[#表紙(表紙.jpg)] 生前情交痕跡あり 森村誠一 目 次  辱められた夫  鎖つきの種馬  移動された情事  異心円の弱味  無関係の不倫  居所不明の暗号  変質した一部  クリスマスケーキと鏡餠  一夜かぎりの女神  ささやかな反旗  かばんの中身  揺れる接点  ロマンチックな証言  贅沢《ぜいたく》な衝動 [#改ページ]  辱められた夫      1  しまった、とおもったときは遅かった。新しく社長室に配属されたばかりの女の子が、熱い茶を淹《い》れた茶碗《ちやわん》を社長デスクの前に運んでいた。社長、しばらくお待ちくださいと野々村省吾《ののむらしようご》が声をかけようとした直前に、針生謙一郎《はりゆうけんいちろう》は茶碗を手に取ってがぶりと飲みかけていた。 「熱い」  と叫んで針生は茶碗を落とした。中身がデスクにこぼれて積まれている書類を濡《ぬ》らした。 「馬鹿者《ばかもの》」  雷が落ちた。その前にすでに社長室の一同は首をすくめている。 「わしが猫舌だということを忘れたのか。うらっちゃあ(おまえたち)、何年社長室にいるか」  首のいつもの個所《かしよ》に青筋が浮いている。これが浮かぶときは超危険信号である。 「まことに申しわけございません。まだ配属されたばかりの者で、さっそくお取り替えいたします」  野々村は針生の前から茶碗を取り下げ、ハンケチを出して急いでデスクを拭《ぬぐ》った。 「うらっちゃあ、新しい者に教育をしないのか」  針生は怒鳴った。 「ひととおりのことは仕込んでおりますが、まことに申しわけございませんでした」  野々村は平謝りに謝った。この場合、下手に弁解しない方がよい。さっそく新たな茶碗に針生好みのぬるい茶が淹れられて、社長室長の野々村が直々に運んで行った。  なにも知らぬまま、熱い茶を運んで社長に怒鳴られた新入りの秘書は部屋の隅で泣きだしそうな顔をしている。これは新入りの女の子のミスではなく、社長の好みの茶の温度をおしえなかった野々村の失策である。  針生が人と会合したり、パーティーに出席したりしている間も野々村は影の形に添うごとく、針生にぴたりと張りついている。針生の一挙手一投足から一瞬の間も目を離さない。彼が煙草《たばこ》を口にくわえればさっと駆け寄って火をさし出し、灰皿が少しでも汚れれば、野々村が駆けつけて新しい灰皿と交換する。テーブルの上の飲み物の器が空になれば、ウェイトレスが下げる前に野々村が取り下げる。  同席していればとにかく、それをかなり離れた席から見守っていながら、針生がなにを欲しているかを悟ると、電光石火のごとく駆けつけてその用を足してやるのである。  社屋一階のエレベーターに社長を見送り、最上階の社長室のフロアにエレベーターが着いて針生が搬器《ケージ》から降りて来ると、その前に息も乱さず階段を駆け上った野々村が出迎えている。  針生の手が滑り、眼鏡《めがね》を落としかけたとき、床に達する前に野々村が拾いとめたこともある。まさに至芸ともいうべき早業であった。  社内では野々村のことをひそかに、「拭《ふ》き屋さん」と呼んでいる。社長の用便後、野々村が社長の尻《しり》を拭くという噂《うわさ》から奉られた渾名《あだな》である。だがそれに等しいことをやっていた。  野々村省吾の人生は完全に針生謙一郎の傘の下にあった。太陽系の惑星のように針生の庇護《ひご》なくしては一日たりとも生きていけない。針生の影法師といわれようと、拭き屋とあざけられようと、針生あっての野々村なのである。 「ハリラックス」は針生が創始した会社である。入浴剤からスタートし、トイレタリー商品に進出して独自の工夫をめぐらせた洗浄便器フラッシュレットによって急成長した。フラッシュレットの開発によって事実上用便後の拭き屋は不要になったはずであるが、野々村の渾名は生き残った。  現在は医療器具や保健器具などにも進出して、いずれも好調である。針生の創意工夫と、積極果敢な経営によって短期間に急成長した会社だけに、徹底的なワンマン会社である。  針生には三人の娘がいる。長女|金子《きんこ》の夫|俊司《しゆんじ》は専務、次女|富子《とみこ》の夫|敏彦《としひこ》は常務、そして三女|増子《ますこ》と結婚した野々村は社長室長を務めている。三女あわせて金、富、増すと欲張った名前になっている。  三人の婿の中で社内的位置は野々村が第三位になっているが、針生は常々、わしの跡は三人の婿のうち最も出来のよいやつに継がせると言っているので、野々村にもチャンスはある。  いまや株も一部市場に上場され、海外にも資本を展開している。拭き屋とあざけられようと、影法師とさげすまれようと、いまにおれがハリラックスの天下を取ってやると、野々村はひそかに自分に誓っていた。      2  その夜十時ごろよれよれになって帰宅すると、増子は家にいなかった。 「増子はどこへ行った」  玄関に出迎えたお手伝いの美代《みよ》に尋ねると、 「同窓会で今夜は遅くなるそうです」 「また同窓会か。この間も同窓会で出かけたんじゃなかったのか」 「この間のは高校で、今日は大学の同窓会だそうです」  美代が気の毒そうな顔をして答えた。大学時代テニス部やスキー部やゴルフ部で女王であった増子は、卒業後もその交遊関係を持続して、昔の仲間と遊びまわっている。  結婚したときすでに処女ではなかったが、いまでも昔のボーイフレンドとの関係が持続している様子である。だが野々村にはそれを咎《とが》めることはできなかった。妻に好き勝手な真似《まね》をされようと、逆玉の輿《こし》に乗った身分としては咎めだてするどころか、むしろそれを有難がらねばならなかった。  親の七光がなくとも、増子は裸の女として見てもかなり上等の部類に属していた。家庭教育とか躾《しつけ》とかはいっさい受けていないが、ベッドの中の技巧は相当なものである。  だが彼女には夫との間に愛の結晶を儲《もう》けて一家|団欒《だんらん》しようなどという気持はかけらもない。彼女にとって夫とは人生のアクセサリーのようなものにすぎない。年頃《としごろ》になって結婚しないと格好がつかないので、とりあえず親の薦める相手と一緒になったという程度のものである。  六年前に長男の正和《まさかず》を産んだが、育児はすべてベビーシッター任せで母親らしいことはなに一つとしてしてやらなかった。してやらないというよりはできないのである。野々村は三人ぐらい子供が欲しかったが、増子が一人で充分だと言い張った。 「赤ちゃんを十カ月もお腹《なか》の中に抱えているなんて、もう一度だけで充分よ」  増子はうんざりしたように言った。彼女には自分の体内に幼い生命が育まれていく女の喜びも、子供の成長を日々確かめる母親としての生き甲斐《がい》もないらしい。そういうものがそっくり欠如したセックス中心人間なのである。  女性の幸福はすべて性から派生している。恋愛をし、子供を産み、子供を育て、年を取って子供や孫に囲まれるのが女の幸せであると野々村は考えている。それはすべて性から派生したものである。  だが増子の性は、男と寝るだけの性であり、女の特権である生殖をざっくり切除している。出産や育児を煩わしいこととして切り離し、セックスの官能だけを追求しているのである。そんな女と結婚して家庭の団欒など望もうともおもわなかった。  野々村も増子を自分の野心の梯子《はしご》として利用しているだけである。愛情はあるにはあったが、性愛である。たがいにベッドの中ではかなりいいパートナーであることを認め合っている。ただそれだけであった。  妻がどこへ行って、なにをしていようと関心の外にある。 「お食事は」  美代が尋ねた。 「すませてきた。バスを使ったらビールだけ飲もう」  野々村は美代に言った。シャワーを浴びてダイニングのテーブルで一人ビールを飲んでいると、玄関に気配があって増子が帰って来た。 「あら、お帰りになっていらしたの」  増子がすまなげな顔もせずに言った。酒が入っているらしい。 「もう十一時だよ」  野々村にしてはいくらか皮肉を言ったつもりであるが、 「あなたにしては珍しく早いわね」  と澄ました顔で答えた。 「今夜は少し疲れたので、お先に失礼するわね」  増子は野々村の前も憚《はばか》らず小さなあくびをもらすと、自分の寝室へ引き上げて行った。初夜からベッドを別にし、新婚旅行から帰ると寝室を分けた。 「私、別の人が同じ部屋にいると眠れないのよ」  彼女は新婚初夜に臆面《おくめん》もなく言った。増子にとって野々村は初夜から「別の人」だったのである。 「そうだね、愛情と睡眠は別だからね」  野々村はおもねるように言って、初夜から妻と別のベッドに寝た。さすがに侘《わび》しさを禁じえなかったが、それも習慣となってみればどうということはない。  愛情と睡眠は別だと言ったが、その愛情も失《う》せてみれば、むしろ寝室を分けた方が安らかな眠りを保証される。用事があるときだけ、どちらかの部屋を訪問するという習わしがいつの間にか確立されていた。  もっともほとんどの場合、増子の一方的|恣意《しい》によって訪問はなされた。野々村の方が求めても、彼女がその気にならないときはぴしゃりと断わられた。また増子がその気になったときは、野々村がどんなに体調がわるくとも応じなければならない。行為の時間や体位も彼女が決めた。  夫婦生活にかぎらず、この家で彼がイニシアティブを握っているものは一つとしてなかった。 「バスは使わないのかい」  野々村はわざと尋ねた。 「今日は疲れたからいいわ」  増子はうるさそうに答えた。出先ですでにバスを使ってきたのである。それをあえて承知の上で問うた野々村には、やや自虐的な気持がある。  妻が外でなにをしようと関心はないが、どんな男が妻を盗んでいるのかとおもうと愉快ではなかった。いや、盗むという表現は正確ではないだろう。自分は妻を決して所有も支配もしていない。しかし形式的にも妻と名のつく女を、どこのだれとも知らぬ男に蝕《むし》ばまれて、なにも抗議できぬ自分に惨めさをおぼえている。  仮に同じことを自分が外でやったら、増子は決して許さないだろう。いまさら妻に対して、主導権を握ろうとはおもわない。だが、せめて対等の権利を主張したい。男と生まれてセックスの主導権はもとより、テレビ(数台あっても)のチャンネル権に至るまで妻に握られている自分を腑甲斐《ふがい》ないとおもうことはあった。  それも野心の階段と自分に言い聞かせて耐えている。テレビのチャンネル権まで妻に握られているが、考えてみれば増子と一緒にテレビを見たことは数えるほどしかない。  名ばかりの夫婦であるが、この保証は大きい。針生謙一郎の女婿《じよせい》であり、彼の後継者候補の一人なのである。  男との情事の残り香を濃厚に漂わせている妻を見送りながら、野々村は生温《なまぬる》くなったビールを飲み干した。      3  日高耕一《ひだかこういち》は妻を殺そうとおもっていた。妻に対する殺意をもう数年温めている。最初は自分自身も気がつかぬような憎しみの気泡が胸の奥から湧《わ》いて、長い時間をかけてメタンガスのように体内にたくわえられていった。  だが殺意を抱くことと、それを実行に移すということはまったく別である。殺意を実行に移すためにはかなりの勇気が必要である。日高にはその勇気が欠如していた。 「今夜は東京泊まりになりますから、一人でお食事を召し上がってくださいな」  その日の朝、妻の晴子《はるこ》が言った。塩沢《しおざわ》にぴしりと身を固めて美しく化粧した晴子は、すでに心ここにあらずといった体である。月一回、観劇や買い物に行くという口実で上京するが、男に会いに行くことはわかっている。  日高は妻の不倫の外泊に対してなにも言えない。いつの間にか言えないような状態に押さえ込まれてしまっている。この家の家業も、日高の生活も、晴子がいなければ成り立っていかないのである。  月一だろうが二だろうが、彼女の不倫に対して日高はいっさい苦情を言えない立場にあった。情けないとおもうがそれが現状である。 「一人で食えったって、いつも飯は一人で食ってるよ」  日高は精いっぱいの皮肉をきかせた。 「一人で召し上がるのはあなたの勝手というものでしょう。あなたにつき合っていたら、お仕事にさしつかえてしまうわ。あなたが旅館の時間に合わせてくださったらいつでもご一緒しますわよ」  晴子は澄ました顔で言った。  日高屋《ひだかや》旅館は、慶応《けいおう》年間から熱海につづいている老舗《しにせ》の旅籠屋《はたごや》である。モーテルやドライブインに押されて廃業寸前まで追いつめられたとき、日高と結婚した晴子の美貌《びぼう》とその経営的手腕によってみるみる盛り返した。老舗意識をかなぐり捨て、おもいきった経営の近代化が功を奏して、かつての全盛期以上の客足が集まるようになった。  外観はオールドファッションの旅籠スタイルを残したまま、内部に粋を凝《こ》らした近代的設備を網羅したのが今日の高級指向とピタリと合って、連日予約があふれるような盛況になっている。  ロートルの郷愁派も昔の味を残したままのプライバシーの保証された居心地よさを喜んだ。倒産寸前からこの地域ナンバーワンの旅館に返り咲いた功績は、ひとえに晴子に帰する。  もともと日高屋の長男に生まれたというだけでなんの経営の才もなく、人間的迫力にも乏しい日高耕一は、晴子に救われた形になった。日高のところへ晴子のような才色兼備の女性が嫁いで来たことが、この地域では奇跡として噂されたくらいである。  日高屋旅館を盛り返した晴子は、 「私はあなたと結婚したのではなく、日高屋旅館の暖簾《のれん》と結婚したのよ」  と平然と言い放つようになった。それに対して日高は一片の抗議もできない。彼女がいなければいまごろは債鬼に追いまわされて路頭に迷っている。だが日高屋が盛り返してから、妻に対する殺意が徐々に日高の心の底に積み重なるようになってきた。  客の中には晴子の美貌に色目を使って来る者も多い。東京から新幹線で一時間足らずというアクセスのよさも中央の有名人種をかなり惹《ひ》きつけている。日本有数の温泉リゾート都市として、温泉を主体として海、山、ゴルフ場、各種スポーツ施設、史跡など多彩な観光要素を網羅したこの街は、東京の離れ座敷として、家族、団体、社員、新婚、研修旅行など各種の旅行目的に利用されている。  海に面して山を背負った静かな環境にある日高屋のプライバシーを完全に保証された客室が、有名芸能人の情事に利用されるようになった。また赤坂《あかさか》や築地《つきじ》の料亭に飽きた政界人が密談の場所に利用するようになった。  これら大物利用客が晴子の美貌に目をつけた。彼らの女に肥えた目を惹きつけるだけの美貌を晴子は備えていたのである。  晴子は彼らにとってあらゆる条件を揃《そろ》えていた。まず触手をそそるだけの美貌、第二に口の固いこと。第三に安全性が求められる。地位や名声や失うものを多く持っている彼らにとって、女の顎《あご》の柔らかさ(口の軽さ)は命取りになりかねない。  実際に女とのスキャンダルが露見して首にされた総理や政府高官がいる。女性との情事が現れただけで政治家は婦人票を失って落選し、芸能人はイメージがこわれて人気が急落する場合もある。また女に恐《こわ》い情夫がついていたりすると恐喝のタネにされる。  晴子の場合そういう虞《おそ》れはいっさいない。有名人は意外に下半身の欲望の処理に悩んでいる。政治家にとって情事は危険そのものである。芸能人も多数のファンに囲まれていながら、常にマスコミの目に監視されている。うっかりつまみ食いでもすればたちまち袋叩《ふくろだた》きにされてしまう。芸能人同士の情事はそれこそ彼らの絶好の獲物とされる。  日高は晴子が月一回の割合で会いに行く相手はかなりの大物であるとにらんでいた。晴子の不倫のパートナーは一人とはかぎられない。彼らにとって晴子は理想的な情事のパートナーであろう。安全である上に金がかからない。彼女自身が大旅館の経営者であり、金には不自由していない。  女の運営にはかなり金がかかるものであるが、晴子に金をやることは失礼である。晴子もいっさいそのようなものは要求しないであろう。そして女として最上等の部類に属する。  晴子は日高と結婚したのではなく、日高屋旅館の暖簾と結婚したのだとうそぶいたが、天性身についた媚態《びたい》は客商売に適《む》いている。彼女は客に接することが好きなのであり、特に男が好きであった。  倒産直前のおんぼろ旅館であることを知りながら、暖簾に惹かれて日高と結婚したのも客商売に憧《あこが》れていたからである。  そんな女を情事のパートナーに持った男は男|冥利《みようり》に尽きるといえる。なんの危険も負担もなく、上等な女の最も美味《おい》しいところだけをすくい取れる。まさにセックスだけを楽しむ関係であり、大人の恋であった。  だが、それだけに日高は許せないおもいであった。彼らが晴子を盗めば盗んだ分だけ、日高をないがしろにしている。いや、こそこそと隠れて盗んでいるのではない。月一回公然と晴子を呼び出し、日高の独占すべき肉体を、おもうさま荒らしまわっている。  晴子自身がそれを喜んでいる。いわば彼らは日高の無能につけ込んでいるのである。晴子をむさぼることによって、日高の男としての価値を否定しているのだ。 「やつらにいつまでも好き勝手な真似はさせない」  日高は密《ひそ》かに自分に誓った。だが誓っただけで、べつになんの行動も起こしたわけではない。下手に行動を起こして、晴子を失うのが怖い。日高屋旅館は晴子で保《も》っている。晴子を殺してしまえば日高屋旅館もない。自分自身の生活基盤も破壊される。  晴子は日高をなめきっているが、夫婦生活まで拒んでいるわけではない。月一の不倫外泊に目をつむりさえすれば、日高の夫婦生活は一応維持されるのである。  晴子を失って、晴子と同等以上の女性が手に入る保証はまったくない。そのような男としてはなはだ情けない事情のもとで、日高は殺意だけを心に積み重ねていった。  日高は夢の中で何度も晴子を殺した。晴子を殺すのは完全犯罪でなければならない。日高の周囲の者は彼の妻に対する殺意に気づいていない。一見、妻の尻に完全に敷かれたサイノロ亭主を演じている。妻がいなければ生きていけない無能亭主が、妻を殺すなどとはだれもおもわないだろう。そこがつけ目である。  なにかの事故を偽装して殺すのがよい。だが彼女がだれに、なんのために殺されたのか知らないのでは意味がない。死の間際に、亭主をこけにした報いだということを知らせてやらなければならない。  晴子は東京から帰って来ると、たいていその夜激しく夫を求める。生来|淫乱《いんらん》な体質なのであろう。不倫の情事が彼女の体に火をつけ、その火照りがおさまらぬまま夫を求めるらしい。あるいは不倫パートナーと夫を比べているのであろうか。  そんな夜はこれまでの夫婦生活にないパターンの体位を取ることがあった。新たな体位を導入することによって、不倫を夫に察知されるかもしれないという警戒などはまったくしていない。それだけ日高を馬鹿にしているのである。  馬鹿にされようがないがしろにされようが、晴子がベッドで積極的に求めることは、日高にとって好ましいことである。その好ましさと妥協して、晴子の東京行きを許している自分が惨めになる。その惨めさが殺意をたくわえ、夢の中で彼女を殺すことになる。  妻が東京から帰って来た夜は、日高も不倫パートナーに対抗して妻を激しく攻めた。彼にとってそんな形でしか報復できないのである。  ある夜のことだった。うっせきした憤懣《ふんまん》と共に欲望を妻の体内に排《は》き出した後、彼女の体内から異物が吐き出された。異物感に指先で探った日高ははっとなった。  それはゴムの避妊具であった。彼は行為の間そんなものを身体《からだ》に装着したおぼえはない。一瞬全身の血が逆流した。妻は不倫パートナーとの情事に際して使用した避妊具をそのまま体内に留《とど》めておいて、夫との行為の後に吐き出したのである。  妻はそのことに気づいていない。妻をなじろうとしかけて、危ういところでこらえた。そんなことをすれば今後彼女の体にありつけなくなる虞れがある。いまは彼女の体を部分的に失っている。それが全面的な喪失になるかもしれない。それは困る。  日高には妻の代替の女はいないのである。つくろうとおもえばつくれたが、そのためのさまざまな手続きが煩わしい。老舗のぼんぼんに生まれた彼にとって、新しい女をつくるということは一大作業である。  おそらく彼が女をつくっても、晴子はなにも言わないだろう。自分の不倫を正当化する口実ができてむしろ喜ぶかもしれない。だが日高にはそんなことができないことはわかっている。それができるくらいなら、とうに胸に蓄積した殺意を実行に移している。  だが他の男との情事に使用した避妊具を夫との行為の後に排《は》き出した晴子は、日高をこれ以上はない形で辱めたのである。日高はその屈辱を決して忘れまいとおもった。 [#改ページ]  鎖つきの種馬      1  週末の夜、野々村省吾は、一人で新宿《しんじゆく》の街を歩いていた。体内に酒が入っている。ボスの針生謙一郎が珍しく疲れたと言って早い時間に帰宅したために、野々村も身体があいた。  だがそのまま真っ直《す》ぐ家に帰る気はしない。めったにない自由時間を、妻の気色をうかがいながら過ごしたくはなかった。  宵の口の街は華やいでおり、これから始まる夜の化粧のためにせわしい。一人の食事を軽くすませて、行きつけの店を二軒ほどまわると、アルコールがほどよく身体に行きわたってきた。どこへ行っても、 「あら、お一人、珍しいわね」  と言われた。行きつけの店も針生の供で行った所ばかりである。情けないなとおもいながらも、自由時間においてすら針生の傘から離れられない。  こんな時間帯に街を一人で歩いている男は少ない。たいてい女連れかグループで、楽しげにさんざめいている。  野々村は急に女が欲しくなった。彼にとって妻は女であって女ではない。自分が独占しているはずでありながら、決して自分の自由にできない。夫婦生活も妻の一方的な恣意に委《ゆだ》ねられている。欲しいときに自分の自由にできない妻は、妻であって妻ではない。  野々村はイニシアティブを握れる女が欲しかった。だがそんな女が一夜のうちに得られるはずもない。行きつけのクラブやバーに顔|馴染《なじ》みのホステスはいるが、すべて針生の傘の下にある。  彼女らに手をつけようものなら、早速針生の耳に入ってしまうであろう。それは野々村の命取りになる。中には事情を知らず野々村にアプローチして来る女もあった。だが古参の女が必ず、 「ノンちゃんに手を出してはだめよ。奥様の鎖つきだからね」  といましめた。ヒモつきどころか鎖つきと女たちからすらも言われている。おれは鎖つきの飼い犬か、いや、種馬か。野々村は自嘲《じちよう》した。  針生がいくようなクラブであるからいずれも高級クラブである。そこにはえりすぐりの美しい女たちが熱帯魚のように群れていたが、野々村にとってはいずれも絵に描いた餠である。  結局、数時間の自由時間も針生の傘の下で過ごし、妻の鎖に引っぱられて家に帰るしか行き先はないようである。 「ああ、つまらねえな」  野々村がおもわずつぶやいたとき、 「すみません、いま何時ですか」  といきなり横から声をかけられた。  声の方角に目を向けると、二十歳《はたち》前後のあどけなさの残っている女が、大きなバッグをさげて立っている。なかなか可愛《かわい》い面立ちをしているが、その場にそぐわない違和感があった。どことなくおどおどして、場馴《ばな》れしていないのである。  野々村が腕時計をのぞいて時間を告げてやると、 「合ってるわ」  と自分の腕時計を覗《のぞ》いてつぶやいた。 「なんだ、時計を持っているんじゃないか」  野々村がやや鼻白んだおもいで言うと、 「すみません、私を買ってくれません」  と女はもちかけてきた。 「きみを買うだって」  野々村はびっくりして、あらためて観察の視線を向けた。服装は平凡ではあるが悪くない。化粧は穏やかである。どう見てもあばずれの街娼《がいしよう》にはみえない。 「きみを買ってくれって、本気かい」  野々村は一瞬テレビの引っかけかとおもった。最近この種の引っかけをテレビが一般の通行人に対してかけ、かなりの視聴率を稼いでいる。  野々村はごくりと生唾《なまつば》を飲み込んで周囲を見まわした。周辺に隠しカメラがしかけられている様子もない。 「本気です」  女は途方に暮れたような口調でつぶやいた。 「いくら欲しいの」  野々村も本気になりかけた。彼にとっては渡りに船のような女が現れたのである。 「いくらでもいいわ。私、今夜泊まる所がないんです」 「泊まる所がないって、きみ」  野々村は心細そうな女の様子にあらためて目を向けた。 「私、家出して来たんです。こんなことするの初めてなの。今夜泊まれる所があればお金なんかいらないわ」 「声をかけたのはぼくが初めてかい」 「何人かに声をかけてみたんだけれど、本気にしてくれないの」  女とのアバンチュールの機会に飢えているくせに、いざ女の方から声をかけられてみると、意外に据え膳《ぜん》を食う勇気がないものである。 「ぼくも信じられないな」 「信じてください。私、困ってるんです」  女の顔が泣きだしそうになった。 「その気になったところで恐いお兄さんが出て来るんじゃないのかな」 「前の人もそんなことを言ってたわ。疑うんだったらどこへ連れて行ってくださってもいいわ」  言葉遣いも尋常である。野々村はまたとない機会を提供されているのを悟った。一見しただけでかなり上等の女であることがわかる。童顔が残っているが、身体の要所要所は充分に実っている。服の上からもその美味しそうな成熟のほどがうかがわれる。  処女ではないだろうが、新鮮であることは確かである。こんなチャンスを見送るようであれば男をやめた方がよいとおもった。 「わかった。きみを買うことにする。しかし値段を決めないでいるのは後腐れが生ずると困る。五万円でどうだろう」 「五万円なんて、そんなにたくさんいらないわ」  そのもの馴れない様子を見ても、彼女が自分の値打ちを知らないことがわかった。この女なら一夜に対して五万円どころか十万円支払っても惜しくはないとおもった。  どんな事情があっての家出か知らないが、狼《おおかみ》の餌食《えじき》にされる前に自分の網にかかったのは幸いである。もっともその幸いは、野々村にとってという意味である。絵に描いた餠がにわかに具体的な現物として目の前に供えられた。  野々村の全身が弾み立った。金もある。まだ二、三時間余裕がある。妻はどんなに遅く帰ってもその夜のうちに帰れば文句を言わない。野々村とこの女とは出会うまではなんの関係もない。したがって妻の耳に入る危険もない。絶対安全な一夜の情事の対象が現れたのである。 「きみ、おなかはすいていないか」  野々村は問うた。 「おなかがすいていたことに気がつかなかったわ」  女は野々村に問われて、初めて自分の胃が空虚であることに気がついたようである。 「ホテルへ入ってなにかルームサービスを取ってあげよう」  野々村も宵のうちに軽食をとっただけなので小腹がすいている。この未知の女と情事の予感におののきながら、ホテルの密室でルームサービスを囲む楽しさをおもった。  野々村はそこからもよりのシティホテルに彼女を案内した。彼女はホテルの入口で目を見張った。 「こんなデラックスなホテルに泊めてくれるのですか」  辺鄙《へんぴ》な地方から上京して来たのか、反応がナイーブである。だが言葉には訛《なま》りは感じられない。 「たがいに名前を知らないと不便だ。ぼくは野本《のもと》と呼んでくれ。きみの名はなんというの」  野々村は咄嗟《とつさ》に一字を替えた偽名を名乗った。 「ひろみと呼んでください」  それが本名であるかどうかわからない。だがどうせ今夜一夜の仲である。名前は相手を呼ぶ記号にすぎない。  このホテルを利用するのは初めてである。つまり針生の傘の下ではないということだ。 「このエレベーターの前で待っていてくれ。部屋を取ってくるから」  野々村はひろみに命じた。万一知った人に会ったときの用心である。フロントへ行ってダブルルームを取り、エレベーターホールへ戻って来ると、ひろみが同じ位置にバッグを抱えて心細そうに立っていた。  目配せをしてエレベーターに乗り込もうとしたとき、一台早く着いたエレベーターに乗り込んで行く女の後ろ姿が見えた。小粋《こいき》な塩沢|紬《つむぎ》を着た艶《つや》っぽい女である。野々村はその横顔に記憶があった。  針生謙一郎の供をして行った伊豆山《いずさん》の温泉旅館の女将《おかみ》である。 「日高屋旅館のおかみがどうしてこんな所に」  野々村は小首を傾《かし》げた。彼女が都心のホテルにいてもべつに不思議はないが、ピンとくるものがあった。女将が乗り込んだ搬器《ケージ》には彼女一人しかいなかった。  インジケーターを追うと、最上階の十五階までノンストップで行った。最上階にはVIP用のスイートがある。一人でスイートに泊まる人間はない。十五階のスイートの一室には、彼女を待っている人間がいるにちがいない。 (あのおかみもなかなか隅に置けないな)  野々村は心中つぶやいた。彼女を待っている者はおそらく亭主ではあるまい。ちらりと一瞥《いちべつ》した彼女の後ろ姿には、情事のにおいがぷんぷんと漂っているようであった。  先方は野々村に気がつかなかったようである。たとえ気がついたとしても、針生の陰にいつも隠れていた野々村をおぼえていないであろう。  間もなく彼らが乗るべき搬器《ケージ》が下りて来た。ひろみは数歩の距離をおいて見知らぬ他人のような顔をしてついて来た。そのへんののみ込みはスマートである。  彼らの部屋は十四階に取った。部屋に入ると同時に野々村は五万円をひろみに渡した。どうせ渡すものなら早い方がサービスもよくなるとおもったのである。 「こんなにたくさん悪いわ」  あらためてひろみは辞退するジェスチャーをした。 「きみは充分にそれだけの値打ちがある」 「私、初めてなので、勝手がわからないんです。おしえてくださいね」  ひろみはすがりつくように野々村を見た。そんなしぐさは初々しくて愛らしい。もしかすると二十歳に達していないかもしれない。  野々村はふと不安が兆した。十八歳未満の少女だと、双方の合意ということが通らなくなる。 「十九歳です」 「本当だろうね」  野々村は念を押した。 「本当です。サバなんか読んでいないわ」  ひろみは野々村の言葉を逆に取ったらしい。向かい合って至近距離で見ると、その成熟ぶりは充分に大人《アダルト》である。ここまで来ては、たとえ十八歳未満でも引き返せない。 「まずなにか食べようか」  すぐにでも彼女を押し倒して、欲望の鉾先《ほこさき》を突き立てたい衝動に駆られたが、もはや網に捕らえた獲物である。最も美味しいところを最後にとっておいて、獲物をなぶる楽しみも充分味わわなければならない。 「きみ、なにを食べる」  野々村はルームサービスリストを取り上げた。 「なんでもあなたが選んでください」 「和洋中なんでも取れるよ。少しずついろんなものを取って二人で分けて食べようか」 「それがいいわ」  ひろみは嬉《うれ》しそうに笑った。  ルームサービスを注文すると、部屋に届けるまで約三十分かかるという。それまでの時間が手持ち無沙汰《ぶさた》になった。 「きみ、バスを使いなさい」  野々村は言った。湯上がりの女体をホテルの浴衣《ゆかた》に包ませて、くつろいだ気分でルームサービスを囲みたい。 「お先にいただいてよろしいかしら」 「どうぞ。ぼくもバスを使うよ」  ひろみが服を着たままバスルームの方へ行きかけたので、 「きみ、ここで服を脱いでくれないかな」 「えっ、ここで」  ひろみが驚いた顔をした。 「きみの体を見たいんだ」 「恥ずかしいわ」  ひろみが頬《ほお》を薄く染めて、身体を少しよじるようにした。そんな姿勢が巧《たく》まずして野々村を挑発している。 「頼むよ」  野々村に押されてひろみは仕方なさそうにうなずいた。 「それでは少し明りを暗くして」  ひろみにリクエストされて、野々村はスタンドの光量を絞った。 「このくらいでいいかい。これ以上暗くすると見えなくなる」 「ええ」  ひろみは消え入るような声で答えた。 「あまりじろじろとご覧にならないで」  ひろみは言いながらゆっくりと一枚一枚衣服を脱いでいった。  五万円の手前かもしれないが、その羞恥《しゆうち》に満ちた自己|剥脱《はくだつ》は、職業的なストリップガールが絶対にかなわない自然の色気がある。 (もしかするとおれは騙《だま》されているのかもしれない)  野々村は彼女から吹きつけるような色気にふと疑惑を持った。年期を入れたプロが初々しい家出少女を装った新手の売春なのではないか。  だがそれでもかまわない。彼女はすでに充分に客を楽しませてくれている。これだけの演出を職業的なシナリオに従って行なっているとしても、五万円は決して高くない。一枚一枚取り除いて、ひろみはとうとう最後の一枚を残すのみとなった。 「もうかんにんして」 「パンティも脱いで」  野々村は容赦なく命じた。  完全に剥脱された彼女は身体をすくめるようにした。薄明りの中に見事なプロポーションが浮き立って見える。豊かな胸、蜂《はち》のような胴のくびれ、したたかな腰、量感のある尻、太股《ふともも》から芸術的に収斂《しゆうれん》されていく美しい脚。完璧《かんぺき》な女体がそこにあった。  夏の日の海の名残りか、女の謎《なぞ》を秘めた部位を中心に残された三角形の白い肌と浅黒い肌とのコントラストが挑発的に野々村の目を射た。野々村はこらえられなくなった。 「きみが欲しい。いますぐ」  野々村はかすれた声で言うと、ひろみに躍りかかった。 「あ、待って」  ひろみは形ばかりにあらがったが、すぐに抵抗の姿勢を捨てた。こうなることをあらかじめ予期していたような気配でもある。  ベッドの上にひろみの裸身を折り敷いた野々村は、せわしなく自ら下半身だけ剥脱すると、性急にひろみの身体に突きかけた。柔らかな抵抗を突破すると、野々村は熱くめくるめく感触に包み込まれていた。  処女ではなかったが、まだ開発の進んでいない、未知の官能を秘めた女体であることがわかった。 「きみは素晴らしいよ」  野々村はひと呼吸して、本格的に鉾先を進めようとした。そのときドアの方角からチャイムが聞こえた。ルームサービスが届けられたのである。  ひろみは跳ね起きると、急いで浴衣をまとい、 「私が出ますわ」  と言った。  ルームサービスに邪魔をされたが、それだけ楽しみが先へ延ばされた。一瞬の接触であったが、それは充分に彼女の秘めたる味を予告させるものであった。 「素晴らしい予告編だったな」  野々村はルームサービスの料理をひろみとさし向かいでとりながら、彼女の顔を覗き込んだ。 「意地悪」  ひろみは頬を染めて顔をうつむけた。ほんの一瞬の接触で、二人の間の隔壁が除《と》れている。金で売買した性的関係であるが、少なくとも未知の他人同士ではなくなっている。      2  野々村は堪能《たんのう》した。予告編のとおり、本編は満足すべき内容であった。彼はひろみと別れ難くなった。そろそろ帰らなければならない時間が迫っている。妻の鎖の限界にまで来ている。 「きみはあとを引く。また会いたいな」 「私も」 「ほんとかい」 「本当よ」 「どこへ行ったらきみに会える」 「明日になったら落ち着き先を探すわ。居所が定まったら連絡しましょうか」 「ぜひ」  と言いかけて、野々村は語尾を口中にのみ込んだ。 「奥様が恐いんでしょう。大丈夫、あなたを困らせるようなことはしないわ」  ひろみはいたずらを含んだような表情をした。ひろみとのことが、針生や妻に知られてはまずい。野望の階段を頂上まで上ると決意した者は、針の穴ほどの弱味も抱えてはならないのである。 「すまない。ぼくの連絡先はおしえられないんだ」 「仕方がないわね。今夜一夜かぎりのアバンチュールというのもロマンチックじゃない」  ひろみはあきらめがよかった。 「ホテルの部屋代は前払いしてあるから、今夜はゆっくり休んでいきなさい」  今夜のようなチャンスは自分の人生において二度とめぐってこないであろう。仮にめぐってきたとしても、ひろみのような上質の女には二度と出会えまい。  上質であるだけにあとを引く。あとを引けば引くほど危険が増える。彼女が言うとおり一回かぎりにしたほうが無難であろう。 「ありがとう。今夜はとても楽しかった。これはぼくのせめてもの気持ちだ」  野々村は言って、さらに二枚の一万円札を手渡した。 「こんなにいただけないわ。もう充分にいただいているもの」  ひろみは押し返した。 「取っておいてくれ。今夜のような偶然がないかぎり、もう二度と会えない。それでなにか今夜の記念の品を買ってほしい」 「有難う。それではあなたの記念になにか形に残るものを買っておくわ」 「本当に残念だね」  野々村はひろみを抱き寄せて唇を合わせた。唇を離すと、 「さよなら」  とひろみがささやいた。野々村の一夜の夢のような情事は終った。  そのとき野々村は、十五階のどこかの部屋で、日高屋旅館の女将も同じようなことをしているだろうかと、ふとおもった。 [#改ページ]  移動された情事      1  帰宅すると家はすでに寝静まっていた。チャイムを押すと美代が眠そうな顔をして出て来た。 「増子は」  野々村は一応問うた。彼が帰宅しても、出迎えたことのない妻である。 「もうお寝《やす》みになっていらっしゃいます」 「そうか」  野々村はうなずいた。その方が都合がよい。下手に出迎えられると、情事のにおいを嗅《か》ぎつけられるかもしれない。  翌朝ダイニングで増子と顔を合わせると、 「昨夜《ゆうべ》は遅かったみたいね」  と増子が言った。日曜日で特に予定もなかったのでもう少し寝ていたかったが、妻に不審を抱かれるといけないとおもい、朝食の時間には起きて来た。朝食とはいっても、休日の朝なのでブランチである。 「起きていたのかい」 「玄関が開く気配を夢の中で聞いたわ」 「ちょっとつき合いに引っかかってね、少し遅くなってしまった」 「昨夜あなたがお帰りになる前に父から電話があったわ」  増子はなにげなく言った。 「なんだって」  野々村は愕然《がくぜん》とした。針生が増子に電話をしてくれば、野々村が早い時間にフリーになったことが露見してしまう。 「べつに用事はなかったみたい。久しぶりに私の声を聞きたかっただけみたいよ」  増子は野々村の驚愕《きようがく》に気がつかないようである。野々村はひとまずほっと胸を撫《な》で下ろした。  考えてみれば、それほど怯《おび》える必要はなかった。彼が早い時間にフリーになっても、家に直帰する必要はない。針生をエスコートしていないときでも、社長室長の仕事はたくさんある。それらの仕事を片づけていたと言えばすむのである。やましさが態度に現れないようにしなければいけないと、野々村は自戒した。 「旦那《だんな》様は昨夜よほどお疲れのご様子でしたね」  給仕をしていた美代が口をはさんだ。 「どうしてだね」  野々村はトーストを口にくわえて言った。 「シャワーも使わずにお寝みになりましたもの。旦那様はお帰りになると必ずシャワーをお使いになりますわ。寝室に直行されたのは珍しいことですわ」  美代に指摘されてどきりとなった。ホテルでシャワーを使って来たために、ベッドへ直行したのがまずかった。 「いやあね、不潔だわ。それでは外から帰ったままの体で朝食を召し上がっているの」  増子は汚物でも見るような目を野々村に向けた。そんな不潔な人間と一緒に食事をしたくないような口調である。不潔感が先に立って、夫のライフパターンにはない行動を不審にもおもわないようである。 「べつに汗もかかなかったし、疲れていたのですぐベッドに入ってしまったんだ」 「汗をかかないようでも、一日外へ出ると体は汚れます。今後は必ずバスを使ってくださいね」  増子は念を押した。昨夜は汗をかいていなかった野々村がいま全身汗にまみれていた。もしかすると美代は野々村の情事のにおいを敏感に嗅ぎつけて、そんな意地悪な口をきいたのかもしれない。  その日は日曜日で針生のゴルフの供もなく、久しぶりに家でゆっくりすることができる。美代に冷汗をかかされたが、どうやら増子には気づかれなかったようである。  朝食を終ったとき、テレビが昼のニュースを伝えた。増子の関心はすでにテレビに移っている。夫が遅くまでどこでなにをしていようと関心外のようである。彼の首につけた鎖に安心しきっている。  夫という名前の飼い犬が、鎖をはずして自分の支配する外へ飛び出そうなどとはゆめゆめおもっていない。いまに見ていろ。その鎖を逆に利用して、ハリラックスの天下を乗っ取ってやる。  ——今朝八時ごろ新宿区西新宿二丁目の新宿ロイヤルホテル一四二四号室で女の人が死んでいるのが発見されました。その女性はホテルの宿泊カードから、静岡県|熱海《あたみ》市、伊豆山の日高屋旅館の専務日高晴子さん二十九歳と判明しました。日高さんは昨夜午後九時ごろ同ホテルに到着して、一四二四号室に入りました。今朝八時のモーニングコールに応答しないため、客室係が様子を見に行ったところ日高さんはすでに死んでいました。日高さんが取った部屋はダブルルームであり、日高さんの死因に不明な点もあるので、警察は同行者の行方を探しております。——  アナウンサーの平板な口調とともに、日高晴子の顔写真がブラウン管に映った。野々村はぎょっとして、おもわず手にしたコーヒーカップを落としかけた。 「どうしたの」  増子が不審の目をテレビから野々村の方へ移した。 「この女性を知っているんだよ」  野々村は咄嗟に嘘《うそ》がつけなかった。 「え、知っているの」  増子の表情が驚いている。 「お父さんのお供をして何度か行ったことのある伊豆山の旅館のおかみなんだ」 「そのおかみがどうして新宿のホテルで死んでいるの」 「そんなことは知らない。ただ意外な人の顔がテレビに出たんでびっくりしたんだ」  野々村は危うく言い逃れた。ニュースはすでに次の項目に移っている。 「同行者の行方を探しているなんて、どうして姿を隠しちゃったのかしら」  増子の不審げな表情がつづいている。 「それは一緒にいられない事情があるんだろう」 「一緒にいられない事情ってなによ」 「だから、死因に不審な点があると言っていただろう。人目を忍ぶ不倫の情事の最中に、女性が急に死んでしまったら、動転して逃げ出してしまうかもしれないじゃないか」 「ずいぶん冷たいパートナーね」 「人目を忍ぶ仲だったら、逃げ出してもおかしくないさ」 「殺されたという可能性もあるんでしょ」 「警察が出張って来ているようだから、その疑いもあるかもしれないね」  野々村は増子と会話しながら別のことを考えていた。  日高晴子はたしか十五階へ行ったはずである。彼女がロビーフロアからエレベーターの搬器《ケージ》へ乗り込み、十五階までノンストップで上って行ったことをインジケーターで確認している。それにもかかわらず十四階で死んでいた。それはなぜか。  あるいは野々村のように彼女の行く先に興味を持っている者の目を偽るためにいったん十五階までノンストップで上がり、それからパートナーの待つ十四階へ下りて来たということも考えられる。一四二四号室に彼女のパートナーが待っていたのか。  待てよ。野々村はおもい当たることがあってぎょっとした。彼が昨夜街で拾ったひろみを連れ込んだ部屋は、たしか一四二三号室であった。彼らの隣りの部屋で日高晴子が死んでいたことになる。まさか、と野々村は口中でうめいた。  もし彼女のパートナーが犯人であるなら、野々村の隣室で殺人が進行していたことになる。警察の捜査網は当然犯行現場の周辺に広げられるだろう。  隣室のひろみがまずその網に引っかかる。警察の取調べに、彼女は野々村と一時を共に過ごしたことを供述するだろう。野々村の情事が警察の知るところとなる。  幸いにひろみには野々村の素性の手がかりになるようなものはいっさいあたえていなかった。だがひろみの口から野々村の身体特徴が語られる。ホテルのフロントには、偽名と偽住所ではあるが彼が書いた宿泊カードが保存されてある。まさかすぐ隣室で人間が死んでいるとは夢にもおもわず、天下太平の情事に耽《ふけ》っていたことになる。  まずいことになった。野々村は唇を噛《か》んだ。 「あなた、どうしたの。顔色が悪いわよ」  増子は顔を覗き込んだ。 「いや、なんでもないよ。たぶん寝不足なんだろう」  野々村は慌てて表情を取り繕った。      2  自室に引き取った野々村は、不安が胸中に脹《ふく》れあがってきた。不安はひろみから発している。死体が発見されたのが午前八時ごろというから、ラッキーな場合はひろみがチェックアウトした後であるかもしれない。  だがべつにどこへ行く当てもないと言っていた彼女が、そんな早朝にホテルを出発するとはおもえない。チェックアウトタイムぎりぎりまでホテルで寝ている確率が高い。ひろみはきっと警察の網に引っかかったにちがいない。  それにしても隣室にはなんの気配もなかった。隣室に客がいれば、多少の気配は感じ取れるものである。まして夜間ともなれば、戸外の騒音が消えるので、トイレのフラッシュの音や、浴槽に湯をためる音が隣室に洩《も》れる。そういう気配はいっさいなく、まったく無人のように静まり返っていた。  もしそこで人が殺されたとすれば、なにかの気配が洩れ聞こえたはずである。一四二四号室は空室だったのではないか。  野々村の脳裏に別のおもわくが転がり始めた。日高晴子はやはり最初から十五階のどこかの部屋にいた。彼女はそこで死んだとする。殺されたのか、あるいは突然の急死が彼女を見舞ったのかわからない。  だがいずれの場合にしても、十五階のパートナーにとって彼女の死体がそこにあると大変都合が悪かった。そこで十四階の彼女が本来取っていた部屋に死体を移した。一四二四号は棟末にある。非常階段を伝えばエレベーターを利用せずに来られる。深夜の人影の絶えた時間帯であるので、人目に触れず死体をワンフロア移動することはさほど困難ではなかったかもしれない。  ニュースは十五階についてはなにも触れていなかった。テレビのニュースは概括的であるので、新聞がより詳しく報道してくれるだろう。もし警察が十四階だけに捜査の網を広げていれば、十五階にいるかもしれないパートナーを逃してしまう。 「十五階の方がくさいぞ」  野々村のおもわくは次第に凝固していった。  翌日の新聞にはさらに詳しい記事が載っていた。それによると日高晴子の死体には生前の情交|痕跡《こんせき》があったという。死体には損傷はなく、薬毒物服用の痕跡も、格闘や抵抗した状況も認められないと伝えている。警察では性交急死(腹上死)の疑いを強めているそうである。 「女の腹上死か。もしそうなら、さぞや男は慌てただろうな」  野々村は自分が同じ立場に陥った場合を考えた。もし昨夜のパートナーが急死したら自分はどうするであろうか。どうせ街で拾った女である。たがいの素性は知らない。要するに五万円プラス二万円の関係にすぎない。そんなパートナーのために、地位と家庭の喪失の危険をおかして留まる理由はない。おそらく彼女の死体を放置したまま逃げ出すだろう。  日高晴子のパートナーも同じようにしたにちがいない。彼らは人目を忍ぶ間柄であった。したがってだれにも二人の関係を知られていない。しかし、パートナーの部屋に死体を放置したのでは、パートナーの素性がホテルから現れてしまう。そこで彼女が取った本来の部屋に死体を移動した。  これは絶対に関係を悟られたくない二人が、秘密に出会う場合に使うセパレートアライバル(別到着)という手である。あらかじめホテルに別々の名義で二部屋取っておき、一部屋に合流する。この手を使うと、ホテルにも二人の関係を察知されない。  別到着はマスコミの目をくらますのにもよい。警察もこの別到着に騙されて、捜査の焦点を十四階の日高晴子の部屋に置いているようである。晴子のパートナーは十五階にいるにちがいない。  だが野々村にはそんなことを警察に告げる意思はない。とにかくこの場は警察の網が自分から逸《そ》れるのを祈るばかりである。  新聞にはひろみのことは一言も触れられてなかった。たとえ彼女が捜査網に引っかかったとしても、十四階に居合わせた客の中の一人にすぎない彼女が、記事にあらわれるとはおもえない。警察は網に引っかかった十四階の宿泊客のすべてをしらみつぶしに当たり、死者のパートナーに関する情報を集めていくのであろう。  ひろみのパートナーは事件には関係ない。だが二人部屋に一人で泊まっている家出少女に、警察は当然不審を抱くであろう。そこから野々村の追跡が始まる。どう考えてもまずいことになった。  野々村は自分に向かって網が絞りこまれている気配を感じた。      3  東京の警察から連絡が入り、妻が死んだという報知を受けた日高耕一は仰天した。信じられなかった。 「なにかのまちがいではありませんか。家内は昨日、元気に東京へ行ったのです」  日高は問い返した。 「奥さんのハンドバッグの中に名刺が入っていたのです。お宅を出るとき、塩沢の和服を着て、ワニ皮のハンドバッグを持っておられませんでしたか」 「確かにそれは家内が家を出たときの服装です」  その他係官がつけ加えた死者の特徴や所持品は、すべて晴子に該当するものである。 「それでご主人にご遺体の確認を願いたいのですが」  係官は電話口で事務的に言った。日高は茫然《ぼうぜん》となった。胸底に殺意をたくわえ、胸の中で何度も殺した妻が本当に死んだという。信じられないおもいであるが、警察が告げた具体的な死者の特徴や所持品は、すべて妻であることを裏書きしている。  殺意の対象が突然失われ、胸の中にぽっかり空洞があいたようである。 「もしもし」  相手が呼びかけた。日高ははっと我に返った。日高が慌てて応答すると、 「それで、つかぬことをおうかがいしますが、奥さんは亡くなられたとき同行者がいた模様なのです。ご主人は同行されてなかったのですか」  同行者が夫ではないと察しをつけながらも、一応念のために聞くという口調である。 「私が一緒にいれば、そこにいますよ」  日高が答えた。 「それではご主人に奥さんの同行者の心当たりはありませんか」 「そんなものあるはずないじゃありませんか」  日高はやや色をなした。警察にまで馬鹿にされたような気がしたのである。 「失礼しました」  相手は率直に詫《わ》びた。 「お尋ねしますが、その家内と一緒にいた形跡のある同行者というのは男なのですか」 「男です」  相手の口調は断定的である。 「どうして男だということがわかるのですか」 「奥さんの身体には……生前の情交痕跡があります」  相手がややためらいがちに言った。 「生前の情交痕跡」  予想はしていたことであるが、のっぴきならない裏切りの証拠を、死者の形見として妻の身体に刻みつけられて、日高は言うべき言葉を失った。 「そして、その同行者は姿を消しているのですか」 「そうです。奥さんはホテルの部屋で一人で亡くなっていました」 「それは……殺されたということですか」 「殺されたのか、病死なのか、まだ判定できません。それはこれからの捜査の対象になります」 「殺されたとすると、だれがどんな理由から殺したのでしょう」 「ですからまだ他殺とも自殺とも病死とも決められないのですよ」  相手がなだめるように言った。もし犯人がいるとするなら、彼は日高の先まわりをしたことになる。  日高の胸の奥から怒りが込み上げてきた。それは不思議な感情というべきである。本来なら彼が殺したいと願っていた妻を彼に代って殺してくれたのであるから、犯人に感謝すべきである。だが捨てようとおもっていた持ち物でも、他人に奪われ、他人に壊されると腹が立つものである。  正体不明の不倫パートナーは、彼女の体を玩《もてあそ》んだだけに飽き足らず、死に追いやってしまった。殺したのか、あるいは病死なのかまだ不明なそうであるが、いずれの場合にしても、パートナーが彼女の死の原因になっていることはまちがいあるまい。  彼に後ろめたさがあるからこそ、彼女の死体を放置したまま逃げ出したのである。晴子の美味しいところだけをすくい取って、死体をまぐろのように転がして逃げ出した犯人に対して憎しみが湧いた。  妻に愛情はかけらも残っていない。だが妻は妻なのだ。彼女は愛情の有無に関係なく、自分と日高屋旅館にとって必要な人間である。それを死なせてしまった。許せないとおもった。 「わかりました。これからただちに確認にまいります」  日高は電話口に答えた。  ホテルのもよりの病院の霊安室に横たえられた死体は確かに晴子であった。犯罪に基因する疑いのある変死なので、死体は解剖に付することになる。死体はすでに検視の処分を受けたはずである。  夫を裏切り、不倫の汗にまみれた妻の体が、いまは冷たい物体に還元して、科学捜査の対象となって霊安室の床に横たわっているのはむごたらしい眺めであった。 「家内です。家内にまちがいありません」  日高が確認して、ここに死者の身許《みもと》は特定された。担当の捜査官が新宿署の牛尾《うしお》と名乗った。 「奥さんには生前の情交痕跡があると申し上げましたが、現場の状況が少し不可解なのです」  死体の確認後、別室で向かい合った牛尾が言った。 「現場の状況が不可解と申しますと」 「奥さんはホテル備え付けの浴衣を素肌に着てベッドに横たわっておりましたが、バスタオルやタオルなどが全然使用されていないのです」 「それはどういうことなのですか」  日高には咄嗟に意味がわからない。 「奥さんの体は情交前にバスを使っております。それなのにバスタオルが使用されておりません。ということは、奥さんは濡れた体のまま浴衣を着たということになります」 「濡れたまま浴衣を着る。変ですねえ」 「変でしょう。仮に奥さんが濡れたまま浴衣を着たとしても、同行者がバスを使えば、バスタオルは一人前使用されているはずです。だが、バスタオルは未使用のまま折りたたまれておりました」 「すると同行者もバスを使わなかったと」 「そういうことも考えられますが、普通は情交前、男女双方がバスを使うものでしょう」 「男だけすでによそでバスを使っていたとか」 「そんな可能性もあるかもしれませんが、奥さんは、バスタオルだけでなくシャワーキャップも使っておりません。浴槽も調べてみましたが使用した形跡はありませんでした」 「どういうことなのでしょう」 「奥さんはバスを使っていながら、死体があった部屋の浴槽は使用されていないのです。つまり奥さんが使ったバスは別の部屋のものということになります」 「別の部屋。彼女は別に部屋を取っていたのですか」 「いいえ。おそらく同行者が別に部屋を取っていたのだとおもいます」 「同行者が彼女の部屋に来たのですか」 「逆です。奥さんが同行者の部屋に行ってバスを使い情交した。そしてその部屋で急激な死が奥さんに訪れ、同行者が奥さんの死体を奥さんの部屋へ移したのです」 「どうしてそんなことをしたのですか」 「同行者が奥さんと一緒にいたことを知られたくないからです。こうなると、同行者ではなくてパートナーというべきですね」 「すると同行者、いや、そのパートナーはその夜同じホテルのどこかの部屋を取っていたことになりますね」 「そうです。われわれは昨夜宿泊したすべての客を当たっております。いずれパートナーは絞り込まれるでしょう」 「刑事さん、ぜひ家内のパートナーを割り出してください。私は彼が憎い」 「もちろん割り出しますよ。これは念のためにお尋ねしますが、昨夜から今朝未明にかけてあなたはどちらにおられましたか」 「それはアリバイですか」 「故人と関係のある方にはすべてお尋ねしていることです。気を悪くしないでください」 「昨夜はずっと家におりましたよ」 「それを証明することができますか」 「何人もの従業員が知っています」 「わかりました。失礼なことをお尋ねしましたが、これも奥さんの死因を突き止めるためですのでお許しください。解剖の結果が出るまでは外出を控えていただけませんか」  牛尾はやんわりと、しかし妥協のない口調で言った。 [#改ページ]  異心円の弱味      1  日高晴子の遺体は翌日午後、司法解剖に付された。解剖の結果、死因は急性心不全と判定された。体内に貯留した精液は非分泌型で血液型を決定できない。薬毒物を服用した痕跡は認められない。死亡推定時刻は五月十九日午後九時より二時間とされた。死亡時間や遺体に情交痕跡がある点などを考慮して、心不全を惹き起こした最大の原因は、情交と判定された。  かねてより心臓に病変を抱えていた者が、情事に伴う急激な激しい運動によって心不全を起こした状況である。情交中の急死、いわゆる腹上死である。情事に伴う激しい運動が彼女のもろくなっていた心臓を一挙に破壊したのである。死因はどうやら犯罪に基づいたものではなさそうである。 「それにしても情事の相手の死体を放置して自分だけ逃げ出したとは、ずいぶん冷たい恋人ですな」  牛尾刑事のペアーである青柳《あおやぎ》が憤慨した口調で言った。 「ただ放置して逃げ出しただけではない。死体を自分の部屋から移したんだ」  牛尾が青柳の憤慨を補足した。 「しかし犯人を突き止めても、立件できないでしょうね」 「せいぜい死体遺棄罪を問うところだが、別れたときは生きていたと言われればそれまでだな」 「つまり被害者《ホトケ》は自分の足で自分の部屋へ歩いて帰ったというわけですか」 「そういうことだよ。自分の部屋へ帰ってから死んだ」 「腹上死というものは行為の最中に死ぬんでしょう」 「だから腹上死と言うんだろうが、行為の後に死ぬこともあるだろう。性交急死でなくて性交後急死だ」 「一体どんな野郎が相手でしょうね」 「たとえ犯罪ではなくとも、相手を突き止めたいね」  日高晴子の死が犯罪に基因しないとまだ確定されたわけではない。  同夜新宿ロイヤルホテルに泊まり合わせたすべての客が洗われた。客室数八百二十、そのうち六百十五室に客が入っていた。七五%の客室稼働率である。この中から家族連れや、女性のグループ、単独の女性客などは除いてよいだろう。さらにパートナーの判明しているカップルが消去されて、百二十六室に絞り込まれた。  ホテルの宿泊《レジスター》カードに基づいて、彼らの一人一人が追及された。その中の九室の客が宿泊カードに記入された住所に存在しなかった。彼らの到着《チエツクイン》を受けつけたフロント係に問い合わせると、そのほとんどが当日、予約なしで来た|飛び込み客《ウオークイン》で、カップルであったということである。  彼らの中に一室だけ、到着三日前に電話で予約申込みをした者があった。一五二〇号、最上階の二間つづきのスイートである。値段は九万八千円、同ホテルでは第三位のデラックス室である。  ちなみにこのホテルの最上等の部屋は三十二万円、国賓級の客が年間を通して数回しか利用しないということである。 「十五階なら一階ちがいだ。一五二〇号室は非常階段の隣りに位置しており、十五階の各客室の中で一四二四号室に最も近い位置にある」 「逆に下から上へ死体を担ぎ上げるのは大変でしょうね。人目にもつきやすいし」  牛尾と青柳は顔を見合わせた。急速に心の中に醸成されてくるおもわくがある。 「一五二〇号室の客はどんな人間でしたか」  牛尾はフロント係に問うた。 「三十前後の、背広を着たサラリーマン風の方でした」 「一人でしたか」 「お一人でした」 「一人の客がスイートを取ることがあるのですか」 「女性を別の場所に待たせておいて男の方が鍵《かぎ》だけ取りに来ることがあります」 「以前に来たことがありますか」 「初めてでした」 「三十前後のサラリーマンが九万八千円のデラックス・スイートを取るとは豪勢ですね」 「最近の若い方はお金持ちですから。でもスイートを利用されるお客様は、社用か、新婚の方が多いですね」 「その三十前後のサラリーマン風の男は、社用か、新婚でしたか」 「いいえ、そのどちらでもないようです。社用のお客様はほとんど常連ですし、ご新婚のお客様はお二人|揃《そろ》ってフロントへいらっしゃいます。初めてのお客様でもございますし、LBでしたので前金をお預かりしました」 「LBとはなんですか」 「ライト・バゲージ、お荷物がないということです」 「荷物がない客からは前金を取るのですか」 「ご常連のお客様以外は、原則としてお預かりしております」 「野々村省吾《ののむらしようご》、世田谷区赤堤《せたがやくあかづつみ》三丁目××、職業会社役員か」  牛尾は宿泊カードに書かれた文字をにらんだ。前金として十五万円預かっている。  変名や偽名を用いる場合、まったくでたらめの名前を記入することは少なく、知人の名前を用いたり、自分の名前を数文字変えたりするケースが多い。ただし変名をいつも使っている者はこのかぎりではない。  野々村が記入した住所は高級住宅街であり、豪邸が軒を連ねている。住人はエリートばかりである。だが野々村という住人は該当番地と近隣に居住していなかった。  牛尾はふと気がついたことがあった。 「客室料金九万八千円に対して十五万円預かっていますね。この差額はなんのためですか」 「ああ、それはお部屋の中でルームサービスをオーダーされたりする場合に備えて多少含みをもたせてお預かりします」 「ルームサービスをオーダーしていますか」 「いいえ、なにも召し上がっていらっしゃいません」 「部屋から外へ電話をかけていませんか」 「電話もかけていらっしゃいません」 「それでは余計に預かった分は出発時に返却していますね」 「それが」  フロント係は当惑した表情になって、 「差額をそのままにしてご出発されてしまいました」 「ほう、五万二千円もの差額をそのままにして出発してしまったのですか。ずいぶん気前のよい客ですね」 「税金、サービス料を入れると十一万円ほどになりますが、残額四万円がそのままになっております」 「その差額はどうするのですか」 「宿泊カードのご住所にご返却いたします」 「その住所にはこの人はいませんよ。にせ住所です。名前もたぶん偽名でしょう」 「にせ住所だったのですか、私どもでは事務手続き上ご出発後数日してから経理の方からご返金いたしますので、まだそのままになっているとおもいます。それにうっかりご返金いたしますとお叱《しか》りを受けることもございますので、とりあえず数日間は保留しておきます」 「叱られるとは、つまりホテルから返金したりすると、秘密の情事が家庭にバレるということですか」 「そういうことでございます」  フロント係は言いにくそうに答えた。 「するとホテル側は、秘密の情事ということを承知で部屋を提供するのですか」  牛尾の口調が意地悪くなった。 「いいえ、そういうことではございませんが、フロントではご夫妻か、恋人同士か判断いたしかねる場合もございますので」  さすがに巧みに言い抜ける。 「ホテルの方の客を見分ける目は鋭いと聞いておりましたがね」  牛尾は辛辣《しんらつ》に言ってから、 「すると、一五二〇号室の客は到着時にフロントへ立ち寄っただけで、後はいっさい姿を見せていないということですね」 「あるいは客室係がお見かけしているかもしれません」  ルームサービスも取らず、客室に閉じ籠《こも》っていた客が、客室係を呼び寄せたとはおもえない。鍵を取りに来た三十前後のサラリーマン体の男が、客本人ではなく使いの者であったとしたら、客はフロントとまったく接触せずに部屋へ入ったことになる。 「一四二四号室の日高晴子さんですが、彼女がこの部屋に入ったのは偶然ですか」 「いいえ。日高様が十四階をリクエストなさったのです」 「十四階をリクエストしたと」  牛尾と青柳が同時に声を発した。 「はい。標準《スタンダード》のお二人部屋の最上階は十四階になります。眺めのよいお部屋がよろしいということで十四階をご希望なさいました」 「日高さんは一人でダブルを取ったのですか」 「シングルは手狭なので、お一人でダブルを取られるお客様もいらっしゃいます」 「日高さんがこのホテルに泊まったのは初めてですか」 「初めてでございます」 「予約はどのようにして入りましたか」 「三日前にご本人から電話でいただきました」 「その際十四階を指定したのですね」 「さようでございます」 「部屋番号は指定しましたか」 「私どもでは、特別の事情がないかぎり、お部屋の番号まではお受けいたしておりません」 「それはなぜですか」 「お部屋番号のご指定を受けても、その部屋が空いているとはかぎらないからです。またミスの原因にもなりますので」  新たな事実が浮かび上がってきた。彼女が十四階を希望したということは、パートナーがその近くにいたことを暗示するものである。まさか予約の時点で自分の死を予知したわけではあるまいが、別到着の場合、なるべくならばパートナーの部屋の近くに部屋を取りたいという心理が働くであろう。  だがそれならば、パートナーが先に部屋を取っていなければならない。 「十五階のスイートの予約は取りやすいのですか」  牛尾はその点を確かめた。 「国際会議や、国賓クラスのご宿泊のないときは、たいていご用意できます」  二つの部屋はほぼ同時に申し込まれている。日高晴子と野々村省吾の間には事前の連絡があった可能性がある。  フロント係、客室係に問い合わせたが、案の定一五二〇号室からは当日いっさい呼ばれていないことが確かめられた。なお一五二〇号室備え付けの浴衣、バスタオル、タオル、スリッパ等は二人分使用されており、バスも使用された痕跡があった。  冷蔵庫の中のビールが二本、おつまみが二個消費されていた。これの代金は預り金で充分カバーできる。一五二〇号室はまだ他の客に提供されていなかった。とりあえずその部屋を閉鎖《クローズ》してもらって、綿密な検索が行なわれた。  同室は、すでに掃除された後で、たぶんベッドや床に残されていたであろう微物(毛など)が失われてしまった。だが客室のチェックの記録を見ても、同室に利用者の手がかりになりそうな遺留品等は残されていない。 「こんなものが冷蔵庫にありましたよ」  青柳が冷蔵庫の隅から手袋をはめた手でなにかをつまみ上げた。 「目薬らしいね」  牛尾が青柳の指先を見て言った。それはオレンジ色の小型なプラスティック容器で、三分の二ほど水溶液が入っている。 「目薬としても、市販のものではありませんね」  商品名やメーカーを示すラベルは貼《は》ってない。 「眼医者《めいしや》の出した目薬かもしれないな」 「野々村省吾のものでしょうか」 「いや、そうとはかぎらない。日高晴子が忘れて行ったものかもしれない」 「日高晴子のものと確定されれば、晴子はこの部屋に来ていたことになりますね」 「死体と衣類や所持品を移したが、さすがに冷蔵庫の中の遺留品までには気がつかなかったらしい。ホテルの客室係も見過ごしたとみえる」  それは重大な遺留品というべきである。目薬状の容器と内容物は早速夫の日高耕一に照会された。 「これは晴子が使用していた目薬です。彼女はアレルギー性結膜炎の持病をもっており、近所の眼医者にこの目薬を処方してもらっていました」 「この目薬は同じホテルの一五二〇号室に残されていたのですが、ご主人は野々村省吾という人物にお心当たりがありますか」 「野々村? いいえ知りません。野々村とは何者ですか」 「一五二〇号室の客です」 「まったく心当たりがございません」  日高は証言した。鑑識係が検査したところ、容器には日高晴子の指紋と不明の指紋が残されていた。ここに野々村省吾と日高晴子の関係は証明されたのである。同時に日高に晴子の心臓疾患について問い合わされた。 「家内にそのような気配はまったく感じられませんでした。私も心不全と聞いてびっくりしております」  日高は言った。  専門医は、日頃本人から自覚症状の訴えもなく、本人が健康に過ごしていたことやその年齢から考えて、その急性心不全は不整脈によるものと推測した。晴子は自分の体内にそのような病変を抱えていることも知らず、不倫の行為中に突然急死したものであろう。  結局日高晴子の死は情事中の突然死とされて、立件されなかった。死体遺棄罪の疑いがあったが、その証明をするのは難しい。仮に一五二〇号室から一四二四号室に死体を移動したとしても、日高晴子は自分が本来取った部屋の中で死んでいたのである。これが死体遺棄罪を構成するかどうかはなはだ難しいところである。 「それにしても冷たいパートナーだね。不倫とはいえ、関係を結んでいた相手の死体を放置して自分だけ逃げ出しちゃったんだからな」  牛尾は憮然《ぶぜん》として言った。 「晴子が心臓に異常を感じたとき、まだ生きていたとしたら、その時点で適切な治療を加えればあるいは助かったかもしれませんね」 「その場合は悪質だな。放置すれば死ぬかもしれないことを知っていれば未必の故意による殺人の疑いも出てくる」 「犯人はきっと社会的地位や名前のある人間でしょう。だから不倫のパートナーに急死されて、不倫が表沙汰になるのを恐れてあたふたと逃げ出してしまった」 「所詮《しよせん》、体だけのむすびつきは、そんなものかもしれないね。仮にこれが逆の立場だったとしたら、晴子も同じようにしただろう」 「男の名誉を守るために、女が身を隠すということもありますよ」  社会的地位や名声のある男が、不倫の情事の最中に急死したとあっては、彼が積み重ねた信用の一切を失墜してしまう。遺族が駆けつけて女の存在を秘匿したという実例もある。  だが晴子の場合は、遺族は、特にその夫は蚊帳《かや》の外に置かれている。生前の情交痕跡だけが、彼女の不倫を物語っている。 「腹上死というのは男の方に多いと聞いていたが、女にもあるんだな」 「旦那はやりきれないでしょうね」 「自分の女房がほかの男と寝ていて急死してしまった。そんな場合どんな名目で葬式を出したらいいんだろう」 「私だったら葬式なんか出しません」  青柳は言った。彼自身妻を他の男に盗まれた苦い経験(拙作『人間の十字架』)を持っている。他人を救うために失った片腕が、妻を失う原因になった。彼の妻は両腕で抱かれたがってほかの男に走ったのだ。不倫を許せぬ気持は人一倍強い。 「葬式を出さないわけにも行くまいが、死んだ本人にしても葬式など出してもらいたくない心情だろうね」 「その葬式に、不倫のパートナーは出席するでしょうか」 「旦那と共通の知人であれば、なに食わぬ顔をして会葬するかもしれない。顔を出さないと疑われるだろうからね」 「会葬者を見張ってみましょうか」 「それはいい線かもしれないね。パートナーとしては後ろめたいおもいだろう。せめて線香の一本でもあげたい気持ちがあるだろう」      2  日高晴子の死は犯罪によるものではなかったようである。彼女の変死は事件にされず、警察の捜査も取り止《や》めになった。彼女のパートナーは不明のままに終ったらしい。野々村省吾はほっと胸を撫で下ろした。  事件にならなければ、警察が追いかけて来ることもない。どうやらひろみも死体発見直後、警察が広げた網から逃れたらしい。ひろみさえ警察の網に引っかからなければ、野々村は安全である。  それにしても危なかった。野々村はこの事件によって胆《きも》を冷やした。一応身の安全が保障されてみると、あの夜のことが艶《なまめ》かしくおもいだされた。  恥じらいを含んだひろみの新鮮な体が、体に刻み込まれた実感として生々しくよみがえる。あれは一夜、恋のキューピッドが自分に贈ってくれたプレゼントではなかったのか。危険が去ってみると、現金なもので美味しかったところばかりが記憶によみがえる。あれは本当に現実のことであったのか。  生々しい実感が幻想的な追憶の靄《もや》によって包装されている。せめてもう一度会いたい。だが、ひろみという名前だけでなんの手がかりもない。  その後彼女はどこへ行ったのであろうか。十九歳の少女がバッグ一つ持っただけで東京へ出て来て落ち着く先はおおむね決まっている。彼女は野々村との邂逅《かいこう》によって自分の体が金になることに気がついたにちがいない。  その方面の求職なら東京は絶好のマーケットである。それだけに彼女を探すのは藁《わら》の山に落ちた針を探すようなものである。自分の人生においてもうあのような出会いはあり得ないとおもうと、よけいひろみに会いたくなった。  日高晴子が死んで数日後、野々村は針生に呼ばれた。 「きみ、ご苦労だが伊豆山へ行ってくれんか」  針生は言った。唐突な命令に野々村はとまどった。 「以前何度か行ったことのある、伊豆山の日高屋旅館な、あそこの女将が死んだ。明日が告別式と聞いたが、わしの名代で香典をもって行ってもらいたい」  野々村は日高屋旅館という名前にどきりとした。一瞬、針生が野々村とひろみの情事を知っていて、そんな使者に立たせたのかと思った。だが針生には他意はなさそうである。 「承知いたしました」 「艶っぽいおかみだったが、あの若さで惜しいことをした。男と情事の最中に死んだというもっぱらの噂だが、もったいないのう」  針生はいかにも惜しそうに言った。  マスコミの報道では、そのへんのところはぼかしてあった。だがホテルのダブルルームに宿泊中急死したとなれば、憶測はみな似たようなものとなる。 「それにしてもあのおかみの相手は何者かの」  針生の目が詮索《せんさく》の色を浮かべた。野々村には答えようがない。 「わしもできれば会葬したいが、先約が入っていて抜けられぬ。頼むぞ」  針生は念を押した。  針生にとって日高晴子の死はよほど残念であったようである。針生と晴子とは四十歳以上の年齢差がある。だが彼は晴子に対して男の野心を抱いていたようである。  まさか針生が晴子のパートナーではあるまい。野々村は内心ひそかに忖度《そんたく》した。急死した彼女をホテルの部屋に放置したまま逃げ出したのであれば、葬式には出られまい。後ろめたさから自分自身は出られないので野々村を代りに会葬させようとしているのであろうか。いや、針生は晴子のパートナーではあるまい。  あの日、野々村は針生をたしかに自宅へ送り届けている。その後また外出した可能性もあるが、野々村以上に針生に密着している側近はいない。針生がただ一人の側近も連れず単独で外出することは考えられない。多年取り巻きに取り囲まれての生活は、ただ一人の行動をできなくさせている。  針生はあの夜、増子に電話をかけてきている。まさか女と逢引《あいび》きしながら、自分の娘に電話をかけるようなことはしないだろう。仮に針生がそのような事態に陥ったならば、必ず野々村に救いを求めてくるはずである。針生のアリバイは成立していると見てよい。  晴子の葬式は熱海市域にある日高家の菩提寺《ぼだいじ》で行なわれた。さすが老舗旅館の人脈の広さを示して、斎場には政財界の大物たちの花環《はなわ》が並んだ。会葬者も地元だけではなく京浜方面から多数集まった。  死因が死因なので会葬者たちも悔やみの言葉を述べにくい。斎場に飾られた故人の美しい笑顔が、死因の詮索をいっそううながしているようである。  野々村は受付で針生の名前を記帳し、針生から託された香典をさし出すと、受付係が、 「ご名代の方はお名刺をいただけないでしょうか」  と言った。野々村は自分の名刺を添えた。  柩《ひつぎ》の前には遺族や親族が並んでいる。晴子の夫らしい男が憔悴《しようすい》した表情で会葬者たちの挨拶《あいさつ》を受けていた。いかにも良家のぼんぼんのような気のよさそうな男である。  野々村は、彼になんとなく同類項を感じた。彼は婿ではないが、旅館の切り盛りを妻に任せ、夫婦生活の主導権も彼女に握られていたのであろう。その点では野々村と共通している。  彼は妻の不貞を知っていたかもしれない。知っていながら一言も文句を言えなかった。それだけ妻に押さえ込まれていたのである。この葬式は日高にとって屈辱の場にちがいない。だがその屈辱以上に日高は妻を失った悲嘆に打ちひしがれているようである。  野々村はそそくさと焼香を済ますと、斎場を去りかけた。そのときふと横顔にだれかの視線を感じた。どこから視線が来るのかわからないが、だれかに見られているという意識があった。  斎場を出てからおもい当たった。まさか。野々村は胸に兆したおもわくを自ら打ち消した。刑事が斎場に張り込んでいるのか。日高晴子の死は犯罪によるものではないと断定されたはずである。  すると野々村が感じた視線はだれのものか。犯人を油断させるために、報道機関には犯罪によるものではないと発表しておいて、斎場に張り込みをかけているのであろうか。もしそうだとすれば、警察は依然として彼女の死因に疑いを抱いていることになる。  会葬者はいずれも故人あるいは日高家にかかわりを持っている者である。会葬者から、故人のパートナーを割りだそうとする方法は当を得たものである。だが犯人がいるとすれば、自分が手にかけた被害者の葬式にのこのこと出て来るであろうか。その確率は半々である。  針生謙一郎の名代としてではあるが、野々村も会葬した。せっかく逃れたとおもっていた警察の網にふたたび自ら飛び込んだ形になってしまった。不安が墨のように胸の中に湧きかけている。  彼が当日同じホテルに泊まり合わせたという事実がわかれば、警察は決して見過ごさないだろう。まずいことになったと唇を噛んだが、いまさらどうしようもない。  疑心暗鬼だ。刑事が自分に目をつけるはずはない。仮に刑事に見られたとしても、故人と直接的なかかわりはないし、ひろみにはいっさい自分の素性について告げていない。野々村は胸の不安をしいてねじ伏せた。      3  牛尾は日高晴子の会葬者名簿を領置(任意預り)した。記帳した会葬者名簿は四百六十二名、地方都市での会葬数としてはかなりのものである。  牛尾と青柳は斎場に張り込んだが、特に怪しげな人物は見かけなかった。もっとも後ろめたさを喪服に隠しての焼香であるから、一見しただけでは故人のパートナーとは見分けられないだろう。  立件せずと決定した死者の葬式の張り込みであるからむなしさを拭えない。だが刑事としてなにか胸の底に引っかかるものがあるのである。多年の経験が培った勘が、靄のような違和感を腕の底に澱《よど》ませている。それを吹っきるために彼らは故人の葬式に立ち会った。 「パートナーが会葬に来たとすれば必ずこの中にいるはずだ」  牛尾は領置した会葬者リストを睨んだ。 「名代や使者には、本人の名刺をもらうように頼んでおきましたから、来た者は全員洩れなく網羅してあるはずです」 「花を贈った者や弔電を打ってきた者も全部リストアップしたはずだね」  これらの中から女性は消去される。そして残された者と故人との関係をいちいち彼女の夫に確かめた。夫の知らない人間もかなり含まれている。それは夫の知らない妻の人間関係であった。その数が非常に多い。それだけ夫婦の間の距離があったということであろう。  素性不明の会葬者にマークをつけながら一人一人チェックしていった牛尾は、ある一人の名前に行き当たって、おやと声をあげた。 「なにかありましたか」  青柳が問うた。 「野々村省吾という名刺があるぞ」 「ハリラックスの社長室長ですね」 「ハリラックス社長の針生謙一郎の名代として来た人だ」 「野々村か、聞いたような名前だな」 「忘れたのか。一五二〇号室の名義人だよ」 「あっ」  青柳が顔色を変えた。 「同姓同名ですね」 「偶然の同姓同名ではなさそうだよ。宿泊カードに記入されてあった野々村の住所の近くに針生謙一郎という表札が出されていた邸があったが」 「あの辺は豪邸ばかりでしたが、近所の針生という表札の主は、ハリラックスの社長でしょうか」  番地が少しずれていたので、その「針生邸」は聞込みの対象からはずれた。 「これは偶然ではないよ。野々村省吾その人と見てまちがいあるまい」 「野々村省吾本人が宿泊カードに自分自身の名前を書いて、住所だけ社長の近くを借用したのでしょうか」 「素性を隠すためには拙劣な方法だね。頭隠して尻隠さずの反対だ」 「ともかく野々村省吾に当たってみましょう」  青柳は気負い立った。  これは決して見逃せない符合である。彼らはまず日高耕一に野々村省吾について尋ねた。 「野々村省吾といえば、家内の目薬があった一五二〇号室の客ではありませんか」 「そうです。その野々村省吾がハリラックス社長の代理として香典をもって会葬しています」 「気がつきませんでした。針生社長は何度かお見えになったことがございます。そのとき随行していた秘書の方かもしれません」 「秘書の顔をおぼえていませんか」 「私はほとんど帳場の方に出ませんので」 「失礼ですが、針生社長の香典はいくらでしたか」 「まだ香典まで計算していませんが」 「針生社長の香典だけすぐ確かめていただけませんか」 「針生社長がなにか」 「とにかく調べてみてください」  針生の香典は五万円であった。針生の身分からは当然といえばいえるが、一万円クラスの香典が圧倒的に多い中で五万円という額は一際ぬきんでている。それは故人と針生との生前の関係の深さを示すものである。 「針生社長にはご贔屓《ひいき》をいただいておりましたので」  日高は香典の額から針生に迷惑をかけてはいけないと慮《おもんばか》ったようである。      4  その夜帰宅した野々村を追いかけるように二人の訪問者があった。 「旦那様に警察の方がお目にかかりたいとおっしゃってますが」  テレビを見ていた野々村は美代から取り次がれて、 「警察の人がなんの用事だ」  と問い返した声が不覚にも震えた。 「わかりません」  美代はぶっきらぼうに答えた。まずいことにその場に増子が居合わせた。 「あなた、警察に聞かれるようなことをなにかなさったの」  と彼女は眉《まゆ》をひそめた。 「冗談じゃないよ。警察なんかに用事はない」  野々村は虚勢を張って肩をそびやかした。 「だったらどうして警察が来るの」 「そんなこと知らない」 「どういたしましょう」  美代が容赦なくうながした。 「追い返すわけにもいくまい。応接室に通してくれ」  野々村はしぶしぶテレビの前から離れた。警察が来るとすれば、あのこと以外にはない。脛《すね》に傷を持っているので態度がぎこちなくなる。落ち着け、と野々村は自分に言い聞かせた。この場合警察よりも妻の目が恐い。  警察はどこから自分を手繰《たぐ》ってきたのであろうか。やはりひろみが警察の網に引っかかったのか。ひろみと自分との間は完全に切断されているはずである。きっと別の用件で来たにちがいない。  疑心暗鬼に怯えて自ら墓穴を掘ってはならない。野々村は、自分を戒めた。 「私は行かないわよ」  増子が言った。それはこの際彼にとって有難い申し出である。夫に警察がどんな用があろうと、自分には関係ないという彼女の態度が、際どいところで野々村を救っている。  応接間へ行くと二人の男が立ち上がった。五十前後の年配の男と、三十前後の若い男である。年配の男は穏やかな風貌《ふうぼう》で、態度も落ち着いている。彼のペアーは片腕がなく、全身に精悍《せいかん》な雰囲気を漂わせている。二人に共通なのは非常に折り目正しいことであり、刑事というよりは銀行員のような印象を受けた。 「おくつろぎのところをお邪魔して申しわけありません。新宿署の牛尾と申します。少々参考までにお尋ねしたいことがございましておうかがいしました」  牛尾と名乗った年配の刑事が丁寧に言った。片腕のないペアーは同じ署の青柳と自己紹介した。 「どうぞおかけください。刑事の方に訪問されたのは初めてなので少々驚きました。どんなご用件でしょうか」  野々村はつとめて平静を装って尋ねた。美代がコーヒーを運んで来た。 「どうぞおかまいなく」  牛尾が恐縮した。 「きみは下がっていなさい」  野々村はコーヒーをテーブルに置いた美代を追い払った。刑事の訪意はわからないながらも、美代の耳に入れたくない。 「これは上等なコーヒーですな」  恐縮しながらも牛尾は一口すすって感嘆した。その表情は、コーヒーだけをわざわざよばれに来たようにのんびりしている。 「どんなご用件でしょうか」  それが危険であると承知しながらも、野々村はうながした。刑事の訪問が不気味で、尻が落ち着かない。 「いや、これは失礼いたしました。あまりコーヒーが美味しいものでつい用件を忘れてしまいました」  牛尾の声がますます恐縮している。 「貴重なおくつろぎの時間を無粋な用件であまり邪魔をしてはいけません。手っ取り早くお尋ねいたします。五月十九日、あなたは新宿ロイヤルホテルにお泊まりになりませんでしたか」  牛尾が居ずまいを直して一直線に問うた。  野々村は胸に矢を射立てられたように感じた。その衝撃で上体が少し揺れたかもしれない。彼の反応を二人の刑事を凝《じ》っと見守っている。反応を見せてはいけないと自分に言い聞かせながらも、腋《わき》の下が冷汗でじっとりと濡れる。 「いかがですか。お泊まりになりましたか」  言葉を失ったままの野々村に牛尾がふたたび問うた。 「いいえ、泊まっていません」  野々村は崖《がけ》から飛び下りるようなつもりで答えた。同ホテルに宿泊した証拠はいっさい残していない。たとえひろみの証言があろうと、とぼけきればよいのだ。 「お泊まりになっていらっしゃらない。おかしいですな。あなたの名前が同夜ホテルの宿泊カードに記入されているのです」 「宿泊カードに私の名前が。そんなはずはない」  野々村はおもわず言ってしまった。一瞬致命的な失言をしたかとはっとしたが、それが窮地を救った。彼はまったくでたらめの名前を宿泊カードに書いたのである。これは刑事がカマをかけているにちがいないと野々村はおもい直した。 「いや、あなたの名前がたしかに一五二〇号室の宿泊カードに記入されているのです」 「一五二〇号室、そんな馬鹿な」  野々村が取った部屋は一四二三号室である。一五二〇号室に彼の名前が記録されるはずがない。これが刑事のカマであるとしても、なんと拙劣なカマであろう。 「世田谷区赤堤三丁目××はあなたの会社の社長の針生謙一郎さんのお近くですね」  牛尾が質問の鉾先を変えた。 「いかにもそうですが」 「あなたのご住所として社長の住所のご近所が記入されてありました」 「つまり一五二〇号室の宿泊カードに私の名前と社長のアドレスの近所が記入されていたというのですか」 「わずか数番地ちがいです」 「私にはまったく心当たりがありません。だれかが私の名前を無断で使ったのだとおもいます」  野々村は次第に落ち着いてきた。どうやら刑事の質問は、野々村の脛の傷からはずれているようである。  質問は野々村の弱味に接近しているが、中心が異なっている。重なり合う部分の多い異心円のようなものである。どんなに面積が重なり合っていても、心が別ならばおそるるに足りない。  野々村は急に強気になった。それにしても一五二〇号室にどんな関係があるのか。  野々村はふとおもい当たることがあった。一五二〇号室は十五階であろう。晴子を乗せたエレベーターは十五階へ直行した。そうか、彼女を待っていたパートナーが一五二〇号室にいたのだ。  だが彼はなぜ野々村の名前と針生の�住所�を無断借用したのか。その答えを牛尾が言った。 「あなたが当夜、新宿ロイヤルホテルの一五二〇号室に宿泊していないとすると、だれか別の人間があなたの名前を無断借用したことになります。その人物はあなたとなんらかのかかわりがあったと考えられますね。いや、あなただけでなく、針生社長をも知っている人間のはずです」 「社長の人脈となると、海のように広くなります。また社長の住所は名士録などに公表されております。私は社長のお供をしてあちこちへ行っておりますので、私の名前を知っている人も少なくないでしょう。名刺もかなりばらまいております」 「それではあなたは当夜、一五二〇号室にお泊まりにはならなかったのですね」 「泊まっておりません。東京に家があるのに新宿のホテルに泊まる必要はありませんよ」 「なるほど。念のためにおうかがいしますが、その夜はあなたはどちらにおられましたか」  野々村が最も恐れていたアリバイを聞かれた。 「もちろん家におりました」 「何時ごろご帰宅なさいましたか」 「十一時ごろだったとおもいます」  実際は十二時近くであったが、少しサバを読んだ。 「それを証明することができますか」 「家の者が知っております」  美代に尋ねられても、一時間前後のズレならばとぼけられるだろう。 「ご帰宅前はどこでなにをしておられましたか」 「午後七時ごろ社長をお宅まで送った後、行きつけのバーを二軒まわって帰って来ました」  アリバイをだんだん埋め立てられている感があるが、野々村はとぼけられるだけとぼけるつもりである。  だが牛尾はそれ以上詮索しなかった。野々村の答えに満足したのかしないのかわからなかったが、ともかくその夜は刑事は引き返して行った。 [#改ページ]  無関係の不倫      1 「どうおもう」  野々村家を辞去しての帰途、牛尾は青柳に尋ねた。 「まだなんとも言えませんね」 「うん、彼がパートナーなら、安易に自分の本名を宿泊カードに書かないだろう。まして社長の�住所�を借用するなど彼にとって畏《おそ》れ多いかぎりだ。浮気がバレたら、家庭が崩壊するだけでなく、首になるかもしれない」  彼らは野々村に当たる前に、彼の身の上を調べていた。社長の女婿が本名を出し、社長の�住所�を無断借用して不倫の情事の場所を取ることは考えられない。野々村は公私ともに生殺与奪の権を針生に握られているのである。 「それだけに、もし彼が日高晴子のパートナーであれば、死体を移して逃げ出したこともうなずけますね」 「そのとおりだ。とにかく野々村の写真を手に入れられれば、ロイヤルホテルのフロント係に照会できるんだが」 「針生の方は当たる必要はありませんか」 「まず、野々村だよ。年齢的にもね」  一五二〇号室のチェックイン(宿泊手続き)をした三十前後のサラリーマン体の男は野々村にも符合するのである。  指紋が欲しいところだが、これは身柄を拘束しての強制捜査でないと取れない。野々村に前科はなかった。  野々村の写真は、自動車安全運転センターから運転免許証の写真が入手できた。これをホテルのフロント係に見せたところ、即座に、 「この人ではありません」  という答えが返ってきた。気負い込んでいただけに失望が大きかった。 「よく見てください。本当に別人ですか」 「別人です。鍵を取りに来た方は、色が浅黒く角張った顔のがっちりした体格の人でした。こんな細面の人ではありません」  野々村は色白、細面の頬が尖《とが》ったスリムな体型である。 「やっぱり野々村ではなかったか」  ある程度予測はしていたが、失望は拭えない。やはり野々村や針生にかかわりのある人物が彼らの名前と住所を無断借用したらしい。だが、その手がかりは皆無である。 「これまでだな」  二人があきらめかけたとき、野々村の写真を脇《わき》から覗き込んでいた別のフロント係が、 「あれ、この人には会った記憶があります」  と言いだした。 「会ったって。いつ、どこでですか」  二人は異口同音に声を発した。 「少し前、たしか当ホテルをご利用されたお客様です」 「なんだって」  牛尾が大きな声を発したので、フロント係がびくりとした。 「それは五月十九日の夜ではないでしょうね」  十九日は日高晴子が死んだ夜である。 「たしか同じ夜だったとおもいます」  フロント係の答えはますます接点に近づいている。 「同じ夜にホテルに泊まり合わせていた」  牛尾と青柳は顔を見あわせた。これは果たして偶然といえるか。一五二〇号室に野々村省吾の名前がレジスターされており、同じ夜本人が同ホテルに泊まり合わせていた。もし彼が一五二〇号室以外の部屋に泊まっていたとすれば、野々村省吾の名前で二部屋取られていたことになる。 「すぐ調べてください」  刑事はフロント係をせき立てた。別室に引き取ったフロント係は間もなく一枚の宿泊カードを手にして戻って来た。 「ございました。五月十九日、一四二三号室、村野庄三《むらのしようぞう》様になっております」 「村野庄三、野々村省吾ではありませんか」 「村野庄三様です」  二人はフロント係がさし出した宿泊カードを覗き込んだ。野々村と村野、省吾が省の字を変えて庄三になっている。 「野々村省吾の変名だな。住所は群馬県|足利《あしかが》市になっている。足利は栃木県だよ」 「牛《モー》さん、一四二三号室は日高晴子の死体のあった部屋の隣りですよ」 「こいつは面白いことになってきたね。本名の部屋から偽名の部屋の隣りに死体が移って来た」 「やはり野々村はかかわっていますか」 「解せないところが残っているが、無色ではないな」 「しかし、一五二〇号室の鍵を取りに来たのは野々村ではありませんよ」 「もう一度野々村を攻めれば、二人のつながりを吐くかもしれない。野々村は叩《たた》けば埃《ほこり》が出そうだよ」 「やっこさん、女房の目が恐そうですから、どこかべつの場所に引っぱり出して攻めれば意外に簡単に吐くかもしれません」      2  土俵際で残してほっとしたのも束《つか》の間《ま》、翌日、牛尾から会社に電話がかかってきた。 「たびたび恐縮ですが、また新しいことがわかりましたので、ぜひともご意見をおうかがいしたいのです。お手間は取らせません。少々時間を割いていただけませんか」  丁寧な口調であるがうむを言わせぬ姿勢が感じられる。 「どちらでもご指定の場所へうかがいます」  牛尾の言葉には、会社や女房の耳に入ると困るのはおまえだぞという含みがある。その含みが野々村に対するプレッシャーとなっている。新たにわかったこととはなにか。不安が急速に脹《ふく》れあがった。 「わかりました。プリンセスホテルにラリグラスというティーラウンジがあります。そこで午後二時はいかがでしょう」  そこには社の人間はほとんど行かない。 「プリンセスホテルのラリグラスですね。承知しました」  それ以後野々村は仕事が手につかなかった。幸いに今日一日針生は別の秘書を連れてゴルフへ行っている。  午後二時、野々村は約束のティーラウンジへ出かけて行った。刑事はすでに来て待っていた。 「どうもご足労いただきまして恐縮です」  牛尾は慇懃《いんぎん》に迎えたが、初対面のときより強い姿勢が感じられる。 「昨日すべて申し上げたはずですが」  野々村はやや抗議するように言った。新しくわかったことを早く確かめたいが、意志の力で抑えている。ウェイトレスがオーダーを聞きに来た。その間会話が中断される。  ウェイトレスが立ち去ったのを確かめてから、野々村はさりげなく腕時計を見た。それがあまり長くいられないという暗黙の意思表示である。 「少し困ったことが起きまして」  牛尾が野々村の顔色を測っている。 「困ったこととはなんですか」 「野々村さん、あなたは嘘をおっしゃっていますね」 「嘘など言ってませんよ」 「あなたは五月十九日の夜、新宿ロイヤルホテルへ行ってます」  牛尾の言葉は自信に満ちている。  証拠はなにも残していないはずだ。これがいわゆる誘導尋問というやつだ。言葉尻をとらえられないように注意しなければならない。野々村は自分に言い聞かせながら、慎重に言葉を選んだ。 「私は行っていないと申し上げたはずです」 「それではこれはなんですか」  野々村の前に青柳が一枚の紙片をさし出した。なにげなく目を向けた野々村はぎょっとなった。そこに野々村自身が記入した一四二三号室の宿泊カードがあるではないか。ついに彼らは嗅ぎつけたのだ。 「これは私の名前ではありません」  野々村は土俵際であがいた。 「でもあなたが記入したものです。あなたの筆跡なんでしょう。ホテルのフロント係もあなたがチェックインした事実を認めています」  牛尾がひたひたと迫ってきた。 「ちがいます。私ではありません」  野々村はまだ悪あがきをしていた。 「それではあなたを受けつけたフロント係と会っていただきましょうか。彼はあなたをよくおぼえていますよ」 「人ちがいです」 「あなたがあくまで人ちがいだと言い張るなら、あなたがその夜ご帰宅になった正確な時間を奥さんに確かめてみましょうか」  牛尾は野々村の最も痛いところを衝《つ》いた。針生を自宅に送り届けた時間、クラブをまわった時間、帰宅の時間を洗い立てられれば、どうしても埋められない数時間があいてしまう。その数時間の空白になにをしたか絶対に増子の耳に入れてはならない。 「どうですか、奥さんに問い合わせてもよろしいんですね」  牛尾は野々村の弱味を攻めつづけた。牛尾の穏やかな厚みのある態度がいまは厚い壁のようになって押し迫って来る。 「一五二〇号室の宿泊カードにはあなたの名前とあなたの社長の住所の近所が記入されていました。そして同じ夜の一四二三号室にあなたが村野庄三名義でチェックインしていた。野々村省吾と共通点のある名前ですね。しかもその隣室の一四二四号室には日高晴子さんの死体が横たわっていたのです。あなたはこれをあくまでも偶然の一致だと言い張るおつもりですか」  野々村の抵抗もそれまでであった。 「許してください。嘘を言うつもりはありませんでした。私は当夜一四二三号室に入りました。しかし一五二〇号室の野々村省吾とはまったく関係ありません。また一四二四号室に日高晴子さんの死体があったことも全然知りませんでした。私は一五二〇号室にも、日高晴子さんにも関係ないのです。ただ一四二三号室に同夜午後九時ごろから二時間ほど入っていただけです」  野々村は泣きそうな声で訴えた。 「それを証明することができますか」  牛尾に問われて野々村は当惑した。彼が事件に無関係であることを証明すべき唯一の証人は、その素性も住所も知らない。当夜街で知りあった行きずりの恋人なのである。そして仮にその恋人の所在がわかったとしても、表に出せない。野々村は言葉につまった。 「あなたはなんのために一四二三号室に入ったのですか。東京にお宅があるのに、新宿のホテルに泊まる必要はないとおっしゃっていましたが」  牛尾は追及をやめない。 「ある女性と一緒でした」 「その女性はだれですか」 「わかりません。ひろみという名前だけで、素性も住所もわからないのです」 「素性も住所もわからない女性とホテルの部屋へ入ったのですか」 「街で知り合ったのです」 「たとえばコールガールのような類《たぐ》いですか」 「まあそんなものです。お願いです。このことが家内に知れると、家庭が崩壊します。私は会社にもいられなくなる。だからこれまで黙っていたのです」 「そのひろみという女性が、あなたの証人というわけですね」 「はい。ひろみに聞けば、私が一五二〇号室と隣室の日高晴子さんとは無関係であったことがわかるはずです。ホテルに到着してからは私はずっとひろみと一緒でしたし、十一時過ぎにひろみを残して私は家へ帰りました。十二時ごろ帰宅したことは、うちのお手伝いが知っています。ですから私は当初一五二〇号室へも行かなかったし、日高晴子さんにも会いませんでした。私が無関係なことは、ひろみが知っています」 「しかしそのひろみの行方がわからないんでしょう」 「街で拾った女の子の住所などいちいち聞きません。彼女はその夜、家出をして来たと言ってました」 「家出、どこから」 「それは聞きませんでした。言いたくなかった気配だったので」 「要するにあなたは一五二〇号室があなたの名義で取られ、一四二四号室に日高晴子さんが死んでいた時間帯に、素性も住所も知れない女性と日高さんのすぐ隣室で一緒に過ごしていたというのですね。そんなことがすんなりと信じられるとおもいますか」  牛尾は容赦なく追及した。 「しかし本当なんです。私にとってはひろみとホテルの部屋へ入ったということが妻に知れるだけで致命的です。それをあえて明らかにしているのです」 「明らかにせざるを得なくなったからではありませんか。日高晴子さんは一五二〇号室の野々村省吾氏と共に過ごしている間に心臓発作で急死し、死体を一四二四号室に移動された疑いが大きいのです。その野々村省吾氏本人は、村野庄三の名義ですぐ隣室の一四二三号室に居合わせた。しかも野々村氏本人と一緒にいたという女性はまったく実体がない。野々村さん、あなたの立場はきわめて深刻です。あなたは死体遺棄、日高さんが息のあるうちに手当ても加えずに放置したとなれば遺棄罪、死んでもかまわないという認識があれば、未必の故意による殺人の疑いも生じてきます」 「さ、殺人なんて冗談じゃない」  野々村は悲鳴のような声を出した。それは悲鳴そのものに近かった。 「あなたが自分の無実を証明したかったら、そのひろみという女性を探し出すことです。あなたはひろみを部屋に残して一人だけ先にホテルを出たとおっしゃいましたが、ひろみはその後どうしたのですか」 「彼女は、その夜泊まる場所がないと言って私に声をかけてきました。ですから私が帰宅した後、一四二三号室に一人で泊まったとおもいます。ホテルの記録を調べてもらえば、一四二三号室が二人で使用された事実がわかるはずです」 「日高晴子さんがあなたの部屋にいても、二人で使用した形跡が残りますよ」  野々村は自分にかけられた重大な疑惑を悟った。 「当初我々は一五二〇号室から一四二四号室へ日高さんの死体が移されたと考えていました。しかし、あなたの部屋から移す方がずっと楽だし危険も少ない」  牛尾がだめ押しをするように言った。 「ちがう。とんでもないでっち上げだ。私は日高晴子さんとなんの関係もない」 「なんの関係もないことはないでしょう。あなたは日高屋旅館へ何回か行っています。日高さんとも面識があったはずです」 「社長のお供をして行っただけだ。彼女は私のことなんかおぼえていないはずだ」  野々村は言葉遣いを考慮する余裕を失った。  その日の会見は物別れに終った。刑事たちも最後は憶測に頼り、切り札を欠いていた。 「やはり埃が出てきたが、どうもちがう埃のようだね」  野々村との会見の帰途、牛尾は言った。 「私もそうおもいます。どう考えても、野々村が一五二〇号室を自分の名義で取ったのは解せない。彼の名前を借用した人間、日高晴子、野々村の三名がたまたま同夜同じホテルの十五階と十四階に隣り合わせたのではないでしょうか」 「どうもその可能性が強いね。一五二〇号室の冷蔵庫に残されていた目薬も、日高晴子がそこに来ていたことを示している。ひろみという女が実在すれば、野々村のアリバイは成立する」 「ともかく彼が申し立てた当夜の行動の裏を取れるだけ取ってみましょう」 [#改ページ]  居所不明の暗号      1  野々村省吾は動転していた。ついに最悪の事態に陥った。刑事は未必の故意による殺人の疑いもあると言ったが、自分のアリバイの証人は、一夜かぎりの恋人として東京の人間の海の中にまぎれ込んでしまった。彼女を探しださぬかぎり、自分にかけられた疑いを晴らすことはできない。  だが彼女の存在を明らかにすることは、不倫の情事を自供することである。それが妻や針生の耳に入れば致命的である。どの方角を見ても脱出路のない絶望的な隘路《あいろ》に閉じ込められてしまった。  その夜帰宅すると、増子がおもいだしたように、 「警察はなんの用事で来たの」  昨夜のうちにすべき質問をいまごろになって問いかけてきた。 「ちょっとした交通事故をたまたま目撃してね、そのときの様子を聞きに来たんだよ」  野々村はさり気なくごまかした。 「いやあねえ、交通事故の目撃者なんて。でもあなたが目撃したということがどうしてわかったのかしら」 「たまたま通りかかったものだから、見捨てて行くわけにもいかず、ぼくが救急車を呼んだんだ」  どきりとしながらも言い抜けた。 「そんなこと知らん顔をしていればいいのに。関係ないことでしょう」 「人が死にかけているんだよ。見捨てるわけにいかないじゃないか」  答えた野々村は、刑事が死にかけていた日高晴子を放置したかもしれないと言った言葉をおもいだした。 「交通事故なんか起こす方がわるいのよ。どうせ人間が多すぎるんだから、死にたい人は死なせればいいんだわ」  もし自分が死にかけているのを見捨てられたらどんな気がする、と問いかけようとして野々村は喉元《のどもと》に留めた。そんなことで言い争ってもしかたがない。どうせ自分も妻に対して嘘をついているのである。  彼女が自分の野望の階段でなかったら、死にかけていても見捨てるかもしれない。同じように夫が死にかけていても、彼女はそのまま放置するかもしれない。要するにどっちもどっちの夫婦である。  夫に対して愛情のひとかけらもないくせに、彼の裏切りを決して許さないだろう。彼女のプライドが許さないのである。彼女にとって野々村は所有物の一つにすぎない。関心の薄れた所有物であっても、他人に奪われることは許せないのである。  警察は徹底的に野々村のアリバイを追及するであろう。そしてひろみと過ごした二時間の空白が残される。ひろみが現れてくれれば、日高晴子に対するアリバイは成立する。  野々村が不安の堂々めぐりをしていると、おもいがけなく増子が、 「今夜あなたのお部屋を訪問してもいいかしら」  とささやいた。久しぶりのお声がかりであったが、今夜はとてもその気になれない。だが断わる口実はない。 「あら、なんだか嬉しくないみたいね」  増子の表情がきっとなりかけた。 「そんなことはないさ。久しぶりだったのでびっくりしたんだよ」 「あなたの帰りが遅すぎるのよ。とても待っていられないわ」  彼だけが帰宅が遅いわけではない。遊び仲間と飲み過ごして、彼より遅く帰って来る夜も少なくない。同じ屋根の下に生活していながら、顔を合わせることが少ないのである。だが妻を責めることは決してできない。 「蜘蛛《くも》の巣が張っちゃったわよ」  増子が夫婦だけにわかる淫《みだ》らな笑いを浮かべた。  ふん、なにが蜘蛛の巣なものか。悪仲間と遊びまくってぴかぴかに磨き立てられているくせに。野々村は内心毒づいた。      2  日高耕一は妻の遺品の整理を始めた。妻の急死は、彼の体の一部の死でもあった。彼はその事実に驚いていた。彼女に対して殺意を抱き、夢の中で何度も殺した妻の死は、彼にとってむしろ喜ぶべきことのはずであるのに、自分の身体の一部が失われたような衝撃を受けている。  晴子は彼にとって持病のようなものであった。病変部を取り除くことによって、悪いなりに安定していた身体のバランスが崩れることがある。妻に死なれて日高の心身が変調をきたしている。  ふと気がつくと、妻の遺品の中にうずくまって終日茫然と過ごしていることがある。旅館業の方は、晴子がしっかりと固めておいてくれたので、すぐにどうこういうことはない。むしろ日高などいない方が従業員にとって仕事がやりやすそうである。  晴子で保《も》っていたといわれた日高屋旅館は、いま晴子を失って彼女の余勢で動いているようなものである。その余勢が止まらないうちに、日高が引き継がなければいけないのに、まったく無気力のまま終日同じ場所にうずくまっている。  それでも葬式の前後は、様々な雑用があったが、それも一応片づくと、あとはなにもすることがない。 「お坊っちゃま、奥様のお形見を整理なさってはいかがですか」  仲居頭のきよが見かねたように言った。 「そんなもの整理をしてもしかたがないだろう」 「奥様のお相手が見つかるかもしれませんわよ」  きよは先代のころからの仲居で、晴子中心の日高屋旅館の中でただ一人彼の味方である。晴子のやり方には終始批判的であり、自分の目の黒いうちは、おかみさんに日高屋を乗っ取らせないと言っていた。  きよに言われて、日高はその気になった。彼女の遺品の中に、不倫のパートナーの手がかりが潜んでいるかもしれない。  結婚して八年になるが、妻の私物に手を触れたことはない。それは日高家における治外法権地域であった。  彼女はなかなかの物持ちであった。一つの季節に同じ着物を着ないように心がけていただけあって、着物の数だけでも夥《おびただ》しい。宝石、貴金属、アクセサリー類も一財産ある。  だが日高にはそんなものは興味がなかった。メモ、名刺ファイル、日記、古い手紙の束などが夫の知らぬ彼女のプライベートライフの形見である。  名刺の束は主としてこれまで来館した客からもらったもので、数千枚はある。おおむね三カ月単位に区切ってアルファベット順にファイルしてある。京浜方面が約五割を占め、他は全国に及んでいる。  それらの中には政財界の要人や文化人、有名芸能人や人気スポーツ選手など多彩な顔触れが揃っている。おそらくこの名刺の主の中に、彼女のパートナーがいるはずであるが、探しだすことは困難であった。  郵便物は古いものは廃棄してしまったらしく、比較的新しいものしか保存されていない。事務的な連絡や時候の挨拶、あるいは贈答品の礼状など無難な内容のものばかりである。  日記をつける習慣はなかった。メモ帳には最近訪館予定のVIPの名前が記入されてあるだけであった。それらのVIPは彼女の告別式に際して香典や花束を寄せていた。政治家や財界人で、静養や密談の場所に利用している。  彼らの中に晴子のパートナーが潜んでいる可能性はある。だがいずれも六十以上の年配であり、訪館する際は秘書や取り巻きグループを伴って来ている。  急死した晴子を見捨てたくらいであるから、晴子との関係が表沙汰になると、その地位に影響を受ける人間にちがいない。晴子の不倫の相手としてはやや年嵩《としかさ》のようであるが、メモ帳のVIP名は容疑者リストの最右翼に載せるべきであろう。  遺品を整理している間に、日高は虚《むな》しくなった。こんなことをしていったいなにになるのか。晴子の死因に犯罪の疑いはないとされた。  刑事が会葬者リストを領置して行ったが、その後なんの音沙汰もない。刑事もパートナーを突き止めたところで事情を聞く程度で、手の出しようがないと言っていた。要するに晴子の死は自業自得なのである。  夫を裏切り、不倫の相手と情事に耽っている間に心臓発作が起きて死んだ。そしてパートナーから死体をホテルに置き去りにされた。まことに猟奇的な死因であり、不名誉な死である。  不名誉は死んだ本人だけではない。残された夫にとって妻の死に方は屈辱そのものであった。パートナーを探しだせばその屈辱が雪《そそ》がれるというものではない。いや、むしろ恥の上塗りになるかもしれない。  あんな不倫妻のことはきれいさっぱり忘れて新しい妻を迎える方が、心機一転して新たな人生を始められる。だがそんな気になれないのである。 「お坊っちゃまならいくらでも後妻の来手がいますよ。お坊っちゃまにその気持ちがあれば、私が新しい奥様を探してさしあげましょう」  きよが見かねたように言った。晴子の遺品を整理するように薦めたことを後悔している口吻《こうふん》であった。 「もう女房はいらないよ」 「お坊っちゃまの若さでなにをおっしゃいますか。今度はお子さんを産める奥様をお迎えなさいまし。女は子供が産めなければ女とはいえません」  きよは子供を産まなかった晴子を暗に責めている。 「きよ、いいかげんにそのお坊っちゃまというのはやめてくれないかな」  日高は閉口していた。 「はいはい。早く新しい奥様をおもらいになれば、お坊っちゃまをやめますよ」  きよはにんまりと笑った。どうやら彼女は晴子が死んだのを喜んでいる気配である。  日高はきよの言葉を聞き流しながら、遺品の整理をやめなかった。それをやめると、ほかにすることがない。  妻に来た手紙を一通一通調べていると、一通のさし戻された葉書が混じっていた。彼女が出した葉書が宛名《あてな》人住所不明で戻って来ていたのである。死ぬ半年ほど前の日付けになっている。  宛名人は橋口則夫《はしぐちのりお》という人物である。住所は千代田区麹町《ちよだくこうじまち》三丁目××となっている。日高に心当たりはない。文面を見ると、 「お部屋をご用意してお待ちしておりますので、ぜひまたお越しくださいませと先生にお伝えください」  と晴子の筆跡で書かれてあった。文章はそれだけである。先生というからにはその秘書に当てた手紙であろう。 「橋口則夫か」  日高は整理した名刺のファイルを当たってみた。もしかするとその中に橋口の名刺があるかもしれない。だが該当する名刺はなかった。日高はその葉書がなんとなく気になった。  旅館からは利用客に対して年賀状や暑中見舞などを年二、三回出している。時候の挨拶であればそれで充分のはずなのに、わざわざ自筆の葉書を、時期はずれに出したことに違和感をおぼえた。  個人的な手紙にしては文面が素っ気なさすぎる。もしかするとこれはパートナーに宛てた暗号ではあるまいか。また会いたいので連絡を待っている、当方はあなたの都合に合わせます、そんな意味にとれないこともない。パートナー本人宛てにすると目立つので、わざと秘書宛てにした。  日高は常連やVIPで麹町近辺に住居や事務所を構えている者がないか調べてみた。だが見当たらない。考えすぎかな、日高はつぶやいた。それにしても部屋の用意をして待っているとは含みのある言葉ではないか。その�部屋�を不法占拠して、ついに主《あるじ》を死に至らしめたのが橋口の「先生」ではないのか。      3  浅い山となめたのがまちがっていた。途中で道を誤ったらしい。進むほどに踏み跡が心細くなってきた。途中でおもいきりよく引き返せばよかったのだが、かなり歩いてしまった距離を惜しんで強引に押し進んだ。  そんな歩き方をしていても、森林の中を四通八達しているハイキングコースのどれかに行き当たるのだが、今度は行くほどに、森の茂みは深く、道は心細くなっている。これまで必ず道端に落ちていた菓子の袋やフィルムのケースがまったく見当たらなくなった。それは人が入り込んでない証拠である。 「ねえ、大丈夫」  連れの女の子が心細がったが、 「方角はまちがっていないよ。すぐにコースに出る。地図で見てもこれが近道なんだ」  登山経験十年を女の子に誇った手前、いまさら道をまちがえたとは言いだしにくい。歩いた距離と方角からして、間もなく自動車道路に出るはずである。 「私、足が痛くなっちゃったわ」  女の子が半分べそをかいている。 「もう少しの辛抱だよ。道に出ればバスも走っているしタクシーも呼べる」  山岡《やまおか》はなだめすかすように言った。こんなところに座り込まれたら、日が暮れてしまう。釣瓶《つるべ》落としの秋の陽《ひ》は西山の稜線《りようせん》に近づき、森の中はすでに暗い。女の子の手を引き尻を押すようにして歩いたがついに深い藪《やぶ》につかまって、にっちもさっちもいかなくなってしまった。  山岡一人ならば藪漕《やぶこ》ぎをしてもなんとか乗り越えてしまうのだが、女の子連れではそれもならない。 「この先に道のあることはわかっているんだが」  山岡はまだ未練を捨てきれない。もう一歩も歩けないような感じだった女の子が妙な方角へ行きかけた。引き返すにしても方角ちがいである。 「どこへ行くんだ。そっちは方向がちがうよ」  山岡が注意すると、女の子は顔を薄く染めて、 「すぐ戻って来るわ」  と言った。山岡ははっとした。進路にばかり気を取られて、女性に対する気遣いを忘れていた。こんなことでは十年の登山キャリアが泣くな、と自分を戒めた。  太陽が山陰に入ったらしく、森の中が蒼然《そうぜん》と烟《けむ》った。 「いったいどこまで行ったんだろう。こんな山中でだれが覗くわけでもあるまいに」  山岡は時計をにらみながら気が気ではなかった。陽が落ちると厄介なことになる。空気が急に冷えてきた。  山岡が待ちきれなくなって、女の子が行った方角へ探しに行こうとした矢先に、凄《すさ》まじい悲鳴が森の静寂を引き裂いた。 「どうした」  山岡は悲鳴が来た方角に無我夢中で走った。藪に手足を引っかかれるのも気にならない。 「助けて」  ふたたび悲鳴が聞こえた。山岡が懸命に走って行くと、反対方向から逃げて来た女の子とぶつかった。女の子は山岡にしがみついた。 「いったいどうしたんだ」  山岡が尋ねても、彼女はすぐには口がきけない。恐怖と驚愕に束の間声帯が麻痺《まひ》してしまったようである。 「あそこ、あそこに」  ようやく声を出した彼女は、いま逃げて来た森の茂みの方を指さした。 「あそこになにがいたんだ」 「怖いわ、怖い」  山岡が問うても彼女は震えているばかりである。 「きみはここで待ってろ」  山岡が彼女の恐怖の原因を確かめに行こうとすると、 「私を一人にしないで」  と言って、女の子は山岡の腕を引いた。 「熊《くま》でもいたのかい」  このあたりに熊が出たという話は聞いたことがないが、熊なら確かめる前に逃げなければならない。 「手が出ているのよ」  女の子がようやく言った。 「手が」 「人間の手が土の中から出ているの」 「なんだって」  今度は山岡が驚く番である。 「人形じゃないのかい」 「骨が出ていたわ。人形に骨なんかないでしょう」  そう聞いては見捨てて行くわけにはいかない。山岡は勇を奮《ふる》って彼女が「手」を発見した地点へ進んだ。  去年の落葉の下から、森の動物にでもくわえ出されたのか、手首から上がむごたらしい形に地上に現れていた。一見して木の根や枝の切れ端でないことがわかったのは、まだ手首が比較的新しかったからである。 「大変だ」  山岡はさすがに悲鳴はあげなかった。  そのとき少し離れた先に車のエンジンの音がした。音の方角に藪を漕ぐと、突然自動車道路に出た。  都下|八王子《はちおうじ》市域の山林に死体(の一部)を発見したというハイカーからの通報を受けた八王子署の増成《ますなり》と池亀《いけがめ》刑事は、早速現場に急行した。現場は自動車道路から少し入ったクヌギ、ナラ、クリなどの混生林である。  土は軟らかかった。死体の体積分のはみ出した土は周囲にばらまいて均《な》らしたようである。死体の主は二十歳前後の女性で、地中約三十センチを上端とする最小限の穴を掘り、そこに膝《ひざ》を折りたたみ、両腕をその上に乗せた形で埋め込まれていた。埋め方が浅かったために、野犬ににおいを嗅ぎつけられて手をくわえ出された模様である。  地中に埋められていたせいもあって、死体はまだあまり傷んでいない。生前の面影を留めているのが憐《あわ》れであった。地中にあったことを考慮して、死後経過四—五カ月と推定された。  周辺の土も一緒に掘り起こしたが、所持品はない。身許の手がかりになるようなものも身につけていない。犯人は近くまで車で死体を運んで来て現場に埋めたものと推測された。 「ひでえことをしやがる」  現場の検索に当たった増成がつぶやいた。死臭を嗅ぎつけたのか早くも近くの梢《こずえ》に烏《からす》が集まって来て不気味な鳴き声をあげている。 「こんな若い子を殺して埋めるなんてむごくもあるし、もったいないなあ」  相棒の池亀が溜《た》め息をついた。彼はまだ独身であるだけにその溜め息には実感が籠っている。 「家族から捜索願いが出されているかもしれないな」  検視の間に日はとっぷりと暮れた。死体はひとまず腐乱死体収納用のビニール袋に入れて、搬出した上で綿密な観察を加えることになった。現場には保存ロープが張られて立ち入り禁止にされた。  搬出後の解剖によって死因は紐《ひも》を首に巻きつけ気道を閉鎖しての窒息、いわゆる絞殺と判定された。死後経過四‐五カ月、薬毒物の服用、生前、死後の情交および暴行の痕跡は認められない。推定年齢十九ないし二十一歳、性交経験は少ないながらある、というものだった。  死者の特徴が警察庁のコンピューターに照会された。前科者や、失踪《しつそう》人として捜索願いが出されていると、全国規模でコンピューターに登録されており、照会項目が該当《ヒツト》するとリアルタイムに回答が来る。  その結果死者の身許が割れた。被害者は宮沢《みやざわ》ひろみ十九歳、住所は茨城県|北茨城《きたいばらき》市××。五月十九日、父親と喧嘩《けんか》して家を出たまま消息を絶ち、家族から捜索願いが出されていた。被害者は以前から父親と折り合いが悪く、家出前も就職のことで争い、家を飛び出してしまったということである。 [#改ページ]  変質した一部      1  十月二十日、都下八王子市市域の山林で若い女性の変死体が発見されたという報道を新聞で読んだとき、野々村省吾《ののむらしようご》は不吉な予感がした。これを虫の知らせというのかもしれない。  二日後、その女性の身許が判明したという記事が彼女の顔写真とともに新聞に載った。  写真を見た野々村は愕然《がくぜん》とした。そこに一夜の行きずりの情事のパートナーがいた。宮沢《みやざわ》ひろみ十九歳、茨城県北茨城市××。 「彼女だ。あの女にちがいない」  野々村は目を記事に固定されたままうめいた。彼の身体《からだ》に忘れ難い官能の記憶を刻みつけていった一夜の恋人は、山林に埋められていたのである。  死後経過四ないし五カ月ということは、野々村と一夜を過ごしてから間もなく、あるいは一カ月後に殺されたということになる。その間に彼女の身にいったいなにが起きたというのか。  あの日彼女は家出をして来たばかりだと言っていた。あの日に上京したのであれば、最長限一カ月の間に殺されるような動機をたくわえてしまったことになる。わずか十九歳の少女に一カ月の滞在も許さぬ東京とはなんとむごい所であろうか。  その後警察は日高晴子《ひだかはるこ》の事件についてなにも言ってこない。野々村を晴子のパートナーと疑ったようであるが、その後|音沙汰《おとさた》がないところを見ると、彼の申立てを一応聞き入れたようである。増子《ますこ》の態度は変わっていない。増子の耳にはなにも入っていないらしい。  野々村がいくらかほっとしかけた矢先に、宮沢ひろみの事件が報道されたのである。それにしても新宿ロイヤルホテルで隣り合わせた二人の女性が相前後して殺されたのも因縁である。  因縁という言葉から連想が走った。連想から迸《ほとばし》った火花が照らし出した想像の光景に、野々村は立ちすくんだ。 「ひろみの死は、日高晴子とかかわりがあるのではないだろうか」  ひろみと晴子との間にはなんのつながりもなさそうである。当夜偶然部屋が隣り合っただけにすぎない。だが事前にかかわりがなくとも、当夜かかわりを持つことはできる。  牛尾《うしお》は日高晴子が一五二〇号室で死に、死体を一四二四号室へ移された疑いがあると言っていた。ひろみはその隣りの一四二三号室に泊まっていたのである。  野々村が帰った後、晴子の死体が運ばれて来たとしたら、ひろみは隣室になんらかの気配を感じ取って、ドアを開いた。そこで晴子の死体を運んで来た犯人と鉢合わせをした。犯人にとってはひろみにのっぴきならない現場を見られたことになる。しかし、ひろみが現場を目撃したとすれば、なぜその時点で警察に届け出なかったのであろうか。  ひろみは死体とは気がつかなかったのかもしれない。犯人は万一だれかと遭遇する危険性に備えて、泥酔した晴子を部屋に運び込むように装っていたのかもしれない。  翌日になって晴子の死体が発見されれば、ひろみは当然晴子を一四二四号室に運び込んだ犯人をおもいだす。  だがなぜ犯人なのか。晴子を一四二四号室に運び込んだXは、晴子を殺したかどうか確認されていない。解剖の結果によっても犯罪性は希薄であるとされているのである。それにもかかわらず、野々村の意識の中で犯人となっているのは、ひろみとのかかわりがあるからである。  犯人にとって、その時点では晴子を殺していなかったとしても、ひろみに見られた事実が致命的であった。そのためにひろみの口を塞《ふさ》いだ。つまり、Xは野々村の意識ではひろみ殺しの犯人となっているのである。  彼の想定には一つのネックがある。翌朝、晴子の死体が発見された時、ひろみは晴子を運んで来たXの存在をなぜ警察に届けなかったのか。ひろみは晴子が発見される前にすでにチェックアウトしていたかもしれない。あるいは事件に巻き込まれるのを恐れて黙って立ち去って行った可能性もある。  さらにあるいは、事件についてはいっさい気がつかなかったとも考えられる。それがなぜ八王子市域の山中に埋められていたのか。犯人は、ひろみに見られたという意識があるだけで枕《まくら》を高くして眠れなかったのであろう。  犯人としては日高晴子との情事が露見すると致命的なダメージを受けるのであろう。だから死体を一四二四号室に移して放置した。関係が露見するだけで致命的であるとすれば、パートナーの死体放置の事実が公にされればもはや救いようがない。  Xとしてはひろみを生かしておいては都合が悪かった。ひろみ本人は気がついていなかったかもしれないが、彼女がXの生殺与奪の権を握ったのである。  日高晴子が死んでから最長限一カ月の間にひろみの身になにがあったのか。  警察はひろみと日高晴子との関連については気がついていないであろう。これに気がついている者は、野々村一人にちがいない。野々村だけが当夜ひろみを独占して、夜を共に過ごしたのである。  その代償としてひろみは七万円を得たが、同時に一命を失ってしまったとすれば、責任は野々村にもあることになる。  警察にこのことを届け出ようか。警察からその後沙汰がないのに、自ら好んで火中の栗《くり》を拾う振る舞いは慎むべきであろう。彼女はすでにアリバイの証人の役を果たさない。ひろみの口は永久に閉ざされたのである。それはむしろ野々村にとっては好都合である。  野々村が口をつぐんでしまえば、ひろみと日高晴子との関連はわからないであろう。彼女らは五月十九日の夜、たまたま同じホテルに隣り合わせて泊まっただけなのである。それだけの関係がひろみの死を招いたのかもしれない。  ひろみが当夜ロイヤルホテルの一四二三号室に泊まった痕跡《こんせき》はまったく留《とど》められていない。ホテルの記録にも残っていない。その事実を知っている者は、野々村と彼女を殺した犯人の二人だけである。  犯人の殺人動機が野々村の推測通りであるとすれば犯人がそれを言うはずがない。野々村さえ黙秘していればひろみと晴子との関連は永久に闇《やみ》の中に閉じ籠《こ》められてしまう。野々村の耳には犯人の笑い声が聞こえるような気がした。このまま黙秘してしまってよいのか。ひろみが可哀想《かわいそう》ではないか。  彼女は一夜の宿を求めて、野々村を誘ったのである。一夜かぎりの行きずりの情事であったが、野々村の心身に忘れ難い記憶を刻みつけた。あの夜の記憶は、野々村と増子の空疎な夫婦生活を圧倒している。一夜かぎりであるだけに希少価値も生じているのだろう。  その夜帰宅すると珍しく増子が玄関に出迎えた。 「今日は美代《みよ》はどうしたんだ」  美代に迎えられるのに馴《な》れていた野々村は、妻が出て来たのでむしろ驚いていた。同じ屋根の下に住んでいながら、妻と顔を合わせる機会は少ない。 「久しぶりに休暇をとって実家へ帰っているのよ」 「そうか。美代は休暇か」  妻がいながら、常に美代に身のまわりの世話をしてもらっているので、彼女がいないと不便なのである。とりあえず家でなにも食べられなくなる。  新婚旅行から帰って来てまだ美代が来る前に、いつまでたっても夕食が出てこないので、野々村が催促すると、 「私がつくるの」  と驚いたように言った増子である。野々村のためにビール一本冷蔵庫から取り出してくれたことはなかった。  その増子が珍しく、 「お茶でも召し上がる」  と言った。野々村は雪でも降るんじゃないかとおもった。  ダイニングで増子が淹《い》れてくれたお茶で喉《のど》を潤すと、増子がそれまで読んでいたらしい新聞がテーブルの上に広げられてあった。野々村がなにげなく目を向けると、社会面が開かれていて、宮沢ひろみの顔写真が彼の方を向いていた。  偶然であろうが、野々村は一瞬ぎょっとした。 「八王子の山の中に、女の子が埋められていたんですって」  野々村の視線の方角に気づいて増子が言った。野々村が関心のない表情を装っていると、 「私、この子にどこかで会ったような気がするのよ」  増子はますます野々村を驚かせるようなことを言いだした。 「なんだって」  無関心を装いきれなくなった野々村が、おもわず声を出した。 「どこかで会っているようなんだけど、どうしてもおもいだせないの。それもあまり以前のことではないの。だから気になって仕方がないのよ」  増子はもどかしそうに頭を振った。 「君の知っている人なのか」 「いいえ。全然知らない子なんだけど、顔に見おぼえがあるの。どこかで会っているはずなんだけどなあ。ああ、おもいだせないわ。気になってずっと考えていたのよ」  増子は頭を軽く叩《たた》いた。野々村とひろみが一緒にいた所を見かけてねちねちと責めているのではないらしい。また増子が野々村の浮気を知ったらそんな責め方はしない。  それにしても増子がひろみを知っているということは不気味である。増子はすべてを知っていて野々村に圧力をかけているのではあるまいか。そんなはずはない。増子はそんな迂遠《うえん》な方法をとる必要はない。野々村はしいて自分の胸の不安をねじ伏せた。  ひろみと増子の生活圏はまったく重なり合わないはずである。偶然街ですれちがっただけという関係なら、増子の記憶に引っかかっていないだろう。 「なんだか気分わるいわ。私の記憶があの子と共に山の中に埋め込まれちゃったみたいで」 「無理に思い出す必要もないだろう」  おもいだされた結果は、野々村にとっても不安である。 「自分の心の中になにか曖昧《あいまい》なものが残っているようでいやだわ」  増子がひろみを知っているという言葉にぎょっとさせられたものの、どうやら野々村とひろみとのかかわりの外で見かけたらしい。野々村は心中|密《ひそ》かにほっとした。      2  警察の鉾先《ほこさき》もどうやら逸《そ》れた気配である。増子の追及もかわして野々村にいくらか余裕が生じた。余裕の中であらためてひろみのおもいでがよみがえってくる。  たった一夜、街で拾っただけの五万円プラス二万円の女が、どうしてこれほど執拗《しつよう》に彼の胸中に居座っているのであろう。彼女は野々村にとって危険以外のなにものでもない。現に刑事が二人訪ねて来て、野々村は崖《がけ》っ淵《ぷち》に立たされた。七万円の女のために、自分がこれまで積み重ねてきた地位と家庭と将来を失ったのではたまったものではない。  それにもかかわらずひろみが忘れられない。もはや彼女に二度と会えないことがわかっていながら、いや、わかっているからこそ、忘れられないのであろう。  一夜、それも二時間ほどの触れ合いにすぎなかった。その間にひろみが示してくれた実意は、増子との八年間の結婚生活において一度として味わったことのないものである。あの夜、もし自分がひろみをホテルに連れ込まなかったならば、彼女は死なずにすんだかもしれない。  ひろみはあの夜、家出をして来たと言っていた。新聞の記事によると、彼女の家は茨城県の北の方の街である。そんな所から若い娘がバッグ一つをさげて東京へ出て来た。彼女なりの夢を東京に寄せていたのであろう。  その夢が開くどころか、種のまま、都下の寂しい山中に埋められてしまった。種ならばこれから芽を出し花を開くということもあるだろう。彼女は上京して間もなく生活の根を下ろす間もなく、その夢と可能性のすべてを摘み取られてしまったのである。  野々村は可哀想だとおもった。上京して野々村が彼女と触れ合った最初の男であったかもしれない。あるいは最初で最後の男であったかもしれない。死後推定四‐五カ月というところから見ても、彼女が最大限東京にいたとしても一カ月である。  野々村で味をしめて、その間自分の体を五万円で売ったとしても高が知れている。彼女があの夜、こういうことをするのは初めてだと言った言葉には偽りはあるまい。せめて彼女が埋められていた所に花を供えてやりたい、と野々村はおもいたった。  現場にはまだ警察の網が張られているかもしれない。犯人は現場に戻るという。そんな場所に容疑者リストの最右翼に載せられた身がのこのこ出かけて行くことは危険極まりない。自ら警察の罠《わな》にはまるようなものである。  それをよく承知していながら、野々村はひろみが埋められていた場所に花を供えたいという願いに取り憑《つ》かれてしまった。  考えてみれば、ひろみは野々村のこれまでの半生においてただ一度だけ翻《ひるがえ》した反旗であった。増子と結婚し、針生謙一郎《はりゆうけんいちろう》の傘の下、彼の尻《しり》の穴まで舐《な》めるようにしてこれまで生きてきた。野望の階段を上るための辛抱と自分に言い聞かせながら、針生の顔色をうかがい、妻の機嫌をとりながら、ひたすら自分を殺す生活をしてきた。その生活はこれからも当分つづくであろう。  針生はかくしゃくとしており、その天下は揺るぎそうもない。針生は三人の婿をたがいに競わせながら、自分の主権を確固たるものにしている。野々村は針生の奴隷として、また増子の種馬として利用されているだけかもしれない。  そのような針生の絶対主義の傘の下にひろみを反旗として押し立てたのである。たとえ針生と増子の目から隠れての反乱であっても、反乱であることにちがいはなかった。  彼女が生きていれば、その反乱をつづけたかもしれない。ひろみはそれだけの価値を感じさせる女であった。いささか大袈裟《おおげさ》な言い方かもしれないが、ひろみは野々村に、人生には別の価値があることをおしえてくれたのである。  ひろみに出会うまでは、野々村にとってハリラックスの天下だけが唯一の価値であり、第一義であった。ひろみに出会って、人生とはそんなモノトーンではないことをおしえられた。  彼の価値観が変わったわけではない。依然としてハリラックスが第一義であり、最優先されるべき価値であることには変わりない。だが、それしか見えなかった彼の視野がひろみによって広げられたのである。  これまでの野々村の単一価値しか認めない狭い視野であったなら、一夜の行きずりの女を弔うために花を捧《ささ》げようなどとは決しておもわなかったはずである。しかも大きな危険を冒してまで、それをしようとしている。野々村はひろみによって自分の心身の一部が変質したのを悟った。 [#改ページ]  クリスマスケーキと鏡餠      1 「お坊っちゃま、写真だけでもちょっとご覧になってくださいな」  きよが数葉の写真を持ち込んで来て熱心に口説いた。 「興味はないよ」  日高はそっけなく答えて横を向いた。 「そんなことをおっしゃらないで、これからずっとお独りではいられません。そんなことをお坊っちゃまにおさせしたら、私が亡くなられた大旦那《おおだんな》様や大奥様に叱《しか》られます。せっかくですから写真だけでもご覧になってください」  きよは熱心に言った。 「まだそんな気にならないよ」 「べつにいますぐどうこうというお話ではありません。写真だけでもご覧になって、その中に気に入った方がいらしたら、改めてお考えなさればよろしいのです」 「きよはどうしてもぼくに後添えを押しつけたいようだね」  日高は根負けして苦笑した。 「当たり前でございます。お坊っちゃまの代で日高屋を絶やしてしまったら、私、大旦那様や大奥様に顔向けができませんもの」  きよは晴子が死んだのを奇貨として、この際子供を産める後妻を是が非でも日高に押しつけようとしているらしい。 「それでは写真だけでも見せてもらおうか」  日高はついに根負けした。  後妻とは言いながら、日高はまだ三十二歳である。土地の老舗《しにせ》の日高屋旅館を背負っているだけに、持ち込まれた写真はいずれも初婚の娘のものばかりである。見合写真なので精いっぱい美しく装っている。  無責任に見ているかぎりは楽しい写真である。その中にひときわ擢《ぬき》んでている娘があった。都会的なはっきりした輪郭の気品のある造作をしている。友禅《ゆうぜん》の振袖《ふりそで》を装い、カメラにポーズした姿からにおいたつような艶《あで》やかさがこぼれている。 「この娘は」  日高はきよに問うた。 「お坊っちゃまはきっとこのお嬢様に注目されるとおもいましたよ」  きよが罠にかかった獲物を見るような目をしてにんまりと笑った。 「綺麗《きれい》なお嬢さんだね」 「そうでしょう。日高屋の看板がなければ、これだけのお嬢様はいらっしゃいませんよ。大旦那様や大奥様に感謝することですね」  きよが恩着せがましく言った。 「きよはぼくよりも日高屋の方が大切なんだな」 「もちろんお坊っちゃまあっての日高屋ですけど、日高屋あってのお坊っちゃまであることもお忘れにならないように」 「わかったよ。それで、この人はどこのお嬢さんなんだ」 「お坊っちゃまにお見合いをするお気持ちがあればおおしえいたします」  きよの口調が意地わるくなった。 「ぼくはただどこの人かと聞いているだけなんだよ」 「お見合いをする気がなければおおしえできませんわ」  きよは日高の好みのタイプを見透かしていて罠をかけたようである。 「まいったな。先方は後妻ということを知っているのかい」 「もちろんでございますわ。先様にとっても玉の輿《こし》でございますものね」  いつの間にか写真を見るだけが見合いとなり、それが玉の輿にエスカレートしている。 「本当に見合いだけだよ」  日高はついに押し切られてしまった。いや、押し切られたわけではなく、写真の主に会いたいという願いに負けたのである。 「早速先様にお話し申し上げますわ」  きよは質問に答えもせずにいそいそと立ち上がった。  日高が興味を惹かれた写真の主は橋口隆子《はしぐちたかこ》二十四歳、二年前に都内の有名私立女子大学を卒業して、現在はOLをしているそうである。  日高は橋口という姓に記憶を触発された。宛名《あてな》人住所不明でさし戻されてきた晴子の葉書の宛て主がたしか橋口という姓であった。橋口という姓は珍しくもないが、ありふれているものでもない。  写真の主はあの橋口|則夫《のりお》となんらかのつながりのある人間であろうか。日高はきよに橋口隆子の係累について尋ねた。 「ご両親とも立派な方ですよ。お父上は現在、S区の区会議員をなさっていらっしゃいます。お兄様が二人おられて、上のお兄様はお医者さん、下のお兄様は代議士の秘書をなさっていらっしゃるそうです」  きよは自分のことのように誇らしげに言った。 「代議士の秘書だって」 「ええ。なんでも民友党の大物政治家だそうで、大臣もつとめたことがあるそうです」 「だったら家へ来たこともあるんじゃないのか」 「お見えになっていらっしゃるかもしれませんわね。お兄様のことはまだ詳しく聞いておりませんから」  きよは知っていておしえないような口ぶりをした。      2  日高は橋口隆子に会ってみることにした。その美貌《びぼう》に惹《ひ》かれたこともあったが、橋口という姓に大いに興味を惹《ひ》かれた。  彼女は橋口則夫とかかわりのある人間ではあるまいか。もしそうであれば、晴子と橋口則夫との関係がわかるかもしれない。きよは橋口隆子の写真を、日高屋の古い馴染《なじ》み客から預かったと言った。  日高は見合いに先立って、隆子の身上書をリクエストした。間もなく届けられた彼女の身上書の係累の項に、次兄として橋口則夫の名前が記入されてあった。だが職業は代議士秘書とだけしか記入されていない。 (やはり橋口則夫だ)  日高は心中|密《ひそ》かにうなずいた。まだ同姓同名の可能性はあるが、隆子の兄が、晴子のさし戻された葉書の宛て主であるような予感がした。  橋口則夫の「先生」が晴子の不倫のパートナーであったとすれば、これは因縁である。晴子が先生宛てに直接手紙を出さず、橋口に宛てたところを見ても、橋口は先生の最側近にちがいない。彼は先生と晴子の関係を知っているはずである。  知っていれば、妹と日高との間に発生しつつある縁談を阻もうとするであろう。おそらく橋口は妹の写真が日高の許に送られたことを知らないのである。知っていてなんの干渉もしなかったとすれば、橋口の先生は晴子とやましい関係にはなかった。日高は次第に自分のおもわくの中にのめり込んでいった。  生前の情交痕跡ありと認められた妻の死体は、夫にとって屈辱以外のなにものでもないが、晴子にとっても悲しかったにちがいない。夫ある身での不倫をいまさら論じ立てたところでしかたがない。  だが彼女にしてみれば、家に帰る前に少なくとも不倫の痕跡は消したかったのではあるまいか。それは夫に対する最小限のルールであると同時に、女としても他人に知られたくない恥ずかしい痕跡であった。  アダルトの男女が性的交渉を持つ前後、バスやシャワーを使うのは暗黙の了解となっている。シャワーによって二人のためだけの身体に清拭《せいしき》し、そして事後は情事の痕跡を洗い落として別れて行く。別れる必要のないカップルであっても、性的交渉の痕《あと》を洗い落とす。そうすることによって情事に区切りをつけているのである。  夫以外の男に抱かれた情事の痕跡を身体に留めたまま突然の死に襲われた妻は、恥ずかしく悲しかったであろう。自分の身体が猟奇の目で観察されるということを想像するだけで、女にとっては消え入りたいほどに恥ずかしいはずである。  しかも情事の相手から死体を放置された。女にとってもこれ以上はない屈辱である。日高は自分の被った屈辱だけを考えていたが、晴子のパートナーは彼女に対してこれ以上はない形で屈辱をあたえたのである。  死に臨んでさぞ悔しかったであろう。彼女のパートナーが彼女の死体を移動した状況から見て、パートナーは相当の社会的地位にある者と推測される。彼女と不倫に耽《ふけ》っていた事実が公けにされると決定的なダメージを被る人間にちがいない。  これまでパートナーを突き止めたところで恥の上塗りになるだけだと考えていたが、日高はそうでもないことに気がついた。パートナーを突き止め不倫の事実を証明すれば、彼の社会的生命を奪えるかもしれない。まして急死した情事の相手を見捨てた冷酷さを表沙汰にすれば、社会的な弾劾を受ける。パートナーが公けの人物であれば、それで破滅である。 「復讐《ふくしゆう》してやる」  日高は口中につぶやいていた。かつて妻に対して抱いていた殺意が、その対象を失って妻のパートナーに対する復讐心となってスライドしている。  日高自身、自分の心の変遷に驚いている。妻を乗っ取っただけならば許せる。だが彼女を乗っ取り、その美味《おい》しいところだけ存分に貪《むさぼ》った後、屈辱を死体に刻みつけて放《ほう》り出した。絶対に許せないとおもった。  この場合、妻の相手が大物であればあるほど復讐の効果は大きい。橋口則夫を通して漂って来る大物の気配が、妻のパートナーに漂う雰囲気と重なり合っている。      3  十月吉日を選んで、日高と橋口隆子との見合いは日高屋の離れで行なわれた。先方に日高屋をよく見せた方がまとまる率が高くなるというきよの提案を入れたのである。先方も見合いの相手よりは日高屋をよく見たいようであった。本人よりも両親の方が乗り気になっているようである。  離れは海の眺めのよい、日高屋で最上等の部屋である。この部屋で政府の要人たちが密談を交わしたり、財界の巨頭が静養したりした。橋口則夫の先生も来ているかもしれない。  木の素肌を生かした数奇屋《すきや》造りの部屋は、深い緑に囲まれて、部屋の内部まで青く染まりそうである。障子を開くと相模《さがみ》湾が一望のもとに見はるかせる。耳を澄ますと聞こえるものは潮騒《しおさい》と樹木を渡る風の音だけである。小鳥の声も絶えている。 「結構なお部屋ですな」  娘に付き添って来た父親が感嘆の声を上げた。見合いの相手よりも日高屋が気に入ったようである。  手描《てが》き友禅の訪問着をまとった隆子は写真よりもやや老けて見えたが、それだけに成熟した美しさがあった。これほどの女性がまだ独身でいたのが不思議なくらいである。  女子大を出て二年、OLをしているということであるが、それだけ社会的体験を積んでいれば、旅館の女将《おかみ》として切り盛りができるようになるだろう。  日高は緊張して挨拶《あいさつ》した。 「橋口隆子と申します。どうぞよろしく」  隆子もしとやかに挨拶を返した。見合いの席に訪問着を着ると個性が薄くなるものであるが、隆子には友禅の訪問着が、彼女の艶やかさをいっそう引き出しているようである。  晴子には自分の美点を精いっぱい引き出すようなところがあったが、橋口隆子はむしろ自分の中に埋蔵されているものを隠そうとして、それがこぼれ落ちて輝いているような謙虚さがある。親もそれを知っていて、華やかな訪問着を着させたらしい。謙虚な色気であった。  きよが、どうです、気に入ったでしょう、と言うような顔をしている。これだけの女性が初婚の見合いの席に出て来るまでには一度や二度の恋愛経験があるにちがいない、と日高はにらんだ。  一通りの挨拶がすみ、さしさわりのない話題の会話が交わされた後で、この見合いの仲介をつとめた、日高屋の馴染み客である大学教授が、二人だけで当館自慢の庭でも見て来たらいかがですかな、と水を向けてくれた。  山腹の斜面を利用してつくられた庭園なので面積はかぎられているが、眼下の相模湾を借景として、伊豆《いず》半島や大島《おおしま》まで望める。日高は隆子を案内して庭に出た。二人だけになって聞きたいことがある。 「静かな所ですわね」  日高について庭をまわりながら隆子は言った。 「静かすぎて退屈しますよ」  日高は隆子を験《ため》すように言った。ある意味では晴子はその静けさに退屈して不倫に走ったのかもしれない。美しい風景と静かな自然に取り囲まれているだけでは、人間は決して満足しないという見本のような女が晴子であった。 「でもどんなに静かで美しい自然に取り囲まれていても、客として来るのと、それをもてなす側ではずいぶんちがうでしょうね」  隆子はうがったことを言った。 「天と地のちがいですよ。お客様にとってはここへ来られることは非日常の世界です。しかし私たちにとってはこれが日常なのです。日常と非日常が、お客様と迎える側という形で交わっているのですよ」  晴子はその交わり方をまちがえたのである。 「本当に。非日常だからこそ客はくつろげるのですね」 「私どもでは家庭の味というものをなるべく出さないようにしています。家庭の味ならばお客様が毎日味わっておられるものですからね。日常から離れたがってわざわざいらっしゃってくださったお客様にご家庭の延長では興ざめです」 「家庭に飢えた方ならばよろしいでしょうけれど、きっとこちらにお見えになるお客は、皆さん家庭ではお幸せな方ばかりなのでしょう」 「幸せかどうかわかりませんが、一度お見えになったお客様は必ずまたいらっしゃってくださいます」 「非日常の中に日常があるなんて、ずいぶん大変でしょうね」 「大変といえば大変ですが、馴れていますから。べつに意識していません」 「私、日高屋旅館と聞いてとても興味を持ちましたの」 「それはまたなぜですか」 「兄が何度か先生のお供をしてこちらに伺ったことがあると言っていたからです」  おもいがけず隆子の方から日高が聞きたいとおもっていたことを話題にした。 「お兄様が。それは存じ上げませんでしたね」  晴子の名刺ファイルの中にも、ここ一年ほどの宿帳にも橋口則夫の名前は見当たらなかった。 「先生のお名前で来ているのかもしれませんわ」 「お兄様は代議士先生の秘書をされているとうかがいましたが、どちらの先生ですか」 「民友党の小松原正之《こまつばらまさゆき》です」 「民友党の小松原正之」  小松原なら党の幹部であり、大臣経験も二、三度ある大物政治家である。有力派閥のニューリーダーと見なされ、マスコミでもよく名前を見かける。また五十代前半であり、政治家として脂が乗り切っている。その精悍《せいかん》で苦みばしったマスクは女性の人気の的である。晴子のタイプだった。  小松原が晴子のパートナーにちがいないという直感が走った。 「小松原先生ですか。それは凄い」 「なにが凄いのですか」 「私はあまり政治には興味ありませんが、次の次あたりの総理候補としてマスコミの下馬評が高い先生でしょう」 「そんなことを噂《うわさ》されているようですけれど、まだまだ順番がまわってこないようですわよ」 「小松原先生なら、去年までは何度かお見えになりました」  小松原が来なくなってから、晴子が定期的に上京するようになったのである。 「そういえば私も兄から日高屋さんの名前を聞いたのは一年ほど前でしたわ」 「お兄様はあなたが私と見合いをすることはご存じなのですか」 「たぶん知らないとおもいます。どうせまた断わられるに決まってると兄から冷やかされるのが関の山ですから、私も話していません。両親もきっと話していないとおもいますわ」 「そんなに何度もお見合いなさったのですか」  日高に問われて、隆子は、しまったというような表情をした。そんな仕種《しぐさ》が意外にあどけない。 「いけない。バレちゃったか」  隆子はちろりと舌先を覗《のぞ》かせた。二人の間の隔壁が除《と》れた。 「いいんですよ。あなたのようなお嬢さんと見合いをすること自体が、私にとってはかなり図々《ずうずう》しいことなのです」 「そんなことありませんわ。私の方こそお宅の前に立ったとき、あ、もうだめだわとおもいました」 「どうしてだめなんですか」 「さっきもおっしゃいましたようにあまりにも私にとって非現実的なんですもの」 「ほう、日高屋は非現実的ですか」 「私にはとてもお宅のような老舗旅館は切り盛りできないとおもいました」 「前の女房も結婚前にそんなことを言ってましたよ。私が再婚であることはご存じなんでしょうね」 「もちろん知ってますわ。でもそんなことは私、全然気になりません。気になるのはこの日高屋の歴史の重さです。お宅に入るときその歴史の重さに押しつぶされそうな気がいたしました。客として来ればそれを快く感じるのでしょうけれど」 「あなたは正直な方ですね」 「上に二字がつきますわ。それでいままでお見合いも全部ご破算になってしまいましたの。もっとも私の方からお断わりしたのもございますけれど」  隆子はいたずらを含んだように笑った。 「私もきっとその口になるんでしょうね」 「あなたも正直な方ですわ」 「上に二字つきます」 「まあ、おほほ」  隆子は口に手を当てて楽しげに笑った。 「あなたにお願いがあります」  日高は口調を改めた。 「なんですの」 「初めてお会いしたばかりでこんなことをお願いするのは不躾《ぶしつけ》ですが、正直者同士のよしみでお願いします」 「なんでしょうか」 「どうせ断わられるとおもいますが、その前にお兄様に私と見合いをしたことを話していただけませんか」 「兄に? なぜですの」  隆子の表情に不審の色が刷《は》かれた。 「べつに大した理由はないのです。それでお兄様がなんとおっしゃるか、おしえてください」 「兄になにか関係がありますの」 「小松原先生の秘書をされているお兄様の当館に対する反応を知りたいだけなのです」 「それが私へのお願いですか」 「そうです」 「わかりました。ご商売熱心でいらっしゃいますわね。兄に話してみますわ」  隆子は、日高が商売気からそんなことを依頼したとおもったようである。 「ありがとうございます。せっかくお越しになったのですから、歴史の重さを忘れるために、お客様として今夜お泊まりになりませんか。当館自慢の懐石料理をご馳走《ちそう》いたしますよ」 「え、本当ですか。実はお宅のお料理をいただきたかったのです。東京のグルメの間では評判なんですよ」  隆子が嬉《うれ》しそうに顔を輝かせた。 「光栄です。板長に腕を振るわせます」 「こんなお見合いは初めてですわ。なんだかとても楽しくなっちゃったわ」 「ぼくもです。これをご縁に時どき遊びにいらっしゃってください。友人として気軽にいらっしゃれば、歴史の重みなんか感じませんよ」 「私を友達にしてくださいますの」 「喜んで。ぼくの方からお願いしたい」 「私、今日お見合いに来てよかったわ。本当は気が進まなかったんです」 「仲人の顔を立てるためですか」 「それもあったけど、とにかく両親がうるさいんです。もうクリスマスケーキだからって次から次に見合いさせるんです。どうして女はクリスマスケーキではいけないんでしょうね。いまは年越しそばの時代なのに」 「そういうふうに言うんですか。するとぼくは正月が過ぎた鏡餠《かがみもち》というところかな」 「クリスマスケーキと鏡餠のお見合いなんて洒落《しやれ》ていません」      4  クリスマスケーキと鏡餠の見合い後、数日して橋口隆子から電話がかかってきた。 「先日は大変失礼しました」  彼女の電話の声は殊勝である。 「いえ、こちらこそ。またぜひお遊びにいらしてください」  すでに見合いの結果は二人の間で結論が出ていたが、日高は心が弾んだ。 「先日ご依頼を受けた件、兄に話してみましたわ」  早速彼女は約束を履行してくれたのである。 「それでいかがでしたか」 「それが、おかしいんですのよ」 「どうおかしいんです」 「兄ったら、むきになって私が旅館の女将には適《む》かないと言うんです。そんなことは兄に言われなくてもよくわかっているのに。とにかくやめろやめろの一点張りですわ」 「つまり大反対というわけですね」 「そうなんです。兄が賛成しようと反対しようと、私の意志で決めることなのに。まるで女学生扱いなんです」 「これまでそんなことがありましたか」 「いいえ、初めてです。せいぜい冷やかす程度だったのが、日高さんとのお見合いにかぎって、まるで自分のことのようにむきになって。変だわ」 「これでお兄さんにだめをだされたわけですね」 「あら、そんなことございませんわ。あくまでも私の意志ですもの。いえ、二人の意志によるものですもの」  隆子が抗議するように言った。 「楽しいお見合いでしたよ。まるで見合いということを意識しなかった。なんだかデートしているみたいで」 「私も」 「またお会いしたいですね」 「懐石料理、ご馳走してくださいますか」 「喜んで」 「私って、なんて意地がきたないんでしょう」 「グルメとおっしゃいましたね。うちばかりでは飽きがくるでしょうから、今度はよその料理もご馳走いたしましょう」 「嬉しいわ」  隆子からの電話を切った後、日高は考え込んだ。やはりおもったとおりである。橋口則夫は日高に対してなんらかのこだわりを抱いている。だからこそ妹の見合いに大反対をしたのである。反対の理由はおおよそ推測がつく。  彼は先生と晴子との関係を知っている。フロントに一五二〇号室のキイを取りに来たサラリーマン体の男は橋口則夫であろう。彼は小松原正之と晴子との連絡役をつとめ、情事の場所まで設定したのだ。  小松原が死に至らしめた晴子の後釜《あとがま》に自分の妹を提供するなどもってのほかのことである。それは橋口自身にとっても危険である。  ここまでおもわくを煮詰めてきた日高に新たな発想が閃《ひらめ》いた。情事の最中急死した晴子に、小松原はさぞや動転したことであろう。その場面で彼はまずなにをしたか。まず晴子との関係を知っている橋口則夫に救いを求めたであろう。  死体を一四二四号室に移す知恵は橋口が考えだしたものであろう。うろたえきった小松原にそんな知恵が出たとは考えられない。また小松原自身が死体を運んでいる場面をだれかに目撃されたら、致命的である。  彼の顔はマスコミに売れている。ホテルの出入にも変装していたことであろう。五十代の小松原よりも若い橋口の方が膂力《りよりよく》も強い。  橋口は単に事件に関与しているだけではなく、事件の当事者となっている。小松原と晴子との情事の露見は、橋口自身の破滅にもつながるのである。彼は保身上からも妹の見合いに反対せざるを得なかった。  だんだん読めてきた、と日高はおもった。だが、すべて日高の憶測に頼るだけでなんの証拠もない。橋口に自分のおもわくだけで妹の見合いに反対したと言われればそれまでである。  晴子の復讐をするためにはうむを言わせぬ証拠をつかまなければならない。そのための道具として隆子は格好の存在となろう。日高自身にとっても「楽しい道具」である。  日高はまず橋口則夫の写真を入手することにした。一五二〇号室のキイを取りに来たサラリーマン体の男が橋口則夫であることが証明されれば、のっぴきならない証拠となるだろう。  まず橋口の写真を手に入れ、ホテルのフロント係に示す。フロント係の証言が得られれば小松原の足元に迫れる。 [#改ページ]  一夜かぎりの女神      1  ホテルのロビーから玄関へ向かおうとしていた野々村は、折しも玄関先に横づけになった一台の乗用車に乗り込もうとしている女の後ろ姿を見かけた。おや、とおもって目を凝らしかけたときは、女を呑《の》み込んだ乗用車のドアが閉まり発車していた。  いまの女の後ろ姿がどうも増子に似ていたようなのである。野々村はマイカーで来ていたが、駐車場へ取りに行く余裕がない。彼は急いで玄関に飛び出した。ちょうど空車が客待ちをしていた。野々村はそれに乗り込むと、 「君、いま出て行ったブルーのハードトップを追ってくれ」  と運転手に命じた。運転手は飲み込み顔にうなずくと、発車させた。  妻の後ろ姿に似た女は、ハードトップの助手席に乗り込んでいる。すでに暗くなっていて距離がある上に後ろ姿なので確かめられないが、時折対向車のライトの中に浮かび上がる後ろ姿は妻のものである。  運転者は背広を着た三十前後の男である。これも面体は確かめられない。 「旦那、警察の方で」  運転手が問いかけた。 「まあそんなものだよ」  野々村は運転手の早合点を利用した。 「お上の御用なら、協力しますぜ」  運転手は俄然《がぜん》張り切った。今夜は久しぶりに都内在住の大学時代の同窓生が集まり、ミニ同窓会を開いての帰途である。幹事が副支配人をつとめているホテルを会場にして、久しぶりに旧交を温めた。  これまであまり利用したことのないホテルであったが、そこでたまたま妻によく似た後ろ姿の女を見かけたのである。どうせ好き勝手なことをしている妻であるが、明らかに不倫の帰途らしい姿を見かけては、見過ごしにはできない。いったい彼女がどんな男とつき合っているのか、好奇心もかき立てられた。  車は都心から郊外の方角へ向かって行く。その方角が自分の家の方角と一致するに及んで、ハードトップに乗り込んだ女が妻である確率はますます高くなっていく。帰宅に利用するコースも同じである。  先行車は、渋滞を巧みにかわしながら能率よく進んだ。 「尾行を悟られないように頼むよ」 「任せておいてください。こういうことには馴れているんでさあ」  運転手は胸を叩くようにした。  車が目黒《めぐろ》区を抜けて世田谷《せたがや》区に入ると、野々村は確信した。先行車は間もなく深沢《ふかざわ》の一角にある野々村の自宅の前に停《と》まった。やはり妻であった。 「女が降りましたけど、どうしますか」  運転手は問うた。 「あの車をずっとつけつづけてくれ」  野々村は新たに命じた。この際、妻の相手を確認しておきたい。妻の遊び相手が一人とはかぎらないが、この時間帯にホテルから送り届けて来るナイトは有力な遊び相手にちがいない。  野々村は妻のプライバシーの一端に触れたおもいである。彼女のプライバシーをつかんでおくのも、野望の階段としての利用価値を高めるかもしれない。そんなおもわくがあった。つまり、いつどんな形で役に立つかわからないが、妻の弱味をつかんでおきたかったのである。  増子を降ろした先行車は環八《かんぱち》通りを右に折れると北へ向かった。間もなく杉並《すぎなみ》区に入った先行車は、高井戸《たかいど》の住宅街に踏み込んで行った。車は高井戸の一隅にある住宅の車庫に入って行った。 「ここで待っていてくれ」  その家から少し離れた地点に車を停めさせた野々村は、先行車が入った住宅の表札を確かめた。表札には橋口則夫と書かれてある。こいつが増子の遊び相手の一人か。野々村は口中につぶやくと、タクシーの所へ戻った。  妻の遊び相手を確かめたところでどうなるものでもない。野々村が私立探偵の真似《まね》をして、妻の尾行をしたと彼女に悟られたら、ただではすまないだろう。わるいことをしているのは妻の方でありながら、妻の不倫の状況証拠をつかんだことを野々村は後ろめたくおもっている。  男としてまことに情けないが、それが彼ら夫婦の力関係なのである。だがいつまでもこのままにはさせておかない。そのための布石の一つとして橋口則夫の存在を突き止めたのである。 「橋口則夫か。どうも聞いたことのあるような名前だな」  野々村はその名前にどこかで出会っているような気がした。同じ社の人間や友人関係ではない。とすると、それ以外の生活圏で出会ったことのある人間である。  彼はその夜、なにくわぬ顔をして帰宅すると、名刺のファイルを調べた。 「あった」  野々村は間もなく橋口の名前を名刺ホルダーの中に見つけた。肩書に小松原正之秘書と刷られてある。 「小松原の秘書だったのか」  野々村の記憶がよみがえった。小松原は針生謙一郎が政治献金をしている相手の一人である。民友党の成長株で、針生は将来、小松原が政権を取ると予測している。そのための先行投資でもある。  有力な政治家の庇護《ひご》の傘の下にあるということは、企業家にとって心強い。ヤクザの用心棒と一脈似通っているところがある。  野々村は針生の使者として小松原事務所に何度か行ったことがある。そのとき応対したのが小松原の秘書である橋口則夫であった。あの橋口が増子の遊び相手とは気がつかなかった。彼らの間にいつ接触が生じたのかわからない。だが針生と小松原は個人的にも親しい。小松原を励ます会や、針生が主催したパーティーにおいて橋口と増子が顔を合わせた可能性はある。  野々村は橋口の顔をおもいだした。男っぽい精悍なマスクと、スポーツで鍛えあげたような引き締まった体躯《たいく》の持ち主であり、増子のタイプである。  橋口のボスの小松原正之は、政権党民友党の第三派閥である石川一臣《いしかわかずおみ》の番頭格である。石川がすでに老いて、政権に対する野心を失い、派閥のボスとしての指導力が衰えつつある現在、石川派の事実上の領袖《りようしゆう》となっている。  民友党切っての論客であり、保守本流を泳ぎながらもその過激性から異端児とされる。通産大臣、経済企画庁長官を経験し、現在民友党政調会長をつとめる。ニューライトの感覚の持ち主と言われる反面、日本軍国主義の亡霊と陰口をささやかれるほど、古いナショナリストの体質を残している。  機略縦横の持ち主であり、国会運営や派閥の駆け引きなどには辣腕《らつわん》を発揮する。石川派を支える柱の一本として石川に忠誠を誓っていたが、石川が老いてからにわかに政権に対する露骨な野心を覗かせるようになった。  橋口則夫は、若いにもかかわらずその小松原の私設第一秘書をつとめ、懐刀的存在である。小松原は女に関してもなかなかの凄腕で、新橋《しんばし》の芸者との間に隠し子があるとか、銀座《ぎんざ》のクラブのママといい仲になっているとかなどの噂がある。  野々村は、橋口とそのボスの小松原についての自分のおもわくを進めていた。  増子と橋口がつながっていた。これは必ずしも驚くべきことではない。彼らがつながるべき土壌はあった。皮肉なことにその土壌を野々村自身がととのえてやったのかもしれない。  美代が茶を運んできた。 「増子は」 「もうお寝《やす》みでございます」 「何時ごろ帰って来たのかね」 「三十分ほど前でございます」  美代の言葉から、増子は遅い帰宅時間を夫に偽る工作もしていないことがわかった。それだけ野々村を舐めているのである。  浴室へ入ると使った形跡がない。野々村が外から帰ってベッドに直行したことを咎めた増子自身が、バスもシャワーも使わずに寝室へ入ったのである。橋口と過ごしたホテルですでにバスを使ってきた証拠であろう。  だが野々村にとってはその方が都合がよい。妻が情事の残滓《ざんし》を洗い流したあとのバスを使うのは惨めである。  バスからあがると、新しい下着が出されている。 「旦那様、ビールを召し上がりますか」  美代が野々村の生活様式を先読みして尋ねた。 「セルフサービスで飲むからきみはもう寝みたまえ」  野々村は美代に言った。  そのとき電話が鳴った。電話機のそばにいた野々村は受話器を取った。聞き馴れない男の声が、山本さんのお宅ですかと尋ねた。ちがいますと答えて電話を切ってから、もしかするといまの電話の主は橋口ではないかとおもった。  増子と別れてから彼女の声を聞きたくなった。おもいきって電話をかけたところ、不運にも亭主が出たのでまちがい電話を装った。疑心暗鬼だな。野々村はつぶやいた。  もっとも妻を疑ったところでなんにもならない。こういう場合に疑心暗鬼という言葉は正確ではないのではないかと野々村はおもい直した。 「このごろまちがい電話が多いんですよ」  美代が口をはさんだ。 「ほう、そんなに多いのかい」 「よくかかってきます。自分でまちがえたくせに、こちらが悪いみたいに言う人もいますよ」  美代は唇をとがらせた。  そのとき、せめて宮沢ひろみに電話番号だけでもおしえておけばよかったと悔やんだ。彼女が生前野々村に連絡してくれば、あるいは彼女の死を防げたかもしれない。  野々村はなぜこんな時間にひろみをおもいだしたのか不思議におもった。きっと彼女のことがいつも心に引っかかっているのであろう。  増子はひろみをどこかで見かけたことがあると言っていた。どう考えても増子とひろみの生活圏は重なり合わない。だが直接的な重なりはなくとも、間接的に重なり合うかもしれない。つまり彼女の知人がひろみを知っている場合である。  増子はたまたま彼女の知人がひろみと一緒にいる場面を目撃した。それが増子の印象に残っていたのかもしれない。      2  日高耕一と橋口隆子は見合い以後、気軽に電話で話し合うようになった。  おもえば妙な関係である。見合いの結果はどちらも否定的であったが、結婚を前提としない男女として彼らは意気投合するところがあった。見合いの結果を重苦しく考えなかったのがよかったらしい。  夜などは気軽に電話をかけ合って雑談を交わす。野心がないので、電話でなんでも話し合える。貴重な電話友達である。 「先日の写真、どうも有難う」  隆子は見合いの際に撮影した写真の礼を言った。 「素人写真ですよ」  日高はある下心をもって撮影した隆子の写真を送ってやったのである。 「皮肉ねえ。お見合いは失敗したというのに写真はわりあいよく撮れていたわ」 「気に入ってもらえたかな」 「あなたにお見せしたお見合写真は私のきらいな顔だったけれど、送ってくださった写真の表情はみんな好きだわ。自然に素直に撮れているの。とても嬉しいわ」 「実はぼくも気に入っているんだよ。大きく引き伸ばしてぼくの部屋に飾ってある」 「そんなの恥ずかしいわ」 「あなたの写真をもっと欲しい、お見合いのようにドレスアップしないで、ごく自然な写真が欲しいな」 「そんな写真をどうなさるの」 「ただ欲しいだけだよ。きみの顔が好きなんだ」 「日高さんって、変な方」 「自分でもそうおもうよ。そうそう、写真でおもいだしたんだけど、きみのお兄さんの写真を一枚もらえないだろうか」 「どうして」 「いまうちの旅館の顧客リストをつくっているんだ。お兄さんに頼んでもよいんだが、せっかくきみとコネができたからね、きみに頼みたい」 「兄はそんなによいお客ではないでしょう」 「実は本能寺《ほんのうじ》の敵は小松原先生さ。小松原先生の第一秘書が顧客リストに並んでいれば、当館の箔《はく》がつく」 「だったら先生をリストに載せればよろしいのに」 「もちろん先生ご自身にもいずれお願いする。将を射んと欲すればまず秘書を射よだよ」 「いいわ。兄からもらってあげるわ」 「いや、お兄さんには話さないでほしい。こちらの下心を悟られるとまずいからね。きみの手持ちの写真の中にお兄さんの写真はないかな」 「探せばあるかもしれないわ」 「それをぜひ欲しい。決して迷惑はかけないよ。当館の顧客資料にするだけだ」  あまり上手ではない口実であったが、隆子はそれ以上|詮索《せんさく》しなかった。  間もなく隆子から橋口則夫の写真が送られてきた。街頭で撮影したらしいスナップである。  翌日、日高はその写真をもって上京した。行き先は新宿ロイヤルホテルである。彼は一直線にフロントへ行くと、フロント責任者に面会を求めた。 「どんなご用件でございましょうか」  間もなく出て来た恰幅《かつぷく》のよい男が愛想笑いの奥から日高を観察していた。日高は名刺をさし出すと、 「先日こちらのホテルで不慮の死を遂げた日高晴子の夫でございます。あの節は大変ご迷惑をおかけしました」  日高が自己紹介すると、フロントマネージャーの面に驚きの色が浮かんだ。  日高が遺体の確認をしたのは病院の霊安室である。妻が亡くなった現場へは来ていない。ホテルぐるみ彼女の不倫に手を貸しているようで来る気になれなかったのである。 「これはこれは、日高様のご主人様でいらっしゃいましたか。大変失礼いたしました」  フロントマネージャーは丁重に腰を折った。ホテル側としても晴子のパートナーに部屋を提供しておきながら、住所氏名を偽られたという弱味がある。  晴子は本名と本当の住所を宿泊カードに記録しているのである。遺族からその点を追及されれば、ホテル側にもまったく責任がないとは言いきれない。晴子の死に犯罪の疑いでもあれば、ホテル側の安全保障に欠陥があったということになってしまう。  フロントマネージャー(以後FMとする)の面を彩った当惑の色は、日高がクレームをつけに来たとおもったようである。  FMは日高を別室へ誘った。まず一般客から遮断したところでゆっくり話を聞こうという構えである。 「お忙しいところを恐れ入りますが、少々お尋ねしたいことがありまして」  日高は早速用件を切り出した。 「どんなことでございましょうか」  FMの表情に不安が揺れている。 「妻が一五二〇号室から一四二四号室に移動された状況があることはご存じでしょうね」 「そのように聞いております」 「その際一五二〇号室のキイを取りに来た男は、三十前後の若いサラリーマン体ということでしたね」 「そのように聞いております」  FMは言質をとられないように言葉を節約しているようである。 「実はその男のものとおもわれる写真を手に入れたのですが、そのときチェックインを担当した方に見てもらいたいのです」 「写真が手に入ったのですか」  日高は橋口則夫の写真をさし出した。  FMはかたわらの館内電話を取り上げると、 「中村《なかむら》君にすぐフロントマネージャー室に来るように言ってくれたまえ」  と命じた。  晴子の急死はホテルでも大事件であったので、その関係室の担当者はFMの頭に入っているのであろう。間もなく若いフロント係が入って来た。 「お呼びでございますか」 「こちらは先日一四二四号室で亡くなられた日高様のご主人様だ。君は、一五二〇号室のチェックインを担当したね」  FMは確かめた。 「はい、私が担当いたしました」  中村が答えた。 「その際、君がキイを渡した方はこの人ではなかったかね」  FMが言って、日高から渡された写真を中村に示した。中村は写真を取り上げて凝《じ》っと見つめていたが、 「たぶんこの方だと思います。ほんの束《つか》の間《ま》で、終始顔をうつむけるようにされていましたのではっきりとはわかりませんが、よく似ているとおもいます」  中村は答えた。 「よく似ていますか」  日高は上体を乗り出した。 「警察からも同じような質問を受けましたが、よく似ていらっしゃいます」 「確かにこの人物と断定できませんか」 「なにぶんほんのわずかな時間でしたので」  同一人物という証言は取れなかったが、かなり近似値まで追いつめた。  日高の心証は固まっている。一五二〇号室のキイをピックアップしたのは橋口則夫にちがいない。橋口がお膳立《ぜんだ》てをして晴子と小松原を会わせたのだ。晴子の死体を一四二四号室に移動したのも橋口にちがいない。ついに日高は小松原の足元まで肉薄した。 「一五二〇号室の名義人野々村省吾様は当夜別の名義で一四二三号室にお泊まりになっていらっしゃいましたが」  中村が日高を愕然《がくぜん》とさせるようなことを言いだした。 「それは本当ですか」 「ご存じなかったのですか」  FMと中村はかえって不審そうな顔をした。 「いいえ。いまが初耳です」 「刑事さんが一五二〇号室の野々村様のお写真を持参されまして、私どもに示されたのです。でもそれは一五二〇号室のチェックインをされたお客様ではございませんでした。たまたまその場に一四二三号室のお客様のチェックインを担当した者がおりまして、その方のお写真であることがわかったのです」 「なんだか複雑ですね。一度言われただけではよくわからない」  日高は混乱していた。そういえば刑事が晴子の葬式に来て野々村省吾という会葬者についていろいろ尋ねていた。彼は日高屋を贔屓《ひいき》にしてくれた針生謙一郎の名代として香典を持って来てくれたのである。 「つまり、一五二〇号室の野々村省吾様はご本人ではなく、たまたま同じ夜に一四二三号室に泊まり合わせていたお客様の名前を借用したというわけです」  FMが説明した。 「すると当夜、野々村省吾という名義で二部屋取っていたということですか」  牛尾も同じような疑問を持ったのである。 「いいえ。一四二三号室は村野庄三《むらのしようぞう》様という名義でした」 「すると一五二〇号室の野々村は偽者で、一四二三号室に本物の野々村が村野庄三の名前で泊まっていたということですか」 「さようでございます」 「なぜそんな面倒なことをしたのですか」 「わかりません。ただ一五二〇号室と一四二三号室はまったく無関係に泊まり合わせたご様子です」 「一四二三号室といえば、妻が取っていた部屋の隣りですね」 「さようでございます」 「それも偶然だったのですか」 「そのようでございます」 「一四二三号室の村野様名義の野々村様は別の女性を同伴されていました」  フロント係が口をはさんだ。 「別の女性を」  フロント係もホテルで不審死を遂げた女性の夫ということで、特別にプライベートな情報を提供してくれたらしい。  日高はフロントからあたえられた新しい情報にすぐには馴染めなかった。まさか村野名義の野々村がほかの女と同室しながら、日高の妻のチェンジパートナー用に隣室に待機させていたわけではあるまい。  一四二三号室を村野庄三名義で取っていた野々村省吾が容疑者として挙げられたという報道はない。つまり警察は彼を無関係とみなしたのであろう。  だが野々村省吾は晴子の隣室でいったいなにをしていたのか。また彼が同伴していたという女性はなに者か。日高の前に新たな疑問の山が幾重にも立ちはだかった。  一五二〇号室のキイを受け取った人物はどうやら橋口則夫らしい。彼が野々村省吾の名前を借用したとすれば、両名にはなんらかのかかわりがあるはずである。このへんのところも明らかにしたい。  事件に犯罪性がなければ、捜査は打ち切られているはずである。被害者ではなくなった者の遺族に捜査の経過を報告する必要もあるまい。  だが日高は晴子のパートナーに復讐をしようと決意した。その決意にとっていまや野々村省吾は見過ごせない人物となっている。野々村に会わなければならない。日高の胸に次のスケジュールが定まった。      3  増子のパートナーを橋口則夫と突き止めた翌日午後、野々村の会社に彼を訪ねて来た者がある。受付から突然の面会客を告げられて野々村はとまどった。今日の午後は特にアポイントメントはない。面会客の名前を尋ねると、 「日高様とおっしゃっています」  と受付嬢が告げた。 「日高」  咄嗟《とつさ》にはおもいだせない。 「伊豆山《いずさん》の日高様とおっしゃっています」  受付が補足した。 「ああ、伊豆山の、もしかすると日高屋旅館の日高さんかな」  日高晴子の死後、社長の名代で香典を届けている。その後、野々村は晴子の死因となったパートナーではないかと疑われた。刑事から未必の故意による殺人の疑いもあると脅かされた。晴子の夫とすれば、なぜいまごろ会社を訪ねて来たのか。野々村は身構えながら、受付に応接室に通すように告げた。  応接室へ下りて行くと、確かに見おぼえのある日高が立ち上がって挨拶をした。 「突然お邪魔いたしまして失礼とは存じましたが、この近くに参りましたので、お訪ねいたしました。その節は大変お世話になりました」  日高は丁重に礼を述べた。 「それはご丁寧に。あいにく社長はちょっと留守をしておりますが」  野々村はその言葉を素直に受け取れない。日高が野々村に疑惑を据えてなにかを探りに来たのではないか。 「いいえ、社長様には結構でございます。野々村さんにお目にかかりたいと存じまして」  日高は野々村目当てに来たことを告げた。 「社長には必ず申し伝えておきます」 「じつは野々村さんにちょっとお尋ねいたしたいことがございまして、お忙しいとは存じましたが失礼をも省みずお邪魔いたしました」  日高は訪意が野々村を目的にしていることをはっきりと告げた。 「私に尋ねたいこととおっしゃいますと、なんでしょう」  野々村は身構えを堅くした。日高が抱えてきた用件にただならぬ気配を感じ取った。 「ホテルで聞いたことですけど、野々村さんは家内がホテルで死んだ夜、たまたまその隣室に泊まり合わせていらっしゃったそうですね」  日高は野々村が予測した通りのことを聞いてきた。 「会葬したときに申し上げようかと思ったのですが、あのとき実は私も人目を憚《はばか》るパートナーを連れていたので、つい言いそびれてしまいました」  日高がここへ来たということは、彼がすでにホテルからひろみの存在を聞きだしていることを示す。 「ご事情はわかります。しかし家内が死んでいた部屋の隣室に泊まり合わせておられたということは因縁を感じますね」 「私も同感です。しかし私がいた間に隣室にまったく気配はありませんでした。奥様は別の部屋から移されて来たのにちがいありません」 「警察もそのように言っておりました。妻がいたという別の部屋、つまり一五二〇号室は野々村さんの名義で取られていたそうですね」 「そうなんです。私もそれを聞いてびっくりしました」 「その時点では、野々村さんはそのことをまったく知らなかったのですか」 「知りませんでした。だれかが私の名前を騙《かた》ったのです」 「そのだれかについてお心当たりはありませんか」 「まったくありません。刑事からさんざん責められたのですが、私にはまったくおぼえのないことだったのです」 「一五二〇号室の客が野々村さんの名義を騙ったということは、野々村さんとなんらかの関係がある人間ということになりますね」 「関係と言えるかどうかわかりませんが、私の名前を知っていたことは事実です」 「同姓同名ということはありませんか」 「同姓同名ではありませんね。住所欄に社長のアドレスの近所を記入しているのです。つまり社長と私を共通に知っている人物ということになります」 「つかぬことをうかがいますが、野々村さんは橋口則夫という人物をご存じではありませんか」 「橋口則夫」  突然、日高の口から橋口の名前が出されたので、野々村はぎょっとした。 「橋口をご存じなんですね」  日高は野々村の反応を目ざとく認めたようである。 「二、三度社長の代理で会ったことがあります」 「やっぱり」 「橋口さんがどうかしましたか」 「私は、当夜あなたの名前を騙って一五二〇号室を取った人物は橋口則夫だとおもいます」  日高は彼の調査した結果を野々村に語った。 「そんなことがあったのですか」  野々村は新たな視野を開かれたような気がした。日高が形成した心証は、すみやかに野々村の心の中に移植されている。  そのとき野々村の脳裏に閃光《せんこう》が迸った。昨夜来くすぶっていたことが日高の言葉に触発されて一斉に発火した感じである。  あの夜小松原と橋口がホテルにいたとすれば、宮沢ひろみが彼らの姿を目撃した可能性がある。もし橋口が晴子の死体を一四二四号室に運搬して来たとすれば、ひろみはそのすぐ隣室に居合わせたのだ。ひろみと橋口は距離的にも極めて接近している。  ひろみがなんらかの拍子にドアを開く。そのとき晴子の死体を運んで来た橋口を見かけたかもしれない。彼らの間に接点が生じる。  ここで意味をもってくるのが、増子がひろみをどこかで見かけたという言葉である。増子の直接生活圏の中にひろみはいない。だが間接生活圏の中ならばひろみが入ってくる可能性はある。  そして橋口とひろみに接点が生ずるならば、増子とは橋口を介して間接的に生活圏が重なり合うではないか。増子は橋口の近くにいたひろみを見かけたのではあるまいか。それが増子の記憶に残っていた。  まさか野々村がひろみと出会った五月十九日の夜、増子も橋口と会っていたわけではあるまい。それは不可能である。橋口は小松原と日高晴子とのデートの膳立てをしていたのである。橋口には当夜増子と会う暇はない。  するとひろみが橋口に再会したのは後日ということになる。故意か偶然かわからないが、ともかく事件の後日ひろみと橋口は再会した。その場面を増子が見かけたのであろう。このように考えると辻《つじ》つまが合ってくる。  今度は野々村が情報を提供する番であった。いつの間にか身構えが除《と》れている。 「奥さんが亡くなられた夜、私がその隣室に居合わせたときのパートナーは、宮沢ひろみさんといいます。この名前にご記憶はありませんか」  野々村は日高の顔を覗いた。 「宮沢……ひろみ。さあ」  日高は首をひねった。 「十月二十日、八王子の山の中に埋められていたのを発見された女性です」 「なんですって」 「彼女は殺されたのです。犯人は橋口則夫だとおもいます」 「ちょ、ちょっと待ってください。それはどういうことですか」  日高はすぐにはついてこられないらしい。野々村は自分の推理を日高に話した。 「つまり、宮沢ひろみさんが橋口則夫が妻の死体を移動している現場を目撃したために口を塞がれたということですか」 「私はそのように考えております。しかし証拠がありません」 「ホテルのフロント係の証言は証拠にならないでしょうか」 「フロント係も橋口が鍵《かぎ》を取りに来た人物と断定したわけではないでしょう。それにそのような証言の証拠価値は低いと聞いております。奥さんと小松原の関係を示すのっぴきならない証拠が欲しいですね」 「家内の遺品を探しましたが、そのような証拠は見つかりませんでした」 「よほどうまくやっていたんですよ。なにしろ政治家にとってセックススキャンダルは命取りですからね」 「生きている間は愛情のひとかけらも感じませんでしたが、死なれてみて、家内の復讐をしてやりたい気持でいっぱいです。いや、家内の復讐ではない。私自身の復讐です」 「お察しいたしますよ。お気持はよくわかります」  妻を盗まれて一言も抗議できない野々村には、日高の無念が痛いようにわかる。ただ日高には上るべき野望の階段はない。  彼らは語り合っているうちに、たがいの中に共通項を感じた。いずれも妻を蝕《むしば》まれ、それに対してなんら抵抗することのできない男の惨めさと悔しさである。  日高はすでに妻を失い、野々村の妻は健在である。それだけに日高の損害は永遠に償われず、野々村はこれからも妻を蝕《むしば》まれつづけるであろう。不甲斐《ふがい》ない男の共通項ではある。だが彼らはその不甲斐なさをもち寄って、立ち上がろうとしていた。 「野々村さん、そのことを警察に申し出ますか」 「いや、もう少し自分なりに掘り下げてみたいとおもいます」 「私も同感です。相手は小松原正之です。警察の上層部にも影響力があると見なければなりません」 「おたがいにこれから協力し合って、犯人を追及してみませんか」 「こちらこそお願いします」  彼らは共同戦線を張ることにした。      4  日高耕一が帰って行った後、野々村は自分自身の変化に驚いていた。  橋口をひろみ殺しの犯人として告発することは、野々村の社会的地位と、家庭喪失の危険を招くものである。それをあえて承知の上で日高と共同戦線を張った。たった一夜、それも二時間ほど過ごした行きずりの女のために、これまで得てきたもののすべてと将来を犠牲にしようとしている。どう考えても割に合わない取引きである。  だが人生は計算だけでは成り立たない。計算外の不可解な要素によって成り立つところに人生の面白《おもしろ》さがある。 「小松原正之、必ずきさまを引きずり下ろしてやる。それがおれの一夜かぎりの女神を殺した罰だ」  一夜かぎりであるが、それゆえに永遠である。野々村は打算だけで塗り固めたような自分の中にそのようなロマンチックな要素があることを知って、驚愕《きようがく》していた。  だが自己嫌悪はない。自分の得たものと将来を徹底的に破壊するかもしれない危険な戦いを前にして、野々村はまるで楽しいことでも計画するように胸を弾ませていた。 [#改ページ]  ささやかな反旗      1  宮沢ひろみ殺害、死体遺棄事件の捜査は難航していた。上京後一カ月に満たないうちに殺されてしまったので、彼女の生活関係や人間関係から捜査を進めていくことができない。捜査本部の内部では行きずりの犯行の線が強くなっていた。  上京後日が浅く、犯行動機をたくわえる時間が不足している。  だが増成《ますなり》と池亀《いけがめ》は行きずりの犯行説に反対であった。 「行きずりの犯行であれば、死体を埋めるような手間はかけない。殺しっ放しにして行くだろう。死体に凌辱《りようじよく》痕跡もない。現金は身につけていなかったが、家出娘であるのでもともと大した金はもっていなかったのかもしれない。死体を埋め、身許を示すような所持品はいっさい身につけていなかったのであるから、犯人には死体を隠匿し、万一発見された場合に身許を隠そうとする意図があったにちがいない」  という理由である。また犯人に連れて来られなければ、ぽっと出の宮沢ひろみが八王子山中へ立ちまわるはずがない。  彼の意見に対して、 「車に乗っていた犯人が一人の宮沢ひろみを見かけて声をかけ、車に乗せて八王子山中へ連れ込み暴行しようとしたところ抵抗されて殺し、死体を埋めたということも考えられる。所持品は犯人の車中に残されたのだろう。犯行後、犯人は劣情を失ってしまったので、被害者の身体に手をかけなかったとすれば凌辱痕跡がなくとも不思議はない」  と反論された。  夜間一人で通行中の若い女性に声をかけ車に乗せて寂しい山中に連れ込み、暴行の上殺害した事件が、数年前近県で連続して発生したことがあった。この反論は説得力があった。だが以前の事件の場合は死体に必ず凌辱痕跡があった。  現場周辺に聞き込みの網が広げられ、犯行推定日に不審な人物や車両を見かけなかったか聞き込みが進められた。  だがめぼしい成果はなかった。別の場所で殺害し、死体を車で現場まで運搬して来たとすれば、犯人と現場にはなんの関係もない。  残る頼みの綱は目撃者であるが、死体の運搬とその埋葬は深夜に行なわれたと見られ、聞き込みの網に引っかからない。  死体と共にそれが埋められていた周辺の土も一緒に採取され、厳密な観察の対象になった。死体を埋めていた土の中には被害者の衣類や所持品、あるいは犯人の遺留品が混じっているかもしれないのである。  犯人は死体を埋めた後、その体積分だけ溢《あふ》れた土を周囲の地上に万遍なくばら撒《ま》いたらしい。土は篩《ふるい》にかけられ、異物をふるい分ける。出てきたものは石や木の枝ばかりである。  諦《あきら》めかけたとき、最後の土のブロックの中から小さな異物がえり分けられた。係官がつまみ上げてみると、オレンジ色のプラスティックの容器である。先端がスポイトのように細く収束している。中に三分の一ほどの水溶液が残っている。 「目薬みたいだな」 「いや、これは目薬そのものだよ」 「メーカーのラベルが貼《は》ってないぞ」 「眼医者《めいしや》の処方した目薬じゃないか」  現場周辺には道に迷ったハイカーぐらいしか人は入り込まない。目薬のプラスティック容器は重大な証拠資料として保存された。  資料は科学検査所の化学係において分析され、容器の中身はアレルギー性結膜炎の目薬と鑑定された。被害者の遺族に問い合わされた。だが被害者にはアレルギー性結膜炎はなかったという返答である。 「おれもアレルギー性体質でね、春先から五月ごろまで、くしゃみがやたらに出て、目や耳が痒《かゆ》くなる。杉の花粉に反応するんだ」  増成が言った。 「殺されたのは五月の終りごろから六月下旬にかけてと推定されているが」  相棒の池亀が、アレルギー発症時期と犯行推定日の関連を測っている。 「人によっては一年中アレルギーの出る者がいるよ。おれは春だけだが、秋や年間を通して出ている人も少なくない」 「よく春先になると杉花粉症のことが言われるね」 「そうそう、杉花粉が最大の悪玉なんだ。現場周辺に杉が多かったね」 「杉花粉の最盛期は終っていたが、アレルギー性体質の人間には手放せないんじゃないかな」 「犯人はアレルギー体質か」 「まだ断定はできないよ。無関係の人間が入り込んで落としたのかもしれない」 「死体の発見者にも問い合わせる必要があるね」  遺品と前後して死体を発見したハイカーにも問い合わされた。だが彼らも目薬は所持していなかったという。 「残念ながらこの目薬の容器だけではどこの眼医者が出したものかわからない」  増成が悔しがった。だがそのとき幸運が捜査本部に味方した。      2  八王子署から目薬状のプラスティック容器の中身の分析を依頼された警視庁科学検査所化学第二係の大松騏一《おおまつきいち》は、数カ月前に同じ容器の中身の分析を新宿署から依頼されたことをおぼえていた。 「容器も同じだし、中身もまったく同じ処方だ。それが新宿署と八王子署から持ち込まれた」  大松は小首を傾《かし》げた。化学第二係と第三係は麻薬や覚醒剤《かくせいざい》、医薬品、飲食物、土壌、足痕跡などの分析鑑定や化学検査、採取鑑定などを行なう。ここには種々雑多な麻薬や医薬品や物質が持ち込まれて来るが、同じ目薬が半年足らずの間に持ち込まれたのは珍しい。  警視庁管内で新宿と八王子はかなり距離がある。アレルギーのシーズンであれば目薬も大量に出まわっているであろう。同じ目薬があったとしても不思議はないが、科学検査所の鑑定の対象に連続してなったのは珍しい。  大松は分析の後、一応このことを両警察署に伝えておくことにした。  新宿署の牛尾刑事は科学検査所の大松から報告を受けて、未解決のまま胸の隅に引っかけていた澱《おり》がふたたび活発に動きだしたのを悟った。  一五二〇号室の冷蔵庫の中に残されていた目薬と同じものが、八王子山中で埋められていた若い女と共に掘り出されたという。  八王子署で発見された目薬容器が、日高晴子の目薬を処方した眼科医に照会された。だがこの目薬容器は眼科医や薬局に大量に出まわっていて、内容の目薬もアレルギー性結膜炎に対して処方するもので、自分のところで出したものとは断定できないという答えであった。 「どうも気になるな」  牛尾は相棒の青柳《あおやぎ》に言った。 「眼医者へ行くと同じような容器に入れて目薬を出しますよ」 「まあそれはそうだが、一応八王子と連絡を取ってみたい」 「牛《モー》さんは、八王子の被害者《ホトケ》が日高晴子になにかつながりがあるとおもうんですか」  彼女の死には犯罪性がないということで一応決着がついている。 「あの事件はおれの心の中ではまだ決着がついていないんだよ。日高晴子のパートナーをおれは許せない。女の美味しいところばかり吸い取っておいて、自分にとって不都合となると死体をゴミのように棄《す》てやがった。男の風上にも置けないね」 「やっぱり牛《モー》さんはすごいですね。八王子ならば顔馴染みもいる。様子を聞いてみましょうか」  青柳が牛尾のペースに引き込まれた。      3  八王子でも科研からの連絡を受けて、八方塞がりの捜査本部が少し元気づいていた。宮沢ひろみを埋めていた土の中からふり分けられた目薬容器と同じものが、新宿署の事件《ヤマ》から出てきたという。両署の間に意思の疎通が生じた。  牛尾、青柳、増成、池亀の四人は顔を合わせた。彼らはかねてより旧知の仲である。過去いくつかの事件で顔を合わせたことがある。 「仮に二本の目薬の持ち主を同一人物と仮定したら、どういうことになりますかな」  牛尾が言った。 「つまり腹上死した女のパートナーが、宮沢ひろみ殺しの犯人ということになりますか」  増成が率直に要約した。先入観に染められた見込み捜査を恐れぬ仮定の要約である。 「問題は動機ですね」  青柳がその要約を踏まえて言った。 「性交中日高晴子が急死した。パートナーはその死体を自分と関係のない部屋に移しました。そこまではせいぜい死体遺棄罪ですが、そのかぎりにおいては宮沢ひろみとのつながりが見いだせません」  青柳が意見を言った。 「日高晴子の死体を放置したのは、パートナーにかなりの社会的地位があるからとおもわれます。さらに第二の殺人を犯したとすれば、日高晴子の死体遺棄を上まわるような事情がなければなりません」  池亀の言葉には含みがある。四人は顔を見合わせてそれぞれの胸の内を測り合っている。一様に盛り上がってきたおもわくがある。 「つまり、日高晴子の死体を移す現場を目撃されたような事情ということになるね」  牛尾が皆のおもわくを代弁した。三人がうなずく。 「目撃したのが宮沢ひろみというわけか」  牛尾は自分自身に確かめるように言葉を補った。 「牛《モー》さん、一四二三号室には野々村省吾が村野庄三名義で女を連れて泊まっていましたね」  青柳がおもいだしたように言った。彼の言葉に触発されて牛尾は新しい発想を得た。 「そうか、野々村の同行者に宮沢ひろみを当てはめてみればすっぽりとおさまるね」  野々村の言葉によれば女は「ひろみ」と名乗っていたそうである。 「野々村は同夜十一時ごろひろみを一人残して帰ったそうです。その後一四二四号室に日高晴子の死体が移されて来たのです。ひろみはそれを目撃できる最も近い位置にいたことになります」 「どういうことか説明してくれませんか」  増成が言った。八王子署の彼らには、日高晴子や野々村省吾や村野庄三の複雑な位置関係はわからない。青柳がかいつまんで説明した。 「一四二三号室にいた村野名義の野々村は、同行した女の名前を言わなかったのですか」  池亀が当然の質問をした。 「街で拾った女でひろみというだけで素性も住所も知らなかったそうです」 「野々村に確かめればひろみが宮沢ひろみかどうかわかりますね」 「彼が素直に認めてくれればね」 「どういうことですか」 「野々村雀吾はハリラックス社長針生謙一郎の女婿です。女房に隠れてコールガールとホテルにしけ込んだことが露見したら、家庭を失うだけでなく、会社を首にされるかもしれない。日高晴子のパートナーに名前を借用されて、たまたま同じホテルに女としけ込んでいた事実が我々にバレて戦々恐々としていました。彼がホテルに連れ込んだ女の素性が割れたら、もはや言い逃れようがない。名前も住所も知らなかったというのは嘘《うそ》で、知っていながら我々に隠していたのかもしれないのです」 「そのような事情があったとすると、野々村にも宮沢ひろみを殺す動機がありますね」  池亀が新しい示唆をした。 「コールガールと一度寝たぐらいで、家庭を失い、会社を首になるかどうかわかりませんが、生殺与奪の権を針生に握られている彼の身分では、絶対知られてはならない弱味だったでしょう。ひろみとの関係が明らかになれば、彼ははずせない容疑者になります」 「ますますひろみとの関係を認めにくくなりますね」  二本の目薬によって散乱していた事件の要素が結びつきかけている。だが、それはあくまでも刑事の憶測に頼ったものにすぎない。それも極めて大胆な仮定に基づいた憶測である。      4  野々村は久しぶりに牛尾と青柳の訪問を受けた。その後音沙汰がないので、事件は落着したと思い構えを解いていた。よく来たとも言えず、野々村はその対応にとまどった。 「あの節はいろいろとご迷惑をおかけしました」  牛尾が如才なく言った。 「その後日高晴子さんのパートナーについてなにかわかりましたか」  野々村はそれとなく探りを入れた。日高との間に連絡がついて、小松原正之という容疑者の名前を得ているが、警察がどこまで調査の触手を伸ばしているかわからない。 「かいもく見当がつきません。よほど上手に忍び逢《あ》っていたんですな」  牛尾が面目なさそうに言った。もっとも情交急死した死者のパートナーをいつまでも追っているほど警察は暇ではないのであろう。日高も共同戦線の協定を守って、警察にはなにも告げていないらしい。 「今日はまたなにか」  野々村は用件をうながした。多忙な刑事が来たからには具体的な用件をかかえているはずである。刑事と向かい合っていると痛くもない腹を探られるような気がする。それがすでに相手のペースに引き込まれている証拠である。 「新しいことがわかりまして、またご意見をおうかがいしたいのです」  牛尾が野々村の顔を覗き込んだ。 「どんなことでしょう」  野々村は身構えた。青柳がかたわらから彼の態度を凝っと観察している。 「五月十九日夜、一四二三号室に入室された際、女性を同伴していたとおっしゃいましたね」 「はい」 「その女性の名前をご存じですか」 「街で拾ったひろみという女性だと申し上げましたが」 「顔を見ればおもいだしますか」 「おもいだせるとおもいます」 「彼女のフルネームは宮沢ひろみさんではありませんでしたか」  野々村はいきなり棒で頭を痛打されたように感じた。事実その部位にショックが走ったようである。 「いかがですか、ご存じですか」  牛尾は追いすがった。野々村の反応を二人が凝っと見届けている。 「いいえ、知りません」  野々村はようやく声を押し出した。 「テレビや新聞はご覧になりませんでしたか」  やはり警察は宮沢ひろみを嗅《か》ぎだしていたのである。だが彼女を知っていると認めることは、具体的に不倫を認めることであり、妻に対して言い開きができなくなる。 「十月二十日、宮沢ひろみさんは八王子市域の山中に首を締められて埋められていたのを発見されました。テレビや新聞に彼女の顔写真が大きく載りましたよ。あなたはそれをご覧になりませんでしたか」 「ニュースは見ていたかもしれませんが、気がつきませんでした」 「顔を見ればおもいだせるとおっしゃったじゃありませんか」 「実物と写真では様子が変わっておりますから」 「どうして様子が変わっているとわかったのですか」  牛尾は容赦なく追いすがってきた。 「そ、それは」  おもわず言葉がつまったところに、 「野々村さん、協力していただけませんか。当夜宮沢ひろみさんがあなたと一四二三号室に同室した女性であるなら、彼女は日高晴子さんの死に関連して殺された疑いがあります。あなたの証言によってひろみさんの殺害動機が浮かび上がるのです。ご協力願えませんか」  牛尾がひたひたと迫ってきた。 「その人が私と一緒にいたことになれば、どうして犯行動機がわかるのですか」  野々村は土俵際で悪あがきをするように尋ねた。 「あなたは察しをつけているはずです。すぐ隣室に日高晴子さんの死体が転がっていた。あなたが一四二三号室におられた間は気配も聞こえなかったという。あなたが帰った後に死体がかつぎ込まれたのでしょう。その気配に宮沢ひろみさんがドアを開けてなにげなく様子を見る。そこで犯人の顔を見たのです」 「それだけのことで宮沢ひろみさんが殺されたとおっしゃるのですか」 「動機としては充分です。日高晴子さんの死体を移したという事実は、パートナーにとって彼女との関係が露見するだけで相当なダメージを受けることを示しています。もしその死体運搬の現場を見られたならば、それ以上のダメージとなることは疑いがありません」 「しかし、彼女は上京して来たばかりだと言っていました。仮に彼女がその場面を目撃したとしても、日高晴子さんのパートナーの素性はわからなかったでしょう」  野々村が牛尾との会話を噛《か》み合わせるほどに、宮沢ひろみとの関係を認めることになる。だが噛み合わせざるを得ないように追い込まれている。巧妙な誘導尋問であった。 「宮沢ひろみさんが日高晴子さんのパートナーを知っていようと知っていまいと、彼にとってひろみさんが危険であることには変わりありません。ひろみさんに見られたという意識だけでパートナーは生きている心地がしなかったはずです」 「だったらなぜすぐ殺さなかったのですか。推定犯行時間帯からしても、ひろみさんが殺されたのは日高晴子さんの死後最大限一カ月以上経過しております」  野々村はいつの間にか、自分の同行者が宮沢ひろみであるという前提の上で話をしていた。 「死後経過期間を最小限に見つもれば、間をおかず殺害した可能性もあります。その場は酔っぱらった女を介護するようなふりをしたのかもしれません。ともかくその場はなんとかごまかした。だが翌朝になって死体が発見されれば、ひろみさんは介抱していた男が怪しいと気がついたはずです」 「気がついてもパートナーの素性を知らなければ、彼にとって危険はないでしょう」 「パートナーの顔や特徴をはっきりと見られてしまったかもしれません」 「翌朝あなた方が捜査したとき、彼女はあなた方になにも届け出なかったのですか」 「我々が現場に駆けつけたときは、一四二三号室はすでにチェックアウトした後でした」 「すると、彼女と犯人はどうやってその後接触したのでしょう」 「まず偶然再会したということが考えられます。次に彼女が犯人の顔を知っていて、後日連絡したという可能性もあります」 「彼女が連絡したとおっしゃるのですか」 「その可能性もあるということです」 「なんのために連絡したのですか」 「彼女はあなたに自分を買ってくれと申し出たそうですね」 「その夜泊まるところがないので、どこかに泊めてほしいと言いました」 「つまり彼女はその夜上京したばかりで、所持金も充分ではなかったと考えられます」 「彼女が金に困って日高さんのパートナーを恐喝したというのですか」 「その可能性は充分に考えられます」 「彼女はそんな人間ではありません」 「一夜かぎりの行きずりの同行者をどうしてそのように言い切れるのですか」 「彼女は私が提供した金を多すぎると言って返そうとしたのです」 「あなたの言葉を信ずるとして、なにかの偶然によって宮沢ひろみさんとパートナーが再会した場合、パートナーにとってはそれだけで脅威だったでしょう」 「再会しただけでも殺人の動機になったというわけですね」 「そうです。犯人はそれだけ失うものを多くもっている。野々村さん、もしあなたのパートナーが宮沢ひろみさんと特定されれば、犯行動機の見当がつけられます。日高晴子さんの死体遺棄事件もまったくちがった様相を呈してきます。我々は日高晴子さんの事件をふりだしに戻して徹底的に洗い直します。そこから宮沢ひろみさんの殺人被害が発している可能性があるのです。宮沢ひろみさんはあなたの同行者だったのでしょう」  野々村は牛尾に肉薄されておし黙った。この期に及んでも自衛本能が彼に歯止めをかけている。日高耕一と共同戦線を張るのと、警察にひろみとの関係を認めるのとでは危険の種類が異なる。  妻に隠れて街で拾った女との情事が、殺人事件に関連するとあっては救いがない。しかもその場合、野々村の証言が事件の重大なキイとなるのである。 「野々村さん、あなたはすでに宮沢ひろみさんが当夜の同行者であるということを言外に認めています。我々の意図はあなたのプライバシーを暴くことにはありません。犯人を挙げ事件の真相を明らかにしたいだけです。どんな人間にも生きる権利はある。それをこの犯人は、東京に夢を寄せて、上京して来たばかりの十九歳の少女を自分の都合で殺してしまったのです。こういう人間を許しておくことはできない。あなたは彼女を恐喝するような人間ではないと弁護した。でしたら彼女を殺した犯人の捜査に協力してください」  牛尾につめ寄られて、野々村はそれ以上逃げ切れなくなった。野々村の中に目覚めてきたロマンチックな要素が牛尾によって揺さぶりをかけられている。  ひろみとの関係を牛尾に認めることは、彼の生活の拠点を危うくするものである。だがそれを否認することは、人間としてのある部分を拒否することでもあった。 「わかりました。私が五月十九日夜、一四二三号室で共に過ごした女性は宮沢ひろみさんです」 「あなたの供述によって事件の輪郭が具体的になってきましたよ。いまのところ、宮沢ひろみさんには日高晴子さんとの関係、つまりその隣室に居合わせたという事実以外に殺人の動機が見当たりません。我々はこの線でもう一度調べ直してみます」 「日高晴子さんのパートナーについてはまだなにもわかっていないのですか」 「なにもわかっていないというより、調査をしておりません。犯罪性が希薄ということで、立件しなかったのですから」 「宮沢ひろみさんが私の同行者ということになると、日高晴子さんのパートナーも再度捜査し直す必要がありますね」 「もちろんです。彼が最有力容疑者ですよ。あなたが証言してくださったので申し上げますが、これまではあなたが宮沢ひろみさん殺しの最有力容疑者だったのです」 「私が」  牛尾の意外な言葉に、野々村はぎょっとなった。 「あなたにとって、宮沢ひろみさんとの関係を表沙汰にされることは、あなたの地位や家庭を失うかもしれない危険があります。つまりあなたも宮沢ひろみさんに対して殺人動機があるわけです」 「彼女は街で行きずりに出会っただけです。たがいに名前も素性も知らぬまま別れました」 「その後再会して彼女からあなたが恐喝されたという可能性もあります」 「もしそうなら、私は絶対に彼女との関係を認めませんよ」 「そうでしょう。あなたは認めた。しかも彼女の人間性について弁護した。だから我々もあなたの容疑を解いたのです。もしあくまでも認めないようでしたら、あなたの立場は深刻なものになったはずです」 「私も被害者の一人です。ひろみさんのように命は奪われておりませんが、名前を無断借用されて事件に巻き込まれました。たった一夜の行きずりの恋人ですが、彼女を殺した犯人が憎い」 「それであなたにあらためてお尋ねしますが、一五二〇号室のあなたの名前を騙った人物は、あなたと針生社長になんらかのかかわりがあったと考えられます。いかがでしょう。お心当たりはありませんか」  牛尾の質問の鉾先が変わった。 「心当たりがないこともございませんが、私の口からは申し上げられないのです」 「心当たりがある」  牛尾と青柳が上体を乗り出した。 「実はほかの方からヒントをあたえられました。憶測だけで証拠はありませんが、かなり近いとおもいます」 「ほかの方とはだれですか」 「日高耕一さんです。日高晴子さんのご主人です」 「日高さんのご主人が、殺された奥さんのパートナーについて心当たりがあるとおっしゃったのですか」 「推測です。その推測がいい線を行っているような気がいたします」 「なぜあなたの口からは言えないのですか」 「日高さんと約束をしたからです。下手をすると我々の憶測だけで、VIPを窮地に陥れることになります」 「その人物はVIPなのですね」 「ご想像にお任せいたします。私、というよりは針生社長にとって大切な方です。私の口からは憶測だけで申し上げられません」 「日高さんなら話してくれるというわけですね」 「日高さんは奥さんを奪われた直接の被害者です。あの人は心当たりの人物を申し出るだけの権利があるとおもいます」 「なるほど。しかしなぜ日高さんは申し出ないのでしょう」 「まだ証拠がつかめていないからです。私たちは協力して証拠を探そうと約束しました」 「そのことは警察に任せていただきたいですね」 「日高さんも私に会うまでは、宮沢ひろみさんが殺された事件が奥さんにかかわっているとは知らなかったのです。奥さんの不倫の相手を突き止めたところで自分がみじめになるだけとおもったのでしょう」  日高が復讐をしたいと言っていた言葉は伏せた。日高が警察に届け出ないのは、野々村に対する配慮であろう。復讐するにしてもまだ持ち札が弱い。備えが不充分な間に小松原と対決すれば叩きつぶされてしまう。  小松原を仕留めるためには野々村の協力がぜひとも必要である。そのためには野々村に危険を冒させなければならない。日高は野々村が進んで宮沢ひろみとの関係を明らかにした事実を評価しているのである。  妻に支配された男同士として、野々村が揚げた反旗の意味がわかる。それを日高に告げたことで、反旗の旗幟《きし》を明らかにしたのだ。  日高との関係は野々村が告げ、小松原正之の名前は日高から言わせるのがよい。それがそれぞれの守備範囲というよりは、持ち札に応じている。それぞれの持ち札によって、日高は妻の復讐を、野々村はひろみの仇《かたき》を討ち、合わせて妻の鎖つきの人生にささやかな反旗をひるがえすのだ。 「わかりました。早速日高さんに聞いてみましょう」  牛尾はうなずいた。 [#改ページ]  かばんの中身      1  野々村省吾と日高耕一によって事件の新しい輪郭が浮かび上がってきた。小松原正之とは予想外に大物の浮上である。政権党第三位派閥の事実上のボスとして次期政権を射程に入れているダークホースである。  警察上層部にも人脈が多い。下手に動けば捜査そのものを叩きつぶされてしまう。それだけの実力を持っている大物である。 「凄い大物が出てきましたね」  青柳も表情を引きしめている。 「うん。それだけに動機は充分ということになる。並みの人間なら、情事の相手が急死したぐらいではべつにどうということはないが、小松原ではマスコミに徹底的にむしられる。政治生命にもかかわるだろう。まして相手が近頃とみに政治旅館として名高い日高屋旅館の女将とあっては、マスコミの絶好の餌《えさ》だよ」 「宮沢ひろみ殺しも小松原の意志でしょうか」 「目撃されたんだろうな」 「証拠が欲しいですね」 「犯人像としては充分だ。だが証拠がないかぎり、下手に捜査会議には出せない」 「八王子の方にはどうしましょう」 「もう少し保留しておこう」  牛尾は小松原正之の名前を割り出したものの、その推理の組み立てがかなり脆《もろ》いことを知っていた。  まず日高耕一が小松原の秘書橋口則夫に疑惑を抱いたきっかけは、さし戻された晴子の古い葉書からである。葉書に記された住所には小松原の事務所があった。晴子は事務所のあるビルの名前を記入し忘れたのである。  葉書の文面は考えようによっては意味深長な含みがあるが、素直に解釈すれば旅館の女将が出したごく平凡な挨拶状である。その文面から晴子と小松原との関係を推測するのはかなり強引である。  また一五二〇号室の宿泊カード記入にあたって、野々村と針生の名前と住所を無断借用できる者は夥《おびただ》しい数である。二人の知人の中から小松原を特定する理由はなにもない。  また宮沢ひろみが殺された動機として、日高晴子の死体運搬の目撃が最も有力であるが、あるいはまったく別の動機かもしれない。死体運搬の現場を目撃したとしても、それが小松原や橋口と特定されているわけではないのである。小松原を晴子のパートナーと決めつけるわけにはいかない。  日高と橋口則夫の妹の見合いに対して橋口がむきになって反対したということだが、これも証拠としては弱い。だがこれらの諸状況を合成してみると、小松原の容疑性は極めて濃厚になるのである。  捜査会議においては、合成した状況では説得力がない。この合成された状況を確固たる犯人の鋳型にはめ込むためには、有無を言わせぬ物的証拠が欲しい。      2  年が替った。小松原正之が政界入り二十五周年を記念して、自叙伝『わが日、わが夢』を出版し、その出版記念パーティーが開かれることになった。要するに資金集めのパーティーである。  そのパーティー券の割り当てが、ハリラックスにもきた。 「一枚五万円とは小松原先生、吹っかけたね」  そのパーティー券の高額なのに、担当者は驚いた。政治家パーティーの券は大体二万円から三万円が相場である。 「むしろそのくらいの方が、はっきりしていていいんじゃないかな。貧弱な料理と寄付の酒だけで一枚五万円も取るんだ。それを買うのは一種の踏絵だよ」 「一枚五万円分のお引き立てはしっかりとしてもらわなければな」  担当者はそんな言葉をささやき合った。政権党の陣笠《じんがさ》代議士でも年間二億円ぐらい使う。国会議員に支給される歳費や文書、通信費などではどこにも足りない。この赤字を補うために各議員は励ます会やシンポジウムの名目でパーティー券を売りさばく。これの売上げで赤字を埋め、資金を稼ぎだすのである。  パーティー券を多く買ってくれた者には忠誠を誓った証《しるし》として今後の庇護が約束される。政権党内の有力者や成長株のパーティー券は高く、また売れ行きもよい。有力派閥のパーティーともなれば、一夜にして十億円以上集まる。  パーティー収入は政治資金規制法の枠外であり、その収支を公開する必要がない。だれが何枚買ってくれたか知られないので、売る方も買う方も都合がよい。  パーティー券の利益率は高い。一枚五万円として、六割の三万円は儲《もう》けとなる。一万枚を目標として五億円、三億円が儲けとして手許に残る勘定である。  小松原の場合はまだモデストである。総理や幹事長クラスになると十億円、二十億円のパーティーを開く。そのパーティー券を売りさばくのが秘書の役目である。秘書は強引にあるいはもみ手をしながら、各企業にパーティー券を売りこむ。このパーティー券の売り込みによって秘書の実力が定まる。  小松原正之の出版記念パーティーに先立ち、ハリラックスにもパーティー券の割り当てがきた。最初の電話に応対したのは野々村である。 「小松原正之事務所の橋口ですが」  という前口上に野々村はどきりと胸を衝《つ》かれた。橋口はいかにもやり手の秘書らしく、一見低姿勢をとりながら、有無を言わさぬ口調でパーティー券を割り当てた。これを拒否すると、今後小松原の庇護は得られないことになる。  だが野々村としても割り当てを鵜呑《うの》みにはしない。政治献金は別口で行なっているのであるから、パーティー券の購入は余分な出費である。小松原に対する忠誠の姿勢を崩さぬようにしながら、割り当てを値切るのである。 「もう少し色をつけてくれませんか。それでは私が先生に合わす顔がありません」  橋口はねばった。 「私の方としてもこれがぎりぎりの線です。これでも小松原先生のパーティー券は他の先生方の中で最も多く購入しているのです」 「ハリラックスさんのご支援は常に感謝しております。しかし今回のパーティーは先生にとっても特別な意味がございます。二十五周年のお祝いと初めての自叙伝出版の記念を兼ねておりますので、この際特に奮発していただきたいのです。またこの著書の中にも針生社長について書いてあります」  さすが第一秘書をもって自他ともに任ずるだけあってアプローチが巧妙である。橋口は野々村で埒《らち》が明かなければ、針生に直訴すると暗にプレッシャーをかけている。  議員にとっての私設秘書は忍者である。議員になり代わって最も汚い仕事をするのが彼の役目である。 「わかりました。なるべくご要望に副《そ》うようにいたしましょう」  野々村はついに押し切られた。 「それでは明日、パー券を持参いたします」  間髪を入れずつけ込まれた。そのへんの呼吸は見事というほかはない。一言でも言質をあたえようものなら、それを足がかりにして懐ろに飛び込んで来る。一歩退けば一歩進む。  野々村は会話の間に橋口が日高晴子の死体を運搬したにちがいないという心証を固めた。それは橋口でなければできない仕事である。  橋口にはすでに何度か会っているはずであるが、野々村は緊張した。橋口は野々村に増子との関係を悟られていることを知らないようである。彼に全部知っているぞと告げたならどんな顔をするであろうか。おそらく眉一筋動かさずシラを切り通すであろう。  妻を盗んでいる男から、パーティー券を売りつけられる。これを泥棒に追い銭というのだろうか、と野々村は自嘲《じちよう》のつぶやきをもらした。      3  翌日約束の時間に橋口は現れた。筋肉質の体を仕立てのよい背広に固め、精悍な表情に愛想笑いを浮かべた橋口は、辣腕の商社マンといった体である。 「この度はたくさんパー券をお買い上げいただきましてありがとうございます。先生も殊のほかお喜びで、よろしくとのことでございました」  野々村がなにも言わぬうちに、橋口は最敬礼をした。すでに小松原の耳にハリラックスの購入枚数が報告されていれば、それを値切るのは、ハリラックスの忠誠度を値切ることになってしまう。 「橋口さんにはかないませんね」 「いやいや、本来ならもっとお買い上げいただきたいところでございますが、野々村さんのペースに乗ってしまい、安く切りだしたのが不覚でした」  橋口の言葉はあくまで如才ない。 「あれで安く切りだされたのですか」 「諸先生の中で最高だと言われると、予算額を切りだせなくなってしまいました」 「このところ先生方のパーティーが目白押しで、おつき合いに大変なのです」 「そのおつき合いをいまによかったとおもいますよ」 「ぜひそのように小松原先生には頑張っていただきたい」 「五万円のパー券が先生の自信を示しております。本当は十万円にしたかったのです。二万や三万のパー券はどぶへ捨てるようなものです。五万円いただくからには必ずそれ相応のお返しはいたします。これはパー券ではございません。小松原先生に投資する株券とおもってください」 「株券ですか。なるほど、小松原先生は民友党成長株のナンバーワンですからな」 「そのご期待には背きませんよ」  橋口は自信たっぷりに笑うと、秘書が運んで来た茶を取り上げた。 「ところで橋口さん、最近は伊豆山の日高屋旅館へ出かけられることはおありですか」  野々村はそろりと探りの触手をさし出した。 「日高屋旅館ですか。いいえ」  橋口は無表情に首を振った。その無表情ぶりが意志的に造ったもののように感じられた。 「そうですか。過日、社長の随行で日高屋旅館へ行ったとき、日高さんからあなたのお妹さんと見合いをしたという話を聞きました」 「妹が日高屋の主人と見合いですって」  橋口は驚いたような表情を造った。 「ご存じなかったのですか」 「全然。妹は見合い魔でしてね、もう何十回も見合いをして、断わったり断わられたりしています。とてもつき合ってはいられません」 「そうですか。日高屋旅館といえば、たしかあそこのおかみが東京のホテルで急死したと聞きましたが」  野々村は核心へ入っていった。 「そんなことをニュースが言っていましたな」  橋口の表情は平静そのものである。 「どうやら日高さん、妹さんにふられたご様子でした」 「ふられたのは妹の方でしょう」 「ふられたにしても、妹さんのようなお嬢さんとお見合いできるのですから羨《うらや》ましいかぎりです」 「妹をご存じなのですか」 「いいえ、日高さんからうかがったのです。美しいお嬢さんだそうですね」 「美しいというのは主観的な問題ですからね」 「日高屋の女将もなかなかの美形でした」 「まだ若かったそうですね」  橋口はあまり話題にしたくない様子である。 「心臓が悪くて、腹上死だという噂もあります」  野々村は意地悪く言った。 「それはまた猟奇的な死に方ですな」 「噂雀《うわさすずめ》どもはもっぱら相手はだれかと詮索し合っておりますよ」 「死んでは花実も咲きません。あの若さで惜しいことです」  橋口はもぞもぞと尻を動かした。腕時計を覗いて暗に忙しぶりをした。 「あの事件では私も大変迷惑を被りました」  野々村は橋口の帰りたそうな姿勢を無視して言葉をつづけた。 「ほう、どんな迷惑を」  橋口は渋々ながら話題の相手をつとめた。大量のパーティー券を買ってくれた顧客でもあるので無下にはあしらえないようである。 「日高屋の女将のパートナーが、私の名前をホテルで無断借用したらしいのです。警察からぎゅうぎゅう絞られましたよ」 「つまり野々村さんの名前を騙って、女将とデートをしていたというわけですか」 「そうです。警察はてっきり私をおかみの腹上死のパートナーだとおもったらしいです」 「それはまたご迷惑というか、艶《つや》っぽい濡《ぬ》れ衣《ぎぬ》ですな」  橋口はまったく動じない。 「私を知っているだれかが私の名前を騙ったのにちがいありません。私だけでなく住所は社長のアドレスを借用していました」 「社長はどちらにお住まいでしたかな」  橋口は澄ました顔をして問うた。 「世田谷の赤堤《あかづつみ》です。私の名前の下に社長の住所を記入しておったのです」 「それはまだご念の入った騙り方ですな」  野々村は、日高晴子が死んでいた隣室に居合わせた宮沢ひろみのパートナーは自分だと橋口に告げたい衝動に駆られた。だがそれを言えば橋口から増子に筒抜けになるであろう。橋口を仕留める前に自分が叩きつぶされてしまう。野々村はその衝動を危ういところで怺《こら》えた。 「死んでは花実も咲かないといえば、過日八王子山中に首を締められて埋められていた若い女性の死体が発見されましたね」 「ほう、そんな事件がありましたか」  依然として橋口の表情にはなんの変化も現れない。 「宮沢ひろみという十九歳の家出女性です」 「その宮沢なんとかがどうかしましたか」 「警察からおしえられたのですが、日高屋の女将が死んでいた部屋のたまたま隣室に隣り合わせていたそうです」  これは野々村にとってかなり危険な崖っ淵へ近づくことである。宮沢ひろみはホテルにいっさい記録を残していない。日高晴子の死体が発見されたときはすでにひろみはチェックアウトしており、警察の網から逃れていた。だが警察にはすでに野々村がひろみのパートナーであったことを告げてある。 「それはまた偶然ですな」  橋口はあくまで無関心を装って答えた。橋口が犯人であれば、ひろみが一四二三号室に泊まり合わせていた事実を知っているはずである。 「警察は宮沢ひろみが日高屋の女将に関連して殺されたと疑っているようですよ」 「その二人にどんな関連があるのですか」  橋口は無関心を装いながら会話をつなぐような口調で問うた。 「宮沢ひろみは女将のパートナーを見かけたらしいのです。パートナー本人かその腹心かわかりませんが、女将と一緒にいたところを目撃したためにその口を閉ざされたと警察は見ているようです」 「あなたはどうしてそんなことをご存じなのですか」 「私が宮沢ひろみを殺したと疑われたからです。なにしろ女将が死ぬ直前まで共に過ごしていたと見られるホテルの部屋の名義人が、私の名前になっていたのですからね、疑われても仕方がありません」 「それは大変なご災難でしたね。それで、その疑いは晴れたのですか」 「どうにかアリバイが成立しまして。アリバイがなければ危ないところでした」 「疑いが晴れてよかったですね。お話が面白くて大変長居をしてしまった。そろそろおいとまいたします。パーティー券の方はなにとぞよろしくお願いいたします」  橋口は急にそそくさと立ちあがった。  応接室の出入口まで送った野々村は、別れ際におもいだしたように、 「そうそう、過日ニュー××ホテルであなたをお見かけしましたよ」 「ニュー××ホテルで」  背を見せていた橋口が一瞬ぎくりとしたのが感じ取れた。 「あれはたしか昨年の十一月一日の夜でした。同じホテルで私の大学時代の同窓会がありましてね、ホテルのタクシー乗場で車待ちをしていると、あなたによく似た方が乗用車を運転して構内に入って来ました。暗かったのと、たまたま空車が来たのでそのまま声をかけずに来てしまいましたが、あれはあなたでしたか」 「いえ、それは私ではありませんね。他人の空似ではありませんか」  橋口は背中を見せたまま答えた。      4 「俗に選挙は地盤、看板、鞄《かばん》といわれるが、政治家はその鞄の中にどんな持ち物を忍ばせているのであろうか、政治家のプライベートライフを直撃?」こんな見出しで週刊誌が特集をしていた。  親しみやすい政治家として選挙民へのアピール効果を狙《ねら》ったのか、かなりの大物政治家がインタビューに答えている。その中に小松原正之がいた。  大物政治家となると選挙区と東京の間を忙《せわ》しく往復する必要はない。地元は秘書や後援会に任せて、東京でもっぱら派閥の駆け引きや国会対策に憂き身をやつす。つまり大物には実際の鞄はあまり必要ないのである。  だがそこはそれ、選挙区や国民へのPR用にそれぞれもっともらしい鞄をもち出して、人畜無害の内容物を紹介している。  小松原正之の鞄の中身は、洗面用具、保健薬、日本のオピニオンリーダー的雑誌、非常用食料、小型カメラ、名刺、いま若者に流行のヘッドホンステレオなどである。それぞれの中身の下に本人による注釈が加えてある。  例えば非常用食料の項目には、「あちこち忙しく動きまわっているために食事をするチャンスを失うことが多い。胃を空虚のままにしておくと胃潰瘍《いかいよう》になりやすいので、車の中などでこれをつまむと胃袋だましになる。パーティーなどに出席しても多数の人と話をするので食物をつまむ暇がない。あらかじめ鞄の中の非常食で腹ごしらえをしておいて、しっかりと人に会う。一度台風時に新幹線に乗り合わせて車内に長時間閉じ籠められ、非常用食料のおかげて大助かりしたことがある。私だけでなく周囲の乗客にも配って感謝された」  と書いてある。  またヘッドホンステレオの項目には、「私はメモが苦手なので、メモ代わりにテープに吹き込んでおく。本来は記録用に購入したものが、寸暇を盗んでもっぱらヘッドホンでステレオを楽しむようになった」  と、こんな調子である。  衛生無害の所持品にかこつけて、それとなく自慢話や庶民に親しまれやすい政治家をPRしている手口は見事である。  保健薬の中に目薬が入っていた。その項目には、「自分は年間を通してアレルギーが発症する。最初は春の杉花粉に反応していたものが、秋のぶた草にも反応し、そのうちに一年中慢性アレルギーとなってしまった。とくに目に強く現れ、アレルギー性結膜炎が癒《なお》ることがない。この目薬は行きつけの眼科医に処方してもらったものであるが、片時たりとも手放せない持薬である。アレルギーが発症するのは若い証拠だと言われるので、我慢してこの厄介な体質とつき合っている」  と紹介されている。  この週刊誌の記事が牛尾の目に触れた。同僚がデスクの上に残していった週刊誌をなにげなくパラパラとめくっていると、この記事が目に入ったのである。牛尾の目はその目薬の写真に吸いつけられた。 「青ちゃん」  牛尾は興奮を抑えた声で青柳を呼んだ。 「なんですか」 「ちょっとこれを読んでくれ」  牛尾は青柳の方にその週刊誌を指先で押した。記事を読む青柳の顔色が改まった。 「あの目薬は、小松原の遺留品だったかもしれませんね」 「たまたま日高晴子も同じ目薬を使用していたために混同されてしまったのだろうか」 「アレルギー性体質は多い。二人がたまたま同じ体質の持ち主だったとしても不思議はありません」 「目薬を点眼する場合には必ず指でつまむ。冷蔵庫の目薬には、日高晴子の指紋が残っていたよ」 「同時に対照不能の指紋も押されていました」 「小松原の指紋が欲しいね」 「それは難しいですね。彼には前科もないし、身柄の拘束を伴わなければ指紋をとることはできません」  刑事訴訟法第二一八条第二項により、強制捜査によって身体の拘束を受けている被疑者の場合、指紋や足型を取ることができる。小松原が過去、交通事故などにより過失致死傷罪などに問われて指紋を取られていれば、その指紋を利用することができる。だがその望みは薄いと言わなければなるまい。 [#改ページ]  揺れる接点      1  そのとき捜査本部の牛尾宛《うしおあて》に一本の外線電話がかかってきた。 「突然お電話して申しわけありません。野々村《ののむら》です」  相手は名乗った。 「野々村さんとおっしゃると、野々村|省吾《しようご》さんですか」  牛尾は確かめた。 「そうです」 「あなたからお電話いただくとはおもいませんでした。なにか急ぎのご用事ですか」  牛尾には予感が働いた。 「実は本日、橋口則夫《はしぐちのりお》が私の社へ来ましてね」 「橋口則夫、小松原正之《こまつばらまさゆき》の秘書ですか」 「そうです。小松原の出版記念会のパーティー券を売り込みに来たのです」 「資金稼ぎの政治家のパーティーが花盛りですからね」 「私どもも大量のパーティー券を割り当てられました。これも一種の税金ですね」 「税金は税金でも、悪税の最たるものでしょうな」 「実はその橋口の件で、ちょっとご意見をうかがいたいことがありまして」 「なんでしょう」 「橋口に、私が日高晴子《ひだかはるこ》さんのパートナーとして名前を無断借用されたことや、宮沢《みやざわ》ひろみ殺しの犯人として疑われたことを話したのです」 「ほう、それは野々村さんとしてはずいぶんおもいきったことをなさいましたな」  牛尾は野々村を見直すようなおもいがした。橋口にひろみ殺しの容疑者として警察からマークされたことを告げるのは、彼女との情事を自ら半ば明らかにするようなものである。 「橋口は眉《まゆ》一筋動かしませんでしたよ」 「まるで無関係というわけですか」 「それでいながら事件にかなり興味をもっていた様子がうかがわれました」 「小松原が日高晴子さんのパートナーであれば、橋口は無関係ではあり得ません」 「そこでふとおもいついたことなのですが、橋口の指紋を採《と》りました」 「なんですって」 「橋口に茶を出したのですが、茶碗《ちやわん》に彼の右手五本の指の指紋が鮮明に残されております」 「その茶碗は保存されてありますか」 「なにかのお役に立てばとおもい保存してあります」 「それをぜひお借りしたい」 「そうおもったのでお電話したのです」  牛尾は小躍りしたいおもいを抑えた。 「おい、橋口の指紋が採れたよ」  電話を切って青柳《あおやぎ》に言った。 「橋口ですか。小松原のではないのですか」  青柳は牛尾ほど喜んでいないようである。 「野々村の電話を受けておもったんだが、小松原自身が日高晴子の死体を運んだり、八王子《はちおうじ》の山の中に宮沢ひろみを埋めたりしたわけではあるまい。手を下したのは橋口だ。すると八王子に目薬を落としたのも橋口ということになる」 「橋口がアレルギーなのですか」 「いや、橋口自身がアレルギーかどうかは関係ない。彼が小松原の最側近として、小松原の持薬を持ち運んでいたとしてもおかしくはないだろう」 「あ、そうか。冷蔵庫の目薬の不明指紋は、橋口のものである可能性がありますね」  青柳の目が輝いた。 「そうなんだよ。ボスが片時も手放せないという目薬を、最側近がもっていたとしても不思議はない。あるいはスペアの目薬かもしれない」 「対照して二つの指紋が合致すれば、橋口を引っぱれますね」 「橋口を引っぱるということは、小松原に王手をかけるようなものだ」 「とうとう小松原の首根を押さえましたね」 「まだそこまではいかない。指紋を対照して、そのあとで捜査会議にかける」      2  橋口|隆子《たかこ》から提供してもらった橋口則夫の写真は、ホテルのフロント係から一五二〇号室のキイをピックアップした人物と同一人物と断定こそされなかったが、近似値的な証言は得た。だが日高が行けるところはそこまでであった。そこから先へは一歩も進めない。  野々村省吾を訪ねて、宮沢ひろみの死が晴子と関連しているらしいという示唆を受けたものの、証拠はない。野々村の推測によるだけである。だが日高は野々村の推理を信じた。ひろみは見たのだ。犯人の顔を見て口を塞《ふさ》がれてしまったのである。  日高は橋口隆子から提供してもらった則夫の写真を改めて観察した。街で撮影したスナップらしい。橋口はカメラを意識していない。自然の表情の中にも油断のない身構えが感じられ、彼が身を置いている世界の容易ならなさが感じられた。複雑怪奇な政争の海を泳ぐ代議士の秘書として、眠るときでさえ目を開いているような表情が身についてしまったのであろう。  背後に通行人らしい女性の姿が半分写っている。橋口の方を見ている顔が半分欠けている。橋口中心の構図なので、背後の通行人はまったく意識していない。つまり眼中になかったのである。  だが、あらためて橋口の写真を見直した日高の意識に、その半欠けの女性が引っかかった。顔の三割ほどが欠けているが、どこかで会ったような気がするのである。シンプルなブラウスとスカート、右手にバッグを下げている。ほかにも何人かの通行人が写真の背景に入っているが、彼女だけが橋口の方に視線を向けている。  ふとおもい当たることがあって、日高は古い新聞のファイルを探した。時どき客がリクエストするので、三カ月ぐらいは主要紙一紙だけ保存している。 「あった」  日高はおもわず声をあげた。際どいところでその新聞は保存されていた。新聞の社会面に掲載されている顔写真と、橋口則夫の写真の背景に写っている半欠けの女性の顔を見比べた。 「宮沢ひろみだ」  日高はうめいた。半欠けではあるが、特徴が一致している。橋口と宮沢ひろみが同一写真の中におさまっている。ついに野々村の推理の裏づけを得たのである。  彼は盛り上がってくる興奮を抑えて、野々村に電話した。幸いに会社に居合わせた野々村が電話口に出た。 「野々村さん、大変なことを発見しましたよ」  日高の声は弾んだ。 「私もあなたに連絡しようとおもっていたところです」  野々村が打てば響くように答えた。 「それはちょうどよかった。まず私の発見を聞いてください。橋口則夫の写真の中に宮沢ひろみが写っているのです」 「本当ですか」  野々村の声が驚いた。 「本当です。顔はやや欠けていますが、特徴は完全に符合しています」 「やっぱり橋口則夫と宮沢ひろみは接触していたんですね」 「とりあえず写真をファックスで送りましょうか」 「ぜひお願いします」 「ひろみは橋口をはっきりと見つめています。これが偶然の再会かどうかわかりませんが、橋口に後ろ暗いところがあれば、ひろみを生かしておけなかったでしょうね」 「ひろみがなにを言わなくとも、橋口にとってひろみとの再会は脅威だったはずです。もしひろみが事件についてなにか言えば、橋口は恐喝されたとおもったでしょう」 「橋口はひろみとの再会を小松原に話したでしょうか」 「おそらく話したとおもいます」 「すると、ひろみ殺しは小松原の意志によるものと」 「小松原が命じようと命じまいと、ひろみを抹殺することは小松原の安全保障になります。またそれは橋口の安全にもつながります」 「ところで私に連絡したいこととはなんですか」 「少し前に橋口が私に会いに来ましてね、彼の指紋を採ったんですよ。新宿署の牛尾刑事に連絡したら大変喜んでいました」 「橋口の指紋を」 「橋口が真犯人なら、一五二〇号室と一四二四号室に彼の指紋が残っているかもしれません。そうおもって茶碗に彼の指紋をつけさせるようにしむけたのです」 「それはお手柄でしたね。指紋が一致して、宮沢ひろみと一緒に写真に写っていたとなれば、警察も動くでしょう」 「本能寺《ほんのうじ》の敵は小松原です。警察も慎重に構えるでしょう」 「あの牛尾と青柳という刑事はやる気充分です。立件しないと決まった妻の葬式にまで張り込みをしたくらいですから」 「おかげで私が疑われてしまいましたよ」  野々村が苦笑した。      3  ほぼ時期を同じくして日高|耕一《こういち》から提供された橋口則夫の写真は捜査本部を色めき立たせた。橋口の背後に写っている人物は宮沢ひろみと断定された。同時に野々村省吾から届けられた茶碗の指紋は目薬容器の上に残された指紋と完全に一致した。  ここに捜査本部は橋口則夫の逮捕を検討した。 「日高晴子の目薬容器に橋口の指紋があり、宮沢ひろみと共に写真に写っていたということは、ひろみと接点があったことを物語っている。犯人適格条件は充分に満たすと考えてよいのではないか」  という意見が有力であった。これに対して、少数意見ながら、 「スナップ写真の背景に偶然通りかかった宮沢ひろみが入っていたからといって、両人の間に接点があったとは言えない。宮沢ひろみと橋口則夫との間に接触がなければ、日高晴子の死因には犯罪性がないとされたのであるから、宮沢殺しの疑いで橋口を逮捕するのは早計ではないか」  という反対があった。 「接点は写真だけではない。宮沢ひろみの死体と共に、日高晴子が使用していた目薬と同種の目薬が発見されている。また日高晴子が死んだ当夜、ホテルのフロント係から一五二〇号室のチェックインをした人物が橋口に似通っているという証言も得ている。宮沢ひろみが当夜一四二三号室に宿泊していた事実から見ても、橋口とひろみとの間には接点があったと見てよいのではないか」  と再|反駁《はんばく》された。  橋口の背後には小松原が控えている。だがこの際、小松原を抜きにして橋口の逮捕の可否だけを検討することにした。まず橋口を攻略し、次いで本命の小松原に取りかかろうという作戦である。  新宿署から連絡を受けた八王子署の捜査本部は、牛尾や青柳を交えて橋口の逮捕を検討した。  捜査本部長がついに橋口逮捕のゴーサインを下した。ここに宮沢ひろみに対する殺人容疑で橋口則夫の逮捕状が請求され、その発付を得た。      4  殺人事件の捜査本部から突然任意同行を求められた橋口則夫は愕然《がくぜん》とした様子である。小松原正之の秘書という立場を考慮して、まず任意同行を求め、自供を得た後で逮捕状を執行しようという作戦である。  捜査本部に出頭して来た橋口則夫は平静を装っていたが、動揺を隠し切れなかった。橋口の取調べに当たったのは、警視庁捜査一課から特に出張って来た那須《なす》警部である。これの補佐に八王子署の増成《ますなり》刑事と新宿署の牛尾が当たった。  取調べの場所は地の利のよい新宿署に置かれた。任意性を考慮して応接室が使用された。 「本日はご足労いただき恐縮です」  那須が低姿勢にアプローチをした。 「警察から呼ばれるようなおぼえがないので面食らっております」  橋口はこれがいかに不当な扱いであるかを言外に訴えた。返答次第によっては許さないぞという強い姿勢が感じられる。彼の虚勢の背後には小松原正之の看板がかかっている。  その気になればきさまらの首を並べて吹っ飛ばせるのだ、と暗に言わんばかりである。 「お手間は取らせません。捜査の参考までに少々おうかがいしたいことがございまして」  那須がやんわりと橋口の虚勢をいなした。 「どんな事件ですか。まったく心当たりがないが」  橋口が鉄面皮《ポーカーフエイス》を装った。 「きっとお忘れなのだとおもいます。昨年五月十九日夜、新宿ロイヤルホテルにいらっしゃいませんでしたか」  那須はさりげない口調で問うた。 「いいえ、行っておりませんが」 「そうですか。ホテルのフロント係があなたによく似た方が一五二〇号室の宿泊カードに記入した上で、キイを受け取って行ったと申しておりますが」 「なにかのまちがいでしょう。それは私ではありません」 「ここにあなたによく似た方が書いた宿泊カードがあります。野々村省吾という名前が記入してあります。この住所地に該当する人物は居住しておりませんでしたが、野々村省吾なる人物は実在しておりました。本人に確かめたところ、まったくおぼえがないということでした。野々村氏本人の筆跡と照合しましたが一致しませんでした」  那須は筆跡という言葉を強調して言った。橋口のポーカーフェイスがぴくりと震えたようである。 「私に似ていたとかいう人物が鍵《かぎ》を受け取ったそうですが、私ではありません。私には関係ないことです」 「野々村省吾さんはご存じですね」 「同姓同名の別人でなければ、ハリラックスの野々村さんとは面識があります」 「たしか近く催される小松原先生の出版記念会のパーティー券を大量に買われたそうですね」 「警察はそんなことまで調べるのですか」  橋口は皮肉をきかせたらしいが、那須のペースに少しずつ引き込まれている。 「当初我々は野々村省吾さんが日高晴子さんのパートナーだと疑いました。しかし野々村さんには確たるアリバイがあった。当夜野々村さんには日高さんに会えない事情がありました。するとあなたによく似た方が、野々村氏の名前を騙《かた》って一五二〇号室を取ったことになります。そしてその部屋に日高晴子さんがいたのです」  那須は日高晴子の素性をあえて説明しなかった。橋口が承知しているという前提に立って取調べを進めている。 「日高晴子とは何者ですか」  案の定橋口は問うた。ここでそれを問わなければ、那須の誘導尋問に引っかかったことになる。 「伊豆山《いずさん》の日高屋旅館の女将《おかみ》でしてね、当夜同じホテルの一四二四号室で死体となって発見されたのです」 「日高屋の女将なら私も知っています。名前までは知りませんでしたが、急死したという話は聞いていました」 「急死の原因が情交急死、いわゆる腹上死なのですよ。彼女のパートナーが一五二〇号室にいて、急死した彼女の死体を一四二四号室に移したと考えられています」  誘導尋問をやめた那須の淡々たる口調が、暗に、おまえはそれを知っているはずだ、と言っているようである。 「そんなことが私になんの関係があるのですか。他人の空似の人物が鍵を受け取ったくらいで、まさか私を疑っているんじゃないでしょうね」  橋口が肩をそびやかした。小松原の七光りを見せつけようとしているのである。 「この女性をご存じでしょうか」  那須は日高耕一から提供された橋口の写真をさし出した。切り札の一枚である。橋口は写真に目を向けると、 「私の写真ですね」 「あなたの背後に写っている女性の顔に見おぼえはありませんか」 「この顔が半分欠けている通行人の女性ですか」 「そうです」 「知りません。道ですれちがっただけの女を知っているはずがありません」 「実はその女性は日高晴子さんが死んだ当夜、その隣室に泊まり合わせていたのです」 「それがどうかしたのですか」 「あなたはそのことをご存じのはずだが」 「私が知っているはずがないじゃありませんか」 「いや、野々村さんがあなたに話しています」  橋口の突っ張った状態が少し傾いた。野々村と警察が通じていることにショックをおぼえたようである。那須の追及がようやく橋口の急所を射立て始めたようである。 「そんなことを野々村さんからうかがったような気がしますが、よくおぼえておりません。興味のないことですから」 「日高さんの隣室に泊まり合わせていた宮沢ひろみさんは、日高さんの死体運搬中の現場を目撃してしまいました。我々は彼女がそのために口を塞がれたとおもっています」 「私は参考意見をなにも申し上げられないようです。引き取らせていただく」  橋口は立ち上がりかけた。 「もう少しお待ちください。お手間は取らせません。これをご存じでしょうか」  那須は橋口の前にビニールに入れた二本の目薬容器を置いた。立ち上がりかけた橋口が、それに訝《いぶか》しげな視線を向けた。 「これは……」 「目薬の容器です。一本は宮沢ひろみさんの死体と一緒に八王子の山の中に埋められていました。もう一本は一五二〇号室の冷蔵庫の中に残されていたのです」  眠っていたような那須の目が炯々《けいけい》たる底光りを発して橋口に一直線に射かけられてきた。虚勢を張っていた橋口の面に不安の靄《もや》が漂っている。立ち去りたいが、不安が彼の足を釘《くぎ》づけにしているのである。 「見るとおり同じ種類の目薬容器ですね。中身を分析したところ、両方ともアレルギー性結膜炎用の目薬が入っていました。困ったことに一五二〇号室の冷蔵庫にあった目薬からあなたの指紋が顕出されたのです」 「そ、そんなばかな」  橋口が悲鳴のような声を上げた。 「あなたの指紋と完全に符合しましたよ。当夜ロイヤルホテルに行っていないはずのあなたの指紋が、どうして同ホテルの一五二〇号室の冷蔵庫にあった目薬に押されているのですか」 「知らない。おれにはまったく身におぼえのないことだ。デッチ上げだ。弁護士を呼べ。これは人権|蹂躪《じゆうりん》だ。おれをだれだとおもっている」  橋口は有無を言わせぬ証拠を突きつけられて、悪あがきをした。虚勢が崩れ、小松原の看板だけを振りまわしている。 「橋口さん、すべての状況があなたが犯人であることを物語っています。あなたは日高晴子さんの死体を移している現場を宮沢ひろみさんに目撃されたために彼女を殺した。あなたにはすでに殺人容疑で逮捕状が発付されています。あなたの書いたものをさし押さえてホテルの宿泊カードと筆跡の照合を行ないます。あなたが一五二〇号室を取った人物であることは明らかです」 「おれじゃない、おれじゃないんだ」 「あなたでなければだれだというのですか。よろしいですか。あなたにかけられている嫌疑は日高晴子さんの死因となったパートナーであるというだけではない。宮沢ひろみさんに対する殺人容疑です」 「おれじゃない」  橋口は駄々っ子のように言い張るだけであった。  土俵際まで追いつめたものの橋口の自供を得ることはできなかった。自供を得た上で逮捕状を執行しようという作戦はここで齟齬《そご》を来《きた》した。橋口の容疑は動かぬところであるが、最初、少数ながら反対意見にあったように、橋口があくまで頑張りとおしていると、彼と宮沢ひろみとの接点が揺れてくる。  ひろみが五月十九日夜、一四二三号室に宿泊したという記録はホテル側にいっさい残っていない。野々村省吾が彼女の同行者として証言しないかぎり、ひろみが同夜一四二三号室にいたという証明ができない。ホテルのどこにいたかもわからぬ、また宿泊していたかどうかも不明のひろみと橋口の間に接点はなくなってしまう。  となると、ひろみ殺しは切り離されて、橋口の容疑は死体遺棄だけになってしまうのである。その死体遺棄も、日高晴子の本来の部屋で死んでいたのであるから、同罪を構成するものかどうか論議のあるところである。  死体遺棄罪の遺棄とは、風俗上埋葬と認められる方法によらないで放棄することを言う。普通は遺体のある現在の場所から他の場所に移すことである。彼女は本来いるべき自分の部屋で死んでいた。他の場所に移したのではなくて、本来の場所に戻したことになる。結局、橋口に残る容疑は日高晴子のパートナーということだけになる。  目薬の指紋も、橋口が一五二〇号室に来たことを証明するだけで、晴子との関係を証明するものではない。  ここにきて野々村省吾の証言が橋口則夫を仕留めるための重大な鍵となった。だが野々村の警察に対する証言だけでは、証拠価値が低い。犯人に止《とど》めを刺すためには法廷で行きずりの女との情事を表沙汰《おもてざた》にしなければならない。それは野々村のような身分の者でなくとも、かなりスキャンダラスなことである。まして針生《はりゆう》に生殺与奪の権を握られている野々村が、自分の生活基盤を危うくするような証言を法廷でしてくれるだろうか。 [#改ページ]  ロマンチックな証言      1  橋口の指紋を捺《お》した茶碗を牛尾刑事に提供した野々村はそれから数日後の日曜日、針生|謙一郎《けんいちろう》の自宅へ呼ばれた。会社では毎日のように顔を合わせているが、その私宅へ行くことは、増子《ますこ》と共に年賀に行くときぐらいしかない。野々村は何事かとおそるおそる赤堤《あかづつみ》の針生の私邸を訪れた。  針生は離れの茶室で待っていた。おそるおそる伺候した野々村に針生はじろりと目を向けると、 「おう、来たか」  と言って招き寄せるようなしぐさをした。その顔は、会社で威厳に溢《あふ》れているときと異なり、私邸で身内にだけ見せる親しみの色に塗られているようである。  野々村は針生の機嫌のよさそうな表情にまずはほっとした。針生は野々村に、そこに座れと目で示した。野々村が畏《かしこ》まって正座すると、針生は松籟《しようらい》の音をたぎらせている釜から点前《てまえ》をして、野々村の前に出した。  野々村はぎこちなく作法どおりに茶を飲んで、茶碗を返し、 「けっこうなお点前でございます」  と挨拶《あいさつ》した。針生は茶筅《ちやせん》をすすぎながら、 「そろそろおまえにやってもらおうとおもっている」  となにげない口調で言った。 「はい」  野々村は、針生が洩《も》らした言葉の意味を取り損なった。針生が野々村になにをしてもらおうとおもっているのかわからない。 「俊司《しゆんじ》は切れる。剃刀《かみそり》のように切れ味は抜群だが、あれでは大木は切れぬ」  野々村は針生がいったなにを言いだすのか、と息をつめた。 「敏彦《としひこ》には粘りが足りぬ。勘もよいし、洞察力がすぐれている。だが粘りが足りぬ。あとひと押しというところで息切れしてしまう。敏彦ではこのハリラックスを引っぱっていくのは無理じゃ」  針生は茫洋《ぼうよう》とした目を野々村に向けた。その目が、わかるかこの謎《なぞ》が、と問いかけているようである。野々村は体の芯《しん》から熱い溶岩が盛り上がってくるように感じた。  どうやら針生の言葉の含みがわかりかけてきた。だがハリラックスの将来を左右する大事をあまりにもさりげなく告げられたものだから、すぐには信じられない。 「どうだ、おまえ、わしの跡を継いでくれるか」  茫洋と烟《けむ》っていた針生の視線が、一直線に野々村に射かけられた。 「あの、私を社長の後継者として」  おもわず野々村の語尾がかすれた。 「おまえたち三人をよく見比べた結果、おまえ以外にハリラックスを継ぐ者はいないとわかったのだ。わしもそろそろ齢《とし》だ。後継者を決めておかなければならん。おまえは一見小心のようだが、細心。見かけは弱そうだが針金のように強靱《きようじん》だ。攻め一本槍でなく、守備がうまい。目くばりもよくきくし、数字に強い。これからはわしのように猪突猛進ではハリラックスを引っぱっては行けぬ。おまえならきっとわしの跡を受け継ぎ、わしがつくりあげたハリラックスを盛り立ててくれるだろう。どうだ、やってくれるな」  夢ではなかった。針生謙一郎がじきじき野々村を後継者として指名したのである。 「もったいないお言葉でございます」  不覚にも野々村の声は震えた。 「そうか。おまえが引き受けてくれたので、わしも肩の荷が下りた。次の重役会議で発表しよう」  針生は嬉《うれ》しげに微笑《ほほえ》んだ。そのときハリラックスの屋台を一身に背負ってここまで引っぱってきた針生に、疲労が重く滲《にじ》み出ているように見えた。      2  針生の屋敷を辞去してからも、野々村はまるで夢見心地であった。足元が雲を踏むように頼りない。どのようにして帰宅して来たのかまったくおぼえがない。まさか自分が長女、次女の夫をさし置いて次期社長に指名されるとは思わなかった。  俊司の辣腕《らつわん》や、敏彦の生来の勘のよさや情報収集力にはとうてい及ばないと諦《あきら》めていた。妻を野望の階段にして、ハリラックスの頂上にまで上りつめてやろうという野心を抱いていたが、俊司と敏彦にはとうていかなわないというあきらめもあった。  彼の野望の行き着くところは、せいぜいナンバースリーマンであったのである。それが突如ナンバーワンに指名されて、すぐには信じられない。針生から試されているような気がした。三人の婿にそれぞれ、おまえにハリラックスを任せると告げて、その反応を見比べているのではないか。うかつに有頂天になって根性を見られ、ぬか喜びに終らせてはならぬ。野々村は自分を戒めた。  だが針生がそのような拙劣な試し方をするはずもないと気がついた。 (おれがハリラックスの社長か)  野々村は突然目の前にべつの宇宙が開いたような気がした。だがせっかく舞い上がっていた野々村の心は、あることをおもいだしてたちまち沈み込んだ。 「しまった。おれは牛尾刑事に、宮沢ひろみとホテルで共に過ごしたことを認めてしまった」  野々村は唇を血の出るほど噛《か》みしめた。針生が野々村を指名する矢先に、野々村がコールガールをホテルにくわえ込んでいた事実が露見すれば、せっかくの指名を取り消されるかもしれない。俊司や敏彦に絶好の攻め口をあたえることにもなる。牛尾刑事にどんなに迫られても、知らぬ存ぜぬで押し通すべきであった。  野々村が宮沢ひろみと共に過ごしたという証拠はどこにもない。彼がホテルで共に過ごしたと認めたひろみは実体がない女なのである。つまり野々村の言葉の中にのみ存在する女であった。ひろみと、宮沢ひろみは別人であると言い張れば、警察とてもどうすることもできない。実体のない女と共に過ごしたと言ったところで具体性はない。  これが殺人事件の被害者となった、身許《みもと》の割れた女と浮気をしたと認めれば、言い逃れができなくなる。 「そうだ、いまから否認しても遅くはない。警察官に対する供述は証拠価値が低いと聞いたことがある。警察に脅されてやむを得ず言ったと言えばそれですむことだ」  野々村はおもい直した。屈辱に耐えながら野望の階段を上ってきて、ようやく社長の椅子《いす》を射程に入れたいま、縁もゆかりもなかった家出女の巻き添えになって、せっかくの機会を棒に振ってたまるものか。野々村がいまさら証言したところで、死んだ女が生き返るわけではない。  野々村は持ち前の強気を取り戻した。  野々村省吾に証人として出廷を求めると、案の定拒否された。しかもそれだけではなく、前に牛尾に対して供述したことを翻したのである。 「自分は、宮沢ひろみなどという女性は知らない。ホテルで共に過ごしたおぼえもない。ホテルに女を呼んだこともない。昨年五月十九日夜は、し残した仕事があったので、ロイヤルホテルの一四二三号室に二時間ほど入っただけである」  と前の供述を全面的に翻した。宮沢ひろみだけでなく、ひろみという女の存在すら否認したのである。 「やっこさん、怖くなったな」  牛尾はうめいた。被害者や参考人が警察官に供述したことを翻すのは珍しいケースではない。  検察官の前において供述したことを、被告人以外の者が翻したときは、刑事訴訟法三二一条一項二号により証拠能力があり、裁判官が前の供述を採用するも、前と相反する供述を採用するもその自由裁量に委《ゆだ》ねられる。だが警察官に対してなした供述にはそのような証拠能力はない。本人が前言を翻せば、証拠として使用できない。  野々村が前の供述を翻した三日後、ハリラックスの重役会において針生が野々村を次期社長に内定したことを発表した。経済誌でこのニュースを読んだ牛尾は、 「社長の椅子が野々村の口を曲げたんだよ」  と青柳に言った。 「情けない野郎ですね。たかが社長の椅子をちらつかされて、せっかくあげた正義の旗を引っ込めやがった」  青柳は悔しげである。 「そうも言えまい。ハリラックスの社長の椅子だからな。それは野々村の人生の目標だっただろう。その目標が手の届く距離に来たのだ。サラリーマンとしては無理からぬところもある」  牛尾の言葉は同情的であったが、その口調の底に蔑《さげす》みがある。  だが野々村にしてみれば正義の旗を取り下げたわけではなくて、反旗を取り込んだのである。野々村は宮沢ひろみを彼のこれまでの半生におけるただ一度の反旗として翻したが、社長の椅子の前に簡単に鎮圧されてしまったのである。 「もう一度攻めてみよう」  牛尾が言った。 「いくら攻めても無駄ですよ」  青柳があきらめたように言った。 「野々村が一度だけでも供述したということは、見込みがある証拠だよ。彼はきっと前言を翻したことを後ろめたくおもっているはずだ。いや、惨めなおもいをしているかもしれない。野々村はたった一夜の行きずりの恋人だが彼女を殺した犯人が憎いと言った。その言葉を攻め口としてもう一度攻めてみよう」 「どうせ無駄だとおもいますがね」 「あきらめるのは早いよ。野々村という男には、人に言えない屈折がある。彼は女房を踏み台にして、出世していくことに後ろめたさをおぼえている。いや、屈辱をおぼえているかもしれない。だから、我々に対して一度宮沢ひろみとの関係を認めたのだ。彼が次期社長にノミネートされなければ、供述を翻さなかっただろう。もう一度押してみる。野々村の価値観にかけてみよう。見ず知らずの女を殺した犯人を挙げるために、すべてを失う危険をおかして証言するか、それとも、人間としての卑しさに耐えて、社長の椅子を取るか。彼がどちらにより大きな価値を置いているかに」 「社長の椅子を取るに決まっていますよ」 「おれもそうおもうよ。しかし、チャンスがまったくないわけではない。どんなに計算高い人間でも、その計算をふと忘れることがある。人間って不利益な方を選ぶことがあるんだよ。より不利益な方により大きな価値を置くことがね」 「牛《モー》さんはロマンチックだからなあ」 「だれにもロマンチックなところはあるさ。それが現実の生活の中で押し殺されているのだ」 「押し殺されて死んでしまっているんでしょう」 「完全に死んでいたら、たとえ一度でも宮沢ひろみとの関係を認めないはずだよ」 「私もお供していいですか」      3  牛尾と青柳の訪問を受けた野々村は、コーナーに追いつめられたのを悟った。こうなることはあらかじめ予測していた。牛尾は、宮沢ひろみとの関係を否認することは、野々村もひろみ殺しの容疑者の一人となることだと言った。  野々村に、次期社長としてノミネートされる予測があったとすれば、彼の容疑はさらに深まることになろう。ひろみとの関係を認めることは、せっかく射程に入った社長の椅子をふいにするかもしれない。だからこそ、野々村にもひろみを殺す動機が生ずるのである。だがなぜか牛尾はその点を衝《つ》かなかった。  東京に夢を寄せ上京して来たばかりの少女を殺した犯人が憎くはないのか。その犯人を捕らえるキイをあなたは持っている。犯人が憎かったら、彼女が可哀想《かわいそう》だとおもったら、そのキイを提供してくれ、と牛尾は迫った。まだ逃げようとおもえば逃げられる。  野々村に宮沢ひろみ殺しの動機があるとしても、彼女との関係は確認されていないのである。彼があくまでもシラを切り通せば、警察は手を出せない。だが牛尾は、野々村の最も弱いところをがっちりと捉《とら》えて迫ってきた。  それは野々村が行きずりのただの一夜の恋人に対しておぼえた感傷である。彼女は増子との夫婦生活において決して得られなかったものをあたえてくれた。それが野々村の一夜の宝石となって輝いている。その輝きを知っているかのように牛尾は、そこを攻め口にしてぐいぐいと突っ込んできた。  野々村は自分の中に残る人間性をまったく捨て去らないかぎり逃れられないのを悟った。  おもえば自分の身を安全圏に置いたまま、一夜の恋人の仇《あだ》を討とうなどとは虫のよい考えであった。いま野々村にとってひろみ殺しの犯人を捕らえることは正義の実現である。だが正義のために自分の身を傷つけたくはない。なにも犠牲にせずに追求する正義が果たして本当の正義か。  自分はこれまでそんな虫のよい正義を、打算で塗り固めたライフスタイルの息抜きとして追い求めていたのかもしれない。そんなものは正義でもなんでもない。正義は、自分の得たものすべてと引き換えにできるか否かによって決められるものではないか。  一夜街で拾った女を殺した犯人を捕らえるために、自分の得たものと将来のすべてを賭《か》ける。こんな割に合わない取引きはない。だが自分の信ずる正義を実現するためには命すら賭けなければならない場合もある。それこそ本当の正義と言えるものであろう。  それが正義でなくともかまわない。自分に納得がいくかどうかである。自衛のために自分の価値観を捨てる。自衛によって確保するものは計算できるものであり、それによって失うものは計算できない価値観である。計算できるものを確保するために計算できない価値観を失った場合は、生涯後ろめたさを背負っていくだろう。得たものを確保するか、生涯後ろめたさを背負っていくか。  野々村は二者択一の岐路に立たされた。以前ならばそんな岐路に立つこともなかったはずである。 「野々村さん、あなたの証言にすべてがかかっています。我々はあなたの立場を充分知っております。その上でお願いしております。あなたが当夜、一四二三号室で宮沢ひろみさんと一緒にいたことを検察官に証言してくれませんか。あなたの証言によって、彼女を殺した犯人を討ち取ることができるのです」  牛尾は野々村に言った。  牛尾も辛《つら》かった。野々村にその証言を求めることは、彼の人生を決定的に破壊してしまうかもしれない。そして警察はそれを償うことができないのである。社会正義の実現と個人の幸福が拮抗《きつこう》していた。  犯人を捕らえるために、一人の人間の人生を破壊してよいという法はない。しかし野々村に証言を求めることは、牛尾の職務上の義務であった。野々村にとって致命的なことを牛尾は要求しなければならない。  犯人の追跡に半生を費やしてきた牛尾にとっても、これは辛い選択である。もしこの選択を自分自身が求められたらどうするか。牛尾はそれを考えざるを得ない。犯人を捕らえるのは牛尾の義務であり職責である。個人の幸福を追求するのは個人の権利である。牛尾の職責と、野々村の権利が真っ向からぶつかり合った。  もし自分が野々村の立場にあったなら、自分の得たものすべてを犠牲にしても証言するだろう。とおもうのは社会的不正の追及を職業にしている牛尾の立場に立っているからである。要求はしても強制できないことである。 「わかりました。証言いたしましょう」 「えっ、証言してくれますか。法廷に立って証言してもらうことになるかもしれませんよ」 「もちろんその覚悟です」 「奥さんや、針生社長に知られることになりますが」 「それも当然覚悟しております」 「ありがとうございます」  牛尾は感動に浸《ひた》っていた。自ら頼んだことでありながら、一人の人間の人生を破壊することになるかもしれない証言を要求しているのである。頼みながら、野々村がよもや協力を約束してくれるとは期待していなかった。 「あなたのおかげで、宮沢ひろみさん殺しの犯人を仕留められるかもしれません。社会正義の実現のためにあなたに多大の犠牲を強《し》いることになりますが」 「牛尾さん、実は私の夢だったんです」 「夢?」 「がりがりの打算で塗り固めたような生き方でしたが、一度こういうことをしてみたいとおもっていたのです」 「その夢のためにすべてを失っても」 「だから夢と言えるんじゃないでしょうか」 「考えてみれば、私らも夢を追って生きているのでしょう」 「刑事さんも夢を追っている」 「使命感という名前の夢ですよ。それがなければ、家族との人間らしい団欒《だんらん》や、幸福の追求を犠牲にして危険に身を挺《てい》していけません。刑事にも家族はいます。しかし家族に対する父や夫という責任を放棄しても、他人を救うために身を挺さなければなりません。使命感がなければ、赤の他人と生命《いのち》の交換なんかできません。たとえ家族が危険に陥っても、それを救うのはいちばん後まわしです。そして、そういう生き方に家族も馴《な》らされています。私も家族もそういう生き方ができるのは使命感という夢があるからです」 「刑事さんの夢に比べれば、私らの夢は大したことはありませんね」 「いいえ、大したことですよ。私らは職業ですが、あなた方にはそのような職業的な義務や使命はありません。でもあなたのように一般市民の夢の積み重なりが、社会を不正に明け渡すのを守ってくれているのです」 「しかし赤の他人を救うために生命を投げ出したり、家族を救うのをいちばん後まわしにしたりする刑事という職業は凄《すご》いものですね」 「どう考えても割に合わない職業ですが、私はこの仕事が好きですね」 「割に合わないことをやってくれる人がいるから、社会が成り立っているんでしょう」 「あなたもその割に合わないことをやってくれようとしています」 「結局ロマンチックなのですか」 「そういうのをロマンチックと言うのでしょうかね」 「よい警官はみんなロマンチストですよ」 「よい市民もみなロマンチストです」  彼らはたがいの顔を覗《のぞ》き合って笑った。  野々村省吾の証言によって橋口則夫の犯人適格条件はほとんど充足された。検察官に対して行なった供述は証拠能力がある。日高晴子の急死事件と、宮沢ひろみ殺しは野々村の証言によって接点を持つに至った。野々村によって日高晴子と宮沢ひろみは同じホテルの隣り合った部屋に居合わせた事実が証明されたのである。  日高晴子の遺留品は一五二〇号室から発見された。同室を、野々村名義で取った橋口則夫が、日高晴子の死体運搬の現場を宮沢ひろみに目撃された可能性は大きい。 [#改ページ]  贅沢《ぜいたく》な衝動      1  野々村の証言に基づいて橋口則夫に逮捕状が執行された。だが橋口はすでに立ち直っていた。 「自分は確かに日高晴子と関係を結んでいた。たがいの立場があるので人目を憚《はばか》って会っていた。あの日、一五二〇号室で晴子と会っている間、彼女の様子がおかしくなったので、先生(小松原正之)に迷惑をかけてはいけないとおもい、晴子を一四二四号室に移したことは認める。しかしその隣室にだれが泊まっていたか、私はまったく知らない。またその隣室の主に目撃されてもいないし、その主と再会したこともない。それはすべてそちらの憶測にすぎない。私は一四二三号室の主になんら恐喝される理由をもたないし、殺す理由もない。たまたま部屋が隣り合っていたというだけで、どうして隣室の主が殺された罪まで私が引き受けなければならないのか。  私が名前を無断借用した野々村省吾氏が、たまたまその隣室に別名で居合わせた事実は偶然であるが、むしろ野々村氏こそ、疑わしい立場にいるのではないか。私は宮沢ひろみという女にまったく会ったこともないし、名前も知らなかった。彼女がどこで殺されていようと私にはまったく関係ない」  と主張した。  ひろみ殺しと切り離してしまえば、橋口の容疑は死体遺棄罪だけである。しかも橋口は晴子が一五二〇号室で死んだとは言っていない。「様子がおかしくなった」と言っているのである。それは死体遺棄ではなく、単純な遺棄となる。死んでいたとしても、彼の行為が死体遺棄罪を構成するかどうか難しいところである。  橋口の状況は大いに怪しかったが、決め手に欠けていた。せっかく野々村が得たもののすべてを失う危険をおかして証言したものの、橋口を仕留めることができない。橋口とひろみが一緒に撮影されている写真の構図も、接点としては弱い。  捜査本部は歯ぎしりをした。  橋口則夫は、犯罪事実否認のまま起訴され、公判が開始された。検察は否認事件の起訴において特に慎重であり、自供を得られないまま起訴に踏み切ったことは、検察側の強い自信のほどを示していた。  第一審公判において、橋口は検察側があらかじめ予期したとおり、宮沢ひろみとは会ったことも名前を聞いたこともないと抗弁した。  野々村省吾の証言も、ひろみが日高晴子の隣室に居合わせた事実を証明しただけであって、ひろみと橋口が接点を持ったことの証明にはならない。  検察側の最も弱点とするところを衝《つ》いてきたのである。 「宮沢ひろみが日高晴子の隣室に居合わせたこと、橋口則夫と同一構図の写真の中に撮影されていた事実、同女の埋められていた土中より、一五二〇号室の冷蔵庫に遺留されていた目薬と同種のものが発見された点などを総合して、被告人が日高晴子の死体を一四二四号室に運搬している現場をひろみが目撃していた状況は明らかであり、同女の口を封ずるためにこれを殺害し八王子山中に埋めたと推測される」  と検事側は主張した。これに対し橋口則夫は、 「それはあくまでも検察側の推測にすぎず、宮沢ひろみが日高晴子を目撃した証拠はなにもない。推測に基づいた悪質な誣告《ぶこく》である」  と反駁した。検察官は確認した。 「あなたは昨年五月十九日夜、野々村省吾氏の名前を使って新宿ロイヤルホテル一五二〇号室を取り、日高晴子さんと会っていましたね」 「会っていました」 「そして晴子さんを一四二四号室に移動しましたね」 「移動しました」 「そのときすぐ隣りの一四二三号室に宮沢ひろみさんが居たことをご存じですか」 「全然知りません。たまたま一夜泊まっただけのホテルの客室の隣りにだれが居たか知るはずもありません。また興味もありません」 「そのとき一四二三号室に宮沢ひろみさんが居たことは、彼女の同伴者野々村省吾氏が証言しております」 「野々村省吾氏がだれの隣りの部屋に居ようと、私には関係ありません」 「その関係のない女性があなたと同一の写真の中に撮影されているのはなぜですか」 「私にはまったく記憶はありません。街角で撮影されたスナップに、たまたま通行中の女が一緒に写っていても、なんの関係もありません」 「そのなんの関係もないはずの女性が、八王子山中に絞殺死体となって埋められていて、一五二〇号室にあなたの指紋を押して残されていた目薬と同じ目薬容器が死体と一緒に掘り出されてきたのですよ。それでも関係がないと言い切れますか」 「同種の目薬容器はいくらでもあります。八王子山中から掘り出された女の死体と一緒に出てきたという目薬容器に私の指紋でも残っていたのですか。アレルギー性結膜炎の患者は全国にゴマンといます。患者のだれもがもっている目薬がたまたま殺された女の死体の近くから出てきたからといって犯人にされたのでは、患者の数だけのぬれ衣をひき被《かぶ》ってしまいます。私と宮沢ひろみという女とはなんの関係もありません。むしろ、野々村省吾氏のほうがその女に対して殺人動機があるのではないでしょうか」  橋口は警察に対して行なった供述を繰り返した。 「あなたはどうして野々村省吾氏が宮沢ひろみに対して殺人動機があると考えるのですか」 「野々村氏がコールガールと共にホテルで過ごしていた事実が露《あらわ》れれば、彼の立場上非常にまずいのではありませんか」 「それをあえて野々村氏は宮沢ひろみさんと一四二三号室におられたことを証言したのです」 「殺人容疑をかわすために証人に立ったのではないでしょうか。コールガールを買ったことが露見して立場が悪くなっても、私のように殺人容疑で起訴されるよりはましですからね」  橋口は巧妙に言い逃れた。      2  晩秋の雑木林を五、六名の男女のグループが歩いていた。ハイキングに来た一行である。  雑木林はその葉をほとんど落としつくして、見通しがよくなっている。錯綜《さくそう》した裸の枝越しによく澄んだ秋の空が望める。こんな時期には柔らかい秋の陽射《ひざ》しが、樹枝越しにハイカーの体に降り注いで来る。  都心のターミナルから満員電車に揺られて来たハイカーや観光客は、山麓《さんろく》の終点からこの山域の八方に散って、彼らの周辺に人気は感じられない。浅い山域であるが、深山の趣きがある。都心から電車で二時間ほどの距離の都下にこのような自然が残されているのが、彼らにとっては奇跡のように感じられた。それだけ日ごろ、自然の恩恵から遮断《しやだん》された所で生活をしているわけである。 「あら、なにかしら」  ハイカーグループの中の一人の若い女が、足元にからまった一枚の封筒を取り上げた。落葉の下に埋まっていたので、靴で蹴り出したようである。 「手紙だね」  女の手許《てもと》を同行の男が覗き込んだ。  封筒の中には小さな文字で埋まった便箋《びんせん》が入っている。長い間、落葉の下に放置されていたらしく、所々インクが滲《にじ》んで読み難くなっていたが、判読できないことはない。封筒と便箋に新宿のホテルのネームが刷ってある。ホテルで書いたものらしい。 「宛先が書いてあるわ」 「でも消印が捺《お》してないぞ」 「出すつもりで書いた手紙を山の中に落としちゃったようだわね」  彼らは好奇心から便箋を覗き込んだ。 「先日は大変お世話になりました。一夜の想《おも》い出でしたが、私にとっては一生忘れられないような大切な想い出になりました。優しくしていただいたことは忘れません。あの節いただいた七万円が私の東京での生活の基礎になります。あなたはご存じなかったかもしれませんが、あなたが私にお金をくださるとき、一枚、あなたの名刺を落としていきました。その住所を頼りに手紙を書きました。あなたが出発された後、とても気になることを見かけましたので、後日あなたにご迷惑をかけるといけないとおもって、ご報告しておきます。あなたがお帰りになってから午前一時過ぎごろ。私はジュースが飲みたくなり、エレベーターホールにある自動販売機にジュースを買いに行こうとして部屋を出た所で、すぐ隣りの部屋に男の人が女の人を抱きかかえて入ろうとしているのを見かけました。男の人と顔が合うと、その人は私に聞こえるように、『しようがないなあ、こんなに酔ってしまって』と言いながら隣りの部屋に入って行きました。そのときはなにげなく見過ごしていました。翌日ホテルをチェックアウトしてから、ニュースで女の人がロイヤルホテルの一四二四号室で死んでいることを知りました。私が見かけた男の人が介抱するふりをしながらその部屋に担ぎ込んでいた女の人にちがいないと思いました。そのときは、女の人が酔って正体がなかったとおもったのですが、後にしておもい起こせば、あのときすでに女の人は死んでいたのではないかとおもいます。その男の人に私は先日|麹町《こうじまち》四丁目の交叉点で偶然出会いました。私が声をかけると、彼は大変驚いたようでしたが、ホテルでのことはまったく心当たりがない、人ちがいだろうととぼけました。逃げるように立ち去った後をつけて行くと、その男の人は近くのビルの小松原正之事務所というオフィスに入りました。そのとき私はテレビでその男の人の顔を何度か見たことがあるのをおもいだしました。彼は小松原正之の秘書です。あなたに早くご報告しようかとおもったのですが、ご迷惑をかけるといけないので、この手紙を書いたままポストに入れたものかどうか迷っております。もしかして街でまたあなたと出会うチャンスがあるかもしれないと願いながら、この手紙をもち歩いております。本当にまたお会いできたら嬉しいのですが」  宛先は千代田区××、ハリラックス株式会社、野々村省吾となっていた。 「なんだかラブレターみたいだな」 「街角で咲いた恋の花のようね」 「投函《とうかん》するのをためらっていると書いてあるが、この手紙をどうするつもりだい」  男のハイカーが手紙の拾得者の顔を覗き込んだ。 「きっと手紙をもったままハイキングに来て落としてしまったらしいわね。ポストに投げ込んであげようかしら」 「でも迷惑になるといけないとためらっているようだわよ」 「しかし、泊まり合わせた隣りの部屋で女の人が死んでいたと書いてあるじゃないか。報告するつもりで手紙を書いたというのだから、やはり投函してやった方がいいんじゃないかな」  男のハイカーが忠告した。 「そうだわね。死んだ人を見かけたとすれば、重大な報告でもあるわ。それを握りつぶして、あとでだれかにもっと大きな迷惑をかけるといけないものね」  ハイカーたちの衆議は一決して、拾得した手紙を代りに投函してやることにした。      3 「ただいま検察官の手許に野々村省吾氏より新たな証拠が提供されてまいりました。これを証人の訊問《じんもん》に先立ち、証拠物として提出することをお許し願います」  検察官は裁判長の許可を得て、一通の手紙を差し出した。 「これは宮沢ひろみさんが、生前野々村省吾氏に宛てて書いた手紙を投函せず手許に留めておいたものでございます。この手紙が、野々村省吾氏宛に昨日郵送されてまいりました。宮沢ひろみさんが、生前あるいは死後落とされた手紙をだれかが拾得して投函してくれたものと考えられます。この手紙の文面には重大な事実が書かれております。  すなわち彼女は昨年五月十九日夜、一四二四号室に男の人が正体のない女の人を担ぎ入れている場面を目撃したと書いております。そして当夜ほぼ同じ時間帯に、被告人は日高晴子さんを移動した事実を認めております。後日、宮沢ひろみさんは街でその男に再会し、彼の素性を確認しております。そしてほぼ同じ場所で被告人は宮沢ひろみさんと同一のスナップ写真の中に撮影されております。前後の状況から推《お》して、宮沢ひろみさんが目撃した男の人が被告人であり、女の人が日高晴子さんであることは明白であります。日高さんの死亡推定時刻が午後九時から十一時の間とされており、宮沢さんが目撃した時刻が同夜(翌朝未明)午前一時過ぎであるところから、日高さんはそのとき死んでいたと考えられます。被告人は、宮沢ひろみさんに死体移動の現場を目撃されております。被告人は宮沢ひろみさんとなんのかかわりもないと言い張っておりますが、ひろみさんは明らかに被告人の死体移動現場を目撃しております。そして被告人もひろみさんに目撃された事実を知っております。それにもかかわらず被告人は、ひろみさんに会ったことも名前を聞いたこともないと言い張っております。被告人は後日宮沢ひろみさんと再会して、ひろみさんの口から、日高晴子さんとの関係および死体移動の事実が露見するのを恐れてひろみさんを殺害し、八王子山中に埋めたと思料いたします」  宮沢ひろみの野々村省吾宛の手紙を刑訴法三二八条に基づく、被告の供述の信憑性《しんぴようせい》を打ち砕く証拠として提出されるに及んで、さしも頑強に否認していた橋口則夫もついに屈伏した。彼の自供は、おおむね検察側の推測のとおりであった。 「日高晴子さんの死体を運搬中、宮沢ひろみさんに目撃されましたが、その時点では酔った晴子さんを介抱するふりを装い、取り繕いました。しかし後日街でひろみさんと偶然再会し、先方から声をかけられたのです。彼女は私の顔をおぼえていて、あのときあなたが介抱していたように見せかけていた女性は、すでに死んでいたのでしょうと言いました。私は咄嗟《とつさ》に返す言葉を失いました。ひろみさんはその後、晴子さんの事件に興味をもってマスコミの報道を読んでいたらしく、『恋人の死体を放り出して逃げ出すのはひどい。せめて遺族に名乗り出るべきではないか』と私をなじりました。そのとき彼女は私の顔をおもいだしたと言いました。小松原先生に随行している場面をテレビで見かけたというのです。その言葉さえ聞かなければ、彼女を殺すことはなかったでしょう。ひろみさんが私の素性を知っている口ぶりに、私は彼女に対する殺意を固めました。  私はひろみさんに、『名乗り出ようとおもっていたが、時期を逸してしまった。毎日毎日、晴子さんの面影が瞼《まぶた》から離れず、夜もよく眠れなかった。あなたに言われて、名乗り出る決心をした。ついては一人では行きにくいので、一緒に付き添って行ってくれないか』と言葉巧みに頼みました。ひろみさんは私に同情してくれて、同行すると言ってくれました。  彼女は上京後、ビジネスホテルやユースホステルを泊まり歩きながら職を探していた模様でした。六月十三日彼女を車に乗せて、日高さんの家へ行くふりをしながら、地理に暗い彼女に乗じて八王子山中へ連れ込み、首を紐《ひも》で締めて殺害しました。彼女はまったく私を疑わずついてきました。いまでも彼女を殺した場面をおもい起こすと胸が痛みます。彼女を山中に埋めた後、所持品はすべて焼却しました」 「あなたと日高晴子さんの情事が露見しても、決してあなたにとって致命的にはなりません。つまりあなたには宮沢ひろみさんを殺す必要はなかった。それにもかかわらず殺したということは、だれかの指示があったのではありませんか」  検察官は追及した。 「だれの指示もありません。私の一人の判断で殺しました。私には妻もあり、私が人目を憚って不倫の情事に耽《ふけ》っていたことが露見すると、先生にも迷惑をかけることになりますので、私一人の考えで殺しました」  検察官は、橋口則夫が小松原正之の教唆を受けて、日高晴子を殺害したことを疑っていたが、証拠はなかった。橋口が晴子の不倫パートナーであることを認め、それが宮沢ひろみの殺害につながっていったと自供されて、それを覆《くつがえ》すだけの反証はない。  結局、すべての罪を橋口が引き受けたのである。橋口の自供に際して小松原正之は記者会見を開いて、次のようなコメントを発表した。 「私の秘書がかかる不祥事を惹《ひ》き起こしたことはひとえに私の至らぬところであり、国民の皆様に対し慙愧《ざんき》に耐えぬおもいであります。秘書の不祥事はまったく私のあずかり知らなかったこととはいえ、私の監督不行き届きの責任は免れず、今後、私は政治家として国民の皆様に一身を捧げ滅私奉公することのみによって償おうと存じます。私の片腕であった秘書の不祥事は、断腸の極みでありますが、これを私の再生の薬として立ち上がって行きたいとおもいます。なにとぞ今後とも小松原正之をよろしくお引き立て願います」  小松原は「秘書の不祥事」を繰り返して、記者団の前で涙を流した。      4 「犯人は犯行を自供したが、結局、本当に悪いやつは背後で笑っているな」  牛尾は悔しそうに言った。 「小松原正之は橋口則夫を人柱に立てて、無傷のまま逃げましたね」  青柳が溜《た》め息とともに言った。 「それにしても殺人の罪まで引き受けた橋口の主人を庇《かば》う忠誠ぶりには恐れ入ったな」 「二人の間で裏の取引きがあったのかもしれませんね」 「どんな取引きがあったにせよ、橋口はもはや浮かび上がれまい。彼は小松原の地盤を引き継ぐことはできない」  秘書が政治家の引退後その地盤を引き継ぐことはよくある例であるが、禁錮《きんこ》以上の刑に処せられその執行を終るまでの者、またその執行を受けることがなくなるまでの者は被選挙権を失う。 「私は日高晴子の本当のパートナーが、橋口則夫のような気がしました」 「そうおもわせるところが小松原の抜け目のないところさ。これは小松原の完全犯罪だよ」 「野々村省吾の証言によっても、いちばん悪いやつを仕留めることはできませんでしたね」 「野々村もどうやら無事ですんだらしい。彼も二度とこのような証人に立とうとはおもわないだろう。あの男にしては一世一代の計算を度外視した証言だったな」 「あの計算にさとい野々村を、地位や家庭を抛《なげう》ってまで証言に駆り立てたものはなんだったのでしょうか」 「宮沢ひろみとのおもいでがそれだけ素晴らしかったんだろう」 「私はそれだけではなかったとおもいます」 「それだけではないというと」 「彼は以前からあのような冒険をしてみたいとおもっていたのではないでしょうか。人間は時々計算では割り切れないような行動に出ることがあります。例えば自分が出席しなければ成り立たないような重要な式に欠席してみたいとおもうようなことが。自分の結婚式の前に、式場と反対の方角へ行ってしまいたいような衝動です」 「贅沢な衝動だね。おれにもそんな衝動があったような気がするよ」 「野々村省吾は一生に一度の衝動に身を任せて、宮沢ひろみ殺しの真相解明に協力してくれたわけですが、結局真犯人は捕らえ損なってしまった」 「しかし野々村にしても、不満はなかったとおもうよ。彼はその贅沢な衝動に身を任せて、結局自分自身は傷つかなかったのだから」      5 「結局、大山鳴動して鼠《ねずみ》一匹でしたね」  日高耕一は苦い澱《おり》を嚥《の》みくだしたような顔をして言った。 「いつもの構図のとおりですよ。いちばん悪いやつには手をつけられないシステムになっています」  野々村省吾は、慰めるように言った。それは半ば自分自身に対する慰めの言葉でもある。  事件解決後二人は出会った。一件落着したが、彼らの胸に釈然としないものが残っている。日高耕一は、ついに妻の不倫のパートナーを仕留め損なった。また野々村省吾にしても一世一代のロマンチックな冒険が、空振りに終った形である。 「実はね、野々村さん、私は妻が死ぬ前に彼女を殺そうとしていたのです」  日高が述懐するように言った。 「奥さんを殺す?」 「そうです。その矢先に妻が急死してしまったのです。妻の体に情交|痕跡《こんせき》があると聞いて、妻に対して抱いていた殺意が消え、妻のパートナーに向ける憎しみが生まれました。妻に対する愛情はひとかけらもないのに、不思議な心情です」 「なんとなくわかるような気がしますね」 「たとえ愛情の失《う》せた妻であっても、その体に情交痕跡を刻みつけたまま死体を放置したということは、その夫に対する重大な侮辱であり挑戦です。私はその挑戦を受けて立ち、屈辱を雪《すす》ごうとして妻の相手を追いましたが、結局鼠一匹しか這《は》い出さなかった」 「それでもよかったんだとおもいますよ」 「それでもよかったと」 「そうです。男として許せる屈辱と許すべからざる屈辱があります。許すべきではない屈辱をなんともおもわなくなったときは、もう男ではなくなっている証拠でしょう。あなたは男だった。そしてその事実を証明したのです」  野々村の言葉は自分自身に対するものでもある。 「野々村さんもよく証言なさいましたね」 「私も長い間男であることを忘れていました。奥さんのパートナーに私の名前を借用されて、男であることをおもいだしたのです」 「私たちが男であることを証明しようとして、一体どんな意味があったのでしょうか。その成果が鼠一匹であっては、あまりにも情けない」 「秘書の不祥事は小松原に対して少なからぬダメージを与えました。奥さんの不倫のパートナーは小松原だと、見る人は見ています。選挙民に対しても拭《ぬぐ》いがたい不信を植えつけてしまいました。次の選挙はかなり苦戦になるでしょう」 「私は近く再婚することにしました」 「それはおめでとうございます」 「再婚の相手は、橋口則夫の妹の隆子です」 「それはまた奇妙なご縁ですね」 「実は橋口を追いつめた写真は、彼女から提供してもらったものなのです」 「そのことを橋口の妹さんはご存じなのですか」 「承知しております。隆子は兄が晴子を奪った損害賠償をすると言っております」 「損害賠償ですか」 「そういう形で私に対する愛を告白しているのですね。いや、これはのろけになってしまったな」 「橋口がしたことは妹さんにとってはなんの関係もないことでしょう」 「なにか負い目を背負わなければとても私と結婚できないと言っているのです。負い目という意味では、私も彼女に負い目を背負っております。彼女から手に入れた写真でその兄を追いつめたのですからね」 「負い目を持った者同士の結婚は意外にうまくいくかもしれませんね」  考えてみれば、日高耕一も野々村省吾も妻に対して負い目をもっていたが、妻は彼らになんの負い目もなかった。彼女らは夫に対する優位の上に立って不倫を犯していたのである。 「これからは二度と妻を殺そうなどとはおもわないでしょう」  日高は自らを戒めるように言った。 「私も今度のような証言をすることは二度とないでしょう」  野々村はうなずきながら言った。  日高は新しい妻を得ようとしているが、野々村は同じ妻を擁していかなければならない。だが彼女は不倫パートナーをこの度の事件によって失った。いや、複数のパートナーの一人を失っただけかもしれない。  結局、野々村の人生はなにも変わっていないのである。彼は変わらなかったことにほっとしていた。これからまた野望の階段を上っていくための営みがつづくのである。  野々村はそのときふと、増子が情交痕跡を身体《からだ》に残したまま殺されている場面を想像した。自分は日高のように彼女のパートナーを探すであろうか。おそらく探さないであろう。日高にとっての屈辱の痕跡は、野々村にとっては妻の鎖からの解放を意味している。野々村には毎日が屈辱の積み重ねであり、その堆積《たいせき》の頂上に立ったとき、初めて彼の屈辱は雪がれるのである。 「日高さん、あなたにお会いできて私は自分の生き方を見つめ直すことができました。あらためてお礼申し上げます」  野々村は言った。 「お礼を申し上げなければならないのは私の方です。あなたのおかげで、ともかく妻を引いた鼠を仕留めることができたのです」  日高が言った。  後日談であるが、次の総選挙で小松原正之は落選した。「秘書の不祥事」が祟《たた》ったのである。大物の落選によって民友党の派閥地図は大幅に塗り変えられた。 本作品は一九九一年三月、小社より刊行のノベルズを文庫化したものです。 角川文庫『生前情交痕跡あり』平成4年9月25日初版発行