろうと思う。男にスカーフを贈られた時のことを思い出してみよう。いまひとつピンとこない色柄だったりするはずだ。私自身いろいろ思い出してみると、若い頃、夫にもらったハンドバッグしかり(しっかりおばさん風だった)、ジェム・ストーンのネックレスしかり(これもおばさん風)、ネグリジェしかり(これは一番ひどかった。ピンクのネルで木綿のレースが衿と胸のタックについているの。おそろいのナイトキャップがついていた。ぎゃっと叫んで危うく投げ返しそうになった私)。  けれども相手は別にふざけているわけではないのだ。やっぱり足を棒にしてデパート中を歩き回り、赤面しながら一生懸命に選んでくれたのに違いない。  どうして女は男への贈りものが下手なのだろう。そしてどうして男は、女に物を贈る時ピントが外れてしまうのだろう。これは永遠の課題だ。  女が女に物を贈るのが比較的簡単なのは、自分が欲しいなと思うものをあげればたいていは成功する。ひとつランク上の香水石鹸とか、しゃれたランチョンマットのセット、ティファニーの写真立てといろいろある。  私は男ではないから、男がもらってうれしいものがどうしてもわからないのだ。本人に直接|訊《き》いてみても、今の世の中飽食の時代だから食べものにかぎらず、たいていのものを男は所有している。本人すら自分が何をプレゼントに欲しいのか、わからないくらいなのだ。本人がわからないことを、こっちがわかるわけがないではないか。  もっとも私のダンナ様はチトばかり違っていたけどね。彼はね、その昔私たちが結婚したての文無しの頃、こんなことを言ったのだ。 「ボクには三つだけ欲しいものがある」 「へぇ、何と何なの?」 「ロレックスのゴールドウォッチ。ヨット。それに島」  何をぬかすか、とその時私は白い眼で睨《にら》みつけただけで終り。分相応という言葉、知らないのかしら?  けれどもその言葉は魔法のように、知らず知らずのうちに、私に作用した。無意識のうちに私は猛烈にがんばった。気がついてみると、今、私のダンナ様は、ロレックスとヨットと島ひとつ、ちゃんと手に入れてしまっている。問題はここなのよ。もしあなたが将来つれあいの人を出世させたかったら、とんでもなく贅沢《ぜいたく》な夢を語ることね。人間って、本当に愛する者のためなら、なんとしてでもそれを手に入れようとするものなのだ。それがとんでもなく贅沢であればあるほど、男はガンバルっていうわけ。うちの場合、逆だったけど。そういえばその昔、私のダンナ様が「キミは何が欲しいの?」と訊いた時、「別にィ。何も欲しくないわ」なんて答えてしまった。で、うちのダンナ、やる気なくしたのかな。  さて、つれあい以外の男に何か贈らなくてはならない時、最近は消耗品にきめている。いつまでも残らないもの。たとえばバラの花束を一抱えとか、ちょっといいワイン二本とか、シャンパンを一本とか。  バラが枯れてしまえば、それで終り。ワインを飲んでしまえば、あっ美味しかったな、で終り。たいしてピンとこないネクタイをいつまでも持っていてもらうより、ずっといいもの。  しゃがむ娘  しゃがむという動作、このごろの若い人はあまりしないと思っていたが、これは私の思い違いだった。  今でも田舎の方へ行くと、時たまおじいちゃんやおばあちゃんが家の前の軒下で、日射しを浴びながら、しゃがんで日向《ひなた》ぼっこする姿を見かけるけど、これもほんとうに時たまで、お年寄りでさえ、しゃがむということをほとんどしなくなってしまった。  インドなんて行くと、しゃがんでいる人、たくさんいるわよね。スリランカでもそうだった。一日中何もしないで日がな一日という感じで、ボンヤリ坐って道行く人を眺めている。  仕事がなく、それで収入がないから空腹で動けないのかもしれない。一番楽な姿勢で、カロリーの消耗を防いでいるのだろう。あるいは、あの姿勢は瞑想《めいそう》にいいのかもしれない。彼らは一日中そうやって哲学的な瞑想にふけっているのだろうか。  中国では、バスを待っている間、男も女も老人も子供も一様にしゃがんでいた。空腹で動けないようにも瞑想しているようにも見えない人々が、ズラリとしゃがんでバスを待つ姿は、私に戦争直後の日本を思い出させた。そういえば当時は駅のプラットフォームやバス停で、しゃがみこんでいる人々の姿をよく見かけたものだった。  しかしまさか、日本の若いギャルたちが、人前でしゃがみこむとは、夢にも思わなかった。  それがいたのである。しゃがみこむ娘たちが。しかも一人や二人じゃなかった。  一番多く見かけるのは、外国の飛行場。修学旅行の日本人の学生は、男女を問わずほとんどがしゃがみこんでいる。  次はホテルのロビー。だいたい団体の日本人が多いのだが、やたらにしゃがみこんでいる。時々、修学旅行生につられて、一人旅、二人連れのギャルまでが、しゃがみこんでいるのを見かける。シャネルとかアルマーニ着てる娘がしゃがみこんでいるのよ。あれって、昔のウンチングスタイルよね。よくよく見ると。よくよく見なくてもそうだけど。一様にしゃがみこんでいると、一種異様なのだ。すこし本能的に見える。動物的に見える。猿の集団に見える。  でもなぜ栄養のいき届いた若者が、あんなふうにしゃがみこんでしまうんだろう? しかも、日本では、ほとんどやらないじゃないか。ホテルオークラのロビーで、あなた、しゃがみこむ? 東京駅で新幹線待つ間、しゃがんで待つ? 待たないよねぇ。  だったらなぜ、パリのホテルやバンクーバー、ニューヨークのホテルのロビーで平気でしゃがみこんじゃうんだろう? あれって緊張感が極端に欠けている証拠よね。ホテルのロビーでしゃがみこんでいたら、みっともないと、普通は思う。東京ではそう思う。それが外国に行くと、みっともないと思わなくなるらしい。たとえ多少みっともなくとも、ま、いいや、二度と来ない場所だし、知ってる人に見られるわけでもない。旅の恥はかきすてよね、とそういう発想なのに違いないのだ。  でも外国の飛行場や一流ホテルでしゃがみこんでいるのは、世界広しといえども、日本人だけだからね。ホンコンのおじさんおばさんも、たまにしゃがみこんでることがあるけど、若者はそんなことしない。  私はね、どうせ外国だものとか、どうせ知ってる人が見るわけじゃないものという発想する人が大嫌い。人がどう見ようとかまわないという雑で荒々しい感性が好きじゃない。人眼を気にするところに可愛《かわい》らしさも色気もあるのだ。第一、人はどうでもいいにしても、自分自身はどうなの? あなたはそういう雑な感性でしゃがみこんでいる自分自身のことが好きになれる? あなた自身が自分をどう思うか。ステキだと思うのか、自分なんてどうでもいいのか。少なくとも日本では一応みっともないと思ってるんだろうから、あのしゃがみこみスタイル、外国でもがまんしてもらえないかしら。  サバイバル・テスト  私の娘たちが年頃になり、ボーイフレンドや夫となる人を選ぶ基準に、ある共通のものがあるのに気づき、私は密かに気を良くしている。そしてそれは彼女たちの父親、つまり私の夫にもある、ある能力なのである。さて、それは何でしょう? クイズです。  つまり、私が若い時、自分の夫になる人に求めた、唯一の条件とは? わかりますか?  ヒントをひとつ。私が今の夫に出逢《であ》った二十七年前、彼は大きなリュックサックに、|寝 袋《スリーピング バツグ》と、みるからに頑丈そうな手斧《ておの》一丁だけつめこんだ男。それが彼の全財産だった。他にあるのは若さと健康な肉体と冒険心。それだけ。さてさて、そんな彼に私が人生を託す気になった理由とは? わからない?  では教えましょう。サバイバルの能力です。彼はイギリスを寝袋ひとつと手斧一丁だけ持って飛び出して以来、ラオスやカンボジアのジャングルを、文字通り斧で伐り開きながら道をつけ、日本にたどりついた男。たとえ無人島に流れついたとしても、自分で樹を伐り倒して家を建て、食物を育て狩りをし、時には海にもぐって魚を追いかけるといった、サバイバル能力をそなえていたのだ。  彼に出逢うまで、私は本物の男を知らなかった。私自身の父は斧でマキなんて割れないし、釘《くぎ》一本だって打てないような都会人。母が病気になれば、お風呂も沸かせない、ご飯も炊けない、お湯も沸かせない典型的な日本の男だった。  ボーイフレンドたちだって似たようなもので、バーの止り木に坐れば格好はいいが、無人島に放り出したら、三日で飢え死にしそうな男たちばかりだった。  男は基本的に自分のことは自分でできなければいけない。かつその上に、女を守れなければいけない。それが私の求める夫の条件だった。  私の娘たちがそれぞれ選んだ男の子たちは、みごとにその条件を満たしているので、なるほど、父親の影響というのは、そのあたりに出るのだと、最近になって、ようやくホッとしている。  長女は、都会より田舎の生活の好きな青年と結婚をした。釣りもできれば狩りもできる、斧ひとつで生きていけるタイプの男の子だった。彼女はそう思っていないが、若い頃の私の夫に何から何までそっくりなのだ。  次女のボーイフレンドも一見都会派に見えるが、体育会でもまれ、趣味は野宿。次女を連れて一週間でも二週間でも山奥で暮せるこれまた近頃では珍しいサバイバル・タイプ。  さて三女であるが、つい最近何人もボーイフレンドを引きつれて原宿を歩いている時、向こう側からやって来たケバイ一団にインネンをつけられた。そこで頭にきた彼女は、サッと右足を出して、ケバイ一団の一人を転ばせてしまった。それを見て、彼女の男友達四、五人、サッとクモの子を散らすように逃げてしまった。かよわい女の子一人をその場に残してである。 「ま、なんてことあなたもするの。右足なんて出して、ズブリとやられたらどうするの」と私は青くなっていさめた。「で、どうなったの? 殴られた?」 「ううん、ケバイ奴ら、逃げた子たち追っかけてった。あたしは無事」とケロリと言った。それ以来、三女の男の子を見る眼が変わってきた。「男は強くなくっちゃ」というわけである。きっとこの子も、父親《ダデイ》のタイプの青年を選ぶようになるだろう。  あなたのボーイフレンドはどうかな? 女の子を置いてきぼりにして逃げ出してしまう口かしら? 男の子がサバイバルできるかどうか見分ける方法は簡単。今風の便利なキャンプ道具持たずに、一日山奥にキャンプに行ってみればいいのよ。火もおこせないような子だったら、悪いこと言わないから、さっさとお別れね。自然の中でしっかりやれる子なら、まず大丈夫。男は自立してなくちゃ。それに女の子をちゃんと守れるくらい強くなくちゃ。ほんとうに強い男だけが、女だけじゃなく、子供や動物に対しても優しくできるのよ。  自己紹介  私が結婚して子育てに専念していた十年間、何が屈辱的だったかといえば、「あなたは何をしていらっしゃるの?」とパーティーで訊《き》かれ、「今は家庭のことと子育てと——」とまだ答え終りもしないうちに、「あら、そ」と背を向けて歩み去って行く人が、あまりにも多かったことだ。  まるで家庭に入っている女は、一人前の人間ではないと言わんばかりの扱いだった。そこまでひどくはなくても、ニッコリ微笑してそれで終り。どこか優越感に満ちたそういう微笑に出逢《であ》うと、必要以上に自分を萎縮《いしゆく》して感じてしまったものだった。  主婦だって、子育てしている女だって、立派に人間しているつもり、と下唇を咬《か》んでも、いったん「私は家庭に入っている」と口にしたとたん、面白いこと、興味ある会話からシャットアウトされることは、嫌というほど経験ずみだ。  結婚する前は、ずいぶん違っていた。「テレビのコマーシャル・フィルムを作っています」と答えると、ほとんどの人が眼に興味と好奇心の色を浮かべ、そこから会話が無限に広がって行ったものだった。  そして今、一通り家庭のこともやり終え子育てから解放された私は、「何をしていらっしゃるの?」と訊かれ「小説を書いています」と答えれば、パーティーの中心とは言わないまでも、ひとりぼっちにされることは、全くない。  というわけで、自己紹介がいかに大事かということについて、今週は書いてみよう。  思うに、「主婦です」とか「OLです」とか「英文科の学生です」とか、正攻法に答える必要はないということだ。いきなり相手の興味をひくような、そんな最初のアプローチが大事だ。 「旅行熱にとりつかれています」とか、 「結婚したい病にかかっています」とか、 「ジョン・アーヴィングにとりつかれています」とか、 「三食しっかり食べて痩《や》せる方法を実行中です」とかね。  すると大体相手は「どんなところへ旅行しましたか?」とか、「どういうタイプの方がお好きなの?」とか、「ジョン・アーヴィングなら僕も読みました。�ガープの世界�、好きですね」とか、「そんなダイエットがあるなら、私にも是非教えて下さい」といった具合に会話が発展していく。 「あら、そ」と背を向けて歩み去られることは、まずない。でありますから、もしあなたが仮に、「ジョン・アーヴィングにとりつかれています」というキャッチフレーズで自己紹介したら、当然のことながら、アーヴィングについてのお勉強はしておいてね。代表作の�ガープの世界�がペーパーバックで三百万部を超す大ベストセラーであることはもちろん、「おかげでアメリカでは�I BELIEVE IN GARP�という文字入りのTシャツが大流行したんですってよ」とこんなエピソードがさり気なくつけ加えられたら、満点ね。  まず、自己紹介で相手の興味をとらえ、ウィットに富んだ応対で今度はあなた自身の魅力を売り込む。これくらいやらないと、少なくとも大人の仲間入りはできない。 「何やってんの、おたく?」と、ニヤケた若者が訊いたら、 「昨日までやってたのは、アメフトのチアリーダー。でも今この瞬間なら、退屈してるわ」くらいのことを言って、撃退させる手もあるし。  あるいは、あまりタイプでない男に、「パーティーの後、場所かえて飲み直さない?」と誘われたら、�カサブランカ�のボギーのむこうをはって、「まだ二時間もあるじゃない。そんな先のこと、わかんないわ」と冷たくあしらうのも、女の特権。でももし相手がいい男だったら、やっぱり「そんな先のことはわかんないわ」とちょっぴりジャブを入れておくの。 「パーティーが終った時、もう一度誘ってみてくれる?」といたずらっぽくウインクして——。  第一印象は、ウィット。研究してね。  占いって何だろう?  昨今の占いブーム、少々異常じゃないかなぁ。若い女性が雨の中、傘をさしてズラリと自分の順番を待っている風景を、新宿で見かけたことあるけど、なにか印象が暗かった。  だけど別にせっぱつまっているわけでもないのよね。自殺を思いつめるとか、駆け落ち寸前とか、夜逃げの一歩手前とか、生きる死ぬの問題を抱えて、占い師の前に坐るのは過去のことで、今はどっちかっていうと遊び感覚、ちょっと胸ときめくゲームみたいなものじゃないかと、私は分析している。だってこの世の中で、ドキドキするような出来ごと、あんまりないものね。冒険とかスリルとかサスペンスとはおよそ無縁の毎日。平和でお金持ちの日本。  そんな時、手を差し出すだけで、あなたの未来がわかるとしたら、これはスリルとサスペンス。十五分かそこいら、千円札何枚かでドキドキが味わえる。多分そんなところじゃないかな。  ひとつは、夢を与えてもらいたいのね。二十七歳ですばらしい男が現われ、玉の輿に乗るよ、というふうに。  そしてもうひとつは、あなたは自分のことが知りたいのだ。私って何なんだろう? どんな可能性を持った人間なのだろう? それを教えてもらえるものなら知りたい。  だから占い師を訪ねる。十五分色々言ってもらって、おおかた満足する。「すごく当たってる」と感心さえする。  多分占い師はこんなふうに言ったのに違いないのだ。「あなたはどちらかというと積極的な人だけど、ほんとうのところは引っ込み思案でしょう」あるいは「楽天的だと自他共に認めていても、どこか悲観的なところがありますね」  まるっきり天と地ほど違う二つの性格を両方とも言ってるのだから、これは絶対に当たる。占いが当たるというのは、多かれ少なかれ、このあたりに秘密がある。  人の心理というのは単純で、自分が信じたいと思うことしか、耳に入って来ない。「一見意地っ張りのようだけど、ほんとうはどこかもろいのよね」と言われると、意地っ張りの方は聞こえず、もろいという言葉は心にスッと入ってくる。ドキッとして「当たった」と思う。  もし否定的なことばかり占い師に言われたらどうだろう? 「あなた頑固な手相してるわ。それに男運も良くないわね。頑固なくせに妙に惚《ほ》れっぽいところがあるから、男に暑苦しく思われちゃうのよ。結婚、あきらめた方がいいよ」  こんなこと言われたら、かっとくるのにきまってる。何言ってんのさ、インチキ。全然当たってないじゃないのさ、と。お金叩きつけて飛び出すのがセキのヤマ。頑固なのも男に暑苦しく思われるのも、本当は事実で当人も薄々と感じているものだから、それをズバリと言われれば誰だって耳をふさぎたくなる。だけどもし、占い師が「暑苦しい」のかわりに「情が細やかで深い」というふうにニュアンスを変えて言えば、「あ、そうか、やっぱりね、私って情が細やかすぎるんだわ」と、納得してしまうのである。よく当たると評判の占い師は、このあたりの言葉の魔術師。心理を充分にこころえているのである。  ところで私自身は、運というのは自分で作るものだと思っている。たとえばこの十五年間、毎日毎日五、六時間ペンを握って来た私の右手には、以前にはなかった線がくっきりと刻まれている。職業による必然的な線だが、これは運命線とピタリ重なっている。つまり、ペンを握っているうちに、運命線が濃く長くなって来たのだ。これを手相見に見せれば、「あ、あなたはすばらしい運命線をもっている。この道で大成しますよ」ということになる。大成したかどうかは別にして、それは結果論であり、そのようにあるべく十五年間かけて自ら刻み濃くしていった線である。何も努力もしないでのんべんだらりと生きていたら、運命線が濃く長くなるわけがない。人生というものは、だから自分で作っていくものなのである。  魅力的な年齢を重ねるために  この頃の若い女性を見ていると、まことに蝶よ花よ、という感じがしてならない。ふわふわしていて、きれいではあるが、それだけのことである。  花でいえば、スイートピーとかコスモスとか、可愛《かわい》いのだけど、匂いがない。だから印象に何も残らない。一度で忘れてしまう。  蝶よ花よでいいじゃないの、面白おかしく生きたいわと言うかもしれないが、花の命は短いのですよ、お嬢さん。蝶だってきれいなのはたかだか二週間程度。秋風と共に死んでいく運命。  可愛いだけが取り柄のあなただって同じこと。若さだけが売りものだったら、できるだけ旬《しゆん》の間に売りこまないとね。薹《とう》がたったら売り値は半額以下。  それでも結婚してしまえば、もうこっちのものよ、薹がたとうが肥満しようが、子供さえ産んでしまえばあなたの勝ち——。そういう人生もあるにはあるけど……。  でも別の人生だってある。もっとずっとステキな心ときめくような生き方だってあるのだ。花じゃなくて、樹にたとえる生き方が……。青春は若木だ。二十代にはきれいなピンクの花が咲く。三十代で赤い実をつける。  このあたりで油断しないこと。自分の実に水分や養分を全部吸われて、カサカサになる危険もある。実を立派に育てながら、自分にも栄養をふんだんに与えてやれば、やがて四十代五十代の収穫の時期が、人生の花盛りとなる。二十代の終りに青ざめてしぼんでしまう蝶よ花よさんたちには、決して味わえない、豊かな歓びの季節が長いこと続くのだ。  やがてあなたが老いた時、あなたの樹の下で幼い孫たちが戯れ遊ぶ姿が見られる。あなたは豊かな枝を広げ、涼しい木陰を作り、あなたの愛するものたちを、そこで憩わせることができる。  今私自身は、ちょうど収穫の時期にいる。二十代で献身的に人と関わり、三十代までにありとあらゆる本を読み、四十代でそれを私自身の言葉に、苦しみながら変えて来た。その結果百冊を超える私自身の本と、数えきれないほどの生涯の友人たちと、今は成人した三人の娘と、女として望み得るほとんど全てを所有している。何ひとつとして、運が良くて手に入ったものや、棚ぼた式で手に入れたものはない。私がそれを欲しいと強く望み、そのために努力して得たものばかりである。  そして、私がこの連載の最後に言いたいのは、何も私の自慢話ではなく、自分が本当に欲しいものを手に入れるための努力は、嫌なことでもないし、ただ単に苦しいことでもないということだ。血と汗の結晶だなどと言うつもりはない。好きなことだから、努力していて楽しかった。嬉しかった。  努力することイコール苦しいことと考えるのは止めよう。もし苦しいだけなら、どんな天才だって続かない。苦しい中に無類の歓びがあるから続くのだ。苦しいだけのことだったら、多分それはあなたに向いていないことなのだ。たとえば作家の資質のない人が、いくら努力で書いても、めくるめくような歓びはそこでは見出せないだろう。胃を掻《か》きむしるような苦しみだけが存在するはずだ。  あなたは自分を何の樹に育て上げたいか、イメージして下さい。そしてその樹を育て栄養をあげるのは、あなたのお母さんでもお父さんでもなく、あなた自身なのだと。  今、あなたの周りを見まわしてご覧なさい。ちょうどあなたのお母さんにあたる年代の女性たちに、二種類の女がいるのに気がつかない? 樹でたとえれば、花も実もたわわな緑豊かな樹と、同じ年齢とは思えないほどカサカサな痩《や》せ細った樹と。  皺《しわ》でいえば、いい皺、魅力的な皺と、嫌な皺、老いに引導を渡してしまった皺と。  どうしてこんなに差がでてしまうのかは、もうおわかりね。  長いこと私の毒舌に耐えてくれてありがとう。 「アンアン」(マガジンハウス刊)誌上で'90年10月12日号〜'91年11月22日号に連載 '92年マガジンハウスより単行本として刊行 角川文庫『非常識の美学』平成7年2月25日初版発行             平成10年12月15日13版発行