[#表紙(表紙.jpg)] 殺人の組曲 森村誠一 目 次  黙 契  影の方位  殺 意  藪《やぶ》の狼《おおかみ》  写 真  お停まり地蔵  新たな絆《きずな》  恋神《キユーピツド》の誤射  足 音   作者自身による解説 [#改ページ]  黙 契      1 「ああいう醜女《ブス》があんな高い所で踊っていると超ヒン(ひどく顰蹙《ひんしゆく》をかう)なのよね」  由美子が忌々《いまいま》しげにつぶやいた。ホールの方を見ると、ダンスフロアを囲む形で立っている円形の|踊り台《ダンステーブル》の上に白いワンピースを着た若い女が派手な身ぶりでディスコサウンドに合わせて踊っている。その踊りがうまいか下手かは別にして体を目いっぱい使って楽しさを表わそうとしているかのような踊り方である。 「ウィークデイだからあの程度の女がのさばっていられるのよ。週末に来たらこんなもんじゃないわよ。美《い》い女ばかりよ」  由美子が眉《まゆ》をしかめた。ダンステーブルを白いワンピースの女に占められているのがよほど忌々しいらしい。たしかに平凡な面立《おもだ》ちの女であるが、由美子が言うほどの「ブス」とはおもえなかった。 「きみより美《い》い女がいるのかい」  吉崎が言うと、 「馬鹿」と唇を突き出して軽くにらんだ。それで少し機嫌がなおったようである。  吉崎は三十四歳のサラリーマン、由美子は二十一歳の私立女子大生、彼らは旅行先でカメラのシャッターを押し合ったのが機縁で知り合い、東京へ帰って来てからも交際を延長している。  今日は週末ではなかったが、会社が終った後由美子と食事してからいま最もナウいと言われている六本木のディスコへやって来た。由美子に言わせると、ダンステーブルのような一際目立つ場所に立って踊る女には相当容姿と踊りに自信がなければならないそうである。それも自信だけではだめで、自他共に認める美《い》い女でなければならない。それにはずれた女がダンステーブルで踊ると一同の�黙契�に反すことになる。  ディスコの黙契は各店|毎《ごと》に異なっていて、ナウい店ほどうるさくなる。例えば六本木の「メデューサ」では踊りの下手な者は「帰れ帰れ」のシュプレヒコールがかかったり、新宿の「ロマンチック」では背広族《ドブネズミ》は踊らせないという黙契がある。  いま二人が来ている「ラストテーマ」では容姿に自信のある者(特に女性)という黙契がある。その自信家のナルシストの女性の中でも目立つダンステーブルに立つ者は、美女中の美女という暗黙の了解が成り立っている。それにはずれた者が立つと、フロアがシラケて踊る者がいなくなり、暗にしかも残酷に拒否してしまう。  だがその黙契も客の少ない平日は緩和される。だから「白いワンピース程度の女」でもダンステーブルに立てることになる。由美子は十分そこに立つ資格を備えているが、彼女ほど気位が高くなるとかえって立たなくなる。  白いワンピースの女に勇気づけられたのかそのレベルの女性がさらに二人、残っているダンステーブルに上がった。彼女らは一時このディスコスポットのスターになるのである。      2  数日後、吉崎は受付けから面会人が来ていると告げられた。今日は約束《アポ》もない。はて、いったいだれかと首を傾《かし》げながら応接室へ行くと、薄い記憶のある同年輩の男の顔が精いっぱいの愛想笑いを浮かべてソファから立ち上がった。  たしかに記憶にある顔だが、咄嗟《とつさ》におもいだせない。どう応対すべきかわからないままに中途半端に相手の愛想笑いをうけていると、「やあ、お久しぶりです。所用でお宅の会社の前を通りかかったもので、懐しさの余り、ご迷惑かとおもったのですがつい立ち寄ってしまいました」と声をかけてきた。  懐しさの余りと言うからには旧い交友関係であろう。 「いや、それはそれは……」  吉崎が如才なく応じながら過去の交友ファイルを探っていると、 「過日、電車の中で偶然、水島君に会いましてね、あなたの消息を聞いたんですよ」  と言葉を追加した。水島という名前に、相手の身許が一挙に割り出された。水島と共に高校時代のクラスメートだった垣見という男であった。高校時代はクラスが同じというだけであまり親しくしていたわけではない。 「やあ垣見君か、それは懐しい」  相手の素姓がわかって吉崎は如才なく反応した。 「なにげなくこの前を通りかかって、水島君にきみがここに勤めていると聞いたことをおもいだして矢も楯もたまらなくなっちゃったんです。やっぱり一流会社は応接室からしてちがうなあ」  垣見はオーバーなことを言って周囲を見まわした。贔屓目《ひいきめ》に見ても、「並の上」という程度の会社を「一流会社」と持ち上げられて吉崎は苦笑した。  垣見は受付嬢が出した茶をずずっと音をたてて啜《すす》ると、級友のだれそれの噂《うわさ》をした。吉崎は次第にいらいら[#「いらいら」に傍点]してきた。ちょっと忙しい仕事をかかえているときであった。昔の想い出話も悪くはないが、いまはそのときではない。だが垣見は悠長に腰を落ち着けていっこうに帰る気配がない。どうも偶然通りかかったのではなく、なにか魂胆をかかえているようである。  一応、背広にネクタイをつけてまともな格好をしているが、背広は肘《ひじ》や背中が光っている。ネクタイは結び目が細くなっている。靴は後ろ革の縁が擦れて白くなっている。いわゆる擦り切れた安サラリーマンといった風体である。  吉崎は垣見がなにをしているか特に聞かなかった。下手に聞くとつけ込まれそうな感じがした。 「今日はわざわざ寄ってくれて有難う。久しぶりに昔の仲間の消息に接して懐しかったですよ」  吉崎がそれとなく帰ってくれるようにうながすと、垣見はおもいだしたように、 「実は同級生の誼《よし》みでちょっとお願いしたいことがあるんですが、いや大したことではないのです」と切り出した。 「なんでしょう」  吉崎がそら来たと身構えると、 「実は仕事で出歩いている間に財布を落としてしまいましてね、文無しになってしまったのです。家に帰るに帰れず、困っていたところちょうどあなたの会社の前へ出たというわけです。まことに申し上げかねるが、ちょっと拝借できないでしょうか」  愛想笑いが卑屈になっている。どうせ嘘《うそ》をつくならもう少し上手な嘘をつけばよいものをと内心の苦笑を隠して吉崎は、 「それはお困りでしょう」  と財布の中から数枚の千円札を引き抜いて差し出した。自宅がどこにあるか知らないが、出身高校が都内であったからそれほど遠方に住んでいるとはおもえない。これで住居までの交通費を十分に賄《まかな》えるだろうとおもった。  ところが垣見は言い難そうにもみ手をした。 「実はちょっともう少しお借りしたいのですが」 「いくらご入用なのですか」  吉崎は相手の図々しいのに呆《あき》れながら尋ねると、 「ここ数日旅館に泊まっておりましてその支払いが十万ほどたまってしまったのです。いえ帰ればすぐにお返しいたします。なんとか同窓の誼みでお貸しいただけませんか」  と猫なで声で訴えた。吉崎はこの男馬鹿ではないかとおもった。財布を失ったので家までの交通費を貸してくれと言いながら、その口の裏から旅館の支払いが滞《とどこお》っていると言っている。  旅館の支払いは出発前にすますものである。旅館を出た時、財布を失ったのなら家までの交通費があればよいはずである。支払う前に失ったのなら、家から送金させればよい。だいいち自分の住居すら明らかにせず、十数年前同級であったというだけで没交渉だった人間に十万という大金を借りようとしている。嘘はわかっていたが、言っていることが支離滅裂であった。 「私もそんな大金の持ち合わせはない。これで帰ってください」  吉崎は数枚の千円札を引っ込め、代りに一枚の一万円札を音をたてて垣見の前へおくと立ち上がった。垣見がどんな表情をしたか振り返らないのでわからない。  自席へ戻って来ると猛烈に腹が立った。なぜろくなつき合いもなかった垣見に十万も無心されなければならないのか。同級とは言っても学生時代にほとんど口をきいたこともなかった。  一万円やったことすら惜しい気がした。そのとき吉崎は先日ディスコへ行ったときの由美子の言葉をおもいだした。 「ブスがあんな高い所で踊っていると超ヒンなのよね」と彼女は言った。なぜ顰蹙《ひんしゆく》をかうのか。それは相当の美女と自他共に認められる者がダンステーブルに立つという黙契を破ったからである。  なぜ垣見に対してこんな腹立たしいおもいをしているのか、その理由がわかった。彼にあたえた金が千円札二、三枚であればこれほど腹も立たなかっただろう。  借金を申し込む場合、借手と貸手との間にこの人ならばこの程度の金額を申し込んでもいいだろう、貸してもいいだろうと、貸借前に暗黙の了解あるいは認識がある。つまり相互の人間関係や借手のおかれている状況、貸手の資力などを総合勘案しての�予算�があるのである。これが社会の黙契というものである。  この黙契が破られると、金策が破談になるだけでなく、人間関係までが壊れてしまう。  垣見は黙契を破ったのである。垣見が�昔の誼《よし》み�にすがって吉崎に無心できるのは、数千円である。それが彼らの間の借金に関する黙契である。それをいきなり十万円貸せと言ったのは、黙契を大きく破った。  十万円までは貸してもいい、申し込んでも許せるという黙契が成立している人間はいる。彼らが仮に百万円貸せと言ってきたら、やはり黙契からはずれる。      3  この事件をきっかけにして吉崎は社会における黙契というものを改めて見つめなおした。黙契は常識とかなり重なり合うが、微妙な点や部位においてずれている。  例えば「ディスコのブス」にしても、常識とは言えない。常識の概念はもっと広く、社会のあらゆる場面に通用するのに対して黙契はある特定の環境や状況下において特定の人間の間のみに成立することが多い。常識に反することでも黙契が成ることもある。  吉崎が黙契を意識するようになってから、さまざまな場面で黙契を経験した。劇場、レストラン、列車、バスなどにおいて未知の人間は適当な間隔をおいて席を占める。特定の空間に見事なバランスをもって散らばっている。これはそれぞれの縄張りに黙契が成立しているからである。空いている車内や劇場ですぐ隣りに坐《すわ》られると不愉快なのは、縄張りに関する黙契が破られるからである。  混んでくるに従って各縄張りが狭くなってくるが、黙契があることには変わりない。混雑の度合に比しての縄張りのスペースに関する黙契は、立錐《りつすい》の余地もない満員車内でもなくなったわけではない。黙契があるから非人間的なすし詰めにも耐えられるのである。  街でよく女の子に声をかけている男の姿を見かける。どんな言葉をかけているのかとそれとなく注意していると、「お茶を喫《の》まないか」という誘いが圧倒的に多い。  次に一緒に散歩しないか、食事をしないか、映画を見ないか、いま閑《ひま》だったら少しつき合ってくれないかなどという呼びかけがつづく。  変わったところでは明日の午後六時に会ってくれませんかというのがあった。女の子を誘うのはたいてい現在のこととしてであるが、彼は将来の約束として声をかけていた。行きずりの女性に将来のデートを申し込むのは変わっているが、奇を衒《てら》って気を引こうとしたのかもしれない。  女の子は面白がっていたが、そんな約束に応ずる者はいなかった。  中に一人、ずばりホテルへ行かないかと声をかけている男がいた。女の子から相手にもされず一蹴《いつしゆう》されていた。  行きずりの女性を誘うのは、お茶ぐらいまでという黙契がある。たとえ最終のターゲットはベッドに誘うことにあっても、まずはお茶というのが礼儀であり、それを越えるのは黙契に反するのである。  女性が男にご馳走《ごそう》になる場合も黙契がある。 「なんでも好きなものをオーダーしたまえ」  と言われてもおのずから彼の懐ろ具合を察しての黙契があるものである。それを無視してメニューの最高級品ばかりをオーダーする女は、速やかに敬遠される。  公衆道徳的な黙契は、電車やバスなどで成立する。まず縄張りがある。次第に混んでくると縄張りが狭くなって身体が密着してくることはすでに観察ずみである。  座席がほぼ満席に近くなったとき、どうかしたはずみに、わずかな空間ができることがある。これは乗客が各間隔を不揃《ふぞろ》いに坐ったために、一人前にはやや足りない空間が取り残されたのである。  ここに無理すればもう一人坐れそうだが、坐らない。立っている乗客はチラリと目測してちょっと無理かなと瞬時に判断する。ここへ割り込んで来るのはスマートな人ではなく、たいてい欲の深そうな太めの中年のおばさんである。彼女は遠慮会釈もなく、大きな尻《しり》をわずかな空間へぐいぐいねじ込んで来る。狭い空間に太めの人は坐らないという公衆道徳上の黙契を彼女は破っているのである。破っていることすら気づかない。  シルバーシートに若い人間が坐っているのは黙契違反ではなく、非常識となる。  社会の常識の堆《つ》み重なりが規範となったものが法律である。法には拘束力があり、これに違反すると責任を問われる。だが黙契を破っても責任を問われたり、罰せられたりすることはない。暗黙の了解であるからそれを破れば顰蹙《ひんしゆく》をかうだけである。法律以前の人間相互の取り決めのようなものであるが、それだけに社会にはさまざまな黙契がある。法に訴えるのは最終の手段であり、社会は黙契で保っているといってもよいくらいである。      4  春の人事異動と共に吉崎の部署に井野という係長が配属されてきた。まだ三十九歳ということであるが頭髪が半白で皮膚がしなびていて六十代に見えた。しかもまだ独身である。  井野の顔を見た瞬間、吉崎は不吉な予感が胸を走った。サラリーマンの本能的なカンと言うべきか、仕事の上でなにかよくないことが起きそうな予感がしたのである。  吉崎の課は厚生課である。会社の花形部署ではないが、専ら社員の福利厚生のために奉仕して社員の感謝を集めている。課長は五十八歳の窓際族で、温和な人柄であり、彼の下に課は和気|藹々《あいあい》とまとまっていた。会社の中で最も家族的な部署である。  営業課のような利《ノ》益責任《ルマ》もないから、課の雰囲気はしごくのんびりしている。  ところが井野はこれまで大阪支店の営業第一線にいたとかで、初めから異なる雰囲気を帯びていた。 「営業方面とちがって厚生、経理、総務、人事などの管理部門は利《ノ》益責任《ルマ》がないように心得てはる者が多いけど、とんでもない心得ちがいでっせ。たしかに直接的な売上げはありまへんけどなあ、鉛筆一本節約しよったら、そりゃ鉛筆一本売り上げたんと同じや。厚生課といえども売上げに協力することはできまっさ」  と赴任時の挨拶に述べた。  井野は間接(管理)部門の売上げは偏《ひと》えに経費節減によって達成されるという信念をもっていた。課長は当惑した表情をしているだけでなにも言わなかった。なにも言う必要がないほどにこれまでの厚生課の仕事は、黙契が成立していた。それが井野が異動して来てから次々と破られた。  数日後、吉崎は帳簿をつけかけて異常なことに気がついた。 「なんだ、このインキは。だれか水でも入れたのか」  吉崎は水っぽいインキに驚いた。デスクを並べていた山田葉一がそっと耳打ちした。 「井野さんがインキに水を入れたんです。これも井野流経費節減の一環です」  まさかとおもった。経費節減にも限度がある。呆《あき》れて言葉もない吉崎の方を見て井野が得々と、 「インキなんちゅうもんは字が読めればいいんや。普通のインキは三倍に薄めて十分用が足りまんねん。たかがインキなんて馬鹿にしてはいけまへんぜ。経費節減の原点はまさかとおもうようなところから発しますのや。インキの濃い薄いは問題やあらしまへん。要は字ぃ読めればええのんや」と言った。  次に井野は奇妙な一覧表を作ってオフィスの壁に張り出した。その表の前で課員たちが騒いでいた。いったいどうしたのかと問うと、夏目俊介が憤然として、 「吉崎さん見てくださいよ。ひどいじゃないですか。人権|蹂躙《じゆうりん》だ」 「プライバシーの侵害だ」 「おれたちを汗も小便も出さないロボットだとおもってるのか」  山岸清と岡野誠二がつづいて抗議した。表を見ると「厚生課員長便時間一覧表」と書かれて各課員がトイレット休憩に立った回数と所要時間が記入されてあった。  吉崎が茫然《ぼうぜん》としていると突然背後でしくしくと泣きだした者がある。振り返ってみると厚生課のアイドル松原晴美である。 「ひどいわ、ひどい……」  松原は肩を震わして嗚咽《おえつ》していた。彼女が長便一覧表の中で最も所要時間が長く、彼女の欄に「合計二時間四十五分。この分勤務時間に割り込んでいる。下痢でもしていたのか」と井野の註《ちゆう》が入っていた。  吉崎がこれはあまりにひどいのではないかと抗議すると、 「なにがひどいんや。会社は社員にトイレで過ごさせるために給料払ってへんよ。生理的必要行為であっても本来は昼休みや三時の休憩《ブレーク》時間中にすますべきものなんや。それがほんまのプロちゅうもんだす。それからこの際確認しときますが、タイムレコーダーはデスクに就《つ》いて仕事をする状態になった後に押すもんや。タイムを押してからスタンバイするんとちがいまっせ」  と平然たる表情で言った。井野自身が会社で定められた時間外にトイレへ行かないのでそれ以上|反駁《はんばく》できなくなった。  中野修平の細君が産気づいて早退を願い出た。課長が、 「それは心配だろう。早く行ってやりたまえ」  と言うと、井野が阻止した。 「ちょっと待っておくんなはれ。会社は社員にワイフの看病をさせるために給料払うておまへん。そのために産婆も看護婦もおりますさかいなあ。社員が女房に何人子供産まそうと、二号に何ダースの子供を孵化《ふか》させようとカラスの勝手だす。そやけど会社には関係おまへん」 「しかし産休は認められた権利だけど」  課長が遠慮がちに反駁《はんばく》すると、 「社員がお産する場合は休暇が出ます。そやけどそれは社員がお産するときだす。中野君がいつ妊娠しはりましたかいな。男がお産しはったら事件や。わしも手伝いに行きまっさ」  井野に言いまくられてなんにも言えなくなった。  課長はもともと温和な人柄で人と争って自説を押し通すという人物ではない。課のナンバーツーマンの井野の意見が事実上課を支配することになった。  それでなくてもべたべたと粘着するような井野の言葉を聞いていると、反発をおぼえながらも徹底抗戦しようという気が失せてしまった。井野の言うことは一応正論でもあった。  正論は正論として、実際の仕事は黙契によって成り立つ。建前より本音が人間関係の潤滑油となる。それを井野は黙契をすべて破棄して建前だけを押し通してきた。井野は�不協和音�という渾名《あだな》を奉られて課全員から忌《い》み嫌われた。 「あの不協和音野郎、電車に轢《ひ》かれて死ねばいい」 「あんなやつに限って最後まで生き残るもんだよ」 「このごろ会社へ来るのがいやになったよ」 「毎朝起きると頭や腹が痛くなるんだ。休日はなんともないんだから神経だね」  課員は愚痴をこぼしたが、面と向かってはなんとも言えなかった。      5  井野は課から総スカンを食っていながら、課員の私的な集まりにも図々しく首を突っ込んで来た。仕事の後仲間同士が誘い合って飲みに行くようなときも当然のような顔をして従《つ》いて来る。  彼が割り込んで来ただけで座がシラけるのにみながなんの興味ももっていない話題を押しつけ、一番多く発言する。野球の話をしているときに国際政治の話などを持ち出してさかしら顔に�解説�する。  話題が最高に盛り上がってきたときに、井野がしゃしゃり出て来て、「話はちがうけどなあ」と切り出すだけで、水をかけられてしまう。たまりかねていまはその話をしているのではないとたしなめても、「そやさかい、これから話をするんや」と平然としている。そのくせ、自分が最も上司の立場にありながら、一度として奢《おご》ってくれたことがない。 「割勘が貸借りなくてええのや。わずかな金を奢ってもらって借りの意識をもちとうないさかいなあ」  ときっちり数円の端金までも割った。 「あの野郎、奢ってもらうつもりでいやがる」 「あいつが一緒にいるだけで空気が汚れるよ」 「奢るどころか損害賠償してもらいたいよ」  課員たちはかげで毒づいたが、一応上司でもあるので面と向かってはなにも言えない。  このような嫌われ者だが、上層部にけっこう影響力をもっているようなのが無気味だ。 「井野は会社のCIAで、社内の合理化推進のために整理すべき人員を探しているんだ」 「課長がなんにも言わないのは自分が最初に整理されるのが恐いからだよ」  そんな噂《うわさ》が立った。その噂を踏まえて井野の傍若無人ぶりはますます増悪《ぞうあく》した。  盆暮になると取引業者から課|宛《あて》に中元や歳暮が届けられる。おおむね課員で平等に分配するが、酒、煙草等の嗜好《しこう》品は、辛党や、愛煙家にまわし、化粧品類や菓子類は女性を優先する。また余ったものは女性にやるのが慣習になっていた。  ところが井野は酒も煙草もやらないくせに、棄権しない。 「酒や煙草の嗜好のない者は、それをもらえへんちゅうのは不公平やおまへんか。デパートへもって行けば好みの品に取り替えてもらえるんやで。嗜好に関わらず公平に分配すべきや」  と主張した。分配しようのない端物が出ると必ず「これもろうてええやろか」とさもしげな表情をして全員の顔色をうかがう。いけないと言うわけにもいかず、結局彼のものになってしまう。  宴会の後に飲食物が残っても「これもろうてええやろか」をやられるので、せっかく楽しく盛り上がった雰囲気が冷めてしまう。      6  井野が異動して来てから一年が過ぎた。その間厚生課は彼に完全に支配されていた。社内CIAの噂にもかかわらず課から整理された人間は一人も出なかった。それだけ彼は恐持《こわも》てする存在になっていた。  毎年ゴールデンウィークを利用して社員の慰安旅行が行なわれる。今年は伊豆の温泉へ一泊二日で出かけることになった。井野が来る前は課員がみな楽しみにしていたものであるが、いまは義務的に参加するようになった。  社員全員|揃《そろ》っての宴会が終ると、各課や気の合ったグループ毎に街へ出かけたり、雀《ジヤン》卓をかこんだり、カラオケバーへ繰り込んだりする。 「井野が来るとぶちこわしだ。宴会が終ったらあいつをなんとかまいてしまおう」  吉崎が提案した。 「しかし、やつは離れないよ」  中野がうんざりした表情で言った。不人気のくせにみなと行動を共にしたがるのである。 「宴会が終ったらいったん解散する振りをして旅館の玄関に集まろう。そして河岸《かし》を変えて楽しくやるんだ。井野に絶対に知られないように行動する」  吉崎は課の仲間と細かく打ち合わせた。女の子たちも加わって�井野抜き�の計画は楽しく盛り上がってきた。彼一人を疎外するという計画だけで楽しさが弾んだ。  いよいよ旅行の当日となった。日本列島は全国的な好天のカサに入り、絶好の行楽|日和《びより》となった。今年は松原晴美をはじめ課の女性が全員参加したので、井野がいるにもかかわらず男子メンバーは張り切っている。だが往路のバスから井野がしゃしゃり出て来た。 「不協和音め、松原さんのそばにへばりついていやがる」  山岸が忌々しげに井野をにらんだ。松原晴美の隣席は、抜け駆けをしないように課長が坐ることに黙契が成っている。それを平然と無視して井野がさっさと彼女の隣りに坐ってしまった。 「せっかくの旅行やさかい。むくつけき男同士が並ぶ手はおまへんなあ」  と言いながら松原晴美が迷惑がっている気配などまったく意に介さずやに下がっている。車内のカラオケ大会が始まった。  井野はほとんど一人でマイクを独占して軍歌を調子はずれの声でがなりまくった。  ようやく旅館へ着いて宴会になると、またちゃっかり松原晴美の隣りに席を占めている。 「あの野郎、許せねえ」  独身で彼女に好意を寄せている岡野が険悪な表情になった。 「まあ、宴会までの辛抱だよ。あとは井野を撒《ま》いて楽しく飲み直しだ」  吉崎がなだめた。  社長の挨拶《あいさつ》で退屈な宴会が始まり、いわゆる�無礼講�と称する上層部ののど自慢が終ってようやくお開きとなった。若い社員にとってはこれからが社員旅行の本番なのである。社内カップルもあらかじめしめし合わせている。 (さあうまくやれよ)  吉崎は厚生課のメンバーに目くばせした。全員了解している。井野は松原晴美のかたわらでメートルを上げていた。これから�井野抜き�で楽しく遊ぶための二次会場が手配してある。車を玄関に呼んである。  メンバーは三々五々と解散すると、玄関へ再集合して来た。ほぼ全員集まったが、重要な顔が一つ欠けている。 「松原さんが来ないぞ」 「井野を撒けないんじゃないのか」 「迎えに行こうか」 「そんなことをしたら井野にバレちゃう」 「とにかくもう少し待ってみよう」  一同じりじりしながら待っているところへようやく松原晴美が姿を現わした。ホッとした一同は、次に奈落へ突き落とされたような気がした。彼女の後から井野がよろよろと千鳥足で追いかけて来た。 「松原はん、わてをおいてけぼりにしよってどこへ行かはるつもりや。わても連れてっておくれやす」  井野はすでにでき上がっている気配である。只《ただ》で飲める酒となると、好きでもないのに腰が抜けるまで飲むさもしい性格である。松原の表情が半ベソをかいて、「ごめんなさい。撒けなかったんです」と言っていた。  井野は当然の権利のように予約してあった車の中へ転がり込んで来た。すでにべろんべろんであるが、松原のそばから離れない。 「運転手さん、落下傘岬へやってください」  吉崎は咄嗟《とつさ》の判断で運転手に命じた。 「会場の方ではないので?」  行先を二次会場と聞いていた運転手が尋ね返した。 「海を見たくなったんだ」  運転手はそれ以上尋ねずに車を発進させた。メンバーは三台の車に分乗して落下傘岬へ行った。そこには相模灘《さがみなだ》に面する海面からの高度差約八十メートルの海蝕断崖《かいしよくだんがい》が二キロにわたって連なっている。落下傘でも飛び下りられるというところからこの名前がつけられた。観光名所としてより、自殺名所として名高い。ここから飛び下りた人間は海面下の洞穴に引き込まれて、死体が上がらないと伝えられる。  落下傘岬へ着くと車を返した。岬にもレストハウスやホテルがあるので運転手はべつに怪しみもせず帰って行った。  ほとんど正体のない井野を岡野と山岸が両脇《りようわき》から支えて岬の突端まで引っ張って行った。男たちは井野を囲み、女たちは後ろから従いて来た。だれもなにも言わなかったが、全員これからなにが起きようとしているかわかっていた。  やがて岬の突端に達した。眼前に切れ落ちた断崖のはるか下方に集塊岩が夜目にも白く波に洗われている。潮の香りが鼻腔《びこう》を衝《つ》いた。それは血腥《ちなまぐさ》いにおいであった。静寂の中に潮騒が轟《とどろ》いている。沖の方に漁《いさ》り火が点々と連なり、その上に黒々と覆いかぶさっている夜の空に星座がそれぞれの位置に陣取っている。美しい夜景が、一同にはおどろおどろしく映った。 「ここはどこや」  井野が酔眼を朦朧《もうろう》と見開いた。 「地獄の一丁目だよ」  吉崎が言うのと同時に、何人かの手が同時に井野の背を突いた。井野は人間とはおもえないような頼りなさで崖《がけ》から落ちた。井野を殺そうという黙契は一瞬の間に成り、だれも異議はなかった。  一同は井野が海へ落ちたことを確かめてから、彼が落下傘岬で夜景を見物中酔って足許《あしもと》を誤り海に落ちたと警察へ届け出た。井野の死体は三日後、そこから数キロ離れた漁村の浜へ漂着した。警察は吉崎らの届け出を信じて型通りの検死をした後、「事故」として処理した。  厚生課は以前のように和気|藹々《あいあい》たる家族的雰囲気に戻った。もはや課の調和を乱す不協和音はない。井野を黙契によって取り除いたことが厚生課の強い連帯感となっていた。岡野誠二と松原晴美は間もなく婚約した。  井野を殺した夜、彼らのカップル成立を認める黙契も同時に成立していたのである。 [#改ページ]  影の方位      1 「困ったな」  的場伸は車の中で身体の位置をかえながらつぶやいた。まだ隣県にある我が家までは遠い。 「運転手さん、その辺でちょっと停めてもらえないかな」  的場は、運転手に遠慮がちに声をかけた。 「お電話ですか」  運転手は背中越しに問い返した。 「いや、ちょっと自然が呼んでいるものだからね」 「あ、そうですか。もう少しご辛抱できませんか。場所を探しますから」  運転手は言った。このようなリクエストには馴《な》れているらしい。車は幹線道路を走っている。下り線の車が多く、両側にはビルと家屋が立ち並び、適当な場所が見当たらない。  その夜的場は銀座で飲んで、車を呼んでもらった。乗車前に一度用を足していたが、水分とアルコールを多く摂《と》ったせいか、車中途上で再びもよおしてきた。いったん萌《きざ》すと、つき上げるようにうながした。  的場はしばらくの間、体の位置をかえたり足を組みかえたりしながら耐えていたが、とうとうがまんできなくなった。それ以上辛抱していると、膀胱《ぼうこう》が破裂しそうである。 「きみ、まだかね」  的場は、運転手をうながした。 「はい、もう少しがまんしてください。この先に空地がありましたから」  運転手も焦っている。だが行けども行けども街並みはつづいていて、そんな空地は見えない。このままでは漏らしてしまいそうである。今を時めく人気イラストレーターの的場伸が、車内で漏らしたとあっては、週刊誌の格好のゴシップ種にされるかもしれない。  あまりに無理ながまんを重ねたので、下腹部の感覚がおかしくなっている。絶望で視野がかすみかけた。 「先生、ありましたよ」  運転手が声をかけた。車が道路の端へ寄り、減速している。雑草の繁った空地が広がっている。 「たすかったあ」  的場は救われたように言うと、車が停まるか停まらない間にドアを開いて車外へ飛び出した。そのまま転がるような勢いで草原の中へ駆け込んだ。  草むらの中でズボンの前を開き、放出の構えを取ったが、今度はなかなか放出しない。あまり長い間がまんをしたので、尿意は突き上げるようにあるのだが、放出につながらないのである。  しばらく突っ立ったまま臍下丹田《せいかたんでん》に力を入れる。そんなとき焦るとますます出難くなる。車はエンジンをかけたまま路傍に停まっている。べつに急ぐ必要もないのだが、車を待たせていることも、プレッシャーの要素になっている。  ようやく放出の尖兵《せんぺい》が来た。尖兵が出るとあとは楽になる。的場は長々と放出の快感を楽しんだ。下腹部の緊張が快く解けていく。  いったん放出し終ったような気がしても、その後から�残兵�が出て来る。年輩者特有の放出である。もしかすると前立腺《ぜんりつせん》肥大の気があるかもしれないなと漠然とおもいながら、的場はようやく用を終えかけた。  そのころになって周囲を観察する余裕が生じた。ここは世田谷《せたがや》区のはずれらしい。都内と神奈川県を結ぶ幹線道路に面している空地であり、おそらく大資本が擁している土地であろう。  空地の奥に最近|流行《はやり》のプレハブの二階建アパートが見える。二フロア二十室程度のアパートで、おそらく単身者向きのものだろう。会社の独身寮かもしれない。二階の向かって右の棟末の部屋だけ灯がついている。  この深夜なにをしているのか。的場は放出後の放心の中でふとおもった。的場のとりとめもない視線の先でその窓の灯が消えた。これでアパート全戸の灯が消えた。  きっと本でも読み終えたのか、あるいは読みさしのまま眠くなったのか。的場が時計を見るとちょうど午前一時を指している。彼がズボンの前を閉じかけたとき、今度は二階の中央辺の窓に灯がついた。 (やれやれ、ようやく全戸寝静まったとおもったら、別の部屋が起きてきた)  的場は、少しがっかりした気分で身仕舞いをすると、車へ戻った。べつに彼ががっかりすることではないのだが、帰宅途上、生理的必要に駆られて、ふと立ち停まった地点で、縁もゆかりもない人生とすれちがったような気がした。先方はすれちがったことにすら気がつかない。      2  翌日は終日家に閉じ籠《こも》って仕事をした。前夜飲んだ朝は、起床がいつもより遅れるのは止むを得ない。朝というよりは、午《ひる》近く起き出して、朝昼兼用の食事を摂《と》ってから午後二時ごろに仕事場へ入る。  こういう芸当ができるのも自由業だからである。もっとも今日は日曜日であるから世間一般は仕事を休んでいる。細君がテレビのスウィッチを入れた。アナウンサーが正午のニュースを伝えている。  的場は、食物を口に入れながら見るともなく目をブラウン管に向けた。アナウンサーの職業的な声が政界の動きを伝えた後、殺人事件のニュースを報じていた。  それによると、世田谷区S町のアパートで入居者の若いOLが乱暴されて絞殺されているのを、たまたま遊びに来た女性の友人が発見したというものである。  つづいてカメラが事件発生現場を映しだした。幹線道路脇の空地に面したプレハブ二階建アパートである。捜査員がものものしく現場検証をしているさまを、集まった弥次馬が遠巻きにして見ている。 「あれ」  的場はトーストを頬張《ほおば》ったままつぶやいた。 「どうなさったの」  細君が目を向けた。 「昨夜の場所じゃないか」 「昨夜の場所ってなんのこと?」  事情を知らない細君が問うた。 「帰る途中でちょっとションストをしたんだよ。そこがあのアパートの前だった」 「あらまあ」  細君が目を円《まる》くした。 「ちょうど人殺しのあったアパートの前でいい気分で長々と放出していたんだ」 「まあ恐い」 「そのときもう殺されていたのか、それともその後で殺されたのかな」 「あなた、もしかして犯人を見たんじゃなくて」 「まさか」  と打ち消しながらも的場は、用を足した後、灯が消えた窓と、交代して灯がついた窓の光景をおもいだした。  ぼんやり、テレビを見ていたので被害者の部屋を確認し損ってしまった。もしどちらかの部屋の主が被害者であるなら、あの灯の点滅はなにを意味しているのか。的場はまだ昨夜の酒が残っている頭で漠然と考えた。      3  その日の夕方、マスコミは容疑者が逮捕されたことを追報した。逮捕されたのは、湯川勝治二十六歳、新宿のキャバレーボーイで被害者の葉山夕子二十二歳とつき合っていた。知り合ったのは新宿の歩行者天国で、一年ごしのつき合いである。最近夕子の態度が冷たくなったために喧嘩《けんか》が絶えなかった。事件発生当夜も午後十一時ごろ彼女の部屋に来て、激しく口論していた気配を隣人たちが聞いている。  だが湯川は取り調べに対して、「確かに昨夜は彼女の部屋へ行ったが、午前零時半ごろ帰った。彼女が最近よそよそしいので詰《なじ》ったが、殺したりなどしない。俺《おれ》は夕子を愛していた。結婚するつもりだった。俺は絶対に殺《や》っていない」  と主張した。だが解剖によって、被害者の体内からAB型の精液が証明された。被害者はB型であり、その体液と混合しているので、犯人はA型またはAB型のはずである。そして湯川の血液型はA型であった。死亡時間は午前零時から一時の間と推定された。なお湯川の手や顔など露出した皮膚の部分に、被害者の抵抗によってつけられたと思われる引っかき傷が認められた。  それに対して湯川は、「被害者に肉体関係を求めたところ激しく拒否されたので、今さら何を言うかと力ずくで関係した」と供述した。  湯川の情況は著しく不利になった。捜査本部の大勢意見は、冷却した女の態度にカッとなって殺害し劣情を遂行したというものである。  湯川は警察に規定の時間留置された後、地検へ送られた。      4  マスコミの報道から得た情報を総合した的場は、何か違うなという違和感をもった。どこが違うのかまだよくわからないが、何かがずれているような気がする。いったいどこにずれがあるのか、そのことに思案が集まっていって仕事にならなくなった。自分には関係ないことだと言い聞かせて意識を仕事に向けようとするのだが、いつの間にか事件の方へ思惑《おもわく》が行っている。  翌日的場は仕事を投げ出した。心にわだかまる違和感を突きとめるために、現場へ行ってみることにしたのである。  再度現場に立ってみれば、違和感の源が見えてくるかもしれない。被害者の居室も確かめたい。 「あら、お出かけ?」  細君が不審げな表情をした。 「どうも気になるんでね、もう一度現場に立ってみたい」 「あなたも酔狂なお人ね。関係ないんでしょ。犯人と間違われるわよ」 「だって犯人はつかまったじゃないか」 「まだ犯人ときまったわけじゃないでしょ。新聞にも容疑者と書いてあったわ」 「そうか、お前もまだ犯人とは思っていないのか」 「関係ないと思っているだけよ。でも若い女の子がアパートで一人暮しをしているとろくなことはないわね」  細君はそれ以上|詮索《せんさく》しなかった。車を呼んで先夜�生理的ストップ�をした現場へ向かう。現場に着いたときは日が落ちていた。例の空地に立ってアパートを見ると、二階の右の棟末の部屋の窓は灯が点《つ》いていない。  まだ居住者が帰っていない部屋が多いらしく暗い窓のほうが多い。空地の端にアパートと道路を結ぶ私道があった。そこをアパートの方角へ向かいかけると、居住者らしい若い男が後から追い越して行った。的場はその男に背中越しに声をかけた。 「すみません。殺された葉山夕子さんの部屋はどこでしょうか」  突然呼びかけられて、男はギクリとしたように振り向いた。二十歳前後の学生らしい男である。 「新聞社の人ですか」  若い男は反問した。 「まあ、そんな者です」  的場は相手の勘違いを利用した。居住者は同じような質問を何度も受けているらしい。 「あの部屋です」  若い男が指さした部屋は二階の右の棟末の部屋であった。礼を述べて、先夜放尿した地点へ戻る。草原に立ってアパートの方角へ視線を向けた。葉山夕子の部屋の窓は暗く閉ざされたままである。  死体は解剖後まだ警察の管理下にあるのだろうか。彼女の死に際して駆けつけて来るべき身内や親しい者はいないのか。あるいは別の場所で彼女の死体を囲んでしめやかな通夜が営まれているのか。  解剖による死亡時間は午前零時から一時の間と推定されている。その最下限の時間にたまたま的場は現場の至近距離に居合わせたことになる。まったく関係ない人間であるが、その終焉《しゆうえん》に来合わせたことに的場は因縁を感じた。  葉山夕子がどんな生活史をもち、いかなる半生を生きてきたか彼は知らない。だが二十二歳の女の子がたった一人でこの大都会の人間の海の中で生活をしているのは、並大抵ではなかったであろう。この都会に夢や希望を託していたかもしれない。責任ある仕事を分担していたかもしれない。それらすべてを彼女の生命とともに何者かが不法に摘み取った。  的場は可哀想《かわいそう》だと思った。同時に犯人に対する怒りを覚えた。  もはやあの暗く閉ざされた窓に、葉山夕子が灯を点けることは二度とない。 「俺は夕子を愛していた。彼女と結婚するつもりだった」と供述したという湯川勝治の言葉がよみがえった。湯川の容疑は深刻であり、警察もマスコミもすでに彼を犯人扱いしているようである。 (待てよ)  的場は脳細胞に電流が走ったようなショックを覚えた。 「湯川が夕子の部屋から立ち去ったのは零時半だと言っている」 「だが俺が夕子の窓の灯が消えたのを見たのは午前一時だった」  的場は自問自答した。 「湯川が嘘《うそ》をついていなければ、夕子は遅くとも午前一時までは生きていたことになる」 「何故《なぜ》なら零時半に湯川が帰った後、夕子の部屋には彼女一人しかいなかったことになるからだ」 「もし湯川が犯人で、夕子を殺した後零時半に部屋から立ち去ったのであれば、午前一時に彼女の部屋の灯を消す者がいなくなる」 「もし湯川が犯人でなければ、真犯人は湯川が帰った後に来た。午前一時に俺が見た夕子の窓の消灯は、犯人の手によることになる」 「湯川が犯人でないと仮定して、犯人は零時半から午前一時の間に夕子の部屋へ来て彼女を殺し、灯を消して逃走した……」  そこまで思案を追ったとき二階の中央辺の窓に灯が点いた。それは先夜的場が点灯を目撃した窓である。ちょうど今その部屋の住人が帰ってきたのであろう。  的場は先刻アパートの私道で呼びとめた若い学生風の男を思い出した。あれから少し時間が経っているが、アパートへ帰りメールボックスから郵便物をピックアップしたり、隣人に廊下で出会って立ち話を交したりしている間にこのくらいの時間になるであろう。  灯が点いた中央の窓に触発されたように、的場の脳細胞は躍動した。 「犯人は湯川が帰った後を狙《ねら》って夕子の部屋へ押しかけ関係を求めた。夕子からけんもほろろに断わられてカッとなり、暴力的に欲情を遂行して殺害した。欲情遂行が先行したのか殺害が先であったか、マスコミは明らかにしていないが、どちらにしても暴行と殺害は連続して行なわれたか、あるいは同時に進行したものであろう」 「犯行後犯人は我にかえる。とにかく現場から逃げ出さなければならない。灯を消したのは無意識であったか、あるいは無残な死体を闇《やみ》の中に封じこめたかったからか、さらにあるいは夜中灯がつけっ放しになっていて疑いを招くのを防ぐためであったか」 「ともかく犯人は夕子の部屋から脱出して自分の部屋へ逃げ帰って来た。自分の部屋に帰ってホッとした彼は灯を点けた。まさかその灯をアパート前面の草原から小用を足しながら見ている者がいようとは夢にも思わずに。彼はそこで灯を点けるべきではなかったのだ。夕子の窓の灯が消えてから数十秒後に中央の部屋の窓が点灯した。二つの窓の灯の点滅を結びつけて考えるのは当然だろう」 「だが、たまたま相前後して二つの窓の灯が点滅したからといってそれを結びつけるのは短絡ではないか。夕子が殺された直後に二階中央の窓の主が帰ってきたかもしれない」 「いやそんなことはない。一見したところ夕子のアパートの出入口は表通りからの私道一本だけだ」  もし中央の窓の主がその時間帯に帰って来たのであれば、必ず的場の視野に入ったはずである。車を停め空地の適当な場所まで踏み込み、前立腺肥大症を疑ったほどの長い放出のあと、二つの窓の灯の点滅を茫然《ぼうぜん》として見守っていた放心の時間を加えて、少なくとも七、八分はその場に居合わせた。その間アパートに出入りする者の影はまったく見えなかった。  的場の胸裡《きようり》に思惑が次第に確信となって固まってきた。      5  的場は自分の思案を胸の中に閉じこめておくことができなくなった。彼は職業がら推理小説のさし絵などもつける。絵にリアリティを持たせるために、警察の現場の取材もしている。その関係で警察部内にも知己がいる。彼は取材を通して知り合った警視庁捜査一課の河西刑事に自分の目撃した事実と推理を話した。河西は熱心に的場の話を聞いてくれた。 「取るに足りない素人の推理かもしれませんがね」  話し終えて的場は照れくさそうに笑った。 「いえ、そんなことはありません。十分説得力がありますよ。私は直接の担当ではありませんが、容疑者の供述に少し矛盾があるので、捜査の鉾先《ほこさき》は被害者の異性関係の方へ向かっているそうです。この際あなたの証言は大いに参考になります」  河西はゆったりとうなずいた。  捜査本部は湯川の取り調べと並行して被害者の異性関係を洗っていた。被害者は山形県K市の高校を卒業した後上京し、都心のNデパートに就職した。現代的な華やかな美貌《びぼう》で男子従業員や客の間で人気の的となり、親しくつき合っていた男はかなりの数にのぼる。捜査本部は彼らをリストアップして、一人一人漂白していく方針であった。  そこに的場情報がもたらされた。被害者のアパートには十六世帯入居しており、うち、独身者は十一、男は六名であり社会人が二名、学生が四名(予備校生一名)である。だが彼らは被害者といかなるつながりも持っていない。たまたま同じ屋根の下に住み合わせたというだけであった。捜査本部は的場情報を重視した。二つの窓の灯の相前後した点滅(正確には滅点《めつてん》)は無視できない関連である。  捜査本部は二階中央の部屋の居住者北山啓次十九歳予備校生を呼んで事情を聞いた。捜査本部に呼び出された北山はすでに顔面|蒼白《そうはく》、尋常の状態ではなかった。最初は頑強に否認していたが、峻烈《しゆんれつ》な取り調べに抗しきれずついに犯行を自供した。 「いつ大学に入れるか当てもなく受験勉強しているのが虚《むな》しくなった。世間は幸せな人間で満ちているのに俺だけがその幸せから落ちこぼれている。親は送金だけしてくれて放りっぱなしだ。葉山夕子さんは憧《あこが》れの的だった。廊下や出入口で会ったりすると優しく笑いかけてくれた。だがその彼女にも男ができた。ヤクザっぽいいやな野郎だと思った。あんな奴より俺のほうがずっとましだと思った。あんな奴の自由になっているのだから俺も頼めば一度ぐらいなんとかなるかもしれないと考えた。それに最近二人の仲が険悪になっていたようなので、ますます俺にもチャンスがあると思った。あの夜男が帰った後を狙《ねら》って彼女の部屋へ行った。いかにもセックス直後のような乱れた格好をしていたのに挑発されて挑みかかると、激しい抵抗を受けた。それを力ずくでねじ伏せて欲望を果たすと、彼女は凄《すご》い目で睨《にら》みながら警察に訴えると言った。訴えられたら身の破滅だと思い、手近にあったひもで首を絞めてしまった。ぐったりして白目をむいたので恐くなり電気を消して自分の部屋へ逃げ帰った」  なお北山啓次の血液型は分泌型のA型であり、被害者体内に入り、被害者体液および�先客�の精液と混合して、個々の判定が難しくなったものである。  事件は解決した。的場が銀座からの帰途生理的欲求を覚えてたまたま立ちどまった地点で、一個の殺人事件に立ち会うことになった。もしそのとき彼が立ちどまらなければ、捜査は意外な方向へ行ってしまったかもしれない。人生は常に「もしも」の連続である。その「もしも」を踏みちがえたときその人生は影の方位へ向かう。北山啓次にしても、そのアパートに止宿しなければ、また葉山夕子と同じ屋根の下に住むことがなければ、さらにまた夕子と湯川勝治がつき合わなければ、夕子を殺さなかったはずである。的場は一瞬一瞬のもしもの分岐点が恐くなった。人間はその人生の無数の分岐点において常に正しい方位を選ぶとは限らない。むしろ誤れる方角へ踏み入る危険のほうが多いと言える。  だがたいていの人生は「禍福はあざなえる縄のごとし」の譬《たとえ》のように、うまい具合にバランスを保つ。不幸な人間や犯罪者は分岐が悪い方位へ方位へと落ちこんで行くのであろう。  もし人工呼吸が功を奏して葉山夕子が蘇生したなら、北山啓次はせいぜい強姦の罪にとどまったであろう。だが彼の分岐点はそこから明るい方角へは向かわなかった。  だが彼はまだ若い。罪をつぐなって立ち直る機会は十分にある。「絶望するには若すぎる」という言葉を彼に贈りたいと的場は思った。 [#改ページ]  殺 意  終電車の中には雑然たる荒廃感が漂っている。乗客の大半に疲労とアルコールが澱《よど》み、席にありついた者も、吊革《つりかわ》にぶら下がっている者も、あるいは他の乗客に寄りかかっている者も半分眠っている。  酒と脂粉のにおいが入り混り、一日の疲労と攪拌《かくはん》されてそんな荒廃感を醸し出すのであろう。  その電車は都心の地下鉄と、隣県の衛星都市を結ぶ私鉄と相互乗入れをしている。終電車の発車時間が迫るとまだ都心にこんなにたくさんの人間が居残っていたのかと呆《あき》れるほどの人数が集まって来る。  終発を告げるベルがホームに鳴り、駅員の笛が鳴ってもまだ階段を駆け下りて来る者が後を絶たない。なにしろこの電車に乗り遅れたら明朝の始発まで足を失うのだから必死である。一拍の差で乗り遅れた乗客は、閉まったドアの前でテレ笑いをするが、終電車に乗り遅れた者にはそんな余裕はない。駅員になんとかしろと食ってかかる者もいる。  終電車も待てるだけ待ち、詰め込むだけ詰め込んでようやく発車する。  グループで乗り込んで来た者は、声高に話し合っている。高笑いも起きる。いずれも酒の入った声である。寝不足の不機嫌で静まりかえった朝の車内とちがうところである。背広を着ている男たちが多く、たいていネクタイが歪《ゆが》んでいる。  いずれも日常性のレールの上を往復している者であるが、無気力と疲労を酒の力で無理にかき立てている。  待つ者と暖かい家庭があれば、なにも終電車まで飲む必要があるかとおもいがちだが、必ずしもそうではない。仕事の後、酒を飲むことによって縛りつけられた管理の枠と日常性の鎖からの脱出を試みているのである。そんなことをしても少しも脱出にならないのであるが、彼らがせめても翻した反旗である。  鳴海真人はその夜終電車に揺られていた。始発駅で満員になった車内であったが、発車後間もなく彼が立った前の席が空いた。べつに坐《すわ》りたくもなかったが、じっくりと胸の殺意を暖めていくためには、席に坐って行くほうがよいだろう。  鳴海は懐中に一振りの凶器を隠していた。彼はそれを今夜ある女に使うつもりであった。女はこの終電車が向かう遠い郊外に住んでいる。鳴海が彼女を殺そうと決意した動機はありふれている。  二人は出会い、愛し合った。二人の愛が発展するのも、冷却するのも、同じペースであれば問題は生じない。  どんなに永遠の愛を誓い合っても、どちらか一方が冷えればそれまでである。結婚して子供でもいれば、破局の多少のブレーキになるが、たがいになんの責任もない口約束だけの恋愛関係であれば、どちらかが冷めたときが終りである。  そして彼らの愛に突然終りがきた。女から一方的に別れを宣告された鳴海は理由を聞いた。 「理由なんかないわよ。私たち縁がなかったのよ。別れたほうがおたがいのためだわ」  女の口調は限りなく冷たかった。 「おれが嫌いになったんだな」 「そんなこと言ってないわ。これからはいいお友達になりましょう」 「いい友達か。そんなものはごめんだね。いまさら女学生ごっこができるとおもってんのか。男ができたのならできたとなぜはっきり言わない」 「そこまで言うなら言ってやるわよ。もうあなたなんか大嫌いよ。顔も見たくないわ」  冷えた愛の上に売り言葉と買い言葉が重なった。女に未練が残る鳴海は、女から裏切られたとおもった。  むしろ女の情にほだされてスタートし、深間になった彼らの関係である。それをいまになって顔も見たくないとは、なんたる言い草か。結局、愛を玩《もてあそ》びながら男から男を渡り歩くプレイガールだったのか。  そうはさせないとおもった。おれで最後にさせてやる。次の男には渡さない。鳴海は決心した。  あの白く輝く美しい肉体を鮮血で染めてやる。男を迷わせる器官を破壊してやる。そしてこの電車に乗った。彼女が在宅していることは確かめてある。いまから一時間もしないうちに、彼女はこの世からおさらばする。  彼女一人を死なせるつもりはない。あの女を殺した凶器を用いて、自分もすぐ後を追うつもりである。  終電車の乗客は�長距離型�が多い。そんな「はるかなるマイホーム」であれば、早く帰ればよさそうなものにとおもうのは�素人�で、家が遠い者ほどぐずぐずしている傾向がある。  終電車の乗客の第一は酔客である。ホテル代もタクシー代ももたないサラリーマンが安酒場でぎりぎりまで飲んで終電車に駆け込んで乗る。  二番目はそれら酔客の相手をつとめてきた酒場やスナックの従業員である。ホステスはタクシーを使うので少ない。それに彼女らのほとんどが都内の近距離に住んでいる。  第三が残業組や遅番組である。一、二と三型のちがいはアルコール含有の有無である。  第四は長距離列車で着いた乗換え客である。彼らはたくさんの荷物と、サラリーマン客とは異なる非日常のにおいをまとっている。  第五がその他であるが、その中に人を殺しに行く者は、めったにないだろう。  乗客の年齢は二十代から六十代までで、二十代から三十代が最も多い。子供と小中高校生の客はない。グループは三十代に多く、気勢をあげているのに対して、五十代以上は一人か小人数で侘《わび》しく酔いをかかえ込んでいる。途中駅で乗降する客は終電車の少数派である。性別は男女比八・二か七・三ぐらいであるが、遠距離に行くほど女性の客は減る。  鳴海が坐ってからちょっとした騒ぎが起きた。立っている乗客と坐っている乗客が口論を始めたのである。発車前から梅雨もようの雨が降っていて車内は蒸し暑かった。  立っている乗客が開けた窓を、坐っている乗客が閉めた。 「暑いんだよ。窓ぐらい開けてくれてもいいだろう」 「雨が吹き込むんだ」 「坐って楽してるんだからそのくらい我慢しろ」 「なんだと」  いまにも殴り合いになりかねない雲行きであった。両者の対立は、立っている乗客と坐っている乗客の一種の代理戦争であった。  だが殴り合いになる前にけんかはあっけなく終息した。当事者の隣りの乗客が下車駅が近づいて立ち上がった。立って口論していた乗客が素早くそのあとに坐り、雨が吹き込むものだからさっさと窓を閉めたのである。  それには一方の当事者もあっけに取られ、他の立っている乗客もあまりの現金さに失笑した。満員の車内で凄《すさ》まじいくしゃみをする者がいるが、本人も周辺の者もあまり気にしている気配はない。  駅に停車する都度、車内は少しずつ空いてきた。席にありついた者は、いぎたなく眠りこけている。これが朝の通勤電車とちがうところで、朝の乗客には寝不足を少しでも補おうとする「いじましさ」があるが、いぎたなさはない。  眠りにアルコールが加わって正体のない者もある。彼らの中には下車駅を乗り過ごす者もいるだろう。終電車だから折り返しの電車もなく、終着駅で一番電車までの夜明かしとなる。彼らは習性で家のある方角に向かっているのだ。  鳴海の前の席に若い娘が坐っていた。水っぽくない(水商売らしくない)上品なスーツをまとっていて理知的なマスクの美しい娘である。アクセサリーも控え目でいいセンスを隠し味のように抑え込んでいる。  頽《くず》れた女が多い終電車の中で、昼と言うよりはむしろ朝の新鮮な雰囲気を身辺にまとったその女は目立った。年齢は二十一、二歳か、鳴海の目がそれとなく女の身許《みもと》を詮索《せんさく》していると、彼女は携《たずさ》えていた有名なブティック名の入ったビニールバッグを探ってなにかを取り出した。  なにを取り出したのかと見守っている好奇の目(鳴海一人ではない)の前で彼女は取り出したものをパクリとくわえた。  それは一個のアンパンだった。唖然《あぜん》としている乗客の前で彼女は、むしゃむしゃとアンパンを食った。服装のいいハイブローな美女が終電車の中でアンパンにかぶりついている。それはかなり奇異な眺めであった。グループがカップ酒で酒宴をするのは稀《まれ》に見かけるが、若い娘が終電車でアンパンを食うことはない。よほど腹が空いていたのだろう。娘は周囲の視線を意に介さず、アンパンを脇目《わきめ》も振らず食っている。一個食い終った。なんとなくホッとした乗客の視線の前で娘はまたビニールバッグを探った。引き出した手は新たなアンパンをつかんでいる。  二個目のアンパンを食い終ったとき、電車は駅へ着いて彼女は降りて行った。残された乗客一同から期せずして低い溜息《ためいき》が漏れた。  鳴海はいま見た光景が信じられなかった。終電車、OL風の上品な娘、アンパンという組み合わせが判じ物のようにミステリアスである。これも終電車のミステリーの一つなのだろう。  このころから鳴海は隣りの乗客が気になりだした。豚のように太った中年の男である。栄養が行き届いた皮膚はてらてらと光って脂《あぶら》が浮いている。腋臭《わきが》のにおいが漂ってくる。酒が入っており、途中から席にありついたのが、いい気持になって、舟を漕《こ》ぎ始めた。舟を漕ぐのは自由であるが、その厚ぼったい身体を鳴海の方へもたせかけてくる。八十キロはありそうな体重が寄りかかるのであるから窮屈で仕方がない。  鳴海は身体をひねって迷惑がってみせるのだが、そのときだけ居ずまいを直して、すぐに元《もと》の木阿弥《もくあみ》になってしまう。  居眠りには一定の体のくせがあるらしく、決して逆方向には傾かない。こくりこくりと舟を漕いでは、鳴海の方に寄りかかる。  重い、暑苦しい、窮屈である。相手の体温がこちらに伝わる。酔った悪臭が呼吸の都度吹きかかる。  そんなに不愉快なら立って席を放棄すればよいのだが、なぜ後から来たこんなやつのために立たなければならないのかと意地になっている。ついにたまりかねた鳴海は、 「ちょっとお、いいかげんにしろよ」  と怒声をあげて男の身体をぐいと押し返した。男はびっくりしたように目を開いたが、なぜ鳴海にどなられたのかわからないようである。目ヤニの浮いた目が赤く充血している。 「こっちへ寄りかからないでくれよ」  鳴海に言われて初めて気がついたようだ。 「やあ、これは失礼しました」  と素直に詫《わ》びた。だが詫びてから数分もしないうちに再び舟を漕ぎ始める。前よりもさらに図々しく寄りかかってくる。  重く厚ぼったい体重が鳴海を庄迫する。何度押しこくっても彼の方に体重をかけてくる。鳴海は次第に相手に殺意をおぼえてきた。  懐中には女を殺すために用意してきた凶器を忍ばせてある。その刃はだれに対しても平等に作用する。肉も体も厚ぼったい隣りの乗客に対して、懐中の凶器がむずむずしているように感じられた。  最後の警告を発しても、寄りかかるのを止《や》めなければ、我慢も限界である。鳴海は、凶器を使用する前に、相手を押し返した。相手の体重が取り除かれた。  隣りの乗客は鳴海の殺意を感知したのか、姿勢を正して眠っている。鳴海はホッとした。危うく無用の殺人を犯すところだった。鳴海が殺意を鎮めたとき、再び体重がかかった。まるで彼の心の中を読み取っているかのようにタイミングがよい(悪い)。  鳴海はカッとなった。隣りの乗客は、すべてを承知していて鳴海をからかっているのではないのか。彼が凶器を懐中に忍ばせていることも知っている。あるいは彼がこの電車に乗った理由も知っていて、その目的の邪魔をしようとしているのかもしれない。  この男がいるかぎり、あの女を殺せない。こいつが彼女の前に立ち塞《ふさ》がっているのだ。もしかするとこの男が彼女の心と体を盗んだのかもしれない。そうおもうと、本当にそんな気がした。彼女以上に隣りの乗客が憎くなった。まずこいつを殺さなければならない。もはや我慢の限界に達したとき、ひょいと男は姿勢を直した。体重が取り除かれて圧迫感が消えた。それと同時に殺意も消退した。 (よかった、殺さなくて)  鳴海はホッと安堵《あんど》の吐息をついた。電車は彼の下車駅へ近づきつつあった。車内には立っている人の数が少なくなっている。だがまだ空席が見えるほどではない。  鳴海がホッとしたとき、また体重がかかった。今度は本格的に眠り込んでしまったらしく、身じろぎしようが、押し返そうが、ぐいぐい押してくる。男から受けた圧迫が、鳴海の反対隣りの乗客にまでかかって眉《まゆ》をひそめられたほどである。 「ちょっとお」  鳴海は再び声をかけた。だが相手にはなんの反応もない。ぐっすりと眠り込んでしまったのである。  見ると口角の端から涎《よだれ》をたらしている。涎の先が長い糸を引いて、鳴海のズボンの膝《ひざ》に届いていた。鳴海の忍耐の糸が切れた。その糸の切れる音を鳴海はたしかに聞いた。 (野郎、ふざけやがって!)  鳴海が、凶器の柄を握りしめてまさに引き抜こうとしたとき、頭部に強い衝撃をおぼえた。一瞬くらくらとしてなにが起きたのかわからない。鳴海は隣りの乗客が彼の殺意を感じ取って先制攻撃をかけてきたのかとおもった。だが乗客は同じ姿勢を維持していぎたなく眠りこけている。 「あ、すみません」  耳許で謝辞が聞こえてべつの乗客が床に落ちたかばんを拾い上げた。乗客の一人が鳴海の頭上の網棚に載せていたかばんを取り下ろそうとして手が滑ったのである。それが鳴海の頭を直撃したのである。  いまの騒ぎで隣りの眠った乗客が目を醒《さ》ました。 「いけねえ」  彼は慌てて席からはね起きて電車から飛び下りた。彼の背後で電車のドアが閉まった。鳴海は飛び出して行く「殺され損なった乗客」と、閉まるドアを茫然《ぼうぜん》と見送っていた。そこは鳴海の下車駅であった。  電車は発車した。もうその駅へ折り返す電車はない。そのとき鳴海は彼に対する憎しみも、燃えるような殺意もきれいに消えているのを知った。  車内にはようやく空席が見えてきた。雨は止んでいた。 [#改ページ]  藪《やぶ》の狼《おおかみ》      1  佐田忠男は、新倉清が新入社員として自分の課に配属されてきたとき、以前どこかで会ったような気がした。出身地を群馬県前橋市と自己紹介されていやな予感がしたものである。  目のくりくりした明るい表情の新倉と初対面したとき、彼が佐田の過去をすべて知っているような不安に駆られた。 「課長は前橋をご存じなのですか」  新倉に問われて、 「いや、知っているというほどではないがね」  おもわず言葉がどぎまぎして、そんな自分に腹を立てた。これではどちらが新入社員かわからない。 「よろしくおねがいします」  ぴょこんと頭を下げた新倉の表情はカラリとしていて少しもこだわっていない。きっと「前橋出身」ということで神経質になりすぎたのだ。もう十数年以前のことだ。気にすることはなにもない。——と自分に言い聞かせた。  佐田は、生まれついての心配性である。物事に拘泥する。消したはずのストーブやガス栓が不安になって何度も確かめる。外出時にガス、電気、水道、戸締まり、空調類を一通りチェックしているうちに、最初のチェック項目が不安になって、何度でも循環する。チェックの環状線に入り込んでしまって、遂に外出できなくなってしまう。  家具や身のまわりの品が一定の位置にないと落ち着かない。  自分でも馬鹿馬鹿しいということがわかっていながら止めることができない。これを強迫観念というのだそうである。これがもっとひどくなると、いくら手を洗ってもバイ菌がついているような気がして満足できない不潔恐怖や、周囲のものを一々数えないと気がすまない計算強迫症になるという。  まだそれほどひどくはないが、ショーなどでダンサーが群舞をしていると人数を数えてばかりいる。そのうちにショーが終り、どんなショーだったのか憶えていない。  自分でも損な性格だとおもう。だが彼の几帳面《きちようめん》な性格が仕事にはプラスになる面が多い。その良心的で丁寧な仕事ぶりは社の内外から信用がある。  仕事では性格がプラスに働いて三十代後半で経理の課長の椅子《いす》をあたえられたが、女性に関しては絶対的に損をしてきた。  とにかく確認を取らないと気がすまない。デートの約束をしても、何度も事前の確認を取る。相手が来ると言っても、安心ならない。  当日になると急用が発生するのではないだろうか。あるいは急病になるのではないか。忘れてしまいはしないか。他のボーイフレンドにさらわれてしまわないか。こんなことを考えると居ても立ってもいられなくなる。  そこで相手の家や勤め先に何度も電話をかけて確かめる。そのうちに彼女を怒らせたり、呆《あき》れさせたりしてしまう。  女性と一度約束を取りつけたら放っておいたほうがよい場合が多い。せっかくイエスの返事をしている彼女に「本当によいのか」と何度も確かめているうちに「ノー」の気分にさせてしまうのである。 「私がそんなに信用できないのならいいわよ」  と彼女に言わせて御破算になったことが何度あったことか。      2  その�確認魔�の佐田にとってなんとも気持の悪い場面が社交においてある。それは相手が自分を知っているのに、自分が相手を忘れている場合である。  過去どこかで出会っているか、名刺を交換している。だから相手も改めて名乗らない。こちらから尋ねるのも失礼なので、会話を転がしながら相手の素姓《すじよう》を探る。たいてい会話の間に相手の手がかりを拾っておもいだすのであるが、時には最後までおもいだせないこともある。  そんな場合の気持の悪さは、確認魔であるだけに人一倍である。  英語ではそのような場面に「ユー・ハブ・ジ・アドバンテイジ・オブ・ミー」——直訳で相手が自分より優位に立っている(お見それしました)という言い方をするそうであるが、たしかに優位に立ちつづけられたまま別れるときの後味の悪さといったらない。  佐田は新倉に|優|位《アドバンテイジ》に立たれた。新倉の表情に富んだ大きな目で見つめられると、新入社員の彼に取られた優位を回復できないような気がしてくる。 「もしかして、きみに以前どこかで会っていないかな」  佐田はさりげなく探りを入れた。前橋市は「あの場所」から近い。そんな探りを入れることが危険なのはわかっているが、確認魔の性格から止められない。 「いいえ、ぼくは初めてですが」 「そうかなあ」 「ぼくの顔はありふれているんです。よくそんなことを言われますよ」  決してありふれていないハンサムであるが、本人はそうはおもっていないようである。 「前橋のどの辺なのかね」 「市といっても北のはずれです。赤城山《あかぎやま》の方へ行った所です」  佐田はギョッとした。少しあの場所へ近づいてきた。 「嬶天下《かかあでんか》に空っ風の舞台だな」  内心の動揺を抑えて言った。 「冬の赤城|颪《おろ》しと夏の雷は相当なものです」 「大陸性気候なんだな。たしか萩原朔太郎は前橋出身だったね」 「課長よくご存じじゃないですか。萩原朔太郎を知っている人でもほとんど前橋出身とは知りませんよ」  くりくりした目で覗《のぞ》き込まれて、佐田は言わずもがなのことを言ったと悔やんだ。 「そんなことはないよ。萩原と前橋の関係はよく知られている。たしか市内の公園に朔太郎の文学碑があるはずだ」 「あれ課長、前橋へいらしったことがあるんですか」 「いや、旅行案内で読んだんだ」  慌てて言い繕った。避けようとしていたのにますますまずい方角へ向かう。 「課長が前橋に関心を抱いてくださって嬉《うれ》しいです。敷島《しきしま》公園に朔太郎の文学碑が立っていて『帰郷』冒頭の六行の詩文が彫られています。わが故郷に帰れる日、汽車は烈風の中を突き行けり。ぼくの大好きな詩句です。烈風の中の街、それが前橋です」  新倉は自分の故郷のことになったので、饒舌《じようぜつ》になった。佐田にとっては自分が誘い水を向けておきながら好ましい話題ではない。 「べつに関心を抱いているわけではないがね」  なんとか水路をべつの方角へ導こうとした。 「朔太郎にはあまり知られていないけど『干《ひ》からびた犯罪』という詩があります。ギラリとしていてぼくは好きです」 「干からびた犯罪?」  おもわず釣り込まれた。また病的な確認癖が出てきた。 「諳《そら》んじていますよ」 「どんな詩なのかね」  止めておけというもう一人の自分の諫止《かんし》に背いて問うた。 「 どこから犯人は逃走した?   ああ、いく年もいく年もまへから、   ここに倒れた椅子《いす》がある、   ここに兇器《きようき》がある、   ここに屍体《したい》がある、   ここに血がある、   さうして青ざめた五月の高窓にも、   おもひにしづんだ探偵のくらい顔と、   さびしい女の髪の毛とがふるへて居る。   ——  いかがですか、凄《すご》い詩でしょう。まるで朔太郎に殺人の経験があるようです。彼は詩の中で、本当に女を殺しているのでしょう。そうでなければ……」 「もういい」  佐田は途中で遮《さえぎ》った。恐しくなって聞いていられなくなった。 「すみません。つい調子に乗ってしまって」  新倉は謝まった。詩文が佐田を不快にさせたとおもったようである。事実佐田は面から血の気が退いていた。だが佐田にしてみれば新倉に反応を見せたこと自体でも青ざめていたのである。      3  新倉はいったいなんのつもりであんな詩を持ち出したのか。偶然にすぎないのか。それともなにかの底意があってのことなのか。  もし後者だとすれば、やはりあのこと[#「あのこと」に傍点]を知っているにちがいない。知っていて追いかけて来たのだ。  それにしてもどうして知ったのか。あのことはだれも知らないはずである。自分とあの女[#「あの女」に傍点]以外は。しかしあの女がしゃべるはずはない。  それともだれ知る者がないとおもっていたのが、闇《やみ》の中から見ていた者がいたのか。しかしあれから十数年経過している。新倉の現在の年齢から逆算して、当時七、八歳の幼児だったはずである。  そんな幼児に闇の中で行なわれたことと、佐田の顔が見分けられたであろうか。仮に見分けたとしても、いままで憶《おぼ》えていられたか。  また例の強迫観念が頭をもたげてきたのだ。気にしてはならない。新倉が知っているはずがない。あのことを知り得る一パーセントの可能性もないのだ。  佐田は「放っておけ」と自分に言い聞かせた。そのほうが安全だ。放っておきさえすれば安全が保障される。そして間もなく時効の安全保障の中に逃げ込めるのだ。そのためにはなにもしないのが一番よい。  だが佐田はすでに強迫観念の虜《とりこ》になっていた。彼にとってなにもしないことのほうが良いのである。下手に動けば危険に近づくのを自衛本能が告げていながら動かずにはいられない。  佐田は密《ひそ》かに人事課へ行って新倉の身上調査をした。  昭和四十×年八月十一日前橋市出生、父の職業は教師、地元の高校を卒業後、都内の私立M学院大学経済学部に進学、本年度新卒として当社を受験、入社というものである。社内にコネはない。会社の指定校から学内推薦を受け、優秀な成績で入社試験に合格し、入社したものである。  資料からみるかぎり、あの女となんの関わりもなさそうである。佐田の社へ来たのも、学内推薦を受けたからであり、特に理由はなさそうである。佐田の課に配属されたのは、本人が希望したわけではなく、会社側の人事《アサイン》配置《メント》によるものである。 (やはり考えすぎだった。新倉があのことを知っているはずがないのだ)  佐田はようやく自分を納得させた。  だが、そのときは納得したつもりであったが、時間が経過するにしたがって不安が頭をもたげてきた。新倉が諳《そら》んじた萩原朔太郎の詩文が佐田の脳髄にこびりついてしまった。剥《は》ぎ落とそうとしても、かえって増殖して脳圧を高めてくる。 「干からびた犯罪」とは、まさにもう少しで時効が完成するあのことを当てこすっているようではないか。  しかもどこから犯人は逃走した? と自分に詰問するように詩文を諳んじた。ここに兇器が、屍体が、血があると諳んじたのは、本当に彼がそれらのある場所を知っているからではないのか。「五月の高窓」という時期も一致している。  そして、きわめつけの言葉を突きつけた。 「さびしい女の髪の毛とがふるへて居る」  これが偶然の一致であるはずはない。  新倉はそれ[#「それ」に傍点]が女であることを知っているのだ。彼がそれをどのようにして知ったのかわからないが、知っていることは確かである。  そしてあれから十数年経ったいま、時効完成少し前に追いかけて来てじわじわと自分を締めつけている。なぜだ、なぜだ、なぜなのだ。なぜ来るならもっと早く来なかった?   佐田は新倉の前で次第に追いつめられて来る自分を感じた。      4  佐田は十数年前の五月下旬に一人の女を殺した。殺すつもりなどなかった。行きずりに拾った女であり、行きずりの犯罪であった。  当時つき合っていた女と一緒に伊香保《いかほ》へドライブに行ったまではよかったが、女とけんかになり女だけ先に帰ってしまった。  むしゃくしゃした気分で渋川《しぶかわ》へ下りて来ると、様子の美《い》い少し蓮《はす》っ葉《ぱ》な若い女が道路傍のバス停に佇《たたず》んでいるのを見かけた。断わられてもともととおもって「乗らないか」と声をかけると、意外に反応がよく、 「前橋まで行く」  と答えた。 「同じ方向だから送って行ってやろう」  佐田は女のみっしりした腰まわりとぴちぴちと弾《は》ち切れそうな太股《ふともも》に眩《まぶ》しげな目を向けて誘った。化粧がやや濃く男好きのする顔立ちをしている。最近はやりの風俗ギャルかもしれない。 「変なことしないでね」  女はなにか含んだように笑いかけながら助手席に乗り込んで来た。地上から車の床《フロア》へ足をかけたとき、ただでさえも短いスカートから肉感的な太股が剥《む》き出された。佐田はおもわず生唾《なまつば》をごくりと呑《の》み込んだ。昨夜から女とけんかになってお預けを喰《く》わされたので、欲求不満がたまっている。この女なら、けんかした女よりも上等である。しかも感触は十分である。変なことはしないでとわざわざ断わったのは、してもいいという含みであろう。 「前橋のどの辺なんだい」  佐田は女を横目で値踏みしながら尋ねた。 「市の北の方よ。赤城山の麓《ふもと》よ」 「景色がよさそうな所だね」 「いいわよ、とても」 「この辺は美人が多いね」 「あらそうかしら」 「きみを見たときそうおもった」 「うふふ」 「変なことはしないけど、したくなるような女性が多いな」 「うふふ」 「渋川には仕事かな。それとも彼氏にでも会いに来たの」 「彼氏がいれば送ってもらうわよ」 「あ、そうか。それじゃお勤めか」  ちょうど夕方の退《ひ》け時に当たる。だが風俗ギャルなら、むしろ出勤時間に当たるだろう。まさか赤城山の麓に風俗ギャルの勤め先があるわけでもないだろう。 「さあ、どうかしら」  女は謎《なぞ》をかけるように笑った。これ見よがしに膝《ひざ》を組んだ脚が、挑発しているようである。前橋市の手前で女に指示されて国道から左へ折れる。女の家は近そうである。日が暮れてきた。広大な裾野が蒼茫《そうぼう》と黄昏《たそが》れかけて、気分のいい夕方であった。 「なんだかこのまま別れるのが惜しくなった」  佐田はそれとなく誘いをかけた。女は答えなかった。沈黙が女の承諾を意味している。佐田はそのまま車を走らせた。沈黙が落ちた車内に男と女の期待が高まっている。日はとっぷりと暮れていた。疎《まば》らな灯が広大な闇《やみ》の中に散らばっている。  佐田は車を人家から離れた雑木林の中に乗り入れた。女はなにも言わない。エンジンを停めると鼓膜を圧するような静寂が屯《たむろ》した。  女の体に手をかけると、形だけ抵抗する振りをした後で、あっさりと彼の剥奪《はくだつ》に任せた。森の中の車内、行きずりのインスタントラブ、異常な環境と状況の中で情事が興奮を誘い、変態的な体位が刺戟《しげき》をうながした。時間はそれほど長くなかったようである。  事が終って身仕舞いを直し、女を家に送り届けるために車を発進させると、間もなく女が言った。 「お金をちょうだい」  快い情事の余韻に浸っていた佐田は、その一言に冷水をかけられたようにおもった。 「いくら」  憮然《ぶぜん》として問い返すと、 「五万円よ」  と平然と言った。五万円は当時の佐田の給料に相当する。 「なんだ、売春婦だったのか」  佐田がおもわずつぶやくと、女が急にキッとなって、 「売春婦とはなによ。人をいきなり山の中へ連れ込んで強姦《ごうかん》しておいて、売春婦呼ばわりは許さないわ。こうなったら慰謝料を取ってやるからね」 「強姦だって!?」  佐田は唖然《あぜん》とした。まだ自分の体に女体の奔放な体位と狂おしい反応がメモリーされているのに、なんと空々しいことを言うのか。 「そうよ。あれが強姦でなくてなんなのよ。私はいいなんて一言も言ってないわよ。あなたは女の敵よ。もうお金なんか要らないわ。このままでは絶対すまさないからね。強姦で訴えてやるから」  女は言い募った。最初男好きのする顔に見えた顔が、夜叉《やしや》のように恐しく迫ってくる。見るからに気の強そうな表情である。大変な女に引っかかったと臍《ほぞ》を噬《か》んだが、後の祭りである。  彼は女から訴えられた場合を考えた。会社ではまじめ一筋で通っている。それがこともあろうに行きずりの女を強姦したとあっては、救いがない。  会社にはもちろん居られなくなるし、世間を憚《はばか》らなければならなくなる。自分一人だけのことではなく、両親や一族にも迷惑をかける。一族の面汚しとして爪弾《つまはじ》きされる。結婚もできなくなるだろう。  そんな場面を想像するだけで慄然《りつぜん》とする。  女は、佐田が青くなって黙ってしまったのでますます言い募った。「売春婦」と言われたことがよほど腹にすえかねたらしい。 (この女をこのままにしてはおけない)  佐田は殺意を固めた。�持病�の強迫観念が頭をもたげてなにがなんでも女を殺さなければならない気持に駆り立てられていた。 「なにすんのよ」  女が危険を悟ったときは遅かった。そのとき暗い森かげに走り込んだ車が、ガクンと急停止すると、佐田の手が女の首に巻きついていた。 「や、止め……」  と言った声が半ばに消えた。生と死を分ける闘いは、男の力に女の抵抗が圧倒されて終った。一個の物体に還元した女を、車から引きずり出して、森の中へ埋めた。  生まれて初めての殺人で動転していた。だが森は人家から遠く離れており、闇は深く、だれも見ている者はいなかった。新緑が重なり合った下の濃い闇がすべてを隠してくれた。そのおかげで十数年も、時効完成あと一歩の今日まで司直の追及もなく、無事に生きてこられたのではないか。  女の死体はそれから約半月後、山菜摘みに来た近所の人によって発見された。女の身許は前橋市|嶺町《みねまち》に住む美容師小園ちえみ(二十二)と判明した。五月末の店の休日に渋川市の友人を訪ね、その帰途行方を晦《くら》まして家族から捜索願いを出されていた。  殺人事件として捜査本部が開設されて、捜査が開始されたと報道されたが、刑事は遂に来なかった。捜査本部は一年後に解散された。  あの女と佐田の間にはいかなるつながりもない。十数年前のあの日、たまたま行きずりに出会っただけなのである。情事も行きずりのハプニングなら、殺人も行きずりの犯行であった。  なにもかも行きずりで手がかり一つないのでは、どんな名探偵が登場しても、手の施しようがあるまい。  だが、新倉が諳《そら》んじた朔太郎の詩句中の、 「おもひにしづんだ探偵のくらい顔」  という文言が気にかかる。それは佐田に目を着けた探偵がいることを示唆《しさ》しているのだろうか。その探偵が新倉だというのか。      5 「新倉君、その後元気でやっているかな」  社員食堂でたまたま一緒になった人事課の高橋が声をかけてきた。 「先輩、おかげさまでなんとか毎日|帳尻《ちようじり》を合わせていますよ」  新倉は如才なく言った。高橋は新倉が入社したときの担当人事課員で、新倉と同学の先輩である。その関係で入社後もなにかと声をかけてくれる。 「帳尻を合わせるとは、早くも経理マンらしい言い方だね。若いうちに数字にみっちり鍛えられるといい」 「はい。ぼくもそうおもって複式簿記を勉強し直しています」 「その意気だ。そうそう、ところできみは、佐田課長となにか関係があるのかね」  高橋がふと語調を変えた。 「関係と申しますと」 「つまりだ、入社前の個人的な関係とかさ」 「いいえ、そんなものがあれば入社時に提出した書面に記入してますよ」 「そうだろうな」 「佐田課長がどうかしたのですか」 「うん、先日、人事課へ来てきみに関する身上書類を見ていったよ」 「ぼくの身上書類をですか」 「うん。かなり熱心に見ていたな。きっときみが優秀なので個人的に興味をもったのかもしれないな」  そのときはそれだけの会話で別れた。新倉は初めはなにげなく聞き過ごしていたが、次第に高橋から聞いたことが、心の中に引っかかり、容積を増してきた。  なぜ佐田課長が新倉の身上書類を調べたのか。課長が部下を把握するために、身上調査をしてもべつに不思議はない。熱心な上司ならそれくらいのことはするだろう。  だが、今年度の新入社員は数十人いる。経理に新倉の他に高卒の女子が配属された。それが新倉だけわざわざ人事まで行って調べたとなると相当な関心である。  新入社員に関するアウトラインは、配属と同時に人事課から各所属上司に伝えられる。それに満足せず人事まで出向いて調べたのは、佐田一人であろう。だから高橋の不審をまねいたのだ。  佐田がなぜ新倉に対して�個人的関心�を抱いたのか。入社後まだ日も浅く、彼から特に好かれたり、あるいは憎まれたりするようなことはしていない。  佐田はまじめでやや融通のきかない面もあるが、まずは尊敬に値する上司であるとおもっている。仕事には厳しいが、こういう上司に新入社員時代鍛えられると成長が速いだろう。  佐田が新倉の身上調査をした理由がどうも解《げ》せない。なにか課長の興味を惹《ひ》くようなことをしたのだろうか。  そう言えば佐田は、初対面時に新倉が前橋出身ということに異常な興味を示していた。  課長は前橋を知っているのかと新倉が問うと、「知っているというほどではないが」といやにどぎまぎした口調で答えた。  そのくせ、前橋と萩原朔太郎の関係や市内の公園に同人の文学碑が立てられていることを知っていた。  佐田は前橋を知っている。それもかなり深く。彼は前橋になにか関わりをもっているのだろう。それも人に知られたくない関わりである。だから新倉の「前橋出身」にこだわったのだ。  つまり前橋に彼にとって知られたくない�秘密�が隠されているので、前橋出身者に身近に来てもらいたくないのかもしれない。  その秘密とはなにか。  新倉の心裡《しんり》に想像の雲が発達していった。      6  佐田の不安は膨脹しつづけていた。自分でも理由もない不安神経症だと言い聞かせても、どうしようもない。もはや強迫観念の捕虜となっている。  十数年前の「干からびた犯罪」を追いかけて「おもひにしづんだ探偵」がやって来たのだ。  どこかに手ぬかりがあったにちがいない。それが干からびた犯罪に水分を補給して、よみがえらせたのだ。  どこに手ぬかりがあったというのか。考えられるのは、女を殺したとき、現場になにか手がかりを残したことである。  そうだとすれば、なぜ女の死体が発見された後、司直が追跡して来なかったか。手がかりだけが、十数年後になって発見されたという可能性が考えられる。死体と離ればなれになって、十数年後に発見された手がかり、なんという執念深い手がかりであろう。死者の怨念《おんねん》が籠《こも》ったとしか考えられない。  しかし、仮にその手がかりを新倉が手に入れたとしても、司直に任せず、はなはだ迂遠《うえん》な方法で自分に近づいて来たのはなぜか。  まず当社を志望しても学内推薦を受けられるかどうかわからない。次に入社試験の関門がある。第三に配属がある。新倉は特に佐田の部署を希望したわけではない。  これら三重の関門を潜《くぐ》って�探偵�は追って来たことになる。三重の関門プラス十数年後の追跡は、干からびた犯罪の蘇生《そせい》が、佐田の疑心暗鬼であることの論証であるが、強迫観念がそんな論証を受けつけないのである。  佐田は、遂に十数年前の現場を確かめに行こうとおもった。いったんおもい立つと、彼の確認癖が目を醒《さ》ましてもうなだめられない。  現場といっても、もう十数年前のことなので、場所もはっきりと憶えていない。ただ死体が発見された場所は当時新聞に報道された地点をそのまま記憶している。  新聞報道によると死体発見地点は県道、四ツ塚・原之郷《はらのごう》・前橋線の大胡《おおご》町域との境界に近い前橋市域の山林内ということである。  佐田は、ゴールデンウィークの喧噪《けんそう》がおさまった五月下旬の日曜日、妻にゴルフと偽《いつ》わってマイカーを十数年前の現場へ走らせた。  関越自動車道を前橋インターで下り、市内を通り抜けて北へ向かう。記憶が霞《かす》んでいるうえに、当時とは様子が著しく変化しているので、まったく未知の土地へ来た観がある。ただ山の形が十数年前の忌《い》まわしい記憶をおもいださせる。  上州はいま初夏の最も美しい彩《いろど》りの中にあった。この地域は赤城《あかぎ》、榛名《はるな》、妙義《みようぎ》の上毛《じようもう》三山に囲まれ、関東平野が西北に収斂《しゆうれん》されて山地に吸い込まれていく起伏に富んだ地勢にある。上信越方面への玄関口にもあたり、利根川系の水流が土地を潤し、文字通り「山紫水明」の形容を裏書きしている。  だがそんな陳腐な形容を越えた地形の面白さが、風景に活気をあたえている。その地域は「山峡」ともいうべき地座を占めながら、個性的な中小都市を多島海のように鏤《ちりば》め、風景を人間臭く賑《にぎ》やかにしている。  山と組み合ったというより山に組み込まれた複雑な地形が、それ以上に人間を組み込んでいるのである。桑畑が青々と山野を彩り、ツツジが一斉に花をつけている。地域全体が夏の門口に佇《たたず》んでいる新鮮でエネルギッシュな気配が弾み立っていた。  こんな季節に十数年前の干からびた犯罪の現場を確認に行くのは、辛《つら》い仕事である。だが持病をなだめるためには、どうしてもしなければならない。  来るには来たものの、まったく様子が変わっていた。十数年前は山林だった地域が、造成され大団地が建ち並び、蒼茫《そうぼう》たる原野には工場が連なっている。  地図を頼りに、どうやらそれとおぼしき地点にたどり着いたが、皺壇《ひなだん》住宅が建ち並んで、とうてい死体を隠せるような場所ではなかった。  こんな所からいまさらどんな手がかりを拾ったというのか。やはり自分の疑心暗鬼だったのだ。  現場を確認して、少し安心した。だがその帰途、佐田は意外な事故に巻き込まれた。前橋インターから関越自動車道へ入った佐田の車は高崎付近で長距離便が惹《ひ》き起こした玉突き追突に巻き込まれた。  無理な追い越しを図ったサンデイドライバーのマイカーが右横の乗用車と接触、両車からみ合って横向きに停《と》まったところへ荷物を満載した長距離便が凄《すさ》まじい慣性を伝えてそのまま突っ込んだ。そこへいい調子で従《つ》いて来た後続の車が次々に突っ込んだ。  衝突のショックでガソリンが漏れ、それに引火して、車は次々に爆発した。人間が中に閉じこめられたまま燃えている車もあるが、火のまわりが早くて手の施しようがない。  佐田はコンボイから数台後を走っていて玉突きに巻き込まれた。身一つで逃げ出すのが精いっぱいであった。この事故で大破した車は八台、事故に巻き込まれた車は十三台に上り、死者が三名、重軽傷者が五名出た。  当然のことながら事故は大きく報道された。佐田も関係者の一人として警察から事情を聴取され、一部のマスコミにその名前が出た。  佐田にしてみれば災難としかいいようのない事故であった。警察に遅くまで留めおかれて、夜遅くなって解放されたものの、自分の車は焼けてしまっている。  ようやく自宅へ帰り着いたのは明け方近くであった。彼はそのとき十数年前にも同じようなケースがあったことをおもいだした。  現場から逃げ出す途中、とある四つ角でいきなり飛び出して来た乗用車と出会い頭《がしら》にぶつかった。こちらはバンパーが変形し、先方は右ドアが凹《へこ》んだ。先方が一時停止を怠っていきなり飛び出して来たための事故であったが、相手は絶対に非を認めようとしなかった。若い男女できっと車内でいちゃつきながら運転していたのであろう。  一刻も早く現場から離れたかった佐田は、相手の言いなりに示談金を払って立ち去りたかったが、相手が警官を呼んでしまった。  結局、双方の過失による物損事故として処理された。事故そのものは大したことはなかったが、警察に調書を取られた。しかしあの事故と女殺しを結びつけた者はいなかった。結びつけた者が仮にいたとしたら、とうに刑事が来ているはずである。  おそらくあの調書もとうに処分されているだろう。      7  佐田が高崎で玉突き追突に巻き込まれたという情報は、間もなく新倉の耳に入った。新倉自身はそのニュースを聞きのがしていたが、経理課の同僚から聞いた。 「課長が玉突きにですか。それで怪我はなかったのですか」 「車は燃えてしまったらしい。素早く脱出したので、見るようにかすり傷一つ負わなかったそうだ」 「課長がどうして高崎なんかへ行ったんですか」 「ゴルフだってさ」 「課長はいつもあちらの方面へゴルフに行くんですか」 「埼玉や神奈川のカントリークラブが多いけど、たまには�河岸�を変えたくなったんだろうな」 「あの方面のクラブメンバーにゴルフ仲間がいたのですか」 「多分ね」  同僚との会話はそれだけで終った。だが新倉は高崎という地名に引っかかった。改めて玉突き事故の新聞記事を読んだ。事故は高崎‐藤岡間の354号線を跨《また》ぐ少し手前、高崎寄りの地点で発生している。  前橋には、高崎、前橋どちらのインターから出入りするにしても近い。事故は上り線で発生しているから、帰途であろう。  佐田は前橋へ行ったのではないか。いや、行ったにちがいない。なんのために? それは彼の�秘密�と無関係ではあるまい。  新倉の「前橋出身」にこだわった佐田は、それから間もなく前橋へ行ってその帰途玉突きに巻き込まれた。  新倉はそれとなく探って、佐田が神奈川県松田町のカントリークラブのメンバーであり、ほとんどが同クラブ、時たま知合いにメンバーがいる埼玉県南部のゴルフクラブに行くことを確かめた。高崎方面へゴルフに行ったことはなかった。 「高崎のゴルフ」は口実であった。  ともかく、佐田が高崎に行ったのは、彼の秘密と無関係ではない。新倉は確信をもった。猛烈な好奇心が湧いてきた。生まれつき好奇心が旺盛《おうせい》であり、いまでも夜中火事などあると飛び起きて見物に行く。新倉は佐田の秘密を見届けてやろうとおもった。  よく思い返してみれば、佐田が異常な関心を示したのは、前橋という地名に対してだけではなかった。前橋出身の萩原朔太郎を話題にしたとき、佐田はその詩句の一つ「干からびた犯罪」に関心というよりは、強い反応を示した。  新倉が詩句を諳《そら》んじると、蒼白《そうはく》になって「もういい」と遮《さえぎ》った。新倉がその詩境の凄《すご》さを「まるで朔太郎に殺人の経験があるようだ。彼は詩の中で、本当に女を殺したのだろう」と臆測《おくそく》したとき、それ以上聞くのに耐えられないかのように遮ったのである。  佐田の触れられたくない秘密は、この詩の中にあるのではないか。ようやく新倉のおもわくが核をもって凝固してきた。  佐田の「前橋」に対する関心と「干からびた犯罪」に示した反応を結びつけてみると、秘密の輪郭が見え始めてくる。  犯人は逃走—いく年もいく年もまへから‐兇器《きようき》‐屍体《したい》‐血‐五月‐女の髪、これらをキイワードとして、佐田の秘密に結びつけてみれば、佐田の秘密が浮かび上がってくる。  それをこのように言いかえてみよう。いく年もいく年も前、犯罪が干からびるほど以前の五月に犯人(佐田)は女を殺した。そして殺した場所は前橋なのだ。  このように考えれば、佐田の関心と反応もわかろうというものである。  しかし、まだ未知数が多く残されている。まずいつ殺したのか。「干からびた」というくらいであるからかなり以前であろうと察しはつけられるが、それだけでは漠然としている。  次に犯行場所はどこか。前橋のどこかを特定したい。  第三に被害者の身許《みもと》である。だれが殺されたのかわからないことにはお話にならない。状況によっては「死体なき殺人事件」も立件されることがあるが、詩の中でも「屍体」とあるように死体が欲しい。  第四に動機はなにか。佐田はなぜ女を殺したのか。  これらの未知数を埋めないことには、佐田の�秘密方程式�は解けない。だが方程式が躍動している気配はわかる。方程式自体が解かれたがって躍動しているのである。  新倉の頭が熱くなってきている。あと一押しである。  まず第一の未知数の犯罪発生時の特定から取りかかろう。「干からびた」というからにはかなり古いことはわかる。殺人の時効は十五年である。正確には死刑にあたる罪については十五年経過することによって完成する。  殺人の最も重い量刑は死刑であるから、十五年間起訴されずに逃げ通せば時効になるわけである。  佐田が干からびた犯罪の発覚を恐れるのはまだ時効が完成していないからであろう。たとえ、時効が成っていても、過去の殺人が表沙汰《おもてざた》にされると本人の信用や社会的地位が失墜するだろう。しかし、時効完成前ほど致命的ではない。少なくとも犯罪人として刑を執行されることはない。  佐田の秘密は「時効前」とみたい。それも「いく年もいく年もまへ」という詩言から完成直前とみよう。  つまりいまから十五年前に溯《さかのぼ》り前橋地域で女が五月に殺されて未解決の事件を現在に向かって探ってくればよいのだ。一が明らかになれば二と三の未知数もおのずから明らかにされるだろう。四も一二三を積み重ねれば導き出せるだろう。  ようやく新倉は自分のおもわくに確固たる方向を見出した。      8  現地を確認したことによっていくらか不安をなだめたものの、それは束《つか》の間《ま》の気休めであった。帰途の玉突きによって、十数年前現場から逃げ出す途上で惹《ひ》き起こした交通事故が次第に気になってきた。  あのとき相手の住所を聞いておいたが、前橋のどこか忘れてしまった。名前だけは「小林」と憶《おぼ》えている。小林になにか致命的な手がかりをつかまれたのではないか。そして小林と新倉の間になんらかのつながりがあって……このように考えると、また持病がむっくりと頭をもたげてくる。  こんな時期に、新倉が愕然《がくぜん》とするようなことを言ってきた。 「課長、今度はぼくもゴルフのお伴をさせてください」  新倉は他意なさそうに言いだした。 「ほう、きみもゴルフをやるのか」  佐田は新倉の方へ視線を向けた。 「最近始めたばかりなのです。まだコースにもろくに出ていません。でもゴルフくらいできないと社会人の仲間入りができませんから」 「いいよ。そのうちに機会をみて一緒に行こう」  ゴルフで懐柔して新倉と小林のつながりを探れるかもしれないとおもった。 「課長は高崎の方にもゴルフへ行かれるそうですね。あの辺ならぼくの郷里の近くですので土地鑑があります。いいゴルフクラブがいくつかありますが、どちらへ行かれるのですか」  だが追いかけるような新倉の問いかけは佐田を愕然とさせた。 「そ、そ、それは仲間に従いて行っただけだからね」  おもわず言葉がもつれた。 「前橋にもあります。父がメンバーなんです。ぼくの実家に立ち寄りがてら一度前橋にゴルフへいらっしゃいませんか」  新倉が追い打ちをかけてきた。 「前橋は少し遠いな」  言ってからしまったと唇を噛《か》んだ。その遠い前橋の近くで帰途玉突きに巻き込まれたのである。  いまや新倉がなんらかの魂胆をもって探りを入れているのは確実であるとおもった。彼は小林とつながりがあるにちがいない。小林はいまどこにいるのか。まだ前橋にいるだろうか。せめて彼の居所を確かめておきたい。  そんなものを確かめたところで仕方がないともおもうが、敵の所在を知らないと無気味である。  小林の居所を突き止め、新倉との関係を確かめられれば、打つ手もあろうというものである。あとわずかで時効なのだ。放っておいたほうがいいという内なる声があったが、持病がその声を圧倒した。  前橋の警察には当時の記録が残っているかもしれない。一方当事者の佐田が頼めば、調べてくれるかもしれない。その前に電話帳から調べるという手がある。  だがこれはNTTに問い合わせて直ちに絶望的であるとわかった。小林は群馬県の五大姓の一つで姓だけではどうにもならなかった。      9  佐田の「高崎のゴルフ」が口実であることは確認された。彼は「少し遠い」と言って断わった前橋の隣りの高崎へゴルフに行ったのである。彼自身もその矛盾にすぐに気がついたらしく、唇を噛んでいた。  この上はいよいよ犯罪日の特定である。ここに幸運が新倉に微笑《ほほえ》んだ。高校の同級生の荒井が群馬県警に入り、前橋署の捜査畑に配属されていたのである。 「十五年前から現在に向かって五月に発生した未解決の女が被害者の殺人事件か。ずいぶんカビの生えた事件に興味をもったもんだな。推理小説でも書くつもりか」  荒井は、干からびた犯罪を「カビの生えた」と形容した。カビが生えたほうが湿っている感じがして生ま生ましい。事件は古くても、まだ決着がついていないようで、いかにも警察官らしい表現だとおもった。  荒井は、新倉の�文学好き�を知っていたのでさして詮索《せんさく》もせずに請け合ってくれた。いずれ新倉が小説を書くと信じているのである。  事件の記録は十五年間保存される。それ以上古くなると捜査の対象にならなくなるので破棄される。佐田の秘密が時効前であるならまだ警察に保存されているはずであった。 「わかったよ。我が署の管内に十五年前から現在まで三件の女が殺されて未解決の事件がある。だがいずれも五月ではないな」  間もなく荒井が報告してきた。 「五月ではないのか」  少しがっかりした。詩の中に「五月の高窓」という言葉がある。それは直接の関係はなかったのか。 「死体が発見されたのは六月中旬だが、死後経過約二週間と推定されているので、五月とみてもいいだろう。他の二件は、十月と三月で、いずれも犯行後間もなく発見されている。一番カビが生えているのが六月発見で、いまから十四年前だ」 「その事件について知りたい。詳しくおしえてくれ」 「被害者は市内嶺町に住む小園ちえみという当時二十二歳の美容師だ。五月二十八日渋川の友人の家へ遊びに行くと言って家を出たまま消息を絶った。六月十五日山菜摘みに来た近所の人によって発見された。現場は県道、四ツ塚・原之郷・前橋線の隣りの大胡《おおご》町との境界近くの山林だ。いまその場所は住宅地になっているがね」 「それだな」  新倉は低くうめいた。遂に最も重大な未知数を埋め立てたとおもった。 「被害者は首を手で絞められて死んでいた。いわゆる扼殺《やくさつ》だ。生前に情交の痕跡《こんせき》があった。生前の異性関係を中心に捜査は進められたが、怪しい者は浮かび上がらなかった。被害者には何人かつき合っていたボーイフレンドがいたが、いずれもプレイと割り切っていた模様だ。殺すほど深刻な関係の者はいなかった。  周辺の素行不良者、暴力団関係者、季節労働者なども洗ったが、いずれもシロとなった。  流しの犯行ということになって捜査を広げたが、結局事件は未解決のまま、捜査本部は解散した……こんな経緯だね」  あとの二件の未解決殺人事件は、昭和五十×年三月市域利根川の河原で四十三歳の主婦が殺された事件と、三年前十月深夜市内の繁華街で三十三歳のホステスが通り魔に刺された事件である。  これらの事件はいずれもまだ「干からび」ておらず、発生月が五月ではない。最も可能性が大きいのが美容師殺しである。  新倉はその場面を想像した。なにかの用事があって佐田が車で通行中小園ちえみに遭遇する。佐田が声をかける。小園が乗って来る。そして二人の間にトラブルが生じて、佐田が小園を殺害、死体を山林に埋めて逃走した。  佐田はこの秘密をかかえて十数年間、司直の追及におののきながら生きてきた。あとわずかで時効の壁の中に逃げ込めるというときに、前橋出身の新倉が同じ課に配属されたのである。  そのときのショックと不安が異常な反応となって新倉の不審を招いてしまった。佐田は泰然自若《たいぜんじじやく》としていればよかったのである。十数年前の「干からびた犯罪」などだれも掘り起こす者はいない。それを佐田の几帳面《きちようめん》な性格が災いした。些細《ささい》なことに感じやすく、不安を助長して、自ら墓穴を掘るような行為をした。  新倉はここで佐田の�秘密�の一件を荒井に話した。 「なかなかいい推理だが、それだけではどうにもならんな」  聞き終って荒井は言った。 「やはりどうにもならないか」 「すべてはきみの心証による臆測《おくそく》にすぎない。佐田が前橋に反応したのも、きみに個人的関心をもったのも上司が部下に対する興味としてべつに怪しむに足りない。朔太郎の『干からびた犯罪』を佐田の反応に一々当てはめるのは、まるでクロスワードパズルみたいだな」  荒井は容赦ないことを言った。 「クロスワードパズルか。しかし字はぴたりと埋まるよ」 「パズルやゲームならそれでいい。しかし一人の人間に殺人の罪をきせるのだ。マス目が埋まっただけではどうにもならない。証拠がなければね」 「証拠か」 「そうだ、証拠だ。十数年前の干からびた犯罪の証拠をどうやって手に入れる」 「そうだなあ」 「まあ、推理小説に留めておいたほうが無難だぜ」  ここまで追いつめておきながら、最後の証拠の段階で行きづまった。  だが、荒井は臆測にすぎないと言ったが、心証も積み重ねれば確固としてくる。新倉の心証では、佐田が小園ちえみを殺したのだ。それはまちがいない。あの反応や関心が上司が部下に対するものであるはずがない。それを一々見、体感している新倉にはわかるのである。  だが、犯人を有罪にするためには裁判官を納得させなければならない。法廷に朔太郎の詩を持ち出したところで冷笑されるだけであろう。  証拠だ。証拠が欲しい。しかし十数年前の干からびた犯罪の底に、どんな証拠があるというのか。死体はとうに土に還《かえ》り、現場は失われてしまった。おもわくだけが溯行《そこう》して、疑惑の車輪を空転させている。      10  佐田は自衛本能が危険を訴えるのを無視して、遂に前橋の警察へ問い合わせた。案の定相手はびっくりしたらしい。十数年前の交通事故、それも単なる物損事故について聞いてくる者など前代未聞である。 「最近、相手のことが気になりましてね。あのときは相手の物損ということで折合いがついて別れましたが、その後年月を経るほどにあのときの事故が原因で身体に故障が生じなかっただろうか、仕事に影響が出なかっただろうか、気にしだすと居ても立ってもいられなくなりまして。苗字《みようじ》がわかっているのでそちらの記録に住所が残っているはずなのです」  佐田は問い合わせに当たって細君の実家の姓を名乗った。記録に佐田の名前が残っているはずであるが、記録が見つかったときは、婿《むこ》にでも行ったと答えるつもりである。記録が見つからないときに備えて、偽名を使ったのである。 「しかしねえ、小林だけではどうにもなりませんよ」 「事故発生日は憶《おぼ》えています。一九××年の五月二十八日です」 「とにかく調べてみましょう」  相手は、佐田の粘りに根負けしたらしい。交通事故の相手の身体を十数年しても気遣《きづか》っているという佐田に感心したようである。だが、結局、その記録は見つからなかった。  警察の記録にも残っていないくらいであるから、ここから手がかりを得たとは考えられない。ともかく「探偵」は警察の線でないことがはっきりした。探偵が仮にいたとしても、素人である。佐田はいくらか安心した。 「おい、妙な問い合わせがあったよ」  数日後、前橋署の荒井から電話してきた。 「なんだい、妙な問い合わせって」 「十四年前の交通事故の問い合わせなんだがね、それが五月二十八日の事故なんだ」 「なんだって?」 「美容師が行方を絶った日と同じ日なんだよ。車同士の軽い物損事故なんだそうだがね、相手の身が最近気になって相手の住所を知りたいというんだよ」 「だれだい、そんな問い合わせをしたのは」 「東京の関口という人だ。一応住所は聞いてある」 「佐田課長だ」 「もし佐田が問い合わせてきたのであれば、彼は一九××年五月二十八日交通事故の一方当事者として美容師の死体発見現場の近くにいたことになるぜ」  荒井は抑えているが、声が少し興奮している。 「佐田がなぜそんな干からびた[#「干からびた」に傍点]交通事故を掘り起こそうとしたのだろう」 「美容師殺しと交通事故がなんらかのつながりがあるのかな。いやこれは警官として避けなければならない先入観だ。きみの心証の影響を受けてしまったな」  荒井が電話のかなたで苦笑した。 「影響を受けたので、電話してくれたんだろう」 「その通りだよ。関口は交通事故の一方当事者だと言っていた。関口が佐田の偽名かどうかわからんが、同じ日の交通事故は無視できない」 「それで交通事故の記録はあったのかい」 「管内にはなかった」 「管内にないというと」  荒井の言葉に含みがあるように聞こえた。 「念のために隣接署の記録も調べてもらったんだよ。車は機動力があるので広範囲に跨《またが》るからね」 「それであったのか」 「大胡《おおご》署にね。小林幹一、桐生《きりゆう》の人だった。しかも一方当事者に佐田忠男の名前がばっちり残っていたよ」 「佐田の名前があったのか」 「現場は、死体発見現場からさほど離れていない。隣接署の事故だったので、捜査でリンクしなかったんだろうな、警察間の連絡は必ずしもうまくいっていないし、取るに足りない物損事故だったので、見過ごされたんだろう」 「佐田は五月二十八日、現場の近くにいたんだ。先入観じゃないよ。警察の記録に残っているんだ。関口は佐田の偽名だよ。記録がない場合に備えて偽名を使ったんだ。さすがの彼も、前橋の隣りの警察だとはおもわなかった。前橋で女を殺した直後の事故なので、てっきり前橋管内だとおもったんだろう」 「かなり距離は詰まったが、まだ佐田に手は出せない。彼が十四年前の五月二十八日にどこにいようといっこうにさしつかえない。彼と美容師の間にはいかなるつながりも発見されていないのだからな」 「交通事故を美容師殺しに結びつけるのは、やはり先入観というわけか」 「そういうことだ。ただし手がかりは残されているぞ」 「小林という人かい」 「さすがにカンがいいね。佐田がそんな干からびた交通事故の相手を探しているということは、彼に都合の悪いことを握られているからじゃないかな。しかも佐田は小林の居所を知らない」 「こっちにはわかっているんだな」 「大胡署の記録に小林の住所が書いてあったよ。だがその住所には該当する人物はもう住んでいない」 「それだけわかっていれば、あとはおれが探してみるよ。おれの個人的心証だけで税金を無駄遣いさせては悪いからね」 「これで干からびた犯人を挙げられれば、県警から表彰状ものだよ」  荒井が詩人の表現に引きずられてきている。      11  新倉は桐生へ行ってみることにした。調書には電話番号が記載されていなかった。NTTに問い合わせたが桐生市に「小林幹一」名義の電話所有者はいなかった。現地へ行けば、移転したにしても手がかりがつかめるかもしれない。それでだめなときは、また荒井の助けを求めるつもりである。  東京から桐生へ行くには浅草から東武線を利用するのが便利である。急行で新桐生まで約一時間四十分で着く。足利《あしかが》あたりから平野が尽きて電車は起伏が生じ始めた地勢の中に走り込む。山地といっても穏やかな丘陵のような低山がたたなわる間にかかえ込まれるように市街がある。  市街の中心は渡良瀬《わたらせ》川の東側に発展している。小林の旧住所は地図を見ると市の東縁をなす桐生川の上流の方にある。三方を山地に囲まれた奥の方に当たる。  新桐生駅前から、渡良瀬川を渡り、市街を貫いて北東の山地へ向かう道路は、市中の目抜き通りになっていて、渋滞が激しい。だが市街には高層建物はなく、その表情は穏やかである。まだ機械文明にそれほど毒されていない地方都市の素朴な表情が残っている。 「西の西陣、東の桐生といわれる織物の町ですから、ちょっと京都に似ているでしょう」  タクシーの運転手が自慢げに言った。そう言われてみると、古い歴史のにおいが街のあちこちに残っているようである。古い建物も目立つ。 「桐生のもう一つの名物は離婚が多いことです」  運転手が言葉を追加した。 「それはまたどうしてですか」  独身の新倉は興味を惹《ひ》かれた。 「古い女が目醒めたんですかな。若い夫婦より、熟年夫婦に離婚が多いんです。わしらも気をつけにゃいかん、うん」  年輩の運転手は語尾を自分に言い聞かせるように言った。この半分眠っているような山峡の街にも時代の波が押し寄せているのか。  この街が「ウカウカすれば隣人の目の玉も抜く機敏さが露骨」と坂口安吾が書いた商魂たくましい街とは信じ難い。もともと群馬県は女権意識の強い地域である。  特に織物は女性の労働力が主体になっているので、女が強いのかもしれない。そんな会話を交わしている間に目的の場所へ来た。山がぐんと迫り、学校や寺が多い地域である。  南北に長く山に挟まれて発達した市街は、南端を渡良瀬川に塞《ふさ》がれた形で、日本的な過密の中に人肌の温かさを留めているようである。  車を捨て、所番地と「小林幹一」という名前を頼りに近所を聞き歩いた。該当番地は駐車場になっていて、十数年前の事情を知る者はいない。古い街でいながら十数年の間に住人が入れ替っている。  駐車場の地主は、スーパーであるが、問い合わせても埒《らち》があかない。スーパー自体が新興である。  あきらめかけたとき救《たす》け船が出た。 「守衛のおじさんなら古いことを知っているかもしれない」  スーパーのチェッカー(レジ係)の女の子が言いだした。早速、「守衛のおじさん」の警備係に尋ねた。六十代半ばの赤ら顔の人の善さそうな老人である。 「小林幹一、ああ、知っているがな」  意外にあっさりと望む答えが返ってきた。 「ご存じですか」  新倉はおもわず上体を乗り出した。 「以前同じアパートに住んでおったよ。駐車場の前地にあったアパートでねえ」 「いまどちらにおられるかご存じですか」  声が弾みかかっている。 「末広町の方に店を開いているよ。働き者の嫁さんもらって、夫婦でよく働いたので店も繁盛している」 「なんの店を開いているのですか」 「電機屋だよ。JR桐生駅の近くに小林電機商会という看板が出ている」  末広町は往路を南へ三分の一ほど引き返したあたりである。大体の場所を聞くと、「守衛のおじさん」に礼を述べて辞去した。大した距離ではなさそうなので歩いて行く。目抜き通りはいずこも同じ車の洪水であるが、一歩横路地や裏通りへ入ると、地方都市の古いにおいとたたずまいが残っている。  軒を接した小住宅の間から近く迫った山の緑が覗《のぞ》くのも地方都市の風情である。路地に盆栽の鉢が並べられ、家の奥に庭が見える。  街を南北に貫く目抜き通りと東西に交叉《こうさ》する、これも市のメインストリートをJR駅よりやや西へ行った左手に小林電機商会はあった。間口二間程度のこぢんまりした店であるが、テレビ、ビデオ、電気洗濯機など最新機種がディスプレイされている。  駐車場前地のアパート間借人から目抜き通りに店を構えるまでになったのだから、ちょっとしたサクセスストーリイ物である。新倉はそのストーリイの中に古い殺人の手がかりを見つけようとしているのである。  ちょうど折よく主人らしい四十前後の朴訥《ぼくとつ》な表情の男が居合わせた。  新倉は名刺を差し出して、古いことで恐縮だがと断わり十四年前の交通事故について尋ねた。不審げな表情で新倉の話を聞いていた相手は、徐々に反応を現わして、 「ああ、そんなことがありましたなあ。家内と結婚する前でしたか、赤城方面へドライブに行った帰途でした。四つ角で出会い頭《がしら》に接触してしまったのです。ところが先方はいきなり数枚の万札を突きつけて、これで示談にしてくれと言いだしたのです。こちらがなにも言わないうちに、いきなり金を突きつけられたものだから、ちょっと頭にきましてね、それは話がちがうんじゃないかと警察を呼んだのです。まあ警察を呼ばなくとも話し合いで解決するような事故でしたが、相手の出方が悪かったもんですからね。こっちも頑《かたく》なになってしまいました」  小林は記憶を掘り起こしながら話した。新倉は社内報に載っていた佐田の写真を示した。 「だいぶ前のことなので、よく憶えていないが、こんな感じの人だったな。そうだ、女房がいますからちょっと呼びましょう」  小林は気軽に奥の方へ向かって妻を呼んだ。小柄な色の白い丸ポチャな中年の主婦が出て来た。いかにも働き者らしい活気を身辺に漂わせている。  夫から新倉の訪意を中継された彼女の表情は直ちに反応した。 「そんなことがあったわね。相手がいかにもこちらが脇見《わきみ》運転のような言い方をしてお金を突きつけたので、あなたが怒っちゃったのよね」 「その相手は急いでいたように見えませんでしたか」 「見えたわよ。なんだかひどく慌てていたわ。主人が警察を呼んだら、逃げ出しそうにしていたわ。私、なにか悪いことでもしたんじゃないかとおもったくらいだもの」  電機屋の細君の観察はなかなか鋭い。 「そのときなにか他に気がついたことはありませんか」 「特になかったわね。結局警察の仲立ちで話し合いがついて、双方の過失ということになって別れたわ」 「それ以後、相手に会われたことはありませんか」 「ないわ。会う必要もないから」 「接触したとき、相手がなにか落としたとか遺留していったようなものはなかったでしょうか。古いことで恐縮ですが」 「さあ、そんなものはなかったとおもうけど」  新倉の追跡もここまでかとおもったとき、電機屋の女房が、ふとおもいだしたように、 「相手の人のものかどうかわからないんだけど、そのときその場所で拾ったものがあったわよ」 「拾ったもの! なんですか、それは」  おもわず声に力が入った。 「ヘアピンよ。蒔絵《まきえ》の入った、ちょっと気取ったヘアピンよ」 「ヘアピンというと、女性のものですね」  抑えようとしても興奮が盛り上がってくる。 「そうねえ、最近は長髪の男の人が使っているかもしれないけど、蒔絵のヘアピンは女物だわね」 「それが現場に落ちていたのですか」 「事故の後、主人と相手の人が話し合っているとき拾ったのよ。私のものではないし、まだ落ちたばかりのようにきれいだったので、相手の人のものかと聞くと、ちがうと言ったわ」 「そのときどんな風にちがうと言いましたか。手に取ってよく検《しら》べた後ちがうと言ったのですか。それとも見もせずに言いましたか」 「一瞬ギョッとしたような顔をしたけど、うろたえた口調でちがうと言ったわ」 「ギョッとしたような顔をしてうろたえた口調で言ったのですか」 「そうよ。変な人とおもったわ」 「そのヘアピンはもうないでしょうね」  なにせ十四年前の�拾得物�である。 「探せばあるかもよ。ちょっと面白い図柄の蒔絵だったので、小間物入れの中に入れておいたの。警察に届け出るほどのものでもないとおもったから」 「奥さん、そのヘアピンもしいまおもちでしたら、ちょっと見せていただけないでしょうか。もしかすると、大変な事件の証拠になるかもしれないのです」  新倉は細君の協力を得るために事の経緯を手短かに語った。 「そういうことだったら探してみるわ」  細君は興味をもってくれた。 「あったわよ」  間もなく細君は、一本のヘアピンをつまんで奥から現われた。梅に鶯《うぐいす》がとまっている。陳腐な構図であるが、色彩が美しい。 「鳥は一見鶯のようだけど、雀《すずめ》なのよ。鶯と画《か》きまちがえたのか、それとも梅と竹を画きまちがえたのかもね」  細君が、新倉の印象を読んだように�解説�をした。「梅に雀」なら珍しい図柄である。 「奥さん、このヘアピンちょっと拝借できないでしょうか」  遂に証拠を見つけたとおもった。 「いいわよ、もともと私のものではないんだから。お役に立てば十何年も抱え込んでいた意味があるわ」      12  新倉はその足で前橋へまわった。荒井は、新倉が見つけ出した�証拠�にびっくりした。 「どうだろう。もしこのヘアピンが小園ちえみのものなら佐田の首根を押える証拠にならないかな」  新倉はヘアピンを探し出した経緯を話した。 「いや恐れ入ったな。これから先は警察に任せてくれ。まだ止どめを刺すまでには行ってないが、こいつがあればかなり肉薄できるよ」  荒井は言った。  ヘアピンが被害者の遺品と特定されても、必ずしも被害者と佐田の関連を証明したことにならない。  だが、佐田が十四年前、五月二十八日当日犯行現場の近くへ来ていた事実、高崎へゴルフに行くと嘘《うそ》を吐《つ》いて現場の近くへ来た状況、また偽名を用いて、同日発生した交通事故の相手方の行方を問い合わせてきた事実等を考えると、かなり佐田に�肉薄�できるだろう。  ヘアピンを小園ちえみの遺族に見せたところ、母親が泣きだした。 「これがいったいどこに。このヘアピンはあの子が京都へ行ったとき買ってきた品でとても大切にしていたのです。あの日もこれを髪につけて出て行きました」  母親の証言によって被害者の遺品と特定された。その遺品が佐田と小林の�接触場所�に、被害者が消息を断った同じ日に発見されたのである。小林夫妻は被害者になんのつながりももっていない。佐田の容疑はきわめて濃厚といわざるを得ない。  佐田は前橋署から任意出頭を求められた。  佐田は鬼門の前橋署からの出頭要請にショックを受けていた。 「古いことで恐縮だが」と前おきしていかにも老練らしい取調べ官が十四年前の五月二十八日に前橋に来たことはないかと切り出した。穏やかで丁寧な口調であったが、吸着力抜群の触手のようにねっとりとからみついてくる。どんな微細な論理の矛盾や心理の動揺にもつけ込んで息の根を止める危険な凶器を忍ばせている。かたわらで若いすばしこそうな係官が補佐をしている。  来たことはないと答えたかったが、相手の質問の素地には、十四年前の交通事故の記録があるにちがいない。 「さあ、古いことなので記憶は定かではありませんが、一度来たような気がします」  佐田は止むを得ず答えた。 「いや、あなたは確かに来ております。正確には隣接の大胡《おおご》署管内ですが、あなたは十四年前のその日、桐生市の小林幹一さんと軽い物損事故を起こしています」  やはり、あの事件の記録を引っ張り出していたのだ。だが真に恐るべきは、それを引っ張り出した意図である。 「そういうことであればそうだったとおもいます」  佐田は渋々と言った。 「おかしいですな。あなたははっきりと憶えておられるはずですが」  取調べ官はすかさず追いかけてきた。 「どうしてですか。十四年前の事故なら忘れていて当然じゃないですか」  やや色をなして切り返したのに、 「十四年前じゃありませんよ。あなたはつい先日、関口という偽名を用いてその事故について前橋署に問い合わせてきた。年月を経るほどにあのときの事故が原因で相手の身になにか故障が出なかったか、気にしだすと居ても立ってもいられなくなった、事故発生日も憶えているとおっしゃったじゃありませんか」 「そんな問い合わせは……」 「していないとは言わせませんよ。そのとき電話に応対したのが、ここにいる荒井君だ。彼はあなたの声をはっきり憶えています。だいいちあなた以外のだれが偽名を用いてそんな問い合わせをするのです。あなたは隣りの大胡署にその問い合わせをすべきでしたね。前橋と隣接署の境界近くだったので、つい当署と勘ちがいしてしまった」  胸元に凶器を突きつけるように切り返してきた。佐田は足許《あしもと》がよろめいたように感じた。 「あなたが小林さんの車と接触した現場からあまり離れていない我が署の管内で若い美容師の死体が発見されました。あなたはその美容師についてなにか心当たりはありませんか」  崩れた体勢から立ち直れないでいる間に第二撃が浴びせられた。 「そんな縁もゆかりもない美容師に心当たりがあるはずないだろう」  おもわず言葉遣いが乱れてしまった。 「この品をご存じでしょうな」  その前に取調べ官が蒔絵《まきえ》入りのヘアピンを突きつけた。薄い記憶はあるが咄嗟《とつさ》におもいだせない。だがそれが彼の生死を左右するような重大な資料であることはわかる。 「あなたはこのヘアピンを小林さんの奥さんの前で落とした。小林さんの奥さんは拾い上げてあなたのものかと問うたが、あなたはなぜかちがうと答えた。このヘアピンはその美容師の品です。接触事故の現場は美容師の生活圏からはずれています。当日彼女がそこへ来るいかなる用事もありませんでした。すると、あなたがヘアピンを運んできたとしか考えられないのです」 「言いがかりだ。私にはなんの関係もない。私がどうして十四年も前に殺された女のヘアピンをもっていると決めつけるんだ。私はそんな美容師となんの関係もない」  佐田が言い返した後、静寂が落ちた。無気味な静寂であった。取調べ官は少しも笑っていないのに、そのとき佐田の目にニタリと笑ったように感じられた。なにか途方もない失策を犯したような気がするが、咄嗟に認識できない。 (自分がなにかおかしなことを言ったか)  と反問したいところを怺《こら》えた。取調べ官は佐田の目の奥を凝《じ》っと覗《のぞ》き込むようにしてゆっくりと言葉を押し出した。 「私がいつ殺されたと言いましたか。また十四年前の死体と言いましたか」  しまったと唇を噛《か》んだ佐田の前でべつに勝ち誇るでもなく取調べ官は淡々とつづける。 「私は接触現場から離れていない我が署管内で死体が発見されたと言っただけです。いつ、どんな死因か、いっさい言っておりません。自殺したかもしれないし、事故死だったかもしれない。それも十四年前とはかぎらない」 「き、詭弁《きべん》だ。引っかけたんだ」 「あなたが潔白ならなぜ引っかける必要があるのです。あなたがヘアピンを拾おうと落とそうといっこうにさしつかえない。いつどんな死にざまをしたかもわからない赤の他人の持ち物をあなたはどこで拾い、どこに落とそうとかまわないはずじゃありませんか。あなたは縁もゆかりもない、なんの心当たりもない美容師が、十四年前に殺されたとどうして知っていたのですか」  問いつめてきた取調べ官の前で、佐田は言葉を失ったまま総身小きざみに震えていた。なにか言えば、ますます傷口を大きくするような気がする。 「とんだ藪蛇《やぶへび》でしたね。あなたが十四年前殺された美容師と重大なつながりがあることは語るに落ちてしまった。改めて次のようにお尋ねします。あなたが重大なつながりをもっていた十四年前に殺された美容師のヘアピンが、あなたが十四年前の五月二十八日物損事故を起こした現場に落ちていた。当時の状況とその後のあなたの言動からみてヘアピンを美容師の死体から物損事故の現場へ運べる人物はあなた以外に考えられないのです。そうではないとおっしゃるなら、なぜ美容師が十四年前に殺されたこと、および、偽名を用いて同日発生した物損事故の相手方を探したか、我々の納得のいくように説明してもらわなければなりませんな」  取調べ官の言葉は途中から別世界から響いてくるように途切れとぎれに聞こえた。奈落へ落ちて行く絶望感から視野が暗くなり、外界の音が遠ざかった。  時効完成まであと一年足らずである。まさか一本のヘアピンが、十四年後に追いかけて来ようとはおもわなかった。被害者と格闘したはずみに身体のどこかに引っかけて、物損事故の現場に落としたのを、小林の細君に拾われた。なぜあのとき自分のものだと言わなかったのか。  いや小林の細君に拾われてもいっこうにかまわなかった。自分さえ疑心暗鬼に駆られて下手な動きをしなかったなら、「干からびた犯罪」は、そのまま化石になってしまったにちがいない。  取調べ官は「藪蛇」と言ったが、蛇どころか、狼《おおかみ》を引き出してしまったのである。  ガタリと椅子を引いて取調べ官がゆっくりと立ち上がった。任意性を考慮して取調べ場に当てていた警察署の応接室の広々と取った窓が獄舎の床から覗く高窓のように高く狭く、そこに広がる初夏の青空が、井戸の底から仰ぐ空のように四角に凝縮して見えた。  そのとき佐田は朔太郎が「五月の高窓」と詩《うた》った詩句の真の意味を初めて理解したのである。 [#改ページ]  写 真      1  北村直樹はある文芸雑誌のグラビア企画で、作家のアルバムというコーナー用の写真を探していた。写真はかなりあったが、雑誌に発表する写真となると、いずれも帯に短かし襷《たすき》に長しで適当なものが見つからない。数枚の写真から作家のキャラクターが浮かびあがるようなものという難しい注文である。  アルバムを漁ってみたが、適当なものが見当たらないので、未整理の写真をひっくり返してみた。講演旅行や取材旅行に出かけた先で、撮影した写真や、パーティなどで撮られて送られてきた写真が未整理のままデスクの引き出しに放り込まれている。いずれアルバムにきちんと整理しようとおもっているうちに、新たな写真がたまってしまう。撮影期日が写し込まれていない写真は、いつどこで撮影されたのかもおもいだせないものが少なくない。  それらの中にとんでもない古い写真が混じっていたり、いまは交際の絶えた昔の知り合いがいたりする。そんな写真につきあっているといつの間にか時間が経ってしまう。肝心の写真を探すのを忘れていることに気がつきはっとする。  北村は未整理の写真の山の中から一葉の写真をつまみ上げてふと首を傾げた。目鼻立ちの整った美しい女が写っている。年齢は二十代半ばか。成熟した身体に年季の入った色気が漂っているようである。女は一瞬なにかに驚いたような表情をしていた。その一瞬の表情をカメラは捉えている。 「はて、だれだったかな」  北村は首を傾げた。彼の記憶にない女だったからである。まったく未知の人間の写真が未整理の写真の山に入り込むのは極めて稀《まれ》である。直接のつながりがなくとも、間接の関わりがあったり、あるいは写真の主を忘れていたりする場合が多い。だが北村がどんなに記憶をかき立てても、その女の身許《みもと》をおもいだせない。彼の現在および過去の人間関係の中にまったくない顔であった。  写真には撮影期日が写し込まれている。被写体にはおぼえはなかったが、その背景には記憶がある。女の背後に写っている湖はたぶん箱根の芦《あし》ノ湖《こ》であろう。北村は写し込まれている撮影期日に箱根を訪れた記憶があった。  今年五月下旬、大学時代のサークル仲間が集まって、箱根へ一泊の同窓会旅行をしたのである。その同じ旅行地で写真の女にたまたま行き合わせたらしい。写真に写し込まれている撮影日を見ると、その字体の特徴からどうも北村のカメラで撮影したらしい。だが彼にはその女を撮影した記憶はまったくない。 「そうだ。だれかにカメラを貸したな」  北村ははたとおもいあたった。カメラマンになるのが面倒くさくて、友人にカメラを預けたところ、彼が勝手に撮影していたのをおもいだしたからである。おそらく友人がそのとき撮った一コマであろう。様子のいい女に惹《ひ》かれて、シャッターを押した。そのフィルムをそのまま現像焼き付けしたのが、未整理写真の中にまぎれ込んでいたのである。  女の写真がまぎれ込んできたルートがわかって、北村はすっきりした。こんなことでも気にすると夜眠れなくなることがある。      2  数日後朝食を摂《と》りながらなにげなく新聞を開いた北村は目を剥《む》いた。社会面のトップにOL絞殺されるという大きな見出しと共に、見おぼえのある顔写真が載っていた。未整理の写真の中にまぎれ込んでいた「箱根の女」である。最初の驚きを鎮めた北村は、記事を読んだ。記事の大要は次のようなものである。  都下M市|旭《あさひ》ケ丘《がおか》公団住宅六十三号棟四〇一号室の会社員松井純子さん(二十五歳)が首を手で絞められ殺されているのを三日前から純子さんが無断で会社を欠勤しているのを不審におもった同僚棚橋英子さんが様子を見に来て発見、M署へ届け出た。棚橋さんが四〇一号室を訪れたとき、ドアに鍵《かぎ》はかかっておらず、室内に入ったところ、テレビがつけっぱなしで、純子さんはベランダに面した六畳の和室に俯《うつむ》けに倒れていた。M署が調べたところ、室内には純子さんが抵抗した痕跡《こんせき》が認められ、純子さんは乱暴されていた。死体は死後二、三日を経過している状態だった。  純子さんの隣室の居住者は、三日前の夜純子さんの部屋の方角で言い争っているような声を聞いたが、テレビの音だとおもったそうである。警察では純子さんが犯人を室内に引き入れている点から、顔見知りの者の犯行と見て、捜査一課の応援を求め、婦女暴行、殺人事件の捜査本部を設けて捜査を始めた。  記事を読み終った北村は束《つか》の間呆然《まぼうぜん》とした。  我に返った北村は、例の写真を未整理写真の中から取り出して、新聞の写真と見比べた。まちがいない。まぎれもなく同一人物である。  あの女が殺された。たまたま彼の未整理の写真の中にまぎれ込んできた被写体にすぎないが、袖《そで》振り合うも他生の縁である。写真ではあるが彼の家にまぎれ込んできた被写体の女性が殺されたことを見過ごしにできないおもいがした。ここのところ若い女性が自分の部屋の中で殺されるという事件が相次いで発生している。被害者はいずれも都会で独り暮らしをしている女性である。夢を探して都会へ出て来た女性が、凶暴な狼《おおかみ》の餌食《えじき》になってしまうのである。都会には危険を冒しても若い女性を惹《ひ》きつける魅力があるのである。  一体だれがどんな動機から彼女を殺したのか。そろそろ若い女性に縁のなくなる年齢に達しつつある北村は、特に若い女性が被害者になった事件に義憤をおぼえる。生きていれば多様な可能性の花を開いたであろうものを無法に摘み取った犯人が憎い。北村が憎んでも仕方のないことであるが、他人事《ひとごと》ではないおもいがした。写真の縁が彼女を他人ではないような気にさせていた。  北村は箱根へ一緒に行った同窓生の一人小柳に電話した。小柳は都心のあるホテルの副支配人をしている。箱根の旅行も小柳が幹事になった。ホテルも彼の紹介によるものである。北村のカメラを預かってシャッターを押していたのも小柳である。 「やあ、箱根の旅行以来だね。その後元気か」  小柳はホテルの活気ある現場の雰囲気をそのまま伝える電話口から活発な口調で応答した。 「忙しいところをすまないな。実はその箱根旅行のことで電話したんだ」 「あれで味をしめて、また近いうちにやろうじゃないかという声が上がっているよ」 「それは結構だが、今朝の新聞を見たかね」 「一応目を通して見たが」 「都下M市でOLが殺されたという記事が載っていたが、きみには被害者について心当たりはないか」 「ああ、そんな記事が載っていたな。しかし、心当たりがあれば気がついているよ。それがどうかしたのかい」 「箱根旅行の写真に写っているんだよ」 「箱根旅行の写真にだって?」  小柳には咄嗟《とつさ》に北村の言葉の意味がわからないらしい。 「きみにカメラを預けて撮ってもらっただろう。その一枚の中に彼女が写っているんだよ」 「まさか」 「自分でシャッターを押しておいて忘れちまったのか。きみが写した写真の中に、たしかに彼女の顔がある」 「あのとき仲間だけでなく、勝手にあちこち撮りまくったからな」 「忙しいところをすまないが、手近の新聞を見てくれ。彼女の写真が載っているはずだ。彼女を写したときの状況をおもいだしてもらいたいんだ」 「ちょっと待ってくれ。いますぐ新聞を持って来る」  小柳は興味をおぼえたらしい。間もなく小柳は戻って来て、 「あった、あったよ。この女ならおぼえている。芦ノ湖|桃源台《とうげんだい》で様子のいい女がいたのでついカメラを向けたんだ。まさかこの女が殺されるとはおもわなかったな」 「きみがカメラを向けたとき、彼女にだれか連れはいたかい」 「男の連れがいたよ。こっちはむくつけき野郎ばかりで固まっているのに、あんないい女を独り占めにして羨《うらや》ましいとおもったもんだ」 「むくつけき野郎ばかりで悪かったな。ところで、どんな男の連れだったかおぼえているかい」 「三十代の後半から四十前後というところかな。苦みばしった男前だったよ。その夜同じホテルで落ち合ったが、きみは気がつかなかったか」 「同じホテルに泊まったって」 「ロビーで彼女とすれちがった。もっとも先方は気がつかなかったがね」 「同じホテルに泊まったとは気がつかなかったな」 「男と一緒に楽しそうにしていたが、あの女が殺されてしまうなんてね」 「警察では男関係を捜査しているらしい」 「まさかあのときの同行者が殺したんではないだろうな」 「さあ、それはわからんよ。男と女の間のことは、当人同士にしかわからんからな」  小柳に問い合わせて、彼女の箱根旅行に同行者がいたことがわかった。だがその後の報道に注意していても、その男の存在が浮かび上がった様子はない。男が名乗り出てもいないようである。被害者の身辺に箱根旅行の同行者は影も形も現わした様子がない。そのことが次第に北村の心に違和感となって引っかかってきた。  自分の恋人が殺されれば、名乗り出てきてもよいはずである。彼女との関係は人目を忍ぶものであったかもしれない。あるいは小柳と話し合ったように、箱根旅行の同行者が犯人であるかもしれない。だが被害者の身辺には特定の男は浮かび上がらず、捜査は難航の兆しを示しているようである。北村は再度小柳に連絡を取った。 「殺された箱根の女だが、その後犯人も容疑者も挙がった様子はない」 「おれもきみに言われてから、気になってね、ずっと報道に注意しているんだが、捜査に進展はないようだね」  小柳が言った。 「そこできみに頼みがあるんだが、彼女と同宿になった箱根のホテルは、きみのご推薦だったね」 「昔の仲間が支配人をしていてね、多少の無理はきいてもらえるので、あのホテルを取ったんだが」 「どうだろう。きみの顔をきかせて、彼女の同行者の氏名、住所を調べだしてもらえないだろうか」 「さすがは作家先生だな。いいところに目をつける。ホテルは宿泊者の住所、氏名は明らかにしないものだが、支配人に頼めばなんとかしてくれるだろう。きみは同行者を疑っているのか」 「箱根へ泊りがけの旅行に出たほどのパートナーだから、当然彼女と深間《ふかま》の仲だったとおもえる。警察の捜査の網に引っかかっていなければ、隠れているんだとおもうよ」 「さっそく問い合わせてみよう」  間もなく小柳から返答がきた。 「おい、わかったよ」 「わかったか」 「本名かどうかわからんがね。ホテルに名前と住所をレジスターしていた。しかしおかしなことがあるんだ」 「おかしなこととはなんだね」 「彼らはいったんレジスターして部屋を取ったんだが、その日の夕方のうちに急用が発生したとかで、そそくさと発《た》っていったそうだ」 「発っていった。すると泊まらなかったのか」 「そういうことだね。いったん部屋に入っているので、部屋代は全額支払っているが、泊まらなかったんだ」 「カップルの場合一泊として部屋を取っていても、用事がすむと出発してしまうケースが多いんじゃないのか」 「よく知っているじゃないか。きみも案外とご休憩の常連じゃないのかね」 「冷やかすなよ。もうそんなパワーはない」 「いやいや、どういたしまして。作品を拝見すると脂ぎっているよ」  話が脇道へ逸《そ》れかかった。 「それで彼女らもご休憩組だったのかい」 「リゾートホテルでご休憩というのは少ない。予約も一泊として受けているし、夕食も用意していた。彼女らも最初は泊まるつもりでいたらしい」 「それがどうして急にそそくさと発って行ったんだ」 「さあ、そのへんの事情はわからんが、ただ急用が発生したということだったそうだ」 「男の名前と住所をおしえてくれないか」 「それを知ってどうするつもりだね」 「おれなりに少し調べてみたい」 「書くつもりなのか」 「いや、単なる好奇心だよ」 「まあお手やわらかに頼むよ。ホテルマンが客のプライベートな事項を洩《も》らしたんだから、書くときはくれぐれも慎重に配慮してくれ」 「そのへんのところは大丈夫だよ。きみに迷惑はかけない」  小柳から聞き出した同行者の名前と住所は次の通りである。二宮正和、都下|三鷹《みたか》市|井《い》の頭《かしら》一‐十×‐××、職業は会社員である。北村はNTTの番号案内に問い合わせたところ、同人名義の電話番号が判明した。その夜午後十時ごろを待って電話をしたところ、まず細君らしい女性の声が応答して、ご主人にお話ししたいと申し出ると、こちらの素姓を詮策もせず、あっさりと取り次いでくれた。間もなく二宮が応答した。 「初めまして。北村と申します。つかぬことをおうかがいしますが、あなたは松井純子さんをご存じですか」  北村が問いかけると、電話口ではっと息を呑み込む気配がした。 「いいえ、知りません。そんな女は知らない」  ややあって二宮が周囲を憚《はばか》るように抑えた声で答えた。 「おかしいですね。今年五月二十六日、箱根芦ノ湖畔の××ホテルに松井さんとご一緒にあなたは立ち寄られておりますが」 「そ、そんなおぼえはない。なにかのまちがいでしょう。あなたは一体だれですか」  二宮の声がうろたえている。 「松井さんの事件に興味を抱いている者です」 「警察ですか」 「どうして松井さんの事件を警察に結びつけるのですか」  すかさず北村から切り返されて、二宮は失言に気がついたらしい。 「そ、それは事件と言うから、警察だとおもったんです」  二宮の口調がますます狼狽《ろうばい》している。 「それでは松井純子さんをご存じないとおっしゃるのですね」 「知らない。会ったこともなければ、そんな名前を聞いたこともない」 「あなたがあくまでもシラを切り通すおつもりであれば、警察へ届け出ます。警察は箱根のホテルを調べて、あなたを徹底的に追及するでしょうね」  北村は二宮が松井純子の箱根旅行の同行者にちがいないと確信した。そして捜査の触手は、まだ二宮に及んでいないらしい。 「待て、待ってくれ」  二宮はついに屈伏した。 「あれには、いろいろとわけがあるんだ。警察へ届け出るのは待ってほしい」  二宮はどうやら電話口で汗をかいているらしい。 「あなたがそのようにお認めになれば、私もあえて事を荒立てるつもりはありません。事情をおうかがいしたいとおもいます」 「それで、いくら欲しいんだ。私もサラリーマンだから、身分不相応の大金を要求されても応じられないよ」  相手はどうやら勘ちがいしているらしい。 「私は金が欲しいのではありません。あなたが松井純子さんと一緒に箱根へ旅行するほどの仲でありながら、彼女が殺された後隠れていることに不審を抱いているだけです」 「とにかく会って相談したい。電話では話せないことなんです」  二宮は妻の耳を憚っているらしい。      3  翌日北村は二宮が指定した新宿|歌舞伎《かぶき》町にあるSという喫茶店で落ち合った。場所柄騒々しい場所を想像していたが、意外に客の姿はまばらで、耳の妨げにならぬ程度に名曲が流れていて、密談を交わすのに適している。たがいの目印として指定した週刊誌を手に持ち、探すまでもなく、奥まった隅の席から四十前後の男が同じ週刊誌をもった手を上げた。 「北村です」  北村は名乗って二宮の前の席に腰を下ろした。小柳が言ったように彫りの深い造作のなかなかのハンサムであるが、目に小心そうな色が塗られて、態度が安定していない。松井純子との関係を知っている北村の出現に動転しているのであろう。  会社では中堅幹部、家庭には妻子があり、社会の居心地よい中流に位置して、自分が得たものはなにも犠牲にすることなく、若い女とこっそり情事を楽しみたいという手合いであろう。 「私は彼女とつきあってはいたが、殺してなんかいない。私には会社の立場もある。近く部長昇進の内示も受けている。こんなときに殺された女と関わっていたことが表沙汰《おもてざた》になっては、困るんだ。私は彼女が殺されたこととは一切関係ない」  二宮は初対面の挨拶《あいさつ》もそこそこに話し出した。 「しかしつきあっている女性が殺されたんですよ。捜査に協力するのは男として当然の義務ではありませんか」 「そんなことをすれば、警察は私を疑う。いま彼女との関係が現われるのは、あらゆる意味でまずい。お願いです。多少のことならなんとかするから、警察へは黙っていてもらいたい。ぼくは彼女を殺してなんかいない。愛していたんだ。あなたはいくら欲しいのか」 「どうやら勘ちがいしておられるようですね。私は金など欲しくありません。彼女を殺した犯人を突き止めたいだけです。もしあなたが彼女を愛しておられたのなら、本当のことを言ってください」 「ぼくは嘘《うそ》なんかついていない。本当に彼女を殺していないんだ。どうしてぼくが彼女を殺さなければならないんだ。ぼくらの関係はうまくいっていた。彼女はぼくの立場をよく理解してくれていて、大人のつきあいをしていた。そんな彼女を殺すはずがないだろう」 「だったらそれを警察に言ったらどうです」 「警察は信じてくれない」 「私も直ちには信じられませんね」 「だったらどうしろというんだね。金もいらない。あなたは一体なにが目当てなんだ」 「あなたが犯人でなければ、ほかに犯人がいるはずです。彼女を殺した人間について心当たりはありませんか」 「心当たりなんかない。そんなものがあるはずがないだろう」 「そうなると、あなたの立場は極めて深刻になりますね」 「彼女とつきあっていただけで、どうしてぼくが犯人にされなければならないのだ」 「女性が殺されて男関係を疑うのは捜査の常道ですよ」 「ぼくはやっていないんだ。信じてもらいたい」  二宮が泣き声になった。北村は話している間に、二宮が潔白《シロ》という心証を持った。この小心な男に、殺人はできない。犯人はほかにいる。 「あなたは松井さんと箱根へ旅行したとき、泊まる予定だったホテルから急に出発していますね。急用が起きたそうですが、どんな急用が生じたのですか」  北村はおもいついて問うた。 「ああ、そのことなら、彼女が急に発《た》とうと言いだしたんです。せっかくホテルに着いて、ぼくはゆっくりしたかったんだけれど」  二宮は北村が疑惑を解きかけた様子を敏感に悟ったらしく、言葉遣いを改めた。 「どうして松井さんは急にホテルを発ちたいと言いだしたのですか」 「同じホテルで顔を合わせたくない人間と鉢合わせしたようなことを言っていました」 「顔を合わせたくない人間と鉢合わせした……」  北村はそのことの意味を考えた。小柳がホテルのロビーで松井純子とすれちがったと言っていた。すると松井が顔を合わせたくない人間と言ったのは小柳のことであったのか。だが小柳は松井純子になんの反応も示していなかった。彼が松井を知っていれば、北村が彼女が殺されたことを連絡したとき、なんらかの反応を示したはずである。それともとぼけていたのであろうか。  いや、彼女が顔を合わせたくないと言った相手は、小柳とは限らない。あのホテルに泊まり合わせたほとんどすべての客は彼女が忌避《きひ》した人物になり得る。客だけとは限らない。ホテルの従業員も含まれる。松井純子がせっかく落ちついた旅の宿から鳥が立つように逃げ出したことは、よほどいやな相手がそこにいたからであろう。その人物を事件と結びつけられないか。北村のおもわくは脹らんだ。  二宮と別れてから、北村は思案を集めた。松井純子は箱根旅行から三か月後に殺されている。箱根で会いたくない相手に出会って、その人物が彼女を追いかけて来たのではあるまいか。北村は小柳が盗み撮りした松井純子の写真を取り出して凝視した。なにかに驚いたような瞬間の表情をうまく捉えている。彼女はなにに驚いたのであろうか。  まず考えられるのは撮影者の小柳に対して驚いたということである。この驚きには二種類ある。小柳という人物に対して示した驚きと、いきなりカメラを構えられてシャッターを押された驚きである。やはり松井純子がホテルで忌避した相手は小柳であったのか。北村は写真を凝視した。そして彼女の視線がカメラから少しずれていることに気がついた。松井の視線はカメラよりわずかに左手の方へ逸れている。小柳やカメラに対して驚いたのであれば、彼女の視線はカメラに向けられているはずである。撮影者やカメラに対して驚いた人間が視線をずらしているということがあるだろうか。松井純子は斜視であったのか。北村は再度小柳に電話した。 「忙しいところを度々すまないが、きみが松井純子を撮影したとき、きみのそばにだれかいなかったかおぼえていないか」 「おれのそばにだれかいなかったかって」 「そうだ。きみのすぐ右隣りだよ。そんなに離れてはいない。せいぜい一、二メートルの所にだれかいなかったか」 「そうだな。待てよ。たしかあのときはそばに寺岡がいたような気がする」 「寺岡がいたって」 「そうだ。たしかに寺岡がいたよ。寺岡がいい女がいるぞと言ったので、カメラを向けたんだ」 「すると寺岡が最初に彼女に気がついたのか」 「そうだよ。あいつは女に目も手も早いからな」 「そのとき寺岡は彼女を知っているような素振りを見せなかったかね」 「さあ、それは気がつかなかったな。しかし知っていたらその場で声をかけるんじゃないのか」 「あんたの手前、とぼけたということも考えられるよ」 「寺岡のやつ、なかなか隅におけないからな」  寺岡は北村や小柳の同窓であるが、ギャンブル癖があり、なかなか腰が定まらない。会う都度名刺の肩書きが替わっていると言われている男である。最初の妻を病いで失い、再婚した若い妻には二年前に逃げられたという噂である。同窓生から次々に金を借り倒して顰蹙《ひんしゆく》を買っている。あまり評判かんばしからざる同窓生であるが、五月の箱根旅行には同行していた。 (まさか、寺岡が)  北村の胸の内に一抹の疑惑が墨汁のように落ちた。疑惑の墨はみるみる拡がっていく。  寺岡は箱根旅行当時ある訪問販売会社に勤めていて、旅行後さっそく北村の家を訪ねて来てワンセット四十万円の寝具を売りつけられた。セールス開拓のチャンスとばかり旅行に参加したのかもしれない。他にも売りつけられた仲間がいるということである。男の本性は酒の飲み方に露《あら》われるというが、箱根のホテルで同窓の宴を張ったとき、寺岡の酒の飲み方は卑しかった。  寺岡が芦ノ湖畔で松井純子に再会した。寺岡と松井の間に過去なにがあったのか知らない。だがなにかのいわくがあったにちがいない。その場は小柳が写真を撮っただけで二人は何事もなく別れた。松井が示した驚きの表情は、予期せざる場所で出会った寺岡に対して示したものかもしれない。だがその夜泊まる予定であったホテルでふたたび寺岡に出会った。彼女は驚愕《きようがく》してパートナーの袖《そで》を引くようにして早々にホテルから逃げ去ったのではあるまいか。  自分の先入観かもしれない。だがそれならそれで友人にかけた嫌疑を払拭《ふつしよく》したいとおもった。北村は寺岡からもらった名刺を取り出した。会社に連絡したところ、ここ数日出勤していないという答えである。会社から寺岡の住所を聞き出した。電話番号は不明であるということだった。  寺岡の住居は渋谷区|笹塚《ささづか》二丁目のアパートである。駅前商店街を通り甲州街道を渡って密集した住宅街の中へ入って行くと、訪ねるアパートが見つかった。いまどき珍しい単室構成のアパートで、消防署から立ち退き勧告を受けそうな老朽モルタル造りである。こんなアパートの一室に定年間近い身で住んでいる寺岡の生活ぶりがうかがわれる。  共同トイレのアンモニア臭の漂っている廊下の奥のドアに寺岡の表札を見つけた。ノックをしたが応答がない。留守のようであるが、ドアの前に汚れた出前のどんぶりが積み重なっている。その汚れはまだ新しそうである。どうしたものかと部屋の前にたたずんでいると、隣室のドアがギーと軋《きし》って若い男が顔を出した。 「寺岡さん、ご在室かどうかわかりませんか」  北村は渡りに舟と隣人に問いかけた。 「さあ、さっき石鹸《せつけん》とタオルを持って玄関ですれちがったから、風呂《ふろ》屋へ行ったんじゃありませんか」  来る途中、最近では珍しくなった公衆浴場の煙突が見えた。  風呂屋へ行ったのであれば間もなく戻って来るだろう。アパートの前に立って待っていると、間もなくプラスティックの手桶《ておけ》を抱えた寺岡が湯上がりのてらてらした顔をして帰って来た。 「寺岡」  北村が声をかけると、寺岡は一瞬ぎょっとしたように立ちすくんだが、声の主を北村と認めると、 「なんだ北村か。こんな所でなにをしているんだ」  とほっとしたように問い返した。 「きみに会いたくて待っていたんだ」 「おれに会いたいって、これはどうした風の吹きまわしかな。布団のキャンセルはもうできないよ」  寺岡は勘ちがいの予防線を張った。 「そんなことじゃない。布団の具合はしごくいい。おかげで毎晩安眠している」 「そうだろう。あの布団はとても評判がいいんだ。なんだったらもう一重《ひとかさね》買わないか」  寺岡はさっそく商売っ気を出した。 「いや、布団のことじゃない。ちょっときみに話したいことがあるんだが」 「おれの家へどうぞと言いたいところだが、男やもめにウジが湧《わ》いていてね。とても有名作家を通すような場所ではない。近所の喫茶店へ行こうか」  寺岡は手桶を抱えて先に立った。近くの喫茶店で向かい合って坐《すわ》ると、 「この店のコーヒーはいけるよ」  と言った。いい香りが店内に立ちこめている。寺岡の推薦する店のブレンドをオーダーして、さてというように二人は向かい直った。 「話って一体なんだね」 「率直に聞こう。きみは松井純子さんを知っているか」 「松井純子」  一瞬寺岡の表情が強張《こわば》った。顕著な反応である。 「知っているんだね」 「し、知らねえ」  うろたえた寺岡の言葉遣いが乱れた。 「きみの顔に知っていると書いてあるよ」 「一体、なにを言いたいのだ」  寺岡は開き直ったようである。 「きみが松井純子さんを知らなければそれでいい。これからの話はぼくの作り話だとおもって聞いてくれ。今年の五月、ぼくたちは箱根へ一泊の同窓会旅行へ出かけた。芦ノ湖畔桃源台で小柳がたまたま松井純子さんを見かけて写真を撮った。そのとき松井さんは小柳の隣りにいたある人物を見て驚愕した。そのときのびっくりした表情が小柳が撮影した写真に捉えられている。彼女は小柳の隣りにいた人物になぜ驚いたのか。おそらく松井さんにとって意外な人物と再会したからだろう。だが二人は再会の挨拶《あいさつ》を交わすことなくその場は別れた。それぞれに連れがいたからだ。ところがその夜松井さんが一泊する予定だった湖畔のホテルで、ふたたび我々と一緒になった。松井さんは顔を合わせたくない人間がいると言ってそのホテルに泊まらずにその日のうちに立ち去って行った。それから三か月後松井さんは自宅で死体となって発見された。喉《のど》に指で絞めた痕《あと》が残されていた。ぼくは犯人は松井さんが小柳のカメラに撮影されたときびっくりした相手、そしてその日のホテルで鉢合わせをした顔を合わせたくない人物が犯人ではないかと疑っている」  話を聞いている間に寺岡の表情がだんだん白くなっていった。 「ぼくは松井さんが小柳に撮影されたとき驚いた相手が、ぼくらの同窓会旅行のメンバーの中にいるのではないかとおもっている。改めて小柳が撮影した写真を見ると、彼女の驚いた表情には怯《おび》えの色があるよ。小柳が彼女を盗み撮りしたとき、小柳の近くには我々しかいなかった。その日ホテルで彼女が鉢合わせをした顔を合わせたくない人物とは、ぼくらのグループの中にいたのではないかとおもっている」 「どうしてそんなふうに決めつけられるんだね。芦ノ湖畔で驚いた相手と、同じホテルで鉢合わせしたというのは、きみの推測にすぎないじゃないか」  寺岡が反駁《はんばく》した。 「そうだ。ぼくの臆測《おくそく》であり、作り話にすぎない。だが旅行先で出会いたくない二人の別人につづけて出会うという確率は極めて低い。ぼくは彼女が芦ノ湖畔で驚いた人間と、その日ホテルで鉢合わせした人間は同一人物だとおもっている」 「そんなことはきみの臆測にすぎない。ましてやそのとき彼女とホテルで鉢合わせした人間を犯人と決めつける根拠はなにもないじゃないか」 「もちろんなにもないさ。しかし、その人物と松井さんとの間になにかのつながりがあると仮定して、警察が調べたら、意外に面白いことがわかるかもしれない」 「警察に話すつもりなのか」 「そんなつもりはない。ぼくの作り話によると、箱根旅行へ一緒に行った同窓生の一人を疑うことになるからね。臆測だけで同窓生を容疑者に仕立て上げることはできない。ただ、同窓生の友情として、ぼくの作り話を彼に話し、彼の良心に任せるだけだ。松井純子さんとの間になにがあったか知らないが、警察は必ず彼の存在を突き止める。もし彼に胸におぼえがあれば、捜査の手が及ぶ前に自首したほうがいい。そうすれば罪も軽くなる。それがせめてものぼくの友情の証《あか》しだ。そんなふうに考えて、こんな作り話を考えてみた。まあ新しい作品のあらすじだとおもって聞いてくれたまえ」  運ばれてきたコーヒーが二人の間でいつの間にか冷えていた。      4  それから二日後、OL殺人事件の捜査本部に犯人が自首して出たというニュースが報道された。犯人は、 「訪問販売先で被害者と知り合い、交際をしていたが、被害者から冷たくされて怨《うら》んでいた。そんな時期、たまたま同窓会旅行で出かけた箱根で、被害者が恋人と一緒に旅行中の姿を見かけた。旅行から帰ってそのことを被害者に詰《なじ》ったが、自分がだれと交際しようと私の自由だと突っぱねられていた。犯行当日、最後の話し合いをするために被害者宅へ出かけて行って話し合っている間に口論となって、かっとなり首を絞めてしまった」  と自供した。  一枚の未整理写真から意外な犯罪が引き出された。犯人は北村の同窓生であった。犯人が挙がり、事件は解決したものの、北村の胸は晴れない。彼の推理が的中して犯人は捕えられたが、北村が自分の好奇心を追求さえしなければ、同窓生を司直の手に引き渡すことはなかった。北村としては社会正義のために行動したつもりであったが、犯人にしてみれば、北村のいらざる詮索心《せんさくしん》のおかげで殺人犯として捕えられてしまったのである。  北村はせめてもの友情の標《しるし》として、犯人の良心に委《ゆだ》ねたのであるが、彼が犯人を追いつめたことには変わりない。これで果たしてよかったのかというおもいが胸の中に霧のように漂っている。だが犯人と見当をつけながらも、そ知らぬ顔をして友人関係をつづけているほうが、友情を裏切ることにならないか。そのように自分に言い聞かせて、胸にくすぶっている霧を追い出そうとした。 [#改ページ]  お停まり地蔵      1  シカゴのオヘア空港は世界で最も離着陸の激しい空港といわれている。年間乗降客数四千三百万人、取扱い機数七十五万機、四十五秒|毎《ごと》に一機の割合である。これはすでに滑走路のキャパシティを越えており、しかも航空需要は年間六パーセントの割合で増えつづけている。  滑走路は番号18‐36五三三四メートル、14L‐32R七三四五メートル、4‐22七五〇〇メートルの三本を擁している。  この空港の前身は一九四五年ダグラス・オーチャード空港として開設されたが、非常に小規模なもので、一九四九年現在の名前に改められた。一九五九年ジェット機時代の到来と共に規模と設備を一新拡張した。  この三本の滑走路の中、14L‐32R番滑走路の末端からはずれた草原のそのまたはずれに一個の苔《こけ》むした石が置き忘れられたように転がっている。だがそれはよく見れば石に荒い刻み目が入っており、地蔵尊の形をしていることに気がつく。  それはまさに地蔵尊であった。日本の田舎の田畑の隅や森かげ、街道のかたわら、あるいは街角に残されている石地蔵がどうしてアメリカの巨大空港の滑走路のはずれに建っているのか、その由来を知る者はほとんどいない。  現地の在留邦人のごく一部の人たちのみ、その地蔵の名前を「お停まり地蔵」と知っている程度である。      2  石塚剛一はその名の示すように融通のきかない人間とされていた。こうと決めたら梃子《てこ》でも動かない。そんな性格から仲間からは敬遠されがちであるが、彼の堅さをかってくれる上司もいて曲がりなりにも入社以来大した波乱もなくやってきた。  二流の私大を卒業して、同学の先輩のヒキでいまの衣料生地主体の中所《ちゆうどころ》の繊維商社に入った。入社して五年めに会社のタイピストと結婚、二年後に長女、さらに二年後に長男が生まれた。会社も家庭もまずは順調で日本の�中流�の位置にいた。  だが石塚には人に言えない悩みがあった。彼は生来的に他人を信じられない性格であった。例えば我々がレストランに入って食事をし、電車やバスに気軽に乗れるのは、レストランの料理に毒物は入っておらず、電車やバスの運転手は正常な人間でその運転技術は確かであると信頼しているからである。つまり社会を信頼しているのである。  この社会的信頼なくしては、社会は片時たりとも成り立たない。  だが石塚にはそれが信頼できないのである。社会に対する不信が年齢を重ねるほどに強く打ち出されてくるようであった。  子供のころからその萌芽《ほうが》はあった。例えば親と一緒に他家へ招かれて菓子をもらったりする。そんなとき彼はすぐに食べず母親に「このお菓子に毒は入っていない?」と尋ねて返事に詰まらせた。  下校途中雨が降って来て、車で通りかかった近所の人が濡《ぬ》れて歩いている石塚を見かけて乗って行かないかと勧めると、衝突すると恐いからと断わった。彼のそういう性格は、誘拐などに対しては強いが、他人から好かれない。  いまの妻と結婚する前に十数回見合いをした。いずれも彼の性格が災いして先方から断わられたのである。  見合いの席上初めての顔合わせに、 「あなたの家系には精神病者はいないか、犯罪者が出たことはないか」  と尋ねて相手を怒らせてしまう。  デートをして喫茶店へ入っても、シュガーポットの中の砂糖を丹念に検査している。相手がなにをしているのですかと問うと、 「ポットの中に青酸カリが入っていないか調べている」  と真剣な表情で答えて雰囲気をシラケさせてしまう。  映画館などへ入っても非常口を確認して、その近くに席を取る。ホテルは必ず低層階に部屋を取る。用心深いと言えば体裁はいいが、要するに他人を信頼できないのである。自分でもいやな性格だとおもっている。  結婚すればその性格が少しはなおされるかと本人も期待していたのであるが、ますます増悪《ぞうあく》されたようであった。  結婚とは赤の他人の異性と生活を共にすることである。他人を信頼できない彼が他人を家の中に引き入れたのであるから、不信の念がさらに募った。  まず妻が初夜に出血しなかったことに対してその過去を疑った。彼女の過去を根掘り葉掘り詮索《せんさく》して怒らせてしまった。  寝る前に妻がした戸締まりやガス栓の停止を自分でもう一度見てまわる。 「私が確かめたわよ」  と妻が言うと、 「信用できない」  と再チェックする。 「そんなに私のことが信用できないの」  と妻がむっとすると、 「念には念を入れろと言うからね」  と彼女をなだめた。石塚の性格がようやくわかってきた彼女はそのうちなんにも言わなくなった。呆《あき》れてしまったのである。  だがその点さえがまんすれば石塚は優しい夫であった。なんでも自分で確かめないと安心しない性格も、安全の確認には有効である。  だが子供が生まれたとき夫婦が離婚寸前まで行った危機があった。石塚が生まれた子供を疑ったのである。 「この子、おれに似てないね」  病院で初めて父子の対面をしたとき、石塚の第一声がそれであった。 「まだ生まれたばかりですもの。特徴は出ていないわよ」  妻が答えた。 「そうかなあ。でもどこか一か所ぐらい似ているところがあってもいいんじゃないか」 「きっと母親似なのよ。口元が私にそっくりだってお婆ちゃんが言ってたわ」 「この子は本当におれの子なのかね」 「それどういう意味?」  ようやく出産の苦痛と緊張から解放されてホッとしていた妻は顔色を改めた。 「子供の母親はまちがいようがないが、父親は母親からこの子があなたの子供よと言われれば、それを信ずる以外にないからね」 「この子があなたの子かどうか疑ってるのね。あんまりだわ」  出産後で気が昂《たか》ぶっていた妻は泣きだした。  その場は看護婦が入っておさめたが、妻は退院するとその足で実家へ帰ってしまった。そのまましばらく帰って来なかったが、仲人《なこうど》が間に立ってようやく元の鞘《さや》におさまった形であった。  だが石塚が我が子について依然として疑惑を抱きつづけていることは明らかである。第一子の疑惑を解明しないうちに第二子が生まれた。第二子には父親に関する疑いはもたなかったが、脇《わき》の下にある小さな痣《あざ》について妊娠中の母体に医者が変な注射をしたのではないかと疑っていた。      3  石塚の社会に対する不信は募る一方であった。子供が風邪をひいて高い熱を発したので医者に診《み》せた。医者が注射しようとすると、石塚は「先生それはなんの薬ですか」と問うた。医者はびっくりした表情をしたが、解熱剤《げねつざい》や対症的薬液が入っていると答えた。石塚はさらに、 「その注射針はちゃんと消毒してあるでしょうね。注射針から悪い病気を移されたという話を聞いたことがありますので」  と追問した。  温厚そうな医者もさすがにむっとして、 「一本一本使い捨《デイスポーザル》ての注射針ですよ。そんな杜撰《ずさん》なことはしていない」  と言った。  石塚の対医者不信はさらに延長した。医者が処方してくれた薬を子供にすぐにあたえようとしないので、妻が問うと、友人の化学者に分析させると言う。 「なぜそんなことをするの」 「薬剤師が処方をまちがえたかもしれないからね」 「いいかげんにしてよ。あなたのようにしていたら社会生活ができなくなるわ」  妻は、石塚に取り合わず子供に薬を飲ませた。  その事件があってから間もなく石塚は最近子供のために月決めで契約した牛乳のびんを丹念にチェックするようになった。 「まさか、牛乳にまで毒が入っていると疑っているんじゃないでしょうね」  妻が声をかけると、 「牛乳に初めから毒が入っているとはおもわないけど、だれかがいたずらして毒物を入れないとも限らない」 「ちゃんと密栓してあってビニールのフードがかけられている牛乳びんの中にどうやって毒を入れるのよ」 「注射するのさ。毒物をフードと蓋《ふた》の上から注射することはできる」 「だれがなんのためにそんなことをするの。私たち人から怨《うら》みを含まれるようなことはしていないわよ」 「だからいたずらにと言っただろう。世の中にはいたずらに人を傷つけたり困らせたりして喜ぶ人間がいるんだよ」 「あなたのように人間を疑っていたらキリがないわよ」 「人間同士が信用できたら、この世に警察とか軍隊なんかいらないんじゃないか。人間が信用できないから警察力をパワーアップして犯罪者を取り締り、軍備を増強して他国に侵されたり攻撃されたりしないように備えるんじゃないのか。言わば社会には人間不信のシステムがどんどん発達しているんだ」 「警察や軍隊の存在と、人間を信用しないということはちがうわ」 「どうちがうんだ。どこもちがわないとおもうがね」 「警察の対象は犯罪者でしょ。軍隊は敵のためにあるのよ。どちらも異常な人間や緊急事態を対象にしているわ。あなたは社会のすべての人間を、社会そのものを疑っているわ。あなたのようにしていては無人島か山奥の洞穴の中にでも住むしかないわよ」 「社会が我々のために約束してくれる安全保障が絶対信頼できるものなら事故や災害は起きないはずだろう。墜落しないはずの飛行機が墜《お》ち、列車が転覆し、バスが崖《がけ》から落ちて多数の死傷者が出る。一流ホテルが大火事になって大勢が焼け死に、有名レストランの料理を食って伝染病になる。政府や関係機関は事故の都度このような事故を二度と繰り返さないように全力を尽くすと約束する。  だがそんな約束が守られたためしはない。社会の、つまりは他人の安全保障に頼るのは危険なんだ。たとえ青信号でも安全を確かめてから渡るべきなんだよ。社会の危険に対して自衛しているんだ」 「やりすぎよ。そのような事故は何万、何十万分の一の確率よ。そんな稀少《きしよう》な不幸な確率を恐れて社会を信用しないのは、それこそ不幸だわ」  夫婦の間の論争は空まわりするだけであった。      4  そんな時期に社会的信頼を裏切るような事件が続発した。自動販売機から購入したソフトドリンクに猛毒の農薬が混入されていて、被害者が出た。また喫茶店のシュガーポットに毒物を混入した者がいた。さらにスーパーの商品の中に毒を入れた商品を入れておくとマスコミで予告する者が出た。  石塚はそれみたことかとばかり、 「どうだ、ぼくが言っていた通りだろう。だれも自動販売機の商品や喫茶店の砂糖|壺《つぼ》に毒が入っているだろうとおもう者なんかいない。それが社会的信頼というものだ。犯人はそれを利用したのだ。つまり社会的信頼なんて踏みにじろうとおもえば簡単に踏みにじれるものなんだ。社会的信頼に頼り切ることは他力本願だよ。ぼくが戒めていたように少しでも自衛していれば、被害者は死なずにすんだのに」  と胸を反らせた。  妻は反論しなかった。反論できないことはなかったが、現実に社会的信頼を逆手に取った犯罪が発生しているうえに、それに対するとりあえず最も有効な方法は石塚の言う自衛、つまり他人の安全保障を信用しないことだったからである。  社会的信頼を裏切る犯罪が続発している時期に歩調を合わせるようにして大きな航空機事故が発生した。一機単位の事故では世界最悪で、満員のジャンボ機の乗客、乗員が数名の宝くじ的生存者を除いて全滅した。  事故の原因は機体構造の欠陥とされたが、事故機に乗り合わせた不幸な人々の人生が各マスコミによって紹介された。不幸なくじを抽《ひ》き当ててしまった人たちのかたわらには、搭乗直前にキャンセルして危なく一命を拾った幸運な人もいた。  わずか数分の差で事故機に間に合わなかった人もいた。その記事を読んだ石塚は、 「乗り遅れた人はそのとき飛び立って行く飛行機を見送ってさぞ口惜しかっただろうな。後でその飛行機が落ちたと知って犠牲者には気の毒だが命拾いをしたと胸を撫《な》で下ろしたにちがいない。人間は生死、明暗を分ける岐路に毎日立たされている」  と独り言のように言った。それをかたわらにいた妻が聞いて、なにげなく、 「本当に。こんな事故があると、うっかり電車やバスにも乗れないわ。一台乗り過ごしたばかりに事故を免れたり、あるいは逆の場合があると考えると、恐くなっちゃうわね」  と言った。一瞬石塚の表情がこわばった。彼女は言ってしまってからまずいことを言ったのに気がついた。だがすでに放たれた矢で取り返しがつかない。 「でもそんなことってめったにないわよ。自分が乗った飛行機が墜落したり、車が事故ったりするのは、それこそ天文学的確率だわよ」 「天文学的確率でも当たるときは当たる」  石塚の顔が青ざめていた。  この事故の後石塚は止むを得ないとき以外は飛行機に乗らなくなった。      5  米ソ巨頭会談がジュネーブで開かれ、全世界のマスコミの関心がそこに集中した。両者の会談の議題は、要約して、核軍縮、地域紛争、人権問題、二国間問題の四点である。  その中で、ソ連は米国が推し進めているSDI(戦略防衛構想)計画を交渉の議題に入れることを主張しているのに対して、米国はそれを取引《バーゲイン》の材料《チツプ》にはしないとしている点で両者の意見が食いちがっている。  この報道を読みながら、石塚は苦笑して、 「人間が人間を信用しないシステムが遂に宇宙にまで発展したな」  と妻に言った。 「それどういうことなの?」 「SDI計画って知っているだろう。別名スターウォーズプログラムとも言われている」 「新聞で読んだことがあるけど、詳しいことは知らないわ」 「要するにソ連が発射した核ミサイルを、アメリカへ到達する前に宇宙で迎撃して破壊してしまう防禦《ぼうぎよ》専門の兵器で、核兵器を無用の長物としてしまおうという構想だよ。アメリカ大統領はこれが完成すれば、世界は核戦争の脅威から救われるとたいへん熱を入れている」 「結構なことじゃないの」 「ところがなかなかそうはいかない」 「どうしてなの」 「米ソがほぼ釣り合った核兵器をもっていながら、たがいにその均衡の上に平和が成り立っている。どちらが先にしかけても相手の核兵器を全部やっつけられないので、残った敵の核兵器でこちらがやられて共倒れになることを知っている。だから核戦争が始まればどちらも生き残れない。だがアメリカがSDIを完成すればソ連の核兵器は無意味になるから、アメリカが先制攻撃をしかけてもソ連は報復できない」 「アメリカは絶対に先にしかけないと言ってるでしょ」 「ソ連にしてみればそんな言葉は信用できない」 「あなたがよくおっしゃる敵の安全保障は信用できないということなのね」 「そうだよ。それにアメリカが先にしかけないとしてもアメリカがいつでもしかけられる能力をもつということはアメリカを絶対優位におく。これはソ連にとってがまんならないことだ」 「少しわかってきたわ」 「だからSDIとはたがいに相手を信用しないシステムの宇宙版というわけだよ」 「わかったような、わかんないような感じ」 「米ソが相互に信頼していればSDIなんて構想する必要はないんだ。他国に信頼がおければ、いかなる国も軍備の必要がなくなる。つまりは人間同士信頼し合っていないんだな」 「ちょっとちがうような気もするけど、あえて反対しないわ」  物質文明が発達するほどに人間の触れ合いが少なくなり、機械とコンピューターが幅をきかすようになる。人間自身も人間より機械を信用するようになる。最も個人性の強い結婚の相手すらコンピューターに見つけてもらい、むしろそのほうがうまくいく。医者も患者の診断を機械に頼る。社会のあらゆる場面に機械が蔓延《はびこ》り、「自動」という名の人間不在、つまるところ人間不信システムが社会を運営するようになっている。  本来は人間の幸福と利便に傅《かしず》く従者として発明された機械が、人間の不信を促したのは皮肉である。  石塚は物質文明社会の落し子のような性格を生まれながらにして植えつけられていたのである。  このころから石塚の性格の奇型は、その歪《ゆが》みを強くしてきた。朝定時に出勤してしばらくすると会社から電話がかかってきた。石塚が出社していないという。  驚いた妻はもうとうに出勤したと答えて彼が途中立ちまわりそうな先を当たってみた。だが夫はどこにもまわっていなかった。出勤途上交通事故にでも遭《あ》ったのかと不安に耐えて八方手を尽くして探していると、夕方近くなって疲れ切った表情をして帰って来た。  いままでどこでなにをしていたのかと詰《なじ》ると、なんと駅で電車を待っていたという。 「電車が来なかったの?」  今日は電車が一日停まるような事故があったとは聞いていない。 「いや。乗りかけたときもしかするとこの電車はダンプと衝突するかもしれないとおもって一台やり過ごした。次の電車は転覆するかもしれない。その次のは爆弾が仕掛けられているかもしれないとおもうと、とうとう乗れなくなった」 「それで一日駅のフォームにいらっしゃったの?」 「そうだ」 「あなた、明日病院に行きましょう」  彼女は夫の異常を悟った。異常はとうにわかっていたがこんなに亢進《こうしん》しているとはおもわなかった。  だが翌日石塚は何事もなかったように出勤して行った。このためせっかく医者へ連れて行くべき機会を失ってしまった。      6  それから一か月は平穏無事に過ぎた。妻は胸を撫《な》で下ろした。心配するほどのことはなかった。だれでも大事故の後は大なり小なり経験する不安だったのだとおもった。  一か月後、石塚は米国へ出張を命ぜられた。東南アジア向けに低迷している繊維貿易を米国で取り戻そうとしての商況視察旅行であり、責任の重い出張であった。会社の石塚に対する負託の大きさが感じられ、彼も張り切っていた。 「ぼくを課長に登用するためのステップとしてこの出張を命じたのだ。頑張るよ」  石塚は熱っぽく言って久しぶりに情熱的に妻を抱いた。  米国で石塚は精力的に働いた。単なる視察にとどまらず、マーケットを固めてきた。会社も彼の仕事に大満足である。  約一か月の出張の後、石塚は帰国することになった。帰国土産は十分すぎるほどである。最後の視察地シカゴから日本航空で日本へ帰ることになった。帰国当日現地派遣社員と取引先が空港まで見送りに来てくれた。今日の午前十一時にシカゴを出て明日の十七時三十分には成田に着いている。  久しぶりに日本へ帰れるとおもうと、石塚の心は弾んだ。妻の肢体が悩ましく瞼裏《まなうら》に揺れる。想像するだけで欲望が膨脹し見送人の手前を糊塗《こと》するのに困った。  空港アナウンスが彼の乗るべきJAL9便の搭乗開始を告げた。彼は見送人に挨拶《あいさつ》をして出発ラウンジから搭乗口へ向かいかけた。そのとき見送人の一人が足許《あしもと》がよろけて搭乗口を示す表示板につまずいた。そのはずみに石塚が乗るべき便名を記入した札《タツグ》が表示板からはずれてばらばらと床に落ちた。  そのときまずいことにつまずいた見送人が、 「あ、いけない、落っこっちゃった」  と言いながら札を拾い取って表示板にかけ直した。それを見ていた石塚の顔色が変わった。 「石塚さん、そろそろ搭乗されないと遅れますよ」  棒立ちになったまま動こうとしない石塚を別の見送人が促した。 「今日の出発は取り止めます」  石塚は見送人たちに告げた。見送人たちはあっけに取られた。いまの表示板の�落札�が突然の帰国取り止め理由と気がついた者はいない。 「ご気分でも悪いのですか」  見送人が訊《き》いた。 「そうです。急に気分が悪くなったのです」  それは事実であった。シカゴからの日本直行便は週三便ある。彼の帰国は急遽《きゆうきよ》次の便に変更《トランスフアー》された。  だが次の便の搭乗間際になってまた石塚は帰国を取り止めると言いだした。こんなことが三回つづいたので、ようやく彼が飛行機に乗るのを恐がっていると気づいた見送人が、列車でサンフランシスコまで行き、船便で帰国するよう取り計らおうとしたが、船は沈むからいやだと言った。  シカゴから梃子《てこ》でも動こうとしない彼に困り果てた派遣員は本社に助けを求めてきた。本社ではとりあえず石塚の妻に上役をつけてシカゴへ赴かせ、説得に当たらせた。  だが石塚は妻の言葉にも上役の説得にも頑として応じなかった。 「それじゃああなたどうするつもりなの」  妻は尋ねた。 「とにかくここにいる」 「ここにいるとおっしゃっても、私は一緒にいられないわよ。日本に子供たちがいるんですもの。会社だって帰国するように言ってるのよ」 「おれは飛行機も船も列車も信用できない。安全が保障されていないからな。帰りたければおまえだけ帰れ」  ほとほと当惑した妻と上役は、ともかく彼を派遣員に預けて帰国した。本社では帰国しようとしない彼を臨時派遣員にすることにした。会社の温情である。  だがその後会社の方針と商況が変わって米国向け貿易は取り止めることに決定した。派遣員も引き揚げることになった。本社の引揚げ命令に依然として応じない石塚を会社は止むを得ず解雇した。解雇後、石塚の妻は離婚した。配偶者から悪意で遺棄されたという彼女の申し立てを裁判所が認めたのである。  その後石塚の消息は絶えた。シカゴへ行った日本人旅行者が空港付近をうろついていた東洋人浮浪者を見かけたということだったがその特徴が石塚に似ていた。  間もなく身許不明の東洋人浮浪者の死体が空港の近くの草むらの中で発見された。餓死であった。浮浪者は家族の写真を抱いていた。その浮浪者の死を憐《あわ》れんだ在留邦人がそこに一基の地蔵を建立した。だれ言うとなくその地蔵を「お停まり地蔵」と呼ぶようになった。  その浮浪者が石塚だとすれば、彼は人生の分岐点に立って進路を選ぼうとせず、そこで立ち停まってしまったからである。地蔵は速やかに風化し、人の記憶と共に忘れられつつある。 [#改ページ]  新たな絆《きずな》 「ママ、疲れたよ。早くお家に帰りたい」  六歳になる姉のはるみが訴えた。無理もない。今日一日朝から都内を引っ張りまわしている。妹の弓枝は疲れ切って島枝の腕の中で眠り込んでしまっている。 「ごめんね。おばさんの家に着いたらゆっくり寝《やす》ませてあげるからね」  島枝はなだめたが、「おばさんの家」はこの電車の行先にはないのである。 「これを飲んでちょっとがまんしてね」  島枝ははるみにジュースの缶を渡した。 「要らない。のどなんか渇いていないもん」  はるみは顔を背けた。疲れた腕にかかえた弓枝の重量がずしりとかかるが、満員の終電車の座席はいぎたなく眠りこける酔客に占領されていてだれも譲ってくれない。  はるみも今日一日都内を引っ張りまわされて、疲れ切っている。終電車に島枝のような子連れは珍しい。  すぐ近くにシルバーシートがあるが、さすがにその前に立つ気はしない。シルバーシートは若いサラリーマン体の乗客が大きな顔をして占領している。年輩の客は二、三人しかいない。  突然そちらの方角に怒声が湧《わ》いた。 「きみに譲ったんじゃない。あちらに立っているお子さん連れの女性に譲ったんだ」  声の方角を見るとロマンスグレイの気品のある紳士が語気荒く坐《すわ》りかけた若い学生風の男を詰《なじ》っていた。学生風はきまり悪そうに立ち上がると、こそこそと隣りの車両へ移動した。 「奥さん、こちらへいらっしゃい」  老紳士は島枝を手まねきした。 「有難うございます」  弓枝の体重で腕がしびれかけていた島枝は救われたおもいで腰を下ろした。弓枝を抱いたうえに、さらに膝《ひざ》の上にはるみを腰かけさせる。老紳士は次の駅で下りて行った。 「ふん、あれでいいことをしたつもりなんだから笑っちゃうよな」  ドアの近くに立っていた四十年輩の職人風の男が聞こえよがしに言った。 「席を譲るということは下りるずっと前にすることだよ。下りる直前に譲っても譲ったことにならない。あれは次に坐る客を指定したんだ。ああいうのを�指定の輩《やから》�と言うんだ」  不逞《ふてい》の輩に引っかけた洒落《しやれ》に車内に失笑がわいた。島枝が居たたまれなくなって、おもわず、 「すみません」  と詫《わ》びると、 「奥さん、あなたが悪いんじゃないよ。だいたいいい若え者がシルバーシートに坐ろうなんてえ根性が汚ねえんだよ。シルバーシートは日本語で銀座だが、銀座で飲んでシルバーシートに坐って帰りゃ世話はねえやな」  職人体の男が全車内に聞こえるように言ったものだから、シルバーシートで狸寝入《たぬきねい》りをきめこんでいた者も居たたまれなくなって席を立った。空いた席に坐る者もない。満員の車内にそこだけポッカリと空席が残った。  次の駅から乗り込んで来た若いグループがしめたとばかりにそこに坐ったものだから、車内に笑声が湧いた。若いグループにはその笑声の意味がわからずポカンとした。  島枝ははるみと弓枝を捨てようとして今日一日都内を歩きまわっていた。無責任な夫が女をつくって逃げてから今日まで頑張ってきた。女がその気になればなんとか生きていけるのである。  新宿の、託児所のあるキャバレーで働いている間に新たな恋をした。相手は二十四歳の大学を出て間もない一流会社の社員であり、島枝の過去を承知の上で結婚を本気で考えてくれた。  彼には、子供がいることは告げたが、前夫が引き取ったと嘘を吐《つ》いた。なにもかもぴかぴか輝いているような彼の許《もと》に二人の子供を引き連れて行くことはできない。だが前夫に子供を託したくても居所がわからない。またわかったとしても引き取ってくれるはずがない。  やむなく、島枝は二人の子供を捨てようと決心したのである。自分はまだ十分若い。引く手あまたの新しい恋人に見そめられたくらいであるから、男を引きつける魅力も残っているにちがいない。  それを無責任な夫に産まされた二人の子供のために、これから後半生、犠牲にするのは耐えられない。子供さえいなければまだ自分もぴかぴかの男と新たな人生をやり直せるのだ。  そうおもうと矢も楯《たて》もたまらなくなった。子供は可愛《かわい》いし、それを捨てるとおもうと胸が痛んだが、自分の後半生を棒に振りたくはない。  どうせ成長すれば子供も自分から去って行くのである。早いか遅いかの差だ。  そうおもって今朝から家を出て、遊園地、デパート、劇場、盛り場などをまわり歩いた。  心を鬼にして子供を置き去りにしようとしたが、いざそのときになるとできない。レストランで母娘《おやこ》三人最後の食事を摂《と》っていると、楽しげにしている子供の姿に立ち去れなくなる。メリーゴーランドやジェットコースターに乗るとわあわあきゃあきゃあ悲鳴をあげながら島枝にしがみついた。興奮が残って地上に下りても手を放さない。  映画館に入ると、島枝を左右からサンドウィッチにした。盛り場のアイスクリームスタンドで買ってやったアイスクリームを無心に舐《な》めている幼い姉妹を見ていると、身体が金縛りにあったように動けなくなった。 「ハネムーンは西海岸《アメリカ》へ行こう。おじさんが青山にマンションをもっていてね、ぼくらの新居用に一部屋空けてくれると言ったんだよ。両親も別居したほうが気が楽だと言ってるよ」  とささやいた恋人の声が耳許《みみもと》によみがえった。なにもかも結構ずくめの話であり、勿体《もつたい》ないような相手である。しかも誠実でハンサムときている。彼と手を携《たずさ》えて行くハネムーンとその後につづく新生活を思うと、あまりにも輝かしい幸せに胸が震えた。  その幸せの中に、いま目をつむってこの子たちと別れることによって歩み入れるのである。親に捨てられた当座は子供たちも嘆き悲しむかもしれないが、情け深い人に拾われてすぐに親のことなんか忘れてしまうだろう。  さあ行け。心を鬼にして行くのだ。だれのものでもない自分の人生ではないか。子供のためにそれを犠牲にしたら一生悔やむことになるぞ。  自分の中のべつの声がしきりにささやきかける。  だが子供たちもなんとなく母親の心の動揺を察知したかのようにべったり貼《は》り付いて離れない。トイレの中にまでついてくるのである。 (ごめんね。あなたたちも大きくなって恋をするようになったら、きっとお母さんの気持をわかってくれるわよ)  島枝は心の中で子供たちに語りかけた。  だがどうしても突き放せないでいる間に一日はむなしく暮れて終電車の時間になってしまった。どこへ行く当てもないまま都心の地下鉄駅から終電車に乗った。地下鉄線とターミナル駅から隣県の衛星都市を結ぶ私鉄と相互乗入れをしている。  終電車は目一杯の乗客を乗せて発車した。 「ママどこへ行くの」  心細そうに聞く子供たちに「おばさんの家へお客に行くのよ」と偽ってアルコールと脂粉のにおいの充満する場ちがいの電車に母子は乗り込んだ。  子供たちを電車の中に置き去りにしてどこか途中駅で下りるつもりである。途中下車したらすぐ彼に電話しよう。子供を捨てた母親の心の深い傷を優しく手当してくれる者は、彼以外にはない。  恋人だけが子捨ての痛みを償ってくれる。私は女なのだ。母であるよりも女の要素の方が強いのよ。許して。  島枝は何度も子供たちに心の中で詫《わ》びて途中下車しようとした。だが妹は腕の中でぐっすりと眠り込み、姉のほうは彼女の膝《ひざ》を占領している。母の体温が子供たちを安心させているのであろう。寝苦しい姿勢にもかかわらず、気持よさそうに眠り込んでいる。  電車は駅へ停まる都度、乗客を積み下ろして行く。  車内が空いてくるほどに置き去りにし難くなる。 (島枝さん、早く来てくれ)  恋人が呼びかけた。隣席が空いたので、姉を膝から隣りへ移した。これで腕の中の妹を自分が坐っている位置へ置けば、いつでも下車できる。  今度こそ下りよう。島枝が心に決めたとき近くの席で子供が火がついたように泣きだした。一歳前後の乳児がどこか具合が悪いのか若い母親がしきりにあやしているが、いっこうに泣き止まない。車内の目に耐えて乳房をふくませてもすぐ放してしまう。周囲の乗客たちも心配して覗《のぞ》き込んでいるがどうすることもできない。  乳児は切なげになにか訴えるように泣きつづける。島枝は、二人の子供を育てているのでそんな泣き方におもい当たることがあった。 「赤ちゃん、もしかしたらのどが渇いているんじゃないかしら」  島枝はおもいきって忠告してみた。 「のどが……、でも水がないわ」  混雑した終電車の中で乳児のための水をもっている者はいない。 「あのう、これをよろしかったら飲ませてあげてください」  島枝はもち合わせていたジュースの缶を差し出した。 「有難うございます」  若い母親は救われたような表情をした。案の定、ジュースをあたえられた乳児は、ピタリと泣き止んだ。満足したのであろう、母親の腕の中ですやすやと寝込んだ。唇の中央が少しとんがって頬がぷっくりと脹《ふく》らんだ可愛い乳児である。 「坊やちゃんかな、それともお嬢ちゃんかしら」  島枝は乳児の顔を覗いて言った。 「男の子なんです」 「そう。きっと男前になるわよ。お父さんに似たのかな。それともお母さん似かしら」 「みんな父親似だと言います」  母親は子供を連れていなければまだ、未婚で通りそうな若さである。表情にも稚《おさな》さが残っている。母親と言うより、自分のほうがまだ母親に甘えていたい年齢に見える。父親も相応して若いのだろう。 「きっとお父さん、ハンサムなのね」  島枝が言うと、彼女は少し困ったような、はにかんだような表情を浮かべた。その表情をかすめた陰翳《いんえい》の中に、島枝はなにか事情があるのを察した。  若い恋人たちが恋のおもむくにまかせて、まだ子供を産む心構えも準備もできないうちに子供ができてしまったのだろう。その事情を、終電車に二十歳前後の若い母親と乳児が乗っている事実が物語っているようである。  母子にめぐり逢《あ》ったために、また途中下車するチャンスを失ってしまった。  また駅に着いた。やや大きな駅でかなり大勢の乗客が下りた。立っている客はいなくなった。 「すみません、ちょっと車掌さんに頼みたいことがありますので」  若い母親は空席に乳児を寝かすと、島枝に断わって隣りの車両へ移って行った。電車は発進した。だが次駅が近づいて来ても彼女は帰って来ない。  次の駅へ着いた。まだ帰って来ない。発車した。次の次の駅へ着いた。彼女は依然として帰って来ない。車内には空席が目立つようになった。各車両の内部が見通せるようになったが彼女らしい姿は見えない。  島枝の胸の裡《うち》で不安が脹《ふく》れている。まさかとはおもうが、現実に彼女は帰って来ない。  車掌が通りかかった。 「あのう少し前にこの子のおかあさんが車掌さんのところへ行かなかったでしょうか」  島枝は問いかけた。 「この子のおかあさんが……? どういうことですか」  車掌から逆に聞き返されて、島枝は不安が的中したのを悟った。自分がしようとしていたことを先を越されたのである。 「大変だわ。捨て子です」 「捨て子? この赤ん坊がですか。あなたがお母さんじゃないのですか」  車掌は、島枝を「三人」の母親とおもったらしい。 「ちがいます。少し前にこの子の母親からすぐ帰って来るからと言われて預けられたのです」 「本当ですか」  車掌はまだ半信半疑である。 「その人の言ってることは本当だよ」  ずっと乗り合わせて来た乗客が証言してくれたので、車掌もようやく事態を悟ったらしい。 「すると母親は赤ん坊を残して途中下車してしまったのですね」 「前の前の少し大きな駅で下りたのにちがいないわ」 「××駅だな。すぐ連絡を取ってみますが、うまく見つかればよいが」 「見つからなかったらどういうことになりますか」 「とりあえず警察に連絡して近くの病院か乳児院に預かってもらうことになりますね」 「可哀想《かわいそう》だわ」  そのとき母親の夢でも見たのか、無心に眠っていた乳児のあどけない顔が笑った。  島枝は自分自身が子供を捨てようとしていたことを忘れて乳児の寝顔に見入った。  こんないたいけな乳児を捨てなければならなかったのにはよくよくの事情があったのだろう。そしてたとえどんな事情があったにせよ、この子が成長した暁、自分を終電車に置き去りにした母親を決して許さないだろう。 (帰って来てあげて。子供を捨ててはいけないわ。あなたは一生後悔するわよ)  島枝は終電車の中で束《つか》の間|袖振《そでふ》り合った見知らぬ若い母親に必死に呼びかけた。次の駅は沿線中の主要駅であった。  車掌がプラットフォームの駅員に事情を告げて乳児を引き渡した。 「あのう私もここで下ります」  島枝はおもいきって申し出た。 「え、あなたの下車駅だったのですか」 「いえ。赤ちゃんが気になって。せめて今夜の引取先が決まるまで一緒にいてやりたいとおもいます。これもなにかの縁ですから」 「それはたすかります。なにせ男ではお手上げですからね」  車掌は喜んだ。駅から警察に引き継がれた。島枝は妙な成行きになったとおもった。子供を捨てるつもりで乗った終電車で、新しい子供を拾った形である。はるみも弓枝も可愛い乳児が�参加�して来たので大喜びである。  いきなり乳児が舞い込んで来た警察もてんやわんやであった。だが島枝がいたので、彼女の指示で宿直の署員が薬屋を起こして粉ミルクや紙おむつを買って来た。  乳児は島枝にすっかりなついて母親に捨てられたのも知らずご機嫌である。 「こんな可愛い赤ん坊を捨てる母親の顔が見たいよ」 「鬼のような親だね」 「きっと育てられない事情があったんだろうが、子供には関係ないものな」  署員たちの言葉が、島枝には自分に言われているような気がした。実際この捨て子騒動がなければ、同じ警察にはるみと弓枝が保護されていたかもしれないのである。  そうおもうとこの赤ちゃんが二人の身代りになったような気がしてくる。もしこのまま母親が見つからなかったら自分が引き取って育ててもいいとおもいかけた。  二人育てるも三人育てるも同じである。  だが、二人の子持ちが三人の子持ちとなっては、ぴかぴかの恋人との仲は絶望的である。  警察へ来てから二時間後、署内に歓声が上がった。母親が名乗り出て来たのである。 「許してください。いったんは坊やを捨てたものの、どうしても捨てきれません。坊やの顔が目の前にちらついて離れないのです。これからすぐに引き取りにまいります。ご迷惑をかけて申しわけありませんでした」  彼女は子供を電車に置き去りにしたものの、心が残って夜の街をさまよい歩いたあげく、派出所に名乗り出たという。  間もなく母親は隣り街の警察のパトカーに乗せられて来た。わずかな時間の間に彼女はげっそりとやつれていた。その憔悴《しようすい》の表情の中に母親の苦悩が刻み込まれている。  彼女は赤ん坊を抱き上げると、「ごめんね、ごめんね」と泣きながら頬《ほお》ずりをした。 「よかった、よかった」  深夜であったが、警察署内の雰囲気は明るくわき立っていた。 「本当に有難うございました。ご親切は忘れません」  母親は島枝に何度も礼を言った。 (お礼を言いたいのはこちらよ。あなたに出会わなかったら、私はかけ替えのないものを失ってしまうところだったわ)  島枝は心の中で彼女に語りかけていた。 (子供を捨ててまで恋人の許《もと》へ走っても、そんな恋は決して長つづきしないわ。明日は彼にすべての事情を正直に打ち明けて許しを乞《こ》おう。ぴかぴかの恋人を失うのは辛《つら》いけど、私はやはり、女である前に母親だったわ。もうあんな恋人と出会うことはないでしょう。でも恋は必ず燃え尽きる。燃え尽きる炎の強さに目を眩《くら》まされていたんだわ)  夜が更けていた。その夜は警察が見つけてくれた宿に泊まることになった。  この子たちのためにまた明日からしっかり働かなければ。島枝は心に誓った。  島枝は終電車から下り立った街で、子供と新しい絆《きずな》によって結ばれたとおもった。 [#改ページ]  恋神《キユーピツド》の誤射      1  館盛《たちもり》宏は索漠とした気分で六本木の街を歩いていた。今夜は週末で人通りが多い。交叉点《こうさてん》角のアマンドの前は、待ち合わせの若者たちで黒山のようである。マイアミからロアビルのあたりにかけては別名「産直アベニュー」と呼ばれているが、見るかぎり最先端ファッションに身を固めた若い男女が群れ歩いている。  六本木がいよいよ本領を発揮する時間帯に入りかけている。この時間に一人で歩いている者は少ない。ディスコの券撒《けんま》きも、館盛には鼻も引っかけない。券撒きがアプローチするのは、まず若い女のグループであり、次いでアベックである。若い女が来るとディスコは盛り上がる。女のほうが入場料が安く、招待券をくれることもある。  館盛はいま女と別れてきたばかりであった。三年ほどつき合った女である。館盛はかなり気に入っていた。だが三年もつき合うと、どうしてもダレてくる。デートに新鮮味がなくなり、出かけるのがなんとなく億劫《おつくう》になる。  会えばけっこう楽しいのだが、出かけて行くまでが心身が重いのである。おそらく女も同じように感じていたにちがいない。  そんな矢先、女から金をねだられた。今度転居するので、身のまわりを整えるために金を貸してくれということだが、多年つき合った恋人から「貸した金」を返してもらうほど野暮ではない。  サラリーマンの彼には少し負担のかかる金額であったが、なんとか工面《くめん》してまわしてやった。 「有難う、助かったわ。あなたしか頼む人がいないのよ」  女は、彼の好きな艶《つや》やかなストレートヘアを、優雅な手ぶりで掻《か》き上げながら礼を言った。そんなしぐさが横顔の美しさを強調する。きりっとしたやや権高《けんだか》な造作を、豊かな髪の流れを生かしたロングのヘアスタイルが優しく穏やかな印象に中和している。自分の顔に最も合う髪型を知っている。もっともこのスタイルが似合うのもあと数年である。白髪《しらが》が出たら、その豊かな髪の量が逆効果となるだろう。  女から礼を言われたとき、館盛は別れが近いのを予感した。これまでそれほど豊富な経験があるわけではないが、女がまとまった金額を要求したときは、別れの前兆であった。例外はなかった。 (そろそろ潮時かもしれないな)  女の礼をさりげなく受けながら館盛は内心おもった。どうせどちらにも結婚する気はない。結婚すれば、たがいに�変身�してしまうことがわかっている。ちょっと痛い出費であるが、三年つき合った女に対する�手切金�とおもえば、安いものである。  彼女と知り合ったおかげで、館盛の人生はどんなに多彩になったことであろう。これから先、これほどの女に出会えるかどうかわからない。だからといって、彼女を一生手元に恋人として確保しておくことはできない。  館盛はむしろ感謝したい気持であった。  おそらく今夜をきっかけに彼女は遠のいて行くだろう。振るとか、振られたとかいうものではなく、アダルトの恋の寿命がきたのだ。この寿命を延ばそうとして結婚すれば、他の異性に対する可能性まで埋葬してしまう。  だが三年間、彼女と堆《つ》み上げた想い出は簡単に断ち切れるものではない。潮時だとはおもうが、未練が尾を引いている。  今夜は金を渡して、軽い食事を共にしただけで別れた。 (美《い》い女だった)  週末の六本木の賑《にぎ》わいの中に独り身を置いて、初めて失ったものの大きさがわかった。悲しくはなかったが虚《むな》しかった。ひたむきにおもいつめるという年齢は通り過ぎていたが、アダルトの恋の甘味を知った身は口が肥えており、失ったものの代替が容易には得られないことを知っている。 「すみません、いま何時ですか」  茫然《ぼうぜん》と歩いていた館盛は突然声をかけられた。  若い女の声である。声の方角に目を向けて、はっとした。一瞬いま別れてきたばかりの彼女かとおもった。だが髪型は似ているが、目鼻立ちが彼女より優しい。年齢は二十二、三か。口元が優しく、少し寂しげな翳《かげ》を含んでいる。唇が小さく、微笑《ほほえ》んでこぼれた歯並みがきれいだった。 「午後十時五分ですよ」  館盛は正直に腕時計を覗《のぞ》いて答えた。 「十時五分ですか。合ってますわ」  彼女はニコリと笑って、自分の腕時計を覗いた。 「なんだ、時計をお持ちだったのですか」  館盛が少し鼻白むと、 「お時間、少し空いてません」  と女が謎《なぞ》をかけるように聞いた。 「時間か……」  と言いかけて館盛は相手の素姓《すじよう》を悟った。ストリートガールだったのである。それにしてもそれらしくない。シルキーな色合いと光沢を帯びたブラウスに黒革のタイトスカート、一見おとなしいOL風である。すんなりのびた脚線は申し分なく、プロポーションがよい。最先端ファッションの氾濫《はんらん》する六本木で、エレガントなおとなのムードが柔らかく全身を包んでいる。一見するかぎり別れてきた彼女に遜色《そんしよく》ない。いや若さと穏やかな気品においては、こちらのほうが上かもしれない。こんな上物が、なぜ自分の切り売りをしているのか。  館盛に猛烈な好奇心が湧《わ》いてきた。 「いくら」  館盛は無意識のうちに問いかけていた。早く買わないと、他の者に奪われてしまう。 「わからないんです」  女は困ったように答えた。 「わからない?」 「今夜が初めてなんです」 「本当かい!?」  館盛は信じられなかった。昔の芸妓《げいぎ》や娼婦《しようふ》が、何度も水揚《みずあ》げ(初めて)と称して、客から高い水揚げ料を取る話を聞いたことがあるが、これもその伝かとおもった。 「いくらでもいいんです」  女は投げやりな口調で言った。どうも芸者の水揚げとはちがうようである。 「いくらでもいいって言ったって」  館盛も困惑した。彼女に手切金をやった後なので懐中が心細い。コールガールの相場に辛《かろ》うじて足りるかどうか、際どい金額しか残っていない。だが、こんな絶品を逃がしたくないという男の意地汚なさが働いている。 「いくらでもいいんです。今夜は一人でいたくないんです」  女はすがりつきそうな目をした。館盛は意を決した。足りないときはそのときだ。周囲をうかがっても怖そうなお兄さんがついている気配もない。こんな素晴らしい女から声をかけられて尻《しり》ごみするようなら、男を止《や》めたほうがよい。 「わかった」 「嬉《うれ》しいわ」 「どこへ行く」 「どこへでも」  女はごく自然に腕をからめてきた。      2  女は「ひろみ」と呼んでと言った。本名かどうかわからないが、名前はさして重要ではない。  前の彼女と何度か来たことのあるプリンスホテルに連れ込んで、ベッドで対《むか》い合った。了解が成ってホテルへ来たとはいうものの、男女がベッドへ達するまでに経る、さまざまな所作事《しよさごと》や曲折をいっさい省いて目的に直行すると、列車で長時間かけて旅行していた者が、飛行機で距離を一気に詰めたようなとまどいをおぼえる。  男と女の終極の達成がそこにあるとはいうものの、相手の素姓、ライフスタイル、好みやくせ、生活環境、セックスのパターンなど一切不明のまま、いきなりベッドを共にするということは、かなり大胆であり、無気味である。  性を交えることは男女の最大のコミュニケーションでもあれば、一種の闘いでもある。闘いの前にできるだけ情報を集め、敵を研究しておいてこそ、その喜びも増幅され、�戦果�も多くなる。  それが事前の偵察もなく、いきなり暗闇《くらやみ》の中で敵に見《まみ》えたようなものである。どちらも相手の知識のないまま手探りで抱き合った。  反面このような出会いは、どんな未知の展望が現われるかわからないスリリングな刺戟《しげき》と期待がある。  そしてひろみは抜群に刺戟的であり、館盛の期待を裏切らなかった。顔と体が照応せずに失望させられた経験はよくあることであり、またその両者が満足するものであっても体を合わせてがっかりさせられるケースが少なくない。  だがひろみは裸身にしてますます輝いた。全体の均整は衣服の上から想像した通りであったが、絖《ぬめ》のような光沢を帯びた肌、しっとりと潤いを持った触感、そして胸の隆起から腰のくびれを経て腰まわりへ至るみっしりした量感は、楚々《そそ》たる表情の優しさからはうかがい知れないパワフルなたくましさを秘めている。  寝ると、体重に引かれて多少均整美が損なわれるものであるが、充実した若い肉体は、体重に少しも負けずに、むしろ蓮《はす》の葉の上の水玉のようにピチピチと弾み立っていた。  館盛は息を呑《の》んだ。前の彼女が「明るいと感じない」と言って灯《あか》りを消させたのに対して、ひろみはほどよい光量を許容してくれたので、その裸身を視覚でも楽しめる。 「いらして」  ひろみがまじまじと見つめる館盛の視野の中で、羞恥《しゆうち》に耐えられないように引き寄せた。  早く男の身体で蓋《ふた》をされることによって、恥ずかしい観賞の対象から逃れ、性の共犯者になりたがっている。共犯になることによって、女性にとっては破廉恥《はれんち》な動物的体位やあられもない嬌態《きようたい》を忘れられるのである。  この場合、二人の間に歴史というより、事前のいきさつがまったくなかったことが、即物的な行為を速めた。  情事の中に逃れ込んだことによって、羞恥や前段階の欠落を埋めたのである。そして館盛は、前の彼女との三年の歴史によっても達せられなかった緻密《ちみつ》な一体感の中に我を忘れていた。  一体感が緊密すぎると、男は耐えられなくなってしまうが、ひろみの身体との和合は、ほどよい調和の中で漂流しているようである。官能の海を男女一体となって漂流しているような絶妙のハーモニイ、このような男女の一体感は、たがいにフィットする異性に出会い、それぞれの体調がよく、場所や雰囲気等の条件が整っていなければならない。  理想的なパートナーに恵まれていても、この漂流感はなかなか達せられない。ようやく得たとしても、どちらかが耐えられなくなって長続きしない。  ところが館盛とひろみは出会って直ちに官能の海へ船出し、その果てしもない大海原を衰えることなく漂流しつづけている。 「いいわ」  ひろみが喘《あえ》いだ。その表情が妖《あや》しく、ほとんど苦しげでさえある。だがそれにまだ耐えようとする意志を示している。貪欲《どんよく》な男にとっては嬉《うれ》しい意思表示である。  館盛は、ひろみと手を取り合い体を結び合わせて漂流しながら、最高の異性に出会ったのを悟った。ひろみも同様の意識を共有しているにちがいない。 「エンドレスラブだな」  館盛は小声でつぶやいた。ひろみがそれを聞き留めたらしく体で反応した。      3  館盛は満足した。緒戦にしては望み得る最大の戦果が得られた。それは前の彼女との三年間の歴史を圧倒するような充実と深さがあった。  不満は、エンドレスラブに体力の限界から終止符を打たなければならなかったことだけである。グルメが胃の容量を嘆きながら、満腹してもテーブルから離れたがらないように、二人は達した後もたがいの体を探り合っていた。 「また会いたいな」 「私も」 「本当に会ってくれるかい」 「会わなければ死んじゃうわ」 「それでは今度いつ」  満腹していながら、次の飢餓が始まっている。 「明日にでも会いたいけれど、おたがいに都合があるでしょうから、来週の今日どうかしら」 「一週間後か。待ち遠しいけどいいだろう。時間と場所は」 「午後八時、ロアビルの前で」 「必ず来るよ。きみも必ず来てくれ」 「必ず行くわ。今夜の記念にこれを預けておくわ」  ひろみは腕時計をはずした。女性用のファッショナブルな超薄型時計である。 「きみが時間を聞いたのが、ぼくたちが出会うきっかけになったんだ。それじゃあたがいの時計を今度会う日まで交換しておこう。出会ったときにまた持ち主に返す、どうだい」 「グッドアイデアだわ。私の時計を持ち逃げなさらないでね」 「きみこそ逃げるなよ」 「一緒にホテルを出るの恥ずかしいから、私が先に出るわね。五分たったら出てらして」  余韻が醒《さ》めるにしたがい、急速に羞恥《しゆうち》がよみがえってきたらしい。連絡先を聞きたかったが、怺《こら》えた。たがいの素姓を詮索《せんさく》しないのが「街角の恋」のルールである。それを聞くことによって、彼女が妖精《ようせい》のように消えてしまうのではないかという不安もあった。  ひろみが部屋から出て間もなく、館盛は重大なことを忘れていたのに気づいた。彼女に金を払うのを忘れていたのである。だが、いまから追いかけても間に合わない。もう表で車に乗り込んだころだろう。それに金をやるのはかえって失礼かもしれない。  彼女自身初めてだと言っていたように、体を売っていたことを忘れてしまっていたのだろう。それほど二人の体はフィットしたのである。  彼女の身体に男の開発が行きわたっていたことはわかった。それも不特定多数の男たちによって荒らされた肉体ではなく、一人の男にみっちりと耕された躰《からだ》である。  彼に捨てられたか、死なれでもして、反動的に街で男を拾ったのだろう。今夜は一人でいたくないと言っていた。だれでもよかったのだ。とりあえずの空虚を埋めるために、たまたま通り合わせた館盛を拾い上げたのだ。  それが意外にフィーリングが合った。ひろみが預けていった腕時計はスイス製のブランド物である。そんな高価なものを行きずりの男に預けていったところをみても、彼女の実意がわかる。少なくとも、街角で拾った情事として軽くみていない証拠である。館盛の時計もそれに劣らぬ高級品であり、こちらの実意を示したつもりであった。  館盛は、金をやらなくてかえってよかったかもしれないとおもった。せっかくの一期一会《いちごいちえ》のラブアフェアを、金で潰《つぶ》してしまうところであった。  館盛もそろそろ部屋を出ようとして身支度をしかけたとき、床の上に転がり落ちたものがある。拾い上げると、プラスチックケースに入った撮影ずみフィルムのパトローネであった。館盛はそんなものを持っていないので、ひろみが忘れていったものであろう。今度会う口実がまた一つ増えた。どんな影像がその中に定着しているのか好奇心が湧《わ》いたが、それはまだ覗《のぞ》くことを許されない彼女のプライバシーである。      4  一週間が待ち遠しかった。だがおかげで、前の彼女が立ち去った後の空虚をほとんど意識せずにすんだ。たった一夜の情事が、三年にわたる女との交際をきれいに打ち消し、新たな色彩で塗りつくしていた。  たがいに夥《おびただ》しい愛の誓いを連ねて堆《つ》み重ねた三年間が、たった一夜の新しい情事にかなわない。いったいあの女との三年はなんであったかとおもう。  女を失ったことは少しも寂しくないが、女と堆み重ねた三年の歴史の空疎さをおもうとき、そぞろ虚《むな》しさを感ずるのである。その間たがいに性器を貸し合っていただけの関係にすぎなかったのか。  ようやく一週間が経《た》ち、館盛は約束の時間にロアビルの前に立った。彼女が早く来る場合を考えて、約束より少し早目に行った。今夜も週末で賑《にぎ》わっている。  六本木は一日三回異なる表情を見せる。まず昼の顔、これは本当の顔ではない。次にネオンが目覚める夜の顔、そして午前零時ごろからの深夜の顔、最も六本木らしい顔が深夜のそれである。  だが最近ディスコや終夜営業のスナックの類が早仕舞いするようになって、だいぶ様変わりしてきた。総体に時間が繰り上がっている。  以前は「|おとな《アダルト》の街」としてタクシーの稼ぎ場であったのが、若者たちが蝟集《いしゆう》して来て渋谷や新宿とあまり変わりなくなった。ディスコが子供に占領されて、特に渋谷との一体化が著しい。スノッブなアダルトは西麻布《にしあざぶ》へ逃げる。  街を行く群衆に六本木の変貌《へんぼう》を見ている間に、約束の時間がきた。ひろみはどちらの方角から来るのか。期待に胸が高鳴ってくる。前回に達した�漂流�の行方に、今度はどんな発展があるのか。ひろみと共に組み立てた放恣《ほうし》な構図が瞼《まぶた》の裏によみがえり、それだけで身体が弾み立ってくる。彼女が惜しみなく取った、あの美しい痴態を間もなく再確認できるとおもうだけで、心が切なくなる。  八時五分になった。まだひろみは来ない。十分過ぎた。まだ現われない。ただ不安はない。彼に預けた高価な時計を必ず取り戻しに来るはずだ。たがいに持ち逃げはしないと誓い合ったのである。約束を担保で固めてある。  八時三十分になった。少し不安がかすめた。なにか事情があって遅れているのかもしれない。こうなることがわかっていれば、連絡の取れる喫茶店で待ち合わせればよかったと悔やんでも遅い。  とうとう九時になってしまった。結局、館盛は午前零時まで待った。もう来ないということがわかっても去り難かった。ひろみに来る意志はあったが、来られない事情が発生したと信じた。  病気か事故か、それとも本人以外の身近の人間になにかが発生した? 館盛は報道に注意した。だが、彼女に該当するような事件は報道されていない。彼女以外の身近な人間に発生したことであれば、報道されてもわからない。  あれは恋《キユ》の神《ーピツド》が気まぐれにあたえた、ただ一回の恋人であったのか。「一期一会の恋人」が比類ない異性《パートナー》であったとは、残酷な出会いでもある。これからの「ただ一人の異性」を探し求めての永遠の飢餓に、どのようにして耐えたらばよいのか。  ひろみの素姓を探る唯一の手掛かりが残されていた。それはホテルに置き忘れたフィルムである。35ミリフィルムの二十四枚撮りである。館盛はおもいきって、それをDPEに出した。彼女の身許《みもと》を知る手掛かりが得られるかもしれない。  焼き上がった写真に、ひろみのさまざまな表情が定着されていた。中に、若いハンサムな男と一緒にポーズしている構図が、何枚かあった。彼が恋人なのであろうか。だれかにシャッターを切ってもらったのか、自動シャッターを使ったのか。仲よさそうに寄り添っている。  だが館盛にはライバルとしての先入観があるせいか、好きになれない顔であった。ノーブルな顔立ちであるが、目つきに卑しい色が塗られ、薄い口元に酷薄な性格が覗《のぞ》いているようである。だがいかにも若い女にモテそうな、今様の様子のよさがある。  この男がひろみを先占していたのかとおもうと、嫉妬《しつと》が掻《か》き立てられた。男と一緒にドライブにでも行ったのか、スマートなボディスタイリングのスポーツカーの前で肩を組んだスナップや、ドライブインらしい建物をバックにポーズした構図がある。背後にべつの車が見える。その他一人で写ったスナップや、山や川や公園などの風景を写した写真があった。  だがひろみの手掛かりになりそうなものは写っていない。せめて撮影地点がわかれば、そこから手繰《たぐ》れるかもしれないが、平凡な風景や建物ばかりで特徴がない。唯一の手掛かりは絶たれた。  だが館盛はあきらめきれなかった。もしかしたらという期待を持って、その翌日の夜も同じ場所に立った。彼は一週間同じ場所へ通った。近くのビデオショップの店員に顔をおぼえられ、不審の目を向けられた。  八日目の朝、館盛は通勤の電車の中で、なにげなく広げた新聞の社会面に見憶《みおぼ》えのある顔を見出した。忘れようとしても忘れられない顔である。 「若いOL殺される。相模《さがみ》川の河原に運ばれて捨てられる?」の大見出しがついている。  館盛は愕然《がくぜん》としてよろめいた。周囲から視線が集まった。  館盛は気持を落ち着けて記事を追った。  ——十八日午前七時ごろ神奈川県相模市域の相模川河川敷に若い女性の変死体があるのを、釣りに来た人が発見、相模署に届け出た。相模署が調べたところ、死体には首に紐《ひも》のようなもので絞められた痕《あと》があり、同署は殺人事件と断定、県警捜査一課の応援を求めて捜査本部を設け、捜査を始めた。  被害者の着衣に乱れはなく、現場に争った痕跡《こんせき》がないところから、べつの場所で殺害されて、車で現場まで運ばれて来て捨てられたものとみている。  検視の結果、死後五‐八日間で、身分証明書など身許を特定する持ちものはなかったが、一週間前から失踪《しつそう》して家族から捜索願いを出されていた東京都|世田谷《せたがや》区|祖師谷《そしがや》五‐××会社員井原ひろみさん(二二)と確認された。  捜査本部は被害者の財布やアクセサリー類がそのまま残っており、首の絞め痕以外に傷は見当たらないところから顔見知りの者の犯行と推定、被害者の生前の人間関係を中心に捜査を進めている——  読み終わって館盛は茫然《ぼうぜん》とした。ひろみは殺されていたのだ。死後経過五‐八日と推定されているから、彼らが約束した日にはすでに殺されていた可能性がある。彼女はあの日に殺されていたのにちがいない。来たくても来られなかった事情がそれであったのだ。  いったい、だれがなぜこんなむごいことをしたのか。憤りが胸の深所から噴き上げてきた。館盛の瞼《まぶた》に、写真にひろみと肩を組んで写っていた男の顔が浮かんだ。  警察は顔見知りの者の犯行とみて、その線を捜査しているという。この男こそ、最大の顔見知りではないか。あの卑しげな目の色、酷薄な唇、いかにも自己中心的な自信たっぷりのマスクではないか。  おそらくあの男にとって、彼女の存在が邪魔になる事情が発生したにちがいない。その情況を、館盛と過ごした一夜が確実に物語っている。男から捨てられた寂しさをまぎらそうとして、館盛を拾ったのだ。  愛を誓い合ったにちがいない恋人の代替として、束《つか》の間の穴埋めに充《あ》てた館盛と意外にフィットしたとおもったのだが、それは館盛の一方的なおもい込みであったのか。そうだとすれば交換した時計はなにを意味するのか。  彼女との再会の約束の担保と解釈していたが、あるいは恋人からのプレゼントを捨てようとしたのかもしれない。  いずれにしても、一期一会の街角の恋人にもはや二度と会えないことが確定した。館盛の意識の中で、写真の中のひろみのパートナーが犯人像として浮かび上がった。      5  翌日、日曜日で家にいた館盛を二人の男が訪ねて来た。年輩者と若い男である。いずれも平凡なサラリーマン体《てい》であったが、身体にいつでも駆け出せるような油断ならない構えが感じられる。二人は相模署の刑事で、年輩が本間、若いのが多川と名乗った。その神奈川県の警察は、館盛の記憶に新しかった。  ひろみが殺された事件を管轄する警察が、どんな用件で館盛を訪ねて来たのか。  ともかく部屋へ入れて対座すると、年輩の本間が、 「率直にお尋《たず》ねします。井原ひろみさんをご存じですね」  本間は一直線に視線を向けた。穏やかな眼光だが、射るような圧力がある。 「はい、知っているといえば知っております」  ただ一夜の行きずりの契りをなんと説明すべきか、館盛は言葉に迷った。 「失礼ですが、どんなご関係で」  本間はひたひたと迫って来る。 「街で一度知り合っただけです」 「一度知り合う……」  本間がその意味の含みを探りながら、 「つまり、一度は特定の関係を持たれたと解釈してよろしいのですか」 「まあ、そういうことですが、彼女のプライバシーに属することですので」 「一度知り合ったというのはいつですか」 「そんなことまで話さなければいけませんか」 「ぜひおねがいします。井原さんと多少とも関係のあった方には、すべてお尋ねしています」  そのように言われると答えざるを得ない。ただ一度であっても、この上なくフィットしたパートナーであった。館盛は正直にひろみとの出会いを語った。 「なるほど、そのようなご関係でしたか」  本間刑事の表情が館盛の言葉を測っている。その様子からは、彼が信じたのかどうかわからない。多川が脇《わき》でしきりにメモを取っている。 「それでは×月十日から三日間、特に夜間どこでどのように過ごされておりましたか」  本間は質問を重ねた。 「×月十日から三日間というと、それはアリバイですか」  反問した館盛に本間がうなずいた。 「私を疑ってるんですか」  本間と多川は答えず、視線を館盛の面に集めた。館盛は、自分にかけられた容疑が深刻であるのを悟った。 「そ、そんな馬鹿な——、ぼくは彼女の正確な名前も住所も知らなかったんだ。一度出会っただけで、殺す理由なんかなにもない」  館盛は必死に抗弁した。 「時計をあげていますね。ロレックスの腕時計、かなり高価な品です。それもただ一度街で知り合った女性にやったとおっしゃるのですか」  切り返されて、館盛はうめいた。刑事が館盛のところへ来た経路がわかった。時計の線を手繰って来たのである。裏蓋《うらぶた》に彼のイニシャルが彫ってあり、製品ナンバーから販売店を割り出し、館盛を突き止めたのであろう。  そのとき館盛は自分が陥っている尋常ならざる事態を悟った。ひろみと約束した夜から毎夜、午後八時から深夜まで、一週間連続してロアビルの前に立っていたのだ。十日を除いてはアリバイがない。 「彼女と腕時計を交換したのです。再会の日までの約束で、これが彼女の時計です」  館盛は時計を交換したいきさつを必死に説明しながら、ひろみから預かった時計を差し出した。本間は注意深く時計を観察して、 「婦人用ではありますが、名前や井原さんのものであることを示すようなものは入っていませんね」 「でも本当なんです。そうでなければ、そんな女ものを持っているはずがないでしょう」 「それであなたは十一日から一週間、午後八時から深夜まで彼女を待って、ロアビルの前に立ちつづけていたとおっしゃるのですか」 「そうです」 「そのとき知人か、通行人があなたを見ていませんか」 「知り合いには一人も出会いませんでした」  館盛は途方に暮れた。まさかこんなことになるとは夢にもおもっていなかったので、自分を印象づけるようなことはなにもしなかった。  週末の六本木は、それぞれに自分の楽しみを追うのに忙しく、来るかどうかわからない女をポツネンと待っている男に注意を向ける者はいない。 「その間、ずっとロアビルの前に立っていたのですか、近くの店に入りませんでしたか」 「そうだ、店には入りませんが、私が毎晩同じ場所に立っていたので、近くの店員が不審げに見ていました」 「どこの店員でしたか」 「たしかビデオショップだったとおもいます」  多川がメモを取った。 「刑事さん、あと一つ彼女の遺品を保管しています」  館盛は重要な�遺品�をおもい出した。 「遺品?」  本間が表情を改めた前に、例のフィルムと印画紙を差し出した。 「これを井原さんが置き忘れていったのです。悪いとおもったのですが、彼女の手掛かりでも得られればとおもって、勝手にDPEに出しました。男が写っています。この男はもう取り調べずみでしょうか」  本間が印画紙を取り上げて熱心に観察した後、多川にまわした。二人の表情から、写真にかなりの興味を抱いたことがわかる。 「このフィルムと写真を、当分お借りできますか」  本間が言った。 「どうぞ。そのつもりで差し出したものですから」 「もちろん、彼女のパートナーの素姓《すじよう》はご存じないでしょうな」 「こちらが聞きたいくらいです」 「わかりました。当分の間、旅行などのご予定はありませんか」 「ありません」 「今日は突然お邪魔して失礼いたしました」  刑事らはそれだけ聞いて辞去した。館盛の申し立てを全面的に信用したわけではない。これから裏づけが取られるのであろうが、その間、勝手に動きまわるなと暗に釘《くぎ》を刺していた。  だが館盛が提供した写真に明らかに興味を示していた。その反応から、警察にとって初資料であったようである。      6  その後数日、警察からなんの音沙汰《おとさた》もなかった。身辺を監視されている気配もない。  数日後、例のように通勤電車の中でなにげなく新聞を開いた館盛は、おもわず、あっと声をあげた。それは写真週刊誌の広告である。そこに、ひろみのフィルムに写っていたパートナーの顔がクローズアップされていた。隣りに見憶えがあるような、濃艶《のうえん》な感じの女の顔が並んでいる。広告の惹句《じやつく》に、 「いま売れに売れている新進美女童話作家|嵯峨《さが》利枝子の噂《うわさ》の恋人の正体は、法務省のエリート官僚」とある。  館盛は息を呑《の》んでその写真を見つめた。こんなところにひろみのパートナーがいた。警察は館盛が提供した写真から、とうに彼《パートナー》の身許を割り出したにちがいない。だが彼が捜査線上に浮かんだという報道は、館盛の耳目に触れていない。  館盛は電車から降りると、早速、勤め先のビル内にある書店で件《くだん》の週刊誌を買った。マンション風の建物から出て来る両人の写真、肩を並べて歩いている構図、車へ乗り込む場面など、数ショットが見開き二|頁《ページ》にわたって、掲載されている。  写真説明文には次のように書かれている。  ——嵯峨利枝子の噂の恋人の正体は、意外や意外、法務省のエリート官僚であることを本誌は突き止めた。写真の主某氏は、お役人の中でも最もお堅い法務省の人権保護[#「保護」に傍点]局庶務課付きの三十二歳、T大法学部出身パリパリの法務官僚である。  もちろん家庭には妻があり、そして五歳と二歳の子供がいる。さすがはT大出のエリート、六法全書だけでなく、ベストセラーの童話にも目を通し、美女作家のハートを射止めてしまったのであるから、不倫と目くじら立てる前に、「博愛衆に及ぼす」人権感覚(あるいは�寝権《しんけん》�か)に、多分に嫉妬《しつと》と羨望《せんぼう》をこめて拍手を送りたい。  写真は利枝子先生のお宅に泊まって朝帰りならぬ、先生自ら運転の車に送られてのエリート氏の出勤風景である。——  望遠レンズで撮影したらしく、影像はやや不鮮明であるが、特徴はとらえられている。  ひろみのパートナーが法務省のエリート役人だったとは意外である。彼が、嵯峨利枝子との恋愛にひろみの存在が邪魔になったので、ひろみを殺したのか。  どうも某氏は犯人像として無理があるような気がした。法の遵守《じゆんしゆ》を司《つかさど》る法務省の役人が不倫を働いていたのは、いかにもまずい。しかし「恋は思案のほか」である。役人であろうと政治家であろうと、また人格高潔な学者であっても、下半身にはべつの人格が棲《す》んでいる。  人権保護局の役人が人気女流作家と不倫の関係を結んでいたのは、いかにも人間くさい。彼にとっては、相手がひろみであっても嵯峨利枝子であっても、不倫であることには変わりない。ひろみとの関係を保身上伏せるために殺したという想定は、一応可能である。だが不倫が表沙汰《おもてざた》にされたところで、左遷、更迭《こうてつ》の理由にはなっても致命的ではあるまい。  新しい恋のために古い恋を清算する。よくあるケースである。だが保身上の清算のために古い恋人を殺した者が、新しい恋をするだろうか。  まして、当人は法務省の役人である。不倫の不名誉と殺人の重大さは、比較するまでもなくわかっているはずである。  ひろみを先占した男に対する嫉妬から彼の犯行を疑ったが、その正体が割れてみると、どうも犯人像としてぴたりとこないのである。  週刊誌が発売された翌日、本間刑事が訪ねて来た。今度は一人である。 「週刊誌《シヤツター》はごらんになりましたか」  本間は、パートナーの写真が載った写真週刊誌の名前を言った。 「見ましたよ。彼はとうにマークされていたんでしょう」 「あなたが提供してくれた写真が手掛かりになりました。しかし彼は犯人ではありません。皮肉なことに、被害者が殺されたと推定される木曜日の夜から日曜日にかけては、女流作家と伊豆方面へドライブ旅行に出かけており、彼女と旅館の裏づけを得られました。法務省氏は被害者と交際していた事実は認めましたが、動機が薄弱です。女流作家との関係を『おとなの恋』と割り切っており、法務省氏にとって彼女を殺しても、ほとんど意味がありません」 「すると、私の嫌疑が深くなったというわけですか」 「いや、あなたは犯人ではありませんな」  本間は明快に言った。 「疑いが晴れたのですか」 「ビデオショップの店員のウラが取れましたよ。それ以外にも近くの住人で、あなたを見ている人が何人かいました」 「それを聞いてホッとしました」 「被害者が殺されたのは、木曜日の夜から三日間と推定されています。あなたは金曜日の夜から一週間、連続して午後八時ごろから深夜近くまでロアビルの前に立っていた。三日間のアリバイをすべて埋められないにしても、犯人だったらそんな動き[#「犯人だったらそんな動き」に傍点]をしないでしょう。また被害者の生前の人間関係の中に、あなたの痕跡《こんせき》は交換したという時計以外には残っていませんでした」 「法務省が犯人でないとなると、だれが彼女を殺したのですか」 「わかりません。そこであなたに改めてお尋ねしたいのですが、あなたが井原さんと会っていたとき、なにか犯人の手掛かりを示唆《しさ》するようなことを言いませんでしたか」 「べつに気がつきませんでしたね。呼び止められて時間を聞かれて、初めはコールガールかとおもいました」 「そのことは聞きましたよ。彼女は今夜は一人でいたくないと言ったんでしょ」 「そうです」 「当時、法務省氏が被害者から女流作家に乗り換えて、被害者は失意の底にありました。その反動から捨鉢な行動を取ったのだとおもいます。立ち入ったことをお聞きしますが、ベッドの中でなにか気になるようなことを言いませんでしたか」  寝物語ではつい気を許して�本音�を言いやすい。その中に犯人の手掛かりはないか。  本間の表情がそう言っていた。エンドレスラブの充実《フイツト》感を持ったと本間に話しても仕方がない。またそんなことは犯人を追う手掛かりになるまい。 「言いませんでしたね。ホテルには三時間ほどいて再会を約して別れました」 「そのとき名前や住所は聞かなかったのですか」 「聞きたかったのですが、聞かないのがルールだとおもったもので」 「ほう、そんなルールがあるんですか」  本間が感嘆したような表情になった。 「なにか事情があるとおもったのです。相手の素姓を聞けば、その事情に立ち入ることになるとおもったのです」 「なるほど」  本間はうなずいたが、納得したかどうかわからない。 「ひろみさんに、法務省以外に男がいた痕跡はないのですか」 「それをいま洗っているのですが、いまのところあなた以外に見つかっておりません」 「私が�男�といえるかどうかわかりませんが、一度でも関係を持ったことは事実です」  その一度が一期一会のエンドレスラブであった。 「もしなにかおもい出したことがあったら、連絡してください」  本間は、収穫のないまま引き揚げて行った。      7  捜査は壁に打ち当たったまま膠着《こうちやく》しているらしい。だが犯人はどこかで笑っているにちがいない。館盛には犯人の笑い声が聞こえるような気がした。その笑い声の奥からひろみの声が訴えかけてくる。 「私は約束を守ろうとしたのよ。でも守れなくなってしまったの。あなたにもう一度お会いしたかったわ。時計をお返ししたかったわ。もう一度お会いできれば、私たちの間に新しい時間が始まったかもしれないのに残念だわ」  ひろみは切々と訴えかけていた。一期一会の恋人だけに、その訴えは切実であった。  いったい自分は彼女の心にどれほどの痕跡を残しているのか。こちらがエンドレスとおもい込むほど、彼女の記憶になんのしるしも残さなかったのではないのか。  情事に馴《な》れた女性にとって、体を許すことは日常性の中にあり、なんの感激も感傷も残さないのかもしれない。情事の最中に激しく反応したとしても、それは肉体的な反射であったかもしれない。官能の波が退けば、もはや別人のように心も体も醒《さ》めている。  ひろみがそのタイプとはおもいたくなかった。あの比類ない一体感と漂流感が、彼女の日常として、だれとでも容易に達せられるとは考えたくない。日常の中の行為ではない証拠に、彼女は時計を残していったではないか。  そのとき、犯人は異性関係以外の線から来たのではないかという発想が閃《ひらめ》いた。若い女が殺されたとき、まず痴情|怨恨《えんこん》を疑うのが常道である。  本間も専《もつぱ》らその方面に捜査の触手をのばしているようである。もちろん警察としては異性関係以外の線も洗っているだろう。だが被害者の男が捜査の主流であるにちがいない。  館盛はひろみの遺品のフィルムの中で、パートナーだけを注目していたことに気がついた。二十四コマのスナップ中、パートナーが写っているコマしか見ていない。  もしかすると、それ以外のコマの中に犯人を示す手掛かりが写されているのかもしれない。  館盛は警察に提供する前に、ひろみに返す場合を考えて、さらにワンセット焼き増ししておいた。それを改めて視点を変えて観察した。だが平凡な構図ばかりで、特に注意を引くような人物も物体も写っていない。  二十四コマ中、法務省と一緒に写ったのが四コマ、十一コマが彼女一人のスナップである。ドライブした先で法務省がシャッターを押したものであろう。残りの九コマが風景である。山の遠景をバックにした藁葺《わらぶ》きの屋根や田園風景や小川が撮影されている。それは両人のうち、どちらが撮影したのかわからない。  本間刑事から聞き忘れたが、このフィルムを撮影したカメラの主は法務省と彼女のどちらであるのか。風景写真は撮影者になんらかのアピールがあったので、写欲をそそったのであろう。  フィルムの終わり近くに平凡な風景が集まっているのは、早く写真を見たいために、フィルムを使い切ろうとしたのであろうか。それにしても、どこが被写体として興味をそそったのかわからない一コマがある。それは最後の一コマであった。  夕方の光が不足している中で撮ったのか、露出不足の暗い画面に、沼のような水たまりをバックに、一台の乗用車がカメラの方角に尻《しり》を向けて駐《と》まっている。車の型からして、明らかに法務省とドライブに行ったスポーツカーではない。  沼も車も平凡であり、写真としてなんの面白味もない。シャッターを切ったからには、なにか撮影者の興味を惹《ひ》いたものがあったはずなのだが、それがわからない。他の二十三コマには、いずれも人物が入っているか、あるいは平凡ながら一応撮影のポイントがわかる。  だがこの最後の一コマには、一見なんのポイントもなさそうである。おおむね恋人とのドライブ、旅行の記念撮影であるが、その一コマだけが切り放されている。沼とべつの車だけで構成された構図の中に、なにか二人のドライブを記念する要素があったのか。絵葉書的な要素はなにもないし、美術的表現からはほど遠いようである。それとも撮影者にとって記録的な意味か、想い出でもあったのか。  館盛は次第に「最後の一コマ」に興味を持ってきた。もしこのコマがフィルムを使い切るための無駄撮りではなく、記念や記録や想い出の意味で撮影したものでもなければ、はたしてなんの目的でカメラを向けたのか。  一億総カメラマン時代に、一コマ毎《ごと》のシャッターを切るのに、いちいち意味を探しはしない。「ただなんとなく撮る写真」が多い。「一写入魂」を素人がやっていたのでは疲れてしまう。とはおもうのだが、二十四枚中、ポイントの見当たらない写真が、次第に違和感を大きくしてきた。  館盛は再三他の二十三コマと比べた。館盛は最初から三コマめの写真と見比べたとき、はっとなった。それはドライブインのような建物をバックにしたスナップである。ひろみがスポーツカーにもたれかかるようにして、笑いかけている。ドライブインのかたわらに、べつの乗用車が駐めてある。その車の色や型が、沼の畔《ほとり》の車に似ていた。館盛は注意深く両車を見比べた。幸いに両車共にナンバーが写っている。館盛はルーペを持って来て拡大した。距離があり、末尾の数字が二|桁《けた》読み取れなかったが、番号標の塗色、行政区分、車種別分類番号、業態区分を示す整理ひらがな、登録番号の二桁まで一致した。  おそらく「ドライブイン前の車」と「沼の畔の車」は同一の車であろう。だが、このことにどんな意味があるのか。最後のコマにポイントがあるとすれば、車の一致である。いや、それがポイントにちがいない。館盛の思惑は脹《ふく》らんだ。  すると撮影者はこの車(の一致)に興味をおぼえたにちがいない。ドライブインで出会った車に、沼の畔で再会した。そのことが撮影者に興味をあたえた。  このことをひろみの殺人被害に結びつけて考えたらどうか。二回見られたことが、車のドライバーに都合が悪かったと仮定したならどうであろう。例えばドライバーが、なんらかの人目を憚《はばか》る行為を沼の畔でしていたとする。とにかくそのとき、沼の畔にいた事実を知られたくない事情があったとする。  撮影者がドライバーに、そのとき写真を撮った事実を知らせなければ、ドライバーは目撃されたことを知らない。だから撮影者に対してなんの行動にも出ないし、出られない。  だが両者の間に連絡が生じたとすれば、ドライバーは撮影者の口を塞《ふさ》ごうとするかもしれない。その場合、撮影者を殺してまでその口を封じ込めようとするからには、沼の畔での人目を憚ることが、撮影者の生命に匹敵する事情にちがいない。つまり沼の畔でもう一件の殺人が行なわれたのではないのか。  館盛の思惑は転がりつづけ、意外な推測を造形してきた。  フィルムから判断して、それほど以前のことではなさそうである。またスナップの風景は東京近郊のようである。最近東京近郊の沼か池で殺人事件が発生していないか。  館盛は社の資料室へ行って新聞ファイルを溯《さかのぼ》った。主要紙はここにおおむね二か月保存されてある。それ以前となると、図書館へ行かなければならない。  館盛は暦の日数を溯っている間に、ファイルが切れる直前にそれらしい記事にぶつかった。それは神奈川県相模市域の沼で、ハイカーが若い男性の死体を発見したニュースを伝える記事である。  それによると相模市域の龍棲沼《りようせいぬま》、通称|青沼《あおぬま》と呼ばれる丹沢《たんざわ》山域の沼の浅瀬に、若い男の死体が沈んでいるのをハイカーが発見した。相模署が調べたところ死後三‐四日を経ており、頭の骨が折れているほか全身に打撲傷があるところから、どこかべつの場所で車に轢《ひ》かれ、死体を現場に運ばれて、捨てられたと判断した。  体に所持品はなかったが、一週間前に勤め先から帰宅途中消息を絶ち、三日後、家族から捜索願いを出されていた同市××町旋盤工木谷数也さん(一八)と確認された。同署では悪質な轢き逃げ、死体遺棄事件として、捜査をしている——というものである。 「これだな」  館盛は一人うなずいた。他にも殺人事件が三件報ぜられているが、「沼」が関わっているものはない。しかも現場が同じ相模署管内である。犯人には土地鑑があるのだ。  同じ場所や地域で犯行を累《かさ》ねたり、死体を遺棄したりするのは犯人にとって危険なようであるが、最近も佐賀県の山中に女性の死体を三体も前後して遺棄する事件が発生した。犯人にとって土地鑑の有無は、犯行の重大な要素となるのであろう。  館盛は自分の着想と発見を、本間刑事に伝えることにした。      8  本間は真剣に館盛の話を聞いてくれた。 「ご意見はたいへん参考になります。同一フィルム中の同じ車とは、盲点でした。たしかにあり得るケースだとおもいます。早速この車の所有者を洗ってみましょう」  本間は強い反応を示した。まず車と更に撮影されている沼が龍棲沼と確認されれば、場所が結びつく。次に撮影時点が犯行推定日に接近していれば、時間的につながりを持ってくる。  本間はまず写真と現場を対照して、撮影場所が龍棲沼であることを確認した。次に法務省のパートナーに写真を示して、記憶があるかどうか尋ねた。彼は二か月ほど前、井原ひろみと丹沢方面へ行った際に撮影したフィルムであり、ドライブインには途中で休憩し、最後のフィルムは、ひろみが帰途撮影したものだと答えた。彼女がなぜ撮影したのか、また撮影したことも気がつかなかったという。なおカメラはひろみのものであった。  撮影日の三日後に沼から死体が発見されている。  ここにフィルム中の車は、時間的にも場所的にも轢《ひ》き逃げ死体遺棄事件に結びついた。警察は件《くだん》の車の割り出しを行なった。登録番号下二桁が判読不明であるため、それに該当する車九十数台(語呂《ごろ》合わせ上42や49など使用しないナンバーがある)をすべて洗い、世田谷区祖師谷五‐××会社員葉山明(二八)を割り出した。葉山の住所は井原ひろみの近所である。彼のマイカーを調べたところ、前部バンパーやラジエーターグリル、前照灯、ボンネットなどに変形、圧潰《あつかい》、へこみなどが認められ、二か月前から自宅ガレージに入れたまま使用していない事実がわかった。  捜査本部に任意同行を求められた葉山は、峻烈《しゆんれつ》な取調べの前に、旋盤工の轢き逃げと井原ひろみを殺害した事実を自供した。      9  葉山の自供後、本間刑事が館盛の許《もと》へ礼を言いに来た。 「あなたの着眼の通りでした。刑事真っ青ですな」  本間は言った。 「犯人が捕まってよかったですね。ぼくも疑いが晴れてホッとしました」 「あなたの疑いはとうに晴れてましたよ」 「一度は容疑者の列に並んだのです。真犯人が捕まらないことには、すっきりしません。それにしても犯人は、なぜひろみさんを殺さなければならなかったのでしょう」 「近所同士で、たがいに顔を知っていたそうです。葉山が婚約者とドライブに行った先のドライブインで休憩したとき、井原さんと偶然出会って、そのときはおたがいに知らない顔をしたそうです。帰途龍棲沼に寄った際、たまたま同じ場所を通りかかった井原さんが、葉山の車が駐まっているのに興味を持って、シャッターを切ったのが命取りになりました。  その帰途、面白半分に無免許の婚約者にハンドルを握らせたところ、いきなり飛び出して来た形の旋盤工を轢いてしまい、動転した葉山は、死体を積んでいま立ち寄って来た沼に沈めたのです。二人は間もなく結婚することになっていました。旋盤工の死体は間もなく発見されましたが、警察が追って来る気配はありませんでした。ホッとしかけたところへ、井原さんが龍棲沼で葉山の車を見かけたと、なにげなく話しかけて来たそうです。  葉山は井原さんに犯行を察知されたとおもいました。挙式を間近にひかえて、井原さんにしゃべられたら、すべてがご破算になる。婚約者と自分の将来の家庭を守るために、井原さんを殺す決心をして十一日の午後、彼女の勤め先に電話して、近所の誼《よしみ》で相談したいことがあると言って誘い出しました。井原さんは、午後八時前までなら空いているからと言って出て来たそうです。八時からあなたに会うつもりだったのでしょう。  マイカーが使えなくなったのでレンタカーで来た葉山は、井原さんを乗せて、用意してきた睡眠薬入りコーヒーを飲ませて眠らせた後、首を細紐《ほそひも》で絞めて殺して相模川の河原に捨てたのです。  まさか沼の畔の車を撮影されていて、そのフィルムがあなたの手に渡っていたとは、夢にもおもっていなかったのでしょう。まさに天網《てんもう》に引っかかったとしか言いようがありませんね」 「彼女が私に預けた時計はどうしましょうか」 「彼女があなたに託したものです。あなたが持っているのが、彼女の遺志に最も叶《かな》うんじゃありませんか」  本間が帰って行った後、館盛は深い寂寥《せきりよう》感にとらえられた。犯人は捕まったが、ひろみの生命は返って来ない。たった一夜の街角の恋人であったが、忘れ難い想い出を刻み残していった。  あれは恋神《キユーピツド》が気まぐれに射った矢に心を射貫《いぬ》かれたのかもしれない。そうだとすれば、それは残酷な誤射である。これから期限のない長い期間、その傷の痛みをかかえて生きていかねばならない。  街角で再び若い女性から時間を聞かれるようなことがあれば、今度は時計を持っていないことにしようと、館盛はおもった。 [#改ページ]  足 音  早水とねは枕《まくら》に耳をつけて凝《じ》っと足音を聴いていた。この棟の居住者の足音はすべておぼえている。年を取るに従い、目は悪くなったが、その分を聴覚が補って、耳がよくなったように感ずる。テレビもリモコンの二重音声ボタンを押して、目の不自由な人のための音声を聴いている。テレビ画面はほとんど見ない。その方が想像をたくましくできて、ドラマをより一層楽しめるような気がする。  団地にはさまざまな人が出入りする。まず早朝の新聞配達から始まって、遠距離通勤者が出て行く。以前は新聞配達と共に牛乳配達が来たが、最近牛乳配達はなくなった。早朝の気配の中に牛乳ビンの触れ合う音が聞こえなくなったのは寂しい。朝の風物が一つ減ったのである。  次に通学の子供たちが出て行く。建物に工事があるときは、工事人や職人がやって来る。午前九時を過ぎると郵便配達が来る。つづいて宅配便や銀行の得意先係りや、ガスの検針人などが来る。保険外交員、新聞の勧誘員、その他各社セールスマンがまわって来るのは午前十一時ごろから午後にかけてである。午後になるとまず小学生が下校して来て、つづいて中高校生が帰って来る。各種集金人は居住者の在宅率の高い夜間を狙《ねら》って来る。  とねは居住者と建物に定期的に出入りする人々の足音をおぼえてしまった。同じ人物でも朝と夕方や夜では足音がちがう。朝は活発でせわしなく、夕方から夜にかけての帰宅者は足音に疲労が淀《よど》んでいるようである。年齢、性別、そのときの心身の状態などによっても足音が異なる。  とねが団地の建物に出入りする夥《おびただ》しい人々の足音の中で、最も待ち望んでいる足音は、毎週火曜日と金曜日に訪れてくれるボランティアの介護者一色瑛子の足音である。とねは彼女の週二回の訪れを生き甲斐《がい》にして生きているようなものである。現在八十五歳、夫とはとうに死別し、三人いた男の子はすべて戦争で失った。夫はこの団地の中の分譲住宅と、とねが路頭に迷わないだけの遺産を残してくれた。  夫の遺産と老齢年金のおかげで、ともかく飢えることなく生きていられる。老いて身寄りのないのは寂しいが、子供がいても邪魔者あつかいをされ、子供の間をたらいまわしされるよりは、どうせ死ぬときは一人と割り切って一人で暮らしている方がむしろさばさばしてよい。週二回一色瑛子も訪ねて来てくれる。  瑛子は骨肉も及ばぬほど、とねの身のまわりの世話をしてくれる。とねの好物を買って来てくれて、天気がよければ布団を干し、汚れものをすべて洗濯し、部屋を掃除してくれる。風呂《ふろ》を沸かして、めっきり足腰が弱くなったとねを抱くようにして風呂へ入れてくれて背中を流してくれる。瑛子が帰って行くときは、とねは心身を引き裂かれるようなおもいがする。 「おばあちゃん、そんな悲しげな顔をしてはいやよ。おばあちゃんがあんまり悲しそうにすると、私、今度来るのが辛《つら》くなってしまうから」  と瑛子は言った。 「わたしゃちっとも悲しくなんかないよ。ちょっと寂しいだけさ」  とねはやせ我慢を張った。 「寂しがってもいや。なにかあったら、すぐ電話してちょうだい。飛んで来ますからね」  瑛子はこまごました注意をあたえて帰って行く。  必要な食料品や日用品は馴染《なじ》みの商店が届けてくれるので、不都合はない。とねは週二回瑛子が訪れて来るのを家の中で凝っと待っていればよかった。それでは足腰が弱る一方なので、天気のよい日は団地の敷地内の公園へ散歩に行く。それも季節が寒くなってくると、家の中に閉じこもりきりになってしまう。テレビに倦《あ》きると、建物に出入りする人々の足音を凝っと聴いているだけである。その足音の中にいつの日か必ず自分を迎えに来る死に神の足音が聞こえてくるはずである。  とねは人間の足音を聴くのが嫌いではない。凝っと耳を澄まして聴いていると、階段を上がり下りする単調な足音にも個性が露《あら》われ、その主の人生がこめられている。若い娘の足音は青春そのもののように弾んでいる。子供たちの足音は溌剌《はつらつ》として好奇心に溢《あふ》れているようである。各戸の主婦の足音にはそれぞれの家計が滲《にじ》んでいる。戸主の足音は生活を引きずっている。とねには夫に隠れて浮気をしている不倫の主婦の足音も聴き分けられる。彼女らの足音はどこかに後ろめたさを引きずっている。  とねが住んでいる分譲住宅は、四階建て、各戸三DKで二十四所帯が入居している。階段はABC三つある。ワンフロア二所帯、四階まで八所帯が一つの階段を共用している。ABC階段の横の連絡はなく、A階段の二階以上の人がBC階段の二階以上へ行くためにはいったん一階へ下りなければならない。不便ではあるが、長い廊下に沿って規格的なドアが並んでいる殺風景な構造ではない。二十四所帯の集合住宅であるが、一階段八戸ずつに区分されている。  この団地が建設されて二十数年、とねの家は棟末A階段の一階一〇一号室である。隣家が一〇二、二階が二〇一と二〇二、四階が四〇一と四〇二である。この分譲住宅ができてからずっと入居している初代の住人はいまはとね一人になってしまった。いずれも一戸建てへ引っ越したり、転勤したりして、いまはとねの次に古いのが二代目で、最も新しいのは七代も替わっている。代を重ねるほどに入居者の質が悪くなっていくようである。  とねのすぐ上の部屋すなわち二〇一号室には北崎しのぶという若い女が住んでいる。職業はホステスということで、三時ごろだらしのない恰好《かつこう》をして起き出して来ると、まず美容院へ出かけ、夕方六時ごろぞろっとした服を着て出勤して行く。帰宅はたいてい午前様である。男に送られて帰って来ることもある。とねは北崎しのぶの男の足音もおぼえた。彼女には少なくともレギュラーの関係にある男が三人いた。男が送って来ると、一、二時間彼女の部屋で過ごして帰って行く。泊り込むことはまずない。  北崎しのぶが入居したのは半年ほど前であるが、自治会の規約や申し合わせは一切守らない。年一度の敷地内の草むしりにも出て来ず、収集日に関係なく区分しないゴミを出す。まわり持ちの自治会の役員もやらない。深夜であろうが騒音は垂れ流す。近所の鼻つまみ者であった。  散歩に出かけたとねが、美容院帰りの北崎しのぶとすれちがったことが何度かある。彼女はとねに汚物でも見るような目を向けた。 (まあ、あんたもいずれ年を取るよ。いまのうちにせいぜいキリギリスのように太平楽に歌っていることだね)  とねは心中につぶやいた。  北崎しのぶが入居して半年ほど経った十月末のある夜、とねは枕に響く足音に目を覚ました。時計を見ると午前零時を過ぎている。足音は北崎しのぶのものである。男が同行していた。男はレギュラーパートナーの一人であり、とねがひそかにたぬきと名づけている男である。あとの二人は青大将と縞馬《しまうま》である。たぬきの足音は鈍重であり、青大将はにょろにょろしており、縞馬は軽快である。男たちの顔は見たことはない。だがとねはたぬきが中小企業の経営者、青大将は医者、縞馬は洋文字のつく職業の男のような気がした。  その夜たぬきはしのぶを部屋に送り届けると、直ちに帰って行った。それから三十分ほど後、とねがふたたびうとうとしかけたとき、新たな足音を聴いた。とねの聴き馴《な》れない足音である。足音は階段を上り二〇一号室の前で止まった。ドアが開いた気配がした。  一時間ほど後ふたたび二〇一号室のドアが開いた。同時にとねの家の前にべつの足音が聞こえた。それは縞馬の足音であった。二〇一号室から出て来た足音は一階の縞馬の足音を聴きつけたらしく、下りて来ない。縞馬はそのまま二階へ上がった。  二〇一号室の前で立ち止まり、チャイムを押している様子である。チャイムの音はとねの部屋まで届かない。応答がないので縞馬が部屋のドアを開けたらしい。鍵《かぎ》はかかっていなかったらしく、ドアの開く気配がした。縞馬が二〇一号室の中へ入った様子である。そのまま気配は絶えてしんと静まり返っている。二〇一号室の先客は下りて来る気配がない。縞馬をやり過ごしたのであれば、いまが階段を下りて立ち去るチャンスである。だが階段は静まり返ったままである。  二、三分が経過したであろうか。二〇一号室のドアが開いた。ドアが荒々しく閉められ、縞馬の慌《あわただ》しい足音が階段を駆け下りた。なにかあったらしい。異常な足音であった。未知の訪問者が立ち去った直後へ縞馬が訪れたので、しのぶと縞馬が喧嘩《けんか》したのであろうか。だがその後は二〇一号室と階段は静まり返ったままである。  とねの目は冴《さ》えてしまった。彼女は縞馬が二〇一号室を訪れる直前、そこから出て行った初めての訪問者の行方が気になった。彼、あるいは彼女はその後階段を下りて来た気配がない。二階以上の居住者の足音でないことは確かである。するとその初めての訪問者、仮にXと呼ぼう。Xはどこへ行ってしまったのか。  その行方が気にかかって、とねはとうとう朝までまんじりともしなかった。夜が白々と明け、鳥の囀《さえず》りが窓辺に聞こえた。  翌日午後北崎しのぶの絞殺死体が訪れて来た友人によって発見された。発見者はしのぶと同じ店に勤める同僚で、その日は土曜日で店が休みのため、しのぶと一緒に映画を観る約束をしていたそうである。チャイムを押しても応答がないので、ドアを引いてみたところロックされていなかったので屋内へ入り、しのぶの死体を発見したというものである。  警察が臨場して来た。死体と室内には抵抗した痕跡《こんせき》は認められない。検視の所見によると犯行時刻は昨夜深夜から今朝未明午前二時ごろにかけてと推定された。被害者が犯人を室内に迎え入れているところから、顔見知りの者の犯行と推測された。死体には生前死後の情交あるいは暴行痕跡は認められない。金品を物色した形跡もなかった。被害者の衣服に塗料の成分とみられる微量の物質が付着していたが、それが犯人の遺留物か、被害者がどこかで身に付けたか不明である。  管轄署に捜査本部が設けられて、被害者の異性関係を中心に捜査が始められた。刑事がとねの所にも聞き込みにまわって来た。とねは昨夜(正確には今朝未明)、まずたぬきが北崎しのぶを送って来て直ちに帰り、つづいて初めての足音の主がしのぶの部屋を訪ね、一時間ほどして部屋から出た後、縞馬が訪問して来たことを刑事に話した。刑事は最初たぬきや縞馬という代名詞に面食らったらしい。 「それでは昨夜おばあちゃんはお二階さんが帰って来てから三人の人間が訪ねて来たというんだね」 「そうだよ。でも訪ねて来たのは三人だが、帰ったのは二人だけだ」 「三人訪ねて来て二人しか帰らないというのはどういうことだね」 「一人は階段を下りて来た足音が聞こえなかったんだ」 「それが初めての訪問者だというんだね」 「そうだよ」 「下りて来なかったというのは、二階以上の居住者ということではないかね」 「住人の足音はみんな知っている。あの足音の主は、ここの住人じゃないね」 「おばあちゃんの聴きまちがいじゃないのかね」 「まちがいないよ。毎日毎晩聴いている足音だからね。ここに住んでいる人や、いつも出入りしている人の足音はちゃんとわかるよ」 「おばあちゃん、耳は聞こえるのかね」  刑事は疑い深そうな表情をした。 「耳が聞こえるからおまえさんとこうやって話をしてるんじゃないか」 「はは、これは一本取られたな。また聞きに来るかもしれないから、協力してくださいよ」  刑事はそう言ってとねの家から辞去した。  間もなく容疑者としてインテリアデザイナーの山内明という男が逮捕されたことをテレビのニュースが報じた。山内はとねが縞馬と渾名《あだな》をつけた男である。その日一色瑛子が来た。 「おばあちゃん、びっくりしたでしょう。お二階さんが殺されて」  瑛子はとねの顔を見るなりほっとしたように言った。事件が報道されると、心配してすぐに電話をかけてきてくれた。その日はべつの地域の老人の家をまわっており、どうしても来られないので、電話で様子を問い合わせてきたのである。今来てくれたのも、都合をつけて定例訪問日を一日繰り上げてくれたのである。 「さぞ怖かったでしょう」  瑛子は電話でひとまずとねの無事を確かめていたが、とねの元気な顔を見てほっとした様子である。 「大丈夫さね。こんな年寄りを殺したところで、面白くもなんともない。むしろ殺してくれた方が、死ぬための手間が省けていいとおもっているんだ」 「おばあちゃん、そんなことを言ってはいけないわよ。そんなことを言うともう来てあげませんよ」  瑛子が少し怒った顔をしてたしなめると、とねはたちまち青菜に塩のようにしょげ返った。 「大丈夫よ。おばあちゃんが来るなと言ってもまいりますからね」  瑛子は薬が効きすぎたとおもったらしく慌てて言い直した。とねは現金に元気を取り戻して、 「警察は縞馬を逮捕したそうじゃが、あの男は犯人じゃないね」 「縞馬ってだれのこと」 「今日テレビで言っていただろう。お二階を殺した犯人さ」 「ああ、そのことね。なんでもお二階さんと関係のあったインテリアデザイナーが、最近お二階さんに冷たくされて、殺した疑いがあるとか言ってたわね」 「そうそう、そのインテリデザインが縞馬だよ。たしかにインテリデザインはお二階が殺された夜訪ねて来たけど、すぐに慌てて帰って行ったよ。あのときお二階はもう殺されていたんだな。縞馬はお二階が殺されているのに出遭《であ》ってびっくり仰天して逃げ出したんだ」 「でもインテリアデザイナーがそのときお二階さんの死体を発見していたら、どうして警察へ連絡しなかったのかしら」 「自分が疑われるとおもったからさ。きっとインテリデザインは気の小さい男にちがいないよ。あの足音からしても、いつも人目を憚《はばか》っているようにおどおどしていたね。だから縞馬と渾名をつけたんだ。あんな臆病《おくびよう》な男に人殺しなんかできるはずがないね」 「だったらおばあちゃん、そのことを警察に言わなければ」 「言ったとも。でも刑事は耄碌《もうろく》ばあさんの戯言《たわごと》ぐらいにしか聞いていなかったよ。わたしゃ犯人は絶対あの男だとおもうね」 「あの男ってだれのこと」 「たぬきの次、縞馬の前に来た男さ。お二階へ入って出てから階段を下りて来なかったんだ」 「階段を下りて来なかったということは、この建物から立ち去っていないということなの」  一色瑛子の表情が緊張した。 「そういうことになるかね」 「それじゃあ犯人はまだこの建物のどこかにいるんじゃないの」 「わたしゃ帰って行った足音を聴いていないからね」 「でもその足音の主が犯人と決まったわけじゃないでしょ」 「わたしゃ犯人だとおもうね。たぬきも縞馬も三分と部屋の中にいなかったよ。たぬきの足音は堂々としていたし、縞馬の足音は怯《おび》え切っていた。どちらも犯人の足音じゃないね。それに三分じゃ人は殺せないだろう」 「お二階さんへ行って下りて来ない足音の主は、どのくらいお二階さんの所へいたの」 「そうさな。一時間はいたわな。お二階から出た所で、下から上がって来る縞馬の足音を聴いた。それでそいつは三階の方へ上がって行ったんだ」 「上がって行ったまま帰って来なかったというのね。インテリアデザイナーが立ち去って、おばあちゃんが眠った後、ひそかに足音を忍ばせて下りて行ったんじゃないの」 「わたしゃ朝までまんじりともせず耳を澄ましていたよ」 「それじゃあ朝になってから下りて行ったんだわ」 「朝になってから階段でうろうろしていたら、新聞配達や、学校や会社へ行く住人にたちまち見つかってしまうだろう」 「それはそうね。でもこの建物へ入って出ないはずはないわ。もしかしたら二階以上の住人のだれかの家に隠れているのではないかしら」 「朝住人が出かけるまでドアが開いた気配はなかったよ」 「そうね。それに住人が犯人を匿《かくま》っていたら、きっと警察の調べでわかったはずだわね。でも犯人は一体どこへ消えちゃったのかしら」 「とにかくインテリデザインの縞馬は犯人じゃないね」  一色瑛子もとねの聴覚が優《すぐ》れていることは知っている。とねが犯行当夜被害者の家を訪問した一人が階段を下りて来なかったというからには、下りて来なかったのであろう。だがそうするとその訪問者は一体どこへ行ってしまったのか。  早水とねの住んでいるA階段には八所帯が入居している。一階のとねと隣室の住人は除外される。とねは訪問者が三階の方へ上って行った足音を聴いたと言っているので、北崎しのぶの隣人も除外してよいだろう。すると三階、四階の四軒のどこかへ、訪問者は入り込んだことになる。  だが警察は事件後、この建物の入居者は漏れなく捜索している。特にA階段の居住者と被害者との関係は詳しく調べ上げている。とねが初めての訪問者だという人間を匿う入居者がいれば、捜査の網の目をくぐり抜けることはできまい。  三階、四階の四軒の入居者は瑛子もよく知っている人たちであった。教師、サラリーマン、定年で陸へ上がった元船長、書道教授の四軒である。また被害者の隣家はある会社の社宅となっており、現在若い女子社員が二人入居している。いずれも被害者とはなんの関係もない。  山内明は犯行の否認を通した。だが室内から山内の指紋が検出され、彼の衣服に被害者の口角や鼻孔から滲《にじ》み出た血痕《けつこん》が付着していたところから、彼の容疑は動かし難いとされた。衣類の血液は室内に倒れている被害者を見つけてびっくりして抱き起こそうとしたはずみについたと山内は言い張った。山内は犯行否認のまま起訴された。  それから約一か月後、とねの分譲住宅のテラスの塗装が行なわれることになった。ここ数年ペンキが塗り替えられていないので、フェンスに錆《さび》が生じ、腐食し始めている。このまま放置しておいては腐食が深部に及ぶので、全棟工事として塗装が行なわれることになったのである。  工事は上層部から始まり下層部へ下りてくる。工事人が入り込んで来た。まず建物の外周に足場を組み立てる。陽気がよくなっていたが、窓を開けられなくなった。窓を開けるとペンキの刺激臭が容赦なく屋内に進入してきて酔ってしまう。とねは窓を締め切り、ますます家の中に閉じこもるようになった。  工事開始後三日目の夕方、とねははっとして耳をそばだてた。階段を下りて来る足音に聴きおぼえがあったのである。 「あの足音だ。あいつだ。あいつの足音にまちがいない」  とねは確信した。北崎しのぶが殺された夜、たぬきと縞馬の間に二階を訪問して来た人間の足音である。上へ上がったまま下りて来なかった足音が、事件から一か月も経ってから階段を下りて来る。とねは慌てて玄関ドアの戸締りを確かめた。足音の主がいまにもとねの部屋へ進入して来るような不安をおぼえたからである。  足音はとねの家の前を素通りして、外へ出て行った。とねがドアスコープから覗《のぞ》いて見ると、足音の主の後ろ姿が見えた。塗装工事に来た作業人の一人らしい。  とねはさっそく一色瑛子に電話をかけた。 「瑛子さん、いたよいたよ」  とねは興奮して電話口に叫んだ。 「なにがいたというの」  瑛子はとねの電話にすぐに対応できない。 「犯人がいたんだよ。お二階を殺した犯人が、今日上から下りて来たんだ」 「上へ上がったまま下りて来なかった足音の主のこと」 「そうだよ。いままでどこかに隠れていやがったんだ。ドアの目からちらりと後ろ姿を見たんだが、ペンキ屋の一人らしいよ」 「いまおばあちゃんの所は塗装工事が入っているわね」 「そうだよ。その作業をしに来た人間の中に、あいつがいるんだよ」 「おばあちゃん、その足音、本当にまちがいない」 「まちがいあるもんかね。私の耳は確かだよ」 「それじゃあ、私から警察に言ってみるわ」 「気をつけておくれな。あいつはお二階を殺した凶暴な人間だからね」 「まだ犯人と決まったわけではないわよ。あの夜お二階さんを訪問した一人ということで警察へ通報するわ」  一色瑛子を通して通報を受けた捜査本部では懐疑的な意見が支配的であった。 「八十五歳のばあさんの言うことではどうもあまり信頼できないな」 「たった一度聴いただけの足音を覚えているというのもにわかには信じ難い」 「だいたい一か月前に階段を上って行ったまま下りて来なかった人間が、いまごろ下りて来たというのもおかしな話だよ」 「ばあさん、耄碌《もうろく》して夢の中で死に神の迎えの足音でも聞いたんじゃないのかい」 「しかしあのばあさん、山内を最初から犯人ではないと言ってたぜ」  刑事の一人が言い出した。 「そういえば縞馬のように臆病《おくびよう》な人間が、三分では人を殺せないと言っていたな」 「ともかくばあさんの言うような塗装業者を当たってみようじゃないか」  という意見が出て、捜査本部の潮流が変わった。  北崎しのぶの元住居である分譲住宅の塗装工事を担当している作業人がすべて当たられた。  そしてその中の一人見習い作業員松原隆夫に重要参考人として任意同行を求めた。被害者の衣類に付着していた微量の物質の成分が、松原があつかっている塗料の成分と符合したことや、被害者と同郷であったことが疑惑を促していた。  松原は峻烈《しゆんれつ》な取調べについに屈伏して犯行を自供した。それによると、松原は被害者と偶然街で再会して、つきあっていた。ところが被害者からお金を持っていない男は嫌いだ、私のようないい女とただで遊ぼうなんてずるい根性だ。私とつきあいたかったらお金を持っていらっしゃいと言われてからその関係が険悪になっていた。犯行当夜、工面した五万円とプレゼントに買ったネックレスを持って訪れると、彼女は鼻先でせせら笑って、こんなはした金とがらくたで自分とつきあおうとおもっているのか。家に帰ってマスターベーションでもしていなと言われてカッとなり、気がついたときは相手がぐったりなっていたという。  犯行後被害者の部屋から出ると、下から階段を上がって来る足音がしたので、四階まで上り、天井に設けられた工事用の蓋《ふた》を押し上げて屋上へ上り、C階段を伝って建物から立ち去ったと供述した。工事の下見に行ってこの種の分譲集合住宅が各階段の四階の天井の上に工事用の蓋があって、それを押し上げると屋上へ出られることを知っていた。そのためにとねは松原の下りて来る足音を聴かなかったのである。松原はまさか自分の足音を八十五歳の老婆がおぼえていようとはおもわなかった。  彼は手がかりになるような遺留品は残さなかった。そのかわり音を残したのである。後日とねは警察から表彰された。そのとき警察署長から、 「ただ一度聴いただけの足音をよくおぼえていたね」  と言われると、とねは、 「ただ一度だからおぼえていたのさ。上って行った足音がいつまでたっても下りて来ない。上って行ったのならいつかは必ず下りて来るはずだとおもって、ずっと耳を澄まして待っていたんだよ。犯人があのときすぐ下りて行ってしまえば、もう足音は忘れてしまっただろうね。下りて来ないから下りて来るまで待っていただけさ」  と語った。 [#改ページ]  作者自身による解説  短編推理小説の身上は切れ味にある。長編推理小説の場合は、構成上多少の破綻があっても、息が長いので立ち直れるが、短編には立ち直る余裕が与えられない。推理小説の技巧性が最も凝縮されているのが短編である。また、短編は性格の異《ことな》る各種媒体(月刊誌、週刊誌、総合誌、同人誌、新聞等)に発表されるので、作者の意識や関心が広がり、多様性に富む。  このアンソロジーは、切り口と多様性を核《コア》にして集めてみた。いずれもまだ単行本に所収していないオリジナル作品である。 『黙契』は、複数の殺意が暗黙のうちに成立し合成されて、特定の被害者に向けられた恐怖を描いた。殺人にまでは発展しないまでも、現実に似たような場面はよく経験する。身につまされるような恐怖を読者が味わわれたら、作者の意図は的を射たことになる。 『影の方位』は、私自身の経験からヒントを得た。深夜のタクシーに乗って尿意を覚え、ふと迷いこんだ空地の一角で、ミステリーゾーンに踏みこむ。日常性に設けられた非日常の陥穽。私は日常と非日常の境界線上に設定されるミステリーが好きである。 『殺意』終電車は大都会の風物である。深夜どうしてこんなに多勢の人間が起きているのかと呆れるほどのラッシュが、終電車に発生する。朝のラッシュと異って、アルコールと脂粉の香が濃厚にこもる。座席にありついた乗客は、ほとんどがいぎたなく眠りこけ、頽廃ムードが漂う。朝のラッシュの乗客は、企業戦士としての武装を固めて隙がないが、夜のラッシュの乗客は無防備で隙間だらけである。その隙間の中に人生のドラマが覗く。それも大都会の人間の脂を煮つめたようなドラマである。私が終電車に好んで乗るのも、そんなドラマを覗きたいからである。この作品は「終電車シリーズ」のトップバッターであるが、このシリーズはこれからも書き続けるつもりである。 『藪の狼』は、善良な社会人のマスクの下に隠された旧い犯罪をテーマにしている。殺人強盗のような凶悪犯罪ではないまでも、誰でも探せば脛にかすり傷の一つや二つは抱えている。企業と癒着し私曲を恣《ほしいまま》にしながら、「清廉潔白」を主張する厚顔無恥な政治家に比べて、庶民の脛の傷など軽いものであるが、表沙汰にはされたくないプライバシーでもある。ふとした好奇心から暴き立てた他人の旧罪。政治家には通用しないミステリーワールドである。 『写真』なにげないスナップに見も知らぬ他人がまぎれこんでいたことから、殺人事件に巻きこまれる。この作品も私自身の経験からヒントを得た。今や一億総カメラマン時代となって、このような場面は頻発しそうである。だが、殺人事件に巻きこまれる確率は低い。それは自分がシャッターを押した写真にまぎれこんできた人物に関心がないからである。行きずりの人にシャッターを押してもらったり、あるいは逆に押してやったり、旅先でよく経験することであるが、行きずりの他人に撮影してもらった写真の構図は、その人の視野が切り取り定着した自分の人生の一コマである。また頼まれてシャッターを切った時は、自分の視野が切り取った他人の人生の一コマが、どこかで永遠に定着されている。そう考えると不気味である。我々は旅の途路、頼み頼まれ気軽にシャッターを押しているが、それは他人にプライバシーを切り取られ、他人のプライバシーを切り取って、永久に固定してしまうことである。ミステリーの世界では安易にシャッターを押すものではない。 『お停まり地蔵』旅へ出て帰るのが億劫になることがある。一日延ばし二日延ばしている間にますます帰るのが億劫になってしまう。そのうちに根が生えて帰れなくなってしまう。帰るべき場所を持ちながら、ある特定の場所に永遠に釘づけにされたとしたら、それはもはや囚人である。別に牢獄に閉じこめられているわけでもないのに、心に巣食う怠惰と結婚して動くのが億劫になってしまった人間の悲劇である。自分の心の檻に閉じこめられた囚人には、刑期満了による釈放がない。学生時代北アルプスに登山して、連日の雨に山小舎に停滞を余儀なくされたときの心理がこの作品の下敷きになっている。悪天候をついて出発して行く登山者を見送りながら、私は永遠にその山小舎から脱出できないような不安を憶えた。 『新たな絆』は終電車シリーズの第二作である。人生に絶望した女が我が子を捨てようとして終電車に乗り込み、意外な事件に巻き込まれる。終電車を日常的に利用している乗客と、非日常に利用する乗客の人生が交錯する。用意した意外な結末に八方塞がりの人生の一方に仄かな希望の灯を残した。 『恋神《キユーピツド》の誤射』のテーマは「恋の形」である。奇型の恋が迎えた悲劇に現代の病蝕を描いてみたかった。だがこのような恋は、必ずしも現代だけの病蝕ではない。人間がこの世に生じてから性を冒していたかもしれない。人間はつくづく悲しい動物だとおもう。だがその悲しさを食って生きている人たちもいるのである。 『足音』は聴覚をテーマにしている。深夜枕に耳をつけてから正体不明の音が気になることがある。一つの音を退治すると、それまでその音に隠されていたべつの音が立ち上がってくる。団地の階段を上下する足音を聞く以外にすることのない老婆が探し(聞き)当てた犯人はだれか。人は歩いた後に足跡だけでなく、足音を残していく。足のない幽霊は音を残さない。  以上九本の短編は推理の技巧性を凝らしたつもりであるが、その短かさの中に作者が技巧以上に凝縮したかったのは人生である。  読者各位がこのアンソロジーから人生の�濃度�を感じ取っていただけたら、作者の喜びはこれに尽きる。 〈初出誌〉 黙 契    「小説新潮」臨時増刊'86夏号 影の方位   「小説現代」'881月号 殺 意    「小説WOO」'878月号 藪の狼    「小説現代」'89新春号 写 真    「小説宝石」'921月号 お停まり地蔵 「小説新潮」'862月号 新たな絆   「小説WOO」'879月号 恋神《キユーピツド》の誤射  「小説NON」'896月号 足 音    「小説City」'921月号 角川文庫『殺人の組曲』平成4年3月10日初版発行