[#表紙(表紙.jpg)] 棟居刑事の推理 森村誠一 目 次  棟居刑事の推理   正義の警笛   狙撃《そげき》後の漂着   切り離された死体   尻尾《しつぽ》の行方   腹中の黒幕   同学の暴系《ぼうけい》   破綻《はたん》した火薬庫   盲点の輪郭   死の訪問先   天の配玉《はいぎよく》  棟居刑事の占術 [#改ページ]  棟居刑事の推理   正義の警笛      1  棟居弘一良《むねすえこういちろう》は久し振りにくつろいだ。  仕事から解放されて昔の仲間に会っていると、学生時代にタイムスリップしてしまう。  男はそろそろ髪が薄くなり、いずれも世俗の脂をたっぷりと蓄えている。  女たちは子供を一人から、多いのは三人ほど持っていて、話題は子供や家庭の話に限定されている。  昔、密《ひそ》かに胸をときめかせた初恋の少女が、貫禄《かんろく》充分なオバタリアンとなって現われると、青春の祭壇に祀《まつ》っていた女神のイメージが壊れるが、青春を共有した仲間であることには変わりない。  利害関係もなく、仕事上の対立もない昔の仲間の間では、鎧《よろい》を脱いでたがいに無防備になれる。裸になっていても後ろから闇討《やみう》ちをかけられることはない。  棟居は二十数年振りに高校の同窓会の案内状をもらって、たまたま非番と重なったので出席した。  二十数年の時差《タイムラグ》はそれぞれの記憶の風化を促し、再会したとき見分けにくかったが、変貌した中に昔の面影を探し当てると、一気に青春期に遡行《そこう》した。  かつて同じ教室で学んだクラスメートは社会の八方に散っていた。  刑事になったのは棟居一人であったが、医者、弁護士、税理士、画家、編集者、新聞記者、牧師、農業、さまざまな会社のサラリーマン、また女たちは家庭の主婦が多かったが、翻訳家やテレビのメーキャップ員や、アニメーターやベビーシッター、看護婦、薬剤師、着付け師などになった者もいた。  結婚後も仕事をつづけている女性が多かった。まさに社会の縮図の感があった。  彼女らの職業の多様性を見ても、女性の社会への進出度がわかる。  会場は幹事の一人が勤めている会社の海の家が充《あ》てられた。  宿泊施設もあって、時間に余裕がある者は泊まることになった。  棟居も泊まって昔の仲間と久し振りに旧交を温めたかったが、本庁捜査一課の刑事としては数時間の同窓会に出席するのもポケベルのひも付きである。  その間、ポケベルで呼ばれなかっただけラッキーというべきであった。  しきりに引き止める旧友たちの手を振り払って、棟居は会場を出た。さすがに後ろ髪を引かれるおもいしきりであった。  最寄り駅に着くと、次の電車まで少々時間がある。  棟居は常に携帯している布製のショルダーバッグをホームのベンチの上に置いて、時刻表ボードを確かめた。  シーズン前の海浜の小さな駅である。時刻も遅いので、ホームには棟居以外に乗客の影は見えない。時刻表で時間を確かめた棟居がベンチに帰りかけようとしたとき、一人の乗客がホームへ出て来た。  二十歳前後と見える学生風の若者である。細面《ほそおもて》で色が白く、切れ長の目が細い。  棟居は若者を視野の隅に入れたままベンチに腰を下ろして、そこに置いていたショルダーバッグを取り上げた。  間もなく電車が入線して来た。  車内もがらがらである。棟居が腰を下ろした席の真向かいに若者も腰を下ろした。  棟居はふと奇異な感がした。同じ車両に二人しか乗っていないのに、若者が棟居と向かい合う形に席を取ったからである。  棟居は一瞬、若者が彼を睨《にら》んだような気がした。なぜかわからないが、若者の視線に険しいものを感じた。  棟居には記憶のない顔である。  べつにヤクザっぽい雰囲気もないごく普通の若者である。  気のせいかもしれないと、棟居はおもい直した。  二十数年振りの同窓会に出席して、その興奮が余韻を引いている。  そのせいかもしれないなと、棟居はおもった。  棟居がその若者と同じくらいの年齢のときには、やはり同じように社会に対する敵意に満ちていた。周囲の人間や万物すべてが自分の敵に見えた。  いまでも豊かなわけではないが、当時は食事をする金にも事欠き、いつも腹を空かせていた。  いま同じ車内に棟居と向かい合って座っている若者は、豊かな時代の若者らしく、当時の棟居のように腹を空かせているとはおもえないが、なにかに飢えているような表情をしている。  未知の棟居に向けた視線に敵意が感じられたのは、若者の要素と考えるべきであろう。  自分もきっとこの若者と同じ年頃には、同じような表情をしていたにちがいない。  棟居が勝手なおもわくを転がしている間に、電車はやや大きな駅に着いた。  若者がつと席を立って、つかつかと棟居の前に歩み寄った。  なんとなく険悪な気配を感じて、棟居は身構えた。もしかすると、過去、棟居が担当した事件の関係者で、棟居に怨《うら》みを含んでいるということも考えられる。  若者は棟居に険しい視線を向けて、 「そのショルダーバッグはあなたのものですか」  といきなり詰問調で問いかけた。  一瞬、棟居は問われたことの意味がわからなかった。 「私の鞄《かばん》だが、これがどうかしたのですか」  棟居は反問した。 「それじゃあ、中になにをいれているか言ってください」  若者はさらに強い口調でいった。 「きみ、失礼じゃないか。私の鞄の中になにを入れていようと、君には関係ないだろう」  棟居はややむっとして言い返した。 「本当にあなたの鞄ですか」 「そうだよ。私の鞄に決まっているじゃないか」 「それじゃあ、中になにが入っているか知っているはずです。中身を言ってください」 「なぜ、私がきみに鞄の中身を告げなければならないのかね」  棟居は少し呆《あき》れていた。  事もあろうに、警視庁刑事に因縁をつけようとしているのか。  それにしては真面目そうな若者である。  特に強そうにも見えない。その辺にいくらでもいる、ごく普通の若者である。  だが、この年頃の若者は油断がならない。かつての棟居がそうであったように、心身に凶暴なものを秘めている。  凶暴な意志だけではなく、凶器を隠している場合もある。  棟居は若者のどんな動きにも対応できるように身体を構えていた。 「あなたが自分の鞄と言い張るなら、その証明をしてください。ぼくがホームへ入って行ったとき、その鞄はベンチの上に取り残されていた。そこへあなたが行って、鞄を取り上げたんです。あなたは他人の鞄を横領したんじゃありませんか」  若者の言葉に、棟居ははっとおもい当たった。  駅のホームにだれもいなかったので、ベンチの上に鞄を置いたまま時刻表を見に行った。ベンチと時刻表ボードの間には多少の距離があった。  若者が改札口からホームに入って来たときは、棟居が時刻表ボードを見ているときであった。  若者はそれ以前に棟居がベンチに鞄を置いたことを知らない。それで棟居が他人の鞄を横領したと勘ちがいしたのであろう。  誤解が解けると、棟居はいまどき珍しく正義感の強い若者だと感心した。 「そういうことなら中身がなにかおしえよう。洗面用具、週刊誌二冊、手帳、メモ帳、赤と青の二色ボールペン、ビタミン剤、折り畳み傘、あと名刺入れが入っている」  棟居は中身を告げた後、鞄のファスナーを開いて若者に示した。  若者はようやく納得した表情になって、 「大変失礼しました。私のおもいちがいでした」  と謝った。 「名刺の名前も言おうかな」 「いいえ、それには及びません」  若者は言った。  警察手帳は退《ひ》けるときに庁舎に残してくる。  若者が棟居の素性を知ったら恐縮するだろう。  若者は次の駅で降りた。そこが下車駅だったのか、あるいは恥ずかしくなってべつの車両に乗り換えたのか。  棟居は彼の行方を追わなかった。      2  車内はかなり混んでいた。シルバーシートの前に足の悪そうな老人が杖《つえ》をついて立っていた。  四人掛けのシルバーシートには三人組のチンピラが平然と足を広げて座っている。  身体は一人前に発達しているが、顔つきは幼い。いずれも十八、九歳の、中央のリーダー格も成人式前であろう。  リーダー格は長い髪をハードなムースでコックの帽子のように立て、胸にどくろを描いた黄色いTシャツにピンクのショートパンツ、右端の少年はリーゼントに革ジャンパー、金メッキのネックチェーンをかけ、尖《とが》った靴を履き、左端の少年はサングラスに黒いシャツ、木目《モアレ》模様の光沢のあるジャケットを羽織り、耳につめたウォークマンに合わせて身体を揺すっている。  三人ばらばらの統一性のない服装であるが、グループらしい。  三人組は杖をついた老人がシルバーシートの前に立ったとき、じろりと目を向けたが、素知らぬ顔をして席を立とうとしない。 「お願い、やめてよ。相手は三人よ、それに不良だわ」  彼らから少し離れた場所に立っていた若いカップルの女が、連れの男の腕を引き止めた。 「黙っていられないよ。シルバーシートの前にお年寄りを立たせて、あいつら、平気な顔をしてやがる」  正義感の強そうな切れ長な目をした細面の若者が言った。 「だからといって、正純《まさずみ》さんが出て行くことないでしょう。因縁つけられたらどうするの。だれかが譲るわよ」 「だれも譲らないじゃないか」  正純と呼ばれた若者は、連れの女性の手を|※[#「手へん+宛」、unicode6365]《も》ぎ離すように振り払って、シルバーシートへ近づいた。 「ここはシルバーシートですけど、足の悪いお年寄りに譲ってやってくださいませんか」  若者は股《また》を広げてふんぞり返っている三人組に声をかけた。  どくろTシャツと、革ジャン、リーゼントの二人が、若者の方に白い目を向けたが、無視している。  木目模様、ウォークマンは耳につめたイヤホーンに吸い込まれて見向きもしない。 「お年寄りに席を譲ってあげてください」  無視された若者はもう一度声をかけた。 「あんた、この爺《じい》さんのなんなんすか」  革ジャン、リーゼントがとぼけたような口調で問い返した。 「同じ車内に乗り合わせた者です。この席はお年寄りや身体の不自由な人のための優先席です」 「ぼくたち、身体不自由だも〜ん」  革ジャン、リーゼントがからかうように言った。 「ふざけないで譲ってあげてください」 「ぼくたち、いま、とても疲れているわけ、だから、とても怒りっぽくなっているわけよ。だからさ、ぼくたちをあまり怒らせない方がいいわけよ」  革ジャン、リーゼントが言った。 「うるさいわねえ。なにをごちゃごちゃ言ってんのよ」  木目模様、ウォークマンがイヤホーンを耳から外して目を向けた。 「このお兄さんが、席を譲れってさ」 「席を譲れって、だれに」  木目模様、ウォークマンがわざとらしく問い返した。 「もちろんぼくちゃんたちにさ」 「あらあら、私、とても身体が不自由、困っちゃったわね」  ウォークマンに吸い込まれているような振りをしながら、先刻からのやりとりをちゃんと聞いていたらしい。 「ふざけないで、こちらのお年寄りに席を譲ってあげてください。いや、譲らなくともけっこうです。ちょっとつめれば、一人座れます」  若者は低姿勢に言った。 「おれたち、八十歳なんだけどなあ」  真ん中のどくろTシャツがぽつりと言った。 「八十歳?」  注意した若者が呆れたような表情をした。どう見ても未成年である。 「そうスよ。ちょうど八十歳ス、三人合わせて。無理若丸ぶっているので若く見られます」  どくろTシャツがにやりと笑った。童顔が残っているが、本物の凶暴な気配が吹きつけてくる。  なにやら険悪な気配に杖をついた老人が、 「私はけっこうですよ。もうすぐ降りますから」  とたじろいだ。 「いえいえ、どうぞ。年寄りは相身互いス。どうぞお座りくださいましな」  どくろTシャツが立ち上がった。  同時に革ジャン、リーゼントと木目模様、ウォークマンも席を立った。  ちょうどそのとき電車が駅に着いた。 「私はここで降りますから」  三人組の険悪な気配に恐れをなした老人が、せっかく若者がかけあって空けさせたシルバーシートの前から逃げるように下車した。 「あらあら、せっかく譲って差し上げたのに、これは困ったわねえ」  木目模様、ウォークマンがわざとらしく言った。 「見れば、私たちよりお年寄り、どうぞ座ってくださいな」  どくろTシャツが若者と連れの女に目を向けて言った。  彼らがカップルであるのを素早く見て取ったようである。  カップルは三人組よりも一、二歳年上に見える。 「僕たちが座るために頼んだのではありません」  若者は老人に下車されて引っ込みがつかなくなっている。 「どうぞ、そうおっしゃらないで、お年寄りはいたわりましょう」  三人組がカップルに迫った。  車内の乗客たちはどうなることかと固唾《かたず》を呑《の》んで見守っている。 「ぼくちゃんたち、きみに席を譲れと言われてせっかく席を立ったのに、お年寄りが座らなくては、ぼくちゃんたち、どうすればいいわけよ」  木目模様、ウォークマンが言った。 「もういいんです」  若者が言った。 「いいことないスよ。立ったぼくちゃんたち、立ちっぱなしスよ。このままじゃおさまりつかないスよ」  革ジャン、リーゼントが言った。 「どうぞ座ってください」  若者が言った。 「それではお言葉に甘えて、座らせていただきます。四人掛けですから少しずつ腰をずらして、お連れさま、どうぞお掛けください」  どくろTシャツが若者の連れの女性に粘っこい目を向けた。  ワンレングスヘアにオフィシャルな雰囲気のスーツ、フレッシュで、しかもアダルトの雰囲気が漂っている。 「いいえ、私はけっこうです」  彼女は恐れをなした。 「せっかく席を空けたのに、好意を無にしちゃいや」  木目模様が言った。 「座れ。座れと言っているんだ」  突然、どくろTシャツが凶悪な声を出した。 「けっこうです。ぼくらはシルバーシートに座るほど年を取っていませんから」  若者が毅然とした口調で言った。 「なんだとぉ」 「冗談きついスよ」 「ぼくちゃん、もう怒った」  三人が同時にすっと立ち上がった。  険悪な気配が車内に張りつめたとき、同じ車内の少し離れたところからピリピリと警笛が吹き鳴らされた。  同時に、「警察だ」という声が起きた。  ちょうどそのとき電車は次の駅に滑り込んで、ドアが開いた。 「ヤベエ」  三人組は言って、開いたドアから逃げるように下車した。      3 「清瀬《きよせ》さん、清瀬先輩ではないですか」  若者は呼び子が聞こえた方角に目を向けて、ほっとしたような声を出した。 「鶴田《つるた》、またやっているな。おまえの正義感もけっこうだが、相手は三人だぞ。どうなることかとはらはらしたよ」  若者に清瀬と呼ばれた男は二十代半ばから後半、ダークグリーンのスーツをまとった敏捷《びんしよう》なマスクのビジネスエリートといった感じの男である。 「おかげで助かりました。先輩が居合わせてくれなかったら、どうなったかわかりません」  清瀬から鶴田と呼ばれた若者は深々と頭を下げた。 「詩乃《しの》さんも一緒じゃないか。もう少し自重しろよ」  清瀬が諭すように言った。 「止めたのですけれど、私の言うことなんて聞いてくれないんです」  清瀬に詩乃と呼ばれた鶴田の連れの女性が訴えるように言った。 「正義の味方はけっこうだが、一人で世の中の不正や無法と戦おうとするのは危険だぞ。そのために警察がある」 「気をつけます。でも、見るに見かねたものですから」 「おまえの正義感は貴重だとおもうが、詩乃さんのことも考えろ。おまえ、いまの三人のチンピラにからまれて、詩乃さんを守り通せる自信があるか」 「以後、気をつけます」  鶴田は同じ言葉を繰り返した。 「清瀬先輩、私、いま本当に怖かったわ。先輩からも厳しく言ってください。いつも喉元《のどもと》過ぎれば熱さを忘れてしまうんです」  詩乃が清瀬に訴えた。 「そらみろ、詩乃さんも言ってるじゃないか。これから詩乃さんを怖がらせたり心配させたりするようなことはするなよ」 「以後、きっと気をつけます」  鶴田は同じ言葉を繰り返した。 「詩乃さんに誓うんだな」 「誓います」  鶴田正純は、佐川《さがわ》詩乃と同じ大学のクラスメートであり、恋人同士でもある。  二人の危機を持ち合わせていた呼び子を吹いて救ったのは、同学のOBで、鶴田と詩乃が所属している大学のワンダーフォーゲル部の先輩であった。  卒業後、大手市中銀行三立銀行に入社した。現在、大手町の本店勤務になっているという。  鶴田と詩乃が入学したとき、清瀬は四年生であった。  キャンパスで一緒に過ごしたのは一年だけであったが、清瀬はワンダーフォーゲル部の部長で、二人に山の楽しさをおしえてくれた。  卒業後も時どき連絡を取り合っている。  清瀬が常に呼び子を携帯しているのには理由がある。  彼は学生時代、乗り合わせた電車の中で女性にからんでいる酔漢を見るに見かねて注意した。  ところが酔漢は逆に彼に因縁をつけ、凶器を取り出した。  あわやというところに運よく警官が乗り合わせて来て取り押さえたが、それ以後、呼び子を携帯するようになったという。  なにか事件が発生した場合、少し離れた場所で呼び子を吹くと、暴漢が気勢を削《そ》がれる。 「こういうこともあるから呼び子を持っているといい」  清瀬は言って、鶴田にいま使用したばかりの赤いプラスチック製の呼び子をくれた。  鶴田正純と佐川詩乃は将来を誓い合っていた。両家も暗黙のうちに了解している。  卒業して就職したら結婚しようという約束である。  鶴田はジャーナリストを志望している。  だが、詩乃は鶴田に対して一抹の危惧《きぐ》を抱いている。それは彼のあまりにも強い正義感である。  とにかく曲がったことが嫌いである。不正というほどのことではなくとも、シルバーシート事件に見るように、少しでも自分が納得できないことには黙っていられなくなる。  名前の通り潔癖すぎるのである。  詩乃は鶴田の強すぎる正義感が、いつか彼に不幸をもたらすような気がしてならない。  鶴田を愛している。その愛を長つづきさせなければならない。その愛が鶴田の正義感のために障害を受けるようであれば考え直さなければならない。 「私たちの長い将来をおもうなら、今日のような危ないことはやめてちょうだい」  詩乃は鶴田に言った。 「社会の不正や無法を黙って見過ごせというのかい」  鶴田は問い返した。 「そんなことは言っていないわ。清瀬先輩も言ってたじゃないの。正義の味方もけっこうだけれど、正純さんの身に万一のことがあったら、私はどうなるのよ。一人だけで正義の味方にはなれないわ。そのために警察があるのよ。いままでにも危ないことが何度かあったでしょう。清瀬先輩が乗り合わせていたからよかったものの、そうでなければどうなったかわからないわ。私、とても怖かったわ」 「わかった。今度から自重する」 「いつも自重すると言っていて、ちっとも自分の言葉を守らないじゃないの」 「詩乃を危険に陥れるようなことはしないよ」 「それじゃあ私が一緒にいないときは、これまで通りにするというの」 「まいったなあ。本当にもうしないったら」 「信用できないわ。あなたは正義の味方のつもりかもしれないけれど、あなたのしていることは正義の押し売りかもしれなくてよ」 「正義の押し売り?」 「そうよ。さっきのお年寄りだって逃げちゃったじゃないの。そんなにまでして座りたいとはおもっていないのよ」 「ぼくがよけいなことをしたと言うのかい」 「よけいなこととは言わないけれど、危険を冒すほどのことではないわ。相手はチンピラよ。凶器でも持っていたらどうなるの」 「すまなかった。今度からは呼び子を吹くよ」 「清瀬先輩は本当にいいものをくださったわ。これはきっと正純さんに対する警笛よ。私の警笛かもしれなくてよ」 「詩乃の警笛?」 「そう。あなたが姿勢を改めなければ、私たちの約束も考え直さなくてはならないという警笛よ」 「詩乃、まさか、本気じゃないだろう」  鶴田の顔色が改まった。 「私は本気よ。自分の潔癖感のままに危険を冒すような人と人生を共にしようという気にはなれないわ」  詩乃は少し強く言いすぎたかなとおもったが、このくらい釘《くぎ》を刺しておかないと鶴田にはきかない。  詩乃にとっては鶴田の正義感よりも、彼の安全の方が気がかりである。  鶴田の正義感は自分さえよければよいという社会風潮に対する反発もあるであろうが、度がすぎる。  人はだれでも自分の幸福と安全を守る権利がある。  鶴田は自分自身の幸福と安全よりは、他人のそれを優先している。  詩乃と将来を約束しながら、他人の幸福と安全を優先するということは、詩乃よりも他人を優先しているということである。  職業によっては家族の生命と安全よりも他人を優先しなければならないものもあるが、将来を約束し合った段階で、まだ自分の人生の方途も定まらないうちに他人を優先するようでは、詩乃としては不安と危惧をおぼえざるを得ない。  女が男を選ぶ基準は、要するに彼が自分を幸せにするためにどのくらい努力してくれるかという一点である。  いまの鶴田を見ていると、その基準が揺れてくる。  今年は最終学年で、就職の年とあって、好きな山へもあまり行けない。  新学期(前期)が始まっても、学生は授業も上の空で就職活動に憂き身をやつしている。  特に今年は未曾有《みぞう》の不況で、各企業が求人を手控え、あるいはまったく採用しない社もある。  例年、新卒予定者に山のように送られてくる求人案内も、今年はぐんと目減りしている。  各企業の説明会も少なく、会社まわりをする学生たちの顔色も冴《さ》えない。  七月からマスコミ関係企業が解禁となって、ジャーナリスト志望の鶴田はエンジン全開にして就職活動をしなければならない。  クラスメートの中にはすでに内々定(内定の内定)をもらっている者も少なくない。  後期の始まる前の夏休み中におおむね売れ口が決まってしまう。  クラスに内々定が次々に出ると、心理的に焦ってくる。  こんな時期に山へ行っても楽しくない。  鶴田と詩乃は就職が決まったら、二人で上高地へ行こうと約束していた。  これまでグループで山へ行ったことはあるが、二人だけの山行は初めてである。それが事実上の婚前旅行となるだろう。  六月半ばのある日、二人は久し振りにデートをして、一緒にドリームズ・カム・トゥルーのライブに行った。  ドリカムのライブの帰途、食事をして鶴田が詩乃の家まで送って来てくれた。 「それでは、また明日、学校で」  詩乃を自宅の門の前まで送り届けた鶴田は、軽く詩乃の唇に唇を触れて帰って行った。  その後ろ姿に、ふと不吉な予感をおぼえた詩乃は、 「正純さん」  と呼び止めた。 「なんだい」  振り向いた鶴田の表情は、なんの屈託もなさそうに笑っている。  自分のおもいすごしかもしれないとおもいながらも、 「清瀬先輩にもらった呼び子を持っている」  詩乃は問うた。 「ああ、持っているよ」 「出して、見せて」 「どうしたんだい、急に」 「いいから見せて」  詩乃にせがまれて、鶴田はポケットを探って清瀬からもらった呼び子を取り出すと、口に当てて軽く吹いた。 「その呼び子、なくさないでね」 「どうしたんだい、急に」 「ううん、なんでもないの。それじゃあ、お休みなさい」  詩乃は安心して門の内へ入った。  後にしておもえば、そのとき虫が知らせたのかもしれない。 [#改ページ]   狙撃《そげき》後の漂着      1  棟居の同窓会より約一ヵ月後の五月二日、赤坂見附に近いクラブ「エル・ドラド」で事件が発生した。  エル・ドラドは豪華なステージやインテリア、および粒選《つぶよ》りのホステス約八十人を揃《そろ》えた都内でも一、二を争う高級クラブとして有名である。  客種も政財界の要人をはじめ、一流の文化人や芸能人が多く集まる。外国人客も多く、東京のハイソサエティの社交サロンとなっている。  この夜、ステージ正面の三列目の奥のボックスに五人の客が座った。  いずれも生地の上等な仕立てのよいシャープなスーツをぴしりと着こなして、一分の隙《すき》もない。  彼らが座った席はエル・ドラドでも最上等の席である。ショーを見物するにも要人を警護するにも最適の位置にある。  このグループをエル・ドラドの総支配人自らが恭《うやうや》しく案内したところを見ても、尋常ではないVIPであることがうかがわれる。  彼らにはエル・ドラド選《え》りすぐりのホステスが付けられた。  この夜のステージは、日本の祭りと題して各地の有名祭りをもじったレビューと、佐渡の鬼太鼓《おんでこ》を組み合わせたものである。  ホステスを含めて二百五十名収容の客席の当夜の入りは約百五十名であったから、まずまずの入りである。  前列中央三列目のグループは美しいホステスを引きつけ、勇壮な鬼太鼓と共に華やかなレビューを楽しんでいる様子であった。  午後十時四十分、フィナーレの|揃い踏み《オンパレード》が始まったとき、グループの後方座席にいた客が立ち上がって、グループのボックスへ近づいた。  客もホステスも舞台に注目していて、だれもその男に注意を払わない。  鬼太鼓の音が一際高く盛り上がった。  五人グループの客席に背後から近づいた男は、中央に座った男の背中に向けて両手を前に突き出した。  鬼太鼓の音が一際高く鳴り響いたとき、男の突き出された両手の間から青い炎が迸《ほとばし》った。  銃声はほとんど鬼太鼓に消されたが、周辺に居合わせた者は、爆竹がはねたような音を二発聞いた。  爆竹様の音と共に五人組の中央の男と、彼のすぐ前列に座っていた客が倒れた。  周囲の者は一瞬、なにが起きたかわからなかった。  五人組中央の男に付いていたホステスが、自分の客の首筋から血が迸り出ているのを見て、初めて異変を悟った。  盛大な悲鳴が客席に湧《わ》いて、撃たれた客の左右にいた四人が血相変えて立ち上がった。 「野郎、逃がすな」  四人が一斉に狙撃者《そげきしや》の追跡態勢に入ったときは、狙撃者はすでに客席の出口の近くへ達していた。  客席が騒然となった。恐怖に駆られた客とホステスがパニック状態に陥って、収拾のつかない混乱になった。  ステージではショーが中止され、急遽《きゆうきよ》幕が下ろされた。  そのとき現場の一隅から鋭い呼び子の音が迸った。共犯者の合図の呼び子か、あるいは居合わせただれかが犯人(あるいは共犯者)の追撃を牽制するために呼び子を吹いたのかもしれない。  呼び子に機先を制されたのか、追撃はなかった。  グループの四人が店内の混乱に阻まれている間に、狙撃者は店の外へ飛び出し、街の雑踏の中にまぎれ込んでいた。  ようやく救急車を呼べという声があがった。  五人組中央の撃たれた男は大量の出血で上着を絞れるように濡らしながらも、気丈に、 「わしは大丈夫だ。前のお客の手当てを先に」  と言った。  ようやく救急車が到着したが、運ばれたのは傍杖《そばづえ》を食った前列二列目の客だけであった。  五人組中央の男は狙撃者を取り逃がして駆け戻って来た四人に支えられ、乗って来た六ドアのクライスラーに抱え込まれると、いずこかへ運び去られた。  警察が臨場して来たのは、犯人も被害者の五人組グループも現場から去った後であった。  狙撃されたのは、日本最大の組織暴力団三矢組の組長|三矢尚範《みつやたかのり》、同行した四人は同組若頭補佐|一竜《いちりゆう》会会長|北島竜也《きたじまりゆうや》、同若頭補佐新川組組長|新川真《しんかわまこと》、同組直系若衆中尾組組長|中尾常雄《なかおつねお》、同直系若衆菊水連合会会長|小寺秀一《おでらしゆういち》であった。  重傷の三矢を乗せたクライスラーは最直近の救急病院へ行かず、東京渋谷区|神宮前《じんぐうまえ》四丁目にある私立総合病院|今城《いまじよう》病院に信号を無視してフルスピードで急行した。  今城病院が三矢のかかりつけの病院であって、最上階の特診患者用最高級個室が三矢の専用室に充《あ》てられていた。  病院でありながら、ボディガード用の控室もあって、担当医師や看護婦ですらボディガードのチェックを受けなければ入室できない。  今城病院では患者と呼ばず、病客と呼ぶ。金を持っている病人しか相手にしないと悪口を言われているが、それだけに優秀な医者とスタッフ、近代医学設備の粋を集め、各科病棟も高級ホテル並みの設備を誇っている。  三矢は重傷であったが、際どいところで弾が急所を外れていて、今城病院の敏速かつ適切な手当てによって一命を取り留めた。  組長を撃たれた三矢組は激昂《げつこう》した。  三矢組は静岡県伊東市を本拠に、次第に勢力を伸ばし、東京、横浜を傘下《さんか》におさめてから圧倒的な軍事力と外交力の二本立てで全国制覇を目指した。  現在、一都三十一県、四百九十八団体、一万五百六十人の組員を擁する日本最大の組織暴力団に成長している。  全国暴力団総数に三矢組の占める比率は一〇パーセント弱である。  この頂点に君臨する帝王《ドン》三矢尚範が撃たれたのである。このまま黙っていたのでは、三矢組の面目が立たない。  三矢組はそのメンツにかけても、警察よりも先に狙撃犯人を探し出し、報復しなければならなかった。  目撃者がいて、狙撃犯人は関西に勢力を張る極新《ごくしん》会系|雨飾《あめかざり》一家の組員|大島岩男《おおしまいわお》とわかった。  組長を狙撃されて面目を失った三矢組では、直ちに最高幹部会議を招集して、極新会に対する報復と、大島岩男の処刑を決議した。  三矢組から、刺客が大島岩男の立ちまわりそうな先を追って八方に飛ぶ一方、腕におぼえのある三矢組の戦闘集団約百名が続々と大阪へ乗り込んで来た。  大阪に東西を代表する大暴力団が蝟集《いしゆう》し、一触即発の緊迫した気配がみなぎったが、折悪しく極新会会長|柿沢安志《かきざわやすし》は拳銃《けんじゆう》不法所持で逮捕され、拘置中であった。  いまここで三矢組と事を構えれば、極新会の動向を見守っている警察に口実をあたえ、組そのものを潰《つぶ》されてしまう。  しかも会長代行|香川登《かがわのぼる》には雨飾一家に、三矢尚範襲撃の指令をあたえたおぼえはない。組長不在の時期に、三矢組と全面戦争になるような指令を発するはずがない。  これは雨飾一家が独断で行なった勇み足であろう。  だが、雨飾一家の組長雨村功は、大島に三矢組組長襲撃の指令を出した事実はないと抗弁した。そんな抗弁は三矢組には通らない。  香川はいま、三矢組と事を構えるのはいかにもまずいと判断した。  香川は九州暴力団の雄、不知火《しらぬい》組の組長|後藤正人《ごとうまさひと》に仲裁を頼んだ。  極新会からの手打ち申し入れは、実は三矢組にとっても渡りに船であった。  戦闘集団を大阪へ送り込んだものの、三矢組としても警察に口実をあたえないために、できればいまは極新会と全面戦争は避けたい。  結局、雨飾一家の組長以下幹部の小指六本と、大島岩男の身柄を渡すということで手打ちが行なわれた。  だが、雨飾一家では大島が襲撃後、行方を晦《くら》まして居所がわからないので、責任をもって捜し出し身柄を引き渡すので、二ヵ月の猶予をもらいたいと申し出た。  三矢組は雨飾一家の申し入れを受け入れた。  雨飾一家では三矢組の報復を免れるためにも、是が非でも大島を捜し出さなければならなくなった。      2  六月十五日早朝、都下|狛江《こまえ》市域の多摩川河川敷に男の死体があるという通報が、付近を早朝ジョギングしていたジョガーから狛江署に寄せられた。  狛江署の石井《いしい》刑事はその時間自宅にいて、本署から現場へまわるようにと連絡を受けた。  まだ起きたばかりで、眠気の残っている頭の中は霧がかかったように白い。  タクシーを呼んでいる間に、まだ眠っている胃袋にバナナ一本とコップ一杯の牛乳を無理に流し込む。  これが朝飯はもちろん、昼飯にもありつけないかもしれない今日一日のエネルギー源である。  自宅に呼んだタクシーに飛び乗った石井は、なにやら厄介な事件になりそうな予感がした。  まだ眠気が執拗《しつよう》に張りついている。空は梅雨模様の湿性の雲が、彼の眠気のようにべったりと張りついている。  多摩川は一時代前までは鮎漁や筏《いかだ》流し、布さらし、灌漑《かんがい》用水など、流域の住人に密着していた。  これが近年の乱開発、工場の進出等によって水質の汚濁が進み、多摩川は息も絶え絶えになってしまった。  このころ不心得者が河川敷に自動車を乗り捨てたのが呼び水となった。くず鉄の需要が減り、解体に金がかかるようになって捨てた方が手っ取り早いという連中の類が友を呼んで、あっという間に車の墓場となった。  車だけではなく、廃車の中に人間の死体を捨てた者までがあった。(拙作『終着駅』)  最近、死の川を蘇生《そせい》させようとして多摩川べりは全域緑化に指定し、砂利採取を禁止し、鳥獣保護区域に指定し、相次ぐ行政措置と共に狛江市民によって「多摩川の自然を守る会」が結成されて、都民のオアシスとして、またレジャーの場所として生まれ変わろうとしている。  流域に沿ってサイクリングコース、緑地公園、市民運動場、ゴルフ場、野球場、市民プールなどが設置されて、生活河川から憩いの河川に再生されつつある。  この新たな性格を持った多摩川に死体は馴染《なじ》まなくなった。  事故か自殺か他殺か、石井はようやく動き始めた頭で考えた。  現場は多摩水道橋から北西に約一キロ、水神前のバス停の近くである。  広重の絵を見るような松の疎林に沿って、多摩川の流れが狛江市域側にくびれ込んでいる。  件《くだん》の死体は本流から分かれて岸に食い込んだ袋状の水路の中に浮かんでいた。  上流から運ばれて来た死体が袋水路に入り込んだらしい。  石井は以前担当した事件で、犯人がアリバイ工作をした後、死体を袋水路に投げ込んで発見させようとしたところが、折からの増水で死体が主流に流れ出て行ってしまった事件(拙作『凍土の狩人』)を想起した。 (あれとは逆の状況だな)  石井は独りうなずいた。  石井が現着(現場到着)したときは、すでに所轄署のPC《パトカー》と機動捜査隊員が先着して、現場の保存と観察に当たっていた。  先着者の中に相棒の野村の顔を見つけた石井は、 「どうだい」  と声をかけた。 「殺しですね」  やはり自宅のベッドの中から引っ張り出されたらしい野村は、眠気の残る顔で答えた。  死体は検視のために岸へ引き上げられた。  死体の主は二十一、二、ストライプのシャツとインディゴブルーのジーンズ、キャンパスシューズを履いた細身の男である。学生に多いカジュアルないでたちである。  損傷は胸部に鋭い刃物で形成されたとみられる刺し傷が二ヵ所、これが死因となったものと推定される。  死体は新しく、水中動物による損傷をほとんど受けていない。  本庁捜査一課に第一報が入れられて、朝靄《あさもや》の揺れる河川敷に警察関係者が増えてくる。  警察関係だけではなく、事件を嗅《か》ぎつけた早朝ジョガーや、近隣の住人たちが集まって来ている。  死者が携行していた定期券から身許《みもと》はすぐに割れた。  鶴田正純、二十一歳、東都大学経済学科四年生である。  所持品は定期券、身分証明書、八千円弱の現金、六月十四日武道館で開かれたドリカムのライブの半券、スイミングクラブのメンバーカード、一本のキー、それだけである。  現金がそのまま放置されているところをみると、物盗りの犯行ではなさそうである。  カジュアルな服装から判断して、死体に残されていた以上の大金を所持していたとは考えられない。  間もなく捜査一課が臨場して来た。  過去担当した事件で、何度か捜査を共にして顔馴染の那須班の面々である。 「やあ、またお会いしましたね」  顔馴染の中から笑いかけた顔があった。  棟居である。 「事件がないと再会できないというのも因果な仕事ですな」  石井が苦笑した。 「我々はできれば再会しない方が、世間は平穏無事ということでしょう」  苦笑が棟居にも伝染する。 「いやいや、仕事に関係なくお会いすることもできますよ」  とは言ったものの、なかなかそんな時間が持てないことを二人とも知っている。  事件発見後の経過説明《ブリーフイング》を受けながら、死体に目を向けた棟居は、 「おや」  と表情を改めた。 「被害者《ホトケ》にお心当たりがありますか」  棟居の表情を目ざとく認めた石井が問うた。 「この被害者《ホトケ》には以前どこかで会ったような気がします。はて、どこだったかな」  棟居の表情が記憶を探っている。 「東都大学の学生です。住所は杉並区|永福《えいふく》三‐××」 「ここまできているのですがね」  棟居はもどかしそうに頭を叩《たた》いた。  河川敷から朝靄が上がり、空の上方が明るくなっている。どうやら梅雨の晴間が覗《のぞ》きそうである。  検視の第一所見によって、死亡推定時間は昨夜深夜から今朝午前三時ごろにかけて。  水をほとんど飲んでいないところから、陸上で殺害された後、死体は多摩川に投げ込まれた模様。  死体の状況から、水中にあった時間はそれほど長くない。殺害後、直ちに水中に投じられたとしても、三時間ないし六時間というものである。  死体が漂着した周辺には凶器は発見されず、争った痕跡《こんせき》は認められない。  水中にあった死体は引き上げて空気中にさらすと、速やかに腐敗が進む。  遺族に悲報が連絡され、死体の確認が依頼された。  検視の後、死体は司法解剖のために搬出される。  事件は犯罪性が濃かったが、まだこの時点では自殺の可能性も残されていた。  創傷の部位は自殺を否定するものではない。自ら刺して、行動力の残されている間に水中に投身することも不可能ではない。  連絡を受けた家族が駆けつけて来て、死体は解剖前に確認された。  両親の悲嘆は正視し難いものがあったが、捜査員は事務的に事情聴取を進めた。  捜査員の仕事は被害者の遺族と悲しみを共有することではない。犯人を捕らえることが被害者の生命を取り返せないまでも、その無念を鎮め、遺族の悲嘆と怒りを少しでも救済することになるのである。  悲報に母親は寝込んでしまって、遺体の確認と警察の事情聴取には父親が当たった。 「あの子が自殺する理由などまったくあり得ません。  来年春の卒業を控えてジャーナリストになるのが夢だった息子《むすこ》は、マスコミ関係の会社まわりをしていました。七月の解禁に備えて張り切っていたところです。自殺などするはずがありません」  父親は断言した。 「ご子息がだれからか怨《うら》みを買われるような心当たりはありませんか」 「そのことですが、息子はとても正義感の強い人間でした。少しでも曲がったことや不法を見過ごせない性格でした。小さいころから弱い者いじめをする者がいると、自分より強い者でも向かって行きました。行列の割り込みや禁煙の違反者などにも容赦なく注意をするので、時どきはらはらするようなことがありました。  たいてい相手が素直に非を認めましたが、時には非常識なのがいて反対に食ってかかり、喧嘩《けんか》になりかけたこともあります。相手がヤクザや不良だったりしたらとおもうとぞっとしますが、まちがったことをしているわけでもなく、やめろとも言えませんでしたが、親としては息子の正義感が危険を招くのではないかと不安を持っていました。もしかしたら、息子は持ち前の正義感から相手を怒らせて殺されたのではないかという気がします」  父親の言葉に、石井らと共に事情聴取に当たっていた棟居は、はっとおもい当たることがあった。 「ご子息は電車の中などで、鞄の置き引きなどを見かけたら黙ってはいなかったでしょうね」 「もちろんです。必ず注意をしましたよ。ですから、時には失敗もしました。二ヵ月以上も前でしたか、友人の家へ遊びに行った帰途、駅のベンチに放置してあった鞄を横領しようとした乗客を見かけて注意したところ、実はその乗客のものだったそうです。たまたま後からホームに入った息子が、乗客が鞄をベンチに置いて離れた場面を見なかったので、てっきり横領したと誤解したらしいのです。乗客が鞄の中身を正確に当てたので、詫《わ》びを言って電車から降りてしまったそうです。あのときは冷や汗をかいたと言っていました」  棟居は被害者に会った場面を正確におもいだした。  奇しき因縁と言おうか、同窓会の帰途棟居を駅の遺留品の横領犯とまちがえた若者が被害者であった。  このような形で再会しようとは予想もしなかった。  棟居は感慨を意志的に胸の内に封じ込めた。 「息子には婚約者がいました。昨夜は彼女と一緒にドリカムのライブへ行ったはずです。昨夜帰って来なかったので、もしかしたら婚約者と泊まってしまったのではないかと勘繰っていました。相手のお嬢さんに聞いてもらえば、息子の昨夜の行動がわかるとおもいます」  と父親は言った。  父親から聞き出した被害者の婚約者に早速連絡が取られた。  彼女は被害者と同じ大学のクラスメートで、佐川詩乃という娘である。  連絡を受けた詩乃は、狛江署に飛んで来た。 「正純さんはドリカムのライブの後、一緒に食事をして、私の家まで送って来てくれました。それから家に帰ったとばかりおもっていたのに、殺されたなんて嘘《うそ》でしょう。私、信じない。絶対に信じない」  詩乃は泣きじゃくりながら言った。  捜査員らはうちひしがれた可憐《かれん》な花のような彼女に死体を見せて、絶望を確認させることはできなかった。  彼女も信じるのを拒みながらも捜査員の具体的な質問に、鶴田がすでにこの世の者ではないことを認めざるを得なくなった。  佐川詩乃の証言によって、鶴田は昨夜午後十一時ごろ、世田谷区|成城《せいじよう》四丁目にある詩乃の家の門前で彼女と別れたことがわかった。  鶴田の家は杉並区の永福である。小田急線で下北沢《しもきたざわ》まで戻り、井《いか》の頭《しら》線に乗り換えて帰る。  まだ電車もあり、学生なのでタクシーで帰るようなもったいない真似はしない。  それが反対方向の狛江市域の多摩川河川敷に死体となって流れ着いた。 「鶴田さんはあなたと別れた後、どこかへ立ち寄ると言っていませんでしたか」 「いいえ、そんなことは言ってませんでした」 「別れるときになにか言いませんでしたか」 「明日またキャンパスで会おうと言いました。今朝、登校直前に警察から連絡があったので驚いて駆けつけて来たのです」 「鶴田さんはとても正義感の強い青年で、曲がったことが見過ごせなかったそうですね」 「はい、それが唯一の心配のタネでした。でも、最近は呼び子を持っていましたから、危険な振る舞いはしなかったとおもいます」 「呼び子とはなんですか」 「四月下旬に電車の中でお年寄りを立たせたままシルバーシートにふんぞり返っていたチンピラ風の三人組に注意をして、喧嘩になりかけたことがあったのです。たまたまそのときに大学の先輩が乗り合わせていて、呼び子を吹いてくれたので、三人組はびっくりして逃げました。そのとき先輩がいつも持っていろと言って、呼び子をくれたのです。それ以後は曲がったことを見ても直接行動に出ず、呼び子を吹いていると言っていました」 「そんな呼び子は持っていなかったな」  捜査員は顔を見合わせた。  被害者の所持品の中には呼び子はなかった。 「そんなはずはありません。昨夜別れるとき、私が確かめたのです。正純さんはポケットから呼び子を取り出して、私の前で吹いてみせてくれました」 「ポケットはすべて調べましたが、呼び子はありませんでした」 「ポケットからこぼれ落ちてしまったのでしょうか」  その可能性は考えられる。死体が水中に投げ込まれた際、はずみでポケットの中にあった呼び子が水中にこぼれ落ちたかもしれない。  だが、ほかの所持品はすべてポケットの中におさまっていた。いつも肌身離さず持っていた呼び子だけがこぼれ落ちるものであろうか。  被害者の遺族や婚約者の証言によって、被害者の性格が浮かび上がってきた。  鶴田の潔癖すぎる正義感が深夜、恋人を自宅に送り届けた帰途、見過ごせないものに遭遇して、それが彼の命を奪ったのであろうか。  深夜、世田谷の外れから、死体となって漂着した狛江市域の多摩川河川敷までの間でなにが起きたのか。  同日午後、狛江署に捜査本部が開設された。  解剖の結果は、死因は先鋭な刃物による心臓刺通に伴う心臓機能障害。  肺胞内に少量の溺水《できすい》、これは入水したときに死戦期(瀕死《ひんし》)にあったために少量の水が吸引されたと考えられる。  死亡推定時間は六月十四日深夜から翌日未明にかけて。  その他の創傷、損傷は認められず。  というものである。自他殺の別については触れていない。  第一回の捜査会議において、  ㈰被害者の前足(生前の足取り)追跡  ㈪凶器の発見  ㈫地取り捜査、すなわち現場付近の居住者、定期的通行人、交通関係従業員、飲食店などの聞き込みと共に道路、下水、畑、神社・仏閣、空き地、空き家などの検索  ㈬被害者の生前の人間関係  が当面の捜査方針として決定された。 [#改ページ]   切り離された死体      1  棟居は石井とペアを組んで、被害者の前足(生前の足取り)捜査を担当することになった。  被害者の生前の足取りの中に犯人と交差する地点があるはずである。その交差点から犯人に到達する捜査方法である。  だが、佐川詩乃と別れた後の鶴田正純の足取りは杳《よう》として絶えていた。 「鶴田が持ち前の正義感を発揮したために殺害されたとすれば、彼は佐川と別れた帰途、なにかの事件を目撃したとは考えられませんかね」  棟居はペアの石井に言った。 「当夜、該当するような事件は報告されていません。事件があったとしても、表に現われていないかもしれませんね」  石井が答えた。 「表に現われていない事件、なるほど、被害者は犯人にとってなにか都合の悪いことを目撃した。そして口を封じられたという可能性もありますね」 「それならば、べつに正義感を発揮するまでもなく、犯人は自分にとって都合の悪い目撃者を問答無用で消したことになる」 「それにしても被害者は犯人から刺されるまで、なぜ逃げも抵抗もしなかったのでしょう。被害者の傷は刺してくれと言わんばかりに急所を無抵抗に刺されていますが」 「こんな可能性は考えられませんかね。犯人は被害者の顔見知りだった。犯人にとって都合の悪いことを目撃した被害者は、犯人に注意をした。犯人は被害者の忠告を聞くような振りをして被害者を刺した……」 「あり得ますね。そして被害者の死体を多摩川に捨て、口を拭《ぬぐ》って素知らぬ顔をしている」 「犯人にとって都合の悪いこととは、どんなことでしょうかね」 「人を殺してまで秘匿しなければならない都合の悪いことと言えば限られてきます」  二人は顔を見合わせた。たがいの胸の内におもわくが脹《ふく》れ上がっている。  まず第一に殺人が考えられる。殺人の現行犯を目撃されたら、犯人は目撃者の口を封じようとするだろう。  一人殺すも二人殺すも同じという「毒食わば皿まで」の心理である。  次に考えられる事件は轢《ひ》き逃げである。轢き逃げならば、深夜、現場を目撃する可能性は大いにある。  だが当夜、該当するような殺人事件や轢き逃げ事件は報告されていない。  事件は現実に発生していながら、地下に隠されているかもしれない。  死体をどこかへ運んで隠してしまえば、事件は露《あら》われない。鶴田はそのための犠牲となったのかもしれない。  それならばなぜ鶴田の死体も一緒に隠してしまわなかったのか。  鶴田に目撃された事件の被害者と鶴田の死体が一緒に発見されれば、関連性を疑われてしまう。  犯人はそれを嫌って鶴田の死体を切り離したのか。  いずれにしても、鶴田が佐川詩乃と別れてから死体となって発見された場所までそれほど離れていない。  その間に彼はなにかに遭遇したのだ。  だが、懸命な地取り捜査にもかかわらず、捜査網に目ぼしいものはなにも引っかかってこなかった。  このとき棟居の記憶にゆらりと浮かび上がってきたものがある。 「五月初めに赤坂のクラブで三矢組組長襲撃事件がありましたね」 「ああ、そんな事件がありましたな。三矢組の組長三矢尚範が対立暴力団極新会の刺客に襲われて重傷を負ったという。三矢組では報復のために戦闘部隊約百人を極新会の本拠大阪へ送り込んで一触即発となったが、仲裁が入って手打ちが成立したということです」 「あの事件は鶴田殺しに関係ないでしょうか」 「三矢組組長暗殺未遂事件がですか」  石井が驚いたような表情をした。 「事件が発生した日時も場所も離れています。たぶん関係ないとはおもいますが、最近、世間を騒がせた事件と言えばあれだけですよ」 「鶴田の身辺には暴力団の気配はまったくありませんでしたよ」 「鶴田自身は暴力団に関係なくとも、彼の性格からして、暴力団は最も憎むべき存在だったでしょう。暴力団から怨みを買っていたということは考えられませんか」 「なるほど。三矢組組長を襲撃した犯人はまだ捕まっていませんね」 「警察と三矢組が総力を挙げて行方を追っています。どちらが先に見つけるか賭《か》けをしている者もいるそうですよ。三矢組は全国の構成員に刺客の処刑命令を出したそうです。三矢組に先を越されたら、警察の面目は丸潰れです」 「鶴田が三矢組から怨みを買っていたということはあり得ますね。鶴田と三矢組の関係を洗ってみますか」  石井の表情が興味を持った。      2  捜査本部は改めて鶴田の家族に被害者と暴力団、特に三矢組と極新会との関係の有無について問い合わせた。  父親から驚くべき情報が寄せられた。 「息子は赤坂のエル・ドラドでウェイターとしてアルバイトをしていました。組長襲撃事件が発生した夜も、息子は現場に居合わせたそうです。犯人の顔もはっきり見たと言っていました。  犯人が割り出されたのも息子の証言からです。私はもうそんな危険なところでのアルバイトは辞めるようにと忠告しました。息子も目の前で暴力団の抗争事件が発生したのでショックを受けたらしく、事件直後にエル・ドラドを辞めました。あの事件が息子になにか関係があるのでしょうか」  父親は反問した。  捜査本部は色めき立った。  事件は意外な方角に関わる気配を見せている。  三矢組組長暗殺未遂事件と本件(鶴田殺し)の関連性の有無を検討するために、捜査会議が開かれた。 「エル・ドラド事件の目撃者は鶴田正純一人ではなく、多数の人間が目撃している。鶴田一人の口を封じても、なんの意味もないとおもうが」  早速|山路《やまじ》が反駁《はんばく》した。 「三矢組組長を襲撃した犯人は、極新会系の暴力団員大島岩男とされて指名手配されていますが、三矢組長を狙った刺客は大島一人と断定されたわけではありません。複数の刺客が三矢を狙い、たまたま大島が発砲したために、彼が犯人と目されて手配されているわけです。  鶴田は大島以外の刺客を目撃したのかもしれません」  石井が切り返した。 「ならば、なぜ事件直後に鶴田はそのことを黙秘していたのか。潔癖なほど正義感の強いという鶴田が犯罪や不正を目撃したならば、黙っているはずがないとおもうが」 「鶴田が目撃した大島以外の犯人が、鶴田の知っている人間だったとして、庇《かば》っていたということは考えられませんか」 「庇っていた?」 「警察の取調べに対しては大島以外の犯人の存在は黙秘していたが、襲撃に加わった犯人に自首するように勧めていたとしたら。犯人にはもちろん自首する意志はない。へたに自首すれば、三矢組の刺客が刑務所の中まで追って来ます。そこで鶴田の口を塞《ふさ》いだ……」 「事件発生時、エル・ドラドには約百五十名の客と従業員が居合わせた。大島の犯行は大勢に目撃されている。仮に大島以外の共犯者がいたとしても、必ず目撃されているはずだ。鶴田一人が共犯者を見かけて口を閉ざされたというのは解せない」  山路は一歩も退かなかった。 「エル・ドラド事件発生一ヵ月半後に殺された鶴田の死体が発見されたのです。鶴田には自殺の動機はまったく見当たりません。鶴田がエル・ドラド事件の際、現場に居合わせて目撃していたという事実は見過ごせないとおもいます。  事件発生時、たとえ現場に多数の人間が居合わせたとしても、鶴田だけにわかるなにかを目撃した可能性は充分にあるとおもいます。現在、大島岩男は逃亡中です。大島の行方も気がかりですが、仮に鶴田が大島の行方を知っていて口を封じられたということは考えられないでしょうか」  棟居が新たな意見を出した。 「なぜ鶴田が大島の行方を知っているのかね。鶴田と大島の間にはなんのつながりも浮かび上がっていないが」 「鶴田が殺された当夜、大島と出会ったとしたらどうでしょうか」 「鶴田と大島が出会った……」  捜査会議の席上がざわめいた。 「鶴田は事件の目撃者として大島の顔を知っていました。大島も鶴田をおぼえていたかもしれない。逃亡中の大島としては鶴田に見られたのはいかにもまずい」 「ちょっと待ってくれ。それでは大島が鶴田を殺したと言うのか」 「とは言っていません。大島に同行者がいて、それが鶴田を殺したとも考えられます」 「大島の同行者がなぜ鶴田を殺すのかね」 「大島はオール三矢組が目の色を変えて追っています。もし彼らが大島を捕捉《ほそく》した場面を鶴田が目撃したとしたら、鶴田を放置しておけないのではないでしょうか」 「大島が三矢組に捕まったと言うのかね」 「指名手配の網を潜《くぐ》って逃亡中ということは、すでに三矢組の手に押さえられた可能性も考えられます。あるいは襲撃後、極新会が保護していたのが、三矢組との間に手打ちがなって、大島の身柄を三矢組に引き渡したのかもしれません。その現場を鶴田が見たとしたら……。これが無関係の人間がなにげなく見かけたとしてもべつにどうということはありません。しかし、鶴田は事件発生時に現場に居合わせたのです」  棟居の意見は事件に新たな照明を投げかけるものである。  だが、これまでの地取り捜査においては、鶴田の前足(生前の足取り)と大島岩男との交差点は発見されていない。  捜査主任官(捜査本部長)は、 「現段階ではエル・ドラド事件と鶴田殺しの間に関連性ありとは断定できないが、鶴田が殺される前にエル・ドラド事件の現場に居合わせて、事件の一部始終を目撃していた事実は見過ごせない。当面、赤坂署の捜査本部と連絡を密にして捜査を進めたいとおもう」  と結論を言った。      3  米戸一雄《よねとかずお》が山歩きを始めたのは河内《かわち》の金剛山へ登ったのがきっかけである。  金剛山は楠木正成が北条の大軍を相手に立てこもった根拠地である。この山の頂上に楠木軍の総司令部となった転法輪寺《てんほうりんじ》がある。  転法輪寺の境内に表示板が立てられ、定期登山者の名前と回数が表示されている。  百回以上から七千回以上までずらりと定期登山者の名前が表示されているのは壮観であった。  一千回あたりまではかなりの数の名前が並んでいるが、さすがに四千以上となると少なくなる。  最高は七千回以上で、二人しかいない。  標高一千百二十五メートル、毎日欠かさず登ったとしても、二十年弱かかる。  米戸はショックを受けた。山頂近くまでロープウェイが来ているが、定期登山者はもちろんそんなものは利用していない。  一千百二十五メートルの山に毎日二十年間も登りつづけたら、社会生活はほとんどできないだろう。  茶店の人に聞いてみると、最多数登頂者はバスの運転士で、勤務の合間や休日を利用して登っているそうである。  一泊の社員旅行に出かけるときは、出発前の朝登り、旅行から帰った後、自宅に帰らず山麓《さんろく》へ直行して登ったという。もはや凄《すさ》まじい執念というべきであろう。  現在も登山をつづけており、日々記録を更新しているという。単に登山しているだけではなく、登山道の修理をしたり、階段をつくったりしているそうである。  米戸は一種のカルチャーショックを受けると同時に、自分にはとうてい真似のできないことだとおもった。  ショックは旅行から帰った後も尾を引き、七千回登山は無理であっても、なにか自分にも似たようなことができないものかと考え始めた。  どうせ登るなら、一つの山ではなくべつの山に登りたい。七千はとうてい無理としても、せめて百回登れば、百の山に登れる。  そうだ、自分なりの百名山を登ってみよう。それも人口に膾炙《かいしや》した名山ではなく、自分が発見した百名山を登る。  米戸はそのおもいつきに取り憑《つ》かれた。  高山必ずしも尊からず、知られざる低い山にもいい山はたくさんある。まず日本百低山から始めよう。  そうおもい立って、二千メートル未満の低山歩きを始めた。それもなるべく一般ルートを通らず、沢を登り、藪《やぶ》を漕《こ》ぎ、けもの道を伝って山頂へ達した。  低い山と甘く見てかかると意外に奥が深く、ひどい目に遭うことがある。  すでに百山をクリアして、二百に近づきつつある。  米戸の次の目標は五百である。五百を越えれば一千に向かって野心が出てくるだろう。  最近、米戸は丹沢山域に凝っている。東京からのアクセスがよく、山勢が複雑で深い。貴重な動植物も豊かである。  六月下旬のある日、米戸は丹沢山域の一角、大山の中腹を登っていた。  大山は信仰登山の対象として古くから開かれている山である。山容が美しく、丹沢の東端に雄大な根を張っている。  ゴールデンウィークの喧騒が去り、梅雨入り直後の瑞々《みずみず》しい新緑が山腹を彩っている。  山はいま、観客の最も少ないときにクライマックスを演ずる舞台のように、あらゆる樹種が新緑のコスチュームをまとって揃《そろ》い踏みをしている。  ポピュラーコースを避けて沢を登り、けもの道を伝い始めた米戸の眼前の藪《ブツシユ》からがさりと音がして、一匹のかなり大きな獣が飛び出して来た。  ぎょっとなって立ちすくんだ米戸の前を、獣は跳躍して樹林の奥へ姿を消した。キツネかイタチらしい。  米戸は獣が飛び出して来た藪の中が気になった。その辺りに怪しい気配がうずくまっているような気がする。  恐る恐る近づいて藪の中を覗き込んだ。地中から地上へ枯れ枝のようなものが飛び出している。いまの獣がくわえ出したらしい。  目を凝らした米戸は、愕然《がくぜん》となった。それは人間の手首の形をしている。  まちがいない。たしかに手首であった。手首だけが地上に突き出ているはずはない。手首の本体が地中に埋もれている。  米戸の全身に震えが走った。悲鳴をあげなかったのはさすがである。  いまや登山どころではなくなった。米戸は二百低山の野心を忘れて、来た道を逃げるように引き返した。      4  厚木市域の大山山中に人間の死体が埋められているという通報が登山者から厚木署に寄せられたのは、六月三十日午前十時ごろである。  厚木署から捜査員が発見者の登山者に案内されて現場に臨場した。  全裸の死体は地表から約五十センチの土中に掘られた狭い穴に身体を二つ折りにされ、両|膝《ひざ》の間に首を挟《はさ》むようにして無理やりに押し込まれた形で埋められていた。  死後経過約二週間、推定年齢二十代半ばから三十前後、左手小指第一関節から欠損している。  創傷は棍棒《こんぼう》状の鈍器を用いて形成したとみられる打撲傷が頭部、前額部に認められ、鋭利な有刃器による刺傷、切り傷が側胸部と下腹部、両手、右|股《もも》に認められた。  要するにめった打ち、めった斬《ぎ》りにされた状況である。  事件は殺人事件と認定された。厚木署に捜査本部が開設され、神奈川県警捜査一課の応援を得て本格的な捜査が開始された。  死体は司法解剖に付された。  解剖の結果、死因は棍棒状の鈍体の作用による頭蓋骨《ずがいこつ》および顔面骨開放骨折、脳内出血を伴う脳挫傷《のうざしよう》、その他先端の鋭い有刃器による腹部刺創による上腸間膜動脈損傷、右掌、左手|拇指《おやゆび》、人差し指、中指に防御創とみられる切り傷、右太股に同一有刃器を用いて形成されたとみられる刺し傷。その他全身に棍棒状の鈍体、および有刃器による多数の打撲創と切刺創。  死後推定、解剖時より逆算して十五日ないし二十日と判定された。  死体は全裸に剥《む》かれ、身許を示すものはなに一つ身に着けていない。  なお死体が埋められていた土中を検索したところ、一個のプラスチック製の呼び子が発見された。  山中の人の立ち寄らない場所に呼び子が落ちていたとは考えられない。  被害者の所持品か犯人の遺留品が地上にこぼれ落ちて、死体と共に埋められたとみられた。  捜査員は死者の左手小指の欠損、および残酷な殺害手口から、被害者の素性を暴力団関係者と推測した。  現場は厚木市域の大山山中の山林で、近くまで車の入る林道が通っている。  死体の状況から、被害者はべつの場所で殺害され、現場に運搬されて埋められたと推測された。  警視庁のG関係(暴力団)ファイル、および警察庁の捜索願の出されている行方不明者、および指名手配ファイルに照会した結果、警察庁より広域暴力団と指定されている極新会系雨飾一家の組員大島岩男と該当《ヒツト》した。  被害者の素性が突き止められて、厚木署は緊張した。  大島は五月二日、赤坂のクラブ「エル・ドラド」で三矢組の組長三矢尚範を狙撃した容疑者として、全国第一種指名手配をされていた。  厚木署の捜査本部は騒然となった。  極新会は大阪梅田の独立愚連隊から過激な戦闘力で流血を繰り返しながら、急速に成長した関西暴力団の雄である。  極新会会長代行香川登は名門大学出のインテリで、戦闘力を強化すると共に、逸速く芸能人斡旋事業に手を染めた。さらに大阪の盛り場の風俗営業の用心棒や債権取り立て、場銭徴収、手形のパクリと倒産整理などによって資金源を確保した。  現在、二府十八県、百八十六団体、七千二百人を擁する三矢組に次ぐ組織暴力団で、全国制覇を狙う三矢組に真っ向から対抗している。  雨飾一家は極新会の中核をなす戦闘集団で、大島岩男は前科三犯、極新会の暴れん坊、通称|大岩《おおいわ》としてその凶暴性を恐れられていた。  三矢組組長襲撃事件の際、目撃者がいて、犯人は大島と断定され、全国指名手配を打たれていたのである。  事件後、大島は地下に潜り、警察の必死の捜索にもかかわらず、行方を晦《くら》ましていた。  その大島が惨殺されて、神奈川県下の山中に埋められていたのである。  警察の面目は丸潰れであった。  警察側は三矢組と極新会の間に手打ちが行なわれ、大島岩男の身柄をめぐって密約が取り交わされた情報を逸速く手に入れていた。  警察は大島が極新会の手でどこかに隠されているにちがいないと睨《にら》んでいた。  そこに大島の惨殺死体が大山山中から発見されたのである。警察は大島を殺害したのは極新会と睨んだ。  大島の身柄を密約に従って三矢組に引き渡せば、三矢組組長襲撃の真相を三矢組に知られてしまう。そうなったら小指六本ではすまなくなる。  現在の極新会の実力では三矢組の軍事力と動員力に敵わない。  幸いに全面戦争を避けたい三矢組が今回の条件で手打ちに応じてくれたが、大島から襲撃の真相が明らかにされれば、三矢組がさらに圧迫してくるのは目に見えている。  一歩の譲歩はたちまち数歩の譲歩につながってくるのはこの世界の常識である。  なんとしても大島の口は封じなければならない。  追いつめられた極新会が大島を殺害したと警察はみた。  死後経過時間を見ても、大島は手打ち式の後間もなく消された模様である。  捜査本部は犯人についておおかたの目星をつけながらも、証拠がつかめなかった。  極新会を追及したところで、末端の鉄砲玉が引っかかるだけである。  捜査本部は歯ぎしりをした。警察が暴力団に愚弄されたのである。  たとえ引っかかるのは末端の小物とわかっていても、このまま引き下がるわけにはいかない。  捜査本部は極新会、特に雨飾一家に的を絞って捜査をすることにした。  警察はこの機会に、三矢組と極新会という日本の暴力団のビッグツーに集中攻撃をかけるつもりであった。  暴力団はいくら末端を刈り取ってもびくともしない。  まず、トップの親分を刈り取れば、枝葉末節はおのずから立ち枯れる。根の親分を刈り取るのが暴力団潰しには有効である。  だが、何度頂上作戦で親分を刈り取り、暴力団を解散に追い込んでも、間もなく息を吹き返す。  親分の束ねを失って下部組織が転移する病原体のように散らばって、むしろ手がつけられなくなる。  豊富な資金源を抱えた暴力団は、親分を刈り取っても平然としている。  与党党人派政治家の私兵として日本の権力構造に深く関わってきた暴力団は土建、興行、港湾、風俗営業と合法企業に進出し、本来、ダーティな部分もビジネス化して資金源を確保し、経済力を蓄えた。  暴力団本来の武器である暴力に、経済力という鬼に金棒が加わったのである。  親分を刈り取っても、彼らの資金源を潰さない限り、暴力団を壊滅することはできない。  いくら警察が逮捕罪名《ひきネタ》を構えて拘置しても、豊富な資金にものを言わせてすぐに保釈になってしまう。  保釈と逮捕のいたちごっこである。  暴力団も利口になって、最近は抗争がそろばんに合わないことを知っている。  派手な戦争をして死傷者が出れば、その葬儀費用から医療費、また組員が服役したときは弁護士費用や留守家族の生活保障などを含めて、数千万から億単位の金が吹っ飛んでしまう。  なるべく抗争は避けて話し合いで解決しようという傾向になっている。  やむを得ず抗争となっても、双方から鉄砲玉を送ってガラスを割り合った後、しかるべき仲裁人を立てて手打ちをする。この方が犠牲も少なくすむし、費用も節約できる。  暴力主義、侵略主義一辺倒の暴力団では生き残れなくなっている。  このような時期に起きた三矢組組長襲撃事件だっただけに、暴力団関係者はもちろん、社会に対して強い衝撃をあたえた。 [#改ページ]   尻尾《しつぽ》の行方      1  神奈川県下の山中で大島岩男の死体が発見された報道は、赤坂署と狛江署の捜査本部に衝撃をあたえた。  全国第一種指名手配の網にも引っかからず、依然として逃亡をつづけている大島岩男に対して、警察庁は各管区警察局、警視庁、各県警本部、各方面本部宛に「重要被疑者総合特別手配」を出し、公開捜査に踏み切って間もなくのことである。  棟居は管轄の厚木署の松家《まついえ》刑事と顔馴染であった。  早速松家に連絡を取って、大島の死体発見前後のいきさつを聞いた。  特に死体に残されていた創傷が、棟居の関心を引いた。 「死因となった鈍器による頭部の打撲傷のほかに、下腹部に鋭利な刃物による刺し傷があったのですね」 「そうです。凶器は現場から発見されませんでしたが、匕首《あいくち》、短刀のような凶器と推定されています」 「大島の刺し傷と鶴田の刺し傷を照合してみたいとおもいます」 「鑑定書(死体検案書)をファックスで送りましょう」 「お願いします。現場にはなにか遺留品はありましたか」 「被害者は全裸で地中に埋められていましたが、同じ地中から一個の呼び子が発見されました」 「呼び子ですって」  電話口で突然大声を発した棟居に、居合わせた者の視線が集まった。 「プラスチック製の呼び子です。それほど地中に長く埋められていたようではないので、おそらく死体と一緒に埋められたものとおもいます。呼び子になにかお心当たりがありますか」  棟居の口調に反応を感じ取ったらしい松家が尋ねた。 「実はうちの事件《ヤマ》の被害者が生前、たしかに所持していたはずの呼び子が失われているのです。プラスチック製の赤い呼び子だそうです」 「なんですって」  今度は松家が驚く番であった。 「もしその呼び子が鶴田の所持品であれば、鶴田殺しと大島殺しは関連している可能性があります。その呼び子を鶴田の遺族に確認してもらいたいですね」 「ぜひお願いします。私が呼び子を持ってそちらへうかがいましょう」  電話口の松家の口調が張り切った。  警察庁の「重要被疑者総合特別手配」の先を越されて大島を殺害され、管轄区域の山中に死体を埋められて面目を潰した神奈川県警としては、意外な方向からきた確かな手応えである。  警視庁と神奈川県警は元来ライバル意識が強い。だが、このような場合、捜査員同士の間に面識があると、意志の疎通がぐんとよくなる。  厚木署から松家が件《くだん》の呼び子を持ってやって来た。  棟居と石井が同行して佐川詩乃に見せたところ、 「まちがいありません。正純さんが持っていた呼び子です。これがどこから出て来たのですか」  と涙を含んだ目で問うた。  同時に死体検案書を対照して、大島と鶴田の刺創が同一の凶器によって形成されたことが確認された。  ここに鶴田殺しと大島殺しはつながった。  狛江署、厚木署、赤坂署の三捜査本部は緊張した。  鶴田が生前所持していた呼び子が、大島の死体が埋められていた地中から現われたのである。  呼び子が鶴田から神奈川県下の山中まで移動するには二本のルートが考えられる。  一本は大島自身が運んで行った場合、二本目は大島を殺害した犯人が運んだ場合である。  一のケースは、鶴田と大島が再会した時点では、大島が生きていた場合である。  二は、大島はすでに死体となっていて、犯人が運んで行った場合である。  なお、第三としては、犯人と鶴田が大島抜きで出会った場合が考えられるが、大島の死体と共に呼び子が現場に遺留された点から、大島抜きの犯人との接触の可能性は薄い。 「それにしても、犯人はなぜ鶴田の呼び子を持ち去ったのか」  という疑問が提出された。  呼び子は鶴田が所持していたものである。犯人がこんなものを持ち去るメリットはなにもなさそうである。  むしろ鶴田殺しの現場に鶴田の所持品はすべて残しておいた方が、大島殺しとの関連性を疑われることがない。  また、なんらかの理由があって呼び子を持ち去ったとしても、大島を埋めた場所に残して来たのではなんにもならない。  そのために二件、エル・ドラド事件を含めれば三件の事件の関連性を疑われてしまった。 「犯人は呼び子を持ち去った意識はないのではないか」  という意見が出された。 「持ち去った意識がないと言うと?」 「つまり、犯人もしくは大島が鶴田と接触した際に呼び子が二人の身体のどちらかに移動して、神奈川県下の山中まで運ばれたという可能性です」 「呼び子が移動するかね」  山路が皮肉っぽい声を出した。 「鶴田は殺害された後、多摩川に死体を投げ込まれた状況です。死体となって多摩川まで運ばれたのであれば、彼のポケットから呼び子がこぼれ落ちた可能性はあります。その呼び子が犯人の車の中に落ちて、神奈川県下の山中まで運ばれ、大島の死体と共に埋められたのではないでしょうか」  今度は山路も反駁しなかった。  可能性が少しずつ拡大されてきている。  呼び子の所有者が確認されて、三署の捜査本部の連絡が密になった。  もし三件の関連性が確実となれば合同捜査となる可能性もある。  暴力団がらみの殺人事件とあって、捜査本部にはマル暴担当の捜査四課も加わった。      2  七月八日、捜査は新たな展開を見せた。  同日早朝、赤坂署の捜査員十六名は、横浜市西区の自宅にいた極新会系雨飾一家石黒組組長|石黒恭平《いしぐろきようへい》に任意同行を求めた。  まだ自宅の寝室のベッドの中にいた石黒は、十六名の捜査員に同行されて赤坂署へ出頭した。  三矢尚範襲撃事件の重要参考人としての任意同行要請である。  赤坂署の捜査本部は石黒を大島の黒幕とみて、石黒の自供を得た上で逮捕状を執行する予定であった。  石黒は極新会の戦闘集団雨飾一家の中でも最も凶暴な斬り込み隊長、関東進出の橋頭堡《きようとうほ》として知られる石黒組組長である。その好戦的な凶暴性から狂平《きようへい》と渾名《あだな》されている。  雨飾一家の直系若衆で、極新会の次代を担う幹事長雨飾一家組長雨村功の秘密兵器と言われている。  赤坂署はエル・ドラド事件の実戦指揮は石黒が執ったものと睨んでいた。まず石黒の自供を得た上で、上層部に迫っていこうという作戦である。  赤坂署が石黒から芋づる式に雨村功、そして極新会会長柿沢安志まで、この機会に極新会を壊滅させようという戦略である。  赤坂署による石黒の任意同行要請は、狛江署と厚木署の捜査本部にとって寝耳に水であった。  両捜査本部になんの連絡もないまま、赤坂署は抜き打ち的に石黒に任意同行を求めたのである。  赤坂署としてはエル・ドラド事件はなんとしてもうちで解決するという意地があった。 「赤坂は焦っているな。一種手配から総特手配(総合特別手配)にまで引き上げた犯人《ホシ》を殺されて、丸潰れになった面目を石黒を引っ張って回復しようとしているんだろう。しかし、石黒などはしょせんトカゲの尻尾だ。おそらく極新会会長柿沢や会長代行の香川から指令が出ているにちがいない。石黒あたりで遊んでいる暇はない」  那須が苦い顔をして言った。 「赤坂では絶対の自信を持っているようです。マル暴から得た情報によりますと、極新会と三矢組では手打ちが成って、条件として大島の身柄を引き渡すことになったそうですが、極新会としては大島に口を割られるとまずいので密《ひそ》かに内部で処刑してしまい、死体を丹沢山中に埋めたということです」  山路が報告した。 「しかし、大島の死体が現われなければ、三矢組としては納得しないだろう」 「いずれ死体を現わすつもりでいたのでしょう。それが登山者によって予定より少し早く発見されてしまったのかもしれません」 「極新会が大島を処刑したのであれば、死体を隠す必要はまったくないとおもいますが」  棟居が言った。 「極新会としては手打ちの条件として、大島の身柄を引き渡すことを約束したものの、大島を引き渡せば、組のトップに火の粉が及ぶ。やむを得ず処刑して、ある程度ほとぼりを冷ました後死体を現わして、三矢組を納得させるつもりだったのだろう」 「そんなことで三矢組が納得するとはおもえません。手打ちの条件は大島の身柄引き渡しであって、大島の内部処刑ではありません」 「三矢組も全面戦争は望んでいない。組長を襲撃されて失ったメンツを回復すればいいのだ。大島の身柄を引き渡されても、自分のところで処刑しなければならない。処刑後の死体の始末も考えなければならないし、できれば三矢組の手を汚したくないだろう。その手間を極新会が省いてやったわけだ」 「仮にそうだとしても、極新会がいま三矢組に喧嘩を売るメリットはなにもありません。暴力団はいま侵略主義の抗争期から、話し合いによる共存期に入っています。警察と世論の締めつけの厳しい中、飽くなき抗争を繰り返していれば、暴力団は滅亡の一途しかないことをようやく悟ってきています。  組員を正業に就かせ、極新会、三矢組双方とも博奕《サイコロ》、抗争《ゴロ》、麻薬《ヤク》を組員に禁止しています。  このような時期に、極新会が好んで火中の栗を拾うような喧嘩を売るはずがありません」  棟居は主張した。 「すると、きみは大島を殺したのは極新会ではないと言うのか」  山路が問うた。 「極新会の嫌疑が晴れたわけではありませんが、極新会だけを疑うのは危険だとおもいます」 「極新会だけと言うと、大島を殺《や》ったのは三矢組だと言うのかね」 「その疑いは大いにあります」 「三矢組が殺《や》ったんなら、なにも死体を隠す必要はあるまい」 「三矢組だからこそ、死体を隠したのではありませんか。三矢組としては、大島の身柄引き渡しを手打ちの条件とはしたものの、組織の全力を挙げて大島の行方を探していたはずです。その触手の先に大島が引っかかれば、極新会の処刑を待つ必要はありません。自らの手で大島を処刑して、死体を隠したと考えられます。死体が現われなければ警察の捜査もない。極新会に対して手打ちの条件不履行を理由に、優位に立てます」 「それでは鶴田正純を殺したのも三矢組の仕業だと言うのかね」 「三矢組が殺してもおかしくありません。三矢組にしてみれば、大島処刑の犯人が自分たちだということは警察、極新会双方に対して伏せておきたいところでしょう。処刑の現場を鶴田に見られたとすれば、彼を生かしてはおけなかったでしょう」 「もし極新会が無実だとすれば、石黒はどうなるとおもう」  山路が棟居の意見に一歩譲歩した。 「おそらく石黒は否認を通すでしょう。石黒がへたに自供すれば三矢組の手前、柿沢や香川や雨村にも火の粉が飛んで行きます。  たとえ極新会のトップの指令はなくとも、雨村や石黒が勇み足で三矢組を襲撃したとも考えられます。極新会の幹部は石黒の任意同行に戦々恐々としているでしょう」  棟居が推測した通り、石黒は頑強に否認を通した。  すなわち「三矢組組長襲撃は大島が功を焦って勝手にやったことで、自分のまったくあずかり知らないことだ」と言い張った。  石黒が否認する以上、証拠がない。  石黒から自供を得ることに自信を持っていた赤坂署の捜査本部は狼狽《ろうばい》した。  犯罪事実否認のまま、辛うじて逮捕状と捜索差押え許可状の発付を得、石黒の居宅を捜索したが、犯罪を裏づけるような資料はなにも発見されなかった。 「六月十四日の深夜から未明にかけて、どこで、なにをしていたか」  大島殺しで攻めあぐねた取調官は鉾先《ほこさき》を変えた。  大島殺しと鶴田殺しと関連性ありとみて、後者が殺された夜のアリバイを問うたのである。  ところが、石黒は当夜、彼らの稼業筋で義理がけと呼んでいる北海道の大親分の葬儀に出席するために、札幌のホテルに宿泊していた。  同業の他の親分も同じホテルに泊まっており、ホテルの従業員も彼のアリバイを証言した。  鶴田殺しに関しては完璧《かんぺき》なアリバイがあった。  石黒の任意同行は棟居が予測した通りの方向へ向かっていた。      3  一竜会会長北島竜也ははなはだ面白くなかった。  さる五月二日夜の三矢組長襲撃の際、組長を守り切れなかった責任を問われて、若頭補佐を解任されてしまったのである。  あのとき同行していた小寺、中尾、新川もそれぞれ降格させられた。  現在若頭の位置にいる上山直秀《かみやまなおひで》の健康がすぐれず、その引退が噂《うわさ》されているとき、上山の跡を継ぐ者として北島の下馬評が高かった。  三矢組十人衆と呼ばれる上山若頭の下、二人の舎弟、七人の若頭補佐のうち、北島を三矢組ナンバーツーマンの本命と見る者も多かった。  三矢組が今日の大を築いたのは、北島がその帝国主義の先頭に立って血《ち》飛沫《しぶき》を上げながら版図を拡げて来たという自負がある。  それがこの度の組長襲撃事件によって責任を取らされ、いわゆる三矢組閣僚のポストから外されてしまった。  代わって浮かび上がってきたのが十人衆の一人、吉祥《きつしよう》組組長|吉岡祥文《よしおかしようぶん》である。  北島と吉岡は三矢組内の宿敵であり、常にその勢力を競い合っていた。  上山が引退となれば、その位置を襲う者は北島か吉岡である。  これまで北島が吉岡に一馬身ほど差をつけて走っていた。  だが、エル・ドラド事件によって北島は失脚した。  不運だったことに、三矢尚範に同行していた北島以下十人衆のうちの四名は、いずれも北島のシンパであった。彼らも責任を取って若頭補佐から降りた。  三矢組の主流であった北島派は一挙に退潮してしまったのである。 「くそ、あの場にだれが居合わせても組長は守り通せなかった。むしろ生命を取り留めたのはおれたちが守っていたからではないか」  北島は悔しがった。 「いまさらそんなことを言っても始まらねえよ。当夜、おれたちが同行していたのが運が悪かったんだ」  新川真が慰めるとも愚痴をこぼすともわからないような口調で言った。 「このごろ吉岡の野郎、肩で風を切ってやがるぜ。このままいけば、吉岡の若頭昇格は確実だ」 「吉岡が若頭になれば、当然三代目のレールは敷かれることになるぜ」  新川が言った。 「そうはさせねえよ。吉岡の下風などに立てるかい」 「下風に立てなければどうするつもりだね」  新川が北島の顔色を探った。 「おれたちは若頭補佐から降りたが、おれたちの同志は、依然として執行委員会では多数派だ。全員投票で吉岡に反対すれば、やつは若頭になれねえよ」  北島が一方の口角を曲げて笑った。  執行委員会は三矢組の最高幹部会である。  この会議は十人衆および八十八人の直系若衆、四名の隠居によって構成されている。  三矢組の最終意志決定機関であり、若頭の選出や三矢組の浮沈に関わるような重要事項を討議、決定する。  この執行委員会を制する者が三矢組を構成する四百九十八団体、一万五百六十人の組員を支配することになるのである。 「北島の、そうも楽観していられねえよ」  新川が言った。 「楽観していられないとは、どういうことだ」 「おれたちが若頭補佐を解任されて、同志から抜ける者が続出しているぜ。この調子では、執行委員会の過半数を割ってしまう。へたをすると反主流どころか、少数派になってしまうぞ」 「なんだと」  北島の顔色が変わった。 「中尾や小寺も危ねえもんだぜ。あいつら最近、吉岡に色目を使ってやがるからな」  新川に言われて、中尾と小寺が最近、あまり顔を見せないことに気がついた。顔だけではなく、電話もかかってこない。  これまで北島の羽振りがよかったころは、彼を主軸に新川を含めて三矢組の四天王として幅を利かせていた。 「まさか小寺や中尾が……」 「油断はできねえぜ。吉岡に取り入って若頭補佐に返り咲きてえのさ。落ち目になったおれたちには用はねえというわけさ。あいつらにしてそうだから、直若の同志はどんどん鞍替《くらが》えしてやがる」  新川が忌ま忌ましげに言った。  だが、その新川自身すら信用できない。  北島も事態がおもった以上に深刻なことを悟った。 「吉岡の下風に立つくれえなら、三矢組の盃《さかずき》を返した方がましだよ。おれは腹をくくってるんだぜ」  北島はまなじりを決するように言った。 「北島の……」  新川が驚いた表情をした。彼も、まさか北島がそこまでおもいつめていたとはおもわなかったようである。 「北島の、本気か」 「こんなことを冗談で言うか。おれが三矢組から出て行けば、三矢組はがたがたになる。そのときは新川の、あんたも来てくれるな」 「も、もちろんだとも。しかし、なるべくならば穏便にすましたい」 「おれも好き好んで事を構えたいわけじゃない。だが、吉岡の野郎が次代を継ぐのだけは納得できねえ」 「いまちょっと羽振りがいいだけよ。すぐにあんたが盛り返すさ」  新川の口調が懐柔的になった。 「当たり前だ。このまま引っ込んでいられるか。そのことでちょっと考えがある」 「考えってなんだ」 「警察は組長襲撃の黒幕として極新会の若中に目をつけたそうじゃねえか」 「雨飾一家の石黒という野郎だそうだ」 「雨飾一家の組長は今度の事件で指を詰めたな」 「雨飾一家は極新会の中核戦力だよ。その組長が指を詰めたんだから無条件降伏だな」 「さぞ三矢組を怨んでいるだろうな」 「表面は手打ちをしたが、腹の内は煮えくり返っているだろうよ」 「雨村や石黒にナシをつけたい(話をしたい)」 「なんだって」 「政府がよく使う手さ。政権争いに頭数が揃わないとき、野党と手を結んで員数をかき集める」 「政治とはちがうぜ。極新会の雨村や石黒とナシをつけてどうするつもりだい」 「やつらを三矢組に引っ張る。極新会はエル・ドラド事件で足許を見られた。大島を身内で処刑したのがやつらの弱腰の証拠よ。石黒が警察に呼ばれても、極新会のトップは知らん顔をしていた。雨村や石黒はしょせんトカゲの尻尾だ。やつらは極新会のトップを怨んでいるかもしれねえ。そこへおれたちが声をかければ、極新会を見限っておれたちに付くかもしれねえよ」 「雨村や石黒を三矢組に取り込もうと言うのかい」 「三矢組じゃねえ。おれたちに取り込むんだ。看板は三矢組だがな、三矢組内部の反《アンチ》吉岡連合だ」 「そんな動きが組長や吉岡に知れたらどうする」 「どうってことねえよ。傘下への取り込みは当事者同士の下相談が決まってから執行委員会にかける。これまでもそうだった。雨飾一家との提携なら、執行委員会は文句を言わねえよ」 「きっと吉岡が反対するぜ」 「吉岡が反対しても、組長の鶴の一声があればどうにもならない」 「組長がオーケーするかな。自分を狙った黒幕だぜ」 「組長は喜ぶさ。最強の敵を傘下に組み込むんだ。役にも立たねえ腐れ指の五、六本をもらうのよりもずっといい」 「雨村や石黒が極新会を裏切っておめおめと三矢組の盃をもらうかな」 「まず断らねえね。やつらをトカゲの尻尾として切り落とした極新会のトップの冷たさが身に沁《し》みているだろう。大島を殺したのもトップの指令にちがいない。石黒は警察から呼ばれたとき、エル・ドラド事件は極新会と関係なく大島が勝手にやったことだという態度を取った。  三矢組と極新会が全面衝突しそうになったときも、指《エンコ》を詰めたのは雨飾一家以下末端の若中ばかりで、本家の幹部連は涼しい顔をしていた。雨村や石黒は極新会本家の冷たさが身に沁みているにちがいねえ。そこをおれたちが三顧の礼で手厚く迎えてやるというわけさ。やつらは必ず来るよ。雨飾一家と石黒を取り込めば、すぐに盛り返せる」  北島の愚痴っぽい口調が次第に熱を帯びてきた。 [#改ページ]   腹中の黒幕      1  佐川詩乃は鶴田正純を失ったダメージが心身の深いところにじわりじわりと効いてくるのをおぼえた。  最初、悲報を受けたときは茫然《ぼうぜん》として我を失っていた。  鶴田が死んだ実感がない。  前夜というより数時間前に、明日キャンパスで会おうと言って別れた鶴田が、もはやこの世の人間でないということが信じられない。  警察の事情聴取を受けても、なにを聞かれ、なにを答えたのかよくおぼえていない。  夢とうつつの境を夢遊病者のようにさまよっている。  時間が経過して、最初の驚愕《きようがく》と衝撃がおさまってくると、ようやく事態が見極められ、心身に受けたダメージの深さを覚知《かくち》できるようになった。  いまどきの若者には珍しく、詩乃と鶴田はプラトニックな関係であった。  結婚まではと形式に縛られて抑制していたわけではない。求められれば、いつでもその用意があった。  だが、二人ともたがいの愛を信じて肉体の確認をべつに急がなかっただけである。それだけ二人の愛に余裕があったわけである。  愛が希薄だったり、まったく欠けたプレイであったりすれば、性的な交わりが先行していたかもしれない。  たがいを信頼し、愛に自信と余裕があったので、急いで貪《むさぼ》り合う必要がなかったのであろう。  鶴田を失って、彼が自分の心身の中に占めていた比重の大きさが改めてわかった。  悲報を受けた直後は、彼を失った事実がよく理解できなかったので、ダメージも他人事のように距離があった。  それが鶴田の死がまぎれもない事実であるのを悟って、彼の喪失の意味を心身の痛みとして実感できるようになった。  それは絶対的な喪失であって、彼を取り戻すことは決してできない。 (どうして死んじゃったのよお。明日、キャンパスで会おうと約束したじゃないの。正純の嘘《うそ》つき)  瞼《まぶた》に描いた鶴田の面影になじっても、彼は当惑したような笑みを浮かべているだけである。  就職が決まったら上高地に一緒に行く約束をしていたのに、私一人で行けと言うの。いくらなじっても、鶴田は決して応えてくれない。  上高地で二人はステディ(性的な関係)になったであろう。それを暗黙の楽しい約束にしていた。  こんなことになるとわかっていたら、もっと早くステディになっておけばよかったと悔やんでも後の祭りである。  もしかすると、鶴田はこのことを予感して、詩乃の身体に手を触れなかったのかもしれない。  鶴田の愛を信じながらも、一抹の危惧《きぐ》を抱いていたのは、詩乃の本能的な予感が働いたのであろうか。  その予感が最悪の形で的中してしまった。  詩乃は鶴田を失ったダメージを実感するようになると同時に、怒りが目覚めてきた。  彼を殺した犯人が憎い。  鶴田の責に帰すべき理由で殺されたのでないことには自信がある。  鶴田が見過ごせなかった不正や無法のために殺されてしまったのだ。  鶴田が殺されて約半月後、大島岩男の死体が発見された。  彼の死体と一緒に鶴田がいつも持っていた呼び子が現われた。  警察は鶴田と大島の殺害事件が関連していると見ているようである。  報道によると、鶴田の刺し傷と大島の刺し傷が同じ凶器を用いてつくられたことが確認されたそうである。  同一犯人が鶴田と大島を殺害したのだ。  鶴田はどうやら暴力団の抗争に巻き込まれて殺されたらしい。  警察は大島殺しの傍杖《そばづえ》を食ったと見ているようである。  傍杖で二十一歳の青春が無法に摘み取られてしまったのだ。  許せない。暴力団が縄張り争いをして死ぬのは勝手だが、市民を巻き添えにすることはないだろう。  しかも将来、どんな花を開くかわからない可能性の若芽を摘み取ってしまった。その可能性は詩乃が共有しているものであった。  詩乃は事件に関するあらゆる報道記事を集めた。  大同小異であったが、殺された暴力団員の内縁の妻のインタビューを載せた週刊誌があった。  彼女はインタビューの中で、犯人が憎いと語っていた。  報道によると、内妻の名前は野上晴江《のがみはるえ》という。  暴力団員が殺されたのは身から出た錆《さび》でもあろうが、その家族や身寄りの者の怒りと悲しみは同じである。  詩乃は晴江に会ってみたくなった。  会って、悲嘆を分かち合おうというのではない。分かち合えるものでもない。もしかしたら、被害者の妻として犯人の心当たりか手がかりを知っているかもしれない。  警察は当然、彼女を取り調べているであろうが、愛する者を失った共通項を抱えている者には、警察には話さなかったようなことを洩《も》らすかもしれない。  大島の住所は報道されている。彼の住居に行けば、彼女に会えるだろう。  おもい立った詩乃は、直ちに行動を起こした。  大島の住居は横浜市南区の運河のようなどぶ川のかたわらに建っているアパートであった。  周辺は一杯飲み屋や簡易宿泊所、いわゆるドヤが密集している。  コインランドリーが目立つのは、簡易宿泊所に洗濯の設備がないからであろう。  表通りに動く人影は少ないが、立ち飲み屋の前に男たちが群がっている。表通りから派生する路地は細く暗い。そんな角にはたいてい目つきの鋭い男がたたずんでいる。白昼の路傍に酔って寝ている者や、放散した視線を宙に投げてうずくまっている者が目立つ。乾いた小便の臭《にお》いが街に沁みついている。  ここに死体が転がっていても、泥酔して寝込んだ者との区別がつかないだろう。  目つきの険しい正体不明の男たちが街角をうろうろしている。  どぶ川から立ち上るメタンガスのにおいに、路上に沁みついたアルコールや酔漢の嘔吐物《おうとぶつ》が渾然《こんぜん》となって、この町の醸《かも》し出す瘴気《しようき》のように漂っている。  路傍のところどころに雨も降っていないのに水が溜《た》まっている。どうやら放尿の跡らしい。  街角にたたずんでいた男たちが、詩乃の方に不審と警戒の視線を向けた。これがいわゆる麻薬の売人と呼ばれる人種であろうか。  ホステスと報道されていた晴江の職業から在宅率の高い昼間を狙《ねら》って来た。ようやく川岸に探し当てたアパートの一室に、大島の表札は残っていた。  ドアの脇に空の店屋物の食器が出されていて、住人の生活の痕跡《こんせき》が認められた。  食器が綺麗《きれい》に洗われているのを見て、詩乃はなんとなくほっとした。  一度、深呼吸をしてからブザーを押した。  屋内に人の動く気配があって、ドアホーンから、どなたと誰何《すいか》する機械的な声が返ってきた。 「私、佐川と申します。大島岩男さんの奥さんですか」  詩乃はドアホーンに話しかけた。 「大島の家内だけれど、なにかご用ですか」  相手の声が身構えた。 「突然お邪魔いたしまして失礼ですが、大島さんのことについておうかがいしたいことがございます。ちょっとお会いいただけないでしょうか」 「あなた、警察かマスコミの人」  相手の声が問い返してきた。 「いいえ。ご存じないかとおもいますが、大島さんの事件の巻き添えを食って殺された鶴田正純という者の婚約者です」 「巻き添えを食ったって? そんなこと知らないよ。もう全部話しちゃって、新たに話すことなんかなにもないわよ」  相手はにべもなく言った。 「週刊誌を読みました。私も犯人が憎いのです。大島さんを殺した犯人と鶴田を殺した犯人は同一人物の疑いがあります。お手間は取らせません。ちょっとお会いいただけないでしょうか」  詩乃は必死に訴えた。 「同じ犯人だって?」  相手の声が興味を持った。 「そうです。死体の傷も同じ凶器で刺されたもので、鶴田が生前持っていた呼び子が大島さんの死体と一緒に埋められていました」 「そう言えば、そんな話を聞いたわね」  錠を外す音がして、ドアが細めに開いた。  化粧をしていない二十代後半と見える女が顔を覗《のぞ》かせた。  ヤクザの愛人ということでさぞや強面《こわもて》のあばずれ女であろうと身構えていたところが、丸顔の意外に優しげな面立《おもだ》ちをしている。  彼女は詩乃に観察の視線を向けると、ドアを広く開いて、 「入んなよ」  と顎《あご》をしゃくった。  玄関ドアを入ると、線香のにおいがした。  室内は2DK、どぶ川に面して窓があるが、閉め切ってある。どぶ川のにおいを遮断するためであろう。  蒸し暑い季節であったが、クーラーが程よく効いている。  室内は整頓《せいとん》されている。ヤクザと情婦の巣というと、いかにも自堕落で放縦《ほうしよう》な暮らし振りが想像されるが、室内の隅々まで清掃が行き届き、家具や什器《じゆうき》も工夫された位置におさまっている。  どぶ川に面した六畳の和室に小さな仏壇があって、大島の遺影と位牌《いはい》が飾られている。  仏壇は新品で、突然の死によって購入されたことがわかる。  仏壇の新しさに、それを買った者の悲嘆と衝撃の深さが象徴されているようである。 「お線香をあげさせていただけますか」  詩乃は言った。  詩乃の最初の申し出が晴江の心証をよくしたらしい。  焼香すると、晴江はコーヒーを淹《い》れていた。 「どうぞおかまいなく」  詩乃は恐縮した。 「あの人、コーヒーが好きだったの。美味《おい》しいコーヒーを飲ます店があると聞くと、遠くまで出かけて行ったわ。せいぜいツッパッてはいたけれど、気が小さくて、ヤクザには向いていなかったのよ。いまに見ていろ、大きな命《たま》取りをして金バッジを付けてやるって息巻いていたけれど、金バッジどころかこんな小さな仏壇におさまってしまって、喫茶店のおやじにでもおさまっていれば幸せだったのに、馬鹿な人よ、ほんとに」  晴江は言った。  彼女が淹れてくれたコーヒーは大島に鍛えられただけあって香りが深く、こくがあった。 「恋人が殺されたんだって」  晴江が水を向けてきたのをきっかけに、詩乃は鶴田が殺された前後のいきさつを詳しく話した。 「話を聞いてみると、たしかにあなたの恋人と大島を殺したのは同じ犯人のようだわね。大島は自業自得だから仕方がないところもあるけれど、あなたの恋人は傍杖を食って死んだのでは、死んでも死に切れないでしょう。同情するわ」  晴江は言った。 「たとえ身から出た錆で殺されても、犯人が憎いことには変わりありません」  詩乃の言葉に晴江は、よく言ってくれたというように、 「大島は組に利用されたのよ。あの人、極道になんか向いていなかったのに、煽《おだ》てられて引っ張り込まれて、組織の鉄砲玉にされちゃったのね。あの人、口癖のように言っていたわ、つまらない喧嘩《けんか》でこしゃな(小さな)ことをしていては、いつまでたってもうだつが上がらない。使い走りの便利屋にされるだけだ。いまに見ていろ。大きな抗争で走って(手柄を上げて)つとめに行き(服役して)、出所のときには何千もの組員が行列つくって出迎えるような身分になってやる。そうなったら、おまえも姉《あね》さんだ。大勢の子分にかしずかれて一生|左《ひだり》団扇《うちわ》で暮らせるぜって。私は姉さんなんかにならなくてもいいから、斬った張ったのない穏やかな暮らしをしたいと言うと、いまさら芋引いて(頭を下げて)生きられるかって怒ったわ。  大きな命《たま》取りを狙って、結局、自分の命《たま》を取られちゃったのよ。もう好きなコーヒーも飲めないじゃないの」  晴江は怨《えん》ずるような目を仏壇の方に向けた。 「警察は大島さんの組長だったという石黒恭平に任意同行を要請しましたが」 「ふーん、石黒もトカゲの尻尾《しつぽ》よ。本当に悪いやつは上の方で笑っているわ」 「すると、極新会の組長……」 「極新会では三矢組の仕返しを恐れて、大島が勝手にやったことだと言い張っているわ」 「そんな言い訳は三矢組に通らないでしょう」 「もちろんよ。でも、できれば全面抗争を避けたい三矢組としては、極新会の弁解を一応受け入れて、大島一人の勇み足にして手打ちをしたわ。大島は三矢組と極新会のスケープゴートにされたのよ」 「大島さんに三矢組長|狙撃《そげき》の命令を出したのは、本当のところだれなんでしょう。あなたは大島さんからそのことを聞いていませんか」 「警察からもしつこく聞かれたわ。でも、大島はその辺はとても口が固いのよ。私にも言わなかったわ。だからこそ、鉄砲玉に選ばれたとおもうんだけれど」 「石黒は結局、否認し通したのでしょう」 「締め上げれば簡単に吐くとおもっていたらしいけれど、警察の見込みちがいだったらしいわよ。  それにあなたの婚約者が殺された夜は、石黒にはアリバイがあったのよ。北海道の大親分の義理がけに行っていて、その夜は札幌のホテルに泊まっていたということがわかったの」 「三矢組の組長を狙撃した後は、こちらへ帰って来たのですか」 「いいえ、この家には寄りつかなかったわ。警察と三矢組の手がまわることはわかりきっていたから。事実、事件の後、刑事がずっと張り込んでいたわ」 「大島さんは事件の後、すぐに殺されてしまったのでしょうか」 「一ヵ月くらいはどこかに隠れていたのかもしれないわ」 「奥さんに連絡はなかったのですか」 「盗聴されているかもしれないから、当分、連絡しないと言っていたわ」 「事件前になにか奥さんに言いましたか」 「一発でかいことをやるけれど、心配するなと言っていたわ。私が危ない真似はしないでと言うと、心配するなの一点張りで、詳しいことはなにもおしえてくれなかったのよ」 「事件後、すぐに殺されてしまったとは考えられませんわ。死後経過も半月から二十日くらいということでした。とりあえず石黒か雨飾組に庇護《ひご》されて、三矢組との手打ちが成立した後、殺されたのだとおもいます。すると、犯人として最も疑わしいのは石黒ということになりますわ」 「私もそうおもうわ。警察も同じように疑ったので、石黒に任意同行を求めたのよ」 「でも、石黒が殺したという証拠はなく、結局、逮捕できなかったんでしょう」 「そのことでちょっと変なことを小耳に挟《はさ》んだのよ」 「変なことってなんですか」 「大島に好意的な雨飾組の組員の一人がそっと洩らしてくれたのだけれど、雨村と石黒に三矢組から密《ひそ》かに声がかけられたそうよ」 「三矢組から声がかけられた」 「スカウトよ。極新会を辞めて三矢組へ移らないかと誘いの声がかかったんだって」 「それ、本当ですか」 「そのことを洩らしてくれた組員は信用できるわ」 「警察はそのことを知っていますか」 「たぶんまだ知らないとおもうわ。組の幹部だけの極秘情報だから」 「それで、雨村と石黒は三矢組へ移るのですか」 「それはまだわからないけれど、今度の事件で極新会は大島の襲撃を極新会とは関係ない、雨飾一家の勇み足ということにしているので、雨村や石黒は怒っているわ。つまり、雨飾一家はトカゲの尻尾にされたのよ。でも、ただの尻尾ではないわ。雨飾一家が三矢組へ移ったら、極新会はがたがたになってしまうわよ」 「極新会としても雨飾一家を切り離したのは相当の覚悟だったでしょうね」 「警察と三矢組の挟み撃ちにされて、背に腹は替えられなかったのよ。三矢組はそこを狙って雨村と石黒に声をかけてきたのよ。さすがに極新会の足許《あしもと》をよく見ているわ」 「足許を見られることを知っていながら、三矢組組長を襲ったのですか」  詩乃は言った。 「だから、雨飾一家や大島の勇み足だと言うのよ。極新会がこの時期に警察と三矢組に口実をあたえるような鉄砲玉を、三矢組に送り込むはずがないと言うのよ」 「いま、ふとおもい当たったのですけれど、もし大島さんが三矢組組長狙撃に成功したら、どういうことになったでしょうか」  詩乃に言われて、晴江の表情がはっとなった。  そのことについては、これまで考えたことがなかった。大島の組長暗殺は未遂に終わり、三矢尚範は一命を取りとめた。  だが、もし当夜、三矢が死んでいたとすれば、極新会が何本指をつめても、また大島の身柄を引き渡しても、三矢組との手打ちは成立しなかったであろう。  となれば、極新会としても腹をくくって全面対決にならざるを得ない。  その前に三矢組の次代組長を選任しなければならない。  三矢組はなんと言っても当代組長三矢尚範の圧倒的な侵略主義的戦略と、強力な指導力によって束ねられている。  だが、一枚岩の団結を誇っても、あまりにも大屋台になりすぎた内部には、十人衆以下八十八名の直系若衆がそれぞれの派閥をつくって、次代組長のポストを虎視|眈々《たんたん》と狙っている。  特にナンバーツーマンの若頭上山直秀の健康がすぐれず、その引退が噂《うわさ》されるようになってから、若頭のポストをめぐって派閥抗争は一段と熾烈《しれつ》になったという。  晴江の表情が改まったのも、その辺の事情を物語っているようである。 「そうだわ。大島が失敗したことだけを見ていたけれど、三矢の命《たま》を取っちゃったらどうなったかしらね」  晴江は新たな窓を開かれたような顔をした。      2  この時期、三矢組の主流派と極新会の上層部を愕然とさせるような事件が起きた。  極新会の戦力の中核をなしていた雨飾一家の雨村功と、同家の斬《き》り込み隊長石黒恭平が極新会を脱退して、三矢組の前若頭補佐、一竜会の傘下に入ったのである。  雨村功は北島の舎弟となり、石黒は一竜会の直若となった。  一竜会会長北島竜也はエル・ドラド事件の責任を取って若頭補佐から降りたが、上山若頭を継ぐ最有力候補として三矢組内に最大の勢力を張っていた。  エル・ドラド事件によって降格したものの、三矢組の執行委員会(最高幹部会)の中で最大派閥のリーダーであることに変わりない。  雨村と石黒はエル・ドラド事件の手打ちの際、指を詰めている。  事件は極新会に関係なく、雨村と石黒が功を焦って大島に三矢組長狙撃を指令したとされたが、三矢組がそんな言い抜けを信じるはずがない。  三矢組としても、この際、全面抗争は不利と判断し、最大限の譲歩をして手を打った。  六本の指と、大島岩男の身柄引き渡しを条件に、辛うじて三矢組の面目を立てたのである。  雨飾一家の一竜会参加は、執行委員会に報告されるまで、吉岡祥文は知らされなかった。  この件に関して、吉岡は完全に蚊帳《かや》の外に置かれていた。 「北島の野郎、はめやがったな」  吉岡は歯噛《はが》みした。  一竜会への雨飾一家吸収は、エル・ドラド事件で降格した北島の巻き返し作戦である。  極新会の戦闘部隊雨飾一家の吸収は、一竜会の勢力を確実に強化する。 「さすがは北島です。いいところに目をつける」  吉祥組の若頭、大学出のインテリで、吉岡の懐刀である谷崎賢次《たにざきけんじ》が言った。  これまで極新会の武闘派として血路を斬り開いてきた雨飾一家としては、極新会からトカゲの尻尾として切り離され、忠義立てをする必要がなくなったというわけである。  もはや極新会を怨みこそすれ、忠誠を尽くす義理などない。  切り離されたトカゲの尻尾がどこへ行こうと勝手である。 「笑ってる場合じゃねえぞ。雨村や石黒を抱き込んだ北島が、執行委員会に圧力をかけてくるのは目に見えている。エル・ドラド以後、せっかくこっちへ傾きかけた連中までが、また北島の方に戻りかけている」  吉岡が苦い顔をした。 「いまさら北島が雨村や石黒を抱き込んでも、大勢に変わりありません。執行委員会は組長が握っていますよ。北島が雨飾一家を抱き込んだんなら、こちらは極新会そのものを取り込んだらどうです」  谷崎はにやりと笑った。 「なんだって」  吉岡の顔色が改まった。 「雨飾一家に抜けられて、極新会はうろたえています。そこを狙って専務理事で会長代行の香川に誘いをかけるんですよ。雨飾一家に抜けられては、極新会は三矢組に対抗できません。三矢組の主流派の吉祥組組長から声をかけられれば、香川は尻尾を振って来るでしょう。  上山若頭の引退は時間の問題です。そうすれば、組長(吉岡)の昇格は必至です。そのとき、北島は正面から反対してくるでしょう。三矢組長はエル・ドラド事件以来、空気が抜けたようになって指導力が衰えています。上山引退後の新若頭選挙のとき、三矢組は分裂するかもしれません。そのとき極新会と手を組んでいれば、北島の率いる反対派なんぞは恐るるに足りません」  谷崎の言葉は日本最大の組織暴力団の勢力地図の塗り替えを示唆していた。  これまで対立していた三矢組と極新会がそれぞれ分裂と提携をして、吉岡の主導する三矢組・極新会連合と、北島の率いる一竜会・雨飾一家連合に二分されるかもしれない。  飽くことなき侵略と流血によって強大化し、しのぎを削り合った宿敵同士が、発達し切った積乱雲のように内部から分裂し、再編成されようとしている。  このあたりは政界の派閥争いと再編成によく似ている。  ボスの指導力が衰えれば、二番手、三番手がボスの座を争って派閥は流動する。  権力を得るためには、昨日の敵と手を結ぶことも辞さない。むしろ派閥内部の近親憎悪の方が激しい。  当代から次代への跡目相続において、総意の継承ということがほとんどあり得ない以上、跡目相続争いは避けられない。  エル・ドラド事件以後、三矢組長の指導力がめっきり衰え、上山若頭の健康状態がおもわしくなく、三矢組内部の派閥抗争は急速に加速されてきている。 「谷崎、それはいい考えだ。早速、香川に打診してみてくれ。ただし、香川の野郎も一筋縄ではいかねえからな。足許を見られないようにしろよ」  吉岡が言った。  現在、柿沢は服役中で、香川が会長代行を務めている。柿沢も逮捕《パク》られてからめっきり弱気になって、獄中で香川に跡目を譲って引退したいと言い出している。  雨飾一家に反旗を翻され、動揺している極新会に誘いをかける絶好のチャンスであった。      3  雨村功と石黒恭平が三矢組一竜会の傘下に入ったことは、警察をも驚かせた。  鶴田殺し、大島殺しのその後の捜査は膠着《こうちやく》している。  石黒は赤坂署から任意同行を求められ、否認を通した。鶴田殺しについては、石黒にアリバイが成立した。  結局、石黒は灰色のまま、逮捕状発付に至らなかった。完全な赤坂署の勇み足であった。  捜査は壁に打ち当たり、なんの進展もしない間に、雨村と石黒は一竜会の傘下に入ったのである。  これに対抗して、三矢組系吉祥組組長吉岡と極新会の会長代行との間で縁談が進められているという情報が捜査四課からもたらされた。  三矢組次代襲名をめぐって対立をしている吉岡祥文と北島竜也が、それぞれの勢力強化を図っての抱き込みと縁談であると捜査四課から知らされた棟居は、ふと首をかしげた。  膠着した捜査の盲点が、捜査四課のもたらした情報の中に潜んでいるような気がした。 「たしか吉岡祥文は三矢組長が狙撃されたとき、現場に居合わせませんでしたね」  棟居は石井に言った。 「いませんでした。そのため、それまで跡目相続で一馬身差をつけられていた北島を抜いて最有力候補として飛び出して来たのです」 「現場に居合わせた北島以下四人のボディガードは、いずれも降格されたそうですね」 「三矢が撃たれたとき、ボディガード役として同行していた四人は、三矢組十人衆の中の四人ですが、組長を守り切れなかった責任を問われて、全員降格しました」 「そのとき、吉岡はなぜ同行しなかったのでしょうか」 「吉岡が同行しなかった……?」 「吉岡が同行していてもおかしくない顔触れです。降格された四人は、吉岡を加えて三矢組の五星と言われていたそうです」 「吉岡は都合が悪かったんでしょう」 「吉岡の都合というのが気になりますね。吉岡は故意に同行しなかったのではないでしょうか」  棟居の口調が重大な示唆をしているように石井には聞こえた。 「故意に同行しなかったというと、まさか……」  石井の表情がはっとなった。 「そうです。もしかして、吉岡は大島の襲撃を予知していたのではないでしょうか」 「吉岡がどうして予知できるのですか」  石井はまだ棟居の示唆の重大性がよく理解できないようである。 「つまり、大島の黒幕は吉岡であったということです」 「なんですって」 「エル・ドラド事件後の経緯をよく見てください。あの事件以後、北島から一馬身開かれていた吉岡が抜き返して、跡目レースの最先頭に立ったのです。つまり、吉岡はエル・ドラド事件で最も利益を受けています。大島の暗殺は未遂に終わり、三矢組長は危うく一命を拾いましたが、もし大島が首尾よく三矢の命を取っていたら、北島以下四人のボディガードは降格どころではすまなかったでしょう。大島が失敗してくれたおかげで、北島らの首は辛うじてつながったと言えましょう。へたをすれば北島は切腹ものでした」 「すると、大島は吉岡の指令を受けて三矢組長を襲ったと……」 「その可能性を阻むネックは特にありません。  極新会は最初から大島の行動は関わりないことだと主張していました。その言葉は本当だったかもしれません。実際、極新会がいま三矢組と事を構えても、なにもいいことはありません。三矢組と全面戦争するだけの兵力はなく、警察との挟み撃ちにされて、組織が壊滅されるかもしれません。雨村や石黒にしても、極新会の指令を受けず単独で三矢組に挑戦したとはとうてい考えられません。もしそれだけの意気地があれば、さっさと白旗を掲げて指を詰めたり、一竜会の誘いに乗ってその傘下に加わったりしないでしょう」 「自分たちの関わり知らぬことに、なぜあっさりと三矢組の条件を入れて手打ちに応じたのですか」 「応ぜざるを得なかったでしょう。大島とは関係ないと言い張っても、通るはずがありません。身におぼえのないことであっても、組織の存続のためには三矢組の条件を呑んで手打ちに応ぜざるを得なかったのです。つまり、背に腹は替えられなかったのです」 「すると、大島を殺したのも……」 「吉岡の意志かもしれません。大島が警察、または三矢組、極新会いずれの手に捕まっても、口を割られたら、吉岡は袋叩《ふくろだた》きにされます。襲撃に失敗した大島を逸速く抹殺して、山の中に埋めた。吉岡にとって、大島の口さえ封ずれば安全です」 「しかし、大島が吉岡の指令を簡単に聞きますか。吉岡は宿命の対立組織の大幹部ですよ」 「だからこそ、彼の指令を聞いたとも考えられます。大島は功を焦っていました。功名心が強く、一発大きな命《たま》取りをして金バッジを付ける身分になることを最大の夢としていました。そんな大島にうまい餌《えさ》を投げ出せば、引っかかるのは目に見えています。三矢組の組長を撃て。事が首尾よくいったら、吉岡が次代組長を襲名して大島を大幹部に取り立ててやると誘えば、功名に逸《はや》っている大島は手もなくかかるでしょう。  当夜、三矢尚範がエル・ドラドに行くことは限られた人間しか知らないはずです。三矢の行動が大島に筒抜けになっていたことも、吉岡が黒幕であれば納得できます。吉岡が手引きして三矢の席の近くに大島を待ち伏せさせていたのでしょう。そうでなければ、三矢の席の近くに潜んでいることはできません」 「なるほど、そのように考えると、すべて辻褄《つじつま》が合いますね。しかし、証拠がない」 「そうです。すべてが憶測だけで、証拠がありません。吉岡が黒幕であれば大島には固く口止めしていたはずです。大島も吉岡の命令を守ったはずです。また証拠になるようなものは一切消去したにちがいない。  もし露見すれば、吉岡はこの業界で生きていけなくなります」 「大島殺害の現場を鶴田が目撃したとすれば、これはどうあっても鶴田を生かしておけなくなりますね」 「その現場に行き合わせたのが鶴田の不運と言えます。鶴田はただ現場に行き合わせただけではなく、犯人と面識があったかもしれません」 「鶴田が吉岡と面識があったのですか」 「いや、吉岡自身とはなくとも、吉岡の意を受けて大島を殺した刺客と面識があったかもしれません」 「これまで鶴田と吉祥組の刺客との関係はまったく捜査の対象になっていませんでした」 「吉祥組の刺客が大島を殺害する場面を目撃されただけでも、吉祥組にとっては一大事です。ましてや、刺客が目撃者と面識があったとしたら、これは絶対に生かしておけなかったでしょう」  鶴田は組長襲撃の現場にアルバイトをしていて居合わせた。刺客と面識があった可能性は充分にある。棟居の新しい着眼を捜査会議に提出した。  棟居の新視点は捜査本部に波紋を投じた。それはこれまでおもってもいなかった視点であり、発想の転換である。 「たしかに新しい視点ではあるが、あまりにも突飛ではないか。同行した四人組が三矢尚範を守り切れなかった責任を取らされて降格したが、もし完全に守り通して刺客を撃退すれば、四人組はむしろ手柄を上げたことになって、吉岡の出る幕はなくなるだろう」  山路が反駁《はんばく》した。 「ボディガードというものは組長を守り通して当たり前、守り通せなかった場合にのみ責任を取らされます。ですから、大島がし損じても吉岡にとってはもともとです。大島がし損じて現場で返り討ちにあってしまえば、彼を処分する手間も省けます」 「それにしても危険すぎる。大島がし損じて捕まった場合はどうなる」 「現場に居合わせた小寺秀一と中尾常雄は吉岡の隠れシンパです。万一、大島がし損じたときは、小寺と中尾が大島に止どめを刺す手筈《てはず》だったのではないでしょうか。ボディガードが刺客を返り討ちにしてもなんら疑いを持たれません。  また小寺と中尾がいったん降格されても、吉岡が次代を襲名すれば、速やかによりよい位置に返り咲けます。いずれにしても大島は逃れられない運命にあったのです」 「吉岡が大島の黒幕であったとしても、なんの証拠もない。すべては推測の積み重ねではないか」 「吉祥組と鶴田のつながりを調べてみるのは無駄ではないとおもいます。もし両者の間になんらかのつながりがあれば、私の仮説が一歩推し進められるわけです」  棟居が主張した。  山路は反駁したものの、棟居の着眼を否定しているわけではない。  膠着した捜査に新たな進路を打開するような予兆が感じられた。 [#改ページ]   同学の暴系《ぼうけい》      1  八月十三日、驚天動地の事態が三矢組に発生した。  三矢組のみならず極新会系、三矢組系、反三矢組系を問わず、全国の暴力団に事件は衝撃波となって駆け抜けた。  この日、午前七時ごろ、いつものように渋谷区|松濤《しようとう》の自宅の寝室から起きた三矢尚範は洗面所へ入った。  エル・ドラド事件で受けた傷がようやく塞《ふさ》がり、いまは自宅で療養している。  午前中は庭に面した二十三畳の執務室に入って幹部から報告を受け、ひっきりなしにかかってくる電話の中から、幹部が取り次いだ重要な電話にだけ応え、何本かの電話をかけ、好物のそばで昼食後は居室でテレビを見たり本を読んだりして過ごす。  週二回、医師の往診を受け、気が向くと麻雀卓を囲む。  業界の義理がけは幹部が代行して、ほとんど外出はしない。  その朝、洗面所に入った三矢がなかなか出て来ないので、仕込子(見習い組員)が覗いて洗面所の床に倒れている三矢を発見した。  仰天して抱き起こしたが、すでに意識がなく、昏睡《こんすい》状態であった。  かかりつけの医者が駆けつけて来たときは、すでに息がなかった。  多年にわたる緊張の継続は過度のストレスを蓄え、運動不足と美食漬けが彼の身体を成人病の巣にしていた。  その朝、すでに風邪をひいた(老化して役に立たなくなる)ゴムのように脆《もろ》くなっていた脳血管が破れて内出血を来たし、脳が破壊されてしまったのである。  エル・ドラド事件で重傷を負ったものの、幸いに急所を外れた。その後回復が著しく、だれも彼の突然の死を予想もしなかった。  狙撃以後、精気が抜け、以前の覇気は見られなくなったが、性格が温和《マイルド》になって、悠々自適の好好爺《こうこうや》の雰囲気になっていた。  指導力は衰えたものの、まだまだ当代は健在であった。次代襲名をめぐっての暗闘は水面下に隠されていた。  これが三矢尚範の急死によって一挙に表面化してきた。  執行委員会は最高幹部および直系若衆の臨時集会を招集し、組長急死後の暫定処置として上山直秀を組長代行に据え、故三矢尚範の一周忌を迎えるまで次代選出は凍結することに決議した。  この最高幹部会議および臨時集会にはエル・ドラド事件によって降格していた北島竜也以下四人の幹部も出席した。  三矢組には大別三つのグループがある。  第一グループは、三矢組創設以来の旗本若衆である。吉岡祥文や北島竜也以下五星、四天王がこのグループに属する。  第二グループが、三矢組と義兄弟縁組の盃《さかずき》を交わした兄弟分である。十人衆のうち二人は第二グループに属する。  第三は、他系統の組織から三矢組の傘下に転じてきた外資導入組である。十人衆のうち二人はこのグループに属する。  これが血筋別のグループであるが、これがさらに勢力別に色分けされる。  三矢組には代紋を象《かたど》る三本の矢に象徴されるように、三大派閥がある。  第一派閥は上山直秀を領袖とするもの、第二派閥は北島竜也に率いられるもの、第三派閥は吉岡祥文をリーダーとするものである。  これまで第一派閥が主流派であったが、上山が健康を損なって引退をささやかれるようになってから、第二派閥の北島派が伸長してきた。これがエル・ドラド事件によって第三位派閥であった吉岡祥文が第一位に躍進した。  そこに降って湧いた三矢組長の急死である。北島派は極新会雨飾一家を吸収し、吉岡派は極新会と提携の形で傘下に治めた。  目下、北島派と吉岡派は勢力伯仲して、一年と期限を切って棚上げされた次代襲名問題の行方は予断し難い。  吉岡、北島いずれが三矢組の次代を継いでも波瀾《はらん》は必至である。  とりあえず三矢尚範の葬儀委員長をだれにするかで、執行委員会と臨時招集された直若全体集会は紛糾した。  本来なら上山直秀が葬儀委員長を務めるところであるが、最近、症状が悪化して病床に縛りつけられている彼には、とうていこの大任は果たせない。  葬儀委員長は次代襲名に向かってレールを敷くことになる。  吉岡派も北島派もどちらも一歩も引かない。  結局、若頭の上山が病床から折衷案として後継者選出は一周忌まで凍結することにして、極新会の香川を推薦した。  極新会はこれまで三矢組に敵対してきた日本第二の勢力である。  エル・ドラド事件以後二分して三矢組と提携したが、依然として関西全域に押さえが利いている。  極新会は最近、組長代行の香川が吉岡と兄弟分の盃を交わして、三矢組に接近した。  吉岡と対抗する北島にしてみれば、吉岡の代理のような葬儀委員長で、内心はなはだ面白くなかったが、これに反対すると調停に立った上山派を敵にまわし、極新会と真っ向から対立してしまう。  北島は不承不承に上山の調停案を受け入れた。  このニュースが連日、一国の総理の死去と、それに伴う政権交代並みに派手に報道された。  その場面の写真が佐川詩乃の目に触れた。  シャープなダークスーツをぴしりと着こなし、いずれも表情が暗く、視線が強い男たちである。  一人一人を見れば一般人と比べてどこがどうちがうか見分け難いが、集団となるとなんとも不気味な雰囲気を漂わせている男たちのグループであった。  それが三矢組組長の死に急遽《きゆうきよ》駆け集まって来た暴力団員たちである。  彼らの中に記憶に残っている顔があった。どこで出会ったのか咄嗟《とつさ》におもいだせないが、確実に詩乃の人生のどこかで関わっている人物である。 (この人を知っているわ。どこで会ったのかしら)  詩乃は一心に記憶を探った。  おもいだせそうでいて、わずかなところでおもいだせない。  それが偶然のことから、その男の素性が割れた。  鶴田正純の四十九日もすみ、詩乃の許に鶴田家から正純の形見分けが送られてきた。  鶴田が生前愛用していた時計や万年筆と共に、詩乃と一緒に撮った写真があった。  いまとなっては悲しみをそそるだけの鶴田の生前の幸せなスナップである。  詩乃は悲しみを抑えて、送られてきた写真をアルバムに貼《は》った。  おそらく開くのが辛いアルバムとなるであろうが、貴重な遺品である。  送られてきた写真をアルバムに貼って、ページを前に繰った。鶴田と共有した楽しかった記憶が印画紙に定着されて、アルバムに保存されている。  こんなこともあった、あんなこともあった、忘れかけていた顔がアルバムの中から具体的な輪郭を取って一斉に立ち上がってくる。  キャンパス風景、鶴田と初めて出会ったころ、一緒に登った山、学校祭、コンパ、どれをとっても鶴田と共有した青春の一コマ一コマである。 「あ、この人」  アルバムのページを繰っていた詩乃は突然声をあげて、視線をページの一隅に固定した。  そこに貼られた写真の一葉に、報道写真の中の見おぼえのある顔が固定されていた。  写真の下の説明文《キヤプシヨン》には、「OB・現役合同山中湖歓迎ハイク」と書いてある。  ワンダーフォーゲル部が新入部員の歓迎ハイクを山中湖畔に行なった際、撮影した記念写真である。  その中に先輩の一人として、報道された顔写真がおさまっている。  報道写真と異なり表情は明るく、視線は温和《マイルド》である。 「この人、三矢組の人だったんだわ」  詩乃も鶴田も新入部員として同じ写真に入っているが、大先輩として参加した彼には恐れ多くて言葉も交わせなかった。  その男は上級生部員たちから谷崎先輩と呼ばれていたような気がする。  報道写真中の谷崎は三矢組の幹部らしく、サングラス、ダークスーツの威圧的な雰囲気を帯びた男たちの中でも一際存在感があった。  三矢組の組員に同学のワンダーフォーゲル部の先輩がいた。この事実に詩乃は衝撃を受けた。  詩乃が現役中、谷崎がOBとしてワンダーフォーゲル部の活動に参加したのは、このときの歓迎ハイク一度だけであったが、鶴田はその後、谷崎と会っているかもしれない。歓迎ハイクの間も言葉を交わした可能性がある。  詩乃は三矢組に関する報道をすべて集めた。また三矢組について書かれた本を買い集めた。  そして、谷崎が現在、三矢組の第一位派閥となっている吉祥組の若頭谷崎賢次であることを知った。  吉祥組組長吉岡祥文の右腕として、吉祥組を三矢組の第一位派閥にのし上げた知勇兼備のインテリヤクザということである。  谷崎の素性を知った詩乃の胸の動悸《どうき》はしばらく鎮まらなかった。  このことが鶴田の死にどういう意味を持っているのか、すぐにはわからない。  だが、なにか重大な関わりを持ってくるような予感が働いている。  事件発生当時、鶴田はエル・ドラドでアルバイトをしていた。  吉岡は現場に居合わせなかったために責任を免れたが、谷崎はもしかしたら現場にいたかもしれない。  現場にいなかったために責任を免れた……。  詩乃はなにげない自分の思案にはっとなった。  事件以前は北島の後塵《こうじん》を拝していた吉岡が、事件の責任を取って降格した北島に代わって一挙に躍り出たのである。  吉岡はラッキーであった。吉岡の幸運に、彼の軍師谷崎の知恵が働いていたとしたらどうか。  このとき詩乃の意識に大島の内妻晴江と会ったときの場面がおもいだされた。  晴江は大島が極新会からトカゲの尻尾として切り捨てられたと言った。  極新会は切り捨てたのではなく、大島の行動とまったく無関係だったのではあるまいか。  大島は極新会や直属団体の雨飾一家の指令ではなく、谷崎と密かに結びついていたとしたら。  そして、鶴田が谷崎と大島が接触している場面を目撃したとしたら。  大島の三矢組組長狙撃の背後関係は、大島と谷崎のつながりによって一八〇度切り替わってしまう。  詩乃は自分の発想におののいた。  鶴田も二人の関係を察知して、事件の真相を悟ったのではあるまいか。  大島もこのことに関しては口が固かった。大島に最も密着していた晴江すら、なにも知らされていなかった。  晴江がなにか知っていれば、彼女も大島と同じ運命をたどったであろう。  でも、本当に晴江はなにも知らないのであろうか。知っていながら知らない振りをしているのではないだろうか。  あるいは大島から事件の真相を解く重大なキーを預かりながら、気づいていないのかもしれない。  詩乃は自分の発見と発想を一人の胸にたたんでおくのが苦しくなった。  捜査は膠着している模様である。素人の発想であるが、三矢組の幹部構成員に鶴田と同学の先輩がいるという事実は重大である。  警察がすでに探り出していればよけいなお世話であるが、もしまだ知らなければ、今後の捜査に対してなんらかの資料になるかもしれない。  詩乃は鶴田が殺された後、事情を聴きに来た刑事に連絡を取ることにした。      2  佐川詩乃から久し振りに連絡を受けた棟居は、彼女の発見と発想に驚いた。  詩乃の発想は棟居のそれとまったく符合するものである。  棟居も鶴田と極新会のつながりの有無に目をつけたところであった。  詩乃からもたらされた情報は、捜査の前途にまったくべつの光を投げかけるものである。  谷崎が鶴田と同学の、しかも同じクラブのOBとは初めて知った。  吉岡祥文や吉祥組幹部の身上調査によっていずれはわかったかもしれないが、詩乃の発見によってだいぶ時間を稼げた。  谷崎と鶴田を結ぶ共通項は見過ごせない。  棟居は自分の発想が的に向かって一歩近づいたことを悟った。 「あなたの着眼は刑事真っ青ですよ。鶴田君と谷崎賢次が一緒に写っている写真を貸していただけませんか」 「けっこうです。そんなものがお役に立つなら、喜んで提供しますわ」 「お宅におうかがいします」 「お忙しい刑事さんですから、私の方からおうかがいします」  詩乃は電話口で言った。  佐川詩乃から谷崎と鶴田のツーショットを領置した棟居は、かねて彼が胸の内で転がしていたおもわくが具体的に裏づけられたのを悟った。  だが、依然としてそれは棟居の心証の域を出ていない。  谷崎と鶴田が同学であっても、それは一つの偶然にすぎない。要するに吉岡組の軍師と鶴田が同学出身であっただけで、事件の関係者ということにはならない。  だが、棟居のおもわくの通り、仮に谷崎が大島を殺害した刺客であり、その現場を鶴田が目撃していたとすれば、谷崎にしてみれば、なんとしても鶴田の口を封じなければならなかったであろう。  あるいは谷崎は三矢尚範襲撃時にエル・ドラドに居合わせたかもしれない。そしてその事実を鶴田は知っていた。  知っていながら、鶴田は同学の先輩であったからか、あるいは暴力団の複雑な対立関係図を知らなかったので黙秘していたのか。  いずれにしても、谷崎がエル・ドラドに居合わせていたとすれば、鶴田の黙秘もうなずけるのである。  棟居は領置した写真を石井に見せた。 「これは大変なものを手に入れましたね」  石井も驚きの色を隠さない。 「しかし、この写真だけでは、事件における谷崎と鶴田の関係を証明したことにはなりません」  棟居は言った。 「大島との関係はどうですか」 「大島との関係?」 「そうです。谷崎と大島との関係を証明できれば、この写真の価値はぐんと重くなりますよ。  これまでのところ、谷崎と大島の関係は浮かんでおりません。あなたもおっしゃったように、吉岡はエル・ドラド事件で最も利益を受けています。吉岡の軍師谷崎と、大島の間につながりがあったことが判明すれば、谷崎には大島と、ひいては鶴田を殺害する動機が生じてきますよ」  石井に示唆されて、棟居は気がついた。  谷崎と鶴田の間に過去の関係があったとしても、事件になんの投影もしない。  だが、谷崎と大島がつながれば、鶴田との関係が俄然《がぜん》、事件に対して強い光彩を帯びてくる。  棟居は写真を持って大島の内妻の野上《のがみ》晴江に会った。  棟居から谷崎の写真を示された晴江は、首を横に振った。 「知らないわ。大島の生前、いろんな人と会ったけれど、この人には記憶がないわ」  晴江は棟居の失望に終止符を打つように言った。  谷崎(吉祥組)と大島の間になんのつながりもなければ、結局、棟居の憶測は仮説の域を出ない。  だが、谷崎と鶴田の古い関係の発見は、棟居の心証を一層濃いものとした。 [#改ページ]   破綻《はたん》した火薬庫      1  十月十六日、神奈川県M市にある三矢尚範本邸の近くにある市民公園を会場にして、三矢尚範の本葬が執り行なわれた。  葬儀委員長は極新会会長代行香川登、副委員長は三矢組若頭上山直秀、同若頭補佐吉岡祥文、前若頭補佐北島竜也、葬儀準備委員長に同若頭補佐新川真、副準備委員長に小寺秀一と中尾常雄、以下執行委員会(最高幹部会)を構成する四名の隠居および八十八名の直系若衆全員が準備委員となった。  当代二大組織暴力団が提携しての本葬には、全国の名だたる暴力団の親分衆の会葬が予想される。  この本葬に備えて、管轄の神奈川県警は特別警備本部を設けて機動隊、制・私服警官千二百人を動員して、万全の警戒体制を布いた。  会場のM市への玄関口新幹線新横浜駅、東名高速道路、横浜IC、その他羽田空港、会場に近い主要道路などに、神奈川県警および応援の警視庁の五百人の警察官が動員、配置された。  集まって来たのは会葬者や警官だけではない。  テレビ、新聞、雑誌等のマスコミ陣が特別取材班を編成して早朝から続々と現地ヘ乗り込んで来た。  彼らの中には海外から取材に駆けつけた外国報道陣も混じっている。  空には各社のヘリコプターがいまにも衝突せんばかりに乱舞しながら、早くも取材合戦を展開している。  これに警察官やマスコミ陣を上まわる野次馬が見物に蝟集《いしゆう》して来ている。  会葬者は野次馬、マスコミ陣、警官隊の検問と三重の関門を突破しなければ会場に入場できない。  警備には警官隊だけではなく、三矢組からも約百人の組員が、代紋入り黒喪章を付けた案内人としてトランシーバーで連絡を取り合いながら、要所要所に立った。  警官隊と三矢組の組員が仲良く警戒に当たっているという珍妙な光景に、両者とも気がつかない。  定刻が迫り、式場に続々とつめかけて来た全国の親分衆とその付添いたちは、会場前で警官隊のボディチェックを神妙に受けている。  ヘルメット、楯《たて》、警棒で完全武装した警官隊の検問を潜《くぐ》り抜けた後は、三矢組の直系組員による受付を通り抜けなければならない。  これはマスコミや野次馬たちが会葬者にまぎれ込んで会場に入り込まないための関門である。  午後一時、三矢家の宗派である浄土真宗の僧侶《そうりよ》が到着した。  会葬者二千名、八百坪の会場には千五百名が限界であるために、身内の直系組員は僧侶の読経と会葬者の焼香が終わるまでは会場の外に待機する。  付添いの二千名はもちろん会場に入れない。マスコミ取材陣五百名は会場の外からカメラを向けている。  この日の香典総額は約十億円と推定された。  神奈川県警が総力を挙げ、警視庁が応援した厳戒体制の中に葬儀はしごく平穏無事に終わった。  だが、それは表面に現われなかったというだけで、まったく平穏であったわけではない。  本葬が執り行なわれている間、会場の一隅で小さな騒ぎがあった。  焼香が始まったとき、機動隊の検問を通り抜けた喪服を着た若い女が、会場入口の三矢組の受付で引っかかった。  受付を無視して会場に入場しようとした彼女を、三矢組の組員が制止した。 「もしもし、受付で記帳を願います」  組員に呼び止められて、彼女はしぶしぶと受付の方へまわった。  受付は事業関係、業界、一般の三つに区別されている。  事業関係は三矢組の合法企業関係者である。業界が組関係、一般はそれ以外の故人と個人的なつき合いのあった者や一般市民である。  彼女は三つに区分された受付台の前でちょっとためらったが、業界の受付台の前に立った。  会葬者名簿に筆ペンで野上晴江と記帳する。香典は出さない。  大口は五千万円、百万円台の香典が目白押しに並んでいる中で、香典を出さない会葬者は珍しい。 「失礼ですが、どちらのご同業で」  受付の若衆が問うた。 「極新会系雨飾一家石黒組の関係の者です」  彼女は平然と答えた。 「雨飾一家石黒組……」  受付台に居合わせた若衆に緊張が走った。  雨飾一家の組長雨村功は三矢組前若頭補佐北島竜也と兄弟縁組を結んだが、石黒組から三矢組長に刺客が送り込まれたのである。 「石黒組のどなたでしょうか」 「元石黒組組員大島岩男の家内です」  受付の若衆は愕然とした。 「ちょ、ちょっとお待ちなすって」  事もあろうに組長を襲撃した刺客の細君と名乗る女が、組長の焼香に来た。受付の判断に余ることであった。  だが、指示を仰ぎたくとも幹部はすべて葬儀準備委員として会場の中にいる。受付台にいるのは末端組員ばかりである。  受付の若衆はトランシーバーで会場の中にいる幹部に連絡を取った。  幹部からさらに北島と共に準備委員席にいた雨村功に連絡された。  雨村は仰天した。 「なんだと、大島の情婦《スケ》が焼香に来たと。一体なにを考えてやがるんだ。追い返せ」  雨村は言った。  せっかく香川葬儀委員長の采配《さいはい》によって平穏のうちに葬儀が執り行なわれているところに、故人を襲撃した鉄砲玉の情婦が現われたら、三矢組、特に北島に対立している吉岡一派を刺激して、いらざる混乱を巻き起こすかもしれない。  雨村は背筋が寒くなった。  葬儀委員長に極新会会長代行香川登を立てたのは絶妙の人選と言われているが、三矢組・極新会の内部事情による苦肉の人選であった。  三矢組も極新会も巨大化しすぎた。そのためにそれぞれの組織内に派閥を生じ、誇っていた一枚岩の団結がボスの指導力の低下と共に、各派閥の力のバランスの上に辛うじて保たれているといった際どい状態になっている。  敵対する組織よりも、むしろ味方の中に隠れた敵の方が怖い。  こうして三矢組は吉岡派対北島派に、また極新会は香川派対雨飾派に真っ二つに割れ、吉岡と香川、北島と雨村という組み合わせができ上がった。  味方の中の敵よりも、敵の中の味方に接近して、新たな対立の図式が生まれた。  この対立の図式をひとまず糊塗《こと》して、今日の本葬を乗り切るために香川が葬儀委員長に選ばれた。  そこへ三矢尚範の命を狙った大島の情婦が焼香に現われたら、累卵《るいらん》(卵を積み重ねた)の上に成り立ったような本葬が一瞬にして崩壊してしまうかもしれない。  雨村の指示を受けた受付は、野上晴江に、 「お引き取りください」  と言った。 「どうしてですか。葬儀委員長は極新会の会長代行です。雨飾一家は三矢組一竜会と兄弟の縁を結んでいます。石黒組長も会葬しているはずです。どうして私が焼香できないのですか」  野上晴江は言った。 「そんなことは説明するまでもねえだろう。三矢組長を撃った野郎の女房に焼香されたら、組長が迷惑するぜ」  受付の口調が崩れた。 「あんたなんかじゃ話にならないよ。もっと話《ナシ》のわかるやつを出しな」  晴江が突然|啖呵《たんか》を切った。周囲の者が驚いて彼女に視線を集めた。 「この女《あま》、なにを言いやがる」  受付の若衆が殺気だった。 「三矢組長を撃ったのは極新会の指示だよ。その極新会の会長代行が葬儀委員長を務めているんなら、私が焼香してどこが悪いんだ」 「あっ、なんてことを言いやがる」  受付に居合わせた若衆は蒼白《そうはく》になった。  まさに彼女の言う通りである。  三矢尚範に刺客を差し向け、一命を奪いかけた元凶が葬儀委員長を務めている矛盾はだれの目にもわかる。  結局、三矢の死を早めたのもエル・ドラドで受けた傷である。殺しておいて念仏を唱えているようなものだ。  だが、そんな際どい人物に葬儀委員長を頼まざるを得なかったところに、三矢組と極新会の苦しい家庭の事情が覗いている。  家庭の事情と言うよりは、日本を代表する二大暴力団の高度な政略であろう。  この際、死者の冥福《めいふく》などはどうでもよい。生き残った者の野心と生存《サバイバル》をかけて、ともかく累卵の本葬を乗り切るのが先決である。  そこに途方もない会葬者が現われた。両組、各派閥とも、ともかく脛《すね》の傷には目をつむって休戦条約を結んでいたのが、脛に傷をつけた凶器が鞘《さや》を払って弱味に突きつけられたようなものだ。  そのとき会場の中から騒ぎを聞きつけたらしい幹部の一人が首を出した。 「なんだ、騒々しいぞ」  胸に金バッジを付けた細面《ほそおもて》の男が受付の方に声をかけた。  仕立てのよい背広に包んだ細身の身体は、全身が鋭い凶器のように見える。 「あ、風間《かざま》課長、お耳に聞こえましたか」  受付の若衆たちが身を縮めた。 「会場にはお偉い衆がたくさんいらっしゃる。早いところつまみ出せ」  風間課長と呼ばれた金バッジは低い声で命じた。 「あっ、あんた、うちへ来たことがあるね。大島を知っているだろう。私は大島の家内だよ。どうして私に焼香させないの」  野上晴江は風間を知っていたらしく、救われたように声をかけた。風間はじろりと晴江を一瞥《いちべつ》しただけで、 「なにをぐずぐずしている。早くつまみ出せ」  と命じた。  野上晴江は屈強な若衆に手を取られ、機動隊の輪の外に引きずり出された。  その一部始終を見守っていた人間がいた。  野上晴江があきらめてすごすごと会場の前から立ち去ろうとしたとき、背後から声をかけられた。  振り向くと、彼女の記憶にある顔が笑っている。 「捜査本部の棟居です」  名乗られて、彼女は相手の素性をおもいだした。 「ああ、刑事さん」 「三矢の葬式の様子を見たくてやって来たのですが、私も会場に入り込めませんでした。  ところで、あなたは受付で声をかけた風間という男を知っていたようですが、彼は何者ですか」  棟居が問うた。 「何者か知りません。大島の生前、家に二、三度連れて来たことがあります」 「大島が……そして、どんな話をしていたのですか」 「それが、私は追っ払われてしまって、二人がどんな話をしていたか知りません。その男が三矢組の葬式の会場にいたのでびっくりしました」 「あのとき受付にものを言った口調は、三矢組の人間のようでしたね」 「たしか三矢組の代紋を胸に付けていました」 「金バッジの代紋を付けていたところを見ると、三矢組のかなりの者でしょう」 「刑事さん、私は悔しい。大島は山の中に虫のように殺されて埋められていたのに、大島に命令したやつはそんなことは忘れてしまったように、殺そうとした相手の葬式を取り仕切っています。  私は三矢組の葬式をするくらいなら、大島に線香の一本でもあげてもらいたいと言いたくて会場に行ったんです」 「なるほど、そういうことでしたか。大島を訪ねて来た風間という男は、極新会や雨飾一家の人間ではないのですか」 「石黒組や雨飾一家の人たちはみんな知っています。極新会となるとたくさんの組が寄り集まっているので、知らない人もたくさんいます。でも、今日見た風間は三矢組のバッジを付けていました」 「あなたの家に来たときは、三矢組のバッジは付けていなかったのですか」 「付けていませんでした」 「極新会も三矢組の幹部吉岡祥文と兄弟分の縁組をしたから、極新会の人間が三矢組のバッジを付けるということはありませんか」 「さあ、わかりません。兄弟分の縁組をしただけで三矢組の組員になったわけではないので、三矢組のバッジを付けるとはおもいませんけど」  野上晴江に本葬会場で出会った棟居は、風間が気になった。  束の間見ただけであるが、彼の顔はよくおぼえている。  細面に切れ長の細い目、唇が薄く紅を塗ったように赤かった。背広に包んだ身体は鍛え上げたように引き締まっている。  年齢は三十代前半か、一見、辣腕《らつわん》のビジネスエリートのようであるが、非合法の世界に生きる人間のまがまがしさが隠すよりも現われてしまう。  それが背広で包んだ凶器のように感じさせるのであろう。  修羅場を踏んでいる間に沁みついた体臭であろうか。  同じような修羅場を棟居も踏んでいるが、悪の狩人である棟居の嗅覚《きゆうかく》ににおう邪《よこしま》な体臭である。  その日、会葬した連中はいずれもきな臭く、危険なにおいを発散していたが、風間の臭跡はどうやら大島と交差しているようである。  棟居は本署のマル暴担当の本田《ほんだ》に、三矢組系の暴力団に風間という男がいないか問い合わせた。 「風間、フルネームはわからないか」  本田は問い返した。 「風間だけなんだが、金バッジを付けている。そうだ、吉祥組に風間という野郎がいないか調べてくれないか」  棟居は咄嗟におもいついた。  目下、大島岩男と吉祥組の谷崎賢次との関係を洗っている。谷崎と大島が直接関わりを持っていなくとも、谷崎の関係者が大島に関わっていても、谷崎と大島の間がつながる。 「谷崎賢次といえば、吉祥組の若頭だな」  さすがに本田の反応は早い。 「谷崎の身内に風間|英次《えいじ》という野郎がいるよ」 「なんだって」 「一見インテリ風の優さ男だが、暴風英次と渾名《あだな》されるほどの凶暴な野郎だ」 「暴風英次……そいつだ。目が細く、唇の赤い細身の色男だろう」 「そうだよ。棟《むね》さん、あんた風間を知っているのかね」 「いや、直接会ったことはないが、ちょっと引っかかりがあってね」 「危険な野郎だから気をつけなよ。気に食わなければ親でも殺しかねねえ野郎だ」  本田は言った。  棟居は本田に頼んで、G(暴力団)関係のファイルから風間の写真を見せてもらった。  間違いなかった。会場入口でちらりと見かけた男である。  ファイルの資料によると、風間英次、二十七歳、前科三犯、いずれも刃物を使用しての傷害事件で服役している。一度は強盗の逮捕歴があり、特別少年院に入っている。  風間と大島の間に接点を求めて、二人の経歴が丹念に洗われた。  その結果、両名は服役中、府中刑務所で一時期一緒であったことがわかった。大島と風間はつながった。  風間は大島の家に何度か訪問しているという。極新会の刺客と三矢組系の組員が密かに会合していた。  ただの組員ではない。三矢が大島に狙撃されて、それまで三矢組の第三位派閥の領袖であった吉岡が第一位に浮上した。その吉岡の軍師谷崎の懐刀である。  棟居の発見に捜査本部は色めき立った。  だが、本部内にはまだ慎重意見があった。 「谷崎と鶴田が同学であろうと、要するにそういうめぐり合わせにすぎない。対立組織に属する人間が一、二度会っていようと、珍しいことではないのではないか。個人的に親しければ会ってもなんら不思議はない。  まして三矢組と極新会とは対立していても、交戦状態にあったわけではない。エル・ドラド事件で火を噴くまでは一応、両組とも緊張しながらも東西に両立していた。風間が大島に二、三度会ったというだけで、大島の黒幕が吉祥組と断定するのは早計ではないか」  那須班の山路が疑問を呈した。 「たしかに同学出身者ということは偶然かもしれませんが、谷崎と鶴田の間に同学という共通項があった事実は見過ごせません。ましてエル・ドラド事件の前に、谷崎の懐刀である風間と大島が接触していたという事実は重大だと思います」  棟居が反駁した。 「仮に風間と大島が接触していたとしても、それがなんだと言うのかね。それを直ちにエル・ドラド事件の黒幕として吉岡祥文に結びつけるのは短絡ではないのか」 「エル・ドラド事件によって吉岡が利益を受けていることは事実です。しかも吉岡はエル・ドラド事件の後、極新会会長代行香川登と兄弟縁組をしています。  吉岡が三矢尚範の後継者となれば、谷崎も風間も三矢組の大幹部になります。私は風間英次に任意同行を求めて事情を聴くべきだとおもいますが」  棟居は主張した。  捜査本部内の大勢は棟居に同調している気配である。 「風間に任同を求めて、自供させる自信はあるかね」  山路の口調が皮肉っぽくなった。  棟居がその口調に含まれた慎重な意味を探っていると、 「もし大島の黒幕が吉岡祥文であることが明らかにされれば、吉岡以下吉祥組は三矢組と極新会の連合軍に袋叩きにされるよ。だからこそ大島はトカゲの尻尾切りをされたんだ。  捜査本部が風間に目をつけたことがわかれば、今度は風間が切り離されてしまうかもしれない」  山路の言葉に一同ははっとした。  三矢尚範に刺客を送り込んだ黒幕が吉岡祥文とわかれば、山路の言う通り、吉岡は三矢組と極新会の怨みを一身に集めてしまう。  本体を救うためにすでに大島を切り離した吉岡が、風間を切り離すになんのためらいもあるまい。  山路の示唆する危険は充分に考えられる。 「その危険は風間英次自身が充分に承知しているでしょう。捜査本部が風間に目をつけ任同を求めた事実だけで、風間は震え上がるにちがいありません。風間が自供しようとしまいと、吉岡や谷崎にとっては風間は腹中のダイナマイトになります。そこが吉岡が脛に傷を持っていれば吉岡の弱味でもあり、風間の急所になります。  風間に任意同行を求めるべきと考えます」  棟居は主張した。 「風間の居所を確かめて、任同をかけよう」  那須の言葉が結論となった。  捜査本部は標的を得た。  密かに風間英次の居所が探された。  その間、入手した風間の写真を持って野上晴江に確認を取ると同時に、彼女と同じアパートの入居者から、たしかに風間が大島の部屋に二、三度出入りしたのを目撃したという証言を得た。  風間は新宿区|愛住《あいずみ》町のマンションに情婦と同棲していて、そこから歌舞伎《かぶき》町にある谷崎組の事務所に通勤していることがわかった。  おおむね午後二時から三時ごろ事務所に出勤し、午後七時ごろまであちこちからひっきりなしにかかってくる電話に受け応え、訪問客に会い、七時ごろからボディガードを二、三人従えて|縄張り《シマ》をパトロールする。帰宅はおおむね午前零時ごろで、生活は規則正しい。  |縄張り《シマ》のクラブやバーで遊興することはあまりない。せいぜい深夜喫茶店で休憩して、仲間や子分と打ち合わせをするくらいである。ヤクザのイメージからは遠い地味な生活である。  十月二十六日、愛住町のマンション周辺に張り込んだ捜査本部員は、風間の帰宅を確認した。  翌日午前八時を期して、十二名の捜査本部員が近くの愛住公園に勢ぞろいして風間の居宅を訪問した。  風間はまだ寝床の中にいた。  凶暴な男なので、捜査員は油断なく身構えたまま、玄関出入口に出て来た情婦の立石弘美《たていしひろみ》に訪意を告げ、風間に任意同行を求めた。  寝ぼけ眼で起き出して来た風間は、ものものしく構えた十二人の捜査本部員から任意同行を求められて蒼白になった。  だが、逃れられないと悟って、わりあい素直に要請に応じ身支度をすると、車に乗った。  狛江《こまえ》署に同行された風間は、あらかじめ用意されていた朝食を、食欲がないと言って断った。  風間の事情聴取に当たったのは那須警部である。棟居と石井がそれを補佐した。 「早朝からご足労いただいてすみませんな」  那須は低姿勢に切り出した。 「突然の呼び出しで驚いていますよ。このごろは真面目に生きています。警察の旦那から呼ばれるようなことをしたおぼえはありませんがね」  風間は殊勝な口調で答えた。 「それはけっこうなことですね。最近、三矢組長が亡くなり、三矢組も後継問題で揉《も》めていると聞いたが」  那須はそろりと探索の触手を差し伸ばした。  三矢組の後継問題は捜査本部の睨《にら》んでいる通り、吉岡が脛に傷を持っていれば触れられたくない弱味のはずである。 「我々末端にはなんの関係もないことです」  風間が無表情に言った。 「末端なんてとんでもない。あなたは吉祥組組長の軍師と言われる谷崎さんの懐刀でしょう。三矢組の跡目相続問題は三矢組長の一周忌まで棚上げとなったそうだが、吉祥組の組長吉岡祥文が最有力だと下馬評が高い。吉岡が跡目を継げば、谷崎さんもあなたも三矢組の大幹部だ。大したものですな」  那須の口調が皮肉っぽくなった。  風間にしてみれば最も触れられたくない話題であろう。 「跡目相続は蓋《ふた》を開けるまではどう転ぶかわかりません。どちらにしても我々には関係ないことです」  風間は吐き捨てるように言った。 「関係ないどころか、三矢組の跡目の行方は三矢組の人間だけではなく、全国同業の最も関心の強いことではないのかな」  那須の窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底の目がぎらりと光った。 「私に聞きたいことは一体なんでしょうか」  那須の悠揚として迫らざる態度が、風間の不安を高めているらしい。 「大島岩男を知っていますね」  那須は核心に触れた。 「おおしま……」 「雨飾一家石黒組の大島岩男、知らないはずはないでしょう」  那須の半眼に見開かれた目が凝《じ》っと風間の反応をうかがっている。 「いいえ、知りません」  風間は動揺を鉄面皮の下に封じ込めているようである。 「それはおかしい。大島岩男の内妻野上晴江さんが、あんたが大島を訪ねて来たのを何度か見たと言っていますよ」  あなたがいつの間にかあんたになっている。 「なにか勘ちがいしているんじゃありませんか。私はおおしまなどという人間に会ったこともありません」 「大島などという人間……それは三矢組幹部としてはずいぶん無関心だね。赤坂のエル・ドラドで三矢組長を狙撃した大島岩男は、三矢組全組員にとって忘れられない名前だとおもうがね」 「その大島岩男なら名前は知っています。しかし、あの事件は手打ちがすんでいます」 「いやいや、手打ちの後のことを言っているのではない。あんた、手打ちの前に大島岩男に会っているね。野上晴江さんだけではなく、大島の近所の人間にもあんたが大島の家に出入りするところを見られているよ」 「それがどうしたと言うんですかい。似たような顔はいくらでもあります」 「あんたの顔は個性的だよ。そこにもここにも転がっているような顔じゃない。あんたは三矢組長の本葬の日、会葬に行った野上晴江さんを受付に命じて会場からつまみ出させたそうだね」  那須の言葉は風間の急所を突いたらしい。まさか警察がそこまで知っているとはおもわなかったようである。束の間、返す言葉につまった。 「つまみ出すのは当然だろう。三矢組長を襲った鉄砲玉の情婦《スケ》などに焼香させることはできねえよ」  風間の言葉遣いが崩れた。 「たいそうご立派な口をきくじゃないか。組長の命を狙った鉄砲玉の親筋の極新会と三矢組は兄弟縁組をしている。だったら、大島の内妻だけ会場から弾き出しては可哀想ではないかね」 「大島は除名されたよ」 「大島の内妻だけつまみ出したというのは解《げ》せないね。それとも彼女に焼香されてはなにか都合の悪いことでもあるのかな」  那須が意地悪く風間の顔を覗き込んだ。 「都合の悪いことなんかなにもない」  風間の声が高くなっている。 「エル・ドラドで三矢組長が大島に狙撃されたとき、吉岡祥文は居合わせなかったね。三矢組五星のうち四人が同行しているのに、なぜ吉岡だけが同行しなかったのかね」 「そんなことは知らねえ。吉岡組長の都合が悪かったんだろうよ」 「エル・ドラド事件の後、それまで第三位に甘んじていた吉岡が急に浮上して、跡目相続第一位の最有力候補にのし上がったじゃないか」 「跡目相続は蓋を開けてみるまでどうなるかわからないと言っただろう」 「極新会や雨飾一家の雨村は大島に三矢組長の命《タマ》を取れとは命じていないと言ってたね」 「そんなことを言うはずがねえだろう」 「もし極新会の言っていることが本当だったら、一体だれが大島に三矢組長の命《タマ》取りを命じたんだろうね」 「そんなことおれが知るもんか」  風間の声が悲鳴のように聞こえた。 「エル・ドラド事件の後、ソ連が崩壊して米ソの対決がなくなったように、三矢組と極新会の東西対決もなくなったね。ところが対決がまったくなくなったわけではなく、一竜会と雨飾一家対吉祥組と極新会の香川の対決が新たに打ち出されてきたね。この対決の行方は予断を許さない。我々としてはどちらが跡目を取っても、困るんだがね。この際、三矢尚範の死を契機に、三矢組と極新会が解散してくれると助かるんだがね」  那須はうっそりと笑って、 「ところで、三矢組長が撃たれたとき、吉岡は現場に居合わせなかったが、もしかして吉岡はそのことを予知していたんじゃないかな」  と言った。那須の言葉に、風間の表情がはっきりと変わった。 「おや、なんだか心当たりがありそうだね」 「心当たりなんかなにもない」 「ならいいがね。もしかして大島岩男に命じて、三矢組長を撃たせた黒幕が吉岡祥文だったら、どえらいことになるね」  那須は風間の反応を楽しむようににやりと笑った。 「そんなことがあり得るはずがねえだろう。馬鹿も休み休み言え」 「おや、いやに向きになっているじゃないか。決してあり得ない想像ではないとおもうがね。現に吉岡祥文はエル・ドラド事件の後、一挙に三矢組跡目相続第一位にのし上がっている。  三矢組長に同行していた四人の若頭補佐は組長を守り切れなかった責任を取って、いずれも降格された。エル・ドラドでは三矢組長は一命を取り留めたが、もしそこで死んでいたら、四人は降格どころではすまなかっただろう。そう考えると、吉岡の動向がどうもきな臭くなる。これは吉岡の軍師谷崎の書いた筋書きではなかったのかな」 「そんなことは谷崎組長に聞いてくれ」 「聞いてもいいのかな。あんたが困るんじゃないのかね」  那須の言葉が不気味な含みを帯びている。 「おれがどうして困るんだ。おれに関係ないことだ。どんどん聞いてくれ」  風間は開き直った。 「それでは聞くが、あんた、鶴田正純を知っているかね」 「つるたまさずみ」 「こういう字を書くんだがね」  那須はメモ用紙に鶴田正純の名前を書いて風間に示した。風間の面に特に反応は表われない。意志的に隠しているのでもなさそうである。 「知らないね。初めて聞く名前だよ」 「東都大学の学生だが、この人はどうも大島岩男と同一機会に殺されたらしい」 「さっきから変なことばかり聞いているが、それがおれにどんな関係があるんだ」 「我々はあんたが大島と鶴田をどうかしたんじゃないかとおもっている」 「でっち上げもいいかげんにしてもらいたい。なぜおれが大島や鶴田とかいう学生を殺さなければならないのか」 「おや、殺したのかね」  那須がすかさず言葉尻をつかんだ。 「大島岩男が殺されて、丹沢の山の中から発見されたニュースはテレビで報道されたから日本中の人間が知っているよ」 「ほう、関心あるじゃないか。三矢組長狙撃の黒幕が吉岡ならば、大島に生きていられては都合が悪いだろうね」 「あんたらの憶測だけでいいかげんなことを言わないでくれ。証拠があるのか」 「それをいま探しているんだよ。あんたがエル・ドラド事件の前に大島岩男と会ったことも証拠の一つだ。状況証拠というやつだよ」 「おれは大島に会ったことなんか認めていないぞ」 「あんたは認めなくとも、大島の内妻と近所の人間が認めている。それで充分だよ」 「百歩譲って、おれが大島に会ったとしても、それがなんだというんだ。おれがだれに会おうとおれの自由だ」  風間はじりじりと追いつめられている気配を悟っているようである。 「あんたは気の毒だねえ。自分の置かれた立場がわからないらしい」  那須が哀れむような目をして風間を見た。 「それはどういう意味だ」 「棟居君、説明してやりたまえ」  那須が棟居にバトンを譲った。 「大島はトカゲの尻尾にされた。あんたも同じようになるということさ」  棟居が言った。 「なんだって」  風間の表情が変わった。 「わからないのか。あんたが警察に呼ばれただけで、吉岡や谷崎は戦々恐々としているよ。あんたが一言口を割るだけで、彼らはオール三矢組と極新会のフクロ(袋叩き)にされる。風間英次ともあろう者がそのくらいのことはわからないはずはないだろう」 「わからないね。なんの疚《やま》しいこともないのにフクロにされるはずはねえだろう」  必死に抗弁しながらも、風間の面は青ざめている。 「それはけっこうだ。しかし、我々の見立てでは、どう考えてもいま極新会が三矢尚範の命《タマ》を狙って三矢組に戦争をしかけるのは不利だ。そんなことをすれば三矢組の総反撃に遭う前に、警察に口実をあたえて組織そのものを叩き潰されかねない。  現に極新会の香川会長代行も雨村功も石黒恭平も、大島にそんなことを命じたおぼえはないと言っている」 「極新会の連中が命じたと言うはずがねえだろう」 「いまの状況では命じるはずがないんだよ。  すると、残る線はエル・ドラドに居合わせなかった吉岡の線ということになってくるんだよ。吉岡は軍師谷崎と謀《はか》り、あんたを密使に立てて大島をそそのかした。三矢尚範の命《タマ》を取れば、三矢組の重要ポストに据えてやると甘い餌を差し出したんだろう。  三矢の命《タマ》取りの成否にかかわらず、大島は生かしてはおけなかった。だが、大島が切り離されて、あんたが警察にマークされると、生前の大島の立場がそっくりそのままあんたの立場に置き換えられるんだよ。あんたは警察にマークされただけで吉岡や谷崎にとっていつ爆発するかわからない火薬庫になってしまったんだよ。あんたが吉岡や谷崎に忠義立てして黙秘したところで、同じだね。吉岡や谷崎はあんたにいつ口を割られるかと生きた心地がしないだろう。  となると、あんたに永久にしゃべられないように口を封じようとするかもしれないよ」 「そんな脅しには乗らない」 「脅しか脅しでないか、あんたが一番よく知っているんじゃないのか。大島が口を封じられたのがなによりの証拠だよ」 「大島が殺されたのは我々とは関係ない」 「我々ってだれのことだね」 「憶測でものを言う人間には一切答えないぞ」 「だったら、どうぞお引き取り願おう。逮捕したわけじゃないからね。いつ帰ろうとあんたの自由だよ。だが、警察を一歩出たら、あんたの生命の安全は保障されないということを肝に銘じておくんだね」  風間の面から血の気が引き、紙のように白くなった。 「あんたがどんなに忠義立てしても、向こうはそうはおもわない。あんたがいま安全な場所は警察の中だけなんだよ。あんたの口に吉岡と谷崎の運命と三矢組跡目の行方がかかっているんだ。あんたさえいなければ証拠はない。  警察から一歩出てみな。ダンプカーが突っ込んで来るかもしれないし、崖《がけ》の上から転落するかもしれない。事故か、世をはかなんでの自殺ということになるだろうな。あんた一人の命に吉祥組全員の運命と、三矢組の跡目がかかっているんだ。まさに意義ある死じゃないか」 「やめろ。やめてくれ」  風間は強面《こわもて》ヤクザらしからぬ悲鳴をあげた。 「聞かなければならないことはすべて聞いた。もう帰っていいよ」  棟居に言われても、風間は放心したように座りつづけている。 「どうしたんだ。帰っていいと言っているんだよ」 「お、おれを保護してくれ」 「保護だって。ギンギンのヤクザが警察になんに対して保護を求めるのかね」  棟居が言った。 「おれはまだ死にたくない。弘美の腹の中にはおれの子がいるんだ」 「すべてを話してみろ」  風間はがくりとうなだれた。  捜査本部は賭けに勝った。 [#改ページ]   盲点の輪郭      1  風間の自供はおおむね棟居の推測した通りであった。  三矢組の第三位派閥の領袖であった吉岡は、一打逆転を狙って、極新会系雨飾一家石黒組の大島を籠絡し、三矢尚範を狙撃させた。作戦はすべて谷崎が立てた。  大島は凶暴な上、功名心が強く、意義のある命《タマ》を上げて出世をしたいと焦っていた。そこを谷崎につけ込まれた。  大島への接触は前科で服役した際、同じ房内で一緒になったことのある風間が担当した。  三矢の命《タマ》を取れば、吉祥組の幹部として迎えるという餌に、極新会の末端組織の石黒組の冷飯を食わされていた大島は飛びついてきた。  大島は三矢の命《タマ》取りの成否にかかわらず生きてはいられないことを、甘い餌に目くらまされて気がつかなかった。  三矢尚範の狙撃後、事態は谷崎の描いた筋書き通りに運んだ。  作戦通り三矢尚範を狙撃した後、大島は吉祥組の保護を求めて逃げ込んで来た。  吉祥組ではとりあえず彼を、箱根山中にある吉祥組の寮に軟禁しておいた。  直ちに殺すと、三矢組長襲撃が吉祥組の陰謀であることが露見する虞《おそれ》があるという谷崎の勧告に従ったのである。  三矢組と極新会との間に大島の身柄を引き渡すという条件で手打ちが成立した後、大島を始末すれば、極新会の仕業とおもわれる。  大島は永久にこの世から消えて死体も現われない。そういう設計図になっていた。  ところが、ここで意外な誤算が生じた。  箱根に軟禁されていた大島が、本能的に様子がおかしいと悟って、見張りの隙を衝いて逃走してしまったのである。  吉祥組は愕然とした。大島に逃げられて警察、極新会、三矢組の吉祥組以外のどのグループに捕えられても陰謀が露見してしまう。  吉祥組では大島の行方を八方手を尽くして探したが、その消息は杳《よう》として絶えた。  そのうちに六月三十日、丹沢山中から大島の死体が発見された。  吉祥組は混乱した。だれが、なぜ逃亡した大島を殺害して丹沢山中に埋めたのかわからない。  もし極新会の手に捕えられたのであれば、手打ちの条件通り、必ず彼の身柄を三矢組に引き渡したはずである。  吉祥組以外の三矢組の手に捕えられたとしても、秘密裡に殺して、人知れず山中に埋めるはずがない。  大島を殺した犯人も動機も不明なのは不気味であったが、ともかく大島の口は封じられた。  風間は自供を終えた。だが、捜査本部は彼の自供を信じなかった。  取調べに当たった棟居は、 「大島が逃亡して、どこの何者ともわからぬ者に動機も不明のまま殺されたというような言い抜けが通るとおもっているのか」  と問いつめた。 「本当なんだ。もし我々が大島を殺していれば、埋め方が浅くて山の獣に死体を引っ張り出されるようなへまな隠し方はしない。コンクリートで固めて絶対に浮かび上がってこないように深い海に沈めるよ」  と風間は言い張った。 「おまえらの仕業でなければ、だれが大島を殺すと言うんだ」 「そんなことは知らない。だが、どうせろくなことをやっていなかった野郎だから、どこのだれが殺してもおかしくはねえだろう」  自供して開き直ったのか、風間はせせら笑った。 「あんたが大島を殺して山の中に埋めたんだよ。大島殺しを否認すれば、あんたの罪は殺人未遂の教唆だ。それも主犯は吉岡と谷崎ということになって、あんたの罪は軽くなるからね」  棟居は風間がこの期に及んで、死人に口なしと大島殺しをとぼけているとおもった。 「おれは殺していない。大島の死体《オロク》は鈍器で殴られた後、刃物《ヤツパ》で刺されていた。それも傷は何ヵ所もあった。あれは殺しに馴れない者がめった打ち、めった切りにした状況だよ。おれだったらあんな無様な殺し方はしないね。ヤッパで一刺し、悲鳴もあげさせずに殺してみせる」  風間は妙なところで自慢した。 「逃げ出されて動転し、大勢で取り囲んでフクロにしたんだろう」 「大勢で取り囲んでフクロにした傷か、馴れない野郎が棍棒とヤッパを持って殺した傷か、そのくらい警察なら見分けられるだろう」  風間に言われて、たしかに大島の傷は、まず棍棒で殴りつけてから被害者の抵抗にあってうろたえ、刃物で刺したという状況である。  死因は棍棒状の鈍体の作用による脳内出血を伴う脳挫傷となっているが、受傷後直ちに行動能力を失わない。殴っても叩いても歯向かってくる被害者に動転して、刃物を振るったという状況である。  たしかに暴風と渾名《あだな》された風間の手口にしては拙劣である。 「あんたが大島を殺害した現場に鶴田正純が行き合わせて、一緒に殺したのではないのか。二人のヤッパの傷口が符合したんだよ」 「鶴田某という人間は会ったことも、名前を聞いたこともないと言っただろう。知らない人間を殺した罪まで押しつけないでくれよ」  この期に及んで、風間は頑として抵抗した。      2  捜査本部は攻めあぐねた。  エル・ドラド事件の背後関係は解明されたが、それに関連するはずの大島殺しの犯人と動機が切り離されている。  風間が大島を殺しながら犯罪事実を否認するメリットは大きい。だが、風間の主張するように、彼の犯行手口としては解せない点がある。  風間は大島はだれに殺されても不思議はないと、自分のことは棚に上げて言ったが、とりあえず大島を殺す動機のある者は三矢組と極新会の関係者である。  吉祥組以外の三矢組関係者や極新会が大島を殺したのであれば、なぜ死体を秘密裡に処分してしまったのか。  大島にしゃべられては彼らにとって都合の悪い事情でもあったのか。  エル・ドラド事件は解明されたが、大島と鶴田殺しはさらに大きな謎に包まれてしまった。  このとき捜査会議で石井が興味ある意見を述べた。 「これまで、鶴田は大島殺しの現場をたまたま目撃したために傍杖を食ったと推測されていましたが、事実は逆ではないでしょうか」  一同が石井に注目した。 「つまり、鶴田がなんらかの理由で殺害された現場に、逃げて来た大島が偶然行き合わせたのです。鶴田を殺した犯人としては目撃者の大島を、一人殺すも二人殺すも同じと殺害したのではないでしょうか」 「まことに興味ある意見だが、もし犯人の本命目的が鶴田にあったとすれば、むしろ鶴田の死体を隠し、大島の死体を現場近辺に遺棄するのではないのか。大島が傍杖を食ったのであれば、死体の位置が逆になっている」  と山路が指摘した。 「その点は私にも説明ができません。しかし、可能性の一つとして逆に見る必要もあるとおもいますが」  石井説は一種の水平思考である。彼の言う通り大島が本命で鶴田が傍杖を食ったという見方は先入観かもしれない。  事件の真相は依然として闇に包まれていたが、風間英次の自供は三矢組と極新会以下、全国の暴力団に衝撃をあたえた。  吉岡祥文は三矢組の報復を恐れて自宅に立てこもってしまった。  玄関にはダンプもはね返す鉄筋コンクリートのバリケードを築き、屋根の上には投石防止用のネットを張りめぐらした。  彼の自邸の前には常に機動隊員が立ち番して警戒に当たった。  吉岡祥文と香川登の間に交わされた兄弟分の盃は返された。  一方、北島竜也と雨村功との縁組も危なくなってきた。  雨飾一家にしてみれば、三矢組の五星の一人吉岡祥文の書いたシナリオによって三矢尚範襲撃の罪を転嫁され、幹部の指六本を差し出し、屈辱的な手打ちを強いられたのである。  香川、雨村、石黒は激怒した。 「このおとしまえはどうつけるつもりだ。吉岡の指《エンコ》をつめたくれえじゃおさまらねえぞ」  と彼らは息巻いた。  吉祥組以外の三矢組関係者の間にも、吉岡を処罰せよという声が高まっている。  ともかく風間の自供によって吉岡は失脚した。  吉岡は跡目相続レースから完全に外されて、北島が再浮上してきた。  これまで吉岡寄りの姿勢を見せていた四天王の二人小寺と中尾も吉岡に背を見せ、北島に接近した。  警察は風間の自供に基づき、吉岡、谷崎に相次いで任意出頭を求め、その自供を得た後、緊急逮捕して吉祥組を一挙に解散に持ち込もうと狙っていた。  吉祥組は三矢組を支える巨大な柱の一本である。これを攻め口に三矢組の幹部をごぼう抜きにして組織をがたがたにしてしまおうという作戦である。  従来、現行犯に限られていた賭博を徹底して傍証を固め、賭博を一切非現行で逮捕するという新方式である。  兵庫県警の発明した方式であるが、この手で攻められたら、全国の暴力団はぼろを引っ張り出される。  火の粉が自分の頭の上に降りかかってきて、吉岡や谷崎の処分どころではなくなった。  三矢組はあまりにも肥満化していた。肥満をすれば贅肉が多くなり、組織が粗雑になる。  かつて一枚岩の団結を誇った三矢組も、発達し切った積乱雲のように中身ががらんどうとなって、骨格はばらばらとなり雲散霧消しかけていた。  日本を代表する東西組織暴力団を壊滅に追い込んでいながら、本来の殺人事件は少しも解決されていない。  捜査の巨大な副産物であるが、捜査本部にとっては皮肉な成り行きとなった。  風間は頑として否認を通している。  箱根の寮で大島岩男の見張りに当たっていた谷崎組の若衆数名を取調べた結果、風間の自供が裏づけられた。 「まさか大島が逃げ出すとはおもっていませんでした。大島にとってここにいる限り安全で、外へ逃げれば三矢組と極新会が鵜の目鷹の目で探していることはわかっていますから、逃げるはずはないとおもい込んでいた裏をかかれました。  夜寝る前はたしかに部屋にいたのに、朝見まわりに行ったときはベッドが蛻《もぬけ》の殻になっていました。夜中のうちに抜け出したようです」 「そのとき風間はどうしていたのか」  棟居は訊ねた。 「風間の兄貴は東京の事務所へ帰っていました。大島が逃げたことを連絡すると、急遽駆けつけて来て、追跡班を編成して大島が立ちまわりそうな先に手配しました。でも大島は現われませんでした」 「その間、風間はおまえらと一緒に行動していたのか」 「そうです。箱根の山荘から八方に連絡や指示を飛ばしていました」 「すると、風間は大島が逃げた先を知らなかったんだな」 「知っていれば、捕まえていますよ」  組員の証言によって、風間も大島の行方を知らなかったことがわかった。  行方を知らない者を殺すことはできない。  棟居は風間の犯人適格性は充分であるが、その容疑性が次第に薄らいでくるのを認めざるを得なかった。  となると、大島は吉祥組の軟禁から逃れた先で何者かに殺害されたことになる。犯人は吉祥組以外の三矢組関係者でもなければ、極新会の関係者でもあるまい。  犯人はまったくべつの線から来ているかもしれない。捜査は振り出しに戻らざるを得ない。  犯人が大島をまがりなりにも丹沢山中に埋めたということは、死体が現われるのを嫌ったことを意味する。  たまたま犯行現場を目撃した鶴田を殺して、死体をあえて同じ場所に隠そうとしなかったのは、同一犯人による犯行と知られたくなかったことと、鶴田から犯人を手繰られる危険性がないと判断したからであろう。  つまり、犯人の本命目的は大島にあって、鶴田は傍杖を食っただけで、犯人との間になんのつながりもないのかもしれない。だからこそ、安んじて鶴田の死体を多摩川に遺棄したのであろう。      3  鶴田殺し、大島殺しの捜査はいずれも膠着していた。  棟居は捜査の過程に見落としがあるような気がしてならなかった。  どこかに捜査の盲点がある。たしかに視野の中に入っていながら見えない。空気が存在しながら見えないように、存在自体が視野の盲点に入っている。  どこかに盲点はないか。棟居はもう一度事件の発生時点に遡って、事件全体を俯瞰《ふかん》してみることにした。  これまでは組織捜査の一コマとして事件の細部のみを見つめて、全体を俯瞰することを忘れるともなく忘れていた。  組織捜査の弊害で、森の中の者が木を見て森を見ぬ類いである。  五月二日、三矢組組長三矢尚範が赤坂のクラブで極新会雨飾一家の大島岩男に狙撃された。  三矢組と極新会は全面対決の危機に直面したが、極新会が譲歩して手打ちが成立した。  手打ちの条件は、大島岩男の身柄を三矢組に引き渡すことであった。  ところが、大島が行方不明をつづけている間に、六月十五日早朝、三矢組組長狙撃の現場を目撃した鶴田正純の死体が狛江市域の多摩川の岸辺に漂着した。  一方、大島は六月三十日、厚木市域の山林に埋められていたのを登山者によって発見された。  大島の死体と共に、鶴田が生前、肌身に付けていた呼び子が発見されるに及んで、俄然大島殺しと鶴田殺しの関連性が疑われた。  大島殺しの犯人として、当初は三矢組の報復と考えられたが、次に極新会が大島から真相を語られるのを恐れて処刑したのではないかと疑われた。  その間、狙撃後、傷の療養をしていた三矢尚範が急死して、三矢組の後継者問題がクローズアップされてきた。  狙撃前、最有力候補であった北島竜也は、三矢が狙撃された席に同席していながら組長を守り切れなかった責任を取って降格し、代わって吉岡祥文が浮上してきた。  吉岡は自分の勢力を強化するために極新会会長代行香川登と兄弟縁組をし、一方、北島竜也は退勢を挽回するために、同じく極新会の雨村功と兄弟分の盃を交わした。  ここに三矢組対極新会による東西二大暴力団の対決の構図は、吉岡率いる吉祥組と北島の一竜会の対決に塗り替えられたのである。  ともあれ三矢組の後継者問題は三矢尚範の一周忌まで凍結されることになり、三矢尚範の葬儀は香川登を葬儀委員長としてどうにか乗り切った。  佐川詩乃の証言によって、吉祥組若頭谷崎賢次が鶴田の同学の先輩であることがわかった。  さらに谷崎の配下風間英次が大島岩男の生前に何度か接触していた事実が浮かび上がった。風間英次を糾問した結果、吉岡が後継争いの対抗馬北島を失脚させるために、風間を通して大島を買収し、三矢を狙撃させた事実をつかんだ。  だが、風間は鶴田殺しには一切関わっていないと頑強に否認した。  以上がこれまでの捜査経過である。  以上の経過の中に、なにか見落としはないか。視野の中に入れているはずでありながら盲点はないか。  棟居は事件の関係人物の相関図を俯瞰しながら思案した。  どこにも見落としはなさそうである。いくら思案を集めても盲点は見えてこない。  捜査の経過を遡り、事件の再構成をした棟居は、次第に意識の中で違和感を増してくるものがあるのを感じた。  違和感がきしってピリピリと神経に触れる音を発している。この音はどこからくるのか。棟居は音の方角を凝視した。  音源に一個の物体が埋もれていた。 「あの呼び子だ」  棟居はおもわず声を出した。  呼び子が大島岩男と共に埋められていた。あたかもそれは大島の副葬品のように大山山中に大島の死体と共に埋められていた。  あの呼び子が鶴田と大島を結びつけたのである。  これまで呼び子は二人を殺した犯人が、大島の死体と共に丹沢山中へ運んで行ったと考えられていた。  二人を殺害する際、鶴田の身体から犯人、あるいは大島の死体へ呼び子が移されて大山山中へ遺棄された。つまり、犯人にも死体と一緒に呼び子を運んで行った意識がないという推測であった。  だが、鶴田が肌身離さず持っていた呼び子が、犯人が意識せずに犯人あるいは大島の身体に移動するということがあるだろうか。  これが毛髪、口紅の痕などの微物や植物の実などであれば、犯行の際、犯人や被害者の身体に付着して移動するということはあるだろうが、赤いプラスチック製の呼び子が犯人の気づかぬ間に移動するか。  犯人が意識して死体と共に大山山中へ運んで行ったのではないか。  もしそうだとすると、犯人はなぜ呼び子を運んで行ったのか。  考えられる可能性としては、  ㈰呼び子を大島のものと錯覚した。  ㈪呼び子を現場に残したくなかった。  の二つの場合である。  ㈰の場合、犯人は呼び子が二人のうちのどちらのものか知らなかった。  ㈪の場合は、犯人は呼び子が鶴田のものであることを知っていて、その場に残したくなかった。  その場に残すと、鶴田と犯人の関係を手操られてしまうからである。つまり、犯人と鶴田の間にはつながりがあった。  棟居は視野を塞いでいた暗幕が突然、開かれたように感じた。  石井が、鶴田が犯人の本命目的で大島が傍杖を食ったのではないかと、これまでの捜査本部の見解を逆転させる意見を唱えて注目を集めたが、それでは死体の位置が逆になっていると山路に反論されて、大勢の支持を得られなかった。  だが、これまで犯人の識《しき》(被害者との関係)は大島にあると考えられていたが、鶴田あるいは、大島と鶴田双方にあったとしても不思議はない。  犯人と鶴田の間に犯行前のつながりがあったとすれば、犯人は意識的に呼び子を鶴田の身体から取り上げて、大山山中へ隠したかもしれない。  つまり、呼び子から犯人を手繰られる虞《おそれ》があるからである。  大島の死体に目くらまされて呼び子の影が薄くなっていた。  呼び子を現場に放置することは犯人にとって都合が悪かったのだ。  呼び子は犯人にとってもなんらかのつながりがあるにちがいない。  棟居は鶴田の死体が発見されたとき、彼の婚約者から死体から呼び子が失われていると訴えられて、呼び子の由来を聞いている。  鶴田が車中でシルバーシートを占拠していた若者三人組を注意して、逆に因縁をつけられ窮地に陥ったとき、ちょうど同じ車両に乗り合わせていた先輩が呼び子を吹いて助けてくれたそうである。  呼び子はその先輩からもらったという。  棟居の意識の中で不協和音を出していた源が、いま輪郭を明らかにしてきた。 [#改ページ]   死の訪問先      1  佐川詩乃は新宿駅JR山手線の階段を下りかけたところで、背後から肩を叩かれた。  振り向くと見おぼえのある顔が笑いかけている。 「清瀬先輩」 「後ろ姿がとても似ていたのでね。つい声よりも手が先に出てしまった」  清瀬|真吾《しんご》の顔が笑いかけていた。 「突然休講になったので、いつもより帰りが早いのです。あの節は大変お世話になりました」  あの節とは、鶴田の生前、三人組にからまれたときのことを言っている。 「鶴田君が亡くなってもう百か日も過ぎた」  二人は肩を並べる形で階段を下りた。詩乃は小田急線に乗り換える。 「先輩はお仕事ですか」  帰宅にしては早い時間である。 「ちょっと外まわりの仕事があってね、少し空いていたらお茶でも飲まないか」  清瀬が誘った。  特に急いで帰らなければならない用事もなかった詩乃は、 「お邪魔ではありませんか」  と問うた。 「とんでもない。久し振りに鶴田君の想い出を語り合いたい。もっともきみにとっては悲しい想い出だろうがね」  清瀬はいたわるように詩乃の顔を覗き込んだ。  清瀬に誘われるまま、詩乃は西口の高層ホテルのラウンジへ従《つ》いて行った。  展望のよい一隅に席を占めた二人は、軽い飲物をオーダーして向かい合った。 「その後、捜査ははかばかしくないようだね」  清瀬は飲物に形ばかりに口をつけると言った。 「大島を殺した犯人は、どうやらヤクザ関係ではなさそうです」 「殺された大島という男は極新会の名うての鉄砲玉だったそうだから、どこでどんな怨みを買っているかもしれない。だれに殺されても不思議はないよ」 「大島がだれに殺されて不思議はなくとも、どうして正純さんまで巻き添えにしなければならなかったんでしょう」 「それは、犯人の顔を見たからだよ」 「犯人の顔を見たとしても、殺さなくともいいとおもいます。正純さんと犯人の間になんのつながりもなければ、たとえ正純さんに顔を見られたとしても、犯人にとって致命的にはなりません。私、犯人は正純さんが知っていた人間のような気がするんです」 「吉祥組の谷崎賢次は同学の先輩だけれど」 「谷崎にはアリバイがあるそうです」 「すると、有名人が犯人ということも考えられるね。顔を見られただけで身許が割れてしまう」 「有名人以外の正純さんと個人的な関係があった人物が犯人という可能性はないでしょうか」 「犯人の本命目的は大島にあったんだろう。大島と鶴田君の間にはなんのつながりもないよ」 「大島と正純さんの間にはつながりがなくとも、犯人が二人に関係があったかもしれません」 「可能性の一つとしては考えられるけど、きみにそんな心当たりはあるの」 「いいえ。でも、そんな気がして仕方がないのです」 「鶴田君は不正を決して見過ごせない強い正義感の持ち主だったから、目の前で人が殺されかけているのを見たら決して黙視しないとおもう。被害者を庇《かば》おうとして、犯人に殺されてしまったんじゃないだろうか」 「そうかもしれませんわ。いまにして彼の正義感が恨めしいわ」 「正義感が恨めしい?」 「もし先輩のおっしゃる通りなら、鶴田はヤクザを庇って殺されたことになります。生きていても社会に害をなすだけの暴力団員を守るためにあの人が殺されちゃうなんて、悔やんでも悔やみ切れないわ。もし生きていたら、きっと社会の大勢の弱者の味方になった人だわ。それが一人のヤクザを守るために虫のように殺されてしまうなんて」  話している間に、詩乃の口調が湿ってきた。  生命に軽重はないとはいうものの、春秋に富んだ鶴田の生命が世間の害虫の楯となって殺されたとあっては、本人にしても死んでも死に切れないだろう。 「鶴田君は自分の正義の実現のために死んだのさ。彼にしてみれば、目の前の不正を見過ごして、将来多くの弱者を助けようという発想はなかったのだろう。彼の身を守るために呼び子をやったんだが、それが仇《あだ》になったかもしれないな」 「犯人はなぜ呼び子を大島の死体と一緒に大山に埋めたのでしょう」 「犯人にはそんな意識はなかったんじゃないかな。大山の現場まで車で運んで行ったにちがいない。鶴田君の死体から呼び子が車の中にこぼれ落ちれば、大山まで運ばれて行っても不思議はないよ」 「どうして正純さんの持っていた呼び子が犯人の車にこぼれ落ちたのですか」 「それは二人を同時に、あるいは相前後して殺害すれば、二人の死体を途中まで一緒に運んで行っただろう。途中、多摩川河川敷に鶴田君の死体だけ捨てて、大島と呼び子を大山山中まで運んで行った」 「私にはあの呼び子が正純さんの遺志と無念を呼びかけているような気がするのです」 「詩乃さん、きみはまだ若い。もう鶴田君のことは忘れて、新たな可能性を探した方がいいよ。いつまでも鶴田君の想い出にこだわっていると、かえって鶴田君が迷惑する。きみが鶴田君を忘れることが、彼に対するなによりの供養になるんだ」  清瀬が諭《さと》すように言った。      2  京王線沿線に住む清瀬と新宿駅で別れた詩乃は、家に帰って来ると、母から、 「捜査本部の棟居刑事から電話があったわよ」  と告げられた。 「棟居刑事から、なんの用事かしら」  詩乃はなんとなく予感が走った。 「また今夜にでも電話をすると言ってたわ」 「私の方から電話をしてみようかしら」  詩乃は棟居の電話が気になった。  棟居が今日帰宅前に清瀬に出会ったことを知っていて、電話をかけてきたような気がする。  棟居の連絡先はおしえられている。  詩乃は棟居からのセカンドコールを待たず、こちらから電話をかけた。  棟居は捜査本部に居合わせた。 「やあ、こちらからかけようとおもっていたのに、お手を煩わせて申し訳ありませんな」  棟居は電話口で丁重に言った。 「いいえ、かまいません」 「実はですね、鶴田さんが生前持っていたという呼び子ですが、たしか同学の先輩からもらったということでしたね」 「そうです。清瀬さんという先輩です。電車の中で三人組のチンピラにからまれたとき、清瀬さんが居合わせて、その呼び子を吹いて助けてくださいました」 「その清瀬という先輩ですが、住所はご存じですか」 「京王線沿線ということです」  清瀬の親は資産家で、学生時代から小さいながら一戸建の親の家作を一軒あたえられて一人で住んでいると聞いたことがある。 「京王線沿線……すると、場所によってはお宅からそれほど離れていないかもしれませんね」  新宿を起点に小田急線と京王線は末広がりに東京西郊を平行する形で走っている。  棟居に指摘されて、詩乃ははっとなった。意識の盲点に光を射し込まれたような気がした。 「これは仮定の話ですが、六月十四日の夜、あなたと別れた後、鶴田君が清瀬さんの家を訪問した可能性はないでしょうかね」 「さあ、正純さんはなにも言いませんでしたけれど、ふとおもいついて訪ねて行ったということはあるかもしれません」  棟居に示唆されて、詩乃は目の前に新しい視野を開かれたような気がした。  詩乃と別れた後、鶴田は自宅へ向かう途中、ふと先輩が近辺に住んでいることをおもいだした。こんなチャンスでもなければ立ち寄れない。  訪問前に電話をしなかったのか。  若いので歩くのは苦にならない。  応答がなくとも、会えなくてももともとと無駄足を承知で押しかけて行ったのではあるまいか。 「その可能性はあります。清瀬先輩の住所はサークルのOBリストに載っているかもしれません。調べてみましょうか」 「是非お願いします」  棟居の声が弾んだ。  棟居を電話口に待たせて、詩乃はサークルのOBリストを探した。  OBリストの中に清瀬の住所は載っていた。      3  詩乃は清瀬の住所を凝然と見つめた。  改めて地図を開いて確かめてみる。区外であるが、詩乃の自宅から清瀬の住居まで約二キロの距離である。鶴田の足ならば充分に歩いて行ける。  詩乃は清瀬がこんなに近くに住んでいるとはおもわなかった。まさに盲点であった。  電話口に戻って、清瀬の住所を告げると、棟居が、 「お宅のご住所の近くですね」  予期していたような口調で言った。  棟居の着眼は清瀬の住所を確認することによって、一つの裏づけを得た。  詩乃は改めて今日、清瀬と出会った場面をおもいだした。  清瀬に誘われるまま新宿のホテルのラウンジで話し合ったが、清瀬は鶴田を殺した犯人について、なるべく暴力団関係者か大島関係の方向に誘導しようとしていた。  鶴田が犯人を個人的に知っていたので殺害されたのではないかという疑問については、犯人が有名人か、あるいは鶴田が持ち前の正義感に駆られて被害者を庇おうとしたので傍杖を食ったかもしれないと、遠まわしに詩乃の発想を打ち消した。  恐ろしい仮説であるが、清瀬が犯人であれば、鶴田の性格から清瀬に自首を勧めたであろう。  鶴田の口を金で封ずることはできない。清瀬としては鶴田を殺す以外に保身の道はない。  でも、まさか清瀬先輩が……。  詩乃は棟居に導かれた恐ろしい仮説に慄然となった。  しかし、清瀬が犯人であれば、呼び子を大島の死体と共に大山山中に埋めた意味も納得できる。  清瀬は鶴田に大島殺しの犯行を目撃されて、鶴田の口も封じた。そのとき鶴田が持っていた呼び子が、自分があたえた品であることを悟って取り返した。  清瀬は呼び子を取り返すべきではなかった。呼び子を鶴田の死体と共に留めておけば、呼び子の紛失と移動から疑いを招くようなことはなかった。  自分があたえた呼び子なので、それを鶴田の死体と共に残すことに証拠を遺留するような不安をおぼえたのであろう。  ここまでおもわくを追った詩乃は、すでに清瀬を容疑者として見ている自分に気づいた。      4  棟居の発想は捜査本部を揺り動かした。これは、これまでの捜査においてまったくなかった視点である。  三矢尚範の狙撃に引きつづいて、その犯人である大島岩男が殺害されたので、鶴田殺しはそちらの方向へ引きずられてしまった。  皮肉なことに、事件の指導標ともいうべき呼び子が誤った方角へ導いた。  鶴田の死体と共に呼び子が発見されていれば、大島殺しと結びつけられることはなかった。 「これまで清瀬と大島の間にはいかなるつながりも発見されていない。二人を結びつけるものは呼び子一つである。それも死後の関連性を示唆するもので、二人を生前結びつけるものはなにもない。犯人像としては依然として風間の方が濃いと言うべきである」  山路が反論した。  大島殺しの線として、暴力団関係は消去できない有力な線である。  その太い容疑線から、一個の呼び子によってこれまでまったく浮上していなかった未知の線に突然乗り換えることはできない。 「清瀬と大島の間にはまったくつながりがないわけではありません。清瀬の同学の先輩に谷崎賢次がいます。谷崎の配下の風間と大島はつながっていたのです」 「それは清瀬と大島のつながりと言うべきではなく、大島と谷崎の関係と言うべきだろう。谷崎の指示を受けて風間が大島を殺したという容疑は晴れていない」 「風間が大島を殺したとしても、風間と鶴田の間には直接のつながりがありません。風間が直ちに鶴田の口を封じたとするには無理があります。  また風間は呼び子についてはまったく心当たりはないと自供しています」 「私はべつに無理ではないとおもうよ。目撃者を殺すのはべつに珍しいケースではない。呼び子などはポケットから車の中にこぼれ落ちて、どこへでも運ばれて行く」  山路は主張した。 「暴力団の線はまだ消去されたわけではない。しかし、清瀬の線は掘り下げる値打ちがあるとおもう。清瀬と大島の間につながりが発見できれば、追及すべき新たな線となるだろう。今後、暴力団と清瀬の二本の線を並行して追ってみよう」  那須《なす》が結論を出した。  ここに清瀬真吾の内偵捜査が決定された。      5  捜査本部は新たなターゲットを得た。清瀬の身辺に捜査網が張りめぐらされた。  清瀬真吾は長野市出身、東都大学卒業後、三立銀行に入社、現在、大手町本店審査部に勤務。本店常務取締役兼営業本部長|木原元彦《きはらもとひこ》の次女と婚約が調い、来春、挙式の予定ということがわかった。  東都大学在学中は成績優秀で、サークル活動においてもワンダーフォーゲル部に籍を置いて、学生生活をエンジョイしている。いわゆるエリート中のエリートである。  棟居は清瀬の写真を大島の内縁の妻であった野上晴江に見せたところ、大島の家に何度か清瀬が訪問したことがあるという証言を得た。 「まちがいありませんか。これは非常に重要なことです」  棟居は緊張した。 「まちがいありません。この人はたしかに大島を訪ねて来たことがあります」  晴江は断言した。 「そのとき二人はどんな話をしていたかおぼえていますか」 「お金の話のようでした」 「金の」 「この写真の人が大島からお金を借りていたようです。お金といっても博奕のお金のようですけれど」 「博奕の金を借りていた」 「仕事の話だからと私は遠ざけられていましたが、二人の言葉の切れ端から、そんな感じでした」 「どちらが貸して、どちらが借りていたようでしたか」 「大島が貸してて、この写真の人が借りていたようでした」 「金額はわかりませんか」 「そこまでは聞いていません。立ち聞きをしていたわけではありませんから」 「もう一度この男に会えばわかりますか」 「たぶんわかるとおもいます」  棟居はついに清瀬と大島のつながりを発見した。それも二人の間には金銭貸借関係があった模様である。  清瀬真吾はその事実を隠していた。  さらに、清瀬の身辺の内偵を進めて、清瀬がギャンブル狂で、ギャンブルの資金をサラ金から借りて、首がまわらなくなっていた事実をつかんだ。  エリートの仮面の下でギャンブルにうつつを抜かしている人間の素顔があった。  だが、それだけでは清瀬を仕留めることはできない。  賭博罪は現行犯でなければ手を出せない。また仮に現行で押さえても、本件とは関わりない。  警察の十八番である別件逮捕ができる状況ではない。  清瀬真吾の容疑性は煮つまっていた。  清瀬真吾の身辺に内偵捜査の網が広げられた。  内偵とは、逮捕状請求の前段階として、要注意人物の容疑性を掘り下げるために、相手に知られないような方法で捜査資料を収集することである。  内偵は任意捜査の一つで、捜査に名を借りて相手のプライバシーを詮索するところから、その適法性が問題になる。  だが、証拠資料はプライバシーの中に潜伏している。  清瀬の身辺に打った内偵捜査網に、捜査本部の興味を引くものが引っかかった。  それは三立銀行の社内報で、月一回発行される。  その中に、行員の冠婚葬祭コーナーがあった。そのコーナーで、清瀬の婚約記事が掲載されていた。  婚約のパートナーは本店常務取締役兼営業本部長の木原元彦の次女|昌子《まさこ》で、来春早々の挙式予定となっている。  社内報にはパートナーから贈られたというネクタイとネクタイピンを付けて、ポーズしている清瀬のハッピーな写真が掲載されていた。  捜査本部は社内報の記事を踏まえて、さらに内偵の触手を伸ばした。  その結果、捜査本部は清瀬に対する心証を固めた。  捜査本部は清瀬の任意同行要請を検討した。  その結果、  ㈰大島岩男とつながりがあった。  ㈪ギャンブル狂でサラ金の借金で首がまわらなくなっていた模様。  ㈫重役の娘と縁談が進行中。  ㈬住居が佐川詩乃の居宅に近い。  ㈭鶴田の生前、同学の先輩・後輩関係の延長で親交があった。  以上の状況から、犯人適格条件を満たすものとして任意同行を要請することに決定した。 [#改ページ]   天の配玉《はいぎよく》      1  十一月十日午前七時、前夜から清瀬の在宅を確かめていた捜査本部員六名は、調布市仙川の清瀬の自宅に赴いて、出勤の支度をしていた同人に捜査本部への同行を求めた。  棟居から要請を受けた清瀬は蒼白になった。 「ぼくは警察から呼ばれるようなことはなにもしていません」  最初の衝撃からようやく立ち直った清瀬は、抗議するように言った。 「お手間は取らせません。ご協力いただけますか」  棟居の口調は素直に従わなければ長引くかもしれないぞと暗に恫喝《どうかつ》している。  清瀬はその場から捜査本部に同行された。  意外な人物の容疑線上への浮上に、捜査本部も緊張していた。  清瀬を迎えたのは那須《なす》警部である。棟居と石井が補佐に付く。 「お忙しいところをわざわざご足労いただいて恐縮ですな」  まずは低姿勢に切り出すのが那須の常套である。 「大変迷惑を被っています。今日はどうしても出席しなければならない重要な会議があるのです」  清瀬は那須の穏やかな表情に与《くみ》しやすしとみたのか、口を尖らせた。 「任意のご同行ですから、いつお引き取りいただいてもけっこうですよ」  那須がやんわりと答えた。  清瀬にも同行要請を拒否するだけの自信はなさそうである。 「いったい、どんなご用件でしょうか」 「鶴田正純さんをご存じですね」  那須はそろりと訊問の触手を伸ばした。 「同学の後輩です。最近、暴力団の抗争の傍杖を食って殺されましたが、鶴田君の件ですか」  清瀬はようやくおもい当たったような表情になって言った。 「たしかに傍杖を食ったようですが、暴力団の抗争とは限りません」  那須が柔らかに反駁した。 「報道によると、三矢組と極新会の抗争に巻き込まれたということでしたが」 「あくまでも推測にすぎず、断定されたわけではありません」 「暴力団関係以外となると、どんな線が考えられるのですか」  清瀬の面に薄い興味の色が塗られた。 「大島岩男と鶴田さんを結びつけたものは、大島の死体と一緒に発見された鶴田さんが常に肌身離さず持っていたという一個の呼び子です。これがその呼び子ですが、これはあなたが鶴田さんにあげたものだということですね」  那須はビニール袋に入れたプラスチック製の赤い呼び子を清瀬の前に差し出した。 「そうです。彼が以前、電車の中でチンピラにからまれて困っているのを見かけて、この呼び子を吹いて助けたことがあります。そのときに鶴田にやったのです」 「鶴田さんの婚約者の佐川詩乃さんからそのことは聞きました。あなたから呼び子をもらって以来、鶴田さんは常に呼び子を身に付けていたそうですね」 「と本人からも聞いております。彼が身に付けていた呼び子が大島の死体と一緒に発見されたのであれば、大島を殺した犯人が鶴田に現場を目撃されて鶴田も殺し、ついうっかり鶴田の呼び子を大島の死体と一緒に移動してしまったのでしょう」 「鶴田さんの持っていた呼び子がどうして大島の死体と一緒に移動するのですか」  那須が問いかけた。 「それは、小さなものですから、鶴田の身体からこぼれ落ちて大島の身体のどこかに引っかかって移動されたのではありませんか」 「まったく可能性がないとは言えませんな。しかし、見る通り、プラスチック製の呼び子はつるつるしていて、身体のどこかに引っかかるというようなものではありません。引っかかるよりは、犯人が意識的に拾い取って運ぶ方がより確実に移動するでしょう」 「どうして犯人が拾い取るのですか」 「それは、犯人にとって呼び子をその場に放置しておくと不都合だったからですよ。いや、不都合だと犯人が考えたからでしょう」 「どうして犯人にとって不都合なのですか」  清瀬の面に塗られていた興味の色は不安の色に塗り替えられているようである。 「呼び子が犯人の素性を示す手がかりになる虞《おそれ》があるからですよ」 「呼び子が犯人の手がかりに……」 「そうです。呼び子が鶴田さんの死体と一緒に放置されていれば、犯人の遺留品と疑われるかもしれないと犯人は考えたのでしょう」 「どうしてそんなことを考えるのですか。その呼び子はぼくが鶴田にやったものです。犯人のものではありません。鶴田の所持品がどうして犯人の遺留品になってしまうのですか」 「それが犯罪者の心理というものなのでしょうね。犯人が呼び子にまったく関係なければ持って行くはずがありません。しかし、犯人の関係物品であったとしたらどうでしょう。つまり、以前犯人がこの呼び子を所持していたとしたら、それを被害者の死体と共に放置することに不安をおぼえたかもしれませんよ。生前、被害者にやったものだが、自分の所持品のような気がしたかもしれない」 「馬鹿な。それでは私を疑っているのではないか」  清瀬は語気を荒くした。 「そのことであなたにご足労いただいたのです。実はですね、あなたと大島の間には浅からぬ関係がありますな」  那須は清瀬の急所に第一矢を射込んだ。清瀬はぎょっとしたようである。 「少々あなたの身辺を調べさせていただきまして、大島岩男の内妻から、あなたによく似た人物が何度か大島を訪問していた事実を聞き込みましたよ」 「お、おれは、大島などとはなんの関係もない。彼を訪ねたこともない。ヤクザの情婦の言うことなどまったく信用できない」  清瀬の言葉遣いが崩れた。 「それでは、彼女に面通ししてみますか」  那須が清瀬の顔色を測るように見た。 「そんな女の証言など、なんの価値もない」 「あなたはサラ金からだいぶ借金をしているようですな」 「おれがだれから金を借りていようと、おれの勝手だ。プライバシーの侵害ではないか。そのことと事件とはなんの関係もない」 「我々もそのように希望しております。  ところで、常務の令嬢とご婚約が成立したそうですね」  那須が話題を突然転じた。清瀬の不安の色がさらに厚くなったようである。  那須は清瀬の顔色などはいっさい斟酌《しんしやく》せず、 「行内では逆玉の輿に乗ったシンデレラボーイと羨ましがられているようですが、私も若ければあやかりたいとおもいます」  那須は茫洋として捉えどころのない表情で言った。 「べつに重役の娘と結婚しても、出世が保証されるわけではありませんよ。いまの企業はそんなに甘くはありません」  清瀬は少し立ち直った。 「そうでしょうとも、そうでしょうとも。結局ものを言うのは実力です。あなたも実力があればこそ、常務に見込まれたのでしょう。  ところで、婚約者から贈られたというネクタイピンをしていらっしゃいませんね」  那須は清瀬のネクタイピンに視線を向けた。  清瀬は警察がそんなことまで調べているのかと驚いたようである。 「大切な品なので、めったに使いません。どうしてそんなプライベートなことまで知っているのですか」  清瀬は反問した。 「社内報を拝見したのですよ。社内報に冠婚葬祭のコーナーがあって、そこにあなたと常務令嬢との婚約の記事が載っていました。その中に常務令嬢が、あなたに真珠のネクタイピンを贈ったと紹介されていたのです」  内偵捜査の触手が社内報にまで伸びていたことは、清瀬に衝撃をあたえた模様である。 「ところで、そのパールのネクタイピンですが、あなたは令嬢が買い求めた銀座の宝飾店金亀堂に修理に出したそうですね」 「そ、それは、どこかでパールが落ちてしまったので、金亀堂にクレームを申し立てたのです」 「金亀堂では、めったなことではパールはネクタイピンの本体から剥落しないように取り付けてあるということでした。金亀堂ではなにかよほど強い外力が作用したにちがいないと言っています」 「どうしてそんなことまでいちいち詮索するのですか。ぼくにとっては大切なエンゲージタイピンですが、警察にはなんの関係もないでしょう」  清瀬はいらだたしげに言った。  社内報からタイピンの真珠を追及している捜査本部の意図が不気味らしい。 「我々もあなたのプライバシーを詮索する意図はありません。  実はですね、この呼び子ですが……」  那須は手袋を付けると、ビニール袋を開いて呼び子をつまみ出した。  呼び子の吹き口をビニールで挟んで、唇が直接触れないようにして軽く吹いた。呼び子がプルプルと鳴った。 「なにか気がつきませんか」  那須が清瀬の顔を覗いた。 「さあ、べつに」  那須はもう一度プルプルと呼び子を吹くと、棟居が差し出したもう一個のべつの呼び子を口にくわえて吹いた。  ピリピリと呼び子特有の甲高い音が空気を切り裂いた。  二つの呼び子を吹き比べると、明らかに音色がちがっている。 「こちらが大島の死体と一緒に発見された、あなたが鶴田さんにやった呼び子です。そして、こちらが普通の呼び子です。吹き比べてみると、明らかに二つの呼び子は音がちがう。あなたの呼び子は本来の呼び子の音ではない。我々もそのことに最近、気がつきました」  那須はすでに清瀬の呼び子と言っていた。 「私の呼び子ではない。私が鶴田にやった呼び子だ」  清瀬が抗議するように訂正した。 「そうでしたな。あなたが鶴田さんにやった呼び子ですが、最初からこんな音がしましたか」 「いいえ、鶴田にやったときは、普通の音がしていました」 「我々も不思議におもって、呼び子をよく調べたのです。そうしたら、呼び子の中に玉が二つ入っていたのですな」  その意味がわかるかと問うように、那須は清瀬の反応を探っている。 「玉が二つ……?」 「そうです。呼び子の中には一つ玉が入れてあって、それが呼気と共にコロコロと転がって呼び子特有のピリピリという音を発するのです。ところが、この呼び子の中には玉が二つ入っています。そのために玉同士がぶつかり合ってこんな妙な音になるのですな」  那須は言って、三度プルプルと件《くだん》の呼び子を吹いて、 「あなたが鶴田さんにこの呼び子をあげたときは、本来の音を発していた。ところが、大島の死体と共に発見されたときは二つ玉になっていました。  鶴田さんが生きているとき二つ玉の呼び子を吹いていれば気がついたはずです。すると、呼び子の玉が増えたのは鶴田さんが殺された後、大島の死体と共に大山山中へ運ばれた間ということになります。なぜ第二の玉が呼び子の中に入り込んだのか。我々は不思議におもってその玉を調べたところ、なんと第二の玉は真珠だったのですな」  那須の言葉を聞いている間に、清瀬の顔面から血の気が引いていった。 「その真珠を金亀堂に見せたところ、あなたのエンゲージタイピンから剥落した真珠であることが確認されましたよ。  どうしてあなたのエンゲージタイピンの真珠が、あなたの所有を離れた呼び子の中に入って大島の死体と共に運ばれ、大山山中に埋められていたのか、この点ご説明いただきたいとおもいましてご足労願ったのです」  那須は一気につめ寄った。      2  清瀬真吾は自供した。 「大島とはあるパチンコ店で台が隣り合って知り合いました。彼は負けが込んでいた私に気前よく玉をまわしてくれて、開放台の見分け方をおしえてくれました。それが縁で仲良くなり、意気投合して一緒に飲んだりしました。最初は彼が暴力団員であることを知りませんでした。  そのうちに彼から博奕に誘われて、なにげなく従いて行き、勝たせてもらっていることも知らず、気がついたときは泥沼の中に引きずり込まれていました。  負けが込んで逆上している私に、大島は気前よくコマをまわしてくれました。借りたコマは必ず返さなければなりません。私は金を借りたような気がせず、大島からコマを借りている間に身動きできなくなってしまいました。  私を充分手繰り寄せたところで、大島は牙を剥きました。博奕の金は二、三日のうちに必ず返すのが仕来りだ、それを日限を切らないで貸したのは顔の立て方がちがうからだよ、それを返せないときは命を差し出すのが仁義というものだ、と開き直り、銀行の金をまわせと迫ってきました。それがいやなら、これまでのことを洗いざらい銀行にぶちまけるがいいかと、私を脅迫したのです。  銀行員は社会的信用が生命です。それが事もあろうに暴力団員と交際して、賭博をして深みにはまってしまったというのでは救いようがありません。せっかくの婚約もご破算となり、銀行にいられなくなります。  絶体絶命に追いつめられたとき、六月十四日の夜、大島が半死半生になって私の家に転がり込んで来ました。そのとき、私は婚約者とデートして帰宅して来たばかりでした。着替えをする前にノックされて玄関を開くと、大島が追われているのでかくまってくれと私に言いました。大島が三矢組組長の狙撃に失敗してお尋ね者になっていることは知っていました。  そのとき私は、これこそ天があたえた千載一遇の機会ではないかとおもいました。このまま大島を抹殺してしまえば、世間は三矢組か極新会が人知れず処刑したと見てくれます。大島さえこの世から消えてくれれば、私の博奕の借金は帳消しとなり、暴力団員との交際もなかったことになります。銀行にもいられるし、逆玉の輿にも乗れます。  大島を追跡して来る者の気配もありません。あの恐るべき大島がまったく無抵抗で私にすがっています。私を頼って来るくらいですから、警察、極新会、三矢組から追われて、どこへも行くところがなくなったのでしょう。私と大島を結びつけるものはなにもありません。私も大島との交際は秘匿していましたし、大島も私を肥えた美味《おい》しい獲物として独り占めするために隠していたようです。  咄嗟に殺意を定めた私は、家にあった金属バットで大島の頭を殴りました。悪のわりにはまったく無抵抗でした。昏倒した大島を、大勢でなぶり殺したように見せかけるために、さらにバットでめった打ちにした上に、登山ナイフで身体の諸所を刺しました。  大島の死体を以前、ハイキングに行って様子を知っている大山山中へ隠すために車に積み込んでいるところに、鶴田が突然訪ねて来たのです。避けも隠しようもありませんでした。まさか鶴田がそんな時間に訪ねて来ようとは予測もしていませんでした。  鶴田はエル・ドラドでアルバイトをしていたので、大島の顔を知っていました。鶴田はその場の事情を一瞬に悟ると、私に自首を勧めました。相手は暴力団員だから正当防衛が成立するかもしれない、と鶴田は言いました。大島の死体の状況から正当防衛が成立するはずもないし、たとえ成立したとしても私的交際があった暴力団員を殺したとあっては、私の社会的生命は終わりです。  私は鶴田の勧めに従うように見せかけながら、鶴田の隙を狙って、彼の身体に登山ナイフを突き立てました。鶴田は私の顔を驚いたように見て、先輩、なぜ、と言いかけながら、ポケットから私がやった赤い呼び子を取り出して口に当て、吹こうとしました。吹きかけたところで力が尽きて意識を失いました。  私はもう一刺し止どめを刺して、大島と共に鶴田の死体を車に乗せ、途中、多摩川の岸から川に捨てました。鶴田の死体だけ捨てたのは、大島と一緒に埋葬して、万一発見されたとき、同一犯人による仕業と見られるのを恐れたからです。  鶴田と一緒に呼び子も捨てるべきだったのですが、私は自分が彼にやった呼び子が手がかりになるような気がして、咄嗟に拾い取りました。まさかその呼び子の中に婚約者からもらったタイピンの真珠が剥落したとは夢にもおもいませんでした。  大島の死体を大山に埋めて自宅へ帰って来てから、タイピンの真珠が落ちていることに気がつきましたが、どこに落としたかわかりませんでした。家の中と車内を探しましたが見当たりません。犯行中、あるいは死体を運搬途中落ちたのかもしれませんが、小さなものなので探しようがありませんでした。  私はタイピンを注文先の金亀堂へ持って行って、新たな真珠を取り付けさせました。その真珠が呼び子の中に転がり落ちたとは夢にもおもいませんでした。  その呼び子を大島の死体と共に埋めたわけではありません。死体を埋める作業の間に同じ場所に落としてしまったのだとおもいます。鶴田の口を塞いだつもりが、彼の正義の味方としてあたえた呼び子によって、私の罪を告発されたのは皮肉です」  と清瀬は供述して、がっくりとうなだれた。  清瀬の自供によって錯綜した事件は解決した。      3  事件解決後、捜査本部で開いたささやかな打上げ式で、石井が言った。 「清瀬が鶴田の死体を捨てるとき、呼び子を拾い上げなかったなら、また拾い上げても呼び子の中にタイピンの真珠が落ち込まなかったならば、清瀬を仕留めることはできなかったでしょうね」 「そうです。呼び子の空気取入口はまことに小さい。そこへタイピンの真珠が転がり込む確率は極めて低い。天の配剤という言葉がありますが、まさに天の配玉ですね」  棟居が答えた。 「配玉ですか。そういえば、清瀬はこれで逆玉の輿に乗り損なったことになりますが、これも天の配玉ということになりましょうか」  石井が憮然とした表情になった。      4  佐川詩乃は棟居刑事から犯人が逮捕されたという報《しら》せを受けて、強い衝撃をおぼえた。なんと清瀬が鶴田を殺した犯人であった。  正義感の楯として鶴田に呼び子をくれた本人が、鶴田を殺した。そして、清瀬を捕えたのもその呼び子であった。  あのとき、鶴田に呼び子をあたえなかったならば、清瀬は二人の犠牲者の上に築いた完全犯罪を踏まえて、エリート街道をまっしぐらに進んだはずであった。 「可哀想な人」  詩乃は密かにつぶやいた。鶴田と清瀬二人に対してである。  それほどまでにして守らなければならなかった清瀬の幸福と将来はどんなものであるのか。  また鶴田の正義感も、正義を実現するだけの実力に裏づけられていなかった。  実力に裏づけられていない正義は、執行力のない法のようなものである。しょせん青臭い若者のロマンチックな幻影にすぎない。  鶴田はその幻影のために死んだ。  鶴田と知り合ったとき、いつかこんなことになるような予感があった。  たとえ実力の裏づけのない正義であっても、不正を見過ごすことは鶴田にとって自分の価値観を否定することであった。  鶴田は清瀬の犯行を目撃して自首を勧めたというが、鶴田自身が清瀬を告発するようなことは決してしなかったはずである。  清瀬は鶴田の勧告を無視しても、自分が得たポジションを失わなかった。それにもかかわらず鶴田の口を塞いだ。  鶴田が告発も恐喝もするはずがないことを知っていながら、鶴田の目が怖かったのだ。  これから先、清瀬が逆玉の輿を足がかりに、どんなに出世して行ったところで、鶴田は清瀬が踏まえた犠牲を知っている。  生涯、鶴田の正義の目に睨まれていなければならない。これが清瀬にとって堪《た》えられなかったのであろう。  詩乃はこの事件を通してまみえた棟居や石井刑事の目をおもいだした。  彼らは、彼女がこれまで知らなかった人種である。棟居や石井も、時に鶴田と同じような目の色を見せることがあった。しかし、平素は通常の市民の目と変わりなかった。  社会正義の旗印を常に前面に押し立てているのは危険であるし、嫌われる。社会の不正と悪を追及することを職業としている彼らは、そのことをよく知っている。  だから、平素は正義の旗を隠している。正義の旗印というものは社会の秩序を守るために必要な基準であるが、それがいつも翻《ひるがえ》っていると息苦しく感じる。  本来、そんなものは必要ない社会が望ましいのだ。  鶴田はそういう社会を実現するための踏み石になったのかもしれない。  でも、詩乃にはそんな社会にならなくてもよい。不正や悪がまかり通っていてもいい。鶴田が臆病で卑怯であってもいい。鶴田の生きている世界の方がよい。 「一番可哀想なのは私なんだわ」  詩乃は自分自身に語りかけるようにつぶやいた。 [#改ページ] [#改ページ]  棟居刑事の占術      1  反町吉八《そりまちよしはち》は久し振りに家族を連れて新宿へ出た。  九州へ単身赴任している彼は、ゴールデンウィークに帰宅した。妻と、中三の娘と小四の息子を連れて、子供たちが観《み》たがっていた映画を新宿の映画館で観た後、食事をして街をぶらついた。  新宿というと、なんとなく「怖い街」というイメージが濃いが、そんなことはない。  銀座のアダルト、上野の地方色、六本木や原宿のファッション、渋谷の若者などと、東京の各地域別に明確に色分けされているが、新宿は雑色の街である。  この街には主たる色がない。主役もいない。西口新都心に棲息《せいそく》する超高層ビル街のパワーエリートから、地下道の浮浪者や歌舞伎町界隈《かぶきちようかいわい》の性倒錯者に至るまで、あらゆる種類の人間が雑然と集まっている。  新宿はどんな人間がいても違和感はない。人間のごった煮である。  家族連れやヤクザや浮浪者が一緒に歩いていても、それが街の風俗として調和している。  反町はそんな新宿が好きである。  家族は映画と食事に満足していた。来年、高校受験を控えた娘の冬子《ふゆこ》は、 「楽しいね」  という言葉を何度も繰り返している。  食事の後入った喫茶店で、いつもの儀式を行なった。  儀式というのは、喫茶店のコースターに冬子が、「みんなファミリー」と書いて、家族がそれぞれ署名するのである。  彼女はそのコースターに日付を入れて、大切に保存している。  企業の都合で家族が分かれて暮らす寂しさを、そんな儀式で埋め合わせている娘がいじらしかった。  ゴールデンウィークが終われば、反町はまた遠い赴任地へ帰って行かなければならない。  冬子もまた塾通いが始まる。家族一緒の団欒《だんらん》も束《つか》の間《ま》である。 「あまり遅くなってもなんですから、そろそろ帰りましょうか」  去りがてにしている反町や子供たちを、妻がそっと促した。 「そうだな」  反町はうなずいて、 「今年の夏休みは九州へ来るのは無理かな」  と言った。  例年夏休みを利用して、家族が九州へやって来る。  反町も数日休暇を取って九州を案内してやるのが反町一家の夏の恒例のイベントだった。 「今年は塾の特訓があるので、無理かもしれないわね」  妻が言った。 「仕方がないな。その分、高校へ入ったら、九州一周旅行をしよう」 「うん、したいしたい」  冬子と弟の吉成《よしなり》がはしゃいだ。 「少し冷えてきたね。車で帰ろう」  反町たちは空車を探しながら、表通りへ向かった。  街角の薄暗い一隅に、易者が見台を立ててうずくまっていた。  冬子と易者の目が合った。  易者はすかさず掌《てのひら》を上に向けて差し出した。その辺の呼吸には年季が入っている。  冬子の足が止まった。心がためらっている。 「およしなさいよ。凶と出たら、気分が悪いわよ」  妻が言った。 「でも、受験を占ってもらいたいな」 「どんな卦《け》が出ても、気にしないって約束する?」 「約束する。どうせ遊びだもの」  遊びとは言いながら、占ってもらおうという気になったのは、受験が重苦しく心に引っかかっている証拠である。見台の上には、手相五千円、姓名鑑定五千円、総合運勢鑑定一万円と、見料が掲示されている。  五十前後の穏やかな風貌《ふうぼう》をした易者である。 「それでは手相を拝見いたしましょうかな」  易者は重々しく言って、冬子の手を取った。 「ほう、なかなか人気者ですな。人望があって、常にグループの中心になる相をしています。裏方さんではなく表舞台に立つ相です。世の中の人気によって社会的に活躍し、開運する相をしています。マスコミ関係に進むと成功しますよ」  易者はのっけに言った。  その言葉はまさに的中していた。冬子は人の面倒みがよく、神経が細やかで、中学入学以来、学級委員を務めている。 「演劇方面は?」  冬子は表情を明るくして問うた。演劇が好きで、小学校時代学芸会で主役級をつとめた。 「芸能関係もいいですね。多面性がありますので、女優さんなんかにも適《む》いています」 「よかった」  冬子は嬉《うれ》しそうに、母親と顔を見合わせて笑った。 「運命線も強いし、生活力もたくましいし、頭脳線も現実志向とロマンを併せもっています。愛情線も豊かです」  このあたりまではいいことずくめであった。 「生命線の中間に島がありますので、二十代半ばから三十くらいまで、健康に注意されるとよろしいでしょう。それ以後は順調です。結婚線の先端が割れていますので結婚は恋愛ではなく見合を勧めます。恋愛結婚は夫婦生活に破綻《はたん》を生ずるかもしれません。まあ、手相は変わりますからね、半年か一年に一度くらいは手相を観てもらった方がよろしい」  易者はさりげなくセールスをした。  冬子は日ごろから、大きくなったらお父さんのお嫁さんになると言っているほどの父親っ子である。  恋愛結婚をするなと言われても、受験を控えて、まだ実感はなさそうである。 「ちょっと軽率なところがありますな、早のみ込みの早とちり、衝動買いなんかに気をつけたほうがいいですね」  みんながわっと笑った。  手相の鑑定はまずまずであった。 「いかがですかな、この機会に姓名判断もなされては」  易者が勧誘した。  手相の鑑定がよかったのでいい気分になっていた冬子は、 「観てもらってもいい?」  と両親の顔色をうかがった。  そのとき反町は少しいやな予感がしたが、その場の雰囲気からうなずいてしまった。 「それではここに、お名前とご住所と生年月日を記入してください」  と易者は言って、見台の上に一枚の紙とボールペンを差し出した。 「住所も書くのですか」 「差し支《つか》えがあればけっこうですが、ご住所もあった方が参考になります」  特に差し障りもないので、妻は言われた通り住所と冬子の名前を書いた。  易者は字画を数え始めた。  数え終わってから、うーむとうなった。  冬子が少し不安げに易者の顔を覗《のぞ》いた。  易者は妻の顔を見ながらおもむろに説明を始めた。 「姓名学には不吉な名前の基準があって、まず、四季の文字はうつろいやすいので使わないほうがよろしい。動物や植物の名前も避けた方がよいでしょう」  易者の言葉に冬子の表情が曇った。  冬子という名前は反町がつけたものである。  春はしどけなく、夏は放縦で、秋は寂しい。その点、冬は凛然《りんぜん》としてあらゆる可能性を秘めている。  反町自身が冬が好きだったので、その文字を娘の命名に用いたのである。  冬子自身がその名前をとても気に入っている。 「字画数ですが、反が四画、町が七画、冬が五画、子が三画です。苗字《みようじ》の反町を天格《てんかく》と言い、先祖代々のものですから、姓名判断の対象にはしません。  次の姓の下の字と名の上の字の画数を合計したものを人格《じんかく》と言い、これが主たる運勢になります。  お嬢さんの場合は町と冬が人格で、十二画。十二は意志が弱く、孤独で破産を招く数です」  冬子の顔がますます曇ってきた。 「次に地格《ちかく》は、人格を支持して、これを安定させる運勢です。基運の人格に対する前運となります。幼年期から三十ぐらいまでの運勢を示します。お嬢さんの場合は、冬子が地格となって、八画です。八は進取の気性があって、努力発達型で、志望を貫徹するという数です。吉ですね」  反町は易者の解説を聞きながら、人格とまったく正反対の数意《すうい》ではないかとおもった。  冬子の顔色が少し明るくなった。 「それにしても、総格《そうかく》が悪いですね。総格は姓名の字画数の総計で、お嬢さんの場合十九画となります。十九は障害多難、病弱、不和、孤独、波乱の凶運となっています。残念ながら合格は難しいですね」  冬子の顔色が変わった。  見かねた反町が、 「しかし、たったいま地格は、進取の気性があり、努力発達、志望を貫徹すると占ったばかりではありませんか」 「姓名判断の基礎になる字画数には、吉もあれば凶もあります。これらの全体を総合して判断するのです。  それに数の作用だけで判断するのではありません。姓に合わせ、姓とのバランスやイメージを考え、生年月日に合わせます。画数に大変な凶数があっても、音霊《おんれい》や木、火、土、金、水の五行《ごぎよう》の相生《そうしよう》を観ます。つまり音や数の相生ですね。お嬢さんの音霊は、ソリマチのチが火性音です。これにつづくフユコのフは水性音です。火と水は相剋《そうこく》となって合いません。ここが大切な所でご先祖との結びつきになります。ですから反町という苗字に冬子という名前は音霊が相剋になります。五行の合い性も木木金となって相剋です。  冬というイメージは暗い、寒い、芽が出ない。イメージもよくありませんね」 「イメージとはそれぞれの人間によって違うもので、私は冬は清冽《せいれつ》、凛冽《りんれつ》、玲瓏《れいろう》、年の初め、神迎え、雪晴れ、あらゆる可能性を含むというイメージで四季のうちで一番好きです」  反町は反駁《はんばく》した。 「まあ、それはそうですが、姓名学の基準から言いますと、冬のイメージはよくありません」 「有名な芸名やペンネームに、冬という字を使っている人はいますけど……」  妻が口を挟んだ。 「それはべつに本名がありまして、相乗作用が生じて吉となっているのです」 「変ですね、本名が不吉なので名前を改《か》えたのに、またイメージの悪い名前をつけるんですか」 「それはつまり、本名との相乗作用がありますから」 「本名も不吉で芸名も不吉で相乗作用があるのですか」 「本名との関連や、芸名の音のリズムやバランスで相乗作用が出ます」  易者の説明が曖昧《あいまい》になってきた。 「女の子ですから、いずれは結婚します。そのとき夫の姓に改えることもあるとおもいますが、夫の姓と合わないときは、どうするのですか」 「それは相手の家、つまりご先祖との相性《あいしよう》が悪いことになりますので、おやめになったほうがいいでしょう」 「ほう。結婚相手の本人がどんなに優れていても、相手の苗字と合わないと結婚してはいけないのですか」  反町は驚いた。 「その場合は、今の苗字を名乗られたらよろしいでしょう」 「しかし、反町と冬子は合わないのではありませんか」 「ですから、ペンネームに改えた上で、ご結婚なさるとよろしい」 「どうも、言っていることの意味がよくわかりませんね。子供の名前は親が愛情を込めてつけたものです。姓名学とやらの基準の曖昧なこじつけによって、みだりに改えるものではないとおもいますが」 「親の愛とおっしゃいますが、姓名学は親の個人的な狭い愛情よりも、はるかに広い宇宙の愛に基づいています。我々は宇宙の愛に立って人々を救うために運勢を占っているのです」 「ほう。宇宙の愛に立ってけっこうな見料をとって占っているのですか」  反町の声が皮肉になった。 「あなたは神を見たことがありますか」 「神は自分自身の中にあります」 「私は神を見たことがあります」  易者は言って、かたわらの鞄《かばん》からおもむろに一枚の写真を引き出した。それは、ある神社の境内らしき場所に立った易者の写真で、上半身の背後にハレーションのような白い光が出ている。 「これが神ですか」 「そうです。神が私の前に姿を現わしたのです。こんなことは一度もないと神主も驚いていました」 「カメラに光が入ったのではありませんか」 「カメラに故障はありませんでした。この日以後、私の身辺に不思議なことばかりが起こり、私は世界の人々を救うために運勢の鑑定を始めたのです。  これまで三千人ほど鑑定しましたが、一人として外れたためしはありません。お嬢さんのお名前は、字画数から見ても音霊から見ても、ひどすぎます。お改えになったほうがよろしいでしょう」  話がだいぶ神がかってきた。 「改えろと言われても、戸籍上の名前はめったに改えられませんよ。本人も周囲も、生まれてから十五年使っている名前に愛情を持っています」 「法律的に改名するには、家庭裁判所の許可が必要です。ですから戸籍上の名前は改える必要はありません。ペンネームやビジネスネームの形で改名して、公的な場合を除いて、日常生活で改名したよい名前を使っていると、改名の効果が現われて順調に自分の希望が叶《かな》うようになってきます」  易者は断言した。名前を改えるだけで人生すべて順調に行けばこの世の苦労はなくなるはずである。 「それぞれの人間の名前には個人の歴史がこもっています。そんな簡単に改えられませんよ」  反町は反駁《はんばく》した。 「本当にお嬢さんの幸福を願うならば、名前を改えた方がよろしいでしょう。私は三千人を観て、これまで外れたためしがありません。よろしければ私がよいお名前を探してあげますよ」  易者は「三千人」を繰り返して反町夫婦の顔色をうかがった。  易者の言葉に冬子はすっかり沈みきっている。  合格は難しいと言い渡され、気に入っている名前を改えろと言われて、泣き出したいのを必死に我慢しているのがわかる。  久し振りの一家団欒の楽しい雰囲気は吹き飛んでしまった。  反町は腹が立ってきた。 「それでは参考に、私の姓名も占ってもらおうか」  反町は自分の名前を紙に書いた。  彼の姓名判断が凶と出れば、単身赴任で家族分かれているとはいえ、和気あいあいとして幸せな家庭を築いている反町一家と相反するので、占いが矛盾することの証拠として冬子の気を引き立てようとしたのである。  易者は反町の字画を数え、 「大変けっこうな画数ですね。人格は十三画、知能明達、学術技芸、才能に富む吉運です。総格も二十五で、資性英敏にして発展、成功。幸福を受ける吉となっています。  三才《さんさい》の配列も木、火、火となり、相生名《そうしようめい》の構成です。問題ありませんね」  易者の解説の後半は専門的にわたってよくわからなかったが、反町の意図とは逆になった。  彼の姓名判断が吉と出ては、冬子を慰められない。 「私の八という字は二画ですが」 「姓名学の字画数は字引の画数とは違います。八の霊意《れいい》は八の数なので八画とします。たとえば四という字は五画ですが、霊意は四の数です。五の画数は四ですが、霊意は五です。九も二画ですが、霊意は九です。|※[#「さんずい」、unicode6c35]《さんずい》は水の意で四画、|※[#「りっしんべん」、unicode5fc4]《りつしんべん》は心の意味で四画になります。|※[#「てへん」、unicode624c]《てへん》、|※[#「けものへん」、unicode72ad]《けものへん》、|※[#「しめすへん」、unicode793b]《しめすへん》、月《にくづき》、なども字引の画数とはちがってきます」 「すると、画数の数え方によって吉にも凶にもなってしまいますね。ずいぶんいいかげんではありませんか」 「いいかげんではありません。姓名学では画数の算定を文字成立の根本から計算します。これを六書《りくしよ》の法則と呼んでいます」 「六書か七書か知りませんが、占いの基本となる画数の計算が字引とちがうというのは、なんだか曖昧な気がしますね。それに数によって吉の数もあれば凶の数もあるというのは、こじつけのような気がしますが」 「こじつけではありません。この世界はすべて数によって支配されています。一はだれが見ても一であり、二はだれが見ても二です。数の基本は一から九までで、九と九を掛けて八十一の中に天地の万象|悉《ことごと》く含まれていると解釈します。この八十一数の霊意に当てはめて吉凶を判断するのです」 「社会生活で数が重要なことは認めますが、数の霊意はだれが定めたのですか」 「そ、それは、運勢判断学でそのように定まっているのです」 「それは逆ではありませんか。まず数があって、あとから人間が数の霊意という勿体《もつたい》ぶった意味を押しつけたのではありませんか」 「あなた、もういいわ。行きましょうよ」  妻が反町の袖《そで》をそっと引いた。      2 「姓名判断などいいかげんなものだよ。あんなものを信じてはいけない。お父さんが子供の幸せを願って、一生|懸命《けんめい》考えてつけた名前を、道端の易者が高い見料を取って無責任に改《か》えるように勧めても、信じてはいけない」  反町は帰宅途上、冬子に言った。 「あの易者、住所を書かせたでしょう。あれは後で新しい名前を売りつけるためよ。親のつけた名前に難癖つけて、名前を改えさせ、改名料として高いお金を取るのよ。あの人、冬子の姓名判断をしながら、冬子の顔を見ずに私の顔ばかり見ていたわ。子供より親を信じ込ませて取り込もうという魂胆だったのよ」  と妻は言った。  反町の姓名鑑定料が五千円、冬子の手相と姓名鑑定料が、子供で半額ということで五千円、計一万円の見料を取られている。  一万円を投じて、久し振りの親子団欒の楽しい雰囲気を台なしにされてしまった。 「あんな占い、信じていないよ。冬子、お父さんのつけてくれた名前が大好きだもーん」  冬子は明るい口調で言った。  だが彼女が明るく振る舞えば振る舞うほど、親を心配させまいとする気遣いがわかる。  冬子は心の優しい子である。易者の言葉にどんなに傷つけられたことか。  その夜帰宅してから、反町はますます腹が立ってきた。  床に入っても、易者の言葉が耳に張りついて眠れない。 「意志薄弱、孤独失意、破産を招く相、障害多難、病弱不和、孤独|波瀾《はらん》の凶運数、この名前はひどすぎる。新しいペンネームかビジネスネームをつくれ」  当たるも八卦《はつけ》、当たらぬも八卦、名前の画数で人生が決まれば苦労はない。気に病むだけ損だと自分に言い聞かせるのだが、易者の言葉に娘がどんなに傷つけられたかとおもうと腹が立って、目がますます冴《さ》えてきた。  数に霊意があるなどと、だれが決めたのだ。結局は人間が決めたことではないか。  もしそれが人類普遍の原理であれば、八十一数の数意は世界共通のはずである。  基本数を九×九=八十一として、それぞれの数に勝手な意味をこじつけて、吉、中、凶としたのではないか。  姓名判断は苗字と名前を対象にしている。それでは庶民が苗字を持たなかった時代は、姓名判断ができないことになるではないか。  庶民が苗字を持つようになったのは明治三年、「平民苗字許可令」以後である。  それ以前に苗字使用を認められていた者は、公卿《くげ》や武士、神主、医者、名主、庄屋などの上流階級であった。  姓名判断などと言っても、明治三年以前は、国民の圧倒的多数を占める庶民は判断の対象外に置かれていたのである。  無理に判断したとしても、名前だけの地格でしか占えない。  さらに漢字を用いない外国人の名前は、どのように判断するのか。  このように考えると、姓名判断の非科学的曖昧さがわかる。  運勢占いの種類は古今東西にわたって数多くあるが、Aの方術に吉と出て、Bの方術に凶と出たなら、どちらを優先したらよいのか。  反町が聞き及んでいるだけでも、四柱推命、易占い、地相、家相、印相、姓名、人相、手相、墓相、占星学などがある。  現に冬子の手相はそれほど悪くなかった。  それが姓名判断に至って「ひどすぎる名前」になったのである。  占いなどしょせんお遊び、面白半分に観てもらって、凶と出ても笑い捨てられる醒《さ》めた人物ならばよいが、気にする人や幼い子供たちには影響力がある。  反町自身は占いなど信じていないが、不愉快な気分にさせられた。  通りすがりの未知の人間を呼び止めて、決して安くはない見料を取り、その人間の運勢を鑑定するということは、自分を神の位置に置かなければできないことである。  ましてや、その人間の生活史が刻み込まれた名前を、無責任にも改えろと勧めて、結果が悪かった場合の責任はどう取るのか。  あの易者は約三千人の姓名を判断したが、外れたためしはないと豪語していた。  だが、鑑定したすべての客の運命を見届けたわけではあるまい。そんなことは不可能である。  どだい、その人間を象徴する名前を画数や音性からこじつけの数の霊意と音霊とやらに結びつけて吉凶を判断するのは大それた行為である。      3  翌日、反町は姓名判断の本を買ってきて読んだ。  本を読んで、字画数による姓名判断がますます非科学的な印象を強くした。  運命学の基本とする八十一数の中に、吉を示す数が三十六個、凶を表わす数が三十四個、吉凶相半ばする中が十一個ある。  八十一の中に三十四個も凶数があれば、たいてい凶に当たる。  しかも八十一数の数意の中には、たとえば二十九は智謀発達、活動力あり、とされて吉になっているが、ただし書きがあって、婦人は凶相である。  また二十三は運気|旺盛《おうせい》、富栄の発達運、ただし女は孤独相となって、吉から除外されている。  せっかくの吉数三十六個のうち、女性のみ五個が凶となり、女性のみ大吉となるのは一個だけである。  したがって八十一数のうち、女性にとっての吉は三十一数しかない。  姓名判断学においては、女性は明らかに差別されている。  また三十九は権威長寿、財運であり、子孫繁栄とされるが、婦人は凶数となっている。  しかし女性にとって凶の数が子孫繁栄するはずがない。単に女性を差別しているだけではなく、数の霊意そのものに矛盾がある。  姓名学では十五、二十四、三十一をベストスリーの幸運数としている。  この三つの数のうちどれかを、人格、地格、総格、外格(総格から人格を差し引いた画数)の中にできるだけ入れるのが、姓名学の常識となっている。  これに対して十二、十四、二十二、二十七、二十八は家族関係や人間関係で、不和トラブルを招く破兆《はちよう》数とされている。だが、その根拠はなにも示されていない。  十五、二十四、三十一につづく幸運数として、五、七、八、十一、十三、十七などがあるが、幸運数の中にある十三は、キリスト教国では最も不吉な数として忌み嫌われ、ホテルには十三階がない。  また破兆数の十二はキリスト教では十二使徒を現わし、めでたい数である。  吉運の名前のサンプルとして、石原裕次郎が挙げられているが、彼は天格十五、人格二十三、地格三十三、総格四十八、外格二十五で、すべて吉数である。  次に天、人、地格に木、火、土、金、水の五行を当てはめる三才の配列を見ると、裕次郎は天格が土性、人格が火性、地格が火性となり、火は土を生じ、相生となる。  これは裕次郎が死ぬ前にこの本が書かれたので、吉の名前のサンプルとして取上げられたのであろうが、死後ならばサンプルにはしなかったはずである。  ちなみに裕次郎の人格二十三は、運気旺盛、富栄の発達運となっている。  また、総格は四十八で、知徳を兼備し、成功、名誉離脱あり発展す、である。  反町は読んでいるうちに、だんだん馬鹿らしくなった。  こんなものを信じて、親がつけてくれた名前を改えてしまったら、それこそ罰が当たる。  姓名鑑定の基数となる八十一数吉凶の数意など、すべて非科学的なこじつけである。  国籍、性別、時代、画数計算の方法などによって、鑑定の対象外となったり、差別されたり、結果が異なったりする。  こんなものに一万円を投じたのが、改めてどぶに金を棄《す》てたような気がした。      4  夏がきた。  夏休みに入ったが、冬子は連日塾に通って特訓を受けている。とても九州旅行は無理なので、反町が盆の前後に休暇を取って帰宅して来た。  反町にとっては、我が家で家族と共に一緒に過ごせるだけでよい休養になる。  帰宅するつど、反町は、家族は一緒に住むべきだとおもった。  反町はわりあい小まめに帰っているのでそんなことはないが、離れて暮らす間にそれが当たり前となって、久し振りに帰宅すると、家の中に自分の居場所がなくなっているという単身赴任者の悲劇も少なくない。  一緒に暮らしている間はなんともおもわないが、夕食を共にする回数が少なくとも、一家の主《あるじ》が毎日家に帰って来るということがとても大切なのである。  家族のライフスタイルが異なり、同じ屋根の下で生活していながら顔を合わせる機会が少なくなっても、とにかく同じ家へ帰って来るということが、家族の紐帯《ちゆうたい》となっている。  その夜は家族四人が久し振りに夕食のテーブルを囲んだ。 「やっぱり四人というのは座りがいいわね」  妻も嬉しそうに、丹精こめて作った反町の好物をテーブルに並べている。 「わあー、すごいご馳走《ちそう》。お父さんがいないと、お母さん、すごく手を抜くのよ。いつもあり合わせばかりなんだから」  冬子が歓声を上げた。 「まあ、この子はなんてことを言うのよ。それじゃあ、まるで私がさぼっているみたいじゃない」 「さぼっていないと言うの」 「あなたも十五歳でしょ。受験勉強にばかりかこつけていないで、美味《おい》しいものを食べたかったら自分で作りなさい」 「受験に落ちてもいいの」 「また他人事《ひとごと》みたいに言って」 「まあまあ、二人とも押さえて押さえて」  反町が時ならぬ口争いを始めた二人の間に割って入った。  そんな会話がとても楽しい。いつもは単身赴任者用の食堂で侘《わび》しく食事を摂《と》っている。  吉成がテレビを点《つ》けた。 「久し振りにお父さんが帰って来たときぐらい、テレビを見ないで食事をしましょう」  妻が柔らかくたしなめた。  テレビが介入してくると、家族の会話がなくなってしまう。 「おや、ちょっと待って」  反町がブラウン管に目を固定した。画面に初老の男の顔写真が映っている。その顔に薄い記憶があった。 「あの人、どこかで会ったような気がするが……」  アナウンサーがニュースを読み始めた。  ——今日午後三時三十分ごろ、新宿区北新宿四丁目××番地、ドルミール北新宿四〇五号室、市川了吉《いちかわりようきち》さん、五十四歳方の八畳の間の居室で、市川さんが頭から血を流して、うつ伏せになって死んでいるのを、市川さん宅の掃除に来た新宿区|下落合《しもおちあい》二—××、ベルエポックサービスの従業員|大原愛子《おおはらあいこ》さんが見つけて、一一〇番しました。  新宿署で調べたところ、市川さんは後頭部を鈍器で殴られて死んでおり、新宿署では殺人事件と断定、警視庁捜査一課に連絡して、同署に捜査本部を置いて捜査を始めました。  検視の結果、犯行は十三日深夜から翌日未明にかけて。死因は金槌《かなづち》か玄翁《げんのう》のような鈍器で頭を殴られたことによる脳損傷で、即死と見られています。  室内には二十数万円在中の財布がそのまま残されており、物色の痕跡《こんせき》はありませんでした。市川さんには抵抗した様子もなく、背後から殴られていることから、捜査本部は顔見知りの犯行との見方を強め、市川さんの交遊関係を中心に調べております。—— 「この人はあのときの易者じゃないか」  反町はおもいだした。同時に家族の記憶もよみがえったようである。 「そうだわ。冬子に名を改《か》えるように勧めたあの易者よ」  妻が前後して言った。 「可哀想《かわいそう》」  冬子がびっくりした表情をしている。 「どうして殺されちゃったんだろう」  吉成が問うた。 「それをいま調べているんじゃないか」  反町が言った。 「なんだか気になるわ」  妻が目を宙に泳がせている。 「どうして。私たちには関係ないことだろう」  反町が言った。 「でも、手相を観てもらったのも、なにかの縁があったからでしょう。占いの結果がよくても悪くても、あの易者が殺されたなんて、他人事のような気がしなくて」 「考えすぎだよ。しょせん通りすがりに観てもらった易者にすぎない。殺されたのは可哀想だが、ぼくたちには関係ないことだ」  反町はせっかくの楽しい雰囲気をまた損なわせられたくないとおもった。      5  一一〇番経由の通報を受けた新宿署から、牛尾《うしお》、青柳《あおやぎ》、恋塚《こいづか》、大上《おおかみ》などの面々が臨場した。  所轄署員の後から駆けつけて来た警視庁捜査一課員の中に棟居弘一良《むねすえこういちろう》がいた。 「やあ、またお会いしましたね」  棟居が先着していた牛尾たちに声をかけた。 「易者が殺されて、また顔を合わせたのも運命でしょうか」  牛尾が苦笑した。  過去何度も捜査を共にして、たがいに気心を知り合っているので、仕事がしやすい。  現場は中央線の北手、東中野五丁目との境界に近い中古のマンションである。  この界隈には官庁や企業の寮、アパートが多い。  三丁目を荒らしまわった地上げ屋の姿が、JR中央線の線路を越えて出没している。  被害者の職業は運命鑑定業、いわゆる占い師で、居室の前には、開運指導、人生、経営コンサルタントの表札が掲げられている。  被害者は独身で、死体を発見した派出家政婦の大原愛子が掃除、洗濯、その他身のまわりの世話をするために、週二、三回通って来ていた。  被害者は、易者を開業してから十年目ということである。  新宿や渋谷や、時には銀座に見台を出していたが、よく当たるので客が多かったという。  易者になる前は吉祥寺《きちじようじ》の方で喫茶店を経営していたと言っていたが、詳しいことはわからない。  一度結婚歴があり、十数年前に離婚して以来、独身をつづけている。  子供はない。身辺に女のにおいもない。  特定の易学や運勢学会にも所属せず、独学で易道ほか各種占法を学んだらしい。  弟子は取っていない。  となると、生前の人間関係が限定されてくる。  発見者の家政婦大原愛子に事情を聞いたところ、 「先生は近く易についてのご自分の新しい研究を本にするとおっしゃって、暇があると原稿を一生懸命に書いていらっしゃいました。いろいろなお仕事を転々とされたそうですが、もともと占いが好きで、趣味で勉強していたのが本職になってしまったとおっしゃっていました。ですから、これといった趣味もなく、お宅におられるときは、いつも占いの勉強をしていらっしゃいました」  と語った。 「訪問者はありませんでしたか」 「ときどきお客さんがいらっしゃいました。ご自宅でも鑑定をしておられましたので」 「お客の中で特に親しくしていた人はいませんでしたか」 「先生の占いはよく的中するので、お客さんが多かったようです。でも、たまには当たらなかったと言って怒ってくる客もいるので、困るとおっしゃっていました」 「あなたは市川さんに占ってもらったことがありますか」  牛尾は問うた。 「いいえ。身近な人だと私情が入って、正しい卦が出ないとおっしゃっていました」 「ほう、身近な人は占えないのか」 「ですから、先生ご自身は自分の運勢を占いませんでした」 「そうだろうな。易者が自分自身の運勢を占えれば、もっと割のいい仕事に替えてしまうかもしれない」  牛尾は棟居と顔を見合わせて苦笑した。 「占いが外れたと怒って来た客を見たことがありますか」 「七月の初めごろ一度あります。言われた通りに改名したら、悪いことばかり重なると怒鳴り込んで来た人がいます」 「その人の名前と住所を知っていますか」 「いいえ」 「その人の特徴をおぼえていますか。年齢とか体型とか、言葉の訛《なまり》とか」 「先生より少し若い、四十代くらいの男の人でした。体型は中肉中背で、薄い茶の入った眼鏡《めがね》をかけていました。言葉の訛はなかったようです」 「一見どんな感じでしたか」 「背広を着ていて、サラリーマンのようでした。でも、よく見たわけではありませんので、はっきりとおぼえていません」 「どんな話をしていたか、耳にはさんだことはありませんか」 「すぐ鑑定室に入ってしまったので、どんな話をしていたかわかりません。ただ、言い合うような声が漏れてきました」 「言い合うような声が聞こえた?」 「帰り際に、その人は先生に、自分が神になったつもりでいるのか。だいたい他人《ひと》の運勢を占うなどという大それた真似《まね》は神だけにしかできないことだ、と捨て台詞《ぜりふ》を吐いて帰って行きました。先生は苦笑されて、ああいう手合いがいるので困るとおっしゃっていました」  大原愛子から聞き出したことは以上であった。  死体はベランダに面した八畳の応接コーナーの床の上にうつ伏せに倒れていた。  この応接コーナーは運命鑑定の客が見えたとき、鑑定室に利用している。  犯行は昨夜深夜から未明にかけてと推定された。  街頭で鑑定するのは、おおむね午後五時から十時ごろにかけてである。それ以外は自宅にいて、客があれば随時鑑定に当たっている。  たとえ顔見知りの者でなくとも、犯人が客を装って来れば、深夜でも迎え入れたであろう。  犯人は被害者の隙《すき》を狙《ねら》って、背後から凶器を振るった。  被害者はまったく犯人に対して警戒をしていなかった模様である。  死体と並行して、現場を検索していた捜査一課の棟居は、鑑定室の一隅に落ちていた一枚の紙片を拾い上げた。  その紙片には反町吉八、反町冬子、都下調布市多摩川三丁目××、緑が丘団地三一五—二二と記入されていて、名前の文字のかたわらに数字や、木、火、火とか、木、木、金、吉、凶の文字、その他記号のようなものが書き添えられている。 「何かありましたか」  牛尾が棟居の手許《てもと》を覗き込んだ。 「これが運命の鑑定書ですかね」 「そのようですな」  易者の運命鑑定室に客の鑑定書が落ちていたところで、不思議はない。  平成×年五月四日という日付は鑑定日であろう。  だが、その紙片一枚が落ちていたことが、棟居の気になった。  棟居には大原愛子が語っていた、占いが外れたと怒って怒鳴り込んできたという中年の客と、紙片に書かれた名前が重なり合って見えた。  解剖の結果、  死因は鈍器の打撲による脳挫傷《のうざしよう》。  死亡推定時間は八月十三日午後十一時から十四日午前二時の間。  抵抗に伴うその他の損傷は認められず。  薬毒物の服用認められず。  というものである。  解剖の結果を踏まえた第一回の捜査会議において、当初の捜査方針として、  被害者の生前の人間関係。  犯行現場に残されていた鑑定書の反町吉八の事情聴取。  現場付近の聞き込み捜査。  凶器の発見。  被害者による運命鑑定客の捜査。  等が決定された。      6  突然、自宅に刑事の訪問を受けた反町は、不審に思った。  刑事に訪問を受けるような心当たりはない。 「せっかくおくつろぎのところを申し訳ありませんが、市川了吉さんという人物に心当たりはありませんか」  新宿署の牛尾と名乗った初老の刑事が、穏やかな目を反町に向けた。  彼のかたわらには、棟居と名乗った三十代と目される精悍《せいかん》な刑事が控えている。 「いちかわりょうきち……」 「我が署の管内で、一昨日の深夜から昨日未明にかけて殺害された易者です」 「ああ、あの易者」 「どうやら心当たりがおありのようですね」  牛尾の目が光った。  穏やかなようであるが、それはまぎれもなく刑事の目である。 「五月の連休に、家族と久し振りに映画を観た帰り、占ってもらった易者です。昨日テレビのニュースで殺されたと聞いて、びっくりしたところです」 「そうですか。それで占いの結果はどうでしたか」 「それが私は吉だったのですが、娘の姓名判断が凶と出まして、改名するように勧められました」 「改名したのですか」 「いいえ、占いなど初めから信じておりませんから。もともとその場の座興のつもりで観てもらっただけです。それがどうかしたのですか」 「実は、あなたとお嬢さんの占いの鑑定書らしい紙片が、犯行現場にあったのです」 「そう言われれば、名前と住所を紙に書いて鑑定してもらいましたね」 「その紙はどうしましたか」 「そんなものをもらっても仕方がないので、残してきてしまいました」 「その鑑定書が犯行現場に落ちていたのです」 「落ちていても不思議はないでしょう。殺された易者に占ってもらったのですから」 「五月の連休というと三ヵ月以上も前になりますが、そんな前の鑑定書が一枚だけ犯行現場に落ちていたというのは気になりますね」 「しかし、私たちにはなんの関係もないことです。通りすがりに観てもらっただけの易者です。まさか私たちを疑っているのではないでしょうね」 「多少とも関《かか》わりのある方にはすべてお尋ねしていることです。不愉快だとはおもいますが、一昨日の深夜から未明にかけて、どちらにおられましたか」 「一昨日の夜帰宅して、ずっと家におりましたよ」 「その間、訪問者や電話はありませんでしたか」 「訪問者も電話もありませんでした。家族が一緒にいたというだけではアリバイにはならないのですか」 「どうぞ、そんなに深刻にお考えにならないでください。今日は大変失礼しました」  牛尾は言って、辞去して行った。  だが、完全に疑いを解いたわけではなさそうである。  刑事の訪問は反町家に衝撃をあたえた。 「冗談じゃないわ。通りすがりに占ってもらっただけで、殺人の疑いをかけられてはたまらないわ」  妻が憤然とした。 「名前がひどすぎるの、合格は難しいだの、名前を改えた方がいいだのと言われたときは、あんな易者、死んだ方がいいとおもったけれど、易者にしてみれば、姓名判断学に基づいて言っただけで、べつに嘘《うそ》をついたわけではないでしょう。それを信ずる信じないは私たちの勝手だわ。でも私たちを疑うなんて、警察も見当ちがいもいいところだわ」  冬子も憤慨した。 「それにしても、どうして三ヵ月も前に観てもらったお父さんやお姉ちゃんの鑑定書が床に落ちていたんだろう」  吉成が疑問を提出した。 「易者の家に鑑定書が落ちていても不思議はないだろう」  反町が同じ言葉を繰り返した。 「でも、あの易者は三千人も観て、外れたことがないと威張っていたけれど、その言葉が本当だとすれば、三千人の中のお父さんとお姉ちゃんの鑑定書だけが床に落ちていたというのはおかしいとおもうんだ」 「そう言われてみればそうだな」  反町も息子の意見に引かれてきた。 「もしかしたら」  冬子がなにかをおもいついた表情をした。 「もしかしたら……どうしたんだね」  反町以下家族三人が冬子の顔を覗《のぞ》いた。 「もしかしたら、私たちの前後のお客の鑑定書を探したんじゃないかしら」 「我々の前後の客の鑑定書だって?」 「ええ、あの夜、易者はあの場所にずっと店を出していたんでしょう。すると、私たちのほかにもお客があったはずよ。鑑定順にファイルしてあるとすれば、私たちのすぐ前かすぐ後のお客の鑑定書を取り出す弾みに、私たちの鑑定書が一緒に引っ張り出されて床に落ちたということはないかしら」 「前後の客が鑑定書を残して行ったとは限らないだろう」 「残して行ったかも知れないわよ。鑑定書といったところで、メモに書いただけですもの。むしろそんなものを持って行かないお客の方が多いのではないかしら。私たちのように占いが凶と出たお客は、鑑定書なんか持って行かないとおもうわ。だとすれば、鑑定順にファイルしておくんじゃない」 「なるほど、冬子はいいところへ目をつけたよ」 「私もそんな気がしてきたわ」  反町夫婦も冬子の着眼に傾いてきた。 「お姉ちゃんの発見を警察へ伝えれば、疑いも晴れるかもしれないよ」  吉成もその気になった。  反町家から伝えられた反町冬子の着眼に、牛尾と棟居は盲点に光を当てられたような気がした。      7 「なるほど、前後の客の鑑定書を引っ張り出した弾みに、反町家の鑑定書が落ちたという可能性は考えられるな」 「すると、反町の前後の客の中に犯人がいるということになりますか」  棟居が言った。 「犯人がいたとは限らないが、犯行に関わっている可能性があると見てよいでしょう」 「改めて鑑定書を調べ直す必要がありますね」  被害者の許《もと》にあった鑑定書はすべてすでに調査済みで、鑑定客はリストアップされているが、反町親子の前後の客に調査の焦点を絞っていない。  被害者は鑑定書に鑑定日付を記入して、鑑定順にファイルしてある。  反町冬子の着眼は捜査会議に報告されて、さっそく鑑定書が再調査された。まさに傍目八目《おかめはちもく》の発想であった。  調査の結果、五月四日には、鑑定書は反町親子一枚しかなく、五月三日に一枚、五月五日に一枚、さらに二日に三枚、六日に二枚がファイルされていた。  そのうち住所が記入されてあったのは三日と五日の一枚ずつで、他の鑑定書には住所が記入されていない。  ファイルされていた鑑定書には、いずれも凶と鑑定結果が出ている。五月二日の客一人だけが吉である。  この点も反町冬子が予測した通りであった。  住所が判明している三日と五日の客は、いずれも女性であった。  両人に連絡したところ、二人とも鑑定書に記入した住所に住んでいた。  彼女らは警察からの突然の照会に驚いたらしいが、被害者に占ってもらった事実を認めて、 「凶と出たので、不愉快になって、見料を払って帰って来ました。そのときは占ってなんかもらわない方がよかったと後悔しましたが、もうすっかり忘れていました」  と答えた。  彼女らは市川が殺された事実も知らなかったようである。  念のために二人のアリバイを聞くと、三日の客には確固たるアリバイが成立した。  五日の客は自宅で寝ていたということで、アリバイが曖昧であったが、今年高校を卒業して、銀行に入社したばかりの十八歳のOLで、被害者の名前と住所を知るはずもなく、犯人像として無理があった。  せっかくの反町冬子の着眼であったが、彼女の前後の客に怪しい者は浮かび上がらなかった。  捜査は早くも暗礁《あんしよう》に乗り上げかけた。  前後の客に怪しい者がいなければ、反町親子の鑑定書は、一緒に引き出された弾みに床に落ちたものではなくなる。 「それらしき鑑定書がなくとも不思議はないのではありませんか。むしろないのが当然と言えます」  と棟居が言い出した。捜査員の目が棟居に集まった。 「つまり、反町冬子の前後の客に犯人がいたと仮定します。犯人は被害者を殺害後、鑑定書を取り戻すためにファイルから引き出したとすれば、犯人の鑑定書が残っていないのが当然でしょう」 「それは反町冬子の前後の客を犯人と仮定した場合だが、もし犯人だとしたら彼、あるいは彼女は、通りすがりに立ち寄った易者の住所をどうして知ったのかな」  捜査一課長の那須《なす》警部が代表して問うた。 「犯人と被害者は顔見知りだったのではないでしょうか」 「被害者の家政婦が、被害者から一度も占ってもらったことがなかったと言っていたじゃないか。被害者は身近の人間だと私情が入って、正しい占いができなくなると言っていたそうだ」 「客が易者の住所を知るのは簡単ですよ。さらに詳しく観てもらいたいと言って住所を聞けば、おしえるかもしれません。名刺をやったかもしれませんよ」  棟居は那須の質問をいとも簡単にクリアした。  那須はうなずいた。わかってはいたが、一同のために代表して聞いたらしい。 「となると、犯人の動機ですが、占いが凶と出たのを怨《うら》んで、易者を殺すということがあるでしょうか」  牛尾が口を開いた。  捜査員の意識には、大原愛子が証言した占いの結果に不満を持って怒鳴り込んで来た客がある。 「凶と出て怒る客はいるだろうが、占いの結果に怨みを抱いて易者を殺すというのは、あまりにも短絡ではないかな」  捜査一課の山路《やまじ》が否定的な意見を述べた。 「必ずしも短絡ではないとおもいます。易者が占った通りに悪いことばかりが重なったとしたら、易者がその凶運を運んで来たとおもう者がいるかもしれません」  青柳が反論した。 「それはそれで、易者の占いが的中したことになる。文句を言う筋合いはあるまい」 「たしかに筋合いはありませんが、もともと犯罪は筋の通らないものです。犯人が占いの結果を逆怨《さかうら》みする可能性は充分にあるとおもいますが」  青柳も引き下がらなかった。  だが、動機はなんであれ、犯人が自分の鑑定書を持ち去って行ったとすれば、唯一の手がかりが失われたことになる。  山路も鑑定書に手がかりを求めることには異論はなさそうである。  この日の会議は、結論が出ないまま物別れに終った。  捜査が壁に突き当たったとき、意外な方向から新たな局面が展開してきた。  その翌日、捜査本部に一本の電話がかかってきた。 「大原愛子と申しますが、ちょっとお伝えしたいことがあります」  ちょうど捜査本部に居合わせて、その電話を受けた棟居は、対話者の素性をおもいだすのに一拍遅れた。 「先生の鑑定に不満を持って、怒鳴り込んで来た人がわかりました」 「大原愛子さん、あなたは市川了吉さんのお世話をしていたベルエポックサービスの方でしたね」  棟居はようやくおもいだした。 「そうです。前回、刑事さんに聞かれたときはわからなかったのですが、先生に文句を言って来た人がわかりました」 「それは有り難い。電話してくださったことを感謝します。それで、その人はだれですか」 「実は古い新聞を整理していたら、その人の写真が載っていたのです」 「古い新聞に写真が……その人のことがなにか新聞に書かれていたのですか」 「はい、轢《ひ》き逃げされたのです。轢き逃げされた被害者の写真がその人でした」 「その人の名前は」 「渋川克利《しぶかわかつとし》という人です。七月十五日の新聞に出ています」 「その人にまちがいありませんか」 「まちがいありません。私が先生に取り次いだのですから」  大原愛子の情報提供によって七月十五日の新聞が調べられた。  報道記事によると、  ——昨夜午後十一時ごろ、港区六本木七丁目地域の間道で轢き逃げ事故があり、被害者は救急車で病院へ運ばれる途中死んだ。被害者は同区六本木三丁目のクラブ「ボンソワール」のバーテンダーで、渋川克利、四十二歳である。渋川は同夜、勤め先のボンソワールの看板後、六本木七丁目の自宅マンションヘ帰る途中、轢き逃げされたものと見られる——。  渋川は犯人にはなれない。市川が殺されたとき、すでに渋川はその約一ヵ月前に轢き逃げ被害に遭って死んでいたのである。  だが渋川の鑑定書は、市川の鑑定書ファイルの中にはない。 「これはどういうことか」  捜査会議で市川と渋川の関係が討議された。  渋川は関係ないのではないか、という意見が大勢を占めた。 「渋川の鑑定書が、市川の鑑定ファイルの中に見当たらないのが気になります」  棟居が言った。 「ファイルの中になくとも、なんら不思議はないのではないか。鑑定書は本来、客のものだ。鑑定を受けたとき客が持って行けば、市川のファイルに残らないのは当然だ」  山路が言った。 「渋川は市川の鑑定結果に不満を持って怒鳴り込んで来たそうです。凶の鑑定書は客が残して行く場合が多いそうです」 「必ずしも残して行くとは限るまい。凶の鑑定書でも持って行く客はいくらでもいるよ。高い見料を払っているのだからな」  山路の言葉に低い失笑が湧《わ》いた。 「持って行ったかもしれませんが、残して行った可能性もかなりあります。もし渋川が鑑定書を市川の許に残したとすれば、ファイルの中にあるはずです。それがなかったということは、だれかが持ち去ったと考えるべきではないでしょうか」 「渋川の遺族に、彼の鑑定月日、および遺品の中に鑑定書の有無を問い合わせたらいかがでしょう」  牛尾が棟居の援護射撃をした。  もし渋川が持ち帰っていなければ、それは市川の許に残されているはずである。  そして渋川の鑑定日が五月四日、あるいはその前後であれば、反町冬子の着眼がふたたびよみがえってくる。  牛尾の意見が入れられて、さっそく渋川の遺族に問い合わせられた。  渋川には伸江《のぶえ》という妻がいた。  伸江は、 「五月三日、お店が休みだったので、久し振りにあの人と一緒に外で食事をして、六本木の街を歩いていました。ロアビルの横町へ来たところで、易者が店を出していたので、あの人は、面白いから観てもらおうと言い出しました。私は占いなんて信じられないからやめておくようにと引き止めたのですが、あの人はさっさと見台の前に立ちました。  そして姓名判断をしてもらったところ、字画数が大変悪いということで、改名を勧められました。あの人はその段階ではまだ笑っていましたが、ついでに私の姓名も判断してもらったところ、画数があの人と同じで、大変悪い上に、後家相があると言われました。  あの人はその辺から不機嫌になって、それではどうすればよいのかと問うと、改名を勧められて、十万円払えばよい名前を考えてやると言われました。あの人はその場で十万円を払って、私のために縁起のよい名前をつくってくれるように易者に頼みました。  二日後、易者が新しい名前をつくってくれましたが、それ以後、私が病気をしたり、可愛《かわい》がっていた猫が悪いものを食べて死んでしまったり、ろくなことはありませんでした。あの人は、易者が金儲《かねもう》けのために改名を勧めたのだと言って大変怒り、易者の家に怒鳴り込んで行きました。  でも、あの人が轢き逃げされて、占いが当たってしまいました。もう占いのことはおもいだしたくありません」  と渋川伸江は答えた。 「そのとき易者に観てもらった鑑定書はどうしましたか」 「鑑定書といいますと……」 「姓名判断をしてもらうために、ご主人とあなたの名前を書いたでしょう」 「ああ、あの紙のことですね。名前と住所を書いて、易者が字画を数えて、なにかしきりに書いていましたが、置いてきてしまいました」 「それは確かですか」 「確かです。改名料の十万円を払って受取りももらわずに来ました」 「あなた方ご夫婦が易者に観てもらったのは、五月三日の何時ごろでしたか」 「夜の十時ごろだったとおもいます」  渋川伸江から以上の事実が確かめられた。  すると、渋川夫婦の鑑定書が市川の許にファイルされていなければならない。  だが翌日、渋川夫婦の後に鑑定してもらった反町親子の鑑定書のみ残されていて、渋川夫婦の鑑定書が消えている。  残された鑑定書をファイルしていた被害者が、渋川夫婦の鑑定書のみ紛失するはずはない。  となると、何者かが市川のファイルから渋川夫婦の鑑定書を持ち去ったことになる。  なぜ持ち去ったのか。  持ち去った人間にとって、その鑑定書が市川の許にあるとなにか都合の悪い事情があったからである。  その都合の悪い事情とはなにか。  ここで市川を殺した犯人と、渋川夫婦の鑑定書を持ち去った人間を結びつけてみる。  つまり、鑑定書が市川の許にあると、犯人にとって都合が悪かった。それは鑑定書に犯人の手がかりがあったからであろう。  渋川夫婦の鑑定書が犯人の手がかりになるとはどういうことか。  この点を検討するために、捜査会議が開かれた。 「非常に大胆な仮説ではありますが、市川殺しの犯人にとって、市川と渋川を結びつけられては困る事情があったのではないでしょうか」  棟居が発言した。 「それはどういうことかね」  那須が問うた。 「つまり、市川を殺した犯人は渋川を轢き逃げした犯人ではないかということです」  一同の間にざわめきが起きた。棟居によって新たな窓を開かれたようにおもった。  だが咄嗟《とつさ》に、新たな窓から開かれた展望には馴染《なじ》めない。  棟居はざわめきが鎮まるのを待って、言葉をつづけた。 「犯人が渋川を轢き逃げした現場を市川に目撃されたとします。犯人は市川に弱味を握られてしまった」 「それがどうして犯人にとって市川と渋川を結びつけられては困るのかね。市川の許に渋川夫婦の鑑定書があろうとなかろうと、犯人にとっては関係ないことではないのかな」  今度は山路が問うた。 「市川を殺して口を塞《ふさ》いだとしても、市川の許に犯人が轢き逃げした渋川の鑑定書が残されていたら、轢き逃げ事件と市川殺しを結びつけられる危険性があります」 「ちょっと待ってくれ。市川は易者だから、彼の許に客の鑑定書が残っているのは当たり前だよ。その鑑定書の中に、たまたま轢き逃げ被害者のものがあったとしても、結びつけられるとは限るまい」 「市川と轢き逃げ犯人の間に、あらかじめ面識があったとしたらどうでしょうか。市川は轢き逃げの犯行現場を目撃して、犯人の素性を知った。市川はそれをタネに犯人を恐喝したか、あるいは自首を勧めたか。いずれにしても犯人にとって市川の存在は脅威となります」 「轢き逃げ犯人が市川に見られたと知っても、轢き逃げの被害者が市川の占いの客であることをどうして知ったのかね。犯人が市川と轢き逃げ被害者の関係を知らなければ、鑑定書の存在も知らなかったはずだ」  山路はねちねちと反駁した。 「それは簡単なことです。市川が轢き逃げ犯人に、被害者が自分の客であることを告げた可能性があります。そして自分の鑑定通りの結果になったと言ったかもしれません。  轢き逃げ犯人にとっては被害者の鑑定書が市川の許にあるということは、市川の口を封じた後、市川殺しの動機を轢き逃げに結びつけられる不安をおぼえたのではないでしょうか。そして、その後の捜査はまさにその方角へ向かっています。  犯人にとって唯一の手抜かりは、渋川夫婦の鑑定書を回収するのに気を取られて、一緒にファイルしてあった反町親子の鑑定書を引き出してしまったことです。犯人にとっては、反町親子の鑑定書が渋川夫婦の鑑定書の代わりとなって疑惑を惹《ひ》きつけてしまったのです。もし反町親子の鑑定書が床に落ちていなければ、市川殺しと渋川の轢き逃げ事故を結びつけては考えなかったでしょう。  犯人は鑑定書をいじくるべきではなかったのです。あるべきはずの渋川夫婦の鑑定書が、ファイルから消えていることが二つの事件の関連性を物語っています。犯人は疑心暗鬼に駆られて、自ら墓穴を掘ってしまったのです」  山路は反駁しなかった。渋川夫婦の鑑定書のファイルの有無は不確定であるが、棟居は仮説と断わっている。仮説としても可能性のある仮説である。 「それでは、市川殺しと渋川の轢き逃げに関連があるとして、犯人の心当たりがあるのかね」  那須が問うた。 「いまのところ仮説を組み立てただけで、心当たりはありません」  だが棟居説によって、仮説ではあっても、市川了吉殺しと渋川克利の轢き逃げ事故に関連性のある可能性が生じてきた。  棟居説に基づけば、市川と犯人の間には面識がある。  市川の交遊関係はすでに調査済みである。  市川は各種占法を独学で学び、いずれの運勢学会にも所属していなかったので、易、占い関係には特に親しくしていた人間はいない。  特定の女性関係もない。  となると、残るは客である。  捜査本部は市川の鑑定書ファイルをしらみ潰《つぶ》しに当たった。  ファイルには五百四十六枚の鑑定書があり、そのうち三百二十三枚に住所が記入されていた。  これを若い日付順に過去へさかのぼって捜査の触手を伸ばしていく。  若い日付といっても、渋川の轢き逃げ被害以後の鑑定書は除外してよい。  だが、犯人が必ずしもファイルされた鑑定書の中に潜んでいるとは限らない。  渋川の鑑定書を持ち去った犯人が、同時に自分の鑑定書を持ち去らないはずがない。  あるいはそれ以前に、鑑定された時点に鑑定書を持って行ったかもしれない。  仮にファイルの中に犯人の鑑定書が残されていたとしても、住所を記入してなければ追及のしようがない。  犯人は疑心暗鬼に駆られて墓穴を掘ったと言ったが、まだ墓穴の中に落ち込んでいない。      8  棟居と牛尾はペアを組んで、被害者の住所の近くを聞き込みに歩いていた。  犯行当時、近隣の住人が被害者の家に出入する犯人を目撃しているかもしれない。  被害者の人間関係から目ぼしいものが浮かび上がらないので、捜査本部では流しの犯行を疑う声が出てきた。  もっとも流しといっても、行きずりの犯人ではなく、運命を鑑定してもらうために通りすがりに立ち寄った客が、占いの結果に不満を持って被害者と口論した挙げ句、犯行に及んだという説である。  だが牛尾も棟居も、顔見知りの犯行に固執していた。  犯行現場の床に落ちていた反町親子の鑑定書は、偶然に落ちたものではない。  行きずりの犯人が特定の鑑定書を物色するはずがないのである。  今日も徒労の色濃い聞き込み捜査に歩いて、重い足取りで帰署の途上にあった。 「牛尾さん、棟居刑事、いまお帰りですか」  ちょうど通りかかった所轄署のパトカーが、彼らのかたわらを徐行して、顔見知りの警邏《けいら》警官が声をかけてきた。 「やあ、きみか」  牛尾が答えた。 「我々もいまあがるところです。よろしかったら乗りませんか」 「そいつは有り難い。足が棒のようになっていたんだ」  牛尾はほっとしたおもいで、棟居と一緒にパトカーへ乗り込んだ。  聞き込みの成果があったときは足取りも軽いが、手ぶらで帰るときは疲労が全身に重く澱《よど》む。  こんなとき、捜査本部までの道のりがやけに長く感じられる。  二人はパトカーにすくい上げられてほっとした。  北新宿の犯行現場から新宿署まで、あっという間に着いてしまう。 「有り難う」  警邏警官に礼を言って、車から降りたとき、棟居があっと声を上げた。 「どうしました」  牛尾が棟居の顔を覗き込んだ。 「市川も我々と同じように犯人の車に同乗していたのではないでしょうか」 「犯人の車に……。それでは渋川を轢き逃げしたとき、犯行車に市川が同乗していたというのですか」 「その可能性もあるとおもいます」 「被害者が犯人の車に同乗して轢き逃げをした。とすると、いまの我々のように、被害者と犯人は同じ方角へ帰ったかもしれませんね」 「同じ方角であると同時に、同じ場所へ帰ったかもしれません」 「同じ場所へ」  棟居と牛尾は同じ警察署へ帰るパトカーに拾われた。  市川が店を仕舞って帰宅途上にあるとき、あるいは外出先で近隣に住む人間、または同じマンションに住む隣人の運転する車に拾い上げられたかもしれない。  市川が住んでいたドルミール北新宿には、数十戸が入居している。  マンションの住人にも聞き込みをしているが、彼らはたまたま同じマンションに住み合わせていたというだけで、市川との間に特に交際もなかったので、容疑対象としては見ていない。  交通犯罪は犯人と被害者の間に事前の関係はない。まったく未知の他人同士が接触して、犯人と被害者になってしまう。  市川のマンションに渋川を轢き逃げした犯人が住んでいたとしても、なんら不思議はないのである。  二人はさっそくその着想を、市川の身辺の世話をしていた大原愛子に問い合わせた。 「同じマンション、あるいは近所に住む人の車に、市川さんが乗せてもらったことはありませんか」 「そういえば、先生はときどき二階の山野《やまの》さんの車に乗せてもらうとおっしゃっていました」 「山野さんとは?」 「このマンションの二階に住んでいる不動産屋さんで、先生に地相や家相の相談をしていました」 「二階の山野か」  棟居と牛尾は目を見合わせた。  ようやくしっかりした手応《てごた》えが返ってきた感じである。  二〇六号室の山野|省造《しようぞう》は四十五歳、不動産業を営んでいる。  市川が殺害された後、山野の許にも聞き込みに行っている。  だが、その時点では市川と山野の間には、同じマンションに住んでいるというだけで、なんのつながりも発見されなかった。  山野は一年前に購入したM社製のクーぺを運転しているが、七月中旬以降、N社製のGTカーに乗り替えている。  M社製のクーペは廃棄してしまったらしく、見当たらない。  購入後一年そこそこの車を、どこが気に入らなかったのか、新たな車と買い換えている。怪しい状況であった。  棟居と牛尾は、彼らの着眼と発見を捜査本部に伝えた。 「市川が轢き逃げ犯行車に同乗していたと仮定するのは、飛躍ではないか。市川が轢き逃げ犯行場面を目撃していたことすら、まだ確認されていないのだ」  山路が反論した。 「市川が犯行現場を目撃していれば、その場で警察に通報したはずです。それをしなかったということは、犯人が顔見知りであり、犯人を庇《かば》った可能性があります。同時に犯人から黙過してくれと泣きつかれた可能性もあります。いずれの場合も市川が轢き逃げ犯人に接触しなければなりません。  犯行後接触した可能性もありますが、犯行時、犯行現場において接触するのが、犯人にとって目撃者である市川の黙秘を購《あがな》うチャンスが最も大きいとおもいます。犯行時、犯行現場において犯人が市川に接触するチャンスが最も大きいのは、犯人の車に市川が同乗していた場合です。したがって必ずしも飛躍とはおもいませんが」  棟居が切り返した。  二人の着眼と意見は、結局、捜査本部に受け入れられて、山野省造の任意同行が決定された。  捜査本部に同行された山野は、最初は言を左右にして否認していたが、車の行方を追及されて、追いつめられた。  山野の自供は次の通りである。 「市川さんには商売上の地相や家相で相談に乗ってもらっていた。七月十四日午後十一時ごろ、六本木で帰宅途上にあった市川さんに偶然出会い、車に乗せた。市川さんを乗せて間もなく、路上で車の前を急に横切った通行人を轢いてしまった。いったん車を停《と》めて様子を見たが、被害者は目や口や鼻から血を噴き出していて、意識がなかった。被害者を見た市川さんが、自分が運勢を鑑定したことのある客だと言った。  私はそのとき、数十億の土地の取引を手がけていた。ここで人身事故を起こしては、数十億の取引が破談になってしまう。この取引に失敗すれば、私は破産してしまう。たまたまそのとき、周囲に通行人も通行車もなかったことが、悪魔につけ込まれた。  私は咄嗟にその場から逃げ出してしまった。市川さんは私がその足で警察へ行くものとおもっていたようだ。だが、私は市川さんに泣きついて、もしこの取引が壊れたら私は破滅だ、黙っていてくれたら一千万円、謝礼を払うと言うと、市川さんは承諾してくれた。  だが、その後間もなく、市川さんは一千万円では安すぎる、儲けの半分をよこせと要求してきた。そのとき私は半分どころか、市川さんに骨までしゃぶられるとおもった。  たとえ市川さんが黙秘してくれたとしても、一生彼に怯《おび》えて暮らさなければならない。  八月十三日の夜、市川さんを殺す決意をして、午後十一時ごろ、彼の部屋へ行くと、市川さんは私が轢き逃げした渋川さんの鑑定書を取り出していて、再鑑定をしていた。私が、そんな危険な決意を秘めて来たとも知らず、市川さんは上機嫌で渋川さんの運命鑑定が悉く的中したと、得意そうに言っていた。私に対してまったく警戒をしていなかった。  隙を狙って、背後から隠し持って行ったハンマーで後頭部を殴った。市川さんはあっけなく死んでしまった。あまりあっけないので、死んだ振りをしているのかとおもったほどだ。  犯行後、市川さんが再鑑定していた渋川さんの鑑定書をその場に残して行くと、市川さんと渋川さんの関係から、市川さんを殺した理由を警察に悟られるかもしれないとおもって、渋川さんの鑑定書を持ち去った。そのとき渋川さんの鑑定書のほかに、もう一枚べつの客の鑑定書があったことには気がつかなかった。  おそらく市川さんがファイルの束から渋川さんの鑑定書を引き出すとき、前後の鑑定書を引き出して床に落としたのだろう。私は渋川さんの鑑定書だけに注意していたので、もう一枚、べつの客の鑑定書があったことにはまったく気がつかなかった」  山野の自供によって事件は解決した。  事件解決後、牛尾が棟居に言った。 「知人の占法に詳しい者に聞いたところ、渋川克利と渋川伸江はいずれも総格三十三で、同じ字画数でした。三十三の数意は、隆昌盛大の発達運、ただし婦人は後家運となっています。  また克利と伸江の人格は、川と克、川と伸を加えたもので、共に十画。十の数意は、事故遭難、波瀾の凶数、病難悲運の凶相となっています。  また二人の地格、つまり名前の画数は共に十四画、その数意は破兆あり、家族縁薄く、孤独不和、逆行の兆しで、凶となっています。  総格から人格を差し引いた画数を外格と呼び、家族や夫婦の運命を現わすそうです。渋川夫婦の外格は共に二十三、その数意は運気旺盛、富栄の発達運で、男は吉ですが、女は孤独相となって凶になっています」 「すると、市川が占った渋川夫婦の運勢は当たっていることになりますね」 「いまの時点では的中したと言えるかもしれませんが、彼女はこれから再婚して、また新たな幸せをつかむかもしれません」 「一概に当たったとは言えませんね」 「そういうことです。だいたい運命の吉凶など決められるものではありません。一見不幸に見えても、本人が幸せだとおもえば幸せなのですからね。  市川は渋川伸江が凶の名前なので改名するように勧めて、新たにおめでたい名前をつくってやったそうですが、その効き目がなかったのですから」 「なるほど、改名しても効果はなかったわけだ」 「画数や音の相生や、数意などにばかり気を取られていると、なんとも珍妙な名前になってしまいます。つまり、なんというか、人間の名前から遠ざかってしまうのですな。吉凶相まって人生がある。吉ばかりを狙った虫のいい名前には、人生が感じられない」 「道理で易者の名前には珍妙な名前が多いのですね」 「そうですよ。要するに自分にとっていい名前がいい名前なのです。私は親がつけてくれた正直《まさなお》という名前が大変気に入っています。だれがなんと言っても改《か》えるつもりはありませんな。  もう一つ皮肉なことに、市川了吉は人格が五画、地格が八画、総格十六画、外格十一画、すべて吉の画数です。たとえば主運とされる人格五の数意は、心身健全にして繁栄、長寿、発達の吉祥運となっており、まったく市川に当てはまっておりません。  数の相性を占う木、火、土、金、水の三才の配列も相生だそうです。つまり言うことのない、すべて吉の名前ですが、非業な最期を遂げました。  市川は占い師でありながら、自分の運命を予測できなかったのですな」 「易者が犯人を当ててくれたら、警察も閑《ひま》になりますね」 「占いで犯人が割り出せたら天下は太平になるでしょう」 「それでも易者が職業として成立するのは、運命をだれかに頼ろうとする人間の弱さなのでしょうか」 「当たるも八卦、当たらぬも八卦ですね」 「人間の運命を決めるものは神しかありません。占いは人間がこざかしくも神の領域に踏み込もうとしたものでしょう」 「ですから、神様も人間のこざかしさをからかって、当たるも八卦、当たらぬも八卦にしたのでしょうよ」  二人の刑事は苦い笑いを噛みしめた。      9  翌年の四月上旬、反町家では家族四人が自宅でささやかなお祝いのテーブルを囲んだ。  反町がこの春の人事異動で東京本社へ栄転したことと、冬子の高校入学を祝うためである。 「お父さん、栄転おめでとう」 「冬子も高校入学おめでとう」  両親はワイン、冬子と吉成はジュースで乾杯した。 「ようやく我が家にも本当の春がめぐってきたね」  反町が満足そうに言った。 「これからまた家族が一緒に暮らせるわ」  妻が言った。 「やっぱりテーブルや椅子《いす》と同じように、家族は四人|揃《そろ》わないと座りが悪いわね」  冬子が言った。 「お母さんが喜んでいるのは、東京と九州の二重生活の出費がなくなったからさ」  吉成がすっぱ抜いた。 「なんだ、そんなことで喜んでいたのか」  反町が少しがっかりした声を出した。 「うそうそ、吉成、変なことを言わないでちょうだい。お母さんだってお父さんが帰って来たのは嬉しいわよ」  妻が少し慌てた口調で言った。 「まあ、いいからいいから。それにしても、あの易者の占いは、結局当たらなかったね」  反町が言った。 「あの易者に勧められて名前を改えなくてよかったわね」  妻がうなずいた。 「私、お父さんのつけてくれた名前を信じているもの。だれがなんと言ったって、絶対に改えないわよ」  冬子が自信のある口調でいった。 「運勢を占ってもらっても、なにを吉や凶の基準にするのか曖昧だからね。ただ、長生きをすれば吉というものでもない。また功なり名遂げた人が必ずしも幸福とは限らない。吉、凶はそれぞれの人間の心の内にあるものだ。また人間の運命は一定の時点のみで判断できるものではない。ある時点では凶になり、またある時点では吉になる。  禍福はあざなえる縄のごとしという諺《ことわざ》を知っているだろう。七転び八起き、いいこともあれば悪いこともある。それが人生というものだよ。  冬子も吉成も、そしてお父さんもお母さんも、いまはとても幸せだけれど、この幸せにあぐらをかいていてはいけない。幸せは占いなどに頼らず、自分自身の力で切り拓《ひら》いていくものだ。また不幸なときがあったとしても、それに挫《くじ》けてはならない。不幸は幸せになるためのバネだよ。大切なことは幸せに安住せず、不幸になっても絶望しないで、また起《た》ち上がるということだ。  それでは家族四人の結束を新たにするために、もう一度乾杯しよう」  四人はグラスを合わせた。 本書は一九九五年四月、自社ノベルズより刊行されたものです。 角川文庫『棟居刑事の推理』平成10年5月25日初版発行