森 瑤子 少し酔って 目 次  ウォツカ  バーボン  スコッチ・ウィスキー  シェリー  シャンパン・カクテル  カンパリ  ポートワイン  ヒレ酒  ガビ・デ・ガビ  ブランデー  ウォツカ  一陣の風が彼を襲った。埃《ほこり》とガソリンと濡《ぬ》れた落葉の匂《にお》いを含んでいた。  風は何かとてつもなく大きな布のように、ふんわりと彼を包みこんだ。すると晩秋の気配が一段と濃くなるような気がした。  高見は、ズボンを脚にまとわりつかせながら、風に押し流されるように横断歩道を渡った。  道路の反対側には、風はなかった。特に高いビルの谷間にだけ吹く風なのだろうと、彼は思った。  どこかで落葉を焚《た》くような匂いが漂っている。もっともビル街で焚火などしているはずもないので、錯覚なのだろう。枯葉に風、そして晩秋とくれば焚火と続く連想ゲーム……。  連想の突端に、妻の姿が浮かび上がる。キッチンの流し台にもたれて、何も見ていない虚《うつ》ろな眼で窓の外を眺めながら、ウォツカを啜《すす》っている姿が。  高見は一瞬歩みを止め、救いを求めるようにあたりを見回した。公衆電話のボックスが、温かそうな明りを、歩道の上に落している。彼はその中に滑り込むと、何かを考える前にダイヤルを回し始めた。 「もしもし?」と相手が出た。声を確かめてから、高見は名を言った。 「あら、珍しい」と多加子が皮肉な声で言った。「すっかり忘れられたのかと、あきらめかけていたのよ」 「そんなに逢《あ》っていないわけじゃないだろう」  流し台にもたれかかっている妻の姿が、瞼《まぶた》の中で点滅した。もたれかかるというよりは、流し台で辛うじて自分自身を支えているという感じがその姿からは露呈していた。  電話の相手が何か言っていた。高見は、実際妻がキッチンでウォツカを飲んでいる現場を目撃したわけではなかった。そうだろうと思うだけだ。そういう妻の姿をくりかえし頭に描いたために、現実との区別がつかなくなっているのだ。しかし彼女がウォツカを飲んでいることだけは確かだった。 「もしもし?」と多加子の声がした。「聞いてるの?」  まだ七時にもなっていないというのに、彼女は夜の声で喋《しやべ》る。 「もちろん、聞いている」 「じゃ八時でいいのね?」 「いいよ、八時で」 「食事、して来ないでね」  多加子の声に甘さが混じる。 「いや、食事はいいよ。長居はしないつもりだから」  ふと相手が黙った。 「じゃ何しに来るのよ?」それから「バカね」と言い、フフフッと笑った。  高見は多加子の部屋の様子を想像し、ソファの上で大きな猫のように寛《くつろ》いでいる彼女の姿を思い描いた。彼は彼女の小さいけれど居心地の良いマンションが好きだった。そこで彼女とするあらゆることが好きだった。会話、食事、愛を交わすこと。趣味も感性も、匂いも肌ざわりも。とりわけ彼女の自立心。彼女だけのものである何かに他人が入りこむことを許さない毅然《きぜん》としたところ。その対極に——妻がいた。高見の肉体の奥深くで、鋭く疼《うず》くものがあった。  妻がキッチンドリンカーかもしれないという疑いを抱いたのが三カ月ばかり前で、偶然にわかったことだった。何かの拍子に、普段なら決して自分では開かない扉をあけたのだ。  調味料の入っている小さな扉で、高見は醤油《しようゆ》か酢かを探していたのだった。その時、大小の瓶《びん》に並んでウォツカの瓶が眼に入った。最初は料理にでも使うのだろうくらいに思った。けれども、ボトルの四分の三は空だった。高見の胸に疑惑がともった。  気になったので数日後、同じところを覗《のぞ》いてみた。ウォツカのボトルは同じところにあったが、新しくなっていて、半分ばかり残っていた。更に二日後。ボトルは更に新しく替っていた。  ということは、妻は一日に約半ボトルあける計算になる。  そのことを妻に直接|質《ただ》してみようとは、決して考えなかった。自分に原因と責任があるような気がしたからだった。  その後も気をつけて妻を観察しつづけたが、酔っていることをさとらせることも、アルコール臭をプンプンさせていることもなかった。もっともウォツカには匂いはない。  それが、多加子の部屋を訪れる回数が極端に減った理由であった。  高見は、多加子との電話を切ると、煙草を取り出してライターで火をつけてから、電話ボックスを出た。  ウォツカというのはいけない。ウォツカは悪い徴候だ。高見は二度ほど吸っただけの煙草を、指先で弾いて、歩道と車道の間の溝に落した。  妻はもう完全にアルコール依存症なのだろうか? そしてアルコール依存症は、離婚の理由になるのかどうか? 自分の人生から妻を取り除くとどうなるのかと高見はチラッと考えずにはおれなかった。  視界が一瞬バラ色になった。バラ色の中心で、彼は胸の底にめまいを感じた。たとえ一瞬でも、自分の人生から妻を取り除いたことがおそろしくもあり、すさまじいほどに後ろめたかった。  八時に多加子のマンションに行くと、食事はしないと言っておいたのに、テーブルには二人分の用意が整っていた。  多加子はピンク系のファンデーションをつけていて、ふわふわしたショッキングピンクのニットを着た躰《からだ》を弾ませるようにして彼を迎えた。 「どっち先にする?」  と彼女は猫のように躰を高見にすりつけながら訊《き》いた。「食事、それともアレ?」  仕事をバリバリこなし、頭もいい知性的な女が、同時にコケティッシュでもあるのはすばらしいことだった。  ふわふわしたセーターごと、彼女を抱き寄せた。肉というより直接骨を感じさせる躰だ。けれども乳房は大きい。痩《や》せていて乳房の大きい女はエロティックだと高見は思った。 「どっちも今夜はいらないと言ったら、気を悪くするかい?」 「理由によるわね」男の眼の中を覗《のぞ》きこみながら多加子が答えた。 「そういう気分になれないんだ」 「わたしのせい?」 「むろん違う」  高見は多加子を抱く腕に力を入れ、そしてそっと離した。妻には触れてやりもしない、と苦い|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》のような思いが胃から突き上げた。硬い眼、硬い横顔、硬い手、硬いふくらはぎ、そして硬い声。使い果たされ、手入れをされぬまま放り出してある皮革《かわ》の上着のように、カサカサとした妻。人も物と同じで、使い果たされるということがあるのではないだろうか。頭の中のカオスが濃く煮つまっていく感じと、高見は闘った。 「わかった。話ね。……聞くわよ」  多加子は急にきびきびと立ち働いて、食卓の上を片づけると、椅子を引いて坐り、反対側の席を高見にすすめた。「さあ、話して」 「しばらく、逢わないでおこうと考えているんだ」  そんなことは考えていなかった。口が勝手に喋《しやべ》ってしまったのだ。高見は両手でこめかみを揉《も》んだ。  多加子は探るように高見の顔をみつめ、少し考え、それから言った。「いいわよ。わたしはかまわない」 「理由を訊かないのか」  あまりに呆気《あつけ》ない反応なので、高見はかえって傷つけられたような気がした。 「理由? 説明したいの? そうしたいのなら聞くわ」感情を極力抑えているのが、感じられた。 「もしも」  と高見は口ごもった。「何も説明などしないですむなら、その方が——」彼は女をみつめた。「しばらくの間だけ、眼をつむっていてもらえないだろうか」 「しばらくって、どれくらい?」 「わからない。二、三カ月……、六カ月」 「それからどうなるの?」  多加子があまりにも冷静なので、高見は自分の声のうっとうしさが嫌だった。 「僕の方の問題が解決し次第……、またここへ来たい。……虫のいい話みたいに聞こえるかもしれないが」  理不尽にも妻に対する怒りで、高見の胸は膨れ上がった。自分が本当に欲しいのは、眼の前にいる女なのであって、絶対にあいつじゃないのだ。いつもいつも一緒にいたいのは多加子なのであって、妻ではない。それなのに俺は——何を言っているのだろう? あの家には何もない。眼に見えない荒廃で崩れかかっているあの家には。 「そう、虫のいい話ね、非常に」  多加子が押し殺した声で言った。「あなたは理由を言わない。三カ月後か六カ月後にふらりと戻って来ると言うだけで、何の保証もない——わたしが言うのは主として精神的な支えの問題。こうしましょう。三カ月後でも六カ月後でも、電話してみて。その時のことにしましょう」 「きみが腹を立てるのは当然だと思う」  高見は手を伸ばして相手の手に触れようとした。寸前に多加子はそれを引っこめた。なぜか高見は見棄てられたような、孤児のような気分がした。  すると彼の中で泣きたいような、叫び出したいような兇暴な感情が突き上げて来た。彼が求めたのは、こういうことではなかった。絶対に。別れたいのは多加子ではなく妻の方なのだ。  高見は混乱し、そして絶望した。使い果たしてしまったような気がしている妻を、見棄てることはできない。怒りで——妻に対する怒り、多加子に対する怒り、自分に対する怒りで、息がつまりそうになった。彼は椅子からいきなり立ち上がると、多加子の手首を掴《つか》んで引き寄せた。  彼女は抵抗した。 「こういうのは嫌なのよ。わかるでしょ、別れ話の後のこういうのは——」  それにはかまわず、高見はその場で彼女を壁に押しつけた。  しばらく揉みあっている内に、多加子から力が抜けていくのがわかった。彼女はそのまま壁づたいにズルズルと崩れ落ちて、床の上に横たわった。どうにでもしてくれという、そんな感じが全身から露呈していた。  高見は思わず眼を背《そむ》けて、女の傍に膝《ひざ》を折って坐った。 「悪かった」と彼は呟《つぶや》いた。 「いいのよ」  横たわったままざらざらした声で多加子が答えた。「最初から、こうなることはわかっていたのよ」 「しかし僕たちは、完全に別れるわけじゃない」 「じゃ何なの?」  高見には、適当な言葉がみつからない。しかし妻のことなど、口が裂けても多加子に知らせたくはなかった。 「ほらね」と、多加子は眼を光らせて、上体を起こし、壁に背をあずけた。「あの初めての日から——」と多加子は呟いた。「わたしがあなたを見上げたあの最初の瞬間から、わたしたちはすでに破局に向って歩いて来たのよ」 「そんなことはない」 「いいえそうよ。その証拠に、週三回が二回になり、いつのまにか一回になっていったわ。それが月に一回になるのは、もっと呆気《あつけ》なかった」 「回数の問題じゃないと思うけど」  高見は力なく立ち上がると、先刻の椅子に浅く腰をかけた。多加子は膝を両腕で抱きしめている。その頼りなげな姿を見ると、高見はいかに強く自分が彼女に惹《ひ》きつけられているか、いかに肉体の深いところで彼女に引っぱられているか、を感じた。 「時々」  と彼女は言った。「仕事から帰って、洋服を脱ぐ気にもなれない日があるのよ。ただただ待つって、そういうことなの」  高見は黙った。 「カーテンを閉じる気にもなれないで、服のまま眠ってしまうの。夜中に寒くて眼を覚ますわ。でも、掛けぶとんを探《さぐ》って掛ける力も気力もないのがわかる。そのまま、躰を胎児のように丸めて、震えながら、また眠ってしまう。朝、太陽の光りがまともに開いたままのカーテンから射しこんできて、眼が覚める時の気持——、自分は何をしているんだろうと思う」 「しかし僕は——、きみが完璧《かんぺき》に自立している女性だと思っていたが……」 「ええ、そうよ。自立しているわ。それとこれとは違うのよ」  多加子は惨《みじ》めそうだった。 「僕が考えなければならないのは、今、どっちが余計に苦しんでいるかなんだ」 「わたしと奥さんと?」  高見は息を吸いこんで、ゆっくりと吐きだした。息と共に力が抜けていくような気がした。 「そう……」  額に触れている窓ガラスの冷たさが、耐え難いまでになっていた。それでもそこに額を押しあてながら、高見は言った。「妻は……、妻は追いつめられて行き場所がないんだ。きみは時々服を着たまま寝てしまうというが、彼女は、そういうことはできないんだ。普通にしていなくちゃいけない。例外はない。それでウォツカを日に半ボトル飲んで、流し台で辛うじて自分の躰を支えているんだ」  長い沈黙が流れた。 「服を着たまま眠ってしまうのと、流し台で躰を支えなくちゃ立っていられないというのと、どっちがどうだっていうの?」 「きみには、別の方法もあるということさ」 「別の方法?」 「たとえば、きみ自身が言ったように、カーテンを閉じ忘れるとか——。妻はそれはしないんだ」 「クリスマスとかお正月とかはどうなの? 私がどんな気持で暮らしているか、考えてくれたことある?」 「もちろん、あるよ」 「でも、想像もつかないでしょう。朝、眼を覚まして思うの——、どうして起きる必要があるの? 何もないんだもの。それから、どうして食べなければいけないんだろうって思うわ。去年のクリスマスもお正月も、だからベッドから一歩も出ないし、一食も食べなかったわ。あなたには言わなかったけど」 「でも僕の妻も、きみと同じように、ベッドから一歩も出ずに、死んだように横たわっていたいと思っていたんだと思うよ。しかし子供たちや僕がいて、それさえもできないんだ。きみには、あれこれの選択があり、それを実行する自由と力がある。たとえ、洋服のまま眠ってしまうとか、ハンガーストライキをするとか、そういう辛い選択でも、実行できるというのは、救いなんだよ。僕の妻にはそれがない。少しもけどられないようにできるだけ匂いのしない酒を飲み、わずかに躰を前後に揺すりながら、茫然《ぼうぜん》と流し台にしがみついているしか、彼女には、何もできない」 「奥さんが、アルコールに手を出すようになったのは、わたしたちのせいなの?」  多加子が訊いた。 「多分——」 「多分? 訊いてみなかったの?」 「訊けなかった。バランスが崩れるような気がするから。ほんのわずかな言葉の一突きで、彼女は破綻《はたん》してしまうかもしれない。それが怖かった」 「わたしは……、わたしのことは? 破綻しないと思うの?」 「きみは若いし、自分の仕事があり、自分だけの世界があり、僕からも男たちからも自立している」 「だから?」多加子の眼が暗く光った。 「妻には、何もない。ある意味で僕だけなんだ。そしてこの僕ときたら、彼女を使い果たしてしまったように、もう長いこと感じたまま、見向きもしない。見なれすぎたために、そこにあることすら気づかない家具同様に、接して来た。ウォツカに手を出し始めたことを知っても、何カ月も見て見ぬふりをして来た。もう、そういうことはできない。見て見ぬふりをするというようなことは」 「要するに」  と、多加子は膝の上に顎《あご》を押しつけながら躰をゆっくりと揺すった。「わたしの方が棄てやすいって、そういうことなんでしょう、結局は」 「ある年齢を越えた男には」と高見は溜息《ためいき》と共に言った。「どちらを失うかという選択しかないんだ。どちらが欲しいかの選択は許されないんだということが、わかるんだ。そしてそれが今僕にわかっていることの全てで、そうするしかないような気がしている」 「わたしには同じことのように聞こえるけど。やっぱり棄てやすい方を棄てるってことなのよ」  女の視線が、何か固いもののように彼を打った。 「三カ月や六カ月先のことは忘れた方がいいわね。お互いにその方が楽よ。ありもしない希望にすがりついていることの方が、絶望よりもずっと苦しいってことがわかるだけ」  顔の皮膚が後に引っぱられたみたいに、多加子の眼が少しつり上がり、表情が白く見えた。  きみがそうしたいと言うのなら、と高見は力なく呟《つぶや》いた。 「そうよ。わたしはそうしたいの」  きっぱりとそう言って彼女は躰の両横に掌をつき、腰を上げた。 「奥さんのこと話してくれてむしろ良かったわ」服の皺《しわ》を直しながら、彼女は高見を見ずに言った。 「なんて言うか、あなたが優しいひとだってことがわかったし。でもその優しさは強さから来るものではなく、弱さから派生した優しさなのよ。  そういう意味では幻滅したし。そう、はっきり言ってあなたに幻滅した。幻滅させてもらって良かったと思うわ」  それから彼女はまっすぐに高見の顔に視線を当てた。「奥さん、お酒止められると思う?」  高見は、何か非常に飲みこみにくいものを飲みこむように、唾《つば》を飲みこんでから、答えた。「僕はきみを諦《あきら》めたんだから、彼女も、ウォツカを諦めなければならないんだ」 「そう、言うつもり、奥さんに?」  いつのまにか、窓ガラスが濡《ぬ》れていた。気づかないうちに雨が降り出したらしい。高見は自分の胸の中まで、濡れてくるような気分だった。 「ああ、そう話してみるつもりだ。今夜にも」  潮時《しおどき》だった。潮時だということを、高見は感じたし、多加子が同じように感じていることが感じられた。  彼は彼女の方に数歩進んだ。モヘアの毛糸の下の骨ばった肉体の感触が蘇《よみがえ》り、喉《のど》に熱いものがこみ上げた。彼は力のかぎり若い女を抱きしめたいという欲求を退け、右手を差し出した。今彼女を腕に抱いたら、決意が鈍りそうで怖かった。 「考えてみれば」  と、高見の右手を無視して多加子が言った。「あなたもお気の毒。見なれた家具みたいな奥さんと暮らしていくなんて——」  すでに彼女には距離があった。すでに、彼女は高見から去ってしまった。彼はゆっくりと踵《きびす》を返した。  外へ出ると、雨だけでなく風も出ていた。今の気分にぴったりの空模様だな、と高見は口に出して呟《つぶや》き、斜めに降り注ぐ雨の中へと歩き出した。  タクシーはなかなかみつからなかったが、公衆電話はすぐにみつかった。  妻のためというよりは自分の心の準備のためにダイヤルを回した。出たのは長男だった。 「お母さんに替ってくれ」 「いないよ」  背後でテレビが騒いでいた。 「いない? 出かけたのか?」 「そうなんじゃない」  早く切りたがっている様子が伝わってくる。 「無責任だな」  高見は腕時計を見た。九時を回ったところだった。 「何時に帰るか、言ってたか?」 「いつもと同じだよ、九時半」 「いつもと同じ?」 「もう切るよ、テレビ見てたんだ」 「待て。お母さん、しょっ中九時半に帰るのか?」 「時々だよ。週二、三回。ねえ、もう切るよ、いいでしょ?」 「俺は知らなかったぞ」 「だってお父さん、毎晩十一時過ぎじゃないか」 「何をしてるんだ、お母さんは。毎晩」 「毎晩じゃないよ。何か習いに行ってるんじゃないの? 自分で訊けば? 夫婦なんだから」  高見は苦笑して、電話を切った。  妻が週二回もカルチャーセンターのようなものに出かけていたなどということは知らなかった。家に帰れば妻は必ずいたし。他にも俺の知らないことがあるのだろうか。高見はひどく不愉快だった。  しかし冷静に考えれば、妻が何かに興味を持つということは、悪いことではない。背中にべったりと張りついていたヒルのようなものの一部が、剥《は》がれ落ちたような気分だ。ほんの一部ではあるが。  ようやく通りかかったタクシーを拾って、|幡ヶ谷《はたがや》の自宅まで帰った。  妻はまだだった。食卓の上には、高見が帰って来たら食べられるように、食事の用意が半分だけ整っている。食べても食べなくても、妻は仕度をして、顔を見て夫が食べると言えば、黙々と魚を焼いたり肉を焼いたりする。  高見より七、八分遅れて、妻が戻った。ビールを飲みつつ、子供たちの肩越しにテレビに眼をやっている夫の姿を見ると、彼女はひどく驚いたように、一瞬その場に釘づけになった。  妻は、見たこともないような服を着ていた。肩パッドの入っている濃紺のワンピースに、腕輪を三つ重ねてしていた。  肩パッドは、高見がなれ親しんだ妻のイメージとは異様に違う。カルチャーセンターで何を学ぶにしろ、肩パッドもチャラチャラと腕輪を三つというのも、ぴったりと来ない。  それに彼女は化粧さえしていた。それも、かなり濃かった。そのことが一番、高見の気分を逆撫《さかな》でしたことだった。 「食事します?」  言い訳はいっさいせず、いつもの張りのない声で妻が訊いた。その声は、彼女の服装の感じとチグハグだった。するよ、と不機嫌に高見は答えた。 「ちょくちょく、出かけているんだってな、夜?」 「二度だけよ。火曜と金曜日」 「たまたまその火曜の夜、九時二十分に戻ったんで、俺はそのことを知ったというわけだ」  妻は何も言わず、ダイニングキッチンに入りこんで、何かフライパンで炒めだした。 「いつもそういう格好して出かけるのか?」 「どういう格好ですか」  高見は刑事の尋問みたいな自分の口調に、急に嫌気を感じて口を閉ざした。 「おまえたち、テレビを消して二階へ上がっていなさい。お母さんと話があるんだ」  首をねじって二人の子供たちに命じた。何か言いかけたが、父親の表情を見て子供たちはテレビを消し、ドタドタと階段を駆け上がって行った。やがて家の中がしんとなった。 「話がある」  と高見は妻の背中に声をかけた。「食事はそのままでいい。ここへ来て坐りなさい」  妻は、フライパンの火を止め、エプロンで手を拭きながら、言われた通りに高見の前に腰を下ろした。 「ちょうど良かった。私も話があるの」 「そうか」と高見はうなずいた。「俺たちは同じことを考えていたんだな」  妻がはっとしたように顔を上げた。 「知ってたんですか」  高見はうなずいた。 「そうですか」  諦《あきら》めたように肩の力がぬけた。 「いつ本当のことを言おうかと、ずっと悩んでいたのよ」 「わかっていたよ」高見はうなずいた。「俺の方にも落度があった訳だし。そこで相談だが——、止めないか、ああいうことは。そのかわり、俺もすっぱりと手を切る」 「手を切るって?」妻が訊き返した。 「だから女とはこれきり逢わないつもりだ。今夜そのことでケリをつけて来た」  妻の眼が細くなり、その細い透き間から夫をじっとみつめた。 「だから、おまえの方も——」 「女がいたんですか」  心底驚いたような言い方だった。 「なんだ、おまえ、知っていたんじゃないのか」  今度は高見が驚く番だった。「それでウォツカに手を出すようになったんじゃないのか?」 「ウォツカ?」それから彼女はいきなり笑い出した。「あなたに女がいたとはねえ……! 驚いた」  妻の笑い方が気に入らない。しかし最大の失敗は、女のことを喋《しやべ》ってしまったことだ。 「じゃおあいこだわ」  と妻が言った。背すじを伸ばして坐り直すと、ハンドバッグを引き寄せその中を掻《か》きまわして、煙草を取り出した。妻が煙草を吸うことを、高見は知らなかった。 「おあいことはどういう意味だ?」  胃の中に泡が生じる思いだった。 「だから、あなたに女がいるように、私にも好きなひとがいるってこと」  彼女は煙草に火をつけると、足を組んで、ふうっと煙りを吐き出した。妻とは別人のような気がした。 「それで週二回も出歩いていたんだな。そいつに夢中で、俺のことなど、眼中になかったんだな? ウォツカはどういうことなんだ? おまえがこっそり飲んでいることはわかっているんだ」高見は声を震わせた。 「こっそりなんて飲んでいませんよ。私としては悩みもあるわけだし、あのひとに逢えない夜は延々と長いし。ウォツカトニックをダブルで二杯くらい、どうってことないわ」 「どうってことないだって?」  高見は思わず悲鳴のような声を上げた。そのために多加子を失ったのではないか。 「別れてもらいたいのよ」  妻の言ったことが、すぐにはピンと来なかった。「何だって」 「別れたいの」妻は静かに言った。「もう前からそう思っていたんだけど、あなたが可哀相な気がして、言い出せなかったの。なんだか——どう言えばいいのかしら……」 「使い果たしてしまった感じ」  ポツリと高見は助け舟を出すかのように言った。 「そう、そういう感じ。そういう感じだわ、確かに」妻は何度もうなずいた。高見の中で何かが軋《きし》んだ。  妻が再び笑い出した。「女がいたとはねえ……。ほんと、バカみたい。悩むんじゃなかったわ」  ふらふらと高見は席を立った。 「どこへ行くの?」妻が訊いた。 「頭が混乱している。コーヒーを淹《い》れる」  ヤカンに水を入れ火にかけた。湯が沸くのを待つ間、彼は流し台にもたれて、夜の庭を眺めた。雨がガラス窓をたえまなく洗っていく。  自分の躰が支えられないような気がして、流し台に両手をついた。しがみついているような気が、自分でもした。  バーボン  その女はバーの止り木に一人でいた。  どうしようもなく一人ぼっちだという感じが、肩や背に露呈している。  肩や背中だけでなく、腕の線や腰のあたり、脚から足へかけて、項《うなじ》、髪の顔へのかかり具合、打ち棄てられた白い鳥のような感じの手などに、つまり全身に、孤独感が滲《にじ》み出ている。  その女は先週も、止り木の同じ場所にいた。やはり一人で。  だが、前の週と比べると、決定的に違うことがひとつある。女に声をかけたいという気持が起こらない。あわよくば口説いてみようと、男に思わせる何かが、先週の女にはあった。  自暴自棄の感じが、女の媚《こび》のようなものでかなり柔らげられ、危険ではあるが、それだけに冒険をしてみたいような気を起こさせた。  にもかかわらず山脇が、ひとつ置いた止り木から、声もかけず、一杯の酒もおごらなかったのは、女から溢《あふ》れる触れなば落ちんといった風情《ふぜい》に、抵抗を覚えたからである。  今、女からは、凄《すさ》まじいばかりの寂しさだけが漂う。むきだしの、無防備の寂寥《せきりよう》感が、彼女の周囲で起こることや思惑など一切から、彼女を完全に孤立させてしまっている。  山脇は、先週と同じ、女からひとつ置いた止り木に、腰を滑らせて坐り、バーテンダーと視線を合わせた。  彼はこの店の常連というほどの客ではない。二週続けて顔を出したが、その前に訪れたのは半年近く前で、これまで全部で四、五回しか来ていない。  従って、山脇の、女は何者なのかい、というような眼顔の問いかけに対して、バーテンダーは、気づかないふりをし、何になさいますか、と機械的な声で訊《き》いた。  山脇は、咄嗟《とつさ》に眼の隅で、隣の女のグラスを盗み見、バーボン、と口にした。 「ペリエで割って下さい」  と言い添えた。  女のグラスは空だ。まだ溶けだしてもいない氷が、グラスの底で重なっている。片肘《かたひじ》をカウンターについて、頬を支えている。  もう一方の手は、無防備に、掌を上向きにして空のグラスのそばに投げ出されている。眼は、どこも見ていない。何も聞こえてさえいないのだろう。  頬を支えている肘が、彼女の存在そのものを支えているような感じで、白く筋ばって、緊張している。呼吸は溜息《ためいき》のようだ。浅く吸って深く吐く。何もかも吐き出してしまうみたいに。  女の呼吸に神経がいくと、山脇は次第に息苦しさを覚え、女から、無理矢理に意識を剥《は》がした。 「降っていますか」  と、バーテンダーが飲みものの入ったグラスを前に滑らせながら、語尾を上げずに質問する。山脇のコートの肩のあたりに、水滴が光っている。 「四、五分前から降りだしたよ」  山脇が答えると、女がわずかに躰を固くするのが感じられる。 「一雨ごとに寒くなりますね」  と、バーテンダー。  彼もまた、女の溜息の連続のような呼吸に、息苦しさを覚えているのだろう。 「晩秋の夜の雨ってのは、嫌だよね」  山脇はバーボンを口に含む。氷が乾いた音をたてる。  女の全身から漂う全《まつた》き孤独感と、その完璧に化粧した顔とは、妙にちぐはぐでそぐわない。しかし、女はきれいだった。寂しさが、青ざめた花といったような風情を女に添えており、よくよく見れば、めったにおめにかかれないような種類の美貌《びぼう》であった。  先週は、それほどにも感じなかった。化粧気がなかったせいかもしれない。  カツッと固い音をたてて、女がグラスをカウンターの上に置く。置くというより、グラスの重みを支え切れず、落したという感じだった。  バーテンダーと山脇は、女がおかわりを注文するのを、待った。女は注文しない。沈黙が続く。  山脇とバーテンダーの視線が合う。お宅の出番ですよ、といわんばかりの眼だ。山脇は胃のあたりに軽い不快感を覚えたが、バーボンを流しこんでおいて、女の方へ顔を向けた。 「よかったら、一杯どうです?」  隣の女の、カウンターに投げ出されていた方の手が、眠りから覚めた何か小さな白い動物のような感じで、のろのろと動き、空のグラスに突き当り、それを掴《つか》む。  掴むというよりも、どこかしがみつくというような具合だった。  女の眼の焦点が一瞬手にしたグラスの中味にしぼられる。それが何であるのか、わからないといった風に、あるいは、なぜ、グラスが酒で満たされていないのか不思議でならないとでもいうように、あるいは、ただひたすら、茫然《ぼうぜん》としてというのが一番当っているのかもしれないが、女は、グラスの底の氷をじっと凝視している。とても長いこと。  山脇が見ているのは、対面のバーミラーの中の女だ。飾り文字や、ブドウの葉やツタなどの模様に混じって、女の驚くくらい鮮やかな赤い唇が見える。  しかし女は、自分に向って言われたのだということに気がつかない。同じ姿勢で、半ば眼を落し、相変らず何も見ていない。程よい高さの鼻から頬にかけての華奢《きやしや》な線が美しい。 「お客さん」  とバーテンダーが口を添える。女がゆっくりとその方へ視線を移していく。「こちらの方が、ご馳走《ちそう》して下さるそうですよ」  女の視線は、山脇の位置までは移って来ない。 「お金なら、持っています」  いかなる感情も含まない声で女が言う。  バーテンダーは白けた表情で引き下がる。ついでに山脇の前からも。向こうの端まで引き下がり、黙ってグラスの空拭《からぶ》きを始める。  手を伸ばし、有線放送のボリュームを少しだけ大きくする。ウィリー・ネルソンとケニー・ロジャースのデュエットが店内に低く流れる。  その時扉がバタンと音をたてて開くと、雨の匂いを先行させて男が二人、飛び込んで来た。髪に水滴が光り、顔が濡《ぬ》れている。  女は扉の音に、ギクリとしたように躰を固くする。肩ごしに横顔だけで新来の客を振り向いて眺め、再び、元の姿勢に、自分だけの世界に戻っていく。  バーテンダーが半濡れの男たちに、熱いおしぼりを手渡す。 「タクシーがつかまらなくてさ」  と一人が言う。 「今つかまらないと、このあとはもっとむずかしいですよ」 「そうだよね。今日、何曜日だっけ?」 「金曜日」 「ますますついてないねえ」  男たちは、カウンターの反対の端に並んで腰を下ろし、二人ともウィスキーの水割りを注文する。 「先週もいらしてたわね」  と、不意に女が言う。  全く不意だったので、山脇は咄嗟《とつさ》に言葉が見つからない。 「そこに、同じ席に」  女は、相変らず、半分視線を落し、真にはどこも見ないまま、そう言い足す。 「そうでした。あなたも」  山脇は、喉《のど》の通りがいかにも悪いような声で答え、空咳《からせき》をした。 「先週なら……」  と女が呟《つぶや》く。そして口をつぐむ。永遠に。  先週なら、何だというのだ? 先週なら、一杯おごらせた、とでも言いたいのだろうか? 山脇は女の横顔の美しい口元を見つめる。しかしそれは二度と再び開きそうにもない。 「先週なら、どうなんです」  できるだけ柔らかく、彼が訊く。女は答えない。向こう側で二人の男たちが共通の知人だか、上役だかの悪口を並べたてている。暖房がややききすぎている。山脇はコートを脱いで、女の方ではなく、反対の方の空いているストゥールに置く。 「先週と今とでは、わたし、全く別の女なのよ」  溜息に乗って、女の言葉が漏《も》れ出る。 「別の女性に、見えますよ、確かに」  山脇が相槌《あいづち》を打つ。 「わかっていないのね」  別にとがめる風でもない。 「無理にとは言いませんが、ほんとうに一杯どうです?」  女は首を振る。 「酔うと、逆に醒《さ》めるたちなの。先週と今日とでは、わたし、姓が変ったのよ」 「……離婚、ですか」  そんなところだろうと、見当はついていたのだ。 「先週なら、わたし、お酒だろうと何だろうと、喜んで頂いたわ」  直接の答えにはならない答え方で、女が呟《つぶや》く。「誘われたら、どこへでもついて行ったわ」 「実は、誘惑しようとは思ったんですがね」 「どうしてそうなさらなかったの?」  初めて、女の視線が動いて来て、まともに山脇の顔に注がれる。 「あなたこそ、どうして、先週ならよくて、今週だと酒の一杯も拒絶するんです?」 「質問に質問で答えるのはずるいわ」  女は醒めた声で言う。 「では答えましょう。先週のあなたは、触れなば落ちんの風情で、面白くなかった」  そう言うと、女が低く笑った。 「今度はあなたが質問に答える番だ」  山脇がうながした。 「先週は、まだ人妻だったのよ。だから」女は、その言葉の意味を山脇が解しかねているのを横眼で眺め、肩をすくめて言い足す。「夫を裏切るという大義名分があったわ。でも今は裏切るべき夫がいないから、そういうことをする必要はないの」 「なるほど、大義名分ねえ」  と山脇はつくづくと女の横顔を見つめた。「では、こういう条件じゃどうだろうか? あなたを口説かない、それなら一杯つきあいますか?」  女の心が動くのがわかる。口元に初めて、薄い微笑が浮かぶ。山脇はバーテンダーに手指のサインだけで注文を伝える。  バーテンダーが動いて来て、グラスに氷片を投げ入れ、フォー・ローゼスを指二本分注ぎ入れる。それを滑らせて女の前にきっちりと止める。そして山脇とは眼を合わせず、無言で引き下がる。 「では」  と山脇は女をうながしてグラスを取った。何に乾杯してよいかわからない。女の、ただごとでない寂しさの気配に対して、あるいは離婚に、乾杯するわけにはいかない。二人は、何も言わず、微《かす》かにグラスを合わせる。 「お願いがあるの」  と女がグラスを口に運ぶ途中で、言う。 「何です?」 「あとはもう、放っておいて頂きたいの。お酒をおごってもらっておいて、虫がいいかもしれないけど……。人と喋《しやべ》りたくない。喋ることもないし、はっきり言って、あなたにも、何に対しても全然興味が持てないの」  女の声から、彼女の意識がもうそこから遠ざかりつつあることがわかる。ひたすら殻に閉じこもりたい気持が、痛いほどわかる。 「いいですよ。放っておいてあげますよ」  山脇は自分でも意外なほど、優しく答える。 「ありがとう」  女が肘《ひじ》をつき、手に頬を乗せる。 「ただし、ひとつだけ条件がある」  女は、眼の隅で山脇を見る。が、黙っている。 「条件というのは、帰る時、あなたを送らせてもらいたい」  女が鼻の先で笑いかける。 「誤解しないで下さい。他意はない」 「ほんと?」  首だけ捩《ね》じり、探るように山脇を見る。 「ない。ただ、酒を飲ませた責任上、あなたが無事に帰るかどうか、確かめるだけです」 「変な人ね」  そう言ったが、女は別に断りもしない。バーボンのオン・ザ・ロックを静かに口へ運ぶ。二人の間に、見えない壁がするすると降りて来るのを、山脇は感じた。  更《さら》に彼が三杯飲み、彼女が二杯飲んでいた。途中、女は立って行って、二度、誰かに電話をかけた。二人は、一度も喋らなかった。カウンターの男たちが、雨の中へ出て行き、新しい客がボックスに四人いるだけだった。  十二時過ぎにバーの扉が開き、男が一人戸口に立った。中を見廻し、止り木の女に眼を留めると、眉間《みけん》に皺《しわ》を刻みながら歩いて来る。  男は女の横に無言で立つ。威圧感が漂う。背はそれほど高くないが、肩幅があり、胸も厚い。一眼でイタリア製と知れる上等のスーツに身を包んでいる。どこも濡れていないが、傘は持っていない。車を外で待たせてある感じだ。 「よくここがわかったわね」  と、男の方など、全然見ないで、よそよそしい声で女が言う。 「おおよその見当はつく」 「放っておいてよ」 「そうはいかない」 「もう関係ないのよ。あなたの妻じゃないんだから」  山脇は二人を見ないように背中を向けるが、嫌でも会話は聞こえる。別に、女を口説いたわけでもないのに、なぜか後ろめたいような気持がしてならない。 「たとえそうでも、別れたばかりの妻が、夜な夜な、飲んだくれているのを、放ってはおけない」  男は押し殺した声で囁《ささや》く。 「飲んだくれてなんていないわ。ただ静かに飲んでいるのよ」 「そうは見えない」 「どう見えるっていうの」 「現に今も、醜態をさらしている」 「あなたが来てからよ。醜悪になったのは。それまでは、静かなものよ、ねえ」  と、最後は、男の躰ごしに山脇に質問を投げかけた。  山脇は何と答えればよいのかわからず、あいまいな音だけ発する。 「どうしたのよ? 他人になったとたん急に私の心配しだして」 「言っておくが、きみも辛いだろうが、僕も耐えているんだ。自制してもらいたい」 「自制? してるわよう。自制の奈々子さんよ、私」  女の口調に酔いがからまる。その責任が自分にあるように山脇は思う。 「とにかく送るよ」  男は強引に、女の腕に手をかける。  とたんに、女は激しく反応する。 「触らないでよ。放っておいてよ。ずうっと放っておいたんだから、そのまま放っておいてくれればいいのよ」  ボックス席の男女が、好奇心|露《あらわ》に、二人を見ている。山脇は、女がそれ以上荒れないでくれればいいと、女のために、そしてなぜか彼女の別れたばかりの夫のために願った。 「先週までは、きみは法律的にも僕の保護のもとにいた」 「だからって、もう見向きもされなくなった飼犬みたいな扱いを受けてもいいっていう理由にはならないわ。首輪に縛りつけられて、散歩に一度も連れて行かれない犬と同じ扱いを受けても、いいってことにはならないのよ」  男は黙っている。そして言う。 「とにかく、ここを出よう」 「嫌よ」  女は拒絶する。 「そんなに酔っていて、どうする」 「それほど酔ってなんていないわ。それに送ってもらうからいいの」 「送ってもらう? 誰に?」  男が不興気に問い返す。女が返事につまる。山脇を巻きこんでいいかどうか、迷っているのだ。 「あなたに関係ないでしょう」  巻きこまないことに決め、女が素気なく言う。 「飲んだくれた女を送ってやろうなんていう男の魂胆は、見えすいている」 「だったらどうだっていうの?」  女は挑発するように訊き返す。 「あなたは私の保護者でも父親でも、もはや夫でもないのよ」 「きみが自堕落になるのを、放っておけないだけだ。男として当然だろう」 「人に送ってもらうことが自堕落なの?」 「その後に起こることを期待しないで、女を送ろうなんていう男はいないんだよ」 「あなたはどうなの? 期待してるの?」  女はずばり別れたばかりの夫に質問を突き立てる。 「ばかなことを言うな」 「どうして怒るの?」  女がずるそうに言う。「そんなに怒るのは、私が核心をついたからじゃないの?」  女の別れたばかりの夫は、あたりを気にする感じで怯《ひる》み、口をつぐむ。  ついに山脇が口をはさむ。 「大変申しわけないんですがね、ここは酒場なんですよ。いい気分で酒を飲むために、金を払って坐っているわけなんです。見たくも聞きたくもない夫婦喧嘩は、大変迷惑なんだ。まだ続きがあるんなら、お二人とも外へ出てやってもらえませんかね」  男は辛うじて屈辱に耐えている。女を睨《にら》み山脇に背を向ける。 「ついでに言っときますが、その女性を家まで送ろうと申し出たのは、僕です。更に言い添えれば、魂胆などありませんな。僕にもプライドみたいなものがあるもので、酔っ払った女をどうこうしようなんて薄汚れた考えはないんですよ」 「送ろうと申し出た男が二人。二人が二人とも、私をどうこうしようなんていう気は、もうとうないと言う。よっぽど魅力がないのね、私という女は」  女が投げやりに言う。  女を間にして、山脇と男が睨《にら》みあう形でお互いを眺める。  妙ななりゆきになってしまったものだ、と山脇は胸の中で呟《つぶや》く。愛の醒めてしまった男と、その女を愛してさえもいない行きずりの男が睨みあっている。  女の存在など、もうとっくにどうでもよくなっている。多分、意地なのだ、と山脇は思う。  長い睨みあいの末、先に眼を背けたのは、女の別れたばかりの夫の方だった。 「おまかせしますよ」  と、男は敗者の声で言う。とたんに、山脇はどういうわけか罠《わな》にはめられたような気がした。  そして男は、こころもち肩を落し——つまり敗者の背中を見せて、扉の方へ歩きだす。扉が閉まり、男の姿が消える。  山脇は、口の中に苦いものを覚えて、それをバーボンで洗い流す。自分は何に勝ったというのだろう? 意地を張って。 「罪作りな女《ひと》だ」  と彼は女の方を見ずに、静かに吐き出す。  夫婦の間にどのような葛藤《かつとう》があったのか、知る由もないが、仮にも一人の男を、敗け犬のように追い払ってしまった女に対して、山脇は威圧感と怒りとを覚える。 「ほんとうに送って下さるの?」  試すような口調で女が訊く。女の声の調子の中にも、勝者の響きがわずかにある。 「約束は約束だからね」  山脇はむしろ自分に言って聞かせる。 「無理しなくてもいいのよ」  すっかりその気でいるのが語調からわかる。 「男ってのは無理したがる動物なんでね」 「優しいのね、あなた」  会話が微妙におかしな方向に捩《ね》じ曲っていく。曲りたくない方へと傾いていく。そういうのを優しいとは言わないのだ、と彼は胸の中で呟いてみる。優柔不断と言うのだ。  女の躰の線が柔らかくなっている。先刻までの凄《すさ》まじいばかりの寂しさが薄れ、先週とよく似た自暴自棄な媚《こび》が露呈しはじめる。  山脇はグラスの中の残りを一気に喉《のど》に流しこんで、腰を上げる。 「そろそろ出ましょう」  どちらかというと不機嫌な声で、彼は女をうながした。  タクシーの中では、二人ともほとんど喋らなかった。雨に濡れた女の髪の匂いと、グリーンノート系の香水の匂いが混じり、山脇は窓を開けたい衝動とたえず闘わねばならなかった。 「誘惑に聞こえるとちょっと困るんだけど」と、女がすくい上げるような眼をして囁《ささや》く。「ちょっとだけお寄りになる?」  女が必ずそう言いだすのではないかと、予想した通りになっていく。 「誘惑でないとしたら、どういうふうに解釈すればいいのかな」  皮肉ったつもりなのに、実際は言葉でじゃれあう感じになってしまう。 「どういうふうにでも解釈なさればいいわ」  女の横顔に謎めいた微笑が滲《にじ》む。  世田谷《せたがや》のどこか静かな一角で女はタクシーを止める。  山脇は女を降ろすために外へ出る。 「どうぞ?」  と女が彼の腕を軽く掴《つか》む。とても軽く。だが彼は捕えられたような気がする。  一瞬の選択に迫られる。彼女の別れた夫の嘲笑《ちようしよう》が浮かぶ。要は自分が毅然《きぜん》としていられるかどうかだ。なんとなく自分を試してみたい。というか、罠《わな》にかけてみたい。  女の部屋に入り、何事も起こさずに再びその部屋を出ることができるだろうか。  いや、そういうことではもはやないのだ、と彼は思う。この女は、そのような考慮をするに値しないのだ。  だとすれば女の部屋へ行って何もせずに出て来たとて、それにいかほどの意味があるだろうか。  彼はもう一度だけ女を見た。女は美しい。このチャンスをみすみす逃《のが》すなんて、狂気の沙汰《さた》だ。 「せっかくだけど」  と山脇は呟《つぶや》く。自分でも自分の言葉が信じられない。  女が眼を見開く。驚いた、と言うように。あきれた、と言うように。臆病者と軽蔑《けいべつ》しているのがわかる。 「さっきの、元亭主のことを気にしてるんだったら——」 「いやそういうことではない」  と彼はタクシーに半分足を入れながら答える。 「じゃどうして? 遠慮なさらないで」 「多分ね、コーヒーだけじゃ済まないと思うんだ」  山脇は女の首筋から胸元に視線を下ろして、じっと見つめ、再び女の顔へそれを戻す。 「コーヒーだけで済まないと、いけないの?」  女が一歩近づいたので、吐く息の熱さが彼の喉《のど》に感じられる。 「うん、だめだね」 「なぜ?」 「つまり」  と、山脇は答える。「自分が、汚れちまうような気がするから」  相手をわざといたわらない言い方で、あえてそう言う。  女がすっと躰を引き、顔を硬直させる。山脇はタクシーの座席に腰を沈める。ドアが、閉まる。  走りだす前に、女が踵《きびす》を返し、足早に遠ざかる。完璧に近いふくらはぎから足首にかけての白い線が、山脇の眼に焼きつく。  運転手に自宅の住所を伝える。しばらくの間、女の脚の白い残像を宿した眼で、彼はぼんやりと車窓の雨を眺めている。  スコッチ・ウィスキー  煙草|喫《す》うんなら、台所の換気扇の下でやってくれよ、と、新聞から眼を上げずに夫が言う。  お願いよ、家で寛《くつろ》いでいる時くらい、好きなところで喫わしてよ。何も十本も二十本も喫おうっていうんじゃないんだから、これ一本だけ。  彼女はふうっと鼻の穴から二本の煙りの棒を吹きだして、食卓を片づけ始める。  そっちはそうかもしれないけど、こっちは編集部で、一日中、煙りの中で息吸ってんだ。前後左右、みんな喫うからな。その上チェーンスモーカーどもときてる。俺なんて一本も喫わないのに、一日六十本喫ったような気分と肺の状態。というわけで、家に帰った時くらい、煙草の匂いを嗅《か》ぐのも嫌なんだ。たとえ一本でもだ。  何もそうむきになることないでしょうが、と彼女はゆっくりと灰皿の上に灰を落す。六十本に一本増えたって、大勢に変化はないない。  おまえっていう奴は嫌な女だな。このところ可愛気っていうのが全くない。女も可愛気がなくなっちゃ、終《しま》いだよ。  おや? 今のは聞き捨てならない発言。それじゃ伺いますが、女としてあたしを扱ってくれなくなって、どれくらいたつと思う?  彼は聞こえないふりをして、夕刊の頁をめくる。  二年と三カ月十一日よ。彼女は一語一句、はっきりと言う。  何が?  ことさら、のんびりとした声で、彼がいかにもめんどくさそうに問い返す。  夫婦間の性交がぱったりと途絶えてからの歳月。  灰皿の中で、ぐいと吸殻をひねりつぶして彼女が言う。  すごいね。表現に気取りがないというか、歯に衣《きぬ》をきせない露骨な表現というか。歳月というのもちょっと大袈裟《おおげさ》な感じだがねぇ。  彼は何気なく立って行くと、酒の並んでいる棚から、スコッチを取ってきて、いきなりグラスに半分ほど注ぐ。氷も水も入れないで、そのまま口へ運ぶ。  三十三歳にして、二年と三カ月も営みがないっていうのは、正に歳月が空しく過ぎ去ったという感じがするのよね。  なんでいきなり宵《よい》のうちからそんな話になるんだ?  彼はもう一口スコッチを口に含み、再び新聞に眼を通し始める。  九時半は宵の口じゃない。立派に夜よ。ほんとなら、お話の方じゃなく、実践したっておかしくない時間だわ。あるホテルのマネージャーに聞いたんだけど、かなり高級なホテルにそれらしき二人連れが一泊するとするでしょう? 食事して、バーで飲んで、どうせ一泊するんだから夜景などゆっくりと眺めて、ベッドインは十二時過ぎになると思うでしょ?  別に思わんね。  あなたに訊《き》いてるんじゃないのよ、一般論。  この部屋にいるの、俺ときみだけかと思ってた。一般の方々がおいでだとは知らなかった。  ユーモアの通じない人ね。  そんなことはない。現にたった今言ったよ。  それでユーモアのつもり? あんまりくだらないチャチャを入れるから、何を話してたか忘れてしまったじゃないの。  忘れたままでも、俺の方はいっこうにかまわない。  思い出したわよ。そうはいかない。忘れてあげないわよ。ホテルのラヴタイムは、十時からだっていう話。  十時になるとどの部屋でもいっせいにアレが始まるのか? なんとなくすさまじいねぇ、それに何かおかしい、滑稽《こつけい》だ。  彼はまだ言葉を探す。  どの部屋もそっくり同じ造りなんだろう、ホテルの部屋ってのは? トイレの位置から、タオルの掛けてある場所、歯ブラシの並べ方、スタンドの位置、カーテンの柄、部屋の匂い、石鹸の香り——、そのなかで、男と女が十時になるとヨーイドンで、いっせいに組んずほぐれつアレに精を出す。で、何分か後に——平均的性交時間ってのは、日本人の場合、どれくらい?  私に訊かないでよ、このところ、そのようなことは全く行なっていませんもので、忘れてしまいましたわ、何しろ二年と——。  彼女が全部言い切らないうちに、彼が言葉をかぶせる。いずれにしろだよ、何分か何十分か後に、いっせいにトイレの水が流れる音が、ホテル中に響き渡るってわけだ。なんだか俺、鶏卵場を連想するね。いっせいに並んできまった時間に餌《えさ》を食い、いっせいに力んで卵を産む。隣近所で何してるかって、ちょっとでも考える余力があったらさ、俺なんてその気喪失、何にもできなくなるね。  隣近所の状態良好のこの家でだって、何にもできない状態が二年と三カ月続いているんですものね、わかるわよ、あなたの気持。  わかってくれてるんだ、そいつはありがたい。じゃこの話はこのあたりで打ち切りといこう。  ちょっと待って。勝手に打ち切りにしないでちょうだい。わかるって言ったのは、二年と三カ月、妻を肉体的飢餓感の中に置き去りにしたことをさして、理解を示したわけじゃないわよ。問題をわざとすりかえてもらっちゃ困る。あなたみたいに、ナイーヴで神経質な男なら、ホテルの十時いっせいスタートってのは、その気喪失も無理もないだろうな、とそういう意味よ。自分の都合の良いように解釈してもらいたくはないわね。あら、また飲むの?  まだ二杯めだよ、と彼はスコッチを再びグラスに注ぎ入れる。  水で薄めるとか氷を入れるとかした方がいいんじゃない?  スコッチが泣くよ。  でも躰に悪いわよ。胃潰瘍《かいよう》になっても知らないから。  きみが肺|癌《がん》、俺が胃潰瘍、現代の典型的とじ鍋夫婦。正に似合いのカップル像だ。  カップルだなんておこがましい。同居人以下よ。  俺がきみのところに下宿してると思ってくれ。食事代も部屋代も払ってあるんだ。  下宿人と、うら若き未亡人ていうのなら、そこには危《あや》うい空気が漂い、ことによったら一線を越えてしまう可能性が常にあるわけだけど、うちの下宿人とじゃ危うい空気も漂わない、一線なんて二年三カ月と十一日前に一度越えたばかり。  そうかね、俺は危機感の中で暮らしているような気がしてるがね、いつきみに寝こみを襲われるかと——。怒るなよ。それにしても三カ月と十一日だなんて、そういう数字をよく記憶しておけるよな、俺なんて、昨日のことさえろくに覚えていられない。  なぜかっていうとね、そのことが私にとって——私たちにとって切実に大事なことだと、私が思っているからよ。  そこで彼女は黙る。彼もグラスの中のスコッチ・ウィスキーをみつめたまま、動作を静止している。  私にも一杯ちょうだい。  肺癌の上に胃潰瘍にまで手を出そうっていうのかね。欲ばりだな、と言いながらも、彼は彼女のためにグラスを選び、立って行って冷凍庫から氷を取り出してくると、指一本分のスコッチを注ぎ入れる。それから倍量の水で割る。きっかりとした無駄のない動作。だが淡々としている。そして妻の前に、きちっとそれを置く。茶道を思わせる仕種《しぐさ》だ。  こういうことを認めるのは、大いに抵抗あるんだけど、あなたって、なんかこう、ぼうようとしているくせにエレガントなのよねぇ……、時々、私一人が理不尽にぎゃあぎゃあ喚《わめ》いているような気がして、恥かしくなることがあるわ。  彼女の声に本音が滲《にじ》む。  あのことさえ、ちゃんとしてくれれば、何の問題もないのに……。一体、どうしちゃったんだろう、私たち……。  きみのせいじゃないよ、  と、彼はスコッチを喉《のど》へ流しこむ。  あらそうなの? あたしにもう魅力を感じないんでしょ? セックス・アピールを感じないんでしょ? あなたがこの二年と三カ月の間、あたしに毎日突きつけて来た現実ってそれよ。おまえは魅力がない女だ、三十三にしてセックス・アピールのなくなってしまった女だ。  彼女は無意識に煙草の袋から一本抜きとると、それを口にくわえ、ライターの火をつける。ねぇ、この年で生理が上がっちゃったような気がしているのよ。ひどいものだわ。スコッチの水割りを、二口続けて啜《すす》り、煙りを吐きだす。  そんなふうに言うものじゃない。結構ボーイフレンドから電話かかって来てるじゃないか。  妬《や》きもしないのよね。私なんて、どうでもいいってことと同じじゃないの。  きみの友だちを尊重しているだけだよ。それに、他の男に適当にもてない女なんて、女房にしてもつまらんしね。  他の男なんてどうでもいいのに。あたしはあなたにもてたいのよ。  そう言っておいて、ぐっとのこりを喉に流しこむ。彼女の最後の言葉が、どちらの耳にも、悲鳴のような余韻をもって響いている感じだ。  今の取り消し。そこまであなたを自惚《うぬぼ》れさせることはないもの。もう一杯、いい?  どっちかにした方がいい。飲むか喫うか。見ているだけで、息苦しくなる。  こうなったらお望み通り、肺癌と胃潰瘍で死んであげる。  そんなことは、誰も望んじゃいないよ。  彼は、彼女のグラスに、ていねいにスコッチを注ぎ、誠実にも思える真剣さで水を割って、マドラーで掻《か》き回す。それから、自分の分を、空になったグラスに注ぐ。  私のダブルにしてよ。ピッチが追いつかないから。  けれども彼は彼女の言葉を無視して、注ぎ足さない。  私の躰なんだから、余計な心配しなくてもいいじゃない。どうせ、食欲も湧かないお肉、見むきもせずに、うっちゃらかしておくくせに。  そんなことより、酔っ払いの女にからまれるのが嫌なんだよ。きみが酔っ払うのを見るのが。  お酒の力を借りて、あんたを口説《くど》こうなんてさもしい了見はないから、安心しな。彼はチラと彼女を見るが、黙っている。それより、あたし、ちょっと言いたいことがあるのよね。  二杯目を半分ほど飲み、言い出す勇気が湧いてくるのを待つ。また少し飲み、新しい煙草に手を出す。  前のがまだ灰皿の中で燃えてるよ、と彼が静かに言う。彼女はそれをもみ消しておいて、新しいのに火をつける。  きみが向こうで喫わないんなら、俺の方が場所替えるしかなさそうだな、と、彼は腰を上げかける。  おっと待って。逃げだすつもりね? 私が何を言おうとしているかわかったから?  煙草の匂いと煙りからだよ、俺が逃げだすのは。  じゃ喫わない。だから坐り直して。  彼は渋々のように、浮かしかけた腰を元のところへ落す。  そわそわしてるわね、と彼女は言いかけて、スコッチの水割りに手を伸ばす。あるいは、そわそわしてるのは、あたしかもしれない。どう切り出していいかわからないし、ものすごくたくさん前置き言わなけりゃ、とうてい核心にふみこめないような気がするの。でも前置き言っていたら一晩中、それだけで終っちゃいそうだから、いきなり、ズバリと訊くしかない。どうしてもう書こうとしないの?  彼は彼女から顔をそむける。急に全身に硬い石のような感じが滲む。表情も無に近い。  わかっているわよ、その問題には触れたくないでしょう? でも私、もう触れちゃったの。答えてくれる? どうしてまた書きだそうとしないの?  長い沈黙。  もう一度、同じ質問しなくちゃだめ? 答えてくれるまで、一晩中同じことをくり返し、訊くつもりよ、今夜は。  一体——と言いかけて、彼の声が掠《かす》れる。彼は言い直す。一体、今夜はなんて晩なんだ? セックスのことでさんざん責められただけじゃ、足りないって言うのかい? なんで一度に二つも問題を持ち出すんだい? 一つでさえ、ろくに解決のめどもついてないってのに。それどころか俺にはグウの音も出なかったってのにさ。  なんで二つの問題を持ち出したのかっていうと、その二つのことは関連があるからよ。  どんな関連? セックスのことでは、きみになんていうか、すまないと思っているよ。しかし、もう一つの問題は、きみに関係ないし、第一、それほど重要なことじゃないんだ。  重要でないんなら、気軽に答えられるでしょ? まず質問に答えてよ。どうしてもう書かないの?  俺、編集者だぜ。  それがどうしたの?  それぞれの役割がある。領分は侵さない。  でも、三年前にはそんなふうに考えなかったわ。領分を侵したわよ、あなた。  だったらその結果を知ってるだろう。  ええ、知ってる。途中で投げ出した。せっかく書いた二百四十六枚の原稿を、一枚残さず捨ててしまった。それが二年と三カ月前。どうして書き上げなかったの?  才能の限界を感じたからさ。それに、すでに他の作家たちが全ての仕事をやってのけているわけだから、俺の出る幕など、本来なかったんだ。  彼はスコッチをグラスに注ぎ足し、ぐいとあおる。彼女はそれを眺めて、煙草に火をつける。  そんなのおかしいわ。だったら今後新人なんて生まれて来ようがないじゃないの。あなたの問題はそんなことじゃないわ。  単に根気がなかったってことでも、かまわんよ。やってみてわかったが、一つの作品を最後まで書き上げるというのも、立派に一つの才能なんだ。俺は、怠け者に過ぎん。所詮、器じゃなかった。それでいいだろう? もうこのことについては喋《しやべ》りたくない。  あなたは、怠け者じゃないわ。少なくとも書くことに関しては違う。そのことを私は知っているし、あなたが一番良く知っている。物を書いている時のあなたの背中には、鬼気迫るものがあったもの。苦しんではいたけど、同時に歓《よろこ》んでいたもの。私にはわかったわ。だから、決して怠け者なんかじゃないし、根気がないわけでもないのよ。  じゃ単に行き詰まったんだよ、それだけの才能だったってことでいいじゃないか。  彼はスコッチを含み、味わう前に喉に流しこむ。  いいえ、才能ならあるわ。そこいらの作家なんかより秀れた才能が、あなたにはあるわ。  ちょっと待った、と彼が割りこむのを無理矢理に黙らせて、彼女が喋り続ける。  あなたになかったのは、度胸。破廉恥《はれんち》で、髪ふり乱した姿勢。崖から飛び降りる勇気。あなたは繊細すぎるのよ、優しすぎる。あなたが途中で筆を折ったのは、私に対する配慮からだった……。  どうして——。  と彼は絶句する。  それを知っているかって? 読んだからよ、二百四十六枚、全部読んだからよ。  そうか、と彼は下唇を咬《か》みしめる。だったら、俺があれをなぜ途中で止めたかわかるだろう。  ええ。正直言って、最初はショックだった。私のことが書いてあるとか、他の女のことが書いてあるとかそういうことじゃなく、あなたがあんなふうに自分と私を見ているということが、ショックだったわ。  そうだよ、だから俺は書き通せなかった。きみを傷つけることが眼に見えていたからだ。  それは違う。私はショックだったと言ったのよ。傷ついたとは言っていないわ。私が辛《つら》かったのは、あの中であんなふうにあなたが自分自身を切り刻んでいくこと、内臓を掻《か》きむしりながら書いている姿勢、なのに、私らしき女を描く時に、ある修正が加えられていたことに対してなのよ。確かにあそこまで書くのは勇気がいるけど、あなたは最後のところで、どうしようもなく、私を守ろうとしてしまっていた。多分、他の誰にもそれは読み取れないことだろうと思う。だからあれが世の中に出ていたら、人は、よくあそこまで、男女の関係を描ききりましたね、と言うかもしれない。でも私にはわかる。私だけには、作者の嘘と真実がわかる。  あれを読んで私はこう感じたの。ああこの人、私を信じてないんだ。自分を信じるほどには、あたしを信じていない。愛とおきかえてもいいわ。あなたがあの小説の中で無意識にした、私を守ろうとする姿勢に、私は、あなたから、愛されていない——私が望むようには——、と感じたの。なぜなら、手加減が加えられていたから。それは、私を守るためというよりは、あなたを守るためなのよ。ある真実を書けば人が傷つく。でもその傷ついた人について、責任を負う気があれば、書けるはずなのよ。傷ごと引き受ける気があれば……。  あなたには、それがない。私が悲しかったのは、そのことなのよ。私らしき人物が登場してあることないこと、色々書かれたことじゃないの。真には書かれなかったことなの。あなたの優しさ、思いやりがそうしなかったことなの。  だから、あなたが途中で投げ出してしまう必要なんて、あの作品に関しては全くなかったのよ。だって、あなたが考えていた意味では、私は全然傷ついてなんていないんですもの。  彼女は探るように彼の顔をみつめる。  あれは、とてもいい作品になるはずよ。もしあなたが続きを書けば——。  彼女はとても静かに、優しく揺するように彼に言う。  原稿が手元にないのに、続きなんて書けるわけがない。第一——と彼が言いかける。  原稿ならあるわよ、と彼女。  原稿がある? 彼は弾かれたように顔を上げる。ゴミ箱に捨てたんだ。翌日、わざわざゴミ収集場まで、俺自身そいつを持って行ったんだぞ。  知ってるわ、見てたもの。  まさかその後で拾って来たんじゃないだろうね。  それがそうなの。拾って来たの。少しお魚臭かったけど。でももう臭いはとんでいるわ。  彼は黙りこむ。  お願い。あの続きを書いて、仕上げてしまって。  彼は黙っている。とても長いこと。  さっき、きみの言ったことは——とやがて喋《しやべ》り始める。痛かった。ナイフを突き立てられただけでなく、柄のところを持って、えぐり回されたような気がした。だが、できないよ。あれから何年もたっているんだ。  二年と三カ月ぽっきりよ。  あの時と同じ緊張感の中へ、戻って行けるとは思えない。  同じでなくてもいいじゃない。  だめだよ、だめだ。俺にはもうできない。というよりその気はないんだ。書かなくてもどうってことはない。  嘘だ。じゃなぜ、あれ以来、二年三カ月と十一日も、あたしとアレができないのよ? なぜか教えてあげようか? あの時、あなたは自分を殺してしまったからよ。死人にゃ、アレはできないわよね。  私は、あなたに生き返って欲しいのよ。むろん、アレのためもある。でもそんなのはどうでもいいのよ、本当は。  さっきはひどく深刻だったと思ったがね。  余計なこと言わないで。あなたに、ちゃんと生きて欲しいの。そして、誰か可愛気のない女のために、筋違いな思いやりなんかで、わずらわされずに、あなたがそのためにこの世に生まれて来たことを、やってもらいたいの。  あなたのために頼んでいるんじゃないのよ、私のため。私のせいであなたが崖から飛び降りれなかったなんて知りつつ、一生、生きつづけるのは、嫌なの。私はその負い目から解放してもらいたいのよ。  それとこれとは別だよ。きみには何の負い目もないよ。きみは解放されているんだよ。何も、下宿人みたいな俺に我慢することはないんだ。  あなた何を言おうとしているの? 私に出て行けって、言うつもりなの?  二年三カ月が四年と六カ月になっても、俺は何もできないかもしれないんだ。  それじゃ私の結婚は何だったんだろう? 私は今まで何を守ろうとして耐えて来たんだろう? そんなのってないわ。勝手すぎる。  だったら、頼むから、俺に続きを書けなどと、余計なお節介を焼かないでくれ。しかも、きみのために書けなどと。  小説ってもんはな、他人のためになど書けるもんじゃないんだよ。手前《てめ》ぇのために書くんだ。自己|憐憫《れんびん》と自己顕示欲とコンプレックスで、ベショベショの男のやることなんだ。俺にはどうやらその三つの条件がちょっとずつ欠けているらしい。それだけのことさ。  それも嘘よ。本気でそんなこと思っていないんでしょう? たとえそうだとしても、私はあなたの作品が好き。文体が好き。抑制がきいていて、テンポの早い乾いた文章がとても好きよ。  彼女は立って行き、奥の方から箱を抱えて再び姿を現わす。それをきちっと、彼の前に置く。  二年と三カ月前のあなたの子供。少なくとも読み直してみて。結論はそれからでいいから。でも必ず全部読み直すって約束してくれる?  彼女の眼に真剣な光りがともる。  辛いのはわかるわ。死んだと思ってた障害のある子が、ある時、いきなり姿を現わしたような気がしているんでしょう?  きみの方こそ、物を書いたらどうなんだい? さっきからきみの言うことを聞いているうちに、そんな気がして来たよ。  喋ってしまうのは簡単なのよ。後で読み返して、脂汗が浮かんだりしないもの。読むって言って。私なんて、十四回読んだわ。どんな本だって、一回しか読まない私がよ。  彼女はふうっという溜息《ためいき》と共に煙草の煙りを吐きだす。彼がふと手を伸ばし、彼女の煙草を一本抜きとって、口へもっていく。  何をするのよ、気でも狂ったの?  と彼女が慌てて、それを取り上げようとする。彼は身をかわして、彼女の手を避ける。ライターをカチリとつけ、火を寄せる。  止めてよ。何のつもりかしらないけど、冗談なら止めて。  きみがあんまり美味《うま》そうにプカプカ喫うからさ、ついその気にさせられた。  深く喫い、静かに吐きだす。それを数回くり返す。  悪かない。神経が高ぶっている時には沈静の効果もありそうだし。それに、思ったより、軽いな。  何言ってるの。絶対にだめよ。煙草になんて手を出さないで。  どうして? 自分はプカプカ喫ってるのにか?  ずるいわ、それ。  しかし説得力ないぞ。きみが止めなければ、俺も喫うぞ。どうせさんざん煙りを吸いこまされてきた躰だ。  二人はじっとみつめあう。彼が煙草の火を灰皿の中でゆっくりともみ消す。  きみが煙草を止めれば、読んでみるよ。  と、ぽつりと呟《つぶや》く。  それに、煙草臭い女の口になど、キスしたくないからな。  彼はニヤリと笑い、それからグラスに残っているスコッチをみつめ、更に眼の前の四角い箱に眼を移す。こめかみのあたりの血管が、かすかにぴくつく。  彼女はその場に彼を一人にするために、ひっそりと席をはずす。  シェリー  グランド・セントラル駅のオイスターバーは、仕事帰りの、軽く一杯ひっかけて帰途に就こうという男たちや、オフィスガールの二人連れ、あるいは一度はこの有名なレストランバーを見ておこうと訪ねて来た観光客や旅行者などで、騒然とした雰囲気に満ちている。  勤め帰りの男たちの大半は、バーのカウンターに群がり、立ったままビールやワインなどを一杯か二杯飲むと黙って帰って行く。  きちんとしたスーツ姿もいれば、ジャンパーの下にTシャツとジーンズといったくだけた服装の人種もいる。  そうかと思うと、これからパーティーへでも出かけて行きそうな格好に着飾ったカップルもいて、ひっそりとカクテルを前に小さなテーブルを囲んでいたりする。  オイスターバーには、ありとあらゆる人種がいて、不思議なことに、どんな服装であろうと、国籍であろうと、全てがしっくりその場に溶けこんでしまっている。そこがニューヨークの真中の雑然として埃《ほこり》っぽい駅の一部であることが、信じられないような空間である。  オーバーナイト用のバッグを下げた女が、何やら決意をひめた固い表情でカフェテリア風の店内を突っきって行き、一番奥の少し落着いた感じのコーナーめざして進んで行く。何やら思いつめた表情。  ごま塩頭の大柄なウェイターが近づいて来て、くだけた態度で、待ち合わせなのかどうか訊《き》く。女は上の空でうなずく。  テーブル席は七分通り客で埋まっており、女は左手の壁際の二人掛けの席に案内され、足元にバッグを置くと、入口が見える位置に腰を下ろす。ウェイターは、ガリバン刷りの小さな新聞みたいなメニューを彼女に渡しておいて、いったん引き下がる。  女はそれを眺めようともせず、テーブルの上へ投げ出すように置き、すぐに再び入口に注意を向ける。時々腕時計で時間を確かめ、神経質な仕種《しぐさ》で前髪を掻《か》き上げる。  落着かない様子で脚を組み直した拍子に、足元のオーバーナイト・バッグが倒れる。女はそれを元に直し、膝の上のハンドバッグの中を掻きまわしてセイラムを一本口にくわえる。もう一度同じようにバッグの中を掻きまわしてライターを取り出すと、カチリと火をつけ、煙草の先に近づける。  一口吸いこみ、フィルターの方に火をつけてしまったことに気づき、顔をしかめて灰皿の中に投げすてる。自分に対して腹を立てている動作だが、すぐに二本目を口にくわえ直すわけでもなく、また入口の方をじっとみつめる。  ウェイターが戻って来て、注文はきまったかと、機嫌の良い声で訊く。女は渋々とメニューを取り上げて眺め、「何にしようかしら」と呟《つぶや》く。 「シェリーなどいかがです?」  とウェイターがヴェテランらしくそれとなくすすめる。 「ええ、いいわ、シェリーで」  女はたいして考えもせずにそう答える。 「種類のお好みは?」  とウェイターが重ねて訊く。黒いチョッキのウェストポケットが手垢《てあか》で黒光りしている。 「ドライ」  と女が答える。 「ティオペペ?」もう一押し、ウェイターが訊《たず》ねる。 「それでいいわ」  と女は言って、溜息《ためいき》をつく。 「この仕事が好きなの?」  どういう意味なのか解しかねて、ウェイターが女をみつめる。 「この仕事楽しい?」  女は訊き直す。 「いかにも」  とウェイターが微笑する。 「いいことだわ」  女は肩をすくめる。ウェイターが下がる。  その時男が入口に現れ、店内をざっと見まわし、壁際の女の姿に眼を留めると、まっすぐに近づいて来る。女は近づいて来る男の一挙手一投足を食い入るようにみつめる。男は席に着くまで女と視線を合わせない。  腰をかがめて女の頬に軽くキスをしておいてから、椅子に躰を滑りこませるようにして男が坐る。 「長いこと待った?」と男が訊き、ようやく二人の視線が出逢う。 「それほどでも」  と何ひとつ見逃さない眼をして女が言う。「私も遅れて来たの。それより荷物はどうしたの? ロッカーにでもあずけてあるの?」  長めの沈黙の後で男が答える。「——荷物はないんだ」  それを聞くと女の顔がさっと紅潮する。 「荷物がないって、どういう意味なの?」  詰問というよりは悲鳴のようなニュアンスの声だ。そこへウェイターがシェリーの入ったグラスを運んで来る。女は表情を凍りつかせたまま、口をつぐむ。 「僕も同じものを」  と男が言う。 「シェリーで?」 「そうだ」 「ドライ?」 「そう、同じでいい」 「ティオペペですね?」 「それでいい」  男はうるさそうに顔をしかめる。 「この人、仕事にプライドを持っているのよ。ねえ、そうでしょう?」と女が横から言う。 「ええ、そうです」  ウェイターはチョッキのポケットに指を突っこんで、反《そ》り返る。彼が下がるのを待って、女が男に言う。 「荷物、どうしたのか答えて」 「そのことだけど」  と男は視線を、膝の上で組み合わせた自分の手に落して眺める。 「気が変ったのね?」  と女が切りこむように訊く。「どたんばになって、その気がなくなったのね?」 「いや。僕の気持は変らないんだけど」  男は自分の内側を覗《のぞ》きこむような感じで言う。「ただ——」  再びウェイターが来て、シェリーを男の前に置く。なみなみと注がれた琥珀《こはく》色のつやのある液体が、ほんの少しこぼれてウェイターの指を濡《ぬ》らす。 「他にご用は?」濡れた指を、ウェイター・ナプキンでさり気なく拭《ぬぐ》いながら、訊く。 「ないよ」 「何か軽いつまみでも? 新鮮なカキの種類がびっくりするくらいそろっていますよ」 「僕はいらない」と言って男は女を見る。 「私も」  と女が首を振る。「お腹|空《す》いてないのよ」 「結構ですとも」ウェイターが歩み去るやいなや、 「ただ——? 何なの? 早く言って」  と、女はテーブルの上に置いた両手を固く握りしめる。 「——今夜の計画を少し先に延ばせないかと思って——」  とたんに女は絶望したように背中を椅子にあずけ、ぐったりとして呟《つぶや》く。「つまりそれは、中止ということと同じことなんだわよ」 「違うよ。中止じゃない。先に延ばすだけだ」女の声の調子に打たれたのか、男が慌てて言い訳をする。 「どれくらい? どれくらい先に延ばすの?」女はせっかちに訊く。 「問題は、こういうことなんだ」  と、男はゼスチャーを交えて、苦しげに言う。「末の娘が、膝の関節が痛いと急に言いだしてね。熱も少しあるようなんだ」 「ああ、なるほどね」  女は同情を含まない声で言い、テーブルの上に置かれてあったシェリーに手を伸ばす。そして二口でグラスを空にする。胃の中が温まり、少し気分が和らぐ。  中央に近いテーブルから、着飾った男女が立ち上がり、肩を寄せあうようにして立ち去って行く。 「あの人たち、これからオペラに行くんだわね」と一瞬女はうらやましそうに男女の姿に見惚《みと》れる。 「オペラは好きじゃないんだろう?」 「ええ嫌い。でも——」女は何か説明しかけて、途中で止める。何をどう説明すべきかわからなかったし、たとえ説明しても、相手には更に理解しかねるだろうと思ったからだ。つまりその瞬間、女には他人のつつましやかな楽しみが、ねたましかったのだ。 「つまり子供の膝が痛いから計画を中止するっていうわけなのね?」と改めて女が訊き直す。 「中止じゃないったら。あくまで延期だよ。単なる膝関節炎なら心配ないんだけどね。でも妻は骨の癌《がん》を心配している」 「お医者は何て?」疑い深そうに女が質問する。 「成長にともなう炎症だと言うんだが」 「だったらそうなのよ」と断定口調。 「多分ね」と男は語尾を濁す。「でも念のためさ。一週間、計画を延期したって、どうってことないだろう?」 「一週間ですむかしら?」  女は大袈裟《おおげさ》に首をかしげてみせる。「来週は喉《のど》が痛いって、その子言いだすわよ。そしたら奥さんは喉頭癌《こうとうがん》だってまた騒ぎたてて、あなたは足止めを食うわ」女の態度は今やひどく邪険だ。 「他の理由ならともかく、子供が熱を出して死にそうなのに、女と駈け落ちする訳にはいかないよ」男もつい語調を強める。 「関節炎ぐらいで、子供は死にはしないわよ」  女は更に冷たく言い放つ。「第一、あなたがそんなに子供思いだなんて、知らなかったわ。これまでただの一度だって、子供のこと話題にしたことなかったじゃないの。でもかえってよかったのよ、今のうちにそれがわかって。とり返しのつかないことをしちゃった後で、いちいち子供の病気を種に、呼び戻されるんじゃ、私、たまらない」  女はグラスに手を伸ばしかけて空なのに気づき、「もう一杯欲しいわ」と呟く。  男が顔を上げてウェイターに合図を送っておいて言う。 「そんな言い方ってないだろう。子供は何も計画的に病気になった訳じゃないんだ」 「かもしれない。でもあなたは渡りに舟みたいに、それを利用してる」  ウェイターが現れる。 「私にもう一杯ちょうだい」 「シェリーですね」 「そうよ。ティオペペのドライ」女が怒ったように言う。 「そう怒鳴らないで下さいよ」  ウェイターが両手を広げながら行ってしまうと男が言う。「もう一年も僕らは我慢して来たんだ。あと一週間延びたっていいじゃないか」 「物事は言い方だと思うわ。一年も我慢したのよ。もう一時間だって先に延ばすのは嫌よ」 「しかし僕は病気の娘を見捨てて出かけ、もしも万一のことがあれば、家を捨てた自分を一生許せなくなる。そしてそのことが原因できっときみを恨み、二人の間がうまくいかなくなるかもしれないんだよ」 「私は、単に潔《いさぎよ》さの問題だと思っているけどね」と女は鋭く言う。 「あなたには急性関節炎の娘がいるかもしれないけど、私にだって問題が皆無って訳じゃないの。私がめんどうを見てあげなければならない老犬がいるのに残して来たわ。パッキングが壊れて絶えず水もれのしている水道もそのままにして来ちゃったし、それに夫は動物が嫌いだから、犬にエサなんて絶対にやってくれないのにきまっている。私が戻るまで、なんとか飢えずに生きていてくれたらめっけものよ。だけど私はそういうことを理由に、約束を違《たが》えたりしようとは思わない」 「犬と子供を一緒にしないでくれ。そんなことで、キンキン喚《わめ》かないでもらいたいな。所詮僕たちのしていることは不倫じゃないか」  と男は思わず大きな声で言ってしまってから、首をすくめる。二杯目のティオペペが女の前に置かれる。  怒りのために女の顎《あご》が細かく震える。 「それならそれらしく、スマートにやりましょうよ。女房子供の話は一切しないこと。男らしくルールを守りなさい」  男は急に口をつぐむ。 「わかったよ」  とやがて言う。「病気の子供を無視するのが男らしいと言うのなら、そうするよ。予定通り行動しよう」  男は開き直ったように女をみつめる。すると今度は女の方が困惑して、相手から眼を逸《そ》らせる。 「荷物どうするの? 着替えもないんでしょう?」 「そんなもの、どうにでもなるさ」と男は女の足元のバッグを見て言う。「きみだって、たいした量じゃない」  そう言ってから、ふっと考えるような表情になる。「そう言えば、きみ、さっき、こう言わなかった? 犬のことで。私が戻るまでって? 私が戻るまで犬が飢えてなければめっけものだってさ?」  女は足元のオーバーナイト・バッグをちらりと見て、口ごもる。 「そんなこと言ったかしら」 「言ったよ」と男は急に勝ち誇ったように言う。「きみは、今度のことを、もしかしたら週末旅行のように考えているんじゃないのか?」  男は女の足元のバッグに眼を移す。「そうだよ。まさに、そんな感じだ。そんなちっぽけな荷物じゃ、一泊旅行がせいぜいってとこじゃないか。一体何を考えているんだか」 「必要なら買えばいいと思ったのよ」  言い訳のように女が言い返す。 「その言い方だと、必要でない可能性がかなりあるみたいじゃないか」  あたりに揚げじゃがいもの匂いが漂う。それと、アメリカの大衆的なレストランにつきものの、トマトケチャップやマスタードの匂いなども。 「スーツケースの大きさなんて、どうして問題になるのかしら? もしも私たちが、今までのものを全て捨てて新しくやり直すとしたら、スーツケース三つ持って出たって充分じゃないわ」  男はじっと女をみつめる。 「しかし、小《ち》っぽけなバッグがひとつなら、そう目立たずに帰って来れるよな」 「帰るってどこへ?」 「元の生活へだよ」  女はシェリーをぐいとあける。男は更に何ごとか考えるふうに女を眺める。 「ところで、今週末きみのご亭主はどこにいるんだい?」 「どういう意味よ?」女は空のグラスのふちをみつめる。 「家にいるのかい?」  女が顔をしかめる。 「いないんだな?」  女は答えない。 「出張なんだ。そうだろう?」  男は冷めた表情でもう一度オーバーナイト・バッグに視線を移す。「何日くらい彼は家を空けているんだ? 一日? 二日? 三日?」  女は唇を固く結んだまま、テーブルの上の空のシェリーグラスをみつめている。 「何日だか知らないけど、彼が出張から戻る前に家に帰っていれば、何にも知られずにすむよな。そういう訳なのかい? つまり、これは最初から期限つきの駆け落ちって訳なのかい?」  男は次第に自分の言葉に激してくる様子だ。 「そっちは亭主の居ぬ間のなんとかで、無傷ですませようって腹なのに、僕ときたら、もう少しで、何もかもめちゃくちゃにしちまうところだった」男はそう言ってつるりと顔を撫《な》でる。 「そんなふうに言うんなら、私にも言わせてよ」  と今度は女が攻撃に出る。「何もかも投げ捨ててあなたについて行くには、あなたはどこか頼りなかったわ。そのいい例が今晩のことよ。子供の病気を理由に、手ぶらで現れたじゃないの。もしも万一、私が夫に今度の計画を告白して出て来てしまったら、一体どう責任とるつもりだった?」 「しかし、きみは前もって亭主に告白なんてして出て来なかった」 「でも、そうしていたかもしれないとは考えなかったの? その可能性はあったのよ」 「でも告白しなかったよ、きみは」 「あなたが頼りなかったからよ。不安感を私に抱かせたからだわ」 「理由はともかくだ。夫の出張を利用して、ちょっと火遊びをし、何食わぬ顔して戻るつもりだったんだ」 「そうならないかもしれないわ。そんなこと始めてみなければわからないでしょう」 「そうかい? じゃ始めようよ、予定通り駆け落ちしようぜ。汽車の時間は何時だった?」 「七時ちょうどよ。切符持って来ているの?」 「切符は持って来たよ」と男は胸のポケットの上を数回叩く。 「行くつもりもなかったのに?」 「払い戻しができると思ってさ」 「じゃ行きましょうよ」  と女が急に居直ったようにうながす。 「どっちだい? ボストン? それとも払い戻しに?」  二人はそこで探りあうようにお互いの眼の中を覗《のぞ》きあう。 「あなたはどっちがいいの?」  もうそれほど攻撃的でない声で、女が訊く。 「僕はきみの気持に従うよ」  と男も矛先《ほこさき》をおさめて言う。「きみはどうしたいんだ? ボストンへ僕と行って、そこで二人の新しい生活を始めるか、あるいはこのまま右か左に分かれてもう二度とお互いに逢わないか、それとも——」  と言って男は女の足元のオーバーナイト・バッグを見る。「それとも、二、三泊の秘密旅行に出かけてお茶を濁すか」 「どうして私がきめるの? 二人で話し合ってきめるわけにはいかない?」 「いいよ、話し合おう。きみはどうしたい?」 「どうしたいのか、もう私にはわからないわ」女の声に本音が滲む。 「じゃこうしよう。消去法できめよう。きみはどうしたくない?」 「そうね。このままあなたと別れて、二度と逢えなくなるのは絶対に嫌よ」 「うん、それは僕も同じだ。とすると、残るはあと二つ」  彼は彼女をみつめる。「僕と一生の旅に出るか、あるいは、束《つか》の間の旅を共有するか——」 「正直に言って」  と彼女は呟《つぶや》く。「あなたと一生やっていけるかということより、逃げまわっているような気持でこの先ずっと生きていくことができるかどうかなんだと思うのよ」 「それで?」  と男は結論をうながす。 「多分、できないんじゃないかと思うの」  女は自分の胸に問いただすように呟く。「あなたは?」 「きみができないんじゃないかと思っているかぎり、僕も無理だろうな」  男はそう言って空のグラスを手の中でくるくるとまわす。 「となると残るは、週末旅行でお茶を濁す——」 「そんな言い方しないでちょうだい」女の表情が曇る。 「言い方はともかく、どうする? 今から出かけるかい?」  二人は思い思いの沈黙にとらわれて黙りこむ。 「あなたは今週、子供が心配なんでしょう?」とやがて女が言う。 「しかし、来週は、きみのご亭主、家にいるんだろう?」 「ええ。出張の予定は当分ないわ」 「じゃ今週しかないじゃないか」  男は少し投げ遣《や》りに言う。 「無理して欲しくないのよ。楽しくないもの」 「多少の無理をしなければ、何事も始まらないさ」  女はコメカミを揉《も》む。そして再び長いこと考えこむ。 「止めましょう」 「止める?」 「そう中止」 「来週までじゃなく?」 「無期延期」  二人はみじろぎもせず、じっとしている。やがて男が溜息をついて、躰の緊張を解く。 「ほっとしたみたいね」  と少し皮肉に女が言う。 「きみだって同じだ」  男が言い返す。「きみだって内心ほっとしたはずだ」 「多分ね」  と女は素直に認める。「少なくともワンちゃんを飢えさせずにすんだわ」  そして二人は淋しそうに笑う。 「飲み直そうか?」 「いいわよ。私の方は夫が戻るまで時間はたっぷりあるわ」 「じゃ、食事でもしよう」 「ここで?」  女はあらためてあたりを見まわす。 「ここは悪くないよ。オイスターバーの名前の通り、カキが色々あって、産地と料理法を選べるんだ」 「わかったわ。カキとシェリーでお祝いしましょう」 「お祝い?」  と男が軽く訊きとがめる。 「そう」 「何のお祝いだい?」 「私たちが過《あやま》ちを犯さなかったお祝いよ」  男は一瞬遠い眼をする。 「何事も起こらず元通りに生きていく方が、もしかしたら過ちなのかもしれないよ」 「もしかしたらね」  二人はお互いではなく、お互いの背後の空間をみつめる。  男がウェイターの姿を探す。 「生ガキを半ダースずつ。それとシェリーのお代りを頼むよ」 「よろこんで」  とウェイターが白い歯を見せる。  シャンパン・カクテル  時々、忘れた頃になると、ふらりと顔を見せる女がいた。  なかなかいい女で、スタイルもセンスも悪くない。少々大柄すぎるのが玉にきずだが、一緒に並んで歩くわけでもないから、それはまあいい。 「白いドレスの女」という映画に出ていたキャサリン・ターナーという女優に、感じが似ていなくもない。原題は「ボディ・ヒート」。むんむんした大人の関係を思わせるが、日本題の方は「白」がきいてクールな女という印象のタイトルになっていた。  その女は、ボディ・ヒートというよりクールな女のイメージが強い。  何をしているのか、外見や話しぶりからまるきり想像がつかない。日本人の女はたいていなんとなく、素性とか、職業もちかそうでないか、わかるものなのだが。  ひとつだけ言えることは、相当に贅沢《ぜいたく》な女だということだ。それも一朝一夕で身につけた贅沢ではなく、子供の頃からそういう生活をしていなければ身につかない種類の、つまり、さりげなく奥深い贅沢さなのだ。  たとえば、この季節なら身につけているものはカシミアで、絶対に一目でどこのものとわかるようなブティックの商品ではない。  黒いタイトスカートに、ベージュのセーターを中に入れ、カッチリとした細い茶のベルトできりっとしめている。セーターは深いVネックで素肌に直接着ており、ネックレスの類は身につけない。  耳にも指にも、光るものなど一切つけない。ただなぜかカルティエのパシャという男物の腕時計を、セーターの袖口の上にはめている。時計のベルトは、腰のベルトと同じ茶色。そして同じ茶系のほんの少しヒールのついた靴。ストッキングは、その光沢の感じから絶対に千円程度のパンティーホースではない。ゼロの数が多分ひとつ多いはずだ。そしておそらく、パンティーホースですらなく、ベルトでつっているかもしれない。  なぜ、バーテンダーの彼にそんなことまでわかるかというと、彼自身が贅沢のかぎりを尽し、三十までに親の遺産を見事に喰いつぶしてしまった男だからだ。  今でも、いいものしか彼は身につけない。  もっとも昔のように背広が二十着、Yシャツが百枚、バリーかポリーニの靴が全部で六十足、などという生活とは縁が切れたが、極上の、しかも好きなものだけ、数少なく大事に着ている。  車にも目がなかった。それもイギリス車だけ。三台所有していた時もあった。ジャガーにモーガンにミニ。  女には盛大に貢いだ。自分に気前が良いのと同じくらい、惚《ほ》れた女に対して気前が良かった。女の服装や身につけるものに対して目が肥えたのは、高い授業料を払って来たからである。  人間、何事もその道の一流をきわめるのには、時間と金を惜しんだらだめだ。ゴルフだってそうだ。自分の金を、家が傾くほど使わなくては、上手《うま》くなれない。つまり場数を踏むってやつだ。  それと痛い思い。痛い思いをして人間、やっと成長する。  そんなわけで、彼が男として完成した時、金はきれいさっぱり使い果たしていた。同じくその理由で、バーテンダーをやっている。職業に貴賤《きせん》などない。もしあるとすれば本人の意識の中にそれがある。  あまり気負いこむのも格好悪いから、まあ仕事を心から楽しみつつ、気分よくやれれば優雅というものである。彼の理想は、ヘミングウェーの小説に出てくる無口な中年から初老にかけてのバーテンダー。  そしてヘミングウェーのような人物に、ぜひともめぐりあい、寡黙な友情をはぐくみたいものだ——。  その夜も、彼女は七時前にふらりと来て、まっすぐにカウンターに近づくと、かなり見事な毛皮をさらりと後ろ手に落し、無造作に空いているストゥールにのせた。そして軽やかに腰をかける。  毛皮は多分、フェレだ。  女は、例によってハンドバッグを持っていない。これは特筆すべきことかもしれない。外出の際、ハンドバッグを持たない女なんて、絶対と言っていいほどいない。少なくとも彼は知らない。  どうやら最低必要限度のものを、二つか三つのポケットに分散しているらしい。  何度か目撃したかぎりでは、彼女のその最低必要限度の品というのは、口紅と、何枚かの紙幣。そして多分、ごく上等の薄いローンのハンカチーフ。それだけだ。  煙草は喫わない。  バッグを持たないと格好がまるきりつかないような女が多いが、彼女は違う。何も持たず、さっとやって来る。そして男のような簡潔な仕種《しぐさ》で支払いをすませ、つり銭のあまり細かいコインは、チップに置いていく。ポケットをみっともなく膨《ふく》らませないためだ。  そうなのだ。男のようにだ。物を持たないことがダンディであると信じて疑わなかった二昔ばかり前のある種の男。いやもっと前。一九三〇年代のアメリカの男だ。粋《いき》で、ちょっと不良で、大仰なくせにどこかさりげなく。鼻で嘲っているみたいで、本当は人なつこかったりして。冷淡は表向きで、中は火のように熱い。むろん、ポケットには相当札束がつめこんであるが、決してみっともなくそれを膨らませてはいない。  今の男たちはどうだ? 集金人か高利貸しが金利を取り立てに行く以外の何物にも見えない男用のハンドバッグという代物など抱え、女みたいにごちゃごちゃしたものをつめこんでいる。  ほんとうに、自分だけは集金人には見えないと思っていなければ、あんなものを抱えて、街など歩けたものではないだろう。  ところがそう思っているのは当人だけで、やっぱり集金人だ。男がバッグを小脇に抱えるという発想が、そもそも頂けない。あれは絶対止めた方がいい。男ぶりが確実に二段階落ちる。  たとえそれが、二十万も三十万も、ことによると百万もする上物で有名ブティックのものでもだ。  それくらいなら、背広のポケットを膨らませている方が、まだ許せる。男の粋を感じさせる。  というわけで、彼女がバッグを持って歩かないということは、妙なエロティシズムを逆に感じさせる効果があるみたいだ。  美しい女が、全く媚《こ》びるということを知らず、男のようにさっそうとしているのは、その女の魅力を引き出す役に立つ。 「何にしますか」  と、彼はへり下りすぎもせず、かといって横柄でもなく、親しすぎず、素気なくもない、実に寛《くつろ》いだ態度と言葉遣いで、そう女に質問した。 「バックス・フィズ」  と女は答えた。  日本で言うところのシャンパンのカクテル、ミモザを英国流に注文したというわけだ。  そう注文して、それがいわゆるミモザとわかるバーテンダーが、日本に何人いるか。もっとも知らなくたって、どうってことはない。恥じるほどのことでもないし、たまたま知ってたからといって、いばることもないわけだ。  バックス・フィズと来たからには、缶詰めや瓶詰めの、ミカンジュースでお茶を濁すわけにはいかない。それにお茶を濁すようなやり方は、彼の趣味でもなかった。  極上のしかも出来るだけ新鮮なオレンジを絞《しぼ》って、フレッシュで使う必要がある。その際、オレンジの果実が混ざるのが正式だ。シャンパンとそのジュースを、ほぼ半々に混ぜ合わせる。  シャンパンはむろん、オレンジも冷えていなければ、きりっとしたカクテルにはならない。ところが冷蔵庫というのは、長く入れておくと果物の香りが飛んでしまう。  たまたま幸運なことに、今日出がけに紀ノ国屋で買って来たオレンジが、サランラップで包んで冷やしてあった。彼はそれを半分に切り、グレープフルーツ用のスクィーザーで、果肉ごとジュースをとった。  女はそうしたバーテンダーの動作をそれとなく眺めていたが、不意に言う。 「シャンパンは何を使うつもり?」 「特に好みがおありなら、それを使いますよ」 「あるわ」  と女が答えた。「ヴーヴ・クリコ」  そして試すようにバーテンダーの顔をじっと見た。  彼は「いいですよ」  と、動じない。 「しかし十分くらい待ってもらえますか、冷やさなければならない」  上等のシャンパンを常時冷蔵庫に突っ込んでおく訳にはいかない。アイスバケットに盛大に氷を放りこみ、水を入れる。 「誤解されると困るから言っとくけど、私、一杯だけでいいのよ。ことによったら二杯。でもそれがせいぜいね」 「誤解など、していませんよ」  と、彼は穏やかに答えた。「一杯だけでも、いっこうにかまいません」 「残りのヴーヴ・クリコどうするの?」  女は心配からというよりは、好奇心から訊《き》いた。「まさか、カクテル一杯に、一本分の値段をつけるつもりじゃないでしょうね」  並の女がそういう物言いをしたら、もちろんそうだぜ、一体何を血迷っているんだ、この能天気が、くらいのことは言い返しかねないが、キャサリン・ターナー級の女だと、たいていのことが言えるし、通るものなのだ。 「まさかね」  と、彼はクールに答えた。  ふーんと、声にはださなかったが、女は優雅に溜息《ためいき》をつき、カウンターに両|肘《ひじ》を置くと、両掌の中に顎《あご》を埋め、待つ姿勢を取った。 「残り、どうするつもり?」  またしても純粋の好奇心から彼女が訊いた。これまた並の器量の女なら、そんなこといちいち心配するくらいなら、最初からそういう注文などするな、と一喝するところだが——というと、始終客にたてついているバーテンダーのように思われるかもしれないが、これまでのところ、ミモザカクテルにヴーヴ・クリコを使えと命じるような女は、出現したことはない。ミズ・キャサリン・ターナーには肩を軽くすくめ、いとも無造作に、 「あとで、自分が飲みましょうかね」  と、答えたのだった。 「あとでって? 気が抜けたのを?」 「魔法を使うんですよ。そうすれば、二、三時間はほとんど気が抜けない」 「どんな魔法?」 「それもあとで見せましょう」  アイスバケットの中に突っこんでおいたシャンパンが頃合いの冷え具合を示すような、冷たい汗を肩のあたりにかき始めた。  バーテンダーは繊細だが手ぎわよく、コルクを親指で押し上げて行く。軽い音がして、コルクが抜ける。すかさずその上に置いたナプキンに、それを取らせる。  押し上げてくる気泡の勢いを利用してグラスに注ぐ。そのシャンパングラスは冷凍庫から取り出したばかりのもので、霜がついており、絞りたての冷たいオレンジジュースが、半分よりいくぶん少なめに、すでに用意されていた。物事には手順というものがあり、彼は完璧にそれを遂行していく。  二種類の液体が、シャンパンの気泡によって難なく、しかも完璧に混じり合う。絶妙の間で、グラスの底に指を置くと、音もなくそれを滑らせて、彼は女の前に、きっちりと置いた。  女は、グラスを持ち上げ、一口、そして二口とカクテルを含んだ。そのなんとも言えぬキャサリン風の瞳《ひとみ》が、微《かす》かに笑いを滲《にじ》ませる。 「完璧だわ」  と、低いが、しっかりとした声で、ひかえめに賞賛する。男はうなずき、やはりひかえめに礼を返した。 「魔法ってのを見せて」  と、やがて女が言った。 「なに、たいしたことじゃない」  バーテンダーは引き出しを開けて、銀製のティースプーンを取り出した。  そしてそれを、柄の方が下になるように、シャンパンボトルにそっと入れた。スプーンの口に入れる部分の広がりで、柄を中に入れた状態でスプーンがひっかかった。 「何のおまじないなの?」  と、女が片方の眉《まゆ》を上げた。キャサリンより、上手《うま》い。片方の眉を上げるのは、かなりの練習を要する。しかし、かつてのヴィヴィアン・リーには一歩も二歩も譲らなければならない。 「だから、シャンパンの気が抜けるのを遅らせる魔法」 「それだけ?」 「そうですよ」 「でも、横から気が抜けるじゃない? それでどうして遅らせられるの?」 「僕に訊かんで下さい」 「どこでそんなこと習ったの?」  女は質問を止めない。 「ロンドンにいる時。ワインの講習会に一カ月出たことがあって、その時教えられた」 「スプーンを逆さまに入れるとシャンパンの気が抜けないって? そんなのいかさまよ」 「かもしれない」  と、バーテンダーはフランクに答えた。「あるいはいかさまでないかもしれない。誰も成分を調べて比べた訳じゃないから。しかし、舌ではそれほど変らなかった」 「そう思いたいからよ。思いこみが激しいと、そんな気がするものよ」 「あるいはね」  と、バーテンダーは別に否定はしない。 「それであなたの舌が満足ならば、別にかまわないわけよ。でも——」  と、チラリとスプーンを逆さまに突っこんだヴーヴ・クリコのボトルに眼をやり、女が続けた。「そうやってインチキのおまじないかけたシャンパンを、他の誰かに売りつけたりするのは、ルール違反じゃないの?」  バーテンダーは女をみつめ返した。「今の言葉で、二つばかり気に入らないですね」 「あら、気にさわった?」  悪びれもせず、面白そうに女が眼を輝かせた。 「インチキときめつけたこと。それといったんコルクを抜いたシャンパンを、他の客に出すと、いんねんをつけたこと」 「あなたがインチキじゃないと信じ、他の客に飲み残しを出さないつもりなら、気にすることはないわ。気にするのは、どこかで私の言葉を認めているからよ」 「多分ね」  と、バーテンダーは譲歩した。別に卑屈になったわけではない。女の言うことに一理あると思ったからだ。 「この店、いつ来ても空いてるわね」  と、女は話題を変えた。 「たまたま、あんたが顔を見せる夜にかぎって、偶然、他の客がいない、ということだってありますよ。年にせいぜい四回ていど来ただけで、きめつけちゃいけません」  バーテンダーは穏やかに言った。 「もう一杯ちょうだい」  と、女が空のグラスを突き出した。 「お断りしますよ」  と、バーテンダーが静かに答えた。 「え?」  と、一瞬女は自分の耳を疑った。「断るの——?」 「そう」  と、落着いてバーテンダーがうなずいた。「気の抜けたシャンパンを、客に出すわけにはいきませんからね」 「あーら、嫌味。何をすねてるのよ。どうしたの、スプーンのおまじない。気が抜けないように魔法かけたんでしょ?」 「なにせインチキなものでね」  少し冷たい声の響きがあった。 「いいから、もう一杯作ってよ。十分くらいじゃ、たいして変らないわ」 「お断りですよ」  いっそう静かにバーテンダーが言った。 「只《ただ》でくれっていうんじゃないのよ。ちゃんとお金は払うわ」 「尚更《なおさら》だめですね」  とバーテンダーはにべもない。 「まいったわね」  と女は投げやりに両手をカウンターの上に投げ出した。「つむじ曲げちゃったんだ、あなた。いい年をした男が、つまんないことでかっかするもんじゃないわ」 「別にかっかしているわけじゃない」  たしかに、冷静そのものだった。 「じゃ何なの? 意地張ってるわけ? プライドがあるってわけ?」 「別にそんなのでもないな」 「お客の言葉に、そういちいち敏感に反応してたら、この商売なんて出来ないんじゃない?」そこで女は何か思いだして「私が年に四回しか来ないなんて、よく憶《おぼ》えてるわね」と言った。  バーテンダーはそれには答えない。 「もう一度訊くけど、私にバックス・フィズをもう一杯作ってくれるつもりはあるの? それともない?」 「ありませんね」  ときっぱりと彼は答えた。 「わかったわ」  と、女は顎《あご》を突きだした。 「バーに来て、気楽にお喋《しやべ》りも出来ないなんて、ひどいものだわ」  毛皮を引き寄せ、ポケットを探った。「お勘定してちょうだい」  バーテンダーが、請求書にゆっくりと数字を記入し、女の前に置いた。三千七百円。ヴーヴ・クリコなら当然だ。  女は一万円札を取り出すと、その上に重ねて置いた。 「お釣りはいいわ。二杯目にはありつけなかったけど」 「お釣りは払いますよ」  と、バーテンダーがきっぱりと言った。 「一杯しか飲ませなかったのだから、一杯分で結構です」  女は肩をすくめ、ストゥールを下りたった。コートをはおりながら、バーの中を見わたした。カウンターに四、五人用のボックス席がひとつ。小さいが、なんとなくいい感じだ。余分なものは何もない整頓された男の部屋を見ているようだった。  バーテンダーがお釣りを置いた。女はそれを無造作にコートのポケットに突っこんだ。  ふと、バーテンダーの顔に、好奇心が浮かんだ。 「ひとつ質問していいですか」  女が何かしら、というように男の顔を見た。 「どうしてハンドバッグを持たないんです?」  女はすぐには答えない。  やがてポツリと言った。「私が今、持ちたいと思うバッグがたったひとつだけあるんだけど」  一瞬女の横顔が翳《かげ》った。「高くて買えないのよ」  バーテンダーは自分の耳を疑う。 「買えないって? どんなバッグが欲しいっていうんです? ダイヤモンドを百カラットも使ったやつですかね」 「まさか」  と女は両手をコートのポケットに突っこんだ。「でも上等のカーフよ」 「じゃ何で買えないんです?」  女はしばらく答えなかった。バーテンダーの視線を避け、「きまってるでしょ。お金がないのよ」と、吐き捨てるように答えた。  またしてもバーテンダーは耳を疑った。 「しかし」  と、彼は口ごもった。 「この毛皮? わからないの? フェイクよ。でもとても良く出来ているから、気に入っているの。温かい点がね」 「まさか」  と今度は、彼は自分の眼を疑った。「それはフェレの赤狐じゃないですか」 「前にも眼の高いことを自称している自惚《うぬぼ》れた人たちが、あなたと同じことを言ったわ」  と、女が笑った。 「でもこのカシミアのセーターは本物よ。十年も大事に着てるわ。そしてこの時計、二年前亡くなった父のパシャ。かたみなの」 「驚いたな」  と、バーテンダーは首をいつまでも振り続けた。「本物の大金持ちかと思ったんだけどね。めったやたら宝石で飾り立てるのは、成り上がりの金持ちにきまっている。生まれながらの金持ちは、ごくひかえめに、上等なものをさりげなく着るってのが、僕の知るかぎり、定説だったが」 「騙《だま》された?」 「完璧に」 「どこで騙されたと思う?」 「あんたの雰囲気」 「もっと具体的によ。小道具よ」 「毛皮?」 「違う。ヴーヴ・クリコ」  女はニッコリと笑った。「つい見栄張っちゃったわ。おかげで二、三日、昼食抜かなければならないけど——」  バーテンダーは、スプーンを逆さまに差したボトルをみつめた。 「あなたにも、悪いことしちゃった。損させて」  と、女が言った。初めて声に本音が滲《にじ》んでいた。 「いいんですよ」  と、バーテンダーが答えた。「僕も昼食を、抜けばいいだけだ」そして笑った。 「しかし二、三回じゃないな。五、六回は抜くことになりそうだけど」  ふっと女の視線が、バーテンダーのYシャツと蝶ネクタイに留まった。Yシャツは極上の木綿で品の良い光沢があり、蝶ネクタイは、多分、ダンヒルか、アクアスキュータム製だ。でも両方ともかなりすりきれて傷んでいる。 「お互い、高い授業料についたわね」  と女が呟《つぶや》いた。 「必ずしもそうとは言えないさ」  とバーテンダーが言った。「少くとも、あんたは元がとれるかもしれない」 「どういうこと?」 「それをこれから言おうとしてるところ」  バーテンダーは、黒いお仕着せのチョッキを脱いで、横のフックにかけてあるジャケットに手を伸ばした。軽くて、かつてはとても良いジャケットだったのがわかる。  彼はそれを着ると前のボタンを留め、カウンターを回りこんで女の横に立った。大柄に見えたが並ぶと男の方がずっと上背があった。 「もうお店終り?」 「そういうこと」  バーテンダーは、カウンターの上に、ヴーヴ・クリコをのせながら言った。 「シャンパンはどう? つきあいませんか」  グラスが二つ並ぶ。「もしかすると少し気が抜けているかもしれないが」  シャンパンがグラスに注がれる。気泡は前と少しも変ることなく、グラスの底から立ち上る。 「頂くわ。あなたの魔法、ほんとかどうか調べなくちゃ」  女は屈託なくグラスを取り上げた。 「乾杯」  とグラスを重ねた。口に含み、飲み干す。 「なるほど。魔法はきいたみたい」  と女がうれしそうに言った。 「二杯目を飲む前に、コートを脱いだら?」  と男が言った。女がうなずき、肩から落した。それをバーテンダーが受けとめ、空いているストゥールの上に戻した。その時、衿の内側が見え、タッグが彼の眼に留まった。ジャンフランコ・フェレの名が読めた。  彼は女の横顔をみつめた。何も気づいていない女がいっそう屈託なく笑い返した。  バーテンダーはなぜか失望して哀しかった。彼女がやっぱり本物の金持ちで、自分から遠い存在に戻ってしまったような気がしたからだ。  カンパリ  カンパリにオレンジジュースを注《つ》ぎ足しながら、妻が言った。まるで何か、新発見でもしたみたいに。 「透明なものに濁ったものを加えると、もう決して透明ではなくなるのね」  夫は、彼女の言葉を表面通りにとって、当り前のことをわざわざ口に出して言うなよ、とでもいうように、ちらっと見ただけで返事をしなかった。 「でも、美しき不透明ということもあるわけだわ」  と、グラスの中の、真紅からオレンジ色へと、微妙なグラデーションを見せる液体を、明りに透かして、妻が続けた。 「もしもよ、もしもこんな色の飲みものを、原始人が初めて眼にしたら、飲むのにちょっとした勇気がいるでしょうね。そう思わない?」  夫は何かのリポートから顔を上げず、上の空で相槌《あいづち》を打っただけだった。  妻はグラスの上の方に浮いている氷片を、指先で数回押して、中味を混ぜ合わせると、ゆっくりと口に含んだ。 「私が初めてこれを飲んだ場所、どこだか知ってる?」  妻はグラス越しに夫を眺めた。声に含まれる作為的な陽気さは、彼女の表情にはない。固い無感情な眼ざしで、じっと見つめる。 「知らない?」  と重ねて訊《き》いておいて、あきらめたように自分の質問に自分で答える。「バリ島のクタでよ。クタ、行ったことある?」  夫はうるさそうに顔をしかめ、リポートの頁をことさら音をたててめくった。 「覚えてない、と——」と、妻がまた相手に代って答えた。「新婚旅行で行った場所を覚えていないし、興味もない、と——」  ようやく夫は注意を妻の方へ移して呟《つぶや》いた。 「さっきから何をぶつぶつ言っているんだ」  妻はやけに陽気に答える。 「独言《ひとりごと》よ」  しかしその皮肉は夫には通じない。 「独言なら、小声でやってくれ」 「この家には男が一人いるにはいるけど」と、彼女はかまわず冷《さ》めた声で言った。「話しかけても聞こえない。私がいるのに私を見ない。喋《しやべ》ることといえば、せいぜい二言三言。それでわかったんだけど、私の同居人は猿なんだ。見ざる、聞かざる、言わざるを一人でやっているお猿さんなんだ」 「これが見えないのか」  と夫は、膝の上のリポートを指先でパチンと弾いて見せた。 「見えるわ」  と妻が答えた。「それが新聞であることもあるし、朝日ジャーナルに替ることもある。でも結局、そんなものを膝に置く動機はひとつよ。係わりあってくれるな、のサイン」 「確かに、今夜のところはすまないが、こいつを読んでおかないと、明朝一番の会議にさしつかえるんでね」 「会社の仕事だって言われれば、妻の身分としては、黙って引き下がるしかないわね」 「ぜひとも、そうして欲しいよ」 「でも引き下がらない。明朝一番の会議なんて、ないと私は見ているのよ」 「ほう?」  いかにも小馬鹿にしたような顔で、夫は妻を眺めた。 「単なる直感。ただし、永年の経験につちかわれた勘よ。何しろ私は、見ざる聞かざる言わざると一緒に暮らしてるんですからね。頼るのは勘だけ」 「明朝の会議がないとしたら、一体僕はなんでこんな七《しち》めんどくさいものを何時間もかけて読んでいるんだ? ついでにその答えを教えてくれよ」 「うれしいわ。今夜は夫婦に会話が成立しているってわけよ」  と彼女はもったいつけて手をパチパチと二度叩き、夫が完全に白けきった顔をするのを見て、続けた。 「ありもしない早朝会議にかこつけて、その七めんどくさいリポートを読んでいるふりをしているのは、私を避けるため。それが答えよ」 「読んでいるふり?」  夫が陰険に訊き返した。 「そう、ふり。週刊ポストじゃなくて朝日ジャーナルを広げるのも同じ理由。夕刊フジの方がよっぽどあなたの趣味にあってるのに、日経の夕刊に眼を通すのも、みんな動機は同じ。妻とはコミュニケートしたくないっていう、明らかなサイン。だけど考えてみると、あなたも頭を使っているのよね。週刊ポストじゃ話しかけられたら、会話をしなくちゃいけないような気がするんでしょ? 朝日ジャーナルなら、大威張りで、読んでるふりをしていられる。つまり虎の威を借りてる狐ってやつよ」 「猿とか狐とか、どっちかひとつにきめてくれ」 「狐猿《きつねざる》よ、あなたは」 「そんな動物がいるんかね」 「いるわよ、一匹」  と妻は夫に顎《あご》をしゃくった。「現実に眼の前にいるわ」 「仮りにだな」  と夫が体勢を立て直しながら反撃に転じた。「もし仮りに僕が朝日ジャーナルを読んでいるふりをしている、というきみの意見を受け入れたとしよう。じゃ一体、なんで僕はそんなことまでして、きみとコミュニケートしたくないのか、その点については考えたことがあるのかね」 「もちろんあるわ」  と妻は、きっぱりと答える。「色々こまかいことを言ってもしょうがないから、結論だけ言えば、あなたは私のことがもう好きでさえないのよ。好きだったら、人間、何かとコミュニケートしたくなるもの。それが人情ってものだわ」 「じゃ仮りに」  と夫は考え考え言った。「きみのことをもう好きじゃないとして——」 「いちいち仮りにってのをつけなくちゃいけないの? そういう余計な言葉をはさむから、話がどんどん複雑になるのよ。私のことを好きじゃない——それで、いいじゃない」 「黒か白かきめつけたがるのは、きみの悪い点だ。世の中が、全て黒か白かに分かれたら、一体どんな味気のないことになるか、想像くらいつかないか。黒と白の間には、無数に灰色の段階があるんだよ。僕はその灰色の段階をむしろ重視する人間なんでね。きみは気づいていないと思うが」 「とっくに気づいていましたよ。灰色の段階だなんていうとエルキュール・ポアロの灰色の脳細胞っていう言葉を連想して格好いいけど、実は単に、決断力に欠けるってことじゃないの。あるいは優柔不断っていってもいい」 「僕がもうきみを好きじゃないのは、まさにその点なんだ。精神の粗雑な短絡さ。バッサリと切ってのける荒々しい神経。そういうのを無神経という」  彼女は、一口だけ口をつけたカンパリ・オレンジのグラスを手にとり、何か途方もなく美しいものでも眺めるように、それをしげしげと見つめた。 「無神経にもならなくちゃ、やってけないってこともあるのよ。ところで、私を好きじゃないって、ついに認めたわね」  沈黙が室内に流れる。すると普段は聞こえない物たちの音がやけに耳についた。キッチンの壁にかかっている、掛時計の秒針を刻む音だとか、蛍光灯の微《かす》かなジーンという音。冷蔵庫のモーターの低いうなり。そして、人が関節のあたりで骨の音をたてるように、家のどこかが軋《きし》んだり、眼に見えない亀裂を刻んだりする無気味な音。  そうした物音に、窓の外の冬の風の音が重なる。乾いた冷たい風の音。舗道を転がっていく落葉が眼に浮かぶようだ。  しかし家の中は適度に暖房がきいて、温かい。温かいけど——、と彼女は思う。風が吹きぬける。胸の中が寒い。  妻は夫を眺める。彼女がいる場所は、ダイニングテーブルで、彼の方は居間の肘掛《ひじか》け椅子だ。  彼が着ているのはパジャマで、黒地のタオルのガウンをはおっている。パジャマの膝がぬけていて、衿の方が首にめくれこんでいる。  黒いガウンの方は、度重なる洗濯のせいで色が褪《あ》せ、ところどころタオル地がすり減って薄くなってしまっている。  彼が家の中で自分のことをまったくかまわないのは、妻に対する緊張感を完全に失ってしまっているからなのだ、と彼女は改めて思った。 「あなたがそんなふうなのに、私がまだあなたに話しかけたり、眺めたり、あなたの言葉に耳をかたむけるのは、奇蹟みたいなものだわね。自分でもなぜだかわからないけど、私はまだ、あきらめていないのよ、この結婚」  男は居心地悪そうに、肘掛け椅子の中で坐り直すが、何も言わなかった。 「そりゃ、あきらめてしまった方が、はるかに楽なのはわかるわ」  そう言って、夫の横顔に眼をやる。「でも私、楽に生きたいとは思わない。それに私にはどうしても、あなたがそんなにも早く、しかも一方的に緊張感を脱ぎ捨ててしまえるのか、わからない」 「じゃ言うが、僕にしてみれば、この家は絶対に安楽で寛《くつろ》げる家じゃないんだ。一日の仕事で精力を使い果たして帰って来るんだぜ。できることならくたぁっと寝そべってテレビでも眺めていたいところなんだ。  それがそうはいかない。きみは、テレビは精神と肉体を堕落させると言って、家に置くことを断固として拒んだ。  そしてきみはきみで、僕がどんなに仕事で遅くなっても、きちんとした小綺麗《こぎれい》な格好をして、いつまでも待っている。そして帰るなり、僕に会話を求めるんだ。疲れ果ててただもうベッドに潜りこみたいだけの夫に、無理矢理に夜食を食わせ、その間も喋《しやべ》り続け、気がすむまで眠らせてくれない」 「あきれたわ」  と彼女は溜息《ためいき》をついた。「一体、世の中の誰が、小綺麗にして夫を待っている妻を、敬遠するっていうの? 会話の成立しない夫婦が大半だっていうのに、私のを単なるお喋りときめつけるの?」 「きみのは、あれは議論だ。会話なんていう穏やかなもんじゃない。しかもきみは、議論に勝たなければ気がすまない性格ときている。会話ならいいんだよ。しかしあれは喧嘩腰の議論だ。僕は真夜中に妻と議論をしたいとは思わないんだ。多分、趣味が違うんだよ、僕たちは」 「趣味じゃないわ。思いやりの問題よ」 「きみの方こそ、思いやりがあるなら、夜中に消費税の問題で、僕をやりこめることはないんだ」 「だったら、たまには早く帰って来たらいいじゃないの」 「問題はそういうことじゃないだろう。消費税のことで、何で僕が槍玉《やりだま》にあげられなくてはならないんだ?」 「あなたってすぐにそれなのよ」 「それって何だ」 「すぐに自分を被害者にしたてて、自己|憐憫《れんびん》で一杯になるってこと」 「しかしきみと暮らしていると、実際、そういう気分になるよ」 「私は常に加害者ってわけね?」 「考えてみれば、僕はいつも防衛に回っているから、そういうことになるだろうね」 「消費税の問題で、何であなたが防衛に回らなくちゃいけないの? あなたが作った法案でも何でもないんでしょう? あなたも私と一緒に怒ったらいいのよ。夫婦が同じ意見を持っちゃいけないってことはないんだもの」 「しかしたまたま、消費税に関しては、僕は反対じゃないんでね。きみとは意見が対立するんだよ」 「ということは、会話を議論に発展させるのは、必ずしも常に私じゃないってことね」 「しかし、ほとんどの場合は、きみの方だ。きみっていう女は、ただ反対するだけのために、反対意見を言うようなところがあるよ」 「ほんと! たとえば?」 「この間観た映画がいい例さ。ほら、何とかいった」 「『バヴェットの晩餐《ばんさん》会』」 「そうそれ。あんなつまらない映画、僕は観たこともない。食うものばかり、延々と出て来て、一体、何を言わんとしているのか、僕には全くわからなかった」 「あれはね、一人の女の心意気を描いた名作だったわ」 「と、あの時もきみは言った」  夫は膝の上からリポートをどけ、傍のテーブルに置きながら言った。 「料理の出来るまでをくどくどと写してくれても、実際、こっちは食って味わうわけじゃないんだからな、腹が立ったね、観ていて」 「想像力の問題ね。実際に味わったよりも、満たされるものが、私にはあったわ」 「僕は退屈で死にそうだった」 「あの贅沢《ぜいたく》きわまりない飽食の後の、人間の淋しさについて、何も考えが及ばないとしたら、あの映画からは何も学べないわ」 「事実、学ぶものは何もなかったよ。ひとつだけ明らかなことは、あの中では、誰もかれもが食い意地の張ったエゴイストの亡者たちで、あのバヴェットという名の料理人が、あれだけの腕を振るう価値などないってことさ」 「それはあなたが本質を見逃している証拠だわ。バヴェットは誰かのためにあの一世一代の大料理を作ったわけじゃないのよ」 「へぇ。じゃ誰のためなんだ」 「自分のためよ。自分の満足のため」 「それじゃ何も大騒ぎすることはないじゃないか。みんな自分の満足のことしか考えてないんなら、それはそれで大いに満たされたわけだから。めでたしめでたしってわけだ」 「そうよ。そういうことなのよ。誰もかれもが、それぞれのつつましさの程度で満足しました。でもすごく淋しいのだって、そういう映画だったのよ、あれは」 「愚作には変りはないけどね」 「それはあなたの意見。あまり大声で言うと恥をかくわよ」 「それそれ、その口調」 「なによ?」  と彼女はきょとんとする。 「アタシハ頭ガ良クテ、アンタハ、馬鹿ナンダっていうその態度」 「いつそんなこと私が言ったの?」 「たった今。それはあなたの意見と、いかにも人を食った言い方で言った」 「でも事実、あなたの意見だったんでしょ?」 「僕が言うのはね、そのきめつけ方だよ。つまり、きみが勝ち、僕が負けというきめつけ方のパターンだ。うんざりだね」 「あなたが愚作だってきめつけたからよ。でも私はそうは思わない。今年観た映画の中で、私なりの三指に入る作品だったわ」 「念のために、あとの二作っていうのも教えてくれよ」  と彼は皮肉タップリに言った。 「『八月の鯨』、『バグダッド・カフェ』」 「やっぱりね。それで証明できる」  と、彼が悪意をこめて言った。 「何が証明できるのよ?」 「きみは単に、僕と議論をして、打ち負かすために、そういう映画の名を挙げたんだ」 「妙な言いがかりだわね」 「いいや、そうだ」 「あなたと映画の趣味が違うだけであって、勝ち負けの問題だとは思わないけど」 「そりゃ勝ち負けの問題になるのさ。何しろ芸術作品だからね、きみの挙げた三指に入る映画ってのは、みんな。こっちは何を挙げたって、かないっこないんだ」 「あなたって病的。被害|妄想《もうそう》もいいとこよ。いいこと、冷静になって考えてごらんなさいよ。いつもいつも、物事を勝ち負けに持っていくのは、実はあなただってこと。現にたった今がそう。私は意見を言っただけ。あなたが勝手に、勝負の世界に持ち込み、なぜだか知らないけど、自分を負けに追い込んでいる」 「僕じゃないぞ。きみなんだ。きみがそう仕向けるんだ。実に注意深く罠《わな》を張って、僕がひっかかるようにひっかかるようにと、もっていくんだ。だから、嫌なんだよ、僕は。口を開けば口っぺたをひっぱたかれるような気がしてしょうがないんだ」  そして彼は、悄然《しようぜん》として黙りこんだ。  なんだかすごくみすぼらしく見えると、夫の姿を見て彼女は思った。くたくたのパジャマと、古いタオル地のガウンに包まれた彼女の夫は、ほんとうに今夜は負け犬のように見える。 「そのガウン、もういいかげんに処分したら? 何も新しいのが買えないほど貧乏ってわけでもないんだから」  すると夫は、とてもゆっくりと首だけねじって、じっと彼女を見た。まるで見たこともない女を初めて見るような眼つきだった。 「何よ、そんな顔して。他人みたいな眼で見ないでよ」  と思わず彼女は呟《つぶや》いた。 「きみは——」  と彼は言いかけた。声がかすれた。もう一度言い直した。「きみは、僕から実に色々なものを取り上げてきた。くだらないテレビ、くだらない週刊誌、くだらない趣味、下品な食べもの、僕のたったひとりの身内であるお袋——。これ以上僕から取り上げるものは何も残っていないと思っていた」  また彼の声がかすれた。「でもあった。このガウンを処分しろだと?」 「そんな眼で私を見ないでって、言ってるでしょ」  彼女はひるんだように、同じことを言った。 「このガウンを処分しろだと?」 「いいわよ、別に。着ていたけりゃ、ボロボロになるまで着ればいいわよ。何もそうムキになることはないでしょうに」 「むろん、そうするとも。きみの許しを得るまでもなく、そうするつもりだ。きみの眼には、単なるボロに過ぎないだろうがね、これを着ている時だけ、僕は少しだけ寛げるんだ」 「わかったわよ」 「いや、わかっていない。大袈裟《おおげさ》でも何でもなく、この家と、きみに対して、何とかやっていけるのは、この肌になじんだガウンを着ている時だけなんだ」 「リーナスのセキュリティー・ブランケットみたいなものね」  と彼女は理解を示して微笑した。他人にはつまらなく映るものでも、本人にとってかけがえのないものがあるものだ、ということは彼女にも理解できる。しかしその微笑は彼の眼には嘲笑《ちようしよう》のように映った。 「その勝ち誇ったようなニヤニヤ笑いは、何だい」ねちっこい厭《いや》な声だった。  今度ばかりは彼女も本当に驚いて、眉《まゆ》を寄せた。「勝ち誇っただなんて、言いがかりよ」 「次に何を言い出すか、おおよその見当くらいはつくね」  夫はいっそう悪意をつのらせた。こめかみの血管が浮き上がっている。 「何を言い出すのか自分でも見当がつかないことが、どうしてあなたに見当がつくのよ」 「それこそ経験が僕に教えた教訓さ。きみが次に言うのは、僕がいかに母親から乳離れしていないかという精神分析にきまっている」 「そんなこと考えてもいません」 「もちろん考えていたさ。先手先手を考え、押えていくのが、きみのやり方なんだ。セキュリティー・ブランケットときたとたん、嫌な予感がしたものな」 「他意はなかったわ。思いついた言葉を口にしただけよ」 「いいか。どんな悪口雑言にも僕は耐えてきた。しかし、お袋の悪口及び批判だけは、聞く耳をもたないからな」 「別に、悪口も批判も言うつもりはないから安心してちょうだい」 「しかしきみは心の中で彼女を批判している」 「あのね、今夜あなたのお母さんのこと話題にしたのはあなたなのよ。私じゃなかった。どうして急にお母さんのことが出て来たのか私には全く理解できないけど」 「そりゃそうだろうな。テレビやマンガ週刊誌やイモの煮っころがしの延長だものな、僕のお袋は——」 「ねぇ、もしかして——」  と彼女は急に何か思い当ったように口をつぐむ。「こうしたこと全ての原因は、お義母《かあ》さんなの?」  夫は、しかし答えない。くたびれたガウンの中で、躰を固くしている。 「私がお義母さんとの同居に反対したことを、根にもっているの?」  彼はいっそう頑《かたく》なに顔を背ける。 「黙っているところを見るとそうなのね?——それで何もかもわかったわ。心の中に大きな不満があるものだから、私のすることなすことが気に入らなかったんだ」 「きみは」  と夫が重い口を開いた。「僕にとって、不可能な選択を強いたんだ。きみを取るか、お袋を取るかの」 「結婚って、元来そういうものじゃないの?」クールに、彼女は答えた。「よくこんなふうにたとえるじゃないの、もしも、船が難破して荒海に放り出された時、若妻と年老いた母親のどちらかひとりしか助けることができないと仮定したら、男はどちらを取るべきかっていう——」 「男はどちらを取るべきなんだ?」  夫が反射的に質問した。 「若妻を取るべきなのよ。といってもロマンチックな理由のためじゃないわ。種の保存のためによ。その意味では、年取った母親は用済みよ。すでに彼女の役割は終っているの。言葉にすると残酷に響くけど、命のぎりぎりのところでは、男は本能の声に従うんだと思うわ。どんなに文明が発達しても、人間もまた動物の一種に過ぎないし、地球の自然のおきてに無意識に支配されているのよ」 「それは、きみの考えだ。僕は——違うぞ」  夫は急にその場に棒立ちになり、妻を見つめた。 「一般論なんてどうでもいいんだ。きみと僕のお袋のどっちかを選べという問題なら、その荒海のたとえでは、僕は絶対にお袋を選ぶ。種の保存なんて糞くらえだ。年取ったお袋が眼の前で溺《おぼ》れていくのに知らぬ顔などできない。そういう男もいるかもしれんが、僕にはできない」 「じゃ、眼の前で私が溺れていくのは、見ていられるのね?」  妻の声音が微妙に変った。 「僕はすでに過ちを犯しているんだ。きみを選び、お袋を捨てた。もう一度同じ過ちを犯すわけにはいかない」 「過ちですって?」  と叫ぶなり、彼女は咄嗟《とつさ》に眼の前のカンパリ・オレンジのグラスを鷲掴《わしづか》みにしたかと思うと、夫の顔めがけて中味をぶちまけた。 「このマザコン!」  グラス一杯の中味とは思えないほどの量が、彼の顔を濡《ぬ》らし、胸に飛び散った。  再び静寂が室内を満たし始めた。冷蔵庫のモーターがガタンという音と共に回り始める。夫は濡れた顔を拭《ぬぐ》おうともせず、凍りついたようにじっとしている。パジャマの前が鮮やかなオレンジ色に染まっていた。  やがて、夫はガウンの袖で顔を拭った。それから少しの間眼を瞬《しばたた》き、傍のリポートを取り上げ、眼を通し始めた。髪の毛を伝わり、カンパリ・オレンジがリポート用紙の上に落ちて、染《し》みを作った。夫はそれを指先で拭った。  妻は立っていき、タオルを持って戻ると夫の膝にポイと投げた。夫は無言のままそれで髪を拭き、胸の湿り気を吸い取らせた。  妻は固い表情で、グラスにカンパリを注ぎ、オレンジジュースを注ぎ足して同じ飲みものを作った。氷は入れず、今度は一滴残らず全部飲み干して、グラスを置いた。 「またしても、同じことね」  と妻が呟《つぶや》いた。「ほんと嫌になるわ」 「嫌になるのはこっちの話だ」  と夫が苦々しく呟き返した。 「こう毎晩のようにカンパリ・オレンジを浴びせかけられたら、そのうち僕もオレンジ色に染まっちまうぞ」  ポートワイン  私がポートの味を知ったのは、|B《ブリテイツシユ・》  |A《エア》のファーストクラスに乗った時である。  機内食がいろいろ出た後、「チーズはいかが」と、鼻にかかったスノビッシュなアクセントでスチュワードが訊《き》き、私はこのエア・ラインにしか用意されていないスチルトン・チーズとセロリスティックを所望した。 「ポートを注《つ》ぎましょう」  と、当然のことのように、スチュワードが小さなグラスを取りだし、ポートワインのボトルを傾けてみせた。  それまで私は、甘ったるいポートをあまり好きではなかったが、断るまでもないと、イエス・サンキューとスチュワードに答えた。  ブルーチーズ系のコクのある塩辛いスチルトン・チーズを口に入れ、セロリを咬《か》んで塩分を和らげる。その直後に口に含んだそのポートの甘美であったこと。  甘美という言葉は、まさにその瞬間のためにあるような気がしたくらいだった。  スチルトン・チーズ、セロリ、ポートと交互にその作業をくりかえし、実に満たされた一時であった。それ以来、ファーストクラスの食事の後のポートワインが楽しみになった。  しかし飛行機の中の食事というものは、概してあまり美味《おい》しくない。時々、これは、と思うような味に出逢うこともあるが、数えるほどだ。  たとえばオードブルなら、BAで出されるキャビア。今はどうか知らないが靴墨のびんのようなのに入ったキャビアが、びんごと一人にぽんと出される。  出しかたに芸はないが、ケチケチしていない感じがとても良い。BAではあと、前出のスチルトン・チーズが味わえる。これは陶製の小さな壺に入っていて、見た眼にもいかにも美味《うま》そうなチーズである。  他にはエール・フランスのファーストクラスで出される小羊《ラム》肉のロースト。外側はパリパリと香ばしく焼けていて、肉の中心にほんのりと血が滲《にじ》んだような火の通しかげん。小羊肉のもつ香りと、独得の甘さが、絶妙の一品で、まだエール・フランスのローストの右に出るものには、おめにかかったことがない。  コンソメスープの極上なのは、カナディアン・エア。機内食とは思えぬ本格的なスープで、ホテルや一流レストランの味にひけをとらないどころか、数段リードしている。しかし問題は温度である。一度は熱々でパーフェクトであったが、二度目に飲む機会があった時は、少しぬるかった。味ががくんと落ちることはいうまでもない。  朝食で楽しいのは、南回りのマレーシア航空。ハッシュド・ポテトとコーンビーフの焼いた取り合わせだが、たっぷりとあり、ポテトの焼き方がこんがりと香ばしかった味の記憶が、何年たっても残っている。これも、世界中の色々なホテルで試したが、マレーシア航空の朝食に出たものには、かなうものはなかった。  ローストビーフは、どこも不味《まず》い。ローストビーフそのものが、味にしまりがなく元来|美味《おい》しいものではないから、たとえ最高級レストランで食べても同じようなものだ。それとエア・ラインのデザートで、美味しいものに出逢った試しがない。これはどこも似たようなもので、きれいだが食指が動かない。  旅なれてくると、機内食は全てパスして、ひたすら眠るという手を覚える。これが一番上手な旅のしかたかもしれない。出される機内食をおとなしく、いっせいに食べるのは、なにか羊の群を思わされ、時々屈辱を感じる。私の友人は、月に少なくとも五、六回海外への出張があるが、やはり機内食を断る口である。  彼女は銀座の行きつけの小料理屋で、あらかじめ作ってもらっておいた小さめの二段弁当を必ず持参し、まず座席に落着いてからそれをゆっくりと食べ、そして毛布を被り、アイマスクをして目的地まで眠ってしまうのだ。  私自身は、彼女ほど海外に出かけて行くのは多くなくて、せいぜい月に一度どまり。しかし最近は、オードブルのキャビアと、コンソメがあればコンソメスープ、メインはパスして、チーズと果物とポートワイン、そして最後のコーヒーとブランデー。そんな食事が多くなった。  スチルトン・チーズとセロリスティック、そしてポートでうっとりしていた時のことである。隣の座席で、機内放送の音楽を聴きながら食事をしていた男が、ふとイアフォーンを外して、私に話しかけてきた。 「ポートがお好きのようですね」 「ええ」  と答えた。横に坐っている男の顔を時々|覗《のぞ》きこむのも妙だから、乗りこんだ時、しっかり見ておいたのだ。顔に余分の肉のついていない、ひきしまった表情で、中々の男前であった。年齢は四十前後か。  いわゆる青年実業家のタイプではなかった。あんなふうにギラギラしていないし、自信過剰な感じもない。淡々とした自然体。座席に着くなり靴を脱いでスリッパにはきかえたりもしない。  かといって三宅一生とかコム・デ・ギャルソンの男物を着こんで、リラックスしすぎてもいない。  あとは、あまりお喋《しやべ》りでなければ、申し分がないところだ。 「ポートが好きというよりは、このチーズとの組み合わせだけが好きなんです。だからスチルトンのない時は、飲まないこともあるわ」  隣りの男は微笑して、うなずいた。 「ポートがとりわけお好きなら、ある店をご紹介しようと思ったのだけど」  と、男が続けた。  シャツはヘンリーネックで、衿の中にクラバットを結んでいる。上着は脱いでクローゼットにあずけるのを、さっき見た。シャツの上に、柔らかそうなバックスキンのチョッキをつけ、ボタンは自然に留めてあった。 「どんなお店?」 「ニューヨークにあるレストランなんですがね」  と男が答えた。 「あまり気取らないフランス料理店で、味はまあ及第です。イタリアンに近いのかな、ぼくは気に入って、よく利用しますがね」  優雅な指使いで、ラディッシュをつまみ、塩をひとふりし、無造作に口に入れた。彼が皿に取ったチーズは、ブリュー。柔らかさかげんは、ほぼ完璧と見た。トロリと中味がはみ出しかけている。 「そこで出すポートが、めったにお目にかかれないビンテージものでしてね」  何かのシーンを思い出すような感じに眼を細めると、男は自分のトレイの上からポートを取り上げて口へ運んだ。 「ポートのビンテージ?」 「そうです。十五年ものと二十年と確か二十五年があったと思う」 「味、相当違います?」 「もちろん。コクがある。甘さがまろやかで、後に残らない。上等のワインに通じるものがありますね」 「ニューヨークのどのあたりにありますの?」  と私は興味を抱いた。「レストランの名前、教えて頂ける?」 「おいでになる気がおありなら、ご案内しますよ」  男はさりげなくそう言った。  彼の話し方には、独得の魅力があった。普通の言葉で表現しているのにもかかわらず、そのニューヨークの小さなフランスレストランは、いかにも居心地が良さそうな感じで、料理も味も良いセンスをしているのであろうと、こちらの想像力をかきたてる。 「ニューヨークは何日くらい、滞在なさるの?」  と今度は私が質問した。 「それが、一泊だけなんですよ。ワシントンが今回の目的なもので。——泊る必要もなかったのだけど、ニューヨークは好きな街なもので、通過してしまう気がしなかった」  そう言って男は穏やかに笑った。「あなたは何日くらい?」 「偶然ね。私も一晩だけ。ジャマイカに行く途中なの」  ジャマイカ、と男は口の中で呟《つぶや》いた。ジャマイカね、ともう一度呟き、輝くような眼をした。 「どうかして?」  と私は思わず訊いた。 「不思議だね。何度も耳にしたことのある名前だけど、あなたがそれを口にした時、初めて聞くような気がした」  男の脳裏には、どのような光景が浮かんでいるのだろうか。 「ちょっと前後してしまったけど、僕はこういうものです」  と、男は足元の小型のブリーフケースの中から、名刺を取り出して、私に渡しながら言った。私は名前を読み、職業を見た。長坂尭。環境デザイナーとあった。 「私は名刺にすりこむような職業を持っていない女ですけど、どうぞよろしく」  私はあえて、語尾を濁し、本名を伝えなかった。 「そうですか。何か専門職をお持ちの感じを受けたけど」  別に失望をしたような感じでもなく、男が答えた。 「専門職って、ファッション・デザイナーとか、スタイリストとかそういうこと?」 「そう、自由業のスペシャリストという意味です」 「何かを創り出す仕事ね? 何のために?」 「お金のため。まず人間生きて食っていかなくてはいけない。次に自分の歓《よろこ》びのため。創造する歓びというのがある。あるいは名誉が満たされる歓び」 「食べていくためなら、働く必要はないわ。それに何かを創ることに、歓びを感じるタイプじゃない。名誉欲もないし」  私はさらりと否定した。 「親の財産を優雅に使いきるのも、創造力の問題ですよ」  男は屈託のない口調で言った。そう思わしておいても、そうまちがいはないので、黙っていた。 「でもね、お金があり過ぎるというのは、本来あまり優雅なことじゃないわ」  私は少し投げ遣《や》りに答えた。 「まず、人を疑ってかかるわね」 「あなたに近づく男たちはみんな、あなたの財産めあてだと?」 「実際に、そうよ」 「ご自分の美貌《びぼう》も魅力も認めていない?」 「それがことを更にやっかいにするのよ」  私はニコリともせずそう答えた。別に照れることも謙遜《けんそん》する必要もない。照れも謙遜も媚《こび》の一種だ。 「親の金を、すっきりと使いきるという職業も、やりようによっては素敵だな」  と男が口調を変えた。 「素敵かどうか知らないけれど、私は自分にとって気持のいいことだけして、生きていきたいわ。お金の最大の魅力のひとつは、それが出来ることね」 「何かで読んだことがあるけど、オナシス夫人時代のジャクリーン・ケネディは、ミラノの靴屋に行くと、最低三十足は一度に買うっていうね」  男は声に少し皮肉をこめた。 「イメルダ夫人はその上を行ったわ」 「あなたの靴の数は?」 「驚くなかれ」 「更にその上を行く?」 「まさか、普段はほとんどこれで通すわ」  私は毛布の下からスニーカーを少し覗《のぞ》かせた。 「ほう、うれしくなるね」  男が表情をゆるめた。「まさか夜会服の時にも、その靴ってわけにはいかないと思うけど」 「ひとつ持ってるわ。フェラガモの夜会用の靴。夏冬どっちにも使える。あとはウェスタンブーツが一足に、中ヒールのブルーノ・マリが二、三足。その程度よ。型が崩れたりあきたら、それを処分して新しいのを買う。ケチだと思う?」 「とんでもない。所有するものが少なくなれば少なくなるほど、洗練されていくんだと思う」 「身軽でいたいだけなのよ」  私はスチュワードに合図して、眼の前のトレイを下げるように手振りで伝えた。  私のワードローブを見て、友だちはほとんど唖然《あぜん》とする。下がっている服が数えるほどだからだ。ほんとうに好きなものだけを、気のすむまで着こむ。  カシミアのベージュの何の変哲もないセーターなど、首回りはゆるんでいるし、袖口も伸び切り、肘《ひじ》のあたりは膨らみ、毛玉は取っても取っても出来るが、着心地が抜群にいいので、あと一回、もう一回というようについつい着てしまう。そのセーターに南洋真珠のネックレス、ピンクがかったベージュのジョーゼットのスカートという組合わせで、パーティーに出てしまったりする。  現に今着ているのが、そのセーターで、素肌にブラジャーもせずにすっぽり着ている。下はごくゆったりとしたジーンズ。飛行機の中では、躰を締めつけるものは絶対に身につけない。アクセサリーの類も一切なし。 「ジャマイカ行きの荷物、これだけよ」  と、私は、椅子の下のオーバーナイト用の、昔から使っているエルメスのバッグを指さして示した。 「それで何日滞在するつもり?」  と長坂尭は面白そうに訊いた。 「一週間。二週間。一カ月。一年。わからないわ、そんなこと」 「一泊以上のものが入っているとは思えないけど」 「実際にたいしたものは入っていないのよ。歯ブラシと水着」 「それだけ?」 「ほとんどそれだけ。あとはクレジットカード数種とパスポート。パンティーの替えが少々」 「それで世界を旅しているわけ?」 「暑い国はこんな感じよ。寒いところはこれにセーター一枚。セーブルの毛皮のコートがあれば、下はタンクトップでも過ごせるわ」 「旅に、あなたは何を求める?」  彼は興味深そうに訊いた。 「出逢い」  ズバリ一言、私は答える。 「男との?」 「とはかぎらないわ。女でも。要するに人間。あるいは風景でもいい。私をドキドキさせてくれるものだけに、出逢いたい」  スチュワードが私の前から皿やグラスを下げて行く。 「旅先に、そうそう、そんなドキドキするような出逢いがあるかな」 「ほとんどないわね。だから次に期待して、また出かけて行くんじゃないのかしら」  私はコーヒーを断り、テーブルを座席の肘のところへ戻した。 「ニューヨークへは何時に着くの?」  と通りかかったスチュワードに訊いた。午後の四時前後だということだった。 「じゃ私、少し眠るわ」  私は長坂尭に言って座席を倒した。 「どうぞ。でも残念だな。あなたと話していると、実に楽しい」 「続きは今夜」 「今夜?」 「ニューヨークの、ポートワインのすばらしいレストランに、案内して下さるんでしょう?」 「ああ、そうだった。もちろん、喜んで」  長坂尭の顔の上に、意外にも少年ぽい笑顔が広がった。  私たちはケネディ空港でいったん別れた。私はあらかじめ予約しておいたリムジンで、プラザ・アテネに向った。私のニューヨークの常宿だ。  長坂尭との約束の時間は七時半。彼は私のホテルまで迎えに来ると言ったが、私は断った。  一度しか逢っていない男に、泊っているホテルを教えるほど私は無防備ではない。そこで待ち合わせは、そのレストランに近いホテルのバーでということになり、ピエールのカフェバーにきめた。  ゆっくりと風呂につかり、髪を洗い、着替えると、七時。タイミングとしてはちょうど良い。  と、その時電話が鳴った。私がここに泊っているのを知っている人間は一人だけだ。  出るといきなり、「やっぱりそこか」  と夫が言った。「どうしてまっすぐアパートへ来ないのだ」 「毎回同じことを訊かないでよ」  と私は受話器を顎《あご》ではさんで、ブラウスのボタンを留めながら答えた。「色々と、証拠|湮滅《いんめつ》の時間がいるでしょうからね」 「ばかなことを言うなよ」  と夫は軽く受け流した。 「ばかなことじゃないわよ。この間なんて、洗面台の下の扉の中に、実にさりげなくタンポンの箱が残してあったわ」 「嘘をつけ」  夫は、全く取り合おうとしない。 「あれはね、忘れたんじゃないわよ」  と、私はかまわず続けた。「わざと置いて行ったのよ。女にはわかるのよ、あれは一種の挑戦状ね」 「そんなものが置いてあるわけがないんだ」と夫はあくまでも否定した。「僕に罠《わな》をかけようとしても、その手には乗らんよ。そんなものを使う女なんて、いないんだから、わざとも何も、置いてあるはずはないよ」 「いいから今夜一晩かけて、よおく家探《やさが》しすることよ。あなたのクローゼットの中で、背広やジャケットに実にさりげなくまぎれこませてあるナイティーとか、靴下の入っているひき出しの中に、小さく丸めて放りこまれているナイロンのストッキングとかに、気をつけて」 「まったくきみときたら、想像力がたくましいんだから」 「言っとくけど、タンポンやストッキング程度なら見逃してあげるわ。それ以上はだめよ」  私はきっぱりと言った。 「そんなに僕のことが心配なら、なぜこっちへ来て一緒に住まないんだ?」 「パパを一人にするわけにはいかないでしょうが」  母が亡くなって以来、私の父は私と同居している。正確には、父の広いマンションに私たち夫婦が移って、父の身の回りの世話をしているのだ。 「亭主より、父親の方が大事なんだよな、きみは」 「おっと、気をつけて物を言った方がいいわよ」  と私は皮肉をこめて言いかえした。「私より、あなたの方が、パパを大事に思うべきよ」 「それ以上、言わなくてもいいよ。身にしみてわかっている」  夫が現在ついているニューヨークでの職は、私の父の会社の支店長という地位である。父の財産やコネクションの恩恵に浴しているのは、夫もまた私と同じである。 「ご存知の通り、パパは、本心のところではあなたが嫌いだから。信用していないのよ」 「あのな、世の中のほとんどの男親ってものは、そうなんだよ。娘の亭主は眼の上のタンコブ。邪魔なんだ」 「そういうこと」  私はニヤリと笑った。  しかし彼のビジネスの才覚は、確かに群を抜いている。父はその点にだけは一目置いている。私は、彼の美貌《びぼう》の方に一目置いている。結婚して四年になる現在でさえ、つい惚《ほ》れぼれと見入ってしまうような男前なのである。ニューヨークに単身赴任になって半年|経《た》った頃、夫のアパートを訪ねてそこに女の影を感じて以来、私の夫に対する愛情は急速に冷めていったが、未練だけはまだ残っていた。  女の影を感じて以来、私も夫に対して貞節であることを止めたのだ。 「今夜、食事はどうする?」  と、夫が訊いた。 「食事?」  と咄嗟《とつさ》に私は嘘を言った。「時差のせいで食欲なんてないわ。お風呂に入って寝ることにするわよ。あなたは?」 「なんだ、愛想がないな。亭主と飯も食わない、アパートへも来ない。ま、いいさ、適当にやるよ。友だちから電話が入ってたから、そいつと逢うかもしれない」 「じゃ明日ね。お昼頃、直接アパートへ行くわ。証拠|湮滅《いんめつ》の方、万全を期してよね、頼むわよ」 「嫌味だね。どうせ、人の留守に勝手にアパートへ入りこんで、あれこれ嗅《か》ぎまわるんだろう。女の髪の毛を発見したからといって、騒ぎ立てないでくれよ。先週二、三十人のパーティーをやったんだ」 「ベッドの中で?」 「笑うべきなのかね、その冗談」  そして私たちは、電話を切った。  約束の時間に遅れていた。  ピエールのカフェバーは、食事前の一杯をひっかける男女で混み合っていた。長坂尭がすっと立ち上がるのが見えた。 「ごめんなさい。出がけに長電話が入ったものだから」  長坂はセミ・フォーマルな装いに着替え、髭《ひげ》も剃《そ》り直してあった。ジバンシーの微《かす》かなオードトワレの香りが漂う。 「実はあなたに無断で友人を食事に呼んでしまったのだけど、かまいませんか」  およそ悪びれずに長坂が断った。私は肩をすくめた。わずかに失望を感じた。 「なに、肩のこらない男ですよ。それに中々のハンサムボーイで、面白い奴なんだ。きっとお気に召しますよ」 「その方一人で見えるの?」 「いや。僕が女性をエスコートしていると言ったんで、彼もガールフレンドを連れてくるそうです」  ダブルデイトというわけだ。 「もうそろそろ顔を出すはずなんだが」  と長坂は出入口の方へ眼をやった。 「何て名前の方?」 「早瀬っていうんですよ」  私の顔の上で微笑が凍りついた。 「早瀬——?」 「そう。早瀬久雄。こっちでコンピューター関係の仕事をしている男です。ええと——」  と、長坂は改めて訊いた。「僕、あなたの名前を伺っていたかな?」 「いいえ」  と私は押し殺した声で答えた。「飛行機の中でお訊きになったけど、私がはぐらかしましたの」 「もう教えてくれてもいいでしょう。友人になんと紹介したら良いのか困りますよ」  彼は両手を広げ、笑った。私も笑い返した。もちろん作り笑いだ。 「で、その人のガールフレンドのことは、よくご存知なの?」 「何度か逢ったことはあります。多分今、一緒に住んでるんじゃないかな」 「その方、独身なの?」 「結婚してますよ。僕は奥さんのことは全く知らないし面識もないけど」 「なんだか、妙な話ね」 「何がです? 結婚している男が別の女と一緒に住んでいること? よくある話じゃないですか」  出入口に人影が射した。女を先にして、私の夫の姿が見えた。 「どうやらひどく面白いことになりそうね」  と私は言った。 「どうしてですか?」  私の声の調子にふと不安を覚えたのか、長坂が口ごもった。 「どうしてかっていうとね、私の名前も早瀬。早瀬由美子。そして今、女と一緒にこっちへ歩いてくるのは、私の夫」  長坂は、あれぇとか、おやおやとか、何かそのようなことを、しきりに呟《つぶや》いて、首を振り続けた。  ヒレ酒  冬の間に一度かせいぜい二度あるかないか程度の、酷寒の夜になるのだろうか、歩道を急ぐ人々は白い息を吐き、顎《あご》をコートの衿の中に深く沈めたまま早い歩調で歩いて行く。  それでも、ついこのあいだ、大晦日《おおみそか》をロンドンで過ごしたあの夜の寒さには比べようもない、と波子は|霞ヶ関《かすみがせき》の地下鉄に向いながら、溜息《ためいき》をついた。  身も心も凍りつくような、あの恐しいような冷気が、どこか焦げた煙のような匂いとともに、思い出される。  夫との仲を、直接引き裂いた底冷えの寒さ。あの大晦日の翌朝から——つまり、新年早々、波子と夫とは旅先で別れ、別々に帰国したのだ。その後、お互いの弁護士同士が話し合いを進め、夫婦は二度と顔を合わせることもないまま、つい先日協議離婚が成立した。  夫であった男と別れたことを悔いたことはない。未練というものは、その相手にどれだけの時間と、情熱と金品を注ぎこんできたかで生じるものなので、波子は夫だった男に対して未練らしきものは皆無だった。一緒に暮らした時間は満二年にもならなかったし、見合いで結婚したくらいだから、惚《ほ》れていたわけではない。  かといって、嫌な男だというふうに感じたこともなかった。二年たっても相手のことがまるきりわからないような気もしていたが、一方では二十年も一緒に暮らした相手のような気も、どこかでしていた。  夫は外見通りの男で、見かけ以上のものは何も持っていなかった。しかし、それが不満であったこともなかった。空気のような存在。ある意味では、理想的な結婚だった。  波子は、翻訳の仕事さえ一生続けられれば、他に条件はいっさいなかった。僕もむしろ仕事をしてくれる女の人の方がいい、と彼は積極的に賛成してから、実は自分には子種がなく、女に子供を生ませる能力がない、ということを打ち明けた。  多分、あの結婚の条件の中で、子を生まずにすむということが、一番魅力的だったのかもしれない、と波子は今思う。彼女自身、比較的世間に名の知れた美容師であった母から、うとまれたとまでは言わないまでも、自分の存在を歓迎されていると感じたことは、子供の時からただの一度もなかった。母を見て成長した過程で、子供というものは、働く女にとっては足手まといなのだと、子の立場からでも、痛いほどの実感があった。  しかし一番の本音は、母の希薄な母性愛に対する不満や哀しみなどが、たえず波子の胸に渦巻いていた、ということであった。ただの一度も一緒に遊んでもらったり、しっかりと抱きしめられた記憶もないまま大人の女になるということは、かなり切ないものである。  そのような育ち方をすると、女というものは、自分に決定的に欠けていたものを補うような生き方を選ぶようになるはずなのだが、波子は違っていた。  子を生み、良き母の道を選ぶかわりに、仕事を取った。母と同じように、とは誰にも言わせない。母は波子を生み、徹底的に孤独の中に放置した。学校から無人の家に帰るのは、どんな場合にも淋しかった。波子の人生には、カラリとした晴天というものがなかった。どんなに良い天気でも、うっすらとフィルターを通して見る淋しい景色のように、彼女の眼には映る。哀《かな》しみ色のフィルター。  波子は子を生まないことで、母とは違った生き方をしているのだ、と自分を納得させるのだった。  子種のない夫の性欲は実に淡白だったが、そのことを波子はむしろ歓迎した。たまにそういうことがあると、一刻も早く彼が終ってくれることだけを望んだ。結局、波子は夫を愛してはいなかった。  年を取ると波子の母は、孫を欲しがった。いくつか自分の名を冠した美容院のチェーンを持ち、現場の作業からは手を引くようになると、マージャンと旅行が母の唯一の楽しみとなった。  母が孫のことを口にすると、波子は何食わぬ顔で、まだなのよ、と答えた。決して子供が出来ないことを打ち明けなかった。首を長くして待たせて待たせぬくつもりだった。それが波子のささやかな、母に対する復讐《ふくしゆう》なのだ。  地下鉄に向う道のりの間に、断片的に波子の頭に浮かんだのは、そのようなとりとめのないことであった。  トラファルガー広場で迎えたニューイヤーの後で、気持の上では右と左に別れ別れになってしまった夫は、今どうしているのだろうか。あの濃霧。あの冷気。あの酷寒のせいなのだが。もしもあの時、あのような霧が出ていなかったら。あるいは、上手《うま》くタクシーがつかまえられていたら、運命は違ったものになっていたかもしれない。  トラファルガー広場のニューイヤーズ・イヴ風景を、見物してみようよと言いだしたのは、波子の夫の方だった。  日本でも除夜の鐘をさかいに、おめでとうの言葉を交わすが、ヨーロッパやアメリカでも真夜中の十二時を合図に、広場に集まった群衆がいっせいに歓声を上げ、見知らぬ人々と抱擁を交わし、キスをして新年を祝いあう。  夫と二人でさし向いになり、ホテルのバーで十二時になるのを待つよりも、と波子も積極的に賛成して、ケンジントンのホテルからタクシーでトラファルガー広場へと向った。  毛皮のコートの下に純毛のタイツをはき、タートルネックのセーターで防寒の準備もおこたらなかった。  それでも、広場に降りたって十分もすると、冷えが靴の先から滲みこんで、足踏みをするほど寒かった。十二時までは、まだ一時間以上あった。 「パブにでも入って、飲んで待つことにするか」  と夫が白い息を口元に絡みつかせながら言った。  けれども、周辺のパブは、同じ思いで集まって来た老若男女で超満員で、入口の扉さえ開かないほどであった。  ひときわ背の高いロンドンのポリスマンが、二人一組でパトロールしているのとすれ違った。両手を後ろ手に組み、いかにもリラックスした様子で歩み去って行った。完全な丸腰である。何か起こったらどうするのだろうか。いつだったか、イギリスの警官は、どんなことがあっても絶対に駈け出さないと聞いたことがある。  厚いタイツをはいていても、大腿《だいたい》から腰にかけて、まるで何も着ていないみたいに、冷えびえと寒くなって来た。  こんなことなら、ホテルにいるんだったわ、と波子は口に出して呟《つぶや》いた。すると、自分でも驚くほどのボリュームで、白い息が顔の前で渦を巻いた。  喋《しやべ》ると出来る白い息は、たちまち冷えて口元を凍らせた。  じっとしているとたまらないので、二人は黙々と広場《スクエア》の一番外側を歩き始めた。刻々と集まって来る群衆でスクエアの中は膨れかえっていった。 「舌が焼けるほど熱癇《あつかん》の、ヒレ酒が飲みてぇなあ」  と、横で夫が言った。波子はわけもなくかっとした。 「バカなこと言わないでよ」 「何が?」  波子の剣幕に驚いて、夫がぽかんと訊《き》き返した。 「ヒレ酒なんて、ロンドンで飲めるわけないでしょ」 「ただ、言ってみただけだよ」 「そういうのって耐えられないわ」  自分でも、自分のエスカレートする怒りをもてあまさないでもなかった。あまりの寒さのせいで、底意地が悪くなっていたのだ。 「そういうのって?」  相手も当然のことながら、苛立《いらだ》ちを強めていた。 「よく考えてから物事を言わないことがよ」  すぐ前を行く二人連れが、ぴったりと抱きあうようにして歩いていた。そんなふうに身を寄せあったら、多少は温かいのだろうか、と思ったが、なぜかそれを見たために、夫婦の距離は逆にこころもちだが、開いてしまった。 「何をそうキリキリしているんだろうね」  と夫はうんざりしたように群衆の中心の方へと、視線を背《そむ》けた。 「寒くてたまらないわ。帰りましょうよ」  と波子はついに弱音を吐いた。 「どうせなら、十二時までいようよ。あと少しだから」  夫は腕時計に顔を寄せて言った。 「肺炎になっても知らないから」  足踏みしながら波子が言い返した。ミンクの毛皮を通して、冷気が肩にくいこむ。 「肺炎になぞ、きみはならんよ」  嫌味な言い方だった。 「十二時を回ったら、タクシー拾えなくなるんじゃないの?」 「大丈夫。拾えるよ」  夫はめんどくさそうに答えた。 「もし拾えなかったら、どうするつもり」  と波子はこだわった。 「その時はその時のことだよ」 「歩いて帰るの?」 「仕方がないじゃないか」 「車で十五分を歩くとしたら、その五倍はあるのよ。そのことわかってるの?」 「走ればいい。体も温まるし、一石二鳥だ」  夫はますますやけ気味にそう答えた。  トラファルガー広場を一周して、元のところまで戻って来た。パブは相変らず超満員でドアの外にまで、手に飲みものを持った客たちであふれている。信じられないことに、彼らが手にしているのは、ジョッキに入ったビールだった。 「あんなものよく飲むよね。体の内側から凍りついてしまうだろうに」  夫は感心したように、男たちを眺めて立ち止った。波子はそのまま歩き続けた。立ち止ると、寒さがひときわ増すような気がしたからだ。  ほんの数秒の間に、波子と夫との間を、人々が埋めた。波子はそのまま押されて、輪の内側に巻きこまれ、あっという間に、夫の姿を見失ってしまった。  人々に逆行して、ぶつかったり、まさつを起こしながら、後戻りしたが、その時にはすでに、二人の間を四、五十人の人々がへだてていた。腹立たしさと不安とが、波子の胸を襲った。  闇雲に歩き回っても意味がないと、さとるまで、波子は夫の姿を探し求めた。濃紺の長めのオーヴァーコートに、同じ色のカシミアのマフラーを首に巻いた夫は、しかし、忽然《こつぜん》として彼女の視線から消えてしまった。  人々をかきわけて眼をこらしているうちに、波子はがぜん猛烈に虚《むな》しくなっていく自分を感じていた。  必死になって探しだしたとして、その後の二人の挙動を思うと、ひたすら虚しいのだった。多分、お互いに相手を責め、相手を攻撃しあい、どちらも勝った気もせず、苦々しく黙りこむのだ。抱擁もなければ、そのあとに続く優しい言葉もない。  もしもこのまま、二度とあの人が探しだせなくても、自分はかまわないのではないか、とふっと波子は思った。そう思っても、後めたくもなく、泡立つような不安もなかった。  再び出発点に戻ることを思いつき、群衆の一番外側で次第に騒然としてくる輪の中を眺めていた。  呆気《あつけ》ないくらい不意に、人々の頭上で拡声器がウェストミンスター寺院の鐘の音を、響き渡らせた。夥《おびただ》しい人の波が動揺したようにどっと揺れ動き、次いで歓声が上がり、クラッカーがあちこちで乾いた音で破裂した。  大騒ぎの中で、人々は前後左右の人たちと抱擁を交わし、ハッピーニューイヤーと口々に叫んで、笑っていた。  波子も見知らぬ男や女に抱きすくめられて、頬にキスを受けた。どの唇も寒さのために冷たかった。そしておめでとうの言葉を浴びせかけられた。  ふとその時、夫も同じように見知らぬ他人の抱擁を受けているのだろうか、と思った。そしてもしも、二人が迷子にならず一緒にいたとしたら、周囲の人たちと同じように、自分たち夫婦はぎこちなく抱擁を交わすのだろうか。抱擁しあうかもしれない、と思った。周囲の人々の眼を気にして。しかしその周囲の人々とは何なのだ? 全くの他人。二度とすれ違うこともないだろう異国の人々。それでも、その人々に自分たち夫婦がどのように映るかを、気にするのだろうか。  密度のあった人ごみに、だいぶ余裕が生じ、あちこちに透き間が生じ始めていた。早々に帰路につく人々の流れが、逆方向に動いていく。  しばらくの間、それらの人々の流れと共に波子も歩いていた。夫を探す気力は、もうなかった。それよりタクシーをつかまえて、一刻も早くホテルへ戻って、ベッドへ潜りこみたかった。  ケンジントンというサインの方向に、ひたすら歩き、時々立ち止っては空車のタクシーを探した。ほとんど絶望的だった。波子と同じように車を求める人々が他に何百人、何千人といた。  途中で急に霧が出始めた。まるで、そこでじっと待ちぶせでもしていたかのように、不意にそれは出現した。  またたくまに数メートルの視界もきかない濃霧となって、彼女をのみこんだ。  それまで、前後左右を黙々と歩いていた人々が、忽然《こつぜん》と消えて、波子は乳白色の不思議な世界の中を、たった一人で、歩いているような気がした。  霧は、たちまち彼女の髪をしっとりと濡《ぬ》らし、そのぞっとするような冷気で彼女を震え上がらせた。  霧は、衿元からも、袖口からも、スカートの裾からも、容赦なく忍びこんで来て、体温を奪おうとした。  わけもなく夫が憎かった。それから、この旅行に無理矢理に自分ら夫婦を追いやった母親が憎かった。  外国でロマンティックにクリスマスとお正月を迎えれば、夫婦に子が出来ると言って、この旅行のスポンサーを買って出た母であった。  来てみても、格別ロマンティックなことが起こるわけでもなく、クリスマスには、波子は夫に紺のカシミアのマフラーを贈り、夫は彼女にエルメスの大判のスカーフをくれた。  霧の中をどれくらいの時間、さまよい歩いたのだろうか。下半身が冷気でほとんどしびれ、感覚を失っていた。  ホテルの見なれた階段と、その奥の黄色味を帯びた明りを認めた瞬間、波子は安堵《あんど》と疲労とで気を失いかけた。  フロントでキーをもらおうとすると、すでに夫が戻っているらしく、キーはなかった。  部屋に上がると、夫も今さっき戻って来たばかりだと、パジャマ姿で言った。室内は暖房で暖かかったが、波子はすぐにコートを脱ぐ気も起きない。 「熱々の風呂に入れよ。ほっとするから」  と夫は言って、先にベッドに潜りこんだ。 「そんな気力、どこにも残っていないわよ」  と彼女は呟《つぶや》き、自分のベッドを眺めた。ベッドメーキングをされた整然としたベッド。あの中に潜りこんでも、朝まで手足は冷えたままだろう。泣きたいような気分だった。  そして自分でも驚いたことに、波子は本当に泣きだしていた。啜《すす》り泣きの声に、夫が顔を上げて妻を見た。 「どうした」  と訊いた。 「わからない」  と波子は答えた。 「ほっとして気がゆるんだんだろう」 「ほっとなんて、していない」  彼女は茫然《ぼうぜん》とした思いで呟《つぶや》いた。 「行き別れになったのは、僕のせいじゃないよ」 「あなたのせいだなんて、考えてもいないわよ」 「じゃどうしたんだ」 「すごく寒いのよ」 「だから熱い風呂に入れと言ったろう」 「そうしたとしても、やっぱり寒いのは変らないと思うのよ」 「風邪《かぜ》をひいたのかね」 「躰《からだ》だけじゃなく、心も寒いのよ」  すると夫は黙った。  彼女はまた泣いた。たまらなく淋しかった。寒くて、淋しかった。誰でもいい、しっかりと抱擁してもらいたかった。他に誰もいなかった。彼女は言った。 「抱いて」  夫は彼女を見つめ、黙ってうなずき、上掛けを持ち上げた。  波子は着ているものを次々と脱いで、すっかり裸になって、夫の傍に潜りこんだ。  下着にまで霧の冷気が滲みこんで、ひんやりとしているような気がしたからだ。  夫のベッドの中は、ぬくぬくと温かく、とても気持が良かった。シーツは清潔で、風呂上がりの夫は石鹸の良い匂いがしていた。  けれども、躰を寄せあっているその男は、波子にとって他人よりも遠い存在のような気がした。  その見知らぬ男の手が、ゆっくりと波子の全身を這《は》い回った。  ロンドンの夜の冷気よりも寒々とした性愛だった。彼女は、魚のように冷たい躰のまま、無反応に横たわり続けた。 「ねえ、私たち、だめだわ。そう思わない?」  と、やがてぽつりと彼女が言った。 「どういう意味だ」  夫が眠そうな声で訊いた。 「これ以上、一緒に暮らすのは、無意味よ」 「どうして」 「何もないんだもの、私たちの間に」 「最初は何かあったのかい」  皮肉な声で夫が言った。 「最初から、なかったわ、何も」 「じゃなんで、急にそんなことを言い出すんだ」 「あなたはこのままでいいと思う?」 「最初から、何も期待していなかったからな。従って、さして失望もしていない。きみだって同じだと思っていたが」 「ええ」  彼女は寝返りを打って天井を見上げた。「ただ、少しずつだけど、段々寒くなってくるみたい」 「今夜は、特別だったのさ」 「そういうことじゃなくて。別れたいの」 「どうしてもか」 「ええ」 「では、しかたないな」 「呆気《あつけ》ないのね」 「どうでもいいのさ。僕は何事にも執着していないから。相手はきみでもいいし、きみでなくてもかまわないのだ」 「そう言われると、気分が楽よ」  波子は夫のベッドから降りながら、ふっ切れたように、そう言った。  それで終りだった。翌朝、短い話し合いの後、波子は予定を切り上げて先に帰国することにし、夫の方はそのまま一人で予定通りフランス経由の旅を続けることになった。  波子の母親は仰天した。良かれと思って送り出した娘夫婦が、この旅の間に離婚を決定してしまったので、その狼狽《ろうばい》ぶりは傍目《はため》にも気の毒なくらいだった。 「一体、何があったのよ」  と彼女はおろおろと訊いた。「喧嘩でもしたの?」 「喧嘩をするくらいなら、離婚していなかったわよ、お母さん」 「じゃどうしたの?」 「お互いに、相手のことが好きでもなんでもないってことがわかったのよ」  波子は話題を変えた。 「お母さんは、私を生んだ時には、もう別れていたんでしょう?」 「妊娠しているとは、知らなかったのよ」 「で、そうとわかった後、どうした? 相手に知らせた?」  母は首を振った。「意地もあったし。それに知らせたからといって、また何かが始まるのもめんどうだった」 「じゃその人、私がこの世に生まれたこと、知らないのね?」 「さあ。どうかしら。世間は案外狭いからね」 「知ってるかもしれない?」 「そうね」  そう言ってから、母はまた首を振った。「いや、多分知らないよ。知ったら、何か言って寄こすはずだもの。そういう男だったから」  胸の奥の方が、きりきりと疼《うず》いた。父親にあたる男にとって、自分はまったく存在さえもしない子供なのだ、という事実が、改めて胸に応《こた》えた。 「どうして、今頃になって、そんな大昔のこと訊くのよ」  と母は迷惑そうに顔をしかめた。  自分の過去がわからなかったら、今現在、自分がどのような位置にいて、そして今後、どんなふうに歩んでいくべきか、およそおぼつかないのだと、母に説明しようとして、波子はやめた。  霞ケ関から地下鉄に乗り、新宿《しんじゆく》に出た。翻訳の仕事で、出版社の人間と打ち合わせがひとつ入っているのだ。  今度の仕事も、有名な作家の下訳である。自分の名前で翻訳本を出すのにはまだ相当の下積みが必要である。じっくり良い仕事を続けるしかしかたがない。  下訳に要求されるのは、むろん正確な翻訳の腕だ。正確で、水のように自然に流れる文体。なまじ自分の独自の文体などを持っていると、作家に嫌われる。リライトの邪魔になるからだ。間違いさえなければ、直訳でもかまわない。むしろ直訳の方がありがたいのだ、という作家も少なくない。  編集者との待ち合わせは、地下道から上がっていける中村屋の地下の喫茶店であった。打ち合わせは十分ほどで終った。原作の英語のペーパーバックをバッグにしまい、〆切り日の目安を手帳に書きこんだ。 「この後、何か予定が入っていますか」  と、その編集者が訊いた。波子は別にないが、と答えた。 「じゃ、よかったら、ヒレ酒でも一杯つきあってもらえますか。今夜は格別に冷えそうだから、家に帰るまでの燃料が必要なんですよ」 「お宅は、遠いんですか」 「平塚《ひらつか》です」 「私にも燃料が必要みたい。喜んでおつきあいしますわ」  その男が案内したのは、カウンターだけの小料理屋で、客が十二、三人も入れば一杯の店だった。  ノレンをくぐると、八割がた、席が埋っている。連れだって来ている者は少なく、それぞれ一人で、店主を相手に熱癇《あつかん》を飲《や》っている。 「まずはヒレ酒」  と編集者は、熱いおしぼりで手を拭きながら、カウンターの奥に注文した。 「冷えますな」  と店主は調理の手を休めずにそう受けて、傍の若い者に客の注文をくり返した。 「うんと熱くしてください」  編集者はそう言い添えた。 「ヒレ酒と、勝手に注文してしまったけど、嫌いじゃないでしょうね」  改めて彼が波子に訊いた。 「頂きます」  ロンドンで、ヒレ酒が飲みてぇなあと言った夫と、思わずかっとして口喧嘩してしまったことを思いだしながら、波子は答えた。あの時、なんであんなに腹を立てたのか、一月たってみると、実に不思議な気がする。 「離婚したそうですね」  穏やかに、編集者が言った。「連絡先が変ったという知らせをもらって、ちょっと聞き回ったんですよ」 「別に隠しだててもいませんから」 「やはり、仕事と結婚は両立しませんか」 「それが——」  と波子は微笑した。「仕事を最優先して相手を選んだものですから、仕事に関しては何の問題もなく自由にやれたんですよ」 「で、問題は?」  おしぼりを無造作にたたんでカウンターに戻しながら、連れの男が訊いた。 「お互いにそんなふうだったものだから、いてもいなくても、ぜんぜんかまわない。そうしているうちに、いなくてもいいんじゃないかってことになって、それで——」 「もう結婚は、いいですか」 「そんなことはないと思うけど。同じ過ちはくり返したくないですね」 「結局、相手に一度は惚《ほ》れなけりゃね。すったもんだやって、味が出てくる」 「そうね。今度はドキドキしてみたいですね」  二人の前に、ヒレ酒のコップが置かれる。編集者はなれた手つきで、酒の表面にマッチの炎を移して、余分のアルコール分を飛ばした。 「では乾杯」  コップを合わせる。指先に、酒の熱さが滲み通る。  鼻先に持っていくと、湯気で顔の毛穴が広がるのが感じられる。独得の匂いが、鼻孔の奥を打つ。  口元まで運んだとたん、胃がムカッときた。思わず波子はコップをカウンターに置いて、腰を浮かせた。  そのまま怪訝《けげん》そうな表情の編集者を残して、口元を押さえてトイレットに駈けこんだ。一気に吐き、口をすすいだ。心臓の鼓動がやけに早い。  何が何だかわけがわからないまま、少し落着くのを待って、店内に戻った。 「ごめんなさい」  と謝って、席に着く。 「大丈夫ですか」  ええ、と答えたが、再びヒレ酒を手にとる気は起こらない。匂いを想像しただけで、再び胃が泡立って来そうだ。 「どうしたのかしら、急に」  途方にくれたように、波子は呟《つぶや》いた。 「ビールにしますか」  と編集者が訊いた。すると、喉《のど》が乾いているのがわかった。 「お願いします」  ビールは飲めた。それもひどく美味《うま》い。 「もしかして、悪阻《つわり》なんじゃないですか」  心配そうに彼が小声で訊いた。 「え?」  と波子は絶句し、そして笑いだした。 「まさか」 「絶対に?」 「ええ、絶対にありえないわ」  けれども次の瞬間、腹の底に不安が芽生えた。生理が四、五日遅れていることを思い浮かべた。めったに予定日が狂ったことはなかった。波子は眉根《まゆね》を寄せ、口をつぐんだ。あの冷え切った夜の性愛の結果なのか? 夫には子種がないはずだった。  けれども全くないと証明されたわけでもないのかもしれない。波子はその言葉を文字通り信じて疑わなかったが、子種になるものが人よりずっと薄いだけなのかもしれない。  すると、妊娠はなんだか確実なものとして感じられた。奇妙なことだが、自分の子宮の存在が内側から認知できるような気がした。これまでただの一度も、そのような生々しい形で感じたことはなかった。  更に、その子宮の中心に深々と根をおろし、息づいている生命体の、ごく初期の存在さえも、波子にはありありと感知できるような気がした。 「申しわけないけど、先に失礼してもかまいませんか」  と相手に断った。男は、タクシーを探しに、一緒に店の外に出た。 「多分、風邪だと思うんです」  と波子は別れ際に言った。 「お大事に」  と編集者が言った。風邪だなんて、多分信じてはいないのだろう。  狛江《こまえ》の家に戻ると、波子は心が落着くのを待って、かつての夫と一緒に暮らした家の電話番号を回した。  時間は八時少し前。相手が出た。 「戻っていたのね。相変らず、早いのね」 「なんだ、きみか」  と相手が言った。別に意外でもないような口調だった。 「何か用?」 「別に。ただ、どうしているかと思って」 「気にしてくれるとは、妙だね」  わずかに苦さが含まれる声音。「そっちはどう、元気でやっている?」 「風邪ひいたみたいだけど」  と一瞬の躊躇《ちゆうちよ》の後で、波子が答えた。 「なんとかやってるわ」 「風邪っていえば、正月帰国してから、ひどいインフルエンザでダウンしたよ」 「知らなかったわ」 「当然だろう」 「もういいの?」 「なんとか生きのびた」別れたばかりの夫は、そう言ってから、もう一度、「ほんとうに用事じゃなかったのか」  と訊き直した。そうじゃない、と波子は答えた。 「相変らず、寒い気分が続いているかい」 「そうでもないわ」 「じゃ、別れてよかったわけだな、お互いに」 「そうよ。私に遠慮することないんだから、またお見合いでもして、相手を探しなさいよ」 「言われなくとも、もうしたよ」 「いつ?」 「先週」 「それはまた早々と手回しがいいこと」 「皮肉はよせよ」 「で、気に入ったの?」 「相手はおおいに乗り気らしい」 「あなたの方は?」 「可もなく不可もなし」 「あなたはそれでいいわけよね」 「しかし問題がひとつあるんだ」  と別れた夫は口ごもった。「相手は子供を望んでいる」 「あのこと、言ってないの?」 「まだ。——つい言いそびれた」 「あなたらしくないわねぇ」  と波子は胸の中で考えこんだ。 「しかし、最初に子供はあきらめてくれと言って、喜んだのは、きみ一人例外だったんだぞ」 「だったらもっと、私を大事にしておくんだったわね」 「多分、今度の見合いは、結果的にだめだと思うよ」  と別れた夫は、最後に沈んだ声でポツリと言った。  波子は、そのまま電話を切った。彼に妊娠の可能性を知らせないことで、二人のきずなの最後の一本が、たった今ぷっつりと切れたような気がした。  結局、女は母親と同じ軌跡をたどることになるのだろうか。あれほど、母のようにはすまいと、心に固く言いきかせてこれまで生きて来たのだが、血の流れが、母と同じ方向に、否応《いやおう》なしに彼女を押しやる。  少なくとも私は家にいて、あなたが学校から帰って来た時、淋しい思いだけはさせないからね、と彼女は無意識に下腹に手を当てて呟《つぶや》いていた。  ガビ・デ・ガビ  ここまでくると、腐れ縁も極まれりというところだ。どちらも相手に、小指の爪ほども期待していないのに、決定的に別れられないでいる。  うんざりしているのだが、憎んでいるわけじゃない。逢えば寝る。他に話すこともすることもないからだ。  彼と今でも寝るということは、言ってみれば、脱ぎ捨てた時のまま、膝やお尻の形がついているパンティーホースに、再び足を通すような、そんな感じだ。たとえ自分が脱いだものとはいえ、脚の形にふくらんでいるものをまた身につけ直すというのは、あんまりいい気持ではない。  その感覚は、むしろ彼の方に強いのかもしれない。私たちはお互いに、脱ぎ捨てたパンティーホースみたいな間がらなのだ。  そのたとえが我ながらおかしくて、私はクスリと笑った。  すると彼は上眼遣いにチラと私を見る。しかし、何も言わない。 「ねぇ、何がおかしいのって、訊《き》いてよ」  私は、少しも期待しない言い方で言う。 「何がおかしいのかね」  ベッドの中から片足ずつ床に降ろしながら、彼が興味なさそうに訊く。ソックスがくるぶしのあたりで、両方ともぐずぐずになっている。私は背中に寒気を覚える。  私だって、ストッキングをガーターベルトでつったまま、セックスしたことはある。だけど、それとこれとは全然違う。  全裸にソックスでセクシーに見える男なんて、たとえハリソン・フォードだってありえない。たとえハリソン・フォードだって幻滅。恋もさめ果てる。  もっとも、幻滅しようにも、とっくに岩盤にぶち当っているので、これ以下に点を下げようにも下げられない。私は冷えびえとした眼で、我がハリソン・フォードの君を眺めて、言う。 「だめ、みたい」 「何が」  パンツを拾い上げ、足を通しながら彼が訊く。 「われわれ」  私も起き上がり、以前ホンコンのリージェントに泊った時気に入ったので、同じものを買って来た白いタオル地のガウンを素早くまとった。それから、上下のシーツを勢いよく引き剥《は》がし、まるめてバスルームの洗濯機の中に放りこんだ。 「だめみたいって、今日わかったのかい」  寝室に戻ると、彼がYシャツのボタンをはめながら、訊いた。自分はとっくにわかっていたという言外の態度を肩のあたりに漂わせている。  その態度に私は一瞬腹を立てかけたが、怒りは噴出する前に、しぼんでしまった。 「前からわかってたわよ」  鏡の中に向って、髪を首の後ろにまとめながら、私は突き放したように答える。 「で、口に出して言ったかぎりは、何かを決意したのか」  私は、彼がネクタイを締めるのを眺めた。手際よく、きびきびとした動作だ。自分ではなく、他の女の眼に、今朝の彼がどんなふうに映るだろうかとふと考える。  私にとっては、脱ぎ捨てたパンティーホースのようにしか見えない男でも、新鮮な眼には、違って映るのだろう。  いつまでも新鮮であるということなど、望めない。生き物はやがて熟れ、朽ちていくように、人間の関係も、初々《ういうい》しいものから成熟し、いつか朽ち果てていく生き物と同じなのだ。  朽ちて、自然に枝から離れ、地に落ちる。今がその時なのかもしれない。  二人の関係は確かに朽ちたが、私も、彼も、人生のまだ折り返し地点にさえ達していない。このあたりで、彼を解放してあげるのが、親切というものなのではないだろうか。 「ねぇ、もし今別れたら、最低半年は恋人を作らないと約束してくれる?」  彼は、椅子の上からジャケットを取り上げながらチラリと私を見て、 「何だい、それ」  と、素気なく言った。 「約束したら、別れてあげる」 「別れた後のことまで、さしずするのは気に入らないね」  憮然《ぶぜん》として彼は洗面所に消える。 「二度と私の歯ブラシを使わないで」  と、その背中に言ってしまってから、今まで、あの男と歯ブラシが共有できたなんて信じがたい思いに襲われる。そればかりではなく、気分まで悪くなってくる。私は肘掛《ひじか》け椅子の中に沈みこむ。 「歯ブラシは使わなかった。タオルも新しいのを使って洗濯機の中に入れておいた。きみも急いでビデを使った方がいい」  洗面所から戻ると、彼はユーモアを含まない声でそう言うと、 「じゃ」  と言い残して、歩み去ろうとする。 「それだけ?」  一語一語に力をこめて、私は彼を引き止める。 「じゃ、さようなら」彼はそう言い直す。  私はどんな言葉を期待しているのだろう。今の私の心を慰める言葉など、所詮存在しはしないのだ。 「私をどうしてくれるつもりなの、知りたいのよ」  寝室の出入口の手前で、彼は足を止める。 「きみは、どうして欲しい」 「今みたいなすさんだ状態の中に、私を置き去りにすべきじゃないってこと」  私にわかっているのはそれだけだ。 「つまり?」  と彼は私をうながす。「金じゃないな。きみには余るほど親の金があるわけだし、俺は手っ取り早く言えばヒモだった。そのでんで言えば慰謝料を支払われるべきなのは、むしろ俺の方なんだ。あえて言わないが」 「言ってるわ」  私は鼻の先で笑う。「お金、欲しいの?」 「払ってくれるものは、拒《こば》まない主義」 「女から手切れ金取って、プライドが傷つかない?」 「そんなものは、十四歳の時に捨てたよ」  冷えた声で彼が答える。 「十四歳とは早々と捨てたものね。十四歳の時に何があったの?」 「四十の婆さんの相手をさせられた」 「四十で婆さんてことはないと思うけど」 「俺にはそんな気がしたのさ」 「それが初めての体験だったの?」 「金をくれた。俺の当時の小遣いのゆうに十倍はあった。その時なんだ、俺がプライドを捨てちまったのは」  それ以来、彼はその肉体を文字通り使って生きて来たのだ。 「私とも、初めからお金だけが目当てだったのよね」  わかってはいたが、認めるのには勇気が必要だった。 「きみが若くて美人だったので、仕事は楽しかったよ」  あれは仕事。 「だったらその道のプロらしく、仕事に徹すべきだったわね」 「そのつもりだったけどね」 「ソックスをはいたままだなんて、手抜きもいいところよ」 「やっぱり気がついた?」 「もちろんよ」  彼はニヤリと笑う。 「十中八九、女はそれで愛想をつかす」 「わざとやったの?」 「潮刻《しおどき》だと思うとね」 「その手で女と別れて来たってわけ?」 「その手ばかりじゃないさ」  私はなんとなくペテンにかかったような、罠《わな》にはめられたような気分に陥る。 「それで、この私に手切れ金を要求するわけ?」 「失業保険のようなものだよ」 「次のお相手が現れるまでの?」 「こっちも生活がかかっているんでね。不意に解雇されるんではかなわない」 「退職金も要求されそうな気配ね」と、私は苦々しく言った。「ついでに、次の仕事口も紹介してあげましょうか」 「そこまでは甘えないよ」  彼は、戸口に背中をもたせかけ、片足を軽くもう一方の足に重ねるようにして絡め、煙草を取りだす。 「遠慮するなんて、あなたらしくもないわ。山田夫人なんてどう? ご主人はあと三年はワシントンから帰って来ないし、いつだったかランチをやった時以来、あなたにぞっこんよ、彼女」 「あの手は、止めとくよ」 「どうして?」 「のめりこむ。情が深くて、理知的じゃない。情事には一番不向きのタイプだよ。俺は原則として、うんと醜女《しこめ》か、さもなくばとびきりの美人にしか手を出さない。どちらも、プライドは高いんだ。プライドの高い女というのは、絶対に修羅場《しゆらば》を演じない」 「手切れ金の払いもいいしね」 「それと退職金もね」  顔の前に青い煙をたなびかせながら、彼はさり気なく言葉を差しはさむ。 「だけどね、男というもの、修羅場の数を踏まなけりゃ、本物にはなれないわよ」  女は修羅場をくぐると、どうしようもなく汚《よご》れてしまうのは、公平ではないと思うのだが。 「ご心配なく。十代の初心《うぶ》なうちは、何度となく踏んだよ。もっともこっちはおよそ無防備で、何がなんだかわからなかったが、女たちの方で勝手に騒動を演じた。今ガスの栓をひねったって夜中に電話をかけて来た女がいた。俺に駆けつけて欲しかったんだと思う。でも俺は十七、八で、サッカーやってて、綿みたいにクタクタだった。とにかく眠りたかった。それで眠りこんでしまった」 「女がガス自殺するとわかっていたのに?」 「そう」  彼は視線をわずかに落した。 「それ、自殺|幇助《ほうじよ》って言うのよ。立派な罪だわ」 「としても、もはや時効だ」  完璧に感情を隠した声で、彼が呟《つぶや》く。 「それでどうなったの?」 「どうにもならなかったさ」 「無罪放免?」 「十七歳だったんだぜ。むしろ同情は俺の方に集まってしまい、はれものに触るような扱いを受けた」 「悪魔」 「多分ね」  と、彼は歩いて行って、灰皿の中で煙草をもみ消す。「俺と係わりあった女は、一人の例外もなく不幸になったからな」 「一人、例外があるわよ」  私は昂然《こうぜん》と顎《あご》を突き上げた。 「きみのことかい」  と彼は、立ったままゆっくりと私を見おろした。「しかしまだ、終っちゃいないよ」 「もう終ったわ」  と私は手の甲のあたりで寝室のドアの方角を示した。「出て行って」  彼は最後の一瞥《いちべつ》を私に与えると、意外に静かに踵《きびす》を返した。 「お金は一銭も払わない。私は独身だし、恐喝のネタになるようなものは何にもない。もしへたに脅《おど》してきたら、逆に恐喝罪で警察に訴えることもできるわ」  私はそれだけ一気に彼の背中に浴びせた。 「そうかな」  と穏やかに言い残すと、男の姿はドアの向こうに消えた。  そうかなって、どういう意味なのだろう? 警察に私が訴えはしない、とタカをくくっているのだろうか。それとも恐喝のネタになるようなものを、彼が握ったのだろうか。いくら考えても、そんなものは何もない。なぜなら、私が何も恐れていないからだ。名誉も名声もそんなものは最初からないし、彼はあり余るほどあると信じて疑っていないお金だって、あと数カ月で底をつく。  父が残してくれた元金は、この四年間で、きれいさっぱり彼に貢《みつ》ぎ果たしたし、彼には言っていないが不動産も全て手放してしまった。  このマンションの家賃をあと二回払えば、最後の預金がほとんどゼロになる。  もしも、私に、父が残してくれたものがまだそのまま手つかずで残っていたら、私はそれを守ることに汲々《きゆうきゆう》として、彼の最後の言葉を恐れたかもしれない。  あの男のために、何もかも失った。財産も、若さも、青春も。しかし、愚痴はこぼすまい。全て自分の意志でして来たことだ。潔《いさぎよ》いというのが私の性格の特徴ともいうべきで、その潔さを自分でも一番愛して来た。  金の切れ目が縁の切れ目とは、実に良く言ったものだ。このところ私の出費が渋くなっていたものだから、彼の方でもわざと手抜きをしているんだぞ、と、あのソックスで見せしめにしたつもりなのだ。アルマーニの春物のスーツを五着、キャンセルさせたことを、根に持っているのだ。  先月も、車を買い替えたいという彼の要求を断った。断る時に私は何ひとつ言いわけはしない。ただノーと言う。  私がノーと言うことはめったになかったが、いったんノーとなったら絶対に最後まで譲らないので、そのことは、彼も経験から知っている。  そうなのだ。私には、ただひとつだけ恐いものがある。そのことにたった今気がついた。彼に、私が無一文になったことを知られることが、恐い。  一週間が静かに過ぎた。私はじっとしている。じたばたしたって始まらないからだ。じっと時が来るのを待っている。  何の時?  私がここから立ち去り、消える時。  後のことは、まだ何も考えない。仕事を探すのも、もう少し先のことだ。できるだけじっと、静かに呼吸をする。その方が体力を使わないから余計生き長らえる蝶々のような、気持で。  電話が鳴った時、その音で、彼からだということがわかる。 「ちょっと逢いたいんだけど」  と、彼が言う。「そっちへ行ってもいいかな」  私は相手に見えないのに首を振る。 「どうしてもというのなら、逢ってもいいけど。外にしない?」 「じゃ、食事でもする?」と、彼。 「どうでもいいけど」  すると彼は東京で一番高いイタリア料理店の名をあげ、日時を私に伝え、電話を切った。  当夜、彼は前菜にベルーガのキャビアを注文し、一番高いシャンパンを取った。 「用って何なの?」  私は何も手をつけずに、訊いた。  彼はかまわず、キャビアを贅沢《ぜいたく》に食べ、シャンパンを啜《すす》った。一段落すると言った。 「実は、ちょっと助けて欲しいんだ」 「お金?」  私は眉《まゆ》ひとつ動かさない。 「今月分の家賃がまだなんだ」 「いいわ。でも来月からは、私とは無関係よ」  私はきっぱりとそう答える。 「それから——」 「まだあるの?」 「ソファを買い替えた分の、頭金しか払ってないんだ」 「あと幾ら残っているの?」 「八十万」  彼の家賃とソファの残金とで百三十万。私の銀行預金の残高は、それであと七十万ということになる。背中がぞくっとする。自虐《じぎやく》的な歓びが、胃の底から突き上げてくる。 「それで全部?」 「今月の生活費も見てもらわないと」 「今月といったって、あといくらもないじゃないの」 「だから、六十万くらいでいいよ」 「来月からはどうするの?」 「ま、あてはあるんだ」 「早々と次の就職先がきまったのね」  私は、なぜかほっとして、グラスを取った。 「じゃ、乾杯」 「急に、やけにうれしそうだな」 「そう?」 「どうしてそんなにうれしいんだ?」  彼は急に態度を変えて、疑わしい口調で訊く。 「うれしいわけじゃないけど——」 「そんなはずは、絶対にないものな」 「どういう意味?」 「たった今、きみの通帳が空になってしまったんだぞ」  私は、はっとして息を止めた。  何かとてつもなく恐しいことが起ころうとしているのだ。 「実はね、きみの財産関係の調査をしたんだ。悪いけど。きみから、いくらぐらい取れるか、調べる必要があった」  私は、ゆっくりゆっくりと息を吐いていく。さもないと、肺が破れてしまうような気がした。 「それでわかったんだ。銀行に元金が二百万。それだけがきみの全財産だった」 「さぞかしがっかりしたことでしょうね。あなたのその時の表情が眼に見えるようだわ」 「俺のことは、この際どうでもいい。わからないのは、きみの今の態度だ」 「使っちゃったものは、使っちゃったものよ。後悔したって戻らないから、後悔しないの」 「それだけじゃない。今日のきみの態度はどういうことだ? なけなしの二百万のうち、俺が要求した百九十万、文句ひとつ言わずに出そうっていうその気持なんだ、俺にわからないのは」 「今日でなければ二カ月後にはゼロになるわ。それだけのことよ」 「わからないんだよ。おまえのことが」  彼の声が軋《きし》んだ。 「あんなに湯水のように金を使って——」 「ちょっと待ってよ。あなたよ、使ったのは」私は笑った。 「もしもきみに、財産管理の能力がゼロだとわかっていたら、俺だって少しは自重したよ」 「でも結局、ちょっとだけ時間が延びるだけで、結果は同じだわ」  私は口をつぐんだ。一時も早く、彼の眼の前から消えてしまいたかった。今ほど、自分を無防備に感じたことは、これまでの人生に一度もない。  私は伝票に手を伸ばした。その手を彼の手が掴《つか》んだ。 「いいよ」 「どうして?」  私たちの視線が絡んだ。 「お願いよ、あと一度だけ」 「それで一体何を証明しようというつもりなんだ?」 「何も——ただ」 「ただ?」 「私の役をやり遂げたいだけよ」  私は伝票の金額を見た。「まだ少し残るわ。何かで乾杯しなおしましょう。そしたら、私は消えるわ」 「もういいよ」  と彼は、静かだがきっぱりと言った。 「俺の負けだよ」 「負け?」 「そう。きみの勝ち。きみが勝ったんだ。すっからかんの文無しになって、きみは勝ったんだよ」  私はふに落ちなかった。 「私、何に勝ったの?」 「俺の宗旨を変えさせた」 「どういう意味?」 「絶対に結婚だけはすまいと思っていたんだが——」 「結婚って、誰が?」 「俺だよ」 「結婚するの? 誰と?」 「おまえと」  私は唖然《あぜん》として、彼を見た。 「私が、あなたと?」 「他にどうしようもあるまい」 「どうして?」 「責任の取り方の問題さ」 「あなた、何か誤解してるみたい」 「そうかな」 「そうよ」  私はウェイターに合図をして、ワインリストを持って来させた。そしてその中から、ガビ・デ・ガビを選んで、注文した。 「今の話、聞かなかったことにするわ」  ワインが来ると、私は言った。 「どうして。俺はある程度本気なんだぞ」  ある程度という言葉に、本音が吐露しており、いかにも彼らしかった。 「でもあなたが本気になるのは、何か滑稽《こつけい》よ。あなたらしくないわ」  私はグラスを掲げた。 「それに今のあなたの言葉、これまでの四年間の中で、一番馬鹿げている。これ以上、私に幻滅を味わわせないで」  彼もしぶしぶグラスを掲げる。私はそれに軽くぶつけて、グラスを合わせた。 「しかし、それじゃ、きみばかりが格好良すぎる。俺の立つ瀬がない」 「そんなの、一番始めからそうじゃないの。あなたの立つ瀬なんて最初から一度だってなかったし、最後までないのよ」 「夢みたいなことばかり言っていないで、現実を見ろよ。さっそく明日から無一物で、どうやって生きていくつもりなんだ」 「少なくとも、あなたの所に、転がりこむことだけはないから、安心してちょうだい」 「転がりこめばいいじゃないか。家にあるものを質屋にでも持って行けば、半年くらいは二人で生きて行ける。元はといえば、きみの金で買ったものなんだ」 「そういうの止めてくれないかなぁ」  と私は椅子の背に背中をあずけ、天井を眺める。 「仮りに半年持ちこたえたとして、その後はどうなるの? 生活無能者が一人ならともかく二人そろって、どうするつもり? 冗談じゃないわよ、そんなことしたら、あなたなんて本格的なヒモになって、私は歌舞伎町あたりに毎晩立たされるのが落ちじゃないの」 「よりにもよって、ひどいことを言うね。俺だって傷つくぞ」 「悪いことは言わないから、あなたはあなたの生き方でやってちょうだい」 「そしてきみはどうする?」 「さしあたっては、ここを出て星でも見上げるわ」 「それから」 「家に帰って、夜逃げの仕度に取りかかる」 「手伝おうか」 「馬鹿ね」  と、私が笑う。 「さっきのは冗談だ。きみを試しただけだ。今月の家賃はもう払ってあるし、ソファも支払い済みだ」 「嘘つきね。せっかく無一文で静謐《せいひつ》な気持になれたと思ったのに、心がまた掻《か》き乱されるじゃないの」 「ついでにもう少し掻き乱してやるよ」  と言って彼は懐から預金通帳と印鑑を取りだすと、私の前に押して寄こした。 「何なの、これ」 「見た通りさ」 「だから、どういう意味?」 「元々はきみの金だったものだ」 「あきれた。貯金してたの?」 「こう見えても意外につましい面があるんだ。恥ずかしいから仕舞ってくれ」 「私の方がずっと恥ずかしいわよ。こんなもの、受けとれない」 「そっちから出た金だ。元に戻るだけだよ」 「ところが違うのよ」  私はそれを彼の前に押し返した。 「あなたにとって、頼りになるのは唯一これだけなのよ。年取ったジゴロほど、惨めなものはないんだから」 「よく言うよ」 「あなたより私の方がずっとたくましいわよ。いいから見てらっしゃい」 「その点なら、とっくに知ってるよ」 「じゃそんなもの仕舞って。そして私をこれ以上、傷つけないでちょうだい」  私は、最後の一滴を飲み干した。 「今のマンション、移るのかい」  と彼が訊いた。 「もちろんよ」 「移ったら、連絡先を教えてくれるね」 「教えないつもり」  彼は傷ついたように私を見た。 「じゃ、せめて、そっちから俺に連絡をすると、約束してくれ」 「それも約束しない。電話は二度としないわ」 「せめて、友だちでいることもできないのか」 「とても無理よ」  と私は首を振って立ち上がる。「私の情人の趣味は最悪だけど、友人に関しては結構厳しい規準があるの」  私は伝票を取り上げるために、もう一度手を伸ばした。今度は彼も止めなかった。 「きみの女意気には、完全にまいったよ」  と最後にうめいた。私は立ち上がり、チャオと言った。  ブランデー  キーを取り出して鍵穴に差しこんだのまではいいが、左にも右にも回らない。抜こうにも抜けない。がちゃがちゃやっていたら、内側でカチリと錠が外れる音がして、ドアが開き男の顔が覗《のぞ》いた。  男は上半身だけ裸で、手にブランデー・グラスを握っている。 「あら、まちがっちゃったみたい」  若い女は咄嗟《とつさ》にそう言って、指を三本、口にあて、睫《まつげ》をバタバタと瞬《しばたた》かせた。それで少し酔っているのがわかる。 「まちがった序《ついで》に、一杯飲んでいかない?」  男はとても落着いた様子で、面白そうに言った。肩のあたりに筋肉がついて、つややかに輝いている。 「あたし、そんな女じゃないわよ」  若い女は少し怒ったふりをしようとしたが、全然成功しない。成功しないのが、本心で怒っていたわけではないからなのか、あるいは男がハンサムだからなのか、咄嗟に判断がつきかねて、とにかく不首尾であったのだけは自分にもわかるので、照れ隠しに再び抜けないキーに取り組んで、がちゃがちゃが始まる。 「そんな女って?」  相変らずリラックスした態度でそう言うと、男はやんわりと女の手をどけ、キーをすいと抜き取って手の中に指を折って閉じこめる。 「わざとまちがったと思ってるんでしょ」  女は落ちかかる髪を、指で掻《か》き上げながら、上眼遣いに言った。 「何も自分の方から、白状することはないじゃないか」  男は一歩後に退《しりぞ》く。「入るなら入る。入らないのなら入らない。どっちかにきめて欲しいね」 「入るわけがないでしょう」  若い女は顎《あご》を突き上げる。 「どうして?」 「あたし、そんな女じゃない」 「それはもう聞いたよ」 「第一、知らない男の人の部屋に入るなんて——」 「それをきめるのはオタクで、僕じゃない。どうする? ここで一晩中、立ち話する気はないよ」 「あたしだって、そんな気ないわね」  女は好奇心の浮いた眼で、チラリと男の脇腹ごしに室内を盗み見る。 「中に入ったらもっとよく見えるよ」  男がニヤリと笑う。 「別に興味はないわね。鍵返して」 「夜景がきれいだよ。香港島が一望に眺められる」 「とかなんとか言って、誘惑しているんでしょう」 「事実を言っただけだよ。実際、この部屋からの夜景は香港一で、ここへ来るたびにこの部屋を取るのさ」 「香港へはよく来るの?」 「月に多くて二度くらい」 「香港に関係ある仕事してるの?」 「関係なかったら、来ないよね」 「貿易かなんか?」 「まあ、そういうことにしておこうよ」 「で、香港に来るたびに、女を誘惑するってわけ?」 「女が誘惑されたがっていると明らかにわかる場合、そうしてやるのが男の思いやりだからね」 「誰が誘惑されたがっているんですって?」  若い女の顔が急にけわしくなる。 「僕の部屋に侵入しようとしたのは誰だったっけ?」 「部屋まちがえたって言ったでしょ」 「わざとね」 「すっごい自惚《うぬぼ》れ。鍵、返してよ」  若い女はそう言って、掌を上に向けて手を突き出したが、男は完全にそれを無視する。 「ほんとうに一杯、飲んでいく気はない?」 「一杯だけ? ほんとうに一杯だけで済むかどうか怪しいもんだわね」 「二杯だってかまわないんだよ、僕は」 「お酒だけで済むわけないって言ってるのよ、わかってるくせに。ハイ、鍵ッ、早く」  若い女は、カーペットの上でハイヒールを数回踏んで、じれたように言う。 「それ、きみの希望?」 「それって?」 「お酒だけで済ませたくないっていうのさ」 「違う。男の本性」 「どうして、きみみたいな女の子に男の本性がわかるんだい」 「歴史的事実なの」 「きみが言わんとするのは、童話的事実だろう? 赤ずきんちゃんの世界」 「そう、男はみんな狼よ」 「つまらん発想だね」 「でも事実でしょ」 「男が狼を演じるのは、女がそれを望んでいるとわかる場合だけだよ」 「じゃ、何もしない?」  ボクが? というように男は自分の裸の胸元を親指で示し、次にきみに? というように今度は人差し指で、若い女の胸元を指した。 「最初から終始一貫して誘っているのは酒だけで、ベッドに誘った覚えはないよ」  若い女は、ちょっとプライドを傷つけられたように下唇を咬《か》んだ。 「別に、あたし恐がってるわけじゃないわよ」 「そんなことはわかっているよ。単にもったいをつけているのさ」 「あら、ほんとッ」 「そうさ。あたしそんな女じゃないのよ、という女ってのは、結局そんな女なのさ」 「すっごい独断」 「そのすっごいっていうのと、十秒おきに髪の毛、掻き上げるの止めた方がいいよ。浅野温子の真似なのかもしれないけど、癖としては品がないよ。ただのすごいじゃどうしていけないんだい」 「女を誘惑するだけじゃなく、お説教するのも趣味なのね。言っときますけどね、浅野温子なんて、めじゃないですよ、おじさん。それにあたしはね、お酒の一杯か二杯飲んだくらいで、そのままベッドに行くほど、軽薄な女でもありませんからね」 「四、五杯なら行くのかな、ベッドへ?」 「鍵! 返してくれないんなら、大声出すわよ」 「結局、そっちなんだよ、ベッドを意識してるのは。そうじゃないかな。こっちはただの一度だって自分の口からは、ベッドのベの字の発想もなかった。そんなにやりたいのなら、いいですよ、お相手したって。さあ、どうぞお入りなさい」 「どうしてそういう発想になるのよ? 誰がやりたいなんて言ったのよ? お酒一杯飲んだだけで、なんで知らない男と寝なくちゃなんなくなるのよ?」 「そう喚《わめ》かなくとも聞こえるよ」 「だって頭に来るのよね。せっかく一杯くらい、つきあってもいいかな、って気になりかけたとたん、やるだもんね」 「わかったよ。謝るよ。一杯飲んでく気になったんなら、遠慮してないで、中に入ったらどう?」 「とっくにその気は失《う》せたわよ」 「だって一杯やってく気になったばかりじゃなかったんだっけ? その気にならないうちにその気が失せるなんて、ずいぶんせっかちな子だねぇ、きみって」 「ほんとうに一杯だけでいいのね?」 「一杯でも二杯でも——」 「それ以上言わないで。またゴチャゴチャしちゃうから。一杯だけ。一杯飲んだら、回れ右して帰る。それでいいわね?」 「結構ですよ」  と言って男は映画の中のクラーク・ゲーブルのように一歩退いて、軽く腰をかがめると、エレガントに会釈する。  若い女は、恐る恐る室内に足を踏み入れ、自分の背後のドアが閉まると、一瞬躰を固くする。 「なんだかビクビクしているみたいに見えるよ」  と男はおかしさをこらえるように、後から言う。 「ビクビクなんてしてません」  若い女は顎《あご》を上げ、決意したようにズカズカと室内に入って行く。そこはスウィートルームで、ゆったりとしたソファと、小さなモーニングテーブル、書き物机などが配されている居間になっている。  海に面した方は、一面の窓ガラスで、香港島の夜景がパノラマ風に広がっている。若い女は思わず呼吸を止め、ガラス窓に額を押しつけるようにして、その光り輝く光景に見惚《みと》れる。  やがて、グラスの中で氷がぶつかりあう音で彼女は我に返り、振り向く。その手に男がブランデー・オンザロックスのグラスをそっと握らせる。 「じゃ、乾杯だ」  と彼はグラスのふちを軽く合わせる。  若い女は一口含み、眉《まゆ》を寄せる。 「強すぎたら、水で薄めようか?」 「いいのよ、これくらい。なんてことないわ」  彼女はそう言って、また一口含んだ。そして溜息《ためいき》をつく。 「無理するんじゃないの。ほら、かして」  と男が笑う。 「無理してるなんて誰が言ったのよ」  と言いざま、彼女は一気にグラスをあおってしまう。 「ごちそうさま」  とグラスを窓のふちに置く。「約束通りこれ一杯で終り、と」  女は回れ右をすると、一瞬ふらつく足どりで歩きだす。 「気が早いね」 「だって約束でしょ。一杯だけって」  女はドアを押す。 「一杯だけで、その気になるとは思わなかったな」  男は面白そうに頭を振って、若い女の後に続いてそのドアを通り抜ける。 「あら」と女は口元に手をあてる。「ここってベッドルームじゃない。あたし、まちがっちゃったみたい」 「そうかな。さっきもまちがえちゃったとか何とか言って、結局僕の部屋に飛びこんで来たわけだろう?」 「だから? あなた何が言いたいの?」 「また、まちがえたふりをしたのかな、とかふと思っただけ」 「そんなこと、ふと思ってくれなくてもいいの」  若い女は男を押しのけると、ベッドルームを飛び出し、居間を横切って行く。 「ゆっくりしていけばいいのに。腰を落着けてこの夜景を楽しんでも損はないと思うけどね」 「そりゃ夜景はきれいだけど」  若い女は肩ごしに振り返り、未練ありげに、窓の方を眺める。 「急いで戻って、誰か待ってるの?」 「というわけじゃないけど」 「きみの部屋からも、同じような夜景が見える?」 「角部屋なの。いい部屋よ。でも、夜景は細長くちょっとだけしか見えないわ」 「じゃゆっくりしていけばいい」 「ひとつ訊《き》いてもいい?」 「どうぞ」 「あなたって、いつもそういう格好してるの?」  男は自分の裸の上半身を眺め下ろし、 「いつもってわけじゃないね」  と答える。「ビジネスの時にはネクタイくらい締めるさ」 「裸の胸に?」 「きみって、意外にユーモアがあるんだ。少し安心したよ。でもどうしてそんなこと訊くんだい? こういう格好を見ると、気持が乱れたりするとか?」 「厭《いや》らしい表現。気持なんて乱れるわけないでしょ、その程度で」 「お望みなら全部脱いで見せてあげてもいいよ」 「あ、わかった。それが最初から狙いなんだ」 「それって?」 「何て言うの? よく公園なんかにいるじゃない、コートの前をパッと開いて、全部見せちゃう男って」 「露出狂?」 「そうそう、その露出狂よ」 「もしかして、僕のこと疑っているの?」 「当り。疑ってるんじゃない。たった今、あなた自分で証明した」 「でも、前パッと開いて全部見せたりしなかったと思うけど」 「言葉の露出よ。それって同じことをしたことになるのよ」 「じゃきみ、僕のナニを見ちゃったわけだ」 「見るわけないでしょ、そんなもの」 「だって、前パッと開いて全部見せるのと、同じことなんだろう? そう言ったんだよ、きみ」 「見てないって、そんなもの。見てない。見てない!」  若い女はじだんだ踏んで喚き始める。 「まだ見てもいないんならそんなに興奮することないじゃないか」  男がニンマリと笑う。 「あなたのコンタン、だんだんわかって来たわよ」  と彼女は油断なく言う。 「ほんと?」 「ほんとよ。夜景もお酒も、そのボディビルとエステで磨き上げたご自慢らしい裸の上半身も、みんなあれなの、狙いはひとつ、あれなのよ」 「あれって? 狙いって?」 「だから、誘惑の小道具なのよ。狙いはベッド」 「すっごい想像力」  と男は若い女の口調を真似る。 「白状しなさい、当りだって。ね、そうなんでしょ?」 「夜景を見ていかないかと、すすめてるだけだよ」 「そんなこと、全然信用してないわ、初めから」 「ほう? 信用していないのに、見知らぬ男の部屋に足を踏み入れるっていうのは、どういうわけかな? 覚悟をきめた、とか?」 「単なる好奇心」 「でも、万が一、僕が狼に変身したとしたら?」 「しないって約束したわ、あなた」 「しかし、信用していないときみは言ったよね、確か」 「男なら、約束守るべきだわ」 「男の約束ってのは、教えておくけど、破る楽しみのためにするもんなんだよ。でね、仮りにだよ、僕が狼どころの騒ぎではなくて、性的変質者だったらどうする? コートの前をパッとあけてベロリと男のイチモツを露出する程度のなまやさしいやつじゃなくて、陰惨な切り裂きジャックだったら、どうするつもりだった?」 「どう見たって、そういうタイプには見えないもの」 「変質者がいかにも変質者に見えたら、世の中に性的犯罪なんてのは存在しなくなるよ。その手のタイプになんておよそ見えない陰惨な変質者が、この世にはゴマンといるんだ」 「でもひとつだけ確かなことがあるわ」  と若い女はやけに自信あり気に微笑する。「本物の変質者は、自分のことを変質者だなんて言わないわよ」 「ということは、僕の疑いは晴れたわけだ。じゃ、心配することは何もなくなったわけだよね。だったらそんなところに突っ立ってピーピー喚いていないで、少し落着いて腰でも掛けたらどうだい」 「でも依然として、男よね、あなた」  若い女は、胸の前で腕を組みながら、おぼつかない感じで言う。 「のつもりだけど。ごく健全な肉体と性欲を持った普通の男」 「ほらね、すぐそういうことになるのよ」 「ごく健全な性欲って言ったんだよ。それが問題なの? 女に対して性欲が湧かなかったり、不健全なものだったりする方が、問題だぜ」 「問題をすりかえないでよ」 「わかったよ、僕が男なのが問題なんだな。なんなら女装しようか」 「お酒、もうすすめないって約束する?」 「無理に飲む必要はないさ」 「そこにあたしが坐ったら、三メートル離れたところに、あなた坐るって、約束する?」 「なんなら、この部屋を僕が出て行こうか?」 「そこまでしなくていいのよ」 「もういいよ」  と急に男は何もかも興味を失ったように、言う。 「もう帰っていいよ、帰れよ、めんどくさくなった。ああ言えばこう言う、こう言えばああ言うで、なんとしてもきみは僕がきみとやりたがっていると思いこみたいんだ」 「そんなこと、言ってない」 「黙れよ。ところが、他の男はどうか知らないけど、僕にだって、女の好みってものがある。女なら誰でもいいっていうわけじゃない。ましてや、夜中近く、故意だかまちがいだか知らないが、僕の部屋に飛びこんで来た浅野温子のそっくりさんと、どうにかなろうなんて気は、さらさらない。本心はやりたくてウズウズしているくせに、もったいぶってお高く止っているけど、所詮お里は知れてるね」 「ちょ、ちょっと待って。誰がやりたくてウズウズしてるっていうの!!」 「オ・タ・ク。僕の胸板や腕の筋肉を見るたびに、オタク、涎《よだれ》をたらさんばかりじゃないか」 「涎なんてたらさなかった!」  女は負けずに言い返す。「その程度の躰で、自惚《うぬぼ》れもいいところよ」 「自惚れているのは、そっちだよ。いいから、もう一度はっきり言うからな。僕はね、自分が寝たいと思う女を、まず尊敬したいんだ。そして何よりも僕は僕自身の趣味と肉体とを尊重したいんだよ。で、きみは失格」 「し、失格?」  若い女のコメカミに青筋が浮き上がる。 「な、なんであたしが失格なのよ、バスト八十八、ウェスト六十一、ヒップ九十なのよ。このあたしのどこが失格なのよ?」  男はニッコリ笑って、「そもそも若い女っていうことからして、条件に合わないんだ。若い女は、つまらんよ」  と答える。 「あらそ。じゃちょうどいいわ。あたしも、おじさんは生理に合わないから」 「じゃ、さようなら、出口はあっち。こっちはベッドルームだからね」 「知ってます」  女は屈辱で顔を染めながら、ツカツカと出口に向い、ドアを引くと、思いきり叩きつけて出て行ってしまう。  一分ほどが過ぎると、男の部屋にノックの音。男はあえて放っておく。  ノックが今度は強くなる。 「あけて、あたし」  ゆっくりと立って行って、男は細目にドアを開き、顔だけ覗《のぞ》かせる。 「なんだ、またきみか。同じまちがいをくり返すのが趣味なの? それとも心を改めて出直して来たのかな」 「鍵!」  女は男を押しのけて室内を大股に歩いて行く。 「あたしの鍵、どこなの?」 「そこいら辺にないかね」 「ない! 鍵、返して」 「変だな、どこだろう」  と男はズボンのあちこちに手を当てる。「ま、慌てることはないさ、そのうち見つかる。一杯どう?」  女は男の言葉を無視して、テーブルの下、クッションの後ろなどに手を入れて、鍵を探している。 「そうかっかしてたんじゃ、見つかるものも見つからないよ。悪いこと言わないから気を落着かせた方がいい」  男はグラスに注《つ》いだブランデーをテーブルの上に置いてやる。しかし女は脇目も振らない。 「さっきはまあ、僕も少し言い過ぎたと反省してはいるんだ」 「大いに反省してもらいたいわね。言ったこと全部取り消してもらいたいくらいだわ」 「そりゃありえない。僕は事実を言ったわけだし、自分に嘘をつくことになる」 「でも、あたしは涎《よだれ》なんてたらさなかったし、あなたの筋肉なんかに興味もないの」 「その点は、訂正してもいいよ」 「訂正してもいい? 謝るべきよ。あたしはすごくプライドを傷つけられたんだから」 「わかった、謝る。ごめん」 「ついでに、失格っていうのも謝って」 「謝るのはいいけどさ、謝るとどういうことになるのか、大いに興味がわくね。つまりきみは失格ではなくなる。合格だってことになる。とするときみの提案は、僕の女の好みの線に合格させろってことだね。そうなの?」 「プライドの問題なのよ。失格というのを訂正するだけで、あとはだからどうだなんていうのは関係ないの」 「わかった。失格と言ったのも訂正する」 「ほんとに? 本気でそう思うのね」 「本気の本当。きみは失格じゃない」 「いいわ、その点も許すことにするわ」 「しかし、失格じゃないってことを認めさせたからには——」 「余計なことを考えなくてもいいの」  女は再び鍵を探し始める。カーペットの上をていねいに見て、少しずつ場所を移動していく。 「でも、きみの方にも少しは反省してもらいたいんだな、僕としては」  男は女の後をついて歩きながら話しかける。「全ての男が、きみと寝たがってるもんだと、頭からきめつけるのは、自惚《うぬぼ》れだよ」 「そのことなら、わかったわよ。あたしはあなたの好みじゃない、ってことがわかったわ。それからあなたは自分の女に関する趣味を尊重してるってことも、わかったわ。更《さら》に、あなたは、あなた自身のその美しく磨きたてた肉体を尊重しているってことも、よぉくわかったわ」 「美しく磨きたてたはいらないよ」 「いえいえ、ご謙遜」 「でも、わかってもらえて、すごくうれしいよ。ただし最初の、きみが僕の好みじゃないっていうのは、僕の口から出た事実じゃないよ」 「あら、そう言わなかった? じゃあたしがあなたから得た印象なのよ」 「でもそれはきみの印象であって、僕の印象じゃない。そして僕のきみに関する印象について語るわけだから、僕の方を優先してもらいたいね」 「お望みなら」 「ありがとう。ええと、何だっけ? ああそうそう、きみの印象だ。中々ステキだよ」 「抽象的ね。つまりあなたの好みか好みでないか、どっちかで答えてよ」 「どちらかというと好みの方かな」 「どちらかというと、ってのがつくのね」 「『どちらかというと』抜きの好みの方」 「の方?」 「『の方』なしの好み!」  女はニヤリと笑う。 「じゃ、あたしと寝たいんだ、結局」 「それが短絡的だ、と言うんだ。だってそうだろう、世の中に好みのタイプの女なんて、数え切れないほどいるさ。ふっくらしたのもいいし、骨を思わせる肉体もまた時にはセクシーだと思う。しゃがれ声の女もいいし、澄んだ声もまたいい。好みのタイプ、イコール寝ることにはならないんだよ」 「あたしが訊いてるのは、もっと単純なことよ」  若い女は男に一歩つめ寄る。「あたしと寝たいと思うか思わないか、どっちなのかって訊いているの」 「き、きみと?」 「そう」 「そりゃ、どっちか選べというのなら、思う方だよ」 「もっとはっきり言ったらどう?」 「だからイエス」 「ということは?」 「きみと、どっちかっていえば寝たい」 「ふぅん、どっちかっていえばっていうのが、どうしてもつくのね」 「わかったよ、寝たい」 「すっごく?」 「すっごく寝たい」 「でもあなた、こう言ったわよね、自分の肉体を尊重したいんだって。あたしと寝たりして、あなたの肉体傷つかない?」 「皮肉言わないでくれよ。きみと寝ることが、僕の肉体を尊重しないことになるとは言えないよ」 「なんだか、ややこしい。もっと簡単に言えない?」 「きみと寝ても、僕は自分の肉体を尊重できる」 「まだちょっと——。もうひと押しね」 「自分の肉体を尊重するからこそ、きみと寝る」 「それならなっとく。で、もうひとつあったわね、相手を尊敬しなくてはならないって」 「もちろん、尊敬するよ。なにしろ僕を理屈でやりこめているんだからな、きみという女は」 「じゃ鍵返して」 「鍵持って、消えちゃうんじゃないだろうね」 「もちろん、そんなことしない」 「約束する?」 「約束するわ」 「オーケイ」  と言って男はズボンのポケットからキーを取り出して、女の手に渡す。 「最初から、そのつもりだったんでしょ」  キーをバッグの中に落し、口金をパチンとはめながら女が言う。 「そのつもりって?」 「だから、あたしを見た瞬間から、室内に引きずりこんで一発やっちゃおうっていう」 「え?」 「やっぱり図星なのね。ま、最初からこっちもわかってはいたんだけど」 「そう。わかってたんなら、僕の方も気が楽だ。なら、最初からなんで気取ったりしたんだよ?」  男は急になれなれしく態度を変えて、女の肩に腕を軽くぶつける。「さんざんもったいぶって、こっちをじらして、悪い女だよ、な」 「飛んで火に入る夏の虫、だったわけだ、あたしは」 「そうそう、きれいで若いグラマーな虫」 「若いのがいいんでしょ?」 「やっぱり、肌が違うよな」  女は、唐突に男の側を離れて出口に向う。 「ベッドルームは向こうだよ」 「知ってるわよ」  女の手がドアにかかる。 「どこ行くんだい、まさか気が変ったわけじゃないだろうな」 「気は変らないわ」  素早くドアの向こう側に滑り出て、女が答える。「最初からその気はなかったもの」 「しかし、約束したじゃないか」 「したっけ?」 「キー持って、消えないって、約束した」 「約束は破る楽しみのためにするものなんじゃなかったっけ?」  次の瞬間ドアが閉まって、女の顔が男の視界から消えた。  一瞬、男はぽかんとし、しばらくドアを見つめる。それから我に返り慌ててドアを開いて見たが、すでに女の姿は見当らない。 一九九〇年五月実業之日本社より単行本として刊行 角川文庫『少し酔って』平成5年5月10日初版発行            平成10年1月10日14版発行