科学的管理法殺人事件 他五篇 森村誠一 [#表紙(表紙.jpg、横192×縦192)] 目 次  科学的管理法殺人事件  公害殺人事件  殺意の架橋  虫の息  電話魔  虚無の標的 [#改ページ]  科学的管理法殺人事件      1  大沢信吾は異常なまでに潔癖な男である。彼の右の首すじに大きな火傷の瘢痕《ひきつれ》があるが、それは彼が中学生の頃、自ら焼ごてを押しあててつけたものである。  どうしてそんな馬鹿なまねをしたのか?  彼が中学一年の頃、学校からの帰りのバスに乗っていた時、彼のすぐ前の吊り革にぶら下っていた老人が、突然大くしゃみをして洟水《はなみず》を彼の首すじに飛ばしたことがある。  すぐハンカチで拭い、家へ帰ってから熱い湯で何度も何度も洗った。しかし老人の洟水《はなみず》は拭っても拭っても落ちないしみのように深く皮膚に浸透してしまったような気がしてならなかった。  一度そう思いこむと、�汚染�は首すじから体全体に広がって行くようだった。彼は寝ても覚めても首すじが気になり、遂にある日、家人の留守を狙って焼ごてをそこへ押し当てたのである。  人並みの教育を終えて社会人になった頃は、その�病癖�はなおったかにみえた。だがそれは社会人として世の中に適応するための便法であり、もって生まれた性癖は、心の襞《ひだ》に一時的に隠れていたにすぎなかった。  彼は大学を卒えると、都心のある商事会社へ入った。会社の規模は二流の上クラス、十年以上病癖を抑えてまじめに勤めたおかげで、最近課長の椅子を獲得した。経済的にもゆとりができた。  妻の伸江とは結婚して八年目、夫婦仲も睦《むつま》じい。子供のないのが唯一の不満だったが、それもこれだけの年月を夫婦二人だけですごしてみると、かえって子供のいないほうが身軽でよかった。  まずは幸福な家庭だった。  それがここ三ヵ月ぐらい前から妻への疑惑に悩まされるようになったのである。確たる証拠はない。夫婦としての感覚から分るのだ。  ある夜、ふとめばえた疑惑は、急速に凝固した。疑惑と共に中学生以来隠れひそんでいた病癖がよみがえってきた。  老人の洟水をかけられたくらいで焼ごてをあてた信吾である。自分だけのものと信じていた妻の体が、正体不明の男の精液によってまみれていたと思うのは、思うだけで、気が狂いそうになった。  商売柄、信吾はよく出張する。大体いつも三、四日の日程だった。並みの男ならば浮気のための絶好のチャンスだったが、信吾はいつも清潔なまま帰宅する。  男の常として、信吾とて遊心がないわけではなかった。だが旅先で拾う身許もよく分らぬ女共では、不潔感が先に立って体が不能になってしまうのである。  こうして伸江は、信吾にとって、夫婦の愛情を切り離しても、�ただ一人の女�であった。当然出張から帰った夜は妻を求める。伸江も待ちかねたように応じる。  最初の疑惑は、そんな出張帰りの夜に始まった。伸江が行為の最中《さなか》、なにげなく示した体位というよりは、行為のプロセスの中のわずかな姿勢が、いまだかつて夫婦の中になかったものだった。  伸江の体位や技術のすべては、信吾がこの八年の間に教えこんだものか、あるいは二人で�発明�したものばかりである。  その場で問い詰めなかったのは、「婦人雑誌でおぼえたのよ」——とごまかされそうな気がしたからである。——あなたを喜ばせようと思って——といわれればもはやその先には追及の手がかりはない。  それよりもこのまま気がつかぬふりをして疑惑を確かめる具体的な資料を掴んだほうがよい。とっさに判断した信吾は、そのときから妻を慈《いつくし》む目を、妻を観察する目に変えた。  夫から観察者になってみると、疑わしい点はますます目立ってきた。  まず美容院に行く回数が増えてきた。ヘアスタイルが急にキリッとしてきた。化粧品の数が増えてきた。男にとって妻が常に美しいのは嬉しいことだが、その美しさが他の男のためにつくられたとなると、どすぐろい嫉妬を煽《あお》る。  主婦の化粧というものは、あくまでも�身内用�であるから、隙がある。伸江は�外向き�に自分を粧《つく》るようになったのである。  次に、夫婦だけに分るある部分の感覚があった。常ならば健康な夫婦が数日別れて過ごした後であるから互いの求め方はかなり強いはずだ。それが伸江のほうがそれほどでなくなった。一生懸命演技はしていたが、彼女の体がそれを裏切った。  ということは、留守中の渇《かわ》きは信吾以外の男によって、すでに充たされていることを示すものである。  白く輝くこの豊満な妻の体が、他の男によって蝕《むしば》まれている! 今までかたく妻を信じてきただけに裏切られた思いは強かった。それは生来の病癖と相乗して相手の男に向ける殺意に近い憎悪となった。  自分が汗水たらして働いている間に、その男は妻の心を捉え、その体を盗んだのだ。絶対に許せなかった。それがどこの誰か分らぬだけに、信吾の心は救いようがなかった。  会社に居ても、伸江が自分の留守中に男をひっぱりこみ、放恣《ほうし》に肌をからめ合っている想像図ばかりが目にちらついて仕事が手につかない。  しかしこれは想像ではないかもしれない。彼は仕事を放擲《ほうてき》して、自宅を検《み》に行きたい衝動に何度も駆られた。だが妻には、疑っているということすら知られてはならなかった。動かぬ証拠を掴む前に伸江に気取られたら、自分は永久に哀れなコキュとして取り残されなければならない。 「そんなことには絶対にさせないぞ」信吾は唇をかんで呻いた。  妻の貞淑の仮面を剥ぎ取り泥棒猫のような相手の男を不倫の闇の中から白日の下に引きずり出し、蚕食《さんしよく》の範囲を確かめるのだ。  虫喰いなら虫喰いでよい。だが虫喰いのりんごを、中身の充実した完全なりんごと誤信して買った愚かな客のままでいたくなかった。  私立探偵を雇おうかとも考えてみたが、そんな者の報告はとうてい信じられないと思って止めた。とにかく自分の目で確かめるのだ、自分のこの手で不倫の現場をがっちりとおさえてやる。——と信吾は決心して妻の隙を虎視|眈々《たんたん》としかし表面《うわべ》はさりげなくうかがっていた。  信吾は九州支社へ四日間の出張をすることにした。「ことにした」というのは、妻の手前という意味である。  前回の出張からすでに一ヵ月以上経っている。その間伸江は相手の男と接触した様子はない。昼の間に忍び逢う可能性がないでもなかったが、これは信吾がいつ抜打的に電話をかけるかもしれないので、伸江としてもそんな危険を冒《おか》そうとは思えなかった。  ——となると、相手の男との相互の需要はかなり高まっているはずである。この四日間の出張を彼らがみすみす見過ごすはずはない。  四日間の出張。もちろんこれは信吾が仕組んだ罠である。彼はこの間休暇を取り、伸江を徹底的に見張るつもりであった。そしてその�張込み�はむだではなく、二日目の夕方、盛装をして、いそいそと外出する妻の姿をとらえたのである。      2  山本芳男は生まれつき酷薄な性格を持っていたらしい。彼はもの心ついてより、昆虫や小|爬虫《はちゆう》類を殺すのが好きだった。  トンボや蝶の羽をむしり取って翔《と》べなくしておいて、さんざん玩《もてあそ》んでから、踏み躙《にじ》ってしまう。蟇《がま》蛙の上から大きな石を落として潰す。亀の体を甲羅からくり抜いてしまう。  大人たちは羽を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》がれた昆虫や、踏みつぶされたカエルなどをみると、すぐ芳男の仕業《しわざ》だと思った。これが彼には面白くなかった。  誰がやったのか分らないような殺し方でなければ、殺し甲斐がなかった。  こうして彼が発明した様々な殺し方(もちろん人間ではない)の中で、今でも�傑作�だと思うものがある。それはトカゲを殺した時だ。  ある日大人たちは庭で乾からびて死んでいる数匹のトカゲを見つけた。餌のない季節でもないのに、体全体が萎縮したように、そのくせ皮膚は妙になまなましいままに死んでいるトカゲは、大人たちの頭をひねらせた。  山本はその様子を盗み見ながら、自分が何かひとかどの芸術家になったような優越感を覚えたものである。実は彼は近所の医者の家の子をそそのかして盗み出させた注射器で、トカゲの血を全部吸い取ってしまったのだ。  ぬめぬめと光る暗藍《あんらん》色の体鱗《たいりん》に注射針を刺しこんだ時の背筋に走った戦慄のような興奮、小円筒《ピストン》を引くにつれて注射筒の中に徐々に吸引されてきたトカゲの透明な髄液の美しさ。彼は思春期になってからその夢を見ると、いつもきまって夢精した。  彼が大学の法科に進み、一時期弁護士になろうと思ったのも、無実の罪に泣く者を救いたいがためではなく、明らかに罪を犯した者を、自分の頭脳と弁論によって無罪とするか、あるいは罪を減軽することに暗い興奮を覚えたからである。それは正《まさ》しくトカゲを注射針で殺した時の興奮と全く同じ種類のものだった。  だが幸か不幸か、在学中から続けて五、六度受けた司法試験にいずれも失敗した。  いつまでも試験だけのためにぶらぶらしているわけにもいかず、ほんの腰かけのつもりで、規模だけは東洋最大といわれる、東洋ホテルへ入社して、そのままずるずると三年間フロント受付係《レセプシヨン》をつとめてしまった。  司法試験に落ちつづけ、ホテルで一向にうだつが上がらない生活を続けている間に、山本は自分をよほど運の悪い男だと思うようになった。  頭も才覚も人並み以上にありながら、世間にそれを評価する目がないために、社会の片すみで冷や飯を食わされているとかたく信じるようになった。  彼の仕事は到着する客に部屋を|割りふる《アサイン》ことで、ごく単純なくりかえし労働であった。  愛想笑いを浮かべながら客の予約や好みに従ってシングルだのダブルだのツインだのと一日中、アサインばかりしていると、山本は自分の前途が真暗になったような絶望を覚えた。  何とかこの生活から脱け出したいと思うのだが、思うだけで具体的な努力は何もしない。  単純ではあっても、ホテルの仕事は酷《きび》しい。一日の勤務時間が終ると、ぐったりとなって何もする気になれなかった。落とすためにつくられたような司法試験の勉強などを続けるエネルギーはとうていなかった。  それに万一合格しても、二年間の義務修習があり、その後にようやく憬れの資格を取ったとしても、既成法律事務所のイソベンくらいが関の山の弁護士に、以前ほど惹かれなくなった。かといって、何となく棲みついてしまった感じのホテルを飛び出すだけの勇気もない。今さら馴れた仕事を捨ててまで新しい職を探すのが億劫《おつくう》なのだ。今はただ惰性の生活の中に不健康な刺戟だけを探し求めていた。  彼が今、一番やってみたいと思うことは、殺人行為の伴わぬ殺人である。刑法百九十九条に「人を殺した者は、死刑または無期または三年以上の懲役に処せられる」とあるが、この条文のいう「人を殺す」行為は、刺殺や毒殺や絞殺などの定型的な殺人行為であって、社会常識上、人を死なせる可能性のない行為は、殺人行為の定型性を欠くものとして、殺人罪を成立させない。  彼はそういう方法で人を殺してみたかった。これはもちろん例のトカゲ殺しの発展したものである。彼はついに人間を対象にしたくなったのだ。しかし現実にそのような方法が簡単に見つかろうはずがなく、また強いて殺さなければならない人間もいなかった。  ただ想像の中で、何となく虫の好かない人間を葬る方法を、あれこれ思いめぐらすことは、自分の�実力�に相応した待遇をしない社会に対して、復讐をしているようで快かった。  休日に一人下宿の破れ畳に寝転って、殺人行為にならない殺人の手段を考えることは、今の山本にとって最大のレクリエーションでもあったのである。彼はいろいろと頭を絞った。たとえば——  狂人や十四歳未満の子供が犯罪を行なっても責任能力がないから罰せられない。それなら、きちがいや子供を使嗾《そそのか》して、自分が殺したい人間を殺させたらどうか?  これは、そそのかしたことが分れば、他人を利用して自分の犯罪を行なった者ということで罰せられる。それに、利用する人間がきちがいや子供だから簡単にバレてしまうだろう。刑法ではこれを「間接正犯」と呼んでいる。間接でも直接でも罪は同じだ。  こんな手はどうだろう。正当防衛は罪にならない。たとえば殺したいと思うAに凶器を持たせてそそのかし、Bを襲わせる。そしてBの正当防衛行為によって目指すAを殺させるというのは。しかしこれはAがBを殺してしまう危険性もある。それに首尾よくBがAを殺した場合でも、間接正犯が成立する。これもだめだ。  それではこれはどうか。責任能力のない者の行為は罰せられないのだから、自分でそういう状態をつくり出してしまうのだ。たとえば、人を殺す前に酒を飲み、自分を泥酔状態にして殺人をする。そうすれば心神喪失者の行為として罰せられないか、あるいは酒の飲みかたが足りなくとも、心神|耗弱者《こうじやくしや》として罰が軽くならないか?  いや、これも酒を飲む時に責任能力があればやはり罪になってしまう。 「法律というやつは甘くねえなあ」  結局そんなことをぼやきながら、山本はいつの間にかうとうと寝入ってしまうのである。  ところがそのうちにそんな悠長に構えてはいられない事情が発生した。彼にとってどうしてもこの世にいられては困る人物が現われたのである。いや今までもその人物はいたのだが、それが急に彼の生活を脅かす存在となってきたのだ。  だが山本は推理小説的な完全犯罪というものを信じなかった。どんな巧妙なトリック、完璧なアリバイを構築したつもりでも、日本の警察は馬鹿ではない。それは必ず崩される。  それにトリックやアリバイは、犯罪を行なう前後の犯人の保身工作である。そんな�姑息《こそく》な�手段よりも犯罪そのものが成立しない方法を発見しなければ、安心出来ない。  それを発見することは、もはやレクリエーションではなく、彼が生きていく上の切実な条件となった。      3  山本には勤め先で特に親しくしている二人の仲間がいた。その中の一人は島野三郎という。東都大学経済学部を卒業後、鬱勃《うつぼつ》たる野心を抱いて東洋ホテルへ入社した。長い間大学で研鑽《けんさん》した�実力�をようやく社会のために役立てる時がきた。社会もさぞや自分を待ち望み、大学で修めた知識と教養にふさわしいポストを用意してくれているであろう。——という期待は、入社式直後の配属発表でものの見事に破られた。  何と彼の配属は客室《ルーム》付ボーイで、担当の仕事は大学で修めた高邁《こうまい》な経済学などおよそ関わりのない客室の整備(掃除)だった。  それでも最初の間は、新人が一度は通らなければならない修行のワンステップだろうと自分を納得させていた。ところが半年たち一年たちしても一向に異動の気配がない。  入社して一年目の時、島野は、あるショッキングな事件を目撃した。ある朝、ホテルの社長の末松剛造が専用個室にしている|豪華続き部屋《スイート》から、ボーイステーションに電話が入り、怒気を含んだ社長の声ですぐ来いと命じられた。  只事ではない様子なので夜勤明けの島野と折りから出勤して来たばかりの課長が押取《おつと》り刀で社長室へ駆けつけた。  行ってみると、何とそこのトイレが詰まり、黄色い水がトラップから今にも溢れ出さんばかりになっている。 「これを早く何とかせい!」  社長は自分がつまらせた張本人のくせに、こめかみの血管をひくひくさせながら怒鳴った。 「はい、只今。おい、君、早くしたまえ!」  一緒に駆けつけた課長は、社長に対する恐縮と、島野への叱咤を交互にした。  早くしろと命ぜられても、生憎、掃除機はステーションに置いてある。島野が慌ててそれを取りに走り出そうとした時、課長は袖をまくり、使用後のまだ湯気のたっていそうな黄色い汚水の中へいきなり腕をつっこんだのである。腕は救いようのないほどドップリと汚水に浸り、ワイシャツの袖は黄色くぬれた。  島野はそれを目撃した瞬間から、エリートへの道を諦めた。出世出来るなら、他人の排泄《はいせつ》物をつかむぐらいたやすいと思っていたが、現実にその場に直面してみると、とうてい出来る業ではなかった。  それを課長は平然とやった。島野はそこに、エリートへの狭く酷しい道を歩く者と、ロマンチックな野心ばかり旺盛《おうせい》で、実行力の伴わぬ平凡なサラリーマンの差をいやというほど見せつけられたのである。  彼はこうしてまだ二十代半ばの若さというのに、ことなかれ主義のサラリーマンに堕《お》ちてしまった。  もう一人は石川音弥といい、二十四歳、帝都大学英米文学科卒、在学中より、ホテル産業の将来性に着目、学内にホテル研究部を創設した後、卒業と同時に東洋ホテルへ入社、以来二年フロントのキイクラークをやっている。  彼の役目は宿泊客にキイの受け渡しをするもので、全く思考判断を要さない単純労働である。  最初の間は石川もこれを修行のプロセスと信じて耐えていた。だがまもなく、現代の企業システムが人間を修行させるためではなく、能率本位に動くことを知ってから、速やかに自分を磨く努力を止めてしまった。人間歯車としての仕事の中にそんなものを求めること自体が、なまぐさい現場と、学校を混同するものであると悟ったのである。  そうなると仕事は金を得るための止むを得ない�苦役《くえき》�にすぎず、同じ金を取るなら出来るだけ楽な仕事に就《つ》いたほうが得だと考えるようになった。その意味では今の仕事は楽だった。だが生きている感じはしなかった。ただ職場に�居る�だけだった。  出勤してタイムレコーダーの打刻音を聞く時、石川はいつも「今から退社するまで、俺は俺自身でなくなる」と思った。そこには月給で買われた労働力の一単位が、石川の体をかりてあるだけだった。  仕事がはじまったばかりの時に、退社時を、月曜日に日曜日を死ぬほど待ち憬《こが》れていた。学生時代にホテル業へかけた薔薇《ばら》色の夢は、無残に色|褪《あ》せて、今は休日から休日を砂漠のオアシスのように求めて渡り歩く、疲れ切ったサラリーマンになってしまった。      4  この二人に目をつけた山本は、彼らを自分の目的のために徐々に�調教�しはじめた。  彼ら三人がそれぞれの性格も職制も異なりながら、互いの中に�仲間�を感じたのは、会社から認められない疎外感が、一種の連帯となったからである。  そのことが山本の�|作 戦《オペレーシヨン》�にとっては好都合だった。  山本はさらに彼らの疎外感や不満を煽るべく、巧妙にそそのかした。  大体、サラリーマンにとって、気のおけない仲間同士で共通の敵の悪口をいうことは大きな楽しみである。  山本はこの性向を大いに利用して、寄り集まれば、会社や上司への不満や悪口に彼らの話題が集まるように誘導した。  丁度その頃、東京は未曾有のホテルラッシュで業界の生存競争がにわかに酷《きび》しくなってきた。そうでなくとも、東洋ホテルのような大きなスケールになると、従来の日本旅館スタイルの経営ではとうていやっていけない。  利潤の追求と能率原則の下に、社員は容赦なくしめ上げられた。  特に彼ら共通の上司である吉山は、末松社長に心酔している「ああ忠臣サラリーマン」である。彼こそ、社長の「排泄物」をためらわずに掴んだ課長だった。  そのモーレツ課長が社長の進軍ラッパの下に自分の力以上にハッスルして、それを部下に何の緩衝《かんしよう》もおかずに押しつけてきたからたまらない。とりわけ彼がアメリカ経営学からの受け売りで、最近接客部門に実施した「科学的管理法」は総スカンで、部下から殺意を抱かれるほどに怨《うら》まれてしまった。  科学的管理法はアメリカの経営学者、テーラーの提唱したもので、能率を高めるために、作業時間と動作を徹底的に分析し、作業からできるだけ不必要な動作を取り除くシステムである。そして必要な基本動作だけを選び出してこれに要する時間をいちいちストップウォッチで測定する。  かくして勤務時間内から一切の無駄が排除された。サラリーマンはトイレに行くにも、煙草を一服するにも、時計とにらみ合わなければならないムードになった。  吉山はこの管理法に自己流の改良(部下にいわせると改悪)を加えて、仕事内容を徹底的に分業化したために、各人に割り当てられた業務範囲はきわめて狭くなった。  このほうが一人の人間が同じ作業内容を何度も反復するので、習熟が早い。能率が上がる。これを科学的に管理して、勤務時間をすべて必要仕事時間でびっしりと埋めた。 「どんな民主主義社会であろうと、会社は例外なく全体主義だ。最も強い全体主義に徹した会社が競争に生き残れる。民主主義とは国家と国民の関係であって、会社と社員の関係ではない。それがいやなら辞職する自由が残されている」  と吉山は口ぐせのように言った。部下のほとんどすべてが内心反撥した。しかし会社を辞《や》めてもすぐ同じ程度の待遇を与えてくれる職が得られるかどうか自信がなかった。  だからどんなに面白くなくとも、表立って反対する者はいなかった。けんかをすれば負けるのは分っている。会社では歯車でも、とにかく生活の安定がある。サラリーマン的な平穏に馴れ切った身には、自己の�人間性回復�のために辞表を叩きつけても、新生活を切り拓《ひら》くだけの自信も勇気もない。  だからこれが内攻して上司への不満となり、個人的憎悪となるのだが、そのことにかえって自分らの意気地なさを見せつけられる結果となって、ますます救いようのない気持に追いこまれる。  殺したいほど憎いくせに、自分から殺すほどの勇気も情熱もないのはそのためである。  そんな時に、山本は一つの�作為《さくい》�をし、二人の仲間に一つの�業務上の情報�を流したのである。  山本がしたことはそれだけだった。      5  十月初旬の夜、東京、東洋ホテルの十二階の1211号室で殺傷事件が発生した。殺されたのは同ホテルの接客課長、吉山晴男である。一緒に就寝していた宿泊客の大沢伸江が三ヵ月の重傷を負った。  ぐっすり眠っているところを襲われたらしく、吉山晴男は左側腹部と左胸部を登山ナイフで刺され、左腹部刺創と心臓損傷による失血でその場で死亡した。大沢伸江は目を覚ましたのが早かったために、左下腹部に全治三ヵ月を要するS字状結腸切創の傷害を負っただけで、生命は助かった。  犯人は同女の夫の大沢信吾である。犯行後現場付近を刃渡り約十一センチの登山ナイフを持ってうろうろしていたところを駆けつけた同ホテルの保安係《ガードマン》によって捕えられた。  大沢の係官への供述によると、妻の不貞の現場を目撃して思わずカッとなってやったということだった。  典型的な三角関係のもつれによる犯罪である。だが大沢の取調べにあたった所轄署、捜査一係の松岡刑事は、大沢の供述が進むにつれて次第に疑惑を抱くようになった。大沢の犯行であることは、本人の自白がなくとも、犯行後、現場の近くに居た、血まみれの登山ナイフを所持していた(後の鑑定で被害者の血液であることが確認された)、衣服にかえり血を浴びていた、保安係に誰何《すいか》されて逃走しようとしたなどの事実から確定的であったが、現場の情況が大沢の犯行にいかにも都合よく事前に仕立て上げられていたような作為が感じられたのだ。それに吉山本来の部屋が、すぐ隣りの1212だったことも刑事の疑惑をそそった。 「奥さんがホテルに男を引っ張りこんだのをどうして知ったんだ?」  刑事は訊《き》いた。 「後をつけたのです」 「男と一緒に部屋へ入るのを見たのか?」 「いえ、フロントで宿帳を自分で書いていましたから、家内が先着して男を待っていたのです。相手の男がそのホテルの人間とは知りませんでした」 「部屋番号はどうやって知ったのだ?」 「フロントに聞けば、誰にでも教えてくれます。あいつは本名で泊まっていました」  大沢は案外さばさばした表情で答えた。きっと罪の意識よりは、妻を寝取った憎い男を排除したという気持のほうが強いのであろう。彼が一時の衝動によって失ったものの大きさを知るには、もう少し時間の経過を待たなければならない。 「吉山氏を知らなかったのか」 「知りません。部屋に入って初めて見ました。妻はそれほど巧妙に忍び逢っていたのです」  大沢は欺かれていた口惜しさを甦らせたとみえて、唇のはしをゆがめた。 「部屋へはどうやって入ったのだ?」  松岡刑事は大沢の感情など忖度《そんたく》せずに追及した。 「扉は開いていました。ほんの少しだけですが、自動式の扉でしたから鍵がきかなかったのです」 「人妻が男とホテルで忍び逢っているのに扉が開いていておかしいとは思わなかったのか?」 「わずかな隙間だったから気がつかなかったのでしょう。ベッドに入るのに忙しくてね」  大沢はこめかみをぴくぴくさせた。 「吉山氏が奥さんの部屋へ入ったのをどうやって知った?」 「ボーイに金をつかませて見張らせていたのです」 「そのボーイの名は?」 「名前は聞きませんでしたが、顔を見れば分ります」 「そいつは後で調べよう、ところで、部屋へ入った時、二人は眠っていたのか?」 「後で眠っていたらしいことが分ったのですが、その時は二人のからみ合った姿がいきなり目に飛びこんできて」 「思わずカッとなったというわけだな。ナイフはあらかじめ用意していったのか?」 「別に殺すつもりはありませんでした。相手の男をおどすためだったんです。それがあんまりひどい格好をしていたもんですから」  刑事は被害者がいずれも全裸に近かったことを思った。自分の女房が他の男と一糸まとわぬ姿でからみ合っている姿を目のあたりにしたら自分でも平静でいられる自信はない。 「灯《あかり》はついていたんだな」  大沢はうなずいた。  灯がついていなければそんなひどい格好は見えないはずである。松岡刑事は現場に駆けつけた時の部屋の明るさを思い出した。あれが犯行時の情況を忠実に保存したものであるならば、被害者は刺戟を強めるために室内の灯を全部つけて情事に耽っていたことになる。  そういう場面も決して少なくはないが、情事の片割れが、そのホテルに勤めていた人間であったことを考えると、どうにもその情況には無理があるのだ。ましてや、扉がロックされていなかったという事実に至っては……。  松岡はだんだん分らなくなった。思考の働きを止めぬために彼は大沢の�見張り�を勤めたボーイにあたってみようと思った。伸江は受傷による出血多量でまだ面会禁止になっている。  刑事は昨夜から今朝にかけての夜勤にあたったルームボーイを大沢に面通しさせ、島野というボーイをとらえた。 「君が大沢に1211の見張りを頼まれたのだな」 「はい、申訳ありません。別に金が欲しかったわけではなく、大沢さんの様子があまり気の毒だったもんですから」  島野は頭をかきながらも悪びれずに刑事の訊問に答えた。 「いくらもらったのだ?」 「五千円です」 「客の秘密をもらすのは、ホテルマンとしてはいけないことなんだろう」 「すみません」  島野はまた頭をかいた。ホテルのボーイなどにはもったいないような整った顔つきをしている。聞くところによると、このホテルは従業員には良家の子女ばかり集めているそうで、ボーイやメードのはしくれまでほとんどが大学か短大出ということである。 (大学出の氾濫《はんらん》か。時代だな)  訊問の途中で松岡は思った。そして旧制の中学しか出ていない自分を思って憮然《ぶぜん》とした。おそらくはこのボーイも名のある大学を出ているにちがいない。 「そして吉山氏が入って行くのを見たのだな」 「はい、その時はさすがにびっくりしました。まさかあの謹厳な課長が」 「それは何時頃だった?」 「一時半です。時計を見ました」 「扉は中から開けられたのか? それとも、吉山氏が鍵を持っていたのか?」 「たしか中から開けられたようです。課長は全室共通のマスターキイを持っていませんから」 「吉山氏が1211へ入ったのを見届けてから大沢に報《し》らせたのか」 「はい」 「その時間を正確に言ってみてくれ」 「部屋へ入ったのが午前一時半、しばらく待って部屋から出てこないのを確かめましたからそれから二十分ほど後だと思います」  島野の申立ては大沢がガードマンに捕えられた時間及び、吉山の死亡時刻と符合していた。松岡は一人うなずいて質問を変えた。 「課長が入った後�半ドア�だったことに気がつかなかったのか?」 「別に部屋の前までは行かなかったので」 「部屋の前まで行かずに、よくその部屋へ入ったのが分ったね」  瞬間、島野はハッとした表情をしたが、すぐホテルマンらしいポーカーフェイスに戻って、 「ボーイを長くやってますと、位置で大体分るのです」 「君はボーイをどのくらいやっているのだ?」 「三年です」 「君はどこから見張っていたのかね?」 「エレベーターホールからそれとなく見ていました」 「それだったら1211までかなり離れている。とうていドアの上のルームナンバーまで読めない。まして吉山氏の部屋はすぐ隣りの1212だ。どっちの部屋へ入っても、廊下の外れからうかがっていたのではその微妙な差は分らないだろう」 「そ、それは、商、商売ですから」  島野の口調はしどろもどろになった。刑事はすかさずその点を追及したが、島野はすぐに立ち直った。彼は頑として職業だから分ると言い張った。残念ながら刑事はそれを否定するだけの資料を持っていなかった。今の争点に関するかぎり島野の方がプロであった。位置から部屋番号をあてるのは、ベテランのボーイならば充分に考えられることでもあった。 「吉山氏が部屋をまちがえたとは思わなかったのかね?」刑事は一歩譲る。 「思いません。もしまちがえたのなら、当然、自分の鍵で扉を開けようとしたでしょうから。課長は中から開けられることを予期していたのです」 「君は自分の上司の非行を暴《あば》いたことになるね」 「そうは思いません。お金を受け取ったのは悪いと認めますが、ご婦人客の部屋へ不法に侵入した人間を見すごすことはできません。それがたとえ自分の上司であったとしてもです」 「吉山氏は不法に侵入したのかね? 扉は中から開けられたのではなかったのか?」 「法律にはひっかからないかもしれません。しかし、ホテルの従業員が夜間ご婦人客の部屋へ入りこんで出てこないのですから、ホテル側からみれば�不法侵入�です」 「課長の不法侵入は許さずに、大沢が侵入《はい》って行くのは認めたのか?」  刑事は皮肉な口調で追及した。しかし島野は少しもたじろがなかった。彼は完全に立ち直っていた。むしろ、ふてぶてしい笑いすら口辺に浮かべて、 「認めてはいません。私は大沢さんに奥様の部屋へ男[#「男」に傍点]が入った事実を報らせてあげただけです。私は課長が侵入《はい》った後、半ドアということを知りませんでした。大沢さんは鍵を持っていません。侵入《はい》りたくとも侵入りようがないのです。また奥さんが中から開けた扉を、ご主人が入って行くのは不法でも何でもありません。もしこれが不法だったら、世の中のすべての家庭からご主人は閉め出されてしまうでしょう」  島野はなかなか口がへらなかった。刑事はこの男、大学の法科ぐらい出ているかもしれないと思った。  態度に多分に怪しい点はあったが、それ以上追及する手がかりがない。とにかく犯人はあがっている。現行犯である上に、本人の自白も得た。この他に何を追及することがあるのか。  松岡刑事の島野に対する事情聴取が迫力に欠けたのもしかたがなかった。      6  吉山の死体解剖の結果、意外な事実が浮かびあがった。死亡推定時刻は大沢の犯行時刻とほぼ一致していたが、胃内容物より大量の睡眠薬が検出されたのである。逆算推定された服量は、極量以上、致死量に充たない量であった。  更に二日後、面会禁止の解かれた大沢伸江は、吉山を全く見も知らぬ人間であると申し立てた。刑事が、二人は同衾《どうきん》中を襲われたのだと言っても絶対に信じようとしない。  伸江は自分の主張をうらづけるものとして、六ヵ月ほど前からある月賦販売のセールスマンとねんごろになり、夫の目を盗んで東洋ホテルで忍び逢っていたのだと言った。しかし、そのセールスマンの身許だけは決して明かそうとしなかった。  その日もホテルに先着して、�彼�が来るのを待っていたのだが、相手が約束の時間に遅れたので腹を立ててビールを飲んで眠ってしまった。そしてどういういきさつでそうなったのか分らないが、吉山と同衾中を大沢に刺されたというのである。 「あなたは吉山氏が部屋へ入って来たのを全く気がつかなかったのですか?」  松岡刑事は医師の立会のもとに伸江を訊問した。出血多量でまだかなり危険な状態だったので面会時間も限られていた。 「全然、気がつきませんでした」  伸江は力なく首を振った。腹部の傷よりも、不倫がばれて、夫に刺された衝撃が大きいのであろう。 「しかしおかしいですな、あなたが扉を開けなければ誰が扉を開けたんでしょう、吉山氏は合鍵を持っていなかったんですよ」 「ホテルの人だから合鍵ぐらい手に入れようと思えば簡単に入るでしょう、なんという悪質な!」 「かりにですよ、彼が全室共通の鍵を持っていたとすれば、彼の部屋はすぐ隣りの1212ですから、部屋をまちがえた可能性のほうが大きいのです。扉を開けた時点で気がつくはずですがな」 「だから、最初から目をつけていたのよ」 「しかし奥さん、吉山氏は奥さんと同じベッドに寝ていたんですよ。いくらぐっすり眠っていたとはいえ、見も知らぬ男がご自分のベッドへもぐりこんで来たのを全然気がつかなかったというのはおかしいですね」 「でもほんとうなんです! お腹に火のようなものを感じて、目を覚ましたんです。大沢の姿にあわてて廊下へ逃げ出して、駆けつけて来たガードマンの姿にホッと気が弛《ゆる》んでそのまま何も分らなくなってしまったのです。吉山なんていう人がベッドにいたことさえ気がつかなかったわ」 「もう一つおうかがいします。奥さんと吉山氏が刺された時、お二人共、裸に近い状態でしたが、お寝《やす》みになる前、奥さんはそんなかっこうになりましたか?」 「いいえ、寝む前はちゃんと下着とホテルのゆかたを着ていました。あの時のことを考えると恥ずかしくて、あのまま死んでしまったほうがよかったと思うくらい。きっとその吉山とかいう男が、私がよく寝入っているのを幸いに、裸にしてしまったんだわ」 「そうすると奥さんは、見知らぬ男に部屋へ侵入され、裸にされたのすら気がつかぬほどよく眠っておられたことになりますね」 「でもほんとうにそうなんだからしかたがないわ、何か睡眠薬でも服《の》まされていたみたい……」  ここまで言って伸江はハッと気がついたような表情になって、 「そうだわ! きっとその男が睡眠薬を私に服ませたのよ、そういえば寝む前、お風呂へ入ってからルームサービスに注文したビールがいやに苦かったわ、きっとあのビールに睡眠薬をいれておいたのよ、きっとそうよ、そうにちがいない」 「ビールはお好きなのですか?」 「お風呂の後は必ず一本いただくわ」  この習慣を知っていた者として、彼女の夫と、身許不明のセールスマンの二人がまず考えられる。しかし伸江の主張の通りビールに睡眠薬が入っていたとしても、この二人がそれを入れられる位置にいなかったことも確かである。 「しかしそんなビールの空びんは部屋になかったですよ」  刑事は反駁した。 「吉山がかたづけさせたのよ」 「しかしね奥さん」  刑事はものわかりの悪い子供にいいきかせるように、 「吉山氏も睡眠薬を服んでいたんですよ、かりにです、彼がよからぬ目的で奥さんにクスリを服ませたとしたら、どうして彼までが服む必要があるのです? ビールは誰がかたづけたんですか?」 「そ、そんなこと私が知るもんですか。そんな目で見ないで! 私の言ったことはみんなほんとうよ、ほんとうだったら」  話している間に伸江は次第に興奮状態になってきた。医師があわてて面会中止を告げた。心を残しながらも、松岡は部屋を出なければならなかった。  その後の捜査で吉山と伸江の間には全く何の関係もなかったことが分った。  となると、何とも不可解な点が浮かび上がってくる。それらは、——  一、吉山はいかにして伸江の部屋へ入ったか?(1211号室が半ドアになったのは吉山の入室後である)  二、彼は何故、伸江の部屋へ入ったか? 入室後どうして半ドアになったのか?  三、伸江はどうして吉山の侵入を気がつかなかったのか?  四、吉山の胃内容から検出された極量以上致死量に満たない睡眠薬は、どこで服んだのか? 1212及び1211号室には睡眠薬の空びんは発見されなかった。仮に侵入前にどこか他所で服んだとすれば、1211号室へ侵入《はい》った目的は何か?  五、吉山と伸江が大沢に襲われた時は、ほとんど全裸に近かったが、彼ら(正確には吉山の死体)には情交の痕跡はなかった。ならば何故、二人共に裸になったか?  六、吉山の胃内容から検出された睡眠薬量を逆算すると、島野が、吉山の1211へ入るのを目撃したと主張する午前一時三十分頃は、吉山は昏睡状態にあったと推定される。そういう状態にある人間が、どうして他人の部屋へ入り、見知らぬ女のベッドに上がり、自ら裸になったに留《とど》まらず、その女までを剥ぐことが出来たのか?  七、部屋の灯は何故ついていたのか?  八、伸江が注文したビールの空びんは誰がかたづけたのか?  以上の疑問を説明するものとして、  伸江と吉山に別に睡眠薬を服ませておいて、眠ったところで�合流�させる。合流は眠っている吉山を伸江の部屋《ベッド》へ移動させる形で行なわれる。合流後二人を剥ぎ、いかにも刺戟的に絡《から》み合わせた後、ビールびんをかたづけ、灯をつけたまま、扉を半ドアにして逃走する。  そして�お膳立て�の調《ととの》った部屋に女の夫を踏みこませれば、当然無事にはすまない。この事件は夫が犯人ではなく、夫の行為を媒体として�誰か�が自分の悪意を実現させたのだ。その誰かは、これら一連の複雑な工作を行なっている点から部内者と考えられる。 (島野をもう一度しめ上げなければならぬ!)  彼こそその部内者として最も疑わしい位置にある。      7  松岡刑事の追及を逃れ切れず、島野は次のように自供した。 「私は吉山課長から常日頃、仕事の上でシゴかれ、何かの折りに仇討をしてやろうと思っていました。仕事ですから上司から叱られたり、命令を受けるのは当り前のことで、このようなことで怨むのは逆うらみというものでしょう。  でも吉山課長はどんな小さなミスも決して容赦せず、人を全く無能者呼ばわりするのです。月給泥棒と罵《のの》しられたこともあります。大学まで出た一人前の男が泥棒だの、無能だのと言われたのです。刑事さんにはこの口惜しさが分りますか? どんな人間だって完全な者はいない。それが、課長は部下に絶対の完全性を要求する。よし、それならばこっちも課長の不完全なところを暴き出し、衆目に晒《さら》してやる。  こんな考えになって課長をつけ狙っていたのですが、さすが部下に厳しいだけあってすきがない。じりじりしているところに大沢さんが課長の宿直室の隣室へチェックインしたのです。その直後に大沢さんのご主人から�見張り�を頼まれました。1211にルームサービスの注文《オーダー》を取りに行った時、奥さんが待ち合わせの相手らしい人に電話をかけていて[#「電話をかけていて」に傍点]、どうやら相手の都合が悪くなって来られない様子が分りました。いえ、先方からかかってきたのではありません。ダイアルしているところを見ましたから。  がっかりしておられる奥さんを見た時、奥さんと課長の二人に睡眠薬を服ませて同じベッドに寝かせたところを、ご主人に踏みこませたらという考えが閃いたのです。課長は神経質でいつも寝る前にビールで睡眠薬を服む習慣があり、ビールを運んでいくのは、私ですから、こちらを眠らせるのはわけがありませんでした。奥さんのほうも丁度注文されたビールにクスリを仕掛けました。  まさかあんなことになろうとは夢にも思っていなかったのです。課長に赤恥をかかせるのが目的でやったことです。それ以上の悪意はありません」といって島野はうなだれた。 「1211と1212号室へはどうやって侵入《はい》ったのだ? 主任の話ではお前は合鍵を持っていない」 「ドアオープンの名目でフロントの予備《スペア》キイを借りました」 「ドアオープン?」 「ホテルのキイは自動錠《フルオート》ですから、閉じるだけで中からは開きますが、外からは開けられなくなります。お客様の中にはうっかりキイを部屋の中へ置き忘れたまま、外から扉を閉めて、入れなくなってしまう方がおります。こういうお客様のためにスペアキイで扉を開けることをドアオープンと呼んでいます」 「キイをよこしたフロントの名は?」 「は……石川といいますが」  松岡刑事がすばやく手帳に書きとめるのを見て、島野はやや慌てた口調で、 「でも彼はほんとうにキイをよこしただけなんです」 「どうしてわざわざそんなことを断わるんだ?」松岡は目をキラッと上げた。 「そ、それは彼をかかりあいにしたくないからです」  島野はますますどもった。 「かかりあい? 誰もそんなことを考えちゃおらんよ。それをわざわざ断わられると、それではかかりあいがあったのかと勘ぐりたくなるね」 「わ、わたしはただ……」 「もういい、分った。とにかく石川君に会ってみよう」  唇のはしをひくひく震わせて言葉につまってしまった島野をその場に残して、松岡はフロントに向かった。  石川は、若いくせに、表情の乏しい、いかにも疲れたような感じの男だった。刑事の質問に答える言葉も何となく投げやりで、声に張りがない。  刑事は石川から島野の言葉のうらづけを取った後、 「あなたのお仕事は、鍵の受け渡しと、それから何ですか?」と訊いた。 「それだけです」 「えっ? それだけというと鍵の受け渡しだけ?」 「そうです。小さなホテルですと、フロント係は、お客の|受付け《チエツクイン》から、伝言《メツセージ》の伝達や、郵便物《メール》の送受信などすべて行ないますが、このように大きなホテルとなりますと、フロントの中がさらに分業になっています。そのほうが能率的なんですよ。何でも科学的管理法とかいいましてね。それぞれが割り当てられた専門の仕事だけに専念して、仕事の中からできるだけむだなものを排除するというやり方らしいですよ」  石川は無気力に言った。 「それでは客室を客に割りふるのは、誰の役目ですか?」 「ああそれはレセプションといって、このカウンターの一番左はしにいる連中です」 「大沢伸江さんに1211号室を割りふったのは、誰ですか?」 「山本君ですよ。彼が昨夜|部屋割り《アサイン》した後、吉山課長の隣りの部屋に大沢という婦人客を入れたと言ってましたから。あの金仏の課長の隣りならどんなグラマーを入れても安全だと思っていましたが、ちっとも安全ではなかった」 「その山本君がわざわざあなたに、『大沢さんを課長の隣室に入れた』と教えたのですか?」 「そうです」 「それは業務上、特にあなたに連絡しなければならないことになっているのですか?」 「お客様のルームナンバーは案内係《インホメーシヨン》には必ず連絡することになっていますが、キイ係には別にしておりません」 「山本君が特に大沢さんの部屋番号だけをあなたに教えたのをおかしいとは思いませんでしたか?」刑事は目の光を強めた。 「いいえ別に、業務上の連絡義務はありませんが、何号室に誰が入ったということは、時々話題にすることがありますので」  石川の言葉には全く表情がなかった。この男は�科学的管理法�とやらに縛られて企業の歯車として動いている間に、心までが機械のように無機質になってしまったらしい。 「島野にはどうですか?」  刑事は質問の方向を変えた。 「彼は客室《ルーム》係ですから必ず連絡します。何号室にどなたが入ったのか客室係が知らないようではサービスになりませんからね」 「1211号室は島野の担当ですか?」 「そうです」 「ところで、山本君は、今フロントにいますか?」 「客室とフロント関係の昨夜の夜勤者は全員残るようにいわれております。ああ、あすこの背の高いやせた男です。専務令嬢にホレられましてね、近く結婚することになっている運のいい奴ですよ。間もなく僕らが足もとにも寄れない雲の上の住人になる」  その時だけ石川のポーカーフェースに表情のようなものがチラと動いた。この�歯車人間�にも同僚の異例の出世は羨しく映るものなのか。松岡は石川の語尾を何気なく聞き流して、彼のさした指の先へ目を向けた。  その指先の延長線に一人の男がタイミングよくこちらを向いて、松岡と視線を合わせた。  男は、いかにも接客業者らしい訓練された笑顔を浮かべて、軽い会釈を送ってきたが、刑事の目にはその笑顔がひどく酷薄なものに映った。      8  石川から山本へ向かった松岡刑事は、まず大沢伸江に1211号室を割りふったのは何か特別な理由があってのことかと訊いた。  それに対して山本は、  ——伸江の予約が六千円程度のダブルをということだったので、たまたま空いていた1211号室を|割りふり《アサイン》したまでだ——といささかも悪びれずに答えた。  さらに、  ——吉山課長の隣室ということは意識したか?——と追及すると、  ——社員が使う部屋を社《ハウス》 用《ユース》と呼び、客の入込《いりこみ》状態によって毎日変るものであるから、特に意識しない——と平然と答えた。  山本の言葉には、何のよどみもみられなかった。松岡刑事はそれ以上彼を追及する手がかりがなかった。  その日、島野一人が家宅侵入および業務上過失致死傷容疑(特に後の罪の成立はきわめて疑わしい)で逮捕された。犯人はすでに現行犯で逮捕されている、事件はこれで落着した。  しかし松岡刑事の胸の底には何か釈然としないものが澱《おり》のようによどんでいた。  彼はその澱を消散させるために、その後も手弁当で、山本の周辺を洗いつづけた。  凶悪犯罪の発生があいつぎ、予算と人数に限りがある中で、そのような�道楽�は許されない。しかし松岡は道楽を捨てることができなかった。  島野—石川—山本とたぐった線には、必ずや、業務以外のつながりがある。  島野の、石川の名をあげた後の異常な狼狽、石川がさした指のかなたにタイミングよく振り向けた山本の微笑、その一連の符合には必ず何らかの作為があるはずだ。  作為の疑念は、さらに彼らの供述にあったいくつかの矛盾を浮かび上がらせてきた。  まず第一に島野は、ドアオープンの名目で石川から1211と1212の鍵をもらったと言ったが、伸江はとにかく、ホテルの接客課長ともあろう吉山が、ドアのフルオートであるのを忘れて閉め出されたというのは、どう考えてもおかしい。これは島野が鍵を入手するための口実にちがいないが、石川は当然それを見破ってよいはずである。それにもかかわらず、唯々諾々《いいだくだく》として鍵を渡した。それは何故か?  次に伸江の申し立てによると、逢いびきの相手が約束の時間になっても現われないので、電話をかけたところ、相手の都合が急に悪くなり遅れると言われたので、腹を立ててビールを飲んだということだったが、会計を調べてみても、当夜1211号室から外部へ一回も発信されていない事実が判った。  東洋ホテルではダイアル直通区域とは交換台を経由せずに、部屋から直接ダイアルして通話できるしかけになっているが、その際、通話度数が会《キヤツ》 計《シヤー》のメーターに記録される。  もちろん直通区域以外は、従来通り交換台を経由するが、その夜のデートの相手が直通区域外にいるというのは無理がある。第一、交換台にも発信の記録はなかった。  被害者は電話をかけているのに、メーターがゼロ。被害者がうそをつくはずがない。何故なら被害者のデートの相手はついに現われなかったのだから。メーターはこわれていなかった。これは一体どう解釈するか?  その矛盾を説明できる場合が一つだけある。それは内線電話の場合である。ホテルの中から中へ電話《コール》するのに料金はかからない、つまりメーターは上がらない。そしてその内線の相手方として最も強い可能性をもって浮かび上がる人物が。——  松岡は寸暇を盗んでの手弁当の捜査だったので、見込捜査に踏み切ることにした。足で集めたデータの積み重ねの上に合理的に犯人を割り出すのではなく、刑事のカンによってマークした容疑者を徹底的に追及する捜査法である。  危険ではあるが、年功を積んだ刑事がやると、下手な「科学捜査」より精度の高い場合が多い。  松岡の執拗《しつよう》な捜査の結果、次のような意外な事実が浮かび上がってきた。  一つは山本が大沢伸江にアサインした部屋は、扉がかたくて、自動錠が作動しにくかったので、客がたてこんでいる時以外は、提供しないようにしていたことである。  そしてあの夜は、東洋ホテルはあまりこんでいなかった。1211と同種の部屋はほかにいくつも空いていたのである。  第二に、伸江と山本との間に肉体関係があった事実である。内線電話の線から伸江の相手をホテル部内者と見込んで、数人の写真の中に入れて山本と石川の写真を伸江にみせたところ、山本に著しい反応を示したので、問いつめると、遂に関係があった事実を認めた。  知り合ったのは一年ほど前で、最初はおたがいに軽い浮気のつもりだったのが、最近は女のほうが熱くなって男を追いかけていた。  情痴に狂った中年女の深情《ふかなさけ》は恐い。本来ならば人妻である伸江が弱い立場であるのに、夫も家庭も捨てる覚悟で、山本に入れあげていた。  ここにおいて、松岡が何気なく聞きすごしていた山本の�玉の輿《こし》�が有力な傍証として浮かび上がってきた。  自分の出世のツルを掴むために伸江は大きな障害となる。山本に初めて動機が生じたのだ。  さらに探査の結果、山本が私立探偵を雇って大沢信吾の性行調査をさせたことが判った。  その事実が割れた時、刑事は、山本が仕組んだ完全犯罪のシナリオを読んだ。  しかし読めたというだけで、山本には指一本触れられないこともよく分った。  刑事が今までせっせと蒐《あつ》めた資料をもってしても、山本はビクともしない。松岡は敗北を覚悟の上で、山本の許へ再び出かけて行った。      9 「今日はまた何か?」  と如才ない笑顔で迎えた山本と石川であるが、その接客業者としての洗練された応接の中に、刑事に対する身構えがうかがわれた。 「今日はあまりお手間を取らせません。お二人ともちょっと時間を割《さ》いていただけませんかな」  松岡刑事のしごくさりげない口調の中に有無を言わせぬ圧力があった。三人は客の影の少ないロビーの奥で向かい合った。 「ちょっと新しいことが分りましてね」  刑事は言うと二人を焦《じ》らすようにいこい[#「いこい」に傍点]にゆっくりと火をつけ、美味そうにくゆらせた。 「新しいことってどんなことですか?」  あまり悠々と煙草を喫《ふ》かしている松岡に、石川がとうとうたまりかねて聞いた。 「いえね、大したことじゃありませんがね、まず石川さんにうかがいましょう。あなたは島野にドアオープンということで1211と1212のキイを渡したのですね?」 「そうですが」不安の翳《かげ》が石川の表情をよぎった。 「ドアオープンというのは、お客が自動錠であるのを忘れて、キイを室内に置き忘れたまま外へ出て、閉め出された時に開けてやることでしたね?」  刑事の声はべっとりとからみつくようだった。 「そうですが」石川の表情にますます不安の色が募った。 「初めて島野からそのことの説明を聞いた時は、気がつかなかったのだが、吉山さんも閉め出されたというのはおかしいと思うんですがな」 「…………!」 「大沢伸江さんのドアオープンというのは分るが、接客課長ともあろう者が閉め出されたとは絶対におかしい。島野があんたから鍵を取るための口実なんだが、石川さん、あんたそれを変だと思わなかったかね!?」  松岡の口調が次第に鋭くなるのと反比例して、石川の顔から血の気が失せ、身体が小きざみに震えてきた。 「あんたは島野のうそを知っていながら、キイを渡した。そうだろう、え、そうなんだな!」 「…………」 「どうしてそんなことをしたんだ、おかげで罪もない人間が一人死に、一人が重傷を負った」 「すみません、まさかあんなことになろうとは思ってもいなかったんです……ただ……ただ課長が憎かったので、島野に頼まれて、ついキイを渡してしまったんです。ほ、ほんとうです。まさか人殺しが出ようとは、僕は、僕は」  石川はとうとう泣き出してしまった。 「そんなに気に病むことはないさ、石川。お前はキイを不法に渡しただけだよ、殺人の故意など毛頭なかった。精々、住居侵入の従犯だ」  山本が平然とした口調で言葉をはさんだ。 「そうだった、山本さん、あなたは法科出身でしたな」  松岡は目を光らせて、山本の方を向いた。 「山本さん、新しい事実、いや疑問は、あなたに関してもいくつかあがっているのですよ」 「ギモン? ほう、それは面白い、ぜひお聞かせ願いたいですね」  山本の態度は泰然自若たるものだった。頬にはうすら笑いすら浮かべている。  松岡はまったく反応のない相手にいらだたしい思いをおぼえながら、切り札を投げつけるように、メーターがゼロであったことと、1211が故障部屋であるにもかかわらずアサインされた事実を指摘した。 「1211と同種の部屋は他にいくらも空いていた。それなのにあなたは1211を伸江さんに割りふった」  松岡の口調は次第に鋭くなった。しかし山本は薄笑いしたままついうっかりしていたとうそぶいた。 「うっかりね、それもいいでしょう。我々[#「我々」に傍点]はここ数日の捜査で、大沢伸江さんの浮気の相手が、山本さん、あなただということを突き止めました。あんた方は一年ほど前に知り合ってからちょいちょい外で逢っていた。そのうちあんたが伸江さんの呼び出しにあまり応じなくなったので、伸江さんのほうからあんたの夜勤の時ホテルへ押しかけて来るようになった。こうなるとあんたも逃げ回ってばかりいられない。ホテル勤めというやつは、こんな時、便利のようでいて不便だ。あんたはおっかなびっくりに勤めの時間を盗んでは、客室で伸江さんと逢っていた」松岡は自分のカンから手弁当で洗ったことを山本に悟られないためにわざと「我々」と複数で言った。 「大した推理ですね、しかし残念ながら�邪推�です」  山本の口調は依然として平静そのものだった。ただ、頬に心なし赤味が加わったように感じられる。 「我々は被害者が内部に電話した事実から、相手の男がホテル内部にいると考えた。そしてあんたが島野の担当する十二階の1211号室を故障部屋であるのを承知で伸江さんに割りふった事実に作為を感じた。この二つの相関から、我々が内部の相手としてまずあなたをマークするのは当然の成行きだろう。最初の間、伸江さんは否定していたが、あんたの写真を、何人かの全く関係のない者の写真の間に入れて見せたところ、著しい反応を示した。そこで追及したところ、とうとう相手があんただと供《きよう》 述《じゆつ》したよ」 「馬鹿な! そんな女の一方的な主張が何になる」 「大沢伸江さんは昨夜流産した。三ヵ月だった。胎児の血液型はAB型だった。伸江さんはB型、大沢はO型だから、大沢の子でないことは確かだ。そしてあんたの血液型はA型だったな」 「ふん、同じ血液型の男はいくらでもいる。そんなことで父子《おやこ》関係を設定されたんじゃあ一体何人ぐらい子供ができることやら」  山本は唇の端をゆがめて笑った。柔和な接客業者の顔が、そのわずかな表情の変化で驚くほど酷薄になった。      10  松岡刑事は構わずに続けた。 「あんたは今、このホテルの専務令嬢と縁談が起きている。あんたは伸江さんが邪魔になってきた。単に厭《あ》きたというのではなく、下手に騒がれれば、折角の�玉の輿《こし》�をふいにする。東洋ホテルにもいられなくなる。かといって女を直接殺すほどの馬鹿でもない。  こうしてあんたは毎日、この邪魔者を排除する計画に頭を絞った。そしてとうとう天来の妙案を考えついた。  その頃、吉山課長は科学的管理法とかいう人間酷使のシステムを実施して部下からひどく怨まれていた。あんたも仲間の島野も石川も、アンチ吉山の旗頭だった。あんたはこれを利用して、吉山氏を失脚させるようにみせかけながら、実は伸江さんを排除しようと計画したのだ。あんたは自分自身の�大沢研究�や、伸江さんの話によって病的なまでに潔癖な大沢の性格を知った。あんたが興信所を使って大沢の性行を調べさせたことも分った。  もし浮気の現場を大沢が見たら絶対に只ではすまないことを、あんたは事前に知っていたんだ。  このような資料を積み重ねた上で、あんたは、大沢が伸江さんを疑い出すように徐々に工作していった。ヘアスタイルを変えさせたり、化粧の指図をしたのもあんただ。こうして大沢の疑惑を最高に高めたところで罠を張った。大沢が張ったつもりの罠は、実はあんたが周到にしかけておいたものだった。  大沢が四日間の出張をすることを伸江さんから聞き知ったあんたは、すぐさま、大沢の勤め先に問い合わせて、それが彼の罠であるのを見破った。  こうして�出張�の二日目、吉山氏の当直と島野と石川の出番が一致する夜をえらんで伸江さんをホテルへ呼び寄せた。その後をつけて大沢が、自分の張ったつもりの罠が逆に自分を陥るために仕掛け直されたとも知らず、おびきよせられて来た。すべては計算通りだった。  あんたはほくそ笑みながら、伸江さんを吉山氏の隣室へアサインした。後は島野と石川にちょっと暗示を与えるだけでよかった。教唆《きようさ》とはいえぬほどの小さな暗示をな。  課長の隣室に、不倫の人妻が入っている。課長は睡眠薬の常用者だ。相手の男が来なくて人妻はいらいらしている。彼女を監視している夫、ルームサービスのビール、あんたは伸江さんが風呂の後、ビールをルームサービスさせることまで計算に入れていたはずだ。島野と大沢は必ず接触する。さて、これだけ揃ったお膳立ての中に島野をほうりこめば、当然何らかの反応を示すだろう。暗示は教唆となるほど大きなものであってはならない。もしこれで島野がひっかかってこなければ、それはそれでよい。もともと自分自身で手を下すつもりはないのだからな。また別の罠をいくらでも仕掛けられる。  しかし島野は長い間の�調教�のおかげで、簡単にひっかかってきた。彼がひっかかれば、石川も連鎖反応的にひっかかる。単純に上司を憎む島野と石川はあんたのいい道具になってくれた。二人は憎い上役に日頃の怨みをいっぺんに晴らせるというので、むしろ自分たちがイニシアチブを取ったつもりで、偽りの浮気の現場を造り上げた。  実にうまい手を考え出したものだ。上役をやっつけるようにみせかけて、実は、自分の出来心の浮気相手で、今は出世の妨げとなった女を一挙に取り除こうとしたのだからな。しかも実際に手を下したのは女の夫だ。精々不審を持たれても、女と一緒に殺された吉山の線どまりだ。大沢信吾は、吉山を失脚させるために、島野と石川に利用されたのにすぎなかった。——このあたりまでが警察の追及の限界だろうとな。  しかし島野と石川もあんたの道具にしかすぎなかった。しかも道具にされたことすら気がつかない。  俺はこの道に入って三十年になるが、つくづくあんたの悪知恵には感心するよ。殺人の実行をした人間が——俺はあえて犯人とは言わん——道具のそのまた道具だったとはね。しかも道具のそのまた道具が、殺人を実行するのに最も自然な位置にある。あんたの唯一の誤算は、道具の島野が睡眠薬の分量をまちがえて、吉山のほうに多く盛ったために、道具の道具(大沢)が殺して欲しい大沢伸江さんを殺しきれなかったことだ。  しかし俺は自信を持って言える。吉山晴男氏と大沢伸江さんを殺傷した真犯人はあんただということをな。何故ならあんたには、島野と石川と組んで吉山氏を失脚させる理由がないからだ。あんたは近い将来、吉山氏など軽く追い越せる身分にあった。  一見、無関係に見える吉山氏と伸江さんを組み合わせて、それに一つの犯罪を加え《させ》た場合、一方の吉山氏に対する動機が失われれば、目的は残りの一人、つまり伸江さん以外にない」 「さすがは捜査一係の腕きき刑事ですね、よくもそこまでこじつけたものだ。邪推もそこまでいけば芸術的です。それではうかがいますが、一歩譲って、大沢伸江さんとの関係を認めたとしても、私が一体どんな犯罪行為をしたというのですか? 私は誤って故障室を大沢伸江さんにアサインしただけです。どのように拡大解釈しても、それを殺人の構成要件にあてはめることは無理でしょう。  興信所に大沢氏の性行を調べさせたとのことですが、かりにそのような事実があったところで、自分を追いかけ回す人妻の夫に興味をもつのは当然でしょう。嫉妬に狂って人を簡単に殺傷するような危険な男だ。予防のつもりで相手の性行を調べても少しもおかしくはない。人は誰でも自分自身を護る権利がありますからね。  いいですか、吉山課長と大沢伸江さんを殺傷したのは伸江さんのご亭主ですよ。しかもどう逃れようもない現行犯だ。私はそれに対して何の関係もしていない。すべては刑事さんの推測だけです。  私は吉山課長が実施した科学的管理法に従って、仕事をしただけです。自分の担当業務以外は何もしておりません。もしこれが殺人行為に該《あ》てはまるのでしたら、科学的管理法を起訴していただくことになりますね。更にもう一歩大きく譲って、部屋の誤《ミス》アサインが殺人行為に該当すると天文学的な拡大解釈[#「天文学的な拡大解釈」に傍点]をしても、私は過失致死罪でしょうね。私は、只今刑事さんが仰有ったように吉山課長に対しては動機がない。従って殺意もない。はは、あ、そうそう、ついでに教えてさし上げますが、ホテルではお客様のお部屋番号は特にお客様ご本人から差し止めの要望がないかぎり、公表されることになっております。だから私が大沢伸江さんの部屋番号を島野君や石川君に教えることは全くさしつかえありません。また私が教えなくとも、彼らは部内者ですからいくらでも知ることが出来ます。お分りですか」  山本は唇のはしだけで薄く笑いながら言った。      11 「あなたの仰有る通りです」  松岡刑事は言葉を改めた。その事実がすでに彼の敗北を語っていた。 「我々はあなたと、島野、石川の間に具体的な共同謀議といえるものを発見出来ない。辛うじて島野と石川に吉山氏に対する悪意を認めたが、殺人の意志は全く見つけられない。法律的には吉山氏を失脚させる目的で、殺傷の結果を、しかも他人の介入によって発生させたのですから、錯誤や未必《みひつ》の故意の問題にもならないと思います。いわんや、島野、石川の背後にいるあなたには、我々はどう手の下しようもない。  大沢との間に共犯関係も認められない。間接正犯という概念もあるが、これは他人の正当防衛や狂人を利用する場合で、あなたにはあてはまらない。  あなたはそのことをよく承知していた。残念ながら私は現在の法律ではあなたを捕えることは出来ない。しかし、捜査官の中には、あなたを殺人者として見ている者があるということを知らせに、私は本日やって来たのです。島野と石川は家宅侵入と業務上過失致死容疑で送検します。  いずれあなたの所へも私は必ず戻って来るでしょう」  刑事は立ち上がった。 「喜んでお待ちしております、しかし残念ながらそういう形でまたお目にかかれるときは決してないでしょうな。どれ、そろそろ仕事に戻らせてもらいましょうか。科学的管理法の眼目は、仕事の中から出来るだけ不必要な時間[#「不必要な時間」に傍点]を排除することにあります。ははは」  山本はその時初めてたっぷりと笑った。  それから二週間ほど後、松岡刑事は人の噂から、山本が、人妻との情事が露顕して、�玉の輿�に乗り損ったことを知った。  しかし刑事の敗北感は癒《いや》されなかった。 「それならそれで憎い上役を一人葬り去ったことになる」とうそぶいている山本のふてぶてしい顔が瞼に浮かんだからである。 [#改ページ]  公害殺人事件 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]    不知火海に有機水銀があり、神通川にカドミウムが流れる。都会は亜硫酸ガスで包まれ、四エチル鉛の排気ガスがまき散らされる。    日本人——あなたは兄弟が脳をおかされ、手足がしなび、イタイイタイと叫びながら死んでいるのに、公害に文句をつけようとはしないのか。 [#ここで字下げ終わり] [#地付き](サンデー毎日 昭和四十五年六月二十一日号 公害戦争の敵と味方)      1  群馬県|安西《あんざい》市は、上信越線の分岐点である高崎から西へ約十キロ、信越線で十五分ほどの、新市制によって周囲の農村を合体して市になった人口四万の小さな町である。  中仙道の有力な宿場町として発展し、新市制によって合体した村は、安西宿の助郷《すけごう》としてともに栄えてきた。信越線の開通とともにこれらの機能をうしない、養蚕業の中心となった。養殖鯉と梅も特産にもっている。  しかしこの何の変哲もない町を、全国的にクローズアップしたのは、養蚕や鯉ではなく、安西駅の南の傾斜地にある�東洋亜鉛�安西製錬所である。  東洋亜鉛は、電気亜鉛、電気鉛の生産では業界トップ、世界でも第二位という優良会社である。最近増強した鉛と電解鉄設備が稼動するうえに、亜鉛、鉛中心に全般的な値上がり傾向なので、会社の鼻息は荒い。  それのドル箱工場が、安西製錬所であった。  この製錬所の周辺の住民から、指の関節が曲がったり、�神経痛�を訴える者が続出したので、安西保健所と市内の開業医が協力して診察をしたところ、神経痛やリューマチではなく、一種の重金属汚染であることがわかった。さらに彼らの尿中から多量のカドミウムが検出されるにおよんで、事態は急に緊迫した様相を呈した。  神通川流域に次ぐ、第二のイタイイタイ病地区として事態を重視した厚生省は、専門学者で構成している〈微量重金属調査研究会〉に依嘱《いしよく》して、患者の精密検診を行なったところ、これまでのイタイイタイ病の原因と考えられていたカドミウムのほかに、鉛、亜鉛、銅などの重金属が相乗作用して、中毒症状を一層ひどくしている、�重金属複合汚染�と診断され、東洋亜鉛製錬所の廃棄物と因果関係があるという結論を出した。  患者の検診と同時に製錬所周辺の土壌や産米の検査が行なわれ、何と最高一・一五PPMものカドミウムが検出された。  調査団の発表と同時に地元被害者による〈安西公害対策被害者協議会〉を結成し、被害の補償と、公害防止の早急な対策を、東洋亜鉛に強く申し入れることになった。      2  東洋亜鉛安西工場の岩井順吉が、死体となって発見されたのは、五月二十四日の早朝である。  場所は製錬所の近くの桑畑の中である。発見者は地元の農夫だった。  町への最短の近道となっている桑畑の中の小道をやって来た農夫は、ふと視野の外れにうつむきに寝ている人間の姿を見つけて、恐る恐る近づいたところ、頭部を血まみれにして、カッと目を剥き出して死んでいる男を見出し、仰天《ぎようてん》して駅前の派出所に報《し》らせてきた。  時をおかず現場へ急行した安西署の捜一係の刑事と、現場鑑識の一行は、まず死体がこの町では�有名人�である、東洋亜鉛製錬所長の、岩井順吉のものであることを認めた。  頭部を鈍器で撲《なぐ》られたとみえて、裂傷がある。そこから頭蓋《ずがい》内実質が飛び出し、血潮が顔面を染めている凄惨な死体だったが、唇と眉が厚く、顴骨《かんこつ》の張ったいかにも欲の深そうな造作は、ほとんど損傷されていない。遺族による遺体の確認をまつまでもなく、岩井のものであることはわかった。死体はまだ新鮮で、鑑識は殺害後いくらも時間が経っていないとみた。  現場およびその周辺が綿密に検《しら》べられたが、凶器は発見されなかった。  現場検証が終わると、死体は司法解剖に付せられることになって、安西署のうら庭へ運ばれていった。大都会の警察とちがって、警察専門の病院や、鑑定嘱託すべき大学の法医学教室といったような気のきいた設備はない。  署のうら庭に古い事務机を並べてつくった即席解剖台の上で、嘱託の警察医が執刀するのである。死体はまだ新鮮だったが、暑い盛りで、ハエが死臭を敏感に嗅ぎ取って群れ集まってくる。  それを警官にうちわで追いはらってもらいながら頭腔、胸腔、腹腔と切り開いていくのだ。  解剖と併行して、被害者の足どりが調べられた。  捜査の結果、昨夜二十三日午後八時ごろ、町の公民館で行なわれた地元民とのカドミウム公害をめぐる補償についての�団交�に出席し、交渉が決裂して席をけって立ったのが、午後十時ごろで、その後、彼の姿を見た者のないことがわかった。  従って、公民館を出た昨夜午後十時から、今朝死体となって発見されるまでの間に殺されたものである。このことは、現場鑑識が創傷や死後硬直の状態などから応急に推定した死亡時間と符合するものだった。  二十四日午後、解剖による結果が出た。それによると——  死因は、棍棒あるいは鉈《なた》のみねのような鈍器の殴打によって硬脳膜の血管が破れてできた血腫による脳圧迫、死亡推定時間は、二十三日午後十一時から一時間とされた。  解剖によっては、現場観察以上のものは発見されなかったが、被害者は日ごろから腕自慢で、(自称柔道二段)ある程度は犯人に抵抗しているはずであり、何か犯人のものが付着しているかもしれないという見込みから、全身を検べた結果、被害者の指の爪先から微物が採取された。  これをセロハンテープでガラス板に固定し、安西高校化学教諭、野本大助氏に鑑定が嘱託された。野本教諭の顕微鏡検査の結果、この微物の中から、えんじ色の人絹《レーヨン》単繊維が多量に検出されたのである。  捜査員一同が、この繊維を犯人に結びつけて考えた。  同日午後、安西署に開設された捜査本部に繊維業者が呼ばれて、これがどんな衣料に使われているか問い合わされた。  その結果、最近、若い男の間に流行してきた長袖の丸首シャツのものではないかと推定された。 「このへんの若い男は、みんなそんなシャツを着ているぞ」  安西署のベテラン捜一係の刑事、杉田伝兵衛は、太いげじげじ眉をしかめた。捜一係といっても、小さな田舎署のことであるから、事件が発生すれば二係も三係も兼任する。 「しかしな、デンさん、たかだかこれだけの町だ。そんなシャツを着てヨタッているやつは、大した数じゃあるまい」  元気づけるように言ったのは、本部の事実上捜査の指揮をとる東《あずま》捜査係長である。 「現に着ていなくとも、買ってもっているかもしれませんね、犯人が犯行時身につけていたシャツを今でも着ているとは考えられません。こうなったら町の洋品店をしらみ潰《つぶ》しにあたってみます。しかし、高崎や東京あたりで買われたんじゃお手あげです」  こうして、えんじ色の丸首シャツの捜査が開始され、現場近くの農家や製錬所工員の寮などから、えんじ色のシャツ類が次から次にもちこまれて、捜査本部はクリーニング屋の店先のようなおもむきを呈した。      3 「東洋亜鉛なんか爆弾しかけて、吹っ飛ばしてやりてえ」  伊三次は、桑畑越しに白い煙をもくもくと吹き上げている製錬所の煙突を、憎悪をこめた目でにらんだ。彼の憎悪をせせら笑うように、製錬所は公害が問題になったあとも、設備拡張をつづけている。 「この米がのう、カドミウム入りの米とは知らなんだ、もう何十年も食ってきたこの米がのう」  そのかたわらで、伊三次によく似た顔つきの老人が、見事に皺《しわ》を刻んだ手のひらからまだ土の香が匂うような玄米をパラパラと落とした。 「一生懸命につくった米だにのう……」 「父《と》っつぁん、これからどうするつもりだ。おふくろはイタイイタイで寝たきりだし、父っつぁんも指が曲がりかけている。農林省じゃ一PPMより下でも汚染米はいっさい配給にまわさないってきめたそうだ。向こうの田んぼは放っといても補償金が入るけど、こっちはあぜ道一本で線引かれて、何ももらえねえ。金は入らねえ、米も野菜も食えねえ、おれたち百姓はどうしたらいいだ?」  伊三次に問われても父親によい思案のあるはずはなかった。二人は大きなため息を吐き、暗い目を製錬所の白煙に向けた。絶望の大きさが伊三次の怒りを圧倒していた。  大山伊三次の家は、安西市野沢地区の農家で、製錬所のすぐうら手に三反(三十アール)ほどの水田と畑をもっていた。ところが、この二月ごろから神経痛を訴えていた老母が、市の保健所によってイタイイタイ病と診断され、同時に製錬所を発生源とする鉱毒によって、作物が汚染されているという通告を受けた。  さらに東京からくりこんで来た調査団の分析鑑定によって伊三次の家の米は、〇・九九八PPMのカドミウムを含有していると報告された。これは米だけのことであって、野菜や麦や桑などは、どの程度汚染されているのかわからない。  厚生省では安西市を要観察地域に指定して、玄米のカドミウム安全基準を一PPM未満としたが、これはもとは同省公害課が、汚染地域の農家保有米を食べてよいかどうかの一応の目安としたもので、その算出方法も、労働衛生関係のデータを参考にしただけで、動物実験によるものではなかった。  もともと食品の基準を決めるのは食品衛生課であるが、カドミウムの毒性研究をまったくしていない。これからそれを調べるとなると、結果を得るまで最低二年はかかる。  カドミウム汚染地域をもつ各県からは「どの程度の汚染なら食べられるのか、その基準を早く示せ」とやいのやいのせっつかれて、公害課が法的強制力のある許容基準が出るまでとうてい待っていられない、と暫定的に示した安全基準なのである。  ところが農林省では、一PPM未満であっても汚染地域の産米は、いっさい配給にまわさないという方針を打ち出した。  これは汚染対策として前向きの姿勢であり、七百万トンを越す大量の余剰米をかかえているだけに、消費者の不安解消をねらったメリットであった。  しかし汚染地域の米の買上げや、汚染水田の取り扱いなど被害農家への対策について多くの問題が残されていた。  こうして野沢地区においても、市当局が水、空気、米などの汚染濃度をチェックして、伊三次の田畑は、汚染度が一PPM未満であったために、あぜ道一つへだてただけで�非汚染水田�とされてしまった。  当然、非汚染水田は補償の対象にならない。畑の作物もこれに準ずる。  一PPM未満が一応の安全基準としても、それはカドミウム汚染のない地区の人間が食べてもよいという数字であって、汚染地域のカドミウムを体内に蓄積している者には、安全といいきれるデータではなかった。  しかし安全かどうかわからなくとも、食うためには作らなければならなかった。しかもこのデータは、市財政の大きな部分をまかなっている東洋亜鉛への遠慮から、かなり手心が加えられているらしい。 「一PPM未満の保有米を食べるか、食べないかは、農家の選択に任せる」  つまり、勝手にしろ、という市当局に、 「保有米を食わなければ、おれたちは何を食えというのか!」  と農民たちは怒りをぶっつけた。  汚染水田と指定された農家の米は、製錬所が買い上げてくれるから、その金で、配給米を買って食えばよいが、お役所仕事の�線引き�で、非汚染水田とされた農家には、何の補償もないから、保有米を食う以外になかった。  その間にも伊三次の老母の症状は悪化した。このごろではイタイイタイとうなりながら寝たきりである。  大山伊三次が憎しみをこめた目を製錬所の煙突に向けたのは、こんな事情があったからである。  その夜伊三次は東洋亜鉛と地元民との補償問題についての初の�団交�が開かれた町の公民館へ行った。地元の被害者でつくっている、安西公害被害補償請求人団は、汚染濃度一PPM以上と判定された水田の持ち主によって構成されているが、伊三次は強引《ごういん》に出席したのである。今夜初めて所長の岩井順吉が出席すると聞いたからだ。  ふだんは顔もおがめない岩井所長の面をつかまえるようにして胸にたぎる怒りをぶちまけてやりたかった。ぶちまけてどうなるということはなかったが、せめてそのくらいのうっぷん晴しはしたかった。  岩井は定刻より一時間も遅れてやっと姿を見せた。東洋亜鉛が安西市に落とす金[#「金」に傍点]は大きい。東洋亜鉛なくては安西市の存在はないといわれるほどに市の財政をがっちりとつかんだ岩井は、『かげの市長』としての勢力を市の有力官庁のほとんどすべてに植えつけていた。  今も、一時間も遅刻して来ながら大して悪そうな顔もしないのは、自分が代表する企業の勢力にあぐらをかいた驕《おご》りであろう。 「土百姓どもに何がいえるか」  と、最初から彼の厚ぼったい面積の大きな顔は、請求人団に対して高圧的であった。  ようやく交渉がはじまった。情けないことに企業側のほとんど押しつけるような補償額に抗議らしい抗議をする者がいない。請求人団といっても、ほとんどが地元の農民である。こういう交渉ごとには馴れていないうえに、交渉の相手が、日ごろから「えらい人」とあがめている製錬所の幹部たちである。  仲介に立った市のおえら方も、一目も二目もおいているのである。  彼らが決めた額に対して内心不満はあっても、面《めん》と向かって抗議できる勇気のある者はいなかった。 「それではこちら側の提示項目に異存ございませんか。ご異存がなければこれをもって交渉妥結として、確認書を取りかわしたいと思います。われわれとしましては、精一杯の誠意を表わしたつもりでおります」  製錬所の総務部長が、勝ち誇ったように提示項目を反復確認した。その背後に岩井が、左右に副所長や部長クラスの幹部を従えて重々しく坐っている。目を軽く閉じて眠っているようであるが、それは自分が出るまでもないと見下《みくだ》した姿勢のように映る。  会社側が示した項目は、  一、四十五年度産米の収穫見込みを十アール四百キロと算定、慰謝料を含め十アールあたり七万円を補償する。  二、田植した苗については県と市の指示を待って会社の責任において引き抜き作業をする。  三、四十六年の米麦については十二月末日までに交渉を終らせる。  四、補償金は十一月末と、来年三月末の二回に分けて支払う。——というものであった。  これに対して請求人団は大いに不満があった。だが、うっかりそれを表明すると、元も子も失ってしまうおそれがある。 「それでは、よろしいですな」  総務部長が押しつけるようにいった。請求人団の上を重苦しい沈黙が支配する。彼らの家族には製錬所に勤めている者が何人もいる。  今、ここで正面から反対して、会社側がその報復として、彼らを職場から追放すれば、貴重な現金収入源を失うことになる。また今までのやりくちからして、岩井はそれくらいのことをやりかねない男だった。 「それでは代表者の方は、確認書に署名してください」  総務部長が抵抗力を失った請求人団の団長に確認書を渡そうとした。 「待ってくれ!」  その時会場のうしろの方から鋭い声がおこって、えんじ色の丸首シャツを着た若い男が立ち上がった。大山伊三次である。  総務部長が伊三次の方へビクリとおびえたような目を向けた。今まで居眠っていたような岩井が、初めてギロリと目を剥《む》いた。  伊三次は、一瞬、その激しい視線に射すくめられたようにたじたじとなったが、すぐ、権威に抵抗する者の反動的な姿勢を向けて、 「四十五年産米の収穫見込が十アール四百キロだなんて、とんでもねえ、一体、何を基準にそんな数を弾《はじ》き出しただ? ここらでは一番はずれの年でも五百キロは穫《と》れるだ。十アールあたり七万円なんて、くず米だってもっとましな値段をつけられるぞ」 「き、きみ」  総務部長は、東洋亜鉛の社名の威力で押し通してきた独走を、いきなり、野良の真ん中から出て来たような青年に阻《はば》まれて、怒るよりは狼狽《ろうばい》した。 「来年の米麦の交渉を十二月中に終わらせるつうことだが、遅すぎる。遅くとも十月の末までにまとめてもらわなければ、おれたちは動きがつかねえだ」  総務部長の制止をものともせずに伊三次は言いつのった。今まで堰《せ》かれていたものが、一気にあふれでたような口調である。伊三次の勇気ある発言に刺激されて、請求人団がにわかにざわついてきた。 「言いたいことはそれだけかね」  その時、一陣の冷たい風が吹きこんだように、感情のまったく失われた声が、ざわめきの間を縫って伊三次のもとへ届いた。 「なに!」 「言いたいことはそれだけかと聞いたんだよ」  会場のざわめきが、水を打ったように静まった。静寂を支配して、岩井が冷酷な笑いを浮かべていた。 「いいたいことはいくらでもあるぞ」  伊三次はどなった。岩井が言ってみろというようにあごをしゃくった。 「この補償は米だけじゃねえか、麦や野菜や桑はどうするだ。イタイイタイ病で寝たきりの病人はどうする!?」 「ふふ」  岩井は頬をゆがめてせせら笑った。 「その前にあんたの家の地区と名前をきこうか」 「野沢地区の大山伊三次だ」 「野沢の大山? 野沢は非汚染水田地域じゃなかったのかな」 「うちの米には〇・九九八PPMのカドミウムが入っていたんだ。一PPM以上が汚染されていて、それ未満が汚染されていないなんてだれが決めたんだ」 「政府だよ、どこかに境界を定めなけりゃならん。文句があるなら政府に言ってくれ」 「おれのおふくろは、製錬所の吐き出すカドミウムのおかげで、イタイイタイと寝たっきりなんだ」 「それがどうして製錬所のせいだと言いきれるのかね? 昔からこのへんは神経痛やリューマチの多い地域だった。たまたま何人かの患者の体の中からカドミが検出されたので、神経痛やリューマチの連中までが、補償めあてにゴネ出した。大体この辺の人間はうちの会社のおかげで生活を立てている者が多いくせに、ほんのちょっぴり田んぼや小便からカドミが出れば、やいのやいのと補償をせっついてきおる。わが社はね、カドミウム公害が叫ばれる前から、有害物の完全回収を方針としており、現在は排煙廃水は、すべて完璧な浄化装置を通している。カドミ含有量は、今や監督当局の基準を大幅に下まわっているんだ」 「しかし現に患者が出て、作物にカドミが入ってるじゃねえか」 「わからん男だな、きみは。きみはこの交渉に出席する資格がないんだぞ。何が欲しいんだ。金か。多少のものなら見舞金を包んでやるから、あとで会社へ取りに来たまえ」 「くそ!」  伊三次は、会場のうしろから、人々を分けて岩井に撲りかかろうとした。 「伊三次よせ!」 「止めろ、な」  おどろいた地元の人が数人、背後から彼を抱き止めた。 「離してくれ、あの野郎、ぶっ殺してやる。ちくしょう!」  伊三次は背後に数人の男を引きずったまま、必死に岩井へ近づこうとした。 「こちらが紳士的に話し合おうとしているのに、このような野蛮な男がいたのでは話し合いにならんね」  数人に抱き止められているのにも屈せず、数歩近づきかけた伊三次を、岩井は腕におぼえのあるせいか少しも怖れず、頬に冷笑を浮かべながら席を立った。 「見舞金は|取消し《キヤンセル》だ。わが社は、やくざに金を出さん」  吐き捨てるように言うと、部下を従えて足早に会場を出て行った。  あとには伊三次のくやし泣きが聞こえた。      4  野沢地区の農家の長男で、大山伊三次という男が、事件当夜公民館でカドミウム汚染の補償問題について被害者と激しく言い争ったという聞き込みを得たのは、えんじの丸首シャツ捜査をはじめて間もなくだった。  大山伊三次は同夜、岩井と言い争い、「ぶっ殺してやる」とまでいきまいたそうだが、刑事らを緊張させたのは、彼がその夜、えんじ色の丸首シャツを着ていたという聞き込みだった。  直ちに同人を重要参考人として捜査本部へ呼び、取り調べを行なうと同時に、領置した丸首シャツの繊維質の検査が進められた。  その結果——同種類の繊維と認められる——という結論が出された。捜査本部はがぜん緊迫した空気につつまれた。  被害者の指先の微物と、大山の持ち物の丸首シャツ——しかも事件当夜着用していた——の繊維が�同種類�と認められた。 �同一�という表現が使われなかったのは、繊維類にかぎらず、各種塗料、金属、油質、着色料等すべての工業製品の異同識別については、多くの物理化学的検査をならべても、同種類の域を出ないのが実情であって、単なる拡大比較観察による指紋や各種痕跡のような�同一性�を決定することはできないからである。  直ちに、大山に対する殺人容疑による逮捕状が請求され、任意出頭は被疑者の留置に切り変えられた。  大山は取り調べに対して、当夜のアリバイを申し立てられなかった。岩井と口論してむしゃくしゃして仕方がなかったので、友人にオートバイを借りて、高崎から前橋の方へ飛ばした。その夜は前橋の近くの利根川の河原に野宿をして、翌日早朝に帰って来たと申し立てたが、それを証明する第三者も証拠もなかった。  友人はたしかに当夜大山にオートバイを貸していたが、彼がどこへ行ったのか知らなかった。ガソリン消費量も、満タンにして返したのでわからなかった。  捜査官の峻烈《しゆんれつ》な取り調べに対して、大山は頑強《がんきよう》に犯行を否認した。四十八時間の留置時間を、大山は頑強に事実否認したまま送検の手つづきをとられた。  警視庁捜査第二課がかねて内偵中のT省東京鉱山保安監督部長の涜職《とくしよく》が明るみに出たのは、大山が送検されたころとほぼ同じ時期である。  涜職の内容は、本年一月同部長に就任した吉岡正也が、独断で東洋亜鉛安西工場の増設を許可したというものである。捜査二課では吉岡が東洋亜鉛となれ合いで、工場増設を黙認したのではないか、という疑いのもとに内偵を進めた結果、吉岡と東洋亜鉛安西製錬所長、岩井順吉との間に賄賂の授受があった心証を得た。  重要参考人として吉岡正也に対して任意出頭が求められると同時に、東京鉱山保安監督部長の責任が追及された。  T省でも事態を重視して、保安監督部が本省に無断で出した許可を取消し、同部に対して、 「何故操業拡張を許可したのか」  の弁明書を提出させて審理に入った。  吉岡正也はT大法学部卒業と同時にT省入りをしたエリートで、三年前、当時の鉱山局長、現内務部局長、佐久間清一郎の知遇を得て、その次女と結婚しており、生来の切れ味のよい頭脳と、佐久間の七光りによってめきめき頭角を現わしてきた男である。  まだ三十代に入ったばかりの若さで、保安監督部長の要職に就《つ》いた彼は、同省きってのエリートと自他共に認めていた。  捜査第二課の取り調べに対して吉岡は、 「カドミウムの除去施設を完全につくらせ、現在よりもカドミウムの排出量が少なくなるように施設改善をきびしく命令した。それに対して会社側も誠意ある処置をとったので、自分の判断で許可した。賄賂を収受した事実はない」  と増設独断許可は認めたが、賄賂に関しては強く否定した。  この捜査と取り調べ過程に興味をもったのが、安西署の杉田刑事である。 「東洋亜鉛の岩井と鉱山保安監督部長のなれあいか?」  杉田はふと首を傾けた。吉岡は工場増設の独断許可は認めたが、賄賂収受の事実は強く否認している。工場のほうは否定しようにも、現に増設した事実がある。ところが賄賂のほうは贈った側が死んでしまった。吉岡さえ頑強に突っぱねれば、要するに�死人に口なし�である。  一方、ここに岩井殺しの容疑者として大山伊三次が存在し、これも頑強に犯行を否認している。  彼を容疑者としたものは何だったか。それは、被害者の指先から取った微物の中に、大山が事件当夜着用していたえんじ色丸首シャツの繊維と同種類の繊維くずが発見されたからである。それに加えて、カドミウム公害に関して岩井を強く怨んでいたという動機がある。事件当夜のアリバイを証明できない等々である。  これだけの直接間接の証拠があっては、検察としても事実否認のまま起訴に踏みきるだろう。大山は依然として頑張《がんば》っているという。彼の態度には確固たる自信があるかのようであった。いずれは自供する被害者の強がりとは見えない、頑強なものがあった。検察でもほとほと手を焼いているらしい。  警察としても、当然大山以外に岩井に動機をもつ人間を捜した。東洋亜鉛の安西製錬所長としての岩井に、カドミウム公害の被害者たる周辺住民のすべてが動機をもっているといえる。  しかし大山伊三次のように具体的な直接行動をおこした者はなかった。請求人団のリーダー格、数人を洗ってみたが、いずれもはっきりしたアリバイが成立した。その他にも特に怪しい人物は浮かび上がらなかった。  だがここに吉岡正也という人物が登場して、岩井順吉との間に職務上の暗いつながりがあったらしいということになると、事件は新しい局面を展開するような気がする。  杉田刑事は、吉岡と岩井との関係を、徹底的に洗ってみる必要があると思った。もちろんそれは警視庁捜査二課でやっていることであろうが、あくまでも涜職《とくしよく》という視点からであって、「殺人《コロシ》」を考慮してではあるまい。  杉田は、もともと大山を逮捕した時から、一抹《いちまつ》の不安を捨て切れなかった。鑑定結果やアリバイのないこと等、次々に大山を不利にする証拠が上がってくるのと比例して、杉田の不安は、膨張しつづけた。 (大山は犯人ではないのではないか?)  それは杉田が長い刑事生活の間に培《つちか》ったカンのようなものである。大山の否認には、単なる強がりではない、潔白の者が自己の無実を主張しつづけるような断固たるものがあった。留置にひきつづく勾留《こうりゆう》における峻烈な取り調べの明け暮れに憔悴《しようすい》こそしていたが、態度に毅然《きぜん》たるものがあった。  杉田の不安に一つの区切り点を打つものとして、吉岡正也という新しい人物が登場した。  杉田は、彼を自分独自の立場で追ってみようと思ったのである。  吉岡が怪しいとなれば、当然大山は(共犯でないかぎり)無実である。二人の間に特につながりは認められない。とすれば、大山を被疑者と断定した過程《プロセス》のどこかにミスがあったことになる。  杉田は大山を逮捕するまでのプロセスをもう一度綿密にふりかえってみた。  事件当夜の被害者との争い——カドミウム公害における補償からもれた怨み——事件当夜着ていたえんじ色丸首シャツ——被害者指先の微物中に発見された同種類の繊維くず…… 「同種類!」  ここまで思考を追った杉田は愕然《がくぜん》として声をあげた。 「繊維くずは�同一物�ではなく、�同種類�のものにすぎなかったのだ」  同一物でないかぎり、犯人とは断定できないはずである。検査技術の向上によって、現在の鑑識は、化学物理的な微量分析のための相当高度の技術や設備を有するにもかかわらず、多くの鑑定は�同種類�という結論にとどまり�同一性�を決定するのはむずかしいとされている。  同種類であれば、同じような丸首シャツはいくらでもある。これを大山一人に絞ったのは、アリバイ、動機等の他の情況が、補強したからであった。 �同一�という表現はあっても、科学的には厳密な意味での同一は存在しないとされているが、鑑識の重要な目的は、「同一と認めること」である。 「待てよ、あの赤い繊維くずは�対照検査�をしなかったのではないか?」  杉田はハッとなった。対照検査とは「果たしてそれが犯人の残していったものか」ということを決定する検査である。  たとえば血痕が付着している布片にしても、何か血液型の判定を邪魔するようなもの、あるいは、別の血液型を表わすような物質が混合していることが考えられる。布地自体に検査に影響をあたえる成分が含まれているかもしれず、汗や体液にまみれているかもしれない。こうした場合、血痕やよごれなど証拠資料をあるがままの状態で検査すると同時に、血痕がつく以前の布地(何物も付着しない正しい布地)を別に検査して、その結果から一つ一つ夾雑物《きようざつぶつ》を差引いた答えを、目指す血液型(犯人が残したもの)と判定するわけである。  血液型や唾液や精液については、常に対照検査をすることが原則になっている。  現場から犯人の指紋や足跡を検索《けんさく》する場合、たくさんあるものの中から、家族や訪問者のものを差引いて残ったものを、犯人のものとするのも対照検査の考え方であり、現場班が、指紋や足跡を採取するとき、まずこの方法をとる。  しかし、最近の犯罪傾向として、犯人にも知識が普及して、指紋や足跡を残すことがきわめて少なくなってきた。ここで新しい資料として注目されてきたのが、肉眼的に見落とされやすい微物検査である。この新しい手段の採用は、たしかに検査技術の進歩にはちがいなかったが、往々《おうおう》にして対照検査の重要性が見落とされやすい。  今度の事件においても、その点にぬかりはなかったか。被害者の指先にえんじ色の繊維くずがあったからといって、どうして、それが犯人の遺《のこ》したものと断定できるのか? 犯人が遺しやすいというだけであって、必ずしも犯人のものとは言いきれないはずである。  被害者は、赤い繊維くずを、大山の着衣以外のどこでも、指先につけられる可能性をもっていた。  杉田は自分の着眼をさっそく東係長に報告した。杉田の着眼は容《い》れられ、再度、被害者がえんじ色の繊維くずをつけそうな場所が徹底的に洗われた。といってもそんな場所がいくつも見当つくわけではない。  まず岩井の自宅の居間や寝室のごみを集めてみたところ、えんじ色の繊維くずが無数に発見されたのである。鏡検した結果、被害者についていた繊維と�同質�のものと判定された。微妙なことばのちがいであるが、�同種類�よりさらに同一性が近いということだった。何とその赤い繊維は、被害者が使用していた布団の表地だったのである。 「えらいことになった」  捜査本部は愕然《がくぜん》とし、次に悄然《しようぜん》となった。  被害者は腕力に自信があり、かなり犯人に抵抗したにちがいない→抵抗した際、犯人の着衣から何かがついただろう→被害者の指先から発見されたえんじ色の繊維は、青年の間に流行している長袖丸首シャツのものである→事件当夜、大山伊三次はその丸首シャツを着て、被害者と激しい口論をした→だから犯人である。——と推理が飛躍してしまったのだ。  科学捜査の常識である対照検査を忘れたために、検査の方向を誤り、無実の人間を苦しめ、むだな労力と時間を浪費したわけである。  検査結果は、直ちに地検へ報告され、大山伊三次は釈放された。  大山の線を消した安西署の捜査本部は、新たに浮かんだ吉岡正也の線を追うことになった。  まず吉岡に、岩井を殺す動機があったかという問題が当たられた。吉岡は、賄賂を贈られた側である。その授受によってどちらがより多くの利益を受けたのか、今の段階では明らかにされないが、とにかく、たがいの存在が利益になったことは事実である。贈賄関係は殺人の動機としては弱い。特に本件の場合は受け取った側が、贈った側を殺した(吉岡を犯人と仮定すれば)形になっている。  汚職というものは、大体自分のポストを悪用して業者を食いものにしようとする小役人根性から発生する。役人にしてみれば、業者は貴重な�収入源�である。それを自ら殺してしまうというのは、うなずけないものがあった。  ところが、捜査二課の取り調べに対して、吉岡は収賄の事実を頭から否定していた。安西製錬所の増設については、カドミウム排除装置が完備しているので、自分の独断で認めただけであり、それに関しての金品および財産的利益の収受はいっさいなかったと言い張ってやまない。  増設を黙認することに対しての反対給付が岩井から必ずあったとにらんでいた二課も、吉岡の主張をくつがえす決め手をつかんでいなかった。情況はクロかったが、それだけでは起訴にもちこめない。  収賄の存在を証明しないかぎり、工場増設独断許可の事実だけでは、T省内部の責任を問われることはあっても、犯罪を構成しない。  せっかく得た�大魚�を前に、手も足も出ない二課は、歯ぎしりをする思いだった。  だが、この膠着《こうちやく》が安西側に新しい進展をもたらした。 「賄賂の授受は本当になかったんじゃないかな?」  東京警視庁から送られてきた吉岡の取調調書に目を通していた東係長は、ふとひとり言のようにつぶやいた。 「それじゃあ、まったくの�無報酬�増設を許可したんですか?」  東のつぶやきを聞きとがめた杉田が、そんなはずはないと言わんばかりの反論調で言った。 「賄賂はもらわなかったが、増設を許可しなければならない余儀ない事情があったとは考えられないか」 「そんな事情って何ですかね」  まかりまちがえば馘《くび》にもなりかねない職権乱用の許可を出さなければならない事情が、賄賂以外にあるだろうか。 「脅迫《きようはく》だよ、吉岡は岩井に脅迫されていたんじゃないだろうか」 「脅迫!」 「そうだ、そう考えると、すべての情況がすっきりしてくる。まず警視庁がどうしてもつかめなかった賄賂の決め手も、そんなものは最初から存在しなかった。それに賄賂などというものは、エリートコースから外れた一生うだつの上がらない小役人に対して効くのであって、吉岡のように黙っていても先の出世を約束されているサラブレッドのエリートが、わずかな賄賂に職を賭すような馬鹿なまねをするはずがないだろう。だがこれが脅迫となると、事情が変わってくる」 「係長、それは……」  杉田は言いかけて、ことばに詰まった。それはまったく新しい視角であった。 「もし、この推理が当たっていれば、吉岡は岩井に何かよほど弱い尻をつかまれたにちがいない。エリートの椅子を賭けなければならないほどの致命的な弱味をな」 「係長、そいつを必ず見つけてみましょう。野郎、今度こそ、しめ上げてやる」  杉田は獲物を見つけた猟犬のように気負い立った。      5  群馬県食糧事務所は、同じ日カドミウム要観察地域の安西地区の約二百戸からとれた今年度産政府管理米百六十六トンを、厚生省の示したカドミウム含有許容量一PPMにとらわれず、すべて凍結、工業用アルコールに流用することに決めた。  なお市当局は汚染水田保有農家と判定された三十六戸と東洋亜鉛との補償交渉の仲介役をしているだけで、県の指示待ちであった。  しかし地元農民は、「汚染されてもこの土地は先祖伝来おらがもの」と土地への執着が強く、転用を考えている耕作者はほとんどいなかった。  そのため市でも何とか土地から�解毒�する方法はないものかと、県農業試験場に依頼してカドミウムを中和または除去する方法、比較的カドミウムを吸収しない作物の選定など汚染区内に約八アールの試験田をつくってテストをしていた。  一方、県のほうでは、昨年イタイイタイ病の発生地で天地返しをしてみたが、効果がなかったために、経費のかかる土壌入れかえよりも化学肥料の大量施肥で作物のカドミウム吸収量を半減できるという望みをつないでいた。  当の被害農民たちは、 「空にも土にも水にもカドミウムがいっぱいだ。その中で育った作物には半永久的にカドミウムが含まれる。東洋亜鉛に汚された農地の表土をはぎ取って、その上に客土してもらう以外にない。十アールあたり約百トン以上、四トン積みダンプで三十台分の土が必要だが、これは途方《とほう》もなく金がかかる。しかしどんなに金がかかってもやってもらいたい。百姓に害のない元の土を返してくれ」  と、会社に聞こえないところで細々と訴えていた。農作物からの収入が途絶えたいま、依然としてカドミウムを吐きつづける製錬所が唯一の現金収入源となった彼らは、製錬所を憎悪しながらも、それを大きな声で訴えられぬところに抑圧された苦渋《くじゆう》があった。  しかし、土地回復の唯一の頼みの綱であった客土による土壌改良も、かえって玄米中のカドミウム濃度を高めることが、その後の群馬県農試の試験でわかった。  このテストは汚染水田の土壌を客土改良することによって、水稲の成育をよくし、カドミウムの吸収を減らすことを目的にはじめられたものだが、この皮肉なテスト結果に、汚染水田の対策は皆無となってしまったのである。      6  東京へ出張して、吉岡と岩井のつながりを追った杉田刑事は、何日か足を棒にして歩いた後、吉岡が昨年十月ごろに自家用の車を修理に出したことがあるという小さな聞き込みを得た。  事件に直接関係なさそうな、何気なく聞きすごしてしまうところだった小さな聞きこみが、杉田のアンテナに引っかかった。  たぐりたぐって、その自動車修理工場を探しあてた杉田は、修理台帳から、吉岡の車、すなわちエコウハイデラックスの修理個所が次のようなものであったことを知った。  それによると、  左前照灯破壊、前バンパーフレーム先端を支点に後方へ曲げ変形、ラジエーターグリル変形、ボンネットアッセンブリーバンパーエプロンサイド左端が圧潰、ボンネット左側面内方にへこみ等であった。 「これを修理する時、あんた方変に思わなかったかね?」杉田は目を光らした。 「といいますと?」  修理工がいぶかしげな顔をするのへ、 「車体に血とか、髪の毛がついていなかったかね?」  ようやく修理工は、刑事の質問の重大さを悟って緊張した表情になった。 「いえ、別にそんな痕《あと》はありませんでした。何でもドライブ先で石垣にぶっつけたとかおっしゃってましたが、こういう車は毎日もちこまれるので、別に何とも思わず修理しました」  ひき逃げ捜査の原則は、何よりも�早期決戦�である。最初の十日をすぎると、車を直されたり、あるいは車そのものを解体されてしまうからである。  杉田は修理台帳の中の、吉岡のエコウの頁を任意提出の形で領置した。彼はその足で警視庁の交通部におもむき、昨年十月ごろ現場にエコウハイデラックスの塗料片や、車体破損部分が残された未解決の交通事故重大不申告事件、すなわちひき逃げはなかったかとたずねた。  杉田は、吉岡がひき逃げをしたと仮定して、車のほうから逆にたぐっていこうと考えたのである。  反応は直ちにあった。すなわち、昨年十月十二日夜十時ごろ、長野県北佐久郡東千ケ滝付近の国道146号線で、近所の温泉旅館の雑役夫をしている福島三代吉という老人が、車にひき逃げされて死んだという事件のあったことがわかった。  被害者の位置から、加害者の車は峰の茶屋方面から南下して来たものと思われたが、当夜激しい雨が降っていて車も途絶《とだ》え、人通りもなかったところから事件の目撃者がなく、現場の証拠資料もほとんど洗い流されてしまった。  辛《かろ》うじて現場に残っていたガラス片と、積載物の一部から、昨年日豊自動車から発売されたオールニューエコウと、同じく同社のエコウハイデラックスのものであることが判明した。さらに積載物の一部はエコウハイデラックスの前照灯の部品と一致した。  直ちに十月十二日当日の吉岡と、岩井のアリバイが当たられた。その結果、岩井の遺族から、吉岡夫婦が購入したてのエコウハイデラックスの試乗がてら東京から遊びに来たので、岩井が浅間山や鬼押し出し方面への案内をかって出て、同乗していったという証言を得たのである。  捜査本部はがぜん緊張した。 「吉岡正也が運転中人をひいてしまった。故意か動転してか、目撃者がないのを奇貨として現場から逃走した。同乗していた岩井に口をつぐんでもらうために、いろいろと職権の上で利益をあたえてやった。そのうち岩井がだんだん増長してきた。これ以上彼を生かしておいては、骨までしゃぶられてしまう。将来、どんなに出世したところで、その椅子は岩井の胸三寸にかかる不安定のものだ。自分を防衛するために、そして将来を確保するために岩井の抹殺を図ったのだろう」  東捜査係長の推理は、本部員全員の考えたことであった。吉岡の車の修理個所は、現場に残された車の破損部分とも符合したのである。業務上重過失致死容疑で逮捕状を請求するに十分な理由だった。  このひき逃げ事件の管轄は軽井沢署である。すでに、事件発生以来十ヵ月近くもたつので、捜査本部は解散されていたが、同署より直ちに逮捕状が取られ、東京の所轄署より吉岡の身柄が引致された。だが安西署側のねらいは、ひき逃げ事件の捜査ではない。岩井殺しに関しての取り調べが本命であって、軽井沢署に逮捕状の執行を依頼した目的もそこにあった。  一応、吉岡の身柄は軽井沢署へ引致されたが、取り調べはもっぱら東や杉田が当たった。安西署の捜査本部がそのまま軽井沢署へ移って来たおもむきがあった。  軽井沢署との合同捜査として、安西署へ引っ張るには、まだちょっと資料不足だったので、このように迂遠な方法を取ったのだった。      7  最初は頑強に犯行を否認していた吉岡も、岩井の遺族の証言や杉田刑事が足で蒐《あつ》めてきたひき逃げの証拠資料を突きつけられた後に杉田に、 「お前のエリートコースもこれでおしまいだな。ひき逃げの罪は重いぞ。ひょっとすると未必の故意による殺人が適用されるかもしれん。岩井殺しを否認したところで大したちがいはないさ」  とかまされたことばが決定打となって、遂に自供した。  それによると、岩井を殺したのはやはり彼だったが、本部の推定と異なったことは、福島三代吉をひいたのは彼ではなく、妻だったということだった。周囲に車がなく直線コースだったので、当時教習所に通っていて、運転したくてたまらなかった妻にせがまれて、ほんのちょっとのつもりで、ハンドルをまかせたところ、あの事故を起こしてしまった。無我夢中で現場を逃げ出した後で、事実の重大さを悟った時は、引きかえすに遅すぎた。  無免許運転によるひき逃げ、最も悪質なものだった。  その時岩井が、 「だれも見ていた者がいないのだから、このまま逃げてしまったほうがいい。雨は降っているし、今夜中に東京へ帰ってしまえば、大丈夫だ。距離もあることだし、後で車をなおしてしまえば、絶対にわかりっこない」  とそそのかした。 「私たちは岩井のことばに従いました。しかしその後で、それまで従順な業者だった岩井は恐るべき恐喝者《きようかつしや》に変貌《へんぼう》しました。工場増設以外にも数々の業務上の利益をあたえてやりました。しかし彼の要求はエスカレートする一方で、遂に妻の体まで要求するようになったのです。妻は私にとって大切な出世の媒体《ばいたい》です。その妻を護るためには、私はどんなことでもできます。妻がひき逃げ犯人として捕えられれば、私の出世はストップするだけにとどまらず、ひき逃げの幇助《ほうじよ》として、職そのものも失わなければならないでしょう。妻の体を貸すぐらい何でもないことでしたが、妻が泣いていやがったのと、岩井をこのままにしておいたのでは、自分の将来はないと思って、遂に彼を殺すことに決め、五月二十三日の夜、妻を連れて行くからと岩井を欺いて、あの桑畑の中へ誘い出してスパナで撲《なぐ》り殺したのです。殺した後で私はハッと気がつきました。ひき逃げ捜査が私をたぐって来た時、私の無実を証明してくれる唯一の証人をこの手で抹殺してしまったことに。  こうなった以上、私は妻を擁《よう》してエリートコースをやみくもに突っ走る以外にありません。  しかしいま刑事さんがおっしゃったようにひき逃げをしたことがわかっては、何もかもだめになってしまいます。人を殺してまで護ろうとした妻と私の地位ですが、ひき逃げも殺人も、その両方を奪う同じ威力をもっております。自分のひき逃げの無実を主張するためには、岩井殺しを自白しなければなりません。何故なら、ひき逃げ犯が妻だったといえば、妻は岩井殺しが私の仕業だったことを黙っていないでしょうから」  と言って、吉岡はうなだれた。その姿を見ながら杉田は、出世のためだけに妻を利用しようとした男のエゴイズムがここにあると思った。  吉岡が、妻を庇《かば》おうとしたのは、彼女への愛からではなく、自己保身と将来への打算からであった。省内有力者の娘としての妻は、エリートコースへのパスポートである。その彼女が悪質な無免許運転によるひき逃げ犯とあっては、パスポートが無効になるのみならず、現在の地位すら危ない。  何よりも自分を衛《まも》るために、妻を庇い、殺人の罪までも犯した。しかし、その罪が暴《あば》かれ、パスポートの効力がまったくなくなってみると、庇うどころか、自ら妻の罪を明るみにさらした。  ここにエリートの冷酷があると、刑事は思った。 「あんたは、岩井の恐喝にあって製錬所の増設を独断で許可したが、それによって被《こうむ》る住民の被害は考えなかったのか?」と杉田が追及すると、 「別に思いませんね、操業拡大されて、より大勢の人間が製錬所で働くようになれば、それだけ多くの金が地元に落ちます。公害問題が明るみに出ると百姓どもは騒ぎ出しますが、魂胆《こんたん》はゴネ得の補償目当てなのです。騒いだ張本人の百姓の息子が、製錬所の職長にでも出世すれば、本人一家は大いばり、一家|眷属《けんぞく》のほまれ[#「ほまれ」に傍点]だと誇り、周囲もうらやましがる。そういう連中なんですよ、あいつらは。安西市の予算だって、その半分以上を東洋亜鉛に依存しているんです。アエン側が工場撤収をすればあの町は潰れますよ。あの町では人間の命よりも、企業の利益のほうが何倍も優先してるんだ。周辺の住民の多少が生きようと死のうと、企業の存続にとってはものの数ではない。  大体、今度の事件は、マスコミが騒ぎ出したので、政府もやっと重い腰を上げた形だが、安西市にしろ、県にしろ、そして私の所属していたT省にしろ、企業とべったりなんだ。どう転んだって被害者の味方になんかならない。一方には公害にやられてうめきのたうつ被害者、その反対サイドには、冷血無情な�産官合同体�がある。  役所が仲介をかって出る、補償請求委員会などは『異議なく従うことを確約する』だけだ。今度の増設問題にしたって、私一人に責任を押しつけてしまったが、本省は最初から黙認していたんだ。常識で考えたって短時日ではできない増設を本省が気がつかないというのはおかしい。そうじゃないですか、刑事さん。やつら、マスコミが騒ぎ出したので、あわてて私一人にすべての責任を押しつけてしまったのです。やくざが親分の身代りに引っ張られるのと何の変りもない」  吉岡は唇をゆがめて自嘲的に笑った。  その日の午後、吉岡は地検送りとなった。東京に初めて光化学スモッグ注意報の出た日であった。 [#改ページ]  殺意の架橋      1  昭和四十×年九月二十四日秋分の日、午前九時、平岡京子は朝の掃除に取りかかった。新橋烏森辺の二流商事会社に勤める夫の哲夫は久しぶりの�我が城の休日�をまだベッドの中で楽しんでいる。  夫の休日の習性を知っての常よりは遅い京子の朝の仕事始めであった。 「よいお天気」  京子は窓を開けながら隣りの棟の屋上越しに望める紫水晶のような奥多摩山塊に目を細めた。ちょっと窓から頸を伸ばせば隣接するゴルフ場のフェアウエイに爽かな朝の陽を浴びてクラブをふるっている早起きのゴルファーの姿も目に入るはずである。近くのクレー射撃場からもう威勢のいい銃声が聞こえてくる。  この団地が当たってからもう三ヵ月程になる。住めば住む程、環境といい、住心地といい申し分ないところである。——京子は申し込んでも、申し込んでも落選の通知に絶望の堆積をしていた頃の夫と子供、親子三人の惨めと言う以外に言いようのない間借り生活を思った。  ここは東京のべッドタウン、東京都M市緑が丘団地、平岡一家も十三回目の落選の末、やっと三ヵ月程前、ここの2DKに自分の城を獲得した善良な小市民の一家だった。移り住んでみれば色々と不満はあるにしても、呪われた間借りの頃と比べれば天国と地獄の相違である。子供もこちらへ移り住んでから、金魚鉢から池に放たれた魚のように生き生きと遊ぶ。  ここには麦畑もあれば木登りに適した木々もふんだんにある。小魚の群れ棲む小川もある。第一、太陽がいっぱいだ。京子は窓をいっぱいに開き、オゾン含有度の高い初秋の空気を胸深く吸い込んだ。 「さあ、始めましょう」  夫はまだ寝床の中でぐずついている。それでもダイニングキッチンを終わる頃には起き出して来るだろう。  京子が帚を構えた時に電話が鳴った。 「あなたあ、花井さんからお電話よ」  京子は夫を呼ぶ声にやや不満を盛って言った。花井というのは彼の会社の同僚で、やや悪友の部類に属する。休日の久しぶりの家族の団欒《だんらん》から夫を奪って行くのがこの花井の電話によることが多いのであるから、京子の不服声も無理はなかったのである。  ——どうせ、またマージャンか何かに誘い出すにきまっているわ——  哲夫はやや腫れぼったい顔をして寝床から立って来た。その顔にはありありと花井からの電話を心待ちしていた様子が読めた。  ——いい気なもんだわ——  京子は故意にすねてみせた。哲夫はてれくさそうににやにやと笑った。  異変はその時に起こった。京子の斜め前、南側のガラス戸を背にして立った夫のてれ笑いがそのまま凍りついて、不自然に引き攣《つ》ると、前かがみにゆっくりと京子の膝に縋りつくように崩折れていった。  京子の眼前に倒れた夫の背にぽつりと小さな赤い穴があき、その円周がみるみる拡大されていくのを京子はただぽかんと口を開いて見守っているだけであった。 「ママ、どうしたの?」  ようやく起き出して来た子供の声も彼女には聞こえなかった。  昭和四十×年九月二十四日秋分の日、午前九時、週刊|世論《よろん》のトップライター、勝目秀介は久しぶりの�我が城の休日�の朝寝の楽しみを一本の電話によって奪われた。 「誰からだ?」  細君から起こされた勝目は不機嫌な声を出した。こういう商売柄、電話によって叩き起こされることは多いが、休日の朝の楽しみを極度にいつくしむ勝目を知っている社の人間はよほどの大事件でもない限り、休日の朝に電話をかけるような不粋なまねはしない。ということはその電話の主がよほどの大事件を知らせようとする者か、もしくは、社外のそれも全く彼の仕事に関係のない部外者であることを物語るものであった。 「もしもし、勝目ですが」  細君の手から送受器を受けとった勝目は寝起きのいがらっぽい声で言った。秋晴れの朝の陽が目に痛いように沁みる。返事はなかった。勝目は食卓《テーブル》の椅子に腰を下ろした。彼の悪い癖で食事をしながら電話をすることが多いので、勝目家では電話をダイニングキッチンに据えてある。おかげで食事時の家族の団欒《だんらん》はめちゃめちゃにされることが多かったが、勝目はこれを機能的な配置[#「機能的な配置」に傍点]だと思っているのだから始末が悪い。  第一、長電話の時は椅子に腰をおろせる。もっとも椅子にかけるから長話になるのかもしれなかったが、——  今も、細君は勝目が椅子に腰をおろすのを見て、これは長くなるわと観念したような表情をした。  しかし、今朝はいつもと違うようである。  勝目は送受器にただもしもしと呼び続けるだけだった。どうやら先方の応答がないらしい。決して気の長い方ではない勝目が次第に癇を立ててくる様子が細君にはよく分った。 「もしもし」  勝目はもう一度言った。相変らず返事はない。 「もしもし、あんた誰なんだ!?」  勝目は遂に怒鳴った。送受器の向うで息を殺してこちらの様子をうかがっている相手の気配を彼はトップ屋特有のカンで敏感に感じ取った。 「こちらは勝目秀介だ。間違いなら切るよ」  しかし、相手は依然として無言である。勝目が憤然として送受器を置こうとした時、ぼそぼそした含み声が彼の耳に伝わってきた。きっと、相手は声を変えるためにハンカチで送受器をくるんでいるに違いない。秀介自身、電話取材の時によく使う手である。何故そんなことをする必要があるのか? 勝目は一層腹を立てた。 「もしもし、勝目秀介さんですな」 「さっきからそうだと言っているだろう」 「間違いありませんね?」 「くどいな、一体、あんたは誰なんだ?」 「それを確めたかっただけです」 「おい! これは何のまねなんだ?」  秀介が再びその声を怒声に変えようとした時、電話は一方的に切られた。 「何だっ、こいつは」  秀介はやり場のない憤懣を送受器にこめて乱暴に置くと、もう一度ベッドへもぐりこもうとした。 「あなた、今日は子供達をドライブへ連れて行く約束じゃなくって? みんなもう大はしゃぎで朝早くから車を洗っているわ。また、約束を破ると子供達に信用がなくなるわよ」  細君に言われて秀介は子供達との約束を思い出した。政界のある汚職事件のスクープでもらった局長賞に自分のポケットマネーを足して、やっと買った中古のブルーバードでお天気がよかったら湘南方面に家族打ち揃ってドライブに行く予定になっていたのだ。  勝目は改めて雲一つない秋晴れの空を仰いだ。この好天気では約束を反古《ほご》にすべき口実がどこにもないことを知った。彼にとっては子供達より細君の信用を失うことのほうが怖い。それに秋晴れの空の下、海を望む湘南の海岸線あたりを思い切りとばしたら先刻の不快な電話のことなど強風下のスモッグのように吹飛んでしまうだろうと思うと急に彼自身、乗気になった。  行くと決めると、商売柄仕度は早い。一番遅く起き出したくせに、二十分後にはかえって家族をせき立てていた。  駐車場から車道への出しなにけたたましいサイレンを鳴らしたパトカーとすれちがった。  ふと、トップ屋魂が頭をもたげかけたが、助手台やリアシートで大はしゃぎにはしゃいでいる妻子の幸福そうな顔を眺めると、勝目はそのまま、目をつむるようにしてアクセルにかけた踏力を強めた。  九月二十六日、日曜日、午前九時、警視庁捜査一課部長刑事、小山博道は久しぶりの�我が城の休日�の朝を子供達の騒ぎ声によって覚まされた。  昨夜遅かったのでもう少し眠りたいところだったが、六畳と三畳二間きりの借家で小学校前の子供が三人もいてはそれは贅沢《ぜいたく》な願いというものであった。  しかし、そのまま、直ぐ寝床を蹴って起き出すわけではない。そんな勿体ない行為を小山のように多忙な職業を持った男が久しぶりの休日の朝にするわけがない。  ほかほかと温いべッドの中で新聞にゆっくりと目を通すという大きな楽しみ[#「大きな楽しみ」に傍点]が残っているのだ。 「どうだった?」  小山の休日の朝の日課を知っている細君は、小山が目覚めると何よりも先に新聞を持ってきてくれる。彼は新聞を受取りながらいつもの休日には質《たず》ねない問をした。  妻は力なく笑うと首を左右に軽く振った。 「そうだろうな、何しろ宝くじ並みの当選率だからなあ」  小山は霧のような失望を何げない口調でぼかしながら、 「まあ実績を作るために根気よく申し込もう。十五回落選者は当選率をよくされるそうだ。長期戦でいこう」  と彼はつとめて明るく言った。その朝は公団住宅の抽選発表日である。小山一家も彼の給料で辛うじて入居申し込み資格を得られた遠い郊外の2DKに申し込んでいたのである。  申込みを始めてから何回くらいになるか? 六畳と三畳の二間だけでトイレも流しも共同の現在のおんぼろアパートすら小山の給料の約四分の一を持っていかれてしまう。残りの四分の三で親子五人が生活をし、小山の交際費や、捜査で自腹を切らなければならない費用を賄わなければならない。苦しかった。  それでも今の東京では安い方なのだ。一畳あたり千五百円だの二千円だのとべらぼうな家賃を吹っかけられて、その上入居時には借家法違反の権利金や敷金を重ねなければねぐらを得られない。  しかし、それがどんなに不当な値段であろうと、また、低劣な設備であろうと、親子五人大都会の荒波の中に身を寄せ合う唯一の巣がこのアパートであってみれば、必死にすがりついていなければならなかった。  そんな彼らにとって、設備の整った、しかも家賃の安い鉄筋コンクリートの公団住宅はそれこそ�夢の城�であった。  しかし、申し込んでは落ち、落ちてはまた、申し込み、今度こそはの期待を何度となく裏切られてみると、この頃では失望も不感症化して、今朝のようにむしろ落ちるのが当然といった�悟りの心境�で抽選発表を見られる。  政府の住宅公団公社等による住宅宅地の大量供給も所詮、大都市の著しい人口増加には焼け石に水であった。公団住宅の公募はひんぱんに行なわれたが、申込み者の数は幾何級数的に増え、所によっては二千倍から二千五百倍という気の遠くなるような競争率を示していた。  政府は一九七〇年を目標に、一世帯一住宅を合言葉として六六年から七百六十万戸の住宅五ヵ年計画を策定したが、地価の大幅な値上がりと大都市への怒濤のような人口流入に到底、追いつけず、小山一家のように居住水準の極めて劣悪な民営借家やアパートの一人当たり一・八畳未満の�非人間的空間�に押し込められている住宅難世帯は増える一方である。  その彼らを支える唯一の希望が公団住宅であり、落ちても落ちても、めげることなく、平均競争率五十倍を下らぬ入居申込みをくりかえしているのである。  小山は失望をテレビ番組でまぎらせようとした。自宅に寛《くつろ》いでテレビを観るという一般サラリーマンにはごくあたりまえの娯楽も、彼にとっては一ヵ月に二、三度あるかなしの目も眩むような大きな悦楽であった。細君が新聞と一緒に持って来てくれた赤鉛筆で自分の見たい番組にアンダーラインを引く。しかし、大抵はチャンネル選定権を子供達に奪われて、彼のアンダーラインは殆ど空しくなってしまうのだが、それでも、その作業は小山にとって休日の最大の楽しみの一つであった。この時ばかりは鬼の刑事も休日を楽しむ平凡な一サラリーマンと何の変りもない。  テレビ番組の次は職業柄、やはり、社会面を開く。  一昨日朝、都下M市緑が丘団地に発生したライフル銃殺人事件のその後の捜査状況が気になっていた。 (画像省略)  ——既報、M市緑が丘ライフル殺人事件を捜査中のM署は、平岡哲夫さんの射たれた位置と右背部の射入口、並びに妻京子さんの証言により、弾丸が南側に隣接する四三〇二棟142号室横井|立獄《りゆうごく》さん方より発射されたものと推定した。しかし、警視庁鑑識課が調べたところ、横井さん方には銃器類を発射した痕跡が全くないばかりか、四三〇二棟全居住者の協力の下に同棟くまなく探査したが、発射痕を認められなかった。四三〇二棟に銃器を所持している者は一人もいなかった。  なお、同地区付近にクレー射撃場があるため銃声が紛れて、捜査をよけい困難にしている。目下のところ、捜査の焦点は問題の弾丸が何処から発射されたものかという一点に絞られている。——  小山はその記事を読みながらこの捜査は難航するなと思った。長年の刑事生活から得たカンであった。もしかすると間もなく本庁から呼び出しがかかるかもしれない。都下、M市での殺人事件である。発射源が判らなければおそらく今日中に捜査本部が設けられ、応援を要請されるに違いない。  やれやれ、久しぶりの休日も返上かな——ここちよい日曜のべッドの中で小山の体は早くもよく調教された猟犬のように緊張を始めた。  続いて小山の目はもう一つの記事の上に止まった。  ——岸壁で踏み外し、一家四人が死ぬ——  という大見出しで、  ——二十四日夜、横浜港高島|埠《ふ》頭岸壁から一家四人を乗せた乗用車が海に落ち、楽しいドライブは一瞬にして悲惨な死を招いてしまった。車は水深九メートルの海底に沈んでいるのを、二十五日午前十時ごろ埠頭に遊びに来た近くの子供達に発見された。横浜水上署では、半分海底の泥の中に埋まっていたクリーム色ブルーバード、「多摩55ね—26—13」をクレーン車で引き揚げた。しかし、水圧でガラスが割れ、四人は潮流にさらわれたらしく、車内に遺体はなかった。車体ナンバーから四人は東京都豊島区音羽、日本公論社、週刊世論記者、勝目秀介さん(34歳)、妻、明子さん(29歳)、長男、勝彦ちゃん(6歳)、二男、次男ちゃん(2歳)の一家とわかった。……ここまで読み進んだ小山は愕然として起き上がった。 「おい、章子!」  夫のただならぬ呼び声に何事かと駆けつけた妻に、 「勝目さんが死んだぞ!」  と怒鳴りつけるように言いながら新聞を差し出した。勝目一家は二年程このおんぼろアパートで小山家の隣人であった。デカとトップ屋という倶《とも》に天を戴かざる二人であったが、二人は不思議にうまが合い、家族ぐるみの交際をしていたのである。三ヵ月程前、一緒に申し込んだM市の公団住宅に当たり、「自分達だけすまないすまない」と言いながらも、夢の城へ入れる喜びにいそいそと引越して行ったのである。  その隣人一家が遭難した。小山が愕然としたのも道理であった。      2  小山はその日の午後には勝目が遭難した現場に立っていた。一昨日の秋分の日とは打って変った曇天で、油の浮く鉛色の海面には白い波頭が砕けている。  現場は国鉄、横浜駅のすぐ前。一号、二号、三号の三岸壁があり、事故があったのはこのうちの一号B岸壁、埠頭の幅は、約十五メートル。車止めがなく、勝目一家は港を見たあと帰ろうとして転回する際車輛感覚を誤り、車輪を岸壁から落とし、そのまま転落した模様である。 「……と新聞には発表しました。しかし引き上げられた車のチェンジレバーはニュートラルに入れたままだし、後部バンパーは海底接触によるものでない圧壊が見られるのです。それに前面から跳び込んだにせよ、後輪を踏み外したにしても地上を走った[#「地上を走った」に傍点]はず、それなのに現場には全然タイヤ痕がないのです」  現場に案内役をかって出た横浜水上署の四釜《しかま》刑事が説明した。 「タイヤ痕がない!?」  小山は思わず大きな声を出した。タイヤのない車は足のない幽霊のようなものだ。 「何者かが消したのです。何故、そんな必要があったか? 答えは明らかです。ガイシャのタイヤ痕の傍に見られては都合が悪い痕跡があったからです。それはおそらく、この事故が作為的なものであることを明瞭に語る何かだったのでしょう」  四釜刑事の目がぎらぎらと燃えた。それはあながち、鉛色の海の反射を受けたせいではなかった。 「しかし、ホシは……もしこの事件に犯人《ホシ》というものがいるとすれば、彼に消し切れないものが一つありました」 「…………」 「それはスキッドマークです。被害者が生への執着をこめて必死のおもいで踏んだブレーキは現場コンクリート舗装の埠頭の上に大きな摩擦を起こして、拭っても拭っても落ちないスキッドマークを残したのです。それは岸壁の突端より十五メートル位の所から始まっておりました。鑑識によれば制動経過のうち反射時間、踏替時間、踏込時間を合わせて、空走時間は〇・七秒、ブレーキが利きはじめてからスキッドに達するまでの所要時間が非常制動で〇・三秒、現場のコンクリート舗装の埠頭の摩擦が当日の好天で〇・七五とすれば、たとえ、車を毎秒十五、六メートルほどの高速で走らせて来ても岸壁のはずれから五メートルくらいのところで充分止まるそうです。十五メートルのスキッドマークがありながら海中に跳びこむということは考えられないのです。他に何か物理的な力が働かぬ限りは……」  四釜は小山の目をじっと覗きこんだ。小山は彼が何を言わんとしているのかよく分った。しかし、こちらからそれを口にすべきではなかった。 「スキッドマークの他にもう一つ、この事故が車輪を踏み外したものとは考えられない理由があります」 「というと?」 「車体の落ちた位置です。長さ百五十メートルの岸壁に最初からバックで入って来ることは考えられません。スキッドマークの長さからスピードを出し過ぎて前面から海へ跳び込んだのではないと一応仮定すれば、車は港を見物した後、方向転換をする際に車輪を岸壁から踏み外したことになります。とすれば、車は当然、岸壁の左右いずれかの側壁《サイド》に落ちなければなりません。ところが、車は岸壁の突端から海に落ちているのです」  四釜は岸壁の上にかがみ、あり合わせの棒切れで図を書いた。確かに彼の言う通り、正面からの転落が考えられない限り、車は方向転換の際に落ちなければならない。  岸壁の幅は十五メートル、当該ブルーバードの回転半径は約五メートルであるからU字転回が可能である。ハンドルの切り方が甘かったか、または最初から切り返しを予想して甘く切ったか、いずれにせよ、車は岸壁突端から落ちるはずがない。図で示せば左右いずれかの×点に落ちなければならないのである。 (画像省略)  転回の手間を嫌い、岸壁基部まで直線バックを続けたとしても▲点に落ちる可能性は益々薄くなる。にもかかわらず、勝目の車は▲点の海中から車体前面を海底にめりこませて発見された。 「加えて後部バンパーの圧壊状況といい、チェンジレバーの状態といい、このスキッドマークの距離といい、我々はここに何か大きな作為の匂いを嗅ぎ取ったのです」 「何故それを新聞には伏せたのですか」 「殺された……とすれば被害者《ガイシヤ》は一流誌のトップ屋です。マスコミは我々に群がり、捜査を思わぬ方向に狂わせてしまうでしょう。それに、まだあくまでも推定の段階できめ手らしいものは何一つ出ていません」 「賢明なやり方です。ガイシャは私の年来の友でした。よろしくお願いします」  小山は四釜刑事に深く頭を下げた。自分はこれから緑が丘団地ライフル殺人事件の捜査に当たらなければならない。彼の予想通り、今朝捜査本部が設けられ、正式に捜査員としてM署へ出向を命ぜられたのである。  謎の発射源を突き止めるまでは友の死因究明はこの猟犬のような四釜に任せる以外になかった。  勝目は殺されたのに違いない。免許を取ってから三年、慎重運転で免許証を汚したことのない勝目がこんな場所で海に跳びこむはずがなかった。  ——遊びつかれて、その日のコースのデザートのような積りで夜の埠頭に立ち寄った。或は細君や、子供達からせがまれたのかもしれない。昼間は油の浮いた港の海も、夜は舷を接して碇泊する異国の船の灯を砕いて夢のような美しさであったろう。潮の香を含んだ秋の夜の海、汽笛、マドロスパイプの煙、唄声、——……岸壁のはずれ近くまで進んだブルーバードに突然、後部から一台の大型車が凄じい勢いで突っこんで来る。幅十五メートルの埠頭であるから当然避けるか、あるいはすぐ後に止まるものと思っていたブルーバードの後部にもろに突っ込んで来る。激しい悲鳴、勝目が必死の思いでかけたブレーキもものかは、大型車の質量にものを言わせてブルーバードを壇ノ浦の平家のように海面へ追い落としてしまう。  一台の車を呑みこみ、水泡の消えた海面を大型車から降り立った殺人者は、満足そうに見下し、そして用意した何か[#「何か」に傍点]でタイヤ痕や塗料片をきれいに拭き取って立ち去って行った。  友の一家四人の生命を呑み、いまだ遺体の一個すら返さぬ暗い海を眺めている間に、小山の心の中に海の向うで太々しく笑っているに違いない殺人者に対する怒りが沸々と煮えたぎってきた。 「よろしくお願いします」  彼はその怒りを四釜に託した。  四釜刑事は小山が帰ってからも現場に居残った。これからもう一度、B岸壁を徹底的に検索してみるつもりであった。  事故が発生したと推定される一昨日の午後八時頃から被害者の車が引き揚げられる昨日の午ごろまでの間に、犯人は一切の痕跡を完全に消していた。  二十人の捜査員による昨日の午後から夜を通しての現場検索にもかかわらず、一片の金属片、一抹の塗料膜も採集出来なかったのである。  濾紙のフィルターを装着した電気掃除機という科学警察の新兵器までも動員しての捜査だったが、遂に現場からただ一片の証拠物すら採集出来なかった。  ——本人の過失によるものか?——冷たい朝の潮風の中に疲れ切った身体を晒されながら、捜査官達はともすれば安易な結論に傾斜しかかった。  しかし、現場に残されたスキッドマークが厳としてその物理的不可能性を主張していた。一同の疲労が甚しいので現場保存の警官を残してひとまず署に引き上げることにした。 (�彼�は必ず何か残したはずだ。二十人の男達はそれぞれが埠頭全域を捜したわけではない。各自が�分業�して、それぞれ、二十分の一の自分に割り当てられたなわばりを検索したのである。とすれば、なわばりの境界、水も洩らさぬ筈の有機的連係の間に見落とされた盲点はなかったか? 電気掃除機もスキップした死角はなかったか?)  ブルドーザーと異名のある四釜は、昨夜から今朝にかけて埠頭を這いずりまわって、今朝、署へ帰って来たばかりである。署の食堂で舌の焼けるようなみそ汁となま卵を五つ程胃の腑に流しこんでとりあえず腹の虫を鎮《しず》めると、ちょうど署を訪れた小山を案内する形で再度現場に引き返して来たのだ。  彼の前には幅十五メートル、長さ百五十メートルのB岸壁が広がっている。これをまずスキッドマークの始点から岸壁のはずれまでもう一度、日の光の下を自分の目で徹底的に捜査しなおす積りであった。それでも見つからなければB岸壁全域にわたって捜すのだ。それはただ一人の仕事にしては気の遠くなるような忍耐と体力を要求されるものだったが、この際一人でやるということが重要なのであって、協力者は昨夜の徒労のむしかえしになるおそれがあり、むしろ、有難迷惑であった。  しかし、二十人の協力捜査と電気掃除機による検索は完璧であり、スキッドマーク始点から岸壁のはずれまで四釜の血走った皿のような目は何物も新しく発見出来なかったのである。いかなる死角も盲点もなかった。  とすれば、残された唯一の�可能区域�はスキッドマーク始点の後方から岩壁の基点の間となる。  ——こいつはしんどいことになるぞ——  四釜はあまり長い間うつむいていたためにかたくなった頸筋を揉みながら呟いた。折しも三本マストの六万トン級の外国船が汽笛を鳴らしながら出航して行った。その長い、腹にこたえる余韻は、四釜の徒労の色の濃い努力を嘲笑しているように聞こえた。  四釜は充血した両眼をやけに広々と感じられる埠頭の上へ戻した。  それから数時間、傾くに早い秋の陽は砕ける波頭を早くも蒼茫《そうぼう》たる暮色で染め始めた。風がやけに冷たく感じられた。  ——本当に過失だったのか?——  ブルドーザーらしからぬ弱気に四釜がなりかけた時、彼の鋭い視線は繋留索の下にこぼれ落ちる銀粉のようなものを捉えた。  この岸壁は貨物船専用の繋《けい》船岸で、貨物積み降ろし用設備が水際線にかなり賑やかに並んでいる。  問題の繋留索は小型船用のものであったが、かなり長い間使われていないらしく、真っ赤に錆びついていた。問題の銀粉は赤い鉄粉の間に夕陽を受けてきらきらと光っていた。明らかに繋留索の錆片ではない。 「あった!」  四釜は思わず喜びの叫びを上げるとポケットからビニール袋を取り出し、まるで砂金でも採集するような手つきで、その輝く銀片を拾い上げた。  これが果たして犯人の残したものかどうか、今の段階では何とも言えなかったが、とにかくB岸壁には異質の物質が四釜一人の数時間の捜査の果てに発見されたのである。  スキッドマークのはるか後方、どちらかといえば岸壁基部に近い地点であったために昨夜の捜査も及んでいなかったのだ。  四釜はビニール袋を更にハンカチでくるみ、内ポケットの奥深くしまった。同時に彼は狼のような空腹を覚えた。  ——前略、その後ライフル殺人事件のニュースを新聞テレビなどで聞き及ぶにつけ、貴殿のご苦労さぞやと拝察いたしおります。さて、当方の横浜埠頭乗用車転落事件に関し、その後小生が現場にて採取せし塗料膜を鑑識にかけたところ、断面の色層鏡検により、一九六×年型CRV8三千ccのものと識別されました。  証拠を完全に湮滅《いんめつ》した積りの犯人も、引き上げ時に車体を微かに繋留索に触れさせたのでしょう。  さっそく、同車の販売元である東京T自販に照会したところ、同車は発売開始後間もないため、全国的にもまだあまり出廻っていないとのこと。とりあえず、事件発生県である神奈川と東京における顧客名をたずねたところ、神奈川二十四名、東京六十三名の顧客《カストマー》リストを得ました。  まず、神奈川の二十四名からシラミ潰しに当たってみる心算でございます。捜査が進展しましたら、また、お知らせいたします。  凶悪犯ラッシュの師走にかかる前に何とか解決し、屠蘇《とそ》は一緒に祝いたいものです。では、ご健闘を祈ります。 [#地付き]草 々     十月十×日 [#地付き]四釜高太郎——   小山は四釜刑事の手紙を読み終ると同時に、名簿上の人間を一人ずつ丹念に追っている四釜刑事の雄牛のように逞しい身体と、熱っぽい眼をほうふつさせた。  要件のみの簡潔な四釜の手紙ではあったが、そこからは彼の熱気がめらめらと陽炎のように立ちのぼって来る。  それは悪を憎み、とことんまで悪の根源を追及せずにはいられない警察官の業のようなものである。 (四釜に負けてはならない)  依然として発射源が突き止められないまま、疲労と焦りの色濃いM署の一室に置かれた捜査本部の中で小山は自らを励ましたのである。  小山はもう一度、振り出しから考えてみようと思った。彼は手帳を開き、コピイしておいた平岡家の見取り図を子細に検討した。  九月二十四日午前九時、平岡夫人はA点にいた。(見取図参照)北側の四畳半の電話が鳴ったので夫に取り次いだのが、九時一分頃、これは近所のテレビが時報を告げたのを夫人が事変直前に聞いているのでほぼ間違いはあるまい。  夫人に呼ばれて平岡哲夫はB点に来る。夫人と向かい合った所で、C点、すなわち横井立獄方の四畳半から発射されたと推定される弾丸により射殺された。B点に於ける被害者の位置と右背部射入口並びにダイニングキッチン南側のガラス戸の開き具合から、発射源はC点以外に考えられない物理的解答が導き出されたのだ。横井立獄の142号室以外の室からその弾丸が発射されるためには、被害者の立っていたB点は少なくとも、B'線上にまで移動されねばならない。  しかし、C点には発射痕が全くなく、いかなる火薬残渣も発見出来なかった。C点の戸主横井立獄と妻、横井みどりの二人は、全く銃器を扱った経験がない。しかも、事件直後二人は厳重な硝煙反応テストを受けていたが、着衣やひふから全く火薬粒は検出されなかった。銃を射った場合、かなりの火薬粒が射手の周囲に飛散する。ひふについた火薬残渣は拭いたぐらいではとれるものではないから、まずこの二人、並びにC点は、発射源としての容疑から外さねばならない。それに横井には平岡を殺すべき動機が全くない。両家はあかの他人なのである。  そこで、B点を狙う物理的不可能性を一応度外視して、四三〇二棟全棟にわたって居住民の協力の下に反応テストを行なった。しかし結果は陰性であった。  右背部から被害者の体内に入った弾丸は重要臓器や大血管を傷つけて射創管をつくり、最後に肋間動脈を破って、これが致命傷となった。  射入口に爆発ガスや火炎作用のないことはBC間の距離に符合する。しかし、現代の法医学では射入口や弾丸の状態から発射距離を正確に割り出すことは出来なかった。  それにもう一つ不可解なことがあった。犯行時、被害者に電話をかけた花井という友人が事件に全く無関係であることが判明したのである。とすれば、この謎の狙撃者は平岡が午前九時にB点に来ることを知らなかったことになる。よしんば、被害者は電話がかかってきたとしても、弾道上のB点をお誂えむきに横切ってくれるとは限らないのだ。被害者が射殺点たるB点に来たのは全く偶然なのである。  発射音はサイレンサーである程度、ごまかせるにしても、人目の多い祭日そんな偶然の堆積に賭けて銃を構える気の長い殺人者があろうとは思われない。  まして、平岡哲夫は殺される程の恨みを人からかっていない。年二度のボーナスと週一回の休日を生き甲斐にしているような気の善い、小心なサラリーマンなのだ。 「もう一度横井を訪ねてみよう」  小山は立ち上がった。訪ねてみて別にどうということはなかったが、小山にはこの横井という人物がどうも心にひっかかった。最近急に伸びてきた東亜不動産の渉外部長の肩書きをもつ横井は、仮面をつけたようなポーカーフェースの持ち主で、笑っている時にも眸には冷たい色を浮かべていた。  喜怒哀楽にめったに動ぜぬ、鉄の心臓を持った男、如才ない笑顔の背後に常に冷静なそろばんを弾いている。——小山には最も親しみ難いタイプだった。  しかし、そういう先入感は絶対に避けねばならない。不動産屋というその日その日を喰うか喰われるかの世界で生きている人間は、皆こんな風になってしまうのかもしれない。  小山は自らを戒めながら三十分後には横井家のブザーを押していた。後輩の村田刑事が従《つ》いて来た。案じていたように横井は留守であった。しかし、彼の妻がいた。  また、何しに来たのかと詰《なじ》るような彼の妻に向かって小山は丁重にもう一度、例の四畳半を見せてもらえないかと頼み込んだ。 「まだ何かあるんですか?」  彼女はきつねのように目を吊り上げた。それでもしぶしぶ中へ入れてくれた。 「いえ別に、ちょっと確認したい点がありまして」 「もういいかげんにしてください。あれから毎日刑事やら新聞記者やらが押しかけてまるで私達を犯人あつかいだわ。おまけに火薬反応テストだとか言って変な検査はされるし、ご近所からは変な目で見られるし、もうこれ以上、警察のモルモットは真平だわ。主人もこれ以上変なまねされたら人権|蹂躙《じゆうりん》で訴えるって言ってるわよ」  きつね夫人は一気にまくし立てた。小山はそれに対して低く腰をかがめるばかりであった。 「塩をまかれそうだったな」 「いや、実際に今、まいているかもしれませんよ」  ほうほうの態で退散した二人は団地の階段を降りながら言った。 「しかし、ちょっとおかしいな?」  出口の所で小山は小首をかしげた。 「おかしい? 何がです?」  村田が小山の目を覗きこんだ。 「全然、生活の匂いがしないんだ。あの家には」 「…………?」 「どこの家でも家庭は生活の本拠だ。そこでめしを喰い、寝て、子供をつくる。まあ子供のいないのはよいとしても、炊事はするはずだ。ところが、あの家の台所、何にもつくった痕《あと》がない。ナベ、釜、茶碗、庖丁、そういうものが全然見当たらなかった」 「そうでしたか、私は全然、気がつきませんでしたが、そう言われてみれば匂いがしませんでしたね」  村田は今更ながら小山の観察の鋭いのに驚いた。 「そうだ。どこの家でも、その家の体臭というものがある。それはどんなに台所をぴかぴかに磨き立てても、どんなに完璧な掃除をしても消えるものではない。横井一家はあの団地に移り住んでから三ヵ月、そろそろ生活の匂いがあってもいいはずだ。そこでめしを喰いそこで寝起きする生活の本拠であれば玄関の扉を開けると同時に、第三者には直ぐに分る�家の匂い�があの家には全くなかった。テレビもなかった。ラジオもない。今時、テレビもラジオも持たぬ家庭があるだろうか? まして、横井は常に世の中の最新情報を要求される不動産屋なんだ。おかしいじゃないか」 「確かにおかしいですね」 「村田君、君はすまんがこの近辺の新聞屋を当たって、横井が何か新聞を購読していないか確かめてくれたまえ。多分、何もとっていないだろう。僕はテレビとラジオの聴視料集金屋の方を当たってみる」  二人はそれぞれ別個のえものを見つけた二匹の猟犬のように二つの目的地に向かって別れた。      3  ——前略、その後、そちらの捜査状況はいかがですか? 私共は神奈川居住者の二十四名を悉く当たってみたのですが、遂に該当車を発見出来ませんでした。しかし、ひき続き東京居住者、六十三名を執念深く洗っている間に遂に昨日、四十三人目にそれらしき車を発見いたしました。本人が現在同車を運転して九州方面に旅行しているために問題車を直接、検《しら》べられませんが、事故のあった翌日近所の自動車修理工場へ持ち運ばれたことが近隣の人の証言で明らかになったのです。その修理工場を当たったところ、前バンパー変形、アッセンブリーバンパー、エプロンサイド全面的圧潰、ボンネット先頭部左側にへこみ、ラジエーターグリル下部扁平に変形、左前照灯破壊、右前照灯内側へ転回などの修理であったことが判りました。所有者は運転を誤って、石垣にぶつけたと言っているそうです。これほどの破壊変形を受けながら現場に顕微鏡的な塗料膜を二片きり残さなかったところをみると、ホシは我々が用いた電気掃除機のようなものをあらかじめ用意していったのではないかと思われます。……とすればこれは凶悪にして計画的な殺人であり、犯行の背後には何か巨大な黒い動機が潜められているような気がいたします。  現在手許にあるのは、自動車工場の修理明細書だけなので、これだけでは逮捕状の請求が出来ません。車の所有者が帰るのを待って徹底的に洗い上げるつもりです。  なお、車の所有者は被害者一家と同じ団地、M市緑が丘四の一の141、大久保良一(オリオン商事勤務)です。これも怪しい状況の一つです。貴台の担当しておられるライフル殺人事件の被害者住所の近くであるというのも何かの因縁かと思われます。近日中、必ずやお目にかかることになりましょう。何とか、お互いに年の暮れる前に解決したいものです。 [#地付き]草々     十二月三日 [#地付き]四釜高太郎——   小山はその手紙を読みながらやられたと思った。別に対抗意識を燃やしているつもりはなかったが、時を接して発生した事件である上に、四釜にその捜査への特別のてこ入れを頼んだ形になっていただけに、小山としては鼻のいい猟犬のように着実に犯人《えもの》を追いつめて行く四釜に比較して、一向に進展しない自分の担当事件にどうしても焦りを感じてしまうのだ。  捜査本部に帰ると小山に来客が一人あった。初対面の挨拶と同時に彼は一枚の名刺を差し出した。週刊世論編集部記者松村俊二とあった。 「それではあなたは勝目さんの」 「そうです。同僚というよりは親友でした」  松村は細い目にいかにも週刊誌記者といった職業を持つ男に相応しい鋭い光を湛えて言った。いつもスクープを求めて歩き廻っているとこんな目つきになるのかもしれないと思いながら、小山自身そういう目つきをしていることは忘れていた。 「本日おうかがいしたのはほかでもありません。私にはどうも勝っつぁん——勝目君のことですが、彼の過失死が腑に落ちないのですが……」  松村はとんでもないことを単刀直入に切り出した。担当外の事件なので、ここではまずい。小山は彼を空いていた取調べ室へ伴った。裸電球の下に小さな机を挟んでいすが二つ、二人は取調べ官と容疑者のように机を挟んで向かいあった。小山はこんな場所で申し訳ないと詫びて話の先を促した。 「私には彼がどうも殺されたような気がするのです」 「と疑う理由は?」 「彼は最近、住宅公団の用地買収に関する大きな汚職を嗅ぎ出したらしいのです。私は詳しいことを聞かされたわけではありませんが……もっとも彼自身、糸口を握った段階できめ手を掴んだわけではなく、親友のよしみでそのことを一寸洩らしてくれただけなのですが、何でも公団は堺から和泉市の丘陵地帯にかけての泉北丘陵開発計画に基づき、大阪府との談合で白駒の池地区の用地約三十一万二千坪を、坪単価八千二百円、契約額二十六億円弱で買ったそうです。ところが、この土地は利権屋や政府要人の手をたらい廻しにされたもので最初は坪あたり三百—五百円ぐらいのものだったそうです」  小山は松村の話の重大さに息を呑んだ。 「このたらい廻しの連環を勝っつぁんは掴んだらしいのです。こいつが明るみに出たら政財界の大立者で首のとぶ奴が大勢出る、下手をすれば現内閣すら危い。それだけに勝っつぁんの熱の入れようは大変なものでした」 「そんな重要な話を何故もっと早くもって来てくれなかったのですか? 彼が殺され、いや、死んでから二ヵ月もたっている」  松村の話で彼の奇怪な過失死も説明がつく。糸をたぐるうちに勝目はいつの間にか深入りし過ぎた。少なくとも一人で行くべきではない所まで一人で行った。小山はいくらか詰《なじ》るように言った。 「申し訳ありません。しかし、私は五十日ほど、黒いセックスという主題でアメリカへ取材派遣されていたのです。勝っつぁんの死を知ったのもニューヨークでした。一刻も早く帰国してこのことをと思っていたのですが、私も宮仕えの身、仕事が一段落するまでについこんなに遅れてしまったのです。私としては精一杯、早く帰ったつもりなんですが……」  すぐ帰国出来なければ国際電話という手もあるだろうと思う小山の肚のうちをみすかしたように松村は更に、 「三度程、向うから国際電話を入れましたが、いつもお留守でしてね。かといって問題が大きい上に単なる推定の域を出ませんので、テレックスや、電報は使えませんでした」 「分りました。しかし、それだけのことでは彼が殺されたとは断定できませんね。それに勝目さんの事件は、私の担当外だ。それなのにあなたは私の許へ真直ぐに来た。それなりの理由があるのでしょう」  小山に言われて松村はにやりと笑った。笑うと思いのほか童顔にかえる男だった。 「その通りです。私の渡米の直前、彼が死ぬ半月程前でしたが、彼は夜陰、私の自宅にこっそりと訪れ、もしかするとやばいことになるかもしれない。もし君の——私のことですが——君の渡米中にへんなことが俺の身に起きたらこの手帳を警視庁捜査一課の小山刑事に手渡してくれとくれぐれも頼まれたのです」  松村記者は黒革の小さな手帳をポケットから取り出すと勿体ぶった手つきで小山に差し出した。  小山はその手帳を開き、内容を読み進むにつれて身体の芯から興奮が湧いて来るのを禁じられなかった。警察官特有の武者ぶるいと言ってもよい。  そこには大変な内容が盛られてあった。  すなわち、当該の土地は昭和三十八年八月大阪の阪港建設からオリオン商事に売られ、同年十二月オリオンから東亜不動産に、同三十九年三月東亜から保科電設へとめまぐるしく転売された後、同年九月保科電設から住宅公団が最終的に買い上げた。この間、僅か一年余の間に二十倍近く値段がはね上がっている。いかに地価の値上がりが激しいといっても一年間に二十倍というのは極端である。  しかも、この土地が水はけ不良で住宅用地として全く不適とされ、あれから数年たった今になっても何の整地作業もほどこされず、徒らにぺんぺん草の生えるに任せているという有様である。  この土地転売の過程には政財界の大立者や黒い霧問題に必ず顔を出すいわくつきの人物の名前が浮かんでいる。手帳の要点は——宅地不適地を住宅公団が何らかの圧力をかけられて買わされた?——という点にあった。  そして、転売の過程で動き廻った大立者の言動や、利用した料亭名、会見した人間の名前などがかなり詳しくメモされてあった。  これが事実であるとすれば大きな問題になる。四釜刑事が�背後に巨大な黒い動機が潜められているような気がする�と言ったカンは当たったわけだ。 「あなたはこのメモをお読みになりましたか?」  小山は手帳から視線を上げて松村に尋ねながら馬鹿なことをきいたものだと思った。週刊誌の記者が封もされずに託されたこれだけのネタを見過すはずがない。おそらく、ここへ出頭するまでに全社の機能を上げて、かなり突っこんだ資料を揃えてしまったに違いない。  案の定、松村は困ったように頭をかきながら、しかし目は抜目ない打算を浮かべて、 「我々の手のうちをさらします。日本公論社全社をあげてこの事件に協力しますから……」 「はは、取引ですな」  小山は笑ったが、いつものことながら、友の死体を乗り越えてもスクープに向かってすっぽんのように喰いついていくトップ屋魂に敬服した。  特定の社に特別の情報を与えることは許されないが、それはあくまでも警察の捜査がジャーナリズムに先行している場合に限られる。彼らの組織と鋭敏な嗅覚は往々にして警察よりも先に事件を嗅ぎつける。  そういう場合、警察権を要求されない、最大限のところまで彼らの機動力にものを言わせて調べ上げ、ぎりぎりの所で警察へ協力という形で持ち込み、スクープと資料の交換を申し出るのである。  勝目の手帳は単なる糸口であった。彼らはその糸口から更に大きな綻びをたぐり寄せたのに違いない。あながち、小山への申告が遅れたのは松村のアメリカ行だけのせいではあるまい。  小山の笑いを松村は承諾と取った。もっとも承諾せざるを得ないのだ。�契約�は成立した。小山は立ち上がった。松村を本庁捜査二課へ伴うためである。  その日、小山はやや早目に自宅へ帰った。連日の深夜帰宅で身体がひどく疲れていた上に、たまには人並みのサラリーマンらしく子供達のまだ�起きている顔�を見たくなったからであった。  事件発生後すでに三ヵ月、町はすっかり冬になっていた。中野の奥のごみごみしたアパート町の上空にも暮れ残った冬の夕映えが浮かんでいた。  子供達の泣き声、母親の叱る声、魚や野菜や飯を炊く生活の渾然とした匂い、豆腐屋のラッパ、近くの大通りを走るバスの警笛、遠い国電の轟音、人々がその日の勤めから解放された夕暮れ時の浮き立つような賑かさ、一日で最も美しい時間であった。小山は毎日この時刻に家に帰れる並みのサラリーマンを心から羨しく思った。  小山の六畳と三畳の二間きりの�城�にも活気が溢れていた。細君は幼児三人の相手と夕餉《ゆうげ》の支度にきりきり舞いをしていた。常よりも早く帰宅した彼が、早速この�|恐るべきガキ《アンフアンテリーブル》�共を細君から押しつけられたのは言うまでもない。「久しぶりの父親」を得てはしゃぎ廻る子供達の相手をつとめながら、テレビを観る。かたわら新聞にも目を走らせるという名人芸をやりながら小山はふと気がついたことがあった。 「はて? ここの境の敷居には襖《ふすま》がなかったかな?」 「何を今頃言ってんのよ、こんな狭いところに襖もないでしょ。よほど、寒い時以外はいつも外しっぱなしじゃないの」 「そうだったかな」  細君に言われてもまだ、小山は何か新発見でもしたような目つきで六畳と三畳の間を仕切る敷居を眺めていた。  妻は帚[#「帚」に傍点]を持ち出した。三畳間の窓と六畳側のガラス戸を開ける。 「おい、何でそんな開け方をするのだ? しかも二部屋[#「二部屋」に傍点]も?」  小山は訊《たず》ねた。  それぞれ、二本のレールの上を互いちがいに嵌《は》めこまれた二本引のガラス戸を細君はぴったりと重ねて中央へずらし、左右両側に空間を創った[#「空間を創った」に傍点]のである。ごていねいにも六畳と三畳の二部屋共に。  小山は二本引の窓を開ける時、そのような開け方はしない。どちらか一方にがらがらと繰って片側にだけ空間を創る。それも一部屋だけだ。第一、この方がワンタッチの動作ですみ、手間が少ない。 「この方が対流が起きて空気の通りがいいのよ」  妻はこともなげに言った。彼女の唇から思わぬ科学知識がとび出して小山はやや見直した。 「掃除をする時はどこの家でも窓をそんな風に開けるのか?」 「そうね、電気掃除機のある家は別でしょうけど、帚の家はたいがいこんな風に開けると思うわ」  帚! その時突然、小山の頭に閃いたことがあった。平岡家にも帚があった。そして団地の窓も上下開閉や開き戸式ではない。殆どが二本引のはずだ。  九月二十四日午前九時、平岡京子は多分帚で掃除をしていた。その時、C点=横井方から飛来したと推定される弾丸により平岡哲夫は殺害された。現場のガラス戸は割れておらず、現場から弾丸の貫通によるいかなるガラス砕片も発見されなかった。それ故にC点が発射源として推定されたのである。  窓は開いていたのだ。帚で掃除をしていたからか、天気がよかったからか、いずれにせよ、ガラス戸は開いていた、中央に重ねられて。 「すまんが、めしは後だ。ちょっと出る」  膝の上の子供を下し、小山は平凡なサラリーマンから、刑事本来の目に戻った。細君が何か言い出そうとする前に彼の姿は薄い夕闇の屯《たむろ》し始めた町の中にあった。 「奥さん、突然お邪魔して申訳ありませんが、あの事件の時お宅では帚を使っていましたか、それとも電気掃除機でしたか?」  一時間程後、小山の姿は緑が丘団地の平岡家にあった。ちょうど夕食時とみえ、京子は一人の子供と寂しい食卓を囲んでいた。常ならば食卓のもう一方の端には彼女の夫であり、子供の父親である平岡哲夫が坐っているはずである。  腕白盛りの子供も若い母親のかたわらにちょこんと坐って、ただ黙々と箸を口へ運ぶだけである。小山は我が家の騒々しい食卓と比べて、この一家にも数ヵ月前には確実にあった幸福な団欒《だんらん》を偲んで、それを根こそぎ奪って行った見えざる犯人に改めて大きな憎しみを覚えるのであった。 「私共ではずっと帚を使っていますが」  小山の突然の訪問と、唐突な質問に京子は少なからず面喰ったようである。 「とすると、窓は開けましたね」 「はあ、あの日はお天気もよかったものですから」 「その時と同じようにもう一度、窓を開けていただけませんか? 全く同じ状態に[#「全く同じ状態に」に傍点]」  京子は小山の真意は分らぬながらも、その真剣な様子に何事か感じ取ったものと見えて素直に従った。そして、小山の妻がしたようにダイニングキッチンの二枚のガラス戸を中央に重ねて、左右両側に空間を創った。北側の四畳半の窓も同様に開いた[#「北側の四畳半の窓も同様に開いた」に傍点]。小山は頷き、ダイニングキッチンと四畳半の境の敷居を指して、 「今、ここに襖はありませんが、事件当時はいかがでしたか?」 「外してありました。家の中が狭く暗くなるので、私共では冬のごく寒い時以外は外しておきますから」  小山は平岡哲夫の射たれたB点に立った。南側には、ガラス戸東側の空間を通して横井家の四畳半のC点、そして北側には四畳半ガラス窓西側の空間を通して北に並列する四三〇四棟の一室のガラス戸が見える。  平地に建てられた同一構造の団地は、各棟の各室の高さまでが水平線上に位する。 「あの家は誰方がおすまいですか?」  小山は指さした。 「今は空室ですわ、以前は勝目さんという新聞記者[#「新聞記者」に傍点]のご一家が住んでおられましたけど」 「勝目!?」  小山は息を呑んだ。 「あの横浜埠頭から誤って転落した勝目さんですか?」 「そうですわ、ご存知でしたの?」  京子は小山の驚愕があまりに大きいので不審そうな面持ちをした。勝目の家がこの緑が丘だとは知っていたが、まさかこの隣りの棟、しかも平岡家の斜向いとは知らなかった。  驚きから醒めると小山は一つの発見をした。いやおぼろげに感じていたことの確認と言ってもよい。  平岡の射たれたB点を中心として、ダイニングキッチンガラス戸東側の空間と四畳半ガラス窓西側の空間を結んだ対角線を延長すると、それぞれ両端が横井家のC点と元勝目家の電話の位置(これをa点とする)に届くのである。 「奥さん、横井立獄の……さんの勤め先は東亜不動産でしたな?」 「はい、確かそううかがいました。不動産屋って利益の多いご商売らしいですわね。この頃、また新しい車と入れ替えて。うちなんか電気掃除機すらも買えない、それどころか、この子供をかかえてこれからどうしていけばいいかと思うと……」  京子には気の毒だが、小山は彼女の涙ぐみかけた終わりの方の言葉は聞いていなかった。  目を宙に据えて、精神をある一点に凝固させていたのである。  帚、窓、襖、電話、対角線、平地、同一構造の団地、ライフル銃、射程距離etc……  彼には判った[#「判った」に傍点]のだ。      4     捜査報告書  次の犯罪を捜査したから報告する。   昭和四十×年十二月二十四日      警視庁捜査第一課    司法警察員 巡査部長 小山博道   警視庁捜査第一課長      関  貴 夫 殿    罪名罰条     殺人 刑法第百九十九条    被疑者     本籍 大阪府吹田市上栄町四     住居 東京都M市緑が丘四ノ一ノ141     職業 オリオン商事第一営業課長     氏名 大久保良一     年齢 昭和十×年一月十九日生(三十二歳)    罪名罰条     殺人幇助 刑法第百九十九条及び第六十二条    関連被疑者     本籍 埼玉県熊谷市仲町七五     住居 東京都M市緑が丘四ノ二ノ142     職業 東亜不動産K・K渉外部長     氏名 横井立獄     年齢 昭和×年一月二日生(三十九歳)  犯罪事実  1、被疑者は昭和四十×年九月二十四日午前九時頃、自宅より平岡哲夫(二十九歳)東京都M市緑が丘四ノ三ノ143を同所においてライフル銃により射殺した。続いて、同日午後八時頃、横浜埠頭1号B岸壁に於て勝目秀介同市緑が丘四ノ四ノ144(三十四歳)を殺害しようと決意し、他家族三名を死に致すかもしれないことを認識しながら同人らが同乗の乗用車に被疑者の運転する大型乗用車CRV8三千ccを追突せしめ、勝目一家四名を車ごと海中に転落溺死させてその目的を遂げたものである。  捜査経過  1、被疑者は勝目秀介を殺害する目的で平岡哲夫を誤殺した。平岡哲夫の射殺点を中心とする同一直線上の両端に、勝目秀介宅ダイニングキッチンの電話と被疑者の発射点が位置することが本犯罪事実発見の端緒である。  被疑者は公団住宅の同一構造性を利用して勝目秀介を殺害しようと計画した。  即ち、被疑者住居四三〇一棟141号b点(見取図参照)に据銃して四三〇二棟142号室、並びに四三〇三棟143号室の窓を互い違いに一方の方向へ(南側ガラス戸は東側を、北側ガラス窓は西側を開ける)開放すれば、勝目秀介住居のa点(電話の位置)とは直線上の射程距離に入る。一定の時間に前記二棟の窓を開放し、勝目秀介を電話口に呼び出し、銃撃により殺害、犯行後介在二棟の窓を閉めれば発射点が判らず、被疑者は司直の追及を逃れられるものと確信した。  被疑者はこの目的のために被疑者住居、並びに四三〇二棟142号室の居住権を住宅公団より不正な方法により獲得し、四三〇二棟142号室を関連被疑者、横井立獄に渡した。 (画像省略)  しかるに、肝心の四三〇三棟143号室が手違いにより平岡哲夫の居住するところとなったため、被疑者は一時この方法による犯行を断念した。  横井立獄は平岡哲夫の妻、京子が掃除の時帚[#「帚」に傍点]を使用し、空気の流通をよくするために同住居ダイニングキッチンのガラス戸並びに北側四・五畳ガラス窓それぞれ二本引を中央に重ねて開けるくせを知り、二箇所の窓の両端の空間を対角的に結びつけることにより(見取図甲点と乙点)、被疑者の発射点(b点)と勝目秀介宅電話(a点)が直線上に結ばれることを知った。  かくして、犯行時、a点に勝目秀介を呼び出し、発射したところ、折しも同じ時刻、平岡哲夫にも第三者より電話が入り、勝目秀介を殺害すべく発射した弾丸がc点にて平岡哲夫に当たりこれを即死せしめた。  2、平岡哲夫を誤殺した被疑者は、ドライブ旅行へ出かけた勝目秀介を終日追尾し、遂に前記犯罪事実の場所時刻に前記方法により勝目秀介ほか家族三名を殺害した。  証拠目録 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  一、背広上下(被疑者のネーム入り、ダークグレイ亜硝酸反応陽性)  一、FNモーゼル30—06口径ライフル銃  一、右銃弾丸一個(平岡哲夫の体内より剔出、腔綫《こうせん》条痕一致)  一、日本住宅公団M市緑が丘住宅四三〇三棟142号室当選通知表(大久保良一名義)  一、一九六×年型CRV8三千cc  一、同車車体前部の××自動車修理工場による修理明細書  一、同車、前部フェンダー部分塗料片  一、被疑者供述調書  一、関連被疑者、横井立獄供述調書  一、鑑定書二部 [#ここで字下げ終わり]      5  十二月三十一日午後六時頃、小山部長刑事と四釜刑事の二人の姿が緑が丘団地四丁目にあった。  彼らは今、連れ立って平岡家へ赴き、事件の顛末《てんまつ》を報告して来たところであった。若い未亡人は二人の報告を聞き終ると、部屋の片隅にしつらえた小さな仏壇の前に進み、線香をあげた。そして二人の方へ向き直ると目頭を押さえながら頭を下げ「ご苦労様でした」と言った。  その間、哲夫の遺した一人の幼児が小さな膝小僧を揃えて神妙にかしこまっているのもむしろ哀れをさそった。  つい、数ヵ月前までは庶民の平安と片隅の幸福の典型であった一家から、ある日突然、全く何の理由もなく、一発の弾丸はその安らぎと幸せを根こそぎ奪い尽くしてしまった。  警察は犯人を捕えることは出来ても、彼らの幸せを取り戻してやれない。  それでも、ダイニングキッチンには春を迎える支度が調っていた。  平岡京子は辞退する二人を無理に坐らせて、 「不出来な手打そばですが、どうぞ召し上がっていって下さい。去年と同じ様に三、四人分作ったのです。あなた方に召し上がっていただければ夫も喜ぶことでしょう」  若い妻には夫の死がまだ実感として湧き上がってこないのだろう。これから親子三人揃って年越そばを啜り、紅白歌合戦を楽しんでから除夜の鐘を聞く。どこの家庭にもあるささやかな幸福に溢れた年越の行事から自分達一家だけが疎外されていると考えたくないのであろう。  これからこの親子は階段に誰かの足音が聞こえる都度、彼らの夫、父が年越の買物で腕を一杯にして今にもブザーを押すのではないかと耳をそばだてつつ、母子二人だけで寂しく年越そばをすすり、寂しく紅白歌合戦を観、寂しく除夜の鐘を聞くのに違いない。  小山と四釜は心尽くしのそばを啜りながら、改めてこの一家の平安を奪った巨大などすぐろい組織に対していいようのない怒りを覚えた。 「夫の退職金の一部を割いて電気掃除機を買いました。これがあればお掃除の都度、窓を開けずにすみますものね」  暇《いとま》を告げるべく立ち上がった二人に京子は寂しく笑った。  外へ出ると陽はとっぷりと暮れていた。一棟三十二世帯平均の建物が二百近くも建ち並ぶマンモス団地の無数の小窓からは、住民のささやかな幸せを象徴するような暖かい灯が洩れていた。ホテルのキイボックスのような団地の窓——その中には規格化された庶民の幸福がある。しかし、規格化されたものではあってもその幸福はそれぞれの住人にとってはかけがえのないものなのだ。  二人はバスを待ちながら�キイボックス�からこぼれる無数の灯をふり仰いだ。 「こうして眺めるとなかなか、壮観ですな」 「殆どすべての窓に灯がついている。どんなに繁盛するホテルでもこうはいきません」 「私らも早く帰って紅白歌合戦でも観ますか」 「いいですね、しかし、こう灯がつくと灯がついていない窓は何か歯が欠けたような寂しさを感じさせますね」 「この時間に灯がついていない家というのは、一家揃って温泉へでも年越しに出掛けたのでしょう」  ——けっこうなご身分ですな——と言いかけて小山ははっと四釜の顔を見た。四釜も表情をひきしめて頷いた。  灯の咲きこぼれる窓群の中にいくつか暗渠《あんきよ》のような暗い闇の中に沈んでいる窓が、かつての勝目秀介の住居であり、横井立獄や、大久保良一の�殺人用居所�であったことに気づいたのである。  バスはなかなか来なかった。 「四釜さん、貴方はどちらにお住いで?」  小山は話題を変えた。 「神奈川区の六角橋の近所にアパートを借りています。私のような下っぱ刑事はなかなか警察官舎へ入れないし、公団住宅は何度申し込んでも落選ですわ、一方では人を殺すために幾部屋も抑える人間がいるというのにね」  彼は憤りを抑えて言った。  そういうことは信じたくなかったが、大久保の持っていた四三〇三棟142号室の当選通知表が何よりの証拠であった。通知表には143号室とあるべきであった。それが組織の指令の手違いで142号室が割り当てられてしまったのだ。  ここに組織にとって好ましくない情報を握った人間を抹殺すべき殺意の架橋は中断されてしまった。しかし、平岡夫人の掃除のおかげで殺意は再び架橋された。  二十四日午前九時、平岡夫人は掃除のために窓を開ける。続いて横井立獄が殺人用居所[#「殺人用居所」に傍点]の窓を開ける。勝目秀介に電話を入れる。これはおそらく横井がダイアルしたものであろう。  午前九時少し過ぎ、作為と無意識によって創られた空間の彼方に、勝目秀介の姿は望遠照準鏡の十字《クロス》にピタリと捉えられた。  FNモーゼル30—06口径の弾丸は、四三〇一棟から四三〇四棟へと四つの棟にわたって架けられた殺意の橋の上を、凶暴な殺傷力を秘めてこおどりしながら飛んで行ったに違いない。  平岡哲夫がその橋の上に立ち塞がらない限り、弾丸は確実に勝目秀介を斃《たお》すはずであった。 「小山さん、こんな風に考えられませんかな?」  四釜が表情をこわばらせて言った。 「ここの建物は番号の若い程建てられたのも後です。とすれば四三〇三棟から四三〇一棟までの建物は四三〇四棟の勝目秀介を殺すために設計されたのではないかと」 「まさか!?」  小山は言ったが、心の中にきっぱりと否定しきれないものがあった。  とにかく、相手は三十一万坪の土地をオリオン、東亜、保科と私利私欲をからめてめまぐるしく転売し、住宅不適正地と分っていながら住宅公団に押し売りする、いや押し売り出来る大物[#「大物」に傍点]なのだ。  庶民の言語に絶した住宅難をせせら笑いながら、単なる殺人用に特定の室を数戸も抑えられる実力[#「実力」に傍点]を持っているのである。  やろうと思えばそのくらいのことは出来るであろう。一人の人間を抹殺するために公団住宅を三棟も建設する。民営アパートの非人間的空間に押しこめられている小山は、ありうるかもしれぬこの壮大な殺人計画に、慄然とした。しかし慄えはすぐにおさまり、 「年を越せば二課との合同捜査です。東亜不動産の横井、オリオン商事の大久保という連環をたぐり、必ず、その背後に潜む黒幕をあばいてやる。勝目さんや、平岡さん、そして世の中の多くの善良な家のない人々のためにも、この不正を断乎、摘発するのが我々の義務です」 「やりましょう」  二人の刑事はしっかりと手を握り合った。バスが来た。いつの間に降り出したのか、ヘッドライトの光芒の中に粉雪が誘蛾灯に吸い寄せられた無数の羽虫のように舞っていた。 [#改ページ]  虫の息      1  F市の海岸通りで奇妙な�交通事故�が発生したのは、夏が迫った霧の深い朝の六時ごろのことである。加害車のドライバーから事故の届け出を受けたF市警察は、当初それを交通事故と扱ってよいものかどうか判断に苦しんだ。  過去の事例にもこのようなケースはなかった。  が、ともあれ、加害者の運転していた車が、その事故の原因になっていることは確かなので、F市警ではいちおう交通事故ということにして、関係者の取り調べをはじめたのである。  事件というのは、当事者の申し立てによると、次のようなものであった。  ——その朝、市内で内科医を開業している医師|菊地昇平《きくちしようへい》が、毎朝診察前に、ウォーミングアップのようなつもりでやっている早朝ドライブに、愛車のスポーティカーを駆って、市内の海岸通りへさしかかった。  菊地の医院は繁《さか》っている。腕がいいうえに、患者あたりが柔らかいので、F市内はもとより、評判を聞きつけて近郷からも彼の治療や診察を求めて、患者が集まってくる。  そのため、いったん診察室へ入れば、津波のような患者の大群との格闘になる。この早朝ドライブは、菊地が自分を取り戻す唯一の息ぬきであった。  車も人通りもない早朝の道路を、何物にも遮断《しやだん》されることなく、愛車を走らせていると、心の中にうっ積したものが吹きはらわれて、今日の活力が生まれてくるようである。  そのために彼は、よほど天候の悪いときとか、前夜の往診で遅くなったときを除いて、この早朝ドライブを欠かしたことがない。  そんな時間こそ、道路はまさに彼のためだけにある。国産ながら新機軸のエンジンを搭載したスポーティカーは、その性能を遺憾なく発揮した。  しかし最近は、愛車の性能を十分に満喫することができない。というのはこの季節になると、地形と海流の影響で、毎朝濃霧が発生するからである。  誇張でなく、手を伸ばせばその先がかすむような濃い霧の中では、爽快なスピード感を楽しむことはできない。  しかしそれでも欠かさずに出かけて来るのであるから、彼も相当のカーキチと言える。  海岸通りへ出ると、霧はいちだんと濃くなった。  この通りはその名の通り海岸に沿って走る二車線の道路である。遠浅の砂浜に沿って走っており、約二キロほど直線がつづく。  道のいい割には市内の幹線道路から外れていて、車の交通量が少ない。シーズンともなると、市民のための格好の海水浴場となるので、かなりにぎやかになるが、季節に少し早い早朝は、人影もない。  菊地の早朝ドライブのコースには必ずこの海岸通りが組み込まれている。人影と車の絶えた二キロの直線道路は、この時間帯彼だけのために敷かれているようであった。むしろこのコースは彼の早朝ドライブにとって欠かすことのできない重要なメーンになっていた。  菊地はこの通りに出ると、アクセルの抑制をかけない。二十代の若者同様にスピードを玩《もてあそ》ぶ。  だがその朝はせっかくの道路の感触も味わうことができない。直線の道路も霧に遮蔽《しやへい》されては意味がない。  のろのろ車を転がしているうちに、菊地は次第にいらいらしてきた。どうせ人通りのないことはわかっている。いつも通いなれているコースなので、勝手は知りつくしている。  菊地にとっては目をつむっていても運転できる個所であった。霧があろうとなかろうと関係ないではないか——とおもうと、心の抑制がきかなくなった。  彼は罪を犯すようなスリルを感じながらアクセルを踏み込んだ。愛車の優れた加速性能は、ハイファイにスピードに反映した。二キロの距離はあっという間に終わりかかった。  彼が前方に突然人影を認めたのは、直線コースの終わり近くである。まさかこんな早朝、しかも車道にいきなり飛び出して来る人間があろうとはおもってもいなかった彼は、霧の中に浮かび上がった人影の近さに咄嗟《とつさ》に間に合わないと判断してハンドルを切った。  人間との衝突は避けることができた。だが彼の車は車道と歩道の境目に植えられている街路樹のクロマツの幹にもろに突っ込んでしまった。  コースの末端近くに来ていたために、減速の構えをとりつつあったので、菊地は街路樹に接触したものの、それと心中するまでには至らなかった。木の幹にぶつかった瞬間、枝が折れたような音がして、何かが視野の後方へ飛び去った。  かなりの衝撃を身体に感じたが、どこも怪我をした様子はない。道に飛び出した人間も避けることができた。  菊地はホッとして、車から下り立った。車の損害を見届けるためである。  道路に下り立った彼は、そこに、ある�物体�を見出して愕然《がくぜん》となった。  車の停まったすぐ後方の舗装道路の上に長々とのびているのは、なんと彼が避けたはずの人間ではないか! しばらくの間、菊地は信じられないものを見るような目をしてその場に立ちつくしていた。 「そんな馬鹿な!」  彼は自分が寝ぼけているのではないかと疑ったほどである。咄嗟にハンドルを切って、その人間と接触することは避けた。彼が感じたショックは、街路樹との接触によるもので、絶対に人間をはねたものではない。菊地はそのことに確信をもてた。  それにもかかわらず、その人間は路上に倒れているのである。  驚愕の中にも、医者としての意識がめざめた。とにかく被害者? のところへ駆け寄って、身体を抱きおこす。五十歳前後のやや肥満型の男である。朝の散歩に出たのか、和服姿で、そばに杖が転がっている。意識はない。鼻から少し血が出ていた。  後頭部にも血がにじんでいた。脈を取る。すでに絶望だった。  いったい何が被害者? を傷つけたのか? 菊地は周囲を見まわした。やはり触れないようでいて、車体のどこかが、その男に触れて、はね飛ばしたはずみに、後頭部を道路面に打ちつけたのであろうか。  菊地の途方にくれた目は、男の倒れた場所の斜め後方一メートルくらいのところに落ちていた松の木の枝を捉《とら》えた。そのあたりが霧に狭《せば》められた視野の限界だった。  さっき車が街路樹にぶつかったはずみに、折れて飛んだらしい。太させいぜい四、五センチ、長さ一メートル足らずの枝である。枝の根元が虫害によってもろくなっていたのである。  その枝を手に取った菊地は、樹皮にかすかな血が付着しているのを認めた。 「車が街路樹にぶつかった衝撃で、枝が折れて、それが飛んでいって被害者の後頭部に当ったのだ」  菊地は先刻、松の木に衝突したときに、枝の折れたような音がして黒い棒のようなものが後方へ吹っ飛んでいったことをおもいだした。  どちらにとってもまことに不幸な偶然である。菊地は確かに人を轢《ひ》くことは避けた。だが代わりにぶつかった街路樹の枝が折れて、それが人間を殺したのだ。  医者の彼は、被害者がすでに絶望であることを知っていた。救急車を呼んでも、運んではくれない。彼は止むなく被害者の死体をその場へ残したまま、その足で警察へ届け出たのである。  結局、それがいちばん当を得た行動であった。  被害者の身元はすぐにわかった。現場の近くに住んでいる大橋豊吉《おおはしとよきち》という地主である。F市周辺に先祖伝来の広大な土地を所有して農業を営んでいたのが、最近の土地開発ブームに伴って地価が値上がりしたので、汗水たらして安い作物をつくるのは馬鹿らしいと、土地を不動産業者や観光業者に売ったり貸したりして、その金利でぶらぶらしている、最近の都市近郊の農村に多い、一種の�遊民�である。  土地を売り放した農民が、その金をたちまち蕩尽《とうじん》して、生活に窮していく中で、大橋は蓄財の才に長《た》けており、土地から得た金で私設の高利貸しを営み、着実に肥っていった。  現在、彼の資産は十数億とみなされ、目ぼしい産業もないF市では指折りの資産家になっている。  三年ほど前に先妻が病死したので、東京の方から若いきれいな女を連れてきて、後妻に据えた。人の噂では、銀座辺でバー勤めをしていた女だとかいうことだが、その真偽を確かめた者はいない。  蓄財の才には長けてはいたが、大橋は自分の身体に密かに進行していた病魔には気がつかなかった。  土地から離れて優雅な金利生活者になった彼は、極端な運動不足におちいって、いつの間にか金といっしょに贅肉《ぜいにく》を身に蓄えてしまった。美食と酒が、それをさらに助長した。  新しい妻との新婚生活をゆっくり愉《たの》しむひまもなく、彼は二年前に脳溢血《のういつけつ》の発作をおこして倒れた。もはや絶望とおもわれたにもかかわらず、数日間の昏睡《こんすい》ののちに、奇跡的にもちなおしたのである。  それは医師も驚いたほどの回復であった。軽い麻痺《まひ》が右脚の先に残った。医者は回復を速めるために、軽い運動を勧《すす》めた。  以来、大橋の早朝の散歩は、欠かさずに行なわれるようになったのである。その朝、彼はいつもの散歩コースで奇禍に遭《あ》ったのだ。  朝のうちなら車も少ないという考慮がうら目に出たわけである。  折れて飛んだ松の枝が、大橋の頭に当った。そのために脳内出血をおこして、それが死因となった。普通の人間ならば、精々コブが出る程度ですんでしまうところであった。ところが大橋の、枝の当った後頭部は、以前出血した脳血管の走る最もデリケートな部位だった。  わずかの衝撃で、その血管壁は破れる状態にあった。松の枝が当るという偶然に、もう一つ不幸な偶然が重なったのである。  菊地の届けを受けて、松の枝が当った程度のショックで人間が死ぬものだろうかという疑問をもった警察は、大橋の死体を解剖してその事実を確認した。後頭部以外にいかなる傷も発見されなかった。 「これでも交通事故といえるだろうか?」  担当の係官は、頭をかかえてしまった。 「菊地は大橋を避けたために、松の木に車をぶっつけた。そのはずみに松の枝が折れて飛んだ。飛んだ枝が大橋の頭に当った。たまたま枝が当った個所が、以前に脳溢血をおこした部位で、大橋は脳内出血をおこして死んでしまった。もしこれでも因果関係ありとして、菊地の責任を追及するとなると、風が吹くと桶《おけ》屋が儲《もう》かると同じ伝になるぞ」  因果関係は、原因と結果の間に一定のつながりのあることで、刑法の上で特にこれが問題となるのは、加害者や犯罪者に、その行為の結果に対してどの程度まで責任を負わせることができるかという限界である。 「風吹けば」——の式で、どんな些細《ささい》なつながりでも、原因をあたえた者は、その結果に対して責任を負わなければならないとすれば、すべての人間が犯罪者や加害者になってしまう。  学説は大きく二つに分れていて、原因と結果の間に社会常識的に相当[#「相当」に傍点]と考えられるつながりがある場合に、因果関係ありとする「相当因果関係説」と、原因がなければ結果もなかっただろうという条件関係が存在するかぎり、因果関係を認める「条件説」の二説が対立している形である。  前説に立った場合、「相当」の基準についてさらに説が分れるが、因果関係は成立しにくいであろう。  後説によれば、結果に対するすべての条件を原因と考えて平等視するので、因果関係の存在を認められるであろう。もっともこの説は、単に因果関係の有無を判定する原理であって、結果に対する責任追及の問題とはべつのものであると主張されているが、いずれにしても専門の法律学者の間でもカンカンガクガクと争われている難しいケースに、お門《かど》ちがいの交通事故の担当官が簡単に結論を出せるものではなかった。  だが担当官は、被害者がF市でも指折りの資産家であり、その後妻が二十代の若い女で、結婚してまだ三年そこそこであることが気に入らなかった。  大橋が死ねば、彼の十数億の財産の三分の一は確実に彼女のものになる。大橋にはすでに独立した三人の子供がいる。彼らに三分の二を取られるのはしかたがないが、配偶者の相続分として、億を越える財産が、わずか三年老夫に仕えた報酬として、彼女の懐中に転がり込むのである。  担当官は、このへんに胡散《うさん》くさいものを感じた。地方都市の小さな警察なので、セクショナリズムはあまりない。  彼はこの疑問を捜一係の刑事に話した。刑事もその疑問をもっともだと思った。こうしてF市警の捜一係は密かに動きはじめた。      2 「あの爺い、くたばりそうで、なかなかくたばらないのよ」 「まあそんなに焦《あせ》らないことだ。もうあいつの脳血管はぼろぼろなんだから、必ず近いうちに再発するよ」 「あなたはそんなのんびりしたこと言ってるけど、いっしょに生活している私の身にもなってよ。もうあんな死に損《ぞこな》いの世話をするなんて、一時間だってがまんできないわ」 「そんなわからずを言うもんじゃない。せっかくいままで辛抱したんだからもう少しがまんするんだ。そうすればきみは億万長者になれるんじゃないか」 「いままでその言葉に騙《だま》されて辛抱してきたわ。でももうそんなにのんびり構えていられない事情が起きたのよ」 「事情?」  しきりに駄々をこねる女に辟易《へきえき》していた男が、女の改まった様子に、不安そうな目を上げた。ここはF市から数十キロ離れたハイウエイ沿いのモーテルの密室である。  久しぶりに逢った男と女は、たがいの餓《う》えを貪《むさぼ》り癒《いや》したあと、女がまたいつもの結論の出ない愚痴をこぼしはじめた。これが出ると、男はそれをなだめるのに一苦労する。  女の豊満な体を味わえるのは嬉しいが、この愚痴には閉口していた。さりとて、美味な体の背中に数億の金を背負っているカモとなれば、そう冷たくも突き放せない。  だがいまの女の愚痴には、いつもとちがう口調が感じられた。何か底に含んでいるものがあるようである。 「どんな事情だい?」  男は努めてさりげなくたずねる。 「あなたがびっくり仰天する事情よ」  女は気をもたせる言いかたをした。 「話せよ」 「驚いちゃだめよ。実はね、デキちゃったの」 「できた、何が?」 「あなた医者のくせに、案外ニブイのねえ。つまりね、これなのよ」  女は下腹の上に手で弧をえがいた。 「まさか!」 「ほら、やっぱり驚いた」  女は、おもしろそうにケロケロと笑い、 「爺いは発病してから、私と�本番�したことないわ。もうできなくなっちゃってるのね。だからこのお腹の中には、あなたがタネを蒔《ま》いたことになるわ」 「き、きみ」  男の声は不覚にも震えた。 「そ、それじゃ、そのことが大橋に知れたら、きみは相続権を失ってしまうぞ」 「そういうことになるかしら」  女はケロリとして答えた。 「そんな他人事みたいによく言えるな。きみが他の男の子供を孕《はら》んだと知ったら、大橋は必ずきみと離婚するよ」 「かもしれないわね」 「のんびり構えている場合じゃないよ」 「だから、そう言ったわ」 「堕《お》ろすんだ、すぐに!」 「私いやよ!」 「いやだって? 相続資格を失ってもいいのか?」 「この子は、私にとって初めての子供よ。初めての子供を堕ろすと、一生子供を生めない体になるかもしれないわ。あなたは医者だからそのことをよく知ってるでしょ」 「生めなくなるとはかぎらん。ちゃんとした設備の下で、腕のいい医者にやってもらえば、そのおそれはほとんどない。それより相続資格を失ってもいいのか?」 「子供もお金も両方欲しいわ」 「そんなことできるはずないじゃないか」 「できるわよ。大橋が気がつく前に死んでくれれば」  女はにんまりと笑った。 「なんだって?」 「大橋が私に子供ができたことを気づく前に脳溢血を再発して死んでくれれば、子供は彼の子ということになるわ。だれも彼がインポになっていることを知らないし、そうすれば、相続の取り分も子供の分だけ増えるんじゃない」 「そんなに都合よく死なないよ」 「だから、そこを少し早く死ぬような工夫をあなたにしてもらいたいのよ。医者なんだからそのくらいのことできるでしょ」 「きみっていう女は!」 「いまさら驚くにはあたらないわよ。銀座のバー時代から関係があったのを、おたがいになにくわぬ顔で医者と患者のつき合いをしていたのだから、どっちもどっちよ。ねえ、なにかいい工夫ない? あのポンコツ人間が少しぐらい早くこの世からおさらばしたって、どうってことないでしょ」 「殺人になるんだぞ」 「そんなに重大に考えることないわ。どうせ片足、棺桶に突っ込んでいるんだから、もう一本の足も入れてやるのよ。それにね、この子が無事に生まれれば、あなたは数億の財産を握った子の父親よ。悪い身分じゃないでしょ。あなたの医院がいくらさかったところで、健康保険の腹いたや風邪ひきの患者ばかり扱っていて、これだけ稼ぐのは、まあ無理だわね」  男には、すでに体の細部まで知りつくしたはずの相手の女が、妖怪じみたものに見えてきた。  その後、二人の間に何度か話し合いがもたれた。男は市内の開業医菊地昇平であり、女は同じ市内の地主大橋豊吉の妻、小夜《さよ》である。  小夜は元銀座のバーでホステスをしていたころ、たまたま遊びに来た大橋に見染められて、その後妻に据えられた。一方、菊地との仲はそれ以前からである。学会で上京した彼は、先輩に連れられて行ったバーで、初めて小夜に逢った。それ以来、上京の都度、小夜と逢い、関係を深めた。  そのうちに結婚したとかで、菊地の前から黙って消えた彼女は、間もなく患者として、ふたたび彼の前に姿を現わしたのである。  こうして彼らの関係は密かに復活した。そのうちに小夜が妊娠してしまったのである。しきりに堕胎を勧める菊地に、小夜は頑《かたく》なに逆らった。なにがなんでも生むと言い張るのだ。 「せっかく数億の資産を相続できる身分を、たった一人の子供のために失うのは馬鹿らしい」  子供はいくらでも生める——と菊地がどんなに熱心に説得しても、まったく聞き入れない。話し合いは、空転するばかりであった。  そうしている間にも、小夜の腹は容赦なくせり上がってくる。これ以上、いたずらに時を失っていれば、大橋に悟られる。  医者としての菊地の見るところでは、大橋の寿命は長くない。脳溢血の発作で倒れてからもち直したものの、いつ再発するかわからない状態である。今度再発したら、絶対に救かるチャンスはない。  だからそれまでの辛抱であった。  菊地は、利に敏《さと》いはずの小夜が、なぜこんな大切な時期になって、子供を生むなどと言いだしたのか、理解に苦しんだ。小夜にしてみれば、ほんの浮気心のつもりでつき合っていた菊地に情が湧いたのかもしれない。  愛する男との間にできた初めての子供を、男を自分につなぎ止めておくためにも生みたいのか。それにしても数億の資産の相続を目の前にして、なんとももったいない話であった。  その夜も、——彼らは忍び逢った。大橋の頭が、発病以来少しボケてきたので、忍び逢いのための時間は、ごまかしやすくなっていた。F市から離れたモーテルで、おたがいの体を確認し合ったあと、彼らの話題はまた例の件へ戻っていった。  小夜の下腹は、裸にすると、せり上がっているのがわかるようになっている。 「大橋には、このごろ少し肥《ふと》ったと言ってるのよ」  小夜は他人事のように言う。いくら大橋の頭が病気でボケたとしても、間もなく「肥った」ではごまかし切れないときがやってくる。  そのときになってからでは遅いのだ。その夜も結論が出ないままに、彼らは車でF市へ帰って来た。いつもは小夜だけモーテルからタクシーを拾って帰るのだが、その夜は菊地が無理に自分の車へ乗せた。  もはや自分の目で見ても、小夜の腹は、限界のところへきている。だからF市への帰途、車の中で最後の説得を試みるつもりであった。 「私、あなたがなんと言ったって絶対生むわよ。これ以上、私をおもいとどまらせようとしても無駄だわ」  小夜はあいかわらず頑固であった。二人で実りのない言い合いをしながらF市の海岸通りまで帰って来た。小夜の家はこの近くである。 「もう下ろして! 知っている人に見られるかもしれないわ」  何物かが、彼らの車の前をよぎったのは、その瞬間であった。間に合わないと直感的に悟った菊地は、ハンドルを切った。前方を走り抜けたものとの衝突は免れたが、車体は歩道との境に植えられている街路樹に突っ込んだ。 「危ない!」  小夜の悲鳴とともに、車は木の幹に激しく接触して、衝撃が身体を突き抜けた。衝突のはずみに木の枝が折れて、路面へ吹っ飛んだ。 「大丈夫か?」  衝突の物理的ショックよりも、心理的なそれのほうが大きかった。最初のショックからようやく醒《さ》めた菊地が放心している小夜に声をかけた。彼女はハッと我に帰って、キョロキョロ周囲を見まわしたが、 「どうやらなんともないようだわ。驚いたわ、本当に。あなたはなんともなかった?」 「犬が走り抜けたんだ。驚かせてすまなかった。さいわいあまりスピードをだしていなかったのでたすかったよ」  菊地は言って、車体の損害を見るために、外へ出た。大したことはなかったらしく、すぐに戻って来た。 「車にも、木にも大した損害はない。届ける必要もないだろう」  菊地は街路樹から車をバックさせると、ふたたび車道へ乗せて走りだした。 「さいわいだれも見ている者がいなかったよ。きみといっしょの車に乗っているところを見られるとまずいからな。念のために少し離れたところできみを下ろすから、そこからタクシーを拾って帰ってくれないか」 「よかったわ、相手が木で。まさか木の轢《ひ》き逃げでつかまることもないわね」  小夜もホッとしたように言うと、 「あら、それ何? 変なもの拾ってきたわね」  菊地がさっきの現場から運転席へ持ち込んだ物を指してたずねた。 「ああこれか。どうしてこんなもの持ってきちゃったのかな? さっき街路樹にぶつかったはずみに折れた松の枝だよ。やっぱりあわてていたんだな」  菊地がてれくさそうに言った。 「この松の枝の根元、虫に食われて腐っているわ。だから、この枝だけ折れたのね」  小夜は直径四、五センチ、長さ一メートル弱の松の枝をしげしげと観ながら言った。折れ口付近は虫食いで腐っているが、その他の部分は健全な枝である。 「海岸通りの松には最近虫がついたとかで、市では近いうちに特に被害の大きな木は切るとか言っていたな。そんなもの早く捨ててしまえよ」 「ねえ」  松の枝をじっとみつめていた小夜が、急に目をギラギラさせてきた。 「何だい?」 「この枝使えないかしら?」 「使う? 何に。そんなもの薪《たきぎ》にもならないだろう」 「そんなんじゃないわよ。道具に使うのよ」 「何の道具に?」 「大橋のもう一本の足を棺桶に入れてやる道具によ」 「なに!?」  菊地はハンドルを操りながら、おもわず愕《おどろ》いた目を小夜の方へ向けた。 「この枝で大橋の頭を引っ叩いてやるのよ。あいつの脳の血管は、風邪をひいたガスのゴム管みたいにぼろぼろになっているから、軽く引っ叩いてやるだけで、簡単にあの世へ行ってくれるわ」 「きみは!」 「そうすれば相続もできるし、子供も生めるわ、それに子供の取り分も増えるんでしょう。あなただって、大ブルジョワの父親になれるんだから、悪くない話でしょ」 「そんなことをすれば相続どころか殺人罪で、死刑になるかもしれないぞ」 「どうしてよ? あいつをこの枝でぶん撲《なぐ》っておいてから、さっきぶつかった松の木の下へ運んで転がしておくのよ」 「どういうことなんだ?」  菊地は少し興味をもった目になった。 「さっき私たちが松にぶつかったのを見ていた人間はいないわ。あのへんは、大橋が朝、よく散歩に来るところなのよ。だからあいつの死体をあの松のそばへ転がしておいて、あなたはもう一度、松の同じ場所へ自動車をぶっつけるの。枝はそのとき折れたことにするのよ。折れた枝が飛んでいったところに、運悪く大橋が来合わせたということにするの。当りどころが悪くって、彼は死んだことになるんだわ」  菊地にはようやく小夜の考えがわかってきた。それにしても、なんと悪魔的な発想であることか。彼はこれ以上運転をつづけることができなくなって、ものかげに車を停めた。それはそれだけ小夜の話に傾いてきたしるしでもある。  こんなところをだれかに見られると、非常に具合が悪いことはわかっていたが、それを考えている余裕がなかった。 「大橋をぶん撲るのは、私がやるわ。あなたには衝突をやってもらいたいのよ。都合のいいことに、私たちの関係は、だれにも知られていないわ。警察からいちおうの取り調べは受けるかもしれないけど、まちがっても人殺しの罪は着せられないわよ。だいたい殺人というものは、人を殺そうという意志が必要なんでしょ。自動車が松の木にぶつかったはずみに折れ飛んだ枝に当って死んだんじゃあ、どんなにやかましい裁判官でも、どうしようもないでしょうね。あなたは安心してぶつかればいいのよ、うふふ」 「大橋は、いつ殺《や》るんだ?」  すでに菊地は小夜の悪魔的な計画《スキーム》に完全に引きずり込まれていた。 「できるだけ早いほうがいいわね。松の枝が折れているのをだれかに気がつかれたら、もう道具には使えないから。それにあなたの車の傷《いた》んでいることも、大橋を殺《や》る前にだれにも悟られてはならないわ。今夜、殺りましょうよ」  小夜はなんでもないことのように言った。 「えっ今夜!?」 「なにも驚くことはないわよ。朝の散歩で死ぬことにするんだから、できるだけ暁《あ》け方近くやるわ。解剖でもされて死んだ時間がずれているとまずいもんね。実行に取りかかる前に、あなたに電話するわ。死体を運ばなければならないから、私一人では無理だわ。今夜は寝ないで、電話のそばにいてちょうだい。何億の財産が入るか入らないかの境い目なんだから、あなたも頑張ってよ」  もはやイニシャティブは完全に小夜に握られていた。もしこの計画が成功すれば、小夜を自分のものにできるばかりか、小夜が生む子の父親として、その相続分の巨大な資産を管理することができる。小夜の相続分も、自由にできるかもしれない。  菊地は、色と欲得ずくで、計画の悪性を忘れて、ひたすらその中にのめり込んでいったのである。      3  二人の間で相談がまとまった。大橋が散歩に出るのは、いつも六時前後である。この季節だとすでに明るくなっている。人に目撃される危険性はあった。  したがって、その朝はいつもより少し早く散歩に出かけたということにして、犯行時刻を繰り上げる。死体を現場へ運んだのちに、目撃者のいないことを確かめたうえで、�交通事故�を起こそうということになった。それにこの季節には毎朝、濃霧が発生するから、かなり仕事はやりやすくなるはずである。  死体さえ運んでしまえば、交通事故を起こすのは、わけのないことであった。この計画の成否は一にかかって、死体の運搬にあったのである。 「大丈夫よ、あのへんは人通りのないところだし、朝の早い時間には車だってめったに通らないわよ。だから大橋が散歩コースにしてるのよ。新聞や牛乳配達に見られないように注意すればいいのよ」 「とにかくもう一度、現場をよく下見しておくよ。きみはもう家に帰ったほうがいい」 「わかったわ。それじゃあ家の近くまで連れてって。このへんじゃあ車もつかまらないもの」 「近所の人間に見られるぞ」 「平気よ、後ろのシートに寝ていくわ。それにこんな松の枝もってタクシーに乗ったら、まずいわよ」  あらゆる意味で、いま彼らがいっしょにいるところをだれかに見られるとまずい。しかしよく考えてみると、裸の松の枝をもったまま、タクシーに乗ったら怪しまれる。包装紙を持ち合わせていないし、それをわざわざ買いに行くのも危険である。  むしろ彼女と枝を、彼女の家の近くまで運んでやったほうが安全である。要は下りるときに注意すればいいのだ。  なるべく寂しい裏通りばかりを選んで、海岸通りへ戻った。夜もだいぶ更けていたし、車も人の影も絶えていた。 「きみ、寝ていたほうがいいぞ」 「あんまりびくびくすることないわよ。この調子なら、明日の朝も絶対に大丈夫」  リアシートに寝ていた小夜は、すでに起き上がっていた。 「あらっ、あれなにかしら?」  小夜がふと前方へ目を据えた。 「車が停まって何かしているらしい。体を伏せたほうがいい」  前方の道路に一台の作業車が停まって、その周囲から白い霧のようなものがもくもく噴き出ている。 「何か撒布しているようだな」  近づくにつれて、停まっているように見えた作業車は、緩速で動きながら、街路樹に何かの薬剤を噴霧《スプレー》していることがわかった。 「殺虫剤をかけているんだ。昼間だと人畜に被害をあたえるといけないというので、夜間撒布しているんだろう」  撒布車をたちまち追い越した菊地は、後部座席に伏している小夜のために説明してやった。 「松には害虫がつきやすいのね。この枝が折れたくらいだから、かなりひどくやられてるんだわ」  と言いかけた小夜は、突然あっと叫んで顔をこわばらせた。 「どうしたんだい?」  菊地はバックミラー越しに覗《のぞ》いた。 「だめだわ」 「だめ? 何が」 「大橋は殺せないわ」 「どうして?」 「どうしてって、よく考えてごらんなさいよ。大橋は明日の朝、あの松の木のそばで交通事故に遭《あ》うはずなのよ」 「そういう計画だったろう」 「鈍いのねえ」  小夜はいらだたしそうに唇をかんで、 「いま見てきたように、その松には、今夜殺虫剤がふりかけられているのよ。だったらこの枝にも当然その殺虫剤《クスリ》がかかっていなければならないわ。枝は明日の朝、交通事故で折れたことになっているんだから……」 「あっ」  今度は、菊地が表情を硬直させる番であった。たとえ、松の木と、枝の折れ口が一致しても、枝のほうにだけ薬剤が付着していなかったならば、枝が折れた時間は、薬剤を撒布する前、つまり交通事故以前と判定されてしまう。交通事故のときすでに松から分離していた枝が、被害者の後頭部に当るはずはない。枝はどこかべつの場所で被害者に作為的な打撃[#「作為的な打撃」に傍点]を加えたということが、直ちに割り出されてしまう。  予想外の事件の介入で、完全犯罪計画は根本から挫折してしまった。小夜の計画に従えば、万に一つの失敗もないと張り切っていただけに、急に気抜けがしてしまった。 「やっぱりお腹の赤ちゃんは堕ろすほかなさそうね」  あれほど頑張っていた小夜が、急に弱々しくなった。張りつめていた気持が弛《ゆる》んだために、その反動が出たのであろう。 「待てよ」  菊地がふと目を光らせた。何かを考えついた目である。 「何を待つのよ」  小夜が投げやりに聞いた。口をきくのも大儀な様子である。 「赤ん坊を堕ろす必要はないぞ」 「どうして? 私、相続権を失いたくはないわ」  二人の意見が少し前と逆になった。 「枝に同じ殺虫剤《クスリ》をふりかければいいじゃないか」 「同じクスリがあるの?」 「殺虫剤なんて、だいたいDDTかBHCにきまってるよ。市役所が街路樹の防虫に、そんな難しいクスリを使うはずがない」 「すると、まだ可能性はあるわね」  げんきんなもので、小夜の目がまた輝いてきた。菊地は車をふたたび目立たないものかげに停めた。 「さいわい市役所の衛生課員に、ぼくの患者がいる。あの撒布車は市の衛生課のものだから、何か口実をつけて同じクスリをもらうよ。そいつを枝にふりかければ、立派に道具として使えるじゃないか」 「本当だわ! あなたって、頭いいわね」 「おだてるな。たったいま鈍いと言ったのは、だれなんだ」 「許して。すっかり見なおしちゃったわ」 「しかし今夜は計画を実行できないぞ。クスリがないからな。明日中になんとかクスリを手に入れるから、決行は明後日《あさつて》の朝ということになる」 「無理にクスリを手に入れようとして、怪しまれないでね」 「その点は大丈夫だ。僕の家の庭にはたくさん植木がある。いままでにも殺虫剤を買ったことがある」 「よかったわあ。明後日の朝が凄く楽しみ。それじゃあこの枝はあなたに預けておくわ」 「明日クスリをふりかけたら、きみに渡す。こちらから電話をかけられないから、夕方きみのほうから連絡してくれ、落ち合う場所は、いつものところだ」 「オーケー、オーケー、ねえキスして」  小夜は唇を突き出した。 「こんなところでだれかに見られたらまずいよ」 「大丈夫だったら、いまどきこんなところへ人が来るもんですか。計画の成功を祈って、ね、いいでしょ」  菊地は苦笑しながらも、悪い気はしなかった。小夜の唇を味わいながら、醒《さ》めた頭の奥では、この計画の片棒をかつぐ報酬として入ってくるはずの巨額の金高を計算していた。  殺虫剤は簡単に手に入れることができた。海岸通りの街路樹に撒布していたのは、市役所衛生課の撒布車であり、使用した薬剤は、BHCの乳剤であったことが確かめられた。  この使用剤については、最も重要なポイントであるので、いくつもの筋を通して確かめたから信頼できた。  市役所では海岸通りの街路樹として植えた潮風に強いクロマツに最近マツカレハ、マツクイムシなどの虫害が発生したと、市民から訴えがあったので、昨夜いっせいにBHCの乳剤を撒布したということであった。  うまい具合に、菊地の家の庭にいわゆる「見越しの松」といわれるアカマツの木があった。さらに市役所では虫害の未然防止のために希望する市民には殺虫剤を無料で配付していることがわかった。  彼はそのためにまったく同じクスリを全然疑われることなく手に入れることができたのである。こうして最大の難点は、簡単に解決された。  BHCをふりかけた松の枝は、翌日の夜、小夜に渡された。大橋のための死のレールは完全に敷かれた。  翌早朝、大橋は計画どおりいとも簡単に死んでくれた。彼自身、熟睡から死へ移動した境界がわからなかったであろう。  最後の問題は、死体の運搬である。この作業を第三者に目撃されれば、これまでの苦労も水の泡になる。  まず大きな毛布にくるんで、菊地の車に積み込む。死体を現場に放棄したあと、この毛布を処理すれば、証拠はなにも残らないはずである。  大橋の家から、現場まで近いので、小夜は自転車で行動することにした。彼女の役目は、死体運搬毛布を廃棄することである。松の枝に当って死んだことになっている大橋の、死体を包んだ毛布が、菊地の車に積んであったのでは、いかにもまずい。毛布には大橋の血痕や毛髪や、目に見えない細かな�遺留品�が付着しているかもしれない。  自転車とは原始的であるが、この場合小まわりのきくことが重要であった。  菊地の予測したとおり、その朝も霧が出た。特にその朝の霧は濃密だったようである。彼らの犯行のいっさいを、霧が被《おお》い隠してくれた。  なにからなにまで筋書のとおりに運んだ。菊地の届け出を受けた警察は、少しも疑いをもたなかった様子である。  彼らはこの奇妙な交通事故に対してどのような責任を負わせたものか、当惑しきっているようであった。 「まあとにかく一人の人間が死んでいるので、何度か呼び出しがあるとおもいますが、ご協力ください」  担当の係官は、むしろ恐縮した口調で言った。  あと彼らが為すべきことは、当分の間、体の渇きに耐えて、逢うのをがまんすることであった。逢うのはあとでいくらでもできる。数億の相続人の父親としての身分は、そう簡単に取得できるものではなかった。      4  菊地はそれから一度警察に呼ばれただけであった。とにかく被害者の遺族(小夜)が、最初から�納得�しているのだから、普通の交通事故のようにもつれるおそれはない。  むしろあんまりスムースにすみそうなので、小夜と打ち合わせておいて、被害者と加害者のトラブルを少し演技したほうがよかったのではないかと悔んだほどである。  数日後二人の刑事が、菊地を訪ねて来た。交通事故を担当した係官とはちがう人間であった。  彼らがさしだした「捜査一係」という名刺の肩書きに、不安を覚えながらも、菊地は何食わぬ顔で応対した。 「ずいぶんお忙しそうですね。いやお手間は取らせません。ちょっとおうかがいしたいことがありましてね」 「何でしょう? 知っていることなら、なんでもお答えしますよ」 「いや大したことではありませんがね。実は例の交通事故の件なんですが」  刑事のさりげない言葉が、菊地の胸を刺した。だが日頃患者の前で仮面をつける修練を積んでいるから、表情には現われなかったはずである。 「交通事故?」 「いや我々も正確にあの事故を何と呼んだらよいか困っているのですよ。便宜上交通事故と呼ばせてもらいますが、お気を悪くしないでください」  刑事は弁解調になった。どちらも名刺でも出されなければ、刑事とはとうていおもえない人の善《よ》さそうな表情をしている。  ——やはり大したことではなさそうだな——  彼らの顔つきから、菊地は少し安心した。 「いやいや気なんか悪くしませんよ。やはり私の不注意運転が原因になっているのですから、交通事故には変わりありません」 「そうおっしゃっていただけると、我々もおたずねしやすい。実はあのとき、大橋さんの頭に当った松の枝ですがね」 「松の枝がどうかしましたか?」  菊地は平静を装いながらも、胸の鼓動が少し早くなったのがわかった。いまこの瞬間、嘘発見機《ポリグラフ》にでもかけられたら、確実に反応が現われるだろうと、医者らしい頭で考えた。 「あの松の枝は、確かに先生の車が松に衝突したはずみに折れたものですか?」 「そうですよ、どうしてそんなことをいまさら改めて聞くのですか?」  そうすることが非常に危険であるということを十分に承知しながら、菊地の口調はつい抗議調になった。 「いえね、あの枝にはどうも、もっと前に松の木から離れたような情況があるのですよ」 「な、なんですと!?」  菊地の平静が崩れた。舌が少しもつれた。刑事の柔和な目は、それを静かに観察している。だがまだ菊地は決定的に取り乱しているわけではない。その程度の愕きは、刑事のいまの質問に遭《あ》えば、だれでも示すはずである。松の枝が交通事故以前に木の幹から分離されたということになれば、事件はまったくべつの色彩を帯びることは、だれにだってわかる。 〈しかし、刑事にそのことがわかりっこない。枝は市役所からもらってきた同じクスリをかけたし、毛布は処理したし、どこにもミスはなかったはずだ〉  ——刑事はきっとカマをかけているのだ。落ち着け。落ち着いて、やつらのカマにひっかからないようにしろ——  いったん驚愕したものの、菊地はすぐに立ち直った。 「どうしてそんなことが言えるのです。枝は確かに、私の車がぶつかったはずみに折れて飛んだのです。私は嘘なんか言っておりませんよ」  彼は平静さを取り戻した声で反駁した。 「我々も、先生が嘘を言っているとはおもっておりません。バンパーや車体の傷と松の幹の傷も一致するし、枝が折れて飛んだ方向にも無理がありません。枝の折れ口も、むしり取ったものではないことがわかりました。ただ一つだけ先生の車が衝突したときに折れたとすると、どうしても説明のできない情況があるのです」 「いったいどんな情況があるというのですか?」  そのとき刑事の穏やかな目にかすかな笑いが浮かんだ。「言ってもいいのか」と見下したようないやな笑い方である。 「話してください。私もそんなことを言われては気になります。早くさっぱりしたいですからな」  菊地は開きなおったように言った。どうせ大した�情況�ではないのに決まっている。刑事とはいつもおもわせぶりにものを言って、人を心配させ、その反応から疑惑を証明しようとする連中なのだ。 「事件の前の夜、市の衛生課が、海岸通りの街路樹に殺虫剤を撒布しました」  そんなことはすでに知っている。そして手は打ってあるのだ。そこからボロが出るはずはない。刑事の言葉をいらだたしく聞きながら、菊地は自問自答した。 「大橋さんの後頭部に当った松の枝を詳細に観察したところ、マツカレハと呼ばれる毛虫やマツノキハバチ、マツクイムシなどの松の木を専門に食い荒す害虫が侵入しておりました」 「だから殺虫剤を撒いたのでしょう?」 「そのとおりです。その枝のついていた松の本体も、同様の害虫によって食害されていました。しかしおかしなことに、本体のほうに付着していた害虫は、すべてクスリの効き目で死滅しているのに、枝のほうのは、まだ生きていたのです。つまり�虫の息�があったんですな。このちがいを先生はどうお考えになりますか?」  いきなり刑事から質問された菊地は、胸部をグサリと刺し貫かれたような気がした。実際にその部分に痛みが走った。松の幹と枝との虫の生存状況の相違が、致命的なミスにつながっていることはわかるのだが、それが具体的にどのようなミスなのか、頭が痺《しび》れたようになっていてすぐにはわからない。 「そ、それはつまり、薬剤の撒布にムラがあったからでしょう。たまたま枝の部分にはクスリがよく行き渡らなかったとか……」  菊地はとにかく刑事の質問に答えた。 「それが、枝には特によくクスリが行き渡っているのですよ。市が撒いたのは、BHCの乳剤ですが、その枝は噴霧器の方を向いていたものとみえて、クスリが十分にしみ込んでおります。マツクイムシは穿孔虫《せんこうちゆう》といって樹皮の下の幹に穴を掘って食い込む害虫で、なかなか駆除しにくい虫だそうですが、樹幹のほうはほとんど完全に死滅しておりました。それにもかかわらず、クスリを余計に浴びた枝の害虫のほうが、それも内部に穿入したマツクイムシだけでなく、葉に寄生したマツカレハやハバチなどにも、まだ生きているものがあった。これはどういうことだとおもいますか?」 「そ、それは……」  おもわず口ごもった菊地に、刑事はたたみかけた。 「それを説明できる場合がただ一つだけあります。つまり、枝にクスリをかけたときと、幹にかけた時間がべつの場合です。幹のほうが枝よりもずっと前にクスリをかけられたのです。だからクスリが樹幹に浸透して、マツクイムシも死滅してしまったのです。枝のほうには、クスリはかけられたが、それが十分浸透するだけの時間が経過していなかった。市役所が幹と枝をべつべつに撒布するはずがないし、そんなことはできない。すなわち、市が撒布したときは、あの枝は幹からすでに離れていて、クスリは幹とはべつに、ずっと遅れてかけられたのです。だから虫は死ぬための時間[#「死ぬための時間」に傍点]が不足したのです。  しかし先生は、車を幹にぶつけたときに枝が離れたとおっしゃる。これはいったいどういうことなのですか? もし診察のお邪魔になるようでしたら、一つ本署までご同行ねがってゆっくり説明していただきましょうか」 [#改ページ]  電話魔      1  深夜である。大東京はいま死に絶えたように静かであった。さすが貪婪《どんらん》な大都会も、この時間になると、そのスケールの大きな機能をやすめる。近くの私鉄も遠い大通りを走る車の気配も絶えた。  私の可愛らしいオモチャを操る時間がやってきたのだ。道端に転がっている石コロのようだった私は、この時間だけ自分自身を取り戻す。大東京は私のものになる。  おそらくは、このアパートのわずかな住人すら、その存在を知らないであろう私が、東京を支配するのだ。  私は人さし指一本で、どんな人間でも呼びだすことができる。昼間あんなに冷たく、よそよそしかった人間どもが、私の指一本の動きによって支配される。  私の可愛いオモチャ、今夜はどんな人間を呼んでこようか。  私はあてずっぽうにダイアルする。このあてずっぽうというところが、またたまらない魅力なのだ。  呼び出す相手がだれだかわからない。もしかしたら、総理大臣かもしれないし、会社の社長かもしれない。あるいはサラリーマンか、ホテルの守衛か、娼婦かもわからないのだ。  どんな人間が出て来るか、まったく見当もつかない。もちろん先方もこちらがだれだかわからない。大都会の深夜、見も知らぬ人間同士が、一本の電話線によって連絡されている。これはいかにも今日的な人間関係ではないか。  天涯《てんがい》孤独な人間も、電話をダイアルするだけで、だれとでも話をすることができる。相手がだれかわからないから、どんな想像の描写をすることも許される。  私は、電話遊びを覚えてから孤独ではなくなった。私は夜になるのが待ち遠しかった。周囲が起きて騒がしい間は、この遊びの魔力は発揮されない。  電話線で結ばれた二人以外の周囲が死んだように寝静まっていて初めて、「二人だけの秘密の関係」をもてるのである。  暖かい寝床の中から、いたずら電話に引きずり出されて怒る人間がいる。それはそれでかまわない。彼らはもしかしたら寝室の中で、性の宴《うたげ》を繰り広げていた最中かもしれない。寝入りばなの最も熟睡のときだったかもしれない。  一方に眠れずに悶《もだ》えている者がいるというのに、自分だけ性の愉しみに埋没したり、快い眠りを貪っているなんて、エゴイスティックというものである。私は怒りだす人間に「ざまあみろ」と嘲笑って、電話を切ると、怒らない人間を探すために、またダイアルしなおすのである。  東京という都会は、化け物みたいなまちで、あらゆる種類の人間が住んでいる。中には深夜の未知の者からの電話に大喜びして、「電話でセックスしよう」と言う者もいる。  さすがの私も、電話でセックスできるとはおもわなかった。そのときはかけた私のほうがびっくりしたが、相手の言うとおりにしていると、本当にセックスしているような気持になった。  いつもめちゃくちゃにダイアルしているが、電話セックスの相手に偶然二度かけてしまった。相手は先日の電話セックスの味が忘れられなかったとみえて、本当のセックスをしたがった。  私は慌てて電話を切った。相手の�実物�に会ったとたん、私の発明したすばらしい遊びは、たちまちその魔力を失ってしまう。  相手の実体に触れないというところに、私の遊びの秘密はある。触れ合った瞬間から、幻滅と傷つけ合いははじまる。遠くから、相手をだれとも知らずに声だけでたがいの傷を舐《な》め合うのだ。  私はようやく見つけたすばらしい遊びを失ってはならないとおもった。だから同じ相手には、二度と連絡しないようにした。指にはくせがあって、めちゃめちゃにダイアルしているようでも、ときどき、同じ番号へかかってしまうことがある。  声に聞き覚えがあると、私は即座に切ることにした。  今夜も、周囲の気配が寝静まったのを確かめてから、ダイアルした。  四〇一—一六七×、もちろん指のおもむくままである。回線が接続されて、呼出音《コールサイン》の鳴っているのがわかる。  このときのスリルと緊張が、またたまらない。いったいどんな相手が出てくるのだろうか? 彼、あるいは彼女は、いま何をしていたのか? 奔放な想像が、スリルをいっそうに高める。 〈もう寝てしまったのだろうか?〉  普通の場合より、相手の応答が遅いようである。深夜であるので、昼間より応答が遅いようにおもわれがちだが、かえって逆なのだ。  起きていれば、昼間より早く出る。寝床に入っていても、最近はベッドのそばに電話を置く人が多いとみえて、すぐに応《こた》える。電話機から離れた所にいても、深夜の電話はけたたましく鳴り響くので、応答はわりあい早い。  十回以上ベルが鳴って、だれも出ない場合は、留守か、あるいはセックスの最中と、私は見ている。  いまダイアルした相手もなかなか出ない。十回コールサインがいっても、応答がないので、あきらめて、送受器を置こうとしかけたとき、ベルが止まった。  ようやく相手が出たのである。私が話しかけようとしたとき、いきなり、 「たすけて!」という女の声が入った。  私はふいをつかれて、送受器を耳にあてたまま呆気《あつけ》にとられていると、 「たすけて! 殺される」  という訴えとともに、荒々しい息遣いが聞こえた。  ——いったいどうしたんですか?——  と私が問い返そうとするより一瞬早く、ガチャリと電話が切られた。切ったといっても、こちらからかけているので、電話線は接続された状態になっている。ただ先方が送受器を置いたので、通話はできない。  仕方がないので、私もいったん電話を切った。  ——いったいどうしたのだろう?—— 〈深夜の電話に腹を立てて、先方がいたずらをしたのだろうか?〉  そういう前例がないでもない。しかしいまの電話は、あまりにも真に迫っていた。あの切羽つまった息遣い、切迫した訴え、そして荒々しく一方的に切られた電話、あれがいたずらだったというのか? 〈もしいたずらでなかったら〉  私は体の芯のほうから震えが湧いてくるのを感じた。いまこの瞬間、東京のどこかで殺人が進行している。いや、もうすでに殺されてしまったかもしれない。  そしてそれを知っているのは、犯人以外は、自分だけなのだ。  人が生きようと、殺されようと自分には関係ないことだとおもって、忘れようとした。  でも、どうも気にかかる。現にこの瞬間にだれかが殺されかけていて、私に救いを求めてきたとおもうと、いつものように電話遊びの中に没頭することができない。  べつのナンバーをダイアルしかけたが、指が途中で止まってしまう。 「いたずらにしても、もう一度確かめてみよう」と私はおもった。  四〇一—一六七×、電話番号ははっきりと覚えている。私はついに意を決して、さっきのナンバーをダイアルした。しかしコールサインはいくのだが、応答《アンサー》がない。  二十回数えたところで、いったん切って、またかけなおした。だが同じことである。  さっきはたしかに十一回めに女の声が出て、救いを求めたのだ。ナンバーにまちがいはない。アンサーがないということは、すでに殺されてしまったのか?  私が一瞬の逡巡をしているうちに、女は殺され、殺人者は逃げてしまったのだろうか? 〈そうだ、電話番号調べに聞いてみよう〉  私はおもいついて、一〇四番をダイアルした。 「電話番号からその持ち主を調べることはできません」  相手の事務的な声が答えた。 「それは、法律かなにかで禁じられているのですか?」 「公社のほうに番号別の帳簿がないので、調べようがないのです」 「もし、たとえばの話ですが、犯罪に関係するようなことで調べてもらいたいときでも、だめなのですか?」 「警察から特別な依頼や要求があった場合は、公社のほうでなにかの手を考えますけど」 「その手とは、どんな手でしょう?」 「それはお答えできません」  相手は言って、 「よろしいですか? 番号調べでなければ、切りますけど」  取りつくしまがないとはこのことだろう。私は警察に連絡しようかとおもった。しかしそのためには、こちらの身分を明かさなければならない。  当然なんのために、電話をかけたのかと訊《き》かれる。さっきの番号に類似した番号の持ち主が知り合いにいないので、まちがい電話だと弁解できない。  私の秘かな唯一の愉しみが失われてしまうかもしれない。  こちらの身許を明かさずに言ったらどうだろう? でも警察には逆探知の装置もあるというし、こちらの声が全部録音されてしまうとも聞いている。  他人のために、そんな危険な橋は渡りたくない。私は忘れることにした。その夜の遊びはあきらめて、私は冷たい寝床の中にもぐりこんだ。  しかし目が冴えかえって、眠るどころではなかった。床の中を輾転《てんてん》反側しているうちに夜が白々と明けてきた。近くを走る私鉄の一番電車の気配が、枕に伝わってきた。  私の起きなければならない時間が、迫っていた。      2 「人は生きるために、この大都会にやって来る。しかしぼくには、彼らが死ぬためにやって来たとしかおもえないのだ」  とリルケは『マルテの手記』の冒頭で書いている。  私もこの言葉に、強い共感を覚える。実際東京は、私にとって幻滅と荒廃のまちでしかなかった。私は東京が嫌いだ。嫌悪している。それでいて東京を離れないのは、そこ以外にとりあえず生活する場所がないからである。  郷里のどこの家の隅々までも、たがいに知りつくされているようなプライバシーのまったくない生活に戻るくらいなら、自殺したほうがましだ。  東京には嫌悪があり、郷里には怨念があった。私の郷里は北の海に面した暗い漁村である。セックス以外にレクリエーションのない父母は、生活能力もないくせに、子供だけはたくさん産んだ。  バースコントロールする知恵もなく、犬猫並みに産みっぱなしである。それでもなんとか育ってこられたのは、食糧が豊かだったからだ。海岸に出て網を引っ張っても、帰って来た漁船のまわりをうろついていても、商品にならないような小魚にありつけた。  私の体には磯の香と、腐った魚の臭いが沁みついている。私は屈辱を食って育ったようなものだ。屈辱を食糧にしても生理的には生きられる。  中学を出るのを待ちかねたようにして、家を飛び出した。私が行く所は、東京しかなかった。暗澹《あんたん》とした北の海ばかりを眺めて暮らしてきた私は、東京への憧れだけで生きてきたようなものであった。  きらびやかな光彩と夢をちりばめたまち東京、そこには、若者のための無数の成功の機会と、華やかな生活が用意されているようにみえた。  だがそれがどんなに大きなまちがいであったことか。  東京の美しさは、海面に露われた氷山の一角でしかなかった。醜悪で苛烈な生存競争の収斂《しゆうれん》されたものが、美しい眩惑的な衣装をまとっているが、一皮剥けば、集中した人の数だけの醜さが、濃縮《コンデンス》されていた。  人の数が多いということは、それだけ生きるための戦いが酷《きび》しいということを、ぽっと出の私は、おもい知らされたのである。  お定まりの転々流浪の生活がはじまった。生きていくための代償として、私は青春の貴重なものを、次々に喪《うしな》っていった。  この広い大東京の中に、私一人が生きる狭いスペースすらなかった。東京の広さは、人間の多さに追いつけないのである。  それでも私は悪戦苦闘しながら、東京に留まった。東京は冷淡で、冷酷ではあっても、それだけに、他人に余計な関心をしめさなかった。  他人が生きようと、死のうとまったくかまわない。要するに自分の生活の権利や利益に影響をあたえない人間は、「路傍の石」と同じ存在であった。  それが、他人の恥部までもねめまわすような好奇と干渉を生き甲斐にしている�閉鎖された村�に育った私には、むしろ救いであったのだ。  隣人が死んだまま何十日も気づかれないという大都会の無関心が、最近問題にされるようになったが、私はそれでいいではないかとおもっている。  死にたい人間が、勝手に死んでいく。なにも周囲が騒ぎたてることはない。死ぬ前から形見分けを目当てに、日ごろは疎遠にしている遠い親戚までが、わずかな血のつながりを頼りに、枕元へ詰めかけて来るのよりもずっといい。  それをおもうと、郷里へ帰る気はしなかった。私には、一人一人が荒野の一人旅のような大都会の激しい孤独か、まったくプライバシーのない閉鎖された田舎かの二つに一つしか選択の余地がなかったのだ。  そして私は、前者を選んだ。このアパートに移り住んでから、もう数年になるが、私は、いまだに隣人と親しく口をきいたことがない。何世帯も同じ建物に住んでいながら、どんな住人がいるのかも、よく覚えていない。  だれが隣に住もうと、同じ建物の中にどんな人間がいようと、おたがいに関係ないのだ。たまたま乗物の中で席が隣合ったようなものだ。  だが人間同士が関心をまったくもたないというのは、なんと寂しいことだろう。私は関心をもちすぎる田舎にうんざりして、都会へ飛び出し、今度は正反対の極点に立たされて、心の芯までが冷えこむような寂しさに襲われていた。  人間の思考判断をまったく要求されない会社の白昼夢のような仕事から解放されると、うらぶれたアパートの一室の自閉の生活が待っている。  一千万以上の人間がこの都会にひしめいているというのに、だれも訪れてこない。手紙もこない。電話をかけてくれる者もいない。  連休などに、華やいだ外の雰囲気に背を向けて、アパートの中に閉じこもっていると、気が狂いそうになってくる。安アパートにしては壁が厚いので、隣室の気配も聞こえない。  私は、自分を発狂から救うために、一つのオモチャを買った。それが電話であった。      3  会社へ行ってもいっこうに仕事に身が入らなかった。昨夜の女の声が時間を経るほどに耳のそばに増幅されて聞こえてくる。  彼女はたしかに「たすけて! 殺される」と言ったのだ。私はそれを聞き捨てた。もし本当にあの女が殺されていたら……その責任の一半は、自分にあるような気がした。  他人に干渉しないし、他人からも干渉されないで生きることを信条にしている私には、珍しいことだが、昨夜の女の声のなまなましさが、自分をそんな気持にしてしまったのである。自分でははっきりと見届けられないが、あるいは好奇心が働いているのかもしれない。もともと電話遊びにしても、好奇心がなければできないことである。  今朝の新聞には、殺人事件はなにも報じられてなかった。昨夜、——というより今朝の領域に入っていた深夜のことであったから、たとえ事件が発生しても、朝刊には間に合わなかっただろう。  しかし、勤務時間中にテレビやラジオを視聴できない。昼休みのテレビでは、まだ報道されていなかった。  長く退屈な勤務が終わって、退社の途中、駅で買った夕刊にも、該当するような事件はなにも載っていない。  家へ帰って食事の支度をするのが面倒なので、駅弁と果物を買う。  アパートの自分の部屋に帰ると、朝出たときのままの状況がそっくりそのまま凍結されて残っている。部屋全体に漂う、饐《す》えた匂い。  私は居心地よくしようとする努力や工夫をまったく施していないので、部屋には一種の荒廃感が漂っている。  侘しい夕食をすませて、空腹がとりあえず満たされると、またぞろ、あの電話のことが重たく心にのしかかってきた。負担は次第に容積と重量を増してきていた。 「もう一度、電話してみよう」  四〇一—一六七×、もうその番号は頭に灼きついてしまった。コールサインがいくまでのわずかの間、近くの私鉄の駅から駅名のアナウンスと、すぐ近所にある映画館のレコードのあたり憚らぬボリュームが、にわかに耳についた。  コールベルが鳴った。なんと三度めに相手が出た。 「はい、かみおかです」  歯切れのよい男の声が答えた。まさかこんなに早く返事がはねかえってこようとは、まったく予期していなかっただけに、私は受話器を耳に押し当てたまま、言葉を失ってしまった。 「もしもし」相手が呼んできた。電話をかけておきながら、だんまりをつづけるこちらに不審をもった相手は盛んに呼びかけた。 「あのう……」  私はようやく声をだした。 「四〇一—一六七×番ですか」 「そうです」相手ははっきり答えた。 「あの、まことにつかぬことをうかがいますが、昨夜、そちら様になにか起きなかったでしょうか?」  私はおずおずとたずねた。 「昨夜?」相手はいきなり変なことを聞かれて、びっくりしたらしい。 「正確には、今朝の午前一時ごろですけど」 「今朝の一時、さあ私は昨夜十二時ごろ寝ましたがね、なにかって、いったいなんですか?」  逆にたずね返してきた男の声は、なかなか渋味がかかっていて、厚みがある。 「それが、ちょっと申し上げにくいんですけど」 「いったいあなたはだれですか?」  かみおかと名乗った相手は、ようやく不審を抱いた様子である。  ちょうどそのとき、部屋のドアにノックがあって、管理人が私の名前を呼ぶのが聞こえた。留守中に配達された郵便物を預かっているというのだ。  突然、隣の家の方角から凄まじい�騒音�が伝わってきた。冬の寒い朝、黒板にチョークをきしらせるような身慄《みぶる》いする音である。 「あれでもバイオリンのつもりかね、鋸《のこぎり》を挽《ひ》く音のほうがまだましだよ」  管理人のおばさんがぶつぶつ言ってるのが聞こえる。 「また電話します」  私は電話をいったん切ってドアを開いた。おばさんのフットボールのような丸い顔が小包をかかえて立っていた。  珍しく郷里の母からの小包であった。どうせなんの美味《うまみ》もない干魚かなにかを送って来たのだろう。東京では猫も食わないようなしろものである。  母がそれを送ってくるときは、必ず金の無心の手紙がいっしょに入っている。冗談じゃない、エビどころか、メダカでタイを釣ろうたってそうはいくものか。  私は管理人によって中断された電話をもう一度かけることにした。今度は先方に人がいることがわかっているので、心構えができている。またすぐに応答があった。 「かみおか」は私の|再度の《セカンド》電話《コール》を待っていたらしい。 「さきほどの者ですけど、昨夜は本当になにも起きませんでしたか?」  私は少ししつこいとおもったが、おもいきって追及することにした。昨夜の悲鳴は、絶対に空耳ではなかった。 「だから、そんなことを聞くあなたはだれだと聞いているんだ」  相手は少し腹を立てた様子である。 「失礼は承知ですけど、それは申し上げられません。実は私は昨夜一時ごろ、お宅に誤ってお電話した者です。そのときに事件が起きた気配を耳にしたものですから」 「いったいどんな気配を?」  相手は好奇心をもったらしい。 「それが……」 「なにを耳にしたのです?」 「そのう……女の人が、殺される、たすけてと言ったんです」 「女の人が、殺されるだって!?」  相手のびっくりした気配が、忠実に受話器に伝わってきた。それはつづいて起きた爆笑によってはね飛ばされた。 「は、は、冗談も休み休み言ってくださいよ。私の家では、猫の子一匹死んでいません。天下太平なもんです。あなた、悪い夢でも見たのとちがいますか。私は忙しい。切りますよ」 「待ってください。昨夜から今朝にかけて、お宅に本当になにもなかったのですか?」 「あなたも相当に疑い深い方《かた》ですね。ほかの疑いとちがって、人殺しだなんて迷惑ですよ。だいいち私は独身で、私の家に女はいません。夢を見るのはご自由だが、人に迷惑をかけないでください」  相手は言うと、電話を一方的に切った。      4  やっぱりなにかのまちがいだったとおもった。先方に電話が通じたことによって、私の気持はかなりおさまった。あの口調ではかなり怒っていた。  無理もない。見も知らぬ相手から電話がかかってきて、自分の家で殺人があっただろうと言いだすのであるから、たいていはびっくりする。しかも電話をかけてきた相手は、身許を明らかにしない。悪質ないたずらと釈《と》られてもしかたがない。  しかし、それにしても、あの女の声は、どういうことなのだろう?「たすけて、殺される」と彼女が訴えたのは、まぎれもない事実だった。相手は「かみおか」と名乗った。神岡か、上岡か、紙岡か、あるいはさらに他の字を書くのかもしれない。下の名前もわからない。私は電話帳を繰りかけたが、神岡姓だけでかなりの数があるので、途中で止めてしまった。謎を打開するきっかけとなったのは、新聞のテレビ欄である。  私は新聞を定期購読していない。強いて読みたい記事もないし、話題を用意しておくべき相手もいない。  だから必要なときだけ、今のように駅の売店で買ったり、くずかごから拾ってきたりする。  とりあえずなにもすることがなくなったのでテレビでも見ようかとおもって、なにげなく夕刊のテレビ欄に目を落とした。  私はわりあい映画が好きだ、それがいちばん長い間、私の孤独と退屈をまぎらせてくれるからである。  深夜映画に、『殺しのライセンス』とかいう推理映画をやっている。今夜は続編で、昨夜の同じ時間帯に前編を放映していた。私の頭の中を電光のようにひらめいたものがあった。  ——これだ——とおもった。たまたま相手が電話に出たとき、テレビが推理映画をやっていた。ちょうど女優の吹きかえの声が、「たすけて! 殺される」と言ったのだ。  送受器を取り上げた人間が一言も言わなかったのはおかしいが、折りしもテレビがクライマックス・シーンにかかっていた。電話のベルがうるさかったので、いったん取り上げた後、フックにかけなおしたとも考えられる。  こうすると、ベルは鳴り止む。  そうだ、私はあのとき、いきなりたすけてとさけばれたものだから、びっくりしてなにも言えなかった。先方はいったん受話器を取ったものの、うんともすんとも言わないこちらにいたずら電話だと判断して、電話を切ってしまったのかもしれない。  多少強引な推測だが、それ以外に考えようがなかった。そう考えると、いままで胸にわだかまっていたものが、急にすっきりとなった。私は忘れることにした。  実際そんなことのために、私の貴重な遊びを失ってはならない。  だが、このことがあって以来、私はどうも電話遊びに身が入らなくなった。また、かけた先から、「たすけて!」と訴えられるような気がして、ダイアルする指が硬直してしまうのだ。  そうなったら、この遊びの醍醐《だいご》味は失われてしまったようなものである。常に相手に対して、闇からささやきかける声としての優越を保持していなければ、遊びの妙味はない。  私は唯一の愉しみを失って、また元の孤独な自閉の生活へ戻った。寂しかった。生きているのがつまらなかった。  町へ出て酒を飲んだ。行きずりのセックスもした。しかしそれをすることによって、もっと激しく孤独になり、もっと深く傷ついた。  同じころ、私はだれかに尾《つ》けられているように感じはじめた。  常に何者とも知れぬ人間の視線が、背中に貼りついているような気がする。その視線には痛覚があった。悪意を含む者の、刺すような視線なのである。  しかし振りかえってみても、べつにだれも尾けて来る様子はない。私はデパートへ飛びこんで、エレベーターを何度も上下したり、電車を故意に乗り換えたりした。人通りの少ない道をわざと通って、急に引きかえした。  べつに尾けている人間はいなかった。しかし気配だけは依然としてつづくのである。  私は恐くなった。その恐怖に対してなんの備えも施せないことが、よけいに恐怖を煽った。私の恐怖には実体がないのだ。警察に言っても、取り上げてくれまい。医者に診《み》てもらっても、ノイローゼと診断されるくらいがおちだろう。  私は恐怖をまぎらすために、酒の量が多くなった。東京とは便利なまちで、そんな人間のための安いバーもある。  私が「中岡《なかおか》」とめぐり会ったのは、そんなバーの一つだった。カウンターで飲んでいるとき、たまたま隣合ったのが、中岡である。  どちらが先に口をきいたのかよく覚えていないが、おそらく中岡のほうが先だったろう。  中岡は、私の好みのタイプの異性だった。  なによりも知的な翳《かげ》りを帯びているところが好きだった。口のきき方も、洗練されていた。いままで行き当たりばったりに体を合わせた異性の中で、最高級の者である。これから先もこれだけの異性にめぐり逢えるかどうかわからない。おそらくめぐり逢えないだろう。  私は一目で夢中になってしまった。中岡も心になにか屈託があったのか、よく飲んだ。  私たちがもつれ合うようにして、バーを出たのは、看板近くであった。ストールに腰を下ろして飲んでいる間は、さほど感じなかったが、立ち上がってみると、かなりの量のアルコールが入っていることに気がついた。中岡に巧みに勧められている間に、度をすごしてしまったようだ。  ——今夜は家に帰りたくない——  ——私も——  ——どこかへ、二人して行こうか——  ——どこへでも、あなたの好きな所へ連れてって——  ——帰さないぞ——  ——あなたこそ帰さないわよ——  そんな会話が交わされて、車へ乗りこんだような気がする。酔いが全身に快く瀰漫《びまん》して、日ごろの「尾行者ノイローゼ」は、あとかたもなく消えていた。  車の震動に身をあずけている間に、私の意識はかすんでいった。  気がついたときは、震動は止んでいた。車は停っていた。どうやら暗い野面《のづら》に停っているような感じである。  しどけない格好でシートにのびていた私を、中岡は妙に冴えた顔つきで見下している。私と同じくらいに、あるいは以上に飲んだはずなのに酔った気配もない。  きっと、あまりにも乱れた私の様子に、いっぺんに幻滅してしまったのかもしれない。 「ここはどこ?」  私は聞いた。 「さあ」  中岡は首を振ってうすく笑った。その顔は遠くから来るうすい明かりに影を刻んで、ひどく酷薄なものに見えた。 「なんだか寂しい所ね」  私のまだ酔いの残る視野に、暗い野末が広がり、そのはずれに密度の粗《あら》い灯の点がポツリポツリとにじんで見える。いつの間にか雨が降りだしていた。 「寒いわ。早く暖かい所へ連れてってよ」  寒さだけでなく、野の暗い広がりが、体をしめつけるように迫ってきた。 「あら、運転手は?」  私はこのとき初めて、運転席が空いていることに気がついた。 「この車は、タクシーじゃないよ」  顔だけでなく声も醒《さ》めていた。 「それじゃ、だれが運転してきたの?」 「ぼくだよ」 「あら、あんなに酔っていたのに」  私はびっくりした。もしそうだとしたら、ずいぶんひどい酔っぱらい運転だったにちがいない。 「ぼくは全然酔ってなんかいない」 「あんなに飲んだじゃない」 「みんなジュースやコーラばっかりさ」 「まさか」  それでは私にしめした中岡の酔態は、みんな演技だったのだろうか? なんのためにそんなことをしたのか? 低温による以外のべつの悪寒が、ゾクリと背筋を走った。  酔いに痺《しび》れた私の頭の中で、なにかが輪郭をとりつつあった。だが薄皮一枚をへだててはっきりした形をとらない。おぼろげにまがまがしい形であることは、わかるのだが。 「ちっとも酔っていない証拠に、ほら」  中岡は言って、私の喉に手を当てて首を絞《し》める振りをした。 「悪い冗談は止めてよ。それより早く暖かい所へ行きましょう。せっかくのお酒が醒めちゃうわ」 「冗談ではないさ」  中岡はまたうすく笑って、手の先に力をこめた。どうやら絞める振りではなさそうである。急に恐怖感が体の奥からこみ上げてきた。 「あんたに生きていられては、まずい事情があるんだよ」  バーで出逢ったときに知的に見えた虚無的な陰翳《いんえい》が、表情に酷薄なくまどりをあたえている。表情全体がうすく笑っているのに、少しも笑っていない目が、凶器のように鋭く冷たく突き刺さってくる。  私はうめいた。その目をどこかで見たことがあるのだ。私はおもいだした。その目こそ、最近私が背後にべったりと貼りついたように感じていた尾行者の目ではないか。  首にかけられた握力は、次第に強められている。 「ど、どうして、こんなことを?」  私は、中岡の手を振りほどこうと、必死に抗《あらが》いながら聞いた。 「わからないのか? つまらない好奇心なんかを燃やすからさ」 「…………?」 「どうせ死んで行く身だから、教えてやろう。どうだ、おれの声に覚えはないか」 「声」と言われて、私の記憶を触発するものがあった。中岡と初めて言葉を交わしたときにも、その声をどこかで聞いたような気がしたのだ。  だがおもいだす前に、言葉巧みに勧められた酒によって、思考力がかすんでしまった。いま改めて、中岡に声のことを言われて、恐怖で冴えかえった頭脳が、急速に記憶をたぐり寄せていた。 「人が生きようと、殺されようと、あんたは放っておけばよかった。よけいなやじ馬根性を起こして、鼻を突っこんできたばかりに、失わずともよい命を失うことになる。あんたにとっても、おれにとっても残念でならないよ」  中岡は、本当に残念そうな表情をした。その表情は、彼の凶悪な意志が不動であることを告げていた。それを悟った瞬間に薄紙が破れて、記憶がはっきりとした輪郭をとった。  私は自分の殺されなければならない[#「殺されなければならない」に傍点]理由がわかった。  中岡の声は、あのときの[#「あのときの」に傍点]声だった。彼が私を殺さなければならないのは、彼がすでに殺人者だったからだ。中岡は「かみおか」だった。おそらく中岡は偽名であろう。  ——やっぱりあの夜私が聞いた「たすけて、殺される」という悲鳴は、本物だった。そして犯人はかみおかだったのだ——  そうだとすれば、もはや私に逃れる道はない。彼が仕掛けた罠にがっちりと捉えられてしまった。 〈でもどうして、私のことがわかったの? 私は名前も、住所も言わなかったのに〉  私の疑問を見すかしたかのように、かみおかは手の力を強めながら、 「ようやくおれが、だれだかおもいだしたらしいな。だがおもいだすのが遅すぎたというもんだ。あんたはもっと早くおもいだすべきだったよ。おれがどうしてあんたの身許を突き止めたのか不思議なようだな。そんなことは造作もないことだった……」  かみおかは話しつづけていた。だがそのときは私の視野は暗くなり、恐怖のためにいったん冴えた意識は、おぼろにかすんだ。彼の言葉の意味も把《つか》めなくなっていた。  かみおかの言葉よりも、喉にかけられた握力のほうが先行していた。最後の止めとしてひときわ強く加えられた男の指の下で、喉の骨がググッと潰れる音がして、私の意識は絶えた。      5  女の死体を山林の中に捨てて、神岡が青山の自宅へ帰って来たときは、夜が明けかけていた。  車の中に女の遺留品がないか再点検をしたのち、部屋へ帰って、熱いシャワーを浴びると、体がさっぱりした。  体だけでなく、ここのところ心を搾《し》めつけていた負担を取り除いたので、心身ともに爽快である。 「これでもうおれを脅かす者はない」  神岡は、サイドボードからブランデーのボトルを取った。グラスに分けて、手で暖めながら、ゆっくりと味わう。  そのふくよかな味と香りが、口中からゆったりと全身に瀰漫《びまん》していくにつれて、神岡は自分が二人の人間を排除して手に入れた安全を実感した。  神岡|薫《かおる》は、最近名前の出かけた新進の音楽評論家である。それほど音楽に詳しいわけではないが、数年前ヨーロッパの国際的な音楽祭に出席した際、フランスのポピュラーオーケストラの指揮者で、その分野では世界的権威のピエール・クレモンの知遇を受けて�日本の新進音楽家�として最初にフランスで有名になった。  海外での名声が逆輸入された形で、帰国すると、来日ポピュラーオーケストラや有名音楽家の解説を一手に引き受けるようになり、一躍、音楽ジャーナリズムの寵児になってしまった。  大した業績らしいものもないのに、マスコミの力は大きく、テレビ、ラジオ、新聞、雑誌等に頻繁に登場するうちに、いつの間にかその道の権威にまつり上げられた。最近では、音楽だけでなく、映画やテレビの特集物やラジオドラマの解説などにも引っ張り出されるようになった。  ようやく芽が出かかったときに、神岡は悪い女に引っかかった。テレビ局の近くの喫茶店に、時間待ちのためなにげなく入ったとき、その女、田村知佐子《たむらちさこ》は、話しかけてきた。  ちょっと目立つ顔立ちをしていたので、時間潰しにちょうど格好とおもって話し相手になってやったのが、きっかけになった。二度めのデートのときに体の関係ができた。  もとより神岡にしてみれば、ほんのつまみ食い程度の軽い気持である。二、三度寝ただけでもう飽きてしまった。  最初ちょっと興味を惹《ひ》かれた顔も、近くで見ると品がなかった。頭も悪かった。育ちが悪いとみえて、所かまわずケラケラと甲高く笑いだす。とても一流の場所に連れて行ける相手ではなかった。  要するにそこにもここにも転がっているつまらない女の一人である。テレビ局の近くの喫茶店にごろごろたむろしていて、時たま出入りする有名タレントの一人になったような哀れな混同をして、自己満足をしている連中であった。  なんの芸もないくせに、あわよくばプロデューサーや、ディレクターの目に止まり、ほんの脇役《ガヤ》にでも使ってもらおうという計算もある。  田村知佐子は、郷里の素人のど自慢で優勝したことから、のぼせ上がり、すぐにも歌手になれるようにおもって上京して来た。とは言え、なんの伝《つて》もないので、とりあえず怪しげなタレント養成所に高い入会金を払って入り、週一、二回の役にも立たない発声練習やら、踊りの基本レッスンやらを受けて、後の閑な時間を局周辺の喫茶店にたむろして過ごしていた。  神岡と知り合ったのは、ちょうど金が尽きかけているときだった。「なかなか筋がいい」と、どの生徒に対しても同じことを無責任に言うだけで、有名タレントを一人も出していない養成所にもいや気がさしていた。  知佐子は、神岡にがっぷりと食いついた。  神岡は三十代前半でまだ独身だった。実業においては三十過ぎても独身でいると信用されないが、このような職業にあると逆である。独身ということが、なんとなくミステリアスな華やかさを身辺に漂わせ、ジャーナリズムに喜ばれた。  異性には、まったく不自由をしなかった。独身ということは、愚かで単純な女どもに可能性を感じさせるらしい。彼が結婚のかけらもほのめかさないのに、進んで体を提供してきた。  女たちもべつに結婚を求めなかった。だが相手が独身であることに、「もしかしたら」という期待をもつのである。  もともと彼の職性は華やかであり、常に周囲に若い女性がいた。彼自身にはなんの権限もないのだが、その目に止まれば、一躍スタータレントに抜擢されるような華やかな誤解を、女たちは勝手にしてくれた。  神岡はこの職性のあたえる誤解に、独身という武器を結びつけて、群れ集う女たちをよりどり見どりに飽食したのである。  美しい獲物たちが、自分のほうから食べられたがって、順番を待っているというのに、どうしてただ一人の女にこの無限の自由を縛られ、自ら強力な武器を捨てられるものか。  神岡は全身で�|豪華な《デラツクス・》独身《シングル》�を愉しんでいた。  田村知佐子も、あまり美味とは言えなかったが、獲物の一匹のつもりだった。だが獲物にされたのは、神岡のほうだった。体の関係ができると、彼女は結婚しろと迫った。もし結婚に応じなければ、神岡に暴力で犯されたと訴えると脅かした。 「冗談じゃない、きみのほうが誘ったんじゃないか」 「あら、よくもそんなことを言えるわね、私が抵抗するのを、無理矢理にねじ伏せて、自分の好きなようにしたんじゃない。あのとき破かれた下着もちゃんととってあるのよ」  知佐子に言われて、神岡は自分が罠にはまったことを悟った。そう言われてみれば、モーテルまでは素直に従《つ》いて来たくせに、いざそのときになってから、急に暴れだした。  それも断固たる抵抗ではなく、男の欲望を煽るような誘惑的な抵抗である。たいして食欲がなくとも、匂いだけ嗅がされて、急に膳部を下げられかけると、食べたくなってくるものである。  神岡は、知佐子の演技がかった抗《あらが》いを抑え剥脱した。そのときに下着を多少破いたかもしれない。  そのうちに知佐子は途方もないことを言いだした。たった二、三度の関係にもかかわらず、妊娠したというのである。二、三度でも可能性はある。彼女の妊娠の相手方が、確かに自分だとは断定できないが、そうではないとも言いきれない。  神岡は、こんな女にひっかかって、ようやく微笑みかけた将来を棒に振ることを考えると慄然とした。 「新進音楽評論家、神岡薫」の名前は、いまや若い女性の間に偶像のようにされており、美の代名詞とすらなっている。  それがあろうことか、ファンの女性を強姦して告訴されたとなれば、彼の美のイメージはたちまち汚穢《おわい》にまみれてしまう。  ことの真偽はどうあれ、そのような破廉恥被疑事件を公にされるだけで致命的であった。  まして知佐子から訴えられた場合、合意であったことを立証できない。彼女の抵抗を、ベッドの上での技巧的な演技だなどと言っても、裁判官から失笑されるだけだろう。  この窮地から逃れるためには、彼女と結婚する以外にない。  結婚どころか、こんなことがあってみると、一分一秒もいっしょにいるのがいやになった。  どうしてあんな女とたとえ二、三度でも体のつながりをもったのか、自分でも不思議でならない。あの女と接した部分から、汚染が全身に広がってくるような気がする。  知佐子の追及は、ますます厳しくなった。もはや言を左右にして、一日のばしに引きのばすことは、できなくなった。暴行の被害の訴えは、あまり日数が経過すると迫力がなくなってしまう。  知佐子もそのことをちゃんと考えている。  あの夜、知佐子は神岡の家に婚姻届をもってきて、すぐに署名しろと迫った。しなければ、明日訴えると脅かした。  内攻していた神岡の怒りが、一気に爆発した。その瞬間は、奔騰した怒りに、自衛のための理性も屈服した。  身の危険を悟った知佐子は、折りしも鳴った電話機を取って「たすけて」とさけんだ。だが多くを言わせないうちに、神岡の手が、口を塞ぎ、喉を扼《やく》した。  計画的な犯行であったら、知佐子が電話にさけんだ時点で中止した。それをだれがかけてきたのかも確かめず、神岡は送受器を彼女の手から|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取り、フックに置いて、怒りにまかせて彼女の喉を絞めた。殺人行為の最中、電話はさらにもう一、二度鳴ったような気がするが、よく覚えていない。  だれからの電話か心配になったのは、もっと後になってからである。  ガメツイ割には、知佐子はあっけなく息絶えた。その夜のうちに奥多摩の山中へ運んで、死体を埋めてしまった。  衝動的な殺人にしては、好運が重なった。知佐子も神岡をいたぶることに犯罪意識を覚えていたらしく、彼との関係をだれにも話していなかった。  だれかに話すと、この重量のたっぷりある美味《うま》い獲物を横奪《よこど》りされるような気がした。介入されるだけでもいやだった。神岡こそ、自分を雲の上へ躍り上がらせてくれる金の梯子《はしご》である。それを知佐子は独占しようとしていた。  彼女があの夜、神岡の家へ来たことを知る者はない。まさか彼が突然自分に殺意を振おうなどとはおもってもいなかった知佐子は、むしろ加害者の立場から相手を見ていた。そのため、自分の防衛も、加害者として犯跡を晦《くら》ますような形で行なっていた。  モーテルも初めての所ばかりを使っていたので、そこからたぐられるおそれはない。衝動的な殺人が、被害者と加害者の立場を逆転させた。被害者の�犯跡隠滅�の行為に偶然救われて、完全犯罪のような形になった。  だがここに一つおもわざる介入があった。それが、富森安子《とみのもりやすこ》というオールドミスの電話魔である。神岡は、彼女の名前を、その死体が発見されて、新聞に身許が明らかにされる前から知っていた。  富森安子は、好奇心などおこさずに、|再度の《セカンド》電話《コール》をかけてこなければ、死なずにすんだのである。  知佐子の死体の始末をして冷静になってくるにつれて、例の電話のことが、神岡の心の中の負担の容積を広げてきた。  いったい、あの電話をかけてきた相手はだれか? 商売がら深夜に電話をかけてくる人間は少なくない。もし知人のだれかに知佐子のさけびを聞かれてしまったら、いかにもまずい。  しかしまちがい電話ということもある。  神岡は、不安をなだめながら、時間をすごした。そして翌日の夕方、ついに先夜と同一人物から電話がきた。それによって神岡は、先夜の電話がまちがいであったことを知ったのだが、相手が疑惑を抱いたことも悟った。  セカンドコールしてきたということは、少なくとも相手がこちらの電話番号を記憶したことをしめす。それに対して、神岡は相手の正体をまったく知らない。つまり神岡の運命は、この正体不明の相手に握られているのだ。  声の調子から二十代後半から三十前後の女であることはわかった。  神岡は相手の身許を知るべく必死に通話をのばした。近くに駅と劇場かパチンコ屋があるらしく駅名のアナウンスとレコードの音楽がバックに聞こえた。相手に不審を抱かせないように受け答えしている間に、その駅名がはっきりと聞き取れた。  さらに通話をつづけていると、ノックの気配があって、 「とみのもりさん、留守の間に小包が配達されているよ」と中年女の声がした。さらに背筋の寒くなるような騒音(電話なのでずっと弱められていた)がして、 「あれでバイオリンのつもりかね、鋸を挽く音のほうがまだましだ」と小包を届けてきた中年女のぼやき[#「ぼやき」に傍点]声が聞こえた。  これで騒音の正体がわかった。  そのとき、とみのもりと呼ばれた相手の女は、 「また電話する」と言って、いったん切った。  多分小包を受け取るためであろう。神岡はとみのもりが、再三電話をかけてくれば、彼女の疑惑が相当に強いとおもった。 「そのときはなんとか手を打たなければなるまい」と彼は考えた。  衝動的だった第一の殺人が、好運にたすけられて、どうやら完全犯罪に仕上がりそうなのである。どんなことをしても、これの発覚は防がなければならない。  もし女がサードコールしてきたときは……神岡が胸の奥に築かれつつある暗い意図の構図をじっと覗きこんでいるときに、また電話が鳴った。  このときに「富森安子」の運命は決まったのだ。——この女はどうしても排除しなければならない——  相手は、ある私鉄の駅の近くに住んでおり、劇場かパチンコ店が近所にある。  神岡は、その駅名と、レコードの曲を聞きとめた。名前はとみのもり、住んでいる場所は、小包を預かっていたという中年の女の様子から、多分アパートであろう。あの女は管理人か、隣人だ。そして同じアパートの中か、あるいは隣に、「下手なバイオリンひき」が�鋸�を挽いている。これだけのデータが揃っていれば、探しだすのは、さして難しい業ではあるまい。  そして神岡は、早速翌日から行動をおこして、渋谷区|笹塚《ささづか》二丁目十×福寿荘に住むOL富森安子を探しだした。  あとは執拗に尾行をして、コネクションをつけるだけであった。      6  富森安子の扼殺死体が、都下|立川《たちかわ》市域の山林中から発見されたのは、ある雨の日曜日の朝である。二、三日前に仕掛けた鳥の巣箱を見に来た近くの小学生が、雑木林の奥で冷たくなっている女の姿に、仰天して、もよりの派出所に駆けこんで来た。  警察学校を出て、この派出所に配属されたばかりの若い警官は、小学生と同じくらいにびっくりした。本署へ連絡してから、取るものもとりあえず、現場保存のために、現場へ小学生に案内させて駆けつけた。新人で動転していた割には、その処置と行動は機敏であった。  被害者の身許は、すぐに割れた。犯人がその身許を隠すような工作を、なにも施していなかったからである。  立川署に捜査本部が開設されて、殺人事件としての捜査がはじまった。  神岡薫は自宅のホームバーに悠然と寛ぎながら、この事件を報じた新聞を読んだ。ブランデーをゆっくりと味わいながら、自分が手を下した事件の記事を、他人事のように読めるのも、文字どおり他人事として、完全に切り離してしまった自信があるからである。  犯行後、現場に絶対に遺留品を残さないように、念には念を入れて調べた。足のつくようなものは、いっさい残していない。  自分と富森安子をつなぐものは、まったくない。彼女に接近したバーは、有名なマンモスバーで、バーテンの記憶に特定の客の印象が残るはずはない。万一の場合の安全弁として変装をしていたから、たとえ、だれかに彼女との接触を見られていたとしても、自分の正体は見破られないだろう。  要するに、自分と富森安子とは、まったく関係がないのだ。どんな名探偵や名刑事が現われても、このおれをたぐりだすことはできまい。  ブランデーの酔いが心地よく全身に駆けめぐっていくのを、神岡は一種の勝利感に陶酔するようにゆったりと味わっていた。 「お節介なオールドミスが、一人この地上から消えたところで、べつにどうということはない。どうせいまの日本には人間が多すぎるのだ。能力ある人間の存在を妨げる無能の人間は、どんどんお引き取りいただくことだな」  神岡はようやく空になったグラスに、新たに琥珀《こはく》色の液体を注いだ。  そのとき玄関の方でブザーが鳴った。 「はて、今日は約束《アポ》もないはずだが」  神岡は、ふととまどったような表情をしたが、すぐに立ち上がった。今日はなんとなく人に会いたいムードである。会ってこの勝利感をそれとなく誇示したい。玄関のドアを開けると、見知らぬ男が二人立っている。どちらも平凡な背広を着た、平凡な風采《ふうさい》の男だったが、一人のほうが妙な眼鏡をかけていた。  よく見ると、妙でもなんでもなく、普通の眼鏡の上に柄のない簡易サングラスを付けているのである。太陽光線の当たらない屋内などでは、サングラスのレンズだけ水平に目の上に上げられるようになっている。  その眼鏡をかけた男が、色つきのプラスチックレンズだけ、くるりと目の上にはね上げながら、 「神岡薫さんですね」  と聞いた。その聞き方で相手が音楽やマスコミ関係者でないことがわかった。関係者であれば、必ず「先生」をつけるはずである。 「神岡です」  彼はやや不機嫌に答えた。変な人間に押しかけ訪問されて、せっかくのいい気分を壊されたくなかった。 「警視庁の者ですが、ちょっとおうかがいしたいことがありまして」  相手の身分に対する防備は、すでに神岡の中にできていた。とにかく二人の人間を殺しているのである。どんなかすかなつながりも残さないようにしておいたつもりであるが、どこかでだれかに彼女らといっしょにいるところを見られているおそれがある。  特に知佐子の場合は、多少つき合いの期間が長かったから、その可能性なきにしもあらずである。知佐子はフーテンで男関係も多数あった。多少とも彼女と接触があった疑いのある男たちは、かたっぱしから当たられているのかもしれない。  しかし知佐子の死体が発見されたというニュースは、まだ聞かない。彼女の死体は奥多摩山中深くに埋めたから、そう簡単に発見されるはずがない。すると失踪の調べか? それだったら、恐れることはない。  それにしても愉快なことではなかった。 「警察がぼくにどんな用件でしょうか?」  神岡は、普通の市民が、いきなり刑事の訪問を受けたときにしめすであろう反応を、オーバーでもなく、またあまりにも冷静になりすぎないように演技したつもりである。 「まずおたずねしますが、あなたは最近、ご自分の車で立川市の方へ行かれたことがありますか?」  相手はすでに神岡が車をもっていることを調べてきた様子である。神岡はそこに無気味なものを覚えながらも、ノーと答えた。立川にはこの二、三ヵ月まったく近寄らなかったことにしておいたほうが、無難である。  この質問をするからには、相手が富森安子のことで来たことは、確かである。神岡の心に緊張の弛緩と、かすかな不安の台頭が同時に行なわれた。  弛緩は、安子のことを聞かれるなら、大丈夫だという自信に支えられ、不安は、完全に切断したと確信をもっていた足跡を、刑事がどのようにたどってここまで来たのかという疑問から発していた。  刑事は案の定、 「それでは富森安子さんをご存知ですか?」  と次に聞いた。 「いったいだれですか、その富森なんとかいう人は?」 「知らないはずはないんですがなあ」  簡易サングラスの刑事がとぼけた口調で言った。色つきのレンズだけ、普通の眼鏡に対して庇《ひさし》のように前に突き出しているのが、ひどく滑稽に見える。 「知らないものは知りませんよ。富森なんて名前の人は、聞いたことも、会ったこともありません」  神岡は、やや語気を強めた。ここでそれを強めたほうがいいという計算よりは、刑事の態度にいらだたしいものを覚えてきたからである。 「すると、おかしなことになるんですよ」 「おかしなこと?」 「名前を聞いたことも、会ったこともない富森さんが、あなたに何度か電話しているのですよ」 「私に電話した!?」 「少なくとも三度しています。四〇一—一六七×、たしかにお宅の電話番号でしょう。最初は、深夜の一時ごろ、二度めは、翌日の夕方の六時ごろ。このときあなたは『はい神岡です』と自分の名前を名乗っている。二度めは途中で邪魔が入ったために、いったん切って、すぐその後からもう一度かけた。二度めと三度めの通話のときには、あなたは富森さんとかなりの会話を交わしている。それもあまり穏やかではない話題をね」 「そんな、でたらめだ!」  冷静にならなければいけないとおもいながらも、意志に反して興奮してきた。表情がこわばり、声が震えかかる。  まず、当事者同士以外、絶対に知りうるはずのないあのときの通話を、彼らがどうして知り得たのかという疑問がある。彼らの口ぶりからみると、その通話の内容までが全部筒抜けになっているようである。  盗聴器でも仕掛けられたのか? そんなことはあり得ない。あの時点では、神岡が富森安子を殺す羽目になることは、だれも予測していなかった。だいいち、安子の電話からして、まちがいからはじまったことなのである。  だが現に警察は追って来た。神岡の自信が根本からゆさぶりをかけられていた。 「でたらめではありませんよ。証拠をおみせしましょうか?」 「そんな証拠のあるはずがない」 「富森さんの電話の内容から察すると、どうもあなたの家で殺人が行なわれたらしい。あなたは否定しておられたが、それから間もなく富森さんが殺されてみると、このときの電話の内容が無視できなくなるのです。  あなたは、富森さんに電話を通して自分の犯罪を悟られたのではないのですか? そのために富森さんの口を塞ぐために……」 「帰ってくれ。ぼくはそんなでたらめを聞いている暇はないんだ」 「まあ、そう興奮なさらないで。われわれはとにかくその通話の真偽を確かめるべく、あなたの身辺を徹底的に探った。すると、富森さんがあなたに電話した夜から、田村知佐子という歌手志望のフーテン娘が姿を消していることがわかった。郷里の方にも当たってみたが、帰った様子がない。今度はあなたと田村知佐子の関係に焦点を絞って探ってみた。そうしたら、どうもあんたと関係があった状況が浮かび上がってきたよ」  刑事の言葉遣いが急に崩れてきた。神岡はそこに相手の自信を感じた。もしかしたら、知佐子を連れこんだモーテルを探し出したのかもしれない。 「嘘だ! おれは、田村知佐子なんか知らない」 「それじゃあ、なぜ富森安子を知らないととぼけたんだ?」 「知らないから知らないと言ったまでだ」  神岡は必死にあがいた。要するに敵は誘導《かま》をかけているだけだ。それに乗ってはならないと、自分を戒《いまし》めながらも、なにか決定的な切札を握られてしまったような恐怖感に圧倒されて、反駁したつもりが、所詮かなわぬものの無駄なあがきになってしまうのである。 「そこまで言い張るなら、あんたと富森安子との通話の内容を聴いていた人に会ってもらおうか」 「通話を聴いただって!?」 「富森さんのアパートの電話は、一対《いつつい》の回線を二軒で分けて使う共同電話だった。一方が通話中のときは、隣の電話は発信音も、話し中音のブザーも鳴らない死んだ状態になってしまう。たがいに秘話装置が付いているので、一方の通話の内容は、他方が遅れて送受器を取り上げても聞こえない仕組になっている」 「だったら、聴けるはずがないだろう」 「ところが、たとえ秘話装置が付いていても、共同電話の一方が通話中のときに、他方がフックスイッチ、つまり送受器を置くスイッチを指で押して、受話器を耳に当てると、通話中の話がかすかにだが聞き取れるんだよ。旧式の秘話装置にそういうのがある。おれも実験して確かめた」  刑事の言葉を聞きながら、神岡は絶望感が鉛のように体に重く澱《よど》んでくるのを感じた。だが、共同電話の一方は、どうして隣が通話を開始する時機を知り得たのだ?  まさか四六時中、送受器をこまめに上げて隣をモニターするわけにはいくまい。神岡の疑問に答えるように、 「共同電話の一方が発信するときは、隣にギリギリとダイアルする音がかすかに伝わるんだよ。また外線電話が入ってきた場合は、本格的な呼出音が鳴る前のツンという小さな前駆音が隣にも聞こえる」 「いったいだれが盗み聴いたというんだ?」  それを聞くことが、すでに安子と通話した事実の「問わず語り」に落ちることを知りながら、神岡はそうせずにはいられなかった。 「富森さんの隣の部屋にね、彼女に秘かに想いを寄せていた大学浪人が住んでいた。受験勉強の机の上にいつも電話機を置いていて、隣の�憧れのお姉さん�がどこかへ電話をする都度に、それを盗み聴いて胸をときめかしていたってわけだ。  これからその大学浪人に会ってもらおう。それから念のために、あんたのアリバイも聞いておこう。富森さんの死亡推定時間に、どこでなにをしていたか、また彼女と最初に通話した夜の一時ごろ、自宅にいなかったという証拠があるか、どうかね、それを話してくれないかね。  あ、そうそう、それからあんたの車のタイヤに付着していた土も、採取させてもらったよ。富森さんの死体の発見されたあたりは、立川ロームとかいう特殊な軟土だそうだ。あんたは最近、車であのへんに行ったことはないといっていたからな」  刑事は言って、色レンズの庇を下げた。滑稽だった刑事の顔は、ただそれだけの操作でいっぺんに凄味を帯びた。神岡は、安子の死体を捨てたとき、雨が降っていたことをおもいだした。そして車はまだ洗っていなかったのだ。遺留品を残さぬことばかりに注意して、現場からもってきてはならぬものを車に付けてきてしまったのである。  いままでかたくなに沈黙を守っていたもう一人の刑事が、すっと立ち上がって言った。 「本署まで同行してもらおうか」  神岡はその声を遠方からのもののように聞きながら、真の電話魔は、富森安子の隣室にいたことを初めて悟ったのである。  だが彼女が死ぬほどの孤独感に苛《さいな》まれて、電話を玩《もてあそ》んでいたかたわらの、手をのばせば届くような距離に、彼女の熱い憧憬者がいたことを、安子も、神岡も知らなかった。 [#改ページ]  虚無の標的      1 �終礼�の後、午後七時から『マミー家具販売会社』本店研修所恒例裁判がはじまった。マミー販売は、家電製品、ミシン、ベッド、事務機器類を中心とする家具の大手メーカー『マミー』の直営販売会社として設立されたものである。その�特攻セールス隊�と呼ばれた「十人の客に断わられても、十一人目に売る」果敢なセールスに徹して、急速に伸長してきた。  それだけにノルマは酷《きび》しく、毎日、外回りから帰って来たセールスマンに、各班ごとにその日の成績を報告させる�終礼�を行なう。特に成績の悪かった者は終礼後も残して、目標を達成できなかった理由を徹底的に追及する。  目的は個人攻撃になく、なんとかして業績不振の原因を見つけだし、当人を奮《ふる》いたたせようとするところにあるが、吊し上げられる本人にしてみれば、係長、課長、部長などの中心に引き据えられて、弾劾《だんがい》されるのであるから、裁判の被告になったような気がする。  そのためにセールスマンは、これを「裁判」と呼んで恐れていた。彼らにとっては裁判にかけられることだけで、不名誉であった。  その日の被告は、河崎直二《かわさきなおじ》である。河崎は入社半年であるが、いまだに�成契�すなわち契約成立件数ゼロであった。  すでにこの裁判の�定連化�した観がある。今日の裁判の目的は、すでに不振の原因を追及することになく、彼を不適格者として辞《や》めさせることにあった。  最近なかなか人手が集まらないので、募集にあたっては、身分保証や賃金保証の餌で釣っている。そのためにセールスマンとして不適格な人間が、普通のサラリーマンになるようなつもりでやって来る。こういう連中を整理するためにも、裁判は必要であった。 「河崎君、きみは入社以来、成契ゼロだ。従って集金率もゼロ。要するにきみは会社に対して、この六ヵ月何も貢献していないことになる」 「いままで会社がきみに支払った給与合計は三十万六千二百十七円だ。その他研修費、交通費、厚生費などを含めれば、会社の損失はその三倍にのぼる」 「給料というものは、社員が会社に対して積み上げた有形無形の貯蓄に対してあたえられるものだ。ところがきみは、入社以来貯蓄どころか、持ち出してばかりいる。基金もないのに金を支払うほど、うちの社には余裕はない。きみにはヤル気があるのか、ないのか?」 「何か弁解することがあるなら言ってみたまえ」  裁判は、被告を論告する検事ばかりでかためられており、弁護人もいない。そして結果は�有罪�とわかりきっていた。  河崎に弁解のチャンスはあたえられたが、彼はそれに対して一所懸命にやったけれども、売れなかったとしか答えようがない。  事実河崎は朝、社を出てから夕方終礼に帰社するまで、昼食を取る時間も惜しんで、セールスに歩きまわったのであるが、ついに一口の契約も取れなかったのである。この六ヵ月の間に彼は四足の靴をはきつぶした。それほど歩きまわったのだ。ただ結果がそれに伴わなかったのである。 「河崎君、そんな言い訳は聞きたくない。きみが熱心にやったことはいちおう認めよう。だが実績の伴わない熱意など、なんの意義もない。わが社で評価されるものはいかに為したかではなくて、何を為したかなんだ。六ヵ月間、成契数ゼロ、集金ゼロ、こんなみじめな成績を出した者は、会社はじまって以来ない。恥を知りたまえ!」  副所長の大野《おおの》が苦りきって言った。マミー販売では、一年未満の新入社員は、まず本店研修所に所属して、販売技術の実務と理論をみっちりと叩きこまれる。研修員だからといってノルマの軽減はない。むしろ新入りのほうに苛酷なノルマが課せられる。実際のセールス活動に投入して、筋金入りのセールスマンを育成しようという狙いである。  被告席に立たされた河崎の周囲の壁には、個人別成績グラフが所狭しと貼りめぐらされている。 「成績表をみたまえ。特に先週は販売強化週間で、経理課員や、お茶くみの女子までが成契している。きみはセールスマンとして不適格なんだ」  直属の小隊長の田代《たしろ》が言った。研修所の編成は、一小隊五人構成の三小隊が集まって、中隊、以後三進法で大隊、連隊となる。  研修所の人数は約百五十名の一連隊、連隊長が所長であり、以下大隊長が部長、中隊長が課長、小隊長が係長となる。こうして小隊同士から大隊同士に至るまでの競争意識を盛り上げ、売上げ増加に直結させようというシステムである。 「きみという穴がいるおかげで、第一中隊は他の中隊の靴磨きばかりさせられている」  中隊長の木村《きむら》が言えば、 「第三小隊は、下着の洗濯ばかりだ」  田代が尻につづく。賞罰を明らかにするために最下位になったチームは、小隊間では、その週、他の小隊の下着の洗濯を引き受け、中隊間では靴磨き、大隊間ではオフィスの掃除をすることになっていた。  河崎の所属する第一中隊第三小隊は、チーム全体の不振もあったが、河崎という大穴がいるために、このところ連続して、靴磨きと下着の洗濯を課せられている。  河崎は各隊長らの集中砲火を浴びながら、ふっと一瞬、真空状態の中に陥った。田代や木村の声が遠のいた。  ——そこには美しい落日が、いましも山の端《は》にかかろうとしている。主人公の刑事が生涯を賭けて探した誘拐児童を、ついに犯人から取り戻して、親許へ返すシーンである。子供はすでに成長していて、両親は年老いている。刑事の頭も、すっかり白くなっている。子供の父親が子供を自分の胸に抱き取ってから、刑事にたずねる。 「それであなたはこれからどうなさる?」 「さあ、何をしていいかわからない。この子を探すことが、私の人生の目的だった。私にはもう生きる目的がない。この子を見つけると同時に、私の人生は終わってしまったようだ」  最後の落日が、刑事の横顔に虚《むな》しい翳《かげ》を刻む。——  なにやら映画にありそうなシーンだが、これは河崎がこの十数年来、胸の中に暖めつづけてきた小説の最後の情景である。  自分の設定した目標に向って、すべての情熱を傾けつくす。その目標を達成すると同時に、生きていく意義と情熱を失ってしまう。目標に向って燃え尽きてしまった人間の情熱の熾《はげ》しさと、虚しさを河崎は描きたかった。その小説の主人公の性格も、登場人物も、ラストシーンもすでに定まっていた。ところが、かんじんの目標を追求するプロセスがどうしても書けないのだ。  そのために河崎は、十数年を失ってしまったのである。 「要するに、きみにはセールスマンとしての可能性がまったくない。辞めてもらう以外にないな」  所長の青島《あおしま》の声が判決を下すように言った。青島は最も好意的で、いままでも何かと庇ってきてくれた。その彼が見放したのだから、救いがない。その言葉によって河崎は自分の小説世界から現実へ引き戻された。 「お願いです!」  河崎は必死に言った。ここで首になったら、自分はもう人生でなにをしてもだめになるとおもった。捨てたつもりの小説を想ったのが、まちがっていた。 「洗濯は私がすべて引き受けます。靴磨きも一人でやります。ですからもう少し機会をあたえてください」  河崎はその場に土下座した。所長だけが辛うじて河崎と同年輩で、他の人間はすべて彼よりはるかに若い。彼らは目の前に這《は》いつくばった河崎に対して、一片の同情を示すどころか、おぞましい物体に向けるような視線を投げていた。      2  河崎がマミー家具販売に入社したきっかけは、新聞の求人広告欄である。「学歴年齢性別一切不問、有為の人材を求む。ヤル気のある人間は来たれ」というコマーシャルに魅せられた。  妻の佐枝子《さえこ》は、 「あなたにセールスマンなんかできっこない」  と大反対したが、 「できるかできないか、やってみなければ、わからないだろう」  と強引に押し切って履歴書を出したのである。  河崎は大学を出ると同時に、ある大手の広告代理店に勤めた。なかなか切れ味のいいコピーを書くので、会社からも将来を嘱望されていた。入社後三年目に、ある大手商業誌で募集した懸賞小説に応募して、次席になった。  これが彼のそれからの人生を狂わせたのである。  ——受賞は逸《いつ》したが、大器の素質——  ——入選作に優るとも劣らない——  ほんのわずかな差で次席になったものの、彼を支持した選考委員は、最大級の選評をしてくれた。  これに刺戟を受けた河崎は、職を辞めて本格的に小説を勉強しようという気になってしまったのである。彼にとって不幸なことに、当時仕事の関係で知り合ったいまの妻の佐枝子と恋愛中であり、そのころ腕のいい若手イラストレーターとしてかなりの稼ぎのあった彼女が、 「おやんなさいよ。男は本当に自分の為したいとおもうことに一生を賭けるべきだわ。あなたが一人前の小説家になるまで私が養ってあげる」  と大いに煽《あお》り立てた。佐枝子の激励を受けて、河崎はそれこそすぐにも芥川《あくたがわ》賞や直木《なおき》賞を取れるような気になって、会社を辞めてしまった。  退社と同時に二人は結婚した。未来の夢に酔った彼らは、人生には努力や実力だけではどうにもならないものがあることに気がつかなかった。また佐枝子は、未来の大作家たるべき夫を自分が養ってやるという悲壮感に酔ってしまった。彼らは若さに酔ったと言ってもよい。  当面の目標は、懸賞でコネのついた雑誌に原稿をもちこむことであった。次席になったとき、編集者が、いいものを書いたらどしどしもちこむようにと言ってくれたのが、大いに励みになっていた。  だが、——それからもちこめどもちこめど、原稿は突き返された。  絶対の自信をもってもちこんだ原稿を完膚なきまでに叩かれる。指摘を受けた個所を書き訂《なお》してふたたびもっていくと、またべつの不満の個所が出て来る。  最初に醸成された意識の下に一気に書いた作品が、載せてもらいたい一心で編集者の指摘に忠実に従って書き訂すだけだから、必ず不自然に歪《ゆが》んでしまう。  編集者もそういう書き訂しを求めたのではない。指摘のとおりに書き訂すだけならば、編集者でもできる。編集者の感じた不満と欠陥を、作者でなければできないように是正してもらいたいのである。それに加えて、雑誌の求める|要 求《リクエスト・》 |水 準《スタンダード》がある。  新人の悲しさでそれがよく把握できない。それは口で説明できるものではなかった。作者が実作をしながら、肌で感じ取っていくものである。  河崎の小説は確かにうまかった。だが何かが欠けているのである。それは編集者にもわからない。完全な小説を求めているのではない。不完全ながら、読者の胸に射込まれる精神の火箭《ひや》。盲《めくら》蛇におじずで、実作している間に精神の火薬庫の爆発する作家もいれば、暗中模索しているうちに、最初はあった火種まで消してしまう作家(の卵)もいる。  河崎は後の部類であった。突き返されるほどに自信がなくなっていった。こうなると書き訂せば、訂すほど、悪くなる。その間に彼が次席時の入選者はどんどん作品を掲載され、速やかに成長していった。河崎は焦《あせ》った。  さすがに編集者も気の毒におもったらしい。適当なところで妥協して、十何本目かにもちこまれた原稿を掲載することにした。これは最初のころのものよりもはるかに劣る作品だったが、編集者が根負けしたのである。  だが、河崎にとって不幸なことにその月に出版社の人事異動があり、雑誌のスタッフがほとんど替ってしまった。編集長も替り、彼の担当編集者も動いた。  掲載予定されていた彼の作品は、一顧だにされずオクラ入りとなった。  このことは河崎に大きな衝撃をあたえたが、あきらめなかった。 〈たとえオクラになったとは言え、それは雑誌の内部事情によるもので、作品が悪かったわけではない。掲載が予定されたということは、作品が優れている証拠だ〉とおもった。  こうして河崎はまたせっせと書きつづけた。  新編集部は前よりも冷たかった。個性の強い新人たちが次々に現われるなかで、前編集部時代の、入賞者ならぬ次席者の作品に関心をもつ編集者などいなかった。 「こんなことで弱音をあげちゃだめ。ここで止めたら、いままでの苦労は水の泡になるわ。私たち、そのために子供も生まずにがんばったんでしょ。生活のほうは心配しないで、あなたは脇目もふらずに自分の道を進んで」  と佐枝子が言ったので、遮二無二書きつづけた。書いた原稿は、ありとあらゆる新人賞や懸賞小説にぶつけた。そして五年目についにある雑誌の新人賞に当選した。  しかしその喜びも束《つか》の間、その雑誌が彼の入賞を最後に潰れてしまったのである。このころから彼を蝕《むしば》んだ文学の毒は、もはや治癒しがたいまでに深く進行していった。 「おれには才能がある。だが運がないだけなのだ。その運をどんなことをしてもつかんでみせるぞ」  河崎は頑《かたく》なに信じこみ、ますます深入りしてしまったのだ。こと文学にかぎらず、修業というものは、人生のための仕込み期間であり、実生活ではない。  ところが文学の毒に取り憑《つ》かれた彼は、実生活を得るための手段としてはじめた修業で、人生の最も栄養の高い部分を空費しようとしていた。手段が目的を蚕食《さんしよく》したのである。  書いても書いても意に充たない作品ばかりになった。実の生活をしないで人生を描こうとするのだから、悲壮感ばかり大げさに漂ったわざとらしい作品になった。  その間、文壇には次々に新しいスターが登場した。彼が次席になったときの入選者はいまや押しも押されもせぬ大家になっていた。  その大家にかつて「優るとも劣らなかった」河崎は、いまだに発表メディアのない原稿を絶望的にせっせと書きつづっている。  最近は、職業作家のすべての作品がくだらなく見えて、ああいう愚劣な作品を大歓迎して、自分のものを受け容《い》れようとしない社会を罵《ののし》り、軽蔑した。  同様にいっこうにうだつの上がらない同人仲間と、一流作家の作品をこてんこてんに叩きのめしているときだけが、彼の生き甲斐になった。こうなると文学の毒も、体の芯にまで進んだ証拠である。  十何年めかに河崎に決定的な転機をあたえる事件がおきた。彼の所属していた同人誌の仲間が、権威ある文学賞にあいついで三人受賞したのである。  その三人は、河崎といっしょに十数年来、修業してきた仲間であった。河崎を加えて「××誌カルテット」と言われたほどの古い仲間なのである。つまり河崎一人が取り残されたわけだ。  喫茶店で一流作家をこき下ろす、彼の唯一の生き甲斐も失われた。すでに同人もほとんど若い人間によってとって替られた。  彼の拠って立つ唯一の砦《とりで》にも肩身がせまくなった。  彼は自分の年齢を実感した。若さに酔って文学修業にスタートしたものの、もはや修業をしている年齢ではなかった。一時羽振りのよかった佐枝子も、新しい感覚をもった若手に完全にとって替られて、最近では、二流のデパートの広告宣伝部へ入って細々と夫婦の生活費を稼いでいる。 「このままではおれは人生を空費してしまう」  河崎は愕然とした。 「佐枝子、おれは小説を止めるぞ」  ある日彼は妻に宣言した。 「あなたが止めたければ、私はとめないわ」  佐枝子の疲れた面にはホッとした表情が浮かんだ。男は自分のやりたいことをするべきだと言って夫を励ましたかつての健気《けなげ》な若い妻は、この十数年の生活で、心身ともに疲れ果てていたのである。未来の大作家の妻の夢はとうに萎《しぼ》んで、ただ惰性だけで働いていたのである。 「それで何をやるつもり?」 「まったく文学と無関係のことをやりたい。おれは文学の夢に取り憑かれて、十数年も失った。だからそれを取り返す意味でも、文学からまったく離れたところで仕事をしたいんだ」  こうして、河崎は、マミーへ入社したのである。あたえられた仕事は創《つく》ることではなく、売ることだ。すべてが現在の実績によって評価される。過去どんなにタマゴを生んでも、いま生まなければ、一顧だにされない。  それはまことに明快で残酷な現実主義の世界である。文字や思考を玩《もてあそ》んで、虚構の世界を構築する文学の世界とは、正反対の位置にある。  河崎はそこを第二の人生(人生を実生活と解釈すれば、第一の人生)として選んだ。それは、自分に実りのない夢を見せて、人生を空費させた文学に対する復讐の意味もあった。      3  河崎は汚れた下着を、山のように家にもってきた。それを夫婦二人で、洗濯するのである。いままでチームでやっていたものを、河崎一人でやるのであるから、たいへんである。一通り洗い終わると、たいてい午前零時をすぎていた。  それが終わっても、すぐに眠るわけにはいかない。河崎は妻を客にみたてて、セールスの練習をするのである。  危うく首になりかけたところを、所長の青島が最後に弁護をしてくれたので、それではもう一ヵ月ほど様子を見ようということになった。  この一ヵ月の間になんとしても成績を上げないと、辞めざるを得なくなるのだ。 「ねえ、あなたにはセールスマンは無理なのよ。なにか他の職業を探したら? いまは人手不足の時代だから、探せばあなたにもっと適《あ》った職があるはずだわ」  毎夜の洗濯とセールス練習にすっかりうんざりした佐枝子が、何度か勧めた。河崎の収入が不定なので、佐枝子もまだ会社を辞めるわけにはいかない。昼間会社の仕事をした後、河崎のもちかえる洗濯をするのは、体力的にも辛かった。 「いやこの道以外に、おれにはもう行く道がないんだ。たとえ辞めるにしてもいちおうの成果をあげてからにしたい。成契ゼロでやめたら、おれの人生は本当にゼロになってしまう」  河崎は頑なに言い張った。 「あなたが一人でそうおもいこんでるだけだわ。そんなに苦労して、家具を売ったところで、あなた自身にとってなんになるの。たいして欲しがってもいない人に、押し売りしても、それがどんな意味があるというのよ?」  阿修羅のようになって売りまくったところで、それは一時の実績にしかすぎず、たちまちに消えてしまう。しかもセールスということ自体が、単なる物の移動で、生産的な要素がまったくない。  流通過程の一つのパートをつとめていることにはちがいはないが、客はどうしても欲しければ、その品物を売っているところへ買いに行く。  買うのが、早いか遅いかのちがいではないか。セールスマンの活動によって、潜在していた需要を引っ張り出し、新たな顧客を創造すると言ったところで、たいして欲せられてもいない品物を口八丁手八丁のセールス技術で売りつけることにどんな社会的意義があるのか? それが佐枝子の疑問であった。 「それがわからないから、セールスマンになったんだ。売ることだけに意義があるんだ。社会的意義や生産的要素なんか考える余裕はない。小説の毒を洗い流すには、これしかないんだ」  河崎のつきつめた表情を見て、佐枝子は、もはやいくら諫《いさ》めたところで、無駄であることを悟った。      4  河崎のセールスのやりかたは、住宅街に飛びこんで、シラミ潰しに戸別訪問するというものである。  一日平均四、五十軒、最大のときは百軒を越したことがあった。だが成契は皆無である。百軒をオーバーしたときなどは、都下のマンモス団地に飛び込み、朝九時半ごろから夜の十時まで、昼食も抜いて、歩きつづけた。  訪ねても訪ねても、売れない。しまいには自棄《やけ》になってブザーを押した。団地ではセールスマンとわかると、中へも入れてくれない。  覗《のぞ》き窓からチラリと白い目が覗いただけで、「けっこうです」と断わられてしまう。  家事や食事の最中に訪れて、セールスマンとわかると、憎悪を剥きだしにする者も多い。  河崎は、ようやく飛込み式セールスが、労多くして、得るところの少ないことに気がついた。  訪問軒数が数千軒になろうとするのに、一本も成契が取れないという惨憺《さんたん》たる成績に、さすがの彼も、考えざるを得なくなった。  しかし他の仲間はこの飛込みセールスでけっこう成績を上げているのである。とすれば、彼の接客態度に問題があるのだろう。  十数年間、机の前に坐って、原稿用紙をにらんでいた習性が、いつしか身に沁みついて、彼の態度をこわばったものにしてしまったのかもしれない。  猥談一つにしても、仲間たちのように自然にできない。  酒を飲んでも、素直に酔えない。そんな硬《かた》さが、客を息苦しくさせるのであろう。 「しかしそれならそれで、おれにもできるセールスのやりかたがあるはずだ」と彼はおもった。  彼に一つのヒントをあたえたのは、佐枝子である。 「あなた、お隣でミシンが壊れたと言って困ってるわよ。簡単な修理だったら、あなたにもできるんじゃない? もし大修理だったら、この際、売りつけられるわよ」  と耳寄りな情報に、どんな故障かと恐る恐る行ってみると、駆動装置とはずみ車の噛み具合が少し悪くなっていただけで、簡単に直った。  ワンタッチで直るほどの易しい修理だったが、隣家の主婦は大喜びだった。 「たすかりましたわ。買った店に言っても、人手不足でなかなか来てくれないし、小さな故障でも使えなくなることは同じですものね。腕時計のように簡単にもっていって修理は頼めないから困るわ。このごろは売るときはすごく熱心なくせに、アフターサービスが悪いんです。いったん売った物は、関係ないっていうような顔してるんですよ」  その主婦の言葉を聞いているうちに、河崎はハッとなった。  ——小さな故障でも、使えなくなることは同じだ——  ——売るときは熱心なくせに、いったん売った物は関係ないというような顔をしてる—— 「それだ!」  河崎は、隣の主婦の前であることも忘れて、叫んだ。 「は?」と怪訝な顔をする主婦に、慌てて、 「いえ、こちらのことです」  と言いなおして、彼はそそくさと辞した。  翌日河崎の姿は、マンモス団地のスーパーのそばに現われた。 「皆様のご家庭にございますミシン、冷蔵庫、掃除機、洗濯機、編機などの具合の悪いところを調整させていただきます。マミー製品にかぎりません。当社のサービス運動の一環として無料で調整[#「調整」に傍点]させていただきます。ご希望のお方は、ご住所とお名前、およびご都合のよい訪問時間をお教えください」  と、スーパーへ買物に来た主婦たちに呼びかけた。修理と言わないところがミソである。彼の手に負えない大修理の場合は、技術部員を送るか、新機材を売りつけるつもりである。 「あんなうまいこと言って、結局、売りつけるつもりなのよ」  強引なセールスマンのあの手この手にかなり鍛えられていた主婦たちは、最初はなかなか呼びかけに応《こた》えなかった。ところがあきらめずに呼びかけをつづけていると、おもいがけない援軍が現われた。 「あら、ちょうどうちのマミーミシンが調子が悪くって困っていたのよ。ちょっとみてもらえないかしら?」  と買物かごをぶら下げた主婦が、彼の前に立ち停った。マミー製品の持ち主では、新しく売りつける機会は少ないが、修理にかこつけてセールスの足がかりをつけようというのが、河崎の狙いであった。それにミシン以外の製品を売り込むチャンスがある。  いままでのように、行く先々で門前ばらいを食わされたのでは、手も足も出ないのである。その主婦が住所と名前を告げるのをかたわらにたたずんで見ていた連れらしい主婦が、おずおずと、 「うちはマミーじゃないんだけど、みていただけるかしら? 針が動かなくなっちゃったのよ」  と聞いた。 「もちろんどこの製品でもかまいませんよ。日ごろのご愛顧に報いるためのサービス強化月間ですから、メーカーに関係なく喜んでみさせてもらいます。そのために商品を売りつけるようなことは絶対にいたしません」  河崎はこおどりせんばかりの心を抑えて言った。これでこの主婦の家を堂々と訪れることができる。セールスの最初の、そして厳しい関門は、相手の家を訪問する口実を得ることである。まして相手から訪問時間を指定されれば、絶対に門前ばらいを食わされることはない。  はずみというものはおもしろいもので、あれほどがんばっても、まったく反応のなかったのが、その場のやりとりを見ていた数人の主婦が、つづいて申し込んで来た。 「ついでにカタログもいただいとくわ。うちのはだいぶ使ったから、なおしてももう使いものにならないとおもうから」 「私にもちょうだい」 「マミーって最近わりかし評判いいんじゃない」  こうして次々と主婦が申し込んで来て、ついにその日、待望の契約を一本取ったのである。  心の中でなにかが吹っきれるというようなことがある。ある人はそれを悟りと呼び、ある者は会得すると言う。  それぞれに微妙なニュアンスのちがいはあっても、なにかがきっかけになってべつの視野が目の前に展《ひら》くことは同じである。  河崎は、はっきりと言葉で説明できないながらも、セールスというもののコツをつかんだような気がした。  入社して七ヵ月めにようやく一台の成契。それはマミーはじまって以来の最低の成績であったが、十数年の模索の末、ついに文学の手がかりをつかめなかった河崎にしてみれば、異常に早い進展と言える。  その日終礼において、河崎は、 「第三小隊河崎。訪問軒数十八軒、成契一本」と胸を張って申告した。  一日の成契が四本も五本も出る中で、一本の成立など珍しくもなかったが、全員は拍手をもって、これを迎えた。  これをきっかけにして、河崎の成績は目に見えて上がっていった。  彼の発明した�無料調整訪問�は、玄関ばらいの関門をくぐり抜けて、見事に相手の家の中に入りこんだ。しかも無料で調整しただけでセールスを行なわないことが、好印象をあたえて、調整を受けた製品以外の関連製品の注文をもらえるようになった。  注文がないまでも、客がお礼のつもりで、近所の製品を欲しがっている家を紹介してくれる。彼の真剣な態度が好感をもたれて、顧客はいもづる式に増えていった。そのいもづるをたぐって工場や寮などの契約の宝庫を得た。彼の成契高は一挙に飛躍した。      5 「あなた、最近変ったのね」  夕食後、佐枝子が言った。このごろは河崎の収入が安定してきたので、つい少し前にデパートを辞めて、家庭の主婦におさまったのである。  結婚後十数年して、ようやく夫が外で働き、妻が家を守るというごく世間並みの家庭になったわけである。 「変った? 何が」  食事の後、テレビを観ていた河崎が聞いた。今日は成契が、冷蔵庫一本、掃除機二本、事務機一本あったので、最高に機嫌がよい。明日は日曜だが、訪問予定の見込み客が六軒ある。休日の主人の在宅時を狙わないと、まとまりにくい契約だった。 「以前のあなたとまるで別の人みたい」 「おれはおれだよ。どこも変っていない」 「自分ではわからないのよ。まず本を読まなくなったわ」 「本は読んでるぞ。前よりも読んでるくらいだ」 「そりゃあ読んでるかもしれないけど、セールスの専門書ばかりじゃない」 「専門書じゃいけないのか?」 「いけないことはないけど、要するにそういう本は、技術を教える本でしょ。人生の生き方については書いてないわ」 「おれに小説を読めというのか?」 「忙しいのはわかっているけど、あなたが家具を売ることだけに熱中して、機械《マシーン》みたいになっていくのが、寂しいのよ」 「おまえはロマンチックなんだ。おれはこの世界に入って初めて、実際に生きるということの酷しさやすばらしさを、身をもって知った。文学なんか、所詮、実《なま》の人生に比べれば、虚構の世界だ。いまおれは本当に生きることに精いっぱいなんだ。造りごとの世界に遊んでいる閑《ひま》はないんだよ」 「あなたは会社の催眠術にかかっているだけなのよ。あなたが何百台ミシンを売ろうと、何千台事務機を売っても、自己形成的なものはなにもないでしょ。それだけの歩合金が入って、それだけの時間を失っただけ。あなたの人生の本質にはなんの関係もないわ」 「おれの人生の本質は、いま生きていることだよ。机の前に坐って原稿用紙に文字を玩んでいたときこそ、人生の本質から最も離れていたんだ」 「ちがうわ。あのころのあなたには苦悩があったわ。なにか自分の生きている証拠を刻みつけようとする苦悩が」 「いまだって、苦悩してるさ。最近ようやく契約がとれるようになったけど、それまでの苦労はきみも知ってるだろ」 「それは生きることの本質とは関係ない苦労よ。いまのあなたのやっていることは、馬車馬の競争にすぎないわ。自分の行なった仕事が、確実に自分を太らせるものにつながる。そういう要素が、あなたの仕事にはないのよ。虚しい実績だけを目当てに意味のない競争をくり展げている。働いた分だけ、時間が失われて、そういう生きかたに疑問を全然感じないあなたが変ったと言ってるのよ」 「なんだと! それじゃあおれの仕事が無意味だというのか」  河崎の頬に少し血が上った。 「虚しいとおもうわ。これはあなたがやった仕事だという証拠が、少しも残らないんですもの」 「馬鹿なことを言うな! 売ったという事実がおれがやった仕事の証拠だ」 「そんなもの、すぐに消えてしまうわよ」 「おまえは勘ちがいしている。形に残るものだけが、仕事をした証拠ではない。いいか、セールスマンは客を創造しているんだ。客が、おれの仕事のなによりの証拠じゃないか」 「だから、変ったと言ってるのよ。お客は、あなたのことなんかそんなに重大に考えちゃいないわよ。人間と考えていないかもしれない」 「それじゃ何だと言うんだ?」  河崎の語気がしだいに荒くなった。 「機械よ、|販売の機械《セールス・マシーン》だわ」 「馬鹿!」  河崎はいきなり妻の頬を打った。火の出るように激しい平手打ちであった。佐枝子はいきなり夫から暴力を振われた怒りと驚きと、現実に受けた打撃によって、頬を赤くした。その紅潮の上にさらに濃く鮮かに、河崎の手形が浮かび上がった。さすがに河崎もやりすぎたことに気がつき、やや言葉を柔らげて、 「佐枝子、いいかよく聞いてくれ。おれはこれからの生涯をこの仕事に賭けている。最初は文学に復讐するようなつもりで、この道に入った。だがいまはこの仕事に情熱を燃やしている。これからはセールスマンの時代だ。自分のはらった努力がこれほど忠実に反応してくる仕事は他にない。曖昧《あいまい》なものはいっさいない。ただ能力だけが自分の位置を決める。男らしい職業だとはおもわないか。おれはいま一つの目標を設定したんだ。必ず、会社で不倒の販売記録をたててみせる。だからおまえも協力してくれ」 〈そんなの、能力じゃない。実績にすぎないわ。目標なんて言ったって、会社がつくった目標じゃないの。私は、あなた自身のための、あなただけを太らせる目標に向って集中攻撃をかけて欲しいのよ〉  と佐枝子は胸の中で反駁した。言葉に現わさなかったのは、また撲《なぐ》られるかもしれないとおもったからである。  どんなに話し合ったところで、所詮彼らの会話は噛み合わなかった。河崎は乾燥したビジネスの現実に目を据えており、佐枝子は人生に対する哲学的苦悩を夫に求めていたのである。  今日明日を生きる生存競争に、懐疑をもつ余裕はない。後方に機関銃や大砲が狙いをつけているということがわかっていても、目の前に剣を振り上げている敵を倒さなければならないのである。      6 「最近の河崎は、凄い成績じゃないか」 「やっぱり所長のお目が高かったですね」  副所長の大野は、青島の前に軽く頭を下げた。入所時の面接でも、そして連続ゼロの成績を出して解雇の判決を出そうとしたときも、所長の青島だけが、河崎のどこを見込んだのか、弁護したことをおもいだしたのである。 「あいつは内に怨念がつまっている。それをうまいこと噴火させてやれば、凄いセールスをするにちがいない」と青島は言って、四面|楚歌《そか》の河崎を庇ったのである。 「ようやく噴火がはじまったようだな」  青島は自分の目の狂っていなかったことを確かめて、まんざらでもない表情である。 「とにかく凄い成績です。三ヵ月間、連続トップ、今月はまだ二週しか経っていないのにすでに三十四本取っています。研修所の個人月間記録はとうに破っていますし、もしかしたら、全国トップに立つかもしれませんよ」  研修生で全国トップに立った者は、まだいない。しかもそれがつい少し前までは、成績最下位で、「下着洗い」の懲罰を受けていた男なのである。大野が驚くのも無理はない。 「まだまだこんなもんじゃないと、おれはみてるんだ。彼が本当にセールスのコツをつかんだら、わが社の販売記録を更新するかもしれない。おれにもよくわからないんだが、なにかの怨念をセールスに向けているんだよ。セールスには絶対に必要な情熱だよ」 「何の怨念でしょうね」 「わからない。学校を出てから十数年の間、何をやっていたのか全然わからない。職歴なしだ。家で商売をやってた様子もない。とにかく変なやつだよ」 「ちょっと無気味ですね」 「無気味でも、変でも、こちらにとっては売ってくれさえすればいいんだ。社員の過去がどうであろうと、また自由時間に何をやっていようと、契約さえ取ってくれればいい。会社が求めるものは、それ以外にないんだからな」  青島の言葉に大野はうなずきながらも、かげで研修員から�鬼島�と呼ばれている所長の真髄に触れたようにおもった。  青島はかつて三十三ヵ月間、個人成績連続トップを独走した記録の持ち主で、特攻セールス隊の生みの親でもある。 「とにかく、河崎はやる男だ。間もなく研修明けになるが、おれは彼をパトロールの隊長にしてみようとおもうんだ」 「えっ、それはいくらなんでも」  大野は目を剥いた。パトロールとは全国パトロール販売促進隊、マミーの社名を全国にとどろかせた別名特攻セールス隊のことである。全国支社からえり抜きを集めた、マミーのオールスターとも言うべきセールス集団で、海千山千の人間がそろっている。そこへ研修所で多少いい成績を上げただけの、言わばひよっ子セールスマンを、あろうことか隊長として据えようと言うのだから、前代未聞の抜擢《ばつてき》と呼ぶよりは、乱暴な人事である。 「時期尚早だと言うんだろう。おれは少しも早くないとおもう。パトロールも、おれが創設したころに比べて、最近はだいぶたるんできている。ひところの当って砕けろ式の特攻精神がなくなってしまった。二代目隊長の能代《のしろ》が病気になってから、特にそのたるみはひどい。河崎ならば履歴は浅いが、年齢と言い、この数ヵ月の働きぶりと言い、申し分ない。パトロールの隊長はな、悪役に徹し切れる人間でないとだめなんだ。河崎ならやれる。怨念を特攻隊の連中に叩きつけてくれるだろう。彼以上の適材はいないよ」  この人事はすでに青島の肚の中で決定しているようであった。特攻隊の生みの親である彼の意見を社のトップも斥《しりぞ》けられない。こうして一年の研修後、河崎は一気に特攻セールスの隊長に据えられたのである。職階にしては本社の部長と同列であるから、いかに能力主義のマミーでも、前例のない抜擢であった。  特攻セールス隊の内容は、約一大隊である。つまり一班五名の小隊が九隊あるはずであるが、各隊の欠員がちょうど五人いるので、四十名が現在員である。  いずれも、全国成績トップで、優勝した経歴の持ち主ばかりであった。彼らの中には連続数回優勝の記録保持者もおり、成績の上では、河崎をはるかに上回る人間が多い。  彼らは最初から、研修生上がりの河崎の隊長になることが、大いにおもしろくなかった。 「特攻隊もナメられたもんだな。研修生上がりが隊長とはね」 「ヒヨッコがおれたちにいったい何を売らせるつもりなんだ?」 「タマゴの殻《から》だとよ」  とこんな調子で、初めから馬鹿にしきっている。すぐ前の隊長が過度のセールス行脚《あんぎや》の過労がたたって結核で倒れてから、いままで隊長がいない。  前代隊長が比較的温情派だったせいか、ここのところ特攻隊の成績が振わない。特攻隊は本店づきの�特別店�ということになっていたが、従来全国支店の中でトップの座を下りたことのなかったのが、最近は、ベストテンに入るのがやっとという状態であった。  これでは何のための特攻隊かわからない。だからと言ってなかなか適材の後任隊長がいない。隊長なしのまま、成績はジリ貧になっていた。 「いいかね、こういう状態のところへきみに行ってもらうんだ。社長をはじめトップたちにも、きみの就任をあやぶんで反対した者が多い。それをぼくが強引に押し切った。頼むよ。きみならできる。どうかぼくの期待を裏切らないでくれ」  青島は、こう言って河崎を励ました。      7  特攻隊長に就任した河崎が、最初にしたことは、隊員に一人一人面接をして、その希望を聞くことであった。 「隊長としての自分に何を望むか?」ということを把握すると同時に、隊員の性格や気質を知るためである。  だが初めから河崎を馬鹿にしていた彼らは、まともに面接に応じない。阿呆らしくて研修生上がりの指揮を受けられるかという肚がある。  特攻隊は月に二、三週間の予定で、各班が手分けして全国の各地区へセールス旅行に出る。今回は新隊長と隊員との融和という目的もあって、全隊が合同して、関西から中国地方へ行くことになった。  河崎は、部下を掌握できないまま、この旅行へ出かけなければならない羽目になった。  大阪の旅館をベースに、これまで開拓してきた事業所や団体、工場、寮、社宅、団地などをざっと小当りに当っているうちに三日が過ぎた。  だが訪問軒数の割には成績が上がらない。全員にヤル気がまったくないからであった。彼らは結束してサボタージュをきめこみ、河崎を追い出そうという肚である。  事件は、こんな雰囲気のうちに、四日目に起きた。朝のミーティングのときに、中隊長が三人とも、部屋から出て来ない。病気にしても、三人同時に発病するとはおかしい。  どうしたのかと隊員に聞いてもニヤニヤして答えない。そのうちに小隊長の一人が、 「潤滑油が切れたんでしょう」と何かを含んだ調子で言った。 「潤滑油とは何だ?」 「隊長はご年輩ですから、平気でしょうが、我々若い連中は、潤滑油を補給しないと体が保ちません」  おどけた口調に全員がどっと笑う。なおも潤滑油の意味を問いつめると、前任者の時代には、一夜旅先の三業地やピンクゾーンに繰り込んで、隊員たちに女を抱かせる習慣だったという。  その前例を、河崎が守らなかったので、中隊長が「油が切れて動けない」と率先してストライキを起こしたというわけである。 「そうか、よしわかった。好きなだけ寝ていろと言え」  その場は、三人を残したまま、一日のセールス活動へ出かけた。隊員たちは河崎が何かを胸に含んだのを知って、興味|津々《しんしん》の目で見ていた。  ここで河崎が何もしなければ、彼は部下に完全に屈服したことになる。  その日遅くなってから河崎は、旅館へ帰って来た。すでにあらかたの隊員は帰っている。いままで隊員たちと酒でも飲んでいた様子の三人の中隊長は、慌てて、自分の部屋に引きこもった。さすがに隊長が働いている間、酒を飲んでいた顔を合わすのは、気がひけたのである。  帰って来た河崎に、隊員たちは不審の目を向けた。彼が三人の若い女を連れて来たからだ。いずれも化粧が濃く、服装が派手だが、なかなか美人ぞろいである。  河崎はその女を一人ずつ、中隊長の閉じこもっている部屋へ連れて行った。 「潤滑油が切れたそうだが、ぼくが飛び切りのおねえさんたちに頼んで来てもらった。たっぷり補給してもらいたまえ」  河崎は、唖然としている中隊長たちに言った。河崎はこの女性たちに話をつけるためにバー街を歩きまわり、セールス活動費の大きな部分を割《さ》いたのである。河崎の意図を悟った中隊長たちは、さすがに筋金入りセールスマンの図々しさをいかんなく発揮して、 「隊長がせっかく探し出して来てくれたごちそうですから、遠慮なくいただきましょう」  と、一人も辞退しなかった。翌朝になると、中隊長たちはさすがにてれ臭そうな顔をしてミーティングへ出て来た。 「油は十分補給してもらいましたか?」  隊員たちが口々にひやかすのに、 「まあまあだな」とおもいだし笑いをする。 「いやまだ十分ではない」  そのとき、遮《さえぎ》った声がある。河崎である。 「きみたちは今日もセールスに出る必要はない。もっと徹底的に補給してもらうんだ」 「だって、女は帰りましたよ」 「いや交代が来ている」 「交代!?」三人が顔を見合わせるのへ、 「部屋へ戻れ! 女と寝るんだ。おれがいいと言うまで寝てろ。いいかげんな補給をすると、すぐに切れる」  その声には反駁できない迫力があった。もっと驚いたことには、河崎が、 「今日はおれも外へ出ない。きみらが十分に補給されるさまをじっくり見ていてやる」  と言ったことである。中隊長たちも意地になった。こうして、�補給�が三日間つづいた。女たちは一夜毎に新手が来るからいいが、迎える男には交代がない。  しかも河崎は、彼らを部屋から一歩も出さない。食事は彼が運んでやるという徹底ぶりである。ついに四日目に彼らは音を上げた。  げっそりした表情でミーティングに出て来た彼らは、今日からセールスに出させてくれと訴えた。中隊長たちの全面降伏である。  この事件によって、隊員たちの河崎を見る目が少し変った。だがまだ彼に完全に心服しているわけではなかった。河崎は隊長としてそれにふさわしい腕前を部下に見せていなかったのである。いずれもえり抜きのセールスマンであるから、河崎の実績には少しも驚かない。  この際、彼らをグーの音も出ないように圧倒する実績をつくる必要があった。      8  妻の佐枝子にとって不幸であったことは、この時期に妊娠したことである。すでに彼女は高年初産として危険な年齢であった。  夫の夢を達成させるために、彼女は子供を欲しい気持を抑えてきたのだが、河崎が最初の夢とは別の方向へそれて行ってしまったので、夫に内緒で、その抑制を解いた。彼がまだ子供を欲しがっていないことがわかっていたからである。  コントロールは、もっぱら彼女の体のほうに仕掛けをしていたので、それを解《はず》すと直ちに妊娠した。  妊娠してしまえば、こちらのものだという気持があった。だが河崎はニベもなく「堕《おろ》せ」と命じた。 「いま子供なんか生んでいる閑はない。すぐに堕せ」  河崎の口調にはまったく妥協がなかった。 「私たちにとっては初めての子供よ。私も、もう若くないし、いま生まなければ、今度生めるかどうか、わからないのよ」  佐枝子は必死に言った。 「子供なんか、永久に要らない。なにもおれたちが子孫なんかつくらなくとも、他のやつらがせっせと繁殖してくれるさ」 「あなた!」 「自分の血すじを残そうなんて滑稽なエゴイズムだ。いいか、絶対に生んではいけない。必ず堕すんだ」  河崎は口で命じただけでなく、その日のうちに探してきた優生保護法指定医のところへ拉致《らち》するように彼女を連れて行って、掻爬《そうは》手術を受けさせたのである。  数時間後、キリキリと痛む子宮をかかえて帰宅した佐枝子は、夫がまったくべつの人間に変身してしまったことを悟った。  河崎が初めての子を堕したという噂は、どこからもれたのか、社内に伝わった。 「子供が生まれると、マイホームになるというところから、無理矢理に堕させちゃったらしい」 「なにもそこまでやらなくっても」 「こりゃあ鬼島以上の�鬼崎�じゃないか」  単純に欲しくなかったから、堕させただけだが、噂を聞いた人々は、一種のやりきれない悲壮感を覚えた。だがこの噂は、特攻隊員を粛然とさせる効果があり、成績がこのころからじりじりと上がっていった。  河崎は、おもいきって戸別訪問を特攻隊に全廃させ、会社、官庁、寮などの職域団体を集中的に当らせる方針に切り換えてみた。  特攻隊はいずれも一騎当千のつわものばかりである。それを一軒一軒ジャリ客に当らせて、一本二本の小口成契を取っていくのは、いかにも能率が悪い。  まるで大砲で雀を撃っているようだとおもった。  このベテラン連中を顧客の集中している団体にぶつけて、一気に大量の契約を取ろうと狙ったのである。  いったん職域団体に食いこめば、いもづる式にいくらでも掘り下げることができる。だいいち戸別販売とちがって、歩く必要がない。客のほうが一ヵ所に集まっている。一度に多数の客を説得することができる。  しかも職域の大きなメリットは、客が相互に競争的に購買意欲を燃やしてくれることであった。同僚が買えば、自分も買わなければ、負けたような気がする。特にこの傾向は、女性の多い職域に多い。 「職域のボスにアプローチしろ。相手の職場の中ではなかなか鎧《よろい》を脱がないから、相手を外へ引っ張り出すことに全力をつくせ。接待費に糸目をつけるな」  河崎は部下に命令した。この命令は効果があった。ボスのほうも、職場から一歩外へ出ると、気を許す。それにセールスマンの供応を受けたところで、収賄にはならない。職域を紹介することは、会社に対しても損害をあたえることはない。供応される側も気楽であった。  たちまち十本二十本という大口成契が、得られるようになった。そして河崎が隊長に就《つ》いてから六ヵ月めに、特攻隊は月商三千万をあげて久しぶりに全国トップにリバイバルしたのである。  職域集中販売は、その後も着々と成果をおさめて、特攻隊のトップはつづいた。このころになると、さしもの特攻隊の猛者《もさ》連も、河崎に従《つ》いてくるようになった。  だが彼は、まだ満足していなかった。職域販売は、確かに能率的である。だが集金面において、大きな伏兵が現われた。  職域において、現金売りはほとんどない。たいてい六ヵ月ないし一年の月賦販売である。この月賦方式は、集金のために堂々と再訪問して、新規セールスができるというメリットがあったが、同時に大量のこげつきも出した。  定められた日に集金に行くと、前に買った客が大勢辞めていたり、転勤している。  河崎は、このとき、人間というものが実によく動くものだということを悟った。異動しても、都内や関東一円であれば、支店を使って集金できる。しかし支店網のまだできていない地方へ、集金員を派遣するとかえって赤字になる。  退社して行方の知れない者に対しては、お手上げであった。職場は、セールスマンのために、辞めて行く人間の行先をいちいち聞いておいてはくれない。  なかには近々辞めるということがわかっていながら、契約をする詐欺まがいの者もいる。  どんなに商《あきな》いが増えたところで、代金が回収できなければ、なんの意味もない。職域集中販売の増加と同時に、いたずらに成契数の大きさを喜んでいられない深刻な事態になった。 「現金で集中販売ができないものか?」  河崎はそのことに頭を絞った。  ——しかし職域では、月賦だから買う。サラリーマンやOLが、冷蔵車やミシンの代金をいっぺんに払うことは難しい——  河崎には、もう一つ職域販売に対する不満がある。それは関連消費ということが、ほとんどないことである。デパートのように、一つの物を買ったついでに他の買物をしたり、多種多様の品物を見せられて、いらない物まで買いたくなるという�衝動買い�を期待できない。  もちろん仲間が買うのにつられて、衝動的に契約する者もいるが、それは単一商品にかぎられる。 〈�現金集中関連販売�はできないものか?〉  彼はそのことだけに、思考を集めていた。      9 「あなた」  いつも帰宅が深更になる夫を迎えて、ある夜、佐枝子がおもいあぐねたように話しかけた。 「うん?」  新聞を読みながら、佐枝子の給仕で遅い夜食を取っていた河崎は、気のない返事をした。 「私たちっていったい何かしら?」 「何って、何だ?」  河崎はあいかわらず新聞から目を離さない。 「私たちは夫婦なのかしら?」 「あたりまえじゃないか」 「でも私たち、ただ同居してるだけね。それも、真夜中から朝の七時ごろまでの間だけ。しみじみ話し合うこともないし……」  夫婦の営みも、もう一ヵ月以上もない。河崎が浮気している気配はない。つまり彼はいま数字を上げることだけに取り憑かれて、他の何も考える余裕はないのである。 「いまさらつまらないことを言うなよ。新婚夫婦じゃあるまいし。何をこと改めて語り合わなきゃならんのだ。それより、明日は早い。もう寝るぞ」  河崎は大あくびをした。立ち上がったはずみに膝から落ちたものがある。新聞の間にはさまっていたチラシ広告であった。 「何だ、これは?」  なにげなく取り上げた河崎に、 「百貨店の開店広告よ。私も、あした行ってみようとおもってるの。来店者にはもれなく粗品進呈ってあるでしょ。それをもらうだけでも得だから」 「いったい何をくれるんだ?」 「たいていプラスチックの食器か何かのつまらないものよ」 「往復のバス代かけたら、かえって損だろう」 「それもそうね。でも女って、そういうものに惹《ひ》かれるのよ。大した物はくれないとわかっていても、ついそれに惹かれて、出かけて行って、大きい物を買わされてしまう。欲張りで、単純なのね」 「それだ!」  河崎はいきなり大きな声を出した。 「どうしたのよ、いったい?」  佐枝子が驚いてたずね返したときは、すでに彼は自分一人のおもいの中に閉じこもっていた。  河崎の編み出した手は、一定の会場に大勢の客を「高級品[#「高級品」に傍点]を多数[#「多数」に傍点]進呈」のチラシ広告で釣り集めて、製品の即売をすることであった。  高級品の内容には、従来の粗品のイメージを払拭するマットレス、座布団、古い型の家庭電化製品などをふんだんに入れて、集まった客(ほとんど主婦)の度胆を抜いた。 「凄い物を只でくれるのよ」 「私、テレビをもらったの」 「私は、乳母車、びっくりしちゃった」  と主婦間の口コミが、あっという間に伝播《でんぱ》して、即売会は行く先々で大変な評判になった。中には会場の熱気に当てられて、貧血を起こす主婦も出るほどである。  しかし只と言っても、マミー側にとっては大した物ではなかった。型が旧《ふる》くなったために、商品にならなくなった品や、倒産会社の処分品ばかりである。  主婦は大喜びでもらっていくが、�粗大ゴミ�を処分しているのと、大して変りはない。  このゴミの景品をつけながら、河崎は本命の商品も売り捌《さば》いた。場数を踏むほどに、会場などにも趣向を凝《こ》らすようになり、売りかたもうまくなった。  会場は、音響と照明効果を工夫し、入場人数を制限する。このことによって、主婦たちを選ばれたという意識にしてしまう。  いよいよ販売がはじまると、二人の売り手が、調子のいいかけ合いで商品を説明しながら、無料で配る。今度は何がもらえるかと期待の集まったところで、サッと本命商品を出す。 「さあ、これは只よりも安い品物だよ。マミーが新しく開発した新健康ベッドだ。昼はソファ、夜はベッド、ダブルにもシングルにも使える。独特なマミー式スプリングは、ご夫婦の営みにも、すばらしい効果を発揮する。夫婦円満、長生き、お客は居心地よくてかえらない、熟睡、朝寝坊保証付きベッドがたったの三万円、これは三台しかないから、早い者がちだ。後で欲しいと言っても絶対に売らない、さあどうだ」  と言い終ると同時に会場のあちこちから、買うという声がかかる。 「よしそこの奥さん、いちばん返事がよかったから、カバーと毛布をおまけにつけてやろう」  とたんに会場にひそませたサクラたちの歓声と拍手が、勢いよく湧き上がる。それによって主婦たちの興奮は、ますますかきたてられるという仕組だった。  河崎の発明した集中販売方式は、従来の欠点であったこげつきの多いことと、関連消費の少ない点を見事に償《つぐな》った。  それだけでなく、主婦たちの口コミによる宣伝で、行く先々に交通整理の警官が出るほどの大盛況がつづいた。  特攻隊の成績は、たちまち上がり、毎月首位の独走をつづけた。特攻隊の過去の記録は、青島が隊長だったころに月商二千万、連続十一ヵ月全国首位というものである。各支社で何度も挑戦を試みたが、依然として破ることのできない不倒の記録であった。 「この調子だと、前の記録を破るかもしれないな」  本社首脳部もとどまるところを知らない特攻隊の快進撃に目をみはった。商品の値段が上がっているので、月商高においては青島時代の記録をとうに破っている。しかも集金率は抜群によかった。  残るのは連続優勝の記録だけである。十ヵ月連続優勝をしたとき、一つの事件が、河崎の家庭に起きた。  妻の佐枝子が書き置きを残して、家出してしまったのである。どうやら他に男ができた様子であった。手紙には、 『あなたにはとても従《つ》いていけなくなりました。女のしあわせを探して、べつの道を行くことにします。どうか私の行方を探さないでください』と簡単にしたためられてあった。 「ふん、おれがおまえの行方を探すとでもおもってんのか」  河崎は妻の手紙を一読すると、表情も変えずに破り捨てた。 「あと一ヵ月で前の記録とタイになる。頑張れ!」  河崎は、文字どおりの販売の鬼になって部下の尻を叩いた。最近では一日のうちに数ヵ所かけまわって即売会を開く。時には会場の都合で、夜中に開くこともある。  しかしこれがまた「真夜中の即売会」としてマスコミの話題を呼んで、さらに客が殺到することになった。特攻隊の内部には、河崎を中心として白熱した空気が、火を点《つ》ければ爆発せんばかりに、こもってきた。  客だけを催眠術にかけているのではなく、彼ら自身も催眠にかかっているようであった。それに社の首脳の何人かは、ふとかすかな不安をもった。加速のつきすぎた車に対するような不安である。  ——もはやブレーキの抑止力を越えた加速がついてしまったのではないか?——  だが現に抜群の成績を上げているものを、いわれもない不安から脚を引っ張るわけにはいかない。マミー全社は、いまや新記録樹立達成寸前の特攻隊の独走をかたずをのむようにして見守っていた。      10  親会社のマミーから、新製品のカラーテレビの抵抗部分に欠陥があり、受像中に火を吹くおそれがあるので、至急回収せよという命令が出たのは、特攻隊が記録を更新する直前であった。  マミー販売の幹部たちは、青くなった。いまになって回収せよと言われても、特攻隊が中心となって集中販売の主力商品として売りまくっている。  だがとにかくこれは至上命令であった。火を吹くテレビをそのままにしてはおけない。事件が発生する前に回収して、欠陥商品が明るみに出る前にもみ消してしまわなければならなかった。  命令は、九州地方を�特攻�中の河崎のもとへ飛んだ。本店からの緊急命令を電話で受けた河崎は、一瞬、「なに回収しろだと!?」と信じられない言葉を聞いたように愕然とした。 「もしもし聞いているのですか?」  事情を説明していた本店の人間は、相手の気配が電話口から消えてしまったようなので、声をかけて確かめた。何度か本店側の呼ぶ声が虚しく流れた後に、 「わかりました。早速カラーテレビの販売は停止して、回収に切り換えましょう」  河崎の気抜けしたような声が返ってきた。本店側では、特攻隊に関してはそれで手を打ったつもりでいた。  ところが本店を仰天させるような報告が翌日現地から入ってきた。 「なに、特攻隊が依然としてテレビを売りつづけているだと!?」 「はい。回収命令は出したのですが、売りつづけているそうです」 「もう一度、河崎を呼べ! なにを血迷ってるんだ」  社長はやり場のない怒りを、報告をもってきた秘書に向けた。  だが、河崎は本店からの回収命令に背《そむ》いてひたすら売りつづけた。 「売れ! 売って売って売りまくれ。今日は締切り最終日だ。あと一歩で新記録の樹立だ。どんなことがあっても達成しろ」  河崎は本店命令に耳を塞《ふさ》いで、部下を督励した。テレビは商品の中で最も値嵩《ねがさ》が張る。これを欠かすことは絶対にできない。目標必達のためには、欠陥商品であろうと、何であろうと売らなければならない。  彼は隊員たちには、テレビが欠陥商品であることを伏せていた。目標を達したときに、それを明らかにするつもりである。  ——記録を破ったら、直ちに反転して、回収に出る。こいつら、眠る間も惜しんで売ったものが、まったく無意味だったということを知ったら、どうするだろう?—— 〈もしかしたら、おれを殺そうとするかもしれない〉  ——いや本当にやりかねないぞ——  自問自答しながら、血眼になって売り捌いている部下の顔を見たときに、河崎は背筋にゾクリとするものを覚えた。 〈しかしおれはやらなければならんのだ〉  彼は一瞬の不安を、特攻隊長としての鉄の表情で鎧《よろ》った。威勢のいいかけ声があって、欠陥テレビが三台ほどつづけて捌《は》けた。拍手と歓声。——  ——これがおれの生きている証拠だ—— 〈虚しいことだとおもうわ〉  佐枝子の声が遠くからひびいた。 〈あなたは人間じゃない。セールス・マシーンよ〉  ——おれは復讐したのさ。自分自身に——  河崎は妻の幻の声に答えた。半生を虚《うつ》ろな夢に空費した自分は、最も現実的な数字に、残る自分の情熱を磨り潰してみようとおもった。現実的ではあっても、なんの意味もない、自分の個人としての人生から最もかけ離れた数字のために。  河崎の脳裡にその一瞬、誘拐児を親許へ返した刑事の虚しい横顔がよぎった。それは彼の書かれざる自作小説のラストシーンである。 「隊長! いま売ったテレビで新記録樹立です」  隊員の声が遠くからひびいた。  ——終わった——とおもった。  ——おれには、もうなにもすることがない——  販売機械として目標を達した河崎は、部下に回収を命ずべく、虚無の翳《かげ》りを帯びた人間の表情に戻って、のろのろと立ち上がった。 本書には今日の人権意識に照らして不当・不適切と思われる語句や表現がありますが、作品執筆時の時代背景や作品が取り扱っている内容などを考慮しそのままとしました。作品自体には差別などを助長する意図がないことをご理解いただきますようお願い申し上げます。 [#地付き](角川書店編集部) 角川文庫『科学的管理法殺人事件』昭和50年5月10日初版発行                 昭和53年8月30日15版発行