森 瑤子 さよならに乾杯 目 次   1  風  海  旅が終って始まる旅  台風の翌朝  抱きしめる  僕の方から電話するよ  恋に身を灼く男の話  女のためいき  贅沢な贈りもの   2  揺り椅子の日々  女たちのお喋りから  女たちの長い夜  終電車  三十三歳の痛み  決断するということ  ためらう時   3  失恋日記  青春譜  悔恨のモーツァルト  アポロに恋して  手 紙   1  風  今年になって、なぜか秋風が身にしみる。その透明さが、冷たさが、文字どおり私の肉体をしんとひやして吹き過ぎる。  十代の終りには、その風はロマンと感傷だけを孕《はら》んでいたので、わけもなく涙ぐんだりした。涙で輪郭の滲《にじ》んだ黄昏刻《たそがれどき》の風景が、このえもなく綺麗《きれい》だった。  二十代から三十代の中頃にかけては、微妙に色褪《いろあ》せてはきたが、似たような蒼《あお》い風が吹きこんで、私の胸を感傷で膨らませた。  そして、風が変った。  今年と、昨年の秋に吹いた風とは、確かに違う。色が、匂《にお》いが、透明度が、膚触《はだざわ》りが、明白《はつきり》と異なる。老いへの予感から、死に至るまでの一本の曲りくねった道のようなものが、仄見《ほのみ》えるような気がする。  束《つか》の間、私はうろたえて、一体自分に何が起ってしまったのだろうか、と考える。一年の間に何かが起って、そして風が変ってしまったのだろうか。  けれども、何も起りはしなかった。風は毎年くりかえし吹く同じ秋の風なのだ。  それでは、何かを失ってしまったのだろうか。  そう自問する以前に、答が透けて見えていた。だから慎重にその問いかけを避けていたのだ。それと気づくかなり前から、漠然と、ある種の喪失感に怯《おび》えてはいなかったろうか? 自分の胸にぽっかりと口をあけた欠落の感覚。それを覗《のぞ》きこむ勇気がなくて、無意識にであれ、その深淵《しんえん》の暗闇《くらやみ》から、眼を背けてきたのではないだろうか?  私が失ったのは、一口で言えば若さだ。フィジィカルな意味でも、メンタルな意味でも——若さ。  思えば、それを私は突然に失ったような気がする。鱗《うろこ》が剥《は》がれるように、年ごとに少しずつ若さが私から剥落《はくらく》していったのではなく、ある時、青天の霹靂《へきれき》のごとく、それが私から去っていった。主として、私の心から。  若さとは何かと言うと、それは私にとっては、激しく執着する思い、である。  多くの場合、男《ひと》への、傾斜、激しい思い入れであった。  十代、二十代、三十代を通して、たえず誰《だれ》かが胸の中に住み続け、私を嗾《けしか》けてきた。  仄々《ほのぼの》とした恋心であったり、猛々《たけだけ》しい愛情であったり、単なる情欲、欲望の充足に過ぎなかったものを含めて、心の住人たちはさまざまに変り、入ってきてはやがて立ち去っていった。  たえず誰かに対して思いを燃やしてきたが、時には疲労|困憊《こんぱい》して、何もかもが厭《いや》になり、男《ひと》の声、その温《ぬく》もり、匂いなどに嘔吐《おうと》すると、眼には見えない甲羅《こうら》で武装してその中にたてこもり、ひたすら書物を読んで過した。そんな時ですら、小説の主人公たちの幾人かに猛烈に熱を上げ、結局、心は一時も安まることは、なかった。古くは、レッド・バトラーから、つい少し前では、小説の登場人物より、それを書いた作者の方に興味が移り、たとえば、ウィリアム・ゴールディングについて言えば、尊敬と愛情と友情の全てを捧げても捧げ尽せないような、歯痒《はがゆ》い感情に苦しめられたりもした。  ナルシシズムと、自虐趣味と、それに情欲というやっかいな問題が絡んで、私の人間関係は、決して自慢できるようなものではなかったし、あらゆる種類の情——愛情、恋情、欲情、憐憫《れんびん》、嫉妬《しつと》、悲哀、歓喜、絶望などの情etc——というものが存在したが、ひとつ、友情だけが不在であった。  男たちとの友情は、激しい葛藤《かつとう》の真只中《まつただなか》では、生れない。それはずっと後《のち》に、男と女の関係が戦場となり、それをくぐりぬけ、ひとりひとりの孤独に戻った時、それでもなお双方の胸に居残り続ける相手への愛情——嫉妬と所有欲を含まない——を、友情と呼ぶのではないだろうか。少なくとも、私の場合はそうだ。  けれども、友情に手を差し延べている時間はなかった。ひとつの出逢《であ》いと別れの後には、不思議なほど、すぐに次の運命的な出逢いが待っていたから。  それがふと気がついて、周囲を眺めてみると、このところ周辺には友だちと名のつく人間関係が目立つのである。 「ボクたちは、友だちだよ」と、確信をこめた暖かい声でそう言われて、 「ええ、そうね。もちろんよ」と答えながらも、どうしてか内心の寂しさが拭《ぬぐ》えない。  冬の日溜《ひだま》りのような、あるいは温《ぬる》ま湯のような、その中でぬくぬくと手足をのばして寛げる、そうした関係、あるいは環境は、真新しかった。にもかかわらず、常に背中の毛を逆立てていた状態——緊張とストレスの連続の日々が、遠のきつつあることを識《し》って、寂寥《せきりよう》のあまり、茫然《ぼうぜん》としてしまうのだ。友情というものは、決して私を傷つけないのだ、と呟《つぶや》いても、それでも私はまだ、傷つくことが好きなのだ、と、声にならない悲鳴のようなものが、胸の内で上がる。傷つくこと、他人の存在ひとつで、私の喜怒哀楽がいとも簡単に左右され、そんな自分がひたすら哀《かな》しくて——。それに別れの苦しみ。それは沈黙の苦しみだった。 �なぜなの、なぜ行ってしまうの?�  あるいは、 �私を見捨てないで!�  と、言ったり叫んだりできたら。髪ふり乱し、狂態を演じ醜態をくぐりぬけてきていたら。  自尊心ゆえにそのように自分を燃焼しつくすことは決してなかったから、別れは沈黙に閉ざされて、鬱々《うつうつ》と辛かった。それでも、あの日々を取り戻したいと切実に望む思いを拒めない。私はまだ、冬の日溜りにとろとろと身を置くより、皮膚をこがし魂を引き裂かれるような日々の方に未練がある。  つまり、これこそ若さへの抑えがたい執着ではないだろうか?  私の上に、温かい眼差しを注ぎながら、友情を約束する相手に向って、 「ありがとう」と、私は呟くが、ほとんど上の空だ。  なぜなら、かつてその眼差しは欲望に燃えて私の心を溶かしたのだから。あるいは時に、嫉妬のあまり暗い情念のナイフのような視線で、私の良心を切りつけたのだから。  その同じ瞳《ひとみ》が、寛大な光を湛《たた》えて、穏やかに私を見守っているのだった。もう決して、私を激しく責めもしなければ、途方にくれて私の上からふいに逸《そ》れていったり、恥じて瞼《まぶた》を伏せたりもしないだろう、その眼差《まなざ》しが。  私は感謝したい気持で一杯だったが、やはり一抹の寂しさが残り続けた。  今年になって、秋風の冷たさが、私の躯《からだ》をひやしたのは、きっと、そのせいなのだろう。  心の中に誰かが住みついて、恋へと私を嗾けていたから、十代の、二十代のそしてわずかに三十代前半の秋に吹いた風たちは、私を涙ぐませたのだ。  風が変ったと感じるのは、私の心に激しく執着する思いが、忽然《こつぜん》と消えてしまったためなのだった。  それはこの夏、シンガポールのホテルで、まず、起った。  赤道直下のその都市には、私のかつて知らない風が吹いていた。全く異種の——熱風だった。  それは馨《かぐわ》しい南国の花々や、熱帯樹木や、水、太陽、潮そして夥《おびただ》しい屋台の雑踏と、不思議な香辛料《スパイス》などの匂いを、複雑にまき散らしながら、吹いていた。  夜になると、その同じ風が闇の微粒子の魔法のせいで、さらに馨しく、濃く、あたかも漆黒のビロードのような感触に変る。あるいは、男の熱い息のように、せつなく肌にまとわりつく。  ホテルのパティオに無数に立ち並んだ孔雀椰子《くじやくやし》が、王族の使う贅沢《ぜいたく》な扇子《せんす》のように夜風に揺れている。重なりあう葉かげの背後に熱帯特有の青さをたたえた夜空が、今にも星をぱらぱらととりこぼさんばかりの風情で、おおいかぶさっていた。  テーブルには純白の麻のクロスがかかり、船ランプを模したスタンドの中でロウソクが燃えていた。  黒豹《くろひよう》を思わせる身のこなしのボーイが、テーブルの間を足音もたてずに、めぐり歩き、優雅な細い指で私たちの前に飲みものの入ったグラスを置いていく。  パティオの他の席には、新婚の三組のオーストラリア人らしいカップルがいて、わきめもふらずにお互いの瞳の中だけを覗きこんでいる。  花嫁たちは、洗いたてのまだ少し濡《ぬ》れているような髪に、南国の花をさして、いずれもうっとりとした表情、時折上の空でトロピカル・ドリンクを口に運ぶ。  白いおしきせを着たトリオが、ハワイアンに似た音楽を、ひかえめに演奏している。  道具だてはこの上もなくエキゾチック、申し分のないほどロマンチックであった。にもかかわらず、そのパティオでお互いの瞳を穴のあくほど凝視《みつ》めあっていないのは、私たち夫婦だけ。むしろ、正面から向いあわずに済むように、腰を下ろす前に椅子《いす》の位置を微妙にずらすという、そういう小細工を弄《ろう》するほどに、私たちは巧妙かつ老練であったのかもしれない。そうすれば、腰をかけた時に、相手の顔ではなく、孔雀椰子の整然と植えられた庭に眼がいく、とそういう暗黙の計算があった。  多分、結婚して十六年もたつ夫と妻には、お互いの瞳の中を深々と覗きあってとりかわす会話など、皆無なのに違いない。  頭上で廻《まわ》っている植民地風の大型扇風機が送ってくるのは生温かいというよりは熱い風。汗がとめどもなく流れ落ちる。 「暑いね」と、夫が呟き、氷の溶けかかった飲みものを口に含む。「こう暑いと、やりきれないね」 「ほんとうね」染みひとつないテーブルクロスを指先で撫《な》でながら、私が呟き返す。口をきくのさえ、大儀なほど、空気は熱く濃く、ねっとりとしているのだ。 「冷たいシャワーを浴びたい気持ね。氷のような冷たいシャワー」  ところがホテルルームのシャワーは、生|温《ぬる》い水がチョロチョロとでるだけだった。 「その時は気持がいいけど、冷水のシャワーは、後で躯がほてるよ。いっそのこと熱いシャワーの方が、さっぱりするんだ」 「そう……」  それきり言葉がたえる。  こんなはずではなかったのだ。私たちが望んだ南国の夜の情況は、こんなふうに、相手の顔から眼を背けあうことではなかった。  私はだしぬけに、泣きたいような気分に襲われて、思わずうつむいた。  ああ、もし私たちが二十歳若かったら、十五歳でもいい。あと十五歳、あと戻りができたなら。  そうしたら、この熱風も、肉体を締めつけるような夜の暑さも、肺をむせかえらせる濃い甘い空気も、南国の飲みものも、闇にひそむ野性の気配も、なにもかもがロマンの香りを放って私たちを窒息させていたであろうに。  泣きたい気持に襲われるとしても、今とは全く異なる甘美なせつなさに突き動かされて、眼に涙が滲むだろう。  私が今涙ぐむのは、これほどの条件の中にいて、もはや自分たちが感傷やロマンから遠く離れ去っているという、認識のせいであった。人生のなんという酷薄さ。  夫に知れないように、そっと指の先で眼尻《めじり》の涙を拭った。その時であった。せめて傍にいるのが夫ではなく、誰か別の男《ひと》であったら、と考えたのは。誰か別の男。たとえば、好きな男。情人。  そうすれば、私の心は再び妖《あや》しく動悸《どうき》を打ち始め、瞳が輝き、唇はうっとりと軽くひらくのか。  夜がなまめかしい意味をもち、その夜の中でひっそりと咲き続ける花々の香りが強烈に鼻を打ち、熱風さえも愛撫《あいぶ》のように感じられるのだろうか。  けれども空しいことに、例えば、誰が? と自分に問いかける時、夫と入れかえてそこに座る人物の像を、私は描けなかった。それは顔や肉体をもたない情人。幻想。  ふと、視線を上げると、夫のそれとぶつかった。不意に、だがそれほど唐突ではなく——。  皮肉と寛容と、わずかばかりの諦《あきら》めの光が、彼の瞳を過《よぎ》って、消えた。  そして私はその瞬間ほとんど確信したのだ。夫も又、束の間の幻想——傍に座っているのが、額に汗を光らせている見なれた妻ではなく、別の女、愛人《ミストレス》、あるいは心躍らせる未知の美しい存在であったら、と——をむさぼっていたことを。  私と夫の視線が純白のテーブルクロスの上で、一瞬|絡《から》んだ。  痛いばかりの理解で胸が一杯に膨れあがるのを感じた。そして二人の視線がゆっくりと別々の方角へと、再び別れていった。 「飲みもの、もう一杯どう?」と、やがて夫が私に訊ねた。 「そうね。頂こうかしら」  椰子の葉の背後で、空がいっそう黒々と暗さを増し、夜は底無しの井戸のように深くなっていた。  やがて新しいグラスが私たちの前に置かれた。  あいかわらず無言のまま、私と夫はグラスを合わせた。固い透明な小さな音を響かせて、グラスが触れあい、もう一度だけ私たちの視線が出会った。そこに、私は友情を見た、と思った。そう断言する寸前に、夫が飲みものの上に眼を伏せたので、確信ではなかったが、少なくとも、私の数少ない真の友だちの瞳の中にある温もり、居心地の良さに似たものが、彷彿《ほうふつ》としてはいなかったか。  そしてそのことは、私の胸にあふれるばかりの安心感をもたらせたが、その底で寂しさが、ざわざわと立ち騒いでもいた。  私たちはシンガポールの一夜、暗黙の友情同盟を結んだが、グラスを合わせながらも、私はまだ諦めきれずにいる自分を意識していた。私は夫の友情を得たが、それとひきかえに何かを失ってしまったということを、かた時も忘れられなかった。それは何か。煮《た》ぎるもの、皮膚を焦がすもの、神秘、秘密、後悔の情——そういったもの全てを。  けれども、結局それで良かったのだと、考える。この結婚が決して譲りあわない二人の船頭——夫と私と——のために、何度も沈没の危機に直面しながらも、辛うじて荒海を乗り越え、今ようやく穏やかな大海原を漂い始めたのを感じる。相変らず船頭は二人いて、相変らず自分たちの主張を変えないが、私たちは以前より相手の言葉に耳を傾けるようになったし、以前ほど、声高に自分の主張だけを喋《しやべ》らなくなったことは確かだと思う。家庭という名の小舟が決定的な暗礁《あんしよう》にのり上げずにすみ、安定という最上の形容詞を与えられたことを今、安堵《あんど》すべきなのだ、と。  それに、人間というものはひとたび安定、心の平和を手にすると、今度は急にそれを手放してしまうことに恐れを抱くものらしい。心の片隅で痛切に、嵐《あらし》を、波瀾《はらん》を、冒険を、ロマンをと求めるのは、現実に力強い安定の手の中に、自分自身をゆだねてしまったからに他《ほか》ならない。そして時だけが、ぬくぬくと過ぎていく。そのぬくぬくと過ぎていく時の変り目に、風が吹く。  海  人は時に偶然から、あるいは悪戯《いたずら》心に、又は単に道をまちがえて、見知らぬ土地に足をふみ入れることがある。  何気なく素通りしようとした坂道の途中で、あるいは苔《こけ》におおわれた石垣の傍や、何のへんてつもないありふれた曲り角で、不意に、圧倒的な郷愁にかられて息を呑《の》むことがある。  初めて訪れた場所なのに、足の下の土の感触に確かな記憶があり、そのあたりだけに漂うひんやりとした空気を、かつて呼吸したという強い覚えがある。透明なフィルターを幾つも幾つも重ねて得られる不思議な翳《かげ》りを帯びたような風景にも、見憶えがある。私は以前——それもはるかな昔、この場所に立ったことがある、とふと思う。私はここをよく識《し》っている、と。  すると、ガラスの球体を覗《のぞ》きこむような激しい目眩《めまい》に襲われる。人には前世があり、今自分が、その遠い過去の一点から吹き上げてくる透きとおった風に、やわらかく吹きさらされているのだ、と感じる。  前世はひとつだけではなく幾つかあるのに違いない。なぜならこれまでに私には、その特定の場所に立つと必ず、一種の茫然自失状態に陥る土地が、二|箇所《かしよ》あるから。  こうしたこととは別に、私には島志向がある。海の近くで生れ、何かにつけ海へ戻っていく傾向がある。結婚した相手もどこか潮の匂いのする男だったし、二人が探しあぐねてようやくたどりついた棲《すま》いは、三浦《みうら》半島の尖端《せんたん》にある小さな漁村の外れだった。その太平洋に突きだした土地で三人の娘たちを生み育て、小説を書いた。  けれども心の底には常に、島に対する憧憬《どうけい》があり、それが私の血を騒がせてきた。かつて私自身の父がそうであったように、そしてパリに住む妹がことあるごとに、彼女の前世がタヒチのどこかであり、彼女は自分は、タヒチの娘だったと口走り、いずれきっとそこへ帰っていくつもりだと語った時、南の島に対する郷愁が、私たちの血の中に色濃く流れていることを悟ったのだ。  その島に、旅する。それもとびきりに美しいひとつぶの真珠のような島。ヨロン島。  YS11のプロペラがつくりだす円形の虹《にじ》の下に、その輝く宝石のような島は、あった。飛行機が急|勾配《こうばい》に下降していくと、島の美しい表情が浮び上がる。奇《く》しくもエンジェル・フィッシュの形をした島は、金色と緑でおおわれ、純白の砂浜をエメラルドグリーンの海水が洗っている。金色は刈り入れを直前にした広大なさとうきび畑であり——後でわかったのだが十日程前の台風にやられて、空から金色に見えたのは塩害のため潮やけしたせいであった——緑色は南の島特有の熱帯植物群である。そして海。  あおという色が、さまざまなヴァリエーションをもつことは知っていた。けれどもこの島には、実に多様に異なるあおの色がちりばめられていて、私はそれを無限にまで拡大しなければならなかった。そして十月の終りにして、何という光の量であろう。  プロペラ機は、煌《かがや》く海面すれすれまで機体を下げ、ほとんど海上に着水するのではないかと、乗客をひやりとさせておいて、それから一気に白い滑走路へと突っこんでいく。遠浅の透明な海水の下に描かれた夥しい数の波紋が、視野を掠《かす》める。フガミャービラン ユンヌ(今日は、ヨロン)。  飛行機から降りて、最初に感じることは、風が柔らかいことである。こんな風を、私は知らない。いくら記憶をめぐらせても、せいぜい三浦半島の突端に吹く初夏の風に、少し似ていなくもない、と思うくらいだ。だが三浦の風には磯《いそ》の臭いが強く、潮気を含んで肌にべたつくものがある。晩秋のヨロンの空港に吹く風は、たとえば絹にそっくりだ。絹布に顔を撫でられた時、肌に残る温かいようでひんやりとした、はかなげでそれでいて強靭《きようじん》な感触。もしやこの風は、過去の一点から吹いてくる前世の風に似てはいまいか。するともしかしたらこの未知の島は、私が探しもとめていた……いや、結論を出すのはまだ早すぎる。私は東京を出る時に着て来た、裏張りのある半コートを脱ぎ、シャツのそでをめくりながら、肩や背に太陽の熱を重たいほど浴びて歩きだした。島の夏はどんなだろうかと考えながら。  きっと日射しは暑いなんて生やさしいものではなく、痛いのに違いない。それは皮膚を焼くというよりは焦し、光と影のくっきりとした全く別の世界が出現するのに違いない。そしてどこからともなく集まってくる夥しい数の若者たちで、島は一時的に占領される。男と女の数だけ、夏の物語が生れて消えていく。吹く風は、熱風だ。  この島の男たちは、一口で言うとセクシーだと思う。色が浅黒く、濃い眉《まゆ》の下で光る黒眼がちの瞳、固く結んだ口元の感じなどから、いかにも精悍《せいかん》でしなやかな豹《ひよう》という印象を与える。こちらが喋っている時、その光る眼で、じっと相手の眼でなく喉《のど》のあたりをひたりと見据えるような感じは、何となく女に一種の危機感を与えるから、都会からやって来る若い娘たちがコロリとまいってしまうのではないかと、思わず余計なことを想像してしまう。  野性的でセクシーな外見とは逆に、男たちがとても優しいことにも驚かされる。たとえば、島の案内にあたって下さった観光課の方は、私のために何十回となく、乗り降りする車の扉を、いちいち開け閉めしてくれて、感激させられた。東京の男たちは、女のためにするそうした動作にひどくてれるものだし、たまに扉を開けて車から降ろしてくれる男がいても、気障《きざ》さ加減が鼻につく。たいていの場合、男たちは、若い頃のショーン・コネリーのような、機敏な身のこなしを不得意とするから、彼らがもたもたしている間に、女はさっさと一人で扉を開けて外へ出てしまうのがオチだ。紳士の国を自認する我がイギリス亭主でさえ、せいぜいレストランやホテルのドアを先に通してくれるくらいで、椅子を引いてもらったこともなければ、ましてや車の扉をほど良いタイミングで開けてくれたことなど、一度もない。  別のヨロンの男《ひと》は、私や、たまたま昼食に同席した大阪の若いルポライターの女の人のために、割りばしを割って手渡してくれたし、又別の時には、歩きにくい砂浜を、女の歩調にさりげなく合わせて歩いてくれる思いやりにも欠けなかった。  男が女に対して優しいというのは、大体において魂胆があるものだが、ヨロンの男性たちが私のような女にいかなる魂胆も抱くはずはなく、私は従って、ひたすらにチャンドラーのかの有名な名言、男が優しいためには強くなくてはならぬ、という言葉を思いだすのであった。  島の砂は、時刻によってあるいは空の色によって、刻々と色を変える。飛行機から見た砂浜は白一色だった。翌朝、真夏を彷彿《ほうふつ》させる日射しの下に横たわる大金久《おおがねく》海岸の砂は、眼を射るばかりの発光体そのものと化した。そして夕方には、夕日を浴びて砂は金赫色《きんかつしよく》に染まった。  巨大な太陽が燃えながら水平線に没すると、砂は砂金になる。凪《な》いでいた海上に風が起り、足の下で金色の砂が風紋を刻むための蠕動《ぜんどう》を始める。  星砂という悲しいほど綺麗な砂が存在することをご存知だろうか? サンゴの微粒のことである。波や岩や風にけずられて、最終的に星形の結晶のようになったもので、ヨロン島の砂はこのサンゴの微粒だらけだ。  しかし夏の人出で無数の裸足の足に打ち砕かれて、海岸の砂は星のトゲを失っている。星砂は主として、潮が引いた時にだけ幻のようにリーフの浅瀬に出現する百合《ゆり》ケ浜《はま》と呼ばれる、不思議な百合の花の形をした砂浜に存在する。  この日百合ケ浜は、午後二時過ぎ、私たちの眼の前、沖合い千五百メートルの浅瀬に忽然と現われた。潮流の関係で場所は一定せず、月や日によって変転するというこの海の中の離れ島のような砂浜へ、グラスボートで渡ると、一組の新婚の男女が、幸運を招くという星砂を集めていた。  三十分ほど沖合いの百合ケ浜で遊んでいるうちに、砂浜の面積はみるみるうちに大きくなり、グラスボートで次々と集まってくる新婚組で急に賑やかになった。まるで新婚の浜とでも名づけたいような様相を呈しはじめたので、再びグラスボートで引き上げたが、時々ふり返ってみると、エメラルドグリーンの環礁《かんしよう》の浅瀬はるか沖合いに、何十組という半裸の男女がたむろしている様は、何やら非現実的な光景をかもしだし、じっと見ていると、潮が満ちてきて砂浜が少しずつ海中に没するとともに、その何十組もの半裸の新婚の男女も、百合ケ浜とともに環礁に没するのではないかと、妙な気持になる。  新婚組が百合ケ浜に集合していなくなった大金久海岸の長い海岸線は、ひっそりとしていた。貝やサンゴで作ったネックレスなどを売る島の人たちが、時々、疲れたような声をかける。ようやくそこに、賑やかだった夏の残滓《ざんし》を見出したような気がし、私は一抹の寂寥感《せきりようかん》にかられて、星砂をつめたガラスの小びんを三つもとめた。  ガジュマルという樹がいたるところに見られた。いかにも繁殖力の強そうな南国の樹という感じがする。ここは気候的には亜熱帯に属するから、秋冬春の差がない。真冬でも、長そでのTシャツ一枚で充分だと島の人は言った。一年中ハイビスカスやブーゲンビリアの花が咲き、バナナやパパイアが実をつける。ハイビスカスの赫《あか》に誘われて、石垣の路地を踏みこんでいくと、農家の軒先に出てしまったりする。家の中は薄暗く、人気がない。誰もいないのかと思うと、ガジュマルの樹の背後から、島の娘さんの顔が覗《のぞ》いたりする。白い真珠のような歯並びを見せて、はっとするほど美しく微笑《ほほえ》む。島の女たちも、男たちに劣らず、彫りの深い、目鼻立ちのはっきりした美形である。  一方、ここの海は食料の宝庫でもある。サザエ、シャコ貝、アワビ、巻貝、夜光貝などの他に熱帯色をつけた名も知らないような魚も獲れる。それらを肴《さかな》に、夜は黒砂糖と米から作った地酒を、男たちは飲む。娯楽の少ない島暮らしゆえに、酒にめっぽう強い。長い夜、男たちは蜒々《えんえん》と飲み続ける。  三十歳を幾つか過ぎた頃から、私にとって海は眺めるだけのものとなった。どんなに真夏の暑い日でも、海水は私の肌に冷たく感じられた。長いこと、海に見捨てられたような気持がしたものだ。なぜなら、海水とたわむれること、海に抱かれて躯の下を流れる潮の音にきき耳をたてることは、私の青春そのものだったから。  海が最初に私を拒んだ夏の日、私は自分がもう若くはないのだと気づき、嘆きに嘆いた。そのことを、最初の小説『情事』の中に書いた。三十五歳の時のことだ。  ホテルの部屋から、ホテルのプライベートビーチが見えていた。人影はない。サバニと呼ばれる漁船も無人だった。あるかなきかの波が砂を洗っているだけだ。仕事が一段落して、夕食まで二時間あった。私はプライベートビーチを岩づたいに歩き、更に奥まった小さな入江に立ってみた。最初はほんのたわむれのつもりだった。まず靴を脱いで爪先《つまさき》を海水に浸してみた。その瞬間だった。海が再び私を受け入れようとしているのを感じたのは。まるで長いこと不仲だった男と、だしぬけによりを戻したような具合だった。  私は一時間ほど、海中にいた。あおむけになって、両手を十字架のように広げ、空を眺めていた。耳に、ヨロンの海が静かに呼吸するのを何度も聞いた。時々|悪戯《いたずら》な波が、私の首筋や脇腹《わきばら》を擦《こす》っていく。少しずつ、ほんとうに少しずつ沖の方へと波に抱かれて漂い出していった。ふと気がつくと、日が沈みかけている。首だけ起すと、砂浜がびっくりするほど遠くに見えた。そのまま漂っていたいという誘惑が強かったが、私は思い直して入江へ向って泳ぎだした。水の中から出ると、自分が思いの他疲れているのがわかった。それはちょうど性愛の疲れに、とてもよく似ていた。私は私を愛した海に背を向けたくなくて、後退《あとずさ》りしながらホテルへ向った。  今私の手元にいくつかのスーベニールがある。ひとつは小びんにつめられた星の砂。そしてもうひとつはヨロンの海を閉じこめたようなヨロン焼の大杯である。  杯の中の碧《あお》い海の部分はガラス質で、温度の急激な変化によってできた無数のひび割れが、海のきらめきを表している。  私は、小びんのふたをとって、星砂を、碧い海のふちにそって、少しずつちらしていく。すると奇妙なことに、それまで海に見えていた碧い部分が島のように見えだすのだった。そして黒灰色の杯全体が途方もない広がりをみせ始める。杯の中へ水を注ぎ入れると、なんとそれは正しく、南の海に浮ぶひとつぶの真珠、ヨロン島なのであった。  やがて、杯の中のルリ色の海に風が吹き始める。風は少しずつ円を描きながら、杯の外へ吹きだしていく。それは、過去の一点から吹き上げてくるあの風そのものであった。  旅が終って始まる旅  旅とは何かという問いが時折胸に浮ぶ。これまで自分が通ってきた日常、その感動や失意や嘘《うそ》や涙のあとで、ある時不意に、見知らぬ土地、知らない人々の中に自分を見出すという孤独な行為は、何を意味するのかと——。  何年か前のパリへの一人旅も、同じ疑問と混沌《こんとん》の中で続けられた。パリは雑然として石畳《だたみ》の道は汚物にまみれ、不潔だった。私はフランス語がほとんどわからず、タクシーの運転手やビガールあたりのシャンソン小屋の太った中年女がお釣りをごまかすのを知っても、なすすべがなかった。  フランクリン・ルーズベルトにとった小ホテルのコンシェルジェは、なぜかオハヨゴザイマスと、アナタ、カワイネの二言の日本語を、顔をあわすたびにオウムのごとく繰り返した。八日間、一日五回として四十回、彼は私に、アナタ、カワイネを浴びせかけたわけである。  私は、眼に彼のとよく似た冷たい笑いを滲《にじ》ませて、アナタモネと無感動に繰り返して、足早に通り過ぎた。コンシェルジェは老人で、疲れていて、仕事をほとんど憎んでいるように感じられた。彼のアナタ、カワイネは、パリに於ける私の一日をいっそう惨《みじ》めにした。私たちは一日に五回ほど、敵同士のように首の後ろに眼にみえない逆毛を立てて、見送ったり見送られたり、迎えたり迎え入れられたりした。  ほとんどの食べものは不味《まず》くて、私はしきりに東京でなじみの寿司屋《すしや》と、なぜかきつねうどんを思い浮べていた。  結局あの旅の目的は、パリを発見するためでもなく、人間の出逢いに期待したわけでもなかった。自分自身の真実を探しだすことであり、それを漫然と探すのではなく、是非とも発見することであった。  このように私は自分自身にあまりに深く捉《とら》われていたので、釣り銭をごまかす運転手にも、犬のふんで汚れた石畳にも、慇懃《いんぎん》無礼なホテルの老コンシェルジェにも、期待外れの料理にも、全て真には失望したわけではなかった。上の空だったのである。  けれども何が私自身の真実であったのか。  感動とか絶望とか、そういった熱い感覚の嵐に身を委《ゆだ》ねたのはもう過去のことだし、日常の小さな嘘の積み重ねは依然としてあっても、人生を華やかに彩る劇的な嘘とは無縁となった現在、自分は何者なのかと尋ねるのには、ある種の勇気がいる。  パリから漠とした不安と絶望とを抱いて帰国した直後、私は、ついに何も発見しえなかった、と嘆いた。  やがて月日が過ぎ、少しずつ何かが熟し発酵していき、ついに、私の中にありありとパリが見えてきた時、あの旅について書き始めた。『傷』というタイトルの小説である。  書くことによって、小説家ははからずももうひとつの旅に出ることになるのである。そしてその二度めの旅の中で、自分が既に信じているところのものを改めて確信するという、書き手だけが識《し》っているあの深い陶酔にひたったのであった。  こうしてパリへの旅は、東京に帰った時から始まった。サンルイ島へは実際には二度だけ足を運んだのにすぎないが、頭の中で二十回も三十回も、あの曲りくねった白い通りを私はさまよい歩いた。パリの中心にあって、そこだけエアポケットのように、妙にしんとした人気のない石畳には、緑色をおびた初夏の透明な陽光が射していた。不思議な寂しい光景である。  あるいは、日が落ちかかってから、すっかり夜になるまでの、あの長い夕暮れ時。何もかもが濃いインクのブルーに染まっていた六月のパリの宵《よい》の美しい顔。  大体私のような年齢になると、感動のあまり泣きたくなるような光景に出逢うことが、あまりない。何かが確実にしぼんでしまったので、感動をふるいたたせる為には、他の助けが是非とも必要になる。よく、この光景を好きな男性《ひと》とともに眺められたら、と溜息《ためいき》をつくのは、その証拠だ。そうしたら、同じ光景が濡《ぬ》れたようにきらめき輝きだすことだろう。  いつだったか、ミクロネシアの島のひとつから、サンセットを眺めたことがあった。何人かの人たちが、日本からはるばるきた女の小説家《オーサレス》のために、サンセット・ワインパーティーと称して集まってくれた。ワインはカリフォルニア産の白であった。  陽はゆっくりと傾いていった。紙コップにぶっかき氷を投げこんで、白ワインを注ぐという乱暴なワインパーティーだった。  気がつくと真白い紙コップが、紫色に染まっていた。いつのまにか濃くたちこめた亜熱帯の空気も、薄紫色になっていた。雲ひとつない空は、蒼味《あおみ》の強い紫色。ミクロネシアのその島の夕焼けの色は、神秘的な紫のヴァリエーションで展開していったのである。  褐色の肌をして髪のちぢれた島の人の間でさえも、思わず歓声が上がった。みごとなサンセットだった。  けれどもその時私は、もしかしたら私たちは誰一人同じものを見ていないのかもしれない、という思いにかられていたたまれなかった。その思いは人を孤独にさせる。  手を伸ばせばお互いに触れる距離におりながら、同じ方角を向いているにもかかわらず、別々のものを見ているのかもしれないと考えると、忙しい都会にいる時にはうっかりと見過してしまっている一抹の寂しさが吹きぬけていく。じっと耳をすませると、波の音に混じって、過ぎていく刻《とき》の音のようなものが、ざわざわと聞こえてきそうな差し迫った一瞬があった。  そうした孤独へ傾いていく心を抱えていると、視線が透明に澄んでいくのがわかる。  すっかり太陽が沈みきると、ミクロネシアの海は、紫色の輪郭だけになり、潮の匂いの強い風が吹き始めた。私たちは再び言葉を取り戻し、お喋りしながら氷で薄まってしまったワインを喉に流しこんだ。  夜が一気に落ちてきた。島の夜は、想像を絶する暗闇の底にあった。月や星たちはまだ姿を見せていなかった。強い潮の匂いと、ブーゲンビリアに似た赫《あか》い花の微かに甘い匂いだけがしていた。人々の低い呟《つぶや》きは、濃い闇の中に吸いこまれて、非常に遠く、かと思うと耳のすぐそばで聞こえた。  私には何ひとつ見分けられなかったが、島のひとたちはこの闇になれているらしく、私の紙コップにワインが注がれた。  誰かが私の腕にそっと手をかけて、月の出を知らせてくれた。  月が出ると、それまで闇の中で味を失っていたワインが再びふくいくと口の中で香りだした。その時私は、突然幸せだという温かい感覚に身を委ねた。  好きな男が傍にいたわけではなかった。ほとんど初対面の見知らぬ、しかし善意の人々に囲まれて、非常に孤独だと感じると同時に、その孤独が肉体的に快かったのである。  なぜか。心が軽いのである。寂しいと思うのと同時に、どこかほっとするものがあった。解放されていたのだ。何からか?  重荷という感覚から、解放されていたのである。  もし傍に夫なり、私の子どもたちなり、私が日頃大事に思い愛している人の存在がいたとすれば、日没とそれに続く夜の感動を共有できたかもしれない。けれども、それはどうしようもなく一種の重荷なのだ。自分にとって大切な存在であればあるほど、重荷は圧迫感となる。その関係を守り、慈しむということは、私の存在そのものをおしつぶすほど大きく私にのしかかってくるからである。  人は誰でもそうした愛する重荷を抱えて生きている。それは妻であったり、夫であったり、子どもたち、恋人、絵、宝石などであったりする。守りの姿勢に否応なく立たされた時、人はなんと無防備に見えることか。  ミクロネシアの島で、私は天涯孤独だと感じることで、その種の重荷から束の間、解放されたのである。  十年ほど前の年末から年始にかけて、ロンドンで過したことがある。  その時は折悪く、炭鉱労働者のストライキの最中で、イギリス中が節電節エネルギーで、ひっそりと薄暗く、それにおそろしく寒かった。  イギリスの冬は日照時間が極端に少ない。九時にようやく夜が明けて、四時には再び夜が始まる。その上、十月から二月にかけての冬期は月の半分は寒々と雨が降る。雨が降らなければ晴れるかと言えば、決してそうではなく鉛色の陰鬱たる空模様が蜒々と続く。そして霧がでる。  ロンドンの冬に出る霧は実に惨めだ。  トラファルガー広場のニューイヤーズ・イヴの群集を見ようと出かけて行った帰り、タクシーが拾えなくて、ケンジントンのホテルまで約六・七キロの道のりを歩いて帰った。三分の一を行った頃から、ゴーストめいた霧がどこからともなく湧《わ》きだし、車や三々五々と帰っていく夥しい人間たちをたちまち呑みこんでしまった。  真夜中をとっくに過ぎて、気温はマイナス十度以下だったろう。東京の二月に吹くカラっ風の身を切るようなウソ寒さも、相当なものだが、厳冬のロンドンの霧の惨めさには遠く及ばない。背中の生毛が逆立つような一種オカルト的な寒さである。  白い冷えきった湿った指が、首や袖口やスカートの裾《すそ》から容赦なく忍び入る。乳白色の冷気は、咳《せ》きこむほど濃密で、五分とたたないうちに、髪は湿り気を帯び、ウールのコートも水分を含んで肩に重くのしかかる。  ところどころに滞っているとりわけ濃い霧の吹き溜《だま》りに、足を突っこんだが最後、乳色の冷気に窒息させられそうになる。霧に殺される、そんな思いが脳裡《のうり》を一瞬走った。  私と夫は、おし黙って歩き続けた。喋ると口の中まで冷たい霧が流れこんでくるからだ。とうていホテルまで帰り着けないのではと思うほど、道のりは絶望的に長かった。行きはタクシーでせいぜい十五分の距離だと思ったのに。私たちはどこか異次元の世界にさまよいこんでしまったのではないか。  とうとう見憶えのあるホテルの灯が視界に入った時、思わず涙が溢《あふ》れた。節電で暖房が弱かったのにもかかわらず、そこは天国のように暖かく、光に溢れ、何もかもが乾燥していた。ほっとして、私たちはしなくてもいい口喧嘩《くちげんか》をひとつして、ベッドの端と端に大きく別れて眠った。この体験を下じきにして書いたのが二作目の小説『誘惑』である。  湿気が多くて寒さが厳しいというのは、日本人にはこたえる。石やれんが造りの建物の中は、ただでさえ底冷えがするというのに、エネルギーの節約で暖房も極端にきかなかった。ホテルやレストランで、オーヴァーの衿《えり》をたて、マフラーに顎《あご》を埋め、足ぶみしながら食事をする旅行者の姿が目立った。しかも昼なお暗い鉛色の空の下の更に薄暗い建物の中だ。皿の中に鼻をつっこむようにしなければ、かの有名なドーヴァー・ソールの巨大な骨と身の部分とを上手《うま》く切り離せない。日照時間内は極力電気の使用をひかえるようにというお上の提案(命令では決してないのである)に対して、国民の全てが忠実なのであった。  元旦未明のホテルルームにおける夫との小さな口論が、意外に大きく胸に巣喰《すく》っていて、その憂鬱《ゆううつ》から解放されない。デパートで買い物でもして気を紛らわせようと、モダンな黒光りするビルの中へ入ったが、肝心のドレスの色が黒だか紺だか茶色だか、どう眼を近づけてもわからない。買い物で心の憂さを晴らすのにも失敗した私の眼に、大英博物館が乳色の濃い霧に半ばおおわれ、近づきがたく寒々と映った。  旅の身空で暗澹《あんたん》として途方に暮れていては、芸術的・文化的探索の意欲は、ゼロである。くるりと背をむけて歩み去った。  レンタカーを借りて、郊外の景色でも眺めて気を晴らそうじゃないか、と夫が借りて来た車も、節エネルギーのあおりを受けてガソリンが買えない。バンパーを思いきり蹴《け》とばして、何のことはない痛んだのは爪先《つまさき》と自分の靴だけで、やけくそになった夫はホテルルームのベッドにもぐりこみふて寝をきめこむ。  東京はなんと住み良き都会であるか、と日頃は悪口ばかりがたえなかったのを棚に上げ、ひたすら逃げ帰りたい思いがつのり、ここでようやく夫婦の思いが一致し、出発までの時間をうつらうつらと眠ってばかりいた。  ロンドンで一番良かったのはどこだった? と、帰国して聞かれるごとに、首をひねっては考え、結局、ホテルのベッドの中でしたと、それはまあ事実であったのでそう答えると、おや、まあ、第二のハネムーンね、と私と夫を交互に見くらべてニヤニヤなさる。ああそういう手もあったのか、と気がついても、これは後の祭り。  二度目のロンドンは、最初の体験に懲りて、初夏であった。  大英博物館の前庭は、芝が青々と刈りこまれ、花が咲き小鳥が遊んでいた。  観光バスがたえまなく横づけすると、色々な顔色の人たちがゾロゾロと降りてきては、列をなして一八五二年、ロバート・スマーク卿の設計になる古代ギリシャ風の石造建築物の中に消えていく。  寒くもなく暑くもなく、空気は乾いていて、ロンドン市内中到るところでアゼリアやゼラニュウム、レイディ・ランドラムといった花々の、うっとりするような濃密な香りで溢れ、私は楽しかった。ああイギリスの夏がこれほどまでに美しいのは、あの長くて暗い惨めな霧と酷寒の陰鬱な日々があるからこそなのだ、と自然の公平な摂理に胸を打たれた。  さて十年前とロンドンは違っていただろうか。  確かにポンドは当時の六百円台から、その夏は四百円台に下がっていた。ロンドンの街には移民労働者の数が眼に見えて目立ち、正当な英語を耳にする機会はめっきりと減った。レストランのウェイターも、ホテルの従業員も、デパートの店員も、イタリア人だったり、アジア系だったり、黒人だったりした。その黒人の姿が特に増えているような気がした。  ヒースロー空港の税関には、インドからの旅行者(ほとんどはそのまま居ついてしまうらしいのだが)専用の窓口が二つも設けられ、着のみ着のままの痩《や》せた人々がぎっしりと長い列を作っていた。誰もかれもが風呂敷《ふろしき》包みのようなものをひとつかふたつ手にさげ、放心したように虚《うつ》ろな瞳で、黙々と列に連なっていた。それは黒い羊の群を、私に思わせた。  ろくに英語を喋れない人、中には全く喋れないばかりか、その場にいる通訳さえもお手上げのインド語(無数にある)で、税関の役人を手こずらせる者と様々で、列は遅々として進まない。  日に一便か二便、インドからの旅行者(というか移住者)を満載してインド航空の飛行機が着くと、繰り返される同じ光景。この夥しい人々は、どこへ行くのであろうか。聞くところによると、帰りの航空費用を持ち合わせない人たちだ。片道切符だけようやく手に入れて、やって来た人々だ。おそらくは飢えから逃れて。  イギリスは、こういった人々を、渋々ながら受け入れて、渋々ながら養っている。養っているのは、国民の税金でだ。かつて大英帝国の名をほしいままにして、支配下においたインドが、今、こうした形でリヴェンジを行なっているとは言えないだろうか。何しろ彼らはイギリスのパスポートを所有しているのだから。  あの夥しいヒースロー空港のインド人たちは、どこへ消えていくのだろう? 表面だっては、インド人の姿はなかった。きっと台所の奥で、あるいは朝まだ人々が眠りから目覚めない時刻の歩道で、ゴミ処理車の陰で、そうした人々は細々と暮らしているのだろう。  イギリスは少しずつ変化していく。ジョン・レノンは今はいないし、有名なドーチェスター・ホテルもアラブの石油王の手中に落ちたと聞く。  女の指導者は女王一人《エリザベス》でたくさんだと、パブでおおかたの男たちは呟くが、|鉄の淑女《アイアン・レデイ》サッチャー首相には誰しもが一目置いている。男の尊厳に、どこの国の男たちよりもはるかにこだわるイギリス男たちが、である。  インドをはじめとする夥しい移民たちに対しても、彼らは顔を曇らせはするが、両手を拡げて拒絶はしない。両手を腰の後ろで組み、わずかにうちひしがれたような肩を見せ視線を落としている。それがイギリスの男たちの共通した姿である。何かに耐えている、というような気がしないでもない。  十年前の節エネルギーの際に、イギリス中の人々が黙してそれに従ったように、彼らは実にしぶとく忍耐強い国民なのである。そうした生活感は、個人の自由と尊厳とを尊ぶ人間主義からくる。したたかなのである。  今日、英国の危機が叫ばれているが、つい最近のチャールズ皇太子の結婚式に見るように、イギリスという国は底深く豊かなのだ。その思いは、イギリス人の一人一人を眺めるごとに、確信にまで高まっていく。英国の威信は落ちることなど、ありえない。それらは、国民一人一人の胸の上で、輝いているのだから。  台風の翌朝  台風二〇号が上陸した翌日の早朝、家族のものと三浦《みうら》半島の突端にある、夫が�風の家�と名づけた週末の家に来ていた。幸い建物は無事だった。  さすがに今朝は釣り人の姿なども見えず、磯《いそ》はひっそりとしている。右手にはるかに続く湘南《しようなん》の湾曲した海岸線に沿って、狼煙《のろし》のような煙がいくつもあがっている。昨日打ち上げられた夥《おびただ》しい船の残骸や漂流物の山を、さっそく燃やしているのだろう。その青紫色の煙は、切りこむように高い秋の空に向って、まっすぐに長閑《のどか》に立ち昇っていく。  一ノットの風すら今はないのに、海上だけは無気味な暗緑色の獣のようにうねっている。一枚ののたうつ絨毯《じゆうたん》みたいな大きな皺《しわ》が海面に無数により、陸と接するところで白く泡立つ牙《きば》をむいている。船影ひとつ無い。光の粒子が透明感を増しており、日射しは既に秋のものだった。  朝食の後、夫と三人の娘たちと連れだって磯へ流木を集めに出た。寒くなったら暖炉で燃やすために、週末毎の習慣だ。板切れや船体の一部、マストの折れたものなど、台風の後は収穫が多い。無心に集めている耳に、遠くの岩場に砕ける高波の音が聴えてくる。  ふいに夫が作業の手を止めて、細めた眼を海上のうねりに注いだ。 「あそこに張りだしている大きな岩があるだろう?」と彼は三人の娘たちに語りかけた。流れ着いた板切れのことなどとっくに忘れて、貝殻《かいがら》集めの方に夢中になっている娘たちが顔を上げる。 「岩の下で波が渦巻いているのが見えるね? 台風の後はあそこへは絶対に近づいてはいけない。約束だよ、いいね?」  娘たちは口々に、約束するわ、と言い、拳《こぶし》ほどもある巻貝を見つけると、先を争ってそれを耳に押しあて、海鳴りの音を聴こうとする。  若い女は、青いビキニの腰に、ポリネシアンのように色の鮮やかな布を巻いていた。男はアメリカ人であった。婚約をしたばかりで、その週末をM氏の別荘の客として過すためにきていたという。今日と同様に台風の翌日で、海上のうねりだけが高かった。  二人は迫りだした岩の突端に寄り添って腰をかけ、日没を待っていた。足のはるか下には、波が渦を巻いていた。私と夫は海岸線に沿って長い散歩の途中、陽気な恋人たちを見かけて、あとで夕食前の一杯でも飲みに、立ち寄らないか、と誘って別れてきた直後のことであった。もう一度さよならと手を上げて振りむいた時には、二人の姿は岩の上から掻《か》き消えていた。岩肌が黒々と潮水に洗われているのが、目の底に残った。 「そんなに凄《すご》い高波なんて、ぜんぜん来ないじゃないの」と夫の話を聞いて娘の一人が言った。 「時々、信じられないくらいのが、くるんだよ」と、夫が説明した。二十七回に一度二倍の高さの波が、千何百回に一度三倍の波がくるのだと教え、「多分、運悪くその千何百回目の高波が襲ったのだと思うよ」と言った。  それを聞くと彼女たちは声をそろえて波を数え始めた。二十五回目に、明らかにそれまでより高いうねりがきて、突き出した岩に砕けて飛沫《ひまつ》が上がった。夫は、数え始めがずれたんだね、と言い、娘たちは再び最初から数え直す。  二人が高波に攫《さら》われ海中に落ちたことを知るとすぐ、私は消防署に電話をかけに走り、夫はゴムボートと加勢を探しに駆けだした。  私が戻った時には既に、夫はもう一人の男と海上に出ていた。その青いちっぽけなゴムボートと、波間に見え隠れしている二つの小さな頭との距離は絶望的に見え、軽いボートは波に逆らって少し進んではその倍も逆戻りするといったことを再三繰り返し、溺《おぼ》れている二人には永久に近づけそうにも思えなかった。  若い女はとっくに波と闘うことを止めてしまっていた。男は恋人が高波に連れ去られないよう掴《つか》まえているだけで精一杯だった。手を離してしまえば、彼だけは絶対に助かるのに、男は決して女を置き去りにしようとしないのだった。  気の遠くなるような悪戦苦闘の末、ゴムボートが岩場に到着し、二人はひき上げられた。それを見て、いつのまにか集まってきた大勢の人々の間から拍手と歓声が上がった。  ボートが磯の中に滑りこんでくると、助けた者も助けられた者も、砂の上に横たえられた。アメリカ人には意識があり、潮水を吐き出させて毛布でくるんだ。女の方はあまり水を吐かなかった。すぐに人工呼吸が行なわれた。志願したのは、やはりこのあたりの別荘を訪ねている客の一人だった。彼は口と口を合わせて息をふきこむ方法を繰り返した。顔や首筋に見るまに汗が流れ落ちていくが、女には何の変化も表われない。私の傍で夫がずぶ濡《ぬ》れの衣服の上から毛布を被り、興奮と寒さと疲労とで歯の根も合わないほど震えながら、「違うんじゃないか。そうじゃないよ」と一人言のように呟《つぶや》くのを聞いた。  しかし彼には人工呼吸を施すだけの体力は残っていなかったし、たとえやれたとしても、彼の思う方法が絶対に確かだという自信もないようだった。それに方法論で議論している余裕などなかった。息をふきこみ続ける男の姿は、痛々しいほど真剣なのであった。  やっと消防団員が到着した。解放されると彼は力尽きて砂の上にまるで死人のように倒れ込んだ。専門家のやり方は、夫が小声で主張したのと同じ方法であった。その作業もやがて打ち切られた。人々の足元で半裸の若い女が、まったくふいにひとまわり縮んで小さくなったように見え、その瞬間、私は彼女が完全に自分たちとは別のものになってしまったのを、感じた。  あれから七年が経った。  夫は再び流木の上に絡みついている濡れた海草を取り除く作業を始めている。 「あなた知っている?」と私はちょっと陽気すぎる声で話しかけた。「人命救助をした人はね、もし何かで罪を犯すようなことがあっても、罰が一階級だけ軽くなるんですって。例えば、死刑だったら無期になるって、どこかで読んだわ」  夫は、知らなかったよ、と言って、海草をすっかり取り除いた流木を肩に担ぎあげた。 「でも、憶えておくよ」  娘たちの波を数える声が、まだ続いている。  抱きしめる  三年ほど前になるが、夫から「きみにとって現在《いま》いちばんたいせつなものはなにか」といきなり問われたことがあった。小説を書き始めて間もないころだった。  夫の質問の意図をとっさに計りかねて、上の空に「書くことかしら」と答えた。とにかく原稿用紙に文字を埋めていく作業にひどく気を奪われていた日々だ。  夫は黙っていた。私は説明がたりないのだと思った。「つまり、どう書くかとか文体がどうとかいう以前に、なにを書くべきかということなのだけど——」  彼は急に私から顔を背けて、暗い失望の眼をした。私は自分がなにか取りかえしのつかないことを口走ってしまったような気がして、口をつぐんだ。 「ぼくはね、きみが、子どもたちと答えるのを期待していたんだけどね」と沈んだ声で夫は言った。  その沈んだ声の調子は、それ以来、私の耳の底に残り続けて、ときどき仕事にかまけたり、締切りで苛立《いらだ》って家庭のなかがぎくしゃくとしてくると、ただちに警鐘のように鳴り響くのだった。  以前にも、こんなことがあった。 「近ごろ上の娘《こ》を抱きしめてやったことはあるのか」と、夫が不意に訊《き》いたときのことだ。 「だってもう私よりからだが大きいんですもの」と、痛いところを突かれて、私は笑いにごまかそうとした。 「ナンセンス」と、彼は容赦なかった。「じゃ訊くけど、きみが最後にあの子をしっかりと抱きしめてやったのは、いつのことかね?」 「そんな。——いちいち覚えていないわ」  長女の声のない動物のような眼の色が思い浮んだ。 「きみが覚えていられないのは、そういうことが絶えて久しくないからさ。違うかい」  それは事実だったので、私は狼狽《うろた》え、あまりの痛みにかっとして言い返した。 「私たち日本人にはね、大きくなった子どもを抱きしめてやる習慣がないのよ」 「だったら、いまからでもきみがその習慣を作ったらどうかね」  夫はひややかに言った。  ええ、そうするわ、そう努力するわ、と答えるかわりに、できないわ、と私は呟いていた。 「できないのよ。なぜかと言うと、私自身、私の母から一度も抱きしめてもらったことがないから」  そして私は絶句した。  言葉が続かなかったのは、私自身が長女の年齢のころ、どれだけ母親の優しい言葉を求め、どれだけ母の愛に——具体的に示される愛に飢えていたかを、そして求めてもあたえられぬ切なさの数々を、突然に思いだしたからだった。 「少なくともきみは、きみのお母さんに抱きしめて欲しいと、願ったことはあるわけだ」  夫は口調を和らげた。 「それなら、あの子のいまの気持は、理解できるね」  ひとはいくつになったって、自分の愛するひとの胸にしっかりと抱きしめてほしいと願うものだ。五歳の少女だって十四歳だってその思いは同じだ。現に私の年齢になってさえ、しばしば夫の胸に顔を寄せ、夫の手が背や肩にそっとかかるだけで、どれほど慰められてきたことか。ひとつの仕事の区切りに、あるいは何日も何日も一行も書けずに自らの胸を泡立たせているときに、夫が私を引き寄せて、小さな子どもを慰めるようにゆすってくれることで、心が安らいできたではないか。  私は自分が猫に似ていると、ときどき思うことがある。猫の母親というのは、子猫たちが赤ん坊のあいだは非常に母性的だ。文字どおり嘗《な》めながら育てる。  それがある時期にくると、掌を返したように冷たくなる。母猫を求めてしきりに擦《す》り寄ってくる小猫を、ひどく邪険にあつかう。時には苛立って、本気で噛《か》みついて追い払ったりする。それは子猫たちをひとりだちさせるための母猫の本能なのだろうが、ひとたび小猫たちに興味を失った母猫のようすを見ると、私自身のもっとも嫌なところをみせつけられるような気がして、身がすくむ。  母性とはなにかと考えるにつけて、私自身の母を思う。母性の薄い女《ひと》だった。母親であるよりも、妻であるよりも、ひとりの女性《おんな》であった。つまり、私の母もまた、猫のようなひとだった。  子ども心に、母のようにはなるまいと何度誓ったことか。少なくとも母のように、自分の子どもたちを育てまい、母が私にしてくれなかった全てのことを、私は自分の子どもたちにしてあげるのだと、何百回幼い心に言いきかせてきたことか。  それなのにいまの私はどうだ。かつての母そっくりの口調で物を言い、母と同じ仕種《しぐさ》をし、同じ眼つきをしている。あれだけ逃れようとしたものに、遠ざかろうとすればするほど、後退ろうとすればするほど、逆に近づいていってしまうもどかしさ、口惜しさ。急流に逆らって泳いでも、結局、流れに押しもどされてしまうのに似ている。私を押し流すのは、自分のなかに流れている母の血だろうか。  血のせいにしてしまえば事はかんたんなように思える。だが、そうではないような気がしてならない。母性は、もしかしたら血のつながりや遺伝や、ましてや女が生れながらにもっているものではなく、まさに、学習なのではないか、と、ふとそんな思いがする。  私が昔の母とそっくり同じように喋《しやべ》り、同じ仕種をするのは、そのせいだ。お手本を、好むと好まざるとにかかわらず、見習っているのにすぎない。  そう考えたとき、私ははじめて母を許せる気になった。長い年月の確執がほぐれていくのを感じた。私が母から学習したことは、そのまま私の母がその母から学習したことだったのだ。裏返せば、真の母性のなんであるかを学びえなかった私の母は、私にそれを伝えることができなかった。母もまた、私同様、わが子にどうやって愛情を示してよいかわからなかったのだ。  私の娘たちが母親にしっかり抱きしめてもらった少女時代の記憶をもたずに、確執を胸の内に閉じこめ、将来、私と同じように私の孫たちに対応するのかと思うと、身がなえるような絶望感に襲われる。つまり私は愛情の表現をするのにひどく照れてしまうし、だいいち、それを表現するのが非常にへたなのである。  私にも六年間だけだが、子育てに専念した時期があった。子どもを育てながらなにをやっても、結局、全てが中途半端になるのは目に見えていたから、それならいっそ、徹底的になにもしないことだと、三浦の人気のない海辺に移り住んでしまった。海と砂浜と球形の空以外、なにもないところだった。夏以外は、ほとんどひとも訪れない。しばしば風が吹き、いったん吹きだすと、三日も四日も吹き続けることがよくあった。そんな日は、家に閉じこもって、潮で粉を吹いたようになっている窓から、海上の無数の白浪を眺めて過した。三人の娘たちは、家中玩具箱をひっくり返したようななかで、黙々と遊んだ。いつも、少しは相手をしてやるのだが、私はすぐに飽きてしまって、退屈のあまり死にそうになった。そうすると私は娘たちの傍らで本を読んだ。  風の吹かない天気の良い日には、サンドイッチやおにぎりをバスケットに入れて、すぐ下の砂浜へ降りていき、そこで夕方近くまで過した。娘たちが磯の水溜《みずたま》りの中で小がにや磯巾着《いそぎんちやく》や小さな巻貝と遊んでいるのを眺めるのに飽きると、私は砂の上にはらばいになって、肩や背中に太陽を浴びながら、ひたすら本のつづきを読みふけった。あの六年のあいだ、一日一冊の割で、本を読んだ。  私が子育てという言葉でまず思いだすのは、日射しのなかの砂浜と、磯の水溜りと、そこで遊ぶ幼い三人の娘たちの声と、そしてめくり続けた膨大な本のページのことである。  私が育児において気を配った唯一のことは、彼女たちがつねに安全であるかどうかということだけで、あとは食事をあたえること、清潔にしておくことくらいのものだろうか。  ひとつのものを取りあって幼い娘たちが喧嘩《けんか》をすることがあっても——むろんそういうことはじつにたびたびあったが——よほどのことがないかぎり、いちいち親が口をださない。そうするとしぜんに彼女たちのあいだに秩序が生れ、喧嘩をしてもシコリが残らないし、彼女たちなりに納得するようだった。  三人もお子さんがいてたいへんね、とよくひとさまから言われたが、たいへんだと思ったことはただの一度もない。それどころか一日に一冊本が読めますと答えると、だれも信じられないといった顔をするか、よほどの放任主義だろうと思うらしかった。  教育ママのツメのアカでも煎《せん》じて飲ましていただかねばならないような私にも、一度だけ長女にヴァイオリンを習わせてみようと思ったことがある。自分自身が六歳のときから習い始めて二十二歳までやり、結局それで身を立て得なかったのはスタートが遅かったからと、身をもって悔いた体験があったから、私の夢をおろかにも長女に託してみたのである。  ヴァイオリンだけではなく、たいていの音楽はそうであるが、六歳のスタートでは遅い。絶対音感というものがあって、それが身につくのは二歳から五歳のあいだまでだけである。  母親はぜったいに自分の子の教師にはなれないと思っていたから、芸大時代の友人にレッスンをみてもらうために、三浦のはずれから東京まで週に一回子どもたちを連れて通いだした。  レッスンは友人にお願いしたが、毎日の練習は嫌でも私がみてやらねばならない。他のことなら放任でやりすごせたのに、ことヴァイオリンとなると自分でも不思議なくらいすぐに感情的になる。  やれ音が低すぎるの高すぎるの、姿勢が悪い、弓のもち方が違うと、欠点にばかり目がいき、三歳の幼女を相手に形相もすさまじく叱咤《しつた》につぐ叱咤。  これではいけないとすぐに反省をするのだが、ものの一分ももたない。何度いったらわかるんです、その音、違うでしょ、と声が高くなる。娘がベソをかく。涙をみると哀れなのと口惜しいのとで、私はますます混乱してしまい、苛々がエスカレートしていく。違う、違う、その音は違う、とついに手がでる。ああ、私の父は一度も私を打たなかったのに、と私自身の少女時代の練習の日々が瞼《まぶた》によみがえる。  冬の朝、学校へいく前の三十分を、凍えた指に息を吹きかけながら練習していると、父は時々起きてきて練習を見守った。音が低かったり音程が外れても、ぐっとこらえて、急所だけ注意する。そして最後に、よく奏《ひ》けた、と私の頭に手を置いた。その、よく奏けたの一言の重味。どれだけ心の支えになってきたことか。  誉《ほ》めてやることが、実際にはどんなにむずかしいことかを知って、ガクゼンとした。誉めてやりようがないのなら、せめて口うるさく言うまいと、小言を腹に収めると、今度は私自身が胃ケイレンを起した。  結局、ノイローゼのようになり、私もそうだが三歳の娘もくたくたになる。ヴァイオリンの練習というよりは、戦場のようになる。とうとう見かねて夫が「止めてくれ」と言った。「きみたち二人を見ていると、つらくてやりきれない。どうしてもっと楽しくリラックスしてやれないのか、音楽とは元来そういうものじゃないか。きみのやり方は、まるで音楽とは苦しいことだと、教えているようなものだ。ぼくの娘にそんなことを教えこむのは止めてくれ」  それきりであった。わたしは完敗した。  それでコリたので、ケイコごとと称するものから娘たちをいっさい遠ざけてしまった。ピアノもバレエもお絵描きも。  夫は、そんな私をファナティックだと非難したが、習いごとというのは、そういうものだと私は思っている。徹底的にやるか、さもなければ、ぜんぜんやらないことだ。小さな女の子たちに趣味でバレエや音楽を習わせるのは嫌だ。週に一度のレッスンまで、家で数回ケイコするだけでは、なにも学べない。ピアノの前にすわって、三十分指を動かしたって、ものにはならない。全てのひとに専門家になれというのではないが、何事も、ある時期必死になってケイコしなければ、なにひとつ身になぞつかない。身につかないと知ってレッスンに通わせるのはまったくお金の無駄遣いにすぎないと思っている。  ケイコごとに見切りをつけた私は、ふたたび放任育児にもどった。  上の娘が小学校へはいるようになると、私たち一家は、広尾《ひろお》のインターナショナル・スクールの近くに移り住むようになり、海辺の家は週末の家と変った。娘たちがつぎつぎに学校へ通いだし、気がつくと一日の大半を私はひとりで過すようになっていた。三十三歳のときだ。  さて、本でも読むか、時間は余るほどあるのだから、と自分を嗾《けしか》けるようにして、一冊手にとるが、目は同じ行の上を上下するだけでいっこうに文字が意味をなさない。とつぜん、読書にうんざりしている自分を発見する。  ではなにをするのだと問いかけてもなにもない。私のなかにぽっかりと口をあけた空洞。その暗さ、そのせつなさ。まるで宇宙のブラック・ホールをひとつ自分のなかにかかえこんでいるような感じだった。  二年間というもの、うつうつと己れの内部ばかり見据えてすごした。三十五歳のとき、だしぬけに、書きたい、と私は感じた。そして小説を生れてはじめて書きだした。それが『情事』という小説になり、すばる文学賞を受けた。以来、なぜか私は小説を書き続けている。  考えてみると子育てという時間は、案外あっけなくすぎてしまった。私は前述のとおり、勝手に育っていく娘たちの傍で本ばかり読んでいたような母親だから、ほんとうは育児についてなど語る資格はない。子育てにあたったのは、むしろ夫のほうだった。食卓につく前に、手や顔を洗い髪にブラシをあてることを教えこんだのも夫だし、「そのお塩とって」というのではだめで、「|どうぞ《プリーズ》、お塩をとってください」と口をすっぱくして言いなおさせたのも彼だった。口のきけないものや、動物、植物をいたわることをしんぼう強く教え、もし自分自身に分けるものがあるならそれを分けあうことを、彼はクリスマスの夕食に、日本に身寄りのない老外国人英語教師だとか、夫に先立たれて孤独な米国人の老婦人だとか、家族から遠く離れてひとりぽっちの留学生だとかを招待することで、娘たちの心にしぜんに教えこんだ。  私の母親失格にはとうの昔に諦《あきら》めがついてはいるらしいが、それでもときどきみかねてあれこれ指図する。  とくにみだしなみという点ではひと一倍うるさくて、家にいるときはいいのだが、夫といっしょの外出というときなど三人の娘と私は玄関先にズラリと並ばされて、頭の先から靴の先まで、細かくチェックを受ける。  それでも長女が私より背が高くなりかけたころから、形勢が少し変ってきた。 「あの娘にいま必要なのは母親じゃないよ、話しあえる友だちなんだ」  ぼくの役目は終ったのさ、と彼はつくづくと言った。もうあの子のお尻《しり》をいちいち叩《たた》くわけにもいくまい。彼女の友だちになってやれるのは、きみしかいないじゃないか、と夫は私に十四歳の娘をいきなりバトンタッチしてよこした。  その娘が先夜はじめてのダンスパーティーに出かけていった。最初だというので、無器用な母親はできるだけロマンチックなドレスをふんぱつして買いあたえたのに、見むきもしない。けっきょくジーンズとビエラのシャツというカウボーイのようなかっこうで出かけてしまった。あの頑固さは断じて父親譲りである。あんな色気のないかっこうで男の子にもてるわけがないと心配したり、いやいや、まだ子どもだもの、へたにもてないほうがいいのだ、と納得したり、私としては役に立たなかった娘のドレスを眺めながらじつに複雑な思いを味合わされた。  ところが九時に帰ると言ったのに十時になってももどらない。学校に電話をしたら、もうみんな帰ったという。あれだけまっすぐにもどるのよと伝えたのだから、もしやと不安になった。夫は仕事で帰宅していなかった。彼からバトンタッチされたばかりの矢先である。娘に万が一のことが起ると、夫に申しわけが立たない。  家で電話が鳴るのが待ち切れず、冬の夜道を最寄りの駅へと急いだ。数台電車が空しくすぎるのを待つあいだに不安やら怒りやらで気分が悪くなった。顔を見たら、いきなり怒鳴りつけてやろうと、寒さもあってガタガタと震えながら、待った。  三十分も待ったろうか。後ろからポンと肩を叩かれた。びっくりしてとびあがると、娘がニコニコ笑っている。 「なにしてるのよ、ママ。あんまり帰りが遅いんで心配して迎えにきてあげたのよ」と、こっちの科白《せりふ》を言った。 「あなたこそどうしたの」 「友だちのパパの車で送ってもらったの。何軒もまわったから遅くなっちゃった。ごめん」  そう言って、彼女は上のほうから私をみおろしてニヤリと笑い、私の肩に自分の手をそっと置いた。やれやれ。  それにしても、こっちの科白を先廻りして言って機先を制するやり方といい、上のほうから見おろす眼つきといい、私の肩に置かれた手の感触といい、彼女はなんと夫に似ていることだろう。そう、母性は学習するものだという私の考えはやはり正しかったのだ。彼女はそれをなんと父親から学びとったというわけだ。  僕の方から電話するよ  パーティーの会場に一歩足を踏み入れたその瞬間から、女の触覚は男の存在を探りあてていた。  ヒサオは、マントルピースの前で、イングリッシュ・オーヴァルスの白い箱を片手で軽くもてあそんでいる。右手にウイスキーのオンザロック。例によって気に入っている方の横顔が女たちの眼につくようにポーズをとって。  華やかに着飾った人々が彼を囲む。彼女は遠くの方で円を描くように、ヒサオの周囲をゆっくりと旋回する。美しいが怯《おび》えた一匹の鮫《さめ》のように。円を次第に狭めながら。会話がきこえてくる。 「それがさ、時化《しけ》でね、クルージングは中止なのさ」 「じゃこの週末、あなたどこにいたの」 「だから油壺《あぶらつぼ》」 「あれ、時化じゃなかったのかい?」 「油壺の停泊したヨットのキャビンの中さ」 「一歩も外へ出ず?」 「うん、一歩も外へ出ず」 「まあ、ヒサオ、お安くないわよ、女の子と二人きりだったんでしょう」 「ご想像にまかせるよ」 「つまり、快楽の大海原へクルージングというわけだ。何がスポーティブ・ライフだよ」 「そうひがみなさんな。もっともあれだって一種のスポーツだと、僕は思うけどね」 「汗して励むという意味? ふふふ、それならセックスも立派なスポーツだわね」  陽気な笑い声。  彼女は、グループの外側で立ち止まる。ヒサオがまちがっても見逃せない位置に、ひっそりと立つ。週末の新しい相手の女は、誰《だれ》だろうかと考えながら。一月前までは、自分だった。  ヒサオが三か月周期で情事の相手を替えることは、知れ渡った話だった。初めから、確実に別れが三月後に訪れると知っての遊びだった。遊びのつもりだった。そしてヒサオは別れ方に堪能《たんのう》していた。どの女もみんな笑って別れていったよ、と彼は最後に言った。だからその後もずっと友だちでいられるんだ。  別れた後など友だちでいられなくてもいいのよ、別れたくないの、と言おうとしたら、彼が先に言った。この三か月とても楽しかったよ、ありがとう。君は、楽しかった?  あの日々を楽しいと呼ぶのだろうかと、女は一瞬ちゅうちょした。出逢《であ》った時から別れを恐れてばかりいた日々。だが目眩《めくるめ》くような恋の日々。苦痛に満ちて、そして震えだすほど甘美だった日々。楽しくなかった、と答えれば嘘《うそ》になる。  ええ、と彼女はうなだれた。ええ、楽しかった。  じゃこれでいいね。そう言ってヒサオは彼女の肩にそっと右手を置いた。その感触の希薄さが女をたじろがせた。あれほど親密で、官能に燃え上がった熱い手が、今、何の情熱もこめられずに、肩に触れて、そして不意に離れた。  でも又、逢《あ》えるんでしょう? と、彼女がか細い悲鳴のような声で訊《き》いた時、ヒサオは晴れやかに笑って、こう答えた。うん、僕の方から電話するよ。  だから、待った。彼の方から電話すると言ったのだから、ひたすら待つしかなかった。電話は、なかった。一月が過ぎた。  パーティーに誘われていて、出むく気になったのはヒサオが出席すると耳にしたからだった。  けれども今は、来なければよかった、と女は何度も後悔の思いを噛《か》みしめた。不安と恐怖心と、わずかな期待とで足がすくむ。このわずかな期待が、苦しみの元兇《げんきよう》なのだ。期待が百パーセント断たれていたら、こんな場所にやってはこなかったろう。  不意にヒサオの視線が、女を捉《とら》えた。彼女は、それを痛いほど感じた。男のこめかみの上で血管が神経質にピクリと動いた。女の血が凍る。未練がましくこんなところで、きみは何をしているんだ、とでも言うような表情で、彼が自分を見たら、私は死んでしまうだろうと、彼女は思った。  だが、男は眉《まゆ》を寄せるかわりに、浅い微笑を滲《にじ》ませると、素早いウインクを送ってよこした。 「やあ、しばらく」ヒサオがゆっくりと近づいてくると囁《ささや》いた。「元気そうじゃないか。あいかわらず、きみはすごく綺麗《きれい》だよ」男が女の耳へ口を寄せる。「何で別れてしまったのかな、僕たち」声に後悔と悲しみの真実味がこもっている。女の顔がぱっとバラ色に輝く。じゃ、私たち、やり直せるのね。  けれどもヒサオは、やり直そうと言うかわりに、こう言ったのだ。 「ねえ、きみ、電話する。僕の方から電話を入れるよ」  女の顔から、再び、血の色が急速に退いていく。彼女は男に背をむけると、足早に歩み去った。たった今の彼の言葉が、短刀のように彼女の胸に突き刺さっていた。短刀を引きぬけば、血潮が吹きでるような気がした。あの言葉が、さよならよりずっと残酷に響くのは、本当はありもしない期待を含んでいるからだ、とようやく女は気がついた。  もし、男が女に、「僕の方から電話するよ」と、言ったら、それは、きみとは終りだという意味であり、更に、きみの方から電話をしないでくれ、ということでもあり、結局、その男は、二度と電話をかけては寄こさないのである。  男たちは、その言葉を実に様々なニュアンスをもって口にする。いかにも、もうこれきりだという寒々しい表情で冷たく言えば、それはたいていの女の耳に、きみは僕の趣味に合わなかった、二度とベッドを共にしたくないね、とズバリそんな風に聞こえるだろう。  あるいは、情熱的に愛しあった後で満足の溜息《ためいき》とともに、こんな風に言われたら、女はそれが別れの言葉だとは夢にも思わないに違いない。つまり、男は言う——。君みたいな女には逢ったことがない。最高だよ、ねえ、又逢えるね? きっとだよ、約束するね? 電話していい? じゃ僕の方から電話するよ、ね?  さり気なく、僕の方からと語尾に紛れこませる。最高だよと、奉られた女は、たいていそれを聞き逃す。でも、電話は二度とかからない。  ズバリ、さよならを意味する言い方から、甘言を並べたててさよならをオブラートに幾重にもくるんでしまう言い方との間に、数えきれないほどのヴァリエーションがあるわけだ。しかし、どんな言い方をしようと、どれほどのヴァリエーションを駆使しようと、男たちの意味するところは、ただひとつ、これでさよなら、なのである。  明日の三時、僕の方から電話をするよ、というのとは、ぜんぜん違う。その場合彼は明日の三時に電話をかけて寄こすだろう。  僕の方から電話をする、とさりげなく言われる別れの言葉には、何時がない。何ひとつとして約束していないのである。そのことにすぐ気がつく女も大勢いる。 「じゃ、何時《いつ》電話くれる?」と、念を押す女も中にはいるだろう。だが大抵の女は黙っている。僕の方から……というニュアンスの中に、何時? を言わせない何かが感じられるからだ。プライドの高い女なら、そこでピンとくる。 「じゃ、何時? 何時電話してくれるのよ?」と問い詰めれば、多分、たいていの男はこんなふうに答えるだろう。 「三日か四日の内にね」とか「そうね、来週あたり」  その気がないから、明日の五時に、とは絶対に言わない。かと言って、一か月先とも言わない。  罪つくりな言葉なのである。ありもしないのに、いかにもありそうに期待を抱かせるという点で、残酷でもある。  僕の方から……というのは明らかに言い逃れであり、実にうさんくさい。逃げ腰の姿勢がありありなのだ。逃げ腰がちょっと格好をつけて気取っているのにすぎない。  おまえさんは俺《おれ》の好みじゃなかった——もっと歯に衣《きぬ》を着せずに言えば、おまえさんのセックスは良くなかった——だから、これきりにしようやなんてことを、一人前の男が、女に向って可哀相で言えるかい、言い逃れというよりは、むしろ思いやりと言って欲しいね、思いやりと。——なんて反論を喰《く》うかもしれない。  しかし断じて思いやりなんかでは、ないのである。真に思いやりのある男なら、女に、決して存在しもしない期待など、抱かせるはずがない。  守る意志もない約束ごとを、相手に対してはもちろん、自分に対しても言うわけはない。  だから、男がデイトの別れぎわに、「じゃね、僕の方から電話するよ」と言ったら、負けずにウインクのひとつでもして次のように言い返してやったらいい。 「あら、とんでもない。私の方から電話するわよ」  別れを含んだ愛の言葉というのがある。男と女の関係が存在するのに、男が女に "I LIKE YOU VERY MUCH" としか言わない場合だ。  日本の男たちもそうだけど、外国の男たちも容易に LOVE という単語を使わない。もっともつまらないところで濫用している節もあって、彼らは、男も女もだが、ひんぱんにこんなことを口にする。|"OH, I LOVE DISCO"《デイスコ、大好きよ》 とか |"I LOVE BEEF STAKES"《ビーフステーキ、好きだね》 とか、"I LOVE MUSIC" "I LOVE TENNIS" とか、実に軽々しく LOVE を使う。  ところがこと男女間の関係になると、とたんに厳しく使い分ける。ディスコやステーキみたいに、彼女を LOVE しているとはよほどのことがないと言わない。"I LIKE HER" である。  ある時、英国人の男と半年ほど同棲《どうせい》している二十七歳になる日本人の女性が、彼の気持がもうひとつわからない、と私に訴えたことがある。 「一度も私に愛《LOVE》している、とは言わないのよ」  ではどんなふうなのかというと、|SWEET《可愛いひと》とか |DARLING《ダーリン》 とか、もう少し甘くなると |SWEETY PIE《可愛子ちゃん》 とか |DEAREST《最愛のひと》 などと呼んで、ごまかすのよ、と彼女はこぼす。ごまかすというのは酷《ひど》いと思ったが、要するに言葉の端々に、親密で甘い呼びかけをはさむのである。映画に行こうよ、ね、ダーリン。あるいは、どうしたんだい、スウィーティー・パイ、なんだか浮かない顔してるよ、といった具合だ。  浮かぬ顔しているよ、と言われて、件《くだん》の彼女——仮にエイコと呼ぶことにする。相手はデイヴィッド——が不満そうに答えた。 「だって、あなた私を本当に愛してないんでしょ」デイヴィッドが驚いて両手を拡げる。 「一体又どうしてそんなことを考えるんだい DEAREST?」 「だって、あなたの口から I LOVE YOU っていうの、聞いたことないわ」  すると彼は苦笑混じりに答えたのだ。  いいかいダーリン。|ボクはハンバーグが好きだ《I LOVE HAMBURG》、|コーヒーも好きだ《I LOVE COFFEE》、|キミとセックスするのも大好きだよ《I LOVE MAKING LOVE TO YOU》。だけど、キミのことをハンバーグのように|好き《LOVE》だとは、言いたくないね、わかるかい、誰もかれもが、LOVE という言葉を軽々しく使う。ボクもそうだ。ダーリン、わかっているだろう、|I LIKE YOU VERY MUGH.《キミがとても好きなんだよ》  要するに、いつのまにか LOVE と LIKE が入れ替ってしまっているのだ。つまり、LOVE を従来どおり LIKE として聞けば、いいのだ。  理屈ではそうだが、エイコは、充分に納得がいかない。やっぱり恋人から I LOVE YOU と言って欲しい。 「あたしはあなたを愛しているわ。あなたを単に好きというのではないの。 |I LOVE《アイ ラブ》 |YOU《ユー》, |DAVID《デイヴイツド》」  すると彼はうなずいて、言った。 「|ME, TOO《ボクもだよ》」  ボクもだよ、と言いはしたが、あくまでも肝心の I LOVE YOU, TOO とはつけ足して言わない。  エイコは、私にデイヴィッドの本心を確かめて欲しいのだ、と言った。そういうことは、本人同士で確かめあうことだと断ると、彼女は前述の話をもう一度初めから繰り返した挙句に「この頃、私が念を押して、|DO YOU LOVE ME ?《私のこと愛している?》 と訊くと、怒るのよ。OF COURSE I DO !! って怒鳴るの。 でも絶対に OF COURSE I LOVE YOU !! とは言わないの。 ずるいのよ、肝心のところで逃げているような気がしてならないの」と、涙を浮かべる。  LOVE の一言が聞きたい一心で、思いつめている。何だかんだと言っているうち、とうとうその一件を押しつけられてしまった。  前後の詳しいことは省略して、ある夜、六本木《ろつぽんぎ》のバーニーインズでデイヴィッドとぱったり顔を合わせた時、私はエイコの涙を思い出して、彼に訊《たず》ねた。 「ねえ、デイヴ。あなたエイコのことどう思っているのよ」  そんな立ち入った質問は普通なら当然差しひかえるが、彼とは十年来の夫共々の友だちなので、そんなふうに訊ける。 「どうって?」 「つまりね、彼女があなたに本当に愛《LOVE》されているかどうか、心配しているわけよ。|彼女のこと、愛しているんでしょ?《DO YOU LOVE HER ?》」  デイヴィッドはちょっと考えるような眼をすると、慎重に言葉を選んで、答えた。  |"I AM VERY FOND OF HER"《彼女のことはとても好きだよ》  私はキョトンとした。〜BE FOND OF〜 というのが LIKE と同じ意味だということは、中学の英語の文法で習ったけど、半年も同棲している自分の相手の女に対して、そんなふうに使う、ということまでは、思いもよらない。  けれども、デイヴィッドの口調には、何かしらきっぱりとしたものがあって、私は口をつぐんだ。彼女を愛しているのか、と率直に訊いたら、彼は、彼女にはとても好意をもっていると、答えた。多分、それが正直な気持なのだろう、と思った。  少しして、エイコに会う機会があって、そのことを伝えた。 「えっ?」と、一瞬信じられないような、がくぜんとした表情がエイコの顔に浮かんだ。 「えっ? |FOND OF《好む》 と、言ったの、彼?」彼女の頭の中を、私同様中学英語の文法が素早く過ぎるのが、感じられた。「えー!! 彼、FOND OF HER って言った!!」と、呆然《ぼうぜん》とし、次に半狂乱になって、笑いだした。「なんだ、バカみたい」  それが引きがねになったのかどうか知らないが、まもなく、二人は別れてしまった。エイコは猛烈に怒っていて、闘争的で、そして美しく見えた。男たちが触れなば落ちんばかりの風情の花に群れるハチのように集まって来て、彼女の周囲はにぎやかであった。そのうち、誰が見てもデイヴィッドよりは数段下の、色の浅黒い国籍不明の男と一緒にいるようになって、いつのまにか、姿を見せなくなった。多分、その男はしごく容易に、彼女の求める言葉—LOVE—を口にしたのだろうと思われる。  一方、デイヴィッドは、長いこと寂しそうにしていた。彼はまるで捨てられた男のように振舞い、夜毎|惨《みじ》めな酒を飲んでいた。酔いが回ると、知った顔をみつけては寄って来て、「彼女はいい女だった」と、言った。「|I LIKED HER VERY MUCH《とても好きだったんだ、彼女のこと》」   デイヴィッドとエイコは、本当はとてもうまくやっていけたのかもしれない。ただデイヴィッドが言葉に厳格であること、彼女に誠意を示そうとしたことが、エイコには通じなかっただけのことだったのかもしれない。  エイコも又、デイヴィッドの誠意や温かさを、直接的に表現する LOVE という言葉に、あまりにもこだわり過ぎたのだ。  彼は女心を理解できず、そして彼女も又、男の心を読めなかった悲劇である。  私はここで二つの種類の別れを並べてみた。つまりひとつは、言い逃れや嘘《うそ》で女を傷つけた例。もうひとつは、あくまでも真実しか言わなかったことで、女を傷つけてしまった例だ。  共に傷ついた女たちは、男の言葉の背後にあるものを正確に読みとることができなかった。  人間には言葉というものがあり、意思の伝達を言葉に頼るかぎり、言葉からは逃れられない。  男を読むということは、すなわち、男の口をついて出る言葉を読むということである。そして、男たちは、夥しい嘘を、言い逃れを口にする。あるいは、それと同じ位夥しい真実を、率直な思いを、喋る。  小説を書く立場から言うと、男女の会話のひとつひとつが興味深い。男が、「僕の方から電話するよ」と言ったその一言の中に、男と女のドラマがある。嘘があり真実があり、傷口が見える。I LOVE YOU と最後まで言わなかった男の痛みも、女のこだわりも、わかるような気がする。そして日常の中にちりばめられた何事もないような会話や言葉の背後にも、当然物語がある。  嘘と真実という両局面から、男を一人ずつ覗《のぞ》いてみたわけだが、この中間に、星の数ほどの男たちがいて、男たちの数だけ物語が存在するわけだ。従って、それらの無数の物語を読むのは、あなた自身である。  恋に身を灼く男の話  恋に身を灼《や》くとか、恋でメロメロになるとか、なんとなく女々《めめ》しい感じがしないでもない。世の男たるもの、たかが女の一人や二人のためになど、その身をよもや灼きはしまい、とかねがね思っていたのも、言ってみれば強い男への願望なのであった。  もっとクールでいてもらいたい、武士は喰わねどなんとかであって欲しい、と願う反面、一度でも良いから恋に身を灼かせて男をメロメロにしてみたかった、と、これは過去完了願望型。  若い頃には、それでも恋に身を焦がす若い男たちを何人も見てきたけれど、自分の年齢が高くなると、つきあう男たちの年も必然的に上になり、中年男がよもや血沸き肉躍らせる恋などはすまい、とたかをくくっていた。  ところが三年ほど前のこと、年の頃三十八、九歳の、言わば男盛りが私を前にメンメンと恋の告白を始めたのである。と、言っても恋の相手は私ではない、第三の女なのだ。 「今日僕は徹底的に酔っちゃいますからね、つきあって下さい」と、彼は言った。それほど暇ではなかったが、日頃仕事の関係で頭の上がらないほどお世話になっている人だから、「はい、つきあいましょう」と、答えた。  そして彼は飲み、酔い、最初の宣告をたがえず徹底的に酔いが回ると、 「酔ったから言っちゃいますけど」と、恋の苦しい胸の内を私に訴えた。  妻子ある男の恋、道ならぬ道に踏みこんだ男の切々たる吐露である。十六の少年だってこれほどに純情ではあるまいと、思われた。  男の恋の悩みを打ちあけられるなんて年に、私もなったのかと、そのことの方がせつなく哀《かな》しく、そんなアホな話、飲まずには聞けますかと、こちらのウイスキーのピッチもがぜんはやくなった。  さて結論はと言うと、恋の悩みと酔いとでメロメロになって鼻水を啜《すす》り上げる男盛りに、かよわき肩を貸して、男盛りと女盛りが夜更けの六本木の裏通りを、ロレツの回らない舌で�上を向いて歩こう�などを放吟《ほうぎん》しながらジグザグ行進と、あいなった。  いい年をした大の男が左の胸の上を押えて、僕は苦しい、わかりますか、苦しいのです、と熱い吐息をつきつつウイスキーをあおるさまは、ああ、恋に年などないのだ、という感慨に胸をつまされた。ひどく精神的な姿なのである。中年男というのは総じてずうずうしく、脂ぎってぎとぎとしているものと思っていたイメージが、がらがらと崩れた。恋に身を灼く男の姿は、無防備で、涙を誘う。そしてやっぱりどうしようもなく女々しい。  その話はずっと後になって変な落ちがついた。時効だと思ったので、私は親友にふとそのことを話すと、彼女「まさか、あなた」と、開けた口を塞《ふさ》がない。「まさか、あなた、そんな第三の女が本当に存在したなんてこと、信じていないでしょうね」 「え? 何よ、何のことよ」と眼を見張ると、 「恋しい女ってのは、あなたのことじゃないの、トロいのねえ、バカねえ、オクテだわねえ」と、言い放った。  狐《きつね》につままれたような気がした。そう言えば、彼女が彼女がと言う内に時々、あなたがと、彼、口走ったような記憶があった。けれどもウイスキーのせいで二人称と三人称を言い違えたのだろうと、こちらもしたたか酔っていたので、その程度に考えた。事実はどちらにしろ、どう転んでも間のぬけた話である。今更どうでもいいが、件《くだん》の彼とは変らぬ友だちづきあいが続いているから、やっぱりあれは一夜の夢か幻か、と、立派な社会人、申し分のない夫、男盛り振りをひとまわりもふたまわりも深めた横顔を見上げて思うこの頃である。  外国人の男の一人と、十六年間も一緒に暮らしていれば、男というものが(これは外国人、日本人にかぎらず)、私が八歳だった頃に見上げた自分の父のように、完全無欠のスーパーマンではない、ということだけはわかった。  八歳の少女にとって、父親というものは男そのものである。力であり知であり愛であり性であった。その懐は海のごとく。どんな嵐《あらし》も父の腕にすがりついていれば、避けて通れた。  大人になって男たちと深く関わりあうようになると、男も又女と同様、辛いものは辛い、怖いものは怖いのだ、とわかった。完全無欠のスーパーマンなどどこにも存在しなかった。それは外国人とて、同じことである。彼らも人の子、一人の女を思いつめれば、会食中にポロリとフォークをとり落とし、茫然《ぼうぜん》自失の醜態をさらし、パーティーの最中突然|啜《すす》り泣くといった光景も展開する。  二組のごく親しい夫婦がいた。仕事は別々だったが、週末は共同で山の別荘を借りて、お互いの子連れで遊んだし、週に一度はどちらかの家へ招きあって夕食《デイナー》をする。ディスコや音楽会も連れだって四人で出かける。妻たちは女同士のショッピングやお茶の会で友好を深めるし、夫たちも時々女っ気のない酒を楽しむ。彼らがあえてしないことと言えば、お互いの夫なり妻と、カップルを替えてつきあうことくらいだった。つまりA氏とB夫人は二人だけの時をもたない、(B氏とA夫人も同様)という鉄則は言わず語らずして守られていた。  A夫妻は共にフランス人。B夫妻は、夫がフランス人で妻は日本人。  さて、事件のあった夜、四人はA夫人の手料理をA宅で楽しんでいた。  フォアグラ入りのパテと、ぶどう酒で口を湿して、家庭的に詰めものをして焼き上げた鴨《かも》をめいめいが皿にとりわけ、食事はなごやかにすすんでいた。 「鴨の皮がこんなにパリッとしてこんがり焼けるコツ、教えて下さらない?」と、日本人のB夫人がA夫人に聞く。 「オレンジをしぼったジュースと、赤いお砂糖(日本では三温糖という)を途中で何度もふりかけながら、焼くのよ」 「そうなの、じゃ私、今度試してみようかしら」  B夫人がそう言った直後であった。A氏が皿の上にがしゃんと音をたててフォークを取り落としたのは。  高価なイギリス製の皿は幸い欠けなかったが、金色をした鴨のオレンジソースが真白いテーブルクロスの上に、無残に飛び散った。  A夫人が片方の眉《まゆ》を高々と上げて、無言で、きつい非難するような一瞥《いちべつ》を夫に投げた。  A氏はなぜかこちらの方が思わず眼をそむけたくなるほど、うろたえて、 「パルドン」とたてつづけに口の中で呟《つぶや》き、ナプキンで飛び散ったテーブルクロスの上のソースを拭《ふ》こうとして、腰を浮かした。そのとたんに、右手の赤ぶどう酒の入ったグラスが倒れた。  カツンという固い音がして、同時にスウェーデン製のワイングラスが割れ、赤いぶどう酒がクロスに拡がって滲んだ。  そして何もかもが同時に起った。A夫人が腹立たし気に舌打ちしたのと、お客であるB夫妻がそれぞれの皿の内に気の毒そうにつつましく眼を伏せたのと、A氏がだしぬけに奇妙なうめき声を発して片手で口を押えこんだのと。  三人は一瞬|唖然《あぜん》としていっせいにA氏を見た。そしてA氏の両眼から涙が溢《あふ》れ出るのを見て、あわてて一様に視線を宙に泳がせた。  A氏がガタガタと音をたてて席を立ち、洗面所の方角に足早に歩み去ると、残された三人はほとんどが無意識に、鴨肉を食べ始めた。ほんのしばらくの間、彼らは何ごともなかったような表情で食事をすすめたが、やがてB氏が、 「彼、大丈夫かな」と、なにげない声で、A夫人に語りかけた。  するとA夫人は、ゆっくりとナイフとフォークを皿の両側にかけると、ナプキンでそっと口を拭き、 「そうね、わたしちょっと失礼して、見てこようかしら」と、呟いた。  それから彼女はエレガントな手つきで食卓の上にナプキンをそっと置くと、 「すぐ戻りますから、あなたがたどうぞこのままで食事をお続けになって」と言い置いて、心の中はとにかく表面的には落ち着いた足取りで夫の後を追って出て行った。とりのこされたB夫妻は、チラリと一度だけ視線を合わせたが、それきり何も喋らずに場つなぎにぶどう酒を口に運んで待った。  ほとんどすぐに、A夫人が戻って来て言った。 「ごめんなさい。彼、すぐに来ますわ」  ニッコリ笑ってそう言って、再び食事が始まった。しかし彼女の笑いは硬かった。フォークを使う音、グラスをテーブルに置く音、肉を噛《か》む微かな音などだけがしばらく続く。その沈黙の重さに堪えられなくなって、日本人のB夫人が思わず、 「彼、どうしたんでしょう」と途方に暮れたように呟いた。 「さあ」と、夫B氏。 「わたしが聞きたいくらいよ」と、吐きだすように言うA夫人。  けれども三人とも知っているのだ。  日本人のB夫人は、フランス人のA氏が日頃から自分に熱い思いをかけているのを、その眼つき、仕種《しぐさ》、言葉の端々から敏感に感じていた。その夜も彼は、テーブルの向い側から、何か訴えるような、熱のある病人に似た、あるいは飼い主を見上げる忠実な犬のような執拗《しつよう》な眼つきで、じっと彼女を見ていたのに、気づいていた。  一方、A夫人も、日頃から自分の夫が友人のB夫人にただならぬ思いを寄せているらしいのを、薄々感じていた。この夜も、夫が、B夫人を燃えるように凝視するのを、彼女は何度か目撃していた。しかし彼女は自尊心の強い女なので、疑惑を一度も夫に質《ただ》さなかった。  ところで、B夫人の夫は、というと、妻の気配から、とうの昔にA氏の視線に気づいていた。友人が自分の妻に思いをかけているらしいこと、を承知していた。けれども自分の妻がそのことを黙殺しようとしているかぎり、彼としても親友のAと事を荒立てる気は毛頭なかった。  ほどなくA氏が食卓に戻ってきた。彼は四人の友情がこれからも続けられるために、何か気のきいた釈明をしなければならないのを感じていた。 「このブルゴーニュ地方のワインと、鴨の取り合わせはどうもいけないな」と、彼は言った。「どういうわけか、涙もろくなる」  その場は一応繕われ、食事はなんとか無事に終り、その後もこの二組の夫婦は変りなくつき合っている。  あの時A氏が食事中に思わずフォークをとり落としてしまったのは、恋のためである。恋をあくまでも隠さなければならなかったため、彼は極度の緊張に耐えられなかったのである。今でも、B夫人を見るA氏の眼《まな》ざしの熱さはあまり変らないが、あれ以来、彼がナイフやフォークを食事中にとり落とした、という話は聞かない。  次に同じ道ならぬ恋の道に踏みこんでしまった別の男が、どのように恋に身を灼いたかお話ししよう。  C氏はワイン関係の仕事をしている四十代のアメリカ人。美しい女盛りの妻とティーン・エイジャーの三人の子どもたちがいる。趣味はテニス。週末は家族ぐるみ会員制のテニスクラブで過す健康な一家の主人だ。  と、これは他人の眼に映る外観。少し親しくつきあえば、C夫人は外聞を気にするどちらかというと、体裁を繕うタイプ。家の中にチリひとつ落ちていても眉を曇らせる。どこもかしこも清潔に整理整頓され、いつも美容院から戻ったばかりの一糸乱れぬヘアースタイルを保ち、夫に素顔など決して見せない。ちょうど、レッドフォードの映画�普通の人々�の中に出てくる女主人公のようなひとだと思ってもらえばいい。  そういう女を妻にもつ夫はどうなるかというと、あの映画でもそうだったけど、借りてきた猫のように行儀よく大人しい。控えめでニコニコして、妻に気をつかう。にもかかわらず|恐  妻  家《ヘンペツクト・ハズバンド》には見えない。彼女が利巧で夫の陰に回るべきところですかさず回るからだ。三人の子どもたちの良き父でもある。どちらかというと口うるさい母親にうんざりしている子どもたちは、父も自分たちと同じ犠牲者なのだと気づいていて、父親というより仲間、友情で結ばれている。この友情を失うのが、彼は何よりも怖い。  仕事の面では成功した実業家。多数の部下の生活が彼にかかっている。ワイン業界の競争は熾烈《しれつ》をきわめ、ちょっとでも油断をすると売上げに響き、それは数字にすぐ表れる。  このような状況のもとに、C氏はいる。ひとたび成功した実業家は失敗を絶対に許されないし、家庭にあっても理想の夫、理想の父親像を崩せない。  ベッドにたどりつくまでネクタイを外せないような生活だ。その最後の安住の場ですら「あなた、ゆうべ鼾《いびき》のひどかったこと。お酒飲みすぎですよ」あるいは「歯ぎしりしていたわよ、眠りながら。歯ぎしりなんて下品なこと、お止めになって」と、妻にやんわりとしめつけられる。  C氏のストレスは想像を絶するものと、思われる。  ところが彼は、いつもストレスなど関係ないような顔をしている。週末と昼休みを利用してやるテニスで発散させているのだろうか?  実は、C氏はひそかに日本人秘書のD嬢を愛していたのである。その愛はすでに十年以上に及ぶ。  秘書というのは肉体関係のない妻のようなものである。眼の色、動かし方で、望むことを的確に判断し、余分なことは何ひとつ喋らず、言われたことを正確にやる。彼女は彼に何ひとつ要求しないし、小うるさくあれこれ指図もしない。理想の、妻である。しかも一日八時間、一緒にいる。本当の妻とは、眠る時間を別にすれば、その半分も一緒にいないだろう。C氏はひそかに彼女を、ボクの|ニッポンの奥さん《ジヤパニーズ・ワイフ》と呼んでいた。  そういう彼女に、アメリカ人C氏は長いこと思いをかけてきた。彼は週に一度彼女を夕食に誘うが、あくまでも紳士の線から一歩も出ない。妻からは得られない濃《こま》やかな、かゆいところに手のとどく心遣いと献身は、肉体関係を生じた男女の間には存在しなくなることを、彼は知っていたからだ。彼は彼女を非常に大切にした。大切に思うからこそ、指一本触れることも自分に厳しく禁じたのである。  けれども彼女の方としては、彼が紳士的にふるまえばふるまうほど、優しくされればされるほど、せつない。好きでなかったら、婚期を逸してまで十何年も、このボスに仕えてくるわけはないではないか。  結局、破局は訪れる。D嬢に結婚話がもち上がったのである。彼女はさんざん考えあぐねたあげく、それを受ける決意をする。自分のためでもあるが、C氏のためでもあった。彼は彼女を誰よりも愛していたが、永遠に自分のもとに置いておくことができないのなら、あまり手遅れにならないうちに、彼女を解放してやらねばと、日頃心を痛めていたのを、秘書のD嬢は感じとっていたからだ。  彼女が彼に結婚の決意を伝えた時、彼は内心の動揺を見事に隠し、 「あなたが幸せになれるのなら、ボクにとってこんなにうれしいことはない」と言った。少しして、わずかに声を落として、「ほんとうに、キミ、幸せになれるんだね?」と念を押した。彼女は「ハイ」ときっぱり答えた。そしてD嬢は去った。  彼女がいなくなると、C氏はD嬢への愛が、ことのほか大きかったことに愕然《がくぜん》と気づく。砂漠が眼前に蜒々《えんえん》と横たわっているのが見えた。D嬢の支えがあったからこそ成功した実業家でありつづけ、理想の夫、良き父親役を演じてこられたと、本気で考えた。決定的な喪失感を自分の内にねじりこんで、彼はよろよろと歩き出した。どこかポッカリあいた傷口から、血がたえず流れでていく感じがしていた。  そんな傷心のまっただなかのある夜、C夫妻はあるパーティーに出席した。美しいC夫人をエスコートするC氏は、わずかに青ざめているように見えるだけで、普段と変らない自信あふれた実業家のように、誰の眼にも映った。  酒がふるまわれ、時間が流れ、いつのまにか周囲には気のおけない友人たちだけになっている。彼らは政治の話からおきまりのスパイの話に花を咲かせていた。その頃からC氏の様子に変化が出た。人々から一、二歩下がって、彼は一点を凝視したまま、手負いの熊《くま》のように身体を前後に揺すっている。  男たちの一人が、誰それを最近見かけないね、と言えば、ああ奴はCIAだよ、知ってるかい、と誰かが答える。世界中CIAだらけだな。もしかしたらこの中にも一人くらい、いるんじゃないか。おいおい、一人とは言わず二人かもしれんよ、と、笑う。  その陰でC氏はいよいよ身体をゆらゆらと前後に揺すりながら、今や手放しで啜り泣いているのである。不思議にも誰一人、それに気づくものはなかった。  パーティーの別のコーナーで女だけのお喋りを大いに楽しんでいたC夫人が、ふと、眼を上げて男たちの方を見た時には、ちょうどC氏が彼らの一団に背を向けてバスルームの方向へ歩み去るところであった。彼女はその足取りを眺めてマスカラで染めたきれいな眼を、わずかに曇らせた。まあ、ずいぶん酔っているんだわ、と思ったが、それが悲しみの、喪失の、絶望の足取りだとは、夢にも考えなかった。  恋に身を灼く男たちの姿は、共通しておそろしく無防備であった。  彼らは深い傷を受け、それをひたかくしにするが、時々アルコールに温められると、傷口が耐えがたくうずく。たったひとりで孤島に取り残され、置きざりにされたように感じるのは、この瞬間だ。思わず手の力がなえ、メロメロになる。彼はよよと泣き崩れる。  食卓でフォークをとりおとした男の話は、B夫人から聞いたことである。そしてパーティーの席上で泣きだしたC氏については、私もたまたまそのパーティーに出席しており、C夫人が夫の後ろ姿だけを見るより、少しだけ早く、つまり彼が身体を揺すって泣いている現場を目撃してしまったことから、好奇心を抱いてストーリーを探っていったものである。  彼らの恋が少年のように純情に私たちの眼に映るのは、事実、彼らが今でも純真な心の持ち主だからだ。日本の男たちが浮気は男の甲斐性《かいしよう》だなどと勝手なことを言って、愚かしくも恥じないのとは、対照的である。  彼らが軽々しく浮気をしないのは、まず妻を愛し尊敬しているからであり、同時に恋する別の女性も、心から尊敬しているからである。つまり、女性というものを尊重している証拠だ。日本の男たちが女を一時的な慰みものにしたり、単なる排泄《はいせつ》の対象にしたり、使い捨て、代替可能の遊び相手にしたりなどというのは、妻に対してはむろんだけど、そういう相手の女たちに対しても、女一般に対しても馬鹿《ばか》にした失礼な話で、そういう男たちがまかり通るというのは、半分は日本人の女たちのせいかもしれない。女たちが浮気は男の甲斐性だ、などという口車に乗せられている、という愚かさに於いて、罪は平等なのだと思う。  女のためいき  涙と同様、効果的に使いさえすれば、ためいきも立派に女の武器になりうると、若い頃にはもっぱらそれの濫用で、罪のない若い男たちを翻弄《ほんろう》してきたが、時には逆にそれが命取りになって恋を失うといったケースもあったりして、涙とためいきの質と量とタイミングに関しては、他の多くの女たちと同じように、いっぱしのエキスパートとなって�涙とためいきの青春時代�を卒業した。  折しも時はヌーベルバーグの真っ盛りで、膨れ面のフランス女やイタリア女たちが、次々と映画の中に登場してくるのに大いに刺激され、無表情の魅力に開眼、クールにいこうとずいぶん努力したのだが、自分ではモニカ・ヴィッティのつもりでも、周囲はそうは見ないので、これは早々に切り上げて、仏頂面の悪名を一気に挽回《ばんかい》しようと、次に微笑作戦にでた。  昨日までの無愛想が、いきなりニッコリと笑いかけたせいもあって、最初の微笑はおそらく衝撃的に効果があったのに違いない。その時の犠牲になった気の毒なイギリス人が、現在の夫である。  かくして結婚を続けること十四年の長きに渡り、三十を幾つも過ぎた頃、ふと気がついてみると再びためいきばかりついていた。それも以前の芳しくも甘い恋のそれとは似ても似つかぬ、失意と諦《あきら》めの吐息である。まずは、女のためいき、とくと聞いていただきましょうか。  それはある日突然、鏡の中で起る事件。  肉体を容赦なく貫通していく刻《とき》が、目尻《めじり》のあたりに荒々しくたてていった鋭い爪《つめ》のあとを、発見して叩《たた》きのめされる朝、あるいは、刻が確実に肉体を損傷していく、その哀《かな》しい痛みを、ほとんど肉感としてわかる夜などが、ある。  一日の終りに、女たちがあたかも儀式のように行なう化粧落しの最中に、突如として彼女を襲い、打ち砕く悲劇の始まり。  妻に背をむけて、早々に眠ってしまった夫の、疲れた寝息を背中に聞きながら、クリームの下から次第に表れてくる蒼《あお》ざめた素顔を、孤独な眼で凝視する夜更けが、いつか必ず、どの女にもやってくる。しかも鏡の中に見えるのは、あくまでも女盛りの自分の姿なのである。その背後に、ひたすら眠りを貪《むさぼ》る夫の白い横顔が仄見《ほのみ》えている。その時、女の心が激しく動揺する。——今、この時、この女盛りのこの瞬間、一生の内で最も美しく完成されたこの時期に、夫の興味を女としての自分の上に繋《つな》ぎ止めておけないとは、なんという哀しみなのであろうか——。  もしそれが、誰《だれ》の罪でもないのなら、おそらく積み重ねてきてしまった膨大な時間の所為《せい》だろう。デモ私ハ、コノ女盛リノ、コノ実感ヲ、誰カニ認メテモライタイ。承認サレナケレバ、コレ以上生キテハイケソウニナイ。  一番身近な存在である夫の眼には、単に彼の妻であり、せいぜい彼の子どもたちの母親以上には映らない。センシャルな女としての自分の姿は、夫の瞳《ひとみ》の中のどこをどう探してみても、見あたらない。この喪失感。  女はこの発見に愕然《がくぜん》とし、やがてそれは憤怒に変っていく。�私ヲ見テ、私ヲ見テ、私ヲ見テ、私ハマダ、コンナニモ美シイノニ�  女の魂の黒々としたこの叫びは、いつしかささくれて痛ましくも枯れ、喉《のど》から血のでるような日々が続く。その間にも、子どもを育て、家事をやり、夫を仕事に送りだしそして迎える日常の正常な生活は、無限に繰り返される。そしてこの正常さこそが、妻の内部の狂気に一層の拍車をかけるのである。  妻の眼に映るのは、夫の無関心、倦怠《けんたい》、疲労ばかりだ。苛立《いらだ》たし気に顰《しか》めた額のあたりに妻の中の女に対する否定が色濃く漂う。  ダカラト言ッテ、ドウシテ私ヲ老イ損ウ刻《トキ》ノ流レノ中ニ、我ガ身ヲ投ゲ込ム事ガ出来ヨウ? だがたとえその流れに逆らって泳いでみたとて、一体何処へたどりつくというのだろうか? 八方|塞《ふさ》がりの出口なし。欲求不満でヒステリーを起し、子どもに八ツ当りしない方が奇蹟《きせき》だ。すっかりその子の感受性を駄目にしてしまうのがオチだ。  そのような時期に、辛うじて孤独な妻を支えてくれるのが、せいぜい学生時代の女友だちとの電話なのだから、世の夫たるもの妻に対する日常の怠惰ぶりを棚に上げて、努々《ゆめゆめ》妻の長電話を非難するなかれ。それで夫婦の仲が救われていると考えたら、電話代など安いものである。  妻の挫折《ざせつ》を支えるのは他にも男友だちとの友情や、擦《す》れ違っていく様々な男たちの視線などがある。この期に及んで下手《へた》に妬《や》くよりは、日頃妻の相手を充分にしてやらないのだから、夫たるもの、そのあたりのことは大目に見てやるのが、結局は自分のためになると思った方がいい。  例えば、パーティーやディナーの席上で、私はデイヴィッドやレインの眼差しを秘かに楽しみはしなかったか? 彼らの視線が欲望で明るく輝き、凝視が露骨であればあるほど、女としての愚かな自尊心は癒《いや》されはしなかったろうか? 別れ際に素早く盗まれた接吻《せつぷん》や、手の甲に押しつけられた熱い唇の感触は、心楽しくなかったか?  答えはイエスである。イエス、イエス、イエス! 自分がまだ充分に男たちの眼にセンシャルに映るという数々の発見こそ、三十代の女の飢えを満たすものである。怪し気な、だが知的に洗練された性的な会話はその場のお互いの渇きを癒してくれるし、未知の男たちの熱い視線が皮膚感覚的に快いこともまた絶対に事実である。  それは自分をかえりみてくれない夫に対する一種の復讐《ふくしゆう》のような気持を女に抱かせ、それ故に女は見事に充足される場合があるのだ。私自身のことを言えばこのために私の女としての失意や憤怒は急激に和らげられたし、同時に夫婦の危機も乗り越えたと信じる。そう信じ得た瞬間、私は、深い深いためいきをついたのである。それは諦めの、そしてつつましい充足と安堵《あんど》の吐息であった。そのような状況の時に書いた『情事』という小説は、正に、私の長い、だが美しいためいきそのもののような気がする。是非、世のご主人方に読んで頂きたいと思う。  贅沢な贈りもの  宝石というのは、男から女に贈られるものとばかり信じていたが、私は一度もそんな素敵なめにあったためしはない。  それでも私の宝石箱には、ガラス細工やアクリルや銀のガラクタ類に混じって、小粒のダイヤモンドやエメラルドや金などが、偽ものよりもっと偽ものみたいな顔をして、ちらほらするようになった。  女であるから宝石類は好きだが、それがなくては夜も日も明けぬというのでもない。なくても平気、けれどもまああれば、嬉《うれ》しい。  それなのに、なぜか宝石が少しずつ増えていく。これは不思議でならないことなのだが、どうしてか原稿料・印税の類が送られてくると、友だちから、知りあいから電話がかかってくるのである。曰《いわ》く、 「エメラルドが四割引きで買えるのよ、ちょうど南米から帰ったばかりの人でね、特に安くしてくれるって言うの、見るだけ見てみない?」  同じように声をかけられて集まった女たちが、十人ばかり。きれいね、いいわね、こんなのが欲しいわねえ、イヤリングにしたら最高ね、などと溜息《ためいき》吐息。  値段を見ただけで、買う気を失った私は、文字通り見るだけ見る口。適当にあいづちを打つばかり。  ところがである。エメラルドの行商人はなぜか、はたと私に視線を止めるのである。他にも九人ばかり、指という指にいかにも重たげな金やダイヤの指輪を飾りたてているお金のありそうな女たちを、さしおいてである。  なぜ、わかるのだろう? なぜ私の銀行口座に昨日印税が振りこまれたことが、この人にわかるのだろう。私はドギマギする。私がこの種のゲーム(売る人と買う人との間のカケヒキ)に、必ず負けてしまうということを、どうして知っているのだろう?  相手はそれ、プロのハンターみたいなものであるから、これと狙《ねら》った獲物は絶対に逃しはしない。私はと言えば、まるで高見山《ジエシー》みたいに、ある一点まではがんばるのだが、その一点から先は実にあっけなくもろいのである。汗まみれで、いいや、もう負けた! どうでもいいや! と心の中で叫び、勝負がつく。なまじ銀行に印税があるからそうなる。なければ、むろん絶対にそうはならない。  そんな具合で、親類のおばさんから小粒のダイヤを格安に、シンガポール帰りの親友から22Kのネックレスをこれも市価の四分の一に、と押しつけられる。その都度、私の銀行口座はゼロになる。  もともと稼ぎがそうあるわけではないから、ひとつふたつと数えるほどではある。一度でもいいから、男から贈ってもらいたいと、だからこれは悲願に近い。  だけど、本当に好きな男だと、油田を三つも四つももっているアラブの金持でもないかぎり、その男から宝石をもらいたいとは思わない。好きな男なら、カンビールの指を引っかけるところの部分、あれでも胸がつまるだろう。  先日、マレーシアの旅から帰って来た。ひどく暑く湿気の多いところであった。夜中までディスコで騒いで、全身汗まみれ。ふと眼を上げると、夜の海が静かに息づいていた。昼間は遠浅の美しい海である。  私は、着ているものを脱いで、冷たい海水に躯《からだ》を浸した。何人かが同じようにした。  ちょうど頭上で雲が切れて、月の光りが海面を照らした。すると、一面に輝く夜光虫。  亜熱帯の海のそれは、ひとつぶひとつぶが〇・五カラットのダイヤモンドの大きさだった。それが無数に、燦然《さんぜん》と私を取りかこんでいた。私は息をのみ、うっとりと茫然《ぼうぜん》自失していたのかもしれない。  その時、その夜のエスコートをしてくれた男性《ひと》が、私の傍に来て、こう言った。 「これを全部、あなたにあげるよ」  〇・五カラットの夥《おびただ》しい数のダイヤモンドを、である。  私は彼を愛していなかったけど、そればかりではなく、彼は単に旅先で出逢《であ》った異邦人であり、明日には右と左に別れてしまう行きずりの他人であったけど、ああ、なんという美しい宝石を、彼は私に贈ってくれたことか。  買った宝石で身を飾る趣味のない私だが、あのマレーシアの夜の海で贈られたあのダイヤモンドだけは例外だ。私はそれらを常に瞼《まぶた》の内側に額の裏に、刻みつける。  従って、冒頭の数行を訂正しなければならない。男に宝石を贈られたことが全く無いわけでは、なかった。けれどもそれが初めてである。そして、それを贈ってくれた男性の名前を、私は知らない。   2  揺り椅子の日々  私の小説が、必然的に自分自身の生き方を下敷きにしているように、私が生きて、通り抜けて、識り得たことがらについてしか、私は書けないし、書こうとも思わない。 �産む性�についての捉《とら》え方にしても、女によってずいぶん異なるのに違いない。それを生れてから死ぬまで女についてまわる性として受けとめる人もいるだろう。  私は、それを、女に一生涯つきまとうものではなく、ある一時期、女が通り抜ける特殊な性、という観念に深くとらわれていた。避けて通ることのできない廻《まわ》り道だと。  子どもを産み育てることのみが人生の大事とは思えず、私には他にすべきことが山積みしているような気がしていたので、�産む性�の側に身を置いていた約六年間ほどの歳月を、足ぶみしながら過したといっても大袈裟《おおげさ》ではない。  もちろん無数の喜びはあった。腹壁に胎児の動きを感じたり、生れてきた子の指が五本ずつあった時の安堵の深さや、目鼻立ちのみでなく指の一本一本、足の形、ひいては耳の穴の形にまでわたって、夫と私のどちらに似ているかと数え立ててみたり、挙げていけばきりがないが、全体として振り返ってみれば、やはり私は一日も早く産み育てる性から逃げだすことを夢みてきたような気がする。そしてそれ故に、今思えば、その期間私は不毛であった。そのことを私に気づかせてくれたのは、産まざる性——すなわち男性との関わりにおいてである。二つの重要な関わり(あるいは二人の男性との関わり)があった。そのことを書くことによって不毛に過してしまった私の妊娠期への反省としよう。痛みをこめて。  カーヴィー・ウィルキンソンから突然電話があった時、私は二度目の子どもを妊娠していた。彼とは、夫と出逢う前に恋愛し、そして良い別れかたをしたので、ニューヨークへ帰って行った後も離ればなれになった親友のような感情を抱いていた。お互いにそれぞれ結婚をして家庭をもったという情報を交換したところで消息が途絶えていた。  かつて二十年近く前、彼はサリンジャーを敬愛しており、彼を超える作家になりたいと目黒のアパートメントの一室で一日の大半をポータブルのタイプライターに向って、溢《あふ》れるように言葉を紡ぎだしていた。創作に興が乗ると、彼の両耳が充血し、真赫《まつか》になるのだった。 「今、横浜にいるんだけど」とカーヴィーは言った。妻と、その女《ひと》の連れ子である十七歳の娘と三人で、夏休みを利用しての船旅の途中だという。日本が初めての母娘《おやこ》のため二日ほど大急ぎで京都を案内し、翌朝早くホンコンへ向けて船が発つ予定だった。娘が十七歳なら、彼の妻は彼より少なくとも十歳は年上なのに違いない。以前、カーヴィーは自分の結婚に二つの条件を課していたことを、私は思いだして、電話口でニヤリと笑った。ひとつは妻が金持であること。もうひとつは妻に包容力があることだった。二つとも彼が作家活動に没入するために必要欠くべからざる条件だと、当時彼はそう信じていた。 「奥さまたちに、逢えるの?」私は好奇心を起して、訊《たず》ねた。 「実は、京都の疲れで、二人とも寝ているんだ。それで二、三時間ばかり自由になれたんで、キミに逢えないかと思ったのさ。昔のボーイフレンドにちょっと逢いに来るってわけにはいかないかい?」と私を誘った。ちょうど上の娘の育児と、現在進行中の妊娠にうんざりしていたから、助け舟とばかり、「もちろんよ、逢いたいわ」と答えた。  そう言ってしまってから、壁の姿見に映る自分の妊娠六か月の姿を、つくづくと眺めた。カーヴィーがかつて愛したのは、ほっそりとした東洋の若い女だった。冒険に憧《あこが》れ、探求心に溢れた澄んだ瞳《ひとみ》をしていた。今みたいに肉体や精神をぶよぶよと肥《こ》やしてなどいなかった。 「でも残念ね。大事な先約があってどうしても外せないの」  昨日の会話の続きのように、あっさりと誘いを断ったが、心中は�産む性�に対する嫌悪感で煮えたぎっていた。砂がぎっしりとつまっているような愚鈍な動きしかできない頭脳や肉体が、疎ましかった。 「ふうん、残念だな」相手もこちらに劣らずあっさりと諦めて言った。「じゃ、またの時ってことにするよ」  またの時なんてあるだろうかと、歯ぎしりする思いで考えながら、私は訊《たず》ねた。 「ね、今でも書いている?」 「ああ、相変らずさ」その答え方から、彼がまだ一冊も本を出版していないことが感じとれた。 「相変らず耳を真赫にして?」  懐かしさに足がなえるようだった。わずかな絶句のあと、カーヴィーがくぐもった声で答えた。 「うん、今でも興に乗ると、耳が充血する」 「アメリカは未だに偉大な才能のひとつを発見できずにいるというわけね」  私は遠回しに彼を慰めた。 「まったくバカな奴《やつ》らだよ」と彼は低く笑った。「ボクを見落とすなんてさ」  そして電話が切れた。私は取り返しのつかない過ちを冒してしまったような気がして、下唇を噛《か》みしめた。  肉体の奥底に生命を育てていると、食べることと惰眠をむさぼること以外の全てが、大儀なのである。どうせこの時期はやがて過ぎ去るものだと思うから、生理的な本能に背いてまで自分を鞭打《むちう》ちはしない。避けることのできない曲り道だという意識があるから、諦めが先に立つ。とろとろとした�産む性�の揺り椅子《いす》に重い躯を沈めていると、ひたすら春を待ちこがれる冬眠中のもぐらの心境だった。妊娠を盾に、うつらうつらとしていると、それにしても知的であること、性的であることからなんと遠い位置にいたことか。繊細で同時に辛辣《しんらつ》な批判精神の持ち主である作家志望の男性の前に、どうしておめおめと出かけて行けようか。私には何ひとつとして立ち向っていける武器などなかった。  それから数年後に、再びカーヴィーから連絡があり、今度は韓国《かんこく》への旅の途中だと言った。 「飛行機が発つまで三時間あるけど、今回も先約があるのかい?」  その電話が私を驚かせたのは、彼の再度の来日ではなく、私自身が未だに母性の中にぐずぐずしているという認識のほうだった。子どもは三人に増えていた。私は動揺した。いきなり頼んでもベビー・シッター協会から人を派遣してくれるかしら。末子はまだ六か月の赤ん坊だ。 「まあどうして先約のあることがわかったの?」と、私は下手《へた》な演技でとぼけた。「それにあなたっていつも突然にやって来てすぐ逢おう、なんですものね。独身の時ならともかく、そんなの無理よ」  しかし、これが私に与えられた最後の機会かもしれない、と思うと身がすくんだ。ほんのちょっとだけなら、幼子を三人だけ残して、抜け出しても大丈夫ではないだろうか。ほんのちょっとの時間なら。たとえ十分でも、二十分でも彼に逢っておきたい。でないと、私は彼との友情を永久に失ってしまうだろう。  けれどもそのちょっとだけの間に、火事にでもなったら? 火事や事故が起るのは、いつだって親のそのちょっとした油断が原因なのだ。 「約束は大事な用件なの。断れないわ、カーヴィー。ほんとうに残念なんだけど」 「それはまたしても」と、彼の声にもようやく失望が滲《にじ》んだ。「すごく残念だよ」 「ご家族は一緒なの?」私はあわてて言葉を探した。 「いや今度は一人。ジーンとは二か月前に離婚したんだ。ボクをやっかい払いしたい一心で、彼女が手切れ金をタップリ支払ってくれたもんでね、その金で旅行に出たというわけさ」 「あら、手切れ金って男が女に払うものだとばかり思っていたわ」  私が三人の娘たちを産み育てることにのみ専念している間に、カーヴィーは結婚して離婚して、再び自由になり、世界中を何度もとびまわり、なんだかひどく面白そうな刺激に満ちた人生を歩いているではないか。なんで女だけが幼子をスカートや足にまとわりつかせて足ぶみしていなければならないのだ? ちょっと蹴《け》っとばしておいて、昔の友人の途方もない冒険談に耳を傾けたって悪くあるまい。  けれどもまたしても鏡の中の私。ずん胴のジャンパースカートを着て、髪ふり乱している団地のお母ちゃんみたいなのは、誰だ? それに甘ったるい粉ミルクやベビーフードの匂《にお》いまでさせて。あまりにも幼児語を使いすぎて、小説を書いている男性と話しあえるボキャブラリーなんて、とうてい持ち合わせはしまい。 「ええ、キャンセルできないわ。今度ね。この次こそ、どんなことがあってもあなたに逢いに行くわ。約束する。だからまた電話くれるわね? 忘れないでね」 「もちろん忘れないさ。また、電話するよ」  あれからすでに七年が経った。カーヴィー・ウィルキンソンからの電話は、まだかかってこない。  今なら、今の私なら彼に逢ってさまざまな事柄が話しあえるのに。私が小説を書いているなんて話したら、彼はどんな顔をするだろう。不思議な、信じられない、という表情をするに違いない。若い頃、創作の夢にとりつかれていたのは、もっぱら彼のほうであり、私はそうした熱に浮かされた彼を多少心の底で妬《ねた》みながら、愛したのであった。彼の存在は、私が小説を書き始めることになった直接のインスピレーションや原因や動機ではないが、私が物を書いている時、頭の隅に常に浮ぶのは、きまってタイプライターに向って耳を真赫に染めているカーヴィーの横顔である。  時折、彼から電話が入るのではないかという思いにかられて、じっと電話機に見入ることがある。そして彼はこんなふうに言うのではないか。 「ボクが今でも書いているかって? もちろんさ。キミに言わなかったっけ? ボクのペンネームがトルーマン・カポーティだってこと」  カポーティはまあ例えばの話だが、彼がそんなふうに有名な作家の名を名乗って私を驚かせてくれるのではないかと、ふとそんな気がしてならない。  あるいは、私が�産む性�の側で逡巡《しゆんじゆん》していたために、彼との友情を失ってしまったということも、ありうる。明日にでもカーヴィー・ウィルキンソンは成田《なりた》から電話をしてくるかもしれないし、もう二度と電話はかからないかもしれない。私が妊娠を否定的に考えたための、結果である。  私が妊娠を大幅な曲り道と考えたために、一時的に失ってしまった男性がもう一人いた。夫である。私は、当然のことながら子作りの共犯者である夫に対して、私の下腹が一日ごとに膨れ上がっていくことの責任を、余すことなく分けあってきた。お腹の赤ちゃんが要求するからしようがないじゃないのと、カレーうどんやカツドンなどをかきこむ姿を、夫の眼にさらしてしごく平然としていた。カレーうどんもカツドンも、どういうわけか妊娠した時にだけ無性に欲しくなり、いてもたってもいられなくなる。  こんないじきたない食欲の塊に私を追いやるのも顔が青白くむくむのも、精神が一日、一日と肥えたるんでいくのも、半分は私に子を孕《はら》ませた夫のせいだと醜態の限りをさらしても許されるとたかをくくった。  夫には私の子宮の中で日毎に育っていく胎児の実感がなかったので、大体において私に対しては非常に優しかった。  その夫が、妊娠の後期になると、ある時期、急に信じがたいほど意地悪になることがあった。  意地悪なんて生やさしいものではないかもしれない。精神的に狂暴になり、刺々《とげとげ》しく、残酷に振舞うのだった。  産み月に入って、いつ陣痛が起るかわからないから、居場所は常に明らかにしておいてちょうだい、夜は出かけないで一緒にいてちょうだい、あと少しの辛抱なのだから、と私が言うと、わかっていると言いながら、夜になると近所のパブへふらりと出かけてしまう。 「ちょっとだけだよ。出先はわかっているんだから、何かあったら電話してくれよ」  そのちょっとだけが十二時を過ぎ、パブの閉店する二時を過ぎても戻ってこない。陣痛が始まってもどこにいるのか連絡のとりようがない。眠れぬ一夜が明ける。  朝方になって青白い顔で帰宅した夫を、戸口のところで責めたてる。 「何も悪いことをしていたわけじゃないぜ。キミを裏切るようなことをしたんでもないぜ」  酔いと疲れとで汚れて荒《すさ》んだような顔で彼が言い返した。 「連絡先もわからないで、私はどうしたらいいのよ。もしも生れそうになったら、どうやって連絡をとったらよかったの。第一そんなにベロベロに酔っちゃって、どうやって私を病院まで連れて運転していくつもりだったの? 着く前に事故を起して、二人とも即死よ。赤ちゃんだって生れもしないうちに死んじゃうんだわ」  疲れと苛立《いらだ》ちで、私は涙声でわめきたてた。 「何でそんなにヒステリーを起すのかぜんぜんわからんね。第一、昨夜赤ん坊が生れかかったわけでもないだろう? えっ、赤ん坊は生れてこなかったろう? 違うかい」 「そんな変てこりんな理屈言わないでよ。生れてこなくて助かったのはあなたじゃない」 「いつ生れてくるかもわからん赤ん坊のために、ボクはじっとキミの腹を眺めて待機していなくちゃならんのかね? この一年近くずうっとボクは、キミの腹をじっと眺めて辛抱してきたんだ。飽き飽きだね、実際の話。時にはね、男ってものは全然別の風景が見たくなるものなんだよ。ちょっと出かけていって一杯飲むのがなぜ悪い?」  と、どきっとさせるような真実も含まれるが、大体において支離滅裂。酔っている夫を相手に口論するのがまちがいだったが、口惜しくて後へ引けない。 「一杯じゃないでしょう。一晩中浴びるほど飲んだくせに」 「だから言ったろう。家にいて女房が雌牛《めうし》のように食ったり反芻《はんすう》したり寝そべったりするのを眺めていたって、全然つまらんのだよ。つまらんどころか絶望的に気分が落込むね。いいかい、ボクは一人のほっそりとした女を愛して結婚したんだ。機転がきいて、セクシーな女だった」そう言って夫は私の臨月のお腹をじろっと見た。「それが今じゃまるで雌牛だ。ボクはなんと雌牛と結婚しちまったんだ」頭をかかえこんで、大袈裟にうめいた。正気だったらここで私が吹きだしておしまいになっているところだが、お腹に子どもを一人宿しているとユーモアも寛大さも、許容量が極端に少ない。  売り言葉に買い言葉、酔ってはいると言っても相手はひどいことを言う。 「男ってものはね、非常にデリケートでセンシティヴな生き物なんだぞ。自分の愛する女が日毎に、肉体も精神もブタになっていくのを目撃するのは、たまらんことだ。しかもその原因の半分がボクの責任ときた日には、逃げようにも逃げられん。まさに地獄だ」  今でこそ笑いながら書けるが、当時はとうていそんな笑うような気持にはなれない。口論は夜毎に繰り返され、彼はますます理不尽な暴論を吐き、私は私で事実と常識と妊娠の特権をふりかざして彼を責めまくった。もともとこちらに理はあるのだから、窮鼠《きゆうそ》猫を噛《か》むで、夫が手を上げた。  後にも先にも彼に叩かれたのはこの時が初めで最後になったが、三度の妊娠の度に必ずこの種の争いが繰り返された。それも妊婦が夫の支えを一番必要とする妊娠の後期になぜか集中した。  夫が初めて私を打った時、彼はたちまち後悔し、ひどい自己嫌悪に陥り、結局自分自身が一番深く傷ついてしまったので、再び、妻に手を上げるようなことは、妊娠中を問わず二度となかったが、それでも感情が激してくると制止がきかなくなって、私を打つかわりに手近にあるものを壁に向けて投げつけた。二度目の私の妊娠の後期に、彼はそうやって投げた夕食の皿で窓ガラスを割り、三度目の時には、上の二人の赤ん坊に授乳する時に愛用した私の|揺り椅子《ロツキング・チエア》を放り投げて、脚を壊してしまった。  今でもその椅子は壊れたままの状態で部屋の隅にあるので、時々当時のことが話題になると、夫は、「まったくわれながら信じられないよ」と、首をすくめる。「一時的に気でも狂ったんだろうよ」  当時をふり返ってみると、原因は主として私の側に思いやりの欠けたところがあったからだ。カーヴィー・ウィルキンソンに対して抱いた恥らいの十分の一でも夫に対して示していたら、そうはならなかったと思う。  結局私の夫が酔いにまかせて口走った暴言のほとんどは、真実であり、男の叫びであった。彼に対して私はあまりにもなれすぎ、無防備で、その結果彼が追いつめられたような気持になり、錯乱して揺り椅子を放り投げたとしても不思議ではない。むしろその程度で済んで幸運だった。失望や嫌悪のあまり、彼が他の女に走ったとしても、それこそ不思議でも何でもなかったのだ。  それでも数年間、私たち夫婦の間には溝が広がったままだった。  ある夜、とうとう夫が私に言った。 「死んだ魚みたいに冷えた肉体を、とても抱く気にはならないよ」  私が自分の躯に自信を失って性愛に対して消極的になっている時だった。三人の子どもを産んだ女の肉体上の変化は深刻な問題だ。私は劣等感から、結局性愛は肉体の一部分の接触にすぎないのだから、と自分を卑下さえして、うつうつとした夜が蜒々《えんえん》と続いた。 「そんなことを言うのは、私の躯が良くないからよ。もう前とは違うからよ」 「とんでもないよ」と、夫は言った。「ボクは一度だって性愛を局部的なものとして捉えたことなんて、昔も今もないよ」違うんだ、よくお聞き、と彼は続けた。「ボクはキミにもっとセクシーであってもらいたいんだ。セクシーっていう意味、わかるかい? つまりね、生々として常に何かに前向きにぶつかっていく姿。ボクはキミを尊敬できなくちゃセックスはしたくないし、子どもたちの良い母親でもあってもらいたい。そしてね、いつもほほえんでいてくれ。そうしたら毎晩でもキミと愛しあうよ」  その言葉は青天の霹靂《へきれき》のように私の耳に響いた。  それから更に何年もかかって、さまざまな葛藤《かつとう》はあったが、私は夫の言葉の意味を正確につかみ得たと思う。つまり性愛の調和とは、肉体上の問題でもテクニックやヴァリエーションの問題でもなく、ひたすら人間性の向上の問題であったということである。  強いて言えば、夫のあの時の言葉が下敷きとなって、私は小説を書きだしたのだと思う。そして夫のその言葉のおかげで、私は彼を取り戻せたのだと信じる。  いずれにせよ、あれほど忌み嫌っていた妊娠を通り抜けなかったなら、真の女への飛躍はありえなかったことだけは確かだ。このことが前もってわかっていたら、あれほど大急ぎであの時代から逃げだしはしなかったろう。結局、カーヴィー・ウィルキンソンに対しては、私は妊娠を神経質に考えすぎていたし、夫に対しては反対に、あまりにも無神経にすぎたのだ。人間というものは、いつも過ぎ去ってとりかえしがつかなくなって、初めてそのものの価値が見えてくるものらしい。 �産む性�の敗北者として、若いこれからの�産む性�たちに忠告するとすれば、リラックスして、心ゆくまでエンジョイすること、そのひとことである。  女たちのお喋りから 「あのひとは個性的ね」と言う時、普通それは誉《ほ》め言葉である。パーティーの会場で、あるいはランチのテーブルを囲んで、女たちが口にするのは、最新のファッションについてか、ヌーベル・キジーヌを食べさせる小綺麗なフランス料理店に関する情報か、人の噂話《うわさばなし》にきまっている。あるいはそれらを順を追って全部か——。例えばこんなふうに。 「あなたの着ているソニアのドレス、とても素敵だわ」 「ほんと、すごくいい。でもソニアのニットって、誰もが着こなせるってわけじゃないのよね。やっぱりあなたのようにどこか骨っぽい感じの体型じゃないと」 「ところがそれが違うのよ。ほらソニアってウエストのところがずん胴でしょう。多少の贅肉《ぜいにく》が見事に隠せるの。第一、美味《おい》しいものを食べに出かける時なんて、とても便利。こないだもね、これ着てオー・シ・ザーブルって店へ行ったの」 「えっ、どこ?」 「六本木《ろつぽんぎ》。小ちゃなお店なのよ。口づてで評判になって、予約なしではまず駄目ね。ランチが千七百円、オードブルからデザートとコーヒーまでのコースでこの値段だから、混むの当り前なんだけど」 「ヌーベル・キジーヌ?」 「うん、そう。フランス大使館の人たちも来るらしいから、お味は本物よ。このあいだはね、犢《こうし》のソティーに三色のフルーツソースがのったものが出たわ。すごく感激。一緒に行ったK子は虹鱒《にじます》のお料理で、バターソースが濃すぎるんじゃないかって、首かしげていたけど。もっともK子って、そういうところがあるのよ、すごく厳密で、自分でこれはこういうものという尺度が極端に狭いわけ。もっとも良い意味でなんだけど。だからあの日は千七百円のランチより、店内に飾られたお花に感激していたみたいよ。なにしろ店中、それこそ花だらけなの。それもね、赤とか紫とか強い色の花じゃなくて、淡いパステルカラーのトルコききょうとか、カスミソウをふんだんに使って、それがテーブルクロスのはかないようなピンク色とよく似合って、ちょっとマリー・ローランサンの世界って感じだったわ」 「K子って、そういうところ、たしかにあるわ。彼女自身は黒か白、せいぜいベージュぐらいの色しか着ないのに」 「また黒がよく似合うのよね、彼女。黒以外の服を着たK子なんて、ちょっと考えられないわ」 「あのひと、個性的ですものね」  と、こんな具合にK子なる女性は女友だちから最上級の評価を得る。美人ね、とかチャーミングだとか、あるいは知的だとか、スタイルが良いとか、誉め言葉は数かぎりなくあるが、同性から個性的と評価されるのは目下のところ最高級の勲章である。  ところが私の知るかぎり、日本人以外の社会では、個性的であるかどうかということに関してほとんど話題にもならない。個性とは、本来その人に特有の性質で、当然誰もが持ち合わせているもの、すなわち、全ての人がそれぞれ他者とは一線を画して、個性的なのであるのだから。  従って、時々私が主人のつきあいで参加する在日外国人の集まりやパーティーで、個性的であるかどうか云々《うんぬん》の会話は成立しない。女というのは、どこの国の女たちも似たようなもので、ファッションと食べもののこと、それと人の噂話はここでもつきものではあるのだが、その夜のホステスである女主人が着ているハナエ・モリのチョウチョウのパターンのドレスを誉めることから始まり、ホストがすすめる生野菜のスティックにつけるディップに話題が進む。 「あら、このディップのお味、変っているわ。とっても美味しい」 「ありがとう。ワイフのお手製ですよ」 「まあ、ほんと? ね、ジェーン、どうやってお作りになったの?」 「ああ、そのディップね、気に入って下さってうれしいわ。生のたらこをほぐして、泡立てた生クリームと混ぜただけなの」 「グッド・アイディアね」 「私のアイディアってわけじゃないんだけど。実はね、この前クリスティーヌのところで出されたディップのアイディアを借用しちゃったのよ。もっとも彼女はたらこではなくキャビアを使ったんだけど。キャビアはちょっとお高いから、私はキャビアを使わずに頭を使ったってわけ。それで、たらこを思いついたの」 「キャビアの黒ディップなんて、いかにもクリスティーヌのやりそうなことだわ」 「わかる、わかる。あのひとは着るものからインテリアまで全て黒一色なんだから。この間もね、テニスコートで見かけたけど、上から下まで黒のテニスウェアで凝りに凝っていたわよ。黒のヘアバンドと黒のリストバンドに、黒のストライプの入ったシューズ。黒くなかったのは、彼女の肌だけね。でも黒いキャビアのディップとは、おそれ入ったわ」 「彼女はとにかくユニークよ。確かにとてもユニークな存在だわ」  と、ここで、個性的と言うかわりに、ユニークという言葉が出てくる。しかもそれは決して全面的な誉め言葉としてではない。特異な、あるいは奇抜な、といったニュアンスがこめられた、やや揶揄的《やゆてき》な評価である。  彼女たちにとっては、人それぞれ個性的であるのが当然なことであるかぎり、より個性的であるというのは、必ずしも誉めたことではないのだ。  かわりにユニークだという表現を使うが、これは両刃の剣である。たとえば、ヘミングウェイについて、ユニークな作家だと言う時、それは独特な、独自な世界をもつ芸術家であるという意味である。しかし又、好みの問題もあるが、たとえばウッディ・アレンの馬鹿騒《ばかさわ》ぎの部分だけを評して、彼をユニークな俳優だと言う時には、奇抜だ、クレイジーだという意味にもなる。  さて一部の女たちの会話の中で、個性的であることが良きこととして評価される理由は簡単だ。つまり、私たち日本人がどちらかというと没個性的な人間だからである。ひとつには、没個性的な義務教育の期間に、個性の芽をつみ取られてしまうということ。それと人種的に中庸が重んじられ、他人と異なって個性的であることが、つつしみのない、はしたないこととして見られて来た長い歴史というものもあった。  幼稚園の時代から、声をそろえて、「おはようございます」「先生、さようなら」と言わされ、同じ教科書から画一的な教育を受け、同じような間取りの団地の部屋の中で同じテレビ番組を眺め、同じマンガ雑誌をめくり続ける。黒ずんだユニフォームの中で、くすぶったような青春を過し、やがて社会人ともなれば、背広という別のユニフォームで身を包む。全て押しつけられた教育であり、娯楽であり、文化である。選択するとすれば、六つか七つあるテレビのチャンネルのどれをひねるか、あるいは、マンガ雑誌のどれを買うかぐらいで、もっともどのテレビを見ようと、どの雑誌を開こうと、すでに他人によって選択のなされたもので大差はないのである。  こうした中で、個性的な存在であるということは、少なくともそのひとが、何らかのユニークな選択を行なった、という意味に於いて、評価されていい。どちらかと言えば、出る杭《くい》は打たれる式の社会の中で、個性的であるためには、勇気がいるからだ。  私がここで言う個性とは、真の個性である。大体に於いて、私たちが普通に、「彼女は個性的だ」と言うと、第一にファッション的に個性的であることが先行してしまいがちである。まず、ファッションがあって、それからその人となりに眼をむける。すなわち、彼女は黒を上手に着るとか、アクセサリーのセンスが抜群だとか、そういったことだけで、下手をすると個性的であるという勲章を授けられたりする。もしかしたら、彼女のユニークな点は、ファッションだけにしぼられてのことかもしれないのに。  まず、自分自身があって、独自の考えと意見をもち、その結果として彼女の服装がその独自の考えにもとづいて個性的だ、ということになるのが本筋である。まず、ファッションがあって、それからその人となりに反映するということはありえないし、ましてやファッションの面だけで個性的な人をつかまえてきて、彼女の人格は個性的だ、と断言できるはずはない。  彼女は多分個性的であろうとして、今流行の刈り上げ式のヘアースタイルをしているのかもしれないが、同じように個性的であろうとして刈り上げ風の髪をしている仲間とたむろしているかぎり、没個性的でありひどく軽率である。  ヘアスタイルから爪《つめ》の色まで、その人自身の生活や生き方から来る必然性がなかったら、他人の眼に滑稽《こつけい》きわまりなく映るのは、当り前だ。  個性的であるためには、自分自身の独自な考えをもち、その意見を発表しなければならない。この自分の意見を人前で喋《しやべ》るという点にかけても、日本人は非常に劣等だ。単に|恥かしがりや《シヤイ》だということでは片づかない問題がある。  たとえば、こういうことだ。ある有名なゴルフプレーヤーが、イギリスでの試合でホール・イン・ワンをやった。その褒美《ほうび》として、土地つきの大邸宅をもらうというイキな計らいとなった。ひとことそれについて感想を、と試合後にマイクをつきつけられた件の有名なプロゴルファー。「|どうもありがとうございました《サンキユー・ベリーマツチ》」と、一言だけで、頭を下げた。会場が一瞬白けた沈黙に包まれたのは、想像に難くはない。何も英語で喋る必要もなかったのだ。通訳がちゃんと控えていたのだから。  子どもじゃあるまいし、気のきいた科白《せりふ》のひとつやふたつ、出てこないものか、と、その現場にいた日本人記者でさえ、同国人意識もあって、大いに恥じ入り、又大いにフンガイもして、電送してきたニュースである。  まさに、日本人的な出来事だ、と私は思った。件のプロゴルファーが、いきなりマイクをつきつけられて、咄嗟《とつさ》に何か気のきいたことが言えなかったとしても、不思議でも何でもない。彼はそういう訓練を受けたことはないし、機転のきく発想などしようにもできないのである。  たまたま、場がイギリスであったことが、不運だったのかもしれない。機知やユーモアや皮肉を好むイギリスの中にあっては、「ありがとうございました」だけではとてもあいさつにはならないからだ。その前にそのひとらしさの溢れた短いスピーチをして、会場の人たちをニンマリあるいは大いに笑わせておいて、最後に、サンキューと締めくくってこそ大人のスピーチというものだ。  しかしもし、場が英国ではなく日本だったら、それほど問題にはならなかったかもしれない。 「ありがとうございました!」と強く言い切りさえすれば、さすがスポーツマンだ、すがすがしいじゃないか、とかえって誉められるということだってありうる。余計なことをぺちゃくちゃ喋らずに、男らしくて好感がもてる、などと言いだすかもしれない。どちらかと言えぱ、男は無口なのが良しとされる風潮があるけど、内容があって喋らない男と、中味が何もないから喋れない男と、どうやって見分けをつけるのだろう?  私は自分の娘たちが個性的に生きてくれたら良いと、願っている。自分が何なのか、そして何者でありたいのかと、たえず己れに問いかける種類の人間であって欲しいと思う。他人の押しつけや選択ではなく、常に彼女たちの独自の眼で選んだものの中で暮らしてもらいたい。  黒が流行《はや》るから黒を着るのではなく、黒を着ることが自分の生活のパターンにぴったりと合うから着る、というのでなければ困る。  私と夫が絶対に耳を貸さない言葉がある。 「みんながもっているから、私も欲しい」「みんながしているから、私もしたい」  と子どもたちが言う時だ。  実にしばしば子どもというものも、パターンを変えて、他人と同じ舟に乗り遅れまいとするものだ。ランチバスケットがそうだったし、スニーカー、ウォークマン、果ては宗教まで欲しがったこともある。 「それぞれみんなクラスのお友だちは宗教をもっているのに、私だけきまっていないなんて変よ」とインターナショナル・スクールに通っている長女が言った時、夫はこう答えた。 「そんなにあわてて宗教をもって、きみどうするのさ、ランチボックスにつめて学校にもっていくつもりかい?」問題が微妙なだけに、やんわりと笑わせてひとまず片づいた。  テニスがやりたい、コーラス部に入りたいと言うのに反対する理由もないのだが、みんながやるからと一言つけ加えたために、親としては冷淡にノーと言わざるを得ない。みんなと同じことをするのが、なんでそんなに良いの?  時には本当に必要なものもあるが、それが彼女たちにとって必要な理由を説明できないかぎり、かなえてはやらない。最初の内は膨れたりメソメソ泣いたりしていたが、私と夫が一貫してノーと言い続けるうちに考えるという習慣がついた。「みんなが……」という理由が断じて通らないと頭に叩きこまれれば、嫌でも別の理由を探さなければならない。本当に必要なものの場合には、それがみつかる。みつからない場合は、それほど必要に迫られているわけではないので、しばらく膨れているうちに忘れてしまう。そうやって自分が何をしたいのか、何を欲しいのか、そしてなぜそれをしたいのか、必要とする理由は何かと、たえず考えるようになる。  娘たちには個性的な生きかたをして欲しいとは思うが、奇抜であったりエキセントリックであれというのでは、もちろんない。個性とはインディヴィジュアリティーのことであって、誰でもが生れながらにしてもっているものである。その芽をつまないようにしてやりさえすれば、いずれ自ら花咲くものである。  又、個性的に生きるというのは、他人と異なるように生活しろというのでもない。社会生活の中で、人に迷惑をかけたり見苦しくない程度のマナーは躾《しつ》けたいし、自分たちより弱いもの、口のきけない動物や植物を労《いたわ》ること、などは、厳しく教えるつもりだ。できることならクリエイティブな職業についてもらいたいと思うが、これは親の欲目で、クリエイティブな職業でなければ個性的な生き方ではないのか、と言うと、そういうことはない。個性的な母親になることだって、いっこうにかまわない。  個性的であるということは、断じてファッション的傾向であってはならないと思うだけだ。ともすれば日本の社会は、真に個性的である人間を煙たがるし、住みにくい所だ。人々は好んで人混みの中に紛れこみたがるし、他者と同じようにしているかぎりは、心やすらかなのだ。ファッション程度で個性の問題のお茶をにごしておけばまあ害はない。パーティーの片隅で、あるいは女たちのランチの集まりで、「あのひと個性的ね」とやっているうちは、まだまだ真の個性の到来には遠いという気がしてならない。  女たちの長い夜  かつて夜は男たちだけのために色とりどりのネオンを点滅させていた。  そこには多少とも陰湿なセックスのにおいがたちこめ、健全な女たちは眉《まゆ》をひそめて足早に通り過ぎた。  時代が変り、たくさんの女たちが男たちの職場に進出しはじめ、やってみれば自分たちにも、男と遜色《そんしよく》なく充分にわたりあってやれるのだとわかり始めた時、彼女らは顔を上げて、夜の街へとちらばっていった。  女たちを迎え入れて、夜は様相を一変させた。ディスコクラブは、男たちとバーやクラブのホステスだけを相手には、決して生れなかったろう。自由で生き生きとした、自分のお金を使って遊ぶ新しいタイプの女たちを得て初めて、あのカラリとした陽気な遊びの場が可能になったのだ。  男だけのために存在した薄暗いバーにかわって、パブが登場すると、キャッシュ・アンド・デリヴァリーの明瞭さが女性の好みにもあってか、仕事帰りの若いオフィスガールたちが、三人四人と連れだって立ち寄っていく。  男たちが鵜《う》の目|鷹《たか》の目で、飢えたような視線で女を舐《な》めまわしたかつてのバーとは違い、ここにはそんな無粋さはない。  男も女も適当にリラックスし、適当に緊張した快適な雰囲気の中で、会話を楽しんでいる。  酒場が男たち専用の城だった頃、ぽつんと出された素気ないピーナッツや塩せんべいに替って、イギリス風のフィッシュ・アンド・チップスやビーフ・アンド・キドニーパイなどをつまみながら、ジン・アンド・トニックを飲み、すぐ傍で笑いさざめいている外国人のカップルの、さりげない遊び方を観察するだけでも結構楽しい。  パブも、男たちだけではどうにも格好のつかない場所のひとつなのだ。女たちが飲みものを片手に、知りあいの顔を求めて店内を優雅に移動していくさまは、水槽《すいそう》の中の熱帯魚を見る観があり、もはやパブには必要欠くべからざる光景なのである。  さて、ごく最新の情報によると、女の遊び方が更に変りつつあるのではないかということを耳にもし、また、私自身も同様なことを実感しつつある。  すなわち、与えられ受け身であったこれまでの遊びから、彼女たちが積極的に選び、働きかける遊びへと変ってきたとともに、女の性の意識が密室的な薄暗がりの中から、拡大し、光の中へとびだしつつあるのではないか、ということだ。  言いかえれば、ベッドの中で行なわれる性愛だけではもはやあきたらず、夜の遊びの時間の中にまで性の意識が拡散しているということである。  たとえば、パブで、黒い髪のアイルランド系の異邦人に、暁《あかつき》の海のような紫色の瞳《ひとみ》でじっと凝視《みつ》められるのも、愛撫《あいぶ》の一部だとすれば、強烈な光と闇《やみ》とロックに揺すぶられながら踊り狂うディスコダンスは、完璧《かんぺき》な性愛の前戯だと私は思う。もしかしたらこの相手と寝るようなことになっても可とする、自分の狭い好みのタイプの男としか、だから私は絶対に踊りたいとは思わない。  ウイスキーなど、一度も本当には美味《おい》しいなどと思ったことはないが、喉《のど》のかわいた時の最初の一杯をのぞいては、苦いだけでお腹ばかりが膨れるビールよりはましなので、仕方なく飲んでいたが、六本木《ろつぽんぎ》のチャールストンで三年前初めて飲んだ|砕  氷《クラツシユト・アイス》の中のマルガリータやソルティー・ドッグの味に魅せられて以来、あんなにセクシーな飲みものはないと思っている。トロピカル・ドリンクもまた、微《かす》かに性愛の香りがするのである。  長いあいだ男たちの独壇場であった視覚的なエロティシズム嗜好《しこう》も、女たちの中にもどんどん浸透している。視覚的にエロティックな光景を楽しむこの現象も、ごく最近のものだ。ある週刊誌のグラビアを見て、私はその感をますます強くした。  それは、アメリカ人男性六、七人による男のストリプティーズ・ショーの光景で、鉄の鋲《びよう》や鎖をじゃらじゃらとさせた、かなりハード・ゲイっぽい男たちが際どいポーズをとっている何枚かの写真だった。  男たちはそのポーズといい、黒々とした口髭《くちひげ》といい、腰や太股《ふともも》の線も露《あらわ》な黒光りする皮のパンツといい、意味ありげで異様で、圧倒的にエロティックなのだが、私の注意をひいたのはむしろ、そうした男の裸を観賞している女たちの顔なのであった。  それは正直に言って、私がかつて見たことのない、知らない顔だった。新しい顔。驚くほどからりとして陽気で、後ろめたさも、照れもなく、真底からショーを楽しんでいる顔なのである。  多分、男の裸というのは美しいというより滑稽《こつけい》でありユーモラスなのだろう。その上彼らは見るからにナルシシスト風だから、男たちが大真面目《まじめ》であればあるほど、可笑《おか》しさが増すのに違いない。  観客の女たちはお腹をかかえて笑い転げたことだろう。  笑って笑って、涙が出るほど笑うことによって羞恥心《しゆうちしん》も照れもはじけとび、男のブリーフに千円札をつっこむ手つきにも、余裕と遊び心がうかがえる。  なんという自信、なんという笑い、なんという陽気さであることか。  私は長いこと、彼女らの顔から眼が離せなかった。  そう言えば、この表情、この笑いに見憶えがある。  ずいぶん前にテレビのニュースショーで見たアメリカ西海岸のどこかの都市の、ある夜のある光景——素裸の男が踊り狂う舞台をずらりと取り囲んだ、アメリカ女たちの顔。哄笑《こうしよう》し、手を打ち床を踏み鳴らし、歯をむきだし眼を輝かせて楽しむ顔、顔、顔。まさにアメリカでの狂態にそっくりなのであった。  あの時は、度肝をぬかれ、ああ血が違い肌の色が違うと、こうも女は異なるものか、とただただ彼岸の火と眺めていたが、こんなにも早く我が足元に飛び火してくるとは思いもかけなかった。  まして大和撫子《やまとなでしこ》が、あのように手放しで男の裸ショーを楽しみ、喉の奥まで露出して笑い興ずるとは、夢にも想像だにしなかった。  残念ながら、雑誌のグラビアに眼を通す頃には、そのショーは終ってしまい、私自身は観るチャンスはなかった。だから、アメリカ男のストリプティーズ・ショーを眺めて、私自身がどう思い、何を感じ、どのように反応するのかは、定かでない。  似たようなショーに、いつか仕事の流れで連れられて行ったことがあった。似ているというのは、ともに男のショーだという点において同類なのであるが、実際には似ても似つかぬショーであった。  つまり、先のがハード・ゲイであるのに対し、こちらはソフトそのもののゲイ。膨らんだ胸といい、甲高い声といい、仕種《しぐさ》といい、眼配りといい、女以外の何ものにも見えない不思議な男たちのショーであった。  まさに真夜中の十二時の鐘が鳴ると、シンデレラとは逆に、どこからともなく湧《わ》きだしてきた真夜中の倒錯した麗人たちのことはさておいて、ここでも私の眼を奪ったのは客の半数を占める本物の女たちの方の反応であった。  どんなに美しくとも所詮《しよせん》は男であるという安心感が心の底にあるためか、偽の女たちを見る本物の女たちの眼は寛大だった。  彼女たちはゆったりと椅子《いす》に背をあずけ、余裕のある微笑をたやさず、偽の美しい女たちの一挙手一投足を、余さず観察して楽しんでいる。  一方、偽の美女たちの方はというと、おかしなことに、本気で、本物と張り合っていた。  たしかに客の女たちよりは数倍も美しくスタイルも良いのに、悲しいかな、あるべきものがあって、無いものが無い故に、本物の女には最後の一線でかなわない。それをサーヴィスで、身ぶりで、言葉でカヴァーしようとするから、一種異様な熱気で、私などは正直気分が悪くなりそうだった。  しかし、彼女たちが努力すればするほど、逆にこれまた、滑稽なのである。それは、ショーが始まって真剣に女を演じようとすればそれだけ仕種がユーモラスになるのと同じだった。  けなげで可憐《かれん》で、可愛《かわい》いのであるが、滑稽なのである。  ここでも観客である本物の女たちは、お腹をよじり、涙を流して笑った。  決して嘲笑《ちようしよう》ではない。心から楽しんで、あっけらかんとした笑いである。元来が男たちのためのショーであるゲイの舞台をこうして普通の女たちが眺めることにより陰湿になりがちな雰囲気は嫌でもからりと明るくなる。  偽の女に煙草《たばこ》の火をつけさせて、「ありがとう」と、にっこりと微笑《ほほえ》んだ本物の女の屈託のない笑顔がとても印象的だった。  これよりずっと大衆的なゲイのショーを見せる店が新宿にあるが、ショータイムが早いこともあり、客層は圧倒的にこちらが若かった。  六本木の店は上役ふう、おじさまふう、スポンサーふうの男たちに連れられた若い女たちが目立ったが、新宿のここは自分のお金を払って遊ぶ女たちが特徴である。  当然若いオフィスガールや女子大生のグループが目立ち、舞台のかぶりつきを占領しているのもかなりファッショナブルな遊び人ふうの若い女たちなのである。  ショーといってもここのは無粋さをわざと売り物にしていて、バレエ衣装の下からO字形に曲った毛脛《けずね》の足をむきだしにした男たちが、ひどく無器用にショーをくりひろげるのだが、内容のおそれ入るほどのお粗末さにもかかわらず、かぶりつきの若い遊び人ふうの女の子たちの哄笑の明るいこと。掛け声をかけ、手拍子をとり、顔なじみのひいきの踊り子の、平らな胸毛の中へ千円札のチップをねじりこむ手つきもなれたもの。  ここでの笑いは、THE・MANZAIの笑いと同質である。層も同じだし年代もそうだ。飽きやすく浮気っぽく刹那的《せつなてき》で、次の瞬間にはケロリと忘れるのであろうが、今、この一瞬一瞬を肉体で享受しているのが、ありありと感じられる。六本木の店の方が以前からあり、これからも長く生きのびるとすれば、ここのは一抹の泡のように儚《はかな》い一夜の夢のようなものだ。  トップレスパブというのにも、連れて行かれたことがある。  驚いたことが二つあった。  ひとつはまず、男だけだろうと思った客の中に、若い女客の数が目立ったことだった。  女が女の半裸を見たって面白いわけもないと思うのだが、見る方も見られる方もケロリとしている。  同性の裸に批判的かと思うと、そんな様子もない。周囲の男たちよりはよほどリラックスして、料理などあれこれ注文している。  驚いたことの二つ目は、トップレス嬢たちの色気のなさである。  まずとても若いというせいもあって、面白くもおかしくもない。もう少しナルシシズムでもあれば、それなりに怪しい魅力も出るのだろうが、それもない。サバサバ、ポキポキ、肌の手入れも先のゲイの美女たちに比べれば、雲泥の差。若さというか無知というか無神経というか、ゲイの彼女らの女らしさの爪《つめ》の垢《あか》でも煎じて飲みなさい、と言いたくなる。  だがここで最高に面白いのは、客の男たちの反応であった。連れの女の子たちの手前、卑猥《ひわい》なことも言えず、手も出せず、眼のやり場さえもぎこちなく、妙にお行儀がいいのだ。  半裸のいもねえちゃんが右往左往する中で、お行儀のいい借りてきた猫のような男たちと、これとは対蹠的《たいしよてき》に足など組んで、モアの煙などを鼻から吹き出して気炎をあげている若い女たちの、三者三様の醸《かも》しだす雰囲気のなんとも言えぬおかしさ。  ここでも断然、女の旗色の方が圧倒的。女の勝。確かに女たちはどんどん変りつつあるのである。  比較的スノッブな、従って年齢層の高い女たちの遊び場として知られるビーというディスコには(今は多少変っているかもしれないが)、金曜の夜ともなると子どもたちをベビーシッターにまかせて遊びに来る三十代の夫婦のグループ連れが多かった。  五組くらいのカップルがみんな顔見知りだから、踊りの相手を次々と替えて大いに楽しむ。よそのだんなや、他の女の恋人と情人と踊るという楽しみ方が、板についている。  夫婦二人だけできて、ぽつねんと踊っているより、よほど気がきいている。  私もほんの時たまだが、そんなグループのひとつである彼らに誘われて踊りに行くことがある。  どんな人種かというと、普通のサラリーマンというのは少なく、パブリシティー関係やファッション関係などの自由業が多く、その妻たちも、主婦専業というのは少ない。遊んでいても贅沢《ぜいたく》な暮らしが約束されてはいるが、家の中でじっとしているという人種たちではない。大学でフランス語を教えている女性もいるし、インテリア・デザイナーもいる。みんな実に自然で遊びを楽しんでいるのは、男と同じように仕事をもち、精神的に自立しているからだろう。  彼女たちはじっと待って男に楽しませてもらうというよりは、むしろ男たちと一緒に遊びをクリエイトしていく。  他の遊び場での女たちとはっきり一線をひくのは、あくまでも男と女、妻と夫というカップルで行動を共にすることにある。主従の関係ではなく、パートナーとして、完全に一対一の関係である。夫に連れられて夜の六本木へ遊びに出かけていくのではなく、夫と連れだって行くのである。  しかしこれは私の見たところほんの一握りのめぐまれた人種である。その証拠に、グラビア写真で見たナイトクラブにも、六本木のゲイ・バーにも、パブにも、夫と連れだって遊ぶ家庭の主婦らしい女性は一人も見当らなかった。  男たちは女を連れてはいたが、明らかに彼女らは彼らの妻ではなかった。日本の男たちは、なぜ自分の妻でなく別の女を連れ歩くのだろうか?  自分の血を分けた子どもたちを育て、家庭を守ってくれる妻にではなく、ほとんど行きずりに等しい他人の女たちのために、彼らはなぜお金を遣い、楽しませようとするのだろうか?  それは妻たちの落度なのだろうか?  そうした疑問は常に、私の頭の中から離れない。  例えば私自身はよく、夫と連れだって六本木の英国風のパブへ行くが、そこへ顔を出すのは、私たち同様に夫婦連れで来ている顔なじみが多いからである。  けれどもそれは残念ながらほとんど外国人にかぎられる。日本人で妻をともなったサラリーマンなど皆無なのだ。  むろん、パブには色々な人種が来る。  独身の外国商社マンもいれば、遊び人ふうのアラブ系の男たちもいる。灰色っぽい背広姿のサラリーマンたちが一隅で仕事の憂さを晴らしているかと思うと、店のコーナーでは大学生や女の子たちが外国人にまじってダーツを投げて遊んでいる風景もある。  私たちが秘かに半プロスティテュートと呼ぶ不思議な女たちもいる。この女たちも確かに新しい種類の遊び人たちである。  つまり、どんな女かというと、必ず、一人でふらりと立ち寄る。身なりは様々だ。ジーパンに夏なら下着なしのTシャツ姿だったり、一九三〇年代を思わせるでれりとしたスーツ姿に十二センチもあるヒールをはいていたり、まったくニュートラ風だったりで、服装で区別はつけられない。  年齢は二十三、四から三十そこそこどまり。とびきりの美女は少ない。ちょっと不貞腐れて、愛想は悪い。そして、日本人の男たちには眼もくれない。時に酔ったサラリーマンふうが声をかけても、あたし、ニッポン語がわからないの、と言わんばかりに、ぷいと顔を背ける。  彼女たちは入ってくると、まずまっすぐにカウンターに行き、ウォッカ・トニックかブラディー・マリーを注文する。  それを片手にパブの中をゆっくりとデモンストレーションして歩き、外人の男たちのたむろしているコーナーに近づいてそこでたたずむ。  椅子が空いていても、決して坐らない。バッグから煙草をとりだし、立ったまま口の端にくわえて、しばしの間火をつけない。  傍の外人男がそれを見て、ライターの火をつけてくれれば、「サンキュー」と言って、度肝をぬかれるような、嫣然《えんぜん》とした微笑を一瞬浮べるが、それはすぐにひっこめて無表情に戻る。あたかも、あたしは、それほど自分を安売りしないのよ、とでも言わんばかりに。  ところが五分も眼を離していたすきに、彼女はその中の一人に飲みものを奢《おご》られており、十分もするとお互いの腰を抱きあうようにして、連れだって店を出ていく。お金をとるわけではないから、プロではないが、しかしやり方は完全に商売女のそれと変らない。  飲みものを一杯奢られて、お友だちになって出ていくのだから、こちらは何も文句のつけようがないが、そのなりふりかまわぬ性のハンターぶりには、眼を見張るものがある。  パブで知りあった男と女の情事を描いた小説を書いた当の私本人としては、もしかしたら彼女らは第二、第三のいや十人も二十人も後に続くヨーコなのであり、彼らは十人も二十人もいる別のレイン・ゴードンなのかもしれない、と思うと、なにやら複雑な心境になる。  そして六本木の夜は更け、私たちが欠伸《あくび》を噛《か》みしめながら家路につく頃、そうした若い、新しいエネルギーをもった女たちが、どこからともなく現れ、蛾《が》のように光の中へちりばめられていく。彼女たちの夜は蜒々《えんえん》と長いのである。  終電車  パリで嫌いなものが二つある。ひとつは石畳の至るところを汚している夥《おびただ》しい犬の糞《ふん》と、そして地下鉄《メトロ》である。  特にメトロの長いコンクリートの通路に吹く、生温かい風が厭《いや》だった。  プラットフォームは薄暗くうらぶれていた。電車は小さくて乗り心地が悪く、よく揺れた。そして乗り合わせた人々の表情は一様に疲れていて、その眼差しは固かった。  パリが好きでたまらないというひとは、石畳の上の犬の糞にさえも、ある種のノスタルジーをかきたてられるものらしい。メトロ独特のあの埃《ほこり》っぽいにおいも好きなのだという。パリに首ったけ、恋をしている証拠だ。  私は映画の中のパリの街の方がはるかに好きだ。登場人物の心象風景として映し出されると、パリは不思議な哀愁を帯びて燦然《さんぜん》ときらめきだす。メトロさえも、詩情を漂わす。 「終電車」という映画があった。舞台はナチ占領下のパリ。暗い冬。カラー映画であるにもかかわらず、背景のパリはまるでモノトーンのように映しだされていた。  モノトーンではないのに、その印象が強いのは、地下鉄とか地下室、明りの消えた劇場の客座、舞台裏、街灯の光の射さない路地裏、そういった薄暗い背景の中で、ストーリーが展開していったからだ。 「終電車」というのは、象徴的なタイトルであった。それは終電車にまつわる話でもなければ、終電車を舞台にしたストーリーでもない。昔、「終着駅」という名画があったが、あのようにタイトルとストーリーと舞台装置とがせつないまでに密着した映画のありようとは、少し違った。  第二次大戦中の占領下の冬のパリには、夜間外出禁止令が出されていた。人々は映画や劇場がはねると、そのまま地下へ走り降りて、地下鉄の終電車へ殺到した。  戦時中にもかかわらず、劇場は連日観客があふれていた。いや戦時中だからこそ、人々の飢えた魂は、シャンソンの唄声《うたごえ》や劇場の灯を、いっそう切実に求めたのだろう。  そんな劇場のひとつに、テアトル・モンマルトルがあった。経営者兼、演出家のルカ・シュタイナーはユダヤ系ドイツ人であるため、ナチの追及の手を逃れて身を隠さねばならなかった。  ルカの妻マリオンは、劇団を背負って立つ看板女優。南米へ逃亡したと見せかけて、夫を劇場の地下に匿《かくま》う。彼女は、人気のなくなった頃、密かに地下へ降りていって、夫の世話をし、又、新しい戯曲「消えた女」の演出指導を受けていた。  このマリオン・シュタイナーをカトリーヌ・ドヌーブが演じていた。女優が女優を演じるという最もむずかしい役柄だった。  まず感嘆したのは、カトリーヌの美しさであった。文句なしに圧倒された。モノトーンを思わせる暗い背景の中に、この世のものとも思えない美しい一輪の花のように、彼女は咲き誇っていた。おそらくカトリーヌの女としての生涯で最も美しい時期——女盛りの真只中《まつただなか》——に撮られた作品なのだろう。  情念の漂う恐いような美しさだった。それは多分、その綺麗《きれい》な薄い皮膚のすぐ下に、確実に老いがひそんでいるからなのではないだろうか。落日の最後の瞬間、太陽がひときわ絢爛《けんらん》と輝くのに似てはいなかったか。  かつて私はカトリーヌを綺麗ではあるが、ある種の人形のように感じていた。熱い血がどくどくと流れていたり、物を食べたり、排泄《はいせつ》したり、顔を歪《ゆが》めて叫んだり、腹の底から笑ったりするようには、とうてい思えなかった。従って共感を覚えることはできなかった。 「終電車」でも、彼女は人形の面影を大きくひきずっていたが——特に劇中劇ともいうべき、舞台の場面の演技においてそれは著しかったが——あまりにも完璧《かんぺき》なまでの美貌《びぼう》が、全てを圧倒してしまっていた。人形でいいではないか、と思った。彼女なら、今、それが許される。そう思わせたのは、フランソワ・トリュフォー監督の力である。  マリオンは、相手役の若い男優ベルナールに、最初の瞬間から魅《ひ》かれるが、そんなことは|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にもださない。魅かれれば魅かれるほど、逆に彼に対して冷淡にふるまいさえする。理不尽なほど冷たくつき放すのだ。  当然、ベルナールはマリオンに対する激しい憧憬《どうけい》を心の隅にひたかくし、彼女を恐れ敬遠する。  マリオンの自尊心と、夫に対する忠誠心と、女としての恋心の葛藤《かつとう》を、トリュフォー監督は非常におさえた演出で、見事に表現していた。  たとえば、舞台|稽古《けいこ》の後、若い女優と親し気に連れだって帰っていくベルナールを見送るマリオンがふと一瞬だけ見せる表情。あるいは、美貌の女性|衣裳係《いしようがかり》を、自分の眼の前で口説くベルナールを、ちらと一瞥《いちべつ》するその眼の色。又はレストランの場面で、別のつまらない女をエスコートして立ち去るベルナールの後姿を眺める時のマリオンの横顔。ごくさりげない、容易に見過してしまいそうな描写なのだが、それがさりげなければさりげないほど、女の愛の哀《かな》しみが逆にまざまざと露呈してくるのだった。  地下室に身を潜めるマリオンの夫、ルカは妻の胸の内に燃える苦しい炎に初めから気づいていた。  彼は舞台や楽屋から聞こえてくるたくさんの声に、じっと耳を傾けるのだった。そしてその夥しい声や言葉の中から、決してマリオンが(あるいはベルナールが)口にしなかった愛の言葉を、はっきりと聞きとっていた。  密かにレジスタンスに加わっていたことが明るみに出て、ベルナールもまた身を隠さねばならなくなった。マリオンは彼を夫の潜む地下室に案内する。そしてそこでルカの口から、「マリオンは君に夢中だ」とベルナールは聞かされる。  マリオンとベルナールの間の誤解も垣根も、このルカの言葉によっていっきょに取り払われた。二人は、地下室の上の部屋の床で、あわただしく、しかし情熱的に結ばれる。  この後の映画の運び具合と結末は実に見事だった。私はふと、演劇に於ける虚構性というものについて考えてしまった。芝居とは、夢のようにこの世にありえそうでありえないもの、つまり現実でないもの、という認識がたえず私の側にはある。  芝居が現実味を帯びれば帯びるほど、芝居そのもののはかなさも深くなっていく。芝居とは、現実にありそうでいて、実は絶対にありえない出来事を見せるものだ。  その意味で、最後の場面でマリオンとベルナールが演じたどんでん返しの芝居は、フィクションであり、虚構の世界である。にもかかわらず、生々しい現実味を帯びて見るものの眼に映った。  それが舞台劇であるとわかった時、私は心から安堵《あんど》した。安堵すると同時に、同じくらい失望した。  ああ、多分、フランソワ・トリュフォーは、単に安易なハッピーエンドを避けたかったのに違いない、と私はその時そう思った。  最後のカーテンコールで客座の私たちに向って微笑むマリオンの姿は特に印象的だった。彼女は夫ルカと愛人ベルナールの間に身をおいて、二人の愛する男たちの手に、自分の手をひとつずつつらねていた。  あの最後の微笑がひっそりとして美しくこちらの胸を打つのは、彼女が二人の男の心の痛みを知っているからである。その瞬間、カトリーヌ・ドヌーブはもはや人形ではなかった。  三十三歳の痛み  振り返ってみると、二十代というのは、髪振り乱しているうちに過ぎてしまった。なんとか適齢期以内に結婚の相手を探しだし、巣作りに励み、子どもたちを産み育てとやってきて、それで精いっぱいであった。時々、鏡の中をチラとのぞくと、まだひどく若いくせに、疲れた母親の顔があった。慌《あわ》てて、鏡の中から目を背けた。  三十代になって——正確には三十三歳のころ、下の娘が幼稚園に入り、ありあまる時間が私のものになった。最初、それをどう使ってよいかわからなくて途方にくれた。友だちに会い、おしゃべりをし、いつもいきつくところは、女ってつまらないわねえ、夫を通してしか社会と関わりが持てないんですもの、その夫ときたら私たち妻を、せいぜい自分の子どもたちの母親であるくらいにしか見てくれないで。考えてもみてよ、三十三と言えば女盛りなのよ、人生でいちばん、女として美しいときじゃないの。それなのに、連日午前さまで、私たちのことなんてチラとも見てくれない。私のことを、ママ、なんて呼んで。私は夫のママじゃないのにね。ああ、なんてつまらないんでしょうね、浮気でもしてやろうかしら。といっても、日本の男は三十過ぎの女の美しさなんて、ぜんぜんわかっちゃいないんだから、ほんとうに情けない国に生れて損しちゃったわ、と、グチまたグチ。ためいきばかりついていた。  人は誰でも、他人に——それが夫であれ、恋人であれ、複数多数の社会であれ——とにかく認めてもらいたいという願望を持っている。認められ、そのうえなおかつ激しく求められたい、と渇望する。愛されたい、欲望されたい、才能を認められたい、と寝てもさめてもそのことばかり。  私は、夫にもう一度振り向いてもらいたかった。結婚十年の古女房のつづきとしてではなく、女として、そして人間として。それから男たち——好きな男や、友人としての男たち——にも、私の存在を再確認させ、ひいては私を凝視してほしかった。さらにできることなら世界じゅうのすてきな男たち全部に、私のことを知ってもらいたかった。  私はここにいるのよ、ここにいて、女盛りで、そしてこんなにも孤独なのよ、と叫びたかった。三十代の半ばで、女として人間として埋もれてしまうのはみじめすぎた。絶対に嫌だった。  だから、小説を書いた。叫ぶかわりに、慎重に言葉を選んだ。小説を書くということは、世界に対して、たった一人で闘いをいどむようなものだから、絶叫しては最初から勝ち目などないに決まっている。  これは効果的であった。不平不満たらたらで、ためいきばかりついているよりはるかに、夫の注意を魅《ひ》きつける力はあった。好きな男も、大切な男友だちにも、私という女を再確認させることに、成功した。そして何万という人々が、私の書いたものを読んでくれたのだ。  たまたま私は、自己顕示欲が人よりは強く、文章を書くということに非常な喜びを感じる人間だったから、小説を書いた。  私の知っている別の女《ひと》は、油絵を描くことによって生きがいを見出しているし、また他の女《ひと》は、別の新しい男性との出会いに、自分を賭《か》けている。  要は、何でもいい。どんなことでもいいから、自分が打ち込めることに、三十代の女は賭けるべきだと思う。三十代をどう生きるかによって、女の四十代がみじめになるか、あるいは逆に、三十代で蓄積したものの利息で豊かに暮らせるか、どちらかに分かれるからだ。そして実は、自分のことを振り向いてもくれない夫への不満をあれこれいう前に、もしかしたら自分自身が、精神的にも肉体的にも豚のように肥《こ》えてしまってはいまいか、単なる寄生虫のような日常に堕してはいないか、と反省することから、三十代の女の生き方が始まるのではないだろうか。  決断するということ  私は、普段の生活において、できることなら決断というべきものを、避けて通りたい。何かが形をとりはじめ、私に決定を——それも即座の決定を迫りだすと、息ができなくなってしまうのだ。  私は逃げられるだけ逃げまわり、しかし結局終りにはギリギリの線にまで追いつめられ、あげくのはてに滑稽にも悲劇的にも、「白」と言うべきことをしどろもどろに「黒」などと答えてしまうありさまなのである。  人生というものは、自分にとっては言わば未踏のジャングルのようなものだから、あらかじめ進むべき道すじなどはついていない。従って常に岐路に立たされる。前方に絡みあうツタや生い繁《しげ》る樹木を、自力で切り開いて進まなければならない。それも素手でだ。  当然手は傷つき、マメができ、血に染まる。「左」へ行けばよかったところを、「右」と決断したばかりに深傷《ふかで》をおってしまう。つまり、何かを決めるということは、必ず痛みをともなうということなのである。できることなら、痛いめなどあいたくはない。だから、決断すべき時を、私は先へ先へと引き延ばす。  その最も良い例が、小説を書くということであった。私は子どもの時から、小説家になりたいと、漠然と思っていた。二十歳の時、フランソワーズ・サガンを読んで、漠然とした思いは、ひそかな決意に変っていた。  にもかかわらず、私は三十五歳の夏まで原稿用紙を開けることはなかった。ある意味で、長い長い年月を、私は、書くという決断を避けて、生きてきたのである。  物を書く、ということが、どういうことであるのか、私にはわかっていたような気がする。私の父の机に向って黙々と書き続ける後姿の寂しさと憔悴《しようすい》とを、ずっと目撃してきた私には、あの同じ寂しさとあの同じ憔悴の中へ、自分自身を沈めることは、なんとしても避けたかった。避けることができないのなら、少なくともその時期をずっと後まで遅らせたかった。それが三十五歳でようやく、小説を書き始めた理由でもある。  なぜ三十五歳かと言えば、その年齢が一人の女にとってのターニング・ポイントにあたるからだ。それまでの巣作りや子育てに、きゅうきゅうとしていた日々から、突然解放される日が、どんな女にも必ず訪れる。人生の折り返しの場に立つ日が。自分自身と、自分の未来——老いと死と——をみつめる時が、くる。  私はその時に、小説を書くことを決断した。十七歳や二十歳の時には決してできなかったこと、なかった勇気が三十五歳の時には、あった。ごく自然に、ずっと昔まかれた種が芽を出し、ツボミをつけ、やがて一輪の花が開花するように、そんな具合だった。  今では、私の娘たちが机に向かう私の後姿を眺めている。私の背中は、娘たちの眼にどんなふうに映《うつ》るのだろうか。  ためらう時  以前結婚とは、真に自立していない男と、全く自立していない女の結びつきであった。男は山へ柴刈《しばか》りに、女は家でじゃぶじゃぶ洗濯。外と内の役割分担がきちっときまっていて、お互いのテリトリーは不可侵だった。というより、女は外の、男は家庭内の仕事の内容に皆目無知、手も足も出せなかった。つまり、半人前同士が二人集まって、ようやく一人前となれた。従って結束は固かった。  一九七〇年代に入って、様子が一変した。  世界中にウーマンリブ旋風が吹きまくり、ご多分にもれず日本でもその煽《あお》りをまともにくらって、若い女たちの結婚観がぐらつき始めた。あちら側でジェシカ・ラングやシエア・ハイトがショッキングな著書及びリポートを発表すれば、こちらでは榎美沙子、中山千夏、そして先頃亡くなった市川房枝らの立派なリーダーたちが声高に女の自立を説いた。  一方男たちは、リブなんぞブス集団の空騒ぎだと、たかをくくって、テレビのプロ野球やポルノ、週刊ジャンプだか少年マガジンだかに現《うつつ》をぬかしていた。男たちの代表者でめぼしいニュースを提供したのは田中角栄とロッキードのスキャンダルくらいのものであった。  そして何が起ったか。個に目覚めた女たちからの離婚要求のノロシが次々に上がり始めた。それは一種の社会現象にまで拡大した。七九年調査の総理府の発表によれば、結婚を望まない未婚の女性は四人にひとりの割で出現した。そして結婚したカップルの六分の一が確実に離婚をしている。  結婚のあり方についての疑問が到るところで提出され、女たちはパニック状態に追いこまれ、哀れな男たちはひどく居心地の悪い立場に置かれた。専業主婦なる新語が生れ、彼女たちこそ女の自立の足をひっぱる存在の元兇《げんきよう》として、弾劾《だんがい》された。気の弱い専業主婦の何パーセントかは、先を争ってパートタイムの職についた。  そして八〇年代。現在、何が起りつつあるのか。結論から先に言えば、男たちが自立し始めている、ということだ。 �どうやら、女を養わなくてもいいらしい�という最初の半信半疑の呟《つぶや》きが、次第に男同士の囁《ささや》きあうひそひそ話になり、いずれはそこここで声高に叫びたてられる大合唱にまで発展しそうな兆しなのだ。  七〇年代に女たちが、�女の幸せ�に目ざめたように、今男たちも男としての�個の幸せ�を真剣に考え始めたのである。  妻や子の幸せのために働き蜂《ばち》となり、企業に肉体と魂を売り渡し、その代償に得る金でささやかなマンションを買って愛するものたちを住まわせ、教育をほどこし、妻を着飾らせる——男らしさの図式が狂いだしたのである。  女が男の所有物であることを嫌い、表現と行動の自由を確保するために、自立の道を歩き始めたことが、まさに男を�男らしさの神話�から解放したとは皮肉な話である。中には、夫は欲しくないけれど子どもは欲しいと堂々と言ってのける女たちもいて、実際に私生児を産んではばからない。  このように首かせを外された男たちが、手探りで自立の道を歩き始めている、というのが現状ではないだろうか。  やがて彼らは、経済的にはもちろんだが、精神的にも社会的にも家庭的にも、一人立ちをし、自由の空気を呼吸し、個の生活を楽しむようになる。そして同じように一人立ちをしている個としての女と意気投合して、満たされなかった部分をお互いに埋めあう。それはたとえば別居結婚という形をとるかもしれないし、共同生活といったことになるかもしれない。あるいは、意気投合する相手が必ずしも異性でなくてはならないというわけでもない。同性の友人との共同生活だって大いにありうるし、事実増えていくだろう。おそらく一九九〇年代は、離婚したシングルをも含めると、シングルの時代、特に男の独身者が急増するのではないか。  このように、結婚そのものの概念は大体十年単位で変って来たように思う。  しかしいつの時代にも変らないことが、ひとつだけある。それは結婚相手であれ同居の相手であれ、形式はどうでもいいが、生涯の、あるいは当面の伴侶《はんりよ》を選んでしまった時、誰もがふと襲われる底知れぬ不安感——�果たしてこの人でいいのだろうか�——という呟き。  考えてみれば、自分がこれから数年、長ければ五十年以上一緒に暮らすかもしれない相手なのである。離婚率が増えたとはいえ、最初から離婚を頭において結婚する者はいない。  なぜ、この人なのか。BでもなくCでもなく、この人でなければならない理由は何なのか。  もう何百回ともなく反芻《はんすう》したことを、再びやりなおす。つまり、Bは自由業で収入が不安定だった。Cはどちらかというと神経質で胃炎タイプ。四十代で胃ガンにでもなられたらこっちは子どもをかかえてお手あげだもの。その点この人は超一流とは言えないまでも安定した企業のサラリーマンだし、海のスポーツもやっていたから身体も丈夫だ。おまけに次男。煙草は吸わないけどお酒を飲みすぎるのが難と言えば難だけど、全然飲めないような男は逆につまらないし……結局、この人でいいのではないか。第一、愛しているじゃないか、この人を。やっぱりCでもBでもなくこの人なんだわ、私が結婚するのは。これは運命なのよ、そうよ。生れた時から、こうなるように、運命の糸で私たちは結ばれていたのよ、この人と私は——。  さっきまでの不安な思いはどこへやら、一転してバラ色の運命論のおかげで幸福感に包まれて浮き浮きする。ウエディングドレスのレースの具合を指先で直しながら、夢は果てしなく拡がっていく。最低五年間は仕事を続けなくてはと、思う。女の仕事は子どもができるまでの腰かけであってはならないもの。できたら七年は働きたい。でも子どもは是非二十代のうちに産んでおきたい。絶対に女の子。一人でいい。子どもが二歳になったら私は又働きに出る。井の頭線の郊外にマンションを買うつもり。けれどもそれは全て夫の収入と退職金でまかなうこと。私の収入は将来夫が退職したあとの転職のために貯金する。小さな花屋兼、美味しいコーヒーを飲ませるお店を持つのが、私の計画。  絵に描いたような幸せ。可愛い奥さんであり、自立した働く女でもあり、一児の母であり、そして魅力的に年を取った中年の店主でもある私。  しかし、長い人生、波風が立たないわけではないだろう。夫が浮気をするかもしれないし、私に他に好きな男ができるかもしれない。不況が深刻になって、夫は失業するということだって、ありえないわけじゃない。  だがそういうことは、Bにだって起ることだし、Cだって同じことだ。Bはもしかしたら成功してマンションを何軒も所有するようなお金持になるかもしれないが、でもそのかわり女も何人も作るにきまっている。Cはその点浮気など絶対にしないタイプ、というよりできないのだ。全然浮気のできそうもない男なんて、男としては面白味はない。実際されては困るけど。しそうでいてしないのが理想だけど……。やっぱり私の夫はこの人でいいんだわ。あれこれ言えばキリがないもの。  だがなぜか空しい。全く同じようなマンションの窓の中の、全く他人と同じような団らん。カーテンの模様まではっきりと見えるようだ。花柄。白いデコラのシステムキッチン。ガスの上で湯気をたてている冷凍食品のシチュー。七時半、玄関でカギの廻《まわ》る音。背や肩のあたりに年齢以上に疲れを滲《にじ》ませた夫が、帰ってくる。週一回、土曜日の夜のセックス。  Cだったら月に一回がせいぜいだわね、その頃には。でもBなら、土曜の夜なんてきめないで、月曜の朝だってセックスするかもしれない。私が仕事に遅れるから嫌よって、本当はちっとも嫌じゃないけど一応そう言って拒むと�仕事なんてやめちまえ�なんて横暴なことを言ったりする。�俺《おれ》がきみを養ってやるよ。つまりきみは俺って男の所有物なんだ�そんな言葉を言われたら、女はまいるだろうな。私だって毎日オフィスで働くのに疲れている。俺がおまえを養ってやる、なんて言われたら、蜜《みつ》のように響くかもしれない。この人は、でもそんな科白《せりふ》は言いそうもないけど。男も女も自立しているべきだ、とそういう考えの上で共感したのがそもそもの始まりだったから。死んでも�君は俺の所有物だ�なんて言うわけがない。疲れるだろうな、そういうの。ほんとうにきっと、疲れるだろうな。  彼女は空想の中でげっそりと疲労してためいきをつく。けれども空想は止むことなく、ひとりでにどんどん回転していく。空想の中で十年後のこの人までが、ぽつりと言う——。�ボクは何だかこういう生活にひどく疲れた�白いシステムキッチンの中で、相変らずシチューの匂《にお》いがしている。彼の肩はまるで十トンもの巨石を置かれでもしているかのように歪《ひず》みを見せている。——�何言っているのよ、疲れたのはこっちの方よ。家事も育児も分担はかけ声だけ、結局私がほとんどやってきたのよ��ボクだってできるかぎりの努力はしたよ。子どもを一度でも保育園へ送って行かない日が、あったかい? どんなに前の夜が遅くても、風邪《かぜ》で熱があっても、とにかく保育園へ連れていくだけはやり通した��当り前でしょ。私だって同じことよ。どんなことがあったって歯を喰《く》いしばって保育園へ迎えに行ったわ。でもだからどうだっていうの? それがルールでしょ��疲れたんだよ。ただ、どうしょうもなく疲れた�そして顔を上げてこの人はこう呟くのだ。�別れたい�と。  ウエディングドレスが、袖を通すばかりになっている。彼女はさめた眼で純白のドレスをみつめる。この人との結婚が危機に陥るのは眼に見えている、と思う。  かと言って、明日に迫った式を、どうやって回避できるというのだろうか。  運命的な出逢《であ》いだって? 運命の糸に結ばれていたって?  冗談じゃないわ。全て偶然だったんじゃないか。急にあの時夕立にならなければ、あの本屋に駈《か》け込んだりしなかった。本屋に駈けこまなければ、一冊の雑誌を手にとりはしなかった。なぜあの雑誌に最初に手がのびたのか。「マリーン・スポーツ」なんて名の雑誌の存在さえ知らなかったのに。ただ、表紙の写真に興味をそそられた。弓形の水平線と、白い砂浜と、蒼《あお》い球形の海面。雨が降っていて、心が憂鬱《ゆううつ》だったから、砂の純白な輝きと、あくまでも蒼い海の色がやたらと郷愁を誘ったのだ。買うつもりはなかった。しかし、手にとったとたん、髪や肩先から落ちて来た雨の雫《しずく》で雑誌を濡《ぬ》らしてしまった。悪いような気がして、止むなくレジでお金を払った。「マリーン・スポーツ」を胸に空を見上げていると、横から若い男が声を掛けて来た。�もぐるの?�と彼は水の中を泳ぐ身ぶりをして笑いかけて来た。冬だというのに日に焼けて、歯の異様に白いのが目立った。それがBだった。ドキッとした。言下に否定したら、それきりになってしまうような気がして、あいまいに�そういうわけじゃないけど�と答えた。 �じゃどういうわけだか、話して聞かせて欲しいな�と彼は言って腕時計を眺めた。 �遅れたのは奴《やつ》の責任だから、もう待つ必要はないんだ。それに野郎と逢うより女の子と海底の神秘について話すほうが何倍も楽しいものな�  強引に腕をとられて、雨の中へとび出したとたん、後ろから�おい待てよ、そんなのってあるかよ�と、男の声がした。�ボクはおいてきぼりかい�それがこの人だった。  もしあの時、雨が急に降らなかったら、そして、本屋にとびこまなかったら、「マリーン・スポーツ」などという雑誌を買わなかったら、Bに声をかけられなかったら、そして雨の中へBととび出すのが一分早かったら、私はこの人に決して出逢わなかっただろう。あまりにも偶然のもしが重なりすぎる。運命などではないのだ。単なるアクシデント。そうだ、この人との出逢いはアクシデントのようなものなのだ。  眼から鱗《うろこ》が落ちたような気がする。  ではアクシデントではない男女の出逢いはあるかと言えば、そんなものはないのだ。男と女はそんなふうに危ない絶壁のふちで出逢って、ともに奈落《ならく》を見下ろすのだ。その時人は誰でも目眩《めまい》を覚えるものだ。人生の孤独に、その長さに。だからその瞬間に、自分の眼の前にふと立ち現われた相手に、すがりつきたいと思うか、思わないかがわかれめのような気がする。  お互いに手を差しのべあって、ほっとするかどうか。それで人生の共犯者がきまるのではないだろうか。  それは彼女の場合Bではなかったし、Cでもなかった。彼女がふと奈落を見おろして目眩を覚えたのは、遅れて来たこの人であった。  結婚を明日に控えて、もし取りかえしのつかないような不安な心境に全然陥らなかったとしたらその方がはるかに不自然である。心身のバランスのとれた女なら(男もそうだが)人生の裏と表が見えて当然である。  私自身のことを言えば、私には婚約解消という傷がある。言わばかすり傷程度のものだが、もし、あのまま強引に結婚していたらとうていこんな傷ではすまなかったはずだ。  もっとも私たちの結婚が将来必ず暗礁《あんしよう》に乗り上げるだろうと最初に気づいたのは相手の方だった。婚約の解消も従って彼の方からの申し入れであった。彼は誠意を尽くして私を説得し、とことん私にわからせようとあらゆる努力をした。  にもかかわらず私にはわからなかった。お互い惚《ほ》れぬいている相手と結婚するのがなぜいけないのか。そのことを納得できたのは、ずっとずっと後のことだった。  つまり別の男と出逢って、奈落を見おろして目眩を覚え、結婚し、若い夫婦が経るあらゆる種類の葛藤を、血みどろでくぐりぬけた後のことであった。ああ、あの人は正しいことをしてくれた、と、ほとんど感謝の気持を昔の婚約者に対して抱いていた。今の夫とならどうやらくぐりぬけることができた最初の十年ほどの夫婦の闘いを、彼とではとうてい闘い抜くことはできなかったろうと、それはもう身をもって納得したのだった。  今でもその人とは友人同士である。私は彼の妻にはなれなかったけど、友人にはなれた。そしてそのことをよかったと思うし、誇りにも思っている。むしろ、彼が私を彼の妻にしなかったことは、彼が私にしてくれたことのなかで、一番喜ばしいことだったと、今なら、私には言える。  考えてみれば、その人との結婚を間近に控えていた時、私には一点の不安も疑問もなかった。ただただ、ひたすらに幸せだった。それは夢のようで、あまりにも理想的で、現実味に欠けていた。事実、そうだった。結婚は実現しなかったのだから。私があの期間頭に描いていたのは砂上の楼閣《ろうかく》であった。  それに比べると、現在の夫との時には、たえず不安に悩まされた。相手も同じことだったと思う。それは単に自分たちの結婚が国際結婚であるとか、やがて生れてくる混血の子どもたちの問題とか、将来自分たちがどこに住むようになって、どんな人生を送ることになるのか皆目見当がつかない、というような次元の不安とは様相を異にしていた。そういうことはむしろどうでもよかった。自分たちの人生の一年先の生活さえも予想のつかないような波乱にとんだ人生の方が、ずっと面白いし、それが私には合っていると思ったから。十年先には日本にいないかもしれないし、私も夫も全然別のことをやり始めているかもしれない。二人とも南の島に憧《あこが》れているから、彼はゴーギャンのように絵を描き、私はその頃にはヴァイオリンを止めてしまって、小説でも書くかもしれないと、半分は冗談のように、半分は本気でそんな想像をめぐらした。  それでは何が不安であったかというと、まことに単純——�この人でいいのだろうか�であった。なぜこの人なのか。それは式の直前まで津波のように繰り返し私を襲い続けた疑惑だった。  そして結果は——この人で、良かった。この人だったから、今日までやってこれた。この人でなければ、ならなかった。この人がいなかったら、今日の私はなかった。  あの結婚を控えた日々の不安が深かった分だけ、疑惑が執拗《しつよう》だった量だけ、今日私が手にしている喜びの量は大きい。それを単に喜びと言ってしまうのは本意ではないが——物には全て影があるように、味にも苦味もあれば酸味もあってこそ甘味が甘味でありうるように、人生に於ける喜びも又その裏に同じ量だけの辛酸をなめなければ、存在するはずもないのだから——私が結論めいたことを、これから結婚をする若い女の人たちに申し上げるとしたら、もし、�この人でいいのだろうか�と結婚の相手に不安を覚えることが一瞬あったとしても、それを恥じたり恐れる必要は全くないのだ、ということである。  むしろそういう不安を抱かない結婚の方が眉《まゆ》つばものなのであり、不自然なのである。  何はともあれ、女たちがうかうかしてはおれない時代である。こちらが�この人でいいのだろうか�とやきもき悩んでいる間に、相手の男たちがどんどん変っていっているからだ。彼らは九〇年代めざして、変貌《へんぼう》しつつあるのだ。彼らが「結婚」に対する信仰を投げ捨てようとしているのだとしたら、女たちはもはや�この人でいいのだろうか�などと言ってはいられない。もう一度「結婚」に男が好むようなたくさんのおまけやフロクをつけ直して、男たちの信仰をとり戻すよう努力するか、そうでなければ、彼ら同様、我々女も�結婚�信仰に終止符を打たなければならないだろう。いずれにしろ女には厳しい時代になりそうだ。�この人でいいのだろうか�と思えるうちが花である。   3  失恋日記  突然思いたって、三年連用日記帳というものを買いもとめた。十九歳の時である。  いったん物ごとを心にきめてやりだすと、必ずや最後まできっちりやり遂げないことには、どうにも気の収まらない性格なので、それが億劫《おつくう》で、私は何か事を始めようという気持にはなかなかなれないのだが、この時は例外。十九歳、二十歳、二十一歳、いかにも何か面白そうな事がありそうな三年間ではないか、と予感がひらめいたかどうかは忘れたが、これが奇《く》しくも三年にわたるめんめんたる失恋の連用日記になるとは、夢にも考えなかった。  日記にかぎらず物を書くという行為全般に言えることだが、幸せでニコニコしている状態の時には、書くことなど何もないように思われる。  傷口があって、そこがじくじくと膿《う》み、たえず痛んでいなければ(そしてもし傷が乾いて塞《ふさ》がりかけていたら、自分の指で傷口をもう一度押し開いてでもして血を流させなければ)紙の上に文字を埋めていくという作業には、私は入れない。  従って私自身が日記らしきものを書いたという時期は、当然のことながら混沌《こんとん》や不毛の季節と一致している。十九歳からの三年間と、ずっと後になって小説を書くようになる一年前の数か月の間に限られる。  現在私が男と女の別れ話に執着して書くのは、何のことはない、失恋以外の体験を知らないからである。そして失恋についてなら、私は熟知していると、公言してはばからない。  〈十九歳の日記から  1959.9.2〉  ——野の花のように——  名も知らない小さな野の花が  野生でいた時の可憐《かれん》さと尊厳とを失《な》くして  ただ痛々しく ぐったりと  グラスのふちに身を投げかけている  かつて星のようだった花のひとつひとつは  うちひしがれて  色褪《いろあ》せた古い写真をみるよう  名も知らない小さな野の花を  野生に戻して下さい  可憐さと尊厳とをもって  星のように咲きほこれる元の野に  もう一度連れ戻して下さい  私が泣いているのは そのためです  〈二十歳の同日の日記より  1960.9.2〉  僕は船頭のいない船には乗らないと、友人が言う。いつ身投げするかもしれない船頭と一緒の航海も、やっぱりごめんだ、と。  友人よ、あなたは、孤独の海に身を投げて溺《おぼ》れかかっている私に向って、手を差しのべて救いあげてくれるかわりに、そう言ったのです。  私にはそのまま波に呑《の》まれてしまうこともできたのに、なぜか歯をくいしばって舳先《へさき》によじのぼったのです。自力で。寒々と疲れ果てて。歯の根もあわぬほど屈辱に震えながら、口の中で呪《のろ》ったのです。よし生きてやる、それならいっそのこと生き続けてやる、と。  あなたは、私が、私の小さな舟の舵《かじ》に再び手をかけるのを見届けた上で、はじめて私の背中をさすってくれた。温かい大きな手で。無言で。  誰かに痛切に必要とされていない状態で生きていくことは、むずかしいことだわ、とその手の温《ぬく》もりについ甘えて呟《つぶや》いた私に、僕がいるじゃないか、と偽りの優しさで私を騙《だま》さなかったことで、今日、あなたは二重に私を救ってくれたのです。友よ。  〈二十一歳の日記から  1961.9.2〉  お酒を飲む時だけ、猫のようにやすらぐ。椅子《いす》は杏色《あんずいろ》だった。空になったグラスの中を刻《とき》が過ぎていった。トロトロと溶けだしていくのは、埃《ほこり》っぽい緊張。  もうこの足は、私の兵士ではなくなって、うつらうつらと重く怠惰の仮眠。猫の私は、眼に憂鬱《ゆううつ》を一杯たたえて、ひたすら長く拡がりのびていくだけ。外は雨。ああ、でもあなたは、今夜も私とではなく他の女《ひと》のところへ帰っていくのね。雨が止んだら。  (この時期私は妻のある男性に恋をしていた)  〈三十五歳の日記から  1975.9.2〉  夏が終ろうとしている。久方ぶりに泡立《あわだ》たない胸の、微かな不安の波間に、悲しい傷をたくさん隠しもってはいたが、傷口が痛みださないかぎり、心はざわつかない、泡立たない。  嵐《あらし》のように狂っていた六本木《ろつぽんぎ》での最後の日々。未練が肉体的なものならば、刻が手助けしてくれよう。あるいはもうひとつの馴《な》れた肉体によって。そして未練がもし、精神のものである場合、柔らかい高原の緑の風と、たくさんの眠りが、忘却に手を貸してくれるかもしれない。  今、私は躯《からだ》の隅々までたんねんに洗い清め、マニキュアも、眼の囲りの隈《くま》どりもさっぱりと取り去ってしまった。不在感と肩を並べてこれから生きていくのには、この血の気のない表情が何よりも似合うから。  (この日記は、一年後に私が初めて書いた小説『情事』の導入部の文章の原形となった)  〈再び十九歳の日記から  1959.12.23〉  手紙が来ているかどうか、ポストを七回のぞいてみた。一日が、あの人からの電話を待つだけで過ぎていく。母は、Fは美しすぎるから、あなたはきっと不幸になると、言った。  それにしてもいったい、私は急にどうしてしまったのだろう? ヴァイオリンを手にする力もない。するとやっぱり母は言うのだ。あなたのように不器量な娘は、手に職をつけておかなければ、将来きっと不幸になる、と。  (Fという美青年への片思いの恋は、この直後に終っている)  〈二十歳の日記から  1960.12.23〉  あなたは若く、ひもじげな飢えた狼《おおかみ》のようでした  私を愛したのは 過失だったので  あなたは傷つき 痩《や》せていきました  私はと言えば  あなたへの思いに酔い  次第に膨れて  悲しく肥《こ》えていくばかりなのでした  (妻のある男との恋愛。中原中也に心酔していたので、その影響がみられる)  〈二十一歳の日記から  1961.12.23〉  ブリトンのシンプル・シンフォニーだけを一日中聴いていた。でないと、あの人の不在にもろに直面してしまうからだ。でないと、決してかかるはずのない電話を待ったり、来もしない手紙が届くのを期待するあまり、疲れ果ててしまうから。N先生が私に、将来どうするつもりなのかと、聞いた。オーケストラに籍を置くつもりなら、もっとお勉強しなさいよ、と。オーケストラどころか、ヴァイオリンそのものに愛情がもてなくなっているのに、私は何と答えれば良いのだろう。  (芸大三年の時。私はある青年と婚約していたが、たえず人間関係に不安を抱いていた。そのためかどうか、この婚約は一年の後に破棄されてしまった)  〈三十五歳の別の日の日記から〉  時々、自分が母親だということを忘れることがある。第一、子どもたちのために何かを犠牲にしたり、衝動を抑えたという記憶もない。常に自分が大事であって、私自身の魂が安らかでなければ、他の誰《だれ》をも幸せにしてあげることはできないと、頑《かたくな》に信じている。  ところが、私の魂がかつて安らかであったためしなど、一度もないのだ。  娘の一人が、「マミー」と叫びながら私に飛びかかってくると、時に私は心底|驚愕《きようがく》してしまうことがある。マミーですって? 誰? あっ私。そうよね、私がマミーよね。  読みかけのアップダイクから眼を上げて、幼い娘の濡《ぬ》れた瞳《ひとみ》にしげしげと見入る。なあに、どうしたの?  ころんじゃったの、そして痛かったの、マリアちゃん。泥で汚れた頬《ほお》の上を大つぶの涙が滑り落ちていく。  そう、転んだの、そして痛かったのね。じゃ、イタイノ イタイノ トンデイケー、マリアノ ホッペカラ トンデイケー。もう痛くないわね? さああっちへ行って、もう一度遊んでいらっしゃい。  そしてマミーを、又本の中に戻してちょうだい。マミーではなく、ひとりの女に返してちょうだい。  けれども私の思考はもう本の頁の行間へは戻ることができず、過ぎ去った日々へと、さまよい出していく。  私たちの愛は不毛な砂の城。二人で確かに築き上げはしたものの、寄せては返す波に洗われて溶けて流れていった砂の城。今では記憶の中にしか存在しない夏の儚《はかな》い思い出。  それすらも、私の中に吹くさまざまな風によって風化していく。  この記憶がすっかり風化して消え去ることを恐れるあまり、私は小説を書いた。私は自分自身を表現せずには、もうにっちもさっちもいかなくなっていた。一日が非常に長く感じられた。とめどもなく歩きまわったり、毛糸玉を買って来てセーターを編んだりした。気がつくと泣いていた。  この時期の空虚な飢餓感、不在の感覚は、失恋の感情と酷似していた。そしてこの二つの感覚が私の創作の核となった。  しかし小説を書くということは、日記を書くのとはまるで違う作業だ。つまり日記には非常にあいまいなものがある。  小説を書くということは、たった一人で世界に闘いをいどむようなものだ。一人よがりやあいまいさがあってはならない。  かつての失恋日記を下じきに、私はいくつかの物語を短編集に書いたが、不思議なことに、何かに決着をつけるという快感があった。ほとんど肉感的な快感であった。それはどういうことかというと、日記では、恋のせつなさをめんめんと述べるだけである。失恋の苦しさをくどくどと書きつらねるだけである。もやもやとした不満がどうしても残る。  小説では、決着がつけられる。自分の恋のしまつがつけられる。そういう意味で、二十年近く昔の日記を、ようやく現在書き終ったという気持が強い。  私の青春は失恋の連続であった。おかげで、今、物が書ける。失恋の切り売りをしているようなものだ。もし、私が非常な美人で、男の子にもてていたら、何の不満もないわけだから、従って私は小説を書くようにはならなかったかもしれない。満たされなかった過去の思いに憤怒しているからこそ、物が書けるのではないかと、三年連用失恋日記を閉じながら、複雑な思いである。  青春譜  今、芸大というとみなさんの頭に、ヴァイオリンと海野義雄さんのことが思い浮ぶと思うので、このあたりから書き始めようと思う。  ヴァイオリンは私の専攻であったし、海野さんは確か私が芸大に入学した年に卒業したか、前年あるいは前々年に卒業した先輩である。  しかし個人的には彼を知らないし、言葉を交わしたこともない。四年の学生生活の間に、三度だけ、ちらっと見かけたに過ぎない。  けれどもその三度ともに印象は鮮烈であった。  現在もあると思うが、当時音楽学部には�キャッスル�という名の食堂と喫茶室をかねた学生の溜《た》まり場があった。そこへ彼はふらりと、現れた。  鼻の先と顎《あご》と肩とで、風を切るような歩き方で、足早に、滑るがごとく、さっそうと海野さんは�キャッスル�に入って来た。  不思議なことに、昼食時の混雑にもかかわらず、彼の前にすうと一本の道が開けるような具合に、学生たちは黙って身を引いた。そこを彼はニコヤカに、オウヨウに、優雅に通り抜けて行った。大抵の学生たちより頭ひとつ背の高い海野さんの浅黒い顔が、群衆の中を行く王様のように、新入生の私たちの眼に映ったものだ。  彼が母校をどんな用で訪ねて来たのかは、わからない。おそらく図書館で音楽関係の資料を調べるためか、恩師を訪問するためか、あるいは上野《うえの》の文化会館でその夜N響の演奏会があって、昼の練習の休み時間にひょいと近くの母校に寄ってみようと思いたったのか、そんなところだろう。  若くしてN響のコンサートマスターの地位を獲得した海野義雄さんには、一種独特の風格があった。スラリと背が高く、あの頃はまだ痩せていて、色あくまでも浅黒く、ひどく格好が良かった。それを黒い上等のスーツで包み、いつもイキな蝶《ちよう》ネクタイを締め、左肩でナナメに風を切るようにスイスイと歩くと、見惚《みほ》れるくらい格好が良かった。  別の見方をすれば気障《きざ》で、気取っていてイタリアのジゴロに似ていなくもなかったし、時々ギョロリと光る大きな眼と、黒いスーツのせいで、シカゴあたりの新米ギャングをホーフツさせる感もあったが、むろん新入生の私にはそのような意地の悪いボキャブラリーがあるわけではなく、最年少のN響コンサートマスターとしての才気と才能と貫ロクとに、ひたすらおじけづいていただけである。  一芸にずばぬけてひいでていたのだから、もちろんジゴロも新米ギャングも、悪意のある中傷でしかない。  生れついての天才などいないのだから、他人よりひいでるためには、人の何倍も練習しなければならない。時間と肉体と精神のすさまじい闘争と葛藤《かつとう》とがある。すなわち彼は勝った人なのである。  事実、彼は勝利者があたりに匂《にお》わす雰囲気を、多分にスノビッシュで虚栄的ではあったが、特にその鼻の先に強烈に漂わせていた。  話を少し元に戻そう。ヴァイオリン学生はもとより、全音大生に一目置かれていた海野さんが風のように現れ、彼は数人の後輩に愛想良く言葉をかけ、一杯のコーヒーを飲み終るだけそこにいると、再び、左の肩先で空気を切り裂きながら、風のように立ち去って行ったのである。  彼はよく、これはと思うような女の子に視線を止めると、ニッコリとひどく魅力的に微笑した。すると当の女の子は、ぽっと頬を染めた。彼女は、自分に笑いかけておいて足早に歩み去っていく長身の海野さんの後ろ姿が、奏楽堂の方角に消え去るまで見送って、彼が完全に視界から消えると�嫌ね、ウンノさんて。キザね、私、嫌いヨ�とそう言った。どの女の子も異口同音にそう言った。けれどもあまり嫌っているふうでもなかった。  海野さんから凝視《みつ》められたり笑いかけられたことのない私は、言いたくても�ウンノさん、嫌いヨ�などとは言えなかった。二十年も昔のことである。  私は音楽学部の食堂�キャッスル�が大嫌いだった。そこには半ば制服化しかかった黒いスーツを着て、油で髪の毛をテカテカ光らせている言わば、海野さんの弟分みたいな男子学生と、ストイックにツンと取りすました女子学生とが、いた。彼らの何人かは音楽という孤高な芸術を、しかも大学という場で学ぶにはおよそ程遠い、信じがたい内容の会話を、そこで話した。  昼でも夜でも、彼らはなぜかオハヨウゴザイマス、と言いあい、例えば「東大のオーケストラでのアルバイトに、一万二千円もらった」と、そう言うかわりに「東大オケのトラで、|C万D千《ツエーマンデーセン》もうけた」とそんな言い方をした。  ツエーセンとかゲーマンなどと耳に汚く響く言葉を黒スーツの学生たちの口から聞くと、私は鳥肌を生じ、おじけづいてというよりは、その響きがひたすらおぞましく、早々に逃げだした。一年もすると全く�キャッスル�へは寄りつかなくなって、道路をへだてた向いにある美術学部の食堂へ、もっぱら通うようになった。こっちは山谷《さんや》あたりの食堂といった風情で、そこで食事をとる学生の服装もボロボロのジーパンに薄汚れたTシャツと、労働者風であった。みそ汁に焼き魚定食とか、納豆、天ぷらなどのメニューも、�キャッスル�のAランチ、Bランチ、Cランチと呼ぶ洋食風のお上品なのに比べると、おかしいほど違っていた。�キャッスル�のおばさん(というよりはマダム風)が�声楽科のお嬢さまぁー�とか�ヴァイオリン科のお嬢さまぁ、ご注文のAランチ、できましたよぉ�と、黄色い声をはり上げると、一方のオオムラ食堂(という名だったと思うが)のオカミさんは、「ホラ、焼き魚定食できたヨ! さっさともってきな!」という具合だった。  油絵具臭かったり汗臭かったりするが、美校の学生は|C万D千《ツエーマンデーセン》などとは口が腐っても言わなかったし、概して音校の学生が自分の専攻する音楽に関する会話と、お金のこと、女の(あるいは男の)話しかしないのに比べて、美校の方はボキャブラリーも、内容も多岐にわたっていて、実に面白かった。 �オタク、学内演奏に何|奏《ひ》くつもり?�と、音校の男子学生が言うとオタクという言葉に虫酸《むしず》が走ったが、美校の油絵の汚い学生に、�おまえ、ヴァイオリンなんて、弦に馬の尻毛《しつぽ》こすりつけて、何が面白いんだ?�と、恋人でもないのにおまえと呼ばれても全然気にならなかった。私は完全に音校ばなれ、音校の落ち零《こぼ》れであった。  当時音校には、レッスン室と練習室からなる四階建ての新校舎があったが、そこへ一歩足を踏み入れると、ありとあらゆる音がしていた。  防音ドアの厚い壁を通してさえ、トランペットやトローンボーンの音は強烈に流れ出て来たし、テノールやソプラノはロウロウと響き渡った。時折それに三味線や琴《こと》の音が混じり、ヴァイオリンがヒステリックに悲鳴をあげたりして、普通の人の神経ではちょっと耐え難い音地獄なのである。声楽科の連中など、楽器を持ち歩くわけではないから、長い廊下を行ったり来たりしながら、ウォーとか、アァアアーとかターザンのごとき奇声を発する。そういうのが到るところで右往左往している中にまぎれこむと、慣らされているとは言え、精神病院にまぎれこんでしまったのではないかと、思わず眼をむいてしまうのである。中には、ノドの奥まで見せて、大声で発声をやりながら、分厚い胸板を両手のコブシで叩《たた》いている、ゴリラ風のテナーもいたりして唖然《あぜん》とした。  そういう時、きまって逃げだすのが奏楽堂であった。この古い明治時代の建物は、歩くと床が抜けそうだったり、所々ゆらゆら揺れたりしていた。  けれども舞台を底に沈めた型の奏楽堂は、夏でもひんやりとして、まるで古い教会の内部にいるような静寂が、いつもあった。  たいてい誰かが学内演奏会をやっていたり、オーケストラや弦楽合奏の練習に使われたりしたが、私が好きだったのは、オルガン科の学生が、そこにしかない巨大なパイプオルガンを練習している時であった。連続する倍音のせいで私は気が遠くなったようになり、意識がもうろうとして一種独特の快感に襲われる。精神と肉体とが微妙に溶けあった官能的な喜びの時間である。  それでなければ、練習用の個室が満員であふれたチェロ学生が、ひっそりとチェロを練習しているところに、行き当ったりする。人気の全くない薄暗い奏楽堂の、蒼《あお》い空気の底で、チャイコフスキーのチェロコンチェルトなどピアノ伴奏なしで練習していられると、泣きたいほど感動した。それは人の叫び声にも似て、こちらの魂を揺さぶるのであった。  同様の意味で、トランペットも好きだった。誰にも見られていないと信じて、ただひたすらに楽器を演奏する時、人はなんと無防備で孤独に見えたことか。トランペットの音も又、人の叫びに似ていた。  奏楽堂はこのように、私の避難所であり安らぎの隠れ家でもあったが、別の時には恐ろしい試練の場となった。  ここで、学期末の試験が行なわれたし(舞台に立って、教官や、学生たち〔出入りは自由〕の前で、奏《ひ》くのである)、卒業するまでに一度は必ずやらなければならない自分自身の演奏会——学内演奏——もここで、そして卒業の試験演奏もここで行なわれた。  私は学内演奏に、フランクのヴァイオリンソナタの全楽章を奏いた。その頃、将来ヴァイオリンで身をたてるという計画を完全に放棄してしまっていたので、これが最後のつもりで全精力を注ぎこんで、演奏会までもっていった。数人の友人——主として音楽学部以外のと、担当教官のN先生が、ひっそりと聴く前で、私は私の生涯で最良の演奏をした、と今では思っている。  さて、奏楽堂が厳しい試練の場であったという証拠に、二十年以上たった現在でも、私は奏楽堂の夢を見る。悪夢である。  それは、いつもきまったひとつの夢で、試験の当日で、私の番なのである。私は、曲の暗譜ができていない。私だけがそうなのだ。実際にもそうであったが、夢の中で私は練習の絶対量が圧倒的に足りなくて、曲目を諳《そら》んじていないのである。冷たい汗と脂汗とにまみれて、いつもそこで眼覚める。  私の芸大に於ける四年間というのは、実際に冷や汗と脂汗にまみれた連続でしかない。  昭和五十七年度の芸大音楽学部の募集要項を見ると、一学年の総学生数は二百二十七人である。私の時代には一、二割少なかったのではないかと思うが、それほど大差はない。全学生数が絶対的に少ないのは、レッスンが全くマン・ツー・マンの個人教育だからである。その中の器楽科というのが九十五人(現在)、更に細かく分かれて弦楽器が二十七人——これがヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ハープと専門グループに細分される。ヴァイオリン専攻は、せいぜい二十人前後である。  この二十人は常に、同じ弦楽合奏の教室から、オーケストラへ、又はオペラオケへと、メダカの集団のように行動を共にするが、言ってみればお互い全員が激烈なライヴァルなのである。誰が誰より上手《じようず》で、誰の音楽性が誰より秀れているか、などということは、最初の一週間で知れ渡ってしまう。弦楽合奏やオーケストラの席次もそうだけど、どの教員が担当につくかでも、明々白々なのである。  第二ヴァイオリンの最後方で奏《ひ》いていた人間が、どんなに練習に励んだところで、所詮《しよせん》コンサートマスターにはなれない。せいぜい、二つ席順が上がれば成功である。従って同じ専攻学生はみな敵なのであった。  一学年の一学期の弦楽合奏の顔合わせの、つまり最初の日に、何かのまちがいで、どうしたわけか私はコンサートマスターの隣に自分の名前が張り出されているのを見て、仰天した。  何かのまちがいであることは、当の本人の私自身が一番良く知っていたが、私の背後に並んだ十八人のヴァイオリン学生の全員も、同様にそれを感じていた。  当然、私の背中に突き刺さる十八対の視線があった。なんと、入学早々、何かのまちがいで、私は十八人の敵を、もってしまったのである。不運と言えば不運、運命と言えばまあ運命であった。これが私の音楽大学の四年間に於ける、最初の(あまりにも早すぎて訪れた)挫折《ざせつ》である。  身分不相応の椅子は、当たり前のことながらおそろしく座り心地が悪かった。弦楽合奏の時間が近づくと、胃が引きつって必ず痙攣《けいれん》を起したし、考えるだけで胸がむかついた。  同情してくれたのは、コンサートマスターだけだった。彼女は大変に才能ある人で、才能があるゆえに、そして女性であるゆえに、コンサートマスターの席は、私とは又ぜんぜん異なる意味で、辛く孤独であったのに違いない。  ずば抜けた才能にめぐまれた彼女の背中に突き刺さるのは、嫉妬《しつと》の、羨望《せんぼう》の視線であった。私などに当てられるより何倍も厳しい、それこそ鋭い剣のようなものだ。三十八の剣の視線。  しかし彼女はビクともしなかった。口を固く引き結んで、背筋を痛々しいほどピンと伸ばして、完璧《かんぺき》に、優雅に、そして孤高に私たちの上に君臨した。彼女は林瑶子、現在の新日フィルのコンサートマスターである瀬戸瑶子さんである。私がどれだけ彼女に傾倒したかという証拠に、私は彼女の名をほとんどそのまま、ペンネームにしている。林が森になっただけである。彼女には一言の断りもなしで。彼女は私を許してくれるだろうか。  ずば抜けたトップと、落ちこぼれの私との取りあわせは、しかしずいぶん哀《かな》しいものであった。私は背のびをしなければならなかったし、彼女は私に同情を抱いていた。私たちを結びつけていた唯一の理由は、私たちがそれぞれに異なる理由でソガイされていたからである。  やがて、その彼女は一年ほどでアメリカへ留学してしまった。私はただ一人の友情を失うことに気も狂わんばかりに悲嘆にくれたが、同時に、心の奥底で重荷がとりのぞかれたようにも感じていた。  事実、重荷はとりのぞかれた。私は彼女に少しでもふさわしくあろうとそれ以上背のびをしなくてもすんだのである。それから、弦楽合奏のあの針のムシロのような場所へ、自分をムチ打つようにして運ぶのも、止めてしまった。  一か月もすると、私の席には当然次席の学生がくり上がっていた。それだけではなく次々と順ぐりにくり上がっていて、空いているのは第一ヴァイオリンの最後列の内側であった。身分相応の席であった。にもかかわらず、そこは相変らずひんやりと冷たくて、結局私の椅子はいつまでたっても温まらず居心地が悪いのであった。それが二年目のことである。  三年目には更に下降線をたどり第二ヴァイオリンの彼方《かなた》へ、そして最後の学年では、まったくオーケストラへ出席しなかった。従って私の席は、なかった。  以上が落ちこぼれの概略の一部である。私の落ちこぼれについてのエッセイではないので、これ以上書かない。  ヴァイオリンの楽器に関する最近のスキャンダルについて、最後に少し触れておく。  私自身はスタイナーという外国製のおんぼろヴァイオリンを所有していた。この三流か四流の大昔のヴァイオリンは、音量が弱く、鼻にかかった哀しい音を出した。更に情けないことには、毎年梅雨の頃になると湿気のせいで、ニカワがあちこちでハガれ、私は何度も楽器を修理に出さなければならなかった。  当然、私の担当の教官は私に、�もう少しましな楽器をお父さまに買っておもらいなさいよ�と言った。もう少しましな楽器がいくら位するものかと、おそるおそる聞いたら、当時で約八十万円。今のお金の価値で言えば多分五百万円位だろう。  特に貧乏ではなかったけど金持でもなかったので、私は父にヴァイオリンを買い直してくれとは言わなかった。  けれども、弓だけは、先生の忠告に従って、六万円くらいのを買ってもらった。たとえ趣味で先々ヴァイオリンを奏くのでも、それまでの私の弓というのは、二千円くらいの玩具みたいな代物だったのだ。  考えてみれば当時の六万円といったら、この間海野さんが神田アンド、何とかというところから贈られたという、何とかいう弓と同じくらいの値打ちものだ。私はそのお金をしっかりと握って、当然のように一人で、梅沢(という行きつけの楽器店)へ行って、勝手に選んで、買った。担当教官が、梅沢へ行きなさい、と言ったわけでもなんでもない。  当時はそんなふうであった。よほど高価な買いものでもないかぎり、梅沢かヤマハ楽器あたりへ出かけて行って(せいぜい友人同士で相談しながら)勝手に買ったものだ。  もっとも何百万円、何千万円もするヴァイオリンを買うとなれば、教官に相談もし音を聴いてもらったろうと思う、多分、そうしたであろう。  しかしながら、私たちの時代には、まだ何百、何千万円もする楽器に手を出すような学生はいなかった。  それでもかりに、そうして先生に音を聴いてもらって、高価な楽器を買ったとすれば、もしかしたら、何がしかの金額を謝礼に包んだかもしれない。もっとも何十万という額ではなく、せいぜい数万円だろうと思う、あるいは、菓子折ですませるかもしれない。  教官の方でも、そんなものはいらない、と拒絶したかもしれない。あるいは、黙って受けただろうか。そういう事は、やってみなかったのでわからない。時代が違うのだから、仕方がない。  いずれにしろ、たとえ月謝にしろ、当時はまだ、お金をやりとりすることに、後ろめたいような、照れのような、罪悪感のような、お金は汚い、というような風潮があったように思う。だから月謝のようなものを払う段にも、おかしなくらいコソコソと、そっと、楽譜の下に差しこんでくる、というふうな具合であった。  だから、何百万もする楽器を見てもらったから、と言って、たとえ数万円でもお礼を包む、ということはなかったのではないかと思う。  現に、私が芸大入学前に一年間ついたU芸大教官(入学前に芸大教官につくのはその頃でも既に常識で百パーセントがそうだった)に対して、入学のお礼は、確か民芸調のランプであったと記憶する。それを伊勢丹で求めて母とともに、先生のお宅を訪ねた時、民芸調のランプがもし先生のご趣味に合わなければ、こんな贈りものはきっとかえってご迷惑ではないか、と恐れたのを覚えている。  先生は、玄関口でニコニコ笑って�やぁありがとう�と受けとられた。私は、ほっとした。でも今でも、あのランプは先生のご趣味ではなかったのではないか、と思う。それは現在の私の心の小さなシコリである。  悔恨のモーツァルト  独断を承知であえて言うなら、バッハをほんとうに鑑賞できるのは、彼の曲を演奏でき、例えばハープシコード・ソナタをスカラッティやヴィヴァルディのそれと比較でき、バッハを偉大な作曲家たらしめているあの独創的精神が真に理解できる人間だけであろう、と信じるコリン・ウィルソンの考えに、私は基本的に賛成である。  同様に考えるならば、モーツァルトの曲を実際に演奏できなければ、あの清潔、正確、繊細な精神、弾《はじ》けんばかりの充溢感《じゆういつかん》に、直かに触れる喜びは得られない。  幸運であり不幸でもあることに、私は六歳の時からヴァイオリンを習わされていたおかげで、モーツァルトのピアノとヴァイオリンのためのソナタの大部分と、ヴァイオリン・コンチェルトの一番から七番までを勉強している。(私たちはヴァイオリンを毎日練習したり復習《さら》ったりすることを、ある力をこめて勉強すると、なぜか言った)  幸運であるというのは、ソナタやコンチェルトを通して、ある一時期、モーツァルトに接触し得たこと。無限に精神的であるゆえに、そこに生じるある種の飢えのために、かえって非常に肉体的にも感じられた、例のはじけんばかりの充溢を体験したという意味において、幸運であった。  不幸であるということの意味は、全てのモーツァルトを十二歳頃までに奏《ひ》き終ってしまったこと。  ご存知のようにモーツァルトの楽符面は容易《やさしい》。子どもの教材としてはうってつけである。ヘンデル、バッハ、モーツァルトと勉強してきて、指がまだ柔らかいうちに、メンデルスゾーンや、ラロや、パガニーニを奏いておかなければならない。  教材として、大急ぎで、あまりにも楽々と奏いてしまったこと——これはとりかえしのつかない不幸である。おそらくは、きわめて肉体的な快感をもって、もしかしたら肉体的な快感のみをもって、モーツァルトを通り過ぎてしまったのかもしれない、と思うと、歯ぎしりするほど悔しい。今なら、もっと楽しみながら演奏できるであろうに、と考えると、実に無念でならない。(ヴァイオリンを手にしなくなって久しいので、今ではもうテクニックが追いつかないからだ)  モーツァルトというとすぐに思い出すのがメニューインの神話だ。  ユーディ・メニューインの子ども時代のモーツァルト演奏には、独特の歌いまわしによる(多分彼の個性的なポルタメントの使い方によったものだろう)子どもの無垢《むく》によってはじめて可能な美しさがあったと言われるが、五十歳近くなった頃のレコードを聞くと、意識的に統御されたモーツァルトを聴くことになる。つまり、頭脳的な解釈による演奏なのである。子どもには、曲の解釈など問題ではない。子ども時代のメニューインにおいては、その確かな本能が、モーツァルトの音楽風景を完全に、自然なものとして把握《はあく》したものと思われる。 「十五歳の少年メニューインが燃焼させた、あのヴィルトゥオーソ的な激しさは、ト長調コンチェルトの三楽章(ロンド)において、最も音楽の内容に正確にかなっていた。なぜなら、この楽章のスコアは、彼がこの曲に与えた鋭さと激しい男性的性格を要求しているからである」——この少年時代のヴィルトゥオーソ的な天衣無縫さこそ、モーツァルトの真髄なのではないだろうか。後のメニューインには、この天衣無縫さが失なわれてしまって、緊張感に欠けるロココ的優美さに変ってしまっている、と指摘したのは、J・ハルトナックである。  こうしたことを考えると、果して現在私がヴァイオリンを手にして(芸大時代のように色々な曲が奏《ひ》きこなせると仮定しての話だが)、モーツァルトの、例えばソナタの二十一番を奏くことが、果して良いことなのかどうか、怪しくなる。  ユーディ・メニューインと比較するつもりは毛頭ないが、私も私なりの小音楽宇宙において、少女時代、非常に素敵なモーツァルトが奏けたのではないか、と考えるのはかすかに慰めである。  ポルタメントやヴィヴラートや、弓の使い方が頭による解釈でなく、純粋に肉体的な発動であった方が、モーツァルトのもつロマンティックできらめくような音楽風景に同化できるということは、想像に難くない。  ハイフェッツのモーツァルト世界は、今までに述べてきた意味で、感動的である。清潔さとか、高貴さ、謙虚さといったものをモーツァルト演奏に求める評論家は眉《まゆ》をひそめるかもしれないが、モーツァルト自身が生きていたら案外|膝《ひざ》を叩いて喜ぶかもしれない。要するに彼も又彼のやり方において天衣無縫そのものなのだ。  いかにもハイフェッツらしくて、思わずニヤリとしてしまうたいへんに我流のアーティキュレーションの行ない方。音楽を感傷的に堕落させてしまう過剰なポルタメントの乱用。ニ長調のコンチェルトのロンドに至っては、あまりにも速く奏きすぎアレグロ的性格をむき出してしまっていること、などから、どんな結果が引き出せるのか。  それでもハイフェッツはハイフェッツなのだということ。並みの人間など足元にも寄せつけないような彼自身の世界があり彼においてはモーツァルトが単にきっかけとなって、ハイフェッツ自身の芸術体験を、我々の耳に展開させてくれるのである。モーツァルトが、単に彼の音楽世界へのきっかけ、橋わたしに過ぎない、ということ(ベートーヴェンも、チャイコフスキーも同じことである)は、実に愉快ではないか。たとえどんなに、ハイフェッツが肥大した審美的音楽の知性の持主と呼ばれても、私が許せるゆえんである。ハイフェッツは六歳の頃から、私の神さまだった。今でもそうである。そして私は彼のモーツァルトを嗜虐的《しぎやくてき》な快感をもって聴く。  アポロに恋して  芸大の美術学部の建築科にひどく姿のいい男が一人いた。二十年も前のことである。ギリシャ彫刻のアポロに、ゲルマン系の血を混ぜたような、険《けん》のある骨っぽい顔立ち。もちろん一目惚《ひとめぼ》れだった。  まともに当れば、砕け散るのは、やる前から眼に見えている。そう簡単に散りたくないのが人情だ。そこで手紙作戦ということになる。手紙美人という言葉があるかどうか。とにかく私は手紙美人だった。手紙でならどんな男でもくどき落せる絶大な自信が、その頃の私にはあった。アメリカ大統領であろうが、ウォーレン・ビーティーであろうが、である。  で、建築科の彼に書き送った。アポロから一週間後に、電報みたいな返事。OK、マコさん、ジローにて四時に待つ。それでも愛《いと》しき方の肉筆。大成功だった。  当日は約束の十五分前に、お茶の水のジローに着いた。黒いセーターに黒いスカート。マリー・ラフォレの真似《まね》をして、いつもそんな格好だった。  入口が一眼で見渡せる一階の奥に坐《すわ》って、待つことしばし。  四時ジャスト、アポロが入口に立った。さすが建築科。時間はアキュレイト。ところが彼、一階などはチラとも見ずに二階へトントンと駆け昇っていくではないか。  待ち合わせれば普通はまず一階を覗《のぞ》いて、それから上へ行くのが順序というものではないか。ま、その逆もあるものか、としばらく待ったが、いっこうにアポロは降りて来ない。ひどく不審に思いながら、私の方から上へ昇っていくことにした。時間に十分も遅れてしまったような具合で、はなはだ不本意だ。  ぐるりと二階をひとまわりしたが、アポロはいない。まさか、と今度はシラミつぶしに探そうとしている私の眼の隅に、階段を駆け降りていくアポロの姿。  冗談じゃない。私はいるのよ、ろくに探してもくれないで帰っちゃうなんて、ひどいじゃないか。と、コーヒー代も払わずに飛び出して後を追った。  ところがアポロの足の早いこと。走るがごとく逃げるがごとく駅へ、改札へ、ホームへ。  逃してはならじと、転がらんばかりの私。ホームでやっと彼をつかまえることができた。 「ごめんなさいね?」と息を切らせながら私。なぜか謝ったりする。 「時間遅れちゃって。見たらあなたが駅へ向うんで、追いかけて来たの」 「ぼくは元来、一分も人を待たない主義だから」とクールに苦笑して、アポロもこれ又、嘘《うそ》。  私たちは十分ばかりホームで立ち話をしたが、彼が一方的に喋《しやべ》り続け、私は何も聞いていなかった。というのも、ハタとある事実に気づいて、眼の中が真赫《まつか》になってしまったからだ。つまり彼は初めから計算して二階へ行ったのだ。トイレかカーテンの陰に身をひそめて、手紙の主の正体を盗み見ようとしたのだ。気に入らなければ、さっさと雲隠れしてやろうという魂胆《こんたん》だったのだ。設計図は緻密《ちみつ》だった。しかし若い娘の自尊心は千々に乱れたことは、言うまでもない。以来、私はラヴ・レターに幻想を抱かない。従ってウォーレン・ビーティーになど金輪際書かないのである。  手 紙  前略  『別れの予感』の表紙を送ってきたので、感想をひとこと、と電話に手をのばしたのだけど、ハタと考えて手紙にします。  ハタと考えたのは、税金をお国に毎年四百万円近く払っているような人は、電話口でのんびりシロウトの戯言《ざれごと》を聞いている寸暇もあるはずはなかろうと、こちら税金を逆に四十万円ばかり払い戻して頂いている立場の女としては、受話器をとりかけた手がつい萎《な》えようというものです。  さて表紙ですが、繊細でいいですね。あまり繊細にすぎて、気恥かしくなるくらいよ。つまり、私自身はそれほどデリカシーがないから。  あの写真は、まさかあなたのオフィスの窓からパチリと撮りおろしたものじゃないでしょうね。あるいはそうなのかしら。電柱に見憶《みおぼ》えがあるもの。とすると実にいい加減じゃありませんか。もっとも電柱というのは、どれも同じだけど。  私は、煙草《たばこ》止める、止めたい、止めたと、あちこちで喚《わめ》きちらし、かつ書いているのに、その本人の表紙にゴロワーズなどがひょいと置いてあるというのはどうかしら? でも白地にコラージュというのは、とてもきれいですね。特に白い地に、煙草の白がなんとも言えずいい。  今度、集英社の松嶋義一氏と逢《あ》って下さい。千編近くの応募原稿の中から『情事』を発見した人です。男の色気のある人よ。JJの小井さんと同種の男の色香のことです。  話は変りますが、某社のO嬢は、あなたのオフィスへ行くと、なぜかオタオタとドジばかりふむと言ってくさっているのよ。なぜかしら、と思って。  靴を脱がされるからじゃないかしら? 若い女性が、男たちのいるところへ一人乗りこんで、靴脱ぐっていうの、あれは危機感よ。私でさえ、なんとなくやばいなと思うもの。地上五階、出口はひとつの密室であることだし。  いい表紙をありがとう。   一九八一年 春                    森 瑤子  Kへ  『傷』の表紙、さっきS社の松嶋さんから電話で、非常に面白い線で頂きました、と報告がありました。  非常に面白い線いってるって、どういう表紙だろう? すぐにでも駈《か》けつけたいのだけど、軽井沢《かるいざわ》からではそうもいきません。  さてこちらでは例によって、雨の晴間にテニスをやり、雨が降れば蜒々《えんえん》と本を読み、馬鹿《ばか》正直だからついそういう事を電話口で喋《しやべ》ってしまうと、それではあなた一体いつお書きになるのですかと、すばるの永田氏とかK社の渡辺氏が声を震わせ、ああしまったと背骨にそって冷たい汗が流れ落ちていくという日常……。  A賞の選考委員会とかいうところから、十六日の夜の私の在りかを明らかにせよとの連絡があったので、下北沢《しもきたざわ》の電話を書いて速達で出しておいたところです。軽井沢でも良かったのだけど夫や子どもがいるから。独りで居たいという思いがあったのね。落ちても入っても、その瞬間の無防備な姿勢を人目にさらしたくないじゃない。たとえ夫や子どもたちであってもね。  そういう理由だから、担当編集者の一人が、一緒に居ましょうかと言ってくれた申し入れも、断りました。同じ事情で、あなたのオフィスで連絡を待つというあなたのアイディアも、気が進まない。  ところであなたも莫大《ばくだい》な税金払ったりマンションを買い集める趣味の悪いことは止めて、新進の女流作家に投資してみませんか? 手始めにA賞に入選したら、私にミンクのコートを一着買ってくれるというのはどうかしら? どうせ入らないのだから、うんと言いなさい。そして落ちたらA賞より、夢と消えたミンクのコートのために、私、うんと泣くんだ。   一九八一・七月二日                    Y・M  Kへ  霧が出ています。霧ってとても陰鬱《いんうつ》なのよ。ロマンチックだなんて、ぜんぜん嘘。あんまり濃いので、咳《せ》きこみながら仕事しています。窓の透きまとか、ドアの下のわずかな空間から、毒ガスのようにしゅうしゅうと侵入してくるのです。  実は一件、お断りしなければならない事情が生じました。  というのは、先日のあなたの手紙の中から二か所、私の小説の中にどうしても引用したいところがあるのです。  でも心配しなくてもいいのよ。なにしろ私と違って、あなたはボロは出さない。後日人眼に触れても顔が赫《あか》らむような事は、一切お書きにならない。それに比べると私の方は、ご存知の通り惨たんたるもの。  引用させて頂いたのは、作家論のくだりと、抑制のきいた文体について云々《うんぬん》といったところです。  更に正直に告白すれば、この手紙がそちらに着く頃には、原稿は出版社に渡ってしまっているから、毎度のことですみませんが、事後承諾ということになりますか。(でもお伺いをたてるだけでも、格段の進歩と思って下さい)  今日はヘミングウェイの『海流の中の島々』のキューバ編を読み、その中でマルレーネ・ディートリッヒとおぼしき女性と、ヘミングウェイ自身とおぼしき男性とのあいだに交わされる長い会話に、ひどく興味をそそられました。いつか読んで欲しいのだけど。  しかしまあ、あなたは読まないと思うので、一箇所《いつかしよ》抜スイしてみましょうか。 「——でもあなたという人は、女は寝てかわいがるだけで充分だと考えている。女があなたのことを誇りに思いたがっているなどということは、全然考えない。こまごまとした情愛ってことも考えない」  と、ディートリッヒとおぼしき女が言うのです。「どうしてもっと困ってくれないの、私があなたには必要なんだという気にさせてくれないの——ただ、よこせ、持ってけ、腹一杯だから下げろ、なんて顔ばかりしないで」ここで私はクスリと笑ったのです。 「本当は尊敬しているんだよ、俺《おれ》は。あんたが今までやらかし、これからもやらかす愚にもつかんことのすべてを尊敬している」  と、ヘミングウェイとおぼしき男がこう答えるわけです。こんなふうに男に言わせることができれば女|冥利《みようり》につきるというものよ。 「二人に乾杯。そして二人がこれから犯すすべての過ち、すべての損得に乾杯」と、こうくるわけね。やはり彼にとっても絶対に裏切らないのは、どうやらお酒だけらしい。時には手厳しいしっぺ返しをくらうけど——二日酔のことよ——甘くみるなよ、なめるなよ、という忠告を受けとめ、今宵《こよい》も仕事は早々に片づけ一杯|飲《や》りましょうか。  二つのグラスに金色の泡立つやつを注げないのは残念ね。今宵、グラスはひとつ。  しかしお酒はやはり金色を帯びて泡立つことでありますし、私はめでたく悪魔祓《あくまばら》いとまいりましょう。つまり、あちこちにヒトデのように貼《は》りついている言葉の亡霊を洗い流すという儀式。  さすがお酒は期待を裏切りませんね。額や眼の中や顎の先にヒルのように吸いついていた言葉のヒトデが、ポトリポトリと落ちていくわ、落ちていくわ。  もったいないから掻《か》き集めてポリ袋で冷凍しておこうかしら? でも解凍した時のことを想像すると、怖いわね。では乾杯。これから犯す過ちの全てに乾杯。あなたに乾杯。私に乾杯。霧と夜とに乾杯(いまいましい毒ガスめ)。金色に泡立つ液体に乾杯。私を通過していった夥《おびただ》しい刻と男たちに乾杯。そして、さよならに乾杯。   一九八二・夏・軽井沢                    Y・M  あとがき  私はあまり、さよならが上手に言えない。たいていの場合、じゃまたね、くらいでお茶を濁してしまう。  じゃまたね、のない決定的な別れの場面ではなおさらのこと言葉に窮して絶句するか、その緊張に堪えられないあまり、だしぬけにおどろおどろしいジョーク(のつもり)など口走って、いっそううろたえ蒼白《そうはく》となり、沈黙はほとんど怪物じみてくるというありさま。  そんな時、相手の瞳《ひとみ》の中に痛みに似た光が宿り、無様《ぶざま》に立ちすくんでいる私に向って、�Be good�とだけ一言。�いい子にしているんだ�——私はそんなふうに解釈して身無し子のような気持になる。いい子になんかするものか、めちゃめちゃになってやるから。私の足取りは上の空だ。  人生はたくさんの「さよなら」で成りたっている。けれどもその一言がスマートに言えたためしはなく、惨《みじ》めにすくみあがってばかりいる。「さよならに乾杯」と、さりげなく言えたら、どんなにいいだろう。別れをそんなふうに優雅に茶化すことができたら……。  いさぎよくできないのならいっそのこと、なりふりかまわず泣き喚《わめ》き、別れたくないのだ、さよならなんていやだとすがりつけば、まだしも可愛《かわい》らしいものを、そんなふうに姿勢を崩してしまうくらいなら死んだほうがましだと、笑えもしないお粗末なユーモアを一席披露して、結局泣きたくなるのがセキのヤマ。あぁ私の人生はなんともまあよく、ウッディ・アレンの映画の世界と似ていることか。ドジで、哀しくて、滑稽《こつけい》で。  最近最も感動的だったのは、スピールバーグの創《つく》った映画、「ET」のさよならだった。  いよいよ宇宙船に乗って帰っていく段になった時、ETがふりしぼるような声で少年に言う。  "COME"≪一緒にいこう≫  少年の答えは、イエスでもなければノーでもない。もっと積極的で熱い言葉だった。  "STAY"≪残って≫  当然、少年は宇宙へは行けない。ETも地球には残れない。COME と STAY は永久に平行線を描くことになる。最も原始的で最も感動的な平行線を。  ETは八百歳の指を、少年の額に近づけ、愛の星を植えつける。ボクはキミの中に永遠に生き続けるよ、と。するともう、さよならはそれほど辛くはなくなる。  考えてみれば肉体というのはいずれ滅びていくものだ。しかし、楽しかった(あるいは悲しかった)憶い出は、残り続ける。額の奥に。星のように。  とすると、私たちはみんな、その記憶の星をいっぱい貯めこんで生きているわけだ。あの人も、あの人も、あの人も、あの人も、みんな私の額の奥で、ひとつずつの星となり、ひっそりと光り続けている。  そこでようやく、「さよならに乾杯」の心境に至る。  SAYONARA AND I LOVE YOU. 昭和五十八年二月、PHP研究所より単行本として刊行 角川文庫『さよならに乾杯』昭和60年9月10日初版発行              平成10年4月20日43版発行