[#表紙(表紙.jpg)] 殺人の赴任 森村誠一 目 次  迷い込んだ蝶《ちよう》  隔世の憎悪  プライベートな殺人  忌避《きひ》された遺留品  主権なき主  出揃《でそろ》った役者  認めざるセコンド  死体なき殺人  ジグソー・パズルの空洞  双頭のタイクリップ  相対性人都市 [#改ページ]  迷い込んだ蝶《ちよう》      1  シャワーで汗を流し、さっぱりしたところでテレビを見ていると、ドアのチャイムが鳴った。だれも訪ねて来る予定はない。首を傾《かし》げながらドアを開くと、そこに髪の長い若い女性が立っていた。 「今晩は」  彼女は少しはにかんだように微笑《ほほえ》んで、挨拶《あいさつ》した。 「今晩は」  つられて道浦《みちうら》も挨拶を返した。 「お邪魔してよろしいかしら」  彼女はやや小首を傾げるようにして問いかけた。 「は? はい」  道浦には心当たりはないが、なにか用事のありそうな彼女の態度に、つい答えてしまった。 「失礼します」  若い女はふんわりと舞い込んだ蝶《ちよう》のように室内に入った。 「めぐみです。よろしくね」  ドアを閉めて室内で向かい合うと、若い女は改めて挨拶した。年齢は二十一、二。スリムで小柄であるが、体の要所要所は充分に実り、ミニスカートから覗《のぞ》く太股《ふともも》は若さに弾んでいる。一見学生風である。だが道浦は記憶を懸命に探っても、心当たりがなかった。 「あのう、シャワーを使わせていただいてよろしいでしょうか」  めぐみと名乗った女の子はおずおずと言った。  そのとき道浦はようやく彼女が部屋をまちがえたらしいことを悟った。それにしても道浦と顔を合わせながら、彼女が人ちがいに気がつかないのはどういうことであろうか。道浦が彼女の知人のそっくりさんなのかもしれない。それにしても初対面のような恥じらいを含んだ他人行儀が不思議である。 「もしかして部屋をまちがえたのではありませんか。何号室を訪ねて来たの」  道浦に問われて、めぐみははっとしたように、 「このお部屋は七三一号室ではございませんか」 「部屋番号はまちがっていないな。だれを訪ねて来たのですか」 「ただ七三一に行けと言われたものですから」 「きみはもしかしてコール……」  道浦は相手の素性におもい当たった。だがとてもそのような女性には見えない。シンプルなブラウスにミニスカート、化粧も薄く素人《しろうと》っぽい。街で見かけるごく普通の娘である。語尾を喉元《のどもと》に押さえたのは、彼の推測がはずれれば、彼女に対してたいへん失礼になるからである。 「わたし、モナリザから来た者ですけれど、お電話なさいませんでしたか」  めぐみはべつに気を悪くしたふうも見せず、問い返した。 「モナリザ、それはなんだね」 「デートクラブです。わたしたち電話で呼ばれて出張して来るのです」  めぐみは悪びれずに言った。 「やっぱり部屋ちがいだ。ぼくは電話などしたおぼえはないよ。きっと受付係がナンバーを聞きまちがえたんだろう」 「あら、いやだわ。どうしよう」  めぐみは途方に暮れたように立ちすくんだ。そんな様子はデートガールらしくなく初々《ういうい》しい。 「わたしはべつにかまわない。気にしなくていいよ」 「ごめんなさい。たいへん失礼しました」  めぐみは平謝りに謝って、部屋から出て行こうとした。その愛らしい後ろ姿を見て道浦は、 「きみ、ちょっと待ちたまえ」  と呼び止めた。 「はあ」  めぐみは訝《いぶか》しげな表情をして振り返った。 「きみさえよかったら、このままこの部屋に少しいてくれないかな」  道浦は言った。 「あのう、それはお部屋のシャワーを使ってもいいということですか」 「ぜひ使ってほしい。きみなら大歓迎だよ」 「嬉《うれ》しいわ。わたしもいまからほかのお部屋へ行くのは気が進まなかったんです」  彼女は艶《つや》っぽい笑顔を見せた。小娘のようだが、そんな表情には男の心をくすぐるプロの色気が感じられる。 「きみを呼んだお客の方は大丈夫かな。膝小僧《ひざこぞう》を抱えてきみが来るのを首を長くして待っているかもしれない」 「お電話を貸してください。ほかの人をさし向けますわ」  それが道浦とめぐみの最初の出会いであった。      2  めぐみは迷い込んだ蝶《ちよう》のように道浦がたまたま泊った部屋にまぎれ込んで来たが、忘れがたい記憶を残していった。たった九十分のつきあいであったが、めぐみは道浦の鬱積《うつせき》した男の欲望を癒《いや》してくれただけでなく、荒涼とした心情を柔らかな石鹸《せつけん》の泡で包み込むように優しく手当てしていってくれた。  別れ際に道浦がもう一度会いたいと言うと、めぐみは一本の電話番号をおしえてくれた。 「ここへ電話をかけてください。突然だと身体《からだ》が占《ふさ》がっているかもしれないので、前の日に電話をくだされば、必ず空けておきます」  とめぐみは答えた。それ以後何回かめぐみを呼んだ。逢瀬《おうせ》を重ねるつど情が湧《わ》いた。だが彼女の優しさもベッドの中の卓越した技術も、九十分三万円でだれにでも切り売りするものだとおもうと味気なかった。めぐみは一切身の上について語らなかった。 「きみのような女性がどうしてこんな仕事をやっているのかな」  道浦がさりげなく詮索《せんさく》しかけると、 「こんな仕事をしていたから、あなたにお会いできたんでしょう」  と優しくいなされてしまった。彼女の言葉は、どんなに濃厚な情を交えたようにおもっても、しょせん売り物買い物の関係にすぎないことを柔らかく諭《さと》しているようである。道浦は自分が女を買うという女性の人格無視の行為を働きながら、説教めいた質問をしたことを柔らかくたしなめられたようにおもった。  それ以後、道浦は彼女の身の上については一切詮索しないことにした。九十分三万円の枠内で満足しているかぎり、この素晴らしい娘の切り身にありつけるのである。欲張ってはならないと道浦は自分に言い聞かせた。  道浦がめぐみに出会ったホテルに泊ったのは、まったく偶然である。道浦の自宅は杉並《すぎなみ》区のはずれにあるが、数年前から名古屋の工場に単身赴任している。会社から転勤を命ぜられたとき、道浦は一家挙げての移転を考えた。だがまず妻が反対し、子供たちが東京から動くのをいやがった。娘と息子は田舎《いなか》へ行ってはいい大学に入れないと言った。  妻は子供の受験を口実にしたが、東京の生活が気に入っており、自分が動きたくなかっただけである。夫との生活よりも、東京の生活を選んだのである。家族全員が行きたがらないものを無理やりに引っ張って行くわけにいかない。やむを得ず道浦は単身赴任した。  最初の間は金曜日の夜帰宅し、日曜日の夕方名古屋へ戻るという生活をつづけていたが、妻が交通費がもったいないと言いだした。道浦自身が金帰日来の生活に疲れてきたので月二回の帰宅となり、やがて月一、さらに二、三ヵ月に一度のわりあいの帰宅となった。いまは半年に一度帰宅すればよいほうである。  ところが帰宅の間隔が遠くなってくると、家族の間に父や夫のいない生活が定着した。道浦の居室は、息子の勉強部屋となり、帰宅してもいる場所がない。食事にしても母子三人のメニューが定まり、たまに帰宅する道浦のために特別の料理を作るのを妻は面倒くさがるようになった。  久し振りに帰って来た道浦を迎えて、妻や子供たちは彼を外食へ誘った。 「久し振りに親子|揃《そろ》ったんだから、レストランで食事をしましょうよ」  妻は臆面《おくめん》もなく言い、子供たちが即座に賛成した。久し振りに顔を揃えたからこそ親子四人の家庭料理を食べたいとおもっていたのが、外食へ引っ張り出される。レストランで他人の目を気にしながら、ウエイターやウエイトレスにかしずかれてナイフとフォークを操るのよりも、家でくつろぎ妻の酌《しやく》でビールを飲み、枝豆をつまみ、胡麻《ごま》よごしや冷ややっこや納豆《なつとう》で炊き立ての飯を食いたいとおもった。  だがそういう食べ物はすでに子供たちにとってご馳走《ちそう》ではなくなっている。道浦が芋の煮ころがしや野菜の煮しめでうまそうに飯を食っていると、彼らはまるで異星人の食事を見るような奇異な目を向けた。道浦の嗜好《しこう》と彼らのそれが完全にかけ離れてしまったのである。そして夫の単身赴任中に妻は道浦の好みを忘れてしまった。おもい起こそうとする努力もしない。  めぐみと出会った夜、道浦は我が家から追い出された。ほとんど半年ぶりに帰宅して来ると、我が家に妻の妹一家が客に来ていた。ちょうど春休みで子供を連れて道浦の家を基地にして東京見物に来たのである。 「あなた、ごめんなさい。お布団《ふとん》が足りないのよ。悪いけれど今夜だけホテルに泊ってくださらないかしら」  妻は久し振りに帰って来た道浦に言った。べつにそれを悪いこととはおもっていないようである。道浦は憮然《ぶぜん》としたが、妻の妹の手前いやだと言うわけにはいかない。 「お義兄《にい》さん、ごめんなさい。わたしたちがホテルに泊るわ」  妻の妹が言葉だけすまながったが、 「いいのよいいのよ。うちの人はホテルの方が気楽でいいの。単身赴任の生活が身にしみついてしまって、家族すらうるさがるのよ」  妻がかたわらから勝手なことを言った。うるさがっているのはどちらか。道浦は腹立たしさをこらえて、ホテルへ来た。単身赴任のわびしい生活から半年ぶりに我が家へ帰って来たというのに、一人だけホテルへ追い出されている。  いったい自分の存在は家族にとってなんなのか。こんなことならなにも名古屋から帰って来ることはなかった。道浦はわびしさを凝《じ》っと抱きしめるようにしてホテルでテレビを見ていた。そのときめぐみが迷い込んで来たのである。  めぐみの出現によって、道浦のわびしい人生に彩りが加えられた。それは彼のこれまでの半生で味わったことのない刺激的な時間であり、家族から一度としてあたえられたことのない優しいいたわりに満ちた人間関係であった。それがたとえ代価を伴うものであっても、彼がこれまで妻子にあたえたものに比べれば、ほとんど端金《はしたがね》にすぎない。  そんな端金でめぐみは道浦が二十余年かかって築き上げた家庭が決してあたえてくれない安らぎを提供してくれたのである。それが職業としての手練手管《てれんてくだ》であるとしても、妻の座にあぐらをかいた女たちがとうに失ってしまった女性の優しさとハートがあった。 (もし二十年前にめぐみのような女に出会っていたら、自分の人生は変わっていたかもしれない)  と道浦は真剣におもった。めぐみが三万円で切り売りしてくれた切片が、二十余年の努力の結晶である家庭のどこにもない宝石のように貴重なものであった。  道浦はめぐみに会うために東京へ帰って来るようになった。家にはちょっと顔を見せるだけである。そのうちに家にもまったく立ち寄らなくなった。土曜日の夜、彼女と初めて出会った新宿のホテルへ直行し、めぐみとダブル(百八十分)を過ごし、翌日曜日名古屋へ帰る。それが道浦の生き甲斐《がい》になった。  経済的に毎週は会えないので、月一、二度で我慢した。時にはせっかく予約を入れても、めぐみの体調が悪かったり、先約が入っていたりして、会えないこともある。そのようなときは、次に会うまで気が抜けたようになった。  めぐみは道浦がチップをやろうとしても、決して受け取らなかった。 「その分またわたしを呼んでください。シングルで三万円は決して安い費用ではありません。いつもダブルで呼んでくださるうえに、そんなチップまでくださっては、無理が出るわ。無理をつづけると会えなくなるわ。無理をしないでいつまでもわたしを呼んでくださいね」  めぐみはそう言って、せっかく道浦がさし出したチップを押し返した。  めぐみは商売気を離れて道浦に尽くしてくれるように見えた。道浦の食べ物の好みを察して、軽い料理を用意して持って来てくれることもある。ホテルの部屋でめぐみが持参した食べ物をさし向かいで食べていると、彼女と新婚生活を過ごしているような錯覚をおぼえる。妻との新婚時代においても、めぐみと共に過ごしているようなときめきやハッピーな気持ちは味わわなかった。 「このままきみとずっと一緒に過ごせるといいな」  別れ際に道浦が未練をこめて言うと、 「短かい時間だからいいのよ。わたしのような女とずっと鼻を突き合わせて暮らしていたら、すぐに倦《あ》きてしまうわ」 「きみを倦きる? そんなことがあるものか」  道浦が抗議すると、 「男と女の関係は経済学の原則よ」 「経済学の原則だって」 「供給の少ない方がたがいに稀少《きしよう》価値を生じて恋しくなるのよ。供給過剰だとたちまちげっぷが出てしまうわ」 「そんなことはない。きみだったらどんなに供給されても過剰になることはないよ」 「男の人はみなそうおっしゃるわ。でも結婚すると、たちまち供給過剰になって倦怠《けんたい》期に入ってしまうのよ。よく言うでしょう。二杯目のビールは一杯目のビールよりまずいって」 「そんなことはないさ。二杯目の方がうまいこともある」 「けれども、三杯四杯となれば必ず一杯目よりまずくなるわ」 「一度でよいから、きみをもういいというほど飲んでみたいな」 「もういいというほどお飲みになったら、二度とお飲みになりたくなくなるわよ」 「そんなものだろうか」 「そんなものよ」  道浦はめぐみの二倍以上も齢《とし》を食っていながら、彼女と話していると年齢差が逆転したような気持ちになる。少なくとも男と女の関係に関しては、めぐみの方が達人であるようである。  めぐみと知り合って数ヵ月後、いままで決して話さなかった身の上についてぽろりと洩《も》らした。 「わたし、父を幼いころ交通事故で失って、母に育てられてきたの。わたしが高校生のとき母も病死したんだけど、死に際《ぎわ》に言い残したことがあったわ。なんでも父はとてもお金持ちの一人息子で、母との恋愛を許されず、母と駆け落ちしてわたしを産んだんですって。父の両親は母を決して許さず、私が生まれたとき、祖父はすでに死んでいたそうだけど、祖母はわたしが生まれた後父が死んでも母を認めようとはしなかったそうよ。わたしはそんな祖父母を憎んだわ。たとえむこうが認めても、こっちが祖父母と認めてやるもんかとわたしは心に誓ったの。だから母が死んだ後も、父の生家には寄りつかないの。どんなお金持ちか知らないけれど、きっと息子よりお金の方が大切なんでしょう。貧しかった母に財産を横取りされるような気がして母との結婚に反対したのよ。お墓の中まで財産を持って行くといいわ」  いつも穏やかで優しげな表情を保っているめぐみが、そのときだけは怒りの色を面に塗った。 「いまはおばあさんも、そのことを後悔しているかもしれないよ。きみが帰って来るのを待っているんじゃないかな」 「たとえむこうが待っていても、こっちが願い下げよ」 「おばあさんに会ったことはあるのか」 「小さいとき父に連れられて都内のどこかにあった父の生家に行ったことがあったわ。庭に神木と呼ばれる三百年以上とかのシイ(椎)の樹《き》があってお化け屋敷みたいだったの。二度と行きたくないわ」 「そんなに意地を張らずに、老い先短かいおばあさんを喜ばせてやったらどうかね。その方がご両親の霊も喜ぶとおもうけど」 「わたし、両親を殺したのは祖父母だとおもっているの。絶対に許さないわ」  めぐみは優しげな姿態のどこにそのような激しい意志を潜めていたのかとおもわれるような妥協のない口調で言った。  いわゆる身分の釣り合わない結婚に対して親が反対したのであろう。それにしても両親が死んだ後も、めぐみの祖父母に対する憎しみは尋常ではない。その憎しみから自分を切り売りするようになったのかもしれない。だがそのおかげで道浦はめぐみの切り身にありつけるのである。 [#改ページ]  隔世の憎悪      1 「こら」  お勝手の方角で娘の頼子《よりこ》の怒鳴り声がした。 「どうしたの」  居間の掃除をしていた母の郁枝《ふみえ》が問いかけた。 「またお隣りの猫がお勝手に入り込んで油揚げをくわえて行っちゃったのよ」 「おかしいわねぇ。餌《えさ》は充分にもらっているはずなのに」  郁枝は首を傾《かし》げた。隣家は近所から猫屋敷と呼ばれるほどの猫好きで、十数匹の猫を飼っている。隣家の主の老婆は猫の世話だけを仕事にしており、良質の餌をたっぷりとあたえているはずである。それが最近頻々と我が家に忍び込んでは餌を漁《あさ》るようになった。 「そういえばおばあちゃん、このごろ姿を見かけないけど、病気ではないかしら」 「でも親戚《しんせき》の人がよく来ているわよ。猫の餌もやっているでしょう」  隣家には親戚と称する外国製のスポーティな車に乗った派手な男女が出入りしている。 「わたし、お隣りの親戚の人嫌いよ。男の人はわたしの方をにやにや笑いながら見るし、女の人は厚化粧に派手な服を着て、なんだかキャバレーの人みたい」  頼子は眉《まゆ》をひそめた。高校に入ってからめっきり女っぽい身体になり、電車で痴漢にいたずらされかけて憤慨していた。男のいやらしい視線には敏感になっている年頃である。 「あなたの年頃には男の人はみんな痴漢に見えるものよ。お隣りさんのご親戚に失礼な真似《まね》はしないようにね」  郁枝は柔らかく言った。まだ引っ越して来てから一年に満たない。できるだけ低姿勢を保つに越したことはない。  隣家はこの地域では最も旧《ふる》い屋敷である。広壮な門構えと威圧的な石塀《いしべい》をめぐらせた庭をたっぷり取り、濃密な庭樹の間に樹齢三百年といわれるシイ(椎)の樹が一際《ひときわ》高くそびえ立っていて緑の傘を広げ、母屋《おもや》の屋根を覆っている。死んだ老婆の夫は、名の売れた実業家だったとか、鉱山師《やまし》で金の鉱脈を掘り当て、巨額の財産を築き上げたとかいう噂《うわさ》がある。夫の死後、老婆は古びてはいるがその広壮な屋敷に猫と一緒にひっそりと生活していた。  その屋敷の隣家の主が頼子の父の親友であった。仕事の都合で長期アメリカに移住することになり、たまたま東京へ転勤になった八坂《やさか》家に留守の管理を委嘱してきたのである。閑静なお屋敷街で緑がたっぷりとあり、環境は申し分ない。交通の便もよい。八坂一家は新しい住居が気に入っていた。  土地柄は旧いが、最近急速に開けてきて、スマートでこぢんまりした住宅がたてこむようになった。その中で隣家は建て替えもせず昔ながらの古色|蒼然《そうぜん》たる構えを文化財のように保っている。  ところが間もなくおもわぬ伏兵に出遭った。それが隣家の猫である。老婆の管理が行き届いている間は、他家に迷惑をかけることもなかったが、最近その管理が緩んだと見えて、頻々と入り込んで来ては餌を漁《あさ》ったり排出物を庭や通路に挑発的にたれ流す。ゴミ収集日に備えてまとめておいたゴミの袋を噛《か》み破って中身を引き出す。夜ともなれば八坂家の庭先でわがもの顔の集会を開く。猫屋敷の猫が移動して来たかのような観があった。  飼い主の家にはるかに広い庭がありながら、八坂家の庭が居心地よいのか、もっぱらこちらを集会場にしている。 「いやだわ。このごろ十匹ぐらいで固まっていて、わたしが行っても逃げないのよ。暗闇《くらやみ》の中にたくさんの猫の目が光っていると不気味だわ」  頼子は憤慨した。 「まあそう言わないで。動物がよく来る家は、災害に遭《あ》わないと言うじゃないの。きっとこの家は安全なのよ」  郁枝がなだめた。 「すると、お隣りさんは安全ではないということになるの」 「そうとは言えないけれど、うちの庭の方が居心地いいのよ」 「でもくさいし、不潔でいやだわ」 「そうねえ。うちもお向かいさんのように猫よけの薬を置こうかしら」 「それ、なに」 「ご近所の横尾《よこお》さんね、猫が入り込まないように猫よけの薬を仕掛けているのよ」 「そんな薬があるの」 「猫の嫌いなにおいを出す薬らしいの。すごく変なにおいがするのでなにかしらとおもったら、猫よけの薬を置いたんですって」 「そういえば、そんなにおいを嗅《か》いだことがあるわ。頭が痛くなるようなにおいだったわ。でもあんな薬を仕掛けたら、猫より人間がまいっちゃうんじゃない」 「そうねえ。猫を我慢するか薬のにおいを我慢するかだわね」      2  数日後、頼子が言った。 「お隣りさん、少し様子がおかしいんじゃない」 「どうおかしいっていうの」  郁枝が問うた。 「おばあちゃんの姿、ぜんぜん見かけないわよ。死んじゃったんじゃないかしら」 「まさか。親戚の人も来ていることだし。そんなはずはないわよ」 「でもぜんぜん気配もないわ。猫にもまったく餌をやっていないみたい。みんなすごく痩《や》せてきたわ。おばあちゃんが生きていれば、親戚の人に餌をやるように言うはずだわ」 「きっとそこまで手がまわらないのよ」 「お洗濯物、干してあるのを見たことある? お洗濯物がぜんぜんないなんておかしいわ」 「乾燥機を使っているのよ」 「でも乾燥機で乾かしきれないものがあるわよ。シーツとかバスタオルとか、お布団《ふとん》のカバーとかそういうものを干しているのを見たことがないわ」 「クリーニングに出しているのよ」 「でもクリーニング屋さん、出入りしてないわよ。クリーニングだけでなく、ご用聞き全然出入りしていないみたい」 「あんまりお隣りさんのことを気にしてはいけないわよ。親戚の人がついているんですもの心配することはないわ」 「あの人たち、本当に親戚かしら」 「それ、どういうこと」 「べつにおばあちゃんの親戚だという証明書があるわけではないでしょう。自分たちが親戚だと言っているだけではないの」 「あなた、なんてことを言うの」 「だってそうでしょう。親戚でもない人が勝手に入り込んで親戚だと言っても、近所にはわからないわよ。仮にわたしの家にまったく関係のない人たちが入り込んで、ご近所に親戚だと言っても、ご近所は疑わないとおもうわ」  言われてみれば、たしかにそうである。近所の家族関係はともかくとして、親戚や友人、知己については知らない。それを調べる権利もない。ましてや田舎《いなか》と異なり、プライバシーを重んずる大都市郊外の住宅街では住人相互の交際は深くない。なるべく相互の私生活に踏み込まないようなクールな人間関係が好まれる。 「そこまで疑ったら、うっかり親戚の家も訪問できなくなるわよ」 「でも、親戚の人なら猫に餌をやるはずだわ」 「やっているのよ。餌のあたえ方が不規則なので、あのように痩《や》せているのよ」 「ねえ、おばあちゃん、本当に生きているのかしら」 「そんなことを言ってはいけません」 「わたし、もうとっくに死んじゃって、お隣りの家の中でミイラになっているような気がするの」 「まあ、なんてことを想像するのよ。亡くなっていれば親戚の人がお葬式をするはずよ」 「だから親戚ではないのよ」 「親戚でなければなんだというの」 「おばあちゃんとはなんの関係もない赤の他人が、財産を横取りしようとして入り込んでいるのかもしれないわ」 「あなた、テレビの見すぎだわよ」 「もしかすると、あの人たちがおばあちゃんを殺しちゃったのかもしれないわ」 「頼子、言っていいことと悪いことがあるわよ」 「だっておかしいとおもわない。病気ならお医者さんが来るはずだわ。このごろ洗濯物を干したのを見たこともないし、ご用聞きは来たことがないわ。猫は野良になって餌を漁《あさ》っているし、絶対おかしいわよ」 「あなた、いつから探偵になったのよ」 「本当に、一度忍び込んで確かめてみたいくらいだわ」 「頼子、いいかげんになさい」  郁枝は呆《あき》れ果てたようである。      3  翌日の朝、郁枝が門の前の道路を掃《は》いていると、隣家の門から女が出て来た。年齢は二十代半ば、派手な目鼻立ちで化粧が濃い。肉感的な体型を水商売風のぞろっとしたケバい衣服で包んでいる。アクセサリー類も金ぴかで、金がかかっているらしいが、趣味が悪い。郁枝と女の視線が合った。 「おはようございます」  と郁枝が挨拶《あいさつ》したので、仕方なさそうに女も会釈した。そのとき郁枝に頼子から投げかけられていた疑問がむくりと頭をもたげた。ちょうどよい機会である。よけいなお節介かもしれないが、この際確かめてやろう。 「このごろおばあちゃんのお姿をお見かけしませんがお元気ですか」  咄嗟《とつさ》に郁枝は問いかけていた。束《つか》の間《ま》女の表情に困惑の色が塗られたように見えた。だがすぐに立ち直って、 「ええ、ちょっとここのところ風邪《かぜ》ぎみですので、大事をとって入院していますの」 「あら、入院していらっしゃったのですか。ちっとも存じ上げませんでした。お見舞いにもうかがわなくて失礼申し上げました」 「いえいえ、そんな大袈裟《おおげさ》なことではありませんから。齢《とし》なので、大事をとっているだけです」  女の口調が少しうろたえたようである。 「どうぞ、お大事になさってくださいませ」 「有難うございます」  女はそそくさと立ち去って行った。その後ろ姿が郁枝には逃げるように見えた。  その日の夕食時、隣家の�親戚�の女から聞いたことを頼子に伝えると、 「入院、本当かしら。どこの病院か言ったの」  と疑わしげに聞いた。 「そこまでは立ち入って聞けないわよ」 「どうして? ご近所だったらお見舞いに行ってもおかしくないでしょ」 「そう言ったんだけど、それほど大袈裟なものではないとおっしゃったのよ」 「きっとお見舞いに来られると困るのよ」 「あなたも疑い深いのね」 「入院なんて、きっと嘘《うそ》よ。入院するところをだれも見てないわ」 「夜中に車で運んで行けば、気がつかないわよ」 「わたし、その女の人の言うことを信じない」 「信じないって、どうするつもりなのよ」 「おばあちゃんの身にきっとなにか起きたのよ」 「そんな勝手な憶測をして、もしまちがったらただではすまないわよ」 「もしおばあちゃんが財産横領目的の悪人に入り込まれて殺されているのを隣りに住んでいて気がつかなかったら、それこそ大変よ」 「なんの証拠もないのよ」 「証拠は猫や洗濯物やそれからご用聞きの来ないことよ」 「そんなものは証拠にならないわ。まして入院していれば、洗濯物を干さなくとも、ご用聞きが来なくとも不思議はないわよ」 「わたし、お隣りの親戚に花を贈りたいと言ってやるわ。隣人が入院したおばあちゃんに花を贈るのは不自然ではないでしょ」 「およしなさい。あなたのは親切ではなくて好奇心なのよ」 「悪い好奇心ではないわ。最近お年寄りに取り入って、財産を騙《だま》し取る手口がはやっているそうよ。前にもそんな事件があったじゃないの。女が色仕掛けでお年寄りに近づいて、ありもしない金を売りつけて一枚の紙っ切れにすぎない金券と引き換えに財産を騙し取っていたという事件が」 「とにかくあまりお隣りさんに深入りしないでちょうだい。わたしたちには関係ないことなんだから。この家は借りているだけなのよ。大家さんが帰って来たとき、お隣りとの仲が悪くなっていないようにしなければいけないわ」  だが頼子は母の忠告に耳を貸さず、隣家に�親戚�が来ているときを見計らって電話をかけてしまった。今度は男の声が応答した。 「わたし、お隣りに住んでいる八坂ですけど、おばあちゃんがご入院とうかがいましたので、花を病院へ送りたいとおもいます。病院の住所をおしえていただけないでしょうか」 「病院の住所だって」  濁った男の声が困惑したようである。  代わって女の声が出た。 「ご好意は有難いのですけど、そんな大袈裟《おおげさ》なものではありませんから、どうぞご心配なく。入院といいましても、転地静養ですから。花などいただくと、かえって本人がびっくりしてしまいます」  女が答えた。化粧の濃い派手な顔立ちの女にちがいない。 「そんな大袈裟な花ではないんです。わたしが趣味でつくった造花をお送りしたいんですけど」  頼子は粘った。かたわらで郁枝がはらはらしている。 「本当にけっこうです。ご好意だけいただいておきます」  女は妥協のない口調で言うと、先方から電話を切った。 「やっぱりおかしいわよ。せっかく花を送ると言っているのに、電話を切ってしまうなんて、失礼だわ」  頼子は怒っていた。それ以上に自分の憶測が正しい方角に向かっていることを感じた。 「押しつけがましい親切はかえって迷惑なのよ。おばあちゃんにしても、病み衰えた姿を見られるのは決して嬉《うれ》しいことではないわ」 「お見舞いに行くと言っているのではないのよ。ただ花を送ると言っているのに」 「向こうはそうは釈《と》らなかったのかもしれないわ。本当にこれ以上|詮索《せんさく》するのはやめなさい。お母さん、お隣りさんとの仲をこわしたくないのよ」 「お隣りではないわよ。他人が入り込んでいるんだわ」 「そんなふうに決めつけて、なんの証拠もないじゃないの」 「親戚だという証拠だってないわ。お隣りに住んでいながら、おばあちゃんを殺されて、その財産を悪人に横取りされたら、隣人として無責任だわ」 「隣人には隣家の財産を守ってやる義務はありません」 「でも身寄りのないお年寄りの生命の安全を守るのは、隣家として当然のことではないかしら」 「おばあちゃんの生命がいつ脅かされたというの。みんなあなたの憶測にすぎないのよ」  郁枝は娘の強い好奇心に辟易《へきえき》していた。      4 「ねえ、お母さん、このごろお隣りの猫が少なくなったような気がしない」 「そういえばそうね。めっきり数が減ったみたい」  頼子に言われて郁枝も隣家の猫の数が減ってきたのに気がついた。全身白毛のシロ、喧嘩《けんか》して耳朶《みみたぶ》を噛《か》みちぎられたカタミミ、額に帽子のような縞《しま》模様が入っているボウシ、などと頼子が勝手に命名した特徴のある猫の姿が見えない。 「餌がなくて死んじゃったんじゃないかしら」 「まさか、猫はそんなに弱くないわよ。餌を探して家出をしているのかもしれないわ」 「もしかしたら殺されたのかも」 「殺されたって、だれがそんなひどいことをするのよ」 「決まってるじゃないの。お隣りの自称�親戚�よ。あの二人がおばあちゃんを殺した犯人なら、猫に悪事を知られているようで気持ちが悪いはずよ。そこで猫を一匹一匹殺していったんだわ」  頼子はすでに隣家に出入りする男女を犯人に仕立てている。 「自分の憶測でそんなことを言ってはだめよ」  郁枝は強く娘をたしなめた。 「だったら、猫はどこへ行ったのよ。急に姿が見えなくなるなんておかしいわ」 「だからといってそんな憶測を立ててはいけないわよ。猫は自分の足があるんだから、餌を探してどこへだって行くわよ。犬とちがって帰り道を忘れるというから、きっと遠くまで餌を探しに行って迷子になっちゃったのよ」 「そんな何匹もいっぺんに迷子になるかしら」 「一緒に連れ立って行ったわけではないでしょう。全部いなくなったわけじゃないじゃないの」  だが、それから半月もしないうちに、隣家の猫は一匹も姿を見せなくなった。 「お母さん、これはどういうことなの。十匹以上もいた猫が、一匹もいなくなるなんておかしいじゃない」  頼子に問われて、さすがに郁枝もすぐには答えられない。 「そうだわ。あの�親戚�の人がきっとおばあちゃんの所へ連れて行ったのよ」 「病院で猫が飼えるの」 「転地療養とおっしゃってたんでしょ。転地なら飼えるんじゃないの」 「わたしはお母さんのように楽観的に考えられないわ。みんな殺されて、お隣りの庭のどこかに埋められているのよ」 「そんな恐ろしい想像をしないで。わたしまで怖くなっちゃうわ」 「お母さんが怖がるということは、かもしれないとおもっているからでしょう」 「あなたが変な想像をするからよ。それでなくてもお隣りさんの庭は気味が悪いわ」  住人が老婆一人になってから、ほとんど手入れもせず、雑草が生い茂るにまかせている。お化け屋敷と陰口をささやく者もあるほどである。 「今度�親戚�に会ったら、猫はどこへ行ったか聞いてみようかしら」 「めったなことを言ってはだめよ」 「猫の行方《ゆくえ》を聞くくらいいいでしょう。うちだってさんざん迷惑をかけられたんだから」  その機会は意外に早くきた。翌日郁枝が門前の掃除をしていると、ちょうど隣家の門から出て来た�親戚�の女と顔を合わせた。郁枝は頼子との会話をおもいだして、声をかけた。 「おはようございます」  相手も仕方なさそうに挨拶《あいさつ》を返した。 「このごろお宅の猫が姿を見せませんが、どこかへ行ったのですか」  郁枝に問われて女は、 「あら、そう言われれば猫が見えないわね。本当にどこへ行ったのかしら」  女はいま初めて気がついたように言った。その表情に演技は感じられない。 「夜間よくうちの庭先で集会を開いていたんですけど、このごろ一匹も姿が見えないものですから、どうしたのかなとおもって」 「本当におかしいですわね。おばあちゃんが転地したので、寂しくなって家出してしまったのかしら」  女も不審の色を濃く面《おもて》に現している。その場のやりとりはそれだけで終わった。  その日の午後、下校して来た頼子にそのことを伝えると、 「しらばっくれているのよ。盗人《ぬすつと》たけだけしいとはこのことよ。お母さんに聞かれて、きっとぎょっとしたんだわ」 「あなたは悪い方にばかり解釈するのね。あの人、本当に不思議がっていたわよ。きっとあの人も猫の行方を知らないのよ」 「十何匹もいた猫が急にいなくなって、気がつかないというのがおかしいのよ」 「猫に興味がなければ、気がつかなくとも不思議はないわ。どうせ餌もやらずに放っておいたんでしょうからね」 「あの人が猫を殺したんだわ」 「本当に猫を殺したんなら、おばあちゃんの所へ連れて行ったとか、他人《ひと》にあげたとか、もっと上手《じようず》な嘘《うそ》をつくわよ。あの人、本当に知らないのよ」 「そのうちにお隣りの庭から猫が化けて出るわよ」 「いやなこと言わないで。夜、お隣りの方角を見られなくなっちゃうわ」  郁枝は次第に頼子の想像に伝染していった。      5 「このごろ祖母が病気らしいの」  その夜ホテルに呼んだめぐみが道浦にぽつりと言った。 「なにか連絡でもあったのかい」 「いいえ、風の便りに聞いたの」 「だったら見舞いに行ってやればいいじゃないか」 「いやよ。いまさら祖母|面《づら》をしても、だめよ」 「きみが顔を見せれば、おばあさん、きっと喜ぶよ。病気が治ってしまうかもしれない」 「生きようと死のうとわたしには関係ないわ。わたしの両親を殺したんですもの」 「そんなひどい言い方をしてはいけない。きっとおじいさんもおばあさんも、後悔しているかもしれない」 「祖父はとうに死んでしまったわ」 「すると、いまはおばあさん一人っきりか」 「そうよ。大きな屋敷に猫と一緒に住んでいるわ」 「だったらなおのこと行ってやらなければいけない」 「両親を殺した仇《かたき》ですもの。許せないわ」 「血は水よりも濃いという。たとえ両親との間に軋轢《あつれき》があったとしても、きみとは関係ないはずだ」 「関係大ありよ。両親の結婚を認めていれば、二人とも早死にしなかったかもしれない。わたしもこんな仕事をせずにお嬢様していられたかもしれないのよ」  道浦は急所を突かれたおもいがした。彼女も好んでデートガールをしているのではないことを問わず語りに語った。いわば道浦は彼女の不幸に便乗してその美味《おい》しい切り身にありついているのである。本来なら道浦のような中高年の、仕事に疲れ、家庭から疎外された薄汚れた男が足許にも近寄れない良家の令嬢なのである。 「ごめんなさい。お客様に失礼なことを言ってしまって」  めぐみはすぐに自分のプロとしての失言に気がついたらしく謝った。 「いやいや、謝らなければならないのはぼくの方だよ。よけいなことを言ってしまって」 「道浦さんの親身になってのアドバイスはよくわかるわ。でもわたし、本当のことを言って、祖母という気がしないの。きっと先方もそうだとおもうわ。なんていうのかなあ。中国残留孤児が大きくなって、いきなり年老いた両親に再会するようなものかしら。テレビのニュースで見たけど、おたがいに泣きながらも、困ったような表情をしていたわ」  戦火の下、やむを得ず中国へ置き去りにした孤児が成長して戦後日本へ肉親を探しに訪ねて来た。再会を果たせた者も、果たせなかった者もいる。だがたがいの心に刻み込まれているものは、幼いころのわが子の面影であり、まだ若々しかった両親の残像であろう。それが片や大人に成長し、一方はすっかり年老いている。  しかもわが子は中国人になりきってしまい、通訳を介さなければ意思の疎通ができない。いきなり親子肉親と名乗られても、何十年ものタイムラグは容易に埋め立てられないであろう。めぐみの場合はタイムラグに加えて憎しみの壁が隔てている。 「おじいさんが亡くなったとすると、いまだれがおばあさんの面倒を見ているのかね」 「知らないわ。きっとお手伝いでも雇っているんでしょう。お金に不自由はしていないはずだから」  その祖母の財産があれば、めぐみも九十分三万円で青春を切り売りせずにすむのである。 [#改ページ]  プライベートな殺人      1 「めぐちゃんだけに打ち明けるがね、おれが一言しゃべれば、大臣の首がいくつも吹っ飛ぶんだよ」  奥光《おくみつ》が得意げに言った。大社長の秘書というふれ込みで、めぐみの常連客である。最初は偽名を使っていたが、常連になってから本名をおしえてくれた。しつこいのと体臭の濃いのに辟易《へきえき》させられるが、優しくておもいやりのある、まずは上等の部類に属する客である。 「凄《すご》いのね」  めぐみは相槌《あいづち》を打った。デートガールでも常連となると、男は鎧《よろい》を脱いで無防備になる。気に入った女の前で、自分の力を誇りたがるのは男の心理である。 「政治家は金を持っていなければ派閥の長となれない。民主主義というやつは、一人ではなにもできない仕組みなんだ。だから大勢で群れて派閥をつくる。派閥のボスとなるためには、大勢の子分を養わなければならない。資金源を持たない政治家は、大物になれないようになっている。政治家はいつも金に飢えているといっていいんだ。また実業家も有力な政治家と結んで、利権を得ようとしている。政治家と実業家は男と女のようにくっつきやすい体質を持っているんだ。うちの会社なんて政治家の傘の下で大きくなったようなもんだからね。共産党を除いてうちの社長が金をやった議員は全国会議員の三割ぐらいになるよ」 「凄いわねえ」 「そのほとんどの裏金を、おれが運んだんだ」 「まあ」 「いつだれにいくらどこで渡したか克明にメモを取ってある」 「それじゃ奥光さんが国会議員の三割の弱味をがっちりと握っているというわけね」 「そうさ。総理だの大臣だのとふんぞり返っていても、おれの前へ出ると借りてきた猫のようなもんだ。いまの与党の大物には一億円から十億円、数千万円クラスがごろごろしていて、陣笠《じんがさ》でも五、六百万円は贈っているよ」 「それは賄賂《わいろ》なんでしょう」 「みんな賄賂だよ。見返りを期待しないで政治家に金をやる者なんかいない」 「十億円なんて凄い賄賂ね。わたしたちには想像もできないわ」  めぐみは「凄い」を連発した。 「金をやる方ももらう方も感覚が麻痺《まひ》しているからね。政治家も金をもらって当然という意識がある。政治家だけじゃない。うちの会社なんか要所要所七つ道具で固めているんだ」 「七つ道具ってなに」 「お役所から天下《あまくだ》ってきた連中だよ。大蔵省、自治省、農水省、防衛庁、外務省、警察、これらお役所のお偉方《えらがた》が、みんな重役として天下ってくるんだ。役所の縄張りに合わせて事業が円滑に運ぶようにするために、各役所に顔のきくOBを揃《そろ》えているんだよ。こういう連中のことを七つ道具と呼んでいる」 「便利なお道具なのね」 「便利だよ。ヤクザの用心棒と変わりない。その用心棒の大ボスが政治家というわけだ」 「でもその大ボスも奥光さんに弱味をぎゅっと握られているんでしょう」 「そうだよ。あいつらのキンタマをおれが握っている。そしておれのキンタマをめぐちゃんが握っている」  奥光は淫猥《いんわい》な笑みを洩《も》らした。 「奥光さんっていやらしいわ」 「おれもそうおもうよ。男はいやらしくなければ生きていけない」 「どこかで聞いたような言葉ね」 「男の心理さ。いや、人生の真理さ」  その数日後、東京交通不動産に、過去七年間で約五十億円に上る使途不明金があった事実が、国税当局の調べで明らかになったとニュースが報道した。東京交通不動産は東京西郊から神奈川県下に地盤を持つ東京交通の子会社であり、一九七×年に同社の不動産部門として独立した。東京交通不動産の使途不明金は大方政治家に流れたと見られている。  もともと同社は、東京交通グループの社長|江頭義郎《えとうよしろう》が政・官界との人脈をフルに活用し、栃木県|那須《なす》町の国有林と新潟県東|頸城《くびき》郡の民有林の交換をして、前者を別荘地として開発、これを転売して巨大な利益を得て太った会社である。  ところがこの利益に伴う税金を惜しんだ江頭は、同社グループの最大赤字会社、「山砂製鉄」と合併させた。山砂製鉄は製鉄の触媒剤のメーカーであるが、製造過程に大量の電力を要し、原価が高く需要も下降しており、巨大な累積赤字を抱えていた。  これと合併することにより、東京交通不動産の黒字は、帳簿上山砂製鉄の赤字に吸収されてしまった。利益がないのであるから税金を払う必要もない。この巧妙な「逆さ合併」によって、江頭は東京交通不動産が稼ぎ出した巨利を一円の税金も納めず丸儲《まるもう》けしたのである。この逆さ合併の後、江頭は東京交通不動産を使途不明金の捻出《ねんしゆつ》会社として活用した。  会社の使途不明金は「益金」として扱われ法人税を納めなければならない。だが同社は山砂製鉄との合併によって帳簿上は百億を超す累積赤字を抱えた会社となっている。このため毎年数億円から十数億円の使途不明金を計上して、これを益金として扱っても巨額の赤字に吸収されて法人税を納めずにすむ。  新潟のおんぼろ土地と交換という名目で取得した那須の国有林は、当時一坪(三・三平方メートル)八十円と評価された。それがいまは十万円以上にはね上がっている。なんと千二百五十倍である。しかも巧妙な逆さ合併という税逃れによって一円も税金を納めずにすませた。  合併は企業力の強化、競争の回避、経営の合理化などを狙《ねら》って行なうものである。いずれの場合でも企業にとってなんらかのメリットがなければ合併はしない。黒字会社がわざわざおんぼろの赤字会社と合併して、その赤字を背負い込むような合併は普通は考えられない。黒字会社にとってはなんの利益もない。  だが両社の社長《オーナー》が同一人物であれば、両社の合併による税逃れという隠れた利益がある。べつに赤字会社と合併してはならないという規定はない。国有地の不当交換によって利益を得たところで、税金という網を打って回収してしまうと大見得を切っていた大蔵省も、この巧妙な税逃れに唖然《あぜん》とした。  このときの不当交換で江頭は約三百億円を儲《もう》けた。五十億円の使途不明金はこのとき働いてくれた政治家に対する礼金と見られる。五十億円謝礼金を積んでも、充分ペイする取引きであった。国税局、大蔵省の調査に加えて、検察庁も捜査に乗り出した。政界への波及は必至と見られている。  このニュースを聞いためぐみは、咄嗟《とつさ》に奥光の会社だと悟った。五十億円の使途不明金というのは、奥光が運んだと言っている金にちがいない。彼が一言|洩《も》らせば、大臣の首を何人も吹っ飛ばせると豪語していた。この大規模な疑惑事件の鍵《かぎ》を握る人物が奥光なのではないか。報道にはまだ奥光の名前は出ていないが、彼の言葉が事実であるとすれば、事件の核心に坐《すわ》っていることになる。 「奥光さん、大変なんだわ」  めぐみはつぶやいた。  めぐみを買う人間は雑多である。給料日に機械油が浸《し》み込んでいるような一万円札を握って来る工員もいれば、人気芸能人やスポーツ選手や大学教授などもいる。また身分を隠したVIPもいる。ベッドのつきあいは卒業して、碁や将棋の相手をさせたり食事を共にしたり、ゴルフや釣りやカラオケのエスコートをさせる老人もいる。彼らはそれぞれめぐみから九十分三万円で彼女の切り身を分けてもらい、活力を取り戻すのである。  三万円の切り売り関係にすぎないが、常連にはそれなりの情が湧《わ》く。たとえ一見《いちげん》(一度限り)の客であっても、一度接した客は忘れないものである。デートガールは客にただ性器を貸しているくらいにしかおもわない者が多いが、決してそんなことはない。たとえ切り売りであっても、そこに自分の人生の切片がある。  女が身体を売るということは、握手とは異なるのである。基本的にセックスが好きでなければならない。不特定多数の客に接するために、握手と同じように割り切っている女性もいるが、割り切るように努めている。一人一人に情をこめていては、効率が悪くなるからである。  若い間の切り花でも買う客がある間はできるだけ多く売っておこうとする者は、効率を考える。質よりも量で勝負する。半分プレイ感覚で売る者は、自分自身が楽しみたがる。いずれの場合でも常連客に情が移るのは人情である。めぐみは奥光の身の上が気になった。  案じているとき、奥光から彼女に指名の電話が入った。客は店で待機している女性を選ぶのであるが、常連になると店まで来ない。連絡はすべてクラブを経由してである。クラブは女性と客との直接の連絡を禁じている。客との間に�直談《じきだん》�が生ずると、クラブの存在価値がなくなるからである。 「奥光さんからの予約が入っているよ。今夜十時、新宿ロイヤルホテルの八一五号室へ来てほしいということだ」  店のマスターの連絡を受けためぐみは、今夜六時から同じホテルで道浦良一《みちうらりよういち》の予約を受けていることとおもい合わせた。道浦はいつもダブル(三時間)である。めぐみはダブルを取った夜は、そこであがることにしている。身体が疲労して、後の客に不満を残すことがあるからである。そのことを知っているマスターが、 「どうする。受けるかい。その前に道浦さんのダブルが入っているけど」  とめぐみの顔色を探った。 「お受けするわ」  めぐみは咄嗟《とつさ》に答えた。体力に自信はなかったが、事件の報道のこともある。奥光の身が気になった。きっと渦中の人物としてくたくたになっているにちがいない。その疲労を癒《いや》すためにめぐみを呼んだのであろう。こんなときこそ男の傷口を優しく手当てしてやらなければ。わたしたちは、傷つき疲れた男たちのセックスの救急車なんだわ。めぐみは心につぶやいた。  彼女は客との出会いを一本(九十分)三万円の切り売りと軽く見ていない。デートガールを買うような客は、どこかに屈折したものを抱えている。その屈折を九十分の間に彼女らの身体の中に排《は》き出していく。常連になればなるほど、排き出された屈折が蓄えられる。それが情というものなのであろう。      2  その夜午後六時、道浦と会っためぐみは、彼から泊りを求められた。泊りは原則として受けていない。だが常連の場合は受けることもある。これまで道浦とは何度か泊ったことがある。 「ごめんなさい。今夜はダブルのつもりで、予定があるのよ」  道浦の泊りを引き受けると、奥光の部屋へ行けなくなる。 「ほかのお客の予約が入っているのかね」  道浦はやや憮然《ぶぜん》とした表情で言った。売り物買い物であるのでやむを得ないが、客にしてみれば自分の後にほかの客があるということは、混み合っているレストランで後ろに立って待たれているような味気なさと慌しさをおぼえるのであろう。 「そんなんじゃないのよ。プライベートなの。今度は必ず泊っていくわ。今夜は許して」  めぐみは道浦の心情を察して、奥光の予約が入っていることを隠した。  クラブは女の子と客との交際時間に厳しい。これをルーズにすると、客との直談を許すことになり、クラブに入るべき手数料をごまかされるからである。客の部屋に着くと同時にクラブに電話をし、タイムアップすれば、まっすぐクラブへ帰らなければならない。時間はクラブを出たときから帰るときまでを含んで計られる。一本三万円のうち、一万円はクラブに手数料として吸い上げられるが、客との間にトラブルが発生した場合、すべてクラブが背負ってくれる。それはクラブの危険負担料でもあった。  だが予約が連続している場合はいちいちクラブへ帰らず、客の部屋から部屋へまわることがある。遊郭のまわしに似ている。だがその場合でも、時間どおり客の部屋から出なければならない。  その夜、道浦の泊りの誘いを断わって、奥光の部屋へまわることにしためぐみは、やや心が咎《とが》めたので奥光の予約時間まで道浦の部屋に留まってサービスした。店には時間切れの九時に電話をして道浦の部屋を出たことにした。そんな特別サービスが客にとってはひどく嬉《うれ》しいものである。 「ごめんなさいね。そろそろ行かなくては」  約束の十時が近づいたので、めぐみは身支度《みじたく》をした。 「今夜はありがとう。これはぼくの気持ちだよ」  道浦は言って、規定料金に二万円添えて出した。 「これは受け取れないわ。わたしの気持ちで留まったんですから」  めぐみは押し返した。 「きみを一時間もよけいに引き止めたんだ。ぜひ受け取ってもらいたい」 「これをいただいたら、わたしの志が無になってしまうわ。わたし、いたかったからいたの。お金のためじゃないのよ」 「それはわかっているよ」 「だったら、よけいな心配をなさらないで。わたしのせめてもの志よ」  めぐみは優しく、しかしきっぱりとした口調で言った。      3  道浦の部屋を出ためぐみは、ワンフロア上の奥光の部屋へ行った。奥光はもう待ちかねているはずである。廊下には人影はない。八一五号室の前に立って、めぐみはチャイムを押した。室内でチャイムが鳴ったが、人が応答する気配はない。めぐみはもう一度チャイムを押した。依然として気配がない。めぐみは小首を傾《かし》げた。いつもならばチャイムと同時に待ちかねたようにドアが開かれ、中へ引き入れられるはずである。  彼女はノックをした。ところが手応《てごた》えが軽く、ドアがカチャリと開いた。ドア口になにか引っかかっていてわずかなところで半ドアになっていた。めぐみは指をのばしてその物体をつまみ上げた。一本のタイクリップである。奥光が落としたのであろう。デラックスダブルルームであり、入り口左手がバス・トイレになっている。ベッドは逆L字型にバス・トイレの背後にあって、出入り口からは死角になっている。 「奥光さん。めぐみです。入ってよろしいかしら」  ドア口に立ってめぐみは奥の寝室に声をかけた。だが依然としてなんの応答もない。まったく人気が感じられないのである。バス・トイレットルームも静まり返っていて、使用中の気配もない。 「留守かしら」  デートガールを呼んでおきながら留守にする者はいない。客は九十分を最も有効に使いたがる。なかには女性にシャワーを使わせる時間も惜しむ客がいる。常連は多少余裕が生ずるが、飢えていることには変わりない。 「奥光さん、入るわよ」  めぐみは声をかけながらおずおずと歩み入った。ベッドサイドランプが点灯していて、奥光はベッドに入っていた。 「あら、お休みになってしまったの。呼んでおいて態度悪いわね」  酒でも飲んでベッドに入って待っている間に眠り込んでしまったのだろうとめぐみはおもった。  ベッドに近づいためぐみの視野に、奥光の顔が入った。奥光は寝ていたのではなかった。顔面は暗紫色に脹《ふく》れ上がり、目がかっと剥《む》き出されている。首にホテル備え付けの浴衣《ゆかた》の腰紐《こしひも》が蛇のように巻きついていた。枕元《まくらもと》が少し赤く染まっている。  めぐみはそれほど深く観察したわけではない。突然視野に飛び込んできたむごたらしい光景に、全身が麻痺《まひ》したように立ちすくんでしまった。いったい奥光の身になにが起きたのか。思考力が停止して、頭に霧がかかったように空白になっている。  束《つか》の間《ま》の驚愕《きようがく》が醒《さ》めると、恐怖がよみがえった。悲鳴が声にならない。膝頭《ひざがしら》ががくがくと震えた。警察に連絡しようという発想はなかった。めぐみは本能的に部屋から飛び出した。幸い廊下には人影がなかった。  そのままエレベーターに飛び込んで、ホテルの建物の外へ出た。  安全圏に到達したところで、警察に連絡することをおもいついた。一瞬の観察であったが、まだ死体は生々しかった。彼女が行く直前に、犯人は先まわりして、奥光を殺したのである。一一〇番すると、すぐに相手が応答したが、めぐみはすぐには声が出なかった。      4  十月二十七日午後十時過ぎ、匿名の女性から「新宿ロイヤルホテル八一五号室に奥光さんが死んでいる」という通報が一一〇番に入った。警視庁通信指令室からその通報を中継された新宿署の牛尾《うしお》刑事は、さっそく現場に臨場した。現場は新宿署から指呼の距離にある。 「匿名の通報者は奥光さんが死んでいると言ってきたそうだが、通報者の知人とみえるね」  牛尾は同僚の青柳《あおやぎ》や大上《おおかみ》や恋塚《こいづか》刑事に言った。 「現場からではなく、公衆電話から連絡してきたそうですが、なぜ現場から通報しなかったのでしょう」 「かかり合いになるのがいやだったんだろう」  そんな会話を交わしている間に現場へ着いた。捜査員が現場へ到着したときは、ホテルはまだ事件の発生を知らなかった。突然警察の大部隊に踏み込まれてホテル側は仰天した。  現場のドアはロックされていたので、FM《フロント・マネージャー》にマスターキーでドアを開けてもらった。現場には通報のとおり、ベッドの上に男の死体が横たわっていた。ワイシャツにズボン姿で、上着とネクタイは備え付けのワードローブにかけられている。首にホテル備え付けの浴衣《ゆかた》の紐《ひも》が巻きつけられ、側頭部に鈍器で撲《なぐ》られたような打撲傷が認められた。 「撲って抵抗力を失わせた後で、首を絞めたんだな」  牛尾が死体を観察しながら言った。室内には格闘の痕跡《こんせき》は認められない。家具|什器《じゆうき》も大方定位置に置かれている。 「ダブルルームですね」  青柳が部屋の広さとベッドを見て言った。 「通報者は女の声だった。きっとその女を呼んでいたんだろう。彼女は部屋に来て男の死体を発見し、びっくり仰天して逃げ出してから通報してきたのではないかな」 「部屋にはどうやって入ったんでしょうね」  大上が疑問を呈した。ドアはオートロックである。閉めれば自動的にロックされるので、訪問者は中から開けてもらわない限り入室できない。 「きっとドアが開いていたんだろう」  牛尾は推測した。  被害者のレジスターカードには、奥光|利夫《としお》、東京都|杉並《すぎなみ》区|上井草《かみいぐさ》三丁目二十×番地、勤務先、東京交通不動産と記入してあった。レジスターカードの住所および被害者が所持していた名刺などから、被害者の住居に連絡され、その細君によって遺体が確認された。 「東京交通不動産とは、近ごろ話題になっている会社じゃないか」  牛尾は被害者の勤め先が最近新聞紙面を賑《にぎ》わしている政界がらみの疑惑会社であることをおもいだした。そこの社員がホテルの部屋で殺されているとなると、まずは会社の疑惑事件とのからみが疑われる。  検視の結果、死亡推定時間は午後七時から約二時間とされた。一一〇番通報が入ったのは、午後十時少し過ぎである。事件直後に通報してきた女性が死体を発見したことになる。 「犯人は被害者と面識のある人間だね」  牛尾は言った。 「犯人はホテルに取った被害者の部屋へ入っている。被害者は未知の人間を部屋に引き入れないだろう」 「通報してきた女が、犯人ということは考えられませんか」  恋塚が言った。 「犯人自らが通報してきたというのかね。犯人の心理に反するのではないかな」  大上が反駁《はんばく》した。 「犯人が通報するという確率は低いが、通報者も容疑者からはずすわけにはいかんな」  牛尾がつぶやいた。犯人は室内で被害者と話をしている間、隙《すき》を見て被害者の側頭部を鈍器で撲《なぐ》りつけ、昏倒《こんとう》したところを備え付けの浴衣《ゆかた》の紐《ひも》で一気に絞めてとどめを刺した模様である。その後被害者の死体をベッドの上に運び上げたのであろう。 「被害者《ガイシヤ》はなかなかいい体格をしています。まず鈍器で撲って昏倒させた後、首を絞め、ベッドの上に担ぎ上げたというのは、女にしては少し荒っぽいですね」  青柳が言った。 「犯人は複数か、あるいは女でもできないことはないよ」  大上は答えながらも、その表情が青柳の意見にうなずいている。  死体の観察と現場の検索が綿密に行なわれた。被害者は女と待ち合わせていた模様であったが、被害者の身体には情交痕跡は認められない。推定年齢五十前後、やや贅肉《ぜいにく》がつきかけた厚ぼったい身体をしている。身体の損傷は側頭部の打撲傷と、喉《のど》の索溝《さつこう》(絞めた痕《あと》)以外には認められない。 「おや、これはなんだろう」  室内を検索していた恋塚がベッドの下の床からなにかつまみ上げた。 「なにかあったかい」  他の捜査員が彼の指先を覗《のぞ》き込んだ。 「なにかの動物の毛のようだね」  牛尾が恋塚の指先につままれた細い毛状の正体を推測した。 「ここにもこんなものが落ちているよ」  大上が枕元《まくらもと》に近いベッドサイドテーブルの下からなにかを掬《すく》い取った。それは白い小石のような形状をしている。 「なんだかいやなにおいがするなあ」  青柳が眉《まゆ》をしかめた。石というよりは砂に近いような小さな粒であるが、大上の指先から強烈な悪臭がにおった。 「本当だ。頭が痛くなるようなにおいだね」  牛尾も眉をしかめて顔をそむけた。だがいずれも重大な証拠物件として保存された。  現場検証と並行してホテル側関係者の事情聴取が行なわれた。ホテル側の話によると、被害者は同ホテルの常連客で、月一、二回の頻度で利用していたということである。必ずデラックスタイプのダブルルームをリクエストし、一、二時間過ごすとチェックアウトした。被害者はレジスターの際、一人と申告していた。ホテル側では同行者の存在を推測したが、その姿を見たことはない。 「一人でデラックスダブルルームを取るのを不審にはおもわなかったのですか」  牛尾に問われたFMは、 「お一人で広い部屋でゆっくりとくつろぎたいというお客様は少なくございません。またお部屋でお仕事をされるお客様もスペースのゆったりしたお部屋を求められます」  と歯切れの悪い口調で答えた。都内に住居を持っている者が、ホテルで一、二時間過ごす用事といえば、女性以外には考えられないが、そうは答えられないところにFMの苦しい立場がある。 「奥光さんに同伴の女性があったことは知っていたのではありませんか」  牛尾はFMを問いつめた。 「同伴女性の有無は、私どもにはわかりません。レジスターには一人と記入され、入室後室内で合流されれば、ホテル側にはわかりませんので」  女をどこかべつの場所に待たせておき、フロントには一人で行ってキーを受け取ったり、あるいは先にチェックインしてルームナンバーを女におしえて呼び寄せたりという手はよく使われる。 「しかし部屋の使用状況を見ればわかるのではありませんか。ベッドや浴衣《ゆかた》やタオルなどが二人前使用されていれば、二人で入ったことは歴然としています」 「お一人で新しいバスタオルを何枚も使われたり、浴衣を着替えられたりするお客様もいらっしゃいますので」  FMの答弁はますます苦しくなった。ホテル側としては奥光が女性を同伴していることを承知していても、それを申し立てることはできない。また女性の同伴者がいたとしても、実際に確かめたわけではない。  フロントの目の届かぬところから客室にはいくらでも出入りできるのである。ホテルの玄関、その他多くの出入り口から出入りする者は、すべて奥光の部屋へ行ける可能性を持っている。  だが現場検証によって、ホテルの備品、浴衣、タオル、石鹸《せつけん》等は凶器に用いられた浴衣の紐《ひも》を除いて未使用であった。情交前に女が奥光を殺害したか、あるいは奥光に呼ばれた女が犯行後部屋へ来て死体を発見した状況である。  検視および現場の検索と現場周辺の各客室の聞込み捜査は深夜に及び、死体は翌日の午後司法解剖に付された。解剖の結果、死因は索条(紐)による気道閉鎖に伴う窒息、すなわち絞殺。眼瞼《がんけん》および眼球結膜に著しい溢血《いつけつ》点を認める。頸部《けいぶ》にホテル備え付けの浴衣の紐が一周し、首の後ろで交差している。水平の索溝(紐の痕)が頸部を同じ食い込みで一周している。甲状軟骨および気管に骨折が認められる。右側頭部に鈍器の使用によって形成されたと見られる打撲傷があるが、これは脳内部にさしたる影響をあたえず、この打撃によって一時的に昏倒《こんとう》したところを索条を首にかけて一気に絞めたものと見られる。  死亡推定時間は十月二十七日午後七時より約二時間。薬物、毒物の服用は認められない。というものである。  なお現場から採取された動物の毛と砂状の物質は、猫の毛およびレモングラスとクレゾールと鑑定された。これは猫の嫌うにおいを発し、野良猫の侵入を阻むための猫|忌避剤《きひざい》の成分と判定された。  翌日午後、殺人事件と断定し、新宿署に捜査本部が開設された。解剖の結果を踏まえて、その日の夕方、第一回の捜査会議が開かれた。会議を主宰したのは警視庁捜査一課から捜査本部に参加した那須《なす》警部である。  捜査会議においてまず問題になったのは、通報してきた女性の素性である。奥光が月一、二回の割りで同ホテルに部屋を取っていたところからみても、彼女とは定期的に会っていた模様である。 「奥光はこの一年ほど月一、二回の割合で同ホテルを利用しています。少なくとも十数回女と会っている。その間、ホテル側に女がまったく目撃されないということがあるだろうか」  という意見が出た。 「女とべつべつに到着して部屋で落ち合っていれば、何回ホテルに来ようと目撃されなくとも不思議はない」 「必ずしも同じ女を呼んでいたとは限らない。新宿にはプロの女性も多い。ホテルから不特定多数の女を呼び寄せていたのではないか」 「通報してきた女性は、被害者の名前を言った。彼女は少なくとも被害者の名前を知っていた。両人の間にある程度継続的関係があったと見てもよいだろう」 「継続的関係にあった女が、なぜ名前を隠したのか」 「それはたがいが人目を憚《はばか》る関係であったからだろう。名前を隠したのはべつに不思議はない」 「通報した女が犯人である可能性はどうか」 「その可能性なきにしもあらずだが、犯人ならばわざわざ通報はしてはくるまい。死体を発見して仰天し無我夢中で現場から逃げ出した後、通報してきたと見るのが妥当だろう」  つづいて議題は動機関係に移った。被害者は現在、東京交通不動産の社員となっているが、この十年ほど江頭義郎社長の秘書としてその最側近に仕えていた。その職制柄、同社のトップ情報にも通じ、同社長の懐刀《ふところがたな》的存在となって、グループ全体にこわもてしていたそうである。 「東京交通不動産は現在、政界がらみの疑惑の渦中にある会社だ。被害者が同社の秘密を知りすぎて、その口を封じられたとは見られないかな」  東京交通不動産の疑惑は政界への波及必至と見られ、国税局は査察に着手した。これに呼応して東京地検特捜部も動き始めている。地検の捜査は密行主義であり、捜査の過程はいっさい秘密に付されている。だが成り行き次第によっては、その規模の大きさや底の深さにおいて、政・官・財界を巻き込む大型の構造汚職に発展しそうな雲行きである。  その中心人物江頭義郎の懐刀として、被害者は事件の鍵《かぎ》を握っていたと見られる。このへんに殺人の動機はないかと捜査本部はにらんだ。刑事訴訟法上の規定である捜査密行主義をかたくなに守る検察の鉾先《ほこさき》が同社の疑惑にどの程度迫っているのか不明であるが、その鍵を握る人物に死なれては捜査の行方《ゆくえ》に影響をもたらすかもしれない。同社の政界がらみの贈収賄《ぞうしゆうわい》疑惑は殺人動機として見過ごすことはできなかった。 「現場に落ちていた猫の毛と、猫の忌避剤はどんな意味があるのかな」  那須警部が新たな疑問を提議した。被害者の家で猫、犬、その他のペットを飼っていないことは家族から確かめてある。また猫の侵入を阻む忌避剤も使用していない。すると、被害者以外の人間が現場へ持ち込んだことになる。まずは犯人の遺留品であることが疑われる。 「通報してきた女が持ち込んだものかもしれない」  犯人と通報者が別人であれば、犯人以外の遺留品の主として、その女が考えられる。 「犯人、あるいは発見者が猫を飼っていたということかな」 「いや、猫を飼っていれば、忌避剤は持っていないはずだ」  ただちに反論が出た。たしかに猫を追い払う忌避剤の所有者が猫を飼っているというのはおかしい。 「猫が入って来て困ったので、忌避剤を置いたのだろう。となれば、同一人物が猫の毛と忌避剤を身につけていたとしてもおかしくない」  と再|反駁《はんばく》された。  事件を報じた謎《なぞ》の女性、政・官・財界がらみの疑惑、猫の毛とその忌避剤、判じもののような取り合わせであったが、これらが捜査本部にあたえられた資料である。  第一回の捜査会議において、  ㈰通報してきた女性の身許解明。  ㈪被害者と東京交通不動産疑惑との関《かか》わりの調査。  ㈫被害者の異性関係の捜査。  ㈬被害者の身辺に猫を飼っている者の捜査。  ㈭現場周辺の目撃者の発見。  ㈮猫忌避剤の経路捜査。  以上が当面の捜査方針として決定された。 [#改ページ]  忌避《きひ》された遺留品      1 「あら、ボウシ。いったいどこへ行っていたのよ」  頼子《よりこ》が声を上げた。  彼女が勝手にボウシと渾名《あだな》をつけた額に帽子型の縞《しま》のある隣家の飼い猫が、よろよろした足取りで八坂《やさか》家の庭先に現れた。全身泥だらけで見る影もなく痩《や》せ衰えている。脚に怪我《けが》をしたのか、跛行《はこう》している。頼子が近づいて行っても、逃げようとしない。隣家の飼い猫の中では最も用心深くて、人の気配を察知しただけで逸速《いちはや》く逃げ出したボウシが、哀れな鳴き声を上げながら地上にうずくまってしまった。脚を怪我《けが》しているうえに、逃げる体力も消耗してしまったらしい。 「まあまあ、こんなになっちゃって。ちょっとそこで待っていなさい」  頼子が小皿にミルクを入れて差し出すと、ぴちゃぴちゃ舌を鳴らしながら一滴も余さず舐《な》め尽くしてしまった。つづいて出汁《だし》用の煮干しを数匹あたえると、キャットフードの美食に馴《な》れているはずの猫が、一匹余さず平らげた。  ボウシはそれでいくらか元気を回復したらしい。だが逃げ出そうとせずに、頼子の足許に泥だらけの身体をこすりつけようとする。頼子は可哀想《かわいそう》になった。そこへ気配を聞きつけて母親が顔を出した。 「あら、ボウシじゃない。まあまあ、汚れてしまって、いったいどこへ行っていたのよ」  郁枝《ふみえ》も驚いた声を出した。 「足に怪我をしているのよ。当分うちで保護してやってはいけない」  頼子が母親の顔をうかがった。 「えっ、うちで飼うつもりなの」  郁枝の表情が驚いた。 「飼うのではなくて怪我が癒《なお》るまで保護してあげたいの」 「どちらでも同じことよ。情が湧《わ》いてしまうわよ」 「もう湧いているわ」 「仕方のない娘《こ》ね。あんなに閉口していたのに」 「あれはあんまりたくさんいすぎたからよ。最後の一匹になってしまったかとおもうと可哀想でこのまま突き放せないわ」 「またどっと帰って来たらどうするつもり」 「ボウシ以外はもう帰って来ないような気がするの。ボウシだけが逃げのびてきたのよ」 「逃げのびたってだれから」 「決まってるじゃないの。お隣りの親戚よ」 「お隣りさんが返してくれと言ってきたらどうするの」 「大丈夫。そんなこと絶対言ってこないから」 「仕方がない娘ね。世話はあなたがするのよ」  ついに郁枝が妥協した。 「わあーい。ボウシ、採用が決まったわよ。でも当分見習いですからね。言うことを聞かなければだめよ」  頼子は汚れも気にならないらしく、ボウシを抱き上げた。ボウシも甘えた声で啼《な》いている。ボウシはその日から八坂家に居ついた。栄養をあたえられ、汚れた毛並みを洗ってもらうと、少しは見られるようになった。  獣医に見せたところ、右の前脚にひびが入っているということである。野良犬や野良猫に仕掛けた罠《わな》に引っかかったのかもしれないと言った。幸い怪我は深刻ではなく間もなく元どおりになるだろうという見立てである。 「変な所へ潜り込んで行くから、罠なんかに引っかかるのよ。もうほっつき歩いてはだめよ。特にお隣りへ帰ったら殺されちゃうからね」  頼子の言葉がわかったのかわからないのか、ボウシは神妙に聞いていた。      2  名古屋へ帰った道浦《みちうら》は、火曜日にモナリザへ電話をかけた。めぐみに予約を入れるためである。売れっ子なので土曜の夜は早々と予約しておかないと彼女を確保できなくなる。ところがモナリザから意外な返事が返ってきた。 「めぐみさんは先週の土曜の夜、道浦さんの部屋を出てから連絡が取れなくて困っています」 「連絡が取れないって。彼女、家に帰っていないのですか」  火曜日に至るも連絡が取れないということは、めぐみは土曜の夜からずっと帰宅していない事実を示すものである。 「いくら電話をかけても応答しません」 「私の部屋を出るとき、プライベートの用事があると言っていたが」  十時直前に立ち去ったのであるが、店には九時に出たことにしてある。 「道浦さんの後、同じホテルの八一五号室へまわることになっていたのです」 「八一五へ、めぐみさんはそんなことは言っていなかったが」 「それは道浦さんに気を遣《つか》ったのでしょう」  デートガールではあっても、すぐ後に他の客が待っているとわかっては、前の客が味気ないだろうと気を遣って、プライベートの用事という口実をつくったのかもしれない。 「だったら、八一五号の客に問い合わせればいいじゃないか」 「お客様の連絡先やご住所は聞いていません」  言われて道浦もめぐみの予約に際してこちらから一方通行的に連絡していることをおもいだした。 「でも八一五号のお客さんは、たとえ連絡先がわかっていても連絡できなくなってしまいました」 「それはどういうことだね」 「殺されたんですよ、めぐみさんが行った夜に」 「なんだって」  道浦は愕然《がくぜん》とした。 「テレビや新聞をご覧にならなかったんですか。めぐみさんの常連の奥光さんが土曜日の夜、八一五号室で殺されていたのです」 「そこへめぐみさんが行ったというのかね」 「報道によると、めぐみさんが八一五号室へ行く少し前に殺されています」 「それでは彼女が、死体を発見したのか」 「名前を言わない女の人が、一一〇番してきたそうです。たぶんそれがめぐみさんでしょう」 「それ以後めぐみさんと連絡がつかなくなっているのかね」 「そうです。だから私どもも心配しているのです」 「警察へ言ったのか」 「警察は私たちにとって鬼門《きもん》ですからね」 「しかし、殺された客の部屋へ最後に訪ねて行った女性が連絡を絶ってしまったんだよ。黙っているわけにはいくまい」 「今夜連絡がつかなければ、警察へ届けるつもりです。その場合、道浦さんが最後のお客さんということになりますが」  モナリザのマスターに言われて、道浦は電話機の前で顔色を改めた。めぐみの最後の客として証言するとなると、めぐみとの関係が表沙汰《おもてざた》になる。東京へ帰っていながら、自宅に寄りつかず、デートガールを呼んでいた事実が公けになっては、会社と家族に対してもまずい。久し振りに帰って来た単身赴任の主を追い出すような家族からいまさらどうおもわれようとかまわないようなものであるが、会社の手前はいかにもまずい。  名古屋支社において十数人の部下を使う身が、帰宅と称して、家にも寄りつかずホテルへデートガールを呼んでいたとあっては、部下への示しもつかなくなる。 「ご心配なく。道浦さんのことは警察に対してなにも言いません」  モナリザのマスターは道浦の胸の内を読んだように言った。 「めぐみさんの家に様子を見に行ったのかね」 「いいえ、電話番号を聞いているだけで、住所は知らないのです。店に来る女の子とはみんなそのようにしています。店に出ていることはみんな隠しているので、我々に寄りつかれると困るのですよ」  デートガールには家族と一緒に住んでいる者も少なくないという。親の手前はいい娘《こ》の仮面をつけて、陰で密《ひそ》かに青春の切り売りをしている。彼女らには売春をしているという意識は少ない。ほとんどがプレイ感覚で、金に窮したときや好奇心から客にはべって、自分の身体が金になることに気がついた。  まともな勤めでは、一ヵ月たっぷりこき使われて、十数万円にもならない。プレイ感覚でいい稼ぎができるのであるから、味をしめた彼女らは、元の堅い仕事には決して戻れない。たとえ戻っても長つづきがしない。だがプレイ感覚ではあっても、悪いプレイであることは知っている。親や友人に秘匿しているのはそのためである。 「殺された客の部屋へその直後に行って、消息を絶ったということは、もしかして彼女が犯行を目撃して犯人に口を閉ざされてしまったということは考えられないだろうか」  道浦は恐ろしい想像を口にした。 「私もちょっとそんなことをおもったのですが、たぶん彼女とおもわれる女性が、事件を警察に通報しているのです。殺されていれば通報なんかできないでしょう」 「八一五号へ行って死体を発見した。びっくりして逃げ出して警察へ通報した。ところが犯人はそのとき被害者の部屋に居合わせて、彼女に姿を見られたとおもった。そして彼女を追跡して、彼女が通報した後殺したのではないだろうか」 「しかし、めぐみさんの死体は発見されていません」 「どこかに隠してしまったのかもしれない。電話番号から彼女の住居は割り出せないのかね」 「局番から、大体中野区と見当はついたのですが、それから先はわかりません。NTTに問い合わせても、番号から所有者の名前はおしえてくれません」 「八一五号の客が殺された後、中野区になにかおもい当たるような事件は発生していないかね」 「テレビと新聞を注意して見ているのですが、それらしい事件はなにも起きていません。めぐみさんは土曜日の夜九時、本当に道浦さんの部屋を出ているのでしょうね」 「きみ、おれを疑っているのか。おれがめぐみさんをどうかしていれば、予約なんか入れないよ」 「そうでしょうねえ。本当にめぐみさん、どうなっちゃってるんだろう」  マスターは語尾を独り言のように言った。  道浦はモナリザのマスターからめぐみが消息を絶ったと聞いて、不吉な想像に駆られた。道浦はただちに事件を報道した新聞を集めた。八一五号室で殺された客は奥光利夫《おくみつとしお》、四十九歳、東京交通不動産の社員である。同社は目下、政・官・財界がらみの疑惑の渦中にある会社である。まだ詳細は報道されていなかったが、奥光はその鍵《かぎ》を握る人物として、東京地検からの喚問必至と見られていた人物であった。  めぐみが土曜の夜、道浦の泊りのリクエストを断わって、プライベートな予定があると言ったのは、奥光の予約であったのだ。奥光の部屋で彼女はなにかを見たにちがいない。犯人自身と顔を合わせたのか、あるいは犯人にとって都合の悪いことを見たか知ったかした。そのために口を封じられた。それ以外に彼女が突然消息を絶つ理由はない。  いや、そんなことはない。道浦は自分のおもわくを自ら打ち消した。  めぐみはモナリザでデートガールをしていたが、それは会社対社員のような関係ではない。いつでも自由に辞められる。めぐみ自身が以前、祖父母が両親の結婚を認めてくれていれば、こんなことをしないですむと洩《も》らしたように、彼女自身、デートガールを好きでやっていたわけではあるまい。  めぐみが突然モナリザからの連絡に応答しなくなったとしても、なんの不思議もない。モナリザに無断でふらりとおもい立って旅行へ出かけても、あるいは転居したとしても、なんらさしつかえはない。いちいちモナリザに断わる必要はまったくないのである。  モナリザのマスターが不安がっているのは、殺された客の部屋を訪れて以後彼女との連絡が絶えているからである。生まれて初めて死体を見たショックで、どこかへ飛び出して行ったかもしれない。あるいはモナリザに届けた連絡先は、一人住まいのアパートで、生家に帰ってしまったかもしれない。モナリザのマスター自身、めぐみについては電話番号しか知らされていないのである。 (まだ心配するほどのことはないだろう)  道浦は不安をねじ伏せた。      3  奥光利夫の身辺を捜査するほどにきな臭いにおいが立ちこめてきた。東京交通不動産の使途不明金の大方は、要路の政治家へ流れている疑いが濃厚であった。不明金以外に明らかにされている政治家に渡った金として、副総理|大竹信義《おおたけのぶよし》に八億円が預り金として渡されている。預り金とすれば政治資金規正法の枠外である。税金も納めずにすむ。また貸付金でもないので担保や金利の問題も生じない。逆さ合併で巨大な利益に伴う税金をゼロにした江頭《えとう》一流の巧妙な方法である。  だがこれら表に出されている預り金以外に使途不明金の主体となる裏の献金がある。この献金の運び屋をしていたのがどうやら奥光利夫らしい。彼は常づね親しい人間に、 「おれが一言|洩《も》らせば、大臣の首を並べて吹っ飛ばせる」  と豪語していたという。江頭は奥光を信頼して同社と政界の癒着の中枢に彼を配置していたらしい。 「やっこさん、やっぱり知りすぎて口を封じられたかな」  牛尾《うしお》はつぶやいた。 「しかし、こんな時期に殺したら、真っ先にその方面が疑われますがね」  青柳《あおやぎ》が言った。 「背に腹は替えられなかったんじゃないかな。奥光が口を割れば、首の危ないお偉方《えらがた》が何人もいる」 「めったに口を割るような男ではないと見込まれたからこそ江頭の運び屋になれたんでしょう」 「それもそうだが、疑惑が表面化する前のことだ。こう燃え広がってくると、隠し切れまい。もしかするとリクルートに迫る大スキャンダルになりそうな雲行きだよ。人間の一人や二人消されても不思議はない。ロッキード事件の際は、五億円の運び屋をつとめた運転手が三人も怪しげな死に方をしている。実際に奥光が死んでほっと首を撫《な》でている人間が何人もいるよ」 「奥光の喚問を準備していた地検は大ショックらしいですよ」  奥光利夫の死は、東京交通不動産疑惑の捜査陣にとっては青天の霹靂《へきれき》であった。 「だが、ここまで燃え広がってきた以上、奥光一人の口を封じたところで、捜査を阻むことはできまい。とすると、彼を殺した真の理由はほかにあるかもしれないな」  牛尾は半ば独り言のようにつぶやいた。 「しかし、一人の鍵《かぎ》を握る人物が死んだために事件がうやむやに終わった前例はいくつもありますよ」  今度は大上《おおがみ》が言った。大山鳴動して鼠《ねずみ》一匹という事例は珍しくない。大捜査陣を繰り出した大規模な汚職事件においても、課長補佐クラスが自殺してあっけない幕切れになったこともある。政権党を根こそぎ汚職|漬《づ》けにしていたリクルート事件においても、二名の小物政治家をスケープゴートに供しただけで終わった。 「地検が追いかけていた人物が消されたとなると、なにかとやりにくいですねえ」  大上がこぼした。地検の追及する疑惑の焦点にいた人物が殺されたからといって、直ちに捜査本部との間に密接な共助捜査体制が組まれるわけではない。むしろ地検のお家芸である密行主義が、被害者に関する資料を独占して、警察に洩《も》らしてくれないケースが多い。知りたければ自分で調べろという態度である。  もともと刑事捜査専門の殺人事件の捜査本部と、政・官・財界の癒着や一流会社の汚職や脱税の捜査をする地検特捜部と肌が合うはずもない。捜査方法にしても刑事は足で調べ、特捜検事は帳簿に語らせる。  奥光利夫に関しては、以前から疑惑の中心人物として照準を据えていた地検に比べて、突然その死体を放り出された形の捜査本部は資料が少ないというよりは皆無である。だが、捜査本部としては地検に頭を下げて資料をもらいに行くわけにはいかない。また行ったところで、はたしてどの程度の資料を流してくれるかわからない。  検察と警察の関係は刑事訴訟法によって、検事が警察官に対し一般的な指揮命令権があるだけで、個々の捜査に関してはたがいに協力しなければならないと規定されているだけである。その協力関係はまことに抽象的なものである。  検事は直属の捜査員を持っていないので、おおむね警察の捜査に基づいてその資料を検討し、起訴不起訴を決定する。だが警察の捜査を鵜呑《うの》みにすると、時に無罪が出る。検察が狙《ねら》いをつけた事件は、検察独自に捜査するのは警察の下敷き捜査を信頼し切っていないからである。この傾向は政・官・財界の不正を追う地検特捜部に強い。  警察の捜査二課も汚職や詐欺横領などの経済知能犯を担当するが、警察の事件が地域的であり、こそ泥や万引きまで捜査対象にするのに対して、特捜部の担当事件は全国レベルで、相手も大物政治家や部長、重役クラスとなる。捜査本部が協力関係を持つとしても、最もやりにくい相手である。大上の洩《も》らした言葉が、そのへんの事情を裏書きしている。  ともかくこれまで明らかにされている事実や、捜査本部の収集した資料によって、奥光利夫が疑惑の焦点に立つ人物であったことがわかった。奥光が死んでくれて、ほっとした人物は、すべて彼を殺す動機を持っていることになる。その中で最も濃厚な疑惑を据えられたのは、奥光の会社の社長である江頭義郎である。  江頭は現在六十八歳、東京交通グループの総帥であり、基幹企業の電鉄を中心に、バス、ホテル、不動産、ゴルフ場など約四十社を統括している。政商と呼ばれ、政治家への巨額の献金を通して、政界との結びつきを強め、企業の版図を拡大してきた。これまでも政界との癒着や、銀行からの巨額融資問題で何度も国会で取り上げられた、いわくつきの人物である。そのたびに政界に扶植《ふしよく》した人脈と、七つ道具を駆使して巧妙に追及を逃れてきた。  彼のかたわらに常に影法師のようにはべっていたのが奥光である。江頭がグループのごみ箱にしてきた東京交通不動産の疑惑が表面化して、影法師が独自の動きを始めようとしていた。それに脅威をおぼえた江頭が、影法師を始末した。組織暴力団の幹部とも親交のあることを誇る江頭であるから、彼らに委嘱して殺し屋を送るのはいともたやすいことであったであろう。  だが江頭の差し金となると、直接手を下した者との間には幾重にも仕切りが設けられているはずである。刺客に立った犯人は道具にすぎない。犯人自身が源《みなもと》の指令がだれから発しているか知らないだろう。江頭の容疑は濃かったが、なんの証拠もない。また殺し屋を使ったとしても、本人が直接手を下す以上の危険を冒すことには変りない。捜査は立ち上がりから難航の気配であった。事件を通報してきた女の身許も依然として不明である。  事件発生後四日目の夕方、捜査本部に一本の電話がかかってきた。 「なに、被害者の同伴女性が消息不明」  たまたまその電話に応答した大上の声に、本部に居合わせた部員は耳を澄ませた。 「その女性の名前と住所は。なに、住所を知らない。電話番号だけ。あなたはどなたですか。あなたとその女性の関係は」  本部員はいつの間にか大上のまわりに集まって、電話のやりとりを固唾《かたず》を呑《の》むようにして聞いている。 「モナリザ、歌舞伎町《かぶきちよう》の喫茶店ですね。電話番号は。そう、あなたと、女性の電話番号をどうぞ。わかりました。ご協力を感謝します。これからすぐに行きます」  大上は必要なことをメモに取ると、電話を切った。 「被害者と一緒にいた女がわかったって」  牛尾は問うた。 「歌舞伎町のモナリザという喫茶店のマスターが電話をかけてきました。その店のホステスで、めぐみという女の子だそうです。住所は聞いておらず、電話番号だけがわかっているそうです。名前はぬくいめぐみ。明日という字を書いて、ぬくいと読むそうです。本名かどうかわかりません」  大上はメモを読み上げるように言った。 「歌舞伎町のモナリザか。デートクラブだな。以前にもたしかそこの女の子が殺されたことがある」(拙作『駅』) 「ああ、あのクラブですか。道理で聞いたような名前だとおもった」  大上がうなずいた。 「べつにクラブの子が数日連絡が絶えても、騒ぐほどのことはないが、被害者を訪ねたまま連絡がないというのは気にかかるね」  牛尾は、また最も弱い者に犯罪の鉾先《ほこさき》が向けられたのではないかと案じた。 「ともかくこれからモナリザへ行ってみます」  大上と青柳が立ち上がった。 「おれも一緒に行こう」  牛尾も腰を浮かした。背後から那須警部の目が頼むぞと言っている。いまのタレコミ電話によって壁に新しい窓が開けられそうな気配が揺れている。  モナリザではマスター一人が待っていた。警察が来ることを予測して、女の子は帰し、客は断わったのにちがいない。一見普通の喫茶店と同じである。ここに常時女の子が屯《たむ》ろしていて、入って来た客とデートする。意気投合すれば連れ立って店の外へ出て行き、なにをしても自由というシステムである。店の外で客と女の子がどのような交際をしようと、店はあくまで無関係という立場を取る。  マスターは三十代半ばの、一見|朴訥《ぼくとつ》な風貌《ふうぼう》の男である。デートクラブのマスターというよりは、麦藁《むぎわら》帽子を被《かぶ》せて麦畑にでも立たせた方が似合いそうである。またこういう風貌の方が、女の子から信頼されるらしい。 「おたくにいた女の子が新宿ロイヤルホテル殺人事件の被害者の同伴者ということだが、連絡が絶えた前後の状況をよく説明してもらいたい」  大上は切り出した。 「奥光さんに同伴していたはずなんですが、奥光さんの死体が発見されてから、今日まで連絡が取れないのです。それで心配になって届け出ました」 「なぜもっと早く届け出なかったのかね」 「三、四日連絡が途絶えることは珍しくありませんので」 「今日で四日目だが」 「奥光さんが殺されたので気になったのです」 「奥光氏に同伴したことがなぜわかったのかね」  大上は意地悪く問うた。店は客と女の子がどこでどんなつきあいをしているか、一切知らないはずである。 「それは、彼女が店を出るとき、奥光さんに会いに行くと言っていたからです」 「彼女が奥光氏の死体があると警察に連絡した電話の主らしいことがどうしてわかったのかね」 「めぐみさんが奥光さんに会いに行くと言って出かけた後で、奥光さんが殺され、女から一一〇番があったと新聞に出ていたので、彼女が電話したのではないかとおもったのです」 「彼女の住居は聞いていないのかね」 「めぐみさんも店の常連客ですから、いちいち住居などは聞きません」 「常連客ねえ、一件一万円の常連客だろう」  大上がぎろりとマスターをにらんだ。 「旦那《だんな》、そんなにいじめないでくださいよ。私も、人が殺されたので一生懸命警察に協力しているのです」  マスターが泣きそうな表情をした。 「わかったわかった。そのめぐみさんとやらは、いつごろからおたくの常連になったのかね」 「店へ来てから一年ほどになります」 「デートクラブで一年といえば、相当なベテランだな。奥光氏とはかなりつきあっていたのかね」 「よくここで落ち合っていました」 「さっきおれが聞いたところによると、めぐみさんは奥光氏と会うと言って店を出たはずだがね」 「そ、そ、それは、奥光さんが先にホテルに行って待っているという意味です」  マスターの口調がうろたえた。奥光氏に呼ばれて行ったことを語るに落ちた形になったからである。 「まあいい、それで彼女から奥光氏の部屋へ着いたという連絡は入ったのかね」  デートガールが客の部屋へ着いたときは連絡するシステムになっていることを大上は知っている。 「いいえ、連絡はありませんでした」 「それでは、めぐみさんがたしかに奥光氏の部屋に着いたかどうかは確かめられてないわけだな」 「でもその後、警察に連絡した女がめぐみさんであれば着いているはずです」 「一一〇番してきた声が、たしかにめぐみさんのものかどうか、あんた、確かめたわけではないだろう」 「それはそうですが」 「一一〇番への通報は、すべて録音してある。その女の声を後であんたに聞いてもらうよ」  モナリザのマスターから、めぐみが奥光の部屋へ行った状況がおおむねわかった。めぐみの電話番号がNTTに照会されて、彼女の住居が判明した。ただし明日《ぬくい》めぐみでは電話帳に表示されていない。  中野区|弥生《やよい》町四丁目三十×番地にある弥生ハイムというアパートである。最近流行のユニット式の二階建アパートで、大きなレゴを積み重ねたような味もそっけもない外観であるが、機能的で住みよさそうである。各戸のプライバシーも保証されているようで、いかにもクールな都会人の住居といった感じである。  牛尾はアパートの外観に、不吉な予感を促された。機能性とプライバシー本位の設計は、煩《わずら》わしくなくてよいが、同時に各居住者がそれぞれのカプセルに貝のように閉じこもっている。隣室で人が死んでいようと殺されていようと、自分の安全さえ保障されていればかまわない。いかにも自己本位の都会人のライフスタイルが表象されているような建物の外観である。  周辺は中野新橋付近の料亭街から外れた密集した小住宅街である。明日めぐみの住居は二階の棟末にある。道路に面した共用の階段を上り、廊下を伝った最も奥まった位置である。共用の階段と廊下を利用するのがいやであれば、棟末の非常階段から直接彼女の部屋の玄関ドアの前に立つことができる。  ドアに開口したメールスリットに新聞が溢《あふ》れ出そうにくわえ込まれている。それを見て牛尾はますます不吉な予感を増長された。 「数日新聞を取り込んでいないね」 「留守のようですね」  同行した大上と青柳が、不安の色を面《おもて》に浮かべている。チャイムを押したが案の定応答がない。ノックをして名前を呼んでも、室内に人の動く気配は生じない。  ちょうどそのとき数室離れたドアが開いて、中年の女が買い物かごを下げて出て来た。 「すみません。明日さんにお会いしたいのですが、お留守でしょうか」  青柳が声をかけた。 「さあ、ここ三、四日姿を見かけないようですわね」  女が興味のない表情で答えた。風俗関係の女性らしく、化粧を落とした無防備な表情の中にも頽《くず》れた雰囲気が感じられる。同じような種類の職業の者ばかりが住んでいるらしい。 「弱ったな。明日さんに至急お会いしなければならない用事があるのですが、管理人はいますか」 「一階の一〇一号室の方が、世話人をしています」  そのとき試みにドアノブをまわした青柳が、 「おや、鍵《かぎ》がかかっていないぞ」  とつぶやいた。青柳の手の先で仮締《ラツチボ》り《ルト》が手応《てごた》えなく外れて、ドアが開いた。 「若い女性が不用心だね」  青柳が開いたドアの隙間《すきま》から中を覗《のぞ》き込んで、念のために明日さんと声をかけた。応答も、人の出て来る気配もない。室内はカーテンが引かれてあって薄暗い。  間取りは2Kらしく、上がり口にキチン、その奥に六畳、左手にもう一つ部屋があるらしいが玄関からは死角になっている。 「妙なにおいがしないかね」  牛尾が鼻をそむけるようにした。 「しますね」 「なにかが腐ったような」  三人は顔を見合わせた。それは明らかに動物質の腐臭である。ドアに閉じこめられて内にこもっていたにおいが、ドアの隙間から空気の流れに乗って流れ出してきている。 「いやなにおい」  廊下に佇《たたず》んでいた入居者が露骨に顔をしかめた。 「猫でも死んでいるのかな」  青柳がもっと不吉な連想を打ち消すように言った。 「猫ならよいがね」  ここ数日消息を絶っている人間の住居で尋常ならざるにおいがしている。三人は改めてどうすると言うように顔を見合わせた。 「放ってはおけまい」  牛尾が結論のように言った。世話人を呼びに行く余裕は失われている。この際の立ち入りは、正当な理由があると認められよう。  上がり口のキチンの奥はテラスに面した六畳の和室である。さらにその左手に六畳の洋室が並んでいる。左手の部屋が寝室らしくベッドやドレッサーやワードローブがそれぞれの位置に置かれている。若い女の部屋らしく小ぎれいに整頓《せいとん》され、窓に引かれた花柄模様のカーテンが艶《なま》めかしい。女の子の部屋につきもののぬいぐるみ類は見当たらない。  だが室内に部屋の主の姿は見えない。腐臭は寝室の奥の方から漂ってきている。寝室の奥に押入れがある。二本引きの板戸が閉まっている。腐臭はどうやらその奥から発しているようである。  三人は寝室へ入り、青柳が引き戸に手をかけた。一呼吸おいて一気に開く。内向していた死臭が噴出して、そこにむごたらしい姿に変わり果てた若い女の死体が転がっていた。部屋の主の明日めぐみにちがいない。  顔面は紫暗色を呈し、首の両側にはっきりと指の痕《あと》が残っている。両手で絞めたらしく首の両側に両手の手指と爪《つめ》の痕が交互に留められている。手で首を圧迫して窒息させたいわゆる扼殺《やくさつ》である。このような死に方は、自殺にはめったにない。よほど意志が強固でないと、自分の手で首を絞めている間に意識が消失して、手の力が緩み息を吹き返してしまうのである。 「やられた」  大上と青柳が異口同音に言った。その言葉は彼らの予感が的中した悔しさを物語っている。犯人に先まわりされてしまったのである。  室内にも死体にも抵抗した痕跡はない。室内に犯人を引き入れて話し合っている間に隙《すき》を突かれて首を絞められたらしい。被害者はシンプルなワンピースをまとっているだけであり、衣服は乱れていない。一見した限りでは、生前死後の情交、暴行の痕跡はない。若い女が室内に引き入れているところを見ると、犯人は被害者と面識のあった者らしい。新宿ロイヤルホテル殺人事件と手口が似通っている。  ちがうのは、前の犯人が、まず鈍器で撲《なぐ》って、被害者の抵抗力を奪っておいてから紐《ひも》で首を絞めた点である。だが前の被害者が膂力《りよりよく》のある男であったのに比較して、いまの被害者は非力な若い女である。犯人が男であれば、一気に抵抗を抑圧できる自信があったのかもしれない。首の両側に残されている手指と爪の痕を見ても男の手のようである。 「手を触れない方がいい。ここはうちの管轄ではないからな」  牛尾が注意した。ここは中野警察署の管轄区域である。他署の刑事がよその管轄区域に入り込んで来て死体を発見した上、勝手にいじくりまわしていたら、感情的にもつれてしまう。事件が関連していて、共助捜査や合同捜査体制になっても、しこりが残って統制が取りにくくなる。  彼らは室内に手をつけぬまま、一〇一号室の世話人の部屋へ行き、手短かに事情を説明して、その家の電話からまず中野署へ連絡を取った。中野署には旧知の笠原《かさはら》がいる。このような場合|顔馴染《かおなじ》みがいるということは、大いにやりやすい。  牛尾らの第一報を受けて、中野署から捜査員が駆けつけて来た。その中に笠原の顔も見えた。 「やあ、また妙な所でお会いしましたな」  笠原が笑いかけた。 「我々が出会う所はいつも妙な所ですね」  牛尾が如才なく応じた。 「まったく。たまにはまともな所でお会いしたいものですな。いつも血なまぐさい所で会っている」  笠原が苦笑した。笠原がいたおかげで、他署の刑事によって事件が発見された気まずさが救われた。 「実は我々の事件《ヤマ》の被害者のつながりで調べに来たところ、死体に出会ったというわけですよ」  牛尾がこれまでのいきさつを手短かに説明した。 「新宿のホテルで東京交通不動産の社員が殺された事件ですね。この被害者が殺された社員の同伴女性だったのですか」  笠原の表情が驚いている。 「確認できなくなりましたが、状況から判断して、まずまちがいないでしょう」 「するとあの事件の関《かか》わりで殺されたのかも」  笠原の顔色が緊張している。新宿のホテル殺人事件の関連で殺されたとすれば、事件の構造は大規模で複雑になる。政・官・財界がらみの疑惑の焦点に立つ人物が殺された後、その同伴者がむごたらしい死体となって発見された。  中野署員に前後して機動捜査隊、捜査一課、鑑識課などが続々と臨場してくる。捜査幹部が顔を揃《そろ》えたところで、本格的な検視と現場周辺の検索が始められた。発見者である牛尾らも現場に留まっている。単なる発見者ではない。担当事件の参考人を追って、その住居を訪れたところで死体に遭遇したのである。現場には異常な緊張が張りつめていた。  事件には連続殺人の疑いが濃厚である。その背景には、政・官・財界のからむ大きな疑惑事件がある。被害者の自称年齢は二十一歳、明日めぐみと名乗っていたが、本名かどうか不明である。  検視の第一所見では、首を手で絞めての窒息、いわゆる扼殺《やくさつ》である。死後経過三日ないし四日。生前死後の情交および暴行痕跡は認められないというものである。犯人は被害者の室内に入って、被害者と面談中、隙《すき》を見て被害者を扼殺し、死体を押入れの中に隠した状況である。犯人には死体の発見を遅らせようとする意図があったようである。  被害者の遺品が徹底的に調べられた。特に郵便物、名刺、メモ、アルバム類が綿密に調べられた。郵便物はほとんどDMである。個人的な手紙や年賀状、暑中見舞い等は一通もない。アルバム、写真類も保存していない。電話帳と十数枚の名刺が残されているのみである。  電話帳のナンバーは、行きつけの店や美容院、また馴染《なじ》み客の連絡先らしい。名刺の中には、会社の社長、医者、商店主、また有名スポーツ選手などがいた。鼻の下を長くして、デートガールにけっこう名刺を渡す客があるらしい。彼らはすべて被害者の異性関係としてマークしなければならない。  現場聞き込み班が被害者の隣家の居住者から、土曜日の深夜、隣家で言い争っているような気配を聞いたが、テレビの音だとおもっていたという聞き込みを得た。土曜日の深夜といえば、奥光利夫が殺された夜である。明日めぐみが彼の同伴者であれば、奥光の被害現場から帰宅して間をおかず殺害されたことになる。奥光殺しの犯人が彼女を追跡して来て殺した可能性が大きい。 「追跡して来た犯人を、被害者はなぜ室内に引き入れたか」  という疑問が生じた。被害者の死体と室内には抵抗した痕跡が留められていない。奥光殺しの犯人に追いつかれ、無理やり部屋に押し入られたとすれば、被害者は精一杯の抵抗をするか、あるいは救いを求めたはずである。だがそれをしなかったということは、犯人はべつの線から来たとも考えられる。 「これはなんだろう」  死体を観察していた鑑識課員が死者の衣服からなにかをつまみ上げた。柔らかい毛状の物質がその指先にあった。 「動物の毛のようだな」  捜査員の視線が集まった。動物の毛という言葉が、現場に立ち会っていた牛尾らの耳に届いた。 「これは猫の毛ではありませんか」  牛尾が言葉をはさんだので、視線が向き変えられた。 「猫を飼っている気配はありませんがね」  笠原が答えた。飼い猫のいる家は、猫のにおいが沁《し》みついているものである。あるいは死臭に消されてしまったのかもしれない。だが室内には猫の食器や便所や、キャットフードらしきものは一切見当たらない。 「猫がどうかしましたか」  笠原が問うた。 「うちの事件《ヤマ》の現場にも猫の毛が落ちていたのです」 「なんですって」  臨場していた捜査員が顔色を改めた。関連が疑われている現場で、前の犯行現場と同じ遺留品があったとすれば、ますます同一犯人による犯行の色彩が濃くなってくる。 「比較対照してみないことにはなんとも言えませんが、うちの事件《ヤマ》の遺留品と同じような毛ですね」  大上が言った。さっそく世話人に被害者が猫を飼っていたかどうか問い合わせられた。このアパートではペットの飼育は一切禁止されているということである。すると毛状の物質は、少なくとも被害者の飼い猫のものではない。  被害者は住民登録をしていない。同アパートに入居したのは一年前であり、中野駅前の不動産屋の紹介であるという。大家からアパート運営の一切を委託されている世話人は、彼女のOLというふれ込みと、規定の家賃、敷金、礼金を一括して支払ったので、入居させたそうである。このアパートの入居者は、おおむね風俗関係の女性が多い。だが世話人は、被害者の素人《しろうと》っぽい様子から、風俗とはおもわなかったそうである。  受け持ち派出所の巡回連絡に際して、住人案内簿に記入した本籍地や、勤め先は虚偽であった。派出所では、巡回連絡の回答をいちいち確かめない。プライバシーの詮索《せんさく》にもなり、住人の申し立てや、記入事項を信ずる以外にない。明日という姓は珍しいので、NTTの電話帳に登録されている者を調べたが、都内都下に該当者はいなかった。たとえいたとしても電話帳に載せていなければその線からは手繰れない。明日めぐみの身許はまったく不明であった。  モナリザには一年ほど前、友人から紹介されたと言ってふらりと訪ねて来たそうである。デートガールは大っぴらに募集できないので、ほとんどの女性が友人からの聞き込みによってやって来る。モナリザ以前、どこでなにをしていたのかまったく不明である。  室内は荒らされておらず、多少残されていた金品にも手はつけられていない。それらのことからも、物盗り目的による犯行ではなさそうである。  その日のうちに所轄中野署に弥生《やよい》ハイム女性殺害事件特別捜査本部が設置された。死体は翌日の午後から司法解剖に付せられた。解剖所見は、おおむね検視の第一所見を裏づけるものであった。  さらに被害者の衣服に付着していた毛状の物質を奥光殺しの犯行現場から採取された猫の毛と比較対照検査にかけたところ、同一の毛と鑑定されたのである。毛は同じ猫のものであった。犯人は奥光殺しの犯人と同じ猫を飼っている。  ここに新宿と中野の二件の殺人事件は、同一犯人による連続犯行である疑いが極めて濃厚になった。ただし中野の現場には猫忌避剤はなかった。  解剖所見と猫の毛の対照検査の結果を踏まえて中野署において第一回の捜査会議が開かれた。関連事件の疑い濃厚として、新宿署から担当捜査員が参加した。まず議題となったのは、犯行の連続性に関する検討である。 「同じ猫の飼い主が家族以外で二人以上いるということはほとんどない。また二人の異なる犯人による犯行であるとしても、犯人は同じ猫に接触し得る人間である。二件の犯人には密接な関係があると見てよいのではないか」  というのが大勢意見であった。だが反論も出た。 「猫はどこへでも行く。同じ猫の毛が二つの現場に残されていたからといって、必ずしも同一犯人による犯行、あるいは関連犯行とは断定できないのではないか」  明日《ぬくい》めぐみが奥光利夫の被害現場に行き合わせたことは、モナリザのマスターの証言によりほぼ確実である。このことからもめぐみを殺した犯人は奥光殺しとなんらかの関わりがあるものと見られる。めぐみの死体に付着していた毛の主の猫に犯人がたまたま接触したとは考えられない。 「明日めぐみが猫に接触した可能性はないか」 「めぐみの身辺に猫はいないが」 「めぐみの身辺というが、彼女の生活領域としてわかっているのは中野区の住居とモナリザだけだ。それ以外のどこかで問題の猫に触れたのかもしれない」  それは一つの着眼である。すなわち猫に触れためぐみが身体に付着した毛の一部を奥光の部屋へ行って残した。このように考えれば、奥光の部屋とめぐみの死体に同一の猫の毛が残っていても不思議はない。 「めぐみが猫の毛の遺留主であれば、猫忌避剤もめぐみの死体と共にあるはずだが」  これは綿密な検索によっても発見されなかった。また猫忌避剤は、死臭にも消されぬ強烈なにおいを持っている。めぐみの部屋のどこにも、そのようなにおいも臭源もなかった。 「明日めぐみが奥光の同伴女性であったことはまだ確認されたわけではない。モナリザのマスターが奥光の部屋へ行ったと言っているだけだ」 「それは確認されたと見てよいだろう。一一〇番に通報してきた女の声の録音を、モナリザの店長《マスター》に聞かせたところ、たしかに同人の声であると証言しているのだ」 「仮に確認されたとしても、めぐみが奥光を殺した犯人と鉢合わせをしたことにはならない。めぐみは奥光が殺された後に現場に行ったのかもしれない。もし彼女が犯人を見ていれば、通報時に言ったはずだ」  めぐみが犯人を見ておらず、犯人にとって不都合なことを知らなければ、犯人はめぐみを追いかけて行って殺す必要はない。 「めぐみが犯行を目撃したり、犯人と鉢合わせしたりする必要はない。めぐみが奥光の部屋を訪れたとき、まだ犯人が部屋のどこかに居残っていて、めぐみに見られたと認識すれば、犯人にとって彼女は生かしてはおけない人間である。そこでめぐみの後をつけて、その住居へ入ったところで一気に扼殺《やくさつ》したと考えられないか」 「もしそうなら、なぜ途中で殺さなかったのか。自分の部屋に閉じこもってしまわれたら、犯人は手出しできなくなるだろう」 「途中では隙《すき》を見つけられなかったのだ。土曜日の夜ともなれば人通りもあるだろうし、つけ込む隙を見出せないまま、住居まで後をつけて来て、ドアを開けた瞬間に一気に押し入り、絞め殺した」 「なぜ救いを求めなかったんだ」 「救いを求める暇もなく殺されてしまったのかもしれない」 「抵抗する暇もなかったというのか」 「そうだ」 「その推測にはやはり無理があるとおもう。犯人にめぐみに見られたという意識があったとしても、それを確かめずに殺してしまうというのはいかにも乱暴である。また実際に見られたとしても、犯人とめぐみの間に面識がなければ、犯人にとって直ちに危険とはならない。奥光殺しの犯行が、政界がらみの東京交通不動産疑惑から発しているとすれば、犯人にとって不必要な殺人は避けたいはずだ。まして黒幕から委嘱された殺人であれば、金にならない殺人を連続して行なうとは考えられない」 「そんなことはないだろう。犯行の黒幕に大物がいれば、その安全のために少しでも危険な要素は取り除こうとするはずだ。犯行の目撃者は犯人や黒幕にとって最も危険な人物だよ」 「その場合でも、黒幕が大物であれば、犯人の独断で目撃者を殺すとは考えられない。必ず黒幕に相談した後で、行動を起こすだろう。明日めぐみは奥光が殺されてから間をおかず殺されている。まさに電光石火だ。黒幕の意を受けた手先の犯行にしては、あまりにも早すぎるよ」  両者の意見にはそれぞれ一理あり、なかなか結論が出なかった。両件の関連性の有無の検討はひとまず保留して、他の動機を検討することになった。  被害者の職業柄、不特定多数の異性関係が考えられる。被害者の遺品の中にあった名刺の主は、決して無色の位置に立てない。だが犯人が重大な手がかりを被害者の身辺に放置したまま逃げるであろうか。名刺の主の中に犯人がいるとすれば、被害者を殺害した後、必ず名刺を回収したはずである。  名刺は六畳の寝室の整理ダンスの中に入れてあって、すぐに探し出せるような場所であった。名刺の主と、電話帳に記載されたナンバーの所有者と一致する者もいた。名刺の主と、電話帳の記載者の中に奥光も含まれていた。  捜査会議の意見は二分した。一方は東京交通不動産疑惑から発する連続殺人という見方と、他方は奥光殺しとは無関係の独立した殺人事件とする意見である。数において連続派がやや勝っていたが、独立説を支持する者も少なくない。  その日の捜査会議において、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰目撃者の発見捜査。  ㈪名刺の主の捜査および彼らの飼い猫の有無の調査。  ㈫猫を飼っている㈪に対する猫の毛の比較検査。  ㈬㈫の場合、猫忌避剤使用の有無調査。  ㈭㈫が猫忌避剤を使用している場合、その使用薬剤の比較検査。  ㈮明日《ぬくい》めぐみと奥光利夫の関係掘り下げ捜査。  ㈯明日めぐみと江頭義郎および東京交通不動産疑惑の関係者とのつながりの発見。  ㉀明日めぐみの身許割り出し捜査。 [#ここで字下げ終わり]  を当面の捜査方針として決定し、同人の修整写真を各マスコミ機関に発表すると同時に、ポスター五万枚を印刷して、都内、都下、近隣県派出所、公衆浴場、劇場、主要駅などに掲示することにした。両捜査本部は当面連絡を密にして共助体制で捜査を進めることになった。 [#改ページ]  主権なき主      1  道浦《みちうら》が受けた衝撃は大きかった。彼の不吉な予感は的中していた。めぐみは殺されていた。報道によると、めぐみが殺されたのは土曜の深夜から日曜の未明にかけてと推定されている。その推定が正しければ、道浦が彼女の最後の客となったわけである。  午後十時、道浦の部屋を去っためぐみは、八一五号室の奥光利夫《おくみつとしお》の部屋に行き、彼の死体を発見した。仰天《ぎようてん》した彼女は奥光の部屋から逃げ出し、警察へ通報した後自宅へ逃げ帰り、そこで犯人に殺されたことになる。奥光を殺した犯人が、めぐみを追跡して来て殺したにちがいない。犯人は奥光とめぐみの生命を奪っただけではなく、道浦の生き甲斐《がい》までも奪っていったのである。  道浦はついに帰る家を失い、帰る所まで失ってしまった。いまや土曜日になっても、帰って行く所もなければ会いに行く人間もいない。寂しい限りであった。  月一回か二回土曜の一夜、めぐみと過ごしたダブル(三時間)が彼の人生の宝石であった。いまはその宝石が想い出と化してしまった。二度と帰らぬ想い出であるだけに、おもいだすのが辛い。めぐみと過ごした週末のわずかな時間(それも毎週ではない)が彼の全半生を圧倒していた。妻や子は他人よりも遠い。めぐみだけが道浦の寂しさをわかってくれた。  そしてその寂しさを共有してくれた。彼女の切り売りしてくれたわずかな切片が、道浦にとってすべてであった。もはや二度とありつけない彼女の切り身。予約をすればいつでも自由に供給された切り身が、もう二度とあたえられることはない。ないとなるとよけいに欲しくなるものである。  想い出が道浦の飢えを促した。そしてめぐみに対する絶対的な飢餓感の底で、犯人に対する憎しみが燃えた。犯人は彼からかけがえのないものを奪い去ったのだ。できることなら自分が報復してやりたい。警察に任せておけない気持ちだった。  道浦は今年の大《おお》晦日《みそか》から正月にかけてある計画を立てていた。めぐみを三日ほど独占して、どこか静かな温泉へ行くつもりであった。めぐみにもあらかじめ予約をし、あらかた了解を取りつけていた。 「お客様と旅行をするのは初めてだけれど、道浦さんとならいいわ」  めぐみは言ってくれた。  家へ帰ってもどうせ粗大ゴミあつかいである。めぐみと共に紅白を見、初詣《はつもうで》をし、静かな温泉に浸りながら正月を過ごすことを考えるだけで胸が躍った。結婚以来、正月を家族と共に過ごさなかったことはない。道浦にとってこれは初めての冒険であり、家族に対する叛乱である。男は愛人がいても大晦日と正月は家族と共に過ごす。いまや道浦にとってめぐみは家族以上の存在となっていた。  家族に叛旗を翻そうとした矢先に、めぐみを殺されてしまったのである。叛乱を事前に犯人によって鎮圧されてしまった形なので、道浦は仕方なくその年の暮れ帰宅した。  ところが家へ帰ると、妻が彼の顔を見るなり、 「あら、お帰りになったの」  とびっくりしたような表情を向けた。 「帰ってはいけないのか」 「だってお仕事が忙しいので、今度の正月休みには帰らないとおっしゃっていたじゃないの」  と妻はいかにも不満げな表情で言った。 「仕事のメドがついて、どうにか休めるようになったんだよ」 「それならそうとおっしゃってくださればよろしいのに。突然帰って来られても困るわ。こちらにはこちらの都合もあるんだから」  妻は頬《ほお》を脹《ふく》らませた。 「なんだ。おれが帰って来て迷惑なのか。おれはこの家の主だぞ。主が自分の家にいつ帰って来ようと勝手だろう」  道浦は憤然として言った。 「そんな言い方はなさらないで。所有者かもしれないけれども、主ではないわ。わたしたち、あなたの家来でもなければ召使いでもないわ。あなたがお帰りにならないとおっしゃったので、子供たちと三人でスキーへ行く計画を立てたのよ。いまさら変えられないわ」 「おれがスキーをできないことを知っているだろう」 「だから、あなたが帰らないとおっしゃったので、スキーへ行くことにしたのよ」 「それじゃ、おれにどうしろというんだ。いまからまた名古屋へ戻れというのか」 「あなた一人で留守番をしてちょうだい。召し上がるものの用意だけはして行くわ」  そこへ娘と息子が出て来た。 「なんだ、お父さん、帰って来たの」  彼らもがっかりした表情を見せた。 「おれもスキーへ行くよ」  道浦は一人|膝小僧《ひざこぞう》を抱えながら年末年始を過ごす侘《わび》しさをおもって、スキーはできないながらも、せめて家族と一緒に雪国を見物しに行こうかとおもった。 「お父さんと一緒ではいやだわ」 「ぼくもいやだよ。楽しくないもの」  言下に子供たちが言った。 「なぜおれが一緒だと楽しくないのか」 「だって、勉強しろよとか、女のくせに行儀が悪いとか、お説教ばかりするんだもの」 「茄子《なすび》の花と親の意見は千に一つの無駄がない。茄子の花は咲くとみな実を持つ。親の意見は子供のために役に立つことばかりなんだ」 「それがもうお説教なんだよ。親父《おやじ》のお説教は聞き厭《あ》きた」 「なんてことを言うんだ。おまえたち、だれのおかげで大きくなったとおもってる」 「ほら、またお父さんの口ぐせが始まったわ。親が子供の面倒を見るのは当たり前よ。順送りなのよ。お父さんだっておじいさんやおばあさんのおかげで大人になれたんでしょう。いずれ親になれば、子供の面倒を見るわ。親になってもお父さんみたいに子供にいちいち、だれのおかげで大きくなったなんて言わないわ」 「それが親に向かってきく口か」 「とにかく親父とスキーへ行くなんてごめんだね。親父が行くのなら、ぼくはキャンセルする」  道浦の突然の帰宅で、家族はたちまち気まずくなった。道浦としても、家族に叛旗を翻して、めぐみと温泉旅行へ出かける予定がご破算になっての帰宅であるから、あまり大きなことはいえなかった。  結局、妻子に言い負かされた形になって、道浦は年末年始を膝小僧を抱えてテレビを相手に過ごした。めぐみと共に過ごす予定であった濃密な時間が、家族からも置き去られ、大《おお》晦日《みそか》から三箇日にかけて、スーパーのおせち料理と、昨年中につくったテレビ番組の正月用特番をお仕着せられて侘《わび》しく過ごした。それは荒涼として無味乾燥な時間であった。道浦は叛乱に敗れたとおもった。  三日の午後、妻子が真っ黒に雪焼けして帰って来た。 「おかげで楽しい旅行ができたわ。お父さん有難う」  妻子は殊勝な顔をして、土産《みやげ》の饅頭《まんじゆう》などを差し出した。だが道浦の心情は複雑である。彼らの言うおかげとは、道浦が同行しなかったおかげという意味である。要するに父や夫抜きの旅行、いや旅行に限らず生活が彼らにとって居心地よくなっているのである。おれの存在はいったい家族にとってなんなのだと道浦は自問自答せざるを得ない。 「ところでお父さんはいつ名古屋へ帰るの」  娘が聞いてきた。 「来週の月曜日の午後までに出ればよいので、六日の朝帰る」 「えっ、そんなにいるの」  妻子が異口同音に言った。彼らの表情が露骨に迷惑がっている。 「おれがいてはいけないのか」 「いけないということはないけれど、このお正月は帰らないと聞いていたので、なんにも用意がしてないのよ」 「なんの用意がいるというのだね」  道浦は憮然《ぶぜん》として問い返した。現に大晦日から今日まで、スーパーのおせち料理を当てがっただけで放り出しておいたではないか。用意も何もあったものではない。 「それはいろいろあるわよ。一緒に生活していないんですもの。第一、寝る場所から考えなければいけないわ」  妻が言った。 「おまえはどこに寝ているのだ」 「わたしの部屋よ」 「だったらそこへ寝ればいいじゃないか」 「わたし、一人で寝るくせがついたものだから、他人が同じ部屋に寝ていると眠れなくなっちゃうの」 「おれは他人ではないぞ」 「そういう意味ではなくて、べつの体を持ったほかの人という意味よ」 「だったらかおりと弘を同じ部屋に寝させればいいだろう」 「あなた、かおりと弘はもう思春期よ。きょうだいでも同じ部屋には寝かせられないわよ」 「わかった。おれは廊下にでも寝るよ」 「またそんなことをおっしゃって。いいわよ、なんとかするから」  道浦の家でありながら、もはや完全に彼のいる場所はなくなっていた。道浦はまだ休暇が余っていたが、早めに名古屋へ戻ることにした。こいつらは家族ではない。家族の心も温かみも失ってしまった見も知らぬ他人である。赤の他人でも、袖触《そでふ》れ合うも他生《たしよう》の縁くらいの温かさは持っている。彼らは家族どころか人間のハートを失った異星人である。  単身赴任による別居生活が、留守家族を夫や父を疎外した自己本位のライフスタイルに歪《ゆが》めてしまったのである。非は道浦の方にもある。だがそもそも単身赴任は、夫や父の犠牲において一定の地におりた家族の生活の根を守ろうとするものである。  道浦は寂しかった。めぐみに会いたかった。こんなときめぐみが生きていれば、彼の荒涼とした心を優しく手当てしてくれるであろう。一体だれがめぐみを殺したのか。家族に対する失望の反動として、めぐみを殺した犯人に向ける怒りが勃然《ぼつぜん》として沸き起こってきた。怒りはめぐみを殺されたときから内向していたが、正月休暇の家族の仕打ちがその怒りに火をつけた形になった。  その後犯人が捕まったとも、容疑者が浮かんだとも報道されていない。捜査は難航している模様である。警察がもたもたしている間に、犯人は安全圏へ逃げて、笑っているのであろう。道浦は名古屋へ帰る前に、めぐみが最後に訪問したという客の部屋を自分の目で確かめたくなった。  道浦は五日、予定を一日早めて名古屋へ帰ると言って家を出た。家族はほっとした表情をして彼を送り出した。その日は新宿ロイヤルホテルに一泊して、明日朝、名古屋へ戻るつもりである。正月休みの混雑も終わり、ホテルは空いているころであろうと判断した。  ロイヤルホテルのフロントへ行って部屋があるかと質《たず》ねると、フロント係がご希望の部屋をご用意できますと答えた。 「八一五号室は空いていますか」  道浦は問うた。 「八一五号とおっしゃいますと、デラックスダブルルームでございますね」 「とおもうが」 「お連れ様は」  フロント係が道浦の背後をうかがった。  女がその辺で待っているらしいとおもったようである。 「いや、一人です。ゆったりした部屋でくつろぎたくてね」 「同種のお部屋ならばございますが」 「八一五号は占《ふさ》がっているのかね」 「現在故障中で閉鎖しております」 「故障中では仕方がないな。それでは七三一号室は空いているかな」  事件の後で現場となった部屋は閉鎖されているかもしれないと予測はしていた。八一五号室がだめなら、めぐみと最後に過ごした七三一号室に泊って、彼女を偲《しの》びたいとおもった。 「七三一号室ならばご用意できます」 「それではその部屋を頼む」 「同じタイプのお部屋もございますが、七三一号室でなければいけませんか」 「その部屋に、ちょっと想い出があってね」  道浦はフロント係の質問をいなした。今夜は七三一号室でめぐみの幻影を抱いて眠ることになるだろう。家族であって家族ではない連中と一緒に身の置き所もない我が家で過ごすよりも、たとえ幻影であってもめぐみの面影を追いながらホテルの部屋で寝る方がましである。  道浦はフロントでレジスターをすると七三一号室のキーをもらった。ボーイの案内を断わり、一人で部屋へ通る。このホテルには、何度もめぐみを呼んでおり、勝手を知っている。部屋のたたずまいは、めぐみと別れたときと同じである。これから明日の朝までの十数時間、めぐみの幻影を抱いて過ごすのだ。冷えた外気の中から入って来たので、熱いシャワーを浴びたくなった。  シャワーを浴びてほっと一息ついた。めぐみと初めて出会ったときも、シャワーを使った後チャイムが鳴って、ドアを開いてみると彼女が立っていたのである。またいまにも彼女がチャイムを鳴らすような気がした。めぐみがこの世の者ではなくなったことが信じられない。なにか悪い夢でも見ているような気がした。 (めぐみ、頼む。来てくれ)  道浦はだれもいない部屋に呼びかけた。モナリザに電話をすれば、代わりの女性を差し向けてくれるであろう。だが道浦の寂しさと飢えは、めぐみでなければ癒《いや》せない。  化けてでもよいから出てもらいたかった。  そのときドアのチャイムが鳴った。道浦は一瞬、耳の錯覚かとおもった。束《つか》の間呆然《まぼうぜん》としていると、ふたたびチャイムが鳴った。耳の錯覚ではなかった。ルームサービスは頼んでいない。客室係を呼び寄せてもいない。まさかめぐみが。  道浦が祈るようなおもいをこめてドアを開いてみると、廊下に二人の見知らぬ男が立っていた。一人は五十前後の穏やかな風貌《ふうぼう》の男で、もう一人は三十代後半から四十前後と見られる精悍《せいかん》な顔つきの男である。その左腕の袖《そで》の肘《ひじ》から先がすぼんで袖の先がポケットの中に入っている。道浦がめぐみ同様彼らも部屋をまちがえたのかとおもったとき、機先を制するように、 「道浦|良一《りよういち》さんですね」  と年配の穏やかな風貌の男が問いかけてきた。 「道浦ですが」  心当たりのない二人連れの素性を訝《いぶか》しがりながら答えると、年配の男が懐中からちらりと黒い手帳を覗《のぞ》かせて、 「警察の者ですが、少々お訊《たず》ねしたいことがあります」  と言った。 「警察……」  道浦が絶句している間に、 「ちょっとお邪魔してよろしいですかな」  と言ったときは二人はすでに室内に入っていた。 「新宿署の牛尾《うしお》と申します。こちらが青柳《あおやぎ》です」  年配の男が自己紹介した。 「初めまして。それでどんなご用件ですか」  道浦は警察と聞いて身構えた。 「あなたはフロントで八一五号室をリクエストされたそうですが、なにか特別な理由がありますか」  年配の男が一直線に問いかけてきた。穏やかではあるが、底光りする眼光は、やはり刑事のものである。  かたわらの片腕の刑事も、鞘《さや》におさめられた凶器のように、ひっそりと控えているが、常人とは異なる気配を帯びている。      2  二人には道浦の返答次第によってはどのようにでも対応できる構えが感じられる。道浦は咄嗟《とつさ》に答えるべき言葉に詰まった。 「普通、ホテルの部屋をリクエストする場合は、部屋のタイプを言うものです。あなたは部屋の番号を指定した。八一五号室でなければならない特別の事情がおありのようですが、それをおうかがいしたいのです」  牛尾と名乗った刑事の口調はあくまでも穏やかであったが、言い逃れを許さないひたひたと迫ってくる厚い壁のような迫力が感じられた。  その事情を話すためには、めぐみとの関係を打ち明けなければならない。道浦はためらった。それにしても刑事がこのように素早く追跡して来たのは、ホテルに張り込みをかけていたのか、あるいはホテルが通報したのかもしれない。 「どうなさいました。お答えいただけませんか」  黙り込んでいる道浦を牛尾が促した。 「べつに大した理由はありません。新婚旅行で泊った想い出の部屋だったものですから、つい懐かしくなって、どうせ泊るならその部屋でとおもったのです」  道浦は口から出まかせを言った。 「立ち入るようですが、ご結婚なさったのはいつごろですか」 「二十年ほど前です」 「嘘《うそ》を言ってはいけませんな。このホテルは建ってからまだ十年しかなりませんよ」  唇を噛《か》んだが遅かった。 「あなたは八一五号室が閉鎖していると言われて、代わりに七三一号室を要求されましたね。その理由もおうかがいしたいのです」  牛尾がじわりと迫ってきた。 「そ、それはべつに理由はありません。ただなんとなく七三一号室と言ったまでです」 「嘘をつかれると、あなたの立場がますます悪くなりますよ。昨年十月二十七日午後六時、明日《ぬくい》めぐみという女性が七三一号室を訪問して、九時ごろ同室を立ち去り、八一五号室に赴いた後、自宅に帰って殺されました。明日さんが生前最後に訪れた八一五号室では同夜同じ時間帯に殺人事件が発生しております。あなたはそのことをご存じなんでしょう。あなたは承知のうえで八一五号室をリクエストし、明日さんがその前に訪れた七三一号室を取った。それには必ずなんらかの理由があるはずです。その理由をおうかがいしたい」  牛尾は一気に詰め寄ってきた。警察はそこまで調べて、ホテルに網を張っていたのである。めぐみが八一五号室を訪れたときその客がすでに殺されていれば、道浦が最後の客ということになる。  マスターには名前だけで住所や電話番号はおしえていない。だが事件発生当夜、めぐみの最後の客と同じ名前の者が八一五号室をリクエストし、次いで七三一号室へ入った。警察はこの符合を決して見逃さないだろう。道浦は言い逃れできないのを悟った。 「べつに嘘をつくつもりはありませんでしたが、かかり合いになりたくなかっただけです」  道浦は素直に謝って、めぐみとの関係を正直に話した。 「なるほど。それでめぐみさんはあなたの部屋から午後十時少し前に立ち去ったのですね」  道浦の言葉を信用したのかどうかわからないが、牛尾の構えが少し緩やかになったように感じられた。 「そうです。一時間ほどサービスしてくれたのです。でも私には八一五号室へ行くとは言いませんでした。プライベートの用事があるのでどうしても泊れないと言って帰って行きました。それが彼女を見た最後でした」 「あなたが犯人を憎むお気持ちはわかるような気がしますが、犯人探しは警察に任せてください。明日さんが殺された事件の管轄は中野署になっていますが、中野署の捜査本部では目下明日さんの身許割り出しに躍起になっております。あなたは明日さんから彼女の身の上についてなにか聞きませんでしたか」 「彼女が明日という苗字《みようじ》であることは、新聞で初めて知ったのです。彼女はほとんど自分の身の上について語りませんでしたが、金持ちの祖父母が、両親の結婚を許さなかったので、両親は駆け落ちをして彼女を産んだそうです。両親は彼女を残して死んでしまったそうですが、両親を殺したのは祖父母だと言って憎んでいました。いまは祖母一人になっているそうですが、彼女は決して祖父母を許さないと言っていました」 「その祖父母についてなにか手がかりになるようなことは言ってませんでしたか」 「さあ、特に聞いていませんでしたが」 「どんなことでもけっこうです。おもいだしてください」 「そうですねえ、ご参考になるかどうかわかりませんが」  道浦はふとおもいだしたことがあった。 「どんなことでもけっこうですよ」  牛尾は同じ言葉を繰り返して、心持ち上体を乗り出した。 「幼いころ父親に連れられて、都内のどこかにあった祖父母の家に連れて行かれたことがあったそうです。旧《ふる》い大きなお屋敷で、広い庭に三百年ぐらいのシイの樹があったということです」 「樹齢三百年のシイの樹」  牛尾と青柳が顔を見合わせた。 「近所ではその樹を神木と呼んでいると父親が言っていたそうです」 「祖父母の家の住所については、そのほかになにか言ってませんでしたか」 「言ってませんでした。シイの樹のこともぽつりとおもいだしたように言ったのです。彼女は身の上を詮索《せんさく》されるのを喜んでいないようだったので、私もべつに訊《たず》ねませんでした」 「有難うございました。ところで、あなたのご身分を証明するようなものをなにか見せていただけませんか」  牛尾はなにげない口調で言葉を追加した。それは彼らが道浦に対する疑いを完全に解いていないことを示していた。 [#改ページ]  出揃《でそろ》った役者      1  あらかじめホテルに委嘱しておいたことが功を奏して、道浦《みちうら》が八一五号室をリクエストしたことがフロント係から通報された。殺人の犯行現場になった部屋を特に指定した客を見逃すわけにはいかない。  道浦から事情を聞いた牛尾《うしお》と青柳《あおやぎ》は、明日《ぬくい》めぐみの身の上に関するかすかな手がかりを得た。彼女には祖母があり、樹齢三百年のシイの樹のある広壮な屋敷に住んでいるという。都内に樹齢三百年のシイの樹といえば、数が限られるであろう。その家を探しだせば、めぐみの身許が割れるかもしれない。彼らは道浦から得た情報を、さっそく中野署の笠原《かさはら》へ連絡した。  立ち上がりから捜査が難航していた中野署の捜査本部にとって、牛尾から寄せられた情報は耳寄りなものであった。彼はさっそく都庁に問い合わせた。都内の保護樹を取り扱うのは計画課緑化推進担当である。あちこちたらい回しされて、ようやく緑化推進担当へ行き着いた笠原は、すぐに割れるとおもっていたシイの樹の所在地まで、まだ幾重にも壁があることを知らされた。  都の緑化推進担当が取り扱う保護樹は都立の公園および霊園の、幹まわり三百センチ以上の樹木に限られることを知らされた。ちなみに都で保護対象になっている樹木は百六十八本であり、樹種はイチョウ、タブ、クスノキ、ムク、ケヤキ、スダジイなどである。私有地の保護樹木に関しては各区および市の管轄になっているということである。 「これは一区ずつしらみつぶしに調べる以外にないな」  笠原はつぶやいた。だが樹齢三百年のシイの樹はそう何本もあるまい。笠原はめげずに一区一区問い合わせた。区によって保護樹を担当する係は異なっている。各区それぞれに都市環境課緑化係、公園緑地課、土木計画課緑化推進係、生活環境部緑の課などと呼称が異なっている。  各区が設けた緑の保護と育成に関する条例によっておおむね目通り(目の高さに相当する部分の樹木の太さ)約一・五メートルの高さにおける幹の直径〇・四メートル以上の樹木を対象に保護樹木として指定し、所有者または管理者、住所、保護樹木指定月日、指定番号、樹種、目通り直径等を記録してある。  都内各区の保護樹木の数は意外に少なく、たとえば江東区は百七十三本、大田区は三百五十本、杉並《すぎなみ》区は千六百四十本、世田谷《せたがや》区は千四百十九本、また中央区は現在業者に委託して樹木の実態調査中であり、保護対象となるべき樹木はおおむね五百本と推定されている。  全区を通して保護樹木で多い樹種はケヤキ、サクラ、イチョウ、マツである。保護樹木の対象基準も各区によって多少異なる。また区によっては基準にかなう樹木であっても、自然環境保護審議会が認めた樹形を保っていなければならない。また各個別の樹木に加えて面積三百平方メートル以上の樹林を保護樹林として指定している区も多い。だが各区とも保護樹木に関して樹齢は把握していない。  樹齢はおおむね現在の所有者に聞いて推測するしかない。各区しらみつぶしに当たって、該当しそうなシイの樹が大田区、世田谷区、杉並区、練馬《ねりま》区、文京区の十数本に絞り込まれた。これが都下の市町に拡大されるとさらに増えるであろう。被害者が洩《も》らしたという「都内」という言葉だけを頼りに絞り込んだのであるが、それは都下であるかもしれない。  両捜査本部はとりあえずマークした十数本のシイの樹について調べることにした。すでに所有者や管理者が替わっているかもしれない。区によっては調査日が二、三年前なので、すでに樹が切り倒されているかもしれない。被害者の祖母が現在健在であるかどうかもわからない。  捜査本部はわずかな希望をつないで、シイの樹を追った。マークされたシイの樹が、次々に消去された。所有者に問い合わせて被害者となんの関係もないことが順次確かめられた。  該当樹木を一本ずつ消して、世田谷区|祖師谷《そしがや》一丁目の旧い屋敷の庭に近所から神木と呼ばれている樹齢三百年以上のシイの大木が残った。言い伝えによると江戸中期に一度切り倒され、そのあとからふたたび幹が伸びて、現在の樹高約二十五メートル、幹回り三メートル以上の大高木に生長したところから神木と言われているそうである。  その木に見合った古色|蒼然《そうぜん》たる屋敷を覆い尽くすように鬱蒼《うつそう》たる緑の枝を広げ、周辺からも一目で見分けられた。その家の主の姓を明日《ぬくい》と聞いて、靴の底を擦《す》り減らしてこつこつシイの樹を追い求めていた牛尾と笠原は、正しい方角に向かっている手応《てごた》えを得た。  明日という姓は珍しい。しかもめぐみの話にあった樹齢三百年のシイの樹もある。明日家は戦前からこの地域に住みついている古い家柄であり、現在は老女一人がその屋敷に住んでいるという。 「そういえば、このごろあのおばあさんの姿を見かけないなあ」  聞き込みに応えた近所の商店主が言った。 「見かけないというのはどういうことですか」  笠原が問うた。 「人伝《ひとづ》てに聞いた話ですけど、身体の具合が悪くて入院しているということです」 「入院、するといまはあのシイの樹のある屋敷は無人になっているのですか」 「親戚《しんせき》の人が時どき来ているようですよ」 「親戚の人も常住しているわけではないのでしょう」 「常住者はいないようですね」  近くの商店から一応の予備知識を得て明日家を訪れた。最近とみに住宅がたて込んできた同地域に、広い庭をめぐらし、耐用年数をとうに過ぎたような旧い家を、周囲を睥睨《へいげい》して聳《そび》え立つシイの樹と、密度の濃い庭樹があたかもひと塊の森林のように覆っている。  庭は雑草の茂るに任せている。広い家であるが、その外囲いと庭と共にほとんど手入れをしていないらしい。木戸門の屋根が傾き、門柱は腐りかけている。表札の明日という文字が雨水に滲《にじ》んで辛うじて判読できる。一応呼鈴の設備はあった。だが呼鈴を押してもまったく応答する気配もない。 「やっぱりだれもいないようですね」 「これは区役所へ行って戸籍簿を見た方が早いかもしれないな」  笠原と牛尾は顔を見合わせた。もしめぐみがこのシイの樹の屋敷の主の血を引いていれば、戸籍簿を追ってその身許を割り出せるかもしれない。  隣り近所の聞込みに当たろうとしていた矢先に隣家の門が開いて、その家の主婦らしい中年の女性と、十五、六歳の少女が連れ立って出て来た。牛尾はすかさずにこやかに笑いながら声をかけた。 「明日さんはご入院中とうかがいましたが、ひょっとして入院先をご存じではありませんか」 「あら」  牛尾に声をかけられて、中年の女性の面にややとまどいの色が見られた。彼女がなぜとまどったのか、牛尾は少し不審におもった。 「明日さんにちょっとお会いしたい用事がありまして、もし入院先をご存じでしたらおおしえいただきたいのですが」  牛尾は辞を低くしてさらに頼んだ。 「失礼ですが、あなた様は」  中年の女性が訊《たず》ねた。できるならば素性を明らかにしたくなかったが、やむを得ない。牛尾は警察手帳を示した。 「まあ、警察の方ですか」  主婦の顔色が改まった。 「刑事さんですか」  主婦と連れ立っていた少女が目を輝かした。 「そうですが」  牛尾がうなずくと、 「やっぱり。わたしがおもったとおりだったわ。おばあちゃんの身になにかあったんでしょう」  少女は好奇心にはち切れそうな表情をして言った。 「お嬢さん、やっぱりおもったとおりだったとおっしゃると、明日さんの身になにか気になることでもあったのですか」  牛尾と笠原は少女の方に視線を向けた。 「おばあちゃんがいなくなって、猫が消えてしまったんです。庭に埋められてしまったのかもしれない」 「頼子《よりこ》、めったなことを言うものではありません」  少女の母親らしい中年の主婦が慌ててたしなめた。 「庭に埋められたとは穏やかではないな」  牛尾は埋められた死体を老女と猫両様に解釈した。そして少女もその意味で言ったらしい。 「お嬢さん、詳しく話していただけませんか」  刑事らは少女に完全に姿勢を向けた。 「おばあちゃんの姿が見えなくなって、洗濯物がぜんぜん干されなくなって、猫がおなかを空かせて餌《えさ》を漁《あさ》るようになってから、いつの間にか姿を消してしまったのです。いまうちにいるボウシだけが生き残ったのです」 「ボウシとはなんですか」  牛尾は頼子から飛躍しがちな話を誘導しながら引き出した。かたわらから母親がはらはらしながら見守っている。 「なるほど。その親戚《しんせき》の男女が来るようになってから、おばあさんの姿が見えなくなったというのですな」 「そうなんです。おばあちゃんが入院したというので、花を送りたいと言っても病院の住所もおしえてくれません。わたし、絶対おばあちゃんの身になにかあったんだとおもうわ。刑事さん、おばあちゃん殺されちゃって、その捜査に来たんでしょう」 「いやいや。まだそこまでは行ってませんよ」  牛尾は苦笑した。だがこの好奇心|旺盛《おうせい》な少女の嗅覚《きゆうかく》と推測は、素人《しろうと》の根も葉もない妄想《もうそう》と笑い捨てられないものがある。少女の直感が意外に事件の本質を見通しているかもしれない。  ともあれシイの樹屋敷の主が猫を多数飼っていたという事実は決して見過ごせない。 「すみませんが、隣家からおたくに迷い込んだという猫を見せていただけませんか」 「いいわよ。人見知りをする猫だから、突然行くと逃げてしまうかもしれないわ。わたしが捕まえてきます」  少女は呆《あき》れたように佇《たたず》んでいる母親をその場に残してさっさと家の中へ戻った。 「どうぞ、お入りくださいませ」  母親が言った。 「お出かけのところではなかったのですか」 「いいえ。特に急ぐ用事でもありませんので」  母親は娘の好奇心につきあう覚悟をしたらしい。母親自身も、娘の好奇心が伝染して、隣家に関心を抱いていたようである。  応接室に請《しよう》じ入れられた牛尾と笠原の前に、頼子が猫を抱いてきた。額に帽子型の縞模様《しまもよう》がある。猫は見知らぬ二人の姿を見出して、逃れようとして頼子の腕の中でもがいた。 「可愛《かわい》い猫ですな」 「ようやく元気になったのです。行方《ゆくえ》不明になってから家に迷い込んで来たときは、痩《や》せこけて泥だらけになっていて、足に怪我《けが》をしていました」  かたわらから母親が説明した。 「この猫の毛を少しいただけませんか」 「猫の毛を」  母娘が訝《いぶか》しそうな顔をした。 「事件の参考資料として、いただきたいのです」  牛尾は頼子の袖《そで》についた毛を数本つまみ上げてティッシュペーパーに包んだ。 「そんなものが参考資料になるのですか」 「大いになります。それからおたくでは猫の忌避剤《きひざい》を使用したことはありませんか」 「猫の忌避剤」 「つまり、猫よけの薬です。野良猫やよその猫が庭や家の中に入り込んで来ないように、猫の嫌いなにおいを放つ薬品がありますが、それを使用されたことはありませんか」 「ああ、その猫よけの薬ですか。一時はお隣りさんの猫の大群に辟易《へきえき》して、うちでも猫よけの薬を仕掛けようとおもったのですけど、あまりにひどいにおいなのでやめてしまいました」 「ご近所に猫よけの薬を使用している家はありませんか」 「いまはありません。お隣りの猫の大群がいなくなりましたので」 「するとそれ以前は、使った家があったのですか」 「ご近所で何軒か猫よけの薬を置いていたようです」      2  シイの樹屋敷の発見によって、捜査は一挙に進展した。明日《ぬくい》家の戸籍簿から追跡して、明日めぐみがシイの樹屋敷の当主明日|千代《ちよ》の孫であることが確かめられた。すなわち明日千代の一子明日|正一《しよういち》は高木京子《たかぎきようこ》と結婚して、めぐみを産んでいる。明日千代の夫|正造《しようぞう》は二十数年前めぐみの生まれる前に死去した。正一は千代の一人息子である。そして正一と高木京子との間に生まれたのはめぐみ一人である。  明日正造の死亡によってその遺産は千代と正一が二分の一ずつ相続するはずであったが、正造は遺言によって最小限度の法定遺留分のみを正一にあたえ、正一はその遺留分権を放棄していた。そのため正造の遺産は千代が単独で相続した。つまり、めぐみは明日家のただ一人の相続人であった。地価が高騰している現在、明日家が占める土地だけでも莫大《ばくだい》な財産である。めぐみの身許が割り出されて、にわかにべつの方角からきな臭いにおいが立ちこめてきた。  戸籍によると、明日千代は今年八十六歳。明日めぐみが殺害された昨年十月二十七日より二ヵ月ほど前から姿を見せなくなっている。牛尾と笠原は捜査本部に報告して、明日千代が老齢であることなどから、成城署に連絡を取り、同署員と共に明日家に入って屋内を検索した。だが屋内には千代の姿も同女が飼っていたという十数匹の猫の姿もなく、ここ二、三ヵ月人間と動物が住んでいた気配は認められなかった。  戸籍簿から同女や、死んだ夫の兄弟姉妹の子孫が探されて、照会したが、いずれも同家とは完全に没交渉になっていた。つまり同家に最近出入りしていたという�親戚《しんせき》�に該当する者がいなかったのである。  さらに驚くべき事実が判明した。明日家を管轄する東京法務局|調布《ちようふ》出張所の登記簿を閲覧したところ、明日千代所有の祖師谷一丁目の家屋および土地千六百五十平方メートルは、昨年八月十六日売買を原因として所有権移転の登記がすまされていた。しかもその後数ヵ月余の間に四者の間を次々と転売され、現在の所有者は川崎市の不動産業者となっている。捜査本部はこの事実を重視した。  数十年住みついた古い住人の家屋敷と土地がわずかな期間に目まぐるしく転売され、しかも最初の売り主である老婆の居所が不明となっている。そして、それから間もなく唯一の相続人が殺害された。土地家屋の転売、その売り主の消息不明、そして相続人の殺害、これらの間につながりがあるのではないか。  笠原が持ち帰ったボウシの毛は、二件の犯行現場から保存された猫の毛と比較対照され、同一の猫の毛と鑑定された。  新事実の発見を踏まえて中野署で捜査会議が開かれた。会議には新宿署から牛尾が出席した。会議の行方《ゆくえ》いかんによっては、新宿の事件との関連が強いと見られていたデートガール殺しは、別件として切り離されるかもしれない。新宿署としても強い関心を抱かざるを得ない。  会議は最初から波乱《はらん》含みであった。 「明日千代の居所が確かめられるまでは、同女所有の土地家屋の売買とデートガール殺人事件を結びつけるのは早計ではないか」  さっそく意見が出た。明日千代の居所不明について犯罪を疑ったのは、隣家の少女の好奇心がきっかけである。老女は土地と家屋を売り払い、どこかのリゾート地のライフケアマンションで悠々自適の余生を送っているかもしれない。 「二件の犯行現場に残されていた猫の毛が、明日千代の飼い猫の毛と一致したのは、どう説明するか」 「明日めぐみは、千代のただ一人の相続人だ。千代の土地と家屋が転売された後、明日めぐみが殺害され、千代の居所が不明となったいま、この土地転がしを正常の取引きと見ることはできない。また千代の居所不明と、めぐみの殺害事件にはなんらかのつながりがあるとおもう」 「新宿の犯行現場にも同じ猫の毛が遺留されていたところから、二件の殺人事件と、明日千代の居所不明にはつながりがあるとおもう」 「同一の猫の毛が二つの現場に落ちていたからといって、同一犯人の犯行とは限るまい。猫はどこへでも行くし猫の毛などは簡単に付着する」 「たしかに猫はどこへでも行くし、猫の毛はつきやすい。だが猫の行動範囲はそれほど広くない。せいぜい二百平方メートル内だ。その猫のテリトリーの中にいる人間は限られる。同一犯人とは断定できないまでも、二件の犯人の間には密接な関係があったと見てよいのではないか」 「猫の毛は犯人の遺留品とは断定できないのではないか。明日めぐみが明日千代の孫と判明した現在、千代の飼い猫の毛を、めぐみが身体に付着していたとしてもなんら不思議はない。めぐみは二度と祖母の家には行かないと言っていたが、行かなかったという証明はない。生前祖母の家に行き、祖母の飼い猫の毛を身体に付着すれば、新宿の現場と、めぐみの身体から明日千代の飼い猫の毛が採取されたとしても怪しむには足りない」 「新宿の現場から採取された猫忌避剤はどう解釈するか」 「明日千代の近所で猫忌避剤を使用したことは明らかになっている。ならば祖母の家に行った明日めぐみが、猫の毛と猫忌避剤を身体に付着したと考えてよいだろう」 「それが新宿の現場だけにあったのはなぜか」 「めぐみの身体に付着した忌避剤が、新宿の現場にすべて遺留されたのではないか」  その問題は前の捜査会議で提出されていたが、めぐみと千代の続柄が判明するに及んで、いっそうその可能性が強くなった。  明日千代の土地と家屋は、昨年八月十六日、東京都|渋谷《しぶや》区|笹塚《ささづか》二丁目三十×番地、岩木秀男《いわきひでお》との間に売買契約が成立し、東京法務局|調布《ちようふ》出張所において所有権移転登記が完了している。その後同物件は目黒区の水谷雄二《みずたにゆうじ》、都下調布市の小柳英俊《こやなぎひでとし》に転売され、現在は川崎市|麻生《あさお》区|高石《たかいし》一丁目の万南《まんなみ》興業の所有となっている。明日千代が昨年八月、岩木秀男に売却してからわずか数ヵ月の間に四者の間を転売されている。一見して悪質な地上げ屋による土地転がしが行なわれたことは明瞭《めいりよう》であった。 「八十六歳のばあさんが、難解複雑な不動産取引きをちゃんと自分の意志に基づいてやれたかどうかあぶないものだよ。悪達者な不動産屋の手にかかったら、赤子の手を捻《ひね》るようなものだったろう。ばあさんの土地と家屋を転がした連中は、同じ穴の狢《むじな》かもしれない」  悪質な地上げ屋にとって、他人の印鑑証明の不正取得や偽造などはたやすいことである。なかには印鑑製造機を駆使して土地の登記済み権利証を偽造したり、あるいは法務局の登記簿原本を閲覧を装って改竄《かいざん》したりする者もある。  一味の中でもそれぞれ分担が決まっており、まずよい物件を物色する探し屋、地主から物件を買い取る(騙《だま》し取る)仕込み屋、新たな買い手を探す太鼓屋、善意の(事情を知らない)買い手に物件を転売する転がし屋などと分かれている。 「まず最初の買い手、岩木秀男を洗う必要があるな」  登記簿には所有権移転の原因(売買、相続など)は記載されているが、取引価格は不明である。だが当該の物件は公示価格でも一平方メートル五十万円以上はする。公示価格で取引きされたと仮定しても、一平方五十万円、千六百五十平方メートル、八億二千五百万円の取引きである。これだけの大取引きが八十六歳の老女と岩木秀男との間に行なわれたのである。  捜査会議においては明日千代の土地家屋売却後の居所不明が重視された。まず第一の買い手岩木秀男に捜査の触手が伸びた。岩木秀男は登記簿に記載された住所に現存していた。京王《けいおう》線笹塚駅に近い甲州街道と水道道路にはさまれたごみごみした一角の老朽モルタル造りアパートに目指す表札を見つけたとき、いやな予感が捜査員の胸をよぎった。  いまどき珍しい単室構成のアパートらしく、共用のトイレのアンモニア臭が玄関先までにおってくる。入り口土間に入居者の集合メールボックスが設けられている。鍵《かぎ》はなく、その気になればだれでも中身を取り出せる。玄関のドアにも鍵はなく、四六時中出入りが自由である。こんなおんぼろアパートでも、地の利と交通の便がよいので満室のようである。  岩木はたまたま住居に居合わせた。彼は二十一歳の、ある私立大学の学生であった。ニキビがいっぱいに吹き出た童顔の岩木が出て来たとき、笠原はとうてい八億円強の不動産取引きの当事者ではないとおもった。突然刑事に訪問されて、岩木はとまどっているようである。だがその態度に後ろめたさは感じられない。 「岩木秀男さんですね」 「そうです」  岩木は物怖《ものお》じせずに答えた。 「祖師谷の明日《ぬくい》千代さんをご存じですか」 「ヌクイチヨ……その人だれですか」  凝視した刑事の視線の先で、岩木はなんの反応も面《おもて》に露《あら》わさない。 「あなたは明日千代さんから昨年八月十六日、千代さんが住んでいた家屋と土地を買いませんでしたか」 「家と土地を買った……」  岩木はきょとんとした表情をした。 「あなたはその家屋と土地を九月十八日、水谷雄二さんに転売しませんでしたか」 「あのお、それ、なんのことですか」  岩木が呆気《あつけ》に取られた表情のまま問うた。しらばっくれているようにも見えない。 「この住居にあなたと同姓同名の方は住んでいませんか」 「ここには岩木秀男はぼく一人です」 「あなたは昨年八月十六日、世田谷区祖師谷一丁目の明日千代さんから家屋およびその敷地五百坪を購入し、それから一ヵ月後、目黒区の水谷さんに同物件を転売しております。東京法務局調布出張所の登記簿にそのように記入してあるが」 「なにかのまちがいじゃありませんか。ぼくが家や土地を買うなんて、三十年も四十年も早い話です。自転車一台だって買えませんよ。このアパートの家賃も三ヵ月もためていて、追い出されかけているんです」 「ところであなたは印鑑登録をしていますか」  笠原は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「印鑑登録ってなんですか」 「つまり、不動産売買や車の売買に必要な実印を役所に届け出ることですよ」 「自転車を買うにも実印が必要ですか」 「自転車には必要ありません」 「印鑑登録なんてしたことありません。実印がいるような取引きをしたことがないので」  岩木の話に嘘《うそ》はなさそうである。捜査員たちは岩木が名義を盗用されたと直感した。不動産取引き詐欺において、所有者の知らぬ間に登記済み権利証や印鑑証明を偽造して登記名義を変更し、第三者に転売してしまう手口がはやっている。  この場合、所有者の意志に基づかない売買は無効であるので、事情を知らぬままその物件を売りつけられた善意の第三者が被害者となる。所有者から最初に物件を購入した第一の買い手は、事件発覚後司直の追及の手が伸びるのに備えて、幽霊の名義人を立てる。すなわち岩木秀男のような不動産取引きとは縁のないような人間を探し出して、その名義を無断借用し、第一買い手に仕立て上げるのである。  笠原らは岩木秀男の詮索《せんさく》をひとまず保留して、第二の買い手水谷雄二を当たった。水谷雄二は目黒区の不動産仲介業者で、警察の取調べに対して、昨年九月、突然訪問して来た岩木秀男という男から祖師谷一丁目の土地千六百五十平方メートルを買わないかと持ちかけられた。岩木の案内で土地を見て気に入ったので、調布登記所から土地の謄本を取り寄せ確かめたうえ、同登記所に備え付けの公図も調べてまちがいないと確信して買ったということである。  そのときの買い取り価格は一坪二百五十万円、五百坪、十二億五千万円であったという。岩木はわずか一ヵ月寝かせておいただけで四億二千五百万円ぼろ儲《もう》けしたことになる。それも千代に八億二千五百万円支払ったと仮定してである。千代の知らぬ間にその家と土地を取り込み、水谷に転売していれば、十二億五千万円まる儲けということになる。 「あなたは岩木秀男という人物を知っていたのですか」 「いえ、そのときが初対面でした」 「だれかの紹介があったのですか」 「いえ、べつにありません」  水谷の口調が歯切れが悪くなった。 「あなたは十二億五千万円もの大取引きをだれの紹介もなくふらりとやって来た岩木と行なったのですか」 「以前からその方面の土地を物色していましたし、登記簿や公図を確かめたところまちがいなかったので、買うことにしたのです」 「売買に際して岩木秀男の家へ行ったことがありますか」 「いいえ、ありません。わたしの事務所ですべて用は足りましたから」 「岩木秀男はあなたと当該物件の取引きなどしたことはないと言っていますよ」 「なんですって」  水谷が大袈裟《おおげさ》に驚きの色を浮かべた。 「岩木は二十一歳の大学生です。家や土地どころか自転車の売買もしていません。あなたに祖師谷の物件を売った岩木とは、どういう人物でしたか」 「若いけれどしっかりした人物でした。売買契約書や登記権利証や印鑑証明など所有権移転登記に必要な書類もちゃんと揃《そろ》えていたので、信用して取引きしたのです」 「その岩木秀男はにせ者です」 「しかし、にせ者なら権利証や印鑑証明などを持っているはずがないでしょう」 「あなたも不動産業者ならご存じのはずだが、そのにせ者が岩木秀男になりすまして、最初の所有者明日千代さんから問題の物件を買い取り、あなたに転売したのです」 「岩木の印鑑証明を持っていましたよ」 「印鑑証明など簡単に変更したり偽造したりできることをあなたはご存じでしょう。あなたに物件を売りつけたにせ岩木は、本者の岩木が不動産取引きなどに縁がなく、印鑑登録をしていないのに目をつけ、勝手に岩木の三文判を買って役所に実印として届け出たのです。役所はその実印を登録原票に捺《お》して、本人の所在と登録の意志を確認するために回答書付きの照会書を本人の住居に郵送します」 「だったら、そのとき岩木にバレてしまうではありませんか」 「あなたは住民登録を本人の知らぬ間に動かすことができるのをご存じでしょう。住民票を移動して転居先で印鑑登録をすれば照会書は新しい住居に郵送されてきます。しかしにせ岩木はその手間も取らなかった」 「だったらなおのこと岩木にわかってしまうではありませんか」 「岩木が住んでいるアパートのメールボックスは集合型になっており、鍵《かぎ》はかかっていません。取ろうとおもえば居住者の郵便物を盗み取るのは簡単です。にせ岩木は照会書が配達される時間帯を狙《ねら》って待ち伏せており、まんまと岩木|宛《あ》ての照会書を盗み出し、回答書を役所に持参して、印鑑登録を完了したのです」 「そんなことをわたしは知りようがない。仮に岩木秀男がにせ者であるとしても、我々の売買契約は有効です。最初の所有者は、岩木さんと自称する人物に売り、わたしは彼から買い受けたのです。岩木という人物の名前は記号にすぎません。また本当の岩木が存在するとしても、彼は名前を無断借用されただけで、なんの被害を受けたわけでもありません。すでにその物件は第三者に転売されております。岩木さんが本者であろうとにせ者であろうと、わたしには関係ありません」  水谷は言い張った。にせ岩木との共謀関係が証明されない限り、水谷はあくまで善意の第三者として物件を取得したものである。 「あの野郎、叩《たた》けば埃《ほこ》りが出そうだな」  帰途、笠原はつぶやいた。 「キナ臭いにおいがぷんぷんしてますね」  若い同僚の大橋刑事が言った。 「十二億円を超える買い物だよ。ふらりと迷い込んで来たどこのウマの骨ともわからぬ者と売買できるものではない。石鹸《せつけん》や歯磨きを買うんじゃないんだからな」 「水谷を少し洗ってみましょうか」 「あの野郎から当分目を離さない方がいい。あいつの身辺ににせ岩木が隠れているはずだ」  現在の所有者である万南《まんなみ》興業を当たった笠原は、そこで意外な事実を発見した。万南興業は目下疑惑の渦中にある東京交通不動産の特約店であり、ここ数年都心のビル用地の売買で急速に業績を伸ばしている会社である。  意外なところでつながってきた東京交通不動産の影に、捜査本部は緊張した。だが万南興業と明日千代との間には直接的な関連はなにもない。  さらにこの物件の転売に関《かか》わった関係者を調べている間に、岩木秀男から当該物件を取得した水谷雄二は、その方面では悪名高いB勘屋であることが判明した。  B勘屋とはブラックマネーのBと裏勘定の勘を組み合わせたものである。B勘屋は税金逃れと裏金づくりを目論《もくろ》む地上げ業者らの注文に応じて架空の商取引きをデッチ上げ、にせの領収書を発行して手数料を吸い上げる異常な土地騰貴の陰に発生した落とし子である。その手口は土地やマンション売買の仲介をした形で、架空の契約書や仲介手数料の領収書をデッチ上げて経費を水増しするものである。  依頼者はこのにせ領収書に基づいて一千万円の営業経費を申告するとすれば、B勘屋に一割の手数料しか支払っていないので残金九百万円を裏金として手許に留められる。水谷雄二はこのにせ領収書を切って切って切りまくり、不動産業者の脱税に手を貸した。そのツケは結局地価にはね返ってくる。土地の高騰を吸って太った小判ザメのような存在である。  だが岩木と水谷との間に交わされた売買契約そのものには違法はない。岩木からの取得価格は一坪二百五十万円、当該の土地は国土利用計画法による規制区域として指定されており、土地に関する権利を移転する場合は都道府県知事の許可を得なければならない。この場合、取引価格が公示価格を基準として適性を欠く場合は許可されない。岩木から水谷、小柳、万南と転売された事実は、国土法に則《のつと》った申請が許可されたことを示している。  第三転売者の小柳英俊は、ある都市銀行系のファクタリング会社(債権買い取り業)であり、その銀行の融資先に東京交通が連なっている。 「これでどうやら役者は出揃《でそろ》ったという感じだな」  捜査の結果に笠原はつぶやいた。  捜査の結果、第一取得者は、岩木秀男の名前を詐称し、本人の知らぬ間に印鑑登録をして印鑑証明を取り、明日千代所有の家屋および土地を購入して、これをB勘屋水谷雄二に転売した。岩木以後の転売は法律的に有効である。  国土法に則って区役所に申請した岩木の取得価格は一坪二百五十万円であり、申請に対して許可が下りている。だがその金額はあくまで申請書に記入された取引きの予定価格であり、はたしてその金額が千代に対して支払われたかどうか本人に確かめない限りわからない。  千代はこの物件の取引き前後から居所不明になっている。また千代の親戚《しんせき》と称していた男女も取引き以後姿を消している。千代からにせ岩木に対する所有権移転の法的手つづきも形式的には整っている。不動産売買時に必要な千代の印鑑証明や権利証も偽造された形跡はない。  だがにせ岩木が、千代を騙《だま》したかあるいは脅迫して、強取したかもしれない。千代とにせ岩木間の売買が千代の意志に基づかないことが証明されれば、その後の転売はすべて無効となる。  ただし明日千代がにせ岩木に騙されて物件を売却した場合は、にせ岩木との共謀を証明しない限り、水谷以下の転売に対して対抗できなくなる。八十六歳の老女がなにがなんだかわからない間に印鑑証明と権利証をにせ岩木に取られて、売り飛ばされてしまったとすれば、にせ岩木は無権利者となり、水谷との売買は無効になってしまう。どのような場合にしても、千代の居所が不明では、真相がわからない。  だが千代は家屋と土地を取られた後殺害され、死体を隠されてしまった疑いが強くなった。 「岩木秀男の名前を盗用するにしても、まったく赤の他人ではないはずだ。岩木となんらかのつながりのある者が、その名前を盗用したにちがいない」 「にせ岩木から物件を購入した水谷雄二も、にせ岩木と必ず関係があるはずである。十二億円を超える不動産売買を突然飛び込んで来たどこのウマの骨かわからない者と行なうはずがない」  という見方が捜査本部に強くなり、岩木と水谷の身辺を徹底的に洗うことになった。また小柳、万南についても一味の疑いがあり、マークすることにした。 [#改ページ]  認めざるセコンド      1  中野署の捜査本部から明日千代《ぬくいちよ》の家屋および土地の現在の所有者が、東京交通不動産の関連会社であるという連絡を受けた新宿署の捜査本部は緊張した。ただし当該物件を転がした岩木、水谷、小柳、万南の間には定期的な取引き関係はない。彼らを必ずしも同じ穴の狢《むじな》とは呼べないのである。  とすると、明日めぐみと奥光利夫《おくみつとしお》の殺害事件の間には必ずしも関連はないということになる。同事件を結びつけているものは、現場に遺留された同一の猫の毛と、めぐみが奥光の殺害現場に行き合わせた(未確認)ことである。  事件が錯綜《さくそう》してきたので、両捜査本部はこれまでの経緯を整理し再検討してみた。事件は昨年十月二十七日、東京交通不動産の社員奥光利夫が新宿ロイヤルホテル八一五号室で殺害されて開幕する。事件を通報してきたのが、犯行前後に現場に行き合わせたとみられるデートガールの明日めぐみである。奥光が殺された現場には猫の毛と、猫忌避剤が遺留されていた。  つづいて四日後、明日めぐみの絞殺死体が中野区|弥生《やよい》町の同女のアパートの居室で新宿署の捜査員によって発見された。現場から奥光殺しの現場で採取された猫の毛と同一の猫の毛が発見された。このことから同一犯人による連続犯行とみられた。  折から奥光利夫の東京交通不動産は、政・官・財界ぐるみの大規模な疑惑事件の渦中にあり、奥光がその鍵《かぎ》を握る中心人物とみられていた。奥光の殺害動機は、秘密を知りすぎた彼の口を封ずるためというのが捜査本部の大勢になった。明日めぐみはたまたま奥光の犯行現場に行き合わせたために犯人に追跡されて殺されたと推測された。  だが明日めぐみの身許が不明であった。たまたま奥光が殺された夜、奥光の前にめぐみを呼んでいた道浦良一《みちうらりよういち》の証言によって、彼女が世田谷《せたがや》区|祖師谷《そしがや》に住む明日千代の孫であることがわかった。だが千代はめぐみが殺される二ヵ月余前、その家と土地をにせの岩木秀男《いわきひでお》なる人物に売却して、居所不明となっている。  奥光殺しとめぐみ殺しの現場から採取された猫の毛は、千代の飼い猫のものと鑑定された。千代が所有していた物件はにせ岩木から転売されて、現在東京交通不動産の関連会社である万南《まんなみ》興業の所有となっている。  事件の経緯を整理した両捜査本部は、問題点を絞り込んだ。それは二件の殺人事件が関連しているか、あるいは別個独立の事件であるかということである。中野署では独立事件とみる意見が多いのに対して、新宿署では関連事件とする意見が支配的である。  中野署においては明日千代所有の家屋および不動産の転売ルートを捜査した結果、新たな意見が台頭してきた。意見の主張者はその捜査を直接担当した笠原《かさはら》らである。 「明日めぐみを殺害した犯人はにせ岩木秀男である疑いが濃厚であります」  笠原は主張した。捜査本部長よりその理由を問われた彼は、 「にせ岩木が購入した《ことになっている》家屋および土地の唯一の相続権者はめぐみです。もし千代、にせ岩木間の売買が無効とされれば、めぐみがすべてを相続することになります。そのために犯人は相続人を排除しようとしたのではないでしょうか」  笠原の意見に対して、 「相続人がいようがいまいが、千代との売買が無効とされれば、にせ岩木にとっては同じことではないか」  と反駁《はんばく》された。 「千代とにせ岩木との間に売買が行なわれたころから千代は姿を消しております。もしそのころ千代が死亡しているとすれば、めぐみが物件を相続します。めぐみが相続してからでは、物件を取得して転売することはできなくなります。そのために千代の死体を隠し、その死を秘匿して、めぐみを殺害したとも考えられます」 「しかし、めぐみが殺されたのは売買後二ヵ月以上経っているが」 「犯人が明日千代の死後、あるいは同女を殺害後、無権利のまま物件の所有権を移転し、転売しているとすれば、真正の権利者はめぐみであります。めぐみが権利を主張すれば、にせ岩木以後の家と土地転がしはすべて無効になってしまいます」 「明日千代も殺されたというのかね」 「殺された疑いもあります。あるいは寿命が尽きて死んだのかもしれません。犯人は同女の死を秘匿して、あたかも生きている人間からその家屋と土地を購入したように見せかけたのではないでしょうか。めぐみが千代の家へ帰って来て、千代の家に出入りしていた親戚《しんせき》なるものの存在を知って、そのような親戚はいないと言えば、物件の取得も、その後の転がしも不可能、あるいは無効になってしまいます。犯人にとってめぐみの存在は、脅威だったはずです」 「めぐみは祖母の家に寄りつかなかったそうだが」 「だからといって、帰って来ないという保証はありません。なにかの拍子に千代に電話し、応答がないのを怪しみ様子を見に帰って来るかもしれません。めぐみに来られただけで、計画は水泡に帰します」 「千代がどこかへ転地療養したとか、老人用ライフケアマンションに入居した可能性はないかね」 「そのような形跡はまったくありません。祖師谷の家と土地を売却後も、住民登録はそのままになっております」 「住民登録を移動しないまま、老人マンションに入っているのではないのかな」 「その可能性は極めて薄いでしょうね。マンションを購入すれば、売買の痕跡が必ずどこかに残っているはずです。また猫屋敷といわれるほど猫を可愛《かわい》がっていた千代が、飼い猫をすべて放置したまま自分だけ老人マンションに入居するはずがありません」 「そのマンションが、ペットの連れ込み禁止だとしたら」 「たとえ禁止だとしても、猫の身の振り方を決めずに、自分だけ出て行くはずがありません。可愛がっていた猫を放置したということは、千代の身になにか異常が起きたことを示しています」 「仮に千代が死んだか、殺されたと仮定して、死体は一体どこへ行ってしまったのかね」 「にせ岩木がどこかへ隠したのだとおもいます。にせ岩木は千代から物件の第一購入者として、警察が必ず自分をマークすることを予測していたにちがいありません。だから岩木秀男の名義を盗用して備えを立てておいたのです。その犯人は八十六歳の老女の財産を取り込んだばかりか、老女とその相続人たるめぐみの生命を奪ったかもしれない。狂騰した土地相場が、人間の心を狂わせてしまったのです」  捜査本部員の中には猫を飼っている者も少なくない。猫屋敷の主が飼い猫を放り出して姿を消すはずがないという笠原の意見は説得力があった。  一方、新宿署の捜査本部では、捜査が壁に打ち当たっていた。動機を東京交通不動産疑惑の線と見込んで捜査をしたが、江頭義郎《えとうよしろう》以下怪しげな人物はすべて漂白された。たしかに奥光は同疑惑事件の鍵《かぎ》を握る人物であったが、関係者は政・官・財界の有力者であり、犯人像としては無理がある。  めぐみ殺しとの連続犯行とすれば、とりあえず考えられる動機は、彼女に顔を見られたか、犯行を目撃されたことであるが、それにはめぐみが通報時に犯人や犯行に関してなにも言わなかったというネックがある。 「東京交通不動産疑惑以外の線で両人に共通の殺害動機を有する者の犯行ではないか」  という見方が有力になってきた。動機は痴情怨恨《ちじようえんこん》であり、三角関係のもつれから奥光とめぐみを殺害したのではないかという想定である。  この想定に立つと、最も疑わしいのは道浦良一である。彼は犯行当夜のめぐみの最後の客であり、彼女に泊るように勧めていた。それをめぐみはプライベートの用事があると断わって、奥光の部屋へ行ったのである。めぐみの言葉を信じなかった道浦は彼女の跡をつけて八一五号室へ行った。めぐみに嘘《うそ》をつかれたと知ってカッとなった道浦が、奥光を殺害した。 「ならばなぜその場でめぐみを殺さなかったか。そしてめぐみは道浦の犯行であることを通報しなかったか」  と反問された。 「道浦が八一五号室へ行ったときは、ちょうどめぐみが部屋から立ち去るときだった。そこでまず奥光を殺し、めぐみを追いかけたのではないか」 「その推測には無理がある。めぐみが奥光の部屋へ行ったときは、すでに彼は殺されていた状況である。道浦がめぐみに先まわりして奥光を殺すことは不可能だ」 「めぐみが八一五号室へ行ったときは奥光がすでに死んでいたとは言っていない。彼女は公衆電話からただ八一五号室で奥光さんが死んでいると言っただけだ。彼女が八一五号室を訪れてから死んだ可能性もあるわけだ」 「それにしてもおかしな状況がある。めぐみが八一五号室を訪れて用事をすませて立ち去ったとすれば、奥光の体に情交|痕跡《こんせき》が認められたはずだ。奥光の現場にはそんな痕跡はまったくなかった。奥光がめぐみを呼び寄せて情交しないということは考えられない。奥光に情交痕跡がなかったということは、めぐみが部屋へ行ったときすでに彼は殺されていたという証拠ではないか」 「仮にそうだとしても、道浦がめぐみに先まわりして奥光の部屋へ行くことは必ずしも不可能ではない。めぐみは道浦の部屋から八一五号室へ直行したとは限らない。いったんロビーへ下りてだれかに電話をしたとか、買い物をしたとかして奥光の部屋へ行けば、道浦が先まわりすることは可能だ」 「道浦はどうやって奥光の部屋ナンバーを知ったのか?」 「めぐみから奥光の名前を聞いていたかもしれない。デートガールだからなじみ客の名を気軽に洩らしたとすれば、ホテルからナンバーを聞き出せる」 「そうだとしても道浦はめぐみの嘘《うそ》を見破れないではないか」 「道浦はそのとき以前にすでに奥光とめぐみの関係を知っていたかもしれない。奥光の部屋へ押しかけ、談判している間に、めぐみが入って来て、彼女の嘘がバレた……」 「それにしてもめぐみはデートガールだ。売り物買い物で、だれにでも身体を切り売りするデートガールを争って、他の客を殺すというのはいささか乱暴な推理ではないか」 「道浦の家庭は荒廃していたようだ。単身赴任先から帰京して来ながら、家に帰らずホテルにめぐみを呼んでいた。道浦にとっては月に一、二回、めぐみに会うのが生き甲斐《がい》だった。道浦にとってはめぐみはすでにデートガールではなかった。細君以上の存在だったかもしれない。だからこそめぐみが死んだ後もめぐみと最後に過ごした部屋へ彼女を偲《しの》ぶためにやって来た。奥光はめぐみをはさんでのライバルだったのだ。道浦は決して無視できないとおもう」  いったん捜査圏外に立ち去ったかに見えた道浦が、にわかにふたたびクローズアップされてきた。たしかに道浦は犯行当夜現場の近くに居合わせた唯一の関係者である。当然のことながら彼のアリバイはない。      2  道浦は自分に擬せられた容疑を知って愕然《がくぜん》とした。警察の態度は前回とは比べものにならないほど厳しいものとなった。だが道浦は疑われても仕方のない位置に自分が立っていることを認めざるを得なかった。道浦はめぐみをデートガールとはおもっていない。彼にとってめぐみは家族以上の存在となっていた。できうることなら彼女を独占したかった。彼女から平等にその切り身を分けあたえられているライバルが妬《ねた》ましかった。  任意同行を求められての捜査本部における取調べは、ほとんど容疑者と変わりない。その中で牛尾刑事一人だけは、終始穏やかな態度を崩さなかった。 「たしかにわたしはめぐみを愛していました。しかしめぐみにとってのわたしは客の一人にすぎなかったのです。わたしがいくら熱くなったところで、彼女がわたしにあたえてくれたものは対価に応じた彼女の切片にすぎなかったのです。そんな彼女を殺すはずがないじゃありませんか」  道浦は必死に訴えた。だが彼の答えがますますその立場を深刻にしてしまった。 「切片では満足できなくなったので、その全部を独占しようとして殺したのではないのか」  と詰め寄られた。 「殺せば独占どころか、その切片にもありつけなくなるではありませんか」 「あんたは彼女が他の客にも平等に切片を切り売りすることに耐えられなくなったのではないか。そこでひとおもいに彼女を殺してだれにも切り売りできないようにした」 「とんでもないことです。わたしは彼女を殺した犯人をだれよりも憎んでいるのです。なんとか自分なりに犯人を探したいとおもって、なにか手がかりでもないかと八一五号室に泊りに行ったのです」 「そうではあるまい。あなたはそこに遺留したかもしれない痕跡《こんせき》が気になって確かめに行ったのだ」 「わたしにはめぐみも、奥光さんも殺す理由はありません。モナリザのマスターから聞くまで、わたしは彼女があの夜、わたしの部屋から奥光さんの部屋へ行ったことを知らなかったのです」 「マスターに聞くまでもなく、めぐみの跡をつけて行けば、奥光氏の部屋はわかるよ」 「報道によれば、奥光さんが殺されたのは、あの夜の午後七時から九時ごろの間とされています。めぐみがわたしの部屋から立ち去ったのは午後十時少し前でした。わたしが午後九時までに奥光さんを殺せるはずがないでしょう」 「つまり、あなたにはアリバイがあるというわけだな」  取調べ官はせせら笑って、 「死亡推定時間には誤差がつきものだ。それに明日《ぬくい》めぐみさんがあなたの部屋を出たのは午後十時前というのはあなたが言っているだけのことで、なんの裏づけもない。あなたにはアリバイがない」  道浦は次第に追いつめられてくるような気がした。コーナーに追いつめられたところで、道浦は協力者として指掌紋の押捺《おうなつ》を求められた。任意であるのでいやならば拒否できる。だが拒否すればますます警察の心証を悪くする。それが逮捕の口実にされかねない雰囲気である。  だが道浦の指掌紋を採取してから、警察の態度がやや柔らかくなった。彼の指掌紋と、めぐみの頸部《けいぶ》に残された指の痕を比較したところ、明らかに別人のものであった。犯人の手は道浦のそれよりもひとまわり大きかった。道浦はめぐみを殺した犯人にはなり得ない。だが警察は彼に据えた容疑を完全に解いたわけではない。依然として奥光殺しの容疑は据え置かれたままである。  ともかくその日は帰宅を許された。道浦は打ちのめされた雑巾《ぞうきん》のようによれよれになっていた。任意同行といっても、名古屋から帰宅するときを狙《ねら》っての要請である。だがめぐみが死んだいま、道浦には東京へ帰るべき理由がない。彼にしてみれば名古屋から東京の捜査本部に召喚されたようなものであった。  解放された道浦に、帰って行く先は家しかない。だがその家はすでに彼の家であって彼の家ではなかった。帰宅すると家族の夕食がちょうど終わったところであった。 「あら、今日はお帰りの予定ではなかったでしょう」  玄関に出て来た妻が露骨に迷惑げな表情を見せた。 「突然用事ができたんだ」 「それならそうと電話をくださればいいのに」 「電話をする暇もなかったんだよ」 「お夕食は」 「まだだ」 「なんにもないわよ」 「あり合わせでいい」 「あり合わせもないわ。もったいないので残らないように作っているんですもの」 「なんにもなければ、ほか弁でも買って来い」  道浦は怒鳴りつけた。妻がびっくりして立ちすくんだ。奥光とめぐみ殺しの容疑を着せられて、警察でさんざん絞られた後、ノックアウト直前のボクサーがコーナーへ這《は》い寄るように我が家にたどり着いてみれば、妻《セコンド》のこの冷たい仕打ちである。だが道浦はとうに家族を人生のセコンドとは認めていない。いまさら急に彼らにセコンド役を求めても無理というものである。 (自業自得《じごうじとく》だな)  道浦は自分に言い聞かせた。 [#改ページ]  死体なき殺人      1  いったん道浦良一《みちうらりよういち》をマークしたものの、指のサイズを比較して、めぐみ殺しの容疑は打ち消された。そうなると奥光《おくみつ》殺しの犯人像としても薄くなってくる。めぐみをはさんでの三角関係のもつれから、道浦が奥光を殺す動機は残っている。  だがめぐみは対価に応じてだれにでも身体を売っていたデートガールである。それを分別あるエリートが争って、ライバルを殺したという想定はかなり乱暴である。道浦の身辺に猫がまったくいないことも、彼の容疑を薄くするものである。捜査本部の中で牛尾《うしお》は道浦は犯人ではないと最も早くから主張していた。  単身赴任中、家族から疎外され、家に居所を失って、デートガールに寂しさを癒《いや》していた道浦の心情がわかるような気がしたのである。人生の唯一の慰安所となった娼婦《しようふ》を自ら失うようなことはしないはずである。  牛尾は新宿署に勤務して以来、風俗関係で働く多くの女性を見てきた。彼女らは新宿という雑色の街を彩る切り花である。切り花を求めて男たちが集まって来る。時に彼女らは殺人事件の被害者になる。だが犯人はおおむね一見《いちげん》の客が多い。犯人は一夜のパートナーになんの愛着もない。劣情をまぎらしてくれる束《つか》の間《ま》の道具にすぎない。その道具の使用料が払えず、あるいは女の応対が悪いと難癖をつけていとも簡単に殺傷してしまう。道浦のような常連客が犯人になることはまずない。  彼らにとって彼女らはすでに人生の重要な部分《パート》となっている。要素といってもよい。男たちは自分の人生の要素を決して傷つけたり殺したりしない。そして牛尾にとって彼女らは新宿の要素である。  不健康な要素ではあっても、それが要素であることには変わりない。病んでいる要素であるが故に、いっそういたわってやらなければならない。彼女らに荒廃した心や飢えを癒《いや》そうとして集まって来る男たちも病んでいる。心身のどこかに病色を抱えている。その病色部分に最も必要な手当てを加えるのが彼女たちである。 「彼女を殺した犯人を私は最も憎んでいる」  と言った道浦の言葉が、牛尾には実感をもって理解できる。道浦は犯人ではない。少なくともめぐみは殺さない。犯人はやはり彼女の祖母の財産を狙《ねら》ったハイエナどもであろう。  めぐみと切り離しての、道浦の奥光殺しの容疑もかなり薄れている。めぐみ殺しについては明日千代《ぬくいちよ》の遺産をめぐる有力な線が浮かび上がりつつあったが、奥光殺しは、道浦が遠ざかり、捜査はお先真っ暗である。  捜査線上に浮かんだ人物が次々に消去されて、残されたものは現場から採取された猫の毛と猫忌避剤だけとなった。それが選り分けられた純物のように牛尾の意識に残った。  あれはやはり犯人の遺留品にちがいない。犯人は猫のいる所から来た。そしてその猫は明日千代の飼い猫である。ボウシの行動範囲の中に犯人はいる。動機関係は保留して、猫の行動圏を徹底的に洗うべきではないか。めぐみは奥光の部屋で同一の猫の毛を付着したのかもしれない。  東京交通不動産疑惑や明日めぐみをめぐる三角関係に捜査の目を眩《くら》まされたが、現場の遺留品をもっと注目すべきであったかもしれない。なぜ千代の飼い猫は姿を消したか。なぜボウシだけが生き残ったか。ボウシの足の怪我《けが》の原因はなにか。猫忌避剤と猫の毛は相反するものである。それが現場に一緒に落ちていたのはなぜか。明日千代はどこへ行ったか。これらの点をもっと掘り下げるべきであった。      2  中野署の捜査本部は岩木秀男《いわきひでお》の身辺をマークした。岩木は三年前、福島県|喜多方《きたかた》の高校を卒業して進学のため上京した。上京以来同じ居所に住んでいる。平均的な大学生で、特定の女友達はいない。彼はにせ岩木に名前を盗用されたが、盗用するにしても、まったく無縁の人物の名前を盗むとはおもえない。盗用者は岩木本人の身の上やライフスタイルをある程度知っていた人物と考えられる。  まず岩木が印鑑登録をしていれば、これを本人の知らぬ間に変更登録する手つづきがややこしくなる。盗用者は少なくとも岩木が印鑑登録をしていないことを知っていた。笠原《かさはら》は岩木に再度会って詳しく事情を聞いた。だが岩木は明日千代、めぐみ、水谷《みずたに》、小柳《こやなぎ》、万南《まんなみ》のいずれにもなんの心当たりもないと答えた。 「よくおもいだしてください。進学前の高校時代の友人、親戚《しんせき》、知人、先輩、また進学のため上京してからの大学の友人、アルバイト先、近所の人たちで不動産取引きに携わっている人、あるいは不動産の知識に詳しい二十代後半から三十前後の男女に心当たりはないかね。あなたは知らない間に十二億円を超える胡散臭《うさんくさ》い不動産売買の当事者に仕立て上げられているんだよ。その売買に犯罪が証明されれば、あなたは犯罪容疑者となってしまう。容疑者にされるのがいやならば、じっくりとおもいだしてもらいたい」  笠原は迫った。二十代後半から三十前後の男女とは、明日千代の家に出入りしていた親戚である。 「そう言われても心当たりがないのです」  岩木は途方に暮れたような表情になった。郷里からのささやかな仕送りと、アルバイトで東京の青春を楽しんでいるありふれた若者の一人で、どう見ても老女を騙《だま》して十二億円を超える不動産を取り込むような悪《わる》には見えない。 「きみの周辺に必ずきみの名前を騙《かた》った人間がいるはずだ。まったく無縁の人物が、きみの印鑑登録をして印鑑証明を取るはずがない。友人に法律の知識や不動産取引きに詳しい者はいないかね」 「ぼくは教育学部なので、法学部の友人はありません」 「サークルではどうかね」 「サークルには入っていません」 「郷里の友人や知り合いでそんな人間はいないかね」 「心当たりがありません」 「アルバイト先ではどうかね」 「そんな人はいなかったとおもいます」 「しばらく会っていなくて、最近ひょっこり出会ったような人物はいないかね」 「最近ひょっこり……そういえば」  岩木がふとなにかをおもいだした表情をした。 「心当たりがありそうだね」 「最近といっても、半年以上前のことですが、上京後初めてアルバイトした会社の社長にひょっこり出会いました」 「ほお、それはどこの会社だね」 「害虫駆除の会社です。会社といっても社長と事務の女性がいるだけで、仕事がいいかげんなうえに、給料も約束とちがうのですぐ辞めてしまいました」 「女もいたのか。その社長と会社の名前と住所をおしえてくれたまえ」  笠原の目が光った。 「社長は若林《わかばやし》さんという人で、会社は高田馬場《たかだのばば》駅近くの貸しビルの中にありました。会社の名前は都燻蒸《みやこくんじよう》といいました」 「女の名前をおぼえているかね」 「ヨウコと呼んでいました。苗字《みようじ》は知りません」 「若林とヨウコか。インチキな仕事ぶりとはどんなことだったのかね」 「主にシロアリの駆除を専門にしていたのですが、これはと目をつけた家に故意にシロアリをばら撒《ま》いておいてから、セールスに行ってこのまま放っておくと数年後に家が腐ってしまうと脅《おど》かして、得体の知れない白い粉を撒いて消毒料を取っていたのです。最初は社長がシロアリをばら撒いていましたが、そのうちにぼくにばら撒かせるようになりました。そんな手先になるのがいやで辞めてしまったのです。その若林さんに笹塚《ささづか》の駅前でばったりと会いました」 「そのとき若林はどこへ来たと言っていたかね」 「なんでも笹塚|界隈《かいわい》に住んでいる友人を訪ねて来たと言っていました」 「いまなにをしているか言っていたかね」 「特に聞かなかったのでなにも言いませんでした」 「そのときは一人だったのかね。それともヨウコという女を連れていたかね」 「一人でした」 「ヨウコについてはなにか言っていたかね」 「ヨウコさんは元気ですかと訊《たず》ねたのですが、ぼくが会社を辞めてから、彼女も辞めて、その後なにをしているか知らないということでした」 「そのときどんな身なりをしていたかね」 「もともとお洒落《しやれ》な人で、隆《りゆう》とした身なりをしていましたよ。外国ものらしい生地で仕立てた背広を着て、ピカピカの靴を履《は》いていました」 「そのとき若林氏にきみの住所はおしえたかね」 「都燻蒸でアルバイトをしたとき、住所はおしえてありましたが、社長は忘れてしまったとか言って、もう一度聞いたのでおしえました」 「その社長とヨウコという女性はいくつぐらいだったかね」 「齢《とし》は聞きませんでしたが、社長は三十前後、ヨウコさんは二十代の半ばではないかとおもいます」  年齢的には明日千代の親戚《しんせき》の男女に符合する。 「シロアリをばら撒いて消毒した地域はどの辺かね」 「主に都内や都下の住宅地です」 「消毒に行った地域に世田谷区祖師谷付近はあったかね」 「世田谷や狛江《こまえ》や調布《ちようふ》などはよく行きましたよ」 「きみの名前を盗用したにせ岩木が購入した明日千代の家屋と土地は世田谷区祖師谷にあった。きみと若林は消毒と称してその家へ行ったことはないのか」 「明日千代という人の家かどうか知りませんが、祖師谷には行ったことがあります」 「庭に樹齢三百年ぐらいのシイの大木があり、旧《ふる》い大きな家に現在八十六歳のばあさんが一人で住んでいたはずだ」 「その家なら行ったことがありますよ。おばあさんがたくさんの猫と一緒に住んでいて、うちはシロアリなどはどうでもいいから、ノミ取り粉を持って来なと言われました」 「猫がたくさんいたのか。それだな」  笠原はついに尻尾《しつぽ》を捕えたとおもった。 「そのほかなにか気がついたことはなかったかね」 「そういえば、入社に際して戸籍謄本と印鑑証明を求められました」 「印鑑証明だって」  笠原が目を剥《む》いた。 「社長とヨウコさん二人だけの会社にアルバイトとして入るのにずいぶんやかましいことを言うなあとおもいました」 「それで印鑑証明を出したのかね」 「戸籍謄本は郷里から取り寄せましたが、印鑑証明は、そんなもの取ったことがないと言うと、それならばいいと言われました」  若林は害虫駆除業の看板の許《もと》に、カモを物色していたのだ。広い土地の上の旧《ふる》い家に独居している老婆、若林は飢えた牙《きば》から涎《よだれ》を垂《た》らしながら、千代に近づいたにちがいない。身寄りもなく猫に囲まれて侘《わび》しい独り暮らしをしていた千代は、羊《ひつじ》の仮面をつけた狼《おおかみ》に騙《だま》されてしまった。狼と気がついたときはすでに後の祭りである。  笠原が持ち帰った収穫に、捜査本部は色めき立った。さっそく若林の行方《ゆくえ》が追われた。だが岩木秀男から聞き出した高田馬場の貸しビルにはすでに都燻蒸《みやこくんじよう》は存在しなかった。  会社や各種法人の設立にあたっては登記をしなければならない。だが都燻蒸は尤《もつと》もらしい社名をつけていたが、法人格を持たない幽霊会社であった。業者の団体である日本シロアリ対策協会に問い合わせたところ、都燻蒸は同協会に登録をしていないもぐりの業者であることがわかった。  社長は若林、社員はヨウコという女一人である。ここへ臨時社員として岩木が入社したわけである。ビルの管理者に問い合わせたところ、一昨年暮れ、二ヵ月分の家賃を踏み倒して夜逃げしてしまったということである。  入居に際して管理者に届け出た名前は、社長若林|篤《あつし》、専務|前田洋子《まえだようこ》となっている。規定の家賃、敷金、礼金等を一括して支払い、態度も紳士的であったので、深く詮索《せんさく》もせずに入居させたということである。入居期間は約一年であった。高田馬場以後の若林篤と前田洋子の行方は、杳《よう》として知れない。彼らの人相特徴は、明日千代の親戚と称していた男女に似通っているが、確かめられない。  笠原はあきらめきれなかった。ようやくにせ岩木の尻尾《しつぽ》をつかんだとおもったのも束の間、トカゲの尻尾切りのように、本体はどこかへ姿を晦《くら》ましてしまった。笹塚で岩木と遭遇したとき、若林はその界隈《かいわい》に住んでいる友人を訪ねて来たと言ったそうだが、それだけでは雲をつかむような話である。だが、にせ岩木を若林に当てはめてみれば、ぴたりとおさまる。  若林は岩木の入社に際して必要もない戸籍謄本や印鑑証明を求めたという。彼の身の上や印鑑登録をしていないことを知っていた。都燻蒸時代、すでに岩木を名義盗用に使おうと考えていたのかもしれない。  若林の痕跡を嗅《か》ぎまわれば嗅ぎまわるほど、胡散臭《うさんくさ》いにおいが立ちこめてきた。      3  中野署から連絡を受けた成城署では、明日千代が殺人事件の被害者となった疑いをもって捜査を開始した。戦前から住んでいた家と土地を他人の名義を盗用した幽霊買い手に売り渡した後、姿を消したというのはただごとではない。同人の元住居および土地、現在は万南《まんなみ》興業の所有になっている物件の中に立ち入って、検索した。同時に近隣に聞き込み捜査が行なわれた。  千代と明日めぐみとの続柄が判明した時点で、中野署の捜査員が成城署の捜査員の協力を得てひととおり調べた後であるが、さらに徹底的な検索を施した。千代が人知れず殺されて、家の床下や、家をめぐる広い庭のどこかに埋められているのではないかという疑惑の下に、床下を覗《のぞ》き、庭もくまなく検土杖《けんどじよう》を突き刺して捜索した。穴を掘って死体を埋めれば、体積分だけ土が盛り上がる。死体の隠匿を企む犯人であれば、盛り上がった土は均《な》らして平らにしておくであろう。あるいははみ出した土はよそへ運んで捨てたかもしれない。  その冬の寒気はことのほか厳しく、地上は硬く凍結した。凍《い》てついた地上に検土杖を突き刺しては、引き抜き、その先端のにおいを嗅《か》ぐ。もし死体が埋められていれば、死臭が鼻孔を突く。だが千代の家屋および敷地内から人間の死体はおろか、猫の子一匹発見されなかった。屋内には千代が使用していた家具や寝具がそのまま残されている。冬物の衣服も放置されていた。入院あるいは転地するにしても、季節の衣服は持って行くはずである。家宅捜索の結果、警察は犯罪の存在をますます強く疑った。  死体なき殺人事件の特徴は、  一、犯行現場が不明であり、  二、死体が発見されていない、  三、目撃者がいない、  である。  また死体なき殺人事件の場合でも、  一、被害者と容疑者が特定されていながら、被害者の死体が発見されない場合。  二、被害者は特定されているが、容疑者は特定されず、死体が発見されない。  三、だれかが殺された痕跡《こんせき》はあるが、被害者も容疑者も特定されず、死体も発見されない。  四、犯人が特定されその自供も得たが、被害者が特定されず(通り魔的犯人が行きずりの犯行に及んで死体を隠匿)死体が発見されない。  等に分類される。  明日千代の場合は二に該当する。だが容疑者はまったく特定されていないわけではなく、若林篤と前田洋子が極めて疑わしい人物として捜査線上に浮かんでいる。ただし千代の安否と、千代が殺された場合、二人の犯行かどうか確認されていない。まだ半特定の段階である。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  千代が殺害された疑いは、次の諸状況に照らして極めて濃厚である。  〇衣類、家具等を放置したまま蒸発した。  〇可愛《かわい》がっていた猫を残して失踪した。  〇八十六歳の老女が土地家屋を売却した後突然姿を消した。  〇買い手が別人の名義を盗用している。  〇老女の唯一の相続人が、殺害されている。  〇家屋土地売却とほぼ軌を一にして親戚《しんせき》と称する男女の姿が消えた。 [#ここで字下げ終わり]  警察が家出人捜索願い受理の際、犯罪被害容疑のある所在不明者と推定する兆候の中で次の項目に該当した。 [#ここから改行天付き、折り返して3字下げ]  A 不動産取引きなど多額の金員《きんいん》授受を伴う取引きに関係していた。  B 平素の生活(行動)の周期や習慣とまったく異なる。  C 外出の際、ハンドバッグ、ドアキー、化粧品、外出着など当然に携帯し、あるいは所持、着装するはずであると考えられるものが自宅に残されている。  D 食器や寝具、着替えなどが放置されたままになっている。  E やりかけのことが放置されている。  F 独り住まいで、小金をためていた。 [#ここで字下げ終わり]  以上に該当する。  さらに平素なんらかの怨《うら》みを含まれていた、異性関係のトラブルがあったなどの項目があるが、これらには該当しない。死体なき殺人事件であっても、その潜在性が極めて濃厚であれば、捜査本部を開設して本格的な捜査を行なう。また犯人の自供が得られ、犯行を裏づける積極的な資料が収集されれば、死体のないまま起訴するというケースもあり得る。  成城署は中野署と緊密な連絡を取り合い、容疑者の特定、および明日千代の死体発見に全力を挙げることになった。 [#改ページ]  ジグソー・パズルの空洞      1  ほぼ同じ時期、痛ましい事故が発生した。二月下旬の春の到来をおもわせるふと寒気が緩んだ日、ボウシが陽の光に誘われるように外に出た。ボウシが外へ出て間もなく、けたたましいブレーキのきしりとタイヤが路面をかむ音とボウシの悲鳴が同時に発した。  庭の掃除をしていた八坂郁枝《やさかふみえ》ははっと胸を突かれて門の前に走り出た。八坂家の門前の道路に一台の乗用車が停《と》まり、その前に血浸《ちびた》しの雑巾《ぞうきん》のようになったボウシがのびていた。目や耳や鼻から血を噴き出して一目で絶望であることがわかった。 「まあボウシ、どうしたのよ」  郁枝は悲鳴を上げて手が血で汚れるのもかまわずボウシを抱き上げた。郁枝がわかったのか、血を噴いた口を開いてわずかに鳴く素振りを見せたが、すでに声にならない。乗用車から運転者が下りて来た。 「明日《ぬくい》さんの所にいた猫だな。突然狂ったように飛び出して来たのでブレーキが間にあわなかった」  運転者が言った。近所の横尾重雄《よこおしげお》という住人である。代議士の秘書をしているということである。横尾はいかにも車の前にいきなり飛び出してきた猫が悪いというような言い方をした。  ボウシは郁枝の手の中で息を引き取った。足の傷も癒《なお》り、ようやく元気になったばかりであった。横尾がなにか話しかけていたが、呆然《ぼうぜん》と立ち尽くした郁枝の耳に届かない。 「ちょっと急いでいる用事がありますので、また後でうかがいます」  横尾はこう言い残すと、そそくさと車に戻って走り去った。だが横尾はその後なにも言ってこなかった。ボウシは本来明日千代の飼い猫である。八坂家に迷い込んだ野良猫を轢《ひ》いても、詫《わ》びる必要はないとおもったらしい。  ボウシが轢き殺されて、数日|頼子《よりこ》はほとんど食事を摂《と》らなかった。頼子はボウシをきょうだいのように可愛《かわい》がっていたのである。ボウシも頼子に最も懐《なつ》いていた。 「あなたがいくら悲しんでも、ボウシはもう還《かえ》ってはこないのよ。ボウシのことはあきらめなさい。あなたが病気にでもなったら、ボウシがかえって怒るわよ」  郁枝は娘を慰め励ました。ボウシの死体はペット専門の葬儀業者に委託して火葬に付し、家畜霊園に埋葬した。火葬に先立ち、せめてもの形見にと帽子の部位の毛を刈り取って保存した。ボウシが八坂家にいた期間は短かかったがその間に八坂家の家族となっていた。ボウシがいなくなって、彼が家族の間に占めていたスペースがどんなに大きかったかおもい知らされた。  その後も横尾からはなんの挨拶《あいさつ》もない。ボウシをはねたことすら忘れてしまったかのように、毎朝八坂家の前を平然と車を運転して行く。視線が合っても、眉《まゆ》一筋動かさない。 「あの人、人間じゃないわよ。お隣りの猫がたくさんいたとき、猫よけの薬を撒《ま》いたのもあの人でしょう」  頼子は悔やしがった。隣家の猫の大群が我が家の庭に侵入して来たときは閉口したものであったが、最後のボウシもいなくなってしまうと、家の中が火が消えたようになった。  人間は動物と同居しながら日常を感じていたのである。突然動物がいなくなって、人間だけが取り残されてみると、それは非日常の世界になった。幸せとは日常の中にある。日常性を取り上げられて、人間は毎日の同じような繰り返しの日常が、どんなに幸せであったかに気がつく。  隣家の猫がいなくなった。最後に生き残ったボウシも死んでしまった。ボウシが死んだ以後の八坂家の生活は、それまでの日常の延長ではなくなった。人間だけの生活はなんと味気なく殺風景なものであろう。 「なんだか穴があいてしまったみたいだわ」  頼子がつぶやいた。その穴は郁枝の胸にも通じている。頼子の悲しみと寂しさは、郁枝と共通の根を持っていた。  ボウシが死んで数日後、夫と頼子を職場と学校へ送り出した後、郁枝は一人で新聞を読んでいた。主婦がほっとする時間帯であったが、ボウシの欠けた寂しさがまぎらしようもなく迫ってくる時間帯でもある。  郁枝の目が読書欄の一隅に固定した。無気力に記事を読み流していた郁枝の目に光が点じた。その欄にある作家の文章が載っていた。 「どうしてか、わからない。ともかく一緒に暮らしていた猫が、ある日ふっと姿を消してしまった。それからまた、新しい猫と暮らすようになったが、ある日やっぱり、ふっといなくなってしまった。それからも猫たちは次々に、ある日突然いなくなり、そしてのこったのは猫たちのいない日々だった。(中略)  どうしてか、わからない。もとからの猫好きではなかった。それがなぜか猫たちと一緒に暮らすようになり、猫たちがいなくなってふと気づいたときには、猫のかたちをした穴がこころに開いていた。猫がひとのこころにもぐりこむと知ったのは、猫たちがみんな姿を消してしまってからだ。  どうしてか、わからない。いなくなった猫たちがのこしていったのは、おもいがけない空白だったが、その空白を埋めるのに必要なだけの言葉もまた、いなくなった猫たちはのこしていった。(中略)  どうしてか、わからない。猫たちがいなくなってあらためて思い知ったのは、猫たちが日常というものをどれだけ生き生きとかんじさせる存在だったか、ということだ。日常をよく生きることにかけて、ひとは猫に、到底およばない。『そこにいる』あるいは『ここにいる』ことを、猫のようにさりげなく上手に楽しむ才能は、ひとにはないとおもう。  どうしてか、わからない。『ねこに未来はない』を書いたあと、こんどは日々を共にすべき新しい猫もまた、突然いなくなってしまった。いないとなったら、どこにもいないのも猫なのだ。それから猫のいない暮らしがずっとつづいたが、猫のいない日々というのは、猫型のピースの欠けた、いつまでも出来あがらないジグソー・パズルのようなものだ。(後略)」『ねこに未来はない』(長田弘)より。 (まあ、わたしたちの心のあり様をそのまま書いたような文章だわ)  郁枝は驚いた。きっとこの文章の筆者も、八坂親子のように猫と突然別れて、その後にぽっかりあいた心の穴を埋められないのであろう。猫の形をした穴が心に開いているために、猫型のピースの欠けた、いつまでも出来あがらないジグソー・パズルのような空洞を抱えているのだ。      2  その翌日、新宿署の牛尾《うしお》刑事が訪ねて来た。牛尾とはすでに顔《かお》馴染《なじみ》である。捜査会議における牛尾の意見が通り、猫の行動圏内を再調査することに捜査方針が決定したのである。 「奥さん、またお邪魔します。例の猫の毛の出処を再調査することになりまして、またいろいろとご厄介をかけます」  牛尾はにこやかに言った。明日|千代《ちよ》の隣家でもあり、その飼い猫が八坂家に居ついているいま、牛尾にしてみれば同家がこの地域の捜査ベースのような気がしているのであろう。 「おばあちゃんの居所はまだわからないのですか」  郁枝が訊《たず》ねた。 「鋭意探しておるのですが、依然としてわかりません」 「つい先日も成城署の刑事さんがお見えになりまして、いろいろと訊ねて行かれました」 「そうですか。成り行きによっては成城署と合同捜査になるかもしれません。ところで、猫が見えないようですが、額に帽子の縞《しま》のある……」 「それが、一週間ほど前、車にはねられて死んでしまったのです」 「車にはねられた」  牛尾の表情が驚いた。 「突然車の前に狂ったように飛び出したそうで、ブレーキが間に合わなかったそうです」 「それは可哀想《かわいそう》なことをしましたね。それで死骸《しがい》はどうなさいました」  牛尾の表情が落胆している。  彼にしてみれば重大な証拠物件が失われたおもいであろう。 「家畜専門の葬儀業者に頼んで、火葬にして家畜霊園に葬りました」 「火葬にしてしまったのですか」 「おもいでに帽子の部分の毛を刈り取って保存してあります」 「ボウシを轢《ひ》いた車は、どこの車ですか」 「ご近所に住んでいる横尾さんという方です」 「ボウシを轢いたとき横尾さんの車は帰って来たのですか。それともこれから出かけようとしていたのですか」 「朝、出かけようとしていたときです」 「すると、かなりスピードを出していたのですね」 「轢く現場は見ていなかったのですが、急ブレーキの音とボウシの悲鳴に驚いて門の外へ出てみると、横尾さんの車が停《と》まっていて、ボウシが血だらけになって道路に倒れていました。横尾さんはボウシが突然狂ったように車の前へ飛び出して来たので、ブレーキが間に合わなかったとおっしゃっていました」 「猫は臆病《おくびよう》ですから、自分から車の前へ飛び出すようなことはないはずですがね」  牛尾はそのことの意味を考えているようである。猫は犬とちがって優柔不断であるので、道を横断しかけて迷い、轢かれることがある。 「なにをしている方ですか」 「なんでも代議士の秘書をされていると聞きました」  郁枝はその後一遍の挨拶《あいさつ》にも来ない横尾のいかにも代議士の権威をかさに着たような傲岸《ごうがん》な顔つきをおもいだした。 「ほお、代議士さんのね。どちらの代議士かご存じですか」  牛尾の面に興味の色が浮かんだ。 「前に一度主人から聞いたことがありましたが忘れてしまいました。もう一度聞いてみましょうか」 「いや、わたしの方で調べましょう。わからないときはお願いしますよ。ところで奥さん、横尾さんの所では猫|忌避剤《きひざい》を使用しておりませんか」 「猫キヒ剤」 「猫よけの薬です。たしか奥さんは以前ご近所で猫よけの薬を使っている家があるとおっしゃいましたね」 「ああ、それなら、横尾さんの家でも使っています。横尾さんのおたくで猫よけを大量にばら撒《ま》いたので、そのにおいが近所に広がって、猫以上に迷惑したことがあります」      3  ボウシを轢《ひ》き殺されたことは少なからぬショックであった。だがそれ以上にボウシを轢いた車の主が代議士秘書ということが牛尾の胸に引っかかった。  八坂郁枝から聞いた横尾重雄の家は、八坂家から数軒先の瀟洒《しようしや》な二階建であった。住宅メーカーのモデルハウスをそのまま移し替えたようなスマートな外観と、住み心地を工夫した機能性が集約《コンパクト》されているような住宅である。  狭いながら手入れの行き届いた庭をはべらせ、石張りの壁で囲っている。門の脇《わき》にガレージがあり、シャッターが閉まっている。猫を轢いた車はここから出て行ったものであろう。ガレージから八坂家の前まで十数メートルの距離である。その間に飛び出してきた猫を避けられぬほど加速していたのであろうか。門扉は鉄製で、両開き、コンクリート造りの門柱に横尾と表札がかけられている。  横尾の家を確かめた牛尾は、帰路受け持ち派出所に寄って、住人案内簿を見せてもらった。この案内簿は派出所警察官が受け持ち区内の各家庭、商店、工場など戸別訪問して住人との関係を密にして、犯罪の予防や災害、事故などの防止のために、職業、家族構成など個人的データを住人の協力を得て書き込んだものである。 「国見良方《くにみよしかた》の秘書だったか」  牛尾はおもわず口中にうめいた。国見良方は政権党の大物代議士である。民友党の第三位派閥|岩井知和《いわいともかず》派の長老であり、閣僚経験もある。党内でも政策通として重きをなし、政調会長や国会対策委員長などを経験している。一時は政権を狙《ねら》ったこともあるが、最近体力の衰えが著しく、引退が噂《うわさ》されているという。  だが牛尾が注目したのは、国見の経歴や民友党内における威勢の消長ではない。国見が東京交通不動産疑惑に名を連ねていたことである。意外なところで根がつながっていた。  疑惑の中心人物が殺害され、犯人の遺留品とおぼしき毛の主の猫をその疑惑に連なる代議士の秘書が轢き殺した。これは決して無視できない連関である。牛尾は胸の深所から興奮が盛り上がってくるのを感じた。横尾が国見の意を受けて、証拠の猫を故意に轢き殺したとも考えられるのである。  捜査本部は牛尾が持ち帰った土産《みやげ》を検討した。 「猫を殺しても、証拠を消したことにならないのではないか。現場に遺留された毛が明日《ぬくい》家の飼い猫のものであることはすでに同定《どうてい》(同じものと確かめられる)されている。また横尾はその飼い猫が遺留された毛の出処とは知らないはずだ」  という意見が出された。 「現場に猫の毛が遺留されてあったことは報道されていないが、聞き込み捜査の過程で、捜査本部が奥光や明日めぐみ、および千代の身辺に猫を探していることはわかったはずだ。横尾が犯人であれば、自分が猫の毛を遺留した可能性に気がつくかもしれない」 「しかし、横尾が明日千代の猫を飼っていたわけではない。問題の猫、ボウシは本来の飼い主がいなくなってから、隣家の八坂家に拾われていた。横尾が飼ってもいない猫の毛をどうして犯行現場に遺留したのか」 「横尾の住居は、ボウシの行動圏内に入る。横尾とボウシが接触するチャンスはあったはずだ」 「それに、横尾は猫忌避剤を家の周囲にばら撒いている。彼は犯行現場の二種目の遺留品を残せる位置にいた」  議論は白熱したが、横尾を無視すべきではないという点においては一致していた。  横尾の身辺内偵捜査が決定された。横尾はS大政経学部卒業後、大手新聞社に入社し、政治部に所属して、当時外相であった国見番を担当した。その縁で十年前に国見の私設秘書となり、以後国見の懐刀《ふところがたな》として国見を助けてきた。国見の引退が噂《うわさ》されるようになって、にわかにその後継者としてクローズアップされてきた。秘書仲間でも辣腕《らつわん》家として聞こえている。  陳情、要望の窓口は横尾に集約され、彼を通さないことには埒《らち》があかない。どちらが代議士かわからないと陰口をささやかれるほどである。陳情の際にもボスには事後報告するだけで、横尾が担当省庁の役人にダイレクトに取り次いで事を決めてしまうというほどの実力を持っている。  資金集めの励ます会やシンポジウムのパーティ券の売り込みにかけては総会屋並みの力量を発揮するそうである。特に献金企業の開拓営業力にかけては抜群であり、独自の金蔓《かねづる》を握っているとも噂されている。  国見の後継者として横尾の下馬評が高くなるにつれて、ここに対抗馬が現れた。かねてより国見代理の看板をかさに着ての横尾の専横ぶりを苦々しくおもっていた国見の身内や親戚《しんせき》一同が結束して、にわかに国見の子息を担ぎだしてきたのである。国見の息子|勝一《しよういち》は現在ある商社に勤めているが、赤の他人に多年築き上げた地盤と看板を引き継がせるよりは、血のつながっている勝一にと反横尾分子が結束して押し立ててきた。  横尾派ももちろん黙ってはいない。国見の今日あるは横尾のおかげではないか、資金源、後援会も一手に握り、選挙時の作戦も横尾が采配を振るう。横尾がいなければ国見は手も足も出ない。国見の地盤と看板は横尾と共有と言ってよく、いまさらなにも知らぬ人形の息子を担ぎ出しても通らないと激しくやり合っている。  横尾の身辺内偵が進むにつれて、代議士秘書としての辣腕《らつわん》ぶりが浮かび上がってきた。さらに横尾と奥光の関係が洗われた。国見良方は民友党第三位派閥の番頭格であり、東京交通不動産の献金の窓口の位置にいた。横尾はその窓口の窓口として奥光と接触があった。  これまで捜査線上に浮かび上がらなかったのは、横尾が国見の個人秘書として表に現れていなかったのと、住居が国見良方の事務所に置かれていたためである。陳情や要望が自宅に来るのを防ぐための方策であろうが、横尾の住居が明日千代の近隣にあるとわかれば、もっと早くマークされたはずである。  だが犯人像としてはいまひとつ曖昧《あいまい》なところがある。横尾(国見名義)は東京交通不動産の政治献金先の一つであり、賄賂《わいろ》の疑いは濃厚であるが、直接横尾が奥光を殺すべき動機が見当たらない。献金先としては横尾よりも大口がいくらでもいる。賄賂に関して奥光の口を封ずるためであれば、横尾(国見)よりも上位の者が控えている。となると賄賂以外の個人的な動機を考えなければならない。それがさし当たって見当たらないのである。  横尾の異性関係が洗われ、赤坂のクラブホステスが浮かび上がった。赤坂二丁目のクラブ「クインビー」のホステス藤枝|桐子《きりこ》に入れ上げ、足しげく通っているそうである。情報通から聞いた話では、 「三年越しの仲で、現在桐子が住んでいる広尾のマンションも横尾が金を出しているというもっぱらの噂《うわさ》です。なにせ、やっこさん、国見の銭箱を握っていますからね。国見の銭箱ということは、岩井派の銭箱ということです。やっこさん、『オヤジ(国見)が落選しても、おれはまったく失業の心配がない。金蔓《かねづる》を握っているから、他のボスからすぐに声がかかる』と豪語していましたよ」  ということである。だが藤枝桐子と奥光利夫の間にはなんの関係もない。女をめぐる三角関係という線は打ち消された。  横尾の身辺内偵調査と並行して、横尾家の周辺が丹念に検索されて、古くなってにおいの失《う》せた猫忌避剤が少量保存された。この忌避剤を奥光殺しの現場から採取された忌避剤と比較して、同一成分であることを証明した。ここに重大な遺留物が二件符合したのである。 「横尾が明日千代の猫に接触したという証明はなされておらず、同一成分の猫忌避剤は市販されている。したがって奥光殺しの現場遺留品を横尾が持ち込んだとは断定できない」  という意見もあったが、横尾の容疑は濃厚に煮つまっていた。念のために十月二十七日の横尾のアリバイを調べた。彼は土曜日は用事のないときはたいていゴルフに行くが、この日は午後一時から党本部で総会が開かれ国見をエスコートして本部に詰めていた。午後四時総会が終り、国見を自宅へ送り届けた後、横尾の所在は不明になっている。横尾家のお手伝いに聞いたところ、二十八日未明に帰宅して来たということである。  捜査本部は横尾の任意同行を検討した。任意同行を時期|尚早《しようそう》とする意見もあったが、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  〇現場に遺留された毛の主である猫に接触できる位置にいた。  〇現場に遺留された猫忌避剤と同じ成分の猫忌避剤を使用していた。  〇被害者と関係があった。  〇明日千代の飼い猫を故意に轢き殺した疑いがある。  〇十月二十七日午後四時党本部を出た後の所在が不明である。  以上の点から犯人適格性ありと見て、任意同行を要請することに決定した。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  双頭のタイクリップ      1  そのころ中野署の捜査本部では若林篤《わかばやしあつし》と前田洋子《まえだようこ》の行方《ゆくえ》を必死に追跡していた。若林は岩木秀男《いわきひでお》の名前を騙《かた》り、無断で印鑑登録をして区役所からの照会書を盗み取っている。そのために岩木のアパートで郵便物が配達されるのを待ち伏せていたはずである。入居者のだれかが若林を目撃しているかもしれない。笠原《かさはら》らは根気よくアパートの住人に聞き込みをつづけていた。だが目ぼしい成果もなく徒労の色が濃くなっていた。  聞き込みの輪を近隣に広げて、ふたたびアパートの住人へ戻って来た。再三の聞き込みに一階に住んでいる池内順子《いけうちじゆんこ》という中年の女が、 「郵便物といえば、昨年夏変なことがあったんですよ」  とふとおもいだしたように言った。 「変なこととはどんなことですか」  笠原はさっそく食いついた。 「郷里の母からきたわたし宛《あ》ての手紙が、荻窪《おぎくぼ》のゴミ集積所に捨ててあったと、拾った人がわざわざ届けてくれたんです」 「あなた宛ての手紙が荻窪に捨てられていたのですか」 「拾った方が親切な人で、DMでもない封を開けてない手紙が捨ててあったので、ちょうどこちらへ来るついでがあったそうでわざわざ届けてくれたのです」 「それは親切な人ですね。それにしてもどうしてあなた宛ての手紙がそんな見当ちがいの方角に捨てられていたのですか」 「わたしにもわかりません。アルバイトの配達人が配達するのが面倒くさくなって郵便物を捨てたという事件がありましたけれど、わたし宛ての手紙が一通だけ捨ててあったそうです」 「アルバイトが捨てたにしても、配達区域がちがいますね。一通だけ捨ててあったというのもおかしな話だな」 「わたし宛ての手紙なんか盗んでも、なんの得にもならないのにね。お金でも入っていればべつだけど、こちらから送ることはあっても郷里から送ってくるようなことはないわ」 「いま盗まれたとおっしゃいましたね」  笠原の目が宙にすわった。 「ええ、でもわたしの手紙なんか盗んだってしようがないでしょう」 「いや、まちがって盗むということもある。あなたのメールボックスは岩木さんの隣りか近くではありませんか」 「ええ、岩木さんの部屋はわたしの部屋の真上で、メールボックスもすぐ上になっています。時どき岩木さん宛ての手紙がわたしのメールボックスの中へまぎれ込んでいることがあります」 「それだ。あなた宛てのお母さんからの手紙が岩木さんのボックスに誤配されたんですよ」 「誤配された手紙が盗まれたというのですか」 「あるいは岩木さん宛ての手紙があなたのボックスに誤配されて、岩木さんの手紙を盗もうとした泥棒が、あなたの手紙も一緒に持ち去ったのかもしれません」 「岩木さん宛の手紙に珍しい切手でも貼ってあったのかしら」  笠原はすでにその問いには答えず、自分の推測を追っていた。「盗まれた手紙」が荻窪のゴミ集積所に捨てられていたのはなぜか。犯人は岩木のアパートで待ち伏せて、まんまと区役所からの照会書を盗み取った。だが一緒に不必要な手紙も盗み取ってきてしまった。彼はそれをゴミとして捨てた。  ゴミはおおかた自宅の近くに出すものである。どこのゴミ集積所に出してもよいようなものであるが、他の町内や地域のゴミ集積所にはなんとなく出しにくいものである。収集時間に遅れて、他の集積所に出すときは、なにか悪いことをしているような気がする。通りすがりにジュースの空き缶や紙くずをたまたま路傍に見つけた集積所に捨てることはあるだろう。手紙一通であるので通りすがりに捨てて行ったのかもしれない。だが手紙泥棒がそのゴミ集積所の近くに住んでいる公算は大きい。 「奥さん、手紙を届けてくれた方の名前と住所は聞いておきましたか」 「あら、わたし奥さんではありません」  女が柔らかく抗議した。 「これは失礼しました」  笠原は頭をかいた。だがどう見てもお嬢さんと呼ぶ年齢ではない。 「名前を言うほどのことではないと言っていましたけれど、親切に感激したので、名前と住所を聞いておきました。あとで菓子折を送っておきました」 「それはよかった」  彼女が事後、礼を尽くしたことに対してではなく、笠原らは一筋の手がかりがつながったことを喜んだ。  彼らはその足を荻窪の親切な私設配達人の所へ伸ばした。栗原《くりはら》という私設配達人の住居は南荻窪二丁目の住宅街の中にあった。突然訪問して来た刑事にちょっと身構えたが、「盗まれた手紙」が捨てられていたゴミ集積所について問われると、 「すぐそこですからご案内しましょう」  と気さくに言って腰を上げた。件《くだん》のゴミ集積所は栗原家から少し行った空き地の角にあった。地上げ屋が買った土地であろうか、空き地を囲った板塀《いたべい》の角にコンクリートの囲いが設けられている。 「その手紙はどんな状態で捨ててあったのですか。ゴミと一緒に出されていたのですか。あるいは一通だけぽいと捨ててあったのですか」  笠原は問うた。 「ちょうどその日ゴミ収集日だったので、ゴミを捨てに行ったところ、どうも前の夜から出しておいたらしいゴミ袋を野良猫が噛《か》み破って中身を引きずり出していたのです。きっとゴミの中に猫の好物があったのでしょう。そういうことのないように収集日を厳守するように自治会の役員が触れを出しているのですが、アパートの住人はマナーが悪くて、いつでも勝手にゴミを出します。困ったもんです」  栗原の言葉が脇道《わきみち》にそれた。 「そして猫が引っ張り出したゴミの中にその手紙があったのですか」 「そうです。明らかに封を切られていない個人宛ての手紙があったので、不思議におもって拾い上げたのです」 「するとその手紙は猫が噛《か》み破ったゴミ袋を出した人が持っていたことになりますね」 「わたしもそうおもいましたので、ゴミの中身を調べてゴミを出した人がわかればそこへ返してやろうとおもったのですが、なにも手がかりがありませんでした」 「ゴミを調べたのですか」  盗まれた手紙の宛名《あてな》人が感激しただけあって、栗原の親切は中途半端ではない。 「調べました。ゴミの主がわかれば手紙を戻しがてら、収集日を守るように注意するつもりでした」 「ゴミの中身は主にどんなものでしたか」 「インスタント食品や、レトルト食品の包装が多かったですね。あれは若い人間ですよ。それも男女二人だな」 「どうして男女とわかるのですか」 「女の化粧品の空容器や、使用後のゴム製品が捨ててありました。燃えるゴミと燃えないゴミの仕分けもしてありませんでしたよ。アパート住まいの、それも同棲《どうせい》しているアベックですね」  栗原はなかなか鋭い分析をした。 「この近所にもアパートが増えてきましたね」 「アパートが増えると、住人のマナーが悪くなります。彼らはこの地に長く住むという意識はありませんからね。通りすがりの旅行者と同じです。旅の恥はかき捨てとばかり、居住環境を悪くするばかりです」  栗原はアパート族に反感を持っているらしい。古い土地柄で大正造りの住宅やとんがり屋根の西洋館が残るこの地域にもアパートやマンションが増えてきた。それと共に新しい住人がインベーダーのように入り込んで来る。 「この集積所にゴミを出すアパートは何軒ぐらいありますか」 「この町内はここへ出しますが、アパートの住人はあまり守りませんね。出し遅れると、車や単車に積んできて、ポイと捨てて行きます。そんな連中のゴミはたちが悪い」  栗原はふたたび憤慨した口調になった。 「あなたが配達してあげた渋谷区笹塚の池内さんの手紙がどうしてこちらのゴミ集積所に捨ててあったんでしょうね」 「さあ、それが不思議だったので、池内さんにお届けしたとき、荻窪の方にお知り合いがいるかどうか訊《たず》ねたのですが、心当たりがないということでした」  栗原は親切心からだけではなく、無法ゴミの主を突き止めたくて手紙を届けたのかもしれない。盗まれた手紙が捨てられていた前後の事情はおおかたわかった。  聞き込みの成果が捜査会議で検討された。笠原の意見はほとんど反論なく受け入れられた。盗まれた手紙をゴミとして投棄した者は若林篤および前田洋子の公算が大きい。彼らは伴《くだん》のゴミ集積所の近隣に住んでいる可能性が強い。盗まれた手紙が捨てられていたのは、昨年夏である。移動の激しいアパートの住人がまだ同じ場所に住んでいるかどうかわからないが、ともかく両人の人相、特徴、年齢に基づいて似顔絵が描かれ、集積所を中心とした一帯に聞き込み捜査の網が打たれた。  反応はすぐにあった。すなわち南荻窪二‐十×番地、クオレ荻窪一〇六号室に住んでいる男女が似顔絵の主に似ているということである。その男女の名前は若宮清治《わかみやせいじ》、妻|洋子《ようこ》と記入してある。入居したのは昨年八月である。受け持ち派出所の巡回連絡簿には若宮がフリーライター、洋子がインテリアデザイナーと記入してある。どちらも前の名前を残している。偽名を使用する場合、咄嗟《とつさ》にまったくでたらめの名前は出ないものである。また好きな文字を使いやすい。  クオレ荻窪は二年前に竣工《しゆんこう》したメゾネット式のアパートである。各戸に半地下のガレージが備えつけられてあって、外車や3ナンバーの車が入っている。家賃もかなり高そうで、住人も岩木秀男のアパートとは段ちがいである。若宮の家のガレージにはスポーティな外車が入れてある。巡回連絡に対して回答した職業は鵜呑《うの》みにできないが、優雅な暮らしぶりのようである。  両人の名前と特徴を警察庁の全国犯罪情報を管理《フアイル》するコンピューターに照会したが前歴がなく、該当者はなかった。若宮について自動車安全運転センターに照会したところ、登録されていた。若宮清治が若林の本名であった。同所から運転免許証の写真を取り寄せて、岩木秀男および明日千代《ぬくいちよ》の隣人|八坂《やさか》家の家人に見せたところ、都燻蒸《みやこくんじよう》の若林は明日家に出入りしていた�親戚《しんせき》�にまちがいないという証言を得た。 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  〇定職もないのに家賃三十万円の豪華なアパートに入居している。  〇明日千代の親戚と称していた男女に人相、特徴が符合している。  〇その親戚が乗りまわしていた車と、若宮の所有している車の種類、色が同じである。  〇クオレ荻窪の入居と明日千代の不動産売買の時期がほぼ前後している。 [#ここで字下げ終わり]  ここに捜査本部は若宮清治および洋子の両人を岩木秀男の名前を盗用して、明日千代の家屋および土地を購入し、水谷雄二に転売した本人にちがいないという心証を得た。水谷雄二に写真面通しを行なわなかったのは、水谷と若宮に共謀の疑いがあったからである。  捜査本部は奮い立った。だが明日千代の行方《ゆくえ》が確かめられていないので、いまの時点では逮捕状を請求することはできない。  彼らはまだなんの犯罪も実行(した証拠がない)していないのである。しいて言うならば郵便物の窃取であるが、それも証明されていない。だが捜査本部の心証は固かった。まず任意同行を求めて自供を得た後で、緊急逮捕するという方針が決定した。これは捜査本部の強気を示すものである。  緊急逮捕は逮捕状なしに逮捕する場合であり、逮捕後直ちに逮捕状が発付されるという自信がある場合のみに行なわれる。若宮の自供次第によっては、独り暮らしの老女を殺害し、その家屋と土地を奪取し、転売し、唯一の相続人をも殺害した狡猾《こうかつ》かつ凶悪極まる犯罪者である。捜査本部は万に一つも取り逃すことのないよう、慎重を期した。  捜査本部は荻窪署の協力を得て、三月十八日より両人の居宅に張り込みを付け、その動向を監視した。彼らの在宅時に任意同行を求めなければならない。気配を察知されれば逃亡される虞《おそ》れがある。任意同行の要請は両人が確実に在宅するときを狙《ねら》って行なわなければならない。  その日彼らの居宅に灯《あか》りが点《つ》いていたが、それが両人が確実に在宅する証拠とはならない。両人のうち一人がいるのかもしれないし、両人とも灯りを点けたまま外出しているかもしれない。彼らが帰宅したことを確認した後でなければ任意同行は求められない。  十九日午前十時ごろ、若宮と洋子は連れ立ってスポーツタイプの外車に乗って出かけた。一瞬の差で任意同行を求める機会を逸してしまった。捜査員は歯ぎしりしながら何処《いずこ》かへ出かけて行くスポーツタイプの外車を見送った。まだあくまで任意捜査の段階であるから手荒な真似《まね》はできない。  同日の午後六時ごろ、両人の乗ったスポーツタイプの外車が帰って来た。間もなく彼らの居宅の窓に灯《ひ》が点《つ》いた。  二十日午前八時三十分、捜査キャップがゴーサインを下した。笠原、大橋《おおはし》以下十名の捜査員が若宮の家の前に立った。チャイムを押すと、ドアホンに洋子らしい眠そうな声が答えた。 「警察の者ですが、ちょっとお訊《たず》ねしたいことがあります」  笠原がドアホンに話しかけた。はっと息を呑《の》む気配がドアホンに伝わってきた。若宮の居宅は逃げられぬように捜査員が取り囲んでいる。あきらめたらしくドアチェーンを外す気配がして、ドアが細めに開かれた。 「若宮洋子さんですね。若宮清治さんと一緒に署までご同行願います」  笠原はドアをぐいっと引くと、有無《うむ》を言わせぬ口調で言った。洋子はネグリジェ姿であり、若宮はまだ寝床の中にいた。 「警察から呼ばれるようなことはなにもしていませんが」  精一杯虚勢を張って答えた声が震えかけている。悪《わる》のわりには小心らしい。 「そのことも署でうかがいましょう」  笠原は促した。捜査員の人数やそのものものしい態度から、若宮と洋子は自分たちにかけられた容疑が深刻であるのを悟ったようである。若宮と洋子はその場から中野署の捜査本部へ同行された。  若宮と洋子はそれぞれ別室に分けられて取調べを受けた。彼らに口を合わせる暇はあたえられていない。 「あなたは明日千代《ぬくいちよ》さんを知っていますか」  取調べ官は単刀直入に質問の火蓋《ひぶた》を切った。 「知りません」 「あなた方が明日さんの家に親戚《しんせき》と称して出入りしていた姿を近所の人が見ているのですがね」 「他人のそら似ではありませんか」 「他人のそら似ねえ。まあ、いいでしょう。それでは明日めぐみさんをご存じですか」 「知りません」 「水谷雄二《みずたにゆうじ》さんを知っていますか」 「知りません」 「昨年の十月二十七日深夜はどこにおられましたか」 「突然聞かれてもおもいだせませんが、たぶん家にいたとおもいます」 「それを証明できますか」 「自分の家にいるのにいちいち証明なんかできません」 「あなたは岩木秀男《いわきひでお》さんをご存じですね」 「おもいだせません」 「とぼけてはいけませんね。あなたが高田馬場で都燻蒸《みやこくんじよう》というシロアリ駆除の会社を経営しているとき、アルバイトに来た学生ですよ」 「なんのことかわかりません」  若宮は徹底的にシラを切り通すつもりのようである。岩木秀男を知っていると認めることは、都燻蒸の存在を認め、ひいては明日千代を知っていることにつながっていくからである。 「すると、あなたは明日千代さんもめぐみさんも水谷雄二さんも、都燻蒸も、岩木秀男さんも知らないというわけですね」 「知りません」 「それでは水谷雄二さんと岩木秀男さんと明日千代さんの隣家の八坂家のファミリーに会ってもらいましょうか。その人たちがどんな反応を示すか楽しみだ」  若宮は蒼白《そうはく》になりながらも、 「わたしの知らない人たちがどんな反応をしようと、おれには関係ないことだ。おれがなにをしたというのだ。いきなり警察へ引っ張って来て、これではまるで犯人あつかいじゃないか」  若宮の言葉遣いが崩れた。 「若宮」  突然取調べ官が大声を発して、デスクをドンと叩《たた》いた。若宮が身体をびくりと震わせた。 「シラを切っても無駄だ。ネタは全部あがっているんだ。おまえは身寄りのない明日千代さんから祖師谷《そしがや》の家と土地を奪い、岩木秀男さんの名前を盗用して、目黒区の水谷雄二氏に転売した。岩木さんと八坂家の人たちがおまえたちであることを確認したよ」 「そんな証拠がどこにあるんだ」 「証拠はこれだ」  取調べ官は岩木秀男の隣人池内順子より領置してきた手紙をデスクの上に置いた。訝《いぶか》しげな顔をする若宮に、 「おまえは岩木秀男が印鑑登録をしていないのに目をつけ、本人に無断で印鑑登録をして区役所からの照会書を岩木さんのメールボックスから盗み取った。そのとき彼のメールボックスに誤配されていた岩木さんの階下の人の手紙を一緒に持ち去ってきてしまったのだ。後で無用の手紙と気づいたおまえは近所のゴミ集積所にゴミと一緒に捨てた。収集日を守らなかったばかりに野良猫にゴミ袋を噛《か》みちぎられて中身と一緒にこの手紙を引きずり出されたんだよ。近所に親切な人がいてね、この手紙をわざわざ宛名人《あてなにん》に届けてくれたので、あんたの居所が手繰《たぐ》りだせたのだ」 「そ、そんなことがなんの証拠になるか。ゴミ袋に名前が書いてあるわけでもあるまいし、おれがその手紙を盗んだという証拠がどこにある」  若宮は土俵際で開き直った。 「それではどうしても岩木さんや八坂家のファミリーや水谷雄二と対面してもらわなければならないな」 「岩木や八坂ファミリーとやらがわたしを仮に知っていると言っても、おれが警察へ呼ばれるようなことをした証拠にはならない。岩木が知っていようと、八坂家がおれを見たことがあると言っても、それがなんだというんだ」  たしかに岩木や八坂ファミリーが若宮を認めても、犯罪の証明にはならない。 「水谷雄二があんたから明日千代の物件を買ったと言ったらどういうことになるかね」 「な、なんのことかわからないが、仮におれが水谷とやらいう人物に物件を売っていたとしても、正常な商取引きではないか」 「正常な商取引きねえ。あんたは明日千代さんから買ったことになっている家屋と土地を水谷雄二氏に十二億五千万円で転売しているんだ。その前後に明日千代さんの居所が不明になっている。あんたら二人によく似た男女が八坂家に、千代さんは入院していると言った。その入院先をおしえてもらおうじゃないか」 「知りもしない千代さんとやらの入院先をおれが知っているはずがないじゃないか。それに岩木秀男さんとやらの名前を盗用した人物が明日千代さんとやらの家屋と土地を買って水谷さんとやらに転売したところで、正常な取引きではないか。千代さんとやらは物件を売った後で、どこかへ引っ越して行ったかもしれない。千代さんが売却後どこへ行ったかまで買い手は見届ける責任はない。売買が完了した後、売り手がどこへ行こうと、買い手の知ったことではない」  若宮は取調べの間に次第に立ち直ってきているようである。水谷雄二、岩木秀男、八坂ファミリーに面通しされて、それぞれから確認されても、致命的ではない。明日千代から物件を奪取した証拠はない。水谷への転売に当たって、他人の名義を盗用したことも、取引きの表面に出たくなかったからだと言えばすむことである。せいぜい岩木とその隣人の郵便物窃取と公正証書原本不実記載罪の罪を問われるぐらいである。若宮は土俵際で踏ん張っていた。一方、洋子は、ただ知らぬ存ぜぬの一点張りであった。あらかじめ警察に呼ばれたときに備えて、彼女は徹底的に黙秘権を行使することを申し合わせておいた様子である。  ここまで追いつめながらあと一歩のところで止どめの武器を欠いている。捜査本部は歯ぎしりした。自供を得てから緊急逮捕して逮捕状を請求しようとした楽観が吹き飛ばされた。逮捕どころかこれ以上若宮を留めておく口実がなくなった。  そのころ捜索令状を得た捜索班は、若宮の居宅と車を懸命に捜索していた。車の捜査を担当していた大橋が運転席と背もたれの間に落ち込んでいた一個の物質を発見した。大橋はこれを鑑識係に託して、指紋の検出を委嘱した。発見した資料は新宿署の事件にも関連する可能性があるとされて、新宿署の捜査本部にも連絡された。      2  三月二十日午前八時、自宅から出勤しようとしていた横尾重雄《よこおしげお》は、突然訪問して来た新宿署の刑事と名乗る二人の男に任意同行を求められた。任意同行であるので、いやなら拒否できるが、拒めばそれが逮捕の口実にされそうな緊迫した雰囲気が感じ取れた。横尾はそのまま刑事に伴われて新宿署へ連れて行かれた。  新宿署では那須《なす》と名乗った仏像のような表情をした年配の警部が取調べに当たった。 「わざわざお越しいただいて恐縮です」  那須と名乗った警部はまずは低姿勢に言葉をかけてきた。 「警察に呼ばれるようなおぼえはなにもないのに突然呼び出されて迷惑してます。今日は内閣改造に備えて党の幹部会が開かれるので、わたしも早く行かなければならないんだ」  横尾はそれとなくトラ(代議士)の威光をちらつかせた。 「申しわけありません。それほどお手間はとらせませんから、少しの間ご協力ください」  那須は如才なく言った。 「わたしにできることでもあるのですか」 「横尾さんでなければできないことです」 「それでは手っ取り早くすませてもらいましょうか」  横尾は上体を反らすようにした。 「奥光利夫《おくみつとしお》さんをご存じですね」 「それほど深いつき合いではありませんが、後援企業グループの関係者の一人として知っております」 「後援企業とは具体的にどういうことをするのですか」  那須は意地悪く問うた。 「まあ先生の励ます会や出版記念会のパーティ券を買っていただいたり売ってもらう企業のことです」 「つまり金蔓《かねづる》ということですか」 「献金企業です」 「その献金企業の社員である奥光さんが殺されたことはご存じですね」 「新聞を読みましたから。奥光さんはお気の毒だったとおもいます」 「失礼ですが、昨年十月二十七日の午後七時ごろから深夜にかけてどちらにおられましたか」  那須はそろりと詮索《せんさく》の触手を伸ばしてきた。 「それはアリバイのようなものですか」 「一応関係者にはすべてお訊《たず》ねしていることです。ご協力ください」 「突然聞かれても、おぼえていませんよ」 「メモをごらんになっておもいだしてください。お仕事柄、メモはつけていらっしゃるでしょう」  那須はひたひたと迫った。 「昨年のメモはここに持っていない」 「それほど以前のことではありません。昨年の十月二十七日のことです。土曜日です」 「土曜の夜は、先生に特別な用事でもなければ、たいてい自宅におります」 「そのことを証明できますか」 「家内や家族がおぼえているかもしれない」 「どなたかが訪問して来たとか、電話をかけてきたとかいうことはありませんか」 「つまり、家族の証言では当てにならないということだね」  横尾が薄く笑った。だが目は少しも笑っておらず、したたかな表情が覗《のぞ》いている。 「わたしどもは当夜あなたが奥光さんの部屋へ行かれたとおもっています」 「きみ、言っていることの意味がわかっているのかね。奥光さんが殺された夜、わたしが彼の部屋へ行っているといえば、わたしを犯人として疑っていることではないか」  横尾は憤然として言った。 「残念ながら、あなたの立場は極めて深刻です」  那須の窪《くぼ》んだ目が底光りした。 「証拠もなくそんなことを言って、あとですまなかったと言ってもすまないぞ」  横尾は恫喝《どうかつ》した。 「証拠はあります」 「どんな証拠があるというのだ」  横尾は居丈高《いたけだか》に言ったが、表情に不安が揺れている。 「これをごらんください」  那須はビニールに包んだ現場から採取した遺留物件を横尾の前に置いた。 「これはなんだね」 「猫の毛と猫よけの薬です」 「それがどんな証拠になるのかね」 「あなたのご近所の明日千代さんはたくさんの猫を飼っていました。この猫の毛はその中の一匹のものです。あなたは明日家の飼い猫をうるさがり、猫よけの薬を自宅の周辺に仕掛けておきましたね。この白い粒は、あなたが仕掛けた猫よけの薬と同じ成分のものです。これが現場に遺留されておりました」 「ばかな。こんなものがなんの証拠になる」  横尾は鼻先でせせら笑った。 「あなたはこの二件の遺留物を手に入れられる位置にいました」 「ばかげている。猫の毛なんてどこにでも落ちる。猫は一ヵ所に凝《じ》っとしていないよ。また猫よけの薬なんて大量に市販されている。そんなものがどうしてわたしだけの遺留物と断定できるのかね」  横尾は捜査本部の持ち札の弱いことを見抜いたらしく、完全に開き直った。 「第一、わたしには奥光さんを殺す動機がない。奥光さんはわたしにとっても大切な後援者の一人だよ。そんな大切な人間を殺せば、自ら糧道を絶つようなものじゃないか」  横尾は勝ち誇ったように言った。那須は横尾の前に黙したまま言葉を発しない。      3  二十日、若宮と洋子に任意同行を求めたものの、中野署の捜査本部では二人を責めあぐねていた。彼らの容疑は著しく濃厚であったが、有無を言わせぬ決め手を欠いている。任意同行であるのでいつまでも引き留めておくことはできない。そこへ家宅捜索班から一個の資料がもたらされた。 「これはきみのものかね」  取調べ官はその資料を若宮に突きつけた。一本のタイクリップである。純銀製のシンプルなデザインで、クリップの表面に六個の円が彫ってある。 「ぼくのものではない。ぼくはこんなタイピンは使わない」 「これがきみの車の中から発見されたよ」 「いろいろな人を乗せるので、だれかのものが落ちたのかもしれないな」  若宮に示したところ自分のものではないと否認した。若宮のものでなければ、だれのものか。それはどこから来たのか。  タイクリップの所有者とその出所が検討された。 「もしかすると、奥光の品ではないか」という意見が出た。 「奥光のタイクリップがなぜ若宮の車の中から出てきたんだね」 「若宮が奥光を殺したからだ。と解釈すれば若宮のマイカーに奥光の品があったとしても不思議はない」 「若宮と奥光の間には直接的なつながりはないが……」 「そうとは言えまい。若宮が転売した明日千代の家と土地は奥光の関連会社のものになっているんだ」 「奥光を殺した犯人が、わざわざ疑惑をまねくような相手方に物件を転売するものかね」 「若宮が売ったわけではない。間に入った第三取得者が転売したのだ」 「だったら若宮と奥光の関係が断たれてしまうではないか」 「明日めぐみがタイクリップを運んできたのではないか」 「めぐみが!?」  新たな意見が出された。 「当夜めぐみは奥光の部屋へ行った状況が濃い。めぐみが持ち出して来たタイクリップが、若宮の体に引っかかって、彼のマイカーに運び込まれた」  大胆な着想であったが、可能性はある。タイクリップの発見は新宿署にも伝えられた。奥光の家人にタイクリップが示されたが、よく憶えていないということであった。  取調べ官はタイクリップの出所について、さらに若宮を追及した。 「奥光利夫さんを乗せたことはあるかね」 「おくみつ? そんな人知らないね」 「東京交通不動産という会社の社員だ」 「そんな会社には関係ないよ」 「関係ないことはないだろう。きみが水谷雄二氏に転売した明日さんの家屋と土地は、いま東京交通不動産の関係会社が所有者になっているのだ」 「そんなことは知らない。いったん売ったものがどこへ転がって行こうと、おれの知ったことではない」  と言ってから、若宮は慌てた口調で、 「もともとおれは明日千代とかいう人から家や土地を買ったおぼえはないんだ」  と言い足した。 「それは結構。それではきみは奥光利夫氏を知らないんだ」 「知らない。名前を聞いたこともなければ会ったこともない」 「その名前を聞いたことも会ったこともない人間のタイクリップがどうしてきみの車の中にあったんだ」  まだタイクリップが奥光の部屋にあったかどうか確かめられていないが、取調べ官は推論に立って訊問を進めた。 「そんなこと知るもんか」 「可能性はただ一つ。あんたが明日めぐみさんを殺した夜、彼女は生前、奥光さんの部屋へ行ったんだ。奥光さんの部屋から帰って来て、あんたに殺された」  きみがいつの間にかあんたになっている。 「おれは殺してなんかいないと言ってるだろう」 「あんたが彼女を殺していなければ、奥光氏のタイクリップがあんたの車の中に転がっているはずはないんだ。あの夜、奥光氏の部屋からこのタイクリップを持って来られる人間は明日めぐみさん以外にはいない。そのタイクリップがあんたの車の中にあったということは、あんたが当夜めぐみさんと接触している証拠だよ。あんたはめぐみさんを殺した際、このタイクリップを衣服のどこかに引っかけてマイカーに持ち込んだんだ。タイクリップは引っかかりやすいし、めぐみさんがいまわの際《きわ》に証拠としてあんたのポケットに放り込んだのかもしれない。名前を聞いたことも会ったこともない人間のタイクリップがなぜあんたの車の中にあったか、そのことをちゃんと説明できない限り、あんたはめぐみさんを殺した犯人ということになる」 「ど、どうしてめぐみだけがタイクリップを持ち出せると決めつけられるんだ。当夜奥光とやらの部屋へ行った者は、だれでもタイクリップを持って来られるじゃねえか」 「奥光氏はその夜新宿のホテルで殺されたんだ。めぐみさんのほかにタイクリップを持ち出せるものは犯人だ。めぐみさんが持ち出したのでなければ、あんたが奥光氏を殺して持ってきたことになる。奥光氏殺しをめぐみさんに見られたので、彼女のあとを追いかけて来て殺したんだろう」 「とんでもない。おれがなぜ奥光を殺さなければならないんだ」  若宮は悲鳴のような声をあげた。 「だったら、奥光氏のタイクリップがなぜあんたのマイカーの中にあったか、それを説明するんだ」  取調べ官はデスクを叩《たた》いた。 「それじゃあ聞くが、これがおくみつとやらのタイクリップだという証拠がどこにあるんだ。名前が彫ってあるわけでもないのに、その辺に転がっていたクリップを拾ってきて、人殺しの証拠にデッチ上げているんじゃねえのか」  若宮が取調べ側の最も弱い所を突いてきた。中野署ではいったん若宮と洋子を帰宅させざるを得なかった。逃亡と証拠隠滅の恐れがあったが逮捕するだけの材料に欠ける。捜査本部は両人を監視しながら若宮と奥光の関係を探った。  新宿署の捜査本部が横尾を仕止める武器を欠いて攻めあぐねているとき、中野署からタイクリップの発見と、その出所に関する連絡と意見が寄せられた。  両捜査本部は合同会議を開いた。タイクリップが新宿署の蒐集した�横尾資料�に照らし合わせられた。そして重大な事実が発見された。いったん帰宅を許されていた横尾に二十二日再度任意同行が求められた。 「いいかげんにしてもらいたいな。警察の推理ゲームにつき合っているほど閑ではないのだ。総監がこのことを知ったらなんと言うかな」  横尾は那須の前で居丈高になった。背後に権力のかげをちらつかせている。 「恐縮です。今度はすぐにすみます」  那須はさらりと躱《かわ》して、 「ネクタイピンが替わりましたね」  半ば独り言のようにつぶやいた。 「なんだって」  横尾は束《つか》の間《ま》、那須の言葉を聞き逃したらしい。 「前は純銀の、丸が六つ彫り込んであるタイクリップを愛用されてましたな。いまはホワイトゴールドで鎖が付いております」  那須に言われて、横尾ははっとしたような目を自分のタイピンに向けた。那須に決定的な弱味を握られたような不安が揺れているが、不安の正体を確かめられないだけに、不安が助長されている。 「タイピンはたくさん持っているのでよく取り替えるが」  それがどうしたというように、横尾は視線を返した。 「銀のタイクリップはどうなさいました」 「さあ、おぼえていないが、そんなタイクリップを持っていたかな」 「たしかに持っておられましたよ」 「それじゃ家のどこかにあるだろう」 「いや、おたくにはありませんね」  那須は自信のある口調で言った。 「あなたにそんなことがどうして言えるんだ」  横尾の面《おもて》に不安の色が濃くなっている。 「あなたはそれを紛失したからです」 「紛失したって」 「昨年十月二十七日の夜、あなたは愛用のタイクリップを紛失しました」 「なにを言いたいのかわからないが、憶測だけでいいかげんなことを言うな」 「憶測で言っているのではありません。あなたのタイクリップは若宮清治という人間のマイカーの中に落ちていました」 「若宮、そんな人間は知らない」 「それでは明日《ぬくい》めぐみさんを知っていますか」 「明日めぐみ、だれだね、それは」  横尾の反問に取り合わず、那須は、 「それでは若宮清治と洋子を知っていますか」 「そんな人間は知らないと言っただろう。名前を聞いたこともなければ会ったこともない」 「奥光氏が殺された当夜、明日めぐみさんは彼の部屋を訪問した後、自分の居室で殺されたのです。報道されましたが知らなかったのですか」 「殺人事件のニュースには関心がない」 「若宮が明日めぐみさんを殺した犯人です」 「それがなんだというのだね。若宮だの明日だの、わたしになんの関係もない人物が殺したの殺されたの……わたしはそんな戯言《たわごと》につき合っている暇はないんだ。会議が始まってしまう。失礼する」  横尾は腰を浮かしかけた。 「すぐに埒《らち》があきます。もう少々お待ちください」  那須が余裕のある口調で止めた。横尾にはそれを振り切って立ち去るだけの度胸はない。 「明日めぐみさんは奥光氏が殺された当夜、彼の部屋を訪問しました。そこで奥光氏の死体を発見して、仰天《ぎようてん》して自宅へ逃げ帰ったのです。そしてそこで待ち伏せていた若宮清治に殺された疑いが濃厚です。若宮のマイカーにあなたのタイクリップが落ちていたのがなによりの証拠です」 「それがわたしと奥光氏とにどんな関《かか》わりがあるのだ」  横尾はいらだたしげに言った。 「大いに関係があります。あなたは当夜、奥光氏の部屋へ行き、タイクリップを落とした。その後明日めぐみさんが奥光さんを訪問して来た。めぐみさんは逃げる際、あなたが落としたタイクリップを持ち出した。そのタイクリップが彼女を殺した若宮の身体のどこかに引っかかって、彼のマイカーに移動したのです」 「ばかばかしい限りだ。まずタイクリップがわたしのものだという証拠がどこにあるのかね。名前でも彫ってあったというのかね。仮にわたしのものだとしても、どうして奥光氏の部屋へ落としたと言い切れるんだね。どこかほかの場所へ落としたかもしれないではないか」 「いいえ、あなたは当夜タイクリップを奥光氏の部屋へ落としたのです」 「どうしてそのように断定できるのだ」 「これをごらんください」  那須は数枚の写真を横尾の前に差し出した。 「この写真はあなたが国見先生をエスコートして党の本部から出て来る姿をある新聞社の政治部記者が撮影したものです。あなたは土曜日は先生の用事がないときはご自宅におられるとおっしゃいましたが、この日午後一時から党本部で後継総裁選びに関して総会が開かれました。その記事からもしやとおもって新聞社を当たったところ、この写真が出てきたのです。撮影時間は同日の午後三時、撮影者から確かめてあります。あなたが写っております。これが胸の部分の拡大写真です。たしかに六輪を彫り込んだ銀のタイクリップを着用しておられますね。あなたは昨年十月二十七日午後四時まではこのタイクリップを着用していた」 「そ、そ、それがどうしたというのだ。同じタイクリップはあり得る。どうしてわたしのタイクリップと断定できるのかね」 「あなたは昨年六月下旬、港区内の路上で小さな接触事故を起こしましたね。その際指紋を採られております。その指紋とタイクリップから検出した指紋を対照したところ、ぴたりと合いましたよ」  横尾の顔からみるみる血の気が引いていった。 「四時以後どこかべつの場所に落としたかもしれない」  横尾は土俵際であがいていた。 「いや、あなたが午後四時以後、奥光氏の部屋以外の場所にタイクリップを落とすことはあり得ない。あなたと明日めぐみさんとの間にはなんのつながりもない。それはあなた自身が認めている。するとあなたとめぐみさんの接点になる場所は奥光さんの部屋だけだ。めぐみさんがあなたのタイクリップを持っていたということは、とりもなおさずあなたが当夜奥光氏の部屋へ行ったということなのです」 「めぐみという女が持っていたわけではないんだろう。若宮とかいう男のマイカーの中から発見されたと言ったではないか」 「あなたは若宮ともつながりはない。あなた自身がそのように主張している。また若宮と奥光氏との間にも直接の関係はない。若宮があなたのタイクリップをマイカーに持ち込めるチャンスはただ一つ、明日めぐみさんと接触したときだけです。つまり若宮のマイカーにあなたのタイクリップがあったという事実は、若宮がめぐみさんを殺した証拠になり、同時に当夜あなたが奥光氏の部屋へ行ったという証拠になるのです。あなたは犯行時間帯になぜ奥光氏の部屋へ行ったか。行っていながら行かないとなぜ嘘《うそ》をついたのか、ご説明願いましょうか」  那須は止どめを刺すように言った。横尾の屈伏は、若宮の息の根を止めることにもなった。タイクリップは奥光のものではなかったが、彼の部屋にあったのだ。彼の部屋からタイクリップを持ち出せる者は、犯人を除いて明日めぐみ一人である。中野署は同女に対する殺人容疑の逮捕状を手にして、二十三日午前七時若宮と洋子を自宅で逮捕した。  これは一件の遺留品が二件の殺人事件の決め手となった特異なケースである。  横尾のタイクリップが若宮のマイカーに移動するためには、二件の殺人事件の現場を経由しなければならない。まずタイクリップの所有者である横尾が第一の殺人事件(奥光)の現場へ行く必要がある。次にそのタイクリップが第二の殺人事件の現場へ移動するためには第二の被害者《めぐみ》が第一現場に出入りしなければならない。第二の被害者が第一の犯人(横尾)と第二の犯人(若宮)をつなぐ橋となっている。  タイクリップが第二の犯人のマイカー内にあったという事実は、そのまま第二の犯人が第二の被害者に接触した証拠となる。第二の犯人の犯行を証明する物件は、そのまま第一の犯人の犯行を証明するものである。つまり第一の犯人が第一犯行現場に行かなければ、第二の犯人のマイカーに第一の犯人のタイクリップが存在するはずがないからである。  複雑ではあったが、タイクリップは二件の殺人事件を解く精妙な鍵《かぎ》となった。 [#改ページ]  相対性人都市      1  若宮清治《わかみやせいじ》は犯行を自供した。 「明日《ぬくい》めぐみさんを殺したのはわたしです。洋子《ようこ》と組んでインチキ害虫駆除業をやっている間に、小金をためている独り暮らしの老人を騙《だま》して金品を奪い取ることを考えつきました。最初は金持ちのじいさんに洋子が色仕かけで近づいて騙していたのですが、大した儲《もう》けにもならないので、身寄りのない大金持ちの老人を探し出してがっぽり稼ぎたくなりました。そんな時期におもい当たったのが、以前害虫駆除業時代に行ったことのある明日|千代《ちよ》さんでした。明日さんは祖師谷《そしがや》の第一種住宅地に広い土地と旧《ふる》いながらも大きな家を持っていました。彼女はその家に一人で住んでおり、身寄りもなさそうなので、わたしたちにとって絶好のカモでした。千代さんとは害虫駆除業時代に面識もあったので、近づくのも楽でした。千代さんは独り暮らしで寂しかったとみえて、親切ごかしに近づいたわたしたちを歓迎してくれました。千代さんの話から、彼女に一人孫がいることを知りました。その孫がめぐみさんで、彼女から一度だけきた葉書を大切に保存していました。その葉書の住所から郵便局に届け出た転居先や運送屋やアパートの管理人に聞いて現住所を探り当てたのです。めぐみさんが少しずつ手がかりを残して行ってくれたので、追跡することができました。その時点ではまだめぐみさんをどうこうしようという意思はありませんでした。ただ千代さんのただ一人の相続人として、その所在を確かめておきたかったのです。  ところが昨年の八月八日、千代さんを訪ねて行くと、千代さんはたくさんの猫に囲まれて死んでいました。その前から体力の衰えを訴えていましたが、そんなにぽっくりと逝《い》くとはおもってもいませんでした。死亡届けを出すと、その時点からめぐみさんが千代さんの遺産を相続してしまいます。そうなると遺産を横取りできなくなるので、千代さんの死を秘匿することにしました。千代さんの存命中から実印や権利証のしまい場所は聞いておりました。印鑑証明を取って水谷雄二《みずたにゆうじ》氏に転売したのはご存じのとおりです。だがめぐみさんが生きている間は、いつその転売を無効にされるかわかりません。本来はめぐみさんが相続すべき遺産を、無権利のわたしが転売したので、水谷さんもその後の相手もなんの権利も得ません。そうなると最も新しい買い手から次々にわたしまでさかのぼって責任を追及されることは明らかです。警察の追及を受けた場合に備えて、岩木秀男《いわきひでお》の名義を盗用しましたが、めぐみさんさえいなければ、わたしの売買の無効を主張する者はいません。  そこで昨年十月二十七日夜、めぐみさんの居宅の近くで彼女が帰って来るのを待ち伏せ、洋子が明日千代さんが病気でめぐみさんに会いたがっているので迎えに来たと偽って二人して彼女の部屋へ入り込みました。めぐみさんは千代さんを祖母とはおもっていない。生きようと死のうとわたしには関係ないと言いました。わたしたちは彼女を説得する振りをしながら隙《すき》を見て、わたしが彼女に躍りかかって首を絞めました。ぐったりとなっためぐみさんを押入れの中へ隠したのは、発見を少しでも引き延ばすためです。遺留した猫の毛は、千代さんの家から付けていったものだとおもいます」 「千代さんの死体はどうしたのだ」  取調べ官は問うた。 「八王子の山中に運んで埋めました」 「千代さんの飼い猫の姿も見えなくなったが、おまえたちが殺したのか」 「猫については知りません。きっと餌《えさ》をやる者がいなくなったので、てんでんに家出をしていったのではないでしょうか」  若宮の自供に基づいて、八王子山中から明日千代の死体が発掘された。時価十二億を超える巨額の不動産を抱えながら、生前愛していた猫たちからも引き裂かれて、寂しい山中に手間を惜しんで掘られた最小限の穴の中に押し込められるように明日千代の死体は埋められていた。若宮の自供をもって事件はすべて解決した。  ほぼ前後して横尾重雄《よこおしげお》も犯行を自供した。 「わたしが奥光利夫《おくみつとしお》を殺した。奥光とは東京交通グループの献金パイプとして、わたしはオヤジ(国見《くにみ》代議士)と岩井派の窓口になってしばしば接触していました。わたしは藤枝桐子《ふじえだきりこ》と深間になり、奥光が運んできたヤミ金をかなり使い込んでおりました。奥光はその事実を知り、わたしが着服した金額の半分をリベートせよと迫りました。秘書が一割か二割の歩合で企業まわりの献金からピンハネすることはオヤジとの間で暗黙のうちに認められておりますが、全額着服の事実が露見すれば、オヤジから首になるだけでなく、オヤジの岩井派における立場も悪くなります。折からオヤジの引退が噂《うわさ》されて、わたしとオヤジの子息が後継争いをしておりました。そんな時期に献金着服の事実が表沙汰《おもてざた》にされれば、致命的です。しかしその金はほとんど藤枝桐子に入れ上げて、残っておりません。  そんな折も折、近くの老女の飼い猫が大挙してわたしの家の周辺に押しかけ夜な夜な啼《な》きわめき、排泄物《はいせつぶつ》を撒《ま》き散らしました。わたしは猫が大嫌いなのです。猫よけの薬を仕掛けたりして防戦しましたが、猫はびくともせず入り込んで来ました。わたしを嘲弄するように猫よけの薬のそばに汚物を残して行ったりしました。逆上したわたしは庭に罠《わな》を仕掛けてかかった猫を片っぱしから生き埋めにしてしまいました。その場面を折悪しく訪ねて来た奥光に見られてしまったのです。時期を同じくして東京交通不動産の疑惑が表面化して、奥光は渦中の人物として喚問必至となりました。奥光は喚問前に全額返済せよと迫ってきました。奥光の魂胆はわかっていました。私の弱味につけこんで、闇金を全額横取りしようと図《はか》ったのです。検察の喚問に対して金はわたしに渡したと供述しても、私には反駁できません。彼は着服した金額を全額リベートしなければ、すべてを表沙汰にしたうえに猫生き埋めの事実を世間に公表すると脅かしました。わたしの支持者の中にも猫好きの者は少なくありません。たとえ猫好きでなくとも、猫を生き埋めにしたことが公表されたら、有権者はそんな残酷な人間に決して投票しようとはおもわないだろう。追いつめられたわたしは、ついに奥光に対して殺意を固めた。奥光を排除しない限り、わたしの将来はない。オヤジの後継者争いに破れる前に、首を切られて放り出されるだろう。オヤジに密着して権力の甘味を知っているだけに、いまさら無位無官の身分には戻れない。  十月二十七日、奥光にリベートのことで相談したいと申し出ると、新宿ロイヤルホテルに七時ごろ来るようにと指定された。彼がそこから時どき女を呼んでいることは知っていた。奥光は女が来るのを待っている間にわたしに会おうという魂胆だったらしい。二十七日夜七時過ぎ、奥光のいる八一五号室へ行った。奥光はわたしの殺意に気がつかなかった。絶対的な優位に立っていると過信し、まったく無防備だった。話し合っている間に隙《すき》を見て、わたしはあらかじめ用意して行った金槌《かなづち》で奥光の頭部を撲《なぐ》った。彼は悲鳴も上げず昏倒《こんとう》した。抵抗力を失った奥光の喉《のど》を浴衣《ゆかた》の紐《ひも》で絞めて止どめを刺した。その後ベッドに死体を運んで部屋から逃げ出した。その際、タイクリップを落としたとおもうが、気がつかなかった。タイクリップが紛失しているのに気がついたのは、翌朝だった。わたしは愕然《がくぜん》とした。しかし奥光の死体はすでに前夜のうちに発見されていた。いまさら現場に探しに戻れない。わたしは生きた心地がしなかった。だがタイクリップが発見された様子はなかった。仮に発見されたとしても、わたしの持ち物であるという証拠はない。外国ブランドの高級品であるが、同種の品がないわけではない。最悪の場合でも奥光にプレゼントしたと言えばすむことだ。わたしは無理に不安をなだめた。数日生きた心地もなく暮らしたが、タイクリップを手がかりに刑事が追跡してくる気配はなかった。きっとタイクリップはべつの場所に落としたのだろうとわたしは自分を納得させた。まさかそのタイクリップを奥光を訪ねて来たデートガールが持ち出し、さらに彼女を殺した犯人の身体に引っかかって、そのマイカーへ運び込まれたとは知らなかった。タイクリップに奥光の怨念《おんねん》がこめられ、デートガールの怨《うら》みを相加して二件の殺人を告発する証拠としてデートガール殺しの犯人のマイカーに運び込まれたような気がする」  後半から横尾の言葉遣いが変った。言葉遣いに注意する余裕を失ってしまったらしい。 「明日千代さんの飼い猫を轢《ひ》き殺したのも証拠を消すためだったのか」  取調べ官は問うた。 「あの猫はわたしの車を目がけて狂ったように突っ込んで来た。明日家の飼い猫の中で、額に帽子型の縞《しま》のあるあの猫は、わたしの罠《わな》に最後にかかった猫だった。最もすばしこい猫だったが、ついに罠で捕えたので、干乾しにしたうえで生き埋めにしてやろうとおもって、そのまま放置しておいた。ところが自力で罠から脱出して、いつの間にか八坂家に飼われていた。わたしの車を目がけて突っ込んで来たのは、罠にかけたわたしへの怨《うら》みを忘れていなかったからかもしれない。その猫の毛が身体について、奥光を殺した現場に落としたとは知らなかった。まさに猫の怨みだとおもう。その猫に触れていないが、どこでその毛が付着したのかわからない。たぶん家か庭のどこかにこびりついていた猫の毛がわたしの身体に移ったのでしょう。猫よけの薬も少量だったので鼻が麻痺《まひ》していて身体についていたのに気づかなかったのだとおもいます。猫の怨みとしか言いようがありません」  明日千代の死体が発掘されたときとほぼ時を同じくして、横尾の家の庭の一隅が掘られて十数匹の猫の死体が発見された。  猫の死体は区の生活環境課に引き取られて処分された。      2  横尾の自供によって、事件はすべて解決した。それぞれ独立した殺人事件であったが、同一の猫の毛と、一本のタイクリップによって結ばれた事件であった。その点では関連事件と呼べないこともないだろう。打ち上げ式は両捜査本部合同で行なわれた。 「それにしても独り暮らしの老女から財産を横取りしようなんて太い根性だね」  牛尾《うしお》が憮然《ぶぜん》として言った。 「もしかすると明日千代はいいときに死んだかもしれませんよ。生きていたらいずれは若宮と洋子に殺されてしまったかもしれない」  青柳《あおやぎ》が言った。 「明日千代が死んだというのも、若宮らが言っているだけにすぎない。死人に口なし。解剖によっても死因は不明だった。本当は殺したのかもしれないな」  大上《おおがみ》が口を開いた。 「考えてみれば、ばあさんが財産を持っていなければ、明日めぐみは殺されずにすんだんですね」  恋塚《こいづか》が湿った口調で言った。 「めぐみは千代を祖母とはおもわないと言っていたそうですが、案外自衛本能から言っていたのかもしれません」  笠原が言った。 「めぐみにしてみれば、ばあさんの財産を相続するより、自分を切り売りして生きている方がましだったのでしょう」  牛尾の面《おもて》が曇っている。 「明日千代の遺産はどうなるのでしょう」 「無権利者が勝手に転売したのだから取引きは初めから無効ということになる。ただ一人の相続人も殺されてしまったので、結局遺産は国庫におさまるということになるんだろう」  恋塚の素朴な疑問に大上が答えた。 「明日千代やめぐみは可哀想《かわいそう》でしたが、奥光利夫については、あまり同情を感じませんね」  笠原《かさはら》が話題を転じた。 「奥光も悪でした。欲を起こさなければ殺されずにすんだかもしれない。いや、本当の動機は猫生き埋めの現場を見たからかもしれません。横尾のヤミ金着服については、奥光にも後ろ暗いところがあるので、表沙汰《おもてざた》にすることはできない。もともとヤミ金は途中で消えても表立って追及できない性質の金です。奥光も叩《たた》けば埃《ほこ》りの出る体だ。どうせ横尾と同じ穴の狢《むじな》ですよ。横尾の本当の動機は、金ではなく猫だったとおもいます。その猫の毛によって完全犯罪が露《あら》われてしまった。天網恢々疎《てんもうかいかいそ》にして漏《も》らさずという諺《ことわざ》があるが、まさに天の毛でしたな」  牛尾の解説に一同がうなずいた。打ち上げ式の酒に酔っている顔は一人もなかった。      3  横尾が犯行を自供したことは、八坂《やさか》家に衝撃をあたえた。 「驚いたわ。横尾さんが犯人だったなんて」 「でも、わたし、なんとなくそんな気がしたのよ」  頼子《よりこ》が母親の顔色をうかがった。 「お隣りのおばあちゃんの運命についてもあなたの予感が当たったわね」 「もう少し早く気がついていれば、おばあちゃんを助けてあげられたかもしれないわ」 「仕方がないわよ。気安く覗《のぞ》き込めるような家ではなかったし、親戚《しんせき》の人がついているとおもっていたんだから」 「恐ろしい親戚だったわね。わたし、絶対あの親戚は怪しいとおもっていたんだ」 「あんまり深入りすると、わたしたちが殺されちゃったかもしれないわよ」 「怖いわ。おばあちゃんの飼い猫は横尾さんに生き埋めにされちゃったそうだけど、もしかしたらおばあちゃんも生きたまま埋められてしまったかもしれないわよ」 「そんな怖い想像やめてちょうだい」 「ねえ、お母さんお願いがあるの」 「なあに」 「猫を飼ってもいいかしら」 「猫を」  郁枝《ふみえ》はぎょっとしたように娘を見た。 「わたし、ボウシが忘れられないの。ほら、新聞に書いてあったでしょ。ある日猫がふっといなくなってしまった話。ふと気がつくと猫の形をした穴が心に開いているって。わたしの心の中に猫の形をした穴があいているのよ。猫型のピースの欠けたいつまでも出来あがらないジグソー・パズルのように。それを埋められるものは猫しかいないわ。ねえ、お願い、いいでしょ」  頼子に言われて郁枝も自分の心に猫型の穴が開いていることに気がついた。心の奥に風の通うような虚《むな》しさをおぼえていたのはそのせいだったかもしれない。 「動物と暮らすということは、必ず別れの日が来るということよ。あなた、そのときの悲しみに耐えられて」 「わからないわ。でもそんな先の悲しみを考えるより、とりあえずいま心にあいている猫型の穴を埋めたいの。お母さん、お願いお願い。一生のお願いよ」 「あなたには一生のお願いが何度もあるのね」  郁枝は苦笑しながらも自分も心の猫型の穴を埋めないことには立ち直れないような気がした。      4  明日めぐみと奥光利夫殺しの犯人が自供したという報道を、道浦良一《みちうらりよういち》は寂しく聞いた。犯人が捕まっても、めぐみの命は戻ってこない。そして自分は唯一の安らぎの場所を失ってしまったのだ。  犯人の自供後間もなく、道浦の東京本社復帰が決まった。本来なら喜ぶべきことであるが、心が少しも昂揚《こうよう》しない。道浦の東京復帰を聞いた妻は、露骨に困惑の表情を見せて、 「困ったわ、お父さんの部屋をどうしよう」  と言った。彼の部屋はすでに息子が勉強部屋として占領している。だからといってこれから受験期に入る姉弟を同室に入れることはできない。また夫婦が一間《ひとま》に同居する気もない。妻にも、道浦にもその気はまったくない。妻が同じ部屋に他人が寝ていると眠れないと言ったように、道浦も多年の単身赴任生活に馴《な》れて、一人の部屋でないと眠れなくなっている。 「困ることはないさ。おれが東京にアパートを借りればすむことだ」  道浦は言った。 「家があるのにアパートを借りるの」  妻が驚いた表情をした。 「部屋がなければ仕方がないだろう」  二重生活は単身赴任で馴れている。 「そうね。その方がおたがいのしあわせにとっていいかもね」  妻がうなずいた。子供たちはもちろん賛成である。  道浦は中野区のアパートに部屋を借りた。彼のアパートからめぐみが生前住んでいたアパートは近い。 「これから定年まで、いや一生単身赴任がつづくかもしれないな」  道浦は苦笑しながらつぶやいた。侘《わび》しいが心が離れた家族と無理に同居するよりも、単身生活の方が気が楽である。帰るべき家と家族を失った単身赴任者。  道浦はそのとき、以前に読んだSF小説をおもいだした。宇宙飛行士の物語である。宇宙船の速度が光の速さに近づけば近づくほど、アインシュタインの相対性原理によって宇宙船内での時間経過は遅くなる。たとえば太陽系から最も近い恒星、四・三光年の彼方《かなた》にあるプロキシマ・ケンタウリ星を光の速度で往復すると仮定すれば、地球では八・六年の年月が経過しているのに、宇宙船内ではほとんど時間が経過していないという奇妙な現象が起こる。  したがって亜光速で宇宙旅行へ出発する飛行士たちは宇宙から地球へ帰着してみると、数百年から数千年経過しているという事態に出遭う。もちろん彼らの家族や友人はとうに死んでおり、世界そのものが変わってしまっている。宇宙飛行士は当然のことながら未来社会に馴染《なじ》めない。これら相対性人はヒマラヤ山中に相対性都市をつくり、未来の一般社会から隔絶した生活を送るようになる。宇宙に単身赴任している間に、帰ってきた地球に馴染めなくなってしまったのだ。 (おれは現代の相対性人かもしれないな)  道浦は自嘲《じちよう》的な笑みをもらした。SFの相対性都市に比べて規模は小さいが、道浦が家族と離れて借りたアパートの一室は一種の相対性都市である。いずれは単身赴任という宇宙飛行の間に帰るべき家庭を失った寂しい男たちによって相対性都市が築かれるかもしれない。  道浦が単身赴任から帰って来たとき、家族は死んでいなかった。だが家族との間に開いた心の距離は、宇宙飛行士の相対性人が経験した数百年、あるいは数千年の時間のずれに匹敵する。それは心に広がる暗黒の宇宙となって、埋めようもない虚《むな》しい空間を開いている。  道浦はかつてめぐみが、わたしたちはセックスの救急車よと言った言葉をおもいだした。だが彼女らは現代の相対性人の救急医であったことにおもい当たった。 角川文庫『殺人の赴任』平成5年3月25日初版発行