森 瑤子 愛の予感 目 次  五月の夜、私は  指輪  砂の翼  マンション  暗い鏡  愛の予感  五月の夜、私は  街には夕暮れ時の騒《ざわめ》きがあり、微《かす》かな光の残滓《ざんし》と、始まったばかりの闇《やみ》とが混じり合うその底で、ネオンサインがひっそりと瞬いていた。透明な蒼《あお》さを湛《たた》えた暮色の中を、柔らかい風が吹きぬける。夜の訪れを告げる風。遥《はる》かなる宇宙の草原から吹きこんでくる、香《かぐわ》しい五月の風。  一日の中で、胸を締めつけられるのは、たいていこの時刻だ。暮色の蒼さゆえに、風の甘さゆえに、特に初夏の黄昏時《たそがれどき》の美しさゆえに、そして——。  ——そして孤独ゆえに。  しかし私はこの感覚を孤独と名づけるべきではないかもしれない。なぜなら、それは敗北感を抱かせるから。  多分、自由、あるいは解放と呼ぶべきなのだろう。自分から進んで求めたのだし、それを手離さないためにながながと続いた、苦悩に満ちたあの葛藤《かつとう》の日々を思えば、むしろ今宵私は、勝利の杯を掲げてしかるべきではないか。  乾杯? いったい誰《だれ》と杯を合わせるのだろう?  ——もちろん、自分自身と。  並木通《なみきどお》りまで来て、勤め先に電話を入れ、社には寄らず直接八時にスタジオに行くから、と伝えた。電話に出た同じ |C  F《コマーシヤル・フイルム》 制作室の吉見は、オーケイと言い、いくつかの伝言を素早く読み上げた。主として今夜のフィルム撮影に関するものだった。 「フィルム撮りのあと、打ち合わせが入っているよ。ロダンで。これは課長の伝言」  フィルム撮りのあと? とすると今夜も帰りは十二時を廻《まわ》ってしまう。だしぬけに亮《あきら》の不機嫌な顔が浮ぶ。——俺《おれ》はおまえさんのように芸術家じゃないからね、そういう不規則なリズムにはついていけないよ。——  芸術家を長くひっぱるように発音して皮肉を言われているうちはまだ良かった。そんな仕事さっさと止《や》めちまえよ。たかがコマーシャルだろう、くだらねえよ。そう吐き捨てるように言ったことも、何度かあった。(ばかね、あのひとはもう、二か月前から仙台じゃないの)  コインが落ちる音がしたので、無意識に新しい十円玉を入れながら、暗さの増した皇居の方角の、星のない夜空を眺めた。仙台では、きっと星が零《こぼ》れるほど、見えるだろう。  ——八月には来いよな、七夕《たなばた》、一緒に見よう。  何もかも終ったあとで、彼はぽつりと言った。 「それから長沢ってひとから電話。用件は別にないみたいだな」 「長沢?」  私は意識を受話器の中の声に戻しながら訊《き》いた。 「それ何時頃かしら?」 「ええっと——、あれ、書いてないな。受けたの大《だい》ちゃんだけど、彼Nプロへモデルの打ち合わせに行ってるから」 「そう、いいのよ。伝言、それだけ? じゃあとでね、ありがとう」  電話を切ると、ザラザラと音を立ててコインが五、六枚戻ってきた。いつのまに入れたのか、まるで記憶にない。何かが気持にひっかかっていて、私は上の空でそのまま地下鉄の入口まで歩き、階段を降りた。  夏になると、地下鉄特有のむっとする厭《いや》な熱気と臭気が立ち昇ってくるだろう。東京はどこもかも埃《ほこり》っぽくて悪臭がし、そして堪え難く暑苦しくなるのだ。俺と行こうよ、あっちの方が空気はきれいだし、夏は涼しいし、冬にはスキーが楽しめるからさ——。  亮《あきら》は何百回も言葉を尽して説得しようとした。一緒に来てくれ、頼むから俺について来いよ。そして最後にはいつも口論になり、それが縺《もつ》れてどうしようもなくなると、彼の右手が、彼の本当の意志とは無関係にとんできて私の頬《ほお》を打ち、不毛な喧嘩《けんか》に止めを刺すのだった。話し合いで始まった会話は口論に発展し、暴力と涙で終る日々が続いた。  階段を降り切った所で私は立ち止まって苦笑した。たった今八時からの仕事の打ち合わせをしたばかりなのに、足は無意識に家に向かっている。  平穏だがとても虚《から》っぽな部屋。私を待つひとがいないというより、私には帰ってくる男《ひと》が、もういないのだ、ということの方が辛《つら》い。つい二か月前まではいた。それからずっと遡《さかのぼ》って、四年の間私のところへ帰ってきていた亮がいた。  ディレクターの吉見が言っていた長沢とは、どの長沢のことだろうか? その名の人間をふたり知っているが、咄嗟《とつさ》にどうしてか男か女か尋ねられなかった。女なら嘱託でスタイリストをしている長沢由美子だし、男だとしたら雄一郎だ。  亮が何か話して行ったのだろうか? 男同士の友情には、女が窺《うかが》い知ることのできないことが、あまりに多い。  大学を卒業した翌年に、私は長沢雄一郎と婚約していた。岩井亮は彼と同じ建築事務所に勤めていた。  私たちが三人で伊豆《いず》の海で休暇を過ごした夏、まだ誰もが若く、陽気で闘争的で、しかも自分たちに自信がなかった。それまでに亮とは二度しか会ったことはなかった。雄一郎とは正反対の、臆面《おくめん》のないどちらかといえば傲慢《ごうまん》な印象が強い若者だった。  最初の日から一度に太陽にあたりすぎた雄一郎が、ひどい日焼けをしてしまい、強過ぎる日射しを避けて宿に残った午後、亮は、雄一郎といると言う私を強引に海へ連れ出した。海岸で、私たちはふたりとも紫外線に強く、皮膚は赤くなるかわりにどんどん小麦色に焼けていく、といった同じ体質なのを発見して笑いあった。 「俺たちは同類だね」  と亮が言った時から、警戒と同じくらいの好奇心が芽生え、私は半ば、あまりに感覚的で雑駁《ざつぱく》な神経を持ったこの建築家の卵に反感を覚えながら、同時にずっと以前からよく識《し》っていたのに、その日まで真の意味で出逢《であ》わなかった、非常に懐しい男《ひと》を見る思いに打たれて胸騒ぎを感じていた。  白砂が眼に痛いほど輝き、七月の初めで人影はなく、お互いの肌の焼ける健康なにおいと潮の香りとがあった。 「俺、なんだか君が好きだな」  と、唐突に亮が言った。溜息《ためいき》のようでもあり、呻《うめ》き声のようにも耳に響く声で。  砂の上に腹這《はらば》いになっていた私の肩や背に、厳しい陽光が重くのしかかる。私たちは微笑も浮べないでお互いの顔をみつめあった。 「私も」  と、私は彼と同じように軋《きし》んだ声で囁《ささや》いたが、海上から軽やかに吹き寄せてきた一陣の優しい風が、その言葉を掠《かす》め去っていった。  途方に暮れて、私は自分の胸に問い糺《ただ》した。  ——私も、ってどういうことなの? 雄一郎の親友として彼が好ましいという意味なの? それならなぜ私の心はもっと陽気でないのだろう。  目の前に拡がる真夏の情景でさえも、フィルターをかけたように、急にひっそりとかげって見える。胸の中にはどうしたことか物哀《ものがな》しさだけがあった。  恋が始まろうとする時の、あのひたひたと押し寄せる悲しさ、鼻の奥に淡い樟脳《しようのう》の香りに似た郷愁を呼ぶにおいがたちこめ、|顳※[#需+頁]《こめかみ》のあたりは期待と不安の入り混じった霧が漂っているのだった。  私は、無造作に投げ出された、砂の上の亮の日焼けした手を眺めながら、もう一度声にだして言った。 「私も。……あなたが好き」  その骨張った手の上の薄い皮膚はいかにも美しく、それでいて労働者のように力強く見えた。その手は亮自身とよく似ていた。  ゆっくりと過ぎていく時の流れがあった。彼の眠たげな手のずっと先に、真夏の海が残酷な青さをたたえて横たわり、私たちはもう一言も口をきかずに、まるでふたつの死体のようにいつまでもじっと横たわっていた。緊張に堪えながら、息たえだえに——。  その夜、夕食のずっとあとで、ひどく疲れていたのに誰も眠れずにいた時、亮が散歩でもしようかと言った。  雄一郎と私の両方に声をかけたのだが、眼はまっすぐ私の瞳《ひとみ》の中を覗《のぞ》きこんでいた。昼からずっと読み続けていたフォーサイスのスパイ小説から眼を上げて、雄一郎は私と亮の視線が一瞬ではあったが絡むのを、見逃がさなかったのにちがいない。  なぜならそのあとすぐに、私が 「一緒に行かない?」  と誘った時、彼は 「僕は止《よ》しとくよ」  と言って、さりげなく本の上に視線を戻したのだが、その横顔は強張《こわば》ってわずかに蒼ざめていたし、止しとくよ、と言った調子が、あまりにもさりげなさすぎたから。  私はあの瞬間の雄一郎の眼の色を、生涯忘れることはできないだろう。彼は亮と私の一瞬の眼くばせで、すべてを察したのだ。——私たちでさえまだ定かでなかった何かを。そして雄一郎の瞳の底に、私は更に了承の色を、許しを認めたと勝手に思った。  漆黒《しつこく》の動物のように蜒《うね》る夜の海。潮風はその海が吐きだす香《かぐわ》しい溜息だ。私たちの宿命——私たちが共通に愛するひとりの男、雄一郎を裏切ることなしには実らせることのできない恋を思って、亮と私は長いこと声もなく立ち尽していた。  波打ち際に夥《おびただ》しい夜光虫が砂金のように輝き、レースのような優しい波に手をつけると、私の手の甲や指先が銀色の粉をふいたように、幻想的に輝きだすのだった。  その指で私は、潮風に乱れた髪を梳《す》き上げ、とめどもなく流れる涙——たくさんの理由によって、それは私の眼の中に溢れだしたのだが——を、拭《ぬぐ》った。すると傍で亮が息をのみ、感情を抑えるあまり、震える声で囁いた。 「きみは天使みたいだ。きらきら光って妖精《ようせい》のようだ」  私は夜光虫で輝いている両手を眺め、自分でも信じられないくらい優しい仕種《しぐさ》でそっと亮の頬に触れた。するとそこがぼうっと微かに光った。  彼の手がふいに伸び、私は日向《ひなた》のにおいのする胸に抱き寄せられ、苦悩に満ちた、だが星のようなふたつの瞳がゆっくりと私の上に降りてくるのを見ていた。  温い乾いた唇が、私の口に重なり、ふたつの胸の鼓動がひとつになって、お互いの肉体の空洞に共鳴した。それから私たちは少し震えながら離れた。亮の頬や唇の上に星を砕いたような銀粉が残った。 「あなたも今夜、天使になった」  と私は掠《かす》れた声で言った。喉《のど》に熱い塊がこみあげ、私は何時しか啜《すす》り泣いていた。宿にひとり残った雄一郎を思って、亮のせいで、接吻《せつぷん》のせいで、そしておそらくは世にも美しいこの海辺の夜のせいで、声もなく泣いた。  その後、雄一郎と亮の間に何らかの話し合いが行なわれたかどうか、私は知らない。  休暇の最後の夕方、雄一郎と私はふたりだけで海岸を歩いた。私は薬指から小さなダイヤモンドの指輪を外して、彼に返した。  それはなんと憂鬱《ゆううつ》な一時だったろう。私は新しい恋のことで精一杯だった。惨《みじ》めなことに、それを雄一郎の眼に隠すことすらできなかった。 「それでいいんだよ」  と雄一郎が言った。手に今では不用となった指輪を固く握りしめて。 「もし君が悲しいふりなんかしたら、僕はずっと苦しむよ」  その時不意に雲が切れて、その鋭い亀裂の中から金色の光が海面を貫いた。すると、それまで蒼紫《あおむらさき》に静まっていた海が、水平線の彼方から津波のように金色に染まり始めた。その日没の海に向けて、何を思ったか雄一郎は手の中の指輪を力一杯放り投げた。そして振り向いて誰にともなく言った。  ——ひとつの終りと、別のひとつの始まりだ。  あの指輪は、今でもあの海底にひっそりと沈んでいるのだろうか。あれから四年がたった。私たちは二度とふたりで会うことはなかった。男同士のつきあいは続いたらしかったが、やがて雄一郎は大阪支社に移って行った。自ら希望したものか、偶然かわからない。  ソニービルの地下から再び夜の街に昇って行きながら、私は自分にかかってきた電話のことを考える。  はたして雄一郎だろうか。由美子の可能性の方が実は多かった。今夜のCF撮影スタッフに彼女は入っていたから、おそらく指定しておいた小道具の何かが手に入らないとか、そんな用件なのだろう。  私は地上に出ると彼女に連絡をとるために公衆電話を探した。だが、もし由美子なら、必ず伝言を残しはしないか? それに吉見は長沢さんというひと、と言った。彼女のことならCプロの長沢さん、とたいていそう言うし、大助も伝言のメモにその旨書くはずだった。  では、やはり雄一郎なのだ。彼であることにもはや疑いの余地はない。あの日以来彼から電話が入るなんてことは、一度もなかった。  こちらからは数回、電話をしたような記憶がある。ただ少し話をしただけだが、そしてどんな事を話したのかもうまるで覚えていないが、こちらの方だけが一方的に喋《しやべ》り続けたことだけは思い出せる。そうだ、こんな会話があったっけ。 「私のこと怒っている? 恨んでいる?」  受話器の中の雄一郎はひどく寡黙《かもく》だった。 「そんなこと、ないよ」  と彼は短く答えた。  あの時私は彼が怒っているさ、もちろん恨んでいるにきまっているだろう、と厳しく言わなかったことに、理不尽にも逆に苛々《いらいら》していたのだった。執着が薄いということは、それだけ愛も浅かったのか、とそんなふうに考えたりした。  そのことがあって、私の後ろめたい気持はいくぶん後退したのではなかったか。だが現在《いま》、亮との辛い別れを体験して、必ずしも執着を示すことが愛の深さにつながりはしないことを、知った。その証拠に私は彼をひとりで発《た》たせてしまったではないか。  亮は一緒に来いと言った。来てくれと哀願もしたし、最後には強迫したり暴力をふるって私の仙台行きを説得しようとした。 「なぜなんだ、おまえが東京に残りたい理由は何なんだ」  と彼は叫んだ。 「残りたいわけじゃないのよ。一緒に行けないだけなの」  と私は彼が激すればその分だけ逆に冷静になっていった。 「あなたについて行ってどうするの? キャリアを積んだ仕事を捨ててまで仙台に行って、それで私は何をするの?」 「俺と暮らすだけでは不服なのか?」  そうじゃない。それは私があの時望んでいる答えではなかった。何をするって? 家庭を作るんだよ、結婚をして、それから子供を作るんじゃないか。私はその言葉だけを聞こうと全身耳にして、待った。しかし、彼は一度もそれを口にしなかった。私は絶望して言った。 「私が一日中あなたの帰りだけを待って暮らすなんてこと、できないの知っているでしょう」 「だったら何か仕事を探せばいいさ」 「どんな仕事?」  私はわざとゆっくりその言葉を口に出した。 「どんな? 探せば何かあるさ」 「何かって?」  私はなおも冷静に追及した。 「何かだよ」  亮は苛立った。 「どんな仕事があると思うの?」 「いいじゃないか、そんなこと。行ってみなければわからんよ」 「でも、アキラ、行ってしまってからじゃ遅いのよ。この仕事を途中で放り出すならそれなりの仕事なり覚悟がなくっちゃならないの」  亮の顔に冷笑が浮んだ。 「そんなに仕事が大事か? この俺のことより仕事の方が大事だと言うんだな?」 「仕事は私を裏切らないからよ」  売り言葉に買い言葉。私の神経はささくれ立った。 「俺がいつおまえを裏切った?」  亮の怒りも増す。私は力なく首を振った。今はまだよ。でも四年前の夏、親友から婚約者を奪った亮が、再び、何時また他の女と恋に陥らないと誓えるだろうか。  私には断定する自信はなかった。その時になって、もし私が誇りを失わずに亮と別れることができるとしたら、それは私に打ちこめる現在の仕事というものがあってこそ、初めて可能なのではないか?  私が仕事を大切に思うのは、結局はあなたのためでもあるんだわ。女にも仕事があるからこそ、愛する自由も、そしてその愛から歩み去る自由も確保されるのだ。 「本当よ、あなたが何時《いつ》か私と別れたいと思うことがあった時に、私が仕事を続けてよかったと、きっと思うわ」  その時になって私にすがりつく仕事がなかったら、私は亮の失われてしまった愛に、あるいは憐《あわれ》みや同情にまとわりついて離れないかもしれない。あるいは軽蔑《けいべつ》ですら、ほかに何もなければ、その軽蔑にさえもすがりつくだろう。自分自身に対して面目を失うくらいなら死んだ方がましだった。 「わかったよ」  と彼はとうとう投げだすように言った。 「結局おまえも結婚か仕事か、そのせまい選択しか持たない女なんだな」  亮は結婚を拒否する男のひとりだった。  区役所の用紙に印鑑を押そうが押すまいが、男と女は愛し続けられるのだし、その愛が壊れるのなら印鑑に関係なく壊れるものは壊れていくのだ。俺は結婚しないことによって生ずる、ある種の緊張感が好きなんだ、と彼は言ったことがある。  同じ名字になったとたん、どれだけ多くの男と女が、肉体的にも精神的にもぶくぶくと醜く肥えたるみ、堕落していくことか。そして私はその考えに積極的に同意さえしていたのだ。つい最近まで。亮の会社で仙台のビル建設に本格的に乗り出す計画が具体化して、彼がそちらへ二年間移ることがきまる前までは。  けれども私は、仕事、結婚、愛などについて考えを訂正せざるを得なくなった。結論として、亮の言うことは正しかった。私には結婚か仕事か、どちらかしかなかった。そのどちらも放棄して、亮が望むようにただ彼について仙台へ行くことは、とうてい考えられなかった。  彼が結婚を、決して使用することのない切り札としてしまいこむなら、私は私の切り札、仕事、を前面に押し出すしかない。彼が彼の切り札をテーブルの上に広げないかぎり、私には、結婚か仕事かの選択さえも可能ではないのだ。 「仕事って言うけどねえ、ケイ、おまえ、いったいどんな立派な仕事をしているつもりだい?」  厭《いや》な言い方で亮が訊《き》いた。 「俺よりも大事な仕事って何なんだ? たかがテレビコマーシャルじゃないか」  彼が本気でそんな事を言っているとは思わなかったが、私はかっとして言い返した。 「私の仕事が、ビルの設計図を引く仕事に比べて、そう劣るものだとは思わないわ」 「へえ、おっしゃいますねえ。そうかね、コマーシャルがかね。つまり今流行の翔《と》んでる女ってわけか? カタカナの職業は目下、注目の的らしいものな」  そうじゃない。と私は心の中で叫んだ。あなたを信じていないのよ、四年前のある日突然、ずかずかと私の心に入りこんできたのと同じように、また何時か、足音をたてて出ていく種類の、あなたは男なのよ。だからどっちにしても結婚自体でさえ、無意味なのだ。  私は絶望し、開き直って苦々しく言った。 「じゃいっそあなたが東京に残ることは、考えられないの?」 「そして首になれってことか? 女のために男の一生を棒に振れと?」  私はさんざん彼に言われた事を、今度は逆手に取って皮肉たっぷりに言い返した。 「私を本当に愛しているなら、できるでしょう。なぜ女だけが愛か仕事かの選択に迫られなければいけないの? 私にだって収入があるわ。あなたに仕事がなくとも食べていけるわ」 「それで? それでウーマンリブの演説は終りかい?」  亮は圧《お》し殺した声で言った。 「俺は今の仕事が気に入っている。おまえから見れば仙台くんだりまで行って設計図引くなんてばかみたいに見えるかも知れないがね、しかしそれが俺の生き甲斐《がい》なんだよ」  そこで私はようやく微笑して言った。 「じゃわかるでしょう、アキラ。たった今あなたが言ったとおり、私も私の仕事に生き甲斐を感じているのよ」  しかしその時点で私はまだ、その自分の言葉に確心は抱いていなかった。心は空《うつ》ろだった。そして亮はひとりで発って行った。  彼のいない生活が二か月続いたのに、今でもまだそれに馴《な》れることができなくて、今夜のように空白の時間ができると、私はたちまち孤独感に呑《の》みこまれ、寂しさをもてあましてしまうのだ。日常の忙しさ、機械的な仕種《しぐさ》などが、所かまわず泣き喚《わめ》きたくなる衝動を、辛うじて抑えていた。  時計を見ると、まだ六時半だった。八時までには時間がある。ひとりでいると、気持が内側へばかりめくれこんでいく。会社に電話して、まだ誰かいたら呼びだして一緒に食事でもしようと、ダイヤルを廻した。池大助がNプロから戻っていた。 「めし、喰《く》っちまったよ」  と彼は言って 「長沢ってひとから、また連絡あったぞ、ケイ。電話くれって」  大助が教えてくれたのは、新橋のホテルの番号だった。雄一郎は上京しているのだ。  雄一郎が、やあ、と言って笑った時、やっと私の中の激しい緊張が解けるのを感じた。その瞳の底の飄々《ひようひよう》とした暗さは、しかし私が最後に見た時のものと同じだった。彼の傷は、いまだに癒《い》えていないのだ。私はもうあまり思い出すことさえないのに。  ホテルの中にある喫茶室で、元気そうだね、と彼が言い、あなたも、と私が答え、お互いの近況のことをひとつふたつ尋ねあうと、もう私たちには話すことがなくなった。  テーブルの上の冷《さ》めてしまったコーヒーの表面に、薄い皺《しわ》を作っているクリームの膜に眼をあてながら、私にとって雄一郎はもう完全に過去の男なのを改めて確信していた。  淡いベージュのスーツの下のネクタイは非の打ちどころがないくらい、ぴったりだった。その上に刺してある真珠のピンは、しかし私の好みではない。同様に袖口《そでぐち》から覗《のぞ》いているカフスボタンにも真珠がはめこまれ、爪《つめ》の手入れがゆきとどき、胸のポケットには、ネクタイの柄《がら》から一色とったハンカチーフが、無造作に見えるように実は細心の注意を払って飾られている。  亮のいつもどこかの爪が汚れている労働者のような手を、私はしきりと懐しく思い浮べていた。かつて自分が雄一郎を愛したことが、今では信じられない。 「岩井から、連絡は?」  とうとう、私たちの共通の話題、おそらくは今夜の会見の本当の目的である亮のことが、切りだされた。 「いいえ」  急に用心深くなって私は固い声で答えた。  できることなら亮のことは、話したくなかった。頑《かたくな》に眼を伏せている私を見ると、雄一郎はスーツの内側から白い手紙のようなものを取りだして、私の前に置いた。 「彼からだよ」  私がそれにチラリと眼《め》をあてて黙っていると、 「読んでいいよ」  と、彼は重ねて優しく言った。 「でも私|宛《あて》じゃないから」  と私は口ごもった。 「うん。でも君に関係があるんだ。できたら読んで欲しいんだけど」 「悪いけど、私、読みたくない」  消えてしまいたい、とだしぬけに思い、私はガラス窓の夜景に顔を背けた。亮の手紙。亮の文字。彼の言葉。亮。あなたが今、来いと言えば、今夜なら私はとんで行くわ。 「じゃ僕が読もうか?」  雄一郎はあくまでも手紙にこだわる。 「聞きたくないの」 「でも僕たち三人に重要な係わりがあるんだ。それでは内容だけ簡単に説明するから、それなら聞くね?」  私はいいとも悪いとも言わなかった。私に係わりがあってそんなに大事なことなら、亮は雄一郎でなく私に手紙を書いてくるはずだった。それくらいの信頼関係はまだ残っている。だから目の前の手紙はあくまでも雄一郎宛の私信のはずだ。知りたくもない他人の秘密を無理矢理に知らされるような、粘ついた不快感が私を包む。私の思惑にはかまわず雄一郎が喋《しやべ》りだす。 「岩井は手紙の中で、君を僕に返すと言っているんだ。言い遅れたけど、僕は九月から東京本社に戻ることになっている」 「何ですって?」  私は愕然《がくぜん》として声を上げた。 「言い方がまずかったかな。話せば長くなるけど、四年前、君の心が岩井に移り、君たちの恋愛が始まった時、僕たちはある話し合いをしたんだ」  そこで彼は言葉を切り、上唇の上側を無意識に舌先でなめた。内面が緊張している時に、昔よくそうしたのを思い出す。  私はじりじりとして待った。 「僕は身を引いた。君の心が僕を去り、君たちの恋が真剣なら、もはや何人と言えどもそれを止めることはできないと考えたからだよ。しかし、他の男だったら、僕は決して君を手離しはしなかった。たとえ、君を殺してでも」  私は不快感のために吐き気さえ覚え、耳を手で覆いたかった。 「男の友情ってそんなものさ。僕は岩井に君を譲った。僕はね、彼の為になら死ねるんだ。多分彼も僕に対して同じだろうと思う」 「死ぬとか殺すとか、私あなたの話とても厭だわ」  私は率直に言った。 「何なの、その、私をあなたに返すって?」 「それを説明しようとしていたところさ」  雄一郎は喉《のど》に痰《たん》が絡んだような声で言った。 「もし岩井が君と別れるようなことになったら、君を僕に返して欲しい、と言ったんだ。岩井は約束した。そして、それを守って、この手紙をくれたんだよ」  亮が本当にそんなことを書いたなんて私にはとうてい信じられなかった。彼はそういう種類の人間じゃない。だが、男の友情の世界のことだと言われれば、私には想像の余地もない。 「あなたの話を聞いていると、私の意志は関係ないみたいね?」  と私は冷たく言った。 「君の意志?」 「そう。私がそのことをどう思うかってこと」 「だから、その答えを聞くために、こうしてわざわざ上京したんじゃないか」  逆に驚いたように、雄一郎が言った。私に意志など初めからない、とでも信じているかのように。 「そのこと自体、もう私には理解出来ないわ。上京するまでもないでしょ。冗談じゃないわ。私、物じゃないし、感情もあるし、誰を愛し誰を愛さないか自分でちゃんと知ってるわ。あなたの言うこと、すごく変よ。誤解のないようこの際、はっきり言っておきますけど、私、あなたの所に戻る意志なんて、全然ないわ」  雄一郎はとても信じられないというように一瞬ぽかんとして私を見た。 「だって僕はずっと君を愛し続けてきたんだよ」 「でも、そんなこと、あなたの問題で、私のじゃないわ」  私は残酷に言った。 「今すぐには駄目かもしれないけど、考えてみてくれないか。亮とのことは、そう簡単に忘れられないのはわかるよ。だからせめて、僕に何か力になれることがあれば、そのあたりから僕たちはもう一度やり直せるんじゃないだろうか、と思ったんだ」 「気持はとてもうれしいけど」  と私は冷《ひ》ややかに言った。 「私の力になれるとしたら、それは私自身だけだと思うの」  私の声の断固とした調子に気づいて、その時初めて、夢からさめたように、雄一郎の顔の上から思いつめた表情が急激に引いていった。彼は低い、だが誠実な声で言い足した。 「君が望まないかぎり、何も押しつけるつもりはないよ。ただ、僕の気持は変わらない。このことは忘れないでくれないか」  私はありがとう、忘れないわ、と言って、それからかなり唐突に、失礼します、と立ち上がり、雄一郎から歩み去った。胸に残ったのは雄一郎にではなく、あの手紙を書いた亮に対する激しい憤《いきどお》りだった。  十分ばかり遅れたことを内心|呪《のろ》いながらスタジオに入ると、長沢由美子がモデルの衣装の仕上げをしているところだった。私は、鏡のセットの上に広げてある自分の創《つく》ったストーリー・コンテを取り上げて、傍のカメラの大助に素早く言った。 「ちょっとセットがうるさくない? その花取っちゃってよ。それからカメラの位置、もっと寄せた方がいいんじゃないかしら」  その時ケイちゃん、電話だよ、と誰かがスタジオの隅から叫んだ。所狭しと並んでいる小道具を縫うようにして電話のあるところまで行った。 「よお、元気か? あいかわらず仕事ひとすじなんだな、ケイは」  もしもしとも言わずに、いきなり亮の声がとびこんできた。 「酔ってるのね」 「ああ、酔っている。俺は酔っているさ。なぜだかわかるか?」 「わかるわ」 「じゃ言ってみろよ。なぜだ?」 「寂しいのね」 「そのとおり。寂しくて寂しくて、それで酒で紛《まぎ》らす」 「紛れるの?」 「いや、だからますます飲む。連日二日酔だ」 「…………」 「ケイ」  亮の声が変わる。 「俺と、結婚してくれ」 「…………」 「聞こえたのか、ケイ? すぐ来てくれないか、来て俺の女房になってくれ」  ふいに涙が零《こぼ》れる。 「どうしたの、アキラ。お酒で気が弱くなっちゃったの? 駄目じゃないの、信念まで変えちゃ」 「俺がまちがっていた。別れて初めてわかったよ。二か月、それでも歯を喰《く》いしばって堪えたけど、やっぱり俺にはおまえが必要なんだ」 「……アキラ、でも私、やっぱり行けないわ」 「じゃ俺が行く。仕事なんて放り出して、俺が帰る。それならいいか? 俺を迎えてくれるな?」 「ばかね、あなたには仕事が止《や》められるわけがないじゃない」 「おまえのためなら止められる。俺は止めてみせる」  酔がさめれば、亮は自分の言ったことすら、覚えてはいないだろう。 「そっちに行って、結婚するよ」  何かが、私の中で軋《きし》んだ。 「でもあなた、雄一郎に手紙書いたこと忘れたの?」 「手紙?」 「私をあのひとに返すって、書いたでしょ? 私逢ったのよ」  亮の声が凍りついた。 「それで? おまえ何て言った!!」 「オーケイしたわ」  自分でもぞっとするくらい冷ややかな声で私は言った。 「寂しかったし、気弱くなってたから。私」  亮が突然|叩《たた》きつけるようにして電話を切った。私はゆっくりと受話器を置いた。今度こそ、終りだ。あなたたちが私をまるで物をやり取りするように扱うからよ。  セットにはスタッフがすっかりそろっていた。 「鏡の角度、もう少し上に向けて」  と私は言いながらモデルに仕種の念を押す。 「鏡の上に口紅で I Love You って書くところね、そのあと、さっと乱暴に線を引いて消すわね、そこのとこ一気に強くね」  モデルが画用紙の上で仕種を練習する。遠く仙台のどこかのバーで飲んでいる亮の姿が、意識から遠ざかる。 「手にもっと表情を表わしてちょうだい。それにはあなた自身の心が悲しみや怒りを感じなければだめよ——さあ、テストいきましょう」  カメラが廻り出し、モデルが手にした口紅で鏡の上に文字を書き、それを一気に消す。 「消す時に、手にもっと憤《いきどお》りや絶望みたいな感じ、こめられる?」  再び廻るカメラ。テスト。そしてようやく本番。OK。 「では次、エンディングいきまぁす!」  と叫ぶ吉見。  特大のスポイトから鏡の上に水滴が落され、それを捉《とら》えるカメラの眼に、水滴は一滴《ひとしずく》、女の涙となって、鏡の上の赤い文字の上を、ゆっくりすじをひいて流れ落ちていく。 「お疲れさま」  とあちこちで声が上がり、仕事が終った。 「この口紅の�涙シリーズ� 評判いいよ。今度のも受けると思うな」  吉見が私の背中に呼びかける。 「うん、だといいわね」  私は、自分の部屋を、チラと頭に浮べながら、そう言った。あの静けさ、もはや何ごとも私を乱すことのない、あの単調な流れに、私はいずれ慣れることができるだろうか。  スタジオの灯が次々と消されていき、あれほど色彩と光と、活気に溢れていた空間が、今、暗闇に呑まれようとしている。私は踵《きびす》を返すと、今日最後の打ち合わせのために、スタジオの外へ歩み出ていった。  指 輪  水平線に落ちていく真紅の太陽を背に、女は、逆光の中に立っている。カメラ、ズームインして、夕映えを浴びて薔薇色《ばらいろ》に染まった若い女の横顔をアップ。執拗《しつよう》にクローズアップのまま廻りこみながら、顔の上の光の変化を捉《とら》えていく。 「カット」  ディレクターの吉見敬三が叫ぶ。 「時間がないから、ただちに次、行きます」 「こちら、スタンバイ・OK」  桟橋の向こう側に待機中のヨットの甲板から上がる声。大型ヘアードライアーを手にしたスタッフが、慌《あわただ》しくモデルの傍に走り寄る。 「マリ、表情に感情を出さないようにね。むしろ自分の内側へ内側へと、溜《た》めこんでいくといいと思うのよ」  私はモデルに語りかける。 「落日とともに恋人が海に旅発っていく——あなたはひとり取り残されるわけだから。私が合図したら、ヨットが動き出すわ。つまり、彼は行ってしまう——どう、うまく泣けそう?」  昨日はこのシーンで時間切れになってしまった。ヨットの移動と、マリの涙のタイミングが合わず、そのうちに背景の空が暗くなりすぎて撮影を中止した。  今日も失敗すると、このシーボニア・ハーバーでの仕事がまた一日延びる。しかも明日も天気に恵まれるとはかぎらないのだ。  だが、内心の焦《あせ》りを声に出してはならない。マリの胸が寂寥感《せきりようかん》で満たされ、悲しみが溢《あふ》れだすまで、ストーリーを囁《ささや》き続けてやらなければならない。  やがてマリが大きくうなずき、感情移入に成功したのがわかる。私は無言で退き、そっとスタートの合図をカメラの大助に送った。  真正面からレンズを凝視するマリのアップ。逆光の具合はちょうど良い。吉見が大きく右手を振り、ヨットがゆっくりと動き出す。私は「風」のサインを指先で送る。ヘアードライアーがマリの髪を、ヨットの移動と反対の方向に静かに煽《あお》る。  ストライプのスピニカが、マリの頭の後方を過ぎていく。  空は薔薇色から今では透明感の強い暮色に変わり、すべてが急速に色彩を失いつつあった。私たちの狙《ねら》いどおり、蒼《あお》ざめた空、灰色の帆、暗い影になった顔など寂寞《せきばく》としたモノトーンの情況が繰りひろげられる。  この時、マリの両眼に涙が盛り上がり、それは見るまに溢れ、糸をひきながら頬を滑《すべ》り落ちていった。 「カット」  再び吉見のその声とともに、あらゆる緊張が一気に解かれる。溜息をつくもの、笑いだすもの、その場に座りこむもの、はやばやと道具を片付け始めるものと、さまざまだがスタッフの気持は手にとるようにわかる。  ストーリー・コンテを丸めて振り廻しながら近づいてくるマリのマネージャーと残りのスケジュールを打ち合わせ、ふたりを彼女の車まで送った。  スタッフが、全員道具を積み上げて乗りこんだハイエースが一足先に出発してしまうと、私は明日のスタジオでのタイトルバックの撮影のことを考えながら、ようやく自分のセリカに向かった。  唇の上に光る涙のシーンは、ていねいに撮《と》らなければならない。始終暗いトーンで抑えてきた映像が、そこにきて鮮やかに色彩《いろど》られた唇のアップで終るのだ。そうだ、口紅の色は、あの夕日の真紅と同じにしよう。  物思いにふけっていたので、危く駐車場から足早にやってきたふたり連れのヨットマンたちと衝突するところだった。 「やあ」  とそのひとりが言い、もう一方の男が 「そっちじゃないよ、向こう」  と、日焼けした顔を湾の外に向けて言った。 「向こう?」  頭の中から、夕映えと口紅の映像が消えていく。私は反射的に相手の言葉を口の中でくりかえした。 「パーティーに招《よ》ばれて来たんじゃないの? 僕らのディンギーで連れて行ってあげるよ」 「いいえ、招ばれてないわ」  私は首を振った。 「かまわないよ、僕も飛びこみの口さ」  最初に、やあ、と言った男が共犯者のように笑った。 「あのヨットの集りじゃ、いつも半分は招待外の飛びこみだよ。そんなこと誰も気にしないからね、さぁ、行こうよ」  もうひとりの男がそう言って、いきなり誘うように小麦色の右手を差しのべてきた。私の左手が、私の意志とは係わりなくその手を取った。  そして次の瞬間には、まるで旧知の親しい男友だちのように、私はその見知らぬ青年のひとりと手をつないで桟橋に繋《つな》がれている、小型ボートに向かって歩きだしていた。  その時の私の気持を説明すれば、私はその偶然の出来事を面白いと思い、好奇心を抱いたが、同時に軽蔑《けいべつ》もしていた。  だから、わざと自分を一種の自失の状態に追いこんで手をとられて歩きながら、もうひとりの私がどこか空間から眉《まゆ》を顰《しか》めて見下ろしているような感じだった。どっちにしても、その夜私にはこれと言って予定はなかった。  エンジンがかかると、小さな船体がぐらりと揺れて、ディンギーは夥《おびただ》しい数のヨットの間を縫うように進んだ。  湾の外に出ると一気にスピードが上がる。今しがたあとにしてきたハーバーの中の林立する大小のマストや、夕闇の中にシャンデリアのように輝いている、ガラスばりの円型の建物などが、見るまに遠ざかる。すると私は、この色の浅黒い男たちに拉致《らち》されて、いずことも知れぬところへ連れ去られるのではないかと、一瞬不安に襲われた。  だが傍《かたわ》らのふたりは、私の存在など忘れてしまったかのように、屈託のない声でクルージングの話に熱中しているのだった。  ディンギーは五〇〇メートルほど沖合に碇泊《ていはく》している巨大なヨットの横で、エンジンを切って止まった。その背後には、暗い相模湾《さがみわん》が広がり、空にはすでに星たちがあった。  甲板に引き上げられると、音楽と女たちの哄笑《こうしよう》と眼に痛いような光の束などが、一度に私を圧倒した。 「紹介するよ」  私の連れが船室を指して言った。 「靴脱いで。ヒールが甲板を傷めるからね。きみ、名前何ていうの?」  私は自分の名を伝えた。 「じゃ、ケイって呼ぶよ、いい?」 「ええ。普段そう呼ばれているわ」 「彼はヒロ」  と言って、始終ニコニコしている連れを指した。 「僕は、ええとそうだな、チャーリーでいいや。ここではみんなそう言うから」 「チャーリー?」 「チャールズ・ブロンソンだよ。ね、醜男《ぶおとこ》な感じが似てるだろ?」  横からヒロと呼ばれた男がそう説明した。  ヒールを脱いでしまうと、ヴァレンチノのジーンズと白い袖なしのブラウスだけの自分が、急にその場に不釣り合いなように思われてくる。せめて絹のブラウスだったら良かったのに。  素足で一歩ごと着飾った女たちの一団の方へ近づいていきながら、今ではすっかり後悔し憂鬱《ゆううつ》になっていく。私は逃げだしたいと思い、ハーバーを振り返ってみた。ふたつの地点の間には、黒々とした海が横たわっている。 「普段、何しているの?」  チャーリーが並んで歩きながら訊いた。 「コマーシャル・フィルム作っているの。実はさっきまで撮影していて、私ちょうど帰るところだったのよ。あなたたちになぜついて来てしまったのかしら、今では信じられない気持だわ」 「一仕事終ったんなら、楽しめばいいさ。気にしない、気にしない。コマーシャルって何の?」 「ある化粧品会社の口紅のシリーズを作っているの」 「ふうん。CF制作か。翔んでる女ってわけだな」  男たちはたいていそんなふうに言う。女が仕事をするということを真に認めたがらないのだ。亮《あきら》も、別れ際に同じことを言った。もう四か月も前のことだ。  ——たかがテレビ・コマーシャルじゃないか。翔んでる女を気取っていないで、そんな仕事さっさと止めろよ。止めて俺について来いよ。  結局、私は仕事を捨て切れず、四年越しの恋人をひとりで仙台に発たせてしまった。考えてみればあの頃から気晴らしや楽しむという習慣を失っていた。今ではどんなふうに楽しんでよいかさえ、忘れてしまったような気がする。  キャビンの隅のいちだんと賑やかなコーナーに連れて行かれると、女主人に引き合わされた。  彼女は年齢のはっきりしない痩《や》せた長身の女で、ひどく日焼けしており、ソニアのサマーニットに身を包んでいた。そして眼だけ輝かせて、顔のどこにも皺のできないように微笑《ほほえ》んで言った。 「ようこそ。素敵な方が来て下さると、お酒やお料理よりパーティーが盛り上がるわ。ごゆっくりね」  その女王のような口調には無関心さが巧妙に隠されている。何ごとにも真に興味を抱くことのできない女特有の、上の空といった雰囲気が漂ってくる。  彼女をそんなふうにしたのは何だろう? 贅沢《ぜいたく》。お金。あり余る時間。倦怠《けんたい》。過ぎ去った年月。ほかに何かあるだろうか?  ヒロは女の子のひとりに顔見知りがいたらしく、こちらに背中を見せて何事か話し込んでいる。チャーリーが私に何を飲む? と訊《たず》ね、私はワインクーラーを頼んだ。やがて右手に飲み物の入ったトールグラスを、左手にコールドミールを盛り合わせた皿を運んでくると彼は、一応自分の役目は終ったけど勝手に楽しんでくれよ、とでも言うように、私にウィンクをして、人混みの中に消えた。  キャビンの中にある椅子はどれも占領され、思い思いに服装をこらした数人の女たちは床の上に、わざと行儀悪く胡座《あぐら》をかき、大袈裟《おおげさ》な身振りで喋《しやべ》っていた。  新しい客たちが到着したらしく、甲板の方から甲高い歓声が聞こえてくる。私はその声につられて船室を出て、それから五つばかり並んだデッキチェアの一番遠くにあるのが、ひとつだけ空いているのがみつかると、そこに腰を落着けることにした。  その位置はキャビンからの明りが充分に届かず、周囲より薄暗くて、すっかり傍観者のような気分になれる。私はほっとしてようやく飲み物を啜《すす》った。皿の上のパテやキッシュロレーヌなど味が良く、食べ始めてみると自分がとても空腹なのがわかった。  やがて皿が空になり、グラスの中身も氷一片だけになると、急に何もすることがなくなり、私は新しく飲み物をもらいに立っていった。だが再び引き返してきた時には、私のデッキチェアはアヴェックに占領されていた。  キャビンにアル・ジャロウの唄《うた》が流れると何人かがデッキの上で躰《からだ》を揺すって踊り出す。私は後退《あとずさ》りするように、その場から更に暗い船首の方へと逃がれた。  右舷《うげん》の手摺《てすり》に凭《もた》れて、黒いヴェルヴェットのような海面を眺めていると、自分はこんなところでいったい、何を待っているのだろうと、ある種の慰めようのない悲しみに襲われる。メランコリックな夜景のせいで、悲しみは漠然と募り、美しさに強調されていっそう胸を締めつけるのだった。後方から流れてくる音楽は、ボブ・マーリィになり、それから突然ハワイアン・ウエディングソングに変わった。  踊りを中断させられた男女はいっせいにバーに群がる。男たちはグラス越しに女たちの品定めをし、女たちはお互いのドレスのお世辞を言いあう。ソニアの黒。ケンゾーのピンク。  ——まあ素敵なミニ! 日焼けによく似合うわ。  私は明りに背を向け、人の気配を避けながら、どういうつもりでこんなお祭りの中に紛《まぎ》れこんでしまったのだろうと、臍《ほぞ》を噛《か》む思いに包まれる。今では孤独に馴れてしまい、夜のこんな時刻に楽しもうと爪を研《と》いでいる人たちが、脂ぎった異人種のように見えてならない。  私はいつのまにか自然に、仕事以外の時、自分が好んでとるポーズ——孤独という重荷が私を圧《お》し潰《つぶ》し、そのヒリヒリするような虚無感で私を焼きつくすのをじっと待って、いつまでも深く項垂《うなだ》れていた。 「この世で一番美しいのは、水に映る夜景だね」  後ろで声がして、私のとりとめのない思考が中断される。誰もそれに応《こた》えないところをみると、私に語りかけたのだろうか? そこで私は曖昧《あいまい》に肩をすくめた。  その時、眼下で舷側《げんそく》を優しく撫《な》でていく波が、星屑《ほしくず》を撒《ま》いたように輝いた。私は手摺に身を乗りだして、 「あら?」  と思わず呟《つぶや》いた。  人の動く気配がし、男の手が横の手摺を握ると、同じように暗い海面を覗《のぞ》きこむのがわかった。 「ああ、あれ夜光虫だよ」  と、男は言った。  ディオールのオーソバージュの微かな香りが海水のにおいに混じって漂ってくる。あまりすぐ横にいるので、男の黒い絹製らしいシャツを通して、その体温が感じられるほどだった。男は若くはなかった。 「夕方まで、あそこでずっと撮影をしていたね?」  少し鼻にかかった低いバリトンで男がそう訊いた。  私は驚いて、彼の横顔をその時初めて見上げた。浅黒い締まった頬の線と力強い鼻梁《びりよう》などが、私に一瞬、別れた恋人を思い起こさせた。  しかし、もう一度|瞬《まばた》きをして見た時には、もう少しも亮《あきら》に似ているところはないのだった。  男は胸のポケットから皺になったポールモルの赤い包みをとりだして私にすすめ、私が断ると黙って一本抜きとって、それを口に銜《くわ》えた。 「ずっとあそこのヨットの上から、あなたの仕事ぶりを眺めていたおかげで、ほら、こんなにひどく日焼けしてしまった」  と言って袖を少しまくり上げた。その遠廻しで思わせぶりな口調が厭だったので、私は男から顔を背けた。 「どうしたの、元気ないね。あの時はとても生き生きとして素敵だったよ」  銜え煙草のまま、くぐもった声でそう言った。 「知らない人たちばかりですもの」  それを聞くと、彼はマッチを取りだして火をつけた。一瞬信じ難いほどの光の量が男の指先から拡がった。その光の中に男の横顔が、くっきりと浮び上がる。  マッチが燃えつきる寸前に私がそこに見たものは、口元に刻まれた深い皺だった。人生の迷いから完全に褪《さ》めてしまったことを示す、あの紛れもない苦い皺だった。  しかしそれは男には実によく似合っており、飽《あ》んだように遠くを見る眼差しとともに、私の脳裡《のうり》に深く焼きついた。 「僕は、チャーリーのお友だちだとばかり思っていたけど」 「ほんとうは違うわ。無銭乗船、無銭飲食よ」  私は自分の手に視線を落としながら、自嘲《じちよう》めいた口ぶりで呟いた。男は少し長めの髪を、細長い指で掻《か》き上げながら、ひっそりと笑った。 「連中の半数はそうだよ。僕だってそのひとりかもしれないしね」 「船主ってどんなひと? お友だちなんでしょう?」 「まあそういうところだね。というよりマダムの友人と言うべきかな」  彼はそう言い、火をつけたばかりの吸い差しを手摺の外に投げ捨てた。それは赤い弧を描いて、海上に落ちてふいに消えた。再びあたりに闇が落ちる。 「彼女の亭主というのは、パーティー嫌いでね。そこいらの暗がりで、たいていひっそりと飲《や》っているよ。さて、そろそろ彼を捜しに行ってみるかな。一緒に、どう?」  いいえ、私は——と言いかけた言葉を、一陣の潮風が私の唇の先からもぎとっていった。  風は甲板の上を小さく旋回し、私は急に寒気に襲われて両腕で自分の躰を抱きしめた。それを見ると、男は私に寄り添うようにして、風から守るように手を私の肩に廻した。ごく自然な動作だった。  他人の体温がこんなに快いことに、私は不安と目眩《めまい》を覚える。多分、夏の美しい宵のせいだろう。それでなければ潮の香り、波の音、お酒などのせいなのだ。 「今夜あなたがね、パーティーに現われたの見て、奇蹟《きせき》かと思ったよ。それから僕はひどく運命的なものを感じたんだ」  背中に廻された腕に、少しずつ力がこめられていく。彼の黒絹のシャツからは、煙草《たばこ》やオーデコロンのほかに、いろいろなものの醸《かも》しだす郷愁に似たにおいが立ち昇ってくる。  その中には女たちの怪しいにおいもする。たとえばカボシャールの香り。あの船室に漂っていた香り。  男は自分の手の中のグラスを、私の唇に押しつけた。私はその金色の冷たい飲物を一口飲み、気をつけて、と自分に囁《ささや》く。夜気は香《かぐわ》しく、ヨットの船体がぐらぐら揺れる——しかし揺れているのは私の躰だった。まるで酔ってでもいるようだ。  にもかかわらず私は酔ってはいなかった。だが酔ったふりをする。そうでもしなければ自分で自分が理解できない。  男は「運命的」と言った。  そんな言葉は彼にふさわしくない。饒舌《じようぜつ》は、男には、特に彼のような男には、ぜんぜん似合わない。 「運命じゃないわ。単なる偶然よ」  私は冷ややかに言った。 「では、僕たちの出逢いを、単なる偶然から必然的なものにしようか?」  彼はそう言って、自分の左手の小指からカルティエのリングを抜きとった。それを無言で私の薬指にはめ、ゆるすぎるので中指にはめかえた。三重になったその指輪は、私の指の上でいかにも重たげに、鈍《にぶ》い金色の光を放ち始める。 「何の儀式?」  少し掠れた声で私が尋ねた。 「あなたはたった今、僕の花嫁になったんだよ」 「つまり、一夜だけの花嫁ってこと? そうしたいの?」  私の声は、私の内部の動揺とは裏腹に、どこか面白そうな、からかうような響きが含まれている。 「ねえ、若い女《ひと》らしく、もう少しロマンチックに物が言えないのかな、お嬢さん」 「ロマンチックとは、ほど遠い心境ですもの、狼《おおかみ》さん」  それから私たちは顔を見あわせて、声を出して笑った。いささか不自然で陽気すぎたが、笑いはふたりの間にあるわずかばかりの距離を取り去った。 「さあ、おいで」  男は私の腕を取り、夜の太平洋に向かってその華麗な曲線をつきだしている暗い船首側から船倉に抜ける階段を降りていった。  いくつか小部屋らしいマホガニーの扉を通り越して、ひとつの扉を押すと、彼は私をその暗がりの中にそっと押しこんだ。油や錆《さび》や海水のにおいが鼻をついた。  お互いの汗に濡《ぬ》れて、私は上半身を起こした。肘《ひじ》や腕にロープが触れる。男の手が伸び、私の首筋を静かに撫でた。 「とても素敵だったよ。また、会えるね?」  私はどう答えるべきか、その同じ質問を自分の胸に問い糺《ただ》しながら、脱ぎ捨てた衣服を拾い集めて身につけた。  結局、もう一度会いたいかどうかきめるのは、時間だろう。今は一刻も早くタールや機械油のにおいから逃がれ出たかった。私は錨《いかり》や束になったロープや積み上げた帆などの船具を避けながら、その小さな船倉庫の扉を引いた。そこで首だけ返すと男に尋ねた。 「あなたは、誰《だれ》?」  僕? というように彼は、石油ランプに照らしだされた自分の裸の胸に、親指を突き立てた。それから、あのひっそりとした薄い微笑を浮べて 「僕は、狼さ」  と言った。 「じゃ、さようなら、狼さん」 「さようなら、赤ずきんくん」  甲板に昇って、船橋《ブリツジ》に腰を下ろし風にあたっていると、やがてチャーリーがやってきた。 「どうしたの、こんな暗いところで。ずいぶん捜したんだよ。海にでも落ちたんじゃないかと思ってさ」 「そう? まだそんなに酔ってはいないわよ」  私は左手の中指の指輪を彼の眼から隠しながら、そう答えた。 「楽しんでいるかい?」 「ええ」  私は、親指の腹で、温かい金の感触を確かめながらうなずいた。 「誘ってくれて、ありがとう、チャーリー」  彼は肌の荒い日焼けした顔を、皺だらけにして笑った。一列に並んだ健康そうな歯が白く輝き、その瞬間、彼はそれほど醜男には見えなかった。  その時、キャビンの中から甲高い女の声が、作為的な陽気さを響かせて聞こえてきた。 「まあ、ダーリン。あなた、またどなたかと、どこかの小部屋に消えていたのね。それだけは悪い趣味よ」  人々の笑いと、からかうような拍手の中から、次に男の声がこう答えるのを私は聞いた。 「君だって。美しい男たちを侍《はべ》らせて、まるでシバの女王のようじゃないか」  たとえ、どのような葛藤《かつとう》が夫婦の内部で波立とうと、それは少しも表面に現われてはいなかった。 「似合いの夫婦なんだよ」  と、チャーリーが苦笑しながら耳元で囁《ささや》いた。私は彼に表情を読まれないよう、顔を暗い船尾の方に背けた。 「申しわけないけど、桟橋まで送って下さる? 私、もう失礼したいの」  チャーリーは引き止めようとするかのように口を開きかけたが、私の声の中の決意に気がついたのか、黙ってうなずいた。  ディンギーが爆音を轟《とどろ》かせながら、不夜城のように輝いているヨットから遠ざかると、私は左手を小舟の外に出して、流れる海水に浸した。  指の角度を斜めにすると、流水の圧力で緩《ゆる》めだったカルティエの指輪が、少しずつずれていくのがわかる。手首のあたりで波が渦巻き、次の瞬間、指輪が私の指を離れて、ゆっくりと海底の闇の中へ沈んでいくのを感じた。  顔を上げると、桟橋が急激に迫り、ディンギーは、今では灯を消して眠りについた無数のヨットの船影の間を、ゆっくりと入っていった。  砂の翼  窓の外が少し白んでいる。  もう何時間も同じカットで躓《つまず》いてしまい、バスケットの中へ落したNGのネガを拾い上げては、再びそれをヴューワーにかけるといった作業が延々と続いていた。  結局、最初に良いと思ったラッシュ・プリントに、とどのつまりは落着き、それをピンチに挟《はさ》んで吊《つ》るすと、あとはさっさとバスケットの中へ放りこむ。  合計七つの白いピンチに、カットごとに切り離された長短の荒焼きフィルムが、捩《よ》じれたりカールしたり反り返ったりしながらぶらさがっている。  そこまでやって、私は溜息《ためいき》をつきヴューワーの電源を抜いた。眼がひりひりするので手元用のスタンドのスイッチを切る。すると、確かに夜明けの兆しがある証拠に、ガラス窓の外より私のいるフィルム編集室の中の闇《やみ》の方が、わずかに濃くなっている。  固い一枚の板のようになってしまった背中から肩にかけての筋肉は、椅子《いす》の中で少しでも躰《からだ》を動かすと、今にもばりばりと音をたてそうだった。  徹夜仕事が肉体に堪《こた》えるようになったのは、つい最近のことだ。十時に同僚の池大助が出社したら、私が鋏《はさみ》を入れておいたプリントを一緒に検討して、それで問題がなければ、テープで繋《つな》ぐ作業は彼か、でなければ吉見にまかせて、昼までには解放されるだろう。  そのあと、経堂《きようどう》のアパートで夕方まで眠れば、七時の録音《ダビング》には充分間にあう。  腕時計の夜光針は三時五十分を指している。コーヒーでも飲んでひと息入れてから、最後のタイトルバックに入ろう。多分仕事は七時頃までには一段落《いちだんらく》つくにちがいない。そうしたらスタッフが出社してくるまでの二、三時間、この小部屋のソファーの上で仮眠できるかもしれない。  私は欠伸《あくび》を噛《か》み殺すと、両脚に弾みをつけて椅子から立ち上がった。カットごとに分けたNGネガフィルムの入ったバスケットを避《よ》けながら、部屋を斜めに横切って窓に寄ると、ガラスに疲れた額をそっと押しつけた。  鎌《かま》のように細い傾いた月が、もうほとんどビルの後ろに隠れようとしている。街全体がその薄れた月の光とわずかな星明りとで、暗い象牙色《ぞうげいろ》に染まって森閑としており、とびとびに点在している色褪《いろあ》せたネオンサインは、まるで消し忘れたかのように見える。遠いひとつの窓から黄色い明りがもれているほかは、まだこの巨大な都市は眠りの底に沈んでいた。  こんな時刻にひとりだけ目覚めていて、ビルの九階から都会を眺め下ろしていると、胸の中が次第に冷えてくる。  人の気配から遠く離れていると思うと、寂寞《せきばく》として寒い。内側から皮膚をひりひりと刺す、あの断続的な孤独感が、再び私を薙《な》ぎ倒そうとするのがわかる。その感覚にすっかり捕えられてしまわないうちに、踵《きびす》を返すと、編集室の扉を押して真暗な廊下に出た。  そのつきあたりにある小さなキッチンで、手さぐりでガスをつけてお湯を沸かすと、その青白い炎の明りでインスタントコーヒーを計って溶かした。その味気ない飲み物の入ったカップを手に引き返してくると、編集室全体が急激な変化を遂げているのだった。  そこにある夥《おびただ》しい数の物体のひとつひとつが、はっきりと輪郭を露《あらわ》にし、海底を思わせる淡いモノクロームの薄闇の中で、天井から吊り下げられたフィルムが、夜のうちは冷房が止まるので開けておいた窓から吹きこむ微風に、まるで海草のように揺《ゆら》めいている。  さっきまではその風もなかった。そして林立するビルはその灰色の本来の顔をとりもどし、暁光《ぎようこう》の中で、人工の光が急速に薄れていきつつあった。  夜明けの、あくまでもしんとした情景を眺めていると、そのしんとしたもののせいで眼の中に涙が滲《にじ》み、内側の深いところから何かが激しく泡立ち始めるのだった。  それは焦り、悔恨、不安などと言った混沌《カオス》で、一日のうちに何度か私を襲う感覚であった。自分はいったい何を待っているのだろうか。これははたして私が望んだことなのか。  夜の間に一睡もしないで朝を迎えてしまった時に必ず覚える、汚れてしまったような感覚に堪えながら、香りのないコーヒーを口に運んでいると、以前にはあれほど不毛で殺伐《さつばつ》としたものに思えた男との同棲《どうせい》生活や、いつ果てるともしれない口論ですら、今では躰が震えだすほど懐しい。ともかく、口論をする相手が身近にいるということは。  あれだけ大騒ぎして、最後にしがみついたこの仕事でさえ、屈辱的なまでに退屈なスポンサー側との会議を重ね、背骨が曲るほどの労働を強いられ、膨大な時間と労力を費やしたそのあげくできるのは、たった六十秒のフィルムだ。  しかし、それはいい。それらは覚悟の上のことだ。だが、でき上がった一本のコマーシャル・フィルムを試写する時の、あの気持はどうだ。  内側に、急速に巻きこんでいく自意識。制作中にはそれを否定するのだが、試写室の白いスクリーンの至るところに、まざまざと映し出される権威への媚《こ》び。作品の完成度の薄さ、虚妄性《きよもうせい》などは、コマーシャルという分野のもつ宿命かもしれないし、私が特に反省的な人間だというせいもあるだろう。  しかし一度だって試写のあと、眼の中に恥辱と自己嫌悪の汗を滲《にじ》ませていなかったことがあるだろうか? 上の方の連中は、スポンサーの顔色さえよければ、喜色を浮かべ、私たちスタッフの肩を叩《たた》いて労《ねぎら》うが、あの肩に置かれた手の虚礼さかげんは、まさに嘔吐《おうと》ものなのだ。  恋人を追放し、結婚とひきかえに私が手にした生活とは、このことだったのだろうか。あれから実際には四か月と少ししか経っていないが、もう大昔の出来事のように思える。  ガラス窓に儚《はかな》げに映っている私自身の顔。最近思いきって短く切ってしまった髪が、頭の周囲を柔らかくカールで覆っている。  窓の中の私が、私自身に向かって挑発するように片方の眉《まゆ》を上げてみせる。それは私が自分自身に許している最も好きなポーズで、他人の眼には尊大で傲慢《ごうまん》に映るかもしれないが、自分には似合うと思っている。  だから日に何度も自分自身に向かって、眉を上げて問いかけるのだった。  ——どう? それがあなたの望むことなの? と。  コーヒーを飲み終えると、自分を嗾《けしか》けるようにして再び仕事を始める。  エンディングの部分の荒焼きを、スタインベックのヴューワーにかけていく。同じようなカットが続けざまに映しだされる。低速にしてまたスピードをあげ、再び初めからフィルムを廻《まわ》して、何度も見る。  編集室の扉の外に、次第に人の気配が増えていき、両隣りの部屋から話し声が、遠くの海鳴りのように聞こえてくる頃になって、ようやく私は最後のカットをピンチに挟んだ。  考えていたよりずっと時間をくって、もう九時半を過ぎている。仮眠どころではなかった。人造皮革の、ところどころすり切れたソファーを未練気に横目で見ながら、デスクの上の受話器をとって、一階下の制作室へ電話を入れる。室長の坂出が電話にでた。  私は手短かに昨夜からの仕事の進行状態を伝え、カメラの大助が出社したら編集室へ上がってきてくれるよう伝言した。  それまでコーヒーでもつきあおうか、と室長は私を労《ねぎら》ってくれたが、礼を言って断った。徹夜でくすんだ顔を喫茶室で人眼に晒《さら》したくなかった。  電話を切って、洗面所で手早く身繕《みづくろ》いをすませると、大助が顔を出すまでの間、私は部屋の中を整頓して待つことにした。  十時少し過ぎに電話が鳴った。 「ケイ?」  と、だしぬけに男の声が私の名を呼びかけた。聞き覚えのない声だ。 「どなた?」 「岸、と言ってもわからないかな、チャーリーだよ。ほんとうはアケオって言うんだけど、憶《おぼ》えている?」 「まあ、あなたなの? どうしてここが?」 「あとで詳しく説明するよ、それは。とにかく探しだすのはすごく苦労したけどね。なにしろ君のことでわかっていたのは、ケイっていう名前と、コマーシャル作っているってことだけだったから」  彼が喋《しやべ》っている声を聞くと、あの飛び入りのヨットでのパーティーと、名も知らぬ男との奇妙な情事の一部始終が眼に浮んだ。  そのジューディーバードと名づけられたヨットでのパーティーに私を誘ったのが、彼、チャーリーこと、明生《あけお》だった。  その明生にしても、ロケ現場のヨットハーバーの駐車場で擦れ違う際、危うく衝突しそうになった見知らぬ他人にすぎなかった。あの夜のできごとが、今では一夜の美しい夢のような、ひどく現実感の少ないものになってしまっている。  それと同様、岸明生と名乗ったヨットマンも、二週間たった今では思いだすこともなかった。それらは既に過去に属しており、忘れ去られるはずだった。その過去から、声が響いてくる。 「電話した理由は察しがつくと思うけど、君、朝刊読んだ?」 「朝刊? 今朝の? いいえ、まだよ、昨夜からここでずっとカンヅメだったの」 「じゃあとで詳しく読んでごらんよ。要点だけ言うとね、君も知っているジューディーバードは昨夜火事で全焼し、その跡に女の焼死体がひとつ——。自殺らしい。織田ユリコは五二フィートの華麗なヨットもろとも、この世から完全に消えてしまったよ」  私の頭に最初に浮んだことは、織田という名前だった。では彼の名は織田というのだ。見知らぬ男に名前がついて、妙にほっとする。それからニュースの内容がゆっくりと脳に滲《し》みこんでいく。夜の湾内に碇泊《ていはく》していた美しいヨットが爆音とともに燃えあがる、生々しい光景。 「もしもし、驚いて声も出ないみたいだね。一晩でも、縁は縁だからね、君にしても」 「あなたは親しかったの、織田さんご夫婦とは?」 「うん。僕はあのパーティーの常連みたいなものだったから——。ごめんよ、びっくりさせちゃって。君をあの事件に巻き込むつもりはなかったんだ。ちょっと知らせておきたいと思って」  私は椅子に座り直して、眼の前に吊り下がっているラッシュ・プリントに焦点をあてながら訊《き》いた。 「私、どうすればいい?」 「別に何も。でも僕はすぐに連絡をとるよ。織田氏には、数え切れないほどクルージングに誘われているからね。ジューディーバードは風みたいに疾走する美しいヨットだった」  私はうなずきながら手を伸ばしてフィルムに触れた。逆光の中に立ったモデルの背後を通過していくスピニカが見える。  事故はこの同じヨットハーバーの沖で起きたという。私はじっと眼を凝《こ》らした。風に煽《あお》られる髪で、見え隠れするモデルの暗い瞳や、背後のマストや帆《セイル》や、夕暮れ時の暗澹《あんたん》とした空の色などの中に、私が体験した不思議な一場面が、彷彿《ほうふつ》と二重露出されてくる。 「もしもし、どうしたの? 急に黙りこんでしまって」  受話器の中から心配そうに響いてくる明生の声が、私を現実に引き戻した。 「どうしてあのひと、自殺なんてしたんでしょう。理由は、何なの?」  その問いを口にしながら、私は不吉な予感で震えた。 「新聞にはノイローゼだったと書いてあるよ」 「そんなふうには、見えなかったのに」  そうだろうか? ジューディーバードの船室《キヤビン》で、ソニアのドレスに痩《や》せた長身を包み、女王のようにふるまっていた、あの年齢のはっきりしない美しい女性は、わずかに陽気すぎはしなかったか? 周囲に群がり集った男や女たちの上に君臨し、彼らをハイエナのように嫌悪していたにもかかわらず、彼女はほんの少し、はしゃぎすぎてはいなかっただろうか? 「織田氏の素行に、日頃から問題があったからな。彼女は�夫は愛の狩人なのよ� と平然と言ってのけていたけど、やっぱり悩んでいたんだろうね」  その言葉は私の胸を突く。あの美しい七月初めの夜、ジューディーバードの暗い船倉で慌《あわただ》しく情事を持った段階では、私は彼が彼女の夫だとは知らなかった。  知らなかったからといって、起こった事実に変わりはない。たとえもし彼が、彼女の夫であると知っていたとしても、あの時のあの状態にブレーキがかかったかどうか、正直に言って私には疑わしい。  ヨットには人が溢《あふ》れていたが、見知らぬ人々ばかりで、ひどく孤独だったし、人の肌の温《ぬく》もりが切実に懐しかった。そして七月の宵の口は美しく、潮風や海の香りがメランコリックな心情を募らせ、お酒もしたたか飲んでいた。  それでも私は、そのあとで聞いた、彼女の言葉に強いショックを受けた。情事のあと、甲板《デツキ》の上で船室《キヤビン》に背を向けていた私の耳に聞こえてきたのは、次の言葉だった。彼女は船室に現われた夫を認めて、陽気すぎる声で叫んだ。  ——まあ、ダーリン。あなた、またどなたかと、どこかの小部屋に消えていたのね。それだけは悪い趣味よ——  その場に居合わせた人々の間から、共犯めいた笑い声が上がり、織田自身、道化《ピエロ》のように笑い、悪びれるところは少しもなかった。  私だけが、暗がりの中に顔を背けていた。  私は彼女の夫の女たちのひとりにすぎず、しかも、ほんの行きずりのひとりにすぎず、しかも彼の情事の大部分は妻に黙認されていたのだ。そのあまりの安易さに、傷つけられたことは確かだった。  ところがその私自身にしても、お酒や宵の美しさのせいにして、実は自分自身の渇《かわ》きを癒《いや》したのではないだろうか。  私はハングリーだったし、はぐれたような気分だったし、そこにたまたま男がひとりいて私に欲望を抱き、私もまた、相手が生理的に好ましかったから、私と彼は、錆《さび》や機械油のにおいのする狭い船倉の中で、ひっそりと愛しあった。進んで人に告白するようなことでもなければ、罪悪感を抱いて隠しだてしなければならないことでもない、と思っていた。  あの同じ夜、明生に送られて桟橋まで戻る彼の小さなボートの中で、もし、織田と寝たのか、と尋ねられたら、少しの躊躇《ちゆうちよ》もなくイエスと答えていただろう。あれは、そういう種類の時間だったのだ。  だが、今はもう言えない。私が織田の妻を追いつめた何人かの女たちのひとりであったことは、紛れもない事実なのだから。  永久に口を拭《ぬぐ》わなければならなかった。あの一刻《いつとき》を生涯の後ろめたい秘密として、私に押しつけて逝《い》った、織田の妻に対して、彼女の復讐《ふくしゆう》のようなものを感ぜずには、いられない。 「じゃ、また連絡するよ。そうしたら僕たち会えないかな? 君は、葬式には出る気ないだろう?」  織田とは二度と顔を合わせたくなかった。自らの放蕩《ほうとう》の結果招いた妻の死に、うちひしがれる男の後ろ姿を、昼日中《ひるひなか》、正視するのは辛い。彼女の遺影の前で、もし織田と並ぶような一瞬でもあれば、私は自分を犯罪者のように感じるだろう。  そして彼の口の両脇《りようわき》の深い皺《しわ》——それは人生に期待を抱かなくなったことを表わす印だと私が思い、彼に似合ってさえいると感じた、あの抉《えぐ》られたような口元の魅惑的な線は、白日の下では単に老いの、疲れの、幻滅の、あるいは悔恨の皺にしか見えないかもしれない。  私は決して幻想を抱いたわけではないが、あの熱い織田の掌《てのひら》の中に、私の口を埋めた快楽の一刻が確かにあったのだ。その記憶を、現実の光のもとに引きずりだすだけの勇気は、湧《わ》いてきそうにもない。 「お葬式は、遠慮させていただきたいの」  と私は小さな声で答えた。 「悪いけど、私からの花束を届けておいて下さらない? いいえ、名前はつけないで。花は、薔薇《ばら》を。白い薔薇を三十本ほどね。お金はたてかえておいて。お会いした時に払うわ」 「オーケイ、白い薔薇を三十本。無名で——無名の花束が、いったいいくつ届くだろうね」  実際どれだけ多くの無記名の花束で遺影が飾られることだろう。明生はさりげなく言ったが、それはなんという皮肉なことだろう。私自身までが、その道化じみた行為に加担してしまうなどとは、夢にも思わなかった。  岸明生からの電話が切れて数分後に、編集室のドアにノックの音がした。大助だった。 「徹夜だって? ばかだな、ケイ。俺は今朝一緒にやるつもりだったんだぞ。ひとりで何もかも背負いこむの、よせよな」  彼は部屋の中に入ってくると、そう言って後ろから私の肩に両手を置いた。 「ほら、こんなに肩凝らしちゃって。無理すると早く婆さんになるぞ」  大助は私が編集しておいたフィルムの一本一本を手で軽く伸ばして覗《のぞ》きこみながら、喋り続ける。 「何時もつくづく思うんだけどさ、コマーシャルっていうのは最も短い映像の芸術だよね。たったの三十秒、せいぜい六十秒だぜ、この中にどれだけのドラマがあると思う?」  彼のきびきびとした口調のおかげで、私の中から明生のもたらした憂鬱《ゆううつ》な思いが退いていく。 「コンテの作者である私としましては、まだまだ不満でございますけどね」  私は彼の背後からラッシュ・プリントを覗きこみながら言った。 「たとえばここのカット。顔の表情に頼り過ぎているのよ。私が欲しかったのは、冷《ひ》え冷えとした冬の風と、寒々しい海の色と、愛する男を発《た》たせる女の悲しい顔だったの。充分とは言えないわ。私から見ればぜんぜん不足よ。いつだってコンテの上に求めた情況を映像に直すと、こういう深い失望を味わうんだわ」 「でもさ、ケイ、それは君の側の感じであってさ、カメラの俺から見れば、俺なりのストーリーの展開の仕方があるんだよ。君の作ったコンテから感じとった俺の映像があって、これは当り前なんだ。ディレクターにしてからがやっぱりそうだぜ。ディレクターにはディレクターの掴《つか》み方ってものがあるからな」 「そうね。それで良いんだけどね。でなければ、ひとりで何もかもやるしかないもの。コンテもカメラも、モデルまで自分でやってしまうしかないわけよね」 「そういうこと。かと言って、それが本当に君の求めた映像になるかと言えば、大いに疑問だけどね」 「そうね、大いに疑問ね」  共通の失望と反省を嫌というほど共有してきた私たちがいきつくところは、いつも同意だ。  大助は話しながらピンチからプリントを一本外すと、ヴューワーにかけた。 「夏雲がどうしても気になるなあ。フィルターをいくらローコントラストにしたって、夏の雲は所詮《しよせん》、冬の雲とは違うんだよな」 「私も気になっていたんだけど、見る人が見ればわかるのかしら」 「たかがコマーシャル、コマーシャル」  と、大助は口癖《くちぐせ》の言葉に節をつけて言った。 「そうさ。そこまで責任もてねえよ。予算でもタップリあって、南極あたりへロケに行けるんなら、うんと立派な冬雲をしこたま撮《と》ってきてやるさ」  そう呟《つぶや》くと、彼は横顔をひきしめて、ヴューワーの上にかがみこんだ。 「夕焼けが、さすがにきれいだねえ」  ほっと溜息をついて続けた。 「今朝の新聞に出てたけど、ヨットの火事のことさ。そのニュース、知ってる?」 「ええ」  私は言葉少なくうなずいた。その件で大助と話し合いたくはなかった。 「俺たちがロケで一足先に帰ったあと、ケイ、君がパーティーに誘われたって話してたの、例のヨットじゃなかったのか?」 「そうなの。でも私はほんのしばらくいただけだから」  と、私は言葉を濁《にご》した。  大助はテープスプライサーでラッシュ・プリントを繋《つな》ぎながら、口の中でなおもぶつぶつと呟き続けた。 「何もヨットもろとも自爆しなくともいいのにな。もったいねえ話だよね」  だが織田ユリコにとっては、あのヨットこそ、悪そのものであったのだ。  磨かれたマホガニーの扉の奥で、あるいは船倉で、暗い前甲板の帆の陰で、彼女の夫が彼女を裏切り続けたのだった。  するとだしぬけに、一瞬私は爆風と爆音と熱気とを、もろに浴《あ》びたような気がした。彼女が抹殺《まつさつ》したのは、ほんとうは私を含めて織田の女たちではなかったろうか。少なくとも、情事の記憶をとどめる場所はもう、この世の中のどこにも存在してはいないのだ。 「ケイ、俺がプリント繋いでおくから、君はもう帰れよ」  大助が作業の手を休めないまま、そう言った。 「じゃそうしようかな。録音《ダビング》、赤坂《あかさか》スタジオだったわね? 夕方七時に直接行くわ。その前にこっちへ電話入れた方がいい?」 「心配するなよ。吉見さんがそっちの手はずは進めるから、君は何も考えずにぐっすり眠ったらいいんだ。ラッシュの編集、やっておいてもらって助かったよ。ありがとう」  言われたとおり、残りの作業を大助にまかせてしまうと、ようやく私は仕事から解放された。  そして数分の後には、夏の薄黄色の朝の日射しの中へ踏み出していた。疲れた眼に、光が幾条もの鋭い束となって突き刺さった。  暑さはすでに相当なもので、ほとんど流動体のような熱波が私をおし包んだ。額に汗を滲ませながら、私は海を思った。  その週の金曜の夕刻、再び岸明生から電話がかかってきた。告別式の帰りだと言い、 「今夜、会えないか?」  と訊《き》いた。気が重かった。私の短い沈黙に、その意味を感じとったのか、彼は言葉の調子を変えて言った。 「君は僕に借金しているんだからね。薔薇ってすげえ高いんだな。びっくりしちゃったよ」 「そうだったわね、お金返さなくちゃ」 「そういうわけ。じゃ何時に、どこで会う?」  私は誰《だれ》にともなく肩をすくめて「いいわ」と答えた。そして八時に六本木《ろつぽんぎ》のパブを指定した。  七時少し前に、先日ダビングしたテープを、オプチカル録音の方へ廻す手配を整えてしまうと、オフィスのある銀座からタクシーで六本木に向かった。  風のない典型的な真夏の夜で、息をするのさえ大儀だというのに、車窓から見える繁華街の人通りは多かった。  生ビールなど既に飲んでいるのか、かなりの人間が顔を汗と脂で光らせ、足取りをもつれさせているのだった。金曜日の夜は、まっすぐ家に帰りたくない人々が溢《あふ》れて、街中はいっそう暑苦しく埃《ほこり》っぽかった。  約束の時間には三十分も早かったのに、明生はもう来ており、カウンターに軽く凭《もた》れるようにしてトマトジュースを飲んでいた。 「なに、それ? まさかアルコール抜きじゃないんでしょうね、ブラディー・メリー?」 「ところが抜きなのさ。ただの野菜ジュース」 「どうしたの?」 「車なんだよ」 「お気の毒に。それにしても告別式のあとにしては、ずいぶんくだけた服装じゃない?」  私は彼のTシャツとジーンズ姿を、不躾《ぶしつけ》に眺めながら言った。  明生とはこれで二度しか会っていないのだが、どういうわけか、もう長いことつき合っている仲間同士のような口をきいてしまうのだった。どちらかというと人見知りをする方なので、自分でもその理由《わけ》がわからない。 「車の中で着替えたんだよ。何飲む?」  そう言いながら彼はポケットに片手をつっこんで小銭を取り出した。 「私はアルコール抜きでなくても良いんでしょ? マルガリータ頂こうかしら。氷をたくさん入れてもらえる?」 「マルガリータ。フローズンでね」  彼はカウンターの中にそう伝えて、手の中の小銭を無造作にバーテンダーの前に押しやった。 「それで、どうだった?」  ほんとうは触れたくないことを、そういつまでも先に延ばしておくわけにはいかないので、私は憂鬱な口調で質問した。 「うん、そのことだけど、織田氏はかなりまいっていたみたいだよ。ずっと俯《うつむ》いたきりで一度も顔を上げなかったな。なんだか十歳も年をとっちまったようだった」  私はでき上がってきたマルガリータを、ストローなしで一口飲み、明生が続けて喋ってくれるのを待った。  しかし彼は厳しい横顔をみせて、手の中のトマトジュースの入った細長いグラスを凝視したまま、長いこと口を結んでいた。とうとう沈黙に堪え切れなくなって、私が訊《き》いた。 「忘れないうちにお花のお金、払っておくわ。いくらだった?」 「そうそう、その無記名の花束だけど、思ったより少なかったよ」  どうしてかひどく冷淡な口調だった。彼は急に怒ったように私から顔を背けると、残りのジュースを一気に喉《のど》に流しこみ、音をたててグラスを置いた。 「女ってのは、わけのわからない動物だよな」  私には彼が、私個人を批難しているような気がした。だが、何を知っているのだろう?  店内は冷房がききすぎて肌寒く、金曜の夜特有の混雑で騒がしかった。私は明生と会ったことを後悔し始めていた。ときどき奥のダーツコーナーから歓声が上がる。 「今夜、これからヨットに行くつもりだけど、一緒に来ないか」  いきなり、ぶっきらぼうな口調で彼が私を誘った。まだ何か心にわだかまっているような感じだ。  思えばこの間の夜も、そんなふうにいきなり誘われて、あのヨットのパーティーに行ってしまったのだった。声をかければ何時でもついてくる女だと、思われたくなかった。 「止《や》めておくわ、せっかくだけど」  そう断って、私は明生の左手の指輪を、意地悪そうに眺めた。この前の時には全く気がつかなかったが、今日は初めから気がついていた。 「これのせいか?」  そう言って明生は面白そうに、左手をヒラヒラと顔の前で振った。そのゼスチャーに少し腹が立ったので私は黙っていた。  明生の眼が光った。 「織田氏のことはどうだい? 彼だって結婚していたんだぜ。こんなもの、君にはめじゃないと思っていたがね」  嫌な言い方だった。 「驚いたな。だって君みたいな進んだ女が男の指輪のことぐらいでさ。僕はまた、もっとクールだと思っていたけどね」 「進んでもいなければ、クールでもないのよ、私は」  思わずかっとして、言い返した。 「それは男の都合の良い解釈よ。織田さんとのことは、私の問題で、あなたには関係ないわ。そのことで鬼の首でも取ったみたいに言うの、やめてよ。ましてそれに便乗しようなんてさもしいじゃないの。私、見損なったわ」  それだけ一気に言うと、私は踵《きびす》を返して帰ろうとした。明生の手が一瞬だけ早く、私の腕をつかんで、ひき戻した。 「怒るなよ。悪かった、謝まる」  私は腕をつかまれたまま、立ち止まった。 「ほんとうにそう思うの?」 「うん。悪かった」 「じゃ今度だけは許してあげる。手を放してちょうだい、痛いわ」  私はカウンターの前に戻ると、荒々しい仕種《しぐさ》でマルガリータの残りを飲んだ。 「君は怒ると、まるで豹《ひよう》みたいだぜ。さあ、機嫌《きげん》なおして」 「あなたが結婚していようといまいと、どうでもいいことなのよ、本当は」  と私はまだ少し苛々《いらいら》しながら言った。 「あなたとどうこうしようってわけじゃないんだから。ヨットに行きたいか行きたくないか、ただそれだけの問題だったのよ。それにしても、彼とのこと、どうしてわかったの?」  明生は私のためにもう一杯同じ飲物を注文してから、質問に答えた。 「あの夜、君がだしぬけに帰りたいと言いだした時、実はちょっと疑っていたんだ。その前に三十分ほど、君をずいぶん探し廻ったんだよ。君はヨットの上から忽然《こつぜん》と消えてしまい、織田氏の姿も見えなかった。でもそのことを確信したのはもっとあとでだよ。君が薔薇の花束を注文しただろう? だいたい何もない女が、わざわざ白薔薇を贈るわけがないんだ。いったい三十本で幾らすると思うの? 二万だよ、ケイ。で、ピンときたわけさ」  私は俯いて唇を咬《か》んだ。 「ほら、そんなに深刻になるなよ。それで、ケイは、僕のヨットへ行きたいの? 行きたくないの? 気分転換に、思いきって行っちまおうよ」  明生は私の横顔を覗きこんで、熱心に説得した。 「君の言うとおりなんだよ。したいか、したくないか。ヨットへ行きたいか、行きたくないか、それだけのことさ。何かというと男と女のセックスの問題だけみたいに考える方が異常なんだよ。君の都合が悪ければ、それはそれでかまわないんだ、僕は。ヒロ、覚えてるだろ? 彼に電話して誘いだすことだってできるからね。僕はただ、もし君が一緒に行けたら、特に今夜のような晩には、どんなに良いだろうと、考えただけさ」  私は俯いたまま、視線をゆっくり移して、カウンターの上に置かれた彼の手を眺めた。甲に巻き加減の黒い毛の生えた大きな手だった。それが日に焼けていかにも重たげに見える。  この手は、誰か見知らぬ女に属しているのだ、と思うと妙に寂しい気がした。女の躰《からだ》のあらゆる部分を熟知している男の手だと考えると、胸が熱くなる。あの撮影の終った夕方、私はこの手にまず出会ったのだった。  彼は街で女の子をひっかける男のように、さりげなく、沖に碇泊《ていはく》しているヨットを指して私を誘った。そして私は、街で姿の良い男たちに、やすやすとひっかけられる女の子のように、その誘いに応じた。  彼はいきなり私の前に右手を差しだして、行こうよ、と言った。私はごく自然に、その手に自分の掌をあずけてしまったのだ。  その同じ手から眼を外らせて、明生の顔を見上げた。私たちはお互いの眼の中を深々と、初めて覗きあった。少しひっこんだ感じの両眼の奥に懐疑的な光があった。 「いいわ。行くわ」  と、私は低く呟いた。  男と女の純粋な友情が存在するなどと本気で信じたわけではなかった。どんなに悪い状態を想像したところで、岸明生と私との関係で、起こり得ることは知れている。そして私が失うものなど、何もなかった。肉体というものに、必要以上に価値を与える年齢は、とっくに過ぎてしまっていた。  それから数時間後、私たちは深夜の湘南《しようなん》道路を三浦《みうら》半島に向けて走るフェア・レディーの中にいた。  彼はアイザック・スターンが好きなのだと、妙に言いわけがましく呟きながら、ヴィヴァルディの二つのヴァイオリンのための協奏曲をセットした。  葉山《はやま》を抜けたあたりで、テープを裏返しながら、彼が言った。 「言っておくけど、僕の女房のことは気にしなくてもいいよ」 「気にするな、と言われるとかえって気になるわ。どういう意味?」  明生は私の質問にはすぐに答えず、前方に注意を集中しながらハンドルを握り直した。  リトルネ形式の弾《はず》むような緊張した楽章が再び始まり、二つの楽器が描きだす線が遠ざかったり、交わったり、重なったりしながら展開していく。  ヴァイオリンのいかにも脆《もろ》く儚《はかな》げな、退廃《たいはい》とすれすれの甘美な響きが、車内に溢《あふ》れだす。音とともに私の神経も膨れたりねじれたり反り返ったりする。  道路はガラガラで、彼はスピードを更に上げ、ようやく嫌々ながら押し出すように、言った。 「つまり、僕たちは別居中なのさ」  だからと言って、彼が自由な身だとは言えないだろうと私は思ったが、口にはださなかった。  彼が独身ではないと、最初に気づいた時、私の中でふっと日が翳《かげ》る気配を感じたのを、思いだす。それは失望によく似た感覚だった。しかしそれ以上彼は自分の不幸な結婚については語る気はないらしかった。私もそれを彼の口から聞きたくはなかった。  油壺《あぶらつぼ》の手前を大きく右折して、下り坂をくねくねと降りていくと、車は見憶《みおぼ》えのある駐車場に入って止まった。  外に出ると、潮の香りがまず鼻につき、塩分の強い生温《なまあたた》かい風が吹いていた。星のない夜で、闇が深く、いくつかのヨットに明りが灯《とも》されていたが、あたりはひっそりと静かだった。  明生のヨットは桟橋の手前に繋がれた十|艘《そう》ほどの大小のヨットの中にあった。白い船側にY・Oと青いローマ字で書かれている。それが誰のことかわかるような気がする。今は不幸な結婚でも、一度は幸福な時代があったのだ。  明生は車のトランクから運んできた食料品の入った紙袋を持って、船室《キヤビン》へ降りた。ヨットは小さかったが隅々まで手入れがゆきとどき、どこにも無駄なものはなく、いかにも男の遊び、男の部屋、男の道具といった感じがする。 「腹空いてない?」  キャビンから首だけ出して彼が聞いた。 「そういえば、少し空いているわ」 「シチューを温めるよ。缶詰だけど、案外美味《うま》いんだ」 「缶臭いにおいの取り方、知ってる?」 「教えてくれよ」 「レモンある? 三滴か四滴。それから日本酒でもワインでもいいんだけど、できたらドライシェリーを少し入れるの。味が生き返るわよ」 「シェリーなんてないよ。ジューディーバードにはブリストルがあったけどなあ。ちぇ、もったいないことしたな。ナポレオンも、ジャック・ダニエルも、オールドパーも海の藻屑《もくず》となりぬるか」  私たちは甲板に腰を下ろして、缶詰のシチューで夜食をとり、缶ビールを飲んだ。ビールは生温くてひどい味がした。 「毎週末、ひとりでヨットに乗るの?」 「うん、たいてい来てるね。ひとりの時もあるし、ヒロを誘う時もあるし」 「女の子を拾ってくることも、あるし——?」 「健康でノーマルな男がする範囲でね」  ときどき船底で海水がたてる水の音がする。 「あなたの奥さんは、来ないの?」  明生は黙って空になった皿を傍に置いた。 「つまり、別居する前よ」 「女房は海が嫌いなんだ。魚とか海草のにおいが生臭くて厭《いや》なんだよ。海は汚くて恐《こわ》いって寄りつかなかったな。ヨットなんか一度も乗ったことないよ」  彼は淡々と語る。その口調に妻との距離が感じられる。 「趣味の相違というのは、案外重大な問題だよ。君も先々のために覚えておいた方がいい」  明生は苦笑したが、私にはそれに応ずる気持はなかった。彼は手の中のアルミニュウムの缶を握りつぶすと、立ち上がった。 「よそうよ、こんな話。君には退屈なだけだよ。夫婦が駄目になっていく過程なんて、他人にはおよそ想像がつかないものな。中へ入ろうか、蚊《か》がいるから。キャビンで一杯、寝酒飲んで、それから眠ろう。明日はセイリングに連れていってあげるよ」  立ち上がりながら、私は黒い巨大な闇と一体の海を眺めた。闇の中に、明りを全部消したジューディーバードが、ひっそりと浮んでいるのが確かめられるような差し迫った気配があった。 「ねえ、アケオ。あのひと、最後に、死ぬ前に、感じていたの憎悪かしらね」  キャビンに降りる階段の所で、明生は立ち止まった。 「憎しみがあるうちは、人は死なないものだよ。怒りにしろ憎悪にしろ、そういう激しい感情は生に密着しているんだと思うよ。おそらく、彼女が最後に感じていたのは、絶望なんじゃないか。自分自身に絶望したんだよ。嫉妬《しつと》をもてあましたんだ。自尊心の異常に強いひとだったからな」  キャビンの中を覗《のぞ》きこむと、小さな折りたたみ式のテーブルを挟んでふたつベンチがあり、そこがそのままベッドになるらしかった。ふたつのベンチの間は七〇センチほどしかない。 「私、甲板で寝ようかな。その中、なんだか蒸し暑そうね」  紙コップにウイスキーを注ぎながら、明生が笑った。 「ばか言えよ。風邪《かぜ》ひきたければいいさ。それに蚊にさされてお岩さんみたいになりたいっていうのなら、どうぞ、どうぞ。ただし、僕が騎士道だか、紳士道だかを発揮して、君をキャビンに寝かせるために、甲板に出て寝るなんて、期待しないでくれよな。そんなめんどくさいこと、今更ごちゃごちゃ言うなよ。ぜんぜんケイらしくもないよ。それとも何かい、僕が君に襲いかかるとでも自惚《うぬぼ》れてるの?」  そんなふうに言われると妙に気を廻したことが恥ずかしくなって、私は素早くキャビンに降りた。 「ウイスキーでいい?」  明生は私のために寝酒を注いで、ベンチに座った。私は彼の真向かいに腰を下ろして、紙コップからウイスキーを啜《すす》った。ストレートだった。  ときどき船体がぐっともち上がると、次には深く沈みこむ。波はないのに、海自体のうねりがあるのだ。船の揺れに躰《からだ》をあずけてしまうと、快い酒の酔いのような気分になってくる。 「どうしたの、急にニコニコして?」  明生が長すぎる脚を窮屈そうにベンチの上にのせながら訊《たず》ねた。 「私、ニコニコしてるの?」 「さっきまでは今にも泣きだしそうな顔してたのに、おかしなひとだねえ」  彼はカーヴになった壁面を手前にひいて、その中からピローを出すと、背中にあてながら言った。 「君の分は、そっちにあるよ」 「覚悟きめたのよ、私。もう煮て食おうが焼いて食おうが、刺身にされようがぜんぜん恐くない——そう思ったら急に楽しくなったの」 「そうこなくちゃ。それに言っておくけど人食い人種じゃないからね、僕は。君を煮たり焼いたりはしないから安心していいよ」 「ありがとう。では安心してもう一杯」  差し出した紙コップにウイスキーが注《つ》がれ、私はそれを飲み、胸がかっと熱くなった。  船体の揺れと、私自身の躰の揺れとの区別がつかなくなり、なにもかもが輪郭を失い、陽気で滑稽《こつけい》で意味もなくおかしい。  私はくすくすと忍び笑いをし、それから声をあげて笑いだし、とりとめもなく笑い続けた。そして次の瞬間には呆気《あつけ》なく眠ってしまったらしい。  と言うのは、翌朝眼を覚《さま》した時、私はちゃんと枕に顔を埋め、躰には毛布がかかっていたのだ。自分では全く記憶がないが、前の夜着いていたジーンズとサマーセーターは足元に置かれてあり、かわりに男物のTシャツを着ていた。  横のベンチを眼の隅で盗み見ると、明生の姿はなく、船室の中にもいなかった。  私は起き上がり、きちんとたたんである自分のものに向かって顔を顰《しか》めて通りすぎ、キャビンから上半身だけ出して周囲を見廻した。  驚いたことに、ヨットは海の真只中《まつただなか》にいる。あたりには船は見えず、はるか右手に薄紫色の三浦半島の陸影が見える。太陽は昇ったばかりらしくまだ低く、このぶんでは朝の早い時刻にちがいない。光の中にさわやかさが感じられ、空気はひんやりと冷たい。  明生は舵《かじ》の上に凭《もた》れるようにして、のんびりとあとにしてきた半島を眺めている。 「お早よう」  と私は声をかけた。 「ヨットが動きだしたの気がつかなかったのよ。今、何時?」 「五時半だよ」 「まだそんな時間?」 「そんな損したみたいな顔しなさんな。一日のうちで空気が一番きれいな時だぜ。コーヒー入れてくれない?」  私はうなずいてキャビンに戻った。それからお湯が沸くのを待つ間、顔だけだして彼に訊ねた。 「何も憶えていないんだけど、ゆうべ、私自分で着替えたの?」 「ほんとに憶えてないの?」  明生がわざと眼を丸くする。 「ケイが露出狂だとは思わなかったぞ。君を取りおさえてTシャツだけでも着せるのに、それこそ苦労したんだから」 「嘘《うそ》よ」  私は悲鳴をあげた。 「嘘、嘘でしょ? ねえ、私自分で着替えたのよね?」  明生は長いこと、じらすようにただ笑っていたが、とうとう「そうだよ」と言った。 「ゲラゲラ笑っていたと思ったら、次の瞬間眠ってたんだ。で、僕が枕と毛布を出してやったら、急にひょっこり起き上がって、きれいなTシャツ貸してと、言ったんだよ。憶えてない? それからトイレに入ってちゃんと着替えて、僕におやすみのキスをして、お行儀よくおやすみになりましたよ」 「嘘よ、キスなんてするわけないわよ。でも私、何にも憶えていないわ」 「君の酒は良い酒だよ。陽気でさ。その点は安心していいよ」  日が高くなるにつれて、キャビンの中は蒸してきた。  空には刷毛《はけ》ではいたような薄い雲がわずかにあるだけで、激しい日射しをさえぎるようなものは何もない。甲板の上で帆《セイル》が作りだす風にあたりながら、手や足がみるまに焼けていくのがわかる。 「このTシャツ気に入ったわ。寝まきと遊び着と水着にもなりそう」  船側をくすぐりながら過ぎていく蒼い波に足を触れると汗がひく。  私たちは交代で舵《かじ》をとり、甲板から海に飛びこんで遊んだ。ひとしきり波と戯れると、デッキに躰を伸ばして横たわった。太陽の強烈な光が正面にあるので、まともに眼を開けていられない。  何もかもが青くて、そしてヨットの帆は真白だった。生乾きのTシャツが気になって風を通していると、明生が言った。 「そんなもの、脱いじまえよ」 「だって、あなた変な気、起こさない?」 「ばか。色狂《いろきちが》いじゃあるまいし、朝っぱらから女の裸をみたくらいで、どうってことないよ」  あんまりそっけなく言うので、こだわる方が変な気になる。私は彼に背をむけて、Tシャツを脱いだ。日射しはすぐに私の胸や腹部に重くのしかかってきた。  こんなふうに上半身を光や風に晒《さら》し、両脚《りようあし》を海水に浸していると、生きていることの喜びが、ごく単純な形で実感されるのだった。私は背後の明生の存在さえも忘れて、しばらく眼を閉じて時刻《とき》の移る気配を感じていた。  やがて、気懈《けだる》いような甘さが私を包み、ふいにあの夜の織田と交わした性愛の一部始終が瞼《まぶた》に浮んだ。  男の手や指や口や仕種《しぐさ》の数々が白昼夢のように蘇《よみが》える。それらはほとんど現実感があり、やるせなく、私は深く溜息をついて、甲板の上に俯《うつぶ》せに倒れこんだ。  背中に落ちてくる太陽の凄《すさま》じい光の重さに、押しつぶされそうだった。折り曲げた腕に鼻を埋め、自分の皮膚の健康なにおいに目眩《めまい》を覚えながら、私は欲望が急激に昂《たかま》るのをじっと堪えていた。  長いことそうしていたが、頭上で帆《セイル》が風に煽《あお》られてバタバタと音をたてたので、驚いて顔を上げると、私の方を見ている明生の眼と出会った。  彼は上の空で視線を移動させ、そのまま私の剥《む》きだしの背中に貼《は》りついて動かなくなった。私たちはなぜか身動きすることができないまま、油断のならない野生動物のように、お互いの様子をうかがっていた。それから私は、彼が呻《うめ》くように呟くのを聞いたのだ。 「君を抱きたい」  それを聞くと私の血は逆上し、欲望で喉《のど》がからからに乾くのを感じた。自分の肉体に欲望を感じる人が、現にすぐ近くにいると思うと、下腹を刺すような喜びが走りぬけるのだった。しかし咄嗟《とつさ》になぜか、私は顔を海の方に背けてしまった。  しばらくして、明生は帆を降ろし、ヨットを完全に停止させると、ひと泳ぎしてくるよ、と一声言い残して、いきなり海の中に消えてしまった。  そのあたりは比較的浅瀬で、ところどころ海面に黒い岩が顔をだしており、海の色は眼も覚めるようなエメラルドグリーンをしていた。  明生はなかなか姿を表わさない。じっと待っているうちに心細くなってくる。風が海上を掠《かす》りながら吹いていた。ヨットがときどき大きくローリングする。遠くに猫に似たカモメの鳴き声がするのだが、姿は見えない。日射しが皮膚に食いこんで痛かった。  あまりの静けさに叫び出したくなる。もしこのまま彼が戻ってこなかったら、どうやってヨットを動かすのか、私には皆目わからない。  本気で心配しだす頃になって、やっと彼は、飛び込んだのと反対側からデッキに上がってきた。ジーンズのショーツから滴《しずく》をたらしながら、まぶしそうに顔を顰めたまま歩いてくると、俯せになった私の横に座りこんだ。  そして手を開くと、冷たいものをそっと私の背中においた。それはひと握りの砂だった。濡《ぬ》れた砂は、熱した皮膚に快く、明生は信じられないくらい優しい指の仕種で、それを平らに拡げていった。 「さっき言ったこと、聞こえた?」 「ええ」 「嫌かい?」  背中を愛撫《あいぶ》されながら、眼を閉じて、私は喋《しやべ》った。 「寝るのは、すごく簡単よ。そうしようと思えばいつだってできるわ。誰とでもっていうんじゃないのよ。私の言う意味、わかる?」 「…………」 「だから大事にしたいような気もするの。あまりにも自然で簡単にそうなれそうだから。それと、はっきり言って、あなたたちご夫婦の問題に、私のことが絡《から》んでしまうのは嫌よ。今あなたと寝たら、きっとそうなるわ。三人ともひどく苦しむようになるわ」 「わかったよ」  と、明生は柔らかい声で言った。 「君が良いと思うまで、待つよ」 「そんな日は来ないかもしれないのよ。あなた、おじいさんになってしまうかもしれないわ」 「その時は、君もおばあさんだよ」  明生の指が、私の左右の肩胛骨《けんこうこつ》にそって砂を拡げていく。 「ほら、ケイの背中に小さな翼が生えたよ」 「砂の翼じゃ、飛べないわね」 「飛んでいって欲しくないよ。ねえ、来週も一緒に週末を過ごさないか? 来週だけじゃなく、ずっとさ」 「ええ」  私は微《かす》かにうなずいた。 「でも冬は、海は寒いんでしょうね」 「そう。すごく寒い。相模湾《さがみわん》は風が強いんで有名なんだ。風の冬の海は一種壮絶だよ」  それもいいかもしれない、と私は心の中で呟いた。背中で砂が乾きはじめ、少しずつさらさらと剥《は》がれていった。  そして約束通りその週末も、また次の週末も、私は明生のヨットで過ごした。七月が終り八月もあっというまに過ぎ、とうとう夏が立ち去ろうとしていた。  私たちは金曜の夕方八時に六本木の例のパブで待ち合わせる習慣ができていた。その夕刻、私は明日の早朝出航する予定のクルージングに必要な、食料品のメモを作っていた。  そして電話が鳴った。若い女の声が私の名を確かめてから、岸ユウコと名乗った。明生のヨットの船側に書かれたY・Oの文字が鮮やかに浮び上がる。 「アケオの妻です」  と、その声は言った。 「お会いできます?」  自分にはその権利があるのだという響きを含んでいる。それを聞くと、自我の欠片は吹きとんでしまった。 「でも、私」  と、私は自分の声が逃げ腰に口ごもるのを聞いた。  反射的に消えてしまいたくなった。しかし私は消えることも受話器をかけることもできず、じっと相手の言葉を待っていた。 「会って頂かなくては」  と、明生の妻は再び言った。 「六時に。近くまで来ているの。第一ホテルのロビーに来ていただけます?」  指定された場所で、彼女は待っていた。  明生の妻を見ると、私はなぜか強い失望に打たれた。彼女は全身に反感をみなぎらせ、審《さば》きの眼をして、ロビーのソファーに座ったまま私を見上げた。  私は彼女の前に腰を下ろしながら、もし、明生の妻が、私に対して反感を抱かなかったり、審くような眼つきで見なかったとしたら、かえって戸惑《とまど》うだろうとも思うのだった。  彼女はおそらく私より二歳か三歳若いのではないか。長い髪をカーリーにして、ちょっとしどけないような着こなしをしている。  全体から漂ってくるのは、闘争的な雰囲気なのだが、そのすぐ内側に、今にも薄い皮膚を突き破って流れ出てきそうな脆《もろ》さがあった。  それは夫がありながら、その夫に愛されていない女の脆さだった。彼女は、涙と背中合わせなのにちがいない。 「要件だけを、率直《そつちよく》に申し上げるわ」  と、私に鋭い一瞥《いちべつ》をくれると、すぐに切りだした。 「アケオと会わないで欲しいの」  その言葉が、眼の前の女の口から、まるでかぼそい悲鳴のように発せられると、ひどくこたえた。自分が世にも邪悪な闖入者《ちんにゆうしや》であるかのような気持にさせられる。 「ほかに言うことは何もないの。済んでしまったことに対して、何も言うことはないんです」  それだけ言われても私にはどうしても、彼女が敵のようには見えなかった。彼女の反感や、虚勢などは同情する気にはなれないが、心のどこかでこれ以上傷つけてはいけない、と思っていた。  そういう思いを抱いたことで、私は、自分がこの勝負に負けるだろうと漠然と予感した。私はやっとの思いで、重い口を開いた。 「済んでしまったっておっしゃるけど、私たち、あなたが考えているようなそんな関係じゃないわ」  すると彼女は突然態度を豹変《ひようへん》して冷笑し、それから棘《とげ》のある声で言い返した。 「泥棒猫みたいな真似《まね》して、何にもなかったなんて、よく言えるわね」  私の中に冷たい震えが起こった。 「人を愛することは、泥棒猫みたいな真似とは違うわ」 「でもあなたには、他人の夫を愛する自由はないのよ」  と明生の妻はにべもなく言い放った。 「私には法的にあなたを訴えることもできるのよ。妻にはその権利があるの」 「信じてもらえないようだけど、私たち、寝たことはないのよ」  私がそう答えた時、彼女は私の言葉に愕然《がくぜん》として、椅子の中に深く沈みこんだ。眉根《まゆね》を寄せて、遠くを凝視《ぎようし》していたが、その顔の色が次第に透きとおっていき、唇が細かく震えていた。 「それでは、本気なのね」  と今にも消え入りそうな声で彼女は呻いた。 「アケオはきっと本気なんだわ。でなかったら、あのひと、さっさとそうしてるもの」  彼女の大きな瞳は、急にふたつの暗い洞窟《どうくつ》のように空ろになった。 「夫があなたに何を話したか知らないけど、あのひと、ひとつだけ忘れていることがあるのよ。私、今でも彼を愛しているわ」  彼女はすがりつくような眼差しで、私を見上げた。そこには一種の羨望《せんぼう》のような光があった。先刻の敵を眺めるような反感と憎悪の炎は、すっかり消えてしまっていた。その羨望の眼つきが、私を完全に打ちのめした。  私は死んだような気持を抱きながら、彼女に明生とはもう決して会わないと上の空で約束した。そしてその約束を果たすために、立ち上がり、あいかわらず上の空のまま彼の妻にさよならを言うと、ロビーの一隅にある電話室に向かった。  彼はパブのカウンターに凭れて私を待っているはずだった。二時間でも三時間でも、たとえ一晩中でも私を待つだろう。そう思うと、その場に釘《くぎ》づけになったように、一歩も動けなくなった。  何かが私の内の遥かな深みから、突き上げてきた。私はそれが表面に浮び上がるのをじっと待った。同じ姿勢で、ホテルのロビーの真中で立ちすくんだまま、待った。——私は彼を愛している——それはまたたくまに確信となって、激しく私におそいかかった。  私は彼を愛していたのだ。それも深く、しかもとても熱烈に。そしてこの認識があまりに遅く私を訪れたため、何もかも失ってしまうのだ。私は啜り泣きながら、電話室のガラスの扉を押すと、待ち合わせのパブに電話を入れて、彼を呼びだした。 「来れないって? どうして! 仕事がのびるの?」 「そうじゃないの。もうあなたとは行けないの」 「出発は明日の朝にのばしてもいいんだよ」 「駄目なのよ。明日も明後日も、行けないの」  ——そして私はあなたを愛しているわ——。 「なんとか時間作れないか、ケイ。努力してみてくれないか。君なしで、もう週末を過ごすことはできないんだよ。いいね? 待っているから、きっと来るね?」  私の決意は、儚《はかな》くも揺るぎ始める。今ならまだ、前言をひるがえすことはできる。私は何も、明生の妻から、妻の座を奪おうとしているわけではない。  その時、電話室から数メートル離れたところを、明生の妻が横切っていくのが見えた。  彼女はその胸に、二歳ばかりの男の子を抱いて、早足に回転ドアの方向に歩いていく。異様な感覚が、躰の中から湧《わ》き起こった。それはほとんど感動に似ていた。  私は、あの幼い子供を武器に使わなかった明生の妻に、激しい共感を覚え、その後ろ姿を眼で追い続けた。  もし、あの小さな男の子を盾《たて》に、彼女が妻としてではなく、母親として挑《いど》んできたら、いったいどんな会話になっていただろう。 「もしもし、聞こえているわ。そんなに怒鳴らないで。あなたにはわかっていないのよ。そうじゃないの。来週もなの。私たち、もう会わないのよ」 「つまり——終りってことか?」  明生の狐《きつね》につままれたような声が大きくなる。 「どうしたんだい? 何かあったの? それとも僕をからかっているの? 僕が厭になったのか?」 「そうね、あなたが厭になったのよ。そういうことにしておきましょうよ」(泣くんじゃない、ケイ。今は駄目。泣くのなら、あとで心ゆくまで泣けばいい。時間は、たっぷりとあるんだから)  回転ドアのところから、母子の姿は消えていた。ガラスのドアだけがゆっくりと廻っている。私が明生と別れたからと言って、彼が彼女たちのところへ帰っていく保証はないのだ。 「わかったよ」  ふいに明生の声が固く冷ややかな響きに変った。 「最初から、僕のことなんて問題じゃなかったんだ。週末ごとに、退屈を紛《まぎ》らわせていたのに過ぎなかったのさ、君は。せいぜい貞操を守り通したこと、自慢に思うがいいさ。織田氏なら良くて、僕では駄目なそのごたいそうな貞操とやらを、大事にするんだな」  それだけ一気に喋ると、電話は叩《たた》きつけられるようにして、切れた。  ああ、今たったひとつ後悔していることがあるとすれば、それは明生と愛しあわなかったことなのだ。こんなふうに別れるのなら、あの最初の日から、彼と愛しあえばよかった。  私はあのひとが欲しかった。そして彼も私を欲望していたのだ。それなのに私たちは、二か月の間、小鳥のように唇を重ね合わせただけで、終ってしまった。  私は自分の下した決断に確信がもてないまま、電話室を出た。眼の底にはまだ明生の妻の、あの羨望に満ちた暗い眼差《まなざ》しがちらついて離れない。あんなふうに、彼女が私を見なかったら良かったのに。  空しさが、躰の中で埃のように舞い上がる。突然に背中に砂の感触が蘇《よみが》える。夏の朝、ヨットの甲板で、明生が私の背中に描いた、砂の翼だった。私は思わず手を廻して、ありもしない肩胛骨の上の砂を、払い落そうとした。  しかし砂はそこにざらざらと貼りついて、いくら払ってもいっこうに落ちてなくならないのだった。  マンション  悪い夢に怯《おび》えて、私はふいに眼をあけた。躰が何トンもある石のように重く、冷たい汗にまみれている。  夢の記憶はまったくない。肉体だけがまだ憶えているのか、収縮している。  夜明け前のベッドの中で私を縮みあがらせているのは、恐怖とほとんど区別のつかない絶望感だった。  大急ぎで自分を絶望させるような日常の出来事を思い出そうとしたが、そんなものは何ひとつ思い浮ばない。昨日の土曜日は昼頃起きだして、たいして必要もないインテリア用品を代官山《だいかんやま》で二つ三つ買った(その証拠にまだ車のトランクの中に放りこんであるままだ。買ったクッションの色さえろくに憶えていない。第一クッションであったかどうかも怪しいものだ。テーブルクロスを買ったのかもしれない。いずれにしろ物に対する欲望は薄い)。  昨夜は女友だち三人でチャールストンで飲み、ディスコへ流れようということになってそこを出た時には、自然に六人になっていた。  別に結婚相手を探しているわけではないのだから、快い相手であればいいわけだった。  三人の男たちは、可もなく不可もなかった。踊りは下手《へた》ではないが、上手《じようず》すぎもしなかったので、それで良かった。ディスコで上手に踊りまくる男ほど、女をしらけさせるものはないから。ひとりは結婚していて、ひとりは独身で、もうひとりは離婚をしたばかりだと言った。みんな嘘《うそ》かもしれない。  その点、女たちの方だって似たようなものだった。マミコは結婚しているし、クローディアは二度も離婚した女だし、私は目下のところ成功した二十歳近くも年上のカメラマンのアマンだった。  ただし触れこみは全員既婚者。予防線を張ったわけではない。夜中に六本木あたりで遊んでいる女たちは、夫がいようがいまいが、その気になれば平然としたものである。  昨夜、浮気な妻の役割を進んで演じたのは、クローディアだけで、マミコと私はそれぞれ属する男のベッドへ帰って行った。  もっともクローディアが三人のうちどの男を彼女のアパルトマンに連れ込んだのかは定かでない。三人一緒だったかもしれないし、どたんばになって気が変わったかもしれない。その種の報告はお互い一切しない。  私の心臓の鼓動がようやく平常に戻った。だが胸骨のあたりを締めあげられるような感覚だけは、執拗《しつよう》に残っている。夢の断片のひとつが、不吉な黒い鳥のように、脳裡《のうり》で羽ばたく。  すると生温《なまあたた》かい風のようなものが、内側から襲いかかる。風は私を不安にする。  今日一日の中に、何か厭《いや》な計画があるのかもしれない。気の進まない予定があったのかもしれない。けれども、いくら考えてもそれらしいものは思い浮ばない。第一、仕事以外の計画など、この三か月ほどたてたことなどなかった。予定というほどのこともないが、強いて言えばマミコとヴァレンチノの春の服を見に行く約束が、漠然とだがしてある。  私を絶望に追いやるようなさしせまった理由は、どこにもみあたらない。  亮《あきら》を仙台にひとりで発たせた直後の頃の、後遺症にちがいない。あの頃は彼からの電話に敏感に反応したものだ。電話そのものの存在に敏感だった。  初めのうちは、酒に酔った時にかぎり、彼は電話をしてきた。それも月を追う毎《ごと》に減っていった。それでも、ひとりで所在なくしていると、心の片隅で電話を待ち続けることが第二の習性のようになっていた。たえず爪《つめ》を噛《か》み少し青ざめて。自宅の電話はごく少数の人にしか教えていなかったので、たまにベルが鳴ると、心臓が縮み上がって痙攣《けいれん》した。電話がまったくかからなくなってしまうことより、このたまに鳴る電話そのものが、耐えがたかった。  だしぬけに、夢の記憶が蘇《よみがえ》った。黒い不吉な鳥のように思えたのは、あれは受話器だったのにちがいない。  夢の中で電話のベルがけたたましく鳴り響いていた。私は走り寄ろうとするのだが金縛《かなしば》りにあったようで動けない。手だけが必死に受話器に向かって伸びるだけだ。  早くしないとベルが止まってしまう。相手が電話を切ってしまう。冷たい汗が吹きだす。  とうとう受話器に手がかかる。そのとたん、ベルが止まる。電話が死ぬ。私は不要になった手を受話器から引いて、それで自分の肩を固く抱きしめる。できるだけ小さく縮こまって、その深い奈落《ならく》のような絶望感に耐える。耐えながら、受話器を取る直前に電話が切れてしまったことに、なぜか安堵《あんど》している自分をみつめる。そこでいつも眼が覚めるのだ。眼を覚ますと、そこはかつての私自身の部屋ではなく、電話器もまた別のものだった。  そんなことが続いたあげく、電話に自分の生活のすべてを託するような生き方を止めてしまってから久しいのに、ときどき夢が残酷なまでに生々しく、当時を再現するのだ。私はベッドの中で上半身を起こすと、隣で眠っている男の寝顔を眺《なが》めた。  張りを失いかけた顔立ち。男たちは四十歳を過ぎると寝顔に悲哀感を漂わせる。無防備な悲哀感。それゆえに少し滑稽《こつけい》でもある。  考えてみれば、かつての電話の役割を、彼、谷村が果たしているわけだ。電話が当時私に自分は決して誰からも完全に忘れ去られたわけではないと保証したように、現在は谷村がそれを保証する。ゴルフで川奈《かわな》へ出かけないかぎり、土曜の夜、彼はふたりの隠れ家であるマンションに泊っていく。  もっとも電話はおそろしく気まぐれで、一方的で暴君のように私を支配したことがあったが、谷村は穏やかだ。去勢され、牙《きば》と爪とを抜かれた虎《とら》のようにおとなしい。  この男を自分と共有しているもうひとりの女について、私はほとんど考えなかった。  けれどもこの朝にかぎり、暁の白さが窓のブラインドの隙《す》き間《ま》を通して忍びこんでくる孤独な時刻にひとり眼覚めていると、男の寝顔に見たことのない彼の妻の顔が重なる。  見知らぬ女は不幸そうな顔つきをしている。自分よりもずっと若くて自由でわがままな女に夫を奪われたら、妻たるもの不幸そうな顔つきになるのはあたりまえだ。  すっかり奪われてしまったのならまた別の表情になるかもしれないが、他の女と夫を共有しなければならない妻たちの顔は、だいたいにおいて悲しげで棘々《とげとげ》しい。般若《はんにや》の顔だ。そういう表情が、夫たちをいっそう妻たちから遠ざけるのを、知らないのだろうか。  もっとも谷村は妻子を絶対に見捨てまい。若い女のために、あまりにも簡単に妻や子を捨ててしまう男というものは、かえって信用がならない。いずれ同じように容赦《ようしや》なく女を置き去りにしていくのに、きまっている。  そうした酷薄な男たちよりは、谷村敬士は信頼できる。いずれ別れる時は来るだろうが、それを先に告げるのは、彼の方ではなく私の方だ。  その点だけは、絶対に違わないだろう。たとえ、彼の気持が先に冷えたとしても、谷村は自分の方からは言いだすまい。こちらがそれに気づくまで待って、私の方から立ち去るようにしむけるだろう。  私は彼の枕《まくら》に付着している私自身の柔らかい毛髪を一本つまみあげると、再び彼を見つめた。だけど結局、そういう優しさこそ残酷なのではないだろうか。  女の方から捨てたと思わせて、実際は自分が女を捨てるのだ。優しさからの発想であろうとなかろうと、いつかはいずれこの部屋を去らねばならないことだけは確かだった。初めて来た時と同じように、スーツケースひとつと歯ブラシを一本だけ持って——。  出逢《であ》いというのは常に、なんという偶然であることか。そして私たちは毎日無数の新しい出逢いを体験している。  擦れ違って行き過ぎることが大半である。時には振り向くことはあるかもしれない。チラッと視線を合わせることも。それでもほとんどの場合、男と女は無言で行き過ぎていく。  私たちが最初に出逢ったのは、銀座のuというクラブだった。むろんそんなところへひとりで出かけて行ったわけではなく、スポンサーの誰かに連れられて行ったのだった。  谷村は、さして広くもないクラブの席で、ふたりの和服のホステスに囲まれていた。ほかに客がいなかったので、気がついただけだ。灰色のスーツを着てホステスに取りかこまれている中年の男になど、私は頭から興味を抱かなかった。最初の一瞥のあと、私はその男のことを意識から外した。灰色の印象だけが漠然と残っただけだった。  それから二週間もたたない内に、彼に再会したのは、アパートの近くの小さな焼き鳥屋であった。仕事帰りで時間も遅かったが、味の良いので有名なその店は、まだかなり混んでいた。私の顔を見ると、カウンターの中から顔見知りのマスターが、いらっしゃいと言って、ひとつだけ空いていた席を示した。  そんなふうに、週に一、二度、私はカウンターで焼鳥をサカナに日本酒の熱燗《あつかん》を一本頼み、最後に海苔《のり》か鳥茶漬けでたったひとりの夕食を済ませる習慣が出来ていた。  その夜、隣りにいたのが、谷村だった。私は全く気がつかなかったのだが、彼の方が覚えていて、銀座のuの名をあげた。 「あんな場所にひどく場違いなお嬢さんだったから、印象に残ったんですよ」  高価な和服を着ているホステスたちの中へ、あいかわらずジーンズに、中古の革のボンバージャケットなど着て、ふらりと現われたのだから、多分彼のいうように場違いな客に見えたのだろう。それでも私は眼を細め、uの内部を記憶の中から蘇《よみが》えらせようとした。 「あっ、あの灰色の男《ひと》——」  思わず、叫んで、自分の言い方に笑い出した。谷村もつられて笑った。 「灰色のひとか。なるほどね、中年男を言い得て妙だね」  それが、正確には私たちの出逢いだった。ほんの偶然のいたずら。  けれども、私たちはそのまま擦れ違って行き過ぎなかった。なぜだろう? なぜ、谷村敬士なら良くて、たとえばあの夜、私の右隣りで陽気な酒を飲んでいた若い男の方ではいけなかったのか? ということは、偶然というのは、かなり必然と近いのではないのだろうか? 必然にかぎりなく近い偶然——。  自分の持ちものを増やさないということは、自分の身を守ることになる。人が一度《ひとたび》持ちものを増やし始めると、その数はかぎりなく増えつづけるものだ。  そうすると人というものは、次には手に入れたものを失うことを恐れるようになる。宝石を手に入れれば盗難を恐れ、絵画を買えば火事を恐れる。高価な毛皮なら煙草《たばこ》の焼けこげを押しつけられるのが心配で苛々《いらいら》するし、家を持てば天災人災が気になる。  結局がんじがらめ。身動きができなくなる。手放すまい、失うまいと戦々恐々《せんせんきようきよう》とする。私が生きてきた二十七年間に、持ちものをスーツケース一杯以上に増やそうとしないのは、そのせいだ。物が少なければ少ないほど失うものも少ない。何かを所有することを完全に避ければ、失うものは皆無である。それは物だけでなく人間についても同じことが言える。誰かを愛せば、執着が湧く。執着するということは、その愛を失わないための果てしない不毛な葛藤《かつとう》を意味する。私の母がそうであったように。  私の父親の飽くことのない女狂いのために、彼女は憔悴《しようすい》し、いつも般若のような険《けわ》しい顔をしていた。温《あたた》かみというものの全然ない、こちらの心が凍るような悲しげな表情だった。  父は、次から次へと女たちに貢いだ上、運悪く四十代で事業に失敗した。住みなれた家を追われ、土地を奪われ、自分たちのものだったすべてが一夜にして煙のように消えてしまうのを見た時、私は十四歳だった。  悲憤のあまり母親は病に倒れ、翌年そのまま亡くなった。父親は債権者の凄《すさま》じい追及を逃がれるために、姿を消していた。私は父の兄にひきとられ、大学へやってもらった。  以来、父に逢っていない。めずらしい話でも何でもない。よくあることだ。毎日の新聞にその種の記事は事欠かない。事業倒産。蒸発。自殺……。  男と女の愛など、所詮《しよせん》、最初からつりあわないものだから、葛藤するだけ無駄というものだ。  その意味で、現在の谷村との関係は私に合っていた。かつて母を不幸にした女の側に自分を立たせることによって、外側から母の苦悩が見えた。  少女の頃あれほど心の底から憎んでいたのは、実は母の敵であった女たちではなく、苦悩する母親そのものであった、ということにも、気がついた。私が憎んだのは母の不幸であった。不幸そのもののみすぼらしさ、いぎたなさであった。  母親のようにだけはなるまい、と少女の心に誓った。それは今でも変りはない。  昨日もクローディアたちとパブで飲んでいた時、三人の話題が将来のことに及んだ。 「ワタシ、マタ結婚スルワ」  とクローディアが流暢《りゆうちよう》な日本語で言った。二度の結婚でふたりの男から学んだのだ。 「よくも懲《こ》りずに結婚だなんて。三度目よ」  とマミコが言った。 「結婚ニハ懲リナイノヨ。懲リルノハ離婚ヨ。ダカラ、ワタシ、結婚何度デモスルワ」 「相手はやっぱり日本人?」 「ウン。日本人ヨ、ゼッタイ」 「どうして、クローディア? もう日本人の男はさんざんだって喚《わめ》いてたじゃないの」 「ダカラ、イイノヨ。サンザンナトコロガ、タマラナイノヨ。日本人ノ男ッテ、スッゴク憎ラシイケド、マタスッゴク愛《イト》シイノネ」 「あたしは一度でいいわ」  とマミコが言った。 「一生ひとりの亭主でいいわ。ひとりだけでも大変なのに、次から次へと苦労したいなどと死んでも思わない。男なんて、みんな同じよ。ひとりの中にすべての男の原形があるのよ」 「ケイハ、ドウスルノ?」  とクローディアがソルティードッグのグラスについた塩を嘗《な》めながら訊《き》いた。 「私は尼《あま》さんになる」 「ケイが!?」  と、二人は顔を見合わせて吹きだした。 「まさか。ほかの女ならともかくケイが尼さんなんかに」 「あら、本気よ。いずれ尼さんになると心にきめてあれば、怖《こわ》いものなんてないもの」 「怖いものなんて、あなたに何があるのよ?」  マミコが不思議そうな顔をした。 「美貌《びぼう》で才能があって自由で、とびきり若いとは言えないまでも、どんな男だって本気で欲しいとさえ思えば、手あたり次第自分のものになるあなたがよ」 「マミコ、それはね、少し口はばったい言い方だけど、短い人生の中で、早々に自分の頂点に立ってしまった人間だけに見える恐怖なのよ。私にはそのピークが人より少し早く来てしまっただけ。十八の時から、アルバイトでTVのCF制作を始めて二十二で卒業すると同時にD社の坂出室というCFグループの正社員になったわ。それから三年間、あれほど充実している時代はなかったもの。その頃がピークね。感性的にも肉体的にもそうだったし、お金も適当にあったし、今よりはるかに良質の男たちに取り囲まれてもいたわ。でもその事に気づいた時には、それが手指からこぼれ落ちる砂のように、自分から少しずつ剥がれていく事実もまた見えていたの。もし私が別の生き方をしていて、絵を描いたり小説を書いていたとしたら、きっと人生のピークはずっと遅れてくるはずだわ。たとえ普通に結婚して子供を生んだとしても、女としての完成は三十五前後だっていうもの。たまたまCF制作という流行に超敏感なベルトコンベアーに乗ってしまったための悲劇よ。おかげで現在の私の心境は、仕事にしがみついているオールドミスってところね」 「それにしてはお若くて、綺麗《きれい》で優雅でございますこと。でも、だからといって急いで尼さんになることもないでしょ」 「もちろんよ。急いでなんていません、私。ゆっくりできるだけ引き延ばして、これ以上一歩もだめだというところで、バッタリと尼寺へ倒れこむわよ。つまり最後の避難所ってところね。いつでも逃げこめる場所を、今から心の中に確保しておきさえすれば、いいの」  むろん尼寺|云々《うんぬん》は、本気で言っているわけではない。たとえばの話だ。  そのために普段から、気をつけていることは、自分の所有するものを極力少なくしておく、ということだった。  でなければいざという時、浮き世のしがらみに縛られて振りきれるものではない。谷村との関係が正《まさ》にそうだ。もともとほかの女に属する男なのだから、彼女に返してやればそれですむ。 「ワタシナラ、自殺スル」  とクローディア。 「ヤリタイコトヤリツクシテ、自殺スル」 「あたしはお金ためて、鎌倉《かまくら》の海の見える場所にお墓を買うわ。いつかはそこで眠ることになるんだから」 「おいおいきみたち」  と、男のひとりが言った。 「自殺だとか尼さんだとか墓だとか、顔や若さに似合わずすごい事を言うねえ」  クローディアの自殺もマミコのお墓も、結局は私の言う尼さんと同じことなのだ。自分を安全に匿《かくま》ってくれる避難所——。  クローディアは孤独を死ぬほど恐れている。だから懲りもせず三回でも四回でも結婚するつもりなのだ。マミコもそう。彼女は土地や家や子供たちに執着している。 「マミコはもっとダンナ様を大事にすべきよ」  と私がからかった。 「私たちみたいな不良と遊び歩いていると、そのうちに離縁されるわよ」 「大丈夫。あたしは絶対に不貞だけは働かないもの。女と夜遊びしたって何が起こるっていうの? それにあたしが遊ぶのは、亭主が浮気してくる夜にかぎるの。しかも彼が帰宅する二時間前には家に戻っているわ」 「用心深いのね」 「決定的な弱味を作らないだけよ」 「デモ、何デケイハ、尼サンニナロウト思ッタ?」  最後にクローディアが神妙な表情で訊いた。 「いつだったか、私何かで読んだのよ。尼さんてね、自分自身のものは何も持っていないの。お皿もお鍋もないの。その時ね、私、漠然と自分に似ているな、と思ったのよ。もちろん尼さんのようにはいかないけど、アパートも車も家具も、みんな借物だけどあったし……。彼女たちの持ちものは、聖衣二枚とバケツひとつ。あとにも先にもこれだけ。つまり一枚が汚れたら残りの一枚に着替えて、バケツで洗う。見事に簡素でしょ。あの記事を読んだ時、息がとまりそうだった。ああ、うらやましい、と思ったのが偽《いつわ》らざる最初の感想。眼から鱗《うろこ》が落ちるって、ああいう状態を言うんだと思う。何も所有しないということが、どんなにか心を平和にしてくれるだろうと思ったわ。しかもね、その二枚の聖衣とバケツでさえ厳密には彼女たちのものじゃないのよ、神さまからの借物ね」 「裸の肉体以外、何も自分に属していないのね、強いなあ」  とマミコが溜息《ためいき》をついた。 「その肉体も借物なのよ。彼女たちは躰《からだ》も魂もすべてを神に捧げてしまったのですもの」  自分はまだ、いろいろなものに未練を抱いて捨てきれずにいる、と私は心の中で思った。  スーツケース一杯分の下着類や絹やセーター、幾組かのピアス。子供の時の何枚かの写真。昔とても好きだった男の子の髪をひとふさ。幾つかの手紙。十九、二十、二十一歳と三年間続けた三年連用の日記帳一冊。数冊の書物。亮《あきら》との四年間の記憶、そうしたものが、まだ手放せないでいる。 「何もかも振り切って尼寺へ行こう」  と、私は自分自身に言いきかせるように、言った。 「もっとも、歯ブラシ一本だけは持っていくと思うけど」 「あなたが人から悪女だって言われるのは、きっとそのせいね」  と、感嘆したようにマミコが言った。 「何かに執着しないから、時としてすごく冷淡にとられるのよ。強い女だと思われるの。でも本当は、反対なんじゃないかしら。中心のどこかがとても脆《もろ》いのよ。だからその脆いところを防備するために、態度を武装するというわけ」 「ケイハ、トックニ尼サンニ、ナッテルノヨ。気ガツイテイナイ? アナタノ肉体ト魂ト、スーツケースヒトツ分ノ荷物ト、歯ブラシ、ソレダケハマダアナタニ属スルケド。ケイハ、モウ、八〇パーセント、尼サンヨ」 「危険な尼さんね」  とマミコが笑った。 「尼さんの悪女ってとこだわ」  谷村が不意に瞼《まぶた》を上げたので、私はちょっとびっくりした。  男の瞳《ひとみ》はたった今眠りからさめた人のようではなかった。私は彼の唇の横のホクロに接吻《せつぷん》してから、やさしく言った。 「前から眼を覚ましていたんでしょう。寝たふりをしていたのね。どうして?」 「瞼の隙《す》き間《ま》から、君を眺めていた」  と、彼は低い平静な声で答えた。 「じゃ私たち、お互いにみつめあってたわけね。私はあなたの寝顔を眺めていたのよ」 「おかげで顔がひりひりしたよ」 「あなた、悲愴《ひそう》な顔して眠っていたわ。この世に自分ほど悲劇的な男はいないっていわんばかり……」  それが少なからず滑稽に見えたことは言わなかった。 「瞼の隙き間から眺めた君の顔は、とても綺麗だった」  そう言って谷村は片手を私の頬《ほお》にあてた。 「綺麗だったけど、眉間《みけん》に皺《しわ》を刻んで、なんとなく哀《かな》しそうだった。君がああいう表情をすると、なぜかぼくは何時もフランソワーズ・サガンの小説に登場する若い女主人公を思い浮べてしまうんだ。退屈していて途方にくれた若い女を」  それは事実だ、と私は思った。私は途方にくれて、仕事以外の時にはたいてい退屈している。  こちらの心の内を読みとったかのように、谷村は私の頭を自分の胸の上に引き寄せて慰めるように、言った。 「ぼくに何かしてあげることができれば、とっくにそうしているさ。ところが、君という女《ひと》は、他人が少しでも入りこんできそうだと感じとると、貝のように収縮してふたを閉じるんだ」  男の温い掌《てのひら》が、私の髪を無意識に撫《な》でる。 「君はきっと、とても臆病《おくびよう》なんだろうな。おそらくそうなんだ。だから、普通、ひとが人生と呼ぶものから、少しだけ脇道《わきみち》に逸《そ》れるんだよ。つまりとびこんで人を愛したり、本物の苦しい恋に身を焼いたり、健全な範囲での物質的な欲望をしりぞけたりするんだ。君が何を恐れているかについて、ぼくはよくわからないけど、退屈したり途方にくれたりするのは、君がすっかり人を心から愛することを止めてしまったからだと思うよ。ぼくが言う意味わかるね? 君のめんどうをみるのはうれしいし、ある意味ではぼくの生き甲斐《がい》でもあるんだけど」 「でも私、人を愛したり、苦しい恋に本気で身を焼くことなどが真に生きるということなら、もう充分にやってしまったの。だから私は今のままで満足だわ」  私は男の厚い胸に額を押しつけて、眼を閉じた。 「君がそれでいいというのなら、いいさ。もしそれで君が幸福ならね」 「私、今、この瞬間なら幸福よ」  燃え上がるような激しさはないが、谷村への思いはぬくぬくと快く温かった。  私は彼の手を取ると、その大きな掌の中へそっと口づけをした。自分が一瞬満たされ、やさしい思いで胸がつまり、彼を幸せにしてあげることができるような気さえした。こういう感情を抱くことを、幸福というのではないだろうか。  そしてそれは次の瞬間には旋風《つむじかぜ》のように吹き去ってしまう束の間の思いであろうとも、錯覚であろうとも、私の胸に去来した感動であることだけはまちがいない。 「今夜は、どうなさる?」  谷村の胸の上から頭を引きながら、私はさりげなく訊《たず》ねる。 「そうだね。自宅《うち》へ戻るよ」 「そう」  私は勢いよく両肢《りようあし》を床の上へ下ろす。 「うれしそうだね」 「そうよ、事実うれしいんですもの。ううん、誤解しないで。あなたと一緒にいるのは好きよ。楽しいわ。でも、あなたがここを引き上げて帰ってしまった時から、私はあなたのことを何倍も考えるの。あなたが眼の前にいると決してあなたのことを考えたりしないけど、不在になった時から、心からあなたのことを思い始めるの。あなたは私が望むように行動し、私の望む言葉だけを喋《しやべ》る」 「変わった女だよ、君は」  と、谷村は上半身を起こして、じっと私をみつめた。 「男ってものは、時には自分の好きな女に、淋《さび》しい思いを味わわせたいものなんだ。そして正直に淋しいと訴えかけられたい動物なんだよ」  私は遠くを眺めるような眼をして、下唇を噛《か》んだ。漠然とだが、私自身が言った言葉の意味は、別の表現を使えば、谷村の言葉と同じことなのではないか、とそんなふうに思った。思ったが、口に出さなかった。  その時、ベッドサイドの電話が鳴った。私はびくっとして躰を固くする。七時を少し過ぎたばかりだ。そんな時間に普段眼覚めているのは、幼稚園児をもつマミコくらいのものだ。私は三つめの呼び出し《ベル》の途中で受話器をとった。 「谷村をお願いします」  と、いきなり電話の相手が言うのが聞こえた。高飛車《たかびしや》ではないが、感情のこもらない冷えた声。相手を完全に無視した声。  だが、無視しようとする意図があまりにも露骨なので、かえって意識してしまっていることが露見していた。  ふいに、私は母の姿を思い出した。母は朝といわず夜中といわず、夫の泊っている女の家へ電話をかけた。その時の母の声は、今耳にした谷村の妻とそっくりだった。いきなり「一郎をお願いします」と、父の名を言ってきりだすやり方も、全く同じだ。  父が出ると、いいかげんにして下さいよ、とそれだけ言って、自分の方から電話を切った。父に電話をかけるというよりは、相手の女をいかに無視しているかわからせるためにしているように私には思えたものだ。母は、父の女たちを蛇蝎《だかつ》のごとく忌《い》み嫌っていた。  私も谷村の妻から、忌み嫌われているのか、と思うと、あの頃母を哀れんだように谷村の妻を哀れんだ。そしてその哀れさゆえに母が憎かったように、彼女が憎かった。 「もしもし、谷村をお願いします」  相手が同じ言葉をくりかえした。語気がわずかに強くなっているので、今度は明らかに高飛車な感じがする。 「この電話がどこにあるかご存じかしら」  と、私は眉《まゆ》ひとつ動かさずに、むしろ楽し気に言った。 「寝室ですわ。ですから、少なくともノックくらいなさるのが礼儀というものよ」  相手の息を呑《の》む気配が伝わってくる。傍で谷村が電話の相手の正体がわかったのか、額を曇らせて、手を伸ばしかける。その手を身をよじるようにしてかわすと私は続けた。 「いきなり寝室へずかずかと踏みこまれたら、誰だってびっくりしますし、嫌な気分なものよ。踏みこむ方だって、ショックを受けるかもしれなくてよ。私たち、愛しあっている最中だってこともありえるでしょ。現に、愛しあっているんだけど——」  いつのまにか、母に向かって喋っているような錯覚に陥っていた。  その時谷村の手が伸びて、私の手から受話器を取り上げるかわりに、指先で電話を切ってしまった。内心はともかく、外見からはひどく怒っているようには見えない。 「怒らないの? 私に腹がたたないの?」  その質問には答えず、 「仕事柄《しごとがら》、居場所は常に明らかにしてあるんだ」  と、答えただけだった。 「多分、仕事の緊急の連絡だったんだろう」 「それなら、すぐ電話かけ直したら?」 「うん。あとでするよ」 「でも緊急なんでしょ? 私がいるとしにくいのなら、バスルームに消えていてあげましょうか?」 「うるさいな、あとですると言ったろう」  谷村が珍しく声を荒立てた。 「もういいよ、黙っていてくれ。それから今後妻から電話が入ったら、黙って取りついでくれないか。君が彼女に辛《つら》く当る法はないんだから」  もう充分辛い思いをしているんだから、というニュアンスが言外に含まれていた。 「あちらには、その権利があるっていうわけね?」  と、私は急に投げ槍《やり》に言った。 「いきなり土足でふみこんでくるような無礼な言い方をしても、妻の方は許されるというわけなのね?」 「そうは言っていないだろう」  谷村は明らかに不機嫌に口をつぐんだ。それから、 「じゃ訊くけど、彼女は君に何て言ったら良かったのかね? 谷村をお願いします。じゃ駄目だというのなら、おそれ入りますが、とか、愛しあっている最中申しわけございませんが、とか、そんな前置きを言いさえすれば、気持よく君は電話を家内に取りついでくれるのかい」  と、次第に興奮して言った。 「冗談じゃない。自分の亭主の浮気の相手に向かって、誰が——」  そう言ってしまってから、さすがに言い過ぎたと気づいて、谷村は黙りこんだ。 「とうとう本音が出たわね」  私は自分の瞳が光るのを感じた。 「昔の男には、もっと甲斐性ってものがあったわ。二号をもつほどの男なら、自分の妻をちゃんと躾《しつ》けたものよ。女房が女房なら、その夫も夫ね」 「そりゃ君、二号の質にもよるんじゃないかね」  と掌《てのひら》を返したように、皮肉な冷えた声で谷村が言い返した。先刻までの穏和な去勢された感じは嘘のように消えている。 「君は厭な女だな。敵意に満ちて、ひねくれているよ。もろいところがあって可愛《かわい》い女だと思ったのは、ぼくの錯覚だった」 「さっきとまるで違うことを言うのね。十分前には、退屈していて途方にくれた女だっていうふうに、多少は詩的に私のことを表現したけど」  なんでこんなふうになってしまったのかと、内心当惑しながら、私は言い返した。谷村を怒らせるつもりなどなかったのだ。私はベッドサイドの電話をじっと見た。電話のせいなのだ。  谷村の妻が、あんなふうに土足でこちらの自尊心を踏みにじったことが許せなかった。まだ自分の心だけは私に属しているからだ。そこへずかずかと入りこんでくるのが我慢できなかった。私はまだ当分尼さんにはなれそうもない、と思った。 「君が出る必要はない。ぼくが出るから」  と、少しして谷村敬士が言った。 「君はさっきぼくをばかにしたけど、これでも女を裸で放り出すほど、無頼漢じゃないんだ。今の君は最低だけど、この五か月間ぼくは楽しかった。このマンションは、君のものだよ」 「手切れ金ってわけ? そんなものいらないわ」 「君と知り合ってすぐにこれを買った時、君の名義にしておいたんだ。黙って受け取りたまえ」 「あなたはそれでいい格好できて満足でしょうけど、私、迷惑だわ」  マンションなど死んだって所有するものか。罠《わな》にかかったような感じだ。私に支えきれるのは中型のスーツケースひとつと歯ブラシ一本が限度だ。 「税金までちゃんとしてあげたんだぜ。マンションが欲しくないなんて、君も今時珍しい女だな」  と谷村はちょっと驚いたように私をみつめ、それから肩をすくめると「じゃ」と言って踵《きびす》を返した。 「じゃまた」  と、いつものようには言わなかった。  取り返しのつかない思いにかられて、私は男のあとを追おうとした。けれども自分が取り戻したいのは谷村敬士ではなく、スーツケースひとつの身軽な自分自身なのだと気づくと、その場に呆然《ぼうぜん》と立ちつくした。  マンションなんて、欲しくないのに。肩に真新しい重荷が、かつて体験したことのない忌《いまわ》しい重荷が、ずっしりとのしかかるのがわかった。  長い時間が過ぎて、疲れた眼で室内を見まわした。  昼に近い陽光が少し埃《ほこり》を吸って黄ばんだレースのカーテンごしに、灰色のカーペットの上に落ちている。  あのカーテンを洗わなくては、と思わず呟いた。それからあんな陰鬱《いんうつ》な灰色ではなく、温い感じのするベージュのカーペットに替えよう、と思った。するとベッド・カヴァーもスタンドも何もかも気に入らなかった。  他人の所有と思っているうちは何気なく見落せたものが、いちいち気になるのだった。だしぬけに無数の蔦《つた》のようなものが床の上から伸びてきて、私の手足にしっかりと絡みつくのを感じた。  すると同時に、私の中にともっていた簡素な尼寺のイメージが、私の唯一の避難所が、明け方の灯台のともしびのように急速に光を失い、やがてすっかり消えてしまうのを、見たように思った。  暗い鏡  このところ、制作スタッフが好んでいく海鮮料理店は赤坂《あかさか》にある。  元伯爵だか公爵の屋敷を改造した店で、幾つもあった部屋をつなげたために、店内にはそれぞれ趣きの異なる暖炉が四つついている。  冬の夜にはそれらの暖炉に本物の薪《まき》がくべられ、赫々《あかあか》と燃えているのだが、それ以外の季節は灰がきれいに掃除され、小枝や薪が、いかにもマッチ一本でいつでも燃やせるような具合にセットされている。  暖炉の雰囲気にあわせて、テーブルの形や材質が違うのが、もうひとつの特色だった。  私たちのグループが一番好きなのは、煉瓦《れんが》を積み上げて造ってある暖炉のコーナーで、アーリー・アメリカン時代の部厚い木のテーブルが配してある。みるからに年輪を重ねたどっしりとしたものだ。  ほかにはフィリピンあたりの籐《とう》を使ったダイニング・セットとか、赤黒い漆《うるし》をたんねんに塗りこんだテーブルとか、フランスの田舎《いなか》の台所で調理台に使われたようなものなどがあるが、そういった年代も形も色もばらばらで何ひとつ統一がとれていないにもかかわらず、店内の様子には不思議な寛《くつ》ろぎ、落着きがあった。  木製のボールに山盛りに盛られた塩ゆでの海老《えび》が、テーブルに無造作に置かれ、注文しておいた食前酒が各々の前に置かれる。  制作室長の坂出が、乾杯の音頭をとった。 「今回は予算にかなり無理があったのにもかかわらず、みんなよくがんばってくれたと思う。CFも非常に良い出来で——多分今年の前半では我が社のナンバーワンに入るんじゃないかな、——とにかく出色の出来だったことは、私が保証するよ」 「でも室長、こういうのが前例だと困るんじゃないですか、あっちこっちのクライアントが先を争って予算を減らし始めたりしてさあ」  カメラの大助が横から言って、みんなを笑わせる。 「もう仕事の話は止《よ》そうや、酒がまずくなるよ」  と、CFディレクターの吉見敬三。 「そんなことより大ちゃん、あなただって悪い前例作ったくせに」  と私が言った。 「えっ俺《おれ》?」 「とぼけて。職場結婚というのは困るのよね。しかも由美子ちゃんをこのCFを最後に仕事からひかせるんですって? 横暴だわ、彼女のスタイリストとしての才能を、ここで摘《つ》みとるなんて、フェアじゃないと思うんだけどなあ」 「ちょっと、ちょっとケイ、それはないよ。大体考えてもみてくれよ、彼女の仕事と結婚が両立するわけがない。どうみたって、両立しないよ」 「そりゃそうね、大ちゃんが何にも協力しなければ、両立するわけないわよね。由美ちゃんが、家事全部やらされるんじゃ、とても無理よ」  由美子は向かい側の席でニコニコ笑っている。結婚を数週間後にひかえた若い女性らしい、信頼に満ちた視線を、ときどき婚約者の大助に投げかける。  私はかつて一度でも、そういう視線を男に投げかけたことがあったろうか、とふと思った。無防備なほど信頼のこもった眼差《まなざ》し。  それはちょっと犬の眼を思わせる。言葉というものを持たない犬が、飼い主を全幅の信頼と愛情とをこめた熱い眼差しで、じっと凝視《みつ》めるのに、とてもよく似ている。  しかし彼女は今幸せの中にいて、私たちのやりとりをゲームのように楽しんでいる。おそらく彼女は知らないのだ。大助はこの若い婚約者に半年前のある出来事を知らせてはいないのだ。もっとも知らせる必要などぜんぜんなかった。  池大助が私のアパートの扉を叩《たた》いた夜、私は不在だった。彼は扉に背をもたせるようにして座りこんで、私の帰りを待っていた。谷村敬士のマンションに移るちょっと前の頃だった。  私が戻った時——深夜に近かった。私はお酒を飲んでいたが、酔ってはいなかった——彼は両膝《りようひざ》の間に頭を突っこむような不自然な姿で、みじろぎもしなかった。  とっさに声をかけそびれて、ややためらった後、私は戸口にうずくまっている若い男の肩をそっと押した。 「大ちゃん、起きてよ」  眠ってしまっているとは考えてもいなかった。眠っているというよりは、そのポーズからはうちひしがれている男のような感じが滲《にじ》みでていた。 「起きてるよ」  と大助は少ししてから冷静な声で、低く答えた。  その声の調子に含まれるある種の絶望的な響きが、私を不安にしたのを憶《おぼ》えている。  膝の間に突っこむようにしてうなだれていた大助の顔が次第に上がり、ついに彼は私をじっと見上げた。ヒゲがのびて、頬《ほお》から顎《あご》にかけて濃い影のようなものが走っていた。そのせいで彼は少し汚れて、浮浪者のように見えた。  ふたつの黒い瞳《ひとみ》が、暗い小さな空洞のようだった。その瞬間、彼がもうかなり長いことそこにじっとうずくまって私を待っていたらしいこと、そしてなぜそこにいるのか、更に私に何を求めているのかといったことをすべて、一瞬のうちに私はさとった。彼は私を愛していた。死ぬほど恋こがれていた。  四年近く毎日一緒に仕事をして来た同僚が、しかもその日の四時まで同じ制作室でCFの絵コンテの最終的な詰めをしていた相手が、かつて一度としてそのような素振りをおくびにも出さなかった大助が、今、夜のアパートの冷え冷えとした廊下に、黒い怪鳥のようにうずくまって、声もなく私を見上げているのだった。 「酔っているのね」  私は掠《かす》れた声で言って、ほんの少し後退《あとずさ》った。彼が一滴も酒気を帯びていないことは明らかだったにもかかわらず、そう言わずにはおれなかった。  あなたは酔っているから、従って本気じゃないのよ。酔っているから、こんなばかな真似《まね》して。酔っている人のことなんて、私何ひとつ本気にとらないから、と要するに私はこれから私たちの身に起こるかもしれない気まずい何かを、最初から締《し》めだしてしまったのだった。 「俺、酔っている」  大助は両膝を抱え込んで、ますます寒そうに座っていた。 「ねえ、一晩中そうしているつもり?」  なんだかかわいそうな気もして、私は訊《き》いた。 「うん、一晩中こうしているつもり、俺。だから君はさっさと中へ入って寝ちまえよ」  膝の上に組み合わせた腕に、顎をのせて、彼はそう呟《つぶや》いた。 「じゃ私もつきあう」  私はいきなりそう言って、大助の横に同じように膝を抱えて座った。彼は良いとも悪いとも言わなかった。  秋の終りで、まだコートを着ていなかった。すぐに床や壁から冷気が背に這《は》いのぼってきた。右手奥の階段からは、たえず埃っぽい寒い風が吹き上げていた。大助が微《かす》かに震えているのがわかった。  その震えはただちに私にも伝染した。寒さばかりではない別の何かが加わって、膝頭や歯がガチガチと鳴った。 「寒い?」  と大助が訊いた。私がうなずくと、腰をずらせて躰《からだ》を寄せた。自然な動作だった。私たちは扉の前でぴったりと躰の側面を寄り添わせながらいつまでもじっとしていた。  ときどき猫の鳴き声がした。私は何度も立って、鍵《かぎ》をあけ、部屋の中へ入ってしまいたい衝動と闘わねばならなかった。  純毛の温い毛布にくるまれて眠りたいと、切実に思った。どうして大助なんかの横で、震えながら一晩を過さなければいけないのか、なんとしても解せず、それは泣きたいほど滑稽《こつけい》なのだった。  にもかかわらず、彼だけをその場に置き去りにして、部屋の中へ入ってしまうことはできなかった。大助と触れあっている左側の腕や脇腹《わきばら》や、太腿《ふともも》の側面だけが、とても温かかった。その温かさが、私をその場所に釘《くぎ》づけしているように思えてならなかった。  そして私は絶えず恐れおののいていたのだった。もし少しでも身動きすれば、今にも彼が胸の思いを口にしまいかと、非常に恐れた。そういうことになったら、私は不快さのあまり嘔吐《おうと》してしまうのにちがいない。  血のつながった実の兄が、いきなり愛を告白したら、きっと同じ感じだろう。想像するだけで胸がむかついた。私はじっとうずくまっていた。しかし、大助は身じろぎもしなければ、一言も喋《しやべ》りもせず、息をしているのかさえ、もう定かではなかった。温《ぬく》もりだけがあった。彼は昼のうち太陽の日射しで温められた石のようだった。  暁の最初の白さが、廊下を走り、壁を這い登るのを見た時、危機が去ったのを感じた。私は両脚を行儀悪く投げだして、欠伸《あくび》をした。 「ね、帰る前に入って、コーヒーを飲んでいかない?」 「うん、いいね」  私に負けず屈託《くつたく》のない声で、彼は答えた。  それから私たちは部屋に入り、特別に濃い特別に熱いコーヒーを作って飲んだ。私たちは二杯ずつ飲んだ。晩秋の淡い陽光が、弱々しく床に落ちていた。 「今日の二時の打ち合わせと、明日のCF会議、俺のかわりに出てくれないか」  と、大助が訊いた。普段と少しも変わらない調子だった。 「いいわよ。いいけど大ちゃんどうするの?」 「俺、木金と休んで旅でもして来ようと思うんだ。日曜日には戻るけどさ」  私はうなずいた。 「じゃな」  と言って、彼は立ち上がった。その時私たちの視線が出逢《であ》った。  大助の瞳には、痛み、哀しみ、怒り、諦《あきら》め、寛容、謝罪などといった、ありとあらゆる感情が混《ま》ざり合っていた。あとにも先にもあのように暗い眼の色を見たことはない。次に彼はドアの外側へ身をひるがえして消えた。  翌週の月曜から、彼はいつものように仕事を始めた。どうといって変わった様子もなく普段と同じように、口の悪い池大助に戻っていた。  あまり陽気すぎたり、はしゃぎすぎたりすることで、かえって人を疑わせるという事がよくあるが、そういうふうでもなかった。しごく自然なのだった。だから時折、あの夜のことは私の思い違いか夢だったのではないか、と考えるほどだった。  スタイリストの長沢由美子の左手の薬指で、〇・五カラットほどのダイヤが硬質の輝きを放っている。私自身の指から滑り落ちていったいくつかの指輪のことを思わぬわけにはいかない。二十七歳の今日まで、私の指を通過していった指輪は三つあった。  けれども私が最も欲しかったのは、ひとつだけだ。それは結局、ただの一度も私の指を飾ることはなかったけれど。私たちの束《つか》の間《ま》の結婚の夢、それはまるで海へ投げ捨てられた結婚指輪のように、深く蒼《あお》い海底へと沈んでいってしまった。 「おいおい、ケイ。そんなにひもじそうに由美ちゃんの指輪をみつめてくれるなよ。こっちまで切なくなるじゃないか」  と、吉見が笑いながら軽口をたたく。 「君だってまだ充分いける口なんだからな、そのうち誰《だれ》かがもっとでかいヤツをくれるかもしれんよ」 「そうね、希望は捨てちゃいけないわね」  その時、誰も気づかなかったが、大助が光る眼で私を見た。それは半年前に私の部屋で別れ際に見せたのと同じ眼の色だった。  大助の瞳に現われたその束の間の哀しみが、私をひどくうろたえさせる。私は俯《うつむ》いて、まだほとんど口をつけていない白いワインに手を伸ばした。  料理が運ばれて来て、テーブルの上は大小の皿で一杯になった。中華風サラダや海鮮料理独得のサシミなどが、次々にボーイの器用な箸《はし》さばきで、各自の小皿に取り分けられていく。 「サシミにピーナツやコーンフレークスの砕いたのがのっていて、変なものだと思ったけど、これ案外いけるじゃないか」 「こいつがいいんだよ、この中国のセリの香りが何とも言えないんだね」 「私、このセリ、ベトナム料理でも食べたことあるわ」  と、由美子。  ワインからショーコー酒のオン・ザ・ロックに変わって、料理が進んでいく。  店内のテーブルはほとんど客たちで一杯だった。個性の強い店なので、社用族よりは自由業、タレント、芸能人といった客層が多かった。いくつかのテーブルでたえず軽い笑い声が上がり、食事と同じくらい人々が会話を楽しんでいるのが感じられる。  入口に近い、イタリア製の眼の覚めるような青いタイル張りの暖炉のコーナーから、ひときわ華やかな哄笑《こうしよう》が上がった。八人ほどの男女が、部厚い田舎風のテーブルを囲んで笑いさざめいている。別のテーブルから、何人かの客が、その華やいだ方角をチラと見る。私もつられて眺めた。くだけた服装のグループだった。再び自分のテーブルに視線を戻しかけて、はっとした。  見まちがいだと思って、もう一度、今度はしっかりとその横顔に視線をあてた。まぎれもなく亮《あきら》だった。私の手の中で象牙《ぞうげ》の箸が急に重さを増し、一本、テーブルの上に取り落した。  箸は小皿にあたり、思いのほか大きな音をたてた。小皿が割れ、料理が白いテーブルクロスを汚した。人々の眼がいっせいに私に注がれるのが感じられた。岩井亮もそのひとりだった。  私と亮の視線が、レストランの中央で出逢《であ》った。亮は一瞬たじろいで二度ばかり瞬《まばた》きをしたが、すぐには立ち上がらなかった。立ち上がりそうな気配をみせはしたが、椅子《いす》を後ろに引きかけて思い直したようだった。  彼が思い直したということが、私を傷つけた。あのひとは、躊躇《ちゆうちよ》などすることはないのだ。まっすぐに私のところへ歩いて来るべきなのだ。  食事の間中、もう二度と亮のいる方は見なかった。彼の方を見ないでいると、かえってその存在が私の空《うつ》ろな心の中で巨大に膨《ふく》らんでいくようだ。  料理には手がつけられず、私は飲んでばかりいた。そして亮との間にかわされた過去の、まるで荒れ果てた庭のようだった会話を、ゆっくりと掘り起こしていた。  仙台にビルを建てることになって岩井亮が転勤して行く前、彼は一緒に来いと私に言った。来てくれと哀願もし、最後には暴力をふるって説得しようとまでした。 「おまえが東京に残りたい理由は何なんだ」 「残りたいわけじゃないのよ、一緒に行けないだけなの」  亮が激すればその分だけ逆に冷静になっていった。 「あなたについて行ってどうするの? キャリアを積んだ今の仕事を捨ててまで仙台に行って、それで私は何をするの?」 「俺と暮すだけでは不服なのか?」 「私が一日中あなたの帰りだけを待って暮すなんてこと、できないのを知っているでしょう」 「だったら何か仕事を探せばいいさ」 「どんな仕事?」 「どんな? 探せば何かあるだろう」 「何かって?」 「何かだよ」  亮は苛立《いらだ》った。 「どんな仕事があると思うの?」  私は執拗《しつよう》に喰《く》い下がった。 「いいじゃないか、そんなこと。行ってみなければわからないよ」 「でも行ってしまってからじゃ遅いのよ。CF制作の仕事を放り出して、仙台あたりでスーパーマーケットのレジ係になるなんてこと、私にはできないわ。行っているのは二年だけでしょう? だったら私、こっちで待つわ」 「そんなに仕事が大事か? この俺とのことより仕事の方が大事だというんだな?」 「…………」 「だけどなあ、ケイ、おまえいったいどんな立派な仕事をしているつもりだい? 俺よりも大事な仕事って何なんだ? たかがテレビのコマーシャル作りじゃないか」 「私の仕事が、ビルの設計図を引く仕事に比べて、そう劣るものだとは私は思っていないわ」 「へえ、そうかね、コマーシャルがかね」 「いっそのこと、あなたが東京に残ったらどう?」  と私は口論の終りに捨て鉢な気持で叫んだ。 「女のために男の一生を棒に振れということか?」 「でも私を本当に愛していてくれるなら、できるでしょう、なぜ女だけが愛か仕事かの選択に迫られなければいけないの?」 「そういうのを暴言と言うんだよ。第一、俺は今の仕事が気に入っている。おまえから見れば仙台くんだりまで行って設計図引くなんてばかみたいに見えるかもしれないが、しかしそのばかみたいなことが俺の生き甲斐《がい》なんだよ」 「じゃわかるでしょう。あなたから見ればくだらないかもしれないけど、そのくだらないCF作りも、私の生き甲斐なの」  そして私たちは決裂した。あれから早くも一年が過ぎた。  そっと手が、私の肩に置かれる。私は振り返る。亮がいる。少しも気どらぬ素直な様子で。とたんに私は、自分の手放してしまっていたものの貴重さに、愕然《がくぜん》とする。  振り返る前から、その手が誰に属しているかわかっていた。同じテーブルを囲んでいるCF制作の私の仲間たちが顔を上げて、無言の侵入者をみつめる。  大助の顔に当惑と驚きの入り混じった色が浮んだ。彼だけは以前、数回亮に逢っていた。私の婚約者として紹介したはずだった。  亮は微かに大助にむかって会釈してから、私に言った。 「しばらくだね」 「ほんとね、一年ぶり」  自分で意図したよりずっと明るい声で私はそう答えた。 「あなたが戻っていたの、知らなかったわ」  もし声に恨みがましい響きが少しでもこもったら、私は自分を軽蔑《けいべつ》したろう。  私の表面の陽気さにつられて、亮も軽く言った。 「まだ一週間さ」 「二年の契約じゃなかったの、仙台の仕事?」 「うん、多分そっちはもう少し延びるんじゃないかと思うんだ。今回の上京は半分私用でね、あと二、三日で仙台へ戻るよ」  その私用のうちにはどうやら私は含まれていないらしい。そう思ったとたん急激に力が萎《な》えるのがわかる。 「ちょっとだけ席を外せる?」  と彼は私の同僚たちに気兼ねして声を落した。  私は室長の坂出に断って、椅子を立った。  レストランの別室に小さなカウンターバーがある。私たちはそこへ場所を変えた。  途中で彼のテーブルを通り過ぎる時、身をかがめて同席の人たちに亮は小声で何か言った。三人いる若い女たちがいっせいに顔を上げて私を見た。ふたりは軽く微笑していたが、ひとりは笑ってはいなかった。ほとんど無表情な白い顔が、つんとして横を向いた。  私にはその見知らぬ女の微かな敵意の理由がわからなかったが、彼女が抱いた敵意の量と同じだけ、私も彼女を嫌っているのがわかる。  バーのカウンターに座ると、レストランの方は中国の屏風《びようぶ》に遮《さえぎ》られて見えなくなった。亮の肩から、こころなしか力が抜けたような気がする。 「手紙を何度か書きかけたよ」  と少ししてぽつりと言った。 「でも、出さなかった。……そうでしょ?」 「ま、そういうことになるね」  彼はオン・ザ・ロックのウイスキーを三口であけてしまう。私は黙ってそれを眺める。 「どうしてた? 見たところは元気そうだけど」  やがて彼はまともにこちらの顔を覗《のぞ》きこんで、そう訊《き》く。その短い質問に、実に多くの思い入れがこめられていることを、私は感じずにはおれない。  仕事はどうなんだ? 君自身は幸せなのか? この一年をどんなふうに生きて来たのか。今、男はいるのか、あるいは誰かと同棲《どうせい》しているのか、結婚をしてしまったのか。少なくとも、君は今不幸じゃないだろうね——。  私は亮の顔を同じ程度の思いをこめて、深々と見返す。そして肩をすくめて薄く微笑する。  ——仕事は相変らずよ、それに私はもちろん幸せじゃないけど、かといって今はもうそれほど不幸でもないわ。この一年をどんなふうに暮らしたのか、そんなことはとうてい一口で説明できないし、言いたくもないけど。今私には男はいないし、従って誰とも同棲してもいないってわけ——。 「私が不幸そうに見える?」 「ぜんぜん。君はものすごく君自身で、もう俺なんかが入りこむ余地なぞ、どこを探してもなさそうだよ」  それは自分を卑下するというよりはむしろ、言いわけのように私の耳には聞こえる。  今更彼にどんな言いわけが残っているというのだろう。与えられ、同時に奪い取られた愛の記憶がよみがえり、私は息がつまりそうになる。心の中がどうしようもないほど泡立ってくる。 「入りこむつもりなんて、毛頭ないくせに」  私がそう力なく言っても、彼はそれを無視する。あるいは聞こえなかったのかもしれない。 「東京へは何か大事な用だったの?」  今度は私の方から会話の糸口をほぐす。 「まあな」 「ここで偶然私に逢わなかったら、黙って帰ってしまうつもりだった、仙台へ?」  彼は少し考えるようなあいまいな表情をしてから 「うん、多分な。多分そうしてただろうね」  と、率直に答えた。  いや、そんなことはないさ、いずれ連絡をするつもりだった、と嘘《うそ》をつかれるよりは、よほど誠実だと思った。しかしその誠実さが無数の画鋲《がびよう》のように私に突き刺さる。  私は頭を垂れて痛みに耐えながら、自分の両手を眺めた。指にはマニキュアひとつ塗られていない。急に自分の手が老いてみすぼらしいものに思えて、私は眼を逸《そ》らした。 「どうしたの?」  と、亮は少し優しく訊《き》く。 「だって、あなたがあんまり正直なんですもの」 「君が本当のことを知りたいだろうと思ったまでさ。嘘をつく方が、よっぽど易しいってこともあるんだぜ。今がその良い例だけどさ」  その口調は私をぎくりとさせる。口の中に厭《いや》な味のする恐怖が生じた。 「もう私たち、全く別々の人生を歩いているみたいね」 「一年前に君が俺を拒絶してから、俺たちは別々だったよ。それに、君は一度も仙台に俺を訪ねて来ようともしなかったじゃないか。二度君に——」  チャンスを与えようと思って、と言いかけて亮は言い直した。 「君を、真剣に誘ったんだぜ」  カウンターの背後に、斜めにはめこまれたステンドグラスの窓が三つ、並んでいる。  小さなバーの中は、その窓のせいで閉ざされた密《ひそ》やかな教会の内部のような空間を作っている。ステンドグラスの窓と窓の間には、暗いバーミラーが張りめぐらしてあった。 「ここ、とてもきれいね」  と、私は苦しまぎれに話題を変えた。 「話を逸らすなよ」  と、亮はそれにはとりあわず、声にわずかな怒気がこもる。 「とうとう二度とも君が俺の誘いを無視した時、俺が何をどう感じたか、わかるか?」  あの時は二度とも仕事で抜けられなかったのだ。ひとつはスポンサーとの企画会議で、もうひとつはオン・エアにフィルムが間にあうかどうかの瀬戸際で、とうてい仙台へ出かけていけるような状態ではなかった。それに正直なところ、私はそれが最後のチャンスだとは考えてはいなかった。少なくとも正月を彼と過ごすつもりだった。正月に仲直りが出来るかもしれないと、半ば信じて楽観していた。  連絡をすると、亮は郷里の松島《まつしま》へ戻るからと、私の申し出を断った。そしてそれきりになった。私は谷村敬士との半同棲を続けた。二度と彼は私を仙台に誘ってこなかった。  しかしそうしたことは今となっては全く言いわけにしかすぎない。 「俺はね、見捨てられちまったような気がしたよ」  と、彼は吐き捨てるように、そう言った。  すると私と彼の間の裂け目が、急激に広がるのがわかる。  その亀裂《きれつ》の中に、私が一方的にまだ少しは残っていると信じていたふたりの関係の、わずかな可能性がなしくずしに崩れ落ちていくのが見えるのだった。帰り道はない。戻っていく道など既にないのだ。過去へ通じる道など、ありはしないのだ。 「飲めよ」  と亮がカウンターの上の、氷の溶けかかったウイスキーの水割りを私の手に握らせた。  けれども私の手には、そのグラスを支える力さえない。亮が手をそえて、ようやく一口飲みものを啜《すす》ることができた。 「躰中の血が流れ出したみたいに、蒼《あお》い顔しているよ」 「同情してくれなくてもいいのよ」 「止せよ。強がるのはおまえの悪い癖だよ」 「じゃどうすればいい? あなたの膝にすがりついて泣けばいい?」 「そうしたければ、そうすればいいさ。もっと素直にすることだ。自分の胸の内の本当の声に忠実に生きることを、そろそろ学ぶべきじゃないか」 「私、ほんとうにあなたを失ってしまったのね、その言い方でよくわかるわ。信じられないけどきっとそうね。けんか別れみたいになっていたけど、二年たてばあなたはまた東京だし、そうしたら私たちやり直せると、そんなふうに私楽観していたんだと思うの、でもそれもばかよね」  ふいに底なしの絶望が私を襲った。 「とっても利己的に聞こえるかもしれないけど、あなたを完全に失ってしまったとわかったら、どう生きていったらいいかわからなくなったわ」  亮はすぐには答えない。セブンスターを一本抜きとると、ゆっくりと口へ運ぶ。 「人間の悩みや恐れや苦しみは、つきつめてみればどれもみんな利己的なものだよ。君が恥入ることはない。どう生きるかは、君の問題だ。強いて助言しろというのなら、俺がおまえに見捨てられたと感じた時のように生きればいいだろうさ。つまり、しばらくは死んだように生きていくってわけだ」  亮の私に対する憎しみの根の深さに、私はたじろぐ。  思わず涙が滲《にじ》んだ。それはまるで、だしぬけにつきあげてくる吐き気のように、胃の底から、泣きたいという気持ちが昇ってくる。 「泣くなよ」  と、亮は当惑と軽蔑とを半々にこめた声で言った。  その時、荒削りの松材で作られたアーチ形の入口に、女の白い顔がひょいと覗《のぞ》いた。  細面のその顔の中で、眉《まゆ》がわずかにひそめられている。その眉の一方が、まるで生きもののように額の上へ持ち上がると、まだなの? というように、女は首を傾けた。  傍で亮が、すぐ行くから、と言うように、女を手で追い払う仕種《しぐさ》をした。  私はふたりから顔を背けて、涙を拭《ふ》くものを探した。亮がズボンのポケットから真新しいハンカチを取り出して、無言で私の膝の上に置く。私はそれで頬を拭《ぬぐ》い、鼻をかんだ。アーチ形の入口の白い女の顔は消えている。 「今度の私用っていうのは、今の女《ひと》に関係があるんでしょう」  亮は黙っている。空のグラスの中で氷が溶けかけていた。彼はバーテンダーに眼くばせをして三杯目を頼んだ。 「答えてくれないの?」 「その必要はないね」 「あら、私たちには友情すらも、もう残っていないの?」  私たちはふたりとも、相手に愛想よく快活であるように努め始めている。 「彼女のことは、俺と君に関係ない。君はおそらく今でも俺の眼の中に爪《つめ》を立てたり、顔に唾《つば》する権利をまだ少しは持っているかもしれないが、彼女のことは放っておいてくれ」 「だったらひょこひょこやって来て、あんなところから覗かなければいいんだわ、まるでスパイみたいよ」 「そんな言い方をするなよ、君のために俺は恥ずかしいよ」 「いいじゃないの、私が悪ければあなたの罪は軽くなるんですもの」 「俺の、罪?」 「そうよ、あなたの罪」 「俺がどんな罪をおかしたんだ?」 「私を信頼の中に眠らせておいた、という罪」 「…………」 「結婚するんでしょ、あの女《ひと》と? そのことで上京してるんでしょう?」  亮はそうだとも違うとも答えない。 「黙っているということは、つまり、イエスってことにとっていいのね?」 「地方都市に一年もひとりでいると、いろいろ考え方も変わるさ」  彼はそうぶっきら棒に言った。はたして私は嫉妬《しつと》という感情から自分をしっかりと守れるだろうか。 「ひとつだけ教えてくれない?」  と、私は訊く。 「私ではだめで、あの若い女《ひと》ならいいという理由はなんなの? わかるでしょう、私たちは、あなたの仙台勤務明けを待って、結婚することはできたのよ」 「ほんとうに、君は理由を知りたいのか?」  亮は細めた眼を少し冷酷な感じに光らせて、逆に私に問い返す。 「ええ、知りたいわ」  彼はまずそうにウイスキーを喉《のど》に流しこんでおいてから、喋《しやべ》り始める。 「要するに、俺は白いキャンバスに、俺の絵を描きたくなったんだろうな。何にも描かれていない真白なキャンバスだ。そこに俺は、自分の線を引き、好きな色彩を置いていく。女房にしたいと思う女は、そういう女なんだ。わかっているさ、君の耳には俺の言葉が滑稽に聞こえるだろうぐらいのことはね」 「別に耳新しいことでもないわよ」  と私は感情を抑えて言う。 「それに白いキャンバス云々《うんぬん》は、何もあなたが最初に発見した言葉でもないし。男って、みんなそうなんじゃない? 多かれ少なかれ、真白いキャンバスを望むんだと思うわ。でもね、私もかつては真白いキャンバスだったことがあったのよ、忘れたの?」 「どんな女も、一度はそうさ」 「私が言うのはそういう意味じゃないわ、あなたも私というキャンバスに線や色を塗り重ねたってことよ。それもかなり大胆に荒々しくね」 「責任は感じているよ」 「責任なんて感じてくれなくてもいいのよ、そんなことじゃないの。私が言いたいのは、いったん私の上に描いたあなたの絵は、一生消えないってことなの」 「だけど言わしてもらうけどな、君というキャンバスに描かれている絵は、俺のものだけじゃないんだぜ。俺の前に、線を引いた奴《やつ》がいたし、俺のあとに、色を塗り重ねた奴もいるはずだぜ。いいかい、ケイ、俺には今、おまえの中にいろいろな絵が見えるんだ。さまざまな男たちが描き重ねていった絵が何重にも重なって、見えるんだよ」 「でもそれが私なのよ、亮。わからないの?」  男たちは、自分勝手に私の上に色彩を塗りたくったつもりかもしれないけど、実はそれすら私が最初に選択したのではなかったか。私が望むような絵を描く男だけを、私は選んで来たのではないだろうか。  今、亮の眼にいくつかの脈絡のない色彩や線の寄せ集めの中から、彼自身の絵が、よりはっきりと見えるはずなのだ。  それはオーケストラで毎日第一ヴァイオリンを奏《ひ》いている男の耳に、その第一ヴァイオリンの旋律が他の楽器よりずっと余計に聴こえてくるのと同じ理屈なのだ。 「いろいろの男たちの手が加わって、私という人間が完成していくんだと、そういうふうに私は考えているわ。もっとも真白いキャンバスに自分だけの絵を描きたいというひとには、不潔で我慢がならないでしょうけど」 「そんなことは言っていないよ」 「そうかしら? 真白いキャンバスなんて言い出す発想が、そもそもそういうことなんじゃないの?」 「そうじゃない、君自身が既にもうあまりにも君自身でありすぎて——さっきも同じこと言ったような気がするけど——俺の出る幕なんぞぜんぜんないんだよ」 「ありのままの、私という女の絵なのよ。私という女を、そのまま受け入れてもらえないの?」 「正直言って、俺の手に余るんじゃないかな」 「というより、今あるままの私という女が、あなたの好みに合わない、とそういうことね?」 「そうはっきり言っては身もふたもないよ」 「でもそうなんでしょ?」 「…………」 「二十七歳にもなって、自分自身の絵をもたない女なんて、その方がよっぽどどうかしているわ」 「多分ね、君の言うのは正しいと思うよ」  私は不意におかしくなって、笑う。 「何がおかしい?」  気を悪くする亮。 「だって子供みたいよ、さんざん画用紙にクレヨン塗ったくって、ちょっと眺めて——いえ、たいして眺めもせず、ピリッとはがしてその絵のことなんか忘れてしまう。あるいはくずかごへ放りこむ。すると次には真新しい白い画用紙が現われる……ってわけ……」  背後に人の近づく気配がした。 「もうみなさんお帰りになるっておっしゃるの」  かぼそいような声が、そう言った。 「あなたがあんまり何時までも戻っていらっしゃらないので」 「ごめん、ごめん、もう食事済んじゃった?」  亮は悪びれるふうもなく若い女を見上げる。かつて彼が私にしかそうしなかったような甘い声と、眼差しとで。 「とっくに」 「悪かった」  そう謝ってから、彼は私にその若い女を引き合わせた。彼は彼女の名前だけを私に教え、彼女には、私の名前と、こう言い添えて伝えた。 「ぼくの、昔の友人。TVのコマーシャル・フィルム作っているんだよ。もうベテラン」  若い女は、膝の上に軽く手を添えて目礼した。左手の、エメラルドをぐるりととり囲んでいるメレーダイヤが光を受けて輝いた。  女の広すぎる額には何かしら漠とした、どこか頑《かたくな》なものが感じられた。  耳や鼻筋の繊細さは、この年代の若い女だけが持つものだった。眉毛のくっきりとした濃さを際立たせている真珠色の柔らかい皮膚。私が失ってしまったものを、ことごとく彼女は持っているのだった。  その時私は、亮の心がもう私ではなく、その若い女の側にある、という当然の事実に思い当って、愕然《がくぜん》とした。そして彼はまるで、私という侵入者あるいは敵から、その娘を守るとでもいうように、しっかりとその細い腕を支えているのだった。  私は、敵なのか。あまりにも私が呆然《ぼうぜん》として、女を支える彼の手だけを凝視めていたので、彼はその手を放した。若い女が頭を少し動かして、亮を見た。その瞬間、彼女の顔立ちはぼやけ、ただの白い顔になる。白いキャンバスのような顔。  けれどもふたつの眼だけが、異様な信頼と愛情をこめて、じっと彼の横顔に注がれる。またしても犬の眼。犬の熱い眼差し。 「おかけにならない?」  と、私はだしぬけに彼女に椅子をすすめる。 「それで、いつですの、あなた方のご結婚?」  彼女は亮の方をチラリとうかがってから、 「今年の十二月の初めに、東京で」  と、小声で答える。 「そう、お幸せにね」  そろそろ行こうか、というように、亮が手で仕種をした。つられて立ち上がろうとする女の手首を、私はつっと抑《おさ》えた。 「とっても美しい指輪ね」  その時初めて若い女の顔に柔らかな微笑が浮んだ。 「エメラルド、私の誕生石なんです」 「あら、そう? 偶然ね、私もそうなのよ」  私は彼女の指先をとって、もしかしたら私の指を飾っていたかもしれない、その美しい婚約指輪を眺めた。沈みこんでいくような感覚が私を襲う。きっと自分は羨望《せんぼう》の眼つきをしながら、この宝石を眺めているのにちがいないと思う。私は女のきれいにマニキュアを塗った指先を放した。  さようなら、と彼女は言った。  ああ神さま、彼がさようならなんて言いませんように。そして、彼は言わなかった。微かにうなずいて、彼女の後ろからアーチ形の出口に、消える。  いったい、何人の男たちの、そうして去っていく後ろ姿を見送って来たことだろう。常に去っていくのは男たちだった。  私は結果的にたいてい捨てられるか置き去りにされるのだけど、去っていく男たちの背中がどれもみんな同じように、うちひしがれていたのはなぜだろう。まるで去っていく者の哀しみや苦しみの方が、残されるものよりはるかに大きいみたいに。  バーの酒類が並んでいる後ろの暗い鏡の中に、見憶《みおぼ》えのある顔がふたつ浮き上がる。笑いながら、近づいてくる。 「二次会に流れることになったんだけど、ケイ、行かないか」  池大助が、鏡の中の私の顔に向かって問いかける。 「なんだか、とっても、疲れているみたい」  由美子がちょっと眉を曇らせる。 「そうなの、飲みすぎちゃって。二次会、悪いけど、遠慮しようかなぁ」 「じゃ俺たちふたりで送っていくよ」 「いいのよ、そんなこと。タクシー拾えば済むことですもの」 「でも——」 「ほんとにいいの。それにむしろ私、ひとりになりたいから」  恋人たちは帰っていく。大助が一度、アーチの下で振り返るのが鏡に映った。亮は振り向かなかった。  亮が飲み残していったウイスキーが、グラスの底に溜《たま》っている。彼の唇が触れたところに、自分の唇を押しつけてみたいと思う。腕を上げかけたが、それは途中で力果てたように下へ落ちてしまった。  帰らなければ、と私は思う。レストランの外はもう暗いだろう。外は永久に暗いだろう。やがて幾つか階段を昇り、赤坂の裏通りに出ていかなければならない。  それでもまだ私はバーのカウンターのところに座っている。もう腕を上げることも、腰を上げて立っていくこともできずに、ただ、眼の前の鏡をはめこんだ壁をみつめている。そこには、アーチ形の松材をアクセントに使った出口が見えていて、バーの中をぼんやりと映し出す。その黒っぽいガラスは、冷たい人の肌のように思える。そのガラス越しに、じっと闇を凝視しているうちに、私は、私が立ち上がり、後退《あとずさ》るのをぼんやりと見るのだった。  私はそのまま鏡に背を向けて出口へと歩いて行く。その背中を、私は黒い鏡の中に見ている。なぜだろう? なぜ自分の背中が見えるのだろう。やがて、アーチの上で、私は振り返る。  もはや、カウンターの前には私はいない。ふたつの飲みかけのグラスが、三つの窓のステンドグラスから光を受けて、ぼうっと虹色《にじいろ》にふちを光らせているだけだった。鏡には、私の背中と、ねじむけた首と、横顔とが映っていた。  愛の予感  人がなんとかもちこたえられるということは、そこに希望の微《かす》かな光明があるからではないだろうか。  たとえ水で薄められるだけ薄められた水彩絵の具の、儚《はかな》げな一刷毛《ひとはけ》のような希望でも。  あるいは、春の雨に濡《ぬ》れそぼれて、今にもちぎれ落ちそうな蜘蛛《くも》の巣を支える、あのか細い最後の一本の命綱——あともう一滴《ひとしずく》の命。  ことによったらあのひとは、あの美しく若い女性との結婚を中止するかもしれないし、それともなければ何かが起こって、少なくとも予定を延期するということは、全くありえないことではない。そう日に何度も自分に言ってきかせる。  けれども最後に私は、自分自身の声——涙と嗚咽《おえつ》にとだえがちな——を否定する。�そうは思わないわ�と、私は私への慰めを拒絶する。  亮《あきら》は結婚を中止しないだろうし、予定を延期しなければならないようなことは、決して何も起こりはしないのだ。  結局、窓の外の再びめぐってきた初夏の日射しは私の思惑には無関係にあくまでも陽気だし、空は青く、夜ともなれば、どんな片隅のどんな孤独な窓々にも、明りがともされるというわけだ。  それでも私は死にたくない。たとえこの空洞、この空虚を自分の内《なか》に深々と抱えているとしても、死よりはましだと思う。多分それが不幸というものなのだろう。死よりも耐えがたい生《せい》を生きるということが……。 「君の車に乗せて行ってくれないか」  大滝篤が訊《き》く。 「モデルの女の子三人と、東京まで同じハイヤーに二時間も閉じこめられたら、どういう精神状態になるかわかるだろう?」  私は、どうぞと答える。ガードレールに突っこんだり、|長者ヶ崎《ちようじやがさき》のあたりでカーヴを曲りそこなって、そのまま海へ飛びこんでしまうかもしれないけど、その覚悟がおありならどうぞ、と。 「それはもしかしたら、断るということの遠廻《とおまわ》しな言い方かな?」  大滝は機嫌よく微笑する。 「というより、私があのモデルの女の子たちより、感じの良い同乗者であるとは限らないということですわ」  私は車を駐車してある一角へ歩き出しながらそう言う。 「どういう根拠で?」  彼はあいかわらず笑いを含んだ声で、訊《たず》ね返す。  私は憂鬱《ゆううつ》だった。この一か月の間ずっと憂鬱だった。人には何度もそれを指摘されたし、CFの仲間たちは、ケイは不機嫌だと言って、その不機嫌の理由をうすうすと知っているためか、当らず触《さわ》らずの状態が続いている。  私は喋《しやべ》ったり、お愛想を言ったり、お世辞を言ったり、笑ったりするような気持には当分なれそうもなかった。  この空《うつ》ろさからどうせ逃がれることができないのなら、いっそのこと、どっぷりと今の不幸に浸ってやろうじゃないか、とそういう居直った心境だった。人から語りかけられるのも、わずらわしく厭《いや》なのだった。出来ることなら放ったらかしておいて欲しいというのが、正直な気持だ。  しかし現在、まだシリーズが続いている口紅のクライアント側である大滝篤に対して、そうむやみに無愛想な反応もできない。 「どういうって——私、運転中にあまり喋りませんから。二時間も、無口な女の横にいるのは、大滝さん気詰りでしょう?」 「どうせ悩まされるのなら、モデルたちの凄じいお喋りで気を狂わされるよりは、無口なひとの横で死ぬほど退屈する方が、少しは精神衛生上、ましなんじゃないかな」  私はセリカの運転席に滑りこむと、大急ぎで窓を開けて、こもっていた熱気を放ち、助手席のロックを外した。 「良かったら、僕が運転しようか」  と大滝が申し出たが、私は首を振った。 「運転《ドライブ》が、唯一《ゆいいつ》の気分転換だから、自分でやります」 「君のいいように」  そういって、彼は額や首すじに浮んだ汗を、きちんとアイロンのあたったハンカチーフで拭った。その白さが眼にしみる。 「…………?」  というように大滝が私の視線をとらえて見返す。 「何、どうかした?」 「いいえ」  私はエンジンを入れながら眼を伏せる。男が幸せな結婚生活を営んでいるかどうかをもし他人が窺《うかが》い知るとすれば、たとえば、きちんとアイロンのあてられた純白のハンカチーフなどがそのひとつなのにちがいない。  結婚という私が何よりも現在眼を背けていたい現実を、そんなふうにさり気なくにおわせる男が理不尽にうとましい。私は眉《まゆ》を寄せ、口を引き結んだまま車をスタートさせる。逗子《ずし》まで、そうやって一言も喋らなかった。  その間、大滝は、煙草《たばこ》を喫《す》ってもかまわないか、と訊《たず》ねただけだった。  ウィークデーの午後六時頃の上りなので、道は空いている。横須賀と横浜を結んで新しくできた高速道路に入ると、アクセルを踏みこんでスピードを一気に一二〇キロまで上げた。傍の大滝が、チラと私の横顔に素早いさぐりを入れたが、何も言わない。  私はじりじりとなおもスピードを上げ続ける。彼がどんな反応をするか、見てやりたい、という意地の悪い気持。  こんなことはくだらないという、しんとさめた思いと、日頃権力の側にいて自分たちとは決して対等ではない者への、残酷でヒステリックな反抗の喜びとが胸の中を交錯する。  だが危険なゲームであることは明らかだ。スピードメーターは一三五のところで、震えている。  なぜ、彼は何も言わないのだろう? ひとこと、注意か、あるいは批難めいたことを口にしたら、すぐにもスピードを安全な範囲にまで落すつもりだった。にもかかわらず、大滝は沈黙している。眼の隅で盗み見ると、ほとんど穏やかともいえる表情で、平然とフロントグラスの中を眺めている。  冷房がきいてきたのにもかかわらず、掌《てのひら》や胸に汗が浮く。冷たい汗だ。恐怖にかられて、スピードをじょじょに落していく。この無言のゲームは、私の負けだ。死にたくない、とまたしても思う。それはこれまでの観念上での暗澹《あんたん》とした思いとは違って、肉体の切実な突き上げるような欲求であった。  そのことに、私は驚く。その発見——この肉体に対する熱烈な執着、そのけなげさのようなものに打たれる。ああそうか、自分がいるじゃないか、と心の内に叫ぶ。誰《だれ》もかれもが私を見捨てて立ち去っても、最後に私自身がいること。私だけは私を見捨てはしない、と。  ふがいなくも涙ぐんで、そのために滲《にじ》んでしまったフロントグラスの中の光景を、私はまじまじと凝視《ぎようし》しなければならない。  大滝が新たにもう一本、マルボローを口に銜《くわ》えて、 「ハンドルを握っている人間が、時として凶暴になる理由はいくつかあるがね」  と呟く。口の端に煙草を銜えたままなので、くぐもった早口で言う。 「理由を上げてみようか?」  批難するような調子は全く含まれていない。ゴルフででも焼けたのだろう、精悍《せいかん》に見える顔はあいかわらずひきしめたままだった。 「それには及びませんわ、もともと凶暴な性格だからでしょう。ばかなことして、すみませんでした」  私はあまり素直でない言い方で、謝る。大滝はそれを無視して、 「大きな理由は二つある。欲求不満、そして孤独感。その二つがギリギリまで追いつめられ高揚して、ひとは時として凶暴になる」  そう言ってようやく煙草の先にカー・ライターの火をつける。 「大滝さんが精神分析をなさるなんて、ちっとも知らなかった」  と私は唇を歪《ゆが》める。 「それならついでに、解決の方法も教えて下さるとありがたいんだけど」  混沌《こんとん》の精神の暗い海に溺《おぼ》れかけている人間を、救いあげる方法があるならぜひとも教えてもらいたいものだ。  車は夕焼けに染まり始めた空の下を、第三|京浜《けいひん》へと入っていく。私は尖《とが》った不幸な眼つきで、まっすぐに延びている空の色とよく似た赫味《あかみ》を帯びたアスファルトを凝視する。そしてそこに私は岩井亮の幻影を見るのだ。道路と二重写しになって、口元はぼんやりと、それゆえに甘く見え、瞳《ひとみ》は遠くをみるような表情を帯びている。  ふたつの瞳の中を、道がどんどん遠ざかる。私は亮の幻影の顔に向かって車を走らせているにもかかわらず、彼との距離は少しも縮まらないのだった。  幻影は不透明になり、急にすっかり透き通って消えてしまったり、半透明になったりしながら、あいかわらず前方に居つづける。  いつのまにか、私は再びスピードを上げていく。亮のあいまいな夢みるような顔に向かって、その顔を車輪の下に抱きこもうとして、突っ込んでいく。  この時、横で大滝篤がフフと小さく笑った。そして私はもう一度スピードを元に戻す。幻影が消え、空には、血の色に似た夕焼けの残滓《ざんし》があった。  大滝の低い笑い声が続いてる。屈託《くつたく》のない温い声。私がかつて耳にした男たちの声とは別の声で、彼は笑う。  大滝の中には少年と老人とが同時にいるみたいだ。自信、不安、怒り、寛大さ、哀切といった感情をないまぜた静かな笑いを、彼はひっそりと笑う。 「教えるまでもないじゃないか」  と、やがて大滝は言う。 「実に簡単なことさ」 「そうですか」 「そうさ。男と寝りゃいい。よかったら、つきあうよ」  そして私の心は再び、急速に凍りついていく。  さまざまな男たちと、仕事を通じて接してきたが、大滝篤は私の知るかぎり上質の男だと、私なりの烙印《らくいん》を秘《ひそ》かに押していたのだ。感性もユーモアも、さり気ない日常のやりとりも、三十代後半の男たちの平均より、はるかに質が良いとそう感じていた。  これまでクライアントとしてのつき合い以上のものはなかったし、これからもないだろうが、大滝篤を買い被《かぶ》り過ぎていたのだろうか。落胆が隠せなかった。 「悪い冗談、止《よ》して頂きたいわ」  私は冷たくピシリと言う。 「男なんて、へどが出るほど寝てきたわ。ほんとうよ。思っただけでムカムカするくらいだわ。でもたとえそうじゃなくとも、誰があなたなんかと——」  そこで怒りのために息がつまって、私は言葉を切る。あまり強くハンドルを握りしめているので、両手の指が白くなっている。 「僕は、失格か」  たいして悪びれもせず、むしろ快活に大滝が言う。 「しかし、残念だな。これほどまでに毛嫌いされているとは。男の沽券《こけん》も何もあったものじゃない。むしろさっぱりと小気味がいいね。それにしても、そんなに僕って男は魅力がないのかねえ」  私は自分がまるでユーモアを解さないガリガリとしたオールドミスのように振舞ってしまったことを、少し後悔し始めていた。 「大滝さんに魅力があるかどうかは、この際、別の問題です」  と、語調を少し柔らげる。 「要するにどうなの。僕は多少は魅力があるんだろうか。それとも全く問題にもならんのか」  面白そうに、彼が訊く。 「それはあなたが一番ご存知のはずよ。すごくよく、おもてになるそうじゃありませんか」 「僕は君に訊いているんだよ」 「私に?」 「そう君に」  私たちは次の瞬間沈黙して、じょじょに色彩を夜の方向に失いつつある前方の道路と地平線とを、それぞれ凝視める。 「私がどう思おうと」  と、やがて私は少し掠《かす》れた、だが毅然《きぜん》とした声で喋る。 「あなたの誘惑を受けることは、絶対にないと思います」  大滝は微笑している。私は続ける。 「理由を、言いましょうか?」 「言ってみたまえ」  自信に満ちた声。 「まずあなたがクライアントだっていうのが第一の理由。自分で自分の首を絞めるようなものですもの。そんなばかな真似《まね》をするわけがないでしょう」 「第二の理由は?」  まるで楽しんでいるように、彼は訊く。 「誤解を恐れずに言えば、結婚していらっしゃるから。幸せな家庭を営んでいるようなタイプの男のひとに、私全く興味ないんです」  それを聞いて、大滝篤が腹を抱えて笑いだす。あんまり笑ったので、終《しま》いに咳《せき》こんで、それでもまだ笑いが止まらない。 「だから誤解を恐れずに言えば、とあえて言ったのよ」  と、私は苦笑して言いわけを言う。 「何もお上品ぶったり、カマトトぶったりしたわけじゃないわ。それに結婚している男《ひと》と、これまでつきあったこともない、などと嘘を言う気もないし」 「じゃいったい何が問題なの?」  親指の腹で目尻《めじり》の涙を拭いながら、大滝が訊く。 「他人の幸福な家庭を破壊することが、かい?」 「というより、いかにも幸福でございますって具合に、家庭の影を後ろにひいている男《ひと》が、好きになれないんです」 「僕のことを、言っているのかね?」  急に大滝は改まる。 「そうなの? 僕が幸福な家庭の影を後ろにひいていると、そう君は想像するわけか?」 「想像どころか、ぷんぷんとにおうわ」 「確かかね?」  それは静かであったが、こちらの胸に深々と突き刺さるような響きを持っている。私の心はひやりとする。 「ええ、もちろん」  それでも私は強気を変えない。 「そうか」  と、大滝は無意識に口の周囲を拭うような感じでこする。 「ところで、君は何を根拠に、僕の結婚が幸せだと、そう思うんだね? ぷんぷんにおうとか、言ったね」  私は第三京浜の終点でゲートに入るためにスピードを落す。大滝がポケットから小銭を出して、私に手渡す。それを収金係に支払って再びセリカを走らせながら、 「どこまでお送りしたら良いかしら?」  と大滝に訊く。 「君は、世田谷《せたがや》だったね。それでは僕は三軒茶屋《さんげんぢやや》の手前で降ろしてもらおうか、あとはタクシーを拾うから」  大滝はそう答えてもう一度同じ質問を口にする。 「何を根拠に、僕の結婚が幸せだと君はそんなにも確証しているのか、ぜひ知りたいものだね」 「それなら言いますけど」  と、私はほとんど投げ槍《やり》に言う。 「ハンカチーフですわ。たとえば。純白で、きちんとアイロンのあたったハンカチーフをさり気なく使える人は、良い家庭を持っている男《ひと》にきまっています」 「へえ、ハンカチーフねえ」  いかにも感に耐えないというような調子で、大滝が呟《つぶや》く。 「だから、たとえば、と私言ったわ。それがすべてじゃもちろんないくらいわかっています」 「じゃほかには? ほかに何か、僕の良い家庭とやらについて気づいたことはあるのかい?」 「いつもきちっとしていらっしゃるわ。不幸な男というものは、たいてい薄汚れたような惨《みじ》めさがつきまとうものよ。あなたには、そんなもの、みじんもないわ。洗練されていて、お上品で——つまりヒゲをそって必ずアフターシェイブ・ローションを塗りつけるタイプ——余裕があるってことかしらね。それには背後に幸せな家庭があるって証拠でしょう。私の言っていること違います?」 「さあね、一般論としては、違わんだろうがね。しかし一般論というのはあくまでも一般論であって、誰にも通用するってわけじゃないから」 「どうしてそんなにこのことで私に絡むのかわかりませんわ」  とうとう私は嫌気がさして、声を上げる。他人の家庭や結婚生活になど、もともと何の興味もなかったのだ。くどくどと質問を重ねる大滝の口調にも、もううんざりだ。私には私自身直面しなければならない絶望的な現実が山ほどあるのだから。 「絡んでいるわけじゃない。君の観察に非常に興味を抱いただけさ。ところでそろそろライトをつけた方が良いと思うけど。でないと僕と一緒に心中《しんじゆう》っていうハメになるよ。それでもいいなら、僕の方はいっこうにかまわんがね」  私は言われたとおりライトをつける。 「ああ、そろそろ左へ寄ってくれないか。この少し先で僕は降ろしてもらうから」  それから大滝は何気なく言い添える。 「ついでにちょっと君の誤解を訂正しておくけど、あのハンカチは、僕が自分で洗ってアイロンをあてたものだよ」  私はブレーキを踏んで車を止めると、あっけにとられて大滝を眺める。彼は扉のロックを外して表に立つと、 「妻とはもう何年も別居しているんでね。僕は不潔で惨めったらしい男やもめってわけさ。それとついでだから言うけど、アフターシェイブ・ローションなど、ついぞつけたことはないんでね、僕って男は」  それだけ穏やかな口調で言うと、彼は扉をバタンと閉めて、微笑した。 「送ってもらえて助かったよ。ありがとう。そのうちにお礼に夕食にでもつきあってもらえれば、ありがたいけど、君のご機嫌がうるわしい頃を見計らって、改めて電話をするよ」  私は上の空で車をスタートさせる。夜の始まった街の中をひたすら走り続ける私の瞼《まぶた》に、大滝篤の最後に見せた微笑が焼きついて離れない。彼は白い歯をみせて笑っていた。はっとするほど白く清潔な歯並びだった。 「今度のシリーズは、どちらかというと男性にアピールするね」  と、CFの試写室で吉見敬三が銜え煙草のまま言う。先日の三浦のロケで撮り上げた口紅のコマーシャル・フィルムの試写を見て最初の発言だ。 「そのことにはスポンサー・サイドも触れていたな」  と大助。 「あの撮影の日にも、コンテを覗《のぞ》きながら大滝さんが似たようなことを言っていた」 「女性のための商品を、男性にアピールするように創《つく》るっていうのは、何も初めての試みじゃないわ」  と、私は誰にともなく説明する。 「将を射らんとすれば、なんとかよ。本来のターゲットとは反対の性をまず打ち落すことね」 「それと、スポーツに結びつけたのが、当りだね。個人で参加できるスポーツに。これは正解。ウィンドサーフィンをやっている時の女の肉体というのは、実は不思議な色気がある」  と吉見。 「筋肉がこう出てきてね」  と大助が自分の腕や太股《ふともも》のあたりを撫《な》でる。 「一種独得の中性の色気というのかね。あれはいいね。それと口唇の赤との取り合わせが、何とも言えない。絶妙な取り合わせなんだ」 「自画自賛もいいとこね。坂出グループもずいぶん堕落したものだわ」  私はさっさとテーブルの上の鉛筆や丸めたコンテを片づけながら言った。 「以前は試写のあとの会話はこんな楽天的なものじゃなかったわ。時には会話すらも、なかったもの。ぐうの音も出なかった。自己嫌悪に陥って、口なんてきく気にもなれなかった。せいぜいお互いの眼を見ないようにしてたものね。それがどうでしょう。反省がなくなるっていうのは、進歩もやがて止まるってことなんじゃないの?」 「辛辣《しんらつ》!」  吉見が唇の先から長くなった煙草の灰を零《こぼ》しながら、叫ぶ。 「このところ、ケイの辛辣さかげんはエスカレートの一途。留《とど》まるところを知らないんだからな」 「そんなことないわ。私はあなたたちより少しだけ反省的な人間だっていうだけよ」 「その反省的な人間が出した次のコンテ、あれで反省的と言えるかどうか」  と大助が茶化す。 「�ボディビルの女�のことか?」 「わたしはいけるとみるがね」  と、珍しく坂出室長が積極的に発言する。 「女の筋肉に致命的にともなうある種の滑稽さを消して、美しいエロティシズムが出せれば、成功しますよ、あれは」 「問題は大滝さんだな」  吉見が、灰皿の中でグイとひとひねりで煙草をもみ消す。 「俺は大滝さん、わかる人間だと見ているね。あのひとは、わかるよ」 「まあね、多分そうだろう。あのひとさえ納得してくれさえすれば、あとは大丈夫だからな。何しろ、大滝さんはスポンサー・サイドの石頭どもを説得する言葉をもっているひとだからね」  試写室での会話が続いている。私は息苦しさにひたすら耐えなければならない。普通に振舞えば振舞うほど、私の胸は酸素が大量に不足したような具合になって打ちひしがれてしまう。  そして私は一方ではうんざりしているのだ。孤独に、絶望に、不幸にうんざりしている。というよりは、そうした状態に甘んじて、孤独の、失意の、不幸の毒汁をなめている自分の姿勢に、うんざりしているのだ。  あるひとりの男を、決定的に失った、という自覚の苦しみは、肉体に受けた傷と同じ、いやそれ以上の苦痛を私に与えたのだった。  どれだけ多くの人が、愛を失い裏切られた苦しみを、表現してきたことだろう。音楽に、絵画に、文学に、そして唄《うた》や詩に。  けれども、そうしたものの中で表現された美しい苦悩、きれいごと、高貴で芸術的な苦しみなど、私には何の関係もなかった。  そんなものではない。この苦悩は凄まじく薄汚いものだった。胃液がたえずこみ上げて来て、口の中は恐ろしい苦《にが》さと酸とで、荒らされてざらざらとしていた。もう充分だと、私は思う。  その時、試写室の隅にある電話が鳴った。大助が気軽に立って行き、もしもしと受話器に言ってから、私の方を見る。そして 「君に」  と、受話器を差し出す。  私は無言でそれを取る。 「やあ、先日は失礼。大滝です」  普段より低いよく響く声を、電話という機械は伝えてくる。  私はなぜか咄嗟《とつさ》に仲間たちに背を向けて話す。いいえ、こちらこそ。 「今のは池君だね、まずかったかな。僕だとわかったと思うよ。つい挨拶《あいさつ》をしそびれた」 「いいえ、大丈夫です」  仲間たちに背を向けなければならない状態を、私に図《はか》らずも押しつけた大滝に対して、私は心の底でわずかに憤りを覚える。 「心にやましいことがあると、人間つい、普段の調子を外してしまうらしい。君の方から、折り返しかけ直してもらえないかな。その方がいいだろう」 「わかりました。そうします」  耳の底に、カチリという金属的な音がして、私の手の中の電話が、死ぬ。  誰かが私の会話に訊き耳を立てていたというわけでもないのに、私は誰かにともなく言う。 「大滝さんからよ。試写をご覧になって、それで、一応満足だと、おっしゃっていました」  自分の声が、言いわけのように響く。そういう種類の電話は、私にではなく、室長の坂出に直接かかるべきものだと、その直後、試写室の全員の胸を過《よ》ぎったことも、私は感じている。ある種のぎこちなさが、一陣の旋風のように、室内を吹き抜ける。 「それは良かった」  と、坂出がごくさり気なく言ったのをきっかけに、室内の空気が戻る。みんなは私の嘘《うそ》を受け入れたのだ。  大滝が折り返しと言ったのにもかかわらず、私はすぐに試写室を出て、どこか人気のない机の上の電話をとる気にはなれなかった。  私をこんなふうに仲間たちの前で振舞わせた彼が許せなかったし、迷惑に感じていた。それに、あまりにもすぐかけ直したら、まるで尻尾《しつぽ》を振っている小犬のようではないか。  大滝篤からの電話の理由は、だいたいわかっているのだから。先日、三軒茶屋での別れ際、食事に誘いたいと言っていたから。あの時の夜目にもあざやかな白さで輝いていた男の歯を、またしても思い出して、妙な具合に私の胸が騒ぎ出す。  それは主として羞恥《しゆうち》の感情だと思う。私は陰気な顔つきで、乱暴な運転をして、彼が幸福な人間だなぞと、勝手にきめつけてしまったのだ。人生をわかったふりなどをして。  そして大滝がそうした私の言葉や振舞いに、少しでも腹を立てたり批難してくれていたら、これほどまでに惨めな借りを作らずにすんだろう。彼は怒らなかった。むしろ陽気に腹を抱えて笑っていた。そして別れ際にあの白い輝く歯並びを見せたのだった。  彼の会社に電話を入れたのは、それから一時間半もたってからのことだ。交換台が出て、若い女の声がていねいに、 「大滝は三十分ほど前に社を出ましたが」  と言った。  私は礼を言って、受話器を置く。ほっとする気持が、なぜか強い。  にもかかわらず、手は受話器にかかったまま、なにか心にひっかかるものがある。それも非常に強く。  何であるのかわからない。折り返しと言われていたのだから、大滝篤を怒らせてしまったのかもしれないが、そのことを心配するというのではない。はっきりはわからないが、なにかこう、残念だ、という感じ。惜しいことをしたというような感じがつきまとう。  ほっと胸をなでおろしながら、同時に物足りないような、要するに奇妙にもの寂しいのだ。私は力なく受話器に置かれた自分の手を眺める。  それはうち捨てられた鳥の翼のように見える。疲れ果て、不幸のあまり少し汚れた感じのするうちひしがれた翼だ。そうなのだ、この手は、私自身によく似ている。悲しみは、少しも美しくなどないのだ。 「よお、ケイ、何をぼんやりしているんだ?」  と、ふいに池大助の声がして、私は現実に引き戻される。 「飲みに行こうよ、今夜俺につきあわないか」  大助は、 どうでもいいというような訊き方で私を誘う。私が断りやすいように。いつもなら、ただちに、そんな気分じゃないから、と言うのだが、私は黙って肩をすくめる。 「一晩くらい、いいじゃないか。何も君をとって喰《く》おってんじゃない。水くさいことを言わずに、つきあえよ、な、ケイ」 「由美子ちゃんに悪いじゃないの」 「心にもないこと、言うなよな。そういうの、ぜんぜんケイらしくなくて嫌だよ、俺」 「じゃなぜ誘うの?」 「君と一杯飲めたら楽しいだろうなって、そう思うからさ、動機は純粋だよ」 「違うでしょ。男に捨てられた陰気な女とお酒飲んで、楽しいわけなどあるはずがないわ。同情して言っているんじゃないの。私、同情されたり哀れまれるの、好きじゃないのよ」 「そうひねくれなさんなって」  当惑を顔には出さず、そう大助が言った。 「同情するっていうことの感情の背後にあるものが何であるか、大ちゃん知ってるでしょう?」  私は容赦のない口調で続ける。 「同情を抱くってことは、その女を放っておけないってことなの、愛情を感じているってことなの。それでも由美子ちゃんにやましくないっていうの?」  私はどうしてこんなことをずけずけと言うのだろう。よりにもよって大助のような男に対して。多分、甘えているのだ。どんなことを言っても大助は私を許してくれると、心の底で知っているから。 「人を愛することはどんな場合にだって、やましいことじゃないよ。しかしそれとこれとは別の問題だ。俺は他人に説教するのは好きじゃない、だけどこれだけは言わしてくれ、ケイ。失ったものを取り返すことは出来ないんだ。過去を生き直すことが出来ないように、遠ざかってしまったものの心を取り戻すことはできないよ」 「わかっているわよ、そんなこと」  私はいきなり叫ぶように言い返す。 「何もあなたに言われなくたって、とっくにわかっているわよ。余計なお世話だわ。口でね、そう言うのはやさしいの。だけどあなたじゃない、苦しんでるのは。私なのよ。この私。私の問題なの。あなたの問題なんかじゃぜんぜんないの、放っておいてちょうだいよ。私のこと同情してくれるんなら、放ったらかしておいてくれるのが、愛情っていうものじゃないの」  大助は何かに耐えるように、眼を細めて私の背後の中間を眺めている。 「俺はね、君が泣き喚《わめ》けばいいと思うんだ。ところが、ケイって女は他人に泣き顔など金輪際見せない。羽目を外すのがこわいのか? そうなんだな、きっと。しかしその強がりのせいで、君は男たちを手放してしまうんだよ」 「…………」 「きついことを言うようだけど、もしケイが泣き喚いて、過去に一度でも髪ふり乱していたら、岩井亮は決して君から離れなかったろうな」 「私にはどうしようもないわ。このとおりの人間なんだもの、変えろっていったって変えられるわけがない」 「そのとおりだよ、ケイ」  大助は私の肩にそっと手をかける。 「だったらもうくよくよするなよ。だいたい、おまえさん気づいていないかもしれないけど、男たちが君を捨てたんじゃないよ、君の方なんだ。ケイが男たちを切り捨ててきたんだよ。今、君は岩井亮のことで、被害者ぶって悲劇の主人公の役にどっぷり、それを楽しんでさえいるけどね、本当の被害者は、実は岩井亮の方だとは、考えられないか」 「そんなふうに考えたことは、一度もないわ、私」 「それじゃ今後、そう考えてみることだね。俺の観察は、まちがってはいないぜ」 「ずいぶん自信があるのね」 「そりゃね、もう五年近くも、毎日ケイという女をつぶさに眺めて来たんだ」  この人は、どれだけ私のことを知っているのだろうか、とふと私は恐れに似た感情を抱く。  秋の終りのある夜更《よふ》けに、一度だけまざまざと大助は自分の心情を私に見せつけたけど、あのようなことは、一度きりしか起こらなかった。  しかし、表面に出て来ないからといってその内部にドロドロと燃える溶岩を抱えていないとは、言えないのだ。 「しかし、それにしても空しいね。他人のために何かできるなどということはありえないのかね。仮りに何かしたと思っても、それは一方的なこちらの押しつけであったり——」  やがて大助はため息をつくように 「こっちにどんなに強いその気持があっても、相手が俺に救いの手を差し延べて来なければ、俺は力になってもやれやしない」  と呟《つぶや》く。 「大ちゃん、気持、わかってるの。ありがたいと思っている。もっと別の時、ずっとあとでなら、私、それを感謝の言葉に変えて言えると思う。でも今は、まだ——私のこと、放っておいてもらいたいの。それが親切なんだと思うわ、お願いよ」  私は、大助の慰めを受け入れないことで、彼を拒絶しようとしているのだ。それがどんなに彼を傷つけることか。  しかし、慰めを素直に受け入れるということは、私にとって単にお酒を一緒に飲み合うことなんかではないのだ。そのひとの精神も肉体も受け入れる用意がないのなら、慰められることなど不可能なのだ。私はそんなふうに考えている。  たとえ一夜でも全存在を変えてしまうような肉体の交換が可能なら、私は大助によって慰められるだろう。たとえ実際にベッドで愛しあわなくても、それは同じことなのだ。  皮膚《はだ》を寄せあうこと、温い相手の体温に直《じか》に触れること、あるいはその可能性を含むこと、それなしに、人間は真に慰められるわけはない。言葉など、たとえ百万語の優しい言葉を浴びせかけられたとしても、人は癒《いや》されはしない。 「よし、俺は引きさがる」  大助はそう言うと、今ではもう人気のないオフィスを横切って出口に向かって行く。 「ケイ、今はそれどころじゃなくて気づいていないかもしれないけど、大滝篤はいい男だよ。あの人は、上質だ。おまえさんに、もうかなり前から惚《ほ》れてるよ」  出口のところで立ち止まると、大助はニヤリと笑って私を探るように見た。 「余計なお世話よ、大ちゃん」  私はピシリと言い返す。 「多分、あのひとあたりがあっさりとケイをさらっちまうんだろうな。ケイの傷や不幸も全部ひっくるめてさ」 「勝手な想像しないでちょうだい。私、あんなひと、全然興味ないの」 「そうきめつけなさんな、ケイ。あんなひとって彼がどういう人間だと君は思っているんだ?」 「真白いハンカチーフ。幸福な家庭。洗練された年相応の態度。ヒゲをそったあとに、アフターシェイブ・ローションをつける、そういうタイプよ」 「その見方は違うね」  もちろん、違うわ、大助ちゃん。しかし私はこう言うのだ。 「でも、私はそう思っているんだから、事実とたとえ違っても、仕方がないわ。どう思うって、大ちゃんが訊いたから、素直に感想をのべたまでよ」  私は大滝篤のいくつかの横顔を次々と思い浮べながら、暗い声で続ける。 「さよなら、大ちゃん」  大助は出口でしばらく躊躇《ちゆうちよ》したあと、くるりと踵《きびす》を返す。私の中に大滝のイメージを植えつけたまま、彼は出て行く。私は私の中で次第に大きく膨れ上がる大滝篤の顔を、亮に置きかえようと、空しい努力を続けなければならない。  しかし、大滝は、私の脳裡《のうり》に居座ったまま、そこから去ろうとはしない。彼の顔は聡明で、誠意をもって、内側からまっすぐに私の眼をひたと見据えているのだった。  それは私をとても不安にする。私が今不在に思う顔は、彼なんかではないはずだった。もっと若々しい、自己顕示の強い亮の顔であるべきだった。奇妙なことだ。今でも亮は私の内に、無条件の愛情から殺してやりたいという殺意に至るまでの、ありとあらゆる感情をひき起こすことができるのだ。それは亮という男だけに可能なのであって、他の男ではない。  私はそれを運命的な結びつきだと、口に出さないまでも、ずっと感じて来た。  しかしそれもおかしなことなのだ。それほどまでに運命的なふたりの出逢《であ》いが、空しいほど偶然の積み重ねだったなんて。  あの七年も前の夏の日、私は別の男と運命的に結ばれて、婚約していたのだ。彼について、伊豆《いず》へ泳ぎに行かなかったら、そして私と亮とが日焼けしやすいよく似た皮膚をもっているという発見がなかったら、かつての婚約者長沢が、宿に残って本を読んでいる、と言わなかったら、私たちの恋は始まりはしなかったかもしれない。  その時、私の机の上の電話が鳴り響いた。私は、ビリビリと震えながら叫びたてている、その黒い機械をじっとみつめる。誰からの電話なのか、既にわかるような気がする。  六回目に、受話器をとって耳にあてる。 「やっぱり、いたね」  と、男の声が、とても近くから聞こえてくる。 「必ずいると思っていたよ」 「私も、お電話があると、思っていました」  私は自分でも信じられないほど、素直に、そう言い返した。 「初めて意見が一致したね」  と相手が笑う。 「ところで、自分のハンカチを自分で洗ってアイロンをかけるような惨めで不幸な男と、食事をしてくれる気はないかな?」 「ヒゲをそったあと、アフターシェイブ・ローションをつけないと誓うなら、食事をご一緒してもいいわ」 「もちろん、誓うとも。——もしもし、今夜はこの前と違って声が柔らかいね。安心したよ」 「ええ、この前とは少し違う心境ですから」 「ほう、どんなふうに違うのか聞きたいね」 「人生に対する見方がちょっと違っただけ。眼を少し上げてみたら、なんのことはない、私の前には仕事があって、周りにはいつでも親身になってくれる友人がいて——そして」 「そして?」  私はややためらったあとに、こう答える。 「そして、私には、電話をくれて食事に誘ってくれるおかしな篤志家がいたの」 「へえ、そいつの話をしてくれないかな、そのおかしな篤志家とやらの話をさ」  私はその声を聞きながら、すっかり夜になってしまっているガラス窓の外に眼をやる。 「そのひとのことについて話が出来るようになるのは、もっとあとのことだと思うわ。多分、もっとずっとあとのこと。私たち、一緒に食事をしたことさえ、まだないのよ。ドライブを一度だけ。それもひどいドライブだったけど。でも約束するわ。いつかきっと、そのひとのことについてまっさきにあなたに話してあげる。何も隠さず全部話してあげる」  見なれた無数のネオンサインが黒いガラスの中で息づいている。幻影のように。そう、まるで幻影のようだ。しかし、私はしっかりと受話器を握りしめたまま、相手の声に耳を傾ける。この瞬間、私はその声を幻影とは思わない。 昭和五十七年八月、単行本として『愛にめぐりあう予感』の書名で主婦と生活社より刊行 角川文庫『愛の予感』昭和60年1月25日初版発行           平成8年4月20日34版発行