森 瑤子 終りの美学 目 次  偏西風   ある別れ   再婚   愛の天秤《てんびん》   スマイル ライク エジプシャン   笑いのレッスン   独りが素敵   あれもしたい これもしたい   トイレットおばさん   女の連帯感   仮死夫婦   お気楽に反省   遊びのすすめ  リゾート便り   I LOVE NEWYORK   I LOVE NEWYORK ㈼   イスラエルの熱い風   香港汁かけ御飯論   ヨロン島の熱い砂   MY HONG KONG   バンコックの熱い二十四時間   カサブランカの|刻は過ぎゆきて《アズ・タイム・ゴーズ・バイ》   カスバの休日   ガウディに魅せられて   甘美な島流し   ハワイでブービー賞  風の噂《うわさ》   1:00 A.M. 夜の魔術   2:00 A.M. 舞台の後   3:00 A.M. 午前三時の幽霊   4:00 A.M. 眠れぬ夜   5:00 A.M. ゴルフの朝   6:00 A.M. 早起きは三文の得   7:00 A.M. 歴史は朝作られる   8:00 A.M. 朝の悲劇   9:00 A.M. 贅沢《ぜいたく》な空間   10:00 A.M. ブランチ   11:00 A.M. 消えた時間   0:00 P.M. 木は考える   1:00 P.M. 美人はイメージで造られる   2:00 P.M. 鎖骨美人   3:00 P.M. ハイティー   4:00 P.M. 知的筋肉   5:00 P.M. 黄昏《たそが》れ刻《どき》   6:00 P.M. 牧場の夕食   7:00 P.M. 傷心のスカーレット   8:00 P.M. 最後のハシゴ酒   9:00 P.M. 記憶って何だろう?   10:00 P.M. 門限戦争   11:00 P.M. 病気休暇   0:00 A.M. 年の終り  偏西風  ある別れ  自他共に親友と認めあっている男友だちから電話がかかってきた。 「久しぶり」  と彼がいかにも楽しそうに言った。 「何を言ってるのよ。先週飲んだばかりじゃないの。下手なカラオケ聴かされて」  不運なことに花の木曜日で——タクシーが全然みつからない。  寒風吹きすさぶ路上で、いつ通りかかるともしれない空車を待っていると、冷たさが足元から忍び寄る。 「少し時間をつぶそうや」  と彼が言い、私たちはバーのハシゴのハシゴのそのまたハシゴ。  ようやくタクシーが拾えたのは午前一時半過ぎ。こんな時間に帰れば亭主殿の爆弾が落ちるのにきまっている。 「どうしたのさ、元気ないね」  と悪友は言うけれど、家庭の事情などいちいち明かさないのが友情のルール。 「飲みすぎ。それにあなたの下手な唄のせい」  さて、寝静まった我が家。ぬき足さし足しのび足。どうか敵様が目を覚ましませんように。  と祈ったのだが……。  敵様はパッチリとお目覚めで、全身怒りで硬直している。あとはおきまりのフルコース。ドンドンパチパチ一戦を交えてベッドにぶったおれる頃には、窓の外が暁の仄白《ほのじろ》さに染まっていた。  しかし友だちにはそのような内紛については|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にも出さず、ましてや、あの夜私が必死に死守したのは、彼との友情なのだった、などということもチラとももらしてはならないのだ。 「あなたのせいで亭主と大喧嘩《おおげんか》したのよ」  などといえば相手は責任を感じる。 「うちの亭主、どうやらあなたと私の仲を疑っているみたいなの」  こんなことも言ってはならない。友情に微妙にヒビが入るのにきまっている。  こういう場合男友だちというのは、次の二つに一つの行動に出る。ひとつは自分のせいでこの女が絶体絶命の状態に追いつめられているのだ、亭主から責めさいなまれているのだと思いつめ、正義感から責任を取ろうとする。つまり「妻と別れてきみと一緒になるよ」と言いだすタイプだ。  今ひとつは、逃避するタイプ。「こいつはなんだかヤバイことになりそうだぞ」と警戒して、それを潮に急に疎遠になってしまったりする。  どっちに転んでも、友人を一人失うことには変りはない。だから一生ものの男友だちには、めったなことでプライベートライフを口外すべきではないのだ。たとえ彼自身のことが夫婦喧嘩の原因であろうともだ。いや、彼のことが喧嘩の原因であればなおのことである。  話を一番前の電話に戻そう。 「ちょっと話したいことがあるんだけどね」  と彼。 「電話じゃなんだから、今夜|逢《あ》おうか」 「電話でもいいわよ」  と、私は慌てて言った。今夜はまたしても『花木』——、魔の木曜日である。友だちとちょっと飲んでいる間にタクシーが拾えなくなる。そうなれば夫婦喧嘩のフルコース。 「実は女房のことなんだ」  と、彼は急に慎重になる。 「どうかしたの、奥さん?」 「どうやら僕ときみの仲を疑っているらしい」 「疑うったって……。私たちただの友だちじゃないの。他に何人もいるあなたの飲み友だちの女の一人にすぎないのよ」 「そう説明したよ、僕も」 「なら何が問題なの?」 「否定するのはますます怪しい、というんだ」 「なるほど」  それはわからないでもない。我が亭主殿も似たり寄ったりだから。 「それに女房が言うには、友だちってのが一番悪いそうだ。愛人なら適当な時期にお互い愛想がつきて別れる。友だちってのは下手をすると一生続く。大体、異性の友だちに対しては、男は大甘に優しくなる。妻にもめったに見せないような柔らかいまなざしで、他の女なんて見つめて欲しくない。とこう言うんだな」  私は黙った。女として彼の妻の気持は痛いほどわかるからだ。私の亭主殿の不満も言ってみれば同じことなのである。しかし手前の家庭の事情など死んでも口にするものか。 「わかった。で、あなたはどうしたいの?」  と私は、やけに優しい声で訊《き》いてやった。 「きみとの友情はかけがえもないが、妻との仲が壊れては元も子もない」 「その気持わかるわ」  と口では言ったが、憤懣《ふんまん》やるかたない私。時には、何よりも大事なのが友情なのだ。女房の一人も説得できないなんて。  ま、その程度で切れる友情なら、たいしたことはなかったのかもしれない。  というわけで、十五、六年になんなんとする友人を、最近私は一人失った。  奥さんの気持はよくわかる。私の亭主殿の不満もわかる。けれども異性の友だちと多くて二月に一回、年にして五、六回、お酒を飲んで、お喋《しやべ》りすることはそんなに罪なことなのであろうか。  なんだかひどくしんどい時、妻にも言えない、恋人にも喋りたくないことを、女友だちとなら話しあえる。ちょっとぬるめの温泉にゆっくりとつかったような気分になれる。それで亭主殿が眉間《みけん》の皺《しわ》をとって戻ってくれば、口論がひとつ避けられようというものである。私にとっての男友だちというのも、そういう存在である。  結婚している男なり女が、異性の友だちを持って良いか悪いかを、私は問うているのではない。そういう問題ではなく、結婚そのもの、あるいは愛について考えてみたいのだ。  愛とは決して人を縛るものではないはずだ。自分の愛する人が、常にハッピーでいることが自分にとっても一番うれしいこと。それが愛するということではないだろうか。  でもたいていの場合、相手の心のことなど二の次になっている。愛する相手がハッピーかどうかより、自分がハッピーかどうかがまず先になる。  私が嫌なのだから、あなたもしないで、という発想だ。相手の立場ではなく、自分の都合だけで考えているわけだ。  これは何も男友だち、女友だちだけの次元のことではない。私が嫌なんだからしないでちょうだいというのは、愛の押し売りである。  もしかしたら愛とは全然関係がないのかもしれない。  あなたが楽しい気持、温かい気持、良い気持でいてくれることが、私にとっても一番いいことなのよ、と言えたら、それが本当の愛なのではないだろうか。  それにしてもあいつ、家庭の事情など恥ずかしげもなく口にして、と私は未だにおさまりがつかない。友情のルール違反である。  再婚  結婚に失敗した女は、二度と結婚だけはしたくないと例外なく言う。  離婚に至るプロセスは、男も女も同じように傷つき、惨めな修羅場を演じるのではあるが、離婚後の男女の反応は天と地ほども違うのである。  ほとんどの男が、あれほどこりごりしたはずの結婚に、驚くばかりの早さで再突入してしまうのは、どういうわけだろうか?  早い話が、男は前の妻にこりごりしたのであって、結婚生活そのものではないらしい。女の方は、前夫にも嫌気がさしたが、結婚そのものにこりてしまったのである。そこのところが、男と女では決定的に違うのだ。  男はあくまでも、悪いのは前妻との相性であると考える。次の女は前の時とは全く違うだろうと思う。ロマンティストなのだ。  女は、男なんて結婚してしまえばどれも多少の差こそあれ、同じようなものだと、痛い思いをした最初の結婚から得た経験からたかをくくる。  結果はどうだろう?  再婚した男は、相手に対する期待が大きければ大きいだけ、失望は時間の問題だろうと思われる。  そして頑《かたくな》に結婚を否定する方の女の側は、自由でいることの代償として、孤独をかこたなければならない。どっちもどっちなのである。  この二人の問題は——ということは世の多くの男と女の問題でもあるのだが、結婚に対して自分の側は何ら努力をしようとしないことである。それは常に相手の問題であって、自分には非がないと頑に思いこむせいだ。  相手にばかり期待していて、自分の方はほとんど変ろうとしない。最初の結婚の失敗の経験を生かしていない。  自分の方も変らなければいけないのだ。でなければ結果は前回と同じになってしまう。  再婚しようとしない女の頑さの中には、決して自分の非を認めようとしない頑固さがある。二人とも柔軟性がないのだ。  ここに、再婚した女性がいる。彼女はもう一度幸福になりたいから再婚したのだが、前回とずいぶん違うのは、相手にもずっと幸福でいてもらいたいという思いが、とても強いことだ。  若い時の結婚は、ともすれば自分本位だ。何してくれない、ああしてくれない、こうしてくれないという不満がつもりつもっていくものだ。相手に期待しすぎるだけで疲れてしまうから、相手に自分を与えるということが極端におろそかになる。  夫婦だもの、そのうちに優しい言葉をかけてやるさ、とか、そのうちに謝ればいいとか、そのうちになんとかなるさとか。  そしてそうしたこと一切をやり残したまま、夫婦別れしてしまう。  再婚した彼女は、そのことを肝に銘じて覚えている。いつかそのうちになんてことは、絶対に実行できないということと同じだということを知っている。  そして更に男と女の愛なんて、ほんのちょっとした綻《ほころ》びから、ずるずると一気に大きく破れてしまうことも知っている。朝のコーヒーの濃さのことから、離婚話まで一気に発展してしまう恐さを知っている。  相手に期待をかければ、必ずやそれを裏切られるか失望するかであることも知っている。  二日|喋《しやべ》らなければ、三日目には更に喋れなくなり、あっという間に夫婦の間に会話がなくなってしまうことも知っている。  だから、その日その日をプラスマイナスゼロにして生きていく。つまりその日に言うべきことを言い、相手にしてあげたいと思うことをしてあげるのだ。相手にしてもらうのを待つのではなく、自分の方から先に相手にしてあげるのだ。  自分がして欲しいと思うことを先にこちらから相手にしてあげる方が、ずっとずっと心が平和でいられる。相手がいつしてくれるだろうかとか、相手がいつ優しい言葉をかけてくれるだろうかとジリジリした気持で待つ方が、はるかに辛いことなのだ。  最初の結婚の失敗のもう一つの大きな理由は、「停滞」である。お互いを知りつくしたことからくる停滞。空気の停滞。変化、成長の停滞である。家の中が淀《よど》み、関係が腐り始める。  男も女も常に少しずつ変化していかなければならない。昨日の私と今日の私はこれだけ違っていると言えるだけのものがなければならない。  だとすると、夫が働きに出ている間、家事だけやってあとは寝そべって週刊誌を眺めているとか、テレビのドラマを観ているとかやっていられるわけはない。  夫婦の間に優しさがあり、なおかつ緊張しているのが良い関係である。  私の知っている再婚した女性で、そのことを持ちあわせた人を二人知っている。一人は安井かずみであり、もう一人は加藤タキである。  彼女たちは当然素敵な女性であるが、再婚相手の夫たちも、とても素敵なのだ。  男だから当然こうすべきだとか、女はこうすべきだとかいう固定観念を持っていないことだ。基本的には、どちらが何をやってもいいのではないかと考える人たちだ。得意な方が得意なことをやればいいとリラックスして考えている。  そして妻が彼のために優しいことを言ったり、誉めてくれたり、何かしてあげたりすると、彼らは心をこめて、「ありがとう」とほんとうにうれしそうに言う。  まるで親切にされるのが新鮮な驚きでもあるかのように、力をこめて「ありがとう」と妻にいう。 「いいのよ、だって私あなたにそうしてあげたかったから」  と妻はお返しにニッコリ笑う。  なんて他人行儀みたいに生きていることだろう。そしてこの他人行儀は素敵な他人行儀だ。  安井かずみのカップルも加藤タキのカップルも、時と所を選ばず、照れもせず相手を誉めまくる。 「あなたって優しいのね」とか「きみは最高の笑顔をもってるね」とか、「とてもきれいだよ」とか「運転が上手ね」とか思いつくままに、しょっちゅう誉めあっている。  私など、逆に口を開くと相手を攻撃するような会話しか夫としていないのを、こういう時に深く反省してしまうのである。相手を誉めるというのは、並大抵のエネルギーではない。まさに努力そのものなのである。  端からみればニコニコと気楽そうにやっているように見えるが、気楽そうに見える二人の方が、見えないところでの努力は大きいのである。  再婚って大変なんだなぁと私は思う。あんなに大変なら、初婚のままでいいわと思う。  一番いいのは初婚の間に反省して、軌道を修正し、相手を攻撃するのを止めて、自分が日頃して欲しいと思っていることを、自分の方から先に実行してしまうことなのである。  しかし言うは易く行うは難し……。  愛の天秤《てんびん》  愛しあう男と女の、その愛の量というのを天秤にかけることができたら、二人の愛の重さがぴったりとつりあうことなど、皆無に近いのではないかと思う。  常に、どちらかが余分に相手のことを思っているはずである。どちらかがより少なく相手を思っている。  つまり完全に満たしあえることはないということだ。相手が他人である以上、所詮《しよせん》これは仕方のないことなのだろうと思う。  愛の不均衡ゆえに、恋愛が複雑な様相を帯びるわけで、嫉妬《しつと》、不満、疑惑、自惚《うぬぼ》れ、支配欲といったあらゆる感情が活発に動きだし、男と女の関係に、えも言えぬ味つけを添えることになるのである。  七年にわたる長い恋愛の末、最近別れた恋人たちのことを書いてみようと思う。  彼女はちょっと名の知れた女優で、彼の方は一度結婚に失敗したカメラマン。読者の方が頭の中でモデルは誰なのかと想像してもかまわないが、実際のモデルは女優でもカメラマンでもないとだけ言っておこう。作者とは嘘《うそ》つきなのである。  二人は仕事で出逢《であ》い、カメラマン氏の一目惚れであった。レンズを通せば女を冷静に見ることができても、惚れたら何をかいわんやだ。  押しの一手で、彼は彼女を手に入れた。と、その頃、彼女は助演女優賞などを取り、若手の演技派としても注目され始めた。花形の人気カメラマンと将来を期待される女優の地位とを得て、幸福の絶頂であった。  こんな時、余分に相手をより愛している方は、幸福ではあっても絶頂とは言えない。愛をより確実にしたい。彼女を完璧《かんぺき》に自分のものにしたい。そうカメラマン氏は思ったわけだ。 「結婚しよう」とプロポーズした。 「今すぐ?」と女優は顔を曇らせる。 「やっとお仕事が面白くなってきたのよ。今結婚したら、私のキャリアは台無しだわ。いいじゃないの、私たち結婚しているのと同じことしているんですもの」  つまりよくある話なのである。  いったんは引き下がったカメラマン氏。理屈はわかるものの、気持では納得できない。冷静な時には押えられる感情も、夜になりお酒が入ると押えられない。  仕事先の彼女に連日深夜の長電話で、愛の告白、そして最後に「結婚しよう」。 「結婚」という神聖な二字も、すりきれるほど使われると、もはや神聖でも何でもなくなる。女優の耳には、快い子守唄程度にしか響かない。  けれども、毎晩のように電話で好きな男に「愛してるよ、結婚しよう」と言われ続けると、たまに男から電話が入らなかったりすると調子が狂うものだ。  そうこうしているうちに、彼女はたびたびテレビで主役を演じるような人気女優になり、二人の関係も三年目をむかえ、それなりに安定してきた。  ふと気がつくと、いつの間にかカメラマン氏の電話の語尾に「結婚しよう」がつかなくなっていた。そのことが気になりだす。妙に淋《さび》しい。  仕事も人気も安定したことだし、そろそろあのひとと一緒になってもいいな、と彼女は考えるようになった。  考えるだけでなく、その気持を彼に伝えた。 「ねえ、ずいぶん待たせたけど、そろそろいいわ、結婚しましょう」  すると喜ぶかと思った彼が意外や、その話に飛びつかないではないか。 「ちょっとタイミングが悪いよ。海外の仕事がやたら多くなりだしたからなあ。ま、いいじゃないか、僕たち結婚と同じことしてるんだからさ」  別に、眼には眼をというわけで、四年前の屈辱の仇《かたき》を取ったわけではない。やっぱり彼の言うようにタイミングが良くないのだ。  しかしひとたび結婚したいと思いだすと、その思いは次第につのり、いてもたってもいられなくなる。年齢もそろそろ二十代の後半にきているし、彼女としても出産適齢期が気になる。  逢うたびに、「ねえ、結婚してよ」と言いたいところだが、かつて自分がしたことを思うと強いことも言えない。うやむやのまま二人は更に三年つきあった。  ある時、ついに彼女から別れ話が出た。 「三十を過ぎてしまったわ。子供を産むとしたら今がぎりぎりの潮時だわ。これ以上、あなたと今のような関係は続けられないから、別れましょう」 「結婚すればいいのか?」  と彼は訊《き》いた。彼女は深く考えて首を振った。 「私たち、結婚みたいなことずっとしてきたじゃない」 「しかし、僕は今でも君のことが一番好きだ」 「私も同じよ。あなたのこと、今でも愛していると思う」  にもかかわらず二人は、ついに別れることにしたのである。  別れてしまって、カメラマン氏は淋しくはあったがどこかホッとした。彼女の方もまたそうだった。やがて、どちらにも新しい恋人ができ、それぞれが幸せな道を歩きだしたのである。  ある夜、行きつけのバーで、カメラマン氏は別れて数カ月の元恋人をみかけた。彼女は一人だった。誰かを待っているのかもしれないが、ぽつんとカウンターに座《すわ》っている姿は、彼の心を激しく揺さぶるものがあった。  彼女は今でも美しく、魅力的だった。いや前よりも少し若くなったみたいだ。  と、ドアが開き、男が入って来た。元恋人に声をかけようとして歩きかけたカメラマン氏の足が止まった。冷静に見て自分よりいい男だった。  何がなんだか一瞬わからなくなった。カメラマン氏は元恋人に向かって言った。 「僕たち一体何をしてたんだろう!? きみはやっぱり僕に属する女なんだ。ここを出よう。そして結婚するんだ」  女の顔が感動に歪《ゆが》んだ。彼女は立ち上がり、彼に腕をからめた。二人は連れ立ってその場を後にした。  久しぶりに向きあってカフェの片隅に座った二人。カメラマン氏の胸に言い知れぬ悲しみと後悔が湧《わ》いた。  彼女はまるで、すりきれてしまった大好きだった一枚のレコードに似ていた。美しく魅力的ではあったが。すりきれてしまったのは彼女の美貌《びぼう》でもなく、彼の若さでもなかったのだ。すりきれてしまったのは、二人の間にある愛の感情だったのだ。  二人は、同じ気持を抱いたまま、じっとカフェの片隅で向かいあっていた。  スマイル ライク エジプシャン  二月のエジプトは観光のハイシーズンで、どこもかしこも修学旅行並みの混みようだった。  カイロ、ルクソール、アスワンと大急ぎで回ったのだが、この旅で二つのことを学んだ。  ひとつは、エジプトのような場所は、うんと若いうちに、リュックサックでも背負って来ておくのだったという思い。  とにかくエネルギーがいる土地なのだ。私の現在の年齢では、とうてい全部の行程がこなせない。十のうち七つをキャンセルして、これだけはというものだけ、ぎりぎりにしぼったが、それでも疲れ果てた。もうおそらく二度と訪ねることはないだろうと思うと、なおのこと、無念であり、自分の体力や気力のなさに歯ぎしりを覚えた。  たとえばアスワンで何をしたか? 有名な神殿や石切り場やヌビア人の村落に行くべきところを、コロニアルスタイルのスウィート・ルームのバルコンからナイルを眺めつつ、シャンパンを飲んでいたのである。汗を流して砂岩をよじ登るかわりに、優雅に帆船に横たわって、対岸の丘の後ろに消える太陽を、夕風に吹かれつつ見守った。それはもちろんそれで、素晴らしい思い出である。  けれども私は、自分が見られなかった神殿や遺跡を思い、流さなかった汗を思った。旅は、同じ地を二度ずつすべきだ、と思ったのはまさにその時だった。若い頃の足で歩き回る旅。そして年を重ねある程度の贅沢《ぜいたく》が許されるようになった時の旅。今回の私たちのように、五ツ星のホテルのプレジデンシャル・スウィートでドンペリニョンを飲みながら、ナイルの流れを眺めるというようなのも、確かに旅情なのである。  今回の旅で、あらかじめ旅行社がとっておいてくれたホテルは、ことごとく旅先に着くとキャンセルし、自分でその地の一番良いホテルを探した。そういうところだけはマメなのである。観光シーズンの真っ最中なので、いきなり行っても部屋はない。しかし、観光地の穴場はプレジデンシャル・スウィートとかロイヤル・スウィート・ルーム。お偉方の気まぐれのために必ず一部屋くらい空いているのだ。そこへ入りこむ。素晴らしい部屋と眺めを手に入れ直し、ガイドに午後の予定を全てキャンセルすると伝える。  すると、エジプト人のガイドは、いかにも悲しそうな顔をするのだ。 「WHY?」  と彼は、素晴らしくハンサムな顔を曇らせて私に訊《き》く(ちなみにエジプトの男性はみんなオマー・シャリフみたいな顔をしているのだ)。  ハンサムボーイに弱い私は慌てて答える。 「あなたが悪いんじゃないのよ。観光がしたくないだけなの」 「でも……」  とガイドはまだ浮かぬ表情。そうか、ガイド料がフイになることを心配しているのだと、私は思いあたる。 「ガイド料ならもう前払いしてあるでしょう? 返してくれなくてもいいのよ」 「そういうことじゃないんです」  と彼はますます顔を歪《ゆが》める。今にも泣きだしそうだ。 「じゃなんなの、言ってみてよ」  と訊きだしたところによると、彼の悲しみとはこういうことであった。  まずひとつは、自分が予約して用意したホテルが全く気に入ってもらえなかったこと、それだけではなく、私がガイドの力も借りずに一人で一番良いホテルの一番高い部屋をとってしまったこと。第三に、案内しようと思っていた名所旧跡に私が行かないと言いだしたこと。ガイドの面目がまるつぶれだ、とそういうようなことなのであった。 「ガイド料がどうの、というような問題じゃないんです」  美しい黒い瞳《ひとみ》に、涙がキラリと光るではないか。  ごめんごめん。彼は羊のように素直な団体旅行客しか見たことがないのだ。スケジュール通りに、彼の後からゾロゾロと大人しくついて回るような人たちを、毎日扱っているのだ。 「あなたみたいな人は、初めてです」  と彼は肩をすぼめた。  ごめんごめん。私は子供の頃から団体でやることが好きじゃなかった。人のたくさん行くところへは、足が向かなかった。自分がしたいことだけしかしてこなかった。 「いいことガイドさん」  と私は傷ついたハンサムボーイを慰めた。 「私はもう二度とアスワンを訪ねて来ることはないかもしれないの。だから一番素晴らしい空間を買い取ったのよ。あなたを喜ばせてあげられないのは残念だけど、私は楽しいの、私はこの部屋からナイルを見下ろし、対岸の砂山を眺めていれば、幸せなのよ」 「あなたが楽しければ」  と急にガイドの表情が晴れた。「ボクもとてもうれしいです」  もちろん、私はすごく満足だ、と言った。私が本当に満足していることに納得すると、ガイドはニコニコと帰って行った。エジプト人って、いい人なんだ、と私は彼が帰った後で気がついた。見知らぬ旅人が、この国で本当に楽しんだかどうか、それだけを気にしているのだ。  別の日に、私はカイロの外れギザのモナハウス・オベロイというホテルに、例によって旅行社が用意しておいてくれたヒルトンホテルをキャンセルして入り直していた。  その夜のことである。カイロ在住の日本人が私をベリーダンスに連れだしてくれた。  三時間ほどのショーだったが、大げさに言うと私の人生観が少し変ってしまった。  ダンサー一座と楽団と歌手の四十人からなるエンターテインメントであったが、これが誠心誠意サービス精神のかたまりなのである。  三時間ほとんどぶっとおしのショーで、ただの一瞬も力を抜かない。始めから終りまで、エネルギーのかたまりのような踊りを披露してくれた。  何よりも素晴らしかったのは、団長の踊りもそうだが、その顔一杯の笑顔である。それは愛想笑いでもショー用の笑いでもない。心からのニコニコなのである。彼自身が踊りを楽しんでいることからくる笑いなのである。  私は、団長の顔に刻まれているその笑いに、深く惹《ひ》きつけられた。他のメンバーも、もちろん同じように笑いを刻んでいた。  楽団員たちは、疲労|困憊《こんぱい》するまで演奏した。タンバリンもタイコも、皮が裂けるのではないかと心配するくらい、力一杯の演奏なのだ。観客は熱狂した。拍手がやまなかった。生れて初めて、私の瞳は感激の涙で霞《かす》んでしまった。  毎日毎日同じショーを、彼らはもう十年も十五年もやり続けているのにちがいないのだ。それなのに、まるで今夜が初演でもあるかのような緊張とはりきりようと情熱はどこからくるのだろうか? ショーの後で、彼らはきっとぶったおれてしまうのにちがいない。あんなに誠実な、そしてある意味で無防備なショーを私は見たことがない。たかがベリーダンス一座にもかかわらず……。そのことを、私は親しくなったガイドに話した。 「自分の存在がお客さんを幸せにしているという思い。それがボクたちを幸せにするんですよ」  同じ生きるならそんなふうに生きたい。あの団長の顔に浮かんでいた、息をのむようなニコニコ笑いを、私もまねしたい。  笑いのレッスン  前回で、エジプト人の笑顔について書いた。無心なまでの笑い顔が、旅人にすぎない私の心をとてもなごませてくれたということだ。笑顔って実にいいものだ。私もできるだけニコニコして暮らそう、とそう心に言いきかせた次第である。  ところが、気がつくと眉間《みけん》に深いたてじわを寄せて原稿を書いていたりする。  税金のシーズンでもあり、原稿の締切り日もめじろ押し。やめた、やめた。のんきに笑っていられるわけがない。税金や締切りのことで苦しいし、ちっとも幸せな気分ではないんだもの。  幸せでなくちゃニコニコしていられるわけはない。少なくとも税金を払い終ったら、また努力してみようと、私は先へのばそうとしたのだ。  その矢先に、実に不思議なことが起こった。締切りに追われる日々の間をぬって、地方へ講演に出かけた時のことだ。ある会社の研修会で、女性ばかり二百人が集まるという。  出かけてみて驚いた。出迎えてくれた二十人ばかりの女の人たちが、顔中に笑いを刻んでいたのだ。ただ者ではない、と私は緊張した。それは、エジプトで見たエジプト人の笑いと同種のものだったからだ。  講演が始まって、二百人の人たちの前へ出て行って、更に驚いた。ニコニコ顔が二百。太陽が二百。もうポカポカ温かくて、自然にコックリしそう。 「一体これは何なのですか? 笑いの研修会ですか?」  と私は半分冗談、半分本気で訊いた。 「そうでぇす!」  と女の人たちがいっせいに答えた。  よくよく話を聞いてみると、こういうことである。彼女たちはある商品をセールスしている人たちだが、この研修会ではセールスのノウハウなどいっさい教えないのだという。五泊六日をかけて何を教わるのですか? という私の問いに対して、彼女らは、ひたすらニコニコしているだけ。 「第一、五泊六日も、よくご主人が出してくれましたねぇ」  と私は会場の顔を見回しながら、溜息《ためいき》まじりに言った。ほとんどが主婦なのだ。年齢は二十代から六十代まで。 「それも毎月なんですよ」  とその中の一人が、いっそううれしそうに私に教えてくれた。 「え? 毎月? つまり年に十二回も、ご主人が五泊六日の研修会に出してくれるの?」  三泊四日の取材旅行だって、夫の了解を取りつけるのに四苦八苦している私にとっては、青天のヘキレキ。 「喜んで出してくれます」  会場の女性たちは異口同音にそう答えた。 「でもどうして?」  もう講演どころではない。毎月五泊六日喜んで妻を自由に外泊させてくれる夫がいるのなら、そこのところのヒケツを知りたい。是非知りたい。私は身をのりだして質問を重ねた。 「そんなに長いこと家を留守にして、帰ったらご主人、機嫌悪くない?」 「ぜーんぜん。よく帰って来たと心から喜んでくれます」  はぁ、なるほど。五泊も家を空けるわけだから、留守を守る夫はてんやわんや。よくぞ帰ってくれた、と心からホッとするのだろう。そうか、五泊六日を可能にするヒケツのひとつは、妻の帰りを待ちわびさせることにあるのだ。  一応納得はするが、まだ半信半疑。普通の夫族が、毎月一週間近くも妻の不在を認めるわけがない。何があるのだろう? 「一体、ここで何を教わるんですか?」  と私は核心に迫った。 「講師の方が来てお話して下さいます」  つまり私のことだ。私は一瞬うろたえた。こっちが教わるばかりで、まだ何も喋《しやべ》っていない。第一講師の話なんて一時間で終ってしまう。 「他には?」 「会長が来て、お話をして下さいます」 「どんなお話?」 「今月は、太陽と北風の童話でした」  太陽と北風の童話というとあれのことかしら? 旅人が寒いのでコートを着ている。あのコートをどっちが脱がせられるかの競争を北風と太陽がするというストーリー。北風は懸命になって寒風を吹きつける。けれども旅人は北風が強く吹けば吹くほど、コートの前を固く合わせてしまう。ついに北風は降参。  太陽の番だ。ポカポカと日射しを注ぐ。次第に温かくなり、旅人はほっとしてコートを脱ぐという話だ。 「それだけ?」  と私は壇上から訊いた。 「はい、会長はそのお話をした上で、私たちに北風ではなく太陽になりなさい、とおっしゃいました」  なるほど、なるほど、わかってきたぞ。 「他には?」 「それだけです」 「でもみなさんどうしてそんなにニコニコしていられるの?」  ついに私は一番の謎《なぞ》を質問した。 「みなさんは特別なの? ニコニコの国からでもやって来た人たち?」  するといろいろなところで、ハイ、ハイと手が上がった。女の人たちは入れかわり立ちかわりで、自分がニコニコしていられるようになったいきさつを話してくれた。  最初はみんな、眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せていた人たちだったという。五泊六日だって、最初から夫の賛成を得たわけではない。撲《なぐ》られた妻もいた。それでも歯をくいしばって出た。  五泊六日後確実に変って家に帰った。そうやって、二度三度とくり返すうちに、今度は夫の方から、「次の研修会はいつなんだい?」と訊くほどになったという。昔みたいに妻が眉間に皺を刻みかけると夫たちは、研修会へ行け、とむしろすすめもするようになった。  どうやら、研修会から戻ると妻たちはとても優しくなれるらしい。それから、五泊六日も出してくれた、ということで夫や子供に深い感謝の気持を抱くのだ。それが態度や行動になって出る。帰宅後の妻たちはきっと、夫を下へも置かないような扱いをするのだろう。  感謝の気持を抱くことができれば、「ありがとう」が素直に出る。  これが夫婦円満のヒケツなのだ、と私は改めて膝《ひざ》を打った。夫への感謝の念。心からの「ありがとう」。  どうやら、この研修会は、幸せになる方法を教わるらしい、ということが、おぼろげながらつかめた。幸せだと感じることができるから、あんなにニコニコのオンパレードになるのだ。 「でも、最初から幸せじゃなかったんでしょ? それでもニコニコするのってむずかしいわよね」 「鏡を見て、練習しました」 「笑う練習?」 「そうです」  笑いを練習する。これなのだ。私は眼から鱗《うろこ》が落ちるような気がした。一日に朝晩、できたらもっと、鏡に向かって、ニコニコするのだ。五回も六回もそれを毎日やってみるのだ。  幸せだから笑える。笑えるのは幸せだから。鶏と卵と同じだ。鶏が先か卵が先か。どっちでも同じことなら、笑いから始めた方がずっと簡単。 『幸せは、練習なのだ』  それ以来、私は鏡の前へ立って行く努力をしている。  独りが素敵  仕事が終り、そのまままっすぐ家に帰る気分にはとうていなれなくて、ホテルのバーで軽く一、二杯飲んでから、ということがままある。  と、こんなふうに書くと、まるでビジネス帰りの男の心境みたいだが、正真正銘、私の気分のことである。  ホテルを仕事場にして、朝の八時から夕方の五時まで、びっしりと原稿を書くと、眼はつり上がり、神経はピリピリ。家へ直行して夕食の準備なんてとてもできない。子供たちに当り散らすのがセキの山。  そんな理由《わけ》で、ホテルのバーへふらりと顔を出す。カウンターに直行し、ソルティドッグとか、マルガリータなどを注文する。  午後五時では本格的に飲んでいるお客はまだ居ない。バーの中も空いている。バーテンダーも心得ていて、こちらが話しかけなければ向うからお喋《しやべ》りをしかけてくることはない。  そんなある時、私が例によってひっそり独りで飲んでいると、主婦とおぼしきグループが、もつれあうような感じで入って来て、ガヤガヤと私の後ろのボックス席に座った。  これから食事に行くのか、あるいは昼食会の第三次会なのかわからないが、仲良しグループといった感じ。  彼女たちは、そこがバーなのにもかかわらず、アイスコーヒーとかオレンジジュースの類を正々堂々と注文した。 「五時以降はコーヒーはお出ししていないのですが」  とウェイターが言った。 「じゃオレンジジュースでいいわ」  結局五人の女たちが全員ジュースを注文した。そしてお喋り。聞きたくもないが、すぐ後ろの席なので耳をふさいだって聞こえてしまう。 「ねえ、いい男、いない?」 「いない、いない。この頃、いい男っていないのよねえ」 「なんでこう魅力がない男ばっかりなんだろう? 日本の男って十人中九人はブスなのよね」 「センス悪いしさ。誘い方も�お茶でも……�なんてバカみたい」 「声かけられるだけマシだと思いなさいよ」 「第一、最近エイズが怖いじゃない。今ひとつ気が乗らないのよねえ」 「何も、片っぱしから男とベッド行く必要ないわよ。それよりオトモダチがいいわよ。食事したり一緒に飲んでお喋りしてくれる男友だち」 「それじゃ茶飲み友だちだ」  ひときわ上がる大きな笑い声。  つい私は悪意的に胸の中で呟《つぶや》いてしまう。  もてるわけ、ないよね……。  彼女たち一人一人はもしかしたら素敵かもしれないけど。もてるわけがない理由なら、いくらでもあげられる。  まず、グループ行動。女たちのお喋り集団に割って入って声をかけるだけの勇気ある男なんて、絶対にいない。第一、グループで何か食べたり飲んだりしている女たちって、例外なく緊張感に欠けている。なりふりかまわずって感じになる。えげつない。可愛くない。  もてるわけがない理由その二は、バーでオレンジジュースを頼む神経。お酒が飲めないのなら、バーへなど行くなと言いたい。  もてない理由その三。アクセサリー過剰。女同士の集まりだと、たとえ仲良しグループでも女の競争意識が露骨になって、ダイヤだルビーだ、エメラルドだと飾りたてる。男というものは、例外をのぞいて金ピカの女を敬遠する。  もてない理由その四。おばさん風。  アクセサリー過剰も、グループ行動で緊張感に欠けるのも、いってみればおばさんなのだ。おばさんって何もエプロンおばさんだけを指すわけではないし、花柄のツーピースにローヒール、ワニ革のハンドバッグに真珠のネックレスといった中年女の定番ともいえるスタイルだけを言うのでもない。  たとえ年は若くても、ブランド物で上から下までびしりときめているのは、これまたおばさん的発想なのだ。  あなたがいわゆるおばさんか、おばさんではないかをチェックする方法がある。私が考えた方法だけど。 一、あなたは独りでランチを食べにレストランへ入れるか? 一、あなたは独りで、バーへ行って、一杯か二杯のカクテルを飲んで出て来れるか? 一、あなたは独りで、旅に出ることができるか?  意外にノーのひとが多いんじゃないかと思う。仕事をしている女は、多分この三つともできるかもしれない。私の知るかぎり、主婦ではほとんど皆無だ。 「えー! 独りでレストランで? そんなことできない。だったらランチを抜いた方がマシ」  なんて答える。  大人の女が独りでレストランで食事《ランチ》をする場合、一番気をつけなければいけないのは、さりげなさ。わざわざ美味《おい》しいものを食べに来ましたっていうのではなく、服装もシンプルにして、たとえ一日中何も仕事をしていない女でも、仕事と仕事の合間に食べているんだっていうくらいの気分を演じて。早めしでもなく、ゆっくりすぎもせず。女が独りでランチを食べるのって、なかなか難しいのだ。なれていないのはすぐに態度に出る。別に悪いことをしているわけでもないのに、キョトキョトしたり。ランチを独りで格好良くできるようになるまでには、最低三十回は場数を踏む必要がある。  バーの独りも同じこと。  さっと入ってさりげなくカウンターに座り、気のきいたカクテルを注文する呼吸。飲む速度。バーテンと交わす二言三言の会話。ごちそうさまと切り上げるタイミング。  女が男と同じことをすると、なぜか男っぽくならず予想以上に女っぽくなるということを意識した方がいい。どちらかというと男っぽくふるまって丁度《ちようど》良い。かと言ってくわえ煙草なんてもってのほか。これも通いつめることしか上達の道はない。同じバーに通いつめるとアル中かと疑われるか、バーテンダーに気があるのではと思われるから、色々なバーで。  そんなひまないわよ、と言う人はそれでいい。独りでバーやレストランに入れなくたって、別に生活にさしさわりはないのだから。  ただし、そういう人は、「いい男、いない?」なんて口きいても所詮《しよせん》、実行は不可能。  多分、日本の女に一番欠けるというか、日本の女が最も不得手とすることは、この「独りでいること」かもしれない。  更に言えば、「格好良く独りでいる」ということだろうか。  あれもしたい これもしたい  二年前、車の運転免許を取った。文字通り四十の手習いとみんなに笑われた。それでも何とか頑張って、規定の六カ月以内ギリギリでライセンスを手にした。  その結果……娘たちの学校の送り迎えにこきつかわれている。おかげで前よりもまた一段と忙しくなってしまった。  娘たちを毎朝学校へ送って行くと言ったら、友人たちは口をそろえて「甘やかしすぎ!」と私を批難した。  そうかもしれないけど、ある日、ティーンエイジャーの娘がユーウツそうにこう私に訴えたのだ。 「ママ。朝の電車に乗るの嫌い。変なことする人がいるんだもの」  それ以来、私は娘たちを車に乗せて、学校に連れて行っている。  私は痴漢が嫌いだ。だれだって好きな人はいないかもしれないが、私は絶対に許せないのだ。  その昔、私も高校生だった。ぎゅうぎゅう詰めの電車で、指一本動かせないような時、なぜか痴漢の指だけは自由自在に動き回るのだ。  あれは、白日の、しかも公衆の中におけるレイプである。どれだけの、悲しくも惨めな、そして憎悪に燃えた通学の日々があったかしれない。  今、娘たちがその屈辱のレイプに耐えているかと思うと、母としてはじっとしておれるものではない。そんなわけで、娘たちを学校へ送って行く。甘やかしすぎでも何でもいい。  話がだいぶ横にそれてしまった。四十の手習いについて。  次に手を出したのは、ゴルフだ。若い頃、ゴルフだけはやるまいと固く心に誓っていた。ゴルフをやる人種は、なぜか格好悪かった。特に女は、いやらしかった。ゴルフウエアはやぼったく派手で、なぜか制服めいていた。私は、制服は嫌いなのだ。  それが、ゴルフに手を出してしまったのだ。ゴルフウエアはあいかわらず派手でやぼったいが、別にそういうものを着なくても良いのだということもわかった。  というのも、スタートがヨロン島のミニゴルフ場だった。靴はスニーカー。Tシャツにショーツという軽装で許されたのだ。  次にクラブを握ったのは、バンクーバー・アイランズの中にあるゴルフ場。やっぱりリラックスしたスタイルで遊べるのだ。  ゴルフが良いのは、積極的に歩けるからだ。とにかくズンズン歩く。これが気持が良い。ボールがどこへ飛んでいくとか、スコアなど、あまり、問題じゃない。と、まあこんな程度の腕なのだが。まだ今のところは。  日本本土では、ほとんどクラブを振っていない。フィーがべらぼうに高すぎるからだ。ヨロン島のミニゴルフは、ひとまわりに一時間半で、会員は二千五百円で遊べる。バンクーバーのゴルフ場でも、同じくらいだ。  たかがボールを打って遊ぶのに二万円も三万円も使うのは、実につまらない。そう思っているものだから、私のゴルフは、「島ゴルフ」。  今はまだだが、次にやりたいのは小型飛行機の免許を取ること。うちの家族はみんななぜか私より消極的で、だれもやろうとはしないから、私が取るしかない。バンクーバーの島に行くにも、ヨロン島へ行くにも、小型飛行機は絶対に便利なのだ。  そうそう、今年になって、アクアラングで海中にもぐるためのライセンスも取った。十二メートルの海の底で、海中メガネを外したり、空気を送りこむマウスピースを外したりして、それは恐ろしい訓練だったが、とにかく必死で勉強した。  海深十二メートルの海は美しかった。ひとかかえもある岩にはりついている何十種類という生物と、小さな魚たちをじっとみつめていると、時間のたつのも忘れる。  みんなは、それこそ魚のように海中を泳ぎ回るのだが、私はじっと固定型。見たいものがあると、その場から離れたくないのだ。変なダイバーだと、インストラクターに笑われた。  そういえば、旅でも私は固定型だ。滞在型と言いかえてもいい。今日はパリで明日はウィーン、あさってはドイツなんていう旅行は、大嫌い。そんなのはしない方がましだ。一カ所だけ目的地をきめ、そこに最低一週間いなければ、真に何も見えてはいない。  あれもやりたい、これもやりたいと、ずいぶんいい年をして頑張ってしまったわけだけど、実は本当にやりたいのはヨーロッパタイプの主婦業。  家中をピッカピッカに磨きたてる。家具類を思いきって整理|整頓《せいとん》し、クローゼットの中から大幅に溢《あふ》れてしまっているドレス類を処分する。同じく靴箱からはみだすほど増えてしまった靴と、毎日違ったものを被っても一カ月はバラエティが楽しめるくらいある帽子も人にあげる。  そしてすっきりした家の中で、カーテンを縫ったり、銀器を磨いたり、デザートのケーキを焼いたり、お友だちをお茶に招いたり、ブラームスを聴いたり、資料ではなく好きな作家の本を読んだり、そういうことを心おきなくしてみたい。  なぜヨーロッパタイプかというと、そこにお母さん業の原型があるからだ。でれでれとテレビを観たりしないし、暇ができると美容院に行ったり、買い物に行ったりもしない。とにかく、家にいて、いつも何かしら家と自分の家族のために手を動かしている。私もほんとうにそういうことをしてみたい。  我が家には、言ってみればお父さんが二人いるようなものなのだ。私は何かというと夫ではなくむしろ妻が欲しいと思っていた。  そこで、何事にも眼のきく女のひとをアシスタントに頼んだのだ。  最初のうちは効果大だった。おかげで冷蔵庫の中味はいつも一杯だし、花瓶の中で枯れた花はすぐ捨てられたし、私がコーヒーが欲しいな、と思うとよいタイミングに、淹《い》れたての熱々が眼の前に差しだされた。良い妻をもつ夫の気持がよくわかり、しばらくの間私自身も夫にこまやかな気遣いをする気にもなった。  それが一年もたたないうちにどうだろう。私の最初のアシスタントは、秘書業の方が忙しくなって、私の妻業の方を目に見えてさぼりだした。花瓶の中の枯れた花は、何日もそのまま放っておかれ、冷蔵庫の中もガラガラになり前と同じ。そこで、私は忙しい秘書のためのアシスタントを頼んだ。そして少しの間、家の方は平常さをとり戻した。しかしそれも束の間だった。秘書のアシスタントもあれこれ忙しくなり、私はまたまたそのアシスタントを一人入れなくてはならなくなった。  そんなわけで、私のところには、計四人のアシスタントがいて、忙しくしている。そして家の中では花が枯れたまま何日も放っておかれ、私は自分で自分のコーヒーを淹れている。時々アシスタントのコーヒーも淹れたり、ランチを作ってあげたりしている。  トイレットおばさん  ローマの、五ツ星のホテルに滞在していた時のことだ。  五ツ星というのは、当然値段が高い。どれくらいかというと、一泊の料金が、その土地の普通の働く人の初任給と同じくらいの額だ。  従って、そこに泊るような人は、充分にそれがペイできるだけ、お金持の人、ということになる。  ここで外国の、とりわけヨーロッパのお金持の基準について触れておこう。  あちらのお金持というのは、都心の自宅の他に、田舎やウォーターフロントに最低ひとつは別荘をもち、おかかえの運転手《シヨーフア》と使用人《サーバント》が数人いる人たちのことをさす。  中には田舎の別荘の自分の土地内で、狩猟ができ、馬屋がある人たちもいる。  つまり、五ツ星のホテルに泊る時の代金が、一カ月分の食費と同じだ、というような発想とは、およそ縁のない人々なのだ。  さて、話をローマに戻そう。まず、私がその最高級のホテルに泊ることができたのは、ホテルの取材という目的があったからで、私自身が本物のお金持だからではない。そうお断りをしておいて、ローマの五ツ星。  室数八十という比較的小さなホテルである。そして驚いたことに、滞在客の半分は、日本人なのであった。  ああ日本もずいぶんお金持になったものだと、思いかけた時、私は奇妙な光景を目撃してしまった。  ブッフェスタイルの朝食の時のことであった。隣の席にいた小人数の団体さんの中から、一人の中年婦人がやおら立ち上がると、チョコチョコと走りだした(ホテルの中をチョコチョコと走るのも、着ている寝惚《ねぼ》けたような花柄のツーピースも、日本婦人である典型的な例だ)。ちなみに、他の国のレディは、公共の建物の中でチョコチョコと走ることなど、絶対にありえない。  婦人は、ウェイターに近づくと、いきなり、 「トイレット?」  と叫んだ。  ウェイターがイタリア語ではなくわざわざ英語で、しかもわかりやすいようにゆっくりと、「あちらです」と場所を説明した。  けれども件《くだん》の日本婦人は、ちんぷんかんぷんらしく、 「トイレット? トイレット?」  と走りだした。  そのウェイターが苦笑して、パニック寸前の我が同胞婦人の腕をとると、婦人用トイレットのある場所へ案内して行った。  ああなんたることか、と私は同じ日本人として恥ずかしくもあり情けなくもあった。五ツ星ホテルたるもの、泊る客の財布《さいふ》の中味だけではなくその質を選ぶべきではないか。と、咄嗟《とつさ》にそう思ったのである。そうでもしないと、そこに泊りに来るのはやがて日本人だけになってしまうだろう。そうすれば、ローマの五ツ星のホテルでは、熱海《あたみ》や中伊豆《なかいず》あたりの温泉旅館とそう変らない光景がくりひろげられることになる。  昔は、こういう五ツ星のホテルに、普通の日本人は足を踏み入れることさえできなかった。まずは、経済的に無理だった。  ところが今や、日本は世界一の金持国だ。五ツ星であろうと、臆《おく》することなく、土足でどんどん入りこんでしまう。  けれども、私たちは本当にお金持なのだろうか?  私が観察したかぎり、お隣のテーブルの小団体さんは、日本流の小金持程度にしか見えなかった。つまり小さな会社の社長さん夫婦とか、地方のお医者さん夫婦とか、あるいは土地を売ってにわかにお金持になったらしい二人とか、そういう人々のようだった。  小さな会社の社長さんや地方のお医者がどうのと差別しているつもりはない。私が言いたいのは、悪いけど、その程度では、ヨーロッパの五ツ星に泊る資格はないということである。身分不相応なのである(日本の女流作家である私をも含めての話)。  なぜなら、やっぱりそういう小金持の人々にとって、そのホテルでの一泊の料金は、一カ月分の食費に近いのではないか、と思うからだ。  中には、土地や株でものすごく儲《もう》けた人もいたかもしれない。ローマの五ツ星なぞ、一日のお小遣いだわ、という成金夫人もいたかもしれない。  それでも身分不相応な点に変りはない。基本的なマナーすら身につけていないのだ。本物のレディと本物の紳士ではない。  外国のレディなら、少なくとも英語くらいは理解するものだ。五ツ星のホテルに泊っていて、英語が全くわからない人種は日本人だけだろう。  朝の静かな食堂で、ウロチョロ走り回り、トイレット、トイレットと連呼するなどという醜態を演じるなど、もってのほかである。  トイレットなら、落ち着いて自室まで戻ればいいのである。第二に、どうしても自室へ戻る時間がないのなら、少なくとも食堂中の人間に、自分が今にもモレそうだ、ということを公言して回る必要はないということ。小さな声で、こっそりと訊《たず》ねればいい。  第三に、トイレットはいけない。やっぱり五ツ星に泊るぐらいの人なら、「レディース」とか、「ウォッシュルーム」とか言って欲しい。  それにもっと賢くあって欲しい。トイレの位置くらい、事前に頭に入れておくべきなのだ。  トイレットおばさんのことはこれくらいにしよう。  次に困ったのは、ロビーや玄関口でバチバチと記念写真を撮りまくることだ。これでは、この種のホテルに泊りなれていない成り上がり者であることを、自ら宣伝しているようなものだ。  本物のお金持の紳士やレディは、物めずらしそうに記念写真など撮りまくらないものなのである。  それから、まだまだある。場所をわきまえない声高なお喋《しやべ》りや、蛮声を張り上げてお互いを呼びあう声。上野駅のプラットホームにいるのとは違うのだ。  ボーイやウェイターなどに対しての不必要なほどの横柄な態度。ドアを開けてくれたり、荷物を持ってくれても、サンキューの一言もない。一口に言えば礼儀知らず、非常識。  お金さえ出せば、どんなことでもできると考えるのは、日本人だけである。いくらお金があっても、自分の教養や身分や、品位、趣味程度では、五ツ星は無理、という公平で謙虚な判断を、向うの人たちは、きちんとする。お金では買えないものがあるのを知っている。それはステイタスというものである。自分にはまだステイタスがないと自覚するのは謙虚でもあるけれどプライドの問題でもある。無理して背のびしている状態をヨシとしないホコリがあるわけだ。  ローマの同じホテルには、日本からの新婚さんもいた。私は、彼らが帰っていくであろう二間ばかりのつつましいアパートを思って、妙な気がした。彼らは、このホテルの真の贅沢《ぜいたく》さも、設備も、充分に使いこなし味わうだけの、余裕も経験も持っていなかった。正に猫に小判。  五ツ星のホテルで、他の国の人に混じって見苦しくなく正々堂々としてしかも謙虚にふるまえる日本人が、いったいどれくらいいるだろうか。私はごくごく少数だと思う。日本はまだまだ開発途上国なのである。  女の連帯感 「どうせ亭主は先にいなくなるのだから」  と女たちは言う。 「みんなで共同マンションでも建てて、楽しく老いていこうよ」 「そうよ、そうよ。かわりばんこに美味《おい》しいものを作って、のんきに生きていきたいわ」 「一カ所だけだと息苦しいから、何カ所かに移り住むという手もあるわね」 「だけど、資本がねえ」 「そんなことないわよ」  と頭の切れる女の一人が言う。 「A子の成城の家の敷地が広いから、そこにマンションを建てる。建築費はB子の目黒の土地を売ってあてるの。C子の田園調布の土地と家を手放せば、スペインの田舎とハワイにコンドミニアムが買えるわ。最後に私の広尾のマンションを売ったお金を、共同名義の定期に入れれば、その利息だけで我々の生活費と、旅費くらいは軽く出る」  スペインの田舎に家をもつというアイディアに、女たちはしばし夢心地。いいわね。名案だわ。絶対に実行しましょうね。裏切りっこなしよ、と少女たちのように指切りげんまん。  だけどだれ一人、そんな話が実現するなんて、思ってもいない。  第一、ほんとうに彼女たちはそんなことを実現したいと考えているのだろうか? 多分、実際には、全然望んでさえいないのだと、私は思う。  それにしては、女たちの熱い共感の溜息《ためいき》とあの約束と指切りげんまんは、何だったのだろう?  老後の豪勢な共同生活とまで話はいかなくとも、そういう例は実にたくさんあるのだ。たとえば旅行。 「ねぇねぇ、私たちもずいぶんがんばってきたんだから、この辺で自分にごほうびをあげてもいいと思わない?」 「思う思う」 「どんなごほうび?」 「旅ってのはどう?」 「旅——いいなあ。いっそのこと海外旅行ね」 「ベニス、フローレンス、ローマあたりはどう」 「それにきめよう。みんなでイタリアへ行きましょう」 「じゃB子、あなた言いだしっぺだから幹事やりなさい」  ということでB子さん、旅行社をいくつもあたって頃合いのツアーの計画を練り上げる。日程もみんなに聞いて調整し、あとは旅費を払いこむだけ。  そこへA子から電話が入る。 「やっぱり、だめなのよ、わたし。悪いけど。次男が受験で、この時期放っぽりだすわけにはいかないでしょう」 「受験たって、まだ高一じゃないの」 「今からやらないと間に合うもんですか」  C子もキャンセルしたいと言ってくる。 「亭主が嫌味三昧《いやみざんまい》なんだもの。無理して出かけていったら、この先一生たたられるわ」  D子もE子も結局、どたんばで行けないと言う。 「いつもの家政婦さんが来れないの」とD子。 「実家の母が来てくれるはずが、急に血圧が高くなってだめだっていうのよ」  B子は、ぶんむくれである。人にさんざん苦労させといて、全員キャンセルはないんじゃないか。最初からイタリアへ行くつもりなんて全然なかったのではないかと、つい疑いたくもなる。  が内心、B子もホッとしているのだ。幹事をやらされはしたが、B子自身、ご亭主の浮気問題で悩んでいたので、一週間も家を留守にしたくなかったのである。みんなの世話をし、無事幹事の仕事を終えたら、そう言って自分だけ参加しないつもりだったのだ。  外国旅行でなくとも、国内旅行でも事情は同じ。女たちは実に調子よく「行くわ、行くわ」と二つ返事で言いはするが、実行などするつもりはさらさらないのである。  月に一度集まって、美味しいものでも食べましょうよ、ということになり「グルメ会」とか「魔女の会」とか「悪女会」とか色々名前をつけるのだが、幹事の仕事は一回で終ってしまう。続かないのだ。  ゴルフもそう。お花見もそう。  そういうのに、私は本当についていけない。行くと言ったら行く。行くつもりがないのなら、初めから行くなどと言わないこと。  こんな当り前のことが、いわゆる専業主婦の人たちは苦手らしいのだ。  何度もひどい目にあっている。何月何日にゴルフをやりましょうと言われ、スケジュールにメモする。後で同じ日に講演会を頼まれたりしても、先約があるから、と断る。私にとっては当然のことだ。たとえ遊びでも先約だ。すごくギャラが高くたって、友だちと先に約束したら、ギャラの方はあきらめる。  それなのに、やっぱりだめだわ、ゴルフに行けないわと言ってくる。理由はあえて聞かないが、実家のだれかが病気だったり、別のもっと大事な用件ができたりしたためだ。  しかし、今更私の方は、講演会を受け直すわけにはいかない。ゴルフもギャラも両方だめ。  あるいは、三泊四日でホンコンへ買い物旅行に行きましょうということになる。スケジュールを調整して、なんとか都合をつける。むろん自分がホンコンへ行きたいからではあるが、つきあいという部分も否定できない。  すると、同じ頃に南米のリオにカーニバルを観に行きませんか、という仕事の口がかかる。あるいは、ウィーンでオペラ三昧というのはどうですかという企画が持ちこまれる。  むろんそういう楽しいものばかりではなく、じみではあるが、とてもお世話になった方からお仕事を頼まれたりすることもある。  それでも私は先約の遊び友だちとの予定を変えようとは思わない。楽しそうな企画をあきらめ、あちこちに義理を欠いてお断りする。  そして——。結局女たちは何のかのと言いわけをしてホンコン旅行はお流れ。  こういうのに、嫌というほどあって、私はすっかり専業主婦との約束恐怖症になってしまった。  彼女たちを嘘《うそ》つきだというつもりはない。行きましょうネと眼を輝かせて言う時の彼女たちの気持に嘘はないのだから。  ただ、彼女たちには、約束したことを何が何でも実行する、あるいはさせる情熱が全くないということは言える。  女友だちとの軽い約束くらい破ったって、どうということはないという気持だとしたら、友だちをバカにしているとしか思えない。私など、何度バカな目にあっても、ついその都度本気で受けとめるから、反対に女たちから煙たがられる。  あるいは最初から参加できないと思う時には、 「むりだわ私。行けないわ」  とあっさり断ってしまう。すると女たちは言うのだ。「モリさんて、ずいぶんハッキリした方ねぇ」と。  この場合のハッキリした方は、決して誉め言葉ではないのである。  仮死夫婦  我が家の敷居をまたいだとたん、仮死状態になるんだ、と言った男性がいる。なんとなくその場の様子が眼に見えるものだから、大いに笑い転げた。  そして翌朝、家を出ると同時に蘇生《そせい》するのだ、とも。わかる、わかる、実によくわかると、その場に居合わせた男女も、涙が出るほど笑いに笑った。  他人ごとだと思えば、一時的な仮死状態、そこから蘇《よみがえ》ることのくり返しは、面白い。言葉としても絶妙だ。  しかし、当事者ともなれば、口で軽妙に言ってのけるほど、楽しいものではないはずである。  そもそも、家の中で死んでいなければならない、ということの意味は、主として妻と、いかなる精神的肉体的接触もしたくないということだ。固く口も心も閉ざして、石になることだ。  これは、一種の地獄だろうと、私は思う。その家庭も地獄だが、彼の心のありようも、地獄なのだ。地獄を自分の内側に抱きこんで、日常生活をこなすのは、どんな気持なのだろう。  もっとも件《くだん》の男性は、日本人独特の照れとか謙遜《けんそん》の延長上で、そう言ったのではないかと思う。あるいは、サービス精神で。またあるいは自虐的なユーモアから。その可能性は充分にある。  彼の場合は、言葉の遊びとして聞き流すことにして、実際はどうなのだろうか。  私が想像するところ、世の中に、仮死状態になったり、そこから蘇生したりする人間は、意外に多いのではないかということだ。  その昔、私の母は「金輪際、いやだわ」とか「金輪際、許せない」とか一声もらすと、石になった。  それは私に対してもそうだったし、主として父に対してもそういう態度を取った。  母が石になると、家の中には重く固い空気が張りつめた。室内の色あいが暗くなり、とても憂鬱《ゆううつ》だった。  叱《しか》られるより、ののしられるより、石になってしまった母を見るのが嫌だった。石になると何日も化石のように、敵意に満ちた沈黙が続くのである。  すると、父は苛立《いらだ》ち、家の中には危険なまでに陰険な空気がぴんと張りつめる。  しかし、父のどんな批難の言葉も、怒りも、あるいは、懐柔策も、絶対に功を奏すことはなかった。父は疲れ果て、消耗して黙りこみ、やがて石になった母もまた石であることに疲労|困憊《こんぱい》して、蘇生する。そして再び日常生活が始まるのだった。  思うに、仮死状態とはそういうようなことなのではないだろうか。  また母は、「金輪際」の他に「なんたら」という言葉をよく使った。「なんたら嫌だ」というふうに。  この「なんたら」は金輪際より軽い意味に使われたけど、やっぱり石になる不吉な前兆だった。石は石でも小さめの石。くるりと背中を見せて黙りこむ。  私はずっと、母はなんて強い人だろうと思っていた。石に対して歯が立つわけがない。どんなものを投げつけたって、はね返ってくるだけだ。はね返ってきた勢いで、かえってこちらが傷ついてしまうのだった。  ところが、ずっと後でわかったことだが、母は強い人ではなかったのである。  誰よりも弱い人だったのかもしれない。弱いからこそ、ガチガチに武装してしまうのだ。何という名の虫か忘れたが、ちょっと触れると、くるりと丸まって、固いボールのようになってしまう小さな虫がいるでしょう? 灰色で、丸くなると直径7ミリくらいになってしまう小虫。  母はあれにそっくりなのだ。  傷つけられたくないから、丸まってしまうのだ。そして結果、「金輪際のお母さん」とか「なんたらのお母さん」と呼ばれて、家中の者に心から恐れられる存在となる。一番の弱者が、一番の強者になるのは不思議なことだ。  そういうふうに見ると、「仮死状態」の男性も、きっと傷つきやすく誰よりも弱い部分をもっているのだろうと思う。  どうしたら良いのだろう? 石になったり、丸まってしまったり、仮死状態になる人たちに対して?  どんなに注意をしたって、あの虫は、ちょっと触れただけで反射的にカチカチのボールになってしまうのだ。  こちらに悪意があるわけでもないのに、触れたらもういけないのだ。  多分、日本中に、そういう人たちが、とてもたくさんいるのではないだろうか?  自分が沈黙して石になることでしか、生きのびていけない人たちが。そして、それをまた、もてあまして途方にくれている人たちも、大勢いるのに違いない。  人間は、基本的に何を求めているのだろうか?  愛情である。ありのままの私を存分に愛してくれ、という思いだ。欠点も短所も含めての全てを受け入れ、更に優しくいたわって欲しいと要求する心だ。  ふつうの人は、この理不尽なまでに傲慢《ごうまん》なその欲求を、幼い頃に充分に満たされる。母親の乳房から乳を吸いながら、あるいは日に何度も抱きしめられ、「可愛い可愛い」と浴びるほど言われ続けることによって。  けれども中には、この時期に、充分に愛情を受けなかった人もいるのだ。色々な事情がそこにはあるのだと思う。両親の不和だとか、母親が外へ働きに行って一日中不在で、帰って来てもくたくた、愛情の表現どころではなかった、という場合もあるかもしれない。あるいは、単に母性本能が薄い母親だったかもしれないし、愛情を体で表現するのに無器用な母だったのかもしれない。  母親だけでなく、父親もまた重大に関わってくる。  要するにバランスのとれた愛情を受けて育った人間は、長じて、石になったり、仮死状態の中へあえて自分を押しこめたりしないですむのではないだろうかということだ。  もちろん、それだけが理由ではないだろう。人生のどこかで手酷《てひど》い心の傷を受けているのかもしれない。  それがどうであれ、石になる人も仮死状態になる人も、愛情を人一倍求めている人たちであることだけは、確かである。  ここで思いだすのは「北風と太陽」の話。旅人のコートを、北風と太陽が脱がせっこする例の童話だ。  北風がピューピュー吹けば吹くだけ、旅人はコートの前を固く合わせてしまう。どんなに強風でコートを吹きとばそうとしても、絶対に成功しない。  けれども太陽がポカポカと照らすと、いとも簡単に旅人はコートを脱ぐのだ。  この話は、前に書いたような気がするが、あえて再び取り上げたのは、石になる人や仮死状態に逃げこむ人に対して、私たちはついつい北風さんをやりがちだ、ということを言いたかったのだ。  お気楽に反省  実に久しぶりにクラス会などへ行くと、懐かしい級友たちがぐんと老けてしまっているのを見て、愕然《がくぜん》とする。というような話をよく聞くし、私自身も体験している。  たいてい、そういうことを言う人は、自分のことを棚に上げているのだ。自分はそれほどでもない、と思っている。あそこまで老けこんではいないと、自信を持っている。  でも、まだまだと自信を持っている彼あるいは彼女もまた、他の人の眼には、ぐんと老けこんだ顔に映るのだ。  自分の顔は見なれているというせいもある。毎日毎日鏡の中に見続けているので、ある時、いきなり白髪になったり、眼尻《めじり》の皺《しわ》が三本になったり、下腹がぷくんと膨らんでくるわけではない。変化は緩慢に、徐々に忍び寄る。  けれども十年ぶりとか二十年ぶりの級友たちにとっては、老いの変化は決して緩慢ではない。いきなり白髪頭になってしまった友に対面することになる。ツルツルの童顔だった初恋のルミ子ちゃんの顔の上に、残酷な皺が刻まれているのを、見ることになる。だから愕然とするわけだ。  もうひとつは、人というものは、無意識に鏡の中で、自分にいい顔をしている、ということ。少しでも若く、きれいに、スタイルを良く見せようとして、自分自身をあざむくのである。  鏡の前で、自然にお腹を引っこめて立つ。自分が好きな表情をして自分の顔を見つめる。その時だけは、猫背でもなく背筋が伸びている。皺ののびた表情を作っている。  私たちは、鏡に映る自分の姿しか、自分のことは知らない。鏡の前に出たとたん、無意識にあたふたととりつくろうが、鏡がなければとたんに油断する。背中は丸くなりがちだし、その分、腰が緩み下腹が迫《せ》りだす。首は少し前に突きだし気味になり、二重|顎《あご》の様相を呈する。  久しぶりの級友たちに限らず、家族や友だちや他人の眼に映るのは、そういう無防備な状態の自分なのである。  若さとは何なのだろう、と改めて考える。張りなのである。緊張感。表情の張り、眼の張り、体の張り、姿勢の張り、心の張りなど。ぴんとしていること。身も心もぴんとしていることだ。  年齢が若いということは、たくまざる努力なしで、ぴんとしていられるということでもある。  世界中の色々な人種の中で、日本人が一番この張りを早く失う人種であるような気がする。外国を旅してみるとわかるが、日本人の観光客や、外地で働いている人は、すぐに日本人だとわかる。姿勢が悪いのである。総じて下腹を膨らませて、膝《ひざ》の関節を緩めて歩く。男も女も、老人も若い人も、日本人は姿勢が悪く、歩き方が美しくない。  日本の中にいると、それがわからない。外国に出ると、てきめん、わかる。  時に、あれはどうかな? と日本人か中国人か韓国人か区別がつかないことがあるが、その場合、姿勢が良く、歩き方に勢いがあったりするからだ。ごくまれにそういう日本人もいる。  今でも日本人は着物向きの歩き方をしているのだということがわかる。腰を落して歩くのはそのせいだ。だから、時折男のひとが袴姿《はかますがた》で歩くのを見ると、実に立派に見える。腰を落して腹を突きだし気味にするからだ。女性の着物も同じことが言える。  しかし、私たちはもう日常の生活や働き着として着物は着ない。  話が逸《そ》れてしまったので、元に戻そう。老けるというテーマだ。  誰だって老けこみたくはない。それが人情である。久しぶりのクラス会に出てみた結果少し抵抗を試みようと、私は考えたわけだ。  老けの最大の敵はマンネリ。勤めに出ていた頃はもちろんだけど、若い時はたとえ家にいる時だって、毎日同じものは着なかった。おしゃれだったし、昨日と同じものを続けて着ることに抵抗があった。  そこで、普段着というのは、徹底的にやめようと思う。たとえ一日中人と会うことがなくても、朝から絹のブラウスに、あまりタイトすぎない程度にキチッとしたスカートをはく。ベルトもしめる。そういう格好でキッチンに立つ時、当然、油や水で汚したくないから、気をつける。緊張する。  楽な格好、楽な姿勢、楽なつきあいというのを、全て見直してみる。できたら排除する。最近は暇がないのでランチ時に人に会わないが、前にはよくランチを打ち合わせや、日頃のごぶさたに利用した。そういう時よく見かけた、主婦たちの高級井戸端会議。  ランチに三千円もかけて、仲良しグループでぺちゃくちゃやっていたが、あれこそは気楽の代表。お気楽をして、豪勢なランチでたっぷり栄養もつけて——と心と体の肥満の元だ。  さて、話は急に真面目になるが、日本人のお気楽的性格のひとつに、知らず知らずに自然破壊に手を貸してしまっているという傾向がある。このことについて、是非、きちんと意識してもらいたい。  今、世界中で、毎日のように樹木が切り倒されている。地球の空気をきれいにしてくれることに役にたっている熱帯樹林が、恐ろしいほどの勢いで減っていく。  たとえば、私たちが好きな甘えびをとるために、東南アジアでは、マングローブの密林が次々と切り倒されていくと聞く。甘えびをとればその日その日の暮らしができるわけだから、人々はこぞって甘えびをとるために木を切る。私たちが寿し屋や魚屋から買ってきた甘えびを、美味《おい》しいね、と言いながら食べるたびに、東南アジアのどこかのマングローブが犠牲になっているのだ、ということを頭において欲しい。できたら、甘えびは食べない、買わない。私はマングローブの樹のことを知らなかった時は甘えびに手を出していたが、知ってしまった後では食べない。たとえゲンキンだと言われても、知りつつ、自然破壊に手を貸す気には、とうていなれないからだ。  他にもたくさん似たような例はある。日本人の美意識の代表——わりばし、使うと捨ててしまうあのわりばしのために、やはり地球のどこかで樹が切られている。アマゾンやカナダやボルネオの森林が減っていく。日本中で毎日|夥《おびただ》しい数のわりばしが使われて、捨てられている。我が家では、かなり前からわりばしは中止して、京都で買った漆の箸《はし》を大事に使っている。  冬になると、毛皮を着る。私も毛皮を着る。動物愛護の精神から言えば、毛皮もほんとうはいけないのだろうが、私たちは牛肉を食べるし、豚や鶏を食べる。人間がその目的のために養殖している動物は、原則として、食べたり、その毛皮をはいで利用してもいい、と私なりのモラルで考えている。  ミンクはいいが、豹《ひよう》の毛皮はだめ。養殖狐はいいが、養殖できない狐はだめ、とそういう考え方だ。  樹を切り倒しても、植林計画がきちっとしていれば良いのである。  自分なりにどこかに一線を置くことで、私たちは自然を守っていくしかない。他人ごとのように思うが、私たちの子供や孫の代まで、地球が安全かどうか。このまま進むと、保証はないのである。  遊びのすすめ  先日、新幹線に乗ったら、すごかった。おばさんたちのはしゃぎっぷりが、すごかった。十人くらいのグループで、京都へ遊びに行くらしかったが、並大抵の騒ぎ方ではなかったのである。  そこはグリーン車の二階だった。おばさんたちはグリーン車の二階に乗るのが、初めてらしかった。ぞろぞろ歩き回って、細部までチェックし、椅子《いす》が大きいわねぇ、とか、飛行機の中みたいだわ、とか、電話がついているわよ、ちょっとかけてみるわ、と、髪ふり乱しているわけだ。  出発直前に、幹事のおばさんが、駅売りのお弁当を買い、汗びっしょりで飛びこんできて、お茶と一緒に名前を叫び上げて配り始める。  電話室から出てきたおばさんが、コインじゃかからないから、誰かテレフォンカードもっていないか、と仲間に訊《き》いて回る。  車窓が動きだしたとたん、十数名がいっせいにお弁当を食べ始める。その味についての感想があちこちの座席から乱れ飛ぶ。  同じ車両に、渡辺淳一さんがいらして、新聞連載の原稿を書いておられた。渡辺さんの隣が、幹事おばさんで、その人が立ったり座ったり、叫んだり喚《わめ》いたり、また立ったりと一時もじっとしていない、黙っていない。  車内は満席で、席を移ることもできない。私は渡辺さんに深く同情したが、私がいくら同情しても、何の足しにもならないのだ。  私自身は、サキの短編集を膝《ひざ》の上に置いたまま、同じ行を十回も二十回も追い続けているうちに、溜息《ためいき》をついて本を閉じてしまった。  あのおばさんたちが楽しんでいるのはよくわかるのだ。楽しんでいるというより、異常に興奮しているのだ。  新幹線のグリーン車に乗るのも初めてなら、二階に席をとるのも初めて、京都も初めて、という感じ。もしかしたら、遊びに行くことすらも初めてなのかもしれない。  あぁ、遊びなれていないのだな、と思う。粋《いき》じゃないのだ。粋な人というのは、そうすると、遊びなれている人、ということになる。  そういう意味では、専業主婦は遊びなれていない。遊びなれていないと、たとえばどういうことになるかというと、セールスマンに、「奥さん、お茶でも」と喫茶店に誘われたとする。  誘いにのって、喫茶店へ行くかどうか決心するまでは、実に慎重なのだ。迷いに迷って迷いぬく。 「いいわ」  と一大決心をかためて、喫茶店でセールスマンとお茶を飲む。  いったん喫茶店に出かけていくと、後の過程は一気に拍車がかかる。喫茶店からラブホテルへとエスカレートするのには、それほど時間がかからない。もしかしたら、その日のうちに、喫茶店から直行ということも大いにありうるのだという。  喫茶店で男とお茶を飲むということが、彼女らにとっては、男とベッドに行くこととほとんど同じようなことなのだ、ということがわかる。  喫茶店だけに行って、それだけでは間がもたなくなるのだろう。つまり躰《からだ》によるコミュニケーションでしか、男とコミュニケイトできないということだ。  男と逢《あ》っても、対等にお喋《しやべ》りができず、話すような内容ももたないと、躰で勝負するしかないわけだ。  そうなると、逢えば寝るというくり返しになる。そういう男と女の関係は、必ずやいつか近い将来、終りになる。  遊びなれていない女は、男に躰を許したとたん、なんだか彼を愛しているような気になるらしい。躰が先行して、恋が始まる。  ほんとうは愛でも恋でもなく、単に盛りがついているだけなのだが、そうは思いたくないし、冷静にはなれない。  で、遊びなれていない女は、セールスマンとか、クラス会の幼なじみと過ちを犯し、このままではいけないのだわ、離婚しようか、駆け落ちしようかなどとどんどんエスカレートしていく。  男の方は、ずっと客観的に自分を見ているから、ベッドの中のことだけで結びついているような女とは、それほど長くは続かない。もう逢わない方がいいと思うけど、などと言いだす。  遊びなれない女は、とたんに天地がひっくり返ったような気分に突き落される。男に捨てられたら、自分は路頭に迷うように思い、まだ夫がいるのにもかかわらず、天涯孤独な気持で、激しく動揺する。そこで修羅場となる。ボロボロに傷ついて、ジ・エンド。よくある話である。  そこで、遊びのすすめ。  新幹線のグリーン車の二階席で、どんどん旅行に出かけよう。二度三度四度と乗っているうちに、二階席などのことで異常に興奮したりはしなくなる。落ち着いて座っていれば、係の人が来て、お弁当や飲みものの注文を取ってくれる。それも席まで届けてくれる。大慌てで、キヨスクや駅弁屋に飛びこまなくても、優雅に食事にありつける。  更になれてくると、発車したとたんものを食べ始めるのはダサイと気づくようになる。そういう人がいると、片方の眉《まゆ》など上げて、軽蔑《けいべつ》したりする。  更になれると、三時間ばかりの車中で、何もたいして美味《おい》しくもない弁当を食べなくても、旅先に美味しいものを食べさせる店がいくらでもあるということを知るようになる。車中でものを食べたり飲んだりするのは、エレガントではないと気づくようになる。  遊びとは、訓練のたまものなのである。お金もかかる。時間もかかる。エネルギーもいる。投資しなければ、何も得られない。遊びに、投資しませんか?  リゾート便り  I LOVE NEWYORK  リゾートの概念は色々あると思うが、私なりに考えるのは、まず日常性からきり離されていること。次に滞在型の旅であること。  この二つさえ満たされていれば、何も珊瑚礁《さんごしよう》の海や椰子《やし》の樹がなくても、全くかまわないわけである。大都市で過ごしてもいいのである。  というわけで、このシリーズの第一回目に「ニューヨーク」を取り上げてみた。私がニューヨークでのリゾートライフをどのように過ごしたか、日を追ってご紹介しよう。 〈ニューヨーク・第一日目〉  JALのトロント経由でニューヨーク入り。なんとなく得した寄り道。トロントで日系人のための新聞を作っている人たちと夕食。 「たった一晩だけなので、これぞトロント名物という食べもの店に連れていって」と食いしんぼうの私。 「ロブスターが有名だと聞いていますが」と同行の同じく食いしんぼうの編集者Mさん。 「ロブスターは耳から出てくるくらい、食傷してますんで」と、敬遠されて連れていかれたのが、トロント一、いやカナダ一のラーメンを食べさせるというなんとラーメン屋さん。  究極のラーメン、涙なしには食べられない美味と、行きの車中さんざん宣伝されて。たかがラーメン、されどラーメンの心境。  距離にして、東京と川崎くらいの場所まで車を飛ばして涙の究極ラーメン屋に到着した。  して、お味は? うーん。正直言って、東京や、博多の長浜ラーメン、札幌のミソラーメンの本物を食した口には今一つの感あり。  が、味というのは不思議なもので、楽しい会話や笑いと気分の良いサービスで、美味《おい》しくも不味《まず》くもなるものなのである。従って、楽しい会話と笑いの気分の良いサービスつきで、トロント一ということにしておこう。  生れて初めて訪れたトロントの一夜は、このラーメン屋訪問で幕を閉じ、翌朝早く一路ニューヨークへと向かったわけである。  ニューヨーク・ラガーディア空港には、ギューちゃんこと篠原牛男夫妻が出迎えていてくれる。ギューちゃんは三十年前、モヒカン刈りのアバンギャルドで、芸大生や風月堂にたむろしていたアーティストの卵を痛く刺激していた存在である。  三十年ぶりに見るギューちゃんは、あいかわらずのだだっ子ぶり、はちゃめちゃぶり。モヒカン刈りが半|白髪《しらが》頭に変っただけで、溢《あふ》れるエネルギーは昔と同じ。さっそくその足で市内の美術館へランチを食べに。美術館に絵を観に行くのではなく、ランチを食べに行ったのだ。さすがニューヨーク風。ギューちゃん風というか。第一日目からワクワクするではないか。それで、デザートがわりに絵をちょこっと観た。そのちょこっと観た絵がエドワード・ホッパーで、有名な横向きの女の、なんとも淋《さび》しげな作品。これって、我が生涯最高のデザート。  その後、ギューちゃんはアトリエへ戻って、制作。妻のノリコさんが夕方までフリーなので、ショッピングにつきあってくれるという。  食後のお散歩が、五番街のショッピングというのも、これまたニューヨークならではと思いません? 「モリさん、何を買いたいの?」とノリコさん。 「お帽子と靴とアンティークの下着」 「モリさんて変ってるぅ」  とノリコさんとMさん。「ティファニーとかは? ニューヨークへ来た日本人の観光客は、みんなティファニーに行くのよ」。Mさんはティファニーに行きたいのだ。でも私はみんなが行くところへは行きたくない。ティファニーには帽子も靴も、ステキな下着もない。 「じゃ、分れましょ」とあっさりと言ったら、二人とも青くなって、ティファニーをあきらめた。私みたいにロレックスの金時計して、ネックレスや指輪にダイヤモンドつけて一人で歩いていたら、十分以内に襲われるというのだ。  結局、あまり頼りになるとも思われない女二人の用心棒につきそわれ、二時間くらい歩き回って、足が棒になったが、飛びつくような帽子も下着も靴もなくて、くたびれもうけ。 「モリさん、どういうものがお好きなの?」と業を煮やしたMさんが訊く。 「わたしに似あうもの」  ホテルに戻り、夜の十時に、ブルックリン橋を渡ったところにある夜景で有名なレストラン「リバー・カフェ」でまた逢いましょうと約束して、ノリコさんはいったんアトリエへ帰宅。  私とMさんはそれぞれの部屋に引きとり、ようやく靴を脱ぎ、シャワーを浴びて夕食前の仮寝。ニューヨークで、一、二位をきそう最も高価なホテル、メイフェア・リージェントの仮眠は、一時間につき約十五ドルにつく。三時間眠ったので四十五ドル。約六千三百円のお昼寝代。  リゾートの楽しみの最大のポイントは、いいホテルに泊ることである。最高級のサービスと設備を誇る、小さめのホテルがいい。普通のホテルが一泊ニューヨークだと百四十ドル平均とすると、その倍の三百ドル近くはするだろう。でも、それだけの価値はある。素敵なファーニチャー。ひかえめではあるが、一点の非もない完璧《かんぺき》なサービス。笑顔が一杯。  九時に電話で起こされる。 「モリさん? ボクです。アンドリューです」 「アンドリューって?」 「アンドリュー・ロス。あなたの�ダブル・コンチェルト�の翻訳をしているアンドリュー。今夜九時にロビーで逢うことになっていたでしょ? 忘れたの?」  日本人の私もビックリするほど流暢《りゆうちよう》なニッポン語。そうだった。私の本の翻訳者と初対面の約束をしてあったのだ。 「すぐ降りて行くわ」と慌てて、ドレスを着て、夜の帽子をかぶり、口紅をぬりたくってエレベーターに飛び乗った。 「ハァイ、アンドリュー。初めまして。お逢いできてすごくうれしいわ。翻訳の進み具合はどう?」  ロビーで私を待っていたのは、スラリとして背の高い、口髭《くちひげ》をはやした三十そこそこの男性。 「これから夕食の約束があるの。良かったら一緒に行かない?」  ダブル・ブッキングをさりげなくかわせるのは年の功よ。そんなわけで、飛び込みのアンドリューとM嬢を左右に従えて、夜のニューヨークへ足を踏み入れた。  リバー・カフェは、イースト河をはさんだ対岸にあり、マジソン街や五番街の夜景が一望にできるので、有名なレストラン。従って、観光客やニューヨークっ子ですごい混雑。おめかしして出直して来たギューちゃん夫妻と我々は、ニューヨーク風フランス料理とワインに舌鼓を打ち、乾杯した。夕食が十時半に始まるのも、ニューヨークだ。お味のことはとやかく言うまい。  それにしても何という一日だ。トロントから飛んで、美術館から買い物|三昧《ざんまい》(何も買わなかったけど)。篠原夫妻に会い、すっかり意気投合し、翻訳家のアンドリューに会いやっぱり意気投合し、世界一の夜景を眺めて、ニューヨークで最も贅沢《ぜいたく》なホテルのひとつで、これから眠ろうとしているのだ。  やっとニューヨークでの最初の日が終ったばかりで、紙面が尽きてしまった。ニューヨークのバカンス、もっともっとステキなことがあったので、この続きは次回ということに。SEE YOU NEXT MONTH!  I LOVE NEWYORK ㈼  その後お変りありませんか? 先月に引き続いて、ニューヨークからお便りします。  二日目のニューヨークの日中の予定は、出版関係者に逢うこと。その中のひとつ、コスモポリタン編集部を訪ねた模様をお話ししましょうか。  すばらしく大きくてきれいな編集部。それぞれの人が自分の個室に近いコーナーを持っている。私の知っているかぎり、日本の編集者のデスク周りは雑誌や本で雑然としているが、コスモポリタン・ニューヨークオフィスは、インテリア頁のモデルになるくらい。  編集長も副編集長も女性。今日は副編集長が相手をしてくれる。 「結婚なさっている?」と私。 「ええ、子供も二人いるわ」と彼女。すごく有能そうに見えるけど、家庭に戻ればお母さんの顔もすごく似合いそう。 「仕事と家庭の両立のコツは?」 「夫の協力。これにつきるわ」 「たとえば、どんなふうに協力してくれるの?」 「先に家に帰った方が夕食を作るわね。子供を朝学校に連れて行ってくれるし。食器を洗うのは原則として彼の役目。当然、自分のことは自分でやりますよ、彼」 「妻が有能で、収入もかなりあるとなると、ご主人、嫉妬《しつと》しない?」 「全然。尊敬してくれているわ。仕事を生々として幸せそうな私を見ているのが、好きだって、彼は言うの」  ほんとうにうらやましい。私は溜息《ためいき》をひとつ。次号のコスモの特集は、「赤」ということで、スタイリストの部屋は、素材や質感の異なる流行の赤いドレスで埋まっていた。  コスモポリタン編集室は女の城。男の編集者はわずか二人くらいだそうだ。  その夜はミュージカルの「キャッツ」を観た。ニューヨークでは初めてだが、ロンドンとウィーンでそれぞれ観ている。私は同じ出しものを観比べるのがとても好き。 「ザ・ファントム・オブ・ジ・オペラ(オペラ座の怪人)」も色々な国で観た。「キャッツ」は二年前にロンドンで観たものが、今のところ最高だと思う。「ファントム」は断然ウィーン。「怪人」の出来が断突《ダントツ》に素晴らしく涙が止まらなかったもの。ウィーンの「ファントム」は林真理子さんと一緒に観た。彼女も感激していた。  こちらのミュージカルは夜八時から始まる。終るのは十一時だ。シアターがはねた後、私の本の翻訳者アンドリューが迎えに来てくれている。ニューヨークの夜は物騒なので、滞在中の用心棒を買って出てくれたのだ。ほっそりとしているけど彼、カラテができるのだ。  アンドリューと、同行の編集者M嬢と、ニューヨーク在住のアンティークの仕事をしておられる市田夫妻と落ちあい、夜の街へ。  今や最先端を行くという「MKディスコ」をのぞく。地下のディスコは、銀行の大金庫の一部をそのまま使ったインテリアで、かなりハードな雰囲気。M嬢と市田氏が踊った。アンドリューが私を誘わないので、「どうして?」と訊くと、「モリさんは、セックスしたくなるような男としか、踊らないんでしょ?」  と、ちゃんと私のこと知っていた。アンドリュー青年は私の本をよく読んでいるためか、驚くくらい私の好みや趣味を知っていて、最高の気配りをしてくれる。若い男の人にチヤホヤされるのって、たまにはいい気分。私はしばらく我がままな女流作家の顔で、自由奔放に過ごすことにする。  ディスコは十五分できり上げて、有名な「トップ・オブ・タワー」へ。  ここへは二年前にも、建築家のエドワード鈴木らと来て、フローズン・マルガリータの美味《おい》しさに大満足したことがある。  文字通り、ビルの最上階で、ぐるり四方の夜景が見渡せる。胸がドキドキしてくるくらい、夜景が迫って見える。まるで自分が宙に浮いているみたいな感じだ。ニューヨークで私が最も好きな場所のひとつである。マルガリータを二杯飲み、少し酔ってホテルに戻った。  翌二日目の早朝は、リムジンが迎えに来て、私たちはレインベックという場所にある、アメリカで一番古い宿屋で、ブランチを食べることになっている。  レインベックまでの道のりは、ハドソン川沿いに飛ばしに飛ばして片道二時間。巨大なリムジンには、市田夫妻とアンドリュー、そしてアンドリューの友人で日本語ペラペラの弁護士ヘイゼンら全部で六人。なんと行きの車の中では、朝からピンクシャンペンという粋な市田氏のはからい。それにしてもデカダンスな朝。  目的地レインベックのその有名な宿屋は、名物のブランチを食べにやって来た人々で一杯。ずらりと並んだ料理を眺めたかぎり、とてもブランチとは思えない。七面鳥あり、ラムのローストあり、ビーフあり。卵料理が数えきれないほどあり、山と積まれた果物、シリアル類、何十種というパン。  何度も戻って好きなだけ食べられる。みんなはりきって何皿も食べたが、私が今ひとつの食欲。というのは、一種の神経症的症状なのだが、両手がビリビリと痛くなって、フォークが持てなくなったりするのだ。週に二、三度これが起こる。何か丸っぽくて冷たいものを握っていると治るのだが、あいにく何もない。普段は「お助けニギニギ」と名づけたものをポケットに入れて持ち歩くのだが、着替えた時に移し忘れたのだ。この症状が始まってしまうと、気分が一気に暗く落ちこむ。そんなわけで私は仕方なく、フォークとナイフの柄を両手にそれぞれ握りしめたまま、暗い気持で座っていた。これからは「お助けニギニギ」を絶対忘れないようにと、心ひそかに誓った。  その夜はグランド・セントラル駅構内にある有名な「オイスター・バー」なるところへ、早めの夕食をとりに三人で出かけた。三人というのはアンドリューとM嬢と私。  ここでは、ありとあらゆる種類のカキ料理を食べさせてくれる。カキはとれた場所によって種類も型も味も異なる。私は生ガキの産地別盛り合わせというのを半ダースに白ワインを注文した。日本のカキよりふっくらとしてクリーミーな感じ。シャブリと抜群の相性で、ミュージカル前の軽い食事としては最高。この後「ファントム・ザ・オペラ」のニューヨーク版を観て、その後もまだ執拗《しつよう》にニューヨークの夜の探訪。  そこは「 |BILL’S《ビルズ》 |GAY《ゲイ》 |TWENTIES《トウエンテイーズ》」というパブ。その昔、娼婦《しようふ》の館《やかた》だったところを、レストランとパブに改装して使っている。古き良き一九二〇年代のノスタルジーに溢《あふ》れた場所で、夜食に軽いものを食べ、またまたワイン。こういうのって、豚になる最短距離なのよね、寝る前の夜食というのは——。今夜もまたまた午前様。酔いとほどよい疲れでふらふらとホテルへ戻って、朝まで一度も眼を覚ますことなく熟睡。  ニューヨーク最後の一日は、メトロポリタン美術館を駆け抜け、ニューヨーク電通を訪ね、M嬢が夢にまで見たティファニー本店の買い物につきあい、夜は「レ・ミゼラブル」のミュージカルを観、ニューヨークで帝王学を学んでいる若きニッカの後継者竹鶴孝太郎さんと、建築家の堀池秀人さんらと合流。カフェ・ピエールで深夜過ぎまで遊んでお喋《しやべ》りをし、それでも足りなくて、みんなでワイワイとシェラトン・タワーの広々としたスウィート・ルームを借りきっている堀池氏のホテルルームへ場所を移して、明け方まで飲み続けたというはちゃめちゃぶり。そして翌朝は当然のことながら二日酔いで青い顔して、帰途の飛行機に乗ったのでありました。  ニューヨーク。信じられないほど垂直の街。出逢いの街、I LOVE YOU。  イスラエルの熱い風  イスラエルへの直行便はない。ロンドン経由で、のんびりと行くことにした。しかもロンドンはクラリッジホテルに豪勢にも二泊して、今大ヒット中のミュージカル「ミス・サイゴン」を観、ハロッズとアクアスキュータムで最高にオノボリさん的買い物|三昧《ざんまい》、我れながら成り上がりの成り金趣味的ロンドン滞在であったと、後になっておかしさがこみ上げてきた。  しかしテル・アビブ行きの検問の厳しさに、その笑いもたちまちにして消えてしまったのだが。  現在の政情では無理もないとはいえ、テル・アビブと言ったとたん、特別のチェックを受ける。目的は何で、誰に逢《あ》い、どういうスケジュールなのかと、こまごまと尋問される。スーツケースに爆発物が入っているものと、最初から疑ってかかるので、自分のスーツケースを最後まで確認しないと、自分もスーツケースも飛行機に乗れない。つまり持ち主のはっきりしない荷物は絶対に載せないという方針だ。  あまりの厳しさにムカムカと腹が立ってきたが、考えてみれば結局は私自身の安全につながるのだと、納得せざるを得ない。  出入国の際の検問の厳しさをのぞけば、イスラエルはステキな国だった。  東京は晩秋という季節であったが、イスラエルはカラリとした夏日和。私が用意した服は秋冬物で、どれもちょっぴり暑苦しすぎた。  今回の旅も半分は取材の仕事で、のこり半分が遊びの旅。  仕事の方は詳しくは書かぬつもりだが、ダイヤモンドの取材だった。今やイスラエルはアントワープを追い抜いて、ダイヤモンド研磨量では、世界一である。  出発前、私の夫や秘書やアシスタント、私のことをよく知っている女友だちなど例外なく、ダイヤモンドの取材と知って顔色を変えたのだ。そしてそれぞれ異口同音に、制限額なしのVISAカードを持って行くことに、反対したのだ。  反対されると反抗したくなるのが私の悪い点。憂い顔の夫や秘書たちの希望を打ち砕いて、VISAカードと共に出発した。  かのフランソワーズ・サガンはギャンブルで全財産をすってしまった。ギャンブルは元も子もなくなるが、ダイヤモンドに狂ったところで、ダイヤモンドだけは確実に手元に残るではないか。  と大言壮語したのまでは良かったが、結果から言うと、ダイヤモンドは買わなかった。正確には買えなかったのである。知る人は知っているが、この世界現金取り引きなのである。更に正確に言えば、原則として現金先払いの世界なのである。  というわけで、私の夫や秘書たちはホッと胸を撫《な》で下ろすことになったのである。  ダイヤモンドは手に入らなかったが、すばらしい石だけはこの眼でしっかりと見てきた。あれだけいい石を見てしまうと(当然キャラット数も大きいわけだ)、なまじのものでは満足できなくなるので、当分宝石には手を出さなくなるだろうと、これは私の希望的観測。  何度も声を大にして言うが、ダイヤモンドは買えなかったが、ダイヤモンド商と友だちになったので、今後の成り行きによっては、買う必要はなくなるかもしれない。雨あられとプレゼントしてくれないとは、絶対に言えないからね。  ついにモリヨーコはイスラエルでお宮になってしまったのか、と、この話をしたら嘆いた男が何人かいた。  だから成り行き次第ではと言ったのに。ダイヤモンドを贈られるような成り行きには至らなかったのだ。今後のお楽しみだが、いつまたイスラエルに出かけて行けるかという問題になると、ほとんど悲観的。  本音を言えば、ダイヤモンドにつられて、またイスラエルには出かけて行かないけど、恋のためならいとわない。そう言うと私の夫以外の人間はそれでこそあなたらしいと、肯定する。夫は、まだダイヤモンドに現《うつつ》をぬかす方がいいと思っている。人の利害はなかなか一致しないものである。  一日ドライブで、エルサレムと死海に行き、史上最古の町といわれるジェリコでランチをとった。  早朝、まず死海をめざして約三時間のドライブ。一番新しい私の親友となったダイヤモンド商のルイスが、二日間、商売を放ったらかして、運転手兼ガイド兼エスコート役を引き受けてくれた。  死海では、人々がぷかぷか浮いていた(むろん生きている人だ)。塩分が濃いので躰《からだ》の半分くらいが水上に出る。お肌に良いと聞いて、私は両手両腕を死海の塩水で濡《ぬ》らしてマッサージ。なるほど、その後三日間ほど、濡らした両腕の肌がツルツルしていた。  この死海、塩分が濃縮される一方で、蒸発も早まり、このままいくといずれ消滅するという。今、真剣に地中海に通じる水路を掘る計画を検討中らしい。  死海から吹き寄せる風は、不思議に無臭で柔らかく熱かった。私は常にその土地に吹く風に興味がある。そう言ったらルイスがある風の話をしてくれた。  それは春から夏にかけて吹き続ける、アラビア砂漠から吹きこむ熱い砂埃《すなぼこり》の突風である。砂漠から吹きこむ熱い突風と聞いただけで、胸が高鳴ってくる。 「ねえルイス、その風に名前があるの?」  と私が訊《き》いた。するとルイスは「そう訊くだろうと思った。作家だったら、風の名前を真っ先に知りたがると思った」と妙なことにいたく感心した。 「いいから早くその風の名前を教えてよ」 「ハムシン」  ハムシン。なんてステキな風の名前だろう。 「いつか、ロマンティックな砂漠の恋物語のタイトルに使うわ」  と私は約束した。  ジェリコの町のことを少し書こう。国境の町である。何年か前に暴動があり、たくさんの人が死傷したため、それまでウィークエンドにランチやディナーを食べにイスラエル人がやって来たレストランは、どれもこれも店を閉じて、かつての美しい中庭には雑草が繁っていた。  たった一軒だけ開いているレストランの、オレンジの木の下で、私たちはアラブ風の昼食にありついた。  店のすぐ前を、銃をもった兵士たちが、たえまなくパトロールをしており、他に観光客はもちろん、イスラエル人の姿もなかった。ルイスはニューヨーク時代の話を私にした。彼は十年前、ニューヨークの商売をたたんで、イスラエルに帰化したのだ。 「僕はね、ダイヤモンドにはあまり興味がないんだ。本当になりたかったのは、他のことだった」  しかし、成功したダイヤモンド商の父親の跡を継がねばならなかった。 「本当になりたかったのはなに?」と私が訊いた。 「言いたくない」と彼が眼を伏せた。四十歳にもなる男が少年のようにはにかむのをみて、私の口元に自然に微笑が浮かんだ。「特にあなたには——」と彼がつけ足した。 「わかったわ」と私が言った。「あなたがなりたかったのは作家ね」  食事の終りに私が言った。 「ルイス、あなたって商売人の眼をしてないわ」 「へぇそう? じゃ僕は何の眼をしてる?」 「あのね、作家の眼よ」  彼の瞳《ひとみ》が一瞬明るく輝き、遠い表情になった。これが私と彼の間に交わされた会話のうちで、今回一番ロマンティックなものだった。その後彼は逢う人ごとに「日本の女流作家のヨーコが、僕は商売人《ビジネスマン》の眼をしてないって言うんだ」  となぜかうれしそうに吹聴《ふいちよう》して回るのを何度も耳にした。けれども彼は絶対にそれに続いた私の言葉を、誰にも言わなかった。「作家の眼」は、私と彼の二人だけの秘密になった。  いつかあなたは、ルイスというファーストネームのイスラエル人の書いたものを、読むかもしれない。そうしたら、今回の私の話を思いだして欲しい。  香港汁かけ御飯論  ホンコンが好きなので、思いつくと出かけて行く。  衝動的な買い物魔である私なのではあるが、ホンコンでの買い物は極力しないようにしている。ブランド物など、ほとんど値段に大差がないので、それだったら自国でお金を使った方がいいという愛国心ゆえにである。  今回のホンコン、C・W・ニコル一家と、ふじ丸で出かけて行った。地中海クラブとふじ丸が一緒に企画したクルージングの旅。四泊五日かけて、ホンコンにたどりつくという、悠長にして優雅な旅であった。  地中海クラブのクルージングときたら、これはもう体重増加の四文字。目下一週間一キロの割合で減量中の私としては、恐怖の旅である。減量に成功しないまでも、たとえ百グラムたりとも体重を増やしたくない一心で、朝七時から始まるスポーツプログラムに全て参加して、現状維持の涙ぐましい努力に次ぐ努力。ストレッチング、甲板を十周するジョギング、エアロビクス、ジャズダンスと三十分刻みに参加し、それでも不安でジムで自転車のペダルを踏んだり、重量挙げの真似ごとをしたり、更に夜は夜でディスコで余分のお肉を振り落さんと、踊りまくらねばならなかった。  努力のかいがあり、体重の増加だけはなんとかくいとめることができた。ただし減量は一グラムもなし。運動《スポーツ》で減量しようと思うのは、まちがいである。何しろ、自転車のペダルを汗だくになって三十分踏んだって、百キロカロリーの消耗にもならないのだ。喉《のど》が渇いたわと言って、ジンジャーエールを飲んだら、汗だくの努力は全て水の泡となる。  三食たっぷり食べて、その上夜食のすいとんやじぶ鍋までいただいても、現状維持ができたのは、決して、スポーツ・エクササイズのおかげではなく、寝不足のたまものである。夜中の二時三時まで騒いでいて、朝の六時半起きが続いたせいである。  さて、待望のホンコン。この地に足を踏み入れてしまったら、ダイエットのことも体重のことも、全て忘れることである。でないとノイローゼになってしまう。というわけで、私はきっぱりと忘れた。思いきりの良いことが、私の長所でもあり欠点でもあるのだ。  今回の旅行でこの地に滞在できるのは、丸々二十四時間である。旅の目的そのものが、クルージングであったわけで、ホンコンそのものはおまけみたいなものなのだ。  このたった二十四時間を、どう過ごすかが、問題だ。私はC・W・ニコル一家の期待を一身に受けて、プログラムを作った。  まず着いたその足で、ホンコン島へ行き、まっすぐに陸羽茶室で飲茶《ヤムチヤ》を食べる。これがランチ。  陸羽茶室というのは、私がホンコンへ行くたびに一度は足を運ぶなじみの場所である。最近では日本人の顔が目立つようになったが、六、七年前頃までは、地元のちょっと金持風の一家が、朝の十時くらいから、文字通り朝食と昼食とを兼ねたブランチを楽しむ風景が見られたものである。当然、日本語も英語も通じなくて、メニューを指でさし示して注文したものだった。  日本人の姿が目立ち始め、英語を解する給仕が働くようになると、それに比例して地元の小金持風の家族連れの姿が消えていき、更にそれに比例して味の方も数段落ちていったような気がしてならない。好意的に言えば、日本人好みの味つけになっていったということなのだろう。  そうなると、ポチポチいた日本人の数がまたまた増えていき、その日は過半数のテーブルから、日本語の声がしていた。来年を待つまでもなく、ここにも日本語のメニューが姿を現すのは、時間の問題ではないだろうか。  夜は、クルージングに参加した総勢十人に、ホンコン在住の友人四、五人が加わって、鯉魚門《レイユウモン》に食の大ツアーに出かけて行くことにした。  船旅の間、飲んでいる他は眠ってばかりいたニックことC・W・ニコルの眼ががぜん輝いたのは、ここ鯉魚門に着いて、魚屋に入った時からである。  今夜自分たちが食べたいと思う魚介類を、魚屋で買い、隣接したレストランへ持ちこみ調理をしてもらうというのが、ここでの食べ方というか、遊び方である。  私は、以前ホンコン協会にいた辻村君に、魚屋ならどこで、料理を持ちこむならどこのレストランでと教えられていたが、今回も辻村君と連絡を取って、参加してもらった。やっぱり広東語で注文したり文句を言ってもらった方が、一味も二味も違うし、料金の方は反対に何割か安く交渉できるわけだ。  私は、とこぶしやカニ、小えびなどを選んだ。ニックは長いこと水槽の中を覗《のぞ》きこんでいたが、ついに「あれダ!」と叫んだ。  それはまさに怪魚というべき面だましいと姿をした巨大な魚。ゆうに三十人分はありそうだ。  そこで、辻村君はその怪魚を三通りに料理してもらうことにした。蒸し魚と、揚げ魚と、炒《いた》め魚である。  さっそく大テーブルを囲んでビールで乾杯した。間もなく、小えびが山のようにゆで上げられて出てきた。はしなど使わず、手で殻をむく。殻そのものも皿の上に上品に置いたりせずに、テーブルクロスの上に、ポンポン積み上げていく。正にホンコン的食べ方である。そしてそれが美味《おい》しいのだ。指はベトベト、口のまわりも中もベトベト。その油を老酒《ラオチユウ》で流しこむ。  とこぶしは、とろけるように柔らかく仕上がってきた。こんなに短時間で、どうしてこう柔らかく蒸し上がるのかと、辻村君の通訳で質問したら、秘密は火力にあるという。高温で一気に蒸し上げる。つまり圧力釜《あつりよくがま》の原理である。蒸し汁が皿の底にたまっている。これをご飯にかけて食べずに、ホンコンの食は語れない。汁かけ御飯の美味を味わわずして、ホンコンを出るなかれ。  ニックの怪魚が三種の料理に化けて、大皿に盛られて運ばれてくる頃には、酔いも回り、桃源郷の心境。どの顔も、油と酒と幸福感とで、テカテカに光っていた。この夜の食事、魚屋の分も入れてひとり、約五千円どまり。ニックが感激していた。  ヨロン島の熱い砂  たった数時間前、ホンコンから帰って来たばかりである。今年は一月にバンコックへ行ったから東南アジアづいている。  去年のちょうど今頃はカイロにいた。林真理子さんと仕事でウィーンに行った後、ひとりでふらりとピラミッドを眺めに行って来た。思えば去年は例年以上に旅が多かった。初夏にはロンドンとイタリアへ行った。ベニスでゴンドラに乗り、有名なベネチアングラスの島を訪ね、案の定|一眼惚《ひとめぼ》れしたワイングラスに眼の玉が飛び出るようなお金を払って、買いこんでしまった。カプリ島でも季節外れだったのでひたすらVISAカードで買い物をする以外することもなかったので、翌月、その穴埋めで苦しんだ。ローマは素敵だったが、一泊だけの滞在だったので、今度はローマだけにしぼってゆっくりしてみたい。  そうそう、ロンドンからベニスへ入るのに、オリエント急行を使った。その印象を一言でいえば、往年の美人女優、もしくは零落の美女というところ。ただあのコンパートメントの密室感というのは、相手次第ではロマンティックにもセクシーにもなり得たと思う。今回は私の長女が同室だったので、お互いに息がつまっただけである。乗りあわせたのはアメリカ人とイギリス人のお金持ばかり。ただし、成り上がり的なリッチピープルで、そのお喋《しやべ》りのくだらなさは、我が日本女の井戸端会議と変らない。  夏にはニューヨークに行き、秋にはイスラエルに行った。その二つの旅については、すでに書いたので記憶している人もいるかもしれない。  さて今年の旅の予定であるが、現時点でわかっているものは、四月末のマラケシとカサブランカへの旅だ。モロッコへは一度は行ってみたかった。ラ・ムニアというとびきりロマンティックなホテルに泊ることになっている。その様子も、また「リゾート便り」で改めて報告するつもりなので、どうぞお楽しみに。  五月末はニューヨークからアトランタを回ってみようと思う。『風と共に去りぬ』の続編が今年アメリカで発売される予定になっており、その日本語への翻訳を私がすることになったため、スカーレット・オハラの故郷を訪ねてみようというわけなのである。その足でハワイに寄り、友人が参加する「リプトンズ・カップ」のヨットレースのチアリーダーをやる約束も入っている。チアリーダーといってもお尻《しり》の見えるスカートをはいて脚を上げたりはしないので、ご安心を。エレガントに年相応に応援団長をやろうという、それだけのことである。  それが今年前半の旅の予定で、後半については未定。インドへ行こうか、スペインに行こうか、という話があるが、まだきめていない。  今月の「リゾート便り」、本題になかなか入らないので苛々《いらいら》している読者もいるかもしれない。そろそろ入りましょうか。 「ヨロン島」というのはどうですか? 沖縄のすぐ北にあるエンゼルフィッシュの形をした小さな島である。周囲を珊瑚礁《さんごしよう》で囲まれたそれは美しい島で、私は一眼惚《ひとめぼ》れ。好きになったら一念を通さずにはおれないサソリ座の性格が、この際だけは幸いして、ついに昨年、土地を手に入れ、小さいながらも南国風の家を建ててしまった。  それ以来、三日以上の休みが取れる時は、ヨロン島の家に出かけて行き、恋人に再会する心境で楽しんでいる。  年間の平均気温は二十度前後なので、お正月でも風のない天気のいい日なら、ウェットスーツなしで泳げる。そしてそこの海水ときたら、肌もコバルトブルーに染まるのではないかと思うような、それは夢のようなブルーなのである。あまりの透明度に感激して、ついつい年がいもなくスキューバ・ダイビングのライセンスも、ヨロン島で取ってしまった。  十二メートルばかりの海底の岩にペッタリとはりついて、岩に寄生している夥《おびただ》しい動植物の生態をじっくりと眺めているだけで、ストレスなど解消してしまう。一緒にダイビングする人たちはなぜか、移動したがるが、私は一点に定着して、三十分でも四十分でも、酸素が続くかぎり、その限定された空間だけを、あかず眺めているのが好きなのだ。  紫色と白のだんだら模様の海草がゆらゆらと揺れている中へ、同じような紫色と白のだんだら模様をした小魚が出たり入ったりしているのを見ると、自然の偉大さみたいなものに心を打たれ、茫然《ぼうぜん》としてしまうのだ。海の中のしかもこんなに小さな片隅の生命や植物にまで、これほどまでの配慮をしているのは、一体誰なのか。そう思うとつい神の存在などを信じそうになる瞬間が、いたるところにあるのである。  家が建った時、お祝いに来てくれた島の人々が、それぞれ小さな苗木を記念に植えていってくれた。それがたったの一年の間に、信じられないような生長ぶりをみせ、丸裸だった庭が、今では密林のようになっているのだ。ブーゲンビリアやハイビスカスといった南国の花が咲き乱れ、パイウォーターの池では、これまたパイウォーターの威力でコイのように育ってしまった巨大な金魚がゆうゆうと泳いでいる。  私が何よりもうれしかったのは、ガジュマルという樹を移植して、それが根づいたことである。クレーンで移植した直後には、根をズタズタにされたガジュマルは痛々しいほどに弱り、青々と繁っていた葉はすべて枯れ落ちてしまった。しかもクレーンで移動する際にできた切り傷やスリ傷の傷口から、不思議なことに赤い液が滲《にじ》んでいるのを見た時には、樹が人間と同じように血を流していると思い、心が痛んだ。  管理人の若夫婦と私たちとで、それこそ撫《な》でさするようにして看病したかいがあり、半年の闘病の末、ガジュマルはみごとによみがえり、青い新芽をひとつふたつとつけ始めた。  その後はあれよあれよという間である。高温多湿のヨロン島では、植物の繁殖力はものすごい。あっという間に、元の姿をとり戻し、私の家の庭に濃い影を落している。  台風の通り道でもある島のことなので、ずいぶん心配したが、椰子《ヤシ》の樹もガジュマルも生きのび、沖縄ガワラもひとつも飛ばなかった。  ありがたいことに、台風が来るといっては島の友人たちが家を見回りに行き、雨が降り続いたといえば心配して見てくれる。温かい心の島の人たちなのである。  だから、ヨロン島に行くと、すぐに酒盛りとなる。黒砂糖から作った土地の焼酎を夜をてっして飲む。すると唄になり踊りになる。あまりの楽しさについ度を過ごし、翌日は二日酔い。  そんな朝の大気の眩《まぶ》しいこと。海の色の厳しいこと。頭がクラクラしてしまう。  ここでの日課は、早朝に近くのミニゴルフ場で十八ホールを回る。およそ一時間半の運動だ。その後、四、五時間原稿を書き、お昼寝《シエスタ》をし、眼覚ましのかわりに、すぐ下のプライベートビーチへおりて行って一泳ぎ。太陽を眺めながら食前酒をチビチビ、延々と飲み、やがて集まって来た島の人たちとバーベキューを囲んでの宴会となっていく。実に健康なリゾート地なのである。  MY HONG KONG  暮れに香港へ船旅で行ったら、香港づいてしまい二月に三泊、またまた三月に二泊とたて続けに出かけてしまった。香港の何がそんなに良いのかと訊《き》かれても、一口ではとうてい言い表せない。今更ショッピングというわけでもない。今日び、香港での買い物は、決して安くはないのである。飛行機代とホテル代を入れたら、東京で同じものを買った方が、ずっと安くつく。  香港へ行くのなら、断然六、七、八人の仲良しグループで行くことをおすすめする。中華料理を小人数で食べてもつまらないからだ。というわけで今回も私は仲良しの六人組で押しかけた。  私の仲良し組には、いくつか性格の異なるグループがあって、いずれも男と女の数はほぼ半数。仮にこの仲良しグループをA組としよう。  まず香港の空港に着いたら、リムジンが迎えに出ている。むろんあらかじめアレンジしておかなければならないが、着いた早々タクシーの運転手の態度に腹を立てるのは面白くないから、私はリムジンか時にはロールス・ロイスで迎えに来てもらう。  今回の宿は香港サイドのマンダリン・ホテル。ここの入口の横にあるバーが大好きなのだ。  ホテルで一風呂《ひとふろ》浴び、夜のドレスに着替え、ロビーに集合。香港での遊びなら私におまかせ、ということで用意した今夜のコースは、チンチン電車を借り切っての、夜景の中の一周。  これ、知らない人が多いが、きれいなチンチン電車で、二時間街中を走っても一万五、六千円の貸し切り料金。特別電車で真鍮《しんちゆう》がキラキラ光り、マホガニーの内装。二階は展望用のデッキがついている。  ただ乗って夜景を眺めるだけでは物足りないので、今回はとびきりのシャンパンと、とびきりのキャビアを大量に用意した。キャビアをのせる小さなパンケーキは、マンダリン・ホテルに頼んで作っておいてもらった。コルネ型に丸めてあるので、私がするのは缶を開けたキャビアを詰めるだけ。Aグループ六人と、香港在住の友人知人八人を招待、十四人のパーティーとなった。  気温は寒くもなく暑くもなく、展望台で夜風に吹かれつつ、夜景の中をシャンパン片手にチンチンとすすんだ。  キャビアでお腹《なか》が一杯になった頃、電車を降りて、街へとぞろぞろくりだして行った。キャビアをお腹一杯食べるのが私の夢のひとつだった。  香港二日目。今日も盛りだくさん楽しいことが待っている。まずは朝ガユというわけで、食いしんぼうの六人はそろってセントラル地区へ。鼻の向く方向へと歩いていくと、何やらそれらしき匂いと雰囲気。階段を上るとありました。正に望んでいた風景。すなわち旅行者など行かないところで、香港人で一杯の店。テーブルもお皿も油でヌルヌルしているが、こういうところって、美味《おい》しいのよね。  英語も日本語も通じない。ウェイターが何か言う。「ああ、いいヨ、ソレソレ」とうなずく。別のウェイターが手押し車を押して来てまた何か言う。「ウム、ソレも頼む」。  またたく間にテーブルの上には溢《あふ》れるばかりの飲茶料理が並びに並ぶ。  どれにもこれにも少しずつ箸《はし》をつけてみる。美味しくない。現地の人が一杯で、汚らしい混んだ店というのは美味しいはずなのに大外れ。それでも結局、お腹は満々腹。料金は格安。ま、いいでしょうとホテルへ戻ったとたん、私は猛烈に気持が悪くなり、食べたばかりの全部を吐いてしまった。こんなことって初めてだ。でも他の五人はケロリとして口直しにコーヒーなど飲み始めている。  香港の大富豪の張さんが迎えに来て、今から彼のボートで島めぐりに連れていくという。私は気分が悪かったが、潮風に当ればと思い、参加することにした。  ボートといっても乗ってみるとベッドルームが二つもついた大きな豪華船。直ちにシャンパンが抜かれ乾杯が始まったが、私はシャンパンよりも何よりもベッドに心をそそられる。 「どうしたの、もうシャンパンに酔ったの?」 「違う船酔い」 「でもまだ動いてないよ」 「でも気持悪いの」  早々にキャビンのベッドにひっくり返る。甲板では酒宴が始まっている。ボートは揺れる。私は真っ青。みんなは外で赤い顔。  ランチに島のどこかのレストランに行くというので、起こされた。でも海鮮料理ときいただけで、胃が泡立ってくる。とてもだめ。私は残る。 「どうしたのよ、食いしんぼうのあなたが?」  とみんなは心配するというより、私を責めるみたいに言う。結局、ものすごくハンサムな若い男の子を一人、私のボディガードに残して出かけて行った。  でも私は枕《まくら》を抱きしめたまま、美男のボディガードどころの騒ぎではなく、うんうんとうなりっぱなし。  一人でうなること延々三時間。仲間が戻って来た。上機嫌だ。その上泥酔状態。聞けば、ワイン六本にブランデー二本、ラオチュー三本あけてきたという。  えびが美味《うま》かった、タイの揚げたのがどうの、サシミが出たのと、酒臭い息で、入れかわりたちかわり報告に来る。その酒臭い息で胸が焼け、揚げ魚の話で胃がひっくりかえる。 「あなた、もしかしてツワリじゃないの?」と酔っぱらった女友だちが大声で喚《わめ》いた。 「ツワリ——だって……」と私は虫の息で言う。「そのようなことを、いたしていないのに、何でツワリになるのよ?」「じゃ、想像妊娠だわよ」  と言って、みんなして笑い転げる。ひどい仲間だ。  夕方船をようやく降り、ホテルに戻ってお風呂《ふろ》につかる。気分は少しは良くなっている。今夜はこれからパバロッティのリサイタルに行く。幸運にも席が六席並んでとれたのだ。  みんなしてグラグラ揺れる感じで、今宵の会場コンベンションセンターまで出かけていった。仲間は泥酔の続きで、私は船酔いでグラグラしているのだ。  パバロッティは例によって白い大きなハンケチをヒラヒラさせながら登場した。すごいデブ。私は慌てて眼を閉じて、唄声に耳をかたむけた。唄声の方は、それはすばらしい。トスカなんて思わず涙が滲《にじ》んだもの。香港でパバロッティが聴けるなんて思いもよらなかった。  コンサートが終ったのは十時。とうていタクシーなんて拾えない。三十分歩いてホテルに戻った。みんなはレストランに押し入ろうとして、ラスト・オーダーは終ったと断られ、ガックリしている。でもコーヒーハウスは十二時まで開いていると言う。 「コーヒーハウスで何食えるの?」と食いしんぼうの一人が訊《き》く。 「スパゲティーとかピザ、サンドイッチ」 「それでいこう!」  と元気に向かう。食い意地の張った餓鬼共め。私がおやすみと言いかけるのを無理矢理に連れこまれ同席を強いられた。  たちまちテーブルは注文したもので一杯になる。私はまだムカムカしているので、ビールを啜《すす》りながら、じっと眺めている。 「ちょっと食べたら?」と仲間が皿を押しつける。 「何も食べないとお腹の胎児によくないよ」  無理矢理、シンガポール風ビーフンというのを口に入れてみる。これが結構いける。ついでにスパゲティーも一口。うん、アルデンテ。ピッツァは薄くてチーズがタップリ。悪くない。何のことはない後半のムカムカはお腹が空きすぎて、気分が悪かったのだ。私はたちまち餓鬼の仲間に加わって、食べまくってしまった。後で思ったことは、何も香港まで来てピザやスパゲティーでお腹一杯にすることはないのにね。  胃袋が満たされると、たちまち元気が回復した。一日中船のベッドで眠っていたわけだから、全然眠くもない。 「ねぇ、これからどうする! ディスコでも行かない?」  けれども全員、上瞼《うわまぶた》と下瞼とをほとんどくっつけんばかりの様子。 「ディスコでなくてもいいからさ。バーに行って、飲み直さない?」  これにも返事なし。しかたなく、みんなと行動を共にし、自分の部屋に戻り、ベッドにもぐりこんだ。  とまあこんな具合に過ぎたわけだが、二日酔いしようと、吐き気を催そうと船酔いしようと、ピザを食べようと香港は楽しい。最高に楽しい。また来月も出かけて行くつもり。  バンコックの熱い二十四時間  五年か六年前に、一人旅でバンコックを訪れ、その時オリエンタル・ホテルに滞在した。今度も同じオリエンタル。  毎年のように世界のベストホテル一位になっている有名なホテルである。  日本のホテルには絶対といってよいほど欠落しているものが、外国のホテルにはある。それはドキドキするような空間に対する期待である。ロビーに入ったとたん、ホテルのかもしだす空気に、しびれるような、胸膨らむ思い。  日本の一流中の一流ホテルにすら、それがない。だから、外国に行くと私はその土地の一番良いホテルに、多少の無理をしても泊ろうと思うのだ。  二度目のオリエンタルは、ゲラン社の招待であった。ゲランが久々に新しく出した「サムサラ」という香水の発表会に招かれたもので、日本からは雑誌社の人たちや、西尾忠久さん、大内順子さんらが一緒だった。  私が一番好きなタイエアで飛んだバンコック。深夜に着いたので、その日は広々としたホテルのベッドでバタンキュー。  バンコック二日目。熟睡して機嫌よく目覚めた。出発直前まで〆切りに追われていた上に、加山雄三さんの三十周年記念の作詞のブラッシュ・アップで、ダウン気味だったのだ。  しかし眠ればすぐ回復するのが私の良いところ。朝風呂《あさぶろ》に入ってのんびりと朝食に下りて行くと、西尾さんたちがいた。強引に割りこんで、タイ風おかゆを頼んだ。みんなはなぜかスクランブル・エッグにベーコンとかハムを添えたものを、すでに食べていた。私のおかゆが来るといっせいに羨《うらや》ましそうな顔。おかゆがあることを知っていたのは、前に泊ったことがあるからだ。生のコリアンダーの葉をタップリとのせて、いただいた。  六時のゲランのレセプションまで何もすることがない。ということは、買い物に走り回れるというわけだ。私は駐日フランス大使館の郡島さんと、街にくりだした。  今回のショッピングの目的は、布地の買い物だ。タイなのだから当然シルク。それと古布。アンティークの織物なのだ。  布地屋さんに行くとあるわあるわ、タイシルクの巻き物がズラリと気が遠くなるほど並んでいる。あんまりたくさんあるので、気が散ってなかなかきまらない。それに売り子があれにしろこれにしろとうるさい。それでも四、五種類の布地を買った。  ホテルに戻って、ああ良かった、あまりお金を使わずにすんだし、珍しくドレスにも眼がいかなかったと、ほっとした。お金を使わなかったことを私より喜んでいる東京の秘書の顔なども、眼に浮かんだ。  レセプションの時間までまだ少しある。下に行って何か軽く飲もうかしらんと、考えたのが過ちのもとであった。  バーへ向かう途中、ブティックを通らねばならなかったのだ。すばらしいビーズ刺繍《ししゆう》を大胆に胸元に配したディナージャケットが眼に飛びこんできた。もういけない。私はふらふらと店に吸いこまれた。今夜のドレスの上にはおるのにピッタリなのである。  お値段を見て、眼が飛びだしそうになったが、後の祭り。たとえ片眼が落っこちても買ってしまうのが私のいけないところ。歯止めなどきくわけがない。東京の秘書の渋い顔がチラチラするが、ごめん! と呟《つぶや》いて、VISAカードを差しだした。  考えてみると、前回ここに泊った時も同じようなことをしたのだ。私は全くの一人旅で取材中の身だった。ホテルを出たり入ったり忙しく飛び回って夕方戻ってみると、ドアの下にブルーの封筒が差しこんであった。ホテル主催のカクテルパーティーへの招待状だった。  毎週一回、その時にホテルに滞在している主だったゲストを、ライターズ・ラウンジに招いて、カクテルを振るまってくれる、とそういうことであった。  私は持ってきたドレスの中で、一番ドレッシィーなものを身につけて、少し早めにラウンジに向かった。その時通りすがりのショーウィンドウの中で眼についたすばらしく美しいビーズ刺繍のブラウスの前に、釘《くぎ》づけになった。  白いシフォンの上に、白いビーズが贅沢《ぜいたく》に縫いつけてあり、その白いビーズはさまざまに型や大きさや素材が違うのだ。宝石でできているように見えた。あれは私のために作られたものだ、と直感した。私のことを待っていたのだ、と。  すぐにそう思うのが私の私たるゆえんで、そうなったらもう矢も盾もたまらない。VISAカードで買って、ホテルの部屋に引き返し、大急ぎでドレスを着替えた。  ところが、下に着るものがみつからない。ピッタリと合うスカートがないのだ。白のシフォンの蝶《ちよう》の羽根のように薄いスカートがあればいいのだが、急に探してもみつかりそうもないし、時間もない。ふとひらめいて、ジーンズを合わせてみた。今はもう流行《はや》らないが、ぴったりと脚についたピチピチのジーンズで、幸い膝《ひざ》もお尻《しり》も抜けていない下ろしたて。  それにハイヒールを合わせてみると、格好がついた。思えば勇気のいるスタイルだったが、私も今より若かったし、痩《や》せていた。  カクテルパーティーでは、結構もてもてだった。女流作家というよりは、少しイカれた不良な女に見えたのだろう。  男に誘われた。場所を変えて、一杯飲み、食事でも一緒にしようというのである。  アメリカの何かの雑誌の編集長だか副編をしているという触れこみだった。眼の青い点と金髪であることは私の趣味ではなかったが、知性とユーモアのある会話ができれば、夕食の相手にはもってこいだ。OKということになり、連れだってたそがれ刻《どき》のバンコックの町に出た。  その際案内されたのが、『カフェ・インディア』というインド料理の店だった。スパイスのきいた本格的な辛い料理を、フローズン・マルガリータを何杯もおかわりして流しこんだ。  アメリカ人は饒舌《じようぜつ》で、話題も面白く、楽しい時間が過ぎた。冷房があまりきかなかったので、ひどく蒸し暑く、それがかえってエキゾチックな雰囲気を盛り上げていた。  ふと相手を見た。額や顔が汗で光っている。何かが私の注意を引いた。汗の量が尋常ではないのだ。青い瞳《ひとみ》の青さが薄れ、金属か何かのようにギラついた光を放っている。ヤバイと咄嗟《とつさ》に感じた。  私の脳裡《のうり》に、素裸の惨殺死体でメコム河を流れる自分自身の姿が点滅した。なにしろ作家だから、想像力にこと欠かないのだ。一見普通に見える異常者なんて、この世にゴマンといるのだ。 「ベトナム戦争に行っていたんだ」  と男が呟《つぶや》いた。上唇の上に玉の汗が浮かんでいる。 「あれは、美しい戦争だった」  これはいかん。私は帰りの道順を必死に思いだそうとした。男をどう上手《うま》く撒《ま》いて帰れるのかも考えた。彼はベトナム戦争の残虐性を、うっとりとした口調でとめどなく喋《しやべ》り続けていた。  そのうちに、恐怖よりも好奇心が頭をもたげてきた。作家魂というやつである。彼は貴重な体験を喋っているのだ。すばらしい素材が眼の前にいるのだ。私などとうてい入りこめないベトナムの密林深くに、彼が私を誘ってくれるのだ。  もう怖くはなかった。彼と共に異様な戦争の体験を再現することができた。私はジャングルをさまよい、暗闇《くらやみ》を音もなく忍び寄るベトコンの不気味さを味わった。  どれくらい時間がたったろうか。アメリカ人はぐったりと疲れ果て、放心していた。正常な感じが戻ってきていた。彼をうながして、帰途についた。彼はフラフラしていた。酒の酔いもあったが、話にも酔ったみたいだった。私は彼を支えて、ホテルに戻った。  メコム河に死体となって流されることなく、一夜があけた。朝日を浴びて、ホテルのすぐ前を流れる河は、銀色に輝いていた。心に深い傷をもつそのアメリカ人とは、二度と顔を合わすことはなかった。  さて、「サムサラ」という新しい香水が、いよいよその神秘のヴェールを外す夜。タイの夜は熱く甘くそして長々と続く。  新しい香水の匂《にお》いは、東洋と西洋の混じりあった神秘性と現代性をあわせもったユニークな香りだった。女たちより男たちの方がむしろ歓迎した香りで、とてもセクシー。  でも私には少し女っぽすぎるかな、と思ったが、新しい匂いの代表になる予感を含んでいることにはまちがいない。  ベランダと呼ばれる運河《クローン》沿いのレストランで、夕食会が始まった。空は満天の星。  カサブランカの|刻は過ぎゆきて《アズ・タイム・ゴーズ・バイ》  カサブランカの空港に着いたとたん、ハッサン国王のボディーガードらに取り囲まれ、誘導されるというよりは拉致《らち》されるように、裏口から税関を抜けだす。人々が何事かというように見るので、悪いことしていないのに、なんとなく後ろめたい。  しかし東京のモロッコ大使が図ってくれた便宜のおかげで、空港はフリーパスだ。言葉がまるきり通じないので、ホテルにたどり着くまでは、まだ誘拐されているのではないかと半信半疑、モロッコはフランス語とアラビア語の土地なのだ。そして私はその両方ともまるでだめ。  ホテルにチェックインをし、これまたモロッコ大使のお声がかりで素晴らしいスウィート・ルームに落ち着き、熱々のミントティーのサービスを受けると、やっとほっとした。ハッサン国王のボディーガードも、お引きとりになり、長旅の荷を解いた。実際、モロッコは遠い国である。私たちはパリからのルートで入ったが、連絡便が悪く、パリに一泊しなければならなかった。  信じられないほど甘いハッカ茶を啜《すす》っているうちに、徐々にアラブ情緒が我々を包みこんでいく。我々というのは、私と、私の秘書と、編集者の女三人。  ホテルからの風景は、白い家々というよりは、白いビルの普通の街。しかしここはボギーとバーグマンの「カサブランカ」の舞台となった街であることは確かだ。熱砂の街と思ったが、意外に涼しい。空気は当然カラカラ。その渇いた喉《のど》に、甘いハッカ茶が浸《し》みこむ。  ホテルから眺めるかぎり、静かである。それもそのはず、断食《ラマダン》の期間中なのだ。モロッコ中というよりは、世界中のイスラム教徒が、一カ月間、陽のあるうちは食事はもちろん、水一滴飲めない。唾《つば》を呑《の》みこんでもいけない。厳しい戒律の真《ま》っ只中《ただなか》に、我々は飛びこんでしまったというわけ。  けれども旅行者は、いつ何を食べても飲んでもかまわないというわけで、遅めのランチをとりに、ホテルの食堂に下りてみる。  さっそくアラブ風に、クスクスを注文する。同伴者はタジンという羊の煮込み。鶏のプラム煮。  テーブルせましと並んだ料理は、どれも一人前ずつとは信じられない量だ。その量に圧倒されたのと、断食中のウェイターたちに見守られているせいで、食欲が今イチ。冷汗脂汗を流してがんばったが、全員三分の一も食べられない。  満腹の後はホテルルームでシエスタ。  二時間も眠ると、秘書に起こされた。モロッコ大使の従兄《いとこ》のお宅に招待されているのだ。  ラマダン中なので、何もおもてなしできませんが、と案内されたのは、アラブ風の大邸宅。それもそのはず、ハジ・オマール・ブセッタ氏はイタリア大使を始め、各国の大使を務め上げた方。しかも詩人で博士号の持ち主。なんと親類縁者が顔をそろえ、我々を歓待してくれる。  スペインとアラブ風の折衷、広々とした屋敷内は、迷子になりそうだ。  陽が沈むと、カランコロン、一日の断食が終る。さっそく我々の前に食事の載った丸テーブルが運ばれてくる。人間がテーブルに歩いて行くのではなく、座っているところに、テーブルがくる、というのがお金持のアラブ風食事なのだそうだ。  夕食と思いきや、「朝ごはん」だと言う。内容はレモン風味の豆スープ「ハリラ」に、カリントウのような菓子。それにゆで卵がひとつ。これがモロッコの朝ごはんなのだ。二、三時間前にタップリランチを食べたことを後悔しながら、スープをいただき、甘ったるい菓子をつまんだ。ゆで卵はパス。  これで終りと安心したら、まちがいだった。昼食が続いて出てくる。ほんとうは、夜の十一時頃に食べるのだそうだが、我々のために間を短縮してくれたというのだ。またまた別のテーブルが運ばれてきて、巨大なパイが載っている。「バスティラ」といって、ハト肉とアーモンドのパイで、上に真っ白になるくらい粉砂糖がかかっている。お菓子でもない、食事でもない不思議な味。コカコーラでようやく一口呑みこむが、胃には一分のスキもない。  今度こそ終りと思いきや、夕食のテーブルが運ばれてくるではないか。本当はピンポンやカードなどして、三時間ほど腹ごなしをし、朝方の三時に夕食となるらしいのだが、我々日本からの客のために、大幅に短縮してくれたのだ。  と説明されては、食べないわけにはいかない。しかしテーブルの内容はすごい。何しろ夕食なのだ。これをしっかり食べて、翌日一日の断食に耐えなければならない。料理はクスクス、タジン、レモンチキンとすでにおなじみのものが並びに並んだ。どれもブセッタ夫人の手料理で、ホテルとは比べものにならない美味だが、食べものが喉《のど》の位置どころか、眼のすぐ下まで詰まっている感じ。もっぱら眼だけでいただいた。  ごていねいにも、デザートの甘い菓子が出て、ハッカ茶を夫人自らいれて下さり、ようやくおひらき。  大量に残った料理をどうするのかと訊《き》いたら、私たちが帰った後、改めて昼食をとり直すし、明け方の三時には温め直した夕食をとるのだそうだ。断食《ラマダン》というのは、本当に苦しいものだ、と身をもって知った。  さてその翌日、車で二、三時間のところにあるラバトへ観光局の人が案内してくれるという。  昨夜の大食のせいで朝食ぬきでラバトへ向かう。サレ河でボート遊びとしゃれ、メディナを歩き回り、少し買い物をするとお腹《なか》が空いてきた。けれども、運転手と案内人が見ている前で、我々だけが空腹を満たすわけにはいかない。 「どうぞ、おかまいなく」と再三言ってくれるのだが、心優しいヤマトナデシコは、そうはいかずと、ついにランチを抜いた。  イスラム教徒でもないのにラマダンをやってしまうハメになり、その夜はレストランが開くのが待ちきれない。しかしレストランは九時にならないと開かない。モロッコ料理のレストランだけ八時に開くという。とにかく空腹にはかえられない。私たちはまたまたモロッコ料理の食卓を囲んだ。  さすがに三食ぶっ続けでモロッコ料理というのは、疲れる。羊の匂《にお》いが胃にもたれる。それにレパートリーも同じだ。クスクスに煮込んだ鶏か羊。しかも量は山盛り。一日断食のわりには驚くほど少量しか食べられない。なんとなく食生活が暗い感じ。この先一週間、どうなることやら——。  食生活の点を別にすれば、カサブランカでは有意義な刻《とき》が少し持てた。女性の物書き、詩人、絵描きなどと三十分ばかり膝《ひざ》を交えて話す機会を得たのだ。  まだまだ表現の自由ということに問題がありとみた。その証拠に女の小説家より、詩人が多い。詩の世界なら、抽象的に言いたいことを表現できるからだ。  カサブランカの夜の街では、ついに出かけることはしなかった。女三人では、格好もつかないが、やはり勇気もいるのだ。一人旅なら私は意外に度胸が座るのだが、女編集者と女秘書を危ない目にあわせるわけにはいかない。というわけで、カサブランカでは満腹の身をベッドへ直行させ、健康に眠りをむさぼった、というしだい。  カスバの休日  マラケシのホテルは、『ラ・マムニア』。かねがね噂《うわさ》を聞いており、すばらしいホテルだということで、何カ月も前から予約を入れておいたのだ。  私の部屋は四階のアラビア風スウィート・ルーム。アラビックなタイルが、床といい、壁といい、天井といいびっしりとはめこまれている。それらが気の遠くなるほど複雑な幾何学模様を描きだしている。ドアを入ると、長いトンネルのような廊下になっており、その突き当りに小さな聖水用の池があり、ベンチが置いてある。そのアプローチだけで充分にロマンティック。アラブ風の家具を配したダイニングルーム、リビング、そしてベッドルームに続きのバスルームといった具合。はるかサハラ砂漠に向けてベランダがしつらえてある。そこからは雪を頂いた山並や、広大なオリーブ畑やその先の砂漠が見わたせる。すぐ下には、青々とした水をたたえたオアシスのようなホテルのプールがある。プールサイドのフランス女たちは、いずれも乳房を露《あらわ》にして、日光浴をしている。  さて、このホテルには八つのバーがある。最初の夜はそのうちの一つで食前酒を飲み、ホテル内のイタリア料理店で、軽くこてだめし、ということになった。  バーはピアノバーで、ハリウッドから流れて来た黒人がピアノを弾きながら、「アズ・タイム・ゴーズ・バイ」を唄った。映画「カサブランカ」の主題曲。私の大好きな曲。  でもいくら見回しても、バーの中にはテキサスかアイダホあたりから来たアメリカのおじさんおばさんばかりで、ハンフリー・ボガートを彷彿《ほうふつ》させるような男の影は皆無だ。  ちょっとガッカリしまして、私と秘書と、編集者の女三人は連れ立って、イタリアン・レストランへ。そこにいました。ボギーではなかったけど、リチャード・ギアが。  正確には、ベルベル人のリチャード・ギアそっくりさん。そのアメリカン・ジゴロ風の彼が、我々のテーブルつきのウェイター。  そのサービスのマメなこと、優しいこと。でも自分が女たちの眼にどう映るかは、ちゃんと知っていて、そのあたりのことになると小憎らしいほど。  だから私もさんざん我がままを言って彼を手こずらせ、アレをもって来て、コレが足りないとこき使い、最後に過分のチップをあげて、一夜、リチャード様のパトローネになった気分を満喫したという次第。でもパスタの味は今ひとつ冴《さ》えなかった。  食事の後、ホテル内のカジノへ向かい、ブラックジャックでもやろうかと思ったが、ガラガラなのでやめて、かわりにスロット・マシーンでお茶を濁す。百ディルハムで(二千円くらい)一時間チンジャラジャラと遊べたわけだから、まあまあだった。  マラケシ二日目。午前中は作家の本業を、美しいアラビアンスタイルのスウィート・ルームでこなし、午後はガイドつきで市場《スーク》へ。 『死者の広場』という名の市場は、物売りと観光客で溢《あふ》れかえっている。マラケシはガイドなしでは絶対に歩けない町だということがすぐにわかる。五歩ごとに物売りや客引きが声をかけてくる。手を引っぱって店に連れこもうとする。首を振ろうが押し返そうが、いつまでもぴったりとくっついて来て、口説くがごとく脅迫するがごとく、物を売りつけようとする。  ガイドが鋭い眼光と声とで、何ごとか一喝《いつかつ》する。胸にクサリでつるした、正式なガイドであることを示すペンダントがピカリと陽光に輝く。水戸黄門《みとこうもん》のインロウ。もしくは、吸血鬼を追い払うニンニクの塊《かたまり》。物売り客引きは、肩をすくめて引き下がるという寸法。  ガイド氏に先導されて、スークの奥へ奥へそのまた奥へ。くねくねと曲がった羊の腸みたいなカスバ中の道。一人では二度とホテルへは戻れそうもないから、迷子にならないように、ガイドの後にピッタリとくっついて歩く。  案内されたのはカフタンの店。民族衣装の店だ。パーティー着になりそうなのをあれこれ物色する。美しいシルクのカフタンのセットがあったので、それを求める。日本のキモノでいえば、キモノに当るものと、ハオリのセットのようなものだ。  結構高い。ねぎって十六万円。迷ったが思い切って買うことにした。ついでにおみやげ用の白木綿のカフタンも三枚買った。これはなんと一着二千円と安い。  後でホテルに戻って、冷静に眺めて愕然《がくぜん》とした。絹《シルク》と信じて疑わなかった十六万円のセットが、どうやらポリエステルらしい。ポリエステルなら、セットでだって五千円もしないはずだ。二千円の白木綿のカフタンの方が、はるかに価値がある。  ガイドを探しだして厳重に抗議しようと思ったが、いったん払ったお金が、この国で戻ってくるとも思えない。それに明日からは断食《ラマダン》明けとかで、市場は一週間に亙《わた》る休日だとか言っていた。とにかくガイドを探そうとしたが、もう帰ってしまったらしく、見つからない。十六万円をドブに捨てたようなものだが、授業料と思って、今後気をつけることにしよう。私はそれできっぱりとそのことに見切りをつけた。  夕食は昨夜に続いてしつこくイタリア料理。といってもリチャード・ギアおめあてではなく、夜のマラケシの町にくりだしての話。  ドイツ人の名俳優クルト・ユルゲンスに似たオーナーが自らメニューをとる店で、またまたパスタに挑戦。  マラケシ在住のヨーロッパ人と、観光客で満席だが、ムードはなかなかイタリアンしていて、パスタのアルデンテの具合もまずまず。モロッコに着いて七日目にして、ようやく満足の溜息《ためいき》をついたのでありました。  さて、ホテル・ラ・マムニアのプールサイドにいると、なかなか面白い人間観察ができる。今回の旅の目的もまさにそこにあるわけだ。 「八月の鯨《くじら》」という映画に出て来た年とった姉妹そっくりの老婆の二人連れとか、女だけ四、五人のグループできているフランスの中年女たちとか。ひどく厚化粧で派手な装いをしているが、私は女教師たちだとにらんだ。彼女たちは日頃の謹厳さを忘れウップンをはらすために、大枚をはたいてこの超高級リゾートホテルに投宿しているのだろう。あわよくば、お金持の後妻さんの口でもみつかるかもしれないし、少なくとも色の浅黒いハンサムな男との一夜の情事くらいは可能だろう、と。  そうした中に、奇妙な男がいた。彼はいつも独りで、どうしようもなく独りぼっちといった感じを全身に漂わせていた。  ランチ前の小一時間プールサイドで日光浴をし、運動のためにきちんとプールを四往復泳ぎ、水から上がると濡《ぬ》れたトランクスを乾いたものに着がえ、黒いソックスをはいて、プールサイドのブッフェのテーブルに着く。  水着だけの姿に黒いソックスだけはいて靴をはかないそのいでたちは、いかにも奇妙なのだった。  男は小柄で痩《や》せていて虚弱体質を思わせた。盛大に並んでいるブッフェのテーブルから、毎日、一品だけ取ってきて、それだけしか食べない。  昨日はカマスに似た小魚の炭火焼きを四匹だけ。今日は子牛のレバーのソテーを三枚だけ。野菜のつけあわせもサラダも前菜もなし。  ところがよくよく注意してみると、彼が食べているのは、その日の日替りメニューで、コックのおすすめ料理なのだ。どうやらその小男、何が一番|美味《おい》しいのか熟知しているらしい。二日目から、私は彼と同じものを同じように取って来て食べることにした。これが正解だった。  赤い町マラケシ。城塞《カスバ》にぐるり取り囲まれた雑踏の町でもある。商人と観光客の町でもある。  男たちはジュラバと呼ばれる長い衣装の裾《すそ》をひるがえしつつ、カカトをつぶしたスリッパのような靴をはいて、優雅に歩き回っている。女たちはカフタン姿。けれどももうあまり、眼だけ残して顔の大部分を布切れで隠している女の姿は見かけない。  そして値段があるようでないような不思議な物売りたちの態度。金持と貧乏人とでは、同じものでも違う値段を払うのが、当然だという考えに徹底しているのだ。  たとえば、この国の人々がコーヒーがわりに飲むミントティーの値段も、二ディルハム(四十円)から、我々のホテルのプールサイドやレストランで出る三十ディルハム(六百円)と、その差は十倍以上である。  町の大衆食堂へ行けば、二十ディルハム(四百円)でたらふく食べられる夕食が、同じようなものを食べてホテルでは百五十ディルハムを下らない。私が泊っているスウィート・ルームの一夜の値段は、もしかしたら彼らの年収に近いものかもしれない。ということなら、あのポリエステルのカフタンに十六万円払わされたのも、ムベなるかな、と納得するものもある。  スークで、いつまでも私につきまとって離れなかった乞食女の、私の肌に触れる手指の感じの攻撃的だったことを思いだす。「マダム、おめぐみを」と言いながら、物乞いとは思えない態度で私をこづきまわした褐色の汚れた手を。  旅をすると色々な人やことごとに出逢う。  ガウディに魅せられて  今月はバルセロナからです。ちょっと時期がずれてしまったが、私が訪れたのは五月で、おかげで暑すぎもせず、日本人の姿もほとんど見かけず(けれども同じ時期のパリは日本人がうじゃうじゃしていた)、何よりも感激したのは、ウナギの稚魚が食べられたことだ。  外国旅行に出ると、日本人嫌いになるのは、何も私だけではないと思うが、我々ほど外国の町で同胞を見かけると、そっぽを向きあう人種はいないのではないかと思う。  まるで、ダカツのごとくお互いを嫌いあう。  アメリカ人など、同国人を見かけると、気軽に声をかけあい、あれは観たの? とか、ここは行った? とか情報まで交換しあう。それほど人なつっこくないイギリス人でも、少なくとも眼と眼を合わせ、微笑くらい交わす。  なに故に日本人だけが、外国で出くわす同胞を毛嫌いするのだろうか。人のことはわからないが、私の場合ならその理由がわかる。  傍若無人だからである。夫婦二人だけとか一人旅の日本人は、ほとんど問題ない。大きな顔をしないし、いばりくさったりしない。  グループの旅行者がいけない。昔からそうだったが、未だに少しもマナーが向上していない。かえって悪くなっているくらいだ。傍若無人種にお金を持たしたら、そうなるにきまっている。傍若無人が札びらを切っている姿を、そこここに目撃すると、恥ずかしい。怒りを通りこして、ひたすら同胞として恥ずかしいし、悲しい。  女だけの二人旅もいけない。日本の、特に若い女は、無防備すぎて眼を背けたくなる。あそこまで無防備だと、知性や育ち方に問題があるとしか思えない。  第一、グループでぞろぞろと歩くこと自体、幼稚園児でもあるまいし、感性に問題がある。全員がスリやひったくりにあうまいと用心して、タスキがけのバッグをしっかりと抱えて歩いている姿は、もうマンガとしか言えない。  だんだん腹が立ってきたので、この辺でやめにしよう。とにかくバルセロナ。  その第一日目、ホテル・リッツに到着すると、伝言が待っている。サグラダ・ファミリア教会の建設にかかわっている日本人の若き彫刻家外尾悦郎さんからだ。  さっそく電話をして、夕食を一緒にとってもらうことにした。 「何が食べたいですか?」と電話で彼が訊《き》いた。私はパリでのまずいフランス料理に食傷していたので、フランス料理以外なら、なんでもいいという心境だった。  その夜外尾さんが案内してくれたのは、港に近い、「AKARI」という名のスペイン海鮮料理の店。彼のすすめでウナギの稚魚の料理を取った。これが素晴らしかった。小さなウナギの赤ちゃんは、まだ体が白い。これをまるごとオリーブオイルで揚げるがごとく炒《いた》めてある。ニンニクの小片がいっぱい。唐辛子がいっぱい。ついここで日本人をやりたくなって、白いゴハンを恐る恐る注文した。外尾さんが笑う。  白いゴハンに、ウナギの稚魚をのせ、木のフォークで食べる。玉ねぎの小さなものとネギを合わせたような生野菜をカリッと噛《かじ》る。冷たい白ワインを一口。またゴハンとウナギ、それから玉ねぎをカリッ。ワインをゴクリ。もう天国。あまりの美味に、合計三晩も同じ店に通ってしまった。外尾さんはあきれたに違いないが、心優しく、三晩とも私につきあってくれた。  店のウェイターが二晩目には心得顔に、三点セットで出してくれた。白いゴハンと玉ねぎと稚魚の三点セット。名前までつけてくれたのだ。「プラト・ド・ヨーコ」。大感激。  外尾さんとは、真夜中過ぎまでお喋《しやべ》りをした。彼のガウディに対する敬愛の思いが、私にも伝染し、彼が教会で石をきざんでいる日中、私は一人で、バルセロナの隅から隅まで、ガウディの残した建造物を訪ね回って過ごした。  彼の働いているサグラダ・ファミリア教会にも、何度も押しかけて行って、仕事の邪魔をした。彼は石の粉に白くまみれた姿で、嫌な顔もせず、現場を見せてくれた。 「ねえ、裏のファッサードの、地獄の門の彫刻、あれって許せない」と私は彼に言った。「どうしてコンクリートで作ってあるの? どうしてあんな邪悪な現代彫刻が、ガウディの建物に取りつけられなくちゃいけないの?」  表門の天国のファッサードには、外尾さんが六年かかって彫り上げた六人の天使が取りつけられている。それはガウディが残したものと少しも違和感がない。 「一九九二年のオリンピックまでに、もう少し形をつけようと、急ぐからコンクリートになるんですよ」  と彼は悲しそうに言った。彼もコンクリートが嫌いなのだ。コンクリートは「石の死骸《しがい》」とも言った。しかし、時代の波には勝てない。昔ながらに石をコツコツと彫って作っていたら、サグラダ・ファミリアの完成は二百年後とも三百年後とも言われる。ガウディが手をつけて百年たつのに、現在でもその二〇パーセントくらいしかできていないのだ。  でも私には裏の地獄のファッサードの彫刻は(なんでも有名な人らしいが)、その人の「個展」のために、使われたような気がしてならない。  私と話している間にも、突貫工事でコンクリートミキサーがうなりを上げていた。昔ながらの石職人や外尾さんのようなアーティストはどうなってしまうのだろう。  そう言うと、彼は遠い眼をして答えた。 「大事なことは、コンクリートであれ、石であれ、完成させることなんですよ」その眼を私は忘れない。  バルセロナの三日目の夜、彼はピアニストの奥さんと一緒に現れた。彼女はヨーロッパを中心に演奏活動をしている女性だ。私はとてもうれしかった。我が同胞が、素晴らしい同胞がいるではないか。彼は、歴史にきちんとノミで、日本人の痕跡《こんせき》を、立派に残しているし、彼女もそうだ。外国で、その地の人々と生活しながら、ちゃんと日本人として、しかも人々に負けないような仕事をし続けるのは、並大抵の努力ではないのだ。傍若無人の有象無象など、足元にも及ばない。  彼はその夜、いきつけの一杯飲み屋にあえて私と彼女を連れて行ってくれた。男たちが家に帰る前に軽く一杯やって行くような、立ち飲みの店だ。そこでは、吸い口のあるボトルから、口に白ワインを受けるようにして、男たちは酒を飲む。吸い口が、口から高く離れていれば離れているほど、男が上がる。それを一滴もこぼさず口で受けるようになるには、長年の試練がいる。  外尾さんのバルセロナ滞在の長さを見る思いがした。  と同時に、彼がいかに、常連や、酒屋の親父さんに敬愛されているかもわかった。彼はみんなから「|SO《ソ》|TO《ト》」と呼ばれ、とても温かく受け入れられていた。そればかりか、スペインの人たちが、日本人である彼を、誇りに思ってくれているのだ。日本人ゆえにではなく、彼個人の魅力によってであることは、言うまでもない。  一杯飲み屋で出た肴《さかな》がまた美味《おい》しかった。小イワシの空揚げなのだ。塩味がついて、いくらでも食べられる。私たちは頭から全部食べたが、常連は頭と中骨と尻尾《しつぽ》をのこして、身だけきれいに食べる。せっかくカラリと揚がっているカルシュウムなのに、もったいない、と思ったが、習慣は習慣だ。  レストランへ到着するまで、私たちは似たような立ち飲み屋を——酒屋の延長みたいな店——二、三軒ハシゴして、食前酒と前菜をつまんだ。白魚の空揚げとか、タコやイカの料理だ。  外尾さんのおかげで、バルセロナの三日間が楽しく美味なうちにあっという間に過ぎてしまった。この場所なら、年の内何カ月か住みついて暮らせると思った。外尾さん夫婦さえ、いてくれれば。私が住みつきたいと思った街は、ロンドンとここバルセロナの二つだけである。  私はガウディの建物にも深く魅せられた。直線や平面の全くない不思議な建物の側に立ち、その石に触れると、とても心が安らぐのだ。  そうだ、ヨロン島の別荘の隣に、ガウディ風のゲストルームか、私のステュディオを建てよう、という考えが浮かんだ。  そこに、モロッコで買った二百年前のサハラ砂漠の家のドアを使おう。去年ローマで求めたアンティークのタイルも使おう。そうそう、若狭の古い農家を解体した材木も買ってあったんだっけ。あれを室内の柱や梁《はり》に使おう。ヨロン島で採れる白い石を使おう。  すっかり、私の中で次に建てる家のイメージができ上がってしまった。  バルセロナでの買い物は、扇とショールにきめていた。専門店を訪ね、手刺繍《てししゆう》の大きなショールを二枚買った。長い長い絹のフリンジがたくさんついている。肩にかけ、さっと前で合わせ一方をまた肩に戻して鏡を見る。スペイン人になったような気がした。  こんなに美しくセクシーなものが、今ではあまり女たちに使われていないのは残念だ。私たちが着物をほとんど着ないように、ショールは過去のものになってしまったらしい。  でもあまりの美しさに抵抗できず、目の玉の飛び出るようなお金を払って、二枚も買ったのだ。おそらく東京に帰ったって、一度として身につけることもないだろうが……。  多分、そのショールは、ヨロン島のガウディ風の家のソファーの上に、ふんわりとかけられるのに違いない。  甘美な島流し  今年も、ブースカいう娘たちの耳を引っぱるようにして、バンクーバーの島の家にやって来た。私や夫は、ここほどすばらしい場所は世界になく、ここ以上に美しい夏も他にはないと信じて疑わないのだが、うちの娘たちは、「地獄」だとか、「島流し」だとかニベもない。  ティーンエイジャーの彼女たちにしてみれば、両親と共に一カ月以上も、文字通り島に幽閉されてしまうのは、「島流し」以外の何ものでもないのである。  我々親にとっては、日頃のスケジュールやストレスや人間関係、電話、FAXから解放されて、まさに楽園の島なのではあるが、ボーイフレンドと逢《あ》えないばかりか、電話代のことで電話もろくにできない娘たちには、ここは地獄なのだ。ひとつの島に、楽園と地獄が同居するということになる。  ここは、バンクーバーから水上飛行機で十五分のところにある。約三万坪の小島で、ガルフ・アイランズのひとつだ。そしてこの島の住民といえば、我々家族の他には管理人の老夫婦とラブラドール犬が二匹。他に、島の五分の四を覆う森の中に、鷲《わし》の巣があり、ミンクやスカンクやリスが住んでいる。東の海岸には、日光浴中のラッコやアザラシの親子連れをよく見かける。西の海岸の砂浜では、毎日掘ってもとりつくせないほどのアサリがびっしりと埋まっているし、カキも豊富だ。釣りザオをたれると、餌《えさ》もつけないハリに、タラの一種がかかる。十ドル払って漁業権を買えば、サケが釣れる。島中にブラックベリーが半ば野生化して繁っており、朝晩のデザートには事欠かない。泡立てた生クリームをかけて食べる。私の一番好きなデザートだ。  もっとも余分に食べると下痢をするので、ちょっとカロリーが多かったかなという食事の後には、理想的な緩下剤となる。  と、そのような環境で過ごす一カ月。今月はここでの主だった生活について、書いてみようと思う。  朝六時。日の出と共に起きだしてプールに飛びこむのは、夫ときまっている。私は片耳にプールの水の跳ねる音を聴きながら、最も気分の良い朝の惰眠を、貪欲《どんよく》にむさぼる。私の起床は八時半。  カーテンを開くと、今日も快晴の空。透明の強い日差しが海面やプールに突き刺さっている。雨はほとんど降らない。従って島で一番貴重なのは「水」ということになる。娘たちに、水道の水を流しっぱなしにして歯を磨かないよう、口を酸っぱくして言い続ける。  プールサイドの芝は乾いて茶色く変色しかかっているが、どうにもしようがない。花々に朝晩水をやるので精一杯。島に限らず、バンクーバーやビクトリア中が、夏は水不足気味なのだ。  娘たちが起きだしてくるまでの二、三時間が、私の原稿書きや読書の時間。週刊誌や月刊誌の連載を毎日、四、五枚ずつ書いている。いいペースだ。いつもこうだということはないのだが……。  今年は、アントワープでインテリアの仕事をしている二十三歳になる長女がボーイフレンドと一緒に、島の私たちと合流している。  その娘たちも十日に及ぶ休暇が明日で終り、明後日にはベルギーに発っていく。  たった今、夫がテニスから戻り、仕事中の私の肩に手を置いた。 「何なの?」とペンを動かしたまま訊《き》く。 「ヤンとテニスをしてきたよ」  ヤンというのは長女ヘザーのボーイフレンドのベルギーの青年だ。 「で、どうだったの? どっちが勝った?」 「当然ボクさ」と夫は答え、そして口ごもった。私は振り返って夫の顔を見上げた。当惑したような表情をしている。 「どうしたの?」 「ヤンがね、ヘザーと結婚したいといって、ボクらの了解を求めたよ」  夫は顔をしかめた。うれしさと安堵《あんど》をかみ殺しているような表情だ。他にもあるのだろう。娘を手放す父親の心境は、女にはわからない。 「よかったじゃないの。ヤンはヘザーにはできすぎたひとよ」  ヤンは私に、若い頃の夫を思いださせる。動物が好きで、自然が好きで、優しくて、自立している。魚を釣れば、はらわたを自分でしまつするし、料理も作れば台所のあと片づけもきれいにやってしまう。その点は夫よりはるかに進んでいる。娘と彼は大学の二年の時に知りあったわけだから、交際はすでに四年目に入る。日本へも二回来ている。私たちは二人の結婚を当然のことと受け止めていた。夫もこの五月にベルギーのヤンの両親に逢っている。  ついに私の娘が結婚する。多分、私がしたのと同じ二十四歳の春に。さてと、と呟《つぶや》いて私はペンをおき、プールサイドまで歩いて行って、娘にオメデトウを言い、ヤンにアリガトウを言わねばなるまい。何しろ、うちの出来の悪い娘をもらってくれようというのだから。  それから、グースの下ごしらえをして、今夜の特別の夕食にそなえよう。デザートに温かいアップルパイ。庭の青リンゴを末娘に言って、もいでこさせる。管理人のボブとドロシーを招待しよう。カクテルにはダイキリを大量に作り、クラッシュ・アイスでふるまうことにしよう。去年釣ってスモークしておいたサーモンを冷凍庫から出して、オードブルにあてる。  バンクーバーの夏の日暮れは長々と続いて、十時にならないと暗くならない。夕食前のサンセットの美しさは、筆舌に尽くし難い。日中は暑いが、空気はカラリと乾いている。夜になると、ひんやりと香《かぐ》わしい風が吹く。  テレビも新聞もない島の生活。娘の婚約のニュースは、だから島の一大事となる。  ヘザーの妹たち二人は、すっかり興奮して家中を駆け回っている。何をそう慌てているのか自分たちでもわからないみたいだ。  この家というのが、ものすごく広い家で、私の寝室から台所まで歩いていくのがひと仕事なのだ。下北沢の自宅から駅まで歩くくらいの、気分的な距離感だ。トイレが五つあり、バスルームが四つある。  だからこの家で、一カ月も生活すれば、運動不足には絶対にならないはずなのだが、全員が確実に二キロは太ってしまう。なぜかというと、猛烈にお腹《なか》が空くのだ。一日中、部屋から部屋へ、そしてキッチンへ、それからプールへ、テニスコートへと往復する運動のせいもあるし、空気が美味《おい》しいせいもある。  島の生活も半ばになると、私たちはバンクーバーの街まで水上飛行機で遊びに行く。チャーターしても四人で百ドルという安さなので、エア・タクシーとこちらでは呼んでいる。  明後日には、ヘザーとヤンを空港まで見送りがてら、下の娘たちを連れて街に出る。バンクーバーで一泊し、映画を観たり、バーゲンセール中のドレスや靴を買って、夜は鮨屋《すしや》にくりこむ。バンクーバーの鮨は安くて、美味しい。特にサーモンがいい。私に言わせると、デリカシーの点が今ひとつのところがあるが、ネタが新鮮で、お米が美味しく、しかも安いとなれば、文句をいう筋合いではない。  娘たちもこれで、なんとか残り半分の「島流し」生活を続けてくれるだろう。  ハワイでブービー賞  ハワイというところは、ゴルフと同じような意味で、ずっと敬遠してきた場所だ。一年ほど前に、体力的にもうテニスはだめだと思いきった時、ゴルフに転じたのだが、それ以来、ゴルフに夢中。なぜもっと早く始めなかったのかと、クラブを握るたびに口惜しい後悔にかられるほどだ。  ホノルルのホテルから、すぐ眼の前の海を見下ろした時も、似たような気持を覚えた。とりわけ、ロイアル・ハワイアンの中庭を通りぬける時など、そのぬれぬれとした熱帯樹木の濃い緑や、鳥たちのさえずりや、吹きぬけの建物を通して見える海の色に、鳥肌が立つほどの郷愁を感じてしまうのだ。古き良き時代のコロニアル様式の建物と、この地の気候と、ココ椰子《ヤシ》の樹が、三者一体となってえも言えぬ独特の避暑地の雰囲気を作りだしている。なんと私は、このハワイという楽天地を知らないまま、今日まで過ごしてしまったのである。  ホテルはモアナ・サーフライダー。真夜中のチェックインだ。部屋は海に面した十七階のスウィート・ルーム。連れは私の二女のマリア。ベランダからの眺めに、彼女、時ならぬ歓声を上げた。人気《ひとけ》のない夜のビーチが、眼下に広がっている。夜目にも白い砂とコバルトブルーの海の色。 「ああ、ママじゃなくてタローが一緒だったら、どんなにステキだろうネ」  マリアが胸一杯に潮風を吸いこんで、大きな溜息《ためいき》をついた。 「ママも、そう思ってるんでしょ?」 「タローと一緒だったらって?」 「違うよ、怒るよ。よく電話してくる男《ひと》がいるじゃない」  おバカさん。本命はあまり電話などしてこないのだ。  翌朝は、今度ホノルルに初めてお目見えしたカルティエ・ブティックのオープニング・レセプションに出席。郷ひろみと二谷友里恵の美しいカップルに紹介されて、私も娘もニコニコ。他にも渡辺美佐さんや川邊サチコさんも、東京から駆けつけていらした。カルティエの大伴昭社長は、何重にもレイを首から下げて、ちょっとした王様みたい。愛妻の芳村真理さんが、あくまでもひかえめに、カメハメハ・大伴の一挙手一投足を見守っている。その横顔は、誇りと愛情とで柔らかく美しい。  朝の行事はすぐに終り、その後、郷さん夫妻にくっついて行って、エンポリオ・アルマーニのブティックに直行。  並んでいるのは、いかにも郷さんや友里恵さんに似合いそうなものばかり。にもかかわらずついついあれこれと選び、四〇パーセントoffにつられて山のように買ってしまう。ハワイでは買い物、絶対に止めようね、と娘と誓いあって来たのに、一夜が明けるとこのていたらく。  二日目の夜は、カルティエ・ブティック・オープン記念の夜会が、フラクラニ・ホテルで開かれた。ハワイでは初めてという、ブラック・タイのパーティーだ。私は、一九二〇年代のビーズ刺繍《ししゆう》をほどこしたオーガンジーのドレスを着用。それに平田暁夫さんに作っていただいた特製の夜用の帽子を合わせた。  マリアは、午前中買ったエンポリオのフレアーパンツと、ジョーゼットの小さなブラウスに、私の黒い水着を合わせて装った。  夕食の終りのショーの時、カルティエの最新のジュエリーが紹介された。二つのパンサーの頭を合わせたデザインのゴールドとダイヤの首飾りに、会場から大きな拍手が沸き上がった。女と生れたからには、あんな宝石を一度でも男に贈られてみたい、と思わず呟《つぶや》いたら、隣に座っていた芳村真理ちゃんに、バンクーバーの島を売れば買えるわよ、と軽く言われてしまった。アーン、困る。誘惑しないでよ。自分で買ったって、うれしくも何ともないもの。  ホノルル三日目は、ゴルフ大会。前夜はパーティーの後、みんなでブラック・オーキッドに流れ、ディスコで踊りまくったので、早朝起きが辛いのなんの。  眼をこすりこすり到着したカントリー・クラブで、プレイヤーたちと対面。見るからにゴルフ歴の長そうな男女《ひと》たちばかり。私はといえば始めて一年。コースに出たのが、これで六回目。打ちっぱなしの練習場で、レッスンを受けたのは二回だけ。たとえお遊びでも足手まといでは申し訳ないと、辞退を申し出たが、郷さんや真理ちゃんに激励され、再びその気に。  プレイは大伴氏とホノルルの市長夫妻と一緒だ。市長夫人の躰《からだ》つきと日焼け具合を見れば、クラブを振るのを見るまでもなく、ゴルフ歴の長さがわかろうというものだ。今更じたばたしても始まらない。ここは国際親善、下手でも愛敬でいこうと、私もようやく腹がすわった。  で、スコアは、これまでの自己最高記録の六十一と六十三。つい最近まで七十台で回っていたのだから、自分でも驚く好成績だ。でも市長夫人は四十三と四十五。しかたないよね。三十年近くもプレイしていて、現に今も週に五回はゴルフ場に出ているひとと、比べものになるわけはない。  自己最高記録ではあっても、ベテランたちの中では、たとえハンディ四十もらっても最下位と、潔く諦《あきら》めていたら、なんとブービー賞をもらってしまった。私に花をもたせてくれたのは、どうやら渡辺美佐さんらしい。  さてその夜は、日本人の大富豪が所有する素晴らしいビーチハウスのパーティーへ。ガジュマルの大木が、何本も影を落す芝の庭に、美しいプールが水をたたえ、白い石造りの吹きぬけの家の背後はすぐに海だ。潮騒《しおさい》がする。  こんな場所に三カ月くらい滞在したら、きっといい小説が書けるだろうな。でもこの別荘の主は、年のうちここで過ごすのはほんの二、三週間だという。なんともったいない。だって少なくとも管理費だけで月に二百万円はかかりそうだもの。  ホノルルでの公式な行事が全て終ったので、私たちはマウイに飛んだ。友人がゴルフ・ビラのひとつを所有しているので、そこへお邪魔しようというわけだ。  名前の通り、ゴルフ場の中に建つビラの一群で、海も見える。そこでの二日間、連チャンでゴルフ三昧《ざんまい》。みんなは電動のゴルフカートに乗ったが、私は自分の足で歩いて回った。あんなものに乗ったら、運動にはならないからだ。しかしスコアは今ひとつ。ホノルルで六十一を出したと言っても、誰も信じてくれない。  夕食の買い物をしている時、偶然に加藤和彦さんにバッタリ。すっかりうれしくなって長い立ち話。あとで奥さんの安井かずみに電話をして、これまた長話。いっそのこといらっしゃいよ、というので、話の続きに夕陽を見物かたがた、一杯飲みに立ち寄った。  話題は当然ゴルフのことに過激に集中。何しろズズはこの一年で五十を切るほどの熱の入れようだ。聞いてみると、コースへは週に二回、レッスンも集中的にみっちり取ったという。あの小さなほっそりとした躰のどこに、そんなエネルギーが、と思うのだが、ゴルフは躰の大きさだけじゃないものね。 「ヨーコちゃん、ここが気に入ったんでしょう」  別れぎわズズがいたずらそうに眼を光らせて笑った。 「うん、すごくいいところね」 「でもヨーコちゃんて、気に入ると、すぐ手に入れたくなる人なのよね」  彼女はまるで私の胸の内を読んだように、そう言った。  でももう限界。そんなにいくつも家をもっても実際にそこを使うのは年にせいぜい数週間。自分がすっかり惚《ほ》れこんだ土地なのだから、使わない時の方が圧倒的に多いというのは、心が痛む。マウイのゴルフ・ビラは、借りてもいいわけだし、今回のように友人宅に押しかけてしまってもすむ、と私はひそかに自分に言いきかせた。  明日はホノルルに戻り、バンクーバーへ。ただし、島の別荘へは帰らず、そのままアラスカへ、船の旅。ハワイで熱くなった躰を、アラスカで冷やそうという心づもりなのである。  風の噂《うわさ》  1:00 A.M. --------------------------------------- 夜の魔術  午前一時には、ニコラシカというお酒が似合う。ブランディーの入ったグラスのふちに、グラニュー糖をこんもりと盛ったレモンのスライスが載って出てくる真夜中の飲みものだ。  ポンと砂糖ごとレモンのスライスを口に放りこみ、かっとブランディーを喉《のど》にぶつける。男だと格好がいいが女が飲むと色気がない。で、そういうものをその時間に飲むということは、一緒に飲んでいる相手とは、色気抜きの関係を自他共に認めることになる。  結構強いので、ベッドまでの距離を考えて何杯にするかきめなければならない。その時間まで自分がどれくらい飲んでいるかも考え合わせないと、途中で完璧《かんぺき》に足をとられる。まあ二杯か、せいぜい三杯だ。  さっときり上げ、ぜんぜん酔ってなんかいないという足取りで背筋を伸ばしてバーを出て、あとは一目散にベッドに直行する。というわけで、このお酒を飲む時は私は家に帰らない。  誤解を避けるためにあえて言うと、このお酒は色事が後に控えている時には、向かない。色気より眠気を先行させてしまうからだ。バタンキューの世界なのだ。色事を先にするのなら、一杯できり上げなければならない。ニコラシカを一杯できり上げるのは、しかし至難のわざ。よほど意志が強くなければ不可能だ。第一私は人妻でもあるからして、色事の方は慎んで返上し、ひたすら眠りの誘惑の方に身をまかせるしかないではないか。  その人妻がなんでホテルのベッドでバタンキューなのだ? と思う人がいるかもしれない。ところがこの人妻である私めは、小説家でもあるわけで、取材や講演やで地方や外国に出かけていくことが、ままあるわけなのだ。つまりニコラシカは旅先でのお酒。言ってみれば眠り薬。とまあ午前一時にホテルのバーで飲んだくれている身の潔白を説明しておいて、風の噂話をひとつ。  真夜中過ぎに、女がひとりぽつねんと飲んでいた。時々、左手の薬指の指輪を外したりはめたり、また外したり。そこへ若い男が下心を抱いて近づくと酒を一杯、二杯とおごった。酔いと夜の魔術で女はふっとその気になりかけた。  その時、遠くで火事を告げるサイレンの音。急に女は落ち着かなくなって、肩を抱いていた男の手を外した。 「火事よ」 「どっか遠くだよ」  女は家に残してきた眠りこけている幼子たちのことを思った。夫は地方都市へ単身赴任で家にはいない。母親が十分ほど近くに買い物に行っている間に火事が出て、焼死した子供たちのニュースを新聞で読んだことがある。女は不安にかられて立ち上がる。心から引き止める男。力強い腕。たくましい腰から大腿《だいたい》にかけての線。清潔そうな首筋。甘い眼差《まなざ》し。振り切るようにして、バーを出る。  家までの十分ほどの距離を、女はひた走る。息が切れる。どうか家が火事ではありませんように。  角を曲がる。しんとしている。安堵《あんど》が湯水のように胸を浸す。家に馳《か》けこみ、子供たちの枕元《まくらもと》にへたりこむ。  これでよかったのだと思う。と同時に、持てたかもしれないめくるめくような情事の時間を、とりかえしのつかない気持で思い描いた。振り切ってきた時、あの見知らぬ男が見せた、哀《かな》しそうな表情が眼に浮かんだ。  今から戻れば間に合うかもしれないと思うと、彼女は腰を上げ洗面所に走りこみ、冷水で顔を洗った。何度も何度も顔がすっかり冷たくなるまで、水を叩《たた》きつけた。  ようやく冷静さが戻った。一時四十五分。夜の魔術が解ける。彼女は歯を磨き、夫の不在のベッドに向かう。  2:00 A.M. --------------------------------------- 舞台の後  南青山に、私がとても好きなピアノバーがある。  店の中央にでんと大きなグランドピアノが置かれ、それを丸いストゥールがぐるりと取り囲んでいる。ピカピカに磨いてあるグランドピアノの上に、クリスタルグラスを直接置いて、お酒を飲むわけだ。  大人のための店なので、八時頃行ってもまだ人気がない。私がとりわけ好きなのはこの時間帯だ。  お客を迎える用意がととのい、何もかもが磨きこまれている。四つほどあるテーブル掛けの席も整然としている。開幕前の劇場内の静けさと緊張感を思わせる。  そう、そのピアノバーは小劇場みたいなものだと思う。その夜のお客が登場人物。出しものは人生、恋、唄。鈴木さんという不思議な魅力の持ち主のマネージャーがいて、実にひかえめながら、お客を寛《くつろ》がせ、楽しませてくれる。彼は一夜の即興芝居劇の、陰の演出家。  八時頃ぶらりと立ち寄ると、このマネージャーと、ピアニストと、ティファニーの小さな額に入った昔懐かしい外国女優たちに迎えられる。 �ホーシス・ネック�がそっと私の前に置かれ、ピアノで�アズ・タイム・ゴーズ・バイ�が流れ、イングリッド・バーグマンがティファニーの額の中から、さんぜんと笑いかけてくれる。もちろん、およそ三十はあると思われるその小さな額の中の女優たちの写真はモノクロ。  夕食の前に立ち寄って、さっと一杯飲み、ピアノ曲を二曲ほど聴いて引き上げる夜もあれば、逆に食事のあとのワン・フォー・ザ・ロードあるいはナイト・キャップのために顔を出す夜もある。十二時前後がこのピアノバーのピーク時である。夜はこれからだ、という顔々々。常連たちの間に無理矢理に割りこませてもらって、�ニューヨーク・ニューヨーク�の大合唱に加わる。八時頃の静寂が嘘《うそ》のように陽気で粋《いき》で楽しい。つまり、登場人物が最後に全員そろって歌いかつ踊るフィナーレだ。  そして午前二時。幕は閉じ、観客も出演者も姿を消した後の、ガランとした小劇場。ピアニストも去り、マネージャーが一人、音もたてずに、グラス類を片づけている。  この時間である。私がこのピアノバーで最も愛する時間帯は。夜の終り。祭の終り。舞台の後。恋の終り。私は終りの美学に魅《ひ》かれるのだ。そして、私が何事もこのように終りたい、というスタイルが、そのピアノバーの午前二時にはある。  祭の後の寂寥《せきりよう》感漂う中で、マネージャーの鈴木さんが無意識に吹く口笛の音が、聞こえるような気がする。粋な軽いジャズのスウィング。  あくの強い登場人物たちが一夜にあやなした様々な人生の断片模様のあとで、ぐったりと不機嫌に黙りこむのならともかく、軽く口笛でスウィングだなんて、最高だと思いませんか。  だから午前二時、私がもしもそこにいたら、最後の乾杯は彼、鈴木さんのためにしよう。  さて今月の風の噂——。  このピアノバーで長いことピアノを弾いていた西岡博之さんが、ピアニストから突然|絵描き《アーテイスト》に変身して高知県に去ってしまったのは、もう何年か前のことだ。今では別のピアニストが西岡さんの後を立派についで私たちの耳を楽しませてくれている。  その西岡さんから、時々便りが届く。それは個展の案内状だったり、最近の絵の写真が何枚か入っていたり、時には何月何日に |店《ピアノバー》 に行くから時間があったらお寄り下さいという予告だったりする。そして彼は年に数回風のようにピアノバーに現れ、風のように立ち去る。昔からの彼のファンが大勢いて、そんな時ピアノバーは超満員となる。私と西岡さんの友情がいつ、どんなふうに芽生えたのかよくわからない。いつの間にか、彼は私をとても大切に扱ってくれていた。態度とか言葉ではなく、彼のピアノの演奏の中に、私はそれを感じた。彼が私のために、私の好きな曲を弾いてくれる度に、私は、会話もお酒も何もかも中止して、じっと聴き惚《ほ》れたものである。今でも、彼のピアノの音が耳の底にある。そして一晩中酷使した彼の手指が青黒く腫《は》れ上がっていたのを、決して忘れることができない。  3:00 A.M. --------------------------------------- 午前三時の幽霊  飛行機がホノルルに到着したのは、真夜中の一時過ぎだった。  そんな遅い時刻だったことと、バンクーバーからだったせいもあって、あの延々と待たされる入国手続きとは全く無縁、あっけなくホノルル入りした。  次女のマリアが一緒だった。彼女には初めてのハワイだ。私にとっては二度目のハワイ。  なぜか私も夫も、鎌倉や葉山、マイアミビーチ、ホノルルと、世俗的混雑のイメージばかりが頭にあったので、長いこと敬遠してきたリゾートだった。  ホテルは、ホノルル海岸沿いのどまん中、ビーチを真下に見下ろすスウィート・ルーム。広々としたベランダに出るなり、娘が歓声を上げた。  きれいだとか、ロマンティックだとか、夢みたいだとか、さんざん言葉を並べて、その都度、私のあいづちを期待する。  夜目にもベランダから見下ろす海岸の砂の白さと、コバルトブルーの浅瀬の色と、満天の星空とのとりあわせは、確かに美しいが、それより何より私は眠かった。すでに時刻は三時近い。 「ママったらぁ」  と娘は私に言った。「眠るなんてもったいないわよ。よくそんな気分になれるわね」 「眠らなけりゃ、躰がもたないの」 「昼寝すればいいでしょ」 「昼寝できないたちなのよ」 「疲れてれば、昼でも眠れるって」 「それがそうはいかないの」つまり、年をとるというのはそういうことなのだ。応用がきかなくなる。 「考えてもみてよ。こんなロマンティックな風景、あと何回見れると思うの?」 「寝不足がたたって、ポックリ死んでしまったら、これが最後よ」  と、私はさっさとベッドルームに入った。 「あたしは、朝までずっとここで起きてるからね」 「どうぞ」 「ママも恋をすればいいのよ」とベランダではまだ娘が喚《わめ》いている。「そうすれば、あたしと同じような眼で、夜景を眺めることができるわよ」 「恋はあなたにまかせるから、ベッドはママにまかせてよ」  そして私はベッドに潜りこんだ。私にだって、若い頃、午前三時に眼覚めていた夜がたくさんあった、と呟《つぶや》きながら。  人生の中で最も輝かしい夜が。  その頃、ヌーベルバーグの映画が次々上陸して、私たちは映画館に通いつめ、そして週末は映画のシーンをそっくりまねて、近くの海岸にくりだし、オールナイトで踊り狂ったものだった。  躰が火のように熱くなると、海水に身を浸して冷ましてはまた、踊りまくったたくさんの夜。  午前三時になると、半分以上が砂の上に倒れて死んだように眠り始めた。 「どうして眠ったりできるんだろう?」  と私は思ったものだ。「こんなきれいな夜なのに——」  事実まんじりともせず、夜の海と、更に暗い水平線とをみつめていた。私は恋をしていたのだ。  その時知ったのだが、夜明けの直前の空が、一番暗いのだ。星が出ていなければ、鼻をつままれてもわからないような暗闇《くらやみ》がきて、それから徐々にあたりが白み始めていくのだ。  それが午前三時だった。あの時刻に眼覚めているのは、恋をしている人間だけ。はるか昔のこと。  さて午前三時の風の噂。  あの真夜中のパーティーを一緒にやった仲間たち、ムッシュウやファンファンやベベやメケメケやトロアといった連中が、三十年ぶりに集まろうということになった。  およそ三十人ほどが銀座のバーで顔を合わせた。昔の不良少年と不良少女たちは、不良中年になっていた。閉店を大幅に過ぎても誰一人腰を上げなかった。 「あと二十年したら、あそこでまた集まろうよ」  と誰かが、懐かしい海岸の名を挙げて提案した。  真夜中をとっくに過ぎた時刻に、かがり火を囲んでゆらゆら老人たちが踊っていたら、人は何て思うだろう。 「俺《おれ》はあと二十年はとても生きていられないから、その時は本物の幽霊になって出てやるよ」  その頃はおそらく全員が幽霊になっているかもしれないが……。  4:00 A.M. --------------------------------------- 眠れぬ夜  私には眠れないということがまずほとんどない。ベッドに入るのが何時であろうと、本を二、三行も読むとウトウトっとくるから、枕元《まくらもと》の電気スタンドのスイッチを切り、眼を閉じれば、ものの五秒もしないうちにコトリと眠りこんでしまう。  それは眠りなれた我が家でも、講演先の宿でも、取材で行く外国のホテルでも同じことである。  ところで、どこでもいつでもバッチリと眠れるこの私なのであるが、年に一度か二度の割合で、全く眠れぬ夜というのがあるのだ。寝酒をがぶ飲みしようと何をしようと、全く効果がない。そういう夜は覚悟をきめ、無駄な抵抗は止めることにしている。  思うに、私には私の躰にあった睡眠時間というものがあってそれを一年分に集計すると、十二時間とか十六時間がところオーバーしているのに違いない。つまり眠りすぎだ。その帳尻《ちようじり》を合わすために、年に一度、神様が眠らせてくれないのだ。  それならば、ということで、帳尻合わせの眠れぬ夜はビデオ映画大会となる。一晩に三本か、場合によっては四本のビデオを、独りでたて続けに観る。たいていは、以前観た映画だが内容は忘れてしまっているから、結構楽しめる。途中から、筋書きなど思いだすこともあるが、それならそれで、ディテールに眼がいき、「あ、この部屋のインテリアは今度の小説の参考になるな」といった観方もできる。  娘が映画好きなので、常に一、二本は新しいビデオが借りてある。  さて今月の風の噂。  真夜中の独りのビデオ大会で偶然観たのが�レッド・オクトーバーを追え!�と�プレシディオの男たち�と�ブレイズ�の三本。簡単に言うと前者二本は、ショーン・コネリーが主演の作品。最後の�ブレイズ�はポール・ニューマンが出ている。ショーン・コネリーもポール・ニューマンも、共に六十歳を過ぎているはずだ。後々には、彼らの晩年の作品というふうに語られる年齢だ。  それなのに両者の何という違いか。ショーン・コネリーは老いてますます魅力的にかつセクシーになっていく数少ない俳優のひとりだと以前から思っていたが、この最近の二作を観て、その思いを更に強くした。  眼がいい。いつもからかうように、優しく笑っている。いまだに若者のような、いや少年のような好奇心でキラキラしている。肉体にも老いが感じられない。胸や大腿《だいたい》にはまだがっしりと筋肉がついているし、姿勢もすばらしい。そしてその動作は機敏で非常にエレガントだ。ショーン・コネリーは実に上手に、魅力的にかつエレガントに年を取っていっていると思う。それがとてもうれしい。  一方、ポール・ニューマンは悲しかった。しばらくスクリーンの中で見かけなかったせいもあって、愕然《がくぜん》とするくらい老けていた。肢《あし》も背中も手も、老人のそれだった。一番悲しかったのは彼の眼だった。あの不敵さも、いたずらっこのようにキラキラする光も、完全に失われていた。かつてはすばらしい蒼《あお》さをたたえていた瞳《ひとみ》の色までがくもり、そうなのだ、彼の眼は完全に死んでしまっていた。どんなに熱演をしても、表情のない眼が、全てをぶち壊していた。いかに、彼の演技があの蒼い眼によるところが大きかったか、ということがそれでよくわかった。  もしかしたら、その映画を撮っている時、彼は病気だったのかもしれない。不治の病を押しての出演だったのかもしれない。演技とはとても思えない二つの奇妙なシーンに私は気づいた。一つは、くちゃくちゃのハンカチーフで、たえず顔の汗を拭《ぬぐ》っていたことだ。それからもうひとつ、そういう演技の必要のないところで、片手で片肘《かたひじ》をかばうようなことを何度もやった。  皮肉なことに、役柄は今にも死にそうな老市長の役だった。映画の最後の方で、よろめく市長を取りまきたちが、両側からそれこそ手取り足取りで、椅子《いす》まで歩いていくシーンがあったが、私はふっと、ポール・ニューマン自体が重体を押しての出演で、俳優たちは演技を忘れて、彼を両側から支えているのではないか、とそんな錯覚にとらわれた。  錯覚であればいいと思う。演技派ポール・ニューマンだもの。私みたいな観方をする観客が一人でも多ければ、「ヘッヘッヘッヘ」と例の不敵な笑い声を上げ、してやったり「老いたとはいえ俺《おれ》の演技も大したものだろうが」と豪語するかもしれない。ぜひそうであって欲しいものだ。  ポール・ニューマンは晩年の映画の中で、惨めに老けていった役を見事に演じた、と。  5:00 A.M. --------------------------------------- ゴルフの朝  月に二回、私は眼覚し時計を午前五時にセットする。  もっともこれは気休めみたいなもので、眼覚しが鳴って起こされたことはない。あの音でいきなり叩《たた》き起こされるのは心臓に良くないし、実に不愉快なので、生理的な拒否反応が働く。  つまり、眼覚しが鳴る十分前にはピタリと眼を覚ます。これはどういう躰のメカニックが働くのかわからない。多分眠っていてもどこか絶えず意識が眼覚めて緊張しているのだろうか。考えてみると、こっちもあまり躰のためには良くなさそうだ。  かといって、眼覚しをかけないと、十分前にピッタリどころか、たちまち二時間ばかり寝過ごしてしまう。  別に低血圧ではないけれど、午前五時起きは辛い。特に前の夜遅くまで飲んでいたりすると、何が因果でこんなに早く起きださねばならぬのか、と腹が立つ。  全てこれ、ゴルフのせいである。  さて、午前四時五十分に、深い眠りのふちから眼覚めて最初に思うのは、大雨でありますように、という祈りである。多少の雨だと決行するので、その上風も吹きまくり嵐《あらし》であればもっといいと思う。  もっとも去年の私の誕生日に、友人が集まって開いてくれたコンペの日は、正に嵐にたたられ、防水着を着ていてもパンツまでぐっしょり濡《ぬ》れるほどだったのに、コンペは続行されたのだ。あの日別のところで行われていた男子プロのゴルフ・オープンでさえ中止になったくらいの嵐だったのに、アマチュアもいいところ、かけだしの私が、しかも誕生日だっていうのに、パンツまでぐっしょりにして、コースを歩かされたのだ。  だから嵐くらいではだめだ。まさか夏には雪は降らないから、霧にたよるしかない。で、午前四時五十分、私はベッドに横たわったまま、「霧でありますように。濃霧でありますように」と神に祈る。  しかしほとんどの場合、仲間から霧で中止の電話は入らない。  私はゴルフに対してとても複雑な思いを抱いている人間の一人である。好きか嫌いかと言えば、嫌いだが好きと答えるしかない。五時に起きるのは嫌いだ。嵐の中でもプレーするのは嫌いだ。一日丸々|潰《つぶ》れる点も、プレー代が高すぎるのも、メンバーシステムも会員権のバカ高いのも、往復の道のりが遠いのも嫌い。農薬のことも大いに気になるし、一番自分が許せないのは猫も杓子《しやくし》もゴルフゴルフと眼の色を変えているのと同じことを自分もやっているという、このあたりに最大の難点がありそうだ。元々私は人が群がるところへは足を踏みこまなかったし、人がやるからやらないというヘソ曲がりな人間なのである。  それでもゴルフをやるのは、ゴルフ場に出てからのあの快感があるからだ。当ろうが当るまいが、スコアが悪くても良くても、あのグリーンと、小さな白いボールと、クラブを振り回す感覚とが、病みつきになるのである。  少なくとも仕事のことはスッポリと忘れることができる。他の遊びだとそうはいかない。〆切りを過ぎて原稿を待っている担当編集者の顔が浮かんでくるし、現在連載中の朝日新聞夕刊の、毎日読み切り短編があって、明日は何を書こうかと思うと、スッと冷や汗が流れ、遊んでいても身が入らない。せいぜい途中でそそくさと中座し、机の前に舞い戻り、青息吐息、十日も二十日も便秘したらさぞや苦しみはこれほどであろうと思われる呻吟《しんぎん》の世界となるのがオチだ。  しかしゴルフは、いったんグリーンに出てしまえば、クラブを放り出して机の前に舞い戻るわけにはいかない。第一舞い戻りたくなどなくなってしまう。担当編集者の顔も、夕刊連載のこともきれいさっぱり頭から消え、今のフォームのどこが悪くて玉が飛ばなかったのか、とか、一球一球、期待と反省、天国と地獄の連続である。  世が世なら、私も岡本綾子みたいになっていたかもしれないと思うようなボールが飛ぶことだってある。その昔、私もソフトボールでピッチャーをしていたこともあるのだ。完全試合というのをやったこともあるのだ。それなのに、親が血相を変えて止めさせた。私は当時ヴァイオリンをやらされていたので、突き指をしたらヴァイオリニストにはなれないからだ。あの時ソフトボールを続けていたら、私は岡本綾子だったなどと思いながら打ち上げる白球。実に良きものなのでありますよ。  さて今月の風の噂。  私のゴルフ仲間の男性の話である。彼もまた五時に眼覚しで叩《たた》き起こされるのが嫌な口なので、自然に四時とか四時半に眼が覚めてしまう。あまり早く起きだしてもすることはないし、また眠ってしまうと変に疲労感が一日つきまとう。なんとなくグズグズと時間をもて余しつつ横をみると、なんと女人がいるではないか。時間|潰《つぶ》しにはもってこいだし、ウォーミングアップにも最適。で、そのような朝はカミさんに、ウォーミングアップのお相手をお願いすることになる、ということである。  6:00 A.M. --------------------------------------- 早起きは三文の得  この三週間ばかり、西へ西へと旅をして回ったので、二、三日ごとに違う場所で眼を覚ました。  オランダ、ミラノ、ピエトラサンタ、トレント、ミュンヘン、それからニューヨークに飛んでサンフランシスコ、そして現在バンクーバーの海に浮かぶ小島で一息ついたところ。  場所が変ろうと、時差があろうと旅先での寝つきが良いのが私の取り柄。ベッドに潜りこめばものの五分としないうちに、コトリと眠ってしまう。それはたいてい一日中歩き回って観光し、夜は夜でミュージカルだオペラだと夜ふかしし、食事を三度も四度もとるためで、普段は机の前にじっと座り続ける生活でせいぜい歩いてもトイレの往復ぐらいに比べると、大変な運動量な訳である。長い長い一日の終りは、ほとんど気絶するようなものだ。朝まで気絶して、六時にパッチリと眼覚める。  何時《いつ》でもどこでも前の夜何時に眠ろうと、六時にはなぜか眼が覚めてしまう。早起きは三文の得というが、東京の自宅にいると、あまりその実感はない。起きだしてコーヒーを沸かす。まだ家族は眠っているので掃除や洗濯のもの音をたてるわけにもいかない。早く起きてもすることがないので、いきなり原稿を書き始める。そうすれば何がしかの原稿料になるので、やっぱり三文の得はあるにはあるらしい。  旅をしている時には、実に様々なものを午前六時には目撃する。アムステルダムでは、朝の嵐だった。雷と稲妻と突風と雨が同時に襲い、ホテルの前の広場には人っ子一人いなかった。運河の街の朝の嵐は一種異様な迫力があった。その同じ嵐が翌日の夕方、ミラノまで追いかけてきて、そこでもすさまじい夕立ちを経験した。  その翌早朝、嘘《うそ》のように晴れたホテル前を散歩していたら、安田侃《やすだかん》さんの彫刻が展示されていた。約二百メートルばかりの道路で車を通行止めにして、大理石の巨大な彫刻が十点ほど、ずらりと置かれているのだ。  ミラノの目抜き通りで、そんなふうに日本人の作品が展示されているのが誇らしくもありうれしくもあって、私はその石のひとつひとつを撫《な》ぜたりさすったり触れたりしながら、何度も何度も行ったり来たりした。  朝の石は最初掌に冷たいが、少し触れていると中の方から不思議な温《ぬくも》りが伝わってくるのだ。その石の作品に手を触れていると、そこから滲《にじ》みだしてくる安心感がある。作者の安田侃という人はどんな人なのだろうか? その彫刻みたいに大きくて温かい人なのだろうか。ぜひいつか逢いたいと思った。  その後行ったミュンヘンの午前六時は、肌寒い街の美しいショーウィンドーを覗《のぞ》いて歩いた。ニューヨークはその時間すでに暑かったので、ホテルの窓から眼下のセントラル・パークを眺めて過ごした。サンフランシスコでは霧だった。三日目の朝ようやく霧の中にゴールデンゲイトの鉄橋の一部が浮かび上がって見えた。  ここバンクーバーの島では、勢いの良い水の音で眼覚める。夫が判で押したように起きだしてプールに飛びこむのがこの時刻なのである。私は夕方陽が沈んだ直後に泳ぐのが好きなので、ただ眺めている。  ここには映画館もディスコもオペラハウスもない。私たちの家と管理人の家二棟だけが建つ孤島である。従って静かなものだ。時にする物音としたらプールに飛びこむ水音くらいのもの。それと小鳥たちの森で囀《さえず》る声。  さて午前六時の風の噂——。実はミラノの安田侃さんにあの翌日急に逢えることになったのだ。ホテルに伝言が入っていて、ピエトラサンタの石切り場を見に来ませんか、というお誘い。私がミラノの芸術家に逢えたら逢いたいと前もって東京の知人に頼んでおいたら、アレンジしてくれたらしい。それが偶然目抜き通りで作品を展示中の時の人だったのだ。もう喜んで駆けつけた。安田さんとは、とても初対面とは思えなかったのは、彼の作品を前もって心ゆくまで眺めたり触れたりしていたからだろう。一口には言えないが、彼は、彼自身の創った彫刻に似ていた——。  この出逢いで私は、またしても出逢うべき人に出逢うべき時に出逢うべくして出逢ったという感慨を深くしている。  7:00 A.M. --------------------------------------- 歴史は朝作られる  ある時娘が言った。 「ママ、もうお弁当作らなくていいよ」 「じゃお昼どうするのよ?」  娘たちのお弁当を作らなくてもいい朝を夢みていた私は、半信半疑で訊《き》いた。もしかして学生食堂ができたのかしら。それとも給食制にでもなるのかしら。 「学校の近くでサンドイッチ買うよ」  と娘は答えた。 「そんなのだめ。買ったサンドイッチなんて野菜も蛋白質《たんぱくしつ》も不足してますッ」 「そんなのいいよ」 「良くないわよ。ママのお弁当のどこがいけないの」 「だって、ママの作るお弁当、黒いんだもの」 「黒い?」  一瞬わけがわからなくて私は訊き返した。 「そうよ、黒っぽいんだもの、いつも。恥ずかしくて隠して食べてるのよ」 「ああそうか、つまりノリがいけないのね?」  私は自分が昔大好きだったノリの二段弁当を、娘たちにも作っていたのだ。確かに表面は黒い。 「ノリだけじゃないよ。おかずも卵焼きも全部黒っぽいんだもの」  そんなはずはないと思ったのだが、そう言われて私は明日のお弁当用に用意したおかず類を改めて眺めてみた。肉じゃが——確かに黒っぽいことは黒っぽい。お弁当のおかずの味は、しっかり強めにつけることと思っているから、醤油《しようゆ》もお砂糖もタップリ使う。  卵焼きにも、醤油を入れる。塩味よりずっと美味《おい》しいと自分で思うからだ。ホーレン草の水気をぎゅっとしぼり、醤油とカツブシでまぶしたもの。黒豆の甘煮。なるほど、そう言われればほんとうだ。 「だけど味はいいはずよ。栄養だって考えているんだからね、ママは」と私は抵抗を試みた。 「でも他の子たちのお弁当は、すごくきれいなのよ。フルーツとかデザートのケーキも入ってるし」 「知ってるわよ。雑誌のグラビアで時々見るもの。I LOVE YOUとかご飯の上に書いてあるんでしょ? そういうのがいいの?」 「I LOVE YOUはいらないよ」 「きれいだけど、味、薄くて不味《まず》いわよ」  しかし娘たちの気持もわからないではない。その昔、ノリに塩ジャケだけのお弁当なんて、あまり自信を持って展《ひろ》げられなかったもの。卵や野菜を色どり良く添えたお弁当をもってくる子が、そう言えば羨《うらや》ましかった。 「わかった。これからはきれいなお弁当作ってあげる。そのかわり味は保証しないからね」  そこで私はスーパーマーケットで、ピンクのデンブとか、赤いショウガとか、色どりのいいおかずを買ってくるようになった。  すると娘たちの弁当箱には、そういうものが残されていた。ピンクのデンブや赤いショウガには手もつけていない。お醤油をまぶしたおかかご飯にノリをのせたところは、ちゃんと食べてくる。それでまた�黒いお弁当�に、いつの間にか逆戻り。何だかんだと言いあっているうちに、娘たちは一人二人と学校を卒業していき、いつの間にか夢にまで見たお弁当を作らなくていい朝がきたのである。  朝七時。まず夫が起きだし、シャワーの音がする。私はお弁当を作らなくてもいいので、まだベッドの中でゆっくりしていられるが、長年の習慣で起きだしてしまう。  そしてこれも長年の習慣からキッチンへ行くのだが、朝食を作ろうにも食べてくれる家族は皆無。長女はお嫁に行ってしまったし、次女もアパートで独り暮らし。末娘はいるにはいるが、ダイエット中とかで朝は食べない。夫も最近とみに出てきたお腹のあたりを気にして、冷水コップ三杯とトースト一枚。トーストにはボブウィルという牛肉のドロドロエッセンスを塗るだけ。  午前七時、私は手もちぶさた。しかたがないからコーヒーを淹《い》れて、仕事部屋に入り原稿を書き始める。  今月の風の噂。この間末娘がどういう風の吹き回しか、お弁当を作っていた。黙ってみていると、ノリの二段弁当だ。卵焼きにも醤油を入れている。あんなに嫌がっていた�黒いお弁当�を、彼女は無意識に作っているのだ。将来結婚して生れる子供たちにも、そういうのを作るようになるのだろうか。歴史はくり返す。我が家に伝わるお袋の味�黒いお弁当�は、代々引きつがれそうだ。  8:00 A.M. --------------------------------------- 朝の悲劇  朝八時から十時まで。私の一日の中で最も静かな時間帯。  夫は会社に出かけ、娘たちも学校。まだ電話もファックスも静まりかえっている。秘書やアシスタントたちが顔を見せる十時までが、ある意味で私の正念場だ。  二時間、完璧《かんぺき》な集中が得られるなら、この時間内に一日に書かなければならない原稿のノルマは達成できる。  日によって〆切り原稿の長さは異なるが、短いエッセイ四枚から長いもので十六枚。  もっともこの二時間の集中時間で書けるのはエッセイだけで、小説となるとたとえ三、四枚の超短編でも、半日は必要になる。従って午前八時は私のエッセイタイム。十時になるとにわかに身辺が慌ただしくなり、電話が五分おきに鳴り、人の出入りが多くなるので、私は居心地の良い仕事机から原稿用紙とペンと辞書を持って、静かな空間を求めて家の中を移動して回る。  以前はキッチンの片隅とかダイニングルームのテーブルなどに、束の間の静寂のスペースがみつかったが、今日この頃はそこにもアシスタント、ここにもアシスタントが一人と占領していて、もはや我が家には私の安住の場所はない。  そもそもアシスタントというのは何をする人たちなのかというと、物を書くこと以外の全てにわたり、私の右腕左腕となってテキパキと物事を処理してくれる人たちのことである。仕事のスケジュールをたて、金銭の出入りを管理し、連載雑誌を切りぬいてスクラップブックに貼《は》り、作品記録をコンピューターに入れ、校正をやり、イラストレーターと打ち合わせたり、講演会の企画会議に出たり、編集者と逢ったり、最近高島屋にオープンした私のギフト・ショップ�モリヨーコ・コレクション�の仕入れや販売やPRやディスプレーや納品その他諸々も加わり、あげくの果てには、娘たちのお小遣いの管理、時には私の家族の夜の食事の準備、洗濯屋の支払い、なんと私の個人的な遊びのめんどうまで(たとえばゴルフのスケジュールをひねり出すとか)、つまりほんとうに何から何までやってくれる人たちのことである。  ということは、朝眼覚めると、私がするのは顔を洗って自分で歯を磨くことぐらいで、あとは全部誰かがやってくれるという仕組み。そのうち、歯まで磨いてくれるようになるのではないかと、恐ろしいような気がする。顔を洗っている間に、お手伝いの人がコーヒーとトーストの朝食を用意してくれている。それを食べて、仕事机へ。あとは、「紅茶」とか「煙草」とか、連絡ボタンを押して一声呼べば、望んだものが運ばれてくる。 「原稿上がり。FAXして」という事務的なことから、思いつくままに、「お昼は焼きウドンが食べたい」とか「スパゲティー・メンタイコ」とか、「そうそう、あの人のお誕生日のお花、贈っておいてくれた?」とか「明日の夜の食事の約束、気が乗らないからキャンセルしておいて」とか、考えてみると、ほんとに人様のお世話になりっぱなし。まさかこんな女になるとは、十年前は夢にも思わなかった。 「男の作家っていいわよねぇ。『お茶ァ』って呼べば奥さんがササっと持って来てくれるし、『めしィ』と言えば食事が並ぶんだから。その点、女の作家は自分で何から何までやんなくちゃいけないのよ。もし私が男だったら今の十倍は原稿書けると思うわ」  そもそも発想はそこにあったのだ。私も「奥さん」が欲しいというのが、アシスタント軍団の発想の元だった。  その結果、今私は四人の人たちによって支えられている。秘書に家政婦さん、作家業のアシスタントと、モリヨーコ・コレクション店のアシスタント。その昔(といっても三年前までだが)私は全てひとりでやっていた。家のことも仕事も経理も、スクラップしたり打ち合わせしたりも、何もかも自分のことは自分でやった。自分のこと以外、子供のことや夫の世話までもやっていた。それが今、横のものをたてにもしないていたらく。一体何がどうなってしまったのだろうか。あれよあれよという間に、ひとり増え二人増え四人になってしまった。で、私はあれよあれよという間に、右腕をもがれ左腕もぬかれ、一人では何もできない女にされてしまった。  私の軍団は、ほんとうに涙ぐましいほどよくやってくれている。私が一枚でも余分に原稿が書けるよう、私にペン以外のものを持たせようともしない。たまには気分転換にお皿でも洗いたいと思っても、「あ、だめ! そんなことしなくていいの。原稿、たまってるでしょ!」と叱《しか》られる。  で、あり余った時間、私は小説を書くべくペンを握っていると言いたいところなのだが、冒頭に書いたように、居場所がない。大邸宅に住んでいるわけではないので、どこにいても誰かがいる。それで時間はふんだんにあるのだが、どうしても集中できない。で、ついに家の主、私は我が家から追い出され、仕事場を求めてホテルへと向かうことになる。で今月の風の噂——。午前八時。私は愛車に原稿用紙と辞書とペンをつみこみ、ホテルの仕事部屋へと出勤。ハンドルを握りながら、「なんでよ?」「なんでこうなるのよ?」と疑問に思わぬ時間とてない。  9:00 A.M. --------------------------------------- 贅沢《ぜいたく》な空間  日本人は小説にリアリティーを求めることが好きだけれど、私は自分が読み手である場合も書き手の場合も、リアリティーよりファンタジーの方をはるかに好む。  その理由で子供の頃から、いわゆる日本文学におけるリアリティー——四畳半の毛羽立った畳に斜めに射す西日の情景、現実は充分に貧しいのに、これでもかこれでもかというように、日に焼けて茶色く変色した畳の毛羽などくだくだしく書かれると、つくづくと惨めに暗く落ちこみ、それが何ともやりきれなく生理的にも厭《いや》だったので、翻訳した海外の文学ばかりを読んでいた。  それは自分が小説を書くようになっても同じで、死んでも毛羽立った畳に射す西日の情景など書くまいと思っている。  そんなわけで、私は、現実よりもはるかに贅沢な空間の中で、登場人物たちにあれこれ演じさせているのだ。  さて、今月の午前九時、どんな空間でどんな人物に登場してもらおうか。記憶の中からとびきり贅沢なシーンを取り出してみよう。  場所はミラノの南、ピエトラサンタの郊外にあるプティホテル。部屋数はわずかに四つしかないが、私の知るかぎり世界で一番美しいホテルだ。  その昔オリーブ工場だった建物をリノベイトして、ほとんどそのまま使っているのが、これまた素敵なのである。  以前、オリーブの実を搾ってその油を貯めたという青い模様のタイル張りの大きな油槽が、今はそのまま油のかわりに水が張られ、ハスの葉が浮かんでいる。それを取り囲むように白いテーブルクロスを敷いたテーブルが置かれ、レストランに使われているのだ。  私が訪れたのは夜の九時過ぎで、まだ客の姿はチラホラとしかいなかった。夏のイタリアのリゾート地のレストランは夜十時頃から混みあってくる。それでも、室内に水を張ったプールの青さのなんともいえぬ美しさ、その雰囲気のロマンティックなこと。しばし言葉を失いうっとりとしてしまったものだった。  その時はそのプティホテルには泊らず、レストランだけを利用したのだが、来年は絶対に一週間はそこに滞在するつもりで、一年先の予約をして帰って来た。  とにかく、ホテルルームが素晴らしいのだ。スペインの田舎家風なのだが、華美ではなく、落ち着いていてシックで、足を踏み入れたとたんにドキドキするような空間。部屋付きの浴槽《バスタブ》は、昔オリーブの塩漬けに使ったというタイル張りのものを、そのまま使用しているのだが、その型といい色といい、タイルの古さかげんといい、なんとも美しい。  私は来年、この部屋で毎日八時半に眼を覚まそう。それから真っ先に浴槽に湯を張りながら、シャンパンと銀の器にこんもりと盛ったイチゴをルームサービスで注文しよう。  大体あんなホテルに泊るだけでも贅沢なことなのだけど、贅沢ついでにシャンパンはシャンパンでもルイズ・ロゼ・ポメリーを指定することにしよう。十五年も書き続けてきたのだもの、自分で自分に褒美をあげてもいいではないか。  私はそれを浴室に運ばせ、浴槽のふちに置いていってもらう。それから窓を開け、六月の朝の空気を取り入れながら、バスタイム。  何がこの世の贅沢って、世にも美しいバスルームで、お風呂《ふろ》に浸りながら、きりりと冷えたルイズ・ポメリーのピンクシャンパンを飲むこと以上に、贅沢があるだろうか。時々、イチゴをつまんで口に入れながら——。  小説というのは、根も葉もある嘘《うそ》。しかし世界で一番美しいホテルの様子を書きたくとも、そこに泊ったことがなければ書けないし、ルイズ・ロゼ・ポメリーの味も、一度飲んでみなければ表現できない。そんなわけで、取材のためという名目で、とてつもない贅沢ができるのは、作者の特権でもある。  さて午前九時の風の噂——。今月登場したシャンパンは、グランクリュの中でも最も品質の秀れたアイ村・アヴィーズ村・クラモ村の葡萄《ぶどう》の中で最上級の葡萄だけ四〇〇キログラムを圧縮して、最初の一〇キロリットルのみを使った、非常に贅沢なものである。ルイズ・ロゼ・ポメリーの美しいピンク色は、ピノ・ロワールの果実で色付けしたもの。数あるシャンパンの中でも最もエレガントなものである。  10:00 A.M. --------------------------------------- ブランチ  ブレックファスト・ミーティングというのを、私のようなものでさえ、何度かしたことがある。たいていホテルのレストランが利用される。  私はなんだかそれを遊びの延長もしくは、してもしなくてもいい会議というふうに受け取って、どうせ遊びの延長ならば、朝っぱらからご飯を一緒に食べる人は独断と偏見で選びたい。万が一、朝食を一緒に食べているところを知っている人やマスコミの人に見られた時、ありもしないことを誤解されるのなら、誤解されてもいいような、見栄えのいい男と朝食をしようと、その程度に考えていたのである。  だって朝食会というのは結構早くて、八時頃から始まることだってある。ということは場所にもよるが七時半前には家を出なければならない。七時半前に家を出るということは、お化粧や服装の選定にかかる時間を入れると、六時半に起きなければならないのである。こんなに早起きを強いられるのだから、その上大真面目な固い会議などされたら、泣きっ面にハチである。会議は楽しくなければならない。つまらない会議で、さえないおじさんと並んで朝食をとっているところを、知っている人に見られ、「モリさん、見たわよォ」なんてあとでニヤニヤされたら、もうとり返しがつかないではないか。どうせなら、「モリさん、いいとこ見たわよォ。案外趣味いいのねぇ。すっごくステキな男だったじゃないの」と言われたい。  しかし今月の風の噂は、朝ごはんのことではなく、「ブランチ」についてだ。  ブランチというのは、朝食会より更に具合が悪い場合が多い。そもそも、日曜日の朝ゆっくり寝坊して、朝ごはんには遅いし昼食にはまだ早いというようなのを、一緒にしてしまったのがブランチなのであるから、その朝共に寝坊していなければならない。共に寝坊するには前の夜遅くまで一緒に遊び、その後同じベッドで眠った仲である方が自然である。  つまり、ブランチに現れるカップルは、どうしてもそういう眼で見られる。夫婦ならそれでもいっこうにかまわない。夫婦でない場合、見る方も見られる方もなんとなく……なのである。  そういうカップルが、ブランチの時間からピンクシャンパンなど飲んでいると、「嫌だわね。気持悪いわ」とつい中年おばさんを演じてしまうので、これも迷惑な存在だ。  あれ、モリさん、自分のブランチ体験談を書くんじゃないの? と訊《き》かれても困る。いくらなんでも、私はそこまで破廉恥じゃないですよ。えっ? 何も他の男というのでなくてもいい? つまり夫とブランチ? その方がもっと破廉恥だ。夫と前の夜遅くまで遊んで、同じベッドで眠り、朝一緒に朝寝坊した上に、ピンクシャンパンだなんて、これ以上の破廉恥があるだろうか。考えただけでも恥ずかしい。  しかし、日本のホテルの日曜ブランチというのは、きわめて健康的なのですよね。子連れや、食べ盛りの子供たちを引き連れてきたりで、ファミリー・レストラン風なのだ。ピンクシャンパンで昨夜の余韻を楽しもうという大人の男と女には、ちとお気の毒(え? ちっとも気の毒そうな顔して書いていない?)。  やはり、ブランチというのは、生活の延長上にない方が、ステキなのではないだろうか。イタリアやスペインの、あまり世俗的でない小さな、しかしきめ細かいサービスの行き届いたリゾートホテルか、あるいは逆に、ニューヨークのど真ん中のレストランで(ホテルなどではなく)、朝日をさんさんと浴びながら、昨夜オペラで偶然一緒だった知り合いに、「あら、また?」とウィンクしあったり、ドミンゴがいたり、フェイ・ダナウェイが素顔でいたり、わいわいがやがやというのも、別の意味でなかなかいい風景なのだ。  どちらにも捨て難い魅力がある。世俗から隔絶された少しスノッブなリゾートホテルで、一週間もブランチをとり続けたら、さぞかし、さぞかしであろう。夜遊び、朝寝坊、ピンクシャンパン付きのブランチが一週間。デカダンスと飽食の極みである。  ニューヨークのど真ん中のレストランのブランチには、毎日顔を出したくはないが、月に一度か二度出かけて行って「ハァイ、プラシド!」とか「ハァイ、フェイ、ハウ・ユー・ドゥーイング?」とか、顔見知りになったミッキー・ロークから頬《ほお》にキスを受けたり、ジャッキー・オナシスと目礼しあうのも、なかなか刺激的。  さて、今月の午前十時の風の噂。  これまで私が体験したブランチの食事の中で(あくまでも食事の内容のみにしぼるわけだが)、満足したのが、タイでのことである。タイはバンコック。絢爛《けんらん》豪華に並んだ山海の珍味とまではいかぬまでも、私は大好きなタイ風のおかゆというのに手を出す。コリアンダーの葉を山のように上にのせて。それからフルーツ。タイには私が好きなフルーツが二つある。マンゴスティンに、アグリーフルーツと英語では呼ばれる夏ミカンとグレープフルーツを足して二で割り天国の味つけをした柑橘《かんきつ》類である。私は元来あまりフルーツにこだわらない人間で、食べなければ何週間もフルーツなしで生きていけるが、その私が常に食べたいと思っているのが、このマンゴスティンと天国の味のおミカンである。そう、ブランチというと、なぜともなく真っ先に浮かぶイメージもこの二つの美味なる果物なのだ。こればかりはイタリアの小さなリゾートホテルにも、ニューヨークのど真ん中のレストランのブランチにも、用意されていない。  11:00 A.M. --------------------------------------- 消えた時間  何かに熱中していると時間のたつのを忘れるというが、これまでそのような熱中状態に自分を置いたことがなかったので、時間のたつのを忘れるなどということはなかった。  反対に、なんて時間が過ぎるのが遅いのだろうと、溜息《ためいき》ばかりついていたことは実に度々あった。  一番に思いだすのは子供の時、一日三時間ときめられていたヴァイオリンの練習で、嫌々練習する三時間の長かったこと。ヘンデルのソナタの一楽章が約十分として、十回くり返し練習しても百分にしかならない。音階の練習に至っては、千回くり返しても一時間にならない。考えるだけでもうんざりだった。友だちがカンケリで遊び回っている時になんであたしだけがこんなことをしなければならないのだろうと、つくづくと運命を嘆いたものである。だからあの三時間は地獄みたいだった。  結婚して子供が生れた後家庭に入った数年も、時間がやけにのろのろと過ぎた時期だった。家事をやってしまうと、もう一日中他にすることはなかった。子供たちが遊ぶのを見守りながら、あたしはどうやってその午後を過ごしたらいいのだろうと途方に暮れてばかりいた。  好きなことをしているからといって、では時間のたつのが早いだろうというと、実はそうでもない。本を夢中で読んでいても二時間は二時間だし、エッセイ書いても、長編書いても、時間の感覚というのが体に刻まれており、脳の疲れ方で、過ぎ去った時間がおおよそわかるものである。第一、時間の感覚がなくなるほど熱中状態でフィクションを書いても、ろくなものはできないはずだ。小説を書くという行為の中では、同時に色々なものが見えていなければならない。冷静に主人公とある距離を保っていないと、文章が絶叫したり、必要以上の自己|憐憫《れんびん》などでベタベタになってしまうからだ。  さてこの数カ月、私は『風と共に去りぬ』の続編『スカーレット』の翻訳にとりかかっているのだが、生れて初めて、時のたつのを忘れる、という経験をしている。  朝八時に机に向かい訳し始め、ちょっと頭の芯《しん》が疲れたなと伸びをして腕時計を見ると、午後二時半になっている。え? まさか、と思い壁の時計を見ると、やはり二時半。狐につままれたような気持というのは正にこのことだと思う。だって実感としては今さっき机に向かったばかりで、四、五十分という感じなのだ。  十時、十一時、十二時と過ぎていった時間の感覚がないのだ。あの数時間はどこへいってしまったのだろう? まじまじと机の上の仕事量を調べると、原作の三頁弱。この三頁があの時間を食ってしまったのだ。  しかしものすごく面白くて熱中しているというのではないことは確かだ。他人が書いた作品を自分の文体で訳すわけだから、作家の一人である私にとっては、むしろ苦痛を伴う作業である場合の方が多い。私ならこうは書かないとか、私ならここでこう言わせるのに、とか、ジレンマとフラストレーションの連続だ。  けれども一方では、私の作品ではないのだから、どんなに我を忘れても、作品自体が踏み外すことはあり得ない。英語を日本語に変えながら同時に、それを文学としての文体に高めていく作業には、ある種の集中力を必要とするらしい。  そんなわけで、このところ私にとって一日は、朝の八時、午後の二時前後、夜の十時とその三時間しか存在しなくなってしまった。それらをつなぐ霧のような時間のトンネルはあるのだが、文字通り霧の中に入っていて、無我夢中である。こんな日々が続いたら、人生なんてあっという間に終ってしまうだろう。熱中状態というのは悪くはない。ある種の酔いに似ている。けれども一日が三時間くらいにしか感じられないというのは困る。あとの十何時間はどこにいってしまうのだろう? 私がうんと若ければいいが、もうこの年では人生の一刻一刻が貴重で、それを刻々と楽しみたいと思っているこの時期に、時が弾丸列車のように走り抜けていくのは、たまらない。『スカーレット』の翻訳は今ようやく五分の一を過ぎたばかりである。これが完成する頃には、白髪《しらが》頭になっているかもしれない。  0:00 P.M. --------------------------------------- 木は考える  私は杉の花粉のアレルギー症で、毎年二月の中旬のある日、空気の中にほんの微量でもそれが含まれると、まずクシャミがひとつ出る。それが魔の季節の始まりとなる。三月、四月一杯続き、時には五月のゴールデンウィーク一杯まで色々な症状に苦しめられる。  花粉症に初めてなったのは、もうかれこれ十五年前。症状は年と共に少しずつ変化していった。最初の数年はやたらにクシャミが出て、鼻水がすごかった。ティッシュペーパーを一箱、どこへ行くのでも持ち歩いた。五年ほどすると、クシャミがぐっとへり、そのかわりに眼にきた。眼の中がかゆくてたまらないのである。これが第二期。現在は第三期で、くしゃみも眼の中のかゆみも一段落したが、敵は深く潜入。けだるく眠く、何をやっても集中できない。思考力と集中力が著しく低下しては、もはやペンを投げるしかない。  そんなわけで、この四、五年というもの、私は原稿用紙とモンブランのペンと辞典をボストンバッグに詰め、花粉の飛んで来ない場所を求めて逃げだす生活を余儀なくされている。雪の残っている間の北海道と、南西諸島のヨロン島。よほどの風が吹かないかぎり、杉の花粉はヨロン島までは飛んでいかない。  たまたま私の職業が移転を可能にしてくれるのだが、世の中にはそうはいかない人の方が圧倒的に多く、ひたすら花粉の季節を耐え忍んでいるはずである。  これほどまでに杉の花粉のアレルギーに苦しむ人々が増えた理由は、単純に、杉の木が増えたせいだ。山の木をどんどん切っては、杉の苗木を植林しているからだ。なぜ杉かといえば、杉の木が一番育ちが良く、短期間で生長し、また伐採できるからだ。そのようにして、日本中の森はいつの日にか全て杉だけになってしまうだろう。そうすれば日本人のほとんどが花粉症に苦しむようになる。自業自得だといえば、まあそれまでのことだが……。  カナダでも、毎日ものすごい勢いで森が潰《つぶ》され、杉の木が植林されつつあると聞いた。ということは森林で食べている国は全て同じことをしているとみていい。杉は、日本だけでなく、世界中を覆いつくしつつある。そのうち地球は杉の木だけになる。地球上の全ての人が、杉の花粉にやられ、思考力と集中力を低下させ、やがて人類は滅亡する。これが私の考える杉の木人類滅亡論の主旨である。  木について考えてみよう。森について。森が森として、あるいは山が山として成立するのは、そこに何十種類、何百種類の異なる樹々がお互いに微妙に影響しながら雑居しているからだ。杉一種類だけの植林地帯を、だから森とは言わない。  人類だってそうではないか。一血族だけで構成される部族なり、国があるとすれば、劣性遺伝がどんどん進み、結局はその血族の滅亡につながる。様々な血、遺伝子が混ざりあってこそ、強い人種になるのと同じように、森にも、あらゆる種類の木が必要なのだ。杉だけで構成される森というのは、だから森ではないのである。森のお化けだ。単一の血の怖ろしさのしっぺ返しは必ずある。そのひとつが花粉アレルギーなのだ。集中力、思考力低下のあとは脳を冒されるかもしれない。  しかし、杉の木が悪いのではない。杉の木を眼の仇《かたき》にしてはいけない。私は杉の木が、その一本一本がとても優しいのを知っている。  ある時、軽井沢を台風が直撃したことがあった。私のところの庭の杉の木が全部で十三本根こそぎに倒れた。どれもこれも十メートルを超える大きな杉であった。それが縦横無尽にめちゃくちゃに倒れ、庭は足のふみ場もなかった。  けれども驚いたことに、倒れた杉の木は、ほんとうに見事に、車や、物置きや、家を直撃していなかった。あんなにバラバラに倒れているのだから、どれか二、三本は車を直撃したり建て物に倒れかかっても不思議でもなんでもないのに、まるであえて避けたかのように、考えてよけたかのように、私たち人間が悲しむような被害をひとつも与えなかったのだ。そこに私は木の意志、木の思いやりを、はっきりと感じ、それをこの眼で見たのだった。私たちは台風の翌日、軽井沢中を歩き回って、同じことを確かめた。車一台、家一軒、倒れかかった杉の巨木で潰されたものはなかったのだ。何千本、何万本という木が根こそぎになったあの台風で、風で吹きとばされた屋根はあっても、木が直撃したことによる被害は皆無だったのだ。  木は考えるのだということを学んだ。木は人に優しいということを学んだ。人に対してだけではなく物に対しても。他の木に対しても。倒れる時、何ひとつまきぞえにすることなく、断末魔の悲鳴を上げながら、それでも必死に躰をねじり、他のものをまきぞえにしまいとしたのだ。  だから私は杉の木を個人的には恨んでもいない。私が恨んでいるのは、森を潰し、山をけずり、短絡的に杉を植林する人々だ。それを許す行政と、国とに対してだ。  1:00 P.M. --------------------------------------- 美人はイメージで造られる  TVでマリリン・モンロー特集を観た。といっても彼女の作品を中心に、当時の彼女をよく知っていた俳優たちの証言というか、思い出話とで構成された一時間番組だった。  彼女の映画はたいてい観ていたので、画面にめあたらしいものはさほどなかったし、以前モンローについてミニ伝記を書いたことがあったから、俳優たちの証言にもこれといった発見はなかった。  ただ、二つか三つのシーンで、マリリン・モンローの素顔が映し出された時は、意外な気がした。それはほんとうに短い瞬く間のことだったが、強烈な印象だった。  しどけなくセクシーで愛らしい、だが頭の中は空っぽといういつもの顔はどこにもなかった。まるきりのスッピンにおそろしく派手なサングラスをしていただけだが、その印象を一口で言うと、大学の秀才で男の子や世俗的なことには全然無関心で、ひたすら勉学に励むというお固いタイプの女子大生といったものだった。要するにスクリーンのモンローとは全く反対の人間像を、彼女の素顔は彷彿《ほうふつ》とさせていたわけである。  証言の中でも、彼女がとても頭の良い人であることに触れた発言があった。俳優の虚像と実像ということはよく言われることだ。ファンは実像などにあまり関心はない。実像と虚像のへだたりが大きければ大きいほど、ファンの夢は膨《ふく》らむ。そして、そういう人たちが昔は大スターと言われた。  今の映画界には大スターはもはやいない。映画は一九六五年頃を境に、昔のものとすっかり変ってしまった。スターたちは少しもキラキラしていないし、スクリーンを観てもあまり胸がときめかない。  しかし、失ってしまったものを何時《いつ》まで嘆いていてもしかたがない。マリリンの話に戻そう。一時間の放送を見ているうちに、彼女の顔やスタイルがどんどん変化していることが興味深かった。それはメイクとか衣装によるものだけではなく、事実彼女が変っていったのだ。十代よりも二十代の方が、二十代より三十代になった時の方がはるかにはるかに美しいのである。十代では全く洗練されていなかった。どこかのちょっときれいなイモ姉ちゃんという感じ。それが年をとればとるほど、余分な脂肪がとれ、つくべきところには豊かについて、きりっと顔も肉体もひきしまっていくのが、手にとるようにわかるのだ。三十いくつで亡くなる直前のマリリンの美しさは、ほとんど神がかって完璧だった。  そういうことはよくあることだ。日本でもぽっと出の歌手が、一年もすると見違えるほどきれいになる例はいくらでも見られる。人から常に見られたり、たえず他人の視線を浴びていれば、誰でも変っていくものだ。  それとイメージというものもあるかもしれない。それぞれの時代の美人顔、ハンサム顔というものがある。我々は無意識のうちにその理想の顔を頭において日常的に暮らしている。するとどうなるか。顔の造作が刻々と、イメージの顔に似てくるのである。  街を歩いていて、昔と比べると美しい若者が多いことに驚くほどだ。彫りが外人のように深く、細おもてで鼻が高く歯並びもいいし、足もスラリと長い。日本人の容貌《ようぼう》とか骨格の変りようはほとんど異常だ。十年間のうち、平均身長が十センチ近く伸びてしまった人種など、どこにもいないのではないだろうか。  我々はまれにみる人真似人種でもある。コピーの巧みさは、一昔前まで世界のヒンシュクを買っていた。このコピーの巧みさは、もしかしたら、我々の顔やスタイルを短期間に変えてしまったのかもしれない。日本人は、広告のモデルに外人を使う。テレビを見ても雑誌を見ても外人ばかりだ。そういうものを「美」の理想として日常的に眺めながら暮らしていくうちに、我々の容貌が変化していったのに違いない。いつの間にか理想のイメージが頭の中に植えつけられ、そのイメージに合わせて肉体が変り始めたのだ。マリリン・モンローの容貌の著しい変化を見ているうちに、そんなことを思った。顔やスタイルは生れつきではないのだ。それはイメージした通りに、自由自在に変えられるのではないだろうか。  2:00 P.M. --------------------------------------- 鎖骨美人  世の中右を向いても左を向いてもダイエットばやり。かくいう私も座りっぱなしの職業上、並みのダイエットくらいでは、痩《や》せることはおろか現状の体重維持さえむずかしい。  普通に活動している女性が一日千六百キロカロリーくらいで、まあ健康なダイエットをしているとすると、私の運動量の少なさでは、たとえわずかの六百キロカロリーしかとらなくても、現状維持ができないのだ。水を飲んでも太るし、少しは歩いたらどうだろうかと、タクシーに乗るかわり二駅分ばかりスタコラサと歩いてみても、下手をすると歩いた日の方が何もせずじっと座っている日より、同じカロリーしか食べていないのにもかかわらず、体重が増えているなんてことがままあると、もう「これは何なのだ!!」と喚《わめ》きだす世界。  こんなにお腹《なか》を空かせて、空腹を水でごまかし、その上辛い運動までして体重が増えるのなら、もう何もしてやるものか、と思うではないか。何もしないで一日六百キロカロリーでじっとしている方が、まだましなのだ。それで運動はきっぱりと止めることにした。  私がこうなったのも、ある人のある言葉のせいなのだ。  五、六年前のことだろうか。憧《あこが》れの男優が私のドラマに主演することになり、原作者の役得で何度か食事などをご一緒した。たしかPR用の取材か何かで、二人同席の写真を撮ることになったのだ。写真というのは実際より少し太めに写るので、私は溜息《ためいき》をつきながら「もうちょっと痩せたいわ」とカメラマンに言ったのだ。そしたら横にいた憧れの君が、「それ以上ガリガリになったら、気持悪いよぉ」と、きっぱりと異議を唱えたのである。  多分、彼は私の鎖骨を見て、そういう印象を受けたのだと思う。私は鎖骨美人なのだ。そのあたりは、いつもスッキリ贅肉《ぜいにく》がない。そこだけ見ると、たしかに骨っぽい。それで彼は「ガリガリ」と表現したのだと思う。  それに私は着痩せするタイプ。別名、脱ぎ太り。いずれにしろ、その「ガリガリ」が効いた。  実際、標準体重を当時でさえ五キロはオーバーしていたのだから、ガリガリであるわけもないのに、憧れの君の言葉は、私の脳に深く浸み通ってしまったのである。  躰は痩せなければと言っているのに、脳が「それ以上痩せたらガリガリで気持悪い」という反応を起こしてしまうのだ。それ以後というもの、いかなるダイエットの必要も私の脳は受けつけようとはしないのだ。げに、憧れの君の言葉は、私の肉体を深く支配してしまったのである。  それよりはるかな昔、私の恋人は「お前デブだな、もう少し痩せろよ」と、残酷にも私が気にしていることをズバリと言ったことがあった。私は深く傷つくと同時に、無我夢中、あっという間にスラリと痩せてしまった。愛されたい一心、嫌われたくない一心で、ダイエットなどという意識もなかったと思う。絶食に近いことをやったのに違いないが、苦痛も感じなかった。恋心が食欲を抑えこんでいたからだろう。  ことほどさように、好きな男の言葉は女の肉体をいかようにも変えてしまうということだ。今、私に必要なのは、「その余分なお肉、どうにかならないの? 醜いよぉ」と断固として言ってくれる男の存在だ。かの憧れの君の呪縛《じゆばく》が未だに解けないでいるわけだから、新たな男の出現を待つより他に方法はないのである。それまでは一日六百キロカロリーでひたすらじっとしているしかない。  3:00 P.M. --------------------------------------- ハイティー  朝の八時に机に向かって仕事を始めると、午後三時という時間が、ひとつの山、ふんばりどころである。  集中力というものは、私の場合一時から二時の間がピークで、ひとたびピークを迎えた後は、急降下、気分が散漫になっていく。  ここでがんばると、夜の八時頃まで一気にいくのだが、書いているものによっては、この午後三時のふんばりがきかないこともある。  もちろん、〆切りがなければ、最初からふんばりなどきくわけはない。だから書き下ろしという仕事は辛いのだ。  だらけてくると、書いている字に克明にそれが表れる。字までがだらけてしまうのである。そうなると書いていることもだらけているわけだから、ひとまずペンを置く。お茶でも、ということになるわけだ。「三時のお茶」とは、よく言ったものだ。  つい最近オーストラリアはシドニーの街で、八日間ほどカンヅメになって仕事をした。パーク・ハイアットという比較的新しいホテルで、部屋は、日本の規模からいうとセミスウィート。だがあちらではごく普通の広さらしい。  部屋のすぐ前が、桟橋で、バウンティ号のレプリカがその黒い船体を横づけている。それほど遠くない遠景に、シドニーの中心街の高層ビル群が迫っている。海と船と美しいビル群——私の一番好きな組み合わせだ。  時々バウンティ号と入れかわりに、巨大なショーボートが桟橋に入ってくる。一日に二回。更によく見ていると、その二つの外見の異なる船は、外見によく合った客たちを乗せて、出たり入ったりしている。  バウンティ号に乗りこむのは、ほとんど白人の人たちだ。多分、アメリカからやって来た中・老年の観光客だろうと思われる。それぞれ色とりどりの、ごく寛《くつろ》いだリゾート着(といってもTシャツにジーンズとか、コットンのズボンが男女共に多かった)。人数も多くて二十人くらい。  一方、ショーボートはというと、これが二、三百人ほどのキャパシティーがある食事つきの巨大ボート。時間になると、観光バスが次々とやって来ては三十人、五十人と背広とスーツ姿の日本人観光客を吐きだしていく。つまり日本人ばかりなのだ。しかし専用ではないらしい。その証拠に、ちらほらと白人の顔も見える。だが九九パーセントは、日本人だった。バスから降りると、ぞろぞろと長い列になって、ショーボートの中に吸いこまれていく。  まぁそれはそれで良いのだが、彼らの観光の一日というのを想像してみた。日本を出る時から同じ顔触れの三十人ばかりの団体が、昼食も夕食も一緒。同じものを食べ、同じホテルに泊り、同じ場所へ行く。着ている服も、なぜか男性はほとんどがベージュっぽい背広の上下。女は白っぽいスーツと、きまっている。英語など一言も喋《しやべ》らないですんでしまう。これでは背景が変っただけで、日本にいるのとほとんど変らないではないか。  と、そんなことを考えたら、かくいう私だってせっかくシドニーにいながら、日本でと同じことをしているじゃないかと、痛く反省。窓の外の光景がシドニーだけで、やっていることは東京のホテルでのカンヅメと全く同じ。しかも、朝と昼はルームサービスだ。  人のことは言えないわけだとここで私としては筆を置かざるを得ない。下に降りて三時のお茶でもいただいてこよう。英国式のハイティーというやつだ。私はロビーの横のカフェテリアに入り、ミルクティーとスコーンを注文した。  注文したものが右から左へと来るのは世界広しといえども日本だけ。どこの国へ行ったって、十五分以上は待たされる。そうやってぼんやりとお茶とスコーンを待ちながら、カフェテリアのお客たちを眺めたり眺められたり。みんな小ぎれいに服装を整え、静かにお喋りをしながら、お茶の時間を楽しんでいる。当然のことながら、こののんびりとした贅沢《ぜいたく》な光景の中には、日本人はいない。  ふと眼を上げて、外を見ると、すぐ前の桟橋をぞろぞろぞろぞろと、ショーボートに乗りこむ長い人の列。日本人はそこにいた。何百人も。ゆったりと座り、お茶と、聞くともなく聞こえてくる人々のお喋りと、シドニーの光景を楽しむことなく、次々と慌ただしく観光して走り回る日本人が——。  4:00 P.M. --------------------------------------- 知的筋肉  私は長いこと、ダイエットの悪循環から逃れられなかった。苦しい食事制限をして目標に達したとたん、あっという間に元のもくあみ。ご飯一杯食べても、お水一杯飲んでも、ぶぁっと太ってしまう。  元のもくあみならまだしも、ダイエットをするたびに、ぶり返しで一キロ余分のお肉をプラスしてしまうのだから、目もあてられない。  すると、その道の諸先輩は言うのだ。 「運動しなければだめだよ」と。  素直な私は忠告されるままに、運動もやってみた。テニスとかジョギングとかは激しく疲れるわりには、消費カロリーも少なく、あまり効果は認められない。一番いいのは有酸素運動とかいうもので、水泳及び早足で歩くことが一番だという。  そこで私は一番安上がりで手っとり早い、「早足歩き」を実行してみた。青山とか赤坂とか六本木あたりで人に逢う約束をし、行きはそこまで一目散に歩くということを続けてみた。二十分以上休まずに歩き続けないといけないというので、信号待ちも律義に足踏みなどして、人に妙な顔をされたが、とにかく歩いてみた。六本木まで家から一時間半。ジョギングシューズで歩き、待ち合わせ場所でハイヒールにはきかえた。  そんな苦労を続けて効果ありや? と体重計に乗ってみて愕然《がくぜん》とした。食生活は同じかむしろひかえぎみなのにもかかわらず、歩く前よりも、一・五キロも体重が増えていたのだ。もちろん即止めましたね、歩くのは。  冗談じゃない。何が有酸素運動だ、とふてくされて何もしなかったら、また少し太った。何をしても太るし、しなければしないで太る。今や標準健康体重を優に十キロもオーバーしている。  もういいわ、別に男の前で裸になるようなこともないだろうから、余分の十キロのお肉と仲良く生きていこう、と諦《あきら》めかけた矢先、怖い怖い話を聞いてしまった。  ダイエットを何度も何度もくりかえした私のような人間は、「脂肪クラゲ」なのだそうだ。つまりダイエットでいったん減らしたのは脂肪だけでなく、筋肉と骨まで痩《や》せてしまうらしい。ダイエットの反動で再び食べて元のもくあみとなった時、とりもどすのは脂肪だけで、いったん失った筋肉とカルシウムは元に戻らない。ダイエットのくり返しで、もう筋肉と名のつくものはほとんどなく、ついているのは脂肪だけ。その重い脂肪をささえる骨にスが一杯入っていて、いつもろく崩れるかわからない。こうなっては美容どころの話ではなく、さし迫った健康の問題なのである。  そこで真剣に問題にとりくむことにした。答えは簡単だ。筋肉をつけ直すこと、それ一言につきる。筋肉をつければ、ついた分だけ脂肪が追い出される。体重は同じでもしまって見える。私のように全身脂肪の塊となった人間でも、一日に十分ばかりの重量挙げで(といっても、片手三キロのダンベルを使うのだが)、一カ月半で、脂肪と筋肉を入れ替えることが可能なのだそうだ。  そうするとどうなるかというと、もし肉体が脂肪ではなく筋肉でできていると、先に書いたように二十分以上の早足歩きが、即、減量に結びつくのである。筋肉は摂取した脂肪を燃やしてしまう働きがあるからだ。脂肪にはその働きがないので、脂肪人間は、いくら運動してもだめだということが、これで立証される。  これからの時代は、痩身《そうしん》の美ではなく、筋肉の時代なのかもしれない。リサ・ライオンのように見せる筋肉ではなく、見せない筋肉。これが知的なリーダーの姿だと思う。 【4:00 P.M.の噂】  エリザベス・テイラーが、事あるごとに十キロや二十キロ平気で太ったり痩《や》せたりしているが、彼女の場合はどうみても筋肉質とは言えないので、ダイエットにたよっている。聞くところによると、脂肪と糖分を完全に断ち、果物と米と白身の魚、茹《ゆ》でた鶏肉、茹でた野菜だけで、短期間に体重を落すらしい。お腹《なか》が空くと、バターなしの胚芽《はいが》パンと紅茶でその場をしのぐ。  果物は糖分が多いから、ダイエットの敵というのは、実は嘘《うそ》なのだそうだ。それはお米についてもいえることで、腹もちの良さから言っても白米はダイエット食品としては第一級。ただし、固目に炊いて、ゆっくりと噛《か》むこと。そしてできたら四分の一の量以上、大豆と一緒に炊くといい。  ただし、リズ・テイラーは「事」がなくなると、すぐに元のもくあみになるので、彼女も知的筋肉ウーマンを目指した方がいいと思う。以上、今回の情報はさる信用すべき筋の学者の先生からいただきました。  5:00 P.M. --------------------------------------- 黄昏《たそが》れ刻《どき》  眼を上げると、あたりはすでに深い黄昏れ刻の様相をおびていた。ほんの十分ばかり眠るつもりが、ついぐっすり熟睡してしまったのに違いない。東京を出て二日目、まだユタ州の時間に躰《からだ》の方がなじんでいないのだ。  一瞬自分がどこで眼覚めたのかわからず、青ずんだ窓の空の空気を茫漠《ぼうばく》と眺めた。夕方の五時頃だろうか。いずれにしろ、黄昏れ刻を絵に描いたような光景だった。完璧《かんぺき》な夕暮れ刻。昼と夜が微妙に混じりあう時刻。  ベッドを降り窓を開けた。そそり立つザイアン・キャニオンの岩山は、すでに黒々としたシルエットの中に沈んでいた。  一瞬雲が切れたのだろうか。光が斜め下から射す、どこか遠くの日没の太陽が、ぎざぎざの山頂を、あかね色に浮き上がらせるのを目撃した。眠気は完全に吹き飛び、私はただ声もなくキャニオンの異様ともいえる日没に立ちあった。  これは、これまで私が旅して歩いて見たどことも、あまりにも違っている。赤い岩肌の巨大な山々にとり囲まれた小さな谷間のオアシスの町・ザイアン。エジプトのギザで初めて見上げたピラミッドも、これほどの偉容を持ってはいなかった。中国で訪ねた万里の長城でさえも、私からこれほどまでに声を奪いはしなかった。  ピラミッドも万里の長城も、人間が作り上げたものである。そう考えれば、それはそれで別の感動はあるが、人間の手で作り得るものには限度がある。ザイアンの赤い岩山を見上げていると、自然の大きさに対する畏怖《いふ》を感ぜずにはおれない。人間がどうあがいたって、ここまでは作れない。すると自分が本当に小さな存在に思われてくる。  ホテルルームのドアにノックの音がして、旅の仲間が夕食に私を誘った。 「まだ日が沈んだばかりなのに?」と私は言った。 「でももう八時半だよ」 「え?」と私は腕時計に顔を近づけた。五時ではなかったのだ。黄昏れ刻イコール五時、というイメージが私の中にあって、勝手にそう思いこんでいたのだ。それでは十分のつもりが五時間も眠りこんでしまったことになる。 「そうね。夏時間だったのね」と言って私はカーディガンを取り上げた。今頃、バンクーバーにいる私の夫は、ジントニックを片手に、向かい側の島の背後に沈む夕陽を眺めているだろう。バンクーバーでは、この時期、十時半頃にならないと、日が暮れないのだ。  夕食はホテルの近くにあるメキシコ料理の店�BIT&SPUR�に行った。私たちの旅のガイド役を務めてくれるケン・クラークが、アメリカ一と自信を持ってすすめるメキシコ料理だ。行ってみると、西部劇映画によく出て来るようなサルーンにそっくりで、埃《ほこり》じみて、がさついている。しかし右手のバーカウンターにたむろしているのは荒くれたカウボーイたちではなく、Tシャツと半ズボン姿の土地の若者たちだった。  レストラン部の方は、この有名なレストランの料理を一口味わおうと予約して来た旅人たちで満員だ。  まずはマルガリータを頼みナチョスをつまむ。ふむ、マルガリータはなかなか本格的だ。レストランと同じように粗けずりで豪快。しかしほどよい甘味とテキーラの埃っぽい個性が、しっかりと調和している。ニューヨークや東京には似合わないが、さすがここザイアンにはぴったりだ。私はこのレストランではあまり辛くない方だというチキン料理を頼んだ。鶏の胸肉を焼き、ピリ辛味のハチミツ風味。つけ合わせは真っ黒い豆の煮たのと、アルデンテのいためご飯。それにサラダがついて大きな皿からはみだしそう。それをメキシコビールのテカテで流しこむ。  食後は生のテキーラにライムをしぼりこみ、ぐいっと一気にあける。  こうして一カ月に亙《わた》るアメリカ西部の旅が始まった。明日はグランド・キャニオンに向かう。  6:00 P.M. --------------------------------------- 牧場の夕食  サン・ホワン牧場の|夕 食《ゲスト・ランチ》を告げる鐘がのどかに鳴っている。まだ六時だ。太陽の位置からすると、日没にはだいぶ間がありそうだった。小羊や犬や小猫や小鳥と遊んでいた子供たちが、鐘と共にいっせいに食堂のある建て物に向かって駆けだしていく。小さな池で紅ます釣りをしていた子供たちの父親も、釣りざおを収める。牧童《カウボーイ》たちが四十頭近い馬の間から顔を上げる。ゲスト用の建て物のドアが次々と開き、シャワーを浴びてさっぱりと着がえた女たちが、三々五々と連れだって、やはり食堂をめざす。子供たちをいれて、その週のサン・ホワン牧場のゲストは全部で二十八人だ。一週間寝起きを共にし、同じ釜《かま》の飯を食べ、毎日一緒に馬にまたがり遠乗りに出かける仲間たち。  私と末娘のナオミは、一年前からこのゲスト・ランチに予約を入れておいたのだ。本物のカウボーイを身近に見てみたい、本物のアメリカの牧場の生活を体験してみたい、一日中思う存分、馬を乗り回したい、そんな夢がついに実現した。  ラスベガスまで飛行機で飛び、そこからレンタカーで、グランド・キャニオン、広大なナバホ・インディアン居留地を二週間がかりで通過し、ドランゴという、いかにもカウボーイの町といった感じの町で、車を乗り捨てた。そこから昔懐かしい蒸気機関車に乗ってススで真っ黒になりながら、けわしい谷間をシュッシュッポッポッと登りきり、更に車で二時間、突然眼の前にそびえるサン・ホワン連峰のふもとにあるこの牧場へ、たどりついたのである。高度は七千フィート前後。紫外線は強いが、日陰に入るとひんやりと涼しい。朝晩にはセーターがいる。 「六時に夕食を食べるなんて、久しぶりだわ」と私は娘に言った。子供たちが成長したことと、作家生活と社交のおかげで、最近はずっと、八時、九時ということが続いていたのだ。ひどい時には、十時とか十一時に、中華料理を食べて帰って来るなり寝てしまうという、肥満路線が続くこともある。  子供たちが幼い時には、我が家の夕食時間は六時だった。その頃夫は自宅の一階を仕事用のオフィスに使っていたので、それが可能だった。子供たちと食事をして、それから近くのパブまで歩いて飲みに行くというのが、イギリス人の夫の日常だった。彼はイギリス男の習慣をそのまま持ちこんだ。もっともそれを可能にしたのは、六本木という場所柄だ。子供たちの学校に近く、夫のオフィスとしても便利なところということで、六年近く、私たちは六本木に住んでいた。その頃の夕食時間が六時だったのだ。  それよりももっともっと昔、私が子供だった頃も、夕食は六時ときまっていた。母と私と弟と妹、そして住みこみのお手伝いのスミちゃんと、いつも五人だった。日曜の夜だけ、それに父が加わった。普段の日は、父の帰りは早くて九時十時、遅いと深夜になる。毎晩のように取り引き関係者との酒のつきあいがあった。けれども父は帰って来ると、必ず�お茶漬《ちやづ》け�を母に所望した。だから父のメニューは、塩ジャケとか、アジのヒモノとかにきまっていた。それに、ナスとキューリのぬか漬け……。  私が幼い頃にはまだテレビがなくて、食堂にはラジオがあった。夕食の時いつもかかっていたのは、�鐘の鳴る丘�というラジオのホームドラマだった。そして、食後には�二十の扉�というクイズ番組を聴いたものだった。  六時の夕食は、そんなわけで私の郷愁をかきたてた。  サン・ホワン牧場の最初の夕食は、七面鳥《ターキー》のローストだった。それにセージの|詰めもの《スタツフイング》がつき、カボチャの甘煮とブロッコリー。いかにも、アメリカの田舎の日曜の夜の家庭料理といったメニューだ。  ふと見上げると、食堂の窓のはるか向うに、頂きに雪を残したサン・ホワンの山並みが、くっきりと浮かび上がっていた。極上の白ブドウ酒のような空気のせいで、早い時間の夕食にもかかわらず、食がすごくすすんだ。  あすは九時に馬で牧場を出発し、景色の良い山腹でピクニックをし、夕方牧場に戻る予定。きっとお尻《しり》がはれ上がるだろう。  7:00 P.M. --------------------------------------- 傷心のスカーレット  この夏、アトランタへ行った。  ファイブ・ポイントとか、ピーチツリー街とか�風と共に去りぬ�の舞台になったあたりをさまよったが、百年前の面影は、どう逆立ちしてもしのべなかった。  作者のマーガレット・ミッチェルのお墓は、墓地の日射しの下で忘れられたように、ひっそりしていた。もう長いこと人が訪ねた形跡も認められない。  それと同様に、彼女が�風……�を執筆したといわれるアパートメント・ハウスも、ビル街にただ一軒これも忘れられたように放置されていた。家はほとんど傾きかけ、手入れはおろか保護もされていない様子だった。世界中で何千万部も売れた�風……�の作家にしては、ずいぶん冷たい扱いではないかと、胸が痛んだ。  そういえば、我々が借りたミニバスの黒人運転手の態度も冷ややかだ。最初のうちはそうではなかった。我々が単に市内観光をしているのだろうということで、陽気に冗談まで飛ばして、サービス精神|旺盛《おうせい》だった。それが�風……�の取材だと知ったとたん、態度が硬化した。「あの本も、あの作家も大嫌いだ」と、吐き出すように言った。  聞いてみると現在のアトランタ市長は黒人だという。 「きいきい泣くんじゃないよ、さもないとお前の皮を生きたままひんむいてやるからね!」と怒鳴りつけるスカーレット・オハラの言葉を思いだしながら、私は当惑して運転手の固い横顔をみつめていた。  その夜はジョージアン・テラスに宿泊した。五十年近く前、�風……�が映画化され、その第一回のプレミアショーがアトランタで行われた時、パーティー会場になったのがそのホテルだ。私はクラーク・ゲイブルが寝たという部屋で二夜を過ごしたが、残念ながらクラーク・ゲイブルの亡霊はおろか、夢さえもみなかった。 �小説というのは、根も葉もある嘘《うそ》である�と言ったのは、確か佐藤春夫だったと思うが、この旅もまた、作者の嘘と本当を探る旅でもあった。  アトランタという街は存在するが、タラという名の農園は、その近郊に存在しない。タラは作者の想像が生みだした土地なのだ。  去年アメリカで�風……�の続編�スカーレット�が発売され、世界中で何百万部も売れた。その日本語版の翻訳を私が手がけることになり、実は、アトランタへの取材は、この続編のためだったのである。 �風……�をして、あれは完結した物語とみる人々は多い。作者のミッチェル自身もそう言い、続編を書く気はないと断言している。そのまま五十年近い歳月が過ぎたわけである。  しかし、思いだしてもいただきたい。レット・バトラーに去られて一人ぽっちになった傷心のスカーレットが、�明日はまた明日の陽が照るのだ�と呟《つぶや》いてあの大ロマン小説の幕が閉じた時、スカーレットは二十八歳だった。  スカーレット・オハラとレット・バトラーという、小説家にとってみれば、これ以上面白く、かつまた魅力的な人物はいないわけで、読者にしたって、二十八歳からのスカーレットがその後どうなっていくのか知りたいにきまっている。そういうことからこの続編の計画がされ、南部出身の女流作家、アレクサンドラ・リプレー女史が、その大役を与えられたのである。 �風……�の続編が書かれるというニュースを何年か前に初めて耳にした時のことを憶《おぼ》えている。眼の前が真っ暗になったような気がした。そして呟いていた——あたしが書きたかった——。子供の頃から数えて�風……�を何度読み通したかしれない。暗記ができるくらいだ。  更にそのニュースを読むと、続編を書いたリプレー女史のコメントが載っていた。「私はどちらかというと、スカーレット・オハラのような女は嫌いです」  その瞬間だった。自分が書けないのなら翻訳を私がしようと決意した。作者が小説の主人公を愛していなかったら、どうして読者がそれに共感し、主人公を愛せるだろうか。私はスカーレットの愚かさもずるさも全て含めて、彼女を愛している。それだけが理由で、私はこの翻訳を進んで買って出た。幸い出版社の方でも受けて下さり、このたびの運びとなった次第である。�スカーレット�の翻訳を進めていくうちに�風……�のすばらしさ、ミッチェルの才能に改めて打ちのめされるような思いにしばしば襲われた。ようやくこの九月で校了となったが、ほぼ一年間の時間をかけ、原稿用紙にして三千枚弱の膨大な仕事となった。あとは日本人の�風……�のファンに、読んでいただくだけである。  8:00 P.M. --------------------------------------- 最後のハシゴ酒  このところ健康にいいということを片っぱしからやっている。年のせいかもしれない。ヨガをやり気功をやり、無農薬野菜を取り寄せ、霊験あらたかな湧水《わきみず》があると聞けばそれを送ってもらう。  ストレスをためると癌《がん》になると信じているので、一日分のストレスは極力その日のうちに発散するようにしているし、それでも残ってしまうストレスは週末ごとに、更に月ごとに、それでもまだ執拗《しつよう》にこびりついている分は年単位のヴァケイションで完全に躰の中から抜いてしまうようにしている。  しかしストレスというのは、ためてしまうより、ためない方がいいわけだから、ためない工夫もしてより万全を期している。たとえばどうでもいいようなことでは、いちいち腹を立てない、くよくよしない。  そして躰にいいことばかりしているのも、これもまたストレスの原因になったりするから、躰に悪いことでも、したかったらすることにしているのだ。たとえばタバコ。たとえば夜ふかし。たとえば深酒。たとえば飽食。かと思うと、思いだしたようにリンゴのダイエット。三日間連続でリンゴだけ食べて、三キロ減らしてしまう。月に一回だけ、このリンゴのダイエットをすれば、辛うじて現状の体重を維持できるというしかけ。  時々困ることがある。ビタミンCは躰にいいというので、錠剤で毎日|摂《と》っていると、ある日新聞で、その反対のことが書いてある。慌てて家中のビタミンCを捨ててしまうと、今度はまた別の記事で、やっぱり躰にいいと言うので買い直す。うちにはAとBとCとDとEとやたらにビタミン剤が林立している。すると友人が言う。「薬でとってはいけない。躰がそれに依存してどんどん弱くなる」。彼はそれで私に根菜で作るスープと玄米スープの作り方をFAXしてくる。家中からビタミン剤が全て消え、台所中に大根、にんじん、ごぼうがゴロゴロしだす。自主性がないというか付和雷同というか、自分でも情けない。  更に恥を話せば、買って一回試しただけで埃《ほこり》をかぶっているスポーツ自転車、机の下に転がって出番を待っている青竹の足踏み、手指の運動ひいては頭の運動のためと称する中国の大理石の玉《ボール》二つ。脂肪を筋肉に変えるつもりで買ったダンベルなどが、二度と使ってはもらえず、静かに出番を待ち続けている。  このはちゃめちゃぶりだが、健康に良いことと悪いことのバランスがプラス・マイナス・ゼロということなのだろうか、今のところはいたって元気である。  午後八時。たいていこの時間は飲んでいる。といっても私はお酒だけクイクイと飲む性質《たち》ではないので、たくさんのおかずを眼の前に並べて、ゆっくりとお喋《しやべ》りを楽しみながら飲む。お酒は何でも好きだ。その日に食べたいものに合ったお酒ということになるので、和食なら当然日本酒。中国料理なら紹興酒、洋食ならワインということになる。  楽しい相手がいるのが一番|美味《おい》しく飲めるが、相手がいなくても別にかまわない。おつきあいで意に染まぬ人と飲み食いするくらいなら、一人で好きなものを作り、レンタル・ビデオの映画でも見ながら、ちびちびとつまみかつ飲む方が、はるかに楽しい。  お酒というと、亡くなった太地喜和子さんのことを思いだす。それほど深いおつきあいはなかったが、一夜、徹底的に飲んだことがある。  彼女はハシゴ酒だった。席が温まると思うと、「さあ、次へ行きましょ」と、ひょいと腰を上げるのだ。私は居心地の良い片隅を見つけて、猫のようにゴロゴロ言いながらゆっくりと飲むのが好きなので、ハシゴ酒は切なかった。  けれども、太地さんは、席が温まってしまうのが逆に切ないタイプの人だった。どちらがより切ないか秤《はかり》にかけて、その夜は彼女に譲った。次の時には、あなたの好きなところで、ずっと動かずに徹底的に飲もうね、と彼女は約束したが、結局、それを果たしてはくれずに、先に逝《い》ってしまった。  あの夜は大雨が降り続く嫌な夜で、ハシゴはほんとうに辛かったことを、昨日のことのように思い出す。  9:00 P.M. --------------------------------------- 記憶って何だろう?  電車がゴトリと揺れた拍子に、遠い昔、中学のソフトボール部の先生のことを、ふっと思いだしたりする。先生の黒い縮れ毛と、猫背の丸い背中とを。そして、彼が肩のところでいったんためてから、手首をひょいと折って投げてよこすボールを、私自身のグローブで受けた瞬間の、固いような柔らかいような確かな手応《てごた》えとを。 「お前、肩がいいなぁ。ピッチャーをやれ」子供の頃から、誉められて上手になるタイプの私は、しっかりと先生の言葉に応え、めきめきと上達し、学校対抗の試合に次々と勝っていった。そして、完全試合の記録を作り、天才少女現るという噂《うわさ》が立ったかどうか知らないが、その晴れの記録を作った翌日に、泣く泣く脱部届けを出さなければならない運命だった。  というのは、親に隠れて一年間やっていたソフトボールのことが知れてしまい、父親の激昂《げつこう》に触れたからである。親は私を音楽家にしたくて、小さい時から私にヴァイオリンを無理矢理に習わせていたのだ。ソフトボールなどして、突き指などしたら、一生台無しだというわけで、あの時の父の怒りはすさまじかった。  一年間、毎日のようにソフトボールの練習をし、日曜日というと試合に出かけていったのに、よくもまあ親に知れなかったものだと思う。どんなにくたくたにくたびれ果てても、ヴァイオリンの練習をなまけなかったせいかもしれない。あの頃はだから、夕方帰ってから練習するのではなく、早朝、学校に行く前に、二時間ばかり稽古《けいこ》していたような気がする。  親の命令は絶対だった。私は昼休み、部長であるクラスメートと共に、教員室に先生を訪ねた。理由を言って、断腸の思いで脱部を申し出た。泣くまいと思った。絶対に泣くまいと。私は先生が文字通り手塩にかけて育て上げたホープだった。ほとんど天才ピッチャーだった。投げる直前、自分でイメージした通りのボールが、カーブであれ、ドロップであれ自由自在に投げられたし、そのボールをバッターが空振りするイメージすら描けた。そして本当にバッターたちは、私が直前にイメージした通り、空振りしたり、ゴロの凡打に終ったりしたのだ。面白いように、怖いように、ボールを投げることができた。  先生は、何も言わなかった。わずかに視線を落したまま、十分近く、凝固したように黙っていた。私には、あの時先生がどれだけがっかりし、まいっていたか痛いほどわかっていた。先生も、私が本当はヴァイオリンよりもソフトボールの方がはるかに好きで、そしてずっと才能があるのがわかっていた。  結局先生は、「よしわかった」とは言わなかった。何も答えてくれない先生に一礼して、私は下がった。教員室のドアのところでもう一度一礼した時、先生の猫背の背中が、いつもよりずっと丸いことに気がついた。その時、セキを切ったように涙が迸《ほとばし》り出た。  また電車がゴトリと揺れると、何もかもがすっかり消え、私は今週末予定に入っている講演会のことをチラッと考え、それからその翌日のゴルフのコンペのことに思いを移した。中学生の時に天才ピッチャーだったんだもの、もう少しゴルフが上手《うま》くてもいいんじゃないかなぁ、と溜息《ためいき》が出た。岡本綾子だってソフトボールの選手だったんだもの。  窓の外を見ると、秋色が深くなっている。イチョウの黄金色の樹から、ハラハラと葉が落ちる。すると、なぜか、焚《た》き火の匂《にお》いが鼻の奥に生じる。私の脳裏に上野の森をヴァイオリンを提げて歩いている娘時代の姿が浮かび上がる。足の下にカサコソと踏みしめる落葉の感触まで、実に鮮やかに甦《よみがえ》る。あの頃私は芸大の学生だったが、すでに心はヴァイオリンから離れていた。せっかく芸大まで入ったのに、音楽は歓《よろこ》びではなくなっていた。落ちこぼれ、閉めだされたような気持で、紅葉の下をうつむいて歩いていた。色々なことを犠牲にして——中学時代のソフトボールも含めて——しがみついてきたものが、一体何だったのだろうと、茫然《ぼうぜん》自失していた。あの頃からだった。私が音楽より人間に興味を抱きだしたのは。それ以来、私の中を夥《おびただ》しい人たちが行き来し始めそして通り過ぎていった。  記憶って何だろう? 時々その不思議に、はたと考えこむ。何の脈絡もなく突如浮かび上がっては消えていく記憶。それに合わせて、現在の自分の位置がわかるかもしれない。  10:00 P.M. --------------------------------------- 門限戦争  今の女の子たちに、門限なんてあるのだろうか? 少なくとも我が家の娘たちには、ほとんどないも同然だった。  高校生の時は、月に一回、学校主催のダンスで、帰りが十一時を過ぎるくらいのものだったから、ほとんど問題らしき問題はなかった。  もっとも、インターナショナル・スクールに通っていた娘たちは、親、学校公認のもとに十五歳で男の子たちと、堂々とダンスが踊れたのだから、普通の日本の高校生とは違うと思う。  第一、学校がダンスパーティーを主催する、ということだって、日本の受験第一主義の高校では考えられないことだろうし、ダンスの後片づけをやらせて生徒を帰すのが夜の十一時だなんて、父兄も許さないだろう。  娘たちの学校では、その父兄が夜の十時半頃から、次々と車で乗りつけ、ダンスパーティーの終った娘たちをピックアップして帰っていくのだ。  この娘たちのおかげで、それまで、父の時から延々ときまっていた私の十時の門限が、十一時になったことは、まさに画期的なことだった。十八歳頃から、結婚するまでの私は、厳しい父親のきめた門限十時を死守することが、何にも先行する義務だったのだ。  もちろん、門限は破られるためにある。そして事実そうだった。遊びほうけた時代は、夜中の一時、二時になって、ぬき足さし足で裏口からそっと家の中に入りこむのだが、きまって暗がりの中に父がぬっと立っていた。  結婚して、これでようやく門限から解放されると小躍りした私だったが、共稼ぎのある年の忘年会だかなにかで、帰りが終電になった。そっと鍵を回してスウィート・ホームに足をふみこむと、薄暗がりの中にぬっと立ちはだかっていたのは、今度は夫であった。あの時の絶望感はまことに深かった。  結婚をした子持ちの女が、子供や夫を放ったらかして遊ぶこともなかったので、子育てのために家庭に入ってしまうと、門限との葛藤《かつとう》はしばらく収まった。  それがまた三十五、六歳で小説を書きだすと、再び門限戦争が再開された。週に一度か、せいぜい二度だが、夫も子供もおっぽりだして、取材だ、対談だ、インタビューだという様々な理由をつけて、夜の外出が始まった。  十時なんて、あっという間だ。これからという時になると、私はあたふたと帰り仕度をし始めなければならない。  あの当時の夜の十時の門限には、二通りの解釈があった。「十時には家に帰っている」のと、「十時になってから家に向かう」というのと。当然帰宅時の時間には、一時間の開きができる。  で、どちらかというと、後者の方が圧倒的に多くなっていったので、夫との衝突が絶えなくなっていった。  十時に家に着いているためには、九時に腰を上げなくてはならない。ディナーでいえば、デザートをようやく終り、これからコーヒーという時に、立ち上がる必要がある。十時になってから腰を上げる、というふうに解釈すると、コーヒーはもちろん、食後のブランディーと余韻にみちた食後の会話が楽しめる、この差なのだ。  しかし、今から思うと、後ろ髪を引かれながら友人たちに「またね」と別れを告げ、「ああまた、今夜も夫に叱《しか》られる」と思ってシクシクと痛みだす胃を抱えて、ひたすら急ぎ足で帰っていく道のりの、なんという切なさ、ほろ苦さであったことだろう。常に物足りず、一方では常に後ろめたかったからこそ、あの門限時間がめくるめくように過ぎていったのだ。あの頃は、ほんとうに夜が輝いていた。  現在、何時に帰ろうと誰も何も言ってくれなくなると、「なんだつまらない」という感じで、頼まれもしないのに、十時前には家に帰り着いたりしている。帰っても、三人の娘たちはとっくに親離れしているし、夫も女房離れしていて、家の中は人気がない。ほんとうに、つまらない。  11:00 P.M. --------------------------------------- 病気休暇  健康であることが何よりも自慢であり、取り柄でもあった。肉体的にどこかが痛かったり、熱があったり、どことなく具合が悪かったりすると、てきめん、原稿用紙に向かう意欲が消失してしまう。多少の風邪《かぜ》や熱ぐらいなら、ゴルフには出かけて行くが、これが机に向かって書きものとなると、まるでその気になれないのだ。  そんなわけで、日頃から極力健康には気をつけてきた。  と言っても、かなり無茶なダイエットを続けたり、その反動で暴飲暴食に近いことなどをくり返してきたが、よく眠るということだけは、守りぬいてきた。とにかく眠ることだ。理想的には八時間。ちゃんと熟睡すれば六時間。  それとストレスを溜《た》めこまないことにも注意をした。その日のストレスはその日のうちに取り去ることを原則に。それはたいていよく眠ることで解消するが、いい友だちといいお酒を飲み、大いに笑いあうことも大切だ。  その日のうちに取り除けなかったストレスは週末とか、月ごとにまとめて、ゴルフやセイリングや小旅行などで徹底的に解消してしまう。  そんなわけで、非常に元気で健康だったおかげで、この五年ほどは馬車馬のようによく働いた。そしてこまめに時間を作りだしてよく遊んだ。文字通り、病気をしている暇などなかった。だから風邪ひとつひかなかった。  年に一度くらい、予定していた講演会とか仕事がキャンセルになったりして、ぽっかりと三日ばかり空白の日ができたりすることがある。これは不意の贈りもののようにうれしいもので、こういう日は大好きな京都で目的を作らずのんびりと過ごそうと新幹線にふらり乗って出かけていく。宿についたとたん、ぐらっとくる。やけに熱っぽく躰がだるい。ちょっと横になって一休みしてから、お寺の一つも回ってみようと休んだが最後、それっきり三日間、起き上がれなかったというようなことが、往々にして起こる。  不思議なのは、旅先の宿でうんうんうなっていても、四日目の仕事までには、嘘《うそ》みたいにケロリと治ってしまうことだ。  病気でもしないと、躰を休めることもないから、ちょうどいい機会に三日連続寝ていなさい、ということらしい。  このところ、そのパターンが少し違ってきた。ついこの間までは、病気の方で遠慮して、不意のキャンセルなどで躰が空いた時だけを狙《ねら》って私を襲ったのだが、去年の暮れあたりから、こちらの都合におかまいなく、病気が襲いかかってきて、無理矢理に私をベッドにねじ伏せるような具合になってしまったのだ。  風邪などひいている場合では絶対にない時なのに、悪寒《おかん》や熱や節々の痛みに襲われて、否応なくベッドへ入らざるを得なくなる。  あるいは、あれだけ強かった私の胃袋が、急にケイレンなど起こして三日三晩私をベッドに縛りつけるといった具合なのだ。  これはいかに!? とさすがの私も不安になった。ついに、年相応に、肉体の方が悲鳴を上げ始めたのだ。暇になるまで待てなくなって、ニッチもサッチもいかないような状況の時にも遠慮せず「お前、いいかげんで躰を横たえろ」といわんばかりに、風邪をひかせるのだ。病気にでもならないかぎり、仕事はむちゃくちゃだし、神経も休まらない。そこで躰がもたなくなり、私に病気休暇をくれてやろうという気になるらしい。  去年の後半は、空前絶後の、三十分刻みのスケジュールをこなしていたこともあって、ついに、そういうことになってしまった。  妙な話だが、病気で何度か倒れたおかげで、私は健康になんとか一年をやり終えた、という感じなのだ。  ——午後十一時。特に何事もなければ、この時間に私はベッドに入る。健康第一なので。  0:00 A.M. --------------------------------------- 年の終り  真夜中。といえば真っ先に頭に浮かぶのは、大晦日《おおみそか》の除夜の鐘。  ところが、私は意外にも東京の我が家でこの百八ツの煩悩を追い出す音を聞くことは少ないのだ。  思いつくまま書いてみると、何回かはスイスのスキー場でニューイヤーズ・イヴを迎えている。サンモリッツ・シャモニー、そしてバルディゼールといったスキーのリゾートだ。日本と違って、花火が上がり、爆竹のような音があちこちでして、たいていの広場は人が一杯になり、真夜中の合図と共に、誰かれかまわず抱きあってキスを交わす。  夫の両親がまだ健在な頃は、何度かクリスマスからお正月にかけて、親子連れでイギリスを訪ねた。トラファルガー広場で真夜中の十二時を迎えたこともある。記憶するかぎり最も寒い思いをした夜だ。  ある年は、バンクーバーの島で、ひっそりと迎えたこともあったが、この時は多分、十二時まで起きていることができなくて、早々に十時頃眠ってしまったという記憶がある。  私は四歳まで中国にいたので、その四年間は、その地でお正月を迎えた。  日本にいる時でも、サホロにスキーに行くことが多く、四、五回は北海道で新年になった。  そんなわけで、東京の自宅でゆっくりとくつろぎ、コタツに入って紅白を眺め、みかんをむき、年越しそばを食べて、やがて除夜の鐘を聞く、という典型的な日本の大晦日を経験したのは、子供時代の十年間くらいのことだと思う。日本人でいながら、しかも日本に居住しているのに、なんとも妙な話である。  これまで生きてきた歳月の五分の四は、外国か自宅以外の場所で 0:00 A.M. を迎えたという勘定になるわけだ。  と、そんな思いもあって、去年の大晦日はなんとかコタツ、ミカン、年越しソバ、除夜の鐘のイメージでいきたかった。そこで親友の画家、田村能里子宅へ押しかけることになった。私のために、アトリエにコタツを置いてくれて、ミカンと年越しソバも用意されていた。  たちまちお喋《しやべ》りが始まり、止《とど》まるところを知らなくて気づいたらなんと午前二時近い。お喋りに熱中していて、肝心の除夜の鐘を聞きそびれてしまったのである。そういえば、去年の大晦日は五人いる我が家族は、世界中に散らばり、てんでんばらばらに新年を迎えたっけ。私は前述の通り、車で十分の田村邸にいたが、夫は単身ヨロン島の別荘で、ヨロンの人々とサトウキビ焼酎《しようちゆう》を飲み明かしたそうだ。  長女はベルギーのブリュッセルで、末娘はロンドンで、そして次女は東京のどこかで友人たちと、それぞれ一年最後の日と新しい年の第一日目を過ごしたことになる。  さて、大晦日の話はこれくらいにして真夜中の十二時——。この時間は、タクシーが拾いにくいので、外出しても、十一時前には家に帰ってしまうか、でなければ、一時過ぎまでどこかで飲んでいるか、中途半端な時間である。  けれども本能的に真夜中の十二時というのは、血が騒ぐというか、なんとなく落ち着かない時間ではある。娘時代、門限が十時だった頃、真夜中の十二時は私にとって、何とも後ろめたく怖ろしい一瞬だった。これが過ぎてしまうと、一時、二時はもうヤケクソでどうでもよかった。  その名残りなのだろう。今の歳になっても、ソワソワしてしまう。もっとも、夫が私に課していた門限があってなきがごとくなってしまった昨今、思いきり夜を徹して遊ぶかというと、それがそうでもない。タブーがあるからそれを破る楽しみがあるわけで、何時に帰ろうと文句を言われなくなると、案外真面目になってしまうのである。従って最近は十二時過ぎるまで飲んでいることも、めったになくなった。 一九九三年五月、角川書店より単行本として刊行 角川文庫『終りの美学』平成10年11月25日初版発行