森瑤子 渚のホテルにて 目 次  一 骨  二 料理人  三 ウィークエンド  四 パーティ  一 骨  騒がしかった季節が過ぎ、渚《なぎさ》に人気がなくなると、『鮫《シヤークス・》 鰭《フイン・》 亭《イン》』の宿泊客はぐっと少なくなり、それももっぱら週末にしぼられる。  その週末でさえも、五部屋ある客室のひとつかふたつ埋まれば良い方で、週によっては滞在客ゼロの時もある。  七月と八月をのぞいた残りの月は、三人いたアルバイトの従業員も断り、コックが一人と経営者夫婦だけで宿とレストラン部とをとりしきる。  純文学畑であまり売れない小説を書いている亭主が、自分では凝ったつもりで名付けた『|鮫 の《シヤークス・》 |胃 袋《スタマツク》』という名のレストランは、都心から車で一時間半の距離にあるということもあって、シーズンオフでも週末や祝日はドライヴのアヴェック客で、ランチ時もディナー時もほとんど満席になる。  普通の日は、車で乗りつける客の数は極端に減り、散歩がてら歩いてこられる常連客で、こちらは満席とまではいかないが、結構日銭は稼げる。  そんなわけで亭主は、客のたてこむ週末の昼時と夜とをのぞき、安心して売れない小説を書き続けられるというわけだった。  彼は、海に面した一番眺めの良い小部屋を書斎に占領し、その重い木製の扉の上に『|鮫 の《シヤークス・》 |脳《ブレイン》』と書いた焼き板を張りつけ、自分の逆説的ユーモアに、まあまあ満足している様子。  同様に五つある客室にも、それぞれ焼き文字のネームプレートが釘づけになっており、『顎《ジヨウズ》』『歯《テイーズ》』『鮫《シヤークス・》 皮《スキン》』『骨《ボーン》』『尾鰭《フイン》』などと名づけられている。 『骨』のかわりに最初は『鮫肌』と彼は命名したのだったが、さすがに悪趣味に過ぎると思い直し——ほんとうは客が敬遠していつも最後までその部屋が埋まらなかったので——悪い趣味という点ではあまり大差はないのだが『骨』になったといういわくつき。良く見比べると、『骨』の焼き文字だけが他のものより少し新しいので、凹凸もはっきりしており文字も黒々としている。  あとはキッチン——ここだけは無名。ステンレススティールとホウロウと、鉄板とでぴかぴかに磨きたてられた驚くべき清潔さの象徴。病的な磨き魔とも言える頑固な料理人《コツク》が、料理に専念する以外のほとんどすべての時間をクレンザーとタワシに費《つ》ぎこむ喜ばしい結果だ。この場所は暗黙の了解の下に亭主もその妻も立ち入らない料理人の聖域だ。従って夫婦のための小さなキッチンは別にある。  二階の、海側ではなく——そっちは五つの客室と亭主の書斎に占領されている——小高い丘に面した方に、夫婦の寝室とそれに続く小さな居間、簡単な料理程度のできるキチネット、それにバスルームがある。  客室との間には、廊下を少し広げた程度のホールがあって、アンティークのそれぞれ形も年代も作られた国も異なる椅子が四つ、コーヒーテーブルが二つ、簡単な書き物程度のできる机、それに壁一面に造りつけになっている本棚とそれをぎっしりと埋めつくしている書物などが配されている。  もっともこのホールの椅子に腰を落ちつけて本を読むような客はめったにいない。毎年五月の連休とクリスマスあけから正月にかけて、それからサンクスギビングの休みがとれる外国人の家族連れといった、常連の長期滞在客がそうするくらいで、週末の泊り客や、特に夏期の海水浴目的の連中など、ほとんど絶対といって良いほど、本になど手を伸ばさない。  それに書棚の本の背文字をざっと見渡したかぎり、旅先の宿で小一時間読むといったようなタイトルの本は皆無だった。むろん純文学作家の亭主の息のかかったものばかりだからだ。  夫婦の私室の扉の上には、単に『プライベート』という英文のプレートがかかっている。しかもなぜか、凝った焼き文字ではなく、プラスティック製の既製品だ。よく地方の旅館や喫茶店、レストランなどで見かける『浴室』だとか、『洗面所』『食堂』というのと同じ味もそっけもない代物。なぜなのかは、わからない。亭主は単に、自分たちがこの建て物を買った時からついていたものを、そのまま使っているのに過ぎないと言うのだが。  もっともこの建て物を買ったのは、正確には、自分たちというのはあたらず、彼の五歳年上の妻が——更に正確をきせば彼女の別れた最初の夫の慰謝料で——買ったものである。むろん、小説家の亭主が、自分たちとさりげなくしかもひかえめに言う時も、その後私室に引き取った後も、妻であるところの女性は異議をはさまない。  小説家の妻の名前は夏世。年齢は三十八歳だが、三十代の前半に見える。まっすぐに肩のところで切りそろえた髪型のせいと、どんな季節にも軽く日焼けをしているために——それと子供がいないこと、仕事をしていること、生活臭がないということなどの理由で——しばしば五歳年下の夫の方が年を喰って見える。  実際、海野潮《うんのうしお》——ペンネームでもあり、人はあまり信じないのだが実名でもある——の年を正確にあてられる者は少ない。たいていの場合、書きかけの、それもたいてい編集者から書き直しを命じられる——柔らかい口調で、サジェスチョンの形式を取りはするが、命令には相違ない——小説の、主として文体に関する悩みで、彼の痩《や》せた肩は打ちひしがれており、すらりとしているわりには軽い猫背、身長に比して長すぎる腕で、優雅さのバランスをわずかに崩してしまっているといった諸々の要素のために、潮は年老いた少年といった第一印象を人に与える。  そういう印象は大体夕方の四時位まで続くが——四時になるとウオツカをトニックウォーターと炭酸水とで半々に薄めたものを、ちびちびと、しかし延々と夜半過ぎまで(その頃にはトニックウォーターや炭酸水の方をウオツカで割っている)啜《すす》っているので——アルコールが入るにつれて、老人の顔も少年の面影も両方ともが消えていき、本来の年齢の男のもつ容貌《ようぼう》と雰囲気とが彷彿《ほうふつ》としてくる。  彼は彼をたえずわずらわせている文体のことを、完全に頭の中から追い払うことはできないまでも、アルコールの霧の彼方に、もうろうと意識する程度にまで遠ざけることに成功すると、低いがよく響く声で、妻、客を相手に喋り始める。時として饒舌《じようぜつ》に。そういう際の彼は一種の躁《そう》状態で、陽気で気持良く、騒がしくなるが、アルコールが切れると、とたんにピタリと口をつぐみ、肩のあたりに苦渋の色を滲《にじ》ませて、背中をわずかに丸めると鮫の脳髄の中へ閉じこもってしまうのだった。  人は多かれ少なかれ、酒によって陽気になったりはしゃいだりするものだが、海野潮の場合は、躁と鬱《うつ》との振幅が人よりかなり大きいのだろう。しかもその周期は短く、一日に鬱から躁へ、そして再び鬱へと移っていく。が、病的なところまではいっていないと彼は思っているし、事実潮をひそかに悩ませているのは、躁鬱症の影に怯《おび》えることではなく、長年にわたるアルコール漬けに関することの方だった。  彼はいとも簡単に、ぼくはアル中ですよ、と口に出しては言うのだが、口で言う調子ほど胸のうちは平静ではない。世の中には、アルコールが入っても物が書ける作家はいるし、アルコールが入らないと書けないという幸運な物書きもいるが、潮に関してはアルコールが一滴でも入るともう駄目だった。  血が泡立つような具合になり、躰《からだ》が熱くなってくると、言葉を原稿用紙に埋める作業より、実際に声にだして喋ってしまいたくなる。自分が酔いにまかせて喋っているような具合に物が書けたら、俺は今頃芥川賞だと思うのだが、いや待てよ、喋るように書いちゃ芥川賞は無理だ、直木賞の方だろうなどと、つまらないことを考えたりする。  逆に物を書く状態の時は、躰の体温が平常時よりもわずかに低い感じ。手足が冷たくなっている状態で、血管を流れる血も蒼《あお》ざめていると感じられる場合に限られる。しかしそういう状態に自分を置くというのは、実に寒く、実に孤独な上に憂鬱な行為であるから、シーズン中は別にして昼食時の『鮫の胃袋』での仕事を妻とコックだけにまかせたとしても、机に向っていられるのは眼を覚まして二時間後の十一時から午後四時までのわずか五時間。その五時間のうちに五枚でも六枚でも書ければいいが、たいていは一枚か二枚で、頬杖などついて茫然《ぼうぜん》と眼の前に横たわる季節外れの淋しい渚と海面とを眺めているという毎日。  一枚か二枚だけ書いて、茫然自失して海を眺めるということが、どんなものかは、本人でなければ絶対にわからないことだ。  いっそのこと一枚も書けないという方が、はるかに潔く、諦《あきら》めもつき楽なのではないかと思う。たとえば希望が全く無いという状態より、その暗黒の絶望の闇に一条だけ射しているクモの糸ほどの希望の光明が、人を息苦しく生き難くするように、一枚か二枚であとはバッタリとペンが止まり、砂を洗う波の果てるともないくりかえしを凝視していると、内臓器官のいたるところから血が滲み出てしたたり落ちていくような感じにとらわれる。で彼は、慢性の貧血状態といったところ。肌も透きとおるように蒼白い。  胃や十二指腸に神経性の潰瘍《かいよう》ができたとしても少しも不思議ではないのだが、夜毎のウオツカに焼きつくされて、そんなものはできたとしてもとっくに姿を消してあとかたもなくなっている。喜んでいいのか悲しむべきか、今のところは潮はきめかねている。  もっとも潰瘍の後にウオツカが浸みこんで、穴があき、胃穿孔《いせんこう》にでもなれば、これはもう立派に悲劇であるが、今までのところは、胃がしくりとも痛むというようなことすらない。吐き気は始終しているし、食欲不振は何年も続いているが、これは二日酔いの徴候であると見た方が妥当のようだ。  いずれにしろ、今夜ぐらいはまだ大丈夫だろうというのが彼の希望的見解で、その今夜ぐらいがもう数年続いているところをみると、潮の胃壁はまれにみる頑丈な代物らしい。  もっとも胃壁に穴があく段になると、これは人から聞いた話だが、ピンホール大の穴が徐々に拡がっていくといった悠長な段階を経るのではなく、いきなり豆つぶ大の穴がばんとあくのだという。嘘か本当かは、いずれ自分の胃壁で証明されるだろうが、いきなりばんとくるという話は、なんとなく信じられそうな気が、彼はしている。  それで、今のところまだ大丈夫であろうと、自らに暗示をかけておいて、今夜も潮はウオツカの瓶に手を伸ばすというわけだ。 『鮫の胃袋』もキッチンもしんとしている。六時の開店まで、レストラン部の明りは、レジの所にある船ランプをのぞいて消してある。四時から五時の一時間は、コックの張がキッチンに続く一坪ばかりのスペースで、仮眠をするのにあてられている。このコックは中国と日本の混血だが、若い頃パリでフランス料理を修行して戻ったところで夏世の前夫が経営していたレストランのひとつに入りフランス料理の腕を振っていた男だ。  父親が中国人だが、母親の方に四分の一だけ白系ロシアの血が混っていたために、張にはどこか国籍不明の感じが漂い、自分では中国人のつもりだが、国籍は台湾で、しかも生れ育ったのが下町の浅草、青春時代から二十六歳までをパリで過ごし、戻った後は麻布《あざぶ》で四年間働き、夏世が離婚して逗子《ずし》に『鮫鰭亭』を出すと、彼女に乞われてこっちに移って来たという経歴の持ち主。  夏世の前夫は、慰謝料の額については、気前よくとまではいかなくとも、弁護士を通じて提示した額にほとんど近い金額を出したが、コックの張を手放す点に関しては長いこと渋っていたという噂だ。  結局その決定は本人である張にゆだねられ、彼は料理に関するかぎり自由にやらせることを条件に、案外あっさりと夏世について、逗子に移ることに同意したと、潮は聞いている。 「もちろん、キッチンではあなたが王さまだわ」と、夏世は契約書にサインをしながら言った。 「ということは、メニューの決定から材料の仕入れまで、全部わたしがやれるということですね」と張が念を押した。  そして張が作りだしたメニューは、フランス料理の中国風ヌーベル・キュジーヌといったものであった。  幸い場所柄、生きの良い魚介類が手に入る。それと中国の香草を利用した料理は、すぐ土地のグルメたちの噂にのぼり、まずレストランとして出発した『鮫鰭亭』は上々のスタートを切ったのであった。  レストラン・アンド・ホテルとなったのは、『鮫鰭亭』が開店して一年後で、夏世の知りあいがウィークエンドの夕食を、車を飛ばして食べに来てくれた折り、話がはずみ帰りが深夜に及んだり、つい食後のリキュールを飲み過ぎて運転が不可能になったりすると、二階にある使っていない部屋に泊ったりした。少しすると、そういう友人の常連客が、初めから一泊の予定で食べにくるようになり、只《ただ》というわけにはいかないからと、何がしかの宿泊料めいたものを置き、夏世にしてみれば友だちからそんなものは取れないと拒否する。  けれども、一度や二度なら友情に甘えられても、大手を振って利用するには、きちんと宿泊料のようなものを取ってくれた方が、気持の負担にならなくてすむという意見が多くなり、そういうものが出せないような経済状態というわけでもないのだからと、夏世も次第にその気になっていく。  それに、渚に面した小綺麗な、小さなホテルを経営するのは面白そうだった。幸い夫は反対しなかった。口では俺にたよってもらっては困る、そういう方面には全く暗いのだから、というようなことを言いはしたが、それでも部屋やレストランに名前をつけたりする程度には協力的で、海水浴客のシーズン中はほとんど一日中『鮫の脳』の中にひきこもって、騒々しい避暑客を避けているが——その分夏世はアルバイトの男子学生を一人余分に入れなければならなかったが——シーズンオフになると『脳』の中から出てきて、夏世の手伝いを進んでやる。もっとも彼がやるのはバーで飲みものを作ることとちょっとした力仕事——テーブルの移動といった——とレジで勘定を受けとる仕事が主で、絶対といっていいほどトレイに載った料理を客席に運んだりはしない。そのかわり、食前酒とワインと、食後の酒に関することは受けもった。レストランの仕事が一段落するとホームバー程度の小さなカウンターの内側に入って、客があってもなくても、そこでもっぱら自分のためのウオツカのカクテルを作り続ける。  レストランからホテルを兼業するようになって二年目に入っていた。その間に『鮫鰭亭』の常連客は確実に増え、季節によっては一年先の予約がうまるほどになって、夏世の悩みは、ごく親しい友だちの需要に時として応じられないことだった。  しかし逆にシーズンオフでどんなに空いていても、夏世はフリーで来た男女の客はとらない。でないと、あっという間に、ラブホテルになりさがってしまうというのが彼女の意見だった。  潮は言う。 「いずれにしたって、結局は同じことじゃないか。うちに泊りに来るのはたいていアヴェックだし、渚のホテルまで遠出してくる男と女が、海の見える部屋に入って、何もしないってことはないよ。きみがどう言おうと、どう思おうと、やっぱりラブホテルさ」 「そうかしら」夏世は首をかしげる。 「そうだよ。きみのために言い添えれば、多少は上品な、とつけ加えることはできるけど」それから何か思いだしてニヤリと笑う。 「もっともそうでもないか。常連の連中だって必ずしも夫婦で来るわけじゃないしな。夫は夫で若い女を同伴するし、女房の方も結構、ラブアフェアーを楽しんでいるみたいだし」 「観察が鋭いのね」夏世が笑う。 「馬鹿じゃあるまいし。それにぼくはこう見えても小説家だぜ」 「もちろんよ」と夏世は夫に言う。「小説家以外の人間にはとうてい見えないわ」 「そいつは誉め言葉じゃないな」妻の顔からふと視線を外すと、潮の眼は何も対象を見ていないような感じになって、窓の外の海辺の方へと流れていく。  海水浴場の晩夏は、かつてそこに人々がむれ、色とりどりのテントが水辺を埋め、渚添いのホテルもレストランも日焼けした男女で溢《あふ》れかえり、ポータブルのラジオカセットから様々な音楽が流れ、数えきれないほどの一夜の恋がくりひろげられ、出逢《であ》いと別れがあり、夜はきらめきながら長々と続き、昼はどこもかしこも太陽が一杯にふりそそぎ光と影の対照はくっきりとしている。夥《おびただ》しい食料が消費され、それを上まわるゴミが捨てられ夜毎の狂騒が激しかった分だけ、寂寥《せきりよう》としてしまうのだ。海の色は深くなり、光は眩《まぶ》しさを失って透明になってゆく。  テントとビーチタオルで埋めつくされた砂浜からも、かつての色彩と熱気とが消えると、どこか海の底から運ばれてきた魚の巨大な骨の断片がヨットの帆のような形で砂に突き刺ったまま、夕陽をあびて横たわっているのが見える。 「あれは何の骨だろう」と潮が午後四時過ぎの『彼のカクテル』の入ったグラスを左手に握りしめながら呟《つぶや》く。骨は夕陽のせいで血塗られたように赫《あか》い。 「鮫じゃない?」夏世は直感的に言う。 「確かめてくるか」潮はふらりという感じでフレンチドアに向う。その背へ夏世が言う。 「拾って来ないでちょうだい、魚の骨はいつまでも臭いから」  それには答えず夏世の夫は片手にグラスを握ったまま、パティオから芝生のある小さな前庭をぬけ、急ぐふうもなく白いペンキの柵を越えて渚の中へ出て行く。  飄々《ひようひよう》とした歩き方。細身でありながらどこかうっそりとしていて、肉体の存在感が希薄。この男のために過去の結婚を捨てたわけではない、と自分の胸に呟くのは、たいてい遠目に夫の姿を眺める時だ。結婚を捨てようとしていたら、たまたま彼が現われたのだ。  前夫の皮肉な言い方を借りれば、『夏世の好きなインテリぶった不良たちの集り』で、いつも常連の誰かが引っぱってくる新顔の、潮は一人だった。 「作家の海野潮」と紹介されたが、そんな名前の作家はたいていの者にとって初耳だった。 「四年ばかり前のなんとか賞で新人賞をとった男だよ」と常連は耳うちしたが、それが何という名前の賞であるかは忘れていた。 「どんな内容のご本を書いているの?」と誰かがお定りの質問をする。 「ロスの言葉を借りれば『てめえに罪を着せるてあいの本』ですよ」卑下するふうでもなく、かといって自己を顕示するふうも全くなく、淡々とわずかに皮肉な口調で潮が答える。「フィリップ・ロス、ご存知ない?」 「さあ」 「ユダヤ系アメリカ人の作家ですよ。ぼくはもうかれこれ十年近く彼にからめとられてしまって身動きがとれないでいる」それから訊《き》かれもしないことを喋ってしまったことで自分に腹を立て、その夜は二度と口を開くまいというように黙りこんでしまう、その横顔を夏世は見ていた。  しかし夜が深くなり酒がまわると、新人賞作家は前言を少し訂正する。 「ぼくが書こうとしていることは、正確には『不能』に関するテーマでね——」  すると女たちは、皮膚に生じた不快なできものを見るように、眉を寄せて一人二人と彼の側を離れる。 「ロスもまたそうなんだけど、いかなるレベルでも絶頂感に達しないことにこだわる——」そして最後に、少し離れたところで彼を見ているのは夏世だけになる。  潮は少し寒そうに肩をすくめて苦笑する。けれども夏世は笑いを返さず、長めの沈黙のあと質問する。 「あなたの喋り方、センテンスを終らせないのね。——なぜ?」 「それはいい質問だ」と潮が唇の端を歪《ゆが》めるようにして微笑《ほほえ》む。 「こっちが終らせようと言葉を探している間に、たいてい話し相手がどっかへ行ってしまうんだ」そう言って夏世の顔に、酔いのせいでぐらぐらと揺れているような視線を注ぐ。 「ぼくの読者も同じこと。まあ本のことはいいけどね。あなたは、ぼくが喋り終らないうちにどっかへ行っちまわない最初の女《ひと》だ」それからグラスの中の透明な液体に眼を落して——それは彼が実に度々やるポーズなのだが、考えてから続ける。 「それと、無名の物書きに向って、どんなものを書いているのかと質問しなかった点でも、最初の女」 「いつもそんなにお飲みになるの?」 「俺? ウオツカをね。浴びるほど」  その明け方、夏世はその女友だちの家の、二階のプライベートな浴室の中で、ひどく憂鬱《ゆううつ》な表情の、酔うほどに饒舌《じようぜつ》になっていく若い作家のジーンズのベルトを外している。  日焼けしたしなやかな手が、熟練した優雅な動きで男のジッパーにかかる。顔の色は、欲望のためにわずかに蒼《あお》い。  男は女の欲望にゆがんだ美しい顔を、半ば面白そうに、半ば軽蔑《けいべつ》したように、誠実と非情とが入り混じる表情で眺めおろす。やがてペニスが女の手によって引き出される。  それは彼女の掌《てのひら》の中に、不思議な重みと柔らかさとで、ぐったりと身を横たえる。女は巧みというよりはいささか粗野にも逆に優雅にも見える愛撫《あいぶ》を与え始める。 「わたしを見たら、少しは元気になるかしら?」夏世はすくい上げるように男を見上げる。 「そいつは、見てみなければわからない」  手の中のグラスからウオツカを啜《すす》りながら潮が低い声で言う。  夏世はTシャツを、何か一枚余分の皮膚をはぐような感じでするりと脱いで床に落す。二つのほんのわずかに垂れ気味の——ということは下半錐《かはんすい》のずっしりと重い——若さというよりは成熟を示す象牙色の乳房が、たよりなげにエロティックにむきだしになる。  潮はそれを眺め——欲情のきざしさえもなく——あいている方の右手ではなく、グラスを持った方の手を寄せて、水滴のついたグラスの底を、そっとではあるがいきなり夏世の心臓の真上に置く。冷たさに、彼女がはっと低く息を呑む。 「誰に対してもあなたは、こんなふうに、自分を投げだすのですか」グラスの底で女の胸の上に円を描きながら、批難するというよりは、たいして興味もない感じで潮が訊く。 「それとも、俺にだけ?」  その質問には答えず夏世は男のものの柔らかな重みを指先で計りながら、 「ウオツカのせい? それとも女が嫌い? お気に召さないのは、わたしなの?」と問いを重ねる。 「その質問に答える前に、まずあなたが俺の質問に答えるべきだ」 「つまりこういう場所で、慌ただしく男といちゃつくということが、よくあるかという意味?」  潮の右手が——ペンを持つ男の手が——乳房の重みをすっぽりと掌の中におさめてもてあそぶ。 「だったら答えはノーじゃないわ。もちろん誰とでもというのは全然あたらないけど」 「清潔なシーツの上ではなく、こういうタイルに囲まれた場所で立ったままやるのが、あなたの趣味なんですか」皮肉な口調。 「でもないわ。白いシーツの上だって素敵よ」夏世は少し傷ついて、よそよそしい声で言う。「それに、自分を投げだして自分を守るという方法もあるということよ。今度はあなたが質問に答える番ね」  男は女の言葉を吟味するかのように、右手の愛撫を休める。そして言う。 「ぼくのペニスがエレクトしないのはウオツカのせいってわけじゃない。それにホモの趣味もない。女は好きだ。——あなたは、ぼくが抱きたいと欲望する数少ないタイプの女のひとりだし——つまり抑制された外見からはうかがい知れない淫乱《いんらん》な女という意味でだけど」  潮は言葉を唐突に切り、グラスの中味を一気に口の中にあけ、ズボンのジッパーを引き上げる。 「それじゃ答えになっていないけど、まあいいわ」夏世はあっさりと言う。「単に、今はそういう気分じゃないってことね。そういうことなら理解出来ないこともない」 「ずいぶん陽気な口調だな」Tシャツを床の上から拾いあげる女の動作を眺めながら潮が言う。「自分を投げだしている美しい女を前にして、エレクトしない男の胸のうちなんてのはとうていわからないことだろうがね。それにしても——」 「そんなに大袈裟《おおげさ》に考えることはないわ」年上の女は、姉のような口調で男を慰めにかかる。「それにこれが最後の機会ってわけではないかもしれないし」 「機会はまたあるのかな」初めて潮の声に微かな疑惑と不安が混じる。 「偶然、誰かのパーティで顔をあわせるってことはありうるわ。今夜だって、偶然の出逢《であ》いなんだし」 「そしてぼくらは他人の家のバスルームに鍵をかけて、あなたはぼくの意気地のないペニスを引っぱりだし、元気づけようとやっきになる。胸も露《あらわ》にね」 「白いシーツの上でもかまわないのよ」 「オーケイ」と潮は空のグラスで乾杯の仕種をして言う。「次の機会が訪れんことに。そしてその時にはぼくのペニスが猛々しくそそり立たんことを祈って。乾杯」  しかしその後、偶然が二人を出逢わせたのは、その朝方から約六ヵ月過ぎた二月の終りで、夏世が夫と離婚を前提とした別居に入った直後だった。  潮が砂に突き刺った大きな魚の肋骨《ろつこつ》のすぐ横に、膝をかかえて坐っているのが、ホテルのフレンチドアごしに見えている。夕陽は雲の後に隠れてしまっていて、骨は再び本来の漂白された白さを取り戻している。  潮の手が伸びて、骨の表面を何か貴重なものでもあるかのように、それ以上は望めない優しいやり方でゆっくりと撫《な》でる。かなり長いこと、そうやって動かない。  遠景に女が一人。  その女は左手の堤防の手前から入って来たらしく、渚《なぎさ》のほぼ三分の一までぶらぶらと歩いて来たあたりで、夏世の視界の中に入って来る。  土地の人間ではないことが、その歩き方や姿勢などからもすぐにわかる。  女はおそらく素材は麻なのだろう、白い何の変哲もないシャツを着て、ベージュのスラックスという姿。  その袖の折り返し具合と、さり気なく立てた後衿、前のボタンの外し方などに、都会の女——それもあまり若くはない——の感じが見てとれる。  両手はスラックスのポケットに無造作に突っこまれており、実際にはそうしていないが、いかにもくわえ煙草でぶらぶら歩いているといった具合に、骨と潮の方へあまり急ぎもせずまっすぐに進んで行く。  もっとも、彼女の歩調から察するに、これといった目的もなく砂浜を横切っている際、たまたま渚のほぼ中央に、潮と骨とは位置しており、満ち潮であることもあって、砂浜の幅は約五メートル、嫌でも彼ら——潮と骨——の前か後を通り過ぎなければならないという自然の成り行きらしい。  潮はまだ女の存在に気づいていない。  手はあいかわらず漂白された骨の上に置かれているが、わずかに上の空の感じが露呈している。  彼は左手で膝を胸のところに抱き込んで、額を膝頭に押しつけた姿勢で、長いことみじろぎもしない。  その後姿だけ遠目に眺めていると、夫が啜り泣いていても不思議ではないと、夏世は思う。もっとも潮が実際に啜り泣いている所を見たこともないし、涙さえ浮べたことはないが。なぜか、その晩夏の夕暮れ時、どこか寂漠とした感じが漂う無人の渚の中で、夫はひどく打ちひしがれた人のように彼女の眼に映るのだった。  スラックスの女は、潮の左手五メートルのところまで近づいている。更に近づく。砂をふむ足音にでも気づいたのか、潮がゆっくりと顔を上げ、少し躰《からだ》をねじるようにして音のした方向を見る。  女は立ち止まらず、ほとんどかわらぬ歩調のまま歩き続け、潮にではなく、魚の骨に視線をとめて、両手をポケットに突っこんだまま、骨の真上に少し躰を前傾させるようにしてまじまじとそれを眺め下ろす。  潮が何か言っているのが、口の動きからわかる。女は彼の方を見ずにうなずく。  再び潮が何か言う。すると女は初めて潮の顔に視線を注ぐ。  潮が喋り終る。今度は女がまっすぐに立ったまま片方の手をポケットから引き出して、短く何か言う。  潮が片手で宙に半円の弧を描くと、半身をねじむけるようにして、ホテルの位置を指さす。  その際、その指先はまっすぐに夏世の額のあたりにむけられる。と、夏世は感じる。更に、ねじむけた夫の右半分の顔の上で、彼の眼が一瞬ではあるが、自分の眼をとらえた、というふうにも感じる。  実際には、建て物の中は外光に比べて暗かったわけだから、フレンチドアの後側で、しかもベージュのレースのカーテンの陰にたたずんでいる妻の姿など、彼には見えるはずはないのだが。  夏世はわずかに動揺して、一歩後退る感じで、いっそうカーテンの背後に身を寄せる。見張っているわけではないのに、自分が紛れもなくそうしているような気がして、顔を曇らせる。  スラックスの女は、骨をはさむ形に、潮と並んで砂の上に腰を落す。そして無造作な感じで男のようなあぐらをかき、骨でも潮でもなく、刻一刻と暮れていく海上に眼をやる。  夏世から見えるのは、骨をはさんだ男と女の後姿だけだった。従って彼らが無言で海を眺めているのか、あるいはそこに会話が存在するのか、その後姿からはわからない。  なぜか、二人が沈黙の方ではなく、会話をする方がいいと彼女は感じる。  三人は——渚の二人と、それを後から見守っている夏世という意味だが——身じろぎもせず、刻々と色彩を失っていく海上を眺める。太陽が、水平線の上に横たわっている雲の背後にかくれてしまうと、渚の男女がどちらからとなく立ち上る。  そしてどちらからとなく右手の方へゆっくりと歩き出す。女が二歩ばかり先を行き、潮がそれに続いたが、やがて二人は肩を並べる。女の頭は潮の耳のあたりまであるからかなり長身だ。  墨色に染まった浜の中を、とてもよく似た二つの形が遠離《とおざか》っていく。夏世の顔から表情というものが消え、彼女は腕時計に眼を落し、窓際を離れ食堂を突き進むとキッチンを抜けて、張の仮眠の小部屋の扉を、ノックもせずそっと押し、そのしのびやかな温かい薄暗がりの中に滑りこむ。  潮に二度めに逢ったのは、何の誰兵衛出版記念パーティとか、その誰兵衛を励ます会とかいう名の集りの際だった。夏世の前夫の、レストランのひとつをレセプションの会場に使ったために、当時まだその店を取りしきっていた夏世が、ごくひかえめにサービス、料理、飲みもの全般に眼を通していた。  もう少し正確にいうと、本を出版したのが中堅の女優で、本の内容は芸能界の内側を暴露するといったものだが、よく抑えた日本人の女にしてはユーモアたっぷりの語り口のせいで、軽くしゃれのめした感じに仕上っている。  その女優と夏世は、客とオーナーという関係でしかなかったが、彼女の希望で二月末の一夜を、出版記念会場に貸しきることになったのである。  海野潮は、パーティの終る頃ふらりと顔を出し、飲みものの入ったトレイを手に近づいてきたウェイターに、ウオツカはないのかと、訊《き》いた。  ウェイターがお待ち下さいと、バーコーナーに引き返す。ウオツカのボトルの用意はなかった。 「断れよ」と別のウェイターが小声で言うのが、そこを通りかかった夏世の耳に入る。 「どうしたの?」と彼女が訊く。 「今お見えになったお客さまが、ウオツカをご注文になったのですが」 「ないの?」 「申しわけありません」 「あなたのせいじゃないわ」夏世はふと会場の隅で今夜の主役の女優と立ち話をしている潮の横顔に眼を止める。ウェイターが注文を断りに行きかける。 「待って」と夏世が止める。 「下の店の方を見て来てちょうだい」  ウェイターがうなずき足早やに消える。  そろそろ帰りかける客もいる時刻だった。注文の飲みものが遅いので、潮がウェイターの姿を眼で探す。そしてバーコーナーから自分の方を凝視《みつ》めているグレーのニットの夏世の存在に気がつく。  一瞬、薄い微笑が男の口の端に浮び、彼は女優に何か一言言いおいて夏世の方に歩き出す。  夏世はまっすぐに自分に向って歩いて来る男を静かに見守りながら、不思議な胸の泡立ちを感じていた。  ——この男《ひと》はわたしに属する男だ——と、彼女は不意にそう自分の胸に呟《つぶや》いて、ひそかに、その認識のようなものにうろたえた。  が、無言で男が目の前に、ひっそりと立った時には、自分というものをみごとに繕い「やっぱりお逢いできたわね、そう言ったでしょう?」と、低い声音でからかうように男を見る。 「六ヵ月も前のことを、よく覚えていましたね」男が言う。 「あなたは、忘れたの?」 「いや」と彼は短く答える。そして続ける。「他のことも覚えてますよ」それから別に声を落しもせずにこう言う。 「このレストランには、プライベートな浴室がありますか?」 「残念ね」と夏世が答える。「でも、地下に小さな温かい穴蔵があるわ。ワインセラーだけど」 「そこにウオツカはある?」 「ウオツカはないけど、持ちこむという手はあるわ」  ウェイターがスミノフの瓶を抱くようにして戻って来る。それを受けとって夏世が言う。 「あなたのウオツカよ」 「ありがたい」潮はニヤリと笑う。そしてバーテンダーに命じる。「トマトジュースと半々に割って下さい。レモンを半個分。タバスコはいらない」  バーテンダーがうなずいてトマトジュースの缶をあける。 「ここはあなたの店?」潮が飲みものを待つ間に訊く。 「今のところはね」夏世が答える。「いずれ近いうちにわたしの手を離れるけど——」そして口調を変える。「あなたは彼女のお友だち?」  潮は会場の入口のところで帰りかける参加客と挨拶をしている女優をちらりと見る。 「うん、今のところはね」と、夏世の言葉を真似る。「そしていずれ近いうちにやはりぼくの手を離れることになるけどね」それから、さりげなく「女房ですよ」と続ける。 「近いうちにあなたの手を離れるって、どういうこと?」夏世が驚いて訊く。 「つまり彼女がぼくを捨てるという意味です」人ごとのように男は言う。その胸のうちはどうでも表面には何の感情の露出もない。夏世は改めてその女優を注意深く眺める。若い作家と美しい女優の組み合わせ。力関係は人目にも明らかだ。女優にはその職業に従事する者に不可欠な輝きがある。それは星くずのように彼女に漂っている。その星くずのような輝きは、職業的な一種の媚《こ》びであるにしても、それがない女優はスターにはなれない。年齢は三十前後。痩《や》せてはいるが、ぎすぎすしていない。こころもちエラが張っているために、意志的に見える顔。  それに比べると夫である新鋭の作家の方は、どこか頼りなげで上の空といったところがあり、かなり無理して引きのばしている長めの青春のどん尻のあたりに、辛うじて止まっているといった感じ。飄々《ひようひよう》としてはいるのに、どこか飢えた気配が漂う。妻が見るからに闘争的なタイプであるのに対し、彼の方はいたって無関心といった具合だ。  ということは表面的な勝敗では女優である妻の方に軍配があがるが、二人のごく個人的な「関係」においては、逆に男の方が強いのではないか。なぜならば、氷のような無関心の前では、彼女がどのように突っかかろうが、あるいは爪を立てようが、泣き叫ぼうが、喚《わめ》こうが、たちうちできない。  そのようなことを、夏世はその短い一瞥《いちべつ》で感じとる。そして更に彼女は推測するのだが、潮が人ごとのように言うように彼女が彼を捨てるのではなく、本当のところは、彼女に捨てられるように見せかけて実は男の方が女を捨てるのではないか。  会場から人の数が減っていた。関係者と女優のごく親しい顔ぶれだけが残る。  女優のマネージャーである四十代の女が、夏世に礼をのべた後で、よかったら二次会に参加してもらえないかと言った。それからさもついでにというように、傍のバーで勝手にウオツカの瓶に手を伸ばしている女優の夫に向って、 「あなたもよかったら」と言い添える。 「そいつはご親切に」と潮がそっけなく呟く。  マネージャーが背中をむけて歩き出すと、彼は夏世に、 「どうしますか」と訊く。 「わたし? わたしは二次会に出なければならないような義理があるわけじゃないから」 「そいつはぼくも同じだ」 「そういうわけにはいかないんじゃない、あなたの場合?」 「いくかいかないか、ぼくにまかしといて下さい」 「そりゃそう。あなたの問題だわ」  最後の客たちが花束をかき集めて手に手に出て行く。 「チャオ」と女優が晴れがましい声を二人にかける。「ランプライトでまたね」  それから夫の眼を見て「来るんでしょう? だったらその美しい方をご案内してね」  潮が何も答えないうちに、彼女は背をむけてドアに向う。  二人だけになると、夏世はバーのストゥールに浅く腰をあずけ、自分の飲みものを作る。スコッチのオンザロック。  ウェイターたちが手際良くパーティの後片づけを進めていく。  食べ残された大皿の残骸《ざんがい》とか、汚れた皿などがキッチンの奥へと消えていき、テーブルクロスがとり払われ、テーブルが普段の位置にきっちりと並べ変えられる。  その上に赤と白のチェックのクロスがかけられ、火のついていないロウソクが真鍮《しんちゆう》の皿に載せられて置かれる。  その間二人は一言も口をきかずに、グラスを口に運ぶ。  ウェイターたちが下り、室内の明りはバーカウンターの上からぶら下っているペンダントだけになる。 「そろそろ出かける?」男がひっそりと呟く。 「どこへ?」夏世が低く訊き返す。 「もちろんきまっている。地下の穴蔵」  一呼吸おいてから夏世が言う。 「そこへ行きたい気分なの?」 「ウオツカを一瓶かかえてね」 「気つけ薬が手放せないわけね」 「そういうことです」男が初めて白い歯を見せて笑う。  そして二人は地下室に向う。  その前に夏世はクローゼットから自分のフォックスのコートを出して肩に軽くはおり、思いだしたようにレストランそなえつけの戸棚の中から白い大型のテーブルクロスを一枚ぬきとる。それからキッチンの中の大型冷蔵庫を覗《のぞ》き、スウェーデン製のチーズと、生ハムを少々。中皿を二枚とナイフにフォーク、アイスバスケットとグラスを二つ。 「まるでピクニックに行くみたいだ」と、そうしたものを無造作に突っこんだカゴを受けとりながら、潮が笑う。 「ワインセラーの中には素晴しいワインがあるのよ。素晴しいワインには上等の肴《さかな》が必要だわ。それと会話とがね」そう言いながら夏世はバーの上の明りを消す。  ワインセラーの中は、常温よりわずかに低い温度に保たれている。しかし寒いというほどではない。  夏世は石造りの床の上にふんわりと白いテーブルクロスを広げる。それは大きさから何となくベッドを連想させる。  クロスの中央にグラス類が置かれ、シャトーマルゴの極上ワインの栓がぬかれている。夏世は赤毛のフォックスの毛皮の上に、寛いだ姿勢で坐り、二つのグラスにワインを注いでいる男の手もとを眺めている。 「あなたの手、わたし好きよ」 「手だけ?」潮がグラスを渡しながら訊《き》く。 「手を見れば、その人のすべてが大体わかるのよ」 「手相見みたいなことを言うんだね。それも手相も見ずにさ」  二人はグラスを合わせる。 「一時間ばかり栓をあけた状態で放置しておいたらずっと香りがたつんだけど」と、ワインを口に含んで夏世が言う。 「時間はたっぷりある」潮が答える。「急いで空にすることもないよ」  そして二人は凝視《みつ》めあう。夏世は、男の瞳の中に欲情の炎のようなものはないかと探るが、その片鱗《へんりん》も見あたらない。で視線を伏せる。 「どうかした?」男が訊く。 「いいえ、別に」 「でも、怒っているみたいだ」 「そんなふうに見えるの? 怒ってはいないわ。ただ——」言葉を探す。その時の彼女の思いにぴったりした表現は見つかりそうもない。「ただ、少し淋しいだけよ」 「どうして?」潮がワインを女のグラスに注ぎ足しながら訊く。彼は白いテーブルクロスの片方に半ば横たわった姿勢で、片肘《かたひじ》で上半身の体重を支えている。夏世は毛皮の上で組んでいた足をほどき、片方を長く伸ばす。 「どうして淋しいのか、本当のことを言いましょうか?」  潮が微かにうなずく。 「それはね、鍵のかかったこれ以上安全な場所は望めないような状態にあって、しかも女と男がいて——二人ともごく冷静に見たってかなりいい線をいっていると思うけど——女の方はいまや女ざかりにいて、男はというとこちらはまだ男ざかりにはまだちょっと間がある若者。だけど二人とも健康で、二人とも相手に興味を抱き始めている。にもかかわらずあなたの瞳の中には欲望の炎が燃えていない。わたしが淋しいのは、あなたがわたしに欲情を抱いていないということに対してなの」  潮はずっと黙って耳を傾けていたが、夏世が語り終ったあとも長いこと口を開かない。 「もしかして、それは、わたしが若くないからなの?」  すると潮が言う。 「今の科白《せりふ》は、これまでにあなたが言った言葉の中で最も意味のない、つまらない科白だ」  夏世が苦笑する。 「白状すると、自分でもそう思うわ」  長めの沈黙のあと潮が言う。 「あなたという女性は、正直な女だね。とりわけ自分の欲望に対して」  夏世はその言葉を吟味する。そして微笑する。「多分、同じことを言おうとしたんだと思うけど、ある男はわたしを淫乱《いんらん》だと言うわ。でも同じことなら、あなたの言い方の方が素敵ね」 「その男とはどうなった?」 「別れたわ」  しかし潮はその理由を訊《たず》ねない。別れたのは、二人の関係がもはやエキサイティングではなくなってしまったからだ。彼が野獣で彼女が娼婦《しようふ》を演じていた頃の、あのぞくぞくするような味わいが消えてなくなってしまったからだ。  それでも男と女の間に「会話」が成立すれば、二人の関係は愛人関係から友情へとすみやかに移れるのだが。会話も無いとなると、お互いの前からお互いが消えることしか望まなくなる。そうやって「関係」が終る。美しくもなく、哀しくもなく、わずかに薄汚れて。 「そのことをご主人は知っていた? そのことにかぎらず、つまりあなたの情事の数々を」 「夫が知っていたかどうかはあまり関係ないの。いずれにしろ彼はわたしの行動に関しては徹底的に無関心なの」夏世は先刻の潮の妻に対する態度と重ねあわせながら言う。 「それにわたしは、わたしに対して無関心なひとを愛せないから」  そして探るように男の眼の奥をみつめる。そして落胆したように視線を落す。渚のホテルにて「さっき上のレストランで、あなたはあの店を近々手放すようなことを言っていたね」と潮が話題を変える。 「言ったかしら、そんなこと」 「言ったよ」 「隠すつもりもないけど」と夏世はコートの長い毛足を無意識の仕種で撫《な》でる。「離婚するのよ、近々。店は夫のものだから」 「あなたが彼を去るの?」 「そのこと、問題かしら?」夏世がわずかに皮肉な口調で言う。「まあ、いいけど。彼がわたしを捨てるのよ」  それは二階のレストランで、潮が、彼女がぼくを捨てると言った口調と完全に同じだった。 「捨てられる女のようには見えない」 「あなただって、捨てられる男のようには見えないわ」 「似ているんだ、ぼくたちは」潮が卑屈に笑う。 「そうとも限らないわ」とひややかに夏世が答える。「むしろ似ていないわ、全然」  女の口調に男がひるむ。 「どうしたの、怒ったの?」  けれどもその理由を、怒りのやり場のないもてあました気持を男に伝えることはできない。これまで、彼女は常に自分から男を望んで来た女だった。  今度も例外ではなかった。彼女が彼を求めている。 「わたし、あなたが欲しいんだけど」  唐突に夏世は言う。声が欲望と恥かしさのために掠《かす》れている。  それを聞くと、潮は眼を閉じ、頭の後で手を組んで仰向けに横たわる。そして呟《つぶや》く。 「あなたの好きにしていいよ」  屈辱で夏世は一瞬|蒼《あお》ざめる。蒼ざめたまま、眼の前に横たわる若い男を眺める。彼は無防備に女の眼に映る。 「あなたはいつもそうやって自分を女の前に投げ与えるの?」批難ではなくむしろ哀しげに訊く。「まるで諦《あきら》めたみたいに」 「俺が普段どうしようと、あなたには関係ないよ」と潮は眼を閉じたまま、同じ姿勢で、沈んだ声の調子で言う。 「今こうしているのは、あなたは、少なくとも今夜のあなたは、ぼくを傷つけないだろうと思うからさ」 「いっそのこと、あなたのような人をひと思いに傷つけてやりたいけど、どうしたら良いのかわからないだけよ」 「とても簡単なことさ」と潮は人ごとのように言う。「あなたが裸になって、ぼくが裸になって、そしてあなたがぼくの前で両脚を広げ、ぼくがあなたの脚の間に跪《ひざまず》いてみれば、ぼくに何ができるのか——いやできないのかが、やがてわかる。そしてあなたは下から不審な、というよりは不安な、軽蔑《けいべつ》と恐れと絶望の眼つきでぼくを見上げる。今度も? というふうに」潮はいよいよひややかに言葉をつなぐ。「一度目はウオツカの飲み過ぎと大目に見たけど、今夜はまだそんなに飲んでいるわけでもないのに、とかなんとかあなたは呟く。で俺は自分の秘密を——傷を——さらさなければならない立場に追いやられる。『実は、ぼく、不能なんです』と身を縮めて、小声であなたに告白する」 「まるでよく練習した科白を喋るように言うのね」夏世は驚くが、すぐにそれを隠して言う。 「事実、熟練しているんです」と潮は冷たく言う。「こんどが初めての告白というわけじゃない」 「今夜のわたしがあなたを傷つけないと、どうして思うの?」冷たい失望のようなものが胸を濡らすのを内側から感じながら、夏世は壁を埋めつくしているワインの鉛の封をみつめる。 「どうしてかというと、あなたは真には俺を欲望しているわけじゃないからね」 「でもわたし、言ったでしょう、たった今。あなたが欲しいって」 「うん。これはぼくの直感だけど、あなたが欲しいのはこの俺であって、必ずしも俺のペニスじゃない。だからこの俺のペニスが役に立たなくたって、あなたは傷つかない。役に立つペニスは他にいくらでもあるわけだからね」そして長い沈黙の後、ひっそりと言う。 「ぼくはあなたのものだよ。よかったらという意味でだけど」  それから三ヵ月後に、夏世の離婚が成立し、法で定められた六ヵ月を置いて彼女は海野潮と結婚した。  その間の九ヵ月に彼女は自分と、潮との関係及び状態、将来などについて充分に熟慮する時間があった。その結果であった。  張の躰《からだ》は練り絹のように滑《すべ》やかだ。胸にも腕にも体毛がなく、体臭というものもほとんどなくて、驚くほどどこもかしこも清潔だ。 「あなたはセロファンに包んで高級スーパーマーケットの清浄野菜売り場で売れるわね」  夏世は素早く衣類を脱ぎ捨てながら囁《ささや》く。 「原産地は中国で、日本で栽培した特選品。味は複雑怪奇。中国とフランスと日本とロシアの風味がそれは絶妙で」  そう言いながら、夏世は身につけていたものをすべて床の上に落してしまうと、張を覆っている白いシーツを一気に剥《は》ぎとる。シーツの下の男は、裸体だ。  彼女は少しも無様《ぶざま》ではない身のこなしで、男の腰の上に跨《また》がると、あらゆる愛撫《あいぶ》をはぶいて、すでに猛々しくそそり立っている男のものを、自分の躰に最初はゆっくりと、そしてついには一気に、深々と埋めてしまう。  張の欲望に燃え上る手が宙に伸び、それから二つのそれほど大きくはないが、重たげな乳房を鷲づかみにする。薄い唇が彼女の口を求めて微かに開かれる。  次第に躰の中心部が充血してくるに従って、夏世の躰が前傾していき、腹部が男のその部分に密着する。  彼女は、張の肩の両脇に肘《ひじ》をついて自分の重みを支えながら、それまで曲げていた脚を伸ばしていき、ぴったりと男の脚の上にそれを重ねる。その間も彼女の腰は波打ち続ける。  夏世の躰の中心が急に泡立つような感じに入っていくと、彼女の尻から脚、脹《ふく》ら脛《はぎ》にかけてゆっくりとした痙攣《けいれん》が始まっていく。筋肉が激しく緊張しやがて収縮する。脹ら脛がつる。その激痛のために、躰の中心の快感がそがれる。 「待って。まだよ」と、せつなげな息の下から相手に言って、彼女はつっている方の足の親指を内側に曲げて、痛みを和らげる。そして再び快楽の頂点へむけて、巧みなうねりをくりかえす。  ついにその瞬間がくる。それはたいてい右か左かどちらかの脹ら脛のこむらがえりの激痛の中から、忽然《こつぜん》と泡立ちつつ立ち現われて、一気に炸裂《さくれつ》する。  それから数秒から十数秒の間、めくるめくような発光体で彼女の脳の中は埋まり、肉体の浮遊感が続く。更に快楽の最終段階で、彼女の膣壁が痙攣して男のものを締めつける。その瞬間に張が射精する。  完璧な調和がもたらす快い疲労感の中で、夏世は、男の上からわずかにずれ落ちた姿勢でいつも数分まどろむ。この肉体の調和の完璧さゆえに、優しい思いと、ほとんど愛情とを張に対して抱くのはこの瞬間だ。 「偉青《ウエツエン》、あなたがいない今のわたしは考えられない」  男の肩に頭を寄せて夏世が囁く、張偉青は切れ長の眼元をわずかに光らせるが、何も言わない。夏世は相手の鎖骨のくぼみに口をつけて、それから男の躰から離れる。  床の上の衣類をかき集め素早く身につけると、部屋の外へと忍び出て、キッチンの裏手の階段から二階へ上って行く。  自室の中へ安全に滑りこむと、浴室へ直進し、熱いシャワーを流しておいて、今しがた身につけたものをもう一度脱ぎ捨てる。  シャワーに打たれ、髪を洗い上げて浴室を出ると五時。やはり仮眠室でシャワーを浴び終った張が、キッチンへ出て行く物音が、下から床を通して微かに伝ってくる。  夏世は夜のレストランの客たちの応対にふさわしい、控えめではあるがシックな感じの装い——のりのきいた薄地ローンのブラウスに、グレーか黒のセミタイトのスカート。それで肌寒いような夜には、グレーのカシミアのカーディガンをはおる——で身を包む。  タオルで充分に水気をとった後の髪にざっとドライヤーをあてて乾かす。それを後で束ね、小さなシニヨンにする。ほんのりと日焼けしている顔に、彩り程度に口紅を塗り、ティッシュで押える。睫毛《まつげ》を上下マスカラで染め上げる。  それだけのことをしておいて、夏世は姿見の中の自分を厳密に点検する。つい十分ほど前までの、あの雌の豹のような猛々しい女は姿を消して、かわりにひどくストイックな感じの、『鮫鰭亭』の女主人が、夕闇の忍びこむ室内に、ひっそりと立っているのだった。  ほんのわずかに、口の脇に快楽のなごりの皺《しわ》というよりは陰影のようなものが刻まれている。それは彼女が快楽の頂点で声にならない叫びを上げた際に刻まれた性愛のしるしだった。夏世は指の先でそれを拭《ぬぐ》い去ろうとでもするかのように、軽くこすり上げておいて、身をひるがえすと自室の扉の外へ滑り出て行く。  レストランの灯はともされていない。六時の開店までまだ間がある。  バーの上の船ランプのペンダントがオレンジ色の柔らかい明りを、酒瓶やグラス類の上に落している。入口に背をむけて、いつのまに戻ったのか潮が、軽くバーのもたれ木に足をかけた姿勢で、両肘をカウンターにのせている。足もとに、巨大な魚の肋骨《ろつこつ》。一瞬夏世はぎくりとする。  一呼吸ほどおいたあとで、彼女は自分がぎくりとしたのはその美しくもグロテスクな骨のせいではなく、その傍でひっそりとバーにもたれかかっている夫の、そのひっそりとした静かな姿勢に対してであったことに気づく。  一切の感情をすべて締めだした背中がそこにはあった。わずかに耐えるような感じで。 「やっぱり拾ってきたのね」と、彼女は今しがたの怯《おび》えから意識をそらす目的で骨の上にかがみこむ。 「大丈夫、臭わんよ」夫が抑揚のない声で言う。「きれいなもんだ。余分なものは海と砂と風とそして時の流れがこそげ取ってしまって、オブジェだけが残った」 「何の肋骨かしら」夏世はよく磨きこまれた紫檀《したん》のような感触の骨の上に手を置きながら言う。 「旗魚《かじき》」潮は酒瓶に手を伸ばす。 「鮫じゃないことは確かなの?」 「わからんね」冷たく言う。「どうでもいいよ、そんなことは。人間の肋骨かもしれないしな」  夏世は思わず肋骨のすきまをなぞっていた指を引っこめて、しげしげとその純白の物体を眺める。そして懐疑的な声で、 「人間の肋骨かしら」と呟《つぶや》く。 「かつて何であったにしろ、今はオブジェさ」潮は言う。「きれいなものじゃないか」 「およそ役には立ちそうもないけどね」夏世はそう言いながら、立ち上る。 「役に立たないものには、興味がないかね」潮はトニックウォーターをウオツカの入ったグラスの中へ注ぎながら感情を殺した声で言う。夏世は夫の言葉の底にあるものを感じるが、 「マガジンラックくらいにはなるかもしれないわね」と柔らかく言う。  潮は妻のその言葉を無視する。 「俺が死んだら、どこか鮫のいそうな南の温かい海に沈めてくれよ」 「いきなり嫌なことを言わないで」 「何が嫌なんだ?」 「鮫の餌食だなんて」 「死んじまえば痛いも痒《かゆ》いもわからんさ」冷めた口調。「生きながら頭の中が少しずつ腐っていくような気がしているよりは、はるかに楽だ」 「そんな気がしているの?」夏世は緊張する。不意にくるりと後をむいてしまった夫の背に、最初に見た静かな表情が滲《にじ》みだしていたからだ。さっきよりももっとさしせまった沈静さで。 「少なくともどこかからたえず血が流れ出て行くような気分はしているよ」人ごとのような遠い言い方。「血が流れ出ちまえば、脳は腐るさ」  事実、すっかり放血してしまった人であるかのように、一瞬だが潮は茫然自失《ぼうぜんじしつ》して妻の眼に映る。そして彼女はその不安な感じから気をそらせるために、小説を書くということはそういうことかもしれないと想像しようと努める。たえず見えないところで血を流すような作業なのであろうと。  潮が手にしたグラスを口に運びかける途中で動作を止めて、口を開く。 「ところで張とはどれくらいになる?」  あまりにもさりげなく、実に平坦な声で言われたので、夏世は咄嗟《とつさ》に「えっ」と訊《き》き返した。  しかし潮は質問をくり返さない。手の動きを途中で止めたままの同じポーズで、妻の答えを待っている。長い沈黙が流れる。夫婦はどちらも凍りついたように動かない。  やがて夏世が言う。 「あなたが知っているということは、気づいていました」  その答えで魔術が解けでもしたかのように潮の手が動き、グラスが口へ運ばれる。 「そいつは答えにはならんよ」しかし口調はひややかだ。「俺はそのことの事実の有無を確かめているんじゃない。そいつは既成の事実だよ」  そう言って潮はオレンジ色のペンダントの明りの下で、まじまじと妻の口の脇の快楽のなごりを凝視する。夏世はその凝視の執拗《しつよう》さに思わず眼を伏せる。 「張がきみの愛人になったのは、俺たちが『鮫鰭亭』を出すよりも以前のことだという噂を耳にしたが、それは事実なのか?」  言葉を厳密に選びながら、しかも淡々とした口調で潮は訊く。 「その噂話をもって来たのは、さっきあなたが渚《なぎさ》で話しこんでいた女性ね。あの女《ひと》誰?」夏世は顔色も変えずに、質問に質問で答える。「もしかして、鴨居麻子?」と、潮の別れた妻であるところの女優の名を口にする。 「遠くからちらと見たところは、似ているように感じたけど」 「見ていたんだろう」潮はひややかな眼で妻を見る。 「見張っていたみたいな言い方をするのね。窓から見えただけ」 「見張られたって別にかまわんさ」 「それで私のことが話題になったのね? 張とのことをわざわざあなたに告げにあの女《ひと》やって来たの?」 「二度と現われんよ。そう言ってやったから」潮は吐き出すように言ってから、唐突に、 「で、張とのことはどうなんだ? 事実なのか」と前言を再びもちだす。 「その質問に答えると、私たちの何かが変るの?」  その瞬間、潮の横顔が強張る。彼は何かをやり過ごそうとするかのように眼を閉じる。その何かが非常にゆっくりと、彼を引き裂きながら通過していくのが、傍で見ている夏世にも感じられる。やがて夏世の夫が言う。 「いや。何も変らんよ。少なくとも俺の方では」  夏世は、その時、夫が本当には真実を知りたいのか、それとも妻に嘘をついて欲しいのか計りかねていた。そして溜息をつくと言った。 「張とは長いのよ。麻布の前の夫の店にフランス帰りの彼が現われた直後からだったから」彼女は遠くを見る眼つきをして静かに言い足す。「もう八年になるの」  潮の躰《からだ》が微かに揺れる。それは酔いのせいでもあり妻の言葉のせいでも、あるいはその両方のせいでもあった。 「少なくとも」と、彼はわずかに憂いを帯びた声で言う。「きみは嘘をつかないことによって俺を見捨てない方を選んだ。——そう解釈していいね?」  夏世はゆっくりと、そして深くうなずく。  潮は妻の姿をながめ、やがてふと床の上の魚の骨に視線を移し、 「俺がこんなふうに骨になっちまったら、マガジンラックにでもしてきみのそばに置いてくれよ」と呟いて、その場の会話を一応打ち切る。  それから踵《きびす》を返すと、夜の客を迎える前に着替えをするために、二階への階段を昇り始める。  室内から夫の姿が消えると、張がひっそりとレストランの入口に姿を見せる。両手にかかえきれないほどのコスモスをかかえている。夏世は薄く微笑して、壁際に置かれた中国の青磁の大壷を眼で示す。  張は足音もたてずに歩いて行って、花を壷に差す。夥《おびただ》しい数のコスモスが、一見無造作だが、ごく自然な感じに、青磁の壷に収る。 「さっき、あなたとのことを夫に質問されたわ」壷の中に水を注ぎ入れている男の背中に向って、夏世がひっそりとした口調で語りかける。その声の調子は、他の誰に話しかける時とも感じを異にする。ちょうど、言葉というものをもたない動物に話しかけるような、安心させるような、慰めるような、鎮めるような響きがある。  張は無言で壷に水を入れ続ける。 「私ね、嘘は答えなかった」と夏世は同じ語りかけ方で言う。  張が立ち上り、しげしげと花を眺める。はかないような青磁の薄緑色と、コスモスのこれもはかないような花の風情が調和していて、一種|頽廃的《たいはいてき》な甘やかで物哀しいものが、あたりに漂いだしている。  そしてそのはかなげで甘やかな雰囲気の中で頽廃的なものを滲ませているのが張偉青なのだということが、夏世にはわかった。彼は花から眼を上げると女主人の顔を見た。  しかし男の眼の色は、必ずしも言葉というものをもたない動物が、飼い主を見上げる時の、あの忠実で、執拗に愛情を乞う熱い眼つきではなかった。彼の眼の中にあるものは、むしろ物哀し気で、ひっそりとしていた。 「でも心配することはないのよ。何も変らないわ。今までと同じ——」  張が踵を返して歩み去る。  夏世はカセットデッキのスイッチを入れる。一九三〇年代に流行したホーギー・カーマイケルの曲を、やはりその頃一世を風靡《ふうび》した女の歌手が唄っている。  ハスキーでスモーキーな声。たよりなげではかなげで、エロティックで。夏世はその曲に耳を傾けながら、夜の部の客たちのためのテーブルセッティングにとりかかる。  全部で七つあるテーブルにオレンジがかったピンクと純白のクロスを斜めに重ねてかけ、大皿とナイフ類とグラスをセットしておいて、壁の上のスイッチを入れる。すると各テーブルの上のペンダントに淡い明りがともる。  海に面していない方の壁に張りめぐらせてあるバーミラーが鈍いが落ち着いたきらめきを放ち、ようやく夜の部が始まろうとしていることを夏世に感じさせる。  バーミラーの下半分にフランス語でアポリネールの『ミラボー橋』の詩が金文字で書かれている。その金文字のところどころは、すでにかなりはげかかっている。  夏世は鏡の前に立ち、自分の上半身をその中に映し出す。  鏡の中に、反対側のポーチに面したフレンチドアが映っており、海からの柔らかい微風が両側に垂れている淡いベージュ色のモスリンとレースのカーテンを揺らしている。  カーテンは時々微風を孕《はら》んで小さく膨らむ。夏世はカーテンが風を孕む感じを見ると、理由もなく幸福な気持になれる。  そしてまさにそのささやかな幸福な感じを意識したその瞬間に、鏡の中に人影を認める。ポーチの先の前庭から入って来るその人影を見ると、夏世の束の間の幸福な思いは唐突にしぼんでしまう。  彼女は振り返り、ゆっくりと近づいて来る人物を見守る。  濃いつややかな芝の緑をふみながら歩いていたその女は、他人の視線を感じたのか夕暮れ時の蒼《あお》ざめた空気の底でふと立ち止り、自分を凝視する視線がくる方向に眼を上げる。二人の女の視線が出逢う。  鴨居麻子は、悪戯《いたずら》をみつかった子供のような表情を浮べて、『鮫鰭亭』と書かれた古風なネオンライトの下の扉を押す。  夏世はその招かれざる客を迎えるために一歩進み出たのだが、実際には自分では後退ったような気持を抱く。  それは潮の別れた妻が突然現われたという驚きに対して後退る思いを抱いたというよりは、女優の素地そのものの美しさに対して、怯《ひる》むものがあった。  格別飾りたてているわけでもないのに、麻子は光輪のようなものにふちどられ、そのために美しさが切ないまでに増幅して人の胸を締めつける。鴨居麻子とは、彼女のたった一冊の本の出版記念パーティ以来、顔を合わせていなかった。「お久しぶり」と、陽気すぎるくらいの声で麻子はそう言い、よく男が女を眺めるような眼つきで、夏世の頭のてっぺんから爪先《つまさき》まで、一瞬のうちに眺める。  しかしそれは男のような柔らかいハケのひとはきといった眺め方ではなく、細くよくしなうムチのひとふりといった残酷な一瞥《いちべつ》だった。彼女は店の様子には眼もくれず、夏世の顔に視線を注いだまま、その視線の猛々しさとは裏腹に響く甲高い甘い声で、こう言った。 「あのひとは、あい変らずアルコール漬け? あい変らず一日に一、二枚のペース? ずいぶん気をつけて探しているんだけど去年彼が発表したのは短編が二つだけ。それも見事に不発な代物」麻子は黙っている夏世をじろりと見て一気に続ける。「それにあの人、カカシみたいに痩《や》せちゃって。こんな素敵なレストランに眼ばかりギロギロした芥川龍之介みたいな男がいたんじゃ、ご商売に差しつかえない?」  女優は言葉を切り、答えを促すように夏世に向って顎《あご》を軽く突き出す。 「でもあのひと、私と結婚してから二キロ体重が増えましたのよ」と、夏世は相手に負けないにこやかさで言う。「でもあとはあなたと暮していた頃と同じ。何も変っていませんけど」 「あら、そ。それはお気の毒ね」麻子はむしろ嬉しそうにそう言う。 「安心なさった?」 「どういう意味?」 「あなたができなかったことを、私もやはりできずにいるという意味で」 「まさか」と女優はぬけぬけと言う。「わたしはあの人に立ち直って欲しいと思っているのよ」 「それでわざわざお見えになったの?」 「というわけでもないの。昔の友だちにちょっと逢いたいと思っただけ。たまたまこの先の海岸でちょうど撮影があったものだから」麻子はそう言ってウェーブのきいた長い髪を意識的な仕種で耳の後にかき上げる。その時二人の女の背後に足音がして、潮が現われる。夏世は背をむけていたので夫が入ってくるのに気がつかなかったが、女優の方はいち早く潮の姿を認めて、躰を緊張させる。夏世は夫の出現を、麻子が体毛を逆立てるような感じから知る。潮が言う。 「夏世とあんたが友だちだってのは初耳だぜ」静かだが悪意の滲《にじ》んだ声。「それに俺とあんたがただの一度でも友だちだったこともないよ」 「ちっとも変らないのね」と女優はゆとりを見せる。「そんなふうに悪意を露骨にさせると、昔を思い出すわ。にこやかに歓迎されるとは思わなかったけど、そこまですげないとも想像しなかった。さっきは渚で、もう少し優しかったじゃないの」麻子は顔に笑いをひろげる。「でも考えてみれば、それだけにまだあなたがわたしにこだわっているってことかもしれないわね」  潮はどこかが痛みでもするかのように、顔を顰《しか》める。そして言う。 「ここへは顔を出すなと言ったろう」 「食事をしに来たのよ」女はさらりとそれをかわす。「ここはレストランなんでしょう? それもかなり評判の良い店だと聞いているわ」  夏世は手の仕種で窓際のテーブルを示す。それを黙殺して潮が言う。 「いいんだよ。このひとはすぐに帰るから」  けれども麻子は夏世の示した席に進み寄ると腰を落してしまう。 「どうしたのよ、なぜそんなにピリピリしているのよ」からかうような調子。「ちょっと寄っただけよ。あなたたちの家庭の平和を掻《か》き乱すつもりはぜんぜんないの。それともわたしがちょっと寄ったくらいで、今度のあなたの結婚はガタガタになるの?」 「ちょっと寄っただけ?」潮が厭《いや》な言い方で、別れた妻の言葉を聞きとがめる。「俺の耳に、さっき渚で女房のことであることないこと奇妙なことを吹きこんでおいて、ちょっと寄っただけだと?」 「ねえ、ちょっと見てよ、この顔、オセロだわ、まるで」と麻子は夏世に向って言う。「とするとわたしはあの卑劣なイアーゴという役どころかしらね」麻子一人でくすりと笑ったが後は誰も笑わない。で、彼女は少し白けた感じでメニューを開く。 「お食事は六時からですけど」と夏世が客に対するのと変らない口調と態度で言う。「申し訳ありません」  麻子は腕時計をチラと眺め、 「じゃ、その前に、何か食前酒のようなものを頂くわ。キール、お願いできる?」 「運転するんだろう?」と潮。 「あら、それでもわたしの身を案じてくれるのね」 「とんでもない。車で来たと明らかにわかっている客に酒を飲ませたら、とばっちりを受けるのはこっちだよ」 「じゃここに泊めて頂くわ。ホテルなんでしょう?」 「断るね」にべもなく潮が言う。「それに酒も食事もだ。レストランは他にもいくらでもあるし、泊るところも別に探してくれ」 「わたしを叩きだそうっていうわけ?」面白そうに麻子が右の眉を高々と上げる。「ほんとにあなたにそんなことができるかしら?」 「ほんとにできるかどうかすぐにわかるさ」  潮はつかつかとバーまで歩いて行って酒瓶を手にとる。それを見て麻子がニヤリと笑う。 「お酒の力を借りるってわけね。自力では何もできないから。まだわからないの? そうやって酒瓶に手をつけたとたん、あなたは勝負に負けるのよ」 「何とでも理屈をこねてくれ。俺が飲むのは、女ども相手など、とうてい素面《しらふ》じゃつとまらんからにすぎんよ」 「少しは何かが変ったと思ったのに、何にも変っていないのね」麻子の声に軽蔑《けいべつ》が混じる。 「それとも、何か喜ばしい変化はありましたか?」  麻子と夏世の視線がぶつかり、からみつく。 「それがあなたの本当の目的? 私たちがどんなふうに暮らしているかそれが知りたくていらしたの?」抑えた声で夏世が言う。「だとしたら、わたしたちが明らかに不幸そうな様子をしていたら、あなたご満足でしょうね」 「それは誤解よ」麻子は足を組みながら短く答える。 「そしてもし、私たちがつつましく幸せにやっていると言ったら、あなた傷つく?」  そうなのだ。つつましく、幸せに暮らしていたのだ。それも彼女が現われて、張とのことを夫の耳に入れるまでは。夏世は急に激しい怒りにかられて、手をきつく握りしめる。  それなのに女優は笑っている。笑うと彼女がひた隠しにしている野卑なもの、貧しさなどがどうしようもなく露呈してしまう。元々自分の美貌《びぼう》を意識しているような種類の人間にはなじめないし、今ではこの女の美の質にも幾分疑いを持ち始めていたので、夏世はわずかに気持の余裕をとりもどすことに成功する。 「でもねえ」と鴨居麻子はわざとらしく額に皺《しわ》を寄せる。「つつましく幸せだと感じているあなたの気持は疑うつもりはないけれど、そう感じているのはあなただけかもしれないということ、考えたことない?」 「俺の幸せのことなど、放っておいてくれよ」苦々しく潮が言葉を吐き出す。麻子は冷徹な観察の眼で、バーのところの前夫を眺める。 「わたしはね、七年この男《ひと》と一緒に暮らしたのよ。海野潮のことはよくわかっているつもり」そういう口調とそのような言葉は、夏世には許し難く感じられた。 「だから、別れたんでしょう?」 「その通り。とことんわかってしまったから、終ったの。絶望的だったわね。彼が絶望的だっていうんじゃないのよ、わたしたちの関係が絶望的だったという意味。だからね、夏世さん、海野があなたと一緒になったと聞いて、わたしは彼のためにとてもうれしかったのよ」麻子は急にしんみりとした調子を声に盛りこむ。 「だまされるなよ」とすかさず潮が夏世に忠告する。「その女が、役者だということを忘れるんじゃないよ。油断するとこっぴどいめにあうからな」 「別にかまわないわ」夏世は夫に向ってほほえむ。「わたしは麻子さんとは違うし、違うことがとてもうれしい」  彼女は不意に何か誇らしいような気持に突き動かされて口をつぐむ。私はただ自分が潮の休息であればいいと思っているだけなのだ。そして彼が彼女の休息であってくれれば、と。お互いがお互いの牢獄であるような結婚はもう充分だった。潮もそれを七年間鴨居麻子とやって来たのだし、夏世の最初の結婚もそうだった。  結婚生活が途中から牢獄のように変ってしまったり、戦場になってしまうのは、性愛のせいなのだ。性愛が、二人の関係から言葉やユーモアや、勇気や優しさなどを奪ってしまうのだ。性愛は男と女を近づけるどころか、むしろ二人を遠ざける役割を果すのではないかと、感じることがしばしばあった。少なくとも夏世にとってはそうだった。  夏世はそういうことを、眼の前の臆面もない女に言ってやりたかった。  けれどもそれよりもわずかに早く、潮がバーの位置からこう言った。 「その綺麗な顔の女に、抽象的なことを言ってきかせようとしても無駄だよ。彼女が知りたいのは実に具体的な次元のことでしかないんだ。それにその程度の次元のことしか理解する頭をもっていない」 「そんなことないでしょう」と思わず、奇妙にも夏世は麻子を弁護するようなことを言ってしまう。「以前書かれた麻子さんのご本を読めば、そうじゃないことがわかるわ」  すると潮が鼻の先で冷笑する。 「あれを書いたのが彼女だと、本気で信じているのかい」 「でもね、わたしのアイディアとわたしの名前で売れたのよ。忘れないでね」女優が言いかえす。 「ところがいくら売れたとしても、俺のところへ印税が一銭でもころがりこむって訳でもない」 「あら、印税は前払いしてあるじゃないの」と女優がずばりという。「七年間に及ぶ結婚生活の費用全般を負担したのは、誰だと思うの」 「では貸し借りはないということだ」潮も負けずに同じようなトーンで言う。麻子は前夫の様子を何の感情をも混じえずにみつめ、その彼女の横顔を夏世が眺める。  その角度から見ると、麻子は息を呑むほどの美貌の持ち主であるだけではなく、何か歴とした存在感のようなものが漂い、夏世は嫉妬《しつと》のような感情を覚える。 「要するに、あんたが何がなんでも確認したがっていることは、この俺の不幸の証しなんだよ」潮がゆっくりと憂鬱《ゆううつ》そうに言う。「俺が以前と同様今でものたうちまわっていさえすれば、あんたは意気揚々とご帰還になれるってわけだ」  夏世はそっと腕時計を盗み見る。六時を数分過ぎている。最初の予約客は七時でないと来ないが、フリーで入って来る客はもういつ顔を見せても不思議ではない。彼女は予約客のリストを取り上げて、 「私ちょっと失礼しますわ」と麻子に言う。 「コックとメニューのことで打ちあわせがありますから」 「張さんはお元気?」麻子がさりげなく訊《き》く。「わたし、張さんのお料理の熱烈な支持者の一人だったのよ。それを夏世さんがこんな場所へ彼を拉致《らち》して一人じめにしているなんて」  その嫌味を背に夏世は二人をその場に残してキッチンへ消える。  夏世の姿が消えると、麻子は急に声を落し熱意のこもったような表情で、別れた夫に質問する。 「あのことはどうなの? 一過性の不能の状態とかあなたが呼んでいた状態からは立ち直ったの?」  潮はグラスの中に視線を落したまま、「立ち直っていたら、女房は使用人の部屋を訪ねはしていないさ」と乾いた声で呟《つぶや》く。 「でも張という料理人のことは、元々あなたとは関係ないのよ、さっきもそう言ったでしょう。あなたが健康な状態であってもなくても、あの二人は別れられないわよ」 「そう聞いて、俺が多少は慰められたような気分になるとでも思うのかい」 「別に慰めてあげようとも思わないもの」 「そういう女だよ。もっとあんたの喜びそうなことを教えてやろうか?」潮は自虐性をつのらせつつそう言う。「白状すればだね、マスターベーションというごく慎みぶかい唯一の娯楽にすらも目下のところ見放されているよ、俺は」 「まあ可哀相《かわいそう》」と麻子は同情よりも好奇心を露《あらわ》にする。「そんな慎しやかな最後の楽しみまで失ったんじゃ、そりゃ辛いわよね。夏世さんは協力的じゃないってわけね?」 「かつてのきみほどにはね」  元夫婦は束の間、共犯の、なれあいの視線でお互いの顔を眺めあう。  キッチンでのメニューの打ちあわせを終えて、夏世が戻ってくる。麻子は急に話題を変える。 「ねえ、昔の女房の忠告を聞く?」夏世を意識した言い方。 「何のために?」潮はつまらなそうに訊き返す。 「小説なんか書くの止めちゃいなさい」麻子はこともなげにそう言う。「小説を書き始める前まで、あなた問題はなかったじゃない。お酒だって何かを忘れるためにじゃなく、もっといい飲み方だったし。あんなもの書いて賞なんてものを取っちゃってから、一日中小さなカプセルの中に閉じこめられているような憂鬱とつきあわなければならなくなってしまったんだわ」 「書くことを止めちまったとたん、人生がバラ色に輝きだすとは、とうてい思えないね」と、潮は突き放す。「バラ色に輝きださないかぎり、それならまだ今の状態の方が少しはましだぜ。ウオツカはまちがいなく俺をいい気持にしてくれるし——この最後の方のぐらぐらするようなめまいの感覚など、絶頂感に似ていないこともないし。それに俺の不能も、小説のせいということにしておけるしな」 「それじゃカプセル状の憂鬱と一生つきあうことね」と、麻子はひややかに言う。「ウオツカ漬けでいることね、カカシを通りこして、そこに転がっている骸骨《がいこつ》みたいになることね。わたしは別に困らないんだから」 「ひとつ抜けてやしませんかね」と潮が軽く音をたててバーの上にグラスを置く。「女房を使用人のベッドへ通わせることねというのがな」  夏世の眼が暗く光る。麻子は夏世の横顔をちらと見て、ポーチの先の常夜灯の蒼白《あおじろ》い灯に眼を移す。 「しかしまあ」と潮はわずかにその場の空気をとりつくろうような感じで言い直す。「俺は書くことを止められないだろうな。——今となっては。それに自分の作品《もの》が世の中に評価されれば、それが脱け道になるやもしれんし」 「世の中に評価されるっていうのはつまり、売れるような本という意味なの?」と麻子。 「もちろん違うさ」  その時初めて夏世が二人の言葉に口をはさむ。 「世の中の評価なんて関係ないのよ。いい物を書いたってやっぱり関係ない。現に一年に二本か三本書いているあなたの作品はいい仕事だし、ある程度の評価だって得ているわ」夏世は少しふるえを帯びた声でそう言う。 「ありがとう」と潮は皮肉な調子で妻に礼を言う。その皮肉を無視して夏世が更に続ける。 「問題なのはね、いつかあなた自分で言ったでしょう、覚えていない? 『俺はいかなるレベルでも絶頂感に達しないことにこだわり続ける作家でありたい』って」 「ロスの言葉だよ。もっとも作家ってものはロスにかぎらず、多かれ少なかれやっぱりいかなるレベルでも絶頂感に達しちまっちゃいけないんだと、俺は思うんだがね」それから言葉を切り、思案するような短い沈黙の後に続ける。「いけないというより、達せられない種族だと言った方がいい。程度の差こそあれな」 「そういうことよ」と夏世が深い声で同意する。「あなたみたいな純文学畑の私小説作家は、原稿用紙の上で起ることと実生活で起ることとが完全に重なってしまうのよ」  その時潮は、まるで初めて顔を見る女であるかのように、妻を眺める。そして夏世もまた、理解と痛みと畏怖《いふ》の混じりあった真剣な視線で夫をみつめかえす。  それまで黙っていた麻子が本音の滲《にじ》んだ声でこう呟く。 「今、やっと、あなたがなぜ夏世さんを選び、そして夏世さんがなぜあなたを選んだのかが、ほんの少しわかったような気がするわ」 『鮫の胃袋』と名づけられたレストランの中に、しばらく沈黙が支配する。道路に面した駐車場に一台、続けてもう一台車が入って来て、砂利を飛ばしながら駐車する音が伝わってくる。潮の別れた妻が立ち上る。 「そろそろ潮時ね」  海野潮の表情が和らいで、彼が言う。 「食事はしていかないのかい?」 「レストランは他にもあることだし」麻子はニヤリと笑う。  駐車場から建て物をぐるりと回りこみ、客たちが前庭を斜めにぬけて来る。  夏世が衿元に手をやり背筋をのばすと、最初の客を迎えるために戸口へ向う。 「まだ訊いてなかったが」と、潮は別れた妻の横に並びながら、やはり戸口に向いながら言う。「そっちの状況は?」  麻子は答える前に一呼吸おく。 「男、恋、浪費。みんな手に負えなくなってるわ」 「芝居ひとつにしぼればいいじゃないか」潮は不用意に言う。 「それは女優に死ねということと同じよ」 「だったら、男も恋も浪費も一手に引き受けるしかない」 「そういうことね」 『鮫鰭亭』の出入口のところで入って来る客たちと出て行く客がすれ違う。  潮と麻子がポーチに足をふみ出す。夏世は二組の客をレストラン内に招じ入れる。潮の声がする。 「結局さ、誰かが誰かに救いの手を差しのべたって、しようもないのさ。自分を救えるのは、たとえば俺を今の状況に連れこんだこの俺自身でしかないってことだ」  夏世は、夜にむかって開かれているフレンチドア越しに、麻子がこう言うのを聞く。 「そして案外、本人たちは今の救いようもない状況から連れ出されたくないのかもしれないしね」  潮が低く笑う。 「多分ね。それであんたは当分男と恋と浪費に溺《おぼ》れ、俺の方は生温かい酩酊状態の中へと、とりあえず自分を置くというわけだ」  ポーチの先で麻子が振り返る。夏世が軽く手を上げる。 「チャオ」と陽気に言って、麻子が建て物の右手に消える。  実際に向いあって席をとっている若い女が、バーの横の骨に注意を奪われて言う。 「何の骨かしら」 「鮫だよ、きまってるさ。『鮫鰭亭』っていう名がついてるくらいだもの」恋人らしい男が答える。  麻子を送った潮が室内に戻ってくる。彼は客たちに軽い目配せのような会釈を送ると、まっすぐにバーに向う。  それから自分の飲みものの入ったグラスを手にして、他の客の存在など忘れてしまったかのように、飲み始める。  時間がたつにつれて、彼の眼光に柔らかさが宿り、潮は足もとの巨大な肋骨《ろつこつ》を、さも愛しそうに眺め、その上にかがみこむと、まるで女に加える愛撫《あいぶ》のような優しい仕種で、その骨を撫《な》で始める。  二 料理人  ブラインドのわずかな隙間から入りこむ暁の白さの中で張偉青《ウエツエン》は目を覚ます。  それは、不透明な暗緑色に淀んだゼリー状の湖の底に生じた泡《あぶく》が、徐々に立ち昇っていくようなゆっくりとした目覚めだった。  ゼリー状の眠りの湖からの脱出は、漠とした不安と苦痛と、そして上昇感にともなうある種のエクスタシーも混じりあった奇妙な感覚で、たいてい彼はじっとり汗ばんでベッドの外に滑り出る。  体毛のない練り絹のような裸体を汗で光らせながら、偉青は窓際に立ち、黒いブラインドに顔を寄せ、白い暁の渚《なぎさ》をあかずに眺める。  灰色の海。わずかにバラ色を含んだ暗い空。水平線は混沌《こんとん》として海と空とに溶けて無く、砂浜に寄せる純白のレース状の波はあくまでもひっそりと控えめだ。  砂は、夜の間に吹いた風のために、無数の相似形の風紋を刻み、暁の底でひそかに息づいている灰色の動物の、皺《しわ》の寄った背中を思わせる。  張偉青の切れ上った眼はそのような夜明け前の穏やかな風景を映しながら、どこか物哀しげで、暗く、わずかに飢えたような感じが滲んでいる。  彼は、どこもかもがぶかぶかのコットンのズボンをはき、ウエストのひもをしめながら正式の出入口ではなく、ベランダの非常階段を伝わって外へ出る。猫の額ほどのマンションの前庭を突っ切ると『鮫鰭亭』の白い漆喰の建て物添いの小道に出る。 『鮫鰭亭』はまだ完全に眠りの静寂に包まれており、どの窓も淡いベージュのカーテンに閉ざされている。  偉青は二階のオーナー夫婦の寝室の窓をちらと見上げ、そのまま足を緩めずにホテルの前庭に回りこむ。朝露に濡れた芝を踏む彼の足は素足だ。  白いペンキを塗った低い柵を飛び越え、柔らかな砂の上に出ると、彼は歩調のスピードを一気に上げて駆け出す。  砂を蹴散らせつつまだ明けきらぬ暁の白さの中を駆けているうちに、偉青は手足に力が漲《みなぎ》るような感覚に圧倒される。  眼の前には海が彼を待ちうけており、東の低空には青白い月が、最後の光の残滓《ざんし》を投げかけていた。  生温かい血が体内を駆けめぐり、心臓が力強く鼓動し、彼はその一時ほとんど猛々しい幸福感に支配されたのだが、すぐにその幸福な思いがひどくうさんくさいものであることに気づき、胸を泡立たせる。  俺は『山月記』の李徴のように走っているうちに虎になってしまうのではないか。何やらわけのわからないせっぱつまったせつない思いで胸を激しくわきたたせながら、月光の荒野を走っていたあの男。いつのまにやら両手が地をつかみ、四つの肢で土を蹴立てて疾走していたという恐しい話だ。  自分が全く唐突に虎と化してしまった驚愕《きようがく》と絶望の思いをかかえて、夜の荒野を駆けぬける青年の背に降り注ぐのは、凄《すさ》まじいような青ざめた月光だった。  肉体だけではなく、こころまでが虎と化していく過程の李徴の心境の孤独を想像すると、偉青はいつも少しだけ背筋が寒くなる。  しかし、いっそのこと心も虎になってしまえば、その絶望も、その孤独ももはや胸を過《よ》ぎることはないのだから、李徴は楽なのではないか。いっそのこと虎になっちまって、うかつにも眼の前をうろちょろする兎《うさぎ》だとか雌鹿だとかに容赦なく躍りかかり、その柔らかい喉《のど》に喰らいつき一気に止《とど》めをさす。そいつを竹藪《たけやぶ》の中に引きずりこみ、虎と化した俺の猛々しい顎が獲物の下腹の奥の、まだ熱い、最も美味な内臓を引きずり出すのだ。口の中を血だらけにして、そいつを咀嚼《そしやく》してやる。血が牙から顎にしたたり落ちるのだ。俺の巨大な舌がうけとめて嘗《な》めまわす。かつての俺がまさに人間の姿をした虎であったように。  偉青は渚の先端の岩陰ではいていたズボンを一気に脱ぎ捨てると、次の瞬間には細身の魚のように身をくねらせて海中に消える。  あれこそが青春だったのではないか。虎の心をもてあましていたパリ時代が。ところかまわず精液を播《ま》き散らしていた頃。俺の前に跪《ひざまず》く女の髪の中や、白い額や、それを受けようとして顔をわずかに仰向けて開いていた口や、突きだして震えていた乳頭や、淫《みだ》らな腰のくぼみや、まろやかな腹、黒い炎のように渦をまいていた陰毛、白くてひんやりとした大きな尻、俺の前に開かれた両肢の間で剥《む》きだしになっていた性器そのものにむかって、あるいは見開かれ、実は何も見てはいない情欲の炎にやきつくされた二つの眼の中に、そうしたもの、俺にむかって差しだされていた無防備なものすべてにむけて、精液を播き散らしていた傲慢《ごうまん》で恥知らずの時代が、たしかにあったのだ。偉青は肺に息を貯めこむために、海面の外へ顔を出す。鼻や口から流れこむ海洋性の空気の甘さときたら。それを存分に味わうと再び沖へ向って、今度はゆっくりと泳ぎだして行く。  躰《からだ》の下を流れ去る海流の冷たさに、彼は突然に秋を予感する。つい昨日の同じ時刻には、水はまだ夏の生温かさを残していたというのに。プランクトンの多い、皮膚にべとつくような夏の海流が、一夜明けると透明で冷たい別の流れに、全く嘘のようになってしまっている。季節が変ったのだ。消え去っていった俺の淫らな欲望よ。パリのカーペットも敷いていない粗末なアパートの、浴室もない一室で、何週間も取りかえられることのないシーツの間で、どぎつく、猥褻《わいせつ》で、時には度を過ぎて暴力的で、湧き立つような淫らな感覚と、むかむかする性の嫌悪感とにさいなまれながら、要するに女たちのどれもこれもが娼婦《しようふ》で——それも最下等の、不潔で下品で愚かな——彼が卑劣で破廉恥な野獣であった頃は、確かに存在したのだ。ジルとかジジとか——あるいはギルだったかビルギッタだったか。  どのようにして料理人というストイックな修業と、あの朝毎の夜毎の修羅場とを両立させてきたのか。血塗られた小牛の肉の塊《かたまり》にむかって注がれたその同じ眼で、女たちの性器の襞《ひだ》を眺めてきた。  鴨や七面鳥や鶏の尻の穴から手をつっこんで、内臓を鷲づかみにして引きぬいたその同じ手指で、女たちの白い滑らかな喉を撫で——時には締《し》め——股の間の襞という襞を執拗《しつよう》にまさぐってきた。肉切り包丁を突きたてるのとよく似た残忍さで、自分のものを女たちの股の間に突きたててきた。何と多くの罪を犯してきたことか。  けれども、そうした想いは、すべて冷めはじめる。そしてあの頃猛烈に憎み腹を立てていた相手が、実は女たちなのではなく、自分自身であったのだと気づく時がくる。すると急激に熱が引き、怒りも消え去り、悲しみの混じった恥かしさが襲ってくる。過去はわずかに薄汚れて、やがて心の染みになる。  俺は虎であり鮫であったと、偉青は力強く両腕で水を掻《か》きながら呟《つぶや》く。人喰い虎であり人喰い鮫であったと。  そして何が残ったのか。依然として彼が所有するものは数本の料理用の包丁だけだった。  偉青は海面で優雅に躰をひねり、仰向きになって躰を海表に浮べる。そうやっておいてわずかに顎《あご》を引いてホテルの方角を眺める。  あの建て物の奥に女が一人いて、その女は不能の亭主の腕に抱かれて、暁の最後の眠りを貪《むさぼ》っているのだ。  夏の日焼けの残る皮膚に金色の産毛を輝かせながら、その美しい長い腕を無意識に夫の首に捲《ま》きつけて。  あの二人はまるで生温い倦怠期《けんたいき》を迎えた中年の夫婦のように仲睦《なかむつ》まじく、寄り添って暮らしている。夏世は——偉青の女でもあり『鮫鰭亭』の亭主の妻でもあるところの女は——無慈悲さとこれ以上は望めないほどの優しさの中に生きていて、二人の男たちの間を日に何度も往復する。  あの美しいが残酷で温かく、圧倒されるほど卑猥でありながら、決して欲望に屈服することのない——つまり欲望を支配するという意味において——あれだけ淫乱《いんらん》でありながらひとかけらの娼婦性もない不思議な女のことを考えると、偉青はいつも妙に胸苦しさを覚えるのだった。  彼女は彼に対して、虎になることを禁じ、ひとかけらの野獣性すらも許さない。爪でひっかいたり、指で押し開いたり、陰毛の暗い繁みをいじくりまわしたり、快楽の頂点へ行く間に洩《も》れる卑しい言葉をことごとく拒絶する。  夏世との性愛の静けさとその深さは、ほとんど身体愛と呼ぶべきものであり、彼女は彼を自分の肉体の一部でもあるかのように扱う。  夏世とのことに比べれば過去のどの女たちとの関係をとりあげても、そういったものはひどく堕落した子供たちの悪戯《いたずら》のようでしかない。  かつては柔らかく白い肉体に容赦なく立てられ、黒紫の無数の痣《あざ》をこしらえてきた偉青の鋭い歯は、もはや相手を痛めつけて歓ばす快楽のための凶器ではなく、従来あるべき姿、単なる健康な歯でしかなかった。同じように舌は物の味を味わうために存在するだけになり、彼の猛々しい性器は、夏世の膣壁の中にだけ収る。  偉青は、決して彼の精液を飲もうとしない夏世の口を複雑な思いでみつめることがある。そして、彼女は、彼に多くを与えすぎないことで、彼をより彼女に縛りつけているのだと、知る。  なぜならば、彼女はかつて女たちがすべてそうであったように偉青の牢獄ではなかったから。夏世は偉青から完全に自由であり、彼を愛することも、愛さないこともでき、——実際彼女が愛しているのは偉青ではなく夫の海野潮なのであり、せいぜい偉青が愛されているのは、そのしなやかな練り絹のような肉体だけなのだし——彼が自分の立場と儀礼を守りさえすればの話だが、まだここ当分は彼は彼女のごく控えめな寵愛《ちようあい》を受けることはできそうだった。  しかし俺は、あの女のおこぼれのような寵愛を、本当に受け続けたいのか。張偉青は十字架に張りつけられたイエスのように両手を広げて海面に浮きながら考える。しかしそうやって母の胸に自分をあずける幼い子供のように、海に彼自身を完璧にゆだねていると、少しずつ時間とか場所とかの感覚が消えてなくなり、自分が何者で、現在何をして生きている人間であるかという、日常たえずひりひりと彼を焼く思いが薄らいでいく。  すると自分の肉体から、皮膚感や強張った骨の重みや、肉感とか、骨格の中に押しこめられているすべてのぬるぬるとした臓物感といったものが消え去り、彼は自分の肉体の輪郭だけを内側から感じ始める。  己の輪郭だけとなって、波間を漂っていると、しかしなぜかふつふつと哀しく、三十を幾つか過ぎた大の男でありながら、偉青は流れ出る涙を止める術《すべ》を知らない。  涙は両の眼尻から耳にかけて、熱い濡れた軌跡を残しながら流れ落ち、海水に溶ける。  彼がふつふつと辛いのは、一人の女をもう一人の別の男と共有していることなのではない。偉青が哀しいのは、そういう状況をよしとする人生の別の季節に、いつのまにやら自分が足を踏み入れてしまったことに対してなのだった。夏は終ったのだ。青春は。青春が体現するものが。あるいは人生の大部分と言ってもいい。三十代半ばに達しないうちに、十代と二十代における夥《おびただ》しい罪や過ちからようやく立ち直ったばかりなのに、突如として、人生は居心地がよく、ほとんど甘美と思い惑うばかりの生温かい倦怠と頽廃《たいはい》の色彩に落着いてしまったのだ。  この先に何が待ちかまえているのかが、偉青には漠然と見えていて、まだ始まってもいない将来の過ち——過ちですらないかもしれない——に対して、もう今から後悔しているということの実感。これがしきりと彼の胸の中を泡立てるのだ。  つまり、非常にゆっくりとではあるが、彼はすり鉢状の奈落を滑り落ちていくという思いから、ずっと気持を逸らせることができないでいる。最後に落ち込んでいく寒くて物淋しい空間に立つ、年老いた少年といった風情の自分自身の姿が見えるのだ。  この年老いた少年は、家族もなく、家庭を築くこともなく、たった一人の女さえも所有することもなく、所有されることもなく、死ぬ直前にお前はこの人生で何をやってきたのかと訊《たず》ねられたら、自分のしてきたことの空しさに、老いた胸を掻きむしらんばかりになるのではないか。  自分のしてきたことと言えば、ただひとつのことだけだった……他人の口を美味で満たすこと。  しかし考えてみれば、創造力を駆使してこしらえた彼の一皿の料理は、口の中に入ってしまえば破砕されて唾液にまみれ、胃袋に送りこまれる運命だ。  そしてたとえば彼の苦心の作品、アンコウの肝のテリーヌは、もはやテリーヌの面影をとどめず、胃の中ではどろどろに溶けた『胃酸過多元アンコウの肝風』といった代物に変り果てる。 『海の果物のサラダ』と名づけた『鮫鰭亭』シェフのおすすめ料理とて同様の運命で、蠕動《ぜんどう》する大腸を通過するに至っては、悪臭異臭を放つ二目と見られぬ様相を呈する訳だ。  パリに学んだ料理人の隠れた鬼才、張偉青の手にかかった眼にも綾なる美味の数々も翌朝には無残な滓《かす》となり下って、水洗の水と共に下水へと落ちていくというお粗末。一巻の終り。物語は決してハッピーエンドでもなく、美しくもなく、ロマンティックでもない。  そして料理を作る一方で自分がずっとし続けて来たもう一つの唯一のことは、女のあそこをやっぱり充たしてくることだった。あそこは言わば下の方の口だ。要するに俺は人様の上と下の口を満たすことにやっきとなって来た男なのだ。それなのに自分は、これからもステンレスでピカピカ光るキッチンで汗みどろになりながら、フライパンをかき回すのだろうし、使い果し、すり切れて感覚がすっかり麻痺《まひ》してしまうまで女の膣の中にはまりこんであの無様《ぶざま》な上下運動をし続けるのだ。やっぱりこっちも汗みどろになりながら、一体何のためなのだ? あの女のためでないとしたら? あの女の象牙色の下腹の奥に、自分の種を植えつけ、子供を宿すことができないとしたら?  なんと俺は、母性愛に目覚めた女のように、子供を欲しがっているというのか。張偉青は、陸地に向って泳ぎだしながら、自嘲《じちよう》する。あの女、『鮫鰭亭』の実質的なオーナーであるところの、ということは偉青が仕えなければならない領主であり、目下のところ彼の生計《なりわい》のすべてを握りしめているあの綺麗で冷酷な女、昼夜の別など全く配慮することなく使用人の部屋の扉を押し、優雅にも卑猥なる性技をこらして俺から快楽を奪い取り——それも確実に徹底的にそいつをむさぼり喰い、そのすぐ後で何ごともなかったような涼しげな表情と、取りつく島のないひややかで毅然《きぜん》とした姿勢で、レストランの采配をふるうのだ。涼しげに、毅然と、何ごともなかったかのように。  実際には、下腹の奥に俺の精液を貯めこみながら——やがてそれはふとした拍子に体内から流れ出て、絹のパンティを濡らすのだ。そして俺の精液で濡れたパンティをつけたまま、彼女は顔色ひとつ変えずに、客の前に料理を置いたり、ロウソクをつけたり、パンを配ったりするというわけだ。  偉青は一種凶暴な衝動に突き上げられて、一気に砂浜の上に躰を投げ出す。あいつの綺麗で上品な口を無理矢理にこじあけ、あいつの喉《のど》の奥へ深々と俺の性器を突っこんでやる。今日こそだ。あのひややかな毅然とした女主人の美しい顔を歪《ゆが》ませ、眼を白黒させるところを、ゆっくりと観察してやろう。でなかったら——。偉青は両手で砂を掻きむしる。でなかったら、あの柔らかい髪を愛撫《あいぶ》するだけで充分なのだ。つまり何時ものように。あの髪の匂いと、日焼けした皮膚の匂いとをかぎ、抱きあって愛をいとなみ、彼女に快楽を授《さず》けたすぐ直後に自分の方もいき、彼女がほんの数分俺の肩の上に額をのせてまどろみ、そして離れる。別れ際、主人が飼い犬に与えるような眼をしてあの女は微笑《ほほえ》むというわけだ。それで満足、そういう条件で喜んで彼女の前に屈服しよう。それしかないではないか。それ以上のことは望むべくもない。ああパリの薄汚れた青春よ。あの笑いだしたくなるような奔放さはどこへいってしまったのだ。自分が死ぬほど恐れているのは何時、夏世が自分から離れていくか、ということなのだ。あるいは自分の方が彼女から——。  どれだけ時間がたったのであろうか。砂の上にうつぶせに倒れた姿勢のまま、張偉青は足もとのあるかなきかの波の音に聞き耳をたてる。  微かに伸ばした爪先を洗う海水の冷たさ——その優しさ——を感じる。  日の出がすでに始まっており、あたりの空気が淡いバラ色を帯びて、急激に温りつつあった。わずかに反りぎみの、男のつややかな背中から、そこだけが他の部分より白い腰部と尻——たくましいというよりはむしろ少年のような——にかけて、海水が乾きかけている。  偉青は朝日の快い温《ぬく》もりと重みとを背中全体に感じながら、身じろぎもしない。  とやがて、砂を踏みしめる音がして、彼の頭の上に影が差す。  砂を踏んで歩んで来る人間の気配は、もしかしたら少し前からしていたのかもしれないが、偉青の意識がとらえたのはたった今で、彼は反射的にその人物を見ようとして顔だけ上げる。  男は逆光の中にすっくと立っていたために、偉青の眼をまともに射ぬいたのは、彼の背後の燦然《さんぜん》たる朝日だった。  一瞬眼がくらみ、彼は激しく顔を顰《しか》めた。それから用心深く細めた眼の間から、睫毛《まつげ》を透かせて逆光の男を眺める。海野潮であった。  潮は表情も変えずに、砂の上にうつぶせに横たわっている裸体の男を見下ろす。まるで夜のうちに打ち上げられた溺死体《できしたい》でも眺めるような具合に。  偉青はたいして急ぎもせず、膝をたて、一瞬猫のように背を丸めると、上半身を起こした。 「お早うございます」  使用人の声で偉青が低く呟く。潮はそれには答えず、後を回りこんで不意に偉青の横に腰を落す。そして膝を抱きこむような姿勢で海上に眼を注いだまま、 「海水は冷たかったかね」と、質問というよりは、相手の答えを期待していないことをかなりあからさまにした訊《き》き方で言う。  その声には、微かに偉青の意識を逆撫《さかな》でする響きがあったので、彼は単にええ、と低く答え、脱ぎ捨ててあるはずのコットンのズボンを眼で探す。  しかし、それはその場所から数メートル先の岩陰にあった。 「そうやって何も着けずに泳ぐのは不安じゃないか?」潮が再び訊ねる。 「別に」と偉青は無礼にならない程度に、ぶっきらぼうに答えて、それからズボンを取りに立って行くことは止め、居直ったように裸のまま、潮と同じ方角に向って、やはり潮と同じように膝を立てて坐る。 「きみは真冬でもその格好で——つまり裸で泳いでいるな」潮が胸のポケットから煙草を取り出しながら言う。「健康にはいいんだろうけど」 「鍛練になりますから」偉青は足もとに眼を落す。夏世の夫とこれまでに——二年間——会話らしい会話を交すことはめったになかった。  潮は決して料理人の聖域、キッチンに足を踏み入れることはなかったし、偉青の方でもキッチンから出ることはほとんどなかった。たまにレストラン部に入って行くことがあっても、それは花を活ける時だけで——花の件に関してはいつのまにか料理人であるところの彼の役割になってしまっていたのだが、それがいつからどういうわけでそうなったのか、ということはとっくに忘れ去られている。単なる習慣から、偉青の役割となったのだが——そういう際にも、注意深く夏世の夫がバーのあたりにいない時間帯を選んでいた。  偉青が海野潮を避けたがる以上に、潮の方でも、妻の情人を避けようとする意識がたえず働くので、日常の挨拶さえめったにしない。ましてや今朝のように、潮の方から使用人の張に近づいて来て、話しかけるということは、初めてのことだった。  張偉青の肩のあたりに緊張感が漂う。 「何の鍛練になるのかね」潮が皮肉を露骨にする。  偉青はそれを聞くと思わずニヤリと笑う。皮肉や嫌味を先に口にすることで、男同士の間の力関係が微妙に違ってくる。それをいち早く感じとって、偉青は顎をつきだすようにして、朝日できらめいている海上を、細めた冷酷な感じの視線でじっとみつめる。 「きみはめぐまれた幸運な男だ」潮は唐突に一種|破綻《はたん》した声で、海に向って呟く。 「どうしてです?」偉青が穏やかに訊き返す。 「それだけの男前と、肉体と——白状すれば男の俺ですら、思わず惚《ほ》れ惚《ぼ》れするようないい躰《からだ》と——優に二人くらいの女はかこえそうな高給をとるだけの料理人としての技術とをもち、しかも完全に自由奔放でいるということがさ」 「必ずしもそうとは限りませんよ」と偉青が述懐するような口調で言う。「顔立ちとか肉体などが俺の味方になってくれたことなど、これまでただの一度もなかったからね」 「そうかね?」懐疑的に潮が呟く。 「肩身のせまい日陰の身です」それから眼を上げて潮の横顔を見ながら、つけ足す。「ご存知のように」  潮はうなずく。そして淡々とした口調で言う。「きみが家内にしてくれるもろもろの件に関して、感謝しているよ」 「本音ですかね」偉青が冷笑を滲《にじ》ませる。 「そういう顔つきはできんがね。もっともあのことが原因で」と言って潮は言葉を切り、改めて言う。「つまり不能が原因で、愛想笑いもできないでいるんだが」  そのさりげなく吐き出された自嘲気味の言葉によって、さりげなさゆえにかえって潮の傷が露呈してしまう。彼はその眼には見えない傷口から、どくどく血を流している人間のように青ざめて、膝頭に額をのせる。  そうした男の突然の破綻の姿を目撃するのは、偉青にしてみれば不快であり、不安でもあり、心の冷える思いだった。この純文学作家の拭《ぬぐ》い切れない不安と焦燥の思いを鎮めるのには、ほとんど剥《む》きだしの性欲と、それを満たしてくれる優しい気遣いとが絶対に必要なのだ。それなのに、彼には性欲が無く、従ってその妻は女の飢えた性をともなって日毎に俺の部屋にやって来るのだ。 「そういう眼つきでぼくを見ないでくれないか」膝頭に額を押しつけたまま、潮が押し殺した声で言う。「そういう同情の眼で見られることだけは、我慢ができない」そして急に激したようになって、 「料理人の同情や蔑《さげす》みは許せないんだ」と、ほとんど吠《ほ》えるように言う。偉青は口をつぐみ、強張った表情で、無意識に砂を掌《てのひら》にすくいとる。 「家内をどう弄《もてあそ》ぼうとかまわんがね」と止めのように潮が言う。 「あの女《ひと》は」と、偉青が言葉を選びながら言う。「レディですよ。俺の知るかぎり最も優雅で威厳のある女性です」 「淫乱《いんらん》なる淑女さ」潮が口の端に歪んだ笑いを浮べる。傷口からすっかり放血しつくした人間の蒼白《そうはく》さでそう言うと、凄《すご》みが漂う。青味を帯びた澄んだ眼を、張偉青の股間に注ぐと、 「君のそいつをあの女の中にぶちこむ時、あいつはどんな表情をするんだい? どんな呻《うめ》き声をあげるんだい? あいつのあそこは、どんなふうになっている? 上等なのか、まあまあといったところなのか? そしてあの女はいつもいくのかね」といったことを、たて続けに、しかし完全に感情を廃した声で、潮が言う。 「よかったら、自分で覗《のぞ》いて確かめたらいいでしょう」偉青は相手をつき放す。「俺の部屋の鍵はいつだって外してありますよ」 「そんな気はないよ」急にすっかり興味を失ってしまったように、素気なく潮が呟く。「それに、悪かった」  偉青は立ち上り、岩陰まで歩いて行くと無言でズボンをはく。 「家内の相手が少なくともきみで良かったと思っているよ」と潮の声が言う。「どこの馬の骨とも知れないような男の手に落ちるよりは、どれほど幸運か」  偉青が途中で冷酷に言う。 「そいつはどうですかね。とんだかいかぶりってものじゃないのかな」彼はひややかに薄く笑う。「『イエロー』の俺をパリでまともに相手してくれた女たちのことを知らないでしょう。フランス人ですらなかった。アルジェリアや東洋の女や、スラブ系の混血で、たいてい淋菌に冒されていたどれもひどい代物で——どこの馬の骨ともつかないのは、他でもないこの俺のことじゃないですかな」 「ひどい料理人だな」潮が苦笑する。 「当時はね。確かにひどかった」偉青もつられて笑う。口調が打ち解けている。「今は清潔そのものですよ。セロファンに包んでスーパーマーケットの野菜売り場で売れるほどです」  そう彼に言ったのは夏世だった。そのことを思い出して、偉青は潮に対して、急に後めたい思いがつのり、視線を落した。 「パリか」と、潮が遠くを見る眼つきをする。 「行ったことがありますか?」偉青が岩陰から出て来ながら訊く。 「いや」潮は首を振る。「一見の価値はありますよ」 「そうかね」疑わしそうに潮。「淋菌をもった女共には興味ないしな」 「そういう面ばかりとは限りませんよ」と偉青は朗らかに言う。「一度だけ、レディとやったことがある。本物の正真正銘のレディ。ある夏、どこか南仏の別荘に二週間だけ遠出のアルバイトを頼まれましてね」そこでちらと偉青は『鮫鰭亭』の亭主の横顔を盗み見る。「こんな話は退屈だったら止めますよ」 「かまわんよ、続けてくれ」  そこで偉青は再び砂の上に腰を落つける。 「その南仏の誰それさんの別荘に雇われた時のことでしたがね。毎晩のようにパーティが催されて。ある晩、バーベキューをやったんです。庭で。それで俺が初めてキッチンから出て、着飾った遊び人たちの前に出て行かなければならなかった。普段のジーンズとTシャツという姿ではなく、ノリのきいた白い上下に、チンケなコック帽なんぞをかぶらせられて」 「例の子豚の丸焼きかい」 「よくご存知で。そうでした。でかいクシを通して、こうぐるぐる回しながら焼くんです。上流階級の男や女がどんなに意地汚く物を喰うかご存知ないでしょう。十八人の人間のために子豚を三頭。三頭ですよ。ま、そいつはどうでもいいんだが。たった一人の女客をのぞいてその可哀相《かわいそう》な豚の子を飽食したわけなんだが。その子豚の丸焼きに見向きもしなかった女が、それは美しいとびきりのレディで、その場に居合わせた男どもがいくらくどいても鼻先であしらっていたんです。その女がパーティの終り頃俺に眼配せをしたんですよ、おわかりでしょう、あの種の眼配せです。当事者だけに相手の意図が、それもはっきりとわかる例の色眼。俺もすかさず了解と、それとわかる程度の眼配せをして」 「よくわかるよ、状況が」潮が言う。「それでいい思いを味わったんだ。女を押し倒した場所は、キッチンの調理用テーブルの上だったのかい」 「似たようなものです」偉青が答える。「バスルームでしたがね。それも立ったまま。いつ人が入って来るかもしれないという状況で。正気の沙汰《さた》じゃなかったな」  潮が片手に砂をすくいあげて、海面に向って静かに投げつける。偉青の話が続く。 「あんなことは後にも先にも初めてで。エキサイティングなことこの上もなく」女は呻き声ひとつたてず、汗ひとつ浮べず、微かな吐息と共に昇天して、偉青の肩に額をのせて、名を訊《たず》ねたのだった。 「で、その女とはその後もやったのかい」潮は妙な響きをもつ声で、あたかもさもつまらないことかのようにそう訊く。 「いいえ」一秒の五分の一ほどの躊躇《ちゆうちよ》の後、偉青がそう否定する。「そのひとはそのまま帰国しました。旅先の情事というわけだったんでしょう」それから急につくろった陽気さで言う。「事実は小説より奇なり、ですよ」 「その女ってのは日本人だったのかね?」  偉青の軽口を完全に無視して、潮が静かに訊ねる。 「まあ、どうでもいいでしょう、そのことは」偉青が柔らかく答えを拒む。  二人の男は一メートルの距離を置いて砂の上に腰をおろしたまま、一種|茫然《ぼうぜん》とした面持ちで眼の前の波の動きを凝視する。偉青は、自分の軽はずみな昔話を後悔して。そして潮の方は今しがた耳にしたばかりの事実にショックをうけて。やがて潮が重い口を開く。 「それで夏世は、きみをスカウトしたんだな。あきらかに料理のテクニックではなく、君のあっちの方の技に惚れこんだというわけだ。きみも考えてみれば気の毒に。結局はこんな人淋しい渚《なぎさ》のホテルに軟禁されちまったわけだ。幽閉と言ってもいいけれど」  偉青の躰が強張る。長い沈黙。 「俺と夏世のことも、やっぱりそんな風に始まったよ。つまり他人の家のバスルームで。南仏じゃなかったがね」潮が最後の止めを刺すように——相手にではなく自分自身の——言う。  早朝の霞《かすみ》がきれいに晴れ、日射しに透明感が出てきている。既に七時に近い時刻だ。海面には白銀色のこまかい光の皺《しわ》が一面により、そのひとつひとつがまばゆいばかりに輝いている。 「そのことで、あの女《ひと》の人格を疑わないで下さい」長い沈黙の後、偉青が思いつめたように呟く。 「誰も人格など疑っちゃいないさ。俺はありのままを受けとめているよ。それにきみの口からそういう発言を聞くのは不愉快だな」ひややかに言う潮。「それにきみと話を少しばかりしたからと言って、これまでより関係がくだけたものになるなどと思ってもらっちゃ困る。つまり夏世をきみとぼくとで共有しているなどとぼくがそいつを認めているなどと自惚《うぬぼ》れるなってことだよ」  潮のその言葉を機に、二人の男の距離が再び救いようもなく一瞬にして遠ざかる。 「張、ぼくはきみが大嫌いだし、最低日に三度はきみを締め殺してやりたいという衝動にかられるよ。もっともきみの方でも日に何回かぼくを肉切り包丁で刺し殺したいと思っているかもしれないがね」  潮が半ば上の空の動作で立ち上り、ふらりという感じで海を背にして歩き始める。それより数秒遅れて、偉青も立ち上る。 「頼みがあるんだが」と、振り返りもせずに潮が歩きながら言う。  不安そうに偉青が主人の背中をちらと見る。 「頼みにもよりますがね」ひかえめに、不安をのぞかせた声で偉青。 「たいしたことはないよ」潮が歩きながらニヤリと笑う。 「めったに頼まんが、君の特製のカフェオレと、イギリス風スコーンというやつを作ってくれないか。今朝はそういう気分なんだよ」 「それならお易いご用です」偉青は使用人の声と態度に戻って言う。 「毒を盛らないように頼むよ」潮はくだけた調子でそう言って微笑する。と、二人の距離が広がる。  張偉青は冷凍庫からスコーンを二つだけ取り出すと、オーブンに入れておいて、濃いめのコーヒーをたてる。特大のマグにコーヒーと熱くしたミルクを半々に注いで、既にオーブンの中でふっくらと膨らんで、表面に淡い焼き色がつきかかっているスコーンを取り出す。  スコーンにはバターとアプリコットのジャムを添えて、彼は『鮫鰭亭』の亭主に言われたとおり、それらをトレイに載せて二階の仕事部屋『鮫の脳』へ運ぶ。  その部屋に足を踏み入れるのは、後にも先にも初めてのことだった。海野潮の仕事部屋は、しかし偉青が漠然と想像していたような様相は呈しておらず、呆気《あつけ》ないほど殺風景なのだった。  作家の部屋というものは、まず足のふみ場もないほど書物に溢《あふ》れており、書き散らした原稿用紙がそこここに散乱しているものだと——それからたえず煙をあげている煙草のせいで、全体が蒼《あお》ずんだ霞におおわれているものと、なぜか考えていたのだが、実際には、散乱している原稿用紙など一枚も見あたらないのだった。  海に面した窓の前に置かれた机の上はきちんと整頓《せいとん》されており、分厚いグリーンの表紙の辞書が一冊、ペンとインク、渚から拾ってきた文鎮がわりの小石、きちんと角々をそろえて積みあげられている原稿用紙の束、といったものが、多分あるべき位置にあるべくように置かれているといった気配を醸しだしている。  正面の窓からは、つい今しがたまで二人がいた渚が見えている。 「そこのサイドテーブルの上に、置いていってくれたまえ」  三方の壁に作りつけになった書棚の右端に、軽く背をもたせるようにして立ったまま、海野潮が命じる。偉青は言われたとおりに、朝食のトレイを入ってすぐのテーブルの上にそっと置く。 「物書きの部屋を見るのは初めてかい」潮が訊《き》く。 「ええ。イメージが違いましたがね」 「書籍に埋もれた薄暗い書斎といったイメージ?」潮は面白がる。「そういうのはだね、日に三十枚も、五十枚も書く才能のある奴らの書斎だよ」彼はそう言ってコーヒーテーブルの前の低い椅子に坐り、カフェオレの入ったマグに手を伸ばす。「整理整頓する時間など、ひねり出せないわけだ。その点、ぼくなど一日中時間があるからね」 「書くってことは、しんどいんでしょうねえ」出口の方に下りながら偉青が同情した声で呟《つぶや》く。 「書くことがかね?」スコーンを口につめこみながら潮が言う。「書くことはしんどかないよ。書かないでいることが、しんどいんだよ」  それきり彼は二度と使用人の方を見ようともしない。偉青がドアに手をかけながら言う。 「よかったら、これから毎日朝食をここへ運びましょう」誠実みのある調子だった。 「いや、結構。毎朝である必要はないよ。多分二度ときみがこの部屋に足を踏み入れることもないだろう。今朝は、ちょっとした気紛れなのさ」潮は突き放す。そして言う。「しかし、カフェオレもスコーンも上等だ。いずれにしても、礼を言うよ」  偉青が目礼してドアの後へ出ようとする正にその時、潮が続ける。実にさりげない声で。 「夏世が妊娠しているよ」  偉青の動作が完全に止まる。 「確かですか?」 「まちがいない」 「そう、あの女《ひと》があなたに告げたのですか?」 「むろん彼女はそんなことを一言も口外しはせんよ。たとえぼくでも」それから言い直す。「このぼくにだけはね、特に」 「ではなぜそうとわかるのです?」偉青が問いつめる。 「夏世が今どういう状態にあるか、いつだってぼくにはわかるよ。二十四時間、彼女と暮らしていればね」しかし俺は気がつかなかったと偉青の胸が泡立つ。 「ところで」と潮が急に不自然な声音になって言う。「夏世は今朝十時に逗子の産婦人科に予約をとっている」潮がひたと料理人の顔を見据える。「優生保護法にもとづく指定医院というやつだ」  偉青の瞳孔《どうこう》が危険な感じにせばまる。「つまり堕胎を?」  潮の方が先に相手の顔から眼を逸らせる。 「あなたは相談をうけましたか?」偉青が苦し気な息遣いの下からようやく訊く。 「妊娠の事さえも告げられていないんだよ。彼女一人の判断さ」 「確かなんでしょうね」 「くどいね。まちがいないよ」 「何故そうと知って止めないんです?」 「ぼくがかね」じろりと冷酷な一瞥《いちべつ》。「ぼくが止めるのかね?」  はっとして偉青が黙る。 「俺にどうしろと?」彼はうろたえる。「どうして俺に今頃になってそんな話をするんです?」 「じゃ何時だったら良かったのかね? 何もかも済んじまった後にかい」 「俺にどうしろと?」偉青は同じ言葉を口にして、一瞬すがりつく眼をする。 「ぼくにきめられるわけがないじゃないか」 「しかし」 「ぼくは単に事実だけを伝えているのにすぎんよ。夏世は現在妊娠しており、その子を十時に堕胎する予定だと。それとも何かい、そうしたこと一切に口をつぐんで、きみに何も知らせなかった方が良かったんだろうかね」そこで彼は少し考える。「そうだな。多分何も知らないで事実が闇から闇へと葬られれば、きみは楽だよな。知らないことは、無かったことと同じという意味でさ」潮は偉青の顔から窓の外へ視線を移す。「しかしそいつはちっとばかり虫が良すぎるというものだぜ。きみに楽な思いをさせてやるつもりなど、ないんだ」  張偉青の顔が蒼ざめる。 「子供を生ませてやって下さい」死んだような声。 「誰にむかってそんなことを言ってるんだね」にべもない潮の反応。偉青は、息を呑む。 「俺のためでもない、あんたのためでもない、あの女《ひと》の——」潮が言葉をはさむ。 「ところが張、あの女がそれを望んじゃいないかもしれないじゃないか」ぐさりと相手の胸にささるような言い方。「それこそ彼女の最も望まないことかもしれんよ。使用人のコックの子供など——」  二人は、束の間顔を見合わせる。偉青の顔から表情が消える。 「それでは問題はさして無いわけだ。——もしあの女《ひと》がそれを望まないのであれば、俺にしろ、ましてあんたなんか、横から口を出すような問題じゃない」 「そういうことだな」それから潮は無感情につけたす。「望もうと望まざろうと十時だよ。すべてが終るのは」  そう言うと彼は、もう充分だといった仕種——何かを追い払うような手の動作——をして、料理人に横顔を見せてそれきり口をつぐむ。で、偉青は数歩退ってドアの陰に消える。  一階の玄関ロビーに通じる階段を降り切った所で、偉青は夏世の声を聞く。 「主人の部屋で何をしていたの」と、柔らかい声で彼女は訊ねる。 「朝食のスコーンを届けただけです」張偉青は女主人の顔を見ずに答える。 「珍しいこと。——でもそれだけ?」 「それ以上に、俺とあの人との間にどんな会話が成立すると思うんです」偉青は怒ったように行きかける。夏世は肩をすくめて、男の背中に言う。 「五分後に、あなたの部屋に行くわ」 「海から上ったばかりなんです。シャワーを浴びないと」 「シャワーはあとでもいいでしょう」 「何のあと?」 「どうしたの偉青? 今朝は様子が変よ」 「時にはそんな気分になれないことがあるっていう意味です」 「じゃシャワーを浴びることね。さっぱりして気分が変るかもしれない」 「受けあえないよ」男はわざと突き放す。「いずれにしろ五分後に。話があるのよ」  偉青はびくりとする。 「話って、何を?」 「それもあとでね」 「八時には魚市場に出かけなければならないんですよ」 「電話で魚新へ注文したらいいじゃないの。あそこの魚は信用できるんだから。あなたに説明しておきたいことがあるの」 「俺は自分の眼で見るものしか信用しない」偉青はさっさと歩き出す。が、ほとんど夏世から逃げ去るような感じが露《あらわ》だ。 「話しとくのがわたしの義務だと思うから」夏世が追いすがる。偉青は激しく首をふる。聞きたくなんぞない。俺はおまえの言わんとすることなんて、断じて聞きたくないのだ。 「あなたにいかなる義務などもないんだ。話も説明も必要ない。今までだって説明なしに結構上手く事が運んでいたんだし、今更、その習慣を変えるのはおかしなことですよ」  夏世の顔から表情が消える。 「知っているのね」 「何のことです」偉青はわざと肩を振る。 「俺は何も知らないし、何も知りたくないし、今のままでいい」  二人の視線が絡む。夏世が何か言いかけて口を開きかかる直前に、偉青は勝手口に走りこみ、逃げるように裏木戸からホテルの外へ抜ける。  きっかり五分後に、マンションの彼の部屋の扉にノックがある。偉青はたっぷり時間をとってのろのろと戸口に向う。シャワーを浴びようと水栓をひねったばかりだったので不機嫌だった。 「鍵をあけて」押し殺した女の声。「なぜ鍵なんてかけたりするの?」 「シャワーを浴びている時、いきなりカミソリで背中をパックリと掻《か》き切られるのはごめんだからね」 「誰がそんな真似をすると思っているの。ばかね。とにかく開けてちょうだい」 「それに飢えた女に、後から襲われるのも、あんまり好きじゃないんだ」ドア越しに偉青は声に悪意を滲《にじ》ませる。 「意地悪なのね、偉青。入れてちょうだいと頼んでいるのよ」 「条件次第では」  相手が黙る。 「話だとか説明だとかそんなものは一切ぬきにすること」  短い沈黙。そして、いいわ、と夏世の声。 「早くして。このマンション中の住人が聞き耳をたてているのよ」 「この部屋にあんたが訪ねる理由はただひとつ。あのことをやる場合だけ」 「そのつもりで来たのよ。わかっているくせに」 「ただし、今朝はあんたのやり方ではなく、この俺のやり方でやる。——それで承知なら、お入れしますよ、『鮫鰭亭』の奥さん」  相手が躊躇《ちゆうちよ》する様子が気配でわかる。 「だめなら帰って下さい」偉青は自分でも気づかずにほっとしてドアを離れかける。 「いいわ」と女が低く妥協する。「だけど苦痛なのは嫌。痣《あざ》をこしらえたりそういうのも嫌よ」  けれども張偉青は、自分の一部がしんと冷えきっているのを感じて、扉の手前で躊躇する。 「俺と逃げよう」唐突に偉青が扉ごしに言う。「二人でもっと自由に暮らそう」 「どうしてわたしが逃げなければいけないの? 『鮫鰭亭』はわたしのものなのよ。とにかく開《あ》けて。私を中に入れて」 「あんたが、子供を生める場所へさ」  彼女は扉を苛立《いらだ》って叩く。「子供を生むんだったら、わたしここで生むわ」 「じゃ、生みたくないんだな? 料理人との子供など生みたくないというわけか」 「もっと色々理由があるけど、あなたが率直な答えを求めているらしいから言うけど、そうよ。あなたの子供を生みたくはないのよ」  偉青に冷静さが戻る。彼は扉から少し身を引く。 「快楽だけは貪欲《どんよく》にむさぼり喰うのに」 「その点にかけては、あなたとわたしはとても合うのよ。そのことはあなたが一番知っているじゃないの。わたしたちは完璧だわ。それだけじゃいけない?」  偉青はそれには答えず、低い声で訊く。 「やっぱり行くのかい、十時には?」 「どうしてそれを知っているの?」夏世の声が震える。 「どうでもいいさ。それに、そのことをあんたはさっき俺に説明しようとしたじゃないか。俺に告げることで、子殺しに加担させようとしたんだよ」  夏世は扉の向う側で静かに微笑する。 「あなたのどこかが傷ついたり痛んだりするわけでもないのに?」それからほとんど愛撫《あいぶ》のような声で、言うのだった。 「それにあなたの子を堕胎《おろす》のは何も今度が初めてっていうわけでもないのよ。言わなかったけど」  男の躰《からだ》が強張る。やがて言う。 「どうせなら、その秘密を黙ってあんたと一緒に墓まで持っていって欲しかったね。どうして今頃になって俺に言うんです」 「どうしてかしらね」と夏世は扉を凝視する。「どうしてか、自分でもわからないわ」  そして彼女はその場を離れる。当分、ここへは来られないわ、と言いながら、「手術の後、二週間はあれがだめなのよ」と。驚くほど朗らかに言い残して、エレベーターの方角に消える。  偉青の中の凶暴なものが、だしぬけに炸裂《さくれつ》する。彼はベランダのドアを力一杯一気に押し開き、脱兎《だつと》のごとく非常階段を駆け降りる。それから何ごとかわけのわからない叫び声を上げながら『鮫鰭亭』を回りこみ、前庭を走り抜け渚へ駆けこむ。  太陽が正面から照りつけていた。渚には依然として人気はない。張偉青は、東にむけ既に高く昇っている太陽にむけて、疾走する。心臓が真赫《まつか》にただれ、今にも喉《のど》からとびだしてきそうだった。髪を黒い炎のように後方になびかせ、躰中の産毛という産毛を逆立てて偉青は走った。そうしているうちに、彼の両腕に不思議な力がみなぎり始め、いつのまにか偉青は空をつかむような凶暴な怒りの動作をしながら走っていた。あの純文学作家は何と言った? 俺が軟禁されているとか幽閉されているとか言わなかったか? 畜生、とんでもない思い違いだ。  あなたの子を堕胎するのは、何も今度が初めてというわけではないのよ、とあの女は言った。俺が夏世を妊娠させたのに、俺は何も知らずにいたのだ。偉青はいよいよ狂気じみた猛々しさを漂わせながら、長い入江を走り去って行く。そして彼女はあと数十分で俺の子供を流し去ろうとしている。そして彼はそのことに対して完全に無力なのだった。 『鮫鰭亭』の二階の左の窓の中で、人影が動く。潮は渚をすごいスピードで駆け去って行く偉青の姿に喰い入るような視線を注ぎながら、半ば放心したような、半ば感嘆と恐れの混じった声で呟く。 「まるで、あいつは虎みたいに駆けやがる」  入江の突端まで来て、張偉青はだしぬけに立ち止った。貧血と怒りとで彼は激しいめまいを感じ砂の上に膝をつき躰を二つ折りにして、嘔吐《おうと》した。  腹の底から次から次へと突き上げてくる吐気で、彼の肉体は痙攣《けいれん》したが、胃袋は空だったので、最後には少量のひどく苦い胃液と黒ずんだ血のようなものを吐き出して、それで吐気は急に収った。  偉青は血走った眼で、乾いた砂にまたたくまに浸みこんで、暗い染みのようになってしまった自分の胃液を眺めた。  怒りやショックなどの激しい感情は既に消えていた。そのかわりに、ふつふつと虚しく、どこか薄汚れた感じの物哀しい気持が彼を支配していた。  偉青は、先刻まで彼を狂ったようにかりたてていたあの激しい怒りをとり戻したいと、切実に感じた。こんな薄汚い哀しみはごめんだ。  けれども怒りの感情は戻らず、心臓も既に正常に鼓動をしはじめていた。彼はのろのろと立ち上り、打ちのめされたように踵を返すと、元の方角に、『鮫鰭亭』へ向って、すなわち再び幽閉の身になるために、陽を背にうけて、とぼとぼと歩き出した。  三 ウィークエンド  二組の予約客のうち、二時過ぎにチェックインした方のカップルは『鮫《シヤークス・》 皮《スキン》』と呼ばれる部屋に閉じこもったまま、カクテルの時間になっても降りて来る気配はない。  実際にはまだ四十代なのだろうが五十代にも場合によっては七十代にも見える骨格の小さな、いかにもしなびた男と、大柄の艶《つや》のいい女の二人連れで、女の方は完璧に年相応に見え——ということは四十六、七で、小金のありそうなタイプだった。  男は年老いた貧相なジゴロといった感じで、女の方はさんざん放蕩《ほうとう》を尽くしたあげくの果て、毛色の変った種族にしか興味を抱けなくなったマニラあたりの女郎屋の女将《おかみ》といった風体でその二人のとりあわせが、いかにも珍妙なのだった。  女のルイヴィトンの小型バッグはイミテーションだったが、偽ものとしてはかなり出来がいいので、おそらく本人はそうとは知らず法外な値段で買わされたのかもしれない。  人手が足りないせいもあるが、客の方でもそれを望まないという理由で、部屋《ホテルルーム》へは客が鍵《キイ》を持って勝手に上って行く。シーズンオフのしかもウィークエンドの客が『鮫鰭亭』に期待するのは、美味《うま》いフランス料理でも休息の場でもなく、ひたすら情事に精出すべく鍵のかかる清潔な密室なのであるから、それでいいわけだった。  小男と大女のカップルが渚《なぎさ》に面した部屋で、ダブルベッドのスプリングを軋《きし》ませつつあろうとなかろうと、時刻は五時半でカクテルの時間である。  バーのカウンターを囲んで三十代前半の男女が肩を寄せている。ディナーの時間にはまだ少し間があるので、他に客はいない。海野潮がシェーカーの中に砕氷を入れながら訊く。 「マティニーのお好みは?」  男が顔を上げる。 「ジェイムズ・ボンドと同じやつを」 「どっちのボンド?」と潮がすかさず訊く。 「ショーン・コネリーとロジャー・ムーアとでは好みが違うと思ったけど」  すると男はニヤリと笑う。 「もちろん、イアン・フレミングの好みのやつさ」 「ベルモットを霧吹きで一吹きってやつですか」潮もつられて笑う。「気障《きざ》だな」 「気障だよね」と男がくだけた口調で言う。 「もちろん冗談だよ。ぼくはウオツカベースの方が好きなんだ。オリーブのかわりにライムがあったらその皮をちょっとけずって落してもらえるとありがたいんだけど」 「ライムの用意があるかどうか、キッチンの方を見て来ましょう」 「あなたって同じことばっかり」女がわずかに倦怠《けんたい》を滲《にじ》ませた優しい声で呟《つぶや》く。  潮は、その女の声から実に様々なことが臆測できるわけだ、と考えながらキッチンに向った。結婚七、八年目の倦怠期。夫の気障さかげんが相当鼻についているらしいのは、声の作為的な優しさからなんとなく感じられる。作為的な優しさというやつは冷笑とほとんど同じことなのだ。 「進歩がないって言いたいのかもしれないがねえ、人間ってものは、本質的にはたいして成長はしないものだよ」そう男が妻に答えている。潮は玄関ホールをぬけて、ステンレスを磨きたてたキッチンに足を踏み入れる。  調理台をはさんで、料理人の張と、夏世が向いあっている。  夏世は夕食の予約客のリストを手に、いかにも今夜の献立ての打ちあわせといった風を装ってはいるが、潮の足音を聞きつける直前まで二人が交していた会話はどうやら別のことらしい、と潮は感じとる。二人が咄嗟《とつさ》にとったのが、気づまりな沈黙であったことからもそれがわかる。  夏世はといえば、夫にいきなり踏みこまれた状況で、自分がうろたえ、沈黙してしまったことに対して、内心腹を立てていたものだから、今さらとってつけたように張と献立ての話をしてその場を繕うという努力も、完全に放棄してしまっていた。 「密談中申しわけないが」と潮が口をきる。 「ライムがあったら少しもらえないかね。皮をほんの少し使うだけなのだが」  張が無言で大型冷蔵庫の野菜用の引き出しを開けて、青々としたライムをひとつ取り出して調理台に置く。 「四分の一ほど、切ってくれればいいよ」  潮の言葉通りにナイフを入れ、四分の一の方を小皿に載せると、張はそれを亭主の前に差し出す。 「ありがとう」潮が踵《きびす》を返しかける。 「『シャークス・スキン』のお客さまは、まだ降りて来ない?」夏世が夫の背に少し無理した感じに訊《き》く。 「うちのホテルルームの小部屋に引っこんだきり、チェックアウトまで一歩も出て来ない客は、そう珍しくもないだろう」  潮は憮然《ぶぜん》として答える。 「あのお年では、珍しいんじゃない? そんなことは、まあどうでもいいんだけど」  そう言ってから夏世は急にビジネスライクな口調に変えて張に訊ねる。 「で、アワビをどんな風にするんですって?」 「あまり手を加えたくないですね」と張が答える。「蒸したものを薄切りにして、ライムとバターのソースでもかけましょう」  潮は肩をすくめてその場から歩み去る。俺なら、生きのいいアワビを蒸したりはせんのにな、と考えながら。ましてやバターの入ったソースなど、つまらんことをするものだ、生きのいいアワビってやつは、角にころころと切って、氷水の中に放りこみ、ワサビと醤油《しようゆ》で食うのが一番なのにきまっている。よく冷えた生のウオツカの肴《さかな》には最高だ。 「何をぶつぶつ言ってらっしゃるの?」と、バーのカウンター越しに若い女が潮をからかう。 「何か言ってましたか?」ライムの皮をペティナイフで削りながら潮が苦笑する。「アワビの調理法に関して、うちの料理人《コツク》と趣味が異なるものでね」 「今夜はアワビが出るの? うれしいわ」と女が言う。 「前に来た時には、冬だったから伊勢海老が出たわ。レモンをきかせたマヨネーズソースで、とっても美味《おい》しかったのを覚えている」 「へたにチーズなどのせて焼いたのが出るより、ありがたかったな」女の夫が同意する。彼はカシミアの黒のカーディガンをはおっており、ノーネクタイ。女の方は腰から脚にかけてぴったりしたジーンズに肩の張った絹のブラウス。一連の小つぶの真珠のネックレス。『鮫鰭亭』常連客の典型的な衣装だ。 「伊勢海老の一番美味い食べ方をご存知ない?」潮が女の白い首をとりかこんでいる、淡いピンク色の珠《たま》をみつめながら言う。「捕れたてのを、ぶつ切りにして、みそ汁の中に放りこんだやつ。熱々のところへきざみねぎをのせて、ふうふう言いながら食うんです」 「そいつは美味そうだ」と男が感心する。「しかしこの上もなく贅沢《ぜいたく》な食い方だな」 「今の時代じゃね、贅沢かもしれない」と潮が言う。「僕が子供の時分、海育ちですからね、岩場でよく伊勢海老がとれましてね。養殖していたわけじゃないから禁漁期間なんてものもなかった。岩場でうろうろするシーズンになると、ひょいと背中をつかんで、誰にでも捕れる。焼いたり、サシミにしたり色々お袋が手を変え品を変えてはくれたけど、毎晩続くと、どうしようもなく倦《あ》きる」 「もったいないような話」女が溜息をつく。「わたしだったら倦きないわ」 「きっと倦きますよ。あの肉のうっすらと甘いような味は、美味でもあるけど飽食すると真先に鼻につく。で、子供たちは見向きもしなくなる。するとお袋が困り果てた挙句みそ汁に入れるんです。これだけは不思議と倦きなかったね。みその味が合うんだろうね。子供の時分のことを思うと、真先にそのみそ汁のことを思い浮べますね」  潮は自分の饒舌《じようぜつ》に急に厭気《いやけ》がさしたのか、不意に口をつぐむ。 「人は誰でも忘れられない舌の記憶というものがあるのだろうね」と、潮が作ったマティニーに手を伸ばしながら男客が言う。「ぼくぁ信州の田舎者だから貧しい味の記憶しかないが——野沢菜とか山菜とか。岩魚《いわな》もあったっけ——」それから妻の方に「きみはその頃親父さんにくっついてドイツにいたんだろう? とするとソーセージとか酢漬けキャベツとか豚の肢の先を煮こんだやつとかが味の原点なんだろうな」と言う。 「そういうものも食べたんでしょうけど記憶はないから、それが味の原点かどうかはわからないわね」と女はひややかな感じで答える。 「育ちというよりは、味の記憶の違いがこうじて色々に影響するんだろうな」 「たとえば、どういうことに?」女が夫の言葉を聞きとがめる。 「だから色々なことにさ」と、少しうるさそうに男が妻に答える。  夕食を食べに来たレストラン客の第一号が、扉を押したので、小さな金属のベルが鳴り、夏世がキッチンから歩み出て来て、客を迎えている。その顔がわずかに青白い。 「味のことに限定して言っているの? それとも色々なレベルにまで広げてのことなの?」女は穏やかだが追求を止めない。  潮は少し身を引くような感じで、自分用に作ったウオツカトニックを口に運ぶ。女がその口もとを見ながら不意に言う。 「私にも、それと同じものを作って頂ける?」 「全く同じものですか?」潮が面白そうに女の顔を見る。 「ええ、そうよ。ウオツカを指四本分と——私のでなくあなたのね——ソーダとトニックウォーターを半々で」 「よく観察してましたね」潮がウオツカの瓶に手を伸ばす。 「指四本でなく二本でいいよ。それも彼女のね」と女の夫が横から口を入れる。  潮が困った顔をする。 「ぼくはどっちの言うことを聞けばいいんですかね?」 「彼の言うようにして」と女はあっさりと引き下る。知恵というよりは経験が彼女にそう指示するのだと、潮はそのあっさりとした引き方から感じる。  女はウオツカのトニック割りを一口|啜《すす》ってから、意味もなく顔を顰《しか》め、 「さっきのことだけど、結局、あなたは何が言いたかったの?」と、前言をおもむろに蒸し返す。 「育ちが違えば人間の物の感じ方も違うってことさ」それで結論にしたがっているみたいに男が言い、潮に向って「以前にね、レモンも、ライムも切らしちまって、ユズだったかカボスだったかの皮をマティニーに入れた人間がいたんで、びっくりさせられたことがあったよ」 「カボスだったわ」女が呟く。 「そうだったっけ? とにかく恐れ入った発想でね。誰のパーティだっけか?」 「うちのパーティよ」 「覚えてないんだ。女ってのは突飛な発想をするもんだと思ってさ」 「創造力の問題だと思うけど。その突飛な発想をした女っていうの、私だったのよ、覚えてないの?」  男はちょっとバツの悪そうな表情をする。 「そういうのを創造力豊かだとは言わないんだよ。いささか乱暴な、雑駁《ざつぱく》な発想だとぼくは受けとめたね」 「事実そう言ったわ、あの時も。乱暴な、雑駁なって、わざわざ二つ言葉を重ねて人前で私を非難したわ。それも忘れたでしょうけど」 「事実忘れたね」男はちょっと苦笑する。 「女って動物は、肝心なことはすぐ忘れちまうのに、つまらんことは執拗《しつよう》に覚えているもんだな」潮に同意を求めるような言い方。しかし潮は何も言わない。 「何が肝心で何がつまらないことかの価値判断によるんじゃないの」と、女は人ごとのように呟く。 「女って動物は、が始まると、とたんに白けるのよ、わかる? 一般論にみせかけて実は紛れもなく個人攻撃しているくせに」それから急に潮に問いかける。 「あなたもやっぱり女って動物は、の口なの?」  潮は肩をすくめる。「記憶にないけど、言うくらいのことは何度もあったかもしれませんね」  夏世が客の食前酒の注文に近づいてくる。 「俺、君にそういう言葉で話しかけたことがよくある?」心持ち青い妻の顔に視線をあてながら訊く。 「『女って動物は』で始まるセンテンスのことよ」と女客が説明を加える。 「口に出しては言ったことないけど、お腹のなかではかなりひんぱんにそう悪態ついているみたいですよ」と夏世は無理にほほえむ。 「テーブルのお客さまにキールを二つお願いします。カシスを少な目にというご注文よ」と夫に伝えておいて、さっさと引き下る。何か胸の内に気にかかることがあるといった感じがいかにも露《あらわ》だ。  キッチンでの張偉青との会話はかなり深刻なものだったのだろうか。潮は眉を寄せる。 「要するにこういうことなのね」と、女は夫に言う。「マティニーにカボスの皮を落したくらいのことで、人生の一大事みたいになっちゃうってことね」それから潮を見て、 「あなたはどうお考え? マティニーにカボスの皮ってのは、むちゃくちゃで話にも何にもならない?」 「好きずきですからね」潮はあいまいに答えながら、妻の夏世がレストランの三人の客の注文をメモして、それをキッチンに伝えに行く後姿に視線を注ぐ。「案外いけるという人もいれば、日本的な香りが強すぎてとんでもないと怒る人間もいるでしょう」 「僕は耐え難いね」 「カボスの皮ぐらいのことでね」と女が鼻先で笑う。 「そうじゃないよ。そういう雑駁な発想自体がだよ。一事が万事そうなんだから」 「私のことを言っているの?」 「他に誰がいる?」 「ちょっと失礼」と潮が少し険悪な空気になってきた夫婦を残して、食前酒のキールをレストランの客に届けるために、場を外す。 「君って女は、クリーニング屋から戻ってきたワイシャツを、クリーニング屋のビニール袋に入ったままの状態で、引き出しの中に突っこんでおくような女なんだよ。つまり一事が万事その調子なんだ。ちょっと頭をきかせて、袋から出し、ボタンはとれていないかどうか点検するくらい、造作もないじゃないか」 「お義母さんがするようにね」と女が声を尖《とが》らせる。「ボタンがとれているかどうかは、クリーニング屋の責任で私のじゃないわ。それに白洋舎はそこまで気を配るはずよ。めったにボタンがとれてたことなんて、ないじゃないの」妻は少しうんざりして鼻白む。 「それがあるんだよ」 「だからといってこの世も終りみたいに喚《わめ》き散らさなくたっていいと思うわ」  潮は三人連れ——中年の夫婦と、そのどちらかの妹と思われる組み合わせ——の前に、キールを置いてから、そっとキッチンを覗《のぞ》く。  張が包丁を動かしながら何か低い声で言っているようだった。それを聞く夏世の背中が固い。潮はそのままバーの方角に引き返す。 「男ってものは、朝のそういう時刻に、ワイシャツのボタンがとれてなくなっているってことに、耐えられんものなのさ。男ってものは、そういうもんだ。きみがそれをどう思おうとだ」夫は突き放すように言う。  結婚とは何だろう、と二人の小さな口論を聞くともなしに耳にしながら潮は考え始める。当初からあきらかにわかりあっている男と女の根深い気質の相違を、時間をかけて、ゆっくりと、それも徹底的に暴き出し、証明すること以外に、結婚には何があるのだろうと。  ある程度結婚生活を体験した者の眼から見れば、若い夫婦のそうしたこぜりあいは、前もってわかっているべきだったことが、わかっていた通りになっていく、という、ごく当り前のことでしかないのだ。男と女の間に厳然として横たわるこの滑稽《こつけい》な信頼感のズレが、いつだって問題なのだ。潮は過去七年に亙《わた》る女優との結婚を思い、それから現在の夏世との生活に思いをはせる。フィリップ・ロスじゃないけど、人生など楽な時はとことん楽で、辛い時はとことん辛いものなのだ。  それでも適当にごまかし、セックスをし、また互いに雑言を浴びせあい、結婚は少しずつ色褪《いろあ》せながら急速に終焉《しゆうえん》に向うか、幸運な場合には一種なれあいめいた倦怠期《けんたいき》の、なま温かさの中へと安全に滑りこんでいくのだ。それにしても何が原因で男と女は険悪にいがみ合うのだろう? 潮が二人のどちらにともなく言う。 「あなた方の会話を聞いていると、ぼくの好きな作家の(好きなというのは全然あたっていないな、と彼は思う。ロスは俺の脳天を叩き割っちまったんだから)書いた話を、ぼくに思い出させますよ」彼は淡々と続ける。 「結婚最初のつまずきは、たとえばトーストのことなんだね。卵料理をする前でなく、卵を料理している最中にパンをトースターに放りこめば、両方とも出来たての熱いのにありつけるのに、と若い夫は口を酸っぱくして文句を言う」  バーの男が何か思いあたることがあるみたいに苦笑する。潮が再び喋る。 「女が言い返す。『こんなことで毎朝議論するなんてあたし信じられない』と。女には事実心底信じられないと思うんだけど、そう言うんだね。で、ある日ついに金切り声を上げて叫ぶんだ『人生はトーストじゃないのよ!』  すると男はかっとして言い返す。『トーストだよ!』その男は言うんだな。『坐ってトーストを食べる時、人生はトーストそのものなんだ』と。それから何だったっけかな」と潮は記憶を呼び戻そうと眼を細める。 「そうそうゴミだ。『ゴミを出す時、人生はゴミだ』って訳になる。ゴミを階段の途中に放っておくわけにはいかないとか何とか言い争う。ゴミはバケツに入れて蓋《ふた》をかぶせて裏庭へ運ぶもんだと。きみにはなぜそいつがわからんのか、と男がせまるかどうかする。すると女が答える。『それはきっとあんたがゴミだからよ』——俺、ここで笑っちゃったね。もう可笑《おか》しくて、涙が零《こぼ》れてとまらなかった。あんたがゴミだって苦しまぎれに言う女の無茶苦茶な発想がもう実によく理解でき、ますます作者を尊敬するはめになるのだが(尊敬なんて生易しいもんじゃないんだ、本当は叩き割られた脳みそを、両手でこねくりまわされたみたいにショックだった)。人生はトーストであり人生はゴミであるってわけですよ」 「全くもって同感だ」と、男客が感心したように唸《うな》る。「その伝で言えば、人生はとれてしまったワイシャツのボタンだってことなんだ。わかる、わかる」としきりにうなずく。  それを横目で見ながら男の妻が言う。 「人生はカボスの皮だってわけね」それから一層皮肉な口調で「それから人生は靴下の穴であり、味つけをまちがった夕食の一品であり、女のくだらない長電話が、人生そのものになっちまうってわけよね」 「でもどうやら、そういうことをやっているのは、ぼくたち夫婦だけじゃなさそうだってことが、わかっただけでも、一安心できないかい?」と夫は妻に妥協を求める。 「安心どころか、心が休まる時がないのよ」と女が急に破綻《はたん》した声になる。「何かっていうと、こう頭からがしゃんとやられるでしょう。もう待ちかまえているとしか思えない陰険さで、こっちがボロを出すか、うっかりまちがったことをしたり言ったりしようものなら、間髪を入れずにこの人は、こっちの手落ちや無神経さや不注意さを、勝ち誇ったように指摘するんだもの。『お袋ならそうはしないぞ』って。私、さっきの海野さんの話の中に出て来た女じゃないけど、全くもって彼女に同感なのよ。『こんなことで議論になるなんて、あたしも信じられない』って感じ。だから『あんたがゴミだからよ』っていう無茶苦茶な科白《せりふ》をどうしたって吐きたくなるのよ。そうすると男ってのは、もう言葉ではどう表現もできなくなって、ドアかなんかを力一杯叩きつけて出て行っちゃうの。あるいはテーブルのおかずを腕で全部払い落しちゃうの。本当は私の腰を蹴りつけたいんだけど、それを辛うじて制して、かわりに近くの椅子を思いきり蹴りつけるんだわ」  そして、そのうちに、あまり遠くない将来、知恵というよりは経験から、男は自分でクリーニング屋の袋を破り、ワイシャツのボタンを点検してから、引き出しにしまうようになるのだろう。相手にガミガミ咬《か》みついたり、間髪を入れずに相手の手落ちに攻撃を加えるよりは、自分でトーストを焼き、ゴミを出し、マティニーをつくる方が、ロスが書いているとおり、人生ははるかに楽なのだ。ドアを腹立ち紛れに力一杯叩きつけるのにだって、エネルギーを費《つか》うのだ。それも驚くほどの。相手は眉をひそめるだけだが、当の本人は、心臓がヒヤリと飛び上るものだ。そういうのは、神経にも躰《からだ》にも応《こた》えるから、男は口をつぐむって訳だ。その結果、お互いがお互いから遠くなり、ひとつ屋根の下で暮らしていながら見捨てられたような寒々しい気分に落ち込んでいく。不幸な思いは実際、人間を薄汚く見せてしまうものなのだ。夫の方は、打ち捨てられた野良猫の様相を帯びて荒び、妻の方も顔を土色に膨らせ、やっぱり同じように薄汚れた感じになって、指四本分のウィスキーだかウオツカだかに溺《おぼ》れていく。月並みで面白くもおかしくもない話だが、そういうものなのだ。 「私はね、あなたのお義母さんみたいにはやれないということなのよ」と、女が最後通牒みたいに言う。 「誰もお袋の通りにやってくれなどと頼んじゃいないぜ」 「あら、そう!」ウオツカトニックをちびちびやりながら女が大きな声を出す。「そうですかしらね!? そりゃ口に出してはめったに言わないかもしれないけど、あなたは不満たらたらで、なぜ不満かといえば、いつだって離れのお義母さんと私とを比較しているからだわ。絶対にそうよ。比較するものがなければ、現状でやっていけるものなの」  男は急に不機嫌になって黙る。 「だけど、一番我慢ならないのは、あなたの態度よ」 「ぼくの態度?」男は心底意外だという風に眉をつり上げる。「ぼくがどれだけそのことで神経を使っているか、知っているじゃないか。それに言っとくけどね、どっちの肩ももたないからね」 「問題はそれよ。それが嫌なのよ。悪けりゃ悪いと言えばいいじゃない。私がまちがっていたらそう言ってもらいたいし、あちらがおかしかったら、あちらにも言って頂きたいわ。どっちにもつかないってのは、一番やり方がずるいのよ。見て見ぬふりをするのは汚いわ」 「何も好きこのんで、見て見ぬふりをしてきたわけじゃないぜ」夫の様子が少し陰険になってきている。「そうやってきたからこそ、これまでのところ、大した波瀾《はらん》もなくやって来られたんだ」 「でももうそういうの嫌なの。疲れたわ。うんざり」 「ぼくの身にもなれよ」  その時、ポーチに二人連れが現われ、レストラン部のドアを押すのが見える。渚《なぎさ》はすでに夕闇にすっぽりおおわれており、青白い虫よけ用のランプの光が前庭の芝を照らしている。  夏世の姿が見えないので、潮が客を迎えに行き席に案内する。  先客の三人連れのひそひそ話を通してバーの夫婦の声がそこまで聞こえてくる。 「もう限度よ」 「その話を蒸し返すのは止せよ。もう何百回となくやったんだから」 「これで最後よ」 「やれやれ」  妻はちらっと夫を皮肉な、少し悲しそうな眼で見る。  二人連れの若い男女のグラスに水を注ぎ、メニューを渡しておいてから、潮は足早にキッチンに入る。 「お客だよ」  背を見せたまま、夏世がうなずく。背中の感じで妻が泣いていたのが、潮にはわかる。張の口もとも固い。潮は何か言おうとして口を開きかけたが、言うべきことは何もないことに気づき、後退さるような感じで二人を離れかける。 「客の注文を取って頂けませんか」張が不意に頭を上げ潮と視線を合わせる。言葉はていねいだが頼むというよりは半ば強制するような響きがある。 「そいつはかまわんがね」と、潮はあいまいに言う。 「客の前に泣きはらした顔を出さんですむように、むずかしい話はあとにしてもらえんかね」  それだけ言い残して、潮はレストランへ戻り若いアヴェックの注文を聞く。  夏世が自分を繕えないほど取り乱したのを見るのは初めてだった。まして使用人に涙を見せるなどと。潮の胸は重苦しい泡立ちで一杯になる。  海のサラダと、仔牛の料理の注文を書きとめ、前客の食前酒のすすみ具合を眼で計っておいて、潮は再びキッチンへ向う。ひどく嫌な思いがつのる。  しかし夏世の姿は消えていて、張がトレイに三人分のアワビの前菜をもりつけている。 「そいつを俺が運ぶのかね」潮が情けなさそうに言う。 「結構です。やりますから」張が傍のコック帽をかぶり、トレイを持ち上げる。潮が相手を通すために躰を引きながら訊《き》く。 「夏世は?」 「顔をなおしに行きました」張が出て行こうとする。 「きみは夏世に何を言ったんだ?」  張の背中が強張る。 「新しいコックをみつけて欲しいと」  そして彼はトレイをかかげて出て行く。  潮はその場に釘づけになったように動けない。張がやめてしまうということは、どういう意味なのか考えようとした。夏世にとってはもちろん、自分にとっては、どういうことを意味するのかと。しかし何も考えられない。頭に何も筋道だった考えは湧いて来ない。  張が空のトレイを提げて引き返してくる。その場にまだ潮が、同じポーズで突っ立っているのを見ると、彼はわずかに表情を引きしめる。 「『シャークス・スキン』のお客さんが降りて来て、飲みものを欲しがっているようですよ」そう言ってトレイを置くと、何かを思い出したように、ニヤリと一人笑いをする。「もっとも男の方は気付け薬の方が必要みたいでしたがね」 「夏世は、納得したのかね、その、きみが出て行くということにだが」 「せざるを得んでしょう」冷たく張が答える。 「引きとめなかったのか?」 「引きとめても無駄だとわかっていたんでしょう」 「そんなに簡単なのかね?」 「何がです?」 「十年に及ぶ男と女の絆《きずな》ってものは、そんなに簡単に断ち切れるものなのかね」 「今やらなければ、又十年、同じような暮らしが続いちまうって気がするからね」 「逃げ出すってわけか」そう言ってしまってから、潮は自分の言葉に驚く。そんな風に言うつもりはなかったのだ。 「そっちがそうとっても俺は全然かまいませんよ」張はいっそうひややかにそう言い、冷蔵庫から洗ってあるサラダ用の野菜を取り出す。「バーでお客さんがお待ちかねですよ」  潮はその言葉で反射的に後退さる。 「しかし、張、そういうわけにはいかんよ」と、彼はとり乱した感じの声で言う。「夏世を見捨てるようなものだ」  そう言いながら、見捨てられるのは、夏世だけでなく、自分も又そうなのではないかという思いが彼を圧倒する。夏世と、二人だけで。夏世と対峙《たいじ》するのは。健康な肉体と飢えた女の性をともなった夏世を全部引き受けるのは。潮の足がなえたようになる。 「きみに、いてもらわなくては困る」完全に破綻した声で呟《つぶや》くと、潮はその場から逃げるように歩み去る。 「ああ、私もう嫌」と、女が酔った声で呟く。「こんな状態はうんざりよ」それから傍に坐っている『鮫《シヤークス・》 皮《スキン》』に部屋をとっている男をちらりと眺め、彼がいつのまにそこに陣取ったのかと、彼女は眼をパチクリする。 「誰でもいいから、私をどこかへ連れ出してくれないかしらね」 「わたしで良かったら、夜の渚の散歩のお伴もしますよ」と、男が微笑する。ひどくもろく見える青白い額を突き出しながら。連れの血色のいい女が、バーにもたれた姿勢のまま、欠伸《あくび》をする。 「渚の散策くらいじゃ、だめなのよ」情けなそうに若い方の女が首をふる。 「でしょうな」と、男が額を引っこめながら言う。「渚の散策、ふられましたな」男は首をすくめて寒そうにリキュールグラスからシェリー酒を啜《すす》る。誰もかれもが黙っている。太った女がもう一度欠伸をした後で、たいして興味もないような調子でこう言う。 「あんたを連れ出せるのは、あんたを連れこんだ人だけよ」 「だけど、この人」と若い女は自分の夫を顎《あご》で指しながら言う。「お母さんが大事で、とてもそんなことしてくれそうにもないのよ。もう絶望」  女は空のグラスを潮の鼻先に突きつける。 「同じものをちょうだい」 「充分じゃないか、もう。そろそろ食事の時間だし」女の夫が口をはさむ。 「充分かどうかは、自分できめるわ」と女はろれつの怪しい口調で答える。 「でもねえ、あんた」と、太った女がカウンターの上に肘《ひじ》をつきながら若い女に話しかける。慰めるような、あやすような口調になっている。 「真正面から、姑《しゅうとめ》 さんに太刀打ちしようとするから、みんな手に負えなくなっちゃうのよ。そりゃそうよ。相手はそこにいるあんたのハンサムなご亭主をあそこからこの世に出してやった強みがあるんだもの。ねえ?」  若い女が、その露骨な言い方に顔を顰《しか》める。中年の女はかまわずに続ける。 「みんな気がついていないんだけど、姑と嫁のいがみあいは、言ってみればひとりの男をめぐる性的な闘争なのよ。ひとりの男ってのは、つまりあんたのハンサムなご亭主であり、姑さんの可愛《かわい》い息子でもあるわけ。  どんなにきれいごとを並べようと、まわりくどくやろうと、結局は、息子と寝たいだけなの。息子と寝たいのよ、母親ってものは。もちろんそんなことできやしないわよねえ。だから嫁に辛くあたるの。嫉妬《しつと》なの。  だからね、あんた、どんなにあがいても姑さんの負け。あんたが勝ち。ひとりの男をめぐる最終的な争奪戦に勝つのは、常に嫁ときまってる。夜毎のベッドの中で勝利感にひたれるのは、嫁なんだから」女はそこで言葉を切り、面白そうに眼を光らせる。「隣室でお姑さんが聞き耳をたてているようで、セックスにも満足に打ちこめないなんて言うの、あれナンセンスよ。ここで復讐《ふくしゆう》しなければどこでするっていうの。思いきりよがり声でもなんでも張り上げて、隣の姑を、キリキリ舞いさせてやるのよ」 「驚いたね、あなたのお連れのご婦人はすごくファナティックなことを言いますね」と、若い方の男が男の耳に言う。 「このひとは体験派だからね」と、男が答えて、シェリーを空にする。「もう一杯、頂けるかね」  潮はうなずく。 「少し気が楽になった?」と女が連れの男ごしに若い女の横顔に訊く。「一番肝心のところで勝負はついているんだから、気を楽にして、どうぞどうぞって息子の日常の世話なんかお姑さんにお願いしちゃえばいいのよ。そういう手のかかるめんどうなことはおまかせして、——むこうはやりたいんだから実に平和的解決だわ。そしてあんたは空いた時間で小綺麗にして遊んでいればいいんだから」  ついに若い女が笑いだす。 「言われてみればそうよね」と、彼女は腹をよじる。それからひと笑いすむと急に冷めた声で言う。「そんなに簡単なことでもないんだけどね。敵は陰険なのよ」少し暗い声。 「待っていてごらんなさい。必ずここへも電話がかかってくるから」 「なぜ行く先を告げて来たのよ?」肥えた女があきれたように訊く。 「病人なのよ、そうせざるを得ないのよ。すぐ死にたくなる病気」 「鬱《うつ》病?」  女はうなずく。「どうにも死にたくなるって、そのことをたてにとるの。何ができる? 私はいいわ、まだ。たまには『どうぞご自由に』って言ってやるもの。だけど息子はねえ、おたおたするわけよ。たまらないんだと思うわよ。そういう夫を端《はた》で見ている私も実にたまらないんだけど」 「妻はお袋が意地悪しているみたいに受けとるが、実はそうじゃないんですよ」と夫が言いわけをする。「そういう作為的なことじゃないんです。実際に死にたくなっちまうんだから」 「あなたが甘やかすからよ」と妻が言う。 「ちやほやしなければいいのよ」 「ちやほやしてやった方が治りが早いんだよ」 「放っておけばいいのよ」  潮がシェリー酒を注いで、男の前にグラスを滑らせる。  夏世がいつのまにかレストランの方で働いている。口を引き結んで、表面的には何ごともないかのように、テーブルとテーブルの間を歩きまわっている。潮は歩いて行って妻の肩に手を置いてやりたいような誘惑にかられるが、その場から動かない。彼女の問題なのだから、と自分に言い聞かせる。それにしても、この泡立つような不安感はどういう理由《わけ》なのだろうか。  小男が立ち上り、トイレットの場所を潮に訊《たず》ねてそっちの方角へ歩いて行く。空いたストゥールに女が溜息をつきながら腰を下ろす。 「ご主人は何をしている方ですか?」と、男が何気なく質問する。 「さあ、何をしている人なんでしょうねえ」と大女が答える。「主人じゃないのよ、あのひと。亭主は藤沢の団地で、今頃ぶつぶつ言いながらビールの栓でも抜いている頃よ」  女はさもつまらなそうにそう言う。「名前も知らないのよ。あの小さな男の」 「行きずりの恋ってわけ?」男が口の端を歪《ゆが》める。 「ルシールって唄、知ってる?」と女は不意に訊く。脂肪のついた大きな顔の中で、茶色い大きな眼だけが、その女の取り柄だった。もしその女がそんなにぶくぶく肥えていなかったら、案外いい女だったかもしれない、と潮は、夏世から藤沢の女に視線を移しながら思う。若い頃は、ということだが。 「知ってますよ。カセットがあるから、かけましょうか?」と潮。 「お願いよ」ものうそうに女がうなずく。潮が背中の棚のカセットを探して、ケニー・ロジャースを引き出す。 「あんた、英語わかる?」女が男に訊く。男は首を振る。 「じゃ説明してあげるわ。このめそめそした唄の意味はね、こうなのよ。女がいるの。生活に疲れた女よ。子供が四人いてね、いつもスカートにまつわりついてるの。亭主は朝から晩まで働いて、使い古した雑巾《ぞうきん》みたいになって帰って来る。ある日突然、何もかもが嫌になるのよ。突然にね。これといった理由もなく。多分、その時最初の秋風が吹いたとか、ふと見上げた空が、すいこまれそうな青空だったとか、そんなことがきっかけで、何もかもが反吐《へど》が出そうになること、あるのよね」  若い女がストゥールの上で足を組み変える。レストランに又新しい客が四人入ってくる。夏世が落ついた足どりで四人を迎える。その足どりを見て潮はわずかだが安堵《あんど》を覚える。肥えた女が潮の表情に眼をとめて、それから夏世の方を見る。それから彼女はケニー・ロジャースの声に耳を傾け、続ける。 「それで、その女は、家出するわけ。今ちょうどそこのところを唄っているでしょ。女はバーに腰をかけて、指輪を外してカウンターに置くところよ。それを男が見ているの。若い、いい男よ。で声をかける。『一杯ウィスキーをご馳走《ちそう》させてもらえますか』ってね。礼儀正しく。それが始まりよ。ウィスキーを重ねるうちに、女が喋りだすの。もう疲れたわって。あたしはそう簡単に物事を投げだしちまうような女じゃないけど、今度だけは、まいったわって」 「あの男の人が声をかけて、あなたが応じたってわけだ」好奇心と軽蔑《けいべつ》とを半々にカウンターの男が呟く。 「唄とは似ても似つかぬ男だわよね」と女が自嘲《じちよう》する。「わたしもルシールちゃんとは似ても似つかぬ女だけど。でも起ることは同じ。男と女の間に起ることなんて、世界中たいして変らない。若いか年とっているか、美しいか、美しくないか、それくらいの違いよ。あの小さな男が私に声をかけ——バーじゃなくて、スーパーマーケットの中よ——ロマンティックじゃないわね。でも、次に彼が言ったことはとてもロマンティックだったわ。『海を見たくありませんか』って。それにとても紳士的だった。 『車で行くの?』って私訊いたの。電車やバスを乗りついで行くのだったらごめんだった。そうだって言うの。今から行けば夕日が沈むのに間にあうと思ったら、急に海が見たくなってね。『いいわね』って言ったの。海だけ見て、帰ってくることだってできると思った。悪いけど、いざとなったら私の方が腕力ありそうだし。あの人の首、鶏みたいでしょ。ひとひねりで、くたばっちまいそうだし。  でもスーパーの駐車場で、彼の車見て、夕日を見るだけじゃすみそうもない、と思ったわ。車はベンツだった。 『どこへ行くつもり?』ってもう一度|訊《き》いたわ。  渚《なぎさ》のホテルだって答えたわ。『鮫鰭亭』の名を口にしたのよ。それで私の気持が動いたの。渚のホテルだってことで。そこへベンツで乗りこむってことでね」それきり女は黙りこむ。ルシールが終り、唄は次の曲に変っている。 「夕日はご覧になりましたか」と、やがて潮が誠実な調子で訊く。 「ええ、期待通り。部屋の窓からね」その後、女は苦笑する。「男がヒルみたいにぴったりあたしの背中にはりついていたけど。そのことをのぞけば、結構な夕日だったわ。海は金箔《きんぱく》を貼りつけたみたいだったし、渚は砂金で埋めつくされているようだった」 「余計なお世話かもしれないけど」と若い女が遠慮がちに言いかける。「余計なお世話だと思うんなら、何も言わないことだわね」女がピシリとした感じで言う。若い女は少しひるむ。が、思いきって言う。 「もうお帰りになったらいいんじゃないかしら。ほんとうに余計なことだけど。——今からならまだ間にあうし」  太った顔の中で、茶色い眼がキラリと暗く光る。 「何に間にあうっていうの」問いかけではない言い方。「あの2DKの団地の薄汚れた生活に、間にあうっていうの? 油だらけのダイニングキッチンでの油じみた一家の団欒《だんらん》に、今からならまだ何とかぎりぎりに間にあうっていうの? 亭主はステテコのまま、大学へ通っている出来そこないの息子どもは手も顔も洗わないままテーブルにつき、せいぜいクックドゥのマーボードーフかなんかでお茶を濁すああいう生活に?」  小男が、大きすぎるくらいの麻のハンケチで手をふきながらレストランを横切ってくる。 「トイレから手を拭《ふ》きながら出て来る男って、最低だわねえ」と、藤沢の団地の太った女が呟く。「それもノリのきいた真新しい麻のハンケチなんて使いながらくるような小さな男はねえ」彼女は男から眼を背ける。「そうよね。今からなら、多分、ぎりぎりに間に合うわねえ」  小さな男が痩《や》せた尻を、女が立ち上ることによって空いたストゥールの上に滑らせて坐る。 「送ってもらえる?」と女が男の横顔に言う。 「食事は? ここへ来て食事をしないという法はないよ」  女はレストランの客たちを眺め、テーブルの上の皿に眼をやる。 「一度、ここのフランス料理を食べてみたいと思っていたのよね」 「お食べになったらどうです?」と、不意に潮が口をはさむ。そのとたん、まるで裏切り者でも見るかのように若い女が彼を睨《にら》む。 「コックが変るかもしれないから。試すのなら、今がチャンスですよ」  女は腕時計をちらと見る。そして未練気にもう一度食卓を眺める。 「やめておくわ」と、溜息混じりに言う。 「しかしわたしはここの料理を楽しみに来たんだ」と、男が不満気に言う。 「じゃお残りなさい」と女があっさりと言う。 「いいのかい?」男は安堵を隠しもしない。 「もちろんいいですよ。ただしタクシー代を少々頂けないかしら」 「当然ですよ」と男は胸のポケットに手を突っこみ、皮の財布を取り出す。  男がカウンターの上に一万円札を三枚置く。 「足りるかね?」  女は一枚だけ、太った指で取り上げ、偽ルイヴィトンの口金の間に滑りこませる。 「これで多分二百円くらいお釣りがくるはずよ」 「遠慮するこたあない」小男が顎《あご》で横手に残された二枚の紙幣を指す。 「十日分くらいの副食費にはなるわね」と女はひややかに紙幣から眼を逸らす。「だけど場合によっちゃ、ずいぶんはした金だわね」  彼女は哀れさと優しさの混じった表情で小男を眺める。 「それ以上はびた一文も出せんよ」と男は誤解して言う。 「そんなもの最初から受けとるつもりもないね」と女はぴしりと言う。「それじゃまるで娼婦《しようふ》だものね」それから回りの人間の白けた空気を嗅ぎとると、口調を急に和らげる。「商売だったら、もうちっとばかり余計に請求するわよ」それから彼女は大きな肉づきのいい躰《からだ》を揺すりながら、堂々と正面玄関へと歩きだす。  潮が反射的に彼女の後に従って、送るために続く。  ポーチに出ると、女が言う。 「ああいい匂い。潮《しお》の匂いね。来たかいがあったわ」 「ほんとうにそう思っている?」潮が静かに言う。 「なんだか批判的な感じね」女が面白そうに潮を見上げる。「後悔してないわ。ほんとうよ。それに、これからだって、また何時、何もかも反吐《へど》が出るほど嫌になっちまわないとも限らないんだし」 「そのたんびに、声をかけてくる男の後について行くというわけ?」ポーチから前庭へ女と歩調を合わせて歩きながら、潮が言う。 「あんたに関係ないことよ」と女は笑う。「これまでだって、本当のことをいえばそういうことはあったんだし、これからだって——」  潮は女の藤沢の団地の部屋を、そこでの暮らしをふと想像する。 「あんたみたいな男前の人には信じられないでしょうけどね、あたしみたいな中年のデブ女にも声をかけてくる男はいるのよ。デブ女にあれを感じる男って、そんなに少なくないのねえ。こないだなんて、ジーパンはいた大学生みたいな若い子が、コーヒーをおごってくれませんかって訊いたんだから。この私に。自分の息子だっていってもおかしくない若い男の子がよ」建て物の角を回りこみ、砂利の駐車場へと足を踏みこみながら、女がさもおかしそうに喋り続ける。「で、私は言ってやった。厭《いや》だわね、って。そっちがコーヒーご馳走してくれるっていうんなら話は別だけどって」 「それで、どうなりました」砂利に足をとられそうになった女の腕を咄嗟《とつさ》につかまえてずっしりと重い躰を支えてやりながら、潮が訊く。 「そりゃコーヒーご馳走してくれたわ。それからモーテルに行った。若造のくせにポルシェなんて乗り回している。親の顔が見たいと思ったわね。お金があるくせに、なんで最初に『コーヒーおごってくれる?』なんて訊いたのよ? って言ったら、何て答えたと思う? 『その方が母性本能を掻《か》きたてるんだよ』だって。わかったみたいな顔してねえ。あれは下手くそだったわ。それこそお話にもなんにもならないくらい」  海岸道路を通りかかるタクシーに手を振りながら、潮が訊く。 「そんなことを何時まで続けるつもりですか?」 「それも余計なお世話ね」と女は鼻先で笑う。「私にだってわからないんだから。それに少し冷静になると、なんでこんなことを続けるのかもね。あんたには少しはわかるかしら? 作家なんですって?」  タクシーがタイヤを軋《きし》ませて二人の前に止る。潮が言う。 「俺にはわからないけど、世の中には既にわかっちまっている人種がいるみたいですよ。アメリカの作家だけどね、こういうのがある。やっぱりあんたみたいに、声をかけられると、ついて行っちまう女がいてね。ついに亭主の知るところとなるんだ。亭主が訊く。『そんなことを何度やったんだ?』『充分なだけよ』と女房が答える。『充分なだけって、何にだ——自分がまだ捨てたもんじゃないって納得するまでか?』  すると女は答えるんですよ。『違うわよ、ばかねえ』って、『あなたがまだ捨てたもんじゃないって、納得するまでよ』」  外側に開かれて女が乗りこむのを待っているタクシーのドアに手を置いたまま、藤沢の女は遠い眼をする。 「そんな風にうまいこと考えつかなかったけど」と彼女は呟く。「それが案外、私の答えでもあるかもしれないわね。亭主がまだ捨てたもんじゃないって——ねぇ」そして座席に重い尻を沈める。 「こんなに遠出をしたのは初めてなのよ。たいてい日のあるうちに家に帰るから。でもいい話を聞かせてもらったわ。もっともうちの人が私の無断外出を責めても、『あんたがまだ捨てたもんじゃないってことを納得するために、海の見えるホテルで夕日を眺めて来たのよ』とは、言えないわねえ。それも背中に小男がヒルみたいに張りついていたなんてことはねえ」扉が閉まり、女がくすくすと笑う声を閉じこめる。女が窓ガラスを開《あ》けて顔を覗《のぞ》かせる。 「ひとつだけ言っていい?」と急に真顔になる。その顔を潮は一種いい顔だと瞬間思う。肉のもりあがった頬の間に、眼が二つビー玉のように埋っている顔を。 「忠告ですか?」誠実味のある態度で潮が訊き返す。 「そんな大それたことじゃないわよ」女が苦笑する。「作家の先生に団地のおかみさんが忠告なんてねえ」それから口調を変える。「あんたはあんなバーの内側で、週末の情事の客を相手にお酒なんか作っていちゃいけないのよ。自分でないものになろうとしたってだめ。見込みなんて全然ないし、第一、あのバーの内側にいる時のあんたは、ちょっと嘘っぽいわね。皮肉で冷笑的で。あんたをあんな場所に押しこめているのは、あの綺麗な奥さんなのね?」  それだけ言うと藤沢の女は運転手に車を走らせるように手の仕種で命じて口をつぐむ。二度と潮の方は見ずに。白く膨らんだ女の横顔が左前面に滑り出して、潮の視界から消える。  嘘っぽいって? しかし他のどこに腰を落つけたら俺は嘘っぽく見えないというのだ? と潮は『鮫鰭亭』へと戻りながら一人ごちる。 『鮫の脳』の中か? あの部屋で原稿用紙だけを相手にしている時か? それから彼はぞっとして寒そうに肩をいからせた。それこそ、自分が自分で最も嘘っぽく感じられる場所なんだ。彼は一種|茫然《ぼうぜん》として、ポーチの先の暗い渚と、黒い海面とを凝視する。  レストランの客たちはすべて帰り、『鮫の胃袋』からは何の物音も聞こえてこない。  バーも三人がひっそりと飲んでいるだけで、わずかに開いている窓から忍びこむ波の音だけがしている。  活気があるのは、山と積まれた一夜の汚れ物を片づけているキッチンだけで、張と夏世が二人して忙しく立ち働いている。二人とももう長いこと一言も口をきいていない。  張が包丁をていねいに磨き上げながら、黙っていることに耐えられずに、呟《つぶや》く。 「次の仕事場がきまって、腰が落着いたら居所を教えますよ」 「なんのために?」反射的に夏世が呟く。 「なんのためにって」と張が当惑気味に答える。「居所を知らせておいた方がいいと思ったからです」 「だけど知らせてもらわない方がいいのよ」と彼女は少し悲しそうに言う。「どこに居るのか知らなければあんたを訪ねたいと思っても、車に飛び乗るわけにはいかないでしょう。あんたがどこにいるのかがわかっていれば、わたしはたえず、あんたを訪ねたいという衝動と闘わなくちゃいけない。それだけで、きっとくたくたになってしまうわ」 「それじゃ連絡しないことにしましょう」あっさりと張は言う。  自分の方でそういう発言をしておきながら、夏世は男の口調を残酷だと感じる。彼女の力、彼女の希望、日々のつつましやかな満足といったものが失われようとしているのにと思った。  張がいなければ、毎日は同じような単調きわまりない一日のくりかえしでしかなくなり、無気力さが支配するだろう。  置き去りにしないでちょうだい、と彼女は胸の中で叫ぶ。行かないで、と。もう既に淋しくてしようがないのに、偉青が本当にここを去ったら、淋しさは獣めいてきて、あたしはこのキッチンのリノリウムの床の上でころがりまわるかもしれない。ふいに夏世が言う。 「あんたに従《つ》いて行くわけにはいかないのよ。わかるでしょう」 「もちろん」と張は包丁を流しの下に収めながら言う。「それじゃ元のもくあみだからね」 「元の通りで何が悪いのかしら。私に倦《あ》きた?」できるだけ軽い調子で夏世はそう言おうとする。 「手前が嫌なんです。それだけのことです」張はあっさりとそう言う。  夏世は相手の口調に合わせる。 「ま、そのことの詮索《せんさく》はしないでおくけど」そして溜息をつく。できるだけ軽く。「あんたに行かれてしまうと、物心ともにダメージをうけるのよ。心の傷口は」と夏世は人ごとのように言う。「時間が埋めてくれると思うけど。『鮫鰭亭』が『鮫鰭亭』として存続していくためには、あんたが必要なのよ」 「腕のいいコックはいくらでもいますよ」 「あんたのかわりはいないわ」どうかした拍子にすがりつくような感じが露《あらわ》になる。 「たとえ給料を今の倍出すと言われても、俺の決心は変りありません」と張は釘を刺す。 「そんなに私が嫌なの?」 「さっきも言ったでしょう。嫌でたまらんのは自分なんです」 「もう止めましょう」と唐突に夏世が言う。「同じことのくりかえし。さっきから、私たちの会話いつもここへたどりつくんだわ」  張は肩をすくめて、鍋を磨き始める。 「あんたの奥さんは、浮かない様子だったねえ」と小男がカウンター越しに潮に言う。「まだ若いのに、何を好んで苦労を背負いこむものだか」  誰も何も言わない。 「あんたもそうだよ」と男は、窓際に立ってぼんやりと暗い海面を眺めている若い女に向って言う。「きれいで教養もあって、こんなホテルでウィークエンドが過ごせる程度に生活に恵まれていて、何が不満だかねえ。最近、女たちが満ち足りるってことを知らなすぎるんじゃないのかねえ。実際恐しく恵まれているっていうのにさ」 「それはお互いさまよ」と窓際の女は、男を振り返って言う。「そこのカウンターの中にいる作家のご主人だって、教養があって男前で、まだ若いわ。うちの人だってまあ似たようなものね。でもやっぱり満ち足りてなんていないんだと思う」 「もったいない話だよね」と小男が首を振りたてる。「もしわたしに、あんたのだんなほどの上背があってだよ、あんたのだんなくらいのお面を持ち合わせ、そこの作家さんのようにインテリだったら、この上もなく満足だがねえ。そしてあんたのように若くて美貌《びぼう》で頭のいい女房をもらってだよ」 「で行く先々で片っぱしから女に声をかけて誘惑するっていうんでしょう? 単純なのね」と若い女は笑う。 「単純で結構」男は満足気に微笑《ほほえ》む。 「さっきのカセットをもう一度かけて頂ける?」と女が潮に言う。「ルシールという曲よ」  潮はうなずいて、かかったままのテープを裏返す。男たちが低い声で話を始める。 「あなたは不動産屋さん?」 「不動産業と言ってもらいたい」男が背筋を伸ばしながら答える。「一部屋の賃貸アパートの斡旋《あつせん》のようなことは、やっとらんのです」  レジのところの電話が鳴る。潮が歩いて行ってそれを取り上げる。 「シャークス・フィンです」潮が自動的に言う。「……ええ、そうです。……ええ、お泊りです」  窓際の女が突かれたように顔を上げて、夫の視線をとらえる。潮がどちらにともなく電話口から声をかける。「電話が入っていますよ」 「出る必要ないわ」押し殺した声で、女が夫の眼をみつめたまま言う。 「そうはいかんよ」男がストゥールから腰を浮せる。 「出ないでいいのよ」もう一度、同じ調子で女が命じる。  男はかまわず電話に向って歩き出す。窓際の女もつかつかと進む。  二人はレストランの中央で立ち止る。女の手が男の腕にかかって、強く引く。 「結局また、同じことになるのよ」 「電話に出るだけさ。話を聞いてやるくらいのことはしてやらなくちゃ」 「話なら家に帰ってからいくらだって聞いてあげられるわ」 「とにかくそこを放せよ」夫が妻の手に自分の手をかけて引き放そうとする。 「出たら、どうなるかよくわかっているでしょう。何とかかんとか言って、あなたを今夜中に連れ戻そうとするのにきまっているんだから」それから女は潮の方に助けを求めるような眼差しを向ける。「いつだってそうなのよ。私たちが息ぬきにどこかへ脱け出すと、必ず死にそうになって電話をかけてくるの」  男は妻の手を力ずくで振り切る。 「わたしの言うことわかってるの? あなた、出たら終りよ。わたしたちが終りってことよ」すがりつくような絶望感が声に滲《にじ》む。  潮の手から男が受話器を受けとる。 「お母さん? どうしたんです。言ったでしょう、電話はだめだって」いきなり怒ったように送話口の中にそう言って相手の声に耳を傾ける。  女はバーに戻り、潮に言う。 「何か作ってちょうだい。強いものなら何でも」 「万が一の時を思って番号を残したんですよ。お母さんが死にたい気分になるたんびにダイヤルされちゃ、ぼくらはかなわない」男の声が続く。 「だんなさん、がんばっているじゃないですか」小男が女を慰めるように言う。 「いいから聞いていてごらんなさい。そのうちしどろもどろになるから」女は冷たく言う。 「違うってどう違うんです?……胸が苦しい? 薬は飲んだんでしょう? 大丈夫だよ、効くまで少し時間がかかるんだ。じき気分が晴れるよ。……ふとんをかぶって寝ちまったら、何もかもよくなるって? ええ? 今から? そんなわけにはいかないよ、わかるだろう、世の中お母さんを中心に回っているわけじゃないんだから。死にはしないって。絶対に死なないんだから、寝なさいよ。ふとんをかぶってさ。次に眼が覚めれば朝になってるから。ね? いいね。じゃ電話を切るからね。何? まだ食べていない? 気分が悪いんじゃしようがないだろう」  男の口調が段々|苛立《いらだ》ってくる。「そんなこと、電話でいちいち言ってくるなよ、お母さん。夕食が喉《のど》を通らなかったら、一食くらい抜いたって死にゃしないんだ。いちいち煩《うるさ》いよ。死にたい? 死にたけりゃそれもいちいちぼくに断らなくたっていいんだから、好きにやってくれ。ぼくはもうたまんないよ」  相手がヒステリーの発作でも起したみたいに何か言っているらしい。男が顔をはげしく顰《しか》める。「そうさ、その通りだよ。逃げ出したんだ。お母さんのもやもやから。それが理由だよ。ぼくたちにだって息抜きが是非とも必要なんだ。もやもやした空気じゃなくて、いい空気を吸うために、出て来たんだよ。放っといてくれよ。いいね、切るからね」それだけ言うと男は相手がまだ何か喋っているのにもかかわらず受話器を置いてしまう。  カウンターで女が、下唇をかんでうつむく。  男はのろのろと妻の側へ向う。女は席をひとつ移って夫のために場所を空けてやる。 「あれで良かったのよ」姉のような口調でそう夫を慰める。「お母さんのためには、ああした方が良かったの。くよくよすることはないわ」 「きみはいい気持かもしれんがね、ぼくにしてみれば砂を咬《か》む思いだよ。むかむかする。吐きそうだ」男は胸を大袈裟《おおげさ》におさえる。「親にむかってあんなことを言っちまって」  それから急に敵意をむきだしにする。「ぼくにあんなことを言わせたのは、きみなんだ。きみが、あんな、言いたくもないことをぼくに言わせたんだ」 「責任をとれというのなら、とるわ」女が誠実に言う。 「どうやって?」ますます後悔をつのらせながら男が訊《き》く。「お袋が本当に今夜死んじまったら、どうする? 心臓に負担をかけちゃいけないって医者が言っていたろう。どうやって責任をとるんだ?」 「お義母さんは死なないわよ。少なくとも今夜はまだ」女は落着いてそう言う。その落着きがかえって夫を苛立たせる。 「そりゃきみのお袋じゃないからな」男がカウンターを力一杯叩く。 「あたしのお母さんじゃなくて、ほんとうれしいわ」 「そんな口調でよくも物が言えるな。きみの本音は、お袋が一日も早くくたばっちまえばいいと思っているんだろう。隠したってわかるんだ」 「隠すつもりはないわ」と女が平然と言う。「正直言って、そうひそかに願ったこともあったわ。たった今もね、そういう気持」  二人はそれきり黙りこむ。 「どんな親でも、親が生きているうちがハナですな」と、小男がまのぬけた声で言う。「わたしのお袋は、誰の足手まといにもならんうちに逝《い》っちまいましたからね、それはそれで妙なものですよ」 「やっぱり放っておけんよ」と、若い男が急にストゥールから立ち上る。 「どうするの?」若い妻が鋭く訊く。 「もう一度電話をしてみる」男がレジに向う。 「なんのためによ?」女が悲鳴のような声で言う。男は答えずに、ダイヤルを回し始める。  長いこと呼び出し音が鳴り続けるのを、男はじりじりしながら待つ。 「誰も出ない」男が憮然《ぶぜん》として受話器を置く。「お袋は出ないぞ」と妻を睨《にら》む。 「トイレにでも入っているんでしょう」女はとり合わない。  きっかり一分待って男が再びダイヤルを回す。 「やっぱりだめだ」 「お義母さんらしいやり方だわね」と女が言う。「わざと出ないのよ。あなたに心配させようというこんたんなの」 「そんな悪知恵は、お袋には浮ばんよ。きみならともかくな」男は受話器を落す。  すでに明りの消えたレストランの中で、四人の人間が長いこと身動きもしない。時々、眼の前の自分の飲みものに手を伸ばす他、薄暗いバーのランプの下で、じっとそれぞれの物思いに浸っている。  キッチンからも何の物音も伝わって来ない。波も死んだように静まっている。  潮が自分のグラスにウオツカを注ぎ、レモン汁をしぼりこむ。  男がそっと歩いて行ってもう一度ダイヤルを回す。そしてしばらく耳をかたむけて受話器をかける。 「こういうのが一番やりきれない」男がうめく。「実に卑劣なやり方だ」 「今頃わかったの?」女が呟《つぶや》く。「あなたを痛めつける最良の方法をお義母さんは知りつくしているのよ。その手には乗らないことね」 「しかし」と夫は苛立つ。「何をやるかわからないからね。あの性質じゃ、何をやらかすか」急に不安にかりたてられて「放っておくというわけにはいかないんじゃないか」と妻に相談事を持ちかけるように言う。女は頑に首を振って、放っておきなさい、と呟く。 「こんな気分じゃ、とてもこんな所で落着いているわけにはいかないよ」 「まさか」と女が首をねじって、電話の側の夫をみつめる。「帰るっていうんじゃないでしょうね?」  夫は答えない。 「私は帰らないわ。わざわざそのために出て来たんですもの」  キッチンからの光がもれているレストランの入口のあたりに、人影が立つ。初めはそれに誰も気がつかない。男が言う。 「きみは残るのか?」 「ええ、私はここにいるわ」女は冷静に答える。「そしてお義母さんは世田谷よ」どっちをとるのか、という調子が言外に滲む。  潮が人影に気づく。キッチンの仄白《ほのじろ》い明りを背にうけて、その逆光の中をひどくゆっくりと歩いて来る。妙な歩き方だ、と潮は思う。  電話の側の男が気づいて、道をあけるような具合に躰《からだ》を引く。夏世が上の空でその前を通り過ぎる。バーの明りが届くところまで来ると、彼女はその光の輪の中に入るのを恐れるかのように不意に歩みを止める。男が言う。 「ぼくを困らせないでくれよ」 「何故あなたがそうやって、いつもいつも困り果てているのか私にはわからないのよ」女がうんざりして言う。 「一緒に帰らないと言うのか」 「ここに残ると言ったでしょう」 「それがどういうことなのか、きみにはわかるのか」 「あなたこそ、今夜、お義母さんのところへ戻っていくことが、どういうことかわかっているんでしょうね」  夏世が光の中に足を踏み入れて、潮の横にひっそりと立つ。 「ごくろうさん——。何か飲む?」と潮が低い声で妻に訊く。その質問を完全に無視して夏世が囁《ささや》く。 「張を刺したわ」それはまるで、顔を洗ったわ、とか、お茶を飲んだわというのと少しも違わない言い方だったので、潮はそのことの真の意味を汲みとるのに少し時間がいった。 「張を、刺した?」口に出して訊きかえしたつもりなのに、声にはならない。  電話口の男が二階へ通じる階段へ向って歩きだす。女が引きとめようと反射的にストゥールから下りるが、思い止まる。 「行くなら、止めないわ」自分に言い聞かせるようにそう呟く。男の姿が階段の奥へ消える。 「男ってものは年食った病気の母親の前では両手をもぎとられた赤んぼうと同じだからねえ」と、それまでひっそりとシェリーをなめていた小男が誰にともなく言う。 「理解しろっていうの?」と若い女がついに啜《すす》り泣きながら言う。潮がキッチンにむけて行きかかる。 「張はもういないわよ」夏世が引き止める。 「死んだのか」押し殺した声で潮が妻に訊く。女の啜り泣く声が続く。小男が青白い手で女の肩を叩いて慰める。 「気がついたら張の包丁を持っていたのよ」と夏世は遠い感じの声で言う。泣いている女の存在も眼に入らないみたいだった。「あの人がどこかへ行ってしまうと思うと耐えられなかったの。いっそのこと死んでくれれば、もうどこへも行かないから。私の手の届かないどこかで、あの人が呼吸したり、物を感じたり、他の女を抱いたりするのだと思うと。息がつまって、私。気がついたら包丁をかまえていたのよ」  二階から男が小さなボストンバッグを提げて降りてくる。泣いている女はその気配で啜り泣きをぴたりと止める。 「わかっているの?」と彼女はそれまで泣いていたとは思えないひややかな声で自分の夫に声をかける。「どうしてもお義母さんの方へ行くんなら、これで私たちは、終り」  男は足を止め、妻ではなく、彼女の前のグラスをみつめる。  けれども彼は何も言わずそのまま顎《あご》を上げるようにして歩み去る。女の肩ががくりと落ちる。 「張は死んだのか」  潮がすでに落着いた声で妻に糺《ただ》す。 「大丈夫よ」と夏世が薄く微笑する。「あの人、左の腕に傷を負っただけ。最初、おどしだけだと思ったのよ、張。で、やれるものならやれみたいなこと言ったの。タカをくくったの。私にはやれないって。  でも私の手がみっともないほど震えていたんで彼、少しひるんだの。私が怯《おび》えているってことで、逆に身に危険を感じたんだと思うわ。張の眼が、急に怯えたみたいになって。  その怯えたみたいになった眼を見ているうちに、気持がすうっと冷めてしまった。急に、すうっと」夏世の声が淡々と続く。 「男に怯えた眼の色を見せられたら、終りね。心臓を刺すことはとても簡単そうだったわ。すっと包丁を前に突き出してやれば、それで済んでしまいそうだった。  そうするかわりに、左の腕の内側を軽く刺したんだけど。  本当は、どこも傷つける気持は失われていたの。そのまま包丁を放り出して、歩み去ってしまっても良かったの。その時はそれくらい冷静になっていた。  でも、少し決着をつける必要があるような気がしたのよ。ほんの少しね。彼が痛い思いをし、私が後めたい罪の意識を抱く。そうすれば、彼が行ってしまうことが多少は許せるだろうって」 「張は今どこに?」潮が掠《かす》れた声で訊く。表の駐車場でエンジンのかかる音がする。若い女がぴくりと躰を震わせる。 「病院へ手当を受けに行っているわ。思ったより出血が酷かったから。二、三針は縫わなくてはいけないでしょう」  車輪が砂利をはねとばす音がして、車が動きだす。やがて、タイヤの響きが遠ざかり、海岸道路を行き交う他の車の音に混じりあってしまう。いつのまにか、再び女が泣き始める。夏世には女が何故泣いているのか理解ができない。理解しようという気持も起らない。 「外の空気を吸いたいわ」と彼女は言う。しかし彼女はタガがはずれた人のように自分の肉体を取り扱えないでいる。潮が腰に腕を回して妻の躰を支えるようにして、フレンチドアに向う。  夏世は体重をすっかり夫にあずけるようにして、無意識に両足を交互に運ぶ。二人はドアを押してポーチに出る。  彼女は頭を夫の肩に寄せ、静かに呼吸する。一番苦しい時は去ったのだと、潮は思い、妻の髪に手をやる。ぞっとするようなおぞましい時は終ったのだ。  彼は妻の躰に後から腕を回して抱きながら、彼女の肉体の温かさ、柔らかさを感じる。夏世の胃のあたりで交錯した彼の腕に、両の乳房——豊かでたおやかな——乳房の獣なみの重さを感じる。  彼の手は、今、まろやかに息づいている妻の乳房に触れようと動きだす。そして両の掌にずっしりと重い妻の乳房を受ける。 「もう眠る時間ね」と夏世がものうい、遠い声で言う。その声の遠い調子が、理屈ぬきで、彼を慰める。潮の頭にロスの小説の一節が浮ぶ。 『今日のこと。この夏がさ。全部で十ページ足らず。物語はこんなふうにして終る。女の美しい頭が男の肩にのり、男の手が女の髪を撫《な》でる。二人のフクロウはホーホーと鳴き、二人の星座は整然と並び——。二人の客は真新しい床の中。そして二人のそれは心地良く魅力たっぷりの別荘は、何か恐れることがあろうかと考えをめぐらしながら二人が腰を下ろしている丘のすぐ下にある。家の中では音楽が鳴っている。そして二人はともに気づいたのだった、何よりも複雑でしかも困難なのは、きっかけを作ることだ、と』  今は秋。星が全天に散っている。風が少しある。妻の腕がわずかに鳥肌だっているのがわかる。  背後には『鮫鰭亭』のバーがあり、不動産屋の小男と、啜り泣いている若い女がいる。  夏世の首すじから彼女の匂いが立ち昇ってきて、潮はそれを胸一杯に吸いこむ。掌《てのひら》の中でたわわな重みの中心が、小さな固い突起となる。だが依然として潮には欲望がなく、そのために彼は依然として凄《すさ》まじいばかりに憂鬱《ゆううつ》なのだった。  それでも妻の肉体の重みと温かさは、彼にとって快く、海からは相変らず風が吹いているのだった。星が全天に散らばり、フレンチドアからはケニー・ロジャースの唄がとぎれがちに流れてくる。何かを妻に語りかけたいのだが、彼には言葉がない。少なくとも今夜は。俺には言葉がない。『言葉がない』潮の掌の中の突起がいよいよ固くなっていき、彼の両掌は、乳房の重みをもてあまし始める。それでも、自分は幸せなのではないか、と潮は感じる。少なくとも、つい先刻までよりは。 「寒くなってきたわ。中に入りましょう」とやがて夏世が言う。すっかり正気をとりもどした声で。潮は無言で妻の躰に巻きつけていた腕を解く。  四 パーティ  骨にうっすらと埃《ほこり》がたまっている。  いつだったか夏の終りの夕暮れ時に、砂浜に打ち上げられていたのを拾ってきたものだった。  魚の肋骨《ろつこつ》であることはまちがいないが、何の魚であるかはわからない。  埃のせいだけではなく、骨は拾ってきた当時の輝くような純白さを失っている。ホテルやレストランの客が通りすがりに必ずと言っていいほど、一撫でしていくからだ。  骨は、人間の汗や手の脂を吸って黄ばみ始めている。たえず誰かしら吸っている煙草のヤニも緩慢な黄変化に拍車をかけているかもしれない。  このところ『鮫《シヤークス・》 鰭《フイン・》 亭《イン》』のレストランは閑散としている。季節外れのせいもあるし、時間が遅いせいもある。  しかし本当の理由は料理人が変ってしまったからだった。  料理人が変れば、味も変る。相模湾に面した交通の便の良くないシーズンオフのレストランに、それでも連夜客が訪れるのは、そこへ行きさえすれば必ず美味《うま》いものが食べられるからである。  以前『鮫鰭亭』のキッチンで采配を振っていた中国と日本とロシアの混血の料理人には、独得の味の冴《さ》えがあり、彼の作るフランス料理はきりりとひきしまった味がした。  奇をてらうわけでもないし、必要以上に飾りたてることもなかった。ソースで材料の悪さと腕の悪さをごまかしたりもしなかった。彼の作る魚料理は、ほんとうの海の香りがしたし、口に含むと磯の匂いが濃く漂った。  新しい料理人の腕が劣るというのではない。彼はおそらく技術の点では勝ってさえいるだろう。しゃれた粋な絵心のある料理を作ることにかけては問題なかった。  確かに見た眼には溜息がでるほど綺麗なので、女同士でランチを食べに来るケースは増えたが、そのかわりに夜の、本当の食通たちが減っていった。彼らは見た眼の美しさより、当然味を選んだ。綺麗に仕上げられていればいるだけ素材は姿を変え、かつては新鮮な魚であったものが、すり身にされ、毒々しいオレンジ色のソースの中に浮んでいたりする。  料理人は得々と、これは白身魚のクネールと申して、要するにすり身でございます、などと客席を回って説明する。すり身を卵白でつなぎ、魚のスープで煮たものに、ウニと海老のミソで作ったソースをかけましたでございます。  要するにハンペンじゃないか、と常連客は胸に寒いものを感じる。ハンペンなら、火でちょっと焦がして、ふくらんだところをしょうが醤油《じようゆ》で食べるのが一番美味いにきまっている。ウニと海老のミソを生クリームでのばしたソースの中に泳がされては、たまったものではない。  どうかソースをパンですっかりぬぐって、きれいに召上ってしまって下さい、などと彼は柔らかくではあるが客を強制する。贅沢《ぜいたく》なソースでございますから、残してはもったいのうございますです。  海野潮は、その間二階の彼の仕事場である書斎に引っこんで一歩も出て来ない。  妻が探し出して来て傭《やと》った料理人に文句をつけるつもりはないが、個人的な好き嫌いは当然あるわけで、潮は新しい料理人が好きではなかった。はっきり言って嫌いだった。  料理人というのはキッチンにひっこんでいればいいのだし、第一|饒舌《じようぜつ》であったりしちゃいけない。自分の作ったものは黙って出せばいいのであって、それに対して言いわけなどすべきではないのだ。  本人は説明だと思っているのだろうが、聞かされる人間の耳には、新鮮な材料を使ったにもかかわらず、料理の過程でこねくりまわしすぎたために、無惨な失敗作となった、その一部始終を言いわけしているようにしか聞こえない。しかもその無惨なる失敗作に決して安くない金を払うのは客なのである。常連が減るのは当り前だった。  扉にノックの音。潮は立って行って鍵を外す。 「仕事部屋に鍵をかけなければいけない理由が、未だにわからないわ」妻の夏世が顔だけ覗《のぞ》かせる。 「別に理由などないさ。落着くだけだ」 「あなたがこの部屋から閉めだしているのは、つまりあたしなのよ。そのことがわかっている?」 「いや。そんなつもりは毛頭ないよ」 「でもそうじゃない? 他に誰が、この扉をノックすると思うの? 泊り客もいないんだし」  夏世は、夫の机の前の窓ガラスに映っている自分の顔をみつめる。頬がこけて来たような気がする。 「そのことをわざわざ俺に知らせに来たのかね」潮が妻に背中を見せたまま言う。 「もちろんそうじゃないわよ」夏世は用件を思い出して告げる。「降りて来てもらえないかしら」 「客は帰っちまったのかい」 「あなたにカクテルを作ってもらいたいという人が来ているのよ」 「せっかくだけど、丁重に断ってくれよ」 「あなたがつむじを曲げている理由はわかっているけど」と夏世が言う。「前のコックの味を忘れるのには、みんな時間がかかるのよ」  潮はその言葉をことさら吟味する。 「さぞかし辛いだろうね」 「なんのこと」 「前のコックの味を忘れるってことがさ」 「正直いって辛いわね」  夏世はあえて否定しない。 「いずれにせよ、客に逃げられないといいんだがね。きみのために」 「私のために?」夏世は声を曇らせる。「私たちのために、でしょう?」  つまり、レストランで上る日銭によって、夫婦が食べていけるということを、彼女は仄《ほの》めかしているのだ。 「下は君の戦場であって俺のではない。俺の闘いの場はこの部屋だよ」 「大袈裟《おおげさ》ね、戦場だなんて。あたしはただあなたにちょっと降りてきて、顔なじみの方にカクテルを作ってあげて下さい、と言いに来ただけよ」 「そいつは既に断ったはずだ。あの料理人が蝶々かなんぞのように、客席の間をひらひら飛び回って軽佻浮薄《けいちようふはく》なお喋りをぬかしている間は、絶対に降りてなぞいかないよ。俺は恥かしいんだよ」 「あのひとにはあのひとのやり方があるのよ。それにプライドも——。横から口だしできないわ」夏世はわずかに途方にくれたように言う。 「だったら奴にひらひらさせておくんだな」 「そしてあなたはこの部屋に永久に閉じこもるってわけね」夏世の口調に皮肉がこめられる。「あなたってひとが、ようやくわかったような気がするわ」 「そうかい」 「ええ、そうよ。あなたがなぜ前の奥さんと別れたか、もわかるわ。あなたは常に自分のことで一杯で、妻の問題などには手が回らないのよ。あなたは誰の支えにもならないのよ」 「自分で自分がどうにもならない人間に、どうして他人の支えなどになれるんだろう」潮は一種遠い感じで、妻と、同時に自分自身に問いかけるように呟《つぶや》く。 「あなたが強い女と結婚するのは、そういうわけなのよ。前の奥さんは女優だし、あたしも仕事のある女だわ」 「その点は別に否定はしないよ。要するに俺はジゴロさ」 「でもね、あなた」と夏世は夫の言葉を無視する。「強い女だって、弱い点はあるのよ。むしろほんとうは誰よりも弱いから、ガチガチに武装しているってこともあるわ」  潮は前妻の鴨居麻子が不意に訪ねて来た晩夏の夕方のことを思い出していた。  男、恋、浪費。みんな手に負えなくなっているわ、と麻子が溜息と共に言ったこと。それに対して彼は同情もまじえずに、芝居一本にしぼればいいじゃないかと言ったのだ。女優は、それはあたしに死ねというのと同じことだと呟いた。潮は肩をすくめた。それだったら、男も恋も浪費も一手に引き受けるしかないね。  そういうことね、と麻子は少しも感情をまじえずに答えた。  別れた妻が、もしかしたら今正に破滅しかかっているとしても、自分に果して何ができるのか、と潮は思うのだ。逆にあの女にしても、俺に手を差しのべたことがあったのか、と考える。結局小説を書かなければならないのは海野潮の問題であって、彼女の切実な問題ではない。手前のめんどうは手前でみるしかないということだ。  麻子にかぎらず夏世にしたって、広げた原稿用紙の前に一日中坐って、原稿など一行も書かずに雑誌をめくったり、手あたり次第に本を読み始めては放り出し、ベッドに身を投げ出し、啜《すす》り泣きたいが泣くわけにもいかず、かわりに煙草を喫う、そんな男の気持などわかるまい。  そうした場合煙草は冷えた苦い味であるからして、二口も喫うと吐き気がする。 「ね、真面目にお願いしているの。ちょっとだけ下へ来てちょうだい」夏世が眼に哀願の色を滲《にじ》ませる。「あなたにカクテルを是非にと所望なさっているのは、緒形さんよ」 「緒形?」潮が妻の顔を見る。「緒形敬介?」夏世がうなずく。 「緒形が下で何をしているんだ」と潮は心底けげんな表情をする。「あいつはどっか雪に埋もれた里にこもって、壷だとか皿なんかを焼いているんじゃないのか」 「信じられなかったら、下へ行って自分の眼で緒形さんが見えてるかどうか、確かめたら?」 「君が呼んだのか」 「あの方からお電話があったの」  潮は腰を浮せかける。 「何時《いつ》着いた?」 「三十分ほど前よ」  潮は仕事部屋を意味もなくひとわたり見わたしておいてから、妻と共にそこを出た。客を迎えるような気持の準備はできていなかった。 「ほんとうは、いきなり逢《あ》わせて驚かせたかったのよ」と階段の手前で夏世が言った。 「今だって充分気が動転しているよ」落着かない気持で潮が答える。  バーから人声が上ってくる。それも複数だ。めずらしくバーが繁盛しているとみえる。潮がやらなければカウンターの中に入るのは夏世の仕事になる。  バーのカウンターには、男が三人と女が一人、親しげに談笑している。そのどの後姿にもなんとなく見覚えがあるので、潮はドキリとする。 「これは一体どういうわけだ」と妻の顔を見るのと、バーの連中が振り返るのと同時だった。  バーの四人だけではない。ひっそりとしているように見えたレストランの方も、珍しく席が埋まっている。二人連れ、三人、四人と坐っている。  そのレストランの客たちも、潮の方に視線を上げた。  緒形敬介の顔が一瞬ほころび、彼は何かの合図のように右手を頭上に振り上げる。 「ハッピー・バースディ・ツー・ユー」とバーの客もレストランの客もいっせいに唄いだした。「ハッピー・バースディ・ディア・ウシオ・ハッピー・バースディ・ツー・ユー」  潮は完全に照れた表情で、客の一人一人を眺める。七時頃、トイレに行く時ちらっと見た時にはレストランもバーも閑散としていたのだ。いつの間に連中は集ったのだろう。駐車場に車がそんなに何台も止ったような音も聞こえなかった。  シャンペンが次々にあけられ、コルクが天井に向って飛んだ。笑いながらグラスにシャンペンを受ける顔の中に、潮の前妻の鴨居麻子も見える。クラーク・ゲーブルを貧相にしたようなニヤけた男が同席していた。  潮が新人賞の候補に上った段階で担当だった編集者の顔も見える。候補者は七人いた。 「あなた応募先をまちがえたんじゃないんですか」と彼は潮を一眼見るなり言った。 「映画のニューフェースに応募すれば、すんなりきまるのにねえ」  嫌な冗談だと思った。潮はその気持を隠さなかった。 「純文学の新人賞候補に上った人間に向って言うには、辛辣《しんらつ》な言葉ですね。つまり駄目ってことですか」書物と原稿用紙と校正刷りとであふれた、ひどく乱雑な編集室に呼びだされて潮は憮然《ぶぜん》として言った。 「駄目かどうかの決定は、すでにぼくたちの手からは離れましたよ」  四十代前半のその編集者は油気のない髪の中に指を差しこんで頭皮を掻《か》きながら言った。 「はっきり言ってぼくはあなたの作品が嫌いだ。気取りすぎるし、言わんとするところのものも、ぴんとこない。たかが男と女のことじゃないか、というのが率直な感想ですよ」 「じゃなんで、ぼくのを候補に入れたんですか」と潮は顔に血が昇るのを感じながら、押し殺した声で言った。 「言っとくけど、あなたの作品を最後まで候補に残していったのはぼくじゃない。副編集長ですよ。その意味であなたは幸運だった」編集者は眼鏡の奥で眼を暗く光らせた。「いや、不運だったのかな。ま、どっちでもいいんだけど。幸運かそうでないのかは、いずれわかりますよ。もしもですよ、あなたの作品が含まれている原稿の山を、もしもこのぼくが引きあてていたら、百パーセント、あなたのはボツだった」 「そんなもんですかね」潮は不快そうに言った。「そんなに人によって評価が違うもんなんですか。不思議ですね。いい作品は誰が読んでもいいのと違いますか」 「そして駄作は駄作だとね、全員一致できまればこんなめでたいことはない」編集者は潮に眼で空いている隣席の椅子を示しながら言った。「現実は十人の評価が十人とも違うんだから。よくあるんですよ、賞の最終段階の選考委員会で、ある長老の作家は、この作品は秀逸だとほめる。ところが別の選考委員の大作家は、同じ作品を拙劣だと、真っ向から異論をとなえる。かと思うと良くも悪くもない凡作だと言う者もいる。  長老に敬意を払う者もいたりして、彼が秀逸だと開口一番ほめた作品が辛うじて過半数の票を獲得して賞にきまる。すると真っ向から異論をとなえた選考委員は不満ですからね、『そんな拙劣な作品に賞を与えるというのなら、私は少なくとも、その過ちに加担したくはない』というわけで委員を下りてしまったりするんですよ。つまりぼくが言いたいのは、何が良い作品で何が駄作かの基準なんて何もないってことですよ。あるのは、運と不運。それだけ。で、あなたは、まあ、非常に運が良かったというわけです。案外このまま運がついてすんなりと新人賞を取りかねない」 「運ですかね」と潮は男から顔を背けた。深夜に近い時刻だった。編集室には他に三人の男たちがいた。  一人は他社の雑誌を読みふけっている。もう一人はさっきからずっと生原稿に黙々と眼を通していた。三人目は窓ぎわのスプリングの飛び出たソファの上で仮眠している。  電話が鳴った。雑誌を広げていた男が手だけ伸ばして受話器を耳にあてた。 「運とはいいかげんなもんですね」潮がぼそりと言った。眼の前の頭皮ばかり掻いている男が我慢ならなくなっていた。「死にもの狂いで書いて送った人間だっているわけでしょう」  編集者は出かかった欠伸《あくび》を咬《か》み殺して言った。 「いいかげんじゃないですよ」と、妙に穏やかに彼は言った。「少なくとも我々はいいかげんには生原稿を読みませんよ。たとえば」と彼は背後の編集者を顎《あご》で潮に示した。「彼は今、来月号に載せるある中堅どころの作家の七十枚ばかりの生原稿を読んでいるんですがね、もうああやって五時間ばかりひたすら目を通してますよ。ざっと読めば七十枚程度の作品なら十五分で読める。それを一時間もかけて、しかも、二度、三度と読むわけです。いいかげんじゃないです。いいかげんには読めません。作者がいいかげんに書いたものでないかぎり、我々にも一種命がけと言うと大袈裟だが深刻に読みます。書いた人も書き終れば血を流しきったような気がするでしょうけど、我々も作品を読み終ると、一種放血しきった気分になるんですよ。ふと眼を上げると、ビルの窓の外が白々と明け始めていてね。もう回りには誰もいなくて。ただ茫然《ぼうぜん》と暁の光景を眺めるばかりです。茫然と。いいかげんな気持でできる仕事じゃない」  潮は編集者の声の静けさに心を打たれた。それほど嫌な男ではないのかもしれないと思い始めた。ある作者の文体なり作風が好きだとか嫌いだとかは、純粋に好みや趣味の問題であって、本質的な作品の質とは少し外れたところで問題になるのかもしれない。  結果として、海野潮が新人賞を取った。件《くだん》の編集者が電話でそれを知らせてきた。「残念ながら、あなたの勝ちです」 「運が良かったのでしょう」潮も冷めた口調で答えた。 「しかしぼくの評価は変らない。あなたの文学を、ぼくはまだ今のところは認めていませんよ」男の声は憂鬱《ゆううつ》そうだった。 「今後、ぼくがうちの雑誌に関するかぎり、あなたの担当をさせてもらいます。もっともあなたがぼくのような辛辣な男は嫌だと言えば、引っこむ他ありませんがね」 「なぜ、嫌いな作家の担当をするんですか」と潮は言った。 「担当することが嫌なら、そう言えば代ってもらえるんですよ。ぼくが言っているのは、現在のところあなたの仕事を認めないと言っているだけです。男と女のことなどにこだわっちゃいけない」 「世の中、男と女の他に何がありますかね」と潮は苦々しく言った。「ヘミングウェイだって、男と女を書いている」 「まさか本気で言っているんじゃないでしょうね。彼には戦争があった。狩猟があった。釣りがあった。冒険があった。つまり雄大なロマンがあった。男と女のことなんて、彼にとっては風景と同じことなんだ。情景描写にくみこまれる程度のことなんです」 「戦争にも冒険にも釣りにも趣味がないとすると、ロマンは書けませんかね」潮が言い返した。 「男と女の薄汚い情事に関してなら、書けるでしょうけどね」と編集者は電話で言った。「ところでどうします。ぼくが担当だと不快ですか。他の者と交替しますか」 「不快ですがね」と潮は答えた。「良かったらぼくの担当をして下さい」 「ではさっそく」と、彼はいっそう憂鬱そうに言った。「新人賞受賞第一作めというのにかかってもらいましょうか」  第一作めというのは、結局、どこにも載らなかった。潮は書くには書いたのだが、担当者が突き返してきた。最初の作品より明らかに劣るので載せられないと言うのだ。 「劣るか劣らないかの判断は誰がしたんです」と潮は語気を強めた。 「ぼくです」と、彼は言った。 「候補にさえぼくの最初の作品を落そうとしたあなたが、ですか」潮は声に皮肉を滲ませた。「副編集長とか編集長の眼を通らなかったんですか」 「その必要がないとぼくが判断しました。そのレベルまでいっていない」 「独断かもしれない。偏見かもしれないじゃないですか」 「あるいはね」と編集者は例の無頓着《むとんちやく》でつき放した言い方をした。「あなた自身はどう思いましたか。仮にあなたが編集者だったとして、この作品を読んで、雑誌に載せますか」 「ぼくは現に編集者なんかじゃない。作家なんだ。作家に自分の作品が編集者や批評家のように読めるわけがない。そんなに冷静になれるわけがない。少なくとも、ぼくは深刻に今度の作品を書いたつもりです。ある意味で最初の仕事よりはるかに真剣でした」 「ぼくも深刻に、読ませてもらいました」と編集者が言った時、潮の脳裏に、いつだったかの夜更に訪ねた彼の編集室の様子が浮び上った。そして人気のない部屋の中で、天井からの寒々とした蛍光灯の光を肩に浴びながら、一心に生原稿を読み進む彼の疲労感で打ちひしがれたような姿が想像できた。 「ひとつだけついでに言わしてもらいますが」と、潮よりはおそらく十歳ばかり年上のその編集者が言った。「ぼくはかねがね、こういう持論を持っているんですよ。作者こそが、自分の作品の真の批評家なのではないかと。書いた本人が、他の誰よりも自分の作品のこと——良いところも破綻《はたん》も、すべてわかっているのではないかとね。作者が熱くなってしまってはいけないんです。あなたは冷静になれるわけはないと言うけど、作者は誰よりも冷静でなければいかんのですよ」  それから彼は、静かにこうつけたした。「希望すれば、ぼくを担当から外すことはできますよ」 「いや」と潮は下唇を咬みしめた。「続けて下さい。このまま担当して下さい。お願いします」  受賞後第一作が雑誌に載ったのは九ヵ月後だったので、雑誌は第一作めとはうたわなかった。  作品を読み終ると編集者が電話してきた。 「ところで、作者自身はこの作品をどう評価しているんですか」  潮は煙草をもみ消してからその問いに答えた。 「ぼくが編集者なら、載せますね。今度は」  相手は笑った。 「かなり冷静ですね」 「冷静ですよ」 「じゃ、破綻している部分もわかっていますね」 「うん。破綻も含めて、すべてわかっています」 「どうにもなりませんか」 「この段階ではね」潮が苦し気に言った。 「言葉が重複しているのもわかっている。イメージに数ヵ所統一がないのも知っている。文体がまだ気取っていることもわかっています。しかし捨てきれんのです、ぼくは。まだ気取りを完全に捨てきれない。捨てる前に、気のすむだけ使ってみないことには、捨てられない」 「わかりますよ」編集者はしんぼう強く言った。 「しかし次回は駄目ですよ。破綻したものを破綻したまま活字にするわけにはいかない。それはプロの仕事とは言えませんからね。僕は編集で飯を食っているし、今ではあなたも一枚幾らで原稿料が入るいわばプロの作家ですからね」  そのあげく、潮の作品は年に二回か三回、三十枚前後の短編が、彼の雑誌に掲載される。それが細々と四年近く続いていた。 「このところ、電話もくれないから、ぼくは見捨てられたと思っていたよ」  潮はテーブルに近づいて、編集者に言った。彼には、三十代の男の連れが同席している。 「あなたが僕を見かぎらないかぎり、ぼくの方からあなたを見捨てるわけにはいきませんよ」編集者は穏やかに笑う。「紹介しますよ。こちら表紙の装幀《そうてい》をやっている藤尾さん」  潮が軽く頭を下げる。 「なんというか、わざわざ遠方をどうも」彼は困惑を隠せない。「誰が思いついたのか知らないけど、とんだ人騒がせで迷惑なことに巻きこみまして」 「思いついたのは、ぼくですよ」編集者がひっそりと笑った。「あなたの誕生日と、一冊の本の出版の前祝いってわけです」 「何の本?」潮が訊《き》いた。 「あなたの本です。ずっと不定期に書きためてきたものを集めると、そろそろ本が一冊できるんじゃないかと思って」  潮はうろたえる。 「出版記念パーティなら、本が出てからするものじゃないんですか」 「それはね、あなた」と編集者が微笑する。 「売れる本に関しての話ですよ。十万や二十万売れそうな本のことです。まさかあなたの小説が十万も売れるとは思っていないでしょうね」 「まあ、この方、辛辣ね」と、鴨居麻子が横から口をはさんだ。「前に書いた私の本が、どれくらい売れたと思います? 十七万部ですわ」 「それはあなたが女優で、内容がスキャンダラスで、しかも女優らしからぬ頭脳|明晰《めいせき》な語り口で書かれた本だからですよ」 「ぼくの本は売れないでしょうな」と潮が言った。 「はっきり言ってそうでしょうね」編集者が答える。あちらこちらでは、てんでにシャンペンをくみかわしている。夏世が料理人に何事か言っている。緒形敬介がひとかかえもある木箱を両手でもって、近づいてくる。 「初版三千部として、千部売れればいいところかな」 「たったの千部?」女優が甲高い声を出す。 「たったの千人の人しか海野潮の本を購《か》わないというの?」 「千人の中に、海野潮の本を買うつもりで金をもって本屋に行く人間が、何人いるかですよ」 「わたくし」と女優が手を上げる仕種をしながら言った。「わたくし、買うわ。五百部くらいまとめて買います。元亭主なんですもの、それくらいのことしてあげるわ」 「君はいい奥さんをもったな」と緒形が顔を笑いで皺《しわ》だらけにする。 「元、女房よ」と女優は訂正してやる。「現在の奥さんは、わたしなんて足もとにも及ばないくらい賢夫人よ。なにしろ、この人にとにかく本になるくらい小説を書かせたんだから、たいしたものよ」 「四年にしてようやく一冊だよ」と潮は渋面を作った。「本の話は止そうよ、もう。それより、一体今夜の集りは、どういうわけだい」 「だから、海野潮の三十四回目の誕生日を祝う会だよ」と緒形。「きみは俺の為に山里からわざわざ?」と潮は親友の手を握りながら言った。  がっちりとした荒れた手。潮はその手をしみじみと見た。物を創り出す手だと思った。緒形の手は大きく温かった。 「こんなことでもないと山から降りてくるなんてことはほとんどないんだ」と緒形は眼尻に皺を寄せて笑った。年齢の割に顔の皺が深かった。髪にも白いものが目立つ。山での生活が過酷なのか芸術がそうなのか、緒形はこの五年ばかりのうちに一気に年を取ってしまったみたいだった。 「皿を一枚焼いてきたよ」穏やかな声で緒形が言って、木箱のまま潮に渡した。 「俺の消息が良くわかったな」 「実を言うと、おまえが小説を書いていることさえ、知らなかった」緒形は率直に言った。 「夏世さんから手紙をもらってね」 「女房が?」潮が顔を上げる。「いつ?」 「三ヵ月ほど前かな」 「夏世がなんて」潮は不快な気持を隠して言った。 「単なる近況報告という類だよ」  夏世が緒形敬介のことを知っているとしたら、潮の口を通して知り得たこと以上のことではないはずだった。潮の記憶するかぎり、緒形のことをそんなに話した覚えはなかった。  緒形は前の結婚のときに、ひんぱんに行き来した友人だった。  緒形が潮のために焼いた大皿は直径四十五センチほどの力強い作品だった。緒形敬介自身の手に似ている、と潮は感じた。荒れて大きくて温かい。 「いい皿だ」と潮は言った。「ありがとう」 「土はいいものね」と、いつのまにか近くに来ていた夏世が言葉をはさんだ。「土で出来ているものに触れると、ほっとしますわ」彼女は掌《てのひら》で、慈しむように大皿の表面を撫《な》でた。 「しかしあなたが今触れているのは、既に死んでしまった土ですよ」と緒形が言った。「ぼくが手なずけ、飼いならし、意のままにしちまった土です。一度ぼくの仕事場に来て、生きている土に触れてごらんなさい」  夏世は大皿の表面から視線をゆっくりと上げて、緒形の眼を見上げた。手は皿に触れたままだった。二人の視線がからみ合う。 「ぜひ、そうしたいですわ」 「いつでもどうぞ、ぼくの方はかまわない」 「ほんとうによろしい?」夏世の眼が光った。 「山はまだ雪が深いよ」と、潮が二人の会話に水を差した。そう言い残しておいて、彼はその場をふらりと離れた。自分の声が嫌味っぽかったと思った。  夏世が緒形を見上げた眼の表情のせいだった。彼は妻のその眼が気になった。潮自身初めて夏世に逢《あ》った日に彼を見上げた彼女の、あの光を内側にこめた眼に、非常によく似ていた。  あの後に二人の間に何が起ったのかを思い出すまでのこともなかった。夏世は今夜、新しい男をみつけた、と潮は胸の奥で呟《つぶや》いた。  その思いは、彼を痙攣《けいれん》させた。冷たい汗が掌と胸を濡らしていた。夏世は、たった今、彼女の男を発見したのだ。口の中で舌が喉《のど》の方へとめくれ上っていくような感覚に、潮はひそかに耐えた。来るときが来たという感じ。 「海野さん、今夜はお招き頂いて」と、海岸町の古本屋の親父が立って来てシャンペングラスを掲げた。「こんな晴がましい席に、私のようなカビが生えた男はと、さんざん辞退したんですよ。奥さんが、是非にとおっしゃるもんで」 「親父さん、俺だって、こんな晴がましい席はご辞退したかったですよ」潮は小柄な男の肩に手を置いた。 「どうもどうも」と古本屋と同じテーブルで行きつけの床屋が顔をほころばせた。「ずうずうしく、押しかけてきました」 「あんたの顔見て思い出したよ」潮は自分の髪を苦笑しながら引っぱった。町の名士が顔をそろえたというわけだった。  すし屋の板前も来ていた。背広姿なのですぐにはわからなかった。常連の町長の顔も見える。  夏世が緒形の大皿を手に歩いて来る。 「どうせなら、文房具屋の店員も呼んで欲しかったね。俺はあの店で原稿用紙を大量まけてもらうんだから」夏世は、あらそうだったわね、と上の空で答えた。二人は肩を並べて客席の間をまわる。 「あ、潮さん、おめでとう」見たこともない顔が下から言った。 「ありがとうございます」潮は軽く頭を下げる。そして口の端で押し出すように傍の妻に言う。「それから、海岸ばたの屋台飲み屋の親父を、忘れてやしませんかね」 「だってあの人、アル中ですもの」 「俺だって同病だぜ」  夏世は困った顔をする。 「まあ、奥さま、本日はお招きにあずかりまして」とクリスマスツリーみたいに飾りたてた女が腰を浮せた。 「並木さんよ」夏世が潮の耳に囁《ささや》く。「フランスパンを焼いているお店の奥さま」夏世は女に向ってにこやかに言った。「どうぞごゆっくり」 「海岸で四六時中魚網を修理しているじいさんも、ついでに呼んでもらいたかったね、俺は」潮は言いつのった。「海と魚の話をさせたら、じいさん天下一品だぜ。なまじの小説なんかよりよっぽど面白い」 「一体何が言いたいの?」夏世は夫をレストランの観賞用植物の葉陰に導きながら、少し語尾を強めた。「あなたが日頃お世話になっている方たちばかりの、つつましやかな集りじゃありませんか」 「だからさ」と潮はひややかに言った。「老漁師とか屋台の親父とか文房具屋の若い女の子とか、魚屋の庭先につながれっぱなしの駄犬のジローとかを忘れてやしませんかね、と言っただけさ」 「犬のことまで考えなかったわ」努力して寛大な口調で夏世が言った。 「お世話になっているという意味なら、この中に俺が文字通りお世話になっている人間は二人だけしかいないよ。編集者と、そしてきみだけだ」 「お気に召さなかったみたいね」夏世は失望を声に滲《にじ》ませる。「あなたに、何か気晴しをしてもらいたかったのよ。喜んでもらいたかったの」 「だったら俺は四人で充分だ」 「四人?」 「そう。きみと、編集者と、海岸で網を繕う老漁師と、駄犬のジローだ。つまり三人と一匹ってことだが」夏世が頭を振って行きかける。その背に潮が言う。「本当だぜ。ジローは俺の愚痴に一言もらさず耳を傾けてくれるし、漁師は一日中でも海の話を俺にしてくれるよ。二人は親友なんだ」  新しい料理人が、テーブルの間を舞い始めた。そろそろ退散時だと潮は思った。 「どこへ行くの?」階段の手前で彼を引きとめたのは夏世ではなく麻子だった。「逃げだすみたいに見えるわよ」 「正にその通り。俺は逃げだす」 「やめた方がいいわ」 「そうかね」 「そうよ。たくさんの人たちの善意を傷つけることになるのよ。まだわからないの? あなたって全然変っていない。少しは大人になったのかと思って期待していたけど、その点でも失望させられたわ。この四年間、あなた何していたの?」麻子は仮借なく前夫に言った。 「演説は終りかね? あるいは説教はそれで全部ですかね」潮は行きかける。 「逃げるのはお止しなさいよ」麻子は口調をやさしく変えた。「一体何から逃げてるつもりなの?」 「ご覧の通りの人間たちからさ」潮は顎《あご》で人々を示した。 「つまり、あなたを好きな人たちから?」女優は眉を上げる。「ただあなたを好きなだけで——なぜ好きなのか私には永遠にわからないけど——その理由だけで集ってきている人たちよ。そしてあなたから何ひとつ期待していない善良な人たちよ。何故逃げだす必要があるの?」 「彼らは俺がいなくたって楽しくやれるさ。酒は上等だし飲み放題。料理はフランス料理ときていて、これも食べ放題」 「もちろんそうよ。あなたなしでも楽しくやれるわよ」麻子が潮の腕に手をかける。「でもあなたがいても楽しくなれるわ。あなたがいた方が、今夜はもっと楽しくなるはずよ」 「まるで精神病患者をなだめる役どころに没頭しているって感じが露骨だよ。君は常にそうやって演技しているのかね、相も変らず」 「じゃはっきり言うわ」と麻子が言った。「あなたが逃げようとしているのは、ほんとうはこの人たちからじゃないのよ。この人たちなんて実はどうでもいいのよ。あなたが逃げようとしているのは、実はあなた自身からなんだから」  潮は女優の手をふりほどいた。 「突き刺ったわね、今の言葉。心臓に命中でしょう」麻子は意地悪い声で続けた。 「だけど、あなたはあなた自身から逃げられないのよ。そこのところをしっかりと頭に叩きこむことね」 「そいつは無理だな。俺の頭はとっくにアルコール漬けだからな」 「知っているわ。でも同情しないけど」 「かまわんよ」潮は冷たく言った。 「夏世さんに聞いたけど、このところあなたずっと書斎にこもりきりだそうね」 「小説家が書斎にこもっている分には文句はないと思うけどね。朝からバーに入りびたりというよりはいいだろう」 「彼女、泣いてたわ。あなたは書くために閉じこもっているわけじゃないもの。そのことを彼女は知ってるわ。私も知ってるけど」 「じゃ俺はあの部屋で何をしているときみは、きみたちは考えるんだ」潮の顔が怒りのためにわずかに青くなる。「原稿用紙の上に意味もないイタズラ書きを一日中しているとでも思うのか」 「怒鳴らないで」麻子が背後の客たちを気にする。 「あなたが二階のあの部屋でしていることが私や夏世さんにわからないと思う?」 「質問に質問で答えるのは止せ。俺が一日中イタズラ書きをしているとでも思うのかと訊《き》いているんだ」静かだが珍しく強い口調だった。 「いいえ。イタズラ書きをしているとは思わないわ」麻子はまっすぐに前夫の瞳の中をみつめた。二人はかなり長いこと、階段の下のそのホールでお互いの眼の中をみつめあった。潮が先に視線を外した。 「あなたがあの部屋の中でしていることを言いましょうか」麻子が潮の横顔に強い視線をあてた。「自己|憐憫《れんびん》」 「何だって?」潮が呟く。 「自己憐憫にどっぷりと浸ること。それが一日中、あなたが閉じこもってしていることよ」  背後のパーティのざわめきが潮の耳から消えた。彼は麻子をにらみつけた。 「あれは一種、麻薬みたいなものなのよ、自己憐憫って。生温かくて、少しひりひりするけど、慣れると居心地がいいわ。どこもかしこも自分の体臭がしみついているから、何時間でもその中でじっとしていられる。涙の一歩手前でね。一度覚えたら中々そこから出てこれないというのが、自己憐憫の世界。でもね、はたで見ていて決して格好いいものじゃないわよ。奥さんがいつまでも泣いてばかりいると思ったら大まちがいよ」 「夏世は、もう泣いちゃいないよ」潮がひっそりと言った。 「そうよ。気をつけなさい。あの女《ひと》があなたの何に惚《ほ》れたのかは知らないけど、あの女《ひと》、一応あなたの保護者なんだから。あんまり長いことほったらかしておくと、ある時部屋を出てきたら、あの女《ひと》どこにもいないなんてことが起るかもしれないわ」 「きみもそう思うか」潮が呟いた。 「まさか」とその時麻子は何かに思いあたって口もとに指を置いた。「まさか、意識的にやっているんじゃないでしょうね」 「何を?」 「彼女に愛想をつかさせることをよ」 「そんなことは考えてもいないさ」  しかし女優の顔の上の疑惑は消えない。 「でもあなたのやりそうなことだわ」彼女は遠くを見る眼つきで言った。「あたしの時もそうだった。あなたあたしにあなたを捨てるように仕向けた。気がついてみたら、私たち別れていたわ」彼女はまるでどこか躰《からだ》の一部が痛むみたいに顔を顰《しか》めた。「修羅場のない、きれいな別れ方だった——つまり、あなたの計算通り」 「それは想像のしすぎというものだよ。きみは俺を買いかぶりすぎる」 「あなたは、夏世さんを捨てようとしてるんだわ。そうでしょう。夏世さんが愛想をつかすようにしむけて、彼女の方からあなたを捨てたと見せかけて——そう彼女も信じ——実は、あなたが彼女から離れていくのだわ。でもなぜなの?」  潮は右手のホール奥へゆっくりと歩きだす。レストランからはフォークやナイフを使う音がしていた。彼はたて長のはめこみ窓の外の暗い海を眺める。 「夏世は、今夜新しい男をみつけたよ」  麻子がいつのまにか彼の横にたっていた。 「彼女を行かせるつもり?」 「どうしても行くというのを、何がなんでも行くなとは言えんよ。第一あの女は止めても聞かんよ」 「あなたはどうするの?」 「何が?」 「生活とかそういうことよ」 「今の世の中、飢え死にすることもあるまい」 「彼女を失うかもしれないのよ。のん気ね。ぜんぜん怖くないの?」  潮は口をつぐんだ。海上には風が吹いているらしく、暗い海面のところどころに白い棘《とげ》のようなさざ波が突き出ていた。 「正直に話そうか」と彼は振り返って前の妻の顔を見た。「女房を失うと思うと冷や汗がたらたらと流れ落ちる。舌が恐怖でめくれあがる感じだ」 「もしかして、あなたが創作のために何もかも捨てるというのなら、それはまちがいかもしれなくてよ」麻子からはいい匂いがしていた。男物のオーデコロンだ。 「今の男の使っているコロンかい?」潮が話題を変えた。 「そういうわけじゃないわ。ディオールの男性用よ。でもコロンのことなんてどうでもいいのよ。あなたのこと」 「俺のこともどうでもいいよ。それより、君が連れて来たニヤけたジゴロのことだけど」 「外見ほど彼、ニヤけた男じゃないのよ」  女優は一瞬暗い表情をした。 「止めとけよ、あんな男。きみの評価が下がるよ」 「余計なお世話だわ」 「何が良くてあんなのと関わりあう」 「ベッドのことは上手なのよ」麻子はちらと潮を盗み見た。「ベッドのことが出ると、とたんに眼にみえない壁を作るのね」  潮は答えない。 「今でもうまくいかないのね。可哀相《かわいそう》に」麻子は潮に手を伸ばしかける。潮がついと躰を引く。「それでもしかしたら夏世さんを解放してあげようと?」  潮はそのまま背中をむけて歩きだした。彼は二階へ通じる階段を昇るかわりに、裏口の扉を押して夜気の中へふらりと出て行く。 「あの人どこ?」と夏世が麻子に訊く。 「空気を吸いに行ったのよ。心配ないわ」 「じゃジローのところだわ」夏世がひっそりと笑った。「近所の魚屋の犬なの。姿が見えないと思うと、あそこにいるのよ。犬を相手に何時間でも喋り続けるの」そこで夏世は溜息をついた。 「ああもう私の手には負えないわ」 「放っておきなさい」と麻子は姉のような口調で夏世に忠告した。「彼のために何かしてあげようとするから、苦しいのよ。放っておく方があなたのためでもあるけど、彼のためでもあるのよ」  二人はそのままパーティの場に加わる。 「雪のすぐ下にね、もう蕗《ふき》の薹《とう》が顔を出しているんですよ。そいつをつみ取って酒の肴《さかな》にする」緒形が夏世相手に喋る。自然な口調。どこにも無理な力が入っていない仕種。 「蕗の薹をのせる器やお酒の器も、ご自分の作品なのでしょうね」夏世が訊く。  麻子の年下の連れの男が、ナプキンで男にしては赤すぎる感じの唇を拭《ふ》きながら歩いて来て、彼女たちと合流した。編集者が腕時計を見る。 「何かリキュール頂ける?」と麻子が聞いた。「いいのよ。自分で勝手に注ぐから。かまわない?」 「ええ、どうぞ」  麻子はカウンターの中に入って、少し埃《ほこり》をかぶったカルバドスの瓶を取り上げた。それを夏世が頭の上のガラス棚から出したリキュールグラスになみなみと注ぐ。 「そいつは強いの?」と麻子の連れが訊く。 「強いわよ。ブランディと同じ」  男がするように一気にかっと喉《のど》へぶつけるような飲み方で、麻子はすぐにグラスを空にして、改めて二杯目を注意深く注いだ。その仕種を緒形が面白そうに眺める。 「強いね相変らず」彼は温かい声で麻子に言った。 「ますます強くなったわ」麻子がリキュールグラスから眼を上げて言った。「しばらくね、緒形さん。もう何年になる?」  麻子の連れが、彼女の手もとからリキュールグラスをそっとかすめて口へ運び一口含んだ。そして顔を顰めて元に戻した。夏世が男に何か別のものはいかがとすすめる。若い男は普通のウィスキーの水割りがいいと答える。 「自分で作りなさいよ」と、麻子が命令口調で言った。夏世が、いいのよと、氷をとるためにカウンターの中に入る。 「きみと海野がまだ一緒の所帯をもっていた頃だから、五年くらいかね」緒形が答えた。 「五年か——」麻子は無意識に顔をこするような仕種をした。「私、老けたでしょう」 「誰だって年を取るさ」と緒形。 「そうよ。時間は誰の上にも公平に流れるわ」ウィスキーを氷の上に注ぎながら夏世が柔らかい声で言った。 「いいえ、公平じゃないのよ。同じ五年でも女優の五年は、誰よりも過酷なのよ」麻子は口もとを歪めた。「私、あと三年すると四十よ」  彼女は緒形の飄々《ひようひよう》とした横顔をじっと見つめた。 「緒形さん、つくづくといい顔になったわね。あなた、なまじの俳優など顔色を失うような、いい男よ」 「顔をほめられたことはこれまで一度もないからね」と緒形は苦笑した。「妙な気分だよ」彼は救いを求めるように夏世を見た。夏世がそれ以上、望めないような優しさを灯した眼で、男を見返した。  自分でもそうとは気づいていないだろうと麻子は思った。 「それじゃ鏡の中をよく見ることよ」と麻子。 「山にいると、鏡などとはおよそ縁のない生活でね」と緒形は髭《ひげ》だらけの顔を、大きな手で撫《な》で上げた。 「昔は私、キリキリしたような神経質な性格の男が好きだったけど。顔もね。最近少し変ったような気がするわ」 「気に入っているのは髭なの? それとも若さ?」と緒形がチラと麻子にもたれるような感じで飲んでいる若い男を見ながら、からかった。 「その両方ですよ」と、若い男が麻子の代りに答えた。「ね? そうでしょう?」  麻子は黙って男から躰を引き、カウンターを回りこんで緒形の横に坐った。 「顔と言えば、海野潮の顔つきも、最近変りつつあるわね」 「そうですか?」と夏世が不安な表情を浮べた。 「そう思わない?」  編集者が腕時計を見ながら夏世に近づく。 「私たちはそろそろ失礼しないと」  夏世が困惑したように、 「すみません、いつもあんなふうなんですよ。せっかく来て頂いたのに」と言った。 「あんなふうなのには、私もなれていますよ、奥さん。別に驚きませんね」 「海野潮の本ができるそうですね?」と緒形が口をはさんだ。 「夏までには何とか体裁が整うでしょう。いい本になると思いますよ。本人は全然そう思ってはいないようですがね」 「ほんとうにいい本になりますの?」夏世が期待をこめて訊いた。 「かなりの評価を得られるんじゃないかと、思いますね」 「是非、そう本人に言ってやって下さいな」 「むろん言いますよ。それを言いに来たんですがね。肝心の海野さんが消えてしまったものだから」 「申しわけありません。すぐに迎えに行きますから」  と夏世は行きかかる。編集者がそれを制した。「どうせ少し歩きますから、そこいらを探してみますよ」 「多分、裏の魚屋さんの庭先にいると思うんです」 「魚屋の庭先に? そんなところで彼は何をしているの?」緒形が訊いた。 「犬がいるのよ。もう犬としては年寄なんだけど。ジローというの。海野はジローとお喋りをするのが好きなの」 「犬の言葉がわかるってわけ?」麻子が笑った。 「違うわ。犬が人間の言葉を理解するのよ」 「じゃ、魚屋の庭先にでも寄ってひとつ犬とのお喋りに加わりますかな」編集者が別れを告げ、デザイナーと共にパティオに通じる出口に向った。夏世が送って行く。 「ねえ、もう飲むの止めたら?」と麻子が若い男に言った。「それ以上飲んだら事故を起すわよ」 「今夜中に帰らなくてもいいよ。ここはホテルでしょう?」男が答える。 「今夜中に帰るのよ」麻子はきっぱりと言う。「それに私、第三京浜のガードレールに激突して死ぬのは嫌なのよ」 「第三京浜まで行ければめっけものだよ」  男がニヤリと笑う。笑うと貧相さが余計に目立った。 「おかしくもない冗談だわね」麻子は緒形に向き直る。「あなたは今夜ここに泊るの?」 「そういうことになると思うよ」 「いつまでこちら?」 「ついでだから明日は東京に足を延ばして、二、三日いようと考えているんだけどね」 「じゃ、是非、連絡してくれる? 電話番号は前と同じよ。私あのマンションにまだ住んでいるの」 「電話は、ひかえてあるよ」緒形はジャケットの胸のポケットのあたりを軽く叩く。「アドレス帳は、この数年間書き足すこともなかったからね」 「土を相手じゃね。交友は増えないわね」麻子が笑う。 「増えないね」 「夏世さんとは、今日が初めて?」 「そう。今日が初めて」緒形がレストランの客たちに一言、二言声をかけながら、こちらに戻ってくる夏世の姿をみつめる。麻子がその緒形の横顔を注意深く眺める。 「あの女《ひと》、私からみんな好きな男たちを奪っちゃうのよ」ものうい声で麻子が言った。 「何を言ってる。きみが勝手に海野を放りだしたんだろう」緒形が苦笑する。 「男たちと言ったの」  しかし緒形は近づいて来る夏世の方に注意を向ける。 「さてと、そろそろ我々も潮時かな」と、わざと麻子が欠伸《あくび》をする。男がストゥールから滑り降りる。 「いかにも海野潮にふさわしいバースディ・パーティだったわ」さして皮肉をこめずに麻子が言った。「つまり、海野潮不在の海野潮のパーティ」 「ごめんなさいね」夏世が謝る。「せっかく来て頂いたのに」 「止してよ、夏世さん。誰にでも言うようなことを私に言わないでちょうだい」  二人の女は顔をみつめあった。同じ一人の男を愛した人間同士の共感のようなものが、二人の胸に流れた。 「アドヴァイスをひとつしていい?」妹に語りかけるような口調で麻子が言った。夏世がうなずく。 「土をいじっていらっしゃいよ、夏世さん。山にまだ雪が残っているうちに。景色が変るのは、時には大事なことよ」  緒形はあえて口をはさまずに、手にしたグラスをゆっくりと揺すっていた。夏世が男のその手もとをじっとみつめる。  麻子が続ける。 「海野もそう考えていると思うのよ」 「あのひと、そうあなたに言いました?」夏世が緒形の手もとから視線を上げた。  麻子は首を振る。 「でも、予測しているみたいよ。あなたが緒形さんの窯を訪れるのは時間の問題だって。私も同じことを感じるわ」麻子は緒形と夏世を見比べる。 「あなたたちの会話には、ついていけないよ」と麻子の若い連れが肩をすくめた。「一体どうなっているのか、さっぱりわからない」 「わからなくていいの」麻子が苦笑する。 「要するに私は、この女《ひと》にかけ落ちすることをすすめているのよ」 「海野はどうなるかしら」誰にともなく夏世が呟いた。 「彼は大丈夫よ。犬と喋っているわよ」麻子が陽気に言った。しかし誰も笑わない。  招待客の何人かが腰を上げ、夏世に別れを告げに行く。その間に麻子は顔を直しに洗面所に消える。  麻子の連れは、ホールの先のソファで躰を休めている。うとうとしているみたいだった。 「パーティは終った」緒形が夏世に言った。 「お疲れになったでしょう?」 「長い一日だった」 「お休みになります? お部屋の用意はできてますけど」 「眠れそうにもないよ」緒形は労《いた》わるような眼で夏世を見た。 「あなたと海野は、あまり幸せじゃないんだね。ぼくの予想を裏切って」 「あのひとは表面を器用にとり繕うということができないの。まるで子供」見えないものを抱きしめるような感じで夏世が呟《つぶや》く。 「そして、あなたは母親のように彼をかばい続ける。しかし夏世さん、痛々しいよ」 「私が?」 「そう。あなたが。そして海野もね」緒形が口ごもる。 「自分が無力だということをつくづく感じるよ」 「どうしてですか」 「ぼくは海野の前の結婚が駄目になる過程を延々と見せられているからね。何もしてやれなかった」 「私たちのために何かして下さる気がおありなら」と、不思議な感じの声で、夏世が呟いた。「私を抱いて下さる、今夜?」彼女は緒形から眼を逸らせた。「海野はまだしばらく戻りませんわ」  二人は同時にパティオへ通じるガラスのドアを眺める。レストランの灯は消えている。キッチンの方から洗い物をする微かな音が響いてくる。麻子の連れは軽く口をあけて眠っている。時々躰が揺れて、はっと眼を覚ますが、すぐに睡魔に襲われる。 「それに戻って来ても、私たちがどこにいるか探したりはしませんわ」 「それより、夏世さん、ぼくの窯へ来ませんか」 「なぜ先に延ばそうとなさるの?」いかにも辛そうに夏世が訊いた。「私があなたを訪ねて行くという保証は何もないわ。お約束もできないわ。何時になるかもわからないし。結局そんなことは実現しないかもしれないのよ」一種|破綻《はたん》した声で夏世が言った。 「それより今が、今夜のことが切実に問題なのに——」  しかし緒形は努力して冷静さを保とうとするのだった。 「あなたは、いずれぼくのところに来る。ぼくにはそれがわかるよ」  夏世はうなだれた。そして考えてから言う。 「私にもそんな予感があります」一目彼を見た時から。彼の大きな温かい手が彼女に触れた瞬間から、夏世にはそれがわかっていたような気がする。 「だけどそれは少なくとも今夜ではないし、明日でもないのよ」かぼそい悲鳴のような声だった。  緒形の手が彼女の腕をしっかりとつかむ。  夏世の瞳が暗い光を放つ。  ちょうど洗面所から出て来た麻子が、はっとして観賞用植物の葉の陰に身をひそめる。夏世と緒形が肩を寄せあうようにしてホールに消えるのをそのままじっと見送った。  二人は、わずかに青ざめた横顔を見せて、二階の客室に通じる階段を上っていく。麻子は溜息をついてそこから躰を動かした。同時に明りの消えたレストランの中で、誰かが身動きした。麻子は眉を寄せた。 「潮……」  海野潮が薄暗がりの中で顔を上げた。麻子が沈んだ表情で彼のそばへ行く。 「そのきれいな顔の上に浮んでいる、悲劇的な表情。少しやり過ぎじゃないのかね。ここは舞台の上じゃないよ」  麻子は潮の言葉を無視する。 「みなさん、お帰りになったわよ」 「だから俺は戻って来たのさ」感情を殺した潮の声。「きみは、なぜ消えない?」  麻子はホールのソファを眼で示す。 「運転手が眠ってしまったのよ」 「起してやろうか」潮が坐っていた椅子から腰を上げかけてよろめく。 「どこで飲んでいたの?」麻子が眉を寄せる。 「ジローとさ」四分の一ほど残っているウオツカのボトルを上着の内側からとり出して、テーブルの上に置く。「運転手だか、ジゴロだか知らないが、あいつを起してさっさと消えてしまってくれよ」 「もう少し眠らせておいた方がいいのよ、酔いが覚めるから」麻子は潮の向い側の椅子に腰を下ろしながら落着いて言った。 「俺のことなら、かまわんでくれ」 「別にかまうつもりはないわ」冷静に麻子が言って煙草を取り出す。 「俺を見張っている必要もないぜ」青白い顔の中で、二つの眼が宙を見すえた。「二階へ行って、あいつらの部屋へ押し入っていくなんてことはせんよ」 「そりゃしないでしょうよ。そんな勇気があるとは思えないしね」冷静な麻子。「それに海野潮の美学に反するわ」 「美学なんてものは関係ないね」吐き捨てるように潮が言った。「俺を放っておいてくれよ。頼むから一人にしてくれないか」 「そして一人で一晩中自己|憐憫《れんびん》と顔つき合わせているつもり? お断りよ」 「同情してくれなくてもいいよ」 「同情していると思う?」 「面白がっているみたいだな?」潮がわずかにすわった視線を麻子の顔の上にすえた。 「ある意味でね。今のあなたを見ていると、復讐《ふくしゆう》を遂げたような気持になるわ」煙草の煙を深々と吐きだしながら麻子が喋った。「気がついていなかったかもしれないけど、もう何年も前のパーティよ。あなたと夏世さんが、たった今のような感じで二人で二階へ上っていくのを、私は見ていたことがあるのよ。二人とも欲望に青ざめて階段を昇って行ったわ」麻子は煙草を灰皿の中に指先のひとひねりでもみ消した。  ソファの上で若い男が寝返りを打つ。 「あの女《ひと》は不思議な女性ね。耐える女と、全然耐えない女とを両方持っているのね」  それきり彼女は口をつぐんだ。人気のないレストランの中に潮の不規則に呼吸する気配だけがしていた。 「本ができそうね」ふと麻子がなごんだように微笑した。「かなりの評価が得られるんじゃないかと、編集の人が言っていたわ」 「正確には、どう言っていた?」わずかに躰《からだ》をのり出すような感じで潮が訊《き》いた。 「その時々は、完結した短編だったけど、一冊にまとめてみると、ちゃんと一本筋が通っているという発見があった、と彼は話したわ」 「それは本人にとっても新しい発見だな」自分の言葉を吟味しながら潮が呟いた。 「話さなかったの? 編集の人はあなたを探しに出て行ったけど」 「ジローと渚《なぎさ》をほっつき歩いていたんだよ。あいつ、クサリを解いてやったら、大喜びして浜中走り回ると思った。それが、俺にぴったりとまとわりついて離れない。ほれ、ジロー、走ってみろ、お前は自由なんだぞ、と言うと、悲し気な上眼遣いで顔を見やがった。あの老いぼれ犬めが」  不意に、ほんとうに不意に、潮が啜り泣く。麻子は一瞬躰を固くするが、ついと手を伸ばすと無言で男の髪の中に自分の指先をからませて、二、三度髪を愛撫《あいぶ》した。潮の躰が前後に揺れた。 「もしクサリを解かれたら、まっすぐに私のところへいらっしゃいよ」  潮が躰を揺らすのを止める。 「そしてもう一度あの修羅場をくりかえすのかね」 「私たち、少しは成長したんじゃない? それにもう若くもないんだし」修羅場を演じるのにもエネルギーがいるのだ。「私の言った意味は一時的な避難場に、私を利用してもいいと言ったのよ」 「力強いね」必ずしも嫌味ではなく潮が苦笑した。 「そろそろ、私たち過去は過去として、友だちになれるんじゃないかと思うのよ。友だちであることのルールって何だかわかる?」 「寝ないこと」潮が言った。「それだけは保証するよ」 「それもあるけどね、その場その場できちんと決着をつけていくの。それがルールよ」  さてと、と麻子はテーブルに両手をついて立ち上る。「あの子を起すわ。そしてお望み通り、あなたの前から消えるわね」  一瞬、潮がすがるような眼で麻子を見た。 「わたしは、あの髭《ひげ》の男の子とのことを結着つけるわ。そしてあなたは」と麻子は指で二階を示す。「あなたの問題の結着をつける」  そして右手を差し出した。潮がそれを握る。乾いて冷たい手だった。 「もしかして、見捨てられて孤独なのは、あなただけだと思っているかもしれないけど、それは自惚《うぬぼ》れというものよ」と、相手の手を離しながら麻子が言った。「私も同じように感じているし、あそこのソファで眠りこけている子も、そうよ。二階の二人も、やっぱりそうなんだと思うわ」そしてくるりと踵《きびす》を返すと、彼女は歩み去った。 「ねえ、ぼうや。眼を覚ましなさい。でないと置いていくわよ」驚くほど柔らかい声と仕種とで、彼女は若い男を揺すり起した。  潮はもう何時間も身じろぎもしないでいる。テーブルの上のウオツカの瓶もあれから一滴も減っていない。彼は渚が暁の白さの中に浮び上ってくるのを、みつめている。  数分前に二階の客室の扉がそっと押される音がした。それから別の部屋の扉が開きそれきり何の音も聞こえない。夏世は自分の部屋へ戻ったのだ。  それから更に時間がたって、階段を下りてくる人の気配がした。  肌色の寝巻に着替えた夏世が、ひっそりとホールに立つ。 「どうして寝ないの?」と彼女がそれ以上夫の方へ近寄らないで訊いた。 「俺は寝床を失くしちまったような気がしてね」穏やかな声で潮が答えた。自分でも不思議なくらい、胸は波立たない。 「あなたの寝床はいつもの場所よ」妻の顔は青く、怯《おび》えたような表情が浮んでいた。それがひどく無防備に潮の眼に映った。哀れさが彼の胸を咬《か》む。  潮は椅子を引くと立ち上った。もう躰は揺れなかった。  それから、非常にゆっくりとした足取りで、妻の方へと歩きだした。 一九八七年に中公文庫として刊行 角川文庫『渚のホテルにて』平成11年5月25日初版発行