[#表紙(表紙.jpg)] 花刑 森村誠一 目 次  完全犯罪の鏡像  凶隣の巣  死媒祭  花 刑 [#改ページ]  完全犯罪《かんぜんはんざい》の鏡像《きようぞう》      1  和多田《わただ》新一は、我ながらよく通《かよ》ったものだとおもった。同じ会社に勤めて三十五年、つい先日会社から精勤賞を受けたばかりである。  ある二流私大を三十五年前に卒業していまの会社に入り、転職することもなくよくつづいたものだとつくづく感心する。単に同一の社に勤めたというだけではない。その間一度も引っ越しをすることもなく、同じ家から通いつづけたのも稀有《けう》のケースである。  神奈川県I市にある彼の住居は親からもらった古色|蒼然《そうぜん》たる家である。家の中で傘をさすほど雨漏《あまも》りし、隙間《すきま》風が屋内を吹きまくるボロ家だが、そこを出て新たな家を購《あがな》う甲斐性《かいしよう》もないまま住みつづけた。  狭いながらも庭があり、南に面しているのが取り柄《え》である。和多田はこの家に生をうけ、学校へ通い、結婚をし、子供を育てた。いわば彼の半生の生活史がその家に刻《きざ》み込まれていた。  就職して、都心の会社までの通勤に遠いので、何度かその家を売り払い、会社の近くにマンションでも買おうかとおもったが、親の唯一の遺産ともいえる家に愛着が残った。  そのうちに通勤にも馴《な》れてきた。開発ラッシュに伴う通勤圏の拡大で、平均通勤時間が片道一時間半ぐらいに引きのばされた。いまや和多田の住居は�遠距離�ではなくなったのである。  それにしても郊外のボロ家と同じ会社の間を三十五年間も、よく飽《あ》きもせず通いつづけたものである。それは和多田の保守的な性格のせいもあるが、また同時に容易に浮気しない一つの事物に執着する粘着《ねんちやく》性気質にもよる。新一でなくて「古一」といわれる所以《ゆえん》でもある。  その性格のおかげで会社では抜擢《ばつてき》もされないが、信用もある。斬新《ざんしん》なアイデアの閃《ひらめき》や進取の精神はないが安心して仕事を任せられる安定性があった。会社の幹部や部下、後輩からも信頼されている。  反面その信頼が彼を一つの会社に縛《しば》りつける鎖《くさり》となったともいえる。  休日以外は毎朝六時三十分に起床、七時三十分に家を出て、自転車でI駅へ行き七時四十八分I駅発の通勤快速に乗る。会社へ着くのが八時五十五分、タイムレコーダーは事故でもないかぎり一分と狂うことがない。  帰りはやや幅が生ずるが、だいたい午後五時半から六時の間に退社する。帰宅時間は遅くとも七時半である。途中で飲んで来るというようなことはなにかイベントでもないかぎりない。  まさに判で押したような三十五年間の生活であった。  和多田は時々これでよいのかと自問することがある。ただ一度限りの人生をこのような毎日の単調な繰り返しで費消《ひしよう》してしまってよいのか。自分の人生にただの一度でも挑戦や冒険といえるものがあったか。  異性も妻一人しか知らない。旅行も社員旅行ぐらいである。世界には無限に近い未知なるものや美しい女性や多様な価値が犇《ひしめ》いているというのに井戸の中のような日常性の中に自閉して早くも老境にさしかかっている。会社の停年もま近い。「日暮れて道遠し」というが、その道を誤ったような気が最近しきりにしてならない。  しかし、それ以外にどんな生き方があったというのか。ここまで歩んで来た和多田にとって別の道を選ぶ自分は考えられなかった。結局いまの会社が彼の性に一番|適《かな》っているようであり、多年連れそった細君以外の女と結婚することは考えられない。  結局おれは最良の選択をしたのだ。もう一度人生をやり直す機会をあたえられれば、いまの生き方と大同小異の人生を送っているだろう——と和多田は自分を納得させた。  和多田の生活圏は会社と家の他にもう一つある。それは通勤電車の中である。三十五年間往復二時間以上を過ごしたとなれば、彼の人生の重要な部分を構成している。その間沿線の風景はだいぶ変った。荒地が耕されて田畑となり、田畑は住宅地に侵蝕《しんしよく》された。山がブルによって削《けず》り取られ、森が伐採《ばつさい》されて雛壇《ひなだん》住宅となった。木造の駅舎も新幹線並みのモダンな駅ビルに変身した。  電車も旧型はどんどん廃車にされてエアコンつきの新型車にとって替られた。三十五年間この沿線で変らないのは和多田一人といってよいくらいにすべてのものが変貌した。  彼がまだ学生だったころ広漠たる原野だったのが、いまでは原野のおもかげを見つけるのが難しいほどに開発の触手がおよんでいる。このまま開発のペースが進めばいまに日本全国から空地がまったくなくなってしまうのではないかと案じられるほどの凄《すさ》まじい開発ラッシュであった。  だがよく観察すれば沿線に昔のままの形を留めているものが少ないながらないことはない。まだブルの入らない自然の丘陵《きゆうりよう》や林が、開発の荒波の前で健《けな》げに原型のまま踏みとどまっている。風前の灯《ともしび》のような心細い姿であったが、ともかく和多田の知っている古い姿であった。  自然以外にも古い家や橋やその他の建造物があった。彼らは寥々《りようりよう》たる数になっていたが、和多田の四十年近い(通学も含めて)往復の沿線に同じ形を維持していた。彼にはそれらが戦友のようにおもえた。時代の流れに抗する絶望的な戦いの中で今日まで生き残ってきた戦友である。  だが人間には戦友はいなかった。四十年間も同じ路線を通いつづけている者はいない。稀《まれ》に古い顔を見出すことはあっても、いったん転勤や移転した者がふたたび戻って来た、�出戻り組�であった。  顔ぶれは常に交代しているが、毎日通っていると�常連�の顔は憶《おぼ》えてくる。帰りはまちまちになるが、出勤時は固定している。サラリーマンの悲しい習性というべきか、乗る車両もその位置すらおおむね定まってくる。  名前も住居も勤め先も知らないが、顔だけは常連として憶えてしまう。だが憶え合ってもそれ以上の関係には進展しない。  それが彼の利用する私鉄利用者の特徴であり、列車や別の私鉄通勤者の間で自然発生的に結成されるグループは、四十年の利用を通して一度もできたことがない。この沿線のよいところでもあり、また冷たいところでもあろう。それだけ都会的ともいえる。  一年ほど前から和多田は一人のOLが気になっていた。二十四、五歳の目鼻立ちの整った女性で途中のM駅から和多田の乗っている車両に乗り込んで来た。高級OLらしく服装がよい。  ターミナルの新宿で国電に乗りかえる和多田と別れて出口の方へ行ってしまうので、多分新宿に勤め先があるのだろう。彼女は発車後いつも進行方向左側のドア口《ぐち》に位置を占めて、駅を発して間もなくの地点を通過するとき、ハンカチを振るのである。まだM駅では車内にその程度の余裕がある。  ハンカチを振った後はドア口を離れて車内の中央へ進んで来る。和多田は彼女がハンカチを振る相手に興味をもった。通過は一瞬の間でなかなか彼女のハンカチを振る相手はわからなかった。  和多田が注意をしていると、ある朝、車窓《しやそう》の外から彼の目をキラと射たものがあった。一瞬間であったのでその正体がわからなかった。子供のころ鏡を反射させて遊んだことがあるが、そんな感じであった。  翌朝また彼女がM駅から乗って来た。和多田は彼女よりも窓外に注意を集中していた。ある家のかたわらを通過するとき、彼女がハンカチを振り、同時に和多田はふたたび目を射られた。  一瞬であったが和多田は今度はその源《みなもと》を見届けた。それは彼が幼いころ玩《もてあそ》んだ鏡の反射そのものであった。その家は彼の�戦友�であった。沿線の線路端にいまにも倒壊しそうな心細い形でうずくまっている古い平家である。  和多田がこの線を利用しはじめたときすでに気息奄々《きそくえんえん》たる姿をしていたから相当古い家であろう。鏡はその家の中におかれてあった。彼はその家の住人を知っていた。そこには老婆が一人で住んでいるはずであった。ずっと以前に主人らしい老爺《ろうや》が一緒に住んでいたが、いつの間にか姿が見えなくなっているところをみると死んだのであろう。  一年ぐらい前から老婆の姿も見かけなくなったが、家の窓が開いていたり、生活の気配が漂っていたりしたので無住ではないことが推測できた。  もしかすると家の中には老婆が寝たきりになっているのではないのか。「ハンカチOL」は老婆の近くに住んでいて仕事の合間に老婆の世話をしているのかもしれない。心優しき彼女は出勤途上の電車からハンカチを振って帰って来るまで寂しいでしょうけど待っていてねと合図をしているのであろう。それを寝たきり老婆は鏡に映して見ているのではないのか。  一瞬の間に通過する電車の窓から振られるハンカチを鏡の中に認められるかどうかわからないが、老婆は彼女が乗った電車を見るだけで安心して一日の孤独に耐えられるのであろう。  和多田がその家の住人の老婆を初めて見たのは四十年ぐらい前である。そのときすでに老婆くさかったから、いま寝たきりになっているとすればかなりの高齢にちがいない。  それにしてもハンカチOLの姿を見かけるようになったのはここ一年ほどの間である。老婆とOLはどんな関係なのか。四十年間の最近一年間に姿を現わしたのであるから娘や孫ではあるまい。他人がボランティアのように面倒みているとすれば今時奇特な女性である。  和多田はハンカチOLに対する関心が高まっていった。毎朝彼女にハンカチを振られる寝たきり老婆が羨《うらやま》しくすらあった。      2  四月一日、和多田はいつもの電車のいつもの位置にいた。M駅へ着いた。だがハンカチOLは乗って来なかった。これまでの例からして別の車両に乗るということは考えられなかった。  和多田はがっかりした。彼女と出会う(一方的だが)のは彼の密《ひそ》かな楽しみになっていたのである。彼女に出会って彼の一日が始まるという感じになっている。なにか大切な心の部分が欠けたような気がした。  だが彼の落胆はより大きな驚愕《きようがく》によってすり替えられた。彼女がハンカチを振る寝たきり老婆(未確認)の家のそばへ来たとき、和多田は愕然として目を見開いた。その家がないのである。いや正確には焼け落ちて、廃墟から白い煙が立ち昇っている。焼け跡を検査している消防官や警官の姿が見えた。  昨日帰るときは家はいつもの姿形をしていたから昨夜から今朝にかけて火を失したのであろう。鎮火《ちんか》して間もないらしい。白煙がしきりに吹き出している。  和多田の驚愕をよそに電車は一瞬の間に通過した。これで彼の古い戦友がまた一つ失われたのである。戦友は家だけではなかった。その家で寝たきりになっているはずの老婆はどうなったか。無事に救い出されたか。それとも家と運命を共にしたのか。  その日一日、和多田はほとんど仕事が手につかなかった。もっとも「窓際」の彼にはすでに仕事らしい仕事はなかったが。  ——寝たきり老婆を殺して放火。  都下M市の寝たきり老婆が襲われ、首を絞められて殺された後、家に火をつけられた。老婆が貯めていた小金を狙《ねら》った犯行と見られ、そのあまりに非人間的なやり口に警察は怒りの表情を隠さず犯人必検を誓った。  殺されたのは都下M市線路端町一の十五の十五野際るいさん(八七)で二年前に転《ころ》んで腰を打ってから寝たきりになっていた。野際さんの世話は近所の人が交代でみていたが、昨夜は元気にしており、隣りの主婦がつくってもっていったたまご雑炊《ぞうすい》をおいしいと言ってお代りしたそうである。るいさんは十二年前に夫の耕造さんが心臓|麻痺《まひ》で死んでから生活保護をうけて独りで生活をしていた。  最近、住まいが老朽《ろうきゆう》化して雨漏りがひどいので市の福祉課が民生病院に入院するように勧めていたが、夫が遺《のこ》してくれた家から出たくないと言って頑張っていた。  火は四月一日午前四時ごろに発して近所の人が気がついたときはすでに火の手がまわって近づけない状態だった。  午前五時ごろ、出動した消防車によって鎮火したが、焼け跡からるいさんの焼死体が発見された。検視によってるいさんの首にひもで絞《し》めた痕《あと》が認められた。犯人はるいさんの首を絞めて殺した後、犯行を晦《くら》ますために火をつけたものと推定された。警察はるいさんと顔見知りの者の犯行とみて、本格捜査に乗り出した。——  その日の夕刊を読んだ和多田は仰天《ぎようてん》した。この記事はまさしく彼の�戦友�についての報道である。家が焼失していたのは、強盗殺人犯人の仕業《しわざ》であったのか。それにしても身寄のない寝たきり老婆を狙って金を奪ったうえに殺害し、家まで焼いてしまうとは、なんと凶悪無残な犯人か。和多田は他人事ながら腹が立った。  顔見知りの者の犯行と推測されているから犯人の逮捕は時間の問題とおもうが、このような社会の敵は少しでも早く捉《つか》まって欲しい。  顔見知りの者の犯行ということから連想が走った。彼の意識に、焼失した老婆の家にハンカチを振っているOLの姿が重なり合った。「まさか」とうめいて和多田は自分の連想を打ち消そうとした。  あの心優しげなる美貌のOLがそんな凶悪な犯行を実行するはずがない。老婆がどのくらい金を貯めていたかわからないが、OLはいかにもゆとりある暮らしぶりを示すような洗練された服装と化粧をしていた。身辺に漂わせていた仄《ほの》かな香水の香りは優雅なものであった。  たった一日欠勤しただけで、彼女と凶悪な犯行を結びつけた自分の連想を和多田は恥じた。それは彼女に対して大変失礼な連想である。  だが彼女の姿はその翌日も現われなかった。さらに翌々日も現われなかった。和多田の祈るような期待を裏切って彼女の姿は、老婆の家が焼失した翌日(正確には当日)から忽然《こつぜん》として消えてしまったのである。  ここに至って和多田も自分の連想が定着してくるのを防げなかった。火事の翌日に彼女の姿が消えたのが単なる偶然とは考えられなくなった。  三月から四月にかけて転勤の時期であるので、どこかへ転勤したという可能性は考えられる。和多田はその可能性にすがって自分の禍々《まがまが》しい連想をまぎらそうとした。  ——老婆放火殺人容疑者逮捕される。  四月一日都下M市線路端町野際るいさんが殺されて、自宅に放火された事件を捜査していたM署は、十日、同市富岡新田十八の十三無職滝本繁幸を強盗殺人放火の疑いで逮捕した。  警察の取調べに対して滝本は、「サラ金の取立てに追われて苦しまぎれに、金を貯めていると生命保険のセールスマンから聞いた一人暮らしの野際さんを襲って金を取ろうと狙っていた。四月一日午前四時ごろ野際さんの家へ侵入すると、野際さんはすでに死んでいて、金は一円もなかった。�先客�が取っていった気配に、腹を立てて家に火をつけて逃げた」と自供した。  警察では滝本が罪を逃れようとして偽《いつわ》りの自供をしているとみてなお取調べをつづけている。——  十日後の新聞の報道記事を読んだ和多田はホッと救われたおもいがした。やはり和多田の連想は見当ちがいであった。ハンカチOLはなにか別の事情で姿を消したのであった。  一年ほどの間であったが、窓からハンカチを振る彼女の姿は単調な通勤を彩《いろど》る心暖まる光景となっていた。和多田はどこか別の路線でハンカチを振っている彼女の姿を想像した。      3  半年後、和多田は停年退職をした。会社は嘱託《しよくたく》として残るように勧めてくれたが、和多田は謝絶した。趣味として始めた手造りの家具が評判がよく注文がつづくようになっていた。最近では外国人からも注文が入り、大手家具メーカーから専属にならないかという声もかかった。特に彼の手造りのステレオキャビネットや木箱ラジオなどは素朴な味が喜ばれて注文を捌《さば》ききれないほどであった。  和多田は好きな手造りの家具を造りながら余生を自由に生きてみたいとおもった。幸いに子供も巣立ち、老妻と二人でのんびり暮らせる程度の貯えはあった。嘱託で残ったところで精々三年である。会社のお情けにすがってさらに三年そのカサの下で過ごすより、自由の曠野《こうや》で勝手気ままに生きてみたい。 「ワタさん、停年が嬉《うれ》しそうだね」  挨拶《あいさつ》まわりに行くと何人かから言われた。 「これでも悲しげな顔をしているつもりだがね」 「ワタさんはいい。手に職があるからな。むしろ停年後のほうが稼《かせ》げるよ。おれなんか停年になったら翌日から路頭に迷ってしまう」  和多田の実益的趣味を知っている仲間が言った。 「おれたちもいまから金になる内職を始めようかな」 「もう遅いよ。それにワタさんのは内職じゃない。趣味だよ」 「趣味にしても才能がいるぞ」 「ああ、おれにもそんな才能が欲しいよ」 「そんな才能があればこんな会社に停年までいない」 「ワタさんは職業をまちがえたのかな」 「これで我が社の生き字引がいなくなる。寂しいことだな」 「三十五年間まったく動かなかったというのも新記録だね」 「ワタさんならではだよ。だからこそ停年になってもビクともしない」  仲間たちは口々に羨《うらやま》しがり、別れを惜しんだ。彼らも停年まであとわずかな連中であるだけに和多田の「余裕ある停年」が羨しいのである。  だが大学を出てからの三十五年間といえば人生のほぼ半生であり、しかも最も実り多く、盛りの時期である。一個の人間の可能性をその社に捧《ささ》げたに等しく、退社後自由の曠野に飛び出したとしても、もはや青年期のような無限の可能性は望むべくもない。  それは「限定付きの自由」であり、時間と方角がおおかた定められている。それだけに青年期のような野放図な振舞はできない。  停年退職は、三十五年間の通勤にも終止符を打つことであった。サラリーマンにとって通勤は、時間とエネルギーのロス以外のなにものでもない。通勤圏が拡大すると共に、彼らのロスは増え、疲労をうながし、生活時間を圧迫する。  和多田は退職していかに通勤が自分の生活の負担となっていたかを悟った。通勤によるロスとはそれに要する時間だけではない。家の外の遠方にある会社へ行って働くためにはそれ相応の身支度《みじたく》をしなければならない。精神も出勤前から緊張する。「憂うつなる月曜日《ブルーマンデイ》」という言葉があるが、実際には日曜の午後からブルーとなる。  出勤前の支度に要する時間は準通勤時間といってよく、またその前の緊張は準勤務時間と呼ぶべきである。  退職するとこれらのロスやプレッシャーが一挙に取りはらわれる。自宅で仕事をする場合は精々�通勤一分�である。外出用身支度などまったくする必要はない。ひげなども一週間ぐらいまとめて剃《そ》る。  だがサラリーマン生活の大きな出血である通勤が同時に彼らの人生の重要な構成要素であることも事実である。会社を辞《や》めてから和多田はあれほど忌《い》み嫌っていた通勤が懐しくなった。朝、出勤する必要もないのに定時に目がさめてしまう。もう出勤しなくてもいいのだとおもうと自由感と同時になんともいえない寂しさに襲われる。  これが和多田のように「手に職」がなかったなら自由感など一片もなく、ただ寂寥《せきりよう》に胸を咬《か》まれるだけであろう。  三十五年のサラリーマン生活の間に、その習性が骨の髄《ずい》まで沁《し》みついてしまったらしい。  和多田は退職後半月ほど家でのんびり過ごしていたが、遂《つい》に朝居たたまれない気持になって三十五年間守りつづけた定時に家を出た。妻には朝の散歩と偽ったが、通勤電車に乗りたくなったのである。  だがわずか半月の空白であったが、それはすでに和多田が知っている通勤電車ではなかった。電車の中に身をおいていても、彼は通勤者ではなかった。彼は�局外者�として通勤電車に乗っているだけであった。通勤者の共通特徴として職場を目ざして脇目もふらない一途《いちず》集中性がある。だが和多田には行くべき職場も会うべき人間もいない。ただ現役時代を懐しがって漫然と電車に乗っているだけである。  現役時代にはそんな身分を憧《あこが》れたものであるが、さて実際にその身分になってみると、自分だけが世間から疎外《そがい》されたような気がする。  M駅へ近づいたとき、和多田の瞼《まぶた》に「ハンカチOL」の姿がよみがえった。彼女の存在は彼の潜在意識にずっと引っかかっていたのである。  和多田は急におもい立ってM駅で下りた。乗車客が圧倒的に多く、下車客は数えるほどである。M市に職場をもつ人たちの出勤にはまだ少し早いのである。  駅を出て、例の老婆の家の跡《あと》へ向かう。焼け跡はかたづけられてプレハブの家が建っていた。ハンカチOLもこの近くに住んでいたにちがいない。  和多田は新たな表札の出ている新築の家のブザーを押した。すぐに中年の主婦が顔を出した。 「突然お邪魔いたします。こちらに野際るいさんがお住まいになっていたと聞いて来たのですが」  和多田は新聞で知った老婆の名前を咄嗟《とつさ》にアプローチに利用した。 「のぎわさん、知りませんよ」  主婦は素《そ》っ気《け》なく答えた。 「以前こちらに住んでおられたお婆さんですが」 「ああ、あのお婆さんね、強盗に殺されちゃったわよ。いやだわねえ。うちはお婆さんとはなんの関係もありませんよ」 「お婆さんのご親戚《しんせき》などご存じではありませんか」 「身寄はいなかったそうよ。家が燃えちゃって、その主が死んじゃったので地上権がなくなり、地主がこの家を建てて私のところで借りたのよ。あなたはお婆さんの何なの」  主婦の面《かお》が好奇心を現わした。 「昔、野際さんのご主人にお世話になった者です。野際さんには二十四、五のお嬢さんかお孫さんはいませんでしたか」 「さあそんな人がいればここにまだ住んでいるはずでしょう。寝たきりの孤独老人て聞いていたけど。あなた新聞見なかったのですか」 「気がつきませんでした。二十四、五歳の娘さんがお婆さんの世話をしていると聞いたのですがね」 「ボランティアじゃないの。大家さんに聞けばわかるかもしんないわよ」  主婦は面倒くさくなったようである。彼女から大家の住居へまわった。だが大家にもそんな娘は心当たりはなかった。 「野際さんにはそんなボロ家に一人で住んでいないで民生病院か老人ホームに入るように何度も勧めたのですが、亭主の残した家だから絶対に出ないと言い張って頑張っていましたよ。どんなボロ家でも地上権があるので勝手に取り壊すことができず困っていたんです。寝たきり老人に死なれると迷惑ですからね。それが結局あんなことになってしまって、私が言ったように早く施設へ入っていればこんなむごい目にあわずにすんだのに」  大家は自分の忠告を聞き入れなかった老婆が悪いような口ぶりであった。だが強盗のおかげで大家は地上権を取り戻したのである。 「野際さんが寝たきりになってからだれが世話をしていたのですか」 「さあ知りません。プライバシーには立ち入らないことにしていたからね」  大家はプライバシーで逃げた。      4  結局聞込みは徒労に終った。ハンカチOLの身許《みもと》はわからずじまいであった。  和多田は彼女の行方の追跡をあっさりとあきらめた。どうせ通勤電車内で「袖摺《そです》り合った」だけの赤の他人である。  和多田は趣味の家具造りに精を出した。彼の作品は評判がよくそれを聞きつけてテレビが「趣味の花開く余生」として広く紹介したものだから、さらに人気が高まった。  大手デパートからも注文が来るようになり、彼は一躍、�流行家具作家�となってしまった。彼の作品には高い値がつけられて好事《こうず》家の売買の対象になった。  サラリーマン時代より忙しく、収入も数倍になった。 「余生どころか、こちらのほうが�本生�のように忙しいな」と和多田は妻に苦笑した。  サラリーマン時代いくらでも代替《だいたい》のきく歯車人間として生きてきた身にとって自分の作品を社会から要求されるということは新鮮な衝撃であり、喜びであった。 「あなたの作品が欲しい。あなたの作品でなければだめなのだ」というリクエストは、これまで個性として要求されなかったサラリーマン時代にはなかった求められ方である。  和多田は会社を辞めてから生きている手応《てごた》えを感じた。実際、いまの生活に比べれば、サラリーマン時代は死んでいるも同然であった。死んでいないにしても、植物的な生存にすぎなかった。会社を辞めてから和多田は初めて植物から人間になったのである。  収入が上昇するにしたがってさまざまな訪問者が来るようになった。まず銀行、証券会社等の金融機関関係者である。つづいてマンション、別荘、土地等の不動産のセールスマン、車のセールスマン、宝石屋、呉服屋、布団屋、さらに各種団体の寄付依頼など、会社勤めをしている間はまったく縁《えん》のなかった訪問者が相次いだ。彼らの応対で仕事が妨げられるほどであった。  遂に音《ね》をあげた和多田は近所のアパートを借りてそこを仕事場にした。それでも仕事に関係ある訪問者を防げない。  和多田の作品に目を付けた都内の大手百貨店「赤看板」は特に熱心に彼の許へ日参した。和多田の作品をそのデパートのオリジナル商品にしたいというのである。  オリジナル商品とは、和多田の作品を独占契約して百貨店の商品として販売することである。  担当者の営業部長《バイヤー》中森則男は熱心に通って来て和多田を口説《くど》いた。独占契約の利点を並べ立てて、さまざまな飴《あめ》を見せた。 「とにかく趣味で造っているものだから大百貨店で売るほどの物ではありません」  と和多田が謙遜《けんそん》すると、 「だからこそ私共で先生の御作品を売らせていただきたいのです。先生の御作品は我が社だけにしかないとなれば、御作品の価値と我が社の多年積み重ねた名前と信用が結びついてより一層効果的になります。せっかくの御作品ですから我が社の強力な販売網に乗せれば、御作品がさらに人口に膾炙《かいしや》するでしょう」 「私一人の手造りですから、そんなに造れませんよ」  どんなに需要が増大しても、設備を拡張して生産を増やすわけにはいかないのである。 「先生の御作品の存在価値をより高からしめればよろしいのです。御作品を我が社が独占し、御作品が我が社以外では手に入らないようになれば、御作品の実際価値に稀少価値が加わるでしょう」  百戦|錬磨《れんま》のデパートマンである中森は巧言《こうげん》を並べてかき口説いた。赤看板の包み紙で包装するだけで商品の格が上がるといわれるほどの権威と伝統のある老舗《しにせ》デパートから辞を低くして独占契約を申し込まれたことは悪い気持ではなかった。  たしかに赤看板の商標が和多田の作品に入るだけでその価値はぐんと増幅《ぞうふく》されるであろう。だが大手百貨店と結んで自分の余生の手すさびを商業ベースに乗せることにためらいも感じていた。  そのためらいが熱烈な中森の勧誘に対して即答を控《ひか》えさせたのである。  中森という人物にも、もう一つ信用しきれないところがあった。いまは和多田の作品が時流に乗ってもてはやされているのでシッポを振って近づいて来ているが、売れなくなればはなも引っかけなくなるような調子のよさが感じられた。  目つきが鋭く、口元が引き締まった意志的な顔つきである。いかにも女性にもてそうなハンサムであると同時に、切れ味の鋭そうな敏捷《びんしよう》な表情であった。社内では「剃刀《かみそり》中森」と仇名《あだな》されているそうである。上司のおぼえも目出たく出世コースの最短距離を走っていると聞いた。  だが会社で永年冷や飯を食わされた和多田には中森の背後にこれまで斬《き》り捨ててきた累累《るいるい》たる死屍《しし》が見えるのである。  冷や飯の年の功というべきか。エリートの栄光のかげにはそれを支える夥《おびただ》しい犠牲があることを知っている。サラリーマンが這《は》い上がっていくためには同僚の死体を踏んでいかなければならないのである。  学生時代かなり先鋭な登山をやっていたとかで、凍傷で左手の人さし指と中指の先端が欠けている。 「やくざみたいに見られて閉口《へいこう》するんです。指に力が入らず、ザイルを握れなくなりました」  中森は欠けた指先を特に隠しもせずに言った。だが彼の表情には本当にやくざのような油断ならないものがあった。それが和多田を足踏みさせたことも事実である。中森は明らかにスタンドプレーを狙っている。赤看板では営業部門は商品別に分れている。各営業部に商品の選択、品|揃《ぞろ》えから、仕入れ、販売の権限をあたえている。その権限を握っているのが営業部長である。  他社の追随を許さぬオリジナル商品を開発あるいは導入すれば営業部長の功績となる。  だが和多田はようやく花開かせた自分の人生の証明を、中森のスタンドプレーの道具にされたくなかった。 「先生、もういいかげんによいお返事をいただけませんか。それとも赤看板では不足なのでしょうか」  中森は遂に痺《しびれ》を切らしたように言った。和多田はその言葉を聞いたとき、中森は所詮剃刀に留まり、斧《おの》になれない人物だと悟った。大木は剃刀では切れない。  中森が本物の切れ者であるならそれを表に現わさないであろう。いかにも辣腕《らつわん》であることを示すだけで、彼はすでに辣腕ではないのである。中森がここまで這い上がって来られたのは運がよかったせいかもしれない。こういうタイプの人物はなにかのはずみにコケやすいのである。それがわかるのも�万年ヒラ�で終った和多田の年輪のおかげである。  中森は功を焦っていた。なかなか埒《らち》があかないのに業《ごう》を煮やして赤看板の名声と権威をちらつかせた。一匹狼に対してこれほど反対効果のあるアプローチはない。なにものにも所属せず生きている一匹狼は、組織(群)に対して生理的嫌悪感を抱いている。  まして和多田は多年組織に所属してようやくそこから離脱した身である。組織の生理とメカニズムはいやというほど知っている。彼にとって最も反発を感じる相手は組織の権威と名声を鼻にかける組織人間である。  そんなものはいまの和多田になんの影響力ももたない。その権威と強さを知っているだけにそれを虎の威《い》として借りる�狐�に対して反発するだけである。 「不足ではありませんが、べつに赤看板に所属しなくとも、私の作品を求めてくださる人がいますから」  カチンときたのを抑えて和多田はやんわりと言った。 「いまは売れてるから結構ですが、いつ風向きが変るかわかりませんよ。消費者は常に気まぐれですからね。私共では先生の御作品を大切に長く売らせていただきます。雨風も大きな傘の下のほうがしのぎやすいですよ」  中森は、和多田のますます気に障《さわ》ることを言った。この男は噂ほどの切れ者ではないと和多田はおもった。 「風向きが変ればどんな傘の下にいても雨風は吹き込みます。ご厚意は有難いが、私は一人でコツコツ造ってご注文に応じていくことにいたしましょう」  和多田はきっぱりと断わった。さすがに中森はがっくりしたようである。 「私はまだあきらめません。またお邪魔いたします」と肩を落として立ち去って行った。      5  翌日、和多田は妻と遅い朝食を摂《と》りながらゆっくりと新聞に目を通していた。サラリーマン時代にはなかった至福の時間である。現役のころは朝食も�準通勤�であった。朝食が摂れるだけましなほうで、朝食を犠牲にしても一分でも余計に眠っていたかった。  飲まず食わずで家を飛び出して、駅の売店で牛乳をまだ醒《さ》めきらない胃袋に流し込む。それがサラリーマンの平均朝食である。そんな�朝食�に比べれば、眠りたいだけ眠り、世間のほぼ全人口がとうに起きて働いている時間帯にゆっくり時間をかけて摂る朝食こそまさに人間の食事と称《よ》ぶにふさわしく至福の時間であった。  すし詰めの通勤電車の中で体位をさまざまに工夫しながら読んだ新聞を、いまは悠然と広げてのんびりと読める。  和多田の漫然たる視線が社会面の一角に固定した。  ——デパートの営業部長即死     雨の国道でスリップ衝突。  ××日午後六時半ごろ、神奈川県A市域の国道××号線で上り車線を走っていた東京都狛江市元和泉一の十× 中森則男さん(三九)=東京都新宿区新宿三丁目赤看板デパート営業部長=運転の乗用車がセンターラインを越えて、前方から来た群馬県高崎市新町三十× 武川光弘運転手(三一)の運転する大型トラックに正面衝突、中森さんは全身を強く打って即死した。A署の調べでは中森さんが前の車を追い越し終ったとき左側ガードレールに接触、ハンドルを慌《あわ》てて右に切り雨水に濡れていた路面にスリップしてセンターラインを越えた模様である。—— 「おい大変だ! 中森さんが死んだぞ」  和多田は新聞から目をあげて妻に言った。 「なかもりさん……?」  言われても、彼女にはピンとこないらしい。 「赤看板の営業部長だよ。毎日のように通って来ていたじゃないか」 「ああ、あの人なかもりさんというの。どうして亡くなったの?」  日参しても彼女にはその程度の印象しかなかったようである。 「運転を過《あやま》ってトラックと衝突したんだ。家へ来た帰りらしい」 「まあ大変!」  ようやく彼女にも事態の重大性が認識されたらしい。 「えらいことになった」  和多田はのんびり食事どころではなくなった。 「あなたのせいではないでしょ」  だが妻にとっては他人事であった。 「いやぼくのせいかもしれない」  和多田の瞼に昨日きっぱりと断わったときの中森の気落ちした様子が浮かび上がった。 「あらどうして」  妻が顔色を改めた。彼は昨日のいきさつを語って聞かせた。 「あなたの考えすぎよ。中森さんは自分で運転を過ったのよ」 「きっとがっかりして運転が疎《おろそ》かになったのかもしれない」 「仮にそうだとしてもあなたのせいではないでしょ」 「しかし寝ざめが悪いよ。家へ来た帰りに事故を起こしたとあっては」 「だったらお葬式に行ってあげたら」 「そうするよ」  和多田は気が進まなかったが、生前中森が示した熱意に対してそのくらいの弔意《ちようい》を表わすべきだとおもった。      6  和多田は、中森の通夜へ行った。通夜は中森の家の近くの寺で営《いとな》まれた。「通夜」といっても一般の弔問客は午後六時から八時までの二時間で、それ以後は身内の者が棺につき添って夜を明かし灯明《とうみよう》と線香を絶やさないようにしてやるということである。  行ってみると、中森の生前の威勢を示してかなりの弔問客が集まっていた。若い女性の姿も多く見えた。職場の部下であろうか。通夜の会場に入りきれず寺の境内《けいだい》に群れて彼らは故人の突然の死をまだ信じられないといった面持《おももち》である。 「惜しかったなあ、中森君はこんな奇禍《きか》にあわなければ重役まで行けた人なのになあ」  会社の同僚らしい人たちがささやき交わす言葉の底には、その死を惜しみながらもホッとした響きが感じられた。中森の死によって社内の力関係に変化が生じ、それによって浮上する者もいるのである。  和多田はサラリーマン社会の世故《せこ》さを見せつけられたようにおもった。 「中森部長、酒を飲んでいたんだってね」 「すると酔っぱらい運転?」 「……だそうだ」 「またなんだって?」 「そんなに酒は強くなかったんだろう」 「なにか面白くないことでもあったのかな」 「事故の夜出先で飲んだらしいんだ」 「出先で勧められたのかな」 「剃刀中森の最期《さいご》にしてはあっけなかったな」 「奥さん、まだ若いじゃないか」 「重役の紹介だというぜ」 「だから部長、細君には頭が上がらなかったんだ」 「死んで女房から解放されたってわけか」 「浮気一つできないなんてエリートは辛《つら》いね」 「さあそいつはわからないぜ。中森部長はもてたからな。女子社員も騒いでいたじゃないか」 「そういえば、うちの女の子もけっこう来てるぞ」 「おれが死んだら彼女ら来てくれるかな」 「試してみるか」  そんなささやき声が和多田の耳に届いた。彼は胸をつかれた。中森が酒を飲んだとすれば和多田の家から帰る途中である。さすがの中森も和多田から素気《すげ》なく断わられて酒でも飲まなければ、やりきれなかったのだろう。  やはり和多田が原因となっていたのだ。彼は胸がキリキリと痛んだ。そのとき棺の前に進んで焼香《しようこう》した若い女の姿が目に留まった。洋装の喪服をまとった彼女の横顔に記憶が残っているような気がした。  女は焼香すると合掌《がつしよう》してしばらく佇《たたず》んでいた。悲しみに打ちひしがれたようなその姿が哀れであった。女はようやく合掌を解いて棺の前から立ち去ろうとした。束《つか》の間《ま》和多田の方に顔を向けた彼女に彼の記憶が完全によみがえった。彼女は「ハンカチOL」であった。M駅から乗り込み、野際るいの家に向かって毎朝ハンカチを振っていた彼女が、いま中森則男の通夜の客となって彼の棺に焼香していたのである。  いったい中森とどんな関係なのか。和多田が訝《いぶか》っている間に女はだれにともなく一礼すると足早に立ち去って行った。和多田はその後、未亡人をはじめ故人の身内の者にいまの女性の素姓《すじよう》をそれとなく尋ねたが、だれも知らなかった。遺族は彼女を会社の関係者とおもっているようであったが、会社の者に聞いても彼女について知る者はなかった。  和多田は翌日の告別式にも会葬したが、ハンカチOLの姿は見えなかった。彼女は通夜に弔問に来ただけであった。  中森の葬儀が終った後も、ハンカチOLのことが和多田の意識に引っかかって離れなかった。彼女は野際るいが強殺《ごうさつ》され、その家を焼かれた当日から姿を消してしまったのである。  犯人は逮捕され、強盗殺人の事実否認のまま起訴され目下公判中のはずである。  和多田には彼女の蒸発と野際るいの強殺被害が偶然の符合とはおもわれない。逮捕された犯人が真実を述べているとすれば、彼の犯行は放火だけである。野際を殺して金を奪った真犯人は他にいるはずである。ハンカチOLをその真犯人に擬《ぎ》さないまでも彼女が事件の真相になんらかの関係をもっているような気がして仕方がない。そうでなければ事件の発生と彼女の蒸発がああもピタリと符合するはずがないのだ。  だが彼女が事件の関連人物とすれば……生前、彼女となにやら曰《いわ》くありげな中森はどういう位置に来るのか。  和多田の連想は伸びていった。彼はいつの間にか中森をハンカチOLを介して野際るいに結びつけていた。鎖が連なるように彼女をつなぎ環にして野際と中森が連なっているのである。  そこまで連想を追っていた和多田ははっとなった。もしかしたら大きな勘ちがいをしていたかもしれないことに気づいたのである。  ハンカチOLははたして野際るい(の家)にハンカチを振っていたのであろうか。和多田が勝手にそうおもい込んでいただけではなかったのか。  両者を結びつけたのは野際の家の中にあった姿見からである。OLがハンカチを振ったとき鏡がキラリと反射したので、野際が寝たきりの床からOLのハンカチを見ていると解釈したが、それは老婆が寝たきりの無聊《ぶりよう》をまぎらすために置いたものかもしれない。見るべき対象は必ずしもOLのハンカチに限られていなかったのだ。  M駅を出た電車は野際の家のかたわらを通過するころはかなりスピードをあげている。ハンカチは野際家にさしかかる前後に振られている。その間の距離は百メートルぐらいはあるであろうか。少なくともハンカチが振られている間の距離がカバーする視野に位置する家はすべて対象になるのである。  逆の立場からいえば、OLの振っているハンカチが見える家は、すべて彼女のサインの受け取り手になり得るのである。  だが彼女がハンカチを振りかけた相手が野際るいでなければ、だれに振っていたのか。  そしてそれは何を意味していたのか。和多田の疑問は脹《ふく》らんできた。      7  和多田は再度M市へ出かけて行った。いまや乗りかかった舟の観があった。彼は調査にあたって一つの心当たりがあった。  M駅の前には数軒の不動産|斡旋《あつせん》屋がある。一間だけの借事務所の表に、貸間やアパートの条件をべたべた貼《は》り出したパターン通りの不動産屋である。ドアを押すと、電話をおいたデスクと来客用応接セットがおいてあるのも同じである。壁に宅地建物取引業協会会員都知事免許第××号などと書かれた額が麗々《れいれい》しく掲《かか》げられている。  和多田は一枚の人物写真を示してその主に部屋を斡旋したことはないかと尋ねてまわった。写真の主は中森則男である。ぜひ一枚遺影をもらいたいと言って遺族から入手したものである。  三軒目で反応があった。写真を見た不動産屋が、 「この人ならサニーテラスにお世話したことがありますよ」と言った。 「サニーテラスとはどこですか」  和多田は身を乗り出した。 「駅前から線路に沿った道を二百メートルほど上り方向へ行った線路脇にあるレンタルマンションです。オレンジ色の壁をしている四階建の建物ですからすぐにわかりますよ」 「そのサニーテラスにこの人いつごろ入居したのですか」  和多田がさらに問うと、相手は含み笑いをして、 「セカンドホームですよ。生活の本拠として入居したんじゃありません」 「ははあ」 「よくあるでしょ、恋人と会うための場所として、一々ラブホテルへ行く手間を省くために定まった場所を確保したんです」 「すると女の人も一緒に来たのですか」 「その逆ですよ」 「逆というと」 「男が女の人に従《つ》いて来たのです」 「あ、そうか。でもどうしてセカンドホームってわかったのですか」 「すぐわかりましたよ。駅から近い所でバストイレ付き、一間、プライバシーの保証されている所という条件はたいていセカンドです。ファーストだったら、日当たりとか、スーパーの場所などをまず聞きます」  やはり推測した通り、中森はM市に女との愛の巣を密かに造っていた。中森の自宅と愛の巣との間は私鉄一本で結ばれ、どちらも急行が停車する。多少の距離がありながら乗車時間は約十五分である。  愛の巣を自宅よりも郊外に造ったところにも周到な配慮が感じられる。これが都心寄りだと細君などに発見される危険が大きいが、以遠の方向となると、特別な用事でもないかぎり彼女らが出かけて来る可能性は少なくなる。  都下M市という土地|柄《がら》も同じ東京でありながら、東京の�飛び地�といった感じで神奈川県の中に張り出している。私鉄も多摩川を渡っていったん神奈川県へ入った後、再び都下へ出る形となる。そのために東京圏から切り離された色彩が強い。  自宅との交通の便がよく、しかも生活圏が切り離されている土地こそ、秘密の愛の巣造りに絶好の環境であった。  和多田は感心しながらサニーテラスに赴《おもむ》いた。このマンションの大家は質屋が、副業に始めたものが、本業がサラ金に押されて、いつの間にか副、本が入れ替ったということである。来てみると線路脇に南に面したスペイン風のなかなか瀟洒《しようしや》な建物であった。この建物なら電車の窓からかつて毎朝見ていた。それぞれの窓にカラフルなカーテンが引かれて、和多田は住人の構成とその生活をよく想像したものである。  窓を閉めさえすれば電車の轟音《ごうおん》も遮断《しやだん》されて快適な生活空間が保証されるであろう。  大家は四階全フロアを占拠して悠々と生活していた。  和多田は素姓《すじよう》を明らかにして、中森の写真を示した。 「この写真の男と一緒に来た女性が部屋を借りませんでしたか」 「ああこの人でしたら、福村さんの旦那さんだ。本当の旦那さんかどうかは、当局の関知するところではありませんがね」  大家は含み笑いをした。 「ふくむら?」 「福村多恵子さんという人でN生命に勤めていました」 「そのふくむらさんはいまどこにおられるかわかりますか」 「N生命に聞けばわかるんじゃありませんか。私も彼女の紹介で生命保険に入れられましたよ。突然辞めることになったので後任に引き継ぐから保険のほうは心配しないようにと言って引っ越して行ってしまいましたが」 「保険の外交員だったのですか」 「いえ新宿支社の内勤だと言ってました。でもボーナス月や保険月になるとノルマを課せられると言ってました」 「ふくむらさんはこちらに住んでいたのですか」 「そうですよ。だから借りたんでしょう」  大家が怪訝《けげん》な表情をした。 「いえ、例えばほかに生活の本拠があってここをセカンドホームとして借りたようなケースですが」 「さあどうですかね。うちは家賃さえきちんと払っていただければプライバシーには立ち入らない主義ですから」  ここでもプライバシー至上主義が幅をきかせていた。      8  N生命新宿支社へ来て驚いたことは、同社の建物が赤看板と隣り合っていたことである。 「そうか、そういうことだったのか」  和多田は初めて納得がいった。勤め先が�隣組�だった関係で彼らは知り合ったのであろう。�地の利�を大いに活用して、彼らの恋は密かに進行したのであろう。「オフィスラブ」というケースはポピュラーであるが、「オフィス街ラブ」は可能性が高い割に盲点である。  社内恋愛は、サラリーマンにとって命取りになりやすいのに対して、別の会社の異性との情事は安全性が高い。しかも社内の異性よりはるかに新鮮である。  和多田は再び中森の情事に対する安全保障に感心した。  N生命新宿支社で福村多恵子の現在の消息が判明した。彼女はなんと「銀座マダム」に変身していたのである。  同支社の話によると××年四月、突然健康上の理由で退職したそうである。非常に有能で大支社の新宿店が擁《よう》する数百名の外務員の成績を一手に掌握《しようあく》管理して、自らもプロパーの外務員顔負けの契約を獲得してきた。支社長はじめ幹部が慰留したのだが、ボールペンの握りすぎで腱鞘《けんしよう》炎になり仕事をつづけることができないと言うので止《や》むを得ず辞表を受け取ったということである。  それが間もなく銀座に高級クラブを開いてそのオーナーマダムにおさまったものだから新宿支社のみならず、N生命全社が驚き、中には会社の金を着服したのではないかと疑う者もあった。  そのために新宿支社は彼女が退職後、本社の厳しい会計検査をうけたが、経理に不明朗な点はなかった。  ここへ来て和多田の疑惑は確定的になった。福村多恵子が退社した時期は、野際るいが強殺された後間もなくである。退社後いくばくもなく多恵子は銀座に店を開いた。その開業資金を彼女はどこから得たのか。  銀座という土地柄の一角を斬り取るには安金ではあるまい。ここで野際るいが貯めていたという�小金�と結びつく。寝たきり老人の遺産から億単位の遺産が出て来て周囲をびっくりさせたことがある。野際の小金が、億単位であってもなんら不思議はない。先立った亭主が巨大な遺産を彼女に遺《のこ》したかもしれないのである。  クラブ「ブラックホール」は銀座六丁目のバービルの中にあった。和多田はこのような場所に足を踏み入れるのは初めての経験であった。三十五年のサラリーマン生活の間、精精くぐったのは縄のれんであり、赤|提灯《ちようちん》である。  オーク材を用いた重厚なドアからして威圧的である。それをおずおずと押すと、別世界がそこにあった。柔らかな間接照明の下にラメの入ったドレスや、華やかな訪問着をまとった女性が客のかたわらに侍《はべ》って楽しげに談笑している。いずれの客も厚みがあり、ゆったりと構えて美女の勧めるグラスを傾けている。 「いらっしゃいませ」  黒服のボーイが丁重に迎えて、 「ご指名はございますか」と聞いた。 「あのう、ママにちょっと会いたいんだが」  和多田が言うと、 「ママはただいまお客様をお送りしてちょっと出ております。すぐに戻ります」  と答えた。和多田はカウンター席に坐った。とても一人でボックスに坐る度胸はなかった。店の広さは数十坪、入口右のカウンターの棚には名札《ネームタツグ》をつけたボトルが二百個以上並んでいる。コの字形の壁に沿ってソファが固定され、五脚のテーブルをはさんで移動できるソファが組み合わされている。  客の数やグループによって自在に席を案配できるように工夫されている。天井は蒙古のパオの中にいるような円蓋状《ドーム》になっており、毛皮が貼られている。壁には床と同じ毛足の長い絨毯《じゆうたん》が伸びて黒みがかった茶の色調でまとめられている。客は壁の感触を指先でまさぐりながらどんな連想をしているかわからない。降りかかるどこが光源かわからない間接照明の中で女の顔が白く浮き上がるように工夫されている。  女の子に白《しろ》の勝った明るい服装をさせているのもママの演出があるのであろう。店内には程よい数の客がおり、その間にホステスが過不足なくはさまっている。繁盛している様子であった。客の中にはマスコミで馴染《なじ》みになっている顔があるようである。  バーテンダーが差し出してくれた水割りに形ばかりに口をつけて見るともなく店内を観察していると、耳許に柔らかい気配があって、「いらっしゃいませ」と声をかけられた。  目を声の方角に向けた和多田は、言葉が滞《とどこお》った。駒綸子《こまりんず》の地に目も彩《あや》な総柄の小紋、明るい艶《つや》やかな色調を黒に金色の扇をあしらった名古屋帯できりりと引きしめている。豊かな毛髪をふんだんに使ってふくらみをつけた髪はしっとりした感じが強調されて店の雰囲気に調和すると同時に、まとめ方にメリハリがあってオーナーママらしいキリッとした貫禄が出ている。  女の武器である髪を自分の顔と環境に合わせて十二分に使いこなしているようなヘアスタイルであった。  彼女がかつてのハンカチOLの後身であると見きわめるまでにしばらく時間がかかった。だがその洗練された装いと化粧の中にまぎれもなくかつてのOLのおもかげを見出したとき、和多田は女の変り身の見事さにまた言葉を奪われてしまった。  あのころは美貌ではあったが平凡なOLであった。だがいまここにいる彼女は女としての素材を金と技術で磨《みが》き上げたプロの造られた女性であった。それは男のために加工された商品としての女性である。  多恵子はニコリとこれも訓練された笑いを見せて、 「どこかでお会いしましたかしら」  と首を傾《かし》げた。それが営業上の辞令か、それとも本当に和多田を憶えていたのか、まだわからない。 「お会いしていますよ」 「あらどこかしら」 「おもいだせませんか」 「さあ、ここまできているんですけど」  多恵子は額を指でコツコツと叩《たた》いた。  その指に豪勢なダイヤが光っている。 「ヒントをあげましょう、電車の中です」 「あらそれでは私がお勤めをしているころですね」  彼女の表情が反応した。 「そうです。あなたはよくM駅から乗って来ました」  和多田は彼女の表情を注目しながら探りを入れた。 「それじゃあ同じ路線で通勤していらしったのね」  彼女の表情が過去をまさぐっている。 「私はI市から通っていました」 「そうでしたの」 「あなたはM駅から乗り込むとよくドアのそばでハンカチを振っていましたね」 「まあそんなことまで見てらしたの」 「それは目立ちましたからね」 「電車が私の家のそばを通るので母に振っていたのです」 「あなたのお宅はサニーテラスですか」  和多田が第一|矢《し》を射た。彼の凝視《ぎようし》の前で多恵子の表情が一瞬停止した。それは和多田の目に動いていた映像が突然固定したように単に動きが停まるだけでなく、生物から静物に切り替ったように見えた。 「私の住居をご存じだったのですか。でもいまはあそこに住んでおりませんのよ」  ややあって多恵子は抑制をかけた声で言った。震《ふる》えかかるのを意志の力で抑えているような声である。彼女の表情が警戒を始めた。 「知っております」 「でもどうして? I市にお住まいなのでしょう」 「M市に友人がおりましてね。時々M市に途中下車するのです」 「そうでしたの」 「友人は赤看板に勤めておりましてね」  明らかに多恵子の表情がギクッとした。 「そういえばあなたのお勤め先は赤看板のお隣りでしたね」  追い打ちをかけたときドアが開いて一団の客が入って来た。彼女は救われたように立ち上がり、こぼれるような人工的な笑みを浮かべた。 「まあシノちゃん、お久しぶりだわね。きっといいおフレンドができてお見かぎりだったんでしょう。口惜しいわあ」  と言いながら客の腕をつねった。多恵子はそれ以後和多田の席に決して戻って来なかった。  ママに彼を避けるつもりはなくとも、カウンターの一人客がママを独占することはできない。  和多田はしばらく粘《ねば》った後、メモをママに渡すようにボーイに託して店を出た。メモには「中森則男氏と野際るいさんの件についてお話したいことがございます。ご興味がございましたら前の喫茶店サラエボへおいで下さい。午後十一時半までお待ちします」としたためてある。  店に入る前にそんな喫茶店があったのを憶えていたのである。多分来ないだろうとおもっていた。そのときはあきらめるつもりだった。  好奇心から始めたことであり、これも余生の閑《ひま》つぶしである。      9  半《なか》ば以上あきらめていたのが、十一時を過ぎたとき多恵子が店を脱《ぬ》けて来た。 「ごめんなさいね。いまちょうどお店が閑になったので、脱けられたわ」  多恵子は少し上気したような頬《ほお》を押えて言った。あれから少しアルコールが入ったようである。一段と艶っぽさが増している。 「ここはうるさいので場所を変えましょうか」  呼吸を整えてから彼女は言った。 「お店の方はよろしいのですか」 「大丈夫よ。サブママがしっかりしているし、今夜の盛りは終りましたわ」 「盛りって何時ごろなのですか」 「その日によってちがいますわ。九時ごろ来ることもあれば、看板直前に来ることもあります。そんなときは午前二時ごろになっちゃうけど」 「それじゃあこれから盛りが来るかもしれない」 「今夜はもう来ないわ」 「どうしてわかるのですか」 「においがするんです。でも時々その鼻が狂うことがあるけど、でもいいんです」  ということは彼女が店の盛りよりも和多田の話に関心をもっていることを示すものであった。 「それにしてもよくいらっしゃってくださいましたね」  和多田は静かな場所に変えたところで多恵子の面に視線を当てた。こんな機会でもなければ一対一で話せる相手ではない。 「あなたは私を疑っていらっしゃるのでしょう。私、疑われたままでいるの嫌《いや》ですもの」  多恵子は視線を射返した。 「何を疑うのですか」 「おとぼけにならないで。私の許《もと》へいらしったのも、疑いを抱いたからでしょう。そうでなければ野際さんと私を結びつけたりはしないわ」 「野際さんとはどんなご関係だったのですか」 「野際さんのご主人と私の父が小学校の同窓だったのです。その縁《えん》で野際さんが寝たきりになってから、私が時々お見舞いに行ってました」 「野際さんが強盗殺人の被害にあった当日からあなたは電車に乗らなくなりましたね。会社もほぼ同時に辞め、サニーテラスから引き移った……」 「ああやっぱりそのことで疑ってらしたのね」 「唐突に見えましたのでね。興味をもったのですよ」 「興味も疑いも同じようなものですわ。本当のことを申し上げます。実は野際さんから頼まれたのです」 「頼まれた?」 「こんな寝たきりになって生きていても仕方がない。早く先立った主人の許へ行きたいのでひとおもいに殺してもらいたいと以前から頼まれていたのです。もし望み通りにしてくれたら、主人の遺産をそっくり私にあげると言って、大金を見せてくれました」 「それで殺したのですか」 「まさか」  彼女は口許だけで笑った。 「そんなことを考えてはいけない。そんなことを考えるのは独りでいるからで、施設か民生病院へ入るように勧めたのです。でも野際さんはそんな所へ入るくらいなら死んだほうがましだと言いました」 「野際さんは強盗に殺されたことになっており、結局望み通りになったのですが、強盗は殺害事実を否認しております」 「野際さんを殺したのは、中森です」  多恵子はなんでもないことのように言った。突然核心の言葉が出てきたので和多田は咄嗟《とつさ》に対応ができなかった。 「私と中森は勤め先が隣り合っていたことから知り合い、愛し合うようになりました。中森が私を単なるセックスの捌《は》け口にしていることはわかっておりました。重役の紹介で結婚した後は、浮気が露顕《ろけん》すると会社にいられなくなると極端に警戒しておりました。彼と安全に会うためにM市のサニーテラスを借りたのです。それ以前から野際さんを時々見舞っていたのでM市の様子はわかっていました。  中森は私とつき合うようになってから賭《か》け事に凝《こ》り、会社のお金を使い込んでおりました。早急に穴を埋めないと露顕寸前のところへ追いつめられていたのです。  私もかなり融通《ゆうずう》してやったのですが、焼け石に水でした。そんなとき、ふと野際さんの話を私が漏らしたのが、彼の悪心を引き出したのです。  三月三十一日の夜、サニーテラスで会うことになっていた彼が、午前一時ごろやって来たのです。様子がおかしいので、何があったのかと問いつめると、野際さんを殺してきたと白状しました。つまり望み通り死なせてやって、謝礼として遺産をもらったというのです。  そんなことをしてただですむとおもっているのかと詰《なじ》ると、きみさえ黙っていてくれれば絶対にわからない。婆さんはいずれ死ぬ身だ。死ねば遺産は国のものになってしまう。本人も早く死にたがっている。望み通り死なせてやってお礼をもらったのだから、悪いことをしたわけではない。婆さんの遺産で穴埋めできるし、きみさえ黙っていてくれれば八方円くおさまる。こんなことで自分が捕まるような破目になれば私たちの関係が表沙汰になってきみにとってもいいことはなにもない。おねがいだからなんにも知らなかったことにしてくれと私に手を突いて頼みました。  あまりの身勝手さに呆《あき》れ果てて言葉もありませんでしたが、その未明に強盗が入って放火するという幸運な偶然が重なって強盗がみんな罪を引っかぶってくれたのです。  その夜を最後に私は中森と別れました。そろそろ潮時《しおどき》だとおもっていたのです。中森との不毛の愛に疲れ、もはや強盗殺人の罪まで共有する気力は残されておりませんでした。それをきっかけにサニーテラスを引きはらい会社も辞めたのです」 「毎朝、電車からハンカチを振った相手はだれだったのですか」 「お婆ちゃんです。お婆ちゃんが寂しがるので寝床から電車が見える位置に鏡台をおいて出勤時にハンカチを振ったのです」 「失礼ですが、あのお店の開店資金はどちらから手当なさったのですか」 「退社した後、お世話をしてくださる財界の大物がいまして、その方が出してくれたのです。ちょうどいまの店が居ぬきで売りに出ていて割安に手に入りました。おかげでお店も繁盛《はんじよう》して、政財界、各界の有名人がたくさんお見えになってくださいます。警察のお偉方までお見えになるんですよ。女の子たちがよく冗談に言うんです。ある日私の店にだれかが爆弾を投げ込めば、日本の政治や経済や文化活動が一時麻痺してしまうかもしれないって。おほほほ」  多恵子は勝ち誇ったように笑った。その笑いが余計な詮索をしても無駄だと暗に諭《さと》しているようであった。      10  なんとなくはぐらかされたような気分で和多田は福村多恵子と別れた。結局いまとなっては彼女の言葉を信ずる以外にない。これが素人探偵の限界である。しかもこの探偵は職業的義務もなければ依頼人《クライアント》から調査を頼まれたわけでもない。個人的に捜査すべき理由も動機もない。  通勤電車の中で袖摺り合っただけの好奇心からここまで追いかけて来たのである。だが通勤電車は彼にとって人生の重要な一部であり、野際るいは彼の�戦友�であった。戦友の不可解な死を追及するのは、彼女の戦友としての義務であろう。  それもここまで追いかけてやればもって瞑《めい》すべしであろう。和多田には福村多恵子から聞いた�真相�を司直に告げて強盗の無実を晴らしてやろうとする意志はなかった。強盗は野際るいの金を目当に押入ったのである。  たまたま�先客�がるいを殺し金を奪っていったので、彼が先客の罪を肩替りした形になったが、先客がいなければ彼がすべて(殺人強盗放火)を一人で犯したかもしれない。悪性においてなんら変りないと和多田はおもった。  数日後、和多田は仕事中過って右手の指を傷つけた。大した怪我《けが》ではなかったが、右手に力が入らず日常の行動に不便であった。健康な間は気がつかないが人間の体とはどんな精密機械にも優《まさ》る精巧な構造になっており、ほんの指先、いや爪先を傷つけただけで日常生活に支障をきたすことを実感した。  その日、和多田は知人に送る物があって小包をつくっていた。ところが指先に力が入らずひもが結べない。妻に結んでもらってようやく小包をつくった。 「この指がなおらないことには当分開店休業だな」  和多田が苦笑すると、 「ちょうどいいじゃないの。ご隠居仕事なんですからね、あんまり根《こん》をつめることはないわよ」  妻がやんわりと諌言《かんげん》した。停年退職してようやく夫が自分の許へ帰って来たとおもったら余技が大繁盛して追いまくられているので、かえって、これを言葉どおりの�怪我の巧名�として喜んでいるようである。 「まいったなあ、たかが指一本で……」  と言いかけた和多田の脳裡になにかが走った。彼は凝然《ぎようぜん》として走ったものの行方を見ていた。  中森則男は若いころ登山をして凍傷で左手の人さし指と中指の先端を失っていた。中森はもうザイルを握れなくなったと言っていた。そんな彼が人の首にひもをかけて絞殺できるはずがない。  やはり野際るいを殺したのは福村多恵子であった。彼女が老婆の首を絞めて、金を奪ったのだ。そしてその罪を死んだ中森に転嫁《てんか》したのである。  それもいまとなっては証明するすべはない。彼女の罪を強盗と中森が二重に負担している。二重の防壁というべきか。強盗の無実を晴らしたとしてもその背後に中森が立ちはだかっている。死人に口なしである。だからこそ彼女も安んじて�真相�を語ったのであろう。  多恵子がどの程度の遺産を野際から奪ったのか、また野際が本当に多恵子に自殺を幇助《ほうじよ》するように頼んだのか、知る由《よし》もない。  多恵子は不毛の愛に疲れたと言ったが、遺産を手に入れたのを、中森と別れるきっかけにしたのかもしれない。  滝本の闖入《ちんにゆう》に助けられて完全犯罪となったが、多恵子と滝本の間に連絡があったらどういうことになるか。  連想の導火線がもう一つの記憶をよみがえらせた。滝本は「生命保険のセールスマンから野際るいが金を貯めていると聞いた」と供述したのである。  和多田は、一つの意志をもって滝本を暗示的にそそのかしている多恵子を想像した。滝本をおびき出し、彼の性格から彼が怒って火をつけることまで計算していたのかもしれない。  だがいまとなってはすべて推測するのみである。通勤電車の中から手繰《たぐ》った完全犯罪であったが、結局それを攻略することはできなかった。彼が突き止めたとおもった事件の�真相�なるものも野際るいの鏡に映った影像にすぎなかったかもしれない。 「ここまで来られるものならいらっしゃい」  勝ち誇っている福村多恵子の笑い声が耳許に聞こえた。 「あなた、どうなさったの」  独りのおもわくに閉じこもっていた和多田は、妻の呼びかける声にはっと我に返った。  今日も通勤電車は無数の勤労大衆を詰め込んで走っている。  身体を密着し合っていながら彼らはそれぞれの人生に無縁である。どんな凶悪な犯罪者や完全犯罪と隣り合わせていても「知らぬが仏」である。  無縁の隣り合わせた人生に踏み込んでここまで来たのが限界である。通勤電車に乗らなくてもよい身分になったことは、ある意味では人生本番が終ったことを意味する。  和多田はやがて寝たきりの身となり、鏡台の中に窓外を通過する通勤電車の影像を眺《なが》めて無聊《ぶりよう》を慰めている自身の姿を想像した。  そうなったときはたして自分にハンカチを振りかけてくれる女性がいるだろうか。そんな女性がいれば自分の植物化した老残の余生を彼女によって終止符を打ってもらいたいと願うであろう。 [#改ページ]  凶隣《きようりん》の巣《す》      1  いきなりコップが宙を飛んで来た。 「てめえ、オチョクッてやがるのか」  つづいて罵声《ばせい》が飛んだ。 「だれもオチョクッてなんかいないよ。親が出かける子供にどこへ行くのって聞くのはあたりまえじゃないか」  母親の声がおろおろしている。 「うるせえ、おれがどこへ行こうとおれの勝手だ。いちいちてめえの指図は受けねえ」 「べつに、なにげなく聞いただけだよ。挨拶《あいさつ》と同じだよ」 「おれはそういうのがでえきれえなんだ。これから出かけようってときに口を出すな」 「悪かったね」 「なんだ、その言い方は」 「悪かったとあやまってるんじゃないか」 「その口のきき方が気にいらねえんだよ」 「それが親に対するものの言い方か」  見るに見かねて父親が口をはさんだ。 「なんだ、てめえは」  息子が父親の方へジロリと目を向けた。 「母さんにそんな口のきき方はないだろうって言ってるんだ」 「でけえ口を叩《たた》くんじゃねえ。てめえは臭《くせ》え。失《う》せろ」 「ひどいものの言い方だな」 「てめえの面《つら》を見ているとムカついてくるぜ。早く散れ」 「そんなものの言い方が世間に通るとおもってるのか」 「野郎、やるってえのかよ」  息子は父親の前に険悪な形相《ぎようそう》をして立ちはだかった。体が大きく、目つきが鋭いので、いっぱしのやくざとして十分通る迫力がある。  もはや父親は体力で争っても息子の敵ではなかった。しかし体力以上に情けなくて争おうとする気力もなかった。  これが我が子かとおもうと情けなくて涙も出ない。凶暴であり、世の中の常識というものがまったく欠落している。自分が世界の中心にあり、自分のおもう通りにならないと荒れ狂う。なにか自分が原因で不都合が生じても他人のせいにする。自分が不安を抱いていることを指摘されて注意されると、発狂したように怒る。  約束の時間には平然と遅れ、文句をいわれると、少しくらい遅れるのはあたりまえであり、早く来たほうが悪いのだと開き直る。すべてこんな調子だからまともな友達はみんな離れてしまった。精神が幼児のまま、体だけが発達してしまったアンバランスが成長と共に拡大されてきた。  類は友を呼ぶで、似たような者が集まって来た。そういう連中の間では、論理や思考はまったく通用しない。幼児的な暴力が唯一の価値をもつグループが形成される。曲がりなりにもお山の大将になったものだからますます増長した。  親に平然と暴力を振うようになった。体力が父親を越えると、家で最大の煙ったい存在がいなくなった。  井戸の中のような小さな世界であっても、そこでは自分が暴君である。世間の常識と法律を遮断《しやだん》して自分勝手に振舞い、それがともかく通用するものだからそれでいいと幼稚な頭でおもいこんでしまう。  それを是正すべき両親を暴力で黙らせてしまう。  突如悪魔に化身したかのような我が子に、両親は為《な》すすべもなかった。もう少し年齢を重ねればおとなになるかもしれないと藁《わら》にもすがりつくおもいで明日に望みをかけていたが、あとわずかで成人に達するという現在もいっこうに改善の兆候《ちようこう》は見られない。  両親は自分たちがいまの我が子と同年輩だった時期とを比べて絶望をおぼえるばかりであった。      2 「なんだよ、これは」  ジロリと白眼でにらまれて少年はすくみ上がった。 「何枚あるかよく数えてみな」  うながされた少年は小さな声で、 「五枚あるよ」 「念のためだ、もう一度数えろ。声を出して」 「一枚、二枚……」 「もっと大きな声を出せ」 「四枚、五枚」  少年の声が半ベソをかいた。  町ではいっぱしの硬派ぶってるモヒカン刈りの少年が、アタマ《リーダー》の前へ出ると借りてきた猫のようにおどおどしている。 「おまえなあ、五千円程度のハシタ金を恥ずかしげもなくよくもって来られたなあ」  吹きつけて来るような凶悪な気配がますます少年を萎縮させる。特別少年院《トクシヨウ》帰りという「札つき」は町のヤクザからも一目おかれる悪の貫禄となっている。 「兄貴かんべんしてくれよ。これでも一日パチンコで粘《ねば》ったんだ。七千円で打ち止めになっちゃうんだからこれで精一杯なんだよ」 「パチンコなんてシケたことやってねえで一発ドカアンとでかい恐喝《カツアゲ》でもやってみろ。まあしゃあねえ。今日はかんべんしてやらあ。次からもっと踏んばれよ」  ようやく許されてモヒカン刈りの少年はホッとしたように額の汗を拭《ぬぐ》った。 「次はマサ[#「マサ」に傍点]か、おめえは何をもって来たんだ」 「すまねえ」  次の少年はアタマの前でうなだれた。 「すまねえって、おまえまさか手ぶらじゃねえだろうな」  アタマの少年は唇の端を曲げて薄く笑った。咥《くわ》えた獲物《えもの》を嬲《なぶ》るのを楽しんでいる表情である。 「今日はちょっと都合が悪くて持ち合わせがないんだ。この次なんとかするからよ、かんべんしてくれよ」 「おまえだれのおかげでこの町でバン張ってられるんだ。会費払わねえで仲間と|対等の口《タメグチ》をきけるとおもってるのかよ」 「わかってるよ」 「わかってたら手ぶらで来るな。おまえの家《ヤサ》はブルじゃねえか。会費ぐらいもらって来い」 「それがちょっとまじいことがあって家へ出入りできねえんだよ」 「おいみんな聞いたかよ。まじいことがあって家に入れねえんだとよ、ここにいる者で家とまずくねえ者がいるか。いたら面《メン》を見せろ」  アタマに同意を求められて、その場の少年たちが阿《おもね》るように先を争って首を振った。 「会費は金でなくてもいいんだぜ」  アタマが含んだ調子になった。 「金でなくてもいい?」 「そうよ。体で払ってもいいんだ」 「体! 兄貴まさか」 「馬鹿野郎、気の回しすぎだ。ちょっとこっちへ来い」  そばへ呼んで耳になにかささやいた。少年の顔色が変って、 「兄貴、それだけはかんべんしてくれよ」 「いやなら無理にとは言わねえよ。そのかわりこの町にはいられなくなるぜ。せっかく帰って来て間もないのに気の毒だがな」  アタマは突き放すように言った。      3 「ねえ、あなた、三階さんなんとかならないかしら。本当に電球代出してもらいたいわよ」  妻の加奈枝がぼやいたとき、天井にドシンと音がしてそこから吊《つ》り下げた電球コードが揺れるほどの震動が伝わった。つづいて複数の足音が走り回る音がした。 「ほらあれですものね、たまったもんじゃないわよ。運動会でもしているのかしら」  加奈枝が眉をひそめた。構造に欠陥があるのか、マンション上層階の住人の床を歩く音が増幅《ぞうふく》されて天井に伝わってくるのである。  吊り下げ灯はまだよいが、天井に直《じか》付けの電球は振動のために頻繁《ひんぱん》に切れる。妻がぼやくのも無理はなかった。 「まあそう言うなよ。三階さんも生活しているんだから足音くらい辛抱《しんぼう》してやらなければ」  吉永が妻をなだめると、 「それじゃあうちは生活をしていないって言うの。一階さんにしょっちゅう文句言われて正一なんか可哀想に狭くとも前の一戸建へ戻りたいって言ってるのよ。このままじゃ性格がいじけちゃうわ」  加奈枝は口を尖《とが》らせた。運悪く一階の住人は子供のいない神経質な夫婦で子供が少し足音をたてて歩くとうるさいの埃《ほこ》りが落ちるのと文句を言ってくる。  足音を吸収する特殊な厚い絨毯《じゆうたん》を敷きつめてようやく苦情を躱《かわ》しているものの、子供は怯《おび》えてしまい、忍び足で歩くくせがついてしまった。  なにかとうるさいくせに一階さんはマンションで禁じられている犬を飼っていて、その吠《ほ》え声が�騒音公害�となっている。  加奈枝はよっぽどそのことを言ってやろうかと憤慨《ふんがい》したが、夫から売り言葉に買い言葉になって隣人と気まずくなるとなにかとやり難《にく》くなると制止されておもいとどまった。  いわば吉永家は上下から挟撃《きようげき》にあっている形である。いや上下からだけではない。右隣りでは趣味にトランペットを吹く。寒い季節は窓を閉めているのでまだ被害はないが季候がよくなると窓を開いて近隣に吹奏《すいそう》(?)を聞かせるので否《いや》でも応でも耳に入って来る。  また左隣りはくさやの干物が好物らしく、共通にしている換気孔を伝って独特の臭気が容赦《ようしや》なく侵入して来る。一軒おいて左隣りはオーディオ狂いである。家にいるときはのべつ幕なしに最大ボリュームでヘヴィメタルのレコードをかけている。  このくさやの干物家とヘヴィメタル家が派手な戦争を繰り広げた。発端《ほつたん》はくさやの干物家がヘヴィメタル家に、 「お宅の蓄音器[#「蓄音器」に傍点]の音、もう少しなんとかならないか」とねじ込んだことである。  応対に出たヘヴィメタル家の主婦がその言い方にカチンときたらしく、 「ご要望に応《こた》えて音は小さくいたします。でもお宅の腐ったお魚を焼くにおいをなんとかしていただけません。私の家の中にまで沁《し》みついて迷惑です」  と反駁《はんばく》したものだから、 「腐ってなんかいません。あれはあじのひものです」 「あじかうじか知りませんが、とにかくあのにおいはたまりません。お好きな物を召《め》し上がるのはご自由ですが、悪臭は自分の家の中だけに閉じこめていただきたいわ」 「悪臭とおっしゃるなら私共にも言い分があります。お宅がベランダで飼っているリス、雨の日など糞《ふん》のにおいが私共のベランダに漂って来て迷惑しています」 「動物が排泄《はいせつ》するのは当然のことです」 「当然のことならよそに迷惑をかけてもよいのですか。そもそもこのマンションの規約では動物を飼ってはいけないことになっていますのよ」 「動物を飼っているのは私共だけではありません」 「いまよその家のことは関係ありません。あなたの家のことを言っているのです」 「そういうことをおっしゃるのであれば私共にも言い分があります。お宅、駐車場がもう満杯なのに車を持ち込んで共有地に駐《と》めてますわね。共有地はマンション全体のものです。お宅だけが勝手に駐車場に利用することはできないはずだわ」 「あら、よくもそんなことおっしゃれますわね。お宅こそ共有地に勝手に花を植えているじゃありませんか」 「花はみんなが楽しめます」 「楽しめれば共有地を勝手に使用していいというものではないでしょ」 「駐車するよりましですわ」 「理屈は同じです」  こんな調子に発展してとどまるところがない。この論争は他の住人を巻き込んで拡大した。住人は相互になにがしかの迷惑をあたえ合って生活していた。  生活から音やにおいが出るのは防げない。多少の規約に背《そむ》いても、たがいに目をつむり合っている。それを徹底されると、生活が息苦しくなってしまう。  だが両家の論争は日頃目をつむり合っている住人相互の抵触《ていしよく》を最大限に引きずり出してしまった。  迷惑は隣人だからではなく、離れた居住者からも突如として受けることがある。  吉永家が入居して間もなく天井から大量の水が漏《も》れ落ちて来て室内が水|浸《びた》しになった。マンション管理会社が調べたところ、三階のまったく方角ちがいの家の排水設備器具が故障して行き場所を失った水が伝い伝って、吉永家の天井から落ちて来たのである。保険によって損害は賠償されたが、修理工事の間、親類の家に疎開を余儀なくされ大いに迷惑を蒙《こうむ》った。      4  吉永多一の一家は、これまで住んでいた一戸建の家が手狭になったので、親戚、知人、ローン等七所借りしてマンションの四LDKに引っ越して来た。新しいマンションは外観もなかなかモダンで、造りも良心的であり、地の利、環境もまずまずの所にあって入居当時は家族を満足させた。  ところが住んでいる間に表面化して来たのが、隣人の問題である。四階建、二十世帯の小型マンションであるが、年齢、職業、性格、育ち、教育、信条、価値観等のまったく異なる、なんの共通項ももたない他人同士が同じ屋根の下に生活するのであるからさまざまな軋轢《あつれき》が生ずるのは当たりまえである。  家族でも長期に起居を共にするうちにはいろいろなトラブルが発生する。これが下町の長屋であれば、人間や生活形態のちがいは住人相互の交流によって�調整�あるいは同化してしまうが、居住者の交流のまったくない、むしろプライバシーの旗印の下《もと》に交流を拒否する現代の集合住宅においては、住人それぞれの生活の個性と様式がもろに衝突する。  まず騒音がある。においがある。生活時間帯のちがいから生ずるトラブルがある。人間同士のトラブルだけでなく、住人が持ち込んだもの[#「もの」に傍点]から発するトラブルがある。例えば車が駐車場のスペース争いを産む。ペットがペットをもたない人の苦情の的となる。ペット同士のけんかが住人相互の関係に影響したりする。  吉永一家も、集合住宅の住人から発する多様なトラブルに悩まされていた。だが「三階さん」が吉永家に迷惑をあたえていることを知らないように、吉永家も居住者のだれかに迷惑をあたえているかもしれないのである。これは現代に生きる人間として当然|忍《しの》ばなければならない社会通念上の辛抱であろう。 「ねえ、あなた、うちの近くに凄《すご》いマンションがあるのよ。今日スーパーで一緒になった三階の野津さんに聞いて驚いちゃったわ」  その日の夕食時に加奈枝が言いだした、彼女のとりとめもない話がけっこう吉永の情報源になっている。 「凄いマンションって何だい」  吉永は食後の茶を喫《の》みながら尋ね返した。 「仲良し同士がお金を出し合ってマンションを建てたんですって」 「それだったらべつに珍しいことでも凄いことでもないだろう」 「そうかしら。私は凄いことだとおもうけどなあ。仲良しの人ほど別に住みたいわよ。だって同じ屋根の下に住んだら見られたくないことまで見られちゃうでしょう。裸の姿を見せないから仲良くしていられるのよ」 「そんなものかねえ。仲良しが近くにいたら心強いとおもうが」 「適当な近さに仲良しがいるのが理想的よ。近すぎては駄目、あなたが官舎を嫌ったのもそのためでしょ」 「官舎に空《あ》きがなかったんだよ」 「課長や部長のご一家と一緒に住むなんて私はゾッとするわ」 「上役と仲良しとはちがうだろう」 「私生活を密着したくないという点においては同じだわ」 「同じマンションに住んだからといってもプライバシーは守れるよ」 「それがそのマンションの凄いところなのよ。居間とか食堂などは共通にしているんですって」 「へーっ、そいつは凄いね」 「……でしょう。私そんなのゾッとするわよ。いくら仲良しでも食事や、寛《くつろ》ぎは家族別々にしたいわよ。私、前の一戸建で一番|嫌《いや》だったことは、お隣りさんに庭の垣根越しに『奥さんいる?』って覗《のぞ》き込まれることだったの。このマンションにもいろいろと嫌なことはあるけど、あの『奥さんいる?』がなくなっただけでも移って来た価値があったわ」 「そういえばおまえはひどく嫌がっていたな」 「当たりまえでしょ。どこの家にも都合ってものがあるでしょ。今日はお天気もいいし、たくさんお洗濯をして、家の中を片づけようと張切っているとき、奥さんいるって入り浸《びた》られたらたまったもんじゃないわ」 「話相手にならなければいいだろう」 「そうはいかないわよ。話しかけられれば二つに一つは相槌《あいづち》も打たなければならないわ。それが食事や居間を一緒にしたら、一日中、奥さんいるになっちゃうわよ。私、自分の家の中では人に気を遣《つか》わず自由にしていたいの」 「きっとそれだけ仲が良いんだろうな」 「なにか不自然な気がするのよ」 「当人たちがそれでうまくいっていれば、いいじゃないか。それこそいいじゃないか幸せならばだよ」 「それがうまくいっているらしいのよね。六世帯がもう三年も一緒に住んでいるんですって」 「それじゃあうちよりずっと古いじゃないか」 「そうよ。だから凄いって言ったのよ」 「なんというマンションだい」 「ホームフレンドハイムというのよ。駅に行く途中三階建のクリーム色のスマートな建物があるでしょ。あれよ」 「あああの建物か。あのマンションなら知ってるよ」 「騒音とかペットとか、生活時間のちがいなんかどのように解決してるのかしら」 「仲良しだからそんなトラブルは発生する余地がないのだろう」 「六世帯もの人間が同じ屋根の下に生活してるのよ。必ずいろいろなトラブルがあるとおもうんだけどなあ」 「話し合ってるんだよ。我々のマンションには話し合いなんかない。尤《もつと》もそれがいいところでもあるんだが」 「寮の規則みたいに縛《しば》られるんだったら嫌ね」 「多分そういうことになっているんだろうな」 「兵営みたいに起床《きしよう》ラッパが鳴ったりしてね」 「よしてくれ。警察学校をおもいだす」      5  ホームフレンドハイムの住人の仲の良さはそれだけではなかった。休日を合わせて一緒に旅行したり、映画や観劇、花見なども都合がつくかぎり共に行くということである。  テレビが話を聞きつけて取材に来たことがある。そのときの話を総合してみると、最初このマンションを発案企画した人は、ある私立大学の教授だそうであるが、発案者はとうに下りてしまい、彼の話を受け継《つ》いだデザイナーが家族ぐるみの交際をしている弁護士に話し、商社マン、建築家、塾経営者、医師と次々に輪が広がっていったそうである。  彼らはいずれもあるスポーツクラブの常連メンバーでもある。その話が出るまでにも一緒に酒を飲んだり、ゴルフをしたりしていた。商社マンを除いては転勤のない自営業である。商社マンも停年後落ち着ける巣をつくりたがっていた。  いずれも一定以上の資力があったことが話を具体化させた。メンバーの建築家が設計建築を請け負った。こうして完成したマンションにはまだ数世帯分のスペースがあるそうであるが、入居を許可されるためには全メンバーの同意が必要ということである。  吉永の住んでいるA市は海に面している。三方を山に囲まれ海になだれ落ちる山腹に発展した温泉都市で、東京からのアプローチもよく、また伊豆半島観光の基点ともなっている。温泉、海、山、史蹟、名勝《めいしよう》と観光資源に恵まれており、日本有数のリゾート都市としてその黄金時代には年間百万を越える客を集めた。  だが便利すぎるのが仇《あだ》となって最近は海外旅行と伊豆方面に客を奪われ年々来遊客が減少している。市では美術館を誘致したり、人工海水浴場を造設したりして、客足の回復に躍起《やつき》になっている。  観光客の減少に反比例して増えたのが、マンション、寮のたぐいである。週末になると、一時的に市の人口が増える。またここのマンションに居を構えて京浜方面に通勤する者も少なくない。マンション族は地元の住人とは別の住民層を形成している。吉永らもこのマンション族に含まれる住民である。  A市では市の振興策としてさまざまな行事《イベント》を催《もよお》す。特に客足の増える夏期にイベントが多い。七月から八月初めにかけて、市や旅館組合が主催《しゆさい》する花火大会が踵《きびす》を接して開かれる。観光業者が花火ツアーを主催して大量の見物客を送り込み、これに近隣からの見物が加わって大変な人出になる。A市の花火はその豪勢なことで定評がある。  花火見物に最もよい海岸通りの波止め岸壁は格好の見物席となり、朝から熾《はげ》しい席取り合戦が演じられる。岸壁の上に座布団や茣蓙《ござ》を早々と敷いて席を取っておく。  馴《な》れた者はビニールシーツや茣蓙をガムテープで岸壁に固定し、名前を記入して先取りする。花火大会の開始は午後七時半頃であるが、その頃に行ったのでは人の頭の後ろから花火を覗《のぞ》くような仕儀になる。  花火は空中高く炸裂《さくれつ》するのであるから必ずしも最前列に頑張っていなくとも見物できる道理であるが、やはり海上の発射台から射ち上げられる�全景�を見ないことにはその醍醐味《だいごみ》は味わえない。海上の仕掛け花火は人の背後からでは�余光�しか見えない。  吉永一家も地元に住む特典で、家の窓から居ながらにして見物する。海岸の至近距離から見物する迫力には欠けるが、広角の視野が得られる。だが残念なことに吉永の仕事の性質上、イベントの都度《つど》その警備に駆り出され、家族全員|揃《そろ》って見物というわけにはいかない。  例年八月七日は市主催の最も規模の大きい花火大会である。この日は各旅館とも満杯となり、京浜、名古屋方面からも見物客が集まって来る。花火の煙りを吹きはらう適度の風があり、花火大会には絶好の条件となった。  この日午後三時頃、市域の通称「落下傘《らつかさん》岬」という断崖中腹の松の木に引っかかっていた少年の死体を磯釣りに来た人が発見した。海面からの高さ数十メートルの海蝕断崖《かいしよくだんがい》が約二キロにわたって連なり、海面には集塊《しゆうかい》岩が白い波に洗われている。落下傘で飛び下りて傘が開くというところから名づけられたらしいが、観光名所よりは自殺名所として名高い。ここから飛び下りると死体は海面下の洞穴《ほらあな》に引き込まれて上がらないと伝えられている。  釣り人は岩の上から頭上の外傾《オーバーハング》する形でそそり立っている崖を見上げて、中腹の古松の枝に引っかかっている菰包《こもづつ》みのようなものを見つけた。彼は包みの端《はし》から覗いている人間の足に愕然《がくぜん》とした。  連絡をうけた警察と救急隊が出動した。ロープをつけた救急隊員が現場まで下りて菰包みをいったん海面に待機していた舟まで下ろして回収した。  菰包みの中から出てきたのは一見十八、九歳の男の死体である。後頭部が砕《くだ》けており、頭髪に血がこびりついている。検視の所見では、死体は新しく死後一〜二日と判定された。頭部は崖から落ちる途中岩に激突して砕けた状況である。死体は司法|解剖《かいぼう》に付すために搬出《はんしゆつ》された。  死者は身許《みもと》を示すようなものは身につけていなかったが、報道されると同時に市内霞町大洋荘アパート辻村|将光《まさみつ》(一九)無職と判明した。  辻村は地元の中学校を卒業すると同時に上京し、都内を転々としていた模様である。一年前にA市に帰って来てから市内の不良少年グループに属してぶらぶらしていた。  生家がA市で旅館を営んでいるので金には不自由していない。警察はまず辻村の交友関係に捜査の焦点をおいた。  翌八日、午前七時ごろA市海岸|埠頭《ふとう》西突堤へマラソンに来た市民が二条のタイヤ痕《あと》が突堤の先端までつづいているのを発見した。不審におもったマラソンマンは突堤の先端まで行って海中を覗き込み、海底に沈んでいる乗用車を発見した。  市民からの通報によって臨場した警察がレスキュー隊の協力を得て海中に沈んだ車をウインチを使って引き揚げたところ車内に一人の男が閉じこめられて死んでいた。  車は暴走族に人気があるM社のGS㈼である。現場は現在使用されていない旧埠頭で、突端に向かってやや傾斜しているために、地元の人からは「下《くだ》り埠頭」とか「下《さ》がり岸壁」と呼ばれている。以前にここに駐車して昼寝をしている間、ハンドブレーキをかけていなかったために傾斜に引かれて車が海中に落ちるという事故が発生してから立入り禁止区域になっている。  市民が時々魚釣りに来たり、マラソンコースやローラースケートに利用したりする以外は、立ち入る人はいない。  昨夜が花火大会だったので、車を駐《と》めて見物している間に勾配《こうばい》に引かれて車が自然に動きだし、海中に落ちたものと推測された。  それにしても車が海に落ちるまでなぜブレーキをかけなかったのかという疑問が提出された。埠頭にはブレーキをかけた痕跡《こんせき》は認められない。マラソンマンに不審を抱かせたタイヤ痕も不使用の突堤上に薄くつもった砂につけられたものである。  車内にあった車検と死者がもっていた免許証から身許が判明した。それによると桑谷《くわたに》良純(一九)市内潮見町ホームフレンドハイム301号室無職である。  桑谷は大学受験に失敗してから市内の不良少年グループのリーダーとなって市内の盛り場をぶらぶらしていた。両親は市内で進学塾を経営していたが、自分の息子が受験に失敗して不良化したことを恥じ、今年四月塾を閉鎖《へいさ》して息子を残したまま行方を晦《くら》ましてしまった。  息子を捨てて親が夜逃げをしたくらいであるから桑谷の悪ぶりは相当なものであった。不純異性交遊や恐喝《きようかつ》、暴行傷害等で保護処分を受けている。仲間内から「悪純」とか「不純」と呼ばれて恐れられていた。  調べに当たった警察は、桑谷良純が前日その場所からあまり遠く離れていない落下傘岬で変死体となって発見された辻村将光と同じ不良少年グループに属していた事実を知って緊張した。まだ桑谷の死因が事故か殺されたものか、不明であるが、時間を接して同一不良少年グループに所属する二人の少年が市域で相い次いで死んだ符合は無視できない。  桑谷の死体も犯罪に起因する疑いありとして同日午後解剖に付されることになった。 「あなた、ホームフレンドハイムの住人たちって凄《すご》いエゴよ」  花火大会の翌日、加奈枝は出勤前の吉永に言った。昨日は落下傘岬で変死体が発見されたために帰宅が遅くなった。今日解剖の結果がわかるはずである。警備の仕事がなくとも花火見物どころではなかった。捜査本部が開設されれば当分家に帰って来られない。 「ホームフレンドハイムがどうしてエゴなのかね」  吉永は靴の紐《ひも》を結びながら妻に背中越に尋ねた。 「海岸の防波堤へ行ったら、ハイムの席がテープで取ってあるのよ」 「あれ、家で見物したんじゃなかったのかい」 「昌子が仕掛け花火を見たいと言いだして、終りの頃になってから海岸へ行ったの」  昌子は彼らの娘である。 「席取りはどこでもやっていることだろう」 「限度ってものがあるわよ。あのハイムの連中、十メートルくらいにわたってビニールを岸壁に貼《は》りつけて席を取っていたのよ」 「十メートルとはひどいな」  一人三十センチくらい要するとして十メートルあれば三十人は坐れる。 「ね、ひどいでしょ。一番良い場所を確保しておいて結局一人も見に来なかったのよ。みんな怒っていたわ」 「ずいぶん勝手だね。なぜ来なかったんだ」 「知らないわ。おおかた屋上からでも見物していたんでしょう。どうせ見に来ないのなら席なんか確保しなければよいのにね。あそこの人たちいっぺんに嫌いになっちゃったわ。自分たちだけ仲良く、住み心地がよければいいのよ、あの人たち、なにがホームフレンドなものですか。ホームエゴハイムとでも改名するといいわ」  加奈枝はよほど腹が立ったらしくしきりに憤慨していた。  その日(八日)の午後、辻村将光の解剖の結果が出た。それによると死因は頭蓋《ずがい》骨|粉砕《ふんさい》、血液中より致死量に充たないブロバリンを検出した。死後経過は解剖時点より溯《さかのぼ》って二〜三日とおおむね検視の所見が裏づけられた。  なお参考事項として衣服と死体を巻いていた茣蓙の表面から大量の殺虫剤フェニトロチオンと微量のダニ類の死骸が検出されたことがつけ加えられてあった。ここに殺人事件と断定され捜査本部が開設されて本格的な捜査が始められた。  その日の朝、A市西埠頭で海中に転落した車が発見され、車内に閉じこめられて死んだ少年が、前日、落下傘岬で死体を発見された少年と同一不良少年グループに所属していた事実がわかるにおよんで、西埠頭における車転落もにわかに別の視点で見られるようになった。  つまりそれは自然発生した事故ではなく、何者かが作為《さくい》した犯罪ではないかという疑惑が生じてきたのである。  もしそれが作為された殺人であれば、落下傘岬の死体と関連してくる可能性がある。凶悪犯罪などめったに発生したことがないA署は、ものものしい雰囲気に包まれた。  改めて西埠頭の現場が綿密に検索《けんさく》された。その結果、その場所からでは市中の建物が邪魔をして花火が死角に入ることがわかった。これで花火見物をしていた間に眠り込んだという当初の推定が崩れ去ったのである。  花火見物に適していれば、車転落時に多くの目撃者がおり、もっと早く引き揚《あ》げられたはずである。さらに解剖により、死者の血液中から大量の催眠剤(バルビツール酸系)が検出された。また血液中アルコール濃度は逆算すると死亡時一ミリリットル中、三・五ミリグラム以上と算定され泥酔状態であったと推定された。推定死後経過は解剖時点で一〜二日である。  桑谷は催眠剤を仕込んだ酒を飲まされ、昏睡《こんすい》しているところを車ごと海中に突き落とされた疑いが濃厚になってきた。  犯人は落下傘岬から辻村将光を突き落とした人間と共通あるいは関連する公算が大である。もしこれが連続殺人事件であるならA署始まって以来の大事件となる。      6  吉永は前日につづく死体の発見と、どうやら両件が同一犯人による殺人事件として連続しそうな気配の中でなにか重大な事実を見落としているような気がしてならなかった。  それは目の前におかれていながら心理の盲点に入っていて見えないのである。  もどかしかった。それが見届けられれば事件を解く鍵《かぎ》が得られそうな気がする。見えそうで見えないもどかしさは、隔靴掻痒《かつかそうよう》どころではない。  捜査は目下二少年の交友関係に的が絞《しぼ》られて進められている。これまでの調べで判明したところによれば 桑谷が市内不良少年グループのリーダーで、辻村はその子分であった。  桑谷の腰巾着《こしぎんちやく》となっていつも行動を共にしていたということである。また桑谷のグループに市内に本拠を構える組織暴力団が目をつけ、予備戦力として吸収すべく接近していた事実も浮かんできた。  当面暴力団関係者が最大の容疑を擬《ぎ》せられた。  西埠頭から車ごと突き落とした手口とも相通ずる。同一暴力団の構成員が手分けして犯行を実行したとも考えられる。  吉永は朋輩《ほうばい》の捜査員と共に市内の暴力団員をしらみつぶしに当たった。だがどうも感触に乏《とぼ》しい。取り調べられた暴力団員は異口《いく》同音になぜ自分らがあんなジャリを殺さなければならないのかと反問した。彼らなりのプライドをいたく傷つけられたようである。 「どうもヤア公の筋ではなさそうだな」  吉永は署への帰途にペアの真矢《まや》刑事に言った。 「吉さんもそうおもいますか。実は私も見当ちがいを捜しているような気がしていたんです」  若い真矢が我が意を得たりと言うようにうなずいた。 「ヤクザという人種は見栄《みえ》で生きている。見栄がすべてだといってもいい。大勢の見ている前で恥をかかされると命を張っても雪《すす》ごうとするが、一対一だと割にすんなり話がつくのも見栄で生きているからだよ。そんな連中が、不良のジャリを相手に危い犯罪《ヤマ》を踏むものかね。そんなことをすれば、いわゆる彼らの男が下がるんじゃないかな」 「私もそうおもいます。だいいち彼らは�簀巻《すま》き�になんかしませんよ。ハジキかヤッパで一発か一突き、それが彼らの美学です」 「クスリ入りの酒を飲ませて眠らせて車ごと突き落とすという手はますます遠ざかるなあ」 「しかし彼らでなければだれということになりますか」 「女は浮かび上がっていないんだろう」 「つき合っていた不良少女《スケバン》は何人かいますが殺すような動機はありません」 「この事件根が深そうだな」  二人がしゃべり合っていると、車が海岸通りにかかった。海に面して大きな旅館やホテルが軒《のき》を連《つら》ねている。町の人は別名「マイアミ通り」と呼んでいる。 「この辺が花火のときの格好の展望台になる所だな」  吉永が通りに沿った波止め岸壁に目をやった。 「まだ席取りのテープの跡が残っています」 「つわもの(兵)共が夢の跡だね」 「おやおや凄いつわものがいますよ。まだビニールを固定したままにしている」  真矢が呆《あき》れた声を出して指さした先にビニールの敷《シー》き布《トアポン》が十メートルほどの長さにわたって岸壁にテープで固定されたままになっている。  花火が終った後も貼りつけたまま、取りはずすのを忘れたらしい。先取権者の名前がマジックペンでビニールの上に書かれてある。  今朝出がけに妻と交《かわ》した会話が吉永の脳裡《のうり》によみがえった。 「きみ、停めてくれ」  吉永が運転していた警官に頼んだ。車がブレーキの軋《きし》りをたてて停まった。 「どうかしましたか」  真矢が吉永の唐突な要求に不審を抱いた。 「ちょっと気になったことがあってね」  真矢の疑惑を軽くいなして吉永は車から下《お》りた。岸壁のかたわらへ歩み寄ってマジックの文字を確認する。「ホームフレンドハイム」と十メートルにわたって書いてある。吉永はガムテープを剥《は》がしはじめた。 「吉さんいったいどうしたんですか」  真矢も車から下りて来た。 「きみ、この名前に憶《おぼ》えはないか」 「ホームフレンドハイム……どこかで聞いたようだな」 「桑谷の住所だよ」 「あっ」  真矢の顔色が改まった。 「そういえば、桑谷の住所はそんな名前でした。でもなぜビニールをはずすのですか」 「女房から聞いたんだがね、花火の夜、ホームフレンドの住人は場所を取っただけで一人も見物に来なかったそうだ。せっかくいい場所を確保したのに一人も来ないというのは、どうも引っかかるんだなあ」 「家で居ながら見たんじゃないんですか」 「それなら席を先に取る必要はない。それに全員が来ないというのもおかしい。なにか都合が悪くなって来られなくなったという状況だが、マンション全部の居住者が来られなくなるような都合とは何だろう」 「住人の一人が死んでいますよ」 「死体が発見されたのは翌日だ。もっとも住人が彼が死んだことを知っていたとすればべつだがね」 「ホームフレンドハイムの住人は花火の夜桑谷が死んだことをすでに知っていたというんですか」 「知っていれば花火見物どころではなかっただろうな」 「それは重大な推測ですね」 「推測だけで裏づけはなにもない」 「ビニールをもっていってどうするつもりですか」 「わからない。ただ気になるんだ」  盲点にあったものが少し見えかけてきたようであった。だがまだ全体の輪郭《りんかく》は現われていない。      7  一方、辻村将光については、犯行場所を落下傘岬の崖の上とする者と、どこか他の場所で殺害されて運ばれて来たと唱える者と説が二分していた。  前者は落下傘岬が人家から離れた寂しい場所であり、犯行実行地として安全性が高い点を挙げていた。他の場所で殺して危険を冒《おか》して死体を移動させる必要はないという主張である。  一方後者は、同岬が昼間は観光客が多く人目があって犯行に適さない、夜間はアベックも近寄らない人気のない場所になるので誘い出す口実がないと反駁《はんばく》した。さらに他の場所で殺害して同岬を死体の捨て場に選んだだけかもしれないと説いた。  はっきりした犯行の形跡が残っていないかぎり、犯行地は両者同じ確率の可能性があるので論争は無意味であった。  だがここに死体移動説を裏づける有力な論拠《ろんきよ》が現われた。 「死体を包んでいた茣蓙と衣服から大量のフェニトロチオンが検出されました。これは有機リン系の殺虫剤で主としてマツクイムシの防除に使用されるそうです。茣蓙にフェニトロチオンがなぜ付着していたのか。それは茣蓙が殺虫剤の撒《ま》かれた地域にあったことを意味しないか。そして死体も同じ地域から来たのではないか。つまり辻村はフェニトロチオンが散布された地域で殺害されて落下傘岬まで運ばれて来たとは考えられないでしょうか」  と主張したのはA署の菅野刑事であった。 「フェニトロチオンなんて薬は初めて聞くがありふれた殺虫剤だと困るね」  A署長が言った。 「それはこれから調べますが、茣蓙や衣服にまで殺虫剤が振りかかったということは、かなり大量に撒いた状況です。特定の時期に特定の殺虫剤を大量に使用した地域となれば、かなり限定されるのではないでしょうか」  菅野の意見が容《い》れられて、殺虫剤の源が調べられることになった。  調べた結果、八月五日市の西郊にある森林公園の一角に農林省林業試験場虫害研究室がフェニトロチオンを空中散布して樹上節足動物の落下数を調査した事実が判明した。  林業試験場では森林公園のアカマツ、クロマツの混交林にマツクイムシによる被害が発生したので、この虫が成虫になって現われる毎年五〜六月にフェニトロチオンをヘリコプターより空中散布しているが、それを利用して樹上節足動物の生息を調査していた。  この調査は数度におよぶ殺虫剤の散布による変化を追究しなければならない。その後追い調査として八月五日に同薬剤の空中散布が行なわれたということである。  早速捜査員は空中散布が行なわれた森林公園の一角を検索した。第二次空中散布の範囲は限定されているので捜査の網が辛《かろ》うじてカバーできた。  言葉通り草の根を分ける作業が数時間つづけられた。捜査員があきらめかけたとき、真矢がとある松の木の根本から睡眠薬の空《あ》きびんと一枚のハンカチを見つけた。M・Hの縫い取りがしてある。  そのすぐかたわらにA市と隣りのN市の境にあるモーテル「花梨《かりん》」のマッチが落ちていた。重大な証拠資料であった。  空きびんとハンカチを鑑識に回す一方、捜査員は花梨へ飛んだ。花梨では辻村将光が何度か�休憩�した事実を認めた。 「辻村の同行者はどんな人物でしたか」  聞き込みに行った吉永は気負い込んで尋ねた。 「前に何度か一緒に来たことのある女です」 「何度か一緒に来たのですか」 「あの顔には憶えがあります。ビデオが撮《と》ってありますよ」 「えっビデオがあるのですか」 「殺人事件と聞いて協力するのですから、こんなことで取り締《しま》らないでしょうね」 「我々は風紀係ではありません」 「それぞれの客室にビデオが備えつけてあり、自分で自分たちの姿を撮《うつ》せるようになっているのです。まあ客寄せの趣向の一つですが、時々消し忘れる客がいるのです」 「辻村が消し忘れたのですか」 「はい。次の客を入れる前に消し忘れていないか確認して、消し忘れがありますと防犯用に一定期間保存しておきます」  経営者はぬけぬけと言ったが、他人のプライバシーを密《ひそ》かにコレクションして悦に入っているのであろう。  花梨から領置したビデオから複写した女の顔写真をもって聞き込みに回った捜査員は間もなく辻村の友人の一人から反応を得た。 「これは橋田美津子ですよ」 「だれですか、そのはしだとかいう女性は」  吉永と真矢は身を乗り出していた。ハンカチのイニシャルと一致している。 「私や辻村の中学の同窓です。たしかN市のデパートに勤めているはずです。そういえば中学時代、辻村と噂《うわさ》があったな」 「二人は仲が良かったのですか」 「カップルになると周囲が二人をなんとなく敬遠するようになります。でもそれから間もなく卒業してしまって、二人がどうなったか知りません」  友人から得た情報に基づいて、橋田美津子の身辺捜査が密かに進められた。橋田は二十歳、昨年春、A市の高校を卒業後、N市の駿河屋デパートに入社した。真面目だがやや内向的な性格である。当世風にいうなら「根クラ」であり、特に親しい友人もいない。  家族はA市に両親と兄がいて同居している。父親は高校教師を停年退職後、塾の講師をしている。兄はA市の市役所に勤めている。家庭は厳格であった。  刑事は内偵を進めるうち、美津子に関してあるエピソードを聞き込んだ。彼女がデパートに勤めるようになってから通勤電車の中で執拗な痴漢に悩まされた。ある朝、彼女は痴漢に対して凄《すさ》まじい逆襲を加えた。  朝、例の如《ごと》くいたずらを始めた痴漢の手をつかんだ彼女は、電車の混雑の中に高々と掲げて、 「みなさん、この人はいやらしい痴漢です。女性の敵がどんな顔をしているかよく見てやってください」と大きな声をあげた。  痴漢は狼狽《ろうばい》して手をはずそうとしたがはずれない。なんと彼女の手と痴漢の手は手錠によってつながれていたのである。  度《たび》重なる痴漢のいたずらを腹にすえかねた彼女は玩具の手錠を買って待ち伏せていたのである。玩具でもとりあえずの拘束《こうそく》力はある。いかにも彼女の性格を示す反撃であった。  刑事らにとってはこの性格が犯人の適格性を示すものでもある。恥辱を蒙《こうむ》った場合に深く胸に含む。忍耐が限界に達した場合、鬼神も三舎を避けるような爆発を引き出す。  二十歳の少女の可憐なマスクに惑わされてはならない。彼女の心奥《しんおう》に内攻する暗い情念を見届けなければならない。  これらの基礎調査に基づいて警察はまず任意取調べを行なうことにした。成人とはいえまだ二十歳に達したばかりである。取調べは慎重を期した。  警察から呼び出されたことは美津子に大きなショックをあたえたようである。彼女にプレッシャーをあたえないように取調べは、取調べ室を用いず、来客用の応接コーナーでさりげなく行なわれた。  取調べに当たったのは、同年輩の娘をもつ吉永と、補佐の真矢である。美津子を割り出した殊勲《しゆくん》の二人でもある。  二人はまず美津子に茶を勧めながら、さりげない世間話から切り出した。美津子は警察に呼ばれたということで全身|鎧《よろい》で固めている。まずこの鎧を脱がせなければならなかった。 「今日はどうもご苦労様です。警察というとみなさん固くなられます、鬼や蛇が棲《す》んでいるわけではありません。どうぞもっとお楽にしてください」  吉永が如才《じよさい》なく声をかけても、固い構えを崩さない。 「デパートのお勤めというのも華やかのようでいてなかなか大変でしょうなあ」 「はあ」 「現代のデパートで売っていないものは、女性と棺桶と麻薬だけだという話を聞いたことがありますがそんなにたくさんの商品を扱っておるのですか」 「さあ、それはちょっとオーバーだとおもいます」  返事をしただけこちらのペースに乗ってきたことになる。 「いったいどのくらいの商品を扱っておられるのですか」 「商品の分類の仕方によるとおもいますけど私共では十万品目くらいです。大都市のデパートですと、五十万とか八十万とかいわれてますけど」  自分の仕事について問われたので、やや口が綻《ほころ》びてきた。 「ほう八十万ですか、凄いものですなあ。それだけたくさんの品物を扱っていますと、万引なんかの被害も多いでしょうなあ」 「万引の被害は売上高の二パーセントぐらいといわれます。薄利多売ですから営業利益は二パーセント前後なんです。ですから万引倒産ということもあり得るんです。保安係が目を光らせていますけど、それでもかなりの被害があります。でも全然万引がないような店では、あのう、なんとか鳥が鳴くといいます」 「閑古鳥《かんこどり》」 「そう閑古鳥、万引がある店は繁盛する店だとかで万引に甘いお店もありますが、私は許せないわ」 「ほう厳しいのですな」 「だって商品に対してお金を払うのは当たりまえでしょう。人の物を盗んで罰せられなかったら、だれもお金なんか払わなくなっちゃうわ」 「その通りですよ。世の中というものは、みんなが決まりを守ることによって成り立っています。決まりを破った者はそれを償《つぐな》わなければなりません。そうすることによって善悪の帳尻が合うのです」  吉永に凝《じ》っと目の奥を見つめられて、美津子はハッとしたようである。いつの間にか吉永のペースに乗せられ、気がついたときは、心理の急所を押え込まれている。  その前に吉永は一枚のハンカチをおいた。M・Hのイニシャルの縫い取りがある。彼女の表情が硬直した。十分な反応であった。 「このハンカチに憶えがあるようですね。どうですか。全部話していただけませんか。あなたのようなお嬢さんがそうしなければならなかったのには、よくよくの事情があったのでしょう」  吉永は優しく諭《さと》すように言った。容疑者は自分の犯した行為を赤裸々に表現されることを嫌う。どんな凶悪犯罪者でも罪(の意識)から逃《のが》れたがっている。人間としての良心の一片でも残っていれば、犯した罪に対して自責し、犯罪事実から目を背《そむ》けたがっている。背けたがっていることが、まだ彼らが人間である証拠なのだ。  この辺の心理を柔らかく包み込んでやると、自供を引き出せる。犯罪者は犯した罪を隠したがっていると同時に、それをだれかに話したいという心理を併《あわ》せもっている。隠すということは罪から逃れたいということであり、だれかに話すことにより心の負担を軽くしたがる懺悔《ざんげ》の心情に傾斜する。  取調べによって被疑者を自供へ追い込むのは、彼らを懺悔の心情に傾けることである。  高飛車な訊問《じんもん》や恫喝《どうかつ》によって強制した自供は後で覆《くつがえ》される恐れがあり、真相を歪《ゆが》める。  吉永はこの辺の心理のツボを押えて教誨《きようかい》僧のように諄々《じゆんじゆん》と説き、美津子の鎧を脱がせ牡蠣《かき》のように堅く閉ざされていた心を開いた。  美津子は唇を引き締めて精一杯耐えていたが、吉永に優しく肉薄されてわっと泣きだした。吉永はしばらく彼女が泣くにまかせていた。  泣きたいだけ泣いた後、彼女は憑《つ》き物が落ちたように素直になって自供を始めた。 「私が辻村を殺しました。中学時代辻村とプラトニックなつき合いをしていました。体の関係をもったのは、卒業式の日でした。辻村は大して才能もないのに大きなことばかり言ってました。家が豊かでいくらでも高校へ行けたのに、馬鹿らしくてここらのイモ高校で勉強なんかできない、東京へ行って一発でかいことをやってきみを呼んでやるから待っていてくれと言って出て行ったまま音信不通になってしまいました。  私はA市の高校を出ていまの職場に勤めたのですが、半年前にひょっこり帰って来て関係の復活を迫ったのです。私は辻村のいいかげんな性格がわかっていたので拒否しますと、東京に行っていた間も一日たりとも忘れたことはない、おれはおまえがいないとだめになってしまうと泣きだされたので、ついほだされてまたつき合うようになりました。  七月の中頃、辻村のアパートに行ったときのことです。辻村が勧めてくれたビールを飲むと異常に眠くなって眠り込んでしまいました。次の朝目を覚ますと、私の隣りに桑谷が寝ていたのです。桑谷は同じ中学の同窓でしたが中学時代から札つきの不良でした。  東京から帰って来てから辻村が桑谷とつき合い始めたという噂を聞いて彼と手を切らなければ別れると何度も言ったのですが、いつも曖昧《あいまい》にごまかされていました。  私は一目で事情を悟りました。辻村は睡眠薬入りのビールを私に飲ませて、私を桑谷への貢《みつ》ぎ物にしたのです。私は辻村を愛していました。どうしようもないだらしのない男でしたが、私をこの世の中で一番想っていてくれる男だと信じていました。その男が野獣のような男に私を貢ぎ物にしたのです。  それだけでなく、その後辻村は私の体を求めてきたのです。私が強く詰《なじ》って拒否すると、おまえの体はどうせ汚れたんだからいまさら使い惜しむことはないだろうと言いました。そのとき私は許せないとおもいました。  八月五日、辻村を森林公園にドライブに誘うと、喜んで従《つ》いて来ました。しばらく私から拒否されつづけていたので、それで許されたとおもっていたようです。公園の人目のない所へ車を停めて、森の中に茣蓙を敷いてお弁当を食べました。頃合をみて用意してきた睡眠薬入りの麦茶を勧めると、間もなく眠り込んでしまいました。  眠ってしまった辻村をリアシートに乗せて、落下傘岬まで運んで茣蓙で巻いて突き落としたのです。崖の中腹の岩に何度かぶつかってバウンドしながら落ちていく途中で松の木に引っかかってしまったのですが、もうどうにもなりませんでした。  いまになって可哀想なことをしたと後悔しています。私が辻村を愛していなければ、こんなひどいことはしなかったでしょう。彼を愛していたからこそ許せなかったのです」  美津子は供述を終えた。だがまだ吉永らは満足していなかった。 「それで桑谷の方はどうだったのかね。きみを犯したのは桑谷だ。むしろ桑谷の方が憎らしかっただろう」  吉永は質問を重ねた。 「もちろん桑谷も憎かったです。でも桑谷は狂犬のようなものです。愛してもいなかったし、時間がたてば忘れられます」 「八月七日の花火の夜は、きみはどこにいたの」 「花火なんかとても見物する気になれませんでした。勤めが終ってからまっすぐ家に帰っていました。でもどうしてそんなことを聞くのですか。まさか私が……」  美津子の目が宙に坐った。ようやく吉永の質問の意図するところをつかんだようである。 「私じゃありません。私、辻村は殺しましたけど桑谷には手を出していません。本当です。私、自分のしていないことまでの責任は絶対に負いません」  ひたむきな目をして訴えた。  橋田美津子の自供によって辻村殺しは明らかにされた。だが桑谷殺しは依然として霧の中である。捜査本部は美津子に対する疑惑を解いていない。連続殺人となれば量刑がちがってくるので、この期《ご》におよんで決め手のない桑谷殺しの否認を通しているのであろうというのが、おおかたの見方であった。 「男にクスリを服《の》ませて簀巻《すま》きにして崖から突き落としたしたたかな女だ。桑谷も彼女が殺《や》ったのにちがいないよ。手口も簀巻きが車に変っただけで似通ってるじゃないか」  捜査会議における署長の意見が大勢意見を代表していた。      8 「真矢ちゃんどうおもう。おれはどうもピンとこないんだよ」  会議の後、吉永は相棒に言った。 「署長の意見ですか」 「そうだよ」 「同感です。美津子は真実を述べているとおもいます」 「八月七日の夜、美津子は自宅にいた。それを証明する客観的証拠はないが、あの二十歳になったばかりの女が一日おきにつづけて殺人を実行できるものかね。それに彼女の性格なら、余罪も必ず同時に自供するはずだ」 「責任感が強く、潔癖《けつぺき》すぎた性格が内攻して犯した犯罪です。そこを吉さんに突かれて自供したのですからね」 「それにだ。仮に彼女を犯人とすれば、別々に殺す必要はない。一緒に誘い出してクスリを服ませ、崖からでも埠頭からでも突き落とせば能率的だろう」 「クスリがちがうというのも気になりますね。聞いたところによると辻村に用いたブロバリンは尿素系の催眠剤で効《き》き方が遅いそうです。一方桑谷に用いられたのは即効性のバルビツール酸系のクスリでした。彼女が犯人なら同じクスリを使うとおもうのです。手口は似ているようで矛盾しています」 「そこは気がつかなかったな。それはいい目の付け所だよ」 「しかしいまのままでは橋田美津子に不利です。連続犯行が絶対にできないとはいえないし、二人の都合が合わなくて一緒に誘い出せなかったかもしれない。また二人一緒では目立ってしまう。クスリも同種類のものが�二人分�なかったとも考えられます」 「そうなんだ。そう反駁《はんばく》されると弱い」 「なにか決定的な反証が欲しいですね」 「気になっていることが一つあるんだ」 「何ですかそれは」 「橋田美津子が現われたので、まぎれてしまったんだがね、海岸通りの波止め岸壁でビニールを回収しただろう」 「ああ、ホームフレンドハイムの花火の席取り用ビニールですね。おもいだしました。せっかく席を確保したのに一人も見物に来なかったのはおかしい。ハイムの住人は桑谷が死んでいたことをすでに知っていたのではないかと吉さん言ってましたね」 「いまになってあれが引っかかってくるんだ。知っていたとすれば、なぜ知っていたのか」 「まさかハイムの連中が……」 「きみ、全員だよ。これをどうおもう」 「ハイムの住人に当たってみましょうか。なぜ来なかったのか」 「多分適当な口実を用意しているとおもうが、悪い考えじゃないな。彼らの反応からなにかヒントが得られるかもしれない。早速行ってみよう」  ホームフレンドハイムは現在五世帯二十四人の居住者がいる。桑谷良純が死に、その両親はいまもって行方を晦《くら》ましているので一世帯三名の居住者が減ったのである。事件は報道されているのに、いまだに両親が現われないのは異常であった。戸籍から本籍地の方へも連絡して行方を探しているがいまだに居所がわからない。あるいは国外にいることも考えられるが、そこまで追ってはいない。  だが、住民登録をいつまでもそのままにしておけない。国民としての権利義務の行使や、契約等においていつまでも行方を晦ましつづけていることはできない。必ず近いうちに姿を現わすはずであった。  ホームフレンドハイムの自治会長格にはこのマンションを企画した根上《ねがみ》増男がなっていた。根上はいかにもデザイナーという�カタカナ人種�独特のにおいを身につけていた。スリムな身体と青白い皮膚は日光を遮《さえぎ》られて仕事をする者の知的な職性を暗示している。額にかかる長い髪をうるさげにかき上げるしぐさが板についている。  Tシャツにバミューダショーツという若々しいいでたちが年齢不相応に感じられない。招《しよう》じ入れられた応接間は冷房がほどよく利いていて、暑い戸外から来た全身の汗を退《ひ》かせる。 「ご苦労様です」  根上は如才なく挨拶をした。 「結構なお住まいですな」  吉永はそれとなく自分の住居と比較して言った。造りやインテリアは一段と豪華であり、間取りもゆったりしている。 「いやそれほどでもありませんよ」  と謙遜《けんそん》して答えた根上は目の端で吉永らの訪意を探っている。 「仄聞《そくぶん》ですが、このお住まいは、仲の良い方々が集まって共同してお建てになられたそうですね」 「はあ。全居住者の意見を取り入れ、金とそれぞれの特技を出し合って建てたのですが、住んでみると、またいろいろと細かい不満も出てまいりますな」 「しかし仲の良い方々が集まって一つ屋根の下に生活されると隣近所のトラブルもなく、理想的な�隣組�でしょう」 「まったくトラブルがないということはありませんが話し合いで解決できます」 「羨《うらやま》しいですな。最近は隣人同士の話し合いすら拒否されてしまう時代ですから」  吉永は自分の住居の�隣人公害�をおもった。あの公害の大部分は話し合いの場がもたれれば解決される性質のものであろう。 「米ソの軍縮交渉も隣人同士の話し合いと同じです。要は話し合いの回路《チヤンネル》があるかないかのちがいでしょう」 「そのチャンネルを維持するのが難《むずか》しい。本当に物心両面共に理想的なお住まいです」  吉永はその点に関してはお世辞ぬきで言った。 「有難うございます。ところで本日はなにか」  褒《ほ》められて悪い気はしない表情を改めて根上は訪意をうながした。アイスティーを運んで来た細君が部屋の隅《すみ》に留まって聞き耳を立てている。 「これはお忙しいところをお邪魔いたしまして失礼いたしました。実はこちらの住人の一人であった桑谷良純さんについてちょっとお尋ねしたいことがございまして」 「ああ、良純君は大変気の毒なことでした。まさかあんなことになるとはね。ご両親がいらっしゃらないので、隣人としてできるかぎりのことはいたしたいとおもっています」 「まだご両親の居所はわかりませんか」 「私共も心当たりを探しているのですが」 「行方を晦ました理由は何ですか」 「これはすでに警察に申し上げたことですが、良純君が不良化したのを苦にしてではないかとおもいます」 「しかし不良化した子供を置き去りにして親が家出をするとは異常ですな」 「そういうケースを最近いくつか聞いたことがありますが、桑谷さんがされるとはおもいませんでした。おそらくそうすることによって、良純君の目を覚《さ》まそうとしたのでしょう」 「目は覚めなかったのでしょう」 「残念ながら以前より悪くなったようですね。両親からすら見捨てられたということで荒れておりました。私共もはらはらしながら見ていたのです」 「それでご両親の行方はいまだにわかりませんか」 「そのうちに帰って来るとおもいます。道具なども全部残したままですし、このマンションは全居住者の共有になっておりますから」 「共有といいますと」 「例えば、自分の区分を第三者に譲渡しようとする場合、全居住者の同意が必要なのです」 「子供が殺されたと知れば、直《ただ》ちに現われていいはずですが」 「桑谷さんは良純君が死んで内心ホッとしているんじゃないでしょうか。前々からあの子は悪魔の子だ。あんな子は生まれないほうがよかったと私に漏《も》らしていました」 「そんなに悪かったのですか」 「桑谷さんご夫婦が家出される直前の家庭内暴力は凄《すさ》まじかったです。殴《なぐ》る蹴《け》る、手だけでは足りず手当たり次第に物を投げつけるわ、包丁を突きつけるわ、生命の危険を覚えさせられるほどでした。私も何度も止めに入ったことがありますが、家の中はめちゃくちゃになっていました。桑谷さんが家出をしたのはよくよくのことだったとおもいます。お二人にとっては一種の緊急避難だったのでしょう」 「いまは避難する必要はなくなったはずですが」 「ホトボリが冷めるのを待っているんだとおもいます。いま帰って来ると、警察の取調べはうけるし、マスコミの集中砲火を浴びます。いやでも良純君の�旧悪�を暴露することになります」 「親心ということですか」 「私はそうおもいます。帰って来ても良純君が生き返るわけではないし、それに……」 「それに何ですか」  ふと滞《とどこお》った根上の言葉の先を吉永はうながした。 「桑谷さんはあの子はこの世の中のお客だ。長く居るとみなさんに迷惑をかけるとおっしゃってました」 「この世の中のお客……つまり死んでくれたほうがいいと願っていたということですか」 「そうだとおもいます」 「それでは犯人は図《はか》らずも両親の願いを叶《かな》えたということになりますね」 「そういうことになりますか」 「仮にも実の親が我が子の死を願うものでしょうか」 「桑谷さんは行方を晦《くら》ます前に良純君を捨てていましたよ。親に悪口|雑言《ぞうごん》の限りを浴びせ、生命の危険を覚えさせるほどの暴力を振う。親子が親子たり得るのは親子の間に慈《いつく》しみ合いと子の親に対する愛と尊敬があるからです。それが成長した暁《あかつき》に突如子供が悪魔に化身《けしん》した如くなったら親子の間の愛情は憎しみに変化するでしょう。まして親の子に対する期待が大きいほど失望が憎しみを増幅します。私自身、桑谷さん親子を見ていて他人事とはおもえませんでした。私が桑谷さんなら自ら子供に手を下しかねませんね」  根上は重大な示唆《しさ》をした。吉永がハッとして根上の面《かお》に視線を当てて、 「あなたは桑谷さんが息子を……」  と言いかけると、 「いやいや、可能性を申し上げただけです。親が子を殺せるはずはないとおもいますよ。ただ親子の間にも憎しみは生じ得ます。それが殺人の動機になるかどうか、微妙なところでしょうなあ」  根上は言葉を曖昧《あいまい》にぼかした。だが根上の示唆は刑事の胸に重大な波紋を投じた。これまでおもってもいなかった発想である。だが子殺しは決して珍しいケースではない。警察が親を容疑圏外においていたのは、「子殺し」という場合、一般の殺人から区別され、自立できない未成熟の子供を親の都合によって殺害するもので、「子殺し」の被害者の九十パーセント以上が十二歳未満の学童であったからである。その中でも嬰児《えいじ》殺しが圧倒的に多い。犯人も九十パーセント前後が母親である。  十九歳、間もなく二十歳になろうという良純は「子供」ではなく青年であり、一般殺人として観念されていたのである。  だが桑谷夫婦からみた良純は「でき損ないの子供」であったであろう。生きていても世間に迷惑をかけるだけと考えればいっそ親の手でと抹殺《まつさつ》を図ったとしても不思議はない。  親が犯人であれば、子供を殺されて行方を晦ましつづけている謎が解ける。桑谷夫婦を関係者としてではなくて容疑者として追う必要があるかもしれない。だがこの仮説では、良純殺しと辻村殺しは別件ということになる。ともあれそれは帰署してからの検討課題になる。  根上の示唆によって訪意をまぎらされた吉永は、彼を訪問した用件に意識を向けた。 「ところでつかぬことをおうかがいしますが、七日の花火はご見物なさいましたか」 「はい。A市名物のイベントですからね、毎年欠かさず見物しておりますよ」  根上は質問の意図を手探りしながら答えた。 「今年はどこでご見物なさいましたか」 「海岸通りで……いや今年は屋上で見物しました」 「海岸通りの波止め岸壁に席を取っておられたでしょう」  根上はおもいだした表情をして、 「そう言えば取っておきました」 「なぜそこでごらんにならなかったのですか」 「それは、海岸がえらい混んでいて、人いきれと昼の余熱で暑そうだから屋上で見物しようということにみなの意見が改めて一致したのです」 「しかし席はそのままにしておきましたね」 「空《あ》いていればどうせ他の人が坐るだろうとおもっていたのです」 「お宅の席だけずっと空いていたそうですよ」 「それは大変すまないことをいたしました。後でビニールを取りはずしにいったのですが、だれかがすでに取りはずしたとみえてありませんでした」  それは吉永が取りはずしたのである。 「あのう、花火の席取りがどうかしたのでしょうか」  根上は心配になったようである。 「いや。せっかく確保した席に一人も見物に来られなかったと聞いて興味を惹《ひ》かれたのです」 「本当に申しわけありません。どうせ行かないとなれば、席など取らなければよかった。みなさんにご迷惑をかけました。来年からは気をつけます」  根上は平身低頭した。 「真矢ちゃん、どうおもう」  吉永はホームフレンドハイムからの帰途、相棒の意見を求めた。 「なんとなくはぐらかされた感じがしますね」 「そうなんだ。根上はしきりにおれたちの意識を桑谷の両親の方へ向けようとしていたとおもわないかね」 「そうですね。根上の言葉を聞いていると桑谷夫婦が子供をひどく憎んでいたように聞こえます」 「なんといっても実の親子だからね。親は子供をどんなに憎んでも許すことができるんだ。その辺が他人とちがうんだな」 「根上が容疑を桑谷夫婦に向けたがっているとすると、おかしな具合になってきますね」 「そうだ。容疑を桑谷に向けたがるということは、そうすることによって彼になんらかのメリットがあるということになるな」 「メリット……まさか、吉さん」 「それが最初からおれの意識に居坐っている疑惑なんだ。根上と顔を合わせてしゃべっている間は、新しい窓を開かれたような気がしたもんだが、どうも前から開いていた窓から目を逸《そ》らさせようとして無理に別の窓を開いたような気がしてならない。  海岸通りが暑くて混んでいることは、今年に始まったことじゃない。根上らは良純殺しに噛《か》んでいるな。だから花火見物どころではなくなったんだ」 「しかし良純が殺されたのは花火の当日か前日と推定されています。席を取ったのはその前かほぼ同じころでしょう。殺す前には花火を見ようとする意志はあったことになりますね」 「ホームフレンドハイムの住人は一人じゃないよ」 「すると全員が」  その着想の途方もなさに、真矢は息をのんだ。 「子供は除外してよいとおもう。水も漏らさぬような緊密なマンション居住者の中に悪魔の化身のような存在が割り込んで来たら、どうなるとおもう。その化身は親からも見捨てられて居坐っている。ただ一人の異分子のおかげで大勢が半生の苦労と金を費《ついや》してようやく建設した城が脅《おびや》かされているのだ。全員が協力して異分子を排除しようとしても不思議はあるまい。これは彼らにとって正当防衛なのだ。殺人計画が進行するかたわらで、花火の席取りも行なわれたのだろう。その時点では花火も見物したいという意識があった。  だが殺人が完了した後で一応席は確保したものの彼らは人混みの中へ出て行く気力を失ってしまった。この推測どうおもう」 「いい線行ってるとおもいますが、どうやって証明しますか」 「それなんだ。証明のしようがない」  疑惑は募《つの》っているが、攻め口がつかめないのである。      9  翌日、意外な人間が本部を訪ねて来た。ちょうど居合わせた吉永が応対した。訪問者は五十歳前後の品の良い夫婦であった。吉永と向かい合うと、男のほうが深々と頭を下げて、 「この度《たび》は息子のことで大変ご迷惑をおかけいたしました。私共は桑谷良純の親でございます」  と名乗った。吉永は驚きを抑《おさ》えて、 「あなた方が! お待ちしておりましたよ。ご子息は気の毒なことをいたしました。解剖の後、ご遺族の確認のためにまだ遺体は保存してあります」 「お手数をおかけいたしました。こうなるのはあの子の運命だとおもい、このまま名乗り出ずにいようかと考えたのですが、無縁仏になってしまうのかとおもうと不愍《ふびん》でたまらなくなり、家内に引っ張られてやってまいりました」 「ご事情はお察し申し上げますが、血は水より濃いといいます。ご子息さんもご両親に葬ってもらえば成仏《じようぶつ》なさるでしょう」  桑谷のかたわらで細君が面を抑えて嗚咽《おえつ》した。 「おもえば可哀想なやつです。生まれたことがあの子の不幸でした。あの子は周囲に不幸しかもたらさない子でした。一緒にいるだけで周囲の人を不愉快にさせるのです。親としてなんとか矯正《きようせい》しようとしたのですが、成長するにしたがって性格が歪《ゆが》んで手におえなくなりました。  なにか意見がましいことを言っただけで荒れ狂い、家の中の物をめちゃめちゃに壊《こわ》すだけでは足りず、親にも手を上げるようになりました。家を出るまでにも家内は何度も怪我をさせられております。一度ならず頭を殴られたり物を投げつけられたりして昏倒《こんとう》したことがございます」 「あなた、止めてください」  かたわらから細君がたまりかねたように声を出した。それを無視して桑谷は話しつづけた。 「家を出たのはあの子が刃物を振りまわすようになったからです。それも手かげんせずに親に向かって刃物を突きつけるのです。このままいけば重大な結果になるのは目に見えていました。家を出たのは私たちの生命を守るためではありません。あの子を親殺しにしたくなかったからです。尊属殺人は死刑か終身刑です。あの子は間もなく二十歳になります。この際おもいきって一人に突き放せば、少しはよくなるかもしれないとおもったのです。これまでもいろいろと手を尽したのですが、これが最後の試みでした。殺されたと報道されたとき、いつかこの日が来ると予感していたのがついに的中したとおもいました。  でもあんな子でもやっぱり我が子は我が子です。あの子はホームフレンドハイムの住人に殺されたのです」 「どうしてそんなことがわかるのですか」  きっぱり言いきった桑谷に吉永は反問した。 「私にはわかるのです。ホームフレンドハイムの人たちは異常に緊密な隣人意識によって結ばれております。私共もかつてその仲間だっただけによくわかるのです。住居の平和と隣人同士の連帯を乱す者を敵とみなします。もともと隣人を味方とし、世間を敵視する人たちが寄り集まってつくった住居なのです。そこでは良純のような人間は異教徒よりも許し難い存在なのです。私共がマンションを出た後、居住者全員が共謀して良純を殺したにちがいありません」 「そうだという証拠がありますか」 「私の確信です」 「あなたの心証だけではどうにもなりませんな」 「わかっています。ただ刑事さんに申し上げたかっただけです」  桑谷はうつむいた。できの悪い息子を背負ってこれまでの半生を歩いて来た彼ら夫婦は、いまその負荷《ふか》を取り除かれて急に老いと疲れが発したように見えた。 「一つお聞きしたい。そんなご子息をかかえていながらどうしてホームフレンドハイムに入居したのですか」 「和気藹々《わきあいあい》たる隣人たちとの生活が、あるいはあの子の性格を柔らかくなおすかもしれないとおもったのです」  ここに桑谷良純の死体は両親の許《もと》に引き取られた。彼らが帰った後、吉永は憮然《ぶぜん》として言った。 「ホームフレンドハイムに入居した桑谷一家も結局エゴだったね」  真矢の目がその意味を問うた。吉永の言葉の含むものがすくい取れなかったらしい。 「良純のような人間がハイムに入って行けばそこの平和と連帯を乱すことは予測できたはずだ。それにもかかわらず、息子のことだけを考えて無理に入居したのだ。親同士仲が良くとも、それを子供たちが相続するとはかぎらないのにね」  真矢は吉永の言葉の底に潜《ひそ》む重大な含みを悟って凝然《ぎようぜん》となった。 「それではもしこれからも良純のような子供が出て来れば、同じ様な事件が起きるかもしれませんね」 「さあそれはどうかな。それまで親同士の誼《よしみ》がつづいているかどうか」  吉永の心証に、桑谷夫婦の示唆が加重されたが、依然として攻め口はつかめない。橋田美津子は良純殺しについては頑《がん》として否認を通している。捜査本部でも美津子の連続犯行について否定的な意見が勢いを得てきていた。  吉永が会議で自説を開陳《かいちん》し、両件は別件説を強く唱えたからである。このままだと、美津子は辻村殺しだけで起訴される公算が大きい。事件は報道されて、捜査陣が辻村の死体を巻いた茣蓙に付着していた殺虫剤から犯行現場を割り出した過程が紙面の大きなスペースを占めた。      10 「ホームフレンドハイムの連中が海岸通りを熱心に掃除していましたよ」  その朝出勤すると、真矢が言った。 「ほう、そいつは奇特な話だね」  吉永はなにげなく聞きすごした。 「波止め岸壁を越えて立入禁止になっている海岸のテトラポットの間にまで潜《もぐ》り込んでゴミを拾い集めています」 「なぜ海岸通りを掃除するんだ。どうせ掃除をするんなら自分の家の周囲をすればよいのに」 「さあ、あすこがこの街の顔のような通りだからじゃないですか。祭りや花火、イベントがある度にせわになります」 「花火だって?」  吉永はなにかに触発されたような顔をした。 「花火がどうかしましたか」 「ハイムの連中、テトラポットの間からゴミを拾い集めていると言ったな」 「言いましたよ」 「どんなゴミを集めていたね」 「さあ通りすがりでよく見ていたわけじゃありませんがね」 「ビニールを集めていなかったか」 「ビニール?」 「花火の席取りに使ったビニールだよ」 「ああそういえばそんなようなものを拾ってましたよ」 「それだ!」  吉永がいきなり大声を発したので、周囲から視線が集まった。 「ああびっくりした。ビニールがどうかしたんですか」 「桑谷良純の死体が発見された日、ぼくが波止め岸壁からハイムのビニールを取りはずしただろう。彼ら、それを探しているんだよ」 「なぜそんなものを探しているんでしょうか」 「あのビニールの敷《シー》き布《トアポン》になにか都合の悪いものがあるんだ」 「だったらなぜもっと早く回収しなかったんでしょう」 「いままで気がつかなかったんだよ。今朝になってあのビニールの重大性がわかったんだ」 「なぜ今朝になって?」 「今朝の新聞になにが出ていた?」 「辻村殺しの犯行現場を割り出したプロセスが載っていま……あっ」  真矢もようやく悟ったらしい。 「すぐにあのビニールを鑑識さんに検査してもらってくれ。同じ殺虫剤が出て来るかもしれない」  吉永がなにげなく保存しておいたビニール布がにわかに重大な意味を帯びてきた。もし同じ薬剤が検出されたらどういうことになるのか。ホームフレンドハイムの住人も同じ場所へ行ったことを意味しないか。それは彼らが辻村殺しの現場にいたことを意味する。そしてそれは事件にどのように結びついてくるのか。  検査の結果、予測した通りかなり濃厚なフェニトロチオンが検出された。辻村の死体を巻いていた茣蓙に付着していた同じ殺虫剤である。だが「辻村の茣蓙」になかったものがあった。日数が経過していたので腐っていたが、大量の昆虫、節足動物の死骸が殺虫剤と共に付着していたのである。その動物の種類は、ダニ、トビムシを筆頭に、アリ、ハチ、甲虫類などである。 「辻村の茣蓙」にもダニが少々付着していたが、数量と種類において比較にならない。もっと早い時間に検査をしていればより多種多様の節足動物が見分けられたはずである。  ビニールと茣蓙のちがいは、この両者が薬剤散布された場所に異なる時間帯におかれていた状況を示すものである。どうちがうのか、薬剤を散布した林業試験場に問い合わせたところ次のような答えがきた。 「樹上節足動物の生態調査をするために薬剤を空中散布したのは八月五日午後三時ごろでした。当時は無風快晴でした。だいたい散布した初日に最も多くの個体が落ちて来るのが普通ですが、風が無いと、多くは樹上に留まっていて、風と共に樹が揺すられて落下して来ます。翌日の六日に風が出ましたので大量の個体が落下して来ました」  吉永はこの回答を捜査会議に提出した。 「橋田美津子が森林公園へ行ったのは八月五日午後三時以後であることが林業試験場の実験によって証明されたとおもいます。その時間帯無風であったために薬剤のみが落下して来て、樹上の虫はほとんど落ちて来なかったのです。  もし美津子が桑谷をも同じ場所で殺していれば、その死亡推定時間からして八月六日以後となります。当日はかなりの風がありましたから、当日彼女が森林公園へ行っていれば、茣蓙にかなりの虫が落下して来たはずです。しかるに茣蓙に微量のダニの死骸《しがい》しかなかったという事実は、無風の五日に行ったことを示すものではないでしょうか」 「ちょっと待ってくれ。たしかに茣蓙に虫が付いていなかったということは茣蓙が六日に森林公園になかったという証明にはなるが、美津子が同日に森林公園へ行かなかったという証明にはならないとおもうが。また桑谷が森林公園で殺害された証拠はない。クスリを服《の》まされて車ごと海へドブンと突き落とされたんだ。無理に森林公園へ引っ張って行く必要はあるまい」  署長が異議をはさんだ。 「その通りです。その説明はちょっと保留いたしまして、一方、桑谷が住んでいたホームフレンドハイムの居住者が花火見物のために岸壁に固定しておいたビニールの敷《シー》き布《トアポン》から大量の虫の死骸と同じ薬剤が検出されました。その虫の数と種類を林業試験場に照合したところ八月六日午後の観測量とほぼ符合しました。この事実はこのシートアポンが八月六日午後森林公園に在った状況を意味します。シートアポンだけが森へ行けない。だれが持って行ったのか。つまり、犯人は六日桑谷を森林公園へ口実を構えて誘い出し、そこでクスリを服ませる。眠り込んだところを車に乗せて、岸壁から海へ突き落とす。その際、森林公園でシートアポンに利用したビニールを花火見物の席確保に転用した。七日の夜フレンドハイムの連中はせっかく花火見物の最高の席を確保しておきながら一人も見物に来ませんでした。後日そのシートアポンの重大性に気づいて必死に回収しようとしたのです。ここで私は同ハイムの住人が同夜すでに、桑谷良純が死んでいた事実を知っていたのではないか、またその死に重大な関与をしていたのではないかという強い疑惑をもつに至ったのです」  吉永が口を閉じると沈黙が落ちた。みなが吉永説を測っている。吉永説を集約すると次の通りになる。  注 [#ここから改行天付き、折り返して6字下げ]  八月五日 無風、辻村殺害、殺虫剤散布。    六日 風あり、桑谷殺害。    七日 花火、辻村死体発見。    八日 桑谷死体発見後即日解剖、死後経過一、二日、辻村死体解剖、死後経過二、三日。 [#ここで字下げ終わり]  つづいて真矢が立って、ホームフレンドハイムの住人の犯人適格性について述べた。桑谷夫妻からあたえられた心証が彼の言葉を説得力あるものにしていた。会議の雰囲気はだいぶ彼らに傾いてきた。 「傾聴《けいちよう》すべき意見である。しかしこれだけではどうにもならん。フレンドハイムの花火の席に虫が付いていても、それが住人が桑谷に手を下した証拠にはならない。また席を取っておきながら見に来ようと来まいとカラスの勝手というものではないか。シートアポンの回収を図ったというのも当方の推測にすぎない。海岸通りを清掃していたといわれればそれまでだよ。桑谷の両親がいろいろと訴えていったらしいが、そんなものは子を殺された親が逆上しての言葉と採《と》られる。なんの証拠価値もない。フレンドハイムの住人の状況は多分に怪しいが、残念ながらこれだけでは逮捕状は取れないよ」  署長が言ったのでせっかく有利に傾きかけた雰囲気が覆《くつがえ》ってしまった。      11  橋田美津子は辻村殺しの罪だけで起訴された。桑谷殺しについては証拠不十分として両件を切り離したのである。  桑谷殺しの捜査は継続していたが、美津子が起訴されてからなんとなく気が抜けたような感じは否めない。だれもがホームフレンドハイムの住人を疑っていながら攻め口がつかめないのである。  美津子の公判が始まってから、ある朝、加奈枝が吉永にささやいた。 「ねえ、あなた、フレンドハイムの居住者、解散するんですって」 「なんだって」  吉永は愕然として妻の方を向いた。 「ああ驚いた。いきなり大きな声を出さないでよ」 「いまの話は本当か」 「本当よ。駅前の不動産屋で聞いて来たんですもの。近く売りに出すそうよ」 「なぜなんだ。あんなに仲が良かったのに」 「そんなこと知らないわよ。きっと仲が良すぎて鼻についてきたんじゃないの。所詮他人同士が合宿みたいに生活するの無理なのよ」 「解散するはずがない。そのために共同して人を殺したんだから」 「いまなんとおっしゃったの」 「いやいやこちらのことだよ。しかしねえ、あの仲良しがみんなばらばらに別れちゃうのか」 「別れるから解散っていうんでしょ。ああ、うるさいなあ。ねえ三階さんに注意してよ、お部屋の中で運動会するのは止めてって」  ドシンと震動が響いた天井を見上げて加奈枝が顔をしかめた。  その言葉を背中に聞き流しながら吉永は家を出た。彼は天井の震動を聞いたとき、ホームフレンドハイムの住人の解散の理由が理解できたようにおもった。  隣人とはある距離を保っているからこそ、毎日鼻を突き合わせながらも生活していけるのである。これがその距離がなくなってしまったらたまったものではあるまい。  ホームフレンドハイムの住人たちはその距離を詰めすぎ、遂《つい》に殺人の共犯者となってしまったのである。隣人の連帯が殺人の共犯というのはいかにも重い。その重さが、彼らが半生の成果として築き上げた�我が城�の平和を圧《お》し潰《つぶ》してしまったのだ。  そうおもったとき、上下左右の隣人たちとさまざまなトラブルや迷惑を交換し合いながら生活しているいまの住居の生活が快適におもえてきた。彼らは騒音やにおいやペットの公害を撒き散らしても殺人の共犯になることは決してないからである。 [#改ページ]  死媒祭《しばいさい》      1 「きみは、永久におれの女だ。どんなことがあってもおれはきみを離さない」  たがいに飽食《ほうしよく》して満ち足りているはずでありながら、男は意地汚《いじきた》なく宴《うたげ》のテーブルにしがみつくように女の体を未練《みれん》がましくまさぐりつつ言った。 「だったら本当にあなたのものにして。私だってあんな暴君亭主の所へ戻りたくないわ」  女は、情事の後の快《こころよ》い余韻《よいん》を男より貪欲《どんよく》に反芻《はんすう》しながら裸の肌を男にすり寄せて甘えた。 「いっそこのまま駆《か》け落《お》ちしてしまおうか」  男がおもいつめた目をした。男女共、三十前後であるが、男のほうが精神年齢はずっと若そうである。 「だめよ、そんなこと。すぐに生活に詰《つ》まっちゃうわ。私、手鍋《てなべ》さげてもなんていやなの。あなたを愛しているけれど、貧乏には耐えられないのよ」  女が醒《さ》めた声を出した。成熟《せいじゆく》した女の性が男のたくましい身体に没頭《ぼつとう》していながら、意識の一隅《いちぐう》に夢中になれない部分を残している声である。 「生活なんてどうにでもなるよ」 「それがどうにもならないのよ。まず第一に仕事はどうするの? 駆け落ちしたら、あなたたちまち失業しちゃうじゃないの」 「仕事なんかすぐ見つかるさ」 「世の中そうは甘くないわよ。私、日雇いやアルバイトなんていやよ。私ってお金のかかる女なの」 「ずいぶんシラケてるんだな」  男は鼻白《はなじろ》んだ。 「女も三十になれば、おとなになるわよ。ご飯食べなきゃ生きていけないもの。それに私おいしいご飯を食べたいの」 「ああ、きみの旦那《だんな》がポックリと死んでくれないかなあ」  ため息をつきながら言った男の言葉は真に迫っていた。 「あなた、そんなに主人に死んでもらいたい?」  女が気を引くように男の顔を覗《のぞ》いた。 「あたりまえだろう。旦那さえいなけりゃ、きみはぼく一人のものだ。だれにも気兼《きが》ねなくずっと一緒にいられるんだ」 「だったらそのようにしたらどうなの」 「え?」 「主人に死んでもらうのよ」 「死んでもらうといったってそんな簡単に死んでくれないよ。旦那は健康そのものだからなあ」 「だからあなたが死期を早めてあげればいいじゃないの」 「き、きみ! まさか」  男の声が愕然《がくぜん》とした。 「このままなにもせずに待っていても、あの人絶対に死なないわ。悪い所は虫歯もないのよ。あなたはいつまでも泥棒猫《どろぼうねこ》みたいに人目を気にしながら私に会う以外にないのよ」 「だからといっていくらなんでも……」 「他に方法があって? 主人ね、生命保険かけてるのよ。死ねば二千万円くらい入るわ。それだけあればあなたと当分|優雅《ゆうが》な生活ができるわよ」 「そんなことをしても捕《つか》まれば元《もと》も子《こ》もない」 「あなたも度胸ないのね、捕まらないようにやるのよ。手はいくらでもあるでしょ。交通事故を偽装《ぎそう》したっていいし、崖《がけ》から落っこったことにしてもいいんだわ。でもいいの。いまのお話は冗談よ。どうせあなたにはそんな度胸はないんだから。一生、人の女房を泥棒猫のように盗み食いしてるだけよ」 「生命保険二千万っていうのは本当か」  男の声が改まった。 「そんなこと嘘言ったって仕方がないでしょ」 「旦那を殺《や》っつければ、本当におれと一緒になってくれるんだな」 「いいのよ、無理しなくて。その話忘れて。冗談よ」 「おれは本気だよ。一生泥棒猫で終るか、それとも晴れてきみを独《ひと》り占《じ》めできるかの正念場《しようねんば》だ。おれはやるぞ」 「あなた、本当に主人を殺る自信があるの。主人、強いわよ。独身のころは空手をやっていたのよ」  女の声も改まっていた。 「信頼できる男が一人いる。そいつに手伝わせれば大丈夫だ」 「殺し屋を雇うの」 「映画やテレビの殺し屋じゃないよ。おれの言うことならなんでもきく男がいるんだ。口も固い」 「御礼が要《い》るんでしょ」 「五百万もやれば御《おん》の字《じ》だよ」 「五百万くらいなら私のヘソクリから出せるわ。でも絶対に失敗しないでね」 「失敗するくらいなら初めから仕掛けない。それより、きみの方から露見《ろけん》しないようにしてくれよ」 「それは大丈夫。あなたと私の仲はだれにも知られていないわ。表面上夫婦仲は円満《えんまん》だし、主人は私をツユほども疑っていないわよ」  男女の閨《ねや》の秘《ひ》め言《ごと》は、いつしか具体性を帯びた殺人の計画に変っていった。      2  S県A市は内海《うちうみ》に面した温泉リゾート都市である。三方を山に囲まれ、夏涼しく冬暖かく、一日の気温差が少ない。温泉の歴史は古く、八世紀の初め、ある修行僧が山腹に泉源を発見したのが起源とされる。江戸時代には将軍家御用の温泉として「御汲湯《おくみゆ》」の儀式が執《と》り行なわれ、江戸城へ献湯《けんとう》された。  献湯役を命ぜられた二十七戸の湯戸が現在のA市の中心的大旅館となっている。  新幹線の開通によって東京から近くなりすぎたために、通過客が多くなり、宿泊客が減少した。そのため市では一体となって昔日《せきじつ》の繁栄を取り戻すための観光客|誘致策《ゆうちさく》を次々に打ち出している。年間を通して様々な行事《イベント》を催《もよお》しているのもその一環《いつかん》である。  毎年七月十五、六の両日催される夏祭りも、その由来から離れて、花火大会と共に集客のための夏の最大イベントとなっている。A市の木宮《きのみや》神社のご神体が市域の本浦《もとうら》に流れ着いたとき、それを拾い上げた漁師が持ち合わせていた「麦こがし」を供《そな》えたところから、この夏祭りを別名、「こがし祭り」とも称《よ》んでいる。  祭りの当日には古い宮司《ぐうじ》や禰宜《ねぎ》の装束《しようぞく》をした人たちの行列が麦こがしを街の住人や通行人に振りかけながら市街を練り歩く。また各町内からその年の人気者や社会的話題をもじった飾り付けをした山車《だし》がお囃《はや》しも賑《にぎ》やかに街路にパレードを繰り広げる。山車の囃し手を各町内の子供がつとめて楽しい雰囲気を盛り上げる。祭りの主役が子供であるのも、A市の夏祭りの特色である。  第一日目、山車は海から忍び寄る夕闇と共に、大ホテルが櫛比《しつぴ》する海岸通りへ集まって来て、妍《けん》を競《きそ》う。海岸通りに桟敷《さじき》がしつらえられ、そこに市長をはじめ、市の有力者が顔を連ねて、集合した山車に順位をつける。山車コンクールと共に人出も最大となり、雰囲気は最高に盛り上がる。  海岸から背後の山腹にかけてびっしりと埋めたホテル、旅館、マンション、料亭などの建物には満艦飾《まんかんしよく》の灯が入り、海面に投影している。それを豪勢な借景《しやつけい》として各町内四十数台の山車が、一年の工夫と意匠《いしよう》を凝《こ》らして妍を競う光景は華やかそのものであり、平和の中にあってこそその本領《ほんりよう》を発揮するA市の最も輝いている姿であった。  山車は午後九時を過ぎると、それぞれの町内へ向かって帰途に就《つ》く。山車の解散と共に人出も波が退《ひ》いていくように退いていく。午後九時半には交通規制が解かれて車が入って来た。だがまだ道路には祭りの興奮から醒《さ》めない人たちが未練げに残っているので、車はそれらの人々を避けながら徐行《じよこう》している。  海岸通りの一角に派出所があり、その前で道がT字形に合している。交通規制は解かれたものの、そこに若者たちが群がり始めていた。道交法の一部改正により集団暴走から締《し》め出された暴走族が初めはなんとなく屯《たむろ》していたのが、年を追う毎《ごと》に、突っ張った少年少女たちの集会場のようになってきた。祭りや花火大会などのイベントの後は、ここが彼らの社交サロンの観《かん》を呈《てい》した。それを見ようとして一般の市民が集まって来る。  警察もただ漠然と集まっているだけなのでなにも言わない。  この夜、例のごとく午後九時を過ぎてから祭り見物に来た少年少女が集まって来た。少年は中国服と甚兵衛《じんべえ》の合い子のようななんとも珍妙な暴走族スタイル、頭髪をモヒカン刈りや逆|卍《まんじ》刈りにしたパンクルック、ボンタン(太いズボン)、ハクボンと呼ばれる白い綿パンツ、背中に刺繍《ししゆう》のあるスカジャン(横須賀ジャンパー)、アロハなど、女子はアフロ、カーリーヘア、サーファーズカット、レイヤーズカット、頭髪に|部分染め《メツシユ》を入れ、アイシャドウ、片耳だけのピアス、ハーレムパンツ、超ミニ、三段ギャザースカートなど、てんでんばらばらで統一がないが、ここには現代若者の突っ張り風俗が一堂に会している観がある。  それを見に夥《おびただ》しい見物人が集まって来るものだから、少年少女たちはファツションショーの舞台に上がったモデルになったかのような気分になってますます突っ張った振舞《ふるまい》をする。  集まった女の子の間から突然、黄色い悲鳴が上がった。モヒカン刈りの少年がかんビールを浴びせたのである。  かんを振って栓《せん》を開《あ》けると、内容がスプレイのように勢いよく迸《ほとばし》り出る。この遊びはたちまち仲間たちに伝染《でんせん》した。初めの間は仲間同士でかけ合っていたのが、反応が大きいので通行人に見境なくかけるようになった。  見物人も派手《はで》な悲鳴をあげて逃げまどう。物資の豊かな時代が産《う》んだ贅沢《ぜいたく》なそして幼稚《ようち》な遊びであった。だが危険な玩具《マシン》を取り上げられた若者にとってはその幼稚さがたまらなく面白かった。  かんビールを振り回しているときは、まぎれもなく自分が主役である。自分を中心にして、群衆が悲鳴を上げ逃げまどう。日頃社会の片隅に石ころのように逼塞《ひつそく》していた少年が群衆の中心にいて、群衆を自由に動かしている。その事実が少年たちを興奮させていた。  自分の行為が他人に迷惑《めいわく》をかけているのであるが、自分が中心になり、関心の的《まと》となれれば、行為や関心の性質がなんであろうとかまわない。  しかもいま群衆は迷惑を迷惑ともおもっていない。祭りの余波《よは》の上で、少年たちの馬鹿騒ぎを彼らも楽しんでいるのである。これは群衆から�支持�された遊びなのだ。  群衆の雰囲気が少年たちを増長《ぞうちよう》させた。ビールに飽《あ》き足《た》りなくなった少年が花火を取り出した。ねずみ花火に火をつけ初めは路面に、次第にエスカレートして群衆の中に投げ込み始めた。  ビールはかけられても怪我をしないが、花火となると異《こと》なる。弥次馬たちの悲鳴の色合がちがってきた。遊びは危険性を伴《ともな》うほど面白くなる。かんビール組が花火に負けじとばかり、かん共《ごと》投げ込み始めた。これがもろに当たれば相当の打撃となる。群衆は真剣に逃げるようになった。  逃げまどう群衆に突き飛ばされ、倒れた上に、折り重なる。これまで「子供の遊び」として大目に見ていた警官も黙っていられなくなった。  少年たちの行為はとりあえず軽犯罪法第一条第十項、「相当の注意をしないで、銃砲又は火薬類、ボイラーその他の爆発する物を使用し、又はもてあそんだ者」に該当《がいとう》するだろう。花火が「火薬」に該《あた》るかどうか議論が分れたとしても、同法第一条第十一項「相当の注意をしないで、他人の身体又は物件に害を及ぼす虞《おそれ》のある場所に物を投げ、注《そそ》ぎ、又は発射した者」に確実に触れるだろう。  派出所から警官が出て来て、そのとき最も派手に動きまわっていた少年を捕えた。警察にしてみれば、見せしめであり、市民の手前のデモンストレーションであった。  捕まった少年は不運というか、要領が悪かったとしかいいようがない。みんながやっていた中でたまたま彼一人が捕まったのである。他の少年たちが派出所を取り囲んで抗議した。少年たちには悪いことをしたという意識はまったくない。せっかくの楽しい遊びを警察に邪魔され、仲間の�釈放�を求めることによって抗議を正当化しようとしている。  派出所には数人の警官しかいないのに対して、少年の数は夥しい。彼らが煽《あお》られて暴発すれば、収拾できない状態になるだろう。一時不穏な形勢になった。  だが少年たちはその夜八方から集まって来ただけのその場限りの集団であったことと、予期せざる、はるかに重大なアクシデントによって情勢は一転した。  花火少年が派出所に引っ張り込まれて間もなく、時間は午後十時ごろT字路の中心点の方角から女の盛大な悲鳴が湧《わ》いた。それはいたずらによって起きた悲鳴ではなく、恐怖に引き攣《つ》った声であった。  少年と弥次馬はおおかた派出所の前に移動している。悲鳴が来た方角にはいたずらを仕掛ける者もいなかった。  少年から調書を取りかけていた警官が、悲鳴の方角へ注意を向けたとき、慌《あわただ》しい足音と共に、数人の少女が駆け込んで来た。みな顔が引き攣っている。 「た、大変!」  と言ったきりすぐには後の言葉がつづかない。 「落ち着いて。どうしたんだね」  居合わせた別の警官が声をかけた。 「人が死んでいます」  少女がかすれがちの声で言って、表の方を指さした。 「なに!」  今度は警官が驚く番であった。少年をそのままにしてT字路へ飛び出してみると、その中央辺に一人の男が倒れている。右脇を下に、顔を地上に押しつけるようにしている。一見|酔漢《すいかん》が路上で寝込んでいるようである。  だが近づいて身体に手を触れてもまったく生体の反応は感じられない。身体を仰向《あおむ》けにすると、鼻や口からわずかに出血が見られる。顔面に少々|表皮剥奪《すりむけ》があるが、これは地面に倒れたときできたものか、あるいはそれ以前に形成されたものかわからない。  側頭部に頭髪に隠されているが鈍器《どんき》が作用したような挫創《ざそう》がある。その部位から外力が作用したとみられる。  警官は緊張して直《ただ》ちに本署に変死体発見の一報を入れ、死体の保存を図《はか》った。もはや祭りの興奮から悪ふざけをしていた少年にかまっていられなくなったはずであるが、少年は別の意味の重要性を帯びてきた。 「あんたは今夜本署に泊まってもらうことになるぞ」  警官から厳《きび》しい表情で告げられた少年は、 「おれが何をしたってんだよう」  と口を尖《とが》らせて抗議した。 「死人《ホトケ》が出たんだ」 「それがおれにどんな関係があるんだよう」 「関係ないとは言わせないぞ。おまえは花火の前にかんビールを投げつけていたろう。そいつが頭にぶつかったかもしれない」 「じょ、冗談じゃない。あんなものがぶつかったくらいで人間が死ぬものか」 「とは言いきれない。打ち所が悪ければ死ぬかもしれない」 「かんビールを投げたのはおれだけじゃない。それにおれが投げたのは空きかんだけだよ」  少年は自分に据《す》えられた重大な容疑に顔色を失いながらも必死に訴えた。 「あんたの仲間も泊まってもらうよ」  死者が出たので、かんビールを投げていたモヒカン刈りや甚兵衛《じんべえ》の少年も留めおかれた。      3  連絡をうけて本署から捜査員が出張って来た。まだこの時点では、犯罪死体か異常死体(非犯罪死体)か判然としない。  捜査員の死体観察によって、頭部に鈍体《どんたい》の作用による頭蓋《ずがい》骨が陥没《かんぼつ》するほどの打撲傷《だぼくしよう》が認められた。創傷の部位からして自分でつけられる位置ではない。またかんビールを投げつけられた程度の外力で形成される創傷ではなかった。死体は新鮮で死後一〜二時間と推定された。  ここに少年たちの容疑は消えたものの、死体の犯罪性は濃厚になってきた。A署は県警捜査一課に連絡を取ると共に、緊急配備体制を敷き、検問の網を張った。この種の�路上事件�ではまず目撃者の発見が捜査展開の上のポイントとなる。  だが、ただの「路上」ではない。祭りの最中の路上で、大勢の人出でごったがえしていた。目撃者はあり余っているはずでありながら、死体が転がった現場を目撃した者は一人も名乗り出なかった。  現場には夥しい目があったが、折からの花火投げつけやかんビールぶっかけ遊びの方を向いていたのである。その死角をついて死体が転がされたのである。最初はだれもが酔漢が酔いつぶれたとおもったのであろう。珍しくもない風景であり、からまれるのを恐れてだれも助け起こそうともしない。  たまたま若い女性グループの一人が人に押されたはずみに死体につまずいて、その異様な感触から発見の運びとなったのである。  捜査一課の到着と共に捜査体制は固まり、本格的な捜査活動が展開された。  まず急がれるのは被害者の身許《みもと》割出しである。死者は三十前後の遊び人風の優さ男であり、柄《がら》物の半袖シャツにクリーム色のズボン、ブラッシュドレザー(豚皮の表面を起毛させた)の茶のカジュアルタイプシューズを履《は》いていた。  犯人が身許を不明にするために取り除いたのか、ポケットにはなにも入っていない。衣類にも身許を示すようなネーム類は付いていない。身体にも特に目立つ特徴は見当たらない。死体は司法解剖に付されることとなった。  死体を搬送前に観察していた捜査一課の宮本という老練の刑事が視線を固定させた。 「何かありましたか」  A署の猪熊《いのくま》という刑事が敏感に宮本の視線に気づいた。 「これ何の実だろうな」  宮本が死者の一方の靴からなにかをつまみ取った。彼の指先が長さ三ミリ前後の茶褐色卵形の草の実をつまんでいる。中央に麦のような割れ目があり、全体に短い刺毛が生えている。  見ると、死者の右の靴と靴ひもに昆虫の卵でも産みつけられたようにびっしりと付着している。実の刺毛の先端が鉤《かぎ》のように曲がっており、布類に付着しやすいのである。 「変な草の実だなあ」  宮本が首を傾《かし》げると、 「ああそれはネコジャラシの実じゃありませんか。その辺の草地に一杯生えていますよ」  猪熊が一瞥《いちべつ》して言った。 「ネコジャラシとは全然ちがうよ。ネコジャラシは穂《ほ》が子犬のシッポに似てるんだ」  宮本が猪熊の�鑑定�を一言のもとに否定すると、別の捜査員が覗《のぞ》き込んでスズメノテッポウじゃないかと言いだした。いやスズメノヒエだと言う者もいた。いずれにしても草原や畑地にありふれた雑草である。そんなものを身に付けていたところで手がかりにはならない。 「ネコジャラシでも、スズメノテッポウでもいいんだが、ちょっと解《げ》せないことがあるんだ」  宮本は植物の特定にはあまり関心がなさそうである。 「なにが解せないのですか」  猪熊は宮本の顔色を探った。 「ホトケの靴をみたまえ。右の靴の、特に靴ひもの部分に草の実がびっしりと付いている」 「付いていますね」  猪熊にはまだ宮本の示唆《しさ》の先がわからない。 「なぜ右の靴だけに付いているんだろう」  言われて猪熊は草の実が死者の右の靴だけに付着していることを悟った。 「偶然そんな風になったんじゃありませんか。右足の方にだけ草が生えていたんでしょう」 「それにしても靴にだけ付いてズボンの裾《すそ》や靴下にまったく付かないということがあり得るものかね」 「なるほど、おかしいですね」  ようやく猪熊にも宮本がこだわっている不審がわかってきた。 「するとどういうことになるのですか」  猪熊は重ねて質《たず》ねた。 「ぼくにもいまのところわからない。とにかくホトケがネコノテッポウかスズメジャラシの生えている所から来たことだけは確かだよ」  宮本は、猫と雀を取りちがえた。  解剖の結果は——死因は金槌《かなづち》様の鈍体の作用による頭蓋骨陥没骨折、他に顔面や両腕に抵抗痕跡とみられる擦過《さつか》傷や打撲傷が認められる。創傷の部位および程度から判断して他殺、死亡推定時間は七月十五日午後七〜九時の間、推定年齢から二十五〜三十歳、胃内に食後約一時間と推定される中華そば、豚肉、シナチク、ネギ、その他の野菜が認められる。薬毒物服用の形跡はない。疾病《しつぺい》なし——というものであった。  一方、死者の靴に付着していた主たる植物の実は、セリ科のヤブジラミと判明した。二年草で、茎は枝を分け、高さ五十〜百センチぐらい、葉と共に短い剛毛《ごうもう》がある、六〜七月に白い小さな五弁花が咲く。果実は卵形で先端が鉤のように曲がった刺毛があって衣服類にシラミのように付着しやすいところからこの名前がある。  全国の原野に分布しているが竹林に多く見られるという。その他稲科のスズメノチャヒキ、スズメノカタビラ、タデ科のギシギシなどが少量付着していた。植物の鮮度からして付着後十時間以内と推定された。  ここに殺人事件と認定されてA署に捜査本部が設けられた。まず問題とされたのは被害者の�前足�、つまり殺される前の足取りである。被害者がまったく現金を身に付けていないことから別の場所で殺害されて現場まで運ばれてきたと推測された。 「死体をどこかに捨てるつもりで車で現場まで来たが、折から少年たちが騒ぎを起こして不穏《ふおん》な気配になっていたので、死体をかかえているのが恐くなり、弥次馬の関心が騒ぎの方に集まっている隙に死体を捨てて逃げ出したのではないか」というのが大勢《たいせい》の意見であった。  それにしてもあれだけの人出がありながら目撃者がいないのはおかしいという異論も出たが、祭りの常として酔漢も多く、また見た者がいたとしても関り合いになるのをいやがって黙っているのかもしれないとされた。  なにはともあれ被害者の身許割出しが先決問題である。だがそれは意外な方面から割れることになったのである。      4  そこは幅員《ふくいん》二、三メートル、一車線幅の踏切であった。東海道線N駅に近く、遮断《しやだん》機がいつも下りているところから�開《あ》かずの踏切�とか、�ノロマの踏切�と地元の人から呼ばれている。  七月十七日午後十時ごろこの踏切に一台の小型乗用車がさしかかった。踏切の手前で警報器が鳴り、遮断機が下りた。折から接近して来たのは、いかにも長そうな編成の貨物列車である。  運転者は下りかかった遮断機の下をいったん強引に突破しようとおもったようであるが、すぐにあきらめて、舌打ちをしながら車を停《と》めた。  その少し前、踏切の近くにあるN市希望ケ丘団地の住人篠原保之は、一日の勤めからマイカーで帰って来た。団地の駐車場はすでに満杯であり、彼は隣接する自動車部品会社の専用駐車場に頼んで駐車させてもらっている。そこも社員の車で余裕《スペース》がなくなれば追い出される約束である。  すでに団地の共有地や路傍は、駐車場所のない住人の車が不法に占拠《せんきよ》している。それは緊急の際に消防車や救急車の通行の障害になるだろう。それがわかっていながら住人が交代する都度《つど》新たな車が持ち込まれてくる。  車社会は、いまや駐車場難という新たな社会問題を産み出した。  篠原は、そろそろ満車の状態に近づいている部品会社の駐車場に車を乗り入れながら、ここから追い出されたらどこへ車を置こうかと憂うつになった。文明の利器がその異常な繁殖《はんしよく》によって、むしろ�不便器�となっている。  所定の位置に車を停めて、家の方角に帰りかけた篠原は、近くの車の下にうごめく人影を見つけた。闇《やみ》の中で何をしているのかわからなかったが、その動きが不自然であった。  いったん駐車場から立ち去る風を装《よそお》い、密かに引き返して様子をうかがった。人影は駐《と》めてある車からタイヤをはずそうとしていた。最近この付近で駐めている車からタイヤを盗まれる被害が続発している。篠原はピンときた。犯人は篠原に見られていることに気がつかない。  篠原はもよりの公衆電話へ駆けつけて一一〇番した。  通報をうけたN署のパトカーが現場へ駆けつけると、タイヤ泥棒は盗んだタイヤを大型乗用車のトランクに積んで逃げ出すところであった。  突然パトカーに取り囲まれて、泥棒は仰天《ぎようてん》した。パトカーから下り立った警官が身構えながら泥棒の車に近寄って来たとき、泥棒はいきなりアクセルを踏み込み、パトカーの間をすり抜けて逃走を図《はか》った。  深夜のカーチェイスが始まった。泥棒の運転|技倆《ぎりよう》はなかなかのもので、三台のパトカーは何度も振り切られそうになった。  ともかく三台のパトカーは連係を密にしてタイヤ泥棒を追いつめて行った。追跡劇三十分後、市域の小さな踏切にさしかかった。折から警報器がなり、遮断機が下りかけていた。長い編成の貨物列車が接近していた。踏切には一台の乗用車が停まっている。  泥棒の車はその背後にクラクションをわめかせながら迫った。一車線幅で車一台がやっと通れる程度の狭い踏切なので、進路を塞《ふさ》がれると、逃げ場を失ってしまう。三台のパトカーをきりきり舞いさせたタイヤ泥棒も、いよいよ年貢《ねんぐ》の納《おさ》め時《どき》になったようである。  パトカーは余裕をもって迫った。そのとき血迷った泥棒は信じられないような行動をした。追いつめられたと悟った泥棒は、前方を塞いでいる乗用車の尻に自動車の前部を打ちつけたのである。  貨物列車は鼻先に迫っている。愕然とした前車は押し出されまいとして踏ん張った。質量のちがう後車に押されて、前車の前部が遮断機の下へ少しはみ出した。そこへ後車が再度打ちつけようとして迫った。そのとき前車は自らの意志のように遮断機をはねのけて、線路の上に飛び出した。  前車は迫った列車から必死に身を躱《かわ》そうとした。だが両者の距離はあまりにも接近していた。一拍の遅れで車の後尾が、機関車にくわえ込まれた。  機関車は精一杯|制動《せいどう》をかけたが、それが牽引《けんいん》する長大な編成の慣性をうけて線路に火花を迸《ほとばし》らせながら、約五百メートルを滑ってようやく停まった。その間、機関車の鉄の顎《あご》にくわえられた車はさんざんに噛み砕かれていた。その中に閉じこめられた運転者は人間の形をしていない。  前車を押し出した後車は踏切の手前で停止したまま運転者はその中で茫然《ぼうぜん》としている。 「出ろ! この野郎」 「とんでもねえまねをしやがって」  ようやく追いついて来たパトカーの警官が後車の中にうずくまっていた人間を引きずり出した。警官たちも意外な惨事に血相を変えている。 「おれじゃない。おれがやったんじゃない」  後車を運転していたのは二十二、三歳とみえる若者である。彼は自分が惹《ひ》き起した事故の重大さを悟って必死に自己弁護をしていた。助手席には二十前後の女がいた。 「ナメたことをいうんじゃない。おまえでなければだれがやったというんだ。太え野郎だ」  タイヤ泥棒を引きずり出した警官はおもわず手を上げて仲間に制止された。  現場一帯を通行止めにして被害者の収容、大破された車両の回収、事故現場の検証が行なわれた。  事故の目撃者は三台のパトカーの警官であるから、目撃者としては申し分ない。      5  被害者はN市本町通り三丁目で家具商を営《いとな》む設楽《しだら》建一(三六)である。設楽は所用で現場にさしかかったところタイヤ泥棒の車によって貨物列車の前に押し出されたものである。設楽は首の骨折に加えて全身の圧|挫傷《ざしよう》によって即死に近い状態で死んでいた。  一方タイヤ泥棒は同市山下町の無職石野和彦(二三)、同乗の女は同市水引の沢村由美(一七)で市内私立高校三年生であった。石野は愛知県豊田市出身、地元の高校を中退後市内の自動車車体工場に就職したが、間もなくやめて、名古屋市や浜松市のバーなどを転転とした後、三年ぐらい前からN市へ来た。  N市の風俗営業で二年ほど働いていたが、一年前からぶらぶらしていた。  たまたま一時期働いたバーで年齢を隠してアルバイトのホステスをしていた沢村由美と知り合った。由美は当時からとても高校生とはおもえない肢体《したい》をしていた。濃い化粧を施《ほどこ》すと、二十歳を越えた成熟を見せる。  彼女の母親は市内の不動産会社の社長の囲われ者となっており、娘のことにまったく無関心である。  石野と由美は意気投合して市内のアパートで半同棲の生活をしていた。半年ほど前、金に詰まり駐車場の車からタイヤを取りはずして解体屋に売り飛ばしたところ、もっともって来いと言われたのに味をしめて、犯行を重ねていた。最近はタイヤだけでなく、窓ガラスを切り、ロックをはずして車内の金品なども盗んでいた。  だが警察の取調べの焦点はもっぱら�踏切事故�の方に絞《しぼ》られた。  石野はパトカーの追跡から逃《のが》れようとして設楽の車に自らぶつかっていった。警報器が列車の接近を知らせ、遮断機が下りている状態で前車を列車の軌道上に押し出せば、車が列車にはねられることがわかっている。それを承知でやったとすれば未必の故意による殺人が成立する。  だが、石野は、 「たしかにパトカーから逃げようとして前の車の尻に二度打ちつけた。しかし線路へ押し出すほど強い力ではなかった。サイドブレーキが引いてあったとみえて一度目はほとんど動かなかったので、二度目にぶっつけかけて、そんなことをしたらとんでもないことになると気がついて途中でブレーキをかけた。だから二度目はほんの軽く触れた程度だった。ところが前の車はなにに血迷ったか自分から線路へ飛び出して行ったのだ」と主張した。 「言い逃れを言うな。だれが自分から列車の前に飛び出して行くか」  取調官は石野がこの期《ご》に及んでクロをシロと言いくるめようとしているとおもった。 「本当なんだ。居合わせた警官に聞いてみてくれ。おれは絶対に押し出してはいない」 「警官はおまえが押し出したと言っている」 「嘘だ! おれはやってない」  石野は泣きだした。      6  大破した設楽の車を検《しら》べた結果、サイドブレーキが引かれていなかった状況が判明していた。踏切前は傾斜しておらず、サイドブレーキをかけずに停車していた状況が考えられる。だが、石野車が最初に打ちつけて、再度打ちかけて来るまでの間にサイドブレーキを引く余裕はあったはずである。踏切前で後方から押されたら、運転手は咄嗟《とつさ》にサイドブレーキを引くであろう。  現に警官たちも設楽車が一度はサイドブレーキをかけて踏ん張った様子を目撃している。  ところが設楽車のサイドブレーキは引かれていなかった。ということは、設楽自ら、いったん引いたサイドブレーキを戻して線路上に飛び出して行ったことになる。  さらにパトカーの警官たちは、 「そう言われてみれば、石野が設楽車に打ちつけた勢いはそれほど強くないようでした。事故の瞬間は私たちも逆上していましたが、いまおもい起こすと、設楽車は自らの意志で飛び出して行ったように見えました」と証言した。  さらに現場検証によって、サイドブレーキを引いていれば必ず現場に残っていなければならないはずのタイヤの引きずられた(押し出された)痕《あと》が地面にないことがわかった。 「これはどういうことだ?」  N署の捜査員は首をひねった。 「自分より大型の車に後方から突かれて、このままでは押し出されるとおもって、踏切を越えようとしたんじゃないかな」  一つの意見が出た。もしそうであれば、設楽が列車との距離を誤まって逃げきれなかったことになる。 「それにしてももう少し踏ん張るべきじゃないかな。一度押されただけで、列車の前に飛び出したのは、ずい分気が早いじゃないか」  異論が出された。 「後ろの車から押されて、列車が迫っている踏切の反対側へ逃げようとするのは、運転者の心理として無理があるよ。押されても、必ずしも押し出されるとは限らない。そんな不確定な危険のために、確実に目前に迫っている危険を冒《おか》すとは考えられない」  異論の応援説が出た。 「設楽がなにかにびっくりしたとは考えられないか」  また別の方角から意見が唱えられた。 「何にびっくりするんだね」 「まだわからないよ。とにかく彼はなにかに驚いた。仰天したあまり前後の見境を失って列車の前に飛び出した……のかもしれない」 「そうだとすれば、相当彼を驚かすものだね」 「とりあえず、設楽を驚かせたものは、石野の車にあったということになるな」 「しかし、石野は設楽をまったく知らないと言っている」 「女はどうだ。沢村由美は高校生だが、相当に翔《と》んでる女のようだぞ」 「まあ、これから設楽と石野、沢村の関係はじっくり調べるが、仮に設楽が彼らを知っていたとしても、列車の前に飛び出させたほどの驚きとは何だろう」  その問にはまだだれも答えられなかった。  石野の申立て、複数の証言、現場の状況、現場検証の結果などを総合して、石野が設楽車を列車の前に押し出して死に至らしめた疑いは薄くなった。  設楽建一の死体は変死体として検視の対象になった。  N署の刑事服部は、むごたらしく変形した死体をつぶさに観察してふと奇妙な事実に気がついた。服部の注意を引いたものは死体そのものではなく、その�付属物�である。 「靴の片方に草の実が付いているな」  彼は同僚の安藤に言った。被害者は、ブラッシュドレザーのカジュアルタイプの靴を履《は》いていたが、その左足の特に靴ひもの部分に長さ二、三ミリの楕円《だえん》形の草の実が虫の卵のようにびっしりと植えつけられている。 「よく見かける雑草の実だよ。その辺の草むらを歩くと足や裾に付く」  安藤はあまり興味なさそうに言った。 「左の靴だけに付いているのはどういうことだろうかね」  服部の関心は草の実の正体ではないらしい。 「左側にだけその草が生えていたんだろう」  安藤はこともなげに言った。 「しかし靴だけでなく左右のズボンの裾や折り返しや靴下にも同じ草の実がいっぱい付いているよ。それが右の靴には全然ない。そんなことがあり得るかね」  服部の指摘した通り、草の実は右の靴を除いてズボンの裾や靴下にも付着していた。草むらを歩いて右靴だけに草の実を付けないのは難《むずか》しい芸当である。 「この草の実になにか変なことでもあるのか」 「うん。草の実をよくみると表面に細い小さな刺《とげ》があって、衣服などに付きやすい。こうやってなんにでも取り付いて繁殖するたくましい雑草なんだろう。こんなにくっつきやすい草の実を右靴だけに付けずに歩くのは神技《かみわざ》だよ」 「他人の靴を履《は》きまちがえてくればそういうこともあるかもしれないが、この靴は揃《そろ》っているよ」 「それだ」  安藤がなにげなく言った言葉に服部が大きく反応した。 「それだというと?」 「たまたま二人の人間が同種同サイズの靴を履いていたとしたらどうだ」 「そんなことがあるかね」 「十分あり得るとおもうね。同じメーカーの製品を同じ足のサイズの人間がほぼ同じ時期に買う。この靴は割合いよく見かける靴だし、サイズも標準だ。どちらも買って間もないとみえて履きぐせもついていない」 「すると、被害者がどこかで靴を履きまちがえてきたということになるが、履きまちがえたところでどうということはあるまい」 「A市で殺しがあったろう」 「うん、一昨日の祭りの夜に死体《ホトケ》が転がっていたそうだね」 「まだホトケの身許が割れていないようだが、連絡によると、ホトケの靴一方だけにやはり同じ様な草の実が付いていたということだ」 「な、なんだと!?」  安藤の声が愕然とした。ようやく服部の示唆の意味がわかったのだ。 「すると、あんたはA市のホトケと設楽の靴が一|対《つい》のものだと言うのか」  安藤はかすれた声で言葉を追加した。そうだとすれば一見無関係の二つの事件は相互に関連してくる。 「その可能性が大きいとおもうよ。靴を比べてみればすぐにわかることだ。草の実が靴の片方だけに付いているなんて、まずあり得ないことだからな」      7  N署の服部の着眼によって、設楽建一とA市の身許不明被害者の靴が比べられた。その結果、それは左右の対をなす靴であり、付着していた植物の実はセリ科のヤブジラミ、タデ科のギシギシ、稲科のスズメノカタビラおよびスズメノチャヒキであることが判明した。 「祭りのホトケは右の靴だけ草の実を付けていたところから設楽の靴をホトケが履きちがえたと推測される。ホトケは設楽となんらかの関係、靴を履きちがえるほどの緊密な関係をもつ者と考えられる。同種の靴を履いていたのも単なる偶然とはおもえない。設楽の身辺を探ればホトケの身許は割れるだろう」  A署長の指示の下に、設楽建一の周辺の人間関係が調べられた。  深く調べるまでもなく、被害者は設楽が経営している「シダラ・インテリアーショップ」の従業員|大崎芳秋《おおさきよしあき》(二九)とわかった。設楽の妻、富子《とみこ》の言葉によると、大崎は夫の設楽と同郷で、小、中学校の後輩だったという。その縁で三年前に大崎がつとめていた東京の小型スーパー店が倒産した後、店へ呼んで手伝ってもらっていた。 「大崎さんは人当たりが柔らかく客扱いが上手なので、大崎さんに来てもらってからお得意先も増《ふ》えました。仕事も順調に伸びたので、主人はとても喜んでいました。最近は主人は大崎さんをとても信用して自分の片腕のように仕事を任せていたのです。七月十五日から東京に私用があるということで三日間休みを取っていました。大崎さんもまだ十分若く独り者ですので、いろいろと私用があるとおもい、なにも詮索せずにお休みをあげました。その大崎さんがどうしてA市で殺されたのかわかりません」  設楽の妻は答えた。シダラ・インテリアーショップはN市の目抜き通りのはずれにこぢんまりした店を構えている。従業員は大崎の他に若い女店員二名と、配達のアルバイト二、三名である。大崎は店の二階の一室をあたえられて、住み込んでいる。  設楽の妻は夫と片腕の従業員を前後して失い、途方にくれている様子である。 「大崎さんが殺された事件はテレビや新聞にも報道されたはずですが、気がつかなかったのですか」  同店へ事情を聞きに行った猪熊は質問した。 「テレビや新聞に出ていたニュースがまさか、大崎さんのことだとはおもわなかったのです。写真も似ていませんでしたし、店の者もだれ一人として気がつかなかったのですから」  身許不明の死者の場合、死体の顔をそのまま公開するわけにいかないので、生きているように修整する。それが実際の顔に似ていないこともある。 「大崎さんが人から怨《うら》まれるような心当たりはありませんか」  猪熊は、写真の一件は保留して質問を進めた。 「大崎さんが殺されるような怨みをかっていたとはおもえません。人づき合いがよくて、お客の評判もとてもようございました。ただお店へ来る以前のことは知りません」 「特定の関係の女性はいましたか」 「さあその辺はよくわかりません。独身でなかなか男前でしたから仲の良い女性の一人や二人はいたかもしれませんが、話題にしたことはありません」 「女からの電話や、女の訪問者はありませんでしたか」 「みんなお客様でした」 「女性客の中で特に親しかったという人はいませんか」 「大崎さんは如才《じよさい》なかったので女性のお客のうけもよかったのですけれど、特に親しい方はなかったとおもいます。あくまでもお仕事の上でのおつき合いですから」 「家具の販売で仕事の上のつき合いというと具体的にはどういうことなのですか」 「私共ではでき合いの家具の他にご注文の家具も承《うけたまわ》っております。最近は家に合わせて個性的な家具を注文されるお客が増えています。特に隙間家具が人気があります」 「スキマカグ?」  猪熊は聞き馴《な》れない単語を聞き返した。彼の生活範囲の中にはない語彙《ごい》である。 「住居の死んでいる《デツド》スペースをうまく活《い》かすために、収納家具や上乗せ戸棚などを隙間に埋め込むのです。そういうご注文は主婦が圧倒的に多いのです」 「なるほどその隙間家具ねえ」  猪熊は、隙間家具どころか、隙間だらけの我が家の光景と比べ合わせた。 「刑事さんもいかがですか。手頃な隙間家具が豊富に取り揃えてございますわ」  商魂たくましい設楽の細君は夫を失ったばかりの悲嘆にめげず、猪熊の表情を読んで勧誘を始めた。 「いや、うちはとてもそんな高価な家具は買えないよ」  猪熊が尻ごみをすると、 「あら隙間家具は一般の家具より割安ですのよ。幅五センチ刻《きざ》みずつたくさんのサイズがございます。家具のイージーオーダーとおもっていただければよろしゅうございます」  細君は追い打ちをかけた。 「またの機会におねがいしましょう。ところでお宅の庭にはヤブジラミやギシギシやスズメノカタビラ、スズメノチャヒキなどという草は生えていませんか」 「何とおっしゃいました?」  これは細君の生活範囲にない語彙《ごい》であろう。 「藪虱《やぶじらみ》、羊蹄《ぎしぎし》、雀の帷子《かたびら》と雀の茶挽です。どちらも草原や、畑地などにありふれた草です」 「私共には庭はありません。街中《まちなか》ですから、そんな草も生えていないとおもいます」 「ご主人がそんな草のありそうな場所へ行かれた心当たりはありませんか」 「さあ、配達であちこちへ出かけますから、そんな草の生えた所へも行ったかもしれませんわね、そのヤブジラミとかがどうかしたのですか」 「実はね、ご主人と大崎さんが履いていた靴の片方ずつにその草の実が付いていたのです。草の実が付いていた状況からみてご主人の靴を大崎さんが履きちがえたものと推測されるのです」  猪熊は草の実の両者の身体と靴に対する付着状況を説明した。 「ああ、その靴でしたら主人が三ヵ月ほど前にデパートで二足買って来て、大崎さんに一足あげたのです。二人共、靴のサイズが同じでしたから」  細君の言葉によって同一メーカー、同サイズの靴の符合が説明された。それによって大崎が死の直前、設楽の靴を履きちがえた状況が確認された。つまり、設楽は大崎が死ぬ前に接触したことになる。 「奥さん、これは非常に重要なことですからよくおもいだしてください。七月十五日、つまり大崎さんが殺された日ですが、その日の午後七時から九時ごろまでご主人はどちらにおられたかご存じですか」 「大崎さんが休暇を取った日ですわね。この日は主人は出し損ったお中元を配るということで朝から一日外に出ていました」 「何時ごろお帰りになりましたか」 「たしか午後十一時ごろだったとおもいます」  午後十時前後に大崎の死体をA市に捨てて十一時ごろN市の家に帰ることは可能である。 「どこを回ったかわかりませんか」 「それはわかりません。重要なお得意ではないことは確かだとおもいます」 「それはなぜですか」 「お得意には七月十五日までにお中元を届けているからです。その日は配り損ったり、こちらから出していないのに先方からお中元をいただいた方を回っていたのです。主人が疑われているのでしょうか」 「靴を履きちがえるためには、大崎さんが殺される前にご主人と大崎さんが会っていなければならないのです」 「主人にかぎってそんなことはありません。主人は大崎さんをとても信頼して可愛がっておりましたし、大崎さんも主人を尊敬しておりました。とにかく同じ靴を買ってくるほどなのです。靴だけじゃありません。気に入った物があると必ず二つ買って来て、一つを大崎さんにあたえました。あんまり同じ品物を身につけるとホモとまちがえられるので、せっかくもらったものも一緒に着用しないように気を遣《つか》うと大崎さんが苦笑していたことがありました。その大崎さんを主人がどうして殺さなければならないのですか」  細君は躍起《やつき》になって弁護した。 「あくまでも可能性の一つとして考えているのです」  猪熊は細君をなだめた。      8  設楽家とその周辺にはヤブジラミ、ギシギシ、スズメノカタビラおよびスズメノチャヒキは自生していないことが確かめられた。だがそれらの草の実を付けた設楽の右靴が大崎の右足に履かれたことも事実である。  大崎には右靴以外に草の実は付着していないところから、設楽がどこかその草の実のある場所に行ったと考えられる。設楽の生活行動範囲の中にヤブジラミやスズメノカタビラがあったにちがいない。その草の実の所在より、草の実がどのようにして大崎の身体へ移動したかという点が重要である。  草の実の鮮度からそれが付着後の経過時間は精々十時間と推定されている。十五日朝出がけに履きちがえていれば、問題はない。だが十五日に家を出た後履きちがえたとすれば、設楽家の外で大崎と設楽は接触したことになる。なぜそんな必要があったのか。  また履きちがえが大崎の過失でない場合は、さらに重大である。つまり設楽の過失によって履きちがえた場合である。大崎はすでに自分の靴か否か識別できない状態に陥っていたとする。その足に靴を履かせた。その際、同じメーカーの同じサイズだったのでつい片方をまちがえてしまった。  まちがえた方も、その事実に気がつかないまま、自分の靴と信じて大崎の片方の靴を履いていた。  設楽の細君は設楽と大崎が相互信頼関係に結ばれていて、緊密な仲であったという。だが信頼が強ければ強いほど、それを裏切られたときの反動は大きい。  彼らの間で、従来の信頼関係を突き崩すような事件はなかったか。捜査本部はまず設楽家の周囲に聞込みの網を広げた。  設楽家の評判はよかった。設楽の細君富子は、家付き娘であったが夫をよく立てて、夫婦仲はよかった。夫婦の間には八歳になる小学校二年生の娘が一人いた。  大崎もかげ日向《ひなた》なく働き、主人夫婦の信頼が篤《あつ》いだけでなく、従業員、近所の評判もよかった。警察が疑ったような設楽夫婦と大崎とのスキャンダラスな三角関係は聞込みの網にかからない。  要するに攻め口がまったく見つからないのである。  一方、石野和彦と沢村由美の線の捜査は難航していた。彼らと設楽建一の間にはいかなるつながりも聞込みの網に引っかかってこない。  一時台頭した設楽が追突車のなにかに驚愕して列車の前に飛び出したという説は、尻すぼまりになった。  大破した設楽車の車体をつぶさに検《しら》べても列車との接触によってその後部が著《いちじる》しく損傷をうけており、石野車の追突による損傷がその中に吸収された形となっている。石野車と列車の接触による損傷との見分けがつき難《にく》くなっており、その損傷程度から石野車の追突力を判断することができない。  だが、石野車の前部バンパーの損傷は軽微であり、設楽車を列車軌道上に押し出すためにはもっと大きな損傷、少なくともバンパーが変形する程度の損傷を被《こうむ》らざるを得ないと判定された。これは石野に有利な材料である。  石野の未必の故意による殺人の成立は難《むずか》しくなった。結局、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、設楽車のサイドブレーキは引かれていない。 二、設楽車は二度目の追突によって飛び出した。 三、踏切手前に設楽車が制動をかけたタイヤ痕が残ってない。 四、石野車の前部バンパーの損傷が軽微にすぎる。——等の理由によって石野は窃盗罪《せつとうざい》だけを問われることとなった。 [#ここで字下げ終わり]      9  捜査は立ち上がりから膠着《こうちやく》した。捜査本部が「草の実」から組み立てた推理によれば、大崎殺しの犯人として設楽を指名する。だが設楽はすでに死んでいる。彼が犯人であることを証明しても、彼を逮捕できないのである。  これは死者を追跡している捜査であった。だが設楽が犯人であるとすれば、動機が説明できない。彼は仕事の上の片腕であり、同郷出身の可愛がっていた後輩をなぜ殺さなければならなかったのか。  その点に捜査本部はこだわっていた。動機が解明できれば、真相を明らかにできる。 「大崎は靴を履きちがえた後、別の方角から来た犯人に殺害されたのではないか」という説が出された。捜査方針が再検討されて、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 一、大崎が設楽家へ来る以前の生活史調査、 二、大崎の胃中に発見された中華料理(チャーシュウメン、ギョウザ、八宝菜等)の摂取先の発見、 三、設楽が草の実を付着させた場所の捜査、 四、大崎殺しの目撃者の継続捜査——の以上四点が決定された。  A署の捜査本部で新たな捜査方針が決定されるのと前後して、N署において新しい発見があった。 [#ここで字下げ終わり]  大破された設楽車は厳重な観察の対象になった。だが追突した石野車は車体、特に前部の損傷に観察が集中した。その内部を念のために検索したのは、安藤である。  設楽が石野あるいは同乗していた沢村由美に驚いたのでなければ、車そのものあるいは車の中に設楽を驚かせたものがあったかもしれないと考えたのである。  だが車はT社製の大衆車であり、設楽を驚かせるような要素は特になさそうである。すると車の内部にあったのか。  車内を綿密に検索していた安藤は、助手台の一隅《いちぐう》から微物《びぶつ》をつまみ上げた。それはクッションと背もたれの間のわずかの隙間にはさまっており、注意して見なければ、見すごしてしまいそうな米粒ほどの物質であった。  安藤はその物質に見憶えがあった。それは設楽の靴に付着していた植物の実と酷似《こくじ》していた。いやそれはまさしく同種の草の実である。それがなぜ石野車の中にあるのか。安藤はそのことの意味を考えた。  石野車と設楽車は�接触�したとはいえ、設楽の靴先に付いていた草の実が、石野車の助手席に移動するはずがない。  草原や路傍にありふれた草の実であるから独自に石野車の中にまぎれ込んだとしても不思議はない。だが安藤は同じ草の実が石野の車内にあった事実を単なる偶然ではないと考えた。両者の草の実にはなにか関連があるはずである。  さらに車内の検索を進めた安藤は、前部シートの所々に白い粉のようなものがまぶされているのに気がついた。土埃りや砂埃りではなかった。安藤は�白い粉�を採取して鑑識に回した。  車の検索の後、安藤は石野と由美を別々に取調べた。 「車の中からヤブジラミの実が発見されたが、どこでその実を付けたのだ」 「ヤブジラミって何ですか」  二人共、その植物を知らなかった。 「野原などに生えている雑草だ」 「そんな雑草ならどこででも付けられる」 「同じ雑草の実が設楽の靴に付いていたよ」 「そんなこと関係ない。ありふれた雑草ならだれに付いても不思議はない」 「七月十五、六日の夜A市のこがし祭りに行ったかね」  ここで安藤は質問の鉾先《ほこさき》をかえた。 「A市の祭りなんか行かない」 「それじゃあその日はどこへ行った」 「まっすぐ家へ帰りました」 「本当だな」 「本当です」 「それを証明できるかね。その夜、訪ねて来た人や電話をかけてきた人はいるか」 「そんな人はいません」 「それではおまえ《ら》が当夜家にいたということは証明できないわけだ」 「自分の家へ帰って寝ているのにどうして一々証明しなければならないのですか」 「それはおまえ《ら》が嘘をついているからだ」 「嘘なんかついていない」 「車の中に麦こがしの粉が付いていたよ。A市のこがし祭りは通行人に麦こがしを振りかける。今時麦こがしなんてザラにあるもんじゃない。A市へ行っていないはずのおまえ《ら》の車の中にどうして麦こがしがあるんだ」 「おれは本当に行ってない。行ったとすれば由美だろう」  石野は言い張った。麦こがしは助手台に付着していたのである。安藤はこの時点から質問を由実に集中した。      10  それは「小さな」聞込みからはじまった。A署の猪熊は、設楽夫婦の周辺に聞込みをしていたが、夫婦の評判はよく、夫婦仲も円満ということであった。設楽の妻富子は三十一歳、成熟した色気のある美人で、顧客や町内の男たちにファンが多い。  なかなかの働き者で、夫を助けてよく店を切り盛りしていた。愛想がよくて気がきくので男性だけでなく女性の間でも評判がよい。  夫婦の間には、照子という八歳の娘がいる。猪熊は念のためにこの少女にも聞いてみた。 「照子ちゃん、お父さんとお母さんは仲が良かったかい」 「よくわかんない」 「よくわかんないってどういうこと?」 「お父さんは時々お母さんのこと叩いていたもの」 「叩いていた! それ本当かい」  猪熊は身を乗り出していた。少女の言葉が事実であれば近所の評判に反する。「円満な夫婦仲」はうわべだけの偽装ではなかったのか。 「本当だよ。お母さんの髪の毛を引っ張ったりしてとても恐かった」 「そんなとき照子ちゃんどうするの」 「大崎のおじさんを呼びに行くの」 「ほう、大崎……のおじさんが来て二人のけんかをとめてくれたの」  少女はうなずいた。新しい事実が浮かびかけていた。 「大崎のおじさんがいなくなったとき、お父さんとお母さんは何をしていたか憶えている?」 「わかんない」 「照子ちゃんは大崎のおじさんがいなくなったとき何をしていたの」 「わかんない」  少女の証言によって、設楽夫婦は別の視点から見つめなおされた。  設楽は災害倍額保障特約付六千万円の生命保険に加入していた。これに自動車損害賠償責任保険と自動車車体保険から約二千万円入る。受取人は富子であり、彼女は夫の死によって約八千万円を手にすることになる。  設楽の死因には犯罪性は見つけられなかった。だが彼の死によって巨額の金が動くとなると、事件は別の彩《いろど》りをもってくるのである。  シダラ・インテリアーショップの経営状態に捜査の目が向けられた。その結果、同店の経営の内情は火の車であることがわかった。大型家具店の進出やデパートに圧迫されて、この一年の間にかなり窮迫《きゆうはく》しており、従業員の給料を支払うためにかなり無理を重ねていた。店の内情が悪化すると共に夫婦仲も険悪になっていった模様である。�外面《そとづら》�がきわめてよい夫婦であったので、その素顔が糊塗《こと》されていたのである。  厳しい取調べの前に沢村由美は耐えられず、意外な供述を始めた。それによると、  ——七月十五日、石野と一緒にA市へ祭り見物へ行く予定だったが、石野が他の女の子にも声をかけていたことがわかったので、怒って一人で来た。夕方七時ごろ街を一人でふらふら歩いていると、中年のオジンに声をかけられた——という。 「そのオジンが設楽だったのか」  取調べ官は訊いた。 「そうよ」 「何と言ってきたのかね」 「一緒にお祭り見物をしないかと誘ってきたの。一人ぽっちでつまらなかったし、石野とけんかしてむしゃくしゃしていたので、お金くれればいいわよと言ったら一万円くれたの。いいカモだとおもって一緒に歩いていると、もっといいことさせてくれたら三万円くれると言ったの。和彦と寝ても一円にもならないし、たまにはアルバイトも悪くないなとおもってOKすると、モーテルやホテルがみんな満員で郊外の寂しい野原の方へ行ったの。そんな原っぱじゃ犬みたいでいやだというと、オジンは急に恐《こわ》い顔をして金を払ったんだからつべこべ言うなと言って私を押し倒したのよ。  急に恐くなって暴れると、のどを強い力で絞められてなにがなんだかわからなくなっちゃったの」 「それからどうしたのかね」 「ふと気がつくと、私は草の上に倒れていて、オジンはいなくなっていたわ」 「きみは暴行をうけていたのか」 「いいえ。きっとオジンは私が死んだとおもってびっくりして逃げちゃったみたい」 「金はどうした」 「そのまま残っていたわ」 「そのオジンが踏切の手前できみが一緒に乗っていた石野の車に追突されて飛び出したというのか」 「びっくりしたかどうか知んないよ。でも自分で飛び出して行ったのは確かだよ」  設楽から事情は聞けなくなっていたが、おおよその状況がわかってきた。  設楽は祭りの夜に引っかけた沢村由美をはずみで殺したと錯覚した。彼は動転してその場から逃げ出した。後に沢村由美の案内で検証した草原にはヤブジラミ、ギシギシ、スズメノカタビラ、スズメノチャヒキ等の雑草が自生していた。  草の実を靴およびズボンなどに付けた設楽は、その帰途大崎と�接触�した。多分そのとき大崎を殺害して死体をA市の海岸通りに遺棄したと推定される。  二日後、たまたま通りかかったN市域の踏切で追突された車の中に殺したとおもっていた売春少女が乗っていたので、幽霊を見たように仰天して自ら列車の迫って来る線路上へ飛び出したのではないか。殺したとばかりおもっていた少女が、生き返って車で突っかけて来たら前後を忘れるほど驚愕してもおかしくない。  沢村由美は、設楽に売春しようとした事実を石野に黙っていた。またタイヤ泥棒は、石野の単独犯行であった。ここに設楽と由美の意外な関係が明るみに出て、石野の未必の故意は否定された。  だが、大崎殺しの真相は依然として霧の中にある。犯人が設楽とすれば、彼はなぜ商売の片腕の大崎を殺したのか。大崎と設楽富子の関係は証明されていない。  大崎の「設楽家以前」の生活史を溯《さかのぼ》っても怪しい者は浮かび上がらない。  流しの犯行の線も消えた。  設楽建一の生命保険金八千万円は受取人富子に契約に従って支払われた。  設楽富子の状況は灰色であった。だが設楽との夫婦仲が悪く、大崎と密かに通じていたのではないかという警察の疑惑を裏づけるためには、大崎ではなく、設楽が殺されなければならない。被害者が設楽であってはじめて動機の説明もつき、生命保険金も犯罪目的として活きて[#「活きて」に傍点]くるのである。  設楽の死は偶発の事故であることが証明され、保険金目的の犯罪ではないことが確認された。 「設楽は女房と大崎との浮気の現場を押えてカッとなり、大崎を殺したのではないだろうか。信頼していただけに、飼い犬に手を噛《か》まれたおもいが強かったにちがいない」 「そうだとすれば、富子は殺しの現場に居合わせたことになる。もしかすると共犯かもしれない」 「しかしそれをどうやって証明する? ただ一人の共犯者は死んでしまった。自分さえ口を噤《つぐ》んでいればだれにもわからない。愛情の冷えた亭主は都合よく死んで自分に八千万円の保険金を残してくれた。まだ三十一歳の女が八千万円と自由を手にすればどんなにでも面白おかしく生きられる」  これは奇妙な犯罪であり、期せずして成立した完全犯罪といってよかった。完全犯罪の解釈にもよるが、一般的には犯罪を企《たくら》んだ犯人が、犯罪を実行し、犯罪による利益を手に入れた後も、逮捕されることなく笑っている場合をいう。  だがこの事件は主犯と推測される犯人が犯行後|奇禍《きか》に遭《あ》って死に、その死によって偶然生じた利益が共犯者(推測上)に転がり込んだというケースである。しかも犯行そのものも計画されたものではなく、突発的な色彩が濃い。 「完全犯罪だとすれば偶発的完全犯罪と呼ぶべきかな」  宮本刑事は徒労の色の濃い表情でつぶやいた。      11  物事がこんなにうまくいくとは予想もしなかった。自分は一指も動かさないのに、最初に計画した通りの結果になった。共犯者に分け前をやる必要もなく、保険金八千万円を独占した。しかもこれからの将来において最大の危険となるはずの共犯者、——いや共犯予定者と呼ぶべきか——は�自滅�してしまった。彼女の目から見れば、それはまさに�自滅�であった。共犯者の助けがなければ絶対に不可能な犯行が、共犯者の助けなく実行され、犯罪利益を独占できた。しかも犯行計画を知る者がすべて消滅した、こんな完全犯罪は世界犯罪史上でも稀有《けう》であろう。 「私はツイているんだわ」  設楽富子は独りつぶやいて八千万円でこれから生きるべき自由な人生を想った。これだけあれば店の窮状《きゆうじよう》も救える。親|譲《ゆず》りのチャチな家業などこの際止めてもいい。  いま手頃な場所にこぢんまりしたアパートが三千万円で売りに出されている。それを買い取って家賃で悠々と暮らせる。  建一は自分が選んだ夫だが富子の両親が死に、設楽家の事実上の主となると、次第に横暴《おうぼう》になってきた。家付きを鼻にかけたことは一度もないのに、婿《むこ》としてのコンプレックスがあるらしく、なにか面白くないことがあると、家付き娘|面《づら》をするなと当たり散らす。  初夜のときに富子が出血しなかったことまで持ち出して、処女ではなかった、相手の男はだれだなどと難くせをつける。  そんな夫に次第にいやけがさしてきた。そんな時期に大崎が現われた。夫より若くハンサムであり、女の心裡《しんり》の襞《ひだ》に柔らかく沁《し》み込むような優しさを持っている。娘の照子も、夫より大崎になつくほどであった。富子は次第に大崎に惹《ひ》かれた。大崎も富子の成熟した色気の前で動揺しているのがわかる。こんな二人が人目を忍ぶ仲になるまでに大して時間はかからなかった。  建一は嫉妬深いくせに、大崎を絶対に信頼しており、妻と密通しているなどとは露ほども疑っていなかった。  富子は、大崎との仲を細心の注意をもって秘匿《ひとく》した。逢う瀬はいつも大崎の居室であり、建一の留守を狙《ねら》って忙《せわ》しなく情を交《か》わした。忙しなかったが、たがいに必要なものを補給し合うような激しい求め合いであった。  外で逢えば、アリバイの破綻《はたん》から必ず露見する。自宅で逢う分にはアリバイは要《い》らない。建一もまさか自宅で妻と自分の片腕が密通しているとはおもわない。細心《さいしん》にして大胆不敵な密会であった。  富子も初めは「おとなの恋」のつもりでいた、だが彼女の計算外のことが生じた。大崎が次第に真剣になってきて彼女を盗むのに足りず、独占したがるようになったのである。  富子は情熱にまかせて生活と娘を捨てるほど初心《うぶ》ではなかった。堰《せ》かれている恋だからこそ男の情熱は燃え上がっている。恋を成就《じようじゆ》して、女を独占してしまえば、彼の逆上は速《すみ》やかに冷えることを知っている。  三十一歳の生活に鍛《きた》えられた女は、官能の甘さを知っていても、それ以上に生活抜きに恋|三昧《ざんまい》に耽《ふけ》っていられないことを知っていた。  飯《めし》を食わずに恋ができないことを知っている女の意識は醒《さ》めている。その意識が男の逆上をうっとうしい夫の排除とそれによる生命保険金の取得に利用することをおもいつかせた。  これがうまく成功すれば、一石二鳥の�廃物利用�である。  それとなく誘導すると、ノボセ上がっていた大崎はたちまち乗ってきた。保険金を少なく言ったのは恋と金を別物と割りきっていたからである。二千万円[#「二千万円」に傍点]という保険金も彼の犯意をうながしたようである。逆上していながら色と欲の二股《ふたまた》をかけたのである。  しかし大崎は一人では自信がないので絶対に信頼できる殺し屋を雇《やと》うと言っていた。  二人の間で計画を密かに練っている間に、予想もしなかった局面が展開した。  七月十五日夜、A市の祭りに出かけて(警察には中元配りと偽《いつわ》った)すぐには帰って来ないとおもっていた建一が突然帰宅して来て、妻の姦通《かんつう》の現場を発見したのである。逃げも隠れもできない現場を押えられたのだ。最も信頼していた大崎に妻を盗まれていたことを知って建一は激怒した。  建一は若いころ空手をたしなみ膂力《りよりよく》にすぐれていた。彼は手近にあったハンマーで大崎を殴《なぐ》りつけた。  大崎は絶望的な抵抗を試みたが、素手《すで》で立ち向かってもかなわない建一にたちまち抵抗を抑圧されて動かなくなった。その間富子は恐怖のあまり竦《すく》んでいた。  大崎が息絶えてから、建一は我に返った。建一は自分が途方もない罪を犯したことを知って急に震えだした。殺人の原因になった妻の不倫を責める前に、彼女に救いを求めた。  もともと気の小さい男なのである。富子に自衛本能が目覚めた。夫を自首させれば自分も無傷ではすまない。殺人の原因をつくった彼女に世間の非難は集中するだろう。いや下手をすると共犯者にさせられてしまうかもしれない。  ここは自分の安全保障のためにも建一を殺人犯人として逮捕させてはならない。 「死体を隠してしまいましょう。死体さえ発見されなければ店を辞めてどこかへ行ってしまったことにできるわよ。家族はいないし、もともと風来坊なんだから、だれも疑わないわよ」  こうなると富子が完全に主導権を握った。大崎の死体を車に積み、毛布をかけて出発した。外から見ると酔っぱらってリアシートで寝ているような塩梅《あんばい》である。  A市の背後の山は、海から急|勾配《こうばい》で隆起し、山間《やまあい》に深い谷が切れ込んでいる。谷は原生林が埋めている。ここに死体を隠してしまえば、見つかる恐れはない。  A市は祭りで賑《にぎ》わっていたが、かえってこれが人目を欺《あざむ》く死角になった。街には酔漢《すいかん》が溢《あふ》れ、まさか死体を車に積んでいると疑う者はいなかった。警察は祭り見物の交通整理に手一杯である。  海岸通りのT字路へ来たとき、予想外のハプニングに巻き込まれた。暴走族くずれの少年たちが悪ふざけを始めて、警察と衝突し、街中のパトカーが集まって来た。脱出しようとしたときは遅かった。群衆に取り巻かれておもうように身動きできなくなっていた。  迫って来るパトカーのサイレンは、小心な建一を動転させた。死体を積んでいるところを検問に引っかかったら逃《のが》れようがないとおもった。  富子が止めるのを聞かず、群衆の注意が暴走族少年の方を向いている隙に大崎の死体を車外に放り出した。いかに群衆の中の死角をついたとはいえ、無数の目のある中でだれにも見咎《みとが》められず、死体を捨てられたのは幸運としかいいようがない。  死体遺棄後の脱出にも幸運が味方した。だが真の幸運はその後にきた。建一が列車と衝突して死亡、生命保険金が下りたのである。夫の死に一時�自殺�の疑いがもたれたが、契約後一年以上経過しており、金さえ下りれば自殺でも他殺でもかまわない。期せずして大崎と計画した通りの結果になった。  これで保険金は手に入れ、愛の冷えた夫の桎梏《かせ》から逃れた。単に愛が冷えただけの夫ではない。大崎の死体処分を手伝ったことによって共犯者になってしまった。夫の殺人の原因が自分の不倫とあっては一生夫に頭が上がらなくなるのは目に見えている。  頭上の黒雲のような夫が、保険金と引き換えに消えてくれたのだ。 「世の中にこんなうまい偶然ってあるのねえ」  富子は沁々《しみじみ》とつぶやいた。彼女の言う「偶然」にはもう一つの幸運が重なっている。  もし最初の計画通りことが運んで、大崎が夫を殺したとすれば、大崎は富子にとって相当うるさい存在になったはずである。当初のもの珍しさが失《う》せれば、大崎もただの男にすぎない。八千万円の保険金と一生の危険を分け合うに値するような男ではないのだ。  大崎が消えてくれて本当によかった。彼が生きていれば必ず「第二の建一」になったにちがいない。 「よかったあ」  晴れた空を見上げて言った富子の言葉には実感があった。空の色にはすでに秋の気配が漂っている。      12  設楽富子が保険金を手にして数日後、一人の若い女が訪ねて来た。沢村由美と名乗った名前に記憶があるようにおもったが咄嗟《とつさ》におもいだせない。初めて見る顔であった。二十歳前後の化粧の濃い女であった。胸の張りや腰のくびれ具合は十分成熟しているが、厚化粧の下の表情は意外に稚《おさな》い。 「何かご用かしら」  富子が店先で応対すると、沢村由美は店員の方を横目でにらみながら、 「奥さんと二人だけで話したいんですけど」  と言った。 「あら、お店ではいけないのかしら」  富子が怪訝《けげん》な顔をすると、 「私はかまいませんけれど、人に聞かれると奥さんがご迷惑するとおもいます」  その口調に自信と余裕があった。妙に恩着せがましい言葉|遣《づか》いが癇《かん》に障《さわ》ったが、それを支えている自信にふと不安をおぼえた富子は、店の奥の応接コーナーヘ通した。 「ここならだれにも聞こえないけど」  富子は由美と対《むか》い合う形で坐ると、用件をうながした。 「お約束のお金をいただきに上がりました」  由美は妙に勿体《もつたい》ぶった口調で言った。 「約束? 何を約束したというの」 「奥さんが大崎さんに頼んだことです」  大崎の名前に胸をドキリと突かれたが、なに食わぬ表情を装《よそお》って、 「私が大崎に何を頼んだって言うの」 「あらもうお忘れになっちゃったんですか。ご主人を殺したら五百万円くださるという約束をしたじゃありませんか」 「あなた、いったい何のことを言ってるの」  富子はこわばりかかる表情を意志の力で抑《おさ》えた。 「とぼけても時間の無駄だとおもうんだけどなあ」  由美は口の端で薄く笑って、 「奥さんがご主人を殺してくれと頼んだ大崎さんが一人では自信がないからと助っ人を頼んだんです。成功したら五百万円くれるという約束でした。頼んだ通りにご主人が死んで計画通り保険金が下りたのですから、お約束のお金をもらいに来たのです」 「あなた、なに言ってんのよ。主人は列車と衝突して死んだのよ」 「でも奥さんがご主人を殺そうとしていたことがわかれば、せっかく下りた保険金をまた取り返されるんじゃないかしら」 「変ないいがかりをつけないでちょうだい。どうして私が主人を殺そうとしていたなんて言えるのよ。あまり変なことを言うと警察を呼ぶわよ」 「どうぞ。でも警察を呼んで困るのは奥さんの方じゃないかしら。ご主人を線路の上に突き出したのが、私の相棒《ペア》とわかったらね」 「線路の上に突き出した……あなたいったいだれなの」 「沢村由美って言ったでしょ」 「すると、石野和彦の車に一緒に乗っていた……」  富子はようやく由美の素姓《すじよう》をおもいだした。 「ようやく私の名前をおもいだしてくれたようね。石野が大崎からご主人殺しを手伝うように頼まれたって警察へタレこんだらどんなことになるかしらね。五百万円棒に振ってほんとうにためしてみたいくらいだわ」 「馬鹿なことを言ってないで早くお家に帰りなさい。あんたまだ高校生なんでしょ」  一人前の化粧と体つきをしているが、相手はまだ子供であることを知って、富子はいくらか気が楽になった。 「学校はやめちゃったわ。退学届を出してきたわ。だから私、お金が欲しいの。社会人として生きていくためのお金が要るのよ。生憎《あいにく》、石野が警察《マツポ》にパクられているので、私が代理で受け取りに来たの」 「大崎が石野とかいう人になにを言おうと、私は全然関係ないわ。あなた夢でも見たんじゃないの。主人はだれに殺されたんでもないのよ。列車と車ごと衝突して死んだの。警察もそういうことで事故証明を出したのよ。だから生命保険が下りたのよ」 「いいえご主人は奥さんが頼んだ通り、石野が殺したのです。そのことを石野が警察へ一言でもしゃべればどういうことになるかおわかりですか。石野が黙っているのは、約束のお金が欲しいからです」 「あなたも想像力のたくましい人ね。私がどうしてそんなことを頼むの。主人が亡くなって一番悲しんでいるのは私なのよ。だいいち、そんな途方もないいいがかりをどうやって証明するつもりなのよ」 「証明する必要なんかありません。石野がご主人の車に追突しているのですから」 「故意に追突したのでないことは証明されたわ」 「さあ、どうかしら。石野がそう言ったのでそういうことになったのよ。また石野が別のことを言いだしたらどう引っくり返るかわかんないわよ。まして保険会社はできればお金を払いたくないんだから。  私ね、保険の契約書というものを初めて読んでみたの。そうしたら保険金を支払わない場合に、死亡保険金の支払い事由が保険金受取人の故意によって発生したときというのがあったわ。難しい言葉でごちゃごちゃ書いてあったけれど、要するに保険金を受取る人が保険に入っている人を殺したり、殺させたりした場合のことでしょう。奥さんの場合がぴったし当てはまるわ」  富子はこの小娘が侮《あなど》るべからざる敵であることを悟った。 「とにかく私があなたにどうしてそんなお金をあげなけりゃいけないの。お小遣いをねだる相手と桁《けた》をまちがえているんじゃないの」 「奥さんも利口そうで意外と鈍いのね。私がこういう話を知っていることが、お金をもらう権利があるなによりの証拠じゃないかしら。石野が全部私に話してくれたのよ。石野が言ったわ。五百万円は手付けだって。奥さん八千万円も入ったんですってね。そんな大きな保険をかけていたとは石野も知らなかったみたい。当然�助っ人料�も割増しになるわ。とりあえず最初の約束の五百万円を私に支払ってくれたら、頼まれた件は黙っていてやるって。もし払わなかったら全部バラシちゃうわよ。窃盗《せつとう》だから実刑食っても大したことはないんだって。うまくいけば執行|猶予《ゆうよ》になるだろうってさ。それまで奥さんに分け前の割増金を預けておくって言ってたよ。だからここで手付けをケチると、元も子もなくしちゃうわよ。それから私を殺そうとしてもだめよ。私の後備えには石野がいるからね」  富子は巧妙に張られた罠《わな》にはまったのを悟った。由美は石野の発言が保険金に影響をあたえることを計算している。影響をあたえる危険性があるだけで、富子に対する十分な脅威《きようい》になるのである。  石野が設楽を線路上に実際に押し出さなかったとしても、押し出せる位置にいた事実は重要である。被保険者の生死に関する�重要関係位置�に居合わせた者が、保険金受取人から被保険者の殺害助っ人を依嘱《いしよく》されたと言いだしたらどうなるか。考えただけで戦慄《せんりつ》が背筋を走る。  大崎が石野に援助を求めたのは事実であろう。だが石野が実行に移る前に大崎が殺《や》られてしまった。石野は、大崎が設楽の返り討《う》ちにあったと考えいずれそのうちに富子に対してなんらかの動きをするつもりであったかもしれない。  だがその前に偶然にも踏切で設楽と�接触�した。石野はこの偶然を利用して富子から�助っ人料�を取ろうと図《はか》ったのだ。警察に対しては大崎からの殺人の依嘱を黙秘して、富子から助っ人料として保険金の分け前にあずかろうとした。富子が断れないことを計算に入れている。富子は絶対に訴え出ない。そんなことをしてせっかく手に入れた保険金を取り戻される危険を冒すはずがないのだ。  由美に金を渡せば、一生|絞《しぼ》られつづける。しかし渡さないわけにはいかない。由美の口を金で封じてもその背後には石野がいる。石野が出て来たとき、恐喝《きようかつ》はより一層|苛烈《かれつ》になるだろう。  ようやく自由の青空の下へ出たとおもったのも束《つか》の間《ま》、全天を支配すべき恐喝者の黒い触手が忍び寄っていたのである。 「やった、やった! とうとうむしり取ってやったわ」  沢村由美はこおどりしながら歩いていた。自信はあったがこんなにうまくいくとはおもわなかった。五百万円の札束がこんなに手応《てごた》えがあるのを初めて知った。生まれて初めて手にした大金であるが、これはほんの手付金にすぎない。これから大獲物《おおえもの》をゆっくりと吸いつづけられるのである。恐喝はいったん成功すると、被害者と加害者の間に長期継続的関係が成立する。  この恐喝劇は由美が一人で仕組んだことである。石野はなんにも知らない。タイヤ泥棒の常習では執行|猶予《ゆうよ》は無理だろう。当分出て来られまい。その間に富子から吸えるだけ吸い取ってやろう。  石野から自慢たらしく「殺人の助っ人」を頼まれたという話を聞いたとき、そんなテレビドラマのような与太話は信じられないと、笑って相手にしなかった。  しかし、設楽に危《あや》うく殺されかかった後、踏切で意外な�再会�をしたことから、設楽が驚愕の余り列車の前に飛び出して死んでしまった。石野は意外なことの成行きに動転しているだけであった。  設楽が殺人の助っ人を頼まれた対象人物と知ったとき、由美は設楽の妻から助っ人料をむしり取ることをおもいついた。失敗してももともとという頭があった。  石野は単細胞の男である。遊び仲間としてつき合っていたが、とうに地金が現われている。別れる汐時《しおどき》であった。  富子が偶然に助けられた完全犯罪であるなら由美の行為はその|美味な所《クリーム》だけを掬《すく》い取った超完全犯罪と呼ぶべきか。由美はその成功に陶酔《とうすい》していた。      13  二日後、二人の男が富子を訪ねて来た。すでに顔なじみになっている宮本と猪熊である。 「此度《このたび》はいろいろとご心労でしたでしょう」  宮本が人生の風霜《ふうそう》に晒《さら》されたような表情でねぎらった。 「主人が亡くなっても生きていかなければなりませんので」  富子は二人の訪意がわからないので、さしさわりのない答えをした。 「保険が下りてようございましたな」 「主人の命と引き換《か》えに下りたお金ですから大切にするつもりですわ」 「その大切なお金を五百万円もなぜ沢村由美にやったのですか」  いきなり凄まじい一撃を浴びせられた。そのショックに心身が痺《しび》れたようになって、束《つか》の間茫然《まぼうぜん》とした。 「実はね、奥さん、大変都合の悪いことがわかったのです」  脇から猪熊がむしろ取りなすような口調で言葉をはさんだ。由美に金をむしられた事実以上に悪いことがわかったとはおもえない。 「灯台|下《もと》暗しでしたね。大崎さんは死ぬ少し前に中華料理、チャーシュウメンや八宝菜などを食べたことがわかっております。我々はそれらの食べ物を食べた所を探しておりました。A市を中心に探していたのですが、お宅の近くの中華料理店一番軒から七月十五日午後七時ごろチャーシュウメン、八宝菜、ギョウザなど二人前お宅へ出前していることが確認されました。それらの食べ物は、大崎さんの胃にあった未消化の食品と材料、食後経過時間などがピタリと一致します。七月十五日午後七時ごろ設楽さんは沢村由美と一緒にA市にいた事実が確かめられています。すると大崎さんと一番軒の中華料理を食べた人間はあなたしかいないことになります。つまりあなたは大崎さんと�最後の晩餐《ばんさん》�を共にしている。その事実をあなたは一言も我々に告げていない。それから約三時間後に大崎さんは死体となってA市の路上で発見されているのです。  大崎さんの死体発見前の足取りは我々の捜査にもかかわらずまったく不明でした。  A市の祭りであれだけ夥しい人出がありながら大崎さんの姿を見た者が一人もいないということは考えられません。  ということは、大崎さんが殺されるまでA市外の特定の場所にいて、殺害現場から発見現場まで死体を運ばれてきたことを意味します。大崎さんは殺される前に動きまわらなかった。最後の晩餐を共にしたあなたは犯行現場に居合わせたことになる」  なにか反駁《はんばく》しなければならないとおもいながらも適当な言葉が浮かんでこない。その間に、猪熊はつづけた。 「我々はあなたの行動をずっとマークしていました。すると沢村由美が現われた。沢村由美はご主人の死に�関与�した石野の車に同乗していた。あなたには話していないが、由美はご主人とも浅からぬ因縁《いんねん》があった。しかし、あなたとはなんの関係もないはずでした。由美がどんな用であなたを訪ねて来たのか、我々は興味をそそられました。由美を取り調べたところ、彼女は身分不相応の大金をもっていました。そしてあなたからその大金をもらったこと、およびその理由をすべて自供しましたよ」  猪熊の言葉はまだつづいていたが、富子は聞いていなかった。聞こえているのはこれまで付いていた幸運の崩落《ほうらく》する音であった。それはそのまま彼女の偶発的完全犯罪と、その上に成り立った沢村由美の超完全犯罪の崩れ落ちる音であった。  おもしろうてやがて悲しき�祭�かな  芭蕉の「鵜舟《うぶね》」をもじった句を、富子はゆくりなくもおもいだしていた。 [#改ページ]  花《か》 刑《けい》      1  最初は賭《か》けマージャンの借金の返済に当てるために、ほんの寸借《すんしやく》のつもりでサラ金に頼ったのがきっかけだった。 「十万円でよろしいのですか。二十万円ご用立ていたしましょう。なんなら三十万でもよろしいですよ。期日には利子だけ入れてくださればけっこうです。私共は現金の救急車ですからね。  私共のことを鬼か悪魔のように悪《あ》しざまに言う人もおりますが、私共のおかげで命を救われた人が大勢いらっしゃいます。それは慈善事業ではありませんから定められた利息はいただきます。外国の救急車は民間です。それと同じです」  飛び込んだサラ金会社で中年の社員が愛想《あいそ》笑いを満面に浮かべて応接してくれた。香《かお》りのよい茶が出された。つい巧みな言葉に乗せられて、 「それじゃあせっかくだから二十万円借りようか」 「そうなさいまし、そうなさいまし」  すかさず申込書が差し出された。そこに必要事項を記入して印鑑を押すと、一万円札が二十枚さっと出された。その安直さに借りに行きながら、信じられないくらいである。  二十万円をポケットに納《おさ》めると、なにかひどく得をしたような気がした。マージャンの借金を返して、余った金で酒を飲んだ。これまで金を借りるとなると、とりあえず質屋へ駆け込んだものである。質草をあれこれ選んで、まるで泥棒でもしたように人目をしのんで持ち込む。イメージからして暗くしめっぽかった。  ところがいまのサラ金はどうだ。まず質草なんかいらない。借用証一枚で必要な金を右から左へ用立ててくれる。質屋では質草を必ず叩《たた》いて、必要金額を�値切った�が、サラ金はこちらのリクエスト金額以上を気前よく融通《ゆうずう》してくれる。店頭は銀行のように明るく現代的である。質屋の利息は月決めで、たとえ数日間借りただけでも、二ヵ月間に跨《またが》れば二ヵ月分の利息を取る。  サラ金は日割計算をしてくれる。まさに寸借にはもってこいである。  間もなく最初の返済期日の給料日がきた。日歩二十銭で二十万円借りたから、一ヵ月の利息は一万二千円になる。現金の救急車で危ないところを�輸血�されたのだからそのくらいの利息はあたりまえだとおもった。元金は五回払いの約束なので、一回の分割返済金は四万円である。合わせて五万二千円を支払おうとおもったが、生憎《あいにく》、友人知己の慶弔《けいちよう》が重なったうえに、生命保険料の支払期がきた。  利息だけでいいと言ったサラ金社員の言葉をおもいだして、来月まとめて払えばいいやと、利息だけはらってその月をごまかした。  だが翌月になると、べつの忙しい支払いがあった。なにボーナスできれいさっぱりしてやると楽観していたが、頼みのボーナスが不景気で例年より悪い。家のローンや、車の割賦金にあっという間に雲散霧消《うんさんむしよう》してしまった。  そのうちに利息の返済まで渋滞《じゆうたい》するようになった。満面愛想笑いのサラ金業者の態度が一変した。利息だけでいいと言っていたのが、元利合わせて請求してきた。まず督促《とくそく》の電話がきた。つづいて手紙と電報が勤め先、自宅を問わず舞い込んだ。会議の時間を聞き出して、会議中を狙って電話をかけてくる。重役、上司にまで彼がサラ金を借りていることが知れわたってしまった。  充分追いつめたところで、 「あなたもお困りのようですので、私共としてもあまり阿漕《あこぎ》なことは言いたくありません。いかがでしょう。私の懇意の同業がありますので、そこで借りてひとまず私共を清算されてはいかがですか」  とおためごかしを言った。これが地獄への渡し舟とも知らず、さし迫った火の手を逃《のが》れるために乗り込んだ。今度の金利は日歩三十銭で月九分である。  だが一時逃れはあくまで一時逃れにすぎない。期日にツケは脹《ふく》れ上がった雪だるまとなって確実に回されてくる。これを支払うために別のサラ金へ転《ころ》がされた。最初に借りた二十万円が一年後には五百万円近くに膨張《ぼうちよう》していた。これが業者の言う�サラ回し�である。彼はいつの間にかサラ回しの網に引っかかっていた。これだけ脹《ふく》れ上がると、転がり落ちる雪だるまを食い止められない。毎月の金利も支払えなくなる。元利の請求に合わせて、遅延《ちえん》利息が加算される。 「あんた、おれたちをナメるんじゃねえよ。人の金借りといて返さずにすむとおもってるのかあ。おれたちは慈善事業やってるんじゃないぜ。金を借りたときの嬉《うれ》しさを忘れちゃいかんよ。そのおかげで今日まで生きのびられたんだろ。病院だって患者から金を取る。借りた金は返すのが、世間のルールだ。ルールを破っちゃいけないよ。返せなかったら、女房質に入れても返すのが借りた者の誠意というもんだ。あんたの女房ちょうど使いごろじゃないか。なんだったら貸金の代りに預ったっていいんだよ。まだおれが催促《さいそく》しているからこれくらいですんでいるが、専門の取立屋に任《まか》せたらどんなことになるか知らんよ。交通事故の三割は、わざとやったというからねえ」  ドスのきいた口調でこんな脅《おど》しを連日うけていると神経がまいってしまう。勤め先と自宅の周辺に「借金魔、詐欺《さぎ》師」などと書きなぐったビラをべたべた貼《は》られ、上司から「会社の信用に関わるからなんとかしろ」と言われ、妻からは「近所を歩けない」と泣きつかれた。  切羽つまって会社の金に手をつけた。会社は表沙汰にしなかったが、馘《くび》にされた。時期を同じくして妻は子供を連れて実家へ帰ってしまった。      2 「ちょっと、ちょっと、相楽《さがら》さんじゃないの」  いきなり電車の中で声をかけられた。ようやく座席にありつき、柔らかな春の日射しを首筋に受けながらうつらうつらしかけていた相楽順一ははっと目を開いた。目の前に骨壺《こつつぼ》と信玄袋《しんげんぶくろ》をぶら下げた白髪の老婆が立っている。 「なんだシマツ婆さんじゃないか」 「久しぶりに出会ったというのにシマツとは何さね。あんたに会えてよかったよ。とにかく坐らせておくれな。本当に薄情な世の中になったもんだよ。年寄りが荷物をかかえて立っているというのにだれも席を譲ってくれないんだからねえ」  老婆は周囲に聞こえよがしに言った。相楽が苦笑しながら席を立ってやると、どっこいしょと大仰《おおぎよう》に言いながら腰を下ろした。しばらく会わないうちに一回り萎《しぼ》んで顔の皺《しわ》とシミも深く多くなっている。だが因業《いんごう》そうな眼光は年と共にますます深まったようである。 「相変らずだな、お松さん。ところでその骨壺はどうしたんだい」  相楽は老婆の奇妙な持物について質《たず》ねた。 「貸金の担保に取ってきたんさね。親の葬式を出せないって泣きついてきたくせに、いっこうに返さないんでね」 「それで骨壺を取って来ちゃったのか。やるもんだねえ」  老婆のやり口を知っているつもりの相楽も呆《あき》れた。 「骨壺だけじゃないさ、先祖の位牌《いはい》もついでに預ってきたよ」  老婆は嵩張《かさば》った信玄袋を振ってみせた。 「いや恐れ入ったね、ところで商売|繁盛《はんじよう》のようだね」 「私の商売はいつの世になっても廃《すた》れないよ。悪《にく》まれながらも、私のような人間がいるおかげで食いつめ者も今日、明日を生き伸びられるんだ。本当に勲章くれてもいいとおもうがね」 「相変らず鼻息が荒いな」 「あんたはいま何をやってるんだい」  老婆は、あまり景気のよくなさそうな相楽の風体に詮索《せんさく》の目を向けた。 「いまはこんなことをしています」  相楽は名刺を差し出した。 「サガラテンプラ……こりゃあ何だね」 「テンプラじゃない。エンタープライズ・プランニングだ。つまり、いろいろな会社の経営相談みたいなことをやっている」 「ふうん、あんたに経営の相談をするような会社があるのかね」  老婆は疑わしげな目を向けた。 「そんなに馬鹿にしたもんでもないよ。これでも帳簿をみたり、組織の改善をしたり、けっこう忙しいんだ」  相楽は弱みを見せまいとして心もち肩をそびやかした。 「それならけっこうだがね。私ゃあんたに経営相談なんかしたら、会社がつぶれちまうんじゃないかと、心配だね」 「年は取っても口の悪いのは変らないね。それが席を譲ってもらったお礼かね」  相楽は閉口《へいこう》した。  その老婆、後藤松は町の金貸である。その阿漕《あこぎ》なやり口から「強盗松」とも「始末婆」ともいわれている。  相楽も松から金を借りて返済が滞《とどこお》ったために、厳しい督促《とくそく》にあった。彼の勤め先の前へ来て、「寄る辺《べ》のない老人から金を借り倒す不埒《ふらち》な男に制裁を」とガリ版で刷ったビラを通行人に配られたり一日中会社の前に立って携帯《けいたい》マイクで「年寄りの敵」とどなりたてられたのには音《ね》をあげたものである。  結局会社に居辛くなり、借りた金の代りにしばらく松の取立て代行屋をやった。松の取立ては徹底しており、相楽を債務者の家に支払うまで泊まり込ませる。時には自分自身が泊まり込む。  骨壺や位牌どころか、瀕死《ひんし》の重病人が寝ている布団まで引き剥《は》がして持って来かねない。  貸した金は厳しく取り立てるが、出すものは汗もいやというほどの吝嗇《けち》である。たとえば、水洗の水がもったいないといって、排泄《はいせつ》物を数回分|蓄《たくわ》えておいたり、小用は戸外《こがい》で足したりする。  入浴時、風呂の湯が冷《さ》めるといって首だけ出して他の部分は蓋《ふた》をする。外出時には小さな空《あき》かんをもっていく。外で吸った煙草の吸いがらを決して捨てず、そのかんの中にとっておきもう一度吸う。  鼻紙は一度使っただけでは捨てず、二度も三度も使う。デパートの食料品売場を一巡して、試食用に提供された食べ物を集め、帰りはトイレによってトイレットペーパーを盗んでくる。液体|石鹸《せつけん》を空《あき》びんに全部移し替えてくる。スーパーではわずかな買物をしてしこたまビニール袋をもらう。時間がかかりそうな電話は、いったん切って、相手にかけ直させる。すべてこんな調子で数え上げたらきりがない。  松の夫は以前大工だったそうだが、賭け事に凝《こ》るようになって、本業を顧《かえり》みなくなった。止《や》むなく松は夫に代わってあちこち口を探しては働いた。  最初のうちは夫を養っていたらしい。だが松のわずかな稼《かせ》ぎにぶら下ってごろごろしている夫にいや気がさしてきた。松が稼いだ金を盗んで競馬に行ったのを知って彼女は激怒《げきど》した。それ以後、夫との生活をすべて「割りカン」にした。  夫婦生活も夫の方から求めてきたときは、金を取ったという。このころから小金を貸すことを覚えた。今日明日の小口の金に困っている人間は多く、内職はけっこう繁盛した。  十日前後の貸付けを主体に、利子は十日〜十五日に一割のいわゆるトイチと呼ばれる高利であるが、相手によっては十日に三割〜五割という凄《すさ》まじい高利を取ることもある。夫に貸した金も同じ利息を取った。十数年前、夫が脳溢血《のういつけつ》で死ぬと、金貸業を本業にした。  中には年寄りと甘くみてくる金貸キラーがいる。だが悪達者なサラ金キラーも松には手玉に取られた。借り手と貸し手が対決した場合たいてい後者が悪役にされる。血も涙もない高利貸、人間の膏血《こうけつ》を絞《しぼ》るローンシャーク。高利貸から借りた金でも金に変りない。その金で急場を救われたことは忘れて、古今東西、高利貸はだれからも忌《い》み嫌われる人食い鮫《ざめ》にたとえられる存在であった。  だから債務者の家に行って取立て中、たとえ債務者が先に暴力を振っても、正当防衛は通らない。たいてい取立て側が暴行と住居侵入の現行犯でしょっぴかれる。  だが松の場合は必ず相手が加害者になった。こういうとき、松は「哀れな年寄り」を最大限に活用した。借り手は身寄りのない老人を食い物にした悪役にされた。立場が逆転したのである。 「どうだい相楽さん、あんたもう一度私の仕事を手伝うつもりはないかい」  松は、相楽の様子から現在の状況を察したらしくそろりと探りを入れてきた。 「お松さんの仕事をかい」 「そうだよ。このごろは借り手もすれっからしになってねえ、この哀れな年寄りの金を踏み倒そうという手合いが増えてきたんだよ。あんたが手伝ってくれたら助かるんだがねえ」 「お松さんから借りて踏み倒すとは豪傑《ごうけつ》がいるもんだな」  相楽は本気で感嘆した。世の中には上には上がいるものだとおもった。 「本当だよ。それに最近は新しい仕事も始めたもんだから、人手不足で困っているんだよ」 「新しい仕事ってなんだい」 「まあそりゃあ手伝ってくれれば、追々わかってくるさね」  松は意味ありげに語尾を濁《にご》した。相楽はそれとなく松を観察した。身なりも質素で、以前より老けてはいたが、金のある人間に特有の一種の光彩がその身辺を取り巻いているように見える。金をもっている人間の自信が後光となって、金をもっていない者の目に眩《まぶ》しく迫るのであろう。  松の右|頬《ほお》から顎《あご》にかけて小判型の老人性シミがあった。それがますます濃《こ》くなっている。それが松のもっている金の反映のようでもある。 (さぞやため込んだんだろうなあ)  相楽は松の蓄財額をさもしく胸算用した。 「どうだね、相楽さん、考えておくれでないかね」  松は真顔《まがお》で見上げた。経営コンサルタントなどといったところで、町の中小企業を渡り歩いて便利屋のようなことをやっているのである。社員慰安旅行の手配、休日野球の球場の予約、花見の席取り、また時には員数の揃《そろ》わない麻雀の補欠や、取引先のための女の世話などもする。  大企業のおこぼれで細々と命脈をつないでいる中小企業に�孫寄生�して辛《かろ》うじて生きている情けない現状である。こんな仕事をいつ放擲《ほうてき》してもどこからも苦情はこない。  だがいまさら「強盗松」と悪名高い松の手先になるのも、心が進まなかった。彼女の吝嗇《りんしよく》を知っているので、そのことも返事をためらわせている。 「ともかく一度遊びにお出な。お茶ぐらいご馳走《ちそう》するからさ。いまはこの住所に住んでいるからね」  下車駅に近づいたらしく松は、信玄袋を探って名刺を一枚取り出した。名刺には「五|徳《とく》商事、無担保、無保証人、即決、勤人極秘、サラ十回、代表者後藤松」と刷ってある。  住所は渋谷区のマンションになっていた。おそらく社名は後藤をもじったものだろう。 「勤人極秘」と「サラ十回」はサラ金用語でサラリーマンのプライバシーは守秘、十回の分割返済可という意味である。 「強盗」が「五徳」とは恐れ入ったなと相楽は内心苦笑した。間もなく下車駅が来て松は下りて行った。  少し間をおいて相楽は松を訪ねて行った。松の住居は渋谷区の閑静な地域にある小ぎれいな中型マンションであった。彼が訪ねて行くと、様子のいい若い女がすれちがいに出て行った。ファッショナブルな服装をした化粧の濃い髪の長い女である。女の後に室内にしばらく高雅な香水の残り香が漂《ただよ》っていた。 「あんな格好いい女があんたから金を借りているんだね」  相楽はしばらく女の後ろ姿を見送った後言った。昔は借金には暗いイメージがつきまとっていた。生活苦から金を借りたのがいまは遊ぶ金を借りる。借りた金はいずれは返さなければならない。返せないときの悲劇は生活の金も遊びの金も同じであるが、消費景気に浮かれ立った世相は、たとえ借金しても身分不相応に表面を飾る。  借金で身辺を美々しく飾り立てて出て行った女は軽薄な現代の象徴のようでもあった。 「美《い》い子だろう。あれが私の新しい顧客《とくい》さね」  松はニンマリと笑った。相楽はそのとき女の素姓《すじよう》を深く詮索しなかった。貸付け対象が若い女にまで拡大したのだろうくらいに考えていた。 「まあ、お上がんなよ」  松は言って、�約束�通り茶を出した。驚いたことに羊羹《ようかん》が付いている。名刺のように薄く切った羊羹だが、彼女が茶菓子を出すのは、最上級の待遇を示すものである。  相楽はさりげなく室内を観察した。南に面した三DKで、室内は清潔である。季節の花の鉢植が窓際《まどぎわ》におかれた本棚にさりげなく飾られている。家具調度類は特に豪華ではないが、多年使い込んだ品々が、納まるべき位置に納まって室内全体の雰囲気を住み心地よげに引き立てている。金庫や金の所在を示すようなものはどこにも見えないが、相楽の家には決してない豊かさが室内に横溢《おういつ》している。老女の独り居の佗《わび》しさが感じられないのも、その豊かさのせいであろう。  松の吝嗇な暮らしぶりは依然として同じであるが、前の住居よりも居住環境は格段に上がっているところをみても、彼女がこの間蓄わえたものの大きさをうかがわせる。それが一段と層の厚い豊かさとなって松の身辺に漂っているのであろう。 「大したもんだな」  相楽はなんとなく気押《けお》されて、茶をすすった。以前は番茶一辺倒だったのが、煎茶《せんちや》になっている。 「なに、大したことはないよ。この家も貸金の抵当を取り上げたんだよ。貸付額の七割にも当たらない。あたしも老いぼれたもんだよ。どうだね、以前のように私の片腕になって取立てをやってくれないかね。この頃はサラ金が蔓《はびこ》ったおかげで借り手も悪達者になってねえ、年寄りとみてなめてくるんだ」  松が羊羹を出した狙《ねら》いはそこにあった。 「そう言われてもねえ、いまやりかけている仕事もあるし、今日明日からというわけにはいかないよ」  相楽はできるだけ高く売りつけるために勿体《もつたい》をつけた。松のことだから二つ返事で引き受けると、たちまち足元を見られる。 「私もねできるだけのことはさせてもらうさ」  松は、相楽の胸の裡《うち》を読んだように言うと、茶碗の脇に新たに煎餅《せんべい》の袋を添《そ》えた。袋入りの煎餅を出すのは松の常套《じようとう》手口である。こうすると袋を破る者はまずいない。同じ煎餅を何度でも使えるのである。だが袋入りでも煎餅を出したということは大盤|振舞《ぶるまい》である。  それだけ�人手不足�が深刻なのであろう。 「まあ、少し考えさせてもらおう」  相楽はとりあえず返答を保留した。松の言う「できるだけのこと」を額面通りに受け取るととんでもないことになるのを知っているからである。それに相楽は近い将来一身上に大きな�変化�が起きる予定になっている。慎重に行動しなければならなかった。 「私もいますぐ返事をもらおうとはおもっていないよ。寄る辺ない年寄りをがっかりさせないでおくれな」  松は言って、なんと煎餅の袋を破って中身を菓子皿の上に出した。      3  松に再会したことが、相楽に悪心を芽生えさせた。——というよりも八方塞《はつぽうふさ》がりの彼の人生で行き場を失いメタンガスのように内攻していた不健康な憤懣《ふんまん》が、捌《は》け口を見出して噴《ふ》き出してきたというべきかもしれない。  相楽は近く結婚することになっていた。婚約者は、百瀬《ももせ》奈美という二十二歳の長野県の素封家《そほうか》の娘である。女優にも見まがう現代的な美貌と均整のとれた肢体《したい》の持ち主で連れ立って歩くと必ず振り返られる。諸事あまりにもおおまかなのが気になるが、それも深窓《しんそう》に育てられたせいかもしれない。  たとえばタクシーに乗って千円前後の料金に対して一万円出して平然と釣りはいらないと言う。相楽とは身体の関係ができていたが、使用ずみの避妊具などをそのままトラッシュに捨てて相楽を仰天《ぎようてん》させた。  彼女にとって、ものをかたづけるということはある場所からある場所へ移動することなのであった。  料理洗濯などというものはおよそしたことがないらしい。電気|釜《がま》や洗濯機の使い方もよく知らない。下着までクリーニングに出しているらしい。  本が嫌いで、教科書以外は本と名のつくものを手にしたことがない。奈美の部屋へ初めて招《しよう》じ入れられたとき、ビデオやテープレコーダーやステレオなどの機器が包装を解かないまま積まれていた。  どうしたのかと尋ねると、買い込んだものの説明書を読んでも使い方がわからないので、そのままにしてあるという。活字の理解力がないというより、活字を読む習慣をまったくつけていないようであった。  それでも東京の有名な私立女子短大を出ているそうである。東京でのお嬢さん遊学を終えた後も都会生活に濃く染色されて、田舎へ帰る気がしない。  帰って来いという親の命に背《そむ》いて留まったものだから�勘当《かんどう》�同様になったと奈美はあっけらかんとして言った。しかし仕送りはあるらしく経済的に余裕のある暮らしぶりをしていた。  知り合ったのは、相楽が道を聞いたのがきっかけである。  気になる点はあっても、結婚してから教育すればよいとおもった。こんな凄い美女が相楽のような素寒貧《すかんぴん》に引っかかったのが、不思議なくらいである。彼は天女を妻にした漁師のような気分であった。結婚すれば、生家の�勘当�も解けるであろうから、そうすれば、その財産のお裾《すそ》分けにあずかれるかもしれないというさもしい魂胆《こんたん》もある。色と欲の二股かけているのである。  結婚前にあれこれ注文をつけると、せっかく手に入れた天女が羽衣をまとって逃げて行ってしまうかもしれない。  相楽は奈美と知り合い、急速に親しくなった。これまで女友達がいないわけではなかった。だが奈美ほど気に入った女はなかった。彼女の表面的な美しさが最も気に入ったのであるが、彼女を連れ歩くと身辺に男女の熱い視線を感じる。男は羨望《せんぼう》であり、女は嫉妬《しつと》の視線である。  このような周囲の視線ほど相楽の虚栄心を充《み》たすものはなかった。その視線を集めるためならいかなる犠牲を払ってもよいとおもうほどである。  しかも、奈美は外見だけではなかった。みっしりした量感のある肉体は腰の周囲で形よくくびれ、男の視覚を愉《たの》しませると同時に、どこで仕込んだのか絶妙の性技を蓄えていた。  見た目に美しく、内に性の技巧を充実させているとなれば、料理、洗濯、教養に多少欠ける所があっても文句はない。それらは他のもので十分代用できる性質のものであり、教養などはむしろ女にとって不要である。 「結婚式は都心の大ホテルでやりたいわ。帝国ホテルか、ニューオータニのような。オオクラもいいわね。そこへお友達をたくさん招《よ》んで盛大にやるの。私、小学校から大学までの仲のよかった同窓をみんな招びたいわ。新婚旅行はヨーロッパか、アメリカ西海岸がいいわね。帰りはハワイに寄りましょう。新居はどんなに小さくとも三LDKは欲しいわ。子供が生まれたらすぐ狭くなっちゃうもの」  奈美は、青年実業家(社長にはちがいなかったが)と自己紹介した相楽の言葉を鵜飲《うの》みにしてこんな太平楽を言っていた。  結婚すれば、彼女の財産を共有することができる。生家の潤沢《じゆんたく》な資産にも与《あずか》れる。だが当面結婚式と新婚旅行の費用は男として相楽が用意しなければならない。  その程度の金もないと知られれば、せっかく舞い下《お》りて来た天女に逃げられてしまう。とりあえず、結婚式までにまとまった金を工面《くめん》する必要に迫られていた、そんな矢先、後藤松と再会したのである。  松を殺してその金を奪えば——という考えが、老女の家からの帰途、相楽の脳裡をかすめた。——おそらく�小金�などというものではあるまい。相当な金額をため込んでいるにちがいないと相楽はみた。商売の範囲を拡大したために相楽の男手を欲しがっているのである。「現金の出前」といわれる商売柄から、かなりの現金を身辺においているはずである。それを奪えば借金を清算し、結婚式と新婚旅行費用を優に賄《まかな》い、お釣りがくるだろう。  松との関係は数年前のものであり、先日再会するまで完全に絶縁されている。「強盗松」と仇名《あだな》されるほど阿漕《あこぎ》な商売をやっていたから警察の捜査は、老女の債務者に振り向けられ、まちがっても相楽の方には向いて来ないだろう。  チラリと頭の端をかすめた禍々《まがまが》しい発想は、たちまち発達した。松から金を借りて、急場をしのごうという考えはなかった。それはサラ金で賄える金額ではない。もっとまとまった金が必要であった。  相楽は奈美の前で見栄を張るために、すでにあちこち借り歩いて、首が回らない状態になっている。  サラ金は麻薬である。いったん取り憑《つ》いたら速やかに人間の精神を破壊する。麻薬は当人の心身をボロボロにするが、サラ金は当人だけに留まらず、累《るい》を家族周囲に及ぼし、家庭を根本から荒廃させてしまう。  申込書にサインをして印を押すだけで現金が手に入る。担保も保証もいらない。その安直さに馴れると、金銭感覚が麻痺してサラ金が貯金のように錯覚されてくる。  借りる時点でなんの手間ひまも反対給付もなく、金が入ってくるのであるから、金に窮してもサラ金があると笑っていられる。  こうしてサラ金地獄に落ち込むと、その甘い味に中毒して業者を次々に借り歩く。その中に利息すら返せなくなって他のサラ金業者から借りた金で利息を払う。  こうなるとサラ金地獄に首までどっぷりとつかっている。払っても払っても元金はへるどころか、新たな借金が加算されて急坂を転落する雪だるまとなる。  サラ金巡礼をしながら急場をしのいでいるうちに中毒は骨の髄《ずい》まで進行する。  業者の側も一度つかんだカモをできるだけ長く泳がせて甘い汁を吸おうとする。業者同士が結託して、自分に返済させるべき金を、仲間から借りさせる。その仲間はさらに別の仲間へまわす。客を同業者間で転がしながらしゃぶりつくす。  相楽は松の下で働いて、サラ金地獄の恐ろしさがよくわかっていながら、その安直さからついサラ金の金で急場をしのいだ。サラ金には免疫《めんえき》はないのである。  人を殺して金を奪うくらいなら、サラ金の綱渡りをしていたほうがましと一般的には考えられるが、サラ金に取り憑かれた者には、人を殺すほうがサラ金地獄の責苦より軽いのである。  ともあれ、相楽の価値観を転倒させるほどサラ金が恐ろしいことは確かである。  とりあえず新婚旅行《ハネムーンツアー》の参加費用と、結婚式の会場を押える予約金を払い込む時期が迫っていた。奈美に立て替えてくれとは言えなかった。そんなことを言って、こちらの実態を悟られたら、奈美は婚約解消を申し出るかもしれない。そうなったら元も子もなくなる。  松には気の毒だが、相楽に再会したのが百年目だ。それに、百年ほどではないにしても、もう充分生きたはずだ。彼女が人の膏血《こうけつ》を絞ってため込んだ金も、相楽の将来を開く基金に利用されれば、不浄《ふじよう》な金も活《い》かされたというべきだろう。  相楽は自分に都合のよい合理化をして、殺意を胸に固定させた。四月二十七日相楽は松に電話して、例の話を引き受けると伝えると、松は大層喜んで、 「嬉しいねえ、相楽さんのことだからこの寄る辺《べ》のない年寄りをがっかりさせるような返事はしないとおもっていたよ。おかげで寿命がのびたよ」 「それでいろいろと話し合いたいのだが、なるべくだれもいない所で会いたい」 「夜はだれも来ないから今夜私の家へ来ないかい」 「遅くなるよ」 「あんたならどんなに遅くともいいわさ」 「サラ金の取立て屋なんてあんまり外聞のいいもんじゃないから、おれのことはだれにも言わないでもらいたい」 「そんなことだれに言うもんかね」 「今夜はあまり急だから明日の夜行くよ」 「気を変えないでおくれよ」  松はくどくどと念を押した。相楽は殺意を固めてから松の家と、その生活ぶりを密かに偵察していた。男の客や取引業者が来るのは午後四時ごろまででそれ以後は女客だけしか室内に入れない。強盗を恐れているらしい。女の客も午後八時ごろが�門限�である。  松の住居はマンションの三階にあり、同じフロアに四戸が住んでいる。松の部屋は階段のすぐ前に位置していて、他の居住者に見られずに出入りするのに都合がよい。夜間ともなると住人は早々と部屋に引きこもって出て来る者はいない。管理人は夜間はいない。周辺は閑静《かんせい》な住宅街である。通行人に目撃される危険も少ない。つまり犯罪を実行するには格好の環境であった。  相楽は犯行決行日をその夜と決めた。明日と言ったのは、松が万一他人に漏《も》らす場合を考えての用心である。  松の家に着いたのは午前零時ごろであった。マンションは全|棟《とう》寝静まっている。松が寝床に入るのはたいてい十一時過ぎである。十時台のテレビを見終ってから風呂へゆっくり入り、寝るのが、松の生活サイクルであるから、まだ寝ついてはいないはずである。  相楽は松の家のドアを軽くノックした。ブザーもあったが、深夜で周囲に響くのを恐れた。  だが室内に起き出して来る気配はなかった。なおも数回ノックをしたが、人の気配は生じない。止むを得ずブザーを押した。それでもなんの応答もない。すでにぐっすり眠り込んでしまったのか。  相楽は肩すかしを食わされたようで、殺意が急速に萎《な》えた。萎縮《いしゆく》すると、自分の計画の馬鹿馬鹿しさが見えてきた。人を殺して奪った金で結婚しようなどと、自分はなんと阿呆なことを考えたのか。そんな金で将来の幸せを購《あがな》えると本気で信じていたのか。  計画の危険性と幼稚さもさることながら、価値判断の転倒が恐ろしかった。松が寝ていてくれてたすかった。起きていたら、その転倒を転倒ともおもわず、計画を実行していただろう。その結果をおもうと慄然《りつぜん》とした。  そうとわかれば長居は無用である。相楽が立ち去ろうとしたとき、なにかのはずみによるものか、ドアが細目に開いた。松の部屋のドアはロックしてなかったのである。  鍵もかけずに寝るとは、なんと不用心な。——と、相楽は呆《あき》れてドアをしめかけ首を傾《かし》げた。用心深い松がドアを開放したまま寝るはずがないのである。  それでは鍵をかけずにちょっと外出したのか。それもあり得ない。松は、ドアに二つ鍵《ツーロツク》を施《ほどこ》したうえに、ドアチェーンをかける。郵便配達や宅配便が来ても、ドアアイから覗《のぞ》いて相手の素姓を確認しないと、ドアを開《あ》けない。  それほど用心深い松がドアをアンロックのまま寝たり外出したりするはずがないのである。  松の身になにか異変が起きたのではないのか。年齢《とし》だから、身体に急変が起きないという保証はない。それにしても鍵をかけていないのは解《げ》せない。  相楽は胸騒《むなさわ》ぎを抑えながら室内へ入った。 「お松さん」  後ろ手にドアを閉《し》めてそっと呼んだ。なんの応答もない。室内は真っ暗で香水の残り香のような芳香《ほうこう》がほのかに漂っている。 「お松さん、居ないのかい。居たら返事をしてくれ。ドアをロックしないで無用心じゃないか」  それは松に対する注意だけでなく、松に侵入を咎《とが》められたときの予防線でもあった。  電灯のスイッチの位置を探しながらそろりそろりと歩を進める。部屋の中程へ歩み入ったところで突然なにかにつまずいた。その柔らかい感触からつまずいた物体を容易に推測できた。 「お松さん、どうしたんだ。こんな所に寝てたりして。大丈夫か、おいしっかりしろ」  抱き起こしかけて、相楽はギョッとした。松の身体に生気というものがまったく感じられなかったのである。  ようやく探し当てたスイッチをオンにして、室内に照明がよみがえった。室内は惨澹《さんたん》たる有様になっていた。箪笥《たんす》の抽出《ひきだし》は引き出されて中身が打《ぶ》ち撒《ま》けられ、戸棚、机、物入れ、裁縫《さいほう》箱の中まで物色の痕跡《こんせき》が及んでいる。松は荒らされた部屋の中央に倒れていた。側頭部が血と泥に汚れ、かたわらに砕《くだ》けた桜草の鉢植が転がっている。さらに首の周囲に腰ひもが一周していた。  犯人はまず鉢植で松の側頭部を撲《なぐ》り、倒れたところを腰ひもで首を絞《し》めて「止どめを刺した」らしい。いまや何者かが先行して相楽がしようとしていたことを松に行なったことは明らかである。 「た、大変だ!」  相楽はうめいて立ち竦《すく》んだ。自分が行なおうとしていたことを先を越されたのであるが、殺意が萎《な》えた後は、恐怖と動転が心身を支配した。  ともあれ、警察に通報しなければならない。相楽は混乱する頭の中でまず初めに為《な》すことを考えた。  死体の様子から察すると、まだ殺されて間もないようだ。もしかすると犯人が室内に潜《ひそ》んでいるかもしれない。犯人と鉢合わせすると、一人殺した手で、突然の介入者である相楽の目と口を塞《ふさ》ごうとするかもしれない。犯人が留まっている危険性におもい当たった相楽はいつでも逃げ出せるように身構えながら室内を隈《くま》なく調べて回った。浴室や押入れや冷蔵庫の中まで覗《のぞ》いた。猫一匹隠れていないのを確かめて、ようやく肩の力を抜いた。  とりあえずの安全を確かめてから、電話機に手をのばしかけたとき、床に散乱している物品の間に分厚い札束を見つけた。  犯人の目的が金になかったのか。あるいは犯人もうろたえていて、札束が目に入らなかったのか。それだけの金があれば当面の急場はしのげる。  相楽は動揺から急速に立ち直った。札束が立ち直らせたのである。彼は電話機にのばしかけた手を札束の方へ向け変えた。殺人を犯さずに金だけ手に入れられる。これこそ「濡《ぬ》れ手で粟《あわ》」ではないか。  札束をつかんだ相楽に欲が出た。金貸をしている松がこれだけの金しか持ち合わせていないはずはない。比較的目につく場所の札束を残していったところをみると、犯人の目的は金にはなかったのかもしれない。とすると、まだ金が残っている可能性がある。  松は金庫のような目立つ場所に金をおかない。押入れや箪笥の中に無造作に入れておく。  松の手の内を知っている相楽は、目星をつけた場所を探した。案の定《じよう》、テーブルの抽出の中に万札の束が数束突っ込んであった。 「あった!」  相楽は喜びの声を口中にのみ込んだ。これだけあれば、彼のすべての問題が解決する。こんな紙っ片《きれ》の束が、彼の死活を握っているのだ。  金を手に入れると、冷静さが戻ってきた。金が彼の自衛本能を呼び醒《さ》ましたのである。ここで札束を握ったところで少しもそれを自分のものとしたことにならない。この場所から無事逃げ出して、司直の追及を完全に振り切ったとき初めて、金は自分のものになるのだ。 「落ち着け」  相楽は自分に言い聞かせた。だれか別の人間が松を殺してくれたのは勿怪《もつけ》の幸いだ。だがここでドジを踏むと、殺人の罪まで自分が背負ってしまう。そうなれば「粟」どころか火中の栗を拾ったようなものだ。  遺留品を残してはならない。一触の指紋、一本の毛でも残したら命取りになる。幸いにも松を殺すつもりで出て来たので、手袋をはめ頭には帽子をかぶっている。自分と松を結びつけるものはなにも残していないはずだ。  最後の最大の危険は、この場所からの脱出である。居住者に見られたら万事休すだ。  相楽はドアの内側から廊下の気配をうかがったが、いまや全棟死に絶えたかのように寝静まっていた。相楽は来たとき同様そろりと部屋から出た。だれにも出会わなかった。少し離れた場所へ駐《と》めておいた車にたどり着くと、故意に家と反対の方角へ向かって走った。  大|迂回《うかい》をしてようやく自分の家ヘ帰り着いたときは、東の空に暁《あかつき》の気配が揺れていた。      4  事件は翌日の午後報道された。発見者は客であった。四月二十八日午前十時ごろ金を返しに来た客が応答がないのでドアの取手をまわしたところ、ドアが開いたので中を覗いて、松の死体を見つけた。  警察では、殺人事件と断定して、管轄《かんかつ》署に捜査本部を設けて捜査を開始したという。当面は、被害者の貸付け客を中心に洗う方針だと捜査本部は発表した。  新聞を読んで、相楽は捜査が自分の予測した通りの方向へ進み始めているのを知って安心した。いくら洗っても、松の客の中に相楽はいない。犯人はまさしく警察の捜査の方向に潜んでいるにちがいない。あの強欲な強盗松だからだれに怨《うら》まれても不思議はない。松が殺されて祝杯をあげている客が多勢いるだろう。  だがまさか警察も、犯人の犯行に�便乗《びんじよう》�した者がいるとは気がつくまい。松を殺した犯人が、相楽がつかみ取って来た�粟�の責任まで背負ってくれる。相楽はほくそ笑《え》んだ。  だが彼のほくそ笑みはつかの間《ま》であった。  松殺しが報道されて間もなく、相楽は顔面や腕の露出した皮膚面に猛烈な痒《かゆ》みをおぼえた。一面に赤く腫《は》れ上がり、発狂しそうなほど痒い。少しかくと、それが引き金になってかかずにはいられなくなる。かき|※[#「てへん+劣」、unicode6318]《むし》っている間に皮膚が破れて爛《ただ》れる。  どこかでなにかにかぶれたらしい。だがかぶれの原因になるような物質に触れた憶《おぼ》えはない。記憶を溯《さかのぼ》っていった相楽は一つの可能性におもい当たってはっとした。松の家にかぶれの原因はなかったか。なかったとは言いきれない。いったい何があったのか。  相楽は特にかぶれやすい体質ではない。よくアレルギー性の皮膚炎を起こすといわれるブタクサや除虫菊などに触れてもどうということはなかった。子供のころ野原に山菜|摘《つ》みに行ってウルシかぶれを生じたことはあったが、こんなにひどくなかった。  一晩|経《た》てばなおるだろうとたかをくくっていたが、寝ている間に無意識にかき※[#「てへん+劣」、unicode6318]り、翌朝はさらにひどくなっていた。顔一面が発赤《ほつせき》して、人前に出られない。  もしかぶれの原因物質が松の家にあり、刑事も同様にかぶれたとすれば、刑事は犯人も同様にかぶれた可能性があると考えつくかもしれない。いや必ずそのように着想するにちがいない。この気が狂いそうな痒みが刑事の身体を襲えば、まずその原因となった有害物質を割り出す。それが松の住居内にあると知れば、どんな鈍感な刑事でも、犯人の身体も同様の反応を示していると考えるだろう。  軽率《けいそつ》に医者に行くと危険だ——と相楽は自分を戒《いまし》めた。医者から手繰《たぐ》られる例は多い。かぶれで死ぬようなことはめったにない。放っておけばいずれはなおる性質のものだ。  だが症状はいっこうに治まらなかった。治まるどころかますます悪化した。初めは露出していた皮膚面だけに限られていた症状が、衣服で被《おお》われている部位まで拡がってきた。  痒くて、一時もかく手を休ませられない。かき※[#「てへん+劣」、unicode6318]った個所が爛れて、さらに激しい痒みを訴える。火傷《やけど》は体表面積の十パーセント以上になると生命の危険があるという。かぶれも同じ様な危険があるのではないかと不安になった。  なんらかの手当てを施《ほどこ》さないと、とめどもなく拡がっていくようである。それに爛れた皮膚は一見火傷と変らない。こんなところへ刑事に踏み込まれたら、一たまりもなく白状してしまうだろう。  こんな状況では奈美にも会えない。結婚式の日取りは迫っている。当日までになんとしてもなおしておかなければならない。  いやそんなことより、このまま全身をかき※[#「てへん+劣」、unicode6318]りながら死んでいくような恐怖をおぼえた。相楽はとうとうたまりかねて医者へ行った。  相楽にとっては死ぬほどの症状も医者には見なれた症状らしく無造作に診《み》た。 「先生、これは何にかぶれたんでしょう」  相楽が質《たず》ねると、 「多分桜草ですね。季節になると桜草のアレルギーが大変多いのです」  桜草と聞いて相楽はおもいだした。松の死体の傍《かたわ》らに転がっていたのは桜草の鉢植ではなかったか。犯人はあの鉢植を凶器に用いた。 「念のためにパッチ(貼付《てんぷ》)テストをしてみましょう」  医者は、相楽の反応に気づかないように一枚の花びらを腕に貼《は》りつけた。 「これは桜草の花びらですが、貼りつけた個所が赤く腫《は》れてくれば桜草によるかぶれです。二十分もすればわかるでしょう」  いったん待合室へ帰って待っていると、十五分後に花びらの周囲が赤く腫れて痒くなった。かぶれの原因は桜草だった。  松の死体を抱き起こしたとき桜草に触れたのだ。本棚にも季節の花の鉢植がおいてあった。その中にも桜草があったかもしれない。  金を探して室内を物色したとき、他の桜草にも接触した可能性がある。  医者の治療のおかげで症状は軽減した。医者の手当をうけたという心理的作用も大きく働いていたのだろう。症状軽快と共に強気がよみがえってきた。  医者の検査でかぶれの原因は桜草と判明したものの、松の家の桜草と特定されたわけではない。桜草などどこにでも咲いている。夥《おびただ》しい桜草の中から、かぶれの原因となった桜草を特定することなどだれにもできない。医者ですら特定できなかった原因を、素人が勝手に特定して怯《おび》えることはない。自らつくりだした影に怯えていたのだ。  相楽がようやく疑心暗鬼から自らを解放したとき、二人の男が訪ねて来た。彼らが代々木署の刑事だと名乗ったとき、相楽は突然足元の大地が割れて奈落《ならく》ヘ吸い込まれるような気がした。よもや刑事がここまで来ようとはおもっていなかった。先輩と若年《じやくねん》のコンビで先輩が大石、若い方が木村と自己紹介した。大石は田舎の村長のような茫洋《ぼうよう》たる風貌《ふうぼう》をしていたが、木村は刃物のように鋭く光る目をしたいかにも切れそうなタイプである。 「本日は突然お邪魔して申しわけありませんな。実は我々が担当している事件についてちょっとお尋ねしたいことがございまして。マスコミの報道でご存知かとおもいますが、渋谷区××町のマンションで金貸しの婆さんが殺されて、その捜査を行なっております」  初夏をおもわせる暑い日射しの中を歩いて来た大石はしきりに額《ひたい》の汗を拭《ふ》きながら訥々《とつとつ》と言った。木村は傍《かたわら》で相楽を観察している。大石の訥弁を聞いているうちに相楽は次第に落ち着いてきた。  大石のズボンの膝《ひざ》は丸くなり、ワイシャツの襟《えり》はけば立ち、あご下には剃《そ》り残しの毛が目立つ、まさにドタ靴刑事の典型である。木村の方は若者らしくピシリと服装をきめているが、よく見ると二十代前半のまだ童顔の残る�青い�刑事である。おそらく外勤から抜擢《ばつてき》されたばかりなのであろう。  数年前松の下で一時期働いたことがあるので、その線から聞込みに来たのだろう。べつに恐れるに足らない。無用の動揺をみせて自ら墓穴を掘ってはならない。相楽は自分に言い聞かせた。 「ああその事件なら知っております。被害者の後藤さんは以前、少々仕事を手伝ったことがありますので、新聞を読んでびっくりしました。本当にあんな年寄りにむごいことをする。私は犯人を一日も早く挙げてもらいたいとおもっています」  相楽は先回りして松との関係を言った。刑事がここへ来るからには松との関係を調べ上げてのうえだろうから、下手《へた》に隠しだてをしないほうがいいと考えた。そのとき木村が口元だけでうすく笑ったように感じた。 「後藤さんに最近会われたことはありませんか」  大石がそろりと詮索の触手をさしのばしてきた。 「そうですね。三月の中頃国電の中で数年ぶりに偶然会いました」 「そうですか。それ以外に会ったことはありませんか」 「四月の初めに家へ遊びに行きました。電車の中で出会ったとき是非遊びに来るようにと言われましたので」 「それ以外には」  大石は小さなあくびを漏らしながら同じ質問を重ねた。あまり興味がないのだが職務上仕方なく聞いているという態度である。視線もあらぬ方角を遊んでいる。 「ありません」 「それならけっこうです。いやあ、つまらないことで貴重なお時間をいただいてすみませんでした。関係者には一応すべて当たらなければなりませんのでね」  大石は、相楽の答えに満足したらしく席を立ちかけた。相楽はかなり厳しい質問を覚悟して身構えていただけに、意外に簡単にすんで、拍子抜けした。ホッと構えを解きかけたところを突いて、大石はおもいだしたように、 「そうそう、後藤さんの家にあなたの名刺が残っておりましたよ」と言った。  一瞬虚を衝かれたおもいがしたが、 「過日、国電の中で会ったとき渡したのです」 「それはいつでしたか」 「三月の中頃と申し上げたでしょう」 「正確な日付けを憶えておられませんか」 「おもいだせませんね。商売|柄《がら》毎日大勢の人に会いますので」  相楽の名刺が松の所にあっても矛盾《むじゆん》はない。三月の再会を隠さなくてよかった。だがあのとき松に名刺を渡した事実をコロリと忘れていた。その名刺を手繰《たぐ》って刑事らは相楽の許《もと》へ来たのであろう。  そんな大穴があいているのも知らず、松の殺害を企《たくら》んだ自分にいまさらながら慄然とする。松に手を下さなくて本当によかった。素人に完全犯罪などとうてい達成できないのだ。名刺の一件は躱《かわ》したものの、相楽は脇の下にじっとりと冷や汗をかいていた。 「なるほど、なるほど」  大石は大仰にうなずいてみせてから、 「しかし、メモは取っておられるでしょう」 「後藤さんとは偶然出会っただけで、約束《アポ》を取って会った人ではないので、一々メモなんか取りません」  相楽は大石が、なぜ松に出会った日にこだわるのか怪訝《けげん》におもって、 「私がお松さん……いや後藤さんに会った日がなにか事件に関係でもあるのですか」  と質問をつけ加えた。 「関係があるというわけではありませんがね、後藤さんは名刺をもらった日付と場所を必ず裏面に記入しているのですよ。それがあなたの名刺の裏にはなにも記入してない。これがその名刺です」  大石はポケットから、一枚の名刺を取り出して相楽の前においた。たしかに相楽の名刺だった。裏にはなにも書かれていない。 「それはおそらく書き忘れたんでしょう」 「書き忘れたねえ、ところがこちらの名刺にはちゃんと記入してあります」  大石はもう一枚名刺を取り出した。これも相楽の名刺である。裏面には「五十×年三月十六日国電の中にて」とボールペンで書き入れてある。それはまぎれもなく相楽が松に渡した名刺である。大石は相楽と松が再会した日を知っていながら確かめたのである。そこに不吉な底意《そこい》が感じられる。相楽はようやくこの昼行灯《ひるあんどん》のような刑事が油断できない相手であるのを悟った。だがもう一枚の名刺はどこから来たのか。出所が自分であることは確かであるが、どんな経路を伝って松の許へ行ったのか。 「私の名刺が二枚あったのですか」 「そうです。あなたは二回後藤さんに会ったとおっしゃった。二回目も名刺をあげたのですか」 「いいえ」 「そうでしょうなあ。名刺なんて一枚やれば充分です。しかも二枚目は一枚目の半月後です。そんなに名刺を振り回す必要はないはずです」 「ずっと以前の名刺じゃありませんか」  混乱する頭で相楽は一つの可能性におもい当たった。 「それはあり得ません。相楽エンタープライズ・プランニング、肩書も住所も、そして名刺の紙質も同じですよ。二枚の名刺は最近、それもたがいにごく接近した機会に後藤さんに渡されたものにちがいありません」  この意味がわかるかと問うように大石は一直線に視線を重ねてきた。それはもはや昼行灯の茫洋《ぼうよう》たる目ではなく、凶器のように突き刺さる鋭角的な視線であった。 「いったい何を言いたいのです」  相楽は追いつめられている気配を悟ったが、自分の危機の実相が正しくわかっていなかった。 「二枚のあなたの名刺が被害者の家から発見された。同一人物の名刺でも肩書や住所が変っていれば何枚あってもべつに不思議はない。事実そういう名刺が被害者の家に何組もありましたよ。だが表記事項がまったく同じ、同一人物の名刺が二枚あったとなると、どうも引っかかるのです。しかも一枚には被害者の習慣に反して入手日と場所の記入がない。一枚は三月十六日に入手したことが明らかです。だがもう一枚はいつ入手したのか。三月十六日以前でないことは確かです。あなたはその日に被害者に数年ぶりに再会して、それ以前は被害者の住所を知らないのですから。半月後、あなたが被害者の家を訪問したときは二枚目の名刺を渡す必要がない。仮にそのとき被害者が一枚目を失ったと勘ちがいして二枚目をもらったとすれば、その日付を記入したはずです。ところが二枚目にはなにも記入されていない。  すると、二枚目の�白地�の名刺は被害者に渡されたのではなく、被害者の住居に落とされたものではないのか。このように考えると辻褄《つじつま》が合うのですな。つまり犯人によって落とされたと……」 「冗談じゃない。名刺なんて、大勢の人間に渡すものだ。名刺が悪用される話はよくある。現にあんたらは私に名刺をよこさない。警察官の名刺が悪用されるのを恐れているからだろう。名刺が一枚余計にあっただけで殺人犯人にされたのでは名刺もうっかり人にやれなくなる」  大石の言葉|半《なか》ばを遮《さえぎ》った相楽は、土俵際で踏ん張った。ここで崩《くず》されればあとがないのがわかった。 「もちろん我々も名刺だけであなたを疑ったのではありません。あなた、後藤さんが死んだ翌日、ホテルと旅行会社に、結婚式と新婚旅行の予約金を払い込んでいますね。その金はどこから手に入れたのですか」 「そ、それは取引の入金があったのだ」 「ほうどちらから? 百万近い予約金をポンと支払ったのですから、かなり大口の入金ですな。その気前のよい支払い先を教えてくれませんか」 「それは商売の秘密だ」 「都合のよい秘密ですな。まあ無理に聞かなくともけっこうです。二枚の名刺、突然の大口入金、これはあなたをマークすべき材料です。我々はあなたの身辺を徹底的に洗いましたよ。だいぶ派手《はで》にサラ金を借り歩いていますね。あなたはサラ金業者間の札ツキでもう一円も貸してくれる所がない。百万どころか一万もひねり出せない借金|漬《づ》けになっている。お仕事の方もうまくいっていませんね。ここ一年ほど、相楽エンタープライズ・プランニングは開店休業の状態です。どこを探しても百万の大口入金の出所は見つからない。そんな時期に美しい女性と結婚することになってさぞ金が要《い》ったでしょう。  ところであんた最近、なにかにかぶれたね。あんたが行った医者に聞いたところ、桜草によるかぶれだそうだ。被害者の家に桜草の鉢植があった。あっただけじゃない。その鉢植が凶器に使われた。これだけの条件が重なれば、いやでもあんたを疑わないわけにはいかない」  いつの間にか「あんた」になっていた。 「ち、ちがう」  相楽は苦しまぎれにもがいていた。 「なにがちがうんだ」 「おれは殺《や》ってない」 「いまさらなにを言うか」 �昼行灯�がせせら笑った。茫洋たる表情が別人のように精悍《せいかん》になり、追いつめた獲物《えもの》の虚《むな》しいあがきを愉しんでいる。相楽は牙を突き立てられた自分を悟っていた。つかんだものはやはり粟ではなく、火中の栗であった。      5  相楽順一は逮捕されて峻烈《しゆんれつ》な取調べをうけた。しかし彼は松の金を盗んだ事実は認めたが、殺人に関しては否認をつづけた。松の家へ来たときは、すでに彼女は殺されていたというのである。十日の勾留《こうりゆう》期間が切れて検察は勾留延長を請求して許され、引きつづき取調べにあたった。だが相楽は頑強《がんきよう》に否認をつづけた。このままでは窃盗《せつとう》で起訴するかあくまで事実否認のまま殺人で起訴するか二つに一つである。検察は否認事件の起訴にきわめて慎重である。  容疑者の自供が得られず、捜査本部に焦燥《しようそう》が深まった。 「大石さん、どうも引っかかることがあるんですがね」  大石とコンビを組んで、相楽を逮捕した木村が言いだした。派出所勤務中に受持区域内に発生した殺人事件の助勤《アシスタント》の働きぶりを認められて捜査係刑事に抜擢《ばつてき》された若手である。経験は浅いが、理論的な鋭い思考で、足とカンを頼りの古手刑事をたじたじとさせる。大石とはウマが合い絶妙のペアワークを見せる。 「なにが引っかかるんだね」  大石がこの端倪《たんげい》すべからざる若い相棒の顔を覗《のぞ》いた。 「医者の言うところによると、相楽は桜草にかぶれたそうですね」 「桜草の花びらを貼りつけるパッチテストとかいう検査をしたら、反応したそうだよ」 「我々はどうしてかぶれなかったんでしょうね」 「何だって?」 「我々も臨場して桜草に接触しています。桜草の鉢植が凶器として用いられたので丹念に観察し、当然桜草にもたっぷりと触《さわ》っています。それなのに臨場した捜査員が一人もかぶれていません」 「かぶれない体質だったんだろう。必ずしもみんながかぶれるとはかぎらない。蕁麻疹《じんましん》と同じさ」 「しかし、一人もかぶれないのはおかしいとはおもいませんか。現場には少なく見積っても三十人は入っています。事件発生後からののべ人数は大変な数になりますよ。凶器の鉢植は保存されて、桜草は別の鉢に移植されました。臨場した者全員がかぶれない体質というのもおかしいとおもうのです」 「なるほど」  大石は次第に興味を引かれてきたようである。 「私は小さいときからかぶれやすい体質でした。ウルシやハゼノキなんかはもちろん、漆塗《うるしぬ》りやワニスなどでもかぶれます。その私が全然かぶれなかったのは、どうしたわけでしょう、警察へ入って急にかぶれの抵抗性がついたとも考えられません」 「すると、相楽のかぶれの原因は現場の桜草ではないというのかね」 「わかりません。引っかかるものはそれだけではありません」 「まだあるのか」 「名刺ですよ。相楽が犯人なら、少なくとも日付の記入してある一枚はなんとしても取り戻したとおもうのですがね。その一枚については相楽は被害者に渡した認識があるのですから」 「名刺を重要視していなかったんじゃないのか。名刺なんて気軽にやり取りするもんだからね」 「それにしても自分が殺した被害者の許に自分の名刺があるのは、いい気分じゃないでしょう。先に渡した一枚を取り戻そうともせず、ご丁寧《ていねい》にも名刺のアンコールに応《こた》えた。犯人にしては手がかりをあまりにも残しすぎている」 「殺意は初めはなかった。途中でカッとなって衝動的に犯行を演じたとすれば、手がかりが多すぎてもおかしくはあるまい」 「ところが名刺はダブルでサービスされているというのに、指紋は一つも残されていません。当然残っていなければならないような個所にもない。拭《ぬぐ》い取ったのなら全部の指紋が消えているはずです。被害者の指紋はべたべた残っています。つまり、相楽は手袋をはめていたのです。手袋をはめて現場へ来た人間が、アンコールの名刺をもってくるでしょうかね」 「すると、相楽の名刺はだれがもってきたのかね」 「相楽以外の人間が相楽に罪を被《き》せるために持ち込んだのです。つまり真犯人が」 「なかなか面白い意見だが、相楽に罪を被せるまでもなく、彼は被害者を殺して金を奪うつもりで現場ヘ来ているんだよ。黙ってみていれば相楽がみんなやってくれるはずだった。もし相楽以外に犯人がいると仮定してのことだが」 「相楽と犯人の間に連絡がなければ……、つまり犯人は相楽が被害者を殺そうとしていることを知らなければ、相楽に罪を被せようとしてもおかしくないでしょう」 「相楽が別の場所の桜草に触れてかぶれたのかもしれないよ。医者も被害者の家の桜草と断定したわけじゃないんだから。季節には桜草なんてどこにでも咲いているだろう」 「事件の発生と時期を同じくしてかぶれたというのが気になるのです。季節ですから、花屋の店頭にも野辺や川原にも咲いているでしょう。しかし、被害者の家に桜草があり、容疑者がそれによるかぶれを起こしたとなれば、まずこの両者を結びつけてみたいですね」 「そうなると、我々がどうしてかぶれなかったのかが不思議だね」 「その方面の権威に問い合わせてみませんか」  木村の着眼を入れてT農業大学植物病理学教室成田守正教授の許に�凶器�の桜草を持ち込んで意見を聞いた。成田教授は桜草を一目見るなり、 「ああ、これはニホンサクラソウですね」  と言った。 「桜草にも国籍があるのですか」  日本にあった桜草だから、日本産はあたりまえじゃないかと大石は内心おもいながら尋ねた。 「ありますよ、外国産は主としてヨーロッパですが、セイヨウサクラソウと称《よ》んでいます。桜草は新しい品種を含めて五百種類もありますが、アレルギーを起こすのは外来種で、日本産のものにはその心配はありません」 「日本産はかぶれないのですか」  二人はおもわず身を乗り出した。 「かぶれません。最もかぶれやすいのはオブコニカと称ばれる外来種です。植物によるかぶれは花びら、茎、葉などの短毛から分泌《ぶんぴ》されるプリミンという物質が原因です。非常にアレルギーを起こしやすい物質で、直接接触せずともその近くへ行っただけで反応を起こす人もいます。〇・一パーセントのプリミンを一センチ四方くらい腕に塗ってほぼ二人に一人かぶれます。オブコニカはプリミンを多量に分泌し、ひどい人は、全身にかぶれが拡がったり、色素沈着を起こして、皮膚が黒ずんであとに残ったりします」 「先生、するとこの桜草はオブコニカではないので」  大石は確かめた。 「オブコニカではありません。昔から日本にある桜草で、かぶれを起こさない�安全な種類�です。諸事|舶来《はくらい》好みですが、桜草は国産を観賞していれば安全ですよ」      6  成田教授によって「凶器の桜草」はかぶれを起こさないことがわかった。捜査員がかぶれなかったのも不思議はない。 「すると、相楽は�ヨソの桜草�でかぶれたことになるね」  かぶれの原因が犯行現場になかったとなると、相楽のクロの材料が一つ減ることになる。クロの裏付け捜査において反対資料が出てくると、捜査員として落胆せざるを得ないのは無理からぬ心情である。 「それともう一つの可能性が考えられます」 「どんな可能性かね」 「相楽はやはり被害者の家でかぶれたのです。相楽が接触した後、その原因物質が運び出されたとすれば、どうですか」 「だれが運び出したというのかね……、まさか、きみ」  大石は、木村が示唆《しさ》する先を察して口ごもった。 「そうですよ。犯人が別にいて、我々が駆けつける前に原因物質を持ち去ったとすれば、相楽だけがかぶれて、我々がかぶれなくとも不思議はないでしょう」 「犯人が持ち去ったとすると……」  大石の目の色が木村の示唆する先をまさぐった。 「犯人にとってそれがそこにあると都合が悪かった。つまり、それは犯人を推定あるいは特定させるものだったのでしょう」 「相楽のかぶれがオブコニカによるものであることは医者によって証明されている。犯行時オブコニカが室内にあった。犯行後、相楽が現場へ来た。その時点ではまだオブコニカはそこにあった。翌朝被害者の死体が発見されて我々が臨場したときはすでになかった。  ということは、相楽が去って、我々が臨場するまでの間に犯人が現場へ戻って来たことを意味する」 「戻って来る時間はたっぷりありますよ」 「結果から見ればそうだが、犯人が戻って来るまでの間に死体が発見されていないという保証はない。犯人は大変な危険を冒《おか》したことになるな」 「犯人はまだ現場にいたかもしれません。相楽が来たとき現場のどこかに潜んでね」 「隠れるような場所があるかね。相楽は室内は一応すべて覗いて回ったと言っているよ」 「そうですね。すると、犯人にしてみればすでに死体が発見されて、警察が罠《わな》を張っているかもしれない所へ戻って来たことになる」 「それほどまでにしてオブコニカを持ち去ったということは、それが犯人にとって危険を冒すだけの価値があったことになるね」  二人の発見と意見は捜査会議に取り入れられて、新たな方針が立てられた。  相楽順一の容疑は保留したまま、捜査の網が張られた。その網に新しい容疑者が引っかかってきた。それは被害者の隣室に住んでいる佐古《さこ》日出男(三五)である。  佐古は電気会社に勤めていたが、ギャンブルに凝《こ》ってサラ金を借り回り首が回らなくなっていた。会社の金に手をつけたとかで馘《くび》になり、いまはぶらぶらしている。妻と子供が二人あったが、半年前に妻が子供を連れて実家へ帰って以後、ずっと独り暮らしをつづけている。  彼が浮上したきっかけは、事件発生の一週間ほど前、近所のフローリストでオブコニカを買ったという聞込みである。  まず捜査本部に任意出頭を求めて、取調べることにした。本部へ呼ばれたことで佐古はかなりショックをうけた模様である。だが犯行は否認した。佐古の前に現場から採取された彼の指紋が突きつけられた。それらはすでに対照検査されて佐古の指紋であることが確認されていた。  隣り同士だからたがいに往来している。指紋があるのは当然だと言い逃れようとしたが、凶器の鉢植から検出された指紋によって止どめを刺された。佐古は自供を始めたが、その内容は捜査本部の予測から大きくはずれていた。  ——にっちもさっちもいかなくなり、隣家の後藤松に目を付けた。松から金は借りていなかった(そのことが佐古の浮上を遅れさせた)が、彼女が高利貸をしている事実は知っていた。松が常時大金を身辺に用意していることも察しがついた。  追いつめられた佐古は松を殺して金を奪うことをおもいついた。松の歓心を買うために計画を立ててから、なにかと声をかけては接近した。松が室内で鉢植を丹精《たんせい》しているのを知り、季節の花の鉢植を買ってプレゼントをしたりした。—— 「四月二十七日夜十一時ごろ全棟が寝静まってから婆さんを殺すつもりで隣りへ行った。ところがいくらノックをしても出て来ないので寝てしまったのかとおもい、試みにドアを引いてみると鍵がかかっていなかった。用心のいい婆さんにしては珍しいなとおもいながら中ヘ入ってみると、婆さんはすでに死んでいて、室内が荒らされていた。  初めはびっくりしたが、自分がしようと考えていたことをだれかが先回りしてやってくれたのだから渡りに舟だとおもい直して金を探した。犯人は金が目的ではなかったとみえて、床の上に札束が落ちていたが、私はもっと大金があるはずだとおもって物色していると、玄関にだれか来たので、一円も取らずにベランダ伝いに自分の部屋へ逃げ帰った」  ——でたらめを言うな。おまえが殺さなければだれが殺すというのだ——  取調官は、相楽の供述をコピーしたような佐古の供述に、彼がこの期《ご》に及んで言い逃れようとしているとおもった。 「でたらめではない。本当に死んでいたのだ。殺された直後のようで、婆さんの体はまだ少し暖かった。本当だ、信じてくれ。おれは殺《や》ってない。金も奪《と》っていない」  ——それならばなぜそのとき警察に通報しなかったのか—— 「通報すれば、疑われるとおもったからだ」  ——おまえは、いったん自分の部屋へ逃げ帰ってから、もう一度現場へ戻って来たはずだ。おまえが被害者にプレゼントした桜草の鉢植を取り返すためにな。証拠の品を残してはまずいとおもったからだろう。危険を冒してまで証拠を消したおまえが、犯人に決まっているじゃないか—— 「私は殺していない。鉢植を取り返したのは、恐《こわ》くなったからだ。近所の花屋で買ったのでそこで調べられたら、私が買ったことがわかってしまう。でも初めは鉢植を取り戻すために婆さんの家へ戻ったのではない。突然の訪問者の気配にびっくりして、自分の部屋へ逃げ帰り、しばらく様子をうかがっていた。そのときは訪問者の正体を知らなかったが、間もなく訪問者は立ち去った。訪問者が警察に通報して大騒ぎになるぞと身構えていたが、いっこうに警察の来る気配がないのでまたベランダ伝いにおっかなびっくり隣りの様子を見に行った。  そこで、途中から割り込んで来た訪問者が、金を横奪《よこど》りしたのを悟ったが、文句を言うわけにはいかなかった。このままでは婆さん殺しと金を奪った罪まで押しつけられてしまうとおもい、婆さんにプレゼントした桜草の鉢植を取り返したのだ。間もなく相楽が逮捕されてホッとした」  佐古の自供はおおむね以上であった。取調官は、佐古が往生際《おうじようぎわ》悪く虚言を弄《ろう》して言い逃れようとしているとみて、なおも追及したが、彼は供述を翻《ひるがえ》さなかった。  佐古は殺意をもって被害者宅へ侵入した事実までは認めている。その点は相楽の供述と同じである。ただ実行行為だけを否認している。虚言にしては拙劣《せつれつ》であり、相楽に金を横奪りされた事実も間が抜けている。  取調官は、実行行為の有無をしばらく保留して、佐古の殺意についてさらに追及した。  取調官は、人を殺して奪った金をサラ金の返済に当てようとする、殺人と借金の転倒が不可解であった。殺人を犯すくらいなら借金を焦《こ》げつかせたほうがはるかにましである。殺人と借金とは本来同一の度量衡《どりようこう》で比べるべきものではない。それを比較考量して借金の方を重く見たのが、殺人者である。  殺人という不利益、危険性、違法性を冒しても、借金を返済しようとする正気の沙汰ではない価値判断の転倒は、経験を積んだ捜査員にとってもつかみきれない犯罪者の心理である。  犯罪者は大なり小なり�正気�を失った人間といえる。殺人の動機には、大別して痴情《ちじよう》、怨恨《えんこん》(復讐等)、物盗り、遺産問題(保険金目的殺人を含む)等があるが、いずれの場合も、殺人と、それによって得られる利益、あるいは排除される不利益との比較がある。つまり、犯人は殺人と交換されるもののほうにより大きな価値を見出しているのである。殺人に限らず犯罪は比較考量の価値判断が多少ともずれたものであるが、「サラ金の返済」という殺人の動機は、犯罪を取締《とりしま》る専門家の捜査員にとってもあまりにもずれがあるように見えた。 「それは刑事さんがサラ金の恐ろしさを知らないからそんなことをいうのだ。サラ金は恐ろしい黴菌《ばいきん》だ。いったん取り憑《つ》いたら、どんな抗生物質も効かない。人間の精神の中枢から破壊してしまう。サラ金をサラ金で返す。この地獄めぐりに迷い込んだら、一生絞られつづける。借りるときなんの苦労も手間ひまもいらないということが後日の地獄の責苦《せめく》を予告しているのだが、人間には目の前のことしかわからない。わかっているようでもわかっていない。それがわかる者はサラ金などに手を出さない。  後ろに大きな地獄の釜が口を開けて待っていても今日の地獄を逃げるために、どんどん深間《ふかま》へはまり込んでしまうのだ。サラ金は�サラ菌�というこれまで発見されたどんな病源菌よりも恐ろしい病源菌なんだよ。おれはサラ金を返すために人を殺そうとしたんじゃない。サラ菌を殺すために別のサラ菌を殺そうとしたのだ」  佐古はしみじみ述懐した。  佐古日出男は頑強に犯行を否認していた。おかしなことになった。二人も容疑者を捕え、いずれも現場に被害者を殺しに来た事実は認めていながら、彼らが来たときはすでに被害者は殺されていたというのである。 「ふざけてやがる。殺意は�二人分�あったのに犯行は第三の人間がやったんだとさ」 「彼らが仮に本当のことを言っているとすれば、当夜三人の人間が被害者を殺しに来たことになります」 「だからふざけているというんだ」 「犯人が多すぎますね」 「それだけ被害者が怨まれていたということにもなる」 「しかし、相楽も佐古も被害者を怨んでいたわけじゃありませんよ」 「そうなんだ。殺しに来たという二人は金が目当だった。あれだけ人の怨みを集めていた金貸婆さんだから、あるいは本当に怨んでいた第三の犯人が先回りして婆さんを殺《や》ったんじゃないかという気にもさせられるんだ」  大石と木村は、佐古を逮捕したものの、どうも釈然としなかった。この場合、相楽と佐古が事実を供述していると仮定すると、法律的に未遂《みすい》犯が成立するか。未遂は「犯罪の実行に着手し、之《これ》を遂げざる」場合をいう。  相楽について窃盗と住居侵入、佐古に住居侵入が成立することは議論の余地があるまい。だが殺人の実行の着手は、殺す意志をもって凶器を取り出したとか被害者の身体におどりかかったとかの行為があった時点をいう。  凶器の準備をすれば、殺人の予備に該当《がいとう》するが、両者ともそれの準備もしていない。被害者の居宅に入っただけでは、実行の着手にあたらない。したがって未遂にも該当しないことになる。  未遂犯はその刑を減軽することを得、また自分の意思によって犯行を中止したときは刑を減軽または免除すると規定されている。  それ以外の自分の意思によらない犯行の中止を障礙《しようがい》未遂として区別している。犯行に着手したものの犯人の意図せざる意外な障礙によって結果が発生しない場合で、例えば、浅野が吉良に切りかかったところを梶川に抱き止められて仕留め損《そこな》ったようなケースである。死んでいる者を生きていると錯覚して攻撃を仕掛けた場合は、障礙未遂に該当するかもしれない。  一方、行為の性質上、結果発生の可能性(危険性)のない場合を「不能犯」として未遂犯から区別している。例えば砂糖水を飲ませれば相手を殺せると信じてそのような行為に出たとか、弾丸の入っていないピストルを入っていると誤信して人に向けて引金を引いたとかいう場合である。  形式的には未遂犯と同じであるが、結果発生の可能性がないという点で未遂犯として処罰すべきではないという立場である。  旧刑法も現行刑法も不能犯に関する規定を設けなかったが、改正刑法草案第二十二条は「結果の発生によって刑を加重する罪について、その結果を予見することが不能であったときは、加重犯として処断することはできない」と定めている。  相楽と佐古は殺意をもって相手の居宅に入ったところ、相手はすでに死んでいたと供述している。これが事実であれば、結果の発生は不能ということになり、不能犯に該当するかもしれない。  だが不能犯にしても未遂犯にしても、犯人が一定の犯罪を実行しようとする意思は同じである。犯人の主観的|悪性《あくせい》(反社会性)を重視する立場は不能犯を未遂犯から区別して不処罰とすることに消極的であり、実害に重点をおく立場は積極的である。  法律的にも学説が分かれて難しい事案である。  二人の行為が殺人未遂でなければ、相楽は窃盗と住居侵入、佐古は住居侵入だけということになってしまう。桜草の鉢植を取り返したことに窃盗罪の成立を認めたところで、相楽と同じ罪質になるだけである。まさに「大山鳴動して」「ねずみ二匹」である。 「�第三の犯人�がいるのでしょうか」  木村が大石の顔色を探った。 「一つ引っかかることがある」 「何ですか。それは」  今度は木村が聞き役に回っている。 「名刺だよ。佐古は相楽に会ったことも話しをしたこともないと言っている。二人の間にはいかなるつながりも見つけられない。すると現場に残っていた日付の入っていない相楽の名刺は、どういうことになるのか。これまで佐古が落としていったと考えていたんだが、佐古が相楽とまったくつながりがないとなると、佐古は相楽の名刺を現場に落とせなくなるよ」 「なるほど。実はぼくも佐古が犯人だとすると、桜草の鉢植を凶器に使ったことがどうも腑《ふ》に落ちなかったんです」 「そうそうそれもあるな。佐古が被害者に桜草をプレゼントしているのに、たとえ桜草ちがいにしても、桜草に注意を集めるような犯罪行為をするはずがないな」  彼らは顔を見合わせてたがいの胸裡《きようり》に醸成しつつあるおもわくを探っていた。      7  百瀬《ももせ》奈美は百万に一つの偶然の符合というものが現実に存在することをおもい知らされた。自分の婚約者と自分がたがいになんの連絡もなく同一人物に同時に殺意を振り向けるということが実際に起こり得るものだろうか。  それが現実に起きたのである。しかも自分はその殺意を実行してしまった。その後に相楽が同じ意思を抱いて乗り込んで来たのである。もし事前に共通の意思があることがわかれば、協力し合えたかもしれない。  いや協力しなかったからこそ、相楽が奈美の罪を背負ってくれ、自分は安全圏に逃げられたのではないのか。  さらに驚いたことに相楽の他にもう一人容疑者が現われてくれた。あの鬼婆のことだから何人殺しに来ても不思議はないが、後から考えれば実に際《きわ》どい間隙《かんげき》に犯罪を実行し、現場から脱《ぬ》け出したものである。  少し遅れても、相楽や佐古と鉢合わせをしてしまうところであった。  後藤松を殺すつもりはなかった。生家からの仕送りを断たれて、松から何回か金を借りた。安直さと甘言《かんげん》に欺《あざむ》かれて、気がついたときは首が回らなくなっていた。利息を払うために他のサラ金から借り、サラ金地獄の深みにはまり込んでいく。  身動きできなくなったところを狙っていたように松が猫なで声で言った。 「奈美さん、あんたならなにもこれっぽっちの借金で苦労することはないよ。あんたさえその気になれば、借金なんか一度できれいさっぱりになってお釣りがくるさね」  松から声をかけられたとき、すでに選択の余地がない所へ追い込まれていた。一度のつもりが二度、三度となった。回数を重ねるほどに抵抗が薄れた。  松が紹介してくれる客は金持ばかりで、規定の料金以外に気前よくチップを弾《はず》んでくれた。  どういうルートがあるのか、政財界の大物や有名芸能人なども来た。時には外国人の客もいた。周辺の厳重な警戒ぶりをみても、単なる外国人ではなく、相当の要人のようであった。そういう客に侍《はべ》るときは、松が二万から五万の特別ボーナスをくれた。これは爪に火をともすような彼女には破天荒のことである。  ある日、なにげなくテレビを見ていた奈美はあっと仰天《ぎようてん》した。一昨夜相手をした外国人の客が、国賓《こくひん》として来日中のA国要人として画面にうつっていたからである。彼女の体を執拗《しつよう》に貪《むさぼ》っていた老醜の狒々《ひひ》爺とはまったく別人のように威厳に充ちた荘重な口調で世界の政治について語っていた。  こういう客を相手にしている間に、借金を返済したうえに少なからぬ貯金もできた。奈美の美貌と若い肉体が大いにモテて、�商売�は繁盛した。  奈美は完全な高級売春婦になった。「高級」というのは値段が高いという意味である。奈美は開き直り、どうせ衰える運命にある花の命であるなら、花の盛りに、商品として高い値段がついている間に売りまくってやろうとおもった。  金が面白いように入ってきた。奈美の売行きに比例して松の周旋料も伸張した。この限りにおいては共存共栄だった。  この関係が二年ほどつづいた。二年目に相楽と出会った。奈美はいつまでもコールガールをつづけるつもりはない。ここらが足を洗う潮時だとおもった。金もかなりたまった。この辺で幸せな奥様に転業すれば、売春の泥水は洗い落とせるだろう。  ところが松が彼女の転業意志の前に立ちはだかった。 「冗談じゃないよ。ここまでおまえさんを売り込むには大変な投資をしているんだ。あんたは知らないだろうけど、あんたは一人の意思で勝手に止められないところへきているんだよ。そうでなければ、ちょっとお面《めん》の渋皮がむけているくらいで、だれがあんなに金を払うものかね。もうあんたの勝手にはならないんだよ」  松に脅《おど》かされて、急に恐くなった。サラ金地獄から逃れて、もっと恐ろしい地獄へ落ち込んだようである。奈美がますます逃げ腰になって止めたい理由を告げたのが藪蛇《やぶへび》になった。 「あんたのようなのを食い逃げというのさ。そんな真似はさせないからね。あんたがコールガールだったということをあんたの将来の旦那にバラシたらどういうことになるとおもう。大丈夫だよ。なにも止めることはないさね。あんたは結婚するといいよ。結婚して商売つづければいいんだ。旦那にわかりさえしなければいいんだ。わからないように私がうまくやってあげるからさ」  松は脅したり、すかしたりした。だが奈美にはもはやコールガールをつづける意思は失《う》せていた。これ以上つづけていれば一生その汚泥《おでい》を拭《ぬぐ》い落とせなくなる。  松と何度か話し合った。話し合いは平行線をたどった。話し合いの最中にも客の座敷がかかってきた。その都度《つど》、松に半《なか》ば強制されて客の伽《とぎ》をつとめた。  四月二十七日の夜、今夜こそ最後の話し合いにするつもりで松の家へ行った。初めは穏《おだ》やかに話し合っていたが、奈美の止める意思が固いのを知ると、松は罵《ののし》りだした。 「止めたければ止めればいいさ。明日にでもあんたの旦那の所へ行ってみんなバラシてやる。私があんたの旦那がだれだか知らないとでもおもっているのか。たとえ結婚しても、後々までまつわりついてやる。あんたの新居の近所ヘ行ってあんたが昔何をやっていたかしゃべりまくってやるよ。行く先々に私が行って吹聴《ふいちよう》してやる……」  突然、松の罵り声が止まった。気がつくと奈美は砕けた鉢植を手にしており、松が床の上に倒れていた。  そのとき、松がうめいた。衝動的にかたわらにあった鉢植で殴《なぐ》ってしまったが、打撃が充分ではなかったのである。ここまでやりかけた以上、中途半端にはすまされないとおもった。目についた腰ひもで松の首を絞め、完全に絶息したのを確かめてから逃げ出した。  まさかその直後に相楽が松を殺すつもりでやって来ようとは考えもしなかった。これが百万に一つの偶然でなくてなんだろう。ともかく相楽と佐古が介入《かいにゆう》して来たおかげで、衝動的な犯行にもかかわらず、捜査の鉾先《ほこさき》を躱《かわ》したようであった。相楽が逮捕された直後、刑事がちょっと聞き合わせに来ただけでそれ以後、警察の気配もない。  相楽を失ったのはちょっと残念なような気もするが、あの事件のおかげで図《はか》らずも、彼の正体が現われた。�青年実業家�などと奈美の前で格好よいところを見せていたが、実はサラ金で首がまわらなくなっていたのだ。  あんな見栄っ張りの素寒貧《すかんぴん》と結婚していたら、青春を切売りして稼ぎためた金を全部吸い取られてしまうところだった。まだ知り合って日は浅く、深刻な感情は成長していない。  これはむしろ怪我《けが》の功名《こうみよう》ではないか。  奈美はかえってよかったとおもった。婚約者の代りなど、彼女ほどの器量があればいくらでも見つかる。  サラ金地獄とセックス地獄の二つの地獄から脱出して、奈美の前には自由な天地が展《ひら》いていた。そしてそれを天国にするための資金もたっぷりと蓄《たくわ》えてある。  しかし日が経つにつれて少し気がかりなことが生じてきた。それは犯行時に松の家にあった植物にかぶれたらしく、初めはあまり気に留めていなかったのだが、このごろ肌の一ヵ所が黒ずんできたのである。  まだ化粧で隠せる程度であるが、気のせいか、だんだん色が濃くなってくるようである。顔の目立つ個所なので、気にすまいとしても気になる。  医者に診《み》せたが、桜草のかぶれによる色素沈着で治療をつづけていればなおるだろうということだった。そういえば松を殴った凶器が桜草の鉢植だった。  単に美容上の障害になるだけでなく、松の怨霊《おんりよう》が取り憑《つ》いたようで気味が悪かった。医者の、アレルギーの原因を取り除《のぞ》けばなおるという言葉を信じて治療をつづけているが、シミを隠すために使用する化粧品がよくないらしくますます悪化してくる気配である。  しかし、いまや化粧で隠さずには人前に出られない。厚化粧がさらに症状の悪化を促《うなが》すという悪循環に陥《おちい》っていた。  そんな時期に二人の男が訪ねて来た。一人は年輩で大石、もう一人は二十代前半で木村と名乗った。大石はいまにも肩を叩かれそうな、窓際で日向《ひなた》ぼっこをしているような間のびした表情をしていたが、木村は油断ならない敏捷《びんしよう》な目の色をしている。  奈美は不吉な予感がした。どちらも初めて見る顔である。だいたい松殺しの捜査本部の刑事がいまごろ来るのが、いやな感じがした。 「実はもっと早くお邪魔すべきだったのですが」 �窓際の日向ぼっこ�が奈美の胸の裏を読んだように切り出した。 「どんなご用件でしょう」  奈美は落ち着かなければいけないと自分に言い聞かせながら自然に身構えていた。 「相楽順一はあなたの婚約者でしたね」 「もう解消いたしました」 「ほうそれはまたどうして?」 �窓際�がとぼけた表情で覗き込んだ。 「どうしてって、そんな殺人犯とわかった人と結婚できませんわ」 「殺人犯と決まったわけではありませんよ。いや殺人の容疑はほとんど消えたといってよろしいでしょう。それでも婚約を解消なさるのですか」 「でも殺すつもりで行ったんでしょう。そんな恐ろしい人と結婚できません」 「たしかに殺意をもって被害者の家へ行ったのですが、あなたどうしてそれをご存知なのですか」  日向ぼっこをしながら世間話をするような調子であるが、その言葉は吸盤のある触手のようにねっとりとからみついてくる。 「新聞に出ていましたわ」 「事件の新聞報道を読んでいらっしゃるのですな」 「それは……」  ——婚約者が関わっている事件だからと言おうとして危《あや》うくのど元に抑えた。奈美はこの窓際刑事が油断ならない相手であることを悟った。 「婚約者の関わる事件ですから関心をおもちになって当然でしょうなあ」  大石は奈美のおもわくを読んだように言った。 「あのご用件をどうぞ」 「あ、これは失礼|仕《つかまつ》りました。実はですな、あなたが相楽と知り合ったのはいつごろでしょう。差《さ》し支《つか》えなかったらお聞かせねがえませんか」 「べつに差し支えはありませんが、そんなことが捜査のお役に立つのですか」 「それはもう大変役立ちます」 「ちょうど一年ほど前です」 「相楽はそのときどんな仕事をしていましたか」 「いまと同じですわ。なんでも企業のコンサルタントということでした」 「相楽エンタープライズ・プランニング」 「そうです、そんな名前でしたわ」 「その名刺をもらいましたか」 「もらったとおもいます」 「いまそれをおもちですか」 「さあ、名刺なんてべつに整理して保存しておりませんので」  奈美の心に不安が高まっていた。刑事が名刺にこだわる底意に、なにか含んでいそうである。 「どこかで紛失したということはありませんか」 「憶えていません。名刺なんてそんなに注意してもっておりません」 「ほう、そんなものですかなあ、婚約者の名刺なら大切に持ち歩いていてもおかしくないとおもいますがな」 「もう婚約者ではありません」 「名刺を失ったときはまだ婚約を解消しておられなかったんでしょう」 「そ、それは……あの……いつ失ったか憶えていません。解消後に失ったかもしれません」  危うい所でこらえた。その目の前に、 「その名刺、これではありませんか」  大石は一枚の名刺をずいと差し出した。一瞬、虚を突かれながらも、奈美は、 「あの、これをどこで?」 「後藤松さんの部屋の中にあったのです」  大石の目は日向ぼっこから覚《さ》めて一直線に斬《き》り込んできた。 「まさか、それを私が落としたとおっしゃるんじゃないでしょうね」 「我々はあなたが落としたものとおもっているのですがね」 「ま、刑事ともあろうお人がずいぶん非論理的なことをおっしゃるのね。相楽の名刺はこれ一枚じゃないでしょう。どうしてたくさんの名刺の中から一枚の名刺を私が落としたものと特定できるのですか」 「特定できます。相楽さんは後藤松さんに一枚しか名刺を渡しておりません。その名刺の裏には松さんがもらった日付と場所を記入しています。この名刺にはなにも記入されていません。あなたが松さんの居宅に何回か出入りされていることは確かめてあります。あなた以外に松さんと相楽の共通の知人はいません。するとあなただけが相楽の名刺を松さんの居宅に持ち込めることになるのです」  じりじりと土俵際に追いつめられている気配を悟りながら奈美はまだ活路を探していた。 「仮に私だけが名刺を持ち込めるとしても、どうしてそれが事件に結びつくのですか。あなたもいま言ったばかりじゃないの。私が松さんの家に何回も出入りするのを確かめたって。名刺なんかいつだって落っことせるわ」 「ところがあなたが名刺を落としたのは四月二十七日の夜、つまり松さんが殺された夜なのです」 「どうしてそんなことを言いきれるのですか」 「松さんの隣りに住む佐古日出男が彼女の歓心を買うために西洋産の桜草を四月二十日に贈っています。あなたはその日以後事件発生日までの間に松さんの家に行ってません。ところであなたの顔はなにかにかぶれていますな。お宅の近くの皮膚科の医者を歩き回って、あなたがかかった医者からあなたのかぶれの原因が西洋産の桜草によるものだと聞きました。患者の秘密なんてうるさいことは言いませんでしたよ。あなたが松さんの家にあった西洋桜草に触れられるのは四月二十七日の夜だけなのです。つまりいつ名刺を落としたかということより、あなたが事件当夜松さんの家に行ったということが重要なのです。あなたはその事実を黙秘しておられた。どうしてですか。……現場に落ちていた名刺はあなたをマークしたきっかけにすぎません」 「ど、どうして、私が松さんの家にあった桜草でかぶれたと言えるのですか」  奈美は土俵際で踏ん張っていた。 「実は我々もあなたに会うまでは自信がなかったのです。でもいまははっきりとあなたのかぶれの原因は四月二十七日の夜松さんの家にあった桜草だと断定できます」 「だからどうして」 「鏡を覗いてごらんなさい。それとも覗くのが恐くて鏡を避けているのですか」  刑事の自信たっぷりの言葉に、奈美は居室の一角においてある三面鏡の前へ行った。鏡面を覗き込んだ奈美は悲鳴をあげて立ち竦《すく》んだ。右頬から顎《あご》にかけて小判型の黒いシミがくっきりと浮き上がっていた。それは後藤松の同じ部位にあったシミとまったく同じ形状であった。 本書は'89年5月、講談社文庫より刊行されたものです。 角川文庫『花刑』平成10年2月25日初版発行