森 瑤子 恋愛論 目 次  恋愛論   二匹のアメーバ論   贅沢な不倫   年下の男性   友達の恋人   乱れたベッド   二人の男性の間で   ひとりぼっちの夏   一夜だけ  結婚するあなたに憶えていてほしい12の言葉   結婚しても「自分」でいるために   闘わなくてはならない瞬間がある。   そんな時、全ての武器の中から   あなたは「笑顔」を手にとるかもしれない。   知っていてほしい。   「失恋」というのは   今のあなたを変える   上質な傷であるということを。   恋愛中のかけひきは   相手の期待を引きのばすこと。   結婚後のかけひきは   いかに自分を飽食させないかにかかっている。   人生にはいくつもの扉があり   そのどれを選んで入ってゆくかで   少しずつ運命が変わってゆく。   私にはひとつだけ開けられなかった扉があって   今でもその奥に大切なものがあった気がしてならない。   最愛の男よりもまず   自分自身を愛することができなければ   幸福な結婚にはならない。   それは人生のパラドックスなのだ。   「恋愛中は両眼をしっかり開いて相手を見ること、   結婚したら片眼をつぶって相手を見ること」   結婚における悲劇の大部分は   この逆をたどるからではないだろうか。   私たちは、本当に幸福になるための努力よりも、   どちらかというと、   人に幸福のイメージを与えることに、   四苦八苦している。   母親の歴史はくりかえされる。   その喜びも苦しみも——   結婚という門《ゲート》をくぐり、   娘はそれを引き継いでゆくのだろうか。   胸に点《とも》った明かりを   消してはいけない。   いつか必ず、あなたの眼の前を   明るく照らしてくれるから。   娘を嫁がせる朝、父は切ない。   けれども、娘を思う全ての時、   父親というものは切ないものだということを   知っておいてほしい。   誰しもやがて来る老いから逃れられないとしたら   せめて少しでも美しい皺《しわ》を刻みたい。   そのための準備を今からしていますか?   旅も人生も、   目的地に至るまでの過程が一番楽しいのだ。   今、私たちはいきなり目的地に着いてしまう。   本当に大事なものを惜しげもなく飛び越してしまっている。   モラルについて   自立のエクササイズ   なんにもしない花嫁   リゾートについて「おしゃれ心」  結婚の処方箋   出逢いの不思議   プロポーズ   結婚式   姑と夫   昔の恋人   嫉妬について   仕事   女友達   二人の家   結婚後の恋愛   子供   結婚の歳月。その日々の積み重ね   手縫い時代   自然に帰る   娘の結婚   親子二代にわたる国際結婚   憧れのウェディングドレス ------------------------------  恋愛論 ------------------------------  二匹のアメーバ論 二人のプラトニックな関係は続いていたが、僕は相変らず約束の時刻に行ったためしがない。 二時間、三時間と待たせるのが常で、その都度彼女の傷つきように心が痛みもした。 が、反面、彼女が業を煮やして帰ってくれることを願ってもいた。 ある時、六時間遅れた。それでも平気を装おうとする彼女を見て、僕はあらぬことを口走った。 �ヨーコ、僕と結婚してくれ� 北上ムッシュウ(『ミッドナイトコール』解説より)  あの時、北上ムッシュウが私にプロポーズしたのは、情にほだされたのでもなく、またやけのやんぱちでもなく、彼特有の�美学�だったのである。  だから私もその美学に応《こた》えて、 「ノー」と言ってあげた。  私は十九歳で、当時彼に恋をしていたので、美学でプロポーズされるのは切なかった。なぜなら、あのプロポーズの本音は、�僕は君と結婚するつもりはない�ということだから、恋愛半ばにしてアンハッピーエンドが予告されたようなものだった。  彼は、男と女の関係をよく二匹のアメーバにたとえた。一方のアメーバが近づくと、触れるか触れないかギリギリの瞬間に他方がスッと身を引く。その身を引いた方が一転して相手に近づくと、今度は先のアメーバが触れる寸前にスッと引く。人間の関係もそのくりかえしだというのだ。  あの時だったのだと思う。男の求愛は待ち続けて得るものではなく、女が賢くふるまって、男にその気にさせるものなのだ、と気づいたのは。  彼から美学のプロポーズを受けた時、奇《く》しくも私は学んだのだ。「この手もあるな」と。ひたすら受け身を演じて男の哀れみを誘い、情にほだして求愛させる。これぞ女のテクニックというわけだった。  もっともこの手は、私の性格や外見と全く似合わない。ひたすら受け身で待ち続けるなんて、相手に運命の鍵《かぎ》を渡してしまうようなものだ。私は自分の人生をことごとく自分でコントロールしたかった。  第一、男の方に選択権があるようなのが、嫌だった。自分の好みでない男に選ばれて求愛されるのは不快だ。自分の相手は自分で選びたいし、この男ときめたら、何が何でも、自分のものにしたい。  かといって、女の方から「結婚して」とは言えなかった。当時はまだ、結婚というものは、男にしてもらうものだったので、結婚してくれとおねだりするなんて最低だった。  しかし、男にプロポーズさせるように仕向けることは、できるわけだ。それこそ、女と生まれたからには、人生最大の舞台にたったつもりで、迫真の演技をしなければならない。ただし、力が入りすぎないように。  そこで役に立ったのが、北上ムッシュウの�二匹のアメーバ論�だ。近づくと引く。つかまりそうだと思った瞬間、スッと逃げる。時には、自分の方から男をちょっと追ってみる。追いかけておいて、どたんばで、スッと引く。このアメーバの原運動こそ、恋愛論の原則なのだ。少しだけ追って、余分に逃げる。逃げようとするものを、男は必ず追いかける。多分、それが男の本能なのだろう。女は、自分から逃げていくようなものを追ったりはしない。どうせ女の足では追いつかないだろうと、諦《あきら》めが先にたつ。それよりも、自分の気を引こうとして逃げる男の計算が背中にちらついて見えてしまうから、恋心もそれで冷めてしまう。  男には、逃げる女の背中にちらつく計算が見えない。男が鈍感なのではなく、そういうことに関して女の方がはるかに上手《うわて》なのだ。男の背中は無防備だが、女は違う。無防備な背中を見せる女など、この世にいない。  とにかく、男のプロポーズを待って、もんもんと過ごすのは、あまり賢いことではない。相手に引導を渡してしまうと、運命を握られるのと同じで、ひたすら振り回される。  彼が中々プロポーズしてくれないとあなたが業を煮やし始めたら、それがGOサイン。「ねぇ、あたしたち、結婚するの? それともしないの?」なんて責めては逆効果。押すのではなく、ここで引くのだ。  けれども、長すぎた春の後で、引くのにはかなり勇気がいる。それをいいことに、男が喜んで離れていくのではないかと、恐れるからだ。清水《きよみず》の舞台から飛び降りるつもりでやるしかない。そのままだらだらの関係を続ければ、破綻《はたん》は必定なのだから、だめもとだと思えば良い。  お見合いを仄《ほの》めかす。仄めかすだけではなく、本当にお見合いをしてみる。 「親があんまり言うんで」と言えばいいのだ。たいていの男は、ここであせる。そして選択を迫られる。俺《おれ》が結婚しなければ、見合いの相手にとられてしまうかもしれない、と考えるからだ。そうすれば、「勝手にしろよ」と言うか、「俺と結婚しよう」と言うか、どちらかである。たいてい男は、負けを嫌うし、ましてや自分の恋人を他の男に奪われるなど、沽券《こけん》に関わるから「勝手にしろ」とここで突っぱねることはほとんどないと思っていい。もし、勝手にしろよ、とあなたを手放すような男なら、いずれにしたって結婚する気もないのだから、それこそだめもとである。  お見合いまではやれないというのであれば、それとなく別の男性の存在を仄めかすとか、突然、相談もしないで外国に行くという手もある。ある日突然成田から彼に電話を入れて「ちょっと行ってくるわ」と言うのだ。「一体どうして急にそんな!」と彼が言ったら、「色々考えたいことがあるから」とミステリアスに言うだけでいい。二週間ばかりのあなたの不在が、彼を一気にあなたに近づけることになる可能性は大だ。 「この女、もしかしたら他の男にとられてしまうのでは?」という疑惑と不安を彼の胸にかきたてられたら、大成功だ。少々鼻につきだした女だって、他の男にとられそうだとなると、がぜん惜しくなるのが、男の本能なのだから。他の男にとられないためには、彼はこう言うしかない。「結婚してくれ!」  贅沢な不倫 ああそうとも、女の子はたくさんものにしたさ。でも、きみみたいな女性は初めてだ。だけど、一生ここに住みつく気はないね。息がつまってしまうよ。この町にはおれの過去がありすぎるからな。 物を書くなら、この町から出なきゃならんだろう。スティーヴンは落着きなく部屋の中を歩き始めた。彼女は、自分がこの男にとって、いま彼の飲み終えたカクテルや、半分吸っただけでもみ消してしまったタバコ以上のものではないことをさとった。 ジョン・ブレイン『朝までいっしょに』より  結婚をしたカップルの大多数が、色々と問題を抱えながらも、なんとかその結婚を生涯維持できるのは、浮気をしかたのないもの、とする暗黙の風潮があるためだと、私は思う。  別の言い方をすれば、浮気の一つや二つをしないことには、とても結婚の長丁場をやっていけないということだ。  夫婦ともども、性的には相手にうんざりげんなりしていても、それでも結婚を続けなければならないとしたら、どうしたって、他に異性の存在が必要となる。つまり、浮気というのは離婚の歯止めにもなっているのである。  と、以上のようなことを前提にして、不倫について考えてみよう。  今、不倫をしているあなた。割り切ってのことだろうと、深刻かつ真剣であろうと、あなたは、相手の結婚や家庭の円滑油みたいなものだということを、知らなければならない。リードのとおり、飲み終わった甘美なカクテル、あるいは、半分吸っただけでもみ消される煙草のようなもの。  そう覚悟して、割り切って不倫を楽しむのなら、それはそれで大いに結構。日本の結婚制度維持のため、夫婦のマンネリ解消のため、せいぜい貢献してほしい。おそらく同じ年の男の子たちよりずっとセックスも上手だろうし、お金もあるし、遊びも贅沢《ぜいたく》。いずれ頃合を見計らって自分に見あった若者と結婚すれば、家計のやりくりや子育てに髪振り乱さなければならなくなるのだから、まぁ贅沢な不倫は、自分への先付け小切手のようなものと割り切って、大いに楽しんだらよいのだ。あなたもいい思いができるし、相手もそれでなんとか辛い結婚の継続を続けるエネルギーを取り戻すことにもなるし、四方八方めでたし、めでたしではありませんか。  問題は、相手を本気で愛してしまった場合だ。最初から不倫と承知していたわけだから、本気になってしまうのは、本当はルール違反であるが、ルール違反であろうとなかろうと、人を愛してしまうということはあり得るわけだ。そしてまた相手も本気であなたを愛してしまうというケースも。相思相愛の不倫。  ここで、日本人と、外国人の男の違いが大きく出る。まず日本人の男は、それでもなんとか上手《うま》くやっていこうとする。妻をなだめ愛人を慰め、全《すべ》ての運命を時にゆだねるわけだ。  私の知るかぎり、イギリスやアメリカの男は、妻以外の女を本気で愛してしまったら、妻とは離婚するだろう。善良な市民たる彼らは、もし妻を愛しているなら、浮気ということはしないのだ。それはモラルに反し、宗教に反し、自分の良心に反するからだ。浮気は存在しないが、本気は存在する。私のごく身近なイギリス人の友達が最近悲劇に見舞われた。しかも前後して二人の友人に。ともに、ある日突然に夫からこう言われる。「他に愛している女がいる。君のことはもう愛していない。離婚してくれ」。そして泣こうが叫ぼうが、その夫は、かんぜんと荷物をまとめて、その新しい女のところへ行ってしまったのだ。  男の側の言い分はこういうことだ。妻と結婚していながら、他の女を愛するのは、妻に対して良心が痛む。と同時に、その新しい愛する女に対しても誠実ではない。更に、二人の女の愛をもてあそぶのは、他の誰でもなく彼自身、自分に対して誠実でないと感じるわけだ。妻にとっても、恋人にとっても、自分にとっても一番誠実な方法は、即、離婚し、新しい女と晴れて暮らし始めること。  非常に筋が通っている。特に、自分の良心にとっても妻も愛人もというのは誠実でなくて嫌だという考え方は、日本の男にはないものだ。日本の男だと、妻も愛人も自分も三者全部がぐちゃぐちゃな関係になり、泥沼の苦しみを味わうという運びになっていく。日本人というのは、決断が苦手なのだ。妻か愛人かの選択をするということは、どちらかを選べばどちらかを捨てることになる。だから日本の男は、どちらか一方を選べないのだ。優しいというか気が弱いというか、優柔不断というか。  もっとも不倫をはたらく方の立場から言えば、あちらの男性の方が好もしく思えるかもしれない。妻を捨てて、あなたと結婚してくれるのだから。けれども、そういう人種というのは、いずれあなたが、妻の座《ざ》に坐った時、今度は逆の試練に立たされることを忘れてはいけない。 「もう君のことを愛せなくなった」と、いつ切りだされるやもわからない。  日本の男は、もう愛せなくなった妻とでも、ずっと結婚していてくれる。そのかわり、浮気を許せよ、ということなのだ。  一般論を話してもしようがないから、私がもし、まだ若い娘で、ある既婚男性と相思相愛の仲になってしまったとする。どうするか。  私の男なら、そこで欧米型の選択をしてほしいと思う。どちらも選ばないというのは、ずるいのである。そういうずるい男を、私は愛し続けることはできないだろう。誠心誠意をもって、妻と別れるか、あるいは私と別れるか、徹底的に説得すべきである。その際の男の出方で、その男の質がきまるというものだ。  いずれにしろ不倫をしているあなた。時がたってみれば、やがて、結婚したあなたの夫に、今のあなたそっくりの若い不倫の相手が現れ、それであなたの夫が、結婚の重圧からほんのわずかに解放されることを、あなたはやがて知るだろう。歴史はくりかえすのである。かつてあなたがそうであったように、その若い娘のおかげで、夫がノイローゼにもならず、結婚から逃げだしもせず、なんとか安泰に過ぎていく結婚の時期が必ず存在するのである。  妻がよほど夫の不倫に目クジラをたて、不快に騒ぎたてないかぎり(たとえ騒ぎたてても)日本の男は、妻や家庭を捨てない。捨てられない。だったら、不倫中のあなた、楽しくやりましょうよ。  年下の男性 「また逢える?」「逢ってどうするの? あなたは十八歳でしょ、坊や。私は三十一よ」 「だからどうなんだい」「あなたとつきあうのは、揺り籠を揺するようなものだってことよ」 僕はいきなり相手の腰に手を回して、彼女の口に強くキスした。 「馬鹿ね、救いようのないお馬鹿さん」とその口が囁いた。 ピート・ハミル『愛しい女』より  マルグリット・デュラスが一緒に暮らしている男性は、三十五歳年下である。デュラスは一九一四年の生まれだから、現在七十八歳。一体どんな同棲《どうせい》生活をしているのだろう? 彼は彼女を労《いたわ》るのだろうか? かぎりなく優しいのだろうか? 老いた母親を扱うように——。それとも、お金がめあてなのだろうか? あるいはデュラスの才能を愛しているのか——。  ひとつだけ確かなことは、二人が淡々とは暮らしていないらしいということだ。すごく仲が良いかと思うと憎々しげにののしりあう。デュラスはその若者と暮らすようになってから、断っていたお酒を彼とともに再び飲みだし、二人で一緒にアルコール中毒で病院に担ぎこまれるのは、日常茶飯事だとも聞いた。なんと、デュラスはその年で未《いま》だに、激しく生きているのだ。風車に向かって闘いをいどむドン・キホーテのように。  ところで二人はともに物書きである。物書きという人種は秘めごとを白日のもとに引きずりだして、世間に公表してしまう。小説化という大義名分のもとに。  小説家は破廉恥な露出狂であると同時に、人喰《ひとく》い人種でもある。相手の肉を喰らい、血を啜《すす》り、魂を吸いこみ、最後に口に残った小骨をポイとはきだす。二人はお互いがお互いの餌食《えじき》であり、素材なのだ。  驚異なのは、その関係が十年以上も続いているということだ。数えきれないほど刺し違えているはずなのに、そのたびに奇蹟《きせき》的に命を吹き返し、性こりなく愛したり憎んだりののしったり酒に溺《おぼ》れたり、優しくしたりしあうその不死身のエネルギー。  私は四十五歳の時、十五歳年下の男性と『ダブルコンチェルト』というラヴストーリーを共作したことがある。この時の共作者マイケルは、私が作品のために彼を利用し、魂をもてあそんだ挙句、用済みになるとポイと捨てて二度と見向きもしなかった冷酷非情な女だと言ってはばからない。そしてそれは少し当たっている。彼の言い分が全面的に正しくないのは、彼はそのことに対して、充分な報酬を得たことを忘れていることである。つまり、彼は魂を売ったのだが、それをいさぎよく認めることができないだけなのだ。  その実験で——あえて実験と呼ぶが——私が傷ついたかもしれないなどとは、彼は想像だにしなかったろう。  私があの実験小説で試みたのは、愛において、男と女とは違うものなのか、そして違うとしたらどんなふうに違うかを探ることだった。それと年下の男の心境も。  私たちは、あまりにもしばしば、沈黙の意味を誤解しあった。  ——どうしたの、マイク、わたしといると恥ずかしいの?——と年上の女はたびたび口に出して彼にそう訊《たず》ねざるを得なくなるのだ。  するときまって、彼は微笑する。その笑顔の言わんとするところは、本当は「違うよ、キミといるとたまらなくうれしいんだ」という意味なのに、年上の女は別の意味にとってしまうのだ。わけ知り顔の、勝ちほこった微笑のようだ、と。  すると彼女はひどく居心地が悪くなり、逃げだしたいと思うのだが、そうした気弱な思いとは裏腹に、なぜか高飛車な態度に出てしまう。 「だったら、私たち何を待っているの?」  と、いきなりベッドのことを仄《ほの》めかして、彼の自尊心を叩《たた》きのめすのだ。  彼は、怒りと屈辱とで耳を真っ赤にして耐えながら、自制心を取り戻す。「いいとも。それがキミのしたいことなら」  彼女はそんなことのなりゆきを全然望んでいなかったので、自分に対して猛烈に怒り狂いながら、顎《あご》を突きだして、彼の前を歩きだす。  そして年上の女は、自分を傷つけ罰するために、若くもなく、美しくもない自分の肉体を男の眼に、わざわざさらけだして見せるのだ。  ——彼はわたしを見ていた。わたしの惨めな平たい胸を。それから醜い盲腸の傷跡を。脂肪のつきすぎた胴回りを。陰毛に混じっている数本の白い毛を、彼は全《すべ》てありのままに見ていた。ほとんど穏やかともいえる優しい眼ざしで——  年上の女は、その優しい眼ざしを、むしろ残酷だと感じてしまう。わたしが十九歳の時の肉体を持っていたら、二十七歳の、いや三十五歳の時のでもいい、彼は猛々《たけだけ》しくわたしに襲いかかってくるだろう。彼はそうしない。ただひたすら優しいのだ。 「そんな眼でわたしを見ないで」と彼女は小さな悲鳴のように叫んでしまう。 「どんな眼だっていうんだい?」と彼が訊《き》く。 「まるで、母親か、年とった伯母さんを見るような眼で、という意味よ」  そうした言葉は彼を傷つけ、それ以上に彼女自身を傷つける——  十五歳という年齢の差は、ほとんど残酷だ。小説はアンハッピーエンドに終わっているが、それを共作した私とマイケルとの友情も、存続不可能なまでに傷ついてしまっていた。  けれども、あの小説を書き終えた後——すでに取り返しがつかなかったが——私は大事なことを学んだのだった。  男と女は、本質的に何も違いはしないのだということ。男が痛いと感じることは女にとっても痛いのだ。女が快いと感じることは、男にも快いことなのだ、ということ。大事なことは、素直になること。小賢《こざか》しく常に一歩も二歩も先を読もうとしたことが、全てのまちがいだった。四十五歳の女が、三十歳の男を愛することができるのなら、その逆もあり得るのだということ。  彼が年上のあなたを愛しているのなら、喜んでその愛を受けとればいいのだ。なぜ? とか、信じられないなどと考えずに、素直に受け入れればいいのだ。  肉体の愛なんて、どんなに若く美しい肉体だって、いずれはあきる時が必ずくる。それは年上だろうと年下だろうと同じなのだ。  肉体の興味が薄れた後に残るものの方が、はるかに価値があるはずだ。それはユーモアやウイットであり、生きる姿勢であり、そのひとの作りだすものである。  私たちは、あまりにも肉体的な若さだけを考えがちだけど、本当はそれ以上に必要なのは、精神の若さ、柔軟性なのだ。たえず相手を刺激し続けられるのは、肉体ではなく、あなたのものの考え方や、行動や、好奇心の方なのだ。一緒に暮らして、はるかに面白いのは、だから年上の女の方にきまっている。それだけ人生経験が多いのだから、当然だ。マルグリット・デュラスが三十五歳年下の男を引きつけておられるのも、その点である。  友達の恋人 その男は百ドル以上もはたいてブルーミングデールでタオルを買った。そのタオルはバスルームにかかっていたが、一度も洗った気配はなかった。又一度、ある男に声をかけられたが、その男は私をファックすると、まだ夜の八時だったのに眠り込んでしまい、とり残された私が冷蔵庫をあさったところ、中にはダイエットフードがあるだけだった。 ジェフ・ワインスタイン『ジャン・マリーのクッキング・ブック』より  そもそも、友達の彼に恋などしないのが、友達の第一条件です。なぜなら、いずれあなたも大人になり年をたくさん重ねてみれば自然にわかることだが、恋人はいくらだってすげかえできるけど、友情のすげかえはできないからだ。  言いかえれば、恋はいずれ冷めるものだけど、友情は大事にすれば一生ものだということである。今の恋人は別れてしまえば、やがてあなたが中年になり色香があせた時、病に倒れたとしても、お見舞いにも来なければお花一束届けもしないだろう。真の友達なら、やせさらばえたあなたの瀕死《ひんし》の手を握り、ベッドの傍《そば》でいつまでも撫《な》でさすり続けてくれるものなのだ。 「でも好きになってしまったんだもん」こういう女《ひと》、時々いる。精神年齢が五歳でストップしてしまった子供女だ。  こういう女は知性では勝負できないから、知をぬいた性で、すなわちセックスでいきなり勝負をしかけてくる。そしてたいていは適当に男に遊ばれて、そのうちに捨てられる。 「もし、私の方が先に彼に出逢《であ》っていたら、二人は絶対に恋に落ちたはずだわ」というケースがあるかもしれない。「たまたま友達の方が先に彼に出逢ってしまったのが、私の不運なのよね」と。  もともと、自分に属するべき男なのだから——という思いこみがあるから、親友から彼を奪うのに、それほどの罪悪感は感じない。  しかし、本当にそうなのだろうか? 彼は本当にあなたに属する男なのだろうか? あなたは彼と結ばれるためにこの世に生を享《う》け、彼もまた、あなたのためにこの世に生まれてきた男なのだろうか?  もしもそうであるなら、彼は寄り道などしないでまっすぐあなたと出逢っているだろう。  私は、どんな人にも、生まれた時から結ばれることが定められた相手がいるということを信じている。元々完全に球体だった二人が、いったんは別々に生を享けるが、やがて二人は再び元の球体に戻るために、必ず出逢うものだ、ということを信じている。  だから、どんなに偶然や、とっぴな出逢いであっても、相手が自分の半身であれば、それは本能的にわかるものなのだ。  友達の彼は、だから、あなたの探し求める運命の半身であることは、まずあり得ないと思った方がいい。定められた相手ならば、まずあなたが先に彼に出逢っているはずだからである。  隣の芝生の方が、自分のところより緑が濃く見えたりするじゃない? マイアミ・ヴァイス風の二日分の不精ひげが、やけにセクシーに見える男っているよね。もっともただ汚らしく見えるだけの男もいるけど。  友達の彼っていうのは、一口でいうと、このマイアミ・ヴァイス風の二日分の不精ひげはやした男みたいなものなのかもしれないね。遠眼にはいいってことでもね。  だけど、その二日分の不精ひげを刈ってしまったら、愕然《がくぜん》とするほどチンケな男かもしれない。冷蔵庫にはダイエットフードしか入っていず、バスルームのタオルは一度も洗濯しない男なのかもしれない。たいていそんなものなのだ。  だから慌てて友達の彼に手など出さない方がいい。奪い取った後で、マイアミ・ヴァイス風の不精ひげをそり落としたチンケな素顔を見せられたら、これは大いに悲劇。  私自身の過去をふり返って思うに、私は女友達の彼に、性的魅力を感じたことは一度もない。それは、その彼が魅力がない男という意味ではないのだ。私の親友にとっては唯一無二《ゆいいつむに》の魅力的な存在なのだろうが、私の趣味とは違うからである。  たまたまこういうことがあった。私は若い時ある男性に深く魅《ひ》かれてしまい、毎日のように彼を追い回した。一年ほどめくるめくような恋の日々が続いたが、ある時、恐ろしいことが判明した。彼は、私が当時一番敬愛していた年上の女友達の内縁の夫だったのである。つまり二人はあの頃|流行《はや》っていたサルトルとボーヴォアールを演じていたのだ。私はボーヴォアールの書いた『招かれた女』のグザビエール役を、知らずにやらされていたのだった。  けれども、彼らはプロの役者ではなかったので、演技のつもりがいつのまにか私情を交えるようになって、結局誰も彼もが傷ついて終わった。  私の好きな男が、敬愛する女友達の恋人だとわかった時、私の思いはすうっと冷めてしまった。あれだけ夢中だったことが嘘《うそ》のように、彼を見ても心は少しもときめかなくなってしまった。私はたいして苦しみもせず、彼を彼女に返し、二人の前から姿を消した。  といっても、たいして格好のいい話でもない。友達の彼とか、幸せな結婚を営んでいる他人の夫とかいう異性に、私たちは本能的に魅かれないのではないかと思う。動物の世界を見れば、そのことがよくわかる。動物たちのほとんどは、いったん自分のパートナーがきまると、絶対に他には眼もくれないし、他に属している異性に手を出そうともしない。人間は、そこまでお行儀が良くない。自分のパートナー以外の異性にしょっちゅう眼移りばかりしている。  友達の彼にはたしかに手を出さないし、魅かれることはないが、他の女に属している男に強く魅かれることはある。その場合、その女のことは、何も知らないし、知りたくもない。場合によっては、その男と駆け落ちしてもいいと思うようなこともある。その相手の女を個人的に全く知らないわけだから、いくらでも傷つけられるような気がする。見たことも逢ったこともない女は、存在しないのと同じようなもので、存在しないのだから傷つくこともない、というふうに飛躍してしまうのだ。  話が理屈っぽくなったので、元に戻そう。「友達の彼」がもし、あなたの親友を裏切ってあなたにくらがえしたとしたら、そんな男を、あなたは本当に愛せるだろうか? 裏切りもの同士が結ばれて、本当に幸せになれるだろうか?  乱れたベッド 「夜明けはひとりで見たいの、わたし」彼女は彼を起こしてこう告げたのだった。「早起きの画家でも来るのかい?」「そうじゃなくて、歯を磨くのやトイレの水を流すのがめんどうなのよ」 心地よい驚きだった。ピーターパン・カラーの少女時代の感受性がかすかだが初めて顔をのぞかせたのだ。(中略)このベッドなのだ。このベッドの中で、彼女への無関心を材料に全てを作り上げたのだ。 フィリップ・ロス『解き放たれたザッカーマン』より �乱れたベッド�——まるでサガンの小説のタイトルみたい。あるいは現にそういうタイトルのサガンの小説があったかもしれない。また、ことによるとそれは私自身の短編の小説の題名だったのかもしれないなどと、色々なことを考えてしまう。  実は今ちょうど、私の親しい男友達との電話を切ったところだ。そして話題が実は�乱れたベッド�についてだった。たまたま偶然なのだが、私としてはおかしいような不思議な気分である。  男友達からの電話というのは、料理の相談で、本当はあまり色気のある話ではないのだ。私が今作っている『モリ・ヨーコの料理ブック』という中に、「三人のヨーコのために作る料理」という頁《ページ》があって、その三人のヨーコというのは、まず�情事�のヨーコ(私の処女作です)、次に�デザートはあなた�に登場する廻燿子《めぐりようこ》という売れっ子の女流作家、そして最後にこの私モリ・ヨーコというわけ。この三人のヨーコのために、別々の三人の男たちが自慢の腕をふるって何かご馳走《ちそう》してくれようという仕掛けなのだ。  電話をかけてきたのは、�情事�のヨーコをふり当てられた男友達で、「どうしたものかねぇ」と溜息《ためいき》をついたのだ。「どうしても寝乱れた朝のベッドの光景が浮かぶんだよ」 「それじゃ、ステキなトレイに白いバラを一本とピンクシャンパンでも載せて、乱れたベッドの上に置いた写真でも撮れば?」と私はサジェスチョンしたのだが、どうせ忠告どおりのことをやるような男ではないので、「情事の後の疲れは素うどんで」なんていうのにしかねない。  それはさておき、私のイメージの乱れたベッドというのは常に朝である。朝の日射しがブラインドの間から斜めに射しこんでいて、ベッドはすでに無人だ。シーツはパウダーピンクで、羽毛のピローが二つとも寝ぐせがついて散らばっている。無人だけれど、シーツにはまだ微《かす》かな温《ぬく》もりと、二人の愛の匂《にお》いがしている。  多分彼女はバスルームで歯を磨いており、彼の方は、彼女と自分のために濃いミルクティーをキッチンで作っているのに違いない。そして多分、二人はピローをパンパンと叩《たた》いてふくらませると、それを背に当て、もう一度ベッドに座って、朝のお茶を一緒に飲み始めるだろう。それからもしかしたら、もう一度、朝日の射しこむ二人の部屋で、愛を交わすかもしれない。するとベッドは二人の愛の舟となって激しく軋《きし》むだろう。  私は、乱れたベッドに、もう一度入るというイメージが好きだ。それはきっと休日の朝だ。その時はおねがいだから、歯を磨き、顔くらい素早く洗ってほしい。寝乱れたベッドはいいけれど、寝乱れた髪や、皺《しわ》のよったヨレヨレのパジャマや、臭い口は、恋の敵。別れへの坂道をまっしぐらである。  それとは反対に、乱れたベッドを乱れたままにしておくのは、だらしがないようで嫌だという人もいるかもしれない。世の中には色々な人がいて当たり前だからそういう人がいてもいいと思う。でも、あまり真剣に、完璧《かんぺき》に彼の前でベッドの乱れを直さない方がいい。きっと彼は味気ないような気分になると思うのだ。  たとえば、愛しあった直後、いきなりバスルームに駆けこんで、彼がシャワーを浴びだしたとしたら、どんな気持がすると思う? そんなにさっさとあなたとの愛の匂いを洗い流しちゃう男なんて、味気なさすぎる。  乱れたベッドもそれと同じ。少しの間、そのままにしておく方がいいみたい。本当に相手のことを愛していたら、シャワーなんて浴びずに、彼の(あるいは彼女の)匂いを、自分の躰《からだ》に少しでも長くつけておいたままにしたくなるものなのではないだろうか?  それは、相手の愛の深さを計るバロメーターにもなる。愛しあった後さっさとシャワーを浴びるような男は、あなたの躰だけに興味があるのであって、あなたのことを愛してはいないと考えた方がいい。  男の質が一番よくわかるのは、愛しあった後の彼がどうふるまうかだと思う。長々と前戯をしてくれることや、巧みなセックスそのものより、むしろ終わった後のあなたへの接し方に、男の質は顕著に現れる。終わった後もしばらく躰を放さないでいるのは、多分男にとっては忍耐を要することかもしれないけど、さっと放れてくるりと背を向けられるのは最低。  今の時代、一度もセックスをしないで結婚に飛びこむなんて無茶なことをする男も女もいないとは思うけど。やっぱり相性の中で一番大事なのはセックスの相性。これだけは、結婚前にお互いにちゃんと調べた方が絶対にいい。その時のチェックポイントが、乱れたベッド。つまりほど良く乱れたベッドのような男。わかるかな? お嬢さん。  二人の男性の間で 彼女はアントワーヌを愛していた。シャルルに執着をもっていたが、アントワーヌは彼女を幸福にし、彼女はシャルルを不幸にしていなかった。 この二人の価値を認めつつも、わが身を分け与える自《おの》れを軽蔑するほど、彼女は自分自身に興味を持っていなかった。満足感の完全な欠如が、彼女を猛々しくさせるのだ。 つまり彼女は幸福だったのだ。 フランソワーズ・サガン『熱い恋』より  二人の男を同時に好きになるということは、そんなに珍しいことではないと思う。夫のいる人妻が外に愛人を作るのだって、そのケースに入る。最初から夫と別れる気なんて毛頭ないが、愛人の方も失いたくない。この場合彼女の心は、二人の男の間を揺れ動くことはない。夫は夫、愛人は愛人。二人の男に対する愛の種類が全然違うからだ。夫は彼女の生活を生涯保証してくれる男であり、愛人の方は、ほとんど性的な対象としてしか存在しない。このように、男の方の役割分担がはっきりしており、なおかつ夫は妻の不倫を夢にも疑っていない場合には、女の側にも男の側にも葛藤《かつとう》はほとんど存在しない。そしてこんなケースは世の中に掃いて捨てるほどありそうだ。  ここでわざわざ取り上げようと思うのは、二人の男が一人の女を対等に共有しているケース。男たちは、お互いの存在を知っている。薄々と知っているのではなく、その存在を認めあっている。  彼らは友人同士かもしれないし、それを機に友人になったかもしれないし、ことによると三人で共同に暮らしているかもしれない。  私の知っているある例を一つ挙げてみよう。  男と女が十年ぶりくらいに再会した。二人は同じ大学に通っていて、卒業まぎわにふとしたことから肉体関係を持ち、たちまち恋が燃え上がったが、卒業と同時に彼はかねてからきまっていたニューヨークの大学院に行ってしまい、二人の愛は引き裂かれるようにして、終わってしまった。  それから十年後に、二人は偶然に出逢《であ》い、幸いなことに二人とも独身だったので、再び恋が燃え上がった。彼女はすぐに彼のマンションに移り住んだ。  移ってみてわかったのだが、彼のマンションには、もう一人同居人がいた。最初は弟かと思ったが、そうではないという。かなり年下の芸術家タイプの男だった。事実美大の大学院生だということで、郷里が一緒だか、うんと遠縁に当たるのか、彼のところに転がりこんで来てそのまま居ついてしまったらしい。  最初、彼女は二人の関係をゲイかもしれないと疑った。しかし事実一緒に暮らしてみると明らかに二人の間にはそういう関係は存在しない。けれども更によく観察していくうちに、二人には肉体関係こそないが、お互いを深く認めあい、尊敬しあい愛しあっているような節がみられた。  精神的ホモ、と彼女は二人の男の関係をひそかにそう呼んだ。  彼女が男の元に移って三か月くらいたったある夜のことだった。いつものようにベッドの彼の傍《そば》にもぐりこもうとしている彼女に向かって、彼が言った。 「あいつのところへ、行ってやれよ」  淡々とした声だった。「あいつがきみのことを好きなことは、きみだって、とっくに知ってるだろう」 「ええ……。でもそれは、私があなたの恋人だからだわ」 「俺《おれ》の恋人でなかったら、とっくにあいつはきみに手を出しているよ」 「でも、私、嫌だわ、そういうの」 「そうかな?」と言って男は、まじまじと彼女をベッドの中から見上げた。「きみがあいつをどう思っているかくらい、俺にわからないと思うのか」 「そりゃ、好きよ。でも、あなたが大切にしている人だからよ」 「それでいいじゃないか。あいつもきみが好きだ。きみもあいつが好きだ。そして俺はきみを愛しているし、あの男も愛している。さぁ、行ってやってくれ。あいつは毎夜|悶々《もんもん》としてきみのことを思っているんだ」  彼の言葉には不思議な説得力があった。彼女がその夜ひっそりと美大生の寝室を訪れたのは、しかし、説得されたからだけではなかったと思う。彼女もまた、その年下の美貌《びぼう》の美大生に魅《ひ》かれ、愛し始めていたからである。  このようにして、三人の共同生活が始まった。幸福だった。三人が三人とも満たされていたかにみえた。  やがて、彼女は、自分が、若い美大生の方に少しずつ余計に魅かれていくのを感じ始めた。それは躰《からだ》を合わせる回数の問題ではなかった。彼女は昔からの知り合いの男をたてて、普段は彼のベッドで眠っていた。躰はそこにあっても、思いはいつのまにか別室で、躰を丸めて眠っている若い彼の方へと漂っていってしまうのだ。  男は敏感にそのことをさとった。 「俺のベッドにいる時に俺以外の男のことを考えるようになったら、終わりだな」  男は嘆いた。 「あんなに上手《うま》くいっていたのに。きみがあいつの腕に抱かれている姿や二人の歓《よろこ》びを想像して、俺はとてもうれしかった。それはあいつにも言えたことだ。俺たちの間に嫉妬《しつと》はなかった。きみが何もかもめちゃくちゃにしたのだ」 「あなたたち二人を全く同じように愛そうとはしたのよ。どれだけ努力したかしれないわ。でも、そういうふうになっていかなかったの」 「あいつのところへ行けよ」と男は言った。 「かまわないの? 許してくれるの?」  女は、男の掌の中に感謝をこめて口づけすると、若い美大生の部屋へと飛びこんでいった。 「今日から、あたし、あなただけのものよ。あなたはもう、あたしなしの夜、孤独と嫉妬で苦しむことはないのよ」 「彼は何て?」若者は静かに訊《き》いた。 「あなたさえよければ、それでいいって」  しかし若者は頑《かたく》なに黙りこんだ。 「どうしたの? あたしのこと欲しくないの?」。そんなはずはないと、彼女は身もだえた。 「ぼくは……」と若い男は言った。「あのひとが愛している女性を共有することに、歓びと興奮を感じていたんだ」 「じゃ、私を必要としないのね?」 「彼が必要としないのなら」  それで三人の共同生活はあえなく終わってしまったのである。  ひとりぼっちの夏 「今のところ人生はあたしの唇にさし出された栄光の盃のようなものよ。でもそこには何らかの苦みがあるのに相違ない——どんな盃にも含まれているのだから、あたしもいつかは味わうでしょうよ。それに立ち向かえるだけ強く、勇敢でありたいものだわ」 ——最高の高さまで飛翔できる者はまた、どん底の深さにまで沈めること。この上なく激しい歓喜を味わう者はまた、もっとも鋭い苦痛を感じるものである——。 モンゴメリー『アンの愛情』より  恋人と別れたばかりのあなたにとって、これから迎える夏がどんなにひとりぼっちか——。孤独が深ければ深いほど、あなたの恋愛がすばらしかったのだということを、リードで理解していただければと思います。そして、深い苦しみの後には、それに見あうだけの喜びが、また必ずつかめる(私はここであえてつかめると言いたい。喜びや幸福は向こうから漠然とやって来てくれるものではなく、あなたがそれを心から望み、自分の手でしっかりとかき集めるものだから)。 「ひとりぼっちの夏」——さしあたり、ひとりぼっちであることを思い切り堪能《たんのう》したらどうかしら。 「淋《さび》しくて辛くて孤独なのに、そんなもの堪能したくないわ」という気持もとてもよくわかるけど、私が言うのは『ひとりぼっち』ということを淋しさも含めて思う存分味わうのは、長い一生の間には、決して悪いことではないという意味だ。  考えてみたら、私にも、ひとりぼっちの夏があった。それもたった一度、一夏だけ。そしてそれから三十年を過ぎた今、それは他のどの夏よりも私の思い出の中でキラキラと光っている。あの失意の夏がなかったら、私は、真の友情に出逢《であ》えなかったし、今の夫のような男にも巡り会えなかったろう。たとえ巡り会ってもその良さがわからずにすれ違ってしまっていたかもしれないと思うのだ。あの失意の一夏があったから、今日の私があると言っても、決して大げさではない。  失恋した時、その苦しみから逃れる最上の方法は、失恋の苦しみから逃れようとしないこと。むしろあえてどっぷりとその中にひたり、苦しみをすみずみまで貪欲《どんよく》に味わいつくすことにある。本能のおもむくように、悲しみに身をゆだねてしまうこと。自己|憐憫《れんびん》や恨めしさにも、あきあきするくらいつきあうこと。そう、狙《ねら》いは、あきあきするというところにあることが、賢い読者にはわかったと思う。さめざめと泣くことにも相手を恨むのにもベタベタとした自己憐憫にも、うんざり、あきあきすれば、つまりそれが「ひとりぼっちの夏」の終わり、傷口がふさがったという証拠なのだ。  悲しみや孤独から逃げて、見て見ないふりもできるけど、そうすれば、傷口から、いつまでも血が滲《にじ》み続けることになる。いつまでも。  そしてたとえ一夏でも、見て見ないふりをしたり、逃げたりするのは、大変に損なことだ。長い人生といったって、数えてみれば、あなたにとって、夏の季節はいくら多くても八十回くらいしか味わえないのだから。多くて八十回の夏。そう思うと、たとえ一夏でも、おろそかにできないはずである。 「ひとりぼっち」をすばらしい贈り物として受け止めてみよう。そういう夏の思い出を持たずに人生を過ごしてしまう人よりも、ひとつ得をしたのだというふうに考えたらどうだろうか。  でも現実は——、一日一日を、いや一時間一時間を、どうやり過ごせばいいのかという問題だ。そしてそれこそが、失恋したばかりの人にとっては一番切実な問題なのだ。一呼吸するたびに、別れた恋人のことをあれこれ考えてしまう今という時を、どう乗り越えるのかが——。  それには、どんなに辛くとも、現実に、彼と別れても呼吸していけるじゃないか、と自分に言い聞かせてみること。たとえ息たえだえでも、とにかく、彼なしでも、今、自分はこうして生きていける、そんなふうに考えると自分が愛《いと》しく、自分に優しくなれる。世の中|全《すべ》てから見捨てられたような気がしている時だもの、自分だけでも自分に優しくしてあげたっていいじゃないか。  私はあの夏、たえずこんなふうに自分に言い聞かせていたことを覚えている。「彼が本当に私の運命の男だったら、こんなふうに決して手放したりはしないだろう」。髪ふり乱し、夜中にはだしで駆けて行き、彼の部屋のドアを叩《たた》き続けているだろう。今、私がそんなふうにせずにいるのは、しないでいられるのは、彼が私の本当の運命の男ではないからだ。現に、別れていても、呼吸をしたり、食事をしたり、なんとか眠ったりできるのが、その何よりの証拠ではないだろうか。たとえ息たえだえでも、たとえせいぜい二口しか食べられなくとも、たとえ、暁の中でまんじりと目覚めてしまっても、とにかく私は彼なしでも生きていける。もう彼なしで、三日も生きている——。  そしてありがたいことに、時間というのは誰に対しても公平に過ぎていく。三日が七日になり、十日になる。  最初の一週間は、とても辛いものだ。それは確かだ。「彼のいない初めての月曜日」。「彼のいない初めての火曜日」。初めての金、土、日——。だが次の週は、もう初めての月曜日ではない。二度目だ。それがどんなに救いであることか。やがて三度目の月曜になり、一《ひと》月が過ぎる。そんなふうにして夏を乗り越えていく。 �失恋の一人旅�を私はあまりすすめない。それでなくとも見知らぬ土地なのに、そして本来、旅というのは楽しいものであるべきなのに、傷心の旅なんて、それほどロマンティックでもセンチメンタルでもない。旅をするなら、傷が癒《い》えた時、「よくがんばったね」という意味で、自分にプレゼントしてあげる方が、はるかに意味があるし、お金だってそういうふうに使う方がいい。  だから、この夏は、ひとりぼっちを思い切り楽しもう。そして彼を失ったのは、彼よりも、もっとふさわしい人が現れた時に、あなたがいつでもすぐにその人の胸の中に飛びこむことが、できるためだ、と考えよう。  その「ひとりぼっち」は、やがてくる二人の夏のための、短い前奏曲。あなたが自分で作る曲。いい曲を作ってください。  一夜だけ 朝、ふたりはだれもいない舗道に出た。今にも壊れそうな、生まれたての朝。通りは灰色だった。 どこからともなく、タイヤをきしませてタクシーが現れ、停止した。 ニコラス・ディックソンはエレンを車のなかに押しこむと、ばたんとドアを閉めた。 あげた眉の下にある陽気な目が、疲れと戦っていた。彼は宙で手をふった。タクシーが走りだすと、彼はとたんにうしろを向き、手で襟もとをかきあわせた。 スーザン・マイノット『欲望』より 「一夜だけ……」。なんてロマンティックなのでしょう。そしてなんて美しい言葉だろう。あなたはとても若いから、この言葉をこれから起こること、つまり未来に重ねて胸をときめかすことでしょう。  そしてもう若くない私は——あなたの年頃の娘を持つ私は、未来ではなく過去の中に、その言葉を探りあてる。そんなわけで、今月は思いのほか複雑な心境。淋《さび》しいような、ほろ苦い、決して穏やかではない気持……。 「一夜だけ」の究極の姿は、大戦の時、戦場にかりだされる若者たちと生きて帰るかどうかもわからないのに、結婚した娘たちに重ねることができる。三三九度の杯は死の杯であったのかもしれない。死を覚悟で戦場に向かう若い夫と、銃後に残される新妻の悲劇。  もうひとつ私がこの言葉で思い浮かべるシーンは、映画『終着駅』。ジェニファー・ジョーンズが演じた人妻と、モンゴメリー・クリフトが演じた若い男の、文字どおり一夜のアバンチュール。アバンチュールと呼ぶには、あまりにも切なく苦しい情事。  あれは、私の記憶が正しければ、ほとんどゆきずりの情事だった。だが一眼でお互いを深く愛してしまった故に、単なるゆきずりではなく、運命になってしまった情事。それは決して甘くロマンティックなものではなかった。別れには生身を引き裂かれるような痛みがともなった。  私が深く同情を覚える「一夜だけ」の関係は、この二例にとどめる。戦争の悲劇と、ゆきずりの悲劇。ともにそこに苦しみのたうつものがある。  お気軽な、ディスコの延長のアバンチュールや、再会して焼けぼっくいに火がついたというようなのではない。その一夜をともにしないことの方が、本当は苦しくないのかもしれない。一夜をともにすることが、より苦しい選択である場合。それは語るに足るもの、文学になる情事である。  ああこんな言い方は正しくない。文学になるかどうかなんて、どうでもいいことだ。私がもし自分の娘にそれを認めるとしたら、その一夜を経て、より深い苦悩をくぐりぬけ、愛の痛みを身をもって知ることができることになるかどうかだ。そういう一夜なら、『終着駅』のような一夜なら……。  ずっと昔、恋人と別れる時のことだった。一番辛い修羅場はとっくに過ぎ、静かに短い話しあいが終わった直後、私の恋人が言った。「今夜だけ」。思いつめたような眼の色だった。 「今夜だけ、一緒にいてくれ」  私はその時、彼の声や眼の色から、彼が自分の淋しさだけを気にしているのだ、と感じた。別れようと言ったのは彼の方で、私にはまだ未練があった。私たちはお互いに嫌いになったわけではなかったから、これですっかり他人になってしまうという時に、淋しさを感じるのは自然のことだった。  私は、彼の言う「今夜だけ一緒に」という言葉の中に、私に対するいたわりがないかどうかを必死に探った。今夜だけは、この女を放っておいたら、きっと彼女は胸が破裂してしまうだろう。だからどうしても今夜は彼女といてやらなければならないのだ。もし彼がそういう発想をしていたら、私はどんなに慰められたろうか。  けれども、彼はまだとても若かったので、そういう発想はできなかった。自分の傷、淋しさ、悲しさに囚《とら》われていた。 「そうしたら、もっと淋しくなるだけよ」  と私は答えた。そして彼と別れた。  もしあの時、彼の発想が違っていたらどうだったろうか? 私の胸が悲しみと淋しさでつぶれてしまうから一緒にいてやりたいという思いで彼が「今夜だけ——」と言ったとしたら?  やっぱり私は、「もっと淋しくなるだけよ」と言って、立ち上がっていただろう。でもきっと、そう言ってくれてありがとうと、言葉でなければ表情で彼に感謝しただろう。  いずれにしろ私は彼を恨んではいない。そして、あの一夜を持たなくて、良かったと心から思っている。心からそう思っている。それ故に、三十年も前のあの別れが、今でもいい場面として、鮮やかに私の中で生き続けている。  私の年上の友人に、恋多き女がいる。しかし全《すべ》ては過去のことだ。彼女は数えきれないほど男を愛し、五回結婚した。その女《ひと》が、ある時過去をふり返ってこう言ったことがある。 「たくさん恋をしたわ。でも、そのほとんどの顔をもう覚えてもいないわ。でも忘れられない人が一人だけいる。それは唯一《ゆいいつ》、寝なかった男よ。とても愛していたけど」  そう遠い眼で呟《つぶや》いた時、彼女は五十六歳だった。 「一夜だけ……」。一方に戦争の悲劇とゆきずりの悲劇があり、対極に私の年上の女友達の寝なかったが故に忘れ得ぬ男の例があり、私の、遂行されなかった別れの儀式の夜があった。  一夜をともにするか、ともにしないか。ぎりぎりの究極の選択。この中間にあるものは、全て劣情に負けたか、精神のたるみからくるアバンチュールだと思う。そんなものは、わざわざ体験する必要もないではないか。「一夜だけ」——。断るのも、ともに過ごすのも命がけ。そんな緊張のある体験、できたらしてごらんなさい。 --------------------------------------------  結婚するあなたに憶えていてほしい12の言葉 -------------------------------------------- 結婚しても「自分」でいるために 闘わなくてはならない瞬間がある。 そんな時、全ての武器の中から あなたは「笑顔」を手にとるかもしれない。  私には三人の娘がいる。そのうち長女が、五月にベルギーで結婚する予定だ。私にはひとつの信念があった。女の子は何かひとつ手に職をつけるべきだと。私自身そうだったし、娘たちにも幼い頃から折につけて、そう言いきかせてきた。たとえ結婚して夫の収入で暮らせるとしても、女も基本的に食べたり着たり住んだりといった自分自身のめんどうを、自分でみるべきだと思うからだ。男と対等であって初めて、男と女の理想的な関係が続けられるのだ。私の両親は、いわゆるお嫁入り道具を何ひとつ買ってはくれなかった。私もお嫁入りするという感覚はなくて、好きな男と一緒に生活を始めた。最初の一か月は、食卓もなくてダンボールの箱に白いクロスをかけて、そこで食事をした。やがて二人でお金をためて、スウェーデン製の円いテーブルと椅子《いす》を二つ買った。椅子は翌々月には四つになり、ディナーにお客を招《よ》べるようになった。  私の両親は私に嫁入り道具を買ってくれなかったが、そのかわり手に職をつけてくれた。六歳の時から芸大を卒業するまでの十七年間、ずっとヴァイオリンを習わせてくれた。ヴァイオリンで生きていくかぎり、一生私が食べることで困らないようにしてくれた。  それはどういうことなのだろうか? どんなことがあっても一人で暮らしていける自信がつくということである。いつでも必要とあれば自由になれるということだ。この確信を自分の中で持っているといないのとでは、女の人生はとても違ってしまうのではないかと思う。  前置きが長くなってしまったが、ともかく私は娘たち三人をそんなふうに育ててきたつもりだった。  その甲斐《かい》があって長女はインテリア・デザインを学び、現在ベルギーのアントワープの建築事務所で仕事をしている。  次女はイラストレーターをめざして、現在都内の美術学校の予備校に通っている。三女はまだ高校生だが、陶芸か写真の方に進むようだ。と、ここまではよかったのだ。  ある時期から次女がふさぎこむようになり、予備校にも行かなくなった。理由を訊《き》くと、どうも自分は美術に向いていないと思うと答えた。 「あたし女優になろうかと思うんだけど」 「でもあなた、その前はファッション・デザイナーになると言って高校中退したじゃないの」  結局二か月だけ服装関係の学校に通って投げだし、おがみ倒して元の高校に復学させてもらったのだ。女優のための学校へ行ったって、どうせまた二、三か月で投げだすのは眼に見えている。私はまたしてもか、と思わずカーッとして、娘の根性のないのを厳しく叱《しか》った。そうしたら、彼女がこう言ったのだ。 「どうして手に職をつけなくちゃならないの? どうしてふつうに結婚して子供を生むだけじゃいけないの?」  真剣に、まっすぐに私の眼を見つめていた。 「結婚生活の長い過程の間には、色々な選択に迫られるものなのよ。自立していれば不本意な選択をせずにすむからよ」 「だけどママ」と娘が言った。「あたしはママみたいにしたくないのよ」 「えっ?」ぎょっとした。 「あたしは結婚したら、あたしのだんなさまと一緒に生きることを楽しみたいの。子供を生んだら、育てることを楽しみたいの。あたしはあたしの子供たちを、ママがあたしたちにしたように育てたくないの」 「私が何をしたっていうの?」胸を突かれる思いで私は訊いた。 「ママは、将来のことばかり考えて、今という時間を楽しまなかったわ。あたしは自分の子供たちと、子犬たちのようにじゃれあって遊んであげたい」  私には、すぐに返す言葉がなかった。 「ママを見ていると、結婚が幸福だっていうふうには見えないのよ」と娘は続けた。これぞ止《とど》めの一突き。 「手に職のかわりにあたしお嫁さんになる時、笑顔をもっていくよ」  そう言って最後に娘はニッコリと笑った。とてもいい笑顔だった。脱帽。誰もが作家になったりデザイナーになれるわけでもない。何かひとつだけ、いいものをもっていればいい。他のひとよりずばぬけて、そのひとの唯一無二《ゆいいつむに》のものがあればいいのだ。次女の笑顔は、それなのかもしれない。 「それならば、笑顔のプロになりなさいね」  病気であろうと辛かろうと、スランプであろうと、私は原稿を書く。言い訳無用。それがプロの道なのだ。  というわけで、今現在のところ次女のお嫁入りの道具は、笑顔ということになりそうだ。考えてみたら、なんてステキなことだろう。で、思い浮かぶのは、紀子様だ。あのかたの一番素晴らしいお輿入《こしい》れの道具もまた、あの太陽のような笑顔であった。  知っていてほしい。 「失恋」というのは  今のあなたを変える  上質な傷であるということを。  今時、バージンのまま結婚する人は少ないと思うけど、世紀の大恋愛の末結ばれるというケースもそれほど多くはないのではないだろうか。やれ背が高くなくてはいけないの、やれ学歴が高くないと困るの、やれ収入も高額でなければと、まるで「条件」と結婚するようなことを平然と言い、言うだけではなくそのような男を上手に探しだしてゴールインということになれば、そこに激しい恋愛感情が存在するとはとうてい考えられない。恋愛不在の結婚がいけないというのではない。むしろ、大恋愛の末に結ばれた結婚の方が、長い眼でみて、危険が多いのではないかと、私は思うのだ。アバタもエクボで結婚するよりは、アバタはアバタとわかって一緒になる方が、失望やショックが激しくないだけ、こんなはずではなかったと後でガタガタせずにすむ。  だから私がすすめたいのは、大恋愛ではない。世紀の大失恋の方なのである。  一度は真剣に男《ひと》を愛し、命がけの恋をし、その恋を失ってみるべきなのだ。恋というものは燃え上がれば燃え上がるほど早く燃えつきる。その直後の身のおきどころのないような喪失感。その恐ろしさと痛み。それを体験してみて初めて、他人の痛みや傷が理解できるからである。  私の長女が、留学先のロンドンからある深夜電話をかけてきて、ボーイフレンドとの突然の破局を訴えてホロホロ泣いた時、口ではあれこれ慰めはしたが、内心、ああよかった、これで彼女はひとつ大人になったと、私はむしろそのことを秘《ひそ》かに喜んだものである。娘はこちらの慰めなど耳に入らず、ただ電話で泣きに泣いて、泣き飽きると最後にしゃくり上げながら、「あたし、もう二度とこんなにひとを愛することはできないと思うわ」と言った。  それでいい、それでいいのよと心の中で呟《つぶや》きながら、私は母親らしく、 「そんなことないわよ。またいつか必ず誰か現れるわよ。そのひとのために自分が生まれてきたのだと確信するようなひとにきっと逢《あ》えるわよ」と答えた。 「でもママ、あたしはもう、こんな痛い思いをするのは嫌なの。次からは、少しだけひとを愛するようにするわ」 「少しだけって?」 「七十パーセントくらい」と娘は急に現実的な声で数字を挙げた。「あとの三十パーセントは自分のためにとっておくの」  その現実的な声の感じから、娘の傷口がすでに癒《い》え始めていることがわかった。三十パーセントは自分のためにとっておく——つまり自分を守るために——という教訓を、彼女は手酷《てひど》く痛いめにあって手に入れたのだ。娘は二度と恋愛のために自分を完璧《かんぺき》に無防備にしてしまうことはないだろう。  結婚というものは、現実である。嫌になるくらい現実的な日常生活の連続だ。背が高いということや学歴の高さなんて、一か月も一緒に男と暮らしたら、いかほどのことでもないということが、唖然《あぜん》とするくらいすぐにわかる。六時に帰るよ、と言って出かけた夫が七時になっても八時になっても戻らず、電話さえもしてこない。小さな裏切りが連綿とくりかえされる。その都度、確実に愛が減っていく。それくらいのことで、と驚くかもしれないけど、日常の共同生活の中でのささいな裏切りというのは、目には見えない量でも、愛をすり減らしてしまうものなのである。だからこそ、自分のために三十パーセントが必要なのだ。自分を守るために。それはしいていえば二人の結婚を守るためでもあり、夫を守ることでもある。  さて長女はその後別の恋愛をして婚約に至り、今年の五月にベルギーで結婚する予定だ。彼女が選んだのは自然が大好きで、言葉を持たない動物たちに優しい青年である。ニューヨークやロンドンや都会が大嫌いで、人に使われるような仕事はしたくないという。ボクのボスはボクでいいと豪語し、まだ就職先がきまらず娘をやきもきさせている。  死んでもダディみたいなイギリス人と結婚したくないと言い続けていた娘が、実際に選んだ相手は、おかしくなるくらい何から何までイギリス人の彼女の父親にそっくりなのだが、娘はそのことに気づいていない。  娘の父、すなわち私の夫も、一|挺《ちよう》のオノと寝袋をリュックサックにしのばせ、世界中を放浪して、私のところにたどりついた若者であった。その英国製のオノ一挺で東南アジアのジャングルを切り開き、小屋を建て、火をおこし、野生動物を捕らえてきた。貯金はおろか、定収入もなく、住所不定、眼のさめるような高学歴もなかった。彼はただ、オノ一挺でも生きていける男であった。私が彼にめぐり逢ったのは、大失恋をした後のことだった。私はもはや無防備な若い女ではなかった。三十パーセントの醒《さ》めた眼をもつ女であった。その醒めた眼で彼を見た時、彼でいいと思った。彼がいいと思った。ありのままの、何もまだもっていない、けれども可能性の無限にある彼がいいのだと。  私たちの結婚は今年で二十六年目になる。こんなに続いたのは、ほとんど奇蹟《きせき》だけど、私に三十パーセントの醒めた眼があったからだと思う。大昔に受けた傷や痛みを通して、夫の痛みや傷を思いやることができたからである。  恋愛中のかけひきは  相手の期待を引きのばすこと。  結婚後のかけひきは  いかに自分を飽食させないかにかかっている。  末の娘がまだ九歳か十歳の頃のことだった。彼女には寝ても覚めても大好きな男の子がいた。何だかんだと幼い知恵をしぼって友達のツテをたどり、なんとか意中の子の妹だかお姉さんだかとコネをつけた。その妹だかお姉さんだかが、それとなく娘の思いを彼の耳に吹きこんでくれた。男の子の方もまんざらではないらしく、電話をくれるということになった。このあたりからの展開が、我が娘ながらアッパレというか面白いのだ。娘はツテとコネを通して、電話をもらう日時をカッキリと定めて指定した。その理由が現代的、新人類的。まず、いつ電話がかかってくるかとやきもきして待つのは嫌だというのだ。次に、その年頃の男の子というものは、女の子に電話してその子が一度目かせいぜい二度目でつかまらない場合、絶対に三度目はないというのである。九歳か十歳にして、男の心理を読んでいる。  さてその日。自分が指定した時間の十五分前から、彼女は電話の前に陣取った。その間、姉たちや私にも使わせないし、かかってくる電話もそそくさと勝手に切ってしまう。  約束の時間がきて、それが少し過ぎた。娘は不安と期待とで自分をもてあまし、今にも気絶しそうだった。  十五分ほど過ぎて、ルルルルとベルが鳴った。娘は躰《からだ》ごと飛び上がった。が、すぐには受話器をとらない。二度、三度とやり過ごす。  ようやく五回目で電話に出た。応対はクールだ。むしろクールすぎる。怒っているわけではなさそうだ。 「え? 明日? 映画? うーん、どうしようかなぁ……」と男の子の誘いにはすぐには飛びつかないのだ。それどころか「やっぱりあたしやめるわ」などと言う。更にぺちゃくちゃ話して、「またね」なんて電話を切ってしまった。  それからが大変なのである。末娘はいっぺんにベイビーに逆戻りし、仕事中の私の膝《ひざ》に乗り、首筋に顔を埋めてクシュンクシュンと泣いたのである。 「だったら何で映画を断ったのよ?」と私があきれて訊《き》いた。 「だって、だって」と娘はしゃくり上げた。「一度で思いどおりにいく女なんて、すぐに飽きられちゃうよぉ」  いったいどうしてそんなことをこの子は知っているんだろう? 「大丈夫よ。また電話かけてくるわよ」と私はあきれながらも慰めた。 「フィフティー・フィフティーね」と、娘は急にゲンキンな声で言った。それからまた、いかに本当はその子と映画に行きたかったかということをめんめんと訴え、もしその子が二度と電話してこなかったら——と泣いた。それから「あたし、吐きそう」と口を押さえてトイレに飛びこんだ。そのかけひきは九歳の女の子には少々荷が勝ちすぎたのだ。  ゲェゲェ吐いて苦しんだ甲斐《かい》あってか、三日後にまた彼から電話がかかってきた。今度は素直にデイトの約束をして、ご機嫌だった。翌日「どうだった?」とデイトの感想を訊いた。 「まあまあね」と末娘はうれしそうに答えた。学校の帰り、広尾のサーティーワン・アイスクリームショップで待ちあわせ、チョコ・ミントをなめながら有栖川《ありすがわ》公園を散歩したのだそうだ。 「アイスクリーム、買ってもらったの?」 「もちろんワリカンよ」と娘はケロリと言った。「デイト代出させると、男の子なんてすぐにいばりだすんだもの」。オレの女だっていうふうに? 全くどうなっているのだろう。  さて、私がこの回でお話ししたかったことが、少しは見えてくるかしら? 九歳の女の子がすでに知っている恋のかけひき。男と女のかけひきのことだ。  結婚の一番の悲劇は、好きで結ばれたはずの二人が、二、三か月もするともうお互いを知りつくしたような気になって、ドキドキしなくなることではないだろうか?  ずっと昔、日曜の朝、新婚さんに電話をして、新妻さんを呼んでもらおうとしたら、彼が言った。「アキコ? アキコなら今ウンチしてる。出たらこっちから電話させますよ」  当時結婚三年目に入っていた私なんて、目を白黒させてしまった。夫がいるところでトイレなんて絶対に入れなかったもの。二十五年になる現在だって、家にトイレが三つもあるのは排泄感《はいせつかん》をお互い感じさせたくないためだ。 「へぇ、すごい。何でも許しあう仲なんだ」と、その時少しうらやましく思ったものだ。ところがその夫婦、なぜか結婚四年目で離婚してしまった。  親しき仲にも礼儀あり。なれすぎるというのは、恋愛の敵なのだ。長い結婚の中で、できるだけ長く、お互いにドキドキしていたかったら、楽しみを我慢すること。何ごとも腹八分目。飽食のかぎりを尽くすのは愚かなことだ。世の中には、自分に楽しみを与えない快楽というものも、存在するのだ。少しだけいつも物足りなくて、何かやり残しているような感じ。次回への期待が嫌でも高まるではないか。結婚生活の落とし穴は、この次回への期待が皆無なこと。糞《くそ》もミソも(失礼、少しお下品ね)なくなったら、男と女は終わりよね。楽しみは小出しに。  人生にはいくつもの扉があり  そのどれを選んで入ってゆくかで  少しずつ運命が変わってゆく。  私にはひとつだけ開けられなかった扉があって  今でもその奥に大切なものがあった気がしてならない。  私自身の人生をふり返ってみて、ひとつだけ心のこりのことがある。もちろん、小さな後悔は数えきれないくらいあるのだが、今問題にしているのは大きな後悔のことだ。それにしても、重大な心のこりがひとつしかないのか、とあなたは驚くかもしれない。そのとおり、私は、過ちを犯すということを、後悔の数に入れないからである。何かをして、その結果傷ついたり苦しんだりすることがあってもいいと思うのだ。むしろ勇気がなかったり、タイミングを失ってそれをしないでやり過ごし、ずっと後になり取り返しのつかない頃になってから、あぁあの時、なぜああしておかなかったのだろうと後悔する方が、人生においては、はるかにはるかに辛く悲しいことなのである。過ちを全く犯さない人生なんて、つまらないではないか。私の人生は、ある意味で過ちだらけだったといえるのだ。それにまた、人は常に選択に迫られて生きている。道を歩いていて、右と左の分かれ道にくる。どちらを行っても目的地には行けるが、右の方はきれいな商店街で、左はまだ通ったことのない曲がりくねった路地で、しかも少し遠回りだ。そういう時、私はあえて左の道をとる。あるいは次のような選択に迫られたとする。一人の男は将来を嘱望されたエリートで、一流企業に勤めている。もう一人の男は売れもしない絵を描いている貧乏な芸術家だ。むろん男次第だが、私がもしその絵描《えか》きを愛していたら、迷うことなく彼と結婚する。  男を選択する場合でも、仕事を選ぶ場合でも、道を選んだり本を選んだり友達を選んだりする際でも、私が選んできたのは一貫して、両親や先輩たちが、「よしなさい、きっと後悔するよ」と止めた方なのであった。私は安全な道とか安易な人生など歩きたくなかった。そんなものには興味もなかったし、第一ドキドキもしなかった。傷ついたり苦労することが嫌だとか恐《こわ》いとも思わなかった。なぜかといえば、私は自分の人生を他人に寄生して生きようとは一度も考えなかったからである。自分が食べたり着たり住んだりすることに関して、他人の援助なしでも、自分で自分のめんどうがみれると信じていたし、実際そうだった。他人の収入や、自分以外の人に何もかも寄りかかってしまうなんて、絶対に嫌だった。それは縛られることであり、他人に養われているかぎり、その男の心変わりや病気や事業の失敗、裏切りにあうたびに右往左往しなければならない。第一もし、私自身が相手を尊敬できなくなり、愛せなくても、生きていくあてもないという理由で、その索漠とした結婚に踏み止《とど》まらなければならないと考えるだけで、気が狂いそうになるではないか。  どんな結婚も、一方が一方に全面的に寄生するという形でなされてはならないのだ。私はそう思う。フィフティー・フィフティーの出発。  私自身はどちらかというと人が避けて通りたがるような道を選び、体験を選択してきたが、それは私自身の資質であって万人に通用するものではないかもしれない。ただ言えるのは、もしそうしてこなかったら、私は後悔ばかりしてきただろう。ひどく長い前置きになってしまったが、初めのテーマに戻ろう。私がひとつだけ後悔していることについて——。  それは一人暮らしの経験がないことだ。親元から、現在の夫との生活に続けて入ってしまったことだ。就職をして自分の収入を得た時に、親の家を出てとにかく一人で生活してみるべきだった。人間にかぎらず全《すべ》ての動物についてもいえることだが、親の庇護《ひご》を離れ配偶者と寄り添う前に、一定期間一人で生きることが、成長の最後の仕上げとして必要なのだ。寂しさを体験することが。自分以外に自分のめんどうをみるものはいないのだと、身をもって知っておくために。  私の両親はただでさえも親からみれば自堕落な私が、一人で暮らしたら救いようもなく自堕落な生活に落ちこんでしまうと思い、それを恐れて反対した。実は私自身も同じことを恐れていた。つまり私は一人暮らしのスリルを期待していたわけではないのだ。  親のそばで暮らすと、親のルールがあり、色々と律せられていた。門限を守らなければ、必ず起きていて怒り狂う親が私にはいた。  もし自分だけのアパートに戻っていく時、そこで苛々《いらいら》と待っている人がいなかったとしたら、どうだろう? 自分で自分を律するしかないではないか。自由であるということはその反面、自分自身の中で自分を律する作業が増えるということである。いつまでも朝眠りこけていれば親が叱《しか》ってくれるが、一人だと誰も叱り起こしてはくれない。いつまでもデレデレと眠りこけ、自分で自分にすっかり嫌気がさすまで、そういう自堕落が続くかもしれない。自分を律したり、自分を好きになったり嫌いになったり堕落の限界を見つめたりすることが、ある時期には必要なのだと今、私は思う。自分のことがわからなかったら、どうして結婚の相手を理解することができるだろうか。  私は独身最後の期間の、あのぬくぬくと居心地のよかった親元での生活を、今心から後悔しているのである。私が困難より安逸さを選択した、それが唯一《ゆいいつ》の期間であった。  最愛の男よりもまず  自分自身を愛することができなければ  幸福な結婚にはならない。  それは人生のパラドックスなのだ  娘時代の私の部屋のことを、今でも時々思いだす。ベッドがひとつと机がひとつ。窓にはカーテンもなく、床にはカーペットもなかった。机の上にもベッドの上にも書物が溢《あふ》れ、男の子の部屋よりも実に殺風景だった。私はあえてその部屋を殺伐としたものにしたのだ。なぜならその頃、私は自分のことを少しも好きではなかったから。最初は窓にカーテンがかかっていた。寸づまりの、日焼けした、ねぼけた花柄のカーテンだった。それを毎日眺めているうちに、だんだん悲しくなるような代物《しろもの》だった。いつか結婚して自分の子供を持ったら、ねぼけた花柄などではなく、ベッドカバーとおそろいのステキなカーテンをかけてあげよう。娘が可愛《かわい》ければ親はそうしてやりたいのにきまっている。私は母に愛されていない娘だということに思い至った。ねぼけた花柄のカーテンは、母の愛の薄さの象徴そのもののように私の眼に映った。私はそれを取り外し、ゴミ箱の中に押しこんだ。  するとますます自分の部屋が嫌いになり、その部屋で過ごす時間が極端に短くなり、床まで溢れた書物は埃《ほこり》をかぶり、窓ガラスは汚れたままになった。  その頃、私の心はヴァイオリンを離れていた。音楽家になるために進んだ芸大にもほとんど行かず、オーケストラの授業も週一回の個人レッスンもさぼり、ほとんどの時間を二本立ての映画館で過ごした。朝は十時半頃まで寝ていた。同じように落ちこぼれのアウトローの若者たちと、終電の時間までジローや|風[#底本では「几」の中に「百」]月堂《ふうげつどう》といった喫茶店で過ごした。毎日がひりひりするほど虚《むな》しかった。  私は部屋を憎むのと同じくらいに、自分が嫌だった。脚を組んで煙草を喫《す》う自分が嫌だった。喫茶店の片隅で大学ノートを広げ、言葉遊びをしている自分が嫌だった。毎晩のように門限を守らないと言っては父に叱《しか》りつけられる自分が嫌いだった。母に、だらしなさをののしられて、言い返す言葉もない自分が嫌いだった。そして何よりも嫌だったのは、そうした最低の自分を少しでも何とかしようと努力しない自分の無気力さが一番耐えられなかった。大学の四年間は、そのように過ぎていった。  やがて一人の男が私の前に現れた。私という女を愛してくれた最初の男である。埃だらけの部屋で寝起きをしているこの私を、ひたすら落ちこぼれて、自責の念にかられている私のような女をである。  けれども私は、その愛をどう受けとめればよいのか途方に暮れた。かつてそのように甘やかされたことがなかったので、ひどく居心地が悪かった。私は愛され方を知らなかった。そのことを、愚かにも母のせいにした。母が私を愛してくれなかったから、愛されるということがどのようなことなのかわからないのだと。  その恋愛は、お互いをすり減らしてしまうことで終わった。その後、片っぱしから本を読み、そうでなければ泣き続け、泣き疲れると眠った。そんなある時、目覚めてぼんやりと室内を眺めていた。そして思ったのだ。この殺風景な部屋はなんと私自身と似ていることだろう。すると急に可哀相《かわいそう》になった。部屋もそうだが自分もそうだった。  全《すべ》ては自分を許すことから始まった。部屋中に散らかった本を整理し、埃を払った。すでに大学を出てブラブラしていたのだが、人に頼んで働き口も見つけた。最初の給料でカーテンとおそろいのベッドカバーを買った。靴も毎日磨いた。磨くたびに愛着が増していくことを知った。自分自身に手をかけることで少しずつ自分を好きになっていくことがわかった。人にばかり期待していたから、辛かったのだ。母がカーテンを買ってくれないとか、充分に愛してくれないとか、誰も本当の私をわかってくれないとか。  自分で自分を見つけ、自分に期待するようになると、人生はそれほど苦しくなくなった。自分で自分を嫌いだった時、私は自分に優しくもなかった。自分が好きになっていくに従って、自分に優しくなれた。すると不思議なことに、他人に対しても優しくなれることがわかった。すると更に不思議なことに、私に語りかける母の語調までが柔らかくなったのだ。何年もろくに口をきかなかった母娘の関係が眼にみえて改善したのだ。  人間というものは言うまでもなく一人だけで生きているのではない。人との関《かか》わりの中で生きているのだ。  結婚というのは、その中でもきわめてむずかしい男と女の関係の、延々と続く過程である。どのような結婚も危機を迎える。そんな時、人というものはつい相手を責めがちだ。自分の言い分ばかりを叫びたてて、相手の言葉を聞く耳をもたなくなってしまう。そんな時、ほんの少しだけ角度を変えてみることが大事だ。今の自分自身のことをどう思うのか。夫を一方的に責めたて、額に青筋をたてている自分のことが、好きかどうか。  自分でさえ嫌な女だ、と思うような女が、他人の眼にどう映るか、ちょっと考えてみることだ。  英語ではディスプリンと言うのだが、常に自分というものを律する抑制力。他人があなたをどう思うかではない。自分が自分をどう思うのかが大切なのだ。いつも自分という女を好きでい続けることができたら、どんなにいいだろう。 「恋愛中は両眼をしっかり開いて相手を見ること、  結婚したら片眼をつぶって相手を見ること」  結婚における悲劇の大部分は  この逆をたどるからではないだろうか。  成田離婚という新造語がある。言葉だけでなく、そういう現象があるらしい。現象というからには、ひとつふたつの例外であるはずはない。十組二十組とあるのに違いない。もっとかもしれない。何百万、場合によっては何千万円もかけて結婚披露宴をやったのだから、こんな悲劇はない。当の本人たちも深く傷つくだろうし、双方の家族の困惑は想像に難くない。一昔も前なら世間体を理由に両家族が必死に説得し、無理矢理にでも結婚を続けさせただろう。どっちから言いだしたにせよ、若い二人は泣き寝入りであった。時代が違ってきたのだろう。嫌なものは金輪際嫌なのだと主張し、それを受け入れる風潮になったのだ。泣き寝入りなどもってのほか。人生の四分の一あたりで、不本意な結婚のために一生を棒に振る気はさらさらないとなれば、はたでどんなに困惑しようと迷惑だろうと、また屈辱的であろうと、これはもう当人同士の意志を尊重するしかないのである。  それにしても、ハネムーンに行ってみて初めて、「こんなはずではなかった」とわかるのでは、あまりにも滑稽《こつけい》ではないか。少なくとも自由恋愛の許される国では、日本にしか起こりえない現象である。たとえ、お見合いで知りあったとしても交際期間があり、相手を観察したり知りあう機会は充分にもてるはず。それでは一体、なぜこんなことが起こってしまうのだろうか?  私は、結婚に対する考え方が、根本的に違うのではないかと思う。日本ではまだまだ家と家の結びつきを重視する。どこの馬の骨とも知れぬ男と勝手に結婚してもらっては親が困るのである。  もしも、そのどこの馬の骨とも知れぬ男を本気で好きになり、どうしても一緒になりたいというのであれば、その結婚は全《すべ》て二人だけの責任ということになる。従って当人たちは後でそれみたことかと言われないためにも、念には念を入れ、慎重にならざるを得ない。生理的な好みはもちろん、感性の相性、趣味や仕事など充分に納得した上でやはり結婚をしたいということになれば、親としては、自分の生涯に責任をもつのはおまえたちなのだ、と更に念を押して、認めざるを得ない。  ところが、親が少しでも介入した結婚は、責任が親の方にかなり転嫁される。たとえその結婚がだめになっても、親が選んだのだからと、言い訳ができる。成田離婚でもそうだ。だから本人同士の気合いが違う。どこの馬の骨のカップルと一番違うのは、この気合い、必死さだ。だから、かなりのことをあいまいにしたまま挙式をし、ハネムーンに出かけていくことになる。考えてみれば、なんてばかなことなのだろうか。親が介入しようとしなかろうと、結局は自分の結婚であり自分の人生ではないか。ハネムーンのその時まで、自分の相手がベッドの中でどんなふうにふるまうのか知らないなんて、一体何を考えているのだろう? もちろんセックスだけが成田離婚の原因ではないと思う。ハネムーンに行って初めて相手があまりにもお金にこまかすぎることがわかって呆然《ぼうぜん》としたとか、食事の時スープをズルズルと啜《すす》ったりクチャクチャと音をたてて物を食べるのがわかってショックを受けたとか。一日中ほとんど口をきかないとか、ハネムーン先のホテルルームに入るやいなや、テレビのスイッチをつけてテレビばかり見ているとか、マンガ以外の本を読まないとか、そんなことに気づいて離婚したくなるほど相手を嫌いになるくらいなら、なぜ事前にそういうことを充分に調べておかなかったのだろう? 「ベッドの中でどうふるまうかなんて、前もって調べるわけにはいかないわ」なんて言うお嬢さんが今の世の中にいるとは思えないけど、もしいるとしたら、そのことを知らないで結婚するなんて、すごく危険な博打《ばくち》みたいなものだ。性的に合わなかったら、お先真っ暗ではないか。  ところで、この私自身は、どこの馬の骨ともわからない男と結婚した組だ。自分の人生なのだから自分の好きな男と一緒になりたかったし、誰の介入も受けたくなかった。ベッドの中で相手がどんなふうなのかお互いにちゃんと知っていて結婚したし、毎日のように逢《あ》い一緒に旅行もした。相手をもっと知りたいと思ったから質問もたくさんしたし、私のこともたくさん知ってほしいから自分のことも話した。結局そうすることが自分を守り、相手を守り二人の結婚を守ることになるからだった。  今、ベルギーにいる私の娘があと二か月で結婚する年頃になった。娘たちをずっと見守ってきているが、彼女たちはとても慎重だった。最初の三年間は恋人同士で、よく一緒に旅行をし、日本にも何度もやって来た。去年の八月、相手のヤン君が娘の父親、すなわち私の夫に結婚の許可を求め、正式に婚約すると、二人は一緒に生活をし始めた。そしてその九か月後に晴れて法的に結婚することになる。  多分、そのパターンが、ほとんどのヨーロッパの若い人たちの結婚に至る経過だと思う。相手をまず徹底的に知る。何年も一緒に暮らしてみる。それでお互いに飽きてだめになるようなら結婚したってだめなのだと、割り切っている。そんな二人を親たちは遠くから見守っている。求められればもちろんアドバイスするが、二人の計画に介入する気は更々ない。——恋愛中は両眼をしっかり開いて相手を見ること、結婚したら片眼をつぶって相手を見ること——。ヨーロッパの昔からの諺《ことわざ》である。成田離婚は多分、この逆をやったのだろう。  私たちは、本当に幸福になるための努力よりも、  どちらかというと、  人に幸福のイメージを与えることに、  四苦八苦している。  よく考えてみてごらんなさい。あの途方もなくお金のかかる結婚披露パーティー。お義理でなく、心からあなたと彼の結婚を祝ってくれるのは、一体何人くらいだろうか? ほんの一握り。そのために、何度も着せ替え人形みたいにドレスを着替えたり、テーブルを回ってニコニコしたり。そういうのを見たり聞いたりするたびに、私は思うのだ。あぁ、もったいない。それだけのお金を、たった二時間の結婚ショーに使ってしまうなんて。しかもどの結婚ショーも似たり寄ったりで正直、誰も彼もが内心うんざりしているのに、全くもって、虚《むな》しい話ではないか。それだけのお金を結婚ショーにかけるのではなく、若い二人の人生に投資した方が、はるかに有効ではないかと思うのだ。私たちは人並みに結婚式をしました、人並みに幸福ですというアピールに広告代が一千万円もかかるとしたら、それはこれから始まる長い結婚生活の内容とは、ほとんど無縁のものである。いわばみせかけの幸福の方に大金を消費してしまって、哀れな二人は、ほとんど裸一貫でスタートするようなものなのだ。  では、披露宴はもっと質素にしましょう、そこで浮いたお金を二人にあげましょう、ということになったとする。あなたは、このお金をどう使いますか?  家具を奮発しますか? お友達を呼んで、ディナーパーティーをするために、ホームバーを作りますか? 思い切って大きなアメリカ製の冷凍冷蔵庫に買い替えるか、音楽好きな彼のために音響装置にお金をかけますか? 「あらステキな家具だこと」と招かれた友人は眼を見張り、「いいわね、うらやましいわ」と言うかもしれない。が、眼を見張り、溜息《ためいき》をつくのはその時だけのことである。ステキなドレスだって、ステレオ装置だって同じことだ。そしてこう言うだろう。「あなたって、幸せねぇ……」。その意味では、大々的結婚披露宴も、豪華な新婚用の家具調度も同じ効果をもたらす。「こんなにお金がかけられて、あなた、幸せね」。つまり見せかけの部分の幸せであって、真の心の問題とはまた別のものである。  二人のために投資できたらいいのに、と私は思う。たとえば、結婚した後大学院に行ってもっと勉強したいという夫のために、二年間の生活費にあてるとか、あなた自身、若いうちに何かの資格をとるために投資するとか、結婚という若木をやたらクリスマスツリーみたいに最初からギンギラギンに飾りたてるのではなく、水をやり根に栄養をやることの方が、はるかに大事なのではないかと思う。  飾りたてたクリスマスツリーが美しいのは、クリスマスの前一週間だけで、あとは埃《ほこり》っぽく、やがて捨てられる。言ってみれば、今の結婚というのはクリスマスツリーと同じで、一時的にピカピカキラキラして脚光を浴びるが、あとはみすぼらしく惨めなものである。クリスマスツリーにならずに、健やかな若木であれ、と私は提案したい。そして、水をやり栄養をやるのは、大人たちなのだ。  どんな栄養を自分たちに与えるかは、二人でよく考えなければいけない。そこから枝が出て、葉がつき、みごとな大木になり、たくさんの花を咲かせ、実をつけることができるようにするのは、若い二人の仕事である。  他人をうらやませるための演出や、見せかけの幸せにきゅうきゅうとする必要はないのだ。新婚家庭に人を呼べないほど貧しいということは、今の日本にはあり得ないのだから。  私と夫は二十六年前、ダンボール箱にテーブルクロスを敷いて食卓にしたところから新婚生活をスタートしたが、それを不幸だとも、恥ずかしいとも少しも思わなかった。そのことが私たちの愛に影を投げかけることもなかった。二人で働き貯金をして、食卓を買った時の喜びと楽しさ。そういう小さな充実感のつみ重なりが幸福の風景となっていった。  ところで、長女のヘザーがいよいよ近々結婚するが、そのベルギーでの結婚式と披露宴の様子を次章でお伝えしようと思う。  彼女のために、私も一応一人の母親の顔を取り戻し、一時期、東京でのおひろめ計画にかけずり回ったのだが、結局、私が娘のために一番良いと思ったのは、いわゆる披露宴なるものをやらない、という結論であった。結局やるとなればあれやこれやで二百人近い数になり、そうなると、こぢんまりとしゃれたガーデンパーティーなどできない。ごく普通にちょっとおしゃれな味つけのパーティーでも莫大《ばくだい》なお金がかかる。  パーティーをしないかわりに、私は娘たち夫婦に少しまとまったお金を与えることにした。彼女たちは一年前に銀行ローンで、アントワープに四階だてのビルディングを購入している。外観に彫刻をほどこしてあるもので、政府から保存するよう指定を受けている美しいものである。もちろん若い二人が買えるくらいだから、日本に比べればゼロを二つくらいつけ忘れたと思うくらい安い。その四階が彼女たちの新居になるはずだ。お金がないので、二人で壁紙を貼《は》ったりペンキを塗ったりしている。一階はすでに花屋に貸している。二階と三階を改装して、近くの大学の学生たちに貸したいらしい。二人の手紙によると、この改装も自分たちの手でやっているという(ちなみに娘はインテリア・デザイナー。相手のヤン君は六月に大学院を卒業する学生なので、時間はたっぷりある)。私たち親から贈るある程度の祝い金は、その改装に使われることになると思う。いずれにしろどう使おうと彼女たちの自由。私は彼らを信じている。  それに、東京で披露宴をやらないですんだので私も大いに節約ができてホッとしている。そのかわりといってはなんだが、娘たちが東京にいる間(新婚旅行でこっちに来るので)、自宅でディナーでもやろうかと考えている。  母親の歴史はくりかえされる。  その喜びも苦しみも——  結婚という門《ゲート》をくぐり、  娘はそれを引き継いでゆくのだろうか。  今回の原稿は若いあなたに贈るというよりは、母親として、娘を嫁がせる直前の反省、悔い、心のこりといったものです。娘の結婚式に出席するために成田を発《た》ち、JALのファースト・クラスの座席に座った時から、私の胸を少しずつ締め上げていった思いがありました。成田を発つぎりぎりまで私は、新聞の連載の書きだめや、私自身のコレクションを集めたギフト・ショップのオープニングやあれやこれやで、本当のことをいうと、娘の結婚についての実感はほとんどなかった……。  娘の結婚式やそれに続くレセプション、そしてディナーパーティーに関しても、アントワープの先方の両親が全《すべ》ての段取りを進めてくれたので、私たち夫婦はまるでお客さまみたいな感じで乗りこんでいくだけ。娘は自分でウェディングドレスのデザインを考え、布地を買い、仕立て屋さんを探して注文した。私がしたことといえば、お金を送ったことだけ……。  しかし、そのことが、JALの機内で私の胸を締め上げていたのではなかった。もっと別のこと。もっと昔のこと。昔から今日に続く日々のこと。娘と私の関係。私が娘にしてしまったこと。あるいはしなかったこと。  多分、その最後のことが、一番の原因なのだ。娘にしてやることができなかったこと、し得なかったことごとが——。  でも私は、もしかしたら結婚式前後の晴れがましい大騒ぎのうちに、その後ろめたさから眼を逸《そ》らしていることができるかもしれない、と卑怯《ひきよう》にも心の底でそれを願ったのに違いないのだ。  いよいよ、明日は結婚式という夜、私たち夫婦とヤンの両親と、若い二人が初めてゆっくりと顔を合わせることになった。二人の将来についてもあれこれ話が出て、私たちは色々なアドバイスもした。  そのうちなごやかだった雰囲気が、急にトゲトゲしくなり、娘の態度が急変した。彼女は頑《かたく》なで反抗的で、私たちが何を言っても、それを批難のように受けとめ、実の母親の私に対してならともかく、義理の母になる人に向かってまで、きつい激しい言葉をはね返した。  明日をひかえて神経質になっているのだろう。準備にバタバタして疲労|困憊《こんぱい》しているのだろう、ということで、その場は取り繕われた。  けれども娘の態度は改善されなかった。 「なぜ、みんなの気持を素直に受けとめて、ありがとうが言えないのか」と私は言った。  そしたら、娘が答えた。 「でも私が知っている唯一《ゆいいつ》の世界はそういう世界だもの。あたしはそういう家に育ったんだもの。あたしはママをお手本にするしかほかにお手本がないんだもの——」。そう言って娘は泣いた。それこそ、私が恐れていたことそのままだった。  十年前、私はセラピーにかかった。私は自分の一番身近にいる一番愛する者たちに対して、心がどうしても開けない、優しくしようとすると逆の態度で反対に傷つけてしまったりする。なぜ命よりも愛している娘や夫に対して、素直に愛していることを表現できないのだろうか。このままでは娘をだめにしてしまうと思ってセラピーに行ったのだ。  何度も何度も通ってセラピストに話をした。しばしば何も喋《しやべ》れない日もあった。ただただ泣くだけの日もあった。そしてついにある時、私はこう口走ったのだった。 「だって先生。私自身母に愛された、抱きしめられた、という記憶も実感もないのに、どうして娘や夫を抱きしめることができるの? 愛され方を知らないのに、夫や娘の愛をどう受けとめればいいの?」  私はあまりにも愛に飢えた子供だった。そしてその愛を与えられたという実感のないまま成長した。愛されることの実感がないのだから、実際に夫や娘たちの私に対するほとんど盲目の愛を、どう受けとめ、それをどう返していいのかわからなかった。私にできる唯一《ゆいいつ》のことは、母がしたようにふるまうことだった。頑固に、冷ややかに。母が私のお手本だった。  今、娘が泣きながら訴えることは、十年前に私が泣きながらセラピストに訴えたことと、正に全く同じことなのだった。  そして、あの時、セラピストの前で、私はこうも言ったのだ。「でもきっと母も愛されるということを肌で実感したことがなかったから、娘の私をどうやって愛していいかわからなかったのね」  母親の歴史はくりかえされる。私は母からされたと同じことを娘にしてしまった。私の母はそのまた母からされたことしか、私に与えることはできなかった。  私は、その流れを私の代で止めようとして、セラピストのところへ駆けこんだのだが、すでに長女はその時十三歳で、一番大事な時期にまだ、愚かだった母親であった私に育てられてしまっていた。セラピストのところへ行き、母もまた可哀相《かわいそう》な子供だったのだということを知り、私は母を許し母を許すことで自分を許した。自分を許してやると、少しずつ少しずつ素直さを取り戻すことができた。  けれども、娘を救うことはできなかった。娘の中に植えつけられた愛の不毛は確実に芽を出し、育ち、大きくなってしまっていたのだ。私はこのことについて、娘とまだ話しあっていない。  胸に点《とも》った明かりを  消してはいけない。  いつか必ず、あなたの眼の前を  明るく照らしてくれるから。  あれは中学二年の時だった。突然何を思ったのか私は学校が半日で終わる土曜の午後、渋谷《しぶや》の料理教室へ通いだした。そこへ来ているほとんどは家庭の主婦か、お嫁入り直前の若い娘さんたちだった。大学生ならともかく、高校生ですらなく、中学校のほんの小娘だった私は、だからずいぶん奇異な存在だっただろうと思う。別に親から習えと命じられたわけでもなかった。全《すべ》て自発的。自分で教室を探してきてさっさと入学の手続きを取り、月謝だけは親に出してもらった。当時私はヴァイオリンを習わされていたが、それ以外のいわゆるお稽古《けいこ》ごとは全て三日坊主。ソロバンもお習字もお花もお茶も、何ひとつ長続きしなかった。親も私がヴァイオリンさえ続けていれば他の稽古ごとはどうでもいいようなのだった。  さて料理教室だが、これが続いた。毎週土曜になるのが待ち遠しい。首を長くして楽しみにしていた。大人たちに混じって、腕を上げていった。一年皆勤で通うと、一とおりの基礎とレパートリーがふえた。  ひとつ料理を覚えると、すぐ家でそれを作ってみて、家族に食べさせた。好評なのもあり不評なものもあったが、私は自分が天狗《てんぐ》になっていたので不評なのは私の腕ではなく、料理そのものがたいして美味《おい》しいものではないのだと、きめつけたりした。事実、フランス料理まがいのものは、まがいはまがいにすぎず、美味しいはずもない。すっかり料理に熱中していたある時、親が言った。「料理なんて、先にまた習えばいい。それより、芸大の付属高校に入れるよう、身を入れてヴァイオリンの稽古をしなさい」  それで私は料理教室を泣く泣く止《や》めたのだった。もしあのまま続けていたら私は日本で初めての女コック長になり、一流ホテルであの丈の高い純白のコック帽をかぶって料理の腕をふるっていたはずである。そしてテレビに出たり、独創的な料理の本を書いたり大活躍するはずだったのだ。  ヴァイオリンのせいで諦《あきら》めなければならなかったのは、料理だけではない。ソフトボールもそのひとつだった。  実は、料理教室に通いだす直前まで、私は親には内緒で中学のソフトボール部にいたのだ。親に知れたら大変だ。何しろ将来私はヴァイオリニストになるべくヴァイオリンを小さい頃から習っている身だ。万が一にも突き指などしたら一生悔やんでも悔やみきれなくなる。けれども突き指の恐怖よりも、ソフトボールへの情熱の方が圧倒的に大きかった。そして私は女の子だてらに、いい肩をしていたので、最初はサードを守らされていたが、すぐに抜擢《ばつてき》されてピッチャーになった。しかも打率も良く四番バッター。出る試合ことごとく三振凡打に打ち取るという天才的な腕さえ見せた。  私はそのままでいけば日本一のソフトボール選手になれるはずだった。コーチの先生がそう約束した。おまえはソフトボールの天才だと。  が、運命は私を大好きなソフトボールから引き離した。父と母に知られてしまったのだ。大目玉を喰らって、即止めさせられた。一年とちょっとの毎日の練習が水泡に帰したのだ。コーチの先生は失望と落胆のあまり、二度と私と口をきいてはくれなかった。  そんなふうにして、ヴァイオリンがいつも私から夢と楽しみを奪ったのだが、ひとつだけ奪えないものがあった。それは読書である。  もちろん本を読んでいると必ず母はこう言った。「本を読むひまがあるなら、ヴァイオリンの練習をしなさい」 「もうしたよ」と言っても、本を読んでいると、何か用事を言いつけられた。だから親の眼を盗んで読みふけったものだった。たとえば、押し入れの中で、ほんの一センチほど開けておいた隙間《すきま》から入る光で本を読んだ。そんな時、いつか私も作家になって本を書くんだ、と自分にくりかえし言い聞かせたものだった。  日本一の料理人になる夢も、ソフトボールの天才ピッチャーとして騒がれる夢も、憎きヴァイオリンのせいで、無惨にも破れてしまったが、読書だけはずっとずっと続けた。読まずにはいられなかったのだ。一日中活字を読まない日は、歯を磨かないまま眠ってしまうような気がして、落ち着かなかった。  結局、ヴァイオリニストになるべく十七年間、勉強し続けたのにもかかわらず、私はヴァイオリニストにもならず、オーケストラにさえも入らず、二十二歳の時、きっぱりとヴァイオリンを捨ててしまった。物にならなかったのは、私がヴァイオリンを嫌いだったからだ。昔料理教室に通っていた時、大人に混じって一生懸命フライパンの中身をかきまわしていると、うれしくて胸がドキドキしたものだ。あのトキメキをヴァイオリンを通して一度も感じたことはなかった。ソフトボールもそうだ。私専用のグローブを手にはめる時、革のいい匂《にお》いがした。あれを嗅《か》ぐとめまいがするほど幸せだった。あのめまいがするほどの幸福感を、ヴァイオリンから得ることは一度もなかった。  そして私に残った唯一《ゆいいつ》の道は作家になることだった。あれほどヴァイオリンが邪魔をしたのにもかかわらず遂に諦めなかった読書への情熱のおかげで、私は最後の夢を、辛うじて実現したのだ。順序からいうと一番なりたかったのは天才ソフトボール選手で、次が日本一の料理長で、最後が作家だった。  でも、子供の時に胸に強く抱いた夢というのは、必ずいつかかなうものなのだ。この章ではそういうことが言いたかったのです。  娘を嫁がせる朝、父は切ない。  けれども、娘を思う全ての時、  父親というものは切ないものだということを  知っておいてほしい。  父と娘の関係はそこはかとなく哀《かな》しい。とりわけ、花嫁姿の娘が最後にやって来て、「お父さん、——長いことお世話になりました」などと眼をうるませて言われたら、父親たるもの、これ以上身の置き場のないシーンはなかろうと、人ごとながら世の父親に深く同情するものである。これぞ、日本の父親の、最も日本の父親的きわめつきのシーンだと思うが、つい最近我が娘を嫁がせたイギリス人の夫は、「長いことお世話に」のおの字も言ってもらえなかったかわりに、次第にきれいに仕上がっていく花嫁の仕度に立ちあい、髪型にチャチャを入れ、すっかり身仕度が整うと「きれいだよ」を連発し、何度もしっかりと抱きしめて頬《ほお》や額にキスの雨を降らせ、娘と一緒の馬車に乗って教会まで行き、花道をエスコートし、ようやく新郎の手に愛娘《まなむすめ》を引き渡した。その時、男同士はがっちりと握手をした。二人は無言だったが、「娘を頼みます」「はいわかりました。必ず幸せにします」という声にはならない会話が、誰の耳にも聞こえたような、シーンだった。  これでおわかりだと思うが、西洋人は愛情の表現を心の中に取りこんでしまわない。娘を両腕の中にしっかり抱きしめ、長い抱擁を交わし、頬にキスをする。エスコートする時は娘が父親の腕に自分の腕をしっかりとからめる。長い花道の道のりで娘が緊張のあまり震えたのだと思うが、彼はあいている方の右手を娘の手に重ねて、しっかりと握りしめていてやった。そうでなければ、たえず肩に腕を回し、何かというと自分の方に引き寄せる。男同士もガッチリと長い握手をする。  こうした一連の触れあいが意味するものは、愛情の表現をがまんしてしまわない、ということである。その時その時感じた愛情を、その場で処理してしまうというと興ざめだが後々にまでとっておかない。  日本の父親が、「長いことお世話になりました」と頭を下げる娘の、かぼそい肩に腕を回し、しっかりと抱きしめてやることができたら、どんなに彼らはうれしいだろうか? そのうれしさは日頃そういうことをしなれている西洋の父親の比ではなかろう。  でもできない。そういう愛情の表現で娘を小さい時から育ててこなかったからだ。そんなとってつけたようなことが、日本の男にできるわけがない。  イギリス人の夫は、娘たちが赤ちゃんの頃から、うれしいにつけ悲しいにつけ、おはようの時、おやすみの時、終始娘たちを腕の中に抱きとり、キスの雨を降らせてきた男なのである。年頃になっても、自然にそれを続けてきたから、結婚式での最後のお別れの抱擁も、素直にやれたのだ。いつもより長く力をこめて——。  でも、日本の娘には、結婚式の朝の日本の父親の切なさが、無言のうちにもわかる。だから自分も切なくなり、そこで娘の頬にポロリと涙がこぼれるのである。父もまた涙の一歩手前なのが娘にはわかる。あわててドレスの裾《すそ》をひるがえして、父親に背を向け彼女は走り去る。けれども、日本の父親の切なさは、何も結婚式の朝だけのものではないことに、あなたは気づいているだろうか。  多分ほとんど気づいていないだろうと思う。たとえ気づいても、見て見ないふりをしているのかもしれない。普通父親というものは、娘に自分の切なさを見せたがらないものだからだ。しかし何かの拍子に、娘と二人きりになるとふと露呈するものがある。すると父は照れてそれを隠そうとして、逆につっけんどんになったり無愛想な態度にでたりする。高飛車に物を言うかもしれない。「お父さんていつも機嫌悪いんだもの」と、娘に煙たがられる結果になる。  日本の父は、愛情の表現におよそ無器用な男たちなのである。娘が年頃になってだんだんきれいになっていくのをみていても、まともに見つめたりはせず、眼のはしでチラッと眺めるに止《とど》める。「きれいだよ」なんて、口が裂けても言わない。  うちのイギリス人の父親は、娘たちがおしゃれしたり、大きくなってダンスに行くようになったり様々な場面で、「お、きれいじゃないか」とか「今日のキミはほんとにきれいだよ」とか「ビューティフル」とか「スウィート」だとかやたらに連発してきた。その都度娘たちは、それを半ば当然のように受けとり、同時にうれしそうでもあった。  さて、ここで私は東西の父親の比較をしたが、何かを提案するつもりはない。それぞれに娘を愛する男たちなのに変わりはないのだから。  ただひとつだけ、日本の父とは、切ないものなのだ、哀しいものなのだということを心にとめておいてほしいと思う。そうすれば、嫁ぐ日の朝になって、突然切ない父親と初めて対面するというショックも和らげられるかもしれない。  誰しもやがて来る老いから逃れられないとしたら  せめて少しでも美しい皺《しわ》を刻みたい。  そのための準備を今からしていますか?  なぜか、皺の話になった。これから友達と遊びに行くという末娘を車で途中まで送って行った時のことである。「男の人って、年を取るに従って、いい皺ができるよね」と彼女が言ったのだ。私はその言葉で、最近の一連の映画に出ているショーン・コネリーを思い浮かべた。彼は年を取るにつれて実に良い顔になっていった男のひとりである。と同時に、老人となったポール・ニューマンの顔も浮かんだ。こっちの方は、老年になって急に容色が衰え、貧相で嫌な顔に変貌《へんぼう》した口だ。最近|観《み》た『ブレイザー』という映画では、往年の面影はなかった。「男にもよると思うけどね」と私は娘に言った。「だけど女って、絶対にいい皺にはならないよね。どうして男の皺は魅力があるのに、女の方は嫌な皺になるんだろう」 「女の人にも、いい皺している人も、たくさんいるわよ。あなたがそういう人に逢《あ》ってないだけよ」  と私は、自分の知っている何人かの魅力的な先輩の顔を思い浮かべてそう言った。 「でも一般的に、女は四十過ぎるとだめよ」  と娘は憂鬱《ゆううつ》そうに言った。 「どうしてなのかなぁ」 「だめじゃない女の人も、たくさんいるって」  と私は一生懸命娘を慰めた。 「ママにだって、年相応の皺はあるけど、自分では悪くないと思っているのよ」 「うん。ママの皺は悪くないよ。でもママは例外だもの。ママは男みたいに生きてきたんだもの」  わが娘ながら言い得て妙。女の私としては複雑な心境だが、説得力はある。逆手に利用することにした。 「そうよ。いい皺を作りたかったら『男みたい』に生きることよ。結婚したとたん、くたっとして、男の人に寄生してしまったらそれで終わり。いつも男の人と対等の意識を持っていなくちゃだめよ。そしていくつになっても好奇心を失わずに緊張して生きていけば、あなたもきっといい皺を作れるわよ」 「やっぱり大学へ行った方がいいかなぁ」  私はシメタと思った。このところ娘は大学なんて行きたくないとゴネていたのだ。 「そりゃそうよ。インテリジェンスというのは顔に出るからね。本気で勉強した人と、大学で遊んでばかりいた人とでは、年取ったら皺に違いができるわよ」  娘はすっかり考えこんでしまうふうだった。  そして言った。 「このところね、クラスメイトや友達の両親が何人も離婚してるのよ」 「知ってるわ」  と私は言った。やっと娘が高校を卒業して、さあこれから夫婦二人の生活が始まると思ったとたん、夫が若い女と恋に陥り、離婚を迫られた人もいる。 「子供と家庭一筋でさんざん髪ふり乱し、頑張ってきたのよ。それなのにひどいものよ」  とそのひとは打ちひしがれた様子で言っていた。眉間《みけん》と口元に深い皺が刻まれていた。 「女って、損だよね。つまらないよね」  と娘は、呟《つぶや》いて、走り去る車窓の外を見つめていた。両親が急に離婚することになってショックを受けているクラスメイトを思って、彼女は胸を痛めていたのだ。 「一概には言えないけど、彼女たちのママは上手に皺を作っていかなかったんじゃないかなぁ」  とだけ、私は答えておいた。  さて、お嬢さん。女の曲がり角というものは、いつか必ず訪れるものです。その時鏡を見てあわてふためかないように、賢く年を取ってください。急に皺とりクリームを塗ったり整形美容をすることでは解決しないのだから。それは多分、皺そのものの問題ではないのかもしれない。ミステリアスなものを失ってしまった結果だと思う。顔の皺ではなく、精神にたくさん皺が寄ってしまったのだと思う。  精神に皺を寄せないためには、今のうちからタップリ栄養をやり続けるしかない。本をたくさん読んだり、質の良い人々と積極的に関わっていったり、たえず好奇心をかきたて続けたりね。それから人から与えられることだけを期待するのではなく、むしろ人に何かを与えることの方が、はるかにあなたを豊かにするということを忘れないでほしい。男は四十歳を過ぎたら自分の顔に責任を持つものだと昔から言われてきたけれど、女だって全く同じことだと思う。  旅も人生も、  目的地に至るまでの過程が一番楽しいのだ。  今、私たちはいきなり目的地に着いてしまう。  本当に大事なものを惜しげもなく飛び越してしまっている。  私はよく旅行をするので飛行機に乗る機会がとても多い。そのたびに感嘆するのだが、飛行機を発明した人は、一番最初に何を思ったのだろうか。空を飛ぶ鳥を眺めて、自分もあんなふうに自在に飛んでみたいと、かつて一度も思わなかった人はいないだろう。凡人はそこまでは思うが、さて、ではどうしたら飛べるのだろうかと、あれこれは考えない。飛びたいという強い情熱にかられた人が、想像力を駆使して、飛行機というものの発明にたどりつくわけである。そして今では、大阪に行くのでさえも、新幹線ではなく飛行機を使って行ったりする。飛行機はもはやロマンティックなものではなく、日常的な乗りものになってしまったのである。飛ぶことの楽しさやロマンよりも、一刻も速く目的地へ飛ぶための輸送手段にすぎなくなってしまったのだ。  一番最初に飛行機を作った人の思いはきっと別のところにあったのだろう。飛行機のロマンはエンジンが発明された時に終わったのだ。自力で風を起こし、まさに鳥のように高く低く旋回する世界は、今では個人的な趣味の領域になってしまっている。  汽車の旅もそうだ。時速二百キロ以上のスピードで目的地に突っ走るわけだから、窓をあけることもできない。人間が風との縁を切った時、旅はロマンではなく目的だけになるのだろう。目的地に着かないことには何も始まらないというわけだ。でも本当の旅の楽しみというのは、目的地までの過程にこそあるのではないかと思うのだ。窓から吹きこむ風の感触や匂《にお》いの中に——。  結婚についても同じことが言える。あるいは人生についても。私たちはあまりにも、目的地ばかりめざして、それに至る過程を楽しんでいないという気がしてならない。そして今や何でもお金さえあれば手に入る時代である。そしてそのお金すら最初から持っている。ありがたいことに私が若い頃は、まだそうではなかった。親たちは自分の生活で精一杯だから、自分の子供たちに土地つきの家を建ててやることはできなかったし、車を買い与えてもやらなかった。私と夫は、最初の一か月、食事をするテーブルがなくて、ダンボールの箱にクロスをかぶせて食事をしたものだ。  一《ひと》月目のお給料で、まず丸いテーブルを買った。椅子《いす》は二つだ。次の月にもう二つ椅子を買い足して、質素ではあったが手作りの夕食に友達を招待できるようになった。  冷暖房だって充分ではなかった。何度目かの引っ越しで移り住んだ海辺の家では、海岸に流れつく流木を集めてきては、それを暖炉で燃やして暖をとった。燃える火の色、薪のはぜる音、その匂いなどが常に身近にあった。あの頃は貧乏だったから、流木で暖をとったのだが、今にして思えばそれは何という贅沢《ぜいたく》なことだったろう。今はスイッチひとつで冷暖房が切りかえられ、常に一定の温度の中で生活のできる家にいて、私は心からあの時代を懐かしんでいる。あのような時代を体験できて本当に良かったと思っている。  暖炉で燃える薪の火の色や匂いを経験したことのない今のひとに、それがどれだけすばらしいものか、説明するのは難しい。いくら小説の中でその良さを描写しても、火に手をかざしたことのない人に、その温かさを知らしめるのは、多分、ほとんど不可能だと思う。  私はここで何が言いたいのだろうか。すでに必要なもの全《すべ》てを所有している現代人は、あまり幸せではないということだろうか。現に今、私は欲しいものなど、何ひとつない。私が所有していないのは、自家用飛行機くらいのものだ。そしてあえて何が欲しいかと言えば、あの海辺の暖炉のある暮らし。スポーツカーもヨットも持っていない時代。娘たちや夫のセーターを、せっせと編みながら、色々な夢を抱いていた頃の、あの少しひもじいような精神状態。もう一度あの時代に戻りたい。少なくともそのような時代を体験できて、私はとても幸せだと思う。そして私の三人の娘たちも、その幼児期に辛うじて私たちと同じ体験をさせることができて、本当に良かったと思う。  モラルについて  はっきりいって、私は日本の女が世界中で一番性的にだらしがないのではないか、と最近思うようになった。  以前は、日本の男の売春ツアーというのが、世界中の人たちのヒンシュクを買っていた。そうした男たちの妻たちも、外国で夫が女を買うことは止《や》むを得ないことと黙認しているような節があり、中にはゴム製品などをスーツケースに忍ばせる妻もいるということを耳にしたことがある。  浮気は男のカイショウだなどと大見得《おおみえ》を切る国民など、日本人の他にはいない。外国の男が絶対に浮気をしないというのではないし、現にアメリカやイギリスの大物政治家の、女関係のスキャンダルは、後をたたない。ただ彼らは大見得など切らないし、妻も黙認したりはしない。バレれば直ちに離婚である。その場合、夫が妻に支払う離婚手当は莫大《ばくだい》である。  しかし莫大な離婚手当が払えない普通の男たちは、だから、浮気などしたくてもできないのである。第一、浮気を前提に結婚などしない。しないと、キリスト様に誓って結婚している。  日本の男が浮気をするのは、浮気を罪だとは考えないからだ。浮世絵の春画でもわかるように、日本人の男は女好きで淫乱《いんらん》だ。  同じ人種であるわけだから、女も同じなのである。私は日本人の若い女たちが性的モラルに欠けると思うのは、多分国民的な血のせいだと思っている。  表面的にはお上品ぶってカマトトをきめているが、ひとたびタガが外れると、すごいことになる。  たとえば外国旅行。女の二、三人の旅。旅の恥はかきすては、もはや男専門ではない。私は様々な国に旅して、よく若い同胞にあうのだが、その現状には眼をおおうものがある。  もう触れなば落ちんの風情が露《あらわ》なのである。正に発情している若い雌犬といった感じ。ちょっと格好いい相手から声をかけられたら、どこへでも行ってしまう。空港などで、あの男はどうだったのああだったのと、声高《こわだか》に自慢話。周りが外国人ばかりだと油断しているのかもしれないが、こちらの方が赤面してしまう。  そういう女の一人と、結婚するはめになる若い男が、本当に気の毒だと思う。私は息子が生まれなくて本当に良かったと心から思っている。  もっともごく最近では、エイズが恐《こわ》いから、外国での旅の恥のかきすてはずっと少なくなったはずである。  エイズ騒ぎで戦々恐々としているのは、男たちばかりではなく、かつてハメを外した日本の若い女たちも、今頃ひそかにおののいているのではないかと思う。  妊娠中絶の実際の数を知らないが、多分その数も日本は世界でも一番ではないだろうか。七回中絶したという女の人のことを知っている。もちろんその種の女性ではなく、ごく普通の家庭の娘さんである。  自立のエクササイズ  日本人の女が、真の意味で自立心にめざめる年齢はいくつだと思いますか? 十八? 二十? 二十五歳?  とんでもない、三十五歳前後なのだ。  欧米の女性が十八歳ですでにマチュアな大人に成長するのに比較すると、あまりにも遅すぎるのはどういうことだろうか。  そもそも自立とは何かということだ。自立とは、ひとりの感覚。ひとりになって、自分で自分のめんどうがみれるかどうかということである。  そういう意味では、欧米の子女は、十八歳くらいから、そろそろ親元を離れ始める。遠いところにある大学へ入学して、下宿やアパートや寄宿舎に入る。学費も全額親がみるわけではない。たとえ全額みてやれても、親はあえてそうしない。学費の一部および自分の遊ぶお金くらい自分で稼がせるし、娘や息子もそれが当然と思っている。  一人暮らしがその後結婚するまで続く。この間に女の子はやがて女になり大人になっていく。  ところが日本の女の子はどうだろう。大学を出ても、勤め始めても、いっこうに親元を離れようとしない女の子が大部分ではないだろうか? そして結婚によって、父親の手から夫になる男の手に引き継がれる。  やがて子供を生み、真には女性として成熟しないままお母さん業をやり、あっというまに三十代。ふと見回すと、子供らは学童となり、かつての女の子はおばさんとなって、家の中でたったひとり。  この時になって初めて、ひとりぼっちの実感を味わうのだ。一人の人間でもない、性的な女でもない、母親だけにも徹しきれない中途半端な自分に出逢《であ》うのだ。欧米の女の子たちが十八歳くらいでぶつかる壁に、三十五歳頃になってぶつかるのだ。これは厳しい壁である。  かくいう私も、典型的な日本人の女の子だった。父親の手から夫の手への口であった。そして当然のことながら三十三、四でこの壁にぶつかった。青天の霹靂《へきれき》。自分という女が世の中において、何ものでもあり得ない。何の役にも立っていない、という発見。三十五歳からの出発は並大抵のことではない。  であるから、お嬢さん。今から心の自立の準備をしておこう。私たち女は、父親の手から夫の手へと安全に引き渡されてはならないのだ。自分の手に自分を引き渡すべきなのだ。そこで生活の厳しさや孤独や、人の関係の厳しさを、たっぷり体験すべきなのだ。若い時の苦労はあなたを成長させるけど、年を取ってからの苦労は、いたずらに女を疲れさせる。  自分の収入を得られる年になったら、ともかく親から自立しよう。  なんにもしない花嫁  別に女だけが家事万端をしなければいけないわけでもないし、時代も変わったわけだから、女はこうあるべきだ、などと言うつもりはない。  それにしても近頃の女の子がずいぶんだと思うようなことが多い。  女の子もずいぶんだけど、その子のお母さんがまたずいぶんな人たちなのだ。 「わたし、お料理できません。お掃除もだめです」  と、堂々とお見合いの席で若いお嬢さんが言うのは、率直でよろしいし、愛敬《あいきよう》があるがその母親が横で大真面目《おおまじめ》にうなずいて、 「本当に何ひとつできません娘でして」  なんていうのは愛敬にも何にもならない。自分の母親としての無能さを広言しているわけだから、大いに恥じて当然なのだ。  なのに恥じるなどという感覚が皆無なのか、娘のあまりの無能さに、嫁ぎ先から離縁などされると血相を変えて、 「あら、何もできないとお話ししてありましたよ。それを承知でうちの娘をおもらいになったのでしょう」  と怒鳴《どな》りこんだりする。 「それにしても、卵焼き一つ作れない。いや作ろうともしない。夕食の後の片づけも亭主にやらせる。これじゃ何のために嫁をもらったのか……」  と相手が言うと、 「今時、そんなの当たり前なんじゃございませんの?」  と嘯《うそぶ》く。おまけに、 「うちの娘を傷ものにして今頃帰してきても困るんでございますよ」  と、とっくの昔に傷ものになっているのを知ってか知らずか。  昔の嫁入り修業(ちょっと古いかな)は、お花とお茶と一とおりのお料理ができることだった。  それが最近では、車の運転とゴルフと、英会話だなんて言っている女の子がいる。  私にもしも息子がいたら、車の運転とゴルフと英会話にたんのうなお嬢さんは願い下げである。その上にヴィトンやシャネルを身につけていたら、ノシをつけてお返し申し上げる。そんな女の子にロクなのがいるわけがない。  さて、お嬢さん。女らしさって何だろう?  ご飯の仕度をしたり、家事をしたり、洗いものをしたりするのが、女らしいということではもちろんない。  でも、自分のご亭主にそういうことをさせて平気だという女は、その心根が寒々しい。家事など、誰がやってもいいと思う。でも、家事ができないことを、いばることはないのではないだろうか。  私は小説を書きながら、家事をやったり料理を作ったり家族とテニスをしたり友達とお酒を飲んだりする。別に偉いとも思わないし、大変だとも思わない。  お料理も作らず、家事もしない若いお嫁さんて、一日中一体何をしているのだろう? 何にもせずに、ただ茫漠《ぼうばく》と時間が過ぎていく、という方が、私にしてみれば、よほど怖《おそ》ろしい気がする。  リゾートについて「おしゃれ心」  よほどの遠隔地でもないかぎり、どこへ出かけて行っても、日本人の新婚さんや、若いギャルの二人連れに出逢《であ》ってしまう。  モルディブでも、チェラティンでも、プーケットでも、バリ島でもそうだった。日本人はどこにでもいた。  かくいう私も日本人なのだから、本当は悪口など言いたくないが、せっかくのバカンス先で、日本人の新婚さんや、キャピキャピギャルにぶつかると、とたんに、がっかりしてしまうのだ。せっかく高いお金を出して出かけて来たのに、何割がた確実に損をしたような気分に落ちこむのだ。  それはなぜか。  答えは簡単だ。彼らがリゾートの楽しみ方をぜんぜん知らないからだ。リゾートのみならず、旅の楽しみ方、ひいては人生の楽しみ方も知らないのだ。  自分たちは、結構楽しんでいるらしいのだ。新婚さんなんて、周囲のものは何ひとつ眼に入らず、熱々ムードで、お互いしか見えない。キャピキャピのギャルたちも、自分たちばかりがエキサイトしていて、その浮かれぶりが眼に余る。  問題はこうだ。リゾートの楽しみ方というのは、そこにいる他の人々と、どれだけ溶けあっているかということである。  それは、マナーの問題であり、服装の問題であり、言葉及び楽しもうとする姿勢の問題である。  日本の若い人たちは、周囲の他の人たちと全くと言っていいくらい、溶けあわないのである。バリ島にいたってプーケットにいたって、本当はどこでもいいのだ。いるのは彼ら二人だけの世界なのだから。  夕食の時間になる。私は夕食前のカクテルのために、昼間のショートパンツから、一応はドレッシーな、ワンピースくらいには着替える。庭に落ちているハイビスカスの花を、ちょっと髪にさすくらいのこともする。そして、たとえ素足でもサンダルシューズくらいははいて行く。  ところが、カクテルルームに現れる新婚さんの姿を見て、腹が立つ。ペタペタのゴムゾーリ。一日中着てヨレヨレのTシャツに、ショートパンツ。一番いけないのは、例のペアルック。  冗談じゃない、と思う。ちょっと周囲を見渡せばわかることではないか。何もギンギラギンに着飾る必要はない。そんなのは逆の意味でバカみたいだ。  けれども、ヨーロッパやアメリカや、他の東南アジアの国からのリゾート客たちは、さりげないようでいて、一応TPOを心得た服装で、カクテルアワーに来ているのだ。たとえTシャツであっても、そこに一工夫がある。Tシャツの丸首にぴったりと添った真珠の首飾りに、フレアーのスカートといった、何げないけど、ロマンティックでキュートな感じ。  シャワーを浴び、香水かオーデコロンをつけ、濡《ぬ》れた髪は濡れたなりに整えられている。眺めていても楽しいのだ。  それが日本の新婚組ときたら。はっきりいって、はた迷惑である。眼の邪魔である。そこにいてほしくない。ムードは壊すし、子供っぽすぎて話にもならない。  ちょっと考えればわかることなのに、ほとんど傍若無人のふるまい。お子さまは、バーに立ち入り禁止なのだ、と、つまみ出してやりたい。  そしてそのままTシャツにペタペタのゾーリでディナーのテーブルに向かう。こういう時、私はせっかくの旅の気分を損なわれ、高いお金を損したような気分になるのである。鈍感な野蛮人どもめ。  キャピキャピ娘はどうかというと、これがまたどうしようもない。海辺のカクテルアワーに、厚化粧に体の線も露《あらわ》なドレスアップぶり。どうみたって二流の娼婦《しようふ》風。そして女同士でつるみながら、外国男の劣情を刺激せんと、腰を揺すり、露にしなを作り、媚《こび》を売る。これが我が同胞、ヤマトナデシコかと眼を疑う傍若無人ぶり。  そんなわけで、リゾート地で私は溜息《ためいき》ばかりついている。  リゾートというのは、自分だけが楽しむところではないということをまず頭においてほしい。他の人たちもいるのだということ。  そしてもっと理想的なのは、あなたがそこにいるおかげで、他の人たちを楽しませてあげること。眼で、雰囲気で、会話で。それくらいの心意気がほしいのである。  かといって、二流娼婦風のアピールは論外である。  まず、声高《こわだか》に喋《しやべ》らないこと。世界は二人だけのものではないと、常にわきまえていること。服装を周囲と同じレベルに保つこと。以下であっても以上であっても、ルール違反なのだ。  人と眼があったら、ニッコリ微笑すること。これ、リゾートの共通語。せっかく遊びに来ているのだから、ちょっとくらい笑っても損はしない。  向こうの人は、眼があえば、ニコッとする。やあ、今日は! 楽しんでる? っていう無言の挨拶《あいさつ》なのだと思えばよい。  だから、すごいハンサムボーイが、ニッコリ笑いかけたわよ、わたしに気があるみたい、と考えるのは、考えすぎというものだ。リゾートのニッコリは「Hi!」の意味と覚えておくこと。  基本的な食事のマナー、これだけはマスターしましょうね。フォークやナイフの使い方は、まあぎこちないけどいいとして、日本人の一番いけないのは、食事中の喫煙。こんなにみっともないことはないのだから、煙草は食事の後、コーヒーの頃に。ただし、必ず周囲の人に、「メイ・アイ・スモーク?」と了解を得ること。  もうひとつ。これTVドラマの影響だと思うけど、物が口に入っているのにやたら喋る人。これも外国では最悪のマナー。食事ひとつするのにも、他人の眼を意識して、緊張して美しく。緊張感のない人って、ぜんぜん魅力的じゃない。  そんなに緊張して、人眼ばかり気にするんじゃリゾートへ行く意味がないではないか、と怒る人がある。そうです。そういう人はリゾートへなど出かけて行かない方がいいのです。その方が、他の人たちがありがたい。はっきりいって、来てもらいたくない。だから行かなくて結構なのです。  どうして、人眼を意識したり緊張することが苦手なのだろうか? 私にはわからない。そのことなしの、私の生活やレジャーなど考えられない。人眼を意識するから、きれいになれるのだし、たえず緊張しているから、ぶくぶくと醜く精神も肉体も肥えずにすむのだ。  本当のおしゃれというのはドレスアップのことだけではなく、心のあり方の問題だ。おしゃれな心の持ち主でなければ、人生って、本当に楽しめないのではないだろうか。  それに、若い時って、二度とないのだから。その若い時に、おしゃれでなかったら、いつおしゃれをするの? ------------------------------  結婚の処方箋 ------------------------------  出逢いの不思議 私はあなたの手が好きよ。ただ見るだけで胸がときめくわ。 あなたに恋する前に、あなたの手に恋していたのをご存知だった? ——『愛情物語』より  私が今ひとつ結婚の決意ができなかった時、それに踏み切らせたのは夫の手だった。  しかもその手は、油絵の具の染みと、手豆と切り傷だらけの、ひどく傷んだ手だった。  その頃私の夫は、イギリスからリュックサックひとつで、はるばると海を渡って来た絵描《えか》きで、住所不定、財産ゼロ、無職の、海のものとも山のものともつかない男だった。  リュックサックの中身は、よれよれの寝袋と斧《おの》一|挺《ちよう》、絵の具一式、そして歯ブラシが一本だけだった。  彼は砂漠で眠り、東南アジアの広大なジャングルを、斧一挺で切り開きながら、絵を描いてはそれを売ってパン代に変え、ついに東の果ての国ニッポンにたどりついたのだった。  私がじっとみつめた彼の掌の豆と切り傷の跡は、斧でジャングルを切り開いた時にできたものだった。  それまでに私が出逢《であ》ってきた男たちと、なんとその手は違っていたことだろう。私が慣れ親しんできた男たちは、労働をしない手、柔らかく繊細な手の持ち主たちだった。  私自身の父は、美しくて力強いが、また繊細な手をしていた。子供の時から私は父の手が大好きだった。私を色々なことから守ってくれる大きな手だった。  だから私は、常に男の手というものに対して敏感だった。どんなにステキな男でも、その手が好みに合わなければ、恋になど発展しなかった。そんな手で触れられると思うと、生理的な嫌悪感で吐き気さえ覚えるほどだった。  いつしか私は男の手というものに関して、いっぱしの意見と鑑識眼をもつようになっていた。手というものは、その男《ひと》自身にとてもよく似ているものである。肉体的な特徴や心のありようまで現してしまう。  下品な男はやはりどこか下品な手をしているものだし、誠実な男は、バランスの良いつやのあるいい手をしているものなのだ。もし、その男性の全体の感じを、どこかふつりあいだったり、バランスが崩れていると少しでも感じたら、その男には何か問題があるはずだ。近づくのは止《や》めた方がいい。  よく、「眼は心の窓」というが、私には手の方がよほど信用できる。「男の手は口ほどに物を言い……」である。  眼ほど信用のならないものはないくらいだ。  こちらの視線を逸《そ》らせたり避けたり伏せたり、時には偽りの涙を浮かべてみせることさえするではないか。  それに比べると男の手は無防備だ。何も隠せない。  三十年近く昔、私は結婚の決意を前に、夫の手をもう一度つくづくと眺めたのだ。闘う男の手だと思った。初めて出逢うタイプだった。この手は私を一生守ってくれるだろうと、確信したのだった。考えてみれば出逢いとは何という不思議な縁であろうか。  もしあの時、右でなく左の道を通っていたら、出逢いはなかったろうし、本屋に立ち寄って、棚の本を落としてしまわなければ、二人は見知らぬ者同士のままだったろうとか、全くの偶然の連続の延長線上に、辛うじてつながった細い細い赤い糸——。  それにしてもなぜあの人でなく、この人なのだろう。そしてなぜ別のあの方ではいけないのだろう?  そんなふうに考えていくと、私の夫は、私という女に出逢うために、リュックサックひとつでイギリスを飛び出し、アラビア砂漠を越え、アジアのジャングルを抜けてやって来たとしか思えない。そして私も、彼に出逢うために生まれ、躾《しつ》けられ、様々な男たちと恋愛しては別れてきたのに違いない。  運命の赤い糸はあるのだろうか? 前世から続く赤い糸を、みんなもっているのだろうか? その答えは——。  出逢いというものは、必ずある、ということ。そして人は人に、出逢うべき時に、出逢うべくして、必ず出逢っていく、ということである。少なくとも私はそう信じている。  さて、冒頭のステキな科白《せりふ》のことだが、これは、あなたのお母様たちが少女だった頃に封切られた『愛情物語』というラヴストーリーの中で、キム・ノヴァク扮《ふん》するマージョリーが、結婚したばかりの天才ピアニストの夫エディに向かって言った言葉である。  このピアニスト、エディ・デューティンは一九三〇年頃から一世を風靡《ふうび》した実在の男で、美男で有名だった若き日のタイロン・パワーが扮している。そしてピアノを弾くその手の美しかったこと——。私が過去美しいと思った男の手は、このタイロン・パワーの他に、フラメンコ・ダンサーのアントニオ・ガデスの舞台で踊っている時の手の表情。  そして若い頃の父の手。それから絵の具が染みつき豆だらけだった頃の夫の手——。そうそう『愛情物語』でタイロン・パワーが弾いたのは夜想曲《ノクターン》だった。実際にはカーメン・キャバレロの演奏だけど。  プロポーズ あなたとあたしは、気が合うわ。これまであたしが会った中で、 あなただけは女の真実を知っても平気でいられる人だわ。 ——『風と共に去りぬ』より  これは、レット・バトラーのプロポーズを受けて、その気になりかけたスカーレット・オハラの言葉である。  ここで気をとめておいてもらいたいのは、女の真実を知っても平気でいられる人、云々《うんぬん》のところであるが、それはいったん横に置いておいて、スカーレットにこのように言わしめたレット・バトラーの、とっておきのプロポーズをご紹介しよう。  彼はまず、結婚というものは家柄のためやお金のため、ひいては母性のよろこびを受けるためにするのはつまらないことだ、と前置きをしておいて、こう言う。 「なぜ、評判の悪い、女にかけても見識をもった、りっぱな男と結婚してみようと思わないんだ? おもしろいぞ」  この言葉のポイントは、女にかけても見識をもったというところである。そしておもしろいぞと結ぶ点。この求愛の言葉に、レット・バトラーの性格と魅力の全《すべ》てが表れていると言っても良いだろう。  先に進む前に、『風と共に去りぬ』の舞台となった時代背景を少し考えてみなければならない。その頃のアメリカ南部のいい家庭の女性というものは、上品で、男の言葉には口をはさまず、何かというとすぐ気絶してみせるのが、よしとされた時代なのだ。  たとえば「妊娠」という言葉は露骨で下品だということになっていて、紳士淑女は決して口にしない。かわりに「気分がすぐれない」とか「体の調子がよくない」というふうに、ぼかして言うのだ。考えてみると日本でも二昔前頃までは、そうだった。たしかに「嫁は妊娠していますので」と言わないで、「嫁の体の調子がよくないので」というふうに言うのを、私も聞いたような気がする。  そのような時代の中において、レット・バトラーひとりは、「妊娠」を「妊娠」とはっきり言う人物だったのである。当然上品なレディたちや、体裁を重んじる紳士たちは眉《まゆ》をひそめ、たちまちレットは「下品な男」というレッテルを貼《は》られてしまうわけだ。スカーレットが冒頭で、女の真実と言ったのは、そういうことである。  南部の男や女たちが、徹底的に「たてまえ」人間であるとしたら、スカーレットとレットは、驚くべき「本音」人間であった。そしてその当時、本音だけで生きる人間は変節漢とか下品だとか言われて、軽蔑《けいべつ》されたのである。スカーレットが「あたしとあなたは気が合うわ」と言うのには、そういうわけがあったのだ。  さて、私がプロポーズに、レット・バトラーと、スカーレットの言葉を引用したわけはというと、一見|不真面目《ふまじめ》そうな言葉に、結婚の本質的な意味があるからである。  それは、女の真実を知っているとスカーレットが言う点であり、女にかけて見識をもったとレットが自惚《うぬぼ》れる点だ。  結婚において大事なことは何だろうかと考える時、誠実さとか経済的能力とか、学歴、ある程度の家柄などという点が挙げられるが、では一体、何が女を日常的に幸福にしてくれる一番大事な要素なのだろうか。それは相手の男が女の真実を知っても平気なほどの大人であり、女にかけては裏も表も知りつくすほどの見識をもっている、ことなのではないだろうか。かみくだいていえば、彼は女の愚かさもずるさも可愛《かわい》さも承知で、がっちりと受けとめてくれる包容力がある男で、なおかつセックスの面でも夜毎に女にエクスタシーを与えてくれることのできる男なのである。  みなさんが「三高《サンコー》」などとばかなことを言って探し求める理想の夫なるものが、女にとって、日常的に一番大事な大人度とセックスの巧みさをも持ちあわせているかどうか、大いに疑問である。背ばかりひょろ長いマザコン男が、毎日の生活の中であなたを満足させてくれるかどうか。悪いことは言わないから結婚してしまう前に二泊三日でもいい、相手の男と旅行でもして、この大人度とセックスの巧みさを、とことんテストすることをおすすめする。  特にセックスにおける一人よがりなエゴイズムと、女性の性への無知は、後々の学習によって訂正される望みは薄く、それはほとんど、天性の資質なのである。そのうちに良くなるだろう、上手になるだろうという願いは、多分一生かなえられないだろう。セックスの時にエゴイスティックな男は、生涯そのまま一人よがりのエゴイスティックなまま、あなたを決して満足させることなく終わるだろう。  それは言いかえれば、あなたをどれだけ慈しみ愛してくれるかということだ。あなたのことを何よりも大事に思い、幸せにしたいと望み、現実的に歓《よろこ》びを与えたいと願う情熱を持っている、ということだ。そういう男性にこそ、めぐり合ってほしいと私は思う。  裏返せば、あなたにもそういう女性であってもらいたい。彼を慈しみ愛し、日常的に彼を幸せにしてあげたいと思う情熱を抱ける男と、結婚してほしい。一方的に与え続ける愛というものは、長続きしないからだ。レット・バトラーでさえも、ついにスカーレットに疲れ果て、風と共に去って行ったではないか。  スカーレット・オハラは、もしかしたらあなたにとてもよく似た女なのかもしれない。家柄もよく、学識もあり、紳士でスラリと背の高い、誰にでも優しいアシュレという男が、彼女の理想だった。理想に眼がくらんで本質が見抜けなかった。アシュレの優しさは、別の角度からみれば軟弱にすぎず、彼の学識は時代の変化の前では、何の役にも立たなかった。彼はたしかに紳士ではあったが、女というものを知らなかった。アシュレ的男を求めるかぎり、あなたもレット・バトラーの真の良さを理解できないだろう。残念なことだ。  結婚式 最初はとても簡単なのに次第に難しくなり ついには全く使われなくなる言葉がある。�ありがとう�と�ごめんなさい�だ。 ——娘の結婚式にて  リードの言葉は、昨年の五月、私の長女がアントワープの郊外の教会で結婚式を挙げた時、ベルギー人の神父様が新郎新婦に語りかけた言葉の中の一節である。  私はこの言葉を、深い共感と、もはや取り返しのつかない悔恨の思いの中でしみじみと聞いたが、若い二人の胸にどれだけ響いたか、大いに疑問だった。  そうなのだ。人間というものは、もはや取り返しがつかなくなって初めて、一番大切なことに気づくものなのだ。  スカーレット・オハラは、レット・バトラーが彼女の許《もと》を立ち去る決意を告げた時になって初めて、いかに自分が彼を必要とし愛していたかに気づくのである。そして彼が彼女にあれほどふんだんに与えてきた愛に対して何ひとつお返しをすることなく、ありがとうの一言も言わず、自分に非があっても頑《かたく》なにゴメンナサイと謝罪したこともなかったのに気づいて愕然《がくぜん》とするのだった。  スカーレットの例をとるまでもなく、私たちは同じような過ちを犯す愚かな人間なのだ。  だからしかたがないのだ、それでいいのだと言ってしまえば、身もふたもない。さりとて私自身のことは棚に上げておいて、あなたがたにお説教する気にもなれない。  ただひとこと言えるのは、結婚が破綻《はたん》したほとんど全《すべ》てのケースは、もし、まだ充分に間にあううちに、二人が「ありがとう」と「ごめんなさい」をふんだんに言い交わしあっていたら、その破綻は避けることができただろうということである。  つまり、「ありがとう」も「ごめんなさい」も、どんなに言っても言いすぎるということは決してないということだ。その二つの言葉さえ日常の中でふんだんに二人がかけあっていれば、結婚はずっと将来も安泰なのだ。  そんなこと簡単よ、と言うかもしれない。そう、とても簡単なことなのだ、初めのうちは。しかし、相手がより親密になればなるほど、それに反比例して難しくなっていくのが、その二つの言葉なのである。 「ありがとう」がどんなに簡単な言葉かは、たとえば選挙演説や、スピーカーから流れる立候補者の声をきけば、容易に想像できる。アリガトウゴザイマス、アリガトウゴザイマス。そうなのだ。ちっとも身に滲《し》みてありがたくない時には、アリガトウが軽々と口から滑り出ていくものなのだ。それが本当に身に滲みてありがたいと思う時、人は、特に日本人は、なぜか感謝の言葉を省略してしまう。言わなくたってあたしの気持はわかるはずだと思う。夫婦だもの、以心伝心だわ、と。あるいはわざわざ口に出して言うのは照れくさかったり、かえって白けてしまうのではないかと思うのかもしれない。単にめんどくさいだけなのかもしれないし、夫婦なんだから当たり前だ、とそんなふうに考えるのかもしれない。  ゴメンナサイにしても同じことが言える。夫婦なんだもの、いちいち謝る必要はないじゃないか、水くさい——。心で悪いと思っているんだからそれを感じ取ってくれているのに違いないと。  そう。一度や二度ならそれも通用するだろう。しかしそれがいつのまにか習慣となってしまったら、口に出して言わないことは、存在しないことと同じになってしまうのだ。口に出して伝えない意志は、相手には何も伝わらないということだ。スカーレット・オハラは実にたびたび心の中では感謝し、謝ってもきた。しかしそれはあくまでも彼女の心の中でのことであり、レット・バトラーには何も通じなかった。彼の眼に映るスカーレットは、ただ薄情で驕慢《きようまん》な女でしかなかった。  それにしてもなぜだろう? なぜ最初は素直に口に出して言えた�ゴメンナサイ�と�アリガトウ�が、だんだん言えなくなり、ついにはその二つの言葉に関するかぎり夫婦は失語症になってしまうのだろう? 本当にどうしてだろう? 私にはわからない、私もまたその二つの言葉の失語症患者の一人なのだから。  どんなふうにしてそれが始まっていったのかわからない。ある時を境に、そうなったのではないことは確かだ。少しずつ、そんなふうになっていったのだ。多分最初は、「いいや、明日はちゃんと言おう」と思ったのかもしれない。しかし、今日言いそびれた�ゴメンナサイ�は翌日にはみごとに色あせてしまっている。今日言いそびれた�アリガトウ�は翌日には更に言いにくい。ひとたび言い残した�アリガトウ�と�ゴメンナサイ�は、次から次へと連鎖式に言い残されることになる。「今更謝るのも変だ」と思い「今更謝ってもしかたがない」になり、ついに心が冷えていき失語症にと至る。そうなのだ、多分あの日、初めて、�アリガトウ�を言い残したあの日から、全ては始まったのだ。   姑と夫 ——母さん、悪いけどボクたちは、そう考えないんだ。  結婚して六年目に、私と夫は二人の幼い娘たちを連れて、イギリスの彼の実家を訪れた。夫にとっては実に十年ぶりの帰郷であり、私や娘たちには初めてのイギリス訪問だった。  小さな娘たちは、おじいちゃんとおばあちゃんに逢《あ》えるのだと言って、興奮していた。時はクリスマスの頃であり、子供たちにとってクリスマスは山のようなプレゼントと同義語なのだった。  私はといえば、正直にいって怯《おび》えていた。  イギリスの夫の両親は、最初のうち私たちの結婚に反対だった。アングロサクソンの血に、地の果てのジャパニーズの血が混じることを、そのような子孫をもつことを、彼らは恐れもし嫌悪もした。イギリスは伝統と誇りの国である。北部の田舎の人たちは特にそうだった。私自身の両親は、落ちこぼれのもてあまし者だった当時の私のような娘をもらってくれるなんて、ひたすらありがたいことだと、ほとんどその異国の青年を祭り上げんばかりだったが——。しかもその異国の青年たるや、住所不定の無職、財産といえるものはリュックサックの中の寝袋と手オノ一挺だけ。その一挺の手オノで東南アジアのジャングルを切り開き、野生動物を捕まえ、竈《かまど》の薪を割り、様々な危機から身を守ってきたのだった。  それはともかくとして、私には夫の両親の無念と痛みとが理解できた。最終的には、おまえの人生だ、おまえが幸せになれるのならばと、祝福の手紙をくれたが、彼は一人息子だから、心のわだかまりは残ってもしかたがないと思っていた。そんなわけで、夫の実家の玄関のベルを押した時には、夫の陰で小さくなりながら、急性の胃炎を必死でこらえていた私だった。  実家で過ごした数日間、私の胃炎は悪化の一途をたどったが、義理の両親のジレンマもすさまじかろうと思って耐えた。何しろ私の一挙手一投足が、厳しい英国女性である老いた 姑《しゆうとめ》 には気に入らないのにきまっている。まずお茶の時間。お茶くらい私にも淹《い》れられる。そこで買って出たのはいいが、姑の家ではまずカップにミルクを注《つ》ぎ、その上に熱い濃い紅茶を注ぎ入れる。それを知らずに順序が逆になる。たとえば台所に立ち食器を洗うのにも、彼らなりの洗う順があり、すすぎ方のコツがある。床を磨く時間がきまっており、使うワックスの量もきまっている。食器はきちんと元のところに、五ミリも違わず戻しておかないと、義母が全部出して入れ直す。別にあてつけがましいわけでも嫌みでもなく、まして文句を言うわけでもない。ただ、習慣が少しでも破られると、彼らは落ち着かないのだ。そんなふうにお互いに神経をすりへらしていた矢先のことだった。  孫のことで、ちょっとした意見が分かれた。詳細は忘れてしまったが、そのことで姑が私に意見をした。別に大したことではなかったから、私は聞き流そうとした。その時夫が言ったのだ。 「でも|母さん《マム》、悪いけどボクたちはそうは思わないんだ」  後にも先にも、その言葉ほど私の心に滲《し》みた言葉はなかった。夫は、「妻は」ではなく「ボクたち」と言った。そして考えてみると、彼は常にそうだった。「ボクたちの考えはね」とか、「ボクたちの娘」「ボクたちの家」「ボクたちの人生」「ボクたちのお茶の時間」。  彼は決して「ボクの」とか、「妻の」とか言わなかった。どんな場合でも、ボクと妻は一緒だ、ボクと彼女は同じ考えなのだということを、その「ボクたち」という言葉で、それとなく相手に伝えてくれていたのだ。私は自分が守られていることを感じた。どんな時にも夫は私の側につき、私を支えてくれていることを感じた。夫は一度として姑と私の間に立って、どっちつかずのあいまいな立場をとったことはなかった。ましてや老いた母親の側に立って、私を一人孤立させることもなかった。  たとえ私の側に立っても、それは老母を孤立させるためでもなかった。そんな意図は全くなかった。義母を喜ばせるのも「ボクたち」の思いやりであり「ボクたちからの」贈り物だった。  嫁と姑の問題の根本問題は、若い夫がどの立場をとるかで、ほとんど解決できると私は思う。日本ではほとんどの夫が、どちらにもつかない態度をとるが、それは物事を絶対に良い方向へは運ばない。それどころか逆に悪化する。なぜなら、老いた母と嫁の争いに、もうひとつ愛する者の争奪戦が加わるからだ。  夫というものは、結婚したならば、その日から、妻の側に立つべきなのだ。母親は裏切られたような気がするかもしれないが、巣立つということは元来そういうものなのである。別に、あなたと一緒になって母親をいじめるわけではない。あなたと一緒にいたわってあげるためでもあるのだ。だから私は結婚の初めに、あなたの夫になる人に、あなたからそう言ってほしい。これからは「ボクたち」と言ってね、と。「ボク」でも「ワタシ」でもなく、ずっと「ボクたち」と言ってほしいと。  昔の恋人 ——君は、ボクの奥さんと結婚しなくて、本当にラッキーだったね。  この言葉は何年か前、私の夫が、昔の私の恋人だった男《ひと》に直接に言ったことだ。私の夫というひとは、時々、皮肉とユーモアのたっぷりときいた面白いことを言うのである。  この時もそうだった。何かのパーティーで、夫と昔の婚約者とがバッタリ顔を合わせたことがあった。  私は、今の職業と、今の私たちの友情と、夫と結婚する前二人が婚約をしていたという事実を、手短に、率直に話して二人を紹介しあった。咄嗟《とつさ》の場合|嘘《うそ》をつくのはむしろむずかしい。それに嘘をつく必要もなかった。嘘をつくことはどちらの男性に対しても失礼だ。私は何も恥じていなかったし、私が大事に思っている男たちが友達同士になれたらどんなにいいだろうかとも思っていた。  やあやあと二人はにこやかに握手をした。その直後に夫が言ったのが冒頭の言葉である。私の昔の恋人はそれに対してニヤリと笑い、 「僕もそう思う」  と答えたのだった。  別に解説する必要もないと思うが、一応解説させてもらいたい。 「ボクの妻と結婚しないでおいたのは、キミにとっては非常にラッキーなことだ」というようなことを言った夫の言葉には二つの意味があるということである。ひとつは普通の意味。「こんなやっかいな女をカミさんに持たずにすんで、キミは本当に賢明だった」ということ。これは正しく夫の本音でもある。それからもうひとつは、「キミは彼女と妻としてではなく、友人としてつきあえて、実に幸運な男だな」という意味である。  これに関しては、それよりもずいぶん前から何かというと——つまり口論をしたり、深刻な会話をしたり、夫婦が不和になるたびに——夫は、「もしキミと結婚さえしていなかったら、僕たちはきっとすばらしい友人同士でいられただろうにね」と、つくづくと言っていたことが、伏線なのではあるが。  夫婦がその結婚において、いい友人でいるというのは非常にむずかしいことなのであるが、これは今回のテーマではないので、別の機会にまた触れることもあるだろう。  私の昔の恋人が、ニヤリと笑って、「僕もそう思う」と答えたのも、あっぱれである。彼もまた、夫の言わんとする二つの意味を正確にとらえて、そう答えたのである。  言い忘れたが、彼は今でも私の出す単行本や文庫本のほとんどの表紙のデザインをやってくれている仕事のパートナーであり、そして親友でもある。  夫は時々こんなことを言う。 「ボクは、君たちが時々ひそかに交わしあう、共犯者めいた優しい視線がとても嫌だ」  けれども昔の恋人は、「お前と亭主が交わしあう視線が僕は嫌だね」とは言わない。別に嫌でも不快でもないからだ。彼はもう私を全く所有していないのだ。責任もなければ重荷もない。嫌だったらいつだってくるりと背を向けて歩み去る自由を有している。もっとはっきりいえば私をもう愛していないのだ。  愛するものを所有するということは、重いことなのである。「ボクのものだ」という思いが常につきまとうから、妻の男友達の視線がいちいち気になるのだ。  愛することの一切の重荷から解放されて、なおかつ友人であるということは、実際には実に楽しいことなのである。それがわかるから、夫たるものは苛立《いらだ》つのだろう。  昔の恋人ではないけれど、C・W・ニコルは、私の昔の友達だ。夫と出逢《であ》う以前、十九歳の時から知っている仲だ。ニックに対しても、夫は同じ気持を抱いているのがわかる。 「ボクの妻と親友でいるキミが実にねたましい」と夫は思っている。  私は何も、夫にねたましい思いをさせていることを自慢しているわけでもないし、そのことを言いたいのでもない。  昔の恋人なり、男友達について語る時、それが現在のあなたの思い出以外に何の関係もないということは、実につまらないことだということを言いたいのである。「昔、恋人がいたのよ」「それで今は?」「わからない、結婚したんじゃないの、別の人と」「それで?」「それだけよ」というのではテーマに持ちだす意味もない。  昔の恋人と、今もまだ何らかのつながりを持てることにこそ意味があるのだ。つまり、終わりにならなかったということ。過去のことよ、ジ・エンドと言って追憶の彼方《かなた》に追いやらなかったこと。いや追いやるにはあまりにももったいないような相手を恋人に持ったことを、自賛してやってもいいのではないか?  なぜなら、親友というものは、本当に良いものだからである。夫があれほどまでに羨《うらや》ましがっているくらいだから、実際に親友はすばらしいものなのだ。そして男と女の親友というのは、昔の恋人であることが望ましい。あなたの良いところも悪いところも全《すべ》て知りつくした上で、なおかつ友情を温めようという男は、そうはいないはずだ。  夫とは、もしかしたら一か月後に離婚しているかもしれない。夫はもしかしたら、別の女とさっさと駆け落ちをして私を裏切るかもしれない。けれども親友は私を裏切らない。決して裏切らない。 「おう、どうした、不景気な顔して。また亭主と喧嘩《けんか》したのか」 「もうめちゃめちゃよ」 「それなら恋人でも作れよ」 「恋人ならもういるわ」 「ちくしょう」  昔の恋人と交わす一番多い会話のパターンである。  嫉妬について ——嫉妬は、最低の戦略だ。  誰の言葉だか忘れた。どこかで読んだ小説の中の、誰かの言葉だ。嫉妬《しつと》で狂う妻に向かって、夫が冷ややかにそう言ったのかもしれない。  あらゆる感情の中で、嫉妬ほど苦しいものはない。それは妄想を呼んで肥大する精神の怪物だ。  私は嫉妬が嫌いで、私に嫉妬をさせる人も嫌いだし、嫉妬をする私自身も嫌いだ。できることなら無縁でありたい、と思う。  若い頃、パーティーなどで夫が他の女性と笑いながら喋《しやべ》っているだけで、頭にかっと血がのぼり、胸の鼓動が激しくなり、吐き気に襲われるほど、私は病的に嫉妬深い女だった。そしてしばしばトイレに駆けこんで本当に嘔吐《おうと》したものだった。真っ青になってトイレから出てきた私に、「どうしたの?」と夫が訊《き》いた。 「吐いたの」 「飲みすぎたの?」 「違うわ。あなたが他の女性と、特別に優しい眼をして微笑を交わしていたからよ。嫌だったの」  多分、結婚のごく初期に見せた私の異常な嫉妬深さは、夫の浮気の虫を封じこめる多少の役には立ったと思う。少なくとも、私はこの二十七年間の結婚生活で、夫の浮気の尻尾《しつぽ》を掴《つか》まえたことはない。もし仮に彼が浮気をしたとしても、私に知られることはなかった。それくらいに用心をしたはずだ。彼は私の嫉妬が怖かったのである。他の女と微笑しあったくらいで嘔吐してしまう妻に、浮気が知れたら一体どんな反応に出られるか、彼はとても怖かったのではないだろうか。  それでも夫が浮気をしてしまったらどうするか。許すか許さないかのどちらかである。許すにしろ許さないにしろ、とめどなく相手を責めるのは何の意味もない。許さないのなら、「そういうのは耐えられません」と言ってさっさと別れてしまえばいいだけだ。  我慢するのなら、ちゃんと「嫌だ」「耐えられない」という意志を伝えた上で、後は一切不問にすること。  相手を責めたり、泣いたり喚《わめ》いたりすればするほど、夫の心はあなたを離れていく。一度や二度の浮気くらいで別れてしまうには惜しい男なら我慢したらいい。お酒飲みと知っても夫を愛せるのと同じ次元で、浮気込みでも彼にそれだけの価値があれば——つまり他の男とすげかえることのできない何かがあれば——顔で笑って心で泣くしかない。  浮気だけが原因で別れても、また再婚をすれば、同じことのくりかえしだ。女が深刻に考えるほど男は浮気に罪悪感を抱いていないのだ。煙草、というよりはマリワナをちょっと一服|喫《す》ってみる程度のことなのだ。嫉妬に狂っている女ほど、醜い顔はない。そしてあまり嫉妬に狂うとストレスから癌《がん》になる。癌にならなければ胃カイヨウになる。病気になってその上夫に捨てられてしまっては、身もふたもない。「嫉妬は最低の戦略だ」という意味はそういうことだ。  夫に浮気の虫を起こさせない方法があるとすれば、あなた自身が彼にとっていつも新鮮で、二人の関係にほどよい緊張感があるかどうかである。つまり、あなたがいいのであって他の女ではだめだと彼が思っているかどうか。あなたを失望させ、結果として失うことになるのは、絶対に耐えられないと、彼が常々肝に銘じているかどうかである。あなたを失うことを彼が心から恐れていたら、失うようなはめになることをしないだろうし、たとえ出来心でしたにしても決してあなたには知れないだろう。そういう女性であなたがいさえすれば、夫婦の間にはいつもいい緊張感が生まれるはずだ。  でももし、モリ先生の夫が浮気して、それがわかったらどうします? と訊《き》かれたら、私はどうするだろうか? 悩むだろうけど、彼とすげかえのきく男はいそうにもないから、ピシャリと頬《ほお》を叩《たた》いておいてしばらく旅でもして行方をくらますだろう。何か月行方をくらますかは、怒りの度合い、傷つき方によって違う。  でもすっかり気持の整理がつかないかぎり、戻らない。中途半端で戻っても、言葉の端々に棘《とげ》が出るからだ。許すのなら、本当に許せる状態まで自分の気持を落ち着かせないと、それこそストレスで躰《からだ》を壊してしまう。戻ったら、そのことには一切触れない。  嫉妬と上手《うま》く折り合いをつける方法などないのだ。  仕事 ——私から仕事を取ったら、もう私ではない。私の仕事を含めて、   私を愛してほしい。仕事ごと私を愛してほしい。 �仕事�をとるか、�結婚�をとるかの選択に迫られるのは、常に女である。未《いま》だかつて男が、仕事か結婚かで悩んでいるのを見たことはない。  もし女が、仕事と結婚の両方をとるということになったら、これは二つの職業を同時に持つようなものだ。よほどの覚悟と、夫の協力がなければ、仕事も結婚も不完全燃焼で中途半端に終わるだろう。  ここで理想論を書いたところで、それはあくまでも理想であって現実ではない。男の人がもっと自立しなければならないのは明らかなのだが、男に自立しろ、家事を分担しろ、女の仕事を理解しろとまくしたてたところで、個々の男たちに私の声が届くとも思えない。  だから私は、理想論でもなければ、男の教育論でもなく、あなたが今、何ができるか、どうしたら結婚と仕事を両立させられるか、ということだけを書こうと思う。  まず、「ねばならぬ」という概念を捨ててしまおう。それは夫を縛るだけでなく、あなた自身をも縛るからだ。男はこうであらねばならぬとか、自分のことは自分でしなければならぬとか、家事は分担せねばならぬとか、夕食に遅れる時は前もって電話をしなければならぬとか、ありとあらゆる「ねばならぬ」から自分をまず解放してしまおう。  そうするとどうなるか? 「今夜、夕食はいらない」と夫が電話をしてきたら「あら、どうしてよ? また遅くなるの?」と嫌みを言うかわりに、あなたは、こう言うだろう。「そう? 電話してくれてありがとう」。そして自由になった夜を、日頃読みたかった本を読むことに喜んであてるだろう。  相手に過剰な期待をしなければ、裏切られることもない。ふと思いついて夫が食器を洗ってくれたりしたら、心から素直に、「あら助かるわ、ありがとう!」が言えるはずだ。けれども、夫は当然家事を手伝わなければならないのにと日頃心に思っていると、たまに手伝ってくれても、「あら珍しいわね、どういう風の吹きまわしなの?」とチクリと皮肉が出てしまい、気持の良い「ありがとう」が言えない。「なぜ女だけが仕事も家事も何もかもやらなければならないの!!」と思うのなら、そしてそれが耐えられないのなら、さっさとどっちかひとつを選ぶことだ。  家事はつらいもの、仕事はつらいものと思うからつらいのである。そしてつらいつらいと思いながらやっては、何をやっても物にはならない。そして長続きするわけもない。  かといって楽しいだけのものでもない。だから無理に楽しいのだと自分に言い聞かせる必要はない。けれども、仕事は好きであってほしい。好きで好きでしかたのないことを仕事に選んでほしい。好きであれば、どんな苦労にも耐えられる。家事もそうだ。「家事なんて大嫌いだけどしかたなくするの」なんて言わないで、家事が好きなんだと自分に思いこませた方が、そこからも色々な発見や喜びが生まれるはずだ。私自身が曲がりなりにも、仕事と結婚生活とを両立させてこれたのは、小説を書くという仕事が何よりも好きで好きでたまらなかったからだ。だから、好きなことをしているわけだから、家事や夫や子供の世話に手抜きなどあっては申し訳ないと思う。仕事が忙しければ忙しいほど、手料理をていねいにしたり、手作りのデザートに念を入れたりする。時には本がとても売れて、夫より収入の多い月もままあるわけだから、そういう時には言動に気をつけて威張ったふうにならないようにとても気をつかう。傍目《はため》から見れば「あなた一体何をしてるのよ。別に悪いことしているわけじゃないんだから、そう下手《したて》下手に出ることないじゃないの」ということになる。  でも、自分に生き甲斐《がい》になる仕事があり、それをやらせてもらえるわけだから、下手に出ることなんて苦でも何でもない。それより私が威張ったり家事の手抜きをしたりで、波風立てると、安心して仕事に没頭できない。それでも問題は生じる。男というものは自分の妻が有名になったりお金持ちになったりするのは、耐え難い世界であるらしいのだ。現に私の夫はよくこう言った。「ボクはイトウ・マサヨという一人の女を愛していた。でもボクはモリ・ヨーコという女は嫌いだ」  この言葉は私の心を引き裂いた。それで長いこと、夫の前ではできるだけ本名のイトウ・マサヨを演じ続けようとしてきたのだ。  ところがある時、イトウ・マサヨなどという女はもうどこにも存在しないことに気がついたのだ。物書きである私が私なのである。私から仕事を取ってしまったら、それはもう私ではない。つまり私は長いこと私ではない私を演じてきたのだ。波風を立てないために。  ついに私の中に破局が訪れた。私は私でありたかった。ありのままの私を愛してもらえないのなら、結婚を犠牲にしてもいいと思った。冒頭のフレーズは、その時私が夫に言った叫びである。その日から三年がたつが、私たちは未だに一緒に暮らしている。つまり夫は私を受け入れてくれたのだ。イトウ・マサヨからモリ・ヨーコになっても、私は手抜きはしていない。  女友達 ——あのひとは、きみを愛している。   それはきみが一生負わなければならない十字架だ。  結婚してからの男友達とのつきあい方については前に書いた。男友達をずっと持ち続けることは、とっても大事なことだけど同時にむずかしいことだと——。  実は女の友達を一生の友として持ち続けることは、もっとむずかしいのである。はるかにむずかしい。  かくいう私には、大学時代からずっと切れめなくつきあい続けている男友達は何人かいるが(いや、小学校の同級生のオサムちゃんとも時々ゴルフをやるから、もっと前、四十年近くも友達でい続けたことになるが)、小学校はおろか大学生の時から続いている女の友達(親友)は、悲しいかな、一人もいないのである。  今、私の周囲にいて私の心を温めてくれる女友達の全《すべ》ては、私が完全に大人の女になり、求めることより与えることに価値を見出してから知りあった女たちばかりだ。当然、彼女たちも様々に傷ついたり、人を愛してきた女ということになる。  なぜ、男の友達とは長いつきあいができるのに、女同士はだめなのだろう?  ひとつには気を許しすぎるからだと思う。あまりにも全てをさらけだしてしまうからだ。同性のよしみで、羞恥心《しゆうちしん》を捨ててしまう結果、知りたくないことや見たくもないことまで、さらけだしてしまう。 「ねぇねぇ聞いて、彼ってこうなのよ」と新婚の妻は、夫の一挙手一投足を親友に打ちあけたくてたまらない。自分がいかに幸せかということをつぶさに聞いてもらいたい。時としてベッドの中のことまで報告してしまったりする。  相手が男だったら、そこまでは言わないだろうことまで、つい喋《しやべ》ってしまう。  そんな時、聞かされる方がどんな気持なのかは考えない。うんざりしているかもしれないとは思わない。ねたましく思うかもしれないとも思わない。つまり、女友達をゴミためみたいにしてしまうのだ。お互いに。  私にもそんな時期があった。私たちはいつも自分のことだけを喋っていた。「あたしはね」とか「あたしがね」とか。「あたし」のことばかりだった。「あなた」はどう思うか訊《き》かなかった。「あなた」のことなんて、どうでもよかった。  その内、「あの人ってつまんない人」っていうことになる。「自分のことしか言わないんだもの」。お互いさまなのだ。  だからもし、あなたの今の女友達を大事にしたかったら、「あたし」より「あなた」を会話にたくさん加えること。それにつきる。つまり、「あなた」のことを大事だということを相手にいつも伝えることだ。それが親友を失わないコツである。男友達とつきあうのと同じと思えばいい。  それから、男というものは、自分の女友達のおろかさや不注意や、だらしのなさを大目にみてくれるかもしれない。多分そうだろう。だが女は女に対して心を広くもてない。それだけ言動に注意が必要となる。 「言いたいことも言えないんじゃ、本当の友達とは言えないんじゃないの?」とあなたは思うかもしれない。大事なことを言うなというのではないのだ。言うべきことは感情に溺《おぼ》れず言うべきだ。 「あなたの口、少し臭《にお》うわよ。注意した方がいいわ」と言ってくれる人がいたら、そのひとはあなたをとても大事に思っている人だ。勇気のある人だ。そんなことは他人は言ってくれない。夫も言わないし、ボーイフレンドも言わないだろう。  そこであなたは、ひどく嫌な気がするかもしれない。あまりにも不快で、そのまま彼女を敬遠してしまうかもしれない。本当のことを言われるのはとても嫌なことなのだ。言う方は、もっと嫌なのだ。それを、あえて言ってくれる人を遠ざけてはならない。若い時というのは、多分、「口が臭うわよ」と言ってくれる女友達を遠ざけてしまう時代なのかもしれない。  結婚したからといって、無理に女友達を夫とつきあわせるのは、あまり賢明なことではない。ほとんどの男は、眼の前でペチャクチャやっている女同士の会話に入っていけないものだし、「くだらねぇな」と思うのにきまっている。  もし彼がとても積極的に、「彼女も呼べば?」などと言いだしたら、それこそ危険信号だ。男として彼女に魅《ひ》かれているかもしれない。男は女を見れば、寝たい女か寝たくない女かにしか区別しない。女だって厳密に言えばそうだ。実際にはそうならないにしても、夫が自分の親友の裸を想像しているかもしれないなんて考えるのは、愉快なことではない。つまらないことで嫉妬《しつと》して、親友を失うはめになる。女友達も、男友達と同様、夫とは別の次元でつきあうことをおすすめする。  冒頭の言葉は、『風と共に去りぬ』の中で、レット・バトラーがスカーレットに言う言葉である。「あのひと」というのはメラニーのことだ。  女友達と深い友情で結ばれるということは、一生、十字架を背負うことと同じだと、彼は言っているのだ。何も年中べたべたしているわけではない。一年に数回しか逢《あ》うことはないかもしれない。それでも親友というものは、固く結びついているものなのだ。  どうか、この言葉を忘れないでいただきたい。もし、あなたにとって、すばらしい女友達がいたら、この言葉を思いだしていただきたい。「重い十字架? 嫌だわ、そんなの」と思う人は、別に思いださなくともいい。  けれども、そのことを意識して、ほど良い距離をおきながら保ち続ける女同士の友情には、必ず、深い喜びがある。私は今、いくつかそうした十字架を背負っているが、その重みがうれしいのだ。本当に、そう思う。  二人の家 ——白い漆喰の壁、赤いレンガの屋根、   眼の前の珊瑚礁の海から吹きこむ潮風で、   膨らむ象牙色のレエスのカーテン  女の子には「家」に対する夢がある。少なくとも昔の女の子にはあった(昔というのは私が女の子だった頃だと思ってもらっていい)。——いつか大人になって結婚したら、ワタシは愛するダンナさまと、白い壁と赤い屋根のおうちに住みたい。窓辺には白いレエスのカーテンとお花がいっぱい——  それが、私自身の夢の「お家」だった。今の女の子たちはどうだろうか? さしずめ高層マンションの部屋を思い浮かべるのだろうか。東京湾沿いのウォーターフロント、四十八階の強化ガラスを通してはるか下に広がる銀座の灯……。時代が変われば夢も変わる。しかし変わらないことがひとつある。  夢は、必ず実現するということだ。幼い頃から、くりかえし、いつかきっとと、イメージしていたことは、本当にいつか実現するものなのだ。おそらく私たちが(一応、功成り名を遂げた私の年齢の大人という意味に解釈してください)今、手に入れたもののほとんどは、かつて夢み、イメージしてきたものたちである。ポルシェ、ヨット、別荘、マチスの絵……etc、etc。そして家。かつて夢みたとおりの白い壁と赤い屋根の家。私はそれを五年前にヨロン島の海辺に建てた。ついに、遠く夢みたあの頃から四十年も時間がかかったが……。夢とはそういうものである。機が熟して実現するのだ、ということを憶《おぼ》えておいてほしい。  去年、私の長女がベルギーで結婚した時、彼女が私に要求した結婚のプレゼントは、ダブル・ベッドだけだった。二人は、それまで長女が住んでいた小さなアパートで、新婚生活のスタートを切るつもりだったからである。不用になった小さな方のベッドは、壁に押しつけてタータン・チェックの毛布をかぶせて、ソファがわりに使うと言った。  そんなわけで、現実的に長女が手にした私からの贈り物は、新婚用のベッドだけだったのである。少なくとも、日本のように嫁入り道具をいちからじゅうまでとりそろえて送りだすというようなものではなかったのである。  そのことを私も、そして長女も当然のこととして考えていた。なぜなら、「家」というものは変遷するものだからだ。今はワンベッドルームのアパートに住んでいるが、やがて、子供が生まれれば、もう一部屋大きいアパートに移らなければならない。それに合わせて、家具を買い替えたり処分しなければならなくなる。最初から、完璧《かんぺき》な嫁入り道具一切合財など、必要ないのである。趣味だって親と娘では違うだろうし、今の好みが将来の好みと同じではないかもしれない。  自分の庭の敷地内に、息子あるいは娘のために新居を建て、家財道具で一杯にしてやる親は、世界広しといえども、日本くらいのものである。どの国の子供たちだって、私の長女のケースと似たり寄ったりで、親に披露宴だけをしてもらい、あとは放り出される。若い二人は、質素なアパートでつつましく生活を始める。たとえば、今この原稿を書いているカナダでは、トレーラーハウスに住む若いカップルが多い。家も高いし土地なんてましてや買えないとなれば、車にくっつけて、どこへでも移動できるトレーラーハウスが二人にはうってつけだからだ。そして二人で働きお金をためて、いずれ家を買う。  私は長女にベッドを一つだけ、所帯道具として持たせてやった変な母親である。次女もすでに家を出ているから、同じようなことになるだろう。たとえ娘が所帯道具一式、日本人の女の子のようにそろえてくれなくては嫌だといっても、そろえてはやるまいと思う。それには理由があるのだ。  三十年前、私と夫が結婚した時、私の母に先見の明があったのか、ただ単に外人である夫に裸一貫でくれてやるつもりだったのか、とにかく嫁入り道具と名のつくものは、いっさいつけてくれなかった。最低の調理道具と、ほうきとはたきとふとんだけを買ってくれた。今から思えば吹き出したくなるほどおかしいが、母にしては、「手鍋《てなべ》さげても」の皮肉だったのかもしれない。  新婚最初の一か月、私と夫は、テーブルのかわりにダンボールの箱にテーブルクロスをかけて、木板の床に直かに座って、朝夕の食事をとった。それから私は母がくれたはたきで埃《ほこり》をとり、ほうきで床を掃除した。実に清貧なる生活だった。しかしほら、新婚だったので何もかももの珍しく、清貧であることすら楽しかった。翌月のお給料を握りしめると、私たちはデパートに飛んでいき、かねてから眼をつけていた丸い木のテーブルと椅子《いす》を二つ買った。次の月にはソファを一つ買った。そのようにして少しずつ必要なものを買い足していった。そしてそれが本当に楽しかった。今からふり返ってみると、私たちの三十年の結婚生活の中で、あの最初のゼロからの出発の二年間ほど、心ときめく期間はないだろう。ついに、中古のトヨペット・クラウンを手に入れた時には、二人で抱きあって喜んだものである。  こうして家の中のどれ一つとってみても、二人で吟味し、二人でお金を出しあい、二人で使ったという思い出は、二人に家というもの、家庭というもの、そして何よりも大切な Togetherness(連帯感)の感覚を深く植えつけたのである。今、私と夫とが、一年の間約半分はお互いの仕事やレジャーのために、別れ別れで生活していても、心が離れないのは、あの最初の二年間の苦労と喜びとを共有していたからである。  私は何も、あの頃の苦労を娘に味わわせたいなどとは思っていない。そうではなく、あの頃の胸ときめくような楽しさを味わってほしいのである。  結婚後の恋愛 妻「彼女を愛していたのね?」 夫「しかし僕と彼女との間には、何もなかったんだよ」 妻「その方が、はるかに悪いわ!」 ——『恋に落ちて』より  詳しい数字は忘れてしまったが、何年か前、既婚の女性の内の七十パーセントものひとが、何らかの形で婚外の恋愛にタッチしているというデータを見たことがある。七十パーセントという数字についてはうろ覚えなのであまり自信がないが、その時、意外なほどの高い数字に驚いたことは、鮮明に覚えている。つまりかなりの高率で、世の妻たちは浮気をしているというわけである。  もちろん、妻たちがそうであるからには、夫たちも負けてはいないだろう。日本人は男も女も元来浮気性の国民といえるのではないだろうか?  ということは、日本人の結婚というものは、婚外恋愛なしには、継続のしようがないのではないか、という疑問が出てくる。わかりやすくいうと、夫及び妻が浮気で欲求不満を晴らすから、なんとか形だけでもやっていけるということになる。  なぜこんなことになるのだろう?  一番の原因は、結婚したとたんに、恋愛関係が終わってしまうからである。女らしくしようとかセクシーにふるまおうとかいう努力や緊張感を、またたくまに放棄してしまうからだ。それは男の方にも同じことが言える。  そこへ子供が生まれると、彼と彼女はお父さんとお母さんという存在になってしまい、家の中には、男と女が不在になる。日本人の夫婦が、結婚のごく初期に、お互いの肉体に興味を失い欲望を掻《か》きたてられなくなる理由は、まさにここにあるわけだ。  お互いに欲望を掻きたてられなくなっても、欲望そのものが失われるわけではないので、いきおい、はけ口を他の異性に求める。これが不倫の一番の理由だ。  しかし世の中をみていると、この一、二年の間に少し変わってきたような気がする。不倫というのは、あくまでも家庭を壊さないことが前提にあった。それは単なる欲望のはけ口であり、一時的な浮気だった。家庭の平安と引き替えにするほどの価値もなかったから、多くの不倫は闇《やみ》から闇へと葬られていき、長く退屈な結婚生活だけが残った。  それが今、そうではなくなってきたようだ。  その証拠に、離婚が多くなっている。つまり不倫から恋愛の時代に移ったともいえる。単なる欲望のはけ口としてではなく、もっと精神的な結びつきを切実に求め始めたのだと思う。  結婚後に、夫よりもはるかに自分にふさわしいと思われる男に出逢《であ》ってしまうことは、あり得るだろう。以前は、そういう自分にブレーキをかけることが多かったが、今の人はどうも違うようだ。「好きになってしまったのだから、しようがないでしょ?」と平気で開き直る。生活力があるから、駆け落ちだって辞さない。相手に妻子があったって、「好きなのだから」と、奪い取ることに何の抵抗もない。  しかし私は、そういうのを恋愛だとは思いたくない。恋愛というのは、成就するより、別れにより多くつながるものだからだ。恋愛にハッピーエンドは似合わない。 『恋に落ちて』という映画があった。結婚している男と女の間に芽生えた恋愛感情の切なさを、とてもよく描いていた映画だった。  二人は、お互いを好きで好きでありながら、一年間、肉体関係のない逢瀬《おうせ》を重ねる。お互いがあまりにも貴重な存在なので、安易に肉体が重ねられないのだ。それに不倫の関係がどれだけ早く別れにつながるかも知っているほどに二人は大人だった。  結局二人は、相手を傷つけることを怖れるあまり、何もないまま別れることになる。私が感動したのは、この直後のシーンだ。恋人と別れてすっかり意気消沈した男は、悲しみを隠して、妻の前に、いつものように座る。すると妻が言うのだ。「あなたが恋愛をしているということは、ずっと前から、私にはわかっていたわ」と。夫は驚くが、「もう終わったのだ」と謝る。「たった今、別れてきたのだ」と。 「その女《ひと》を愛していたのね」と妻が訊《き》く。 「しかし、僕たちの間には、君が考えているようなことは、何もなかった」と夫が答える。まさにそこだ。妻はいきなり夫の頬《ほお》に平手打ちを喰わせてしまう。そして叫ぶ。「その方がずっと悪いのよ!」と。何もないことの方が、その場合はるかに大きな裏切りなのだ、と……。  結局、この夫婦はそれが原因で離婚してしまう。もし、夫と女との間に、肉体的な関係があったら、もしかしたら、それは単に不倫に終わっていたかもしれないし、従って妻とも離婚することにはならなかったかもしれない。結婚後の恋愛のあり方のひとつの例として、ぜひ一度ビデオでご覧になるといいと思う。  子供 この子が、私を母親に選んで生まれてきてくれた。 世界中の女たちのなかからほかの誰でもなく、 この私を選んで、生まれてきてくれたことに、私は深く感謝する。  A子さんの結婚は傍《はた》でもうらやむような、とても幸せなものだった。二人とも愛しあっていたから、一日も早く愛の結晶が欲しかった。やがて彼女は妊娠した。  つわりが異常にひどかったが、生まれてくる赤ちゃんのことを思って、それに耐えた。つわりが治まると、今度は何度も流産しそうになった。大事をとって医者は彼女に入院を命じた。だから彼女の妊娠の大部分の期間は、病院で過ごすことになった。  大事をとったおかげで、早産ではあったが、出産にこぎつけた。ところが——。生まれてきた赤ちゃんは五体満足ではなく重度の障害児だった。  そのことは、すぐには彼女に告げられなかった。「早産だったので」という理由で、彼女が退院した後も、赤ちゃんだけは病院に残った。彼女は、赤ちゃんと一度も対面しないまま、夫につき添われて、自宅に帰ったのだ。 「どうして赤ちゃんを一目だけでも見れないの?」と、当然のことながら、彼女は夫や医者に何度も訊《き》いた。「未熟児なので、特別な手当が必要だから」とか、「無菌室に置かれているので」とか彼らは答えた。  出産から一か月して、ホルモンのバランスも元のようになり、彼女が肉体的にも精神的にも正常な状態に戻ったことが確認されると初めて、まず夫の口から「事実」が知らされた。  やがて、赤ちゃんと対面したが、彼女のショックは想像に難くない。どのような身体的障害かは、その子のプライバシーのために具体的には書けないが、生まれるとすぐこの赤ちゃんを見せられた彼女の夫は、思わず気も動転して「この子のために、生かしておきたくない!」と口走ったということだけ書いておこう。もちろん、彼はその後そんなことは二度と口にもしないし、考えもしなかったろう。  彼らの苦悩の日々が始まった。赤ちゃんの間は、育児にはほとんど問題はなかった。よくミルクを飲み、病気もせず、すくすくと育っていった。体は不自由だが、それを補って余りあるほどの賢さと、明るさを、彼——K君は持っていた。やがてK君は幼稚園に入り、友達を知るようになる。おそらくこの幼稚園時代がK君と両親にとって一番楽しい時代だったろう。なぜなら、先入観のない幼い子供たちは、彼を特別扱いしなかった。ありのままのK君をごく自然に受け入れた。  差別は小学校に入ると始まった。K君を引き受ける学校がまずなかった。K君を差別の眼で見たのだ。それでも足を棒にして、A子さん夫婦は探しまわり、ついに一つだけ、K君を受け入れてくれる普通の小学校がみつかった。A子さんがつき添うことが条件だった。トイレなど必要な時にK君のめんどうがみられるよう、A子さんは一日中、教室の外の廊下に待機する日々が始まった。幼稚園では、先生や幼児がめんどうを進んでみてくれたが、小学校では、もう誰も手を貸してくれない。K君にだけ関わりあっていては、ほかの子供たちの勉強が遅れる。K君がいるために、クラス全体の勉強の進み具合が遅れることを、生徒たちも、その父兄も、先生も神経質に恐れたからだ。その上、更にK君の成長につれ、彼を見る一般の人々の好奇の視線が異常に残酷になっていった。 「はっきり言って、時々、この子と一緒に死のうと思ったこと、何度もあったわ」と、後にA子さんは私に語った。口ではとうてい言い表せないような絶望と苦しみの日々が延々と続いたのだ。  しかし、そんな中で、K君は天使のように天真らんまんで、明るくユーモアのある優等生に育っていった。成績はいつもクラスでトップだった。ともすれば、くずれおちそうになるA子さんを常に支えてきたのは、なんと、K君の明るさと天使のようにきれいで無垢《むく》な心だった。  そして、ついに、A子さんは、こう言うに至ったのだ。 「——私がこの子を生んだというより、この子が、私を母親に選んで生まれてきてくれた、というふうに思えるようになったわ。そして、この子が、他の誰でもなく私を、この私を、母親に選んでくれたことに、今ではとても感謝しているの」  私はこの言葉を彼女の口から聞いた時、しばらく口もきけないほどの感動に打ちのめされた。彼女の苦しみを眺めていただけに、ようやく、そんなふうに言えるところまでこぎつけた彼女は、ほんとうにステキな人だ。 「なぜ、私だけが子供の障害のことで、こんなに苦しまなければいけないのだろう」と嘆き続けるのではなく、「この子に選ばれて、私は幸せだ」と言える母親。今月はこのことをあなたに知ってもらいたかったのです。|D《ダブル・》 |I《インカム・》 |N《ノー・》 |K《キツズ》とか、結婚したくないとか、子供は欲しくないとか、そんな言葉に軽々しくふり回されている時代にも、A子さんのように、子供と命がけで関わっている人がいることを、知ってほしいのです。生まれてくる子供は、他の誰でもなく、あなたを母親に選んだのだから——。そう考えてください。そしてそれに応《こた》えられる母親であってもらいたいのです。  結婚の歳月。その日々の積み重ね ——二十八年目の青天の霹靂《へきれき》  今年は『スカーレット』の翻訳一色に塗りつぶされた一年間だった。そのせいもあって、取り上げたテーマや言葉も、スカーレットに関連するものが多かったように思う。  さて、『結婚の処方箋《しよほうせん》』も早くも最終回をむかえてしまったが、最後を飾るのにふさわしいテーマ——結婚の歳月。  実はこの夏、まさにこのテーマにぴったりのできごとに遭遇してしまったのだ。それも『スカーレット』がらみで……。  私は翻訳の取材でアトランタにいた。『風と共に去りぬ』の作者マーガレット・ミッチェルに敬意を表して、彼女のお墓を訪ねた時のことだ。  私は心の中で、彼女の小説から受けた影響について考えながら、しばし墓前にぬかずいていた。  ——私の夫はレット・バトラーのタイプなので、結婚して二十八年にもなるのに、未《いま》だに私の家庭は時として戦場になります——と、無言で今は亡き偉大な作家に報告するというか訴えた。言いおくれたが私は自他ともに認めるスカーレット・タイプなのである。ご存じだと思うが、スカーレットとレット・バトラーはよく似た性格——ほとんど同類——ゆえに、二人の結婚生活は惨憺《さんたん》たるものだった。 「ねぇ、私たちよくもまあ続いたものよね」と、私は取材旅行に同行した私の秘書に話しかけた。 「夫婦のタイプが全然違うから続いたのよ」と彼女が答えた。その答えは私をびっくりさせた。 「タイプが違う? まさか。彼はレットのタイプだし、私はスカーレットだから同類なのよ。あなた十年も近くで私たちのこと見ていて、そんなことがわからなかったの!!」 「嘘《うそ》!!」と今度は秘書が驚く番だった。「あなたのご亭主は、レットじゃないわよ。アシュレのタイプよ、絶対に!」とすごい力の入れよう。  私は気絶しそうになった。秘書は自分の言葉の正しさを証明するために同行した編集者たちにまで声をかけた。 「モリ・ヨーコさんのご主人は、まちがいなく繊細なアシュレのタイプです」と、編集者たちまでが異口同音にそう言明したのだ。  青天の霹靂《へきれき》とは、あのような情況をいうのだろうか。 「だってもし、あの人がアシュレだったら、どうして二十八年も続いたのよ!!」と私は秘書に悲鳴のような声で詰めよった。 「アシュレだからこそ続いたんでしょ!」と秘書はきっぱりと言いきった。「もしレット・バトラーだったら、二人ともとっくに戦場の黒こげの死体よ」  この言葉がとどめだった。私は絶句し、そのまま一日中、言葉を失ってしまった。私がどれだけショックを受けたか、想像ができますか? 自分ではレット・バトラーと思いこんでいたのに、実はアシュレだった男と、二十八年も暮らしていたのだ。そのことの意味することがわかりますか? その日から一か月以上たつ今も、私はショック状態にいる。  相手は鋼鉄のヨロイを着たレットだと思うからこそ、こちらもヨロイをがちがちに着て、撃ちかかっていったのだ。それがレットではなく、繊細なアシュレだとしたら、なんという取り返しのつかないことを、私はしてしまったのだろう。  いやそんなはずはない。彼はやっぱりレットだと何十回となく自分に言い聞かせてみた。しかし、見方をくるりと変えると——。彼はアシュレかもしれない、という思いがつのってくる。一体どうしてこんな恐ろしい誤解が生じたのだろうか。冷静に考えてみた。それはひとえに私の思いこみだったのだ。私は十歳の時からくりかえし読んだ『風……』の影響を受け、結婚するならレット・バトラーのタイプと心に固くきめていた。その思いこみがあまりにも激しすぎて、私は夫のありのままが見えなかったのだ。そしてずっと、夫の上にぴたりとレット・バトラーを重ね続けて暮らしてきたのだった。  憶《おぼ》えていますか? いつだったか私はこの頁でこう書いたことがあります。——あなたの理想とする彼ではなく、ありのままの彼を愛してあげてください。あなたがそうであってほしい夫のイメージではなく、彼自身がそうありたいという男を、認めてあげてください——。ふり返ってみると、少女の頃から、私が好きになったり恋をしたりする男は、全《すべ》て繊細なアーティストだった。ひどく傷つきやすく、世の荒波に上手《うま》く乗り切れないような、多少アウトローの男たちだった。  そういう男たちは恋をしたり、ひそかに愛する分には安全だが、結婚相手としてはふさわしくないという思いこみがあった。結婚の相手は強い男。真に強いゆえに優しい男であらねばならぬと信じて疑わなかった……。  さて、今月のテーマをしめくくらなければならない。だが今月だけは上手《うま》くしめくくれそうにもない。私はアシュレ・ウィルクスと結婚していたことを後悔しているのだろうか? 答えはノーだ。後悔していない。アシュレでよかった。アシュレであったから、こうして未だに一緒にいられるのだ、と今、自分に言い聞かせている。それに一方では、もう一度新しい男に出逢《であ》えたような気がしている。それは本来の彼自身、彼がそうありたいと望んでいる男——。そんなふうに思っている。  手縫い時代  今ではとても信じられないような話だが、新婚の頃、家中のカーテンとベッドカバーとクッションを全《すべ》て、手縫いで作り上げたことがあった。  手芸が趣味という話ではないのだ。その時代はまだ貧乏で、出来合いのカーテンやベッドカバーが買えなかったからだ。それに、出来合いのカーテンやベッドカバーには、欲しいと思うようなステキなものもなかった。  自分で気に入った布地を買い、自分で縫えば、ある程度センスの良いものが、安く手に入ることになる。  毎日、チクチクと針を動かした。ベッドカバーなど厚地なので、返し縫いをしなければならなかった。指抜きをしても、指をずいぶん傷めた。  同じ仕事をミシンでやれば一日でできるものを、一週間もかけてやった。ミシンは実家にあったが、苦手だったのだ。私がやると必ず何本も針を折るし、ボビンが外れてしまう。まっすぐ縫えた試しもない。だから手でやるしかなかった。  指が穴だらけ血だらけになりはしたが、チクチクと無心に縫う作業は決して嫌いではなかった。一目一目仕上がっていく確かな手応《てごた》えと満足感とがあった。  白いだけで面白くもないシーツやマクラカバーも、ストライプや花柄のコットン地を買ってきて、自分で作った。ていねいに、まつり縫いもやった。  子供が生まれると、簡単なベビー服や、よだれかけや帽子も縫った。お世辞にも上手とはいえないが、幼い子供たちにはわかるわけがない。そんなことがたたって、小学校から大学を卒業するまでヴァイオリンを弾いていた私のデリケートな指は、みるかげもなく荒れ果て、たくましく変身してしまったのであった。  まつり縫いの腕だけは相当上達したので、クリスマスや誰かのお誕生日や、およばれの手土産に、テーブルクロスと対になったナプキン六枚セットをよく贈ったものだった。幸い大きな布地屋さんが近所にあって、世界中の布地が集められていたので、私のテーブルクロスとナプキンセットは世界にひとつしかないかなりユニークなもので、これはとても好評だった。十年近くもチクチクやれば、少しは上手になる。それに手作りということで、感激されたりした。つい先日、カナダの友人宅をバンクーバーに訪ねた時、ティーの時間に、彼女は私が昔贈ったセットでお茶の用意をしてくれた。私はとっくに柄を忘れていたので、 「あら、ステキなナプキンね」  と言ってしまって、大笑いされた。でも、あれから二十年近くたつのに、まだ大事に使っていてくれたということが、私には涙が出るほどうれしかった。  腕前が上がる頃には経済的にも余裕ができていたので、節約だけが目的ではなくなった。今でも自分で作ったあの頃の何十組というテーブルクロスとナプキンセットの柄選びは、かなりの線をいっていたと思う。  ついに、夫のネクタイまで縫うようになったのだから、病膏肓《やまいこうこう》もいいところ。古いネクタイを解体して、買ってきた布をバイヤスにとるのだ。一メートルで二本作れた。同じものを持っていてもしかたがないので、一本は弟や父にあげた。  百本近く作ったと思う。おかげでネクタイの柄選びが上手《うま》くなった。夫は私の手作りのネクタイを文句も言わず何年も締めてくれていた。  やがて小説を書くようになると、ばったりと手縫いの時間がなくなってしまった。  時々、夫のYシャツのボタンやスーツのボタンが取れた時に針を持つが、実はこのボタンつけが大の苦手なのだ。本当に下手くそ。子供みたいなつけ方で夫に叱《しか》られる。まつりぐけやまっすぐに縫うことにかけてはちょっとしたものなのに、ボタンみたいなものがろくにつけられないという片手落ち。自分でもおかしくなるくらいだ。  ついこの間、例によって取れたワイシャツのボタンをつけるために、針に糸を通そうとして苦心惨憺《くしんさんたん》した。およそ二十分も悪戦苦闘して、結局、だめ、若いアシスタントの眼と指を借りることになってしまった。老眼鏡をかけても通らないのだ。それで、めっきり年を取ったものだと、愕然としているところである。  自然に帰る  今年の六月、末の娘が高校を卒業する。彼女はその後九月からロンドンの大学に行ってしまうので、我が家は夫と私の二人家族になる。長女はベルギーで今年の五月に結婚するし、次女も最近家を出て、半独立した。私が夢にまで見た子供からの解放である。  子供を生んだのであるから、子育ての苦労は当たり前。そのことは言うまい。けれども作家を職業としたこの十年間、子供たちや家庭そのものに縛りつけられ行動の範囲を極端に狭められていたことは、作家として本質的に持たねばならぬ表現及び行動の自由の決定的なさまたげになったことは、事実なのだ。  それはさておき、これからは自由だ。子離れしたら、と私たち夫婦がかねてから立てていた計画は、「流浪の民」である。あそこに一か月、あそこに三か月と、日本国内だけではなく世界中に少しずつ住んでみたい。  私は冬なら冬らしく雪のたっぷりした風景が好きであるから、サン・モリッツとかあるいは北海道でもいいが、長期滞在したい。夏は夏らしく、珊瑚礁《さんごしよう》の海に。春はヨーロッパの各地を転々としてみよう。気に入ったところがあれば何か月でも居続ける。ロワール地方の光景も私の心をひきつけるので、花咲く季節にぜひ行ってみたい。  私の職業はペンと原稿用紙さえあれば、世界中|全《すべ》てどこでも仕事場になり得る。そうはいかない夫と、時に別れて暮らすのも、これまた良いことかもしれない。  娘の結婚 四月二十五日 この一か月は私の生涯で最も多忙をきわめた月だった。最後の瞬間まであれこれ追われ、逃げるように飛び乗ったJALの機内。躰《からだ》も心もまだざわざわしている。  多忙をきわめたのは長女の結婚の準備のため、と嘘《うそ》でも母親らしいことを言ってみたいが、全《すべ》てはアントワープでとり行われるために、何もかもあちらの母上ヨース夫人におまかせ。私たちはお客さまみたいに乗りこむだけ。  改めて考えてみると心苦しい。それに私も母親らしきこまごまとした準備を手伝いたかった、と胸をかきむしられる思いだが、今の今まで改めて考えるゆとりさえなかった。  慌ただしかったのは私の仕事の都合で、四月十八日に日本橋高島屋にオープンした私のギフト・ショップのあれやこれやで、てんてこまい。その上、朝日新聞の夕刊に連載中の『千夜一夜』も半月分書きためていかねばならぬ。このところ取材やら対談やら講演会やら、やたらつまっているのをこなし、どさくさまぎれに出発直前のゴルフもこなし、その当日になってスーツケースの中身をつめこみ、もう少しでパスポートを忘れるところで思いだし——あぁヤレヤレ。  娘の結婚。長女ヘザー・二十三歳。現在はアントワープの建築事務所で、駆けだしのインテリア・デザイナーをやっている。  相手のヤン・ヨース君は今年の六月で大学院を卒業。七月から一年間の兵役を務めた後、国際ビジネスマンとして第一歩を歩む予定。彼は娘とロンドンの大学で一緒だったので、私たちとも四年前から顔なじみ。娘は今ひとつだが、ヤンは全面的に信頼している。彼にもらってもらえて、本当にうれしい。 四月二十六日 昨夜遅くアントワープに着き、迎えに来てくれていたヤンとヘザーと例によってそっけない再会シーンの後、ホテル・ロジエへ。そっけないのは愛情不足にあらず。我ら一族あまり感情をさらけだすのが得意ではないのだ。再会や別れのシーンがともすると涙、涙また涙に陥りやすいという血族の欠点を知りぬいている故の、そっけなさなのである。  一夜明けると、ヘザーが早朝からやって来て、私を買いものに連れだす。これで、なぜ彼女が結婚式の何日も前に我々の到着を強要したのか謎《なぞ》が解けた。狙《ねら》いは私の財布の中のビザカードだったのだ! 「ウェディングドレスの最後の仕上げのところ、見にくる?」とヘザー。「いいけど……」と行ってみれば、未払いの請求書が待っているではないか。 「衣装代は二回も送ったでしょ!」と私としたことが金切り声になる。一回目はアパートの改装費に着服してしまい、泣きつかれてまたお金を送ってあるのだ。 「何に使いこんだか知らないけど、衣装代三回払わせようったって、そうはいかない」 「あら、そ? いいわよ。普段着のまま教会で式を挙げろというならね」  この勝負、ヘザーの勝ち。 四月二十七日 市庁舎へ。日本流にいえば、婚姻届を格式ばったものにした感じ。出席者は、本人と両家の家族のみ。まずアントワープ郊外のヨース家を訪ねる。そこで家族同士の対面。それから歩いて五分の市庁舎へ向かう段取り。  しかし私も下の二人の娘たちもヨース家とは初対面。夫は二度訪ねているが。  立派な大邸宅。広大な庭。一眼見て、私は「アレ、ま」と思った。うちの娘は玉の輿《こし》じゃないの。驚いた。さすが年の功、口には出さなかったが、ヘザーの妹たちは、はしたなかった。 「やったぁ、ヘザー、玉の輿!」 「玉の輿、玉の輿」  周囲に日本人がいなかったのは幸運だった。  いよいよ、対面。あちら男ばかり。こちらは女ばかり。男の兄弟四人ずらりと並ぶと壮観。でもあちらも、三人並んだ姉妹が珍しかったみたい。すぐに仲良しに。お兄ちゃんが一度に四人もできたと、下の二人の娘たちは浮かれっぱなし。でもヨース夫人にしてみれば、日本娘に大事な息子をとられるのはヤン一人でたくさん。その気持よくわかるので、他の男兄弟をたぶらかさないように、妹たちに厳しく言いわたしておく。  市庁舎の儀式はとどこおりなく済み、ふっと顔を上げると、ヨース夫人の大きな瞳《ひとみ》が涙でふくらんでいる。とたんにヘザーが泣きだし妹のマリアとナオミに伝染。しかたなく私も少しもらい泣き。 四月二十八日 何もすることがないので、ブラッセルまで車を飛ばし、ランチに出かけることにした。日曜日でもレストラン界隈《かいわい》は開いている。ここは魚介類で有名なので、ムール貝をたらふく食べた。 四月二十九日 教会の式まであと二日という今日になって、妹たちの衣装とフラワーガールのドレスの色や形が、全くちぐはぐであることが判明。東京から大きなスーツケースで持ちこんだブライド・メイドの衣装はクリーム色のお姫様スタイル。フラワーガールは白とブルーのストライプ。 「ブライダルカラーは白とブルーと何度も念を押したでしょ!」とヘザーはカンカン。で、哀れな母はマリアとナオミを引きつれて街を駆け回り、ブライド・メイドにふさわしいものを探しまわった。  ようやく見つけたのは、オフ・ホワイトのパンツ・ドレス。全くおそろいではなく、色と素材を共通に、二着求めた。ヘザーのお気にも召して、一安心。私は疲れがどっと出た。 四月三十日 明日の挙式を行う教会に近い、カントリーホテルへと移動。貴族の館《やかた》のようなホテル・ロジエの素敵な屋根裏部屋のスウィートルームに別れを惜しんだ。 五月一日 いよいよ結婚式。男性美容師とメイクアップ・アーティストの到着とともに、ホテルルームは騒然とした空気に包まれる。  娘たち三人のヘアやメイクが始まり、ついでに夫も散髪。この費用しめて六万円ほど。日本では安いかもしれないけれど、ベルギーではべらぼうに高いという話。でも腕はいい。ヘザーの髪なんて、メデューサみたいに仕上がった。ヴォーグのモデルみたいなスタイルだ。保守的な夫など、腰を抜かしそうになったもの。  正午。ホテルの前に次々と黒塗りの馬車が姿を現す。馬も真っ黒だ。ヨース家のお迎え。形式どおり、ヤンとお母さんが一緒、妹たちとヤンの兄弟が一緒。私はヤンのお父さんのヨース氏にエスコートされ、馬車に乗りこむ。ヘザーは自分の父親と、花飾りの馬車に乗り、一番最後に教会へ向かう。  ヨーロッパの伝統と格式ある式が進み、神聖な聖歌隊が歌った後、教会の中に流れたのは、なんとボブ・ディランの歌う愛の唄《うた》ではないか。老人たちは目を白黒したが、若者には総じて受けていた。  神父様はボブ・ディランをバックミュージックに、二人にお説教をたれた。人生で一番大事なことは、「アリガトウ」と「ゴメンナサイ」の二つの言葉だということ。  そのとおり。私自身の二十七年におよぶ結婚生活をふり返って、一番足りなかったのは、正にその二つの言葉だった。こんなに簡単なのに、いざ口にするのにこれほどむずかしい言葉はないのだ。ヘザー、ヤン、この神父様の言葉を忘れないように。アリガトウもゴメンナサイも言いすぎて言いすぎるということはないのだ。  教会の式の後、日本ならどこかのホテルで披露宴ということになるのだろうが、ベルギーではホテルは使わない。広大なヨース邸が会場になった。昼と夜の二回に分けても入りきれないお客のために、庭に巨大なテントが前日から取りつけられ、合計五百人近いお客様を収容した。  夜のディナーの部は八時に始まり、延々と翌朝の空が白む時刻まで続き、花ヨメ花ムコはとっくに新婚第一夜のホテルに消えた後も、飲めや唄えや踊れの大騒ぎ。私もつい飲みすぎて誰かがもち出してきたヴァイオリンでトロイメライなどを弾いてしまった。実に三十年ぶりの迷演奏。 五月二日 一路日本へ帰国の旅。ヘザーとヤンも一緒だ。彼らはヨロン島のうちの別荘へ、新婚旅行に行くことになっている。  親子二代にわたる国際結婚  長女がこのたび、ベルギー人のヤン君と結婚することになり、二代続けての国際結婚ということになった。  もっとも私自身が二十七年前に、イギリスの男と結婚して以来、とりわけ国際結婚の国際の方を意識したことは、ほとんどない。  一人の手ごわい男と結婚したものだわい、とは思うが、その手ごわさは外国人ゆえのものというよりは、彼の個人的な手ごわさであって、もし私が日本人の男と一緒になっていたとしても、同種の手ごわさをもつ男を選んでいたと思う。  どのように手ごわいかというと、レット・バトラー的手ごわさだ。そして私自身の中にあるスカーレット・オハラ的|驕慢《きようまん》さとまことにもっていい勝負で、ともすると結婚の場は壮絶な戦場となるが、どちらも白旗を上げないので未だもって結婚も闘いも続いている。  娘たちはいずれも日英の混血であるから、相手がどこの国の男であろうと、国際結婚ということになるが、その国際の意識は私が二十七年前に抱いた意識よりもさらにいっそう稀薄《きはく》であろうと思われる。  その昔、三人の娘たちは異口同音に、「あたしは、イギリス人とだけは絶対に結婚しないからね」と宣言して、イギリス人の父親の心を傷つけ嘆かせたものだが、いざ、長女が選んだ相手を見て、私は内心苦笑したものである。ヤン君は、若い頃の私の夫となんと似ていることか。そのレット・バトラー的手ごわさにおいてであるが……。そして十八歳の時からロンドンに手放してほとんど逢《あ》わなかった娘が今二十三歳になった時、その言動のなんとスカーレット・オハラ的であるか。ああ歴史はくりかえすとはこういうことを言うのであろうか、と私は非常に複雑な思いである。  さて、ベルギーでとてもクラシカルな美しい結婚式を無事挙げたわけだが、私たち夫婦は残りの娘たち二人を連れて出席した。二十歳と十七歳の妹たちだ。  ヤン君は男ばかりの四人兄弟で、まだ他に独身の兄弟が三人いる。  うちの娘たちがヤン君の屋敷の中をまるで我がもの顔にウロチョロしていると、兄弟たちがその後からどこへ行くのにもついて歩く。義理の妹たちが珍しいやら可愛《かわい》くてしようがないやらというわけらしい。  けれども、あちらの親にすれば、内心戦戦恐恐である。日本娘に息子をとられるのは一人でたくさんだ。あと二人とられたらどうしようと思ったとしても無理はない(日英混血でも欧米の人から見ると、娘たちは日本人に見えるらしい。日本人が見ると外国人に見える。このあたり面白い)。国際結婚の意識は、我々の側ではなく、むしろヨーロッパの古い家柄の中に、色濃くあると、そんな感じがした。  私と違って長女は玉の輿《こし》。育ちの悪さからくるボロを出さねばいいがと願ったが、結婚式を挙げる前から向こうのお母さんと、結構|辛辣《しんらつ》な言い争いをしている。能ある鷹《たか》は爪《つめ》を隠すというのに、もう少し猫をかぶるわけにはいかないものかと諭《さと》したが、馬の耳に念仏であった。一体誰に似たんだろう?  憧れのウェディングドレス  ずっと昔、『花嫁の父』という映画があった。記憶が正しければ、エリザベス・テイラーがその初々しい主役の花嫁だった。もう四十年も前の話だ。  当時私は十二歳頃で、うっとりとその総天然色のスクリーンを見上げていた。  愛娘《まなむすめ》を嫁にやる父親の複雑な心境よりも何よりも、花嫁が身につけていたレースや絹やチュールや刺繍《ししゆう》の純白のウェディングドレスに、眼を奪われてしまっていた。  日本はまだとても貧しかった時代だったから、その豪華|絢爛《けんらん》な白い花嫁衣装は、まさに夢のまた夢だったのだ。テレビもない頃だった。  そして、十二歳だった私は、こう心に誓ったことを憶《おぼ》えている。——、と。  あんな美しい、床にひきずるような長いドレスに、カスミ草のようなベールをかぶり、スラリと背の高い新郎の横に立つんだ。必ずいつか——。  その日から、十年の間に、なんと日本は変わったことだろう。テレビというものが家庭に入り、電話のない家はなくなり、冷蔵庫や洗濯機も普及してしまった。  やがて私の周りでも同級生たちが次々と結婚していった。ほとんどのひとが、昔みた『花嫁の父』の時のエリザベス・テイラーのような衣装に身をつつみ、披露宴ではそれを絢爛豪華な振袖《ふりそで》のきものにお色直しをして現れた。  私の結婚は二十四歳の時だった。その当時では、結婚適齢期ぎりぎりセーフだった。  家が特別に貧しかったわけではないが、私はあの夢にまで描いた花嫁衣装もお色直しもなく、白い膝下《ひざした》の丸首のワンピースに真珠のイヤリングをつけただけの姿で、イギリス人と結婚した。私たちの新居には、真新しい所帯道具ひとつなく、本当にスーツケースひとつずつからの出発だった。最初の一か月間は、ダンボールの箱に白いテーブルクロスを敷いて、食卓がわりに使ったくらいだった。  貧しい出発を悲しいとか悔いているのではない。むしろ何もないところから、二人で、ひとつずつ必要なものを買い足していく楽しさを味わえたことは、幸福な経験だったと思っている。  ただ——ウェディングドレスだけは——。あの日を取り戻せないかぎり、私は純白の長いレースでできた花嫁衣装を着ることは、一生かなわない夢で終わってしまったのだ。  私の生涯で、たった一つ悲しい悔いがあるとすれば、そのことであろう。時々、古いアルバムをひっくり返して、深い溜息《ためいき》が出るのはそのせいである。  つい二年前、私たちの長女ヘザーが、ベルギーのアントワープで、あちらのしきたりどおりの結婚式を行った。娘は、その昔、私が幼い胸にイメージしていたのとはずいぶん違うが、それなりにモダーンで豪華な花嫁衣装を、自分でデザインし、街の仕立て屋さんに三か月がかりで仕立ててもらった。そしてカスミ草のようなベールのかわりに、シルクハットのような変型の白い帽子をそれに合わせた。  アントワープの古い教会の中で行われた長女の結婚の儀式の間中、私の頬《ほお》は涙で濡《ぬ》れっぱなしだった。四頭立ての馬車を五台仕立てて、教会から、披露宴の会場である新郎の家へ向かったのも、感動的だった。娘と新郎の馬車には、フラワーガールたちが三人一緒に乗りこんだ。私は新郎の父である人と、私の夫は新郎の母である人と、馬車をそれぞれともにした。長女ヘザーの妹二人は、相手方の息子たち三人と同じ馬車にぎゅうぎゅうづめにされ、けっこうそれを楽しんでいた。  昼と夜の二回に分けて行われたレセプションは、広大な庭にしつらえられた巨大なテントの中で行われた。日本のようにホテルで披露宴を行うことはなく、ふつうは、どちらかの家の庭にテントを張って行うのだ。そして花嫁は、お色直しなどすることなく、朝の教会での式に着たウェディング姿で一日通すのである。昼の部と夜の部の間に、二時間ほどお昼寝の時間がとられ、私たちは衣装を脱いで仮眠したものだった。  娘は再び、同じ白いウェディング衣装に袖を通し直して、夜のレセプションにそなえた。私と、相手方の母親ミセス・ヨースは、夜用の衣装にそれぞれ替えた。娘はそのまま、真夜中までダンスをしたり、お喋《しやべ》りをしたり、食事をしたり、シャンペンを飲んだりした。そして、何百人もいる着飾った招待客の中で、彼女はどこにいても、とてもよく目立った。その純白のすばらしいウェディング衣装のおかげで。招待客は、一人も白いドレスを着ないからだ。  全てが終わったのは、なんと真夜中の二時だった。新郎と新婦は、家族に見送られて、その衣装のまま、新婚旅行に旅立っていった。といっても第一夜は、二十分ばかり車を運転して、アントワープのホテルでむかえることになっていたが——。  少し霧の出てきた夜ふけの砂利道を、愛車のポルシェに向かって、花嫁の手をとって走っていく新郎と、娘の白いドレスの姿が、つい昨日のことのように眼に焼きついて離れない。  私には後二人娘が残っている。それぞれ個性も性格も違う。どんな花嫁衣装姿をみせてくれるか、とても楽しみにしている。ところでベルギーの長女は、花嫁衣装をコツコツと自分で働いたお金を貯《た》めて注文して作らせた。かわりに私たちは、彼女に日本までの新婚旅行をプレゼントした。  そして、東京で、二人はごく親しい友人たちや少数の親類を招いて、小さな披露の宴を催した。イタリア料理店でのそのレセプションは、とても愛らしかった。たまたま、窓に教会のようなステンドグラスがはまっており、そこから落ちる七色の日射しが、娘のウェディングドレスを、それは美しく染め上げていた。  そこでも彼女は、終始、自慢の白いドレスだけで通した。 平成五年十二月、角川書店より単行本刊行 角川文庫『恋愛論』平成9年11月25日初版発行          平成12年8月30日5版発行