森 瑤子 ある日、ある午後 目 次   ㈵  贅沢《ぜいたく》なエアポケット  のんべえの身上書  ワインのこと  ヘルシー時代の美酒|讃歌《さんか》  延々とフローズン・ダイキリを  ペリエと私  徹底的みせびらかし風景  女の香り  コシノヒロコの服  スーツとスニーカーとOL  夫と妻のいい関係いい空間  自分育ての時代  女らしさについて   ㈼  父の肖像  私の銀座メモリー  �詩人�ムッシュウのこと  配偶者のこと  ある風景  あの甘やかな匂《にお》いが微《かす》かにする坂道  昼下がり  唄《うた》えない私  永島敏行さんのこと  文 字  男について  愛について  別れの美学  十年一区切り  夫と私のルール  ターニングポイント   ㈽  私と英国との出逢《であ》い  エーゲ海航海誌  星の買える島  バンクーバーの魅力  島騒動  旅はほんとに道連れ  冬の旅   ㈿  音楽のこと  舞茸《まいたけ》の耳  プラシド・ドミンゴ『声・黒光り』  青春の読書  あなたに似た人  私の10点  指折り数えて待つ 『笑う警官』シリーズ  神の気まぐれな贈り物  '80年代の女として輝くキム・ベイシンガー  背中合わせのふたつの女  色|褪《あ》せたテネシーの哀《かな》しみ  母性を躾《しつけ》られるキャリアウーマン  アル・パチーノの切ない演技   初出誌一覧   ㈵  贅沢《ぜいたく》なエアポケット  ウイスキー党とかビール党とか日本酒党とか、それ一本にきめて他のお酒には手を出さないお酒飲みがいるが、せっかく一度きりの人生味気なかろう、もったいないと思う。  もちろん人それぞれ、何を飲もうとその人の勝手といえばそれまでだが、私は、色々なお酒の味を楽しめる人と食事をしたり、飲んだり、喋《しやべ》ったり、一緒に暮らしたりしたい。  たとえば女と逢《あ》う直前に、ホテルのバーに立ち寄って、さっとドライ・マティーニーで口の中を湿らせる。それから女と逢う。そういう粋《いき》さを、ひそかに男には楽しんで欲しい。  このひそかさというのは大事なことで、赤い顔をして現れたり、息がジン臭《くさ》かったり、足元《あしもと》がふらついたりしていたら、およそ興ざめなのである。  そして女にも女性の粋さというものが、あってもいいのではないかと、この頃考えるようになった。  けれども、男に逢う前に一杯ひっかけて行く、という表現はちっとも素敵ではない。やっぱりひそかに控えめに、一杯飲んで来たことなど|※[#「口へん」+「愛」]気《おくび》にも出さないで。  私自身、ホテルのバーへ一人で入って行くのが平気になったのは、三十代の後半になってからであった。人が私のことをどう見ようと、どう思おうと全然かまわないではないか、と思えるようになってからだった。問題は自分が自分をどう見るか、それだけなのである。  自分の眼に自分がどう映るか。正確に自分というものが見えさえすれば、他人の視線など全然気にならなくなるものだ。  だから私の最も好きな飲み方及び好きなドリンキングタイムは、仕事の終わりにちょっとホテルのバーに立ち寄って、軽く一杯飲むというやり方である。  あるいは、音楽会とか映画とかオペラに行くための待ち合わせのひとつ前の段階で、スウィート・ヴェルモットのオン・ザ・ロックスを、というふうに。  ひとつには区切りをつけるために。またひとつには、リラックスするために。そして次への期待をかきたてるために。  デイトやオペラに遅れそうだといって、あたふたと駆け込むようなのは、絶対に避けたい。それよりも、五分か十分、たった一人のお酒を楽しむ余裕をもちたい。贅沢《ぜいたく》なエアポケットのような時間。私たち日本人に一番欠けているのは、この一人で楽しむという、束《つか》の間《ま》の時間の過ごし方ではないだろうか。  女が一人で酒場に足を踏み入れるのには勇気がいる。一夜の相手の男をひっかけるつもりか、プロスティテュートのように見られはしないかと気にもなる。  ただし自分でそういうことが気になるうちは、やっぱりそのように見られるにきまっているから、一人で酒場へなど足を踏み入れない方が良いのにきまっている。  その筋の女に間違われるのは、やっぱりその筋の女か、あるいは心の片隅で男にひっかけられたいと無意識に期待しているかのどちらかである。そういう卑しい期待というのは、安香水のようにぷんぷんとあたりに臭うのだ。  けれども、最初から自分自身だけのために、カクテルを一杯だけ飲みに立ち寄った女に、みだらな男の声は掛かりはしない。背筋の伸び具合、顎《あご》のひき方、歩き方、飲みものを持つ手の仕種《しぐさ》、そして眼の表情で、それはわかるのである。  だから、酒場で見知らぬ男に声をかけられたら、むしろ自分の恥だと思うこと。まだまだお酒と人生の修業が足りないのである。  女の酔っ払いは頂けないというが、男の酔っ払いだって全く頂けない。お酒の上のことで男が許されて女には許されないということはないし、その逆もまたない。私はそう考える。  もしも一人で上手にお酒が飲めたら、そのひとは、他の人と一緒に飲むのも、とても上手なのに違いない。一人酒も良し、二人で飲むのもこれまた良し、更に大勢で飲むのもこれまた良し。お酒はあくまで楽しいものである。  のんべえの身上書  私は特にこれというお酒を決めていない。かなり融通がきく方で、和食には日本酒がいいし、中華料理なら紹興酒以外は考えられない。洋食なら当然ワインである。食前酒も、よく頑固にジントニックしか飲まない人、シェリーを好む人もいるが、私はそれも時と場合によってかなり浮気するほう。ウォッカトニック、ブラディメリー、チンザノの炭酸割り、ミモザカクテルといったレパートリーを気ままに愛飲している。  ただし食後酒はカルバドスだけ。それも洋なしのタルトがデザートにつく時にかぎる。  お酒がなくても生きていけるが、お酒が入らないと絶対に出来ないことがひとつだけある。——それはディスコだ。  私はディスコが好きだが、素面《しらふ》では絶対といっていいほど踊れない。自意識過剰なのだ。かなり飲んで、足がふらふらしてこないと、ダンスフロアに出て行けない。でも酔って踊っているのは、とても気分がいい。最高だ。もっともディスコの相手はたいてい迷惑しているみたいだ。たとえどんなに相手のヒンシュクを買おうと、私は全然意に介さない。何しろ酔っているからである。  どんなに素敵な人でも、相手が全くお酒ダメということがわかると、とたんにつまらなくなってしまう。お酒なしで食事するなんて、とても片手落ちみたいな気がするし、男と女の会話もわずかでもアルコールを帯びるのと帯びないのでは、輝きも違う。素面《しらふ》でセクシーな話をしたり、エロティックな会話をする気にはなれないし、無理にすれば気持ちが悪くなる。それに第一、お酒が入るとセクシーな気持ちになるけど、一滴も入らないとそうはならない。  ところが、私の男友達には、どうもお酒に弱い人が多いのが悩みの種だ。女性は、やたらめったら強い友人が多いのだが、男性はだめなのだ。もちろん酒豪もかなりいるが、不思議なことに酒豪に惚《ほ》れたという経験がない。酒豪がイヤなのではなく、惚れた男に酒豪がいなかったというわけである。  本当に好きになった男たちが、一人二人の例外をのぞいて、ほとんどお酒が飲めないというのは、私の悲劇である。アルコールに漬かって、関係が発酵していかないみたいなのだ。そのうち、相手は私がアル中ではないかと疑いだして、それで恋が終わり。  外国に行くと、例えば劇場やオペラ座に、必ずバーがある。公演の前に軽く二、三杯飲んで、舞台にのぞむ。休憩時間にもバーは黒山の人だかりとなる。こういうことは、日本でも見習ってほしいものだと思っていたら、最近できたサントリーホールにバーがあった。もっともサントリーのホールだから、バーの発想がスムーズだったのかもしれない。  それと、思うことは観劇の始まる時間が、日本は六時とか六時半と早いことである。これでは一日の仕事のアカや緊張がこびりついたままだ。せいぜい二、三杯飲むくらいのゆとりを見て公演時間をきめて欲しい。  いつだったか銀座のセゾン劇場で、ピーター・ブルックの�カルメンの悲劇�を観たが、確かこの時の開演時間が夜の八時であった。  おかげで仕事直後に駆けつける必要もなく、シャワーを浴び、髪も洗った。ドライヤーで乾かして、ゆっくりとお化粧し、アクセサリーの選択も楽しみつつ。  待ち合わせは七時にセゾン劇場内のバーでということだった。  お酒をゆっくり飲んで、会話を楽しんで、それから劇場へ。夕食をあわてて食べる必要もないので、観劇の後に、ということになっていた。  すばらしい舞台に感激。十時を廻《まわ》った頃、夜の銀座へ。  しかし銀座のレストランは、すでにラストオーダーが終わっている。私たちはタクシーで青山通りへ。真夜中過ぎまでやっているブラッスリーがある。十時半という時間に駆けつけたのにもかかわらず、ブラッスリーの中はほぼ満員。  ほとんどの人々が私たちのように観劇帰りか、映画や音楽会帰りらしいのはその興奮した面持ちでそうとわかる。そんなふうだから、ブラッスリーの中は活気づいている。まずシャンペンを一杯ずつとって乾杯。夜の遅い時刻の夕食前のシャンペンは、実に美味にして贅沢《ぜいたく》な味。  ささやかながら、人間として生まれた幸せ、女として生まれた幸福をつくづくと感じる一瞬。眼の前には、その夜の感動を共有した友人がおり、いいお酒と、いい食事と、いい会話。いい友情。人生の幸福ってこんなふうに、ふっと満たされてしまうのだという一瞬である。  そのどれかひとつでも欠けたら、幸福感はなかったかもしれない。たとえどんなに美味なお料理とワインでも、一緒に食べる男に魅力を感じなかったら楽しさは半減どころか四分の一にも、八分の一にも減ってしまう。  けれども絶対にひとつだけ選べといわれたら、私は美食よりも、観劇よりも、美酒をとる。  お酒は私を確実に酔わせてくれるから。そしてその酔いが確実に冷めるから。誰《だれ》にも迷惑をかけず、誰も傷つかない。失望もしないし。  私の友達はお酒に関して両極端だと前に書いたが、飲める男たちがこれまた凄《すさま》じくも徹底的に飲む口なのである。  ある絵かきは、徳島産のスダチをひとつ目の前に置き、これをちびちびと絞りながら、ウイスキーのオン・ザ・ロックを、一晩中飲み続ける。彼によると更に上がいるそうで、ひとつまみの塩を肴《さかな》に、これもチロチロなめながら一升酒を飲むという本当の酒飲みの話も聞いた。塩をねェ。と私は、ただただ呆然《ぼうぜん》とするのだ。世の中には美味《おい》しいものがいくらでもあるのに。  別の友人は、一応目の前に、酒の肴らしきものを幾皿か並べはするが、よく見ているとそれらにほとんど手をつけない。一応チマチマ皿が並んでいるので、一緒に飲んでいても味気ない感じはしない。安心してこっちは食べられる。 「これ、すごく美味しいわよ。冷たくなる前に食べてみてよ」と私がすすめる。 「そう? よかったら食べてくれよ」と彼はさりげなく私に言う。 「食べなくちゃだめよ。でも、いいの? そう? じゃ、食べちゃうわよ、私」  別の一皿を彼はさも自然な感じで、私の前に置きなおす。私はお喋《しやべ》りに夢中で、知らずにそれに箸《はし》をのばしてしまう。  いつのまにか彼の前の料理が片づいている。しかしどうもスッキリしないのだ。知らず知らずに私が全部食べてしまったかもしれない、と不安が過ぎるのだ。その証拠に私のお腹ははちきれそうだ。  彼は知能犯だ。さすがに新聞社の記者だけある。  私はお酒が好きだがたとえ一品でも肴《さかな》がつかないと、ひどく惨めになってしまう。そんなわけで、私は男友達とお酒を飲んでも手放しに楽しめない。彼らはあまりにもお酒の飲み方が偏屈的なのだ。でなければ、まるきりだめの下戸の口。  だから飲める女友達と飲む方が、圧倒的に楽しめる。彼女たちは何しろ食いしんぼうだから、次から次へと運ばれてくる物を片づける。  最近の女性は、へたな男など足元にも及ばないほどアルコールに強いから二人でウイスキーをワンボトルあけることだってある。  それでケロリとして、二日酔いにもならない。  第一、男の酔っ払いにくらべて、女のへべれけになる姿はずっとずっと少ない。私の二十数年に及ぶお酒の歴史で足腰が立たなくなったということは一度もない。私の小説に出てくる女たちも、私に負けず劣らずお酒を好む方だ。彼女たちも食いしんぼうで、男好きだ。  ワインのこと  ずいぶん前の話だが、軽井沢でそれは贅沢《ぜいたく》なワインパーティーをやった事がある。何が贅沢かって、ロマネコンティやらムートン・ロストチルト級の超と名のつく高級ワインが十五本、ズラリと並んだのだ。神様みたいなひとがいて、自分のコレクションを、私のパーティーに寄贈してくれたというわけなのだ。私は普通、食卓で飲むテーブルワインは、千円どまりのものを、当時飲んでいた。だから一本が小売りで五万円も十万円もするワインなんて、紀ノ國屋や明治屋でも横目で睨《にら》んで通り過ぎたものだ。  さて、ワインパーティーの夜、十五人の人間が集まった。単純に一人が一本の割りである。全《すべ》てのボトルが食事の二時間前に、そっとコルクを抜かれた。試飲前に、ワインに呼吸させようというわけ。  私は考えに考えて、料理はごくシンプルなものにした。レバーパテにローストビーフ。もちろんレバーパテは自家製だ。今宵のワインに合わせて、パテに使うブランデーもレミーマルタン。生クリームもたっぷり入れ、バターも無塩の高いやつ。このレバーパテは、フランスの田舎風だが、田舎風と言っても農家風ではない。フランスの田舎に狩りなどのために別荘を持っている貴族たちが、一日の終わりに燃え盛る暖炉の前で、シャトマルゴーのワインと共に食べる、ちょっと気取ったパテなのである。私はこれを、食通のお料理上手な女友達から教わって、私のレパートリーにしてしまった。フォアグラなんて足元にも及ばないくらい美味なのである。しかもワインにはぴったり。  メインの方は、ローストビーフだったが、軽井沢のデリカテッセンへ行き、営業用ではない極上のフィレを三キロおがみ倒して譲ってもらったのだ。これをミディアム・レアに焼き、グレイビーソースを添えただけ。もう天国なんてものではなかった。ワインは何種類も少しずつ飲み分けて、味の違いを楽しんだ。その時、ワイン通がグラスをゆっくり、ぐるりぐるりと回して見せ、天使の涙なるものを見せてくれた。グラスのふちについたワインが、底へ向かって流れていく時、水アメのように糸を引くのだ。ブランデーも天使の涙が見れるのだが、ワインは本当に良いワインでないと、この天使の涙は見えない。ワインをレストランなどで一本頼むと、ソムリエが、ちょびっとグラスに注《つ》いで試飲をすすめてくれる。たいてい二人だと、男性の方にすすめるが、ワインの味がわからないと形式みたいなものだ。私と夫も若い頃はそうだった。でも十年も十五年もワインを飲んでいると、味もわかるようになるもので、ワインの美味《うま》い、不味《まず》いは口に含んだ途端、二人共わかる。何が美味《おい》しくて、何が不味いかが、わかるようになるためには、ワインに限らず、不味いものばかり食べていては駄目なのだ。美味いものとの比較において、あれは不味かったのだという事がわかるからだ。高い物が必ずしも美味《うま》いとは限らないが、美味《うま》いものはだいたい高いものだ。普段千円のテーブルワインですましていても、誕生日だとか結婚記念日とかに一万円とか二万円のワインを飲んでみる。週に一度、土曜の夜だけ、一本三千円のワインを自分におごる。そんなふうにして、いろいろあれこれ試しているうちに、舌が美味いワインの味を学ぶのである。別にワインの仕事をしているわけではないから、一口含んで「あ、これは一九八二年のボルドーの……」なんて、パッとわからない。私にわかるのは、美味いか不味いかだけである。  レストランなどへ行って、ソムリエが夫の前のグラスに、ちょびっと注《つ》ぐ。夫はおもむろに、それを鼻に運ぶ。口ではなく、まず鼻に運ぶのは香りをかぐためだ。ふくいくとした香り。暖かくて、幸福感に浸れる一瞬。話はとぶけど、幸福な思いって次に起こる事に対する甘い期待の感情の事をいうんじゃないかしら。ワインの香りを胸一杯吸いこんだだけで、幸福感が味わえるなんて素敵じゃないと思う。香りを充分に胸に吸いこんだら、次に一口、口に含んでみる。ワインを舌で転がすようにして奥へと少しずつ流し込む。喉《のど》ごしの味が大事なのだ。と、いったやり方をするので、女のする事ではない。女がしては色気を損なわれる。試飲はあくまでも男の役割なのだ。私の歳《とし》になると、色気もあまり関係ないので、相手がまだ若い男だと私が、その役割を取り上げたりすることがある。レストランで注文するワインが一本一万円を越えるものだったら不味《まず》いのを我慢して飲みたくないからだ。もしもその時、味が妙だと思ったら、どうするのか? ソムリエは気難しく口を結んでいる。抗議などしたら、逆にバカにされるのではないか。と、たいていの人がこの段階でひるんでしまう。でもね、ちょっと首を傾けて、「一口、飲んでみてくれますか?」と、ソムリエに聞けばいい。相手はそれが商売なのだ。喜んで飲んでくれる。「どう思いますか」と、頃合を見計らって質問する。今度は、こちらが相手を試しているわけだ。「そうですね。少し酸化していますかね」とかなんとか、ソムリエは正直に言うはずだ。そして、新しいのを運んで来てくれる。その反対に、たいそう美味《うま》いワインに当たった時も、「一杯飲んでみて下さい。素晴らしいよ」と、ソムリエにすすめるのも素敵なマナーだと思う。ワインはリラックスして楽しむのにかぎるのだ。日本酒やビールを飲むのに、いちいち緊張しないのと同じだ。お酒の中では、ワインって一番色気があるような気がする。日本酒の色気にはある意味で譲らなければならないけど、ワインの方は気取った色気とでもいうか。深いルビー色の色合いも美しいし、第一、ワイングラスの型がきれいだ。薄口の、唇をつけると切れそうなグラスから、ワインを飲む時のスリルの味は捨て難い。  私はワインを飲む時は、ドレスの色に気をつけることにしている。紫や橙色《だいだいいろ》は避ける。ワインの色と重なって、両方とも汚く見えるからだ。一番無難なのは、黒のドレス。ワインの赤さが深みを増す。白いドレスの時は、パッと明るくなる。  よく食事に行く時に、フランスの香水をプンプンとさせている女性がいるけれど、あんまり香りが強いと、お料理の味を損なうから気をつけて。ワインの香りにも香水は敵。以前、香港《ホンコン》の夜景を眺めながら、高台にあるホテルのフランス・レストランで食事をした事があった。ナプキンをぐるりと巻いてある黒い光った紙に、金色の文字で私の名前が印刷してあった。その夜のお相手は、私の人生の中で巡り合った男性の中で、最高にハンサムなフランス人だった。エレガントで、優しくて、美しくて。その時の彼のワインを飲む姿が、これまた一枚の絵であった。彼はソムリエに向かって、鷹揚《おうよう》に頷《うなず》いて微笑した。ワインは素晴らしかった。もしかしたら、そんなに良いワインでなかったかも知れない。香港のきらめく夜景と、世にも美しい男性と、磨き抜かれたクリスタルグラス。そうしたものたちが、ワインの味を甘美にしたのかもしれない。恋は魔法使いなのだ。もっとも、その男性と私はその夜、握手をして別れた。彼は私の妹の男友達なのだ。世の中には、しても良い事と、してはいけない事がちゃんとある。してはいけない事が沢山あって、それに取り囲まれて生きるのが、私は好きだ。手を出してはいけない男とか、食べてはいけないもの、やっちゃいけない事、行ってはいけない場所等々。  好奇心を刺激され、私の中で飢餓感が高まって行くと、私はそれを満たすべく原稿用紙に向かうのだ。原稿用紙の上の作業なら、何事も私の自由自在だ。ステキな男とも出逢《であ》ってその夜のうちにベッドへ行けるし、特上のワインのコルクだってポンと抜ける。自分では足を踏み入れたこともないような、お城のようなマンションで、燃え盛る暖炉の火。その火の前でくりひろげられる情事。床に置かれたロマネコンティ。クリスタルグラスの中で血の色をしている赤ワイン。そんなシーンが次々と映画のシーンのように浮かんでくる。そうなのだ。小説とは作り事なのだ。でも、根っ子や葉っぱのある嘘《うそ》。可哀想《かわいそう》な私は、味も素気もない仕事机に向かって、ひたすら美しいシーンを書きまくる。せめてワインの入ったグラスをひとつ手元において。  ヘルシー時代の美酒|讃歌《さんか》  最近のヘルシー傾向、私の周囲にも色々波紋をかもしだしている。  ゆっくりと寛《くつろ》いで美味《おい》しい夕食のあと、一本|喫《す》いたくなるのが煙草だが、あたりを眺めまわし、なんとなく遠慮する。喫煙は他人迷惑だという考えが、東京でもずいぶん行きわたってきているようだ。そんなわけで、私は食後の一本を我慢することが多くなってきた。  煙草もそうだが、お酒を一滴も飲まない男性も多くなった。  もっとも以前は、「お酒を飲めないんです」と小さくなって断りを言っていた人が圧倒的に多かったが、最近は、実に堂々と飲めないことを口にする。あるいは、はっきりと「僕は飲みませんから」というふうに言ったりする。飲めないのと、飲まないのとではニュアンスが違う。「飲めません」と小さくなっていないで「飲まないのだ」という主張が感じられる。ある時、素敵なビアーバーへ友人たちと出かけて行った。深夜近くになって、常連の誰《だれ》かの誕生祝いということで、シャンペンがあけられ、一人ずつにふるまわれることになった。我々は、もう喜んで一杯頂き、乾杯に加えさせてもらった。ところが中には全く飲めない人もいて、ペリエウォーターなどを飲んでいたりする。その人の前にもシャンペングラスが置かれた。  注《つ》ごうとすると、さっと手が伸びて、 「頂きませんので」  ときっぱり断るのだ。 「でもまぁ、せっかくのお祝いですから」  とウエーターが更にすすめた。 「いや、アルコールは一切、飲まんのです」  と、ますます頑《かたくな》に断る。 「じゃ、ちょっと形だけでも」  ウエーターは、ほんのわずかグラスにシャンペンを入れて立ち去った。  乾杯が始まり、みんながグラスを掲げた。しかし、ノンアルコールの男性は、結局一口もシャンペンに口をつけなかった。何も飲めとは言わないが口をつけるふりさえもしないのだった。だったら何で酒場になんて来るのよと他人事ながら、しらける思いであった。  もちろん、お酒を一滴も飲めない人は酒場に来るな、と言うのではない。飲めなくとも、ペリエで結構飲んだように楽しくやる人だって、たくさんいる。だが、そういう人は飲めないとか飲まないとか、そんな事はオクビにも出さない。そっとウエーターにペリエを注文してしまえばいいのだ。 「それ何?」  と人に聞かれたら、 「ウォッカトニック」  とでも答える。私はそういうノンアルコール組の人も何人か知っている。  酒場へ行ってお酒を飲みたい気分の時、頑に「ボクは飲まんのです」と断言してはばからない人間がいるのは正直な話、ちょっとしらけるのである。それで小さくなっているならまだしも、大きな顔で飲めないことを主張されては迷惑である。ヘルシー傾向を何か誤解しているのではないかと思う。酒場というものは、酒を飲むための場所なのだから、飲めない者、及び飲まない者は少し遠慮するぐらいが、可愛気《かわいげ》があるというものである。  実際、全然飲めない男とバーへ行っても、面白くもおかしくもない。夜、お酒を飲む人間と飲まない人間とは、全く別の種族としか思えない。何かが、ぷっつんとなるのである。ぷっつん感がぬぐえないのだ。  それと同様なことが、食べ物でも言える。自然食品しか口にしないと言う人や、ダイエットで物を食べない人が増えている。  ある時、何人かで夕食をご一緒しましょうということになった。メニューを開けて、それぞれ楽しげに何にするかと時間をかけて、ああでもない、こうでもないと相談した。  いざ注文の段。私は、オマールえびとアスパラガスの前菜風サラダに、メインは羊のソティーを注文した。もう一人の友人も似たような感じで二品頼んだ。  さて別の一人。 「私はサラダ」 「えっ? それだけ?」 「そう。ダイエット中なの」  そう言ってから、その女性は注文を書きとめているウエーターに、 「ドレッシングはかけないでちょうだい。レモンだけ、少しでいいわ」  と、つけ足した。  こういうのは、酒場へ行ってアルコールを一滴も飲まないケースと同じで困ってしまうのである。  美味なるを自慢に思うフランス料理店へ夕食に行き、サラダだけしか取らないなんて店にも失礼だし、我々同席の者に対してだって失礼な話だと思うのだ。  ダイエットを売りものにするな、と言いたい。  ダイエットをするなら、こっそりと黙ってすべきなのである。そしてダイエット中なら、いくら誘われても、のこのことフランス料理店までついて来るなと、声を大にして私は言いたいのだ。  もしも、どうしても我々につき合って、フランス料理店まで来てしまうのなら、その夜の間だけでもダイエットのことは忘れるべきだ。あるいは網焼きの白身魚にレモンと塩だけの味つけの一品とか、よくメニューを眺めてカロリーの少なそうなものを注文すればよい。そして注文したからと言って、全部平らげなくとも、見苦しくない程度に三分の一ぐらい残せば良いのだ。それがルールと言うものである。  要するに酒場に来て酒が飲めないとか、レストランまで出かけて行って、ダイエット中とか、あれこれ言う人というのは、どこか自分本位で稚拙な人だと思う。 「あたしって朝に弱い人なのぉ」とか「あたしって、油がダメな人なのぉ」とか、何かと言うとあたし、あたしと言う人。あるいは「僕」がやたらと会話に多い人。そういうことは、別に人に吹聴《ふいちよう》する程のことではないのだから「黙っておれ」と、そう言いたい。  今度は正反対の例。ブッフェのパーティーなどで、やたらと小皿に料理を山盛りする若い女性がいるが、これはみっともないことだと思う。冷たい物は冷たい物だけ一通り食べ、それが終わったら温かい物だけを取ったらいい。  若い女性が、しかも着飾った姿で山盛りの皿を手に立食している図は、絶対に美しくない。たとえ男でも、ブッフェにおける立食というのは美観にはならない。スマートに振る舞いたければ、食欲に負けないことだ。ブッフェでは飲み物と、カナッペ程度にとどめ、食べるより会話を楽しむ。しかも同じ人と一か所でずっと喋《しやべ》るより、会場の中をゆっくり移動していく方が好ましい。  ブッフェパーティーで山盛りの皿を手に立食している女性は、どんなに美しい人でも興ざめである。同様のことがホテルにおけるバイキングの朝食でもいえる。少しずつ皿に取って来て、何度でもおかわりに立っていく。これがバイキングのコツであり、ルールなのだ。よく一度に大量に運んで来て、その大半を残してしまっている人達を見かけるが、これもルール違反。  さて、食べ物と飲み物の関係について、少し書こう。日本の若い人達は、寿司でも天プラでもステーキでもフランス料理でも、何かというとビールで通したり水割りで通したりする。  ビールとか水割りというのは、本来は食事と一緒に飲むお酒ではない、という事を一応は覚えておいた方がいい。  フランス料理やステーキやスパゲッティには白や赤のワインが一番合うのだし、寿司には日本酒が合うと思うのだ。  お酒のTPOも気をつけて実行すると、案外楽しいし、意外に食事も美味《おい》しく進むようになる。  例えば食前酒はシェリー。あるいはキールとか、季節によってはカンパリーソーダーの類。  食事中は、その食事に合ったワイン。そして食後はブランデーとかカルバドスといったリキュール、コーヒーと続く。  ウイスキーを飲むのなら場所を変えて、酒場でゆっくりと飲むこと。  食前酒は、レストランのバーで。そして食後のウイスキーは店の外へ出て、ホテルのバーで、というように。  飲んだり食べたりするのにもルールを守ると、それなりに視野も広がるのである。  延々とフローズン・ダイキリを  あそこで飲んだあのお酒が最高に美味《おい》しかったという思い出が、ひとつふたつと増えていく。  もっともそういう特別の美酒の思い出というのは、五年に一度とか、七年に一度くらいの割りにしか生まれない。だからそれほど多くもない宝石箱の宝石類よりも、更にもっとその数は少ないということになる。  ニューヨークのトップ・オブ・ザ・ホテルというところで飲んだフローズン・ダイキリは、フローズン・ダイキリの中のピカイチだった。エンパイア・ステイトビルが確かオレンジとピンク色に輝いていた日だった。毎月だか何かあるごとにだか知らないが、エンパイア・ステイトビルは時々色を変えるのだ。  そのオレンジとピンクのエンパイア・ステイトビルを眺めながら、私はフローズン・ダイキリを建築家の鈴木エドワードと彼の秘書とニューヨークの友人とで飲んだのである。私は鈴木エドワードに恋をしていなかったが、もし彼に恋をしていたら、あの味はまた数段上がっただろうが、残念。エンパイア・ステイトビルのオレンジ色が、鈴木エドワードの浅黒い細面を染めて、それは絵になる風景ではあったのだが……。  たとえ同席者の一人に恋をしていなくとも、その味は抜群。氷の量といい、甘み、酸味、コクといい全《すべ》てパーフェクト。  もっともフローズン・ダイキリの作り方なんて、ものすごく易しいのだ。私は夏になると三浦三崎の海の家で、よく自分で作ったものだ。とても簡単だから、みなさんも是非作ってみて。  まず、バカーディ・ラムという白い透明なラム酒が必要だ。それにレモン。砂糖。氷。材料は以上。  シェーカーなんて洒落《しやれ》たものはいらない。ふたのきっちりしまる手頃なビンが一本あればいい。私はマヨネーズの入っていた一番小さなビンを、よく洗って使用した。ネジぶたなのでしっかりしまるし、手の掌《ひら》に握れる大きさが具合が良いからだ。  では作り方。氷を適当に砕いたらそれを清潔なフキンで包む。冷蔵庫の氷なら、そのまま包めばよい。氷が飛び出さないようしっかりと包んだら、マナ板の上に力一杯|叩《たた》きつけるか、あるいはカナヅチで軽く叩く。フキンの中の氷が小指の先くらいの大小になれば、理想。これをクラッシュト・アイスと呼ぶ。つまり、叩きつぶした氷片という意味。  このクラッシュト・アイスを、大きめのクリスタル・グラスに七分目までつめておく。これで用意の半分がすんだ。  さてダイキリの作り方。マヨネーズのあきびんに、レモンのしぼり汁一コ分を入れる。砂糖を大さじ一杯、バカーディ・ラム酒を大さじ三杯。この三つをいれたらフタをきっちりとしめ、片手で中味が白濁するくらい、振って混ぜ合わせる。  よく混ざったら(三十秒くらい振ればいい)、先に作っておいた |砕 氷《クラツシユト・アイス》 の上に全部注ぎ入れる。これで出来上がり。そこいらのバーで飲むよりはるかに美味《おい》しいフローズン・ダイキリとなる。  以上であるが、レモン一コに対して砂糖を大さじ一にするか二にするか、あるいはもっと少なくするかは、好みの問題。ラム酒の量も大さじ二杯でもかまわないわけだ。私は酸味の強いのが好きだからレモンを一コ分しぼってしまうが、多分普通の場合、一コは多いかもしれない。半分から一コの間のレモン汁を適量に。  疲れている時には、砂糖の量を倍にして飲んだり、臨機応変にできるところがホーム・カクテルの良いところだ。  いつだったか、青山のレストランにつづいているバーで、フローズン・ダイキリを頼んだ。出て来たのは涙が出るくらい小さな三角のカクテルグラスに氷がつめてあって、中味は二口《ふたくち》でなくなるくらいの代物。  私は我がホームバーのダイキリのあのずっしりと手に重い、バカラのタンブラー入りのタップリの味を、しみじみと懐しんだ。 「アレ?」と思った。甘味がないのだ。辛口を粋《いき》とする風潮がカクテルにも及ぶのは、ナンセンス。 「悪いけど、もう一杯ちょうだい。そして更に悪いけど、お砂糖を小さじ一杯入れて作ってくれる?」  私は遠慮がちに頼んだ。  するとバーテンダー、憮然《ぶぜん》として何て言ったと思う? 「そういうことはいたしません」  ですってさ。プライドが許さないんだって。 「うちのは正統ですから」  ほんとかな。こう言っちゃ嫌味だけど、少なくとも眼の前にいる若造のバーテンダーよりも、フローズン・ダイキリの場数はふんでいるつもりだ。キューバのヘミングウェイ行きつけのバーで、無口なバーテンダーが作ってくれるものこそ飲んではいないが、世界中のあちこちで試してみた。ニューヨークのトップ・オブ・ザ・ホテルのフローズン・ダイキリの味も知っている。何が正統派の味なものか。スズメの涙くらいの量で千五百円もふんだくって、ヘミングウェイなら、 「こりゃなんだ」  と、床に放りだすお粗末な代物。お粗末なプライド。しかしそこで腹を立てるのは、私の趣味じゃない。こういう店へは二度と飲みに来なければそれで済むことだ。私は自分にとってどうでもいいことや、どうでもいい人たちに対して腹を立てることはめったにない。ただ黙って関係を切ってしまうだけのことである。  でもその人が素敵だったり、好きだったりしたら、一生懸命説得しようとする。というわけで、その店は二度と行っていない。  ここまで原稿を書いて、私は取材旅行に発《た》たねばならなくなり、残りは旅先の伊豆《いず》の宿でということにする。  さて、伊豆の温泉宿。|湯ヵ島《ゆがしま》の白壁荘というところ。すぐ前を川が夕立のような音を立てながら流れていく。  そうそう、新幹線の中で、ダイキリを作るのにぴったりのものをみつけてしまった。百円のお茶のパック。最新のデザインのものは、お茶の葉をパラパラと入れられるようになっていて、口の半分が茶こしになっている。大きさといい、ふたのしまり具合といい、茶こしといい、もうこれ以上のものは望めない。私は三つも買いこんでしまった。レモン汁を入れると、タネがどうしても入ってしまうのだが、この茶こしでタネの問題は見事に解決である。今年の夏休みはカナダの島で過ごすつもりなので、このお茶のパックを持参するつもり。ほんとにグッドタイミングの出逢《であ》いであった。  本題に戻ろう。思い出のドリンクの二つめは、ホンコンのリパルス湾にあるリパルス・ベイ・レストランで注文したフローズン・マルガリータの味。もう最高。  そこへは、加藤タキと黒川|雅之《まさゆき》、内田繁夫妻、弁護士の木村|晋介《しんすけ》夫妻といったメンバー十人で出かけていった。爆笑的|贅沢三昧香港《ぜいたくざんまいホンコン》旅行と銘うって、私が企画したのだ。  スパイシーなタイ風料理を注文し、それを待つ間のアペリティフであったが、量もタップリ。勘どころのキリッとした美味に、甘い酒はドーモなんて言っていた木村晋介弁護士まで四杯もおかわりしたほど。  結局、ワインは止《や》めて食事をフローズンのマルガリータで通してしまったのだが、特辛のタイ料理には、ぴったりの味であった。今でも顔を合わせると、あの時のマルガリータ、美味《おい》しかったねぇと、伝説的な語り草。  あの味が忘れられなくて、また十二月に香港旅行を企てている。  ペリエと私  行きつけの六本木のカフェバーに、私のボトルがキープしてある。  というと偉そうだが、世界中に私のボトルをキープしてもらっているのは、その店だけである。  それまでボトルキープは男の世界のものだと思っていたし、今でもそれはそう思う。女が、「あのボトル出してよ」と言うのは、なんだか可愛気《かわいげ》がないような気がするのだ。  にもかかわらずあえてボトルをキープしたのは、仕事柄若い編集者たちとお酒を飲むような機会がふえて、相手に気を使わせず上手にご馳走《ちそう》する必要が生じたからだった。  ボトルはバーボンで、ジャック・ダニエルとワイルドターキーの二種。私はバーボンをペリエで割って飲むのが好きである。  冬の間はたいていバーボンとペリエだが、夏の昼下り私が好んで飲むのは、スウィート・チンザノをやはりペリエで割ったもの。大きなグラスに氷をたくさんつめて、チンザノを注《つ》ぎ、たっぷりとペリエで満たす。これは私の海の家のパティオで、夕陽を眺めながら飲むのには、正にぴったりのロングドリンクである。  年をとってくると、あまり甘いお酒が苦手になってくる。たとえばジントニック。長いことジンとトニックウォーターとライムで飲んでいたが、なんだか甘さが舌にのこるようになった。  ふと思いついて、トニックウォーターとペリエで半々にジンを割ってみた。甘さがおさえられ、さわやかな大人の味になった。これもやはり、夏の飲みもので、ヨットで日焼けした後とか、テニスの後に飲むと、天にも昇る心地である。  今年、ロンドンに十日程滞在した時のことだ。私と夫は、いつものようにランチの時、ワインを注文した。ところが同席のイギリス人たちはペリエを注文するのだ。  冷たくしたペリエを、氷も入れずグラスに満たして、ちょうど私たちがワインを飲むように、食事の間にそれを飲むのだった。  最初私はちょっとびっくりした。というのは、私の概念では、ペリエとは、何かのお酒を割って飲むものでしかなかったからだ。  それでふと思い出したのはニューヨークの話。  ニューヨークの働き盛りの第一線の男たちが、もう食前酒のマティニーやワインに手を出さず、ペリエで食事をするという話である。そして食べるものも脂肪の多いステーキではなく、チキンとかツナサラダということだ。  ニューヨークの男も女も、健康指向で、お酒も煙草もやらず、ジョギングやスポーツジムで汗を流しているという。それが今一番新しいことなのだそうだ。  新しいことが良いというわけではないが、健康であることは良いことだ。それが今やロンドンにも広がっているらしい。  さっそく私も真似《まね》をしてみることにした。  正直言って最初の二、三回は、ペリエだけというのは飲みにくかった。ただの水の方がまだ良いような気がしたのだ。それで、ただの水にきりかえてみた。  驚いたことに、ただの水がひどく不味《まず》く感じられた。生臭いようなもったりした味なのだ。あわててペリエに逆戻り。そして改めてわかったのだが、シャープでクリスタルな味。炭酸の泡もすっかり気にならなくなった。  ロンドンにいる間に、完全にペリエ党になって東京に帰って来た。  私が食事の時、ワインではなくペリエを注文するのを見て、友だちは眼を丸くした。「だまされたと思って試してごらんなさい」と私は言った。そして何人かの友だちがペリエ党になった。  水で食事をするのは味気ないが、ペリエだとワインを飲めない人も、なんとなくしゃれた感じで食事が進む。それに、夜、車が運転できるのが何よりもありがたい。  徹底的みせびらかし風景  まず信じられないのは、日本では、ブラック・タイのパーティーに、一名だけ招待することがあることだ。事実私は、私だけに宛《あ》てたパーティーの招待状をたくさん頂く。  正装した人々が集まるパーティーに、こちらも着飾って、しかもエスコートもなしに出かけて行くなんて、ものすごく奇異なものである。  第一、不便である。何しろ普段より高いヒールの華奢《きやしや》な靴をはき、ひきずるようなロングドレスである。スカートの裾《すそ》につまずいたりして、いつなんどき、ひっくりかえらないともかぎらない。エスコートの役割の重要なひとつは、レディの杖《つえ》ということにもある。  その支えの杖なしで、車を降りてから、パーティー会場の定められた席に着席するまでの、距離の長く感じられること、覚束《おぼつか》ないこと。  特に毛皮のコートをクロークに預けたり、出したりする際に、男が脱がせるのに手を貸したり、優雅に肩に着せかけたりしてくれないのは、実に惨めだ。公衆の面前で女が一人で、毛皮を着たり脱いだりするのは、それが毛皮のコートであるゆえに娼婦《しようふ》のような気分に落ち込むものである。  人を招待しておいて、このように精神的にも肉体的にも傷つけられるのはたまらない。だから私は、私一人|宛《あて》に届いたパーティーの招待は受けないことにしている。  ミスター&ミセス宛に頂いた招待状ならどうかというと、困ったことに、私の夫は大のパーティー嫌いで、特に、ミスター・モリ・ヨーコ的な扱いになっているのには、断じて出席しない。つまり、こちらモリ・ヨーコさんのご主人さま、と紹介されるのが頭に来るのである。モリ・ヨーコさんのご主人さまには違いないが、彼は歴としたミスター・ブラッキンであり、モリ・ヨーコは彼の嫁、すなわちミセス・ブラッキンなのである、と、夫はこう思っているのである。  事実、たとえば外国の社交場で、 「こちら、マーガレット・サッチャーさんのご主人さまです」とか、 「この方、エリザベス・テイラーさんのご主人」なんて紹介のしかたはしない。  ミスター・デスス・サッチャーとか、リチャード・バートン氏とか、ちゃんと男性の名前で紹介する。ミスター・サッチャーや、亡くなったリチャード・バートンは有名人であるけれども、たとえ有名人でなくとも、人を招待する側の人間としては、モリ・ヨーコさんのご主人さまが、ミスター、なんという名前であるのかくらいの調査はしておくべきであって、そのような気配りこそ、社交の原則なのである。と、私はそう思う。  かくして、社交の原則に欠ける日本に於《お》けるブラック・タイのパーティーに、私は夫のエスコートを望むべくもない。しかたなく、止《や》むをえずに出席するパーティーには、あらかじめ主催者の方に了解をとった上で、別の男性の同伴者と出席することになる。  この場合、エスコートの男性というのは、出来るだけ公の人がいい。自分の個人的な友だちとか、恋人だなんていうのは、主催者や、同じテーブルを囲む人々に対して失礼なことである。  少しは名の知れた、できることならハンサムでスラリとした男がいいのに越したことはない。  パーティーというのは、見せびらかしの場と私は割り切っている。オートクチュールのドレスを、めまぐるしく変えて現われる女性もいるし、アメ玉みたいな大きなルビーやエメラルドを、これみよがしにつけて来る女性もいる。同じように、エスコートの男性をみせびらかしたっていいわけだ。  ずっと前、岡田真澄さんとあるパーティーで出《で》くわしたことがあった。その時の私のエスコートは、新進の建築家であった。岡田さんが言った。 「日本て国は、まだまだ俳優の地位は低いんだよね」  あんなに素敵でモテモテの岡田真澄がそう言うのは不思議だった。 「どうしてそんなことを言うの?」  と私は訊《き》いた。 「だってさ、こういう正式のパーティーに、エスコートの口なんて、ひとつもかからないもの」  と彼は、さかんに社交的な笑いをあたりにふりまいていた私の連れのハンサムな建築家をじろりと一瞥《いちべつ》した。 「事実、あなただってやっぱりカッコのいい職業を選んでいるじゃないか」  と柄にもなく、彼はひがんでみせた。  そんなことがあったので、私は別の機会に、岡田さんではなかったがある有名な男優に、エスコートをしてもらったことがある。そうしたら、周囲の人々の視線の冷ややかだったこと。建築家だとよくて、俳優だとなぜいけないのか。岡田さんの気持ちが少しわかるような気がした。  日本の社交界というのは、そういうものがあるとすればだが、排他的なのである。非常に保守的で、結束が固い。  しかし排他的なハイソサイアティというものは、風通しがわるいから、むれて、退廃的な様相を帯びてくるものだ。  もう少し、遊びやユーモアのセンスがあってもいいと思う。人間関係のゲームがあってもいいと思う。スキャンダラスであってもいいではないか。どうせ一夜の遊びなのだ。  ほんとうにスキャンダルをひき起こすのはスマートではないが、スキャンダルめいているというのが、私は好きだ。  ブラック・タイのパーティーというのは着飾って、フルコースのフランス料理を左右の見知らぬ人々とにこやかに会話をかわしながら食べるものだ、という概念程度のものでしか、今のところないわけだ。はれがましいけど、ほとんど苦痛の世界だ。ありきたりの毒にも薬にもならない会話をかわしつつ、美味《おい》しいとはお世辞にも言えない、しかし高い料理を三時間もかけて延々と食べるというのは、拷問に近いと私は思っている。  この拷問に耐えるには、誰《だれ》かがスキャンダラスに振るまってくれなければ。日本のパーティー風景に決定的に欠けるのは、このスキャンダルの匂《にお》いである。  女の香り  大体どんな女の人でも花にたとえられると思う。真赤なバラのようだったり、白いユリみたいだったり、コスモスみたいだったり。  私はたまたま花ではコスモスが一番好きなのだが、もちろんコスモスみたいなはかないような風情の女とは、とてもいいかねる。自分の好きな花が、自分に似ているとはいいがたいという例である。  先日、私の誕生日に、さまざまな方が花束を届けて下さった。不思議なことに、そのどれもが真紅のバラであった。私の印象が真紅のバラだという意味か、あるいは私の書いたものがそういう感じなのか、またあるいは私が好きそうな花だと人が思うのか、その点はいまひとつ疑問なのだが、とにかく赤い赤いバラがざっと数えて二百本ほど家中に飾られたのは、壮観だった。  ひそかに花にたとえるなら私は自分で、ヒマワリだと思っている。あまり色気のない花なので内心がっかりだが、仕方ない。  女の人はそのように何かしらの花に似ているものだ。そして、その花のもつ香りが、その人の匂《にお》いなのである。その人に一番似合う匂いなのだ。  だから、コスモスみたいな女の人が、動物性の濃厚な香りをつけたら変だし、ヒマワリの私が幻想的な匂いをつけても似合わない。  その花に一番近い香りを、さりげなくつけるのが良いと思う。今私が使っているのは、男性用コロン。甘くなくて、ちょっと日なたの匂いがして、つまり、やはりヒマワリなのだ。  朝から香水をプンプン匂《にお》わせていたり、日本料理屋で懐石を頂くのに強い香りを放ったりするのは、常識がないが、逆に何の香りもつけていないとかえって妙な時もある。  それは正装した時、上から下まで飾りたてた時、香水を使わないと、料理で言うと塩味がきかない感じになる。  絶対に止《や》めたいのは、毛皮を着ている時の香水。これは、毛皮自体の強い動物臭のために、香水は悪臭になる。  それに香水の染みついた毛皮って、なんだか哀れっぽい娼婦《しようふ》のようで、気がめいる。  先日、エディンバラ城を見学して来たのだが、その一室に当時のお后《きさき》様の部屋があった。絹のベッドがあり、飾り棚にアクセサリー。  アクセサリーの中に、ペンダントのようなものがあった。宝石を埋めこんだ五センチ角の美しいものだった。  ペンダントかとガイドに訊《き》くと違うという。ベルトのように使うのだと説明してくれた。つまりそれは香水入れで、お后様が常に腰につけていたのだ。その宝石の部分がちょうど下腹の下の方にくる。  その昔、イギリスのお后様はお風呂《ふろ》というものに入らなかった。大体お風呂場がないのだ。入ってもせいぜい一年か二年に一度というから、おそれ入る。そのために、下腹あたりで匂いを放つ香水が、必需品であったのだ。匂いで臭いを制すというか。  その時代のお后様に生まれなくてつくづくと良かったと、私は思った。  コシノヒロコの服  着こなし次第で幾通りにも着られるドレス、というのが、私が服を選ぶ時の一番の基準である。  雑誌のグラビア頁《ページ》に出るだけではなく、オペラや観劇、音楽会の類にもちょくちょく出かけるので、 「あら、あのドレス、前の時と同じだわ」  と、大きな声で言われては困るのだ。  というわけで、一着で完成しているような、カチッとしたスーツや、飾りの多いワンピースはどうしても敬遠してしまう。  いつだったか原宿のコシノヒロコの店で、バーゲンセールがあり、友人と連れだって飛んで行った。この友人も私も背が高い方で、とりわけ腕が長すぎるという欠点を二人とももっている。従って普通のドレスが着られない。  コシノヒロコのバーゲンセールの一隅には必ず、モデルがショーの時に着たドレスがズラリと並んでいるはずである。それを狙《ねら》って飛んで行くのである。  遠くから見る分には、モデルはやけにほっそりと見えるが、実際には自分の躰《からだ》にあててみると肩幅もヒップもかなり大きい。とりわけ着丈が余っておつりがくるくらい。  そういう中で、普段はとても出来ないような冒険的ドレスを買いあさる。  たとえば片方の前|裾《すそ》だけが一メートルも下がっているトルコブルーの上着。このぶら下った一メートルの着こなし次第で、二、三通りに着れそうだ。  あるいは肩パットが入っただけのストーンとした長い長いロングドレス。ドレスの裾《すそ》を肩にもって来て止めれば普通の丈に、ウエストに止めればちょっとセクシーなロングにもなる。止めたところに飾るアクセサリー次第でドレスの感じもガラリと変わる。そしてドレス自身の色はなんともとりとめのないえび茶色を帯びたグレーという不思議な色。このドレスはすごく大活躍。大変に重宝した。一度や二度着て現れても、なかなか色彩が記憶に残らないという点が得なのだ。これから秋口にむかっては、裾を背中の方に大きくねじって、後ろからフードのようにかぶるという着方も面白そうだ。  もっと重宝しているのが、厚地ピケの礼服のジャケット。色は黒。衿《えり》は光るサテン。前裾がアシンメトリーで、背丈はやや短い。  このジャケットは四年前に買ったのだが、ほんとうに度々利用している。下に何を着ても、実に不思議にどれもきまるのだ。ジーンズをはけば、町着のジーンズがパーティー用に変身してしまう。あるいはビーズをちりばめたロマンティックなドレスに重ねると、そのけばけばしさをおさえてくれるという効果もある。前ボタンを閉めるのと、開いて着るのとでは、ガラリと印象が違うのも、うれしい。あげていくときりがない。  コシノヒロコの服は、もしかしたら服そのもので完成してしまってはいないのかもしれない。着る人に着こなされて初めて、ドレスとして完成するのではないだろうか。  私はそういう服が好きである。そういう服だけが好きなのだと言っても良い。着る側にある種の緊張感を強いる服でないと、着ていて退屈してしまうのだ。  どこかにとてつもない遊びがあって、その遊び方はあなた次第というふう——。こちら側の遊び方にセンスがないとちょっと困る。つまり、デザイナーが着る側に無言の挑戦をしてくる服。だったら受けて立ちましょうと、私なんて、大いにチャレンジ精神を刺激されて、エキサイトしてしまう。  もうひとつ、うれしいことには、彼女のドレスは着てみると、なぜか少し余分に痩《や》せて見えることだ。どうしてなのか、あまりよくはわからない。思うに、肩パットの程良い大きさと厚みのせいもあるだろう。それから彼女独特の胸のくり方。ちょうど鎖骨《さこつ》がきれいに浮き出る線で、丸くカーブしている。この首のくり方とか加減が、他の日本人のデザイナーより少しだけ深いのだ。その点をとても気に入っている。  デザイナーという人たちは、ほとんどが自分が着たいものをデザインするというが、多分ヒロコさんもその一人なのだろうと思う。ただ、ヒロコさんの場合、自分しか似合わないような狭さはない。自分というものを、ちゃんと中心に見据えた上で、大きく冒険をしている。冒険といってもいいし、危険をおかしていると言ってもいい。私はこの危険をおかすという部分に魅《ひ》かれるのである。だから彼女のドレスに袖《そで》を通す時必ず、冒険者の共犯があるような気がするのだ。  スーツとスニーカーとOL  ニューヨークのキャリアウーマンたちが、スーツにスニーカーをはいているというので、これがたちまち日本で流行したことがある。  ファッション雑誌をめくると、素敵なスーツやドレスに、ちょっと違和感のあるスニーカーというのが氾濫《はんらん》していた。  足の長いスタイルの良いモデルでも、ちょっとどうかなと感じる場合が多かったので、ましてやスタイルも悪いし足も短い私は、ただの一度も試みることはなかった。  大体が軽薄で最新流行にすぐ手を出す私なのであるが、スーツにスニーカーというのだけは敬遠した。要するに、自分に似合わないからである。それに、あまり素敵だと思えなかった。スーツにはきりっと六センチくらいのヒールの靴が一番似合うし、スーツ姿も美しいと信じているせいもあった。  つい最近ニューヨークに行った時のことだ。五番街あたりをブラブラと歩いていたら、連れの女性が言った。 「あら、ここじゃ未だにスニーカーね。ちょっと流行遅れって感じじゃない?」  なるほど、スニーカーがずい分多い。でも、ちょっと観察してみると、ファッションページから抜け出して来たような姿はほとんどといってもいいくらいに見当たらず、ジーンズにセーター。あまり格好の良くないレインコート。老いも若きも男も女もといった感じ。  流行につきもののファッショナブルな印象は受けない。流行というより必要に迫られている感じ。  そうなのだ。ニューヨークの中心街は、東京やロンドンと違って、すごく小さいのだ。タクシーを拾うまでもない。かと言って、ヒールの高い靴で歩くのにはくたびれる。そこで必要に応じて、スニーカーで歩く。会社に着いたら、きちんとした靴にはきかえる。そもそもそういうことから始まった話なのであった。キャリアウーマンが会社までテクテク歩いているところを、パチリと撮られて『スーツとスニーカーとの組み合わせが今新しい』なんてやったのは、きっとそそっかしい日本のファッション関係者なのに違いない。  ニューヨークに何日かいるだけでわかったことだが、働く女たちは日本の女たちに比べるととてもつつましい。そもそもスニーカーで通勤するのも、ヒールの底が痛むのを防ぐためだ。靴を大事に長くはくためである。  ランチタイムだって、ちゃんと座ってナプキンを使うようなレストランには、めったに入らない。サンドイッチかピザをつまむ程度で済ましてしまう。それも安い立ち食いの店か、カフェテリア形式か、もっと安く上げるために、公園やあるいは道を歩きながらホットドッグなどかじっている。そういう時スニーカーがぴったりとくるわけだ。  日本では普通のOLがシャルル・ジョルダンの靴をはいていたり、ヴィトンのハンドバッグを持っていたりする。  日本の若い女性がそんな贅沢《ぜいたく》が出来るのは、親がかりだからである。住と食を親にみてもらっているから、一足三万円もするような靴がはけるのだ。  外国の女性たちは、自分の収入を得るようになれば、当然のように住も食も着ることも何もかも、いっさいがっさい自分でみなければならない。一足のハイヒールを大事に長もちさせなければならないわけなのである。  そこのところが大いに違うのではないだろうか。日本のおしゃれな女たちは、十足くらいハイヒールを持っていて、スニーカーをファッションとして、短い足にはく。あちらの女は、必要にせまられて、格好の良い足にはく。どちらが板についていて素敵かは言うまでもない。ファッションというのは、うわべの型だけではないということだ。  夫と妻のいい関係いい空間  人との関係で私が一番重要視しているのは、距離のとり方である。どんなに親しくとも、たち入ってはならない心の空間が、あるものなのだ。時と場合によって、つかずはなれずという、むずかしい距離感。  住いというのは、人間関係を容れる器である。その中で、所詮《しよせん》は他人である男と女が長きに渡って暮らしていかなければならない。人を容れる器というものが、ある程度の広さを必要とするのは、言うまでもないことだ。  こんな実話がある。  ある愛しあう男女がいた。二人はヨットで世界一周の旅に出た。二人きりのヨットの航海。なんてロマンチックなのだろうと、人は思う。  夜は降るような星の下で眠り、昼には太陽がさんさんと降り注ぐ。タヒチやミクロネシアの島々。珊瑚礁《さんごしよう》。夕日。椰子《やし》の木。  実際にはどうだろう? 海、海、海。来る日も来る日も眼に映るのは大海原。風も吹く。想像を絶するような強風だ。嵐《あらし》にも遭遇《そうぐう》するだろう。  けれども最大の危機は、風でも雨でも嵐でもない。お互いがお互いの敵になることである。一本の綱に命をかけることもある。舵《かじ》さばきひとつで岩礁に激突してしまう危険もあるわけだ。言葉など選んでいる暇はない。怒鳴《どな》り合ったり、激怒したりすることもある。喧嘩《けんか》になる。ヨットの中での男女の喧嘩は、すさまじかったという。何度相手を憎み、殺したいと思ったかわからないわ、と後で女性の方が私に告白した。  大海の中で二人きりという孤独感もある。反対に、一人になりたいと思うこともある。だが一人になれるような空間が、狭いヨットの中にはない。何時間もトイレに蹲《うずくま》って泣いたこともあった。  やがて航海が終わった。二人は自分たちが遂に成しとげたことを祝いあった。けれども何かが失われてしまったことも感じた。二人は陸に上がると、すぐに別れた。今でも愛しあっているけど、と彼女はとても悲しそうに呟《つぶや》いた。  さて、航海を人生に置きかえてみよう。私たちの人生もまた、船旅のようなものである。強風の吹く日もあるし、大嵐《おおあらし》にだって逢《あ》うだろう。そうしたものから、私たちを守ってくれるのは家というものである。建物そのものであり、家庭でもある。  そこで何よりも大事なのは、住む人それぞれが充分に呼吸出来るような広さの空間。  家族と言えども、プライバシーは尊重しなければいけない。そういう空間を確保することが大事なのではないだろうか。夫妻が一緒の部屋で寝起きするのは当然だが、もしも夫に書斎のような「男の部屋」があるのなら、妻にも主婦コーナー以上の「女の部屋」があってもいい。  そして一番大事なことは、個室をもつこと以上に、そうした空間を使いこなす個人の人間性である。趣味を深くもつ。何かを勉強する。でなければ、そうした空間は単なる無駄なスペースとなり、宝の持ち腐れというものだ。  自分育ての時代  仕事をもたない女は、自立していないかのようにいわれるが、私はそうは思わない。一時マスコミなどで、専業主婦は自立していない女のように悪しざまに扱われたが、あれは大変にまちがったアプローチであると考えていた。  何も経済的な自立だけが、女の自立をさすわけではない。男以上の収入のある女でも、とうてい大人の女とは思えない言動をする人はいるものである。  自分のめんどうが基本的にみれることが、大事なのであって、収入が云々《うんぬん》というのは二の次である。自分のめんどうをちゃんとみれるという意味は、精神的にも肉体的にも自分をコントロールできるかどうかということだ。  もっとくだいていえば、自分でしゃんと立っていられるかということで、経済的にも精神的にも肉体的にも夫にぐったりと寄りかかっているようなのは問題外。  人によりかからない姿勢が大事なのではないかと思うのだ。  そのためには、自分というものをちゃんと知っていること。自分の想像の世界をもたなければならない。一人でいても何時間でも退屈しないだけの趣味なり打ちこめるものをもっていることである。  夫や子供たちのお尻《しり》を叩《たた》いて叱咤《しつた》激励するよりも、自分のお尻を叩いて、自分を叱咤激励したらどうかと、私は考えるのだ。人に期待すると不満ばかりが膨れ上がるものだ。それくらいなら自分自身に対して期待した方が、はるかにむくわれる。人は自分だけは裏切らないものだから。  自分に期待するということはどういうことかというと、今のうちに自分自身に投資したらどうだろうか? あるいは自分育てというふうに考えたらどうだろうか? 主婦というのはある意味で自分の時間が好きなように使えるわけだから、上手に時間を使って、自分を育てるために何かをして欲しい。やがてそれが四十代五十代に実って、花が咲き実がなるだろう。  女らしさについて  色々とあって、夫婦が別れる。  別れるまでの経過がいかに苦しいか、離婚をした人たちは口々にそれを訴える。  けれどもいったん別れてしまうと、女の人たちは実にいきいきと生き始める。そこが男とは違う点だ。  男たちはしばらくの間はいかにも寒そうに、惨めそうに生きている。  さて、自由になった女友だちは、仕事をみつけ社会とかかわっていく。刺激的な日々が始まる。  そんなある日、私はある女たちと逢《あ》った。 「どう? 独り身の自由の味?」  前よりも確実に五歳は若く見える彼女の美しい変身に驚きながら、そう訊《き》いた。 「うん、最高」  場所は私の家だった。夕食|刻《どき》だったので、ありあわせを一緒に食べた。つまりそれほど親しい女性なのだった。  食事が済んだ。私は汚れものがいつまでも散らばっていると落ち着かないせっかちな性分なのですぐに洗い物に立った。 「あら、手伝うわよ」と彼女が言った。 「うん、おねがいね」と私も少しも遠慮しなかった。  ところが、いつまでたっても彼女はテーブルに座って、あれこれお喋《しやべ》りを止《や》めない。私はあいづちを打ちながら、飲み終えた彼女のコーヒーカップを、洗い場へ運んだ。 「あら、私がやるのに」とまた彼女が言った。 「だったら拭《ふ》いてよ」と私も頼んだ。  やはり彼女は喋り続けて立って来なかった。私は返事したり、お喋りを続けながら食器を拭いて、戸棚にしまった。  一段落して、彼女の前に座ると、私は溜息《ためいき》をついた。昔はとても腰の軽い人だったのに、と思った。気働きがあり、人の気配を敏感に受けて、先へ先へと行動する人だった。  見ると煙草を吸っている。足を組んで鼻の穴から煙りを吐きだした。 「一言、いい?」と、私は言った。 「その顔つきじゃ、厳しそうね」と彼女はまだ残っている敏感さで、そう言った。 「あなた、男になったわよ」  妙な表現の仕方ではあるが、それで彼女には通じた。 「うん、自分でも最近そう思う……」ふっと反省の表情がその顔に浮かんだ。 「一日中外で仕事でしょ? 疲れちゃってさ、腰が重いのが自分でもわかるのよ」 「疲れるからかなあ」と私は疑問を呈した。「私も働いているんだっていう過剰な意識があなたを男にしちゃったのよ」私はズケズケと言った。「働くことがそんなに特殊なことかしら」 「厳しいな。でも反省。言ってくれてありがとう」  私の女友だちはそう素直に認めて、ニッコリ笑った。  人の批判を素直に聞けるのは、素晴らしいことだと思う。今でも彼女と私はいい友達だ。   ㈼  父の肖像  ある雑誌で、「私にインスピレーションを与えた男たち」という企画があり、私はあれこれ頭を悩ました揚げ句、とにかく五人の男たちを選び出した。  雑誌の性格や企画の意図からして、あまり大まじめに考えてもシラケると思い、遊び心を加味して選んだのである。  その五人がどういう男たちかは、ぜひ『風のように』(角川文庫)を見て頂くことにして、ここで私がハッと気づいたことは、男たちに共通するものがあるということだった。  もちろん彼らは人種も違うし、国籍も肌の色も違う。それぞれの男たちは互いに似ていないし、共通点もあまりない。一人はイギリス人であり、一人は日本とドイツの混血の男であり、一人は男優であり、一人は版画家、そしていま一人は詩を一行も書いたことのない詩人である。  彼らは互いにはどこも似ていないが、奇妙なことに、それぞれがどこか私自身の父に似ているのである。そのことに気づいて私は愕然《がくぜん》としたのだった。  ある男は父と声が似ている。横顔を見せてほおに手をついている時のポーズが酷似している男。照れてはにかむ時の苦笑のしかたがよく似た男。手の型がそっくりな男。言葉と言葉の間の取りかたが気持ちの悪いくらい似ている男。同じような字を書く男。不機嫌さが黒々としていて女の手にあまるところが父と共通している男、といった具合なのだった。  私の好きな男たちが、いずれもどこか少しずつ父に似ているというのは、実に複雑な思いがする。  子供の頃、私の父は厳格で、ほんとうに怖い人だった。本当は小説家になりたかった人なのだが、戦争があったり、家庭を持ち子供たちができたりしたことで、彼は小説家への夢を断たねばならなかったのだ。  それでも物を書きたいというやむにやまれぬ衝動から、私の父は日曜日というと文机《ふみづくえ》に向かって黙々として書いていた。  子供のころ、私は、日曜というと文机に向かって物を書く父の背中が嫌だった。何かたとえようもない重荷でうちひしがれていたからだ。夕方になって、部屋から出て来る父は、体中の血をすべて放出してしまった人のように見えた。あるいは、体の中のどこか目に見えない一部を、えぐり取られた人のように見えた。その時私は、幼い心に、小説家にだけはなりたくないと思った。それから、あんなふうなうちひしがれた背中を持つ父のような男とだけは結婚したくない、と。  それがどうだろう。私はいつのまにか自分でも小説を書くような女になってしまった。そしてある時、ふと見た夫の背中が、父のとよく似たうちひしがれたような背中であることに胸をつかれたような気がした。  そして今、私が好きだった男たちのすべてが、あの一種うちひしがれた背中をしていることに、私は改めて気づかされたのである。男の背中とは元来そのようなものかもしれない。  私の銀座メモリー  芸大の学生だった頃、ヤマハ楽器店に用があって、最低週一回は銀座に通ったものだった。  そういう場合、最寄りの新橋から行けばいいようなものを、私たちはわざわざ地下鉄の日本橋駅で降り、京橋を通り銀座通りを抜けて、銀座のどん尻《じり》にある(新橋側から言えば始まりにある、ということになるが)ヤマハのドアを押すのである。  もちろん目的は、楽符を買うとかレコードを買うとか、ヤマハホールで行われる音楽会に行くとかそういうことであったが、そうしたことよりも、盛んにお喋《しやべ》りをしながら銀座通りをすみからすみまで抜けて行くことに、私たちは青春を感じていた。喫茶店でお茶を飲むようなお金も、ままならない親がかりの大学生だった。  しかし銀座通りをウィンドウショッピングしながら、ブラブラと歩くのにはお金はかからない。デパートの大きなウィンドウが始終模様替えをするので、それも楽しみだった。段々眼も肥え、どこのデパートのセンスが一番良いかということもわかり、最新流行のファッションもいち早く頭に入った。デパートのウィンドウというのは、世相と流行をどこよりも敏感にそして早く取り入れるから、音楽の勉強の足しにはならなかったが、後に広告業界で宣伝表現の仕事をするようになった時、それが大いに役に立ったものである。私の勤めた広告代理店は、初めのうち銀座四丁目に近い並木通りにあり、アイディアに困るとふらりと外に出て、デパートのウィンドウをじっと覗《のぞ》いたものだった。  それにしても大学の四年間を通じて、一体銀座通りを何往復したことだろう。のベキロメートルにして、一体どれだけ歩き回ったことだろう。そして歩きながら交わした夥《おびただ》しい青春の会話。  どこか別の大学のオーケストラで、アルバイトをしたりした時のギャラを握りしめて、私と親友は千疋屋《せんびきや》へ駈《か》けこむ。千疋屋のフルーツパフェには、その頃どこの店でも使わない本物のメロンが入っていたのだ。そして値段も学生には不相応に高かった。千疋屋のフルーツパフェも青春の味である。  やがて銀座のどまん中に職を得て、三年間働き、結婚、出産のため私と銀座の深いつながりが、ついに切れた。  しかしあれから、二十年以上過ぎた今でも、私にとって銀座でなければ、というものがいくつかある。  イエナの洋書。ワシントン靴店でしか買えないクィーンサイズの靴。(うちの娘たちの足のサイズはみんな二十五センチなのだ)セゾン劇場での興味ある演劇など。  銀座に出るとランチは必ず『大増』のタイ茶漬ときめている。  夥《おびただ》しく変わる都市の街とは違い、銀座には二十年前に存在した店が、今でも変わりなく存在している。これはとてもうれしいことだ。  �詩人�ムッシュウのこと  まだ人生について何も知らない十九歳の時のことであった。ある夜、一度も会ったことのない人から電話が私にあった。  知らない名前だった。聞いたこともない声だった。  彼は私の知っているある絵描きの名を上げて私を安心させ、一度会いたいのだけど、とたくさんの沈黙を混じえる話しかたで、私に語りかけた。  その声の静けさと、言葉の間にひんぱんに挿入される沈黙の暗闇《くらやみ》とが、私の胸をわしづかみにしたのだった。  ——知らない人に誘われても、ついて行ってはいけませんよ——不意に子供のころ繰りかえし言われた母の言葉が私の耳によみがえった。——知らない人と遠くへ行ってはいけません。  私は翌日彼に会い、一目で恋に落ちた。彼は、彼の声にそっくりだった。つまり、彼の声の体現するものに。  人々は彼をムッシュウと呼び、詩を書かない詩人だと私に教えた。私は狂ったように彼にのめりこみ、毎日のように彼に会い続け一年が過ぎた。  私の母は心配のあまりやせ、父は毎晩のように門限をはるかに過ぎて帰って来る娘を、起きて待っていては時々殴った。  私は父を安心させようとしてムッシュウを紹介したが、結果は最悪だった。彼の風体を一目見るなり父は激怒とショックで蒼白《そうはく》となった。二十数年前には信じられない長髪で、ヨットのデッキシューズのような靴を素足ではいていたからであった。  しかし父が激怒したのは、娘の恋人が、彼の常識と理解をはるかに越えた見知らぬ男であったからであった。その見知らぬ男が、娘を遠くへ連れ去ってしまったからであった。  ある時、父は一通の書類を私の前に置いた。興信所の報告書であった。ムッシュウには妻のような人がいたのだった。その女性を私はよく知っていた。毎日のように顔を合わせていたムッシュウの仲間の一人であった。  私の恋はそのような形で突然終わったが、彼との友情は残った。彼は私に実存主義を教え、セザール・フランクを語り、パウル・クレイを、カミュを、フォークナーを教えてくれた。  やがて私は別の男と恋に落ち、結婚した。当然のように新婚の夫にムッシュウを引き合わせた。私たちはみんな友達になれると思ったのだ。  けれども夫は激しい拒否反応を示した。「彼は何者か?」とまるで異星人であるかのように言った。そして私に彼と会うことを禁じた。  多分、夫もまた、昔父が感じたように、ムッシュウが私の心を遠くへ連れ去ることを恐れたからだろう。  それでも私は時々こっそりとムッシュウに会い続けた。二十数年が流れ、つい先日も一緒にお茶を飲んだ。これからだって会うと思う。  ところで私と彼との関係は常に淡白であった。彼はただの一度も指一本私に触れなかった。そのように彼は私を愛してくれた。そしていまだに彼は一行の詩も書いていない。  配偶者のこと  今の若い女性が、理想の夫の条件を並べるのを聞くと、ああ世の中平和だなあ、と思うのである。  背が一八〇センチ以上あるとか、慶応卒でなければならないとか、商社マンがいいとか、相手の親にマンションを買ってもらいたいが 姑《しゆうとめ》 たちとの同居は断るとか。週に一度か二度は妻を誘ってレストランで夕食をとってくれる優しい夫がいい、とか。  要するに自分は何の苦労も労働もせず、手も汚さず、楽しいところ、おいしいもの、いい思いをしたいという神経がみえみえなのである。  結婚と同時にもう既《すで》に何かが完成されており、その完成された器の中でぬくぬくと生きていこうという願い。しかも自分はほとんど社会的なかかわりを断って、世の中に役に立つようなことはいっさいせず、夫に寄生していこうというのである。  仕事に生きようという女性が一方で少なからず増えてはいるが、お嫁さん志望の若い女性の数は相変わらず断然多い。 「だって楽ちんだもん」というのがその答えである。それはそうだ。マンションも何もかも全部用意されていて、その中に入っていくだけなのだから、家事や食事作りだってオママゴトの延長みたいなものだろう。  でもそんなのはつまらない。何もかも出来上がっているところからのスタートなんて信じられない。次に何をしようか、そしてそれが終わったらその次は二人で何をしようか、またその次は? というふうな生活が待っていない結婚なんて、私は少しも魅力的だとは思えない。何かがすべてそろっていたら、多分私ならそれを全部壊したくなるだろう。  二十数年前、私も結婚に夢を抱いていた。しかしそれは親が買ってくれたマンションに身長一八〇センチの商社マンと住むことでは全然なかった。  第一どんな仕事であれサラリーマンの妻になりたくなかった。自分と夫の将来の姿が、すっかり見えているというのは嫌なのだった。  私が夫に選んだ男は、当時定職なし、住所不定、ポケットにはコーヒー代くらいしか入っていない、無銭旅行中のイギリス男だった。  いつかオーストラリアで一旗揚げ、いつかヨットを買い、そしていつかヨットで世界中の港を巡り渡りたい、キミも一緒に来るかい? というのが、いわばプロポーズの言葉だった。  ポケットにコーヒー代しか入っていないのに、よく言うわいと、思った。しかし私だって似たようなものだった。持参金なし、嫁入り道具いっさいなし、文字通り体ひとつで彼のお嫁さんになった。テーブルも買えなかったから、本の入っている段ボール箱にクロスをかけてそこが新婚の食卓となった。  二十年ほどがたち、オーストラリアで一旗揚げることはできなかったが、今年の秋には待望のヨットが油壺湾《あぶらつぼわん》に浮かぶことになっている。  ある風景  新婚間もない頃の話だ。  何かの折りに、夫のもちもののなかからポロリと一枚の小さな写真が滑りでて、私と夫の間にあったテーブルの上に落ちた。  そのころはまだ今みたいに家中に物が溢《あふ》れるほどなくて、私たちはお互いにたいしたものを所有していなかった。  従って何か秘密のものとか、相手に見られては困るものの隠し場所があまりなかった。(現在では物が豊富すぎるために、秘密の写真や手紙の隠し場所には困らないが、逆に、隠した場所がわからなくなって不便である)  さて、ポロリと落ちた一枚の写真。琥珀色《こはくいろ》で、周囲がギザギザに刈りこまれている。写っているのは若い女。金髪である。 「これ、誰《だれ》?」  と私が訊《き》いた。別に怒ってもいなかった。ただ単純に頭に浮かんだ言葉を言っただけだった。 「こ、これはドイツ人の娘で、そ、その」  と、なぜかとたんに若き日の夫がしどろもどろになった。 「と、とっくに別れた、ガ、ガールフレンド」  夫が非常に具合悪そうに説明するのを聞いているうちに、なんだか平然としているのも変だと私は思い、 「昔のガールフレンドの写真なんて、どうして大事に持っているのよ?」  と、怒ったふりをした。すると夫はいっそうしどろもどろに、ただなんとなく持っているだけで、意味はないんだ、と赤くなった。 「だったら捨てたら?」  私はあっさりそう言って、眼の前の写真を指でつまむと、近くのゴミ箱にポイと投げた。 「そうだね」  と夫は抵抗しなかった。  そしてそんなことは忘れて、何年かがたった。また何かの拍子に、夫の持ち物の中に、捨てたはずの写真がみつかった。それが騒ぎになったのは、またもや夫のドギマギした態度が尋常ではなかったからだ。  はっきり言って、昔の彼女のことなど、私は全然気にしていなかった。もしもその彼女が近くにいて、いつでもまた逢《あ》えるというのなら、多少は心配するだろうが、ドイツと日本と離れていたのでは、逢いたくとも逢えないではないか。それに今頃はジャガイモを食べすぎて、巨大な肉の塊りとなっている可能性大である。私だって、結婚する前にボーイフレンドや恋人がいたわけだから。済んでしまったことはいいではないか。昔の彼女の写真をこっそり持っているのも、可愛《かわい》いじゃないかと、そんな軽い気持ちだったのだ。  それが、夫があまり恐縮するので、形だけでも嫉妬《しつと》せにゃあかんのかな、と思い、私はそれを咄嗟《とつさ》にビリビリと四枚に破いて、クズ箱に投げ入れた。その時も夫は、肩をすくめてうなだれただけだった。  その後わかったのだが、夫は非常に妬《や》きもちやきで、私が男の人と一緒に写真を撮ると、これは誰《だれ》でどういう関係か、と執拗《しつよう》に訊《き》くのだ。 「なんでそんなこと、いちいち訊くの?」  と不思議に思ったら、 「アルバムに大事に貼《は》るくらいだから、特別の男なのだろう」  という発想だ。 「じゃ、あれは何だったのよ?」  と私は夫の古いスネの傷を突いた。 「昔のガールフレンドの写真なんて、いつまでも持っているのは、許されるの?」 「だからそれは君が破り捨てたろう?」  ところが私は知っているのだ。破り捨てたはずのその一枚の写真が、セロテープで貼り合わされて、夫のウォレットの中にこっそりと忍びこませてあるのを。  私はそれを知っているということを夫に言わなかった。私はその写真のことをほんとうに、何とも思っていないのだ。夫には夫の大事な思い出があり、彼がそれをずっと収《しま》っておきたいらしいことが理解できるからだ。たとえ夫婦だって、思い出の中にまで、ズカズカと入って行くことは出来ない。  ただ夫は今でも、ウォレットの中の写真については、私に対して後ろめたい気持ちを抱いているはずなのだ。妻を裏切っているような、秘密を抱いているわけだ。  だからこそ、あの一枚のつぎはぎの写真によって彼女との思い出が、彼にはいっそういきいきとして、鮮《あざ》やかに思い出されるのだろう。タブーだからこそ、それはめくるめく色彩を帯びるのだろう。私はそう考える。そしてそんな一枚の写真をひそかに所有している夫を、うらやましいと思う。  あの甘やかな匂《にお》いが微《かす》かにする坂道  三十代の前半のほとんどを、西麻布《にしあざぶ》で過ごした。それまで住んでいたのは、三浦三崎の突端にある海辺の家だったので、環境は激変した。  とにかく、夜がいつまでたっても明るいのである。窓を閉め、カーテンを閉じても、寝室の中には暁の仄白《ほのじろ》さによく似た、青味を帯びた薄明りが漂っていた。  海辺にいた頃には、太陽が沈んでしまうと夜がすぐに訪れた。月のない時には、それこそ漆黒の闇《やみ》であった。懐中電気なしではどこも歩けなかった。従って寝室の中の灯《あか》りを消すと、もう鼻をつままれてもわからない真暗闇となり、安眠が出来た。  西麻布の夜は、だから中々寝つかれず、ベッドの上を転々としてばかりいた。カーテンをどう工夫しても、都心の夜の放つ蒼白《あおじろ》い光りをさえぎることは出来なかった。  私たちが住んでいたのは、麻布十番へと抜ける坂道の途中にある一軒家だった。曲がりくねった石畳が、まるでパリのモンマルトルあたりのようで、風情《ふぜい》はあったが、よくヒールのカカトを取られたり、傷つけたりして苦労した。  なぜか坂道に縁があり、三崎の家も丘の中腹にあるし、私の下北沢の実家も、かなり急な坂に位置している。  真夏の登りは、いつも汗だくになった。上にすっかり着く頃には肩で息をしていた。坂道を登る時の調子で、その日の健康状態がなんとなくわかるのだった。  西麻布時代、私たち夫婦はよく喧嘩《けんか》をして、たいてい私が言い負かされ、口惜《くや》しさで家を飛び出すということがよくあった。そんな時、坂の途中で一瞬思案したものだった。登りにするか下りにするか。  下り坂を駆《か》け下りる方がもちろん楽である。けれども、喧嘩が深刻であり、腹立ちが激しいほど、私はなぜか無意識に登り坂を駆け上って行ったような気がする。そうやってエネルギーを使い切ることによって、むしゃくしゃを解放していたのかもしれない。  西麻布の坂と東京タワーは切っても切れない関係にあった。坂の途中のある地点まで来ると、突然タワーがそそり立つように見えるのだ。夏の宵の口には、黄昏刻《たそがれどき》特有の青白さが漂い、その中で、次第に輝きを増していくタワーの明りを、あきずに眺めたりした。  冬のタワーは、もっと美しかった。冬の方が空気に透明感があるためか、イルミネーションが輝き、タワー自体が着飾った女のように見えるのだった。  西麻布から現在の下北沢に越して、またたくまに十年という歳月が過ぎてしまった。当時の家賃が確か十三万円くらいだった。それが現在では六十万円に近いという。  しかし家賃以外の点では、あの坂道は昔のままだ。時々混雑を迂回《うかい》するためにタクシーで通りかかったりすると、私は息をつめて、通りをじっと見る。寒くても窓を開いて匂《にお》いを嗅《か》ぐ。埃《ほこり》とガソリンと樹木と金木犀《きんもくせい》の香りがする。金木犀の季節でなくとも、あの甘やかな匂いが微《かす》かにするのだ。  そしてタクシーはあっという間に坂の下に着いてしまい、十番の雑踏を抜けていく。  坂道には特別の風情《ふぜい》と、独得の匂いがある。そこにだけしかないような気配というか、たたずまいというか。  時々、私は二度とこの坂を自分の足で歩くことはないのかもしれない、などと考える。混雑迂回でタクシーが偶然に通りかかる以外に、通ることはなくなってしまったからである。  娘たちと一緒だったりすると、彼女たちは車の中で眼を見張って、こう叫ぶ。 「あら、ほんとうはずいぶん狭い道だったのね」  まだヨチヨチ歩きだった頃の彼女たちの眼には、広々とした坂道に映ったからだろう。  昼下がり  三十代の頃、私は昼寝ばかりしていた。昼食の後、読みかけの本を持ってベッドにもぐりこむのである。  その頃、一日がやたら長くて、私は時間をもてあましていた。子供たちが学校へ行くようになり、私にはもうやることがあまりなかったのである。  することがないので、本を読んだ。一日に二冊くらい読んでしまう日もあった。  いくら本を読んでも満たされることはなかった。胸がいつもひきつれたようで、うつうつとして常に哀《かな》しかった。  理由もわからずに焦っていた。するとますます胸が波立ちひきつれが強まった。  そういう時、本を読んでも気がまぎれなかった。だから私は昼寝をするようになったのだ。  三十分くらい眠って、さっと起きシャワーを浴びれば快適なのに、いつまでもグズグズしていた。不思議なことに、昼下がりの眠りはダラダラといつまでも続けられるのだった。  躰《からだ》のふしぶしが重く痛み、ダラダラと眠っていることに心身ともにうんざりすると、私はベッドから起きだす。夕方になっていることも、多くあった。  口の中が苦く、躰は熱をもったように熱かった。この時私は自嘲《じちよう》をこめて「眠り病」と名づけた。  私の「眠り病」は、現実からの逃避であった。眠っている間は、色々と思い悩んだり、死ぬほどの倦怠感《けんたいかん》に怯《おび》やかされることはない。 「眠り病」は三年ばかり私にとりついて私の持病となった。それはある時私にも小説が書けるかもしれないと奇妙なことを思いついて、実際に書き出してみる前日まで続いた。  そして小説が一冊生まれると、私の「眠り病」はあとかたもなく治ってしまったのである。  あれから十年の歳月が流れた。時々、あの頃のことを考えると、やっぱり口の中に苦い味が広がるのだ。  天気の良い夏の軽井沢の昼下がり。木《こ》もれ日がチラチラと庭に落ちるのを見ると、あのふつふつと悲しかった無為の日々のことを、まざまざと思いだすのだ。  あるいは、この地方特有の、どしゃぶりの雨がくる日もくる日も続く時など、ベッドの中でウトウトしながら聞いたあの雨音がよみがえるのだ。  風が吹いても嵐《あらし》になっても、秋晴れの美しい日でも、私の記憶にある昼下がりは、そんなふうであった。『情事』を書きだしたのも、また劇的な昼下がりのことであった。  その夏、軽井沢には異常に雨が多かった。土が溶け出して、道はボコボコになり、庭の地盤もゆるんでいた。  ヒマラヤ杉や庭の大木も降りしきる雨に打たれて、ひたすら惨めそうにうなだれていた。  私は木もれ日を思い、秋の透明な日射《ひざ》しを思った。  ——夏が終わろうとしていた——という第一節で小説が書きだされた。私が書いているというよりは、何かの見えない手が、私の手に宿って、私に文字を書かせているというような感じが、しきりにしていた。今でも時々私は、私の手に宿る何者かの見えない手の存在を感じることがある。その何者かの手を、何と名づけたらよいのだろうか。  唄《うた》えない私  楽譜が読めないのに、ギターをとり上げるとサラリと奏《ひ》いてしまう人がいる。私は心底びっくりしてしまう。  カラオケバーとまではいかなくとも、ピアノが置いてあるような所で、興が乗ると唄いだす人がいる。歌詞だけ書いてある紙切れを手にしてである。この場合も、私はほんとうに感心してしまう。  譜面なしに音楽がやれるということが、私には驚異なのだ。私にとって音楽というのはイコールオタマジャクシのことで、楽譜がないとニッチもサッチもいかなかった。ずっと子供の頃からヴァイオリンを習っていたので、暗譜することは出来ても、それは百回近く譜面づらをさらったから出来ることであった。  友だちと気軽にピアノの置いてあるバーなどへ行くと、だから困惑することばかりだ。お酒のいきおいもあって、みんなが次々と立って唄う。人前で唄うなんてことはとうてい出来ない私は、その度胸にまず度肝をぬかれるし、普段練習しているとも思えないのに、結構、節やヒネリや唄い上げるところなども上手《うま》いのである。 「あなたの番よ。気取ってないで今夜こそ唄いなさいよ」と友だちが背中を押す。気取っているわけではない。「レパートリーがないのよ」と尻ごみすると、歌詞を書いた紙切れをくれる。「だめよ。譜面がなくちゃ、何が何だかわからない」。友だちがピアニストにむかって訊《き》く。「○○○の譜面ある?」、ピアニストは譜面なしの即興だ。「ないですねぇ」と声がかえってくる。「ないって」と友だち。「じゃだめだわ」、ほっとする私。  だけど時々、譜面の用意があったらどうしようと怯《おび》えるのだ。譜面が読めてもその通り声が出るかは、また別の問題だからだ。今のところ、そういう危機におち入ったことはないが、いつ危機に出逢《であ》わないともかぎらない。ピアノバーを極力敬遠するのは、そのせいだ。  永島敏行さんのこと  今、一番気になる男ということで、私が永島さんの名を挙げたら周囲の人たちがアレ? というような顔をした。ラシクナイデスネというのだ。日頃ウォーレン・ビューティーとかミッキー・ロークが素敵だと声を大にして騒いでいるせいだと思う。  私の周囲の人たちは、私の長い恋の遍歴を知らないから、アレ? となるのである。これは初めて明かす私の※[#○秘]、恋の遍歴物語。本当は小説のネタに大事に取っておきたいのだけれど、永島さんの魅力を語るためには、どうしても避けて通れないので、打ち明けてしまおう。なんだかハヤシマリコ風になってきた。なぜだろう? テツオさんが原稿取りに来るせいかしら? 私が好きになる男のパターンは、物の見事に二つのタイプに分かれる。バタ臭い男と純日本男子風と。  小学校の時の初恋の相手はオサムちゃんで、これはバタ臭い方の代表。郷ひろみタイプの可愛《かわい》い少年だった。中学校の三年間ひそかにして熱烈に思いを寄せたのは、ナガハマ君で正反対。嵐寛十郎《あらしかんじゆうろう》の少年時代といったふうだった。高校時代は再び反転して今度はアラン・ドロンタイプに変わり、大学の終わりの頃婚約した男は健さんの若かりし頃を偲ばせた。そして結婚したのが文字通りの外国の男で、それがこの二十年間ずっと続いている。だから次に挙げるとすれば当然、永島さんということになるのである。  説明したりないので少し話を戻すと、健さんの若かりし頃を偲ばせる男とは、婚約をしただけで結婚には至らなかった。早い話が彼の気が変わったのである。無理もない話なので私は許してあげた。それだけではなく別れた後もずっと友だちで、今でも友だちだ。その彼は罪ほろぼしに私の本の装丁をせっせとしてくれている。もっとも只《ただ》でというわけでもないらしい。デザイン料はちゃんと取っているという話だ。  どういうわけかバタ臭いタイプとの相性はいいのだが、純日本風好男子との相性がめっぽう悪いみたい。嵐寛十郎の君など、中学生とはとうてい思えぬ悪意のある冷ややかさで終始一貫、私をしりぞけていた。  さて永島さん。じっと写真を見ているうちにあることに気づいた。嵐寛十郎若かりし頃のナガハマ君と、婚約だけして結婚しなかった男を足して二で割ったような顔をしているのだ。嘘《うそ》みたいだけど本当のこと。私はやっぱり幾つになっても面食いなんだ。  でもひとつだけ変わった事がある。昔はキリキリと神経をひきしぼっているような男が好きだったが、もうそういうのはつくづくといい。いいというのはいらないという意味。温かい男がいい。握手をした時に、その男の手がひんやりと冷たいと、以前は胸がズキンとして、たちまち魅《ひ》きつけられたが、この頃では手足が冷えるせいか、温かい手がやたらとうれしいのだ。ひんやりと冷たい手に触れたりしたら、こっちの手までたちまち感染して冷えてしまい、朝まで冷えっぱなし、まんじりとも眠れないなんてことになって困るのである。  それから、基本的に正義感の強い男。躰《からだ》の中心にぴりっとそれが通りぬけているような男。悪や不正や卑劣な行為が行われていたら、その前を素通りできないような男が、いいと思う。この場合のいいは良いの意味である。  更に言えば礼儀正しいことも、大事。この点についても若い頃の私は、相手の男が無礼ではだめだが、ほとんど無礼すれすれのところで女に接するようなキザで冷たい男に強く魅かれたが、それももうノーサンキュー。とにかく冷え性になってからは手足にツララが出来そうで冷たい男はだめなのだ。  普通が最高。自然なのがいい。海辺にいたら海の一部になり、都会にいたら都市の一部になり、風が吹いたら風のように、その場、その時々になじみ逆らわない、きわだたないこと。バーに一歩足を踏み入れたとたん、わッ、コンドウマサオミがいる、というのは困る。(ごめんね、マサオミさん。でも私があなたの熱烈なファンなのを知ってるでしょう?)  冬ならツィードの上着にウールのセーター、スニーカー。夏ならジーンズにTシャツが似合う男。フランソワーズ・サガンの好きな表現『年をくった少年のような男』。  うん、そう、私も『年をくった少年のような男』が好き。三十代はもちろん四十代でも五十代でも、ただ少年のようなではなく、年をくったがつく少年のような男が素敵。  もうひとつだけ。言葉を持たないものたちに優しいひと。植物や自然を傷つけないために、できたら積極的に何かしてもらいたい。そして、犬や猫だけでなく、地球に住む動物たちの声に耳を傾けて欲しい。言葉をもたないものの悲しさを労《いたわ》れる心。子供とか。鳥や犬たちや子供たちと、延々と会話が出来たらどんなにいいだろう。これは私の想像だけど、永島さんはきっと、樹《き》や動物たちや花や子供たちと、長々とお話が出来る男《ひと》なんじゃないかしら?  土の匂《にお》いがしたり、コンクリートの匂いがしたり、雨の匂いがしたり、潮風、太陽、樹木、それにほんのちょびっとクリスチャン・ディオールのオーソバージュの香りが混って。笑うと少年みたいだったりお父さんみたいだったり、うつむくとシャイで。低いけれど透明な声で「きみ、一人で大丈夫か?」って訊《き》いてみてくれない?  そしたら私は答える「いいえ」って。「いいえ。でも、一人でがんばらなくちゃね」って。  永島さん、今日は快く私のために写真に出てくれてどうもありがとう。  文 字  世の中には惚《ほ》れぼれとするような文字を書く人がいるものだ。ほんとうに惚れこんでしまって、ぽうっと長いこと眺めたり、さすったり。なぜかそういう上手《うま》い字に出逢《であ》うと、胸が痛くなる。  編集者に二人、絵描きに二人、グラフィックデザイナーに一人、私が無条件で惚れてしまった文字の書き手がいる。  達筆というのではない。むしろ絵心のある字である。空間の処理が実に良いのだ。  彼らは例外なく、ペンであろうと鉛筆であろうとボールペンであろうと、破綻《はたん》のない字を書く。弘法《こうぼう》筆を選ばず、とは彼らのような人たちのことをいうのだろう。  不思議なことに、彼たちは味わいのある文章をそろいもそろって書く人たちだ。プロの作家ではないが、多分プロとしても通用するくらい、良いエッセイや手紙や雑文を書く。  さて私のことであるが、冷静に見て字は上手《うま》くない。なんとか格好がつくのは、万年筆で書いた文字だけである。鉛筆だと稚拙になり、ボールペンだとこれが同じ人間の書いた文字かと思うくらい変型した文字になってしまう。  万年筆の太目のペン先で、ゆっくりと叩《たた》くような感じで書くと、一時間に二枚くらいのペースで原稿がすすむ。このペースと頭の中で作文をしていくリズムとがぴったりと合うのである。  頭が疲れてくると、何故《なぜ》か逆に書くリズムが速くなる。そのとたん文字面が変わってしまう。文字が破綻してくるのである。  大体三時間続けて集中すると、頭が疲れ、文字に乱れが生じてくる。『週刊文春』連載の『ベッドのおとぎばなし』は十六枚の読み切り短編だが、私はこれを二日に分けず一日で、しかも一気に書き上げるので、たいてい後半のほうは、文字が崩れている。書き始めと終わりとでは、自分の眼で見ても同一人物の文字とは見えないくらい、違ってしまう。  ということは、文字が乱れだしたらその日の原稿はそれで打ち切るのが良いということだ。疲れた頭でいくら書いても、手は動くが、精神がこもらない。私が一日に破綻なく書ける枚数はこの計算でいくと、八枚から十枚ということになる。  万年筆で書く文字を見ると、自分のその時々の健康状態や精神的な状況が、実によくわかるものである。  けれども、先に上げた文字の上手《うま》い知人たちというのは、字面に一糸の乱れもないから、いつみてもクールで、抑制がきいていて、スキがない。  書きなれた万年筆は目下のところ命の次に大事なので、私は同じものを二本常備している。  男について  長いこと、男というものがわからなかった。つまり、最初はわかっていたのだ。男というのは強くて、妻子を養い、泣くなんてことはなく、常に道を切り開いていくものだ、と思っていた。父がそうであったように。  何かあれば父の膝《ひざ》の上に乗っかって甘えれば、たいていのことは解決することができた。あるいはほんの少し涙を見せたりすることで。  ある時、不意に、父はもはや万能の神ではなくなってしまった。私は、他の男に初めて恋をしたからだった。  恋をして、やがて破れ、野良猫のような薄汚れた悲しみに包まれて家に戻ると、そこに父がいた。  けれども、私は依然として淋《さび》しかった。父がいるのにもかかわらず、見捨てられた孤児のように淋しかった。  やがて、結婚して、一人の男と一緒に暮らすようになると、私の「男」というものの概念が音をたてて崩れてしまった。男も泣くことがあるのだ、という発見はとりわけショックであった。  そして必ずしも男は強いわけではなく、女々《めめ》しくて嫉妬《しつと》深い動物だということも知った。そして必ずしも男だけが妻子を養ったり、人生を切り開いていくものでもないのだ、ということを自ら体験もした。  とりわけ性の暗闇《くらやみ》は、ますますその暗さを増していったような気がする。  そして、小説を書くようになり、自分をみつめる作業が延々と続いた。すると不思議なことに、自分を発見していく過程で、男のことが少しずつわかるようになっていった。  世の中に、男と女が別々にいると思うからわからなくなるのである。人間というひとつの単位で考えれば、それですむのだ。  熱いものは熱い。酸っぱいものは酸っぱいと男も女も感じるではないか。女にとって快いことは男にも快いはずである。女が嫌だと思うことは、男も嫌だと思うのである。自分が何を望み何を望まないかがほんとうにわかれば、相手のそれも実によく見えてくるものである。  そんなことがわかるようになると、私は、具体的に男を主人公にした短編が書けるようになった。当初の頃には思いもよらなかったことである。  思えば、父親はなんと遠くなったことか。その父も老い、背が丸く縮んでしまった。胃の具合が悪いと言っては愚痴をこぼし、血圧が高くなったと不安を訴えてくる。時々スシ屋へ行けば、私の方で財布を取り出して支払いをすます。  しかし、あの少女の頃に夢みた、男性像はどこにもいない。現実には、男らしい男など存在しない。男はその中に誰《だれ》でも少しずつ女をもっている。そして女もその中に少しずつ男をもっている。だから私たちは、相手のことがわかり、そして男と女とは少しずつ似ているのである。  愛について  小説は作りごとだけど、やっぱり知らないことは書けない。これは当たり前だ。自分がまだ一度も見たこともなければ行ったことのない町のことを、どう書けば良いのだろう?  同様に自分の知らない人のことや人生のことも書けない。  私が書きたいのはまず第一に、私自身のことだ。次に、私が好きで深く魅《ひ》かれる人のことだ。正確にいうと、その人と私とのかかわりについて書きたいのであって、単に遠くから見て素敵だというのでは話にもならない。  鶏が先か卵が先かになってしまいそうだが、少なくともこれから先私が深くかかわって行く人間がいるとすれば、男であろうと女であろうと、彼らは全《すべ》て私の小説の素材である。  私はまだこの先、恋愛をするかもしれないが、もしするとしたら、そういう状態に自分を置き、私自身を素材にすることに他ならない。  もしも小説を書くようなことをしていなければ、私の年齢ではもはや他人に対していかなる影響力ももちたくはない。これが本音だ。そのような感情の重荷を、今更、背負いたくはないのだ。愛は決して感情ではないし、相手を所有することでもないし、自分を与えることでも、相手から奪うことでもないということが、今ではよくわかるからだ。愛というのは、その闘いのためにもう一度——何度でも——裸になること。愛は成長すること。だから個人的には、もう充分なのである。  けれども書き手としてなら、私自身を場合によっては、恋愛にかりたてることはあるかもしれない。私は自分を間近に観察しながら、感情的になったり、所有の真似《まね》ごとをしたり、涙で相手を脅迫したりするだろう。子供じみた貪欲さとエゴイズムを発揮するだろう。  ある時私は、今一番大事に思っている友だちに、こう言ったのだ。 「私の前で気取らないでちょうだい。いいところばかり見せたり格好つけないで欲しいのよ。私にあなたの弱味を見せて。あなたがカンシャクを起こしたり、時に泣いたり、怒鳴《どな》ったりするところが見たいのよ。あなたの卑劣さや、弱さや女々しさも見たいのよ。格好のいいあなたじゃなくて、破綻《はたん》しているあなた、傷口やらウミやらを見せてもらいたいのよ」  すると彼は答えたのだ。 「嫌だね。絶対に断るね。どうしても男のそういう部分が見たいというのなら、他をあたればいいよ、僕はごめんだ」  他の男になんて、興味はないのだ。私は失望した。 「それにさ」と彼はつけ加えた。「もしも仮りに僕があなたの前に僕の女々しさや卑劣さのかぎりを露呈したとするよね。当然、あなたはそいつを書く。待ってましたとばかり書きまくる。それはいい。書かれるのはいいとして、その後は? 多分、僕はお払い箱だよね。用済みってわけ。やっぱり他をあたってくれよね。頼むよ」私は、私のずるさ、残酷さをつきつけられたような気がして、絶句した。そうなのだ。作家とは、自分にとって一番大事な人たち——夫や子供や友人や親などを——喰《く》らいつくして骨までしゃぶり、最後に用済みの骨をポイと放りだして棄《す》てる食人鬼なのだ。ああ怖い。  別れの美学  私の小説のテーマは、別れである。  もっと正確に言うと、男と女の関係が次第に破綻《はたん》に向かうその過程《プロセス》にだけ、私は興味を覚えるのだ。  この私の一連の小説を評して、男にとって都合がいい女たちが描かれている、と言われたことがある。  つまり、自立しているから、別れを怖《おそ》れない。男に捨てられても、髪ふり乱したりしていつまでもつきまとわない。プライドが許さないのだ。  むしろ男が少し冷たくなってきたかな、と早めに察知して、女の方から別れの準備をしたりする。別れ話に逆上して刃物ざたにもならないし、愁嘆場とも無縁だ。  男が、「そろそろ僕たち別れようか」  と言いだすと、 「あなた、別れたいの? じゃいいわ」  とあっさり応じる。あまりの簡単さに、男の方がかえってうろたえるくらいだ。  あっさりと応じるということは、別れが辛《つら》くないわけではない。私の小説の主人公たちは、別れ話をきりだしたとたん、あるいは相手が自分と別れたがっていると察知したその瞬間から、自分の方で相手を切ってしまうのだ。  それは一瞬の決断である。  なぜ一瞬にして、好きな男と別れる決意がつくのか?  彼女たちはまず怒りを覚えるわけだ。  ——私と別れたい? この私を捨てるの? ——。  それは絶対にプライドが許さない。  ——じゃ別れてあげるわ——。  と一気に結論を出す。ただし、こう続く。  ——今にみていらっしゃい。いつか、私と別れたことを必ず後悔させてみせるわ——。  この最後の胸の中の呟《つぶや》きが、彼女を支えるのである。そしてたいてい、そういう女たちは何年か後に別れた男と再会し、彼らをじだんださせる。別れた男たちはもう一度彼女を求め欲するが、彼女には戻っていく気など最初から更々ない。二年前に自分を捨てた男なんて、というわけだ。  だから私の小説を読んで、男に都合の良い女たちだね、というのは早計だと思う。男に捨てられたとみせかけて、実は、女が男を見捨てる小説なのだ。  第一、私は、別れに美学があるとは思わない。別れというものは本来美しいものではない。怒り、嫉妬《しつと》、復讐《ふくしゆう》、悲しみ、絶望といった感情で、がんじがらめになるのが、別れなのだ。  だから、別れをどうくぐりぬけるかではなくて、その別れによって、自分がどれだけ人間として推進され、豊かになれるかということだと思う。  別れにともなうエネルギーを、マイナスにではなく、プラスの方向に使うことなのだ。 『風と共に去りぬ』のラストシーンを思いだしてみよう。身心共に傷ついて、たった一人ぽっちになってしまったスカーレット・オハラが呟く言葉。 「明日があるじゃないか」  明日がある。そうだ明日がある。明日からがんばろう。  明日になったら、また考えてみよう。  あのラストシーンで彼女が感動的に美しかったのは、別れに打ち勝っていく姿である。別れに負けなかった。その苦しみや悲しみにどっぷりと浸ってしまうことを、選ばなかった。苦しみや絶望を、直ちに生き残ることへのバネに変えた。そのどたんばの強さなのではないだろうか。  悲しみにどっぷりと浸り、青ざめてしおれた花のようにしている女たちに、私は同情を覚えない。悲しみに呑《の》みこまれ、苦痛に流されるままになっているさまは、絶対に見よいものではない。  雄々しい女たちがいいと思う。  多分、私の描く女たちは、男がきりだす別れ話を、悲しいとか絶望的だとかいう思いでは聞かないのだ。彼女が感じるのは、怒りだけである。  男が自分を捨てることに対する怒り。これは相手に対する怒りだ。それから捨てられる自分に対する怒り。  相手だけを恨みつらみするのではなく、自分にもある程度の反省が加えられるかどうか。これが大事なのである。  反省がなければ、その人間は決して向上することはない。  そして私は、別れに際して、自分に反省が加えられる女性を尊敬する。  世の中に、別れのない出逢《であ》いなどひとつもないのだ。そして、更に言えば、その恋愛がめくるめくような歓《よろこ》びで満たされるのも、別れをそのどこかに隠しもっているからである。  十年一区切り  毎年軽井沢を後にする九月の初めに、来年こそは避暑地に仕事を持ちこむまい、と固く固く決意するのだが、それが実行されたためしはない。  全く原稿を書かないということではなく、朝の早いうちに五枚くらい書いて、娘たちが起きだしてくる九時頃には仕事を終え、彼女たちと一緒に自転車に乗ってテニスコートへ出かけて行く、というのが、理想なのだ。  そして午後は、普段は手の出せないような本をじっくり読む。  四時頃ジントニックを作って、鳥の声などききながらゆっくりと飲む。  こういうことを、私は以前ごく普通にやっていたのである。原稿を朝のうち五枚書くかどうかは別にして、軽井沢に避暑に来ている女たちは、多かれ少なかれそんなふうに暮らしている。  これが贅沢《ぜいたく》でなくて何であろうか。ゆっくりと流れる刻《とき》。良い書物。適当なスポーツ。  三度の食事は美味《おい》しいし、空気はひんやりしているし、電話もあまりかかってこないし。そして、そうそう昼寝。  ウトウトしてきて手にした本が床に落ち、それを拾い上げるのもめんどうで、そのまま眠りの世界へと滑りこんでいく瞬間の、幸福感。  一体私はどこでそうしたささいな楽しみを、取り落としてしまったのだろうか? 失ってみて初めてその良さがわかるということが、人生には実にしばしばあるものだ。  そうなのだ。十年前には、私は昼寝も書物もゆっくりと流れる時間も、全《すべ》てに倦々《あきあき》としていたのだ。テニスは退屈しのぎであり、読書もまたそうだった。  昼寝は、そうした無為な時を過す自分に対する嫌悪感を一時忘れるための、逃避であった。  つまり私は同じ一日という限られた時間を、昔は長すぎるともて余し、今では短かすぎると嘆いているのである。  それにしても、どうしてこう両極端になってしまうのであろうか。  十年一区切りという。軽井沢で『情事』を書いた夏の日から、今年でちょうど十年である。そろそろ何かを変えなくてはいけない。  自分自身はそうは変わらないから、風景を変えようと思うのだ。  娘たちも大学・高校に通うようになり、上の二人は九月からイギリスにやって勉強させる。これを機会に、ロンドンに手頃なアパートメントを借りて、年のうち二、三か月あちらで生活してみようかと、ひそかに考えている。  娘たちは、子離れしない母親だと苦笑しているが、どっこいそんなことではないのだ。ロンドンには文化がある。劇場やオペラ座がたくさんある。私は充電しなければならないのだ。  今年は軽井沢に八月十五日までしかいない予定だ。上の娘二人をロンドンに送りかたがた、さっそくアパートでも物色しようかと思っている。来年の夏はどこで、どんなふうに過ごすことになるのだろうか。  夫と私のルール  国際結婚は上手《うま》くいかないようなことを、よく言われるし、耳にする。習慣の違いや言葉の問題が槍玉《やりだま》に上がるのだ。  だが果たしてそうだろうか?  言葉の問題について言えば、私の知っている日本人同士のあるカップルは、もう何年も同じ屋根の下に住みながら、一言も言葉を交わさないで暮らしている。 「だけど、ぜんぜん口をきき合わないってわけにはいかないでしょう」  と私が驚いて訊《き》くと、 「必要な時は、子供に通訳させるのよ」  と、彼女はケロリと言った。つまりこんな具合なのだそうだ。  親子三人の食卓の風景を思い浮かべてみよう。 「あっ、そうだ、ミーちゃん。そろそろ車検が切れるんだったわ」  妻は娘にむかってそう言う。すると後で、車検に必要なお金とかを、夫が妻に渡してくれる。 「おい、ミー子。今度の日曜はパパ、ゴルフだぞ」  ミーちゃんはその都度、アアとかウンとか生返事をしていればいい。要するに、ミーちゃんという娘を通して、夫婦は会話をしているのである。  この夫婦の間の言語障害は、とうてい国際結婚の言葉の問題の比ではない。  ところで、私の周囲にかぎらず、あちこちで、バタバタと離婚をしている。  私の友だちに関してのみいえば、日本人同士のカップルの八割が結婚半ばにして別れている。  それに比べると、知りあいの国際結婚組で破綻《はたん》したのは、わずか一組にしかすぎない。  この数字だけを見て結論を出すのは早計かもしれないが、少なくとも国際結婚は必ずだめになる、という一種の神話は、もう通用しないのではないかと思う。  私自身の例でいえば——我々は一九六四年に東京で結婚している。もちろん平穏無事に過ぎたわけではないが、来年で銀婚式を迎えるというところまで、何とかこぎつけた。  十一年目くらいの時が、最大の危機であったような気がする。その頃、私はまだ小説を書きだしてはおらず、ごく普通の主婦であった。  子育ての他に何もしないで、一日中ブラブラしていたくせに、夫や子供たちには人一倍期待をしてガミガミ言ってばかりいた。  生産的でもなければ建設的でもない妻に、夫が嫌気がさしたとしても不思議ではなかった。今からふりかえってみると、自分でもあの頃、魅力がなかったと思う。私が男の立場なら、あの頃の私みたいな女には、さっさと見切りをつけていたと思うのだ。  夫も、ほとんど見切りをつけかけていた。世の中にはもっと素敵で魅力的で創造的で生き生きとしている女がゴマンといるわけだから、文句ばっかり言って何もしない女と一緒にいる必要もないわけだった。  そんな折り、私は自分に絶望して、小説を書き始めた。その結果、我々の危機は一応救われたのである。  私が、家庭生活にあまり支障をきたさない範囲で、仕事をしている分には、夫はハッピーなのであった。  考えてみると、日本人同士の離婚組のほとんどが、妻に職業のあるカップルであった。妻が仕事をして、それなりの収入がある、言いかえると、女が自立していると、どうやら離婚しやすいようだ。  けれども国際結婚の方は、妻が仕事をしていようといまいと、あまり関係がない。私の友達でも、専業主婦もいれば、職業婦人もいる。そしてどちらの結婚もうまくいっているのである。  こういう場合、世間ではすぐに、日本の男を批判するようだ。すなわち、日本の男は度量が狭いとか、封建的だとか、自立していないとか。  私は、結婚の破綻《はたん》するケースを見て、いちがいに日本人の男がどうの、というつもりはない。結婚というのは、夫と妻が作り出す関係なのである。夫だけでは成立しないし、妻だけでもだめだ。二人の人間が係わりあって創りあげていくわけだから、男だけが悪いのではない。  悪い関係というのは、夫と妻の関係のありかたに問題があるのである。  私は日本人と結婚したことがないから、日本人同士の家庭の中がどうなっているか、実のところはよくわからない。  だが私自身の結婚がどうであるかということなら、わかっている。  我々の結婚の基本は、相手を尊重するということである。相手の気持ち、立場、自尊心、プライバシーなどを理解して、必要以上にその中に立ち入ったりしない。  日本人同士の夫婦にないもので、国際結婚のカップルにあるものが、二つだけある。  つまり、お互いのプライバシーを尊重するということと、全《すべ》て何事も対社交的には、カップルで行動するということである。  国際結婚の二人は、パーティーでも夕食でも、映画でも観劇でも旅行でも、よく連れだって出かけていく。夫だけがゴルフに行って、妻は子供たちと留守番なんてことは、ほとんどない。子供は置いて出ても、妻は同伴する。  傍《はた》から見ると、いかにもベタベタしているようだが、実はそうではない。つまり、どんなに親しくとも、たとえ夫婦でも、ある程度のプライバシーを尊重しあうからである。それは夫が書斎を持つとか、妻が彼女の個室を持つとかいうこともそうだが、主として心のありかたの問題である。お互いの心の領域の中に、ずかずかと入っていかない、という鉄則があるのだ。  私たち夫婦の結婚が辛うじて今日までもってきたのも、このお互いのプライバシーを守って来たためではないかと、思っている。  最後に、今後のことだが、私は、これからは更に国際結婚が増えていくと思う。企業の外国進出の時代から、安い労働力確保のために、日本へは東南アジアやその他の国から、さまざまな人々がたくさん入ってくるようになるからだ。  私自身の娘たちも、当然国際結婚になることだろう。現に今も長女のボーイフレンドはベルギー人だし、次女はアメリカ人、三女は日本人である。ちなみに娘たちの国籍は、ブリティッシュである。  ターニングポイント  つい最近、私は従弟《いとこ》を癌《がん》で失《な》くした。まだ四十代前半の働き盛りであった。小学校に上がるか上がらないかの幼い子供たちと妻と、もうじき八十歳になる老母を残しての、あまりにも無念の、そして無惨な死であった。  私は彼を見舞うために、アメリカへ行った。急な知らせだったので、動転するあまり、なぜか頭から行く先をボストンと思いこみ、タクシーでリバーサイド通りというのを、一日中探しまわった。  けれどもいくら探しても目ざす番地がみつからない。黒人のタクシードライバーは無愛想で、不親切で段々泣きたくなってきた。ようやく従弟の家に電話をしてみると、ボストンではなくシカゴだという。なぜ、そんな思い違いをしたのか訳がわからず、私は今度は唖然《あぜん》として、本当にポロポロ泣きながら、飛行機の切符を買い直し、シカゴに向かった。とにかく、従弟の癌のニュースで気が転倒していたのである。  私の従弟は、変わりはてた姿で、ベッドの中でうとうとしていた。モルヒネのせいだった。モルヒネは、打ってもすぐに効かなくなって、そうすると彼の意識は、ぞっとするようなすさまじい痛みと共に戻って来て、私のことがわかるのだった。  一眼見て、私の心臓は縮み上がり、足がすくんだ。従弟は、骨と皮と苦痛《アゴニー》だけの存在のように見えた。そして私の胸に、激しい怒りが忽然《こつぜん》と燃え上がった。  なぜ人は死ぬ時に、こんなに痛み苦しまなければならないのか、という思いである。従弟の姿を目《ま》のあたりに見た時、そうした激痛——人間としての尊厳まで奪い去ってしまうほどの酷《ひど》い痛みは、およそ無用であると感じた。  医学が発達し、あらゆる薬が作られ、すばらしい医療技術が進んだ。にもかかわらず、死にむかう人々の痛みが取りのぞけないなんて、どうしたことであろうか。  臓器の移植が出来たり、複雑な脳や心臓の手術が可能になり、人を長く生きさせるようにはなったけれども、私たちが死ぬ時のケアが、全くなされていないような気がするのだ。  私は、人間として尊厳をもって死にたい。肉体や神経や骨や臓器の激痛に、泣き叫びながら、死にたくはない。あるいは泣き叫ぶ体力も全くなくなるほどの苦痛に打ちのめされたまま、死にたくはない。私は死ぬのなら、自分の死にかたや死の時機を自分できめたい。いたずらに、苦痛に打ちのめされたまま、モルヒネなどで、無理矢理に生きのばされたくない。  医者は、あるいは国は、あるいは私たち一人一人は、やがて誰《だれ》にでも平等に訪れる死に対して、考えなければいけないと思う。安楽死の問題も含めて、死の医学、死の学問、死のカウンセリングのようなものが、必要なのである。全《すべ》ての人は尊厳をもって、死にむかう権利がある。苦痛の中に、私たちの老いた肉体や魂を放置しておくのは、医者たちの怠慢であるとすら、私は考えている。  従弟《いとこ》の姿を見て、私が強く思ったのは、そういうことであった。私たちは、それが誰であろうと、人を(あるいは動物全てを)、骨と皮と激痛だけの存在にまで放置すべきではないのである。  人は誰《だれ》でもやがて老いて死んでいく。それは仕方がない。でももし、私たちに、少なくとも苦痛のない死がせめて約束されていたら、私たちの生というものが、どんなに救われるだろうか。おそらく人はもっと幸福に、満たされて、充実しながら生きられるのではないか。  良い年の取りかたをしたい、と最近つくづく思っている。私たちの老年というものは本来、自分たちが若い時、汗水たらして働き、まいた種がやがて実り、それを刈り入れる時なのだ。  私は、何が財産かといって、友人ほど大事なものはないと思っている。もしも、よい友だちにめぐまれたら、それは名声や仕事の成功よりも、はるかに、私を満たしてくれる存在になると思うのだ。  夫が多分先にこの世を去ることには覚悟が出来ても、友だちが一人もいない老後なんて、とうてい耐えられないような気がするのだ。  それでは良い友だちとの友情を、どうしたらこの先もずっと保ちつづけることが出来るのだろうか?  私の失敗例をまず書いてみよう。五年ばかり前、とても親しい女友だち五人ばかりと、週に一度はランチを食べたり、飲みに行ったりしていたことがあった。二、三泊の旅行も何度か一緒にした。それぞれ家庭があったから、家のことをちゃんとやった上でのことであった。  とにかく逢《あ》うと楽しくて、気が合って、ずっと友だちでいようね、と口にだして、何度も何度も誓いあった。 「年とったら、どうせ亭主はどこでも先にいくじゃない。そうしたら私たち一緒に住んで、共同生活しましょうね」 「その時は家も土地も売って、ハワイかどこかにそろって移住しない?」 「病気したらお互いに看病しあってね。あなたたちの死に水は私がとってあげるわよ」  などといったことを、大いに笑いながら話したのである。  ある時、その中の一人が、恋をした。その恋は急激に進展して、彼女はもう私たちを必要としなくなってしまった。集まりにもほとんど顔を出さないし、出しても途中で彼に逢《あ》うといって中座した。  時々一緒にランチをしたり、夜飲んだりすると、彼女は自分の恋や恋人や、二人ですることなどを熱い口調で話した。  逢えば必ず一人で、最初から最後まで、彼のおのろけだった。段々に私たちは退屈になり、しらけていった。  そのうちに、彼女の話はどんどんエスカレートしていき、ついには恋人がベッドの中でどんな様子かということまで喋《しやべ》るようになった。そしてそういう話は形而下《けいじか》的に面白いので、女たちもニヤニヤして聞いた。  やがて、何か月かして、その恋が終わり、彼女は傷心をかかえて、また私たちの集まりのレギュラーメンバーになった。  ここからが問題である。我々女は、彼女の恋をたきつけたり、からかったり、うらやましがったり、そそのかしたりしておきながら、ついに失恋をした彼女を温かく受けとめるということができなかったのである。自業自得よ。盛りのついた雌猫みたいだったんだもの、というのが、真情であった。女の友情というのは、そんなものなのである。  女友だちの恋愛を、心の底では嫉妬《しつと》し、受け入れることができなかった。そしてその女友だちが失恋して、ボロボロになって戻って来ても、抱きとめてやることもできなかった。  なぜこんなことが起こるのだろうか? 私は、距離感のせいだと思う。  どんなに親しくとも、あまりにも露骨に、髪ふり乱した姿を友だちに見せてはいけないのである。男と女の仲と同じことで、友情にも節度と神秘性は大事なのだ。  恋人とのベッドの中の一挙手一投足を友だちに喋《しやべ》りまくるような人を、どうして私たちは尊敬できるだろうか。尊敬も出来ないし、好きにもなれない。そのような節度がない関係というのは、必ず終わりが来る。  私たちの仲良しグループは、それから間もなく自然に解散してしまった。なんとなくお互いの恥部を見てしまったような気がしたからである。  グループの友情というのは、まず育たないと思った方がいい。友情というのは、ランチを食べて男の話をすることではないからだ。騒々しく喋り、着飾ったお互いの姿を見せあうことでもないのだ。  友情というのは、ひっそりとはぐくまれるものだと思う。そして、本当の友人との会話というのは、「私が」という主語が少ない会話のはずだ。私がね、私はね、私ってね、という言葉がひんぱんに出るとしたら、その友情は長くは続かない。  反対に、「あなたは……」というように、会話の中に「あなた」が多くなるはずである。  同時に、自分がしてもらったらうれしいことを、相手にもしてあげる。人間関係の全《すべ》ての尺度はそれに尽きると思う。自分にとって快いことを、相手にしてあげる。そんなふうにすれば、必ず良い友情にめぐまれる。 「ねえねえ、聞いてよ。私、最近恋をしちゃった」  と言いたくとも、それは言わないことだ。不倫の恋の話などして、大事な友だちをある種の共犯関係にひっぱりこむべきではない。それを距離感というのである。  人妻の恋は、ひっそりとして、ひっそりと葬るべきである。それが出来ないのなら、恋愛などするべきではない。  ある時、私は親しい友だちからこんな電話をもらった。 「どうしている? 元気? あなたの一番新しい作品を読んだわよ。——小説の嘘《うそ》と本当を、私だけはよくわかっているつもりだけど、それでも、なんとなくあなたのことが気にかかるのよ。ほんとうに元気?」  こんなふうに電話をもらうと、胸がじんとする。ああこの人は本当に私のことを心配してくれているんだ。大事に思っていてくれているんだ、と感じることができる。  そんな時、私はこんな男と女の会話を思いだすのだ。  別れ話の後、いよいよ本当に別れていく時に男がこういうのだ。 「大丈夫かい?」  そして女はこう答える。 「いいえ」 「じゃ送ろうか」 「一人で帰るわ。一人で帰らなくては……」  そして女は毅然《きぜん》として踵《きびす》を返し歩み去る。  友情にもこれと同種の節度とプライドがあってしかるべきなのだ。だから私は、女友だちの優しい電話に対して、こう答える。 「また明日電話くれる? きっともっと元気になっていると思うわ。あなたのおかげで」  もしも、私の老いの先に、尊厳死といったものが用意されていて、一人の良い友人にめぐまれていれば、老いていくということは、もはや恐ろしいことではないような気がする。   ㈽  私と英国との出逢《であ》い  イギリスという国から連想するのは、『尊厳《デイグニテイ》』という言葉だ。  私にとってのイギリスとは夫アイヴァンその人そのものであるが、彼との二十数年にわたる結婚生活をふりかえってみて、イギリス人の夫をひと言で表現すれば、彼もまた『尊厳』の怪物であったと思う。  結婚して最初の日曜日、寛《くつろ》いだ気持ちで朝食の席に着くと、眼の前の夫がネクタイをしていたことに驚いたあの日から、イギリスの尊厳が私を支配し始めたのである。  その昔私は、洋画《スクリーン》の中でよく見かけたように、夫も妻も共にタオル地か絹のガウンをまとって、日曜の朝食の食卓を囲むという図を、夢見ていたのだ。そして夫が妻のカップにコーヒーを注《つ》いでくれるとか。  それなのに私の新婚の夫は、日曜日の朝なのにもかかわらず、きりっとネクタイなどしめ上げて、私にモーニングコーヒーを注いでくれるかわりにジャパンタイムズのクロスワード・パズルになど熱中しているのだった。日曜日の朝のネクタイとクロスワード・パズルは、イギリス人の象徴である。  とにかく家では夫がいばっている。家庭内では男による絶対専制君主の国なのである。にもかかわらず女王様がおり、女の首相をいただくというのがなんともおかしくてならない。片腹痛しといったイギリス男の心境であろうか。  しかしデニス・サッチャーにしろ、エディンバラ公にしろ、ご自分の妻であるマーガレット・サッチャーやエリザベス女王の陰で、それは心を砕いて彼女たちを支えているのが感じられる。有名な女、強い女、権力を持つ女をそうして陰で支えられるのは、真に立派な男だからである。その男性にほんとうに力がなかったら、そうした女性たちのたづながとれるわけがないからだ。デニス・サッチャー氏もエディンバラ公も、実に穏やかで良い顔をしている。イギリスの男性というと私がすぐに思い浮かべるのはこのお二人である。  私は、女性と上手に折りあっていける男性が好きだ。それは決して単に優しいということではあり得ない。力強くて、優しくて寛大で、ユーモアがあり、そして頭のてっぺんから足の先までを『尊厳』がきりっとつらぬいている。それがイギリスの男性である。  時々、夫をも含めてイギリス人を考える時、『武士は食わねど、高楊枝《たかようじ》』という言葉が頭に浮かぶ。やせがまんも彼らの特質である。  古き良きハイティー  サー・ヒュー・コータッツィが東京で大使をなさっていた時、パーティなどで何度かお顔を拝見していた。大使という大役を務められていた時のお姿を覚えていたので、その後退任され、イギリスでゆうゆう自適の生活をされているお顔の穏やかなことに少し驚いた。  ロンドンから南へ約二時間。西サセックス州にコータッツィ卿《きよう》のコティジがある。私たちは霧雨のある午後、本格的な英国式お茶に招待されたのである。  コティジの名のとおり、古いレンガ造りのお家に一歩入ると、なんだか童話が作れそうな雰囲気。低めの天井といい、各室の可愛《かわい》らしさといい、素朴さといい、まさにおとぎ噺《ばなし》の世界。サー・ヒュー・コータッツィ夫妻がニコニコと私たちを案内して下さった。  建物はイギリスの十四世紀の田舎家風であるが、お部屋の中に配された趣味の良い置物やタンスや陶器の類は、日本の骨董《こつとう》あり、イタリアのものあり、朝鮮のものあり。そうした様々な国籍の、時代の違う美しいものたちが、それは見事なハーモニーを持って配されていたのである。  卿《きよう》は何冊か日本でも本を書かれており、大変な日本通。とりわけ古地図のコレクション、現代の陶芸家、滝田項一、浜田|晋作《しんさく》、船木研児のコレクションなど見せていただいた。日本人でありながら私などの知らない世界を、イギリス人のコータッツィ卿が熟知しておられ、なんだか私はひどく恥ずかしかった。  夫人が用意して下さったお茶は、古き良きハイティー。濃いミルクティーにキュウリのサンドイッチ。とても薄くて小さなサンドイッチである。お手製のチーズケーキと、スコットランド風のショートブレッド。これもお手製。 「いつもこんなふうに手のこんだお茶を?」  とお訊《き》きすると、 「いいえ」と夫人は笑われた。今では、ハイティーのスタイルは失われ、ずっと軽くなっているという。  私の夫の両親の家では、夕食のかわりにこのハイティーであった。若い私と夫は、とても物足りなくて夜中にこっそりと冷蔵庫を開けたものである。  コータッツィ家のティーは、お家の宝である銀製のティーポットで作られた、結婚のお祝いの品であると言う。そのデザインの美しさ新しさに魅せられて、私はロンドンに帰るなり、銀製品ばかり集めているアンティークショップに駆けつけた。しかし、夫人のものと同じデザインはなくて、わずかに似たものがあった。それでも眼の飛び出るようなお値段なのであきらめざるを得なかった。  ロンドンのアンティーク  英国のアンティークには、フランスのもののような華麗さはない。どこか堅実で実用的である。私は格別に古いものが好きだというわけでもないし、西洋|骨董《こつとう》フリークでもないが、洋の東西、時代の今昔を問わず、良いものは良いと思うし、美しいものは美しいのである。  アンティークを買った場合も、飾り棚にただ飾っておくというようなことを私はしない。たとえそれがひとつ百万円もするガラス器であろうと、時々サラダを入れたり、フルーツポンチに使ったり、花をいけたりしたいと思う。大事に大事に、割りはしないかとドキドキしながら使うのだ。といっても我が東京の家にあるイギリスの骨董は、十八世紀のワイングラスのセットと、十四世紀の銀製のティーポット、ビヤー・マグ程度である。  ロンドンの銀《シルバー》のアンティークを一堂に集めたシルバー・ヴォルツを回って見たが、その種類と量の多さに度肝をぬかれた。同じような間ぐちの小さな銀製品の店が何百軒と地下街の、厳重な警備の下に、店を開いていた。  いずれもユダヤ人と思われる主人がいて、こちらの素性や所持金など完全に見透かされるような気がした。それでも年の功で図々しく店内を物色したが、本当に私の趣味に合った欲しいと思うものには中々|出逢《であ》えなかった。  家具屋なども回ってみて、ひとつ学んだのは、店主によって、実に、選びぬかれたものが美しく配置されていることだ。骨董店《こつとうてん》というよりはサロンの感じ。たとえ椅子《いす》一脚にしろ、眼の玉が飛び出るような値段。どこの誰《だれ》がこんなに高いものを買うのだろうか。  そう質問すると、店の主が説明するには、やはりお得意はアメリカの金持ちだそうだ。ニューヨークやカリフォルニアから、おかかえのインテリア・デザイナーが飛んでくる。  つまり、新しく家を建てるとか、アパートを改装しなおすとかいう時に、金持ちはインテリアを専門家に全部まかせるのである。そこでデザイナーが色々考え、この部屋のこのカーテンの所には、イギリスのアンティークの椅子が欲しいと思うと、それをひとつ買いに、わざわざロンドンまでやってくるのである。色々な店を回り、徹底的に見て気に入った椅子を一脚注文して帰る。あれもこれも、とインテリアを全部アンティークにしてしまうのは、どうもヤボなことらしい。しかし、アメリカの金持ちというのも、ずばぬけた贅沢《ぜいたく》をするものである。  三千円のロイヤルオペラ  東京にロイヤルオペラが来た時、私は『サムソンとデリラ』と『コシファンドッティ』の切符を二枚ずつ買った。夫婦で一夜のオペラ観覧料が五万円である。  ロイヤルオペラにしろ、シアターにしろバレエにしろ、外国の一流の出しものを東京で観ようと思ったら、法外なお金を取られると覚悟しなければならない。イギリス人の夫は、それがいかに法外であるかを知っているので、東京では我慢しろと言うのである。  東京では我慢しろと言ったって、住民登録をしてあるのが東京である以上、我慢だけしていたら永久に本場のオペラもシェイクスピアも観《み》られないではないか。  それで我慢しないと、ロイヤルオペラに二回行って金十万円がところふき飛ぶのである。  ロンドンで同じものを観れば、値段は約三千円ですむ。私は狂喜したものだ。  そんなに安いのなら、ロンドン滞在中の八日間、毎晩色々なものを観ようじゃないの、と、さっそくプログラムをきめ、今日はオペラ、明日はシェイクスピア、明後日はミュージカル、と予定表を作ったのだ。  いざ切符を買う段になって真青になった。どれもこれも満席で、ほとんどが売り切れなのだ。『レ・ミゼラブル』など六か月先まで一席の空席もないと言われた。四方八方に手をつくし、コネクションとダフ屋様の尽力で、ようやく手に入れたのが『リチャード㈼世』とミュージカルの『チェス』。実にラッキーであった。  当たり前のことであるが、シェイクスピアは英語で演じられたものを観るべきである。シェイクスピアの日本語劇など、歌舞伎を英訳したのを観るようなものだとつくづく思った。  それに改めて気がついたが、イギリス人の舞台装置と衣装の色彩感覚が最高に素晴しいのだ。ひとつひとつの場面が、一ぷくの名画を見るような、計算された洗練があるのだ。  実を言うと、このたびのロンドン滞在でひとつの決意をした。絶対にロンドンにアパートを買うか借りるかして、年に三、四か月はここに住もうと、私は心に固くきめたのだ。  その理由の最大のひとつが、ロンドンのエンターテイメントの質と量の豊かさである。それとチケット代の安さである。 『リチャード㈼世』を観たロイヤル・シェイクスピア劇場では、中程の最上席の椅子《いす》の背に、個人のネームプレートが打ちつけてあった。さすがだと溜息《ためいき》をついた。いつか私も椅子の背に自分のネームプレートを取りつけたいものだ。  ベッド&ブレックファースト  英国を訪れる機会は少なくないので、泊まるホテルもピンからキリまである。  キリはBBという、言ってみれば日本の民宿のようなもの。ベッド&ブレックファーストの略である。  BBはイギリス中いたるところにあって、文字通り一夜のベッドと朝食を提供してくれる。一番安くって千五百円くらいから四千五百円どまり。  その昔娘や息子が使っていた部屋を、カーテンやベッドカバーもそのまま、可愛《かわい》い感じで使用しているところが多かった。  ホテルに比べるとはるかに安いし、家庭的な温かいサービスが受けられるしで、私たち一家はよくBBを利用する。  特に混み合うシーズンでもないかぎり、予約なしで飛びこめるところが気軽で良い。風景のいい場所にとても感じの良い田舎家風のBBがあったら、その前で車を停《と》め、一夜の宿を頼めばいいだけである。  ピンの方は、ロンドンでは、サヴォイホテルのスウィートに滞在したことがある。こちらの方はBBのゆうに五十倍もする値段で、しかも朝食代は別だ。  玄関のところに、一見まるで大臣かどこぞの国の大使ででもあるかのような立派な風体の男性が、燕尾服《えんびふく》など着て、シルクハット姿で厳しくそそり立っている。おかげでそういうところに泊まる時は、こっちまで貴婦人か女王さまになったような気分が味わえる。  何もびくびくすることはない。高い高いお金を出して泊まるのだから、堂々としておれば良い。  イギリスのホテルで良いのは、朝食の豊かなこと。英国式朝食だけは、世界のどのホテルにも引けをとらない。なにしろ、朝から、魚料理や、モーニングステーキやつけあわせのポテトが出てくるのだ。私は、ホテルの朝食の中では特に、スコットランド製のニシンのくんせいと、キドニーのオニオンソテーが好きで、この二つには目がない。それで英国に旅すると、必ず三キロは太ってしまうのである。  イギリスの食事  なにかというと人は、イギリスの食事は不味《まず》いという。確かにそういう一面もあるのだが、要はどこで何を食べるのかによると思うのだ。ロンドンに行って中華料理を食べたって、我々日本人の舌を満足させるわけはない。だったらホンコンや東京で一流の中華料理を食べれば良いのである。  それから例のローストビーフ。まるでイギリスの代表みたいにいわれるローストビーフだが、あんなものたとえ神戸の牛を使ってホテルオークラあたりで食べても、たいして美味《おい》しいものではない。牛肉の一番美味しい食べ方は、霜降りのステーキをミディアム・レアに焼いて、サイコロに切り、醤油《しようゆ》をちょっとつけて食べるのに、つきると思う。  だからローストビーフなるイギリスの代表料理が美味でないからといって、イギリスの料理はたいしたことはないときめつけるのはフェアではない。ローストビーフはニューヨークで食べても東京で食べても同じなのである。  思うに、イギリスの食べものが不味いという人は、素材そのものの味の良さを知らないのだと思う。ドーヴァーのひらめにしろ、ラムのローストにしろ、新鮮な素材そのものを一番良い状態に焼いて出してくれる。クリームソースやバターやワインの混ざったわけのわからないソースなど、かかってはいない。イギリスの料理は原則として塩とコショウだけで食べるものなのだ。そしてそれが一番美味しいのである。  イギリスに行くと私が好んで食べるのは、ドーヴァーのひらめのムニエルであり、スプリングラムの柔らかいロースト、それにパブ料理のステーキ&キドニーパイ。冬だと街角のフイッシュ・アンド・チップスを新聞紙に包んでもらい、なんとなく印刷オイルの匂《にお》いのするやつをかじりながら歩く。  アラブ系の人たちが多い場所にあるレバノン料理も珍しく、インド料理もばかにできない。中華はほとんどだめである。日本料理もいけない。  うらやましいのは、素材の豊富さと新鮮さ。たとえば肉屋などのウインドゥには牛、豚、鶏はもちろん、兎《うさぎ》、鹿《しか》、七面鳥、ラム、などが日常的にそろっている。そしてその値段もとても安い。  ハロッズの食料品売り場は正に圧巻である。これだけの品ぞろいを見せられると、ホテルなどに泊まらず、一週間単位でアパートを借りて自分で料理をしたいと思う。  夫はブラック・プディングをみつけて、もう二十年も食べていなかったと一瞬なつかしそうな悲しそうな顔をした。これだけの素材の豊富な国の食べものが、不味《まず》いわけはないというのが、私の結論である。  英国は男性の国  英国は男性の国なのだという印象を改めて強くするのは、買いものの時である。とにかくスポーツ用品にしろ、日常用品にしろ、紳士服にしろ、小物にしろ、男のための専門店がめったやたらに多い。これは東京と全く逆である。  傘屋には、例の細巻きのコウモリ傘がズラリと並んでいるが、女ものはおていさい程度。ダンヒルしかり。そして男性物の製品のほれぼれとするような伝統のデザインの良さ、品質の良さである。  その点女性ものは極端に二つに分れると思う。つまりニットやウールの本物のファッション、これは流行よりも、長く着られるということに重点を置いているから、当然品質は優れている。  長いことデザインや色や品質を変えないということは、その服が女性を一番美しく見せるという自信に立ってものを考えているからである。  デパートなど歩いていると、そのまま女王陛下がお召しになりそうな感じのコートや上等なドレスが目立った。  でなければ、完全に最新流行の更に先端をいくものを探すことだ。保守的であると同時に、ロンドンは前衛の最前線でもある。今回私はモンティ・ドンの店に行き、キンキラキンの魚の骨のイヤリングとブローチを買った。フェイク・ダイヤですごく光るものだ。ギョッとする程ショッキングだ。  ハロッズでは、エスニック調が流行で、私もアフリカの民族|衣装《いしよう》にぴったりのような、大げさなジャラジャラとするアクセサリーをみつけた。かと思うと、街角の小さなドラッグストアーで埃《ほこり》をかぶっていたシカのツノの腕輪を一つ一ポンドで三つ買ったりした。これはアンティークのお買い得であった。  夫はシンプソンで三年分くらいのまとめ買いをした。手足が長いので彼の服は東京ではむりなのだ。  夫の郷里  夫の郷里はチェッシャーという所にある。アリスの笑い猫で知られたあのチェッシャーである。あいにく今年の一月に義父を亡くしたが、毎年私たちはクリスマスを中心に、夫の郷里を訪ね、彼の老いた両親と共にクリスマスを祝ったものである。  郷里を訪ねる楽しさのひとつに、夫の親友と逢《あ》うということがある。ビフとジョーン夫妻は夫のボーイスカウトの頃からの友人だから、そのつきあいはもうかれこれ四十年になる。  イギリス人というのは、ボーイスカウトとはきってもきれない関係にあるらしい。  ビフなど、四十七歳になる今でも、毎年、自分の出身校の小学校のボーイスカウトキャンプに、リーダーとして参加する。たまたま今度の訪問中も、恒例のレイク地方のキャンプとかで、準備の真最中だった。夫もさっそく食料品やテントの積みこみを手伝った。私もついていって見物していたが、ああ教育というのはこういうことなのだとつくづくと感じた。  そこには約三十人ほどの六歳から十二、三歳のボーイスカウトたちが忙しく立ち働いていた。彼らを中心に、あとはビフの年齢まで、ありとあらゆる年齢のOBたちが、全く同じように一緒に立ち働いているのだ。先輩はおごらずいばらず。後輩の子供たちは礼儀正しく。  それにしても六歳の少年から四十七歳のビフの年齢の大人まで、毎年心待ちにするキャンプとは一体どんなものなのだろう? 夫の話を聞くかぎりでは、五日程キャンプ生活をして、自給自足をするのだという。ハイキングあり、カヌー競走あり、湖での水泳ありで、かなりハードなトレイニングである。六歳も四十七歳もそれなりに心から楽しめるアウトドアスポーツが、イギリスには健在なのである。  ある日の午後、ビフ・スミス宅のお茶の時間に招ばれた。ちょうど四時頃で、テーブルにはサラダやサンドイッチ、コールドミートの取り合わせ、それにビスケットやケーキ、チーズなどが並んでいた。昔でいう英国式のハイティーとは様相を異にする。むしろアメリカ人が好むランチパーティのような感じだ。  ジョーンもそれを認めて、最近ではTVでよくアメリカのホームドラマをやるせいもあって、イギリス人の生活が急速にアメリカナイズされつつあるということだった。たとえば娘たちのベッドルームなど完全にアメリカのハイティーンと同じで、華やかになったという。同じことがスミス家のティーパーティにも言えるようだ。  スポーツマインド  英国で一番ポピュラーなスポーツは、釣りである。次にスポーツ人口の多いのが、ダーツであるとどこかで読んだことがある。  釣りがスポーツに入るのかどうかの議論は別にしても、海や河とイギリス人の関係は密接だ。  私の夫も例外ではなく、海指向の男である。それで三浦半島の油壺《あぶらつぼ》の近くに家を建てたくらい。  自分のヨットをもつのが、彼の夢であった。彼にかぎらず、全《すべ》てのイギリス男の夢なのではないだろうか。  その昔大英帝国の海軍の威容は、名実共にナンバー・ワンであった。七つの海を制覇した冒険魂は、チッチェスター卿《きよう》の世界単独航海へとひきつがれていったのである。  現在タイのプーケットに停泊中のトリスタン・ジョーンズは、今年中に中国の揚子江《ようすこう》をヨットで遡《さかのぼ》ることを計画中だという。ちなみに私の夫はトリスタンに頼み込んで、世界で初めての黄河《こうが》のクルージングに参加するつもりである。もう何か月も手紙のやり取りが続いている。  イギリス人のヨットの乗り方を見ていて思うのは、彼らがそれを余暇つぶしの贅沢《ぜいたく》な場にしてしまわないことだ。アメリカ人がヨットにバーベキューセットを持ち込んだり、大型ヨットの内部をまるでホテルのレセプションみたいに変えるのとは大違い。あくまでも質素。必要最低限の設備しかあえてそろえず、海に出たら甲板に寝そべってのんびりなど一時もしないのだ。四六時中駆けずり回ってヨットを走らせている。  まるで自分たちの肉体を酷使し、より困難なことにチャレンジするのが趣味みたいなのだ。試練のないスポーツを彼らは好まない。素手や自分の肉体だけを使うスポーツを愛するのだ。だから野球とかアメリカン・ラグビーのように道具や重装備を要するスポーツを、彼らは軽蔑《けいべつ》する。  イギリス人のスポーツマインドの根底にあるのは、彼らの健脚だ。とにかく老若男女、散歩やハイキングの大好きな国民なのである。私の夫でさえ、二言目には「レッツ・ゴー・ツー・ウォーク」と私を散歩に誘いだす。ところが私はただ漫然と歩くのが大嫌いなので、この二十年間誘いに応じたのはほんの数回。それでも性こりもなく、彼は私をウォークに連れ出そうとする。  今回の旅では、カウズレースで有名な、南のワイト島にあるカウズを訪ねた。小さな島全体がヨット一色に塗りつぶされた美しい島であった。ヨットハーバーでも、のんびり日光浴をしている人はいなくて、みんな甲板を洗ったり、帆を整備したりと忙しく立ち働いていた。  リッチモンド・カレッジ  東京の聖心インターナショナルスクールに高校まで通って卒業した長女は、卒業まぢかになると、いくつかのイギリスのカレッジのパンフレットを取りそろえて、自分が通う学校を選択した。そして自分で手紙を出し、入学の許可をもらい、手続きをした。  みんな自分でそうやってカレッジや大学に入るのだから、私の娘だけが特殊なのではない。日本の大学受験がむしろ異常なのだ。おかげで私は、受験生をもつ母親の苦労など味わわなくてすんだ。本当にありがたいことである。  そんなわけで、娘が自分できめてさっさと留学してしまったカレッジを、私は初めて訪問するのである。娘は今年で二年目だから、丸々二年を、彼女がどんな学校に通っているか知らなかったわけだ。のんきな親だと思う。  さて、ロンドンから車で二十分ほどの郊外にあるリッチモンドの町並は、東京でいえば田園調布のような感じ。その一角に娘のカレッジがあった。  想像していたよりも全体にこぢんまりとしている。私はなぜか映画などでよく見るアメリカのカレッジ生活を想像していたらしいのだ。芝の庭にはよく手入れされた樹々《きぎ》があり、リスが走りぬけて行く。  イギリスにあるカレッジではあるが、イギリス人の生徒はいない。イギリス人以外ならそれこそ世界各国の顔がそろっている。  私の娘は英国籍なのだが、普通のイギリスの大学へは単位の関係で入れないのだ。というわけで娘の学校は正確にいうとロンドンにあるアメリカン・カレッジである。  廊下を歩いていて一番眼につくものは、アラブ系の学生たちである。東洋人もいるし、日本人も十人ほどいるという。インド人やベルギーからの学生、アメリカ人も少なくない。ちなみに娘のボーイフレンドはベルギーのヤン君という。  校庭の一角の駐車場から、最新型のポルシェ・カレラが爆音を立てながら突っぱしって来て校門の方へ消えた。クラスメートのアラブの生徒なのよと、自分の車をもたない娘は顔をしかめた。愉快なことに、先生たち専用の駐車場にはほとんどポンコツに近い車が並んでいる。一方の生徒用のコーナーには、ベンツやBMWやポルシェといった高級スポーツカーが、ぴかぴかしている。  リッチモンド・カレッジに二年いた娘は九月からケンジントンの方の美術専攻科に移転する。ヤン君は一級下なので来年の九月に、獣医の勉強にアメリカの大学に移るという話だ。  サラ・ミッダの絵  ビスケットの箱とか、サラダオイルの缶などで、東京にいても時々彼女の愛らしい絵を眼にしていた。二十日大根《はつかだいこん》やビーツやニンジンなどの野菜や、サクランボや赤いリンゴ、兎《うさぎ》やモグラといった、とても素朴で可愛《かわい》いものたちのイラストである。  人は信じないが、私は本当はものすごく引っこみじあんで、知らない人嫌いなのだ。十代まではそれで通ったが、社会人ともなるとそんなことは通用しない。現在は年の功で適当にお茶を濁せる程度に成長しはしたが、気むずかしいアーティストに逢《あ》うのは、やはり気持ちのどこかが重かった。  ただ、サラ・ミッダの描く絵から、心の優しい無垢《むく》な人柄なのに違いないとは想像していたのだ。でも無垢な人の純粋な視線で見られたら、私などレントゲン写真のように見透かされてしまうだろうと、別の意味で私はこの訪問が恐《こわ》かったのである。  彼女のアパートメントのドアをノックして、そこに最初に私が見たのは、とても小柄な、飾り気のない少女のようなひとだった。そして驚いたことに、その蒼《あお》く見開かれた瞳《ひとみ》が怯《おび》えていたのである。  はっとした。この少女のような面影をもつアーティストは、日本から押しかけて来ることになっていた女流作家の訪問に対して、恐怖心を抱いていたのではないだろうか。  私は、自分の前に私以上に怯えている人間嫌いの女性を見て、急速に気持ちが和らぐのを感じた。肩の力がぬけ、眼に見えないヨロイをひそかに脱いだのだった。なぜならサラは私を迎えるにあたって、ありのままの怯えた彼女自身の姿をさらしていたからだ。彼女はヨロイなど着ていなかったからだ。  サラのアパートメントは、彼女の絵の世界そのものであった。小さなものが数えきれないほど部屋中を埋めつくしていた。室内のそこここに、彼女のイラストレーションで見たことのある野の花や、兎《うさぎ》のぬいぐるみや、各種ハーブの植木鉢が置いてあった。  私たちは色々と話し合ったが、彼女が日本の着物の模様に興味を抱いていると知って、うれしかった。今度来日したら、ぜひ京都の友だちの染色家に紹介すると、約束した。  サラ・ミッダその人が、彼女の描くイラストレーションのひとつひとつである、という印象を強くして別れた。彼女の声の、人の心に滲《し》みいるような優しさも忘れがたい。  今回の旅で、私はイギリスにすっかり惚《ほ》れこんでしまった。以前にも最低十回はイギリスに行ってはいたが、いつもなんとなく、お互いによそよそしい気分のまま別れた、恋人同士のような感じがしていた。  それなのに、今度のロンドンはずいぶん愛想が良かった。ニコニコしていて優しくて、紳士的だった。両手を広げて、私を抱擁してくれている感じだ。どの街角、どの店先でもそれを感じた。空気や、町の匂《にお》いにも温かさがあった。パンクなどほとんどみかけなかったし、十年前に多かった物淋《ものさび》しそうな、あるいは怒ったような表情の色青ざめた男女も、少なくなっていた。人々は血色が良く、何よりもその表情が柔らかくなっていた。多分、景気が向上しているせいもあるのだろう。  あるいは、問題は私の方にこそあったのかもしれない。十年前、私たちは子供と生活に追われて、精神的にも経済的にも余裕がなかった。イギリスへの旅は、夫の両親に対する義務以外の何ものでもなかったのだ。  今回初めて、楽しむためのイギリス旅行をしたのだと思う。それですっかりロンドンに夢中になってしまった私は、街の中に小さなアパートを買おうと、秘《ひそ》かに決意したほどである。  エーゲ海航海誌  一九八七年八月二十日  東京の自宅を出たのが昨日の午前八時。ロードス島に向かっているのだが、丸一日半たった現在地はまだローマの空港。  乗りつぎの時間が悪くて、私の乗るアテネ行きは六時間も待たなければ出発しない。もっと早い便にキャンセルでもあればと掛けあうと、多分あるだろうという。  いつわかるのかと訊《き》くと、出発の三十分前にははっきりするはずだというのだ。そこでキャンセル待ちの予約を入れておいて、朝の空港の中をぶらついた。端から端まで歩くと一キロ半くらいはあるかもしれない。途中にクリッツァの店が開いていたので、東京とローマの値段の違いを知りたいと思い、とびこんだ。  ところがそういう場合、とうてい空手で店を出て来たためしがないのだ。その時も例外ではなく、両脇《りようわき》に長いスリットの入ったスカートとウールシルクの大きなスカーフを買ってしまっていた。両方で四万円弱だから、むろん東京でクリッツァを買うより相当に安い。しかし、何がなんでも必要な買物というわけではなかった。これというのも待ち時間が六時間もあるせいなのだ。  とにかく今やヨーロッパはバカンスの真最中。ギリシャに向かう飛行機はどれも満杯なのだ。ヨーロッパにかぎらず東京とて同様で、成田アテネ間の直行便は満員で取れず、しかたなくローマ経由でアテネに入るという方法を取らざるを得なかったのだ。  昨夜は、夕方の六時から夜中の十一時半まで、バンコック空港のトランジット用の特別待ち合い室に坐《すわ》っていた。猫も杓子《しやくし》もバカンスのあおりをくらって、目的地ロードス島への道のりは、成田からバンコックへ。そしてローマ経由でアテネ。そこからローカル便でロードス島という順序である。最終的にロードス島に足を下ろすのは、なんと我が家を出てから丸々二日、四十八時間後ということになる。ジェット機やコンコルドが飛ぶこの時代には、嘘《うそ》みたいな話。それもこれも地球規模のバカンス騒ぎのせいである。  それにしても、空港待ち合い室というのは、興味深い人間観察の場所だ。それこそありとあらゆる国籍の人たちが右往左往しているのだ。そして当然日本人の団体さんもぞろぞろと、そうなのだ。ぞろぞろとした一団がいると思うと、それは日本からの団体さんなのだ。  例によって添乗員につき添われて幼稚園の遠足みたい。 「はいみなさん、この辺でなんとなく集まっていて下さい。バラバラに散ると乗り遅れますから、グループから決して離れないように。では名前を呼びますから返事を大きな声でして下さい」  ハーイ、ハーイとあちこちで元気の良い中小企業の部長さんや課長さんや、その奥さんたちの声が上がった。やれやれ。 「ちょっとおネェちゃん、写真一緒に撮らしてよ」と、四、五人が群れをなして金髪の女の子たちにたかって行く。カメラをかまえると、相手の困惑もおかまいなく、入れかわり立ちかわりパチリパチリ。 「おーい、このベッピンが撮らしてくれるってよォ」とわざわざ仲間に大声で呼びかける。そうかそうかと、赤ら顔のおじさんたちが、ガニマタでその方へと押しかけて行く。  外国の空港にいると、日本人の男たちのガニマタがことさらに強調されてよく目立つ。それからあたりはばからぬ大きな怒声。団体さんのマナーは相変わらずちっとも良くなっていない。  出発十分前にようやくキャンセル分の座席にありつけて、私は搭乗手続きをした。 「私のスーツケース大丈夫でしょうね。必ず積んでもらえるでしょうね」  と十回くらい念を押し、シィー、セニョーラ、もちろん、と調子良いローマ男。不安をぬぐえないまま、一便早い飛行機でアテネに。そして案の定。私のスーツケースは乗り遅れてしまったのだった。  結局何のことはない。一便早めたつもりが、当初の予定通り次の便で、スーツケースは到着した。次の便といったって、五時間も後のことだ。同じ待つなら、アテネ空港よりローマの空港の方が、はるかにましなのだ。この旅行は全くついていない。  八月二十一日  昨夜の真夜中近くようやく、ロードス島のホテルに到着した。一足先に来ていた家族はすでに眠っており、ドアを叩《たた》いて夫を起こすのにも一苦労。ほとんど口もきかずにベッドにもぐりこんだ。  ホテルの名はパラダイス。一夜明けて、エーゲ海の明るさが室内を照らし出し、そのあまりのまぶしさにいたたまれなくなって、起き出した。  テラスに出ると、甘やかな潮風。酷熱のギリシャでも、風はかなりクールだ。生まれて初めて見るエーゲ海の蒼《あお》。雲ひとつない空。白い家々。そしてホテルのすぐ下のビーチにはパラソルが咲きほこり、その下にゴロゴロところがっている人たちで、鎌倉にいるみたい。  鎌倉と違うところは、女たちが九〇パーセント、トップレスであること。老いも若きも、デブもヤセも、実にあっけらかんと裸の胸を太陽にさらしている。私には、さらすような胸もないので、ビキニをつけたまま、パラソルの陰でほとんど一日中旅の疲れで気絶していた。  その夜、ホテル主催のコンテストで、うちの二女のマリアがミス・パラダイスの三位に選ばれた。小粒のダイヤ入りの指輪をもらって、マリア十六歳、日焼けした顔をヒマワリのようにほころばせた。  八月二十二日  明日からクルージングに出るので、チャーターしたヨットが停泊中のロードス港へ。オクタント号。七十八フィート。ベッドルームが四つと、リビングルームと、キッチンがある。シャワーつきのトイレが三つ。三人のクルーを入れて十人の人間が悠々と暮らしていける空間だ。油壺《あぶらつぼ》にあるうちのヨットは三十三フィート。その倍もあるわけだから、大きいはずだ。  船長のピーターと、奥さんのペッパー、そしてペッパーの連れ子のニック青年の三人がクルーだ。ペッパーは私たちの朝と昼と、時々は夜の食事を作ってくれるコックさんでもある。今日からヨロシクと握手をして、私たちはスーツケースだけ積みこむと、タクシーでリンドスへ観光。くねくねと曲がって登っていく白い道。白い家。左手にトルコブルーの世にも美しいリンドスの入江。そして私たちはロバの背の上。完全なお上りさんというところ。  ロバに揺られて十五分。アクロポリスまでは徒歩で。目もくらむような日射《ひざ》しで、肌がぶすぶすと焦げる感じ。しかし、海から吹き上げてくる涼風のために、暑さは感じない。  アクロポリスの頂上から眺める海の色。これが有名なエーゲ海の蒼《あお》なのか。  娘たちはアクロポリスより何よりもロバに夢中。下りも二人はロバの背へ、私と夫は歩き。  その夜はロードス島で一番高級なイタリアンレストランというところで夕食。親子四人でお腹一杯食べてワインを飲んで、六千円ちょっと。頼んだ料理はどれも量が多くて、半分以上残してしまうものだから、ウェイトレスがちょっと気を悪くしていた。私も皿に食べものを残すのは嫌なので、しばらく後味が悪かった。ロードス島一のイタリアンレストランも、六本木のキャンティの足元には遠く及ばない。船中泊。  八月二十三日  夫の友人マイク・ウェルシュ夫妻とその娘が早朝の五時に到着。この三人を待って、ヨットの出航が今日になっているのだ。  九時の朝食後、船長のピーターは私たちのパスポートを持ち、港の税関へ出港(国)手続きに。これから私たちが十日間クルージングをするのは、トルコの海岸線なのである。目下トルコとギリシャの関係が良くないので、ピーター船長は少し神経質になっている。  無事港の税関でスタンプをもらってピーターが戻ると、ただちに出港。おりから風速十五メートルの風に乗って、ロードス島はあっというまにおぼろげな陸影となってしまった。いよいよ十日間のクルージングの始まりである。七十八フィートの密室。十人の人間。その狭い空間の中でくりひろげられる人間模様。よくクルージングの終わりに喧嘩《けんか》別れになる親友もいるとか。すっかり冷えてしまう夫婦もあるとか。これぞわが題材なり。  メインセイルとスピニカだけで、ヨットは十二ノットのスピードで進んだ。船が大きいと多少の風でも怖くない。しかし沖に出ると、上下の揺れが大きくなり、末娘のナオミと私は気分が悪くなって、トイレで吐いた。  四時間でトルコのマルマリス港に到着。私たちと同じようなチャーターヨットがずらりと並び、観光客も一杯。太陽と活気のあふれる港町。船つき場のすぐ前にカフェが並び、その間にブティックやヨット用の必需品を売る店が軒並みに並んでいる。でも何と言っても一番多いのが、カーペット屋。  日没までの数時間、女たちはさっそくショッピングへ。娘たちはトルコ石と銀でできた腕輪や指輪やネックレスを漁《あさ》り、私は一途カーペットショップへ。約畳一枚ほどの絹のトルコカーペットは米ドルで二千ドル。さすがに高いが、それにかかった手間を考えれば無理もない。質感といい、デザインといい、色といいうっとりする。しかし私は、木綿と絹を織り分けた対のカーペットを二枚で千ドルというのを買った。織ってから四十年たったもので、色合いもしっとりとして来ている。新品よりも三割がた高いそうだ。  午後五時半。夕日を眺めながら、シャンペンカクテルで乾杯。この日にかぎらず、毎日、午後六時前後から我々は飲み始める。夕食の八時半までジントニックを四杯はおかわりする。  もっとも男の人たちは、何かと言っては朝から缶ビールを飲み続けてきているので、一日中アルコール漬けだ。  夕食は港のレストランでトルコ料理。東京から一緒にクルージングに加わったモリスとドリーンのヨット『シヌーク二世号』のクルーも参加して、総勢十六名の大晩餐会《だいばんさんかい》だ。  トルコ料理とは、主として冷たいサラダの前菜と、羊肉の串刺《くしざ》しからなる。羊のかわりに牛肉を使ったり、魚になったりするが、鶏はあまりない。地酒の白ワインは辛口。たらふく食べて飲んで一人約六百円。東京のレストランの値段が異常なのである。  八月二十四日  十時にマルマリス港を発ちエッキンチック港へ。約三時間のセイリング。  たった一軒だけレストランがある小さな美しい入江だ。先客の大型ヨットが美しい船体を浮かべている。  我々のオクタント号とシヌーク二世号も並んでイカリを下ろした。  ペッパーの作ってくれた素晴らしいランチの後、トルコの海で初泳ぎ。ヨットから海中に次々と飛びこむ。約七メートルから十メートルの水深だが、底まで透明である。  水はかなり冷たい。私は水中眼鏡と足ヒレをつけて泳いだが、奇妙なことにクリスタルブルーの海中に、魚影がほとんど見当たらない。色とりどりの魚の姿を想像していた私と娘たちは、これにはちょっとびっくり。  入江をくまなく海中探索して思ったのだが、エーゲ海というのは、ほんとうに死の海である。もう何百年も前にとっくに死んでしまった海である。海流が外洋と混ざり合わず、そのために湖のようになっているのだ。  海水はあくまでも透明で冷たいのに、海底は灰色一色である。いきいきとうごめく海草とてなかった。  海から上がってヨットの甲板で甲羅《こうら》を干していると、モーターボートでトルコ人がやって来た。レストランの主自ら、今夜の夕食の予約を取りに来たのだ。九時に、例によって十六人分を予約。うちのヨットが十人。隣のシヌーク二世号から六人。ペッパーがゴミの入ったビニール袋を、モーターボートのトルコ人に渡した。彼はゴミの回収もして回っているのだ。  夕日が沈む頃に本格的に酒盛りが始まり、シャワーを浴び、一応簡単な夜の服に着替えて、九時少し前にオクタント号の大きなゴムボートで、港に一軒だけあるレストラン「マイ・マリーナ」へ。  レストランは丘の中腹にある。そこまでの登り坂がなんとも辛《つら》い。デカダンスとしこたま飲んだ食前酒のせいだ。  魚料理はどうだと店の主人がすすめるので、四十センチばかりの魚を塩焼きで頼んだ。約五人分。後で支払いの時にわかったが、ギリシャでもトルコでも魚は希少価値でバカ高いのだ。もちろん東京の値段に比べればさして違いはないのだが、トルコでは一匹約十四万TL。日本円にして約二万円くらい。  それがまた大味の魚で美味《おい》しくもなんともない。エーゲ海では、魚料理は敬遠した方が賢明だ。  食事中トルコ音楽の演奏が始まり、二、三歳の子供が二人、それにあわせて踊りだした。ピーター船長が私を誘い、ペッパーがマイクと夫のアイヴァンを誘った。それで食事中のダンス大会となり、みんなで|おへそ《べリー》ダンス。ウェイターたちも、給仕などそっちのけで踊りまくる始末。一時間踊って席に戻ると、当然のことながら料理はすっかり冷たくなっていた。その夜、風がないので、船室は寝苦しいと、娘たちと、夫は甲板で一夜を明かす。  八月二十五日  ダリアン河ツアーというのに行ってみようということになり、ポンポン蒸気船を隣のシヌーク二世号と一緒にチャーターする。  朝九時にエッキンチックを出発して、二時間半のダリアン河上りである。目的は岩に彫られたアクロポリスの遺跡の見物。  河の色は、トルコの青を含んだ緑色で、水を満々とたたえ、両側は芦《あし》の湿地帯。その昔、あまりの蚊《か》の多さのために、一つの都市が姿を消さざるを得なかったということも、この広大な湿地帯を見れば、さもありなんとうなずける。  しかし河の色の優しさといい、左右に広がる芦の光景といい、その背後に連なるトルコの荒涼とした岩山といい、不思議にも眼に焼きつく河上りの体験であった。  ランチは河沿いにあるレストランのひとつで取った。今日はお互いにクルーぬきだから十一人。トルコ風前菜(チーズのペーストとか、トマトのサラダとか)と、串焼《くしや》き肉。私はレバーの前菜にお米のつけあわせを二人前取って、主菜にしてもらった。レバーはなんとなく醤油風《しようゆふう》の味つけがしてあった。  河上りを終えて夕方、エッキンチックに停泊しているヨットへ帰った。この夜もここに一泊する。夕食はペッパーが腕をふるって牛フィレ肉のソティーのフランス料理。  ペッパーの料理がどこのレストランより一番|美味《おい》しいとみんなが口々に誉《ほ》めた。  その夜初めて、月を見た。鎌《かま》のように細い月で、山の上に昇るとすぐにまた山陰に落ちて行った。鎌のように細い月の横で、ヨットのマストにとりつけたトルコの旗の月が、相似形をしていた。  八月二十六日  午前中ヨットはサーシェという入江へ。やはりレストランがひとつだけの入江。岩山がすっぽりと抱きこんでいるので、海は湖のように静かだ。モーターボートで、トルコ人がカーペットや果物や小魚を売りに来る。ペッパーはトマトを少し買った。サーシェの入江も水はクリスタルブルー。朝から水着だけで夕方まで過ごし、気がむくと海へ飛びこむという毎日。  ここのレストランは、本物のベリーダンスが見られるというので、男共が昼のうちから鼻の下を長くしている。  ところが私はこのところ続いているトルコ料理に少しウンザリしていて、ほとんど食欲がない。カクテルアワーにペッパーが出してくれたキャビアのカナッペを三つも食べると、夕食はもうそれでいいという感じ。で、ディナーもベリーダンスもパス。モーターボートで全員が出かけてしまうと、甲板に上掛けを持ちだして横になった。夜になると寒いくらいなのだ。夜空には降るような星の数。この旅で書くものがあるとすれば、ミステリーくらいかな、と考える。しかしオクタント号に乗り合わせた十人は和気|藹々《あいあい》と仲良し。殺人事件は起こりそうもない。小一時間のうちに流れ星を七つも見た。  八月二十七日  ピーターが水を節約するようにと、みんなに言い渡した。タンクに貯めた水が底をつきかけているのだ。次の給水地には明日の夕方まで着かない。  おかげで娘たちは、むやみに水を流しながら歯を磨く習慣が改まった。洗面器に軽く二杯で、水浴をするコツをのみこんだ。でも並々とお湯をたたえた日本のお風呂《ふろ》に入りたいよ、と娘たちは私に訴えた。  サーシェからダーセックという、無人の港へ移動。レストランひとつない。人家もない。野生のヤギの親子が三匹。ロバが二匹、草を食《は》みながら移動していくのが、あたりに動く唯一の生き物の姿だ。  ここもトルコ特有の荒涼とした岩山に三方を囲まれたチャーターヨットのための入江で、三|艘《そう》の先客があるだけ。  水はこれまでで一番美しく澄んでいる。でもここにも小魚がチョロチョロしている他、魚の姿はない。  夕方、八十歳だというトルコ人の老人が、小さな古い漁船でやって来て、ほんの一握りの青とうがらしを売りに来る。他には一袋のアーモンドがあるだけ。ペッパーが青とうがらしを買ってやる。老人は歯のない口をあけて笑った。  次にどこからともなく漁師の親子の舟が来て、中くらいのタコを三百円でどうかと言う。タイに似た魚が四匹で千二百円。とにかく他のものに比べると魚やタコは高いのだ。ペッパーはそれでも魚を四匹買った。少し古いのか、彼女が下のキッチンで内臓をさばくと、長いこと、生臭さがヨットのキャビンの中にこもって消えなかった。  夜になって、ギリシャ側の山の後ろが妙に明るい。無線のラジオをつけてみると、ギリシャの島のどこかで山火事が起きているのだという。朝から燃え続けて、まだまだ広がりそうだという。気のせいか、空気がほんのわずかきな臭い。  八月二十八日  サーシェからダーセックへセイリング。  ダーセックに着いたとたん、私はサングラスを海中に落としてしまった。サングラスなしでは、たちまち眼を痛めてしまうほどの海の日射《ひざ》しなのだ。エーゲ海の航海中、初の事件である。  ナオミがもぐってみたが深すぎてだめ。夫もとても歯が立たない。最後にクルーのニック青年がヒレをつけて海中へ。  彼は他の人のように斜めにもぐってはいかず、ほとんど垂直に一気に海底へ。みるみるニック青年の姿が小さくなっていく。水深は十メートルを越えているのだ。  ニック青年は二十四歳。イギリスの軍楽隊でクラリネットを吹いていたのだが、いつまでもクラリネットを吹いているのも能がないと、今年で退職。夏の間母親の再婚の夫ピーターのヨットでアルバイトをして、そのお金でしばらく世界中あちこち見て回りたいというのだ。  子供の頃からヨットに乗っていたというだけあって、海のターザンみたいな青年だ。船長一家はイギリス人で、毎年三月から九月一杯まで、チャーターの仕事でエーゲ海で過ごすのだという。  ついでヨットのチャーターのことであるが、十日間で二食つきで約百万円。むろんヨットの大きさやそなえた設備によってチャーター料が違う。一人頭にすると、約十万円強。ホテルに泊まるよりはるかに安い。しかもエーゲ海を気ままに移動するホテルだ。シーツの取りかえもタオルの洗濯もみんなクルーがやってくれる。私はこの十日間、お皿一枚洗わないで済んだ。仲良しが三組くらい集まってヨットをチャーターするのも楽しいだろう。  もしも読者の方で、エーゲ海のヨットクルージングに興味がおありだったらBBマリーンへ。TEL(03)462−0757。ちなみに私の夫の会社である。と、ちょっぴりコマーシャル。  さて紙面はつきたが、私たちのヨットの旅はまだ丸々四日間残っている。  オーハニエからダッチャ。ダッチャの港を出るとトルコに別れを告げてシミというギリシャの小島に寄る予定だ。  ダッチャは革製品とカーペットで有名な活気のある港町。シミは、いかにもギリシャらしい真白い家で丘が覆《おお》われた町である。  シミに一泊して、対岸のロードス島に戻り、私たちのヨットの船旅が終わる。すでにこれ以上は焼けないほど裏も表も日焼けした。読むつもりで持参した本には一度も手をつけていない。本など読む気がしないのだ。泳いで、食べて、飲んでヨットを走らせて港から港へ。それだけで一日が終わってしまう。偉大なるデカダンスの十日間。ヴィヴァ・トルコ。  星の買える島  ある時、人は、道を歩いていてふと思う。曲がり角に咲いているすみれの花を見た瞬間とか、迷いこんだ路地に落ちる樹《き》の影に気づいた時などに、 「あっ、この場所を私は識《し》っている」  と感じることがある。  初めて通りかかったのに、以前来たことがあるような、あるいはもっと強い郷愁にかられて、思わず自分で自分を抱きしめるように立ちすくんでしまうことが、時としてある。  鼻の奥がつんと温くなり、軽いめまいのような状態。幸福であるような、それでいてふつふつと哀《かな》しい感じ。  この場所を確かに識っているという感覚で、軽い金縛りになる。そういう場所を、ひとは誰《だれ》でも、ひとつ持っているはずなのだ。まだその感情を体験していない人は、これからそういう場所と出逢《であ》うのだと、私は思う。  七年ほど前のことだった。旅の取材で初めてヨロン島を訪ねることになった。その時まで私はその島が正確にはどこにあるかも知らなかった。ただ南の方にある美しい島だという程度の知識があるだけだった。  いよいよヨロンに着いて飛行機のタラップに足を踏みだした瞬間に、その感情が爆風のように私を襲ったのだった。季節は十月の終わりで、島には潮の香りのする柔らかい風が吹いていた。薄い絹地のような感じだった。  風の他に、南国の花の甘い匂《にお》いや、肌にまとわりつく別の何かがあった。懐かしさのあまり、そこに坐《すわ》りこんでしまいそうになった。  ——私はこの島を識《し》っている——というめくるめく思いが私を包みこんだ。ずっと前、いつだかわからないが、この島で生きたことがある、という思いであった。  私の記憶の奥の方で、しきりとざわめくものがあった。もしも前生というものがあるのなら、私は前の生を、この島で過ごしたのかもしれない、と強く思った。  風の感触に記憶があった。空気の甘やかな香りや、透明な海の色や、奇妙にも根っ子を露出させたがじゅまるという樹《き》にも記憶があった。泣きたくなるような郷愁で、私の胸は泡立ち続けた。  その不思議な思いは、滞在中ずっと私につきまとった。うれしいような不安なような、幸福でいて哀《かな》しい奇妙な気持ちだった。  出逢《であ》いがあれば、必ず別れの時が訪れる。そしてそれはまるで恋人と別れるようなせつない思い出となった。  島が飛行機の窓の中で、美しいエンジェルフィッシュの型にまで遠ざかった。私はいつか自分があそこへ、必ず帰っていくだろうと、強い予感を覚えたのだった。  それから年月が飛ぶように過ぎた。ある縁から、私は再びヨロン島を訪れることになった。つい最近のことである。  今度は家族全員で島を訪れた。私は、私の島を、なにがなんでも愛する家族みんなに見せたかった。  そして、一家中一人残らず、ヨロン島に恋をしてしまったのだ。夫が一番重症だった。末娘が二番目に重症。私たちは島中歩き回って、溜息《ためいき》ばかりついていた。  私の夫という人はイギリス人なのだが、不思議にも幸運な男《ひと》で、自分が死ぬほど恋いこがれたものを、ことごとく手に入れて来たひとである。  もちろん、彼が一生懸命働いて手に入れたものもあるが、そうでもないものも多々ある。死ぬほど恋いこがれたものが、たとえばタナボタ式に手に入ってしまうこともあったり、信じられないようなキトクな人からもらったり、妻である作家の女——つまり私——の本がすごく売れたおかげで手にしたものもある。  要は彼がそのものに恋をし、死ぬほど思いこがれ、いつかきっと……と心に誓いさえすれば、どうやらいつか月満ちて実現するらしい。実に実に幸運な男であると思う。  そのようにして、彼はずっと大昔の夢——日本人の妻を持つこと——を実現させた。ちなみに西洋の男たちの夢というのは、アメリカの家に住み、中国料理を食べ、日本人の妻を持つこと、なのだそうだ。  それはさておき、夫は、海が大好きで、海の側《そば》に家を建て、それでも足りなくてヨットも手に入れた。まだ足りなくて、海に四方八方取り囲まれた小さな島を、最近カナダにひとつ買ってしまった。他にも、昔から夢みた綿菓子のようにふわふわした女の子三人の父親にもなれたし、コリーズも飼えたし、ロレックスの金時計も、英国のスポーツカーも、彼のものとなった。そして、今、彼が何を欲しがっているか、私にはピンときたのだ。彼はヨロンに恋をし、そこに住みたがっているのだ。  今度ばかりは反対する者はいなかった。三人の娘たちも、ハワイより、パリより、タヒチよりきれいと言って大賛成。私はもとより、ひそかにこの地を特別の場所、私の島と感じていたわけだから、異論はない。  すると私たちの耳に、夢のような話が入ってきた。星つきの別荘が買えるというのだ。  星。つまり夜空に輝いている天《てん》の星。あのひとつが、正式に登録されて自分のものになるというのだ。  マイケル・ジャクソン星や、ポール・マッカートニー星に混って、『ブラッキン星』という我が家の専用の星が持てるのだ。なんてステキな思いつきだろう。星つきの別荘なんて、世界中広しといえども、ヨロン島だけにしかないと思う。  人は、出逢《であ》うべき時に、出逢うべき人に、出逢うべくして出逢っていく。私はそう固く信じているし、そういう人との出逢いを何よりも大切にしている。  土地や場所との出逢いも、また同じだと思う。七年前、私は一人の男に恋するようにヨロンという島と恋に落ちた。そしてようやく今、その恋が実を結ぼうとしているのを、私は感じるのだ。  バンクーバーの魅力  私がカナダに小さな島を買ったと知ったら、口の悪い友だちが、いよいよ亭主を島流しにするつもりかと言った。  とんでもない、あんな居心地の良い島なら私の方が島流しにされたいわ、と笑ったが、ほんとうに快適なのである。  島といっても無人島ではなく、家が二軒建っており、管理人夫婦が住んでいる。電気も水道もオイルタンクも全《すべ》て整っていて、大型の電気冷凍冷蔵庫が六つもある。地下から暖炉用のマキを運ぶための専用のエレベーターまでついている。なにしろ家が広くて、寝室からキッチンまで歩くと、下北沢の自宅から駅までと同じくらいの距離感がある。  アメリカ式文明のありとあらゆる利器を整えた寝室六つの家である。下北沢の小さな家と猫の額ほどの土地と比べたら、誰《だれ》だって島流しを希望するのに違いないのだ。ちなみに下北沢の百四十坪の土地を売れば、うちのカナダの島が十個は買える勘定になる。何が贅沢《ぜいたく》かと言えば、カナダに島を買うことではない。今の日本の土地の値段を考えれば、その気になりさえすれば自分の住いを売って誰《だれ》だってカナダに島を一個手に入れることが出来るのだ。  問題は、その島を一年の内にどれだけ利用できるかということ。往復の飛行機代のこともあるが、島で無為に過ごす時間の有無が最大の贅沢なのだ。  そんなわけで、本物のお金持ちでない私たちは、その贅沢とは無縁で、島は利用されないまま、静かな時の流れの中にひっそりと浮かんでいる。  カナダに対する認識の中でまちがっていたことがひとつあった。バンクーバーは寒いかと思っていたが、暖流の関係でちっとも寒くないのである。  その上物価は日本の三分の一くらいだろうか。天候が良く、環境も最高、その上物価も安いときたら、一日も早く島流しになりたいものだ、と本気で思う今日この頃である。  バンクーバーの街にも滞在してみたが、色々な国々に滞在してみた経験と比べても、かなり快適である。観光客に対する応対が温いのだ。町をざっと車で回ってみるとわかるが、思わず溜息《ためいき》のでるような家がいたるところに見られる。樹《き》が多くて、街全体が公園みたいなのがすばらしい。言ってみればバンクーバー中が田園調布という感じ。  そしてどこからも海の眺めがすばらしく、正にウォーターフロントの都市。私も夫も心底この都市に惚《ほ》れこんでしまったので、いずれ子供たちが手を離れたら、本気で自分たちの島流しの計画を考慮中である。  さて、ガルフアイランズのひとつであるうちの島へは、バンクーバーから水上飛行機で十五分の距離であるが、更に十五分反対側に飛ぶとヴィクトリアへ行ける。ということは、食料品やちょっとした買い物には、どちらの都市にも行けるということだ。  ヴィクトリアはミニイギリスといった風情《ふぜい》の街で、こちらの方は大分観光に力を入れているのがわかる。観光客も多いが、お年寄りの姿も目立つと思ったら、ここはカナダ人のリタイアの町とでもいうか、老後をヴィクトリアでというのが平均的カナダの人たちの手の届きそうな夢だということだった。気候が穏やかで、日照時間もバンクーバーより多いというのが主だった理由らしい。  けれども私が見るところ、エンターテイメントにしろ、レストランの質や種類にしろ、やはりバンクーバーには劣るようだ。ただし、バンクーバーよりは古い町だから、建物には独特の雰囲気もあるし、骨董店《こつとうてん》にも見るものが多い。もっともあくまでもミニイギリスであるかぎり、ロンドンに比べたら問題にはならない。カナダというのは歴史の浅い国だということを、至るところで思いださされた。世界一だとバンクーバー在住の人が連れて行ってくれた寿司屋では、さすがサーモンがすばらしく美味であった。ちょうどトロのような味なのである。寿司屋があれば、私はカナダでもアラスカでも暮らしていける。その寿司屋ではデザートにあんみつが出た。  島騒動  八月のはじめ、私たちはタイ国際航空のジャンボ機でシアトルまで行き、そこから二十九人乗りのプロペラ機でバンクーバーへ向かった。  更に水上飛行機に乗り換え、ようやく目的地の小島に上陸した。  最後に乗った水上飛行機はエア・タクシーとも呼び、大小の島の多いガルフアイランズでは、そこに住んだりセカンドハウスを持つ人々の、いわば空飛ぶタクシーなのである。  五人乗りのエア・タクシーは、私たち家族と各自ひとつずつ持ってきたスーツケースで一杯になってしまい、バンクーバーのスーパーマーケットで買って来た一週間分の食料品や飲み物は積み残し。  エア・タクシーがとんぼ返りして、その夥《おびただ》しい食料品の山を運ぶことになった。  さて、ガルフアイランズの中の小さなひとつの島が目的地である。  この島を手に入れるために、私と夫が三崎の別荘地を売り、貯金をはたき、更にカナダと日本の銀行に向こう十年間にわたり借金をし、そのあげく夫と大喧嘩《おおげんか》を重ねた、因縁と怨念《おんねん》の島である。  八月と十二月、私たちが島で過ごす時以外は管理人夫婦と犬一匹という人口二人の島。  私たちは食料品をアメリカ製の大型冷蔵庫三つと食料貯蔵庫に収めて、ようやく一息ついた。八月のバンクーバーはカラリと晴れて、ちょうど軽井沢の夏から湿気をとりのぞいたような気候。冬期に雨が集中するため、晴天が続く。  島なんて行ってもすることないよ、とぶうたれる三人娘のために、今年無理をしてプールとテニスコートを作った。  島にプールを作るということは大変にお金のかかることであったと、わかったのは後の祭り。  職人さんをバンクーバーやビクトリアからつれてくるのに、いちいちエア・タクシーを使わなければならない。そして週休二日制を厳守する職人さんは金曜日の夜中にお帰りになり、月曜の朝またやってくる。途中でお腹が痛くなったり、都合が悪くなったりで、エア・タクシーは行ったりきたり。その請求書がみんな私の方に回ってくるという仕組み。  ようやくプールが出来上がると、今度はそれを満たす水がいる。島ゆえに水道水がない。冬の間に降った雨水をためておく井戸とタンクがあるだけで、これは生活水として貴重な水。とうていプールの水までまかなえない、ということがわかったのも後の祭り。やむなくバンクーバーから水を大量に買って運んでくるという苦しい策。世界一高い水。世界一高いプールについてしまった。  まだまだおまけがある。真水では冷たすぎて泳げない。人間の体温に適した水温に保つには、温めなければならない。そのために大きな大きなオイルタンクが運びこまれ、昼も夜もサーモスタットで温め続ける。  夜になると気温が下がり、水温はどんどん冷めるから、夜中でもオイルは燃え続ける。十分ごとに千円、また千円と、眠りながら気が気ではない。我々ごときが島にプールを持つなど身のほどをわきまえないことだと、改めてつくづく思うと、これまた後の祭り。  電気は海底ケーブルで引いてきてあるので心配はないが、とにかく水不足が島の悩みの種。極端な節約を強いられる。 「あなたたち、東京みたいに水を流しぱなしにして歯なんて磨いたら承知しないわよ」  それからお風呂《ふろ》は底から十センチの水ですませること。シャワーを流しぱなしで使わないで、濡《ぬ》らしておいて体にせっけんをつけて、改めて洗い流すことなど厳重に強制しなければならない。「おトイレは小の方は二回に一回流すのよ」その点を除けば、あとはすばらしく快適だ。  外はかっと暑くとも家の中はセーターがいるほど涼しいし、家は広々としていて、居間では電話がなると体育館の中を駆けていくような感じで、日頃の運動不足を一挙に解決。  庭にはアンズやブドウやブラックベリーやリンゴ、ナシなどがふんだんに実り、砂浜をちょっと掘れば日本の三倍くらい大きなアサリがザクザクでてくる。鮭《さけ》もバンバン釣れるし、モーターボートで十分のところにある少し大きな島のスーパーマーケットは、島の分際でありながら青山の紀ノ国屋も顔負けの豊富な食料品や冷凍食品がズラリ。同じ量のものを紀ノ国屋で買う四分の一の値段で買える。  水不足でお皿も充分に洗えないから、紙皿を大量に購入。おかげで皿洗いからも解放されて。  水以外のものなら、島には何でもある。電気缶切りも電気泡立て器もマッサージ器も、サウナ室もテレビもステレオも。とにかくお金持ちのカナダ人はお金持ちのアメリカ人と同じで、電化製品はちょっとした電機屋並みにそろっている。そういう人から買った島なのである。  ただし電気炊飯器だけはなかった。こればかりはデパートにもなくて、バンクーバーの日本食料品店の棚の隅でホコリを被《かぶ》って売っているのを、ようやく手に入れた。  さて今夜のメニュー。目の前の浜から掘って来たアサリの酒蒸し。ニンニクと白ワインで作ったものをレモンバターで食べる。バケツ一杯のアサリを五人でペロリとたいらげた。これは前菜。次はステーキ。一切れ三百グラムのステーキが一枚七百円くらい。ステーキはバーベキューで焼き、お醤油《しようゆ》をじゃっとつけて熱々のごはんとサラダ。最後のデザートは、庭で採れたブラックベリーに泡立てた甘い生クリームをタップリかけて。もう舌がとろけそう。夕陽が海に沈むのを眺めながら、ゆっくりと夕食を食べ終わる。カナダの八月は夜の九時までまだ明るい。  さて明日、我が小島に林真理子と桐島洋子と深田祐介の三氏が訪ねて見える予定だ。このお三人、それぞれバンクーバーに別宅をおもちになろうとしている。いわば我が隣人である。林真理子氏はすでに一軒家を買って、バカンスを過ごしている。久しぶりの東京からのお客さまのせいで、私は少し興奮気味だ。それに、おトイレの水、二回に一回流して下さいなんて言えないし。  旅はほんとに道連れ  食いしんぼうの友人たちと例によって、何か美味《おい》しいものを食べようよ、という話になった。もちろん二つ返事である。  では何を食べようかという段になって、季節柄、上海《シヤンハイ》ガニと異口同音できまった。親しい友だちのいい点は、趣味が一致しているということである。 「どうせカニ食うなら、いっそのこと香港《ホンコン》まで行こうよ」  と一人が言い出した。 「香港までねぇ」  みんなはそれぞれ自分のスケジュールを頭に浮かべながら溜息《ためいき》をついた。 「土曜の午後一番に飛べば、夕方には香港に着く。それから鯉魚門《レイユームン》あたりへくり出してカニをたらふく食う。翌日の飛行機で帰って、六本木の福寿司で口直しをする。どうこの案?」  ひどく魅力的に聞こえる。気も食指もそそられる。 「日帰りに毛が生えたようなものだよ」  言い出しっぺは尚《なお》も言い張る。 「たとえ毛が生えたようなもんだって、一応外国だからねぇ」  またしても溜息《ためいき》が広がる。 「だけど六月にみんなで京都へハモ食いに行った時のこと覚えてる?」 「あぁ、あれは実に美味《おい》しかった」 「違うよ、費用だよ。新幹線のグリーン車に乗って、宿屋に泊まって、料亭でハモ三昧《ざんまい》やって、一人で軽く十万円は吹っとんだよ」  香港の一泊旅行なら、十万円でたっぷりお釣りが来る。中国産のカシミアセーター買って、スワトーのハンカチーフくらい買えてしまうかもしれないと言われて、段々みんなその気になって来た。 「しかし、いきなり今週末の飛行機が取れるかな」 「当たってみなければわからんよ」  というわけで言い出しっぺが当たることにした。二、三日して、電話があり、このシーズン満杯でどの航空会社もだめ。 「残念だね」  と内心ほっとしながらも、行けないとわかるとやっぱり残念。 「まだ希望を捨てるなよ、何とかなるかもしれないから」  言い出しっぺは、私の残念そうな声に同情したのか、もう一度当たってみると言って電話を切った。 「いいニュースだよ」  とまたしても電話が入った。 「友だちに専用ジェットを持っている男がいてさ、この話に乗るって言うんだ」 「え? 専用ジェットをわざわざ、カニ食い仲間のために飛ばすっていうの?」 「本人がカニ食いたいんだから勝手だろ」  そのひと、ミュージカルが観たいとニューヨークまで専用ジェット飛ばすのかしら? ハロッズで買いものしたいと言うと、ロンドンへジェット飛ばすのかしら。へぇ、日本にもアラブの金持ちみたいな人がいるのねぇ。 「でも、ホテルはどうなの? どこも一杯だって断られたじゃない」  行きたいくせに、なぜか反発してしまう。 「ところが、その友だちのまた友だちが香港にホテル持っててさ、十人くらいどうにでもなるって」 「へぇ……」 「行こうよ。全部|只《ただ》だぞ。自前はカニ代ぐらいのものさ。行かないって手はないぜ」 「そうよね」  と私はハタと考えた。只ほど高いものはないと言う。それに自分のお金を払って行くからカニも美味《おい》しいのだ。他人の専用ジェットに乗り、他人のホテルのスウィート・ルームに只で眠るなんて、何かが違うんじゃないか。  というわけで、この夢の企画は流れた。流れても良かった。私たちはもう少しつつましくやりたい。身分相応のところで。で結局、恒例の六本木の中国飯店でこの秋もカニ食い会は行われた。  冬の旅  夫の両親がまだ存命の頃、私たちは毎年クリスマスを英国北部のチェッシャーという美しい町で過ごした。  冬のイギリスは、どんよりと暗く、じめじめとした上に寒気の厳しい国で、晴天の続く日本から行くと、ほんとうに気がめいるのだった。朝も十時近くならないと明るくならないし、夕方は四時にはもうとっぷりと暮れている。  石造りの建物は灰色かレンガ色で、町には色彩がとぼしく、人々のオーバーコートの色も無彩色。たちこめた乳色の霧の中を、まるで人間は亡霊か影のように音もなく歩いていた。  けれども、クリスマス前後だけは例外で、その頃になると、どこもかしこもきらびやかな豆電球に彩られて輝きだす。無彩色の町だからこそ、湿気やモヤや霧の中に浮かび上がるクリスマスのデコレーションは、それは夢のように美しく、ロマンティックなのであった。  家々の窓には、人工の雪が吹きつけられ、やはり人工の星がまたたき、その奥にチラチラと点滅するクリスマスツリーが見えるのだ。  ある年、私と夫は三人の娘たちと五つのスーツケースをレンタカーに乗せ、ロンドンからM3を北上して、初めて夫の実家のあるチェッシャーに向かった。町に入った頃は、日も暮れ、建物の窓から黄色く温かい灯が落ち、赤や青の豆電球が点滅していた。|おじいちゃん《グランパパ》と|おばあちゃん《グランママ》の家が近づいていたし、娘たちは旅の疲れも忘れて浮き浮きと車窓に鼻を押しつけて外を眺めていた。  窓という窓は、それぞれ異なる額ぶちをつけた美しい絵のようで、彼女たちはあきることなく、くい入るように見つめていた。 「あの角を曲がると三軒目が、きみたちのグランパとグランマの家だよ」  と夫が教えた。  車はゆっくりと角を曲がり、モスレーンと名づけられた通りに入った。雪ダルマが白く描かれた窓を通りすぎ、豆電球がスダレのようにたれている陽気な窓をすぎ、そして——、ふっと夫の額が曇った。  三つ目の窓は暗く、家の奥の方からもれてくるわずかな明かりの中で、ドライフラワーがぽつりと置かれていた。  まだ幼かった娘たちは落胆というよりは、茫然《ぼうぜん》として、暗い窓を凝視していた。  両隣の心楽しげな明るい窓にはさまれて、夫の両親の家の窓は、火が消えたようなうそ淋《さび》しさを漂わせていたのである。 「さてと」  と夫はことさら陽気な声で言った。「明日の朝は早く起きなくちゃならんよ。みんなでクリスマスツリーを買って、あの窓を飾らなくちゃね。忙がしくなるぞ」  だがその夜はクリスマスイヴだった。その夜にサンタさんがノースポールからやって来て、子供たちのピロケースにプレゼントを山のように入れて行ってくれる日だった。そしてサンタさんは、クリスマスツリーの光をめざしてやってくる。クリスマスツリーは、ここに子供たちがいるんですよ、という印なのだ。娘たちの小さな胸に去来したのはそういう思いだった。深い失望が彼女たちを襲い、娘たちは固く押し黙った。  なぜおじいちゃんとおばあちゃんは、クリスマスツリーを用意してくれなかったのだろうか? 孫たちがクリスマスイヴにやって来るのを知っていたのに……。私は恨みがましい気持ちを抱きつつ、夫の後に従って、彼の両親の家のドアを叩《たた》いた。娘たちは泣きそうな顔で、私の後ろにたてに並んだ。 「きっと忘れてるんだよ。クリスマスツリーなんて、僕がイギリスを発《た》ってからもう十年以上も、きっと飾っていなかったのに違いない」  夫はそう言いわけのように言った。  私たちは、年老いた二人に迎え入れられて家の中に入った。居間に通され、娘たちが初対面のあいさつをして、そしてようやくそこに落ち着いた。  グランパとグランマがお茶を入れに台所に消えた間に、長女が言った。 「どうして、あたしたちの写真がどこにもないの?」  何年にもわたり送り続けた子供たちの写真や私たちの結婚の時のポートレートなどが、あるはずなのだ。そうしたもの一枚見あたらない。 「きっと、遠く離れすぎている君たちを見るのが、辛《つら》かったんだよ」  と夫がかわりに言いわけをした。  私たちは、歓迎されていないのだ、と、私は感じた。老人たちは自分たちの孤独と向かいあうだけで精一杯で、日本から期待に満ちて訪れた息子夫婦や三人の孫のことにまで、気持ちをまわす余裕はないのだろう。  やがてお茶になり、少しずつ気持ちが落ち着いて来た。ふと私はおばあちゃんの視線に気がついた。白髪《しらが》の彼女は、じっと丸いタカのような眼を孫たちに注いでいた。その横顔を見て、私にはわかったのだ。この人たちは、混血の子供を見るのが生まれて初めてなのだ。この町には日本人などほとんどいないし、ましてや日英の血の混った子供などいない。息子は十何年も前にイギリスを捨て去った。その息子が実に久しぶりに日本人の妻と子供たちを連れて来るといわれて、彼らは、ただただ途惑《とまど》っているだけなのだ、ということがわかった。なんだか彼らのつつましい平和を掻《か》き乱してしまったような気がして、私も夫も気がめいった。  しかし、ほどなく老人のむすぼれた心も次第にほぐれ、娘たちも父親の少年時代の部屋で一夜眠ると、ぎこちなさがとれた。クリスマスディに私と夫は七面鳥を買いに行き、ともかく一家でお祝いの食卓を飾ることができた。  その翌日、私たちは予定通りチェッシャーを後にして、スイスのサンモリッツに向かった。飛行機と汽車を乗りついで到着したサンモリッツは深々とした雪で、ホテルにはクリスマス後もずっとツリーが飾られ、ようやくほんとうのクリスマス気分が味わえた。娘たちはスーツケースを放り出したまま雪ダルマを作り始め、ひいらぎのカンムリをかぶせた。彼女たちの顔に笑顔が戻って私たち夫婦はほっとした。  次の年からは、小さなツリーが毎年、チェッシャーの両親の家の窓に飾られるようになった。あの年から十二年、夫の両親はもういない。あのレンガの家も手放して人手に渡った。私の長女は今年二十一歳になる。   ㈿  音楽のこと  ずっと長いこと、私がヴァイオリンで身をたてられなかったのは、人間に興味がありすぎたせいだとなぜか信じていた。  演奏家は、きわめてストイックな人種でなければつとまらないのではないかと、盲信して疑わなかった。  事実、芸大の頃私の友だちはみんなわきめもふらず音楽一筋、行き帰りの電車の中でも楽譜を広げていたような人たちだった。私みたいに文庫本をむさぼり読んでいるような人間は、もうそれだけで駄目なのだった。  私は人間が気になって仕方がなかった。人が私をどう思うか、認めてくれているのか、どうか。人から愛されたかった。切実に愛されたかった。  せまい防音壁に囲まれた芸大の練習室に、何時間も閉じこもっている間に、外でどんなことが起こっているのか、いてもたってもいられないのだった。だからすぐに練習室から飛びだしてしまうというしまつ。それは自分自身を音楽世界からしめだしてしまうことになり、私はヴァイオリンに見放された。友だちからも、先生からも、大学からも、そして両親からも見放されてしまった。  あれほど、人々に愛され、認められたいという思いにつきまとわれながら、結果的には音楽も、人間関係も、私は完全に失ってしまったのだ。  それは根を切られた海草のようなもので、私は人生という海を、海流にほんろうされながら、右に左にただ揺れ動いているだけだった。  ただ揺れ動いているだけでも、生きていくことは出来た。ただ揺れ動きながら十年以上の年月が過ぎ去った。  その間、音楽にだけは、一切近づかなかった。音楽会にも足を運ばなかった。  人間に対してひたすら興味のあった私は、なるべくして作家となった。小説という手段によって、私自身のアイデンティティを全的に救えると思ったからであった。私は言葉をたくさん発見して、ようやく表現手段を得たのだった。そして更に十年が過ぎた。そしてわかったのは、小説で書くということは、およそ徹底してストイックな作業であるということである。私はストイックな人間であったのだ。今更のようにこの認識に愕然《がくぜん》としている。  物を書くということは、発散でもなければ、情熱の吐露でもない。解放でさえもない。それは抑圧の連続であり、ストレスはたまる一方である。できるだけたくさんの言葉を吐きだす作業ではなく、むしろどれだけ少しの言葉で物を表現するかということである。  砂漠で水を求めるように、再び私には音楽が必要になった。魂の休息を求めて、レコードを聴き、ラジオをつけて、音楽会へも通いだした。そして私は気がついたのだ。演奏家はストイックではありえないと。音楽というのは官能の歓《よろこ》びなのである。  あれほどの官能の歓びをあますことなく表現しえる演奏家は、実は官能的な精神の持ち主なのだ、と。  結局、私が音楽をやらなかったのは正解だったわけだ。  ラロのスペイン交響曲というのがある。学生の時、これを勉強していて、担任の教官にこう言われた。 「あなたみたいに素朴なラロを奏くひと、初めてだわ」私の先生は女性だった。  私はその時、先生の言外の皮肉に気づいてはいたが、むしろその言葉を内心喜んでいたのだ。つまり素朴であるということはストイックであるということに通じると思ったからだった。  とんでもない誤解であった。素朴だという意味は、貧しいという意味であった。ラロをつつましく貧しく奏《ひ》いたということであった。  でも私は、とうていあの曲を、楽譜通りに演奏することなど、気恥かしくて出来なかった。情熱的に歌いあげ、音色をふるわせることは、出来なかった。  舞茸《まいたけ》の耳  アンサンブルの楽しさを知ったのは、芸大の三年の芸術祭で、仲間たちと『鱒《ます》』を奏《ひ》いた時である。  芸術祭のプログラムは、今はもうないが奏楽堂で行われた。  その当時私は頑《かたく》なにソロだけが好きで、しかもソロであれば何でも良いというわけではなく、ヴァイオリンとチェロだけに限られていた。とりわけオーケストラでガチャガチャ奏くことに神経が耐えられず、オーケストラの時間の出席率はひどく悪かったはずである。  弦楽合奏の時間が大学の一年と二年にあったが、これの指揮に当たったのが、金子登先生で、当時はまだ指揮科に入りたてのホヤホヤの若杉弘が、私たちを練習台にしてよく金子先生のかわりをしたものである。  考えてみれば若杉弘ことピーちゃんは、私たちのストリングオーケストラで腕を磨き、やがて私たちが、三年になると私たちのオーケストラでやっぱり腕を磨いたのだ。  先日何かの音楽会で彼とパッタリと逢《あ》ったが、当然のこととはいえ彼は私のことなんて全く忘れてしまっていた。  ところが、彼が私たちを練習台に一番最初に手がけて仕上げたモーツァルトのディベロプメントのことはとてもよく覚えていた。さすがに音楽家だと思った。  若杉弘が私のことを全く覚えていなくても不思議ではない。私は初めに書いたとおりオーケストラの出席日数も悪く、芸大ではほとんど落ちこぼれであったからだ。  さて『鱒』に話を戻そう。  何かの拍子で芸術祭でこれをやろうという話になったのだ。メンバーは全《すべ》て女性であるというのが、当時としては目新しかった。ヴァイオリン専攻は七〇パーセントが女性であったが、チェロとなるとぐっとへって二〇パーセント。コントラバスはわずかに一人。  アンサンブルというのは、完成したものを聴くより、奏《ひ》く側にいる方が、はるかに楽しいということを知ったのは、その時であった。  自分のヴァイオリンの音だけ気にしているわけには、当然のことながらいかない。たえず聴き耳をたてながら、自分の音を他の楽器の音色の中に織りまぜていく。  奏きながら同時に聴き耳をたてていると、私は自分の耳が舞茸のようにそそり立つのをしばしば意識したものだった。その瞬間、音楽家とは、この舞茸のようにそそり立つ耳を、たえず持っていなくてはならないものだと思った。  それはもちろん、様々な音を聴き分けるためということもあったが、主として歓《よろこ》びの快楽から耳が舞茸のようにそそり立つのである。  けれども『鱒《ます》』の時だけが例外で、それ以後二度と私の耳が音楽の歓《よろこ》びによって舞茸のようになることはなかった。  すぐれた音楽家の耳を見るともなく眺めると、私は何時も舞茸のことを連想する。若き日の若杉弘の耳もそうであった。  プラシド・ドミンゴ『声・黒光り』  現代はヴァイオリニストやピアニストまで、容姿の美しさを要求される時代である。楽器の演奏に容姿は関係ないと思うが、切符の売れ行きには大いに関係があるらしい。  けれどもオペラではそうとばかりも言えないと思うのだ。『椿姫《つばきひめ》』や『蝶々《ちようちよう》夫人』を巨大な脂肪の塊《かたまり》に演じられては興味は半減以下になる。  オテロや『椿姫』のアルフレートが巨漢のデブだったら、やっぱり見る方のイメージが混乱してしまう。オペラというものは、聴くものであり観《み》るものであるからだ。耳の楽しみと同じくらい眼の楽しみも味わいたいのである。  こんなふうに考えるオペラファンが多いためもあってか、最近のオペラ歌手もずいぶん容姿に神経を配るようになって来た。  マリア・カラスだって、まだとても若い頃の巨体のままであったら、スカラ座の女王としてあそこまで君臨できたかどうか怪しいものだ。ましてや世界的富豪のオナシスの心と、雨あられと降る宝石の贈物を受けとめることができたかどうか。  プラシド・ドミンゴが一九七〇年代の半ばで、ダイエットや運動で減量に成功したことは、すばらしいことである。このために彼のレパートリも一段と増え、私たちオペラファンに限りない喜びを与えてくれた。なぜなら眼を閉じてオテロやアルフレートを聴くなんて悲しみとは、無縁になったからである。  容姿というものは不思議なもので、ずいぶん前、フリオ・イグレシアスの歌だけ聴いた時にはその声の感じから陽気な丸顔のラテン男を連想したものだった。それが舞台でフリオを近々と見て以来、彼の声の魅力は三倍にも四倍にも私の耳に聴こえるようになったのだ。  車の中で聴くカセットテープのドミンゴも、同様の楽しみを私に与えてくれる。他に迷惑をかけるわけでもないので、ボリュームを一杯にして聴く。時には「歌に生き、愛に生き」や、ぐっとくだけて「オ・ソレミオ」などを声の限りをはりあげて合唱する。彼は文句も言わずに一生懸命私と唄《うた》ってくれる。  彼の黒光りする声には、ただ美しくうっとりとするだけではなく、どこか聴くものの胸をかきたてるようなセンセーショナルなものがある。かつて、音楽大学の学生だった頃、上野の文化会館に通いつめてイタリア・オペラの練習風景を観る機会に幸運にもめぐまれた時、マリオ・デル・モナコの声に直《じ》かに接した時の最初のショックも、センセーショナルなものだった。モナコの声は、喉《のど》から血が吹きだしそうな一種壮絶な声だったことを忘れられない。そしてモナコとドミンゴの二人の偉大なテナーと同時代に生まれた幸福を思わずにはおれない。  青春の読書  どの年代をさして青春と呼ぶのかわからないが、私が一番外から刺激を受けたのは、十八、十九の頃。かなり青春時代の尻尾《しつぽ》の方である。  読書傾向としては、断然フランスの現代物。フランソワーズ・サガンやサルトル、ボーヴォワール一辺倒であった。  時は同じく、映画でもヌーベルバーグ期で、私の読書傾向と映画とは微妙にダブっていた。  フランス映画はなぜか黒白《モノクローム》が多かった。二日とあけず映画館通いをしたおかげで、私の頭の中にはモノクロームのイマージュが定着してしまった。  今日小説を書いていてよく読者や知人に、私の小説世界はモノクロームの映画のようだ、と言われるのは、多分そのせいだと思う。  フランスの現代小説にかぶれるまでは、どちらかというと波瀾万丈《はらんばんじよう》の冒険小説ファンであった。『白鯨《はくげい》』とか、『バウンティ号の反乱』とかそういった類のもの。海洋冒険物語に胸がときめいた。  海洋冒険小説に胸がときめくのは遺伝のようで、私の父がそのジャンルのものが好きだった。父の書棚には見るからにスリル満点のタイトルの小説がギッシリと並んでいた。  不思議に翻訳物が多かった。もちろん日本人のものもたくさんあったが、私はなぜか西洋のものしか読みたくなかった。ストーリー性のあるものしか面白いと思わなかったのだ。  テレビのない時代だったので、本と映画だけが娯楽の全《すべ》てだった。活字を読まない日は、おそらく一日たりともなかったと思う。  今、うちの娘たちは、本を読む日を数えた方が早いくらいだ。とにかく活字を好まない。私の父の遺伝は、孫たちには及ばなかったようだ。  読み始めると止《や》められなくて、夜が明けてしまったということが、とてもたくさんあった。そしてあんなふうに小説世界にのめりこんで本を読むエネルギーこそ、青春そのものではなかったかと思う。  あなたに似た人  私の読書歴はジャンル別にかなり集中する傾向があるみたいだ。小学生の時はとにかく全集と名がつくものをほとんど全部。世界子供文学全集とか、父の書棚にズラリと並んでいた昭和五年発行の新潮社版世界文学全集とか、これはやたらと漢字の多い旧かな遣いの難解な本だったが、他に読みたいものもなかったので、片っぱしから読みふけっていった。  大学時代にサガンやサルトルやカミュを読み、結婚して子育ての六年間は、ミステリー一点張り。文庫のミステリーを一日一冊、多い時は二冊のわりで読み飛ばした。  三十五で自分が小説を書き始めるまで、読んだのはほとんど九九・九パーセント西洋文学やミステリーで日本のものは読まなかった。だからすごく片寄った読書傾向だったのである。  ロアルド・ダールの作品にめぐりあったのは、三十三、四の時で、私自身が書き始める直前の時期にあたる。サキとかブラッドベリとか、ダールの時代と自分で呼んでいる短期間である。  私の最初の小説『情事』の一ページ目にも、ダールやブラッドベリの名が出てくるから、記憶にまちがいはないと思う。  サキにしてもブラッドベリにしてもダールにしても、共通なのはブラック・ユーモア。日本人の血の中にあまり流れていないもの。当然日本人の文学にもないジャンル。  これこそ短編小説のきわみ。ドキドキして、ニヤリとして、そして最後にぞっとして背中の生毛が逆立つ文学。  ぞっとするのも血が流れたりグロテスクであったり怪奇だからではなく、人間が本来的にもつ欲望の醜さ、その滑稽《こつけい》さを切りとって、スパッと見せてくれるのだ。そして何よりも恐ろしいのは、ごく普通の人間が、ごく普通の状況の中で、ふと魔がさして、それをさかいにごく普通の状況から異常な世界へ踏みこんでしまうという、そのあまりの簡単さに、私は唖然《あぜん》としてしまったのだった。  普通の人が怖いんだ、とつくづくと思った。普通の人々の心の中に、ある時突然起こることや、普通の人ともう一人の普通の人が出会うということが……。  だから『あなたに似た人』というタイトルになるわけなのだ。これはあなたのことなのかもしれないし、もしまだ起こっていなければ明日か明後日にあなたの上に起こるかもしれないし、この私のことかもしれない。  たとえばこんな話がある。道に迷ったか、人を訪ねたのか忘れたが、若い男がある家を訪ねる。かなり大きな館(マンション)だ。太った中年の金持ちふうの男が出て来てちょっとした立ち話になる。どちらかが煙草をすう。訪ねて来た男がライターを取りだして、カチッと火をつける。  太った金持ちがふいにこう言う。「そのあんたのライターをたて続けに十回火をつけられたら、そこにあるロールスロイス(だったと思う)をくれてやろう」  つまり賭《か》けを申しこんだわけだ。道に迷った若い男は心をそそられる。それはそうだロールスだもの。それにそのライターはめっぽう着火がよくて、一度も火がつかなかったことなんてなかった。(思うにジッポウのライターみたいな感じ)。その気になってこっちは何を賭けたらいいかときいた。すると太った男の答えは「指」である。失敗したら指を一本切り取ってくれろというのである。  ロールスロイス対指一本。若い男は考える。うまくいけばロールスが転がりこむ。その上ライターの調子はすこぶる良好だ。万が一のことがあったにしても失うのは小指が一本。若い男はついに決意する。(あなたならどうする?)  さて勝負。一発、二発、三発、四発と楽々と火がつく。が、次第に若い男の顔が青ざめていく。冷たい汗が流れ、手が震える。五発、六発、おっとあぶない七発。このあたりのスリルは本を読んで臨場感というのを味わって頂きたい。手に汗を握るとはこのことだ。映画を見ているみたい。自分がその場にいるような感じ。そしていつのまにか、私自身がその主人公になって、ライターをカチカチやっている気になってしまう。カチッと八発目。もう嫌だ。止めてくれ。ライターを投げだして逃げだそう。背骨に添ってツツーと一滴の冷たい汗がしたたり落ちる感じ。  最初の五発まではひたすら頭にあったのは、手に入るかもしれないロールスのことだった。ところが後半六発目からは、失うかもしれない小指のことが頭を占領してしまうというこの心理の逆転。  ストーリーの最後は、言わないのがルールだろう。とにかくあっと驚く結末だ。唖然《あぜん》として、ぞくっと寒くなる。しばらく心臓の動悸《どうき》が止まらない。  そういう話がいくつもつまった短編集。今の話は確か『南から来た男』というタイトルだと思ったが。  ひとつ読むと次が読みたくなる。全部読むともっと他のも読みたくなる。麻薬みたいな短編なのだ。毒があって、蜜《みつ》があって、キラキラしていて。  人間の心の底にある欲望を切りとり、毒や蜜やキラキラでまぶし、見事な一皿にしてしまう。ダールは小説の料理人。それもとびきり腕の良い料理人。その包丁さばきの切れること。選びぬかれた素材、素材を選り分ける眼、嗅覚《きゆうかく》。手早い料理っぷり。ほとんど芸術だ。そして仕上げをごろうじろ、一皿の絵のような盛りつけのセンスの良さを。  味はもちろん、ちょっぴり毒があって、タップリ蜜があるのだから美味なのにきまっている。一度食べたら病みつきになるというわけだ。  ロアルド・ダールってどんな人だろうとずっと想像していたら、TVのダール劇場というので初めて実物を見た。予想に反して、毒気のない、さらりとした長身のイギリス紳士といった風貌《ふうぼう》。ますます熱烈なるダールのファンとなった。  私の10点  1  私の親しい友人の男優がある時、鶴屋南北《つるやなんぼく》の四谷怪談の民谷伊右衛門を舞台で演ずるのが夢なのだと私に語った。 「え? あのお岩さまの?」私は一瞬深い断絶感を覚えて言った。彼がテネシー・ウィリアムズというのならすんなりと受けとめられるのだ。断絶感を埋めようという作為がとっさにわき、私は思わず言ってしまった。 「台本、私書きたいわ」  数日後、岩波文庫の鶴屋南北『東海道四谷怪談』を買った。私がかつて聞いたことも読んだこともない科白《せりふ》で埋まっていた。歌舞伎も古典も全く知らない私には、外国語みたいなものだった。一行ずつ翻訳しながらくりかえし読み進めているので、台本はいつの話になるかとんとわからない。  2  私が戯曲の面白さにとりつかれてしまったのは、テネシー・ウィリアムズの『欲望という名の電車』(新潮文庫)を文庫で読んで以来のことだ。まだ十代だった。戯曲を書きたいというより、むしろいつかブランチ・デュボアを演じたいとひそかに思い、暗記するほど読み返したものだった。むろん女優になる夢は、夢のままに終わりをとげた。その後色々な舞台で、様々なひとが演じるブランチ・デュボアを観た。ヴィヴィアン・リーも杉村春子も。誤解を承知であえて不遜《ふそん》なことを言うなら、どのブランチも、私自身の想像の舞台で、私が演じたであろうブランチほど、完璧《かんぺき》ではなかった。それはともかく、現在では戯曲を書くのが私の夢である。  3  音楽大学に通っているころ、親からもらうお小遣いは、たいてい楽譜代で消えた。風月堂やジローといった当時のたまり場でおしゃべりするためのコーヒー代とか本代は、アルバイトで稼ぎださなければならなかった。従って単行本には手が届かず、もっぱら文庫本を愛読した。サガンの『悲しみよ こんにちは』(新潮文庫)は、文庫になるのを千秋の思いで待ちうけて、それでようやく買った本である。ショックであった。十八歳の少女がすでにあのようなアンニュイにみちた小説を書いたという、その才能に頭をガンとやられた思いだった。そのおかげで、もし仮に私が小説を書きたいという夢を心の中に育てていたとしても、そんなものは木《こ》っ端《ぱ》みじんに吹きとんでしまった。『悲しみよ……』の後遺症はその後もかなり長く続いた。  4  ウィリアム・ゴールディングがノーベル賞をとった時は、私はほんとうにうれしかった。多分これは父の影響だと思うのだが、子供のころから私は海洋冒険小説が好きで、ずいぶん心をときめかせてきたが、『蠅《はえ》の王』(集英社文庫など)は、そのきわめつけ。最も文学の香りの高い海洋冒険小説だと私は信じている。これは絶海の孤島にとり残された子供たちのなんとも絶望的な冒険の話だが、純粋|無垢《むく》ゆえに子供心のなんという冷酷さ。子供というものは決して無邪気ではないと背筋が凍りつくような、しかしあくまでも美しい小説なのである。無人島にたった一冊をもって行くとしたら、何を選ぶかという質問があれば、私は断然『蠅の王』である。  5  文庫本の最初のページに一九六〇年と記入してあるから、フロイトの『夢判断』(上下、新潮文庫)を初めて読んだのは、私が二十歳の時であったということが、改めてわかった。この文庫を探す目的で本箱をひっくりかえしていたら、『夢判断』の本が全部で四冊でてきた。文庫が二冊、ハードカバーが一冊、それと立派な学術書風なのが一冊。  どれも私が自分で必要に迫られて色々な時期に買ったものだが、全く同じ本が四冊というのも私としては珍しい。それとそう度々自分の夢の判断の必要に迫られてきた、ということも、今にして思うと奇妙なものだ。どんな夢について調べたのかはすっかり忘れたが、私という人間はよほど夢とか深層心理とかに興味があるらしいということが、それでわかる。  6  角川文庫のP・ヴァール、M・シューヴァル『笑う警官』は、私の読書歴の中では最も長く続いたミステリー・スリラー・SF時代の終わりごろに読んだ作品である。子育てに専念した六年間がそれにあたり、一日に一冊か二冊のペースであった。そのころ私たち一家は三浦三崎の突端に住んでいた。日がな一日中砂浜の上でミステリーをむさぼり読む母親の傍らで、娘たち三人は砂で遊んだり、貝を集めたり、小波とたわむれたりして成長した。ストックホルム警視庁殺人課主任警視マルティン・ベックは、それまでずっと私のヒーローであったチャンドラー描くところのフィリップ・マーローを軽くいなして、新たな私のヒーローとなったのであった。ベックというのは胃痛病みで夫婦仲がしっくりいっていない中年男なのだが、その魅力を知るには、本を読んでもらうしかない。  7  フィリップ・ロスとの最初の出会いが『ポートノイの不満』(集英社文庫)だった。解説者の言によれば「次第に錯乱状態に陥ってゆく男根の物語り」であり、同時に「ユダヤ人として育てられた主人公が足場を見失う話」である。強烈なパンチを胃のあたりに一撃打ちこまれたような気がしたものだ。ある種の嫌悪感から吐き気まで覚えた。  私の夫はロスをして、メソメソした感傷的な文学だ、とけなすが、感傷的であっても、どこか乾いていると、私は反論したことがあった。その後、ロスの作品を次々と読み続けて思うことだが、彼はその作品のいかなる細部においても、文学的絶頂感というものを自分に許していない作家なのだ。文体が叫びたてていたら、文学の香りは飛び散ってしまう。ロスも私に強い影響を与えた、そして現に与え続けている作家である。  8  フリッツ・ライバーの『放浪惑星』(創元推理文庫)は、他人《ひと》にすすめられて読んだ数少ない作品のひとつである。多分素直でないからだと思うのだが、ひとに推薦《すいせん》されると、その本は逆に読みたくなくなってしまうという性癖が私にはある。本というものは、自分で本屋へ足を運び、五感と想像力をフルに発揮して、ぴんと来るものを本棚から引きぬいてくることにこそ喜びがあるわけだ。本屋におけるその快感をスキップするのだから、面白くなかったらその友人とは絶交だとひそかに思いながら読んだ。ありがたいことに友人とは絶交せずにすんだ。不思議に優雅なSFであった。読後感はしんみりと哀《かな》しかったのを覚えている。ちょうど十年前に読んだ作品である。  9  ある時、テレビの洋画劇場でクリス・クリストファーソン出演のなんとも美しい映画を観《み》た。それが三島由紀夫の原作を映画化したものだとは、学のない私は知りもしなかった。とにかくすごく美しい映画だし、船乗りと、美しい女と、その子供の奇妙な関係が面白かった。何かの折、それが三島の文学だとわかった時、驚愕《きようがく》して本屋へ走った。映画と同じタイトルの『午後の曳航《えいこう》』は、新潮文庫にあった。私はこの作品における少年たちの残酷さに、激しいショックを受けた。少し後になって思ったのだが、ウイリアム・ゴールディングの『蠅《はえ》の王』の、あの無邪気な少年たちの残酷さに、相通じるものがある。『午後の曳航』の後、続けさまに三島作品を全部読んだ。私はそんなふうに何かのきっかけで一人の作家を集中して読む傾向が強い。  10  二昔以上前、新宿に風月堂という喫茶店があった。当時、そこが、お茶の水のジローと並んで、私たちの溜《たま》り場であった。コーヒーが一杯、確か七十円だったころだ。芸大の学生だったので、いつもバイオリンのケースをかかえていた。最初にフランクのバイオリンソナタをリクエストして、それからコーヒーを頼み、バイオリンのケースの中から取り出すのが角川文庫の『中原中也詩集』であった。リクエストした曲は、なかなか順番が回ってこなくて、かからなかった。だから中也の詩は暗記するほどくりかえし読んだ。夜の十時ごろ、ようやくリクエストがかかり、私は文庫を閉じ、フランクを聴き、終わると大急ぎで家に帰るのだった。その風月堂は、その後ヒッピーの溜り場になったと聞く。もちろん、今はもうない。  指折り数えて待つ 『笑う警官』シリーズ  自分で本が買えない頃は、もっぱら父の蔵書を読みあさっていた。ほとんどが外国の翻訳物の単行本か全集物であった。  やがて小遣いがもらえるようになると、それで文庫本を買うようになった。初めて自分自身の本が手に入ったわけだ。  私だけの本が少しずつ増えていくのがとてもうれしかった。  けれども私にとって本当の文庫時代ともいえるのは、三人の子供を育てることに専念した二十代の後半から三十五歳までの六、七年間。この間一日に文庫本を二冊のわりで読みあさった。育児の他に何もすることがなかったからである。  その頃集中的に読んだものは、大きく二つのジャンルに分かれる。ミステリーものと文学、これをほとんどかわりばんこに読んだものだ。  とりわけ、スウェーデンのコンビ、M・シューヴァルとP・ヴァールのマルティン・ベックもの。『笑う警官』『バルコニーの男』『サボイ・ホテルの殺人』『密室』『テロリスト』『爆破予告』など。  私は元々警察ものの推理小説はそれほど好きではないのだが、角川文庫から出た『笑う警官』シリーズは例外。次は何時でるのかと指折り数えるようにして文庫化される作品を待ったのは、このシリーズと、フランソワーズ・サガンの本くらいのものである。  とりわけ『バルコニーの男』は灰色のストックホルムの陰鬱《いんうつ》さを背景に、背筋が寒くなるほど無気味なストーリーであった。個人の好みの問題であるが、私はシリーズ中でこれが一番良いと思う。高見浩の訳もすばらしく、抑制のきいた、テンポの早いクールな文体も大好きだ。  他には、フレデリック・フォーサイスの一連の作品がそれに続く。『ジャッカルの日』『オデッサ・ファイル』『戦争の犬たち』『シェパード』『悪魔の選択』『帝王』『第四の核』と次々に角川文庫から出たが、この後半の頃には私自身作家になっていたので、単行本が買えるようになった。  それにしても文庫で読んだ『ジャッカルの日』の衝撃は忘れない。一度でフォーサイスの熱烈なファンになったほどだ。  私は一人の作家にかかると、その人の作品だけを徹底的に読む傾向があるので、従って一年に一作ずつ位しかその人の本が文庫化されないと、気が狂いそうになる。  私にとっての角川文庫とは、だからM・シューヴァルとP・ヴァールのことであり、フレデリック・フォーサイスのことである。これらの作家に出逢《であ》えたことの喜びはとても大きい。  最近の角川文庫とのつきあいも、もっぱらエンターテイメントのジャンル。主として旅行や講演会の移動中の乗りものの中で読む。昔から文庫の一|頁《ページ》を開ける瞬間のドキドキするようなうれしさは、今も変わらない。  神の気まぐれな贈り物  山田詠美とは編集者を混えて何度も食事をしているし、一緒に飲んだし、泊まりがけで旅行もしている。  普通同じ人と二回食事をすれば三回目からは友だちだと言えるはずなのだが、私たちの間には眼に見えない壁があって、二人を遠くへだてているような気がずっとしていた。多分、彼女も同じ気持ちを抱いているのだと思う。  私たちには、共通の言葉がなくて、でも必ず共通の思いはあるのに相違なく、その証拠に、機会があれば出かけて行って彼女を眺めていた。彼女も、私を眺めていた。先にも言ったように私と彼女には共通の喋《しやべ》り言葉がなかったからだ。  それに、私も彼女も、どうでもいいことは別にして、人前でトウトウと喋ることの出来ない一種言語喪失人間で、そんなわけでただただお互いを眺めているしか他にどうしようもないわけであった。  年齢の絶望的な開きというものも厳然としてあった。私が男なら、また別の有効なアプローチのしかたもあっただろうが。  しかし、もしも私たちの年齢が近かったとして、果たして私たちは語りあえるだろうか? 彼女の言葉を借りて言えば、一日に最低一回は手を握りしめて冷汗をかいていた女の子が、他人との関わりにおいてではなく自分自身との関わり合いで、どこにいても決して快適ではなかったという女の子が、ついにある夜中、こっそりと台所のテーブルで小説を書きだした。そしてどうしてだかわからないけど小説が書けてしまったという驚きの中で、自分がずっと望んでいたのはこうやって書くことだったのだというめくるめくような最初の体験——彼女はその最初の小説を創作のフタのようなものだと表現しているが——を経てその後も物を書き続けている女同士が、一体何をどのように語り合うことができるというのだろう? 彼女は二十五歳でそのフタを開くことが出来たが、私は三十五歳まで、掌に冷い汗をかき続け、これ以上負けのカードを増やしたら潰《つぶ》れてしまうギリギリの瀬戸際まで書くことが出来なかったので、「書くためには書かないでいる時間がすごく大切なんだなあ」などとさらりとはとうてい言えないが……。  つまり私が言いたいのは、山田詠美が小説家であるかぎり、そして私もまた小説を書く女であるかぎり、私たちは今後何十回食事をしたり一緒に旅に出たとしても、おそらく会話というものが存在し得ないのではないかという悲しい予感を抱くということである。私たちはお互いに興味を抱きあいながら、お互いの周囲を旋回《せんかい》する深海の二匹の鮫《さめ》のようなものなのではないだろうか。  私は彼女がとても好きだし、彼女も私の小説を好きだと言ってくれたことがあって、それは何なのだろうと長いこと考えていたが、『ひざまずいて足をお舐《な》め』を読んで、いたるところにその答えがちりばめられていた。色々な感情の原因と山田詠美がいうところのものを、私たちはお互いにたくさんもっていて、それを推測することで、辛うじて私たちの友情が存続しているのだろうと思う。  山田詠美は常に、自分の場所であって自分の場所でないところにいて、へらへら笑っているけれども、実はいつも泣きそうな心を抱えこんでいる。  この小説の中で、一番私の心に切りこんで来たのは次の箇所だ。  ——もっと苦労して作家になった人だって沢山いるんじゃないの? その若さで元手がかかっているなんていうんじゃないわよ。お言葉ですけどねえ、お姉さん、私のは違うの。これから苦労することに対して元手をかけているの——。  この小説は多分に自伝的色彩の濃いものだと思うが、一人称の私——忍という年上の女の視点を通して山田詠美と思われる若い女ちかを描写している手法がとても興味深い。この手法のために、自伝小説にありがちな過剰なセンチメンタリズムや自己弁護が見事に排されている。しかも非常に分析的だ。作者の自分を見すえる冷徹で客観的な眼が随所に見られた。  私の眼を通さなければ私の小説にならないんだからさ、と言いきる山田詠美の視線を、敬愛して止《や》まない。  そうした小説の視線——あるいは文体、あるいはまた文才といったものが、どこから来るものであるかということについて、私はいつもある種の恐怖に似た思いを抱かずにはいられない。その才能は全く不公平に、ある人には与えられ、ある人には与えられない。神の気まぐれとしか言いようがない。私自身もこの気まぐれの贈り物を得た幸運な人間の一人だと、自惚《うぬぼ》れているかもしれないが思っている。  けれども、山田詠美の特質であるところの「心の中の浄化装置」を彼女のようにはもっていないので、そのあたりがまぶしいような決定的な差である。  ——お姉さん、人は見かけによらないものよ——という山田詠美の声が当分耳を離れそうにもない。  '80年代の女として輝くキム・ベイシンガー  最も「今風」の女優である。時代の最先端にぽっと咲きでた徒花《あだばな》といった感がないでもない。 「今風」というのは、必ずや、いずれ「時代遅れ」となる運命にある。それが三年後になるか五年後になるかの違いだけだ。  やがて消えていく運命が、誰《だれ》の眼にも明らかな女優というものは(男優もそうだが)、見るものの胸を哀《かな》しくさせる。時には、しめ上げてくる。  それゆえに、現在という刻《とき》の流れの先端にいて、キムはドキッとするほど美しい。  もしも私が男だったら、きっとすごく惚《ほ》れてしまって、それで痛い思いをし、身も心もボロボロになってしまうだろうと思う。でもたとえそうでも、男と生まれたからは、ボロボロになるほど、一度は女に惚れぬいてみたい。そういう相手としては、キムは最高ではないかと、思う。  もっともこれはスクリーンから受ける女優としての彼女のイメージであって、実生活のキムはものすごく堅物の知的スノッブかもしれない。そんなことは逢《あ》ってみなければわからないことだ。  あの永遠の我々のヒーロー、『風と共に去りぬ』のレッド・バトラーだとて同じこと。あれを演じたクラーク・ゲーブル。あんな大人の魅力をもった男だったら、もう喜んで身も心もまかせてしまいたいと、思うではないか。  が現実のクラーク・ゲーブルはどうだろうか。誰だったか忘れたが、共演した女優の自伝を読んだ時に、びっくりするようなことが書いてあった。「クラークって、すごい口臭持ちなのよ。耐え難かったわ」  私なんて、もう本当に腰を抜かしそうになったもの、それを読んで。  再びキムに戻って。いわゆる「今風」のいい女。どちらかというと汚れ役とか娼婦風《しようふふう》の役が似合う。だけど、汚れ役とか娼婦風って、演じやすい役柄なのだ。日本の女優なんて、全員この二つの役だけは、絶対に上手《うま》い。だけどこれ以外のレディの役とか、普通の女というのが演じられない。普通の女を、気負いなく演じられたら、キムは、十年後も健在だろう。そうであることを、ファンとしては祈りたい。  背中合わせのふたつの女——危険な情事  マイケル・ダグラスとエイドリアン・ライン。この組合わせが、まず何よりも期待感をかきたてる。  マイケルといえば、あの偉大な大根役者カーク・ダグラスの息子で、親の七光りに溺《おぼ》れず、『チャイナ・シンドローム』『カッコーの巣の上で』『ウォール街』といった問題作をプロデュースしたり、主演したり。ミッキー・ロークと並んで今一番輝いている男だ。  一方、エイドリアン・ラインは『フォクシー・レディ』『フラッシュ・ダンス』そして『ナイン・ハーフ』の監督。すでに『ナイン・ハーフ』の中にも片鱗《へんりん》が見られたが、性における異常さ、ある種の兇暴《きようぼう》さ、みたいなものが、この『危険な情事』で、見事に描き切れている。  ご存知のように、日本でも公開されると劇場は連日満員で、予約席も買えないしまつ。大変なヒットとブームを巻き起こした。私自身も苦労して何とか劇場で観《み》たが、実に面白かった。どう面白かったかといえば、『危険な情事』をサカナにして、マンガを一本、短編を三本、エッセイを四本くらい書いてしまった。おかげで原稿料もたくさん稼がせてもらったわけで、こんな映画も珍しい。  この映画を見た男たちは一人の例外なく、「あの女は異常だ」とか「あれは病気だよ」とか話した。つまり、異常者にしたて上げないことには、自分が落ち着いていられないからだ。 「あれは例外で、俺《おれ》の愛人《ガールフレンド》はもっとさばけている」と思いこみたいわけである。あんな女に日常茶飯にうろうろされたら、かなわないというのが偽らざる男の本音とみた。本音であり切実なる願望のようである。  ところが女の私たちから見ると、彼女は例外でも病気でもなく、もしかしたら誰《だれ》もが自分の中に持っている要素なのである。ただ、それが外へ出ていかないだけのこと。その証拠に、彼女が男につきまとう時に言う科白《せりふ》のどのひとつを取っても、正論なのである。その女の立場になって聞く耳をもつものには、正論に響くのである。  けれどもつきまとわれ被害者のように自分を思ってしまう男(マイケル・ダグラス)の耳には、とても正論ではない。とんでもない考えの飛躍としか聞こえない。そして、マイケル・ダグラスと立場を同じくする(あるいはその可能性のある全《すべ》ての男といってもいい)男たちにとっても、情事の相手の女の言動は、信じがたくたじたじとするものなのである。  私が面白いと思ったのは、男の側には男の正論があり、女の側には女の正論がきちんとあって、なおかつそれが絶望的に咬《か》み合わないということの、人間関係のエゴイズム、恐怖、おとしあなの部分だ。  そして、自分を、被害者の妻の立場に重ねて眺めると、あの女は恐ろしく危険で、憎らしく、怖かった。が、時々自分をあの女の立ち場に重ねて眺めると、逃げ腰の男が憎く、滑稽《こつけい》で、あさましかった。彼の妻は、妻という女の立場にあんのんとあぐらをかいているようにしか見えず、そのあんのんさにひどく腹が立った。  そんな風に、二人の女の立場を行ったり来たりしながら観《み》た映画であった。ということはつまり私たち女の中には同時に二つの顔があるということである。貞淑な可愛《かわい》い妻でありたいと思う心と、一方、娼婦《しようふ》のようにあくどくありたいと望む心と。  自分の中にある二面性をつきつけられるような気がして、ちょっと考えこんだものである。  男と女の関係の葛藤《かつとう》を描いた映画としてだけでも非常に秀《すぐ》れている上に、ロサーというか人間のもつ無気味さも充分に描かれ、久しぶりに映画の面白さを味わった。  ビデオが出たので、深夜、一人でゆっくりとまた観てみたい。そうしたらもうひとつくらい、短編が書けるかもしれない。  色|褪《あ》せたテネシーの哀《かな》しみ——雨のニューオリンズ  テネシー・ウィリアムズの戯曲は、読む方が圧倒的に面白い。作者がその内部に強く持っているある種の狂気が、まるでなくてはならない隠し味のように、行間に潜みこんでいるからだ。  映画や舞台が失敗といわないまでも、ある不快感をともなうのは、演じる人間が、その「狂気」を演じすぎてしまうからだと思う。テネシー・ウィリアムズの書いた登場人物のもつ「狂気」を演じることに陶酔してしまうといったらいいのか。  日本人の女優に、娼婦《しようふ》と狂気じみた女を演じさせたら、下手《へた》な女優はいないということを聞くが、これはアメリカ女優でも同じことが言えそうだ。どこか歪《ゆが》みのある人間を演じるのは、いとも簡単なことなのだ。普通の人間をごくさりげなく演じることの方が、はるかにむずかしいというわけで、『雨のニューオリンズ』のアルバ役を演じたナタリー・ウッド、自分の演技に陶酔していた。  けれども、まれにみる美しさというものは、何もかも許せてしまうもので、同じウィリアムズの『熱いトタン屋根の上の猫』の人妻役エリザベス・テイラー同様、カリスマ的魅力の域にまで達している。  相手役のロバート・レッドフォードが若々しく美しい。ただしテネシー・ウィリアムズむきの役者ではないような気がする。『熱いトタン屋根……』のポール・ニューマンのもっているような、外見はタフでありながらガラス質の神経の持ち主を演じるのは、無理。レッドフォードはクールすぎる。  そういうことは別にして、テネシー・ウィリアムズは常に役柄の中の誰《だれ》かに自分を重ねるのだが『雨の……』の場合は女主人公アルバが、作者のガラス質のもろくも繊細な神経をうけついでいる。『熱いトタン屋根……』でも、また『欲望という名の電車』でもそうだが、いずれも病的に繊細な女主人公が、ウィリアムズ自身なのだということができる。  そのように作者自身が、反対の性の中に——作者は男であり、女主人公が当然女であるという意味で——色濃く投影されている、というのが、テネシー・ウィリアムズ作品の特異性でもあり、特色である。それは作者がホモセクシャルであったということと無関係ではありえないだろう。  彼の描くところのどの女たちも、現実世界から遠く逃避している。彼女らはそういう理想の世界を頭の中に組み立てて、あたかもそれが現実であり、世間一般のことが逆に非現実であるかのように見ている。彼女たちがということは、作者テネシー・ウィリアムズが、という意味であるが……。  そういうシチュエイションに登場人物を追いこむために、ニューオリンズがしばしば使われる。逃げ場のない暑さ。啜《すす》り泣くようなブルース。あくどくて、荒々しい男や女たち。『雨のニューオリンズ』では、母親役と、母親の情夫を演じていたチャールズ・ブロンソンが、女主人公を狂気に追いやる典型的人物として登場してくる。  とりわけ、チャールズ・ブロンソン演じるところのJ・Jは好演だった。この男優は、黙っていても実に見事な演技のできる人だ。  それにしてもチャールズ・ブロンソンとは不思議な俳優で、ちっとも年を取らない。一緒に出ているロバート・レッドフォードなんて『アウト・オブ・アフリカ』(邦題——『愛と哀《かな》しみの果て』)では、完全に老人顔に変わっているのに、ブロンソンは今も昔もほとんど変わらない。  また画面を見ていて感じたのだが、ナタリー・ウッドは、古き良きハリウッド時代の最後の女優であったように思う。  あの手の顔と、あの手の声は、現在という時代にまで生き残れなかったのではないか。まさにハリウッド的作りものという感じがする。今はもっと自然体でしたたかでないと通用しないのだ。  現実に彼女はもうかなり前に、酔ったかどうかしてヨットから落ちて亡くなっている。マリリン・モンローといい、ナタリー・ウッドといい、ハリウッド的死にかたをしたわけだ。つまり最後までドラマチックに、死まで演じた——そんな気がしてならない。  テネシー・ウィリアムズ作品の特色は、肉親に対する愛と憎悪の大きな撒布《さんぷ》と、もうひとつ男と女の間にある越えられぬ溝《みぞ》の深さである。  とりわけ、血を分けた肉親への憎悪は、さすが肉食人種だと、感嘆せずにはおれないほどの迫力をもっている。強大な母親とか、あまりにも威圧的な父親が、どれだけ子供の精神を歪《ゆが》め、それが肉体的なものまでを歪めていくか、恐ろしいまでに描かれている。  肉親による徹底的な精神的迫害、あるいはその裏返しである溺愛《できあい》によって、人は破壊される。後に、別の人を愛することが出来なくなるみたいだ。精神的にも肉体的にも、ウィリアムズの主人公たちはみんな不毛な愛にのたうって苦しんでいるように見える。  今や、テネシー・ウィリアムズ作品の世界は、セピア色に褪《あ》せて来ている。それは苦悩さえもセピア色に染め、直接的に画面から私たちの胸を鷲《わし》づかみにする迫力を失った。時代が変わったのだ。ホモセクシャルが大手を振ってまかり通るようになり、家族主義から個人主義に変わって来た。従って作品世界の哀《かな》しみもまたセピア色にまで弱まった。  そんなわけで、家庭用ビデオ作品としては、かなり楽しめるのではないかと思う。なぜならテレビ画面大で見ると、あらとか誇張などが目立たなくなるからだ。そしてもっとずっと日常性の時限にまで近づけてドラマが見れるという利点もある。そういう意味でウィリアムズの他の作品も、ビデオでゆっくり観《み》てみたい気がする。  母性を躾《しつけ》られるキャリアウーマン——赤ちゃんはトップレディがお好き  一連の赤ちゃんものの映画が流行《はや》って、これもそのひとつ。  赤ちゃんものの面白さというのは、パターンがきまっていて、およそ奇想天外なシチュエイションの中に、いきなり赤んぼうを放りこむという点が共通している。  つまり、ある日、何かの都合かあるいは何かのまちがいで、見知らぬベビーが届けられる。というところからストーリーが始まる。  届けられて驚き仰天するのは、独身の 男《プレイボーイ》 だったり、ホモの夫婦だったりするわけだ。何をどうして良いのかまるきりわからない。ひたすらオタオタするわけだ。ひとりの赤んぼうをめぐってドタバタ喜劇が展開する。  こういう映画を見ると、男ってほんとうに不器用ねぇ、と女たちは溜息《ためいき》をつく。時にはあまりの無知さかげんにイライラしてくる。赤んぼうの抱き方なんて、今にも落としそうでハラハラする。いくら映画とはいえ、男も女も同じ人間なのに、あまりにひどすぎる、などと考えるわけだ。  けれども世の中たいていの男——現実の男なんて、映画の中でオタオタしている登場人物と大差はないのである。これは私の体験を通して言うのだから信じてもらってかまわない。  私の亭主殿は、最初の赤んぼうのオムツをなぜか股《また》にあてず、下腹に腹巻のようにぐるぐると巻きつけた。赤んぼうが寝返っているうちにオムツは胸の方にまでずり上がり、ベッドがオシッコやらウンチでベトベト。 「ねぇ、常識で考えればわかるでしょうに。オシッコやウンチはどこから出てくるのよ?」 「股の間から」 「でしょう? そこにオムツをあてなけりゃ、何にもならないじゃない」 「その頃のことは覚えていなくてねぇ」 「その頃って?」 「だからボクがオムツをあててた頃のこと」  覚えていなかったら、改めて考えればいいのだ。けれども失敗は成功の母、亭主殿は以後オムツあてに関してはエキスパートとなった。ミルクにしても、最初は空気ばかり吸わせていた。 「ねぇ、この子、さっきからゲップばかりしてるけど、どこか悪いんじゃない?」  映画の中のヒーローよろしくオロオロと亭主殿が聞いた。 「多分、胃の中が空気で一杯なのよ」 「でもどうして胃に空気がたまるんだい?」 「あなたが空気ばかり吸わせるからよ」 「エ? ボクが?」  と彼はうろたえる。そこで私は空気を吸わせないで授乳するやり方を教える。ボトルの角度の問題なのだ。以後亭主殿は授乳でもかなりの腕前を披露《ひろう》するようになったのである。  前置きが長くなったのは、実は次のようなことを言いたかったからである。かのボーヴォワール女史の有名な言葉——。女は女に生まれるのではない。女に躾《しつけ》られるのである——。それをそのまま、  母性は生まれながらのものではない。母親に躾られるのである。  と言いかえることができる。  その証拠に、映画の中のプレイボーイやホモ夫婦は、やがて育児のエキスパートへと変身していくのである。  さて本題。『赤ちゃんはトップレディがお好き』は典型的赤ちゃんもののパターンをとりながら、ドタバタを演じるのが男ではなくキャリアウーマンだという点が、ちょっと違う。  ダイアン・キートン演じるところのこのバリバリのキャリア・ウーマンはエグゼクティヴ候補でもある。男顔負けのやり手。  とある日、従兄《いとこ》かなにかの遺産が転がりこむ。転がりこんで来たのは、百万ドルのお金ではなく、なんとベビーがひとり。  男顔負けのエグゼクティヴ・ウーマンは、驚いたことに男顔負けの母性欠陥人間だった。このあたりが、この映画の面白いところなのかもしれない。ここでも、女は女に生まれるのではない、女に躾られるのだを、実証しているわけだ。  しかしこの映画、女が子育てをしながら仕事をバリバリこなすのはむずかしいというそのけなげさを描こうとしたわけではない。仕事をやる上ではけなげさのかたまりであったダイアン・キートンも、赤んぼうを抱えこむやいなや、髪ふり乱しての子連れ出勤。アグネス・チャンも顔負け。  けれどもアメリカのしかもニューヨークは日本ほど大甘ではない。ダイアン・キートンはまたたくまに競争社会から落伍《らくご》してしまう。  人生には山あり谷あり、そしてまた山あり。赤んぼうでつまずいたダイアン嬢には、ひょんなことから、赤んぼうで再び世の中の脚光を浴びる運命が待ちかまえている。それはビデオを見てのお楽しみ。  アル・パチーノの切ない演技  アル・パチーノの暗さは、アメリカ人から見ると暗くて暗くてたまらない種類の暗さだろう。もう闇という感じ。  同じように暗い役をこなすダスティン・ホフマンとタイプが似ているが、アルの方がはるかに真面目。ということはユーモアに欠ける感じがする。  ダスティン・ホフマンが出世したのは、役柄の上のあの汚ならしさ、ずるさ、哀しさ、惨めさ、冷酷さ、気の弱さ、人の良さ、温かさといったありとあらゆる役をこなしたからである。役柄にめぐまれた、というより、そういう役を演じる力があったといった方がいい。  アル・パチーノには、その演技上の広さ、悪くいえば貪欲さ、あるいはけじめのなさ、といったものに欠ける。  だから彼の演技は観ていて切なくなる。これでもか、これでもかと痛めつけられる人物とか、いくらあがいてもあがいても浮かび上がることの出来ない不運な人間とか——。あるいは、『ゴッドファーザー』の息子役で、本来は優しくナイーブな男が、ギャング界という世界で急激に血も涙もない男に変身せざるを得ない悲劇とかを演ずると、もうぴったりとはまるのだ。 『レボリューション』も、その意味ではアル・パチーノぬきには生まれなかったような作品だ。時代は一七七六年頃の合衆国独立戦争を背景に生きた、父(パチーノ)と息子の愛の物語。あるいは、戦争のために豊かな家族と訣別せざるを得なかった美しい娘との悲運な愛の物語といってもよい。  つい最近試写で観た『存在の耐えられない軽さ』という映画と重ね合わせながら私はこれを我が家の41インチのスクリーンで眺めたのだが、どこか一脈通じるものがあるような気がした。 『存在の……』の方は、ソ連軍の侵略という脅威をもち、『レボリューション』はイギリスからの独立という戦争を背景にしている。そしてそこに生き、傷つきながらも愛しあう男と女が描かれている。 『存在の……』に比べると、この男と女の愛の描き方が『レボリューション』の方では、やや希薄であった。  もっともそれは、映画作りの意図やテーマがこの二つの映画は自ずと異なるからであって、優劣の問題ではもちろんない。  戦争の愚かしさ、人間の醜さというものが、やや誇張されて描かれたイギリス軍の挙動を通して良く表現されてはいたが、この部分が長すぎる感じがした。もっとラブ・ロマンスの方に傾いても良かったと思う。  相手役のナスターシャ・キンスキーという人は不思議な顔で、光りの具合や角度やその時の気分で、この世のものとも思えぬほど美しいと思えば、時として、世にも醜悪な表情にもなる。この女優はだから、あまり人間臭いというか女そのものの役柄は合わないのかもしれない。どこかとりとめがなくて、優しいようで冷酷で、熱いようで冷たい。以前観た『キャット・ピープル』という映画で猫女を演じていたが、あの作品の彼女はすばらしかった。一九八五年の作品。  初出誌一覧 贅沢《ぜいたく》なエアポケット 『25 ans』一九八九年一月号 のんべえの身上書 『BON VOYAGE』一九八八年 vol.4 ワインのこと 同 vol.5 ヘルシー時代の美酒|讃歌《さんか》 同 vol.6 延々とフローズン・ダイキリを 同 vol.7 ペリエと私 『ペリエ通信』一九八七年 vol.7 徹底的みせびらかし風景 『EXIT』一九八八年 女の香り 『ベターリングコア』一九八八年夏号 コシノヒロコの服 『ハイファッション』一九八八年十二月号 スーツとスニーカーとOL 『News Cheque』一九八八年七・八月号 夫と妻のいい関係いい空間 『大阪読売新聞』一九八八年三月二十八日号 自分育ての時代 『しんじゅくフォーラム』一九八六年 vol.5 女らしさについて 『OVELAN LETTER』一九八七年夏号 父の肖像 『京都新聞』一九八六年八月六日号 私の銀座メモリー 『京都新聞』一九八六年八月六日号 �詩人�ムッシュウのこと 『信濃毎日新聞』一九八六年七月二十三日号 配偶者のこと 『長崎新聞』一九八六年七月二日号 ある風景 『ステキ生活探険隊』一九八八年三月 あの甘やかな匂《にお》いが微《かす》かにする坂道 『週刊住宅情報』一九八七年八月五日号 昼下がり 『カラフルマインズ』一九八七年 唄《うた》えない私 『The Symphony』一九八六年vol.25 永島敏行さんのこと 『アンアン』一九八六年七月二日号 文 字 『週刊文春』一九八八年 男について  初出誌不明 愛について 『熊本日日新聞』一九八六年八月十七日号 別れの美学 『モア』一九八七年十二月号 十年一区切り 『軽井沢高原文庫通信』一九八七年八月十日号 夫と私のルール 『Winds』一九八八年六月号 ターニングポイント 『ソフィア』一九八八年八月号 私と英国との出逢《であ》い 『婦人画報』一九八七年十月号 エーゲ海航海誌 『オール讀物』一九八七年十一月号 星の買える島  初出誌不明 バンクーバーの魅力 『ふたりの部屋Plus1』一九八八年十月号 島騒動 『News Cheque』一九八八年九・十月号 旅はほんとに道連れ 同 十一・十二月号 冬の旅 『アルカス』一九八八年十二月号 音楽のこと 『musica club』一九八六年 舞茸《まいたけ》の耳 『カザルスホール』一九八七年十二月号 プラシド・ドミンゴ『声・黒光り』 初出誌不明 青春の読書 『青春と読書』一九八七年六月号 あなたに似た人 『朝日新聞』一九八六年二月七日号 私の10点 同 一九八六年一月十九日〜三月二十三日号 指折り数えて待つ『笑う警官』シリーズ 『週刊読書人』一九八八年七月二十五日号 神の気まぐれな贈り物 『波』一九八八年八月号 '80年代の女として輝くキム・ベイシンガー 『キネマ旬報』一九八八年五月号 背中合わせのふたつの女 『ビデオコレクション』一九八八年九月号 色|褪《あ》せたテネシーの哀《かな》しみ 同 十月号 母性を躾《しつけ》られるキャリアウーマン 同 十一月号 アル・パチーノの切ない演技 同 十二月号 ある日《ひ》、ある午後《ごご》 角川文庫『ある日、ある午後』平成元年1月20日初版発行               平成9年7月20日12版発行