[#表紙(表紙.jpg)] 魔少年 森村誠一 目 次  魔少年  空白の凶相  燃えつきた蝋燭《ろうそく》  雪の絶唱  死を運ぶ天敵  殺意開発公社  殺意中毒症 [#改ページ]    魔少年      1  相良牧子《さがらまきこ》は、スーパーへ行っての帰途、背筋に寒気をおぼえるような光景を見た。いつもは食料品の仕入れは、お手伝いに任せているのだが、その日は、彼女の公休日に当たって外出していたので、牧子自身が久しぶりにスーパーへ買出しに来たのである。  スーパーから家へ向かう途中、二車線幅の道路を横断しなければならない。住宅街の中央を貫く道路だが、舗装されてあるので、車はかなりのスピードをだしている。前方の道路|脇《わき》の歩道に、五、六人の子供たちがかたまっていた。小学校四、五年の年ごろである。 「うちの正男と同じくらいかしら」  牧子は、心中でわが子と比べながら、子供たちの群へ近づいて行った。彼女を追い越して一台の乗用車が走って行った。車が子供たちの近くまで迫ったとき、いきなり群の中から一人の子供が車の前へ飛びだした。  ——危い!——おもわず目をつむった彼女の前で、車は急制動をかけた。車輪と路面のかみ合う不吉な軋《きし》り。 「こら! 危いじゃないか」  ドライバーが子供をたしなめた。それではたすかったのか。恐る恐る目を開くと、飛びだした子供は道の反対側に無事に渡って、てれくさそうに笑っている。  ドライバーも、相手が子供では仕方がないとおもったらしく、走り去って行った。 「どうしてそんな危いことをしたの?」  まだ激しい動悸《どうき》を打っている胸を抑えて、牧子は注意した。 「あ、正男君のおばさん」  子供たちの中から声をかけた者がいた。見ると、正男と同じ学級《クラス》の大野|宗一《そういち》という子供である。とかくかんばしくない噂《うわさ》のある子だった。 「まあ、大野君」 「おばさん、びっくりしたかい?」 「びっくりしたわよ、心臓が停まりそうだったわ」 「いまのは、�横断遊び�っていうんだ。いまとてもはやってるんだよ」 「横断遊びですって?」 「自動車がぎりぎりに近づくまで待っていて、その前を横断するんだ。車のいちばん近くを横切ったやつが、いちばんになるんだよ。いま横断した中田君は、いままで横断できなくて、卑怯《ひきよう》だと言われていたんだけど、いまそうじゃないことを、みんなに証明してみせたんだ。やっぱり�体操博士�だけあって、やればうまいや」  中田君は体操の得意な子だった。 「まあ、なんてことを」  牧子は、あまりのことにしばらく呆然《ぼうぜん》とした。自分の子もこんな危険な遊びの仲間入りをしているかもしれないとおもうと、全身が粟《あわ》だった。 「これからは絶対にいけません。横断遊びなんて野蛮だわ。そんなことできなくても、ちっとも卑怯じゃないのよ。もし止めなければ、おばさん、先生に言いつけます」 「どうしていけないの? ぼくたち勇気をためしてるだけだよ」  大野宗一は、牧子を不満げににらんだ。腕力の強い子で、クラスの餓鬼大将である。父親は、牧子の夫の相良が経営する会社の守衛をしている。 「勇気は、そんなことでためすものじゃないの。もし言うことを聞かなければ、お父さんにも話しますよ」  宗一のふてぶてしい視線がひるんだ。彼は厳しい父親が苦手なのである。 「ママア、どうしたの?」  聞きおぼえのある声が、耳許《みみもと》でした。見るとわが子の正男がにこにこ笑いながら立っている。最近通わせはじめたピアノの稽古《けいこ》からの帰途らしい。正男は、また大野宗一とは対照的に勉強で常にクラスのトップに立っている。  小学生時代は、勉強のよくできる子か、腕っ節の強い子が勢力をもつ。�硬派�の宗一も、正男には一目おいている様子であった。  正男は右腕にかなり大きな風呂敷《ふろしき》包みを下げ、左手に腰の曲った老婆の手を引いている。 「正男、そのお婆さんは?」  牧子は、わが子といっしょにいる、見知らぬ老婆を訝《いぶか》しげに見た。 「まあ、このお坊っちゃんのお母様ですか。この近くにある家を訪ねて、お坊っちゃんに道を聞きましたら、近くだから連れてってあげると言ってくださいましてな、ここまで荷物をもってくださったうえに、手まで引いていただいて、はあ、本当に親切ないいお子さんでございます」  老婆は、しわだらけの顔いっぱいに謝意を浮かべて、ペコペコと頭を下げた。 「まあ、そうでしたの。子供がお役に立って、私も嬉《うれ》しいですわ」  よその子供の悪質な遊びをたしなめた直後だっただけに、牧子は誇らしい気持ちになった。  ——やはり、私の子はちがうわ——  彼女は、みなに誇りたかった。わが子の善行がほとんどだれにも知られないところで行なわれたのが、むしろくやしかった。  ——ああ、ここに、学校の先生でも通りかからないかしら——  牧子は、むしろうらめしいおもいがした。 〈あなた方も、うちの正男を見習いなさい〉  牧子は、悪童たちにそう言いたいところを、胸の内に危うく抑えた。 「いいこと、これから絶対にやってはいけないわよ」  牧子は、子供たちに釘《くぎ》を刺して、正男とともに家路についた。老婆と別れてから、 「ママ、いったいどうしたんだい?」  正男が質問を繰り返した。 「いま、大野君たちが横断遊びをやっていたのよ。正男はまさかそんな遊びをしないでしょうね」 「ママ、それ本当? いまはやってるそうだけど、先生から絶対にやってはいけないって言われたばかりなんだ。よし、明日《あした》学級委員会で言ってやる」 「でもそのために大野君たちが、正男をいじめないかしら?」  牧子は、それが心配だった。どうもあの子供には、子供らしくない陰険なものが感じられる。おとなに注意されても、不満げにぐいとにらんだふてぶてしい面構え、あれは小学四年生の表情ではなかった。  あんな�凄《すご》い子供�が、冷たい風にも当てないようにして育てている正男に含んだら、なにをするかわからない。子供の世界は、おとなのそれよりも残虐《ざんぎやく》なところがある。彼らの残虐性は、生まれながらの剥《む》きだしのままである。いちばん弱い者を、いつでも仲間はずれにして虐《しいた》げる。 �人種差別�や�村八分�のあったほうが、遊びが格段におもしろくなるからだ。子供世界の序列は、おとな社会よりも酷《きび》しく徹底している。  どんなに苛《いじ》められても、親や先生に言ってはいけない。後の報復が恐いからである。おとな顔負けの脅迫《きようはく》や恐喝《きようかつ》が、子供の世界ではまかり通る。  正男がまさかそんな風にされるとはおもえないが、相手が普通の子供の尺度では測れないような大野宗一では心配だった。 「ママは、そんなこと心配しているのかい?」  正男が笑った。 「だって大野君って恐いんでしょ」 「恐いからって、悪いことをしているのを見て、黙っていたらいけないよ。どんなに強い相手でも、悪いことは許さないのが、勇気だろ」 「そうよ、それが本当の勇気よ」  それは横断遊びの�蛮勇�とは異質の、男の本当の勇気だ。それをわが子がもっている。牧子はその場で正男を抱きしめたいほどに、愛《いと》しくなった。      2  大野宗一が、�不良�としてマークされた最初の事件は、半年ほど前に起きた。  宗一が下級生を苛めている現場を見た、佐川ひとみという同じクラスの女生徒が、先生に言いつけた。  先生は、宗一を呼びつけて、叱《しか》った。そのとき、ついうっかりと佐川ひとみの名前をもらしてしまったのである。 「ぼく、これから下級生を苛めません」  と、宗一はその場は素直に謝った。数日が無事にすぎた。数日後、佐川ひとみが可愛《かわい》がっていた飼い猫の『トンベエ』が行方不明になった。ひとみは暗くなるまで探しまわったが、トンベエは帰って来なかった。  翌朝、近くの団地の焼却炉にごみを燃やしに行った一人の主婦が、炉の口を開くと、ダンボールの箱がつまっているのを見て、眉《まゆ》をしかめた。ごみを炉に投入した者は、必ずその都度、燃やしていくことになっている。団地のきまりで夜間は燃やせないので、不心得な住人が時折り、ごみを炉に詰めっぱなしにしていってしまう。これをやられると、後から来た者が大いに迷惑するのである。  主婦は、ぶつぶつこぼしながらも、犯人がわからないので、自分のもって来たごみといっしょに燃やすことにした。  火を放つ。紙ばかりなので、たちまち炉の中に火がまわった。炉の口を閉じて帰ろうとしたとき、凄《すさま》じい悲鳴が起きた。つづいて炉の内部でなにか暴れまわる気配がした。主婦は仰天して危うく腰を抜かしそうになった。一瞬、炉の中にだれかいるのかとおもった。  悲鳴と暴れまわる気配はつづいた。どうやら人間ではなさそうだった。だが、なにかの動物が生きたまま焼かれていることは確かだった。炉は、いまや燃料を最も効率よく燃やしている最中で、主婦にはどうすることもできなかった。  ようやく下火になってから、主婦は近所の人を呼び集めて、恐る恐る炉の口を開いた。動物性の焼け焦げるにおいが一気に噴き出した。集まった主婦の中には、胸をおさえて逃げ出す者もいた。  焼却炉の中には、生焼けになった一匹の猫の死体があった。燃料が足りなかったので、炭化するまでには至らなかった。むごたらしい外形から、トンベエと判定された。  団地の住人の中に、昨夜、焼却炉の近くをうろうろしていた大野宗一の姿を見た者がいた。当然、宗一がトンベエを逃げられないように縛り上げて、炉の中へ放りこんだと疑われた。 「ぼく知らないよ」  だが彼は、平然と打ち消した。 「本当に嘘《うそ》をついていないのなら、先生の顔をじっと見てごらん」  宗一は、臆《おく》せずに先生の目を見た。先に視線を外したのは、先生のほうだった。  牧子は、その事件をおもいだしたので、 「正男、今日、学校で大野君と中田君の間に何かなかった?」と聞いた。 「大野君と中田君に?」 「そう、今日でなければ、このごろあの二人けんかしたようなことない?」 「ああそう言えば」  正男がなにかおもいだした顔をした。 「どうしたの?」 「大野君が掃除当番をなまけたのを、中田君が先生に言いつけたので、大野君、叱られてたよ」 「まあ、やっぱりね」 「何がやっぱりなの?」 「ううん、なんでもないの。正男は、大野君と遊んじゃだめよ」 「大野君とは班がちがうから、遊ばないよ」 「同じ班になっても遊んでは、だめ」 「どうして? ママ」 「どうしてでもよ。ママの言うことを聞きなさい」 「わかったよ。変なの、ママって」 「いまのこと、大野君に話しちゃだめよ」  牧子は、なんと恐しい子供だろうとおもった。大野宗一は、自分が掃除当番をなまけたことを棚に上げて、友達に告げ口されたのを逆うらみした。そしてあのように危険で陰湿な報復をしようとしたのだ。  さいわい、中田君は無事だったが、もしあの子が車に轢《ひ》かれでもしたら、巧妙に仕組まれた殺人ではないか。しかもそれを小学四年生が仕組んだのだ。未成年の子供が犯人とあっては、たとえ殺人とわかったところで、責任を追及できない。  大野宗一は、そこまで計算していただろうか? もしそうだとすれば、末恐しい子供である。  牧子は、その夜、正男が寝た後、大野宗一の父親のことをそれとなく夫に聞いた。 「真面目《まじめ》な責任感の強い男で、よくやってくれるよ。大野が、どうかしたのかい?」  牧子は、その息子の宗一のことを話した。 「ちょっと問題児だな。しかし子供のころは、多少ともそういう残酷な面があるものだよ。おれなんかも小学生のころ、カエルやトカゲをよく解剖したもんだ。そんなに気にしなくとも、そのうちになおるだろう」 「カエルやトカゲを殺すのとは、わけがちがうわよ。あの子には殺意が潜んでいたのかもしれないわ」 「きみ、殺意なんて、おおげさだよ。まあ父親が交通事故に遭《あ》って、あんな体になってしまったのが、子供の性格に暗い影を落としているのかもしれないが」  夫は、茶をすすりながら、牧子をたしなめた。宗一の父、大野は、以前タクシーの運転手をしていたが、暴走車に追突されて、足が不自由になった。それを、気の毒におもった相良が、自分の会社の守衛に拾ってやったのである。  守衛といっても社内の保安は、契約ガードマンにまかせてあるので、簡単な取り次ぎや受け付け事務だけであった。大野にしてみれば、相良に拾われなければ、一家が路頭に迷うところだったのである。  相良に救われたという意識があるから、大野の勤めぶりには、かげひなたがなかった。 「よその子の心配よりも、正男はどうだね?」 「あの子には、全然心配がないわ。あんまりよくできた子なので、かえって心配になるくらいよ」  牧子は、今日、正男が老婆をいたわって道案内をしていたことを夫に話した。 「そうか、そうか」  夫は、目を細めてうなずいた。ビジネスには辣腕《らつわん》の彼も、一人息子にはまったくだらしなくなるのである。      3  内藤弘の「熱帯魚」は、有名だった。自宅に大きな水槽を据えて、エンジェルフィッシュ、グッピー、ブラック・テトラ、スマトラなどの初心者向きの熱帯魚を飼っているが、サーモスタット、エアポンプ、フィルターを備え付け、水槽内には各種の水草を配して、えさも、生餌《いきえ》、乾燥餌、配合餌などのバランスを考えてあたえるなど、「小学生ばなれ」した趣味であった。  内藤のクラスでも、数匹のエンジェルフィッシュとグッピーを飼っているが、これも彼が�寄付�したものである。餌は�魚当番�を決めて交替にあたえることになっているが、どうしても内藤が最も熱心に世話をしてしまう。  餌も内藤のつくったものをあたえている。ところが最近になって、魚当番に少し変化が生じた。それは内藤弘のもってきた餌より、大野宗一のもってきたもののほうを、魚が喜んで食べるようになったことである。  大野の餌は、配合餌なのだが、市販されている品とも異なり、彼が、独特に配合してつくったものらしい。これをあたえるようになってから、魚の発育が目に見えて速くなった。  クラスの者の宗一を見る目が変ってきた。彼のそれまでのイメージは、きわめて悪い。現代の子供は、小さなおとなであり、クラスの格付けは、腕力からテストの成績に移った。ただ腕力だけを誇示して、テストが下位の粗暴は子は、恐れられこそするが、クラス全体から軽蔑《けいべつ》され、疎外される。 「小さなおとな社会」においては、テストの成績の次に、なにか特技をもった者が、尊重される。  腕立て伏せのいちばん強い子、動物に強い子、昆虫に強い子、マラソンに強い子等々それぞれが、一方の分野の権威《オーソリテイ》であった。  内藤弘は、�魚博士�のあだ名があるほどの、その分野のオーソリティだった。ところが、大野宗一が彼以上の優秀な配合餌を�発明�してから、�博士号�を宗一に奪われそうな気配になった。  当然、弘は名誉を挽回《ばんかい》すべく、必死になった。しかし、彼がどんなに苦心して、新しく配合した餌をもって来ても、魚たちは大野宗一の餌の方へ集まるのだ。魚は正直で、その偏向を残酷なくらい露骨にしめした。 「大野君、凄《すご》いね」 「その餌、どうやってつくったの?」 「私にも教えてよ」 「大野君が熱帯魚の餌づくりの名人だったとは、知らなかったなあ」 「今度から、大野君が魚博士だね」  いままでクラスから疎外されていた宗一にがぜん、人気が集中した。その様子を、弘は、名人位を奪われた前名人のように唇をかみしめながら、じっと眺めていなければならない。魚博士の彼にとって、これ以上の屈辱はなかった。  数日後、下校の道すがら、内藤弘は後ろから大野宗一に呼ばれた。二人は家の方角がちがうので、登下校の途中で行き合うことはない。宗一は、弘の後を追って来た様子であった。 「内藤君、話があるんだ」  彼は周囲に同じクラスの生徒がいないのを確かめてから言った。 「ぼくに用って、何だい?」  弘は、恐る恐る聞いた。彼は大野宗一が嫌いだった。自分の領域に侵略して来たからだけではなく、すぐに�ライダーキック�や、�空手チョップ�を振って、自分の言い分を無理に通そうとする彼に、未開の蛮人を見るような気がした。  いまは小学生の世界にも、暴力がはばをきかす余地はなくなりつつある。それを無理にきかせようとするから、人間の言葉の通じない未開の国から来た動物的人間を見るような恐怖感をおぼえるのである。  その大野宗一が、妙な猫なで声をだして、後ろから呼びとめた。 「あのねえ、きみにぼくのつくった�金魚の餌�をやろうか」 「え!?」一瞬、内藤弘は自分の耳を疑って、相手の顔をまじまじと見つめた。 「ぼくねえ、本当のことをいうと、あまり金魚……じゃない熱帯魚に興味ないんだよ。この餌も、本当はね、ぼくのつくったものじゃなくて、近所に住んでいた大学生のお兄さんがつくってくれたものなんだ。だから、ぼくはつくり方を知らないんだ。よそのお兄さん、引っ越して行っちゃったので、もう餌をつくってもらえなくなった。だからなくなる前に、きみにあげようとおもって、もってきたんだよ。魚博士のきみなら、同じものをつくれるだろう」  宗一は言いながら、封筒型のビニール袋に入った餌を差し出した。 「本当にもらってもいいのかい?」  いきなり言われても弘は、半信半疑だった。これまでにも、何度も宗一に餌を分けてもらおうかとおもった。だがそれをすることは、彼のプライドが許さなかった。宗一から餌をもらうのは、魚博士の権威を捨てて、全面降伏するようなものだった。  それをいま、先方からもらってくれと頼んでいる。しかも相手は、まわりにだれもいないときを狙《ねら》ってやって来た。弘は、宗一がなにか罠《わな》を仕掛けようとしているのかと、不安になった。 「うん。だけどこのことはだれにも黙ってろよ。餌は、おれがつくったんじゃないってことがわかったら、恥ずかしいもんな」  宗一の言葉遣いは、急に乱暴になった。それがかえって、彼の本当の気持を現わしているようで、弘はようやく警戒の構えを解いた。クラスに話されて都合が悪いのは、むしろ弘のほうである。それを宗一から黙秘するように頼まれた。弘にとっては、まさに願ったり、かなったりであった。 「こんなにもらって悪いなあ」 「いいんだよ、おれ、もう熱帯魚なんかあきちゃったんだ。じゃあバイバイ」 「バイバイ、ありがとう」  弘は、意気揚々《いきようよう》として家に帰った。これで彼の魚博士としての権威は、保たれるだろう。突然の侵入者は、弘の領土に興味を失って立ち去ってしまった。  大野宗一からもらった餌を参考にして、もっといい餌をつくり、みんなをびっくりさせてやろう。弘の胸は、ひとりでに弾んだ。  異変は、翌朝に起きた。 「弘! 大変よ。魚がみんな浮いているわ」  まだ寝床の中にいた弘は、母のけたたましい叫び声で目をさました。起きる時間まで少し余裕があって、寝床の中でうつらうつらしていた弘は、母の声にはね起きた。  水槽のそばへ駆け寄ってみると、彼の宝物の熱帯魚がすべて腹を見せて水面に浮き上がっている。すでに全部死んでいた。 「ママ! どうしたんだよ?」  弘は、愕然《がくぜん》として、泣き声をあげた。 「ママだって知らないわよ。弘、昨日なにか悪いものでも食べさせたんじゃないの」  母の声もおろおろしていた。サーモスタットやエアポンプは、異常なく作動している。 「なにも悪いものなんかやってないよ。いつもやっている餌だけ……」  と言いかけて、弘はハッとした。餌は、一日三回程度、十分前後で食べられる量をあたえているが、昨日の最後の給餌《きゆうじ》には、大野宗一からもらった品を使ったのをおもいだしたのだ。 「悪いもの」が混っていたとしたら、あの餌以外に考えられない。  ——でもあの餌は、これまで学校の魚があんなによく食べていたのに——  あの餌と、大野宗一がくれた餌が同一のものと言えるだろうか? 弘は、宗一の言葉だけを信用して、もらってきたのにすぎない。あの餌の中に、もし宗一が毒物を混ぜていたら……?  内藤弘の頭の中で、恐しい連想が走った。  ——でもどうして、大野宗一がそんなひどいことを?——  おもいあたることがあった。弘が大切にしている怪獣の図鑑を、宗一が貸してくれと言ってきた。その図鑑は、ゴジラやアンギラスからはじまって、最近の怪獣まで、ウルトラマン、ミラーマン、仮面ライダー等の登場項目別に、身長、体重、誕生地、武器等の�身許《みもと》�が詳解されている、子供たちにとっては、まさにのどから手が出るほどに欲しい本であった。  だが現在は、絶版になっていて、古本屋でめぐり合いでもしなければ、手に入らなくなっている。それを宗一は貸してくれと言ってきた。彼に貸したら、いつ返してもらえるかわからない。これまでにも、彼に、本や学用品を貸したまま返してもらえないクラスメートが何人もいる。  そんな�危険人物�に、自分の宝物は貸せない。  弘は、きっぱりと断わった。きっとあのときのことを根にもって、この恐しい仕返しをしてきたのだろう。  ——そうだ。宗一がただ餌をくれるはずがない。餌と引きかえに、図鑑を貸せと言うはずだ。それなのに、気前よく餌をくれた——  あのとき、餌の中になにか仕掛けてあると疑ってみるべきだったとくやんでも、遅かった。弘の大切な魚は、一尾残らず死んだ後だった。 「ちくしょう! 大野のやつ、大野のちくしょう、あんなやつ死んじまえ」  地団駄《じだんだ》踏んで泣きだした弘に、 「大野君が、どうしたの?」と母親が聞いた。  弘は、母にすべてを話した。彼女は、この問題は放っておくべきではないと判断した。子供の仕業《しわざ》にしては、あまりにも悪質である。  彼女は、ちょうど起きて来た夫に話した。 「弘、まだ大野君からもらった餌は、残っているか?」  父親は、さすがに事態を落ち着いて見た。彼は息子から�証拠物件�を回収すると、それを学校へもって行った。学校側もびっくりした。  まさかとはおもいながらも、理科の教師が餌の成分を分析してみると、一般的な粉餌に混って、スミチオンという有機燐剤《ゆうきりんざい》が含まれていた。これは殺虫用に使われる比較的低毒性の農薬であるが、デリケートな熱帯魚に餌といっしょにあたえられたら、ひとたまりもないだろう。  学校側も、事態を重視した。同級生の熱帯魚に、農薬を混ぜた毒餌をあたえて毒殺を図ったとは、とうてい小学生の知恵とはおもえない。ペットの餌を�味見�する人間もいるから、まかりまちがえば、人間の口に入るおそれもある。  校長と教頭と担任の教師は、大野宗一を呼んで厳しく取り調べた。だが宗一は、平然として否定した。 「ぼく、内藤君に餌なんかやりません」  と宗一は、言った。 「ぼくが内藤君よりいい餌をつくったものだから、内藤君はくやしくてそんな嘘を言ったんだとおもいます」  こう主張されると、彼が餌を内藤弘にあたえたところを見た者がいないだけに、それ以上押せなくなった。止むを得ず、学校側は、まだ残っているという問題の餌を、大野宗一から提出させたが、もちろん、それには毒など混っていなかった。  宗一は、内藤弘にあたえた餌だけに農薬を入れた疑いが、濃厚であったが証拠がなかった。  内藤弘が嘘をついていない様子はわかった。だが、最近、大野宗一の新餌のために、弘の魚博士の権威が落ちかけていることも、事実だった。大野宗一が主張したように、内藤弘が妬《ねた》んでいた状況はあるのである。  先生たちも扱いに困った。宗一の疑いは、濃厚で、学校側も彼の仕業という心証をもっていた。しかし証拠がないのに、うっかりしたことは、言えなかった。  結局、事件は結論の出ないまま、うやむやになってしまった。だが大野宗一の「恐るべき子供」というイメージは、先生の間に定着したのである。 「ママア、どこへ行ってたの?」  外出から帰って来た牧子を、庭にいた正男が目敏《めざと》く見つけた。 「あら、今日は早いのね」  今日は一週間の中でいちばん授業の多い日とばかりおもっていた牧子は、ちょっとびっくりして、わが子の方を見た。 「急に先生の研究授業があることになったんだよ、ママどこへ行ってきたの?」 「お買物よ、それよりどうしたのよ、その格好、泥だらけじゃないの」 「お墓をつくってるんだ」 「何のお墓? あまり変なものを埋めちゃいやよ」 「熱帯魚だよ」 「熱帯魚?」  そのとき正男といっしょに穴を掘っていた様子の友達も、こちらを見た。 「あら、内藤君」 「おばさん、今日は」 「内藤君の可愛がっていた熱帯魚がみんな死んじゃっただろ」 「知ってるわ」——大野君が毒を盛ったんでしょと危うく言いかけて、のど元で抑えた。その話は、父兄の間にかなり広まっていた。だが証拠がなくて、うやむやになってしまったという。 「内藤君のうちは、団地だろう。庭がないんだよ。野原へ埋めるのは、可哀相《かわいそう》でいやなんだってさ。だからぼくのうちの庭を提供してあげたんだ」 「提供ねえ」 「おばさん、すみません」  内藤弘がペコリと頭を下げた。牧子は、わが子が、友のペットのために、�墓地�を�提供�し、その墓をいっしょにつくってやっている優しい心根が嬉しかった。 「ううん、いいのよ。せいぜい立派なお墓をつくってあげてね」  牧子は、満足そうにうなずいた。 「ママには、黙っていたんだけど」  正男がもじもじしながら言った。 「どうしたの?」  廊下を行きかけて、牧子は立ち停まった。 「あのねえ……」 「どうしたのよ、この子ったら。早く言いなさい」  少し外出時間が長引いたので、夫が帰って来るまでの準備に心が急《せ》いていた。 「佐川君の飼っていた猫ねえ」 「猫がどうかしたの?」  たしかあの猫も、大野宗一に焼き殺されたのだわとおもった。 「いままで黙っていたんだけど、あの猫も、ここへ埋めてあげたんだよ。佐川君のうちも団地だから、ぼくが場所を提供してやったんだ」 「まあ!」 「ママ、いままで黙っててごめんよ。でも猫は熱帯魚より気味が悪いから、話すと、いけないって言われるとおもったんだ」 「いいわよ、許したげる。でも今度から必ずママに話してね。それから猫のそばにお魚を埋めたら、食べられちゃうんじゃないの」 「あ、そうか、でも少し離して埋めたから、大丈夫だよ」 「お葬式がすんだら、おやつを食べにいらっしゃい。手をよく洗ってね」  猫とは、たしかにうす気味悪いが、牧子は上機嫌で部屋の奥へ入った。      4 �熱帯魚騒動�から、三か月ほど経った。年が替って、冬型気圧配置の日がつづき、関東地方の雨無し記録は、六十日を越えた。空気は乾燥しきって、連日のように火災が発生した。それも一日の中に数件も続発する。空気の乾き方は、まさに�一触即発《いつしよくそくはつ》�といった感じであった。  部屋の中を歩くだけで、身体に静電気が滞《たま》り、金属に触れる都度にパチッと放電する。身体には無害と言われても、無気味なことこの上ない。静電気の火花が、可燃物に引火して火災を起こさないかと、消防署に真剣な問い合わせがなされるのも、乾燥しすぎた空気のせいであった。  牧子の住んでいる地域は、都心から一時間ほどのある私鉄沿線で、埼玉県との県境に近い。二、三年前には、まだ武蔵野《むさしの》のおもかげが残っていたが、最近は団地や工場が進出して来て、市街化がいちじるしい。  この地域にも、異常乾燥のために、毎日火災が起きて、住民たちの不安をかきたてていた。いったん、火を発すると、建物も乾ききっているので、たちまち火の手は、広がってしまう。消防車が駆けつけるころは、火の手の拡大を食い止めるのが精一杯で、建物の効用は、ほとんど失われていた。  住民たちは、火をだしたら最後だという意識をもった。  ところがここに、住民たちの不安に油をそそぐような悪質な事件が起きた。最初、五軒ほどの家に、それぞれ一枚ずつの葉書が配達された。そこには小学生が書いたような稚拙《ちせつ》な字で「火事お見毎い[#「毎い」に傍点]もうし上げます」とか、「火の用心」とか、あるいは「火の本[#「本」に傍点]にはくれぐれもご用心」と書かれてあった。  文面を見るかぎり、ごく普通の火事見舞いか、火災予防をうながした葉書である。差出人名は、書かれていない。最初は、葉書をもらった人たちも、大して気にも留めていなかった。だれか知人が差出人名を書くのを忘れて、異常乾燥下の注意をうながしてきたのだろうぐらいに考えていた。  ところがそれから二、三日おきに、同じ文面の葉書が配達されるようになったのである。人々はようやく不審をもち、不安になった。連日火災が周辺に起きているだけに、不安が発生するのは、速《すみ》やかだった。 「いったい、これは、何の真似《まね》だ?」  特に、「火事お見毎い[#「毎い」に傍点]」をもらった者の不安は、大きかった。近火見舞いや、火の用心ならばとにかく、�火事�というのは、現実に火を出すことだ。 「これは、放火するぞという予告状じゃないだろうか?」  という不安をもった受取人は、その葉書を警察へもっていった。警察も、いたずらにしても悪質すぎるとして、調査をはじめた。  消印の受付局は、この地域の管轄郵便局である。もし犯人がわざわざこの地域まで葉書を運んできたのでなければ、近くの住人ということになる。  次に、筆跡が問題になった。非常に稚《おさな》い筆跡であるうえに、ごく幼稚な誤字を二つも犯している。筆跡を晦《くら》ますために、特に字を変える工夫をした状況は見られない。鑑識の筆跡専門家は、 「特に作為は加えられていない」と鑑定した。 「小学生が書いたような字だが、もしかすると、本当に小学生が書いたのかもしれない」  という推測が生まれた。そう考えると幼稚な誤字も、説明がつく。葉書の受取人たちの間になにかの共通項がないか調べられた。  その結果、葉書をもらった家の子供が、すべて近くの小学校の四年生で、同じクラスにいることがわかった。ここまで調べがすすめば、後は簡単である。  葉書の文字が、そのクラスの全生徒の筆跡と比べられた。文字は、大野宗一の書いた字とピタリと一致した。  大野宗一が呼ばれて、事情を聞かれた。まだ十歳の小学生であるから、取調べも慎重である。だが宗一は、このごろ火事が多いので、同級生の家に注意するために、葉書を出したと言った。 「それではなぜ自分の名前を書かなかったの?」 「女の子の家だから、恥ずかしかったんだ」 「どうして何回も出したの?」 「毎日火事があって心配だったから、雨が降るまで出しつづけようとおもったんだよ」  そう言われると、相手が子供でもあり、悪意の証明が難しかった。葉書の文意から見るかぎり、ごく普通の火事見舞いとしか解釈できない。刑法二百二十二条の脅迫《きようはく》の犯意を、この文面から導きだすのは、難しい。ただ、現今のように出火あいつぐ異常乾燥の気象下に、継続して火事見舞いを送れば、自宅に火を放《つ》けられるのではないかと、人を畏怖《いふ》させるに足ると考えられる。  だが、大野宗一は、日ごろ好意を寄せていた女生徒に、自分の好意を暗示するために、葉書を出したと言っている。やや早熟ではあるが、小学生の意思表示としては、いかにも考えられそうなことであった。ここに脅迫の故意を探すのは、はなはだしく困難である。  またかりに脅迫が成立したとしても、当人は、十六歳未満なので、刑事処分を受けない。 「もし大野宗一がこれだけの法律知識を知ったうえで、脅迫したとしたら、大したものだな」 「まさか、小学校四年生だぜ。うちに同じ年ごろの坊主がいるが、まだ全然赤ん坊だよ」 「女生徒に出すラブレターがわりに、火事見舞いを送ったというのは、末恐しい感じだね」  火事見舞いの犯人はわかったものの、警察は、犯罪の存在なしとして不問に付すことにした。  だが、五人の女生徒が、先生に訴えた。 「大野君は、私たちに理科のノートを貸してくれって言ったんです」 「でも私たち、大野君に貸すと、返してくれないかもしれないので断わりました」 「大野君は、もしかしたらそのことを怒って、あんないたずらをしたんです」  ここに脅迫の動機が感じられた。しかしそれだけでは、どうにもならなかった。女生徒たちは、いずれもクラスで上位の成績を占める者ばかりだった。彼女たちのノートは、他の男生徒からも狙《ねら》われていたのである。  たとえ、大野宗一がそれを怨《うら》んだとしても、直ちに火事見舞いと結びつけることはできない。学校内における彼の�前科�は、警察には通用しなかった。  だがこの事件によって、先生や父兄は、大野宗一に対して、背筋が寒くなるような恐しさをおぼえた。 「あの子は、悪の天才だ」  とある先生は、はっきりと言った。だれもそれを否定しなかった。猫のバーベキュー事件、熱帯魚毒殺事件、そして今度の火事見舞い事件といずれも、彼の仕業であることが確定的でありながら、シッポをつかませない。前の二件は、現場を見せなかったのだが、今度の事件は、見事に法の網を潜り抜けている。法律の具体的な知識はなかったとしても、自分が子供であることを計算していた節が見える。  相良牧子が黙っているので、学校や父兄は知らないが、横断遊びの背後に隠された悪意を加えれば、大野宗一は、四つの完全犯罪(うち、横断遊びは未遂?)を行なったことになるのだ。まさに悪の天才であった。 「この調子でいくと、いまにどえらい事件を惹《ひ》き起こすおそれがあります」  と言われても、宗一がたしかに犯したという確証もないのにどうすることもできない。学校は、まるで爆弾をかかえこんだように、大野宗一に接していた。      5 「これからは、いままでのように逢《あ》えなくなるわ」  汗みどろになってからみ合い、貪《むさぼ》り合った身体から、汗と快感の余韻が退《ひ》いていった後の、けだるい、しかし醒《さ》めた声で、牧子は言った。メスの欲望を充《み》たした後は、直ちに母親と妻としての意識が戻ってくる。 「どうしてです? ご主人に感づかれたのですか?」  終った後も、未練がましげに牧子の豊かな胸をまさぐりつづけていた若い男が聞いた。 「そうじゃないのよ。正男をだんだんごまかしきれなくなったのよ。ついこの間まで、私の胸にしがみついていた赤ちゃんだとばかりおもっていたのに、このごろめっきりおとなっぽくなって、いろいろとわかるようになったわ。この前あなたと逢って帰ったときも、ママこのごろ留守のことが多いねって言われて、ドキッとしたわ」 「大した意味もなく言ったんでしょう」  男は、この女が突然、自分から立ち去った場合のことを考えた。これまでは、この美味《おい》しい肉体が、需《もと》めれば需めるだけ、いくらでも気前よくあたえられた。無料どころか、飽食したあげくに先方から小遣い銭までくれた。 「それが意味があるのよ。あの子たしかに変におもってるわ。どこへ行ったのかって、しつこく聞くのよ。スーパーや美容院では、ごまかせなくなったわ。この前も美容院と言ったら、髪の形が同じだと言われて、おもわず青くなったわ」 「気のまわしすぎですよ」  男はなんとか牧子の不安を払拭《ふつしよく》してやりたかった。 「私ね、正男があなたと私の関係をうすうす知っているような気がしてならないのよ」 「はは、まさか。小学四年生ですよ」 「以前は主人の前で、よくあなたの噂《うわさ》をしたのに、このごろは、まるで糸でも切ったようにぷっつりと言わなくなったわ。ねえ、不自然じゃない。カンのいい子だから、母親にとってなにか不都合なことがあるのを感じ取ったんじゃないかしら」 「子供というのは、飽きっぽいから、もう他のことに関心が移ってるんですよ。正男君にとっては、ぼくは過去の人間ですからね、それより奥さん、もう一度いいでしょう」  話しているうちに男は欲望をよみがえらせたらしい。牧子の胸をなぶっていた手に、意志が加わった。 「もうだめよ、私そろそろ行かなくちゃ。今日は、正男が早く帰って来る日なの」 「すぐ塾に行くんでしょう」 「今日は、塾の先生が旅行にいってお休みなのよ。だから、べつの日にしてと言ったのに、あなたが聞いてくれないんじゃないの」 「すみません。でも、がまんできなかったんです」 「これから、あまりわがまま言うと、お別れしなければならなくなるかもよ。とにかく今日はもうだめ」  牧子は、男につけ入る隙《すき》をあたえないために、するりとベッドから脱《ぬ》け出すと、身支度をはじめた。ついさっきまで男の身体の下でうめきのたうった妖《あや》しい女の肌が、みるみる貞淑な人妻の偽装に隠されていく。身支度が終れば、もはや彼の手の及ばない、妻と母の役目に醒《さ》めた女の姿に還《かえ》ってしまう。  男は、自分の腕の中からたちまち遠ざかって行く女の�変身�のさまを未練げに眺めながら、 「奥さん、今度は、いつ逢ってもらえます?」 「こちらから連絡するわ。あなたのほうから絶対に連絡しちゃだめよ。私のまわりには、たくさんの目が光ってるんですからね。さあ、あなたも早く支度してちょうだい。車を拾える所まで、あなたの車で送っていただくわ」  牧子と男の仲は、二年ごしである。若い男の体力はたくましく、仕事に忙しい夫が鎮めきれない熟れた女の体のうずきを消し止めてくれる絶好のピンチヒッターであった。  若い男は、自分の欲望本位に行動するから危険だという自戒が働いた。その点、この相手は契約精神が発達していて、�肉体の貸借関係�として割りきってくれた。  男は、経済的に窮迫していた。属性に関係なく、共に愉《たの》しんだからには、経済的に余裕のあるほうが、肉体の�損料�を支払うべきだろう。  デートの費用は、すべて牧子が負担したうえに、交渉の都度、彼女は男に金を払った。それは損料であると同時に、彼女の安全の保障料でもあった。  男は、契約を守った。肉体の貸借関係以上には決して出なかった。彼にとってもそのほうが都合がよかったのだ。牧子のおかげで、同年輩の男たちが陥る激しい性的飢餓もない。いつも十分に充たされたうえに、たっぷりと小遣いまでもらえる。  彼の仲間には、生活のために、ホストクラブに勤めて、女に「体を売って」いる者もいる。金のためには、自分の好みを言っていられない。それに比較して、彼の場合は、きわめて上質の女性を飽食することによって、報酬がもらえるのである。こんなけっこうな関係はなかった。  彼は、牧子に逢うことに、少しも金に縛られた義務感を感じない。むしろ自分の愉しみと欲求として、逢っていた。精神を伴わない肉体だけの貸借関係にしては、ずいぶんと楽しいデートが(おそらくそれだからこそ純粋に愉しいのであろうが)もう二年ごしつづいている。  ところが最近になって、この関係に変化が生じた。いままで定期的に逢っていたものが、一定しなくなったのである。それは牧子の都合によるものであった。  これまでは、デートの日時をいちいち連絡し合わなくとも、きめられた時間に定まった場所へ行っていれば、必ず逢えた。それが牧子のほうが、時々来なくなった。本人は、来たいのだが、来られなくなったのである。子供の正男が大きくなって、定期的に、父の留守ばかりを狙《ねら》って外出する母親に疑惑をもちはじめたからである。それに加えて、塾やPTAの会合にも時間を割かれるようになった。しっかりした補佐の人間ができたので、夫が家にいる時間が長くなった。これらの事情が総和されて、二人の秘密のデートの時間に食いこんできたのである。  ここで需給のバランスが崩れた。牧子にとって男は、あくまでも夫のピンチヒッターである。マンネリに陥りやすい夫婦生活に刺戟《しげき》をあたえるためのアクセントにすぎない。男に逢う回数が減ったところで、ただちに欲求不満になることはない。  それに反して、男は、牧子しか欲望のはけ口をもっていない。彼女から遮断されたら、一気に、激しい性的飢餓に突き落とされてしまう。それは同時に、彼の経済的危機をも招く。  彼らの安定した契約関係が揺らぎはじめたのは、そのためである。  ——もうこの人とも別れ時かもしれないわね——  牧子は内心つぶやいた。考えてみれば、ずいぶんと楽しいおもいをした。彼には、夫のような巧妙でソフトな技巧はなかったが、汲《く》めどもつきない泉のような体力で、自分でももてあますような女の官能の炎を鎮めてくれた。  しかしその快さに酔って、いつまでも意地を汚くしていると、手当できない火傷《やけど》を負うかもしれない。いまのうちなら、夫にも悟られていないし、楽しいおもいでだけを残して別れられる。  ——本当にもう潮時《しおどき》だわ——  牧子は、おもった。ここは、いつも利用しているモーテルである。車のまま出入りできて、従業員とも顔を合わせないのが気に入ったので関係の最初のころから利用している。支払いは、メーターに表示される金額をシューターへ投げこむだけでよい。人目を忍ぶ情事のために設計されたような設備だった。  モーテルで落ち合った彼らは、ひとときを過ごした後、車を拾える場所まで、男の車でいっしょに行く。モーテルへ車を呼ぶよりも、そのほうが安全と、牧子は信じている。べつに男の車に乗っていても、おかしくはない。要は、モーテルへの出入りを見られなければよいのだ。 「この先の歩道橋の前で、落としてちょうだい」  しばらく後ろの座席に倒れていた牧子は、モーテルを出た車がようやく安全圏に達したと見て、上体を起こした。そこがいつも降りる場所であった。 「なにか事故があったようですよ」  歩道橋にかかる手前に、白バイと救急車の停まっているのが見えた。 「いやあねえ」  牧子は、眉《まゆ》をひそめて、 「それじゃあ、歩道橋の先で降ろして」  と言いなおした。べつに警察に対して疚《やま》しいことはしていないが、夫の目を盗んでの不倫の後、警察官の視線に触れるのは、抵抗がある。男も同じおもいだったとみえて、少しスピードを上げた。      6  大野宗一は、先刻から寒い歩道橋の上で待っていた。間もなく一台の車がやって来るはずである。「ブルーのカローラ」、プレートナンバーもおぼえている。絶対にまちがえてはならなかった。さらに狙った車が接近すれば、連絡が入る手筈《てはず》になっている。  彼の目の下には、切れ間なく車の帯がつづいている。さまざまな車種と、色とりどりのボディカラー、歩道橋の上は閑散としているのに対して、車道は休みなく稼動している。  じっと眺めていると、コンベアベルトに乗せられて、車が流れて来るような錯覚をおぼえる。  時折り歩道橋を渡る通行人も、宗一になんの注意もはらわない。車マニアの小学生が、橋の上から、熱心に通行車を観察しているものとおもったのだろう。 「もしもし、車が来た。青いカローラ、番号は×××、いま歩道橋へ行く。スタンバイ!」  突然、彼の首に吊《つる》した小さな機械が、ささやいた。それは携帯用のトランシーバーだった。 「了解」  宗一は、答えて、胸に抱いていたものを、手に構えた。  牧子の乗った車は、歩道橋に近づいた。彼女の視線は、橋の中央にたたずんでいる人影にふととまった。警官の目を避けて、シートに体を倒したような姿勢になっていたので橋の上まで見えたのである。その形と大きさから判断して、子供のようだった。車はその子供の影の立っている真下に向かって進んだ。牧子の視野から、子供がはずれようとした瞬間、子供の手から小さい黒い物体が放れた。なにか車に向けて、投げつけたらしい。 「危い!」  叫んだとき、その物体は、ボンネットの上に激しく当たって砕けた。閃光《せんこう》と炎がほとばしった。車は、急ブレーキの軋《きし》りをあげて、センターラインを越えた。前方から対向車が迫って来た。さらに大きな轟音《ごうおん》と火柱が、聴覚を奪い、視野を裂いた。  そのまま、彼女は意識を失った。  トランシーバーが、「止めろ、止めろ!」と言ってきたときは、すでに火焔《かえん》びんは、大野宗一の手を放れていた。狙いすましたびんは、見事に命中して、盛大な炎を撒《ま》き散らした。一瞬にして�火の車�となった的は、センターラインを踏み外して、対向車と衝突し、火炎と損傷を拡大した。  自分の一触の行動が、これだけの大惨事を惹《ひ》き起こしたのを信じられないように、しばらく呆然《ぼうぜん》としていた宗一は、白バイや救急車のホイッスルにようやく我に返って逃げ出した。  たまたますぐ近くに小さな交通事故があって、警官が行き合わせていたので、宗一はその場でとらえられた。  牧子と同乗していた男は、救急車で病院に運びこまれる途中死んだ。対向車の運転手も二か月の重傷を負った。牧子は、奇蹟《きせき》的にもかすり傷程度でたすかった。  警官の視線から逃れるために反射的に後部シートに体を倒すようにしたので、衝撃を最小限度に食い止められたのである。体の傷よりも、精神的なショックのほうが大きかった。  警察の調べに対して、大野宗一は、 「火焔びん遊びをやっていた」と答えるだけであった。子供の遊びにしても、三人の死傷者をだしたのである。また疾走中の車に向かって歩道橋の上から火焔びんを投げつけるというのも、子供の遊びの域を越えていた。  十歳の少年の遊びが惹《ひ》き起こした結果にしては、あまりにも重大であった。警察は、大野少年が、トランシーバーをもっていることに注目した。市街地二キロ、平野部では二十キロ程度を交信範囲におさめる高性能のものである。  トランシーバーを所持していたことは、交信相手がいたことをしめすものだ。当然、その相手は、だれか問題になった。 「大野少年は、トランシーバーを通して、だれかの指示の下に、火焔びんを放ったのではないか」という臆測《おくそく》がもたれた。  ——もし交信相手がおとなだったら——  事件はまったくべつの構造をもつことになる。子供を使って殺人を犯したとすれば、これは実に巧妙に仕組まれた、しかも卑劣な犯罪である。  だが、大野宗一の背後に怪しいおとなの存在は浮かび上がってこなかった。また、宗一が被害者たちを強く怨むような事情も見つからない。  警察では、現場周辺のトランシーバーの所有者をしらみ潰《つぶ》しに当たることにした。犯行直前の大野宗一と、謎《なぞ》の交信相手との交信が傍受されている可能性を考えたのである。その交信の中に、宗一の背後に隠れた真犯人をしめす鍵《かぎ》があるかもしれなかった。      7  事件から三日後、二人の刑事がすでに退院した牧子を自宅へ訪ねて来た。一人は所轄署の捜査係長だと自己紹介した。 「奥さん、この度は大変なご災難で……」  係長は、初対面の挨拶《あいさつ》をすませた後、 「さっそくですが、この度の事件で、二、三おうかがいしたいことがございまして」と切りだした。  牧子は当然、くるべきものがきたと、おもった。救急病院へかつぎこまれたとき、べつの係官が来て、簡単な質問をしただけで、立ち入ったことは、これまで質《たず》ねられなかった。 「どんなことでございましょう?」  牧子は、身構えた。 「まず亡くなられた小畑《おばた》さんですが、奥さんとは、どのようなご関係だったのですか?」 「小畑先生ですね。それは申し上げたはずだとおもいますが、二年前に子供に付けた家庭教師で、N学院大学の学生さんですわ」 「その小畑さんの車に、どうしてごいっしょに乗っておられたのですか?」 「外出先で、偶然、車の中から声をかけられて、途中まで便乗したのです」  夫に対しても、その答えで押し通していた。 「外出先で偶然ね」  刑事の口元にうすい笑いがのぼったようである。それを見て、牧子の胸が騒いだ。刑事はやはりなにか握ったのかもしれない。 「奥さん。我々は奥さんのプライバシーに立ち入るつもりはありません。しかし捜査を正しい方向へ導くために、本当のことを話していただきたいのです」 「私、本当のことを申し上げておりますわ」  牧子は、揺れ騒ぐ胸を抑えてシラを切りつづけた。 「実は亡くなられた小畑さんのポケットからあるモーテルのマッチが出てきましてね、そのモーテルを調べたのですよ」  係長は、胸のポケットから一本、煙草を抜き取って、わざとらしい手つきでマッチを擦った。そのマッチは、彼女が男とよく利用したモーテルのサービスマッチであった。牧子の顔色がみるみる変った。 「だいぶ以前からのご関係だったようですな」  係長はゆっくりと紫煙を吐きだしながら、止《とど》めを刺すように言った。 「隠すつもりではなかったんです。どうか、主人には内証にしておいてください」  牧子の構えは崩れた。 「我々も、奥さんのプライバシーを暴くのが、本意ではありません。ですからご主人の留守にまいりました」 「それで、私に訊《たず》ねたいこととおっしゃるのは?」  牧子は、刑事の訪意が他にあるらしいのを知って、ひとまずホッとしながら聞いた。 「小畑さんとの関係を、お子さんに悟られたような気配は、ありませんか?」 「あの子はカンの鋭い子ですから、あるいはひょっとすると」  牧子は、最近のわが子の母親を見る目が、なんとなく猜疑《さいぎ》の光を浮かべていたようだったことをおもいだした。 「でも、それが何か?」 「もしお子さんが、奥さんと小畑さんの関係を知ったら、小畑さんを憎んだでしょうね」 「はあ、それは、——」  と言いかけて、牧子は刑事の言葉の裏に潜むものを悟って、愕然《がくぜん》とした。 「でも、ま、まさかあの子があんな恐しいことを……そ、そ、そうおっしゃるつもりではないでしょうね?」  牧子は、あまりにも恐しい連想にあえいだ。 「我々も、そうはおもいたくありませんが」  係長の言葉は、歯切れが悪くなった。 「大野君が変な言いがかりをつけたのですか。あの子は恐しい子です」 「大野少年はトランシーバーをもっていました」 「それは、正男には関係ありません」 「それが、お宅の正男君と、事件の直前交信していた状況が浮かんできたのです」 「まさか。車には、私が乗っていたのです。いくら小畑先生が憎らしくとも、私まで巻き添えにするはずがありません。正男は、死んだ熱帯魚や猫のためにお墓をつくってやる優しい子供なのです。虫一匹殺せない子なんですよ」  牧子は、刑事が途方もないおもいちがいをしているとおもった。なにを血迷ったのか、選《よ》りに選って、うちの正男に疑いを向けるなんて、よっぽどどうかしている。  牧子は、刑事に致命的な弱味を握られていることも忘れて、憤然となった。刑事は、彼女の憤りなど意に介さず、 「大野少年がとかくの風評のある子供だったことは、我々も知っております。つい最近の火事見舞い事件では、我々もてこずりましたからね。我々は、大野少年がこれまで起こした事件の関係者をもう一度当たりなおしてみたのです。そして新しい事実を発見しました」 「それがうちの正男になにか関係があるのですか?」 「残念ながらあるのです」  係長は、残念ながらという言葉に力をこめて言った。 「まず、熱帯魚に毒餌を撒《ま》かれた内藤君ですが、あの子は、クラスで理科の成績が一番です。お宅の正男君は、二番です」 「それがどんな関係があるとおっしゃいますの?」 「まあお聞きください。次に猫を焼殺された佐川ひとみちゃんは算数が一番でした。これもお宅の正男君が二番です。火事見舞いをもらった五人の女の子は、音楽が正男君よりもみんな上位です」 「それがどうしたというのですか? うちの正男は、スーパーマンじゃありません。すべての学科で一番は取れません」 「そうでしょう、そうでしょうとも。正男君は、総合点では、いつもトップでした。科目によっては、二位以下になったものもあるでしょう。ところでここに正男君の書いた作文があります。先生から借りてきたのですが、ちょっとお読みください」  係長は、一枚の原稿用紙を牧子の前に差し出した。牧子は、彼がなぜそのようなものをもってきたのか訝《いぶか》りながら、わが子の作文に目を落とした。  ——ぼくは大きくなったらパパのように社長になりたい。社長は一番だ。ぼくは一番だけが好きだ。二番になるくらいなら、ビリのほうがいい。国語も、算数も、理科も、音楽も、体操も、みんな一番になるために、ぼくはいっしょうけんめい勉強する——  読んでいる間に、牧子は心におもい当たることがあった。 〈横断遊びをしていた中田君は、体操が上手で、体操博士とクラスで呼ばれていたわ。それではあの遊びの背後にも……〉  わが子を中心にした恐しい想像の輪郭が浮かび上がってきた。そう言えば父親は、いつも息子に、一番になれと訓《さと》していた。正男は、よくできる子だった。けれど、一つのことにずば抜けた才能をしめすというタイプではなく、なんでもおしなべて上位の成績を取るオールラウンドプレイヤーだった。だから各科目単位では、二位や三位が多かったが、総合点でいつも一位になっていた。正男は、とてもそれをくやしがって、全部一位を取るとがんばっていた。最近ピアノ塾へ通いだしたのも、音楽でいつも上位を占めている女の子たちを追い抜くためであった。  四年生という時期は、ちょうど学童の競争心が出るころである。学校側でも、生徒にやる気をおこさせるために、競争を煽《あお》り立てるようにする。  たとえば家庭学習をしてきた子には、銀のシール、漢字の書取りの成績順に金銀銅のラベルをあたえる。そのため子供たちは、まずシールやラベルの蒐集《しゆうしゆう》競争をはじめて、その質量を誇示し合う。たしか正男は、集めたシールの質量において、クラスナンバーワンであった。  牧子も、正男の異常な一位への執着が心配になって、全部一位を取る必要はないのだから、少しは子供らしい遊びもするように勧めたのだが、聞かなかった。 〈でも、まさか自分が一位になるために、競争者《ライバル》を蹴落《けお》とそうとして、大野宗一をそそのかしたなんて。やっぱり警察官の発想だわ〉 「正男が一位になりたがっていたからといって、大野君の事件と関係あるとは、言えないでしょう。これは無垢《むく》の子供の心を傷つけるとんでもない邪推ですわ」 「それが邪推ではない証拠が挙がったのですよ」  係長が気の毒そうに、牧子の顔を見た。 「どんな証拠ですの?」 「大野少年がトランシーバーをもっていたことから、事件直前にだれかと交信したという推測をもって、我々は現場周辺のトランシーバー所有者に聞き込みをかけたのです。すると」  後を言ってもいいかと問うように、係長は牧子の顔を覗《のぞ》いた。彼女はうなずいた。 「すると、出前や注文取りとの連絡用にトランシーバーを使っている近くの飲食店や、商店の人たちが、たしかその時間に子供の声で、こんな言葉を聞いたことがわかりました。青いカローラ、番号は×××、いま歩道橋へ行く。|用意しろ《スタンバイ》! 問題は、次の言葉なのです」  係長はおもわせぶりに言って、いったん言葉を切った。 「どんなことを言ったのです?」  牧子は、待ち切れずに先をうながした。 「いけない、ママが乗ってる。止めろ! ストップ、止めるんだ」  牧子は頭から血がすーっと退《ひ》いていくのをおぼえた。あのときいつも降りる歩道橋の手前に警察官の姿を見出したので、乗り過ごしたことをおもいだした。小畑だけを殺すつもりで待機していた正男は、降りたとおもった母親が、まだ車に乗っているのを知って、慌てて大野を制止したのだが間に合わなかったのだろう。  牧子の視野が暗くなった。係長の声だけが、陰にこもって聞こえてきた。 「番号は、たしかに小畑さんの車のものです。正男君は、一人っ子だ。小畑さんの車に乗っていたあなたをママと呼ぶ子供は、正男君以外にいない」 「でも、どうして? どうして正男が……」  牧子は、断末魔のようにあがいた。老婆をいたわり、友のペットの墓をつくってやった優しいわが子が、そんなことをしたとは、どうしても信じられない。 「奥さん。この際、ご自分の行跡を反省するんですな。あなたにお説教するつもりはないが、愛する母親と、尊敬していた家庭教師が、父と自分を裏切っていたと知ったときのショックは、回復し難いものだったでしょう。正男君は、それを自分一人の胸の中に畳みこんでいた。今回の事件は、たまりにたまった怒りが爆発したんでしょう」  刑事に言われてみれば、正男の一位に向ける異常な執着は、そのころからはじまったようである。そして、大野宗一が惹き起こした一連の事件も。正男は、母に対する心のしこりを、このような形で発散させていたのか。 「大野少年は、みんな打ち明けましたよ。正男君に脅迫《きようはく》されていたということを。大野君の父親は、正男君のお父さんの会社に勤めています。言うことを聞かなければ、大野君の父親を自分のお父さんに話して馘《くび》にするとおどかされたそうです。大野君の父親は、身体が不自由です。仕事を失ったら、再就職は難しいことを子供心に知っていたんですな。大野君は、親おもいの心の優しい子だったんです。  それに反して正男君は、うわべは優等生のマスクをかぶって、実は親の威光をかさに着て、無抵抗の者を虐《しいた》げていたのです。魚の餌も、火事見舞いの文面も、正男君が考えたものだそうですよ。同級生の�宝物�も、大野君を使って取り上げたのです。トランシーバーと火焔びんも正男君がよこしたものです。もしかしたら葉書の誤字もわざとつくったのかもしれません。恐しいじゃありませんか。しかし奥さん、無邪気な子供の仮面の下の恐しい素顔をつくったのは、だれでもない、あなたですよ」  ——だれでもない、あなただ——刑事の最後の言葉が、牧子の耳朶《じだ》に何度も反響した。それはいつの間にか、猫や熱帯魚や、小畑を殺した「犯人は、おまえだ」という言葉にすり替っていた。  そのとき庭の方にあって、子供たちの気配がした。応接間のガラス窓から、正男や佐川ひとみや数人のクラスメートの姿が見えた。学校が終ってから、すぐにやって来たらしい。  庭から母親の姿を目敏《めざと》く見つけた正男は、 「ママア、今日は佐川君のトンベエの一年目の命日なんだよ。みんなでお墓まいりに来たんだ」  と窓の外から声をかけた。折りから冬の午後の柔らかい斜光が、少年のふっくらとした頬《ほお》に弾んで、うぶ毛を白く光らせた。しなやかな髪が、風にそよいだ。  それは、さながらあどけなさの象徴のようであった。刑事もふと見惚《みと》れて、危うく「可愛《かわい》らしい坊ちゃんですなあ」と言おうとした。 [#改ページ]    空白の凶相      1  長い時間をかけてトロ火で煮つめたように二人の体の間に官能の極点が、徐々に確実に迫ってきた。これ以上官能を弄《もてあそ》んでいると、一定のリズムに乗ってしっくりと和合している二つの肉体の歯車がかみ合わなくなる虞《おそ》れが生ずる。  極度の興奮と緊張の持続に長時間耐えてきた心身は、ほんの些細《ささい》なリズムの乱れによって、水の表面張力が破れるように官能のバランスを崩してしまうのだ。いったんそれが崩れたら、元の状態に回復するまで大変な時間と労力を要する。 「ねえ」  妻の素子《もとこ》が、のどの奥をならして催促した。夫の井沢も限界にきていた。  夫婦は、瞬間に了解し合って、長い蕩揺《とうよう》のピリオドを打とうとした。夫婦の連絡し合った体は、間もなくはじまる盛大な蕩尽《とうじん》の予感と期待におののいた。どんなに熟練した夫婦でも、細胞の一つ一つが弾み立つような完全燃焼直前の、完全燃焼そのものよりも熱い、期待の熱感に焙《あぶ》られる一瞬であった。  ——いいか——  ——いいわよ——  無言の意志表示を体で伝え合った二人は、最後の急坂を一気に駆け登ろうとした。そのときである。隣室との間仕切りの襖《ふすま》のかげに気配があった。まさに引き金を引きかけた瞬間の気勢を殺《そ》がれて、井沢の身体は、ガクンと傾いた。 「だいじょうぶ、寝言よ」  素子は、井沢の耳許《みみもと》にささやいて、身体をもどかしげによじった。 「起きてるんじゃないか?」 「だいじょうぶだったら」  素子は必死に夫を励ましたが、彼の身体はみるみる遠のいていく。妻は、遠ざかる夫の体を逃がすまいとして、渾身《こんしん》の力をこめて咥《くわ》えこもうとした。 「いやよ、いや!」  彼女は必死に追いかけた。本当にあと一歩のところなのである。ここで突き放されたら、不完全燃焼の陰湿で残酷な煙は、朝まで体に内攻して彼女を眠らせないだろう。 「ほら、すやすや寝息が聞こえるじゃない。気にしないで、つづけて」  素子は、夫を引き止めようとして、訴えた。だがいったん萎縮《いしゆく》をはじめた彼の身体は、急坂を転がり落ちるように救い難い加速度を増していく。 「狸寝入《たぬきねい》りかもしれない。ちょっと様子を見てこよう」  ついに、二人の身体は、自動的に離れた。咥えこもうとする素子の収縮も、より速い速度で萎《な》えた井沢の身体に追いつけなくなったのである。  井沢は、寝床を抜けて、襖を少し開けた。隣室の様子をうかがったが、夫婦の間の一人息子である洋一はよく眠っている。 「そらごらんなさい、やっぱり寝言だったでしょう」  すっかり身体を冷たくして寝床へ戻って来た夫を、素子は詰《なじ》った。つい先刻まで彼女の中で膨脹し、力強い実質をもって充填《じゆうてん》してくれた夫のその部分は、これが本当に同じものかと疑われるほどの哀れで、無惨な萎縮を胯間《こかん》に貼《は》りつけている。  こうなったら、朝まで回復しないことは、これまでの経験からわかっている。そして朝になれば、今度は本当に子供が目をさましてくる。  団地の2DKに親子三人で住む夫婦にとって、今夜の営みの機会は、こうして潰《つい》えさったのであった。 「馬鹿」  素子は、おもわず言ってしまった。  こういう不発の夜がいく晩もつづいている。いつも沸騰の直前になると、きまって寝言を言ったり、寝返りを打つ洋一にも腹が立ったが、それくらいのことで簡単に萎えてしまう夫のデリケートさにも、憤りをおぼえる。  井沢は、最初はたくましい男だった。新婚のころは毎夜のように彼女を満足させてくれた。それが、洋一が生まれて、夫婦の間に割りこむようになってから、変化が起きた。  営みの最中に、洋一が少しでも気配をたてると、すぐに影響をうける。洋一が成長してくるにつれて、影響度が大きくなった。 「団地に住んでいるのは、私たちだけじゃないのよ。むしろ、結婚早々から2DKに住めるだけでも有難いとおもわなくちゃ。あなたのようにデリケートだったら、間借りの一部屋に住んでいる人は、どうなるのよ」  すぐ隣室に子供がいるせいにする井沢に、素子は�気合《ハツパ》�をかけた。だが、それは一種の強迫観念のように井沢をとらえて、夫婦の間に居坐《いすわ》ってきたのである。素子の欲求不満は次第に堆積《たいせき》されてきた。      2  井沢は、寝ている子供が気配をたてるたびに、自分たちの性行為を子供に覗《のぞ》かれているような不安をおぼえるのである。洋一はまだ四歳である。今年幼稚園に入ったばかりの幼児が、たとえ夜中にふと目をさまして両親の行為を寝ぼけ眼《まなこ》に覗いたとしても、意味はわからないはずであった。  そのことをよく承知していながら、不安感を拭《ぬぐ》い取れないのだ。子供がバサリと隣室で動く都度、あるいは意味のない寝言をもらすたびに、襖の隙間《すきま》から精一杯にみひらかれたつぶらな目が、自分たちの赤裸な性行為をまたたきもせずにみつめているような気がしてならない。  いったんその不安が萌《きざ》すと、もうだめである。どんなに妻の体内に包まれて快く硬直していても、空気を抜かれた風船のようにしぼんでしまう。いかに自分を叱咤《しつた》しても、どうにもならない。  交わった自分たちの醜悪な体位を、子供に盗み見られているかもしれないとおもうだけで救い難い萎縮に襲われてしまう。  井沢には、その原因に心当たりがあった。実は、彼自身が「見た」のである。いやも応もなく見せられたと言ったほうが正確かもしれない。  初めて両親の折り重なった姿を見せられたのは、三歳か四歳のころのようである。まるで醜悪な動物がからみ合ったような図が、子供の白地の心に強烈に焼きつけられた。  最初、彼は両親がけんかをしているのかとおもった。力の強い父親が母親を組み伏せて虐《しいた》げているように見えた。母は苦しそうにうめいたり、泣き声をあげていた。母のうめき声によって目をさましたのかもしれない。  ——母さんを苛《いじ》めるな——そんな言葉を泣き叫びながら、母を組み伏せた父の背中に飛びかかっていったのをおぼえている。  父は、彼を後ろ足で蹴《け》った。腰を強く蹴られて、泣きだした井沢を放置したまま、両親は、行為を続行した。彼らは子供に行為を見られていることをなんともおもわないらしかった。  当時、親子三人は、六畳一間の借間に住んでいた。父は、渡り大工で、母は酌婦《しやくふ》のようなことをやっていたらしい。両親の性行為をけんかとまちがえたほどに、井沢の両親は、夫婦して酒を飲み、よく本当のけんかをした。とばっちりをいつも受けるのは、井沢だった。  母は気まぐれな女で、機嫌のいいときは、猫《ねこ》可愛《かわい》がりに井沢を可愛がったが、夫とけんかをすると、井沢を放り出したまま、何日も平気で家を空けた。そんなときは、父親も荒れて、井沢に八つ当たりをする。もちろん食事などもろくに取らせない。近所の人が見かねて、食べ物をくれたり、家に泊めてくれたこともあった。  それだけに井沢は、幼いころから自力で食物を見つけるたくましさを身につけた。  仲が悪いくせに両親は、よく営みをもっていたらしい。一間しかないので、井沢が長ずるにおよんで、いやでもそれを目にするようになった。  夜だけなら、井沢の耳目に触れることもなかっただろうが、彼らは、昼夜のべつなく気が向いたときたがいを需《もと》めていたようである。  昼間、学校から家に帰って来て、凄《すさ》まじい両親の姿勢に息をのんだ記憶もある。だがそのころになると、自分から避けることができた。  それよりももっと幼いころは、両親のからみ合うかたわらで、じっとすくんだように坐っていた。幼児の見つめる前で、なんの抑制もなく痴戯に耽《ふけ》る両親。それはまさに一つの地獄絵であった。  こんなことがあった。真夜中ぐっすり眠っているときに、いきなり叩《たた》き起こされた。官能の波に溺《おぼ》れた両親が、体位を転々としている間に、井沢の体を蹴とばしたらしい。  恐ろしい親の姿に、井沢は泣きだした。彼の寝起きの朦朧《もうろう》とした目には、父が母を殺そうとしているように映った。 「うるさいガキだ。黙れ!」  感興を殺《そ》がれた父が、母を折り敷いていた手を放して、いきなり井沢を撲《なぐ》りつけた。井沢はますます激しく泣きだした。 「しようのない子だねえ」  母は、裸の体をものうそうに起こすと、手拭《てぬぐ》いをもってきていきなり井沢の口に猿轡《さるぐつわ》をかませたのである。びっくりした彼が、取りはずそうとすると、手足をロープでかたく縛った。  井沢を身動きできないように縛り上げたかたわらで、二人は中断された行為をまたつづけた。  このことがあってから、井沢は、夜中目をさまして(たいていはさまされたのだ)あやしい気配を感じ取っても、狸寝入りをする知恵を身につけた。そのころは、両親の行為がなにを意味するものかわからなかったが、その行為の最中は、二人が人間ではなくなって、非常に凶暴な獣になったような気がした。体位の工夫にあきると、両親は鏡台に自分たちの痴態を映して愉《たの》しんだりした。それが、おとなの酒に酔ったときとは異なった、生臭い、人目を憚《はばか》る破廉恥《はれんち》な行為であることは、子供心にもわかった。  幼いころの記憶というものは、時間の経過に従わない経験の印象が、順不同に重なっている。幼い心に、強烈に刻印された印象が、記憶の島となって、霧のような過去の海の中に浮かんでいる。  あれは、いつごろのことだったかはっきりしないが、井沢は母に手を引かれてよく出かけて行ったのをおぼえている。母が彼一人を家に残していけなかったのだから、かなり幼いころであったのはたしかである。たいてい昼間の時間であった。町はずれの旅館のような建物の中に母はいそいそと吸いこまれていった。  井沢は、その家の中に入れてもらえなかった。当時の金で五銭か十銭もらって、母の入っていった家の前で、母が出て来るまでじっと待っている。  井沢は、その金をもらえるのが嬉《うれ》しくて、待つのが苦にならなかった。それにそのときの母は、いつもとちがってたいそう優しかった。 「いいかい。すぐ帰って来るから、ここでおとなしく待ってるんだよ。ここから動いてはいけないよ」と母は、優しく洋一の頭を撫《な》でてくれるのだ。そのとき母はきれいな着物を着ていて、化粧をしていた。まるで別人のように美しく見えた。  そんな母が誇らしくて、彼はその家へ(前までだが)連れていってもらえるのがむしろ嬉しかった。  家から出て来たときの母は、もっと優しくなっていた。 「よくおとな[#「おとな」に傍点]で待っていたわね。今日ここへ来たことは、お父さんに言うんじゃないよ」  と言って、また一銭か二銭追加してくれた。彼はその�口留め料�が少しずつたまっていくのが、楽しみであった。  母がその家の中で何をしているのかわからなかったが、それが父に決して知られてはならない母の秘密であることはわかった。家に帰る途中、母はたいてい父の好物を買った。  たまには、父が先に帰宅していて、どこへ行っていたと問いつめることがあったが、「買物よ」と言われて好物を出されると、納得した。井沢を連れていったので、信用したらしい。彼は母親のカモフラージュにも利用されていたのだ。  母がその家へ行く目的を、一度はからずも覗いたことがある。冬の日の寒い午後であった。空は、朝から重苦しげに曇っていた。いまにも霙《みぞれ》か雪を落としてきそうな雲行きであった。  町はずれにあるその家は、堤防に近い。春は、堤防に沿った桜並木がいっせいに開花して、花見客で賑《にぎ》わうが、冬の間は、川を渡って来る凍った風が、まともに襲いかかる。売り物にしている川魚料理を食いに来る客もなく、さびれたたたずまいであった。  いつものようにその家の前で、冷たい風に吹かれて震えながら、母が出て来るのを待っているうちに、重苦しくたれこめていた雲が、とうとう支えきれなくなったように、雪を落としはじめた。雪は風に乗って、みるみる密度をました。吹雪模様になった。  母を待つのを苦にしていなかった井沢も、雪と風に叩かれて、全身の感覚が麻痺《まひ》していくのを感じた。もともと質量の小さい幼い身体だから、体熱を奪われるのは早い。  いつの間にか、手足の感覚がなくなって、眠くなってきた。  家の中にいる母親には外が吹雪になったことはわからない。たまたまその家に用事のある人間がやって来なければ、井沢は危うく凍死するところだった。  旅館の門のかたわらに、雪まみれになってじっとうずくまっている幼い子供の姿に不審をもったその人が、声をかけたときは、井沢は口が寒気のために痺《しび》れて、ほとんどものを言えないような状態になっていた。  驚いて家の中にかつぎこみ、火のそばで手足をもんだり、暖いお湯を飲ませたりしているうちに、ようやく井沢は人心地を取り戻した。�客�の連れて来た子供だということがわかって、母の許《もと》へ連絡がいったが、母はなかなか姿を見せなかった。 「子供を雪の中に放り出して、自分だけ暖かい床の中でよくも男といちゃついていられるもんだねえ」 「まったく鬼のような母親だわ」 「本当に自分の腹を痛めた子なのかしら?」  女中たちがささやき合っているのが、井沢の耳に入ってきた。  母は一時間ほどしてからようやく現われた。旅館のゆかたをしどけなくまとった母は、女中部屋のこたつの中にいるわが子を迷惑げに眺めて、 「まあまあ、こんな所へ入りこんでしようのない子ねえ」と眉《まゆ》をしかめた。 「おかみさん、この坊や、外で凍えかけていたんですよ」  と女中が抗議するように言うと、 「雪が少し降ってきたぐらいで家の中にいれないでください。子供って甘やかすと、すぐ増長するからね」  かえって口をとがらせた。母は、井沢を女中部屋から、部屋へ連れていった。そこに見知らぬ男がいたのである。その男には顔がなかった。たしかにそのときは、顔を合わせたのだが、相手の顔の部分だけが空白になっている。  その男は、妙に井沢に優しかった気がする。坊やいい子だとかおせじを言って、頭を優しく撫でてくれたような淡い記憶があるのだが、顔だけが、「福笑い」の造作の各部分を並べる前のように、真っ白になっていた。  声も、体の形も、頭を撫でられた感触も、淡いながら、実感として残っているのにもかかわらず、顔の部分だけが、忘却によって、抹消されていた。  雪の日を最後に、母は旅館へ行かなくなったようである。どうやら男と逢《あ》う場所を変えたらしいのだが、その後の記憶はない。あるいは、そのことがあってから、母は一人で行くようになったのだろうか。  井沢の�口留め料�は、その時点でストップした。だが、どうせその金は、なくなってしまう運命にあった。  ある晩、父は酒が切れて荒れていた。酒なんか買う金はないと母がどなり返していた。金がなければ、なにか質に入れろと父は言った。 「あんたのために、質入《まげ》るものなんかないよ」 「なんだと! もう一度言ってみろ」 「なんどでも言ってやる。酒が飲みたきゃ、自分の稼ぎで飲みな。女房、子供も満足に養えないくせに、亭主面《ていしゆづら》してもらいたくないね」 「この女《あま》ア、言わせておけば……てめえがおれの目を盗んでなにをしているか、おれが知らねえとでもおもってんのか。このガキだってだれのガキだかわかったもんじゃねえや」  父は、母の髪をつかんで部屋の中を引きずりまわした。母はひっかいたり、噛《か》みついたりして必死に抵抗していたが、とうていかなわないとみると、井沢に救いを求めてきた。  井沢は、このまま放っておくと、母が殺されてしまうような恐怖をおぼえた。彼は夢中で、母からもらった口留め料を、まとめて父に差し出した。  父は、一瞬、井沢が差し出した金にびっくりしたような視線を投げたが、その額が意外に多いのを目測すると、 「このガキ、いつの間にかこんなに蓄《た》めやがって」  と捨てゼリフを投げて、金をひったくると、どこかへ出かけてしまった。 「あんちくしょうめ! 子供の金を奪《と》りやがって」  母はしばらく毒づいていたが、それは井沢のためではなく、その金を夫に取られてしまったのが、悔やしかったらしい。その証拠に、母はずるそうな目をして、 「おまえ、もうお金をもっていないのかい?」  と聞いた。      3  母がある海岸の自殺の名所から身を投げて死んだのは、井沢が小学校へ入ってからである。男といっしょの心中であった。母の心中相手が、例の�顔のない男�であったかどうか、はっきりしない。  とにかく井沢も、その心中行に同行していた。高さ数十メートルの海蝕《かいしよく》台地のその断崖《だんがい》を、母は心中の場所として選んだ。ここから飛びこむと、潮のかげんで、死体があがらないと言われている。全国的な自殺の名所であると同時に、その風光と豊富な温泉で日本有数の観光地ともなっている。  母が心中行にどうして井沢を伴ったのか、いまだに謎《なぞ》であるが、断崖の上を子供が一人ふらふらとさまよっていたのを、折りから散歩に来た新婚客が怪しんで、警察に連絡した。  井沢を保護して、いろいろ事情を聞いているうちに、どうやら�両親�が崖から飛び下り自殺をしたらしいとわかった。警察は、崖の下を捜索して、磯岩へ体を叩きつけて死んでいる二人の男女を発見した。  警察は、子供を連れての無理心中をしようとして現場へ来たものの、子供を道連れにするのに忍びなくなって、子供だけ残して、飛び下りたと推測した。  だが男女の身許《みもと》が持ち物から割れて、心中の片割れである男は、子供の父親でないことがわかり、警察は首をひねった。人妻が不倫を清算するために、相手の男と情死をはかる例は、少なくないが、�連れ子�をして来るのは、珍しい。  井沢は、間もなく連絡を受けた父親が引き取りに来た。父は、警察の前では神妙にしていたが、井沢を家に連れ帰ってくるとひどく打擲《ちようちやく》した。  母親が家出するとき、なぜ報《し》らせなかったというのである。父には井沢が母の駆け落ちの�手引き�をしたようにおもえたのかもしれない。 「おまえのようなやつは、家に置かない。出て行け」と父はどなったが、小学校へ上がったばかりの彼に、出て行く場所のあろうはずがなかった。  父は、そのくせ、母が井沢に預けた金品を、すべて取り上げてしまった。そのうちに父は、べつの女を時折り家に引っ張りこむようになった。  女は、さすがに母とちがって、井沢の前で行為するのをいやがった。そのために彼は、ますます父から邪魔者扱いを受けるようになった。  その父も、それから間もなく死んでしまった。酒に酔って眠りこみ、寝煙草の火が、布団に燃え移って、焼け死んだのである。火の手は、たちまち、古い木造アパートを包んだ。消防が駆けつけたときは、もう手の施しようがなかった。  このときも井沢は、火の手をどのように潜ったのか、外へ逃げ出すことができた。鎮火してから警察と消防の検証が行なわれたが、父の死体の検視により、手足の先にひもで縛られた痕《あと》が発見されて、にわかに殺人の疑いが出てきた。  警察は、同じ部屋に寝ていた井沢に事情を聴いた。だが井沢が気がついたときは、煙が室内に充満していて、なにがなんだかわからなかった。子供の敏捷《びんしよう》さが幸いして彼だけたすかったのであろう。 「どうだね、坊やが目をさましたとき、部屋の中に、お父さんのほかにだれかいなかったかね?」  警察はあきらめずにしつこく訊《き》いた。彼らは、酔い潰《つぶ》れて白河夜船《しらかわよふね》の井沢の父親を、何者かが動けないように手足を縛って、火を放ったのではないかと推測した。井沢が気がつかなければ、彼も危うく道連れにされるところであった。ということは、犯人に井沢を殺してもかまわないという未必《みひつ》の故意《こい》があったことになる。  父親に殺意を含み、その子の小学生までも共に殺そうとした犯人に、警察は異常な凶悪性を感じた。そのために取調べが執拗《しつよう》だったのである。  警察に何度も聞かれるうちに、霧のように曖昧《あいまい》だった井沢の記憶の中に、次第に凝固してくるものがあった。そう言われてみれば、父親のそばにだれかいたような気がした。 「それは、どんな人間だった? 男だった? それとも女だったかい」  なにかをおもいだした様子の井沢に、警察は色めきたった。 「男の人だったよ」 「おとなの人だろう」 「ぼんやり見たんだよ」 「お父さんと同じくらいのおとなだったかい」 「よくわかんない」 「どんな着物を着ていた」 「わかんない」 「めがねをかけていた?」 「顔がないんだよ」 「顔がない?」 「顔だけ、真っ白になっていてなにもないんだ」 「それじゃあ、のっぺらぼうだな。覆面でもかぶっていたのかな」 「ううん、覆面じゃないよ、ただ顔が真っ白なんだよ」  霧の中で出会った人のように、近づくほどに輪郭が徐々にはっきりしてくるのだが、顔の部分だけが空白であった。その男は、母といっしょに町はずれの旅館にいたあの男だった。そうだ、あの男が、父が焼け死ぬ直前に部屋の中にいたような気がする。  だが、顔に関する印象がまったく残っていない。警察もついにサジを投げた。幼児の記憶が曖昧なうえに、「顔が真っ白」というのでは、どうにもならなかった。  事件は「殺人放火」の疑惑を強めながらも、迷宮入りになってしまった。      4  みなし児になった井沢に、その後さまざまな苦労があった。だが両親がいたころ、すでにみなし児同様の扱いをうけていたので、さほど苦しいともおもわなかった。本当の孤児になる以前に、すでにその�鍛練�をうけていたのが役立ったのである。  いちおうの大学まで進学でき、社会的に名の通った会社に就職して、晩婚ながら、中流の家庭から現在の妻を娶《めと》れたのも、ひとえにその鍛練のたまものといってもよい。  だが彼は、秘かに心に定めていることが、一つあった。父母を殺したのは、あの�顔のない男�である。  母を玩《もてあそ》び、崖《がけ》から身を投げる破目に追いつめたのも、父の手足を扼《やく》して、逃げられないようにしておいて焼き殺したのも、あの顔のない男の仕業《しわざ》だ。  とうてい親とは呼べぬ鬼のような両親であったが、その二人も、殺されたとなれば哀れであった。犯人をなんとしても捕まえてやりたかった。  それは、あながち両親の�仇討《あだう》ち�のためではなく、井沢自身の復讐《ふくしゆう》にもつながっている。雪の日、危うく凍死しかけたのも、あの男が母を玩んでいる間のことだった。あの日の寒さは、あれから三十数年を経たいまも、骨身に沁《し》みておぼえている。  また父親が焼死した夜も、井沢の身がすんでのことで巻き添えにされるところだった。あるいは、巻き添えではなく、犯人の顔を見た子供もいっしょに殺してしまおうとした確定した殺意が働いていたのかもしれない。 「そうだ。そうにちがいない。あの男は、おれも父親とともに焼き殺そうとしたのだ」  そうおもうと、たちまち、そのように信じられてきた。 「あの顔のない男を探し出したい」  探し出してどうするという具体的な考えはまだ固まっていないが、まず、見つけ出したかった。そのうえで、復讐の方法をゆっくりと考えてもよい。  だが、なにぶんにもあまりにも過去のことであった。あの男がまだ生きているのかどうかすらわからない。海に臨む崖の上から母といっしょに飛び下りた男が、あの顔のない男かどうかいまとなっては、確かめようがなかった。両親が死んでから、彼は郷里を離れた。郷里のおもいでは、陰惨《いんさん》であり、その後帰りたいという気もおきなかった。  郷里を離れたまま彼は、べつの土地に根を下した。教育も、就職も、結婚も、郷里から遠く離れた土地で行なわれた。感傷の糸も切れた彼と郷里を結ぶものは、顔のない男を探し出したいという願望だけであった。  井沢は、しばらくの間、あの男のことを忘れていた。生きていくための現在をかち取っていくだけで精一杯の生活に過去の追憶や怨念《おんねん》をかえりみる余裕はなかった。  ようやく安定した生活を獲得して初めて、これまで辿《たど》って来た過去の軌跡を振り返るゆとりが生じたのである。  そして記憶がようやくスタートしはじめた起点にあの顔のない男が立っているのを発見した。顔の部分だけ空白の、福笑いのように真っ白な無気味な顔。その顔が母を玩弄《がんろう》し、父を焼く炎を放っている。顔のない顔で笑いながら[#「笑いながら」に傍点]情欲や殺意を遂行しているのだ。 「あの顔に、目や鼻や口をつけるのだ。それをしないかぎり、おれの人生の起点は……曖昧だ」  起点が曖昧だということは、彼の人生全体が曖昧になるようにおもえた。あたかも基礎のない上に建てられた、建築物のように——  井沢は、あの男を探す手初めに、何十年ぶりに郷里へ帰った。それだけの星霜は、彼の郷里を完全に変えていた。単に人や建物だけでなく、地形や川の流れが変った。風土までが変ってしまったようであった。  井沢は、まったく未知の土地へ下り立ったような気がした。  それでも、人にたずねたずねして、母がよく連れて行った旅館の近くへ来た。すでにそこは町はずれではなく、繁華な市内であった。  川辺にさびしげに建っていた一軒の割烹《かつぽう》旅館は、ネオン街のどこかに吸いこまれてしまった。  こことおぼしきあたりに、聞き込みをかけて、ようやくその旅館がとうに廃業して、経営者もよその土地へ行ってしまったことを知った。  その旅館だけが過去をたぐり寄せる引き綱であった。その綱が、プツリと切れた。もはや探しようがなかった。 「旦那《だんな》、いい子がいますぜ」  呆然《ぼうぜん》と突っ立っていた彼に、勘ちがいしたらしいポン引きが声をかけた。そこは何十年も前に井沢が雪と風に凍えながら、母を待っていた一角であった。  結婚してからも、顔のない男は、井沢の過去の中の重要な容積を占めていた。決して居て欲しくはないのだが、家の重要な一角に居坐《いすわ》った貧乏神のように、彼の過去の起点に腰を下して、白い無気味な顔をいつも向けている。  だがそのままに放置しておく以外になかった。偶然によってめぐり合いでもしないかぎり、その男に再会することはできないのだ。人生の途上のどこかですれちがったとしても、顔がないのだから、見分けようがなかった。  もしかしたら、もうすでにどこかで会っているかもしれない。あるいは身近のごく近い所にいるのかもしれない。ただわからないだけなのだ。  だが、相手はどうだろう。顔のない男が井沢を見たとき彼を識別できるだろうか? 「たぶんできるだろう」と井沢はおもった。井沢の顔だちは、わりあい童顔である。幼いころのおもかげをよく残している。  相手が彼の幼い顔をおぼえていれば、必ずわかるはずだ。  顔のない男に、顔をつけられないままに結婚して、子供が生まれた。洋一と名づけた。井沢によく似た子だった。晩婚だったので、親子の年齢差は世間の水準よりも開いている。だが、妻の素子《もとこ》は、すれちがう男たちがたいてい振りかえるほどの器量で、結婚披露宴に招いた友人たちは、大いに羨《うらやま》しがった。性的にも、夫婦生活に見合う習熟を見せ、営みの和合も申し分ない。  勤め先は、名前を言えばたいてい通る一流会社である。中堅幹部として、社内の地位にも危なげがない。経済的にも安定している。  住居は、都心から一時間ほどの、私鉄沿線の団地の2DKで、親子三人には、手ごろである。いずれ子供が増えれば、手狭になるが、いまのところは、現今の住宅事情に照らして文句を言えない。  ところが洋一が生まれてから、この住居の構造に限られた面積が、微妙な影を夫婦生活の上に落とすようになった。  最初のきっかけは、洋一が二歳半ばのころなんに寝ぼけてか、夫婦が営みをもっている最中に、起きだしてきたことである。  そのときは、いち早く気配を悟って、境の襖《ふすま》を開かれる前に灯《ひ》を消し、体を離していたが、このことがあってから、彼らは必ず灯を消して愛撫《あいぶ》し合うようになった。  彼らの住む2DKの構造は、二つの部屋が襖一枚で仕切られている。子供の寝ている部屋の襖一枚隣りが、夫婦の寝室にあたる。そのために、常に子供の寝息をうかがいながら、営みをもたなければならなかった。子供が眠っているかたわらでの夫婦生活は、おもいきって奔放な展開をもてない。 「こんな小さいうちから、気をつかわなければならないのだから、大きくなったら、どうしようか?」  井沢は、心配したが、 「もっと広い家へ移れば、いいじゃないの」  と素子は、いとも簡単に言った。だが、子供から受ける制約の一つとして、灯を消すようになってから、視覚的な刺激が、夫婦生活から失われた。  妻も、新婚時代を通過すると、含羞《がんしゆう》の遮蔽《しやへい》を脱いで、さらに大胆な刺激を欲するようになる。 「ねえ、まだだいじょうぶよ。目をさましても、すぐに消せば間に合うわよ。万一、見られたところで、意味がわからないわ」  と訴えた。  だが、どんな微光でも、灯をつけると、井沢が不能になった。暗黒の中での営みは、刺激が不足して味気ないが、しかたがなかった。  そのうちに、子供の寝返りや寝言にまで、影響をうけるようになってきた。井沢には、原因がよくわかっていた。幼いころ、両親の性行為を見せつけられたことが、彼の心理に暗い屈折となって残り、わが子のたてる気配に、自分らの営みを覗《のぞ》かれているのではないかという恐怖に駆られるのだ。  彼には狭い一間の中で、両親がまるで獣そのものになって、折り重なり、うめき、のたうっていた浅ましい姿が、忘れられない。いくら年月を経ても、決して時間の風化をうけない、心に焼きつけられた烙印《らくいん》であった。  あれと同様の姿勢をとっている自分を、わが子に盗み見られたら、——そうおもうだけで井沢は萎《な》えた。  夫のそんな屈折を知らない妻は、最近、不発に終ることの多い夫に、初めは、疲れているのだろうと単純に考えていたが、次第に事態を深刻に見つめるようになってきた。  夫婦——それもまだ十分に若い——の間から性《セツクス》が失われたら重大である。まして妻は、ようやく女体の官能の喜悦をおぼえたばかりである。実りに達して、十分にその甘い樹液を貪《むさぼ》ろうとしたとき、導管をいきなり断ち切られてしまった。  子供が原因と悟った彼女は、実家に預けたり、あるいは、昼間夫を誘ったり、いろいろと子供の影響をうけない方法を考えたが、限度があった。  夫婦生活のよさは、需《もと》めるとき、わりあい手軽に相手《パートナー》を得られるところにある。これは一種のフリーセックスである。それが、夫婦の性生活を速やかにマンネリに堕《だ》しやすい素因ともなるが、ともかく若く健康な妻が、いきなりこの性的自由環境を奪われたのであるから、麻薬の禁断現象に陥ったようになってしまった。 「あなた、なんとかして」  突如、不能に陥った夫に向かって、妻は身をよじって切ながった。特にあと一歩で頂上という所で突き放された切なさは、とうてい指や玩具などの�代替物�によって償《つぐな》えるものではない。  煮えたぎった全身の細胞が、まるで血管や表皮を突き破らんばかりに、いつまでも騒いでいる。そんなとき彼女は、歯を食い縛り、生理用品を、自分の体の奥に詰めこんだ。そうすることによって、沸騰した欲望を、無理矢理に封じこめてしまうのだ。 「あなたが、いつもこんな風だったら、私、浮気しちゃうから」  素子は、半ば本気で言った。 「おい、馬鹿なことを言うな」  井沢は、妻の真剣な口調にたじろいだ。 「だったら、洋一のことなんか気にしないで、私を満足させてよ」 「まあ待て。すぐに回復するから」 「いつも同じことばかり言って、結局だめなんじゃないの」  そういう言葉が本当に夫を不能《だめ》にすることをよく承知していながら、素子は待ちきれずに、夫婦間の禁句を吐いてしまう。  完全な不能というわけではない。子供が気配をたてないときは、営みをつつがなく完了できる。完全燃焼の炎が、体のすみずみまで行きわたった後の快い弛緩《しかん》に浸って、素子は、「やっぱりいいわあ」とつぶやいた。  ——やっぱりいいわ、か——妻の言葉を反芻《はんすう》しながら、井沢は、彼女にそういうことを言わせる自分を不甲斐《ふがい》なくおもった。 「やっぱり」などという言葉は、�本物の味�を忘れかけたときに使われる副詞である。妻をして、夫婦間の当然の陶酔に、いつも誘いこまなければ、夫としての務めを果たしたことにならないだろう。      5  子供の成長は速い。まだついこの間までおむつを当てていたとおもっていた洋一が、幼稚園に上がり、幼稚園を卒《お》えて、小学校へ入学した。テレビの影響か、現代っ子は早熟である。  いっしょに通学する近所の同年の女の子の選《よ》り好みをするようになった。 「マサコちゃんよりヒロミちゃんのほうが可愛《かわい》いから、ぼく好きだ」などとなまいきなことを言った。またある日、学校から帰って来ると、いきなり、 「ママ、今日お風呂《ふろ》、早くわかして」と言う。 「どうして?」と素子がたずねると、 「ナオミちゃんとケッコンごっこするんだよ」 「ケッコンごっこ?」 「お嫁さんになると、お風呂にいっしょに入るんだってね。だから今日はナオミちゃんぼくのお嫁さんになって、いっしょにお風呂に入る約束をしたんだ」 「まあ、なんてことを!」素子は愕然《がくぜん》とした。  まさか結婚の意味を知っているわけではあるまいが、子供たちの早熟傾向が、正確な意味も知らないまま、漠然たる興味を、性に振り向けて、このような遊びを生んだのであろう。  またある日、洋一は、 「ママ、ぼくはどこから生まれてきたの?」  と聞いた。いずれは子供から訊《たず》ねられる質問と覚悟はしていたのだが、意外に早く切り出されたので、答えに窮してしまった。  いまどきの子供は「鸛《こうのとり》が運んでくる」とか、「キャベツの中から生まれる」などと言ってごまかせない。母親の当惑をおもしろげに観察していた洋一は、 「ママ、早く、弟か妹を生んでよ。実地に見学[#「実地に見学」に傍点]するからさあ」と言って、素子を仰天させた。  それから間もなく、母親参観の授業に出席した素子は、帰途、近所の奥さんと道連れになって恐るべきことを聞いた。 「ねえ、奥様、最近子供たちの間に、�観察ごっこ�という遊びがハヤッているのをご存知?」相手はこんな風に切りだしてきた。 「観察ごっこ? 存知ませんわ。何ですの、それ?」 「それがね、親のセックスを秘かに観察して、学校で報告し合うんですって」 「まあ!」 「まだ一年生にはないようですけど、三年くらいから盛んなそうなのよ。まったくいまの子供には呆《あき》れてしまいますわ」 「奥様、それ本当ですの?」 「本当よ。うちには、今日参観した子の上に三年生のお兄ちゃんがいるんですけど、その子が先週の土曜日に枕元《まくらもと》に鉛筆とノートブックを置いて、なかなか眠らないのよ。お布団の中に入っていつまでも目を開いているのね、どうも様子がおかしいので、問いつめたところ、今夜は自分が�観察当番�だと言うの。順番に親の行為を覗いて、報告し合っていたんですって。私、あんまりびっくりして、怒るに怒れませんでしたわ。小学生だからといって、いまの子供は、決して油断なりませんわよ」  素子は、小学生の間に秘かに流行している恐るべき遊びを知って、全身の血がしいんと冷えていくような恐怖感をもった。いまでさえも、洋一のかすかな寝返りに男の機能を失う夫である。そんな遊びがあることを知っただけで、完全な不能に陥ってしまうだろう。 〈井沢には、絶対に知らせてはならない〉  素子は、秘かにおもった。  だが井沢は、その遊びがあることをとうに知っていたのである。ある週刊誌が「小学生の恐ろしい遊び」という特集を企画して、団地の住人の意見を聞くために彼の許《もと》へコメントを求めてきたとき�観察ごっこ�の存在を教えられた。  一年生の洋一が、その遊びをはじめているとは、おもえないが、油断はできなかった。井沢は、わが子が襖の隙間《すきま》から、鉛筆とノートを構えて、親の行為を克明にメモしている図を想像して戦慄《せんりつ》した。その想像図に、幼時に焼きつけられた両親の地獄絵がオーバーラップする。  ある土曜の夜、洋一が寝返り一つ打たずに穏やかに眠っていたので、久しぶりに夫婦とも燃えつきることができた。 「ねえあなた」  激しい蕩揺《とうよう》の後の快い余韻に身を委《ゆだ》ねて、素子がなにかを含んだような笑いかたをした。 「何だい?」  子供に妨げられずに、妻の体に止《とど》めを刺すことができて、井沢も満足であった。 「今夜は、洋一がおとなしいとおもわない?」  洋一は、いつもクライマックスの直前を狙《ねら》うように、意地悪く気配をたてるのだ。 「そう言えば、そうだな。昼間よく遊んで疲れたんだろう」 「疲れれば、もっと寝返りを打つはずよ」 「どうかしたのか?」  井沢は、妻の意味ありそうな語調が気になった。 「ちょいと一服盛ったのよ」 「一服?」 「寝る前に、睡眠薬を少しジュースに入れて服《の》ましたのよ」 「なんだって!?」  井沢は、愕然として身をおこしかけた。親が、房事を愉《たの》しむために、子に睡眠薬を盛るとは、エゴも極まれる。 「だいじょうぶよ。ほんの少しだから」  だが素子はそのエゴイズムに気がつかないらしい。 「量の問題じゃない!」  井沢は、どなりつけた。 「それじゃあ、他にどんな方法があるというのよ?」  妻に開きなおられると、反駁《はんばく》できなくなった。だが異変はそれから間もなくはじまった。 「あなた、洋一の様子がおかしいわ」  素子が青くなって訴えた。言われるまでもなく、井沢も気がついていた。ひどい鼾《いびき》をかいている。呼吸がせわしなく、皮膚に発疹が出ていた。 「おまえ、どのくらいクスリを服ませたんだ」 「ほんの少しよ」 「ほんの少しが、そんなもの服んだことのない子供の体に応《こた》えたんだ」 「あなた、どうしましょう?」  素子は泣き声になった。 「医者を呼べ」  だが土曜の(すでに日曜になっていた)こんな夜半、電話に応えてくれる医者はなかった。  ようやく救急車を呼んで、救急病院にかつぎこみ、手当をうけることができた。服ませた量は、少しだったが、敏感な体質で副作用をおこしたということだった。医者は、なぜ催眠剤などを子供に服ませたのかと聞いたが、夫婦は答えられなかった。  この事件があってから、素子が�発明�したせっかくの名案も使えなくなった。      6  洋一は神経質な子だった。赤ん坊のころから寝つきが悪くて、なかなか眠らない。  眠る前に、必ず一定の儀式を行なう。まず母親に時間を聞く。自分の心に定めた時間があるらしく、それが母親の言った現実の時間と一致しないと、おもしろくない。 「いまなん時だとおもえ」と母親に強制する。歯を磨き、布団を敷く。自分で自分の寝床を用意するのは、よいことなのだが、これが極端に遅い。シーツの敷き方、枕の置き場所、かけ布団の位置、すべてが自分の心の中に定めたとおりになるまで、何度でもやり直す。親がいらいらしてちょっとでも手や口を出そうものなら大変である。怒って手がつけられなくなる。  寝床の用意ができると、次は翌日の授業の「時間表調べ」である。これがまたひどく手間がかかる。明日の科目の教科書を準備している間に、絵をかいたり、本を読んだりしてしまう。  黙っていれば、�自動停止�してしまうし、声をかけてうながすと、自分の儀式を乱されたとして、荒れはじめる。  ようやく寝る準備が終ると、母親におやすみの挨拶《あいさつ》に来る。これが最後の儀式である。 「お母さん、ニコニコして」と言う。母親がいらいらして、その笑いに少しでもぎごちないところがあると、�怒り笑い�はだめだと突っぱねる。  とにかく自分の心にかなった儀式が終らないうちは、絶対に眠らない。こうしてようやく寝入ったかとおもっても、寝敏《ねざと》くて、わずかな気配にすぐ目をさましてしまう。  目をさますと、また眠らせるのに、一苦労する。一筋縄ではいかない子供なのである。長ずるにしたがって、この傾向はますますひどくなった。  それはそのまま、夫婦生活にかけられた桎梏《しつこく》になった。  素子は、完全な欲求不満に陥った。見かけだけはたくましい夫が、そばにいるが、それは「画にかいた餅《もち》」に等しい。彼女は、このごろ生理用品を常用するようになった。つまり生理時だけでなく、いつもそれを体内に詰めておくのである。  そのことによって、多少なりとも騒ぎ立つ欲望を抑えられるような気がした。彼女にとって不幸だったことは、自分を慰める行為ができなかったことである。  これほど汚穢《おわい》にみちた行為はないようにおもえた。器具や指を使うなどとは論外であった。その行為を想像するだけで、嫌悪が先に立って全身が鳥肌だった。それは文字どおり自分を涜《けが》すことだ。  それをするくらいなら、生理用品を詰めておいたほうがいい。だが最近、生理用品よりも、ティッシュペーパーのほうが、よりその目的にかなっていることを発見した。  ティッシュペーパーは水に溶けない。生理用品は、あくまでも生理時の手当てのためで、吸湿性を中心につくられている。詰める量の調節にも弾力性が少ない。  そこへいくとティッシュペーパーは、調節が自在である。最初は少しガサガサするが、湿ってくると、しっとりした感触になる。難は、あまり奥へ入れられず、それを取り出すのが、生理用品よりも面倒な点であったが、これも慣れると、むしろ愉《たの》しい作業になった。一枚一枚、丸めたティッシュペーパーを身体から出し入れするときの、うしろめたい快感、自分の体内をピタリと塞《ふさ》いだ、無表情の紙質の感触は、騒ぎ立つ血に対して、飢餓をしのぐために米の代りに草木の根をかじる程度の鎮静効果はあたえてくれた。  井沢には、妻の欲求不満がよくわかっていた。わかっていながら、どうすることもできない。自分の意志で律せられないことである。  彼は、妻がいずれ浮気をするかもしれないとおもった。いやあるいは、すでにしているかもしれない。夫によって熟成されたところで放り出された妻は、性の禁断に耐えられまい。  だが、いつも家庭にいる妻に、浮気の機会がたやすく得られるだろうか。 「いやその気になれば、ご用聞きでも、セールスマンでも、対象はいくらでもある」  とにかく朝、夫が出勤して、夜帰宅してくるまでは、主婦は完全に自由である。子供が幼いころは、それに縛られるが、学校へ通うようになったいま、彼女の行動を制約するものはない。  時折りおもいたって、家に電話をすることがあったが、妻のいないときがある。帰宅してからどこへ行っていたのかと問うと、たいてい買物とか、PTAや団地の自治会の集まりという答えが返ってきたが、あんなとき、男に逢《あ》っていたのではないか。  わざわざ外へ出て行かずとも、相手を亭主の留守宅へ引っ張り込むこともできる。ご用聞きやセールスマンなら、近所の目もごまかせる。  井沢は、次第に疑心暗鬼がつのってきた。彼が陥った不能は、精神的なもので、心の抑制を取りはずせば回復する。また、全面的な不能ではなく、行為の半ばから不能になる、�不純性不能�である。  そのために、吐け口を失った欲望は、彼の体内にうっ積していた。妻の豊かに実った肉体を、他の男が盗んでいる様を想像するだけで、血が煮えてきた。行き場を失ったエネルギーが内攻して、あらぬ想像ばかりをかきたてる。  そんなとき、彼は妻の体の中から奇妙な�異物�を発見した。行為を伴わないから、欲望だけは旺盛《おうせい》に蓄積される。子供の調子がいいときは、行為を完了できることもあるので、井沢は毎晩、妻の体の玩弄《がんろう》だけは行なう。  その異物は、玩弄の指先にひっかかってきた。「おや」と目を近づけてよく観ると、ティッシュペーパーの断片らしい。まだ今夜は、それを使っていない。たちまち井沢の形相が変った。 「おい、これは何だ?」  夫の指の動きに陶然となりかけていた素子は、いきなり強い声をだされて、体をピクリと震わせた。 「あら、昼間詰めたティッシュペーパーが残っていたんだわ」  素子は夫の指先のものの正体を確かめると、こともなげに言った。 「何だと? 昼間詰めた、そりゃ何のことだ?」  井沢の面は、ますます穏やかでなくなった。 「馬鹿ねえ、なにかと勘ちがいしているのね。あなたがいつも中途半端で私を放り出すからいけないのよ」  素子は、夫の勘ちがいを笑って、自分の発明した欲望の閉塞《へいそく》方法を話した。井沢はその答えにいちおう納得したが、心の中にしこりが残った。  うまいこと言いくるめられたが、ティッシュペーパーが果たしてそんな用途に使えるものだろうか?  ——あれはやはり、浮気の後始末の名残りではあるまいか?—— 「ねえ、いつまでも指ばかりで遊んでいないで」  素子が催促した。見知らぬライバルに嫉妬《しつと》と競争心を刺戟《しげき》されて、井沢は可能な状態になりつつあった。  だが、彼は本行為に入る前に、確かめなければならないとおもった。 「あっ何をするの!?」  いきなり胯間《こかん》に顔を近づけようとした夫に、素子は悲鳴をあげた。そのような行為のパターンは、まだ夫婦の間に導入されていなかったので、びっくりしたのである。  彼女のあげた悲鳴で、隣室の洋一が寝返りを打った。とたんにたくましい可能性を見せていた井沢が萎えた。 「待って」  みるみる衰えていく夫の体に、素子はまたべつの悲鳴をあげた。 「ママア、どうしたの?」隣室から洋一の寝ぼけ声がおきた。この声によって、井沢は完全に止めを刺された。  ティッシュペーパーの一件は、井沢に抜き難い疑惑を植えつけた。欲望を鎮圧するために、体内にティッシュペーパーを詰めこむなどという話は、聞いたことがない。 「あれは、絶対に浮気の痕跡《こんせき》だ」  ——どうしてくれよう、ちくしょう——と、井沢は、怒りで胸の内が熱くなった。洋一の気配がしたために、逃れぬ証拠を確かめられなかったが、後始末の断片を体内に留《とど》めていたくらいだから、男と不倫の時間をもってから、いくばくも経っていなかったのにちがいない。 「不倫の痕跡を、夫との営みによって消そうとしたんだ」  もっと詳細に観察すれば、妻の体内に、男の残溜物《ざんりゆうぶつ》を見つけられたかもしれない。  ティッシュペーパーのおかげで応急の鎮静効果を得ているとは信じられない井沢は、妻が表面上は、前ほど体の疼《うず》きを訴えなくなったことも怪しい材料の一つに数えた。  こうなってくると、これまでなにげなく見過してきた生活のもろもろの断片が、ことごとく疑惑をそそるたねになった。  ——妻は、たしかにだれかと通じている——「そいつを必ず探し出してやるぞ」井沢は自分に誓った。  井沢は、手っ取り早く、興信所へ、妻の行動調査を依頼した。だが、報告は、「不貞の事実なし」であった。  彼は、その報告を信じられず、さらにべつの私立探偵に依頼した。報告は同じだった。それでも信じられなかった。 「プロの調査屋の目すらごまかすほど、巧妙にやっているのだ」  完全な疑心暗鬼の虜《とりこ》になった彼は、それほど巧妙な妻が、体内に不貞の痕跡を残すようなヘマをするはずがないことに気がつかなかった。      7  こんな状態のときに一つの事件がおきた。その日、彼は取引先を訪問して社へ帰る途中だった。車がある交差点で信号待ちをしているとき、彼は、時間の空白を埋めるために、青信号で動いている車の列にボンヤリと視線を泳がせていた。  実際に、どうしてこんなに動かなければならないのかとおもうほど、車の数が多い。一台ずつそれぞれの用事をかかえて走っているはずなのだが、路面を埋めつくした車の数に圧倒される。しかもその数は、ますます増えているようだ。  信号が橙《だいだい》になった。そのとき交差路の向こう側を左から右へ信号と競争するように横断した一台のタクシーがある。明らかに無理な横断だったが、タクシーは強引に渡ってしまった。  後部シートの車窓に、乗客の横顔がチラリと映った。井沢はおもわず息をつめた。そこに妻によく似た輪郭を見出したからである。その女のかげにもう一人乗客がいた。女の体のかげに隠れてよく見えなかったが、男であることはたしかだった。  よく見きわめようとして身を乗りだしたときは、すでにタクシーは交差点を渡り終っていた。 「きみ、あの車を追ってくれないか」  井沢は、慌てて運転手に頼んだ。 「井沢さん、無理ですよ、ここは右折禁止です」  会社の車の運転手は言った。目を凝らしたが、すでに登録番号を認められなかった。  その瞬間である。どうしたはずみか、妻(未確認)と並んだ男の乗客が後部の窓からこちらを振り返った。  井沢は、あっとうめいた。その�顔�に見おぼえがあったのである。折りから午後の斜光が、男の乗客の顔に白くあたっていた。それがこれだけの距離をおいて眺めると、目や鼻の凹凸《おうとつ》を消して全体的に白い平板な顔に仕立てていた。�あの顔�だった。雪の降る日、郷里の町の旅館の中で母を盗んでいた男、父の手足を扼《やく》して、焼殺した凶悪無惨な男、あの�顔のない男�が、いま妻とタクシーに相乗りして、目の前を走り去ったのだ。 「井沢さん、いったいどうなさったのですか?」  彼の異常な様子に、運転手が不審を抱いたらしい。 「いや、なんでもない」  と答えてから、彼はまた叫び声をあげた。バックミラーに映った運転手の顔が、光線のかげんで、真っ白に見えたのである。      8  その日、定時に退社した井沢は一直線に帰宅した。 「あら、今日は早いのね」  妻はびっくりしたような声をだした。 「早く帰ると、困ることでもあるのか?」  彼には、妻のしめした驚きが、男と逢ってきた後、常よりも早い夫の帰宅にまごついているように見えた。夫の帰宅が早すぎたために、体に残った不倫の痕跡を消すひまがなくなったのではないか。 「なんだか、からんでいるみたいね。まだお夕飯の支度にとりかかっていなかったのよ。すぐにするわね」 「飯の支度は、まだいい」 「どうしたの? 体の調子でも悪いの?」  どうやらいつもと様子のちがう夫に、素子は心配げな視線を向けた。 「いいからここへ来たまえ、話がある」 「急に改まってどうしたの?」  素子は、おずおずと近づいて来た。 「おまえ、今日、どこかへ行かなかったか?」 「べつに。一日中家にいましたわ」 「嘘《うそ》言え! 電話に出なかったじゃないか」 「それ何時ごろのこと?」 「三時ごろだ」 「ああそれだったら、PTAの懇談会に出席していた」 「懇談会だと? ××町の交差点でおまえを見かけたぞ」 「まさか。私、そんな所へ行かないわよ」 「わかるもんか、懇談会などといって、男と二人だけで懇談していたんだろう」 「いったいどうしたっていうの? 本当よ、疑うんだったら先生に聞いてみるといいわ。大山さんや武藤さんの奥さんもごいっしょだったのよ」 「男といっしょだったんじゃないのか」 「怒るわよ、何を勘ちがいしてるのよ」  素子は、本気に怒った表情をした。  井沢の胸にためらいが湧《わ》いた。具体的に証人もあげている。すぐに割れるような嘘をつくとはおもえない。近所の奥さん連はとにかくとして、学校の先生まで、抱きこんで偽証させるのは、不可能だろう。 〈すると、今日の午後、男と相乗りしていた女は、人ちがいだったのか?〉  ほんの一瞬のことだったので、顔を確かめたわけではない。チラリと通過したプロフィルに妻に似た輪郭を感じただけなのである。 「おや、おまえ、風呂へ入ったのか?」  井沢は、妻の肌が風呂上がりのような清潔な香りをたてているのに気づいた。 「教室の中が暑くて、汗をかいたので、いまシャワーを使ったところなのよ。あなたもちょっと浴びたらどう。さっぱりするわよ」  素子はまったく悪びれずに答えた。ふたたび井沢の中で疑惑が濃縮されてきた。  だが、素子のアリバイは証明された。たまたま次の日曜日が、父親のための参観日であったので、井沢は妻のアリバイを担任の先生に確かめてみた。 「奥さんは、たしかに先日の懇談会にお見えになりましたよ。いいえ、中座なんかされません。一時から三時まで、熱心に懇談に参加しておられました」  まさか、この教師が妻と通じているわけではあるまい。いったんはそこまで疑ってみた井沢だったが、いかにも真面目《まじめ》そうな相手に、井沢はその証言を信ずることにした。 〈やはり、あれは、他人の空似だった〉  シャワーを使ったのも、単純に汗を流すためだったのだろう、と彼は自分を納得させた。  だがこの事件があってから、また顔のない男の亡霊が、彼の周辺をうろつきまわるようになった。通りすがりの通行人が、郵便配達人が、ご用聞きの顔が、ふいっとのっぺらぼうに白くなることがあった。  ある朝のことであった。彼はそろそろ起きなければとおもいながらも、起床まぎわの快いまどろみに、一分二分と寝床の中でぐずついていた。  ふと下腹部に疼《うず》くものをおぼえた。寝足りた後の男におきる健康な朝の現象である。妻はすでに台所の方で朝食の支度をしているらしい。洋一は、まだ寝床の中でよく眠っている様子だった。チャンスだとおもった。  彼は急に妻が欲しくなった。枕元の時計を見ると、まだ多少の時間があった。 「おい、素子」  井沢は、洋一を起こさないように妻を呼んだ。朝食など、一食ぐらい抜いてもかまわないとおもった。洋一は寝つきの悪い分だけ、朝はなかなか目をさまさない。たとえ目をさましても、長いこと寝床の中でぐずぐずしている。朝は、夫婦生活の盲点かもしれない。  だが、台所にいるとおもった妻の応答がない。子供の目をさましてはなんにもならないので、あまり大きな声を出せない。井沢はそっと寝床を抜け出した。玄関の方に気配があったので、行ってみると、彼女が冷たい外気に頬《ほお》を紅潮させて戻って来た。 「あら、起きてらしたの」  素子は、まだ寝ているとおもった夫の姿を見出して、少しびっくりしたような声をだした。手に牛乳びんを数本かかえている。家では、洋一があまり牛乳を好まないのでとっていない。 「どこへ行ってたんだ?」 「階段のお掃除当番なのよ。いますぐご飯の支度するわね。洋一もそろそろ起こさなくちゃ」 「その牛乳は?」 「あまったからって、牛乳屋さんがくれたのよ。いらないって言ったんだけど、無理に押しつけられちゃって。きっと取ってもらいたいのね」  素子はうなじに落ちたほつれ毛をかき上げながら言った。朝のほどよい作業のせいか、少し呼吸を弾ませている。健康な艶《なまめ》かしさがあった。階段の窓から牛乳配達が、自転車に乗って遠ざかって行く姿が見えた。朝靄《あさもや》がその輪郭をかすませかけた。  そのときなにをおもったか、牛乳配達がこちらを振り返った。その顔は真っ白だった。  ——あの男だ!——  目を見ひらいた井沢の前で、牛乳配達は朝靄の中に溶けこんでしまった。 〈素子は、早朝の空白時間を利用して、あの男と逢っていたのだ〉 「あなた、どうしたのよ?」  素子は、突然形相を変えた夫にびっくりした。      9  それから間もなくのこと、井沢は、洋一に怪我《けが》をさせてしまった。その日、午後七時ごろ帰宅して来た彼は、いつものように戸口のブザーを押した。キーはもっているのだが、妻にドアを開けてもらったほうが、家へ帰って来た実感がする。すぐに室内に気配が起きた。足音から判断すると、洋一らしい。子供に迎えてもらうのも、なかなかいい気分である。  錠を外す音がして、ドアが開かれた。 「ただい……」と言いかけて、彼は、ワッと悲鳴をあげた。そこにのっぺらぼうの子供が立っていたのである。  彼は、夢中でその�怪物�を突き飛ばした。おとなに力まかせに突き飛ばされたのだから、たまったものではない。怪獣のゴムマスクをかぶって、父親をびっくりさせてやろうと出て来た洋一は、玄関の三和土《たたき》に転倒して、下駄箱《げたばこ》の角に激しく頭を打ちつけた。  盛大な子供の泣き声に、なにか揚げ物をしていたらしい母親がびっくりして飛んで来た。 「まあ、洋一、いったいどうしたのよ、あなた、これはどうしたことなの?」  打ちつけた個所に、みるみるコブの盛り上がるのがわかった。井沢も、自分の勘ちがいを悟った。 「救急車だ!」  彼は電話機に走った。頭の怪我は恐い。そのときはなんでもないように見えても、後になってから頭蓋《ずがい》内に出血がはじまって、危機に陥ることがあると聞いていた。  まだ泣いているうちは、だいじょうぶだろうが、突き飛ばしたときの手応《てごた》えや、コブの大きさからみて、かなりの衝撃をあたえたことがわかる。 「あなたあ、大変!」  また、妻が悲鳴をあげた。キチンの方角が明るい。揚げ物をしていた鍋《なべ》の中に火が入ったのだ。炎はたちまち天井に届いた。井沢は一一九番に救急車の要請と火災の発生を同時に告げた。  連絡が早かったので、火は、ボヤのうちに消し止められた。洋一の頭の怪我も大したことはなかった。念のために、腰椎《ようつい》穿せん刺《し》や脳波検査も行なったが、異常は認められなかった。  だがこの事件で、井沢夫婦は近所に対して肩身が狭くなった。救急車を要請したのは、二回めである。必要があれば、何度呼んでもさしつかえないが、短い期間内に、二回も呼んだのは、彼らだけである。しかも親の不注意によって子供を傷つけ、二回めは火災までおこしかけたのだから、申し開きが立たない。 「あなた、私、引っ越したいわ」  素子は訴えた。井沢も本気で転居を考えた。これまでは、適当な移転先が見つからなかったので、なんとなくここに居ついていたが、もはやそんな悠長《ゆうちよう》に構えていられなかった。  どんな無理をしても三部屋以上ある家を見つけなければ、自分は本当に不能《だめ》になる。今度の火事騒ぎは、転居のためのよいきっかけかもしれない。  考えてみれば、これまでの事件《トラブル》は、すべて狭い家屋構造によって自分の幼時の屈折が触発されたのが原因になっている。子供の寝る場所と夫婦の寝室の間にワンクッション入れられれば、すべては解決されるだろう。  だが、狭い家からより広い家へ移ることは、現今の大都会の住宅事情では、至難であった。やや通勤距離は遠くなるが、近県の分譲住宅に申し込んだり、3DKの公団住宅に切り換え応募したりしたが、なかなか機会はまわってこなかった。  だがそのうちに微妙な変化が、一家の中に起きた。井沢と素子は、次第に軽快する痛みのように最初の間、その変化に気がつかなかった。  ある夜、夫婦の営みをもった後、井沢は、ふと妻に言った。 「おまえ、このごろティッシュペーパーを詰めてないみたいだな」  素子は、初めその意味をとらえそこなったようだった。 「あら、いやだわ。いきなりなにを言いだすのかとおもえば」  素子は、うすく紅潮した頬《ほお》を押えた。ここのところ満足すべき営みがつづいている。彼女の紅潮も、燃えつきた後の余熱の火照《ほて》りに、含羞《がんしゆう》が加わったものである。その様子を観察できるのも、スタンドの「最微光」を点《つ》けているせいであった。 「このごろ、そんな必要ないんですもの」  彼女は、実りに達した裸身をくねらせた。 「そういえば、最近、灯も点けておくようになったね」 「あら、そうね」  素子は、新しい発見でもしたように言った。 「どうしてだろう?」 「洋一がおとなしくなったのよ。このごろ寝返りも打たずに眠るようになったからよ」 「また睡眠薬を服《の》ませたんじゃないだろうな」 「ふふ、まさか。もう懲《こ》りたわ」 「どうしておとなしくなったんだろう?」 「あなたが誤って頭に怪我をさせてからよ。あれから性格まで変ったみたいだわ」 「性格か……そう言えば」  井沢には、おもい当たることがあった。あの事件以来、子供との間にどうも距離ができたような気がする。これまでは、どちらかといえば洋一は「父親っ子」で、よく井沢にまつわりついた。  それが彼に誤って突き飛ばされてから、近寄らなくなった。いつの間にか垣根をめぐらせたような目を父親に向けている。好意のない無機的な視線だった。  井沢は、恐がっているのだとおもった。救急車で運ばれるようなショックを父親から加えられたのだから、当分の間、恐がられてもしかたがない。  しかしそのことと、夜、静かに眠るようになったことと、どんな関係があるのか? 井沢は、どうも気になった。だが、おかげで夫婦生活が復活した。いったん寝床に入ると、まるで死んだようになって、朝まで眠っていてくれるので、夫婦は安心して営みに耽《ふけ》れるようになった。  当初はかえって、あまり静かなのが気になって、狸寝入《たぬきねい》りではないかと、様子をうかがいに行ったものだが、ぐっすり眠っているわが子に安心して、より奔放で淫《みだ》らな夫婦の宴《うたげ》を開いた。  彼らは、だんだん大胆になっていった。灯も、「最微光」から、「最強」に切り換えた。体位も次々に刺激的なものを試みた。げんきんなもので、素子は転居について言わなくなった。「人の噂《うわさ》も七十五日」というが、現代の情報化時代には、例の出火事件を人々は速やかに忘れてくれた。  新しく、よりショッキングなニュースが、日々|氾濫《はんらん》している時勢に、人々は団地の片すみから発したボヤのことなど、いつまでもおぼえていなかった。  一時は、身をすぼめるようにして歩いていたのが、いつの間にか、負い目が除《と》れた。べつに威張りはしないが、隣人たちと対等の立ち場へ戻っていた。  素子は、性的に充《み》たされて、すべてが好転したようにおもえた。一時期の空白があったために、よみがえった夫婦生活は、以前に増して新鮮であり、日々新たな驚きと発見があるようだった。 「私たちって、まるで新婚みたい」 「どうして?」 「あの味をおぼえたての新妻みたいに、夜が待ち遠しくて」 「あの味って、何の味だい」 「意地悪ね」  素子は、夫をにらんだ。だが、井沢は、事態が根本的に解決していないことを、体のどこかに感じていた。たしかに、洋一の生まれる前の、新婚の時代のように、夫婦生活は復活した。むしろ妻の体は、時間の経過に相応する実りと発達をみせて、テクニックも巧妙になった。つまり、味にコクが出てきたのである。  だが、井沢にはわかった。いるのだ。あの男が。妻の身辺のどこかに。あの都心の交差点で、彼女とタクシーの相乗りをしていた白い顔の男が。さらに溯《さかのぼ》って、母を玩《もてあそ》び、父を焼殺した顔のない男が、妻の身辺を徘徊《はいかい》している。  井沢には、その男の足音が聞こえる。その男の体臭が、妻の体に残っているのがわかる。その男が妻の体を盗んでいるのだ。井沢の目の届かない場所で、妻を蚕食《さんしよく》している。  ——この状態は、決定的な破局の来る前の小康にすぎない——  とは言え、その男がどこにいるのかわからない。専門の調査マンすら見つけ出せなかったのである。本能的にその男の存在を嗅《か》ぎつけても、居場所の突き止めようがなかった。  三十数年前に父母に関わりをもった男が、ここへ現われるはずがないことはよくわかっている。あの男が井沢の所在を知るはずがない。これが被害|妄想《もうそう》というものであろう。だが、井沢には、その想《おも》いを拭《ぬぐ》い去れないのだ。むしろ、日を経るほどに強くなってくる。相手の正体をつかめないだけに、いらだたしかった。  素子との営みは、ますます密度を強めてきた。夫婦の接着感が濃厚となり、熟練と技巧が、官能の刺激と喜悦を高めた。  素子は、雑誌や人から聞いた知識を、貪婪《どんらん》に、自分たちの寝室に導入した。刺激は、さらに強い刺激を求めてエスカレートする。 「ねえ、あなた、一度モーテルへ連れて行ってくださらない」  素子はせがんだ。 「自分の家があるのに、なにもそんな所へ行くことはないだろう」 「でも、モーテルは、そういうことをするための専門の場所でしょう。週刊誌なんか見ても、ずいぶんいろいろな趣向が凝らしてあるわ。一度、実地に見学して、応用できるものがあれば、うちでも真似《まね》したいのよ」 「そんな真似なんかする必要ないよ」 「でも楽しいじゃないの。わが家でモーテルへ行った気分が味わえるなんて」 「洋一はどうする?」 「学校へ行っている間に、あなたちょっと会社を抜けられない?」 「おまえには呆《あき》れたよ」 「ね、いいでしょ、お願い。連れてって」  妻にせがまれて、井沢も止むなくといった形で腰を上げた。だが、彼自身も十分に興味をそそられていた。そのような場所へ行くのは、彼も初めてである。夫婦でありながら、なにか人目を忍ぶ情事を働いているようなうしろめたさを感じた。それがこれまでの夫婦生活にはない、新鮮な感動をあたえた。  モーテルの�特室《とくしつ》�の中で、二人は、まるでべつの男女の組み合わせになったように燃えた。彼らが通された部屋は、『鏡の間』である。壁、床、天井すべて鏡でできている。その中央に据えられたベッドが、行為の最中回転するという奇抜な設計になっていた。風呂《ふろ》までが、シースルーで、女性の入浴中の姿態を、寝室のベッドの上から鑑賞できるようになっている。 「なんだか、�ガマの油�のようだな」  最初に部屋に通されたとき、四方、上下から何十何百の自分たちの映像に囲まれて、二人はギョッとなった。 「無数の自分の分身に監視されているみたい」  素子も、さすがに辟易《へきえき》したらしく身体をすくめている。だがこの部屋が、このモーテルでは最高の人気があり、予約を取るのに、苦労したのだ。 「人に覗《のぞ》かれているみたいで、いやだわ」 「部屋を替えてもらおうか」  井沢は、鏡がマジックミラー式になっていて、裏側には、覗きの客が息を殺して彼らが行為をはじめるのを待っているような気がした。  だがすでに代替えの部屋はなかった。やむなく、彼らは、その部屋を使うことにした。いまから出ても、同じ料金を取られると聞いて、素子が使わなければ、損だと言いだしたのである。  抱き合って初めて、彼らはその部屋のもつ強烈な刺激を知った。無数の彼らの裸像が、空間の上下四方に折り重なり、相似的に無限に連なっている。本体の一挙手一投足を忠実に反映して、無数の裸像があえぎ、うめき、のたうちまわる。しかも、回転ベッドによる本体の旋回とともに、裸像の群も移動する。対《むか》い合う鏡と鏡の屈折によって、裸像が空間に氾濫《はんらん》する。前後左右上下に井沢と素子が乱舞している。  それは壮大な�乱交�であり、いかなるそれよりも規模が大きく淫奔《いんぽん》でありながら、本体の動きによって規制された、規則正しい軍隊のように統率がとれていた。  もしかすると、だれかに覗かれているかもしれないという不安が、いやがうえにも刺激を強めた。いや、すでにそこには無数の彼らの分身の目があった。鏡の乱反射によって造り出された虚像とはおもえないほどに、一つ一つが生き生きとしており、それぞれの個性をもっていた。本体が彼らに目を向けると、無数の視線が、二人に集中した。 「凄《すご》いわ」素子があえいだ。  だが、井沢は、もう一つのべつの視線を感じていた。鏡の奥のどこからか、射るように注がれてくる金属的な観察の目。あの男の目であった。顔のない白く冷たい視線が、群舞する井沢と素子の裸像の間に潜んでいた。      10  モーテルの鏡の間の体験は、ひどく素子の気に入ったらしい。 「ねえ、あれだったら、わが家にも応用できるんじゃない?」 「冗談じゃない、あんなガラス箱のような部屋はつくれないよ」 「あんな本式にする必要はないのよ。姿見をもう一つ買ってきて、鏡台と対い合わせにおいたら、あの感じが味わえるんじゃない」 「鏡の真ん中に寝床を敷くのか」 「そうよ、自分たちの姿を見ながら、アレするなんて、凄いじゃない」  素子は、含み笑いした。モーテルの強烈な刺激を反芻《はんすう》しているのだ。  結局、妻に口説《くど》かれて、井沢は寝室の�模様替え�をした。といっても2DKの中の一間に、新しい姿見を一つ追加しただけである。  モーテルほどの規模は出せないが、それでも対い合わせた鏡の中央で抱き合うと、いままでにはない煽情的《せんじようてき》な雰囲気になった。 「これ、凄くいいわ」  素子は、敏感になった。二人は、鏡の間《あいだ》で痴戯のかぎりをつくした。 「ねえ、鏡の向きを変えてみない?」  途中で素子が提案した。角度を変えると、相似的に連なっていた映像が消えて、一組の映像だけが、正確に自分たちの動きをコピイしていた。 �乱交�の迫力はないが、これはこれで鏡の向うにもう一組の自分たちがいるようで、おもむきがあった。 「あなた」  耐えきれなくなった素子が、サインを送ってきた。頂きの近いことを、夫婦双方の体が伝え合っている。  井沢は、引き金を引きかけた。その瞬間である。鏡の中に、なにか動くものを感じた。妻の体をもみしだきながら、鏡面をうかがった。  向うの二人も、手を携えて、頂上へ登ろうとしている。激しくあえぎ、動いている。本体の忠実なコピイであり、特に不審な動きはなかった。 「あなたあ、早くう」  妻が、下からせがんだ。  ——気のせいだ——自分にうなずいて、桜色に染まった妻の裸身に向かって力《エネルギー》を集中しようとした。  そのとき、井沢は見た。鏡の奥の闇《やみ》の一角から、ひた[#「ひた」に傍点]とこちらに据えられている白い冷たい視線を。——あの男の目だった。いつの間にか隣室との間仕切りの襖《ふすま》が、細く開けられ、そのわずかな間隙《かんげき》から冷徹な観察の目が向けられているのだ。  ガクンと井沢の体が停まった。 「どうしたのよう?」  素子がもどかしがって、のどの奥を鳴らした。その声は、すでに井沢の耳に届かない。あの男の目が襖のかげから覗いている。どうしてやつがそこにいるのか? 理由はわからないながらも、だいぶ前からそこにいて、金属的な観察眼を井沢夫婦の行為に当てていたのだ。  あの顔のない男が。——いや今度は、顔があった。�福笑い�が完成したように、幼い日からいままで空白だった顔に、目や鼻や口がちゃんとついていた。顔の特徴もはっきりと捉《とら》えられた。  とうとう正体を突き止めたのだ。その顔を井沢は知っていた。母を玩び、父を焼き殺し、井沢までも巻き添えにしようとし、そして妻を盗んだかもしれないその男の顔を、井沢はよく知っていた。 「きさまだったのか!」  井沢は、襖のかげの視線の持ち主に言った。だが相手は少しもたじろがず、まばたきもしない視線を、井沢の面に据えている。 「ねえ、あなた、いったいどうしたのよう」  妻にうながされて、井沢は、「鏡の中の妻」へ目を向けた。井沢のコピイが、妻の体を折り敷いている。コピイの顔が、本体の顔をにらんだ。いやらしい顔だとおもった。  その顔にも見おぼえがあった。井沢自身の顔としてではない。遠い以前に溯《さかのぼ》る雪の日、旅館の中に母とともにいた男の顔であり、父が焼殺されたとき、影のようにかすめ去っていった顔が、いま自分の顔と完全に重なって、鏡の中からにらんでいる。それは、襖のかげから覗いている顔の相似形でもあった。  空白の顔がよみがえると同時に、埋もれていた記憶がいっせいに生き返った。  母を盗んでいた男の顔は、井沢そっくりであった。井沢が、あのとき雪の旅館の中で、一瞥《いちべつ》した男と同一人物のように似ていた。あの男が井沢の�実父�だったのだ。  井沢は、両親に連れられて、あの海岸の崖《がけ》の上へ行った。�義父�(戸籍の上では実父)の目を盗んでの親子三人の初めての楽しい行楽であったかもしれない。だが幼い井沢は、そうはおもわなかった。両親は、たまの逢《お》う瀬《せ》を、井沢を疎外して楽しんでいた。事実関係を知らぬ井沢には、実父は、母を盗んだ憎い男でしかない。盗まれた母も自分から遠ざかってしまった。  一瞬、幼い心理にどのような殺意が働いたか、いまとなっては復元する由もない。井沢は、崖の端に寄り添いあって風景に見惚《みと》れている両親の背中を突いた。  幼い力であったが、無防備のところを突かれたので、体勢が崩れた。それを立て直すための地面の余裕がなかった。両親は、たまらず垂直の空間に放り出されて、�心中�してしまった。  警察の取調べに対して、井沢は黙秘した。保身の知恵などはなかった。自分の行為の性格と、それが惹《ひ》き起こした結果の意味がよくわかっていなかった。 �孤児�になった井沢を、義父が引き取った。義父は、井沢を虐待した。井沢はある夜、泥酔して寝こんだ義父の手足を、どこからか探してきた丈夫な綱で縛った。結び方もよく知らなかったが、長い時間をかけてしっかりと縛った。綱の端をさらに柱に巻きつけた。 �用意�がととのったところで、これも昼の間に秘かに集めておいた新聞紙や紙くずに火を放った。ちょうど乾燥していた時期だったので、火の手はたちまちに広がった。  義父は、酔い潰《つぶ》れたまま、猛火に包まれてしまった。熱感も苦痛もないままに焼け死んでしまったのだろう。  彼らを殺したのは、井沢の幼い自衛であった。幼い視野の中に破廉恥《はれんち》な痴戯を隠そうともせず、いやむしろ見せつけるように、繰り広げたことに対する報復でもある。  もちろん、彼らのしていることの意味はわからなかった。だがなにやら獣めいた遊びをつづけるために、彼らは井沢に猿轡《さるぐつわ》をかませ、手足を縛り、雪の中に危うく凍死しかけるまで放置した。  このままでいると、きっと彼らが自分を殺すような気がした。幼い知恵が精一杯に張りめぐらした自衛策であった。  だが、殺してしまった後で、自分がなにか途方もないことをしでかしたらしいことが、わかった。そうでなければ、おとなたちがあんなに騒ぎたてるはずがない。しかし井沢は、自分がやったような気がしなかった。 �もう一人の自分�が、自分から遊離してやったようなのだ。  夢の中のできごとのように、行為の実感がまったくなかった。あれは自分にとっても不愉快な記憶である。おぼえていると、将来必ず不利益がもたらされる。自衛のための記憶の抑圧が行なわれた。こうして両親と義父を殺した犯人は、顔を失った。井沢の記憶の中で、白いのっぺらぼうの顔になった。  井沢が犯人を捜そうとしたのは、自分でかけた抑圧が、心の負担になってきたからである。自ら背負った荷物の重みに圧迫されたのだ。記憶喪失者が、失われた記憶を取り戻そうとするように、彼は心にめぐらせた仕切りの壁を取り払おうとした。  そして、いま犯人は、空白の顔の中に、殺人者の凶相を取り戻した。そのために、その凶相に妻との行為を覗かれながらも、井沢は依然として持続していた。  襖のかげから覗いているのは、洋一である。鏡の中で妻の体を貪《むさぼ》っているのは、井沢自身の映像である。  だが、井沢にはそうは見えなかった。両親と義父を殺した犯人が、襖の間から覗き、妻の体を犯しているように見えた。�父子�であるから、同一人物の顔のように相似していた。  洋一の顔は、幼い日の井沢そのままであった。井沢はああいう表情で、あのような目つきをして、母と義父の行為を見つめていたのだ。  義父を焼き殺したとき、井沢は自分自身の姿を鏡台の中にみたのである。 「もう逃がさないぞ」  井沢は言った。まず、自分の目を盗んであの男と通じている妻におもい知らせてやらなければならない。 「あなた、何をする……」  言いかけた妻の言葉は、のどにかけられた握力によって潰された。 「死ね、きさまのような女は死ね」  井沢は、妻の首にかけた手に渾身《こんしん》の力をこめた。胃か、なにかの器官でも潰れたのか、妻ののどの奥がぐぐっと鳴った。  素子はもがきつづけている。それは絶望的な抵抗であった。二つの身体は、結合されたまま、殺意が遂行されている。虫ピンで止められた蝶《ちよう》のように体の中心を貫かれたまま、彼女は手足に断末魔のあがきを伝えた。むっちりと実った美しい股《もも》が、井沢の腰をはさんではね上がった。  止めの力を加えたとき、井沢は急激に高まった。妻の体内に夥《おびただ》しい体液を排《は》き出したと同時に、彼女の呼吸が停止した。  そのさまを、襖の間から洋一がまばたきもせずに見つめていた。それはすでに洋一ではなかった。  自分を狙《ねら》っている顔のない男だ。このまま放っておけば、いつか必ず自分を殺す。かつて井沢が、父母を崖から突き落とし、義父を焼殺したように。—— 〈いや、おれが殺したのではない。あいつが殺したんだ〉 「今度こそ逃がさないぞ」  井沢は言って、動かなくなった妻の体の上から立ち上がった。彼の体の先端と、妻の体の間を白い体液の糸がひいて、やがて切れた。  糸が切れた後も、井沢の進む方向にしたがって、糸が床の上に筋をひいた。その筋の向かう先には、洋一が魅入られたように目をみひらいたまま居すくんでいた。 [#改ページ]    燃えつきた蝋燭《ろうそく》      1  雨なし記録六十日を越えた東京は、乾燥しきって、毎日火災が何件も続発した。空気が乾ききっているので、煙草の火は、絶対に自然に消えない。マッチを擦っただけで火薬が飛び、飛んだ先に可燃物があれば、たちまち火の手が広がってしまう。カステラなどをうすく切って、数分もだしておけば、乾パンのようになってしまうほど、乾いているのである。  一月十五日午後十一時ごろ、東京、中野区|弥生《やよい》町の老朽アパートの一室から発した火の手は、たちまち広がり、建物全体を炎で押し包んだ。消防車が駆けつけたときは、炎はすでに建物の実質のほとんどを舐《な》めつくしていた。  火勢は峠を越していたが、それは消防の働きではなく、燃焼物がなくなっていたからである。  鎮火した後、現場検証によって、焼け跡から一個の焼死体が発見された。正確には一個と一匹である。焼死者が抱きかかえるようにしたなにかの小動物の焼死体がいっしょにあったからである。  火勢の強さをしめすように、死体はほとんど炭化して、性別も見きわめられないほどであった。動物も、犬か猫か判然としない。アパートには二十六世帯五十数人の住人がいる。その中のだれかが、ペットを救いに戻って、火の手に捉《とら》えられたものとみられた。  佐倉辰二《さくらたつじ》は、寝床に横たわったまま、一歩も動けなくなっていた。年齢は六十五か六か七か、この数年、齢《とし》を数えることを止めてしまったので、自分の年齢も曖昧《あいまい》になっていた。  まだ老衰して身動きできなくなる年齢ではないが、若いころさんざん悪いことをした罰か、数年前から身体がめっきり弱った。強いて動くのも億劫《おつくう》なまま、寝床に寝たきりでいるうちに、足腰が役に立たなくなってしまったのである。  それでも、一週間ほど前までは、トイレに行くぐらいのことはできた。それが、数日前、階段で足を踏みはずして腰を打ってから、動けなくなった。無理に動こうとすると、激痛が、腰から頭へ抜ける。腰の骨にひびでも入っているらしい。少し寝《やす》んでいれば癒《なお》るだろうとたかをくくって、特に手当てもせずに寝ていたのだが、いっこうによくなる様子はない。  いわゆる�老骨�の損傷は、なかなか癒りにくいものなのだろう。  佐倉は、今日で一週間近く、ほとんど飲まず食わずで寝ていた。だれも訪ねて来る者はない。腹もあまり空《す》かなかった。最初のうちは少し空腹を意識したが、三日めごろから、感覚が曖昧になった。なにも腹に入れないから、排泄《はいせつ》の心配もない。時々のどをしめす程度に水を飲むが、汗になって発散してしまうらしい。 「このまま死んでいけたら、世話はないな」  彼は妙に安穏《あんのん》な気持で、自分の死を想《おも》った。どうせ、これ以上生きていても、意味のない身である。すでにこれまでの人生でしたい放題のことをやってきた。 「その成れの果てが、場末のアパートでだれにも知られることなくひとり餓え死にか。おれらしい死にざまかもしれないな」  彼は、寝床の中から、しみの浮き出た天井を見つめて、うすく笑った。  空腹感が去ると、意識が朦朧《もうろう》としてきて、これまでのおもいでが、前後の脈絡もなく次から次に浮かんできた。終日うつらうつらしながら、彼は自分のえがいてきた人生の軌跡を追っていた。  佐倉には、娘が一人いた。彼が二十三歳のとき、仲居《なかい》をしていた女に産ませた娘である。関係を結んでから、二年ほど同棲《どうせい》生活をつづけている間に、彼女が産まれた。娘が一歳のときに、佐倉には、新しい女ができて、妻子を捨てた。  佐倉が家を出ようとすると、妻は彼の足にすがりついて、「行かないで」と泣いて頼んだ。それを振り払って、佐倉は新しい女の許《もと》へ走った。あい争う夫婦(内縁関係)の足許で、一歳の娘が火のつくように泣いていた。  あのときの泣き声が、最近耳によみがえってくるようになったのも、死期の近づいた証拠だろうか。  母娘は、佐倉に捨てられてから、却《かえ》って運がついたようだった。母親が裕福な材木商に見染められて、その後妻へ納まった。娘も長じて都心で名の売れたレストランを経営している男の許に嫁いだ。  その間、佐倉は落ちる所まで落ちた。競馬のノミ屋、ポン引き、ソープランドのマネージャーという名前の管理売春、ヌードスタジオの経営、ブルーフィルムの撮影から、その演技者《プレイヤー》になったことすらあった。このアパートに棲《す》みついたころは、血を売るようになっていた。  年齢を偽わり、蒼《あお》ざめた頬《ほお》に頬紅でメーキャップをして、他人の採血カードを借りてまで、一か月七、八百グラムも売血する。過度の採血が、彼を年齢よりはるかに老けこませた。  各病院では、彼を悪質の�血売り屋�としてフレを回したので、彼はついに血を売ることさえできなくなった。  進退きわまった彼は、娘の嫁入り先へ行った。妻はすでに死んでいた。娘は、佐倉の来るのを恥じて、多少の金をあたえて、追いはらった。だが、佐倉はこれに味をしめて、金につまると、娘の許へ行った。  来られたくないから、金をやって門前ばらいを食わせる。これは一種の恐喝《きようかつ》であった。絶好の金蔓《かねづる》を得た彼は、血を売らずになんとか生活できるようになった。だが生活の心配がなくなった彼は、急に生きるのがつまらなくなった。金をせびる都度、娘は、「お父さんなんか、生きていないほうがいいのよ。早く死んでしまえ」と言った。 「あなたなんか、お父さんじゃない。お母さんと私を捨てておいて、いまさら父親面しないでよ」とも罵《ののし》った。  娘にそう言われても仕方がなかった。考えてみれば自分は、この世に生まれてきてから、なにも世の中のためになるようなことをしなかった。殺人や強盗などの凶悪な犯罪こそしなかったが、いつも人に迷惑をかけ、女たちの生き血を吸い、小さな悪を積み重ねてきた。 「娘の言うように、このへんが引きぎわかもしれないな」と佐倉はおもうようになった。  身体の老衰とともに、欲望もなくなってきた。人間の脂が抜け落ちたことも、彼を無気力にしたてていた。そんな折りも折りに、佐倉は階段から落ちて、腰を打ったのである。      2  夢を見ていた佐倉は、ふっと目覚めた。静かだった。アパート全体が寝静まっているようであった。いま何時ごろか? 時間の観念がなくなってから久しい。目覚まし時計はあるが、ずいぶん以前から停まったままである。  時間というものは、「生きている人間」にとって、必要なものである。佐倉は、すでに人間をやめていた。呼吸こそしているが、それはすでに植物的な生理機能が働いているにすぎない。 �植物人間�に時間は不必要であった。  どんな夢を見ていたのかおもいだせない。果たしていま目覚めたのか、あるいは夢の中で、「目を覚ました夢」を見ているのかもわからない。  彼は、鼻をくんくんさせた。焦げ臭いにおいがした。紙が燃えたようなにおいだった。だが窓から来る外のうす明かりに煙りの流れている気配はない。 「何だろう、このにおい?」  彼は枕元《まくらもと》を手探りした。だが煙草は数日前に切れて、それ以来マッチを使ったことはない。一日二百本ぐらい吸わずにいられなかった彼が、もう四、五日もノースモークで平気なのも�植物化�の進んだ証拠である。  異臭は、ドアの方から来ているらしい。このにおいのために目が覚めたのかもしれない。夢ではなかった。現実のことだった。 「気のせいだ」  佐倉は、頭を振った。この老朽アパートには、いつも異臭がつきまとっている。便所のアンモニア臭、饐《す》えた食物、赤ん坊のおむつ、漬け物などのにおいが渾然《こんぜん》として、アパートの�体臭�をつくりだしている。  そのにおいの中に、焦げ臭いにおいがあったかもしれない。佐倉の嗅覚《きゆうかく》も、すでに鈍化していた。  風が流れこんで来た。妙に生暖かい風であった。佐倉はハッとした。その風が縞模様《しまもよう》をえがいているように見えたからだ。しかし窓からのうす明かりでは、はっきりと見届けられない。灯《ひ》をつけるための身動きもできない。  風は戸口の方から来る。その風に煙りが乗っているようだった。 「まさか」  不安が、煙りといっしょに、胸の中に湧《わ》いてきた。佐倉は、全身を耳にして、アパートの中の気配を聞いた。なにも動いていない。話し声もない。テレビの音も聞こえない。住人は朝の早い仕事をもっている。この時間には、みんな寝静まっているのだろう。佐倉は、どんな人間がアパートに住んでいるのかよく知らない。もともと移動の激しいアパートで、住人同士の交際はほとんどない。  たまたま家賃が安いから人生のほんの一時期を住みついただけである。単に寝るためだけの場所を隣り合ったからといって、つき合う理由にはならないのである。  佐倉は、老衰して体を動かすのが億劫《おつくう》になったので、このアパートで古株になったが、彼が古株であるということを、いや彼の存在すら住人たちは知らないようであった。異臭は、ますます強くなった。それに伴って彼の不安は増幅してきた。気のせいではなかった。たしかに、なにかの焼燃するにおいが、空気の流れに乗って、佐倉の枕元に漂ってきている。 「もし火事になったら!」  連想が、増強した不安に火をつけて、恐怖に変えた。 「おれは、身動きできない。だれも助けに来てくれなかったら」  このまま餓え死にしてもよいと考えていたが、じりじりと炎に焙《あぶ》られて死ぬ恐怖が、そんな達観を吹き飛ばした。達観でもなんでもなかった。動けないままに寝床に転がっていただけであった。  枯れ切ったとおもっていた身体の底から、自分でも驚くほどの恐怖が湧き上がってきた。佐倉は噎《む》せて咳《せき》をした。煙りはすでにそんなにも濃く室内を満たしていたのだ。 「火事だ! 火事だぞ!!」  佐倉は、必死にどなった。だが数日間の絶食に老衰が加わって、弱々しく声帯が震えただけであった。ほとんど声にならない声を、だれかが聞きつけてくれる可能性は、まずない。廊下の方でパチパチとなにかが弾《は》ぜる気配がした。もうまちがいなかった。恐るべき火魔が鎌首《かまくび》をもたげて、自分に迫っている。  それに対して自分は身動きができない。声も出せない。ただ黙って火の手の蹂躙《じゆうりん》に身を委《ゆだ》ねている以外にない。ようやく人の騒ぎ出す気配がしてきた。いまごろになって気がついたらしい。 「火事だ!」 「消防を呼べ」  廊下を乱れた足音が走った。窓ガラスや戸の割れる音がした。女の悲鳴と、子供の泣き声が同時に起きた。一瞬の間にアパート全体は騒然たる気配につつまれた。  佐倉の部屋の隅がうす赧《あか》く染まった。火の手はもうそんなにも間近に迫っているのだ。 「馬鹿! 荷物なんか捨ててしまえ、早く逃げるんだ」  隣りの部屋の方でどなり声がした。 「だってあんた、ようやく月賦で買ったものなのよ」  妻のものらしい声が反駁《はんばく》した。 「命あってのものだねだ。早く逃げないと焼け死ぬぞ」 「あなたあ、階段はもう下りられないわ」 「こっちだ! 非常口へ逃げろ」  隣人の足音が、廊下を遠ざかって行く。 「待ってくれ! おれがここにいる。おれを救けてくれ」  佐倉は、逃げる足音へ向かって救いを求めた。だが、ただでさえも弱々しい声が、身一つの逃路を探し求めて動転した人々の耳に届くはずがなかった。  なにかが崩れ落ちる音がした。震動が寝たままの佐倉の背に伝わった。窓ガラスが赧く染まり、室内の様子がはっきり見えるほどに明るくなった。遠方で消防車のサイレンが鳴っていた。  だれかが笑っていた。最初は抑えた忍び笑いだったが、だんだん高まって、狂ったような笑声になった。 「あんたなんか死んじまったほうがいいのよ。世の中がその分だけ、きれいになるわ」  妻が、娘が笑っていた。  妻が彼の足にすがりついた。「行かないで」と頼むのを、蹴《け》り離した。  一時、佐倉は家出少女の�仕込み�をやったことがある。上野駅構内にたむろして、それとわかる少女を言葉巧みに欺いて旅館へと連れ込む。関係してから、ソープランドや売春バーへ斡旋《あつせん》する。これを彼らは�仕込み�と呼んで、売春戦力の重要な供給源となっていた。  関係する場面を盗み撮りさせて、長く恐喝のタネにしたこともある。かつて犯したり、欺《だま》したりした女が、いっせいによみがえって笑っていた。 「おまえなんか死んじまえ!」 「人間のくず!」 「ろくでなし! ごみのように燃えちまえ」 「あんたがこの世の中でできるたった一つの善いことは、あんたが死ぬことだわ」  女たちは、火の手の迫る寝床に縛りつけられた佐倉を、おもしろい見せ物でも眺めるように見物していた。佐倉が彼女らに為《な》した悪業に対して、この一瞬のうちに復讐《ふくしゆう》しようとしているかのように、彼女らの顔は残酷な喜悦に輝いている。 「たすけてくれ! おれが悪かった。おれをたすけてくれ。おれは心の底から後悔している。これからは生まれ変ったつもりで、罪の償《つぐな》いをする」  彼は、女たちに哀願した。 「後悔するのが、遅すぎたわね。そんな棺桶《かんおけ》に片足、いえ両足突っこみかけてから、前非を悔いてもなんにもならないわ」 「すっかり人間の脂が抜けちゃってるじゃないの。そんなよぼよぼになってから、どんな償いをするつもりなのよ?」 「あなたが火に焼かれるさまをゆっくり見物させてもらうわ。できるだけゆっくりと、苦しんで死ぬのが、あなたの最高の贖罪《しよくざい》なのよ」 「そんなに老いさらばえても、焼かれれば、脂が出るかしら? 私、老人のバーベキューって一度見たいとおもってたのよ」  女たちの中で、最も残酷な言葉を言ったのは、妻と娘であった。  枕元が熱くなった。火の粉が吹きこんできたのである。廊下は完全に火の手につつまれたらしい。うすいドア一枚隔てて、盛んな火勢が感じられた。激流のような燃焼音が走っていた。  突然廊下に足音がした。 「もうだれもいないか?」 「全員避難したようだ」 「一部屋ずつ確かめてみよう」  消防署の決死隊が来たらしい。棟《むね》の端の方から、一部屋ずつドアを開いて、確認している様子である。 「たすかった」  佐倉は、ホッと息を吐いた。間もなく自分は発見される。消防署員によって安全圏に運び出されるだろう。 「まだまだおれの運は尽きていないと見える」  佐倉はひとりでに頬が弛《ゆる》んだ。もう人間をやめたはずの自分が、生にこんなにも執着しているのを知って驚いた。救われるのが、これほど嬉《うれ》しいとはおもわなかった。 「おい、もう危険だ。退路を断たれる」  確認の気配が隣室まで来たとき、声がした。 「そうだな」  べつの一人がうなずいた。 「おうい、もうだれもいないか」  声をかけてから、足音が遠ざかって行った。 「待ってくれ!」  佐倉は、必死に呼び戻そうとした。だがかりに普通の声を出せたとしても、火勢の荒れ狂う音に吹き消されたであろう。  室内が急に赧々《あかあか》と照らしだされた。ついに炎の舌端が、ドアを突き破って侵入して来た。光度とともに火熱が頬を焦がした。  黒い物体が、彼の寝床の中へ飛びこんで来た。びっくりして見ると、一匹の猫である。居住者の飼い猫らしい。よほどのろまな猫とみえて、逃げ場を失って、彼の寝床の中へ避難して来たのである。 「猫と心中か」  佐倉は悲しい覚悟を決めた。 「この猫と、自分と、どちらが先に死ぬだろうか?」  道連れになった猫をかかえて、佐倉は考えた。よく見ると佐倉同様、かなり老いぼれた猫である。毛は汚れ、目は爛《ただ》れて、目やにが吹き出ている。耳たぶが片一方、裂けて、脚に怪我《けが》をしている。 「おれにふさわしい道連れだ」  佐倉は、急にその猫がいとおしくなった。      3  島本正和《しまもとまさかず》は、今日の成人の日に二十歳になった。生年月日も今日であるから、成人の日に満二十歳に達したわけである。彼は大工の見習いであった。親方に奉公して、主として、住宅新築修理のいわゆる「町場」で働いている。  まだせいぜい、かんながけや、のこびき程度の初歩加工作業しかやらせてもらえないが、親方は「すじがいい」と可愛《かわい》がってくれる。  島本には夢がある。早く腕を磨いて親方として独立し、手広くビル建築などを手がけたいとおもっている。そして自分の手で、自分の家をつくるのだ。  町工場の雇われ工員だった父は、数年前交通事故に遭《あ》って死ぬまで、自分の家に住みたいと口ぐせのように言っていた。島本と妹と夫婦の四人は、間借りの一間に肩を寄せ合って暮らしていた。  公団住宅は、何度申し込んでも当たらなかった。マンションには手が出ない。 「見ていろよ、いまにおまえたちを、きっと自分の家に住まわせてやるからな」  父はよくよく間借り暮らしがこたえたと見えて、乏しい給料の中から、マイホームづくりの夢を捨てずに、こつこつと住宅貯金をしていた。だが、激しい物価の値上りに爪《つめ》に火をともすような貯金は、とても追いつけなかった。  父は、インフレとの絶望的な競争に敗れて、ある日、突然死んでしまったのである。島本が大工を志したのは、父があれほど執着して果たせなかったマイホームの夢を、父に代って果たしてやるためであった。  それは一種の復讐でもある。  成人を記念して、親方は彼にプレゼントをしてくれた。今日から見習いではなく、一人前の大工としての手間賃をくれると同時に、建て方、取り付けなどの組立作業も任せると言ったのである。  島本は、近いうちに建築士の資格も取るつもりでいた。まず二級に挑戦して、次に一級の資格を狙《ねら》う。そしてモダンで機能的な家を建て、老いた母と、妹を住まわせてやる。  青春の夢は着実で、健康であった。成人式に出席した後、晴れ着に着飾って三々五々、町に散って行く同年の仲間たちに背を向けて、島本は建築現場へ向かった。  突貫工事で、昼夜兼行の作業が進められている。いわゆる猫の手も借りたい現場から、一生に一度の式典だから行ってこいと親方は暇をくれた。親方の好意に感謝して出席した成人式は、行っただけの価値があった。 「人間には、仕込みの期間と、営業の期間がある。成人式は、仕込みの期間を終えて、いよいよ人生の本格的な営業期間に入るスタートラインだ。もちろん仕込みが終ったわけではなく、これからは、仕込みながら営業しなければならない」 「成人式で、皆さんは人生の営業用のローソクを一本ずつもらう。残念ながら、そのローソクの長さは、公平ではない。それぞれにちがう長さのローソクをもって、営業を開始するわけだ。みなさんにはその長さもわからない。重要なのは、長さではなく、世の中を照らすためにいかに効率よく自分のローソクを燃やすかということだ」  式場では区長や、区内に住む有名人たちが次々に演壇に立った。新成人たちは、それらの「人生の先輩」の言葉をしごく無感動に聞いていた。  ほとんどの出席者が「なにを言ってやがる」というような表情をしている。話しているほうも、自分のスピーチに責任をもっているわけではない。毎年、繰り返される行事に、主催者から頼まれたから、できるだけ当たりさわりのない話をしているだけだった。  だが、島本は、ローソクの話に新鮮な感動をおぼえた。 「おれがもらった、ローソクは、どのくらいの長さなのだろうか?」  島本は、見えないローソクの長さを推し測った。 「今日集まった成人の中で、だれのローソクがいちばん長保《ながも》ちするかな、そしてだれの火が最も明るく世の中を照らすだろうか?」  それは楽しく、またファイトをかきたてられる想像であった。他人のローソクとの競争だけでなく、自分のそれとの競争にもなる。ローソクは、いつかは燃え尽きる。それが燃えている間に、どれほどのことができるか? 「ボヤボヤしていられないぞ」  島本は、身をひきしめられるようなおもいで式場を出た。晴れ着を競い合い、盛り場へ繰りこんで行く仲間たちが少しも羨《うらやま》しくなかった。  祝辞どおり、彼は、成人の日から、早速�営業�をはじめたのである。午前中式に出て、遅れた仕事を取り戻すために、彼は常よりも遅くまで仕事をした。エネルギーを出しつくした消耗感と、一日を力いっぱい働いた充実感を併《あわ》せ抱きながら、家路についたのは、夜もだいぶ更けたころである。  地下鉄を下りて、少し行くと、なんとなく騒々しい。この時間におかしいなと、人々の駆けて行く方角を見ると、夜空が赧く染まっている。自分のアパートの方角である。  仰天した島本は、猛然と走りはじめた。彼のアパートは、家賃が安いだけに、木造の倒壊寸前にあるような老朽建物で、消防署から何度も警告をうけている。ましていまは、カラカラに乾燥している。火の手につつまれたらひとたまりもない。  アパートの一室では、老母と妹が、彼の帰りを待っている。母は最近、足腰がめっきり弱くなった。火に取り囲まれて、逃げ遅れたのではないだろうか?  不吉な連想が、しきりに彼を脅《おびや》かした。盛んに火炎を噴き出している建物が視野の中に入った。やっぱり、彼のアパートであった。建物のまわりを、逃げ出した住人や弥次馬が大勢取り巻いている。消防車が数台、盛んに注水しているが、燃え盛る火の手をねじ伏せることができない。 「母は? 妹は?」  島本は必死になって、人々の間を探しまわったが、二人の姿は見えない。顔見知りの住人に聞いても、二人の逃げ出した姿を見た者はいなかった。 「まさか逃げ遅れたのでは」不安が急速に脹《ふく》れ上がった。彼ら一家の部屋は、二階にある。火元は、一階らしいが、二階にもすでに火の手は回って、黒煙と炎をほとばしらせている。大工の彼は、すべてを灰にしてしまう火災に激しい憎悪感をもっていた。家を創《つく》る大工にとって、火事は�天敵�であった。その天敵が母と妹を捉《とら》えたのかもしれない。  島本は、やおらそばの天水桶《てんすいおけ》の水をかぶった。体を濡らすと、もっていたタオルで口元を被い、建物の中へ飛びこんだ。 「止めろ! 危い」  炎の中へ跳躍した人影に、びっくりした消防署員が止めようとして駆けつけたときは、遅かった。人影は、黒煙の中にのみこまれていた。 「無茶なやつだ、いったいだれだ?」 「死ぬぞ」  消防署員は呆《あき》れた目を見合わせたが、彼を連れ戻すために、後を追う勇気はない。すでに勇気だけでは、飛びこめない火勢になっていた。      4  佐倉辰二は、全身に火熱を感じていた。髪の毛や眉毛《まゆげ》はチリチリと焦げているようであった。ドアを蹴破《けやぶ》った炎は、壁を這《は》い上り、天井に赤い翼を広げて、火の粉を雨のように降らせてきた。  佐倉の横たわっている寝床だけを残して、その周囲を赤い環《わ》でつないで、じりじりと包囲陣を縮めてくる。 「もうだめだ」  佐倉は観念した。いわゆる「年貢《ねんぐ》の納めどき」がきたとおもった。まったくの絶望状態に突き落とされて、未練も消えたようである。  ただこの身を灼《や》く熱さだけはなんとかならないか。体から吹き出た汗がたちまち蒸発して、塩になっていく。幸か不幸か、老朽木造アパートは、プラスチックの材料を使っていないので、有毒ガスが出ない。そのために、なかなか死なない。じりじりと少しずつ灼かれていく。  それも、この火の勢いならば、そう長くはなさそうだ。灼かれる身に長く感じられるだけかもしれない。 「おまえと心中とは、これもなにかの因縁だな」佐倉はつぶやいて、寝床の中に飛びこんで来た猫を抱きしめた。そのとき猫は、小さく鳴くと、急に身をもがいて、彼の手から抜け出した。そのまま寝床から飛び出すと、炎の中へ駆けこんで行った。 「猫にまで見捨てられた」  なぜか涙が出てきた。涙を流したのは、実に数十年ぶりである。そんな感傷の機能が、自分にも残っていたのが不思議だった。もっとも、泣いているそばから涙は蒸発して、痕《あと》も残らない。  ついに布団の裾《すそ》に火が移った。 「熱いよう!」  彼は悲鳴をあげた。あきらめと苦痛はべつのものだった。観念のほぞを固めても、身を灼く現実の苦痛に耐えられなかった。煙りがのどに入って、大きく噎《む》せた。 「そこにだれかいるのか?」  佐倉は、部屋の入口に信じられない人影を見た。 「たすけてくれ! 後生《ごしよう》だ」  いったん決めた覚悟が、きれいに吹き飛んだ。佐倉の訴えは声にならず、大きく咳《せ》きこんだが、それが却《かえ》って相手の耳に届いたらしい。人影が部屋の中へ飛び込んで来た。次の瞬間、佐倉は、たくましい腕の中へかかえこまれていた。 「苦しかったでしょう。お爺《じい》さん、もう大丈夫ですよ」  救助者は、佐倉の耳にささやいて、廊下へ出た。そこもすでに炎と黒煙の渦であった。どこをどうかいくぐったのか、佐倉は安全圏に運び出されていた。 「有難う、有難う」  佐倉は、声にならない声で命の恩人に礼を言った。涙がボロボロと頬を伝い落ちた。それはすでに火熱によって蒸発しなかった。 「お爺さん、家の中にまだだれか残っていたような気配はありませんでしたか?」  救助者は聞いた。 「ぼくのおふくろと妹の姿が見えません、ずっと探しているのです」  炎の反映が、若い救助者の面を赧々《あかあか》と染めていた。  ——なんだ、おれを救けに来てくれたのではなかったのか?——  佐倉は、急速に心が冷えるのを感じた。救助者が現に危機に瀕《ひん》している佐倉を見つけて、肉親の救助よりも優先したことには、おもい及ばない。  礼を言ったのが、損をしたような気がした。  ——自分は、どうせ救われたところで、おもしろい人生が待っているわけではない。それに反してこの青年には、長い将来が約束されている。これから先、多数の女を知るだろうし、おもしろいこともたくさんあるだろう——  炎の照り返しを浴びて紅潮した青年の若々しい面が、青年の象徴のように映った。そのとき佐倉は、猛烈な嫉妬心《しつとしん》にとらわれた。  燃えつきかけたローソクの持ち主が、新しいローソクの持ち主に寄せる嫉妬である。 「どうですか? だれかいる気配はありませんでしたか?」  たずねかけた青年に、佐倉はいま脱出して来たばかりのアパートを指してうなずいた。 「だれかいるんですね」  佐倉は、大きくうなずいた。青年はふたたび炎の中へ飛びこんで行った。それが彼の後ろ姿を見た最後だった。  そのころ、近くの知り合いの家へ避難していた島本正和の母と妹は、 「あの子(兄さん)が帰って来て、私たちの姿が見えないのに心配するといけないから、焼け跡の近くへ行っていましょうか」と話し合っていた。 「あの子の成人の日に焼け出されるなんて、運が悪いよ」  と母がこぼすと、 「お兄さんがいいお家を建ててくれるわよ」  と妹が慰めた。 「あの子はきっと、私たちの家だけでなく、これから大勢の家のない人のためにたくさんの家を建ててくれるよ」  母は、誇らしげであった。  翌日、焼死者の身許《みもと》がわかった。動物の死体も猫のものと確かめられた。その火事のニュースを新聞で読んでつぶやいた者があった。 「世の中には、馬鹿なやつがいるもんだ。成人したばかりの春秋《しゆんじゆう》に富んだ若者が、ペットを救うために命を捨てるとはな」  それは、成人式で「人生の営業用のローソク」の話をして島本正和を感動させた有名人であった。 [#改ページ]    雪の絶唱      1  列車から下りると厳しい寒気が殺到してきた。まるで刃物のような鋭さをもった寒気である。車内の暖房に緩んだ身体が、いっぺんにひきしまった。日はすでに暮れて、凍ったプラットホームの果てに線路の道床が白々と浮き出ている。列車から下り立った人々も、新幹線などの旅客と異なって、もこもこと着ぶくれている。  身体に残る暖房の余熱は、改札口に着くまでの間に完全に駆逐《くちく》されていた。  ——来ているかな——とおもいながら、改札口を通ると、やはりいた。  夜目にも白々とした雪明かりの中に、心細げなシルエットを刻んで立ちつくしていた女が、船越《ふなこし》の姿を認めると、よみがえったように駆け寄って来た。 「いらっしゃい。待ち遠しかったわ」  女は、息を弾ませた。頬《ほお》が寒気と男を迎えた興奮のためか、紅潮している。 「だめじゃないか、ホテルでどうせいっしょになるんだから。あれほど迎えに来るにはおよばないと言っておいたのに」  船越は軽く舌打ちをして、女を叱《しか》った。女の髪や肩にうっすらと白いものがかかっている。列車を下りたときには気がつかなかったが、粉雪がわずかに舞っているのであった。一列車早く来た彼女は、男の着くのを待ちかねて、ずっと改札口で待っていたのであろう。 「大丈夫よ。ここまで来れば、だれも知った人には出会わないわ」  女は、船越に叱られて、半べそをかきながら言い訳をした。そんなときやや唇をとがらせて、なにかを抗議するようなひどくあどけない表情をする。  それを見ると、船越の決心がまた鈍ってしまう。自分は、二度と得られないかけ替えのないものを、自ら振り捨てようとしているのではないだろうか? そんなためらいが、せっかく定めてきた彼の心を揺するのである。  男と二人きりの久しぶりの旅に心を弾ませて、凍りついた雪の中にじっと立ちつくしていたいじらしさ。 「いや、そうじゃない。こんな寒い中で待っていたら、体に悪い。風邪でもひいたら、せっかくの旅行がだいなしになるよ」  船越は、つい優しい言葉をかけた。 「私は、風邪をひかないのよ。あなたよりずっと丈夫だわ」  女はたちまち機嫌をなおして、彼に甘えかかった。 「さあ、早くホテルに行きましょ。二人でいっしょにお食事をして、雪の夜の町をお散歩するのよ。すばらしいわ」  彼女は船越の手にぶらさがって、子供のようにはしゃいだ。ホテルまでは歩いていける距離であった。  白く凍結した路面を、チェーンを付けた自動車が徐行している。寒気の中で白い蒸気となった排気ガスすら、なにかしら優しみを帯びて、雪の夜に情趣を添えている。パリパリと空気が音をたてるような厳しい寒気にもかかわらず、道の両側に並んだそれぞれに個性をもつ店の灯《ひ》が雪ににじんで、町の表情をほのぼのとさせている。 「きれいだわ、こんな美しい町に連れて来てくださって、本当に有難う」  女の声は、弾んでいた。今宵《こよい》の宿のホテルの建物が、目の前に見えてきた。      2  船越|重文《しげふみ》と的場房子《まとばふさこ》は、東京日本橋にあるソックス類や下着の老舗《しにせ》メーカーである『大木産業』に勤めている。船越が当時課長をしていた衣料製品第三課に、短大を卒業して入社して来た房子が配属されたのである。  細面《ほそおもて》の寂しげな顔立ちは、一見、ちょっとした風にも耐えないような脆《もろ》さを感じさせるが、なかなか芯《しん》にしっかりしたものをかかえている女性だった。  ものおぼえがよく、仕事の要領も、新入社員の中で最も早くのみこんだ。�職場の花�としての十分な美しさを備えているだけでなく、男子社員顔負けの�戦力�になる。たちまち彼女は職場の人気者となった。頭のよい女にありがちな権高なところが少しもないので、男ばかりでなく、同性からもうけ[#「うけ」に傍点]がよかった。  船越と房子の結びつきは、月並みである。社員旅行に行った熱川温泉で、男子社員から次々に進められる酒を断わりきれずに飲んでいるうちに房子は悪酔いした。  体力の限界も知らず、初めて酒を飲んだ若い女が陥る症状に苦しんでいた彼女を、船越が直属の上司として介抱した。船越は責任を感じていた。彼女を悪酔いさせた酒の中には、船越の進めた一盃《いつぱい》もあるはずである。  一盃ずつも、数が重なれば、酒に馴《な》れていない若い女の容量をたちまちオーバーする。船越は、その夜はほとんど眠らずに介抱した。彼女の課長という身分は、終夜房子に付き添ってもだれも疑わなかった。  また船越は、それだけの信用があった。家庭には十年ほど前に結婚した妻と、小学生と幼稚園児の二人の子供がいる。業者の接待で酒席に出ることはあっても、これまで浮いた噂《うわさ》一つなかった。仕事熱心で、家庭を愛する典型的なまじめサラリーマンである。  社の幹部の信頼も篤《あつ》い。重役入りは必至と言われている中堅幹部であった。そんな彼だから、若い娘を夜通し看病してもだれも疑わない。むしろ彼の責任感の強さに感嘆した。  そして事実、その夜はなにもなかった。だがその夜のことは、房子に深い印象を刻みつけた。彼女の船越を見る目が変ってきた。これまでの単に上司を見る目が、�恩人�に向ける好意のまなざしになった。  船越も男だから、うら若い女性から向けられる好意は敏感にわかる。彼は、異性は妻以外は知らない。妻はどちらかというと淡泊な女である。べつに冷たいというほどではないが、瑞々《みずみず》しい房子に比べると、乾燥して味気なく見えた。  妻以外に女を知らない船越が、自分とはまったく無縁の存在とおもっていた、魅力に満ちた房子から好意のまなざしでみつめられて、急に動揺してきた。  どんなに美しく、美味《うま》そうに見える料理も、ショーウインドウの外から無縁のものとして眺めているかぎり、欲望をかきたてられることはない。たとえ食欲は感じても、自分のための食べ物は、他に用意されているという意識が働く。  だが突然、ショーウインドウが取りはらわれた。長い間、単調な一つの味しか知らなかった自分が、ひどく損をしていたような気がした。  いつの間にか二人は、二人だけにわかるサインを交わし合って、会社からの帰途、目立たない喫茶店で話し合うようになった。喫茶店からレストランや映画へと、これまた月並みなコースをエスカレートするうちに、房子の好意の視線は、男に向ける慕情をたたえたものとなった。  いったん傾斜がはじまると、加速度がつく。自分本位の青い若者とちがって、いちおうの人生を生きた中年男には、渋さと脂ぎった男っぽさが同居していた。  船越は、激しく房子に惹《ひ》かれていく自分を必死に抑えていた。彼には房子を玩《もてあそ》ぶ意志はない。いったん恋愛関係に入っても、責任を取ることができない。たとえ房子に妻にはない魅力を見出しても、彼女を得るために十年連れ添った妻と二人の子供を捨てることはできなかった。  それは、恋愛とは関係のないべつの要素であった。新しい恋と旧《ふる》い家庭が相互にまったく関係ないべつの要素によって成り立っているというところに、悲劇の素地がある。  船越は、自制したが、奔流のような房子の魅惑に押し流された。悲劇を予測しながらも、目の前に吊《つる》された禁断の恋の甘果に手がのびた。一度味わってしまえば、後は、押し流されるばかりである。  可能性のない将来に、男が途中でブレーキをかけようとしても、今度は女が許さなかった。  二年たち、三年たった。恋だけに陶酔していられない年齢の堆積《たいせき》を、女が意識すると、次は男が引き止めた。恋愛に理屈も計算もなかった。身分や障害や年齢に関係なく、その爪《つめ》でしっかり捉《とら》え、激しい炎をもってたがいの心身をボロボロに焼きつくすまで、燃焼を止めない。  彼らの仲は、極秘に進行し、次第に悲劇的な様相を深めながら、強いてそれから目をそらすようにして、何年かつづいた。だれも気がつかなかった。ただ逢《あ》うためだけに生きているような生活、逢えば別れる時間を数える。残り少ない休暇を刻まれながら消化しているような、まったく建設と発展のない恋愛を、もう五年もつづけていた。  その間に、船越は部長となり、房子はその分だけ年齢を重ねた。房子は秘書課へ転じていた。社内には、いまだに彼女のファンは多く、船越との関係も知らずに、プロポーズしてくる者が後を絶たない。  だが、房子は、アプローチして来る男たちを片端から断わった。相手を傷つけないように、婉曲《えんきよく》に、しかし妥協のない態度で。あたかも船越以外の男から、かたくなに目を背けているかのようであった。  船越は、そんな彼女に時々、まともな相手と普通の結婚をするようにほのめかした。だがたちまち、生涯めぐりあえない貴重な宝物を自ら捨てようとしているような激しい後悔に襲われるのであった。 「他の男に渡すくらいなら、美しい花を自分の掌の中ににぎりつぶすように、いっそのこと——」  と、船越は暗い衝動に駆られることがあった。      3  だが秘かにつづけられた彼らの関係についに決定的な危機が訪れた。船越の妻が三人めの子供を産んだのである。房子に隠しおおせることではなかった。房子と交渉をもつようになってから夫婦関係はないと言う船越の言葉を全面的に信じていたわけではないが、このように明らかな二重の性生活の�物証�を見せつけられた房子の衝撃は大きかった。  房子は、男を詰《なじ》ったが、詰ったところで、どうなるものでもなかった。折り悪《あ》しく房子も妊娠していた。船越は房子に堕《おろ》すようにすすめた。彼女も一度は納得したのだが、船越の妻の出産を知ると、自分も産むと言いだした。 「あなたの奥さんが産めて、どうして私が産んではいけないの? どちらもあなたの子供じゃない」と彼女は言い張った。  船越は狼狽《ろうばい》し、困惑した。会社は好況を見越しての設備投資が裏目に出て、旺盛《おうせい》な資金需要にあえいでいる。特に年末を迎えて急速に資金繰りが悪化して、深刻な苦況に立たされている。  房子の妊娠は、いつまでも隠しておけない。まだだれも気がついた様子はないが、危険は日増しに増大している。  これまで女の寛容さに甘えて、禁断の甘果をおもうさま貪《むさぼ》ってきた支払いを、いまこそまとめて求められたのである。  会社が創業以来の苦況にあえいでいるときに、日ごろまじめ幹部として通っていた船越が、部下の女子社員と秘かに通じていた事実が露《あら》われたら、これまで地道に堆《つ》み重ねてきた信頼は、いっきょに崩れてしまうだろう。  会社では、退職希望者を募《つの》りはじめているほどである。時期も悪かった。  とにかく船越は房子を説得して、妊娠が明らかになる前に、退職することを納得させた。社を辞《や》めさせてしまえば、彼らの関係を伏せることはできる。たとえ露われたとしても、辞めた後ならば、在社中よりも、抵抗が緩衝《かんしよう》される。胎児の問題は、辞めさせた後で考えることにした。  房子は退社するにあたって、一つの条件をだした。 「飛《ひ》の高山へ連れて行ってちょうだい。私、ずっと前からあそこへ行きたかったのよ。雪の山に囲まれた旧《ふる》い城下町で、あなたと一日でも二日でもいいから、ひっそりと過ごしたいの」  房子とはこれまで何度か旅行した。その都度、高山へ行きたいと彼女は言っていた。だが、いつも一、二日の余裕しかなかったので、遠出はできなかったのである。 「いまごろ、高山は寒いだろうなあ」  船越はあまり気が進まなかった。今年は石油危機の影響で、ただでさえも寒々としている。こんな時期に女の感傷のために、雪山に囲まれた寂しい城下町に、何時間もローカル列車に揺られて行く気はしなかった。  しかしこれも、女に支払う�最後の税金�となれば止むを得なかった。船越は、十二月の上旬に、やっと二日の休暇をとった。これに日曜日を加えて、二泊三日の�高山行�の時間をひねりだしたのである。なるべく知った顔に出会わぬように、週末を避けて、日曜日に出発する旅程を立てた。  最初は、この季節はずれに行ったところで、なにも見物するものもあるまいとおもったが、船越にしてみれば、もともと見物などどうでもいいことである。むしろ季節はずれのほうが、知った人間に出会う危険も少ないだろうと考えなおした。  それでも念を入れて、東京をそれぞれべつに出発した。名古屋からの高山線も、房子だけ一時間ほど早く着く急行に乗せるほどの用心を重ねた。  先着した房子は、ホテルにも行かず、改札口の雪の中にじっと立ちつくして、船越の着くのを待っていたのだ。�税金�のつもりで、重い腰を上げてしぶしぶやって来た彼は、女のそんないじらしい姿に、ふと目頭が熱くなるのをおぼえた。  ホテルで暖かい食事を取り、ようやく人心地を取り戻した房子は、夜の町を散歩したいと言いだした。 「ひどい寒さだよ、お胎《なか》の児《こ》に悪いんじゃないのか?」  駅からホテルまでのわずかな距離だったが、体の芯までが凍りつくような寒気に恐れをなした船越が渋ると、 「お胎の赤ちゃんなんか、流れちゃったほうが、あなたにとって都合がいいんでしょ」  と房子は皮肉っぽい目を向けた。 「子供のことより、きみの体を考えているんだよ」 「本当?」  房子の目が覗《のぞ》きこんだ。 「本当だとも」 「私が病気になったら、困る?」 「困るとも。きみはぼくの宝物だ。自分の健康にもっと責任をもってくれ」 「嬉《うれ》しいわ、たとえ口先だけでもそう言ってくださると」 「口先だけじゃない。本心からそうおもってるんだ」 「私ねえ……」  房子は、おもわせぶりに言って、誘うような目つきをした。 「何だね?」 「お胎の児、あなたのおっしゃるようにしてもいいとおもってんのよ」 「……すると堕《おろ》すつもり?」 「そうよ」 「ほ、本当かい!?」 「そんな嬉しそうな顔をしないで」  船越はあわてて表情をひきしめて、 「べつに嬉しそうな顔をしたわけじゃないが、いままで絶対に産むと言い張っていたものだからね」 「考えなおしたのよ。奥さんと張り合って無理に産んでも、子供が不幸になるばかりだし、あなたを困らせるだけになりそうだから」 「きみがそのように考え直してくれたら、本当に有難い。いや有難いというのは適切ではないけど……そのう、つまり……みんながしあわせになるとおもうよ。お胎の子供は可哀想《かわいそう》だけど、まだ人間としての形も心ももっていないんだから、あまり深刻に考えることはないよ」  抑えているつもりが、つい口調が弾んできてしまう。 「私のしあわせは、あなたといっしょにいることだけよ。他にないわ」  一瞬、寂しそうな翳《かげ》が、彼女の面を走った。 「だからこうしていっしょに旅行に来たじゃないか」 「だったら、この時間を大切にするために、お散歩に連れてって。私、雪の夜の城下町をあなたと歩くのを夢にえがいていたのよ」  船越は、房子に手を引っ張られて外へ出た。繁華街に出ると、アーケードに赤い提燈《ちようちん》が無数に吊《つ》られて、夜祭りのような雰囲気である。人通りもけっこう多い。土産物屋をひやかしたり、宮川に架かる橋の畔《ほとり》の屋台で、高山名物のみたらし団子を頬張《ほおば》ったりしている房子の横顔からは、いつも貼《は》りついていた寂寥《せきりよう》の翳が取れていた。  翌朝は、夜来の雪が止んで、高山の町は、まぶしいばかりの銀世界に輝いていた。ホテルの屋上に上ると、斑《はだ》れ雪をまぶした前山のかなたに、深雪をいただいた長大な北アルプスの連峰の一大パノラマが乗っていた。  見物には今日一日しかあてられないので、白川郷や奥飛へ回るゆとりはない。今日は市内見物にすごして、明日はまたべつベつの列車で帰らなければならない。  上三之町の江戸時代さながらの古い家並みや、市内にちりばめられた民芸館や郷土館をなんの予定もたてずに、行きあたりばったりにめぐり歩いた。身体が冷えれば、市内に多い民芸調の喫茶店に飛びこみ、またさらに古い町並みへさまよいこむ。どちらの方角へ歩いても、精々二十分で町はずれへ来てしまう高山の町は、こんな歩き方が楽しい。  精進料理で有名な馬場町の『角正』で遅い昼食をすませて、彼らが市の北東の八幡神社|境内《けいだい》にある『屋台会館』へ来たのは、午後四時ごろである。  ここには春秋二回行なわれる高山祭りに出る高山名物の屋台二十三台中の五、六台が、時々入れ替えられて常時展示されている。デリケートな屋台の構造や彫刻に外気の影響をあたえぬために、見物客たちを逆に屋台をめぐるガラス張りの回廊に閉じ込めた、巨大な吹き抜けの屋台展示場は、定温の調節空気を保つような特殊な設計になっている。人間よりも、屋台を大切にしている設計である。  その日展示されてあった屋台は、神楽台《かぐらだい》、麒麟台《きりんだい》、鳳凰台《ほうおうだい》、大八台、龍神台、宝珠台《ほうじゆだい》の六台である。名のある彫刻師や塗師《ぬりし》が心血を注いで造りあげたその構造と意匠《いしよう》は、いずれも「動く陽明門」の別名にふさわしい絢爛《けんらん》たる気品を備えている。  展示場には、これらの屋台と、金無垢《きんむく》日本一と言われる大《おお》神輿《みこし》のまわりを、多数の一文字|菅笠《すげがさ》に裃《かみしも》姿の警固の人形が、いまにも動き出さんばかりに、取り囲んで、祭りのなまの雰囲気を伝えている。  巫女《みこ》の案内によって、数人の見物客といっしょに館内を巡っていると、房子が急に青い顔をして、 「私、一足先に、外に出て待ってるわ」 「どうしたんだい?」 「ちょっと冷えたらしいのよ。日の当たる所で少し憩《やす》めばなおるわ」 「ぼくもいっしょに出よう」 「あなたはせっかくいらしたんだから、見物していて」 「特に興味はないよ。それよりきみが心配だ」 「大丈夫だったら。ちょっとお手洗いに寄りたいだけ。あまり尾《つ》いて来ないで」  房子が軽くにらんだので、船越は手洗いに行くための口実とおもって、彼女だけ先へ行かせた。数分遅れて、館内を一巡して外へ出ると、身体が冷えきっていた。屋台のための空気調節は、見物客には届かないので、館内は氷室の中のようである。  境内には、一日の最後の西日が暖かそうに金色の触手をさしのべていた。その光の中で、バスで来た団体客の一行が、記念撮影をしている。農閑期を利用して出かけて来たどこかの農協団体らしい。房子はどこへ行ったかときょろきょろ探していると、 「こっちよ」と声がかかった。声のきた方角に顔を向けると、元気を取り戻した様子の房子がにこにこ笑いながら近づいて来た。夕日を浴びて、顔も酔ったように染まっている。 「気分はなおったかい?」 「もう大丈夫よ。日向ぼっこしていたら、すっかりよくなったわ」 「それじゃあそろそろホテルへ帰ろうか」 「あ、いけない」  房子はなにかをおもいだした表情をした。 「私ってどうかしてるわね。こんなに寒いのに手袋を切符売場の所へ忘れてきてしまったわ。さっき入場券を買うとき、脱いだまま忘れてしまったのよ」 「また館内へ行って気分が悪くなるといけない。ぼくがとってきてやろう」 「悪いわね」  船越が切符売場へ引き返すと、見おぼえのある房子のスエードの手袋が、窓口カウンターのはしに置き忘れてあった。手袋をもって房子の所へ戻ると、夕日は西の山に没したらしく、境内はすっかり蒼《あお》ざめていた。寒気は日没とともにいっそう強くなった。彼らは追い立てられるようにホテルへ帰った。  翌日は、来たときとは逆に、船越のほうが一足早い列車で帰ることになった。彼らはホテルで別れた。列車の時間まで、まだ多少の余裕があったが、別れる時間を気にしているのがいやで、おもいきって早目に別れたのだ。駅まで送るという房子を、体に悪いからと強いて押し止めたのである。 「気をつけてね、とても楽しかったわ」  房子の目は、赤くうるんでいた。 「東京へ帰れば、またすぐに逢えるじゃないか。そんな悲しそうな顔をしないでくれ」 「そうだったわね。あんまり楽しかったものだから、ついほんのわずかなお別れでも悲しくなっちゃったのよ」  目尻《めじり》からこぼれ落ちそうになった涙の雫《しずく》を、そっと顔を傾けて手の甲で拭《ぬぐ》うのが、いじらしかった。 「あなたを私以外の人の所へ帰したくないわ」 「もうそんなことは言わないという約束だろう」 「あなたを困らせてごめんなさい。それじゃあまた東京で」 「さよなら」 「さよなら」  そしてそれが、船越が房子を見た最後になったのである。      4  十二月十二日水曜日、朝十時ごろ、東京J大学文学部に籍を置く、アメリカの留学生、ヘンリー・ポタトンは、高山市の西南のはずれにある『飛の里』を訪れた。  飛の里は、乱開発や過疎化によって年々消滅の一途をたどっている飛地方各地の民家や民具を保存するためにつくられた観光村である。  ポタトンは、四方を山に閉ざされ、独自の文化圏を形成した日本の飛地方に以前から惹《ひ》かれていた。そして日本へ留学して二年めの冬に、大学の冬期休暇を利用して、ようやく念願の地を訪れたのである。  高山市内のユースホステルに泊って、市内や近郷に散在する古格のある民家や寺や史蹟《しせき》をめぐり、今日は、飛地方の民俗を集めた飛の里へやって来た。季節はずれのうえに、平日なので、入村者は数えるほどである。  飛の里は、松倉城跡の吾神池《ごがみいけ》を中心に自然の環境を活用してつくられた人工の村で、ここに十一戸の民家とその付属建物、十戸の工芸集落が集められて、一世紀以前の農山村を再現している。  ポタトンが訪れた朝は、飛地方は快晴に恵まれた。白々と結氷した吾神池をめぐって散在する入母屋《いりもや》合掌造りや切妻合掌造りの古い民家は、深々と雪に埋もれて、人工の跡を完全に消していた。里全体が松倉城跡の高台に位置しているので、高山市街が一望の下に見渡せる。盆地を低い家並みで埋めた市街のはるかかなたには、前衛の山々を従えた北アルプス連峰が、白く鋭い骨格を覗《のぞ》かせている。  すぐ目の前に盛り上がった小さな隆起に妨げられて、北アルプスの長連の全貌《ぜんぼう》は望めないが、笠《かさ》ケ岳の鋭いピークを支えた優美な山容が視野に入る。  飛地方の雪は乾燥している。風もないのに、時折り樹林から粉雪が降りこぼれる。それが暗いばかりに澄んだ蒼空の下で、いっせいに開いた白い花弁が、無数に散り落ちて来るように見える。  雪の花を簇《むら》がらせた樹林を分けていくと、古格豊かな合掌造りの民家が、小窓からうす青い煙りを静かに立ちのぼらせている。水車が単調な反復の唄《うた》をうたっている。木挽小屋《こびきごや》がある。セイロ倉が立っている。火の見|櫓《やぐら》も見える。  とある一軒に入ると、囲炉裏《いろり》に火が燃えていて、人の影はない。木製の食器や木の股《また》でつくった農具や、数々の珍しい民具がある。つい少し前まで、そこにだれかが生活をしていたような住民の体臭があった。  ポタトンは、日本のメルヘンの国へさまよいこんだような気持ちになった。克明にメモを取り、写真を撮りながら、夢中で歩いた。里の南東のはずれへ来ると、順路からそれて、林の奥の方へ入って行く道がある。パンフレットを見ると、その道の奥には杣小屋《そまごや》があるらしい。ほとんどの観光客は、脇道《わきみち》を横目にしながら順路を進んでしまう。  杣小屋とはどんなものか知らなかったポタトンは、興味を惹かれて、脇道へ入った。人があまり入らないと見えて、順路に比べると足跡が少ない。雪も深い。  杣小屋は、一見小さな|掘っ建小屋《バラツク》だった。  写真だけでも撮っておこうと、なにげなく小屋の中へ踏み入ったポタトンは、おもわず息をつめた。そこに薄茶色のコートをまとった女性が倒れていたからである。長い髪がいてついた土間に乱れているのが、むごたらしい。まだ若い女だった。 「ドウシタノデスカ!?」  日本語で訊《たず》ねながらかかえ起こすと、身体はすでに凍えきっていた。にもかかわらず、頬《ほお》のあたりが酔ったように染まっていた。ポタトンは、ともかく村の管理事務所に連絡することにした。  直ちに村の管理事務所から高山署へ通報されて、検視の一行が駆けつけて来た。検視の結果、死因は、青酸系化合物による中毒、死後経過は十八—二十時間と推定された。女の死体が妊娠初期の徴候を呈していることも、認められた。乱暴された形跡はない。  事務所の話によると、前日の午後三時ごろ、最後のバスで来た数人の観光客といっしょに入場したらしいという。入場したまま人のあまり立ち寄らない杣小屋へ行き、閉村してから、服毒したものとおもわれた。死体のかたわらにはハンドバッグと、小型スーツケース、毒の媒体となったらしいグレープジュースのびんが転がっていた。  事務所では入場者の数を特に数えていないので、閉村するとき、入場したまま出て来ない者がいようとはおもわなかったそうである。杣小屋は、見物客がほとんど素通りしてしまうので発見が遅れたのだ。  スーツケースに付いていたタッグから、市内のホテルが当たられ、死者の身許《みもと》は、東京のOLで、的場房子と判明した。ホテルの証言によって、房子は同ホテルに九日の夜から二泊して、昨日十一日午後二時ごろ三分の一の超過料金を払って出発《チエツクアウト》したことがわかった。その際、彼女にはいっしょに泊っていた男の連れがあって、男だけ一足早く正午ごろチェックアウトした事実も浮かび上がり、それまで自殺説に傾いていた警察をいっぺんに緊張させた。  男がホテルにレジスターした名前は、的場幸吉四十五歳で、房子は妻となっている。だが房子の自宅と勤め先に連絡した結果、彼女は未婚であることがわかった。  しかもレジスターなどもすべて女が行ない、男はいつも女の背後に隠れるようにしていたため、ホテル側にも、男の印象がほとんど残っていない。食事も着いた夜だけルームサービスを取った。後はすべて外食していた模様である。食堂にも姿を現わしていない。  警察では、この男の同伴者を有力容疑者と見た。男だけ少し早くホテルを出発して、殺人のための舞台を飛の里へ用意してから、哀れな犠牲者を呼び出したのであろう。  だが謎《なぞ》の男の影があるばかりで、その実体は、少しもつかめない。警察では、他殺の疑いを強めて捜査をはじめた。  一方、房子と高山で別れて、一足先に帰京した船越は、翌日出勤して、彼女の所属課を覗くと、その姿が見えないので首を傾《かし》げた。それとなく様子を聞くと、月曜から休みを取ったまま、まだ出て来ないということであった。  ——そんなはずはない——と船越はおもった。  房子の帰京は、自分より二時間遅いだけである。昨日は天候も安定していた。列車が遅れるべき要素は、なにもなかった。現に自分が乗った列車は、定刻通り名古屋に着いた。新幹線もスムーズに動いて、予定時に東京駅へ下り立ったのである。  なるべく自宅へ電話をかけたくなかったが、船越は、適当な名前と口実を造って房子の家へ電話してみた。彼女の家は、荻窪《おぎくぼ》でかなり大きな食料品店を営んでいる。母親が電話に出て、娘は旅行に出かけたまま、まだ帰っていないと、しごくのんびりした口調で答えた。  房子がどのような口実を使って家を出たのか知らないが、少しも不審を抱いていない様子であった。 「それでは、自分が帰って来た後で、列車事故でもあったのか?」  船越は、東京駅と名古屋駅へ問い合わせて、昨日、新幹線と高山線に列車の遅延を生じさせるような事故や異変は、いっさいなかったことを確かめた。 「すると交通機関以外のことで、なにか事故があったのにちがいない」  脹《ふく》れ上がる不安を、 「いや、おれを送りだした後、勝手に予定を変えて、一人旅を楽しんでいるのかもしれない」  と無理に抑えつけた。だが、これまでの交際から、彼女が一人旅にふらりと出かけるような性格ではないことを知っている。不安は膨脹する一方であったが、連絡が取れないので、どうすることもできない。  彼が房子の死を知ったのは、正午少し前になって、房子の所属課へ高山署から身許照会が為《な》されたときである。セクションのちがう彼の許にも情報は波紋のように伝わってきた。船越は仰天した。警察が問い合わせた死者の特徴は、まさしく房子に符合する。ニュースはたちまち全社に流れた。社内でも人気の的《まと》の美人秘書が、雪に埋もれた山国の城下町で変死体となって発見されたというのだ。大騒ぎになった。  間もなく房子の死は、ラジオやテレビのニュースに流された。警察では、彼女の謎の同伴者に強い疑惑を抱いて、その行方を探しているということである。その同伴者が船越を指しているのは、明らかであった。刑事はいまにもここへ現われるかもしれない。いやもうすでに来ているかもしれない。 「いままで房子との関係を隠しおおせたのは、相手が素人だったからだ。捜査の専門家によって突っつかれたら、五年もつづいた房子との仲を必ず暴《あば》き出されてしまうだろう」  船越は、自分が殺人容疑者として引かれて行く図を想像した。現実に自分の手に手錠の感触をおぼえた。耳にそのロックする金属音を聞いた。たとえ無実であっても、殺人の容疑をかけられるだけで、サラリーマンの生命は終るだろう。 「部長! どうしたんです? 顔色が真っ青ですよ」  部下に指摘されて、ハッと我に返った。 〈落ち着け! 落ち着くんだ。まだ関係が露われたわけではない〉  彼は必死に自分に言い聞かせた。房子との旅行を慎重におもいおこしてみる。 〈ホテルの予約は、ダイヤル電話で申し込んだから、記録に残らない。ホテルでは、いつも房子の後ろに隠れるようにしていた。顔もほとんど見られなかったはずだ。部屋には、身許をしめすようなものは、なにも残していない。知り合いにも出合わなかった。社内では二人の関係を知る者はない。たとえ刑事が調べに来ても、いまはセクションがべつになっているから、自分と房子を結びつける者はあるまい〉  ただ心配なのは、房子の持ち物やメモの中に船越とのつながりをしめすものが残っていることである。彼は房子に手紙を出したことはない。彼女には日記をつける習慣はない。 〈しかしほんのちょっとしたメモなどに、自分とのデートの日時や場所が書きつけてあったら!〉とおもうと背筋が寒くなった。 「しかしたとえそれが書かれてあったところで、警察には、何のことだかわかるまい。落ち着け! もっとゆったりと構えているんだ。実際におれはなにもやっていないのだ」  ともかく、会社や家族の手前、船越は無理に自分の不安を抑えつけた。翌日、刑事が房子の所属課へ調べに来た様子だった。だが、彼の許《もと》までやって来なかった。彼を無関係と見た証拠である。不安がいくらか鎮められた。  だがそれから三日めの朝、船越は立ち上がれないほどの絶望感に打ちのめされなければならなかった。出勤前、なにげなく朝刊を聞いた彼は、何頁かの「読者の写角《カメラアングル》」というコーナーに、おもいがけず自分の顔を見出して、目を剥《む》いた。  それは、読者が寄せた面白いアングルの写真を載せるコーナーである。その写真には、記憶があった。バックには屋台会館の建物がある。気分が悪くなって一足先に出た房子を追って来た彼に、房子が「こっちよ」と手をあげたところが、一枚の構図の中に納められている。  少し逆光気味であるが、房子と彼の横顔がはっきりと捉《とら》えられている。だれの目にも、仲睦《なかむつ》まじいアベックが、親しげに呼び合っているように見える構図であった。  あれほど人目を避けて行動したつもりが、解像力のよいカメラのレンズによって、残酷なまでに鮮明に定着されている。  ——だがどうしてこの写真が、新聞に載っているのか?——  ——いったい、だれが撮影したのか?——  あのとき、自分たちにカメラを向けた者がいたのか? 盗み撮りされた方角にだれかいたようでもあるし、いなかったようでもある。  息のつまるような驚愕《きようがく》に打ちのめされた船越は、ともかく写真の下につけられた文章を読んだ。 「この仲良さそうなアベックはだれ? せっかくの楽しいおもいでのフィルムを紛失された方を探してください」と書かれてある。さらに編集部の説明が、——十二月十日午後四時半ごろ高山市八幡神社の境内でこのフィルムを拾った読者が、本社に寄託してきました。現像してみると、ほとんど高山市内の風景写真ですが、一枚だけ人物を撮影したコマがありました。お心当たりの方は、本社『読者の写角係』までご連絡下さい——と付されてあった。 「もうだめだ!」  船越は、目の前が暗くなった。房子の特徴もはっきりと捉えられてある。これではとてもごまかせない。刑事は、この写真を見て、こおどりしながら彼の許へ急いでいるにちがいない。会社の人間も、高山の神社で、房子と仲睦まじそうに一枚の写真に納まっている彼の姿を見て、びっくりしているだろう。  ——邪恋に狂ったエリート部長、部下のOLを毒殺——こんな毒々しい見出しが、船越の瞼《まぶた》に浮かんだ。 「あなたあ、何してんのよ、会社遅れるわよ」  夫がどんな凄《すさ》まじい嵐の中に投げこまれているかも知らずに、妻の天下太平の声がうながしてきた。      5  逮捕状が出される前に、船越はもより署に�自首�して出た。都内へ捜査のために出張していた高山署の捜査官が来た。警察は、当然のことながら船越に濃厚な疑惑を抱いた。  自首して出たとはいえ、彼が来たのは、新聞に写真が載った後である。もし新聞に出なければ、自首しなかったはずだと警察は釈《と》った。  自首とは、犯人が自ら進んで捜査機関に対して、自分の犯罪事実を告知することである。船越の場合は、逆に自分の無実を訴えたのであるから、正確には、自首ではない。  彼が、房子の同伴者であったことは認めて、自分が彼女を殺したのではないと訴えたのである。もちろん警察は彼の言い分を信用しなかった。彼が、房子の背後に常に隠れるようにしていて、極力同伴者としての印象を残さないようにしていたことなども、疑惑を強める情況になっていた。  改めて、房子と船越の関係が徹底的に洗われた。解剖によって、房子が妊娠四か月の初めであったことも確かめられていた。胎児の血液型は、船越との間に父子関係が存在する可能性の濃いことをしめした。 「秘かに情を交していた愛人が、妊娠して邪魔になったので、高山へ連れ出して殺害した」  という疑いを警察はもっていた。それに対して、船越は、 「房子は、自殺したのだ」と主張した。 「自殺の理由は?」と質《たず》ねた捜査官に、 「私の妻が出産したショックと、自分の妊娠した胎児を堕《おろ》せと私に言われた悲観によるものだとおもいます」と答えた。 「いちおうの自殺の理由にはなるな。しかし彼女は素直にあんたの言葉に従わなかったのじゃないか。すでに妊娠四か月に入っていて、人工中絶が危険な時期にさしかかっていた。もし彼女に中絶する意志があれば、もっと早くしていたはずだ」 「最初は拒絶していましたが、高山で承諾してくれたのです」 「その証拠があるのかね」 「彼女の言葉だけです」 「それでは、自殺の理由は、そのままあんたの殺人動機になるわけだ」 「私は殺してなんかいません。私は彼女を本当に愛していたんです」 「それじゃあ、なぜ結婚してやらなかった」 「それは……」 「それ見ろ。結局、あんたは家庭は温存したまま、若い女と適当に浮気を愉《たの》しんでいただけなんだ。ほんの浮気のつもりが、女が妊娠して、あんたの地位と家庭を破壊しようとしたものだから……」 「ちがう! ちがうったら」 「どうちがうんだ。言ってみろ」  捜査官は、ぐいと船越をにらみ据えた。彼は船越を�本ボシ�とにらんでいた。強い自信があったから、まだ参考人の段階でありながら、すでに被疑者に対するように接している。  不幸なことに、船越にはアリバイを証明できなかった。房子が服毒したのは、十一日の午後三時から五時の間と推定されている。彼女が飛の里に入場したのは、午後三時ごろである。  自他殺いずれにしても、厳しい寒気の中で、二時間も待っていたとは考えられないから、入場すると直ちに人目のない杣小屋《そまごや》へ行って服毒したか、させられたものとみられる。こう考えると、彼女の死亡時間帯の幅は、もっと狭められる。  最も可能性の強い四時前後は、船越は高山線の車中で、下呂《げろ》付近を走っていた。まずいことに高山へ行った痕跡《こんせき》を残さないために、高山線も、新幹線も普通車の自由席に坐《すわ》り、終始顔をうつむけていた。自宅へ帰り着いたのは、午後九時を過ぎていたが、それを証明してくれるのは、家族だけである。よしんば、それが証明されたとしても、房子の死亡時間帯には、辛うじて高山に立てないことはないのだ。 「自殺でもない、あんたが殺したんでもなければ、いったいだれが殺したことになるのかね?」  捜査官の口調は揶揄的《やゆてき》になった。自信が余裕をもたせている。相手の言葉は、船越の固定していた観念を揺すった。 〈そうだ。自分はいままで房子が自殺したものとばかり考えていた。だが彼女を殺す動機をもっていた人間が、他にもいたかもしれない。美貌《びぼう》の房子にモーションをかけていた男は多い。彼らの中のだれかが、房子に言い寄って拒《は》ねつけられたのを怨《うら》んで……〉 「刑事さん」  船越は、面を上げた。 「何だね」  彼がようやく自供する気になったと勘ちがいしたらしい捜査官が、身を乗りだした。 「新聞に掲載されていた房子と私の写真ですが、だれが撮影したのでしょうか?」 「きみたちが撮ったんだろう?」 「いえ、私はカメラをもっていきませんでした。房子ももっていなかったようです」 「それじゃあ、通りすがりのだれかが撮《うつ》したんだろう」 「しかしあの写真は、私たちを狙《ねら》って撮影していました」 「だれだって写真を撮るときは、被写体を狙うよ」 「拾得されたフィルムの中で、人物を撮ったのは、私たちを撮影した一コマだけだったそうです。何コマ撮したか知りませんが、その中の一コマだけの人物写真が、私たちを狙ったというのは、なにかの作為があるような気がします」 「どんな作為があるというのかね?」  捜査官は興味をもったらしい。 「あの構図は、通りすがりのカメラマンの撮影意欲をそそるというものではありません。いったい何を撮ろうとしたのかわからないつまらない写真です。ということは、撮影者は通りすがりでなく、最初から私たちを意識して撮ったのではないでしょうか。つまり房子には私という同伴者がいた証拠を残すために、そんな証拠をなぜ残そうとしたのか。それは後で房子が殺されたとき、私が犯人として疑われるように仕向けるためです」 「おい、あまりいいかげんな臆測《おくそく》を立てるもんじゃない」  捜査官は、たしなめながらも、表情に動揺が見える。船越の言葉に、自信がぐらついてきたのだ。たしかに通りすがりの者が撮ったにしてはなんのポイントもない写真であった。捜査官は、新聞社からその写真とフィルムを借りだして、詳細に検討する必要を感じていた。 「いいかげんな臆測じゃありませんよ。とりあえず私が高山旅行の同伴者として浮かび上がったので、私に容疑が集まってしまいましたが、房子を狙っていた人間は、他にいたかもしれません。まず、この写真の撮影者などは、最も怪しいとおもいます」 「するときみは、その撮影者がきみたちの後を尾《つ》けて来て、写真を撮ってから、きみに容疑を向けるために故意に人に拾われやすい場所に落としたというのかね?」 「いや撮影者が落としたのではなく、自分自身で新聞社へ送りつけたのだとおもいます」 「なんだって!?」 「そのほうが確実ですからね。どんなに人目の多い場所へ落としても、確実に拾われるという保証はない。また拾った人間が必ずしも新聞社へ送るとはかぎりません」 「それだったら、どうして直接警察へ送り届けないのだ?」 「警察へ送れば、身許を明らかにしないとかえって疑われてしまいます。拾得者が特に身許を隠す必要はないのですから、疑いを招かずに、ぼくだけに容疑を振り向けるようにするには、新聞社へ送るのがいちばん無難で、しかも自然です。だれだって、拾得者が匿名《とくめい》で小さな善意を施したとおもいますからね。新聞には、拾得者の名前は載っていませんでしたが、おそらく最初から匿名だったとおもいます」 「さっそく調べてみよう」  捜査官は、船越の示唆《しさ》を一理あると考えた。新聞社に照会がなされて、フィルム拾得者が匿名で寄託してきたことが確かめられた。新聞社から件《くだん》のフィルムが借り出されてきた。  最近では少なくなった一コマ六センチ×六センチの十二枚撮りのブローニーと呼ばれるロールフィルムである。画面サイズが大きいので、35ミリカメラよりもシャープな引伸し印画ができる。  フィルムは、十二コマすべて撮影されており、問題の写真は、十コマめである。人物画は船越と房子を撮った十コマめだけで、残りの十一枚は、すべて高山市内のスナップであった。 「おや?」フィルムを仔細《しさい》に点検していた捜査官の一人が首を傾《かし》げた。 「なにかあったか?」  彼といっしょに東京へ出張して来た同僚が覗《のぞ》きこんだ。 「十一コマめと十二コマめの高山市内の風景写真だけど、これは、国分寺の境内だな」 「そう言われれば、そうだが」  相手がかざした原板《ネガ》を覗いた同僚は、それがどうしたというように、話の先をうながす。ネガには、飛国分寺のトレードマークのような三重の塔と、樹齢千二百年の大いちょうの木が写っている。 「国分寺は、駅の近くで歩いても精々五分の所にある。それに対して屋台会館は、市域の北東のはずれの八幡神社の境内にあり、駅から二キロもある。ところがこのフィルムの拾得者は、八幡神社の境内で拾ったと言ってるんだ。すると非常におかしなことになる。フィルムの撮影者は、屋台会館で十コマめを撮影した後、国分寺へ行って十一と十二コマめを撮《うつ》し、ふたたび屋台会館へ引き返してフィルムを落としたことになる」 「なるほど、おかしいな」  うなずいた捜査官の目が光ってきた。 「それだけじゃないぞ。十コマめの撮影時間は、だいたい午後四時前後とわかっている。ところが、十一コマと十二コマは、光線の状態から見て明らかに十コマめよりも時間が早い。おれは二時前後じゃないかとおもう。十一コマと十二コマが、十コマより早い時間に撮られているのは、どういうわけだ?」 「次の日に撮ったんだろう」 「ところが拾得者は、これを十二月十日に拾ったと言ってるんだ。十日の四時ごろ十コマめは撮られているんだぜ」 「そうか!」 「拾得者は、これを十日に拾うはずがないんだ」 「拾ってから、拾得者が十一コマと十二コマを撮影して送ってきたんじゃないのか」 「すると、カメラごと拾ったことになるよ。新聞社には、フィルムだけ送られてきたんだ。カメラだけ猫ババして、フィルムを送ってくるやつがいるかね」 「おれも一つ気がついたことがあるぞ」 「何だ?」 「新聞社には、現像していないフィルムが送られてきたんだろう」 「そうだよ」 「すると拾得者は、どうしてフィルムに写っている内容を知ることができたんだ」 「あ!」捜査官は息をのんだ。 「拾得者は、『この仲良さそうなアベックはだれ? せっかくの楽しいおもいでのフィルムを紛失された方を探してください』と新聞社に書いてきている。現像しないうちから、アベックが写っているのを知っていたんだ」 「すると拾得者は大きな嘘《うそ》をついていることになる」 「そうだ。まず拾った場所は、屋台会館ではない」 「そして拾ったのは、十二月十日ではない」 「なぜ、そんな嘘をついたのか?」  捜査官は、じっとたがいの目を見合った。ここにおいて、船越の主張がにわかに真実味を帯びてきた。すなわち撮影者即拾得者である。その作為が、撮影者が犯人ではないかという推測をうながす。  さらに新聞社から、フィルムに付けられてきた拾得者の手紙が借り出された。しかし定規でひいたような文字ばかりで、特徴が消されてあった。明らかに筆蹟を晦《くら》ますための作為が施されていた。  フィルムの発送地は、高山で、消印は十二月十一日となっている。拾得者をめぐる情況はますます怪しくなってきた。 「房子に怨みを含んでいたような人間の心当りはないか?」と捜査官は、船越に訊《たず》ねた。  それはすでに警察が、房子の勤め先や家庭で捜査したことである。綿密な聞き込みにもかかわらず、船越(それも自ら出頭して来た)以外には、怪しげな人物は浮かび上がらなかった。  警察にもわからなかったことは、船越にもわからない。彼はこの五年間、完全に房子を独占していたとおもった。時間と経済力の許すかぎり、房子との逢《お》う瀬《せ》に当てた。  それは房子のほうも同じだったはずである。会社の拘束《こうそく》以外のすべての自由時間は、船越のために充当した。その間に他の男の入りこむ隙間《すきま》はなかったようである。  だが、五年という長い時間のあいだには、船越の知らない盲点があったかもしれない。その盲点の中で、房子は彼の知らない生活の一面をもっていたかもしれないのだ。 「写真を私にもよく見せていただけませんか?」  船越は申し出た。新聞に載せられたものは、印刷効果が悪い。ネガから映像を焼き付けたオリジナルの印画を見れば、なにか新たな発見があるかもしれないとおもった。  捜査官は、新聞社が六ツ切り判程度に引き伸ばした印画を見せてくれた。校倉造《あぜくらづく》りの屋台会館の建物をバックに、房子と船越が仲睦《なかむつ》まじく語り合っているような構図、船越の目にすでに焼きついているものである。印画なので、映像は新聞よりもいっそう鮮明になって、二人の特徴が、はっきりと捉《とら》えられてある。構図は明らかに彼らを中心に捉えている。ポイントのないスナップではあるが、彼らを狙ったことは、確かであった。  だが、その画面から撮影者の正体を知る手がかりは得られそうもない。あきらめて捜査官に写真を返そうとしたとき、ふと船越の目にひっかかったものがあった。 「この旗のようなものは何だろう?」  彼が画面の一点に目をこらしたのを見て、捜査官は、 「何かあったのか?」 「画面の左のはずれに、旗のようなものが見えるでしょう。何か書いてある。字が小さくてよく読めないけど、最後の文字は『旅行会』と読めませんか。そうだ! おもいだしたぞ」  船越は急に大きな声をだした。彼は、あのときの光景を、瞼《まぶた》によみがえらせた。一足遅れて屋台会館から出て来ると、房子が「こっちよ」と呼びかけた右手(船越にとっては左手)の方で、団体客が記念撮影をしていた。その団体客の幹事がもっていた幟《のぼ》りが、船越たちを撮った構図の左端に覗いていたのだ。 「何をおもいだしたんだね?」  捜査官が訊ねた。 「私がこの写真を撮られたとき、団体がちょうど同じ場所で記念撮影をしていたのです」 「それがどうかしたのか?」 「団体の記念撮影をしたカメラの角度は、この構図から見ると、私たちを撮したカメラと対《むか》い合っていました。ということは、団体のカメラに、私たちを撮影した人間が写っている可能性があります」 「なるほど。面白い考え方だが、それはどうかな。まず団体を撮すときは、人物だけで構図がいっぱいになってしまう。とても余分なものが入る余地はないだろう。それにカメラが対い合っていたとすれば、きみらの撮影者は、団体の人間の背後に隠れてしまうはずだ」 「そうかもしれません。しかし、可能性はあるとおもうのです。団体撮影の場合は、大きなサイズのフィルムを使うでしょうから、構図に多少のゆとりがあったかもしれません。それに人物と人物の間に、なにかが写っているかもしれない。刑事さん、お願いです。この幟りの部分を引き伸ばして、旅行団体の名前を突き止めてくれませんか。団体の名前がわかれば記念撮影した人もわかるでしょう。その原板《ネガ》に、私を陥れようとした人物か、あるいはその手がかりが写っているかもしれない。お願いします」  船越は、捜査官の前に手をついた。自分の社会的生命がかかっているだけに必死であった。捜査官は、彼の頼みを容《い》れた。さっそく警視庁の鑑識課に依頼して、写真の幟りの部分が拡大された。幟りの文字は『川崎市|生田《いくた》農協旅行会』と判読された。  生田農協に照会が行なわれた。その結果、同農協では、例年の行事になっている慰安旅行を、今年は十二月八日から三泊、下呂《げろ》温泉と高山に行ない、十日の午後四時ごろたしかに高山市の八幡神社で記念撮影をした事実がわかった。  撮影者は、旅行会に同行した川崎市の写真屋で、八幡神社の境内で撮った原板数枚が領置された。その中の一枚の構図の端に、船越の姿がわずかに捉えられていた。もちろん旅行会の参加者に配った写真には、その部分はトリミングされている。  せっかくの船越の着眼であったが、彼らの撮影者の姿や、その手がかりになるようなものは、団体の記念写真の原板には、まったく残っていなかった。まことにのんびりした表情で、一年に一度の慰安旅行を楽しんでいる人々の姿が、記念撮影の定型的なパターンとして撮されているだけである。 「やっぱりなにも写っておらんよ」  捜査官も気落ちした表情で言った。拾得者に不自然な点はあっても、こうなると、やはり船越から容疑をはずすわけにはいかなくなる。とにかく彼は、房子が死んだ直前の唯一の同伴者なのである。動機もある。 「刑事さん、私は殺していません。もし私が犯人だとしたら、フィルム拾得者の矛盾《むじゆん》は、どう説明するんですか?」  船越は、いったんうすくなりかけるかに見えた容疑の暗雲が、ふたたび頭上に厚くおおいかぶさってくる気配を悟った。彼はなんとかして容疑の雲から脱け出さなければならないとおもった。 〈自分を盗み撮りした人間が必ずいるはずだ。だが彼は、生田農協の写真にも、その姿を現わさなかった。人物の背後に隠れたのか? あるいは、姿を見せずに機械的に撮影する方法があったのか?〉 「機械的な方法……」  閃光《せんこう》が頭の中を走った。 「刑事さん、その写真をもう一度見せて下さい」  船越は、いったん返した写真を、捜査官の手から、ひったくるように取った。そして改めて丹念に画面を観察したのである。 「やっぱり」ややあって彼はうめいた。 「何がやっぱりなんだ?」 「この写真の右から三番目と四番目の間の後ろの方になにか光っているものがあるでしょう。木立ちの間です。金属が光を反射しているような?」 「それがどうかしたか?」 「この部分をもう一度拡大してみてくれませんか。ここに真犯人をしめす手がかりがあるかもしれない」 「おまえが殺《や》ったんだろう。逮捕状は下りるばかりになってるんだ。いいかげんに吐いたらどうだ」 「お願いです。もう一度だけ、ここを伸ばしてください」  異常なばかりに熱心に訴えるので、捜査官は、その要求を聞いてやった。拡大した部分には、なんと、三脚に支えられたカメラがあった。カメラのファインダーの部分に夕日が当たって反射していたのを、生田農協の記念撮影が捉えたのだ。  そのとき船越には、事件全体の構図が読めた。  ——犯人は[#「犯人は」に傍点]、房子だったのだ[#「房子だったのだ」に傍点]——  彼女は、船越に復讐《ふくしゆう》するために、自らを殺したのだ。彼女は、船越が胎児を堕《おろ》せと命じたときに、その愛の正体を見破ったのかもしれない。いやそれより前に、彼の妻が妊娠したときに、彼を見かぎり、青春を犠牲にしての愛を裏切った彼に復讐の意志を固めたのだろう。高山へ誘ったのは、復讐を実行するためであった。  屋台会館で気分が悪くなった振りをして、一足先に出ると、木立ちのかげにカメラをセットした。やがて船越が会館から出てくるのを認めると、セルフタイマーをレリーズして、「こっちよ」と声をかける。シャッターが切れてから、あらかじめ故意に切符売場に忘れておいた手袋を、船越に取りに行かせている間に、カメラをバッグの中に隠してしまう。いまおもいおこしてみると、あの日彼女がもっていたバッグは、常時使っていたものより、サイズが大きく、脹《ふく》らんでいた。あの中にカメラを忍ばせていたのだ。フィルムを八幡神社で拾ったと言ったのは、そこでの作為が強く印象づけられていたからだろう。  国分寺は、彼らのホテルのすぐそばにあった。船越と別れた後、房子はなにげなく国分寺の境内でスナップを撮り、フィルムを巻き取って新聞社に郵送した。カメラは、フィルムを抜き取った後、どこかへ捨てたのだろう。それから飛《ひ》の里へ行って、毒を服《の》んだのだ。  毒を服む時間をあまり遅らせると、船越が現場から遠ざかって、アリバイのできてしまうおそれがあったので、急がなければならなかった。  もっともアリバイに関しては、船越がだれにも会わないように人目を避けて行動しているのを知っていたから、あまり心配していなかったかもしれない。  新聞社に送っておけば、たとえ、新聞に掲載されなくとも、房子の死んだ後、必ずその写真と結びつけてくれる。そのためにも、死場所として選んだ高山から発送したのだ。  船越は、自分の発見と推理を捜査官に話した。だが捜査官は、どうしたわけか冷笑した。これまで多少好意的になっていた彼らの表情が、厳しく冷えている。 「どうしたのですか? 現にここに三脚に据えられたカメラが写っているじゃありませんか。房子が自殺した動かぬ証拠です」  といらだって訴えた彼に、 「そうとはかぎらないよ。カメラはあんただってセットできるだろう」 「あ!」まだはっきり事態はつかめぬながらも、なにかが目の前で炸裂《さくれつ》したような気がした。 「あんたが撮影して、フィルムを新聞社に送りつけたと解釈すれば、すべての矛盾が説明されるよ」 「そ、そんな馬鹿な! どうして私が自ら墓穴を掘るような真似《まね》をするんだ?」 「あんたは、的場さんとの関係を隠しおおせないとおもった。だからわざとあんな写真の小細工を弄《ろう》して、いったん容疑をかぶった。その後で写真の矛盾を突いて、容疑を逃れようとしたんだろう」  自分を救う確証を見つけたとおもっていたのが、逆に自らの首を絞める結果になってしまったようである。警察は、とんでもないおもいちがいをしている。だがたしかに彼らの言うとおり、船越にもカメラをセットできるのである。  そして警察の意識としては、当然、撮影者を房子よりも、船越と考えるだろう。 「あんた、たしかに自分から墓穴を掘ってしまったな。どうして農協の写真なんかを調べろと言ったんだ?」  捜査官には、そのことだけが解《げ》せないようであった。 「私は、無実だからだ。房子は自殺した。カメラを仕掛けたのは、房子だ」 「まだそんなことを言い張るのか。我々はあんたの身辺を徹底的に洗った。あんたは、二か月前、下請けの化学合成会社から駆虫剤に使うという口実で青化ソーダを手に入れている。妊娠して邪魔になった女をかたづける機会を狙っていたんだろう。逮捕状が下りた。殺人容疑で、身柄を拘束する」  捜査官はゆっくりと立ち上がった。そのとき、船越の脳裡《のうり》に、夜の高山駅へ着いたとき、凍てついた雪の中に立ちつくして彼を待っていてくれた房子の優しい笑顔が、鮮やかによみがえった。  彼が、体に悪いと言って叱《しか》ると、唇を少しとがらせるようにして、なにか反駁《はんばく》しようとした。子供のようにはしゃぎながら提燈《ちようちん》のともる夜の町を連れ立って散歩した房子の楽しげな姿、みたらし団子を頬張り、土産物屋をひやかし、民芸風の�喫茶店のハシゴ�をしているうちに、秘かに抱いていた房子への殺意は、萎《な》えてしまったのである。高山で殺すという確定した意志はなかったが、彼女がどうしても中絶を拒むならば、いずれ用意した毒を服まさなければならないとおもっていた。 〈そうだ、房子は、本当に自分を愛していてくれたのだ。愛するということは、愛の対象を独占することだ。房子は、おれと別れた後、おれを家庭と妻の許に返すのに耐えられなくなったのだろう。おれを独占するために、雪の中で自ら毒を仰ぎ、おれがこれから永久に房子以外の所へは、帰れないようにしたのだ〉 「どうだ、何か言うことがあるか?」  捜査官が訊《き》いた。 「なにもありません。私が房子を殺しました」  船越は肩を落とした。彼の暗い視野には、すぐ前にいる捜査官の顔は見えず、八幡神社の境内《けいだい》で「こっちよ」と呼びかけた房子の声がどこからか聞こえてきた。 [#改ページ]    死を運ぶ天敵      1  三田進吉《みたしんきち》が岩城利男《いわきとしお》に初めて会ったのは、五年前の秋である。当時T大農学部に在学中だった彼は、一人の女性に失恋して、ひどく絶望的になっていた。  失恋といっても、彼が片想《かたおも》いを寄せた他学部の女子学生が、在学中に結婚してしまったという他愛ないものであったが、当時の彼にしてみれば、「偶像の女性」として心の祭壇に飾っていただけにショックが大きかった。  彼にとって不幸なことに郷里の生家から送金が来たばかりのときだった。彼はその金を懐ろにして夜の町へ出た。もうどうなってもいいとおもった。  一か月分の生活費と、半年分の学費を、この一夜に費《つか》い果たしてやろうと、三田は酒場から酒場をうろつき回った。  だが、縄のれん程度の場所しか知らない貧乏学生が、生活費と学費を一夜の中に飲み果たすことは、難しい。大して金を費わないうちに、酔いだけが身体に堆積《たいせき》してきた。  何軒かハシゴしているうちに、いつの間にか連れができていた。おたがいにどこのだれとも知らない。どこかの酒場で隣り合い、二言三言交わすうちに、連れのような形になってしまったのだろう。 「金ならたっぷりあるんだ。今夜は徹底的に飲み明かそうぜ」  そんな大見得を切ったような気がする。その大見得と、現実に目の前で切って見せた札びらにひかれて、相手は尾《つ》いて来たのかもしれない。  その「連れ」が、岩城利男だった。彼は当時F大の学生だった。彼の母校が、野球の大学リーグ戦に敗れて、その残念会の流れで入った酒場の一つで、三田といっしょになったということである。  もっともこれは、彼が岩城に再会してから聞いたことで、そのときはたがいにどこのだれとも知らぬままに別れてしまったのだ。名乗り合いさえもしなかった。  二人は連れになってから、さらに数軒回った。金はすべて三田が払った。最後の店を出たときは、二人とも足もとも目の焦点も定まらぬほどに酔っていた。  だが三田は、酔ったのは身体だけで、まだ意識は冷たく醒《さ》めているのを感じた。体はすでに酒に飽和して、それ以上受けつけなくなっていたのに、まだ飲み足らないおもいだった。  もっともっと飲み浴びせて、胃から血を吐くほどに、自分を痛めつけたいマゾヒスティックな気持が働いていた。 「今度は、女を買いに行こう」  と岩城が言った。三田は女を買える場所がどこにあるのか知らなかった。 「おれは面白い場所を知っているんだ」 「よし、どこへでも案内しろ」  三田は、まだ童貞だった。それを捨てるには、まことにふさわしい夜だとおもった。 「車をつかまえよう」 「遠いのか?」 「歩いちゃ行けねえよ」  岩城が軽蔑《けいべつ》したように笑った。ところが時間が遅いせいか、空車がなかなか来ない。いらいらしながら、通りを歩いて行くと、道のかたわらに一台の車が駐《と》めてあった。  三田がなにげなくドアに手をかけると、他愛なく開いた。中を覗《のぞ》きこんでみると、イグニション・キーが差し込まれたままである。三田は期限の切れた免許証をもっていた。書き換えを怠ったために失効してしまったのである。しかし、車の運転はできる。 「おい止《よ》せよ」  運転席に入りこんだ三田を、さすがに岩城は驚いてとめた。 「なにも盗むんじゃない。ちょっと借りるだけだ。それともおじけづいたのか」  酔った勢いで三田が言ったものだから、岩城も後へひけなくなった。 「行先きを案内しろ」  助手席に渋々乗って来た岩城に、三田は命じた。いままでなんとなく岩城のペースで引っ張られて来たのが、車に乗ってから、自分がイニシャティブを握ったようで、いい気分だった。 「おい、あまり飛ばすな。つかまったら危《やば》いぞ」  さすがの岩城も酔いが醒めてきたようである。もしスピード違反で捕えられたら、その上に飲酒無免許運転と、窃盗で、何重ものペナルティを科せられる。 「大丈夫だって」  三田はますますアクセルを踏みこんだ。自信があったわけではない。むしろすてばちな気持から、自分の絶望の底を突き止めようとしていた。 「おれは降りるぜ、停めてくれ」  たまりかねて岩城が悲鳴をあげた。同時にべつの所からも悲鳴が上がり、車に激しい衝撃が伝わった。 「やった!」  岩城はおもわず目をつむった。とうとう轢《ひ》いてしまった。いまの悲鳴は、確かに人間のものである。酒酔い、無免許の上に、盗んだ車で、人を轢いてしまった。どうにも救いようのない悪質な事故をおこしたわけである。車体に伝わった衝撃から察するに、相手にあたえた損傷は、かなりのものらしい。もしかすると、即死させてしまったかもしれない。 「おい、どうするつもりなんだ!?」  当然、車を停めて、被害者の様子を見るとおもっていた三田が、ますます加速して現場から離れようとしているのを知って、岩城は愕然《がくぜん》とした。 「停めろ、停めろったら!」 「うるさい! 黙ってろ」  一瞬、三田は凄《すご》い目をして岩城をにらんだ。岩城は、そのとき無理に車を停めさせようとすれば、自分が殺されるような恐怖を覚えた。  深夜のことで、目撃者(車)がいなかったのか、追尾して来る者はなさそうであった。現場からかなり離れた暗い空地で、三田はようやく車を停めた。二人とも酔いはすっかり醒めている。彼らは車内にいることの危険も忘れて、そのまましばらくの間、シートにぐったりと身をあずけていた。 「いったいどうするつもりだ。逃げ切れるとおもってんのか?」  ようやく岩城が口を開いた。 「逃げられるとも。おれたちがこの車に乗っていたことは、だれも知らない。だれも見た者もいない。このまま二人が口を噤《つぐ》んでいれば、絶対にわかりっこない。いいか、このことに関しては、あんたも共犯だぞ。自分の身を守りたかったら、今夜のことは、忘れるんだ」  三田は、自分の意識が冴《さ》えてくるのを感じた。追いつめられて、自衛本能がフィードバックしているのかもしれない。もう少し早く、理性のフィードバックが働いていれば、こんなことにはならなかったのだが。 「いいか、おれはあんたのことを知らない。あんたもおれを知らない。おたがいに他人同士のまま別れよう。いつかどこかで万一出会うことがあっても、他人だ。いいな」  三田は、むしろ自分に言い聞かせるように言った。不思議なことに、彼はそのとき岩城を信じていた。岩城が今夜のことをしゃべるかもしれないというおそれは、少しももっていなかった。一種の悪人同士の連帯感が働いたせいだろう。  二人はその場で別れた。  翌朝のニュースは、——横断歩道上で、現場の近くに住む老人が、轢き逃げされて即死していた。相当の高速で衝突されたらしく、頭部が破砕し、内臓が潰《つぶ》れていた。しかも加害車は、盗難にあった車で、現場から遠く隔った場所に乗り捨てられていた。——と報道していた。  盗んだ車で、横断歩道上で轢き逃げをしたのであるから、警察でも異例の捜査体制を敷いた。だが警察も報道陣も、加害者が、無免許で飲酒していた事実を知らない。これを知れば、交通事故で最も悪質とされる「飲酒、無免許、轢き逃げ、横断歩道上の事故」という、�交通四悪�のすべての条件を備えたうえに、車を盗んだ罪が追加される。  警察の懸命の捜査にもかかわらず、犯人は挙がらなかった。盗まれた車の所有者は、まったく事件に関係がなく、乗り捨てられていた車の中には、犯人の遺留品は発見されなかった。  ハンドルや、ドアコックから所有者以外の指紋がいくつか検出されたが、前歴がない者とみえて、警察の指紋資料に該当するものがなかった。警察では「関係者指紋」として保存することにした。  三田は、見事に警察の追及から逃げおおせた。岩城(三田はまだ彼の名前を知らない)も約束を守ったのである。もっともうっかり漏らせば、自分も共犯になるのだから、自衛のために黙秘したのであろう。  重大な罪を犯して追われる身になってから、三田は人生に強い執着を覚えるようになった。その気になって見回せば、人生は諸々《もろもろ》の楽しみに満ちていた。  どうしてたかが一人の、それも片想いの女性に失恋して、あんなに絶望的になったのか、自分でもよくわからない。このさまざまな可能性にあふれた人生から、自由を束縛されたくない。  一年たち、二年たち、そして五年たっても、刑事は彼の前に姿を現わさなかった。最初のうちは、風の音にもおびえるようにして暮らしていた三田も、ようやく警戒の鎧《よろい》を脱いだ。「もう大丈夫だ」と彼はおもった。  盗んで乗り捨てた車の中には、たぐられるようなものは残していない。唯一の心配は、消しきれなかった指紋を残したおそれのあることだが、それもこれから指紋を取られるようなことをしなければ、大丈夫である。  そのために三田は、自分ではいっさい車のハンドルを握らないようにした。もちろん、免許証を新たに取りなおすことは止めた。  ところがようやく構えをゆるめた彼の前におもわざる人物が現われた。岩城利男と偶然、再会したのである。いや偶然ではなかった。岩城のほうから、三田の消息を知ってたずねて来たのである。  わざわざ古い�共犯者�に会いに来たからには魂胆がある。三田はそのとき初めて岩城の名前を知ったのであるが、五年の間に二人の社会的位置に大きなへだたりが生じていた。片や失うものがあり、一方にはなにもない。共犯者は対等ではなくなった。しかも失うものをもったほうが、主犯格であった。ここに悲劇の芽が生じたのである。      2  三田進吉は、例の悪夢のような事故を起こしてからは、ひたすらに身を慎しみ、学問に打ちこんだ。彼の生家は、東北A市郊外に果樹園を営んでいる。  毎年、栽培果樹が大きな虫害を受けるのを見て育った彼は、リンゴやナシを食い荒らすカイガラムシやリンゴワタムシに強い憎しみを覚えていた。  これらの虫は果樹の枝や幹の隙間《すきま》などに潜んでいるため、駆虫剤が浸透しにくい。そのうえ、成虫や卵は、薬を弾《はじ》く蝋物質《ろうぶつしつ》をレインコートのようにまとっているので、余計に薬が効きにくいのである。  三田は、この害虫駆除の方法を学ぶためにT大農学部農業生物学科に進んだのである。  度重なる農薬の撒布《さんぷ》は、病害虫の抵抗力を強め、さらに強力な農薬の開発と、より大量の撒布という悪循環に陥っていた。  皮肉なことに農薬は、害虫の天敵をも殺してしまったために、かんじんの害虫がますます蔓《はびこ》るという結果を招いてしまった。  ここで、農薬に代るものとして、天敵の役目がふたたび見直されてきたのである。人工の薬剤によって病害虫を駆除しようとした人間は、ようやくそれが自然界の摂理《せつり》を乱したことに気づいて、遅蒔《おそまき》ながら、生物相のバランスを取り戻すことによって、害虫を制しようとするようになった。  天敵利用による害虫駆除には、農薬にはないさまざまなメリットがある。まずなによりも省力的であり、害虫の抵抗性を生ぜず、天候の影響を受けないことである。  さらに天敵の生産が企業ベースに乗れば、費用も安上がりになる。  三田が取り組んだのは、リンゴとナシの大敵、クワカイガラムシである。この害虫は、昭和三十年代に普及したホリドール剤によって、他の害虫が衰えた中でしぶとく生き残り、天敵が死んでから、害虫の�王座�の位置を占めるようになった。  三田は卒業後も、研究室に残って、クワカイガラムシの天敵の研究をつづけた。そして、五年後にクワカイガラムシを食う強力な天敵の育成と量産に成功したのである。  三田が量産に成功したものは、英国の昆虫学者ラルフ博士の発見したクワカイガラヤドリバチの変種である。カイガラムシの天敵は八種類ほどあるが、三田が飼育したハチは、クワカイガラムシ以外には取り憑《つ》かない。彼の功績を顕彰するために、ハチは『ミタクワカイガラヤドリバチ』と命名された。  体長一ミリ前後、一見|羽蟻《はあり》のようだが、「飛べないハチ」である。精々、五、六日の寿命の間にクワカイガラムシの体内に卵を産みつける。卵は孵化《ふか》して幼虫となり、クワカイガラムシの体を食べて成長していく。幼虫からサナギになり、成虫になって羽化するまでが約二十日間である。  一つのサナギから羽化する成虫は平均十匹で、その中の七割のメスがふたたびクワカイガラムシに産卵する。  クワカイガラムシのライフサイクルが四十日だから、その間天敵のハチは二サイクル繰り返すことになる。産卵数を相加すると、カイガラムシの十倍以上の繁殖力があることになる。  三田は、ミタクワカイガラヤドリバチの大量増殖に成功すると同時に、天敵を「生きた農薬」として企業ベースの生産を狙《ねら》っているある大手化学肥料会社の中央研究所から、高給をもって迎えられた。教授の紹介で、ある素封家《そほうか》の令嬢とも縁談がまとまった。  彼の研究成功を紹介した記事が、全国紙に載った。つづいて「時の人」のような形でテレビや、雑誌などからもお座敷がかかってきた。  彼は、依頼に応《こた》えるにあたって、大いに迷った。それは例の共犯者(岩城)のことである。すでに新聞に載ってしまった記事は、しかたがないが、これ以上マスコミ媒体に顔を晒《さら》すのは、危険ではないか。  これまでに彼がなんにも言ってこないのは、たまたま記事が目に触れなかったと考えられる。だがこれからもマスコミに乗りつづけると、見つかるおそれがある。  あの男の消息は、あれ以来聞いたことがない。  たがいにどこのだれとも知らぬまに別れたのである。  三田は、彼がどんな顔をしていたか、ほとんどおもいだせない。悪夢のような数時間をともに過ごした相手は、最も忘れたい人間として、記憶の底に封じこめてしまった。  おそらく先方でも、同じ心理機制《メカニズム》が働いていることだろう。現にこれまでになんにも言ってこなかったのが、なによりの証拠ではないか。——自分の記事は数紙の全国版に載った。それが彼の目に触れなかったと考えるより、見ても気がつかなかったという可能性のほうが大きい—— 「大丈夫だ。向うにとっても、おれは最もおもいだしたくない人間のはずだ」  三田は自分に都合のいい解釈をした。暗い北の国の隅から出て来た彼は、成功を誇示することにひときわ強い執着をもっている。美しい婚約者にも、自分のいい格好を見せたい。郷里の両親や、親戚《しんせき》知人たちにも、テレビに出て、晴れ姿を見せてやりたい。  全国ネットのテレビへの出演は、功名心の旺盛《おうせい》な彼にとって、逆らい難い誘惑であった。そして結局、彼はテレビに出た。数基のカメラと眩《まぶし》いライトの中央に据《す》えられた三田は、自分がいま世界の中心にいるような気がした。いい気分だった。  だが報いは覿面《てきめん》にきた。テレビ局から意気揚々《いきようよう》として研究室に帰って来ると、ほとんど同時に一本の電話がかかってきた。 「三田先生ですか。お久しぶりですね。テレビを拝見しましたよ。いや大したご成功で。一言おめでとうを言いたくて、テレビ局で住所を聞いて、つい電話をかけてしまいました」  聞きなれない声なので、なんと答えたものか、三田が迷っていると、 「お忘れですか、岩城ですよ。いやそう言ってもわからんでしょうな。私も今日初めてあなたの名前を知ったばかりなんだから……」  岩城は電話口で含み笑いをした。 「あなたはいったいどなたですか?」  三田が不吉な予感に駆られながらたずねると、 「いますぐにおもいださせてあげますよ。あなたは忘れたいことでしょうが、絶対に忘れてはならない事件のはずです」 「き、きみは!」 「どうやらおもいだしたご様子ですね。そうです。私ですよ。あなたのおかげで私はひどいめにあった。つかまれば、殺人罪になるかもしれないんですよ。あのときの共犯者、いや主犯がテレビに出ている。びっくりしましたよ。なんか凄《すご》い�発明�をされたそうですね」 「それで、私になにかご用ですか?」  送受器を握りしめる手が震えているのを、相手に気取られないように努めて声を抑えて聞くと、 「なにか用かとはご挨拶《あいさつ》ですね。昔の共犯者が久しぶりに声をかけてきたんだ。もう少し懐しがってくれてもいいでしょう。あの事件はどんなに軽く見積っても、重過失致死だ。それに酔っぱらい運転と轢き逃げが重なっているのだから、七年以上の懲役は、確実ですよ。未必《みひつ》の故意《こい》による殺人で、死刑か無期になるかもしれない。いずれにしても時効は完成していないはずです」 「いったいきみはなにを言いたいんだ?」 「昔の共犯者が、懐しがっていることをおもいださせてあげたいだけです。それもあなたが無理矢理に共犯に引きずりこんだんだ」  公訴の時効は、刑期十年未満の懲役または禁錮《きんこ》にあたる罪については、五年で完成するが、三田にはそんな知識はない。それにかりに時効になっていたとしても、いまの彼にとっては、凶悪で最も悪質な轢き逃げ犯人ということが露《あら》われるだけで致命的なのである。  せっかく得た名声は地に落ち、縁談は取り消される。そんなことはなんとしても防がねばならなかった。 「とにかく、昔の仲間が久しぶりにめぐり会ったのです。どうです、近いうちに会って旧交を暖めようじゃありませんか」  岩城は勝ち誇ったように言って、電話を切った。      3 〈岩城がアプローチして来たからといって、必ずしも恐れることはない。彼が共犯である事実に変りはないのだ。旧《ふる》い犯罪が露われて困るのは、彼も同じだ。彼の言ったように、悪友を懐しむつもりで電話をかけてきたのかもしれない〉  三田は心の中に募る不安を、そう言い聞かせることによって、強いて納得させた。だが彼の楽観は、岩城に会ってもろくも崩れた。  岩城は、三田の成功と逆に、落ちる所まで落ちていた。岩城のその後の身上話によると、F大を卒業してすぐ入った小さな貿易会社の潰《つぶ》れたのが、ケチのつきはじめだったという。  それからは新聞の求人欄を頼りに、業界新聞記者、レストランの経理係、中小出版社の倉庫係、ガソリンスタンドの給油係、翻訳の下訳などをやったが、なにをやってもうまくいかず、現在は外国の百科事典のセールスマンをやっているということであった。  岩城はこれもすべて三田のせいのような口ぶりだった。二年ほど同棲《どうせい》していた女がいたが、いまは別れて、大久保の安アパートに一人住いをしているそうだ。 「それにひきかえ、あんたはえらい出世じゃないか」  会うと、たちまち口調がぞんざいになって、卑《いや》しげに笑った。  もともと彼と初めて出会った所は、新宿裏の安バーであった。最初からそのイメージはうす汚れている。  それがこの五年の間にさらに増幅されている。転々と流れた生活の荒《す》さみが加わって、心身を荒廃させていた。それは暴力団に属していないというだけの、立派なヤクザであった。  岩城は、まず当然のことのように百科事典を売りつけた。しかも金だけ受け取って、本をもってこない。どうやら、本代を着服してしまった様子である。それを三田は強く咎《とが》められない位置にいる。これを皮切りにして、岩城の果てしない恐喝《きようかつ》ははじまったのである。  三田は、クワカイガラムシの天敵を見つけると同時に、自分自身の天敵を見つけてしまった。三田は岩城に再会してから、人間にも天敵が存在することを信ずるようになった。  このままいけば、クワカイガラヤドリバチに完全に体内を食い荒らされて死んでしまうクワカイガラムシのように、自分は岩城によって骨の髄《ずい》まで吸われてしまうだろう。ようやく蓄えたばかりの栄養も、すべて岩城を肥《ふと》らせる甘い汁にされてしまう。  岩城こそ、三田の生存を根本から脅《おびや》かす天敵である。自分が生きていくためには、彼をどうしても排除しなければならない。動物は天敵に対して無抵抗である。それに倒されることを宿命として受け入れている。  だが人間が、他の動物と異なるところは、天敵に対して、自己を防衛するための戦いを挑めることである。天敵に食われる前に相手を斃《たお》す。もちろん相手は、自分よりも圧倒的に強い。だがこちらにもまったくチャンスがないわけではない。  知恵のかぎりをしぼり、相手の機先を制するのである。そこに人間の人間たるゆえんもある。 「なかなかきれいな婚約者じゃないか。あんな美しい人がいたんじゃ、めったなことでは、あのことは公けにできねえな」  岩城はついに三田の婚約者の存在を嗅《か》ぎつけた。隠しおおせることではないとおもっていたが、岩城がそれを言いだしたときに、三田の意志は定まったのである。  挙式は、一か月後に迫っていた。それまでに、この恐るべき天敵を始末しなければならない。  三田は、ミタクワカイガラヤドリバチを飼育する以上の熱意をもって、岩城の抹殺《まつさつ》計画に頭を絞った。  彼を殺すこと自体は、さして難しいとはおもわなかった。殺した後、岩城の周辺が捜査されて、彼とつながりのあった者が、片っ端から洗われるだろう。  そのときになって自分もたぐられては困るのだ。少しでも岩城とのつながりが残されているかぎり、殺人はあまりにも大きな博打《ばくち》である。  だがその点に関しては、三田は安心してよいとおもった。要するに二人は共犯者である。三田に比べれば、岩城のほうが失うものが少ないところから、彼が恐喝者の立場《サイド》に立ったが、旧《ふる》い犯罪が露われて困るのは、岩城にしても同じである。  まして岩城には恐喝者としての暗い意識があるから、彼のほうから三田とのつながりを隠すようにしている。これまで何度か会った場所もたがいの生活圏から離れた所を選んでいた。  彼らの暗いつながりを知っている者は、だれもいない。 「百科事典だ!」  三田は重大な盲点に気がついた。彼は岩城から百科事典を売りつけられた。三田は日本の百科事典としては最も権威のあるH社のセットをもっていたが、弱味があるので、いりもしない英語版のセットを買った。  ところが金を払い込んだものの、岩城は商品を送ってこない。どうやら岩城が代金を横領した気配なのだが、もし購入契約者のリストに三田の名前が載っていれば、そこからたぐられるおそれがある。H社のセットをもっているうえに、さらに買ったのだから、疑われる要素になる。  彼は、それとなく岩城に聞いてみることにした。 「この前、きみから買った百科事典だが、あれはどうなったんだ?」 「そのうちに届けさせるよ」 「そのうちそのうちって、もう契約してからだいぶたつぞ。きみだって契約者としておれの名前がリストにのっていたら、会社のほうにまずいだろう」 「リストだって?」  岩城はうす笑いした。 「そんなものはねえよ」 「ないって、おれは金を払ったんだぞ。きみは金を受け取った購入契約者の名前もひかえておかないのか」 「あんたは特別さ。そんなに百科事典が必要なら、どうだい、もうワンセット新規注文しないか」 「それじゃあ、あの金はどうしたんだ?」 「はした金だったが、煙草銭にさせてもらったよ。いつまで待っても百科事典は届かねえぜ」 「それじゃあ、おれの名前は、最初から契約者リストに入れなかったんだな」  内心のほくそ笑みを隠しながら、三田はわざと怒ったように言った 「悪くおもうなよ。いいじゃねえか、いまのあんたにとっては、大した金額じゃないだろう。すぐに金持の嫁さんが持参金をごっそり持って来てくれるよ。おれもあやかりてえよ」  怪我《けが》の功名とは、このことであろう。百科事典に関しては、なんの記録も残っていないことが確かめられた。ということは、岩城との間には、目に見えるつながりは、なにもないのだ。  彼には、家族も身寄りもいない。いまは、三田だけに寄生して生きているのだ。彼がこの世から消えたところで、嘆き悲しむ者は、だれもいない。  害虫が一匹駆除されて、それだけ世の中が明るくなるのだ。いまの自分は、世の中から必要とされている。自分のおかげで、どんなにたくさんの果樹栽培農家と果樹が救われたかわからない。  さらに薬害を少なくして、自然の生物相のバランスを取り戻してやるのだ。こんな有用な人材が、岩城ごとき害虫に蝕《むしば》まれてなるものか。 「おい、そんなにむくれるなよ。代りにと言っちゃなんだが、この本をやるよ」  岩城は、三田が企《たくら》みを練っているのを、怒ったと勘ちがいしたのか、阿《おも》ねるように言って、一冊の本を差し出した。 「何だ? これは」  訝《いぶか》しげに目を上げた三田に、 「推理小説だよ。いまいちばん読まれている田能倉《たのくら》信也の書いたやつだ」 「いらないよ、そんな本、おれは推理小説なんか読まない」 「まあそう言わずに読んでみろよ。たまには気晴しにいいもんだ」  三田は、岩城がしつこく勧めるので、仕方なく受け取った。こんな本をもらったところで、どうせ読まないが、せっかく岩城がくれるというものを、かたくなに拒んで、機嫌を損ねてもつまらない。後でどこかへ捨ててしまえばよいのだ。  三田は、いちおう本を受け取ったものの、中も開けて見ずに、間もなくその本の存在そのものを忘れてしまった。      4  挙式の日は、いよいよ迫ってきた。結納もすみ、招待状の返事が、ボチボチ返ってきた。媒妁《ばいしやく》には教授が立ってくれることになり、両家の往来が激しくなった。  それに比例するように、岩城の恐喝もエスカレートしてきた。もう一刻も猶予できなくなった。少でしも早くこの天敵を始末して、文字どおり日本晴れの新生活への「鹿島立《かしまだ》ち」の朝を迎えるのだ。  岩城が、「二十万円貸してくれ」と言い出したとき、三田は金を渡す場所として、かねてロケハンしていた世田谷《せたがや》の外れにある公園を指定した。そこは夜間になると人影が絶えることを確かめてある。若い女が痴漢に襲われる騒ぎがあってから、アベックも近寄らない。  そのくせ、近くに人家があるので、土地カンのない者を誘い出しても疑われない。 「二十万の手持ちはない。世田谷にいる知人に借りてから渡すから、いっしょに来てくれ」  と言うと、岩城はなんの疑いももたずについて来た。例の公園の所まで来ると、 「知人の家は、すぐそこだから、ここで待っていてくれ」  と欺いて、岩城を公園に待たせたまま、その周囲をまわって、人影が完全に絶えていることを確かめた。  一周りして戻って来ると、 「ずいぶん早かったな、金はできたのか」  と岩城が聞いた。 「できた。ちょうど二十万だ。さんざんいや味を言われたよ。おれにも、こんな大金はすぐには用意できないぞ」 「今度だけだよ。さあ金をもらおうか」  岩城が金を受け取って、数えようとしたときに隙《すき》が生じた。狙《ねら》う者と狙われる者のちがいが、二人の運命を分けた。まるで岩城の頭は、三田が隠しもっていたスパナを吸い寄せるように、その打撃をまともに受けた。  彼は悲鳴をあげずに崩折れた。止《とど》めのために、二撃、三撃を追加する必要もないくらいに、三田を悩ましつづけた�天敵�は、あっけなく死んでしまった。公園のまわりの家々で、穏やかな生活をしている人々が、平和な寝床にすでにあらかた入ったころのできごとであった。  世田谷南部の、多摩川に近い公園で男の変死体発見の通報が一一〇番経由で玉川署になされたのは、朝の六時過ぎである。発見者は千葉の方へ通っている遠距離通勤者で、バス停への近道として公園を横切りかけて、死体を発見したのであった。  検視の結果、鈍器で頭部を撲《なぐ》られて頭の骨が折れており、それが死因になったものとみられた。傷の部位から見て、他殺であることは明らかだった。  争った痕跡《こんせき》もない。五千円弱入っている財布もそのままになっている。物盗《ものと》りの犯行ともおもえない。  現場はちょうど芝生になっていて、犯人の足跡を発見できなかった。凶器およびその他犯人が残したと見られる証拠資料は、まったく見つけられなかった。  被害者の身許《みもと》は、所持していた通勤定期券からすぐに割れた。すなわち、AF洋書販売会社の外勤社員、岩城利男、二十七歳である。  なおも綿密な死体の観察をつづけているうちに鑑識課員が妙なものを見つけた。それは一個の小さな貝のようなものだった。それが被害者の背広の襟《えり》の裏に付いていたのである。 「何だ、これは?」  鑑識課員は、それを注意深くガラス板の上に固定した。 「貝がらみたいだな」 「虫じゃないのか?」 「中ががらんどうだ」  覗《のぞ》きこんだ捜査官たちは、各自に自分の観察を言った。いずれの観察も当たっている。  小さな貝がらに似た硬い、小石のようなカラで、表面は蝋《ろう》を塗ったようにすべすべしている。  とにかく被害者の体に付いていたものなので鑑識課員は、大切に保存した。�貝がら�はプレパラートに固定されて、世田谷の農業大学へもちこまれた。そこの植物病理学研究室において、リンゴ、ナシなどに寄生する半翅目《はんしもく》カイガラムシ科に属するクワカイガラムシの雌の死骸《しがい》であると鑑定された。  しかしそんな虫を、外国百科事典のセールスマンがどうして身体に付けていたのか、かいもくわからない。考えられるのは、犯人から移されたということだが、その後の捜査によっても、被害者の周辺にそんな虫に関係ありそうな人物は、浮かび上がってこなかった。  事件発生後三か月経っても、容疑者が浮かび上がらなかったので、玉川署に設けられた捜査本部は解散され、事件は迷宮入りとなった。      5  岩城の死体からカイガラムシが発見されたと報道されたときは、一瞬ヒヤリとしたが、岩城との関連を完全に断ち切ってあったので、刑事は三田の前に現われなかった。  三田はこうして、二つの犯罪を完全に過去の底に塗りこめてしまったのである。ついに天敵を葬り去ったのだ。「ざまあみろ」とおもった。殺人の呵責《かしやく》などは少しも感じなかった。むしろ世の中に打ち克《か》ったような勝利感が強い。  三田は大勢の祝福を受けて、結婚した。妻は申し分なく美しく、持参金は十分彼を満足させるものであった。  妻の実家が、杉並の閑静な一角に、土地付きの家も建ててくれた。若夫婦向きの、いかにも住みよいこぢんまりとした家だった。  妻は優しくしとやかで、自分のサラブレッドを少しも鼻にかけなかった。裸身のプロポーションは抜群である。夜の生活も充実していた。  新しい職場もなかなか居心地がよかった。彼の飼育したミタクワカイガラヤドリバチは、企業ベースに乗って、生産されるようになると、「第二の農薬」として国際的にも有名になり、海外から見学や引き合いが殺到した。  会社でも彼を大切にしてくれる。要するにすべてが順調であった。世界が彼を軸にして回転しているような気がした。  三田登志子は、夫を送り出してから、家の掃除にとりかかった。出勤前にもった夫婦の営みの余韻《よいん》が、まだ甘くけだるい重さとなって腰のあたりに澱《よど》んでいる。 「あの人ったらいやだわ。このごろ朝と夜と二回ずつなんですもの」  バキュームクリーナーを使いながら、登志子はひとり顔を赧《あか》らめた。その紅潮は、行為そのものに対してではなく、夫の逞《たくま》しい挑みに負けずに応えている自分に向けられている。最近、夫によって急速に開発された自分の体が恥ずかしいのだ。  朝の営みは、忙《せわ》しないが、一夜たっぷりと休息をとった後で、エネルギーを充足させた弾むような身体の需《もと》め合いには、新鮮な食欲がある。  ムードを抜きにして、味覚だけを考えれば、むしろ朝の営みのほうが美味《おい》しかった。そんなことを考えながら、クリーナーを操っていると、また身体が火照《ほて》ってくる。 「あらっ、いやだわ。私には淫《みだ》らな血が流れているのかしら?」  登志子は、ちょっとクリーナーのスイッチを止めて両手で頬《ほお》を押えた。最初は苦痛以外のなにものも覚えなかった営みにおいて、このごろ、ある種の感覚がわかるようになっていた。  夫の身体と連絡された、自分の体の恥ずかしい部分に、初めてそれを覚えたのは、一種の熱感としてである。 「この感じはなにかしら?」  とおもったとき、熱感は柔らかく瀰漫《びまん》して、いつの間にか苦痛の代りに陶酔が下半身から全身に放散していた。回数を重ねる毎に熱感は高まり、それがまぎれもない女の体の悦《よろこ》びと悟ったときは、すでに彼女は、生硬な乙女から熟《う》れた人妻へと変身していたのである。  含羞《がんしゆう》の中におずおずと開いた女体が、より深い結合を求めて、積極的な展開をしめすようになった。未知の性の領域を、まるで初めての旅人のように、好奇と興味の塊りとなって、手探りしていく女の姿は、初々しい淫らさがあって、夫の目を愉《たの》しませてくれる。しかも彼女の先導役は、自分だという優越が夫にはある。  登志子は、昨夜初めて夫と試みた刺激的な体位を反芻《はんすう》した。腰がだるいのは、あのせいかもしれない。  今夜は、あの体位を夫にせがんでもっと突きつめてみようとおもった。戸外に音がした。 「毎度おなじみのチリ紙交換屋」  その声に彼女は、新聞がたまっているのをおもいだした。最近の新聞は、頁数が多いのですぐにたまってしまう。特に夫は三紙購読しているので、一週間もたつと、始末に困るほどの量になる。呼び止めると、 「毎度……」と言って入って来たのは、あまりこの辺では見かけない顔である。 「あら、おなじみではないのね」  と登志子が言うと、 「いままでは団地専門に回っていたんです。階段の上り下りが多くてね。体を使うばかりであまり集まらないんで、場所を変えたんですよ」  と日焼けした顔をほころばせた。新聞を全部出してから、登志子は自分の読み捨てた娯楽本や婦人雑誌がかなりたまっていることに気がついた。夫の読み捨てたものも少しある。 「雑誌や本ももっていってくださる?」 「雑誌はあまり儲《もう》からないんですがね、まあいいでしょう。いただいていきましょう」 「新聞より雑誌類のほうがいい紙が使われているから、いいんじゃないの?」 「皆さん、そうおっしゃいますが、雑誌なんかは、種々雑多な紙が使ってありますから、紙の選別に人手を食って、結局|分留《ぶどま》りが悪いんですよ」  古紙回収屋は言いながら、器用に雑誌や本をひもでくくり上げる。彼はそのとき、登志子の目から隠れて、一冊の雑誌を脇《わき》へ取り除《の》けておいた。それは若いミセスを対象にした雑誌で、若妻のセックス問題を中心とした生々《なまなま》しい特集ものでうけている。  交換屋の目を惹《ひ》きつけたのは、その表紙にれいれいしく刷られた「新婚夫婦の夜の愉しみを倍増する極秘体位特集」という文字である。彼は、これを家にもって帰り、寝酒を飲みながら、一人でゆっくり読もうとおもったのだ。 「へい、毎度ありい」  彼はその本の礼のつもりで、一本余計にロールペーパーを付けた。      6  田能倉信也は、古本屋を見かけると、時間の許すかぎり、必ず飛びこむことにしている。それも、名の売れた古書街よりも、場末や、見知らぬ町の片すみのひっそりとした店で、おもいがけない掘出物にぶつかることが多い。有名店は、あらかた漁《あさ》りつくされている上に、書店の目が高いので、掘出物はめったにない。  すでに絶版となって、古書市でもめったに見つけられない貴重な本や、探していた本に、このような店でめぐり会ったときの喜びは、�ブックハンター�でなければわからない。  体の芯《しん》からおののきが上ってくるような興奮を覚えるといっても、誇張ではない。三島|由紀夫《ゆきお》の限定本『金閣寺』や芹沢介《せりざわけいすけ》の『和染絵語』なども、このような場末の古本屋で見つけたものである。  その日、杉並の最も奥まった一角に住んでいる友人の作家を訪ねた田能倉は、車を呼んでくれるという友人の申し出を断わって、駅までの道をぶらぶら歩いてきた。  田能倉は、最初、一般の小説を書いていたのだが、いつの間にか推理小説の方へ傾いてきて、最近発表する作品のほとんどすべては推理である。推理も謎《なぞ》に重きを置く本格推理から手をそめたのだが、このごろは注文に追われてあまりに量産したために、いちいちトリックに工夫を凝《こ》らすことに疲れてきた。  それにトリック中心に書くと、どうしても小説としての構成に無理が生じやすい。登場人物もうすでになるので、最近はプロットの面白味《おもしろみ》で読ませるような方向へ変ってきている。  もともと一般小説の書き手として登場した彼だから、トリックを弄《ろう》するのは、不得手である。だが優れたトリックを発明した場合(それも多分ナルシスがかったものであるが)それを中心に小説を構成することに精密機械を組み立てるような喜びを覚える。本格推理は機械的な構成をもっている小説ジャンルである。推理小説全体がリアリズムの洗礼を受けて、人間中心の構成に移行しつつある滔々《とうとう》たる�機械から人間化への傾向�の中で、それはそれで、一つの閉鎖された環境の中でかたくなに自己の姿勢を守る老いた職人の一徹を感じさせるものがある。  田能倉信也は、機械でも人間でも、どちらでもよいとおもっている。要するに味つけと好みの問題である。料理人は、客の好みと自己の気分に従って、それぞれの味をつくり分ければよいのだ。  駅までの道をブラブラ歩きしながら、田能倉はそんなことを漫然と考えていた。駅までかなりありそうだ。友人の勧めに従って、車を呼んでもらったほうがよかったかなとおもいかけたとき、おもいがけなく古本屋の店が目に入った。こんな所に店を開いてお客があるのかしらんと頭を傾《かし》げたくなるような閑静な住宅街の一角に、その店はあった。  店内に入ると、店番はだれもいない。ざっと書棚を見回したが、本の数も少なく、大したものはない。一目見て、田能倉はこの店はだめだなとおもった。  古本屋めぐりをしていると、掘出物のありそうな店には、ある種の�当たり�を感ずるようになる。それは魚釣りにおける魚信と同じである。  だがこの店には、その種の当たりがまったくない。おそらくサラリーマンが細君に片手間仕事にやらせているのだろう。田能倉は失望して、店から出ようとした。  そのとき、キラリと彼の目を射るように飛びこんできた本があった。その本は、月遅れの雑誌類といっしょに店先の台の上に並べられていたので、初めに店内に入った彼の目に、それまで触れなかったのである。  彼は急に不機嫌な表情になって、その本をつまみ上げた。それもそのはず、それは彼の一年ほど前の作品であった。自分でも自信作として、かなりの気負いをもって発表し、相応の評価を受けた『悪夢の代償』という作品である。  それが「五十円均一」の古雑誌といっしょに埃《ほこり》をかぶって並べられていた。  もの書きにとって、古本屋で自分の本を見つけたときの感慨は複雑である。とうとうおれの本も古本屋まで出まわってきたかという曖昧《あいまい》な優越と、作品が不当に遇されているようなしらけた気持が微妙に輻輳《ふくそう》している。  だがこのときは、しらけた気持だけが拡大され、強調された。古本屋で売るにしても、店の中のもっといい場所《コーナー》に置いてもらいたい。それも五十円均一とは何事か。  田能倉は、本を取り上げて、頁をパラパラとめくった。なんとその本には、彼の署名が入っていた。しかもそれはある友人に贈った本で、相手の名前も記されてある。 「あいつ、おれが贈った本を、古本屋に売り飛ばしやがった」  不機嫌だった表情が、憤然と色をなした。著者サイン入りの献本を古本屋に売るとは、非礼である。それは作者に対する侮辱であるばかりでなく、本の受贈者の名前も入っているのだから、本人の恥も晒《さら》すことになる。  その友人は村越和巳という、大学の後輩で、ある新聞社の文化欄を担当している。同じ大学出身者という仲間意識だけではあるまいが、村越は田能倉の作品について、いつも好意的な批評を書いてくれるので、作品は初期のものからすべて贈っている。 「しかしこの調子じゃ、みんな古本屋に流れているな」  せっかく署名まで入れて、贈ってやったのに失礼なやつだ。贈ったのは勝手だと先方は言うかもしれないが、一つ一つの署名に自分は誠意をこめたつもりだ。それを見事に踏みにじられたおもいがした。  田能倉は、店の奥に抑制をかけない声で何度か呼びかけた後、ようやく店の者を呼び出して、その本を買った。  彼はついでに店にあった電話を借りると、村越の勤めている新聞社を呼んだ。村越はちょうど社にいた。田能倉が至急会いたいと言うと、村越は社で待っていると答えた。  田能倉はその足で新聞社に行くことにした。ちょっとおとなげないとおもったが、彼に贈った他の作品の行方も突き止めなければ、気がすまなかった。電話ですませられる用事ではない。 「いったい、どうしたんですか、先輩」  村越は時ならぬ田能倉の訪問に驚いた顔をして出て来た。新聞社の建物の中にある喫茶店である。村越はいままで仕事をしていたらしく腕まくりをしたワイシャツ姿であった。  田能倉は、無言のまま彼の目の前に『悪夢の代償』を差し出した。 「ああこれは大変面白く読ませてもらいましたよ。力作です。うちの文化欄でも取り上げさせていただきましたが、いままでの先輩のものとは、またちがった味が出ていますね」  そんな言葉にだまされないぞとおもいながら、 「表紙を開いてみたまえ」  村越は怪訝《けげん》な顔をしながら、言われたとおりにした。 「あっ、これは!」  彼はそこに田能倉の署名と自分の名前を見出して愕然《がくぜん》とした様子である。 「先輩、この本をいったいどこで?」 「村越君、きみもひどいじゃないか。人が贈った本を古本屋に叩《たた》き売るなんて」 「待ってください。先輩はこの本を古本屋で見つけたのですか?」 「そうだよ。五十円均一の駄本《だほん》の中からね」  田能倉は口調に精いっぱいの皮肉をこめた。 「やっぱりあいつは! ひどいやつだ」  村越は、宙に目を据《す》えて妙なことを言った。 「贈った本だから、きみがどうしようと、勝手だが、せめて署名入りのものは古本屋に出さないでもらいたいんだ。もし他の本も売り払ったのなら、追いかけて買い戻したい。おたがいの恥だからね」 「先輩、どうか早合点しないでください。先輩からいただいた本は、ちゃんと大切にしまってあります。たまたま、この本だけある友人に貸したのです。著者の署名入りだから必ず返せよとくどいくらいに言って貸したのですが」 「それがどうして古本屋に流れたのかね?」 「実は、この本を貸したのは、大学の同窓で、岩城利男《いわきとしお》という男なんです。学生時代からヤクザがかったところのあるやつだったのですが、話題が豊富なので、卒業してからもつき合っていたのです。そいつが、この本を私の所で見つけて、ぜひ貸してくれと言ってもって行っちゃったんですよ」  岩城利男——どこかで聞いたような名前だとおもったが、すぐにおもいだせない。村越は運ばれてきたコーヒーを一口すすると、話を先へ進めた。 「ルーズな人間なので、貸すときいやな予感がしたのですが、案の定、なかなか返してくれません。そのうちに岩城のやつ殺されちまったんですよ」 「殺された?」  それでは、彼の名にうすい記憶があったようなのは、新聞記事で読んだからかもしれない。職業がら、殺人事件の記事などは丹念に読む習性が身についてしまった。 「頭を鈍器で撲られて、そろそろ一年ほど前になりますかね。ついに犯人はわからずじまいでオミヤ入りになりました」 「…………」 「死んでしまったので、取り返すこともできなくなりましてね、気にしていたんですが、いったいどこの古本屋から出てきたんですか?」  村越は、田能倉の納得した表情を敏感に悟って、べつの興味をもちはじめた様子である。      7 〈そうか、この本は、殺人事件の被害者の手に渡っていたのか〉  村越と別れての帰途、田能倉は車の中で本を特殊の感慨をもってなでさすった。本は、殺された岩城の手から、さらにどんな経路を経て、古本屋へ流れてきたのかわからない。  だが、殺された男を一度は経由したという事実に田能倉は、職業的な興味をもった。そのために、村越には改めて署名入りの本を贈るからと約束して、その本を持ち帰ったのである。  自宅に帰り着くと、早速、昨年の新聞スクラップファイルを引っ張り出した。推理小説を書いているので、ここ数年の殺人事件の記事は、すべてファイルしてある。 「あった、あった。これだ」  彼は間もなく、目当てのスクラップを探し当てた。各項目べつの彼独自に考案したファイルシステムは、このようなときに絶大の強味を発揮する。  ——世田谷の公園でセールスマン殺される——という見出しで、当時の犯行の模様を型通りに報道したものである。  夜の公園で、男が鈍器で撲《なぐ》られて殺されたという最も定型的な殺人の手口からは、ジャーナリスティックな興味を惹かなかったとみえて、記事の扱いもあまり大きくない。  田能倉も少し興醒《きようざ》めて、ファイルを、元の場所へ戻した。デスクに向かって、なにげなく本の頁をめくった。殺された人間の手に、一度は渡った本が、いまこうして作者の許《もと》へ戻ってきている。  そこに独得の感慨があったが、推理小説のタネにはなりそうもない。田能倉は、本をデスクへ置こうとした。いつまでも過去の作品とたわむれている閑《ひま》はなかった。  そのとき最後に閉じかけた頁の間からパラリと落ちたものがある。 「何だろう?」  田能倉は、デスクの上に落ちたものをつまみ上げた。 「蟻《あり》かな?」  彼は指先をみつめて首を傾けた。体長一ミリそこそこ、一見アリに似ているが、羽が付いている。頁の間に入りこんだままはさみこまれてしまったらしく、カラカラに乾《ひ》からびている。押し花ならぬ、一種の�押し虫�になっていた。 「蟻でもなさそうだな。蜂《はち》かな? しかしそれにしては小さすぎる」  そのとき彼は、さっきなにげなく読み過ごしたスクラップの中の一か所をおもいだした。「死体の襟に一匹の虫の死骸《しがい》が付いていた」  田能倉は慌てていったんしまったファイルを、また取り出した。  今度は先刻よりも注意して読んだ。そしてその虫が農大植物病理学研究室においてクワカイガラムシと鑑定されたという追加記事も見つけた。  彼は直ちに百科事典でクワカイガラムシの項目を索《ひ》いた。それによると、どうも、『悪夢の代償』の頁の中から落ちた虫とはべつのものらしい。  だが彼は、被害者の死体にカイガラ何とかという虫が付いており、そして被害者の手にいったん渡った本の頁から、やはり得体の知れない虫のミイラが出てきたことにひっかかった。「この虫の間になにか関連はないか? あるとすれば、二匹の虫は同一の場所から来たとは考えられないか?」 「同一の場所[#「同一の場所」に傍点]からきた二匹の虫の一方が、被害者の死体に付いており、他の一方が被害者を経由した本の中から発見された」 「被害者の周辺には、そんな虫に関係ありそうな場所も人間もいない」 「ということは、被害者が虫のいた場所へ行ったか、あるいは、その虫を身に付けた人間が被害者に接触した?」 「その人間が犯人だ」  田能倉は、いかにも推理作家らしく、推測による仮定の上に、さらに自己の推理を発展させた。 「とにかく、この虫の正体を確かめるのが先決だ」  彼は帰って来たばかりの書斎から出た。 「あら、またお出かけ!?」  茶を運んできた妻が、危うく鉢合《はちあ》わせをしかけて目を円くした。それに答えもせずに、彼は自分の目的に向かって、家を飛び出した。      8  田能倉の強引な依頼に、農大では早速、虫の�身許《みもと》調べ�をしてくれた。その結果、ミタクワカイガラヤドリバチということが判明したのである。  これは、T大農学部昆虫学研究室の三田進吉が日本で初めて増殖に成功したもので、リンゴ、ナシを蝕《むしば》むクワカイガラムシの天敵として、農薬に代る�生きた駆虫剤�として花々しい脚光を浴びて登場したということであった。 「岩城利男の死体にクワカイガラムシが付いており、彼の手を経由した本の中に、その天敵であるミタクワカイガラヤドリバチがはさみこまれていた」  ——つまり、虫は同一の場所から来たのだ—— 「そこに犯人はいるにちがいない」  田能倉は、完全に探偵熱に取り憑《つ》かれた。犯人の許へ行くためには、本の流れたルートを遡行《そこう》すればよい。その遡行が簡単にできるとはおもわなかった。田能倉は、そのときはそのときのことにして、自分の気持にふんぎりをつけるようなつもりで、翌日杉並の外れの古本屋を訪ねて行った。 「ああ、店先の古本は、チリカン屋から仕入れたんですよ」  古本屋のおかみは、興味のなさそうな顔をして言った。 「チリカン屋?」 「チリ紙の交換屋さんですよ。キロ二十円で仕切るんですがね、それでも製紙の方へ回すよりいいんですって。まあくずみたいな本ばかりだけど、店先に並べておくと、少しずつ捌《は》けるんですよ」  自分の本も、くず本として扱われたのかと情けなくおもいながらも、 「この本を仕入れた日付けはいつですか?」 「一か月ほど前ですよ。最近はあまりもってこないからだいぶ少なくなっちまった」 「この本といっしょに、同じ日に、チリカン屋から仕入れた本はありますか?」  チリカン屋に一冊だけ出す家はない。たいてい何冊かの無用本をまとめて処分するものである。田能倉は、『悪夢の代償』といっしょに必ず同じ家から出された本があるはずだと考えた。 「だいたいその台の上の本は、みんなそうですよ」  おかみは店先の台を指さした。 「本を仕入れてから、選《よ》り分けましたか?」 「なわをほどいただけで、ほとんどそのまま台の上に並べました。背文字を見ただけで、大した本はないとわかりましたからね」  おかみはまた田能倉を侮辱するようなことを言った。おかみの言葉のとおりであれば、本は、取集先でチリカン屋がなわでパックした状態を保っているはずである。すると、彼の著書のあった前後の本が、同じ家から出た可能性が強い。 『悪夢の代償』はまだ昨日買ったばかりだから、それが置いてあった陳列の状態は、ほとんど昨日のままである。彼は『悪夢の代償』のあった位置を覚えていた。 「このへんの本を全部ください」 「まあ、こんな本をそんなにどうするんですか?」  おかみは商売気を忘れて、目を円くした。彼は店先を借りて、古雑誌と古本の頁を一枚一枚、丹念にめくった。だがそれは徒労であった。頁の間からは、彼にとって都合のいいものはなにも出てこなかったのである。  彼はあきらめて、本をひとまとめに縛ってもらうと、チリカン屋の所在を聞いた。彼女は定期仕入先なのでその住所を知っていた。 「川鳥古紙回収株式会社」といういかめしい看板を出しているその店に行くと、ちょうど古紙を満載したトラックから、店の人間がその日の収穫を選別しているところに行き合わせた。  田能倉が、本のパックを取り出して、これをどこから集めてきたかたずねると、鉢巻《はちま》きをした主人が、 「さあそれだけ出されてもわからんねえ、なにしろあっちこっちまわるからなあ」  とぶっきらぼうに言った。 「なんとかおもいだしてもらえないかな。重大な事件がからんでいるんだ」  と田能倉が食い下ると、 「旦那《だんな》は警察の人かね?」 「まあそんなもんだ」  相手は田能倉に都合のいい早合点をしてくれて、にわかに協力的になった。 「ここんところ雑誌類があまり出なくなったんで、古本屋へいかないんだが、雑誌の出る家は、だいたい決まってますがね、さてなあ、これはどこから集めたかなあ」 「婦人雑誌が多いようだよ。覚えはないかね」 「婦人雑誌?」  チリカン屋の目が光った。田能倉の期待をこめた視線を受けて、 「婦人雑誌というのはあんまり出ないんですよ。女というやつはケチですからね、何年も前の、紙が黄色くなった雑誌まで本箱へ並べておきます。婦人雑誌を出すのは、奥さんが留守中の旦那か、それともよっぽど気前のいい奥さんだね」 「そういう人の心当たりはないかね?」 「ちょっと本を見せてください」  チリカン屋の主人は、田能倉がぶら下げてきた本を一冊ずつ取り上げた。 「ああ、これだったらたしか」  主人はなにかをおもいだした目をした。 「たぶんあのきれいな奥さんの家だ」  彼は出された婦人雑誌の束の中から、「新婚夫婦の夜の愉《たの》しみを倍増する極秘体位特集」と表|刷《ず》りの入った本を、一冊だけ後で自分が読むために取り除《の》けたのをおもいだした。  家にもち帰り、妻の目から隠れて読みながら、あの瑞々《みずみず》しい細君の寝室での夜の姿態をあれこれ悩ましく想像したものである。 「その奥さんの家はどこですか?」 「ここからわりあい近い所ですよ。たしか三田さんという家でした」  彼は、その奥さんの新鮮な美しさに魅せられたので、帰りしなに表札を覗《のぞ》いてきたのである。その後、近くを何度も流したが、べつのチリカン屋の後手を回っているらしく、呼びとめてくれない。 「みた? 三田だって」 「そうです」 「その家の主人は、三田進吉というのではないかね?」 「さあそこまでは気がつきませんでしたよ」  彼の興味があるのは、細君だけである。 「その家の住所を教えてください」  霧の中で、急速に輪郭を取りつつあるものがあった。心細く霧をかき分けながら歩いていた者が、正確な方向を目的に向かって確実に近づきつつあるあの感覚であった。  三田進吉は逮捕された。虫にまみれて生活していた犯人は、クワカイガラムシとその天敵を、被害者と本にそれぞれわけて付着させる機会がいくらでもあった。被疑事実は、殺人と道交法違反である。五年前の轢《ひ》き逃げ事件をおこしたとき、盗んだ車の中に残した指紋が彼のものと一致したのであった。  登志子は離婚して生家へ帰った。彼女は、自分がなにげなくチリ紙交換に出した一冊の本が、夫の社会的地位を根本から覆《くつがえ》し、その生命までも危うくしかけていることを知らなかった。  母は彼女に言った。 「悪い夢を見たとおもうのよ。子供が生まれなかったのが、不幸中の幸いだわ。おまえはまだ若いのだからいくらでも取り返しがきくわよ。高い月謝だったけど、今度は仲人口《なこうどぐち》なんかを信用せずに、お父さんとお母さんがいい相手を見つけてあげるよ」  母の言った言葉は、奇しくも登志子の夫を破壊させた田能倉の著書の書名と似通っていた。 [#この行1字下げ](作者付記) この物語はフィクョンであり、実在する人物、団体等にいっさい関係ありませんので、誤解ないよう念のため申し添えます。 [#改ページ]    殺意開発公社      1  アパートの建物の中に入ると、プンと新しいペンキの臭いが鼻をついた。長い間、吸っていると頭が痛くなるような臭いである。  吉沢伸吾は、その臭いが各戸のスチールドアから発していることを知った。ベージュ色だったドアが、いずれも鮮やかなオレンジ色に塗り変えられてあった。まだ塗って間もないと見えて、そっと指の先で触れてみると、色が付く。  純江《すみえ》の部屋に逃げこむように入ると、いくらか臭いがうすれた。 「ひどい臭いだな」  ドアを開けてくれた純江に顔をしかめて見せると、 「四年に一度のペンキの塗り替えなんですって。今日留守の間に塗っていったらしいわ。ベランダの手摺《てすり》は今度の日曜日に塗るとか言ってたから、どこへも出かけられないわ」  純江は申しわけなさそうに言った。関係が生じてからすでに三年、ようやくこのごろになっておたがいの気心も知れ、体もぴったりと馴染《なじ》んできたようである。  男女の仲というものは、やはりそれ相当の年月の実績を積み重ねたあとに、本当の味がでるものなのであろうか。  彼は純江によって、女というものの味を知ったと言ってもよかった。妻の更年期障害の出はじめた弛緩《しかん》した体に比べて、純江のピッチリとひきしまった瑞々《みずみず》しい肉体は、まるでべつのいきもののように感じられた。  年齢差によるちがいだけではなく、女の構造そのものが、最初からちがっているようである。純江の緻密《ちみつ》な構造があたえる悶絶的《もんぜつてき》な収縮と律動の感覚は、妻の若いころにも、ついぞなかったような気がする。  だがそのすばらしい体にも、ここのところぶさたがちである。最近巻きこまれた汚職事件が、だんだん深刻な様相を呈してきたために、心身両面の負担が大きくなって、彼の精力を弱めていた。 「新聞に出てるわよ。あなたのこと」 「うん」  吉沢は疲労の浮かんだ顔をしかめた。今日もそのことで県警捜査二課の刑事から厳しく取調べを受けたばかりである。 「こんなときに、ここへ来て大丈夫なの?」  純江は、少し心配そうな顔になった。 「大丈夫だよ。尾行には十分注意した。車を何度も替えたし、デパートでエレベーターを何回も上下した。こんなときだから、きみの顔を見ないと、たまらないんだ」  実際、役所では上層部から余計なことは言うなと釘《くぎ》を刺され、警察からは汚職の中心人物扱いを受けてまいりきった神経は、純江の体の中にでも埋没しなければ発狂しかねなかった。いまの彼にとって、ここ以外に逃げ場所はないのである。  ——三十年近い役所勤めで、結局おれの得たものは、この女だけだった——  とおもうと、危険を承知で、純江の所へ戻って来ざるを得ない。その純江さえ、本当に彼のものかどうか怪しい節があるのだ。 「おまえ本当に野木《のぎ》理事長とは切れているのか?」  純江の差し出した夕刊を覗《のぞ》きながら、吉沢は、すでに口ぐせのようになった言葉を繰り返した。彼女が本当のことを告白するはずがないのを十分承知しながら、確認せずにはいられないのである。  半生を賭《か》けた勤めによって得た、たった一つのものが、上司との�共有�とあっては泣いても泣ききれない。 「あなたも疑い深いわね。いくら私が言っても、信じてくれないんだから、しかたがないわ」  純江はうんざりした表情を隠さなかった。すでに飽きるほど繰り返された問答である。 「信じる、信じるから誓ってくれ」 「いままでに何度も誓ったでしょ」 「もう一度誓ってくれ」  吉沢は泣きだしそうな顔になって、自分の子供のような年齢の純江にせがんだ。      2  吉沢伸吾はS県中橋市の外郭団体、中橋市開発公社の用地事業本部総務課の課長をしていた。  中橋市開発公社は、市のニュータウン建設計画に伴い、公共用地の先行取得を事業目的にして三年前に設立された市関係公社の一つである。  理事長には、中橋市元助役の野木|益男《ますお》を据《す》え、専務理事には衛生局長だった大屋達吉、常務理事は企画局長だった小出要《こいでかなめ》、その他の理事は市の現役各局長の兼任とした。  公社の職員の幹部のほとんどが市の方から出向した者である。  吉沢伸吾は、公社設立以前は衛生課長として、大屋の下で働いていた。頑固一点張りのところを大屋に見こまれて、公社の発足時に彼に引っ張られたのである。 「どうだ、ぼくといっしょに来ないか? 本庁にいたって上は頭打ちだし、末は見えている。開発公社へ来れば、我々がトップだ。きみのこともいくらでも面倒見てやれるよ。私もきみに来てもらえれば心強いんだ。役人なんて、現役のうちが花だよ。本庁の衛生課でくすぶっているより、新しいところでおもいきり仕事をしてみないか」  と誘われたからである。  吉沢も、大屋から誘われて、自分の将来を考えてみた。中橋市はS県西部の海に面した中都市である。人口は約三十万、特産品の多い工業都市で、輸出依存率がきわめて高い。その他、海岸平野の肥沃《ひよく》な土地がらのためにミカンの栽培が盛んである。  市の財政は豊かで、各種の公社を設立してニュータウンづくりに励んでいる。市政は閉鎖的な土地がらから一貫して保守系が握っている。革新系から老朽吏員の天下り先として公社を乱立させていると突っこまれることがあったが、事実、公社の要職は、ほとんどすべて市の幹部の横滑りによって占められている。  吉沢は、地元の旧制中学を卒業後、直ちに市役所に入って二十数年、やっとたどり着いたのが、課長の椅子《いす》である。  同期の連中はほとんど部長か局長になっている。彼だけ出世が遅れたのは、もって生まれた融通のきかない性格のせいである。  地方自治体には中央官庁のような身分的な官僚制はほとんどない。ときの与党にくみした人間が暖流となり、それから外れた者が寒流となる。  中央の一流大学出身者よりも、地元大学や、市長や有力市議と同じ学校の出身のほうが有利なことが多い。それだけに、すべてにおいて�なあなあ主義�が幅をきかし、融通のきかない人間は例外なく排斥される。  市の吏員にしても、地元の人間で八割以上をかためているのであるから、かたいことを言ってもはじまらないのだ。  その中で、吉沢だけは規則と前例を重んじた。何事も規則に照らし合わせて行なう。特に正義感が強いわけではなく、結局のところ、気が小さいのである。  自己の判断で、規則にないことを融通してやるなどという大それたことは、とてもできない。  ハンコ一つにしても、書類に一字でも納得できないものがあると、絶対に捺《お》さない。そのために、事務は彼のところでいちじるしく渋滞してしまうのだ。  そんな彼を、どこの部署でも敬遠して、たらいまわしにしたあげく、決済事項の少ない衛生課へまわされたのである。  衛生課を文字どおり解釈すると、いかにも聞こえはきれい[#「きれい」に傍点]だが、主たる仕事の内容は市の屎尿《しによう》処理であった。  なくてはならない重要な課にはちがいなかったが、事務所の中まで屎尿の臭いが漂っているような気がする。そのせいかどうかわからないが衛生課の事務所だけが市庁舎から少し離れた別館にある。役所の中では秘かに�屎尿課�と呼ばれていた。  若い吏員はいない。大半が定年待ちのロートル吏員でかためられていた。  吉沢の上司だった大屋達吉も、吉沢と似た性格の持ち主であった。もっとも彼は吉沢のように小心ではなく、生来の硬骨で、曲がったことが大嫌いなのである。  そのためにいつも時の市長から疎《うと》んぜられて、閑職《かんしよく》へまわされている。革新系が政権を取れば、大屋にも芽の出るチャンスがあったが、もともと閉鎖的な土地がらだから、その可能性はほとんどなかった。  スポンサーの大屋のいなくなった本庁に残ったところで、吉沢になんのメリットもないことはわかりきっている。  現市長は、再任して一年たったばかりだから、あと三年、任期がある。しかも市長派の勢力は圧倒的に強く、三選される可能性が大きい。  そのうちに吉沢の定年がきてしまう。現市長の下では、定年後の天下り先などとうてい世話してもらえそうにない。それより大屋に尾《つ》いて行けば、出先機関のお山の大将になって好きなことができそうだ。  公共用地の買収機関となれば、業者との接触も多そうである。それは確実に現在のポストよりも花やかである。実際、屎尿の臭いにまみれた職場で、定年を迎えるのには、耐えられないとおもっていたところである。  娘もそろそろ年ごろである。父親の職業が�屎尿課長�とあっては縁談にもさしつかえるであろう。  吉沢は大屋に尾いて行くことにした。大屋はそんな彼の肚《はら》の内を見透かしたかのように、 「いいかね、ぼくがきみを連れて行くのは、今度設立された開発公社が、汚職の巣になりそうな気がするからなんだ。理事や課長クラスの顔ぶれを見ても、ほとんどが市長のイキのかかった連中だ。公共用地の先行買収が目的だから、業者とのつき合いも多くなる。汚職の素地は十分にある。ぼくが専務に入りこめたのも、半田市議が強硬に推してくれたからなんだ。汚職に対する大目付けとして送りこまれたんだよ。責任が重いぞ」  半田という市会議員は、大屋の遠縁に当たる男で、中橋市の数少ない革新系の議員である。それだけに恐持《こわもて》がする。大屋が、寒流ながら、完全に失脚せずに、今日までやって来られたのも半田のバックアップがあったからであった。 「公社でのきみのポストは、総務課長だ。これはただの総務課長じゃないぞ。買収費や補償費はすべて、総務課長の決済印がないと出せないんだ。たとえ理事長や専務理事のおれが了承しても、きみの手を最後に経なければ、金は出ない仕組になっている。しっかり頑張ってくれよ」  大屋が言ったことは、どこの組織にも見られる、機構上の制度である。決済事項には、いくつかの職制の認可印が要求される。規則を徹底すれば、決済事項には要求される職制のすべての印が必要である。しかし、実際の事務においては、最終決定者の印だけですますことが多い。  だが、大屋が出向するからには、規則を徹底するつもりであろう。まして巨額の金を扱う開発公社となれば、形式的にも、必要手続きが重視されるはずである。  それを見通していた大屋は、現金操作に携わる職制の末端に、吉沢を配したのである。たとえ末端であっても、吉沢が認めなければ、金は出ない。  最終決定者の権限によって、ゴリ押しすれば、必ず革新系から噛《か》みつかれる。吉沢の存在は市長派にとって、目の上のたんこぶになりそうであった。  吉沢は、自分の責任の重さを、ひしひしと感じたものである。      3  ところが開発公社が、市の出資によって発足すると間もなく、予期せざる異変事が突発した。大屋専務理事が執務中とつぜん脳溢血《のういつけつ》の発作に襲われて倒れたのである。  一見、頑健そのものだったのだが、最近血圧が高く、秘かに血圧降下剤を服《の》んでいたことが、家人によって明らかにされた。死は免がれたものの、半身不随となり、再起は不能であった。  大屋が倒れて、だれよりも手痛いショックを受けたのは、吉沢である。新しい職場の新しいポストで、さてこれから張り切って働こうという矢先に、最大にして、唯一のスポンサーに倒れられてしまったのだ。  革新系が新しい人間を送りたくとも、大屋に代わるべき人物がいない。止むを得ず新公社は、常務理事の小出を専務に、平理事の一人を常務にと、順次繰り上げて、事業活動を続けた。  喜んだのは、市長派である。大屋さえいなければ、開発公社はどのようにでも動かせる。大屋の子分の吉沢が生き残っているが、大屋のバックがなければ、もはや吉沢ごときはなきに等しい。 「本当に大屋のやつうまい時機に倒れてくれたもんだなあ」 「これで開発公社は我々が天下を取ったようなもんだ」 「吉沢はどうする?」 「そのうちになにか適当な口実をつけて外してしまう」 「いますぐに動かすと、野党を刺激するからな」 「急ぐこともあるまい」  市長派の公社幹部は秘かに寄り集まって祝杯をあげたほどである。  ところが市長派の目算は大きく狂った。吉沢が、大屋なき後の大目付けの役を引き継いだようにハッスルして、金の支出にいちいち厳密なチェックをするようになったのである。少しでも曖昧《あいまい》なところがあると、絶対に認め印を捺《お》さない。  支出する金の中には、幹部の顔で、多少甘い枠を組んだものもある。これも吉沢の顕微鏡で見るような厳重きわまるチェックによって粉飾の枠を容赦なく外されてしまった。 「あの吉沢という男、どうにかならんのかね」  現市長の腹心の野木理事長は苦い顔をした。  最初は取るに足らない虫一匹とたかをくくっていたのが、大きな障壁となって目の前に立ち塞《ふさ》がったのだ。 「とにかく規則のとおりにやっていますので」  小出も閉口しきっている様子である。 「これじゃ公社へ移ったメリットが全然ない。この調子だと近く西森地区に塵芥《じんかい》焼却場の敷地として、私が引っ張って来た土地を、平尾不動産に仲介させることもできなくなるぞ。なんとか、契約までに吉沢をオロせないか」 「いまオロすのは危険ですよ。大屋が倒れた直後でもあり、焼却場の買収をひかえているときでもありますから、なんの落ち度もないのにオロしたら、必ず注目されます」 「弱ったな、なにかいい手はないのか」  野木は苦りきっていた。現在、市の郊外の西森と呼ばれる地区に約三万平方メートル、一億三千万円相当の土地の買収が、地主との間に進められている。  これは野木が地主との個人的関係によって進めた、いわゆる�直談�と呼ばれる直接取引であったが、名目上、間に不動産業者を立てることによって、仲介手数料を野木と小出で吸い取ろうと企《たくら》んでいた。  しかし吉沢が目を光らせているかぎりとてもそんな工作はできそうにない。  不動産業者の扱った物件であれば、堂々と六パーセントの規定手数料を支払うことができる。  名義は、小出の知っている業者から、一パーセントほどの名義料をはらって借りる。こうしていったん傀儡《ダミー》業者の手に入った手数料から五パーセントをリベートしてもらって、二人で山分けしようという企みである。  彼らが本庁から公社へ移って来たのも、このような甘い汁を吸うためである。彼らは『現役時代が花』であることを、十分知っていた。現役は短かく、余生は長い。だからその間にできるだけ甘い汁を吸って、現役から去った後を支える栄養を蓄えようとしていたのだ。  だがそこに立ち塞がったのが吉沢である。彼は、大屋が見込んだ非融通性をいかんなく発揮して、彼らの甘い汁を吸うべきストローを叩《たた》き潰《つぶ》した。  吉沢に検《しら》べられれば、すぐにそんなトリックは発見されてしまう。だいいち用地買収費からしてかなり水増ししてあるのだ。地目《ちもく》も山林で、北面の傾斜地になっている。  反市長派の不動産鑑定士にでも評価されたらたまったものではない。 「どうだ、懐柔することはできないか」 「そのことはすでに考えましたよ。しかし名うてのかた物ですからね、とてもだめです」 「なにか弱味はつかめないかな」 「それが役所と家を往復するだけのかた物ときていて、弱味のつかみようがありません」 「なんか道楽はないのか?」 「碁《ご》を少し打って、自宅の猫の額のような庭に安物の盆栽を飾ってます」 「碁と盆栽か」  野木はがっくりしたように言って、 「酒は?」 「紅茶にたらしたウイスキーで赤くなるほどです」 「女のほうはどうなんだ?」 「家と職場の往復で、女ができるはずないじゃありませんか。やつはきっと女は女房しか知らないですよ」 「典型的なワンホーリスト[#「ワンホーリスト」に傍点]か……こういう男は、女の味をいったん覚えると、ひどくのめりこむもんなんだがな」  野木はひとり言のようにつぶやいて、ふと目を光らせた。      4  庁舎の玄関を出ると、雨がパラついていた。屋内にいたときは気がつかなかったのだが、午後から厚くなった雲が、夕方になってとうとう雨を落としてきたらしい。  公社は本庁に近い市の目抜き通りの近代的なビルの中にあるので、外の気配がわからない。粗末なモルタル造りの衛生課の事務所に比べて、建物だけ見ても、格段の相違である。  傘はロッカーにあるが、そこまで取りに引き返すのが面倒臭い。幸いにまだ本降りにはなっていない。駅まではほんのわずかの距離である。 「濡《ぬ》れていってもたいしたことはない」  と心に決めて、雨の中へ飛び出そうとしたとき、急に身の周囲がほんのりと赤く色づき、その色づいた範囲だけ、雨足が遮断された。  だれかが傘を背後からさしかけてくれたのである。吉沢が振り向くと、ミニスカートの若い女が、紅《あか》い花模様のついた傘を笑いながら、彼にさしかけていた。 「課長さん、よろしかったら、ごいっしょにいかがですか。駅まででしょ。雨に濡れるとお体に悪いわよ」  愛くるしい笑顔を心もち傾けて話しかけてきたのは、秘書室の倉光《くらみつ》純江であった。もともと野木の秘書であったので、野木が公社へ移るときにいっしょに連れて来たのである。  秘書課は、庁内で最も花形のセクションである。市の首脳に直結しているうえに、しようとおもえばどんな誣告《ぶこく》、讒言《ざんげん》もできる。  いわゆる恐持のする部署であるが、反面、秘書課員は吏員の間に最も人気がない。憎まれていると言ってよいくらいだった。  その中で、倉光純江だけは、虎《とら》の威を借りるようなところが少しもない。しかも『ミス中橋市』と言われるほどの明るい知的な美貌《びぼう》をもちながら、高ぶらず、いつもひかえめで、だれにも親切に接するので、評判がすこぶるよい。若い吏員のほとんどすべては、彼女のファンと言っても言いすぎではない。それでいて、だれも彼女に積極的にアプローチを試みないのは、やはり理事長付きの秘書という身分におそれをなしているのである。  野木と純江の間に、変な噂《うわさ》はない。純粋に上司とその秘書という職制上の関係だけのようである。しかし本庁から引っ張って来たくらいだから、野木がかなり可愛《かわい》がっていることは確かであろう。  そんな彼女に接近して、うまくいった場合はよいが、彼女のご機嫌を損ねれば、すぐに野木に言いつけられる。実際に純江がそんな真似《まね》をしようとはおもわれないが、そのおそれがまったくないとは言いきれない。  公社の人事は、野木が一手に握っている。本庁においても市長に次ぐ勢力がある。だから、そのおそれが少しでもあるかぎり、うかつに手は出せないのである。  その純江がにっこりと笑いながら、傘をさしかけてくれているのだ。しかも駅まで相合傘で行こうと言っている。 「いや、ぼくはそのう、このくらいの雨なら大丈夫だよ」  吉沢は、まったく予期しないことだったので、へどもどしながら言った。 「ご遠慮なさらないで。さあどうぞ、それとも私といっしょではおいや?」  純江の笑いの中に挑発的な誘いがあった。 「いやなんて……そんな」 「なら、お入りなさいよ。さあどうぞ」  女のほうが積極的に身を寄せてきた。総務課にいる吉沢は、純江と直接の仕事の関係はない。本庁時代はなおさらである。  衛生課から見た秘書課の彼女は、いい年をした彼にも、雲の上の存在のようにまぶしく見えたものである。  こうやって、身体が触れ合うほどの至近距離で改めて見ると、外見の楚々《そそ》たる容姿に反して、案外おきゃん[#「おきゃん」に傍点]なところがありそうであった。  それが吉沢に親しみを覚えさせた。 「それじゃあ入れていただくかな」  吉沢はおそるおそるといった態度で、純江の傘の中に身を入れた。駅までの距離は、ゆっくり歩いても、七、八分である。彼は最初の一、二分がひどく長く感じられた。  若い女と相合傘で歩いたことは、彼の経験の中にない。しかも純江のように衆目を集める美しい女と、街の目抜き通りを歩いたのは、生まれて初めてのことであり、おそらくこれからもないだろう。  彼は年甲斐《としがい》もなく、顔が熱くなって困った。歩いている人間の目が、すべて自分たちに集まっているようで、顔もまともに上げられない。  自分の娘のような、若い女と相合傘をしたくらいで、だらしがないとおもうのだが、自分でもどうにもならないのである。 「課長さん、もっとゆっくり歩いてくださらない。息が切れてしまうわ」  いつの間にか足が速くなってしまったとみえて、純江が彼の腕を引いた。そのまま彼女は吉沢につかまった形で腕をあずけた。  ——こんなところをだれかに見られたら、困るな——  吉沢は臆病《おくびよう》そうに周囲を見まわした。純江はそんな彼を見て、クスリと笑い、 「課長さん、だれかに見られると困るとおもってんでしょう。大丈夫よ。いまどきだれだって腕くらい組みますわ。男の人と連れ立って歩くときのマナーにさえなってるわ。だれも変におもやしないわよ」  純江の言葉の底にはすっぱなものが覗《のぞ》いた。彼はここでも彼女の親しみやすい面を見たようにおもった。 「ぼくなんかの感覚では、男女が腕を組むということは、かなり親しい仲と見るけどね」 「親しい仲に見られてもいいじゃありません? 私、課長さんとそんなふうに見られたら、嬉《うれ》しいわ」 「き、きみ」  純江の大胆な言葉に、吉沢は狼狽《ろうばい》した。 「うふふ、大丈夫よ。だれも腕を組んだくらいじゃ誤解しませんわ。課長さんは旧《ふる》いのよ」  純江は吉沢の狼狽を軽くいなすように、いたずらっぽく笑った。彼は、この若い娘に自分がいいように翻弄《ほんろう》されているのを感じた。駅のビルが見えてきた。吉沢はホッとすると同時に、この魅力的な若い娘と別れ難い気持がした。  若い人間ならここでなんのためらいもなく、お茶か、映画にでも誘うのであろう。だが彼は気恥ずかしくて、とてもそんな誘いの言葉をかけられない。 〈課長さん、ご自分のお年を考えなさいよ〉  と女からピシャリと言われそうな気がする。とにかく相手は理事長付きの秘書である。めったな真似はできない。吉沢の保身本能が、鉄のような抑制をかけていた。 「ねえ、課長さん」  駅前の広場にさしかかったとき、純江が腕を引いた。 「課長さん、こんや何かご予定あります?」  純江はなにか謎《なぞ》をかけるように言った。 「べつに……」  これから帰って行く先は、何十年住み古した我が家であり、そこで待っている者は、自分の体の一部のようになった老いた妻である。未知に寄せる期待もなければ、プライバシーの、胸のうち震えるような秘めやかな愉《たの》しみもない。  まったくなんの変化もない単調な反復人生の生活があるだけである。  それに反して、この女の投げかける謎の多い表情には、なんと多くの未知数の美しさがあることか。美しいものとは、未知のもののことである。女にしても、旅にしても、未知なる美しきものへの憧《あこが》れが、それを求めさせ、遠く旅だたせる。  知りつくした瞬間から、美は、未知のミステリアスな陰翳《いんえい》を失って、単調な生活の中に固定されてしまう。  吉沢はいま、謎を含んだ若い女の顔を、間近に見ながら、自分の人生には、なんと未知のものが少なかったことかを痛感した。  生を享《う》けた最初から、周囲を既知のものでかためられていたようである。 「それだったら、課長さん、私と映画見に行きません?」 「映画?」  純江は、いきなり吉沢の心の中を当てるようなことを言った。そのためにかえって彼には、その言葉が果たして自分に向けられたものか信じられない。純江のような女が、自分を映画へ誘うはずがないという先入観があった。 「ちょうど招待券を二枚いただいたのよ。見たいとおもっていた映画なんだけど、一人で行くのも億劫《おつくう》だし、どうしようかと迷っていたところなんです」 「きみだったら、いくらでもいっしょに行ってくれる人がいるだろう」  自分を誘うなんてお門ちがいだ。きっとこの女はおれをからかっているんだ——と吉沢は本能的に警戒した。 「それがちがうんです」  純江の表情にふと翳《かげ》りのようなものが走った。 「どうちがうんだね?」 「私って、理事長さんの秘書をしてるでしょう。だからみんなが敬遠しちゃうんです。お友達をつくりたいとおもっても、だれも近づいてくれないわ。私、暗い顔してるのが嫌いだから、精一杯、明るくふるまっているけど、本当はひとりぼっちでひどく寂しいんです」 「へー、きみがねえ」  吉沢は信じがたいおももちで、彼女を改めて見つめなおした。そして、案外そんなことかもしれないとおもった。理事長秘書ということで、憧れられながらも、敬遠されている。  この娘は庁内で最も豪華な理事長室にその青春の魅力を閉じこめて、孤独の事務を取っているのだろう。  同情と同時に、しぼみ切っていたような彼の胸がにわかに野心で脹《ふく》れ上がってきた。高嶺《たかね》の花とあきらめていたものが、にわかに手を伸ばせば届く距離へ近づいて来たような気がした。 「べつに予定なんかないけど、本当にいいのかい? あとでだれかから怨《うら》まれるんじゃないかなあ」  吉沢はいまだに信じがたい気持である。 「課長さんたら、案外疑い深いのねえ」  純江は怨《えん》ずるような目をした。吉沢の本能的な警戒も、その目の色に屈した。いまこの願ってもない誘いを断われば、二度と同じような機会はこないだろう。  結局、吉沢は純江といっしょに映画を見に行った。映画はいかにも若い女の好みそうな甘ったるい恋愛映画であった。筋はほとんど頭に入ってこなかった。すぐ隣席に密着せんばかりに坐《すわ》っている純江のふくよかな身体が意識されて、映画どころではなかったのである。  それに彼女といっしょに映画を見ているところを、役所の人間に見つけられないかという不安があった。  かた物で押し通している彼が、ミス中橋市と言われるほどの純江と秘かに映画見物をしている現場をおさえられたら、どんなにひやかされるかとおもうと、おちおち見てもいられない。いったん克服したはずの保身本能が、久しぶりに感じた胸の血のざわめきとともに、しきりに揺れ動いた。  ともあれ、映画は終った。心身の緊張でいままで気がつかなかったが、急に空腹が意識された。若い純江はもっとそれを意識しているだろう。  いかにかた物の彼も、そのまま別れることの非礼を知っていた。映画に誘われたのだから、お返しに夕食へ招待する口実もある。  おそるおそるだした誘いの言葉を、純江は待っていたように受けた。しかし誘いをかけたものの、どこへ連れて行ってよいかわからない。二十年来、若い女と外食をした経験がないのだから、急にそんな気のきいた場所をおもい当たらないのも当然である。 「課長さんさえよろしかったら、私が時々行くお店があるんですけど」  吉沢の当惑を見透かしたように、純江が遠慮がちに言った。彼は渡りに舟とばかりそこへ連れて行ってくれと頼んだ。  彼女の案内してくれた場所は、町の中心から少しはずれた、洋風のレストランである。いかにも若い女の好みそうなしゃれた内装《インテリア》であるが、店内の雰囲気はかたくるしくない。デラックスでありながら、気軽に入れる店であった。  こういうハプニングがあるとはまったく予期していなかったので、いささか懐中が心細かった吉沢は、これならば、値段もあまり高くないだろうと、内心ホッとした。 「こういうお店によく来るの?」 「そうね、一か月に一回くらいかしら」  ——だれといっしょに?——  という質問が喉元《のどもと》まで出かかったが、抑えた。まだ相手のそんなプライバシーにまで立ち入る仲ではないと気がついたからである。  料理の注文は純江に任せて、食事は一時間以上かけて、ゆっくりと取った。今度はさっきの映画のようなことはなく、味がわかった。料理は彼の知らないものばかりだったが、いずれも生まれて初めて食べるようなものであった。  べつに大して珍しいものではなく、平均的OLの食べものだった。外食や接待の経験がまったくと言っていいくらいにない彼だったので、出されるものすべてが、山海の珍味に見えたのである。  食物を味わうゆとりができたのは、ようやく、純江といっしょにいることの雰囲気に馴《な》れたからであった。  話題も彼女のほうから次々に提供してくれたので、座が白けるということはまったくない。彼は若い女といっしょにいるのが、こんなにも楽しいということを、初めて知った。純江の巧みな座持ちに、本能的な自衛の鎧《よろい》もいつの間にか脱ぎ捨てていた。 「私、今夜はとても楽しいわ」  純江は料理といっしょに飲んだワインの酔いで頬《ほお》をうすく紅潮させて言った。映画と食事を共にするうちに二人の間から隔りが除《と》れていた。 「ぼくもだよ」 「課長さんって、見かけとちがって、とても優しいのね」 「見かけはそんなに優しくないのかね?」 「なんとなく恐く見えるわよ。でも私、そのほうが好きなの。男の人って、職場で威厳があって、プライベートの時間は優しいのが、本当に男らしいわ。本当のことを言うと、私、前から課長さんに憧れていたのよ」 「おいおい、おとなをからかっちゃいけないよ」 「からかってなんていないわ。本気よ」  女の目が妖《あや》しくキラキラ輝いた。吉沢の胸の奥からなにか衝《つ》き上げてくるものがあった。  ——もしかしたらこれは、生涯に二度とないチャンスに際会しているんじゃないだろうか?—— 「課長さん」  純江が、吉沢の目の奥を覗《のぞ》きこんだ。 「私、なんだか今夜、お家に帰りたくないの」 「きみ!」 「女からこんなこと言いだしたりして、はしたないとおもわれるでしょうね。でも、私って、自分の気持を欺くことができないのよ。私、本当に帰りたくないの。私をどこかへ連れて行って、もし私を嫌いでなければ」 「嫌いだなんて」  吉沢は慌てて否定した。こんな願ってもないチャンスに遭遇して、それをつかみ取らないようであれば、男を辞《や》めたほうがよい。  常ならば、話がうますぎると、当然自衛本能のフィードバックが働くところであったが、女の手順を踏んだ誘導によって、用意された陥穽《かんせい》の中へまっしぐらに飛び込んで行ってしまったのである。      5  翌朝吉沢が出勤すると間もなく、野木から呼びつけられた。何事か? と昨夜のことがあるので、胸騒ぎを覚えながら、理事長室へ赴くと、野木と小出が額を集めるようにしてなにか相談していた。  吉沢の姿を見て急に話を中断したという様子がありありとうかがわれたので、いままで彼のことが話題になっていたらしい。 「吉沢君、ま、かけたまえ」  小出がデスクの前の椅子《いす》を指さした。そこへ坐ると、野木と小出の前に引き据《す》えられた形になった。彼を呼びつけた用件がかんばしいものでないことは、二人の表情を見ればわかる。  ——やっぱり夕べのことがバレたんだろうか? しかしもしそうだとしても、我々のプライバシーにわたることだから、彼らにとやかく言われるすじあいはない——  彼は援軍を求めるように純江の姿をそれとなく探したが、室内には見えない。 「きみ、困ったことをしてくれたね」  野木が柿の渋を嘗《な》めたような顔をして言った。 「は?」 「とぼけないでもらいたい。きみ昨夜、倉光君になにをしたんだ!?」  突然、野木の言葉が凶器のように吉沢の胸を刺した。 「可哀想《かわいそう》に倉光君はひどいショックで、自宅に閉じこもったままだ」  ——そんなはずはない——と吉沢はおもった。昨夜の行為はあくまでも二人の合意の上である。むしろ純江のほうが積極的だったと言ってもよい。ショックを受けるべき要素はなにもなかったはずだ。  だが、次に加えられた小出の言葉は、もっと不可解であった。 「家族は警察へ訴えると怒っているが、市としての体面もあるので、抑えているんだ」 「警察? それはどういうことです?」 「吉沢君、この期《ご》におよんでとぼけるなんて卑怯《ひきよう》だぞ。きみは倉光君を強姦《ごうかん》したんじゃないか。公社の幹部職員が部下の若い女の子を暴力で犯すなんて、恥ずかしいとはおもわんのか」  吉沢は一瞬くらくらとした。まったく無防備のところを痛打されたように感じた。 「強姦ですって!? そ、そんな馬鹿な!」  なにがなんだかわけのわからないまま、吉沢は必死にふい打ちの打撃から体勢をたてなおそうともがいた。  昨夜の純江との行為が、強姦のはずはなかった。あの楚々《そそ》たる容姿から想像もできない奔放な体位で、彼を誘い、その未知の湿潤の肉襞《にくひだ》に収容し、共通の性の歓喜を分かち合うために、二人だけしか知らない豪華で破廉恥な肉の宴《うたげ》を繰り広げたのが、強姦であったというのか。  自分の意志で体を開き、これ以上はない愛撫《あいぶ》と結合をまだ不満として、求めの言葉をあられもなく発しながら、高まる官能の海の中にのたうちまわった女が、暴力によって行為を不本意に強制されたというのか?  そんな馬鹿なことはない。彼らはミス中橋市をもの[#「もの」に傍点]にした自分を妬《ねた》んで、言いがかりをつけているのだ。  彼女とのことが合意である証拠に、現に自分の身体は、女体に受け容《い》れられ、ともに官能を極め合った余韻と疲労を残している。強姦にこのような余韻が残るはずはない。 「なにが馬鹿だね、倉光君は体に怪我《けが》をしているそうだ」  小出に詰《なじ》られて、吉沢はハッとおもい当たることがあった。行為が沸騰《ふつとう》するままに、純江は、身体の微妙な部分を噛《か》むように求めた。彼は最初ためらったが、彼女に強くせがまれたので、言われるままにした。女はもっと強く噛めとせがんだ。彼もその異常な行為に興奮した。  力を入れるほどに女が喜ぶので、つい血が滲《にじ》むほどに傷つけてしまった。あの傷は、女が合意を否定した場合には、確実に男に不利になるだろう。性感を高める変則的愛撫は、女の言葉一つでたちまち男を告発するための被害の証拠となってしまうのだ。 「なにかのまちがいです。倉光さんに会わせてください」 「吉沢君! 恥を知りたまえ」  小出がピシリと遮った。もはやそこには反駁《はんばく》の余地はなかった。 「公社が発足して間もないという大切な時期に、えらいことをやってくれたな。これはきみ一人の問題じゃないぞ。このことが表沙汰《おもてざた》になった場合を考えてみたまえ。公社の信用はまる潰《つぶ》れだ」  野木が大仰なため息をついた。  吉沢はそのときになって、自分が罠《わな》にはめられたのを悟った。これは彼らにとって邪魔者の吉沢を排除するために巧みに仕掛けた陥穽である。  倉光純江は野木らの指示によって動いたにちがいあるまい。だがそれを証明する手段はない。昨夜の純江の痴態をフィルムかテープにでも録《と》っておけば、反撃の証拠になっただろうが、まさかこんな罠が仕掛けられていようとは知らないから、まったくの無防備の体を敵に捉《とら》えられてしまった。 「しかし小出君、絶対に表沙汰にはできんぞ。なんとしてでも倉光君を説得するんだ。ことは公社だけじゃない。市の体面にも関わる」  野木は小出に言った。 「わかってます。倉光君も市の職員の一人ですから、誠意をもって話せば、納得してくれるかもしれません」  二人の馴れ合い漫才を聞いているうちに、純江に告訴する意志のないことを悟った。もともと吉沢を陥れるための狂言であるから、警察沙汰になっては困るのである。だが表沙汰になった場合、失うものは吉沢のほうが大きい。  狂言であることを立証できないかぎり、彼は職場と家庭を同時に失うことになる。そして立証できる可能性はまずない。たとえ行為はホテルの中で行なわれたにしても、無理に連れ込まれたと言われればそれまでである。  この罠にはめられたまま、無条件降伏したほうが、損害《ダメージ》の少なくなることを、吉沢は本能的に悟った。敵にしても、表沙汰にしないかぎり、むやみに、彼の首を切れないはずである。その理由を公表できないのであるから、首を切れない。公社の要職にある身なので、他の適当な口実にすげ替えるということもできない。  野党が、『適当な口実』に納得するはずがないからである。  ——彼らには、おれを斬《き》るつもりはない。この際、貸しをつくっておいて、一派に引きこむつもりなのだ——  吉沢は相手の肚《はら》を読んだ。それはまことに正確な読みであった。ここに取引きが成立した。こうして大屋達吉が遺《のこ》した唯一の歯止めは、脆《もろ》くも崩れ去ったのである。      6  S県警捜査二課が、中橋市の住民から「中橋市大谷戸地区に中橋市開発公社が、同市の八城建設から市北丘陵開発計画にもとづいて取得した三十一万平方メートルの用地の取引きに不正の疑いがある」という投書を受けて中橋市警と合同して内偵をはじめたのは、昭和四十×年の八月末である。  内偵を進めるうちに、疑わしい点が次々に浮かび上がってきた。  問題の土地は、市営住宅や、老人ホームの敷地として購入したものである。しかし水ハケが悪く住宅用地としては不適である上に、先買いされたのが二年も前であるにもかかわらず、いまだに整地がなされず、いたずらに荒廃したまま、遊んでいる状態である。  投書した市民は、この遊地が市の用地として杭《くい》を入れられたまま長い間放置されており、凹地《くぼち》に雨水がたまって池となり、危うく子供が溺《おぼ》れそうになったことから、疑惑を抱いたと言ったが、後に八城建設の競争会社の社員であったことが判明した。  さらにこの土地は最初、中橋市の平尾不動産から中橋興業に売られたものが、大木建設を経て八城建設へ転売され、最終的に開発公社が買い上げたものであることがわかった。  この目まぐるしい転売の行なわれたのが、わずか一年余の間のことである。この間に土地は一平方メートル五百円ぐらいだったものが、公社の最終買い値は五千円と、十倍にはね上がっている。  警察が専門家に評価させてみたところ、精々千五百円から二千円ということであった。警察は開発公社と八城建設の間に癒着《ゆちやく》があるとみた。さらに転売の経過にも疑惑がある。  だが、きめ手がなかなかつかめなかった。  汚職事件は�密室の犯罪�と言われるほどに、贈収賄の現場を押えることが難しい。刑事は、中橋市内からはじめて供応が行なわれたとみられる料亭などをしらみつぶしに当たっていた。  その執拗《しつよう》な努力が実って、中橋市の近郊にある中沢寺《ちゆうたくじ》温泉の玉泉閣で、公社の総務課長吉沢伸吾と、八城建設の専務取締役八城泰造がしばしば会っていた事実を突き止めた。吉沢は土地買収を司る公社の第一当事者である。  芸者を呼んだ形跡もなく、鮎《あゆ》料理などを食いながら静かに話をしていたということだが、土地を購入した前後の二か月ほどの間に十数回会談していた。一平方メートル五千円、三十一万平方メートル約十五億円の買物であるから、そのくらい密に会っても不思議はないが、会談にいつも吉沢一人しか臨《のぞ》んでいない点が、捜査側の注意を惹《ひ》いた。 「これだけの大取引きの交渉に一課長しかいつも来ないというのはおかしい」 「課長しかよこさないというのは、上の大物が、吉沢を隠れ蓑《みの》にしているのかもしれない」 「なぜ隠れる必要があるんだ?」 「ということは、この用地買収になにか疚《やま》しいところがあるんだろう」 「だからやつら、取調べを受けたときの用心に最初から予防線を張っているんだよ」  捜査官の疑惑は増大し、まず吉沢の身辺が秘かに探られた。だが相手も、警察が目をつけたのを悟ったらしく、守りをかためて、決してボロを出さない。  吉沢の預金も調べられたが、特に不審の点はない。家庭も十年ほど前に買った建売住宅に妻と、二人の娘と四人暮らしで、つつましやかなものである。  だが捜査陣はあきらめなかった。吉沢は、この大がかりな汚職の海に浮かんだ氷山の一角である。必ずなにかあると信じて、執念深く洗いつづけた結果、中橋市郊外の農夫大森安二郎が、相続税を納めるために農地を売却した相手方が、吉沢の妻の実弟の有川章であることを突き止めた。  有川はそれを買い受けると同時に、売主と共同して、県知事に農地法による宅地への地目変更の許可申請をだして、許可されていた。  ところがその土地代金約三百万円が、有川の預金から動いた形跡はない。もともと有川には、そんな預金がなかった。市内の小さな製菓工場に勤めており、三百万円の土地を買うほどの資力をもっているとはおもえない。  捜査側はこの金が吉沢から出たとみた。自分名義で買うと疑惑を招くので、義弟をダミーにしたのだ。  有川を当たって、かなりはっきりした心証を得た警察は、参考人として、吉沢を呼んだ。  殺人強盗などの強力犯とちがって、知能犯を担当する捜査二課の捜査は、物証《きめて》をつかむのが難しい。容疑者の周囲の情況、いわゆる情況証拠を丹念に集めて、容疑が完全にかたまらないうちに、容疑者にぶつかる、�見切り発車�の取調べが多い。  吉沢は警察から呼ばれることはかなりショックだったらしいが、「八城に会ったのは、完全にプライベートなつき合いにおいてだ」とか、「供応を受けた事実はない」の一点張りで、義弟の土地の購入に関しては、まったくあずかり知らないと突っぱねた。  だが連日にわたる取調べによって次第に追い込まれてきていることはわかった。任意の取調べであるから、出頭を拒否することもできるのだが、拒否すればそれがそのまま逮捕理由に切りかわりそうな深刻な事態にまできている気配を悟っていた。  最初のうちは、八城との度重なる会見はプライベートだと言い張っていたのが、「用地売買の下相談をするためだった」と認めるようになってきた。 「なぜ、理事長や専務理事は、その相談に立ち会わなかったのか?」という追及に対しては、 「もう少し待ってくれ」と答えた。  無理押しをすると、せっかく軟化した吉沢がまた硬くなってしまうおそれがあったので、取調官は、その日の取調べはそれまでにして、帰宅させた。  取調官は、吉沢の自供の近いのを予感していた。      7  吉沢に捜査の手がのびたのを知った野木益男と小出要は、火の粉が身にふりかかるのを感じた。 「吉沢は大丈夫だろうか?」 「そう簡単に落ちないはずですよ。かなり甘い汁を吸わせてありますからね」  小出はそうは言ったものの、自信がなさそうである。 「純江にどっぷりと溺《おぼ》れこんでいるから、女をつかんでおくためにも、簡単には落ちないとはおもうが、考えてみれば、奴《やつ》はあまりにも知りすぎた」  野木はすでに自分に対して逮捕状が出されたような顔をしている。 「理事長、そんなにご心配なさることはありませんよ。たとえ、彼が自白したにしても、帳簿の上では、彼がひとりで職権を乱用して不正を働いたようになっております。そのための餌として、倉光純江をあてがったんじゃありませんか」  小出はむしろ自分自身を安心させるように言った。 「そりゃそうだが、警察が徹底的に検《しら》べれば、そんなカラクリはバレてしまうだろう」 「とにかく、この際吉沢に絶対に口を割らないように釘《くぎ》を刺しておきましょう」 「頼むよ。万一吉沢が下手なことを言いだせば、我々の首だけでなく、市長にも影響していくからな。それから当分、純江の家に寄りつかせないことだ。純江の線からたぐられるとまずい」 「その点はご心配なく。吉沢は純江との関係を我々以上に神経質に隠しています。よっぽど女房が恐いんですな、臆病《おくびよう》のくせに、意地が汚ない」 「まあそう言うな。あの女にはおれもまだ未練があるんだ。吉沢を抱き込むために、餌にして突っつかせてやったが、実は惜しくてしかたがない」 「理事長が惜しがるほどの美味《おい》しい餌だから飛びついたんですよ」  二人は、その一瞬、身に迫る危険を忘れて、腐敗した人間同士に通じる淫靡《いんび》な笑みを交し合った。  吉沢が追いつめられてくるにしたがって、野木や小出にも余裕がなくなった。このままいったら、自供は時間の問題とみられた。  いかに会計操作上、吉沢との間を断ち切ってあるとは言え、金額が十五億にも上る大きな買収に、公社の首脳である彼らがまったくタッチしていなかったとは言い逃れられない。  金額的にも吉沢独自のおもわくで行なった不正とするには、無理があった。まして吉沢の口から具体的な証言が引っ張り出されれば、野木や小出が、彼の背後に隠れきることはまず不可能である。 「なんとか手を打たないと、大変なことになります」  小出の表情は切羽つまったものになってきた。 「あまり使いたくないとおもっていたが、奥の手を使うか」  野木が意を定めたように言った。 「奥の手?」 「吉沢に自殺してもらうんだよ」 「吉沢が自殺! しかしあの男、簡単には死んでくれませんよ」  途方もない野木の言葉に、小出が目を剥《む》いた。 「ふふ、なんのために高い餌をあたえて、あの男を今日まで飼っておいたとおもうかね」  野木が謎《なぞ》をかけるようにうすく笑った。 「自殺とは必ずしも、自分の意志で死んだものとはかぎらないよ」 「とおっしゃいますと」 「きみも案外鈍いな。他から強制された死であっても、要するに自殺らしく見えれば、自殺になるということさ」 「理事長!」  小出は、ようやく野木のほのめかした黒い意図の輪郭をはっきりと見た。 「死因がなんであっても、外見が自殺に見えさえすればいいんだ。汚職事件に課長クラスの自殺の前例は多い。どこでも課長クラスが現場の実務を握っている。業者が最初にワタリをつけるのも課長クラスだ。実務の上のことなら、上がいくらいいと言っても、課長がヘソを曲げれば、事は進まない。  だから業者と癒着《ゆちやく》しやすい。発覚したときは、本性の小心が現われて、おもいつめてしまう。だいたいこんなケースで死ぬのが多いんだ。だから、吉沢が死ねば、警察も前例どおり死んだとおもってくれるさ」  野木は、すでにでき上がっている筋書きを読むように言った。 「しかし理事長、どうやって?」  小出は、いったんは野木の暗示した途方もない意図に愕然《がくぜん》としながらも、渦に引き込まれるように、次第に彼のペースに巻き込まれてきた。 「なに、死にかたはいくらでもあるさ。ビルから飛び降りてもいいし、電車に飛び込んでもいい。車に轢《ひ》かれるという手もある。しかしできれば、加害者のいない死にかたが望ましいな。加害者とのつながりを調べられると、面倒になる」 「崖《がけ》から海に身を投げるというのはどうでしょう?」 「そいつも悪くないな」  二匹の悪魔は、それから長い時間をかけて哀れな犠牲者の�自殺�の方法を検討した。数時間後、ようやく結論が出た。 「よし、これで決まった。吉沢さえ死んでくれれば、いくら警察が躍起になっても、我々には手も足も出ないだろう」  野木は満足そうに言った。そのとき小出は聞き忘れていたことが一つあったのをおもいだした。 「理事長、一つおうかがいしたいことがあるのですが」 「なんだね?」 「吉沢に純江をあてがったとき、最悪の場合には彼に�自殺�をしてもらうことをお考えでしたか?」  聞かれて野木はうすく笑って、 「それはきみの想像に任せる。しかし、甘い汁を吸おうとするからには、常に最悪の事態に備えておくべきだよ。バラにトゲありと言うだろう。美味しいものには、いつも危険がつきまとうものさ」  野木に言われて、小出は背筋にゾクリとするものを覚えた。      8  相手の死はまことにあっけなかった。水割りウイスキーに溶かした青酸カリは、瞬間的に、彼の五十年近い人生に終止符を打った。  指示されたとおりに事を運んだ純江は、あまりにも簡単に終ってしまった犯行に、相手の死がすぐには信じられなかった。しかし、確かに呼吸は停止しているし、男の浮かべた苦悶《くもん》の形相は、劇薬によって命を摘み取られた死者の顔である。  急に恐怖が衝《つ》き上げてきた。かねて指示されていたとおりというより、一人でいることの恐ろしさに耐えかねて、電話を取り上げた。 「終ったわ」 「死んだか」 「ええ、かんたんなものよ。私、恐い。すぐ来て!」 「よし、よくやった。すぐに行くからね。だれも家に入れるんじゃないよ」 「あなたも、尾行に気をつけて」  恋しい男への電話を終ると、張りつめていた神経がいっぺんに弛《ゆる》んだ。二十分ほどして、男は着いた。 「あなた!」  純江はおもわず涙ぐんで、相手の胸に飛び込んだ。 「よしよし、もう大丈夫だ。これでもう私たちを脅《おびや》かす人間はいない。この死体をどこか人里離れたところに捨てれば、警察は自殺とおもってくれるだろう。万一、他殺を疑っても、分け前を争って小出が殺したとおもってくれる。裏帳簿の上では、この男の取り分を小出が取ったようにうまいこと細工をしてあるんだ。こいつの取り分の大部分は、私が匿名で東京の銀行に分割預金してある。それが私たちの新生活の資金になる。私は、表面《うわべ》は、彼らの道具として使われた形になっているから、刑罰も大したことはないよ。贈収賄で実刑を食らうことは、めったにないのだ。運悪く実刑を食っても、一、二年ですむだろう。まじめに勤めれば刑期はもっと短縮される。待っていてくれるね」 「待つわ、必ず待っているわ」 「今日は、私たちの新しい人生への門出の日だ」  吉沢伸吾はようやく自分だけのもの[#「自分だけのもの」に傍点]になった愛《いと》しい女の体をひしと抱きしめて言った。  純江は野木のオフィスワイフであった。野木の指示を受けて、吉沢を汚職の連環につなぐために誘惑した。さらに吉沢をつなぎ留めておくために、交渉をつづけた。これも野木の命令であった。  ここまでは純江も、野木の忠実な道具であった。だが彼女はいつの間にか、実直な吉沢の方へ傾いてきた。単なる道具としてしか扱わない野木に反して、吉沢は彼女を心から愛してくれた。  吉沢へ傾けば傾くほど、野木への嫌悪が増した。野木は上役であることを利用して、純江の貴重なものを蹂躙《じゆうりん》し、玩《もてあそ》び、しかもなお、利用しつづけている。  嫌悪に増悪が加わった。もう道具の生活はまっぴらだ。女としての幸せをつかむのだ。  一方、吉沢も純江を知ってから、人生の情熱に目覚めた。人生がこんなにも楽しいものだとは知らなかった。遅蒔《おそま》きながら純江とともに新しい人生をはじめるのだ。家を捨て、妻子の桎梏《かせ》を逃れ、狭い日本から離れて、どこか外国へ行って、純江と楽しく暮らそうとおもった。  そのための資金を稼ぐために連座した用地売買に、警察から疑いをもたれてしまった。妻子に、特に子供のために、自分が蒸発した後の生活資金にと、土地を買っておいてやったのが、疑惑をまねくきっかけとなったのである。  女と逃げた後の妻子の生活を想《おも》う、彼の律義な性格が災いしたのである。吉沢に対する取調べが厳しくなると、野木は自衛のために、吉沢の抹殺《まつさつ》を考えた。  野木の犯した最大のミスは、道具を排除するための実際の行動を、べつの道具に命じたことである。道具がいつまでも自分に忠実であると信じていたところに、彼の誤算があった。  道具には人格があり、いつの間にか、彼から離反していたことに気がつかなかったのだ。  純江に命じ、さずけた吉沢の抹殺計画は、そっくりそのまま返す刃となって、野木に向けられた。  純江から野木の冷酷にして凶悪な意図を聞いた吉沢は、それをそのまま利用して、野木を殺してやろうとおもいついた。彼女は同時に、いまでも野木から時々関係を強要されていることを告白した。それが吉沢の殺意をかためた。  狡猾《こうかつ》な野木は、警察が動きだしたと知ると同時に、業者から取った契約外手数料と水増評価分の約五億円を、匿名で東京のいくつかの銀行に分割預金させた。万一それが露《あら》われても、野木が私したものではなく、公社の機密費として蓄えていた体裁にするために、裏帳簿に載せた。印鑑も自宅におかず公社総務課の金庫に保管させていたのである。これによって背任横領に対する備えを立て、しかも自己の取り分を確保したつもりだった。  この事実を知っていたのは、吉沢だけである。どうせ抹殺する人間だからさしつかえないとおもっていたのが、逆手に取られて、自分が抹殺される羽目になった。  まことにおあつらえむきに野木は自筆の遺書を書いてくれた。純江に指示するにあたって、吉沢を欺《だま》して遺書を書かせられないかと言った。 「なんとかやってみるわ。どんな文面がいいの?」と純江が聞くと、もはや逃れられそうにないので責任を取って死ぬ、というような意味ならなんでもよいと言った。 「私、忘れっぽいので、とても覚えていられないわ。変なことを書かせると危険だから、ちょっと書いておいてくれない」と彼女が便箋《びんせん》を差し出すと、野木は少しも疑わずに、ペンを取って、さらさらと書いた。それがそのまま、彼の遺書になるとも知らずに。こうして、野木は、自ら入手してきた青酸カリを飲んであっけなく死んでしまった。 「とにかく野木の死体を捨てるまでは、気を許すのは早いよ」  吉沢は抱きついたまま離れようとしない純江の柔らかい身体を、無理に押しのけた。この大仕事を無事に果たすまでは、純江との新しい人生を手に入れたことにならないのだ。 「十二時をすぎれば、もうだれも出入りをしないわよ。このアパートの住人は、みんな早寝なのよ」 「車は?」 「裏の窓のすぐ下にもってきてあるわ」  純江の部屋は、野木が金を出して秘かに借りあたえたものである。つまりアパート付きの女を、吉沢に餌としてあたえたわけだ。部屋の位置は一階で、死体を運び出すのにまことに都合がよい。  まさかアパートを借りるとき、このときの�便宜�を考えていたわけではないだろう。 「まずいときにペンキなんか塗りやがったな。服に付いてなんかいないだろうな」  吉沢は部屋の中にまで漂ってくる新しいペンキのにおいに顔をしかめた。 「大丈夫よ。何度も念を入れてみたから」 「別の場所で自殺をした人間が、きみの部屋へ来たことがわかったらまずいからな」  警察は死体についた極微のデータからも、死者の生前の足取りを溯《さかのぼ》る。野木が純江の部屋へ来たことがわかっても、元のスポンサーだから、直ちに致命的な破綻《はたん》にはならないだろうが、でき得ることなら、野木はこの場所から隔離しておきたい。 「あらポケットに、新聞の切れっぱしが入ってるわ」  広げて見ると、「逮捕直前の総務課長、帳じり合わせ、大金を操作? 公社首脳への波及は必死か」の大見出しで、吉沢の取調べを報じていた。純江がウイスキーを用意している間に、夕刊から切り抜いたらしい。テーブルのそばに、ちょうどそれに当てはまる部分《スペース》を失った夕刊があった。 「どうしよう、この切れっぱし?」 「ちょうどいいじゃないか。遺書の内容をうまく補足するよ」 「でも、これ私の取ってる新聞よ。版の数から、この場所がわからないかしら?」 「大丈夫だよ。中橋市は全部この版だ。このへんではこの新聞が最も購読者が多い。野木の家も同じ新聞を購読しているよ」  純江はやっと安心した顔になった。自動車に死体を積み込む作業は、案外簡単にすんだ。野木の体重が、軽かったせいもある。周囲は寝静まり、だれにも見咎《みとが》められなかった。これで最も危険な作業は無事に終ったのである。  あとはかねてより下見をしておいた場所まで、検問にひっかからないように行くだけである。そしてそのおそれのほとんどないコースを選んでおいた。  吉沢は免許をもっていないので、純江が運転を担当した。車は彼女が借りてきたレンタカーである。      9  野木益男の服毒死体は、翌朝六時ごろ、中橋市から西へ四十キロほど行った山林の中で、草刈りに来た付近の農夫によって発見された。農夫は犬がしきりに騒いでいるので、林の中へ入って、野木を見つけたのである。  検視の結果、死因は青酸化合物による中毒死、ポケットに青酸カリ入りのウイスキーの小びんがあったところから、それを飲んで死んだものとみられた。死亡推定時間は昨夜の午後十時から十二時の間とされた。  べつのポケットから遺書と昨夜の夕刊のスクラップも発見された。現場に駆けつけた遺族に聞いても、最近沈みがちであったという。  すべての情況が目下取調べが進んでいる用地買収にからむ汚職容疑を苦にしての自殺を指していた。  自殺と推定して、検視の一行が引き上げようとしたとき、地元署の刑事の一人が「おや」と首を傾げた。 「なにかあったかい?」  同僚が刑事の見つめている手元を覗《のぞ》きこんだ。刑事は、死者のポケットから発見された新聞のスクラップをにらんでいる。 「その新聞がどうかしたのか?」 「ここにオレンジ色のシミが付いているだろう」  刑事はスクラップの一か所を指した。 「絵具らしいな」  同僚は大して興味のない目を向けた。彼は早く帰りたかった。自殺とわかった事件をいじくったって仕方がない。 「いやペンキだよ。においが少し残っている。ちょうど新聞の折り目のところにシミが付いている」 「それがどうしたんだ?」 「これはペンキを塗りたての郵便受けかなんかに、新聞配達が突っ込んだんだよ。だから折り目のところにペンキが付いた」 「ペンキ塗りたてなら、付くだろうな」  刑事がそばにいた遺族に、 「お宅では最近どこかペンキを塗りかえましたか?」 「いいえ、ペンキなんか最初から塗ったことはありません。主人はあのにおいがとても嫌いでしたから」  目を赤く泣きはらした野木の妻が答えた。 「すると死者《ホトケ》はどこか他所《よそ》でこの新聞を手に入れたことになるな」  刑事は野木未亡人の前でひとり言のようにつぶやいた。 「なるほど、駅やスタンドで買った新聞にはペンキはつかないな」  同僚の目がようやく興味をもってきた。刑事の意見が容《い》れられて、ペンキの種類が鑑識で分析されると同時に、市内で昨日から二、三日溯る間にその種のペンキを塗ったところがあるか、市内の塗料業者がしらみ潰《つぶ》しにあたられた。  その結果、市内柳町の『原塗料店』が、立松町の『大一メゾン』というアパートの大家から三日前にベランダの手摺《てすり》やドアの塗料塗りかえを依頼されて、まず上塗りの前に鉛丹《えんたん》と呼ばれる、オレンジ色の錆止《さびど》め塗料をドアに塗ったことがわかった。  ドアの中央には郵便物のための投入口がある。  新聞に付着していたのは、鉛丹であった。『大一メゾン』の住人の中で、その新聞を購読している者は、さらに数が限られる。  捜査の結果、倉光純江という住人の部屋から、そのスクラップに該当する新聞が発見された。倉光を追及した結果、野木と関係があった事実を認め、死ぬ前夜訪ねて来たが、まさか死ぬとはおもわなかったと供述した。  捜査はそこで頓挫《とんざ》したかに見えた。だがこの事件と並行して、用地買収事件の取調べに当たっていた捜査二課のほうでおもわぬハプニングが起きた。 「野木理事長も自殺をされたので、私も本当のことを申し上げます」  吉沢伸吾は殊勝な顔をして自供をはじめた。  野木の自殺にショックを受けて、とうとう自白《ゲロ》する気になったなと緊張した取調官は、デスクの上に置いた吉沢の上衣《うわぎ》の袖《そで》を、ふと目に入れた。袖口のあたりがかすかだが血が付いたように赤く汚れている。視角の関係で、取調官には見えるが、吉沢には見えないらしい。取調官は最初吉沢が怪我をしたのかとおもった。 「きみ、その袖口はどうしたんだ?」  取調官がなにげなく聞くと、吉沢は腕を上げて、刑事に指されたあたりを見たが、突然顔色を変えて、体を震わせはじめた。いままで、観念したように落ち着いていたのが、いちじるしい動揺をしめしたのである。  むしろそのあまりにも激しい変化に、取調べ側のほうが愕《おどろ》いた。取調官は、赤い汚れが吉沢に決定的な打撃をあたえるものらしいことを悟った。  吉沢の袖口に付いていたのは、鉛丹であった。ここ数日にわたって、純江のアパートにしか塗られていない鉛丹が、どうして彼の袖に付着したのか? その説明ができないかぎり、すぐ目の前にまで迫った純江との新しい人生は、夢であることを、吉沢は悟ったのである。 「結局、だめだった」  吉沢は、供述調書の置かれているデスクの前で、がっくりと肩を落とした。  その前夜、吉沢の妻は夫の上衣の袖が汚れているのに気がつき、クリーニングに出そうとした。しかしその汚れを付けた場所について本能的にひらめくものがあった。夫は隠しているが、彼に女ができたことは、とうにわかっている。  おそらくこの汚れも、女のところで付けたものだろう。 〈女のところで汚したものは、その女にきれいにしてもらえばいいんだわ〉  そうおもった妻は、翌朝吉沢に同じ上衣を着せて家を出した。 [#改ページ]    殺意中毒症      1  最初に平松武郎《ひらまつたけろう》の異常に気がついたのは、課長代理の井手正美《いでまさみ》である。 「うちの課長、最近おかしくないか?」  彼は係長の須賀博志《すがひろし》にそっと言った。 「課長はいつもおかしいですよ」  須賀はあきらめたような口調で答える。須賀は労組の書記長でもある。海千山千の経営陣を向うにまわして互角に渡り合う恐持《こわもて》も、平松に対しては、最初からあきらめのムードである。 「そう言えばそうだが、最近特に変だとおもわないか。もともと課長は仕事に厳しかったけど、このごろの厳しさは異常だよ。昨日も中井嬢の提出した業務日報に訂正印が一つ欠けていたというだけで、大変な騒ぎだった。中井嬢はとうとう泣き出して、辞《や》めると言いだす始末だ。以前も厳しかったけど、あんなじゃなかったよ」 「課長は完全主義者なんですよ」 「そこなんだよ。人間はそんなに完全な仕事ばかりできるもんじゃない。ましてサラリーマンの仕事なんて、マラソンだ。いつも全力疾走していたら、まいってしまう。ところが最近の課長ときたら、残酷なほどに、最高級の仕事を要求する。他人だけじゃない。自分に対してもだ。きみ、平松課長が毎日何時ごろ帰るか知ってるのか」 「さあ……私たちより遅いのは確かですね」 「四、五日前のことなんだが、大学時代の同窓会で羽目をはずしてね、終電車を逃がしてしまった。生憎《あいにく》、週例の早朝会議の前の日だった。家へ帰ったところで、変りばえしない古女房が待っているだけだし、いっそのこと、会社の宿直室にでも潜りこもうと、やってきたら、まだ課長が仕事をしてるんだ」 「その夜だけじゃなかったんですか」 「それが守衛に聞いてみると、ここ一か月くらい毎晩のことらしいんだよ」 「そんなに仕事がたまっているのかな?」  ようやく須賀も首を傾けた。井手にしてみれば、平松がいなくなれば、自分がそのポストを襲うことになる。組合が人事を握っているわけではないが、彼らの会社側に対する有形無形の圧力は大きい。まして組合三役は、労務担当重役と密着している。  組合に、不適格と断じられた管理職が、とばされた前例もある。井手としては、いちおう職制上は自分の部下になっている組合幹部の須賀にそれとなく平松の異常を訴え、彼にとって代るための陽動作戦かもしれない。 「そうじゃないんだ。おれたちのやった仕事を納得いくまで、チェックしなおしているんだよ。自分で確認しないことには、安心ならないらしいんだな」 「もしそれが本当なら、ちょっとおかしいですね」 「ちょっとどころか、大いにおかしいよ。これだけの大世帯の経理の書類を、隅から隅まで確認しなければ、納得できないというのは、異常だ。守衛の話によると、日曜にも出て来ているそうだよ」 「えっ、日曜日にもですか。週休二日制が近くはじまろうとしているのに、日曜返上とはおそれいったな」  さすがに須賀もびっくりした様子である。非専従制ではあるが、須賀は組合幹部としての仕事に追われて、自分本来の職場にいることが少ない。そのために、あまり直属上司と接することも少なく、その異常に気がつかなかった。  だが、平松の異常は、そのときはまだほんの序の口だったのである。  最初のうちは秘かに休日出社していたのだが、公然と出るようになった。さらに会社へ毛布や布団をかつぎこんで、オフィスに寝泊りするようになった。  べつに決算期が迫ったわけでもないし、順法ストも行なわれていない。 「私、このごろの課長さん恐いわ」 「書類もっていくと必ずどなるんですもの」 「あの目、おかしくない?」 「ギラギラ光って、まるで気ちがいみたい」  まず女子課員たちが、平松を恐がって、寄りつかなくなった。彼は男だろうと女だろうと、あるいは、経験、年齢を問わず、ミスをすると、絶対に容赦しなかった。  単にミスを指摘して叱責《しつせき》するだけでなく、月給|泥棒《どろぼう》呼ばわりをした。それは単に上司の職務上の権限を越えた、感情的な叱責であった。  部下は、平松に叱《しか》られると、屈辱を感じた。だがその怨嗟《えんさ》が爆発しなかったのは、平松が言うだけのことは、やっていたからである。  実際、経理の実務や知識において、社内で彼の右に出る者はなかった。経営の実数も、トップマネージメント以上に正確に把握している。社長や役員連も、彼には一目《いちもく》おいていた。  しかも知識だけでなく、その仕事の猛烈ぶりにおいては、だれもかなわない。彼はプロをもって自認している。 「プロとは、自分の仕事において絶対の自信と権威をもつ者だ」と信じている。だからどこからもケチのつけようのない完璧《かんぺき》な仕事が、価値観の基準となっている。  彼にとって完璧な仕事のできる者だけが友人であり、一度でもミスを犯した者は、すでに共に語る資格がないのだ。  もともとそのような信条は平松の中に潜在していたのだが、最近に至って、従来は多少ともあった寛容が失われて、ますます徹底した完全主義を発揮するようになった。  単なる猛烈社員ならば、他にもいた。だが彼らの猛烈ぶりはたいてい、昇進のための�政策《ポリシー》�であった。仕事そのものが好きで、猛烈なのではない。猛烈を偽装することによって、会社に自己PRをしているのである。  いかにも会社と仕事を愛しているように見せかけながら、愛しているものは、自分だけだ。彼らは、とても平松にかなわないと悟ると、 「あれは目隠しされた馬車馬《ばしやうま》だ」と軽蔑《けいべつ》することによって、自分の化けの皮が剥《は》げるのを隠した。  さすがに、その異常なまでの猛烈ぶりには、会社側も顰蹙《ひんしゆく》した。そして、自宅から通勤して、休日には休むようにと勧告した。  勧告を受けた当座は、平松も家に帰り、休日を妻といっしょにすごした。だがせっかく家にいても、仕事のことばかり考えている。 「あなた、家にいらっしゃるときぐらい、お仕事のことは忘れなさいよ」  と妻の登喜子から言われても、 「おれ以外に、この仕事のできるやつはいないんだ」 「そんなことないでしょ。井手さんだって、須賀さんだって、あなたのいい片腕じゃない」 「ふん、井手なんかおれの目から見れば、まだヒヨコだね。危なっかしくて、とても任せられない。須賀は組合では、いっぱしのことを言うが、仕事はからきしだめだ」 〈そうおもってるのは、あなただけじゃないの〉と彼女は言おうとして、危うく喉元《のどもと》で抑えた。 「自分だけしかできない仕事」が、夫の生き甲斐《がい》になっているのである。もしそうでないことを知ったら、彼はいっぺんに虚脱して、廃人のようになってしまうだろう。  会社の勧告に従って、日曜日に家にいる間じゅう、平松は、「虚《むな》しい、虚しい」と言いとおした。 「何が、虚しいのよ」と妻が聞くと、 「人間は仕事をしないと、だめなんだ」 「あなたは十分仕事をしているじゃない。一週間に一日休むのは、人間の権利なのよ。機械だって油を注《さ》さなければ、こわれてしまうわ」 「おれには仕事が休養なんだよ。家でボケーッとしてテレビの前に坐《すわ》っていることのほうがよっぽど辛《つら》いよ」 「あなたって人は!」  登喜子は呆《あき》れ果てていた。平松は、仕事をしないでいるときのほうが、苦しいらしい。仕事に向かって常に全力疾走している身が、休日に突然、働くことを止めても、加速度のつきすぎた身体は、停まらないのだ。むしろ停めようとすることのほうに、苦痛を覚えるのである。 「あなたは、仕事という麻薬の中毒にかかっているのよ。だから仕事を止めると、禁断症状が出るんだわ」  登喜子がなにげなく言った言葉は、奇しくも平松の症状を正確に言い当てていた。      2  いったん会社側の勧告に従ったかと見えた平松は、間もなく、元へ復《もど》ってしまった。症状は、わずかながら�禁断�の時期をおいたために、もっとひどくなってきた。  このごろでは、オフィスの中の個室に閉じこもり、中から鍵《かぎ》をかけて、そこでひとりで仕事をするようになった。  雑居のオフィスでは、雑音が入って仕事に集中できないというのが、理由である。  彼はその部屋の中で食事をとった。そのうちにトイレへ行く手間も惜しくなって、ポータブルの便器までもちこんだ。閉めきった室内には食物の残渣《ざんさ》や排泄物《はいせつぶつ》のにおいが入り混って、形容し難い異臭がこもった。  その中央にうずくまって、ひとりで黙々と仕事をしている平松の姿からは、一種の鬼気がゆらめき昇っているようであった。 「ひどいにおいだぞ」 「オフィスではなく、豚箱だ」 「気が狂ったんじゃないのか」  まれにその部屋に呼ばれた部下は、ささやき合った。そのささやき声が聞こえたのか、平松はだれも部屋に入《い》れなくなった。部下への命令や上司への報告も、いっさい電話で行ない、会議や重役に呼ばれたとき以外には、個室から出なくなった。  さすがにこれは、社内で問題になった。強制的に社内のクリニックに診《み》せたところ、最近アメリカで問題になっている「|働き中毒《ワークホリツク》」という職業病の一種と、診断された。 「仕事に耽《ふけ》りすぎたことから生ずる強迫症状です。常になにかに追いかけられているような不安を、仕事をやっているときだけ忘れられる。だから仕事を止めると、猛烈に不安になる。その不安を振り捨てるためにさらに仕事をするという悪循環に陥る。  これが高じて、食事の最中にも、眠っているときにも働いている。いまこの人にとって価値あるものは、仕事だけなのです」 「このままいくと、どうなりますか?」 「極端に自分と他人の仕事に厳しくするあまり、他人と協調して仕事をすることができなくなりますね」  だがすでにその段階に入っているのだ。 「仕事の中毒ですから、仕事をしているかぎりにおいては、当人は麻薬を注射したように、不安から解放されています。しかし、オーバーワークによる睡眠不足や栄養失調、あるいは社内と家庭の人間関係のトラブルによって、体と精神の両方がまいってくるでしょう」 「どうしたらいいでしょうか?」 「仕事を止めさせることが、いちばんですが、急に止めさせると、かえっていけません。本人には仕事をつづけている意識をもたせながら、徐々に閑職へまわしてやるとよいでしょう」 「しかし、彼にはずれられると、困るのです」 「それがいけないのです。自分は頼られている、おれがいなければ、会社はやっていけないという自意識が、友達もこれといった趣味もなく、孤独な内向的性格によって拍車をかけられて、仕事一辺倒にのめらせていくのです。この人がいなくとも会社はやっていける。決してかけがえのない人物ではないということを徐々に知らせてやらなければいけませんよ」  医師の言葉に、人事担当の重役はうなずいた。平松に全国市場の視察という名目で、一か月の出張命令が下ったのは、その二日後である。  市場の視察といっても、はなはだ漠然としていて、何を具体的に視《み》てくるのかわからない。だいいち経理畑の彼には、市場の視察をしたところで、その動向をつかむことはできない。  あたえられた数字の分解や計算は得意だが、流動する市場の現象を分析したり、商況を占うことには、馴《な》れていない。 「もっと適任者がいるのでは」  と抗議する彼に、社長の杉田|泰男《やすお》は、 「気楽に一か月ほど旅をして来てくれればいいんだ。報告書類はいっさいいらない。まあ気が向いたら、地方の有力小売店にちょっと挨拶《あいさつ》してきてくれればいい」  小売店まわりには専門の担当者がいる。平松の出る幕ではなかった。不安げな表情になった彼に、杉田社長は、 「会社は、きみの感じたままの印象を聞きたい。会社が必要としているんだから、行ってくれたまえ」と肩を叩《たた》いたので、やっと安心した顔になった。平松にとっては、「会社が必要としている」という言葉が、特効薬のような効きめをもっていた。      3 「もうこの部屋で逢《あ》うのは、危険だよ」  杉田|早苗《さなえ》に欅《けやき》の荘重なドアを開けてもらって、社長室の中へ迎え入れられた須賀博志は、不安げな表情を隠さずに言った。 「ふふ、そうね。あなたと私がこういう仲になっていることが知られたら、おたがいに百年目ね。労組の書記長と社長の妻。こんな突飛な組み合わせは、世界中を探してもなかなかお目にかかれないわよ」  早苗はいたずらっぽい笑みを含んだ。 「他人事《ひとごと》みたいに言わないでくれよ」  須賀は、自分がからかわれているとおもったのか、やや語気を強めた。 「大丈夫よ。あなたも案外気の小さいところがあるのね。だれが日曜日の社長室で私たちがデートしてるとおもうもんですか。もっと堂々としなさいよ。団交のときの主人をはじめ経営陣をきりきり舞いさせた自信とハッタリはどうしたの?」 「場合がちがうよ」 「どこがちがうと言うの? 経営者から毟《むし》り取るということにおいては同じじゃない」 「そんな言い方は止めてくれ」 「だったら、早く抱いてちょうだい。時間は貴重だわ。一週間分たっぷり補給して。私があなたを毟り取るわよ」  早苗は豊満な女体を、須賀の若い体にぶつけてきた。どちらも触れ合えば火を発するほどに餓《う》えていた。  早苗が「一週間分の補給」と言ったが、たがいの都合で、それが二週間にも、三週間にも延びることがある。どちらかの都合が悪くて、一週間以上逢えないときは、気が狂いそうになった。  永立《えいりつ》薬品社長夫人の杉田早苗と、同社労組書記長のめぐり会いは劇的であった。彼らは、郷里の高校で同級生だった。高校の弁論部で、須賀が部長をしており、早苗がマネジャーをやっていた。  卒業の年に、彼らの県の地方新聞社主催の県下高校の弁論大会に、須賀が優勝した。その帰途、彼らは町はずれの河原の草むらの中で初めて稚《おさな》い接吻《せつぷん》をした。  たがいに抱き合っていたほのかな好意が、弁論大会の優勝という喜びに誘発されて、ようやくおずおずと唇を合わせるまでに進捗《しんちよく》したのである。余勢をかって須賀が一気にもっと本格的な手続きに進もうとしたとき、人の足音が聞こえた。  早苗は羞恥《しゆうち》をよみがえらせ、須賀は気勢を殺《そ》がれてしまった。きっかけというものは、一度失うと、なかなか二度とつかめないものである。  せっかくいいところまでいったところを、邪魔が入って未遂に終った行為を、なんとか完成させるべく機会を狙《ねら》っていたのだが、それ以後いつもすれちがいがつづいた。そのまま卒業して、二人はそれぞれべつの道へ別れてしまったのである。  須賀は大学を卒《お》えると、永立薬品に入社した。弁論部で鍛えた手腕をかわれて、入社後間もなく組合の幹部に据《す》えられた。教宣部長や渉外部長を経た後、半年前に書記長に選ばれたのである。  杉田社長が先妻に病死されて、二十近くも年齢がちがう若い後妻を迎えたという話は聞いた。だが彼女が、高校時代の「初恋の人」だとはおもわなかった。  彼らが再会したのは、会社が社員の家族の親睦《しんぼく》と慰労のために、都内のホテルでパーティを開いたときである。  社長夫人として出席した早苗は、花やかな孔雀《くじやく》のように会場を巡りながら、須賀の所へ来た。社長夫人からいきなり「お久しぶり」と言われた彼は、すぐには相手がわからなかった。  青春前期、郷里の草むらの中で青い唇を重ね合ったおさげ髪の少女が、絢爛《けんらん》たるコスチュームをまとって、自分よりはるか上位にある者の、余裕のある微笑を投げかけてこようとは、夢にもおもっていなかった。  どうやら早苗のほうは、ずっと前から須賀の存在に気がついていた様子であった。こうして彼らの間に秘かな交際が、復活した。早苗が、単に人妻であるということに加えて、社長の妻と、労組の書記長という労使の両極にある二人の身分では、その交際は極秘に伏せなければならなかった。  男女の仲は、障壁が多ければ多いほど、燃え上がるものである。まして彼らの場合は、実らなかった初恋の屈折が内攻している。初恋の挫折《ざせつ》が、「おとなの再会」によって爆発的に燃焼をした。  早苗は、自分の父親ほども年齢のちがう夫によって充《み》たされない欲求不満を、須賀に叩きつけた。  須賀はついに果たした初恋に、絶対にあいいれない経営者の妻を盗むサディスティックな興奮を加えた。  だがもし彼らの関係が露《あら》われれば、二人とも破滅である。杉田は「不倶戴天《ふぐたいてん》の敵」ともいうべき労組幹部と通じた若い妻を決して許さないだろうし、労組は労組で、書記長の身でありながら、社長夫人と関係した須賀を許し難い裏切り者とみるだろう。  永立薬品の場合は、組合を除名されると同時に、会社からも解雇される。彼らの恋愛には、生活が賭《か》けられていた。それだけに、逢《お》う瀬《せ》には一種の悲壮な雰囲気があった。  いつも人の目におびえ、逢う度に、これが最後ではないかという、切迫感がある。 「一期一会《いちごいちえ》」のデートは余裕がなく、貪《むさぼ》り合いに終始する。  最初は、都内の旅館や、モーテルを使った。しかし、これも絶対に安全とは言えなかった。いつ知人に出会うかもわからないのだ。  そのうちに早苗が、実に大胆な場所を見つけた。  最近、機密事項が外部に漏れるので、機密管理がやかましくなった。このため杉田は、社長宛に来る郵便物の返事書きを早苗に頼むようになった。杉田としては、秘書にも見られたくない文書があるらしい。文書課は、労組のヒモつきで、機密の書類は頼めない。  しかしそれをいちいち自分で書いていたのでは、社長業務が停滞してしまう。こうして早苗は、夫のもってくる郵便物の返事を、代筆するようになった。子供もなく、家事は、二人いるお手伝いがすべてやってくれるので、閑《ひま》な体である。  閑つぶしには格好の仕事であった。  そのうちに早苗は、家でだけでなく、夫の会社へ行って、その仕事をするようになった。急ぎの返事があって、杉田に呼ばれたのがきっかけとなった。それからは時々社長室で、秘書のような顔をして、夫の代筆をやった。  杉田は、ゴルフ狂で雨の日でもなければ、休日は家にいない。これがヒントとなった。 「あなたはどうせ日曜日はゴルフでしょう。だったら、私、日曜日に会社へ行ってお仕事してはいけないかしら? オフィスのほうが仕事をするようにつくられているから、能率が上がるのよ」  早苗に言われて、杉田は日曜日の社長室を彼女に使わせるようになった。  早苗は、日曜日に堂々と�出勤�すると、須賀を呼んだ。さすがに須賀も、この途方もないデートの場所にびっくりした。  最初は二の足を踏んだが、 「ここがいちばん安全なのよ。日曜日だからだれもやって来ないわよ。まして社長室なんて社員は普通の日だって敬遠するわ。来客用のソファは、一流ホテルのベッドよりも寝心地がいいわよ。カーペットは、足が埋まるほどだし、壁も厚いわ。中から鍵《かぎ》をかければ、中で何していたってわかりゃしないわよ」 「しかし社長がいつ来るかわからないじゃないか」 「そのことだったら、絶対大丈夫。私がここへ来ているということは、あの人がゴルフへ行っているということなのよ。朝、暗いうちから、スタートに間に合わせるために飛んでいったわ。いまごろはコースをいい気分で回っているわよ」  早苗に言われて須賀もようやくここがいちばん安全な場所であることに気がついた。書記長という身分から、日曜日に出社しても、べつに怪しまれない。  社長室に出入するときだけ注意しなければならないが、うまいことに、同じ階に会社の資料室があって、労組の幹部も、時折りそこへ行く。犬猿の労使が、同じ階で顔を突き合わせるのは、まずいので、杉田は資料室の移転を考えているが、適当なスペースのないまま、いまだに元の場所にある。  資料室へ行く振りをして、社長室へ入ってしまえば、あとは二人だけの奔放な密室の宴《うたげ》が繰り広げられる。もう一つのメリットは、社長宛の極秘郵便物にすべて目を通せることである。これは須賀にとって早苗の躰《からだ》以上の大獲物であった。  こうして彼らは、ほとんど毎日曜日に、社長室で、餓えた獣のような貪り合いをしていた。  だがさすがにこのごろになると、男のほうが不安を覚えてきた。台風の目のような場所は、一歩外へ出れば、台風が荒れ狂っている。  組合幹部が社長室へ出入するところをだれかに見咎《みとが》められたら、ただではすむまい。情事の発覚以上の危険を冒しているのである。  それに最近の早苗の態度も不安であった。何事も起きないのに馴《な》れて、さらに大胆になったというよりは、最初のころのような警戒をとらなくなった。  老いた夫が、十分な開発を怠っていた躰を、須賀によって火を点《つ》けられ、眠っていた欲望の火薬がとどまるところを知らぬばかりに、次から次に誘爆していくようであった。  爆発の激しさが、女の保身本能を麻痺《まひ》させている。須賀は、自分が火を点じた張本人でありながら、女の燃料の底知れぬ燃焼に、ふと不安を覚えるようになった。  台風の目の中は、外が台風だという意識と警戒があって、初めてその真空が保たれる。それを忘れたときには、束の間の平衡が崩れて、いつ台風に巻き込まれるかわからない。  須賀が、社長室で逢うのは止めようと言いだしたのも、早苗に警戒心がうすれてきたからである。早苗は好きだが、彼女のために、自分の身分を懸けるつもりはない。  組合幹部は社の首脳陣からにらまれているが、同時に絶対に恐持のする位置でもある。平社員で、会社のトップと対等に口をきけるのも、この身分のおかげである。むしろ重役のほうが、おもねりの姿勢をとる。  同期入社の連中が、その前で顔も満足に上げられない大物を相手に、堂々と渡り合えるのは、自分くらいのものだ。  永立薬品の従業員は支店を含めて約二千名、労組の力も強い。会社側も、配転や左遷などの不利益な人事をもって、幹部に圧力をかけることができない。むしろ逆にうるさ型の幹部は、懐柔のための昇進や栄転をさせることが多い。  普通の社員が、上役の顔色をうかがいながら、一歩一歩、気の遠くなるような職制の階段を登っていくのを横目に、組合幹部は言いたい放題を言いながら、能率的な跳躍をするのである。  この身分を大切にしなければならないとおもった。万一、早苗との仲がバレたときは、組合は、社長の妻と通じての情報|蒐集《しゆうしゆう》工作とは、釈《と》ってくれないだろう。それに最近は、あまり上質の情報も入らなくなっていた。早苗の扱う社長の郵便物は、毒にも薬にもならないものばかりになった。  このことも、須賀の不安を煽《あお》るのである。杉田がすでに彼らの関係を察知しているような気がする。なにもかも承知の上で、若い妻を盗んだ組合書記長を最も残酷に料理する機会をじっとうかがっているのではないか?  早苗は、須賀の不安を歯牙《しが》にもかけなかった。今日も、須賀の顔を見るなり、女のほうから剥《は》ぎにかかった。 「私の躰って、熱いでしょ。補給の切れた証拠なのよ」  と挑まれて、須賀もたまっていた一週間分の欲望を沸騰させた。欲望が沸《わ》きたって、いつも不安を消してしまう。不安がよみがえるのは、体の火を鎮められてからである。  だがそうなってからも早苗は、余韻に陶酔して、警戒心を取り戻さないのだ。 「ぼくはそろそろ行かなきゃ」  須賀は醒《さ》めた顔で言うと、 「あら、もう行くの。一週間ぶりに逢《あ》えたというのに、あなたはいつも忙《せわ》しないのね」  と男にもみしだかれたばかりの桜色の裸身を、彼の視野の中にしごく寛大に展《ひら》いたまま鼻をならした。 「ぼくだっていっしょにいたいのは、やまやまだけど、その時間が長引くのは、あらゆる意味で危険だよ」 「しかたないわね。私たちの仲を知られて、逢えなくなるといけないもの」  早苗はやっとあきらめた表情になった。 「きみも早く身支度したほうがいいよ。日曜日だからといって、油断はできない」  須賀は、早苗の裸身に眩《まぶ》しそうな視線を向けて、ひかえめに注意した。 「それじゃあ、また今度の日曜日に来てね。きっと来てよ。来なければ、殺しちゃうから」  早苗は、まだ余韻が奥で鈴のようになっている身体を重そうに起こしながら、去って行く男に言った。  社長室の隣りは秘書室になっている。さらにその前衛に訪問者などの待ち合い用に利用される控え室がある。秘書室と、控え室は、廊下に面しているが、社長室は、秘書室の背後になっているために、これらのどちらかの部屋を通らないと、廊下に出られない。  須賀は、社長室の出入りは、控え室からするようにしている。ここを通ると、社長室にツークッション置いているので、そこへ直接出入りするように見えない。特に控え室には、役員用の特殊な文献が置いてあるので、社長以外の役員も出入りする。  組合幹部の近寄る場所ではないが、それでも社長室にいるところを見咎められるのよりは、救いがある。  その控え室を通って出て行ったとおもっていた須賀が、蒼白《そうはく》になって、戻って来た。 「いったいどうしたのよ?」  驚いて問いかける早苗に、 「控え室に、課長がいたんだ、どうしよう」  その声が、震えている。 「落ち着きなさいよ。課長って、だれのことなの?」 「平松課長だ。うちの課長だよ」 「その平松課長が、控え室で何をしていたのよ?」さすがに早苗も表情をひきしめた。 「なにか調べ物をしていたらしいんだ」 「それで見られたの?」 「多分見られなかったとおもうけど、開けかけたドアを慌てて閉めたとき、こっちを向いたから、もしかすると」 「だったら、こちらへ逃げて来たら、まずいじゃない」 「急なことで、動転しちまったんだ」 「すぐにここから出なければ。いまこの部屋に私がいるということは、守衛が知ってるのよ。困るわ、困るのよ」  早苗は大急ぎで身づくろいをした。余韻は完全に消えて、防衛本能を剥《む》き出しにした女の顔が、そこにあった。恋にのめって、保身を忘れていたように見えたが、社長夫人の居心地のよい座に対する執着は生きていたのだ。  ほんの少し前まで、女の羞恥をかなぐり捨てて、淫《みだ》らな肉の共食に耽《ふけ》ったパートナーを、今度は自分の身を護《まも》るために、振り捨てようとしている。  須賀は、そこに女の正体を見たとおもった。だが、彼女のそばから離れることは、須賀の防衛のためにも必要であった。 「早く。秘書室から出るのよ。ここにいてはまずいわ。あなたがここにいるところさえ見られなければ、あとはどうにでも言い逃れられるわよ」  早苗に急《せ》きたてられて、須賀はそっと隣室の気配をうかがった。平松は、まだ控え室にいるかどうかわからない。だが秘書室には、だれの姿もなかった。  あの仕事の虫の平松は、秘書室の気配をさして怪しみもせず、また自分の仕事に没頭したにちがいない——と自分に都合のいいように解釈した須賀は、秘書室から廊下へ滑り出た。廊下に人影はなかった。とりあえず、最大の危地は脱したのである。  だが、危地を脱したとおもったのは、早計であった。須賀がアパートへ帰り着くのを待ちかまえていたように、早苗から電話がかかってきた。 「須賀さん、大変よ!」  訴えた声がうわずっている。 「どうしたんだ!」 「室内間通話装置《コールホーン》のスイッチが入っていたのよ」 「なんだって!?」  須賀の顔色が変った。社長室と秘書室との間には、「コールホーン」と呼ばれる特定の部屋と部屋の間の通話装置が設備されてあって、社長室の通話スイッチをオンにすると、そこでの話し声がそのまま、秘書室に通じる仕掛けになっている。  どうしたはずみか、そのスイッチがついていたという。彼らの情事の�音�が、すべて、秘書室に筒抜けになっていたのだ。 「しかし、控え室にはコールホーンは通じていないはずだろう」  須賀は、動転から辛うじて立ち直った。 「なに言ってんのよ。控え室と秘書室の間は、フリーパスよ。平松はこっそり秘書室へ忍びこんで来ていて、全部、聴いてしまったかもしれないわ」  絶望の中に、ようやく探し当てたとおもった一筋の活路は、無惨に閉塞《へいそく》された。もっと大きな絶望が、もがき苦しむ自分を、しっかりと踏まえていた。 「ねえ、どうしよう。どうしたらいいの? あれを聴かれてしまったら、私たちおしまいよ」  早苗はおろおろ声になっていた。もう完全に動転している様子である。どうすべきかと問われても、須賀には答えられない。彼自身が奈落《ならく》に向かってまっさかさまに落ちていく自分の音を聞いているのだ。  平松は秘書室に入って来たかもしれないし、入って来なかったかもしれない。だが入って来た可能性は、十分にある。そしてその可能性があるかぎり、自分たちは釣天井《つりてんじよう》の下で生活をしているようなものだ。 「とにかく、少し平松の様子を見てみよう。まだ必ずしも、彼に盗み聴かれたとは、限らないんだから」  とりあえずそう言って、早苗をなだめるしかなかった。  その後平松は、なんの動きも見せない。あいも変らず、異常な熱心さで、仕事に取り組んでいる。仕事中毒だから、少し休養するようにと会社側から勧告を受けたらしい。早苗と須賀の関係は、だれにも知られた様子がない。  だが、平松の須賀を見る目は、須賀に弱味があるせいか、なにかを含んでいるように見えた。  須賀よりも先に、早苗のほうがまいってきた。 「わたし、もうだめよ。こんなおびえた生活にはとても耐えられないわ。西洋の歴史の中にあったでしょ。頭の上に馬の毛で剣を吊《つ》るされたダモクレスの話、剣がいつ落ちて来るかわからない。気が狂いそうだわ。ねえ、なんとかして。なんとかしてよう!」  早苗は半狂乱で訴えてきた。須賀は、平松よりも早苗に対して、身の危険を感じ取った。 「なんとかしなければならない」  彼は切実におもった。      4  平松武郎が大阪のホテルで死体となって発見されたのは、それから一週間後である。午前七時のモーニング・コールを受けていたホテルのフロント係は、ボーイを部屋へやった。  各客室には、目覚し時計が備えつけられてあったが、たまたま平松の部屋の目覚しが故障していたために、特別に電話で起こすことになっていた。モーニング・コールを頼まれていながら忘れて、莫大《ばくだい》な損害賠償を取られた前例がある。  特にビジネスホテルでは、この種の依頼には神経質で、客が目を覚ましたのを確かめるまでは、しつこく起こす。  ボーイは平松の部屋を何度もノックしたが、応答がないので、ステーションからフロアのキャプテンを呼んで、マスターキーで部屋を開けてもらった。  ドアが開くと同時に、彼らは入口に立ちすくんだ。客が床のカーペットの上に、いかにももがき苦しんだといった形のまま、横たわっていたからである。ちょうど顔が入口の方を向いていた。口角から血の泡を吹きだしている。彼らは、一目見ただけで動転して逃げ出した。  連絡を受けたフロント課長と客室課長が、客の死んでいるのを確かめて、警察を呼んだ。所轄の天満署《てんましよ》から係官が駆けつけて来た。  死体はなにかの薬物中毒の症状らしく、赤味がかった死斑《しはん》を呈している。苦悶《くもん》しながらベッドから転がり落ち、床を転々ともがきのたうっている間に息絶えたといった状況である。第一所見では死後精々、数時間とみられた。枕元《まくらもと》のナイトデスクの上に市販の睡眠薬のびんが置かれて、三分の二ほど内容物が残っていた。死者の持物から、身許《みもと》が判明した。  すなわち、東京都杉並区|上井草《かみいぐさ》二丁目十×、平松武郎、職業は中央区日本橋の永立薬品の経理課長で、ホテルのレジスター・カードとも一致していた。  平松は、一昨日二泊の予約でホテルにチェックインして、今朝、出発の予定であった。彼の勤め先の永立薬品は、大衆保健薬の大手メーカーで、全国に強い販売網をもっている。死体の枕元にあった精神安定剤『ドルミン』も、同社の製品である。毒物侵入の媒体としては、これがいちばん怪しい。  室内に物色|痕跡《こんせき》はなく、だれかが侵入した様子もない。なにかの毒物|嚥下《えんか》(死斑の状況から青酸化合物の疑いが強い)による変死なので、検視の一行は、自他殺両面の構えで観察にあたった。  係官の一人が、ホテル側の人間から死体発見までのいきさつを聞いて、首を傾《かし》げた。 「自殺する人間が、モーニング・コールを頼むやろか?」 「自分の死体を早く見つけてもらいたかったんとちゃうか」 「けどなあ、朝の七時やで、ちょうど働き虫の起き出す時間や、どうせ死ぬんなら、そんなに早う、起きんかていいやないか」 「早う起きようと、朝寝坊[#「朝寝坊」に傍点]しようと、死んだやつの勝手や」  仲間に軽くいなされた形で、彼は黙ったが、なにか釈然としない表情である。ホテルに聞くと、その前日も七時にモーニング・コールを頼んだそうである。  午前七時という時間は、平松にとって習慣的な起床時間だったのであろう。自殺をした後まで、いつもの起床時間に自分の死体を発見させることはないだろう。サラリーマンとは、そんなにも規則的な人種なのか?  大塚という、その中年の所轄署刑事は、じっと宙に目を凝らした。昨夜当直で、起きぬけに管轄区域のホテルから変死体発見の急報をうけて、駆けつけてきたのである。 「おや、耳になにか詰めてるぞ」  死体を観察していた鑑識係が、声を出した。いちおう他殺を考慮して、鑑識も連れて来ている。 「なんや、耳栓やな」  べつの一人が覗《のぞ》きこんだ。注意して取り出してみると、安眠用の耳栓だった。 「自殺しようとする人間が、安眠用の耳栓をするかな?」 「薬が効いてくるまで、雑音を遮断するためやないか?」 「解剖してみんことには、はっきり断定でけへんけど、服《の》みおったんは、どうやら青酸やで。青酸やったら、服むと同時に、いかれてまうわ」 「そうやなあ」  一同に急に緊張した気配がみなぎった。 「そやけど、耳栓しとったら、モーニング・コール聞こえへんやろ」  べつの一人が疑問をだした。 「耳栓しとっても、電話のベルなら聞こえるよ。雑音を遮るだけで、すべての音を消しちゃうわけじゃない」  死体は他殺の疑いを強めて、解剖に付されることになった。解剖の結果は、死因は青酸化合物の嚥下《えんか》による中毒、死後経過時間は、六—八時間とされた。  東京の家族と、永立薬品にも連絡が取られて、死者の妻や、会社の人間が駆けつけて来た。彼らから事情を聴いた警察は、ふたたび自殺説の方へ傾いてきた。  遺族や会社の人間の話によると、平松は死ぬ直前に強度の「ワークホリック」とかいうノイローゼの一種になっていた。その治療の意味を含めて、会社から気楽な出張旅行に出されていたというものである。  つまり自殺するための素地はあったのだ。しかし、そうなると、モーニング・コールや、耳栓はどう解釈する。 「奥さん、ご主人は、夜寝るときに耳栓をする習慣がありましたか?」  と聞いたのは、最初、平松のモーニング・コールに疑問をもった大塚刑事である。たしかに平松に自殺の要素はあった。だが大塚はどうもすっきりしない。 「ございました。そのほうがよく眠れると申しまして」  平松の妻の登喜子は、よどみなく答えた。夫婦の間に子供がいないので、平松の家族は、この妻だけである。子供を産んでいないせいか、二十代のように瑞々《みずみず》しくふくよかな感じである。こんな美しい妻をもっていながら、仕事中毒になった平松は、ずいぶんもったいないことをしたものだと、大塚は秘かにおもった。 「もう一つうかがいますが、ご主人は睡眠薬を常用していましたか?」 「睡眠薬ではありませんが、精神安定剤のようなものを、床へ入る前によく服んでおりましたわ。睡眠薬は、習慣になるからいやだと言ってました」 「その精神安定剤の名前を覚えておられますか?」 「べつに注意していなかったものですから」 「しかしご主人は、床へ入られる前によく服んでいたそうじゃないですか」  大塚に追及されて、登喜子は少し慌てた口調で、 「はあ、でも、最近は、主人の帰宅しない日のほうが多かったものですから。それに帰って来るときも、たいてい深夜でしたので」 「先に寝《やす》まれていたのですか」  大塚は、平松夫婦の亀裂《きれつ》をうかがい見たようにおもった。仕事中毒とやらで、妻をかえりみず、仕事にのめりこんでしまった夫。妻は寂しさに耐えている間に、�不感症�になってしまって、夫がいなくとも平気でいられるようになった。  夫よりも早く床へ入り、夫が遅く帰宅しても、おそらく出迎えようとしない妻。夫がどんな薬をのんでいるのかも知らない妻。——妻のそんな態度が、ますます夫の症状を悪化させたのではないか。  ふとおもい当たったことがあった。仕事に夫を奪われた妻が、必ずしも�孤独不感症�になるとはかぎらないのである。夫のいない寂しさを、他のもので埋めることができるのだ。  大塚は改めて、平松登喜子のふくよかな瑞々しさに目を向けた。これが夫から忘れられた孤独不感症の妻であろうか。言葉づかいやものごしの落ち着いているところから判断して、三十代に入っているはずであるが、ちょっと見ただけでは、二十代で通用する若々しさである。  栄養の行き届いた身体、つやつやと張り切った肌、夫を失って精々悲しそうに振舞っているが、隠しきれない豊かな表情。これは決して、夫にかえりみられない欲求不満の妻のものではなかった。  むしろ適度に欲望を充足されている女の、具体的な表現《あらわれ》ではないか。  ここで注意しなければならないことは、平松を死に至らしめた毒物の侵入経路である。最も疑わしい、死者の枕元にあった精神安定剤ドルミンのびんからは、毒物は発見されなかった。  だがドルミンは服みやすくするために、カプセルに入れられており、茶筒のように上下二段に重ね合わされたカプセルは、手軽に取り外すことができる。  したがって、中身の薬をいとも簡単にすり替えられる。薬のすり替えなどせずとも、似た形のカプセルに、毒物を詰めて、ドルミンの中に混ぜておけば、見分けはつかない。そしていつかは確実に平松の体内へ送りこまれる。 〈その毒物を最も混入しやすい位置にいたのが、妻の登喜子だ〉  大塚は、まったくべつの目を、登喜子に向けた。 〈この女の身辺を、洗ってみたほうがいいかもしれんな。どうも胡散《うさん》くさいものがありそうだ〉  彼の疑惑の視線を感じ取ったのか、登喜子は居心地悪そうに、身体をもぞもぞ動かした。  だが、大塚刑事の疑惑は、大勢《たいせい》を傾けるまでにならなかった。モーニング・コールと耳栓の件も、そういう自殺者もいるかもしれないという意見が多数であった。  解剖の結果も第一所見をうらづけたに留《とど》まった。  犯罪に基因すると認められる資料を発見できないまま、平松武郎の死は、いちおう自殺ということにされたのである。  毒物の入手経路についても、死者の勤め先が薬品会社であり、比較的入手しやすかった。この事件によって、永立薬品は劇薬物の管理が杜撰《ずさん》であったことを指摘された。  平松が自殺と断定された後も、大塚は釈然としなかった。彼の嗅覚《きゆうかく》は、しきりに平松の妻、登喜子の身辺に胡散くさいにおいを嗅《か》いでいた。大塚はついに自分の気持を納得させるために、署長に、東京出張を願い出た。 「きみも相当な仕事中毒やな」と署長は笑いながらも、出張を許してくれた。  大塚は勇躍して上京し、精力的に登喜子の身辺を洗った。だがいかに熱心に洗っても、怪しい点は浮かび上がってこなかった。 「よっぽどうまいことやっているんやろな」  大塚はくやしがった。辛抱強く見張っていれば、必ずシッポをつかめるとおもった。だが、自殺として処理された事件を、署長のお情けで調べさせてもらっている者が、いつまでも当てのない張り込みをつづけることはできない。大塚は敗北感に打ちのめされたまま、帰阪せざるを得なかった。大塚は、もし自分も、署長の言ったように、ワークホリックであるなら、この挫折《ざせつ》によって、確実に症状が悪化したとおもった。      5 「主人の遺品を整理していましたら、変なものが出てきたのですけど」  天満署《てんましよ》の大塚刑事が、平松登喜子の東京の自宅からの電話を受けたのは、東京出張から帰った翌々日の朝のことである。 「変なものって、何ですか?」 「それがそのう……テープレコーダーのようなものなんですけど」 「テープレコーダー? それがどうして変なのですか?」  大塚は、胸に走る予感を抑えてたずねた。 「テープレコーダーをなにげなく再生してみますと、凄《すご》いことが録音されてるんです」 「凄いって、どんなことです?」  ためらいの気配が電話口に伝わって、 「そんなこと、口では言えませんわ。お聞きになればわかるとおもうんですけど。とにかく主人はある人たちの情事の場面を録音したらしいんです。そしてそのことをその人たちに悟られた様子なんです」 「その人たちとは、だれですか?」 「声の調子から、いえ録音の内容からはっきりわかりますが、社長の奥さんと、須賀さんという主人の元の部下で、組合の書記長をやっている人です」 「本当ですか!?」  大塚は目を剥《む》いた。事実とすれば、ここに平松の死に関して、重大な容疑者が浮かび上がってきたことになる。  社長夫人と組合幹部の不倫の関係を、平松が知っていた。これは平松を抹殺《まつさつ》するための動機となるかもしれない。 「奥さん、そのことをもうだれかに話しましたか?」  おもわず大塚の声の調子が高くなった。 「いいえ、刑事さんがはじめてです」 「ぼくがこれからすぐにそちらへうかがいます。それまでだれにも話さず、テープをちゃんと保管しておいてください」  平松登喜子に念を押した大塚は、直ちに署長にいまの連絡の内容を伝えた。 「録音の現物を聞いてみんことには、なんとも言えへんが、社長夫人と組合幹部の事情となると、見過しにはでけへんな」  署長はじっと考えこんだが、やがて目を大塚に当てて、 「またきみに、東京まで行ってもらわんならんようやな」 「行かせてもらえますか?」  無駄足《むだあし》をして来たばかりなので、自分の口からは言いだしかねていた大塚は、おもわず身体を乗りだした。 「きみが行かへんで、だれに行ってもらうんやね。ご苦労やが、乗りかかった船や。きみに頼むわ」 「ありがとうございます」  もし署長の許可がもらえなければ、休暇をとって、自弁で行こうとおもっていただけに署長の好意が嬉《うれ》しかった。自殺としてかたづけられたものを、わざわざ他殺に傾けるために積極的になる署長は少ない。他殺にして、犯人を挙げられなければ、たちまち検挙率にひびく。  とにかく署長から、再度の出張許可が下りた。大塚はふたたび、上京した。登喜子から電話を受けたのが、午前の早い時間だったので、大塚は、午後四時少し前には、平松家のもより駅の西武《せいぶ》線|上井草《かみいぐさ》の駅に降り立った。  彼女の家は、先日来たときに知っている。住宅街の中のこぢんまりした平家である。大塚の先入観のせいか、主人を失った家の寂しさがそのたたずまいにまつわっているように見える。  玄関に立って、ブザーを押すと、内部に気配があって、ドアがうすめに開かれた。ドアチェーンをかけたまま、訪問者を観察した内部の人間に、軽い嘆声があがった。 「まあ刑事さん、こんなに早くいらっしゃるとはおもいませんでしたわ」  と急いでチェーンを外して、ドアを開けた登喜子は、大塚の素早い行動に向ける愕《おどろ》きを大げさに現わしていた。  今日は、渋いつむぎの和服を身にまとっている。いかにも夫を失ったばかりの妻が、悲しみに打ちひしがれた心身を、人に悟られまいとして、きりっと身づくろいをしているような衣裳《いしよう》である。目立たぬように、薄い化粧もしている。上品な香水のにおいが、血なまぐさい臭いに麻痺《まひ》した刑事の鼻腔《びこう》をくすぐった。  だが大塚は、そこにかえって胡散《うさん》くさいものを感じた。要するにそれは家庭の主婦の内向きの姿ではない。主婦というものは、もっと世帯のにおいをまとっているものだが、登喜子の身辺は、作為の香水がそれを消している。  大塚の訪問に愕いた様子を見せながらも、それを予測しての構えた姿なのである。それは大塚だけに対するものではなさそうであった。世間全体に対して武装したようなものものしい雰囲気を、彼は登喜子から受け取った。 〈夫を失った妻というものは、もっと無防備に打ちひしがれているのではないだろうか? どうしてこんなに構える必要があるのか?〉  大塚は、先に立って、応接室へ招じ入れてくれた登喜子の後ろ姿に、じっと目を据えた。その背中は、彼の視線を意識してか緊張している。背中全体が目になって、逆に大塚を観察しているようであった。 「遠い所を、こんなに早く有難うございます。ただいますぐにお茶を淹《い》れますわ」  大塚をソファに坐《すわ》らせた登喜子は、ものごし静かに、愛想のよい笑顔を向けた。 「いやおかまいなく。飛行機で来れば、もっと早く来られたのですよ。それより奥さん、そのテープというのを早く聞かせてください」  大塚は短兵急《たんぺいきゆう》に言った。 「はい、それもただいま」  大塚の性急さをいなすようににっこりと笑って、ゆらりと別の部屋へ立った登喜子を見ていると、彼女の衣裳を�武装�と釈《と》った自分が、先入観にゆがめられているような気がしてきた。 〈彼女は構えていたのではなく、女の身だしなみとして、いつもあのように美しく身仕舞《みじまい》をしているのかもしれない。子供もなく、そして夫を失った美しい人妻が、自分を美しく粧《よそお》うことで、悲しみを忘れようとしても、少しもおかしくはない〉  ——あるいは、彼女は、おれのために化粧していたのかもしれないぞ——  大塚は、登喜子から優しい笑みを投げかけられたことで、刑事の職業的カンを、偏《かたよ》った先入観だとおもいかけた。 「おれも相当に甘ちゃんだな」  大塚が苦笑しかけていると、登喜子が茶道具を、両手にささげもち、問題のテープを入れたものとおもわれる男もちのレザーの黒いショルダーバッグを肩に下げて、応接室の中へ入って来た。和服の肩にかけられたショルダーバッグは、どこかユーモラスであった。そこにも先刻の武装は感じられない。 「ごめんなさい。こんな格好で」  登喜子は、茶道具を卓子の上に置くと、ショルダーバッグを肩から外した。 「この中なのですか? 問題のテープは?」 「はい。これは主人がよく通勤用に使っていたものですの」 「開けてもいいですか?」 「どうぞ」  大塚は、ファスナーを引いて、中の品物を取り出した。 「なにかいろいろと入ってますな」  小型の録音機のほかに、小型カメラや、ライター、万年筆、トランジスター・ラジオなどが次々と大塚の手によって卓子の上に並べられた。 「主人が出勤するとき、いつももっていたバッグをなにげなく開けてみたところ、こんなものが入っていたのです。なにげなく録音機の再生ボタンを押しますと、大変なことが録音されていたものですから」 「奥さん!」  バッグの中にあった万年筆を取り上げて、じっと観察していた大塚が、急にこわばった声をだした。 「この万年筆は、ただの万年筆じゃありませんよ」 「ただじゃないとおっしゃいますと?」  急に口調を変えた大塚に、登喜子は訝《いぶか》しそうな視線を当てた。 「これは、万年筆に見せかけた発信機ですよ。つまり、盗聴機です」 「盗聴機ですって!?」  登喜子があえいだように唇を開けた。 「そうです。これを目的の机の上や、引き出しの中に仕掛けて、FMラジオで受信すれば、べつの場所から、発信機のある場所の話を盗聴できます」 「まあ!」 「奥さん、この万年筆やラジオは、本当にこのバッグの中に入っていたのですか?」 「本当ですわ」  登喜子は驚きの表情を鎮めずに答えた。 「このカメラにしても、明らかに一般の撮影用じゃありませんよ。盗み撮りに使われるものです」 「盗み撮りですって!?」 「そうです。つまりかばんの中にあったものは、すべてスパイ用新兵器ばかりなんですよ。それが、どうしてご主人のかばんの中に入っていたのか、奥さんに心当たりはありませんか?」  登喜子には、平松のテープレコーダーを発見したときに、夫に向けたなんらかの疑惑があったはずである。彼がなぜ、社長の妻と労組幹部の情事の場面を、録音したのか?  もともと彼らは、平松にとって、無縁の人間のはずであった。 「そう言われてみれば……」  案の定、登喜子はなにかをおもいだした目をした。 「主人は、ひどい仕事中毒にかかって、休日でも出勤していました。一時は、会社へ泊りこんで仕事をするほどに、異常になりましたので、会社から注意されたのです」 「つまり、仕事中毒を偽装して、会社の機密を盗んでいたというわけですね」 「なくなった主人にそんな疑いをかけたくありませんけど、主人の遺品からこのような品がでてきますと。刑事さん、どうしたらよろしいでしょう?」  登喜子はすがりつくような目を、大塚に向けた。男にとって危険な目だと、大塚は自らを戒めながら、 「とにかく、問題の録音とやらを聞いてみましょう」  と彼は、録音機の再生ボタンの位置を探した。その機械はポケットに入る程度の超小型のカセットレコーダーである。ミニサイズのわりには性能は抜群で、情事の場面が生々しく録《と》れていた。 「なるほどこれは凄《すご》い内容ですな」  いちおう再生を終った大塚は、嘆声を混えて言った。彼の言った「凄い」という意味には、資料価値以外の音そのものの迫力が大いに含まれている。  登喜子にもその意味がわかったとみえる。頬をポーッと紅潮させていた。相手が刑事とは言え、男といっしょに熟《う》れた人妻、いやいまは未亡人が、ピンクテープをはるかに越えるリアルな情事場面の録音を聞いたのである。 「奥さん、それにしても、ご主人が仕事中毒を装って、産業スパイを働いたという考えは、いかにも突飛ですが、ご主人が勤めておられた会社には、そのようなスパイが跳梁《ちようりよう》した形跡があったのですか?」  こんなことを、スパイ容疑の出てきた人間の妻に聞いてもしかたがないとおもったが、大塚は当面の照れ臭い雰囲気を消すために質《たず》ねてみた。いずれそのことは、会社側に問い合わせてみるつもりである。 「たしか主人が亡くなる前に、最近会社が急に機密管理にやかましくなったというようなことを話しておりましたわ」 「これはまことに奥さんには失礼な質問ですが、最近ご主人に社外の人が訪ねて来たり、連絡があったようなことはありませんでしたか?」 「社外の人かどうか知りませんけど、よく私の知らない人から主人に電話がかかってきましたわ」 「そのときの話をほんの切れっ端でも耳にとめたことはありませんか?」 「そうですねえ」  登喜子は一心に記憶をたぐっていたが、 「悪人は難《むずか》しいと言っていたことがありましたわ」 「悪人は難しい?」  それだけでは、どういうことだかわからない。 「これらの品を、当分の間、お借りしたいのですが」  大塚は、登喜子からカセットテープレコーダーはじめ一連のスパイ用具を領置して、平松家を辞した。      6  テープの録音によると、杉田早苗と、須賀博志の関係はかなり以前からのものである。このテープからは、その正確な期間はわからないが、彼らが�再会�してから間もなく関係がはじまった状況である。しかも彼らが、平松にその関係を悟られたことを知ったときの狼狽《ろうばい》の様子まで、テープは手に取るようにとらえていた。  あれを聴かれてしまったら、自分たちはおしまいだ。いったいどうしたらいい? と動転する早苗を、 「とにかくもう少し平松の様子をみよう」  と須賀がなだめているところまで忠実に録《と》っている。 「ところが平松がなにかの行動をおこした。脅迫《きようはく》か恐喝《きようかつ》をしたか、とにかく彼らを追いつめてしまった。逃げ場を失った二人は、保身のために、永久に平松の口を塞《ふさ》いだ」  ということは、十分に考えられる。テープの現物を聞いた大塚の、早苗と須賀に向ける疑惑はいちだんと濃いものになった。 「まず二人を当たる前に、杉田社長に会ってみよう」  平松家を後にした大塚は、駅前の公衆電話から杉田に電話をした。さいわい彼は社にいた。大塚が平松の件で、新しい事実が現われたので、二人だけで会いたい旨を告げると、ちょっと考える気配があってから、 「よろしいでしょう。今夜は一つ宴席がありますが、なんとか都合をつけましょう。ええと、社でお待ちしていましょうか、そこからだったら、三十分くらいで来られますかな」  と快く応じてくれた。  杉田には、先日出張して来たときに会ったばかりである。だが彼も「新しい事実」に興味を覚えたらしく、今夜の予定を変えて、大塚のために時間を割いた。 「新しい事実とは、何ですか?」  約束どおり、三十分ほどして、永立薬品に姿を見せた大塚を迎えて、杉田は待ちかねていたように聞いた。  彼にとっても、平松のことは、気がかりらしい。先日、大塚が来たとき、 「平松を自分が殺したような気がしてならない」と言っていた。 「ワークホリックと医者から診断されたので、私としては、彼をゆっくり休養させるために名目だけの出張旅行に出したのです。それが彼にはこたえたのではないでしょうか。現場からはずされたという疎外感が、彼を自殺に駆り立てたのだとすれば、私が死なせたようなものです」  と、がっくりと肩を落とした彼には、忠実な部下を失った経営者の苦悩がにじみ出ていた。  そんな杉田だから、大塚の申し出に、先約を取り消して会ってくれたのであろう。 「その前にこちらからちょっとうかがいたいのですが、最近、あなたの会社で、機密を盗まれたようなことはありませんか?」  ハッと動いた杉田の顔色に十分の反応が見られた。 「やっぱりなにかあったのですね?」 「あなたは、どうしてそれを?」 「それよりも、どんなことがありましたか?」 「この半年ほどの間に、わが社の新薬開発の研究資料がどうも外部へ流れているようなのです。つい二か月ほど前にも、今度大々的に売り出すことになっていた『ハクミン』という新強壮薬の販売計画書が盗まれて販売中止を余儀なくされたばかりです」 「いまアクニンと言われましたか?」  大塚の面が緊迫した。 「ハクミンです。それが何か?」 「申し上げましょう。平松さんは、どうも産業スパイを働いていた節が見えるのです」 「平松君が産業スパイ? はは、彼にかぎってそんな馬鹿な。なにかのまちがいでしょう。彼はわが社でいちばん忠実な社員でしたよ」  杉田は頭から信じようとしなかった。 「お信じになるならないはご自由ですが、実は彼のかばんの中からこういう品が出てきたのです」  大塚は登喜子から領置してきたスパイ道具一式を、杉田の目の前に並べた。 「何ですか? これは」 「これが盗聴機です。万年筆に仕掛けた発信機のとらえた音を、FMラジオで盗聴するのですな。盗み撮り用カメラ、録音機など一通りそろっています」 「まさか……」  具体的な物証を目の前に並べたてられても杉田は半信半疑のおももちである。 「平松の奥さんが、亭主の死ぬ少し前に声に聞き覚えのない人間から電話がかかってきて、平松が『悪人は難しい』と言った言葉のはしを聞きとめています。これは『ハクミンは難しい』の聞きちがえじゃないでしょうか。相手は、平松にハクミンに関する資料を盗めと指示してきた。それに対して平松は、ハクミンは難しいと答えたのが、女房の耳に『悪人』と聞こえたのでしょう」 「とても信じられない」 「これをお聞きください」  大塚は、切り札ともいうべき録音機の再生ボタンを押した。これほどの信頼を寄せていた部下から裏切られた証拠をしめすのは、残酷であるが、やむを得なかった。  録音の再生を聞いているうちに、杉田の顔色が変ってきた。 「こ、これは……」 「最後までお聞きください」  ようやくテープが終ったとき、杉田の額にはびっしりと脂汗が浮いていた。 「いかがです?」  大塚は残酷な確認をした。 「早苗と須賀が……いったいどういうことなんだ。こんなひどいことが……」 「このテープを録《と》ったのが、平松なんですよ。おそらくこれは怪我《けが》の功名《こうみよう》で録ったものだとおもいます。これを録ったとき、平松は、社長室の近くに発信機を仕掛けるために来たのでしょう。ところが社長室には鍵《かぎ》がかかっていて入れない。やむを得ず、秘書室に仕掛ける場所を物色しているうちに、どうしたわけか、社長室のコールホーンスイッチがオンになっていて、そこから人間の気配が伝わってくる。ただの気配ではない、男女が忍び逢《あ》っている気配だ。こともあろうに社長室でとびっくりした平松は、やがて話し声からその男女が、奥さんと、須賀であることを知った。  この情事は、平松の狙《ねら》っていたものではなかった。だが後日、恐喝のタネになるとでもおもったのか、録音をした。ところがその途中で、二人に気づかれてしまった。その段階では、彼らは平松が二人の情事を盗み聴こうとおもえば聴ける位置にいたことを悟っただけで、録音されたことまでは、知らなかった。平松が殺されたのは、その録音をタネに、何らかの働きかけを二人にしたからだとおもいます」  このとき大塚は、はっきりと平松の死が他殺であることを示唆《しさ》した。 「平松は殺されたというのですか?」  杉田は驚愕《きようがく》のダブルパンチを食った顔になった。妻と組合幹部の密通した証拠を突きつけられて、いいかげん動転しているところに、今度は、その二人が殺人犯人であることをほのめかされたのである。これだけの資料と状況を積み重ねたうえで、平松が他殺だということになれば、犯人として早苗と須賀がはっきり指ししめされたのも同じであった。 「青酸カリは、社員ならば、あなたの会社で比較的簡単に手に入れられましたね」 「劇薬の管理方法については改善いたしました」 「平松が死んだ当時は、管理に杜撰《ずさん》な点がありましたね?」  大塚に追及されて、杉田はしぶしぶうなずいた。 「須賀も、手に入れようとおもえば、手に入れられる位置にいたんでしょう?」 「須賀がやったというんですか?」 「他にだれが考えられます?」 「…………」 「お気の毒ですが、奥さんも調べさせていただきますよ」 「平松を動かした産業スパイは、だれなんでしょう?」  杉田は、ショックを他の質問をすることによって、多少とも緩衝《かんしよう》しようとしているかのように聞いた。 「さあ、それはわれわれにはあまり興味のないことですな。興味のないわけではない。スパイ工作のもつれも、十分殺しの動機になりますからね。だがいまは、須賀と奥さんが最も黒い。なにはともあれ、この二人を当たってみたいですな。スパイの番は、二人の容疑が晴れた後になるでしょう。もしそれまで待ちきれないなら、あなたのほうで心当たりを独自に調べてみられたらいかがですか」      7  警視庁の協力を得て、杉田早苗と須賀博志は任意で警視庁へ呼ばれた。大塚のつかんだ資料は、かなり有力な動機の存在を物語っていたが、彼らが犯行を犯したというきめ手に欠けていた。そのために逮捕状が発付されるまでに至らなかったのである。  だが警察へ呼ばれたことで相当にまいっていた二人は、捜査官の厳しい取調べにあって、たちまちに崩れてしまった。  もともと彼らの犯行の動機は、大塚が推測したとおり、不倫の関係を知られた平松の口を塞《ふさ》ぐことにあった。  したがって平松によって録音されたテープ(その存在を二人は知らなかった)が、警察の手中に納められた段階で、彼らの犯行の意味はなくなったのである。  すでに彼らの関係は、公けにされてしまった。早苗は社長夫人の座を失い、須賀は組合員から裏切者の烙印《らくいん》を捺《お》された。  この事実が彼らを打ちのめし、取調べにほとんど無抵抗で屈服させたのである。須賀の自供は、次のようなものであった。 「最初は平松を殺すつもりはありませんでした。しかし日を経るうちに彼は、私に奇妙な笑いを見せるようになりました。なにも言いませんでしたが、みんな知っているぞと言わんばかりの、底に含んだいやな笑いでした。それでも私は、彼がはっきりと恐喝の牙《きば》を剥きだすまでは、こちらから手出しをするつもりはありませんでした。  そのうちに早苗が耐えられなくなったのです。平松をなんとか始末してくれないと、自分の気が狂いそうだと言うのです。私はむしろ彼女のほうに恐怖を覚えました。彼女はこのままいったら、本当に狂ってしまうかもしれない。狂ってべらべら私たちの関係をしゃべりまくられたら、たがいの身の破滅だ。こうして私は、ついに平松を殺す決心をしたのです。毒物は、研究室の劇薬棚《げきやくだな》から盗み出しました。  平松は以前からドルミンを常用していました。会社にいる間は、デスクの引き出しに無造作に入れてあるので、簡単にすり替えられます。毒物と入れ替えたカプセルを一つだけ入れたドルミンを、平松の使いかけのドルミンのびんとすり替えておきました。  あらかじめ、平松の消費したカプセル分と同じくらい減らしていたうえに、毒物とカプセル内のドルミンの薬粒は、同じ色をしていたので、外観からは、まったく見分けがつきません。  彼がいつ毒入りカプセルを服《の》むかわかりませんが、いつかは服むことは確かでした。なるべくびんの上の方に毒入りを入れておきましたから、それほど先のことではないとおもいました。  それを服んで死んでも、もともと平松はワークホリックで、異常になっていましたから、自殺したとおもわれるでしょう。そしてまさにそのようになったのです。あんな録音さえなければ、彼はずーっと自殺でいてくれたはずです。盗み聴かれたというおそれはもっていましたが、まさか録音されたとは知りませんでした」      8  ちょうど須賀が自供を終ったころである。上井草《かみいぐさ》駅前にある本屋の店員は、平松登喜子の家に、本の配達に寄った。登喜子は、ある家庭雑誌を定期購読している。  玄関に立ってブザーを押したが、家の内部に、人の気配がおこらない。 「留守かな?」と、小首を傾《かし》げた店員は、ドアにちょっと手をかけた。鍵《かぎ》はかかっていない。 「留守だとすれば、無用心だな」  と彼はおもった。最近この近くで頻々《ひんぴん》と空巣狙《あきすねら》いの被害が生じている折りでもある。 「奥さん、平松さんの奥さん」  店員はうす目に開けたドアの隙間《すきま》から中へ向かって叫んだ。本だけ置いていってもいいのだが、後で集金に来るのが面倒だ。できることなら、現品と引き換えに金をもらいたかった。 「しようがねえなあ」舌打ちしてドアを閉めようとした彼の手が、途中で硬直した。彼の視線が奥の間の一点に膠着《こうちやく》している。玄関からすかし見える奥の部屋に女の頭が少し覗《のぞ》いていた。その形からうつぶせに横たわっているようである。  店員は、頭の下にある、視野から隠された身体の様子を想像した。まだ寝る時間ではない。しかしこれだけ呼んでも起きてこないとは!  店員はテレビの影響で、想像力が発達していた。彼はいったんドアを閉めて、表へ出た。近所の家を何軒かまわり、 「平松さんの奥さんの様子が、少しおかしいので、いっしょに見てください」と頼んだ。  今度は何人かでかたまって、平松家の中に入った。店員の想像は当たった。平松登喜子は、すでに死んでいたのである。住人たちから連絡をうけたもよりの派出所では、本署に報告すると同時に、現場保存のために、平松家へ駆けつけて来た。  検死の結果、青酸化合物による中毒死と判定された。解剖の結果を見るまでもなく、死体には顕著な青酸中毒の徴候が現われていた。  死体には情交の痕跡《こんせき》もなく、室内は物色された様子もない。死体の枕元《まくらもと》に内容を三分の二ほど消費した精神安定剤ドルミンのびんが転がっていた。  警察では、登喜子が夫の後を追って、同じ方法で自殺をしたものとみた。  出張を延長して、須賀と早苗の取調べに当たっていた大塚も、登喜子が死んだという報に接して、現場へ駆けつけてきた。確かにあらゆる状況が自殺をしめしていた。  大塚は死体のそばに転がっていたドルミンのびんをじっと観《み》た。それは、平松の死体のそばにあったものと形状も、内容の消費量も同じように見えた。  大量に市販されている薬だから、同じものがあるのは、当然である。夫婦で同じ薬を常用するということもあるだろう。まして平松は、その薬の製造元に勤めていたのだ。  だが、大塚は、消費量も同じくらいなのにひっかかった。消費量が同じというのは、おかしい。ここに何かあるのではないか?  いままでなにげなく見過してきたものが、霧の中で次第になにかの形をとりつつあった。彼はハッとなにかにおもい当たった顔をした。電話機のある場所を探すと、 「この電話機に録音機を仕掛けられませんか」  と所轄署の係官に聞いた。 「録音? できないことはありませんが、どうしてです?」  所轄署の係官は訝《いぶか》しげな顔をした。彼は大塚が、この家の主だった平松登喜子の夫の死因に疑惑を抱いて、大阪から出張して来ているのを、本庁から知らされている。 「ちょっと実験したいことがありましてね。うまくかかるかどうかわかりませんが」  所轄署員の協力で、直ちに平松家の電話に録音装置が取り付けられた。それを確かめたうえで、大塚は一つのナンバーをダイヤルした。交換を経て、間もなく杉田泰男の声が答えた。  大塚は、須賀博志の自供の内容をゆっくりと杉田に伝えた。 「須賀が、毒物と入れ替えたドルミンを、平松の引き出しの中に入れておいたと言ったのですか!?」  と聞き重ねてきた杉田の声には、まったく余裕がなかった。 「そうです、残念ながら、奥さんも共犯を逃れられませんな」  終止符を打つようにピシリと言って送受器を置いた大塚は、 「これで杉田がすぐにこちらへ電話をかけてくれば、平松登喜子との間に何かあった証拠です。うまくすれば、おもしろいことをもらすかもしれない。呼出しベルが鳴ったら、黙って送話器を取り上げて、テープをスタートさせてください」  大塚の言葉に、一同は黙ってうなずいた。なにかがはじまろうとしている予感が、みなの胸を重苦しく満たしていた。  大塚から電話を受けた杉田は、すぐに一つの番号をダイヤルした。ダイヤル盤を回す指先が焦っている。コールベルが何度か鳴って、ようやく先方が出た。そこには、電話をかけた相手一人しか住んでいない。杉田は堰《せき》を切ったように話しはじめた。 「もしもし登喜子か、杉田だ。あの薬を絶対に服んではいけないぞ。おまえがすり替えた平松のドルミンだ。あれはすでに須賀や早苗が毒入りのものとすり替えたものかもしれない。うっかりそれを服んだら大変だ……」  ここまで一息にしゃべってから、電話線の向うの異様な気配に気づいた。どうもいつもの相手と様子がちがうのだ。  しまったと唇をかんだときは、もう遅い。いままで黙していた先方が話しはじめた。その声に聞き覚えがある。 「杉田さんですね。天満署《てんましよ》の大塚です。すり替えたドルミンとは、どういうことですか? あなたはどうして平松登喜子さんにそんなことを言ってきたのですか?」  杉田は、その声に自分が致命的なミスを犯したのを悟った。 「平松登喜子さんの様子がおかしいと連絡を受けたので、駆けつけてみますと、なにか毒物を服んで、すでに絶命されております。たぶん青酸でしょう。枕元にドルミンが転がっていますが、いまあなたが口走った言葉によると、これは登喜子さんが平松のドルミンとすり替えたもののようですね。いったいどういうことなのですか?」  大塚の口調がだんだん鋭くなってきた。その声を杉田は、平松登喜子と巧妙に構築したつもりの完全犯罪が崩れ落ちる音として聞いていた。      9  杉田泰男は次のように自供した。 「早苗と須賀が通じていたことに気がついたのは、半年ぐらい前からでした。私は彼らの不倫の関係を知りながら、あえて黙認していました。それは私自身にも登喜子という愛《いと》しい女ができていたからです。しかし平松には登喜子と離婚する意志はありません。といってきわめつけの堅物《かたぶつ》の彼には、離婚原因となるべき不貞の事実もなく、最近かかったワークホリックとかいう病気も、婚姻を継続し難い重大な事由とは認められませんでした。  私たちはやむを得ず、平松の目を盗んで逢《あ》っておりました。早苗と別れるのは、なんの造作もありませんでしたが、当分の間、登喜子といっしょになれる見込みもなかったので、労働争議の際に、一つの攻撃材料として使うつもりで見逃しておりました。彼らの情事の場面の録音をとったのも、私です。もちろん後日、須賀をたたく証拠にするためです。  一方、私は時価一億円ほどの社有地を不当に安い値段で、架空の第三者へ売り渡したように偽装して、自分のものにしてしまいました。社長などと言ったところで、その権限の振えるのは、現役の間だけです。辞《や》めた後は、�ただの人間�です。しかしいったん社長として膨脹《ぼうちよう》させた生活を縮小することは、なかなかできません。私はこうして、自分が社長の間に、それを辞めた後の長い余生のための栄養を蓄えておこうとしたのです。  一億円とまとまれば、大きいのですが、一人一人の株主に分散してしまえば、大したことはありません。私の社長としての功績に対する一億円の�特別賞与�は、むしろ当然であるとおもいました。ところがこれを当然とおもわない人間が現われたのです。それが平松でした。  彼はもちまえの仕事熱心から、私の職権乱用による不正を見つけました。彼は元どおり会社の所有に帰せば、表沙汰《おもてざた》にしないと、私におこがましくも諌言《かんげん》したのです。彼は仕事に熱心なあまり、家庭を疎《おろそ》かにして、まだ私に妻を盗《と》られたことを知りませんでした。  それに気がついたならば、平松は今度こそ容赦なく、私の不正を公けにするでしょう。そのため私は、登喜子との関係を極秘のうちに続けたのです。須賀と早苗が情事を平松に悟られたと早合点したのは、ちょうどそんなときでした。平松自身はなにも言わなかったので、はっきりしたことはわかりませんが、彼は、早苗らの情事については、なにも知らなかったとおもいます。  平松はあのとき控え室にいて、秘書室には入らなかった様子です。彼が秘書室に行っていれば、二人のデートを見越して仕掛けておいたテープに録られたはずですが、テープには、そんな気配は留められておりませんでした。控え室にいるかぎり、社長室からのコールホーンの音は、届かないのです。だが彼らはてっきり平松に盗み聴かれたと早合点しました。  私はこれを利用して、平松の口を塞ごうとおもいつきました。平松が消えてくれれば、登喜子も私のものになり、一石二鳥です。彼が死んだ後、このテープを平松の遺品の中に入れておけば、須賀博志と早苗に疑いが向きます。私は、平松が前からノイローゼ気味で、ドルミンを常用していることを知っていました。その中の一つのカプセルに毒を詰めて、登喜子に彼のドルミンのびんとすり替えさせておいたのです。ところが、それがすでに須賀によってすり替えられた毒物入りだったとは、知りませんでした。  私は、須賀博志と早苗を容疑者に仕立てるつもりだったのです。まさか彼らが私が造り上げた動機によって、本当に平松に対して殺意を抱き、それを実行に移そうとは、おもいませんでした。  登喜子とは、ほとぼりが冷めてから結婚するつもりでした。彼女は、いかに愛する私のためとは言え、夫殺しを手伝い、しかも、犯行を晦《くら》ますために、夫を産業スパイに仕立てた——私が用意したスパイ用具一式を、彼女が平松のバッグの中に入れたのですが——その罪の意識で眠れなくなり、いつしか睡眠薬を常用するようになりました。  私は睡眠薬は習慣性になるから、ドルミンがいいと勧めますと、すり替えた平松のドルミンがあると笑っていましたが、まさかそれを服《の》むとは、そしてまさかその中の一粒の毒入りカプセルを服もうとは。�天の配剤�とはこのようなことを言うのでしょうか。  私は、大塚刑事から、須賀と早苗が自供したという連絡を聞いたときに、いやな予感を覚えました。登喜子がすり替えた平松のドルミンは、すでに須賀によって毒を仕掛けられたものだったかもしれない。彼女はそれをどこへやったか? 捨ててくれればよいが、まさかあれを服みはすまい。どうか服まないでいてくれ。その切なる願いが、私から、電話口に出た相手を確かめる余裕を奪ったのです。  平松武郎を殺したのは、まぎれもなくこの私です。彼が服んだのは、須賀が仕掛けた毒ではなく、私が仕込んだものです」      10 「大変な大手柄やったな」  帰署した大塚を迎えて、署長はその労をねぎらった。彼も部下の手柄で鼻が高い。 「私の手柄ではありませんよ。杉田が動転して、登喜子に電話してこなければ、彼の犯行は、須賀と早苗の背後に永久に隠れてしまうところでした。私は、杉田と登喜子の関係を証明できればとおもって、あんな罠《わな》を張ったのですが、杉田がこちらの期待以上にああも見事に罠にはまってくれるとはおもいませんでした」 「杉田が黙秘を通せば、登喜子は夫の後追い自殺にされるところやったな」 「それにしても後味《あとあじ》の悪い事件です」 「同じ手口で、同一の被害者を、それぞれべつの加害者が狙ったというんは、特異なケースやな」 「第二加害者の凶器が、被害者を殺し、第一加害者の凶器が、第二加害者の共犯を殺したというのは、皮肉です」 「そやけど平松武郎は産業スパイではなかったんか?」 「平松の殺される前に、永立薬品から機密が漏れた事実はありました。しかしそれは平松にはまったく関係なかったようです。杉田がそれを利用して、平松に産業スパイのぬれ衣を着せようとしたのです」 「登喜子が聞いたという『悪人は難しい』とかいう言葉は、芝居やったんか?」 「登喜子が杉田に言い含められたとおりに言ったそうです」 「平松の仕事中毒は、本物やったんやな」 「本物でした。医者に聞いたところ、仕事中毒患者の大きな特徴は、企業に対する極端な忠誠心だということです。時には、自分の両親や、恋人のように会社を愛している人間もいるそうです。自分が所属する組織なり、職場なりへの極端な執着が、彼の仕事中毒をますます深める。職場と完全に一体となりたいという願望が高じて、恋人と一分一秒たりとも引き離されてはいられない恋に狂った若者のように、職場から離れられなくなる。平松には、まさにこの症状が現われていました。  この忠義な社員を、杉田は産業スパイに仕立てたのです。社長が実は獅子身中《しししんちゆう》の虫で、仕事中毒症で現場からはずされた社員が、無類の、ああ忠臣サラリーマンだったわけです」 「最後にもう一つ聞きたい。きみは、杉田と登喜子が共犯やったことを、罠にかける前にどうして見破ったんや?」 「杉田に二回目に会ったとき、登喜子の家を出た直後に[#「登喜子の家を出た直後に」に傍点]電話して、彼の都合を聞きました。そのとき彼は、そこから[#「そこから」に傍点]なら三十分ぐらいで来られるだろうと言ったのです。私は、自分がどこにいるかまだ話してませんでした。それなのに、杉田はそれを知っていた、ということは、私が登喜子の家を去ると同時に彼女が杉田に連絡した証拠ですよ。刑事はいま帰った。これからきっとあなたの所へ行く、と」 「なるほど、そやけど登喜子がだれに連絡しようと、それだけでは彼らが共犯ということにはならへんやろ」 「平松が真性のワークホリックであったことは、医者によって証明されております。すると、愛社精神の権化のような彼が、産業スパイにはなり得ません。それにもかかわらず、彼のバッグからスパイ道具が出てきたとなれば、それを入れたのは、とりあえず妻の登喜子以外には考えられません。それは女一人の知恵ではできないことです。必ず背後で彼女を操っている人間がいるはずです。彼は警察の動きに最も注意を払っている……」 「なるほどね。いや本当にご苦労やった。きみも少し休むんやね。さもないと、仕事中毒症として強制的にはずしてまうで」  署長はねぎらいの笑みを、おそらく平松以上に職務に忠実な部下に向けた。 本書は一九七八年七月、小社より刊行されました。 角川ホラー文庫『魔少年』平成8年8月10日初版発行             平成11年10月20日5版発行