[#表紙(表紙.jpg)] 致死家庭 森村誠一 目 次  自閉された暴君  幼なじみの共犯者  苦痛解放計画  楽天地行への乗車拒否  断絶した次期走者  未知の解剖  再会した情事  返り討ちになった自殺  見なれない証拠  共犯の鍵  余計な親心  悲しみの類型化   あとがき [#改ページ]  自閉された暴君      1 「正介、あしたテストでしょう。少しは準備しておいたほうがいいんじゃないの」  夜更けてまでテレビの前にボンヤリ坐っている正介に母親の素子《もとこ》が見るに見かねて言葉をかけた。 「うるせえ!」  次の瞬間、凄まじい罵声《ばせい》と共に、けたたましい音をたててガラスが砕けた。いきなり茶碗が飛んで来たのである。  深夜の寝静まった郊外の団地でその時ならぬ�異音�は、住人たちの枕にさぞやけたたましく響いたことであろう。  いまの異音によって眠りを破られた人もいるはずである。初めのころこそ苦情を言ってきた人たちもいたが、このごろは毎夜のように繰り返される騒ぎに馴れたか、あきらめたとみえて苦情も出なくなった。それをよいことに正介の傍若無人ぶりは、ますますエスカレートした。  だが母親が声をかけなければ、際限もなく夜更しをしているだろう。朝になって起きられないことがわかっていながら、前夜と同じ繰り返しである。なにかをしているのであればとにかく、なにもせず植物的な表情で夜更しをしている。経験が少しも蓄積されていないのだ。  物が破壊された後には必ず、「打《ぶ》っ殺してやるぞ」「死ね!」「いますぐ死ね!!」などという聞くに耐えない罵言がつづく。事情を知らない人が聞いたら、ヤクザのけんかが始まったとおもうだろう。  事実、正介が荒れだした初期には、近所の人がヤクザのけんかかとおもって、110番したこともあった。この騒ぎは決してヤクザのけんかではなく、波多野家において毎夜のように繰り返される親子の間のトラブルである。それも子が一方的に荒れ狂う。親はその間、身を竦《すく》め、耳を塞ぐようにして、子の発作が鎮《しず》まるのをじっと待っている以外にない。なにか言葉をはさめば、発作がさらに激しく、長引くだけである。  波多野家の一人息子正介は、もともと一人っ子のせいもあって、自閉的なところがあった。だが、核家族の増大で、一人っ子は多い。すべての一人っ子が自閉的ということはない。正介の自閉がかったところは、性格的なものであろう。それも病的なものではなく、普通の学校の普通の学級にちゃんと行っているのであるから、一人っ子のわがままが嵩《こう》じたものと言ってよい。  幼いころから一人遊びを好み、友達の中に入っていけなかった。グループに入ったように見えても、いつの間にか独りはずれて、勝手な遊びをしていた。遊びのルールを守らないので自然に除《の》け者にされてしまう場合が多いが、たとえグループから受け入れられても自分から出て来てしまう。わがままから集団の遊びに耐えられなくなってしまうのである。  遊びのグループであっても、集団には必ずそれなりのルールができる。そのルールに縛られることに耐えられないのであった。  いきおい、自分の家に閉じこもり、自分の中に閉じこもりがちになる。自閉の垣の中ならば、だれからも脅かされることもなく、自己の王国の帝王として君臨できる。ルールはすべて自分がつくったものである。自分のルールであるから、それを守るのは、自分が�為政者�であることの確認である。  たとえ両親であっても、自己の王国の領土《テリトリー》に侵入することは許さない。  自閉の王国の中に閉じこもっても、その中で読書とか勉強とか自分が興味をもった分野の追求とか、なにか建設的なことをしているのであればよいが、正介はなにもせずぼんやりしている場合が多かった。夜は深夜放送を聴きながら際限もなく夜更しをしている。日曜日などは、終日自室に閉じこもって、茫然《ぼうぜん》と過ごす。母親が見かねて、本でも読んではどうかと口を出すと、例の発作が起きる。  幼いころは、親の腕力のほうが強かったので、親の望むことに強引に従わせ、抵抗を圧伏できた。だが次第に成長するにしたがって、子の腕力が親を上まわるようになると、体力的な強制はできなくなる。  正介の家庭内暴力沙汰は、中学一年のころからそろそろ現われ始めた。目先の誘惑に弱い。翌日からテストが始まるというのに、見たいテレビ番組や映画があると、がまんできないのである。正介の生活においてテレビはすべてに優先する。下校して来て、まず「レギュラーのテレビ」を見ないことには、なにも手につかない。翌日、重要なテストがあっても、見るべきテレビは見なければならない。見たいものを目いっぱい見た後で、ようやく教科書や参考書を開くころはいいかげん酷使した目が眠くなっている。  親がそれに干渉すると、荒れ狂う。テレビの�支配�を多少なりとも緩和あるいは調節しようとして、乏しい収入をやりくりしてビデオデッキを買ってやったが、録画した番組すら試験勉強よりも優先させる。いつでも見られる録画すら、早く見たいという誘惑を抑えられないのである。  こんな生活態度であるから、正介の成績は最低で、高校進学は絶望的であった。このままでは中学浪人必至というとき、母親が八方駆けまわって正介の学力でもどうにか入れそうな学校を見つけてきた。すべて親まかせの高校受験の朝、正介はなんと、受験開始時間に遅れたのである。交通機関のストや、不可抗力によるものではない。  母親が必死に揺り起こしても、目先の眠さに負けたのであった。入学試験に朝寝坊をして遅刻をした者は、珍しいであろう。このようにしてようやく入った(入れてもらった)高校も、不満だらけで口実をつくってはサボりたがった。家の中では、自己の王国に閉じこもれても、学校ではそうはいかない。小・中・高校時代は、弱肉強食のジャングルである。腕力によって、クラスをあるいは学年、学校をすら支配できる。腕力がなくとも、勉強やスポーツで頭角を現わせば、スターとして独自の位置を確保できる。  家にあってこそ、自己の王国に君臨できても、同年の少年の間ではからきし意気地のない正介は、止むを得ず他の少年の支配に屈従しなければならない。それは正介のような少年には耐え難い忍従であった。だが学校では彼の王国のルールはまったく通用しない。むしろ正介のような性格の少年は、番長共のよいカモである。腕力も学力もスポーツの才もない正介は、学校においては、最下級の植民地の奴隷《どれい》に甘んじなければならなかった。  そのストレスが家に帰って来ると、いっきょに放出される。たまりにたまったうっぷんが、とりあえず母親に向かって吐き出されるのである。中学時代は、父親の波多野公造が、正介と母親の間に立ちはだかった。  正介の暴力の胎動を父親の腕力によって封じこめた。母に対して暴言を吐くと、「親に向かってなんという言いぐさか」と公造が体罰を加えた。そのころはまだ父親の権威が辛うじて留められていた。  正介も、父の体罰が恐いので、母に対する八つ当たりも、発作も限界があった。それが中学三年の三学期のとき、正介は正面から父に抵抗した。取っ組み合いになった。公造は息子に床に叩きつけられて、しばらく起き上がれなかった。  そのときを境いに波多野家の�主権�は正介の手に移った。それでも高一のころまでは、公造が家にいるときは、発作にも多少の遠慮があった。高二になってから、発作になんの抑制もかけなくなった。公造の存在などまったく無視した。  発作が起きると、手当たり次第に物を投げた。食器、時計、電気スタンド、本などが飛んで来る。このようにしてガラスが何枚も割られ、家具が壊された。いまや波多野家に満足な家具はほとんど残っていなかった。鋏《はさみ》や包丁などの凶器も見境いなく投げつけられるので、発作時にはバリケードや緩衝具《パラシヨツク》を探さなければならない。食事最中の発作は特に危険である。熱い汁の入った鍋や、熱湯の溢《あふ》れた薬缶《やかん》などをいきなり引っくり返す。膳立てされて食べるばかりになっている食物の上に殺虫剤のスプレイを吹きかける。それを知っているので、食事中はつとめて刺戟しないように、腫《は》れ物に触るように扱う。  だが急にわけのわからない理由で怒りだすことがあるので、気が抜けない。  ある夜のことであった。久しぶりに公造の帰宅が早く、三人で夕食を摂《と》っているときに、正介の熱心に見ていたテレビの歌謡番組を脇から覗《のぞ》いた公造が、「ほう、おまえこんなジャリ歌手が好きだったのか」となにげなく言った。正介の顔色がすっと変った。しまったとおもったときは遅かった。  正介は手にしていた茶碗をいきなりブラウン管に力いっぱい叩きつけた。ブラウン管が盛大な音響をたてて爆発した。正介はつづいて食膳に両手をかけて引っくり返した。公造も母親も唖然《あぜん》として声も出なかった。  正介は、公造がジャリ歌手と呼んだタレントの熱烈なファンであったのである。父親は正介の聖なる領土に侵入したばかりでなく、彼の偶像《アイドル》を踏み蹂《にじ》ったのであった。  その夜の事件以後正介は公造といっしょに食事を摂らなくなった。食事だけでなく、家の中に公造といっしょにいることを拒んだ。  狭い家に家族三人で住んでいて、正介がほとんどテレビを占領しているのであるから、いやでも顔を合わせる。そんなときふと視線が合うと、「おれを見るな!」とどなった。話しかけでもしようものなら、「黙れ」という一言がはね返ってくるだけであった。  公造がテレビの前に先に坐っていたりすると、母親に向かって、 「こいつを追っぱらえ」と命じた。正介がレコードを聴いているときに居合わせたりすると、「こいつといっしょに聴くと音楽が腐る」と言った。 「お父さんに向かってなんてことを言うのです」と母親がたしなめると、 「こんなやつはいないほうがいい。顔を見るだけで気持が悪い。ああだんだん気持が悪くなってきた。吐きそうだ。早くなんとかしてくれ」  と言いだす。たまりかねて公造が外へ出ようとすると、 「死んで帰って来い」と背中に浴びせかける。  初めのころこそ、公造は息子の暴言を咎《とが》めたが、次第に不感症になって、このごろでは雑音として聞き流すようになった。それがますます正介の�王国侵犯�になる。 「なぜこいつがここにいるのだ」 「いつからここにいるようになったのだ」  とその家の主がだれであるか、まただれによって自分の生活が支えられているのかまったく認識していないような暴言を撒《ま》き散らす。それに対して少しでも説教がましいことを言おうものなら、暴言だけでなく、暴力沙汰を引き起こす。  正介の発作はたいてい夜中に起きるので、自家だけでなく他人の家にまで迷惑を及ぼす。それを恐れてつい親が弱腰になるものだから、「またガラスを割ってやるぞ」などと自分のわがままを通すために逆に親を脅迫する。  だが彼がいま曲がりなりにも高校へ行けるのは、その暴言や発作に抗して、親が彼のわがままに干渉したからなのである。  家では絶対の暴君のくせに、ひどい無気力であった。少しでも難しいことは忌避して、安易な方角へと逃げた。だから本人の好むままにまかせていたら、中学の卒業もおぼつかないところであった。すべては自分の無気力と怠惰から発しているにもかかわらず、自分のおもうようにコトが運ばないと他人、特に親のせいにした。正介の親を親ともおもわぬ暴言と、暴力沙汰は、彼の無気力と卑怯を糊塗《こと》し、正当化するためのヒステリーであった。  公造は、息子の聞くに耐えない暴言と、言語道断な振舞いにまかせたまま、怒るよりも情けなかった。  いつの世代においても親子の対立はあった。だれでも若いころは、老世代から「いま時の若い者は」と言われたものである。自分の若い発剌《はつらつ》たる考えを理解してくれようとしない頑迷な親を憎くおもったこともあるだろう。  だが公造には、自分の親に対して「こいつ」と呼んだり、「死ね」などと言ったことは、決してなかった。それは子が親に向かって絶対に使ってはならない�禁じられた言葉�であった。  ただ死ねと抽象的に言うだけでなく、 「いますぐ死ね」とか「死んで帰れ」などと、その暴言には、本当の憎しみがなければ出ないような具体性がある。  公造は、息子にそんなに憎まれるような育て方はしていない。それどころか結婚して三年、子種がないのかと不安をもちかけていたところに生まれた男の子であったから周囲から笑われるほど溺愛した。  幼いころのスキンシップが子供の性格形成に影響するところが大きいと聞いて、毎夜のように公造が風呂へ入れてやった。正介の入浴のために会社の仕事を調節した。休日には手を引いて一時間以上いっしょに散歩した。また三カ月に一度くらいの割で親子三人の家族旅行をした。幼稚園、小学校、中学校と進むようになると、入学式、卒業式、父親参観などの行事は、すべてに優先させて出席した。  だがいまとなっては、その愛情がかえって仇になってしまったようである。  よその子供の中に入って行けないわが子に、「この子は少し異常じゃないかしら」としきりに案ずる妻に、 「子供の将来は長い。幼いころの一時期だけを見て、その子の一生を判断してはいけない」  と、楽観していた公造も、成長するにしたがい、次第に自分の期待する人間像から離れていく正介に激しい失望をおぼえないわけにはいかなかった。  母にとってのわが子は、わが身を痛めて産んだ分身であるが、父親にとっての息子は、自分のバトンを託すべきリレーランナーである。わが子が父の仕事や夢を引き継いで父が達せられなかった遠方まで走ってもらいたいと願う。父が不遇の場合はなおさら子にかけた期待は大きい。後継者たる息子は、常にリレーランナーである。そのランナーが父親の負託に応えるだけの�脚力�をもっていないと悟ったときの父親の失望は大きい。それは彼一人だけの失望に留まらず、息子からさらにバトンを引き継ぐべき後世代に影響するからである。公造の失望もその種のものであった。 「波多野の家も、おれの代限りか」  と公造は悲観した。正介はそんな父親の失望を敏感に悟って、ますます反抗的になった。 「ふん、おれがリレーランナーだって? 冗談じゃねえよ、おやじからバトンタッチされて同じ走路《トラツク》を走るなんて真っ平だね。だいたい波多野の家がリレーして走るほどの名家かよ。一生冷や飯食いの安サラリーマンからどんなバトンをタッチされるんだよ」  正介は、唇を歪《ゆが》めて嘲《あざけ》った。  長い将来がある子供をほんの一時の観察によって結論を出すのは酷だと、公造自身が言った言葉でありながら、成長するに伴い親の期待像から離れていく正介に、いったいなにが彼をして親からこれほど離反させたのか公造には不思議でならなかった。性格だけでなく容姿や特徴までが公造から離れていくようであった。  一人息子だから、つい親の期待が大きすぎてそれが重荷になったのか。しかしそれほど大きな期待によって正介を締《し》めつけたおぼえはない。  またそれほど過保護に育てたともおもえない。たしかに一人っ子として両親の目が集まりすぎたかもしれない。だが、それはどこの一人っ子にもあることである。  正介はよく「おまえらにおれの気持がわかってたまるか」と吠《ほ》えた。彼の中には親のうかがい知れない複雑な屈折があるのだろう。正介には親しい友人もいない。行動の範囲は学校と家だけである。その間を忠実に往復しているだけである。友達とグループで旅行やハイキングに行くこともない。クラブ活動としては「映画研究会」へ入ったが、それもいちばん「楽な」ように見えたからだという。要するに努力や強制や義務が少しでも求められるものは嫌いなのだ。  おそらく学校にあっては授業の間、自分の意見を発表することもなく、ひたすら自己の殻の中に身を竦めて、授業が終れば一直線に家に帰って来て、自閉の王国にたてこもる。そんな生活が楽しかろうはずはない。  正介は口ぐせのように、 「学校は地獄だ。この家も地獄だ。この世はみんな地獄だ」と言っていたが、それではその地獄から救い出してやろうと手をさしのべても、まったくうけつけない。  こんな自閉少年では友達からも相手にされず、家に帰れば、親からも見捨てられている。正介としてはさぞ寂しい心情であろう。だが結局はそれは本人から発していることであり、自分の力で解決しなければならない問題である。  父親はわが子がバトンを託すべき次代走者の器ではないと見届けた時点で、見限ってしまう。血のつながりのある子供であるから捨てこそしないが、子に自分の夢を託すことはあきらめる。つまり同じ男として見切りをつけてしまうのである。  この辺が女親とちがう点であり、母親はわが子がどんなにダメでも決して見限らない。子はどこまでいっても子であり、自分の分身である。父に見切りをつけられたわが子がなおさら不憫《ふびん》で母性の羽の下に抱え込んでやる。  そんな子供は母性の羽の庇護を当然の如く心得、その有難味を認識しない。「父を失った」彼を庇護するものは、いまや母の羽しかないことに気がつかないのである。  正介は、屈折の捌《は》け口を暴力にして母親に向けてきた。自分の腕力がいまや父を越えることはわかっていても、父との正面対決は避ける。父と対決すれば自分もかなりのダメージを免れない。だが母親は無抵抗である。ただ一人の味方である母に暴力の鉾先《ほこさき》を向けた。撲《なぐ》る蹴る、物を投げつける。おかげで素子の身体には痣《あざ》の絶える間がなかった。      2  的場《まとば》夫婦は、保一に感謝していた。保一がこの家に来てから、的場家は生き返った。それまで的場家は死にかけていた。的場夫婦の仲は冷却しきっていて、離婚直前であった。  結婚して五年、夫婦の間に子供がなく、医者にみてもらったところ、夫の保之が「無精子症」と診断された。精子がまったくないわけではないが、きわめてうすく、妊娠させる力が足りないということであった。  もはや人工授精以外に夫婦の間に子宝は望めなくなった。これが妻のほうに不妊の原因があるのであれば、他の女に産ませるという手があったが、的場のほうに原因があるのではどうにもならない。的場は、妻の身体に他の男の精子を注《さ》し込まれることに耐えられなかった。結局人工授精にも頼れない。  絶対に不毛と確定した夫婦の営みは虚しい。自然に夫婦の営みは間遠となり、家庭は�男女の同居�場所にすぎなくなった。  夫婦生活は完全に形骸化し、家庭は崩壊寸前にあった。そんな時期に勧めてくれる人があって、生まれたばかりの保一を養子にした。  保一が生まれる前に父親は交通事故で死亡した。母親は異常な難産で、出産時の大量出血が原因となって夫の後を追った。生まれながらに孤児となった哀れな子であった。  的場夫婦は嬰児《えいじ》を引き取った。保之の一字を取って保一と名づけ、養子として籍に入れた。保一は自分の不幸な出生も知らず、的場夫婦の許ですくすくと育った。利発で愛らしくて、しぐさの一つ一つに愛嬌があった。天真爛漫で子供らしい子供であった。  的場家に笑いがよみがえった。保一が死にかけていた的場家に生気を吹き込んでくれたのである。保一を中心にして、凍えていた夫婦の間にも暖かい春が再生した。  夫婦は離別の一歩手前まで行きながら幼い保一に手を引かれて、家庭の再建に踏み出したのである。  保一は成長するにしたがって、優れた素質を顕《あら》わし始めた。もの憶えが速く、応用力や創造力が素晴しい。稚《おさな》い遊び一つを取っても創意と工夫があった。ありふれた家具や食器が独創的な玩具となり、おとなのすることをよく見ていて、安全と危険、許容と禁止、味方と敵、またそれら両極の間の微妙なニュアンスを見分けた。  それも、いわゆる�神童�にありがちな目から鼻へ抜けるような才気ではなく、子供らしいおどけの中に光る素質である。性質も優しく親おもいである。母親が具合いが悪く臥《ふせ》っていたりすると、幼いなりにせっせと介抱する。また父親にもよくなつき、休日には彼の膝から離れず、母親にやきもちをやかせる。  的場夫婦は、保一が養子であることを忘れた。夫婦の愛を注いで育てているうちに、顔つきや体つきまでが二人に似てきたような気がした。彼らは、養子を実子として入籍できない法律を怨んだ。  保一が長じて、養子であることを知ったら、ショックをうけるだろう。他人の子を実子として斡旋《あつせん》していた医師の責任が問われた事件があったが、人道的には許容される行為だと、夫婦は痛感した。  だが保一は、出生の暗い影響を少しもうけることなく、明るい性格を、日光に向ける枝ぶりのように伸ばしてきた。  中学時代、首席で通し、高校は最高の成績でエリート校として名高い名門校に難なく入学した。それも少しもガリ勉はせず、マイペースの勉強の結果である。  運動神経にも恵まれており、いろいろな運動部から引っ張られたが、保一はどの部にも入らなかった。 「運動部に入ると、練習だけで高校生活の大部分を占められてしまう。繰り返しのきかない高校生活だから、いろいろなことをやりたい」というのが理由であった。  その言葉を裏書きするように、保一の生活は多彩であった。夏や冬の休暇には、グループで旅行をしたり、読書会を開いたりしたかとおもうと、いつの間にか楽器をあやつって、グループバンドを結成したりした。  若者らしく未知のものすべてに好奇心を燃やして、貪婪《どんらん》に吸収した。本業の学業をしっかり踏まえたうえで、好奇の触手を未知の地平に伸ばした。  高校進学のとき、戸籍|騰本《とうほん》を取り、自分の出生の実相を知ったが、彼はすぐにそのショックから立ち直った。 「お父さん、お母さん有難う。これからもよろしくね」  はらはらしながらその反応を見守っていた的場夫婦に、保一は悪びれずに言った。そして、 「ぼくはよう子《し》はよう子《し》でも必要子《ひつようし》だよね」  と明るく笑った。  まさにその通りで、いまや夫婦にとって保一はかけ替えのない子であった。その存在は実子以上であった。  保一を得て、的場家は生き返っただけでなく、その将来に明るい展望を得た。保一なら保之の後を継いで、的場の家を発展させてくれるだろう。  幼いころから顕《あら》われた素質は、長ずるにつれて磨きをかけられ、このまま妨げられることなくいけば、将来はどんな絢爛《けんらん》たる才能の花を咲かすか楽しみであった。  夫婦は保一から感謝されたが、むしろ感謝しなければならないのは、彼らのほうであった。  二人は、保一のおかげで夫婦の危機を救われ、家庭をよみがえさせられ、新しい将来まであたえられたのである。 [#改ページ]  幼なじみの共犯者      1 「人まちがいだったら許してください。もしかするとあなたは、相武市におられた波多野君じゃありませんか」  突然、声をかけられて振り向くと、そこに遠い記憶のある顔が笑いかけていた。たしかに記憶に引っかかっている顔なのだが、咄嗟《とつさ》に相手の身許をおもいだせない。非常に親しい顔なのだが、なにかが記憶の再生を妨げていた。  波多野は、そうだとうなずいたものの、応対の仕方に迷っていると、 「やっぱり波多野君か。さっきからきみじゃないかとずっと見ていたんだ。ぼくだよ、的場だよ。相武で幼稚園と小学校がいっしょだった」 「ああ、的場君!」  記憶を烟《けむ》らせていたうす靄《もや》が一気に晴れて、幼い日のおもかげが厚ぼったい中年男の顔に重なった。 「これは奇遇だ」 「きみも元気そうでなによりだ」 「こんな所で出遇《であ》うとはね」  会社の仲間に引っ張っていかれたカラオケバーで同郷の幼なじみに出遇おうとはおもわなかった。  二人は改めてたがいを見つめ合った。波多野公造と的場保之は、埼玉県相武市の生まれで、生家が近かった。小学校までは同じだったが、小学五年のとき、的場家が父親の転勤で引っ越して行ったために別れた。同じ町内の腕白として二人はよくいっしょに遊んだものである。  別れてからすでに三十数年経過している。的場はいまなにをやっているのか、態度に自信と厚みがある。順風の人生を送っている者の自信である。服装もよい。 「ところできみ、いまなにをやっているんだね」  再会の興奮がひとまず鎮まったところで、二人はたがいの現在を詮索し合った。幸いに二人の連れは、歌の方に夢中である。 「いま中野区で小さな自動車修理工場を経営しているんだ」  的場が差し出した名刺には、「社長」という肩書が麗々しく刷られてある。 「社長さんか、凄いな」  波多野が感嘆すると、 「屋台でおでんを売っても、チリ紙交換の車を運転していても、社長だからね。まあ家族が餓えない程度に細々とやっているよ」 「家族が餓えなければ、大したもんだよ」  波多野は、的場の余裕ある態度にコンプレックスをおぼえた。 「きみの『共栄環整』という会社は、なにをする会社なんだい?」  的場は、波多野の名刺を覗いて聞いた。 「環境整備の略でね、要するになんでも屋さ」 「なんでも屋?」 「主たる業務は整備、つまり掃除や後かたづけだがね、草取り、整地、引っ越し、メッセンジャー、留守番、ガードマン、冠婚葬祭の設営、変ったところでは野球の応援やマージャンの欠員補充等、頼まれればなんでもする。そこで事務をやっているんだ」  事務というところにせめてもの体面を保ったつもりである。 「おもしろい会社があるんだな」 「学校出て最初に勤めた会社がつぶれちまってね、それから流れつづけている」  波多野は、いい年をして、なんでも屋の「事務」をしている身分を自嘲した。それも妻の伯父が経営に噛んでいるところから、ようやく潜り込ませてもらった場所である。 「流れたにしては、けっこう楽しそうにのどを披露していたじゃないか」  的場が、慰め顔で言った。 「えっ、さっきの歌を聞いていたのかい」 「あれでおもいだしたんだよ。相武の民謡だからな」 「いや、これはまいったな」 「ところできみ、例の件、まだ憶えているか」  的場の目の色と語調がふと改まった。 「憶えているとも」  波多野も的場の目の奥を覗いてうなずいた。的場の瞳に輪郭のない幼女のおもかげが揺れていた。  それが的場をおもいだすのを妨げていたのである。 「あれからもう四十年近くなるなあ」  的場が感慨深げに言って、 「最近、子供の殺人の話が新聞を賑わしているだろう。その度に胸を突かれるよ」 「ぼくもだよ。当時は夢中だったが、このごろになって、したことの重大さが心にのしかかってくる」 「ぼくはいまだに、あのときの感触が手に残っている」 「止めてくれ。おもいだしたくない」  波多野は、記憶を振り落とすように首を振った。 「しかし、あの子が生きていたら、もういい母親になっているだろうなあ」  的場は遠い目をした。その目はあの忌まわしい事件を懐しんでいるようですらあった。  波多野と的場は、近所でも評判の仲良しだった。いつも二人で遊んでいた。グループの遊びに加わることがあっても、いつの間にか二人で脱け出して、草原や木や水や土を素材にして遊んでいた。グループのゲームよりも、自然を素材にして遊ぶのが好きだったのである。  特に彼らを夢中にさせたのは、昆虫や小動物であった。これら自然の生物を虐殺することは、彼らを最高に興奮させた。トンボやセミを生きたままアリに引かせたり、バッタをカマキリに食べさせたり、カエルの尻にストローを差し込み、息を一気に吹き込んで腹をパンクさせたりする遊びは、どんな面白いゲームもかなわないスリルと興奮があった。  虐殺遊びは次第にエスカレートした。彼らの祭壇に供えられた犠牲《スケープ》山羊《ゴート》は大型化していった。カエルはガマになり、昆虫はネズミや猫や犬に置き換えられてきた。捨てられていた猫を箱の中に石詰めにして沼へ沈めたときはワクワクした。箱にヒモをつけておいて、翌日引っ張り上げた。箱を開いたときの恐怖と興奮は数日尾を引き、連夜うなされたほどであった。  虐殺遊びが拡大されていくほどに、二人は究極の獲物がなにかを了解し合っていた。その獲物に比べれば、これまでのスケープゴートは、それこそ「子供の遊び」であった。  二人は幼かったが、その獲物に手を下せば、「子供の遊び」の域を出ることを知っていた。知っていながら誘惑はつのるばかりであった。  二人が七歳の春であった。小学校へ上がったばかりで、彼らはひどくおとなになったような優越を感じていた。学校へ行くようになったために、これまでの遊びのテリトリーが拡大された。これまでは未知の領域として近づかなかった地域が、通学によって版図の中に組み入れられた。  彼らは、学校から帰ると、ランドセルを家に放り投げて橋を渡った向こう岸へ遊びに行った。これまでは「川向こう」と言って決して行かなかったのだが、クラスに川向こうの友達がいた。友達の家でおやつをご馳走になって、彼らは意気揚々と帰って来た。近道があると言って途中まで友達が送ってきてくれた。  二人は往きは、「大橋」を渡っていったが、友達が教えてくれた近道には、コンクリートの冠水橋が架けてあって、その方がずっと町に近かった。友達は橋が見える所まで送って来ると、帰って行った。  冠水橋の下は急流だが、すぐ下流が淀になっていて、主でも棲《す》んでいそうな感じであった。 「あれ、この子いつからいっしょに来たんだ」  橋を渡りかけてから、三、四歳の幼女が、とことこと彼らの後を従《つ》いて来るのに気がついた。連れの姿は見えない。川の近くの子らしく、独りでもべつに不安げな様子もない。 「きみんちどこ?」  的場が聞いた。 「あっち」  女の子が、二人の帰る方角を指した。仲間と遊びに来て、置いてきぼりにされたらしい。頬のぷっくり脹《ふく》らんだ可愛らしい女の子だった。  三人はなんとなく連れ立った形になって、橋の真ん中まで来た。 「きみ、あそこにカッパがいるんだぜ」  的場が面白半分に女の子を脅した。 「カッパってなあに」  ところがカッパを知らない幼女には脅しが通じない。 「水の中に棲んでいる化け物だよ。頭に皿をかぶって、口がとんがっている」  的場が精々河童らしい顔をしてみせた。 「ここから見える?」  幼女があどけなく聞いた。 「見えるさ。水の中をよく見てごらん」  その言葉を信じて、幼女は橋の縁に寄り、首をのばして水の中を覗き込んだ。ちょうど夕暮れ時で、周囲には彼ら以外に人影はなかった。幼女のまったく無警戒の背中が二人の�魔少年�の前に晒《さら》されていた。  それまではただ無心に幼女をからかっていた二人は、彼女こそ探し求めていた究極の獲物であることを悟った。了解は一瞬の間に成った。言葉は不要であった。彼らは目を見合わせてうなずくと、同時に幼女の背中を押していた。  幼女はあっけなく、あたかも自らの意志で飛び込んだかのように水に落ちた。それほど深い場所ではなかったが、小さな体はたちまち水に攫《さら》われて、淀の方へ運ばれていった。  二人は幼女の行方も見届けずに一目散に逃げ帰った。翌朝幼女の死体は、淀の底から消防署の救急隊員によって引き上げられた。近くの農家の子で、川へ水遊びに行って深みにはまったのだろうと見られた。  的場と波多野の存在はまったく触れられなかった、これが彼ら二人の�前科�であった。この幼い日の殺人は、だれに知られることもなく、彼ら二人の胸の中に秘匿されてしまったのである。二人は�共犯者�であった。      2 「きみは止めてくれと言うが、ぼくはいまでもあのときのことが忘れられない」  的場がなおもその話題にこだわった。 「そりゃあぼくも忘れられないさ。とにかく人一人殺してしまったんだからね」  その人間が生きていたらどんな可能性があったかわからない。あるいはあの少女は稀有《けう》の才能の持ち主であったかもしれない。人類の幸福に対して大きな貢献を為すべき人材であったかもしれない。それほどではないにしても、一つ一つが貴重で代替のきかない人の命を、少年の気まぐれな遊びから無惨にも抹殺してしまったのだ。 「さあ、そのことなんだがね」  的場が膝を進めて、 「おれたちがあのとき殺したのは、本当に人間だったのだろうか」 「それはどういうことかね」  波多野は、相手の表情を詮索した。 「おれたちは、虫や動物をよく殺した。その遊びの延長としてあの少女も殺した。つまり、おれたちには人間を殺す意識はなくて、トンボやカエルやトカゲを殺すようなつもりであの女の子を殺したんじゃなかったか」 「そうかもしれない。意識と関係なく、結果は明らかに殺人だった。それにぼくたちは、虫や動物では面白くなくなって、人間を獲物として探していたことも確かだったろう」 「その気持は確かにあった。しかし人を殺すということが、どういうことかわかっていなかったのも事実だ。つまり、虫や動物の延長で殺したんだ。虫や動物を殺すのは許されて、人間はいけない。その間の境界がどこにあるのかわからなかった。それに、ぼくらがやったことは、ただ少女の背中を押しただけで、まったく殺したという気がしなかった。その意味では虫や動物に対してはるかに残酷な振舞いをした」  二人は、子猫を石詰めにして沼に沈めたり、羽をむしったトンボをアリに引かせたりしたことをおもいだした。あれこそまさに「殺す」という行為であった。 「人間があんなに簡単に死ぬとはおもわなかったよ」  波多野は、時間が経ってだいぶ水っぽくなったオンザロックを口に含んだ。 「まあ、人間を殺したとしても、当時の年齢では刑事処分の対象にならないし、仮になったとしても、もう時効だ。おれはあのときの少女の顔も憶えていないよ」 「それはぼくも同じだ」  なにかのはずみにあの記憶が胸を咬《か》むことはあっても、少女の顔はのっぺらぼうであった。頬がぷっくり脹らんだ愛らしい輪郭だけが、瞼に浮かび上がってくる。 「少女の件はべつにして、きみと遊んだあのころは楽しかったな」  的場の面に追懐の情が揺れた。二人で草原や水の辺りに遊びほうけた幼い時代が、昨日のことのようによみがえった。記憶は鮮明であるが、輪郭に青い紗《しや》がかかっている。遊ぶことだけに熱中していればよかった人生の完全に自由な一時期が、追憶の輪郭を暈《ぼ》かしたのである。      3 「またお父さんの�趣味�が始まったわ」  妻が笑った。 「仕方がないよ。これが出てくると春なんだ」  的場保之は、手当ての用具が一式入った救急箱の中を物色しながら言った。その中には得体の知れない雑多な薬品類が入っている。南洋産の毒蛇から抽出したという軟膏、「ガマの油」と称される油薬、コールタールを溶いたような異臭を発する黒い練り薬、奥飛騨の湯の花、シッカロール、ガーゼ、カット綿、絆創膏、綿棒、鋏その他もろもろの雑品である。それは的場の持病である皮膚病の治療具である。  的場の身体には、学生時代から原因不明の湿疹が現われる。春先たいてい二月の末か三月の初めに手足の皮膚に生じ、十月の末ごろに癒《なお》ってしまう。だがその間が大変である。皮膚の一部が赤く腫れ上がり、その中に小さな丘疹《きゆうしん》があり、その頂上は爛《ただ》れくずれてじめじめと糜汁《びじゆう》が滲み出している。見るからに汚ならしかった。ただ汚ないだけでなく夜間寝てから気が狂いそうなほど痒《かゆ》くなる。それが今年は右足の脛《すね》に出た。  症状を少しでも軽減すべく、的場は自ら調べ、人から聞いた、少しでも効果のありそうなあらゆる薬を用いた。最近は蛇の抽出薬とガマの油を混合したものを塗り、湯の花をふりかけたのが割合い効果があったものだから、専《もつぱ》らそれに凝っている。 「きっと私より、皮膚病のほうを愛しているのよ。なにしろ私とのつき合いよりも長いんですものね」  妻はひやかした。 「まさか、これに嫉《や》いているわけじゃないだろうな」  的場が苦笑すると、 「嫉きたくもなるわよ。あなたが嬉しそうな顔をして手当てしているのを見ると、愛しているんじゃないかとおもいたくなるわ」 「お父さん、副腎皮質ホルモン剤を使ったことある?」  保一が両親の会話に口を入れた。 「あれはいろいろと副作用が多いと聞いているので、まだ使ったことはないよ」 「副腎皮質ホルモン剤と一口に言っても、いろいろな種類があってね、現在まで副腎から純粋に分離された有効物質は七種類だそうだよ。この中で生理作用べつに分類すると、糖代謝に関するホルモン、水分や電解質の代謝に関するホルモン、性ホルモンの作用をもつものの三種に分けられるんだってさ。糖代謝に関するものが、内科、外科、皮膚科の病気によく効き、副作用の少ない合成品ができているというよ。特に外用薬は内服薬とちがってほとんど副作用はないってさ」 「ほう、おまえいつの間にそんなことを知ったんだ」  的場は驚いた目を息子に向けた。 「お父さんのために調べたんだよ」 「それじゃあ早速、副腎皮質ホルモンとかいう薬を試してみようかな」  的場は目を細めた。息子が父親のためにそんなことを調べてくれたのが嬉しいのである。 [#改ページ]  苦痛解放計画      1 「いまに見ていろ」と正介はおもった。いまに世間のやつらに復讐をしてやる。自分を馬鹿にしたやつらにすべて復讐をしてやるのだ。  まず学校の上級生、同級生、先生、近所の人間、そして両親もだ。彼らは正介の王国に侵入し、正介だけの�聖域�を蹂躙《じゆうりん》した。  彼らには決して正介の心はわからない。また彼らにわからせてはならない。他人に理解された瞬間から、それは正介一人の王国ではなくなり、普《あまね》く開国されてしまうのだ。  正介は、友達が嫌いだった。自分と同年輩の連中はただ騒がしく、粗雑で、自分の王国をもたないものだから、人の王国をうかがい侵入したがった。先生はもちろん、両親すら彼の閉ざされた王国を解放したがった。  みんななんにもわかっていないとおもった。人はなぜ外界と交渉をもたなければいけないのだ。人と交渉せず、自分もだれからも干渉をうけずに一人でひっそりと自分の王国の中に閉じこもっているのが、なぜそんなにいけないことなのか。  学校の勉強にはなんの興味もない。興味がないから、当然に成績が悪い。それを親も友達も先生も「馬鹿」だという。彼らこそ馬鹿ではないのか。勉強とは、社会生活を営む上での基礎的知識を学ぶことだ。つまり外界との交渉技術を修得することである。  自分の王国に十分満足している者に、そんな技術を修得する必要はない。  まして何年学んでもまったく会話できない英語(先生すら会話はできない)や、専門家以外におよそ用のない数学や化学や物理や生物や、現代では完全に死語になっている古文などには、どうしても意識が向かない。  正介には、そんな�死学�に熱中できる連中のほうが、「馬鹿」に見えて仕方がない。その死学を学び、優秀な成績を修めた者だけが一流校へ進み、エリートコースのパスポートをもらえるようになっている社会のシステムに無理矢理に自分をはめ込んで行くより、自分が築き上げた王国の中でひっそりと暮らしていることがなぜ悪いのか。 「いずれはおまえも親のカサの内から外へ出なければならない。そのとき独りでもやっていけるように勉強しておくんだ」と父親は言った。  そのことはわかる。大したカサではないが、親のカサのおかげで社会の波風が直接身体に当たるのを防がれている。正介の王国もそのカサの下に築かれているのである。いずれは自分の王国と社会の直接の戦いになることはわかっている。その戦いはある部分においてはすでに始まっており、残念ながら戦況は彼に不利である。  しかし、社会の波風と戦う力を養うためにする勉強は、学校の勉強以外のところにあるような気がしてならなかった。  学校で、学者になるために勉強している者はほとんどいない。みな社会を要領よく渡る�武器�を身につけるために勉強している。その意味では学者の学問は、最大の武器かもしれない。  少なくとも正介の場合、社会を斬り取るための武器は、他にあるような気がするのだ。それがどこにあるのかわからない。だが自分の武器が、あいつらがうき身を窶《やつ》している英語や数学や化学や物理や生物でないことは確かである。  いまに見ているがいい。自分と自分の王国を馬鹿にしたやつらを、いまに比類ない武器を手に入れて斬り従えてやる。そしてみんな自分の王国の版図に組み入れてやるのだ。  だがその武器がどこにあるのか、まったく見当がつかない。いったん手にすればなにものも刃向かうことのできない強い武器であるが、一生かかっても手に入れられないかもしれない。それも外にあるのではなく、自分の中のどこかに眠っているのだ。  外に探す武器のほうが見つけ易い。それはみながしているようにしていれば、必ず見つけ出せるからである。自分の内に秘匿された武器は、だれも見倣《みなら》うこともできない。自分独りで探し出さなければならない。  正介は自分の武器を手に入れるまでまったくの丸腰である。それに反して学校の勉強はすぐ役に立つ武器となる。それは成績となって敵共を武装させ、さらに有力な武器を手に入れるためのパスポートとなり、その武器を振りかざして正介の王国にどかどかと踏み込んで来た。  丸腰の正介は、ミサイルをどこかに封じこめられた眠れる大国が、こざかしくも小火器を振りかざしたゲリラの侵入の前に屈服するように、彼らのなすがままに任せなければならなかった。  そこに正介の言い知れぬ屈折と屈辱があった。彼はその口惜しさを、自分の布団にくるまって泣きながら耐えた。「ちくしょう」と布団の中で歯ぎしりをした。  ああ、おれの武器はどこにあるのだ? 神様、教えてくれと祈った。だが神は教えてくれなかった。先生も両親も教えてくれなかった。人間たちは教えてくれないだけではなく、見当ちがいの武器を押しつけようとしていた。  武器は結局、自分で探す以外になかった。だが探し出す前に、敵にやられてしまいそうであった。  父は、たとえ興味がなくとも勉強をしろと言った。「みんながそういう時期を潜り抜けてきたのだ。おまえは楽なことばかりやりたがっている。少しでも難しそうなもの、嫌いなことから逃げている。卑怯だ」と罵《ののし》った。 「ぼくは逃げてなんかいない。くだらない勉強なんかと妥協しないだけだ」  正介は父に言い返した。 「ふん、勉強と妥協しないことが映画やテレビを観ることなのか」 「ぼくは探しているんだ」 「探している? なにをだ?」  自分のための武器を探していると言おうとして止めた。そんなことを言ったところで、とうてい父にはわかってもらえないとおもった。それに父と話しているだけで気持が悪くなってきた。父と対《むか》い合っているだけで、生理的な嫌悪感がこみ上げてくるのである。  母は憂《うれ》い顔で、勉強をしないと、スタートラインにも立てないよと言った。それは無理に通わされた塾の先生も言っていたことである。これはスタートラインに立つための競争だと言った。本当の競争はその後に始まる。すべての学科にわたって万遍なく点数を稼がないと、競争の前段階で脱落してしまう。 「おまえらよく聞け!」  塾の講師は竹刀《しない》で机を叩いてどなった。 「これは戦争なんだ。勝利を得るためには、敵よりも強い武器を身につけなければならない。入試突破! それが当面のおまえらの人生の目的だ」  塾生たちは、講師の過熱した言葉をなんの抵抗もなくうけ入れているようであった。  正介はなにかまちがっているとおもった。人生の目的とはそんなものなのか。T大やK大へ入るのが人生の目的であれば、卒業した後は、なにを目的にすればよいのか?  結局、社会の居心地よい位置を約束する座席指定券を得るために一流校を目ざしているだけにすぎない。それは学問のための学問からはほど遠い所にある。そして一流校に入ることを「スタートラインに立つ」と解釈している予備校、および予備校化してしまった高校の勉強は、「目的追求の手段を獲得するための戦い」であった。つまりは「指定席を得るための整理券争い」である。  英語や数学その他の勉強も整理券を得るためにすぎない。整理券なしでは指定席を得られないのか? いやその前に、なぜ人間は指定席を得ようとするのか。親はなぜ子を指定席に坐らせようとするのだろうか?  社会は指定席だけで構成されていない。むしろ、指定席以外の普通席や、席のない人たちのほうが多い。数少ない指定席を奪い合う人よりも、普通席や立見席に黙って就く人のほうが貴いのではないのか。  少なくとも社会のどの席を志すかは、子供たちの意志に任せるべきであって、親が決めることではない。——正介は、はっきり言葉に現わしては言えなかったが、漠然とそのようなことをおもった。  おれは指定席なんかに坐りたいとおもわない。おれの席は、両親や先生が期待するところとはまったくちがう方角にある。あるいは坐るべき席などないかもしれない。むしろ立ちっぱなしの人生こそ自分にふさわしい。自分の武器は、見当ちがいの整理券争いなどに用いられるべきものではなく、人生を「立ったまま戦うために」用意されているのだ。  しかし整理券がないと、人生で立っていることすら許されないのか。そのためには妥協しなければならないのか。 「おれの武器、おれの武器、どこにあるんだ。早く探し出せないと、おれは負けてしまいそうだ」正介は通学電車の窓にうつる自分の顔につぶやきかけていた。      2 「病院に勤めていると、辛いことがあるよ」  柳川文治は苦そうに酒を口に含んだ。 「どこにも辛いことはありますよ」  波多野は、空になった柳川の盃に新たな酒を充たしてやりながら言った。今日は柳川のピッチがいつもより早い。柳川は、都内のある私立総合病院の「事務長」をしている。肩書だけは偉そうだが、要するに雑役係である。その点、波多野の職性と共通しているところがある。  その病院の用地の定期除草を波多野の会社が請け負っている関係で親しくなった。彼らはどことなくウマが合い、月に一度ぐらいの割合いでどちらからともなく誘い合っていっしょに飲むようになった。  年齢も柳川が二歳上で、接近している。どちらも社会の大した位置に就かないまま、そろそろ先が見えてきた年輩である。 「病院だと、人間の生命を預かっているからね、辛いことの質がちがってくるよ」  彼は、今夜はいくら飲んでも酔わないようだ。 「なにがあったんですか」  波多野は聞き役にまわった。 「胃癌《いがん》の患者でね、発見されたときは完全な手遅れで、死ぬのを待っているだけなんだ。現代医学ではどうにもならない。一寸延ばしの延命を図っているだけで、根本的な治療はなにもないんだ」 「それは、現在では癌の宿命で仕方がないんじゃありませんか」  じっと死期を待っているだけの患者は悲惨であり、医者は無力感をおぼえるだろうが、医者でもない柳川が悩む問題ではあるまいという含みがある。 「胃の噴門部に発した癌でね、これは胃癌の中でも発見し難い。あちこちの医者を転々として、うちへ来たときは完全に手遅れだった。すでに全身に転移していて、原発病巣の摘除もできない状態だった。いったん開けてみたが、そのまま縫合してしまった。手遅れの癌の苦痛は激烈だ。この場合医学的手当ては、患者の苦痛を長引かすだけでしかない。本人も早く死にたいと訴えている。家族も見るに見かねて、どうせ助からないのなら、楽に死なせてやってくれと頼む。しかしどんなに患者が苦しんでも、医者はその死を早めるための手助けはできない。絶対にたすからないとわかっている患者でも、延命を図るのが医者の義務なんだ。これは医学のマスクをかぶせた拷問だよ。医者に頼んでもどうにもならないと知った家族は、なんの力もない私にまで患者を殺してくれと頼んでくる。藁《わら》にもすがる心理なんだろうな。この場合、患者の苦痛を長引かせるだけの延命と、その苦痛から救ってやる安死術を施すのと、どちらが人道的かとおもってね。医者は患者の生命を救ってやることはできないが、苦痛から解放してやることはできる。医者は無力なのではなく、無為なのではないか」 「しかしまさか医者が患者を殺すこともできないでしょう」 「きみは、患者の苦痛や家族の苦悩を見ていないから、そんな他人事みたいに言えるんだよ。きみ自身あるいは家族が癌になって死期を限られた場合を考えてみたまえ。そんなのんびりした顔をしていられなくなるぞ」 「べつにのんびりなんかしてませんがね、世の中にはどうにもならないことがあります」 「どうにもならないことか。まさにその通りだ。医者でさえどうにもならないのだから、ぼくなんかがやきもきしても仕方がないな」  柳川は自嘲的に唇を歪めて笑った。 「そうです。深刻に考えてもはじまりません」  波多野が相槌《あいづち》を打つと、柳川は、ふとなにかをおもいついたように目を宙に据えて、 「そうだ、きみの会社はなんでも屋だったな」 「そうですが……」 「頼まれればなんでもするんだろう」 「まあそういうことになっております」 「どうだろう、きみの会社で引きうけてやったら」 「は?」 「つまりだな、その癌患者の家族の頼みをさ。医者の代わりにきみの所で癌患者の苦痛を救ってやったら。本人と家族から感謝されるよ、きっと」 「ま、まさか」  柳川が真顔で言ったものだから、波多野もついむきになって反応してしまった。 「はは、冗談だよ。そんなことを本気にするやつがいるものかね。きみには冗談も言えないな」  柳川は笑いとばしたが、その目の奥に醒《さ》めた光があることを波多野は悟っていた。      3  三十数年ぶりの奇遇をきっかけに、的場保之はよく波多野に連絡してくるようになった。旧交が復活した。的場は生活に余裕があるらしく、金まわりがよかった。仕事も順調で家庭生活にも恵まれているようである。  正介と同年輩の息子がいて、よく子供の自慢話をした。学校の成績もよく親おもいの優れた息子らしい。聞いているうちに、波多野は、正介とあまりにもちがいがあるので、次第にみじめな気分に陥った。 「きみの所も一人息子だと聞いていたが」  ひとしきりわが子の自慢をした的場は、波多野の息子について水を向けてきた。 「いやうちの愚息など、きみの所のご子息とは比べものにならないよ」  波多野は苦い顔をして手を振った。それは少しも謙譲の意味ではなく、言葉どおりの愚息である。波多野の表情から子供について触れられたくない雰囲気を的場は察したらしい。 「まあなにかと難しい年頃だからね、おたがいに苦労するよ」  的場は慰めるように言うと、話題を転じた。 「きみは羨しいなあ」  波多野は世辞でなく言った。 「羨しい、なにがだね」  的場はびっくりしたような目を向けた。 「事業は順調だし、家庭にも恵まれている。それに引きかえぼくは……」 「人の家の芝生は青く見えると言うじゃないか」 「芝生か。そういう意味では、ぼくの所には庭もない」  波多野は団地の3DKのわが家を侘《わび》しくおもった。 「庭があればあったで、それだけ苦労も多くなる。これで工場の従業員や家族も含めて、約五十人の人間の生活が自分にかかっている圧力は大変なものだよ。時々その圧力に圧《お》し潰されそうになる。テレビのコマーシャルにあるだろう。シンプルライフ、——人間はなぜシンプルに生きられないのか。このごろ痛切におもうね」 「そういうものかねえ」 「おれはたしかに恵まれているかもしれない。ともかくあまりひどい脱線もせず、人生の軌道をここまで来られたんだからな。しかし、その軌道の行先はもう見えてきた。家庭と工場を守って、死ぬまで同じ軌道を走りつづけなければならない。いまとなってはべつの軌道に乗り換えることもできない。少ないながらもおれの列車には複数の乗客が乗っている。しかし、たまには息抜きに途中下車をしてみたくなる」 「ちょいちょい途中下車をしているんじゃないのか」 「ひやかしてはいけないよ。それはたまには浮気の一つもする。しかし、女房や子供の目から隠れて、つまみ食いをしたところでちっとも途中下車にならない」 「贅沢《ぜいたく》を言うなよ、おれなんかそのつまみ食いもできないんだ」  そろそろ五十の声を聞くころになって若い女をつまみ食いできれば、最高の途中下車ではないかとおもった。 「そんなつまみ食いは、汽車の窓から駅弁を買うようなもんだよ」 「浮気が駅弁かね」  波多野は、的場の意識との間に大きな隔《へだた》りがあるのを感じた。 「おれはこのごろあのときの感触をしきりにおもいだすんだ」  的場が、ふと遠い目をした。 「あのときの?」 「ほら、きみといっしょに女の子を川の中へ突き落としただろう。あのときの幼女の背中の感触が、いまだに掌に残っていてね、最近よくあの夢を見るんだよ」 「この間出遇ったときもそんなことを言ってたな。たがいに心の負担となっているのは仕方がないけど、もう過ぎたことだ。いいかげんに忘れたほうがいい」 「心の負担がきみの言う意味とちがうがね」  的場がなにかを含んだ言い方をした。 「ちがうというと?」 「おれはもう一度やりたいとおもっている。人をこの手で殺してみたい」 「なんだって!?」  波多野は、目を剥《む》いた。 「おれは複数の人間の生活を支えている。彼らの生活の支点がおれだ。一方の手で人の生活を支え、一方の手で人の生命を奪う。そんな欲望に最近取り憑《つ》かれているんだよ」 「きみは疲れているんだ」 「そうかもしれない。疲れがたまってどうにもならないところまできているんだよ。その疲れを癒《いや》すために、もう一度、あんな風に人間の命を奪ってみたい。どうだ、きみの仕事はなんでも屋だろう。世の中には死にたがっている人間が少なからずいるとおもう。また一方では殺したがっている者もいる。そんな両者を紹介したらどうかね。両方から重宝がられて、両方から斡旋手数料を取れるからビジネスとしても面白みがあるとおもうよ」 「馬鹿なことを言うのは止めたまえ。そんな斡旋ができるはずがないだろう」 「まあそうだろうな。もしもの話だよ。もしそんな人間がいたら、友達甲斐にぼくにしらせてくれないか。手数料はたっぷりはずむぜ」  的場は冗談にまぎらせて笑った。そのとき波多野の脳裡《のうり》を、先日柳川から聞いた癌患者の話がチラリとかすめた。  的場と別れてから、妙に彼の言葉が心に引っかかった。  一方では死にたがっている人間がおり、一方には殺したがっている人間がいる。 「そんな両者を紹介すれば、両方から感謝され、双方から斡旋手数料を取れる。ビジネスとしても面白みがある」  的場の示唆が次第に増幅しながら耳膜に反響するようである。  もはや死期が定まり、死にまさる苦痛が体を引き裂いても、医者は拷問を長引かせる延命効果しか図らない。ましてその苦しみが精神的な場合は、医者はまったく埒《らち》外にある。交通事故などの原因で植物化した人たちすら、死の自由は得られない。  そのような人たちにとって、生きていることが、もはやどんな意味があるのか。手垢《てあか》のついた生命の尊厳論をもって、生きていることが苦痛以外のなにものでもないか、あるいは単なる物理的存在にすぎない人たちを生かしつづけることは、健康な人間の倫理感に基づく残酷行為ではないのか。  また一方では、人を殺したいという本能を理性の力で抑えている人間がいる。人間の心の奥に残酷性は本能として潜在している。理性力によってそれが表へ飛び出さないように封じこめているが、なにかのはずみで理性が弱ったり、抑制がはずれたりすると、心の中の原初的野獣が外へ出てくる。人間の心の檻には脆《もろ》いところがあり、いつそれが破られるかわからない。檻の錠が意識的にはずされることもある。  野獣を檻の中に閉じこめておくことだけが安全策とは言えない。時には檻から出してやってその獣性を満足させてやれば、常に牙を剥くこともなくなる。それには檻の外で一般に害を加えないように獲物をあたえてやればよい。そして獲物になりたがっている者がいるのだ。まさにまたとない需要と供給の一致である。だが両者を結びつける者がいないはずだ。  ——もし自分がその仲介者になってやれば——  波多野の心に引っかかったものは、具体的な輪郭をもって定着してきた。それが彼の心を次第に圧迫した。      4  波多野は柳川に誘いをかけた。月一度の割合いで誘い合う飲み仲間で、そろそろ�デート�の日が近づいていたから、柳川はいそいそと出て来た。 「きみのほうから誘いをうけるのは珍しいね」  柳川は言った。これまではたいてい柳川のほうから誘いをかけてきたのである。さしつさされつしながら、かなりアルコールがまわってきたころを見計らって、波多野は、 「ところで先日お話しになっていた癌の患者はどうなりましたか」とさりげなく探りを入れた。 「まだ生きているがね、いよいよ末期的症状だ。ここ一、二カ月の寿命だよ。自分の家で死なせてやるために、二、三日うちに退院することになっている」 「それは、もはや病院にいても手の打ちようがないということですね」 「そういうことだ。これが医者としてせめてもの安死術のつもりなんだろう。病院に居ればだめとわかっていても最期まで手当てしなければならない」  柳川は、急に酒が苦くなったような表情をした。 「柳川さん、仮定の上での話ですが、もし私の会社が、その患者の苦痛を断ち切るお手伝いをしてもよいと申し上げたらどうします?」 「き、きみ!」  柳川は危うく盃を取り落としかけた。 「あくまでも仮定の上でのお話です」  二人はたがいの目の奥を探り合った。 「それではぼくも仮定の上で質《たず》ねるが、きみの会社に依嘱するとしたら、具体的にどのようにしたらよいのかね。たとえば報酬の件とか、苦痛解放のための方法とか」 「それは、実行担当者と細密に打ち合わせてからでないと、なんとも申し上げられません。なにぶん私どもの会社でも初めてのケースですからね。またこのような契約は法律的に無効です。私共が契約を果たした後で、患者側に債務の不履行があっても取立てができません。当然、請負料は前払いということになります。警察が介入して来た場合にも、あらかじめ備えておかなければなりません」 「ことは急ぐよ。患者の苦痛を救ってやるのが第一義なんだからね」 「患者側の意志が変っていないことを確かめられれば、一両日中にお返事申し上げられます」 「意志は変っていない。その患者というのは、ぼくの兄なんだ」  二人はいつの間にか「仮定」という保留を取りはずして話していた。 「もしもの話だがね。ぼくが命|旦夕《たんせき》に迫った人間を知っていて、その人に、苦痛から解放されるために安らかに死なせてくれる人を世話してくれと頼まれていたとしたらどうだね」 「きみ、その話は本当か」  的場は、早速、波多野の前に身体を乗り出してきた。 「もしもの話だよ」  波多野は、ずるく逃げる。 「それじゃぼくももしもということで話そう。もしもその話が事実で、ぼくの安全が保障されるのなら、是非紹介してもらいたいな」  的場の言う「もしも」は、波多野のそれとは意味がちがうのだが、本人は気がつかない。 「相手は寿命一、二カ月の癌患者だ。その激烈な苦悶を見るに見かねて家族もそれを望んでいる」 「だったらなぜ家族が楽にしてやらないんだ」 「たとえ家族が見るに見かねて、患者の死期を早めても殺人の罪に問われる」 「それなら他人が手を下せばなおさらだ」 「そんなことは承知の上だろう。家族にはできないから、第三者に依嘱してきたんだ。もちろん家族の積極的希望でもあるのだから、全面的に協力する。ぼくだってきみを殺人犯として捕まえさせたくない。そんな羽目になればぼくも同罪を免れないからね。きみの安全を絶対に保障した上でなければ、この話はない」 「きみを信頼するよ。なにしろ幼いころの共犯者だからね。詳しく話してくれないか」  波多野は、「仮定」をはずして、柳川のもってきた話を打ち明けた。 「すると相手は病院の事務長の兄ということだな。事務長は信用できるのか」 「ぼくは保証するよ。彼は絶対に信頼できる。それに、この話がまとまっても、きみは表に出ない。すべてはぼくが胸に畳んでおく。相手はぼくが実行者だとおもうだろう」 「なんだかあまりにお誂《あつら》え向きの話なので、恐いな」 「いやなら忘れてくれ。もともと非常識な話なんだ。酒の上の与太話《よたばなし》だと思ってくれればいい」 「それだけ具体的に話しておいて、いまさら与太話もないだろう。その話にぜひ乗りたい。先方にすぐ進めてくれ。いいかね、きみだからこそ信じるのだ。ぼくも大勢の人間の生活をかかえている身だ。分別もある。それが日常の軌道を踏みはずして、非日常の世界に途中下車するのも、きみの案内だからなんだ。詳細のプランを先方と打ち合わせてくれ。少しでも危険があったら、取り止める」  的場の目には、すでに非日常の世界が投影していた。      5  柳川の兄、菅井《すがい》弘治は、柳川の計らいで予定退院日を早めて三日後退院した。波多野との協議によって、「苦痛解放計画」が進行を始めたのである。病院では多数の目があり、どんな予期しない障害が介入してこないともかぎらない。本人と家族が�実行者�に完全な協力体制をとるのも、自宅のほうが理想的である。  安楽死が違法性を阻却《そきやく》する(犯罪にならない場合)ためには少なくとも次の要件を備えなければならないとされている。 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ㈰本人の傷病が不治で、現在|瀕死《ひんし》の状態にあること。 ㈪右の要件は専門医によって認定されなければならない。 ㈫現在死にまさる苦痛があること。精神的苦痛だけでは足りない。 ㈬本人の真の同意があること。家族や側近の親族の同意や嘱託では不可。 ㈭安楽死の実行者が医者またはこれに相当する能力を有する者であること。 ㈮方法が斬殺、射殺、刺殺、絞殺のようなそれ自体不当、残酷なものでないこと。 [#ここで字下げ終わり]  以上の中で、的場が実行する場合、㈰㈪㈫㈬の要件は具備している。問題は㈭㈮である。  この二つの中㈮は、なんとか工夫によって解決できそうである。だが㈭だけはどうしても抵触する。実行者が罪に問われるとすれば、㈭によってであろう。また契約自体もその反社会性の非難を免れない。  それ以外にも問題があった。実行者の安全のために、的場は家族に姿を見られないことという条件をつけた。家族の知らないうちに、だれがやったのかわからないように「患者を解放」したいと言った。  だが、だれがやったのかわからないと結局家族の仕業にされるおそれがあった。実行者の安全を確保しつつ、しかも家族以外の人間が実行したことを明らかにしておかなければならない。      6  家へ帰ると、妻の唇が腫れていた。 「どうしたんだ?」  波多野が驚いて訊《たず》ねても、 「なんでもないのよ」 「なんでもないことがあるか。唇が腫れて痣ができているぞ」  下唇の右端が紫色に腫れ上がってみるからに痛々しい。 「つまずいて、テーブルの角で打ったのよ」 「正介だな」  波多野は、妻の怪我の原因を見ぬいた。 「ちがうわよ」  彼女の口調がうろたえた。 「なにがあったんだ」 「あなた、おねがいだからそっとしておいて。あなたが出るとまた騒ぎが大きくなるわ。正介も後悔している様子だから」  素子がおろおろ声を出した。 「母親の顔を傷つけるなんて、いったいなんというやつだ」  事情を聴いてみると、明日から追試というのに相変らずのらくらしているので、少しは準備したらと言うといきなり本を投げつけたという。その角が運悪く母親の唇に当たったのである。  追試は、正規の試験で合格点に達しなかった者に対する学校側の救済制度である。追試に落ちたら留年は必至である。それほど重要な追試であるにもかかわらず、正介はまったく準備をしない。  波多野は留年したらしたで仕方がない。むしろそのほうが正介にとって薬になるだろうという態度であったが、素子は、 「留年したら、あの子はますます駄目になるわ。おそらく学校へ行かなくなって一日中荒れているわよ。私、そんな相手はとてもできない」と言った。  腫れは翌日にひいたが、痣はますます目立ってきた。打撲による内出血は、負傷直後よりも、少し時間が経過してから周辺の組織に広く血液が沁《し》み込んでいくので体表面に青黒い痣がはっきりと浮き上がるケースが多い。それは妻の顔の最も目立つ個所に痛々しく浮き立った。事情を知らない第三者が見れば、夫婦げんかで波多野が妻に暴力を振ったとおもうだろう。  正介は、母を傷つけた直後だけ神妙になったが、すぐにまた地金を現わし、 「今度は目に打《ぶ》っつけてやろうか」などと暴言を吐いている。 「正介を、自分の産んだ子供とおもってはいけない。あれはもう私たちの正介ではない。得体の知れないインベーダーに乗っ取られてしまったんだ。彼のそばに凶器をおいてはいけないよ。また熱湯や熱い料理を扱っているときに正介に話しかけてはいけない。野獣と同居しているとおもって、自分の身を守るのだ」  波多野は妻に注意した。波多野の恐れていた事態が起きた。正介は、インスタントの麺《めん》類が好物である。  学校から帰って来ると、母親がつくっておいた間食には見向きもせず、まず自分でカップラーメンを湯で溶いてすする。インスタント食品には麻薬のような味があるらしく、それを食べつけると習慣性が付いてしまう。 「インスタントには保存料が入っているから、あんまり食べると毒よ」  素子は正介の健康を案じて言った。 「なんだよう、人の食う物にいちいちケチつけやがって」 「ケチじゃないわよ、あなたの体を、あ!」  そこまで言いかけて、素子は顔を手で被った。  熱湯を入れたばかりのカップがいきなり素子の顔面目がけて叩きつけられたのである。咄嗟《とつさ》に手で庇《かば》ったものの、全部カバーできない。指の間から熱湯が彼女の顔に振りかかった。苦痛に耐えて彼女自身が救急車を呼び、病院に運ばれた。手当てが早く適切であったので、火傷の痕は残らないということであった。      7  計画が煮つまってきた。  実行者の安全を確保しつつ、家族以外の人間の仕業であることを明らかにしておかなければならない——というネックを的場がいとも簡単に解決した。 「家族の仕業でないことを示すために、実行時間帯にどこかへ出かけて行ってアリバイをつくったらどうだね。そうすればおれも家族に姿を見られずにすむ」 「あ、そうか」 「家族の留守の間におれが忍び込んで実行する。留守の間に患者が苦痛から逃れるために自殺をしたという設定はどうかな」 「どうするつもりだ」 「まあ、細工は流々というところだ」 「しかし、そんな瀕死の病人を残して、家族全員が留守にしたことを変におもわれないかな」 「不治の病気で、死期が定まっているんだ。四六時中付き添ってやる必要はないよ。実行前に現場をそれとなく下見しておきたいな」 「案内しよう」 「きみがいっしょでは、先方に面が割れてしまうだろう」 「ぼくも患者や家族には会っていない。すべて柳川事務長を介している」 「本人も確認しておきたいな」 「写真ではだめか」 「止むを得ないね。まさか見舞いに行くわけにもいくまい」  早速、二人は�現場�の下見に行った。菅井家は郊外の静かな住宅地にあって、一軒だけ家並みから少し離れていた。 「これは都合がいい。ここなら目撃者に見られることもあるまい」  的場は菅井家の立地環境を喜んだ。玄関を見て、裏口の方へまわりかけると、突然|塀《へい》の内から犬が激しく吠えかけた。 「犬がいるな」的場が眉をひそめた。 「あの犬をなんとかしなければならんな」 「家族がアリバイづくりに出かけるとき、いっしょに連れていってもらえばいい」  二人はなんとなく強盗の下見に来ているような気分になった。  実行日が決定され、家族はその日指定の時間に犬を連れて知人の家に出かけることになった。家の中には病人だけが残される。錠ははずしておく手筈になっていた。  菅井弘治は、家族が外出から帰宅すると、鴨居からぶら下がって死んでいた。不治の病いに取り憑かれ、覚悟の自殺の態《てい》に見えた。家族の届けをうけて、いちおう警察から検視に来た。それもごく形式的なものである。 「しかしこんなに衰弱している体でよくあんな高い所へぶら下がれましたな」  検視一行のキャップがなにげなく言ったので、家族はヒヤリとした。菅井弘治は背が低く、死体の下に椅子が倒れていたが、その椅子に乗っても鴨居からかけたひもの環は、彼の顎《あご》にようやく届く程度だったのである。 「きっと苦痛から逃れたい一心だったのだとおもいます」  菅井弘治の息子の弘光は、平静を装って答えた。彼の腋《わき》の下は汗をかいていた。椅子の上に立って背伸びをすれば辛うじて届く程度だったからよかったものの、もし届かなかった場合を考えると背筋が寒くなった。 「ホトケの足元にこんなものが落ちていました」  係官の一人がチューブのようなものを持ってきた。 「なんだなこれは? 外用副腎皮質ホルモン剤オデキメタゾン軟膏皮膚疾患用塗布剤か。亡くなられた方は、皮膚病も患《わずら》っておられたのですか」  キャップが茫漠たる目を向けた。 「さあ、べつに皮膚病は患っていなかったとおもいますが」  たとえ患っていたとしても癌に命を刻まれている身が、皮膚病の治療を施したところで仕方がないだろうとおもった。 「それではご家族の中におられるのかな」  いないはずだと答えようとして危うく抑えた。こんな薬はいままで家の中で見かけたことがない。とするとそれは実行者が持ち込んできたとしか考えられない。 「きっと家族のだれかが使ったんでしょう」  チューブの中身は半ば使用されている。弘光は際どいところで取りつくろった。だが表情の反応を見破られたかもしれない。 「実際皮膚病ってやつは厄介ですからねえ。私は三十年来、変な所にかかえていましてね、女房に、夫婦のつき合いより長いなんてひやかされます」  キャップの表情が急にくだけてみえた。皮膚病薬の詮索はそこまでであった。警察は、犯罪に基因する疑いのない死については冷淡である。それは警察の出る幕ではないと割り切っているようなところが見える。  結局、「不治の病いを悲観しての自殺」と断定して、警察は引き上げていった。皮膚病薬も返してくれた。  波多野は、柳川からこっぴどく文句を言われた。 「警察があまり熱意がなかったからよかったようなものの、もし皮膚病薬の出所を徹底的に詮索されたらどうするつもりだったのかね。きみもわしもただではすまないよ」 「申しわけありません。今後は気をつけます」 「きみも馬鹿だな。こんなことを二度と頼むものか」  柳川は怒ってはみせたものの、謝礼の印《しるし》だと言って二十万円くれた。  波多野は、柳川の言葉を的場に正確に伝えた。 「いや、すまなかった。だがぼくのほうにも予期しない事情が突発して面喰ってしまったんだよ」 「予期しない事情ってなんだね」 「病人がね、間際になってから死ぬのは取り消しだと言いだしたんだ」 「本当か!?」 「本当だよ。死にたくないって必死に抵抗するんだ。実際瀕死の重病人のどこにあんな力が残されていたのか、信じられないような力で暴れるんだ。そんなことを急に言いだされても、顔を見られてしまったし、いまさら途中で止めるわけにはいかないから、布団蒸しにして窒息させてから、鴨居にぶら下げたんだよ。そんなことがあったんでうろたえてしまったんだ。解剖でもされたら危なかったかもしれないな」 「なにを呑気なことを言ってるんだ。遺留品を残してくるようでは、こちらがいくら安全を保障してやってもどうにもならないじゃないか」 「すまない。ぼくの皮膚病は生まれながらの持病でね、薬を身に付けていないだけで痒《かゆ》くなるんだ。今後は気をつけるよ」 「なにを言ってるんだ。こんなことが二度もあってたまるか」  言いながら、波多野はいまの言葉が柳川が返した台詞《せりふ》と同じであったことに気がついた。 [#改ページ]  楽天地行への乗車拒否      1  正介は両親が憎かった。彼らは自分のことを少しも理解していない。理解していない者の最右翼に位置しておりながら、正介の王国の中に侵《はい》り込みたがる。彼らは正介の肉体の誕生にきっかけをあたえてくれただけの存在であるのに、彼の精神に深く関わり合っていると錯覚している。  彼らが関わり合っているとすれば、正介の日常生活に距離的に近くいるだけにすぎない。それを親という理由だけから正介の生活のすべてに干渉する。いわゆる「箸の上げ下ろし」から、王国の�憲法�にまで喙《くちばし》を入れて、それを�改悪�、あるいは廃止させようとする。  たとえ彼らの干渉するところが正介の意志と一致しても、彼らに言われただけで実行する気がなくなってしまう。自分の憲法は、親からの�押しつけ憲法�であってはならないのである。それを親は、押しつけ憲法で子供をがんじがらめにしないと安心できないらしい。  押しつけるときの口ぐせに、 「親は子供より余計に人生を生きている。世の中も見ている。親が学んだことを子供に教えるのは当然である。それが家庭の教育であり躾《しつけ》というものだ」  と言う。父親は、 「男は家庭のために餌を運んで来なければならない。将来、おまえもそうするようになる。男は、その意味でみな狩人なのだ。狩りの方法、狩りに伴う危険などを父親は息子に教える義務がある」と諭した。 (狩り、狩りとえらそうに言っているが、どれほどの餌を運んできてくれたと言うのだ。親が子供を養うのは当然であり、それができない者は親にならなければいい。親父から下手な狩りの方法を習わなくとも、おれは、おれ独自の狩りの方法を発明して、もっと大きな獲物を取るよ)  正介は心の中で反駁《はんばく》した。言葉にして切り返さなかったのは、それが父親の男としての価値観を侮辱することを知っていたからである。どんなに相手を憎んでいても、それは男が男に対して最後に投げつける言葉である。父にいま最後|通牒《つうちよう》を突きつけると、とりあえず親のカサを失うことになって都合が悪い。  正介にただ一人友達と言える人物ができた。彼の自閉の王国に招いたただ一人の客とも言える。  平原正輔という名前の同級生である。初めは自分と同じ発音の名前に親しみを感じてどちらからともなく言葉を交すようになった。学力は抜群でどうしてこんな三流高校にまぎれ込んで来たのか、不思議なくらいであった。 「おれはね、親父が指定した列車の乗客みたいなもんだよ。乗る前から進む方角も、行先もちゃんと決まっている。景色さえ大体想像がつく。いまの親父を見れば、何十年か後のおれの姿がおおよそわかるって仕掛けになっているのさ」  平原は自嘲的に語った。彼の父親は、帝大(現東大)をいわゆる「恩賜の銀時計組」で卒業した中央本省のエリート官僚である。平原の父親にとっては東大や一橋大以外は、大学ではなかった。彼の母親も「お茶の水」を出た才媛であり、兄は現在東大在学中である。  国立の一流指定大学(主として東大)を出ていないいわゆるノンキャリアに対する人種差別をだれよりもよく知っている平原の父親は、息子も自分と同じ軌道に乗せようとした。 「そんなきみがどうしてこんなオンボロ高校に来たんだ。きみなら麻布、武蔵、開成でも楽パスだったろうに」  正介は聞いた。 「おれのささやかな抵抗ってもんさ。おれがわざと試験に落ちて最低の滑り止めのこの学校へ来たときの親父やおふくろの落胆といったらなかったね。おれはザマあ見ろとおもった。おれはあいつらの操り人形じゃないってね。しかしこの抵抗も、こんな所どまりだね。おれは結局東大に入れられちまって[#「入れられちまって」に傍点]、親父の指定列車に乗せられてしまうのさ」 「東大に入れられちまうってのは凄いな」 「あんな所に入るのは大して難しくないよ。頭の問題ではなく、要領なんだ」 「その要領が難しくって苦労してるんだ」 「女にモテるやつが必ずしも男前とは限らないだろう。なりふり構わず口説くやつがモテる。軟派に聞いたら、ただひたすらやらせろやらせろの一点張りで迫るんだそうだよ。大学も同じさ。なりふり構わず、恥も外聞もない。一抹の疑いももたず、青春のいろいろな楽しみにいっさい色目を使わずただひたすら目標の大学だけを見つめたやつが結局入れてもらえる。要するに、恥知らずに徹し、受験勉強の間は人間であることを止めて勉強機械になりきることさ。塾や予備校が人格的、総合的、科学的勉強法を呼びかけていても、結局受験期間中は、合格という的に絞って編み物のように単調な繰り返し暗記作業に、なんの迷いもなく没頭できるように催眠術をかけているにすぎない」 「勉強機械になりきれないで弱っているんだ」 「それは、きみがそれだけ人間的だからだよ。おれはそのときがきたら機械になりきれる自信がある。だから自分がいやになるんだ。こんな小さな抵抗をしてもなんにもならない。結局、親が敷いたレールの上を走らせられてしまう。走っているうちに、その列車がいちばんよかったとおもうようになるだろう。自分でもそれがわかっている。わかっているから余計やりきれない。なあ波多野、青春なんてそんなもんじゃねえだろう。自分の進む道がどの方角に向かっていて、そこにどんな世界が開けるかわからないから青春と言えるんじゃないのか。どんなに乗り心地がよく、行先にどんな素晴しい世界が待っている列車でも、それが最初からわかっている列車は、おれたち若者の乗る列車じゃないとおもう。  それを言うと親父は決まって、おまえは世の中の苛酷さがわかっていないからそんな甘ったれたことを言う。黙って親の言う通りにしろ。親は自分のとった遠まわりや、陥った落とし穴を子供たちにできるだけ避けさせたいのだ。親の指示する通りの道がいちばん安全で、幸せに通ずるのだ。——とおれの意志を封じこめようとする。  しかし幸せとは何なんだ。幸せってそんな風にして得なければならないのか。そんな風にして得た幸せが本当の幸せなのか。おれはちがうとおもうね。親は、子供に安全な道を歩ませ、自分たちの幸せを子供に押し売りしようとしているだけなんだ。それが親の幸せなんだよ。結局親たちの幸せのために子供の将来までも拘束しようとしている。幸せというものはそれぞれが独立していて個性があるものなんだ。男には幸せなんか要らない場合だってある。親父だってそれを若いころは知っていたはずだ。それを自分の幸せの中でふやけている中に忘れちまったんだよ。あるいは幸せを得ようとして得られなかったものだから、子供に代わりに得させようとしている。  たとえ行先が荒涼たる凍土《ツンドラ》であっても、自分の意志でその列車に乗り、行先が未知数だからこそおれたちの旅|発《だ》ちと言えるんだ。おれは人生の出発をおれの意志で、だれにも介入されないでやりたい。安全よりも未知が、幸せよりも生き甲斐が欲しい。若さの特権である冒険を親心という名の親のエゴで封じこめられたくないんだよ」  平原の言葉は、すべて正介の心に突き刺さった。平原は四面楚歌の正介に初めてできた味方であった。彼だけが、正介の王国を理解してくれた。だれにも理解させてはならない自分一人だけの王国のはずであったが、正介と平原の王国の憲法が近似値的に一致したのである。ただ正介の憲法が不文律であったのに対して、平原のそれは整然と成文化されていた。正介はその事実に驚いた。心の中に靄《もや》のように漠然とかかえていた憲法を平原は的確な言葉で表現した。  平原こそ�同志�だと正介はおもった。だがその同志も束の間のことで、遠からず父親の指定列車に乗せられてしまうだろうと言っている。 「すべての若者が、親の言う通りに、行路の安全を保障された楽天地行特別急行列車に乗ったらどうなるか。温泉地のリゾートマンションの生活のような平穏無事な老後が人生の究極の目標だったら、おれは人生なんかちっとも生きたいとおもわないね。しかし、結局、親父もおふくろもそういう平穏に行き着く列車におれを乗せたいのさ。おれもきみも、いまは精々突っ張っているけど、遠からずそんな列車に乗せられちまうよ。おれにはそれがよくわかっている」 「おれは乗らないぞ」  正介は断乎として否定した。 「乗らないんじゃなくて、乗りたくても乗れない場合のほうが多いんだよ」 「おれが乗りたがっていて乗れないと言うのか」 「きみがそうだというんじゃないがね、安全保障楽天地行列車に乗りたがっている者は多い。定員の何十倍何百倍という倍率だろう、乗りたくても乗れない連中と、乗れる可能性があるのに乗りたがらない人間とはちがうとおもうな」 「おれを乗りたくても乗れない連中の一人だと言いたいのか」 「きみ、この高校に第一志望で来たわけじゃないだろう。第二か第三においていたのが、上位の志望校が全部だめで仕方なく来たんじゃないのか。滑り止めの学校へ来たやつは、みんな楽天地行列車からアブレた連中さ」  一言の反駁もできなかった。 「まあ見ていてくれ。おれは楽天地行列車には黙っては乗らないよ。その前になにかをする」 「なにをするつもりだ」 「する前に、きみだけにそっと教えてやるよ」  平原は、含み笑いをした。      2  二年の三学期末の休暇になった。休みが明けて登校するときは三年生になる。いよいよ大学入試を目ざして受験戦争の本番に突入する年がくる。正介も大学を目指す以上、自己の王国に閉じこもっていることができなくなる。  春休みもあと数日を残すのみとなった四月の初め、正介は突然平原からの電話をうけた。  平原が自宅に電話してきたのは初めてであった。学校を離れた所では、たがいの王国を尊重して干渉し合わないようにしているのであった。 「波多野か。例のことこれから実行するぜ」  平原はいきなり言った。 「例のこと?」  忘れたわけではないが、いっさいの前置きを省いて言われたものだから咄嗟に対応できない。 「きみには実行前に連絡すると約束しただろう。列車へ乗っちまってからやっても迫力ねえからな」 「いったいなにをやらかすつもりなんだ」  正介は、平原との約束をおもいだした。 「自殺だよ」 「なんだって!?」 「自殺だよ。これから首を縊《つ》って死ぬことにする」  平原は映画でも見に行くような調子で言った。 「おい、本気か」  正介は、自分の耳を疑った。平原に揶揄《オチヨク》られているとおもった。 「本気だよ。こんなこと冗談で言うもんか。ちょっと死んでくるよ」 「おい、ちょっと待てよ。なにも死ななくとも……」 「まさか、とめるつもりじゃないだろうな。きみならむしろ励ましてくれるとおもったから教えてやったんだぜ」 「だ、だ、だけど、まさか死ぬなんて……」 「そんなに大袈裟に考えることはないさ。みんなが生きることであくせくしている命の枠をちょっとはみ出してみたいだけだよ。行先未知の列車の一本に乗るのと同じだ。どうせみんないずれは乗らなければならない列車さ。最終列車に早退して乗るようなもんかな。うん、あまり適切な譬《たと》えじゃないな」  平原は真剣なのか、ふざけているのかわからなかった。 「それじゃあさよなら。新学期が始まっても会えないなあ」  それだけ一方的に言うと、平原は電話を切った。正介は電話口にしばらく茫然として立っていた。平原の真意がわからない。真にうけて騒ぐと、笑い種にされるような気もする。  だが平原の性格からそんなことで人を揶揄《からか》うともおもえない。とにかく、死を予告してきたのだ。放ってはおけない。正介はとりあえず平原の自宅を|呼び返《コールバツク》してみた。留守とみえてだれも応答しない。  本当に一家が留守ならばよいが、家族が留守の間に平原が自殺をしてしまったのではないのか。不安が急速に脹れ上がってきた。  警察へ届けるべきか。平原の冗談であれば、二人ともとんだ恥をかくだけでなく、こっぴどくとっちめられるだろう。しかしもし本気だったら? こうして時間を失っている間に平原の生命は絶望へと傾いていく。  平原が自殺決行前に電話してきた事実から察すると、正介の介入を期待している節が見えぬでもない。もしそうであれば彼の介入の立ち遅れによってみすみす死なずともよい命を死なすことになってしまう。  正介は迷った末に、警察に届けることにした。110番すると、警察は事件現場の所在地と正介の姓名住所を聞いた。正介は当惑した。彼は平原の電話番号だけで、住所を知らなかったのである。その旨を答えると、電話番号だけで調べると言った。こういう急訴が珍しくないのか驚いた様子も見えなかった。      3  正介の急訴をうけた警視庁通信指令室では電話局の協力を得て、平原の住所を割り出すと、所轄署のパトカーに現場に急行するように指令すると同時に消防救急隊に一報して出場を要請した。  パトカーが現場に一番乗りをすると、すでに平原正輔は庭樹の枝にかけた兵児帯《へこおび》にぶら下がって縊首を遂げていた。救急隊員が急遽《きゆうきよ》人工呼吸を施したが、一拍の遅れで、平原は遂に生き還らなかった。  平原の死を告げられても、正介は信じられなかった。平原は死と戯れているだけだ。死をさんざんオチョクった後で、ケロッとした顔をして、死なんて大したことはないよなどと言いながら帰って来そうにおもえてならない。翌々日、平原の葬儀は、身内と近所の者だけを集めてしめやかに行なわれた。突然のことでもあり、また春休みの内だったので、クラスの者で参列したのは、正介一人であった。もっとも新学期が始まってからでも、級友の数は大して増えなかったであろう。彼も正介同様、孤独癖の強い少年で友達がほとんどいなかったからである。  正介は、平原を自分が殺したような気がしてならなかった。事実正介の連絡がほんの一瞬早ければ、平原は救かった可能性が大きいのである。  ——平原を殺したのは、自分だ——正介は自らを咎《とが》めた。おれは自ら、たった一人の味方を殺してしまったのだ。  葬儀の前夜を徹して正介は平原のために弔詞を書いた。容易に書けなかった。どうしても文章が出てこない。あきらめかけたとき明け方近くなって、平原の言っていた言葉がよみがえった。  ==平原君、きみはよく言っていたね。自分の進む道がどの方角に向かっていて行く手にどんな世界が待っているかわからないから青春なんだと。そしてどんなに乗り心地がよく、行先にどんな素晴しい世界が待っている列車でも、それが最初からわかっている列車は、おれたちの乗る列車ではないとも言った。きみはそれを自ら実証するために死という列車に乗ってしまったのか? きみが乗った列車は、所詮ぼくたちのうかがい知れない世界へ旅発ってしまった。青春が志すべき未知に向かって、死という途方もない未知の世界を選んでしまったきみの心の中にどんな想いがあったのだろうか。きみはなにも言わずに逝《い》ってしまったが、ぼくたちの胸の中に青春と生きるということの意味を強烈に刻みつけてくれた。きみの想いをここであれこれ臆測することは止めよう。ぼくたちはきみを失ったことに胸がつぶれそうに悲しい。……    弔詞は、平原の憲法でもあった。両親や親族のいる前で読み上げる弔詞なので、その中に盛り込めなかったが、平原の死が抵抗であることを、正介は知っていた。それにしてもなんと凄まじい抵抗であろうか。  自分などは両親に精々暴力で抵抗しているが、平原は自分の生命を賭して安全保障楽天地行列車に乗るのを拒否した。自分にそれだけの抵抗精神があるか? 残念ながらない。  賢《さか》しげな顔をした識者や、「分別ぶった」大人たちは、愚かで稚い抵抗とか、甘ったれた欲求不満に耐えきれず、死を選ぶなどと言うにちがいないが、祖国の自由と独立のために死ぬ志士がいるように、行先が定まった列車を死をもって拒否する若者がいるのだ。あらゆる可能性に恵まれた若者が選ぶ死は、切実である。  それは青春の自由と独立を守るための壮烈な死であり、祖国の自由と独立のための死となんら優劣をつけられない。正介はいま平原の死に完全に圧倒されていた。  告別式は午後一時から始まった。会葬者は身内の者と近所の有志だけの寂しい葬式であった。天寿を全うした老人の死と異なり、春秋に富む若者の自殺であるから、会葬者も悔やみの言葉に困っていた。  僧侶の読経の後、弔問者の焼香の間に、正介の弔詞の朗読をはさむことになっている。  正介の出番がきた。正介は静々と祭壇の前に進んだ。祭壇の花に埋もれるようにして大きく引き伸ばされた平原の写真が飾ってある。正介のよく知っている含みのある笑顔で、いまにも話しかけてきそうである。  ただ一人のクラスメートの出席なので、会葬者の視線が集まった。 「平原君、きみはよく言っていたね……」  弔詞を開いて朗読を始めた正介は、目に涙が溢れて字が見えなくなった。だが文章は暗記している。平原と自分の憲法を忘れてなるものか。 「自分の進む道がどの方角に向かっていて、行く手にどんな世界が待っているかわからないから青春なんだと……」  ここまできて声が詰まり、言葉がつづかなくなった。 「平原、なんで自分だけ死んじまったんだ。この馬鹿野郎」感情が激して、弔詞にない言葉が飛び出した。あとは嗚咽《おえつ》が代わった。それはどんな名文の弔詞も及ばない、死者に向ける激しい追慕の表意であった。会場を会葬者のすすり泣きが充たした。  逸速《いちはや》く自分の涙をおさめた正介は、このもらい泣きをしている会葬者の中で、自分が流した涙の本当の意味を知っている者は一人もいないだろうとおもった。  それは、平原を失った悲嘆の涙ではない。平原ほどの抵抗が遂にできない自分の不甲斐なさに向ける口悔し涙であった。べつに死に憧れているわけではない。平原の死に匹敵するだけの抵抗手段を探し当てられないもどかしさに対する涙でもあった。弔詞は、ただ一人の同志を失ってふたたび始まる長い孤独の戦いに対する宣戦布告であった。 [#改ページ]  断絶した次期走者      1  ——経済成長への努力が教育制度や組織を無理に変更させ、それが青少年の精神負担を増しているということにならないか。それが親子の関係を緊張させているのではないだろうか。若い者はそれを解決する手段をもっていないので、攻撃の方向を自分の方に向けて自分を殺すのではないか。追いかけて考えてみると経済成長への過度の努力が教育公害を起こし、青少年の精神をおかしていることになっているようである——  あいつぐ若者の自殺を報じた新聞に目を通した的場保之は、その問題について�解説�した「識者の意見」を読んで、 「なるほど識者というものは、うまいことを言うもんだな。高度成長が青少年の自殺の遠因になっていたとは気がつかなかったな」  としきりに感心していたが、かたわらにいた息子の保一に、 「おまえなんか同世代の人間として、若者の自殺をどうおもうかね」と問いかけた。 「おとなはいろいろなことを言うけど、ぼくに言わせれば、結局すべての自殺は敗北のしるしだよ。生きるのに敗れた人間が死んでいくんだ、その意味で若者の自殺も例外ではないとおもうよ」 「敗北のしるしか、ずいぶん手厳しいんだな」  的場はそういう保一を頼もしそうに見た。その目には彼ならまちがっても自殺などしないだろうという信頼がある。 「生きるのにいやになったとか、おとなは自分たちのことをわかってくれないとか自殺者は言うけど、ぼくたちは人生がいやになるほど生きていないし、おとながわかってくれないのは、だれでも経験していることじゃないか。パパも若いときおとながわかってくれないとおもったことはなかった?」 「そう言われれば、そうだがね。保一も、ぼくらが少しもわかっていないとおもうかね」  保之は苦笑を漏らした。 「ある部分ではね、でも人間が人間を完全に理解するなんて不可能じゃないかな。ぼくはおとなに完全にわかってもらおうなんて少しもおもっていないよ。わかってもらわなくてもちゃんと生きていけるものね」 「こいつめ、生意気な口をききおって」  保之は息子を打つ振りをしながらも、そんな彼が愛しくてたまらないように目を細めた。 「べつに死ななければならない理由もないのに、中にはファッションで死ぬやつもいるよ」 「ファッションで?」  母親が驚きの目を向けた。 「みんなが簡単に死ぬから、自分も一丁死んでみようか、ジーンズやダンベを着るような気持で自殺をするんだ。まだいくらも生きていないから、生きることの意味も、その反定立《アンチテーゼ》としてある死の意味もよくわかっていない。自殺の予告をして死んだやつもいるそうだよ。要するにファッションで死んでいるんだ。幼稚というより、オトメチックだね」 「ファッションで死なれたら、親はたまらないな」 「べつにどうってことはないさ。そういう人間は、いま死ななくても、先行きどこかでボロを出す。資源の限界がある地球上で人間が多すぎるんだから、生きるのがいやになった人や、生きていても意味のない人にはどんどんお引取りいただいたほうがいいとおもうよ」 「おいおい」  保之は、たじたじとなりながらも、保一がこれだけきついことを言えるほどにたくましく成長したことを嬉しくおもった。  それにしても若い命を自らの手で散らすとは——なんと勿体ないと的場はおもった。自分に頼めばいくらでも「手伝って」やったのに。的場は四十年ほど前、少女を川の中に突き落としたときの感触をおもいだした。あのときはあまりにあっけなくて、人間を殺したという気がしなかった。  またこの間の癌患者は、放っておいてもどうせ長くはなかった。どちらも完全に�実行�した気がしない。春秋に富む若者がなんの未練もなく自らを殺していく社会現象の中で、あの死期を刻まれた癌患者が土壇場になって「死にたくない」と示した抵抗には驚いた。あれこそまさに生命に対する執着である。  ああどこかにピチピチした生きのいいやつで死にたがっている若者はいないものか。そういう生のエネルギーの象徴のような若者の命をこの手で摘み取ってやりたい。そのシーンを想像するだけで、血が熱く騒ぎ立つのをおぼえる。 「パパ、どうしたんだい。ぼくの顔を凝《じ》っと見つめちゃって」  保一の声に、的場は束の間の妄想から我に返った。      2 「いまの若い連中はファッションで死ぬんだとさ。みんなが次々に死ぬから、自分も流行に乗り遅れまいとして自殺をする。おれも若いときにふと厭世思想に取り憑《つ》かれて死にたいなとおもったこともあったが、ファッションで死にたいとはおもわなかったな」  的場は、呆れ果てているようであった。今夜はいつもより盃のピッチが早い。 「自殺志向は若いころ多少の差はあっても取り憑かれる熱病のようなものさ。その意味では流行《フアツシヨン》と言えないこともない」  波多野はちらりと正介のことをおもいながら答えた。——おそらくあいつには自殺をするだけの気力もあるまい—— 「生きていけば、これから先どんないい目があるかもわからないのに勿体ないやつらだな」 「同じ確率で辛い目があるかもしれないよ」  どうやら自分は悪い目のほうの籤《くじ》を抽き当てたようだと、波多野は認めざるを得なかった。 「辛い目ばかりでも、たとえ一|分《ぶ》の日の目を見るチャンスがあれば生きていくべきじゃないのかね、人生は」 「一分のチャンスに賭けるだけのファイトがあれば、初めから自殺なんか考えないだろう」 「いまは真っ暗闇でも、いつトンネルから出るかわからないのにな。人生はだから面白いのだ。おれがいま十代や二十代の若さに戻れるなら、これまでの人生で得たすべてのものと交換してもよいのに、本当に勿体ないことをする連中だよ」 「しかし若いころを想いだしてみると、あのときはあのときなりの苦労や悩みがあったよ」 「若いころのトラブルなんて、家族をもってからの人生本番に比べれば、まま事みたいなもんさ」 「おれはそうはおもわんな。人間生きている間は、いつでも人生の本番だ。学生でも社会人でも、老若男女職業身分に関わりなく、いつでも本番だよ」 「親の脛《すね》かじりと、自分で餌を見つけなければならない者では、トラブルの質がちがう。言うなら、内海と外海のちがいのようなもんさ」 「泳ぐ力が充分でなければ内海の波にも耐えられないよ」 「きみの意見に譲って、同じ様な苦悩があるとしても、きみは若いころに戻りたいとおもわないか」 「人には触れられたくない過去がある。必ずしも帰りたいとはおもわないな」 「過去のある一時点からまったく同じ人生を繰り返すのではおれもいやだがね、またもう一つべつの人生を生きられるのなら、おれはどんなことをしても戻りたい。それがこれまでの半生よりも恵まれないものであってもだ。人生は若いというだけで、なにものにも替え難い恵沢を施されているのだ。なにげなく年輪を重ねているうちに、自分では若いつもりでいても、若い女に縁がなくなっている自分に気がついて愕然《がくぜん》とする。若い女にオジサンと呼ばれる。昔できたことができなくなっている。きみ、街や電車の中で女学生を見たことがあるだろう。どんなブスでもみんな輝いている。あの輝きこそ若さなんだ。そしてあの輝きこそ、本当の美しさであり、生命の盛りのほんの短い時期にしかあたえられないものなのだ。それを自分から消してしまうなんて、なんと勿体ない……」  酔いが的場を饒舌《じようぜつ》にしていた。その饒舌の相手をしながら波多野は、正介の場合、自ら消すのではなく、閉じこめているとおもった。  吹き消しても閉じこめても輝きが外へ出ないことは同じである。 「ところで波多野君」  的場が言葉のトーンを変えた。 「なんだね」 「そういう勿体ない連中を知らないかね」 「勿体ない連中を?」 「知っていたら紹介してもらえないかな」  的場が意味深長な笑い方をした。その笑いの奥に潜むものに、波多野はいやな予感をおぼえた。 「紹介してどうするんだ」 「どうも癌患者ではね、手応えがないんだよ」 「きみ!」 「棺桶に片足、いや両足をつっこんだような重病人の死期を早めるためにちょっとお手伝いをしたところでまるっきり手応えがないんだよ。どうせ手伝うなら、ピチピチした生きのいい連中に手を貸したいとおもってね。ファッションで死にたがっているような連中は、最高だね。若さと生命力に溢れた人たちの死に手を貸してやれたらとおもうと、想像するだけで興奮してくる。これだけ若者の自殺が流行しているんだ。なんとか一人、おれの所に引っ張って来てくれないか。そのためにいくら費用がかかってもよい。きみ、頼むよ。この通りだ」  的場は波多野の前にほとんど跪《ひざまず》かんばかりにした。人目がなかったら土下座したかもしれない。  狂っている——と波多野はおもった。「前回」のときから彼はすでに狂っていた。たまたま�供給�があったものだから�仲介�をしてしまったが、的場はすでに殺人の感触に麻薬のように取り憑かれた殺人淫楽鬼であった。  四十年前の旧《ふる》い共犯以来、人を殺した体験は、的場の心の底に悪魔の種子として撒かれ、善良な社会人のマスクの下にその根を下ろし、枝葉を広げていたのである。波多野の仲介が、悪魔の種子に大きな刺戟をあたえ、遂に習慣的に獲物を求めて止まない食虫花のように、禍々《まがまが》しい花弁を顕《あら》わさせてしまった。 「おれが知っているはずがないだろう」  波多野は肌が粟立つのを抑えて突っぱねた。 「いや、きみは知っているよ。この間だって紹介してくれたじゃないか」 「あれは偶然だった」 「波多野、いまさら逃げるなよ」  的場がニヤリと笑った。笑いの奥に不吉な暗示がある。 「おれが逃げるだって?」 「そうさ、いまさら逃げようたってそうはさせない。きみとおれは一蓮托生だ。四十年前のあの事件からおれたちは共犯なんだ。そしてこの間の�安楽死�に手を貸してから、時効の上にまた新しい共犯関係を結んだ。素晴しい旧交の復活じゃないか。この関係を大切にしよう」 「脅迫するつもりか」 「どういたしまして。脅迫とか恐喝とかいうものは、失うものが大きい方が被害者の側に立つ。失礼ながら現状ではぼくのほうが失うものが大きいとおもうよ。これは友情の確認だよ」      3  波多野家は団地の3DKである。正介に南面の最も居心地よい六畳の洋室を占領されているので、残りの六畳の和室と北面の四畳半が夫婦の生活室となっている。この中六畳の和室は居間や来客の応接室に使うので、夫婦の寝室は四畳半に押しこめられている。 「あなた、このごろ正介の様子がおかしいのよ」  ある日素子が顔を曇らせて訴えた。 「あいつは、いつもおかしいよ」 「そういう意味ではなくて、なんだか私たちの様子をうかがっているらしいの」 「なんだと?」 「どうも男と女のことに興味を持ち始めて、私たちが寝《やす》んだあと、じっと聞き耳立ててうかがっているようなのよ」 「まさか。まだ子供じゃないか」 「あの子ももう十七歳よ。性に興味をもってもおかしくない年ごろよ」 「正介がねえ」  公造は、自分の少年時代を振り返ってみた。そう言えば友人から初めて春画を見せられてショックをおぼえたのもその年齢であったような気がする。赤ん坊がどこから生まれてくるか、友人と大激論をして、母に確かめ、母を困らせたのも、そのころであった。そして男女の秘事に燃えるような興味を抱き、自分の�出所�に還るための長い巡礼に出発したのだ。  当時は、男女の交際が自由ではなく、男女も全般におくてであった。現代は若者の体位も向上し、映画、テレビ、その他のマスコミ媒体によって性知識が氾濫し、若者をこれでもかこれでもかと刺戟し、煽り立てている。  男女の交際も自由である。若者たちの春機の発動が早いのも当然であろう。正介が性に目覚めたのも、一般と比較すれば、むしろ遅すぎるくらいである。  しかし、家庭内の暴君《タイラント》が性に目覚めたとなると、「息子もおとなになった」と単純に喜んではいられない。 「時々いやらしい雑誌を買ってきては内緒で読んでいるようだわ」 「まあ男はだれでもエロ本の洗礼をうけるがね、ガールフレンドでもできた気配はないのか」 「あの子にガールフレンドができるようなら苦労はしないわよ。たとえ女の子に興味をもっていても、絶対女の子の前では現わさないでしょうね。自分から女の子には近づかないでしょうし、万一女の子のほうから近寄って来るようなことがあっても逃げてしまうわよ」 「だろうな」 「そんな他人事みたいに言って、どうなさるつもりなの」 「放っておく以外にないだろう。だれもが通り抜けてきたことだ」  そのときはそれだけの会話に終ったが、それ以後、正介が気になって二人は夫婦生活ができなくなった。夫婦双方共、まだ中年の脂が残っている。それが息子の目を恐れて禁欲をするのは辛かった。正介のいないときを狙って餓えをとりあえず瞞《だま》すために、弁当でもかき込むように慌しく房事をすませたが、味気なかった。  狭い家の中で思春期の子供をもつ親たちの共通の悩みであるが、波多野家の場合は、親の房事を悟られれば、どんな凄まじい暴力に点火するかわからない恐怖があった。  それとなく同年輩の知己に様子を聞いてみると、朝型房事に切り換えたとか、週一度くらいモーテルへ行くとか、留守を狙って行なうとか、みなそれぞれの工夫と苦労をしていることがわかった。  だが、朝の早い波多野家では、朝型は無理であり、モーテルの門はどうしてもくぐれなかった。また週一回のモーテル利用は、経済的にもかなりの負担になる。結局留守を狙うということになったが、とにかく相手は「自閉の王様」であるから、学校へ行っているとき以外は家にいる。日曜日にもどこにも出かけない。家にいる時間は、正介のほうが絶対的に長いのであるから、留守を狙うという手はほとんど通じない。波多野夫婦は、欲望を中年の皮下脂肪の下に封じこめざるを得なかった。  土曜の夜に、夫婦の間にふと予感のようなものが揺れた。その日は珍しく、正介がテレビの前から早々と退いて、自分の部屋に閉じこもった。前夜深夜映画を見たので、眠くなった様子である。波多野は妻に目くばせした。了解は一瞬の間に成った。どちらも今夜が「チャンス」であるのを悟った。こんな機会はめったにあるものではない。夫婦はいそいそとベッドインの支度をした。 「まだ安心ならないわよ。深夜放送を聴いているかもしれないわ」  正介の部屋の寝静まった気配にも、まだ素子は不安のようである。 「おまえ、ちょっと様子を見て来いよ」  波多野に言われて、素子はしばらく正介の部屋の外から気配をうかがっていたが、 「大丈夫よ。寝息が聞こえているわ。ああ久しぶり」と言って公造の脇に熟れて火照った躰《からだ》を滑り込ませてきた。公造にしても長い禁断の後に接する妻の躰である。その開発と醗酵の味を知っているだけに、新鮮な刺戟と興奮をおぼえた。 「今夜はおもいきって大胆にいきたいな」 「だめよ。気配を悟られてしまうわ」  妻はまだ不安を捨てきれない。 「せめて灯をつけよう。しばらくきみの躰を見ていない」 「がまんしましょうよ。すぐ隣に寝ているのよ」  妻になだめられて、波多野は不承不承にうなずいた。彼女の躰にありつけるだけでも有難いとおもわなければならない。  だが熟練したセックスには皮膚呼吸のようなものが必要である。単に体を交えるだけでなく、視覚や触覚、あるいは嗅覚を用いてたがいに確かめ合うことにより、性の喜びをいっそうに高められる。  相手の躰を見、触り、舐《な》め、しゃぶり、体臭を嗅ぎ、淫らな会話を交しながら、全身的に相手を感じ、確かめ、究極の結び合いを促し、強め、性のエクスタシーを達成できるものである。  波多野夫婦は、その皮膚呼吸を遮断されたようなものであった。だが、肺呼吸すら久しぶりであった。久しぶりにたがいを得て、体の隅々の細胞までがよみがえるように感じられた。視覚効果の欠如も、大胆な体位の不足も、長期の禁断の後には、欲望の充足にさしたる影響をあたえない。 「ああ、おいしいわ」  妻は布団の中で悦楽のうめきを怺《こら》えるのに苦労をした。その圧《お》し殺したうめきが、波多野の官能に油をかけた。二人はいつの間にか正介の存在を忘れた。  いつもとりあえず空腹を瞞《だま》すためだけの慌しく弁当をかき込むような侘しい房事から豪奢な宴会のフルコースに就いたような感じであった。  いきなり境いの襖《ふすま》が開けられた。そこに正介の黒い影がうっそりとたたずんでいるのを認めて、夫婦の燃焼していた心身は瞬間的に冷凍された。幸いにして部屋の灯を消していたので寝室の中のデティルは見えないはずである。だが、熱した気配は十分に悟られてしまったであろう。  夫婦は咄嗟に対応するすべを知らず、体を硬くしている。闇の中に一拍のにらみ合いがあった。次の瞬間正介の手が高く上げられたと見るやポリバケツ一杯の冷たい水が、夫婦の上に存分に浴びせかけられた。  悲鳴もあげられず、夫婦はベッドの中で竦《すく》み上がっていた。      4  その夜、的場と別れて帰って来ると、家の方角がなんとなく騒がしい。胸騒ぎをおぼえながら近づいて行くと、救急車が赤い回転灯を屋根の上に明滅させてすれちがった。だれかを収容して病院へ急ぐところらしい。サイレンが鳴り始めた。 「あ、波多野さん、一足ちがいでした。奥さんが怪我をされましてね、いま救急車で運ばれていったところですよ」  波多野の棟の前に屯《たむろ》していた人群から声をかけられた。 「家内が怪我を? いったいどこを怪我したのですか」  不安がズンと胸を走った。 「なんでもお料理の最中に包丁で誤って指を切ったそうです。傷が意外に深くて血が止まらないのでご自分で救急車を呼ばれたということでした」 「正介はいませんでしたか」  もうとうに学校から帰って来ているはずである。 「救急車にいっしょに乗って行きましたよ。なんだかひどく興奮していた様子でした」  近所の人間は、おおかたの事情を察したような口調で言った。波多野は、はっと胸を衝《つ》かれた。正介の仕業だ。正介の暴力が遂に母親に凶器を振うまでにエスカレートしたのだ。波多野が最も恐れていた事態が発生したのである。  救急病院に駆けつけると、妻はすでに手当てをうけて、ベッドに憩《やす》んでいた。右手を包帯でぐるぐる巻きにされてギブスをはめられたように脹《ふく》れ上がっている。その大袈裟な包帯から、傷がかなり深いことが推測された。正介の姿は見えない。きっと波多野の気配を察知して隠れたのだろう。 「あなた」  素子が泣きそうな顔を波多野に向けた。周囲に人がいないのを確かめて、 「正介がやったんだな」 「あなた、正介を怒らないでね、後悔しているんだから」  苦痛がよみがえったらしく妻は顔を歪めながら訴えた。事情を聴いてみると、学校から帰って来るなり、一万円くれと言うので、なにに使うのかと聞くと、いきなり怒りだしてかたわらにあった包丁を投げつけたそうである。  咄嗟に手で防いだところ、刃先が右手の薬指をかすったという。 「かすったくらいで救急車を呼ぶものか」 「突然のことだったのでうろたえてしまったのよ。あなたがここで騒ぐと、警察が出て来るわ。おねがいよ。ここはなにも言わないで、正介を許してやってちょうだい。手当ても早かったし、すぐに癒るわよ」  妻は、決して「かすった」とはおもえない包帯の手を合わせるようにして波多野を拝んだ。たしかに彼女の言うとおり、これが家庭内暴力による刃傷沙汰とわかれば警察が出て来る。正介の異常が明るみに晒《さら》されたら、彼はますます悪くなるだろう。これが原因で学校へも行かないようになれば、直接の被害は素子が被ることになる。息子の刃傷沙汰は、波多野にも影響するかもしれない。 「せっかく医者もなにも言わなかったのですから、あなたさえ黙っていてくだされば、正介に傷はつかないわ」  これだけ息子に傷つけられながら素子の母性は子供を庇っていた。  ——あいつはなんという子供だろう——  憤りが波多野の胸に深所から衝き上げてきた。あんな風になるように育てたおぼえはなかった。初めての息子として寒い風にも当てないようにして育てた。それを過保護と言うなら、世の中の一人っ子はみな過保護である。だが大多数の一人っ子は恵まれた環境を十二分に自分のものとして、すくすくと育っている。  それが正介だけが、突如として悪魔の子に変身してしまった。この突然変異に親の責任があるとすればそれは何か? 自分たちのどこがよその親と変っていたのか。  ——そんな勿体ない連中を知らないか。  ——知っていたら紹介してくれ。  ——きみなら知っているはずだ。  突然、的場保之の声が耳によみがえった。なぜここで彼の言葉をおもいだしたのか? 一見なんの脈絡もなさそうな連想を、波多野は怪訝《けげん》におもった。 「まさか!」波多野は顔色を変えた。連想の源にある恐しい潜在願望に突き当たって、波多野は愕然とした。自分でも信じられない。  これは一時の感情にすぎない。まさか親がわが子を。そんなことはあり得ない。自分は感情的になっているのだ。彼は激しく打ち消した。  だが一方ではべつの声が話しつづけていた。正介はすでにわが子ではない。あれは悪魔の化身だ。このまま彼の暴力が暴走すれば、致命的なことになりかねない。彼にはもう見境いがつかなくなっている。いまは「指をかすった」程度ですんだが、カッとなればなにを仕出かすかわからない危険な状態にある。  あの無気力と凶暴では、生きていたとて、社会に迷惑をかけるだけだ。 「生きていても社会に迷惑をあたえるだけか」  波多野は、残念ながらそれを認めざるを得なかった。頭が悪くても、なんの能力がなくてもよい。せめてやる気があれば、それらのハンディを克服できるのだ。ところが正介の場合、少しでも難しいものは避ける。二者択一の岐路に立たされたときは、ためらいなく安易な方を選んだ。自分でもその無気力に腹が立つらしく、無抵抗の母親に当たる。それは卑怯な八つ当たりであった。母親に暴力を振ったところで、うっぷんは内攻するばかりである。  正介の無気力、卑怯は、性格から発するものであろう。正介が生まれてから、家庭らしい安らぎがあったのも、彼が幼かった数年の間だけであった。次第に自閉の性格を打ち出すにつれて、家庭も暗く荒れてきた。  いまは家庭などと呼べるものではない。正介の暴力に怯《おび》え、近所の人たちに身を竦めている。正介の暴力を制圧するためには、それ以上の暴力を用いなければならない。その場合近所に迷惑が及ぶのを防ぐことができない。時間の見境いなく荒れだす正介に、近所ではもうあきらめている様子である。これ以上の迷惑をかけるわけにはいかない。  だが正介の家庭内暴力がさらにエスカレートするようであれば、この団地から出て行かなければならなくなる。彼の傍若無人はすでに集合住宅の限界に達していた。しかし現在の住宅事情では、正介の傍若無人を許容するところはない。  ——このままいけば、自分が正介を手にかけてしまうかもしれない——  波多野は、心が定まった目を上げた。      5 「なんだって? あんたの息子を!」  さすがの的場も驚愕した表情である。 「わが家の恥を晒すが、もうあれはおれの息子ではなくなっている。あいつはきっと|悪魔の申し子《オーメン》だよ。だれかに頼まなければ、いずれはおれの手で始末するようになるだろう」 「それにしても、血を分けた実の子じゃないか」  的場は「生《な》さぬ仲」の保一のことを考えた。血はつながっていないが、保一に対する愛情はそんなことを忘れさせるほど根源的なものを感じさせる。それが一方には実の子を親が殺したがっている。的場には理解できないようであった。  波多野は、正介の状況を詳しく説明して、 「とにかくおれは決心したよ。あいつは生きていてもためにならない。いまのうちに始末してやるのが、せめてもの親心というものだ。きみが引き受けてくれなければおれの手でやるつもりだ」 「後で、後悔はしないだろうな」 「絶対にしない」 「実行した後になって、急に可哀想になって寝返ったら、こっちはいい面の皮だ。面の皮くらいではすまなくなる」 「その点なら心配ない。どうせ、手引きするのだから、我々は共犯を免れない」 「きみの息子というのは、やはり引っかかるね。いかにきみから依嘱されても気が進まないな」 「きみが気が進まないのでは仕方がない。おれ一人でやらざるを得ない。このことはだれにも口外しないでもらいたい」  波多野は落胆しながらも、眉宇に強い決意を現わしていた。 「どうやら本気のようだね」 「こんなことを嘘や冗談で人に言わない。きみの依嘱が、きっかけになっているがね」 「おれは自殺志望の若者を紹介してくれと頼んだのだが」 「親が殺したがっている子供も似たようなものだろう」 「本人に死にたいという気持がないのだからだいぶちがうよ」 「自殺者の手伝いをしても法律的には殺人だ。未成年者の自殺を手伝ったら、親が黙っていないよ。正介の場合は親が望んでいるんだ」 「正介君には立ち直る可能性はまったくないのかね」 「将来どう変るかわからない。しかしそれまで待っていられない。こっちが殺されてしまうか、こっちが殺すかだ」 「深刻なんだな」 「家庭とおもってはいけない。敵同士が同居しているんだ」 「そこまでおもいつめているのなら、その話に乗ろう」 「え、引き受けてくれるか」 「うん。だが今度は死にかけている癌患者じゃないからね。生きのいい若者が相手だ。十分に計画を練らないとな。奥さんは同意しているのか」  波多野は、自ら傷つけられながらわが子を必死に庇った妻のいじらしい姿をおもいだした。母親はどこまでいっても母親である。子供にどんな仕打ちをされても、それを捨てることはできない。そこに自らの身を痛めて子を産む母親と、わが子の誕生になんの犠牲も払わない父親の差がある。  彼女の同意を得ることは、絶対に不可能だろう。だがそれを不可能と言っては、せっかく傾きかかった的場を逃がしてしまう。 「家内は怯えているよ。息子から逃げたがっている」 「正介君はきみの意志に気がついていないだろうな」 「その点は大丈夫だ。自分がどんな仕打ちをしても親は絶対に自分の味方だと信じ込んでいる。馬鹿なやつさ。父親というものは、息子が自分の期待像とはずれているときは、意識の上で他人になれることを知らない。愛情が残っていたとしても、�不肖の子�として飼い殺しにするだけだ。期待しないということにおいては同じだ」  吐き捨てるように言った波多野の言葉には本当の憎悪がこめられていた。  これが正介がせめて女の子であれば、波多野の憎しみがこれほど増幅されることもなかったにちがいない。男の子であったがために、父親としては、バトンを託すべきリレーランナーを失った失望が先にある。それが単に次期リレーランナーたる器でないだけではなく、父親が、最も行って欲しくない方角に向かって走りだすと、失望に怒りが上塗りされて、激しい憎しみとなるのである。この場合、親子であることが憎しみを捌《は》け口のない骨肉の垣根の中に閉じこめてしまう。  彼らはその後何度か会って具体的な方法について打ち合わせた。  できるなら自殺を装わせたい。若者の自殺が流行している時節柄、警察も「またか」とおもって形式的な検視だけですませてくれるだろう。正介の異常ぶりを知っている近所も、不審は持たないだろう。問題は自殺の方法である。若者の自殺手段としては、首縊り、睡眠薬、ガス、高所飛び降りなどが多いが、自殺する意志のない者に、その手段方法をどのようにして結びつけるか?  波多野が一案を出した。 「睡眠薬を服《の》ませて意識を朦朧《もうろう》とさせて、ビルの屋上にでも連れ出し、突き落としたらどうだろう」 「ビルの屋上へ連れ出すまでに人目に触れるおそれがあるよ」  的場がいったんNGを出してから、 「そうだ。睡眠薬を服ますというのは悪くない手だな。ぼくらより腕力が強い十代だ。起きていて暴れられては、手のつけようがない。なにをするにしてもまず眠らせる。その上でどんな料理でもできる」  と波多野案を部分的に認めた。的場がなにげなく言った「料理」という言葉が、波多野の胸をチクリと刺した。 「料理」の対象は、わが子である。対象にされた正介に同情をおぼえたのではなく、わが子を魚のように俎上《そじよう》に上げざるを得なくなったわが身をふと悲しくおもったのである。  素子の傷は、右手薬指の骨に達して、第一関節から先がブラブラになるほどの深いものであった。正介はそれから二日ほど神妙にしていたものの、すぐに元の傍若無人に返った。 「もう物は投げない」と誓った舌の根の乾かぬうちに、ふたたび手当たり次第にものを投げるようになった。波多野が咎めると、「当たらないように投げている」とうそぶいた。  しかしものは素子の顔面目がけて飛んで来た。顔を庇《かば》った彼女の指に当たり、ようやく止血したばかりの傷が開いて、血が包帯の上に滲み出した。  波多野は、もはや一刻の猶予もならないとおもった。      6  正介は父が変ったのを悟った。これまではどこかに父親の部分を留めていた。正介にどんなに落胆しても、彼を捨てきっていなかった。部分的ではあってもまぎれもなく、正介の父親であった。  それが、母の「指切り事件」があってから、父は完全に変った。もはや公造の中に父の部分の一片も留めていなかった。それは父ではなく完全な他人であった。息子の人生にひとかけらの関心ももたず、息子がどの方向へ向かおうといっさい干渉しない他人になりきっている。  これまで正介が父の期待に背いた行動をすると、失望の色を現わしたものだが、最近はちがう。路傍の他人がなにをしようと失望はしない。路傍の他人に期待することはなにもないからである。ただ怒りだけをあらわにした。他人に自分の生活領域を侵された怒りである。  これまでの正介を軌道に戻すための争いや怒りが、自分の権利や利益を守るためのものに変ってきたのである。  正介は少しうろたえた。父親がそこまで他人になりきれるとはおもっていなかった。親に言語道断な反抗をしながらも、親に対する甘えがあった。  ——なにどうせ脅しさ——親が子を捨てきれるはずがないと初めのうちは、たかをくくっていた。  だが父の目はいつまでも冷えきっていた。まるで道端の石コロでも見るような目で正介を見た。冷たい眼光がうすい笑いを含んでいるようである。以前の父の目には悲しみがあったが、いまはそんなものは一抹もない。父のうす笑いは、正介を軽蔑しきっているものであった。  それは親子ではなく、男が男に向ける嘲りである。 (これは少し危《やば》いな)  正介は本能的に悟った。なにがどのように「危い」のかよくわからないが、父が自分を決定的に捨てたことはわかった。だからといっていまさら、 「お父さん、ごめんよ。ぼくこれからいい子になる」などと、父の足許に泣き伏して許しを乞うことはできない。そんなグロテスクな振舞いは死んでもできない。  いまさら親父に捨てられてもどうということはない。もともとこちらはとうに捨てていたんだからな。——正介は強がった。  父に�勘当�されて、むしろ清々したようなものである。落語の「若旦那」のように、転がり込む出入りの職人の家がないだけだ。  それにしてもあの小心翼々たる父が、子供を決然と捨てられる強さをもっていたことが正介には意外であった。  ともあれ正介が父の訣別を察知することによって波多野家は完全に崩壊した。      7  素子は、夫と正介の間が極度に悪化していることに心を痛めていた。もちろん自分と正介の間がうまくいっているとは言えないが、母親にとっての子供は、自分の体の一部分のようなもので、どんなに子供から虐げられても切り捨てられない。  ところが、夫は正介を完全に切り捨てている。切り捨てたもの同士が同じ屋根の下に生活をしているのであるから、当然|軋轢《あつれき》が生ずる。  ころごろの父子は激しく憎み合っている。このままいくととんでもないことが起こりそうな気がした。  最近、父親が高校生の子を殺した事件においては、子が父に暴力を振い、父が身の危険を覚えて遂に自衛のために子を手にかけたというものである。正介はまだ父親に正面きって暴力を振わないが、二人の対立を見ていると、いまにも最悪の事態に発展しかねない恐怖を覚える。  実際、荒れ狂うわが子を見ていると、悪魔に取り憑かれたとしかおもえないような凄まじさであった。警察も家庭内暴力に対しては傍観の態度をとっている。「家庭の問題は家庭で」が原則なのである。青少年補導係が補導にあたっているが、主たる対象は「非行少年少女」であり、問題行動の代表的なものは、授業妨害、怠休、怠学、喧嘩、たかり、凶器所持、粗野な言動、残虐、器物損壊、いやがらせ、強度の反抗、悪質な虚言、不良雑誌の持込み、性器露出、家出放浪、不良交友、不純異性交遊、盛場徘徊、不健全娯楽、夜遊び、飲酒喫煙、シンナー・ボンド等の薬物乱用、金銭濫費、火遊び、万引き、集団暴走、不良グループ結成、奇異な服装とファッションなどであって、正介の症状には当て該《はま》らないようであった。正介の場合、家族以外の他人に対しては正常なのである。  自閉症気味のところはあるが、それは一人っ子に多少の差はあっても共通に見られる症状であり、精神病ではない。  素子は、密かに団地のある市のカウンセラーに相談をした。カウンセラーは、親身になって相談に応じてくれて、いろいろとアドバイスをしてくれたが、正介の症状からは、ずれているような気がした。  カウンセラーの意見によれば、「家庭内暴力」も一種の�非行�であるということである。その説明によると、——  わが国の現行法制では、「非行少年(少女を含む)」は、犯罪少年、虞犯《ぐはん》少年、触法少年の三種類に分けられる。  未成年者でも十四歳以上は刑事責任能力が生じ、この者が刑事法に違反した行為をした場合は、刑罰法令が適用される。これがいわゆる犯罪行為であって、犯罪の種類を問わない。売春や凶器不法所持などの特別法犯も含まれる。  刑罰法令が規定する不法な行為を行なった未成年者が、犯罪少年であり、性格または環境に照らして、将来、罪を犯し、または刑罰法令に触れる虞《おそ》れのある少年を虞犯少年とし、十四歳未満で犯罪少年と同じ行為を行なった者を触法少年として、刑事責任能力のないものとして犯罪少年と扱いを区別している。  正介は三種の非行少年の中の虞犯少年に該《あた》るものであろう。母親に暴力を振い、傷つけた行為は、刑法二百四条の傷害罪に該当するものであるが、素子はこれを犯罪行為とみていなかった。  カウンセラーは、素子の話を注意深く聞いたうえで、非行の原因としてさまざまな心理的、社会的要因が考えられるが、その中でも家庭環境と、学校や地域社会の関与率が高いことを指摘した。  従来は非行に陥りやすい素地として遺伝素質(先天性)が強く主張されてきたが、最近は環境(後天性)が原因として重く見られるようになったそうである。  専門医に精密検査をしてもらっていないので、正介にどんな遺伝素質があるか確かめていないが、一族に精神病者や犯罪者はいないし、そんな悪い素質が遺伝されているとはおもえない。  また正介の暴力は家庭内だけで振われるものである。外部に対しては異常は現われないのであるから、家庭の関与が大きいことが考えられる。 「たしかにお宅のお子さんは、ご家庭に問題があるようですね。非行少年を生む家庭として、葛藤のある家庭、不道徳な家庭、欠損家庭(片親または両親が欠けている)、共稼ぎ家庭、貧困家庭などが挙げられますが、お宅の場合は、ご家庭になにか葛藤があるのではありませんか」  カウンセラーは質《たず》ねた。 「葛藤と申しますと?」  素子は心におもい当たることがあるのを隠して反問した。 「ご両親の仲が悪かったり、ご家族の間に軋轢があったりして家庭内にいつも波風が絶えない場合です」  カウンセラーは言って、学者(樋口幸吉氏の分類に基づく)は家庭の葛藤として次の様に列挙していると教えた。 一、思想的葛藤——封建対民主思想の対立のような家族間の意識や時代感覚にずれがある場合、 二、人格的葛藤——父母の教養、習性、人生観、志望、信条、性格に著しい差異がある場合、 三、覇権《はけん》的葛藤——祖母と母(姑と嫁)、両親などにおける家庭の主導権争いや、財産にからむ利害関係の対立がある場合、 四、第三者的葛藤——継父、継母、父母の情人、食客など血縁関係のない者が家庭に割り込んで来た場合、 五、婚外《アウト》セックス的葛藤——父母の一方または双方が不道徳な性的関係(浮気など)をもった場合、 六、複合家族的葛藤——近親者が同居して家族関係が複雑になった場合、 七、医事的葛藤——家庭の中に精神障害者、身体障害者、アルコール性中毒者(酒乱)、社会的不名誉者、長期病者などがいる場合、 八、情調的葛藤——貧困、狭隘《きようあい》な住居、非文化的な生活、父親の職業(社会的位置の低い)に対するコンプレックス、母親の屋外労働、 九、差別的葛藤——人種や国籍の相違(混血など)、宗教上の相違などがあって、家族全体が地域社会にうけ入れられなかったり、差別をうけたりする場合、  以上の中、素子が不安を抱いたのは五であった。夫が自分の知らない所で浮気をしているかも知れない。しかも五のトラブルがあったとしても、正介は知らないはずである。また夫婦の房事の現場を見られたことが、彼の暴力を促し助長することがあったとしても、彼の異常はそれ以前から発していたのである。  それ以外の葛藤としては、おもい当たるものがない。強いて当てはめてみれば、八と思えなくもないが、それも豊かと言えないだけで、まず中流の生活は維持している。夫は職業に恵まれず、転々と勤め先を変えてきたが、正介がそのことにコンプレックスをもっているとはおもえない。だいたい父親の職業などに興味をもっていない。  決して家計は豊かではないが、一人っ子なので、特に貧しいおもいをさせたことはない。正介も貧困のみじめさを知らないはずである。  すると、家庭の葛藤としてなにがあるのか。  カウンセラーは説明をつづけた。 「人間は社会生活において無限に欲求を増していきます。欲求によって緊張が生じ、これを解消しようとして行動するわけです。ところが欲求が充足されないと、欲求不満《フラストレーシヨン》となって、緊張《ストレス》が蓄積されます。これがたまりすぎるといつ暴発するかわからない危険なエネルギーとなります。しかし多様化、エスカレートする人間の欲望に対する制限や禁止も増えてきます。つまりは人間のストレスが高まることになります。人間はこのストレスを回避するために、欲望をコントロールするようになります。このコントロールを�適応機制�と呼んでいますが、たとえば欲望の充足を将来に延期したり、あきらめたり、妥協したり、他の欲求の対象とおきかえたり、やせがまんしたり、芸術や学問に昇華したりするのが、それに当たるわけです。  ところが適応機制をうまく見出せないときに、反社会的な適応機制となって働いてしまいます。これが社会的に不適応な非行となって現われるわけです。これを我々は不適応性非行と呼んでいますが、さらに攻撃型、退行型、逃避型、その他の四種の非行に分けております。  攻撃型非行は、欲求不満が他に対する暴行、傷害、時には放火、殺人などの形で現われます。これが、金品や異性に向ける欲求不満と結びついて恐喝、強盗、強姦などを誘発する場合もあります。また父親に対する敵意が、他の人間や動物に振り変えられることもあります。敵意が特定の人間や対象から一般化して、社会全体を敵とみなして反社会的行動や、無差別攻撃となって現われるケースもあります。この攻撃的欲求が抑圧されますと、不可解な現われ方をすることが多く、原因をつかむのに苦労します。ご子息の場合は、どうも攻撃型非行が屈折して現われているようですね。  退行型は、急に幼児っぽくなり、理性や知性が低下して結びつくものです。また逃避型は、家出や怠業、怠学、退学、飲酒、シンナー・ボンドなどの薬物乱用などとして現われますが、いずれもご子息には当てはまらないようです。ま、一度ご本人を連れてきていただけませんか。そのうえでもし遺伝的素地や、身体的条件があるようならば、保健所やその方面の専門医の相談を仰ぐとよいでしょう」 [#改ページ]  未知の解剖      1  朝起きると局部が痛いほど硬直している。俗に「朝M」と呼ばれる健康な男の朝の共通現象であるが、それは小便をしてもしばらくはなおらない。正介の現象は、一時の生理的な�変調�ではなく、もっと体の深部から発しているものであった。  彼は寝床の中で悶《もだ》えた。悶えてどうなるものでもない。悶えるほどに、硬直はさらに進むようである。全身にもやもやしたものが内攻し、熱っぽい。頭の中に欲望のメタンガスが詰まっているというのか、異性に関する妄想でいまにもパンクしそうに脹《ふく》れ上がっている。いっそのことパンクすれば、吹っきれるのだが、決してパンクすることはない。  この得体の知れない欲求不満のガスが心身にたまり始めたのは中三のころからか。はっきり意識したのはそのころであるが、もっと以前から始まっていたのかもしれない。  最初は同年輩の早熟な連中の密《ひそ》やかな会話が聞くともなく耳に入り、彼の中に眠っていた本能的な興味を覚ました。心身の成長と共にそれは急速に目覚め、街に氾濫する猥褻《わいせつ》な本や絵や写真や、またマスコミの情報が、その目覚めを促し、興味を拡大させた。  異性に対する興味は、いまや具体的な欲望としての形を成していた。家にいても、学校にいても、あるいはそれ以外の場所でも、授業中でも、テレビを見ているときでも、人と話をしているときでも意識はいつの間にか「それ」に向いている。それだけで頭が占められていると言ってもよいほどであった。  正介は、起きている間はもちろん、寝ているときも異性の白い泥のような肉体をこねまわし、玩《もてあそ》ぶ妄想と夢に耽《ふけ》っている。意識が異性から片時も離れないのにもかかわらず、知識はすべて観念的なもので、現実には彼女らについてなに一つ知らなかった。そして無知が彼の妄想を捌け口のない密室の中で余計脹らませているのである。  それにしてもそれは苦しい拷問であった。欲望は膨張するばかりで、爆発することもなくただ心身に対する搾《し》めつけを強くしている。その拷問から逃れる方法はわかっているが、自分にはその方法を実行できないこともよくわかっている。  同年輩の軟派は、玩具でも手に入れるように女たちを獲得して、拷問を快楽に変えていた。それができない者でも自分で欲望を処理している。  この心身をじりじりとトロ火で焙《あぶ》るような煉獄《れんごく》の苦しみを、世間に溢れている女たちのただ一人でもかたわらに来てくれたら、抜本的に解決してくれる。ところが彼女らの一人として彼の許には来ない。絶対にやって来ない。  自分は世間の若い男に比べて、それほどみっともないわけではない。特にハンサムというほどではないが、まあ十人並みの�器量�である。女たちはいずれも�面食い�で、格好いい男好みだそうだが、女を連れている男たちが必ずしも格好いいとは限らない。むしろみっともない男が美《い》い女を連れている。中には一人で複数の女を引き連れている者もいる。そういう男にかぎって、正介より背が低いか、ルックスが悪いか、あるいは醜い体形をしていた。 (ちくしょう! どうして女たちはおれの所に来ないのだ)  正介は胸の中で罵《ののし》った。世間の女たちは見る目がない。なぜここにおれという立派な男がいるのに気がつかないのか。だがその言葉を彼は胸に閉じこめておくだけで、決して発することはない。  腹をへらして、ショーウインドウの外から、レストランのサンプルを覗《のぞ》いているようなものである。美しく着飾った様子のいい女たちが、正介が手をのばせば届く距離に群れていたが、彼女らとの間には決して越えることのできない透明な壁が立ちはだかっていた。  平日の朝は寝床にぐずついている時間がないので、拷問は断ち切られたが、日曜祭日の朝は辛かった。寝床にいるかぎり拷問はつづいた。妄想の中で同級の女子や街で見かけた女たちを引っ張って来て犯したが、それは拷問の苦痛を強化し、長引かせる効果しかなかった。  耳学問や本からの知識によって、正介も異性の体の構造を観念的に知っていた。だが実際のところどうなっているのか、まったくわからない。彼女らが下半身にまとったいとも蠱惑《こわく》的なスカートの中はどのようになっているのか。あの尻のあたりの柔らかそうな脹らみ、腰のくびれ、動く都度《つど》挑発的に揺れる曲線、両脚の間にわだかまるミステリアスな仄暗《ほのぐら》さ。それらすべての謎を、「叩けば開きそうな」うすいおもわせぶりな布片に隠して、風にひるがえし、歩く度に裾を乱す。だが際どいところで、その全容を決して見せることはない。  それだけに正介の妄想は刺戟をうけつづけ、スカートの内部を見届け、その構造を確かめたいというほとんど抑え難い願望を抱くようになった。  そんな矢先、正介はたまたま両親が同衾《どうきん》している姿を見てしまった。両親も男女関係の枠外に立てないことはわかっていたが、自分の親については強いて目を瞑《つむ》っていた。自分が両親の性行為の結実として生まれたと考えるだけでおぞましさが先立った。  だれでも両親の性行為に対して拒絶反応をもっている。いずれは自分も結婚し、夫婦生活を通して子をもつようになって、その拒絶反応が薄れてくるのであるが、セックスの洗礼をうけないうちに親の同衾を目撃したことは、正介に強烈なショックをあたえた。  初めのショックから立ち直ると、彼は怒りに震えた。自分が煉獄の苦しみに焙られているかたわらで、親は性行為に耽って快楽を恣《ほしいまま》にしている。親の性行為そのものがグロテスクで不届きなのに、彼らが貪っている快楽こそ、正介自身が妄想の中で追い求め、遂に得られないでいる快楽と同じものであることがわかった。彼はそれを許せないとおもった。  これまで父親に対して抱いていた反発と生理的な嫌悪感が、母親にまで延長された。母に対して暴力を振ったものの、これまでは母を憎んだり、反発したりしてではない。自分の鬱屈《うつくつ》のとりあえずの捌け口として母に辛く当たっていただけである。母だけはどんなに虐《しいた》げ苛めても、決して自分を裏切らないことを本能的に悟っていた。  だが同衾事件から母を本当に憎むようになった。母もスカートの下には世の女たちと同じミステリアスな仄暗さと淫靡《いんび》な構造をかかえているのだ。  正介にはその事実が許せなかった。母も女の一人であると悟ったときから正介は彼女の母性の羽の下に安らぐことはなくなり、いずれその構造を�解剖�してやろうと狙うようになったのである。      2  正介には真っ先に�解剖�したい女がいた。それは彼の中学の同級生で、偏差値七十以上でも合格の保証はないという名門私立高校へいとも涼しい顔で入学した神明美央《しんめいみお》である。  彼女は勉強だけでなく、スポーツも万能で、中学時代、全校のスター的存在であった。�スター�には勉強とスポーツに秀でていてもなれない。神明美央は祖母が有名な女優だったとかで、その血を引いて臈《ろう》たけた美しさを備えていた。  目鼻立ちが整っているだけでなく、愁いがちな表情には男をそそる謎がある。肌が抜けるように白く、しっとりした光沢を帯びている。体の線はまだ稚《おさな》く硬いが、すでに素晴しい成熟の予感を孕《はら》んでいる。  美央は生徒の間でスターだっただけでなく、先生の間にも抜群の人気があった。彼女自身十分自分の美しさを意識していた。自分の美しさを鼻にかける女は、いやらしく、そのことによってせっかくの美が減殺されるものであるが、彼女の場合、それがかえって羽振りを誇る孔雀のようにその天成の素質が強調されることになった。  この神明美央の家が、たまたま正介の家の近くに移転して来て、通学の途次、よく顔を合わせた。だが彼女は、見事なほど正介を無視した。たがいに近所に住む元同級生である。目が合えば会釈ぐらい交すのが当然のエチケットだとおもうのだが、彼女は正介が頭を下げても、目をそらしもせずに知らん顔をしていた。取りつくしまのない態度であった。  一方は全校のアイドルであり、こちらは居るのか居ないのかわからないようなミソッカスである。無視されても仕方がないとあきらめていたが、生徒会委員長で常に学年トップの席次を占めている東《あずま》洋一とにこやかに談笑しているのを見て腹が煮え立った。  東も東大進学率全国一を誇る名門高校へなんの苦もなく入った。  神明美央は、高校へ行ってからますます正介から遠い存在になった。近所なので時々姿を見かけることはあっても、美央は正介などもはや人間扱いをしていないようであった。美央の高校よりも、三ランクも四ランクも下がる高校へ行っている正介は、彼らの隠語で学校を意味する�動物園�の中の動物であったのだ。  一度こんなことがあった。下校して来て、下車駅で、偶然美央といっしょになった。帰る方角は同じであるが、もちろんいっしょには歩かない。美央にとっては正介のような�動物�と連れ立って歩くだけで汚らわしいことにちがいない。  視野の端に正介を認めているはずにもかかわらず、知らん顔をして先を歩いて行く。その歩きぶりは、まさにスター並みで、常に人に見られているのを意識して隙《すき》がない。動作の一コマ一コマがすべて他人のためにポーズしている。  だがそのポーズは正介に対しては取りつくしまもない拒絶的な鎧《よろい》となっていた。 (ちくしょう、突っ張りやがって!)  正介は美央の後方を歩きながら、後を尾《つ》ける犬ほどの注意も自分に向けてくれない彼女を、決して口の外に出さない言葉で罵った。だが突っ張られても仕方がないだけの開きが、彼女と正介の間にはある。少なくとも、学力と学校のランクの間にはある。  家の近くまで来たとき、美央はハンケチを落とした。少し離れた後方を歩いていた正介は、心中の罵りをたちまち忘れて、ハンケチを拾い上げると、美央に追いついた。絶好のアプローチの機会を神があたえてくれたとおもった。花模様の刺繍《ししゆう》の入った美しいハンケチである。いかにも美央の持ち物にふさわしかった。  ハンケチを落としたと後方からおずおずと差し出した正介に、美央は一瞬びっくりしたように立ち停まったが、正介を認めると、蔑《さげす》んだ笑いを唇の端に浮かべて、 「あら、それは汚れたので捨てたのよ」と言った。  そしてくるりと背中を向けると、茫然と立ちつくしている正介を残してすたすたと歩み去った。  ようやく我に返った正介が、ハンケチを検《あらた》めてみたが、少しも汚れていない。そのときになって彼は、美央が動物(正介)に拾われて、ハンケチが汚れたと示唆していたことに気づいたのである。  正介が美央を解剖しなければならないと決心したのは、このときであった。 [#改ページ]  再会した情事      1  角を曲がりかけると、自転車が飛び出して来て、危うくぶつかりそうになった。自転車は大したスピードではなかったが、出会い頭だったので咄嗟に停められない。ハンドルを切って辛くも躱《かわ》したが、余勢にバランスが崩れて車体が倒れかけた。 「大文夫ですか」  素子《もとこ》と自転車の男は、相手の身を気遣ってほぼ同時に同じ言葉を発していた。自転車の男は、四十代前半で、カーディガンを羽織り、サンダルを突っかけている。休日の午後ぶらりと自転車で�散歩�に出て来たといった態であった。若いころ鍛え込んだようなスマートな長身で、ゴルフ焼けか、首から上が真っ黒に日焼けしている。自転車が地上に倒れる前に彼の長いコンパスが支えた。  たがいの顔を見た二人は、驚きの声を発した。 「あ、あなたは!」 「きみは」  二人はしばらくたがいを見つめ合ったまま、後の言葉がつづかない。 「あなたがどうしてここに」 「きみがなぜここに」  ようやく口を開いた彼らは、また同時に同じ意味の質問を発した。 「私、この近くに住んでいるんです」 「それは奇遇だ。ぼくの家もこの近くなんだよ」 「どうしていままで会わなかったのかしら」 「数年前に引っ越して来たんだがね、ぼくだけ海外に単身赴任していたんだよ」 「まあ海外に!」 「半年に一度くらいは本社に用事があって帰って来たがね、すれちがっていたんだろう」 「ご家族は?」 「娘が一人いる。きみは」 「男の子が一人いるわ」 「そうか。あれからもう十五、六年は経つなあ」  男は遠い目をした。その目の底からその後の素子の身の推移を詮索している。 「十七年よ」  素子は正確に言い訂《なお》して、 「もしかすると、奥様やお嬢さんにこの近くで会っているかもしれないわね」  言葉の先にチクリと針を含んだ。 「きみのご主人は元気かい」  相手は言葉の先の針を悟ったらしく切り返してきた。 「あなたとちがって、相変らずうだつが上がらないわ」  素子は社命で海外に派遣される男と夫の身を比べている。男は、その後会社を変っていなければ、大きな商社に勤めているはずである。 「こちらも大したことはないよ。アラビアに長い間�島流し�にされていてね、本社の伝《つて》を手繰ってようやく帰って来たんだ」  男の日焼けは、ゴルフによるものではなく、熱帯の太陽が沁み込んだものらしい。 「それにしてもきみとここで出遇《であ》うなんて思わなかったな。住所を聞いてもいいかな」  奇遇の愕《おどろ》きから立ち直った男は、早くもこのことが招き寄せるかもしれない新しい発展を予測するような表情で訊《き》いた。 「おたがいに聞かないほうがいいんじゃないかしら」  答えた素子の口調にも断乎《だんこ》たる拒絶はない。 「近所に住んでいて、無理をしないほうがいいとおもうよ。どうせ調べればわかることだし、これからも顔を合わせるかもしれない」 「それもそうね」  二人は住所を教え合った。 「ついでに電話番号も教えてくれないか」 「電話は困るわ」 「べつに電話するわけじゃない。まさかの折に二人が近くにいるということは心強いじゃないか」  男に押されて、結局、電話番号も教えてしまった。 「ここではゆっくり話もできない。近いうちにどこか静かな所で会えないかな」  女の住所を確認した男は、早速、�新たな発展�の第一歩を踏み出した。 「もう私たち終ったのよ。二人だけで会っても仕方がないでしょ」 「人生にはこういう出遇いもあるよ。昔の想い出話をするのも悪くないだろう」  中年の脂をたっぷり蓄えた男女が、過去の素地の上で逢ったら、昔の想い出話だけでは決してすまないことを二人とも知っているし、男の魂胆もそんなところにはない。またその想い出はたがいの肉体の淫靡な記憶につながっていくのを防げない。 「ね、いいだろう」  男の強引な押しの前に、素子は結局うなずいてしまった。  伸一郎と素子の出遇いは、ごく月並みであった。もっともその月並みの中に人間のドラマがあるとすれば、劇的な出遇いと言えなくもない。  当時小さな事務所に勤めていた素子は、月末の残業で帰宅が遅れ、最終バスを逃した。発展してきた新興住宅地であるにもかかわらず、バスの本数が少なく、最終が早いので、住人から苦情が出ていたが、いっこうに改善されない。そのためにバスが終った後のタクシーの争奪戦は熾《はげ》しかった。  電車から下りて、かなり急いで来たつもりであったが、すでにタクシー乗場は長蛇の列であった。その列の長さから、三十分は待たなければならないと覚悟した。折悪《おりあ》しく雨が降ってきた。朝、家を出るときはよい天気だったので、素子は傘をもっていなかった。雨脚は激しくなる一方であった。そのとき素子の前にいた男が、遠慮がちに傘をさしかけてくれた。彼が伸一郎であった。べつに言葉は交さなかったが、二人の間に仄々《ほのぼの》としたものが通い合った。彼らはたがいの体温を感じ合いながら小さな傘の中で寄り添っていた。傘の下に世界から切り離された二人だけの小宇宙があった。  常ならば腹立たしいほどに長く感じられる待ち時間がたちまち経って伸一郎の乗るべき車がやって来た。二人とも別れたら、二度と会えないことを知っていた。名前も住所も知らない二人が再会するチャンスは、現実にはめったにない。  別れ際に、伸一郎がおずおずと素子の帰る方向を尋ねた。素子が答えると、 「それはよかった。ぼくの家と同じ方角です。もしお差し支えなかったら、お送りいたしましょう」  と言った。伸一郎は、素子を家まで送り届けてくれた。後で知ったことだが、彼の住居は素子の家とは正反対の方角であった。これをきっかけにして二人の間につき合いが始まった。  知り合った当時、伸一郎はすでに結婚しており、素子も波多野と婚約をしていた。伸一郎にしてみれば、「街で知り合った」若い女とのつき合いに生活に彩りを添える気持があり、素子は、田舎臭い波多野に比べて、都会的で洗練されている伸一郎によって、�青春の想い出�を豊かにしようとした。  どちらもセックスのなんたるかを知っていたので、プラトニックには留まれなかった。二人の関係は素子の結婚後も三年ほどつづいたが、彼女の移転によって、自然に終了した。伸一郎は関係を持続したがったが、波多野の本社が関西にあって、本社詰めになった夫に素子が従《つ》いて行ったのである。家庭の主婦が男に逢うために東京まで出て来られない。素子も、ここらが潮時だとおもった。波多野の会社はその後倒産して、一家はまた東京へ帰って来たのだが、そのときは伸一郎も海外へ行っていた。  二人の交情は、歳月の経過の中で風化していった。それが十七年後にふたたび出遇ったのである。しかもたがいに近くに住んでいる。距離がないということは、逢い易いということでもあった。近所の者の目さえ気をつければ短い時間で効率よく逢える。昔、関係のあった男女の間には�通路�ができている。憎み合って別れたのではない男女が再会したとき、その通路は容易に再開する。長い空白によって錆《さ》びついていても、決して杜絶はしていないのである。配偶者に対する罪の意識や保身の構えも、わからなければかまわないという中年の狡猾《こうかつ》さと意地汚なさによって糊塗されてしまう。      2  自閉的な正介も時々外へ出かける。それは映画を見に行くときである。映画だけが彼と外界をつなぐ�出窓�と言ってよかった。映画館の暗がりの中に身を埋めてスクリーンを見つめていると、自分がその世界と一体化して、そこの主人公になっている。彼がスクリーンの中に入って行くのではなく、スクリーンが飛び出して来て彼を取り巻いている。つまりスクリーンが彼の王国となるのである。  そのためには映画も独りで観に行かなければならない。友人と誘い合って行けば、王国を共有することになる。佳境に入ったところで話しかけられでもしたら、せっかく築き上げた王国を破壊されてしまう。独りならば、気に入った映画を何回でも観られる。鑑賞後の感動と余韻《よいん》を自分一人だけのものにしておける。  およそ正介にとって感動を他人と分け合うことほど嫌悪をそそられることはなかった。自分独りが感動したから、真の感動と言えるのであって、他人が同じ対象に感動したら、もはや感動ではなくなる。そんな正介であるから、自分の感動を他人に悟られることを著しく嫌った。劇場の闇の中で映画の登場人物と共に泣き、笑い、感動をする。それが真の感動であった。映画の登場人物はみな彼の王国の家来であるから、自分と涙や笑いを分かち合ってもいっこうに構わないし、劇場に来合わせた他の観客は、自分とは無縁の衆生《しゆじよう》である。  その日は日曜日で、正介はかねてから目を着けていた映画をターミナルの劇場まで見に来た。彼の街にも映画館はあるが、二、三番館ばかりで、待ちきれない。  だが映画は期待はずれだった。正介は腹立たしいおもいで劇場を出た。そのまままっすぐ家に帰る気はしなかった。今日は休日で、彼の大嫌いな父が家にいる。母も女学校の同窓会とかで午後から出かけると言っていた。狭い家の中に父と二人だけで顔つき合わせている光景を想像するだけで鳥肌立った。  正介は少し空腹を覚えたので、なにか食おうとおもった。食物屋を物色して歩きまわっているうちに怪しげな雰囲気のホテル街へ迷い込んでしまった。慌《あわ》てて逃げ出そうとしたが、ますますホテルの密集した方角に来てしまった。  そのうちに度胸が定まって、こういう場所へ来るアベックはどんな連中か観察してやろうという気になった。もともと興味を抱いていることでもあり、いずれ神明美央を�解剖�する場所として使えるかもしれないとおもった。  とある角を曲がったところで正介はギョッとして立ちすくんだ。前方のホテルの門からいましも人目を忍ぶように出て来た男女の一方の後ろ姿に見憶えがあったからである。彼は咄嗟に電柱のかげに身を隠して二人をうかがった。「まさか」とのどの奥でうめいたが、見まちがいではなかった。それはまぎれもなく彼の母の後ろ姿である。  母が外出時に好んで着るちりめんの羽織り、本藍の結城つむぎ、急ぎ足に歩くとき、後ろ足をバネをつけてはね上げるような独特な歩き方。これだけの要素の符合は、他人の空似ではあり得ない。  だが、母の連れは父ではない。母は今日は同窓会に出席すると言っていたが、こんな怪しげなホテルが会場だったのか? ホテルの屋根に「巫山《ふざん》の夢」という看板が掲げられている。  この年頃ではおくての正介にもピンときた。母は同窓会に出たのではない。同窓会に名を借りて、父には言えない秘密の時間をいま出て来たホテルの中でもったのだ。そして連れ立っている男がその秘密の共有者である。  どうしようかと一瞬迷った正介は、咄嗟に心を定めると二人の後を尾《つ》け始めた。二人は旅館を出るとすぐに離れたが、一定の距離を保ったまま同じ方向へ歩いていく。  二人はターミナル駅の構内へ入って行った。正介はひとまずホッとした。タクシーにでも乗られたら正介に尾行はできなくなるが、電車なら尾いて行ける。正介は尾行の対象を母のパートナーにおいた。母の秘密の共有者の正体を確かめておきたかった。  正介に尾けられているとも知らず、二人は離ればなれに坐って時々目で合図を交している。二人だけに通ずる特殊なサインがあるようである。そのとき、正介は一片の愛情もないはずの父が哀れになった。父はそんなこととは知らず腹をへらして母の帰りを待っているのだろう。  男が立ちあがった。なんと正介や母と同じ下車駅であった。すると彼は、波多野家の近くに住んでいるのだ。ここでは母と男は完全な他人を装っていた。家の近くなので警戒を強くしたのであろう。男はバス停に向かい、母は駅前のスーパーに入った。情事の帰途夕食の材料でも買うつもりなのだろう。そこに女のずぶとさが覗いていた。バスも正介の家の方角に向かう路線である。母がスーパーに寄ってくれたので尾行がやりやすくなった。母と同じバスに乗り合わせて気づかれないのは難しい。  正介は、母の相手を観察した。ノータイに無造作に羽織ったジャケットが決まっている。スマートな長身で、日焼けした風貌には、中年の渋さと人生に対する自信のようなものが覗いている。これがいわゆる「ナイスミドル」と呼ばれる人種なのだろう。十年一日のようなどぶねずみスタイルに身を固め、最近めっきり老け込んできた父とは、だいぶ開きがある。  男は、正介に尾けられているとも知らずに正介の下車停留所で下りた。男は波多野家の目と鼻の先に住んでいたのだ。そのために、二人の生活環境から隔ったターミナルのホテルまで出かけて行ったのであろう。  バスから下りた男は、間もなくとある家の中に入っていった。庭をたっぷり取った瀟洒《しようしや》な二階建の家である。正介は表札を見るまでもなく、その家がだれの家であるか知っていた。  それは神明美央の家であった。すると母のパートナーは、美央の家族なのか。年齢から推測しても彼は……そのときその家の玄関の中から、「パパお帰りなさい」という美央の声が聞こえてきた。  正介は偶然の符合に打ちのめされた。自分が解剖しようと狙っていた娘の父親が、母の秘事のパートナーだったとは。彼はその事実を確かめたとき、それが果たしてプラスかマイナスの材料になるかわからなかった。  だが、正介が母と美央の父の決定的な弱みをつかんだことは確かである。他人の弱みは自分の強みである。これは使いようによっては切り札になるかもしれないと、彼は悟った。ホテルの名前が読めなかったので、家に帰って辞書を引くと、「巫山《ふざん》の夢」は、男女のこまやかな交情という意味であった。      3 「ちょっときみに話したいことがあるんだ」  美央の家の前に張り込み、ようやく出て来た彼女に、正介は人目の少ない所で追いついて話しかけた。 「私には、あなたにお話しすることなんかないわよ」  美央は汚ない物でも見るような目を向けて言った。 「時間は取らないから歩きながら聞いてもらいたい。実は、きみのお父さんのことなんだ」 「父がどうかしたの?」 「ちょっと言い難いことなんだよ」  正介は勿体《もつたい》ぶった。いますぐその高慢ちきな顔をぎゅっと言わせてやる。相手は正介の絶対的優位を知らない。正介はそれを言うのが、本当に惜しくなった。もう少しこの傲《おご》りたかぶった獲物を玩《もてあそ》んでいたい。  彼女は正介の自閉の王国の中に捕えた初めての獲物である。 「話があると言ったのは、あなたでしょ。私忙しいの。話がないのなら行くわよ」 「そんな偉そうなこと言っていいのかなあ」 「それどういう意味なの」  歯牙《しが》にもかけていない相手の余裕のある態度が、美央の不審をいだかせたようである。 「ぼくはきみのお父さんのためになる話をしようとしているのだ」 「父はあなたなんかと関係ないわ」 「ところがあるんだな」 「はっきりおっしゃって」 「この間の日曜日、ぼくはきみのお父さんにある所で偶然、出遇ったんだよ。きみ、日曜日にお父さんが出かけたのを知っているだろう」  正介は、美央の目の反応を探りながら言った。玄関に父親を出迎えたのは彼女であるから、憶えているはずである。美央がおもいだした表情をした。 「お父さんどこへ出かけたんだい」 「父がどこへ行こうと、あなたには関係ないわよ」 「きみは意外にものわかりが悪い人だね。ぼくはその出先でお父さんに出遇ったと言ってるんだよ」 「それは出遇うかもしれないわね。無人島へ行ったわけじゃないんですもの」 「たしかに無人島じゃなかったよ。いったいどこで出遇ったとおもう」 「そんなこと知ってるわけないでしょう」 「××のホテルから出て来たところを見たんだ」 「ホテル?」 「普通のホテルじゃないよ。ラブホテルだよ」 「嘘! 父がそんな所へ行くはずがないじゃないの。だいいちあなたは、私の父を知らないはずだわ」  美央の面に血の色が上ってきた。 「面白い所から出て来たものだから、後を尾けたんだよ。そうしたらきみの家に入った」 「父がそんな所へ行くはずないけど、あなたって人の後を尾けるなんて、ずいぶんいやらしいことをするのね」 「ぼくだって全然知らない人に対してそんな振舞いはしないさ。ラブホテルに一人で行く人はいない。きみのお父さんにもパートナーがいた。そのパートナー、だれだとおもう?ぼくの母親なんだよ」 「まさか」  紅潮した美央の顔が白くなった。 「本当だよ。自分のおふくろをまちがえる者はいない。そこでぼくはおふくろの相手に興味をもった。きみのおやじさんはね、ぼくのおふくろを盗んでいたんだよ。被害者はぼくのおやじだ。被害者の子供として盗っ人の正体を確かめようとするのは、少しもいやらしいことじゃないとおもうね」 「嘘! デタラメにきまってるわ。父がそんなことをするはずがない」 「調べればすぐにわかるような嘘はつかないよ。信じられないなら、ぼくといっしょに××の『巫山の夢』というホテルへ行って確かめてみないか」  正介は、網のそばまで手繰り寄せた獲物の反応を楽しんでいた。  次の日曜日の朝、神明美央に、一本の電話がかかってきた。電話を取り次いでくれた母が、 「同じクラスのはたのだと言ってるけど、そんな人いたかしらね」となにげなくつぶやいたのを耳に留めて、美央ははっと胸を突かれた。  電話口に出ると、案の定、波多野正介であった。 「なにか御用?」  美央はことさら冷たい声で答えた。 「用事があるから電話したのに、御挨拶だね、ところでお父さんはいるかい」  正介が余裕をもった声で質《たず》ねた。 「父になにか用なの?」 「お父さんには用事はないよ。ただ、きっと留守だとおもったのでね」  正介の余裕の下には企みがあるようである。 「それはどういう意味なの?」 「ぼくのおふくろも外出しているからさ。この意味、きみならわかるはずだ」 「わからないわ。証拠もなく、変な言いがかりは止《よ》してよ」  美央は、母の耳を意識して声を抑えた。それが彼女の反駁《はんばく》を弱めている。波多野正介から突然聞かされた父の秘密は、いまのところ美央の胸に畳んでいる。 「言いがかりだと言うなら、お父さんを電話口に出してもらいたいな。絶対に留守のはずだ。いまごろはうちのおふくろとしめし合わせて、ラブホテルで忍び逢っているよ」 「たまたま同時に外出したからといって、そんなことをしているとは限らないでしょ。父は今日はゴルフに出かけたのよ」 「口実はどんなにでもつくれる。もし信用しないのなら、これからぼくと二人で確かめに行ってみないか」 「いやよ、そんな卑しいまね!」 「卑しいまねをしているのはどちらだ。きみのおやじはぼくのおふくろを盗んでいるんだぞ」 「そんな言い方しないで」 「きみが言わせるのだ。どうだ、確かめに行くのか、行かないのか」 「行かないわ」 「きみのおふくろさんに話したか」 「話さないわよ、関係ないもの」 「関係ないだって!? きみはこれを関係ないと言うのか」 「そんなデタラメ、母に言えないわよ」 「だからデタラメかどうか確かめに行こうと言ってるんじゃないか」 「デタラメに決まってるわよ」 「確かめもしないでデタラメだと言い張るのなら、きみのおふくろさんに話してやる」 「どうして母に話すの?」  美央の声が少しうろたえた。 「あたりまえじゃないか、きみのおふくろさんは被害者の立場だ。しかもまだその被害を知らない。同じ被害者としてそれを教えてやって、被害を最小限度に食い止めてやるのが、当然だろう」 「わかったわよ。どうすればいいの」 「二人の行先は大体見当がついている。駅前の噴水のそばで待っているから、すぐ出て来な」  美央は、もはや拒否できなかった。  駅前で落ち合った正介と美央は、上りの電車に乗った。正介はどうやらターミナルにあるラブホテル「巫山の夢」に彼女を連れて行くつもりらしい。同じ場所へ同じ目的をもって連れ立って行く若い二人が、仇敵同士のように反目しながら電車に乗った。美央は正介から一定の距離を保って、顔を背けていた。 「あのホテルだ」  正介は指さした。その建物の目的をおのずから物語るような毳々《けばけば》しい外観と看板である。美央にとってはそのようなホテル街に踏み込むだけで勇気を要することであった。 「おふくろが家を出た時間から推測して、ちょうどいまごろ�最中�のはずだ」  なにをしている最中なのか、処女の美央にも察しはつく。だがそれは想像するだけでおぞましい。 「あと一時間もすれば出て来るよ。そこの公園で待っていよう」  制服こそ着ていないが、高校生の二人連れがラブホテル街をうろついているところをその筋に見つけられれば、補導されてしまう。彼らは公園のベンチに並んで坐った。そこから「巫山の夢」の門がよく見通せる。美央はべつのベンチに坐りたかったのだが、浮浪者のような風体の悪い男がうろうろしていて、彼らの方をうかがっていたので止むを得なかった。  ベンチに並んで坐っている彼らは、他人目には初心《うぶ》なアベックがホテルに入れずにためらっているように見える。 「あなた、私をかついだんじゃないでしょうね」  美央は、ベンチの端に精々正介から離れて坐りながら言った。 「ぼくがきみをかついでどんな得があるというんだ」 「…………」 「まあすぐにわかるよ。そのときになってうろたえないように精々心の用意をしておくんだな」  一時間経過した。正介はそろそろ二人が出て来るころだとおもった。母の今日の外出の口実は、買物である。先日の「同窓会」のようにゆっくりできないはずである。 「巫山の夢」の門にチラリと人影がさした。最初に男がさりげなく外の様子をうかがい、通行人のないのを確かめてから、門の中へ合図を送った。女の影がおずおずと出て来た。遠目ながら見誤りのない姿である。 「ほら、おいでなすったぜ」  正介は、美央に言った。正介に教えられるまでもなく、彼女は父の姿を認めていた。  カジュアルなスーツにゴルフバッグを肩にかついでいる。まぎれもなく父が今朝家を出た時の姿である。先方ではこちらの二人に気がついていない。 「どうだい、これでデタラメではなかったことがわかっただろう」  正介は勝ち誇ったように美央の顔を振り向いた。美央は茫然と目を見開いていた。ゴルフへ行くと言って家を出た父が、いかがわしいホテルから正介の母親と連れ立って出て来た。美央は正介の母親を知らないが、父が母以外の女とそのホテルで「偽りのゴルフ」によって浮かした時間を共に過ごしたことは確かである。 「真っ昼間から大したゴルフだよなあ」  正介は吐き捨てるように言うと、ベンチから立ち上がった。美央はようやく我に返った。正介の動きに危険な気配を感じ取ったのである。 「どうするつもりなの?」 「きまってるだろう? ちょっと挨拶してくるんだ」 「止めて!」  美央は悲鳴のように叫んだ。 「どうして? おふくろが�世話�になっているのに子供が挨拶をするのは、当たり前の礼儀じゃないか」 「おねがい。それだけは止めて」 「きみにもしろとは言ってないよ。いやならぼく一人が挨拶する」  そうしている間に美央の父と正介の母は公園のかたわらを通りすぎかけている。ホテル街を出てから声をかけても効果がうすい。正介は美央を残して二人の前に飛び出した。いきなり姿を現わした正介の姿に、母は卒倒するばかりに愕《おどろ》いた。愕きが大きすぎてしばらくは声も出ない。 「お母さん、こんな所になにを買いに来たの?」  正介は意地悪く聞いた。 「ど、ど、どうしておまえがここに」  母はようやく言葉を押しだした。 「この人は、きみの息子さんかね」  美央の父親も正介の出現に当惑していた。 「初めまして。ぼく波多野正介と言います。母がいつも大変お世話になっておりまして」  正介は、美央の父に馬鹿丁寧にお辞儀をした。自閉的な彼が獲物に対しては自由に口をきける。この場合、相手を生かすも殺すも彼次第である。獲物を嬲《なぶ》るのは、自閉の王国の玩具を玩ぶのと同じである。 「いや、そのう、こちらこそお世話になっています」  美央の父は、へどもどしながら答えた。ちょうど親子の年齢の開きがありながら、弱みを握られてしまったために、美央の父は正介の前で身の置き所がないように身を竦《すく》めている。 「正介、あなたはこんな所でなにをしているの?」  母は、ようやく立ち直って訊《き》いた。 「ガールフレンドとデートして、ホテルを探しているんだよ」 「まあ、おまえ!」  母は声を呑んだ。正介がそんなことをするとは信じられない。 「嘘じゃないぜ。そこに彼女もいる」  正介は、公園で立ち竦んでいる美央を指さした。 「美央!」  美央の父がようやく自分の娘に気がついた。美央は顔を押さえて公園の奥の方へ走った。 「ああ、美央さんのお父さんでしたか。道理で彼女、さっき『巫山の夢』へ入りかけたら急に逃げ出したので、どうしたのかとおもっていたのですけど、お父さんがそこから出て来られたのでびっくりしたんですね」 「正介、おまえなんてことを」  母がおろおろ声を出した。 「べつにどうってことねえよ。クラスじゃみんなやっているよ。結婚している身で、ゴルフや買物を口実にして忍び逢っているのに比べれば、ぼくたちのほうがずっと正々堂々としているよ」  親が子を厳しく諭すべき立場にありながら一言も言えない。救いようのない致命的な弱みを握られてしまったのである。しかも正介は尋常の子供ではない。これが今後彼の暴力にどのように影響していくか、素子は夫に不貞を知られる前にその恐怖に慄《ふる》えた。      4  正介はいい気分であった。母が美央の父親と浮気をしている現場を押えた。母と美央の父親の決定的弱みをつかんだだけでなく、美央の鼻柱も折ってやった。正介を虫けらのようにしか見ていない美央の父親が、正介の母を盗んでいたのである。美央はひどく打ちのめされていた。単に父の秘密を知ったショックだけではなく、尊敬していた父に裏切られたおもいがしたのであろう。  だがなによりも痛快なのは父が母を他の男に盗まれているのを知らず、その事実を自分だけが知っていることであった。正介は父に対して決定的優位に立っているのを悟った。  えらそうに父親面をしていても、自分の妻を他の男に寝取られているのに気がつかない。そういう間抜け男をコキュと言うそうだ。  母もあのとき以来、正介の前でおどおどしている。いつ夫に秘密をバラされるかと生きた心地がしないらしい。正介と美央との関係もよく確かめたいらしいのだが、恐くて口に出せないでいる様子である。  美央はあれ以来正介と出遇っても、石コロを見るような目をしなくなった。もちろん無視もしない。無視できないのである。敬遠したいところなのだろうが、正介がそうはさせなかった。  正介は最近美央の家に堂々と電話をして呼び出すようになった。  美央の母親が怪しんで取り次ぐのをためらうと、「お父さんがよくご存じのはずです」と言った。 「主人が……どうして」 「お父さんが美央さんとぼくとの交際を認めています。聞いてみてください」  相手が半信半疑でいると、美央の声が応答して、「美央です。なにか御用ですか」と聞いた。 「会いたいんだけど、ちょっと出て来てくれ」  正介は高圧的に言った。以前なら相手にされないところだったが、美央は弱々しく応じた。美央は父親の秘密を自分の胸に畳んでいる。そうしているかぎり、正介は切り札を握っていることになる。 「父を引っ張り出すのは止めてちょうだい。父は私たちには関係ないのよ」 「おやじさんが認めていると言えば、おふくろさんが安心するだろう」 「あなたは卑怯よ」 「どうしてぼくが卑怯なんだ」 「あなたは父の弱みを利用しているわ」 「それじゃああんたのおやじは何なんだ」 「そのことはおたがい様だわよ。それを言うならあなたのお母さんだって私の母から父を盗んでいるわ」 「だったらおふくろさんに教えてやるんだね」 「母を苦しめるだけよ」 「親孝行なことだ」 「それよりあなた、私たちのこと、父になんて言ったの?」 「べつに……」 「父はなんとなく疑っている様子なのよ、私とあなたとの間になにかあるんじゃないかって」 「なにかあるって、何があるんだい」  正介は故意にとぼけた。だが美央は渋々ながら正介に引っ張り出された。会えば憎しみの言葉を投げつけ合うだけの二人であるが、両親の交情という忌むべき共通項が、共通の被害者意識を二人に植えつけていた。  母は父のいないときを狙って、意を決したように話しかけてきた。 「正介、この間のことだけどね」 「ああ、あのことなら心配しなくていいよ。おれおやじに黙っていてやるよ」  無視《シカト》するかとおもった正介が飲み込み顔に言うと、母は悲しげに顔を曇らせて、 「そのことじゃないのよ。おまえ、あのお嬢さんとホテルへ入るところだったと言ってたね」 「うん、あのときはなんとなくシラケちゃって、おたがいにやる気なくしちゃったな」 「本当にあなたたちそんな仲なの」  母はとうとう確かめずにはいられなくなったらしい。 「そんな仲ってどんな仲のことだい?」  正介はとぼけた。 「そのう……ホテルへ入るような関係なの」  母は当惑の色を隠して聞いた。 「ああつまり、おふくろたちのような仲かということだね」 「あなたたちまだ未成年者でしょ。しかもまだ高校生の身分でしょ」 「おれにお説教するつもりか」 「お説教じゃないわ。心配しているのよ」 「それこそ余計な心配というもんだよ」 「親が子のことを心配するのは、当然でしょ」 「親のつもりか」 「まあ」 「おれのことを心配するより、自分の身を心配したほうがいいんじゃねえのか。おやじに離婚されねえようによ」 「正介、あのお嬢さんとそんなことをしてはいけないわ」 「あんたの指図はうけないね」 「正介、おねがい」 「おれがだれとつき合おうと、なにをしようと、おれの自由だ。おれだってあんたの恋愛に干渉しないだろう。おれも自由にさせてもらいたいな」 「おとなと子供はちがうのよ」 「たしかにちがうよな、おれたちはゴルフや買物に行くと嘘《トンコ》言ってデートしねえもんな」  それを言われると、母は一言も反駁できなくなった。 [#改ページ]  返り討ちになった自殺      1  波多野は、妻を一泊の温泉旅行に誘った。正介が幼いころはよく家族三人で旅行したものだが、正介の家庭内暴力沙汰が目立つようになってから家族で出かけることはなくなっていた。 「まあ、雪が降るんじゃないかしら?」  素子はびっくりした声をあげた。 「おまえもいつも正介につき合ってる必要はない。おれたちにもたまには二人だけの休暇が必要だよ。正介も一人になれば、親の有難みがわかるだろう」 「でも一人で食事ができるかしら」 「正介ももう高校生だよ。インスタント食品もあるし、店屋物を取ってもよい。おまえがそんな風だから、いつまでたっても乳離れができないのだ。正介だってたまには親から離れて独りになりたいだろう」 「でもあの子は普通の子じゃないから独りにしておいたら、なにをするか心配だわ」 「おまえは、おれと旅行をしたくないのか」  かねての�作戦�を実行に移すためには、素子をどうしても正介の傍から引き離さなければならない。 「そんな、いやだなんて」 「そんなら決まった。もし正介の食事が心配だったら、一日分つくっておいてやったらいいだろう」 「そうしようかしら」  これだけ息子に虐げられても、一日も息子の傍から離れられない。家庭の安全を守るために息子を排除しようとしている父親とはなんたるちがいだろうか。——波多野は母性というものの厚愛《こうあい》に驚かされた。  結局�夫婦旅行�に出かけることに決めると、素子も心が浮き立ってきたらしい。考えてみれば、夫婦だけで出かけるのは、新婚旅行以来である。正介が性に目覚めてからは、夫婦生活も常に抑制をかけられた。自由奔放で破廉恥に徹したセックスをもう忘れてしまったほどである。  久しぶりに、本当に久しぶりに夫婦二人だけのだれにも気兼ねしない性の饗宴のフルコースを味わえると想像するだけで、躰《からだ》の芯がうるんでくるようであった。  彼女はまさかその旅行の陰で恐しい計画が進行していようとは、夢にも知らない。いそいそとして、たった一泊の旅行に着ていく服や持っていく品の心配をしているのである。そんな妻の様子に、波多野の胸はチクリと痛んだ。いまさら決心を翻《ひるがえ》すつもりはない。だが彼女が旅行から帰ってきたときの悲嘆の様を想像すると、心が重くならざるを得ない。  いよいよその日が迫ってきた。波多野と的場は計画に万に一つの遺漏もないように細目の確認を重ねた。 「当夜家には正介一人がいるようにしておく。きみには玄関の合鍵を一つ渡しておく。だが、コトが終ったら必ず鍵をこの部屋のデスクの右の抽出に残していってくれ。これがぼくのデスクになっている。なに警察は鍵をかけ忘れたとおもうよ」  波多野は家の中の見取図を書いて説明した。 「睡眠薬は大丈夫だろうな」  的場は確かめた。 「その点については心配ない。正介はコーヒーが好きだ。留守中の分として家内がポット一杯コーヒーを入れていく。その中にぼくがたっぷりとクスリを仕掛けておくよ。きみが仕事にかかるころは、白河夜船のはずだ」 「クスリが効かないというようなことはないだろうな」 「コーヒーを飲みさえすれば大丈夫だ。そしてあいつは必ずコーヒーを飲む。コーヒー中毒と言ってよいくらいコーヒー好きで、際限もなく夜更しをしている」 「だれか友達を呼ぶようなことはないか」 「正介に友達がいるようなら、きみにこんなことを頼まないよ。あいつは自閉の王様だ」 「わかった。もしなにか不都合が生じたら即座に中止する。連絡先は教えていってくれよ」 「もちろんだ。ところでどういう風にやるつもりだ」 「きみがアイデアを出してくれただろう」 「ぼくが?」 「睡眠薬を服《の》ませて意識|朦朧《もうろう》としたところをビルの屋上から突き落とすという手さ」 「しかし、あの手はビルの屋上へ連れ出すまでに人目に触れる恐れがあると言ったじゃないか」 「きみの家は団地だったな」 「そうだ」 「何階だね」 「五階だよ」 「それは都合がよい。屋上へ連れ出す手間と無理がなくなる」 「家のベランダから落とすつもりか」 「団地の五階なら、死ぬには十分の高さだ。屋上へ連れ出す手間も、人目に触れる危険もない。高校生が両親の留守中、睡眠薬を呷《あお》って発作的に自殺を遂げたということになる」 「団地のベランダから飛び降り自殺か」 「いい手だろう。まず他人の手が加えられたとは見分けられまい」 「クスリを服んでいるのは怪しまれないかな」 「クスリに酔《ラリ》って、心気朦朧となって飛び降りたんだよ。クスリの効果で天国へ行ったような気分になり、本当に天国へ行ってしまった。よくありそうなことじゃないか」 「よし、それでいこう」      2  正介は両親が揃《そろ》って出かけると聞いて、胸をときめかした。当夜は、家の中に彼一人となる。言葉どおりの「家の主」となれる。このチャンスを利用しないという手はない。彼はその夜、美央を自宅に呼び寄せるつもりであった。そして�解剖�してやるのだ。美央は正介を憎みながらも、彼の命令を拒否できなくなっている。父親を愛している彼女は、その秘密を自分の秘密として胸にかかえ込んでしまったために、それがそのまま正介に対する弱みとなった。  正介は、美央の弱みをしっかりと握って次々に横暴な命令を出した。と言ってもこれまでは、精々電話をかけて公園へ引っ張り出す程度であったが、正介にはなもひっかけなかった美央にしてみれば、大変な退譲《たいじよう》である。  しかし正介は、今度は「公園のデート」ぐらいではすまさないつもりである。両親が揃って一夜家を空けるような機会は、めったにあるものではない。  正介は美央に夜、自宅に遊びに来るように�命令�した。 「だめよ、そんなこと」  美央は言下に拒否した。それはあらかじめ予期していたことである。 「どうしてだめなんだ」  正介は、平然と聞いた。 「そんなことは母が許さないわ」  美央は、正介の途方もないリクエストに呆れた表情をしている。 「なにか口実をつくればいいじゃないか。友達の家で徹夜で勉強するとか」 「そんな口実通用しないわ」 「通用する口実を考えるんだよ」 「だめよ、私、これまで夜一人で外出したことなんかないもの」 「ぼくを誤解するなよ。きみにぼくの家に遊びに来てもらいたいだけだ」 「できないわ」 「それじゃあぼくがきみのおやじさんに頼んでみようか」 「あなたって卑怯なのね」 「その言葉は聞き飽きたよ」  結局、一悶着《ひともんちやく》あった後で美央は来ることになった。彼女がどんな口実をつくったかは知らない。その気になれば親を欺く口実くらいいくらでもつくれるはずである。  母は細々《こまごま》した注意を残して、それでも久しぶりの夫との二人だけの温泉旅行に浮き浮きと出かけて行った。正介が美央を引っ張り込もうと企んでいるとも知らずに、彼のためにその夜の夕食と、翌朝の朝食まで用意していってくれた。 「ポットの中にコーヒーがありますからね。あまり夜更しするんじゃないわよ」  母は出かける間際まで一人残していく正介を案じた。 「わかったよ。おれのことは心配しないで、おやじとゆっくり愉しんで来なよ。水をかけるやつはいないからさあ」  正介の露骨な言葉に母親は頬をうすく染めた。両親を送り出した正介は、「さあ、おれの天下だ」とほくそ笑んだ。  正介は今夜のために密かに作戦を練っていた。美央は、九時ごろ来る予定になっている。ちょっと遊びに来るだけで、少しでもおかしな素振りを見せたらすぐに帰ると、くどいほど念を押した。彼女が曲がりなりにも正介の家へ来ることを承諾したのは、あながち弱みを握られていたせいだけではなく、これまでの�デート�で正介が危険な下心を巧みに隠していたので、多少信用していたからである。二人の間の�共通項�がその信用を促している。不可思議な心理の屈折であるが、彼らの親同士の交情が二人の間に奇妙な親近感を植えつけていた。  正介は、母が用意してくれていったコーヒーに睡眠薬を入れた。このコーヒーを美央に飲ませて、眠り込んだところでゆっくり料理するつもりである。  美央は約束どおり午後九時に訪ねてきた。正介が開けたドアを人目を憚《はばか》るように肩をすくめて入って来た。 「よく出て来られたね」  正介は自分が強引に誘っておいたくせにねぎらった。 「あなたが言ったように、お友達の家に集まって試験勉強をすると言ってきたのよ。だからお勉強道具をこんなにもってきたわ」 「それはよかった。今夜は二人でいっしょに勉強しよう」 「私もそのつもりよ」 「まずコーヒーでもどうだい」 「いただくわ」  美央は、初めは拒絶的であったが、異性の家で二人だけで過ごす初めての経験に心が弾んでいるようである。 「私、ボーイフレンドの家に一人で来たの、初めてよ」  美央は、もの珍しそうに視線を動かした。 「おれをボーイフレンドとして認めているのかい」  正介は意外なおもいがした。 「認めざるを得ないでしょう」 「光栄だな」  正介は、心中すぐにボーイフレンド以上のものになってやると含みながら、美央のためにコーヒーを注いでやった。正介もカップに口をつける振りをした。 「このコーヒー、苦いわ」  美央は二口三口すすって顔を顰《しか》めた。正介は内心ヒヤリとしたものの、さりげなく、 「苦い種類の豆を挽《ひ》いたんだよ。砂糖を少し追加したらどうだい」  美央は言われたとおり、砂糖を追加したが、やはりあまり美味《うま》くなかったとみえて、カップに三分の二ほど残した。正介は、それだけの量で果たしてクスリが効いてくれるか心配であったが無理|強《じ》いはできない。 「ちょっとナウなレコードがあるんだ」  正介は、今夜のために買っておいたアバの最新アルバムを取り出した。      3  的場は午後十一時に行動を開始した。夜更けの道路は空いていて、波多野家のある団地に十一時二十分に着いた。朝の早い団地は、すでに深夜のおもむきである。ほとんどの家の窓が暗く寝静まっている。波多野家はすでに何度も下見に来ており、立地環境や間取りなどは頭に刻み込まれている。波多野家の窓も暗かった。正介はクスリが効いて眠り込んでしまったのか。  車を団地のはずれにある公園に停めてしばらく様子をうかがう。月光がいやに明るく感じられる。通行人のないのを確かめてから車外へ滑り出た。波多野家のある棟は公園から近い。五階の波多野家まで階段を上る時間が最も緊張を強いられる。もしここでだれかに見られたら、犯行を中止するつもりであった。だが真に危険な時間は犯行後に来る。そのときだれかと出遇っても、もはや中止することはできないのである。  幸い、往《い》きはだれにも出遇わなかった。あらかじめ渡されていた合鍵でドアを開ける。的場の身体は、波多野家の中にあった。正介の部屋は玄関から入った突き当たりの六畳であるが、今夜は一人なので、ダイニングキッチンをはさんで最も右手に位置している居間でテレビを見ている公算が大きいと、波多野から教えられている。  だが家全体が闇の中に沈み、テレビもラジオもついている気配はない。眠り込む前に、電気をすべて「切《オフ》」にしたとすれば、クスリが効きだすまでに余裕があったのかもしれない。  うっかり電灯を点《つ》けると、せっかくの眠りを覚ましてしまうおそれがある。的場はしばらく玄関の三和土《たたき》にたたずみ、闇に目を馴らしながら家の中の気配をうかがった。まるで無人のように静かであった。人の寝息も聞こえてこない。的場は、正介がコーヒーを飲まずにどこかに夜遊びに出かけたのではないかとおもった。波多野から自閉的な正介が夜間一人で外出することは絶対にないと聞いていたが、人の気配がまったくないのに不安が萌《きざ》しかけていた。      4 「きみはなぜおやじさんの浮気をおふくろさんに話さないんだ?」  正介はクスリの効果が美央に顕われるまでの時間を埋めるために聞いた。 「そんなことを話しても仕方がないでしょ。母を苦しめるだけだわ」 「母を苦しめるだけか。毎度おなじみのせりふだね、親孝行なんだな」 「あなたはお父さんに話したの」 「話していたら、二人いっしょに旅行なんかに行かないよ」 「あなたも私と同じ理由で話さないの?」 「どういたしまして」 「じゃあどうして話さないの」 「おやじに対する復讐さ」 「復讐?」 「おやじはおれを馬鹿だの、落ちこぼれだのとさんざん馬鹿にしやがった。生きている価値がないとまで言いやがった。そのお偉いおやじが自分のヨメさんが浮気してるのを知らない。いい気味じゃないか」 「自分のお父さんのことをそんな風に言ってはいけないわ」 「あんたからお説教される筋合いはないね。おれはおやじが大嫌いだ。先方もおれが大嫌いだろう。いちおう自分の父親ということになっているけど、あんないやみな男はないね。おれのいちばん嫌いなタイプだよ。自分が男としてどれほどのこともしていないくせに、息子に自分のできなかったことをさせようとする。自分が果たせなかったことを息子に代わりにやらせようとするのは、父親の無能力の証明であり、卑怯以外のなにものでもない。そのことが全然わかっちゃいないんだ。哀れなもんだね」  父親の悪口ならばいくらでも言えた。 「でも、親が子に自分の夢を託すのは、当然じゃないかしら」 「女のあんたに利いた風なことを言ってもらいたくないな。親の夢を押しつけられるなんて真っ平だよ。おれにはおれの夢がある」 「あなたの夢って何なの」  問われて正介は詰まった。彼には、なにかをしたい、なにかになりたいという具体的な夢がない。ただはっきりしていることは、父親が期待するような人間にだけはなりたくないことである。 「お父さんに対する反感や反発だけで、親の希望を拒否するのは、意味がないとおもうわ」  美央は、正介の心の内を見透かしたようなことを言った。 「あんたの考えは、すべて優等生的なんだよ。つまり正論ってやつさ。たしかにお説ごもっともで表立って反対できない。ほら、よく学者や識者が事件が起きると、えらそうにコメントを述べるだろ。あんな感じだね。生憎、おれは正論ってやつが大嫌いなんだ」 「私、べつに正論なんか言ってないわ」 「あんたのような優等生におれの気持がわかってたまるか。物心ついたころから良い子良い子と頭を撫でられ、学校へ行けば、先生から可愛がられ、入学式や卒業式では右総代で誓いの言葉なんか読んじゃってる人間におれの気持はわからねえよ」 「あなたはひがんでいるのよ」 「おれがひがんでるだって? けっ笑わせるな。おれがなぜひがまなければならないんだ。じゃあ聞くがね、あんた、なんのために勉強してるんだよ」 「社会人としての基礎知識を身に付けるためよ」 「それだったら、中学だけで十分だろう」 「中学だけじゃ相手にされないわよ」 「だれに相手にされないんだ?」 「社会からよ」 「社会には中学しか出ていない人も多いよ」 「これからは違うわ。これからはなにをするにも高卒以上よ。あなただって高校へ行ってるじゃないの」  美央には、いっこうにクスリが効いてくる気配が見えない。時間つぶしの話題が彼女を熱くしてしまったようである。 「おれは社会から相手にされるために高校へ行ってるんじゃない。まだ就職するつもりはないし、かといってぶらぶらしていると親がうるさいので、一時下駄を預けているだけだ。下駄の一時預けだから三流の高校で十分なんだ。あんたはなんのために一流の高校へ行ったんだ?」 「それは……、大学まで行きたいからよ」 「社会人としての基礎知識を身に付けるために女が大学へ行くのか」 「女が勉強してもいいでしょ。あなたの考えは古いわ」 「勉強して悪いとは言ってないよ。ただおれは基礎知識の勉強になぜ�一流�へ行かなければならないのか不思議だね」 「一流へ行ける能力があるなら、一流へ行くのが当たり前でしょ。あなたも行けばいいのよ。だれも止めはしないわ」  美央の表情が行けるものなら行ってみろと嘲《あざけ》った。一流へ行けない者が、一流へ行った者をとやかく批判する資格はないとその表情が暗に言っている。 「おれは一流へ行きたいと願う前に、なぜ一流へ行かなければならないのか疑っている」 「疑う?」 「あんたのように社会人としての基礎知識を身に付けるために一流へ行きたいなんて、本当におもってるやつは一人もいねえよ。みんな出世したいからさ。たしかに一流へ行ったほうが出世のチャンスは多い。男も女もだ。女のあんたは結婚の条件がよくなるからさ。それが本音だろう」 「私、結婚なんかしないわ。結婚なんかに束縛されずに、自分の能力をおもいきり追求してみるつもりよ。そのために勉強しているのよ」 「基礎知識が、能力の追求になったね。まあいいさ。女はだれでも初めは結婚なんかしないと言うよ。そしてその九十パーセントが結婚して子供をころころ産んで幸せ奥様になっちゃうんだな。あんたのおふくろさん、たしか女子大出だろう」 「お茶の水よ」美央の表情が誇らしげになった。 「なにを専攻したんだ」 「国文学よ」 「お茶の水で国文学を専攻した女学士が、いまあんたのおやじさんのヨメになり、あんたのおふくろさんになって、能力の追求をしているわけさ」 「女にとって家庭を築くのは、立派な能力の追求でしょ」 「たしかにその通りだ。しかしそれならばなにも一流大学を出なくともできることだよ」 「母はよく言ってるわ。女は家庭に入ると、どうしても勉強から遠のいてしまう。だから学生時代くらいは、自分の好きな勉強をしておきなさいって」 「好きな勉強と一流は関係ないとおもうがね」 「あなたはどうしてそんなに一流にこだわるの。結局、あなたは志望校に入れなかったからひがんでいるんだわ」 「なんの疑いももたずに一流を志望するのが不思議で仕方がないんだよ。特に女がね。どうせ幸せ奥様になることを最終目標においている女が、一流大学へ行って、奥様稼業となんの関係もない学問をしても仕方がないとおもうんだな。おれに言わせれば、女の進学は、義務教育と結婚の間を埋める時間つぶしだね」 「失礼ね。あなたの考えは一世紀遅れてるわ。いまは結婚したがらない女性も増えているのよ。女性も男性と同様に世の中へ出て能力の追求をする世の中になったのよ。あなたなんか男のくせに初めから能力追求競争に立ち遅れて批判ばかりしているのよ」 「指定席や整理券の奪い合いが能力追求競争かね」 「なんのこと?」 「いや、こっちのことさ。それにしても効き目が遅いな」  語尾は胸の中につぶやいて、正介はチラリと腕時計に視線を走らせた。美央は相変らず冴えた表情をしている。いまのディスカッションでますます神経が昂ぶってきたらしい。眠けの気配も感じられなかった。  正介はしだいに焦ってきた。この生意気な女を早く解剖してやりたい。あまり時間を失うと、彼女が帰ると言いだしてしまう。 「どうしたの、さっきから時間ばかり気にして?」美央に聞かれて、正介はドキッとした。  気配は急激に生じた。 「凄く眠いわ」  美央は、首を振った。美央がなかなか眠らないのでクスリが効かないのかとやきもきしていたのだが、ようやく効果を顕わしてきた模様であった。 「眠かったら、眠ればいい。布団を敷いてやろうか」 「冗談じゃないわ。眠りに来たんじゃないわよ」  そう言いながらも瞼《まぶた》が閉じかけている。それを意志の力で必死に目を見張っている。 「でもおかしいわ、どうしてこんなに眠いのかしら?」  だが意識の奥が痺れたようになっていて、その疑問を深く追及できない。そんなことはどうでもよいような快いけだるさの中に全身が溶けていく。アバの調子のよいサウンドが催眠の効果に拍車をかけている。 「私、もうそろそろ帰らなければ……」  それでも乙女の本能的な警戒が引きずり込むような睡魔に最後の抵抗をしている。だが、それもそこまでであった。美央の身体がグラリと傾いた。手がテーブルの上を滑った。支えを失った上体がテーブルの上に突っ伏した。 「きみ、こんな所に寝込んでは、風邪を引くよ」  正介は、美央の肩に手をかけて揺すったが、すでに正体がない。獲物は遂に俎《まないた》の上に乗った。 「ちくしょう、人をじらしやがって」  正介はほくそ笑んだ。これからいよいよ神秘に包まれた異性の体を心ゆくばかりに解剖できる。本や映画や耳学問だけで想像してきた女体の構造を�実物�によって確かめられるのである。それはどんな性教育にもまさる�実習�となるだろう。  正介の体の奥から震えが這《は》い上ってきた。それはまさしく武者震いであった。  正介は、美央を剥《は》ぐにあたって灯を消した。初めから明からさまに解剖してしまっては期待が少なくなる。神秘のベールを一枚一枚薄明の下で剥ぐことにより、期待を後につなぎ淫靡な楽しみをできるだけ長引かせるのだ。最後の仕上げのときに煌々《こうこう》と灯をつけて、ゆっくりと花びらを|※[#「てへん+毟」、unicode6bee]《むし》るのである。  灯を消すと、窓から射し込む月光が室内を水底のように青暗く染めた。さしずめ美央の体は水底に横たわる人魚である。月光をうけて美央の体が青白い光を帯びているように見える。彼女自身から発光しているようにすら見える。薄いブラウスに形のよい胸が盛り上がっている。フレアスカートの裾からすんなりした脚がのびている。その中はいったいどんなになっているのかと胸をときめかせて想像したスカートが、いま花のように開いている。  女の両脚の間にわだかまる仄暗い謎の空間が、彼の前にまったく無抵抗に晒されている。  ブラウスを先に剥ごうか、それともスカートから先に取り除こうか。正介は夢にまで見た瞬間を前にして嬉しい逡巡《しゆんじゆん》をした。  正介にとってスカートからスタートするのは、あまりにも眩《まぶ》しすぎる行為であった。  ブラウスに手をかけたとき、正介はハッとした。玄関の方角になにかの気配を感じたのである。カチリと金属の触れ合う音を聞いたような気がした。両親が帰って来るはずはない。気のせいだったのか。全身を耳にして玄関の方角に注意を向けていると、境いの襖越しにかすかな気配が伝わってきた。  気のせいではなかった。だれかがドアを開けようとしている。それも気配を殺しながら、……いったいだれが入って来ようとしているのか? 両親が自分の家に入るのに気配を殺すはずがない。すると考えられるのは、�不法侵入者�が合鍵を使ってはいって来た場合である。  不法侵入者——空巣狙いが両親が出かけたので一家が留守だと勘ちがいして侵入して来たのか。女体を剥奪《はくだつ》するために、自分自身も無防備になっていた正介は、侵入者に備えて蝟《はりねずみ》のように身構えた。  正介は、いま怒りに震えていた。ようやく獲物を俎上《そじよう》に乗せて料理しようとした矢先を邪魔されただけではなく、彼の自閉の王国が最も無作法な形で侵されようとしている。  不法侵入を企てた者が、侵入を中止して立ち去ったとしても、すでに雰囲気を壊された。だが、相手は侵入を中止しなかった。ドアをそろそろと開き、内部に入ると三和土《たたき》に立って気配をうかがっているらしい。もはや相手の邪《よこしま》なる意図は明らかである。正介は闇の中に息を殺して、手近にあったカットグラスの花瓶を構えた。      5  的場はしばらく様子をうかがっていたが、なんの気配も生じないので、そろりと足を踏み出した。目が室内の暗さに馴れている。窓から射し込む月の光で、行動に不自由はない。  正介の勉強部屋にもダイニングキッチンにも人の気配はない。残るは、ベランダに面した居間である。襖が立ててあるので、様子がわからない。正介がいるとすればその部屋である。  的場はそこでハッとした。彼は襖越しにかすかな鼾《いびき》を聞いた。彼はホッと緊張を抜いた。やっぱりおもったとおり、正介はその部屋で眠り込んでしまったのだ。  的場はそろそろと襖を引いた。床に寝ている人間の体が見える。 「これは!」  的場は息を呑んだ。正介とばかりおもっていたが、床に横たわっているのは、明らかに女であった。この女は何者か? 正介はどこへ行ったのか。うろたえた的場が周囲を見まわしたとき、いきなり側頭部に一撃をうけた。ひるんだところに二撃三撃が加えられた。的場は抵抗する間もなく、意識が遠のいて床の上に頽《くずお》れた。 「死んでる!」  正介は愕然とした。夢中で侵入者に花瓶を振ってしまったが、床に倒れた侵入者はピクリとも動かない。鼻に手を当ててみたが、呼吸もしていないようだ。念のために心臓に耳を押し当ててみると、鼓動が停止している。  月光に晒された侵入者の顔は、まったく見も知らぬ男のものである。靴を履いているところを見ても彼が不法侵入を企てたことは明白であった。厚いカットグラスの花瓶で殴られた男の頭部からはドロリと血の塊《かたま》りが出ている。頭髪に隠れてその創傷の実相は見えないが、きっとひどいことになっているにちがいない。  人間がこんなに簡単に死んでしまうとはおもわなかった。死体——それも自分がつくった——を目の前にして、正介はうろたえた。途方にくれた。  だがこうしてはいられないと、自衛本能が目覚めた。それを目覚めさせたのは、美央の存在である。彼女が眠りから醒《さ》めるまでに、死体を始末しなければならないとおもった。しかしどう始末したらよいのか。車もないし、よそへ運び出すことはできない。  そのとき、追いつめられた正介の脳裡に新しい自殺の名所としての「高島平団地」が連想された。正介の家も団地にある。しかも最上階の五階だ。五階から死体を突き落とせば、屋上から飛び降りたように見えるだろう。花瓶の傷も地上に激突した傷と見分けがつかなくなる。  正介は、生体につけられた傷に生じる生活反応や、打撲傷と墜落ショックによる傷の相違などについては知らない。  ただ単純に死体の始末を急いで、飛び降り自殺の偽装を考えついたのである。ベランダに出て周囲の気配をうかがったが、団地は全棟寝静まっている。灯のついている家は、一戸もない。団地全体が深い眠りの中にあった。この様子では、死体を突き落としても、朝まで気がつかれないだろう。  ベランダの下は、住人がつくった縁取り花壇になっている。その縁石に当たるように突き落とせば頭の傷をカモフラージュできる。正介は、侵入者の死体をかつぎ上げてベランダまで運んだところで、重大な�忘れもの�をしていたことに気がついた。 (そうだ、鍵だ。この男は合鍵を使って侵入して来たのだ。死体からうちの合鍵が出てきたら、直ちに疑われてしまう)  ポケットを探ると、正介がいつも使っている鍵と寸分ちがわない合鍵があった。  危ないところだった。冷や汗をかきながら合鍵を男のポケットから抜き取ると、その体をフェンス越しに突き落とした。地上から鈍いショックの音が返ってきた。それからの数分が身を竦むような時間であった。住人のだれかがいまの音に気がついたのではないか。だれかが窓を開けないか、外へ様子を見に出る者はいないか。  息をひそめて気配をうかがっていたが、団地は依然として深沈たる夜気の底に沈んでいた。そっと地上をうかがってみると、侵入者の体はうまいこと花壇の縁石の上に乗っている。死体のむごたらしい様は月光に青白く染色されてよくわからない。  どうやらだれも気がつかなかったようである。これで朝までの時間を稼げるかもしれない。その間に美央を家へ帰さなければならない。もはや解剖どころではなくなっていた。正介は美央がもってきた�勉強道具�をかき集めて鞄の中に戻した。  ちょうどタイミングよく美央が身じろぎをした。正介は彼女の体を揺すった。美央が薄目を開いた。 「あら、私、眠っちゃったのかしら」  美央の意識は徐々に醒めてきた。正介の前で眠ったことを恥ずかしくおもっているらしい。コーヒーが苦くてカップ三分の一程度で止めていたので、薬効も大したことはなかったようである。 「あら大変! もうこんな時間なのね、私、帰らなければ」  美央は腕時計を覗いて急に慌てだした。  立ち上がったものの、足許が定まらない。 「きみの家まで送っていってあげるよ」  正介はそれをよいきっかけとして立ち上がった。      6  正介に幸運が付いた。侵入者の死体は翌朝発見された。第一の幸運は、死体の頭部がちょうど縁石に当たってバウンドしたことである。一見したところ、正介が花瓶で殴った傷と墜落による傷の見分けを難しくしていた。第二の幸運は、屋上が立ち入り自由で、墜落地点の真上(波多野家の屋上)に当たる部分のフェンスが壊れたまま放置されていたことだった。  第三の幸運は、所轄の警察にやる気がなかったことである。折から高層団地の屋上からの飛び降り自殺があいついでおり、初めから自殺の先入観をもって検視に臨んだ。  死者の身許は所持していた名刺から中野区で自動車修理工場を経営している的場保之と割れた。家族は、自殺する理由がないと申し立てたが、従業員の何人かから最近経営がおもわしくなく悩んでいたようだったという証言があった。深刻な経営危機に陥っていたわけではないが、たしかに以前よりは営業成績が下降していた。  警察はその証言を鵜呑《うの》みにして、いとも簡単に「自殺」として処理した。凶悪事件があいついで発生しており、ただでさえも人手不足である。自殺にしてしまえば、検挙率にも影響しない。形式的な検視後、死体は解剖もせずに家族に引き渡された。 [#改ページ]  見なれない証拠      1  波多野公造は仰天した。妻との温泉旅行から帰宅してみると、正介はピンピンしており、的場保之が波多野家のある団地の屋上から飛び降り自殺をしていた。最初の愕きが鎮《しず》まると、当惑した。いったいどうなっているのか? なにか予測もしなかった�事故�があったのにちがいない。正介にそれとなく探りを入れてもさっぱり要領を得ない。朝、なんとなく下の方が騒がしいので、起きてみると屋上から飛び降り自殺があったという。夜の中に屋上から飛び降りたのが、朝になって発見されたそうである。正介はよく眠っていて全然知らなかったと言った。  だが死体が発見された場所は、ちょうど波多野家の真下に位置している。正介はあまりその話題について語りたがらない。故意にその話題を避けたがる態度が不自然であった。  波多野は、的場が計画通り正介を襲ったものの、逆襲されて返り討ちにあったのを感じた。  もしそうだとすれば、的場を差し向けた黒幕が波多野だと正介に悟られると大変なことになる。波多野は事件についてほぼ正確な推測を下すと、今度は怯えた。  正介が、父が自分を殺そうとしていると悟れば必ず反撃してくるだろう。すでに正介は一人殺している。波多野はもはや父ではない。正介の命を�殺し屋�を雇って奪おうとした敵だ。すでに父に対する憎しみが素地にあるから、今度こそなんのブレーキもかけずカモフラージュもせずに、敵意を剥き出しにして反撃してくるだろう。波多野は、おちおちと眠れなくなった。わが家が敵地であった。      2  神明美央はびっくりした。彼女が波多野正介の家に半強制的に呼ばれた夜、その家の屋上から飛び降り自殺があった。しかも自殺者は、彼女のクラスメートで、たがいに好意を持ち合っている的場保一の父親だというのである。  なぜ保一の父親がそんな所から飛び降り自殺を図ったのか、かいもくわからないが、彼女が正介の家に行った当夜、その屋上から飛び降りたことに偶然としてかたづけられない因縁があるように感じられた。的場家にはグループで何度か遊びに行ったことがあり、父親にも会っている。気さくな親しみやすい人柄の人物だった。家庭も豊かで明るかった。  警察では、経営難を苦にしての自殺と見ているようであるが、的場家にそんな暗影は一片も感じられなかった。  もっとも病蝕は気まぐれに立ち寄ったガールフレンドの目に触れるような表層にはなく、もっと深部に発達していたのかもしれない。それにしては的場家の家人が「自殺する理由がない」と言っているのが、うなずけない。当人だけがかかえ込んだ切迫した事情があったのだろうか。  事件が発生したころ美央は、正介に送られて帰宅して来た。自殺者はあの前後に飛び降りたと推測される。自分がいたほぼ同じ場所と同じ時間に自殺者——それも知人——があったというのは、なんとも気色の悪い話である。 「偶然だわ、偶然だから仕方がないわ」  美央は、偶然のせいにして、気色の悪さを忘れようとした。だが忘れようとすればするほど、心を圧搾《あつさく》してくるものがある。いったいなにが圧搾するのか? 自分にはまったく関係ないことではないか。的場保一には気の毒な事件であったが、美央が心を悩ませる問題ではない。  しかしいつの間にか心がその事件の方を向いてしまう。  美央は、無理に事件から目を逸《そ》らせようとするよりも、真正面からそれを見つめて、心の圧塞の原因を探すほうがよいと考えついた。  見つめると、いままで見えなかったものが見えてきた。まず、あのときの正介の態度がひどく不自然であった。脅迫まがいに、いや、まさしく脅迫して無理に家に呼び寄せたくせに、美央が目を覚ますと、急に慌てふためいて、もう遅いから早く帰れとせき立てた。 「目を覚ました」と言えば、あのとき、自分は眠り込んでしまった。午後十一時近くだったとおもうが、眠り込む時間ではなかった。初めて行った他人の家で、なにを考えているのか得体の知れない正介と二人だけで相対しているときに眠るはずがない。事実全身に鎧を着込んだようにして乗り込んだのである。  それが突然引きずり込まれるような睡魔に襲われた。もしかするとなにか服まされたのではないのか。そう言えば正介に勧められたコーヒーは異常に苦かった。カップ三分の一で止めてしまったけれど、あの中になにか仕掛けられていたのではなかったのだろうか。  でもなんのためにそんなことを? もちろん眠っている間になにかいやらしい振舞いをしかけようとしてだわ。目が覚めたときには衣服も乱れていなかったし、体にべつに異状は認められなかった。仮に正介がそんな怪《け》しからぬ下心を抱いてコーヒーに仕掛けを施したとしても、そのことと、的場保一の父親の自殺とどんな関係があるのかしら?——じっと見つめていると、心の中に次第に煮つめられてくるものがある。  そうだわ、関係ないとは言いきれないわ。私にいやらしいことをしようとして、睡眠薬入りのコーヒーを飲ませて眠らせたところに保一の父親が突然訪ねて来たとしたらどうか。  正介は邪魔が入ったので、行動を妨げられた。そこで怒って保一の父親をベランダから突き落とした。  突飛な想像だが、このように考えると、的場の父親と結びつくのである。だがこの想像を成り立たせるためには、的場家と波多野家の間になんらかのつながりがなければならない。  美央はその後さりげない振りをして正介に聞いた。だが正介は、的場を全然知らないし、的場家の人間ともつき合いはないと言った。そしてどうしてそんなことを質ねるのかと不思議そうな顔をした。  次に保一に波多野家について同じ質問をした。保一の答えも正介と同様であった。少なくとも、正介と保一の間にはいかなるつながりもない。  すると考えられる可能性は、親同士につながりがある場合である。親同士の交際を子供たちが知らない場合もある。だがそうなるとおかしなことが出てくる。交際(関係)のある家の屋上から飛び降り自殺をしたのであるから、自殺者の遺族か、自殺者に「屋上を貸した」波多野家のだれかが当然「両家のつながり」を申し立てたはずである。だがだれもそんなことをしなかった。的場家では、なぜそんな場所で�自殺�をしたのかわからないと言っていた。  このように考えを押し進めてくると、可能性は次の二つの場合に煮つめられる。すなわち、一は、両家がそのつながりを隠したがっている。二は、死んだ的場保之が波多野家に対して一方的につながりをもっている。  一の場合、保一の父と波多野家との間になんらかのつながりがあって、前者が死んだために、後者がそのつながりを隠していることも考えられる。これなら的場家の遺族の言葉もうなずけてくる。  しかしその場合は、後者がつながりを隠す理由がわからない。また保一の父が波多野家へ来たのは、正介の両親が留守の夜であった。留守を知らずに来たのか? 承知で来たとすれば、なんのためか?  また二の場合として、的場保之の「一方的なつながり」とはどんなものか。一方的なつながりにおいて訪ねて来る意図は何か?  ここまで考えたところで壁に突き当たった。美央の推理の車は、それ以上に進めなかった。  やっぱり、両家は無関係なのだわ。私にいやらしいことをしようとした矢先に、屋上から飛び降り自殺されたものだから、正介はうろたえてしまったんだわ。うろたえれば、だれでも態度が不自然になる。私の考えすぎだわ——美央はせっかく進めた推理の車をUターンさせようとしたとき、妙なものを見つけた。 「あら、これはなにかしら?」  美央は通学鞄のサブバッグとして使っている手提げの底からなにかつまみ上げた。小さなチューブである。ラベルを見ると、「外用副腎皮質ホルモン剤オデキメタゾン軟膏皮膚疾患用塗布剤」と刷ってある。どうやらオデキの塗り薬らしい。 「こんな薬、どこからまぎれ込んだのかしら」  美央は眉をひそめた。彼女の体にはデキモノなどない。チューブの中身は半分ほど使用されている。サブバッグなので毎日点検しない。通学鞄に入りきらない参考書や雨具や、時には漫画本やらお菓子などを忍ばせていく。  きっと通学途上、だれかがいたずらに投げ込んでいったものであろう。美央は膿《う》み爛《ただ》れた患部を想像して、汚ならしいものでも捨てるようにそのチューブをごみ箱へ捨てかけた。 「もしかすると、あのとき……」  ふと心に走ったものの行方を追って、美央は指を宙に停めた。正介に呼ばれたとき、サブバッグに、数冊の教科書と参考書を入れてもっていったことを想いだしたのである。あのとき以来サブバッグの中をよく検《あらた》めていない。とするとチューブは正介の家でまぎれ込んだ可能性もある。  どうしてまぎれ込んだのか。うろたえた正介が、美央を家に帰すべく勉強道具をバッグの中に戻す。そのとき見なれないチューブがあったものだから、いっしょにバッグに放り込んだ。 「見なれないチューブ」  美央は、思考の流れの中にふと浮かんだ�異物�を凝視した。正介の家の中にあったものを、彼がなぜ見なれないのか。もし見なれた品であったなら、美央のバッグの中に入れるはずがない。  つまり、それは正介の家に属さないものであった。正介にとってもそれは�異物�であったのである。  だがその品は、美央のものでもなかった。正介の家にも属さず、美央のものでもない品。  それは�第三者�が正介の家に運び込んだことになる。それも美央が正介の家に行った時間帯とほぼ同じ時刻に。そうでなければ、正介がその品を「見なれて」、美央のものでないことを知ってしまうからである。  ちょうど時刻を同じくして、保一の父が正介の家の屋上から飛び降りた。保一の父を正介の家にチューブを運んだ第三者と考えたら、どうだろう。 「見なれないチューブ」は保一の父以外の人物でも運び込める。しかし、美央が正介の家に行った同じ時間帯に運び込むとなると、限られてくる。  美央は、自分の意識の中で軋《きし》った異物が、次第にその存在を大きくしてくるのを感じた。 「的場君、ちょっとお話があるんだけれど」  美央は、お昼休みの時間を狙って、おもいきって保一に話しかけた。以前の保一ならば昼休みに教室でぼんやりしていることはない。校庭で精一杯、体を動かしているはずである。父親を失って以来、友達からも離れて一人ポツンとしていることが多くなった。保一は美央の方に目を向けた。その目から以前にあったような熱っぽい光が消えている。父の不慮の死は、彼の心に癒し難い傷を抉《えぐ》ったようである。 「変なことを聞くようだけど、あなたのお父さん、体におできのようなものはできていなかった?」  美央がおずおずと尋ねると、保一の死んでいたような目が驚いて、 「どうしてきみはそんなことを知っているんだ」  と尋ね返した。 「やっぱりおできはあったのね。それじゃあオデキメタゾンという薬を使っていなかった?」 「き、きみ、そんなことまでどうして知ってるんだ!?」  保一の無気力だった目に火が点じられた。 「その薬、これでしょ」  美央は保一の前に、例のオデキメタゾンを差し出した。保一はそれをひったくるように手に取ってまじまじと見つめていたが、 「これは父が使っていた薬にちがいない。父はいつも体のどこかに湿疹ができていてね、生前は右脚の脛にできていた。あまり長いので、ぼくが人から聞いてこの薬を勧めたんだ。ちょうどこのくらい使いかけていたよ。こんな特殊な薬を使っている人なんて、何人もいない。きみ、いったいこの薬をどこで手に入れたんだ」  保一の目は、完全によみがえっていた。美央は自分の想像が的中したのを悟った。やはりこのチューブを正介の家に運び込んだのは、保一の父だった。彼は、美央が眠っていた間に波多野家に来たのにちがいない。そして正介との間になにかが生じた。その「なにか」も美央が想像したとおりのことかもしれない。その後保一の父は正介に殺され、飛び降り自殺を偽装させられたのだ。  美央は保一に、事件当夜の自分の経験と、それから発した推理を話した。ただし、自分の父と、正介の母親との関係は、適当に暈《ぼか》した。 「ぼくも父がなぜあんな所から飛び降りたのか不思議におもったんだよ。父が死んだ場所は父の生前の生活環境の中にまったくなかった。父と波多野という家の間につながりがなかったか、これから探ってみよう」  的場保一は、美央の示唆に基づいて、新しい目標を見出したようであった。 [#改ページ]  共犯の鍵      1  警察は、正介の偽装工作にうまうまと欺かれた。正介自身こんなにうまくいくとは予期していなかった。警察の調べは躱《かわ》したものの、正介に納得のいかないことが残った。それはあの的場保之という男がなぜ合鍵まで用意して正介の家に侵《はい》り込んで来たかという疑問である。身許が割れてみれば、自動車修理工場の社長とかで、正介の家よりよほど裕福なようである。  警察は、経営難を苦にしての自殺としてかたづけてしまったが、自殺でないことを知っている正介は、的場が経営資金づくりのために忍び込みを働いたとしても、なぜよりによって正介の家のような貧しい家を狙ったのか不思議でならない。合鍵を用意したところからみても計画的である。資金づくりに計画的に正介の家を狙ったとは考えられない。彼の狙いは他にある。  その狙いとは何か?  正介は的場のポケットから抜いた合鍵を改めて観察した。 「これは新たにつくった鍵ではないぞ」  正介は愕然として目を見開いた。鍵の歯型は磨滅し、柄は指の脂で光っている。一見してよく使いこまれていた。つくったばかりの合鍵が使い込まれているはずがない。鍵の本体にナンバーが打刻されてある。788175。  正介は再度愕かなければならなかった。それは的場が忍び込み用に新たにつくった合鍵ではなく、正介の家の鍵そのものである。備えつけの鍵は三本あり、家族が一本ずつもっている。したがってその鍵は父か母のいずれかのものである。  両親のどちらかが落とした鍵を的場が拾って悪用したのか。その場合でも落とし主の身許がわかっていなければならない。  そうでなければ、両親の一方が的場に鍵を渡したとしか考えられない。なぜ的場に鍵を渡すのか? ここに至って正介は禍々しい推測に達した。  どう考えても的場が資金づくりのために空巣を働いた状況ではない。鍵は波多野家備えつけの一本(両親のいずれかのもの)を用いて、両親の留守を狙って侵《はい》って来た。とすると、彼の狙いは正介にあったのではないのか? いや正介以外の狙いは、考えられない。 (的場がこのおれになんの用事があって?)  まともな用事ならば、合鍵など使わずにブザーを押して堂々と訪ねて来ればよいはずである。彼はそれをせず忍び込んで来た。「まともな用事」でなければ、どんな用事か。的場の侵入には両親の一方、あるいは双方が協力している。両親がその夜いっしょに(正介抜きで)温泉へ行ったのも、正介を家の中に一人にしておきたかったからだ。  つまり的場は、両親の協力の下に正介が一人のときを狙ってまともな用事でなく忍び込んで来たのだ。  ——まさか実の親がこのおれを!——  正介は行き着いた想像の途方もなさに血の気を失った。これまで親は自分がどんな仕打ちをしても耐えてくれるとおもっていた。だが親にも許容の限界があるとすれば……  たしかにこれまで自分は両親に対してひどい仕打ちをしてきた。しかしそれは子が親に対する�特権�ではないのか。その特権にも限界があり、それを越えると、親はもはや親ではなくなり、子を攻撃してくるのであろうか。  まさかとはおもうものの、最近あいついで発生している子殺しの事件に目が向かないわけにはいかない。  子殺しで最も多い嬰児殺しは、子供のほうに責任はないが、次に多い正介の年代の子殺しは、ほとんどの場合が親子の対立が原因となっている。対立の原因としては、親の過保護からくる干渉過度、親の放任、子の非行、受験地獄による子のノイローゼ、家庭内暴力、親子の断絶などである。  これらの原因が単独に存在する場合もあれば、複合している場合もある。だがいずれの場合でも、この程度に成長した子を殺す親に共通していることは、「子が手にあまって」の止むに止まれぬ結果である。手にあまったということが子の特権を越えたことを意味するのか。親の手にあまる子は、殺される理由に多少の責任を有する。 (おれが親の手にあまったのだろうか)  正介は考え込んだ。だが自分が家庭内で暴力を働いても、常に手かげんをしてきたつもりだ。どんなに暴れ狂っても、親に対するブレーキはかけてきた。暴言を投げつけても、本気で言ったことはなかった。親ならばそれがわからないはずはないとおもっていた。  ところが親は本気で�報復�を企てたのだ。こちらがいくら爪を立てても親ならば大丈夫という甘えがあった。  ところが親は本当に噛み殺そうとして牙を剥いてきたのだ。  なんという恐しい親だろう。まさかとはおもうものの、的場がもっていた鍵が、親の牙を如実に示している。  正介は最初の驚愕から立ち直ると、勃然たる怒りが発してきた。  親が宣戦を布告してきたのであれば、自衛のために立ち上がらなければならない。注意しなければならないのは、親が子を殺しても「普通殺人」だが、子が親を殺せば「尊属殺人」として事由のいかんを問わず、無期懲役か死刑に処せられる。ただ正介はまだ未成年者(十八歳未満の)だから、�罪一等�を減じられると聞いた。  正介の親は、その普通殺人の責任すら逃れようとして�殺し屋�を雇った。これに対抗して戦うためには、こちらもなにか手を考えなければならない。  それにすでに十分に生きてきた親たちに比べて、若い自分は人生のもろもろの楽しみを知らない。最大の関心事である異性すら、親の放った殺し屋に邪魔されて解剖しそこなってしまった。まともに渡り合って刺し違えては、こちらのワリが悪い。  親が第二の攻撃を仕掛けて来る前に、自分が手を下した証拠を残さずに反撃しなければならない。 「母さん、おれ鍵をなくしちまったんだよ」  正介はさりげなく探りを入れた。 「あら困ったわね。私も一本しかもっていないし、お父さんも必要でしょ」 「おやじが帰って来るときは、たいていだれか家にいるんだから、おやじのをもらってくれよ」 「お父さんももっていないとやっぱり不便するわよ。それじゃあ母さんが出かけるときは私の鍵を玄関の牛乳受けの中に入れておくことにするわ。なるべく早く合鍵をつくりなさい」  母は、ガマ口の中から自分の鍵を取り出して見せた。これで的場がもっていた鍵は、父のものであることが確かめられた。主敵は父であった。母も父に協力している疑いはあるが、正介は子の直感として、母に対する特権は、無限であることを悟っていた。  もともと公造に対しては反発はあっても、愛情は感じていない。公造の説によれば、父という存在は屋根のようなものだそうだが、体との距離がありすぎた。あまり立派な屋根ではないらしく、外の風雨を完全に遮断しているとは言い難い。アルバイトをして働いても、父程度の雨露はしのげるような気がした。だから屋根としての有難みなどは、まったく感じていなかった。      2 「きみは波多野正介君か」  下校途上、駅から出たところで、正介は突然同年輩と見える高校生に呼びとめられた。帽子の校章を見て、美央の高校と同じ学校の生徒であることがわかった。初めて見る顔である。名門高校の生徒にふさわしいいかにも聡明そうな顔をしているが、敵意に燃える目が正介をにらんでいる。相手の正体がわからぬまま、その敵意だけを感じ取った正介は、身構えてうなずくと、おまえはだれだと目で促した。 「ぼくは的場保一という者だ。きみの家の�屋根�から飛び降りて死んだのは、おれのおやじだよ」  不意をつかれて、正介は驚きを面に現わしてしまった。「しまった」と自制したときは、すでに反応を十分相手に見て取られた後である。 「どうやらおやじを知っているようだな」  的場保一の敵意は、さらに燃え盛ってきたようである。 「それは知っているさ。おれの団地の屋上から飛び降りたんだからな。おかげでいい迷惑だったぜ」  正介は辛くも踏みこたえた。 「そのことでちょっときみと話し合いたいことがあるんだ」  相手の口調は強圧的だった。 「おれは忙しいんだけどな」 「手間は取らせない」  保一は、正介の返事も待たずに先へ立って歩きだした。彼が従いて来ることを確信しているようである。正介は無視しようとおもったが、保一が美央と同じ高校の生徒なのが気になって、心ならずも彼の後ろに従った。  二人は家並みから離れた空地へ出た。保一は周囲に人影がないのを確かめると、正介の正面に対《むか》い直って、 「きみがおやじをどうかしたんだろう」  といきなり言った。 「なにを言いだすんだ」 「とぼけてもだめだよ。きみがやったんだ」 「なんのことかわからないな」 「おやじを突き落としたのは、きみだ。それを飛び降り自殺に見せかけた」 「おい、変な言いがかりをつけると許さないぞ」 「言いがかりではない、証拠があるんだ」 「証拠だって? 面白い。そんなものがあるなら見せてもらおうじゃねえの」 「証拠はこれだ」  保一は正介の目の前にオデキメタゾンのチューブを突きつけた。 「何だ、それは」 「もう見忘れちまったのか。これはきみがおやじが死んだ夜、神明美央さんのバッグの中に入れたものだよ」 「神明美央がなんの関係があるんだ」  正介の胸に不安の翳《かげ》が萌した。 「神明美央さんはあの夜きみの家に行った。おやじが死んだころ彼女はきみに睡眠薬入りコーヒーを飲まされて眠っていたそうだ。きみに送られて帰って来てから、バッグの中にこのチューブが入っていたのに気がついた。これはね、おやじが使っていた薬なんだ。その薬が、どうしてきみの家に行っていた美央さんのバッグの中に入っていたんだ」  正介は腋の下に冷や汗がにじむのを覚えた。あのとき、美央の勉強道具を慌てて彼女のサブバッグに戻したが、いっしょにそんなチューブも突っ込んだようなうすい記憶がある。見なれないチューブが転がっていたものだから、てっきり美央のものだとおもっていたが、保一の父親が落としたものだとすれば、致命的なミスを犯したことになる。  正介は顔色の変るのが、自分でもわかった。 「だからどうしたって言うんだよ。同じ薬なんていくらでもあるだろう。市販薬じゃねえか」  それでも意志の力で動揺を隠して、辛うじて切り返した。 「市販薬でも、これは特殊な薬なんだ。あっちにもこっちにも転がっているもんじゃない」 「美央のバッグに入っていたからといって、どうしてそれがおれの家にあったことになるんだよ。どこかよそでまぎれ込んだかもしれねえじゃねえか」 「きみがどうしてもとぼけるつもりなら指紋を取ったっていいんだ。チューブからおやじときみの指紋が出てきたら、言い逃れはきかないぞ」 「だったらなぜそうしない?」 「その前にきみに直接当たってみたかったからさ」 「そこまで言うのなら、おれにも言うことがある。あんたのおやじは殺し屋だよ」 「殺し屋?」 「おれを殺しに来たんだよ、おれのおやじに雇われてな。おれは被害者なんだ」 「どうしてきみの父親がきみを殺さなければならないのだ」 「家庭の事情ってやつでね。おれたち父子は仇敵同士のように憎み合っているのさ。おやじはかねてからおれを殺そうと狙っていた。自分の手を汚したくないものだから、あんたのおやじを雇ったのだ。おれは危うく殺されかかった。そして危ないところで正当防衛ってやつが成立したんだ」 「ぼくのおやじを殺し屋なんて、それこそひどい言いがかりというもんだよ」 「本当のことさ。あんたのおやじは、おれの家の鍵をもっていた。おれのおやじが渡したんだ。いま指紋をどうこうすると言ってたが、こっちだってその鍵から指紋を取ってもいいんだぜ。鍵からきみのおやじの指紋が出てきたらお相子様というわけだ。いや主客転倒ということかな」 「正当防衛ならなぜ警察に言わなかった?」 「もちろん言うつもりだったよ。ところが警察はさっさと自殺にしてしまって、聞きにも来なかった。警察がせっかく自殺にしてくれたものを、なにもこちらから申し立ててややこしくすることはねえものな」 「おやじがきみを殺そうとしたというのか」 「そうだよ。コーヒーに入っていた睡眠薬《クスリ》は、おれのおやじが仕掛けたものだった。それを飲んで美央もおれも眠り込んだところにきみのおやじが登場して来たって寸法さ」  保一と対決しながら、正介はコーヒーに二重にクスリが仕掛けられていた可能性におもい当たった。あのコーヒーには殺し屋の仕事をやり易くするために父があらかじめクスリを仕掛けておいたのだ。そうとも知らず正介が二重に仕掛けを加えた。だからこそコーヒーが異常に苦く、美央がカップ三分の一飲んだだけで眠り込んでしまったのだ。 「ところがおれのほうがクスリの効き目がうすかったもんだから、ベランダから突き落とされる直前に目を覚まして、正当防衛をしたというわけだよ」 「でたらめを言うな。ぼくのおやじときみの父親にはなんの関係もない。それがどうしてぼくのおやじがきみの父親に殺し屋として雇われなければならないのだ。安手のテレビドラマのようなことを言うな」 「あんたは甘いね。どうして関係がないなんて言いきれるんだ。おれが調べたところ、おやじ共は小学校の同窓だよ」 「な、なんだと!?」  保一は、衝撃をうけたようである。 「そんなことも調べずに、おれを犯人呼ばわりするのか。本当におめでたいな。警察でもどこへでも行ってけっこうだぜ。おれは正当防衛だ。万一正当防衛が成り立たなくとも、おれは未成年者だ。どうせたいした罪にはならないさ。  警察がおやじどもの関係を徹底的に調べ上げたら、きっとあんたにとって都合の悪いことが出てくるとおもうよ。おれのカンだけどね、おやじどもにはなにか後ろ暗い関係があるな、きっと。それが暴き出されたらエリート高校生のあんたに傷が付くんじゃないかな。おれはもともと傷だらけだからいっこうに構わないけどね。あんたが黙っているつもりなら、おれの話も全部つくり話ということにしよう」  正介は相手の目の中に怯えの色が走ったのを認めた。      3  保一は打ちのめされた。波多野正介と対決して、ある程度、�美央情報�に基づく推理は裏づけられたものの、同時に予想もしなかった裏面が姿を現わし始めた。正介の言葉を全面的に信じられないが、鍵の一件はたしかに事件に新しい視野をあたえるものである。  もし正介が美央と同時に眠り込んでいれば父は鍵なくして波多野家に入れない。また正介が眠っていなかったとしても、両親の留守を狙って美央を引っ張り込んだ彼が、未知らぬ第三者を簡単に室内に迎え入れるはずがない。  そして室内に入らずして、父がオデキメタゾンを波多野家——つまりは美央のバッグの中に残すことはできないのだ。  父はたしかに当夜、波多野家へ入っている。それも非合法な形で。  父と、波多野公造が小学校の同窓という新事実もショックであった。これは決して小さくはないつながりである。父は家族の前で正介の父のことを話題にしたことはない。だが小学校を出てから何十年か経過した後で、人生の途上にふと再会し、旧交が復活したかもしれない。その旧交を悪事に利用し合った可能性もある。保一の中で父のイメージが少しずつ変化していた。  小学校の同窓というのは、現在の関係が時間の風化をうけて遮断されているので、悪事の協力に都合がよい。共犯の素地として小学校の同窓は格好である。  保一が正介と対決しながら最後には攻守所を変えた形になったのは、「父親たちにはなにか後ろ暗い関係がある。それが暴き出されたらエリート高校生の身分に傷がつく」と言った正介の言葉のせいである。正介の言葉は自信に隘《あふ》れていた。それは保一の心を見透かした自信でもある。たしかに保一の身分は簡単に取得できるものではない。数十倍の倍率の上に獲得された身分である。これを失ってはならない。  保一の高校では生徒本人の学力に加えて、家庭環境を重く見る。入試時の面接には必ず父兄の同伴を求める。家庭がよくないために、学力優秀でありながら篩《ふるい》落とされた者が少なくない。  父亡き後は、自分が的場の家を支えなければならない。父に微細な瑕瑾《きず》でもつけるような、またつける恐れのある行為は慎むべきである。——保一は父を失った悲しみの中で功利の算盤を冷徹に弾《はじ》いた。      4  美央が的場保一にタレこみやがったな——  正介は保一をいなした後、改めて美央の処置について考えた。死んだ的場保之の子が美央と同じ高校の同級生というのも奇遇であるが、美央のタレコミは、正介に対する敵意と、保一との親密さをしめすものであろう。 (人が下手に出ていれば、つけ上がりやがって!)  正介に瞋《いか》りが衝き上げてきた。美央が単に裏切っただけでなく、保一に彼女を奪われたような気がした。保一が美央と同じ名門高校の生徒であることも気に入らなかった。  あいつらおれのおかげでその名門高校生としての体面を保っていられるのだ。それをこの際おもい知らせてやらなければならない。  正介は、保一の打ちのめされた哀れな姿をおもいだした。最初の権幕はどこへやら、正介の反撃の前に尻尾を巻いて退散した。結局、名門高校の看板の重みが、彼のハンディキャップになっている。  それに比べてこちらは失うものはない。三流オンボロ高校生の身分などいつ失ってもどうということはない。  正介は、いま保一と美央の弱みを握ったとおもった。これを利用してあの二人を徹底的にいたぶってやろう。安全保障楽天地行急行列車に乗った二人を引きずり下ろしてやるのだ。  片や殺し屋の父、片や人妻と不倫の関係に耽る父——このような家庭環境は必ずや名門高校生たる身分に影響するにちがいない。  平原、見ていろ。おまえが死をもって乗ることを拒否した楽天地行列車の指定席に、父親の死の真相と不倫をひた隠しにしてしがみついている乗客二名を引きずり下ろしてやる。——正介は死んだ友人に誓った。      5  波多野は、最近正介の暴力沙汰がハタと止んだことに気づいた。溯《さかのぼ》ってみると、的場の飛び降り自殺以後である。あの事件がきっかけとなって、正介はおとなしくなった。だが決して悔い改めたのではない。なにか含むところがあって、暴力を内に封じこめているのである。それが正介の親に向ける無機的な表情からわかる。正介の内には、意図的に自閉した暴力が、ストレスを高めている。それがいつ暴発するかわからない。  以前はなんの抑制もなく発せられた暴力によって、その都度ストレスは放散されていた。だが今回は、地震の予報だけで地下に着々とエネルギーが蓄えられているように、正介の沈黙の底にあるものが無気味であった。  正介の顔は、子が親に向けるものではなかった。まるで能面でも着けたかのように、いっさいの喜怒哀楽を消してしまっている。無機質で鎧われた表情であるほどに、その内側に封じこめられた内圧の強さが恐しい。  正介は的場保之の死の実相を知り、なにかを含んでいる。的場の黒幕が自分の父親であることを悟ったにちがいない。悟っていながらその事件に関してはいっさい黙秘している。正介は密かに報復を企んでいるにちがいない。  波多野は息子に怯えた。それはわが子を殺そうとした者の当然の報いであるが、彼を怯えさせているものは、べつの方角にも潜んでいた。潜伏している者の足音がいまにも背後に聞こえないかと耳を|※[#「こざとへん+走」、unicode9661]《そばだ》てている。  もし的場保之が正介の返り討ちにあったのであれば、それは「殺人」である。警察はいまのところ自殺と見ているようだが、「犯罪死」の疑いを抱く捜査官が現われないともかぎらない。波多野が的場に渡した鍵はどこへいってしまったのか。的場に指示しておいたデスクの抽出には戻されていなかった。死体から鍵が発見されたという話は聞いていない。もしあの鍵が警察の手に落ちて波多野家の玄関ドアの錠前に符合することを知られれば直ちに疑われてしまう。  警察が正介を疑って取り調べるようなことがあれば、必ず波多野と的場とのつながりが洗い出されて、的場の死に潜匿された恐るべき企みが明るみに引きずり出される。それは正介と自分の破滅を意味する。波多野家は完全に破壊されてしまう。  父子相殺——それはもはや人間の家庭ではない。自己の生存《サバイバル》のために殺し合いを演じる�密林�となんら変るところはない。  正介を取り除こうと決意した瞬間から、波多野家は、人間の家庭ではなくなっている。だが少なくともそれは彼の家庭内のトラブルとして表沙汰にはなっていない。表沙汰にならないかぎり、それはどこの家にもある「身内のモメ事」にすぎないのである。  もし刑事が訪ねて来たら——と想像するだけで、波多野は心身が恐怖に竦んだ。現実に刑事と対《むか》い合ったら、自分には耐えられないだろう。  刑事に自供することは、正介に対する「殺人未遂」を認めることである。波多野の恐怖は二重構造であった。      6  波多野公造は遠方からひたひたと迫ってくる足音を聞いていた。それは日常生活の中に気がまぎれているときは聞こえない。夜、床に就いて枕に耳をつけたとき、その足音は聞こえてくるのである。それは確実に昨夜より迫っているが、足音の主が見える距離には達していない。眠っていても、夢の中にその足音が聞こえる。 「あなた、このごろ少し痩せたようだわ」  妻が波多野の憔悴《しようすい》した顔を見て案じた。  ある朝、洗面している波多野の背後に、正介がすっと立った。なにげなく鏡を覗いた波多野は、そこに正介の顔を見出して殺されるような悲鳴をあげた。 「どうなさったの、いったい」  素子がびっくりして台所から顔を覗かせた。 「猫みたいにそばに近づくな。びっくりするじゃないか」  波多野は正介を叱った。 「なにをおっしゃるのよ。こんな狭い家の中ですもの、家族がそばにいるのは当たり前じゃないの」  素子が正介を弁護した。正介はなにも言わず、鏡越しにニタリと笑って、自分の部屋に入った。相変らず足音を消したままである。 「うす気味悪いやつだ。あいついつからあんな歩き方をするようになったんだ」  波多野は、顔を拭きながら言った。顔には洗面の水滴といっしょに脂汗もにじんでいる。 「前からよ。団地ですもの、静かにするに越したことはないわよ」  素子には、波多野の大仰な驚きがおかしいらしい。このとき以来、波多野は正介がいつも自分の気配をじっとうかがっているような気がしてならなかった。  トイレから出ると、そこに正介が立っている。ベランダに立って外を見ていると、いつの間にか背後に正介が来ている。また寝ているときでも正介が自分の寝顔をうかがっているような気配を感じる。顔にかかる正介の呼吸を感じて真夜中に何度も目を覚ます。そんなとき、きちんと閉めたはずの障子が少し開いていて、そこから隙間風が吹き込んでいる。  ある夜同じ様な気配を感じて目を覚ますと、障子は閉まっていたが、引き手のあたりが少し破れていて、その向こうの闇がチラリと動いたような気がした。波多野は妻を起こして、そこは前から破れていたかと質ねた。  寝入端《ねいりばな》を起こされた彼女は朦朧とした意識で、「明日貼るからいいでしょ」と頓珍漢《とんちんかん》な返事をした。  事件から一カ月ほど経ったときである。波多野は、首筋がいやにすうすうするので目を覚ました。障子もきちんと閉められているし、穴もあいていない。それにしてはどうしてこんなに室内の空気が動くのかと訝《いぶか》しがったとき、障子が鳴って紙が撓《たわ》んだ。  戸か窓を閉め忘れて外の風が吹き込んできているのだ。ぐっすり眠り込んでいる妻を起こすのも可哀想なので、波多野は目が覚めたついでに床から脱け出した。  家の中をいちおう検《あらた》めたが、閉め忘れた戸や窓はない。だが依然として家の中を空気が慌しく動いている。その移動には外気の冷たさがある。空気の流れを溯った波多野は、玄関のドアが細目に開いているのを認めて目を剥いた。  玄関を�半ドア�にしたまま寝てしまうとは、なんと不用心な。単に不用心なだけではなく、眠りを妨げられるのは、目敏《めざと》い自分のほうなのだ。最後に戸閉まりのチェックをしたのは妻である。これは叩き起こしてでも注意しておかなければならないとおもった。  それにしてもこれだけの風があれば、風圧で自然に隙間はしまるはずなのに?——首を傾げながらドアを観察した波多野は、ドアの下端にサンダルの片一方がはさみ込まれているのに気がついた。  これではドアがしまりきらないはずである。妻がそんなことをするはずがなかった。すると正介の仕業か。それにしてもなぜこんなことを? 不審を募らせながら、サンダルをはずしてドアを閉じかけた波多野は、チャリンとコンクリートの床に金属の破片が落ちたような音を聞いた。  目が音の方角に向いた。床に鍵が落ちていた。玄関を半ドアに放置しただけでなく、鍵をキイホールに差し込んだまま残していた。  不用心にもほどがある。——波多野は呆れた。鍵をつまみあげた波多野は、ふとおもい当たることがあって、鍵体を綿密に観察した。使い込まれた歯型の磨滅ぐあい、色ぐあい、鍵のナンバー——  それはまぎれもなく彼が的場保之に貸しあたえた鍵であった。その鍵がなぜここにあるのか。冷たい風が彼の足許を吹き抜け、冷気と共に恐怖が這い上ってきた。波多野は団地全棟を起こしてしまうような悲鳴をあげた。正介の仕業だ。 「正介、きさま、親をなんだとおもっている! 殺してやる。きさまのようなやつは殺してやる!!」  波多野は、正介の部屋に殴り込んだ。正介は寝床の上に起き上がって待ち構えていた。父子の間に凄まじい格闘が生じた。血を分けた父子が憎しみを剥き出して取っ組み合った。家具が飛び、ガラスが砕けた。これに素子の悲鳴が加わった。寝静まっていた団地の窓に次々に灯が点《つ》いた。 [#改ページ]  余計な親心      1 「美央、ちょっと待て」  改札口を出たところで呼びとめられた。彼女の帰る時間を見計らって、ずっと待ち伏せていたらしい。 「なによ、あなたなんかに呼び捨てにされる憶えはないわ」  正介の顔を見ただけで、美央は腹が立ってきた。いまにしてこんなやつに脅されて、言いなりにその家に行ったのが悔やまれる。 「あんただな、的場保一とかいう野郎に変な知恵を吹き込んだのは」 「それがどうしたの。あなたに疚《やま》しいことがなければ、なにを言われたっていいでしょ」 「だれに向かってそんな口を叩いているんだ。おれが一言漏らせば、あんたのご尊敬申し上げる父上は浮気がバレておふくろさんから叩き出されるかもしれないんだぜ」 「あなたはそれを切り札にしているつもりなのね、卑怯で馬鹿な人」 「おれが卑怯で馬鹿だと?」 「そうよ、もうあなたなんか恐くないわ。あなたが的場君のお父さんを殺したのね。警察に訴えてやるから」 「的場から聞いたな。訴えたければ訴えろ。正当防衛なんだ」 「なにが正当防衛よ。私、そのとき現場にいたのよ。私がそうではないって証言したらどうなるとおもうの」 「な、なんだと?」  勝ち誇っていた正介は、不意をつかれてうろたえた。美央の反撃は、正介の弱みを突いた様子である。 「正当防衛なんて甘いわよ。私があなたに不利な証言をしたら、そんなものまず成立しないわ。私が調べたところによると、未成年者だからといって無罪放免というわけにはいかないわよ。十六歳以上だとおとなが死刑のときは無期刑に、おとなが無期のときは十年以上十五年以下の懲役を科せられるのよ。起訴されなくても、少年鑑別所から少年院送りか保護観察処分に付されるわ。一度、少年院や保護処分がどんなものか経験してみるといいわ」 「やってみろよ」  正介はまだ強がっていたが、その言葉にすでに迫力はない。美央の意外な法律知識にも圧倒されていた。 「父の不倫はよくないことかもしれないけれど、あなたのお母さんにだって責任はあるわ。その意味では、お相子だわよ」 「男のほうが悪いよ」 「それじゃああなたは何なの。私を脅迫して無理矢理自分の言いなりにさせて。私、あなたに強姦されたって訴えてやるから」  正介は仰天した。一見、ノーブルで嫋《たお》やかな美央の口からそんな凄まじい言葉が出たのも驚きだったが、身にまったく憶えのないことを言い立てられて正介は狼狽《ろうばい》した。 「デ、デタラメ言うな」 「デタラメじゃないわよ。あのとき私たち二人しかいなかったんだから。あなたは私を強姦しようとして止めに入った的場君のお父さんを殺してしまったのよ。これは�強姦殺人�だわ。普通の殺人より罪が重いわ」  美央は自分の言葉が効果的なカウンターブロウになっていることを悟った。いまや完全に攻守所を変えている。 「強姦されたなんて、あんたにとっても不名誉なことだぞ」  正介は辛うじて切り返してきた。 「私は被害者だわ。狂犬に噛まれたのと同じよ。それにひきかえあなたは、�強姦殺人�の罪が一生ついてまわるわ。気の毒な人」 「箔《はく》がついて有難いようなもんさ。いいか、野っ原へ引っ張り出したんじゃねえぞ。男の家までのこのこ従いて来て、強姦もないだろう」  正介はようやく立ち直ってきた。 「脅迫されたのよ。そうでなければ、私があなたなんかの家に行くものですか」 「おれは友達が欲しかっただけだ」 「友達が欲しければ、なにをしてもいいと言うの」 「あんたみたいに、なに一つ不足のないエリートに、おれのような落ちこぼれの気持がわかってたまるか」 「だから卑怯だというのよ。落ちこぼれになったのは、だれのせいでもないわ。自分のせいよ。それを他人《ひと》のせいみたいに言わないでちょうだい」 「あんた、よく疑いももたずにあんなくだらない勉強ができるね。おれはな、能力がなくて落ちこぼれたわけじゃないぞ。出世のパスポートを手に入れるための勉強に疑いをもったからなんだ。あんただって、できるだけ自分をよく見せるためのレッテルを身につけようとして勉強しているにすぎない。そういう勉強に疑いをもった者は、落ちこぼれるような仕組になっているんだ。いまの世の中は役にも立たない死学の記憶力を基準にして人種差別をしているんだよ」 「あなたはそう言って自分のダメさかげんをごまかしているのよ。みんなが出世のパスポートを手に入れるために勉強しているわけじゃないわ。そういう人もいるかもしれないけれど、自分の信ずる道を進んでいる人たちは、狭い門と広い門があって、狭い門から入ろうとしているだけよ。道が二つに岐《わか》れてどちらへ進むべきか迷ったときは、難しく険しい道を選ぶ人たちなのよ。その結果が成功へとつながっていくだけよ。最初から安易な道を選んだ人たちとの間に差をつけられるのは当然でしょ。あなたなんか、道が岐れたらためらいなく易しい方を選ぶ人だわ。それが自分でも情けないものだから、出世のパスポートだの、死学だのと言って、自分の卑怯と安易さを正当づけようとしているのよ。だれだっていましている勉強が将来みんな役に立つなんておもってないわ。でも勉強というものは、それが役に立つ立たないとは関係なく、人生の一時期に勉強をしたという事実が大切なんじゃないかしら。役に立つかどうか疑う前に自分の全力を傾けてそれと取り組む。結果はどうあれ、とにかく一生懸命にやったという事実。それが勉強というものじゃないかしら。  あなたは、みんなが一生懸命やっていることを避けて通ろうとしているのよ。ただ避けて通っているだけでなく、真正面から困難と取り組んでいる人たちを出世主義の亡者みたいに軽蔑して、その足を引っ張ろうとしているんだわ。だからあなたは卑怯だというのよ」  正介は言い返そうとしたが、とりあえず適当な言葉をおもいつかない様子である。      2 「そこのお二人さん、さっきから見せつけるじゃねえかよ」  二人は突然横から崩れた声をかけられた。ギョッとなってそちらに目を向けると、いずれも上衣の襟が普通サイズの二倍も高く、裾が膝を隠すほどもある番長服《ヨーラン》を着た、一見して不良高校生とわかる五、六人が、ヤクザまがいにポーズをつけて近づいて来た。リーゼントにチョンバッグ、ボンタンズボンに喧嘩《ゴロ》巻くときに都合のよい先の尖《とが》ったチョン靴を履《は》いている。  正介は、彼らが襟に付けている骸骨のバッジから、彼らが東京および近県の不良高校生によって結成されている「関八州連合会」のメンバーであることを悟った。名うての硬派グループで、盛り場に屯《たむろ》しては、アベックや軟派の学生専門に恐喝やいやがらせをしている。彼らの目に熱っぽい言い合いをしている美央と正介が、絶好のカモにうつったのであろう。  正介は、悪い相手につかまったとおもった。 「おい、ちょいと顔貸せや」  リーダー株の一際《ひときわ》凶相をしたのが、顎《あご》をしゃくった。 「どうか許してください。私たちはべつになんでもないんですから」  正介は許しを乞うた。いずれも各校で「番を張っている」連中ばかりと見え、いかにも凶暴で腕っ節が強そうである。彼らの一人が相手でも渡り合えない。 「お兄さん、そりゃあないわよ。あんた、この美《マブ》い女《スケ》を強姦《ツツコ》んだそうじゃないの。私たちにも回してよ」  一人が女の声色を使った。どうやら先刻からのやりとりの一部を立ち聴きされたらしい。もし彼らに全部立ち聴かれていれば絶好の恐喝材料を提供したことになる。正介は逃げるに逃げられなくなった。  美央は蒼白になって正介の背後に隠れた。この際正介だけが彼女のナイトである。駅の構内であるが、はた目には高校生のグループが立ち話をしているように見える。たとえ不良学生の恐喝《カツアゲ》と気がついた者がいても、見て見ぬ振りをするだろう。 「関八州連合会」の背後には、暴力団がいるという噂もあるので、一般市民も恐れて近づかない。 「手間は取らせない。ちょっとそこまで顔を貸してもらおう」  リーダーはふたたび促した。断わればなにをされるかわからない険悪な気配が漂った。ポケットに突っ込まれた手にはなにが握られているかわからない。美央は恐怖のあまり口もきけなくなっている。  二人をメンバーはさりげなく囲んだ。逃げも救いを求めることもできない。こういうことに馴れているらしく、メンバーの動きに熟練が感じられる。  二人は、人通りのない路地裏へ引っ張り込まれた。途中、通行人に救いを求める機会がないことはなかったが、恐怖に竦《すく》んで声も出なかった。 「まずおれたちの目の前で見せつけたオトシマエをつけてもらおうか」  リーダーが凄んだ。 「あのう、どうすればよいので」  正介はおずおずと聞いた。いきなり腹部に強烈な一撃を食った。正介はたまらずそこにうずくまった。一瞬、呼吸が詰まり、吐きそうになった。幸いに胃が空虚であったので、酸《す》っぱい胃液が込み上げてきただけである。しばらくの間は声を出せない。 「ものわかりの悪い人には、このように体に話すのがいちばん手っ取り早い。まず腕時計《ケイチヤン》をはずして、現金《オタカラ》を全部出すんだ。そっちのお姉ちゃんも痛い目にあいたくなかったら、同じにするんだよ。そうそう、今度はわかってきたな。女の子を痛めつけるのは、性分に合わないんでね。今度から忘れるんじゃないよ」  不良学生は、二人から腕時計と現金を奪った。 「チェッ、湿気《しけ》てやがる。二人合わせてこれだけかよ」  女の声色を使ったのが、現金の少ないのに口を尖《とが》らせた。 「警察《マツポ》に言《チク》ったりすると、もっと大切なものを失うことになる。あんたはもういい、行きな」  子分が�戦利品�を取り込んだのを確かめて、リーダーが顎でうながした。生徒手帳を取り上げられなかったのは、不幸中の幸いだった。正介と美央が恐る恐る立ち去りかけると、 「待ちな、だれが女も行っていいと言った」  リーダーの声が背後から追って来た。同時に子分が前に立ちはだかった。 「あのう、美央さんになんの御用が」 「いひひ、ミオさんになんの御用かだとよ。私、たまったもんじゃないわ」 �女形�が卑猥に腰をくねらせたので、一同がどっと沸いた。 「ぼく一人じゃ帰れません」  正介は決死の勇を奮って言った。美央に卑怯者と罵られたが、ここで、彼女一人を残して帰っては、人間ですらなくなってしまうとおもった。 「あんた、あんまり粋がらないほうがいいんじゃないのかな」 「大切なお姉様ですもの、なにも悪いことしないわよ」 「悪いことしないけど、少しする」  無抵抗の獲物を囲んで獣の群は楽しんでいた。      3  その日会社の仕事が常になく早く終って帰宅して来た波多野は、改札口を出たところで目を疑うような光景を見た。正介が見知らぬ女子高校生と熱心に話し合っている。あの自閉の暴君が女の子と話し合っている。距離があるのでなにを話し合っているのかわからないが、かなり親しげな様子である。話に夢中になっていて、正介は父に見られているのに気がつかない。  波多野は、ものかげに隠れてしばらくこの珍しい光景の推移を見守ることにした。わが子でありながら正介はいま父の知らない側面を見せている。  話が弾んでいるらしく、二人は長いこと立ち話に耽っている。そのうちに波多野は人影が二人の周囲にチラチラしているのが気になってきた。一見して不良高校生とわかるグループが、しきりに二人の方を気にしている模様である。だが話に夢中の二人は気がつかない。  ——因縁でもつけられなければよいが——  波多野は遠方から一人気をもんだ。だがこちらも盗み見しているので、知らせてやるわけにはいかない。そんなことをしたら、「プライバシーを覗かれた」正介が、家に帰ってからどんなに荒れ狂うかわからない。  そのうちに不良グループが二人を取り囲んだ。よそ目には仲良しグループが街で出遇って立ち話をしているような光景である。少し離れて|見張り《シキテン》が目を光らせている。熟練が感じられるアプローチであった。  やがてグループは二人を囲んで移動を始めた。大柄な不良共に囲まれた二人の様子はよくわからない。脅されてどこかへ連れていかれる模様である。生憎、駅前派出所にはパトロールにでも出かけたらしく警官が不在であった。電話は全部ふさがっていたし、救いを求めている間に彼らの姿を見失ってしまいそうである。  波多野はともかく彼らの後を尾けることにした。二人は、路地裏へ引っ張り込まれた。どうやら金品を巻き上げられているらしい。どうせ大した金品をもっているわけではない。家では暴虐を恣《ほしいまま》にしている正介が、同年輩の不良の前ではからきし意気地がない。  波多野は、むしろ小気味よいおもいで遠くから見物していた。  なんだ、あのザマは。ガールフレンドの前ですっかり味噌をつけてしまった。あれで彼女を失うことは確実だろう。もっと痛めつけられたほうが薬になる——波多野は、むしろ不良グループを嗾《けしか》けるおもいで見物していると、風向きが変ってきた。  どうやら不良たちは金品だけで満足せず女の子に不当な要求をしてきたらしい。それを正介が制止している模様である。不良が正介を取り囲んだ。寄ってたかって袋叩きにするつもりと見えた。  波多野はこれ以上見物していられなくなった。救援を呼んで来る余裕はない。 「待て!」  波多野は走りながら叫んだ。いきなり飛び出した人影に不良グループは一瞬たじろいだが、こちらを一人と見て直ちに立ち直った。 「乱暴は止めろ」  正介は、突然現われた父親にものも言えないほど驚いている。最も父親に見られたくないシーンを見られてしまった。 「なんだ、てめえは」 「|年寄り《サージイ》の出る幕じゃねえ。すっこんでろ」  不良たちは口々に凄んだ。各校の番長か番格(用心棒)クラスだけあって、いずれもいっぱしの悪《わる》の面体をしている。彼らから吹きつけてくる凶悪な気配も本物であった。  波多野は一瞬ひるんだものの、ここで弱気の姿勢を見せると相手をつけ上がらせるとおもい、 「きみらは、学生の分際でやっていることの意味がわかっているのか」 「あんたには関係《カンケ》ないことだよ。怪我をしないうちに帰って、炬燵《こたつ》でテレビでも見てな」  番格らしい一人が、波多野の目の前でこれ見よがしに鉄の指環をはめた右の拳を左掌に打ち当てた。 「金が欲しければやる。この辺で許してやってくれないか」  波多野は財布を取り出した。 「おれたちは社会人から恐喝はしない。帰んな」  リーダーが言った。頬が削げた目の細い男で、白目の部分が青みを帯びて青い炎のような殺気を放射してくる。腕力では正介とも対等に渡り合えない波多野は、金で相手をなだめる以外にないとおもった。 「帰れと言ったんだよ」  番格が凄んだ。 「待て」  リーダーが番格を手を上げて制止して、 「あんた、こいつらの何なんだ」と聞いた。  いきなり金を出そうとした波多野と獲物の関係が気になったらしい。 「私は、父親だ」 「野郎か、女《スケ》のか」 「男のだ」 「保護者ってわけだな。それじゃあ金をもらってもいいだろう」  リーダーが番格に目で指図をした。 「よこしな」  番格が波多野の手から財布をひったくって、 「チェッ、湿気てやがんの。万札たった一枚かよ。これじゃあ息子にもあまり小遣いはやれねえな」  財布の中身を確かめて嘲笑った。一同が同調した。 「まあいい。子供を連れて帰んな」  リーダーが顎をしゃくった。波多野が正介と美央を連れて帰ろうとすると、 「待てよ。あんたは野郎の親父だろう。女はおれたちがエスコートしていってやる」  リーダーが阻《はば》んだ。  金だけ奪《と》って結局最初のシーンに逆戻りしてしまった。そのときなにを血迷ったか正介が美央の手を引いて逃げ出した。逃げ出す際にかたわらにいた番格の一人を突き飛ばした。虚をつかれた番格は、ぶざまな尻もちをついた。精々格好つけて凄んでいた番格は、馬鹿にしきっていた獲物から反撃を食い、醜態を晒して逆上した。 「野郎ー、ナメやがって」  番格は、ポケットから手を抜いた。パチンとバネの弾ける音がして飛出しナイフが構えられた。刃物の光に波多野は仰天した。 「あっ止せ!」  波多野は夢中で番格にしがみついた。 「離せ、離さねえか」  ナイフを振りまわす番格ともみ合いになった。離したら正介が刺される。正介との日ごろの軋轢《あつれき》を忘れて、波多野は子を守ろうとする一個の父親になりきっていた。ことの成行をリーダーをはじめ他の番格連が見ている。  彼らは�格好�に命を張る。ロングスタイルと金文字バッジに身を固めて、歩き方から、煙草の吸い方、喧嘩《ゴロ》まくときのポーズのつけ方、仁義の切り方、眼《ガン》づけのやり方などすべて格好のためである。彼らにとって「格好悪い」ことは、死にまさる恥辱である。  そのなによりも大切な格好を仲間の見ている前で台なしにされてしまった。このままでは番格のそれこそ「格好がつかない」。  番格は、追跡を波多野に阻まれたことでさらに血が上ってしまった。脅し半分に振りまわしていたナイフに本気の力が入った。  束の間のもみ合いの後、波多野がうめき声を漏らして地上に頽《くずお》れた。番格は血まみれのナイフを手にして茫然とその姿を見下ろした。  一瞬、沈黙が落ちた。 「ヤバイ」  不良学生の中からだれかが声を漏らした。 「逃《ズラ》かるんだ」  リーダーが言った。不良学生たちは波が退くように姿を消した。  正介の通報によって救急車が駆けつけ、波多野は救急病院に収容された。  波多野の傷は、全治約三カ月を要する下腹部刺創の他に、左上肘、頸部左側に浅い切創の三カ所であった。下腹部の傷は、深さ五センチに達するものであったが、重要臓器を避けており、生命に別条はなかった。  犯人グループは、関八州連合会のメンバーとわかっており、犯行後間もなく、それぞれの自宅で逮捕された。波多野を刺した犯人の父親は、名の通った大会社の役員であり、その他の者もいずれも中流家庭の子弟であった。 [#改ページ]  悲しみの類型化      1  正介は、父に致命的な光景を見られたとおもった。不良学生に恐喝されて縮み上がっている自分の姿、だれに見られてもかまわないが、父にだけは見られたくなかった。父に最も見られたくない姿を見られた後で、どんな顔をして父に会えるというのか。  父は今度の事件で正介に大きな貸しをあたえたような意識でいるだろう。正介がどんなに突っ張ってみたところで、父が自らの体を傷つけて子を庇《かば》った事実は正介の上に重くのしかかってくる。だからといっていまさら父に屈伏できない。屈伏するくらいなら、死んだほうがましだ。  正介はもはや父といっしょに生活できないとおもった。とすれば、正介が家を出る以外にない。そうだ、自分が家を出さえすれば、すべてが解決する。——正介は突然目の前に広い地平が開いたように感じた。  父こそ、正介の王国を侵略する元凶である。正介が家を出てしまえば、その侵略を避けられるだけでなく、父から派生する�諸悪�の根を絶つことができる。  なぜ父は悪か? まず彼が自分の父親であること自体が悪なのである。父が母に「関わって」自分がこの世に生まれた。それは父の手柄でも、父に対する恩でもない。雄が雌に関わるのは、動物でも行なう本能的行為であり、子が親に感謝すべき筋合いのものではない。  母は、自分を産むために体を痛めたが、父はなにも犠牲を払わない。犠牲どころか、自己の快楽を追求し、性欲を充足した結果として、子が生まれたのである。子の誕生における父の行為は、利己的であり、官能的であり、汚らわしく、猥褻《わいせつ》である。  次に自分に骨肉を分けあたえてくれた母親に、そのような形で関わり、依然として関わりつづけていることが許せない。  自分はこの世に独立の存在である。将来に対するどんな夢をもとうと(夢をもたない自由も含まれる)、人生のどんな方向へ志そうと自由である。それを単に父親であるという理由から、自分の果たせなかった夢を押しつけ、自分の足跡の延長線上に、子の進路方向を固定しようとした。これは許し難い悪だ。  父がこれまでに犯した具体的な悪は数え上げれば、きりがない。例えば、—— [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] 〇�レギュラー�のテレビ番組を妨害、軽蔑した。 〇深夜放送の聴取を妨害した。 〇室内で所かまわず喫煙する。 〇トイレで新聞を読む。 〇トイレが長い。 〇新聞を勝手にスクラップする。 〇人の櫛《くし》や男性化粧品を勝手に使う。 〇|吝嗇《けち》である。トイレットペーパーの使用量にすら文句をつける。 〇人の下着にまで干渉し、ブリーフを女のパンティーのようだと嘲笑った。 〇|鼾《いびき》がうるさい。 〇休日は終日家にいて、鼻毛を抜いている。 〇一番風呂へ入る。 〇時々、人の歯ブラシをまちがえる。 〇こちらの気分を考えず話しかける。 〇人の顔を見る。 〇卑猥なことを訊く。(例えば陰毛が生えたかなどと) [#ここで字下げ終わり]  このように数え上げてくると、父親と同じ空気を吸うことすら汚らわしくなってくる。  だが父を攻撃すると、手痛い反撃を食うので、代わりに母親に当たるのである。それは必ずしも八つ当たりではない。母はある意味では父の�共犯者�である。  母の許し難い罪悪は、父を関わらせたことであり、その関与をいまでも許している事実である。父と関わっているときの母は、母ではなく、一個の雌である。母であると同時に雌であることは許されない。それは子に対する許し難い罪悪なのだ。  父と母は、子にだけ関わっていればよいのであって、父母の相関は悪である。相関しなければ子が生まれないという矛盾は、子には無関係である。  また母という存在は、常に子に対して無抵抗でなければならない。母親は子の前で自己主張をしてはならない。子に対して常に無私なのが母である。  それに反して、父親は、常に自分中心である。自分の都合のよいときだけ子を可愛がる。煩わしくなると、母に押しつけてしまう。ペットを愛するのと、大して変らない。いや子は父にとってペットそのものである。だから自分の自由になる間は、�猫可愛がり�するが、子が自我を打ち出し、父の期待像から離れていくと速やかに捨ててしまう。  父から派生した最大の悪は、学校である。学校は人それぞれ得手が異なるはずなのに、全教科についてオールラウンドプレイヤーであることを求める。  才能というものは、なにか「一つに際立つ」ことであるはずなのに、全教科において平均的に点数を稼げない者は、弾き出される仕組になっている。正介にとって各教科は次のようなものである。  英語——それを母国語とする人たちよりも高度な文法や構文を学びながら、少しも話せない。  数学——加減乗除以外は日常生活にほとんど必要ない。それも電卓が代行してくれる。  生物——生物学的拒絶反応が脳にあって、どうしても意識が向かない。  国語——理解している文章や語句を無理矢理に分解分析して理解不能にしている。  古文——�故文�(死んだ言葉)。  歴史——最も意味がなくつまらない年表を暗記しなければ点数を稼げない。  社会——曖昧な学問、前掲教科のどの教師でも担当できる。  おおむね父親は自分以上の学力(学歴)を子に付けたがり、子の能力(特異な才能)に関係なく、学校という名の��平均教育バス�に乗せる。父親は学歴を、母親は各テストの点数を重視するのが特徴である。  さまざまな動物を入れるべき動物園(学校)が、�平均怪獣�の檻《おり》となった。結局、これも父親を原点として派生している悪である。  家を出れば、平均怪獣の檻からも脱出できる。そして家出するなら、父が退院して来る前でなければならない。——正介は密かに心に決めた。      2 「おれがおやじに命を救われたって? 冗談じゃねえよ。おやじが勝手に割り込んで来やがって勝手に刺されたんじゃねえか。責任もてないね」  正介は、口を歪《ゆが》めて外方《そつぽ》を向いた。 「まあ、なんてことを言うんです」  素子は呆れ果てて言葉がつづかないといった態であった。父が入院してから一度も見舞いに行こうとしない正介に、素子が一度くらい様子を見に行けと勧めると、正介はそんな途方もないことを言いだした。 「あのとき、お父さんが通りかからなかったら、どんなことになったかわかっているの」  素子はようやく言葉を押し出した。 「どうもならないよ。犯人だって、金が欲しかっただけだって言ってるじゃないか。余計な所におやじが飛び入りするもんだから、藪蛇になっちまったんだよ」 「お父さんが命をかけて救ったことを、余計なことだと言うの」 「ああそうだよ。本当に余計なお節介だね。だいたいおやじがあいつらを刺戟して、ナイフを引っ張り出させたんだぜ」 「嘘おっしゃい! 美央さんから聞いたけど、おまえがいきなり逃げだしたもんだから、犯人がナイフを出したというじゃないの」 「美央がなんと言おうと、おれの知ったことじゃねえよ。あの女《アマ》、おれのおかげで輪姦《マワシ》にかけられるところをたすけられたのに、チクリやがって、許せないな」 「そんな不良みたいな言い方止めなさい。美央さんは、毎日のようにお父さんを見舞ってくださるのに」 「ふん、おふくろは本当は迷惑じゃねえのかよ」 「迷惑ですって?」 「美央はあんたと美央のおやじの関係を知ってるもんな。おやじにいつバラされるかとびくびくしてんじゃねえのか」 「おまえは、本当に心がねじ曲がってしまったのね」 「この際おふくろに言っておくけど、おれ近いうちに家を出ることにするよ」 「なんですって?」 「もうおやじといっしょに暮らすのはいやなんだ。あいつが退院して来て、また面つき合わして暮らすなんて真っ平だね」 「それじゃあ聞くけど、家を出てどうやって生活をしていくつもりなの。まさか野天で寝るわけにはいかないし、外でご飯を食べればお金を取られるのよ」 「働くさ。いまどき喫茶店やスナックへ行けば、どこでも喜んで使ってくれるよ」 「学校はどうするつもりなの」 「止めるよ。勉強なんかどうせ興味ないんだ」 「あなたはまだ親がかりの未成年者よ。そんなこと親が許すとおもってるの」 「未成年者でも親から離れて自立している者はいくらでもいるさ。許さなくても勝手に出て行くまでだ」 「正介」 「心配するなよ、おふくろ。世話してくれる人はいるんだ」 「だれが世話をするというのよ」 「美央だよ。話はつけてある。同棲するんだよ。おやじのおかげで救われたんだ。いやとは言わせない」  正介はこんなときは父親を出した。 「そんなこと、美央さんはまだ学生なのよ」 「だからどうだって言うんだ。いまどき学生の同棲なんか珍しくもなんともない。親同士だってうまくやってるんだ。子供同士が同棲したってどうってことねえだろ」 「正介、おまえ本気でそんなことを言ってるの」 「嘘や冗談でこんなことを言うかよ。今日明日に家を出るって言ってるんじゃない。おやじが退院してくるまでまだ日はある。その間にゆっくりアパートや仕事を探すつもりだよ」  素子は、もはや正介が自分の手の及ばない所へ行ってしまったのを悟った。      3  素子はなんとかしなければならないとおもった。このまま手を拱《こまね》いていると、正介は本当に家を飛び出してしまうだろう。だがどうすればよいのか。  素子は、ともかく美央に会うことにした。同棲の下相談が本当にできているのであれば、彼らは既成事実をつくってしまったのかもしれない。それは素子にとって心身が慄《ふる》えおののくような想像であった。 「同棲なんかできっこないわ、おばさま。でも承知しなければ、おばさまと父のことを母に全部話してしまうって脅かすのよ」  美央は、素子に問われて涙ぐんだ。父の秘密を自分一人の胸にかかえて悩んでいたらしい。 「私、どうしていいかわからなくって、おばさまに相談しようとおもっていたのです」  美央は話しているうちに感情を溢れさせて、涙をこぼした。  素子は、美央をなだめながら、それとなく正介との関係の程度について探りを入れた。幸いに、まだ究極の関係には入っていないらしい。だが、正介の脅迫の前に美央は、いまにも拒みきれなくなりそうである。 「わかったわ。あなたにそんな心配をかけてごめんなさいね。正介のことは私がなんとかするわ」 「おばさまが?」 「正介をこれ以上あなたにつきまとわせないわ。私からよく言って聞かせるわ」 「本当?」  美央の顔が輝いた。 「本当よ。正介もそんなに悪い子ではないのよ。私が悪かったのよ。私があんなところを見せたものだから、ショックをうけてあなたにいやがらせをしているのよ」 「父が悪いんです」 「お父さんを責めないでね、私たちもあれから会うのを止めたのよ」  素子は、美央の背を優しく撫でた。  数日して学校から保護者に呼び出しがきた。素子が恐る恐る出頭してみると、正介から退学届が出されたので父兄に確かめたいということであった。驚いて、保護者にその意志はない旨申し立てて届けを返してもらった。  正介は、毎朝登校する振りをして、仕事や家を探していた模様である。学校から帰宅して来ると、すでに正介が帰っていた。彼は母親がどこへ行っていたかも知らず、いつになく機嫌がよく、 「おふくろ、仕事が見つかったよ。キャバレーの案内係だけどよ。夕方六時から十二時までで月二十万円くれるんだ。おやじの給料といくらも変らないだろう。二十万あれば、ナウなマンションに住んで、格好よく生活できるぜ」と得意げに鼻をうごめかした。 「キャバレーの勤めがどんなことか知っているの」 「これからわかるさ。とにかく一日六時間で二十万くれるんだ。こんな所はそうざらにはないよ」 「普通のお勤めで、おまえのような子供に二十万円もくれるはずはないわ。少なくとも未成年者の勤める所じゃないわよ。とにかくいまは高校を卒業することが先決問題でしょ」 「おれは未成年者じゃないよ。サバ読んだんだ。すんなり信用してくれたよ」 「知っていて、知らない振りをしているのよ。まともな所じゃないわ。すぐ止めなさい。止めなければ、お父さんに言うわよ」 「言ってみろよ。そうすればあんたの浮気がバレることになる」  正介は鼻の頭に皺《しわ》を寄せて笑った。それはいっぱしの悪党面であった。それは女の弱みを種に恐喝している立派な悪であった。素子はもはや一刻の猶予もならないのを悟った。      4  正介はよく眠っていた。夕食に仕掛けた薬の効果で、鼾声が高い。素子は壁の時計を見上げた。午前二時を指している。結婚したとき波多野の友人が贈ってくれた旧式の手巻きである。途中何度か修理に出したが、まだまだ使用に耐える。長く生活を共にした家具には愛着が生ずる。この時計は、正介が生まれる前から波多野家にあり、正介が生まれてより今日まで成長の過程をずっと見まもってきた。その時計に波多野家の最後の時間を確かめるのも因縁であろう。  団地全棟も寝静まっている。正介の寝息と全棟の気配を確かめた素子は、今夜のためにあらかじめ用意しておいた灯油とガソリンを家の中に万遍なく撒いた。正介の布団の周辺には特に念入りにガソリンを撒いた。部屋の中には揮発する油の異臭がたちこめたが、正介は薬効で眠りこけている。 �作業�が終って素子は家の中を見まわした。この団地に移り住んで来たのは、正介が二歳のときであった。つまり、正介の生活史のほとんどすべてがこの家に染みついている。それも正介と共に灰になる。心を定めるまでにずいぶん悩み、苦しみ、迷った。しかし、結局こうする以外に方法はなかった。正介が生きていると、多数の人間を不幸に巻き込む。正介を産んだ自分が彼を無に帰してやる以外にない。  自分の分身であるから、自分も正介と運命を共にする。正介がいなくなることは、素子もいなくなることである。 「あなた、ごめんなさいね」  素子はこの場にいない夫に詫びた。彼女が許しを乞わなければならないのは、夫に対してだけである。正介を産んだことを、夫の留守中正介と共に夫の家を灰燼《かいじん》に帰すことを、心から詫びなければならない。夫は数日後に退院する予定になっている。それまでにすべての始末をつけておかなければならない。正介がうめいて身じろぎをした。揮発するガスで呼吸が苦しくなった様子である。猶予はならなかった。素子はマッチを擦った。一瞬にしてガスに引火して、床に振り撒かれた油に燃え広がった。炎は鎌首をもたげて、正介の寝ている布団に燃え移った。正介はまだ目を覚まさない。薬効が覚まさせないのだ。  酸素の補給が絶えないように、各窓や戸は隙間を残してある。火は適度な酸素を供給されながら、床をたちまち版図に組み入れ、壁や障子やカーテンを這い上って天井に達しつつあった。  そろそろ近所から窓に映える炎の色を認められるころである。消火器はもはや及ばないが、いま発見されて消防車に駆けつけられたら、消しとめられてしまうかもしれない。いま目を覚ませば、逃げ出すチャンスはある。正介にとってもいまが生死の分岐点であった。 「あなたはご存じなかったのね」  侵略を強めている火勢の本陣の真空地帯に身を置いて素子はつぶやいた。波多野と結婚した後も意地汚なく持続させた�青春の想い出�が、皮肉な形で結実したと知ったのは、正介が生まれてからである。一抹の不安はあったが、波多野に隠れて中絶できなかったまま産んだ正介は、成長するにしたがって伸一郎との相似を打ち出してきた。だが波多野はわが子と信じて正介を可愛がった。  素子は真実を打ち明けられなくなった。打ち明けて許しを乞えるべき筋合いのことではない。結婚前の�過去�を隠していただけでなく、その関係を波多野の妻となった後も不倫として延長させ、べつの男の子供を夫婦の間にまぎれ込ませた。これ以上の裏切りはないだろう。  万一、波多野が許してくれたとしても、自分の苦しみを彼に肩替りさせるだけである。伸一郎に話したところでどうにもならない。彼は彼でべつに家庭をもうけている。  素子は、秘密を自分一人の胸の中にたたみ込むことにした。このまま正介が「普通の子供」として成長してくれれば、万事|円《まる》くおさまるはずであった。波多野は正介をわが子として育《はぐく》み、愛のスキンシップの中に「生《な》さぬ仲」の凹凸を圧平《ロール》してしまったであろう。  だが神はそんなに甘くなかった。正介はしだいにまさに悪魔の子としか言いようのないような牙を剥き出したのである。それが父子の間に亀裂を走らせ、溝を深めていった。波多野はそんな正介にもかかわらず、その危機に際して自分の生命を賭けて救おうとした。それが父子の最後の歩み寄りの機会であった。  正介はそれすら拒否して家を出て行こうとしている。あまつさえ、美央を自分の妹とも知らず畜生に類する関係を結ぼうとしている。それだけはなんとしても防がなければならない。それを抑止しようとした母親に、伸一郎との不貞を種に恫喝《どうかつ》している。  波多野に知らせてはならない。素子の主婦の座を守るためではない。妻の不貞の子をわが子と信じて今日まで慈しみ育て、自分の体を楯にして正介を庇ってくれた波多野に残酷な真実を知らせて苦しめてはならない。  おのれが放った輪廻《りんね》の猛火を波多野に及ぼしてはならない。 「そのためには、あなた、他に方法がなかったのよ」  母親は、すでに屋内全体に燃え広がった炎の中に夫の幻影を見ていた。炎の舌先は、彼女の足許にも迫っている。猛烈な火勢が毛や肌をじりじりと焼く。肌に沁み出た汗が瞬間的に蒸発して、塩の結晶となった。  凄まじい悲鳴が湧いて、正介が寝床の上に起き上がった。薬効で意識|朦朧《もうろう》としながらも火熱に焙《あぶ》り立てられたのである。 「すぐ楽になるから辛抱しなさいね」  素子は正介に向かって余った油を浴びせかけた。一瞬の間に正介は全身から炎を発する燃料となった。遠方でサイレンが鳴った。ようやく消防車が出動して来たらしい。しかし、いまや全盛になった火勢を自ら燃えつきるまでは押しとどめることはできないだろう。  正介は、炎の塊りと化して苦悶していた。全身が炎に包まれて、顔も体形も定かにはわからない。白熱の中に人形《ひとがた》の影が揺れる。生命の余力が火熱に抗してあがいている。それは凄惨な舞踊であった。その死の舞踊にペアを組むべく、素子は余った油を頭から浴びた。正介は、一際大きな炎の塊りとなって近づいて来た母親から逃れるように窓に体を打ちつけた。窓ガラスが破れ、正介の体は燃えながら空間に放り出された。彼の体が落ちた地点は、的場保之が落ちた所からいくらも離れていなかった。  ちょうど駆けつけて来た消防車が正介の体の火を消しとめた。まだ虫の息があったが、病院へ運ばれる途中の救急車の中で息を引き取った。火は波多野家一戸を焼いただけで消しとめられた。鎮火後の現場検証によって屋内から女の焼死体が一体発見された。  警察では、ノイローゼになった母親が放火して親子無理心中を図ったものと結論を下した。      5  アメリカの精神医学者レズニックは、「子殺し」を年齢別に出産直後二十四時間以内の新生児殺し、それ以後二十歳までの実子殺しに分類し、後者をさらに二十四時間〜六カ月、六カ月〜一歳、二〜三歳、四〜七歳、八〜十一歳、十二〜二十歳の六|段階《ステージ》に分け、また動機別に、利他的、急性精神病性、望まれない子供、事故、配偶者に対する復讐の五パターンに分けている。  わが国でもレズニックの研究に触発されて、精神医学分野において、子殺しに関する研究が目立つようになった。  例えば稲村博氏は新聞の事例をまとめて、1嬰児殺し、2折檻殺し、3無理心中、4痴情による子殺し、5精神障害による子殺し、6その他の六グループに分類し、福島章氏は犯罪精神医学の見地から、1新生児殺し型、2精神障害型(これはさらに㈵内因性精神病型、㈼産後精神病型、㈽反応性抑鬱型に分ける)、3障害児型、4虐待型、5その他、に五分している。(——以上『日本の子殺しの研究』=佐々木保行氏編著=に拠《よ》る)  波多野素子の子殺しは、この分類に従えば、年齢別には、「二十歳までの実子殺し」、動機別には「望まれない子供」、新聞事例別には「無理心中」、犯罪精神医学の見地からは「その他」に該《あた》るものであろう。  だがこの類型の中に掬《すく》いきれない、親が子を殺さなければならなかった悲惨で切実な事情は、当人以外にはわからない。いや当人にもよくわからないかもしれない。  どんな類型の子殺しにも人間の悲しみが溢れている。それは悲しみの類型化と言えよう。  ただ一人残された波多野公造は、その後再婚をしていない。 [#改ページ]  あとがき  未成年者の間でなにか異変が起きていると感じているのは、私一人ではないだろう。子殺し、親殺しはこれまでにもあった。だがそれらの事件のたいていには同情すべき切実な事情があった。  だが最近、家庭内に頻発《ひんぱつ》している暴力事件を見ると、親子の間に決定的なひびが入りつつあるような気がする。  私たちが彼らの年代においても、親に反抗したことはあった。反抗は若者の特権であり、むしろまったく反抗のない青春のほうがおかしい。だが我々の時代には親に手を上げることは絶対のタブーであった。かなり粗暴な若者でもそれだけはしなかった。稀にそのような事件があったとしても、社会問題となるようなことはなかった。  それがいまは、日常茶飯のように各家庭に起きている。現実に発生しないまでも、容易に発生し得る素地が、どの家庭にもある。  忠実なペットやおとなしい小動物が突然牙を剥いて人間を襲うパニック映画をよく見かけるが、それに類する現象が子の親に対する関係の中で起きているようである。  親子のモラルや愛情は崩壊し、憎しみだけが増幅されているのか。  過保護の中でなに一つ不自由なく育てられた子供たちは、親の有難さを知らず、親は、子を溺愛しすぎて、親としての権威を失ってしまう。 「産めよ、増やせよ」の時代から「少なく産んで大きく育てる」世の中に移行してから、親も子も、両者をつなぐ心の連帯を失ってしまったようである。子が少ないが故に、親は子を見つめすぎ、子は親の干渉をうるさがる。  おもいきって子を放り出せない親がますます子を弱くし、一人では一歩も歩けない子は、親の厚い庇護のカサの下で増長し、親を蔑《ないがし》ろにするのである。  家庭内暴力については、識者がさまざまな意見を述べている。だが人類が文化というものを持ち合わせて約五千年、その間親子が睦み合い、子は親を敬ってきたのに、どうしていまになってこのような子の親に対する反乱としか言いようのない社会現象が発生したのか。  それは現代の驚異的な物質文明の発達と無関係ではあるまい。科学の進歩は、他の天体への航行を可能にし、神の領域であった生命すら人工的な�干渉�をできるようにせしめた。試験管ベビーが長じたとき、どのような親子の倫理を教えるべきかとおもうと、背筋が寒くなるのをおぼえる。  私はこのような切実な社会問題を、エンターテインメントを主目的とする推理小説に取り入れることにかなりためらった。だが推理小説のもう一つの大きな効用は、現実に斬り込むことにある。  推理にもさまざまな種類があり、虚構本位の現実離れした物語にしばし憂き世の憂さを忘れる場合もあれば、現実性の強い作品の中に、他人事ではない恐怖を味わうこともある。  私はこの作品においては「他人事ではない恐怖」を描いてみたかった。私は他の自作品の解説において、「告発や問題提起は、作品の目的ではなく、作品の興趣を高めるための趣向である」という旨をよく書いた。  だが本作品においては、日頃の自説を離れて、問題提起を主たる目的に据えた。推理小説は、犯罪を通して人間の心理を照射できるので、そのような問題提起をするに適した小説形式であるが、それがあまりに正面に出ると、推理としての感興を削ぐことが多い。その意味でこの作品は推理小説たることにこだわっていない。  本作品においては、私は推理味を多少犠牲にしても、これだけは書かなければという胸の中の切実なおもいをペンに託してこめたつもりである。描いたことは私の身辺にも発生している。これは必ずしも虚構の物語ではないのである。  代々、親から子に伝えられるべき倫理が、ある世代間において、すっぱりと断ち切られる。そんな世代に我々は直面しているのではないだろうか。  現実に斬り込むということは、作者にとって危険な冒険である。斬り口が浅ければ、小説が現実に負けるし、深すぎたときは、推理によって、そんな生ま生ましい斬り口を見せられることを好まない読者が増える。  本作品がどの程度に斬り込んでいるか、読者のご判断に委ねるが、斬り口からしたたる血はおおむね作者の血とおもっていただいてさしつかえない。  読了後それぞれのお子さんの顔を改めて見つめていただければ、作者の執筆の狙いは、的を射たと考えてよいだろう。  最後に、大阪大学医学部講師清水将之氏の著書『家庭内暴力−精神科医のみた子育ての落とし穴』(朱鷺書房刊)において次のように注目すべき意見を述べておられるので、その一部をご紹介する。まず家庭内暴力青年の特徴として、 [#ここから改行天付き、折り返して1字下げ] ㈰ ふだんはおとなしい、いい子である。外づらがいいというか、近隣、教師の評判のいい子が多い。 ㈪ 内づらと外づらとが豹変する。外でいい子だった青年が、帰宅して靴をぬいだとたんに、猛獣に変貌することが多い。だから、外での彼だけを知る人にはなかなか理解してもらえないような乱暴をくりひろげる。ごくまれには、殺人という不幸な事態に至ることさえある。 ㈫ 父親よりも母親に暴力を加えることが多い。兄弟に対しては、あまり手を出さない。対家族暴力だけでなく、家庭内の器物破損もはなはだしい。 ㈬ ノイローゼ、精神病、不登校といった病気は認められない。 ㈭ 探ってゆくと、原因はすべて親子関係のひずみに還元される。 [#ここで字下げ終わり]  そしてそれが例外的な家庭の問題ではなく、すべての家庭に起こり得る現象であり、これまでの暴力のパターンには見られなかった�新種�であることを主張されて、次のように述べておられる。  非行でも極左活動でもよい、青年がなにかひどい乱暴行為をやったとき、新聞にはしばしば、「まさかうちの子が」という親の談話が出る。これがくせ者なのだ。  たとえば戦前の日本のような、よし悪しは別として、皇道思想に塗りかためられていた時代、すなわち、ものの考え方がワンパターンですんでいた時代には、こういうことはおこり得なかった。いまの時代のように価値観が極端に多様化してくると、親なる者、おちおちしてはおられない。まず、自分の人生目標をどのように設定していいのかわからない。さらに、世の中、なにがおこるかわからないし、わが家でもとんでもないことが発生しても、なんら不思議ではないおっかない時代なのである。  このように見てくると、いわゆる「家庭内暴力」は、新聞や週刊誌に報道される特異な家庭の問題ではなくて、いまの時代、日本においては、どこの家庭にもおこり得る、ごく普遍的な現象であると考えざるを得なくなってくる。世間的にはごくまれな、精神科の専門家としての関心をひきおこすにとどまるような問題であるのなら、私はこの本を書く気もおこらなかったであろう。そうではないから、問題は厄介なのである。  べつにおどしをかけるつもりはないけれども、いまこの本を読んでおられる方のすべての家庭において、息子の暴力的な反抗はおこり得るということを、ここで指摘しておきたい。もちろん、これを書いている私自身の家庭だって、この点では例外ではない。それは、青年期が本来そういう可能性(危険性といったほうがいいか)を秘めた年ごろであり、いまの日本が、そういう暴力をひきおこしやすい状況にあるということによるのである。 「うちの子だけは」と思ってもらっては困るのである。いや、たいそう危険なのだ。登校拒否にしろ、非行にしろ、そして家庭内暴力も、十代の子どもすべてにおこり得ることなのである。それは青年期と呼ばれるこの年ごろの子の心理構造に由来することであり、「うちの子だけ」そんなことはおこさせない、という絶対安全な育児法は、思春期という年ごろには存在しないのだと覚悟していただきたい。 [#地付き]森村 誠一   本書は一九八三年三月、文春文庫として刊行されました。 角川文庫『致死家庭』平成5年5月25日初版発行           平成7年4月20日5版発行