森 瑤子 ママの恋人 目 次  あなたのことかも   バリ・オベロイ   六本木トゥーリア   バー・ナポレオン   リバーサイド・テラス   ハロッズでランチ   ブラッスリー・D   磯   サホロ村   ヨロン島プリシア・リゾート   六本木アマンド前   紅い唇《レツド・リツプス》   ローマ空港  恋の始まり、恋の終わり   九月の雨   誰かが私を愛してる   言いだしかねて   枯 葉   恋に恋して   ミスティ   二人でお茶を   嘘は罪   サマータイム   煙が眼にしみる   カクテルズ・フォー・トゥー   オール・オブ・ミー   何故かしら   恋は愚かというけれど   真珠の首飾り   グッドモーニング・ハートエイク   身も心も   ブルースカイ   シークレット・ラブ   ハロー・ヤング・ラバーズ  あなたのことかも  バリ・オベロイ  ココ椰子《ヤシ》と沙羅双樹《さらそうじゆ》の生い繁る陰に、ホテル・オベロイは忽然《こつぜん》と現れる。それこそ何もない暗黒の夜のバリ島の田園風景の終わりに、その世にも美しいホテルは、闇《やみ》の中のオアシスのように、ぬれぬれとした濃い緑の中に、ひっそりと息づいているのであった。  タクシーを降りると、どこかとても近くで、さしせまったような潮騒《しおさい》がしていた。腰布を巻いた少年のようなボーイが、足音をたてずに近づいてくると、須賀子のさして大きくはないビーチバッグを受け取って、彼女をレセプションへ案内する。  甘やかで濃密な夜の匂《にお》いに、沙羅双樹の花の香りが混じり、それに更に、どこかでたいている線香の香りが加わる。須賀子は、自分が全く未知の国にさまよいこんだような気がし、その神秘的な雰囲気に、泣きたいほどの感動を覚えるのだった。  泣きたいほどの——。成田を発《た》つ時からずっとこらえていたのは、涙だった。もっともその涙は、とっくに涸《か》れ果ててなかった。今でも発作的に泣きだしてしまうことがあるが、喉《のど》がひくひくと痙攣《けいれん》するだけで、涙はどうしぼろうとももはや一滴も出てこない。  男の心変りを、須賀子はどうしても許すことができないでいる。許せたら自分がどんなに楽になるかと思う。恨みや憎悪、怒りの感情などが、あたかもブラックホールのように、彼女へとりついてしまっていて、彼女を放さない。  彼が全《すべ》てだった。彼の全てが魅力的だった。  現代的な優雅さの典型であり、どこにも卑しいところや下品な点はなかった。それ以上は望めないほど優しくて。彫りの深い顔立ちと、低いがよく響く静かな語り口。そしてベッドの中でのこと。あの優しさ、あの荒々しさ。  ベッドの中で彼がどんなであったかを思いだすと、須賀子の躰《からだ》がぐらりと揺れた。あれから六カ月もたつのに、彼の記憶は生々しく彼女の肉体に刻まれていて、少しも消えてはいない。宿泊カードに必要なことを記入する間も、上の空だった。やがてボーイに先導されて、よく手入れのゆきとどいた庭の中を、コッテージに向って歩きだした。  ハイビスカスやブーゲンビリアの花が咲き乱れる間を、小石を敷きつめた細いプロムナードが曲りくねりながら続いていた。ココ椰子にかこまれて、レストランとバーがあり、夕食をとっている人々の姿が見えた。椰子の葉をふいた屋根の建物は、吹きぬけになっていて、右手の海から柔らかい潮風がたえず吹きこんでいる。須賀子はひとまず自分用の小さなコッテージに入って、シャワーを浴び、夕食のためのドレスに着替えることにした。  背中を大きくあけただけのシンプルな白いワンピースに袖《そで》を通しながら、彼女はふとアガサ・クリスティーの『ナイル殺人事件』のシーンを思い浮べずにはおれなかった。自分を裏切って別の女と結婚してしまった男を追って、二人の新婚旅行先のエジプトまでついていく前半の哀れな女を演じたミア・ファーローの姿を——。  嫌な女だった。惨めでエキセントリックで、ヒステリカルで。あんな女を演じるくらいなら死んだ方がましだった。私はあのような惨めな復讐《ふくしゆう》のために彼らを追ってきたのではない、と須賀子はもう何十回もくりかえしたことをまたしても自分の胸に言いきかせた。復讐のためでも、殺人のためでも、どんでん返しの悲劇のためでもない。ただ——。  ただ、この眼でしっかりと真実を見て、そしてあきらめたかったのだ。彼が、須賀子以外の花嫁と共に、幸福でいられることを、確かめることさえできれば、彼女は立ち去れるだろう。愛の記憶と共に、彼を永久に葬ることができるだろう。  レストランには、色々な国からこの美しいリゾートホテルに来ている人々がいた。オーストラリアから、オランダから、イタリアから。インドの見るからに金持ちの夫婦もいた。二、三組の日本の新婚組もいた。しかし、彼の姿はそこにはなかった。  日本人の新婚カップルは、他の人々と比べると、子供っぽく見える。夜のレストランに、男も女もショーツとゴム草履で出かけてくるのは日本人だけだ。そして、例外なくペアルック。なんて、幼いのだろう、と須賀子は同胞を少し恥じて、夜の海面へと眼を背《そむ》ける。  彼は違う。彼はこうした国際的なリゾートでも、どの国の男にも遜色《そんしよく》なく振る舞うのに違いない。  彼が私を見たらどんなに驚くか、と思うと歪《ゆが》んだ喜びを感じる。自分がまだ若く、充分に綺麗《きれい》なことを須賀子はレストランの中の男たちが、彼女を見るその眼つきから知ることができた。  それだけでいいのだ。彼が彼女を見る。そして驚く。それもひどく驚く。しかも須賀子はこのホテルの中の他の誰よりも若くて美しい。彼の楽しかるべき新婚旅行はめちゃくちゃになるだろう。ほとんど悪夢と化すだろう。ただ須賀子がここにいる、というだけで。それこそがこの旅の目的なのだった。彼をいたたまれなくさせること。彼らの甘い新婚旅行を悪夢に変えること——。  ふと眼を上げると、長身の男の姿が見えた。まぎれもなく彼だった。  彼は一人であった。近づいてきたウエイターに、妻は一足遅れてくるから、と伝える声が須賀子の耳に届いた。  ウエイターが彼を、須賀子の横のテーブルに案内してくる。彼女はじっと彼を見る。  彼が、誰かに見つめられているのを感じたのか、眼を上げる。二人の視線が出逢《であ》う。驚きというよりは驚愕《きようがく》の色がその顔に浮んだ。 「……一体……」  と、彼が絶句した。 「ここで君は何をしているんだ?」  ようやく一呼吸ついてそう訊《き》いた。 「何にも。ただここにいるのよ」  BALIと描かれたTシャツの胸元の真紅のハイビスカスの花を見つめながら、須賀子は呟《つぶや》いた。六カ月の月日が消し飛び、愛《いと》しさで胸が塞《ふさ》がれた。しかし、その彼は今や別の女に属する男なのだ。 「邪魔しに来たのか?」 「そう思うかどうかは、あなた次第よ。私はただここにいるだけなのだから」  ふっと男の視線が動いた。背後に若い女の姿が近づいてくる。  その姿を見ると、一瞬、須賀子の中で何かが音をたてて弾《はじ》けた。若妻の胸にもBALIという文字と赤いハイビスカスの花があった。  彼は世にも残酷な一瞥《いちべつ》を須賀子に与えると、花嫁と一緒に隣りのテーブルに着いた。同じ白いコットンのスラックスに、全く同じリーボックのスポーツ・シューズだった。  そこまで完璧《かんぺき》なペアルックはむしろ滑稽《こつけい》であった。とたんに須賀子はおかしくなって、笑いだした。男に対する未練も憎しみも恨みも、嘘《うそ》のように消えていた。彼はそこいらじゅうにいるごくありふれた新婚さんのカップルの一例にしかすぎなかった。須賀子が笑うと、隣りのテーブルの彼は、躰を縮めた。  六本木トゥーリア  お酒を一滴も飲まないで、踊れる人たちのことが不思議だった。  ディスコってセックスとある意味で似ていると思うのだ。自分で自分を見つめているさめた眼があったら、とうていあんなことに没入することなどできない。  セックスにしろディスコにしろ、少しでも恥を知る人間の眼からみれば、ああいうふうに自分の肉体を揺り動かして忘我の境をさまよっている姿は、一種ぶざまでありグロテスクである。  そんなわけで、圭子はウオッカ・トニックをダブルで注文し、一気に飲み干すとすかさず二杯目を頼んだのであった。  一緒に来た仲間たちは、北原をのぞいてもうみんな踊り狂っている。高い吹きぬけの天井から、巨大な宇宙船の装置を連想させるライティングが、ゆっくりと下ったりまた上ったりしていた。無数の紫色のライトが踊っている何百人もの人たちの頭上を飛びかい、気がつくとそれがエメラルド色の光に変っていた。 「踊らないの?」  と北原がウイスキーのグラス越しに訊《き》いた。というより、口の動かしかたでそうだと想像するだけだ。『トゥーリア』の店内には音楽というよりはリズムが溢《あふ》れている。ズシンズシンとお腹《なか》を直撃されるような感じだ。お腹だけでなく、肺や胃や躰《からだ》の中の全《すべ》ての空洞に響きわたる。 「あ・と・で」  声は出さずに、口だけはっきりと動かして北原に意志を伝えた。 「あ・な・た・は?」  北原はニヤリと笑って首を振った。  三杯目のウオッカ・トニックのダブルで、ようやく圭子の頭の中に豆乳を薄めたような霧が漂い始めた。天井からの色とりどりのライティングが、輪郭を滲《にじ》ませ、雨の中のホンコンのネオンサインのようにきらびやかに見え始める。  聴覚と視覚と触覚が鋭くなるにつれて、あとの諸々の思いが消えていく。日常、自我、仕事、お金、常識などが。  踊りましょう、と圭子は北原の方へ軽く腕を伸ばした。北原はまた首を振った。 「どうして? 飲み足らないの? それとも気取ってるの?」 「踊りたくないだけさ」 「じゃ、なんでディスコなんかに来るのよ?」 「ここのエネルギーみたいなものが好きなんだ」  仲間の一人が汗にまみれてテーブルに戻ってきた。 「彼と踊れば?」  と北原が言った。 「嫌よ」 「どうしてさ」 「だって、セックスと同じで、誰でもいいってわけじゃないのよ」  音の騒がしさで、最後の方が北原の耳に届かなかった。 「何? よく聞こえなかった」 「だからね、寝てもいいと思うくらいの人とでなければ、踊りたくないの」  北原の耳の中に大きな声で言った。  北原が圭子を見た。素早く今の言葉を彼が咀嚼《そしやく》するのがわかった。 「酔ってるんだろう」  少し照れたように、北原は彼女の額を指で軽く突いた。 「そうよ。素面《しらふ》じゃほんとのことなんて言えないもの、わたし」  急に切なさが胸に湧《わ》き上った。北原が好きだと思った。もうずっと前から好きだったような気がした。  けれども彼は他の女に属している。恋人がいるのだ。その恋人はフロアの中央で別の男と踊っている。 「ねえ、踊って」  ともう一度圭子は言って、彼の手首のあたりをそっとつかんだ。  北原がかすかにうなずき、グラスを置くと圭子の後からフロアへと進んだ。  二曲踊ると急に店内が暗くなり、曲がスローに変った。周囲の男女が潮が引くように、ほとんどフロアから消えていった。  残っているのは、数えるほどのカップルしかいなかった。  二人はお互いの腰に両手を絡めながら、少しだけ踊った。 「行こうよ」と北原が言った。 「どうして? 彼女が怖いの?」 「違うよ。みんなに見られて踊るのは具合が悪いよ」 「別にいいじゃないの。人の前でアレしているわけじゃないんだもの」  ところがまさにそうなのだ。少なくとも圭子の気分はそうだ。北原とセックスしているみたいな気持だ。でなければ前戯みたい。しかも、人々が二人を見ている。天井が揺れる。躰が揺れる。揺れる揺れる。北原の恋人が、遠くの方から今にもつかみかからんばかりの形相で、二人を睨《にら》みつけている。  圭子は北原に躰をいっそう密着させた。男の肉体の熱さが、二人の衣服を通してさえも熱く感じられた。まるで素肌がぴったりと密着しているみたいなのだった。彼女はさりげなく男の首に腕を巻きつけ、いっそう躰を相手に押しつけた。  スローの曲は長々と続いた。今では北原も眼を閉じている。圭子の背中と腰に絡みついた手に、力が入っている。 「素敵だわ」と圭子が囁《ささや》いた。「上を見て。まるで二人だけで宇宙を漂っているみたいな気がしない?」  青白いレーザー光線がゆっくりとフロアの薄暗い空気をかきまぜていた。 「まるで、わたしたちがカクテルになって、それをかきまわす青いマドラーみたいじゃない?」  ついに曲が終わり、二人は席に戻った。仲間たちがなんとなく白けたムード。北原の恋人の姿が見えない。 「彼女、ものすごく怒って帰っちゃったわよ」  と仲間の一人が北原に言い、圭子を批難するように見た。 「ばかだよ、あいつ。これくらいのことで怒るなんてさ」  北原は気分を害して煙草の火をつけた。 「ごめんなさい」と圭子が謝った。 「君のせいじゃないよ」と北原は煙を吐きだした。 「こんなことでいちいち焼きもち嫉《や》くような女じゃ、つきあってられないよ」  仲間たちが再びフロアへと散っていった。 「じゃ、いいの?」 「ああ、いいんだ」  北原と圭子の視線が絡んだ。 「よし、今夜は徹底的に踊るからな。つきあうね?」  北原が煙草をぐいと灰皿に押しつけて、圭子をふりむいた。 「ええ。徹底的につきあうわ」  ディスコで恋人たちの仲を裂いたのは、これで七人目だった。お酒に酔うと出る圭子の悪いクセだった。  バー・ナポレオン  こんなふうに、まだ日の沈まないうちに、バーに立ち寄って、ドライ・マティニーを一杯飲む習慣を奈於美に教えたのは、仁科だった。 「ニューヨーク仕込みなのね」  と言うと、彼は独特なシャイな笑顔で、 「でも今じゃ、新しがり屋たちはペリエを飲んでるらしいけどね」  と言ったことが、つい昨日のことのように思いだされる。  優雅で抑制がきいていて、ユーモアがあって美男子で、奈於美の一眼惚《ひとめぼ》れだった。  しかし優雅で抑制がきいてユーモアのある男の常で、若い独身男ではなかった。彼女が好きになり、欲しいと思う男は、なぜかほとんど既婚者なのだった。  お定《さだま》りの不倫のコースではあったけど、仁科の距離をおいたどちらかというとクールなマナーのために、実に良い関係が二年ばかり続いたのだった。  逢《あ》って、食事とお喋《しやべ》りをして、寝て。彼は決して妻のことは話題にしなかったし、家庭的な匂《にお》いもさせなかった。あっという間に二年が過ぎ、奈於美は二十七歳。これ以上、結婚を引き延ばすわけにはいかない年齢になっていた。 「あたしお見合いしなくちゃ」  とある夜、彼女はポツリと言った。 「そうだね」  と仁科。ポーズでもいいから反対するような気配を示して欲しかったが、彼はあっさりと同意した。 「もし結婚しても、あなたと続けたい」  奈於美の声に切《せつ》なげな未練が滲《にじ》んだ。 「僕は嫌だな」  と仁科は言った。「君を独占できないのなら、すっぱりと君の全《すべ》てを失う方がいい」  それが別れだった。  今、奈於美は、かつて仁科と待ち合わせたナポレオン・バーで、かつて彼と共に飲んだマティニーを前にしている。過ぎたばかりの思い出が、内側から彼女を咬《か》んだ。別れて改めて仁科への恋がつのるような気がしていた。マティニーはドライで、歯にその冷たさが滲《し》みた。 「若いお嬢さんには珍しいですね」  と男の声がした。  いつのまにか、カウンターバーの二つおいた隣りに、男が座っていた。バーの暗い照明の中で、その男がまだ若くとてもハンサムなのがわかった。 「マティニー、好きですか」  と男は再び静かに訊《き》いた。ソフトな落ち着いた声だった。 「というより、この飲みものを好きだった男の人のことが、好きだったの」  奈於美は胸の思いをそのまま口にした。 「好きだった」  と男は奈於美の過去形をくりかえした。 「そう、終わったの、何もかも」  溜息《ためいき》をついて彼女はグラスをそっと口へ運んだ。 「でも、まだとても愛している」  と男は奈於美の胸の内を読んで囁《ささや》いた。 「ええ、死ぬほど」  急に涙が一滴ずつ両方の眼からこぼれ落ちた。見知らぬ男はそっと真新しいハンケチを彼女に渡した。 「ありがとう。ごめんなさい、醜態をお見せしちゃって」  と彼女は男のハンケチで眼の下をぬぐうと、そう言って謝った。 「あなたに涙を流させる男が嫉《や》けますよ」  と、その男は静かに笑った。 「もう一杯どうですか? 何か他のものをご馳走《ちそう》させて下さい」  他のものに力を入れて男が言った。 「マティニーは、過去の飲みもの。今度は僕が何か別のものをあなたにおすすめしたい」  奈於美はチラリと腕時計を見た。 「残念だけど、私、時間がないわ」 「おや。デイト?」  と男が訊いた。 「いいえ。お見合い。この上のフランスレストランで」  男が黙った。 「せっかくのご好意、申し訳ないわ」 「かまいませんよ」 「ほんとうのこと言うと、このお見合い全然乗り気じゃないんだけど、家の両親があんまりうるさいものだから。形式的なの」 「だったら、そんなのすっぽかしたら?」  と男は奇妙な表情で言った。誘惑するような困惑しているような、試しているような表情だ。  とてもハンサムで清潔で、身につけているものも洗練されていた。 「そうね。いっそのことすっぽかしてしまいたいくらい」  と、奈於美はつい本音をもらした。 「では、こうしませんか」  と男は落ち着いて提案した。 「とにかくお見合いに行っていらっしゃい」 「それから?」 「お見合いが終わったら、ここに降りてきて下さい。待っていますよ」 「でも……」 「せっかく知りあったんだから、これも縁《えん》だ。あなたの失恋の話の続きも、ぜひ訊きたいし」  ふと奈於美は眼の前にいるその男が、今夜の見合いの相手だったら、どんなに良いだろうか、と考えた。しかし、世の中はそうは上手《うま》くいくわけもなかった。こんなハンサムな男性が、自分の妻を見合いで選ぶとも思えなかった。  でも、もしかしたら、この男《ひと》は、仁科のいなくなってしまった後の、わたしの心のすきまを埋めてくれるために、神様が与えてくれた人なのかもしれない、と奈於美は思った。 「ええ、必ずあとで降りてきます」  と彼女は確信をこめて、そう男に約束した。  バーを出て、左手の化粧室でメイクの具合を直してから、彼女は二階のフランスレストランへ上っていった。  小さな個室へボーイに案内されていった。  すでに仲人と相手の男性が来ているらしい。中から談笑の声が聞こえている。  奈於美は急に何もかもが嫌になった。こんなことのために、仁科と別れたのかと思うと、後悔で舌が喉《のど》の方へとめくれ上っていくようだった。見たことも逢ったこともない男と、結婚の値ぶみをしあいながら食事をするなんて、屈辱的だ。そう思った。  しかしボーイはドアをノックして、ゆっくりと手前に引いていた。  仲人の顔が見えた。軽く目礼しながら、奈於美は個室に足を踏み入れた。 「まあ、お時間にぴったりね」  と仲人が甲高《かんだか》い声をだした。 「ご紹介するわ、こちらが高瀬奈於美さん。それから、こちら、林敬二さん」  奈於美は眼を上げて見合いの相手を見た。そして眼の底が真暗になった。先刻バーで話をした男だった。  リバーサイド・テラス  日中に熱せられたバンコックの空気は、夜になってもその温度は下らない。  ホテルのすぐ前を流れる黄色い河は、闇《やみ》の下で今、黒くきらめく絹帯のように見えている。  夜は全《すべ》ての醜悪なものを隠し、その暗い幾重ものひだの間から昼間は存在しなかった不思議なものたちを、次々と滲《にじ》みださせているようだ。たとえばそれは、闇よりも暗鬱《あんうつ》なアセチレンガスの灯だったり、暗がりから暗がりへと徘徊《はいかい》する夜行性動物のような眼をもつ夜の遊び人たちだったり、どこかで密《ひそ》かに吸われている麻薬の甘酸っぱい香りだったり。  しかしここはバンコックでというより、世界で一番とされているオリエンタル・ホテルの中であり、安全と清潔さと居心地の良さは、完璧《かんぺき》に保証されている。  沙耶子は、冷房をほどこしたレストランより、夜気の中で夕食をとりたいと思い、リバーサイド・テラスの河に一番近い二人掛けのテーブルを予約しておいたのだった。  彼女の麻のドレスは、夜気の中に含まれる夥《おびただ》しい湿気のために、たちまちくったりとして肌にまとわりついた。  河からは生温かい微風がたえずテラスに吹きこみ、キャンドルライトの炎を揺らしている。河は生臭い動物臭を漂わせる。それに混じって、南国の花々やコケやシダ類の香りが異国情緒をかきたてる。  色の浅黒い、目鼻立ちのくっきりしたボーイが、沙耶子のために椅子《いす》を引く。 「お連れの方は?」  と彼はひかえめに訊《き》いた。 「少し遅れるかもしれないわ。先に、チンザノを一杯頂ける?」  斉田は最初、行かないと言った。それから、行けないと言い直した。 「どっちなの? 行かないと行けないとは微妙に違うわ」  沙耶子はホテルルームの電話機を、ベッドの上に移しながら、静かな声でそう問いかけた。声を軋《きし》ませたり、震わせたり、哀願したり、憎しみをこめたりする時代は終わったのだ。 「行きたくないんだ」  電話の向こう側から、困惑を隠しきれない斉田の声がした。実に二年ぶりに耳にする懐かしい声。 「行かない、行けない、行きたくない。三種類になったわね。他にもまだ、私に逢《あ》いたくないという意味の言葉があるの?」 「そうは言ってない。逢いたくないとは言っていない。いきなりバンコックに来ていると言われて混乱しているだけだよ」 「明日には発《た》つのよ」 「もう……」と一瞬相手が息を呑《の》む気配がした。 「ここへは何時《いつ》?」 「月曜日から」 「じゃもう五日もいるんじゃないか。なぜもっと早く……」  と言いかけて斉田は語尾を唐突に呑みこんだ。 「もっと早く連絡したら、逢ってくれていた?」 「…………」 「怖かったのよ、わたし」 「怖かった?」  斉田は沙耶子の言葉をくりかえした。 「あなたが逢ってはくれないかもしれないって」だから最後の日にしたのだ。急だから都合がつかないと言われても、惨めにならないですむから。 「君に逢いたいのはやまやまだが——」 「そんな言い方はよして。やまやまだなんて。一晩中いてくれと頼んでいるわけじゃないわ。ホテルの部屋に来てくれと言ってるんでもない。一晩だけ夕食を一緒に食べてくれればうれしいのよ。旅先で、女が一人で夕食をとる図は惨めだもの」 「わかるよ。しかし困ったな。実は女房が——」 「そりゃそうだわ、奥さんよね、問題は。いいのよ、夕食は部屋でとればいいんだから。電話をして悪かったわ。でも声が聞けてうれしかった。おやすみなさい」 「待って。電話を切らないで。わかった。行くよ」 「無理して欲しくないわ」 「無理でもしかたがないさ。俺《おれ》も君に逢いたい。それは本当だ。冷たくして悪かった。動揺していたんだ。何しろ突然のことで。頭にカッと血が昇ってしまった。あんなふうに君と別れたものだから。今でも昨日のことのように君の裏切りを憶《おぼ》えている。殺してやりたかった、君を。そして俺も死にたかった。しかしもう済んだことさ。幸せなのか君は今?」 「彼とは別れたわ。一年も続かなかった」 「知らなかった」 「あなたはもう結婚してバンコックに行ってしまっていたから」 「知らなかった。それじゃ君は今一人なのか」 「ええ一人。一人も一人。恋も男も浪費ももううんざり。欲しいのは休息よ。翼を休めたかっただけ。来てくれるのね? うれしいわ。そしたらまた昔みたいに話ができるわね。今でもブランディーを氷で割って飲むのが好きなの? あなたの温かい手の感触を時々思いだしたわ。あなたの大きな手が、グラスをそっともち上げる仕種《しぐさ》が好きなのよ。七時に、オリエンタルのリバーサイド・テラスにいるわ。きっと来てね。待っているわ。今でもあなたのことが忘れられないのよ、わかるでしょう」  長い独白のように沙耶子はそう喋《しやべ》った。 「必ず行く。七時にリバーサイド・テラスだね。君のことがわかるかな。二年なんてもう大昔みたいな気がするよ。君は変った? 君に逢いたいよ。飛んでいくよ。そして君の部屋に行き、朝まで君から離れない」 「それ本当?」  沙耶子の胸に熱いものがこみあげた。彼は再会をくりかえし約束して、ようやく電話を切ったのだった。  沙耶子の腕時計は、七時二十分を指している。河からの温風が彼女の髪をかき乱して吹き過ぎた。期待で膨れた胸が、空気の抜けた風船みたいにしぼんでしまっている。やっぱり来ないんだわ、と彼女は声に出して呟《つぶや》いてみた。臆病《おくびよう》もの。  でも、車が渋滞しているのかもしれないと思い直した。するとその微《かす》かな希望のために、かえって胸が刺されでもしたように痛み、苦しいのだった。  八時になるとさすがに彼女は斉田はもう来ないだろうと思った。食欲などまるで湧《わ》かなかったが、海老《えび》の料理を一品取って、冷たいビールでそれを味気なく流しこんだ。  九時には自室に引き上げた。汗になった麻のドレスを脱ぎ捨てた。バスルームの鏡には、挑発的でエロティックなフランスレースの下着姿の自分が映っていた。別れた男を誘惑するなんて未練がましいじゃないの、と彼女は自嘲《じちよう》した。  その時、電話が鳴った。沙耶子は鳴っている受話器をじっと見つめたまま、その場を動かなかった。呼び出しは執拗《しつよう》に三十七回鳴りつづけて、それからふっと静かになった。  これでいいんだ、と思った。  ハロッズでランチ  ロンドンは秋晴れ。でも風が少し冷たい。ハイドパークの樹々が黄色く色づいているから、陰鬱《いんうつ》な冬はすぐそこまで近づいているのに違いない。でも今日は気分が浮きたつような陽光が街に溢《あふ》れ、道行く人々の表情も心なしか明るく感じられる。  ジョン・デンバーの『サンシャイン オン マイ ショルダー メイクス ミー ハッピー』の一節が思わず真知子の口に浮んだ。  ——私、唄《うた》っている。  二度と唄が口ずさめるようになるなんて考えもしなかった。  秋の陽光が彼女の肩を温める。単にそんなことで、人はたまらなく幸福になれるのだ。真知子が現在まさにそうであるように、異国の雑踏の中にいて、たった独りぼっちでも。幸福感がつぶてのようにどこからともなく飛んできて、彼女の額を打ったのだ。陽《ひ》が肩を温めている、というだけのことで。彼女は達也の思い出から、自分が解放されつつあることを、不意に感じたのだった。  信号を渡った所にパブリック・フォーンが見えていた。赤信号にもかかわらず、真知子は大急ぎで車道を横切った。ロンドンタクシーがスピードを緩《ゆる》めもせず、彼女の背中スレスレのところをかすめて通過した。 「もしもし、ポール? 私よ」 「おや、君の方から電話をくれるなんて珍しい。何かあったの?」 「ええ、それがあったのよ」 「いいニュース?」  ポールが心配そうに訊《き》いた。この一年間、彼は真知子の不幸にばかり立ちあってきたのだ。 「そうよ、とてもいいニュース」 「早く話して。待てないよ」  ポールの声に笑いが滲《にじ》んだ。 「電話じゃだめ」 「どこへでも行くよ。今どこ?」 「ハロッズの前」 「そんなところで何をしているんだい?」 「秋の日射《ひざ》しがとてもきれいなのよ」  ポールがどれだけ彼女の支えになってきたか、真知子は彼の言葉や行為の数々を思い浮べながら、しんみりと言った。  ——きみの良さがわからない男なんて、どうでもいいじゃないか。達也はきみにふさわしくないよ——  それなのに、真知子は彼に対して実に冷たかった。  ——ボクじゃ達也のかわりになれない?——  ——なれるわけないじゃないの——  誰も達也のかわりになどなれない。真知子が失った男は、彼女にとって唯一《ゆいいつ》無二の存在だった。  ——きみがボクのことに気づくまで、気長に待つことにするよ——  ——いくら待っても無駄よ、ポール——  にもかかわらず、ポールはいつも彼女のそばにいた。忠実なコリー犬のような眼をしたポール。その熱い眼差《まなざ》しがあんなにわずらわしくて、野良犬を追い払うように彼を遠ざけたこともたびたびあった。 「じゃハロッズでランチを食べない?」  と真知子が電話に言った。 「ハロッズでランチ?」  ポールが吹きだした。「あそこでランチを食べるのは、一日中ハロッズで買いものをして時間を潰《つぶ》しているアラブの金持ち夫人か、おのぼりさんだけだぜ」 「どうするの? 来るの、来ないの?」  愛されているという確信が、彼女の口調を高飛車にする。 「行くよ。それにしても俗悪だな」 「いいのよ。俗悪なことをしてみたいの」  エネルギーが戻ったのだ。蒼《あお》ざめた花のようにうつむきかげんに生きる生活に、ピリオドを打つのだ。  ポールを待ちながら、真知子は恋人でも待っているような錯覚を感じて、軽いめまいのようなものを覚えた。いつも間近にいて見なれたポールが、なぜか、まぶしいような存在に思えるのだ。その突然の心境の変化に、誰よりも戸惑っているのは真知子自身だった。  彼女がポールを待っているのは、食堂の入口の前にあるカクテルラウンジで、ガラス張りのテラスの部分である。  観賞用の植物がふんだんに置かれ、温室のような甘やかな匂《にお》いに包まれている。  大きなゴムの樹の向こうに、寛《くつろ》いだ足どりで近づいてくるポールの姿が見えた。その顔に刻まれている困惑したようなうれしそうな温かい笑顔。あたしは一年間一体何をしていたのだろう? 大きな道草をくってきたような気持に真知子は襲われた。 「久しぶりだね」  彼女の両の頬《ほお》にキスをしながらポールが微笑した。 「そんなに久しぶりじゃないわよ」  真知子が笑った。つい先週に逢《あ》ったばかりのような気がするのだ。 「三カ月ぶりだよ」 「あら、そんなに……」  と言ったきり、真知子は一瞬絶句した。 「そんなに長いこと、私たち逢ってなかった?」 「あいかわらず、上の空なんだな」  ポールは少し瞳《ひとみ》をくもらせた。 「三カ月も、私のことをほっておくなんて、あなた冷たいのね」  真知子は優しく彼を睨《にら》んだ。ウエイトレスが二人の前にシャンパンのカクテルを置いた。 「ところで、いいニュースだって?」  ポールがグラスを取り上げて乾杯をしながらさっそく訊いた。 「ええ、そうよ。何だかわかる?」 「新しい恋人でもできた?」  ポールがそんなふうに人ごとみたいに言うのは、嫌な気がした。 「ええ。というより、ずっと愛していた人がいたことに、たったさっき気がついたの」 「じゃ、達也の亡霊は立ち去ったんだ!!」  ポールの顔が輝いた。 「でも一体、何があったの?」 「さっき日射しが肩に温かくて、ジョン・デンバーの唄を口ずさんでいたの。突然達也のことが私の胸から剥《は》がれ落ちていくのがわかったわ」 「日射しのせいで?」  とポールが笑った。 「ボクにもいいニュースがあるんだ。実はね、婚約したんだよ」  真知子は唖然《あぜん》としてポールを見つめた。 「いつ?」 「三カ月ばかり前。いい娘なんだ。近々紹介するよ。逢ってくれるね。そうだ、きみの新しい恋人と四人で食事でもしようよ」 「そうね。それはいい考えね」  眼の底が暗くなるのを感じながら、真知子は茫然《ぼうぜん》とそう呟《つぶや》いた。  ブラッスリー・D  この店の特徴は、ギャルソンたちがテーブルの周りを給仕しながら歩きまわるそのきびきびとした速度にある。  きびきびとはしているが、肩に力が入ってはおらず、どこか寛《くつろ》いでいる。そう、ギャルソンが仕事を楽しんでいるという感じ。  時刻は十時を少し回った頃。芝居や映画の最終回がはねた後、ゆっくりと食事をしようというカップルで、ほぼ満席である。桃子はメニューの陰から、好奇心をつのらせて店内の様子を眺めた。  ボーイフレンドの良介に、気取った場所で食事するのは絶対にいやなの、と宣言したら、彼があの店ならと太鼓判を押したのが、ここブラッスリー・Dなのであった。 「どうしてここを知ってるの?」  とメニューから眼を上げて、桃子が訊《き》いた。 「一、二度来たことがあるんだ」  と良介。 「誰と?」  すかさず、さりげなく桃子が質問する。 「事務所の仲間連中さ」  やっぱりさりげなく答える良介。 「嘘《うそ》」  と軽く相手を睨《にら》んでおいて桃子は、 「あら、ホロホロ鳥だって」  と話題を変えた。自分だって時々他の男とデイトするわけだから、この際|下手《へた》に突っこむとヤブヘビになるかもしれないからだ。 「うん、柔らかくて美味《うま》いよ」  メニューに視線を落しながら、良介が説明した。彼はどんな女をこの店に同伴したのか、と桃子は気にならないわけではなかった。特にこんな寛いだ感じのシャレっ気のあるブラッスリーに連れてくるのは、単なるつきあいの相手ではないと思った。  しかし桃子は、自分が嫉妬《しつと》していることを認めたくなかった。 「ホロホロ鳥はやめて鴨《かも》のコンフィというのを頼むわ。あなたは?」  と言ったまさにその時、彼女の傍《そば》を、クリスチャン・ディオールの男性用コロンの微《かす》かなグリーン・ノートを先行させながら、通り過ぎていく男の気配。  年の頃は四十前後、ストライプのダブルブレストの上下。胸の厚みが充分にあるのに比較して、腰のあたりがほっそりとしている。現代的典雅さをそなえた歩きぶりで、ギャルソンに案内されたのは、奥の上席。  つまり、他の客からはあまりじろじろ見られない奥まった席でありながら、自分の方からは店の中が隈《くま》なく見渡せるというテーブルなのだ。  どのレストランでも、そういうテーブルがひとつ用意してあり、常連の中でも上等な客のために使われる。  男は寛いだ微笑を浮べながら席に着くと、ギャルソンと二言三言。何か冗談でも言ったのだろう、ギャルソンが白い歯を見せて笑った。  桃子がつい見惚《みと》れたので、良介は首をひねって上席の男をチラと見た。それから小声で、「キザ」と吐き棄てるように呟《つぶや》いた。 「でも、こんな時刻にひとりでレストランに現れて、絵になる男って、日本人には少ないわよ」  と桃子は言った。 「絵になるかならないか知らないけどさ」  と良介が声に嫌味を交えた。 「この時刻にひとり現れたのは、女にもてないって確かな証拠さ」 「ばかね。もてすぎて、たまにひとりで寛いで食事がしたいのよ」 「案外、家では、ギャースカいう子供がいて、所帯やつれしたカミさんなんかがいるんだよ、ああいうのは」 「やけにムキになるわね」  と桃子はニヤリと笑った。 「男が見てもいい男だと、素直に認めたらいいじゃないの」 「冗談じゃない。女気のないところを見ると、ホモだぞ、あいつ。ギャルソンを見る時の眼つきがなんとなく嫌らしいだろ!」  と良介はさんざんその見知らぬ男をけなすのだ。 「ホモじゃないことだけは確かよ」  と桃子は少し口調を改めて断言した。 「へえ?」  と良介が片方の眉《まゆ》を上げた。 「あいつと、寝たことでもあるのかい」  桃子の返事が、一秒の十分の一くらい、つまりほんのわずかに遅れた。  もちろん、寝たことなんてない。第一初めて見かける男だった。  けれども返事を微妙なタイミングで遅らせたのは、桃子の女としての作戦である。女なら誰でも、一瞬にしてそういうかけひきができるのだ。  むろん先の先まで読めるわけではない。本能的な勘なのだ。良介はその見知らぬ男に対してかなり敵愾心《てきがいしん》を燃やしているから、ここでほんの少し油を注ぎこめば、独占欲を刺激されて……。 「寝るわけないでしょ。逢《あ》ったこともないのに」  本当だったので、たいして力みもせず、桃子は否定した。 「そうかな」 「そうかなって、何よ?」 「眼つきがさ、変だったぞ」 「変だったって、どう変なのよ?」 「何かある、って感じだ。それを隠そうとしているのが、なんとなくピンときた」 「何を隠しているのよ?」 「そういう一連のとぼけかたも、いかにも作為的だよ」  ことのほか、良介が上手《うま》くひっかかったので、桃子は内心ほくそ笑んだ。嫉妬《しつと》は長すぎた春の妙薬。 「俺《おれ》は、節操のない女は嫌いだ」 「それは少し言いすぎじゃない?」  過ぎたるは及ばざるがごとしの例えもあるから、桃子はまあまあというように良介の腕を押えた。 「自由は尊重するけど、節操がないのと、自由だというのとは違うんだ」 「そんな節操節操って、大きな声で言わないで。人が見てるじゃないの」 「彼がだろう?」  そう言って、良介はもう一度首をひねって男を眺めた。ちょうどまさにその時、そのダンディな男が、桃子たちのテーブルの方角にむかって、微笑《ほほえ》みかけたのだ。 「ほらみろよ」 「違うわよ。こっちの言ってることが聞こえたのよ」 「君を見て笑ったぞ」 「こっちの方を見てるのよ」 「あの笑いは普通じゃない」  良介はますます疑惑を深めて言った。 「君って女は、放っておくとどうなるかわからないんだから」  そして少し口ごもり、 「俺の女房になれよ」  と言った。ついに言った。桃子はヤッタと内心叫んだが、むろんそんなことは|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にも出さなかった。  磯  余市《よいち》は雪だった。  空気はクリスタルグラスのようにシャープで、吸いこむと肺が痛かった。しかしその痛みは、典子にはむしろ気持が良かった。  空から舞いおちてくる雪片は小さくて、チリのようだった。そして純白ではなく黒ずんだ灰色に見えた。  灰色のチリが、原爆のあとの放射能灰のように、たえまなく降り続くようだった。典子は奥志賀でスキーをした時の、深々とした雪景色を思いだした。  幸福だった時。雪はしんしんとして、冷たいというよりは暖かい風景のように眼に映った。眼が痛いような純白に光り輝いていた。余市に降る雪は、典子の胸の思いを反映してか、灰色だった。  けれども、降りつもる雪はもちろん真白で、砂漠の砂のようにサラサラしている。風が吹くと、やっぱり砂漠の砂のように流れていって、あたりの風景が少し違ってしまう。  ニッカのウイスキー工場の赤い屋根が、そのあたりの唯一《ゆいいつ》の色彩だった。雪は工場の赤い屋根にとても良く似合っていた。  寒さが足元から這《は》い上ってきた。耳も頬《ほお》を刺すように冷たかった。何よりも体の中に空洞があって、そこに寒風が吹き、雪が舞っていた。典子は身も心も寒かった。  ひとつの恋に終止符を打って、その足で来たのが北の国、余市だった。計画していたわけではなかった。人と別れた直後は、どこにいたって淋《さび》しかった。どうせ淋しいなら、いっそのこと、徹底的にそれに溺《おぼ》れてしまおう、とそう典子は思ったのだ。  見知らぬ町で。  でもなぜ余市なのか。典子にはこれといった理由がみつからない。多分、別れた久雄と以前から足しげく通ったバーで、彼がきまって飲んでいたのが、スーパーニッカというウイスキーだったことくらいが、無理に考えれば、理由といえる理由かもしれない。テレビのコマーシャルで、ウイスキーと余市という町が重なって頭の隅にあった。  冬の北海道。そしてウイスキーの樽《たる》。樽の上に降りそそぐ雪。そんなイメージが、きっと典子の潜在意識のどこかにあったのに違いない。  久雄が好きだった。彼の全《すべ》てが好きだった。彼の匂《にお》い、声、手、歩きかた、身につけているもの全て。彼の行きつけの店、彼のクレジットカードから手帳から全て。そして、いつもきまって飲んでいたウイスキーも。  それだけの理由だった。彼が好きだったウイスキーのふるさとを訪ねて、雪の降る余市に来てしまったのだ。思えばなんという悲しい理由だろう。  ひたすら温かいものが恋しかった。赤い火。そして湯気の立つヤカン。焼ける魚の匂いや、バターをたっぷりとのせた焼きじゃがいもなど。  お腹《なか》が空いているわけではなかった。そうした温かいもののそばにいたかった。 『磯』というノレンが、雪の中にふっと浮び上った。桟をいくつも貼《は》ったガラス戸のむこうに、懐かしいようなオレンジを帯びた黄色い灯があった。ガラス戸の桟は、黒光りして、いかにも年輪が感じられた。  吸い寄せられるように、典子はその店の引き戸を横に引いた。そこ以外に、自分の行き場所はないような、半ば追いつめられた気持だった。  柔らかい湯気と、素朴な料理の匂いが、まず鼻を打った。中央に、炭火の燃える横長の囲炉裏があり、その後から大柄のふっくらとした女主人が典子を迎えた。 「いらっしゃい」  と、まるで先週も来た客を迎えるような言い方だった。他に先客が三人、カウンターを取り囲んでいた。カウンターだけの十坪ばかりの店だった。 「そっちの奥へ」  と女主人は典子に言った。やっぱりなじみの客の一人にでも言うような感じだった。典子の胸に安堵《あんど》の思いがふつふつと湧《わ》き上った。 「お酒、お燗《かん》する?」  他の客にあいづちを打つ一方で、彼女が訊《き》いた。その一言に、さぞかし外は寒かったろうといういたわりがこもっていた。典子はええとうなずいた。  典子は黙って熱燗の酒を飲んだ。そんなふうに手酌で飲んでいると、自分が男のような気がして惨めだった。  小鉢がそっと彼女の前に置かれた。 「じゃがいも、美味《おい》しいよ。お酒だけ飲むと胃が荒れる」  女主人の眼が微笑《ほほえ》んでいた。人の優しさ親切さが身にしみた。距離をきちんと置いた上での女主人のもてなしが、典子にはすがりつきたいほどうれしかった。 「魚、食べる?」 「ええ」  断るのも悪いのでそう言った。 「赤ガレイ。美味しいよ」  彼女が言うと、本当に美味しそうに聞こえた。じゃがいもの煮たものは、素朴でほっくりとして微《かす》かに甘くて温かい味がした。 「美味しい」  典子は思わずそう呟《つぶや》いた。 「ね? 魚もいい味よ」  典子は酒のおかわりをした。 「口、東京に置いてきちゃった?」  と炭火で焼き上げた赤ガレイを置きながら女主人が言った。 「東京から来たってどうしてわかる?」 「九州の女には見えないよ。大阪の女でもないし。東京のひとにきまっている」 「失恋してきたの」 「うん。失恋して逃げてきた女以外にも見えないからね」  手が伸びて、典子の杯に酒が注《つ》がれた。働く女の手だった。 「余市は、北海道で二番目に住み良いところよ。ゆっくりしておいで」 「静かな所ね」 「昔はニシン漁でそれは賑《にぎ》わったんだけどね。今は、ウイスキー工場見学の観光客が立ち寄るだけ。でもあたしは好きだけどね、この町。赤ガレイ、熱いうちに食べなさい。びっくりするくらい美味しいから」 「別れた男《ひと》が、ここのウイスキー飲んでたの」 「へぇ。それで訪ねてきたの?」 「ううん」  余市までやってきた理由が今わかったような気がした。 「おばさんに逢《あ》いに来たのよ」  ふふ、と女主人は笑った。眼尻《めじり》の皺《しわ》が深くなった。 「来て良かった……」  背後でドアが引かれ、寒風と共に雪が舞いこんできた。若い男が肩をすくめて飛びこんできた。若い男はみんな久雄を思いださせた。典子の杯に女主人が黙って酒を満たした。  サホロ村  地中海クラブのリゾートというのは、どこもがたいていそうなのだが、バスに揺られて延々といくと、ジャングルの奥とか、砂浜の果てとか、そうでなければごくありふれた平地の途中に、忽然《こつぜん》と存在する別天地である。  何年か前に玲子はマレーシアのチェラティンというビーチを訪れたことがあった。クアラルンプールから飛行機を乗り継いで更に二時間、真夜中のジャングルをバスがひた走って着いたところが、煌々《こうこう》とタイマツに照らしだされた現地風にエキゾチックなリゾートであった。夜半を大分回った時刻、バスの中で眠っていた人々は、突然の花火と、ボンゴの響きに驚いて眼をあけると、そこには光が溢《あふ》れ、腰にパレオを巻いた半裸身の白人や東洋人や黒人の美男美女が、唄《うた》い踊りながら出迎えてくれたのである。  それは密林の奥に突然出現した異様にも美しい夜の光景であった。玲子はほんの一瞬、映画で観《み》た『地獄の黙示録』の場面を、その場の光景に重ねて見るような思いに襲われた。もちろん、彼女が眼のあたりにしているのは、映画とは大違いの「天国」に近かったが、異様な興奮を覚えさせられたことには、違いはない。  そしてそこで玲子は彼に巡り会ったのだった。日焼けした美しいジャンに。  ジャンは地中海クラブで働く|GO《ジーオー》と呼ばれるスタッフの一人で、スキューバ・ダイビングのインストラクターだった。  昼食のテーブルで偶然並んで座った時に知り合った。 「スキューバをやりましょう」  と彼はあまり上手《うま》くない日本語で玲子に話しかけてきた。 「だめなの。私、金槌《かなづち》だから」 「カナヅチ?」  とジャンは首をかしげた。真黒い睫毛《まつげ》に取りかこまれた瞳《ひとみ》は、海の蒼《あお》と同じ色だった。 「泳げないの。すぐに沈んじゃうひとのことを、そういうのよ」 「スキューバは海に沈むのが目的だから、カナヅチ、ぴったりだよ」 「でも私、海が怖いの」 「大丈夫。ボクが横についているから」  約束どおり、海の中ではジャンはぴったり玲子に寄りそって一刻も離れなかった。一週間がまたたくまに過ぎた時、玲子はもう海を恐れなくなっていた。そのかわり、ジャンが横に寄りそっていない自分の人生が不安になったのだった。つまり彼女は恋に落ちたのである。  最後の夜、二人はディスコの後、汗で濡《ぬ》れた体を遠浅の海に横たえて、星空を見上げていた。明朝の別れがせつなく哀《かな》しかった。 「ジャン。私を抱いて」  と、彼女は思いつめた口調で言った。長い沈黙が流れた。 「だめなんだ」  と、とても静かに彼が言った。 「ここのスタッフだから?」 「それもあるけど、もっと重要なのは、明日には帰ってしまうあなたを抱いたら、きっとボクは色々な意味でひどく惨めになると思うんだ。そしてきっとあなたも惨めになるよ。そのかわり……」  と彼は両手で海水をすくい上げて続けた。夥《おびただ》しい夜光虫がキラキラと輝いていた。 「これをみんなあげるよ」  世界中の宝石を集めたよりも数の多い、美しい光の贈りものだった。 「ボクがあげられるのは、今、これだけなんだよ」 「うれしいわ、一生忘れないわ」  夜光虫の輝く海水に体を沈めながら、玲子は少し泣いた。  サホロ村が視界に近づいていた。地中海クラブのリゾートが日本にも初めてできることになり、北海道のサホロがその一号となった。それを知った時、玲子はすぐに予約をした。ジャンがスタッフとして来ているのではないかと、ほとんど確信していたからだった。  確信は日毎に不安に変っていった。不安と確信との間を、玲子は揺れ動いていた。  雪に埋れたホテルの前庭に、二十人ばかりのスタッフがトランペットやクラリネットで出迎えていた。派手な衣装のピエロが跳んだりはねたりしていた。  玲子はバスから降りると、出迎えの一同の中に愛するジャンの顔を探した。必死で探した。  けれどもジャンの姿はなかった。落胆で顔が青ざめるような気がした。だがスタッフはまだ他にもいる。スキーのインストラクターたちは、山に出払っているはずだった。夏にはスキューバをやっていたジャンは、雪のバカンス村ではスキーのインストラクターをやっているのかもしれなかった。  不安は次第に絶望に変っていった。もともと、ジャンがサホロに来ているかどうか、調べたわけではなかった。きっと来ているだろうと、玲子は勝手にそう思っているだけである。 「またきっと逢《あ》えるよ」  と別れぎわにマレーシアで彼は言ったのだ。 「そう心から願えば、ボクたちは必ずまた逢える」  その時の彼の表情と声の真実さを、彼女は信じたのだった。  ロビーに入ると、歓迎の一団のほとんどが散っていき、彼らの本来の仕事場に戻っていった。荷物をホテルルームに運んでくれるために数人のGOが残っている間を、鼻の頭に赤いピンポンボールをつけたピエロが、逆立ち歩きをしていた。  玲子はロビーの窓際に寄ると、雪景色を眺めた。白の世界は美しかったが、何かが欠けていた。それを眺めてその美しさを共有する誰かの存在が欠けていた。ジャンがいない。ジャンのいないリゾートは、あまりにも淋《さび》しすぎた。  バカだったわ。来なければ良かった。こんなに淋しい思いをするなんて思ってもみなかった。勝手に信じて来てしまうなんて、なんて無鉄砲だったのだろう。 「お嬢さん、スキーをしましょう」  いつのまにかピエロが横にいて彼女の顔を覗《のぞ》きこんでいた。玲子はあわてて涙をぬぐった。 「私、スキーはだめなの。したことがないから」 「大丈夫、ボクが一緒に滑るから」  赤い星の絵を描いた眼が、じっと彼女をみて、笑っていた。長い睫毛にふちどられた蒼い眼だった。 「でも、怖いわ」 「もしかして、カナヅチ?」  と、ピエロが訊《き》いた。  はっとして、玲子はピエロを凝視した。すると彼はピンポン玉の鼻を取ってニッコリ笑った。 「ジャン」  歓《よろこ》びのあまり、一瞬ぐらぐらと体が揺れた。 「やっぱりいたのね」 「また逢えたね」  と言って、ジャンはピョンピョンと逆立ちをして、玲子の周りをまわり始めた。  ヨロン島プリシア・リゾート  オフシーズンのリゾートは閑散としている。夏の狂気じみた賑《にぎ》わいが嘘《うそ》のように、静寂の中で息をひそめている。  そして太陽だけが、刻々とその位置を変えながら、純白の砂浜に透明な日射《ひざ》しをふり注いでいる。  珊瑚《さんご》の結晶でできた砂の上に、足跡が点々と続いている。それは背後のプリシアの建物から出て、砂浜を横切り、左前方の海に突きでた岩陰を回りこんだところで、海中に消えている。  足跡は大きさからすると明らかに男のもので、迷いのない足取りで進んでいったことがその歩幅からもわかる。真由美は、さしあたっては他にすることもなかったので、その誰のものとも知れぬ砂に刻まれた足跡を、ゆっくりとたどり始めた。  岩のところで、彼女は奇妙な戦慄《せんりつ》を覚えて立ち止まった。足跡が波打ち際でぷっつりと跡切れているのである。彼女は水の深さを眼で計った。満潮であるために、股《もも》のあたりまで水に浸《つか》らないと、岩を回りこんで散歩の続きはできそうにもなかった。  それから彼女は海に向って潜水艦のように突きだしている岩を見上げ、それがとうてい人間がよじ登れる代物《しろもの》でないことを、確認した。  この男《ひと》、どうしちゃったんだろう?  と、彼女は誰とも知れない足跡の主のことを気遣った。建物の方へ引き返していく別の足跡はないのだった。  海に潜っちゃったのかしら。まさか入水《じゆすい》自殺じゃないと思うけど。この季節では、いくら与論が暖かいとはいえ、泳ぐのは無理だった。  狐につままれたような気持で、真由美はぼんやりと寄せては返す優しい波の動きを眺めていた。  骨休めの休暇に来ているので、これといってすることもなかった。彼女はそのあたりに腰を下ろして、別にその朝の謎《なぞ》を究明しようというような大袈裟《おおげさ》な気持でもなく、ひんやりとする砂を手でもてあそびながら、寄せる波を、ひとつふたつと見送ったのであった。  そのうちに、彼女はあることに気がついてはっとした。寄せる波の高さや大きさが微妙に違うのである。ぼんやりと眺めているとわからないが、確かに同じではない。それどころか、大きな波と小さな波では、かなりの違いさえあることを発見した。更に注意をして数えてみると、三十六回に一度大波が来ることがわかった。そして大波の後二つ目の波が、一番小波であることがわかった。  もしかしたら私、人類史上大変な発見をしてしまったのかもしれないわ、と真由美は少し胸を高鳴らせた。波の生理学とでも名づけようかしら。  それから彼女は、一番小さな波の時に、大急ぎで岩を回りこめば、足が濡《ぬ》れないことに、不意に気がついて、飛び上った。  大波が来て、そして小波が来る寸前、彼女は岩の周囲に浮き上ったわずかのスペースの上を、一気に駆けぬけた。  惰力がついていたために、岩のすぐ向こう側に長々と寝そべっていた人間に、まともに突っかかっていくような感じになって、避けそこねて、彼女は重なるようにその場に倒れてしまった。  寝そべっていた男が驚いて、上半身を起した。真由美は無様《ぶざま》に男の脚に重なってしまった自分の下半身をどけると、 「ごめんなさい。びっくりしたでしょう」  と大いに恐縮して謝った。 「宇宙人が降ってきたのかと思ったよ。ちょうど、宇宙のことを考えていたものだから」  男は涼しげな眼をしていた。年齢は三十前後に見える。なんだか年を喰《く》った少年といった感じだ、と真由美は思った。 「どうやってここへ来たの?」  と彼女は訊《き》いた。男は空を指した。 「嘘《うそ》」 「じゃ、きみはどうやって来た?」  男がじっと真由美を見た。 「波の生理学に従って来たのよ」 「じゃ、同じだ」  頭の後ろに手を組んで、再び白砂の上に寝ころびながら、男が呟《つぶや》いた。真由美は、彼が眼を閉じてしまう前に、慌てて言った。 「波の生理学のこと、知ってるの?」  自分が発明した言葉だと思ったのに。 「大波の二つ後に小波が来るってことだろう?」  そう言って、その見知らぬ男は眼を閉じた。すると、なんだか真由美は自分が締めだされたような気がした。そして淋《さび》しかった。 「プリシアに泊っているの?」  相手が眼を閉じているのをいいことに、彼女は男の顔を穴のあくほど眺めながら、訊いた。 「そうだよ」 「私もよ」 「知っている」 「あら、どうして知ってるの?」 「見かけたから」  男は眼を閉じたまま、質問に最小限度の言葉で答える。 「話しかけるの、うるさいかしら?」  彼は、その問いにすぐには答えなかった。 「いいよ、君なら、かまわない」  とやがて、男は答えた。 「私がここに何しにやってきたか、わかる?」 「いや」 「あなたを追いかけてきたの」  正確には足跡だったが、彼女はそう言った。そして、ほんとうに、自分はこの男《ひと》を追って、ここに来てしまったような気がするのだった。 「僕の足跡を追ってきたんだろう」  と男は真由美の言葉を、柔らかく訂正した。 「もしも、ここにいるのが僕でなくても、別にかまわないわけだ」 「もしもあなたでなかったら、転んだ後、どんどん歩いていっちゃってるわ」  こんなこと、誰にでも言うような軽い女に見られるのではないかと、真由美は恐れた。 「私のこと、いいかげんな女だと思うかもしれないけど」  でも、人の出逢《であ》いって、いつだってこんなふうに偶然から始まるのではないかしら? それが尻軽《しりがる》の感じになったり、本気になったり、どこでどう分かれるのだろうか? 真由美は、眼の前で、顔に太陽を浴びている年喰った少年を、更にじっと見おろした。胸が痛んだ。このひとは、私に属する男なのだ、という唐突な思いに、なぎ倒されそうだった。 「いや、軽い女だとは思わないよ」  と眼を閉じたまま、彼が静かに言った。 「君を一目見た時、僕にもすぐにわかった」 「何がわかったの?」 「君と同じことがさ」  真由美は、まるでどこからか飛んできたツブテで額を打たれたような気がした。それは幸福という名のツブテだった。彼女は視線を上げると、海に突きだしている岩を眺めた。あの岩の向こう側とこちら側では、全《すべ》てが違ってしまったと思った。  六本木アマンド前  杉田謙作はもう長いことその女から眼を離せない感じで立っていた。  彼の背中には『アマンド』のガラス窓からもれる華やかな明りが当っていた。  その女は、大体そんな場所で人を待つようなタイプとは、かなり違っていた。若いキャピキャピの女たちや、得体の知れない外国人の男女や、若いサラリーマンや、軟派風の大学生たちの中で、その女はいかにも場違いであり、それゆえに孤独に、杉田の眼に映るのだった。  年齢が今ひとつはっきりしない女というものが時々いる。その女もまさにそうで、三十五にも見えるし、二十四できちんと自立した女といっても通る。男もののようなトレンチコートのウエストをきゅっと締め上げて着ていて、しかも実際にはそうではないのかもしれないが、素肌の上に直《じか》に着たような印象を受ける。トレンチコートの衿《えり》を軽く立て、袖を無造作にめくっただけで、アクセサリーの類《たぐい》は一切身につけていない。もののみごとにシンプルに着崩している。  美貌《びぼう》というのではない。美しい顔立ちという基準には入らないが、エキセントリックな個性がある。頬骨《ほおぼね》が高く、顎《あご》が男のように意志的。唇は薄い。マレーネ・ディートリッヒを日本人にしたような感じだ。  女は、街灯に軽く背をあずけるような感じで、ぼんやりと誰かを待っていた。もう、二、三十分はそうして同じところにいる。  杉田の相手も約束の時間に遅れていた。もっともそれは飲み友だちだから、その女の存在がなければ、杉田は十分も待って、さっさと帰ってしまっていただろう。  人を待つ女の風情としては、完璧《かんぺき》なシーンだな、と、彼は思った。わずかに口角が下った感じのする唇の端に、くわえ煙草でもあれば、絶対に絵になる。  ふと女の視線が動いた。それはゆっくりと動いて、杉田の顔の上で止まった。  視線に重みがあった。それは、例えは悪いが、ハエがとまるように、彼の顔の上に止まったのだ。  あまり長いこと女の凝視が続くので、杉田は息苦しくなって、とっさに外国映画の中の登場人物のように、肩をすくめ、軽く両手を広げてみせた。ごらんのとおり約束の相手にすっぽかされたらしい、と白状するようなゼスチャーである。  女の口元に薄い微笑が滲《にじ》んだ。そしてそれに続いてわずかに肩が上り、片方の眉《まゆ》が、問いかけるような具合にアーチ形を描くのを、杉田は人々の肩や頭越しに見た。そして内心ドキリとした。  そこには、視線を合わせた二人の男女の間だけにわかる、ある種のサインがあった。そして暗黒の素早い了解。杉田はタイミングを失しなかった。  彼はゆったりと寛《くつろ》いだ歩調で、そのあたり一帯にたむろしている人々の間を縫いながら女の近くまで行った。 「待たせた?」  彼としては上出来の科白《せりふ》だった。 「ええ」  と女は片方の唇の端だけ上げて微笑した。 「でも、待つのも悪くなかったわ」  ハスキーとまではいかないが、低い声で女は言った。 「一杯飲む? それとも食事でもする?」 「他に提案は?」  女の眼がからかうように笑っていた。 「そいつは、あとで」  杉田はニヤリと笑った。女の視線が杉田の結婚指輪に止まった。 「結婚しているのね」 「不都合でも?」 「私の方には、別にないわ」 「僕の方にも、特にないね」  二人は視線を絡めた。誰も注意をして二人を眺める者もいなかった。背後では革ジャンパーにブーツをはいた少年たちが、キャピキャピ娘のグループをからかっていた。娘たちは口々に、「ヤダァ」とか、「嘘《うそ》ォ」とかいう甲高《かんだか》い声を上げていた。 「さしあたっては、口あたりの良い冷たいカクテルでも」  と杉田は言った。 「結構ね」  女はそう言って、杉田と肩を並べて歩きだした。  いつのまにか、うとうととしてしまったらしい。なにしろ激しい女だった。ふっと眼覚めるとホテルの薄暗がりの中で、杉田は慌てて腕時計を見た。夜光塗料の緑色の文字盤が午前二時四十五分を示している。彼はがばっと起き上ると、大急ぎで脱ぎ散らしてあった衣服を拾い始めた。 「どうしたの?」  と女の声がした。「何を慌ててるの」 「午前三時だよ、もう」  ズボンに足を突っこみながら、杉田が返事をした。 「だから?」  ひどく落ち着いた声だった。 「帰るよ、もう」 「…………」  Yシャツの袖《そで》に手を通しながら杉田はチラリとベッドの中の女を見た。 「……楽しかったよ」  女は黙って煙草を一本口にくわえた。 「また逢《あ》える?」 「ああ、そのうちに」  杉田はあいまいに答えた。 「電話するわ」  煙を吐きだしながら女が言った。 「杉田謙作っていうんでしょ? さっき名刺を一枚だけ頂いといたわ」  とたんに杉田は腹の中に冷たい怒りを感じた。 「勝手に人のポケットを探るような女は、嫌だね」  ネクタイを締めながら、彼は憮然《ぶぜん》と言った。 「私の名前とか訊《き》かないの?」  上半身を起しながら、女が言った。少し垂れ気味のたわわな乳房が露出していた。 「アレックスよ、覚えといて」 「え?」 「アレックス。この名前に思い当ることない?」 「いや」 「『危険な情事』って映画|観《み》てない?」 「あ」  たしか、その映画の中で、家庭持ちの男を徹底的に追いまわす頭の狂った偏執的なキャリアウーマンの名が、アレックスというのではなかったか? 「なんでまた……」 「その名前が気に入ったの」 「やめてくれよ、変なことするの」  杉田は後退《あとじさ》るようにドアに向った。 「変なことなんてしないわ。もっともあなた次第だけど」  彼がドアに手をかけると、女の声が背中に飛んだ。 「ねえ、ところであなたのところ、兎《うさぎ》飼っている?」  とたんに杉田はめまいを覚えた。映画の中で女が嫉妬《しつと》に狂って兎を煮てしまう胸のむかつくようなシーンを思いだしたからだ。  |紅い唇《レツド・リツプス》  歩道も車道も閑散としている。  日中、あんなにもたくさんの人間が右往左往していた同じ通りとは思えない。  実際|九龍《カウローン》の裏通りというのは六叉路《ろくさろ》とか八叉路というのがあって、四方八方から来る人、あるいは散っていく人たちで、文字どおり人間が右往左往しているという表現が、ぴったりなのである。  おまけに人間の数が多い。人口密度が高い上に、観光客が世界中から押しかける。  時刻は真夜中の零時前。繁華街のネオンサインの半分は消えている。だが、それでも異国的なけばけばしさがあると、徹は思った。  彼はもう一度メモに書かれた走り書きのアドレスを眺めた。  メモにアドレスを走り書きしたのは、スターフェリーの中で、偶然横に立っていた女だった。古い表現だが、『東洋の真珠』というのにぴったりの若い女だった。 「香港のひとですか?」  と訊《き》くと、そうだというようにうなずいた。 「名前は?」 「どうして私の名を訊くの?」  切れ長の眼の隅から斜めの視線で、女が逆に訊き返した。どうしてと訊かれると、徹は返答につまった。 「ただ、訊きたかったのさ」 「香港中の女の名前を、訊いて回っているの?」  斜めの視線によく似合う、冷ややかな声で女は言った。 「香港の女はみんなそんなふうに、高飛車に喋《しやべ》るものなの?」  今度は女が黙った。それからふと気が変ったように、 「スージーよ」と言った。 「スージー?」 「そうよ」 「スージー・|WON《ウオン》のスージー?」  とっさに昔懐かしい名前が徹の口をついて出た。 「それが私の名前よ」 「スージー・ウォンが?」 「ええ」 「あのスージー・ウォンと同姓同名だ。知っている? 大昔の女優だよ」 「知っているわ」  スージーは、遠い眼をして、次第に近づきつつある対岸の香港島を眺めた。 「スージー。時間ある?」  このまま別れたくないという気持が、徹の心に強く湧《わ》いた。 「どうして?」 「食事でもどう?」 「私と話したい?」 「ぜひ」  スージーは、まるで男が女の品定めをする時のような眼つきで徹の全身を眺めた。スターフェリーはほどなく香港島の埠頭《ふとう》に接岸しようと、スピードをゆるめていた。 「いいわ」  と彼女は承諾した。真紅に塗られた唇が、その時初めて、柔らかい弓なりのカーブを描くのを、徹はうっとりとする思いで見つめた。  それから彼女は素早くメモを取りだすと、アドレスを走り書きして、徹に渡した。 「今夜零時に、そこに来て」  メモにはハノイ通りと番地があり『RED LIPS』とある。 「レッド・リップス?」  なぜかその名にドキリとしながら、徹はスージーの眼ではなく、思わず彼女の真紅の唇をみつめた。  確か、スージー・ウォンの映画の中に出てきたバーの名が『|紅い唇《レツド・リツプス》』ではなかったろうか。 「ここで、働いているの?」  ますます胸を妖《あや》しくときめかせながら、徹は重ねて訊いた。 「いつもいるわ」  スージーはそれだけ言うと、接岸したフェリーから足早に降り立ち、人混《ひとご》みにまぎれて姿を消した。  彼女の姿が消えてしまうと、徹は一瞬今のは現実に起ったことなのだろうか、と、思わず自分の頬《ほお》を強くこすり上げた。スージー・ウォンと名乗った女の妖しげな美しさと共に、真紅の唇が、鮮やかに脳裏に刻みつけられている。現実なのだ。今夜、スージーにもう一度逢《あ》えるのだ。徹の心が躍った。  ようやく探りあてた路地の奥を覗《のぞ》きこんで、徹は眉《まゆ》を寄せた。つきあたりが袋小路になっていて薄暗い。一見して、それとわかる年増の娼婦《しようふ》が、おそろしくヒールの高い靴をはいて、たたずんでいる。  袋小路の手前に、うらぶれたネオンサインが『RED LIPS』の文字を赤く浮き上らせている。徹は路地に入り、厚化粧の娼婦に眺められながら、奥へ進んだ。  店の中は暗く、入ったとたんアンモニア臭が鼻を打った。正面のカウンターに、すさんだ感じのホステスが六人たむろしている。ボックス席は赤いビニールシート。おそろしく不潔で、安っぽく、それでいて不思議なノスタルジーを誘う。  徹の姿を認めると、ボックス席の四、五人の女たちがいっせいに立ち上って彼を迎え入れた。近くで見るとどの顔も、どうひいき目に見ても六十代である。ぎょっとして徹は後退《あとじさ》った。 「レッド・リップスってここのことかい」  と彼は恐る恐る訊いた。 「そうだよ、ここがレッド・リップスさ」  老いたホステスが嗄《しやが》れ声で答えた。 「何を飲むね?」  まだ坐《すわ》ってもいないのだった。 「女性を探しているんだが」 「女なら、このとおり、そろっている」  老女がニヤリと笑った。前歯が欠けているので、口の中が空洞に見える。 「しかし、若い女なんだ」 「ここにいるのも、かつては若かった女たちさ」  全員がゲラゲラと笑った。臆面《おくめん》もない卑猥《ひわい》な笑い声だった。 「名前は、スージーというんだが」  すると嗄れ声の老女が一歩進み出た。 「スージーはわたしだよ」 「いや。その、スージー・ウォンという名の若い女なんだけど、知らないかな」 「わたしがウォンさ。スージー・ウォン」 「まさか」  と徹は冷たい汗を掌にじっとりとかいた。  逃げ出そうにも老女たちが徹を取り囲んでいる。厚化粧の匂《にお》いと、安香水の香りとで彼はめまいを覚えた。 「僕が探しているのは、東洋の真珠みたいな若い女で、切れ長の眼と、形の良い真紅の唇をした美しい女だ」  すると老いたスージー・ウォンがこう言った。 「わたしも若い頃、切れ長の眼と、真紅の唇で東洋の真珠と呼ばれたものさ」  老女たちはますます徹に近づき、彼をぴったりと取り囲んだ。  ローマ空港  ギリシャ行きのオリンピア航空機の出発時間にはまだ四時間近くもあった。四時間もあれば、ローマ市内に行って帰ってこれないこともないが、時間が時間である。タイ航空が加奈子をローマ空港に降ろしたのは午前六時十分過ぎ。まだローマ市庁も街も眼覚めてはいない。  しかたなく彼女は、左右というか前後というか、やたらに長細い国際線の空港の中を端から端まで、たんねんにウィンドウやら、広告やら、彼女と同じような早朝のトランジット客やら、とにかくありとあらゆるものを眺めながら一往復したのだった。  きれいな空港であった。ところどころに寝椅子《ねいす》が置かれているのも、他の空港にはあまり見られないサーヴィスである。  寝椅子は、モダンなデザインの革張りで、背の角度が何段階か変えられるようになっているらしい。成田を出てから、タイ経由でローマ到着まで、乗りつぎを入れてまるまる二十時間以上、躯《からだ》を横たえていなかった。加奈子は急に切実に寝椅子のひとつを手に入れたい欲望にかられた。  全部で二十脚近くある寝椅子は、どれもすでに占領されていて、空きは見あたりそうもない。なぜか、インド人か、黒人がそれを占領して深く眠りこけている。白人や日本人は、そんな無防備にローマの空港で寝ほうけるわけにはいかないと思っているのかもしれない。加奈子にしたって、もしも本当に眠りに落ちてしまったら、パスポートやらクレジットカードや現金を入れたバッグをどこに置いていいものやらわからない。  その時近くの寝椅子に横になっていた黒人の若い男が、のろのろと動きだすのが見えた。その空いた椅子めざして、三人の人間が動きだした。一番すばしっこかったのは、中年の太った女で、彼女もインド人だった。 「ちょっとすみませんが、この荷物を見ていてくれませんか」  そう言われてふりかえると、若い男が真白な歯を見せて笑っている。英語のアクセントからすると、英語圏の人間ではなさそうだ。イタリア人かスペイン人かもしれない。すばらしい美貌《びぼう》なのにもかかわらず、本人はちっともそのことに気づいていないみたいなところがみえる。加奈子は直感的に好感を覚えて、 「もちろん、いいわよ」  と答えた。「でも、なぜ私を信用するの?」 「眼でわかりますよ」  若い男——というよりはむしろ少年のような面影の——はそう言って腰を上げた。ジーンズにシャツに、白木綿のジャンパーという軽装だが、清潔だった。物腰もどこか優雅でゆったりとしていた。そのくせ動作はきびきびとしており、あっというまに遠ざかっていった。  十分ほどして、彼は新聞を小脇《こわき》にドーナッツと紙コップのコーヒーを手に戻ってきた。紙コップのコーヒーは二つ。両手に持ち、それぞれの人差し指にドーナッツがひとつずつ。 「どうぞ」  と無造作にコーヒーとドーナッツを加奈子に差しだした。「荷物の番をしてくれたお礼です」 「まあ、ありがとう!」  旅先のちょっとした親切ほど身にしみてうれしいことはない。彼女はすっかり幸福な気持になってそれを受け取った。 「出発便は何時です?」  と彼が新聞を膝《ひざ》の上に広げながら訊《き》いた。 「十時十分」 「ギリシャ行き? 僕と同じだ」  若い男の顔が輝いた。「まだかなり時間がありますね」  その時、また近くの寝椅子から女が立ち上った。荷物をまとめているところを見ると、もう使わないらしい。加奈子の視線を追っていた若い男が何を思ったのか、素早い動作で立っていって、それをひょいと持ち上げてきた。 「この方が楽ですよ」  願ったりかなったりだった。 「でも、眠ってしまったらどうしようかしら」 「大丈夫。出発の時間になったら起してあげますよ。ギリシャはどこへ?」 「ロードス島」 「僕もですよ」 「ヴァカンス?」 「いや、僕は夏休みを利用して働くんです」 「学生なの?」 「ええ。ホテルはどこですか?」 「フラミンゴ。あなたはどこで働くの?」 「残念。フラミンゴじゃなかった。でも、フラミンゴホテルなら知ってますよ」 「お休みは何時《いつ》なの?」 「休みなし。でも毎日九時以後はフリーです」 「あら、じゃ一度訪ねて下さいな。ドーナッツとコーヒーのお礼に夜食でもご馳走《ちそう》するわ」 「ほんとうに?」  青年はいかにもうれしそうに、もう一度真白い歯を見せた。 「カナコ・イマイとレセプションに言ってね」  と彼女は名のった。 「僕はマヌエロ。マドリッド大学の一年です。よろしく」  二人は改めて握手をした。大きな温かい手だった。顔に残るどこかあどけなさとは対照的に、大人の男の手だった。なぜかドキリとして、加奈子は手を離した。  欠伸《あくび》がたて続けに出かかるのをかみころした。旅の疲れが急に出てくるのがわかった。たまらなく眠かった。  眼を閉じる前に、もう一度マヌエロと名のったマドリッド大学の学生の顔を見た。弟みたい、と思った。いや違う。年下の従兄弟《いとこ》みたい。マヌエロが優しく笑いかけた。何もかもまかせてお休み。きみのことは守ってあげるよ。そんな微笑だった。次の瞬間、加奈子は、深い眠りの底に滑るように一気に落ちこんでいった。  陽気な音楽が聴こえていた。月の光の下で加奈子が踊っていた。マヌエロがいた。彼は腰を振りながら少しずつ後退して海の方へと彼女を導いていった。波打ち際で、マヌエロの手が彼女の腰をぴったりとつかんで自分の方に引き寄せた。音楽が急に大きくなり、はっとして加奈子は眼を覚ました。  マヌエロの姿はなかった。彼が荷物と一緒にいた場所には黒人の若い男がいて、トランジスタから音楽を聴いていた。慌てて腕時計を見ようとして青ざめた。ロレックスのオイスターが腕から消えている。嫌な予感で更に青ざめながら、加奈子はクッションの下を探った。パスポート類の入ったバッグを脇の下のあたりに入れておいたのだ。それもなくなっていた。空港内の電光時計が午後の一時二十五分を示していた。夢ではないかと、加奈子は何度も眼をこすった。  やられた、と思った。あのコーヒーの中に、きっと睡眠薬が入っていたのだ。マヌエロはマドリッドの大学生でもなく、ロードス島のホテルへ働きに行くのでもないのだ。ショックのあまり、胃がひっくり返りそうだった。彼女は事情を訴えるために、足早に歩きながら、胃と胸のあたりを押えた。マヌエロの無防備なほど美しい笑顔が、瞼《まぶた》にちらついていた。  恋の始まり、恋の終わり  九月の雨  土曜日の昼下り。外は雨。読書にも少し飽きて、わたしはロバート・パーカーの文庫本から眼を上げた。六月ではなく九月の空を梅雨時《つゆどき》と呼ぶべきだわ、とちょっとうんざりしかけているところだった。九月の長雨。おかげで活字漬け。パーカーのスペンサーシリーズのこれが六冊目。というわけで、活字が喉《のど》のところまで詰まっている。スペンサーはタフで優しいけど、女を見る眼はかなり厳しい。現実にいたら切ない男だ。わたしは文庫本をコーヒーテーブルの上に伏せると、立ち上った。  天気が良ければテニスをするはずだったから、午後の予定は何もない。さしあたっては電話をかけたいような相手はいないし、かかってくるあてもなかった。自由でいることの代償を支払うのは、こんな無聊《ぶりよう》をかこつ午後。さしせまって淋《さび》しいというのではないが……。少し退屈しているだけの話。月曜の朝になれば、わたしを是が非でも必要としている小さいけれどペイの良いデザイナーオフィスで、やらなければならないことが山積みしている。  気分転換にドライブはもってこいだ。モーガンのキイとお財布だけをポケットに突っこんで、ひとまずスペンサーにお別れを告げることにする。モーガンという車は、イギリス男とよく似ていると、誰かが言っていた。頑固でやせ我慢で気むずかしくて。でもわたしは、イギリス男がほんとにそうなのか、つきあったことはないので、真相はわからない。ただし、わたしのモーガンのことなら、裏も表も知りつくしている。頑固でやせ我慢で気むずかしいなんて生やさしいものじゃない。その上プライドが高く、カンシャク持ちで、女嫌いときている——。しょっちゅうわたしとトラブルを起すのだ。雨とモーガン。とてもお似合い。わたしはちょっと苦笑する。そのうち幌《ほろ》の縫い目から水が滲《にじ》み出て、ポタポタと座席を濡《ぬ》らし始めるだろう。冷房なんて初めからついてないし、ギアは固いし、ハンドブレーキときたら、鉄骨そのままだ。それでもわたしはこのイギリス車が大好きだった。  郊外を抜けて、多摩川に入る手前に、ちょっと素敵なカフェがあるのを思いだし、そこの駐車場に愛車を乗り入れた。傘を持って出なかったので、たちまち肩や背が雨に濡れた。ふと、傘がさしかけられた。 「女の乗る車じゃないね」と、傘の持ち主がわたしのモーガンを見て言った。  黒い傘の作りだす影の中で、真白い歯がキラリと光った。 「それは差別語に聞こえるけど」  歯の白さがまぶしいような気がしたので、言い返す言葉に少し弱気が混じった。 「あなたが、エレガントすぎるという意味さ」と彼は答えた。 「これは、鳥打ち帽の武骨なイギリス男が、長い手足を窮屈そうに折って運転する車」 「つまりご自分にこそ似合うって言いたいのね」わたしは長身の男を横眼でチラリと見て言った。 「ぼくはイギリス人じゃないし、武骨さに欠ける」  わたしは声をたてて笑った。めったにおめにかかれないニュアンスを持った男だった。 「これから、デイト?」と笑いの後の沈黙に続いて、彼が訊《き》いた。  とてもさりげなく。 「というわけではないわ」わたしは、あいまいに否定した。 「あなたは、きっとデイトね」  休日の午後に、ネクタイを締め、寛《くつろ》いではいるがきちんとしたスーツを着ているのは、これから女に逢《あ》うのにきまっている。 「だといいのだけど」と男もなんとなく語尾を濁した。  再び沈黙。二人の肩が傘の下で触れあって離れた。わたしの胸は期待に弾んだ。いつだって、男と女の関係は、偶発的な出逢いから始まるものではないだろうか。  カフェの前で、彼は傘を閉じた。わたしは一瞬待った。その一瞬が永遠に続くような気がした。彼は何も言いださない。彼はわたしを誘わない。落胆のあまり軽くめまいがした。「じゃ」とわたしの失望した手はカフェのドアを押した。「傘、ありがとう」男が続いた。 「あら、あなた、遅いじゃないの」女の声がした。三人の子供が膝《ひざ》のあたりでたわむれていた。とたんに、あれほどまで、現代的優雅さの典型のように見えた男の姿が、色あせた。わたしは気を取り直し、ちょっと陽気すぎる声でレモンティーを注文した。  誰かが私を愛してる  週末になると花束が届く。贈り主はわからない。花はスカーレットのバラで、数は十二本。女に連続五週も花を贈ってきそうな男の顔を、想像しようとすると、きまってあのひとの硬質な横顔が浮ぶ。会社中の女の子から熱い視線を注がれる男だ。確かに、現代風優雅さに野性味も混じった、いい男なのだが、どこかで自分がいい男だということを意識しているようなところがある。それが唯一《ゆいいつ》の、しかし決定的な欠点。そういう男をわたしは徹底的に無視する。会社中で、一人だけ自分を熱い眼でみつめない女に、彼は花束を贈りつけてきたのだ。つまり挑戦状。  ふと眼を上げると、斜め向いの席からこっちを眺めている同僚の視線とぶつかった。 「何よ? ヤマちゃん、わたしの顔に何かついてるの」 「ついてるよ」と彼は屈託のない声で言う。 「何がついているっていうのよ?」 「好奇心。期待。不安。優越感——」  わたしは内心ドキリとするが、顔色には出さずに言い返す。 「他にも何かついてる?」 「そうだな。一種の危機感」  彼はしげしげとわたしの顔を見て、それから急に視線を落す。自信がないのだ。感性は素敵なのだけど——。あのひとの容貌《ようぼう》とこの同僚の感性がひとつになったら、理想なのに。 「実はね、五回も花束贈ってきた男がいるのよ」 「へえ、粋狂な男だな」 「ローズギャラリーのバラが毎回十二本よ。粋狂だけでは片づけられないわよ」 「俺《おれ》にどうしろって言うの、そいつを探しだせと?」 「いいのよ、大体見当はついてるの」わたしは彼の肩越しに、あのひとの浅黒い横顔をみつめる。 「バラの花十二本の意味、知ってるのか?」同僚の声にわたしは一瞬の夢から覚める。 「特別の意味があるの?」 「十二本は、熱烈な求愛」 「あら、よく知ってるわね」 「顔に似合わずって、言いたいんだろう」 「そう卑下しないの」とわたしは同僚に同情の声をかける。 「あなたも女に、バラの花束贈るくらいの勇気を持たなけりゃだめよ」 「俺がか? 誰も喜ばんよ」 「ねぇ、男としてひとつ忠告してくれる?」わたしは少し身を乗りだす。 「どうすればいいと思う?」 「放っとけよ」珍しくにべもない声。 「あら、友情ないわね。五年も机並べてるんだから力になってよ。ねぇ、男として、彼のことどう思う?」 「彼?」 「ほら、渡さんよ」  一瞬、同僚は絶句する。そして言う。 「悪かない」それから口調を変えて言い直す。 「エリートだし、洗練されているしな。男の眼から見ても、かなりいい線いってると思うよ」 「でしょう?」わたしはホッとする。男から好かれない男にはどこか問題があるにきまっている。 「頼みがあるんだけどな」 「よしてくれよ」と、わたしの胸の内を読んだのか、同僚はひるんだような眼をする。 「恋の橋渡しの役なんか、ごめんだよ」 「ヤマちゃん」とわたしは思いきり声に感情をこめて、甘く睨《にら》む。 「わかったよ。やってみるよ」溜息《ためいき》と共にそう言った。  あれから二カ月。わたしは渡茂生と婚約している。同僚がどんなふうに話してくれたのか知らない。いずれにしろ、彼はわたしたちのキューピッドだ。結婚を数カ月後にひかえたある日、わたしは婚約者に言った。 「釣った魚に餌《えさ》をやらなくなるには、ちょっと早いんじゃない?」 「何のことさ?」婚約者は濃い眉《まゆ》を軽く上げた。 「バラの花束よ。十二本とは言わないけど婚約したとたんバッタリじゃ、寂しいわ」 「バラの花束? 十二本? それ何のことだい」  とたんに、わたしは胸の底でめまいを感じる。バラの花束は婚約するまで、毎週ずっと贈られてきたのだ。 「あなたじゃなかったの?」  わたしの胸の底のめまいは、いっそう広がる。  言いだしかねて  あの角を曲った先に、例の店がある。フランスの街角によくあるふうな煙草屋とカフェが一緒になったような、粋《いき》な立飲みの店《カフエ》。前の歩道に打った水が、早くも朝の日射《ひざ》しで乾きかけている。寄ろうか寄るまいかきめかねて、私はいったん店の前を車のスピードも緩めずに通過する。けれども、百五十メートルほど走ると、足が勝手にブレーキを踏んでしまうのだ。なにもあのひとに逢《あ》いに行くのが目的ではないのだから、と胸の中で自分に言い聞かせる。朝の一杯のコーヒーを飲むだけ。もし、彼がそこにいたとしても、たまたま居あわせたということで、しめしあわせたわけじゃない。その場に車を乗り捨てて、私はできるだけゆっくりと戻っていく。気持を翻《ひるがえ》す時間を自分に与えるために。でも最後の方は、ほとんど小走りだ。気持が変らないうちに。誰かに見られないように。そして何よりも彼の顔が見たくて。  アールデコ風の磨《す》り硝子《ガラス》の扉を押すと、煙草とコーヒーの香りがたちまち私を包みこむ。そしてあのひとはやはりそこにいた。いつもと同じカウンターの左から二番目に。朝刊に眼を落して、熱いコーヒーを口に運んでいる。その横が、ちょうど一人分、奇跡的に空いている。カウンターは、出勤前の男たちで、ほとんど一杯だった。それにしても、あの小さな空いたスペースに、自分の躰《からだ》を滑りこませるのには、なんと勇気がいることだろう。最初はそうではなかった。彼を知る前は。私はさっさとカウンターに行って、肘《ひじ》をつき、コーヒーを注文した。これから仕事に出かけていく女のように、さっそうとして。いかにも物なれたふうに。そういう場所で男たちに混じり、早朝のコーヒーを飲むのは、もちろん初めてなんかではなく、かといってあまりすれた女のようにでもなく。誰かにそう見られたいからではなく、むしろ自分のための演技だった。そしてそれはとても上手《うま》くいった。 「あまり見かけないけど」と、横で新聞を読んでいた男が、朝刊をたたみながら私に言った。それが、彼だった。とっさにスタンリー・エリンが自分のことを形容した言葉——エプスティンの作になる彫像のもつ奇妙に未完成な感じを与える容貌《ようぼう》——といった言葉が浮んだ。 「あなたもね」私はなぜか、うろたえながらそう答えた。私はエリンの短編集の熱狂的なファンだった。 「週に一、二度だけ立ち寄るんだ」 「私もよ。でも入れ違いだったみたい」心臓はドキドキしていたけど、私の口調は落ち着いて冷静だった。 「何だか運が向いてきたみたいだな。あるいはツキが」彼はわずかに謎《なぞ》めいて笑うと、お先に、と言った。それから「また」と。男たちがよく使う二度と逢《あ》うつもりのないあのあいまいなまたではなく、約束に近いまただった。  そして今朝で四度目。 「そろそろ名乗りあってもいいんじゃないかと思うんだけど」と彼が言った。 「どうして?」 「男の女の自然のプロセス」 「名乗りあって、どうするの?」 「改めて夕食に誘う」彼の眼は、冗談を言っているのではない、と私に伝えている。 「それから?」私は面白そうに、訊《き》く。本心はドギマギしているのに。 「それも男と女の自然のプロセス。きみを口説《くど》くかもしれない」  私はちらっと相手の手をみる。男らしくて、それでいてデリケートな感じの手だ。——抱きしめられたい——。 「いいわ」と私は少し口ごもった後で言う。 「でも、名乗るのは明日の朝ね」 「オーケイ。楽しみは先の方がいい。じゃぼくも、明日の朝、改めて夕食に誘うよ」  そして、じゃまた、と歩み去る。真実味のあるまただった。 「またね」と私はその背中に言う。  二度と逢うつもりのないまたねのニュアンスで。でも彼は気がつかない。  明日の朝は、夫を駅まで送ったら、別の道を通って家へ帰ろう。明日もあさっても、その次の朝も。  枯 葉  恋が終わった。それは期待にはやる指が、恋愛小説の頁《ページ》を次々とめくっていくように、あっけなく過ぎてしまった日々であった。頁を一枚めくるごとに本は薄くなっていき、本を閉じた時には、私の恋が終わっていたような感じなのだ。  そして今はもう秋。 「——きみは美しいし、まだ充分に若いのだから、俺《おれ》なんかより何倍も素晴しい男がきっと現れて、きみを幸せにしてくれるよ——」  私は黙っていた。  ほかの男《ひと》ではなく、あなたと幸せになりたかった——そう胸の中で呟《つぶや》いた時、幸せになりたかったと、私は自分が、すでに過去形を使い始めていることに、ショックを受けていたのだ。  時はたえず流れていく。今という瞬間はすぐに過去の中に呑《の》みこまれる。どんなに過ぎ去った日々が歓《よろこ》びに満ちていようとも、そこにはもはや戻れない。記憶の断片を取りだして、一枚のネガフィルムを透かして眺めるように見るだけだ。 「きみのことは今でもとても好きなんだ、大事にも思っている」  私は彼を見た。手を差し伸べれば届くのに、なんと彼は遠くにいるのだろう。説明などいらない。言い訳も、慰めの言葉もたくさんだ。私は一人になりたかった。一人になって彼にではなく、自分の胸に訊《き》いてみたいのだ。WHY? なぜ? 私の何が彼を立ち去らせるのかと。 「大丈夫か」と、最後に彼が訊いた。いいえ、全身から血が流れ出てしまったような気分だわ、と答えるかわりに、私はこう言った。 「何が心配なの? 自暴自棄とか、自堕落になること? バカね」 「そうだよな、俺にそれほどの価値はないものな」あきらかに安堵《あんど》の表情で、彼はそう言って苦笑した。 「きみは昔からそういう女だったよね」  そういう女——。何もわかっていないのね。彼はこの三年間、何を見てきたのだろうか。 「ある意味で、きみは潔《いさぎよ》い女だ。多分俺はきみのその潔さに惚《ほ》れていたのだと思う」  ではそういうことにしておいてあげようと私は腰を上げた。 「チャオ」 「チャオ」と彼は優しく言った。「元気で。そして幸せにね」 「悪いけど、私にはそんなこと言えないわ。あなたがいつまでも不幸だといいと思う」  そう捨《す》て科白《ぜりふ》を吐いて、足早に立ち去った。  今、その捨て科白が私を噛《か》む。一日に何度もその言葉が頭の中を駆けめぐる。うつうつとして楽しめない。その間に秋が深まり、樹々が葉を落していく。そして私はついに受話器を取り上げる。 「元気?」 「まあね。きみは?」 「淋《さび》しいわ」  ふと相手が黙る。考えてみたら私が本音をもらすなんてことは一度もなかったのだ。 「俺に何かできることがある?」 「ひとつだけ」 「なに?」  私は一瞬口ごもる。そして言う。 「あなたに幸せになってもらいたいの」  今度も彼が黙る。やがて答える。 「ありがとう」  電話を切ろうとすると、ためらいがちに彼が言う。 「よかったら——、今夜」 「さようなら」全部を言わさずに私はそう言って、そっと受話器を置く。  ——これで、ほんとうのお仕舞い——。窓の外に、乾いた葉が音もなく散っていく。久しぶりに街へ出てみようかと、思う。  恋に恋して  わたしは運命を嘆く。この遅すぎた出逢《であ》い。いっそのこと、彼に出逢わなければ良かったのだ。もしもあの時、わたしがあの本屋になど入っていかなければ。でも、急に雨が降りだしたので、雨宿りにあの本屋に飛びこんだのだ。そして一番空いているコーナーへ行き、映画雑誌を手に取った。古い映画の特集で、モノクロの頁《ページ》が続いていた。スターが最もスターらしかった時代。銀粉を散りばめたような輝きを放つ男優や女優たち。わたしはその時代のことを知らないけど、そのどことなくけだるいような雰囲気に、郷愁のようなものを覚えたのだった。 「その時代のハリウッド、絢爛《けんらん》豪華だったろうな」という声に思わず顔を上げた。それが彼だった。一眼で、わたしは深く惹《ひ》き付けられた。でなかったら、本屋で見知らぬ女に話しかけてくるような男など、無視していたはずである。  わたしはその見知らぬ男を見つめた。見つめずにはいられなかった。一度も逢ったことはないのに、よく知っている人のような気がした。そして一度としてわたしに属したことがないのに、どういうわけか、その男《ひと》を失うことが怖かった。わたしの躰《からだ》は凍りついたようだったが、心は炎のように燃え上っていた。夫以外の男に眼もくれなかったわたしが、一瞬にして激しい恋の虜《とりこ》となってしまったのだ。後でわかったことだが、彼もまたそうだった。彼も最初の瞬間に、わたしを手放したくないと、強く感じたのだと言った。  わたしたちは、お互いに属しあっている。一緒にいると、その時間が特別の色合いを帯びる。悲しいほど美しい時が流れる。 「愛しすぎているから、きみを抱けない」と、彼は言う。 「じゃ、愛しすぎないで」  わたしもベッドへ行くのが怖かった。でも何時《いつ》か——。  やがて街にクリスマスソングが流れ始める季節になった。心浮き立つはずのこの季節が逆にわたしを苦しめる。 「クリスマスには逢えないわね」とわたしが言う。 「わかっている」  クリスマスはそれぞれがお互いの家族に属する特別の日だ。 「あなたに、何か贈りものをしたいのだけど——」  何が欲しいかと、わたしが訊《き》いた。 「ぼくの欲しいのは、きみだ。わかるだろう」  わたしが欲しいのも、あなた。  すると、映画『恋におちて』のシーンが胸に浮ぶ。ちょうどわたしたちと同じような情況で、メリル・ストリープが言うのだ。——でも、寝たあとどうなるの?——  初めは一週間に三度。それが二度になって一度になり、そしてどうなるのか、と。別れが透けて見える。わたしは恐怖に身をすくめる。 「わかるよ。ぼくが恐れているのも、まさにそのことだから」静かな慰めに満ちた声で彼がそう言う。 「過《あやま》ちを犯して、きみを後悔させたくはないんだ」とも言った。 「過ちを犯す? そう言ったの?」わたしは胸にひとつ穴があいたような気がする。 「人を愛することは、過ちだっていうの?」 「そうは言っていない。きみに不貞の烙印《らくいん》を押させたくない。きみがあまりにも大事だからだ」  胸に二つめの穴があく。不貞の烙印? そんな言葉で、わたしたちの関係を推《お》し量《はか》って欲しくない。胸にあいた二つの穴を風が通り抜ける。 「今夜、わたしを抱く?」失望のあまり、わたしはそっけなく訊いた。 「どうしたの、急に。何を怒っているんだ」 「もう怖くなくなったの」 「怖くなくなったって、何が?」 「あなたを失うことがよ」  彼は困惑し、傷ついたように視線を落した。 「よくわからないよ、きみのことが」 「でも素敵だったわ」とわたしはコートに手を伸ばして立ち上る。 「あなたのこと、今でもとても好きよ」 「まさか——」と彼は空《むな》しく手を伸ばしかけた。 「これきりってことじゃないだろうね」 「でもそうなの」 「どうして? ぼくが何をしたっていうの?」 「あなたじゃない。わたし」  もうあなたに恋をしていない。だから——。わたしは、たくさんの星が、ちりばめられたように輝く夜の中へ、歩きだした。  ミスティ  樹木の間から、木洩《こも》れ日が無数の雫《しずく》のように地面に降りそそいでいる。長い冬の眠りから覚めて、湖尻《こじり》には春色が陽気にたちこめている。 「お忍びには、ぴったりのホテルよね」と、私の娘はユーモアのない口調で言って、レストランとそれに続く小さなロビーに視線を送る。 「といっても、人眼を忍ぶ必要はないんだ」と、彼は穏やかに言う。 「僕は独身だし、きみのお母さんも、法律の上では自由の身なんだ」 「精神的にもね」と、私は二人のどちらにともなく言う。 「それと、肉体的にも、ってのを加えたら?」  私はとがめるようにチラと娘を見る。傷つけられたような気がする。けれども、皮肉や反抗的な態度でしか、この対面を受けとめることのできない娘の胸の内を思えば、眼でとがめるのが、せいぜいだ。彼女はきっと、裏切られたような、見棄てられたような気分でいるのに違いない。 「それにしても、とうてい母と娘には見えないな。二人で並んでいるとまるで姉妹のようだよ」彼は娘の態度には無頓着《むとんじやく》にそう言う。 「一人の例外もなく、みんなそう言うわ」  私の娘は大きなメニューで私たちの間に壁を作る。 「よっぽど眼が悪いか、盲目の恋もいいところね」 「多分、後者だよ。どちらかというと眼はいいんだ」 「こういう諺《ことわざ》があるじゃない。恋愛中は両眼で、結婚したら片眼で相手を見ろって」 「博学だね。きみは幾つなの?」 「十七歳。人生最悪の歳《とし》よ」 「なぜかは、わかるような気がするよ」彼は、テーブルクロスの下から、そっと慰めるように私の膝《ひざ》の上に手を置く。 「あなたが辛いのはわかるけど、無礼であっていい理由にはならないわ」私は娘に向って、落胆したように首を振る。 「仮にママが十七歳だとしたら? いきなり山奥の人眼を忍ぶホテルに連れてこられて、自分の母親の恋人に引き合わされ、もしかしたらパパと呼べと言われるかもしれないとしたら、どんな気がするか考えてみて」  娘は涙の一歩手前にいる。そして精一杯虚勢を張って毒づいている。私の膝の上の彼の手に力がこもる。 「言っておくけど、僕はきみのママと結婚するつもりだけど、きみの父親になるつもりはないんだ。友だちでいいと思うよ。なれればの話だけど」 「わたし、紅マスの燻製《くんせい》とフィレステーキにするわ」  メニューを閉じ、まっすぐに私を見て娘が続ける。 「お部屋、二つとってあるんでしょう? 今夜はママ、どっちと寝るの? わたし? それともその男《ひと》?」  私が何か言おうとするのを制して、彼がとても静かにこう言う。 「きみのママは、僕の部屋で寝るよ」  娘は青ざめる。私は全《すべ》てを後悔する。 「ママに訊《き》いているのよ」彼女は私を見る。私の心をまっすぐに覗《のぞ》きこむ。 「ママは」と私は引き裂かれるような感覚の中で答える。 「彼の部屋で眠るわ」  私と娘は長いこと、じっと見つめあう。娘が先に視線を逸《そ》らせる。 「わたし、大人にならなきゃいけないのね。シャンパン飲んでいい?」  私が戸惑うのを制して彼が言う。 「もちろん、いいよ」 「ありがとう」と娘はグラスにそれを受ける。 「まだオメデトウという気にはなれないし、あなたを一生パパと呼べないかもしれないけど——」  娘は彼の顔を初めて、そしてまともに見つめて、こうつけ足す。 「でもあなたとは、もしかしたらお友だちになれるかもしれないわ」  彼の手が、私の膝をいっそうしめつける。樹木の間を、いつのまにか湧《わ》きでてきた霧が、音もなく満たし始める。  二人でお茶を  日溜《ひだま》りのカフェ。エスプレッソのとてもいい匂《にお》いがしている。エスプレッソに限らず、ヨーロッパの街では、香水も浮きたつようによく匂う。空気がさらりと乾いているから。人々はカフェで、とても静かに喋《しやべ》る。すぐ前を行き交う車の音や人々の足音がそれに混じる。時々大声をたてるのは、アメリカ人と相場がきまっている。私たちの眼の前で、レモネードの氷が音もなく溶けていく。夫は退屈している。退屈していることをあまり上手に隠せない。でかかる欠伸《あくび》をかみころそうとして、涙の滲《にじ》んだ眼を、しばたたく。欠伸が伝染して、私も口元をおさえる。夫がクスリと笑う。 「はるばるヨーロッパまでやってきて、することといえば欠伸がひとつずつ。おそろしく高い欠伸代だな」 「この後、どうする?」と私が訊《き》く。 「博物館でも観《み》て回る? それともこのままここで欠伸を続ける?」 「博物館ていうのはぞっとしないな。選択の余地が二つしかないのなら、欠伸でいいよ」 「想像力のないひとね」と私は夫を軽く睨《にら》む。 「他に何も思いつかないの?」 「思いつかないわけじゃない。何が何でも案を出せというなら、なきにしもあらず。苦しまぎれにひとつだけあるよ」 「なんなの?」 「これからホテルに戻って、ベッドに潜《もぐ》りこむ」 「あきれたひと。なまけもの」 「眠るんじゃないよ。きみと寝る。どうだい。ちょっと気をそそられないか」 「朝のうちから、嫌らしいこと考えないでちょうだい」  私は笑いたくなるのをこらえて、夫から眼を逸《そ》らせる。 「愛しあうことは嫌らしいことじゃないよ」と夫は不意に真顔になる。 「それに以前には、朝のうちだってよく愛しあったじゃないか」  突然、私は胸に小さな痛みを覚える。あの若くて屈託のない日々から、なんて遠くへ来てしまったことだろう。——二人とも。私は夫の、こめかみあたりのグレーのひとふさを見つめる。 「きみは何がしたいんだい?」と、今度は夫が私に訊く。そうね、多分あなたと同じ、ホテルに戻ってベッドへ行く。でも私はかわりにこう答える。 「買物。当然でしょう?」 「昨日もおとといも、したのはそればかりじゃないか。パリ中を買い占める気かい」  その時、斜め向こうのテーブルから、私の方を見つめている男の視線に気づく。熱い視線。とても美しい青紫の瞳《ひとみ》。漆黒の髪。そして若々しいきれいな顔。 「どうした? 急にそわそわしだして」  夫が私の視線を追って、青紫の瞳に気づく。 「なるほどね」 「なるほどって?」私は上の空で呟《つぶや》く。 「ま、いいさ」と夫。ウエイターに合図する。 「もう行くの?」  私は落胆を繕《つくろ》えない。私がまだ充分に女として通用することを証明してくれているあの熱い視線から、立ち去りがたい。 「買物したいんだろ?」  夫は不機嫌な声で促す。  あら、と私は思う。もしかして嫉《や》いているのだろうか。夫はすでにさっさと歩きだしている。わずかに後ろ髪を引かれる思いで、私も立ち上る。  嘘は罪 「もしもし……わたし」  彼女はそんなふうに電話をかけてくる。時間におかまいなく。それが当然の権利ででもあるかのように。 「どうしてる?」と次に訊《き》く。もう気が遠くなるくらい長いこと、同じパターンだ。 「元気よ。あなたは?」 「わたし?」  多分そう呟《つぶや》く時、彼女はきっと遠い眼をして、自分の部屋を眺めるのだろう。 「わたしは、また例の捨てたい病にかかってるみたい。仕事もお金も家も男も全部捨てたい」  そういう時、私はどう答えれば良いのだろう。途方に暮れてしまう以外に……。人々は私たちを姉妹のようだとよく言ったものだった。彼女は少し年上なので、常にほんのわずかだけ、私を支配しようとする。私は私で、彼女があまり図に乗ると、面白くなかった。そういう時に、仕返しに小さないたずらや罪もない陰謀で彼女を裏切ったり傷つけたりしたこともあった。二人とも少女の頃の話だ。その頃は相手が私より幸せだと妬《ねた》ましく、逆に不幸な様子をしていると、何がなんでも駆けつけて、何が彼女を悲しませるのか、訊きたださずにはおれなかった。そして彼女を落ちこませる原因、あるいは人々、男たちを一緒に憎んだり、恨んだり、時には反発したりしたものだった。にもかかわらず、私たちは何度も絶交しかけたこともあった。  例の捨てたい病。五年か六年に一回の割で、彼女はその病気になる。全《すべ》ての芸術家がそうであるように、意識的にあるいは無意識に、それまで作りあげてきたものを打ち壊し、瓦礫《がれき》の中に立ちつくす。陶芸家である彼女が現にそうするのに、私はこれまで二度、立ち合ってきた。彼女が、「例の」と言う時、そしてそれが当然の権利でもあるかのように昼夜を問わず、好き勝手な時間に私に電話をしてくる時にだけ、私は彼女もまた普段の言動ほどには強くはない普通の女なのだ、と感じて複雑な気持になるのだ。  ——あたし、彼と別れる。ついでにこれまでの作品も全部捨てる。ゼロからやり直すつもりよ——。  彼女がそう言う時は本気だ。そして彼女はそうした。破壊にともなう爆風を受けて、彼女自身だって無数の傷を受けた。やがて彼女は立ち直り、イタリアで陶芸賞を受け、見事に飛翔《ひしよう》した。新しい男と恋に落ち、仕事も恋も順風満帆だった。  そうしたことを見届けて、私と彼は結婚した。今の夫である。彼は、彼女が捨てた前の男であった。  ——これでわたしたち、本当の姉妹になったわね。と彼女はそう言って、複雑な表情で微笑した。 「私の辞書に、後悔って言葉はないのよ」と電話口で今彼女が言う。ああ、でも、彼女は後悔している。ある男のことで。彼が立ち直り、私と共に幸福であるのを見て。私にはそれがわかる。 「家もこれまでの作品も全部放りだすわ」と彼女が続ける。 「陶芸も止《や》めようと思う」 「陶芸までも……」と、私は絶句する。 「うん。彫刻に切り替えようと思うのよ」と彼女はきっぱりと言う。 「何もかも、本当に捨てる気なのね」と私は溜息《ためいき》をつき、それから思い切ってこう切りだす。 「それならついでに、もう一つだけ捨てて欲しいものがある。……私たちの友情」 「私を見捨てるの?」と逆に彼女は怒る。 「違うわ。解放してあげるのよ」私は誠実に答える。 「何からよ?」 「私のお姉さん役から」そして、あなたはあなたの世界に打ちこんで欲しい。 「それが、あなたの望みなの?」とても哀《かな》しそうな声だ。私もそうだと、似たような声で答える。 「わかった。それであなたが幸せになれるなら。あなたのこと、きょう限り見捨てる」  かつてないほど温かい声でそう言うと、彼女からの電話が切れる。私は永久に彼女を失う。そして彼が、私だけのものになる。  サマータイム  けだるいような夏の黄昏刻《たそがれどき》。束の間の空白の時。私は片手にジン・トニックのグラスを握ったまま、デュラスの本から視線を上げる。メコン河、美しい中国の男、マンダレーの暁——。なんて現実から遠い、神秘に満ち満ちたイメージの数々なのだろう。デュラスの小説は、静かに流れるモノクロームの映画のフィルムのようだ。私は、十五歳の少女の主人公を思い浮べる。肩から半分ずり落ちかけた薄物のドレスの下で、汗ばんでいる幼いとも思える美しい肢体。それでいて、あの官能。女は生れながらに、男を惑わす術《すべ》を知っているのだ。女が純粋に無垢《イノセンス》であったためしはない。私は、私自身の少女から更に幼女期に遡《さかのぼ》って、そう確信する。天使でもあり同時に幼い娼婦《しようふ》でもあった時代。たくさんの無邪気な流し眼。透き通る甘い声で吐いた数えきれない嘘《うそ》。私の幼女期は、何よりも愛した人形の肢体をバラバラにもぎとって放置することによって終わりを告げ、青春もまた、無防備な若者たちの魂を引き裂いて、終わった。けれども私もまた、当然のことだが無傷ではありえなかった。自分だけが高みの見物なんていう人生は、私とは無縁だったのだ。グラスの中で氷が溶け、透明な音をたてる。私は、私の中を風のように過ぎていったものたちのことから、現実を思う。あと十分もすれば、我が家のピラニア軍団が学校から帰ってきて、冷蔵庫の中身を襲うだろう。靴をそろえなさい、手を洗ったの、テレビは宿題をすませてからよ、と私は彼らの後をついて回りながら、毎日同じ言葉を呪文《じゆもん》のようにくりかえす。かつて、私の母がそうであったように。そして母とそっくり同じ諦《あきら》めの混じった溜息《ためいき》をつきながら「一体、誰に似たんだろう」などと呟《つぶや》いてみる。  午後七時少し前、夫から、食事はいらないの電話が入る。 「マージャンに誘われてね」と夫が言い訳をする。 「あら、そう」私は軽く受け流す。それで止《や》めておけばいいのに夫は、 「山田と熊谷と飯田とね」とメンバーの名前を、実によどみなくつけ足して言う。本当にマージャンをする時には、わざわざメンバーの名前など、並べたてはしないのに。男って本当にたあいがない。おそらく部下の若い女の子に、夕食でもごちそうするのだろう。 「山田さんと熊谷さんと谷村さんによろしくね」  私がそう言うと、 「うん、そう言っとくよ」と、夫はそそくさと電話を切った。メンバーの名前をわざととり違えて言ったのにも気がつかない。手綱《たづな》は、きつすぎず、かといって、ゆるめすぎもせず。子供たちが自室にこもって宿題を始めると、私は再びデュラスを開ける。マンダレーの暁、メコン河、そして美貌《びぼう》の中国の男。夏の夜は長々とふけてゆく。  煙が眼にしみる  潮風がこんなに甘いとは知らなかった。極上の赤ワインを口に含んだ瞬間のような、馥郁《ふくいく》とした味わいがある。軽い酔い心地。でもヨットに酔ったわけではない。潮風に、波に、常夏《とこなつ》の太陽に、水平線とダイヤモンドヘッドに、そのはるか背後で、山頂に雲を漂わせている山々に、私は酔っている。とりわけあなたに。あなたは日焼けした手で舵《かじ》を握り、海の色を宿した瞳《ひとみ》で前方を見ている。時速二十一ノット。快適な走りだ。 「どこまで行くの?」私は、彼と同じものを見ようと眼をこらす。 「水平線まで」  彼の手が、傍《かたわら》の私の肩に置かれる。水平線まで——。それはこの航海に終わりがないという意味なのだろうか。それとも、たとえ広大な海とて、いつかは陸地にぶつかるという言外の含みがあるのだろうか。わからない。恋をすると、ささいなことまで全《すべ》てミステリアスな霧に包まれてしまう。ダイヤモンドヘッドがはるか小さくなり、海岸線が遠景の中で、白いリボンのように曲りくねりながら横たわっている。もう何時間も私たちは二人だけで海上にいる。あと一時間以内に太陽が沈むと、入れかわりに宵の明星が輝きだすだろう。 「もう、戻らなくては」と私が言う。 「まだだ」 「でも水平線を二つも越えたわ」 「きみは帰りたい?」  もちろん、帰りたくない。私は首を振る。でも今戻らなければ、二度と戻れない生活を、私も彼も持っている。人生は夥《おびただ》しい小さな選択の連続で成り立っているのだ。 「ごめん、きみを苦しめるつもりはなかった」  彼はそう言うと、たった一人で巧みに帆をあやつって舵先を百八十度回転させる。ヨットは今、陸に向け、更に早い速度で疾走し始める。今ならば、私はヨットハーバーで飲みながら待っている夫の腕の中へ帰っていける。夫は船酔いの性《たち》で、海へ出られないのだ。 「もしも彼が、ほんの少しでも僕らのことを疑っていたら、むしろ今夜は一晩中、きみと夜の海をさまよっていただろう」  顔に風をまともに受けながら、彼が言う。 「けれども、完璧《かんぺき》に僕を信頼してきみをまかせてくれた親友を、やっぱり僕は裏切れない」  空の低い位置から、雲が紅《あか》く染り始める。すると、舵を握っている彼の姿が次第にシルエットになっていく。  今日もまた彼は、私に指一本触れないまま、夫のところへ送り戻そうとしているのだ。彼は風の中で煙草をくわえ、ジッポのライターで火をつける。 「私にも一口だけ喫《す》わせて」  彼が差しだす煙草を唇にはさみ、私は眼を閉じてゆっくりと喫いこむ。僅《わず》かに唾液《だえき》で濡《ぬ》れた吸い口。切なさに、瞼《まぶた》に涙が滲《にじ》み、たちまち大きく膨れて、こぼれ落ちる。私はさりげなく顔を背け、煙草を彼に返す。両手で舵を握り、くわえ煙草で、彼が鼻歌を歌う。煙が眼にしみる——。  カクテルズ・フォー・トゥー  夏が終わりかけている。  避暑地では、夏は、どこよりも早く終わってしまう。まだ居残っている人々は、日焼けした顔に夏の疲れと倦怠《けんたい》の色を滲《にじ》ませ、取り残されたような眼をして、「やっと静かになったわね」と、特権階級の声で囁《ささや》き合う。そして、 「いつまでいらっしゃるの?」 「おたくは?」  などと、最後の一人になるのを恐れて、さりげなくお互いの引き上げ時を探り合うのだ。私は、すでに顔なじみになったホテルの常連のご婦人たちの視界に入るのを避けて、まだ陽《ひ》のあるうちからバーに足を踏み入れる。いつもの無口なバーテンダーと、カウンターに男が一人いるだけだ。 「マティニーをお願い。シェイクしないで、軽くステアするだけね」  私はストゥールには座らず、カウンターに軽く肘《ひじ》をのせて注文する。 「ジェームズ・ボンドに反感でも抱いているのかな」  先客の男が、こちらを見ずに訊《き》く。 「ええ、嫌い。彼はデリカシーがなくて傲慢《ごうまん》よ」  ボンドの "Shaken. Not Stirred"(シェイクだ、ステアじゃない)の言葉はあまりにも有名だ。私のマティニーはその逆。 「レモンピールはいらないわ」  と、私はバーテンダーの手元を見て引き止める。 「レモネードが欲しかったら、そう注文するわよ」 「オリーブはどうします?」  自尊心を傷つけられても、バーテンダーはそれを顔には出さない。私は自分の悪いジョークを胸の中で反省する。 「スタッフト・オリーブでないのを沈めて」  でき上ったカクテルを手に、私はくるりと背をむけてテラスの方へ向いかける。 「それじゃ僕も気障《きざ》にいこうかな」  と、男が言うのが聞こえる。 「フローズン・ダイキリを頼むよ。むろん砂糖抜きで」  私は肩越しに男を振りかえる。 「その科白《せりふ》、どこかで読んだことがあるわ」 「ヘミングウエイ。�海流の中の島々�」  氷を砕くミキサーの音を背に、私はテラスに出る。風にひんやりと初秋の気配が感じられる。男がグラスを手に、私の横に立つ。テニス帰りの男女がポルシェのオープンカーから降りてくるのが唐松越しに見える。 「あなたは変っている」と男が言う。 「そうかしら」 「ほとんどの女は十分以上話をする気にもならないが、あなたとは会話が成立しそうだ」 「会話が成立しない女とは、どうするの?」 「ベッドに行くしかないね」  男が笑って続ける。 「初対面で妙なことを言うようだけど、嫉《や》けますね」 「嫉けるって?」 「あなたに知識を与えてきた男たちに」  今度は私が笑う。 「マティニーにこだわっているの?」 「男の影がちらつく」 「ジョン・ドクセット。彼に教えられたわ」 「ジョンね。あなたの恋人?」  私はニヤリと笑う。 「"Stirred. Not Shaken"(ステアだ、シェイクするんじゃない)を書いた人よ」  男がグラスを掲げる。避暑地の午後が静かに過ぎていく。 「ヘミングウエイが好きなのね」  と私が訊く。彼は黙ってうなずく。 「15対1の超ドライ・マティニーについて彼、書かなかった?」 「�河を渡って木立の中へ�で、書いているよ」 「チャーチル首相は、更にその上をいったわ」 「ベルモットの瓶を眺めながら、ジンだけ飲んだって話ね」  私はカクテルグラスの底のオリーブを見つめる。 「気がついた? あなた、もう二十分も女と話をしているのよ」 「奇跡だ」 「つまり、私はベッドの方は失格ね」  私たちの視線が出会い、そして絡む。 「もう一杯どう?」  と、彼は、それ以上望めないほどの優しい声で訊く。  オール・オブ・ミー  あのひとに出逢《であ》ったのは、真夏のニューヨーク。大勢で食事をし、ピエールのバーに流れる。色々な人がいた。ミュージシャン、舞台装飾家、ゲイの画廊経営者、すばらしく美しいがすでに下り坂の男優、いわゆる土地転がしで稼いでいるリアルエステートの男、コラムニストの女性。みんなリッチな服に身を包み、寛《くつろ》いだエリート然としていたが、夜が更けるにつれて、素顔が露呈し始める。焦躁《しようそう》、不安、そして飢餓感。彼らの欲望は決して満たされることはない。なぜならば自分が真に何を求めているか、わかっていないからだ。自分自身の内側から眼を逸《そ》らし、決してその深淵《しんえん》を覗《のぞ》きこもうとしない人たちなのだ。私は欠伸《あくび》をかみころした。  その時、あのひとと視線が出逢ったのだ。彼もまたひそかに欠伸をした直後の眼をしていた。私たちは、視線だけで微笑を交わした。共犯の微笑——。「お疲れのようだから送りましょう」と、彼が言った。私はうなずいた。その時、なぜ見知らぬ男にホテルまで送ってもらう気になったのか、私にはわからない。——いや、わかっている。一眼《ひとめ》で(正確には視線が出逢って絡み、共犯の微笑を交わした瞬間から)、私は恋に落ちたのだ。彼もまた——。あの信じられないくらい垂直の街が、暁の仄白《ほのじろ》さの中に浮び上ってくる時刻に、私たちが感じていたのは、当惑だった。言葉さえも奪われて。私たちは、あまりすぐにホテルに着いてしまわないように、暁の街の底をゆっくりとさまよい歩いた。彼が私を部屋の前まで送ったら、私はきっと感情に溺《おぼ》れて彼を中に通してしまうだろう。私にはそれがわかっていた。そして彼にも。そのことがあのニューヨークの明け方に、私たちにわかっていることのすべてだった。車を飛ばして、レインベックという町へ行かないかと、唐突に彼が訊《き》いたのはその時だった。 「今から? レインベックには何があるの?」 「アメリカで一番古い宿屋《イン》があって、素晴しいブランチを出すんだ」  そうするのがまるで運命であるかのように、私たちはその町に向った。ニューヨークから車で三時間の道のりだった。宿屋《イン》に着くと彼はまっすぐにバーに向い、ニューオリンズ・ジン・フィズを二つ注文した。 「朝からカクテル?」  私は笑った。 「これは特別。ブランチの前に飲むカクテル」  それからバーテンダーに向って、できるだけハードにシェイクしてくれるように言い添える。そして私たちは、その見知らぬ美しい町の、古びたラウンジで、ひっそりとグラスを合わせた。  今はもう秋。ニューオリンズ・ジン・フィズは、私たちの週末の、ブランチの食卓を飾るようになった。彼はもう未知の男ではない。私も同じ——。私は彼のことが以前にも増して好きだ。昨日よりも今日の彼の方が好きだし、明日はもっと好きになっているだろう。彼のすべてが欲しいし、私のすべてを与えたい。未来も。とりわけ過去も。でも過去は無理。——私たちがお互いの存在を知らないで過ごしてきた長い歳月を思うと、私は少し狂おしいような気持になる。こんなに満たされているのに。こんなに幸せなのに。 「どうかしたの?」  と彼が訊く。その肩に、透明さを増した木洩《こも》れ日が降り注ぐ。シーズンオフのホテルの朝はとても静かだ。 「このカクテル——」と私は呟《つぶや》く。私たちの情事の翌朝のカクテル。レインベックのあの寛いだラウンジで飲んだ味と、なんと違っていることだろう。お互いを知る前と、知ってしまった後では。言葉を奪われて、めくるめくような期待に胸をドキドキさせながら口に含んだ最後のあの同じ味は、もはや存在しない。 「いいえ、別に」と、私はグラスを上げて微笑《ほほえ》み、ゆっくりとブランチにとりかかる。  何故かしら  ふと会話が跡切れる。彼は視線を上げない。彼が視線を上げて私を見なくなり始めたのは、いつ頃からだろうか? 少しずつそうなっていったのか。あるいは、ある日を境に、突然私を見ようとしなくなったのだろうか。私は思いだそうとする。——親友からきみを奪ったのだから、きっと幸せになろう。きみを一生愛しつづけるよ——。その言葉が昨日のことのように、私の耳に甦《よみがえ》る。 「嘘《うそ》つき——」思わずそう呟《つぶや》く。言葉が不意に口から滑りでてしまった感じだ。彼が瞬《まばた》きをして、私を見る。私を見てはいるが、以前のようにではない。私が彼にとって唯一《ゆいいつ》無二の女であった時のようにではないという意味だ。 「何か言った?」と彼が訊《き》く。私の呟きはもう彼の耳には届かないのだ。かつて、私が裏切ったあの男《ひと》の非難の言葉が私の耳に届かなかったように。恋をすると、人は、ひとりの人の声しか聞こえなくなる。 「昨日だけは」と、私は言う。 「私と居て欲しかったのよ」そうだろうか? 本当に彼に居て欲しかったのだろうか。他の女のことで気もそぞろな男に、それでも側《そば》に居て欲しかったのか? ああそうだったね、悪かったと、彼はとても済まなそうに呟き、手を伸ばして私に触れる。その一瞬私は息を止め、その感触に耐える。なぜだろう? 愛ってそもそもなんなのだろう? 他の女を愛してしまった男を愛せなくなる、そのような愛って、なんなのだろう?  彼の手が離れる。 「きみの誕生日なのを忘れていたよ」彼は取り返しのつかない眼をする。事実、もう取り返しはつかない。 「一日遅いけど、乾杯しよう」と彼は眼でウエイターを探す。 「シャンペンを頼もうか」 「私、クバ・リブレを頂くわ」きっぱりと私が言う。彼はわずかに眉《まゆ》を寄せるが、近づいてきたウエイターに、 「キューバ・リバーを二つ」と、呼び方を変えて伝える。自由キューバ、という意味のラムとコーラの飲みものだ。やがて、飲みものが二つ運ばれて私たちの前のテーブルに置かれる。 「ハッピー・バースデイ」と彼がグラスを上げる。 「ビバ・クバ・リブレ」と私がそれに答える。合わせたグラスごしに、私たちの視線が絡む。自由キューバ万歳。私の自由のために。それを私は自分に贈ろう。自由を。彼から歩み去る自由を。 「あなたを解放してあげるわ」私は潔《いさぎよ》く言う。微笑さえ浮べて。 「そんなに物わかりのいいきみを見るのは嫌だな」彼が口ごもる。 「でも修羅場を演じられるのはもっと嫌でしょ?」 「覚悟はしているよ」 「私の方がお断り。修羅場なんて演じてあげない」  それに、人が誰かを愛してしまうことを止めることはできないのだし。彼が私と幸せになりたい、二度と他の女に心を移さないと誓ったことは、あの時点では、まぎれもなく真実だったのだから。それが真実だったことを彼も私も知っている。それでいいではないか。めくるめくような期間もあったのだし。  私はグラスを飲み干し、「チャオ」と言う。彼は茫然《ぼうぜん》として私を眺める。不意に与えられた自由を、まるでもて余しでもしているかのように。彼はその場をとっさに繕《つくろ》うことができない。不意の贈りもののような別れを、どう受けとって良いのか、途方に暮れている。 「僕はどうしたらいいんだろう」と当惑の声で彼が呟く。 「幸せになったらいいのよ」私の声には皮肉の響きはない。 「もう少し時間をくれないか」まるで私が彼を捨てるみたいに、彼が哀願する。そのことを、後で彼は苦笑するだろう。だめよ、時間はあげない。私は立ち上り、秋の冷たい夜気の中に歩みでていく。  恋は愚かというけれど  クリスマスのプレゼントに何が欲しいかと、彼が訊《き》く。週末の別荘。暖炉で薪がよく燃えている。私はエルモア・レナードの小説から顔を上げて一瞬考える。何が欲しいのだろう? いくら考えても、彼からもらいたいものは思いつかない。何も欲しくない。なのに胸の中のひもじい感じ。 「別にないわ」  それではあまりにもニベもないと反省し、私はこうつけ加える。 「強いていえば、�驚き�かしらね」  つまり胸がときめくような思いという意味だ。 「それならまかせて。きみをびっくりさせるようなものを、考えているんだ」  彼は自信ありそうにニヤリと笑い、私は再び小説の続きに戻る。  けれども胸が泡立ち始めて、私の眼は同じ行を何度もさまよう。  Kは、私が欲しいと言った。クリスマスの贈り物を考えておいて、と言った時。 「知ってるでしょう、私はもう婚約しているのよ」 「金持ちの御曹子《おんぞうし》とな」 「私がお金と結婚するみたいな言い方しないで」 「しかし、そうじゃないのかい実際」 「彼は私を愛してくれているわ」 「俺は奴《やつ》の千倍もきみを愛してる」 「彼は現実に私に求婚したのよ」  それは、その愛に責任をもつという証《あかし》なのよ、と私は呟《つぶや》いた。 「俺がプロポーズしたらどうする?」 「まずプロポーズしてみてよ。そしたら答えるわ」 「嫌だね、俺は。最初から勝負がついている競争に足を突っこむほど、馬鹿じゃないよ」 「どんな勝負がついてるっていうの?」 「ロールスロイス、フェラーリ、メルセデス。他にはどんな車を持っているんだい」 「それがどうしたっていうの」 「片や俺は国産のそれも中古車一台」 「だからそれがどうだっていうのよ」 「きみは彼と結婚すべきだっていうことさ。クリスマスに俺がきみに贈れるのは、赤いバラの花束くらいだよ」  そして彼はこうつけ加えた。  バラの赤は俺の血だ——  今どのあたりを読んでいるのか、と婚約者が本を覗《のぞ》きこむ。 「駆けだしの女優が、億万長者のマザコンのおでぶさんにプロポーズされて迷っているところよ。彼女は一介の犯罪課の刑事に、心の中ではひかれているみたいだけど——」 「どうして作家って人種は、金持ちを描く時、みんなどうしようもないマザコンのデブにしちまうんだろうね。ワンパターンもいいところだよ。作家に想像力があるなんて疑うね」 「で、この女優は結局どっちを取ることになるのかしら?」 「不幸にして非現実的な結末さ。貧乏刑事の方」  私はそっと本を閉じる。 「クリスマスのことだけど」と私は言う。 「あなたと一緒に過ごせないことになると思うわ」 「どうして?」彼は肩をすくめ両手を上げる。 「不幸にして非現実的な選択の結果よ」  すると彼は言う。 「でもぼくがきみのために何を買ったか知ってるかい? モーガンの新車だよ。いつだったか、きみがこの世で一番美しいと言ったあのモーガンだよ」 「今でも、あれは美しい車だと思うわ」私は心からそう言う。 「でも私は安月給の刑事がくれるバラの花の方がいいの。たとえ一本でも」 「Kのことだな」  きみは自分のしようとしていることが、わかっているのか、と婚約者が訊く。 「過ちを犯そうとしているんだぞ」 「でも」と私は答える。 「あなたの元に留《とど》まる方が、今では過ちであるかのような気がするのよ」  婚約者は黙って私を見つめる。 「ごめんなさい」私はウィークエンド・バッグを取り上げる。 「タクシーを呼んでもらえる?」 「急ぐことはないよ。別れの乾杯くらい、していく時間はあるだろう?」  彼はグラスに氷を放りこみ、ウイスキーをソーダで割って、そのひとつを私に差しだす。二人が週末好んで飲んだ飲みものだった。私は少ししんみりとする。 「どうしてこれをハイボールと呼ぶか知っている?」  何ごともなかったかのように、彼はさりげなく言う。 「イギリス人がね、ゴルフ場のスタンドバーでこいつを飲んでたのさ。そこへゴルフのボールが飛んできて、タンブラーの中へ飛びこんだ。それでハイボール」 「小説家が、あなたみたいな億万長者を描きたがらないのはね」と私は彼の頬《ほお》にキスをする。 「彼らは嫉妬深《しつとぶか》い人種だからよ」 「どうしても行くんだね」  彼の瞳《ひとみ》に初めて悲しそうな色が滲《にじ》む。  真珠の首飾り  車の助手席に納《おさ》まった時には、私の口元にはまだ微笑が残っていた。 「今夜は相当に楽しかったようだな」と、エンジンをかけながら私の夫が言った。 「相当にというほどじゃなかったわ」口元から微笑が消えていくのを感じながら、私は答えた。 「しかし、楽しかったことは確かだろう。それは素直に認めろよ」  アクセルを強く踏みこんだので、車はのめるように急発進した。 「ええ確かに楽しかったわ。あなたに楽しかったことを強要されるまではね」  カーブでもスピードを緩めないので、車体は軋《きし》んだ悲鳴を上げて傾きながら反対車線のガードレールをもう少しでこするところだった。 「かなりハメを外していたものな」夫はハンドルをきつく握って、押し殺した声で言った。 「ハメを外した覚えはないわ」 「楽しかったのは、奴《やつ》のせいかい」  奴って誰のこと? ととぼけたところで、会話の行きつくところは同じことだ。 「彼は愉快な人よ。みんな彼が気に入っているわ」 「とりわけ、きみがね」 「ええ、彼のこと、好きよ」私は右側の車窓に額を押しつけて、流れ去る夜の町を眺める。夫は、男たちが私をジロジロ見すぎると言っては腹を立て、私が男たちに愛想良く笑いかけたのが気に入らなくて苛々《いらいら》する。 「そんなふうに言うんならもうパーティーになんて行かないわ」 「そいつはいい。そうすればこっちもきみが出かけるたびに宝石のことで不平を言うのを聞かずにすむからな」夫は問題をたくみに宝石のことにすりかえる。 「不平に聞こえた? 私はただ、あれこれ試してもいつも結局、同じ真珠の首飾りにきまるのね、って言ってるだけだわ」 「その真珠の首飾りだって、いったい、いくつ持っているんだい」 「いくつって?」 「今夜しているやつは、見たこともないぞ。しかもピンクの大つぶだ」 「ピンクに見えるのは、レッド・フォックスの毛皮のせいよ」 「僕の覚えているかぎり——」と、彼は遠い眼をする。 「結婚式の時のやつ。純白の小つぶのパールがとても清楚《せいそ》だった。それから僕の母が亡くなった時していたもの。きみは青ざめたような真珠の首飾りをしていたっけ——」 「まだあるの?」 「ニューヨークへ行った時だ。ジーンズにTシャツで、きみは真珠をつけていた。つぶのそろった上等の首飾りで、そんなくだけた服装なのに、きみがとてもエレガントに見えたよ」  私の口元に再び自然に微笑が湧《わ》いてくる。 「私が持っている真珠の首飾りは、ひとつだけなのよ」 「いや。僕の知るかぎりでも、四つか五つはあるよ」  住宅街に入って、スピードを緩めながら夫がきっぱりと言った。 「ひとつよ。あなたのその時々の感情で、純白に見えたり、青ざめて見えたり、エレガントに見えたり、今夜のように大きくてふてぶてしく見えたりするのよ。でもいつも同じ首飾りなの」  私は手を伸ばしてハンドルの上の彼の手に重ねた。 「だから、あなたの眼に映ったものを、あまり過信しないことね」 「ほんとに、あれはみんな同じ首飾りなのかい」夫は夢から覚めたように瞬《まばた》きをした。 「ところでパーティーだけど、正直いってあまり楽しくなかったわ」と私。 「どうして」 「あなたが楽しんでいないことがわかったからよ」 「奴のせいだよ。奴と笑いながら話していたきみの横顔のせいだよ」 「それって真珠の首飾りと同じことなのよ」 「そうかな」  夫は少し考えこむ。 「そうよ。私は彼が好きよ。でも同じようにマルガリータも好きだし、素肌に身につけるカシミアのセーターも好き。ゲランの�サムサラ�の匂《にお》いも好きだしボブ・マーリーの歌が今でも好きよ。オムレツにタバスコ・ソースをかけるのもね。それと同じ意味で、彼のことも気に入っているの。それだけよ」 「僕はその中に入らないのかね」 「入らないわね」 「畜生」  夫の表情はすっかり柔らかくなっている。 「命より大事なものが三つあるの。私たちの娘とあなた、それからあの娘《こ》とあなたを愛している私の思い——」  それから私はふと思いだして首に触れる。 「もうひとつ忘れていたわ。この首飾り」  やがて車は、ガレージに入って静かに停止する。夫が私を抱き寄せ、口を首筋に埋める。  グッドモーニング・ハートエイク  ——去年の二月のベニス、覚えている? と私が訊《き》く、凍《い》てつくような霧のサン・マルコ広場。早々と訪れた黄昏刻《たそがれどき》。IF YOU VISIT VENICE, YOU MUST BE IN LOVE と言ったのは、フランス人の友人ダニエルだった。その忠告に従って私たちはベニスにやってきた。その水の都が最も美しい二月に。私たちは霧の中を、ハリーズ・バーに向っていた。モノクロームの映画のワンシーンを思わせる無彩色の世界。足音さえも深々と吸いとられて。  その時だった。忽然《こつぜん》と霧の中に仮面をつけた正装の男女が浮び上った。仮面舞踏会に向う人たちに違いない。女の長いソワレの裾《すそ》で霧が渦巻いていた。なんという優雅さ。瞬《まばた》きをひとつすると、仮面の二人連れの姿は消えていた。幻だったのだろうか。私たちはハリーズ・バーへ急いだ。  その夜遅く、ゴンドラに乗った。私は毛皮に包まれ、彼の腕の中でゴンドリエの歌うナポリ民謡を聴いた。 「また来たいわ」  そう呟《つぶや》かずにはいられなかった。 「もちろん来年の今頃、僕たちはまた二人でここへ来るさ」  彼の言葉は白い息になって、束《つか》の間《ま》水面を漂って消えた。 「その時もまだ私たちが恋をしていたらね」  私たちの恋に終わりはないと信じていたので、私はとても楽天的な声で言った。  けれども、恋に始まりがあれば、いつか終わりが来る。霧のサン・マルコ広場で、真夜中のゴンドラの中で、あんなにも刻《とき》がきらめき、胸がときめいたのは、あの恋が、いつか必ず訪れる別れを内包していたからだったのだ。  今私たちは、ベニスではなく、東京にいて、ハリーズ・バーでギブソンを飲むかわりに、ホテルの小さなバーでオールド・ファッションドを前に、言葉少なに座っている。時間が息苦しいほどゆっくりと過ぎ、グラスの中で、アロマチック・ビターを滲《し》みこませた角砂糖が、その輪郭をウイスキーの中に徐々に溶けこませていく。私は、彼が切りだせないでいる一言を、死刑の宣告のような思いで待っている。 「……実は」とついに彼が言う。 「いいのよ、もう」わかっているの。言葉などより確実に、彼の声や素振りや視線を逸《そ》らすその風情から、とっくに感じとっている。言葉より、はるかに正確に。 「何も言わないで。さよならもなし。振り返らないで歩み去ってちょうだい」 「きみは、どうする?」 「これを飲み終えて、帰り道のためにもう一杯飲むわ」 「もう充分じゃないのか」 「明日の朝にそなえるの」  本当の悲しみは少し後でやってくる。別れの翌日、目覚めと共にやってきて、私に突き刺さる。グッドモーニング・ハートエイク。いっそのこと、その新しい友人と握手をしよう。�傷心�という名の束の間の友と。  身も心も  雨。四月の温かい雨。長い午後。全《すべ》てに満たされていて、ほとんど辛福だ。さしあたっては何もすることはなく、どこかが痛むでもなく、この幸せな気分に影を落すようなこともない。  長い午後。メアリ・ゲイッキルの小説は開かれないまま、コーヒーテーブルとソファーの間に置かれている。 �BAD BEHAVIOR——悪いこと�  女の作家には女を官能的には描写できない。リーツェンの城で嵐の音を聞きながら、ソン・ナルテス・セレニューム・プリンス・マルコ・リンゲが、恋人のストッキングと下着の境い目の、わずかに露出している素肌を愛撫《あいぶ》するシーンのような、妖《あや》しい胸のざわめきは、そこにはない。なぜ私は現代アメリカ文学の、異色度ナンバーワンと銘打った女流作家と、ジェラール・ド・ヴィリエのスパイアクションを比較するのだろうか。  長すぎる午後。外は雨。私は幸福。そしてこの胸騒ぎ。刻《とき》が音もなく私の肉体を通過していく。幸福とは、ほとんど退屈と同義語だ。そして結婚とは、恋愛の終わった後に延々と続く、ぬるま湯のような幸福。無聊《ぶりよう》が内側から私を咬《か》む。私は、居間で釣り竿《ざお》の手入れをしている夫の横顔を盗み見る。無心で穏やかな横顔。淋《さび》しくないのだろうか。胸が騒がないのだろうか。 「なんだい」と顔も上げずに彼が訊《き》く。「さっきから、溜息《ためいき》ばかりついている」 「釣って、面白い?」  そんな質問に、夫は答える必要を感じない。 「そんなに退屈なら、きみも何かをすればいい」 「何をするの?」 「何をしたいんだい」  私がしたいのは——。 「ドキドキしたいわ」 「じゃ公園までジョギングをしたらどうだい」  夫はさりげなく私の言葉をかわす。私がしたいのは、激しく官能的なこと。顔を赤らめるほど淫《みだ》らなこと。一度も試したことのないようなやりかたでする鳥肌がたつほど卑猥《ひわい》なこと。身も心も震えるようなこと。プリンス・マルコの優雅な愛撫《あいぶ》。でもそれは夫とではない。かといって私にはプリンス・マルコのような存在は、いない。 「退屈するなんていうのは、想像力が欠如しているからだ」  夫の現実的な声で、私は夢想から我にかえる。 「逆なんじゃないの。想像力があるからこそ人は退屈するのよ。その証拠に死ぬほど退屈しているキリンや象なんていると思う?」  さて何か飲もうか、と夫は釣り道具を片づけながら、時計を眺める。  午後の四時。 「つきあうかい」  夫は、ジンをトニックとソーダの半々で割り、ライムの輪切りを無造作に投げこんだトールグラスを二つ作る。いつの頃か、トニックウォーターだけで割ったジン・トニックが口に甘く感じられるようになっていた。ジン・ソニックと、誰が名づけたのか。私たちは無言でグラスを合わせる。 「ドキドキしたい……か。なるほど」やがて彼が口を開く。 「そのなるほどには複雑なニュアンスがあるわね」 「事実、複雑な気分だ」夫はグラスの中身をじっと見つめる。 「なんとかしてやりたくとも僕には何をどうあがいても、もはや、きみの胸をときめかせることは、できそうにもないから」  彼の口調にわずかに突き放したような諦《あきら》めが混じる。 「それは、お互いさまよ。私もあなたの胸をときめかしてあげることはできない」 「そうだな」夫は遠い眼をする。 「危険だな」  長い長い午後が、少し深くなる。  ブルースカイ  港《ハーバー》の中は静かだ。すでにほとんどのヨットは沖に出てしまっている。五月の遅い朝。私はヨットの中で目覚めるのが好きだ。出港する他のヨットが巻き起す波が舷《げん》を軽く打った音や、それによって起る小さな揺れや、おはようと声をかけあう海の男たちの声を聞きながらゆっくりと目を覚ましていく過程が——。キャビンの中に濃く漂うコーヒーの匂《にお》いに誘われて、起きだしていく。夫はとっくに甲板で忙しく立ち働いている。ポットの中の作りたてのコーヒーをマグに注《つ》いでステップを登り、日射《ひざ》しの中に出る。潮の香り。彼はセールの状態を調べロープ類を巻き直しチークの甲板に油を塗って磨き上げ、クロームやブラスをピカピカに光らせる。そうしたことを実に楽しげにやる。 「子供の時の夢だったのね」私は笑いながら夫に話しかける。 「何が——?」手仕事の作業を止めずに顔だけ上げて彼が訊《き》き返す。 「ヨットを所有することがよ」彼はふと遠い眼をする。その瞳《ひとみ》に柔らかく優しい魅力がともる。 「少年の時に僕がなりたかったのは」と彼は喉《のど》の奥で笑う。 「さっそうと坂道を自転車で駆け降りていった上級生さ」  そしてこうつけ足す。 「後で知ったんだが、ロアルド・ダールという作家が、僕と全く同じことをどこかで書いているよ」 「自転車乗りになりたかったの? それとも自転車が欲しかったの?」 「違うよ、両方とも。なりたかったのは、あんなふうな上級生さ」  私は彼が先を続け、もっと良く説明してくれるのを待った。 「つまりね」と夫は言葉を探す。 「ロアルド・ダールの表現を借用すれば、ある時彼は田舎道を歩いていたんだ。ほんの少年の時にね。と、後ろから自転車に乗った上級生が追い抜いていったんだ」  夫の肩に透明な日射しが降り注いでいる。潮風が柔らかく吹きぬける。新たに沖へ向うヨットのエンジン音が響いてくる。彼の声が淡々と続く。 「そこは坂道だった。その上級生は長ズボンの裾《すそ》がチェーンに巻きこまれないようバンドで止め、帽子をちょっと横にかぶりそれがまたダール少年の眼にはひどく粋《いき》に映ったんだね。追い越しざまに、ハンドルから両手を放して胸の前で組み背筋を反らせて上級生は一気に駆け降りていった」  喋《しやべ》りながら夫は近くを通り抜けていくヨットの男たちに向って手を振る。 「息が止まるほど格好が良かったんだね。その瞬間、ダール少年はいつか自分もあの年頃になって、あんなふうにしたいと体が震えるほど切望したんだよ。つまりあの上級生のようになりたいと」  私にも両手を自転車から放して得意気に意気揚々と、坂道を駆け降りていく上級生の姿が眼に見えるような気がした。帽子を粋にかぶり、両手を組んだ胸を反らせて。ほとんど優雅ともいえる姿が。 「その上級生が、その時のダール少年の野心の全《すべ》てだった。夢そのものだった」  彼は宙の一点を見つめて、言葉を切る。 「あなたの夢でもあり、野心でもあったわけね」 「そう、あの瞬間、僕がなりたかったのは、宇宙飛行士でもヨット乗りでもまして作家などでもなく、恐れげもなく両手を放して急坂を走り降りていったあの年上の少年だったんだよな。それは手が届きそうな現実のようでもあり、気の遠くなるような非現実的なことのようでもあって、希望と絶望とが入り混じった奇妙にも哀《かな》しい快感だった」 「ステキな話ね」  私は溜息《ためいき》をつく。 「きみは? 女の子ってものは、どんな夢を描くものなのかね」  彼は喉が乾いたと言ってキャビンに降り、例の「日曜日の朝のデカダンス」と私たちが呼ぶところの飲みものを二つ作る。冷たいシャンパンと黒ビールをグラスの両端から同時に注ぎ入れ、『ブラックベルベット』ができ上る。 「不思議ね」とグラスを受けとりながら私は答える。 「今、この瞬間が少女の頃描いた私の夢の世界のような気がするわ」  潮風と五月の日射しとヨットと愛する男とシャンパンカクテルとそして抜けるような|蒼い空《ブルースカイ》。 「お互い、たわいのない夢だね」と、彼はくぐもった声で静かに笑う。  シークレット・ラブ  レストランで彼の名を告げる。支配人は心得顔で慇懃《いんぎん》にうなずき、先に立って私を彼のテーブルに案内してくれる。そこはいわゆるレストランの中の上席。大事な常連のための、とっておきの席。他の客席からは見にくい位置にあるが、そこからは店内がほど良く見渡せる特等席だ。まさに私たちのためにあるようなテーブル。どんなレストランに行っても、彼は常にその店の一番の上席で、私を待っている。私たちは決して一緒に行かないし、一緒に立ち上って並んで出ていくこともない。それに彼は用心深いので、いわゆる行きつけの店を作らない。同じ店で二人が一緒にいるところを二度以上目撃されたら、たちまち噂《うわさ》になることを知っているからだ。支配人が私を案内して立ち去ると、彼はテーブルクロスの下で、そっと私の膝《ひざ》を叩《たた》く。 「少し、遅かったね」  批難の口調ではない。むしろ労《いたわ》るような感じだ。 「車が混《こ》んで……」と、私はニッコリしながら嘘《うそ》をつく。部屋を出る時にすでに、遅くなることはわかっていた。彼が顔には出さずとも苛立《いらだ》つことを知っていた。 「なかなかいい店だろう?」彼は話題を変える。 「そうね」  私はちらりと店内に視線を走らせただけで、それに答える。 「素敵だわ」  私の様子がいつもと違うことに気づくが、彼はそのことには触れない。大人の良識。 「ここの川魚のムニエルは、きっときみは気に入ると思うよ」  その店で何が一番|美味《おい》しいかを彼は常に知っている。私が到着する前に、いつもその夜のメニューを彼が決め、注文しておく。私が座ると同時に、オードブルが出てくるという寸法だ。 「私、川魚はいらないわ。アラカルトのメニューを見せて頂けないかしら?」  オードブルを運んできたウエイターが、困ったように彼の顔を見る。 「かまわんよ。メニューを持ってきてくれないか」  寛大さを失わずにそう命じる。私は適当に選び、メニューを返す。そして穏やかな相手の表情を見つめる。 「遅れてきても怒らない。私が勝手にメニューを変更して、あなたのお顔をつぶしても怒らない。——どうして?」  答えはすぐに返ってこない。私が眼でもう一度うながす。 「きみが、僕を怒らせようとわざと挑発しているのがわかるからだよ」  表情と同じように穏やかな声で答える。  その時、別のテーブルから男が立ってきて、彼に挨拶《あいさつ》する。私の方を一瞥《いちべつ》もしない。彼もあえて私を紹介しない。まるで私などこの場に存在しないかのように。そつのない短い会話のあと、男が立ち去る。毎度のことだ。 「なぜ紹介してくれないの?」 「それは」と、彼が答える。 「紹介するほど大事な男じゃないからさ」 「逆じゃないの? 大事じゃないのは、私の方でしょう」 「わかっているはずだよ」と彼が言う。 「僕がきみをどんなふうに思っているか」 「確かに」と私は呟《つぶや》く。 「私に気を遣ってくれてはいると思うわ」 「思う?」と彼は眉《まゆ》を寄せる。 「世の中の何よりも大事にしているつもりだよ」 「だったらなぜこんなに用心するの? ベッドの中にいる時と、それ以外の時と、どうしてこんなにも違うの?」 「用心しなくてはならないからだよ。スキャンダルになってきみを傷つけたくないからだ」 「今は、傷ついていないと思う?」  彼はびっくりしたように私を見る。 「あなたが人眼を忍べば忍ぶほど、私が屈辱感をつのらせていることに、気がつかない?」 「きみとのいい関係を、少しでも長く続けたいのだよ、僕は」 「長く続けることが問題なの? 私は今あなたが立ち上って、店中の人に私を愛しているって大きな声で言ってくれたら、たとえ今日終わりが来たってかまわないわ」 「きみは興奮している。ブランディーを持ってこさせよう」  と彼が手を上げる。飛んできたウエイターに私が言う。 「モスコミュールにして」  一度だってブランディーが好きだったことなどないのだ。彼の好みに合わせて背のびをするのはもう嫌だ。人眼を忍んでおどおどするのも、飽き飽きだ。 「先に出て、僕の車の中で待っていてくれないか。いつものように」  最後に彼は普段と同じ調子でそう言った。私は機械的に腰を上げ、テーブルから立ち去る。それからレストランの前で、彼の運転手が車のドアを開いて待っているのを無視して、夜の中に足を踏み入れる。解放されて。  ハロー・ヤング・ラバーズ  彼と知り合って三度目の夏。三度目の夏だなんて。夏の恋はほとんど秋と共に終わってしまうのだけど。海辺の出逢《であ》いじゃなかったからだと彼は言う。アバンチュールを求めたわけではないから。吹いていたのは潮風ではなく、湿気を含んだ埃《ほこり》っぽい熱風だった。ガソリンの匂《にお》いのする都会の風。再婚同士の友人の、小さなパーティーでのことだった。私が三杯目のミント・ジュレップのおかわりをした時だった。同じものを注文したひとがもう一人いた。それが彼だった。 「東京の夏をやり過ごすのには、これしかない」と、彼が言った。 「同感ね」バーテンダーがグラスにミントの葉と砂糖を入れて荒くすりつぶすのを眺めながら、私が答えた。砕氷をつめ、バーボンが注《つ》がれ、レモンのスライスときれいなミントの葉で飾られて二人の前に置かれた。 「きみは、彼女の友達?」と彼は再婚したばかりの新婦を目顔で見て訊《き》いた。 「違うわ。彼の方の友達」  私はチラと新郎の方を見て答えた。 「あなたは?」 「彼女の方の——」そこで私たちは急に親しみを覚え、どちらからともなくグラスを合わせた。 「僕は、彼女に失恋したんだ」  カラリとした声で彼が言った。 「私もよ。彼に振られたの」と私も言った。 「まさか」  彼の視線が素早く私の全身を眺め下ろした。男たちが無意識に女を品定めする時のあのやりかただ。 「あなたが振ったのにきまっている」 「でもほんとなの」  ミントの香りのするバーボンを飲みながら私は真顔を作った。 「あなたのような女性を、ほんとうに振ったのなら、贅沢《ぜいたく》な話だ」 「この飲みものを教えてくれたのは、あの人だったのよ」  彼はその時、なぜ私たちが別れることになったのか訊かなかった。そしてその後もその件には一度も触れなかった。私たちは自然につき合い始め、次の夏には恋人同士になっていた。そしてほとんど奇跡的に、今三度目の夏を迎えようとしている。食事が済み、例によってミント・ジュレップが二人の前に置かれていた。いつになく、彼の口数が少なかった。 「なんとなくマンネリね」  心に思ったことをそのまま言った。 「別に悪いことじゃないよ」と、彼が答えた。 「二人の関係が安定してきた証拠さ」 「危険ね」と私は呟《つぶや》いた。「過去の経験から言ってるのよ」 「どうして危険?」 「今のマンネリ状態から抜けだそうとあれこれ手を打ちだすからよ」 「たとえば?」 「別れ」  私は飲みものの中からミントの葉をつまみ上げ、また元の位置に戻した。 「結婚という手もあるよ」 「その二文字はタブーよ。さんざん苦い思いをしたんだから」 「苦い思い?」 「結婚か仕事かの選択に迫られる。私は決して仕事を捨てない。結婚の方をあきらめる。いつもそうだったわ」 「僕たちが出逢った時の、あの彼の場合も?」 「ええ、そうよ」と私は眼を落した。 「彼は私の仕事に嫉妬《しつと》したのよ。仕事を止《や》めないのは、百パーセント彼を愛していないからだって」 「ナンセンス」と彼は笑った。 「僕は違うよ。仕事を愛している今のありのままのきみが好きなんだ」 「ほとんど妻らしいことなんて、できないのよ」 「今まで以上のことなんて望んでいないよ。僕だってこの年まで一人で生きてきた自立した男なんだよ。妻らしいことをあれこれしてもらいたいとも思っていないよ。そういうのは、わずらわしいんだ」 「ほんと?」 「ほんとさ」 「だとしたら希少価値ね」 「逃がす手はない」 「そうね」と私は微笑する。 「逃がす手はないわね」  私たちの視線が絡む。そして恋がたった今終わったのを知る。恋が終わり、別の何かが始まろうとしているのを。  ママの恋人  彼は私の上から滑り降りると、そのままベッドにうつ伏せになって寝息を立て始める。その姿は、安心しきって眠りこけている動物を思わせる。とても無防備だ。  その傍《かたわら》で、私は天井を見上げながら爪《つめ》を咬《か》む。これでいいわけだけど……。とても清潔で、いき届いたセックス。彼のやり方なら、すっかり知りつくしてしまった。いつも同じパターン、それに反応する私自身のパターンも、結局同じになってしまう。愛しあうことが、習慣になりつつあるのだ。いや、すでに習慣の中にどっぷりと入ってしまっているのかもしれない。このまま結婚して、何十年もこれと同じことが続くのだ。私はまだ二十三歳だというのに、清潔で気持のよいぬるま湯の中をたゆたうようなセックスを、一生、彼と続けていくことになるのだ。  それはサラリーマンの妻となり、自分の一生が透けて見えるのと、とてもよく似ている。やがて係長となり課長となり部長夫人となる。子供は二人。大学まで続いている私立の幼稚園に入れ、親の建ててくれた二所帯用の住宅に住み、テーブルセッティングの講座に通ったり、アロマテラピーの講習を受けたりする。ボランティアで養老院を訪ねたり、寝たきり老人の世話をちょこっとやり、なんとなく浮わついた自分にささやかな奉仕の自己満足を与えてやる。夫の停年にそなえて、何か手に職をもつために勉強する。そして多分、四十歳頃、他の男にのめりこむ。自分がまだ女として通用するかどうか、身をもって試すために。  なんのことはない。私のママが通ったとおりの人生航路を、私がなぞるということだ。もっともママの浮気は今や真最中だけど。あの人はおくてなのだ。でも五十二歳で三十五の男を三年も引きつけておけるなんて、ママもアッパレだけど、年増の女の魅力にぞっこんの男もなかなかのものだ。  ママはいわゆる大人の女の雰囲気をもち、往年の女優ローレン・バコールに雰囲気が似ている。声が低く、耳障りな嗄《しやが》れ声なのと、煙草の喫《す》い方も、バコールにそっくりだ。  パパは当然のことながら、ママに三年来の情人がいることなど、露ほども気づいていない。ママのことを頭から信頼しているのだ。なぜあんなに盲目的に信頼できたりするのか、全然わからないが、あのパパのことだから、ママが情人と二人でベッドでいちゃついているところを仮に目撃したとしても、パパは自分の眼の方を信じないで、ママを信頼するのだろう。  それは多分、パパにはママ以外の女なんてこれまでに存在しなかったし、これからも存在しないと思っているからだ。自分が絶対にしないことは、ママもすべきではないし、するはずがないと信じて疑わないのだ。愛すべきパパ。願わくば、ママがこのまま上手に隠し通してくれますように。  横で彼が寝返りを打ち、無意識に私の脚《あし》に自分の脚を絡みつかせる。ほんの少し開いた唇の間から、白い歯が覗《のぞ》いている。  私は思わず、指先で彼の唇を押し開き、その白い歯に自分の唇を押しつけ、軽くしごく。すると身内に獰猛《どうもう》な力がみなぎるのが感じられる。  けれども彼は小さな溜息《ためいき》をついて、また向こうに寝返りを打ってしまう。二匹のセクシーな豹《ひよう》のように、お互いにお互いの歯を立てあって、興奮を高める、ということはしない。健康な眠り。彼を愛している、と胸の中で呟《つぶや》く。愛していると思う。やがて部長夫人、年下の男との浮気。ああ、ママ、私は何だか罠《わな》にはまってしまったような気がしているわ。とても柔らかい罠だけど。私はそっと躰《からだ》を横にずらして端まで行き、ベッドから離れる。  家に戻ると居間で電話が鳴っている。二階で水をつかう微《かす》かな音がしている。ママはバスなのに違いない。  出ると男の声がいきなりママの名前を言う。 「アキコはお風呂《ふろ》よ。わたしは娘の方」  ママの情人の声を耳にするのは初めてだ。ほめたくはないけど、低くて冷たい感じのよく響く声。 「失礼。声がそっくりなもんで」 「嘘《うそ》よ。ママのは嗄れ声、私はどっちかっていうと低めのアルト。ママとにている点はひとつもないわ。お気の毒さま」  そのまま電話を切ろうとすると相手が言う。「別に気の毒がらなくてもいいよ。僕は好みをひとつに固定しないからね」 「それってどういう意味?」 「きみに逢《あ》ってみたいっていう意味」 「それはまた物好きな。小娘に逢ってあれこれ嫌味を言われたいわけ? もしかしてそういうの趣味なの?」 「そういうのって?」 「女からいじめられるのが快感とかいう」 「そりゃ女にもよるよね」 「お望みなら思いきり不愉快にしてあげることもできるのよ、どっちかっていうと私はパパに同情的なんだから」 「女の子ってのは普通そうだよね、ファーザー・コンプレックスってのは多かれ少なかれあるんだな」 「止《や》めてよ、底の浅い心理学引っぱりだすの。この年になって父親への思慕がぬけないのは異常というものよ。私のは対等な一人の人間同士として、父親に同情してるだけ」 「この年になってって、きみ幾つ?」 「ママが二十九の時の子よ。自分で計算して」 「でも、彼女の年齢、ほんとうのとこ知らないんだ」 「私は二十三。それに二十九を足したのがママの年よ」  相手は一瞬黙り、そして呟く。 「信じられないね」 「何が? 私の年? 本人が二十三て言ってんだから信じたら?」 「ママの年。僕はせいぜい四十を出たか出ないかくらいだと思っていたよ」 「じゃ私はあのひとが十七歳の時の子供だってことになるじゃない。冗談じゃないわ」 「娘がいるってことは知ってたけどさ。てっきり、十二、三歳の小娘だと信じて疑わなかった」 「ママも可哀相《かわいそう》に。これでおじゃんね。そうとも知らずに呑気《のんき》にお風呂なんか入ってる場合じゃないわよね。どうする? 自分で言う? それとも私に言って欲しい?」 「言うって何を?」 「別れの言葉」 「誰が別れるんだい」 「あなたとママよ」 「そんなこと勝手にきめないでくれよ」 「あら、おじゃんじゃないの?」 「それどころか、ますます彼女に興味が湧《わ》いたよ」 「それって気持が悪い。ゲテモノ趣味に切り替えようってわけ?」 「それは言いすぎだぞ、仮にも自分の母親じゃないか」  と相手が少し厳しい声を出した。「謝れよ」 「あなたには謝らない。それよりこんな時間に結婚している女の家に電話してくるなんて、非常識でなければ、馬鹿なんじゃないの? もしパパが帰ってて電話に出たらどうするつもり」 「そのかわりきみが出た」 「すごく運がよかったと思いなさい」 「僕はむしろ不運だったと思い始めているんだ」 「どうして? ママの本当の年をバラしたから?」 「というよりも、あんなにステキな人に、きみみたいな娘がいるなんて、知りたくなかった」 「私みたいなって? 年が二十三にもなる娘がいるって意味?」  私は電話のコードを指や腕に巻きつけながら、意地悪く微笑する。 「年なんて、実にどうでもいいことさ。きみみたいに悪意に満ち満ちた娘ってのも珍しいね」 「逢ってみたい気、今でもある?」 「ある」 「無理しちゃって。本心はおじけづいているくせに」 「本心は好奇心で一杯。じゃいつ逢う?」 「本気なの?」 「心にもないことを言わないのが、僕のとりえのひとつ」 「自惚《うぬぼ》れが強いのがとりえの二つ目ね。私があなたに逢いたいなんて思う?」 「かなり心が揺れ動いていることは確かだよ」  二階のバスルームから、お湯を抜く音が響いてくる。 「あと二、三分したら、もう一度かけてみたら? その頃パパが戻ってなければ、ママが出るわよ」 「その前に、どこでいつ?」 「私はおじんは嫌いなの」 「僕はおじんじゃないよ。それだけは自信をもって言える」 「じゃなんなの? ジゴロ?」 「それも違う。ママとデイトする時は一切僕が支払う。明日の夜、七時にキャピトル東急のリッポバーっていうのはどう?」 「ママと一緒に行くわ」 「ママ抜きだ」 「なんなの、それって」 「きみが面白い娘だって気がしてきた」 「それだけ?」 「むろん違う。現状に強い欲求不満を抱いている。ボーイフレンドがいないわけじゃないんだろう?」 「それどころか、たった今、セックスして戻ってきたばかりよ」  私はむっとして言い返す。 「じゃ、彼、下手《へた》くそなんだな」 「失礼だわ。現場をのぞいたわけでもないくせに」 「完璧《かんぺき》な快感を得た後なら女はそんな声では喋《しやべ》らないもんだよ」 「へぇ……! あなたは女に完璧な快感を与えることができるっていうの?」 「時々、ママが喉《のど》をゴロゴロ言わせないかい? きみにはその感じが欠けている」 「だからなんなの? あなたがゴロゴロ言わせてくれようってつもり? お断りよ、はっきり言って」 「僕の方にもその気はないよ」  とやけにはっきりと相手が言う。 「あら、どうして?」 「きみのママ以上にセクシーな女なんて、この世に存在するとは思えないからさ。どこがどういいなんてことは、彼女の娘の耳には入れないけどさ、とにかく、最高だよ、彼女は」  私はなんだか胃のあたりにざわめきを覚えて落ち着かない気分だ。 「じゃ私に逢う必要もないってことよね」 「おや、その口調には棘《とげ》があるぞ。まさか嫉妬《しつと》じゃないよね」 「ママに? 私が? どうして嫉妬するのよ? あなたがどんな男か知らないってのに」 「だから一度逢おうよ」 「どんな男なのか、自分で言ってみてよ」 「ごく公平に見て、いい線いってると思うよ。何しろきみのママは面食いだからね」 「顔だけなの、いい線いってるのは?」 「身長一七九センチ、体重六七キロ」 「それほど背が高いってわけじゃないわね。その割には体重がありすぎるんじゃない?」 「ついてるのは筋肉だよ。ボクシングをやっているから。でも着やせするタイプだな」 「ボクサーなの?」 「趣味さ、男は闘えなくちゃいけないってのが僕のモットー。そして闘ったら、絶対に勝たなくてはいけないと思っている」 「他に特徴は?」 「どんなことが知りたい? 最終学歴? 出身地? ベッドでの耐久時間とか?」 「喋りたいならどうぞ」 「どうせなら、逢った時の楽しみにその話題はとっておこうよ」  二階の手摺《てすり》にママの姿が現れ、下を覗《のぞ》きこんで、「誰なの?」と訊《き》いている。 「ママによ」 「あら、誰かしら?」  なんてとぼけて、タオルで巻き上げた頭のまま、階段を下りてくる。私は素早く送話器に言う。「明日七時にリッポバーで待ってても行くかどうかわからないわよ」  私はママの手に電話を押しつけると、さっとその場から自分の部屋に上ってしまう。ママが男に話しかける甘ったるい声なんて聞きたくない。それにママからは変にゴロゴロと喉を鳴らす猫みたいな感じが漂っている。きっとさっきまで彼と一緒だったのだ。  一夜明けると、私はまるきり自分の母親のボーイフレンドに興味を失っていた。いつも感じるのだが、夜というのは人を大胆で破廉恥にさせる作用をもつ。どうして自分があの男《ひと》と、あんなふうに喋れたのかも、わからない。  ママに対する罪悪感なんてまるきり感じないが——なぜならあの男はママの結婚の相手ではなく、単なる浮気相手にすぎないわけだし——母親の男にわざわざ逢いにいくなんて、およそ趣味が悪いと思うからだ。  たとえ親子でも、いや親子だからこそ、お互いのプライバシーに首を突っこまないことだ。  職場では一日中プレス関係者へのニュースレターを書くことや、今度のショーのコンセプトをきめるための会議で忙殺された。ほっと一息つくと、すでに窓の外は暮れかけている。ランチを食べるひまもない一日だった。  机の上のダイヤルインの電話が鳴る。 「リビオン、プレス係です」 「僕」  婚約者の声。「まだ仕事中?」 「今終わったところ」 「じゃ逢おうか」  私は壁の掛け時計を見る。六時四十五分。 「いつもの場所で待ってるよ」  デパートのブティックの一角にあるカフェバーを思い浮べる。一、二杯飲んで、イタリアンレストランでパスタを食べて、彼の部屋へ行く。  彼はまっ先にテレビのスイッチを入れておいて、次にブランディーを取りだしてくる。私たちはそれをチビチビと嘗《な》めながら、面白くもないテレビを少しの間、ただ眺める。三十分ばかり。その間に彼はチャンネルを十回から二十回、カチャカチャと替え続ける。  二杯目のブランディーが空になると、彼はテレビのスイッチをパチンと押す。画面が白く弾《はじ》けてすぐに暗くなる。  そしてベッドへ行く。彼は私の上に重なって、外側から脚を絡め、片手で体重を支えるようにしてキスから始める。ブランディーの匂《にお》いのするキス。あいている方の手が乳房を愛撫《あいぶ》し、乳首が固くなったのを指先で確かめると、下へ降りていく。太股《ふともも》の内側を撫《な》ぜ、あまり時間をおかずに下腹の繁みに指を滑りこませる。  あそこが充分すぎるくらい濡《ぬ》れてくると、彼は愛撫を中止し、私の脚の間に膝《ひざ》を立て、私の中に入ってくる。そこで愛撫を跡切れさせてはいけないのだ、と、何度も、何十回も言おうとして、私はいつも言葉を呑《の》みこむ。私の躰が彼の指の愛撫を歓《よろこ》んでいて、もっと続けてもらいたいと、言葉よりも饒舌《じようぜつ》に反応しているのを気づかない彼に対する失望が先に立って、私は押し黙ってしまうのだ。  それから彼はがんばる。気の毒なくらいだ。  時々「まだ?」と息たえだえに訊く。まだすごく遠いのに、私は「もうすぐ、すぐよ……」と眉間《みけん》に皺《しわ》を寄せ、下半身を突っぱりながら、「……今よ、いくわ……」とあえぐ。それを合図に、彼が続き、すごく深い吐息と共に、ぐったりと私の上にかかる体重が重くなる。  ほどなく、水の入ったとてつもなく大きな風船がずり落ちるように、彼は、私の上から滑り落ちて、落ちた時の姿勢のまま寝息をたて始める。  そんな時、もしかして、この世の中にはすごいセックスがあるのかもしれないけど、私は永久にそんなものとは無縁なのだと、物狂おしいほど虚《むな》しくなる。 「今日は、やめとくわ」と、私は唐突に送話器の中に言う。 「だって、仕事終わったんだろう?」  彼は、自分に逢うのが当然のことのようにそう訊き返す。  あなたに逢う他にも、たくさんすることはあるのよ、と言いたい気持を抑えつけ、今夜は家に帰って本でも読みたい気分なのだと答える。 「じゃあとで家に電話するよ」 「何でなの? 私が本当に家に帰っているかどうか、チェックするために?」  と思わず言ってしまってから、我ながら反応が過剰だったと気がつくが、後の祭り。 「何言ってんだよ、ただ電話入れると言っただけなのに、今日のきみは変だよ」 「だって家に帰るまでに気が変るかもしれないもの。これから仲間と急に飲みに行くことになるかもしれないし、映画観《み》ようかってことになるかもしれないでしょ」  飲むのなら俺《おれ》と飲もうよ、映画だって俺も観るよ、と彼が言いたい気持を抑えているのが、電話線を伝わってくる。 「たまには、仕事仲間とのつきあいも大事だからな……それならそれでいいよ」  と彼は穏やかに理解を示し、じゃまた電話する、と言って電話が切れる。  とたんに私はママの情人に逢ってみようという決意をかためる。理不尽だけど、婚約者の優しさ、つとめて理解を示そうとする態度に、猛烈に腹が立ったからだ。  でも彼が、あくまでも俺とつきあえ、俺と映画に行こうと言いはれば言いはったで、私はそれに対しても腹を立てたにきまっている。きっとどうかしているのだ。生理が近いせいかもしれない。  彼がどう振る舞おうと、何を言おうと、私はママの恋人と逢うつもりでいたのだ、と思う。それは、昨夜、電話を切った時点できまっていたのだ。行くかどうかわからないわよ、と言った時には、行くつもりだったのだ。今となってはそう思う。  リッポバーについたのは、七時を二十分ばかり過ぎた頃。私が階段を下りていくと、ゆっくりと立ち上って歩いてくる男のひとがいて、それが、彼だった。 「やあ」  と言った。予測に反して彼は、よく来たね、とも、必ず来ると思っていたとも、来てくれてうれしいよ、とも言わない。それで私は、用意してきた、攻撃的な言葉を口にできずに、黙りこむ。  その仕返しに、どうして初対面の私がわかったのか、と訊いてやらない。そのため私たちは言葉を失って、お互いをじろじろ黙って眺めあう。  手を広げ、彼がバーの方へ私を誘うゼスチャーをする。私は肩をすくめて、歩きだす。全部パントマイムだ。  最初の第一印象のことは、すでに覚えていない。思ったより自分が動揺している証拠だ。第一印象が飛び去った後では、ママの男として彼以外の男は考えられない。そうとしか言えない。彼はママの情人以外の何者でもありえない。上唇に髭《ひげ》をはやし、それが嫌味も何のてらいもなく似合っている。腕が身長の割合に比して長すぎる感じがする以外、あらゆる意味でパーフェクトだ。  全くのパーフェクトな男たちが、パーフェクトであろうとして肩肘《かたひじ》張ったような感じをどこかに露呈するのに、彼にはそれがない。寛《くつろ》ぎ、楽しんでいる。  そうなのだ、彼はすでに今のこの状況を楽しみ始めているのだ。それに比べると、私は胃壁をこわばらせ、奥歯を噛《か》みしめている。第一ラウンドは完全に相手のペースで進められてしまっている。  ウエイターが来たので、私はとっさにウオッカ・トニックを注文する。そして言い足す。 「ダブルにして」  彼が微笑《ほほえ》みを深める。——深めたような気がする。 「何がおかしい?」 「別に」彼は煙草をくわえる。 「強がってると思ってるんでしょ?」 「どうして?」 「ダブルって言い足したから」 「ああそうか。気がつかなかったけど、そうなの?」  彼の質問は無視して続ける。「ニヤニヤ笑ったわ」 「他のことを考えてたんだよ」 「ロクなことじゃないんでしょうね」 「どうしてわかるの?」 「そういう時男ってのは、目の前の女の衣服を想像の中で剥《は》ぎ取るものなんでしょ」 「剥ぎ取る気にもならない女もいるけどね。もちろん、きみのことじゃないよ」 「淫乱《いんらん》なのよ、男って」 「女ほどじゃないよ」 「誰のこと言ってるの?」 「一般論」 「女は、目の前にいる男の裸を想像したりはしないわよ」 「どうして?」 「そういうふうにはできていないのよ。仮に男の裸を思い浮べたって、どうってことないもの」 「でもきみは、男の手と、太股の筋肉が気になってしょうがない」 「なんですって?」 「きみは、僕の太股のあたりを少なくとも、二度、盗み見た。それから、きみの視線は、たえず、僕の手を這《は》っている」 「それがどうしたの? 私はあなたの鼻も見たし、髭なんてここに来てからもう十回は見たし、耳も見たわ」 「男の手が気になるのは、その手で触れてもらいたいからだ。どこへタッチされたいかは、言うまでもないね?」 「この飲みもの飲み終わったら帰るつもりだけど、他に言いたいことある?」 「腰から下の男の筋肉に魅《ひ》かれるのは——」 「私のママのお相手が色情狂だったとはネ」  私はカチリと固い音をたてて、ウオッカ・トニックのグラスをテーブルに置く。 「わかった」  と彼は両手を胸の前で小さなバンザイの形にして言う。「もしきみが、処女のまま年とってしまったオールドミスみたいにふるまうのを止めれば、僕の方も態度を変えるよ」 「私が何ですって?」私はかっとして言った。「悪いけどそんなに年とってもいないし、処女なんかではないわよ」 「寄ってくる男がみんなきみとやりたがっているんじゃないかと被害妄想を抱く点で、同じだよ」 「あなたの方こそ、女といえば誰もかれもがあなたのために洋服を脱ぎたがっていると、思うのは止めたら?」 「でも思うだけじゃないんだ。本当なんだよ」 「すごい謙虚」  と私は思いきりの嫌味をこめて言い、そっぽをむく。 「似てるんだよ、僕たちは。そう思わないか」 「ぜんぜん思わない」  ところで、と彼は躰の向きを変え、少し私の方へ肩を寄せる。「きみの問題は何なのか、そろそろ相談にのるよ」 「私に問題なんてないわ。たとえあったとしても、あなたになんか相談する気もないわね」 「じゃ僕の方の相談にのってくれるかい」  急にひどく真面目《まじめ》に、彼が言う。 「僕たちは結婚したいと思っているんだ。きみのママと僕のことだよ」  私が何か言いかけるのを制して彼が続ける。「そのことについては、真剣なんだよ、二人とも」 「相談相手をまちがってるんじゃないの? パパに直接談判してよ」 「いずれね。それに、きみの親父《おやじ》さんの方は大丈夫だ」 「何が大丈夫なの? 妻を横取りされて平気だとでもいうの?」 「彼にはこの十年来、愛人がいて、子供まで二人いる」 「嘘よ、そんなこと」  私は即座に吐きすてた。口から出まかせもいいところだ。 「調べてごらん。あるいはパパに直接訊くことだね」  彼はあくまでも冷静だ。 「きみのパパは離婚に同意すると思う」 「そう! じゃ何も問題はないじゃないの」 「きみが問題なんだ。ママはきみを残してあの家を出るわけにはいかないというんだ」 「なんなら、私が出ていってあげてもいいわよ」  私はショックと腹立ちとで、ムカムカしながら言う。 「彼女はまずきみが幸せに結婚するのをみとどけて、それから自分の幸せを考えたいというんだよ」 「だとすると、六十になっても、幸せになれる可能性はないわね。私、結婚する気、なくなったわ」 「なぜ?」 「大体みんな勝手すぎるわ。やることが汚らしいわ。そんな結婚のお手本見せといて、幸せになれなんて、虫がよすぎるわよ」  私は涙の一歩手前にいる。 「たしかにね、勝手だよね。でも、人を愛することは、汚らしいことじゃないよ。きみのパパもママも、それぞれ別の人を愛してしまったけど、それはそれで真剣なんだ。たくさん傷ついてきているんだ」 「ママはそんな素振り、ちっとも見せなかった。パパに愛人がいるなんて、私は知らなかった……」 「それはネ、二人が命がけできみを守ってきたからさ」 「いっそのこと、守り通して欲しかったわ。何も知らずにあの家を出ていきたかった」 「ママの願いもそうだった」  と彼は自分の手を見つめた。「僕もそう思っていた。つい昨夜、きみが十二、三歳ではなく、二十三歳の大人の女と知るまでは」 「…………」 「彼女が五十二歳と知って、正直ショックだった」  初めて私は不安にかられた。ママの不幸を本気で願っているわけではない。ただ——。が、彼が続ける。「ショックだったのは、彼女が考えていたほど若くなかったということじゃなくて、女としての幸せを味わう時間が、もうあまり彼女には残っていないということがわかって、ショックだった」  彼はもう一度言う。「彼女には、もうあまり時間がないんだ」 「六十になったら女でなくなるっていう意味なの?」私は棘々《とげとげ》しく冷淡に言った。  彼はそれには答えず、こう言う。「ママを、今すぐ自由にしてやってくれないか。もうきみは大人だし、自立しているんだから」  その眼は、真剣で、まっすぐに私を見つめ、私の魂を掴《つか》もうとしている。 「彼女は僕に負担をかけまいとして娘の年齢を伏せ、自分を十歳も若く見せかけてきた……」 「ママは好きにすればいいのよ。いちいち娘の顔色を窺《うかが》う必要なんてないわ」 「彼女はそういう女じゃない。物事には順番があるんだ」 「まず私を片づけようっていうのね?」  私は眼を細くして彼を見る。 「婚約しているんだろう?」 「ええ、でも結婚するかどうかわからなくなったわ」 「僕がママの話をしたからかい」 「あなたはそう思うかもしれないけど、それと関係なく、すでにわからなくなってたのよ」私は彼から視線を逸《そ》らせる。「彼でいいのかどうか、……迷ってるの。だから、あなたなんかに逢う気にもなったんだわ」 「迷いの原因はなんなの?」 「ごくプライベートなことよ。あなたに話すつもりはないわ」  私はそうきっぱりと言う。それから立ち上り彼にサヨナラを言う。ふりむきもせず、その場から歩み去る。  私は旅に出ようと思う。心の旅に。自分探しの旅に。彼とは婚約を解消するつもりだ。  結婚を急ぐつもりなど毛頭ない。彼だって若いし、これからだって変っていく。私も変っていく。  ママには女としての時間があまり残されていないと、ママの恋人は言った。その意味が私にも痛いほどわかる。だからといってママを解放してあげるために、私が犠牲になることはない。私だって幸せになる権利があるのだもの。 「ママ、私にかまわず再婚してよ」  と言う。ママは青ざめる。 「でないと、ママのことがプレッシャーになって、まちがった結婚をするかもしれない。ママだって、私がママの二の舞いをふむのは嫌でしょう」  するとママは静かに答える。 「ママの結婚がまちがっていたとは一度も考えたことないわ。結果的にこうなってしまったけど、パパを愛していたから結婚したんだし、だからこそあなたを生んだのよ」 「じゃ訂正する。彼と一緒になれない理由に、私を利用しないで」 「…………」  ママはうつむく。 「そんなのまっぴらよ。他人のせいにしないで、自分の意志で自分の幸せを掴みとる勇気を、ママ持ちなさい」 「あなたは他人じゃない、私の娘よ」  ママの瞳《ひとみ》に涙が光る。 「わかったわね? ママ。私にかまわないで——」  そう言って、私はママをしばらく一人で考えさせるために、二階の自室に上っていく。  電話が鳴る。 「今帰ったの?」と彼が訊く。「十二時過ぎまで何してた?」 「私の人生について考えてたのよ」と私は、むしろやさしく答える。 「何言ってるんだよ、酔っているのか?」 「全くの素面《しらふ》よ。私の人生について決定したこと知りたい?」  ふと彼が黙る。私は言いかけた言葉を呑みこむ。電話で別れ話をするのは卑怯《ひきよう》だ。明日でも、ちゃんと相手の眼を見て話そう。 「明日、話すわ」  それだけ言って、電話を切る。あたりには、深夜特有の静けさが落ちている。私は急に自分が十歳も年を取ってしまったような気がする。 一九九二年四月に角川書店より単行本として刊行 角川文庫『ママの恋人』平成6年3月10日初版発行            平成7年9月20日8版発行