[#表紙(表紙.jpg)] 棟居刑事の情熱 森村誠一 目 次  青春の山影  性奴《せいど》のヒモ  屈辱の賽銭《さいせん》  待ち伏せされた闇金  不都合な所持品  飼い殺された恋  悦楽の玄関番  人脈の密室  馴れた撒《ま》き餌《え》  的中した暗示  無縁の輝き  宙に浮く名刺  暗い再会  奇妙な因縁  乗り合わせた過去  闇金の残高  私怨を含む旅  別食の鰻飯《せいろ》  新たな足跡  噛《か》みながらの殺人  代理の禊《みそ》ぎ [#改ページ]    踵《かかと》の消えた靴     棟居刑事のテーマ [#地付き]前澤寿美江/作   真冬の雨が 背中を蹴った   街中の汚れを 洗い流すような勢いだ   誰かのはじく 泥にまみれた   麻痺していた孤独が 爪先から蘇ると   痩せた風に 裾が震えた   もう歩けない   でも諦めた場所からも まだ道は続く   そういえば   俺の靴だけ どうして踵がないのだろう   そう思うと なおさら歩けない   しかし 歩かなければ生きていけない   何処でどうなくしたのか   誰かに折られたのか   想い出すまに 寒さに痲《しび》れる   どうか できるものなら返してほしい   それは俺を けなげに支えていた   失ったものの切なさに   耐えることを忘れている   通りの屑が 一歩に絡む   この世の哀しみが 救いを需《もと》めているようだ   止まない雨に 顔を隠した   たくわえた涙を 人知れず絞り取ると   少しの力で 膝が動いた   もう歩ける   いま立ち止まった場所から 行く道が始まる   そういえば   俺の靴には 初めから踵はなかった   そう思えば いつでも歩きだせる   いつも 進んでいなければ迷ってしまう   代わりなど有り得ない   これからも探さない   忘れなければ 転びはしない   いつか 踵がなくとも走ることに馴れるだろう   それでも俺は 何処かで支えられている   そしてどんな時も   支えられていることに気づかずに   俺は悪を追いかけ続ける [#改ページ]   青春の山影      1  棟居弘一良《むねすえこういちろう》は松本から新|島々《しましま》行きの電車に乗り換えたときから、その女が気になっていた。  中央線から松本電鉄へ乗り換える跨線橋《こせんきよう》を渡るころから彼女を見かけていたので、東京方面から来たのであろう。二十二、三歳、色白で、目元が涼しい。  長い豊かな髪を後方にヘアバンドで無造作にまとめている。そのために顔の輪郭が髪に隠されず、くっきりと打ち出されている。  リュックサックにトレッキングシューズを履き、一応登山支度をしているが、大型のキスリングやピッケルで武装した他の登山者グループに比べて軽装である。連れはいないようだ。  電車が新島々に着くと、上高地行きの同じバスに乗った。  上高地のバスターミナルからいよいよ岳《たけ》の方角に向かって歩き出すと、バスから吐き出された大勢の乗客は、山深く進むほどに拡散されてしまった。  河童《かつぱ》橋辺りまでは視野のうちにちらちらしていたが、間もなく見えなくなった。  五月下旬の上高地は、連休時の喧騒《けんそう》と山開き前のちょうど狭間《はざま》にあって、本来の静けさを取り戻している。  バスで登って来る観光客もせいぜい上高地止まりである。  山肌には豊富な残雪が象嵌《ぞうがん》細工のようにちりばめられ、山麓《さんろく》は白樺《しらかば》の葉が開き、化粧柳の新緑が鮮やかに彩る。  梓《あずさ》川左岸の道を小梨平《こなしだいら》、明神《みようじん》と過ぎて、徳沢《とくさわ》へ出ると、一気に眺望が開ける。  草原の彼方《かなた》には奥又白《おくまたしろ》の岩壁が立ちはだかっている。  昔、牧場だったという草原には、十数張りのカラフルなテントが張られている。  ゴールデンウィークにはテントで埋まっていたことであろう。  草原にさしかかってふと後方を振り返ると、電車とバスで一緒になったあの女性が視野に入った。  あの軽装ではせいぜい明神までの散策とおもっていたが、徳沢まで足を延ばしてきたかと、内心感心した。  それにしても賑《にぎ》やかな観光グループの多い上高地で、少し寂しげな面立ちの一人旅の彼女が気にかかった。  恋人と誘い合わせていたのが、パートナーの都合が悪くなって、一人で出かけて来たのであろうか。  徳沢園は「アルプスの五月」という美しく新鮮なものの形容のためにあるような場所である。  厳しい冬を耐えた褒賞として、開いたばかりの瑞々《みずみず》しい化粧柳の群落は、立ちはだかる奥又白の荒々しい岩壁を中和する優しい点景となって、訪《おとな》う人も少ないアルプスの五月が凝縮されている小さな牧場の緑の衛兵となっている。  徳沢を過ぎると、これまでの坦々《たんたん》たる林道がにわかに起伏を生じて、山道らしくなる。広々とした河原を流れていた梓川も、切れ落ちた狭い谷底に圧縮されて、流れを速めている。  急流に散り落ちた山桜の花びらが、ところどころに帯を引く。  対岸に残雪をべっとりと張りつけた前穂高東面の岩壁が、眉《まゆ》に迫るように峙《そばだ》っている。  横尾《よこお》に近づくと、ふたたび梓川の河原が開いて、化粧柳がにおい立つ。  横尾から槍《やり》ケ岳《たけ》と穂高方面の道が分岐する。穂高を志す者は、横尾山荘の前から左手に折れて梓川に架かる横尾橋を渡る。  横尾から沢沿いに登りつめていくと、右手に岩小屋があり、真正面に屏風岩《びようぶいわ》の大岩壁が進路を塞《ふさ》ぐ岩の屏風のように立ちはだかる。  勾配《こうばい》はますます急になって、ジグザグの喘登《ぜんとう》を繰り返す。  樹林帯が尽きると視野が開けて、穂高の岩峰群に取り囲まれていた氷河の名残《なご》りである涸沢《からさわ》圏谷の末端にたどり着いた。  棟居は深呼吸した。  山が好きな棟居が、学生時代、何度も通い馴《な》れたアルプスのロイヤルルートである。  重武装のキスリングに食料と登攀《とうはん》用具と夢をいっぱいに詰めて、穂高の岩峰へ通った。  下山するときは軽くなったキスリングに想《おも》い出がいっぱいに詰まっていた。  青春を共有した山仲間はいまは社会の八方に散って、その消息のわからぬ者も多い。  現在の生きようが重苦しく、切実であればあるほど、当時の追憶が青春の幻影となって烟《けむ》っている。  本当に久し振りの休暇であった。それも那須《なす》警部から、たまには充電しろと強制的に取らされた休暇である。  連日、社会の不正と戦っている緊張度《テンシヨン》の高い生活から切り離されて、いきなり数日間の自由の中に放り出された棟居は、胸の奥にゆらと揺れた青春の追憶の中に穂高の幻影を見た。 (おれにも人生の宝石のような青春があった)  そうおもうと矢も楯《たて》も堪《たま》らなくなって、押入れの奥から埃《ほこり》を被《かぶ》っていた古い山道具を引っ張り出して、夜の新宿から中央線の列車に飛び乗ったのである。  昔の山仲間に声をかける余裕はない。声をかけたくとも、大半の山仲間の消息は途絶えている。仮に連絡がついたとしても、過去へ遡行《そこう》する感傷の旅に誘われて当惑するにちがいない。 (おれは戻って来たぞ)  棟居は瞼《まぶた》に刻まれていた青春の幻影と、眼前に展開する実景とを重ね合わせながらつぶやいた。  だが、戻って来たのは棟居一人であって、その実景をかつて共有した山仲間たちは、この場面にいない。  山仲間たちとの間に開いた年月と距離は、もはや埋めようもなく大きい。  戻って来た棟居自身も、かつての棟居とは異なっている。  社会の風霜にさらされて、人間が変わってしまった。  変わったことをべつに後悔もしていない。山へ戻っていられるのも、この数日の間の休暇だけである。  久し振りに再会した穂高連峰に、柄にもなくはるかな追憶に浸っていると、背後にだれかが登って来る気配がした。振り返ると、例の女性であった。  視線が合った二人は、どちらからともなく黙礼を交わした。どうやらこの軽装で穂高を目指しているらしい。  もっともこの数日は安定した天候が約束されているから、涸沢小屋辺りまでならべつに危険はない。 「やあ、またお会いしましたね」  近づいて来た彼女に、棟居は声をかけた。 「やっと追いつきましたわ」  女は美しい歯並みを見せて笑った。  呼吸を弾ませ、汗ばんだ白い肌が桜色に上気している。  彼女は人影のない山道で、上高地までの電車とバスに乗り合わせた棟居に出会ってほっとしたらしい。 「お一人ですか」  棟居は会話の接ぎ穂に、聞かずもがなのことを聞いたと後悔した。 「はい」  だが、女はべつに警戒する様子もなく、素直にうなずいて、 「話には聞いていましたけれど、凄《すご》い山ですわね。  上高地から見上げたときは絶望的な高さに見えましたけれど、あの山の内懐に入っている自分が信じられませんわ」  と言った。 「涸沢までですか」 「行けたら、穂高に登りたいとおもっています」 「穂高に……」  棟居は少し驚いて、改めて彼女の軽装に目を向けた。 「無理でしょうか」  彼女は薄い不安の色を面に塗って問うた。  穂高山荘まではなんとか行けるかもしれないが、それから先は残雪をまとった痩《や》せた岩稜《がんりよう》となる。  見たところ、ピッケルもアイゼンも持っていない。 「高い山には何度か登ったことがおありですか」 「いいえ、高尾山や大菩薩《だいぼさつ》峠にはハイキングに行ったことがありますけれど」 「穂高山荘辺りで留《とど》まった方が無難かもしれませんね」  それも天候がよければという条件つきである。 「せっかく来たのですから、行けるところまで行ってみますわ」  彼女は屈託のない笑顔を見せた。  指呼の距離に聳《そび》え立つ穂高連峰は、もはや決して絶望的高みには見えない。  奥穂高から前穂高を経て、屏風岩の大岩壁に終止符を打たれる鋸歯状《きよしじよう》の北尾根の稜線から、砲煙《ほうえん》のように白い雲が湧《わ》き出している。  白雲が五月の陽光を眩《まぶ》しく反射する雪渓に影を落としながら、悠々と空を渡って行く。  稜線の上は青すぎて、ふと昼なのか夜なのか錯覚しそうな碧《あお》く硬い空がある。  地上の延長から切り離されて、天の末端に足をかけたかのような、そんな大景観が目の前に展開している。  それも車やロープウェイで駆け登って来たのではなく、一歩一歩自分の足でかち取った眺めである。 「無理をしない方がいいですよ」  棟居は柔らかく注意した。 「はい。見ただけで、高尾山や大菩薩峠とは位がちがう山だとおもいますわ」  彼女の口調はあくまでも素直である。  それから先はべつに連れ立ったわけでもないのに、前後して登った。  涸沢ヒュッテから先は女を先に歩かせた。万一、雪渓でスリップした場合は止めてやるつもりである。  すぐ目の前に見えるテント村がなかなか近づかない。  涸沢小屋に着いたとき、まだ陽《ひ》は高かった。  棟居は体調によっては涸沢小屋に泊まるつもりであったが、まだ時間と体力に余裕があったので、穂高山荘まで足を延ばすことにした。  今日中に穂高山荘に入っていれば、明日の穂高登頂が楽になる。  涸沢小屋で一休みして穂高山荘を目指すと、なんと彼女が従《つ》いて来た。  べつに連れ立ったわけでもないので、引き返せと言うわけにはいかない。  涸沢小屋から先は急勾配の連続である。ザイテングラート(支尾根)の登りに取りかかると、まさに胸突き八丁となる。  険しいが雪がなく、たしかな足場を得られるので登りやすい。  一歩一歩確実に高度が上がり、左手のアズキ沢の大雪渓を隔てて、前穂高北尾根が雄大な背骨を迫《せ》り出してくる。  棟居は後ろからつづいて来る形の女性のために、無意識に歩調を合わせてやっていた。  岩の上には踏み跡がしっかり踏まれているので、迷う心配はない。岩も安定している。  穂高連峰の空に暮色が濃くなったころ、二人は穂高山荘に着いた。  上高地から九時間、かなりの強行軍であった。 「有り難うございました。おかげさまで来られましたわ」  山荘に着いたとき、女は棟居に礼を言った。棟居がそれとなく歩調を合わせて先導してくれたことに気がついていたらしい。 「なかなかのご健脚ですね」  棟居はお世辞ではなく、内心驚いていた。  涸沢ヒュッテ辺りまでが精一杯であろうと踏んでいたのが、穂高山荘まで登ってしまった。  この調子では、明日は奥穂高山頂を狙《ねら》っているかもしれない。 「ここまで来ると、穂高に野心が出ますわ」  女は棟居の胸の内を読んだように言った。 「お天気と体調次第ですね」  彼女の連れとなったわけではないが、かなり譲歩している。  ここから山頂までは痩せた尾根の急登がつづくが、要所要所には鎖や梯子《はしご》が架《か》けられていて、岩に馴れればべつに心配な箇所はない。  棟居は穂高山荘までの行程を共にしている間に、彼女を奥穂高山頂に立たせてやりたいとおもうようになっていた。 「申し遅れました。私は本宮桐子《もとみやきりこ》と申します」  女が初めて名乗った。 「棟居と申します。よろしく」  棟居は言葉少なに名乗った。  職業柄から自己紹介は最小限に留める癖がついている。名刺は持っているが渡さない。      2  翌日も雲一つなく晴れ上がった。  日本列島は優勢な高気圧圏内に入って、天候にはなんの危なげもない。絶好の登山|日和《びより》である。  棟居と本宮桐子は連れ立った形で穂高山荘を出た。  桐子は途中、何度か足がすくんだようであるが、棟居に助けられて、無事に奥穂高の山頂に立った。  三千百九十二メートルの絶頂に立った桐子は、両腕を頭上に伸ばして背伸びをした。  三百六十度の遮るものもない大展望の中心に立って、全身に弾み立つ喜びをそんな形で表現している彼女は、これ以上登るところのない不満を天に訴えているように見えた。 (残念ながら、これから先はエスコートできない)  棟居はつぶやいた。  軽装で穂高の山頂まで来てしまったこの娘は、許されるならば天の真芯《まつしん》まで上りつめて行くような、地上から切り離された透明なカプセルに包まれているように見えた。 「棟居さん、槍ケ岳はすぐにわかりますけど、あとの山の名前をおしえていただけませんか」  カプセルの中から桐子が話しかけた。  天を突き刺して聳え立つ槍ケ岳の特異な山容は、初めて見る者にも直ちに見分けられるが、周囲に展開する三千メートル級の高峰を連ねた山のオンパレードは、名力士の揃《そろ》い踏みを見るようである。  近くの山は岩襖《いわぶすま》を連ね、残雪をちりばめて妍《けん》を競い、遠方の山々は青い霞《かすみ》の中に幻影のように烟って、裾野《すその》を未知の平原に溶け込ませている。  直下には上高地の緑の谷間が穂高の優しい門衛のように侍《はべ》っている。  ひゅっと空気を切る音がして、イワツバメが飛んだ。  桐子に一つ一つ指さしながら山の名前をおしえている間に、時間が過ぎた。  その間、吊《つ》り尾根から前穂高経由上高地へ下りる登山者が次々に通過して行く。  棟居も最初はその下降路を行くつもりであったが、残雪が多く、桐子には無理と判断し、勝手のわかった往路を引き返すことにした。  おもいがけず穂高の頂上に立てて、桐子は満足しているらしい。  穂高山荘までは無事に下りて来た。  山荘で一休みして、ザイテングラートから涸沢へ下る。涸沢小屋を過ぎた辺りの雪渓で、棟居の後から下りて来た桐子がスリップした。  雪の上に尻餅《しりもち》をついたままずるずると滑り出し、次第に加速度をつけた。  雪渓の端には岩が牙《きば》を剥《む》き出している。  べつに難所ではないが、このまま加速度をつけて岩に衝突すれば、かなりのダメージを受けるだろう。  棟居は桐子が滑落して来る下方の雪面にピッケルを刺して、桐子の身体を受け止めた。  大した事故ではなかったが、桐子はほっとしたような表情で、棟居に救われた礼を言った。  それ以後はなんのアクシデントもなく、上高地へ下った。  棟居の休暇は余っている。彼は初めから上高地へ一泊する予定である。 「急げば島々行きの終バスに間に合いますよ」  棟居は桐子に言った。 「急いで帰るのが惜しいわ」  桐子が言った。  棟居に、急ぐなら先へ行ってくれとは言わない。最初から同行して来たかのような顔をして、ぴたりと棟居に従いて歩いている。 「ぼくは上高地に泊まる予定ですが」  棟居は、どうすると問うように桐子の顔を覗《のぞ》いた。べつに誘いをかけているつもりはない。  ここまでエスコートしてやれば、責任は果たしたとおもっている。 「私もご一緒してよろしいかしら」  桐子は少し甘えるような表情で言った。  棟居にスリップを止めてもらってから、一層親しみを増したようである。  べつに断る理由はない。 「あなたが差し支えなければ、ぼくはかまいません」 「嬉《うれ》しいわ。ここで放り出されたら、どうしようかとおもっていました」  桐子は嬉しそうに言った。 「ここはもう下界です。危険はありませんよ」 「下界には山とはべつの危険がありますわ」  下界でなおも棟居に同行を求めている桐子は、彼を人畜無害と見ているのであろうか。棟居は内心苦笑した。  河童橋|袂《たもと》の五千尺ホテルに入った二人は、そこで意外なハプニングに遇《あ》った。  フロントで二部屋申し込んだところ、あいにく団体が入っていて、二人部屋が一つしか空いていないということである。  棟居がべつの宿を探そうとおもったとき、桐子がおずおずと、 「私は同室でもけっこうですけれど」  と申し出た。  それを振り切ってべつの宿を探すのも億劫《おつくう》になっている。  当日、連休後の週末で、上高地は意外に混んでいた。  二人はひょんなめぐり合わせから、同じ部屋に泊まり合わせることになった。 (この娘はおれの素性を知っているのかもしれない)  棟居はおもった。  彼らは一つだけ空いていた二人部屋へ通された。  ホテルの建物は河童橋の袂、梓川左岸の道に面して建てられている。  部屋の窓から、奥穂高から西穂高へつづく稜線が望まれる。  残照が未練げに穂高の岩壁を染めていたが、ようやく濃い暮色の底に色褪《いろあ》せると、河童橋を往来する観光客のざわめきも静まって、梓川の瀬音だけが耳に高く響くようになる。  男にとっては幸運な若い娘の同宿に、棟居は当惑していた。  夕食は穂高を望むダイニングルームで、豪勢なフランス料理のフルコースである。  夕食に二時間近くを費やしても、まだ長い夜を二人だけで向かい合わなければならない。  了解の成立している男女ならば、いくら時間があっても足りない貴重な一夜であるが、了解もなく、野心も持っていない棟居にとっては、時間が凍りついたように感じられた。  食堂から部屋へ帰ると、和室に床が二つ並んで設《しつら》えてある。 「ぼくは控えの間に休みます」  棟居がせっかく並べて敷かれた夜具の一組を、玄関上がり口に面した控えの間の方へ引き離そうとすると、桐子が、 「同室をお願いしたのは私ですから、私が控えの間に寝《やす》みます」  と申し出た。 「女性を控えの間に寝ませるわけにはいきません。ぼくがそちらへ行きます」 「いいえ、私が」  小さな諍《いさかい》の後、 「差し支えなければ、このお部屋でご一緒にいかがでしょうか」  と桐子が同宿を申し出たときのようにおずおずと言った。  結局、二人は同じ部屋に寝た。  床に就くと、二日間の強行軍の疲労が一挙に発して、深い眠りに落ち込んだ。  目が覚めたときは朝になっていた。桐子の寝床はすでに空である。  河童橋の方角から早起きの観光客の気配が聞こえてくる。 「おはようございます」  声の方角に視線を向けると、すでに身支度をした桐子が微笑《ほほえ》みかけている。薄い化粧も施している。 「これは寝過ごしてしまったかな」  棟居は眩しげに桐子を見た。 「今日もよいお天気ですわ。早く目が覚めたので、河原を少し散歩して来ました」  桐子が言った。  なにごともなく明けた清浄な朝に、棟居はほっとすると同時に、男として千載一遇のチャンスを逸したような軽い悔いをおぼえた。  二人は連れだってホテルを出ると、朝のバスで上高地を後にした。  途中、なにごともなく新宿駅に着いた。 「お世話になりました。おかげで大変よい想い出ができましたわ」  桐子は棟居に礼を言うと、いくぶん寂しげな笑顔を残して、都会の雑踏の中に立ち去って行った。  たがいの住所はおしえ合わなかった。  棟居の貴重な休暇は終わった。充実した休暇であると同時に、一抹の寂しさが水脈《みお》のように心に尾を引いていた。 [#改ページ]   性奴《せいど》のヒモ      1  ほぼ同じころ、広島県宮島|弥山《みせん》の頂上|獅子岩《ししいわ》からロープウェイが発車した。  夕刻に近いため、観光客が少ない。  海抜五百三十メートルの頂上まで山麓からロープウェイを途中|榧谷《かやだに》で乗り継いで頂上までやって来た観光客は、山頂から俯瞰《ふかん》する瀬戸内海をバックに記念撮影をすると、早々に下りのロープウェイに乗って帰って行く。  ゴンドラの車内では上りとは別の説明がテープレコーダーによって流されていたが、上りほど熱心に耳を傾けている乗客はいない。  三十人乗りの大型のゴンドラには男女数人のグループ客と一組のアベックと、三十すぎの単身の男の客が乗り合わせていた。  車内でグループ客は賑《にぎ》やかにしゃべり合っているが、アベックと単身の客は黙って周囲の展望に目を向けている。  べつに熱心に見ているわけではない。ほかになにもすることがないので、景色を眺めているといった体の視線を漠然と風景に泳がせている。  アベックの男は三十前後、体格がよく、ハンティングを被り、サングラスを着けている。  女は二十四、五、化粧が濃く、髪が長く、シャネル風のスーツを着たホステス体である。  途中、榧谷の中継点で八人乗りの小型のゴンドラに乗り換える。  ここで頂上から大型ゴンドラに乗り合わせて来た乗客が分かれた。  山麓駅から一分間隔で八人乗りの小型ゴンドラが上下している。上りのゴンドラはすべて空である。  駅員に誘導されて、グループ客が最初に来合わせたゴンドラに乗った。  次のゴンドラにアベック客が誘導される。  その後ろに単身客が従いていた。  どうせゴンドラはがらがらなので、アベック客と単身客をべつのゴンドラに誘導すべきであるのに、係員は早い方がよいと判断したのか、アベック客を案内した後、単身客に、どうぞと声をかけた。  後続のべつのゴンドラに一人で乗るつもりでいたらしい単身客は、係員に声をかけられて、ふらふらとアベック客の乗ったゴンドラに乗り込んで来た。  今度のゴンドラは狭い。小さなゴンドラに乗り合わせたアベック客と単身客は、たがいに気まずそうに黙り込んで、だいぶ高度を下げてきた風景に目を泳がせていた。  気まずい時間といっても、中継駅から山麓駅まで十分間のことである。  それでも単身客は、アベックの二人だけの世界に侵入した無粋者ということになる。  十分後、ゴンドラは山麓駅に滑り込んだ。アベックも単身客もなんとなくほっとしたような表情になって下車した。  ここから海岸に近い旅館や土産《みやげ》物屋が軒を連ねる繁華な区域まで、無料のマイクロバスが運転されている。  だが、アベックはマイクロバスの方に目もくれず、遊歩道を下り始めた。  この辺りは紅葉谷《もみじだに》という紅葉の名所である。  紅葉のシーズンには全山真紅に彩られるその見事さが想像される。いまは新緑が谷間から山腹を埋めている。  アベックは緑の谷間の中に自らの身体を青く染めるようにして、足早に下って行った。  亀山陽一《かめやまよういち》はその女に会ったとき、はっとした。  あのときとは様子が変わっているので、他人の空似かとおもった。  女は亀山にまったく反応を示さない。やはり別人であったのか。あるいは亀山をおぼえていないのかもしれない。  その女には獅子岩の展望台で出会った。男と連れ立って海の方角を見ていた。  長い髪が風に吹かれて顔にかかるのをうるさそうに手で押さえながら、海の方角に無感動の視線を向けているアンニュイな横顔に記憶があった。  だが、亀山には同一人物だという確信があったわけではない。  帰路、同じゴンドラに乗り合わせて、それとなく観察したが、見れば見るほどよく似ているようである。  途中の榧谷から小型のゴンドラに乗り換え、至近距離から観察したが、亀山の記憶に残っている女と同一人物のようである。  だが、女は依然として彼に無反応である。亀山にとって忘れられない事件も、女の記憶にはなんの痕跡も留めていないのかもしれない。  連れの男に寄り添って、亀山の存在など眼中にないごとく、二人だけの世界に没頭している。  あの事件は、亀山にとって終生忘れ難い屈辱の傷痕《しようこん》を抉《えぐ》った。  事件は五年前に発生した。  当時、ある私鉄沿線に住んでいた亀山は、ある自動車販売会社のセールスマンをしていた。  深夜帰宅の途上、家並みの切れたところで女の悲鳴を聞きつけて駆けつけたところ、暴漢が一人の若い女性に乱暴をしかけようとしていた。 「こら、やめろ」  走りながら怒鳴った彼の気配に、暴漢は逃げた。  危ないところを彼に救われた女性は、なにを血迷ったか、事情聴取に立ち会った警察官に犯人は彼だと訴えた。  亀山は愕然《がくぜん》として弁明したが、警察まで連行された。  目撃者はなく、状況は亀山に絶対的に不利であった。  結局、未遂でもあり、証拠不充分ということで立件されなかったが、その事件が原因で亀山は職を失った。  事件以後、亀山は女性不信に陥った。すべての女性に対して拒否反応を生じ、女性を愛することができない寂しい人間になった。  あのときの女が同じゴンドラの車内に乗り合わせた。  当時は二十歳前後の小娘であったが、あれから五年、アダルトの女に変身して、男と連れ立って旅行している。  ゴンドラの中ではグループ客や、亀山の目を意識して憚《はばか》っていたが、山麓駅から紅葉谷を男ともつれ合うようにして下って行った後ろ姿には、今夜、男と持つ悦楽の期待に全身が弾み立っているように見えた。      2  貝塚瑞枝《かいづかみずえ》はその男と同じゴンドラに乗り合わせたときすぐにわかった。  あの事件のときに駆けつけて来た男である。たしか亀山という名前であった。  会社からの帰途、暴漢に襲われてあわやという際どいとき、彼が駆けつけて来て窮地を救ってくれた。  亀山が駆けつけてくれたので、暴漢は逃げた。  瑞枝は亀山が暴漢ではないことを知っていた。知っていながら、レイプされかけた恐怖が尾を引いていて、警官に対して亀山に乱暴されかけたと供述してしまった。  そのとき直ちに取り消せばよかったのだが、亀山が凄《すさ》まじい形相をして睨《にら》みつけたので、本当に亀山に犯されかかったような恐怖をおぼえた。  取り消す機会を失うと、ますます前言を撤回しにくくなった。  結局、瑞枝は亀山を犯人として押し通してしまった。  押し通すことによって、彼が本当に犯人のような気がしてきた。  事件は証拠不充分として立件されなかったが、亀山はその事件がきっかけになって会社を辞めたと、後で噂《うわさ》に聞いた。  それを聞いたとき、瑞枝の胸はちくりと痛んだが、間もなく忘れてしまった。  その後、瑞枝は会社を辞めて、銀座のバーに勤めた。  いくつかの店を転々としている間に、水原智彦《みずはらともひこ》と知り合った。  水原はある建設会社の社員で、業者の接待で瑞枝の店へ来て知り合った。  彼が初めて店へ来た夜、たがいに惹《ひ》かれ合うものをおぼえて、その夜のうちにベッドを共にした。  知り合って一カ月ほど後、水原は改まった表情をして、 「きみにぜひ頼まれてもらいたいことがある」  と言い出した。 「私にできることならなんでもするわ」  水原に夢中になっていた瑞枝は、彼に頼りにされたことが嬉しかった。 「きみでなければできないことだよ」 「私でなければできないことって?」 「会社の浮沈に関《かか》わる仕事の決定権を握っているVIPが、きみをとても気に入ってね」 「あら、嬉しいわ」 「きみと食事をしたいと言うんだよ」 「そんなこと、お安いご用だわ」  瑞枝は水原の言葉の意味深長な含みに気がつかずに言った。 「引き受けてくれるかい」 「いいわ。そのVIPって、だれなの」 「素性は明らかにできないが、お店に何度か案内したことのある人だ」 「あなたもご一緒してくれるんでしょう」 「いや、ぼくが一緒に行ったのでは接待にならない」 「知らないお爺《じい》ちゃんと二人だけで食事をするの」 「まだそんな年寄りではないよ。だから、きみと一緒に食事をしたがっているんだ」  瑞枝はそのとき、ようやく水原の示唆《しさ》の意味に気がついた。 「あなた、まさか」 「瑞枝、すまない。ぼくが会社で浮かぶか沈むかの分かれ目なんだよ。一晩、ぼくのために目をつむってくれないか」  水原は瑞枝の前に土下座せんばかりにした。 「水原さん、私がほかの男と寝てもなんともおもわないの」 「おもうさ。この胸を引き裂かれるほど辛《つら》い。でも、そのVIPの心をつかみ、仕事を取らないと、ぼくは会社にいられなくなる。会社にいられなくなれば、こうしてきみとも会えなくなってしまうよ」 「お店になんかいらっしゃらなくとも、プライベートに会えばいいじゃないのよ」 「そうはいかないよ。ぼくは失業者になってしまうんだぜ」 「あなた一人ぐらい、私が養ってあげるわよ」 「痩せても枯れても男だ、ヒモにはなりたくない」  ヒモになりたくないと言っている男が、仕事の利益のために恋人にほかの男と寝てくれと頼んでいる矛盾に気がつかないらしい。  結局、瑞枝は水原に拝み倒された。  それを皮切りにして、水原は業者の接待や、時には会社の上司の伽《とぎ》に彼女を駆り出した。  一度引き受けてしまうと歯止めがはずれた。 「私はあなたにとってなんなのかしら」  水原のリクエストのままに、彼の指定する客に身を任せていたが、瑞枝は虚しさをおぼえざるを得ない。  このままでは彼に操られるコールガールにすぎない。 「愛しているよ、心から。きみだからこそ頼めるんだ」  水原は彼女が彼の命ずるままに他の客と寝た後、褒美《ほうび》のように激しく愛してくれた。 「愛していたら、そんなこと頼めないんじゃないかしら」 「ぼくを困らせないでくれ。ぼくだって辛いんだよ。その辛さを堪え忍ばなければ生き残れないほど会社は厳しいんだ。きみのおかげで会社は大きな仕事を何度も受注した。ぼくも係長になった。ぼくの若さで係長になれたのは会社の記録だよ。きみも、きみの力でぼくが昇進したら嬉しいだろう」 「それは嬉しいけれど、私のこと嫌いにならないでね」 「きみが嫌いになるなんて、あり得ないよ。きみはぼくにとってなくてはならない人物なんだ」 「そうおっしゃっていただければ嬉しいわ」  水原のセックス玩具《がんぐ》として利用されていることを承知しながらも、現に彼の出世に役立っていることを励みにしながら、その命ずるままに身を挺《てい》していた。  その間、瑞枝は二回、妊娠した。  水原は中絶することを命じた。まだ子供を産める環境にはないというのが理由であった。 「いずれ重役に仲人《なこうど》に立ってもらって、きみと正式に結婚しようとおもっている。婚前に子供ができたとあっては、重役の心証を悪くしてしまうからね」  子供を産みたいという瑞枝を、水原はなだめるように言った。 「本当に結婚してくださるの」 「そのつもりでいるよ」  だが、二度目に妊娠したときも、水原は同じ口実を設けて中絶を命じた。 「いつになったら結婚できる環境になるの」 「もう少しだよ。いま、ぼくは非常に微妙な時期にある。家庭に縛られることなく、仕事に専念しなければならない」 「私、あなたを束縛するつもりなんかないわ」 「きみにそのつもりはなくとも、家庭は男にとって背負わなければならない重荷だよ」 「私のことを重荷とおもっているの」 「きみは重荷どころか運命共同体だが、いまのぼくには子供はお荷物だ。それにぼくの子かどうかもわからないしね」 「ひどいわ。女にはだれの子かわかるものよ」  水原がふと漏らした言葉に、瑞枝は愕然となった。  彼を喜ばせるために、命ぜられるままに客に侍っていたが、彼のリクエストに応《こた》えれば応えるほど、その妻にふさわしい女から遠のくことに気がついたのである。  水原は直ちに失言だと謝ったが、瑞枝は彼の本心を覗いたとおもった。  水原の身の上に変化が起きかけていた。重役の娘との間に縁談が生じたのである。 [#改ページ]   屈辱の賽銭《さいせん》      1  水原自身が予期しなかった身分的変動であった。  社の創立記念パーティで、彼は相川章一郎《あいかわしよういちろう》の孫娘|真美《まみ》と知り合った。  相川章一郎は現総理|国宗政重《くにむねまさしげ》と刎頸《ふんけい》の友と呼び合っている政商で、東京西郊の私鉄相模中央電鉄を中心にホテル、デパート、バス、タクシーなどを網羅した一大企業王国の総帥である。  パーティには社員のほかに、会社の取引先やVIPも招かれる。  相川は孫娘の真美が自慢の種で、人の集まる場所にはよく連れて来る。  パーティ会場で急に気分の悪くなった真美を水原は介抱して、彼女のハートを射止めた。  会社にとっても、社員が相川章一郎の溺愛《できあい》する孫娘と結婚すれば、大いにメリットがある。会社ぐるみで二人の仲を応援した。  貝塚瑞枝がそのことを知ったのは、水原と真美が婚約してからであった。 「結婚しても、きみに対する愛は変わらない。これは社命に等しい結婚なのだ。この婚約が破談になれば、ぼくは会社にいられなくなる。きみの将来はぼくが責任を取る。ぼくの将来にとって、真美との結婚はどうしても必要なのだ。ぼくが本当に愛するのはきみ一人だ。どうかここは忍んでもらいたい」  水原はそんな虫のいいことを言った。  たまたま瑞枝が水原の婚約を知ったころ、彼女は何度目かの妊娠をした。水原は直ちに中絶を命じた。  これまでおとなしく水原の命ずるままに中絶をしていた瑞枝は、今回に限って断乎《だんこ》拒否した。水原は狼狽《ろうばい》した。 「一体どうしたというのだ。いま産めるような環境ではないだろう」 「産めるような環境になるまでに、私はお婆《ばあ》ちゃんになっちゃうわよ」  瑞枝は冷笑した。 「頼む。いまが最も大切なときなんだ。子供なんか生まれたら、せっかく開きかけたぼくの将来が台なしになってしまうよ」 「私の将来はどうなるの」 「ぼくの将来が開けば、きみの将来も開く。なあ、わかってくれ」 「わからないわ。これまであなたの言うがままに私は中絶してきたわ。でも、もういや。そんなに何度も中絶していたら、私は赤ちゃんを産めなくなってしまうわ。私はあなたの赤ちゃんが欲しいのよ」 「どうしてよりによって、いまそんなことを言うんだ。これまでは中絶してきたじゃないか。いままでのうちでいまが一番大切なんだよ」 「もう私はあなたのおもちゃになっているのはいやよ。もうたくさんだわ。あなたなんかいらない。私は私の赤ちゃんを産むのよ」 「そうか。ぼくの子ではないという意味なんだね」  水原がややほっとした表情を見せた。 「それがあなたの本心なのね」  本心はとうにわかっていたつもりであったが、 (あなたの子ではないというのね)  と改めて確認するのは悲しい。 「きみがそう言ったんじゃないのか」 「私はそんなことは言わないわ。あなたが産むなとおっしゃっても、私の赤ちゃんを産む産まないは私の勝手と言ったのよ」 「しかし、ぼくの子と決まったわけじゃないだろう」 「ひどいことをおっしゃるのね。あなた以外のだれの子だというのよ。あなたの赤ちゃんだから産みたいのよ」 「そんな無茶を言うなよ」 「どうして私たちの赤ちゃんを産むのが無茶なのよ」 「だから言っただろう。きみはぼくたちの将来をめちゃめちゃにしてもいいのか」 「私たちの将来ではなくて、あなたの将来でしょう」 「ぼくの将来はきみの将来でもあるんだ。お願いだからわかってくれよ」 「わからないわね。あなたは私とのこれまでのことをご破算にして、どこかのお嬢様と結婚すればハッピーでしょうけれど、そのために私の赤ちゃんを犠牲にする気はないわ」 「無理をして産んでも、子供が幸せになれない。もっと理性的になってくれ」 「最初から幸せにする気なんてないんでしょう。いいわよ。あなたの力なんか借りないわ。私一人の力で赤ちゃんを幸せにして見せる」 「産んでも認知はできないよ」 「認知なんか関係ないわ。たとえあなたが認知しなくとも、あなたの赤ちゃんであることには変わりないもの」 「どうしてそんなことが言えるんだ。ぼく以外の男とも寝ているのに」 「その言葉を婚約者の前で言ったら、彼女がさぞ喜ぶわよ」 「きみ、まさか」  水原の顔色が蒼白《そうはく》になった。 「結婚式のとき、大きなお腹《なか》を抱えて出席してあげましょうか。私は重役の仲人でいずれあなたと正式に結婚する予定であった女ですと挨拶《あいさつ》をしてあげるわ。そのときの新婦や来賓の顔を想像するだけで、ぞくぞくするわね」 「そんなことをしてみろ。きみが恥をかくだけだぞ」 「あなたを愛したことが私の恥よ。それ以上大きな恥はないわ」 「きみはどうかしている。冷静になるんだ」 「私、これ以上冷静なことはなかったわ。いままでが逆上していたのよ。いま初めてわかったの。私がどんなにあなたにのぼせて前後の見境いがつかなくなっていたか。いま冷静になって、あなたの正体を見届けたのよ」  二人の話し合いは平行線をたどった。  この秋の挙式の日取りも決まり、縁談は順調に進行している。  その間、瑞枝の腹も容赦なくせり出してくるだろう。  水原は焦った。なんとかしなければならない。  だが、これまで水原の従順な性奴であった瑞枝が、頑として胎児を産むと言い張っている。もはやどんな説得も無駄であった。  これまで瑞枝が水原に従順であったのは、彼に利用されていると知りながらも、水原との間にわずかに可能性が残されていたからである。  ここに水原がほかの女と結婚することになって、瑞枝の可能性が止《とど》めを刺されてしまった。  いまの瑞枝にとって水原をつなぎ止める一筋の糸が腹の中の子供なのである。  最後の糸を断ち切ってしまえば、水原との間をつなぎ止めるものはなにもなくなってしまう、と彼女はおもいこんでいた。  水原にしてみれば、彼をつなぎ止めるどころではなく、彼をがんじがらめにし、その将来を閉塞《へいそく》してしまう恐ろしい捕縄《とりなわ》である。  そのとき水原の胸の奥にゆらりと揺れた黒い影があった。水原は息を呑《の》んで、深奥の黒い影を見つめた。  黒い影はささやいた。 (おもい悩むことはない。あんたと瑞枝の関係を知る者はだれもいない。瑞枝を排除してしまえば、すべてはハッピーにおさまる)  それは水原の中に棲《す》み着いている悪魔のささやきであった。  彼自身、そんな悪魔が自分の中に同居していることに気がつかなかった。 「馬鹿な。そんなことができるはずもなかろう。瑞枝を排除しても、司直の追及を受ければなにもかも失ってしまう上に、犯罪者のレッテルを貼《は》られてしまう」  水原は慌てて悪魔のささやきを打ち消した。 (恐れることはない。犯罪が露《あら》われなければ、司直の追及を受けることはない。人里離れた山奥か、海の上に連れ出して密《ひそ》かに始末してしまえば、彼女は失踪《しつそう》したことになる。死体のない殺人事件は事件にならない。ましてや、あんたと彼女の仲を知っている者はいないのだ。要するに、この世から一人よけいな女が消えただけで、あんたの将来が保障されるわけだ。放っておけばせっかく微笑《ほほえ》みかけた人生最大のチャンスを棒に振ることになるぞ。チャンスは二度とめぐってこない。それをつかみ取るか、逃してしまうか、一にあんたの判断にかかっているのだ)  悪魔はささやきつづけた。その声は次第に太く大きく、確固たる自信をもって彼に語りかけるようになった。  だが、水原の理性も簡単に悪魔の声に屈伏するほどやわではなかった。  有利な縁談を達成するために、邪魔になった恋人を抹消する。単純な発想である。  危険率は極めて大きい。瑞枝との関係はだれにも知られていないという自信はあるが、どこにどんな手抜かりがあるかわからない。  わずかなほころびがあっても、全面的な破綻《はたん》へとつながる。  おもいつきだけでは実行できない危険な賭《か》けである。  胸に兆した殺意を確定させるためには、もっと細心な地ならしをしなければならない。  五月の下旬、水原は瑞枝を旅へ誘った。  二人で旅行しながら、将来のことをよく考えたいという口実である。  瑞枝は彼の誘いを歓迎した。水原が考え直したとおもったらしい。  旅行中に彼の心を自分の方へ引き戻せるかもしれないと考えたようである。  彼女にとっては、少なくとも水原が旅行に誘ってくれた事実はよい兆しである。  水原は旅行の間に、彼女に対する殺意を固めるつもりである。そして、チャンスがあれば旅行先で殺意を実行してもよいとおもっていた。  その下心があって、旅行の件はだれにも言ってはならないと口止めをしておいた。 「そんなことだれにも言うはずないじゃないの。私にも立場というものがあるわ。私をお目当てに通って来てくれるお客もいるのよ。そのお客たちをがっかりさせたくないもの」  瑞枝はにんまりと笑った。  水原が旅行へ誘ってくれたことで機嫌を直したらしい。 「でも、夜あまり激しくしないでね。お腹の赤ちゃんにさわるといけないから」  と二人だけにわかる淫猥《いんわい》な表情をした。  彼女の胎内にいる子供が水原の開きかけた運命を蝕《むしば》む悪魔の子なのである。  彼女はそれを天使とおもっているところに悲劇があった。  東京から一緒に出発するとだれに見られているともわからないので、水原は出張先から合流するという口実を設けて、瑞枝を神戸へ呼び寄せた。  神戸で落ち合った二人は、有馬温泉に一泊した後、安芸《あき》の宮島へやって来た。  瑞枝は水原と二人だけの旅行に嬉々《きき》としていた。彼の危険な意図も知らず、昼は目一杯観光して、夜はむしろ水原の方がはらはらするほど激しく乱れた。  水原はそのとき、胎児が流産してくれれば問題は解決することに気がついた。  瑞枝は水原の顔を覗《のぞ》き込むようにして、 「あなた、いまお腹の赤ちゃんが流れてくれればいいとおもっているでしょう」  と薄く笑った。  水原は心を読まれた狼狽を隠して、 「そんなことはないさ。きみの子供はぼくの子供でもある」 「本当にそうおもってらっしゃるの。なんだか風向きが変わってきたみたい」 「べつになにも変わっていないさ。きみに言われてね、おれは自分にとって一番大切なものがなにかわかりかけてきたような気がするんだ」 「あなたにとって一番大切なものって……?」 「それを確かめるために、きみをこの旅行へ誘ったんじゃないか」 「嬉《うれ》しがらせておいて、崖《がけ》から突き落とすような真似《まね》はやめてね」 「まさか……」  崖から突き落とすという言葉に、彼女に危険な下心を読まれているような気がしてぎょっとした。 「ほら、図星って顔に書いてあるわ。でも、それでもいいの。私はいま幸せよ。たとえ一時的にせよ、あなたが私を旅行に誘ってくれた心遣いだけで充分ハッピーなの。  私、考え直したの。あなたが認知してくださろうとくださるまいと、あなたの赤ちゃんであることに変わりはないもの。結婚してくれなくてもいい。あなたの陰にいつも私を置いてちょうだい。そして、いまみたいに時どき旅行へ連れて行ってください。親子三人の旅行よ。いえ、四人か五人になるかもしれないわ。私、これからあなたの赤ちゃんを産みつづけるの。私の身体は頑丈なのよ。これまで何度も中絶してもまったく影響なく妊娠したわ。その気があれば、これから何人でもあなたの赤ちゃんを産めるわ。だから、これぐらいではお腹の赤ちゃんはびくともしないのよ」  瑞枝はさらに挑発的な体位を取って水原を誘った。  水原は息を呑むほどに放恣《ほうし》な瑞枝の大胆な体位に応えながら、たとえ彼女の現在の胎児が流産しても、問題は解決しないことを悟った。  瑞枝の胎児の有無にかかわらず、彼女が存在する限り、彼の将来を圧迫する。そのとき水原の殺意は確定したのである。  水原を滅ぼす悪魔は、瑞枝の胎内で着実に成長している。  悪魔は一匹だけではない。現在、成長している悪魔の分娩《ぶんべん》を皮切りに、次から次に新手が生まれてくるであろう。  そうなる前に悪魔の母胎をなんとかしなければならない。  水原は確定した殺意を抱いて、ロープウェイに乗って、宮島の弥山《みせん》へ登った。  獅子岩《ししいわ》の頂上で瀬戸内海を見下ろしながら、海から吹き上げてくる風に吹かれている瑞枝を突き落としたい衝動に駆られた。  獅子岩の直下は岩を剥《む》き出した断崖《だんがい》になっている。 (嬉しがらせておいて、崖から突き落とすような真似はやめてね)  先刻の瑞枝の声が耳によみがえったとき、新たなロープウェイで到着したらしい団体客が、頂上へ近づいて来る気配が聞こえた。  下山のロープウェイに乗って、途中の榧谷《かやだに》から小型のゴンドラに乗り換えたとき、一人の男と乗り合わせた。  彼は瑞枝を初めて見たとき、驚いたような表情をした。だが、瑞枝は無反応だった。水原にはそれが、彼女が演技しているように見えた。  ロープウェイを下車して、男はバスの発着所の方へ行った。  それを見た瑞枝は、先に立って紅葉谷《もみじだに》の自然散策道を下山し始めた。  瑞枝の後を追いながら、水原は、彼女がロープウェイで乗り合わせた男を知っているという確信を得た。 「いまの男を知っているのかい」  水原はさりげなく問うた。 「いまの男って、だれのこと」  瑞枝がとぼけた表情で聞いた。 「榧谷から同じゴンドラに乗り合わせた男だよ。きみを見て、びっくりしたような顔をしていた」 「知らないわよ」 「いや、きみは知っているはずだ。だから、彼と同じバスに乗るのを避けて、歩いて下ったんだろう」 「あなたのおもいすごしよ。初めてゴンドラに乗り合わせた人間だわ」  瑞枝はあくまで否認した。  水原はそれ以上追及しなかった。  だが、彼の心の中で固定したはずの殺意が、その男によって根底から突き崩されてしまった。  旅行中、チャンスがあれば瑞枝を抹殺しようとした意図は、水をかけた砂のように崩れている。  もし彼女が死体となって現われたら、いまの男は直ちに水原を疑うにちがいない。  たとえ瑞枝の死体が現われなくとも、失踪した彼女と水原を結びつけて考えるだろう。  物事には気合というものがある。  残された時間は少ないとはいえ、しばらく間隔をおいてから新たに瑞枝にしかけることはできる。だが、水原から気合が抜けてしまった。  それが抜けると同時に、彼がシンデレラボーイの位置を獲得するために、いかに危険な賭けを打とうとしていたかをおもい知ったのである。      2  小坂邦雄《こさかくにお》には屈辱の体験がある。中学のとき、彼はクラスのいじめの対象になった。理由はさしたることではない。  幼いころ両親が離婚して、それぞれべつのパートナーと再婚した後、小坂は父方の祖母の許《もと》に引き取られた。  この祖母が猫好きで、十数匹の猫を飼っていた。  祖母の猫好きを知って、彼女の家のそばに猫を棄《す》てて行く人がいるので、猫は増える一方であった。  近所では祖母を猫婆《ねこばば》と呼んでいた。それが小坂のいじめの原因となった。  同じ町に住む素封家で、有力者の息子である相川|裕一《ゆういち》の家では犬が好きで、シベリアンハスキーやシェパードをはじめ、各種の愛玩《あいがん》犬を飼っていた。  相川は家と父祖の威光を笠《かさ》に、校内に勢力を張っていた。  この相川がことごとに小坂を敵視して、小坂をいじめた。  クラスも彼の勢力に慴伏《しようふく》して、小坂いじめに追従した。 「おまえはくさい。猫のにおいが沁《し》みついている。そばへ寄るな」  と小坂を毛嫌いし、クラスを扇動して彼を爪弾《つまはじ》きした。 「おまえが教室に入ると、クラス全体が猫くさくなる」  と言って、小坂を教室から締め出した。  小坂は登校しながら、教室に入ることができない。  最初、それとは知らぬ教師が、欠席がつづくので家に問い合わせたところ、毎日、登校している事実がわかった。  それでもクラスのいじめとは気づかず、学校へ行くと偽って家を出て、どこかで遊んでいるのだろうくらいにおもっていた。  ところが、体育館の用具置場や校舎の屋上でうろうろしている彼を見つけて、事情が判明した。  それでも相川に主導されたクラス全体のいじめによって締め出されているとは気づかず、登校拒否の新種とおもっていた。  小坂は相川にいじめられている事実を黙秘していた。下手に教師にしゃべろうものなら、相川から数倍にして返される。  もちろんクラスのだれも真相を語らない。  相川のいじめに追従することが、自分自身がいじめから逃れる最大の保証となるのである。  教師が不審におもって家庭に連絡したので、相川もいつまでも小坂を教室から締め出すことができなくなった。  その埋め合わせとして、彼はさらに残酷ないじめを考えだした。  毎年正月には、市民は市中にある神社に初詣《はつもうで》に出かける。 「正月にはおもらいごっこをやる」  相川は学校が冬休みに入る前に、クラス全体に言い渡した。  おもらいごっことはなにか。クラスは不安と好奇心のないまじった気持ちで相川の顔色を探った。 「クラスの代表選手が乞食《こじき》に変装して、神社の一の鳥居の前で坐《すわ》っているんだ。三が日の間にどれだけもらいがあるか試してみろ」  相川の発案を聞いたクラスは、だれが代表選手に選ばれるか不安に駆られた。  だが、一人を選ぶとなれば、すでに人選は定まったようなものである。  クラスの不安は、相川が代表を複数出せと言い渡す場合である。 「代表はクラスの投票で決めたい。最も多くの票を集めた者が代表選手として一の鳥居の前に坐れ」  これはクラスの天の声に等しい。  代表を一人と知って、クラスはほっと胸を撫《な》で下ろした。  開票結果は見るまでもなかった。小坂を除くクラス全員が小坂を指名した。 「これで決まった。おまえは正月三日間、一の鳥居の前に坐れ。稼ぎはおまえにくれてやる。猫の餌代《えさだい》にでもしなよ。猫婆さんが喜ぶぞ」  クラスがどっと笑った。  逆らうことはできなかった。  小坂は顔に墨を塗り、ぼろを着て、一の鳥居の前に坐った。  市民のだれも気がつかなかった。  だが、クラスの者は知っている。  相川は意地悪く、何度も神社へやって来て、そのつど小坂が坐っている前に置いたクッキーの空き缶の中に小銭を投げ込んだ。  相川から命じられたクラスメートも次々にやって来て、小銭を入れた。  それをしないと、彼らが小坂の位置に坐らせられるのである。  三日間、小坂は屈辱に堪えて、一の鳥居の前に坐りつづけた。三日間坐ると二万円ほど集まった。  小坂は悔やし涙をぼろぼろ流しながら、その金をすべて神社の賽銭箱《さいせんばこ》に投げ込んだ。 [#改ページ]   待ち伏せされた闇金      1  物語は水原智彦と貝塚瑞枝の旅行から半年ほど以前にさかのぼる。  相模中央電鉄本社経理課長補佐、本宮|恒夫《つねお》は十一月二十七日午後一時、新宿新都心の超高層ビル内にある本社を出た。 「本宮さん、それではよろしく頼みますよ。先方はだいぶお待ちかねのご様子だから」  経理課長の落合広志《おちあいひろし》が言って送り出した。  本宮が手に下げた布製の鞄はずしりと重い。中身は五千枚の一万円新券である。  重量五・一五キロ、故意に古ぼけた布製鞄に収納した。 「それでは行ってまいります」  本宮は馴《な》れた足取りで経理課を出た。  今日は土曜日で、隔週半日出勤日にあたる。午後一時、ほとんどの社員は退社し、社内の人影はまばらである。  エレベーターで地下三階の駐車場へ直接降りた本宮は、そこに待っていた経理課専用のハイヤーに乗った。 「それでは佐々木《ささき》先生の山荘にお願いします」  本宮は顔馴染《かおなじみ》の運転手吉井に告げた。  吉井も相模中央電鉄の傍系会社相模交通ハイヤー部の社員である。 「佐々木の山荘」  と告げられただけで、吉井も行く先がわかる。  佐々木|義久《よしひさ》は現総理国宗派の金庫番と呼ばれ、党政調会では交通部会の部会長である。いわゆる運輸族の筆頭で、その最も太い金蔓《かねづる》が相川章一郎である。  佐々木と相川の結びつきは強い。二人は同郷である上に、佐々木の長男と相川の次女が結婚している。  本宮が週末の人目のない本社経理課から佐々木の山荘へ運んでいるのは、昨夜遅く、佐々木から相川に電話が入って、急遽《きゆうきよ》、資金を片手用意してほしいという申し入れがあったためである。  いわゆる政治献金の要請である。  だが、表向きの政治献金は政治資金規正法の規制を受ける。  片手を持って来いと頼まれて、即座に届けるのは裏献金である。  本宮はこの裏献金の運び屋である。  相川から佐々木へ届ける裏献金は国宗派二水会を支える資金となり、ひいては国宗の権力を維持するための基金となる。  車は東名高速厚木インターから北へ向かい、四一二号線へ入った。  佐々木の山荘は神奈川県|愛甲《あいこう》郡|愛川《あいかわ》町の山中にある。本宮も吉井も何度も通った道である。  そのつど裏金を運んで行ったが、今回は最も巨額である。  政治改革法案をめぐって与野党の攻防が激しくなり、法案不成立の場合は、国宗政権も崖《がけ》っ縁《ぷち》に立たされる。そのための地盤固めの片手であろう。  車はようやく相模平野から丹沢山地の裾《すそ》に入って来た。  地形に起伏が生じて、秋色の濃い山野を柿《かき》の実が朱を打ったように点綴《てんてい》する。  車は山荘の私道に入った。佐々木の山荘は丘陵の中腹にあって、私道を伝って車が山荘まで入れる。  佐々木は週末にこの山荘で憩い、周辺のカントリークラブでゴルフに興ずる。  コースをまわりながら、政・財界の要人と政治の運営を図る。  料亭とゴルフ場は政治の重要な根まわしの場である。 (さしずめおれは根まわし用の費用の運び屋というところか)  本宮が車中で自嘲《じちよう》の笑いを洩《も》らしたとき、車が停《と》まった。まだ私道の途中である。 「どうかしたのかね」  本宮は吉井に尋ねた。 「道が崩れています」  吉井が答えた。  車の前方を見ると、山腹につくられた私道が巨大なパワーシャベルでざっくりと削り取られたように失われている。  数日前の嵐《あらし》で崩れ落ちたらしい。道が崩れているという連絡はなかった。 「やむを得ない。山荘までわずかだ。連絡するまでもなかろう。きみはここで待っていてくれたまえ。ちょっと届け物をするだけだから、すぐに戻る」  本宮は歩いて行くことにした。車の通行は無理だが、歩行は可能である。  本宮は鞄《かばん》を抱えて車から降りた。崩れた道の端を危うく向こう側へ渡った本宮は、山荘までまだかなりの距離があることを悟った。  車道は蛇行しながら登っていく。本宮は自動車道から離れて、山荘へ直行する近道を山林の間に見つけた。  雑木林は葉が落ち尽くして見通しがよくなっているが、日脚の短い秋の陽《ひ》が翳《かげ》り始めて、林の中は薄暗くなりかけている。  本宮はためらわずに近道へ入り込んだ。  一方、吉井は車の中でラジオを聴きながら待っていた。待っている間に陽は山陰に落ちて、周囲が暗くなってきた。気温がぐんと下がったのがわかる。  本宮はすぐに帰ると言っていたが、なかなか戻って来なかった。恐らく佐々木の山荘でもてなされているのだろうとおもった。  ハイヤー運転手は待つのも仕事のうちである。車外へ出て煙草《たばこ》を一本吸い小用を足すと、吉井は早々に運転席へ戻った。  周囲はとっぷりと暮れている。この位置からでは山荘の灯は見えない。 「それにしても遅いな」  吉井は小首をかしげて腕時計を見た。本宮が下車してから約三時間経過している。  ちょっと届け物をするにしては長すぎる。もてなしを受けているにしても、届け先が料亭ではないので、三時間は長すぎる。  それとも山荘の主と話が弾んでいるのであろうか。  四時間経過して、吉井はもう一度小用に立った。カーエアコンを点《つ》けていても冷えてくる。腹もへってきている。  ちょっと様子を見てくるか。  吉井はエンジンを止め、ドアをロックすると、常時携帯しているライトを持って山荘へ歩き出した。  山荘に灯はともっていたが、森閑としている。話が弾んでいるような気配は洩れてこない。  玄関に立ってドアホンを押すと、男の声で応答があった。佐々木の秘書らしい。 「私は本宮さんを送ってまいりました相模交通の運転手ですが、本宮さんはいらっしゃいますか」  と吉井は問いかけた。 「なに、相模交通の運転手だって。本宮君は来ていないよ」  ドアホンの声が驚いたように答えた。 「いらっしゃってない。そんなはずはありません。私が車でお送りして来たのです。この下で道が崩れていたために、車が入れず、本宮さんはそこから歩いて来られました」  吉井の足で車から山荘まで約十分で来た。本宮がいかにゆっくり歩いても四時間かかって到着しないはずはない。 「きみ、それは本当かね。本宮君から今日来るという連絡をもらって待っていたんだが、なかなか見えないので、いま連絡を取ろうかとおもっていたんだ」  玄関のドアが開いて、秘書が現われた。  彼が嘘《うそ》を言うはずはない。秘書の表情が緊張している。 「本宮君は手になにか持っていなかったかね」 「鞄を抱えていました。かなり重そうな感じでした」 「彼は車を降りて山荘の方へ向かったんだね。反対の方角、つまり麓《ふもと》の方へ下りて行ったということはないかね」  秘書は本宮の行った方角に疑いを抱いているらしい。 「いいえ、たしかに山荘の方角へ向かいました」 「きみの手前、山荘へ行く振りをして、途中から麓の方へ下りて行ったということはないかな」 「下へ下りる道がほかにもあるのですか」 「車道のほかに近道がある。また道などなくても、大した山ではないから、林の中を通って下りられるよ」 「さあ、下へ行ったようには見えませんでしたが、私の死角から下って行けば、私には見えません。しかし、どうして本宮さんがそんなことをするのですか」  鞄の中身を知らない運転手は、秘書が本宮にかけた疑惑の意味がわからない。  秘書は本宮が五千万円の献金を持ち逃げしたのではないかと疑ったのである。  佐々木の山荘は大騒ぎになった。  本宮が吉井の目を晦《くら》まして山を下ったのでなければ、山の中腹で車を降りた地点から山荘までの間で消えたことになる。  遭難するような場所ではない。山腹にも民家の散らばっている低い丘陵である。  山荘に居合わせた秘書、セキュリティ(用心棒)、運転手などが総動員されて、山腹の捜索を始めた。  捜索を始めて間もなく、山荘と車のちょうど中間の山腹の山道で、本宮の死体が発見された。  左胸部に貫通銃創があり、本宮は即死に近い状態で死んだと見られた。  死体の周辺から鞄は消えていた。だが、鞄の存在は死者本人、および吉井(中身は知らない)、相川章一郎、佐々木、その秘書、相模中央電鉄の経理部長、その他数名の関係者しか知らない。  関係者は殺人の動機が、本宮が携行していた鞄の中身にあるとおもった。  だが、行きずりの犯人が鞄の中身を知っているはずがない。  犯人は本宮が今日の午後、五千万円、佐々木の山荘に届けることを知っていて、待ち伏せをしていたのであろうか。  吉井は本宮が鞄を持っていたことは知っているが、その中身がなんであるか知らないはずである。  本宮が吉井に鞄の中身を告げるはずもあるまい。それに、吉井は銃を持っていない。  佐々木と秘書は束《つか》の間《ま》ためらったが、警察へ届けることにした。  警察へ届ければ殺人の動機が調べられて、佐々木と相川の癒着が表沙汰にされる虞《おそれ》がある。  だが、射殺された死体を握りつぶすわけにはいかない。      2  管轄の厚木署から捜査員が駆けつけて来た。  臨場した地元署の捜査員は死体の観察、現場の検索と並行して、運転手の吉井から事情を聴いた。 「あなたと本宮さんは道路が崩れていたことをあらかじめ知っていましたか」 「いいえ、現場へ来て初めて知ったのです。本宮さんは山荘まで歩いても大した距離ではないからとおっしゃって、車から降りられました」 「それは何時ごろでしたか」 「午後二時半ごろでした」 「あなたが山荘へ様子を見に行ったのは何時ごろでしたか」 「六時半ごろでした。少し遅すぎるなとおもって様子を見に行ったのです」 「山荘で相談が長引いたり食事を出されたりすれば、それくらいかかるのではありませんか」 「本宮さんは車を降りるとき、すぐに戻るとおっしゃっていました」 「すぐに戻ると言ったのですね」 「はい」 「本宮さんが車から降りたときは、なにか手に持っていましたか」 「いいえ、手ぶらでした」 「手ぶら、なにも持っていなかったのですね」 「なにも持っていらっしゃいませんでした」 「車中で訪問の目的をなにか言っていませんでしたか」 「いいえ、べつになにもおっしゃっていませんでした」  さらに吉井に銃声を聞かなかったかと問うたが、彼は犯行推定時間、カーラジオを聴いていて、銃声らしきものに気がつかなかったと答えた。  一方、山荘に居合わせた者は、何人かが銃声らしきものを聞いたが、この地域はキジ、ヤマドリ、コジュケイ、ウズラなどの猟区になっていて、折から解禁間もなくであり、多数のハンターが入り込んでいたので、特に銃声を不審におもわなかった。  捜査員はハンターによる誤射を疑っているようであったが、佐々木義久とその秘書、および相川章一郎と相模中央電鉄の関係者たちは、犯人の狙《ねら》いが本宮が携行していた五千万円入り鞄にあると信じていた。  だが、そのことを警察に告げられない。  厚木署の捜査員は佐々木の秘書|梅田経世《うめだつねよ》に、本宮の訪問目的を尋ねた。  梅田は近く開催する二水会主催のパーティの打ち合わせと答えた。 「そのパーティはいつ開く予定ですか」 「そ、それは、日取りは具体的にはいつとまだ定まってはいませんが、そのことも含めて、いろいろ打ち合わせをするためです」  と答えた秘書の口調が心なし慌てたように聞こえた。  若い捜査員はそれ以上|詮索《せんさく》しなかった。  相川章一郎は人も知る国宗と刎頸《ふんけい》の友であり、国宗の後援会長でもある。  刑事はその答えに満足したのかどうかわからなかったが、まずは無難な答弁であろう。  さすがベテランの刑事も、本宮が五千万円の裏献金の運び屋だったとは気がつかなかったようである。  裏献金は読んで字のごとく裏金であるから、出す方も受け取る側も物的証拠を残さない。  政治資金規正法に則《のつと》って自治省へ報告することもない。  献金側は裏金の支出を経理上、使途不明金として処理する。  佐々木は梅田から報告を受けたとき、唇を噛《か》んだ。 「犯人は本宮が闇献金を運んで来ることを知っていたやつだな。我々が被害品を届け出られないことを計算している」 「すると、犯人は相中(相模中央電鉄)の部内にいるということですか」 「相中とは限るまい。こちら側にいるかもしれんよ」  佐々木の目には疑惑の色が塗られているようである。 「しかし、資金調達について先生が相川会長にお電話したのは昨夜遅くでした。  私が先生から、本宮さんが片手を持って来ると聞いたのは、今日のお昼ごろでした。  私はそのことをだれにも告げておりません。もし私を疑うようであれば、即刻辞めさせていただきますが」  梅田がやや強い口調を発したので、佐々木は少し慌てて、 「いや、身内を疑っているわけではない。ただ、わしの身辺から洩れる可能性もあるとおもっただけだ」  と梅田をなだめるように言った。 「先生は昨夜、相川会長に電話をした後で、私以外のだれかにおっしゃいましたか」 「いや、わしはだれにも言っておらんが」 「それでは当方から洩れる可能性はありません。やはり、相中の部内に犯人がいると考えるべきでしょう」  梅田に言われて、佐々木は自分の身辺からの漏洩《ろうえい》は考え直したようである。  すでに夜に入っていたので、銃弾の捜索は翌日に持ち越された。  被害者の死体は司法解剖のために搬出され、翌日、十一月二十八日、厚木署に捜査本部が開設された。  同日午後、解剖によって、死因は心臓部貫通による心臓機能の損傷。左背上部に射入孔、左胸上部に射出孔が認められる。  射距離は百メートル前後。凶器は銃創から判断して標準型ライフル。大量の捜査員を投入しての捜索にもかかわらず、銃弾はまだ発見されていない。  犯行推定時間は十一月二十七日午後三時から四時の間、と鑑定された。  第一回の捜査会議で最も問題にされたのは、犯人の動機である。  捜査本部に参加した県警捜査一課の捜査員が、 「犯人が待ち伏せしていたとすれば、被害者が当日、犯行推定時刻に現場に来ることを予知していなければなりません。  しかし、被害者が現場で車から降りたのは、三日前の嵐によって車道が崩れたためであって、車道が正常であったなら、車で山荘まで乗りつけたはずです。したがって犯人は三日前に車道が崩れていることを知っていなければなりません。  このことから、犯人は現場付近に土地鑑を有する者であると考えられます」  と言った。  これに対して地元署の厚木署では、 「現場付近は山鳥の猟区であって、多数のハンターが入り込んでいます。たまたまその場に来合わせたハンターが被害者を誤射したとすれば、べつに車道が崩れたという予備知識を持っている必要はないとおもいますが」  と反駁《はんばく》した。 「現場付近の山林は葉が落ち尽くして見通しがよくなっていた。犯人が山鳥と人間をまちがえることはないとおもうが」 「犯行推定時間帯は日没前後で、薄暗くなりかけていました。日没後の発砲は禁じられています。太陽と競争するように焦ったハンターが、人間と獲物をまちがえる危険性は充分にあります。現にそのような誤射は各地で発生しています」  厚木署の主張するようにハンターの誤射であれば、事件の背後関係はない。  捜査本部の大勢としては、被害者が、現総理の金庫番と呼ばれ、与党中の最大派閥である国宗派を束ねる大物議員の山荘を訪問する途中であったことから、背後関係を疑った。  そうだとすると、厚木署の指摘を説明できない。  捜査員の質問に対して秘書の梅田は、本宮の訪問はその前夜に決まったと答えた。車道が崩れていたことを連絡するのは、つい忘れたが、歩いても大した距離ではないので改めて連絡し直さなかったということである。 「道路が崩れたのは犯行日の三日前である。したがって、犯人は被害者が山荘まで車で乗りつけられないことを充分に予知できる」  と捜査一課は強弁したが、 「被害者は車から降りて近道の山道を登った。犯人は被害者が車道か近道かどちらを採るかわからなかったはずだ」  と切り返された。  被害者はこれまで同山荘を何度か訪問したことがあるが、車で山荘まで乗りつけ、途中で下車して徒歩で来たのは初めてであるそうである。  したがって近道の山道に入り込んだのは偶然であり、犯人には予知できなかったはずである。  また被害者が一人で歩いて来るという保証はない。運転手と連れ立って来たかもしれない。  犯人が待ち伏せしたにしては、偶然性に頼りすぎているところがある。  背後関係説、誤射説いずれにも一理あった。  だが佐々木、梅田、相川、相模中央電鉄の経理部長ほか数名の関係者は、殺人動機がほかにあることを確信していた。それは警察に告げられない動機である。  第一回の捜査会議において、背後関係、誤射両面の構えで、  ㈰現場周辺の聞き込み捜査。  ㈪被害者の生前の人間関係捜査。  ㈫政・財界にまたがる背後関係の捜査。  ㈬凶器の発見。  ㈭銃弾の捜索。  ㈮現場付近の特定、不特定通行人、交通関係従業員、作業員、旅館、飲食店などの聞き込み捜査。  以上が当面の捜査方針として決定された。      3 「どうもよくわからない」  捜査会議の後、厚木署の松家《まついえ》刑事が小首をかしげた。 「なにがわからないんだい」  松家のペアである年配の朝枝《あさえだ》が問うた。 「被害者はなんのために佐々木の山荘を訪ねて行ったんでしょうね」 「パーティの打ち合わせと言っていたじゃないか」 「さあ、そのことですがね、そのパーティをいつ開催する予定かと聞いたら、まだ具体的には決まっておらず、その日取りを含めて下相談するためだと言っていましたよ」 「それがどうかしたかい」 「まだ日取りも定まっていない漠然としたパーティの打ち合わせのために、土曜日の午後、相模中央電鉄の社員を呼び出すものでしょうかね。それに被害者は経理課長補佐です。パーティの打ち合わせということであれば、普通は総務課なんかが行くんじゃありませんか」 「なるほど、そう言われてみるとそうだな」  朝枝も松家の着眼に興味を惹《ひ》かれたらしく、 「しかし、パーティとなれば後援者に大量のパーティ券を購入してもらわなければならない。佐々木の親分の国宗と、被害者の会社の社長の相川章一郎は人も知る刎頸の友だ。つまり、相模中央電鉄は国宗の大スポンサーというわけだ。大量のパーティ券を引き受けるにちがいない。その打ち合わせとなると経理課の人間が呼ばれてもおかしくないんじゃないかな」  と柔らかく反駁した。 「パーティ券はおおむね政治家が押し売りするものでしょう。  秘書が議員のコネを駆使して、官庁や団体や会社や後後会に割り振って売りさばくそうです。いうなら、相模中央電鉄は国宗派のお得意様というわけです。むしろ佐々木の秘書が辞を低くして、相中の総務課や経理課を訪ねるべきではないでしょうか。  それに、土曜日の午後といえば、サラリーマンにとっては最も貴重な日です。それをわざわざ丹沢山中の山荘へ引っ張り出して、パーティ券の押し売りをしたというのは解せませんね」 「すると、きみは被害者がなにかほかの用件を抱えて訪ねて来たというのかね」 「少なくともパーティの打ち合わせではないとおもいます」 「すると、なんの用事で……?」 「被害者はなんの荷物も持っていませんでした。身につけていた所持品としては五万円弱入りの財布、キーホルダー、手帳、筆記具、ライター、吸いかけの煙草の箱、ハンカチ、靴べら、名刺入れだけです。ハイヤーの運転手に、ほかになにか持っていなかったかと問うたところ、手ぶらだったと答えました」 「財布が無事だったところから、路上強盗の仕業ではないと推定されたのだが」 「私はいまにして、運転手の手ぶらだったという言葉に引っかかるのです」 「手ぶらがどうして引っかかるのかね」 「なにか持っていなかったかという質問には、普通は持っていたとか、持っていなかったとか答えるものではないでしょうか。手ぶらという答えはなにも持っていなかったことをさらに強調しています」 「そうかな」 「いいえと答えればすむところを、運転手はわざわざ手ぶらだったと強調しているのです。もしかすると、運転手は口止めされているのではないでしょうか」 「口止め……? つまり、被害者がなにか持っていたにもかかわらず、警察の取調べに対してなにも持っていなかったと答えるように、佐々木側から言い含められたというのかね」 「私はその可能性があると考えています」 「なぜ佐々木は運転手の口止めをしたのか……」  言いかけた朝枝の表情がはっとなって、 「つまり、被害者が持っていたものが公にされると、佐々木にとって都合が悪かったということかね」 「私はその疑いを持っています」 「佐々木が公にされては都合の悪いものというと……」  朝枝は松家の顔色を探った。言わずとも二人の心に醸成されているものがある。 「となると、犯人は被害者を待ち伏せしていたことになるが」  犯人が被害者の運んで来た政治献金を狙っていたとすれば、当然のことながら、犯人には予備知識があったことになる。  松家説は所属署の誤射説を否定し、県警捜査一課の意見に与《くみ》することになる。 「運転手を再度取調べれば、新しい事実がわかるかもしれませんよ」 「もし、被害者が闇献金の運び屋であったとすれば、犯人は限られた関係者の中にいることになるね」  朝枝の目が光った。 「それも佐々木サイドの人間ということになります。犯人は車道が崩れ落ちて、被害者が途中から徒歩で来ることを予知していました。  被害者も被害者が乗ってきた車の運転手も、車道が崩れていたことを知りませんでした。つまり、相中サイドの人間は除外してよいということです」 「すると、容疑者は極めて絞られることになるね」 「犯人が道路が崩れた後、偶然、山荘に来合わせて、その事実を知った場合を除けばですね……」 「その場合でも、道路が崩れた後、被害者が訪れる前までの間に山荘へ来た人間は限られるだろう」 「それをさっそく調べてみましょう」  二人は顔を見合わせた。  彼らの立場は微妙である。地元署の捜査員でありながら、県警本部から参加してきた捜査一課の意見に近い。  しかし、捜査一課の背後関係説も被害者の所持品の存在の有無には注目していない。  要するに、なんの裏づけもない松家の個人的な憶測にすぎない。下手に捜査会議で表明すると、両派から袋叩《ふくろだた》きにされてしまう。  捜査会議にかける前に、しっかりとした|裏づけ《ウラ》を取らなければならない。 [#改ページ]   不都合な所持品      1  厚木署の松家らが本宮の所持品の有無に注目したころ、山荘では佐々木と秘書の梅田が額を寄せ合うようにして協議していた。 「幸い警察は本宮が運んで来た鞄の存在に気がついていません。現在、捜査は背後関係と流しの犯行の二本立ての構えで進められています」  梅田が言った。 「警視総監を通してそれとなく捜査に圧力をかけてもらおう。犯人が奪った鞄の中身が表沙汰《おもてざた》にされてはまずい。業腹《ごうはら》だが、この際、五千万円はあきらめよう。この政局不安定の時期に相中からの裏献金が公にされれば、命取りになるぞ。犯人はまさに我々の弱味を衝《つ》いてきたのだ。運転手の口は大丈夫だろうな」 「口止めしておきました。それに運転手は鞄の中身がなんであるか知りません」 「しかし、口止めすれば、おおよその察しはつけるだろう」 「推測だけではどうにもなりません。運転手の口より、犯人が逮捕されて口を割った場合が問題です」 「そうだ。この犯人は逮捕されない方がよい。いや、逮捕されてはまずい」 「捜査を中止させられませんか」 「多少の圧力はかけられても、殺人事件の捜査をやめさせることはできない。それにしても、犯人はそこまで計算しているな」  佐々木が悔やしげに言った。  犯人が奪った金は単なる闇献金ではない。国宗政権の命取りになるかもしれない金である。  本来なら、犯人逮捕に躍起になるはずの被害者サイドが、犯人を庇《かば》う側にまわらなければならない。  佐々木が与党最大派閥の国宗派の束ね役として代貸《だいがし》の位置に就いたのは、ひとえにその集金能力のおかげである。  政治は金がかかる。特に一人ではなにもできない民主主義は、多数を制する者が政権を取る。  つまり、与党で最大派閥を率いる者が権力を握る仕組みになっている。  派閥を養うためには金がいる。金を集める能力が権力につながると言っても過言ではない。  金権政治とは、総理の椅子《いす》も金で取引できる商品であるということである。  ポスト佐藤をめぐって、田中と福田が正面対決した総裁選挙は、空前絶後の金権選挙と言われ、田中側が百億円ばら撒《ま》いたという噂《うわさ》がある。  こういう噂があるということは、百億円で総理・総裁の座が購《あがな》えるということである。  百億円とまではいかなくとも、N首相から当時のT自民党幹事長が総裁の椅子を禅譲されたとき、五千万円の政治資金を要求されたという。  百億円に比べて五千万円はいかにも少ないが、大釜《おおがま》が底を突き、急場をしのぐための運転資金であった。  政界ではこんな場面は決して珍しくない。  政権党総裁は自動的に総理となる。政権の座が五千万円で極秘|裡《り》に売買されたわけである。  これが発覚すれば、NもTも政治生命に関《かか》わる。  このたび相川章一郎から送られてきた闇献金五千万円は、NとTの間で政権の座を売買した金の使い道と極めて似ている。  国宗政権がその命運を賭《か》けて成立させようとしている政治改革法案は、わずか数票が成否の分かれ目となるとされている。  この法案の成否は賛否両派にとって、その生き残りをかけたサバイバル闘争である。  否決されれば国宗政権は崩壊する。  政治改革、政治倫理の確立を狙った法案を通すために、ある中立派議員は大臣ポストを提示されたとか、またある議員は札束をつかまされたとかいう噂が永田町を飛び交っている。  その噂の煙が発するだけの充分な火種があった。  わずか数票が成否の分岐点となれば、結局、最後にものを言うのは利権の餌《えさ》である。  ポストで釣り、札束で頬《ほお》を叩く。  与野党それぞれの造反候補と取り沙汰されている者も、蓋《ふた》を開けるまでは旗幟《きし》を明らかにしない。  信念に基づいて行動しているのであれば、事前に明確な姿勢を打ち出してもよいはずであるが、どちらへ転んでもよいように玉虫色の仮装をまとっている。  利権がらみの中立派が政治改革のキャスティングボートを握っているというのはいかにも皮肉である。  この命運分岐点にかかる浮動票を固めるための緊急資金として、相川から裏金がまわされてきた。  この裏金の使途予定が明らかにされれば、法案の成立前に国宗政権は瓦解《がかい》してしまう。  それを狙って待ち伏せた犯人は、闇献金の使途も知っていたかもしれない。  事は単に五千万の喪失ではなかった。 「犯人は必ず部内者にいる。きみは密《ひそ》かに犯人を探れ。ただし、犯人を突き止めても決して表沙汰にしてはならぬ。五千万は取り戻さずともよい。相川氏に泣きつけば、再度融通してくれるだろう。犯人がだれか知りたい。犯人の目的が金だけにあるのならよい。犯人を突き止めたら、私だけに報告しろ。また犯人に我々が突き止めたということを察知させてもならない」  佐々木は梅田に言い含めた。      2  新宿西口の相模交通の営業所に朝枝と松家は吉井を訪ねた。  営業所にあらかじめ吉井があがる時間を確かめてある。  午後六時、二十四時間勤務からようやく解放された吉井が、疲れた表情で食堂へやって来た。  事務所から訪問者が待っていると聞かされて、吉井は怪訝《けげん》な面持ちであった。  二人の顔を見た吉井は、はっとしたようである。 「お疲れのところを申し訳ありませんな。少々お尋ねしたいことがあってお邪魔しました」  朝枝が穏やかな口調で話しかけた。 「もうすべて申し上げたはずですが」  吉井の面には警戒の色が塗られている。 「聴き忘れたことが二、三ありまして、お手間は取らせません。すぐ終わらせますから」  朝枝はあくまで穏やかな口調で言った。  だが、その声音の底には、本当のことを言わないと長引くかもしれないぞと、暗にプレッシャーをかけている。 「どんなことでしょうか」  吉井はしぶしぶといった体で、二人を人影のない食堂の隅の方へ誘った。 「なにか召し上がりますか」  吉井はそれでも二人のために気を遣ってくれた。  従業員食堂の入口には、食券の自動販売機があって、数種類の定食のほかにコーヒーや紅茶などの飲物が買える。 「我々でしたらどうぞおかまいなく」  朝枝が固辞したので、吉井は煙草を取り出した。刑事らの目には、吉井が煙幕を張ったように見えた。 「聴き忘れたこととは、どんなことでしょう」  吉井が煙幕のかなたから問いかけてきた。 「本宮さんの件ですが、車から降りたとき手ぶらだったとおっしゃいましたね」  朝枝は確かめるように言った。  松家は黙したまま吉井の表情を凝視している。  吉井の煙草の吸い方が忙しくなったようである。 「はい。それがどうかしましたか」 「我々は、本宮さんがなにか持っていたのではないかとおもっているのですが、たとえば鞄のようなものを」  朝枝と松家が吉井の顔に視線を集めた。 「なにも持っていませんでしたよ」  吉井の声が少し震えた。 「本宮さんは、すぐに戻ると言ったんでしょう」 「そのようにおっしゃいました」 「すると、なんのために山荘へ行ったのですか」 「そんなこと私は知りませんよ。私は車の運転をしただけですから」 「本宮さんをあの山荘へ送って行ったのは初めてですか」 「いいえ、何回かお送りしました」  吉井はしぶしぶと答えた。 「過去に送って行ったときも、やはりなにも持っていなかったのですか」 「さあ……それは、それほど注意していませんでしたから」 「変ですねえ。過去に何度も送っているのに、注意していなかったので、なにか持っていたかどうか気がつかなかったというんですね。それでは本宮さんを最後に送ったときは、なぜ手ぶらだとわかったのですか」 「そ、それは、途中で道が崩れていて、本宮さんが途中下車したので目についたのです」 「下車するとき、あなたは運転席に坐ったままですか」 「いいえ、私が先に降りて、ドアを開けて差し上げます」 「ハイヤーの場合はたいていそうですね。すると山荘玄関に車で乗りつけたときも、本宮さんにドアを開けてあげたのでしょう。当然、手になにか持っていたかいないか、気がついたのではないのですか」 「そのときは気がつきませんでした」  吉井は頑強に言い張った。 「本宮さんが亡くなる直前、途中下車したとき、すぐに戻ると言ったそうですね。すぐに戻るということは、本宮さんの訪問目的がなにかを届けることにあったのではありませんか。なにかを届けるだけであれば、すぐに戻って来られます。今日、手紙やメッセージを届けるということはほとんど考えられません」 「ポケットに入るような、なにか小さなものを届けたかもしれないじゃありませんか」  吉井が必死に切り返した。 「本宮さんの遺体を調べましたが、そのようなものは一切身につけていませんでしたよ」  本宮は山荘に到着する前に殺されていたのである。届けるべきどんな微細な品でも身につけていれば、必ず発見されたはずである。 「犯人が奪ったのかもしれません」 「死体には物色した痕跡がまったくありませんでした。吉井さん、これは殺人事件の捜査なのです。あなたは本宮さんの生前、最後に一緒にいた人間なのですよ。あなたとしても犯人を一刻も早く捕らえたいとはおもいませんか。  運転手は乗客の生命の安全について責任があるはずです。あなたの車から降りた後、本宮さんは殺されたのです。車内で殺されたのではないとはいうものの、下車直後に殺害されたということは、本宮さんを送って来た運転手として多少の責任は感じませんか。もしあなたが本宮さんと同行していれば、彼は殺されずにすんだかもしれないのです」  朝枝の言葉は吉井の痛いところを衝いたようである。 「ぼくに責任があるというのですか」 「責任があるとは言いません。多少の責任を感じないかと聞いているのです。もしあなたが本宮さんの死に対して一片の同情心をお持ちならば、本当のことをおっしゃってください。それが犯人逮捕につながっていくのです」  朝枝が諄々《じゆんじゆん》と諭すように言った。  いつの間にか吉井はうなだれている。指に挟んだ煙草の灰が長くなっている。 「吉井さん、本当のことを言っていただけませんか。本宮さんは車を降りたとき、なにか持っていたのでしょう」  朝枝の言葉に、吉井の肩ががくりと下がった。 「持っていたんですね」 「持っていました」  吉井がうなずいた。 「なにを持っていましたか」 「鞄です」 「どんな鞄でしたか」 「布製の古ぼけた鞄でした。ずしりと重そうで中身が詰まっているようでした」  朝枝と松家が顔を見合わせてうなずいた。松家の推測が裏づけられたのである。 「本宮さんは鞄の中身について、なにか言っていましたか」 「いいえ」 「あなたは鞄の中身がなんだとおもいますか」 「…………」 「これまで佐々木先生の山荘へ行ったときも、同じ鞄を持って行ったのではありませんか」  吉井は無言のままうなずいた。 「あなたは鞄の中身について心当たりがありますね」 「…………」 「中身について、あなたの推測をおっしゃらなくともけっこうです。我々もあなたと同じ推測を抱いています。本宮さんの遺体の周辺にはそのような鞄は見当たりませんでした。とすると、犯人が持ち去ったことになりますね。犯人は鞄の中身が目的で本宮さんを殺したのでしょう。  ところで、あなたは本宮さんが鞄を持っていたことをなぜ黙っていたのですか」 「…………」 「口止めをされたのですね」 「ご想像に任せます。それ以上は私の口からは申し上げられません」 「その鞄をもう一度見れば見分けられますか」 「見分けられるとおもいます」      3  松家の推理が的中した。  朝枝と松家から報告を受けた捜査本部は色めき立った。  その後の捜索にもかかわらず、現場から該当する鞄は発見されなかったのである。  犯人は本宮を殺して鞄を持ち去った。犯人の目的は鞄の中身にあった。  改めて梅田が事情聴取を受けた。  だが、梅田は本宮が所持していたという鞄についてはまったく心当たりがないととぼけ通した。 「本宮さんには何度か会っていますが、彼の私物にまで注意していませんからね。彼がどんな鞄を持っていたかおぼえていません。まして、亡くなられたのは山荘へ到着する前のことです。彼が鞄を持っていようと、リュックサックを背負っていようと、あるいはバケツを下げていようと、私が知っているはずがないでしょう」 「本宮さんは山荘へ鞄の中身を届けるためにやって来たのではありませんか」 「鞄の中身とはなんですか。そういえば、電話で珍しい酒が手に入ったと言っていましたから、その酒のボトルでも鞄に詰めていたかもしれませんね。いずれにしても、彼に聞かなければわからないことです」 「鞄の中身についてまったく心当たりはありませんか」 「きみ、失礼ではないかね。なにを持っていたか知らないと言っているのに、その中身を知っているはずがないじゃないか」  梅田がむっとした表情で言った。  捜査本部は梅田秘書が本宮が持っていた鞄の中身について知っているという心証を得た。  だが、証拠はなにもない。  梅田は知っていながら、被害者の遺体と共にあるはずの鞄について黙秘した。ということは、鞄の存在が明らかにされては梅田や佐々木にとって都合が悪いことを示す。  彼らは鞄の存在をひた隠しに隠している。そのことからも、鞄の中身がいかに重要な物件であるかを暗黙に語るものである。  鞄の存在について、梅田に確かめてから間もなく、警察の上層部から相模中央電鉄経理課長補佐殺害事件の捜査に関しては、くれぐれも慎重に臨むようにという達しがあった。「慎重に」ということは、要するに捜査が上層部にとっては好ましくないということである。  殺人事件の捜査にこのような雑音が入る(圧力がかかる)ことは稀《まれ》であった。  朝枝と松家は改めてこの事件を見つめ直した。  上層部からの圧力にもかかわらず、捜査はつづけられた。  だが、被害者の生前の人間関係から目ぼしいものは浮かび上がらない。現場周辺の丹念な聞き込み捜査にもかかわらず、犯人に結びつくような情報は得られなかった。  また現場一帯の綿密な検索を行なったが、銃弾は発見されなかった。  被害者の身体を貫通した銃弾が、地中や木の幹にめり込んでしまえば、発見、回収するのは極めて困難となる。  捜査本部の懸命な捜査にもかかわらず、捜査は第一期(事件発生後二十日間)にして難航の兆しを見せた。 [#改ページ]   飼い殺された恋      1  水原と安芸《あき》の宮島へ旅行したことによって、貝塚瑞枝の心は落ち着いたようである。  水原の危険な下心を知らない瑞枝は、彼が旅行に誘ってくれた事実を、彼の愛情の証《あかし》と勘ちがいしたようである。  瑞枝を殺そうとして旅行に誘った水原は、旅行の途中、その意志を失ってしまった。  瑞枝の存在が水原にとって脅威であることには変わりない。  だが、いったん気合の抜けた水原は、瑞枝に対して抱いた意図が、彼女のあたえる脅威よりも危険であることを悟った。  もはや、なるようにしかならない。  瑞枝の存在のために、千載一遇のシンデレラボーイのチャンスを棒に振るつもりはないが、結婚式に瑞枝が大きな腹を抱えて乗り込んで来たら来たときのことだ、と開き直っていた。  シンデレラボーイの位置を維持するために瑞枝を殺し、一生涯刑事の足音に怯《おび》えているよりはましである。  開き直ってから、水原は気持ちが楽になっていた。  駄目になってもともと、相川章一郎の孫娘に見初《みそ》められたのがラッキーであって、楽しい夢を見させてもらったとおもえばよい。  開き直ってから、瑞枝との関係は小康状態を保っていた。  どちらも傷口を突つき合うのを避けている。そんなことをしても、双方にとってなんの利益もないことがわかったのである。  たとえ先行きに滝壺《たきつぼ》が待っていても、同じ流れに身を任せている。  滝壺にさしかかるまでは同じ船に乗っていたい。そんな意識である。 「今度の土曜日、私の誕生日なの。私の家で一緒に誕生日を祝ってくださらない」  六月の下旬、瑞枝が連絡してきた。  瑞枝とつき合うようになってから三年になるが、彼女の誕生日がいつか知らなかった。聞いたこともなかったし、瑞枝も言わなかった。 「へえ、きみにも誕生日があったのかい。何回目の誕生日なんだね」  水原は瑞枝の正確な年齢も知らなかったのである。 「ひどいわ。私にだって誕生日ぐらいあるわよ」  瑞枝の声が電話口で怨《うら》んだ。  だが、本気で怒っている口調ではない。これも旅行後、二人の間に生じた安定であり、ささやかな余裕である。 「ごめん。これまできみが誕生日のことなど一言も言わなかったので、意識になかったんだよ」 「どうせ、私のことなど意識の外でしょうからね。あなたはまだ私の家に一度も来てくれたことがないわ。私の誕生日を祝うために一度ぐらい来てくれてもいいんじゃない」 「きみが招待してくれなかったんじゃないか」  それもあるが、水原自身、瑞枝の家に行くことを避けていたのである。 「それではいま、ご招待するわ。ぜひいらして」 「弱ったな。今度の土曜日は午後六時から大学の同窓会があるんだ」  それは嘘《うそ》ではない。しかも水原は幹事役になっている。少なくとも二次会まではつき合わなければなるまい。 「遅くなってもいいわよ。待っているわ」 「わかった。どんなに遅くなっても行くよ」  水原は約束した。  瑞枝からの電話を切った後、水原は自分の心の推移に驚いた。  これが旅行以前であったなら、瑞枝からどんなに誘われても、彼女の自宅へ行くことはなかったであろう。  瑞枝との関係は極力伏せて、縁談の安全を保障するはずであった。  だが瑞枝が存在する限り、そんな保障はなんの役にも立たないことを悟った。  瑞枝はべつに彼との結婚を求めているわけではない。胎児を認知してくれとも言っていない。ただ、子供を産みたいと言っているだけである。  結婚してくれなくてもいい。水原の陰に置いてくれるだけでいい。そして、先日の旅行のように、時どき旅行へ連れて行ってくれと頼んでいるだけである。  瑞枝が彼のためにこれまで尽くしてくれたことを考えれば、モデストでいじらしい要求と言うべきであろう。  一時は瑞枝の存在は彼の将来を圧迫すると考え、彼女に対して殺意を抱いたが、考え直してみれば、彼女のような存在は男にとって便利である。  瑞枝の謙虚なリクエストにさえ応《こた》えていれば、水原の将来は安泰である。  相川章一郎の孫娘と結婚しても、水原が家庭においてイニシアチブを握ることはあるまい。  巨大な持参金を背負った妻の下に膝《ひざ》を屈して、その顔色をうかがいながら、夫とは名ばかりの夫婦生活となることは見えている。  だが、瑞枝はちがう。瑞枝は水原を主人として崇《あが》め、彼の命ずるままに仕えてきた。  彼女が求めるものはわずかな愛の断片である。それを時どき投げあたえてやれば、従順な女僕《おんなしもべ》として仕えてくれるであろう。  宮島旅行の後、水原は瑞枝を生涯飼い殺していこうと考え直した。  殺すよりは飼い殺す方が楽であるし、第一、危険がない。  瑞枝との関係で一種の悟りの境地に達した水原は、彼女の誕生日を彼女の自宅で二人だけで祝うという約束が楽しみになった。  幹事でなければ、同窓会を振ってでも行きたいところである。      2  当日が来た。同窓会はこれまでになく出席率がよく、盛り上がった。  水原は二次会で帰るつもりであったが、三次会まで引き止められた。幹事役なので逃げるに逃げられない。  瑞枝との約束が気になっていたが、友人たちが離さなかった。  早耳の友人が、すでに彼と相川真美との縁談を聞きつけていて、クラスメイトに披露したものだから、シンデレラボーイとして会の中心人物に祭り上げられてしまった。  ようやく解放されたのは午前零時近くである。  途中で一度電話を入れたときは、瑞枝はどんなに遅くなってもいいから来てと機嫌のいい声で答えた。  三次会の後、ふたたび電話したが、今度は応答がなかった。  遅いといっても限度がある。怒って寝てしまったのかもしれない。  とにかくこれからでも駆けつければ、曲げた冠を直せるかもしれない。  水原は車を拾って瑞枝の住居へ急いだ。  瑞枝は北新宿のマンションに住んでいる。最近、地上げ屋が出没して追い立てを食っているという話を聞いた。  四階建ての築二十年ほどの古ぼけたマンションであるが、瑞枝は気に入っているらしい。  地上げ屋の札束攻勢を果敢にはね返して居坐っているという話を、彼女の口から何度か聞いている。  瑞枝の家は三階の外れの三〇五号室である。管理人もいなければ、エレベーターもない。  玄関入口に並んでいる集合メールボックスから部屋の位置の見当をつけて、薄暗い階段を上った。  住人は寝静まっているらしく、森閑としている。  三〇五号室の前に立った水原は、一呼吸してからドアホンのボタンを押した。  室内でチロンホロンとチャイムが鳴っている。だが、だれも応答する気配はない。 (これは相当怒っているな)  水原は首をすくめた。  しかし、ともかく駆けつけて来たのが誠意の証明である。顔を見せれば機嫌を直すだろう。  水原は再度チャイムを鳴らした。  だが、依然として応答がない。屋内に気配も生じない。待ちくたびれて眠ってしまったのか。  水原は未練げにドアノブに手をかけた。ところが、なんの抵抗もなくドアが開かれた。ロックされてなかったのである。  水原が来たとき、いつでも入れるように錠を外しておいたのかもしれない。  これはおもったほど怒っていないのかもしれないなと、水原は考え直した。  待ちくたびれて眠ってしまった場合を考えて、錠を外しておいたのかもしれない。  水原は室内に入った。 「遅くなってごめん。やっと抜け出して来たよ」  彼は玄関の土間に立って、奥へ声をかけた。  玄関の上がり口に狭い板の間があって、奥に部屋があるようである。  板の間を挟んでトイレットやキッチンがあるようだが、玄関口から屋内が見通せないような間取りになっている。  水原の呼びかけにもかかわらず、反応はなにもない。  玄関ドアの錠をかけずに、待ちかねた恋人の声も届かないほど深く眠り込んでしまうのは、いかにも不用心である。  水原は軽く舌打ちして靴を脱いだ。初めて訪問した瑞枝の家であるが、招待された身である。ドアの錠が外されていたということは、勝手に上がれという意味でもあろう。  靴を脱いだ水原は、上がり口の板の間の半開きになっている境のドアから首を伸ばして、奥の部屋を覗《のぞ》き込んだ。  バルコニーに面した洋室で、室内中央に置かれたテーブルには、蝋燭《ろうそく》を立てたバースデーケーキやワインのボトルが置かれていた。  床の上にテーブルの陰から二本の足が覗いている。 「なんだ、そんなところに寝込んじゃったのか」  水原はつぶやいた。  待ちくたびれて床の上で眠り込んでしまったらしい。  すぐ隣りが寝室らしいが、水原が来たときに備えて、洋室の床の上に横になっている間に眠り込んでしまったようである。  それにしてもすぐかたわらにソファーがあるのにと、自宅とは言いながら瑞枝の行儀の悪さに少し呆《あき》れながら、水原はテーブルをまわった。  床に横たわった瑞枝の全姿が視野に入った。 「瑞枝……」  水原は愕然《がくぜん》として棒立ちになった。  床に倒れた瑞枝の頸部《けいぶ》に、腰紐《こしひも》が蛇のように巻きついている。  待ちくたびれて眠り込んだのではなかった。  顔面が暗紫色に脹《ふく》れ上がり、断末魔の苦悶《くもん》に見開いた目が水原の方を睨《にら》んでいる。  最初の驚愕から立ち直った水原は、瑞枝のかたわらに駆け寄って抱き起こした。だが、すでに息はなかった。  明らかに自殺ではない。水原を呼び寄せておいて、面当てに自殺を図るという可能性も考えられないことはないが、最近、水原と瑞枝との間には一種の休戦が成立していた。  だからこそ、水原を誕生日に自宅へ呼んだのである。  また水原も休戦が成立していなければ、彼女の招待を受けない。  何者かが水原の来る前に瑞枝の家に侵入して、彼女を絞殺したのだ。  だれが、なんのためにそんなことをしたのか。水原は混乱していた。  束《つか》の間《ま》、どうしてよいかわからない。  犯人は、瑞枝が室内に引き入れ、抵抗らしい抵抗もしていないところから、顔見知りの人間であろう。  水原は電話機を探した。ソファーと向かい合った位置にあるテレビのかたわらに電話機を探した水原は、一一〇番をプッシュしかけて、その手を宙に止めた。  最初の衝撃から立ち直った水原は、自分が置かれた深刻な立場にようやく気づいた。  水原と瑞枝は深い関係にある。彼女の腹には水原の子がいる。  一方では相川章一郎の孫娘と縁談が進行している。逆玉の輿《こし》として周囲から羨《うらや》ましがられている縁談である。  水原にとって瑞枝の存在はまちがいなく障害となる。  水原の将来は瑞枝の胸三寸にあると言っても過言ではない。  現に水原は、シンデレラボーイの位置を確保するために瑞枝を殺そうとした。  ここに瑞枝の死体が転がって、犯人として最も疑われる位置にいるのは水原である。  一度殺意を抱いて殺そうとしたが、いまは気が変わって仲良くつき合っているなどという弁明を、警察が信じるはずがない。  幸いにも水原と瑞枝の関係は極秘に付されていたので、だれも知らない。  今夜、水原が瑞枝の家に招かれたことも知る者はいないはずである。  瑞枝は二人だけで誕生日を祝いたいと言っていた。瑞枝が二人だけの誕生日に水原を招いた事実をだれにも話すはずがない。  瑞枝の部屋に入ったところをだれにも見られていない。  したがって、だれにも見とがめられずこの部屋から脱出できれば、今夜、彼がこの場所へ来た事実はわからないはずである。  それ以外にない。  水原は自衛本能によって素早く立ち直り、自分の採るべき行動を判断した。  瑞枝には気の毒であるが、いまさら発見が多少遅れてもどうということはあるまい。  すでに医薬の及ぶ範囲から離れて、警察の手に引き渡す段階に入っている。  引き渡しの時間が多少速くても、奪われた瑞枝の生命は戻ってくるわけではない。  自分に都合のよい解釈を施した水原は、現場に遺留品のないのを確かめた上で、廊下の気配をうかがった。  マンションは寝静まっている。  この瞬間、水原は最大の危険を冒すことになるが、避けられない危険である。  水原は気配のないのを確かめた上で、廊下へ出た。  階段を駆け降り、マンションの外へ出る。幸いだれにも出会わなかった。  ようやく安全圏に達して、ほっと息をついた。  現場からだいぶ離れた地点でタクシーを拾い、途中何度か車を乗り換えて、自宅へ帰り着いたときは、午前二時に近かった。  身体は綿のように疲れていたが、神経が異常に昂《たかぶ》っている。  白眼を剥《む》いて睨んでいた瑞枝の目が、水原の瞼《まぶた》に焼きついている。  大変なことになった。  一度は自分が殺そうとした女が、何者かに殺されてしまった。  ふと気がつくと、全身汗まみれになっている。冷や汗である。  シャワーを使って汗を洗い流すと、いくらか落ち着いた。  一体だれがなぜ瑞枝を殺したのか。  夜間、若い女がその住居に迎え入れているところから、犯人は彼女と親しい人間にちがいない。  水原を自宅に招いていながら引き入れたのであるから、犯人は彼女と性的な関係にはないのかもしれない。  とすると、女ということも考えられる。女でも充分可能な犯行である。  同性ならば、深夜、自宅に迎え入れても不思議はない。  次第に落ち着きを取り戻した水原は、この状況が図らずも自分が望んでいたものであったことに気がついた。  つまり、水原の将来を閉塞《へいそく》する障害物が、自分は一指も下さずに取り除かれてしまったのである。  だれがしてくれたのか知らないが、水原がしようとしてできなかったことを、犯人が代行してくれたようなものである。  これは犯人に感謝しなければならないかもしれないなと、水原はおもい直した。  瑞枝との間に、一時、休戦状態が成立したとはいっても、いつ戦闘が再開されるかもしれない危険な敵であったことには変わりない。  その敵の脅威が突然、消えてしまったのである。  これは水原にとって喜ぶべきことではないか。  そうおもったとき、水原は引きずり込まれるような睡魔に襲われた。      3  貝塚瑞枝の死体は、六月二十六日午後五時ごろ、友人の水木重代《みなきしげよ》によって発見された。  水木は当日、瑞枝と映画を観《み》に行く約束をしていて、瑞枝を迎えに来て、彼女の死体と遭遇したのである。  一一〇番経由の通報を受けた新宿署の牛尾《うしお》や青柳《あおやぎ》は、署から目と鼻の先の犯行現場に急行した。  牛尾らが駆けつけたときは、すでに新宿署のパトカーが先着していて、現場保存にあたっていた。  現場は北新宿四丁目、超高層ビルの麓《ふもと》に当たり、最近、地上げ屋の徘徊《はいかい》によって空き地の目立つ副都心の一隅である。  約束の時間に瑞枝を迎えに来た水木重代はいくらチャイムを押しても応答しないので、不審におもってドアを引いた。施錠されていなかったので、心安だてに室内に入り、瑞枝の死体を発見したというものである。  死体は明らかに他殺の状況を呈していた。  直ちに捜査一課に第一報が飛んだ。  間もなく捜査一課のメンバーが臨場して来た。  牛尾はその中に顔馴染《かおなじみ》を見いだした。 「やあ、棟居さん、またご一緒になりましたな」  牛尾が捜査一課の若い刑事に声をかけた。 「またお世話になります」  棟居が謙虚に頭を下げた。  捜査一課が出張って来ると、捜査のイニシアチブは彼らが握る。美味《おい》しいところは皆、捜査一課に持って行かれてしまう。  だが、地元と密着している管轄署員の協力がないことには、捜査は進展しない。  以前、管轄署の捜査員から捜査一課にスカウトされた棟居は、地元刑事の苦労をよく知っている。  これまでの捜査で何度か顔を合わせているので、たがいに気心もよく知り合っている。 「またよろしくお願いします」 「こちらこそよろしく」  久闊《きゆうかつ》を叙する挨拶《あいさつ》もそこそこに、さっそく死体発見の経緯と初期捜査のあらましが情報交換される。  被害者は腰紐を頸部に一周され、前面|喉頭《こうとう》軟骨(喉仏《のどぼとけ》)の付近で交差され、強く絞められている。  顔面は暗紫色に脹れ上がり、目には出血が認められる。  室内には争った形跡や物色した模様は認められない。  衣類は乱れておらず、生前の情交、暴行、死後の凌辱《りようじよく》の痕跡《こんせき》もない。  検視の第一所見によると、死亡推定時間は昨夜午後十時ごろから今朝未明にかけてと推測された。  被害者は貝塚瑞枝、二十六歳、銀座六丁目のクラブ「アフロディーティ」のホステスである。 「誕生日だったようですね」  棟居は死体が横たわっていた六畳の洋室のテーブルに置かれたバースデーケーキを見て言った。  テーブルの上には二十六本の蝋燭を立てたバースデーケーキを囲むようにワインのボトル、グラス、二人分の皿や食器がセットされている。  蝋燭に囲まれた形で、青い糖衣で覆った円筒型のスポンジケーキの上には、チョコレートで作った鳥居が立っている。  鳥居がなにを意味するのかわからないが、面白い趣向のバースデーケーキである。  食器は汚れておらず、スープ、魚、肉、野菜等の食物はすでに調理されて、温めればすぐ出せるように隣室のキッチンテーブルに置かれている。 「自宅でだれかと二十六歳の誕生日を祝うつもりだったようです。料理には全然手をつけていない。その前に殺されてしまったんだな」  牛尾が痛ましげに眉《まゆ》を曇らせた。 「死亡推定時刻は午後十時ごろからということですが、それまで誕生日の料理に手をつけなかったということは、パートナーが十時以前には来ていないということでしょうね」  棟居が推測を口にした。 「パートナーを待っている間に犯人が現われて殺されたか、あるいはパートナーが……」  青柳が語尾を喉に呑《の》んで、一同の顔を見まわした。  バースデーディナーのパートナーが犯人? とおおかたの者が見ている。  若い女が夜遅く自宅に引き入れる人間は、相当親しい間柄の者と推測される。  自宅で二人だけでバースデーディナーを共にしようという人間は、被害者と最も親密な関係にあった者であろう。  被害者はパートナーに対してまったく無防備であった。  その虚を衝《つ》いてパートナーが牙《きば》を剥き出せば、犯行はいとも容易であったであろう。  被害者と現場に抵抗した痕跡がなかったところを見ても、被害者の油断が感じられる。  死体を発見した水木重代は、被害者の勤め先の同僚である。 「あなたは貝塚さんと一緒に映画を観に行く約束をしていて、迎えに来て、変わり果てた貝塚さんを発見したということですが、貝塚さんが昨夜、誕生日であったことはご存じですか」  牛尾刑事は水木に問うた。 「知っていました」 「貝塚さんは昨夜、誕生日をだれかと一緒に過ごすつもりだったようですが、彼女の誕生日のパートナーについて心当たりはありませんか」 「瑞枝さんとは親しくしていましたが、プライベートなことはほとんどしゃべりませんでした。  こういう仕事をしていますので、たがいに個人的なことは詮索《せんさく》し合わないようにしています」 「誕生日を一緒に過ごすような人がいれば、映画もその人と一緒に行くのではありませんか」 「瑞枝さんは、映画は一人で観るのが好きだと言っていました。せっかく一緒に行っても、映画の世界に入り込んで、どうせ一人一人の心の中に閉じこもってしまうのだから、一人で観る方がいいと言っていました」 「それなのに、なぜあなたと一緒に行く約束をしたのですか」 「痴漢よけです」 「痴漢よけ?」 「一人で映画を観ていると、痴漢にからまれるのです。映画は観たいけれど、痴漢は嫌というので、映画の好きな私たちが誘い合わせて一緒に観るようになったのです」 「痴漢よけなら、誕生パーティのパートナーの方がいいのではありませんか」 「瑞枝さん、パートナーをそんなことに使ってはもったいないとおもったんでしょう」  朋輩の水木重代も、貝塚瑞枝の誕生祝いのパートナーについては心当たりはなかった。  被害者の遺体は解剖に付された。  その結果、死亡推定時間は六月二十五日午後十時から翌朝未明午前一時ごろにかけて。死因は索条(紐)を頸部に一周して強く絞め、気道閉塞による窒息、妊娠五カ月、生前、死後の情交、姦淫《かんいん》の痕跡認められず、薬毒物の服用認められず、というものであった。  死体および現場の検索によって、犯人に結びつくような手がかりおよび遺留品は発見されなかった。  六月二十六日、所轄の新宿署に捜査本部が開設され、  ㈰被害者の生前の交遊関係。  ㈪現場周辺の聞き込み捜査。  ㈫被害者の勤め先「アフロディーティ」の捜査、および同店における被害者の指名客の捜査。  ㈬被害者の遺品捜査、特にメモ、アルバム、日記、郵便物等の捜査。  が当初の捜査方針として決定された。      4  貝塚瑞枝は水戸市出身、地元の高校を卒業後、歌手を志望して上京したが、ものにならず都内の零細会社にいったん入社した。半年後同社を退社し、銀座のクラブに転向、以後数店を転々として、一昨年九月、生前の勤め先アフロディーティに入った。  都会的な美貌《びぼう》と成熟した色気で、たちまち店のトップクラスにランクされた。  だが、アフロディーティを調べても、贔屓客《ひいききやく》は多かったが、特定の関係の客はいなかった模様である。  棟居と牛尾は被害者の遺品捜査を担当した。彼女の遺品の中に犯人の手がかりが潜んでいるかもしれない。  被害者は日記をつけていなかったが、郵便物、未整理の写真、大量の名刺が残されていた。  名刺は客からもらったものらしい。名刺の主には政治家、財界人、大学教授、弁護士、医者、有名芸能人や人気スポーツ選手などもいた。  これらの名刺の主も被害者の人脈として無視できない。 「おや」  棟居が声を発した。 「なにかありましたか」  牛尾が問いかけた。  棟居の手には被害者が生前、旅行先で買ったらしい絵葉書の束がある。 「ここに安芸の宮島の絵葉書があります」  棟居の指先が海面に立つ朱の大鳥居の絵葉書をつまみ出していた。  牛尾の目が、それがどうしたと問うている。 「バースデーケーキにチョコレートの鳥居が立っていたでしょう。もしかすると、あの鳥居は安芸の宮島を意味しているのかもしれませんね」 「そうだったか。チョコレートが立ったケーキは海面を表わしていたのかもしれませんね」  円筒型のケーキの周縁には二十六本の蝋燭が立ち、その中央にチョコレートでつくった鳥居が立っていた。  鳥居は青い糖衣で覆われたスポンジケーキの上に立てられていた。  言われてみれば、それはまさに青い海面に立つ宮島の朱の大鳥居を象《かたど》ったものであった。 「被害者にとって安芸の宮島は、なにか特別の想《おも》い出があるのかもしれません」 「なるほど。そして誕生日のパートナーがその想い出を共有していたのかもしれませんね」  牛尾が棟居の推理を補足して、 「それにしても、ちょっと解せないところがありますね」  と小首をかしげた。 「なにが解せないのですか」 「犯人が被害者と安芸の宮島の追憶を共有しているのであれば、犯行後、ケーキに立てた鳥居あるいはケーキそのものを放置しておかないはずですが」 「犯人が気がつかなかったのかもしれません。私も最初は、なにが立ててあるのかとおもったくらいですから」 「それはあり得ますね。犯人にしてみれば、指紋や遺留品を消去するのが精一杯だったでしょう。被害者がまさかバースデーケーキに犯人との想い出をこめていたなどとは夢にもおもわなかったのでしょうね。  この絵葉書を見る限り、六枚ワンセットで、一枚も消費されていません。絵葉書は買って間もないように紙質が新しい。宮島へ行ったのはそれほど以前のことではなさそうです」 「被害者の勤め先に、最近、休暇を取っていないか問い合わせてみましょう」  二人は気負い立った。  被害者がバースデーケーキを依頼したベイカリーに照会したところ、注文時に鳥居の理由についてはなにも言わなかったということである。被害者がパートナーと共に安芸の宮島へ行っていれば、休暇を取った可能性がある。  同行者としてまず考えられるのは、胎児の父親である。  土日を利用して行けば休暇を取る必要はないが、店の者に土産《みやげ》を買って来たかもしれない。  二人はさっそくアフロディーティに問い合わせた。  すぐに反応があった。  五月の下旬、貝塚瑞枝が宮島名物のもみじ饅頭《まんじゆう》を店の朋輩に配ったということである。  水木重代はもみじ饅頭のほかに、厳島《いつくしま》神社のお守をもらっていた。 「だれと行ったかは聞かなかったけど、一人で行くはずないわよ。よほど嬉《うれ》しかったとみえて、店にまでお土産を買って来たのよ。それまでそういうことはしたことがなかったわ」  と重代は証言した。  瑞枝が店にもみじ饅頭を持って来たのは五月下旬の火曜日だったという。  その前の週の金曜日から休んでいたので、土日を入れて三、四泊の旅行に出かけたらしい。  そのうちの一泊は宮島近辺の宿を取った可能性が高い。  その宿が割り出せれば、彼女の同行者がわかる。      5  貝塚瑞枝が殺された数日の間は、生きた心地がしなかった。  いつ、刑事の足音が背後に聞こえてくるかと、街を歩いているときは何度となく後ろを振り返った。家にいる間は、ノックの音にどきりとした。  相川真美との縁談の障害を取り除かれて、むしろ犯人に感謝すべきであるとおもい直したのも束の間、自分の追い込まれた立場の重大さに、水原は押しつぶされそうであった。  宮島旅行の後、開き直ってからは、瑞枝との関係を表沙汰《おもてざた》にもしないが、特に隠し立てもしなかった。  その間、彼女と一緒にいる場面をだれかに見られているかもしれない。  むしろ瑞枝自身が店での立場もあって、二人の関係を隠していた。  だが女が殺されて、その異性関係を探るのは捜査の常道である。警察の捜査網から逃れられようとはおもえない。  救いは、水原の指令もあって、瑞枝が複数の男と関係を持っていたことである。  彼らが水原のカモフラージュになってくれるかもしれない。  とにかく水原は瑞枝を殺していない。一度は殺そうとおもったが、手を下していない。殺意は宮島旅行の際、消えてしまった。  彼の以前の殺意をだれが代行したのか。  瑞枝に対する殺意はなくなったものの、彼女の脅威は消えたわけではなかった。  変わったのは水原の心境だけである。したがって、瑞枝が殺されたことは、水原にとって喜ぶべきことである。一時はそうおもった。  だが、それは犯人が責任を取ってくれた場合のみである。  犯人が瑞枝を殺したのは、犯人の勝手というべきであろう。  だが、その責任が転嫁されるのは水原である。  もしかしたら……水原は凝然となった。恐ろしい可能性に気がついたのである。  もしかしたら犯人は水原と瑞枝の関係を知っていて、彼の彼女に対する殺意を察知して、瑞枝を殺したのではあるまいか。  これは犯人が水原に対してしかけた罠《わな》かもしれない。  犯人はあの夜、水原が瑞枝から誕生日の夕食に招かれていた事実を知っていた。そして、水原が来る直前に瑞枝を殺害した。  犯人は瑞枝の死体に遭遇して動転している水原の姿を、どこからか凝《じ》っと観察していたのではあるまいか。  だが、犯人が水原を罠にかけた獲物としているのであれば、警察に密告するはずである。それをした気配はない。  それとも事件の捜査の行方と水原の動向をじっくりと見つめながら、網をじりじりと引き絞っているのであろうか。  事件当夜、犯人も大きな危険を冒していることになる。  犯人は水原が瑞枝の家に行く前に犯行を完了し、現場から逃げていなければ、水原と鉢合わせをする危険がある。  また水原が犯行予定時刻よりも少し早めに行けば、犯行は不能となるだろう。  現場の状況と解剖の結果によって、犯人が水原の現場到着直前に瑞枝を殺したことは明らかである。  だが当夜、水原が瑞枝の家へ行く時間は彼自身にもわからなかった。  当初の予定では二次会の後、駆けつけるつもりであったので、もっと早く行けるはずであった。  それが三次会まで引っ張られ、結局、あの時間となってしまったのである。  もし二次会が終わった後に直行すれば、瑞枝は殺されずにすんだ。  やはり犯人がしかけた罠ではあるまい。犯人は水原が来ることを知らずに瑞枝を殺した。  犯人が水原の訪問予定を知ったとすれば、テーブルにセットされた二人分のバースデーディナーを見たときである。それが犯人の犯行を早めたのかもしれない。  それにしても当夜、もう少し早く行ってやれば、瑞枝の命を救えたはずである。  犯人に感謝しようとした意識の底に、失《う》せたはずの殺意が潜在的に残っていて、当夜の訪問を遅らせたのであろうか。  瑞枝が殺されてから犯人の罠を疑い、自分の心を分析し、捜査の行方に怯えて、水原は戦々恐々として過ごした。  七月に入って、勤め先に二人の男が水原を訪ねて来た。  受付から未知の訪問者を取り次がれた水原は、不吉な予感が胸を走った。  ロビーフロアの応接室に下りて行くと、二人の男が待っていた。  一人は年配で、もう一人は若い。  年配の男は穏やかな風貌《ふうぼう》で、人当たりが柔らかい。  若い方、といっても三十前後らしい。一見、平凡なサラリーマン体であるが、切れ味の鋭い名刀を、ありふれたこしらえの鞘《さや》におさめたといった感じである。  二人は、年配の男が新宿署の牛尾、若い方が捜査一課の棟居と名乗った。  水原の不吉な予感が的中した。ついに刑事が追いついて来た。 「お忙しいところを突然お邪魔して申し訳ありません」  牛尾と名乗った年配刑事が穏やかな口調で切り出した。  穏やかではあるが、その底に秘められた意図が不気味である。 「どんなことでしょうか」  水原はそれとなく周囲を探った。幸いに中途半端な時間帯なので、社員の影は見えない。 「貝塚瑞枝さんをご存じですね」  二人の刑事は質問の第一矢の効果を確かめるように、水原の面を注目した。  水原は意志の力で努めて平静を装いながら、 「銀座のクラブ・アフロディーティのホステスでしょう。時どき接待で利用していますが、この度はお気の毒なことでしたね」  客とホステスとしての関係は秘匿する必要がない。 「事件をご存じでしたか」 「テレビや新聞でかなり派手《はで》に報道していましたから」 「実はその事件の捜査で、被害者と多少とも関《かか》わりのあった方から事情を聴いているのです」 「アフロディーティは接待で時どき利用しましたが、ぼくらはいつも末席で、彼女とあまり口をきいたことはありませんがね」  それは事実である。店では努めて他人行儀を装っていた。 「五月下旬、貝塚さんと一緒に宮島へ旅行したことはありませんか」  牛尾が突然、核心に切り込んできた。水原は顔面が強張《こわば》りかけるのを必死に抑えた。  落ち着け。これははったりにちがいない。宮島へ一緒に旅行した痕跡はなにも残していないはずだ。  水原は自分に言い聞かせた。 「いいえ。アフロディーティのナンバーワンと一緒に旅行できるような身分になりたいとはおもっていますが、私などお呼びではありませんよ」  水原は必死に躱《かわ》した。だが、必死であることを悟られてはならない。 「そうですか。貝塚さんが自宅で殺害された当夜、現場にバースデーケーキと二人前の料理が用意してありました。あなたは貝塚さんから当夜、誕生日の食事に招かれていませんでしたか」 「どうして私が招かれるのですか。彼女とは社用の接待で、彼女の店を利用していただけという関係ですよ」  水原は少し語気を強めた。疑われるのは心外であるという姿勢を見せなければならない。  そして事実、水原は瑞枝の死に対しては無実なのである。 「実はですね、バースデーケーキに宮島の朱の大鳥居を模したチョコレートが立ててあったのです。ケーキに青い糖衣をかけて海に見立て、ケーキ自体が安芸の宮島のミニチュアになっているのですな。貝塚さんと誕生日を一緒に祝うはずであったパートナーは、宮島に共通の想い出があったのかもしれません。貝塚さんの遺品の中には、真新しい宮島の絵葉書がワンセットありました」 「そ、そのことが私になんの関係があるのですか。ぼくは彼女と宮島なんかへ行っていませんよ」  不覚にも言葉が少し震えた。 「それならばけっこうですが、貝塚さんは五月下旬の火曜日、お店に出勤すると、宮島の名物であるもみじ饅頭を配っていました。その店に確かめたところ、貝塚さんには男の同行者がいたことがわかったのです」  水原はじりじりと追いつめられてくる気配を悟った。  だが、男の同行者がいたというだけで、水原であることの証拠はなにも残していないはずである。 「彼女がその店でもみじ饅頭を買ったとき、同行の男が店の従業員に、近くの旅館の名を聞いたそうです」  牛尾の言葉を聞いている間に、水原は顔面から血が引いていくのがわかった。  そういえば弥山《みせん》から下りて来て入った土産物屋で、旅館の所在地を聞いた。  あのとき、下りのゴンドラに瑞枝の知人らしい男と乗り合わせて殺意を失ってしまったために、それまで努めて人目に立たぬようにしていた警戒の構えを、一挙に解いてしまったのである。  だが、まだあきらめるのは早い。旅館の所在地を聞いた男が水原であるという証拠はどこにもないのだ。 「その旅館に問い合わせましたところ、貝塚さんの同行者が部屋から東京へ電話を一本かけているのです。その電話番号が記録されていましたよ」  牛尾の顔がにやりと笑ったように見えた。  棟居がかたわらから、水原のどのような動きにも対応できるような姿勢をしているのがわかった。 「貝塚さんの同行者が電話をかけた先は、水原さん、あなたの会社でしたよ。貝塚さんの勤めていた店は会社が接待に利用しているのですから、あなた以外にも貝塚さんの同行者は考えられます。また必ずしもあなたの会社の社員とは限らない。  旅館と土産物屋の従業員の印象を総合して、同行者の特徴や年齢から、あなたが最も可能性が大きいと判断して、社内報に載っていたあなたの写真を宮島の旅館と土産物屋に送ったのです。どちらの従業員も貝塚さんの同行者はあなただと証言しました」  水原は牛尾の後半の言葉をほとんど聞いていなかった。 [#改ページ]   悦楽の玄関番      1  玄関先に黒塗りのハイヤーが停《と》まった。間髪をいれず、玄関口の下駄箱《げたばこ》の前から飛び出した小坂邦雄は、ハイヤーの後部ドアを開いて、 「いらっしゃいませ」  と深々と頭を下げた。  ハイヤーの中から、今夜の最初の客がおもむろにうなずいて降り立った。  客の顔を見て名前を聞くまでもなく、その素性と案内する部屋を察知している。  内庭の敷石を先に立って案内し、玄関の上がり口に正座して待機している仲居たちに、 「山川副頭取様、ご到着です」  と引き継ぐ。  仲居たちが一斉に頭を下げる。  仲居に客を引き継いだ小坂は、急いで玄関先に停まっている車へ引き返し、運転手にお支度(チップ包み)を手渡し、 「お待ちですか、お迎えですか」  と問う。 「ホテルニューオータニの駐車場で待っています」  運転手が答えた。  お支度を受け取った車は、黒塗りの車体を路地の奥の闇《やみ》の中に消した。  午後六時を過ぎると、千代田区|紀尾井《きおい》町の料亭「田毎《たごと》」の客の入れ込みは本格的になる。  玄関前に黒塗りのハイヤーが次々に到着して、政・官・財界の大立者が次々に降り立って来る。  四時ごろから、玄関に待機していた小坂邦雄は、到着する客の案内でにわかに忙しくなる。  午後六時、開発銀行の接待客が到着したのを皮切りに、大蔵省主計局長、総合農政調査会長、食糧庁長官、建設政務次官などが相次いで到着する。  玄関番の小坂は予約に従って、これらの客を手際よく玄関に案内し、玄関上がり口に正座して待機している仲居に引き継ぐのが仕事である。  玄関番がもたもたしていると、玄関口で客同士が鉢合わせをしたり、客名をまちがえ、べつの部屋へ案内したりしてしまう。  車から玄関上がり口まで客を案内するのが玄関番の最大の仕事であるが、客の顔をおぼえ、その素性、人数、部屋などを把握しておかなければならない。  料亭に歩いて来る客はまずない。客と車をワンセットと考えなければならない。  到着した客が帰るとき、車はどうなっているのか。帰るまで待っているのか。待つとすればどこで? ふたたび迎えに来るのか、あるいは新たに呼ぶのか。客と車を結びつけて、頭の中にインプットしておかなければならない。  午後九時ごろから帰り客のラッシュになるので、玄関前の停車順が玄関番の悩みの種であり、腕の見せ場でもある。  この界隈《かいわい》に高級料亭が軒を連ねているので、犇《ひし》めく迎車の中から客を待たせることなく、各車を誘導するのが玄関番の腕である。  玄関番の要領が悪いと、雨の中、超VIPをはるか離れた車まで歩かせる羽目になってしまう。  重要な接待客が玄関番の不手際によって、せっかくの接待が画竜点睛《がりようてんせい》を欠くような結果になりかねない。  田毎の玄関は、有名な政治料亭としては意外なほど素気《そつけ》ない。  一方通行の路地に面して、間口一間の素朴な冠木門《かぶきもん》がある。門柱に付けられた店名入りの小さな門灯が、店の所在を示しているだけである。  冠木門を潜《くぐ》り、切り石を敷きつめた石畳が数寄屋《すきや》風の玄関につづく。  内庭の計算された位置に灯の入った石灯籠《いしどうろう》がほんのりと前庭を照らしている。  二階建て純和風の建物は一見、素朴であるが、内部は複雑な間取りになっている。  一階、二階合わせて十六部屋は、玄関からそれぞれ専用の廊下によって結ばれている。二階に上がる階段は六つあって、客同士が鉢合わせをしないように設計されている。  内庭を隔てて渡り廊下で結ばれた離れの間は、「有明《ありあけ》」という正式の部屋名があるが、店のうちでは密《ひそ》かに「お楽しみの間」と呼ばれている。  料亭はホテルや旅館と異なり、風俗営業法の規制を受けて、出入口に施錠できない。  旅館、ホテルのようなプライバシーが保証された密室は提供できないことになるが、離れに二人だけで閉じこもれば、用があって人を呼ばない限りだれも近づかない。  馴染みの芸者や好きな女性と待ち合わせて、差しでしっぽりと楽しむことができる。  政府の高官や財界の大立者は性的なスキャンダルが命取りになる。  彼らの情事は安全性が絶対の要件となる。  その点、料亭は口が固い。パブリックなホテルのようにマスコミも入り込まない。安心して四畳半の差しを楽しむことができる。  離れの有明はいつの間にかVIP用のお楽しみの間となった。      2  料亭の利用客は、まず接待、これと並んで重要な政談や商談、つづいて親睦会《しんぼくかい》や密会が多い。  そこでは国政を左右するような重要な密談や、社運に関わる会談が行なわれる。  また密会や息抜きに来る客は、鎧《よろい》を脱いでほっと寛《くつろ》ぐ。  人間、裸になって無防備になると口が軽くなる。  料亭では呉越同舟、壁を隔てて彼我のトップシークレットがささやき交わされる。  料亭で働く者に要求されることは、口の固さである。なにを見ても見ざる、聞いても聞かざる、言わざるである。  この信頼関係があるので、客は料亭で安心して口の閂《かんぬき》をはずすのである。  たとえなにもしゃべらなかったとしても、客にしてみれば、料亭を利用した事実も明らかにされたくない。  ましてや、料亭でだれと会ったか、どんな芸者を呼んだか、どの程度の頻度で料亭を利用したかなどということは極秘事項である。  料亭従業員は、目にし、耳にしたトップシークレットを黙秘することはもちろん、常連客や利用客の名前も口が裂けても洩《も》らしてはならない。  それが料亭従業員の仁義ともいえる。  料亭で働いていると、雲の上の人たちを目の前に見られるので、自分も雲の上に昇ったかのように錯覚しやすい。  だが、客との間には絶対に乗り越えられない透明な結界が張りめぐらされている。  それは単に社会的地位や名前や、経済力などの差ではない。  要するに、彼らは庶民とは縁のないべつの惑星の生物であった。  べつの惑星の生物が、この世界の一般庶民を支配しているのである。  同じ言葉を用い、姿形は相似ていても、決して相容《あいい》れることのない異種の生物であった。  彼らがどんなに親しげに、気安く声をかけてくれても、同じ星に住んでいる生物と勘ちがいしてはいけない。  彼らは権力や財力という羽衣《はごろも》をまとって、雲の上を舞っている。  料亭は彼らが束《つか》の間《ま》、羽衣をかけて休息する場所である。  そのことを小坂邦雄が「田毎」の玄関番に採用されたとき、女将《おかみ》からくどいほどおしえ込まれた。  女将は芸者上がりで、元大物財界人の愛人であったという。この世界の裏の裏まで知り尽くしていて、細かいことに気がつき、従業員にとっては怖い経営者である。  小坂が田毎で働くようになったのには、べつに深い理由はない。  以前は生命保険会社の外務員をしていたが、目標達成《ノルマ》に追いまくられるその月暮らしに見切りをつけてぶらぶらしていたとき、アルバイト雑誌の求人広告を見て飛び込んだのである。  料亭にはノルマはなかったが、人種差別が身に沁《し》みた。  差別とは、客と従業員のことではない。客は異種の生物で差別の対象にならない。  料亭では明らかに女尊男卑であった。料亭の主役は女性従業員で、男子従業員は脇役か黒衣《くろこ》である。  女将はオーナー経営者として別格であるが、料亭の主役はまず芸妓《げいぎ》、つづいて仲居で、男子従業員は最下位にくる。  食事は男女別室で摂《と》り、料亭の内風呂には男は決して入れない。男は外の公衆浴場を利用しなければならない。  すべての客を送り出し、後片づけが終わると、たいてい午前一時過ぎになってしまい、公衆浴場もしまってしまう。  急いで駆けつければ間に合う時間でも、一日の疲労に圧倒されて億劫《おつくう》になってしまう。  ある夜、相模中央電鉄の予約が藤の間に入っていた。  藤の間は田毎で最も広い、最上等の部屋である。外国要人の接待や、多人数の会合に使われる。  今夜は相模中央電鉄の要人接待らしく、芸者やお囃子《はやし》も大勢入る。  午後六時、黒塗りのハイヤーが玄関前に横づけになって、今宵《こよい》の客が降り立って来た。  小坂の出番である。車が到着すると同時に飛んで行って、ドアを恭しく開く。  客に直接、名前を聞くのは失礼である。顔見知りの客であればよいが、初めての客は運転手から名前を確認する。  ドアを開くのと、運転手に客の名を確かめる|兼ね合い《タイミング》が難しい。  相模中央電鉄は、以前何度か田毎を利用したことがあるが、今宵の客は初めての顔である。  車から降りた客を玄関に案内して、上がり口に待機している仲居に引き継ぐ。 「おい、おまえ小坂じゃないか」  玄関口でいきなり客から声をかけられた。  小坂はぎょっとして客の顔を見つめ直したが、知らない顔である。  小坂と同年輩の筋肉質の、スポーツで鍛えたような引き締まった身体《からだ》をしている。  小坂が記憶を探っていると、 「おれだ、おれだよ。中学で同級の相川だ」  客が顎《あご》をしゃくった。 「相川……裕一さん」  小坂はようやくおもいだした。  成長して様子が変わっているが、中学時代のボスであった相川裕一である。  彼のいじめにあって、郷里の神社の鳥居の前に坐らされた屈辱体験がよみがえった。 「おまえ、こんなところにいたのか。相変わらず冴《さ》えねえ恰好《かつこう》をしてやがるな」  相川が、田毎の名入りの法被《はつぴ》を着た小坂を蔑《さげす》むように見ながら、唇の端を少し曲げるようにして笑った。 「いらっしゃいませ」  小坂は卑屈に頭を下げた。それ以外の言葉が出なかった。 「奇《く》しき再会ってところだ。これからも時どき来るから、よろしく頼むぜ」  相川は鷹揚《おうよう》にうなずくと、玄関に入った。  仲居に案内されて廊下を少し歩き始めたところで引き返して来て、 「おい、小坂、これで飯でも食え」  財布から二、三枚の一万円札を抜き取ると、小坂の前にひらひらと落とした。  小坂の面におもわずかっと血が上った。  相川は小坂の一の鳥居の屈辱をおぼえていて、それを再現しているのである。  その日をきっかけに、相川裕一はちょくちょく田毎に姿を現わすようになった。  運転手からそれとなく聞いたところによると、相川はこれまで相模中央電鉄グループの会社の重役を務めていたが、この度、本社の社長室長となったそうである。  社長は裕一の父親相川愛一郎である。相模中央電鉄グループの総帥相川章一郎の嫡流家の御曹司《おんぞうし》として、本社機構の中枢に据えられたのである。  大学を出て四年、二十六歳の若さで日本の財界の一方の勢力であるグループのプリンスとして、裕一は意気軒昂《いきけんこう》として肩で風を切って歩いていた。  彼は田毎に来るつど、玄関まで案内した小坂に、玄関式台に立って二、三枚の一万円札を投げあたえた。  ひらひらと舞い落ちる一万円札の前で、小坂が凝然としていると、 「拾え。遠慮することはない。拾うんだ」  と顎をしゃくった。  小坂が屈辱に堪えながら一万円札を拾い集めるのを気持ちよさそうに眺めて、廊下を奥へ向かう。  事情を知らない仲居たちは、 「相川様の御曹司に目をかけられるなんて、凄《すご》いわね。羨《うらや》ましいわ」  と単純に羨んだ。  いくら気前のよい客でも、一回の心づけに二、三万円もくれる客はいない。  その意味ではよい客であったが、心づけの祝儀の大きさが小坂の屈辱の深さであった。  相川裕一は田毎が気に入ったらしい。  来始めたころは藤の間や鳳凰《ほうおう》の間に取り巻きを連れて来て陽気に騒いでいたが、そのうちに有明の間の常連になった。  二十二、三のホステス風の艶《つや》っぽい女を同伴して来る。一緒に来ることもあれば、別々にやって来て、有明の間で落ち合うこともある。  その女と逢うときは、たいてい午後九時ごろ来て、二時間ほど過ごした後、別々の車で帰って行く。      3  水原智彦の六月二十五日当夜のアリバイは曖昧《あいまい》であった。  犯行当夜、彼は大学の同窓会に三次会まで出席していたと主張し、その裏づけは取れたが、三次会以後のアリバイがない。  三次会が終わったのが午前零時ごろ、会場から北新宿の被害者の住所まで、犯行推定時間帯に充分駆けつけられる。  そこを追及されて、水原はついに当夜、貝塚瑞枝の家へ行った事実を自供した。  被害者とは数年来、密かな関係を結んでいて、宮島旅行にも同行した。  当夜、被害者から家に招かれていて、三次会の後訪れたところ、すでに被害者は何者かに殺害されていたというのである。 「そんな言い抜けが通るとおもうのかね。貝塚さんが殺されているのを発見したのなら、なぜその場から警察に通報しなかったのかね」  牛尾に追及されて、水原は、 「本当なんです。私は殺《や》ってない。私には現在、有利な縁談が進行中で、邪魔になった貝塚さんを殺したと疑われるとおもって逃げ出してしまったのです」  と泣くように訴えた。  水原と、相模中央電鉄会長の孫娘との間に縁談が進んでいる事実は、すでに調べがついている。  水原の容疑は濃厚であった。捜査本部の大勢も水原をクロと見ている。  だが、牛尾と棟居が大勢意見に疑義をはさんでいた。 「もし水原が犯人であれば、犯人の手がかりとなるバースデーケーキを犯行後、なぜ放置したのか」  という疑問である。  現場検証時に抱いた疑問が、その後少しずつ凝固している。  犯行後の動転で、犯人が気がつかなかったのであろうと、これも検証時、棟居が推理したように、捜査本部の大勢意見も考えていた。  現に水原は現場へ行っていながら、自分を割り出す手がかりとなるバースデーケーキに手を出さなかった。  水原自身、バースデーケーキに気がつかなかったと供述しているのである。 「それだけではありません。水原は同窓会の三次会にまで出席しています。出席した同窓生に聞いたところ、水原は同窓会で楽しく盛り上がっていたそうです。これから殺しをしようと決意している人間が、そんなに楽しめるものでしょうか」  棟居が主張した。  棟居は水原の自供のウラを取っている間に、牛尾の意見に同調してきたのである。 「犯罪者が役者であることは珍しくない。水原は演技をしながら時間をつぶしていたのではないのか。彼にとって同窓会は深夜の犯行時刻を待つまでの恰好の時間つぶしだったのだろう」  那須班の山路《やまじ》刑事が言った。 「時間稼ぎであるとしても、解せない点があります。同窓会出席者に聞き合わせたところ、三次会が盛り上がって、朝まで飲み明かそうということになったとき、水原は女を待たせているからと言って帰ったそうです。  これから女を殺そうとしている人間が、同窓生にそんなことを言うでしょうか」 「その女は婚約者の意味だったんだろう」 「婚約者のことを、そのような言い方はしないとおもいます。同窓生も、婚約中なのにほかの女とデートかと冷やかしたところ、水原はあえて否定しなかったそうです。  会場からも一、二度電話している姿を同窓生に見られています。水原はその夜、貝塚瑞枝とデートの約束があったことを特に隠し立てしていなかったように見えます」  棟居は言い張った。 「水原が犯人としては、もう一つ解せないことがあります」  牛尾が発言した。視線が牛尾に集まった。 「同窓会出席者の証言によると、水原は料理にほとんど手をつけなかったそうです。同窓生が不思議におもって、腹具合でも悪いのかと尋ねると、会の後、食事の約束をしているのでと答えたそうです。水原は被害者とバースデーディナーを共にするつもりで、同窓会の料理に手を出さなかったのだとおもいます。これから殺そうとおもっている人物と食事を共にする気にはなれないはずです。  このことからも、水原を犯人とするには無理があるとおもいますが」  牛尾が棟居の掩護射撃をした。 「水原が食事の約束をした人物は、被害者とは確認されていない。仮に被害者であったとしても、食事を共にしながら隙《すき》を狙《ねら》うという手も考えられる。もし料理にまったく口をつけなければ、警戒されてしまうだろう。  水原が同窓会でほとんど料理に手をつけなかったのは、むしろ彼の容疑を深める状況である。これから初めて人を殺そうとしていた緊張で、食欲がなかったのかもしれない。あるいは被害者の家へ来てからけんかとなり、カッとなって衝動的に殺害した可能性も考えられる」  どちらも譲らなかった。  だが、棟居と牛尾は少数意見ながら、水原の容疑を確定するためのネックとなったことは事実である。 [#改ページ]   人脈の密室      1  相川裕一は女を同伴して来たときは、特に女の目の前で、これ見よがしに小坂に一万円札を、まるで犬に餌《えさ》でも投げあたえるようにあたえた。  屈辱というものは噛《か》みしめている間に、その味に次第に馴《な》れてくる。  初めのうちは悔やし涙を堪えて、裕一の投げあたえる一万円札を犬が餌をくわえ取るように拾い集めたものであるが、それも次第に気にならなくなってきた。  むしろ一万円札の枚数が多いのを喜ぶようになっている。小坂はいつの間にか、屈辱の味に飼い馴らされていた。  玄関番の給料はたかが知れている。客からの祝儀でようやく息をついているのが実態である。  一度に二、三万の祝儀は、投げ銭の屈辱さえ我慢すれば有り難いものであった。  旅回りの役者は、観客からおひねりを投げられる。おひねりだとおもえば腹も立たない。  だが、裕一に同伴した女性は、玄関の敷石に這《は》いつくばるようにして一万円札を拾い集める小坂に、同情の視線を向けた。  なんとなく小坂の心の痛みがわかるような目の色であった。  小坂が彼女のためにハイヤーを手配してやると、有り難うと言って、裕一にわからないようにそっと祝儀袋を渡してくれた。袋の中にはたいてい千円入っていた。  裕一の祝儀には比べるべくもないが、祝儀袋にそっと忍ばせた一枚の千円札に、彼女の実意がこめられているような気がした。  時には祝儀袋の中にビール券や、映画の切符が入っていることがあった。  彼女が気を遣ってくれていることがわかって、嬉《うれ》しかった。  小坂は彼女からもらった金は使わずに、祝儀袋と共に大切に保存しておいた。  半年ほど後、小坂は彼女の素性を偶然知った。  ある夜、小坂は女将から呼ばれた。 「小坂さん、悪いけれど、ちょっとお使いに行ってちょうだい」  女将は言った。玄関番は時どき客の用を頼まれる。 「はい、どちらへ」 「銀座六丁目のジュネスビルに『アフロディーティ』というクラブがあるの。そこに三稜建設の有吉専務さんがいらっしゃるから、書類を預かってきてほしいの。有吉専務はお客様を接待されていて、どうしても抜けられないそうなの。車で行ってちょうだい。お願いね」  女将は言った。  現在、田毎で三稜建設の会合が開かれている。その席上で、有吉専務の持っている書類が急に必要になったのであろう。  小坂は玄関番を帳場に委《ゆだ》ねて、銀座へ急いだ。  六丁目のジュネスビルはバービルで、二階から九階まで、ほとんどすべてバーやクラブが入居している。  細長いビルの壁面に連なっている店のネオンの中から、六階にアフロディーティの店名を探し出した小坂は、エレベーターを待った。  間もなく一基の搬器《ケージ》が下りて来た。  扉が開いて、数名の男女が搬器から降りて来た。 「いってらっしゃい」 「またいらしてね」  客をホステスが送って来たらしく、賑《にぎ》やかな嬌声《きようせい》を客の背にかけている。  その中の女性の一人と小坂の目が合った。 「あら」  彼女が反応した。小坂も彼女の顔に記憶があった。咄嗟《とつさ》になんと言ってよいかわからず、今晩はと挨拶《あいさつ》した。 「こんなところで出会うなんて、珍しいわね。どちらへ」  彼女は相川裕一が田毎に同伴してくる女性であった。今夜は田毎へ来るときとは異なって、しっとりした和服姿である。 「六階のアフロディーティという店です」 「あら、アフロディーティなら私の店よ。ご案内するわ」  彼女は客を送り出すと、搬器へ戻った。 「綾《あや》と申します。よろしく」  彼女は搬器の中で名乗った。 「あっ、申し遅れました。小坂と申します」  小坂も慌てて名乗り返した。 「お店にはなにかご用事ですか」  綾が控え目に問うた。  小坂の様子から、店へ遊びに来たのではないと見当をつけたらしい。  もっとも料亭の玄関番の遊べる場所でも時間帯でもない。 「三稜建設の有吉専務さんからお預かりするものがございまして」 「あら、アーさんなら私のお客様だわ。奇遇が重なるわね」  綾が笑った。  アフロディーティは六階の主要スペースを占め、繁盛している模様である。  客はいずれも金と栄養をたっぷり蓄えたような厚みのある人間ばかりである。侍《はべ》っている女たちも粒選《つぶよ》りで数も多い。  店内にグランドピアノがでんと置かれ、ピアニストが客のリクエストに応えて演奏している。  一見して小坂などの出入りできる店ではない。  眉が太く鼻筋の尖った男が口中になにかを噛みながら小坂の方へ目を向けた。彼が有吉であった。  有吉は如才ない笑顔を小坂に向けて、一杯飲んで行けと勧めた。 「仕事中でございますので」  小坂は辞退した。こんなところで飲んでも、酒の味はわからない。  それに田毎の奥座敷では、その書類の到来を待っているのである。 「それではよろしくお願いしますよ」  有吉は分厚い書類入りの封筒を小坂に託した。  有吉から書類を預かった小坂は、そそくさとアフロディーティから出た。  ドア口まで綾が送って来てくれて、 「今度はお客様としていらっしゃってください。あなたならサービスするわ」  と小坂の耳許《みみもと》にささやいた。      2  経理課長補佐丹沢山中射殺事件は迷宮入りの様相を濃くしていた。  上層部からの圧力をはね返して、厚木署の朝枝と松家は執拗《しつよう》に捜査をつづけていた。  だが、彼らの懸命な捜査にもかかわらず、年が代っても目ぼしいものは捜査線上に浮かび上がらなかった。  警察上層部からわざわざ「くれぐれも慎重に臨むように」という達しがあったことは、この事件の背景に政財界の複雑なからみ合いがあることが推測される。  朝枝と松家の二人は、被害者が持っていたはずの鞄《かばん》の行方にこだわっていた。  犯人の目的が鞄の中身にあったとしたら、犯人はその中身がなんであるか知っていた人間に限定される。  だが相模中央電鉄の関係者も、その鞄を被害者が送り届けるはずであった佐々木義久代議士と、その秘書梅田経世も鞄の存在を否定している。  鞄の中身を明らかにされると、彼らにとって都合が悪いのである。  朝枝と松家は被害者の遺族に何度か会った。  本宮は練馬の外れの小さな建売住宅に、妻と娘の三人で暮らしていた。  西武池袋線中村橋駅で降りて、十数分歩いた住宅地の中に本宮の家はあった。  怒濤《どとう》のような乱開発の中に、わずかに武蔵野《むさしの》の面影が風前の灯のように残っている地域である。  本宮が殺されて、半病人のように気落ちしてしまった妻女を、彼の一人娘が支えた。  本宮の娘桐子は二十三歳、昨年、大学を卒業して、現在、建設会社に勤めている。  突然、一家の主を襲った奇禍は、親子三人のささやかな家庭を悲嘆のどん底に叩《たた》き込んだ。それを健気《けなげ》に支えたのは桐子である。  事件後寝込んでしまった母親に代わって警察に応対し、葬儀を取り仕切ったのも彼女であった。  大学を卒業して、社会人一年生として人生で最も溌剌《はつらつ》としている時期に、突然父親を不法に奪われた衝撃と悲嘆によく堪えて、父亡き後の家を支え、傷心の母親を扶《たす》けている姿は、いじらしくも健気であった。  朝枝と松家は事件後、何度か本宮家を訪問して桐子とも顔馴染《かおなじみ》になっている。  本宮殺しの動機が、彼が相模中央電鉄から密かに運んで行った政界に対する闇献金とおおかた察しはついているが、個人的な動機も無視するわけにはいかない。  二人は本宮桐子に、父親がだれかから怨《うら》みを買うようなことはなかったかと問いただした。  母親は半ば植物人間のようになっていて、なにを聞いても要領を得ない。 「父に限って、他人様《ひとさま》から怨みを買うようなことはありませんでした。父に感謝しこそすれ、怨みを含むような人はいなかったとおもいます」  桐子は明快に断言した。  桐子の言葉を裏づけるように、公私共に本宮の評判は抜群によかった。  忠臣サラリーマンの典型のような人物で、会社の信頼も厚く、他人の面倒見がよく、部下からも慕われていた。  そこを見込まれて、闇献金の運び屋として白羽の矢を立てられたのであろう。  政界への闇献金は絶対に信頼のおける人物で、口の固い者でなければ務まらない。  運び屋の漏言《リーク》が政権の崩落にもつながることがある。  また運び屋が悪心を起こして闇献金を横領しても、それは裏帳簿の金なので、会社は訴えられない。  犯人はまさにその間隙《かんげき》を突いてきたのである。  本宮の家族を問いただしても、個人的な動機は浮かび上がらなかった。  やはり当初の狙《ねら》い通り、犯人の目的は本宮が携行していた(未確認)闇献金にあったようである。  殺人の動機が個人的ではないとしても、本宮が運んだ闇献金の存在を知っている者は限られてくる。  闇献金、いわゆる賄賂《わいろ》の送り手である相模中央電鉄関係も、またその受け取り手と目される佐々木義久周辺も固く黙して埒《らち》が明かないので、被害者の周辺から犯人にアプローチすべく、朝枝と松家は本宮家に足繁く通っていた。  本宮の遺品、メモ、アルバム、写真、郵便物の中に、犯人につづく手がかりが潜んでいるかもしれない。  桐子も積極的に協力してくれた。 「お父さんのメモにアフロディーティという文字がしばしば登場しますが」  本宮の手帳を仔細《しさい》に点検していた松家が気づいた。 「それは銀座のアフロディーティというクラブだとおもいます。  父はそのお店を会社の接待によく利用していたようです」 「接待ですか」  松家と朝枝の目が光った。  おそらくアフロディーティで佐々木代議士本人か、あるいはその秘書と会っていたのであろう。 「父はお酒が飲めないので、夜の接待を嫌っていました。でも、会社にとって大切な人の接待なので、おろそかにはできないと言っていました」 「接待の相手の名前を言いましたか」 「いいえ。その点は父は口が固く、仕事の内容についてはなにも言いませんでした」 「アフロディーティについては、どうしてご存じなのですか」 「アフロディーティからお中元やお歳暮が贈られてきたからです。母が聞いたら、会社の接待で利用しているだけだと言っていました」  アフロディーティを探れば、本宮が接触していた相手方がわかるかもしれない。  刑事の捜査の触手は、銀座のアフロディーティに伸びた。  彼らがアフロディーティを訪ねて行ったとき、たまたまそのドアが開いて、数人の男女が出て来た。  同じ階にあるよその店からの帰り客もあるとみえて、エレベーターホールが賑やかである。 「ここでいいよ。エレベーターに乗り切れない」  アフロディーティのドアから出てきた恰幅《かつぷく》のよい客がホステスたちに言った。 「アーさん、エレベーターと競走しましょうか」  派手なつくりの艶っぽい女が挑むように客に言った。 「無理するな。もっともママだったら負けるかもしれないがね」  アーさんと呼ばれた客がにやにやしながら答えた。大企業の幹部か、ゴルフ焼けした顔に人生を積極的に生きる者の自信が覗《のぞ》いている。 「アーさん、それどういう意味なのよ」  太めのママが問うた。 「階段を転がったらかなわない」 「言ったわね」  ママが客を打つ振りをして、周辺からわっと歓声があがった。  だが、アフロディーティの聞き込みでは目ぼしい成果はなかった。  ママ以下、従業員はあらかじめ言い含められていたとみえて口が固く、尋ねられた以上のことは答えない。  ようやく本宮が佐々木代議士の秘書梅田と会っていたことだけが確かめられた。  だが、梅田はすでに本宮の人脈に浮かび上がっている人物である。  消息通の話によると、政治家は人目に立つのを憚《はばか》り、料亭や待合の密室を好んで利用し、銀座のクラブは敬遠するそうであるが、アフロディーティは政財界のサロンとして政治家も出入りしているということである。 [#改ページ]   馴れた撒《ま》き餌《え》      1  五月の末、朝枝と松家は本宮家を訪問した。  これまでの捜査の中間報告と、その後なにか新しい資料は出てきていないか探るためである。  桐子は度重《たびかさ》なる彼らの訪問を嬉《うれ》しげに迎えてくれた。  彼らが訪問してくれる間は、父を殺した犯人の捜査がつづけられている証拠である。  だが、二人を喜ばすような資料は見つかっていない。  上層部からの圧力もあって、いまや捜査本部は息も絶え絶えである。このままいけば、事件未解決のままの解散は時間の問題であった。  本宮家にも刑事を喜ばせる新たな資料は出ていないが、刑事もその後、捜査になんの進展もなく、被害者の遺族に対して面目ないおもいであった。  最近は本宮の妻女もようやくいくらか気を取り直したとみえて、二人のために茶を出したり、菓子を勧めたりしてくれた。 「奥さん、どうぞおかまいなく」  二人は歓待されるのが心苦しい。  夫を失い、父を奪われた寂しい遺族のために、なによりの土産《みやげ》となるものは捜査の進展であるが、捜査は壁に打ち当たったままである。  犯人を逮捕しても被害者の生命が戻るわけではないが、犯人を挙げない限り、被害者の霊は浮かばれまい。  二人が本宮家の遺族に暇《いとま》を告げたとき、朝枝の視線が仏壇に供えられていた写真に止まった。  雪をまぶした岩の山を背景にした桐子の登山姿である。 「山へ登られたのですか」  松家が問うた。 「穂高へ登って来たのです。父と登る約束をしていたのですが、あんなことになってしまったので、父の遺影を持って登ってきました」  そう言われてみれば彼女の顔が日焼けしている。  父親が元気であったなら一緒に登るはずであった山へ、父の遺影を抱いて登った娘の心情を察して、二人は顔を見合わせた。 「穂高へ、お一人で登られたのですか」  とすると、彼女自身、かなりの登山家である。 「はい。山は奥多摩のハイキングくらいしか行ったことがなく、それも父に連れられてでしたけれど。途中でベテランの方と一緒になって、山頂まで行くことができました」 「それはよかったですね」 「そのとき撮った写真があります。ご覧に入れましょうか」 「ええ、ぜひ」  松家の言葉に、桐子は真新しいアルバムを持って来た。  アルバムには最近整理したらしい十数枚の写真が貼ってある。おおかたは残雪をちりばめた山岳風景や、上高地から仰いだ穂高の写真であった。  その中に一枚、山荘らしい建物の前で一人の男の登山者と一緒に撮影したスナップがあった。 「おや、この人は」  松家がその写真に視線を固定すると、 「その方が途中で一緒になったベテランの方です。その方のおかげで山頂に立てました。私一人ではとても頂上まで行けませんでしたわ。山小屋の人にシャッターを押してもらったのです」  桐子が答えた。 「この人は、棟居刑事じゃないかな」  松家は、桐子と肩を並べて撮影されている被写体の顔に記憶があった。 「棟居さんだよ。あの人、登山もやるのか」  アルバムを覗き込んだ朝枝もうなずいた。 「ご存じの方だったのですか」  桐子が驚いた表情をした。 「警視庁捜査一課の棟居さんという人です。辣腕《らつわん》の刑事で、合同捜査事件で一緒になったことがありますよ」  松家が言った。 「たしかに棟居さんと自己紹介していました。刑事さんだったのですか。そんな様子は全然見えませんでした」 「奇遇ですね」  朝枝と松家も、桐子の穂高行に棟居が同行したと知って驚いている。 「棟居さんは自分の職業について、なにも言わなかったのですか」 「なにもおっしゃいませんでした。ただ、棟居と名乗っただけで。言葉の少ない方でしたわ」  桐子はそのとき、棟居と共に過ごした上高地の夜を想起した。  ホテルに空室が一室しかなく、棟居と同室する羽目になった。  もしかしたらなんらかの発展があるかもしれないと胸がざわめいたが、何事もなく清浄な夜が明けた。  ほっとすると同時に、なにか肩透かしを食わされたような朝の陽射しがやけに眩《まぶ》しかったのをおぼえている。  五月の穂高の一日を共有しただけで、たがいの素性も住所も告げ合うことなく、新宿駅の雑踏の中で別れたあの精悍《せいかん》な表情の山男が、なぜか彼女の印象に濃く刻み込まれている。  その残像は日数が経過するほどに色濃くなってくるようである。  人生の途上でふとすれちがっただけの縁もゆかりもない旅行者《エトランジエ》とおもうほどに、せめて住所でも聞いておけばよかったという想いが、未練の水脈《みお》となって尾を引きつづけている。  もう二度と会うこともあるまいとあきらめていたその人物の素性が、意外なところから割れた。  桐子は胸の奥にかすかなときめきのようなものをおぼえていた。  それを松家と朝枝に悟られまいとして精一杯抑えていた。      2  料亭の客は大別して遊興客と、政談、商用、会合、密議など仕事に利用する客に分かれる。  接待は招かれる側にとっては遊興の様相が濃く、招く側は仕事である。  仕事のカモフラージュの下に自己の遊興に使う社用、公用族も多い。  だが、いずれの利用目的にしても、身銭を切る客は少ない。  料亭の費用はほとんどが官庁、役所や会社払いである。  料亭の最大の顧客である政治家は、ほとんどが与党の先生方で、野党は料亭の少数派である。  官庁で多いのはエリート官庁の大蔵省をはじめ、花形官庁とされる建設省、農林水産省、通商産業省、これに運輸省がつづく。  彼らと共に族議員もやって来る。  政・官・財界のほかに、芸能界の人気者も時どきお忍びでやって来る。彼らの目的はほとんど密会である。  芸能人同士の忍び会いはホテルでは目立つので、最近とみに料亭を利用するようになった。  最近、田毎で増えたのはカラオケの客である。  以前は麻雀客が多かったが、カラオケブームを反映して、数人あるいは十数人のグループでやって来て、夜遅くまで歌いまくる。  カラオケ客は麻雀客と共にたいてい深夜まで居すわるので、従業員泣かせである。  カラオケ愛好客には代議士、秘書グループが多い。  秘書は代議士に仕えてストレスが溜《た》まっていて、時どき秘書仲間が集まっては発散するのである。  パーティ券の押し売り、陳情団の世話、支援者子弟の就職|斡旋《あつせん》、裏口入学、中元歳暮のリスト作り、陳情客や後援者の宿所の手配から女の世話まで、八面|六臂《ろつぴ》の活躍をして、主人に都合の悪いことがあれば、あれは秘書のやったことで関知しないと、トカゲの尻尾として切り捨てられる。  このような定めない身分だけに、秘書の連帯意識は強い。  特に派閥の秘書団の結束力は強く、なにかといえばまとまる。  彼らが時どき田毎へやって来て、カラオケ宴会を開く。  秘書団が最も好んで歌う歌は、「秘書エレジー」である。 「電話かけては宴会用意  車|揃《そろ》えてお迎え何時  ほっと一息つく暇もなく  どどっと舞い込む請求書  築地、赤坂聞こえはいいが  知っているのは女将《おかみ》の顔と  電話番号と道順ばかり  ほんに秘書さんつらいもの  パー券パー券と売りさばき  会社まわりが五万回  朝は陳情承り  昼は代理のスピーチで  夜はお酌の盃《さかずき》を  ついでまわって選挙のときは  先生よろしく頼みます  下げた頭が五万回  ほんに秘書さんつらいもの」  この「秘書エレジー」を、かつて特攻隊員が歌った「同期の桜」のように秘書団が肩を組み合い、夜更《よふ》けまで歌いまくる。  この秘書団宴会の費用はどこから支払われるのか、よくわからない。  料亭玄関番の体験を書いた『夜に蠢《うごめ》く政治家たち』(小高正志著「エール出版社」)によれば、 「いやなお客は総理秘書グループと外務省のお役人と相場は決まっている」  ということである。  料亭玄関番の体験を一冊の本にまとめた著者は、同書において、 ──総理秘書官のグループはよく遊びに来る。多いときは毎日、少ないときも週一度の割合である。どうしてこんなにお金があるのかと思う。乗ってきたハイヤーは「料亭の前に置かないでよそへ持って行ってくれ」と言うのが常。かなり気を遣っている様子だ── ──大蔵省のお客さんはしょっちゅう見えるせいか、専属の芸者さんがほぼ決まっているようである。大蔵グループで、俗に「大蔵番」と呼ばれる芸者衆である。メンバーは芸達者で、座持ちがよく、口が固く、いわば芸者仲間のエリートとでも言うべきか。このグループに入れることは、芸者衆にとって勲章をつけているようなものであり、座敷には事欠かない。それほど大蔵省のお座敷が多いということなのである。赤坂芸者二百名の憧《あこが》れの的であることは間違いない──  と料亭客の実態を暴露している。  同書には著者が玄関番を勤めた赤坂高級料亭の政・官・財界の大物や、有名芸能人などの利用客が実名でぞろぞろ登場してくる。料亭政治を裏づける貴重な民間資料の一つであろう。  料亭は口が固いと安んじて鎧を脱いだお偉方は、さぞびっくりしたことであろう。  六月中旬の夜、相川裕一がやって来た。また有明の間にアフロディーティの綾を呼んでいる。  玄関式台に立った裕一は、例のごとく小坂の前に二、三枚の一万円札を舞わせた後で、 「どうだ、玄関番なんか辞めて、おれの秘書にならないか」  と声をかけた。 「秘書に?」  顔を上げた小坂に、 「そうだよ。ちょうど鞄持ちが一人欲しいとおもっていたところだ。おまえ、ここでいくらもらってるんだ」  裕一が蔑んだような口調で問いかけた。  小坂が黙したままでいると、 「まあ、気が向いたら言ってきなよ。同級生の誼《よしみ》だ。少しは美味《おい》しい餌《えさ》を食わせてやるぜ」  裕一はにやりと笑って、小坂に背中を見せた。  小坂はうつむいたまま、たとえどんなにほどよく調味された餌であっても、裕一の餌は食わぬと、自分に言い聞かせた。  裕一が投げあたえる一万円札は、少し高額ではあるが祝儀である。  玄関番として客がくれる祝儀は、もらってもなんら恥ずべきことはない。  また玄関番が薄給であったとしても、市民権のある立派な仕事である。  裕一の専属鞄持ちとなって飼い殺しにされるよりは、はるかにましである。  小坂は庶民の位置と視座から、雲の上の生物の生態を眺められる料亭玄関番の仕事が気に入っていた。  裕一を仲居に引き継いで、彼が乗って来た車のところへ引き返すと、顔馴染の吉井運転手が、 「雇い主筋のことを悪く言いたくはないが、社長御曹司を鼻にかけて厭味《いやみ》な野郎だね」  とささやいた。  吉井とは気が合って、ときどき言葉を交わす。 「長いものには巻かれろと言いますからね」  小坂は苦笑しながら、吉井にお支度を渡そうとした。  お支度は料亭が立て替えて運転手に出す食事代である。 「ご好意は有り難いが、飯ぐらい自分の金で食べるよ」  と言って、吉井はお支度の袋を小坂の手に差し戻した。  普通、お支度はハイヤーの運転手には出さないが、常連客の専用車には出す。お支度はすべて玄関番の判断に委ねられている。  だが、吉井は小坂の好意を謝して、決してお支度を受け取らなかった。  悪達者な運転手の中には、お支度をもらった上でツケのきく店で食事を摂り、ツケを接待者にまわす者もいる。  小坂は吉井の毅然《きぜん》とした態度が好きであった。  彼も庶民の位置と視座から雲の上の生物に接している同志である。      3  六月下旬、小坂は意外な事件から、アフロディーティの綾の正体を知った。  料亭の仕事はおおむね夜に片寄っているので、いきおい従業員の朝も遅くなる。  それでものんびりと朝寝はできない。  午前十一時ごろまでには従業員が顔を揃え、掃除をして昼に朝食を摂る。世間の食事とは一食ずつずれている。  朝食の後、午後四時半までが休憩となる。この間に男の従業員は風呂や理髪へ行ったり、個人的な雑事を片づけたりする。  小坂は公衆浴場から帰ると、ゆっくりと新聞を読むのが日課である。  玄関番になってから、政治面や経済面は特に丹念に読むようになった。  政治、経済面を読んだ後、社会面に視線を移した小坂は、その一隅に見おぼえのある顔写真を見いだして目を剥《む》いた。  そこに知っている顔があった。  アフロディーティの綾の顔写真が社会面の一隅に載っている。 「マンションで銀座ホステス殺される」という見出しの文字が目に焼きついた。  小坂は愕然《がくぜん》として記事を読んだ。 ──二十六日午後五時ごろ、新宿区北新宿四丁目の「シルバニア北新宿」三〇五号室、貝塚瑞枝さん(二六)方で、貝塚さんが死んでいるのを、訪ねて来た友人の水木重代さん(二五)が見つけて、一一〇番した。新宿署が調べたところ、貝塚さんは腰紐《こしひも》を首に巻きつけられていて絞められていた。  新宿署は殺人事件と断定、警視庁捜査一課の応援を得て、同署内に捜査本部を設置して捜査を始めた。  司法解剖の結果、死因は頸部《けいぶ》を紐で絞められた窒息死で、犯行時間は二十五日午後十時ごろから二十六日未明にかけて。捜査本部は室内に争った跡や物色された様子がないところから、顔見知りの犯行の可能性が強いとみて、貝塚さんの交遊関係などを調べている。  なお、貝塚さんは銀座六丁目のクラブ「アフロディーティ」の人気ホステスで、交遊関係も広かったという──。  綾の本名が貝塚瑞枝ということを新聞記事で初めて知った。  記事を読み終わった小坂は、しばらく呆然《ぼうぜん》とした。  綾、いや貝塚瑞枝が殺された。数日前の夜、田毎の玄関で見かけた彼女が、すでにこの世の人間ではないことが信じられない。  最初は他人の空似ではないかとおもった。だが、新聞記事はアフロディーティの人気ホステスと伝えている。写真も彼女にまちがいない。  一体だれが、なぜ殺したのか。  小坂は再三、記事を読み直した。  犯行推定時刻は二十五日午後十時ごろから二十六日未明にかけて、という文字が一際浮き上がるように見えた。  二十五日夜といえば、有明の間に相川裕一の予約が入っていて、キャンセルになった。  小坂の記憶がスパークした。  玄関番の重要な仕事は予約台帳の確認である。  台帳によって、その日の予約客を把握し、まちがいないように案内する。  客を把握していないとべつの部屋へ案内したり、同じ部屋でべつの客が鉢合わせをしたりする。  二十五日夜、裕一が有明の間を予約していたということは、パートナーは貝塚瑞枝であったのだろう。  当然のことながら、彼女が当夜殺されていれば、有明の間に来られない。  問題は予約がキャンセルされたタイミングである。  たしか予約は数日前に入って、二十三日にキャンセルされた。  二十三日にキャンセルされたということは、すでに犯行日二日前から彼女が来られないことを知っていたことになる。  予約を取り消した者は、どうして彼女が来られないことを二日前に知り得たのか。  彼女本人がキャンセルしたのでなければ、彼女が来られないことを知り得る者は犯人である。  小坂の胸の裡《うち》でおもわくが急速に脹《ふく》れ上がった。  数日後の新聞が、貝塚瑞枝の恋人が容疑者として浮上したことを報じた。まだ容疑が固まっていないのか、恋人の名前は会社員A(二七)とされていた。  記事によると、Aの嫌疑はかなり濃厚なようである。相川裕一は二十六歳、彼はAではない。  すると、裕一以外の何者かが貝塚瑞枝殺しの容疑者として浮上したことになる。  報道記事によると、Aは瑞枝との関係は認めたが、犯行は頑強に否認しているという。  翌日の夜、吉井が相模中央電鉄関係の客を運んで田毎にやって来た。  小坂が客を玄関へ案内した後、吉井が耳打ちした。 「御曹司のパートナーが殺されたのを知っているかね」 「新聞で読みましたよ」 「新聞に容疑者が挙がったと書かれていたが、彼はね、三稜建設の社員なんだよ」 「三稜建設の……」  小坂はその社名に記憶があった。  女将に頼まれて、瑞枝が勤めていたアフロディーティに書類を取りに行った相手が三稜建設の重役であった。 「水原智彦といってね……三稜のエリートだそうだ。彼はうちの本社の会長の孫娘と婚約していたんだよ」 「相川章一郎の孫娘というと……」 「御曹司の妹だね。いわゆる逆玉に乗ったんだが、それまで交際していた貝塚瑞枝が、その縁談の邪魔になって殺したと警察は疑っているらしい」  さすが要人を乗せるハイヤーの運転をしていただけあって、吉井は消息通である。 「すると、綾さんは相川裕一とその水原とかいう男と、二股《ふたまた》かけていたのですか」 「なにしろ銀座のクラブのホステスだからね、二股どころか三股も四股もかけていたところで不思議はない」  吉井はにやにやした。 「だがね、おれの見るところ、水原は犯人じゃないね」  吉井は一際声を忍ばせるようにして言った。 「どうしてですか」  小坂は興味を引かれた。ちょうど客の到着も絶えている。 「三稜建設はうちのお得意先でもあってね、何度か水原さんをおれの車に乗せたことがあるんだよ。あの人には人間は殺せないね。断言してもいい」  吉井の口調には自信があった。 「しかし、あの人に限って、というような人間が凶悪犯人であることがありますよ」 「水原さんは人を殺すには頭がよすぎるんだよ。縁談の障害になる女を生かしておく危険と、その女を殺すことによって生じる危険を秤《はかり》にかけられる人間だ。あの人に限ってというような人間は、利口なようでいて、どこか抜けている。水原さんはその計算ができる。だから、彼は犯人にはならないよ」  そのとき客を乗せたべつのハイヤーが到着した。 「それでは、また後で」  小坂は吉井に言って、到着したハイヤーのそばへ駆け寄った。 [#改ページ]   的中した暗示      1  有明の間の予約をキャンセルして以後、相川裕一は田毎に姿を見せなくなった。  それまで週一、二度は貝塚瑞枝を伴って有明の間を利用していたのが、それこそ糸がぷっつりと切れたように音沙汰《おとさた》がなくなった。  田毎で相模中央電鉄関係の会合が開かれても、裕一は来ない。  小坂が関係者にそれとなく探りを入れると、どこかよその店で浮気をしているのだろうということである。  小坂の胸のうちで疑惑が急速に煮つまっていた。  浮気をしているのではなくて、敬遠しているのではないのか。  田毎側では、裕一に対してなんの不都合も働いていない。敬遠や忌避される理由はない。  とすると、おもい当たるのは貝塚瑞枝のことだけである。  裕一は瑞枝と親しかった事実を秘匿したいのではあるまいか。  警察は彼女の生前の異性関係を中心に捜査を進めているらしい。裕一も当然のことながら、彼女の異性関係に含まれる。  殺人事件の被害者の関係者に連なるのは、決して好ましいことではない。社会的イメージもよくない。  だが小坂の胸には、裕一が有明の間の予約を二日前にキャンセルした事実が違和感となって引っかかっている。  違和感が心の痼《しこり》となって凝固している。痼が小坂の胸をしきりに圧迫している。  彼はついにその圧力から逃れるために、裕一に確かめてみることにした。  真正面からアプローチしていったのでは、にべもなく否認されてしまうであろう。  裕一の反応を探るために、彼が投げた餌を逆用することにした。  裕一が在社していそうな時間を見計らって、相模中央電鉄社長室に電話をかけた。  二、三度空振りに終わって、ようやく秘書を経由して裕一本人が電話口に出た。 「なんだ、おまえか」  電話口の裕一の声は、対話者を小坂と知って、とたんに見下したような声になった。 「突然電話なんかかけてきて、なんの用だね」  高圧的な口調が、電話など気安くかけるなと暗に言っている。 「お邪魔して申し訳ありません。先日のお言葉に甘えてお電話申し上げました」  小坂は低姿勢に切り出した。 「先日の言葉、なんのことだ」  小坂には裕一がとぼけているように聞こえた。電話を早く切りたがっている気配が感じ取れる。 「いまの仕事に見切りをつけましたので、先日お言葉をかけていただきました秘書の口をご検討願いたいとおもいまして」 「なに、秘書の口だって」 「鞄持ちでもなんでも喜んでいたします」 「ああ、あのことか」  裕一はようやくおもいだした様子である。 「厚かましいとはおもいましたが、ご厚意に甘えまして」 「あれを真に受けたのか。そんなことでわざわざ電話をかけてきたのか」 「二十五日、ご予約をいただいていたときお願いしようとおもっていたのですが、その二日前にお取り消しになっていたものですから、失礼をも憚《はばか》らず、本日お電話いたしました」 「な、なんだと」  尊大に構えていた声がうろたえたようである。 「そういえば、この度は貝塚瑞枝様がお気の毒なことで、新聞を読んでびっくりいたしました」 「おまえには関係ない」 「相川様にも関係ないこととおもいますが、警察の事情聴取とやらがきて、ご迷惑ではございませんか」 「警察が調べに来たのか」  裕一の声が不安げに翳《かげ》った。 「いいえ、私どもにはまだまいりませんが」 「きみ、警察が来たら、ぼくと綾が田毎で会っていたことは黙っていてくれたまえ」  尊大だった裕一の口調が懐柔的になった。 「お客様のプライバシーに関しては一切、なにも申しません」 「頼むよ。きみの秘書の件は考えておく」 「私もすぐにということではございません。後釜《あとがま》が見つかるまでは動けませんので」 「店の者にもよろしく言っておいてくれたまえ。痛くもない腹を探られたくないからね」  最初の口調とは別人のように猫なで声になった。  相川裕一の反応から、彼にかけた疑いはますます固まってきた。      2  水原智彦の容疑は濃厚であったが、本人は頑強に否認を通し、決め手に欠けるまま逮捕に至らなかった。  彼が犯人であるならば、バースデーケーキのチョコレートの鳥居をそのまま放置するはずがないという棟居の意見が、捜査本部の大勢を微妙に変えつつあった。  水原自身が現場に立った事実を認めながらも、鳥居を放置した理由については、突然瑞枝の死体に遭遇したために動転して、鳥居が目に入らなかったと答えた。  彼が犯人であったなら、当然、鳥居を処分したはずが、それをしなかったところに、棟居の意見を裏づけた形となって説得力があった。  犯人でなかったからこそ、死体にぶつかり仰天して、鳥居が目に入らなかったのである。  しかし、もし水原が犯人でなければ、だれが犯人か。殺人の動機はなにか。  被害者には複数の異性関係があった模様である。となると、胎児の父親も水原に限定されない。  被害者は胎児の父親は水原だと言っていたそうであるが、本人の言葉だけである。  被害者は複数の異性パートナーに同じことを言っていたかもしれない。  パートナーは被害者の言葉を信じ込んだ。  犯人にとって、いま子供が生まれてはまことに都合の悪い事情があったとする。だが、被害者は犯人の中絶の要請に応じなかった。  窮地に追いつめられた犯人が、母体と共に胎児を抹殺した。  そのように考えると、現在、有利な縁談が進行中の水原が最も犯人像に当てはまってくる。  しかし隠れている被害者の異性パートナーにも、水原と同じような事情があったかもしれないのである。  棟居は牛尾とコンビを組んで、被害者の異性関係を執拗に追っていた。  だが、被害者は巧妙に異性関係を秘匿していた。  アフロディーティは銀座では珍しい政界のサロンである。政治家がお忍びで出入りする。  政治家が最も悩むのは下半身の問題である。セックススキャンダルは政治家の命取りになる。  浮き名を男の勲章にしていた古きよき時代と異なり、今日ではセックススキャンダルは確実に婦人票を失う。  アフロディーティのホステスは皆、政治家の紐つきだと陰口をささやかれていても確証がつかめないのは、いずれも口が固いからである。  貝塚瑞枝は茨城県水戸市出身、地元の高校在学中にミス梅娘に選ばれた。  それをきっかけに上京して歌手を志望したが、結局ものにならず、小さな会社に就職した後、銀座の店を転々とした。  アフロディーティに入ったのは二年前である。  居心地がよかったらしく、同店では腰が落ちついていた。  上京後、アフロディーティ以前の足跡はよくわかっていない。  現住所に入居したのは二年前で、OLというふれ込みであった。  入居者相互の交際はないが、彼女の家に訪問して来た男の姿を見た者はいない。  水原も犯行当夜、彼女のバースデーディナーに初めて自宅へ呼ばれたということである。  瑞枝の郷里には両親が健在であった。  チャンスを求めて都会へ羽ばたいて行った娘を、凶悪な犯罪によって奪われた両親は、いま彼女を郷里になんとしても引き止めておくべきであったと痛切な悔恨に胸をかまれていた。  両親にしてみれば、娘を殺した犯人は東京である。彼女はチャンスと同居する危険に食い殺されてしまったのである。  その危険を阻止するのが棟居や牛尾らの役目でありながら、彼女の生命を守るためになんの役にも立たなかった。  犯罪の被害者の遺族に接するつど、棟居らも遺族以上に悔やしさに胸をかまれた。  犯行現場は死体発見後しばらく警察の管理下に置かれて、立入禁止となっている。  被害者の遺品、特にメモ類、名刺、郵便物、写真類は綿密に調べられる。  マンションのオーナーは警察の許可が下り次第、室内を改装して新たな入居者を募るという。  そうなれば一人の娘の生活の痕跡は影も留めずに消えて、事情を知らない新たな入居者が、被害者の生活史とはまったく関係ない生活を始めるのである。  被害者の名刺ホルダーには錚々《そうそう》たる顔触れの名刺がファイルされていた。  政財界の大立者や、医者、弁護士、人気スポーツ選手、力士、有名芸能人など、アフロディーティの客層の質のよさを裏づけている。  これら名刺の主は、被害者の人脈として無視できないが、おそらく彼らの中には犯人は潜んでいないであろう。  犯人ならば名刺などは渡していないであろうし、もし渡していれば、犯行後、名刺や手がかりになるようなものは回収しているはずである。 「おや、これは」  棟居は名刺ホルダーの中から一枚の名刺をつまみ出した。  名刺のサイズをしているが、田毎という割烹料亭の名前と略図が印刷されている。 「なにかありましたか」  牛尾が棟居の手許を覗き込んだ。 「料亭の略図です。聞いたことのある名前だな」  棟居はその店名を記憶の中に探った。 「田毎か、これはマスコミによく登場する料亭ですね。政府の要人が会談によく利用している」 「ああ、あの田毎ですか。被害者は田毎に出入りしていたのかな」 「出入りしていたとしても不思議はありませんね。アフロディーティが政界サロンのようだったから」 「ホステスを料亭へ呼んだ用事はなんでしょうかね」 「なるほど。お安くない用事だったかもしれませんね」  銀座では目立つので、赤坂の料亭の離れや奥座敷に女性を呼んで差しで楽しむという手もある。政治料亭ということは、政治家の隠れ遊びの場所でもあるということである。 「しかし、料亭となると銀座以上に口が固いかもしれませんな」  牛尾の目が前途の困難なことを暗示している。  要するに、一枚の|略  図《ロケーシヨンマツプ》が出てきただけのことである。  だが棟居は、被害者が田毎の奥座敷で人目を憚って会っていた人物の顔を想像していた。  その顔にはまだ目鼻はないが、被害者の死に対して決して無色の位置には立てない人物である。 「彼女が田毎に出入りしていた事実だけでも確かめたいですね」  棟居が獲物の臭跡を嗅《か》ぎつけた猟犬のような顔をした。  アフロディーティで侍った客と田毎から彼女を呼んだ客が符合すれば、その人物像は一層に色濃くなる。  念のためにホルダーにファイルされていたすべての名刺を当たってみたが、特定の店の略図は田毎だけであった。  田毎を当たる前に、棟居は水原智彦に、同店に心当たりはないか問うた。  水原は首を横に振って、 「彼女とは三年越しの関係だが、彼女のプライバシーについてはほとんど知らない。私の知らないところで複数の男に会っていたかもしれない」  と言った。  水原自身は田毎へ行ったことはないと答えた。      3  捜査は田毎へ伸びたが、案の定、田毎の口は固かった。 「宴会にホステスさんが同行することがよくありますが、お客様のお名前はおうかがいしても、ホステスさんの名前まではいちいち聞きませんので」  と木で鼻をくくったような答えである。 「宴会に同行したのではなく、一対一の差しの座敷に呼ばれたのであれば、だれに、いつ呼ばれたのかぐらいわかるのではありませんか」  棟居は粘った。 「差しのお座敷もお客様のお名前で予約をいただいておりますので」 「これは殺人事件の捜査なのです。被害者の名刺の中にお宅の略図がファイルされていました」 「略図ならば多数配っています。そのうちの一枚がたまたま名刺の間にあったからといって、私どもには関係ありません」  女将以下、仲居や従業員に聞き込みをしてまわっても、公式回答以上のものは出なかった。  聞き込みの触手は玄関番にまで及んだ。  棟居は貝塚瑞枝の写真を示して、彼女が店へ来たことはないかと問うた。  玄関番は写真をろくに見ずに、来たことはないと答えた。その目の色が不安定であった。  棟居にピンとくるものがあった。 「あなたは写真をよく確かめもせずに、来たことがないと答えましたが、どうしてそのように言い切れるのですか」  棟居に問いつめられた玄関番は、言葉につまった。 「貝塚さんは店によく来たことがあるんでしょう。だから、写真をちらと見ただけでわかった」 「いいえ、その人はいらっしゃってません。私はなにも知りません」  玄関番は目を伏せて言った。 「あなたのお立場はわかります。あなたに迷惑をかけるつもりはありません。しかし、この人は殺されたのです。もし彼女がお宅の店の客であるなら、客を殺した犯人捜査に協力するのは店の人間の義務ではありませんか」  棟居は肉薄した。  玄関番の揺れ動く表情に、彼がなにか知っている気配を感じ取った。 「ここで話しにくければ、あとでこちらに電話をください」  棟居は玄関番の立場を考えて名刺を渡した。  棟居が田毎から立ち去りかけたとき、その門前に一台のハイヤーが横づけになった。 「いらっしゃいませ」  玄関番が別人のように愛想のよい声を発して車のそばへ走り寄り、ドアを開く。  恰幅のよい紳士が鷹揚に降り立って来た。  玄関番が客を玄関へ案内して行く。なにげなく車の方を見ていた棟居の視線が、運転手の目と合った。  運転手が軽い会釈を返した。棟居の記憶にない顔であった。  ハイヤーはそのまま走り去った。運転手も棟居と目が合ったので、なにげなく会釈したのであろう。  棟居が睨《にら》んだ通り、帰署した棟居に玄関番から電話がかかってきた。  玄関番は小坂と名乗って、 「私がしゃべったということは伏せておいてください。私はいまの職場を失いたくありませんので」 「あなたに迷惑はかけません。約束は守ります」  棟居の言葉に小坂は安心したように、 「貝塚瑞枝さんは週に一度ぐらいの割で田毎へお見えになりました。貝塚さんを呼んだのは相川裕一です」 「あいかわゆういち?」  棟居が初めて耳にする名前である。 「相模中央電鉄会長の相川章一郎の孫です。彼が貝塚さんを差しの座敷に呼んでいました」  ようやく水原以外の有力なパートナーが出現した。  だが、瑞枝と関係を持っていただけでは容疑を据えられない。 「最近、貝塚さんとその相川裕一さんの間になにかありましたか。たとえば急に仲違《なかたが》いをしたとか、二人の関係が家庭争議の原因になったとか」 「相川裕一はまだ独身です」 「ほう、独身ですか。それでは複数の女性関係があってもめていたとか……」 「そこまでは知りませんが、ちょっと気にかかることがありますが……」  小坂が言葉尻《ことばじり》を濁した。 「気にかかることとはなんですか」  棟居はすかさず追及した。 「新聞によると、貝塚さんが殺されたのは六月二十五日の深夜でしたね」 「そうです」 「相川裕一と貝塚さんの予約はその一週間前に入っていたのですが、二日前の二十三日にキャンセルされたのです」 「二十三日にキャンセルされた……?」  棟居はその事実の重大な意味におもい当たって、はっとした。  二日前にキャンセルされたということは、三日前、彼女の身になにが起きるか予測していたからかもしれない。 「予約のキャンセルは相川さん本人がしてきたのですか」 「たまたま私が電話を受けました。本人です」 「それがあなたの気にかかっていたことですか」 「そうです」 「私も先刻から気にかかっていたのですが、あなたは相川裕一さんをずっと呼び捨てにしていますね。相川さんとなにか特別の関係でもあるのですか」  玄関番は客の名前を呼び捨てにはしない。それが相川裕一を呼び捨てにしている小坂の口調が、棟居の耳に違和感を伴って聞こえた。 「実は相川裕一は私の中学の同級生なのです」 「中学の同級生」 「ですから、客のプライバシーを告げるだけではなく、同級生を密告する形になるので、ためらっていたのです」 「そういうことだったのですか」  棟居は小坂の口調に、彼と相川裕一の間に屈折した感情が潜んでいるのを感じ取った。  中学時代、二人は決して仲のよい同級生ではなかったのであろう。  片や日本財界一方の勢力の御曹司として一流料亭で女遊びに耽《ふけ》り、片やその玄関番として侍っている。  同級生時代から厳然として開いていた身分差が下地となって、彼の屈折を助長したのであろう。 「大物が浮上してきましたな」  かたわらで電話の言葉を洩れ聞いていた牛尾が言った。  これまでの捜査では、相川裕一の名前は浮かんでいない。 「被害者が胎児を相川の子と主張して、認知でも迫ったのでしょうか」  棟居が胸の裡におもわくを転がした。  被害者が裕一とつき合っている間に妊娠して、胎児の認知を迫っただけではなく、胎児を武器にして玉の輿《こし》を狙ったとしたら、殺人動機を培う下地にはなり得る。 「しかし、迂闊《うかつ》には手を出せませんね。相川章一郎は人も知る国宗首相の刎頸《ふんけい》の友です」  牛尾の声が重苦しくなった。  貝塚瑞枝の遺品の中から田毎の略図が見つかったとき、牛尾は困難な前途を暗示した。その暗示が的中した形となった。 [#改ページ]   無縁の輝き      1  相川裕一の存在が捜査線上に浮かび上がったときとほぼ時期を同じくして、珍しい人物が棟居を訪ねてきた。  署の受付から訪問者を取り次がれた棟居がなにげなく玄関へ出て行って、そこに意外な人物を見いだした。 「あなたは……」  棟居は棒立ちになって、しばし言葉を失った。 「その節はいろいろとお世話になりました」  訪問者は丁重に頭を下げた。  穂高で出会い、新宿の駅頭で別れた本宮桐子である。  今日は登山姿と異なり、水玉模様の涼しげなワンピースを着ている。  山では長い髪を無造作にヘアバンドでまとめていたが、今日は豊かな髪を肩の下まで垂らしている。  彫りの深い造作が素直な髪に烟《けむ》って、意志的な表情が柔らかく中和されているようである。  山で出会ったときとはまたべつの趣きの女っぽさが促されている。  棟居とは奇妙な取り合わせの訪問者に、明らかに署員の目が集まっている。 「よくここがわかりましたね」  棟居はようやく声を押し出した。  新宿駅での別れしなに、職業や住所は告げなかったはずである。棟居も彼女の名前だけで、その素性を知らなかった。  棟居の記憶に忘れ難い想《おも》い出を刻みつけた女性であるが、もはや二度と出会うことはあるまいと心にはっきりと終止符を打っていた。  その面影の女性が、ふたたび彼の目の前に立っている。棟居は一瞬、幻影ではないかとおもった。 「厚木署の松家刑事に聞いたのです」  彼女の声は幻聴ではなかった。 「厚木署の松家さん、ああ、松家さんとお知り合いだったのですか」  世の中は広いようで狭いとおもった。 「あのとき穂高山荘の前でご一緒に撮影した写真を松家さんがご覧になって、おしえてくださったのです」 「そうだったのですか。松家さんのお知り合いとは存じませんでした」 「松家さんにはいろいろとお世話になっております。お忙しいのに突然お邪魔して失礼かとおもったのですけれど、一言あのときのお礼を申し上げたかったのです」 「私もお会いできて嬉《うれ》しいです。またお目にかかれるとはおもっていませんでした。ちょっと外へ出ましょうか」 「よろしいのですか」 「刑事にもそのくらいの暇はありますよ」  棟居は署員の好奇の目から桐子を署の建物の外へ連れ出した。外はすでに夏の風景である。  桐子と連れ立って新宿の街を歩きながら、棟居は彼女と立った穂高の山頂を想起した。  あのとき山稜《さんりよう》をべったりと埋めていた残雪も、いまはやせ細って、縦走路には登山者の列が蟻のようにつづいているであろう。  夏の風が彼のかたわらに寄り添った形の桐子の長い髪をそよがせている。  穂高の峨々《がが》たる山容を背負った桐子もよかったが、超高層ビルの林立する都会の風景の中にあって、桐子はそれを構成する重要な点景としてぴたりとおさまっている。  それらのビルの一つの静かなラウンジに向かい合った二人は、一別以来の挨拶《あいさつ》を交わした。  棟居は穂高ですれちがっただけの縁を頼りに、わざわざ会いに来てくれた桐子の実意が嬉しかった。  自分にとっては忘れ難い想い出であったが、おそらく相手の心にはなんの形見も残していないであろうと寂しくあきらめていた。  穂高の出会いは、彼女の心にもなにがしかの残像を落としたのであろう。  二人の間でひとしきり穂高の想い出話が弾んだ。 「今度は槍《やり》ケ岳《たけ》へ登ってみたいわ」  桐子が遠い目をして言った。  彼女の目は都会のビルのかなたに重畳と重なり合う北アルプスの山波を見ているようである。 「またご一緒できるといいですね」  どうせ実現しない机上の山旅として、棟居は無責任に言った。  ところが桐子は目を輝かし、上体を乗り出すようにして、 「また棟居さんにご一緒していただけたら、嬉しいわ。私、時どき夢を見るんです。空に突き刺さるようにして聳《そび》え立っていた槍ケ岳の姿を」  と熱っぽい声で言った。 「山がお好きなんですね」 「父が山好きで、小さいころは高尾山や大菩薩へハイキングへ連れて行ってもらいました。でも、中学のころからなんとなく父に反発するようになって、山から遠ざかるようになってしまったのです」 「それでお一人で穂高へいらっしゃったのですか」  棟居は穂高の山行時の桐子の軽装をおもいだした。 「幼いころ、父は私を穂高へ連れて行ってやるとよく言っていました」 「どうしてお父さんと一緒に行かなかったのですか」 「父は昨年十一月、死にました」  桐子は面を伏せた。 「これは悲しいことをおもいださせてしまったようです」 「いいえ。父のことで松家さんに大変お世話になったのです」 「お父さんはなにか事故でも起こされたのですか」 「殺されたのです」 「殺された」  棟居は顔色を改めた。 「去年十一月下旬、父は丹沢山中で何者かに射殺されたのです。父の事件の捜査を担当したのが松家さんです」 「昨年十一月下旬といえば、たしか厚木署管内の丹沢山中で相模中央電鉄の経理課長補佐が殺された事件がありましたが……まさか」  記憶を再生した棟居は、はっとなった。 「そうです。その殺された経理課長補佐が私の父です」 「そうだったのですか」  棟居は適当な哀悼の言葉をおもいつかなかった。 「父を突然殺されて、しばらくはなにをする気力もありませんでしたが、ようやく少し立ち直れたので、父の遺影をリュックに忍ばせて穂高に登り、父との約束を果たそうとしたのです。棟居さんに出会わなければ、とても頂上まで行けませんでした。おかげで父との約束を果たせました。そのお礼を一言申し上げたくて、ご迷惑を承知でお邪魔しました」 「迷惑などとは少しもおもっていません。そのような事情があるとは全然知りませんでした。  それで、その後、捜査の方は進展していますか」 「いいえ。松家さんや厚木署の刑事さんが一生懸命に捜査して下さっているようですが、まだなんの手がかりも得られていないようです」 「松家さんは優秀な刑事です。そのうちにきっと犯人を挙げますよ」  棟居は言った。  そのとき棟居は、自分の担当する事件の捜査線上に新たに浮上してきた相川裕一も、相模中央電鉄社長の御曹司《おんぞうし》であることにおもい当たった。  いずれも相模中央電鉄に深く関《かか》わっている。偶然の符合であるが、なにか因縁がありそうな気がした。 「あなたにはお父上が殺されたことについて、なにかお心当たりがありますか」  棟居はつい職業的な質問を発した。 「まったくありません。父は他人《ひと》から仏宮《ほとけみや》と言われるほどのお人好しで、殺されるような怨《うら》みを買う人間ではありませんでした」 「すると、犯人が父上を殺した動機はなんでしょうね」 「松家さんから洩《も》れ聞いたことですけれど、父は殺されたとき鞄《かばん》を持っていたようなのです。犯人の目的はその鞄にあったようです」 「鞄を? その鞄になにが入っていたのですか」 「確かめられてはいませんが、大金が入っていたようです」 「すると、犯人はお父さんの鞄の中身を知っていたことになりますね。犯人から狙《ねら》われるような大金を入れた鞄を持って、なぜ丹沢の山中へ行ったのですか」 「このことは報道されていませんが、父は佐々木義久代議士の山荘へ政治献金を運んで行ったようなのです」 「政治献金……」  棟居は桐子の言葉からおおかたの事情を察した。  桐子の父親は相模中央電鉄から政治家|宛《あ》ての賄賂《わいろ》を運んで行く途中を待ち伏せされて、殺されたのであろう。  となると、その金は存在しないものとして扱われる。  犯人が逮捕されると、賄賂の事実が明らかにされてしまう。これは贈収賄双方にとって都合が悪い。  雲の上の方から捜査陣に圧力がかかるかもしれない。棟居は難しい捜査になりそうな予感がした。  現にその後、犯人が逮捕されたという報道はないので、捜査は難航しているのであろう。  久し振りの再会であるにもかかわらず、重苦しい雰囲気になってきた。 「失礼しました。よけいなことをお尋ねして」  棟居は詫《わ》びた。 「いいえ。棟居さんにも聞いていただきたいとおもっていたのです。私は父を殺した犯人が憎い。こうしている間も、どこかで笑っているにちがいない犯人の笑い声が聞こえるような気がします」  桐子はきっと目を宙に据えた。  先刻のビルのかなたに遠い山を恋《こ》うている目ではなかった。父親を殺した犯人を睨《にら》む目であった。  その強いまなざしの底に、骨肉の命を無法に奪われた者の怨みと悲しみがこめられている。 「今日は突然お邪魔いたしまして、貴重なお時間をいただいてしまって申し訳ありません。実はこれをお渡ししたかったのです」  桐子は犯人を睨んだ目の光を和らげて、ハンドバッグからなにかを取り出した。 「穂高で撮った写真です。あまり上手に撮れていませんが、記念にアルバムの隅にでも貼《は》っていただけたら嬉しいですわ」  桐子は恥ずかしげに数枚の写真を差し出した。  それは穂高山荘を背景に撮影したツーショットのほかに、登山路からの山岳風景や上高地や大正池の風景写真であった。 「これはいい記念になります」 「またお会いしたいですわ」 「ぜひ」  二人はそれ以上、具体的な約束は交わさず、好意をたがいの目にこめて立ち上がった。      2  七月九日、神奈川県|愛甲《あいこう》郡の経《きよう》ケ岳《たけ》から仏果《ぶつか》山のハイキングに来た東京のハイカーグループが、仏果山の近くの山中で一個の鞄を拾得して、厚木署へ届け出た。  山腹のブナの大木の根元に、昨年の落葉に半ば埋もれるようにして棄《す》てられていた。  鞄の中身は空であったが、布製のかなり大きな鞄である。  ファスナーもしっかりしており、どこも破れていない。まだ充分使用に耐えられるのに、山中に棄ててある鞄に疑問を抱いて拾い上げたところ、血痕《けつこん》のようなシミを発見して、不気味におもったハイカーが下山してから厚木署へ届け出たものである。  鞄が発見された地点は、佐々木義久の山荘から二キロほど山寄りの山林中で、ハイカーが小用を足すために登山路から少しそれたところで件《くだん》の鞄を発見した。  鞄のシミをさっそく物質検査にかけたところAB型の人血であることが判明した。  本宮恒夫の血液型はAB型である。  冷暗の場所に放置されていたので血痕の保存状態がよく、血液型の判定が可能となったのである。  厚木署の捜査本部は緊張した。  件の鞄はさっそく吉井運転手に示された。  その結果、本宮が生前、下車したとき最後に所持していた鞄であることが確かめられた。  ここに幻の鞄の存在が確認された。  鞄の中は空であったが、一枚の名刺が残されていた。また鞄の底には柔らかなゴム状の塊が付着していた。  その名刺には中央区銀座六丁目のクラブ「アフロディーティ」という文字と、綾《あや》という名前が印刷されていた。 「どうやらホステスの名刺らしいね」  朝枝が名刺を睨んで言った。 「被害者の行きつけの店でしょうか」  松家が推測した。 「とにかく確かめてみよう」  さっそく名刺の主に照会したところ、驚くべき事実がわかった。  名刺の主、綾こと貝塚瑞枝は六月二十五日深夜、東京新宿区のマンション自室において殺害されていた。  厚木署の捜査本部は騒然となった。  本宮恒夫が生前、最後に所持していた鞄の中に残されていた名刺の主が、殺されていた。  アフロディーティは本宮が生前よく利用していたという。同店に照会したところ、貝塚が本宮に付いたことはなかったという。担当の客でなくても、名刺を渡すことはあるかもしれない。だがもう一つ考えられるのは本宮を殺した犯人が、鞄の中に名刺を遺留した場合である。  すると、犯人は貝塚瑞枝、もしくはアフロディーティになんらかの関わりを持っている人間かもしれない。  鞄の中身について、相模中央電鉄経理課に問い合わされた。 「この鞄が本宮さんの生前の所持品であることは確認されました。本宮さんはこの鞄の中になにを入れて、佐々木代議士の山荘へ運んでいったのですか」  捜査陣はおおかた推測のついていることを問うた。 「鞄の中身については我々はまったく存じません」経理課長の落合がとぼけた。 「それでは、本宮さんは空の鞄を持って佐々木代議士の山荘を訪問したとおっしゃるのですか」 「鞄の中身については知らないと申し上げているのです」 「本宮さんは昨年十一月二十七日午後、会社から相模交通ハイヤー部の車に乗って、神奈川県の佐々木代議士の山荘へ赴いたのです。佐々木代議士の秘書は本宮氏の訪問目的を、二水会主催のパーティの打ち合わせのためと言っています。つまり、私用で訪れたのではない。本宮氏の上司として、あなたは当然、鞄の中身を知っていたはずですが」  捜査員は鋭く追及した。 「それが一向に知らないのです。佐々木先生との連絡は本宮君に任せておりましたので、鞄の中身までは知りません」  経理課長はとぼけ通した。 「鞄の中からアフロディーティという銀座のクラブのホステスの名刺が出てきたのですが、お心当たりはありますか」  捜査員は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「いいえ、一向に」 「あなたはアフロディーティの綾というホステスをご存じですか」 「知りません」 「アフロディーティへ行ったことはありますか」 「仕事の上のつきあいで何度か行ったことはありますが、綾というホステスは知りません」  落合はにべもなく答えた。  相模中央電鉄も佐々木義久側も、鞄の中身については知らぬ存ぜぬで押し通した。  捜査本部は切歯したが、本宮が生前、その鞄に金を入れていたという証拠はなにもない。闇金《やみがね》は最初から存在しないものとして扱われる。  帳簿上は使途不明金として処理され、領収書も出ない。  厚木署の捜査本部は貝塚瑞枝殺しとの関連について検討した。  本宮と瑞枝の間にはなんのつながりも発見されていないが、本宮が生前、最後に所持していた鞄の中に瑞枝の名刺があったことは無視できない。  本宮が所持していた名刺か、あるいは本宮を殺した犯人が遺留したものか、いずれにしても事件に重要な関わりがあるものと認められると、大勢意見は見た。      3  厚木署の捜査本部から連絡を受けた新宿署の捜査本部は興奮した。  貝塚瑞枝殺しの捜査は膠着《こうちやく》している。そこへ意外な方角で発生していた殺人事件が関わってきそうな気配である。  最も驚いたのは棟居である。つい前日、その殺人事件の被害者である本宮恒夫の娘の訪問を受けたばかりである。  棟居は因縁を感じた。  両捜査本部では、二つの事件の関連の有無を検討するために、連絡会議を開くことになった。  七月十三日、新宿署に厚木署の捜査員が出向いて来た。  現段階では本宮の鞄に瑞枝の名刺があっただけにすぎない。  瑞枝は商売柄、名刺を多数の客に配っているであろう。  瑞枝の名刺がアフロディーティを利用していた本宮に渡った可能性はある。  会議の意見は関連ありとする者と、無関係の別件とする者と真っ二つに割れた。  関連派は、 「被害者双方に個人的な関係が発見されなくとも、本宮はアフロディーティを利用していた。  本宮殺しの犯人は、本宮が生前所持していた鞄の中身を知っていると考えられるので、相模中央電鉄、あるいはアフロディーティの従業員または関係者である可能性が大きい。  貝塚瑞枝は本宮殺しの犯人を知っていて、口を閉ざされたのではないのか」  という意見であった。  これに対して無関係派は、 「貝塚瑞枝が本宮殺しの犯人を知っていたとすれば、なぜ黙秘していたのか。瑞枝殺しの容疑者として浮かんだ水原智彦は、本宮との間になんのつながりも発見されていない。また水原には、本宮が殺された当日のアリバイがあり、本宮を殺す動機がない。水原にかけられた容疑は依然として濃く、水原が瑞枝を殺したのであれば、本宮殺しは別件である。  また水原が瑞枝殺しについて無実であったとしても、本宮のバッグから発見された瑞枝の名刺一枚で両事件を結びつけるのは短絡である」  という慎重意見であった。  第一回の連絡会議においては結論は出なかった。  当面、両捜査本部は連絡を密にして捜査を協力し合うことで合意に達した。  政府間交渉のコミュニケのように抽象的な合意であったが、ともかく相互の協力を約束しただけでも進歩である。  会議の後、棟居のところへ松家が来た。  一別以来の挨拶の後、松家がまず本宮桐子の家で、彼女と棟居の穂高山荘前でのツーショットを話題にした。 「そのことでお話し申し上げようとおもっていたのですが、先日、本宮桐子さんがお見えになりましてね、世間は広そうで狭いものだなとおもいました」 「そうですか、彼女のアルバムの中に棟居さんを見つけたときは驚きました」 「彼女が見えたとき、住所をおしえずに別れたのに、どうしてわかったのかと不思議におもいました」 「それだけでも奇遇なのに、本宮の鞄から貝塚瑞枝の名刺が出てきたのは奇《く》しき因縁と言いましょうか」 「運命の糸に結ばれると言いますが、そんな感じがしますね」  棟居も松家も両事件の関連性を主張している。 「穂高で彼女に会ったとき、まさかそんな悲しい約束を背負って山へ来たとはおもいませんでした」 「父親と穂高へ一緒に登ろうと約束していたそうですね。それが果たせなくなったので、遺影を持って登ったそうです」 「少し寂しげな顔をしているとはおもいましたが、全然気がつきませんでした。彼女はそんなことは一言も言いませんでしたからね」 「彼女も穂高の頂上まで行くつもりはなかったようです。それが棟居さんと出会って、なんとなく後を従《つ》いて行くうちに、頂上へ着いてしまったと言っていました」  どうやら松家は下山後、二人が河童橋《かつぱばし》の袂《たもと》のホテルで一夜を共に過ごした事実は知らないようである。  彼女が黙っていることを棟居が明らかにすることもあるまい。  棟居にとってはあの夜の記憶が、時が経過するにつれて宝石のような輝きを蓄えてきている。  二度と会うことはあるまいとあきらめていた人の無縁の輝きである。 「ところで、棟居さんは水原智彦について、どうお考えですか」  松家が個人的知己から刑事の目になって聞いた。 「容疑は消えていませんが、私の見るところ水原はシロですね」  棟居は言った。 「水原がシロと見る根拠はなんですか」 「根拠というほどのものではありませんが、計算ですね。彼は人を殺して抱え込む危険の大きさを計算できる男です」 「なるほど。すると、水原は本宮殺しからますます遠ざかりますね」 「自分の結婚の障害となった女を抹殺する危険性を計算できる男が、第二の殺人を犯すとは考えられない。しかも本宮殺しが先行しているので、それを第一の殺人とすると、瑞枝殺しは第二の殺人となって、水原の容疑の基礎になっている動機が失われてしまう」 「一度、水原から事情を聴きたいのですが」  捜査の過程で、だれから事情を聴こうと自由であるが、他警察の事件《ヤマ》の関係者を取り調べるときは、担当警察に挨拶をしておくのが警察間の一種の仁義となっている。  連絡会議の開催もそのような意味合いを含めている。  厚木署の捜査本部としては、水原は素通りできない人物である。  厚木署から連絡を受けて、新宿署の捜査本部ではすでに水原から事情を聴いて、本宮とは事件前になんのつながりもなかったこと、および本宮殺しの犯行時間帯には社用で鹿児島に出張していた事実が確認されていた。 「どうぞどうぞ。私にできることがあったらお申しつけください」  棟居が言った。 「もしさしつかえなかったら、ご一緒していただけると有り難いのですが」  松家は気を遣ってくれているのである。 [#改ページ]   宙に浮く名刺      1  水原は腐っていた。貝塚瑞枝殺しの嫌疑をかけられて、どうやら逮捕は免れているものの、青天白日の身となったわけではない。  マスコミ機関には容疑者名は伏せられているが、彼が警察から事情を聞かれたことは社内に知られているかもしれない。  たとえ嫌疑が晴れたとしても、貝塚瑞枝との関係を知られるだけで、逆玉の縁談は破棄されるだろう。  いまのところ、相川家の方からなにも言ってこないのが不気味である。  そこに方角ちがいの神奈川県の警察から、別件の殺人事件について問い合わせがきた。  被害者の遺品の鞄の中から貝塚瑞枝の名刺が出てきたというのである。  幸いにして犯行当日のアリバイがあったからよかったものの、もしアリバイがなければ、二件の殺人事件の容疑者にされてしまうところであった。  やれやれとおもう間もなく、今度は新宿署と厚木署捜査本部の刑事が連れ立ってやって来た。 「もういいかげんにしてくれませんか。私は無実です。縁談が取り消されるのは身から出た錆《さび》で仕方がないこととあきらめますが、職場まで失いたくないのです。いくら寛大な会社でも、二件の殺人事件の容疑者となった社員を置いてくれないでしょうからね」  水原は受付から取り次がれた二人の刑事を、社屋から少し離れた喫茶店へ引っ張って行った。 「あなたのプライバシーを暴くのが目的ではありませんが、あなたの容疑はまだ晴れていない。いつ逮捕されても不思議はない身分であることをお忘れなく」  棟居が凄《すご》んだので、水原は悄然《しようぜん》となった。 「こちらは厚木署の松家刑事です。あなたにちょっと尋ねたいことがあるそうです」  棟居はすかさず追い打ちをかけた。 「もう申し上げることはなにもありませんが」 「あなたは本宮恒夫さんとなんの関係もないということですが、友人の友人というような間接的なつながりはありませんか」  棟居から紹介された松家が問うた。 「友達の輪を手繰っていけば、どこかでつながっているかもしれませんが、そこまではわかりませんよ」 「貝塚瑞枝さんの口から、本宮さんの名前を聞いたことはありませんか」 「瑞枝がどんな男とつき合っていたか知りません。瑞枝のプライバシーは詮索《せんさく》しなかったし、彼女も話しませんでした」  少し立ち直った水原は、大見得を切った。  刑事たちには話していないが、水原は自分の会社での立場をよくするために、彼女を斡旋《あつせん》している。  だが、斡旋した人間の中には本宮恒夫という人物は入っていない。その点は確信があった。 「あなたは貝塚瑞枝さんと交際していた事実を認めましたが、あなたが犯人でなければ、瑞枝さんが死んでどうおもいましたか」  棟居が言葉をはさんだ。 「どうおもうとは……?」 「現在、縁談が進行中のあなたにとっては、瑞枝さんは邪魔だったでしょう。その邪魔者が取り除かれて、犯人に感謝したいような気持ちだったのではありませんか」  棟居が切り込むように言った。 「そんな馬鹿な。交際していた女が殺されて、そんな気持ちにはなれない」  水原が震える声で切り返したが、言葉に迫力がない。 「それならばけっこうです。犯人が早く捕まって欲しいとおもっていますか」 「当然です」  水原が肩をそびやかすようにした。 「だったら、我々に対してもっと協力的な姿勢を取ることですね。我々は必ずしもあなたを罪に陥れるために足を運ぶのではない。事件の真相を明らかにするために聞き歩いているのです。どんな些細《ささい》なことでも包み隠さず話してください。それがあなたの嫌疑を晴らすことにつながるかもしれないのです」 「申し上げるべきことはすべて申し上げました」 「あなたは彼女が亡くなる一カ月ほど前、彼女と一緒に宮島に旅行していますね。そのときなにか気がついたことはありませんか」  棟居はさらに問いつめた。  これはこれまでに聴かなかった質問である。 「べつになにも気がついたことはありません」  松家は黙して、水原の反応を凝《じ》っと見守っている。  棟居は、奇しくも彼が休暇を取って穂高へ登ったときとほぼ同時期に、水原と瑞枝が宮島へ旅行していることが、ふと気になった。  棟居が本宮桐子と出会って、忘れ難い想い出を刻んだように、水原と瑞枝の間にもなにか記憶に残ることがあったはずである。  瑞枝はその想い出をバースデーケーキに象《かたど》って水原を招いた。  瑞枝の想い出が水原の記憶にはどのように反映しているか、棟居は興味を持った。  瑞枝にとって宝物のような想い出が、水原にはなんの痕跡も残していないかもしれない。だからこそ、瑞枝の想い出を象ったバースデーケーキに水原は気がつかなかったのである。  そんな女がいじらしく哀れにおもえた。 「ちょっと待ってくださいよ。そういえば、あのとき……」  無反応だった水原の表情がなにかを探っているようである。  棟居が事件の真相を明らかにするために足を運ぶのだと言ったのが、水原の態度を変えさせたようである。 「あのとき、どうかしたのですか」 「弥山《みせん》の頂上からロープウェイで下りてくるとき、ゴンドラに乗り合わせた男に瑞枝は心当たりがあるようでした」 「ロープウェイに乗り合わせた男に?」 「山腹の途中駅から、小型のゴンドラに乗り換えたとき一緒になった若い男が、瑞枝を知っていたようでした。瑞枝は知らん顔をしていました。それから私たちは、麓《ふもと》の駅からバスに乗らずに自然散策道を歩いて下りたのです。あれは瑞枝があの男と同じバスに乗り合わせるのを避けたのだとおもいます」 「その男は瑞枝さんを知っていたようだったのに、瑞枝さんは反応しなかったというんですね」 「そうです。彼女は明らかに知っているのに、知らない振りをしていました」 「というと、あなたにその男を知っていることを知られたくなかったということになりますか」 「そうだとおもいます」 「そのゴンドラにはほかの乗客はいましたか」 「いいえ、瑞枝と私とその男三人だけでした」 「ゴンドラは何分間隔ですか」 「上部ゴンドラは十五分間隔ですが、中継点以降の小型ゴンドラは一分間隔で上下していました」 「ほかのゴンドラは混んでいたのですか」 「いいえ、夕方の下りゴンドラですからがらがらでした」 「すると、その男はあなた方二人が独占すべきゴンドラに割り込んで来たのですね」 「係員に声をかけられても気を利かして次のゴンドラで下りると言うべきなのに、得たりとばかり二人の世界に割り込んで来たのです」 「彼は瑞枝さんに声をかけましたか」 「いいえ、私が一緒にいたので声はかけませんでしたが、私がその場にいなければ、きっと声をかけたとおもいます」 「その男はなにか特徴がありましたか」 「べつに特徴はありませんでした。三十前後から三十代半ばの中肉中背の暗い雰囲気の油断ならない感じの男でした」 「もう一度会えば、見分けられますか」  松家が問うた。 「ゴンドラの中で数分一緒にいただけですから、自信はありません」  水原と会った後、松家が感想を口にした。 「棟居さんのおっしゃる通り、あの男は計算をしていますね。殺人の負荷がどのくらい重く危険であるか計算できる男です」 「本宮殺しが瑞枝殺しに関わってきた気配が、水原の容疑を薄くしたのは皮肉です」  棟居が言った。 「宮島旅行で出会ったという男が気になりますね」 「旅先で出会ったにすぎない男ですが、水原の手前だけに瑞枝はとぼけたのでしょうか」 「男と人目を忍ぶ旅行先で、べつのいわくのある男と出会ってとぼけるということはあり得ます。しかし、ほかにゴンドラはいくらでも空いているのに、わざわざアベックの乗っているゴンドラに乗り込んで来た男にも作為が感じられますね」 「山麓駅に着いてからバスに乗らずに歩いた瑞枝も、男を強く避けている気配がします」 「その男も、考えてみれば、二人と宮島旅行を束《つか》の間《ま》共有したことになりますね」  二人は顔を見合わせた。  犯人が宮島で出会った男であるならば、バースデーケーキの意味がわかったかもしれない。  わかっていながら、それを放置したのは、水原に罪を転嫁しようとする意識が働いたからか。  二人は水原と瑞枝が宮島で出会ったという男に先入観の染色をうけていた。  彼らが旅先で出会っただけにすぎない男を事件に結びつけるのは危険である。  それも水原の言葉だけで、その男の存在が確かめられたわけではない。  しかし、二人とも水原が嘘《うそ》をついているとはおもわなかった。      2  経理課長補佐丹沢山中射殺事件と、銀座ホステス殺人事件は関連しそうな気配を見せながらも、両事件をつなぐ決め手を欠いたまま、それぞれに捜査が進められていた。  棟居は田毎《たごと》の玄関番から得た情報を捜査会議に提出した。  相川裕一は相模中央電鉄を継ぐべき御曹司である。本社の経理課長補佐本宮恒夫とも関わりがあったと言える。  水原智彦よりも本宮に近い位置にいた。  だが連絡会議では、相川裕一の存在は伏せられていた。  新宿署捜査本部においても、相川の社会的地位を考慮して、任意出頭の要請を慎重に検討していた段階である。  裕一の祖父は現首相の刎頸《ふんけい》の友である。  相模中央電鉄グループは首相の派閥を支える重要な財源でもある。  裕一の容疑性を充分に固める前に対決すれば、捜査そのものを叩《たた》きつぶされてしまう虞《おそれ》がある。  捜査本部内には裕一の任意出頭要請に反対意見が多かった。  要するに玄関番の証言だけでは、信憑性《しんぴようせい》が薄いというのである。 「料亭で客とホステスが会っても、なんら異とするには足りない。もともと料亭は人目を憚《はばか》るVIPが隠れ遊びをする場所だ。また相川裕一にはホステスとの関係が露《あら》われても、べつに不都合な事情はなにもない」  と山路が主張した。  これに対して棟居が、 「相川裕一と貝塚瑞枝の関係に限って言えば、裕一の身辺には二人の関係が露われても不都合な事情は見当たりません。しかし、本宮恒夫殺しとの関連性を検討すると、事情は変わってきます。裕一と瑞枝が本宮殺しに関わっているとすれば、裕一にとって瑞枝は危険な存在になります。  まず裕一に任意出頭を要請して、本宮との関係を聴くべきではありませんか」  田毎の玄関番から相川裕一が浮上した時点では、厚木署管内の本宮殺しは捜査圏外にあった。  現在、両事件の関連性の有無は確認されていないが、両事件が相互に捜査圏内に入ってきたことは事実である。  さらに有力な情報がもたらされた。  すなわち、相川裕一はクレー射撃の名手で、学生時代は射撃部に所属し、アフリカに何度もサファリ旅行に出かけている。  自宅にも猟銃と、これまでの獲物の剥製《はくせい》のコレクションを持っていることがわかった。  捜査本部は相川裕一の任意出頭要請を決定した。  殺人事件の捜査本部から任意出頭要請を受けた相川裕一は、衝撃を受けた模様である。  だが、彼は要請を拒まずに、出頭して来た。拒否することによって立場が悪化するのを恐れたらしい。  裕一を迎えたのは捜査一課の那須警部である。棟居と新宿署の牛尾が補佐に当たった。 「本日はご足労いただき恐縮です」  まずは那須警部が低姿勢に切り出した。 「警察に呼ばれるような心当たりがまったくないので、驚いています」  裕一も胸中の動揺を抑えて答えた。 「我々の担当する事件の参考に、少々おうかがいしたいことがございまして。お手間は取らせないつもりです」  那須が言った。その穏やかな声音の底には、正直に言わなければ長くなるかもしれないぞという暗示がある。  棟居が茶を淹《い》れて、裕一の前に置いた。  裕一は手も触れない。代わりに煙草《たばこ》を取り出した。 「どんな事件ですか」 「貝塚瑞枝さんをご存じですね。銀座の『アフロディーティ』で綾という名前で出ていました」  那須の目が窪《くぼ》んだ眼窩《がんか》の底から裕一の反応を探っている。 「知っています。事件とはそのことでしょう。一体だれがあんなひどいことをしたのか。犯人を早く捕まえてください」  裕一はあらかじめその質問を予期していたようである。 「目下、全力を挙げて捜査をしております。犯人逮捕のためにご協力ください」  那須はすかさず裕一の言葉につけ込んだ。 「ぼくにできることは協力しますよ」  裕一は言質を取られた形になった。 「貝塚さんとは親しかったようですね」 「よくしてくれたので贔屓《ひいき》にしていました」  裕一はしぶしぶと答えた。 「赤坂の料亭『田毎』へよくお呼びになっていたようですね」 「そ、それは、あくまで客とホステスの関係として呼んでいただけです」  裕一の言葉遣いが少しもつれた。 「六月二十五日の夜はどこにおられましたか」  那須は核心に切り込んだ。 「それはもしかしてアリバイ調べですか」  裕一が少し口調を改めて反問した。 「多少とも被害者に関わりのあった方にはすべてお尋ねしていることです」 「もし私を疑っているのなら見当ちがいです。彼女とは客とホステスの関係以上のものではありません」 「さしつかえなかったら質問に答えていただけませんか。六月二十五日の夜はどちらにおられましたか」 「きみ、失礼じゃないか。それは犯人扱いの質問じゃないか」  裕一の言葉遣いが崩れた。 「善良な市民としてご協力をお願いしているのです。それとも六月二十五日の夜の行動を明らかにすると、なにかさしつかえのあるご事情でもおありですかな」  那須の窪んだ目が底光りを発した。 「二十五日は七時ごろ退社して、なんの予定もなかったので真《ま》っ直《す》ぐ帰宅し、自宅にいました」  裕一はしぶしぶ話し始めた。 「ご自宅に。そのことを証明できますか」 「母や妹やお手伝いの者が知っています」 「電話や訪問客はありましたか」 「特にありません」 「二十五日の夜、貝塚瑞枝さんと田毎で会うお約束をしていますね」  裕一の顔色が動いた。どうしてそんなことまで知っているのかと驚いた様子である。 「あなたは六月二十五日夜、田毎に予約をしていましたが、その二日前、キャンセルしています。  二十五日深夜、貝塚さんは自宅で何者かに殺害されました。あなたはなぜ田毎の予約をキャンセルしたのですか」  那須はあくまで静かな声音で質問した。 「小坂の野郎が洩らしやがったな」  裕一が口汚く罵《ののし》った。 「我々はあなたのキャンセルの理由を知りたいのです」  那須が肉薄した。 「綾の方から都合が悪いと言ってきたのだ」 「貝塚さんはいつキャンセルしてきたのですか」 「二十三日の昼間だ。一人で田毎へ行っても意味がないのでキャンセルしたんだよ」  那須は裕一の言葉の意味を測っている。死人に口なしである。  瑞枝は二人分のバースデーディナーを用意していた。ディナーのパートナーは水原である。  誕生日を共に祝うために水原を自宅に招こうとしたのは、殺される数日前である。水原の承諾を得たので、裕一との約束をキャンセルしたとも考えられる。  一応符節は合っていた。 「あなたは狩猟の趣味をお持ちとうかがっていますが、ご自宅には猟銃や獲物の剥製のコレクションがおありだそうですね」  那須は質問の鉾先を変えた。  裕一が訝《いぶか》しげな表情をした。不審の色の底に警戒がある。 「それが、なんの関係があるのですか」  裕一はやや言葉遣いを改めて聞き返した。 「ご参考までにおうかがいしているのです」 「学生時代はクレー射撃やハンティングによく行きましたが、最近は仕事が忙しくて銃も埃《ほこり》を被《かぶ》っていますよ」 「なかなかのお腕前と聞きました」 「それほどでもありません」  話題が裕一の趣味の方へ逸《そ》れたので、少し構えを解いたようである。 「ところで、本宮恒夫さんをご存じですか」  那須が本命質問の第二矢を射《う》ち込んだ。だが裕一にはその矢の狙いがわからないらしい。 「もとみや?」 「相模中央電鉄の経理課長補佐です」 「さあ、そんな人がいたかな。機構が大きいので、同じ社にいても知らない人が大勢います」  裕一の表情は演技しているようにも見えない。 「本宮恒夫氏は、昨年秋、丹沢山中で射殺されました」  牛尾が言葉を添えた。  裕一の顔色がさっと変わって、 「もとみやが……射殺された。まさか」 「なにかお心当たりがおありですか」  那須以下三人の視線が裕一の面に集まった。 「射殺されたというと……まさか、私を疑っているんではないだろうな」  裕一の表情が引きつった。 「実は本宮さんが生前、最後に所持していた鞄の中に貝塚瑞枝さんの名刺が残されていたのです」 「それが私になんの関係がある。先刻から失礼じゃないか。それではまるで私がもとみやや貝塚瑞枝を殺した犯人のようじゃないか」 「そんなことはないとおもいますよ。私はただ、本宮さんをご存じかとお尋ねしただけです。同じ会社でもあり、本宮さんの遺品の中に、あなたが親しくしていた貝塚瑞枝さんの名刺が発見されたのですから、警察としてはお尋ねするのが当然だとおもいます」 「私は知らない。関係ない。もうこれ以上なにも言うことはない。帰らせてもらう」  裕一は激昂《げきこう》した口調で言った。 「落ちついてください」 「それをいまご本人に確かめているのです。本宮氏は昨年十一月二十七日、丹沢山中にある国宗総理派の佐々木義久代議士の山荘の近くで射殺されました。ご存じとはおもいますが、国宗総理と相川章一郎氏は刎頸の友と自他共に認められております」 「祖父と私はなんの関係もない」  裕一が高い声を発した。 「関係ないとは言えないのではありませんか。本宮氏は当日、二水会のパーティの打ち合わせのために佐々木代議士の山荘へ赴いたということです。パーティの後援者の一人に相川社長がなっています。あなたは社長室長でしょう。すると、本宮氏はあなたの指示によって当日、佐々木山荘へ出かけたとも考えられるのです」 「私はなんの指示も下していない。社長室と経理課とは直接の関係はない。もとみやという名前も記憶になかったくらいだ。パーティのようなイベントに関しては総務が担当しているから、そちらの指示で行ったのだろう」  結局、その日の取調べでは、裕一の容疑は解けなかった。  裕一の受け答えは曖昧《あいまい》であり具体性に欠けていたが、クロの決め手もなかった。  捜査本部としても最初の任意取調べで落とせるとはおもっていない。  捜査本部の裕一の印象は限りなく灰色である。  だが、棟居が疑義を提出した。 「両事件が関連しているとすれば、瑞枝殺しは本宮殺しから派生していることになります。とすると、裕一が本宮を殺す動機が見当たりません。  本宮は生前、大金を入れていた鞄を所持していたと考えられます。その鞄の中身が失われているところから、本宮殺しの動機は鞄の中身にあったと考えられます。  しかし、裕一が犯人であれば、そんな金を狙うはずがありません。金には困っておらず、ましてや祖父の筋から国宗派に宛てた闇献金を裕一が待ち伏せて運び手を殺害した後、強奪するなどということはとうてい考えられません。本宮殺しの犯人像として裕一には無理があります。貝塚瑞枝に対する容疑は解けませんが、裕一を犯人と仮定すると貝塚殺しは本宮殺しから切り離さなければなりません」  となると、本宮の鞄から出てきた貝塚瑞枝の名刺が宙に浮いてしまう。 [#改ページ]   暗い再会      1  相川裕一の任意取調べによって、事件はますます複雑な様相を呈してきた。  相川裕一に任意出頭を求めた後、棟居は釈然としないものをおぼえていた。  水原にしろ裕一にしろ、貝塚瑞枝に対して限りなく灰色である。しかし、いずれも決め手がない。  動機の点では水原が強い。裕一の動機は不明である。  棟居のおもわくでは、相川章一郎から国宗政重に対する賄賂がらみで、瑞枝が「知りすぎた女」として口を封じられたのではないかという疑いもあったが、どうもピンとこない。  賄賂の当事者は賄賂の存在をひた隠しに隠している。政権に影響するほどの汚れた金脈の実態を知った女が口を塞《ふさ》がれたにしては、相川裕一は無防備である。  厚木署の捜査には上層部から圧力がかかったというが、新宿署の捜査本部にはそのような圧力はこれまでのところかけられていない。  今後、政財界方面から雑音(圧力)が入ってくるかもしれない。  棟居は二十六歳の誕生日に、二人前のディナーを前に殺された被害者の悔やしさと寂しさをおもった。  夢を背負って都会へ出て来たのは、満二十六歳の悲惨な結末を迎えるためではない。東京のきらびやかな光彩に憧《あこが》れ、それと同化するために上京して来た。  バースデーケーキに立てられた二十六本の蝋燭《ろうそく》は、東京のきらめきの中に潜んでいた悪魔に殺された彼女の無念を雄弁に物語っている。  蝋燭の数は毎年増えていく予定であった。それが志半ばにして二十六本をもって、その蝋燭もついに点火されることなく終わってしまった。  被害者の無念は刑事の無念でもある。  刑事はほとんど犯罪が発生した後を追いかけて行く。事前に犯罪を予知して、その発生を防止するのも刑事の務めであるが、ほとんどの場合、犯人の後手後手にまわる。  たとえ犯人を捕えても、奪われた被害者の生命を取り戻せない。  容疑線上に二人の人物が浮かび上がったが、真相は依然として五里霧中である。      2  小坂邦雄は突然、女将《おかみ》から呼ばれた。女将の顔を見たとき、なにかあったのを直感した。 「あなた、今夜からお店へ出なくてもいいわ」  女将は一切の前置きを省いて言った。 「はい?」  小坂は当惑した。言われたことの意味がすぐにはわからなかった。 「すぐ荷物をまとめて出て行ってちょうだい。これは今日までのお給料です」  女将は小坂の前に封筒を差し出した。 「どういうわけでしょうか」  小坂はおずおずと尋ねた。 「訳はあなたの胸に聞くといいわ。あなたは田毎の看板に泥を塗ったのよ」  女将は抑揚のない声で告げた。  小坂ははっとした。おもいあたることがあった。  先日、刑事に問いつめられて、相川裕一と貝塚瑞枝の関係を話した。それに基づき、刑事が裕一を取調べて、女将の耳に入ったのであろう。 「私はべつに……」 「言い訳は無用よ。お客様のことを外部に洩らすような人間は、田毎にはいらないわ。すぐ出て行ってちょうだい」  取りつくしまもなかった。  小坂はその場で馘首《かくしゆ》された。  首になって未練のある職場ではなかったが、小坂は突然解雇されて、当惑した。  給料は安かったが、客の心づけを加えるとかなりの収入になった。  これだけの収入のある職場は得られないだろう。小坂は裕一を突っついたことを後悔した。  刑事に話すだけに止めておけばよかった。裕一と瑞枝の関係をタネに、彼に揺さぶりをかけたのがいけなかった。  刑事から取調べを受けた裕一は、小坂が密告したと察知したのであろう。  小坂は田毎の社員寮に住んでいる。田毎を首になったということは、職場と同時に住居を失ったことを意味する。  小坂がすごすごと女将の前から下がったとき、門前に一台のハイヤーが横づけになった。  つい首になったことを忘れて、ハイヤーのそばへ駆け寄り、ドアを開いた。 「やあ、きみか」  降り立った客の顔に記憶があった。  以前、女将に命じられて「アフロディーティ」へ使いに行った客である。三稜建設の有吉という専務であった。 「なんだか元気がないじゃないか」  有吉が小坂の冴《さ》えない顔色に気がついて声をかけた。口中になにか噛んでいる。 「いろいろお世話になりましたが、今夜で辞めることになりました」  小坂は挨拶した。 「辞めるのかい。それは残念だね。今度はどこへ行くのかね」 「まだ身の振り方は決まっていません」 「きみがいなくなると、田毎も寂しくなるな。なにかあったら会社に連絡してくれたまえ。相談に乗ってやるよ」  有吉は言い残すと、玄関に入って行った。  外交辞令とはおもうが、この際、嬉しかった。      3  料亭「田毎」の女将田口雅枝《おかみたぐちまさえ》は、馘首した玄関番の早期採用に迫られていた。  新聞に求人広告を出したところ、不況の世相を反映して直ちに数件の反応があった。  面接をしたところ、一人いいのがいた。  三十五歳、現在独身、離婚経験一回、東京の私大卒業後、都内の大手自動車販売会社に入社、五年前に同社を退社して旅行斡旋業として独立、一年前に不況の煽《あお》りを受けて倒産、現在失業中ということである。  料亭玄関番は字義通り、料亭の玄関口にあたり、料亭の印象と信用を決定する重要な役どころである。ずぶの素人には務まらない。  前任者の小坂はなかなかよくやってくれたが、惜しむらくは口が軽かった。  雅枝のその応募者から受けた印象はよかった。  年齢も働き盛りで、接客業の経験も充分に積んでいる。口のきき方や態度も折り目正しい。この若さで脱サラをして独立したくらいであるから、やり手なのであろう。  旅行斡旋業として世界を股《また》にかけて歩いているだけに、国際感覚もありそうである。それでいて悪ずれしていない。玄関番には勿体《もつたい》ないような人物であった。  雅枝はその場で採用を決定した。彼以後かかってきた応募の電話は、すべて断った。  採用決定に際して、雅枝は彼に次のことを固く言い渡した。 「料亭というところは、政財界はじめ各界のお偉方がいらっしゃいます。そこでどんなことを見たり聞いたり知ったりしても、見ざる聞かざる言わざるよ。そのことが料亭従業員の基本なの。これが守れない人は料亭で働く資格がありません。あなたは守れますか」  雅枝は小坂で痛い目に遭っているだけに、固く念を押した。 「よく承知しております。私もこちらへまいります前に、接客業をしておりましたので、そのことはよく承知しております」  彼は明確に答えた。 「それを聞いて安心したわ。それでは、さっそく明日からでも来てちょうだい」  雅枝は彼が気に入った。  入店にあたって、戸籍謄本の提出を求めた。  VIPの接客にあたるので、身許《みもと》の確かな者でなければならない。  ともあれ新規玄関番の採用が決定して、田口雅枝はほっとした。      4  水原智彦は鬱々《うつうつ》として楽しまなかった。  逮捕は免れているものの、警察は彼にかけた嫌疑を依然として解いていない。  最近、神奈川県の厚木署という馴染《なじみ》のない警察から刑事が来て、昨年十一月下旬、丹沢山中において殺害された本宮某なる人物との関係をしつこく聞いてきたが、本宮と貝塚瑞枝との間にはなんらかのつながりがあった模様である。  そのつながりの延長に水原が置かれて、疑われているようであったが、嫌疑が二倍になったようで、心がさらに重くなった。  不幸中の幸いにも、彼にかけられた嫌疑は会社には洩れていないようである。  もし洩れれば相川真美との縁談も即座に取り消され、会社にもいられなくなってしまうであろう。  今年は記録的な暑い夏であったが、九月下旬になってようやく風がいくらか爽やかになった。だが、水原にとっては、彼の心に吹きつづけているような不景気な秋風であった。  九月の下旬、水原は上司から、赤坂の料亭田毎で業者の接待を命じられた。  官庁関係と異なり、気のおけない接待であったが、こんな時期だけに気が重い。  まして田毎は彼が初めて行く料亭だけに、勝手がわからない。  不手際でもあって客に不満をあたえれば、接待が逆効果となる。  客の前に接待場所に先着して、場所の下見や土産物のチェックをしておかなければならない。  土産物は客が帰るとき、玄関口で玄関番が客一人一人に手渡しする。  その際、他の部屋の客の土産物と混同しないように注意しなければならない。  誤って客のライバル社の製品でも渡そうものなら一大事である。  さらに料理の内容、芸妓《げいぎ》の手配まで確認をしておく。接待係の不手際は今後のビジネスに影響してくるので、気が抜けない。  田毎の門前に車が横づけされると、玄関番が飛び出して来た。 「いらっしゃいませ」  愛想のよい声と共にドアが開かれた。 「あれ、新顔だな」  運転手が小声で呟《つぶや》いたのが水原の耳に届いた。  どうやら玄関番が替わったらしい。三十代半ばのすばしこそうな表情をした男である。目の色が暗く感じられた。  玄関番の顔を見たとき、水原は以前どこかで会ったような気がした。だが、咄嗟《とつさ》におもいだせない。  田毎に来たのは初めてであるから、どこかべつの場所で出会っているのであろう。 「三稜建設様のお着きです」  玄関番は水原たち一行を玄関口に案内すると、そこに待機していた仲居に引き継いだ。 「いらっしゃいませ」  玄関口に並んで正座していた仲居たちが一斉に迎えた。 「いまの玄関番、新顔だってね」  水原は廊下を先に立って会場へ案内してくれた仲居に尋ねた。 「そうです。二日前にお店に入ったばかりです」  仲居が答えた。 「なんていう人なの」 「ママから紹介してもらいましたが……あら、いけない。忘れちゃったわ。聞いておきましょうか」  仲居が少し慌てた口調で答えた。 「いや、それには及ばないよ」 「ご存じなのですか」  仲居が問い返した。 「いや、べつに。ちょっと知っている人に似ていたような気がしたもんでね。他人の空似だ」  水原は仲居の質問を軽くいなした。  だが、どこかで出会っている。玄関番は水原の顔を見てなんの反応もしなかったから、水原の一方的な認識かもしれない。  その夜、接待の間じゅう玄関番が気になって、接待に身が入らなかった。  ようやくお開きとなって客を送り出した後、玄関口でまた先刻の玄関番と顔が合った。  車を呼びに出ようとした彼を水原は呼び止めた。 「きみにどこかで会ったような気がするんだが」  突然、水原に声をかけられて、玄関番はやや驚いた顔を向けた。 「いいえ、初めてお目にかかるとおもいます」  玄関番は答えた。その表情に作為はない。やはり水原の一方的な認識かもしれない。  名前を聞こうかとおもった矢先、玄関番は、 「失礼します」  と言って、車の手配のために水原に背を向けた。 [#改ページ]   奇妙な因縁      1  本宮桐子はこのごろになって、父を失った悲しみがじわじわと心身の深部に効いてくるのをおぼえた。  昨年十一月下旬、父の突然の悲報を聞いたときは、あまりに強烈な衝撃のために心身が麻痺《まひ》したようになって、父を失った悲嘆が実感としてわからなかった。  半病人のようになってしまった母を助けて、自分がしっかりしなければいけないという緊張と、葬儀や後始末、警察への対応などで、悲しみとじっくりつき合っていられなかったのである。  それがようやくいまごろになって、脳に受けた打撃が中間の無症状期をおいてからじわりじわりとダメージを現わしてくるように、父をむしり取られた傷口が何の手当てを施されることもなく出血をつづけ、痛みを訴えるようになってきた。  事件後まぎらされていたダメージと痛みと、事件後の混乱がようやくおさまって、真正面から向かい合わなければならなくなったのである。  父親は母親のように常に至近距離にいて、痒《かゆ》いところへ手が届くようなキメの細かい世話をしてくれることはないが、いつも母の背後から一定の距離をおいて優しく庇護《ひご》の傘をさしかけてくれていた。  幼いころ、なにか事あるごとに母に呼びかけても、父に呼びかけることはなかった。  母は幼な子にとって下着のような存在だが、父は屋根のように離れている。  今日明日のとりあえずの生存に母は必要であっても、父は必要ではない。たとえ必要でも、その必要性を認識しない。  子供に対して父親は損な役割ともいえる。  だが、父を失ってみて初めて、父がどんなに自分にとって大切な存在であったかがわかる。  母の背後から父がいつも優しげな、そして心配そうな視線を桐子に向けていた。  そんな父を桐子はことさら邪険に扱ったものである。  娘に邪険に扱われれば扱われるほど、父は桐子を愛した。  母親の愛は子供から報われるが、父親の愛は子供がそれを認識するまでは報われない。無償の愛である。  そのことが父を失ってからよくわかる。わかったときは遅すぎた。  五月、残雪に彩られた穂高に、父の遺影と共に登り、生前、父と交わした約束を果たしてから、心身に抉《えぐ》られた傷はいっそう深くなったようである。  桐子はその傷口を母と共に舐《な》め合うことができない。それをすれば、母の悲しみを深め、彼女の傷口を広げるだけになるのを知っていたからである。  胸の奥に開いている傷口からの出血に一人で堪え、父を失った後の空洞を埋めるものもなく、時間の治癒に任せる以外になかった。  どんなに深い痛手も必ず治してくれる時間という名医も、当分の間は傷口を悪化させるだけであった。  桐子は仕事に没頭した。会社にいる間は個人的な悲嘆とつき合っていられない。それが救いであった。  会社で仕事の波の中を泳ぎ、多数の人と話し合い、電話に応答し、会議に出席していると、その間は傷口の出血は止まることはなかったが、少なくとも痛みがまぎれた。  最もいけないのは、帰宅して寝床へ入った後である。  父の想い出と一人で向かい合い、疼《うず》く痛みを凝っと抱え込まなければならない。それも母に悟られぬように。  そんなとき、蒲団のシーツが涙で湿った。  その後、捜査は膠着しているようである。犯人につながる目ぼしい手がかりをつかんだという情報も入ってこない。  松家刑事から、父の人脈の中で水原智彦という人物に心当たりはないかという問い合わせがあった。  水原は桐子の勤める会社の社員である。桐子はその偶然に驚いたが、父の人脈に水原はいない。部署も桐子とはべつである。  三稜建設は準大手総合建設会社である。本来は土木業で、戦後になってから建設部門に進出して、政界と密着しながら総合建設会社の体制を整えた。  電源開発ブームに乗って成長を遂げ、特に現総理国宗政重が北陸地方を選挙基盤としている関係から、ダム工事によって同地方に地盤を築いた三稜建設と、利権と票で次第に結びつきを強め、国宗が政界で出世街道を進むのと並行して、総合力で大手に伍《ご》すまでに成長した。  彼女は三稜建設の広報部に配属されていたが、臨時人事異動で経営計画推進部に移った。  彼女はそこで水原智彦に出会った。  松家刑事は詳しく語らなかったが、父と水原との関係を聴いてきたのは、水原が事件になんらかの関わりを持っていると考えられたからではあるまいか。  経営計画推進部に移ってから、水原は相川章一郎の孫と縁談が進行中であるという話を部内で聞いた。  相川は父が生前勤めていた相模中央電鉄の総帥である。その関係から松家が聴いてきたのかもしれないと、桐子は自分なりに推測した。  水原はいかにも相川章一郎の孫娘のハートをつかみそうな彫りの深いマスクの持ち主であったが、桐子は彼の目の色に油断ならないものを感じた。  女にとって危険な気配を本能的に察知したのかもしれない。  異動したばかりで、経営計画推進部がどのような仕事を担当するのか大ざっぱな知識しかなかったが、社員の八〇パーセントを技術系で占める同社の中で、経営計画推進部は文科系大学出身者の事務系で固めている。  国際化する企業戦略の中で、国際経済、国際金融、海外契約、外国資本や技術の導入、海外への進出企画、新部門へのエントリー研究、政界工作などを担当しているらしい。  スタッフはいずれもエリートで固められている。  桐子は、これは大変な部署に来たなと緊張した。  だが、その方が悲嘆がまぎれてよい。いまの彼女は過酷な仕事にもみしだかれる方がよかった。  異動の挨拶もそこそこに、彼女はさっそく官庁関係の接待の供を申しつけられた。  赤坂の料亭に通産省の高級役人を招くという。 「我が部署は政治家や役人との折衝の窓口になっているので、接待が多い。今日は接待の現場の雰囲気に馴《な》れてもらいたい」  有吉|達志《たつし》という経営計画推進部長が言った。  有吉に率いられて数人の部員と共に、紀尾井町にある田毎という料亭へ連れて行かれた。料亭へ来たのは生まれて初めてである。  これまでいた広報部では、社内報の制作に従事していて、接待などに駆り出されたことはなかった。 「私は具体的にどんなことをしたらいいのでしょうか」  車の中で同行する形になった水原に、桐子は問うた。 「べつに大したことではありませんよ。接待する部屋の下見や、土産物のチェック、芸妓やホステスが入る場合は、それの手配などが主な仕事です。  しかし、あなたのような美しい人だと、まちがえられてお酌を求められるかもしれませんよ」  水原がいたずらっぽい目をして笑った。  つまり、芸者やホステスの代わりをさせられることもあるというのであろう。それをいやとは言えない。またいやというつもりもない。  もともと建設会社には体質的に胡散《うさん》くさい臭《にお》いがつきまとっている。  土木が主力だった三稜建設は、もともと社風が荒っぽい。政治家とギブ・アンド・テイクの関係を結んで公共工事をもらって肥ってきた会社だけに、政治家や官庁とは腐れ縁である。  数多い建設業者が限られた工事量、特に国や地方公共団体、公団、公社などの官庁工事を分捕るときに、腐れ縁が大きくものを言う。  きれいな関係では公共事業は分捕れないと言っても過言ではない。  入社して二年、桐子にも建設会社の体質がいくらかわかりかけるようになっていた。  いくら腐れ縁とは言っても、女子社員に客の夜の伽《とぎ》までしろとは要請すまい。  推進部の車の列が田毎の門前に着くと、玄関番が飛び出して来て、先頭の有吉部長の乗った車のドアを恭しく開いた。  後続の車から桐子や水原が降り立つ。 「おっ、新顔だね。玄関番が替わったのか」  有吉がドアを開いてくれた玄関番の顔を見てつぶやいた声が、桐子の耳に届いた。  桐子同様、料亭の従業員も臨時異動があって、新人が玄関番になったのであろうか。  有吉はその玄関番に先導されて、馴れた足取りで玄関へ向かった。その背後から水原と桐子がつづく。  玄関式台には仲居が三つ指をついて出迎えた。桐子は初めての経験なので、緊張した。  門は有名な赤坂の料亭に似合わず、まことに素っ気ないが、門の内に入ると、敷き石伝いに数寄屋造りの玄関に通じて、計算された位置に立てられた石灯籠《いしどうろう》が、玉砂利《たまじやり》を敷きつめた前庭から玄関口にかけてほんのりと柔らかな光を振り撒いている。  打ち水してあり、埃っぽい表通りから透明なカプセルによって隔てられたようにしっとりと落ちついた空気の中に、かすかな香のかおりが漂っている。高雅な雰囲気であった。  呼吸する空気も高い金で贖《あがな》っているような一隅である。 「ぼくは二度目だが、どうも料亭は苦手だ」  水原が独り言のように呟いた。  玄関番は仲居に彼ら一行を引き継ぐと、門の方へ引き返した。  そのとき桐子と玄関番の視線がちらりと出会った。玄関番はさりげなく視線を外して持ち場の方へ戻って行ったが、その一瞬の目の色が桐子の意識に引っかかった。  べつに桐子に興味を示した顔色ではない。むしろほかの者から受けた反応が、そのまま余韻を引いて桐子に及んだというような表情であった。  同時に到着した推進部のグループは、有吉部長以下七、八名であったが、桐子の前にいたのは有吉と三沢副部長、水原の三名である。水原は桐子とほとんど並ぶような形であった。  すると、玄関番の興味は有吉、三沢、水原の三名にあったのか、あるいはそのうちの一人であったのか。  だが、有吉は車を降りしなに、新顔だねと言った。つまり、有吉にとってはその玄関番が初対面であったわけである。  すると、玄関番の示した反応は三沢か水原に対するものか。  桐子のおもわくもそこまでであった。  長い曲がりくねった廊下を仲居に案内されて、宴会場藤の間へ入った推進部のグループは、さっそく会場や土産物の下見を始めた。 「次長の席はここ、課長の席はここにしよう。序列は次長が上だが、全権を握っているのは課長だからね、席では次長を立て、実質的には課長を奉らなければならん」  有吉が席順を慎重に決めている。  席順は客の地位と格を示し、これをまちがうと客のメンツを潰《つぶ》して、せっかくの接待が台なしになってしまう。  藤の間は特殊な造りになっていて、床の間が二カ所ある。床柱も二本ある。同格の者が同席するときのための特殊な設計である。  一見、奇異な感じであるが、この部屋が田毎の最上等の部屋として需要が多いのもその辺の事情を物語る。      2  桐子の新しい部署での日々は新入社員のような緊張をあたえた。  推進部ではこれまでいた広報部と異なり、社業、それも経営戦略に直接関わるような社外のVIPと接触する機会が多く、気が抜けなかった。  スタッフも社のエリートが集まっているだけに、いずれもやる気満々のレースの参加者のようである。  一見、和気あいあいとしているが、仲間に対して油断していない。  桐子はこのようなエリートの巣窟《そうくつ》に、なぜ自分が異動させられたのかわからなかった。  推進部では男女まったく同等に扱った。女の甘えはまったく許されない。女性もレースの参加者としてみなされていた。その点、フェアで厳しい。  初対面のとき、水原の目の色に油断ならない気配を感じたものであるが、水原は桐子に対して親しみを見せた。  少なくとも水原一人は彼女を競争者としては見ていないようである。  それだけ甘く見られたのか、あるいはべつの魂胆があってのことか。  相川章一郎の孫娘との縁談が進行中である現在、べつの女に野心を持つとは考えられない。水原になにか魂胆があるとすれば、男の野心以外のものであろう。  桐子には水原の魂胆が、松家が水原について問うてきたこととつながっているような気がした。  とすると、水原も桐子が本宮恒夫の娘であることを知っていることになる。  そのことを水原自身が間もなく実証した。 「本宮君、きみの父上は生前、相模中央電鉄に勤めておられたそうだね」  社内で周囲に人がいないときを狙っていたように、水原が問うた。 「父をご存じだったのですか」  桐子は問い返した。この際、父と水原の関係をはっきりさせておきたいとおもった。 「個人的な知己ではないのだが、父上とは奇妙な因縁があってね」 「奇妙な因縁?」 「実はね、このことはきみの胸の中にだけたたんでおいてほしい。以前、婚約前に少し関わりのあった女性が殺されて、彼女の名刺が父上の遺品の中から発見されたんだそうだ」 「貝塚瑞枝さんのことですか」 「知っていたのかい」 「刑事さんから父との関係を聞かれました。でも、父の生前の人間関係の中に貝塚瑞枝さんという人はいません」 「実はその貝塚瑞枝と密《ひそ》かにつき合っていてね、彼女が殺されたとき、ぼくが疑われたんだ。いまでも疑いが解けたわけではない。そんな関係があって、きみが推進部に異動してきたときは、もしかしてとおもったんだよ」 「人事に問い合わせれば、私の素性などすぐにわかるでしょうに」 「きみ自身に確かめたかった。こそこそ動いているように見られたくなかったのでね」 「貝塚さんを殺した犯人はまだ捕まらないのですか」 「かいもく、五里霧中のようだ。だから、ぼくもまだ疑われているんだがね、きみの父上を殺した犯人の捜査はその後どうなっているの。犯人が挙がったという報道はまだされていないようだが」 「まだです」 「そうか」  水原はため息を吐《つ》いた。 「水原さんは父と貝塚さんが殺された事件とが、なにか関連があるとおもいますか」 「さあ、なんとも言えないな。父上の遺品の中に貝塚瑞枝の名刺があっただけだからね。警察もべつに共同して捜査をしている模様はない。早く犯人が挙がるといいね。そうすれば、父上の霊も浮かばれるし、ぼくも青天白日の身となる」 「水原さん、どうしてそんな話を私になさったのですか」  水原に殺人の嫌疑がかけられていることは社内に知られていない。そんな噂《うわさ》が流れるだけでも、彼にとって致命的であろう。それを同じ部内の桐子に打ち明けた。 「ぼくらは被害者の身内だよ。ぼくは正確に貝塚瑞枝の身内ではないが、彼女を殺した犯人が憎い。父上を殺されたあなたが同志のようにおもえたのさ」  桐子は水原が自分にかけられた嫌疑を、同志の隠れ蓑《みの》でカモフラージュしようとしたのではないかと警戒した。 [#改ページ]   乗り合わせた過去      1  棟居は相川裕一の嫌疑に動機がないことを主張したが、彼にかけた疑いを全面的に解いたわけではなかった。  特に瑞枝殺しについては、裕一の立場は限りなく灰色である。  男と女の関係は当人同士でなければわからない。二人の間で殺人に発展するような事情が発生したかもしれない。  裕一はほかにも交際している女性が何人かいる模様である。  だが、いずれもプレイと割り切った関係である。  裕一には現在、縁談も発生していない。恵まれた環境で、デラックスなシングルライフを謳歌《おうか》しているらしい。  瑞枝も裕一のセックスフレンドの一人にすぎなかったようである。  瑞枝が妊娠の責任を迫って水原を脅かしたように、裕一に胎児の認知などを求めたら、殺人の動機がないこともない。  しかし、プレイメイトとして割り切っている女から妊娠を告げられ、認知を求められたので、直ちに殺してしまったというのも性急すぎる。  裕一の身分であれば、まず金で解決しようとするはずである。  棟居はその辺がどうも釈然とせず、再度、田毎《たごと》の玄関番に会って事情を聴くことにした。  ところが田毎へ行って見ると、玄関番が替わっていた。  小坂に会いたい旨を告げると、仲居が小坂は辞めたと言った。 「それはまた突然ですね。この間、会ったときはそんな気配は全然ありませんでしたよ」  棟居は小坂がいまの職場を失いたくないと言っていた言葉をおもいだした。 「私たちもなにがあったか知りませんが、あの人、首になったんです」  仲居が声をひそめて言った。 「首に? どうしてですか」 「さあ、なにか不都合なことでもあったのでしょう」  仲居は隠しているのでもなく、本当に知らないらしい。  田毎の玄関にはすでに新しい玄関番が詰めて、到着する客を捌《さば》いている。新人とはおもえないほど玄関番振りが板についている。  三十代半ばの細面のなかなかハンサムな男であるが、やや陰気な感じである。  もしかすると小坂は裕一に関して棟居に告げたことが店に露見して、解雇されたのかもしれない。  小坂から得た情報に基づいて裕一の取調べをしたのであるから、裕一が察知した可能性はある。  とすれば、小坂に気の毒なことをしてしまった。  小坂と裕一は中学の同級生だったという。それも決して仲のよい同級生ではなかったようである。  怒った裕一からねじ込まれれば、料亭としても小坂を首にせざるを得なかったであろう。 「その後、小坂さんはどこへ行ったかご存じですか」  棟居は問うた。 「いいえ、知りません。突然姿が見えなくなったのでどうしたのかとおもっていたら、辞めさせられたと聞いて、私たちもびっくりしたのです」  そのとき門前に新たな車が到着した。 「三稜建設様、お着きです」  新しい玄関番が告げた。そろそろ客の入れ込み時間である。  なんの聞き込みも得られないまま、棟居が辞去しかけたとき、玄関番に案内されて数名の客が入って来た。  すれちがいかけて、双方がおもわず声をあげた。 「棟居さん」 「刑事さん」 「これは本宮さんと水原さん」  本宮桐子と水原智彦が敷き石を伝って入って来た。  棟居は彼らの会社が三稜建設であることをおもいだした。 「これは奇遇ですね。お仕事ですか」  水原がさりげなく問いかけたが、警戒の構えが感じられる。  だが奇遇でもなんでもない。小坂に会いに来た棟居が、田毎の常連である三稜建設の社員に会う確率は高い。 「ああ、ちょっとね」  水原の質問をいなした棟居は、桐子の方に視線を向けた。 「実はお会いしたいとおもっていたのです」 「あら、私も」  桐子が全身に喜びを弾ませた。棟居は本宮恒夫の遺品の鞄《かばん》の中にあった貝塚瑞枝の名刺について、桐子に直接聞きたいとおもったのであるが、桐子はべつの意味に取ったようである。 「近いうちに少しお時間をつくっていただけませんか」 「土日は家におります。平日でも特に今夜のような仕事がなければ、七時ごろには帰宅しております」  桐子が答えた。  玄関番は、三稜建設グループがすでに田毎の勝手を知っているので、玄関口まで案内せずに車に引き返して、運転手となにごとか打ち合わせをしている。 「それでは近いうちにご連絡いたします」  桐子も仕事で来ているので、玄関前であまり立ち話もしていられない。  そのとき水原が驚いたような声を発した。棟居と桐子が水原に視線を転ずると、水原は門前で運転手と打ち合わせをしている玄関番の背中を凝視していた。 「どうかしましたか」  棟居が問いかけると、 「彼です。あの玄関番です」  水原が玄関番の背中を指さした。 「彼がどうかしましたか」 「あの男ですよ。瑞枝と一緒に行った宮島のロープウェイで同じゴンドラに乗り合わせた男は」  水原は玄関番の耳を憚《はばか》って、抑えた声で言った。 「なんだって」 「まちがいありません。いま刑事さんにお会いしたのがきっかけになって、おもいだしたのです。以前、彼にどこかで会っているような気がしていたのですが、いままでおもいだせなかった。そうだった、宮島で出会っていたので、以前どこかで会ったような気がしていたんだ。髪形も服装も変わっていたのでわからなかったんです」  これこそ奇遇と言うべきであろう。  田毎で水原や桐子と出会うチャンスはあっても、水原と瑞枝のゴンドラに同乗した男が田毎に玄関番として現われる確率は極めて低い。  もしこれが偶然でなければ、玄関番はなんらかの意図を抱いて田毎に就職したことになる。  しかし、前の玄関番が解雇されたことは予測できなかったはずであるから、やはり偶然であろう。  運転手と打ち合わせを終わったらしい玄関番がこちらに顔を向けた。 「それではまたいずれ」  水原は棟居に軽く頭を下げて、玄関の踏み込みに立った。仲居たちが一斉に挨拶《あいさつ》をする。      2  棟居と出会ったことによって、水原の記憶にかかっていた霧が一挙に晴れた。  玄関番は弥山《みせん》からの下りロープウェイのゴンドラに乗り合わせた男である。  彼は瑞枝の顔を見たとき、明らかに反応を示した。瑞枝は無反応を装った。  だが、彼女もその男を知っていたにちがいない。知っていながら、知らない振りを押し通した。  つまり、その男との関係を水原に知られたくない事情があったのであろう。  その男が田毎の玄関番となって住み着いている。  男は田毎で水原に再会したとき、なんの反応も示さなかった。  とぼけているのか、あるいは水原を忘れてしまったのか。  男は瑞枝だけを見ていたから、水原はまったく眼中になかったのかもしれない。  だが、瑞枝が殺された後、彼女との間になんらかの隠れた関係がありそうな宮島のゴンドラの男が、田毎の玄関番として姿を現わしたことに、水原は不吉な予兆をおぼえた。  宮島で彼に出会わなかったならば、計画通り瑞枝を殺していたかもしれない。その意味では、その男は水原の殺人を防止してくれたことになる。  だが、水原には男が瑞枝に対して示した反応と、瑞枝の無反応が心の違和感として容積を大きくしている。  二人の間になにかがあったのだ。もしかすると、宮島で出会ったのは偶然ではなく、男が尾《つ》けてきたのかもしれない。      3  田毎の新玄関番が水原と瑞枝の旅行先で出会ったという事実は、事件にはなんの関係もないことである。要するに、旅先の出会いの一つにすぎない。  瑞枝が彼を知っていながらも知らない振りを通したのは、水原の手前であったからかもしれない。  だが、旅先で出会った男が田毎の新玄関番として就職したとなると、旅先の単なる出会いとしてすまされなくなる。  田毎へ来たのは偶然であるとしても、そこに因縁の糸を感じさせる。  ましてや前の玄関番は瑞枝殺しに関して警察に情報を提供して、首になったのである。  棟居は田毎に問い合わせて、新玄関番が亀山陽一という名前であることを知った。  棟居は亀山から一応、事情を聴いてみようとおもった。  貝塚瑞枝とはどんな関《かか》わりがあるのか。なぜ田毎に就職したのか。水原智彦についてはなんの心当たりもないのか。  これらのことを亀山から確かめたい。  棟居は亀山に当たる前に、牛尾に相談した。  牛尾は棟居の意見を聞き終わると、 「亀山が田毎に就職したのは、それほど意味はないとおもいますよ。なぜなら、田毎と貝塚瑞枝の間には関係はありません。彼女は相川裕一とのデートの場所として田毎を利用していただけにすぎません。それも裕一がデートの場所を決めたのであって、瑞枝には主体性はなかったでしょう。瑞枝にしてみれば、田毎でもラブホテルでもかまわなかったはずです」 「前の玄関番の小坂との関係はどうでしょうか。小坂が裕一と瑞枝との関係をタレこんだのです」 「仮に小坂と亀山の間に関係があったとしても、瑞枝との間はつながりませんよ。亀山が田毎へ来たことにはあまりこだわらない方がいいでしょう」  牛尾は瑞枝と亀山の関係だけに焦点を絞って洗ってみろと勧めていた。  牛尾の忠告に従って、棟居は亀山から事情を聴いてみることにした。  棟居の突然の訪問を受けた亀山は、明らかに動揺していた。 「あなたは貝塚瑞枝さんをご存じですね」  棟居は単刀直入に切り出した。 「いいえ」  亀山は首を横に振ったが歯切れが悪い。 「ご存じなんでしょう。五月二十八日、安芸《あき》の宮島へ行った折、貝塚瑞枝さんとあなたは同じゴンドラに乗りましたね」  どうしてそんなことまで知っているのかと、亀山の表情が驚いている。 「三稜建設の水原さんは、そのときあなたが乗り合わせたゴンドラに瑞枝さんと一緒に乗っていたのですよ」 「まさか……」  亀山は呻《うめ》くように言った。やはり水原の存在は眼中になかったらしい。 「そのときあなたは瑞枝さんを見て、驚いたような顔をしたそうですが、あなたと彼女はどんなご関係だったのですか」 「…………」 「瑞枝さんは六月二十五日、自宅のマンションで殺害されています。水原さんは容疑者の一人です。彼女の生前の関係者はすべて当たっています。あなたが瑞枝さんとなんらかの関わりがあったのであれば、正直に話してください」  棟居につめ寄られて、亀山は逃げきれなくなった。  亀山の供述は、棟居を落胆させた。  痴漢に襲われた瑞枝を救ったところが、逆に痴漢にされて、それが原因で職まで失ってしまったという話はにわかには信じ難かった。  そのような関係の下敷きがあって旅先で再会すれば、亀山が驚き、瑞枝がとぼけたとしても不思議はない。  これまでの捜査では、亀山は瑞枝の生前の人間関係の中に浮かび上がっていない。瑞枝自身が亀山を忘れていたかもしれない。  亀山の方ではおぼえていた。感謝されるどころか、逆に痴漢にされて、亀山は瑞枝を怨《うら》んでいた。  だが、それは再会時から五年も前のことであった。  旅先で奇《く》しき再会をして古い怨みがよみがえり、殺人にまで発展したとするには無理がある。  もともと水原の一方的な印象と記憶によって手繰り出した亀山である。  棟居は念のために瑞枝が殺された当夜の亀山のアリバイを尋ねた。  彼は当時、海外ツアーに参加していたという明確なアリバイがあった。  田毎に就職したのは、新聞の求人広告に応募してということである。  亀山は犯人適格条件を欠いていた。 [#改ページ]   闇金の残高      1 「田毎」での亀山陽一の評判はよかった。気働きがあって如才がない。小まめによく動く。反応が素早い。玄関番には持ってこいの人物である。  しかも必要以上のことは言わない。女将《おかみ》から釘《くぎ》を刺されるまでもなく客商売、特に料亭従業員の基本をよくわきまえている。客の評判も上々であった。  雅枝はいい人間が来てくれたと内心喜んでいた。  だが、彼女は亀山に少し引っかかるところがあった。どこといって取り立てて不満はないのであるが、なんとなく陰気な雰囲気があるのである。  仲居や出入りの芸者ともけっこう軽口を交わして笑わせている。接客業の経験も充分に積んでいるので話し方にそつがない。  彫りの深い面立ちでなかなかの男前である。三十五歳、大学出の独身とあって、若い仲居や芸者の中には密《ひそ》かに好意を寄せている者もいるらしいが、亀山はまったく素知らぬ振りをしている。  女には苦い目にあったのか、あるいは不自由していないのか、ともかく女に対しては恬淡《てんたん》としている。  最初、面接に現われたとき、その高学歴と経歴に果たして玄関番に居ついてくれるかどうか不安であったが、どうやら田毎に腰を落ちつけてくれた様子に、雅枝はほっとしていた。  亀山のような玄関番は鉦《かね》と太鼓で探してもなかなか見つかるものではない。それでいながら、雅枝の胸に亀山が背後に引きずっているような暗い影が気になった。  雅枝の気のせいかともおもうのであるが、客足が途絶えて暇なときなど、亀山の目がひどく暗い色に塗られているように見えることがある。  料亭玄関番を第一職業(最終学校を出て最初に就職する)とする者はいない。たいてい人生のなんらかの紆余曲折《うよきよくせつ》を経た人間が玄関番になる。  田毎に就職するに当たって一応の経歴は聞いているが、雅枝に話さない秘密が亀山の半生に隠されているかもしれない。その秘密が彼の目の色を特に暗く翳《かげ》らせているのではあるまいか。  それが雅枝の心に一抹の危惧《きぐ》となって引っかかっていた。  だが、玄関番の身の上を根掘り葉掘り詮索《せんさく》するわけにはいかない。そんなことをしてせっかく居ついてくれた玄関番を失うような羽目になってしまっては元も子もなくなる。  亀山が田毎に来てから早くも一カ月が過ぎようとしていた。  彼は完全に玄関番の仕事をおぼえて、いまは田毎になくてはならない戦力になっている。 「本当にいい人に来てもらったわ」  雅枝はおもった。  陰《かげ》日向《ひなた》なくよく働いてくれて、彼が来てから田毎の業績は少し伸びたようである。  バブルが弾《はじ》けてから料亭や飲食店、風俗営業が軒並み不振であえいでいるときに、田毎は以前とかわらず繁盛している。  雅枝の人脈でよい客が付いてくれているせいもあるが、彼女には田毎の好成績が、亀山が店に来てくれたおかげのような気がした。  まだ見習いの待遇であるが、近々正規の従業員として給料も上げてやるつもりでいた。  そんな矢先、十月の中旬、亀山の姿がふいに見えなくなった。  料亭の休日は原則として週一日、日曜日である。これに国民の祝日が加わる。日曜や祝日に営業しても客は来ないので、世間並みに休む。  亀山は目黒区の祐天寺《ゆうてんじ》にある田毎の寮に入っている。  古いモルタル造り二階建てのアパートで、田毎が従業員のために借りている。  現在、その寮に住んでいる者は若い板前が二人と仲居が二人、これに亀山を加えて五人だけである。  客が到着するのは午後六時以降であるが、男の従業員は午前十一時には出勤して、料理の仕込みや店の掃除をする。  ところがその日、亀山は正午を過ぎても出勤して来なかった。入店以来、そんなことは初めてである。  その日、振り替え休日でもなければ欠勤の届けも出ていない。  今夜は政府関係筋のVIPの予約が多く、雅枝は緊張していた。 「亀さんはどうしたんだね。まだ出て来ないけれど」  正午になっても姿を現わさない亀山に、雅枝は額に縦皺《たてじわ》を刻んだ。  少し前に寮に電話を入れたが、応答はなかった。 「あんたたち、寮で亀さんを見かけなかったかい」  雅枝は同じ寮に住んでいる板前に尋ねた。 「さあ、気がつきませんでしたけれど」  板前は無関心な表情で答えた。  同じ寮に住んでいてもそれぞれが勝手に生活しているので、プライベートな行動については知らない。  勤め先では部署が異なり、寮に帰ってもほとんど言葉を交わすこともない。  女将に聞かれて、昨夜、店が引けてから、寮では姿を見かけなかったようだと答えた。  昨日は定時に出勤して、零時ごろ帰った。それは雅枝が確認している。そのとき、明日は休むと亀山は言っていなかった。  入店する際、玄関番は代わりがいないので、無断欠勤はしないようにと固く注意しておいた。  急に具合が悪くなって寮で休んでいるとしても、電話には応答するはずである。 (おかしいわねえ)  雅枝は首をかしげた。  正午まで待った雅枝は、再度、寮に電話を入れて、管理人に亀山の部屋を覗《のぞ》いてくれと頼んだ。  間もなく管理人が電話口に戻って来て、 「亀山さんはお留守のようですよ。部屋にはだれもいません」  と答えた。 「留守? どこへ行ったんですか」 「さあ、それは知りません。昨夜帰らなかったんじゃあありませんか」 「昨夜帰らない? そんなはずはないわ。午後十一時ごろ店を引けているのよ」 「それじゃ、どこかに外泊したんじゃありませんか」  なにか事情があって外泊したとしても不思議はない。しかし、それならば外泊先から出勤して来るはずである。  専属の寮ではなく、民間アパートの数室を借りて寮にしているので、管理人にそれ以上のことは頼めない。  その日、亀山はとうとう出勤しなかった。  その日は帳場係と板前の見習いを玄関番に仕立てて急場をしのいだ。  亀山は翌日も出てこなかった。連絡もない。もはや彼の身になにか異変が発生したのは確かである。翌々日、雅枝は帳場の大塚《おおつか》と仲居頭のおときを連れて寮へ様子を見に行った。 「あれから注意しているのですが、亀山さん、帰って来た様子はありませんよ」  管理人が雅枝の顔を見て言った。 「おかしいわね。亀さんはそんな無責任な人じゃないのよ。出先で交通事故にでも遭って帰れなくなっているのかしら」  雅枝の胸の内で不安が急速に鎌首《かまくび》をもたげている。  だが、昨日からニュースに注意しているが、該当するような事件や交通事故の報道はなかった。  管理人室で預かっているスペアキーで亀山の部屋のドアを開けてもらった。  室内は六畳の和室に三畳の流し付きの板の間とトイレットである。  玄関の踏み込みから一目で室内が見渡せる。  六畳には万年床が敷かれ、枕元《まくらもと》に扇形に雑誌、灰皿、空の缶ビール、つまみものの袋、テレビのリモートコントローラーなどが置かれている。  掛け布団はすっぽりと人体が抜け出したままのかまくらのような形を留《とど》めている。  流しは使った形跡がない。  念のためにトイレや押入れの中を覗《のぞ》いてみたが、だれもいない。  押入れの中には汚れた下着やシャツが、亀山が田毎に初めて面接に来たとき持っていたアタッシェケースと共に押し込まれている。  雅枝は念のためにアタッシェケースの中を調べてみた。  数冊の雑本、雑誌、レシートやチケットの半券、ボールペン、ケース入りのサングラスなどの雑品と共に、一万円札が十数枚は入っていそうな財布および預金通帳が四冊と四枚のキャッシュカード、印鑑が入っていた。  通帳、カード、印鑑の名義は亀山以外に三人の別名義になっている。  なにげなく預金通帳を開いた雅枝が、あっと驚いた声を洩《も》らした。 「凄《すご》いわ。残高約一千万円よ」  雅枝が開いた預金通帳を覗き込んだ大塚とおときも目を見張った。  他の三冊も、一千万以上の残高が記入されている。  大手市中銀行の預金通帳である。合計すると残高が約四千九百万円になる。 「亀山さん、凄いお金持ちなのね」 「初めてお店に来たときは食いつめたような様子だったのに、人は見かけによらないものだわ」  おときも驚きの色を隠さない。  財布の現金も二十万円あった。 「こんな大金を残してどこかへ行ってしまうはずはない。きっとすぐ帰って来るつもりで出かけたんでしょう」  大塚が言った。 「外泊したにしても、帰って来るつもりだったことは確かね」  雅枝は自分に言い聞かせるように言った。 「ビデオが予約になっています」  大塚が気がついた。 「なにを予約しているのかしら」 「確認してみましょう」  大塚がテレビのかたわらにあったコントローラーで確認をした。 「今夜八時の歌番組を予約してありますよ」  大塚がビデオの |知 ら せ 窓《インデイケーター・ウインドー》 を睨《にら》んで言った。 「すると、帰って来てから、それを見るつもりなのね」 「予約をしたときはそのつもりだったんでしょう。予約をしたことを忘れなければね」 「とにかく今晩まで待ってみましょう」  だが、次の日になっても、亀山は帰って来なかった。  念のために通帳の一冊と印鑑を使って少額の金をおろしてみたが、残高は記入額に合っている。他の三冊も引き出されていない。カードを使用しておろしていない。  雅枝は亀山の身になにか異変が起きたことを確信した。  雅枝の知る限り、亀山が突然、姿を晦《くら》まさなければならない理由はなに一つない。  仮に雅枝の知らない突発的な事情によって亀山が姿を隠したとしても、残高四千九百万円の預金通帳、現金約二十万円を残していくはずがない。  亀山の行方不明は彼の意志に反して発生したのだ。      2  十月十四日以来、料亭従業員が寮に帰って来ないという届け出をその経営者から受けた碑文谷《ひもんや》署の水島《みずしま》刑事は、いやな予感をおぼえた。  玄関番が姿を晦ましたという田毎は赤坂の有名な料亭で、政府要人の会談場所としてマスコミによく名前が出る。  玄関番が住んでいた部屋を検索した水島は、ますます不吉な予感を募らせた。 「驚いたな。四つの銀行に分けて、約四千九百万円預金してある。玄関番になってまだ一カ月だそうだが、以前は旅行セールスマンのようなことをやっていたらしい。そちらの仕事がバブルが弾けて駄目になり、玄関番になったらしいが、五千万近くもため込んだのなら、駄目どころか大成功じゃないか。田毎の給料は十八万、落差が大きすぎるが、その貯金をそっくり残して姿を消してしまうというのは解せない」  水島は首をかしげた。 「五千万の預金もきな臭いにおいがしますね」  一緒に玄関番の部屋を見に来た日下部《くさかべ》が言った。 「いずれも預け入れ日が昨年十二月上旬から中旬にかけてになっている。そのころ五千万の収入があったことになる。それを四つの銀行に分けて預け入れている。そのうち二行は近藤進《こんどうすすむ》と沖田勇一《おきたゆういち》の名義になっている。ふざけた偽名を使ってやがる。後ろ暗い金だから、偽名を使って四つの銀行に分けて預けたんだ」 「昨年十二月上旬、五千万円が奪われるような事件はなかったかな」  日下部が記憶を探った。 「そいつはこれから調べてみよう。しかし、行方不明が金を原因にしているなら、預金通帳やカードや判こをそのままにしておくはずもないとおもうが」  玄関番に奪われた金を取り戻すために彼を拉致《らち》したのであれば、預金通帳と印鑑を放置しては目的を達せない。  室内には四千九百万の預金通帳以外には荷物らしい荷物はなかったが、数着の衣類ほか身のまわりの雑品も残されている。  ビデオには亀山が消息を絶った十月十四日夜以後、すでに録画された民放の歌番組以下二本の映画が予約されていた。  また室内に掛けられていたカレンダーには、無断欠勤した十四日以後の一週間の田毎の予約客も記入されていた。  カレンダーから判断しても、亀山に無断欠勤する意志のなかったことがうかがわれる。  これまで平常の生活を営んでいた者が、突然姿を消した場合は事故、または犯罪に巻き込まれた可能性が大きい。  該当するような事故は報告されていない。  行方不明者が暴力団、右翼、過激団体の関係者、あるいは大きな不動産取引などに関わっているときは犯罪の被害者になった疑いが大きい。  だが、亀山がそのような団体あるいは取引に関わっていた形跡はない。  とはいえ、田毎以前の経歴は本人の申し立てによるものであって、なにをしていたか曖昧《あいまい》である。  就職にあたって田毎に提出した履歴書によれば、本籍地は愛知県三河|安城《あんじよう》市である。  履歴書の記載は真実かどうか、これから確かめなければならない。  居住地の巡回連絡の案内簿には回答していない。 「こんなものがありましたよ」  亀山の所持品を調べていた日下部が、指先になにかつまみ上げた。 「なんだね」  水島が日下部の指先に目を向けた。 「旅館のマッチです。筑後柳川《ちくごやながわ》『御花《おはな》』とあります」 「筑後柳川だって」  水島は日下部の指先から件《くだん》のマッチを受け取った。  これまで判明した資料では、亀山と筑後柳川との間にはなんのつながりもない。  それはなんの変哲もない旅館のサービスマッチである。中身は三分の一ほど使用されている。 「亀山はライターを持っているが」  所持品の中にライターがあった。 「ライターを持っていても、マッチを使うことはありますよ」 「使うだろうがね、このマッチには泥がついているな」  御花のラベルが少し汚れている。 「その辺から拾ったような感じですな」 「箱も少しつぶれているよ。靴で踏んで気がついて、拾い上げたという感じだね」 「なんでこんなものを拾ったんでしょうかね」 「まだ拾ったとは断定できないが、ライターを持っているのに、こんな使いかけのマッチを保存していたところを見ると、特別な関心があったようだな」 「筑後柳川といえば、石川|啄木《たくぼく》か、若山牧水の故郷ではありませんか」 「詩人の郷里であることは確かだが、北原白秋だよ」 「そうそう、北原白秋でした。行ったことはないが、水郷の美しい町だそうですね」 「おれも行ったことはないが、東洋のベニスと言われている」 「亀山はセールスマンをしていたそうですから、柳川辺りへ足を延ばしていたかもしれませんよ」 「足を延ばしたということと、その土地の旅館のマッチを持っているということは必ずしもつながりがあるとは限らないよ。旅館のマッチなんて後生大事に保存しておくものではない。このマッチは亀山にとってなにか特別の意味があったはずだ」 「そう言われてみると気になりますね」  その他の所持品の中には、亀山の行方を示唆するようなものはなかった。      3  昨年十二月上旬、またはそれ以前に五千万円奪われたか、あるいは紛失した事件がなかったか、当時の報道や事件記録が調べられた。 「昨年十一月二十七日、厚木署管内の山林中で、相模中央電鉄の経理課長補佐が射殺されていますが、これは亀山の行方不明に関係ないでしょうか」 「なんだと」  日下部の報告に、水島が顔色を動かした。 「水さん、なにか心当たりがありますか」 「相模中央電鉄の会長相川章一郎は国宗首相に密着している政商じゃないか。国宗と相川はたがいに刎頸《ふんけい》の友と呼びあっている。この二人は田毎の常連かもしれないぞ」 「あっ、そうか」 「早速、厚木署に連絡を取ってみよう。なにかわかるかもしれない」      4  碑文谷署から連絡を受けた厚木署は興奮した。  昨年十二月上旬約五千万円を銀行に預けた田毎の玄関番が、突然姿を消したという。 「本宮恒夫は佐々木義久の山荘に闇《やみ》献金を運んで行った疑いが大きい。金を運んだとみられる空の鞄が後に佐々木の山荘の近くの山林から発見された。本宮が運んで行った闇献金を亀山が奪ったと想定すれば、時間的にはぴたりと符合する。鞄は一万円札で五千枚、約五・一五キロ、それを収納するのに恰好《かつこう》の容量だ」 「待て待て。それだけで行方不明になった田毎の玄関番と結びつけるのは短絡だよ。本宮が運んだ闇金の高も確かめられていないし、第一、闇献金の存在自体が確認されたわけではない。十一月二十七日に本宮が殺され、十二月上旬に玄関番が出所不明の四千九百万円を銀行に預け入れただけだ」 「相模中央電鉄と本宮は田毎の常連だったのではないのか」 「常連であったとしても、亀山が田毎の玄関番に就職したのは、今年の九月の中頃だという。本宮が殺されたのは昨年の十一月だ。仮に亀山と本宮の間になんらかの後ろ暗い関係があったとすれば、本宮が出入りしていた田毎に亀山が寄りつくはずもあるまい」 「亀山にその知識がなかったとすればどうか。亀山は金を奪っただけで、本宮の身上については知らなかった……」 「それは無理だ。本宮を殺害した犯人は、本宮を待ち伏せていた状況が濃厚だ。当然、本宮に関しての予備知識があったと考えられる」  厚木署では侃々諤々《かんかんがくがく》となった。  だが、本宮殺しの捜査は膠着《こうちやく》して、捜査本部は息も絶え絶えになっていたときに、碑文谷署からの連絡が活気をあたえたことは事実である。 「朝《チヨウ》さん、行方不明になった田毎の玄関番は貝塚瑞枝には関係ないでしょうか」  松家が朝枝に言った。 「なんだと」  朝枝が目を剥《む》いた。 「新宿署管内で殺された銀座のホステス貝塚瑞枝は、田毎といかにもつながりがありそうじゃありませんか」 「瑞枝の勤め先の銀座の店は政治家の溜《た》まり場だったそうだ。当然、常連は田毎とダブッていたかもしれないな」  朝枝の目が光ってきた。 「これは新宿署にも連絡する必要がありそうですよ」  厚木署から連絡を受けて、新宿署の捜査本部は驚いた。  特に棟居にとっては亀山陽一の名前は記憶に新しい。  水原智彦と貝塚瑞枝の旅行先宮島で出会った人物としてつい先日、棟居は亀山から事情を聴いたばかりである。  亀山は五年前、瑞枝が痴漢に襲われたとき、それを救うために駆けつけて、かえって瑞枝から痴漢にでっち上げられたということであった。  瑞枝殺しについてはそれ以上の関わりはないと判断して、棟居は亀山を容疑圏外に置いた。  その亀山が突然姿を晦ましてしまったという。  碑文谷署の水島によれば、亀山の居所は日常の生活の痕跡《こんせき》が留められ、長期の旅行に出た様子はないという。  碑文谷署では、亀山がなんらかの犯罪に巻き込まれたと疑っているらしい。  碑文谷署の照会が厚木署を経由して新宿署へつながったことによって、亀山の行方不明は課長補佐射殺事件、およびマンションホステス殺人事件と関連性を持つ疑いが濃くなってきた。  丹沢山中から発見された本宮の鞄には、金融機関に委嘱して一万円札を詰めたところ、詰め方によって約五千六百万円収納できることが確かめられている。  亀山は昨年十二月上旬から中旬にかけて、四回にわたって四行に約四千九百万円を預金している。  失業中の亀山が昨年十二月上旬、それだけの大金を一挙に手に入れたのである。亀山の預金の出所は、本宮が運んだ闇献金の可能性が高い。  厚木署では碑文谷署から連絡を受けると、本宮家に本宮が生前、柳川に旅行したことがないか、あるいは同地になんらかの関わりを持っていないか問い合わせた。  だが本宮家では、故人および同家と柳川にはなんの関わりもなく、親戚《しんせき》、知己も住んでいないと答えた。  故人は生前、柳川に旅行したこともないということである。  すると、亀山の所持品の中にあった柳川の旅館のマッチは本宮の遺品ではない。  だが、三署間では亀山陽一の行方不明と本宮殺し、瑞枝殺しの関連性を疑問視する声も強かった。  関連性を阻む最大のネックは、亀山の田毎就職が、二件の殺人の後だったことである。  亀山が両事件になんらかの関わりを持っているとすれば、田毎に近寄るはずがない。  それに対して、関連派は、つながりがあったからこそ亀山が田毎へ来たのではないかと主張した。  さらに四千九百万円の預金の出所を、本宮が運んだと推測される闇献金に求めるのは無理であるという意見も強かった。  三署間では連絡会議が検討されたが、会議の必要なしとする者が大勢を占めた。  すでに本宮殺しと瑞枝殺しは別件として捜査が進行している。いまさら田毎の新玄関番の行方不明によって、せっかく定まりかけた捜査の方角がまた乱されてはたまらんという心理傾向にある。  その中で厚木署の松家、朝枝、新宿署の牛尾、青柳、捜査一課の棟居などは関連性を主張する少数派であった。  彼らは各捜査本部がそれぞれ独立の別件として捜査を進めている中で、民間外交と称して相互に連絡を取り合っていた。  ここに新たな民間外交官として碑文谷署の水島と日下部が加わった形である。 「柳川へ行ってみたいですね」  松家と連絡し合っているとき、棟居が言い出した。 「私も同じことを考えていました。柳川になにかあるような気がします」  松家は我が意を得たりというように反応した。  だが、亀山陽一は犯罪の被害者となったとは確定されていない。  突然行方を晦まし、彼の所持品の中に柳川の旅館のマッチがあっただけである。  いわんや、本宮恒夫および貝塚瑞枝との関連性については、はなはだ曖昧|模糊《もこ》としている。  これで出張許可を要請するのは無理であった。 [#改ページ]   私怨を含む旅      1  この時期、本宮桐子から棟居弘一良に会いたいという連絡があった。  桐子の存在は棟居の胸の内でほのかな幻影となって烟《けむ》っている。  はからずも穂高の登山を共にして、上高地で清浄な夜を明かした後、東京で彼女と再会を果たして、確たる存在感を持った。  捜査は膠着していて、捜査員は不本意ながら比較的自由である。  また本宮桐子は間接的な事件関係者でもある。  二人は十月下旬の夕方、新宿西口のホテルのラウンジで出会った。  桐子は薄いブルーのシルキーな光沢のあるボディコンシャスのスーツをまとっていた。  登山服やワンピースでは隠されていたたおやかな曲線が強調されて、棟居の目にまばゆく感じられた。 「ご無沙汰《ぶさた》しております」  彼女はにこやかに一別以来の挨拶をした。 「その後、捜査は進展していないようですね」  棟居はたぶんに面目ないおもいで言った。  本宮殺しとは別件とされたものの、棟居は関連性を主張している少数派である。 「実は今日はそのことでおうかがいしたのです」  桐子は言った。 「なにか新しいことがわかりましたか」  担当外の棟居に父親の事件の相談を持ちかけてきたのは、穂高の縁が彼女の心の中に影を落としているからであろう。 「実は先日、厚木署の松家さんから、父が柳川に関係がないか問い合わせを受けました」 「ああ、そのことですか。それでしたら、私の方にも松家さんから連絡がありましたよ」 「生前、父から柳川という地名は聞いたことがありません。親戚や知人も柳川には住んでいません。父や私どもとはなんの関係もない土地でした。その旨お答えしたのですが、松家さんから問い合わせを受けた後、父の遺品を調べていましたら、こんなものが出てきました」  棟居は桐子がハンドバッグからつまみ出して卓上に置いたものに目を向けた。 「これは、テレホンカードですな」  桐子の差し出したテレホンカードをなにげなくつまみ取った棟居は、はっと目を見開いた。  カードの表に「水郷柳川」の文字と、柳の影を落とした川面を下る遊覧船を認めたからである。  カードには、さらに柳川「風酔亭《ふうすいてい》」の文字が刷られている。 「父が柳川へ行ったということは聞いておりません。おそらくだれかからもらったのだとおもいます」 「風酔亭と書いてあります。料亭でしょうか」 「柳川のガイドブックを調べてみたのですけれど、風酔亭という喫茶店が載っています。風酔亭に電話をかけて問い合わせましたところ、テレホンカードをサービスで常連に配っているそうです」 「それをお父さんが持っていた……」 「私、柳川へ行ってみようとおもいますの」 「柳川へ、あなたが」  棟居は視線をテレホンカードから桐子に転じた。 「松家さんは、父と亀山陽一さんという料亭の玄関番との間になにか関係はなかったかと大変気にしていました。父からそのような名前は聞いたことがありませんし、父の生前の人間関係の中に亀山さんはいませんでした。でも、もしかしたら貝塚瑞枝さんと亀山さん、あるいは柳川との間になにか関係があるのではないかとおもったのです」  棟居は意識の盲点に光を射《さ》し込まれたような気がした。  亀山の失踪《しつそう》以後、彼と柳川、および本宮との関連に注意が向けられていたが、瑞枝が殺害された後、亀山が田毎に就職したことから、彼らの間には事件についてつながりはないものと見ていた。また亀山自身から瑞枝との過去のかかわりを聞き、アリバイが成立して亀山は犯人適格条件を欠くと見た。瑞枝が柳川になんらかの関わりを持っていれば、そこから捜査に新たな発展があるかもしれない。 「あなたの着眼は面白いとおもいます。早速、貝塚瑞枝と柳川の関わりを調べてみましょう。表に見えなくとも隠されているかもしれない。あなたが柳川へいらっしゃるときは、私もお供したいとおもいます」 「棟居さんに一緒にいらっしゃっていただければ、とても嬉《うれ》しいですわ」  桐子の顔が輝いた。 「出張の許可が下りなければ、休暇を取って行きますよ」  棟居も桐子と共に南国の美しい水郷を旅する場面を想像して、心が弾むのをおぼえた。  旅行の本来の目的が忘れられて、同行者が大きく意識の中にクローズアップされている。  その想像の構図に、またしても穂高における桐子の姿がオーバーラップした。  棟居の話を聞いた那須警部は、いともあっさりと柳川への出張を許可してくれた。 「本宮の遺品から柳川の喫茶店のテレホンカードが出てきたということは耳寄りの話だね。柳川になにか隠されているかもしれない。行ってきたまえ。しかし、二人を派遣する余裕はない。すまんが、きみ一人で行ってくれ」  那須は言った。それは棟居にとって願ったり叶《かな》ったりである。  一人で柳川への出張ということは、桐子と二人だけで行くことを意味する。  那須には桐子の同行は伏せておいた。べつに隠そうとする意識はなかったが、あえて話すこともあるまいとおもった。      2  棟居と本宮桐子が柳川へ向かったのは、十月末の平日であった。  羽田空港で桐子と落ち合い、空路福岡まで行き、西鉄福岡駅から特急電車で柳川へ向かった。  観光シーズンであったが、平日である上に午後の中途半端な時間であったので、車内に観光客の姿は少ない。  大きな天蓋《てんがい》に覆われた西鉄福岡駅を発車した特急電車は、快適なスピードで南下した。坦々《たんたん》たる平野の果てに丘陵性の低い山が見える。  福岡を出るときは曇っていたが、南下するにつれて空が明るくなってきている。  山野は少し色づいていた。  桐子は物珍しそうに車窓の風景に目を遊ばせている。  彼女とは穂高以来、二度目の旅の同行であるが、山とはいささか勝手がちがって、二人とも少しとまどっている。  山では歩きながら自ら新しい風景の中に身を運んで行ったが、下界の旅行では交通機関に身を預けて、未知の土地へ受動的に運ばれて行くだけである。  電車は進むほどに乗客を降ろし、車内の人影はまばらになった。  平野はますます開けて、丘陵性の山地も見えなくなった。 「棟居さんと山で再会することはあるかもしれないと思っていたけれど、まさか柳川へ一緒に旅行することになろうとはおもってもいませんでしたわ」  桐子が車窓から視線を棟居の方に戻して言った。 「私も同じです。あなたと再会することがあるとすれば、上高地か、あるいは信州のどこかかとおもっていました」 「でも、よかったわ」 「よかった……?」 「だって、山ではまたご迷惑ばかりかけてしまいますもの」  桐子が少しはにかんだように笑った。 「迷惑だなんて、少しもおもっていませんよ。上高地でもそのように言いました」 「でも、この旅行自体が棟居さんにご迷惑をかけているかもしれませんわ」 「ぼくは仕事ですよ。あなたからヒントをいただいて、新しい局面が開けるかもしれません」 「お仕事だけですの」  桐子の口調が少しがっかりしたように聞こえた。 「あなたに同行できたのは役得と申しましょうか」 「そうおもっていただければ嬉しいわ」 「公用の出張ではあっても、あなたに同行しているとプライベートな旅行のような気がします」 「私は完全にプライベートよ」  桐子が謎《なぞ》をかけるように言った。  棟居はあえてその謎を解こうとはしない。その謎を解くためには、この旅の目標を完全に私的にしなければならない。  桐子との旅行に心を弾ませることはあっても、棟居には旅の本来の目的を変える意志はない。 「お父さんを殺した犯人の手がかりを探るのは私用ですか」 「私にとっては私用です。私用というよりは、私怨《しえん》かもしれません。父を殺した犯人を捕らえないことには、父の霊が浮かばれないような気がします」 「犯人探しは警察に任せておいてください」 「もちろんお任せしています。ですから、これは私用なのです。素人が探偵の真似事《まねごと》をしても捜査の邪魔になるばかりですわ。私用としてお邪魔にならない程度に父の足跡を追いたいのです。柳川に父の足跡が隠されているかもしれない。そんなおもいがして、居ても立ってもいられなくなったのです。父の足跡を探すのが私怨であるとしても、その程度の私怨は許されてもいいのではないでしょうか」 「犯人に対して直接、私怨を晴らすことは法律で禁じられていますが、私怨を含む旅行はそれぞれの自由でしょう」 「私怨を含む旅行なんて、柳川のイメージにはそぐわないような気がします。やはり私用の、いいえ、私情の旅行ですわ」 「私情は詩情に通じていいですね」 「いかにも白秋の郷里にふさわしい旅行の動機ですわね」  そのとき車内の表示窓に、次の駅は柳川と表示された。  棟居はせっかく桐子がかけてくれた「私用」の謎の意味をはぐらかされたような気がした。  柳川駅で大半の客が降りた。  観光客は意外に少なく、ほとんどの乗客が地元の人間らしい。  跨線橋《こせんきよう》を渡り改札を通って、駅前広場に立つと、裸形の男女の寄り添った塑像から流れ落ちる人工滝が二人を迎えた。  駅前広場の風景はいずこも同じ没個性であるが、人工滝が柳川らしいアクセントになっている。  駅前通りには人影も車もまばらで、それがこの町の人々の穏やかな暮らし振りを象徴しているようである。  二人が駅前に立ってきょろきょろしていると、「からたち観光」という文字を刷り込んだ法被《はつぴ》を来た若い男が近寄って来た。 「川下りでしたら無料バスで送迎します」  男は二人に声をかけた。  二人は顔を見合わせた。観光に来たわけではないが、水郷柳川に来て川下りには心を惹《ひ》かれる。  折から傾いた秋の陽《ひ》が、町を優しく染め上げている。 「風酔亭という喫茶店に行きたいんだが」 「風酔亭でしたら下船場の近くですよ」 「歩いて行ける距離でもなさそうだし、どうせなら船に乗って行きましょうか」  棟居が桐子の顔色をうかがった。 「ぜひ乗りたいわ。実は川下りの船に乗ることも、この旅行の目的の一つにしていたのです」  桐子が言った。  二人は案内人が運転する緑色の送迎バスに乗った。客は彼らだけである。  車は市内をしばらく走った。道幅の広い通りにも低い家並みが連なり、車と人影がまばらである。  案内人が渡してくれたパンフレットに、  しずかさは殿のお蔵の昼|鼠《ねずみ》  ちょろりとのぼりまたも消ぬかに  という北原白秋の歌が刷ってある。  まさにその歌の通りに、昼鼠が大通りにちょろりと這《は》いだしてきそうな静かな町である。  だが、通りの家並みは平凡で、旅人が勝手に描いた柳川の面影はない。  送迎バスは間もなく、奥州《おうしゆう》町というところにある川下り乗船場に着いた。  ここで乗船券を買って船に乗り込む。菅笠《すげがさ》を被《かぶ》った年配の船頭が、船の艫《とも》に立って待っていた。  二人が乗り込むと、船頭が長い棹《さお》を操って、船はゆらゆらと岸を離れた。  水上から眺める柳川の町は一変した。柳や色づいた樹葉やなまこ壁が影を落とす水面を、船頭の操る船がゆっくりと下って行く。  水は濁っていて嗅《か》ぎ馴《な》れない異臭が漂っている。船頭が味噌《みそ》をつくる麹《こうじ》のにおいだとおしえてくれた。  柳川の水路は町の表通りよりも、むしろ家並みの裏に通じる。住人の洗い場や裏庭が水路に面していて、生活のにおいが漂っている。  中には住居と庭が川をはさんで離れていて、庭へ渡る小舟や庭樹《にわき》の剪定《せんてい》船が家の裏に舫《もや》ってあるところもある。  船が進むほどに夕陽が傾き、水面に杳々《ようよう》と夕闇が降り積もってきた。  水路に面した家並みの窓に灯がともって川面《かわも》に投影し、小舟の立てるさざ波に灯影が砕ける。  夕靄《ゆうもや》が川面に屯《たむろ》して、遠景を烟らせている。優雅で安らぎに満ちた光景であった。  家の中で話す住人の声も穏やかで、船頭の棹の水を切る音が時おり静寂を破る。  青い水面が薄赤く染まってきた。  桐子が小さな嘆声をあげた。色づいた樹葉が映っているのかとおもったら、空に潤んだ夕焼けが反映していたのである。  気温が下がっているが、寒いというほどではない。  船頭が要所要所で案内をしてくれる。昔ながらの赤|煉瓦《れんが》造りの蔵、水門、鰻《うなぎ》の供養碑、廃墟《はいきよ》となった武家屋敷など、歴史を刻んだ建造物が水路に沿って次々に通り過ぎて行くが、旅人は心に落ちる優しい影として無責任に呆然《ぼうぜん》と見過ごしているだけでよい。  おそらく彼らにとってなんの利害の関わりもない旅の路上の風物が、彼らの人生に積み重なった疲れを柔らかく癒《いや》してくれるのである。  小舟に揺られながら川面に降り積もる夕闇の底に身体を浸して、ゆっくりと川を下っている間に、棟居は柳川に来た本来の目的を忘れそうになった。  ここは現世から柔らかく隔絶されたメルヘンの世界である。  それも船を操る船頭や、水路に面した住人には関わりのない観光客だけのメルヘンであるが、地元にとっては日常の生活の場所を観光客の夢の国にするための一致協力が無理なく優しげに行なわれている。  その気配が町の素顔となって水路を下る旅人を柔らかく包んでいる。  船頭が渋い声で歌い出した。映画やテレビで見るベニスのゴンドラの船頭のように、朗々たる歌い振りではないが、これはまた柳川の静かな水路にぴったりと調和する渋い喉《のど》である。  歌い終わって、おもわず拍手をしたときは、歌詞はほとんどおぼえていない。聞かせるための歌ではなく、船頭がいい気分になって自発的に歌い出したような歌であった。  これがモーターを付けた船で下れば、時間も短縮してはるかに効率がよくなるであろうが、あえかに優しい柳川の水路は死んでしまう。  そのことを柳川の人たちはよく知っており、一舟一人の船頭の棹一本に頑固にこだわって観光客を運んでいるのである。  次第に暮れまさる空を映して、水面の夕闇も濃くなってきた。  夕闇に水の濁りが隠されて、川面を覆う樹葉が優しい影を落とした。  船は終点に向かって近づいているようである。  右手の岸辺に古格のある西洋館が広い庭を侍《はべ》らせて見えてきた。 「あれが前の立花藩主の別邸で、『御花』です」  船頭が説明した。  棟居と桐子は顔を見合わせてうなずいた。そこが今宵《こよい》の宿であり、この旅行の目的の一つでもある。  地元で殿様屋敷と呼ばれる宏壮な御花をめぐるようにして、船はゆっくりと進む。  両岸からこんもりとした樹木の叢《むらが》りが迫る水路を通り抜け、小橋を潜《くぐ》ると、両岸に家並みが密集していた。そこが水路の終点の水天宮であった。 「お疲れさまでした。またおいでめせ(お越しください)」  船頭の声を背に受けて、船から降り立つ。  風酔亭は下船場から掘割に沿って東の方へ少し足を延ばした沖端《おきのはた》と呼ばれる柳川水路の終点の地域にある。  地図を見ると、北原白秋の生家と隣り合っている。  水路に漂っていた味噌の麹のにおいが消えて、海が近いせいか潮のかおりがするようである。  風酔亭はすぐに探し当てられた。  樫材《かしざい》のような重圧な木製ドアに素通しのガラスを亀甲型《きつこうがた》にあしらい、表から店内の様子が覗き込める。落ち着いた親しみやすい店構えである。  店内に客の影は見えない。  ドアを押すと、右手にカウンター、左手に四脚のテーブル席三つ、玄関ドアをはさんで小さな展示棚があって、土地の細工物がディスプレイされている。  店の奥に中庭が見える。  カウンターにいた女性が二人を見て、いらっしゃいませと声をかけた。  冷えた身体《からだ》に店の暖かい空気が快い。  とりあえずコーヒーを注文して一息つく。  やがて淹《い》れられた熱いコーヒーをすすると、川風に吹かれて冷えた身体が芯《しん》の方から温まった。  その間、表通りに人影もなく、新たな客も入って来ない。  昼の間眠っていたような町は、日暮れと共に人の気配まで絶えたように静まり返った。  中庭に猫が入って来てうずくまっている。  コーヒーをすすって人心地ついたところで、棟居は例のテレホンカードを取り出した。 「このカードはお店のものですね」  棟居が差し出したテレホンカードに目を向けたカウンターの女性は、 「そうです。一昨年つくって、常連のお客様やご希望の方にお分けしています」  とうなずいた。 「この人たちにご記憶はありませんか。こちらの店に来ているかもしれないのですが」  棟居は亀山、本宮、水原、相川裕一、瑞枝の五人の写真を差し出した。  カウンターの女性は写真を取り上げて見つめた。  五人のうち、瑞枝の写真に彼女の視線が固定したようである。 「この女性におぼえがあるのですか」  棟居は彼女の反応を素早く見て取った。 「もしかすると、あのときの女性かもしれないわ」  彼女はつぶやいた。 「あのときの女性というと」 「中庭に猫がいるでしょう。この近所に棲《す》み着いている野良猫です」 「猫がどうかしましたか」 「この写真の女性によく似たお客様が、あまったミルクを灰皿に入れてあの猫にやったのです」 「ほう、ミルクを猫にね。それはいつごろのことですか」 「一昨年の十月半ばだったとおもいます。その人のお連れ様が、私どものテレホンカードが気に入ったと見えて、二十枚ほど買われました」 「その女性に連れがいたのですね。どんな連れでしたか」 「男の方でした。四十代後半から五十前後と見える恰幅《かつぷく》のいい方でした」 「その連れというのはこの人たちではありませんか」  棟居は本宮、亀山、水原、相川の四人の写真を再度示した。本宮一人が辛うじて年齢が符合する。 「いいえ、この人たちではありません。押し出しの立派な、重役風の方でした」  カウンターの女性ははっきりと首を横に振った。  ここにまた瑞枝の新たなパートナーが登場してきた。  一昨年の秋、瑞枝と柳川に旅行した押し出しのよい重役風の男はだれか。 「この女性は連れの男をなんと呼んでいましたか」 「パパと呼んでいたようでした。でも、べつに聞き耳を立てていたわけではありませんので、はっきりそう呼んでいたかどうかわかりません。そのお二人連れがどうかしたのですか」  カウンターの女性の面に不審の色が塗られた。 「実は私はこういう者ですが、ある事件の参考に二人の足跡を追っています。その二人についてどんなことでもけっこうですから、気がついたことがありましたらおしえてください」  棟居は警察手帳をちらりと覗かせた。  女性の顔色が改まった。 「とおっしゃられても、特に気がついたことはありませんでした」 「二人がお宅に見えたのは一昨年のいまごろということでしたが、何時ごろでしたか」 「午後三時ごろでした」 「荷物は持っていましたか」 「いいえ、女性の方がバッグを持っていただけでした」 「すると、ホテルに荷物を預けて出て来たのですね」 「とおもいます。そうそう、手に白秋生家のパンフレットを持っておられたので、きっと白秋生家を見学されてからいらっしゃったのだとおもいます。私どものお客様はほとんどが白秋生家からの帰途立ち寄られます」 「二人は御花に泊まっているようなことは言いませんでしたか」 「特に気がつきませんでした」 「柳川には旅館は何軒ぐらいあるのですか」 「十何軒あると聞いています」 「その中で最も有名なのは御花ですか」 「そうです。なんといっても旧藩主の別荘ですから、柳川一というよりは、九州でも有数の旅館です。松島を模してつくったという庭園は総面積七千坪もあって、冬は野ガモの群が飛んで来ます。国の名勝に指定されています」  カウンターの女性はやや自慢げに言った。 「貝塚瑞枝と同行者が泊まったとすれば、御花の可能性が大きいですね。東京から重役体の男が若い女を連れて来れば、その土地一番の宿を取ろうとするにちがいない。御花に行けば、同行者の名前が記帳されているかもしれません」  棟居は桐子に言った。  亀山の所持品の中に御花のマッチが残されていた。  亀山と瑞枝の関係は亀山から聞いただけで証明されていないが、亀山と瑞枝の同行者の間になんらかのつながりがあったかもしれない。  とすれば、御花のマッチは同行者から亀山に渡った可能性がある。  今宵の宿は御花に予約してある。御花はこの旅の目的の一つでもある。  亀山陽一の遺品の中にあった御花のマッチは、貝塚瑞枝、あるいは彼女の同行者から取得したものかもしれない。  御花には彼らの足跡が残っている可能性がある。御花を調べれば、瑞枝の同行者の正体を突き止められるかもしれない。  風酔亭で瑞枝の同行者がにわかにクローズアップされてきた。      3  風酔亭を出た二人は御花へ向かった。沖端の船溜《ふなだま》り(船着場)に沿って水天宮前の下船場の方へ引き返すと、船で下って来た水路に囲まれて御花がある。  宏壮な建物に松島を模した庭園|松濤園《しようとうえん》を侍らせた広大な敷地は、まさに殿様屋敷である。  立花家十六代(は卒去して十七代は未定)の歴史と一大観光地柳川を擁して、士族の商法と言うが、立花家の後裔《こうえい》がその別邸を旅館に転用して繁盛しているのは稀有《けう》の例であろう。  庶民が殿様の屋敷に客として泊まれるのも時代の恩恵である。  船から眺めた西洋館は歴史記念館になっていて、そのかたわらに接続されている和風建物が宿泊施設になっている。  宏壮な建物に比較して、一階のフロントは小さい。  宏壮な建物のわりには部屋数は少なそうである。ロビーに人影はない。  棟居はフロントで迎えてくれた女性に、彼らの名前を告げた。 「本宮様と棟居様ですね。お待ち申し上げておりました」  フロントの女性がにこやかに答えた。  ちょうど他の客の姿も見えなかったので、棟居は早速その機会を利用した。 「ある事件の関連で捜査しているのですが、一昨年の十月半ば、貝塚瑞枝という女性がこちらに泊まっているはずです。あるいはべつの名前で泊まったかもしれません。五十代前後の重役風の押し出しのよい男と一緒です。これが貝塚さんの写真です」  棟居はレジスターカードに記帳すると、瑞枝の写真をカウンターの上に差し出した。  警察手帳を示されて少し顔色を改めた女性は、 「少々お待ちくださいませ」  と言って、フロントの背後のオフィスへ入った。  間もなくフロント責任者らしい男を連れて戻って来た。 「お客様の宿泊記録は、お客様のプライバシーに関しますので部外秘にしておりますが」  フロント責任者は棟居と桐子に詮索の視線を向けて言った。 「客のプライバシーは守ります。実はこの写真の女性は六月二十五日、新宿の自宅マンションで殺害されました。その事件関係人物として一昨年の十月半ば、彼女とお宅に泊まった可能性のある同行者を探しております。ご協力いただけませんか」  殺人事件と聞いて、フロント責任者の表情が改まった。 「そういうことであれば、お調べいたします。ご同行者のお名前はわかりませんか」 「それがわかっていません。一昨年のいまごろ、貝塚さんと一緒に風酔亭に現われたことは確認しています」 「もしご同行者のお名前でレジスターされていると、記録に残っていない虞《おそれ》があります」 「二人連れの場合は、二人の名前をレジスターしないのですか」  いま到着した際、棟居と桐子はそれぞれレジスターした。 「ご夫婦やご同室の場合は、ほとんどご主人あるいは代表者お一人の名前だけレジスターなさいます。ともかく、貝塚瑞枝さん名義で調べてみましょう。後刻ご連絡申し上げますので、ひとまずお部屋にご案内いたします」  二人は年配の仲居に先導されて、三階の庭に面した客室に案内された。  棟居と桐子の部屋は隣り合っている。 「まあ、素晴らしい眺め」  部屋に入るなり桐子が嘆声をあげた。  桐子の部屋は庭に面した角部屋で、広大な庭園が一望の下に俯瞰《ふかん》できる。  部屋に面する大庭園には松島を模した二百八十本の松と名石を配した池がある。西の天末《てんまつ》に消えかかるほのかな残照を受けて、池は幕を下ろしかけた名舞台のように、杳然《ようぜん》と暮れかかるインクブルーの夕闇の奥に淡い色彩を溶いている。  二人のためによい部屋を取ってくれていたらしい。  桐子の部屋をちょっと覗いた後、棟居は自分に割り当てられた隣室へ引き取った。 「お邪魔してもよろしいでしょうか」  自分の部屋に荷物を置いた桐子が来た。 「どうぞ」  棟居は桐子にソファーを勧めた。桐子は部屋の主たるスペースを占めたツインベッドから目をそらすようにして入って来た。  二人のために用意されたいずれの部屋もカップル用である。同行者のための設備を虚《むな》しく遊休させて、それぞれ別室に泊まる浪費が、了解に達していない男女を隔てる節度というものであろう。 「お食事は何時にご用意しましょうか」  二人を案内して来た仲居が尋ねた。 「そうですね。何時から食べられますか」 「六時から九時にかけて、宴会場の方でご用意いたします」  仲居に問われて、急に空腹が意識されてきた。  時計を見るとそろそろ六時である。たったいますぐにでも、胃の腑《ふ》の方の準備は整っているが、フロントの回答が気になる。  棟居が桐子の顔色をうかがうと、彼女は棟居の胸の内を察したように、 「七時ごろでどうかしら。それまでにはフロントからなにか言ってくるかもしれませんわ」  と言った。 「それでは、七時にお願いします」  棟居は仲居に告げた。 「桐子さん、その間にバスでも使ったらいかがですか」  棟居は言った。 「それほど汗もかいてませんので、お食事の後でけっこうですわ。棟居さん、バスをお使いになります」 「いいえ、ぼくも食後にします」  せっかく彼女と一緒に過ごせる時間をバスで失ってはもったいないとおもった。  桐子も同じように考えてくれているとしたら嬉しい。  二人はしばらく押し黙って、暮れまさる庭園に視線を遊ばせていた。  そのとき室内電話が鳴った。  七千坪の庭園に放散していた意識を引き戻した棟居は、受話器を取り上げた。 「こちらはフロントでございますが、先程お尋ねを受けた貝塚瑞枝様について、一昨年八月までさかのぼって、それ以後の宿泊記録を調べましたが、貝塚様のお名前はございませんでした」 「貝塚瑞枝の名前はない……」 「どなたかほかの名義でお泊まりいただいておりますと、お名前がわからない限り調べようがございませんが」 「貝塚瑞枝名義の宿泊客が記録にないということは、同行者の名前でレジスターしていることが考えられますが、一昨年のいまごろ、重役風の男と若い女のカップル客は泊まりませんでしたか」 「お一人のお泊まり客はほとんどございません。だいたいお二人連れか、ご家族連れでございます」 「当時の宿泊客リストを全部見せていただけませんか」 「さあ、それはちょっと」 「ぜひご協力をお願いします。これは殺人事件の捜査なのです」  電話口でためらった相手に、棟居は押した。 「大変な数になりますが」 「かまいません」 「少し手間取りますので、後刻お部屋の方にお届けします」  フロント責任者はいったん電話を切った。  その間に予約をした夕食の時間が迫った。 「時間がかかりそうですから、先に食事をすませましょう」  電話を切ると、急に空腹が強く意識された。 「そうしましょうか」  桐子も同じおもいであったらしい。  入室時に仲居から案内された宴会場へ向かって長い廊下を伝う。  宴会場の入口には区分された各小部屋の名前が表示されている。  入口に出迎えた仲居が、藤の間へ案内した。  こぢんまりした和室に、すでにお膳立てができている。 「美味《おい》しそう」  桐子が嘆声をあげた。 「当館名物の有明海の珍味でございます」  仲居が言った。  色とりどりの食器には、棟居の名も知らないような魚介類が、いかにも食欲をそそるように美しく盛りつけられている。  棟居の目は貝の蓋《ふた》からおたまじゃくしのように尾の出ている奇妙な貝に固定した。 「これは緑三味線貝です。地元ではメカジャと呼んでいます」  仲居が説明した。  つづいて仲居は食卓の料理を次々に説明してくれた。 「これはワタリガニです。それから海茸《うみたけ》の生もののぽん酢和え。これはムツゴロウ。それはヒラマサとタイとイカになっているとおもいます。これは柳川鍋です。ドジョウです。これはアサリのバター焼き。これはクチゾコの空揚げです。これがイソギンチャクの一種でワケです」  仲居の説明もうわの空に料理を満喫して部屋へ帰って来ると、棟居の室内で電話が鳴っているのがドア越しに聞こえた。 「フロントからの電話でしょう」  棟居がドアを開いて受話器を取り上げると、フロント責任者の声で、 「リストのご用意ができました。お部屋にお持ちしましょうか」  と問いかけてきた。 「いいえ、こちらからまいります」  棟居は言った。 「私もご一緒してよろしいでしょうか」  ドア口に立って電話のやりとりを聞いていた桐子が言った。 「どうぞお願いします」  フロントへ下りて行くと、責任者が待っていた。 「宿泊リストはお客様のプライバシーですので、その点お含みおき願います」  責任者は念を押した。 「ご心配なく。プライバシーを詮索するのが目的ではありません」  ホテルや旅館には医者、看護婦、弁護士、郵便局のような守秘義務はない。強制捜査においては刑事訴訟法九十九条によって、資料の提出を求めることができる。  だが、ホテル側の協力を得て任意提出してもらえれば、それに越したことはない。  保有客室数十九室、収容人員《キヤパシテイ》六十人。十月は観光シーズンだけあって、連日、満室に近い。  宿泊客の中から団体や家族連れ、また少数派であるが単身の客は除外してよい。  それらしいカップルの中で、特に東京方面から来た客をマークする。  さすが国民詩人北原白秋の郷里だけあって、全国から客が来ていた。  だが、それらしい客は見当たらない。人目を忍ぶ不倫旅行なので、住所も名前も偽っているかもしれない。  東京の近隣県から来た客も見逃せない。  棟居はリストの中から六組のカップルを抜き取った。  まずこの六組を当った後、該当しなければ該当期間中宿泊した全カップルを追うつもりである。  四組は東京、他の二組は横浜と川崎から来ている。  宿泊日は一昨年の十月十日から下旬にかけてである。  風酔亭の女性の証言によれば、貝塚瑞枝が重役体の男と一緒に現われたのは十月半ばごろのことであるという。  十月十四日と十月十六日に東京在住の二組のカップルが泊まっている。  十四日は吉田有一郎《よしだゆういちろう》。四十八歳。職業、会社役員。同|野枝《のえ》。住所、東京都世田谷区大原。  十六日は山下真一《やましたしんいち》。会社員。ほか一名。東京都練馬区氷川台である。  他の四組の客を含めて、電話番号の欄には記入されていない。  十五日は団体客と家族連れで該当客はいない。  この二人を受け付けたフロント係や担当の客室係はすでに退社していた。他の従業員の印象には残っていない。  他の四組を担当した社員は在社しているが、貝塚瑞枝の写真を示しても反応がなかった。  六組のカップルの予約はいずれも宿泊当日、駅の観光案内所から申し込まれている。  当日予約の客はふらりと立ち寄って、泊まろうかという気になった者が多い。 「十月は当日予約はほとんど割り込む余地がないのですが、突然のキャンセルが出たのだとおもいます。いずれも一見《いちげん》で、|再 来《セカンドコール》はございません」  責任者が説明した。  徒労感が促され、急に疲労をおぼえてきた。 「この客の住所はすべて当たってみます」  棟居は言った。  結局、宿泊リストと従業員の印象には貝塚瑞枝の足跡は残っていなかった。 「お部屋へ帰りましょうか」  桐子がささやいた。  徒労感は彼女の方が棟居よりも一層大きいであろう。 「そうしますか」  もともと貝塚瑞枝が御花に泊まったというのは棟居の推測にすぎない。  彼女が風酔亭に姿を現わしたことは、御花に泊まったことにならない。他の旅館に泊まったかもしれないし、あるいは泊まらずに柳川を素通りしただけかもしれない。  部屋へ引き上げると、すでにメイクベッドされていた。  使用されないツインベッドの一方のスペースが虚しく目に映じる。  桐子の部屋にもツインベッドが備えられている。桐子はどんな気持ちで空費されている一方のベッドを眺めているであろうか。  リゾート地なので、一人用の部屋はない。単身客はいずれも部屋の広さをもてあましながら膝《ひざ》を抱えて侘《わび》しく眠るのである。  徒労感が身体に澱《よど》んでいるが、妙に興奮していて寝つかれない。  東京にいれば眠る時間には程遠い。仲間たちはようやく一日の捜査から上がってきて、捜査会議が開かれているころである。  闇の奥に水音が聞こえた。掘割か他に棲む魚が飛び跳ねたのであろうか。  窓の外に広がる七千坪の広大な庭園は、一際濃い闇の塊となって星のまたたく空につづいている。  棟居は眠れないままテレビでも見ようとおもって、リモコンスイッチを探した。  ナイトテーブルを物色した彼は、ふとテーブルの下に積まれている二十冊以上の和紙の表紙で綴《と》じたノートに気づいた。  表紙には「想い出帳」と書かれている。  最上部の一冊を手に取って、なにげなくページを繰《く》ってみた。 [#改ページ]   別食の鰻飯《せいろ》      1  この部屋に泊まった客が記念におもいつくままの文章を書き込んでいる。  筆者は女性の方が圧倒的に多い。そのほとんどが、女性グループで泊まって、今度来るときは恋人と来たいというパターンである。  新婚旅行や銀婚旅行、また定年退職者が老妻を伴っての記念旅行の感想などもある。  時間つぶしになにげなく読んでいた棟居の目が、次第に興味を持ってきた。 「一九九×年八月二十三日 八代千恵子  柳川《やながわ》の宿の窓辺に見る花火高く上がれとわが子の要請」 「主人の故郷柳川|沖端《おきのはた》、毎年五月は柳川へ。今年は楽しみにしていた御花の宿、おもっていた以上に満足。来年も御花が取れるように。年に一度は家族で柳川へ来られるよう楽しみに。今年も想《おも》い出いっぱいで帰ります。どうも有り難うございました。来年もこの部屋で。好枝」 「楊柳《ようりゆう》や殿のお蔵のなまこ壁  パパの話、またここに泊まって殿様気分を味わいたいとのこと。昔の人が羨《うらや》ましいなあですってさ。  大川」 「六十×年四月三日  それぞれの松の風情や鴨《かも》の宿  大山健吾、福岡県|京都《みやこ》郡」 「せいろ蒸しとくちぞこの味。何度味わっても味わいきれません。カモの飛ぶ冬にまた訪れたいとおもっています。  八月十九日」 「私たちは××から駆け落ちをして来ました。二人してなにも考えず、おもい立ったときには飛行機の中でした。ここに来て二日、やっぱり子供が恋しくて駄目でした。とりあえずは××に帰り、ここまで来たからにはもうなにも怖いものはありませんし、おたがいきれいにして子供たちとの幸せ、そして彼との幸せを目標にして頑張りたいとおもいます。そしてまた、ここに来られる日を夢見て」 「幾年月|憧《あこが》れ追いし白秋の柳川を行く日をぞ忘れず  かの日君が伝習館に通いたる道をば明日は訪ねんとおもう  姫君の舟遊びせん水際の小さき門や見送りの松  四月九日 坂上」 「おはなの素晴らしい庭園に感動しました。今度来るときは彼氏と二人で来たいな。  二月二日 朝子」 「外は雨です。台風19号の爪痕《つめあと》も痛々しく、柳川の町は雨に濡《ぬ》れています。昨日、ここ御花で結婚式を挙げました。ここまでくるのにいろいろありました。正直言って辛《つら》いことのほうが多かったです。でも昨日ですべて帳消し。今日から新しい生活です。(以下略)  平成三年×月三十日 和子」 「齢《よわい》八十を迎え、郷里に帰る。一年振りにまた御花に泊まる。年に一度は訪れたし。過去を振り返り、想い切なり。戦時中のビルマ、ジャワの生活、南米ペルー、二年間勤務とよくぞ越えてきた。あとどれだけの人生がエンジョイ可能か。とにかく元気で過ごしたい。女房もまだ達者だ。金婚式は昨年すました。ダイヤモンド婚式までいきたいな。  十月十九日 在東京・吉祥寺 桜井、妻まつえ」 「私は苗字《みようじ》が柳川なので、すごく土地の柳川がどんなところか興味がありました。学校の研修旅行での旅でしたが、とても自然が素敵なので、柳川という苗字をとても嬉《うれ》しくおもいます。鰻重《うなじゆう》がすんごい美味《おい》しかったです。今度は家族で来たいです。  平成×年十二月八日 新潟県 柳川良一」 「御花にて  窓辺に立ちて憩いあり 妻のはしゃぎ水鳥の声  平成五年×月十九日 大阪 山岡」 「あらいいわ一杯機嫌で月を愛《め》で  江戸川、恵美子 平成四年七月十二日」 「久しぶりに二十四時間勤務から解放されて妻と一緒に柳川へ来た。妻の笑顔、人生の洗濯、生きていることを確認する旅。  東京・吉井」  最初は時間つぶしに読んでいたのが、駆け落ちカップルの文章あたりから熱心になってきた。  棟居は六組の要注意カップルのうち、吉田有一郎が棟居と同じ三〇八号室に泊まっていたことをおもいだした。  もしかすると吉田と同行者野枝の文章がノートに残っているかもしれない。  棟居は日付をさかのぼって一昨年十月ごろのノートを探した。  想い出帳は二十冊以上あって、最も古いのは五年前の日付になっている。  一昨年の十月の日付のあるノートを見つけだした棟居は、吉田有一郎と野枝の名前を探した。  だが、目当ての名前はなかった。  十月の日付の文章を書いた者は十二人、その間に日付を記入しない者が三人いる。  棟居は十三日と十六日にはさまれている文章に注目した。 「柳川は想像以上に素晴らしい。川下りも楽しかったし、宿は最高。川下りで冷えた身体に熱々の家伝の鰻飯《せいろ》がとても美味しかった。勧められて御花に泊まる。海の珍味満載。有吉さんは食べすぎて苦しそう。もう一度来たい。みつえ」  読んでいた棟居の目が光ってきた。  彼は同じ文章を何度か読み返した後、受話器を取り上げた。隣室のナンバーをダイヤルする。 「桐子さん、すぐ来てください。それとも私の方からそちらへまいりましょうか」  棟居は一切の前置きを省いて言った。 「は、はい」  桐子の少しとまどったような声がして、 「私がまいります」  と、ややうろたえた口調で言った。  待つ間もなく、ドアにノックの音がした。  ドアを開くと、宿の浴衣《ゆかた》に着替えた桐子が恥ずかしそうに立っていた。 「もうお休みだったのですか。これはすまないことをしました」  棟居は興奮のあまり、相手の状況をおもいやるのを忘れていたことに気づいた。  初めて見る浴衣姿の桐子には、初々《ういうい》しい色気が漂っている。  だが、いまの棟居には彼女の艶《なま》めかしい側面に目を向ける余裕がない。 「これを読んでください」  棟居は桐子の前に「想い出帳」の件《くだん》のページを開いて差し出した。 「これがどうかしましたの」  棟居が夜中呼び出した用事が「想い出帳」にあると知って、桐子の面に不審と軽い失望の色が二重に塗られているようである。  だが、棟居には彼女の失望の意味がわからない。 「有吉さんも満足そうと書いてあるでしょう。日付は記入されていないが、前の文章が十月十三日、後の文章が十月十六日ですから、その間に書かれたことは確かです。有吉、吉田有一郎、同じ文字が二字使われています。部屋も吉田有一郎が泊まった三〇八号室です」 「それでは……」  桐子の表情が改まった。 「文章の筆者はみつえと署名しています。みつえは瑞枝《みずえ》のことではないでしょうか」 「この文章は貝塚瑞枝さんが書いたのでしょうか」 「十中八九、まちがいないでしょうね。これだけ文字数があれば、筆跡鑑定ができます。貝塚瑞枝の周辺に有吉という人物がいなかったか。それを調べてみたいとおもいます」 「有吉……まさか」  桐子がはっとしたような表情をした。 「お心当たりがあるのですか」 「私の会社に有吉という重役がいます。字も同じですわ」 「あなたの会社は三稜建設でしたね」  棟居は有吉が三稜建設の社員であるなら、貝塚瑞枝と関《かか》わりがあっても不思議はないとおもった。  瑞枝は一方では有吉と関係を持ちながら、なに食わぬ顔をして水原ともつき合っていたのか。  水原は瑞枝を操っていた様子だから、あるいは水原の指示で有吉ともつき合っていたかもしれない。 「有吉は銀座のアフロディーティというクラブに出入りしていましたか」 「さあ、私は行ったことがないので知りませんが、会社の接待に銀座はよく利用しているようです」  有吉がアフロディーティに出入りしていれば、水原を介さずとも瑞枝と接触できる。  有吉と瑞枝が柳川へ一緒に旅行したとしても、そのことだけならばどうということはない。ありふれた不倫旅行の一つである。  問題は亀山の遺品の中から発見されたマッチの出所が有吉ではないかという疑惑である。  もしマッチが有吉から亀山へ渡ったとすれば、二人の間にはなんらかのつながりがあったことになる。  だが、これまでの捜査では亀山の周辺に有吉は浮かんでいない。 「このノートの文章によると、家伝の鰻飯を食べたと書いてありますわね」  桐子がなにかおもいついたような表情で言った。  それがどうかしたかと、棟居は目顔で問いかけた。 「家伝の鰻飯とは、このホテルのものでしょうか」 「そうか。家伝の鰻飯を食べた後に、勧められて御花に泊まったということになっていますね」 「はい。御花では海の珍味が満載と書いています。もし御花で鰻飯を食べていれば、同じセンテンスの中に書くとおもうのですけれど、鰻飯を食べた後に勧められて御花に泊まったということです。ですから、この家伝の鰻飯は御花以外の場所で食べたのではないでしょうか」 「その通りですよ。二人は御花へ来る前に鰻飯を食べたんだ。だから有吉が食べすぎて苦しそうだったのです。家伝の鰻飯《せいろ》を食べたところを当たれば、二人の足跡が残っているかもしれません」  棟居の目に新たなターゲットが見えてきた。  それにしてもプロの刑事真っ青の桐子の着眼である。 「明日、家伝の鰻飯とやらを食べに行ってみましょうか」 「私もそうしたいとおもっていました」  二人の合意が成立した。  棟居は今夜も上高地と同様、それが当然のことでありながら清浄な夜になるとおもった。  桐子に対して、男の野心はまったく持ち合わせていなかったが、棟居はそのことにいくぶん悔やしさと不甲斐《ふがい》なさをおぼえていた。      2  翌朝、庭園に面した食堂で朝食を摂《と》った後、棟居はフロント責任者に「想い出帳」の領置を要請した。  筆跡鑑定によって「想い出帳」の文章が瑞枝の書いたものであることが確認されれば、彼女の柳川の足跡は明確になる。 「想い出帳」を領置した後、家伝のせいろ蒸しについて尋ねた。 「当館でも鰻のせいろ蒸しは出していますか」 「当館売り物の有明の海の幸の一環としてご調進申し上げております。柳川に鰻の専門店は数店ございますが、老舗《しにせ》として定評があるのは本吉《もとよし》屋でございます。  旭町の鰻専門店でございます。柳川を訪れた観光客は、一度はこの店の鰻を召し上がると言います」 「家伝といえば本吉屋ですか」 「それぞれの店に家伝はありますが、柳川の鰻の元祖は本吉屋でしょうね」  御花をチェックアウトした二人は、車で本吉屋へ向かった。  静かな横路地に面した本吉屋は、一見東京の下町に見かける銭湯という構えである。  通された大広間は庭に面していて、卓袱台《ちやぶだい》が八脚、衝立《ついたて》に仕切られてそれぞれの位置に配されている。  大広間は二十二、三畳で、 「肌ひかるせいろのうなぎ夏すぎて」の額がかかっている。  建物は何度も建て替えたらしいが、高い天井、古い木組み、ゆったりした間取り、鷹揚《おうよう》なテーブルの配置《プラン》、部屋のどの位置からも眺められる手入れの行き届いた庭などに、老舗の伝統が感じられる。  時刻が少し早いせいか他の客の姿は見えない。  この店の鰻を味わうために朝食は控えてある。  店の売り物であるせいろ蒸しを注文した。  間もなく運ばれて来たせいろ蒸しは、たれがよくまぶされた熱々の飯の上に、飯と一緒に蒸された背開きの鰻と卵が載っている。  一口|頬張《ほおば》った棟居は感動した。たれのよく滲《し》みた硬めの飯は一粒一粒が独立していて、それでいて決して硬すぎず、舌触りが滑らかである。  飯と共に蒸した鰻の蒲焼《かばやき》は、舌先でじゅっと音を立てるように熱い。  舌先でとろけるような鰻は飯とよく調和して、芳醇《ほうじゆん》な味わいがある。  鰻飯は鰻、米、たれ、熱さ、焼き具合等が絶妙に調和しなければ最高の味は出ない。  せっかくの鰻が飯がお粥《かゆ》のようだったり、鰻と飯が上等に仕上がっても、たれが多すぎてびしょびしょになったり、鰻、飯、たれ、焼き具合の四要素が揃っていても、冷めたのを出されたりすれば、せっかくの鰻飯が死んでしまう。  さすが元和元年創業の店だけあって、この店の鰻はすべての要素に間然するところがなく、まさに味の芸術を構成していた。  最近の日本では食べ物に感動することが少なくなっている。飽食の社会で傲慢《ごうまん》になった日本人が、食べることに情熱と感動を失ってしまったようである。  棟居はグルメではないが、日常の食事に感激を失ってから久しい。  久し振りに食物から味わう感激は、初体験のように新鮮であった。  二人はしばらく黙々として鰻飯に取り組んだ。  棟居はもちろんであるが、桐子もかなりの量の鰻飯を残さずに平らげた。  食べ終わって二人は顔を見合わせ、満足の吐息を洩《も》らした。  棟居は鰻飯の感激を抑えて、 「一昨年の十月十四日あるいは十五日に、この女性がお宅に来ているはずなんだが、おぼえていませんか」  茶を運んで来た仲居の古株に、棟居は瑞枝の写真を指し示した。  なにせ二年前の客である。あまり期待はかけられない。  ところが、古株の従業員は棟居が差し出した写真をまじまじと見つめて、 「この人ならようおぼえとります。この人の連れの人が、うまかうまかとおっしゃられて、鰻飯をお替わりして、全部食べなさいました。お替わりをする人はおられますが、二人分全部食べてしもうた人はあんまりおられないので、ようおぼえとります」  と答えた。  意外な反応に、棟居と桐子は勇気づけられた。 「この女性の同行者は五十前後の重役風で、眉《まゆ》が太く、鼻筋が少し尖《とが》っていませんでしたか」  桐子が有吉の特徴を伝えた。 「たしかにそんな感じやったです。女の人が柳川が気に入って泊まりたかと言いなさいましたから、連れの男の人が柳川によか宿はなかねと聞きなさいましたので、御花を教えてやりました。でも観光シーズンだから、駅の案内所に聞いてみたがよかと勧めました」 「その二人連れについて、ほかになにか気がついたことはありませんでしたか」  棟居はさらに問うた。 「鰻のせいろ蒸しを食べなさってから、車を呼んで帰んなさいました」 「その連れの男にもう一度会えばわかりますか」 「だいたいわかるとおもいます」 [#改ページ]   新たな足跡      1  柳川旅行の成果として、貝塚瑞枝の身辺に有吉という人物が浮かび上がった。  桐子の話によると、彼女の勤める三稜建設専務に有吉達志という人物がいる。なかなかの辣腕《らつわん》で、重役陣の中では現社長の信頼が最も厚く、副社長を飛び越えて社長・専務ラインを形成しているという。  瑞枝の柳川旅行の同行者が有吉と確認されれば、彼は瑞枝の関係人物として無視できなくなる。  瑞枝が殺害されたとき、有吉は彼女との関係を秘匿していた。  殺人事件の被害者となったので、会葬者もマークしたが、弔電一本はおろか、焼香にも現われなかった。  柳川旅行も偽名を使ったほどであるから、殺された女と関わりたくないという意識が働いたとも考えられるが、アフロディーティで接触していたとすれば、客とホステスの関係として通せる。 「有吉に関する情報をできるだけ集めていただけませんか。特にアフロディーティ出入りの有無、趣味、経歴、女性関係の噂《うわさ》、社内の評判等、社外では入手しにくい情報をできるだけ集めてください」  帰途の機上で棟居は桐子に頼んだ。 「棟居さんは有吉専務が怪しいとおもっていらっしゃるのですか」  桐子が問うた。 「いまの時点ではなんとも言えません。しかし、有吉はこれまで貝塚瑞枝の身辺にまったく浮かんでいませんでした。新たな人物であることは確かです」 「そのことで、私、ちょっとおもいだしたことがあります」 「なんですか、それは」 「先日、有吉専務のお供をして、業者の接待のために赤坂の『田毎《たごと》』へ行ったことがあるのです。そのとき亀山という玄関番が有吉さんたちに興味を示したような目の色をしました」 「亀山が有吉に興味を……そのとき有吉はどんな反応をしていましたか」 「専務は亀山を見て新顔だねとおっしゃいました。そのとき専務と一緒に副部長と水原さんがいらっしゃいましたので、もしかするとその二人に興味を示したのかもしれませんが」 「言葉は交わさなかったのですね」 「交わしません。ただ亀山が専務たちを見て、一方的に興味を示しただけです」 「つまり、亀山は三分の一の確率で有吉を知っていた……」  棟居はそのことの意味を測った。  亀山は水原とすでに宮島で出会っている。したがって亀山の反応は再会した水原に示したのかもしれない。そのことを桐子に確かめると、 「水原さんは私と並んだ形になっていました。でも亀山という人の目は私たちの前の方、専務と副部長の方を見ていたような気がします」  と答えた。すると確率は二分の一となる。  亀山と有吉の間になんらかの関わりがあったとすれば、御花のマッチは瑞枝を経由することなく有吉から亀山に直接渡った可能性も生じてくる。  棟居の有吉に対する心証はぐんと濃くなってきた。 「これまでお聞きするのを憚《はばか》っていたのですが、棟居さんはご家族がいらっしゃるのですか」  話題が一段落したところで、桐子が遠慮がちに問うた。 「いまは天涯孤独の身です」  棟居は答えた。 「いまはとおっしゃいますと?」 「何年か前に家内と子供を失いまして」 「あら……ご病気か事故で。すみません、つい立ち入ったことをお聞きして」 「いいえ、かまいません。私の不在中に家に強盗が押し入って、家内と子供を殺したのです」 「まあ……」  桐子は言葉を失った。 「事件は迷宮入りになって、捜査本部は解散しました。それ以来ずっと、独身を通しています」 「悲しいことをおもい起こさせてすみませんでした」  桐子は質問を後悔しているようである。 「いいえ。二人は私の胸の内で生きていますよ」  棟居は笑った。 「そのために、その後ご再婚なさらないのですね」 「そういうわけではありません。家内は私に結婚して新しい家庭を持って幸せになるようにと勧めてくれるとおもいます」 「優しい奥様だったのですね」 「私には過ぎた妻でした。しかし、心の中で家内がいくら勧めてくれても、私は二度と結婚するつもりはありません」 「どうしてですか」  桐子が不審げな表情をした。 「家族を守ってやることができないからですよ」 「あら、どうして」 「警察官は家族が危難にさらされても、一番後まわしにしなければなりません。警察官だけではなく、消防士も医者も、他の市民が危険に陥っているとき、まずそちらを優先して救わなければなりません。家族はいつも後まわし、それも一番後まわしです。それが我々の仕事なのです。個人としては家族を最も先に救いたいとおもうのが人情です。しかし、我々がそれをしたらおしまいです。社会の安全と秩序は私たちの家族の犠牲によって保たれているといってもいいでしょう。少なくとも私はそういう誇りを持っています。  しかし、私たちはそれでもよい。自分の仕事の誇りや使命感を追求しているのですから。しかし、家族は可哀想《かわいそう》です。だから、もう二度と家族を持つまいと決心したのです」 「ずいぶん厳しい考え方ですわね」 「べつに厳しいとはおもっておりません。職業的な心の傾向ですよ。情熱といってもよいかもしれません」 「でも、警察官や消防士が皆さん、棟居さんのような情熱の持ち主だったとしたら、家庭は持てなくなりますわ」 「警察官の家族は皆、多かれ少なかれその覚悟を持っています」 「ご家族にその覚悟があれば、家庭を持ってもよろしいんじゃありませんか」 「家族の覚悟の有無にかかわらず、家族にそのような覚悟を強いるのが辛くなったのです」  話し合っている間に機はいつの間にか着陸態勢に入っていた。  桐子が一緒にいたおかげで、羽田までの時間が短く感じられた。      2  柳川のホテルから領置した「想い出帳」の中の文章と、貝塚瑞枝が書いた文字を筆跡鑑定した結果、同一人物の筆跡と鑑定された。  また本宮桐子を経由して密《ひそ》かに入手した有吉達志の写真を本吉屋に送って従業員に見てもらったところ、一昨年十月十四日、貝塚瑞枝と共に同店に現われた男と同一人物であるという証言を得た。  帰京後、桐子から有吉についての情報が寄せられた。  有吉は現在五十三歳、現社長|三島和彦《みしまかずひこ》の同学の後輩に当たり、入社時からその知遇を得て、三島の昇進に歩調を合わせるようにして社内に着々と地歩を築き、三島の後継者として最有力候補となっている。  妻との間に二人の息子がいるが、いずれも独立している。  現在、専務兼経営計画推進部長をしている。  アフロディーティ、田毎にも官庁関係の折衝や業者の接待で足|繁《しげ》く出入りしている。  女性関係は特に表に露《あら》われていないが、男性的な風貌《ふうぼう》と果断な行動力、男くささなどから、社内の女性の人気は抜群である。  また亀山と三沢副部長の間にはなんのつながりも発見されなかった。となると、亀山が興味を示したのは有吉ということになる。  さらに桐子は耳寄りの情報を咥《くわ》えてきた。  有吉は学生時代、射撃部のキャプテンを務め、クレー射撃の名手であった。  趣味は狩猟で、狩猟免状を所持している、ということである。  有吉の新たな趣味の浮上は、本宮殺しとのつながりを疑わせるものであった。  捜査本部は棟居が柳川から持ち帰った新たな人物について検討した。  貝塚瑞枝が有吉達志と関係を持っていたとしても、彼女の男関係の一人にすぎない。  要するに、一昨年、彼女と柳川へ行っただけではないか。旅館のマッチなどだれでも手に入れられる。亀山が持っていたマッチが有吉から渡されたという証拠はない。  また仮にマッチが有吉から来たとしても、それがなんだというのだ。亀山が有吉からもらったマッチを持っていたからといって、有吉が亀山を殺した証拠にはならない。  山路が批判した。  山路の反対は捜査本部の懐疑説を代弁するものである。 「たしかにその通りですが、有吉は田毎、アフロディーティ、水原智彦、貝塚瑞枝と接点を持ち、本宮桐子の証言によって、亀山が有吉を見知っていた様子、さらには有吉の趣味から本宮殺しに対しても無色の位置には立てない事情などを総合してみると、決して見過ごすことのできない人物と考えます」  棟居は主張した。 「貝塚瑞枝殺しの動機は保留するとして、有吉が本宮殺しや亀山に関わりを持っているとすれば、どんな動機が考えられるのかね」  那須が質問した。  那須の問いかけは、棟居の柳川での成果をすでに踏まえている。 「これは私の仮説にすぎませんが、有吉は狩猟に出かけて、本宮を誤って射殺したのではないでしょうか」  会場がざわめいた。 「有吉が本宮を誤射したとすれば、有吉が本宮の運んでいたと考えられている鞄《かばん》の中身を横奪《よこど》りしたというのかね」 「いいえ、有吉は本宮を誤射しただけです。有吉は本宮を誤射したことに気づいて、驚愕《きようがく》して現場から逃れ去りました。その後に亀山が来たのです。亀山は有吉の誤射の現場を目撃していたのかもしれません。亀山は本宮の死体のかたわらに転がっていた鞄に気づいて、中身を奪いました。その時点では有吉の素性を知らなかったのではないかとも考えられますが、後日、田毎で有吉と再会して、彼の素性を知ったのではないでしょうか」 「すると、有吉は本宮の誤射をネタに亀山から恐喝されて、亀山をどうかしたというのかね」 「そのように考えると、亀山の田毎玄関番就職後、すなわち有吉との再会後間もなく、行方を晦《くら》ましたことと符節が合ってきます」 「なるほど、それでは肝心の貝塚瑞枝はどういうことになるのかな」 「瑞枝は有吉が本宮を誤射したとき、同行していたのではないでしょうか」  会議場がまた一段とざわめいた。  一同は新たに穿《うが》たれた窓からの展望にすぐに馴染《なじ》めない。 「時間の経過に従って説明しますと、有吉は貝塚瑞枝を伴って丹沢へ狩猟に出かけました。そこへ本宮が、佐々木代議士への闇献金を入れた鞄を運んで来ました。数日前の嵐《あらし》で佐々木代議士の山荘へ至る車道が崩れていたのが悲劇の始まりです。  車から降りた本宮が山荘への近道の山道を歩いていたのを、狩猟に来ていた有吉が獲物と勘ちがいして誤射したとします。そのとき瑞枝が同行していました。人間を誤って射殺してしまったことを知った有吉は、動転しながらも瑞枝と共に現場から逃れました。  たまたま現場に行き合わせた亀山はその場面を目撃して、本宮の死体のそばに転がっていた鞄の中身を知って横取りしたのです。亀山は後日、犯人と再会することがなければ、泰平無事だったとおもいます。  犯人にしてみれば、一部始終を目撃している知りすぎた女を放置しておけなかった。瑞枝が有吉を恐喝したかどうかわかりません。だが、恐喝しなかったとしても、有吉にとって瑞枝の存在は脅威でした。  瑞枝の口を封じた後、有吉と亀山が再会しました。有吉にとっては一難去ってまた一難だったでしょう」 「きみは亀山の行方不明の背後には有吉がいるというのだね」 「その疑いを抱いております」 「異議あり」  山路がふたたび言葉をはさんだ。全員の視線が山路に集まった。 「先程も言ったように、有吉と亀山をつなぐものは柳川のマッチ一箱だけだ。そんなものは柳川のホテルに宿泊した者ならばだれでも手に入れられる。また有吉が柳川からマッチをもってきたかどうか確認されていない。  本宮殺し、貝塚瑞枝殺しの動機についてはまったく憶測に頼っている。有吉の趣味が狩猟であったからといって、それを本宮殺しに結びつける根拠はなにもない。有吉が本宮殺しの当日、その現場に立ったことは証明されておらず、いわんやそこに瑞枝を同行していた裏づけはなにもない。すべては憶測というよりは幻想ではないか」  山路の言葉は辛辣《しんらつ》であった。 「私は幻想とはおもいません。  犯行後の現場周辺の聞き込みに犯人は引っかからなかった。それは有吉が瑞枝を同行していて、それを隠れ蓑《みの》に使ったからでしょう。被害者が約五千万円と推定される大金を運んでいたところから、犯人は金目的に待ち伏せていたと考えられました。そのために捜査陣には犯人がカップルという意識がなかった。  改めてご報告申し上げますが、碑文谷署の水島刑事に問い合わせたところ、亀山の母方の実家が神奈川県厚木市ということです。つまり、亀山は本宮殺しの犯行現場に土地鑑《とちかん》があったことになります」 「なんだって?」  山路が顔色を改めた。出席者が息を呑《の》んだ気配が感じられた。 「私も会議の直前まで知りませんでした。水島刑事にその後、亀山の行方についてなにか新しいことが発見されていないか問い合わせたところ、その事実を初めて知らされたのです。  亀山が土地鑑があったということは、彼を事件に一層近づけるものです」 「亀山の土地鑑の有無は有吉と関係ないのではないのかね」 「現在、有吉と亀山を結びつけるものは柳川のホテルのマッチと、亀山が有吉に対して反応を示したらしいという証言だけです。しかし、改めて有吉と瑞枝の足跡を本宮殺しの現場周辺に探せば、残っているかもしれません。彼らの足跡が発見されれば、有吉と本宮、亀山、瑞枝は一挙につながります。神奈川県警に改めて有吉と瑞枝の足跡を捜査するように要請してもらえませんか」 「難しい要請だな」  那須が唇をへの字に結んだ。  新宿署からそんな要請をすれば、神奈川県警の捜査にケチをつけることになる。  もともと警察は、自分のなわばりは自分たちで守るという意識が強い。自分の捜査担当範囲から他の刑事が犯人を挙げたら、刑事《デカ》は辞めた方がいいという人間ばかりが揃っている捜査畑で、他署からの介入は極端に嫌う。  ましてや都道府県警の壁は厚い。警視庁と神奈川県警の対立意識は特に強い。  そんな事情の下で、警視庁からすでに捜査ずみのことをもう一度洗い直せと言ったときの神奈川県警の反応は充分に予測できる。 「ぜひお願いします。犯人誤射説は初めから所轄の厚木署が主張していたところです。それが県警本部の背後関係説に押されて少数意見としてねじ伏せられてしまったようです。ここで改めて誤射説に立って有吉、瑞枝の足跡の捜査を依頼すれば、厚木署は自分の初説が正しかったことを証明することになるわけですから、意外に協力してくれるのではないでしょうか」 「わかった。早速、私から厚木署に要請してみよう」  那須は言った。  ここに捜査本部は有吉をターゲットとして照準を定めたのである。 [#改ページ]   噛《か》みながらの殺人      1  新宿署の捜査本部から要請を受けた厚木署は驚いた。  有吉達志を事件の新たな関係者として、その足跡を捜査してもらいたいという要請である。  貝塚瑞枝の新たな異性関係として浮上した有吉と瑞枝のカップルとしての足跡は、たしかに捜査の盲点に入っていた。  犯人が男女カップルという発想はだれにもなかった。  だが、亀山の遺品から、瑞枝と有吉の関係を嗅《か》ぎ出した新宿署の嗅覚《きゆうかく》は鋭い。  厚木署は色めき立った。改めて犯行日前後の有吉と瑞枝の足跡を求めて聞き込み捜査の網が現場周辺に拡《ひろ》げられた。  旅館、休憩茶屋、各種商店、タクシー、バス、郵便、新聞その他の配達人、定期的通行人、現場付近の住人などに広く聞き込みがかけられた。  前回の聞き込みと異なり、今回は聞き込みの対象が絞られている。  貝塚瑞枝と、桐子を経由して入手した有吉達志の写真を手にした捜査員は、現場周辺を手分けして聞き込みに歩いた。  事件発生後すでに一年近く経過しているために、事件の痕跡《こんせき》は薄れかけていた。  住人や定期的通行人の記憶と印象も薄れ、聞き込みの網に目ぼしい成果はなかなか引っかからなかった。聞き込みを始めて三日目、松家は現場から約六キロ離れた地域の住人から、ようやく耳寄りな情報を得た。  地元に住んでいる老人が、 「昨年十一月半ばごろだったとおもうが、この写真によく似た男女が野犬をはねたんだよ。いったん車を停《と》めて窓から覗《のぞ》いたが、野犬と知ってそのまま行っちまった。男はチューインガムを吐き捨てて行ったよ。野犬でも生き物だよ。冷てえやつらだとおもった。そのとき窓から覗いた男がこんな顔だったな。連れの女もこの写真の女によく似ていたよ」 「もう一度会えば見分けられますか」 「多分見分けられるとおもうよ」 「その野犬を轢《ひ》いた車の種類や型やナンバーはおぼえていませんか」 「黒っぽい乗用車だったな。ナンバーはおぼえていないな。ナンバーを見ようとしたんだが、そのときは遠ざかっちまった」 「その車が轢き逃げしたという野犬はどうしましたか」  松家はその情報に飛びついた。 「可哀想なので、わしが死骸《しがい》を埋めてやったよ」 「埋めた場所をおぼえていますか」 「目印に石を置いといたからね。たぶんわかるとおもう」  有吉が犯人であるなら、野犬を轢き逃げしたのは約一年前になる。  だが、もしかすると野犬の死骸と共に轢き逃げ車の塗料片や積載物の破片が残っているかもしれない。ごく微量の塗料片からも車種を識別できる。  目撃者に案内されて、野犬の死骸が探された。  老人の記憶は正しく、目印の石の下に首尾よく野犬の死骸を掘り当てた。  死骸はほぼ白骨化していたが、死骸と共に採取した土の中から轢き逃げ車が野犬との接触時にその体に遺留したとみられる塗料片、およびライトの一部とみられるガラスの破片が採取された。  なお、野犬の死骸と共にゴム状の物質が掘り出された。  物質検査によって口中から吐き出したチューインガムの残滓《ざんし》と判定された。  ここに捜査本部は犯人につながる資料をようやく得たのである。      2  塗料片の鏡検によって、車種が識別された。  有吉はN社製のGTデラックスカーを所有していることがわかっている。  塗料片は有吉のマイカーと符合した。  厚木署の捜査本部は、有吉達志に対する任意同行要請を検討した。  有吉の容疑性を裏づけるものとして、  ㈰貝塚瑞枝と関係を結んでいた。  ㈪クレー射撃の名手で、狩猟を趣味とし、鳥獣法(鳥獣保護及狩猟に関する法律)に則って乙種狩猟免状(銃器使用)を交付され、銃刀法(銃砲刀剣類所持等取締法)に従って所持許可を受けた標準ライフル銃を所持している。  ㈫亀山陽一が有吉を一方的に認識していた模様。  ㈬昨年十一月二十七日、轢き逃げした野犬の死骸に付着していた塗料片と符合するマイカーを所有している。  ㈭本宮恒夫殺しの現場の近くにあるカントリークラブの会員でもあり、現場付近の土地鑑を有する。  以上が挙げられた。  有吉の容疑性は濃厚であったが、いずれも状況(間接)証拠であって、決め手に欠けるという反論があった。  貝塚瑞枝との関係は彼女の異性関係の一つにすぎず、彼女を殺した証拠とはならない。  本宮殺しの現場付近で野犬を轢き逃げしたのはたまたま犯行時間帯に現場付近を車で通行していたというだけであって、本宮殺しに直接つながらない。  亀山陽一が有吉に対して反応したということは、有吉と亀山との関係を必ずしも裏づけるものではない。  以上いずれも状況証拠としても弱すぎる、というのが反対意見の要旨である。  有吉達志の任意同行を検討した捜査本部は現在の状況では手持ちの資料が薄弱であり、無理と判断した。  手持ちの札が弱い間に対決すると、相手にこちらの手の内を見透かされて備えを立てられてしまう。  関係捜査員は歯ぎしりをした。      3  十一月十九日早朝、都下八王子市の山林中で鴉《からす》の声がいやに騒がしいので、不審におもった近所の住人が山林中に立ち入り、野犬か山の獣によって地中から引っ張り出されたらしい、腐乱死体を発見した。  発見者は仰天して八王子署へ通報した。  八王子署から捜査員が臨場して来た。  現場は高尾山域の一隅で、ハイキングコースからも逸《そ》れている。  死体は一見三十代から四十代の男性、死後経過約一カ月。土中の埋め方が浅かったために、野犬もしくは山の動物に死臭を嗅ぎつけられ、腕を引っ張り出されたらしい。  死体の後頭部には鈍器を用いて形成されたとみられる打撲傷が認められた。  これが脳内部に深刻な影響をもたらして死因となったらしい。  死体を観察していた増成《ますなり》が、なにかつまみ上げた。 「増《ます》さん、なにかあったかね」  かたわらから同僚の池亀《いけがめ》が覗き込んだ。 「これはなんだろうね」  増成の指先は小さな粘土の塊のようなものをつまんでいる。 「粘土じゃないのかね」 「いや、粘土ではない。ゴムだね」 「ゴム?」 「吐き捨てたチューインガムではないかな」  増成の言葉に池亀の表情が改まった。  被害者の死体に付着していたチューインガムは、犯人が吐き捨てた可能性がある。  とすると、この犯人はチューインガムを噛みながら犯行を演じたことになる。  ゴム状の塊は重要な証拠資料として保存された。  一方、死者の特徴は警察庁に登録されている全国犯罪捜査情報システムの行方不明者ファイルに照会された。  その結果、十月十四日より消息を絶っている千代田区赤坂紀尾井町、料亭「田毎」の従業員亀山陽一、三十五歳に特徴が該当した。  ここに棟居の懸念が的中した。  亀山陽一は何者かに殺害されて、奥多摩山中に埋められていた。  司法解剖の結果、死因は鈍器の作用による脳挫傷《のうざしよう》、死後経過三十日ないし四十日、薬毒物の服用は認められず、と鑑定された。  なお死体に付着していたゴム状の物質は、使用済みのチューインガムの残滓と判定された。  ここに八王子署に赤坂料亭従業員殺人死体遺棄事件の捜査本部が開設された。  亀山の死体発見によって新宿署、厚木署、碑文谷署は緊張した。  亀山の死体は本宮恒夫、貝塚瑞枝殺しを解く共通の鍵《かぎ》となるかもしれない。  だが、亀山の死体だけでは決め手にならなかった。  棟居の推理はあくまで仮説にすぎない。有吉が本宮を誤射し、現場を目撃した瑞枝と亀山を殺害したという証拠はない。  このとき再度、有吉達志の任意同行の是非を検討するために、四署の連絡会議が八王子署において開かれた。 「三件の殺人事件の関連はまったく証明されておらず、有吉の殺人動機は推測の積み重ねにすぎない。有吉と亀山の関係は証明されていない。亀山がべつの動機、すなわち本宮、貝塚とはまったく関係ない線によって殺害された可能性は充分に考えられる」  山路の意見に大勢が傾きかけた。  亀山陽一は田毎に入店前、旅行|斡旋《あつせん》業を経営していたというが、入店に際して本人が申し立てただけで、その経歴は曖昧《あいまい》である。  犯人は彼の曖昧|模糊《もこ》として烟《けむ》っている過去から来たかもしれない。  そのとき棟居が八王子署の捜査資料の中の死体に付着していたというチューインガムの残滓に目をつけた。  本宮恒夫の生前所持していた鞄にも、同じようなゴム状の物質が付着していた。  いずれもチューインガムの残滓であるなら、その中に含まれている可能性の残る唾液《だえき》によって血液型が判明するかもしれない。 [#改ページ]   代理の禊《みそ》ぎ      1  小坂邦雄は困っていた。田毎を首になってから、次の仕事がなかなか見つからない。  身軽な独り者の勤め口などどこへ行っても簡単に見つかるだろうとおもっていたのが、慢性不況でいずこも採用を手控えている。  あるのは各種イベントの臨時雇いか、商品のセールスマンくらいである。  田毎時代に貯《たくわ》えたわずかな金はたちまち使い果たしてしまった。  楽観していた小坂も次第に追いつめられてきた。  このままでは年を越せない。年を越す前に首を縊《くく》らなければならなくなる。  相川裕一の線は自ら潰《つぶ》してしまった。頼るべき人脈もない。  追いつめられた小坂は、田毎の女将《おかみ》から首を言い渡された日、三稜建設の有吉から、困ったことがあったら自分のところへ来いと言われたことをおもいだした。  外交辞令とはおもうが、この際、藁《わら》にもすがりたい気持ちであった。  有吉に頼めば、なにか勤め口を紹介してくれるかもしれない。  おもい立つと、小坂は有吉を訪ねて行った。  三稜建設の本社は赤坂にある。  その威圧的なビルの前に立った小坂は、気後れがした。  本社ビルの前に十数人の男が立っていた。いずれも背広を着ているが、三稜建設の社員とは異なる雰囲気を身に帯びている。  一人一人は取り立てて特徴のない平凡な男たちであるが、心身に含む気配を意志的に隠しているようなところがある。  それがこれだけの人数になると隠し味が露《あら》われるようにおのずから洩れて、合成された気配となっている。  彼らの中に、小坂の記憶にある顔があった。  先方の表情も小坂に反応した。 「あなたは田毎の玄関番の小坂さんじゃありませんか」  先方が声をかけてきた。  小坂は相手の素性をおもいだした。 「刑事さん」 「田毎を辞めたと聞いていましたが、こんなところでなにをしているのですか」  棟居の目が小坂を詮索《せんさく》している。 「刑事さんも三稜建設にご用事ですか」 「仕事でね、きみは……」  棟居は一直線に追及してきた。 「有吉専務に会いに来ました」 「ほう、有吉に……」  棟居の表情が改まった。 「有吉さんとは知り合いですか」 「田毎で時どき声をかけていただきました。田毎を辞めてからぶらぶらしておりますので、有吉さんにすがって、なにか仕事を紹介してもらおうとおもいましてまいりました」 「それだったら、今日はやめた方がいいとおもいますよ」 「どうしてですか」  小坂が問い返したとき、棟居たちのグループに動きが生じて、社屋から出てきた三人の男を取り囲んだ。  棟居のグループと同じような雰囲気を帯びた二人の男に左右から挟まれた男は有吉である。 「有吉専務」  小坂がおもわず声をあげても、有吉は無表情である。 「今日のところは帰りなさい」  棟居が諭すように言った。      2  出社して間もなく、大挙訪問して来た刑事の一団から、殺人事件の捜査本部に任意同行を求められた有吉達志は、衝撃を受けた模様であった。  任意同行要請の理由は、まず貝塚瑞枝殺害、及び本宮恒夫、亀山陽一殺害事件に関して参考人としての事情聴取である。  主たる取調べに那須警部が当たり、補佐官として棟居、牛尾、八王子署より増成、碑文谷署より水島、また関連事件特別取調官として神奈川県警厚木署より松家が当たることになった。 「本日は突然お呼び立ていたしまして申し訳ありません。事件の参考までに少々お伺いしたいことがございまして、ご足労いただきました」  まずは那須が低姿勢で口火を切った。 「驚きました。警察から呼ばれたのは、初めてのことでして、私でお役に立つことがありましたら、なんなりとお聞きください」  有吉は内心の衝撃を隠して、大物らしく鷹揚に答えた。  任意同行を求めて来たのが一署ではなく、神奈川県警からも参加した十数人の大部隊であっただけに、聴取対象の事情というものが並なみならないことを察知している。 「ご多忙のお体でしょうから、なるべくお手間は取らせたくありません。ご協力ください」  那須がやんわりと圧力をかけた。素直に話さなければ手間がかかるぞという反語でもある。 「どんなことでしょう」  有吉が少し姿勢を改めた。 「貝塚瑞枝さんをご存じですね」 「貝塚……」 「銀座のアフロディーティというクラブに綾という名前で出ています」 「ああ、アフロディーティの綾なら、知っています。彼女は気の毒なことをしましたな」 「知っているとおっしゃいますと、どのようなご関係でしたか」 「仕事の関係でアフロディーティは時どき使っていましたので、まあ客とホステスの関係です」 「客とホステスといってもいろいろあるとおもいますが」 「要するに客とホステスの関係です」  有吉の表情が少し固くなった。 「二年前の秋、九州柳川へ貝塚さんと一緒に旅行していますね」  有吉の顔色が少し動いたようであるが、鉄面皮の下に封じ込めると、 「ああ、そんなことがありましたかね。二年も前のことなので忘れていました」 「あなた方はそのとき、柳川の御花という旅館に泊まっています。女性と泊まりがけの旅行へ出かけたということは、かなり親密なご関係ではありませんか」 「プレイですよ。彼女もそのように割り切っていたはずです。あくまでも客とホステスの関係を超えるものではありません」  有吉は客とホステスを強調した。  だが、警察がそこまで調べていることに驚いた様子である。 「それでは客とホステスのプレイということにして、貝塚さんと特定の関係にあったにもかかわらず、貝塚さんが不幸な死に方をしたとき、その事実を秘匿していたのはなぜですか」 「べつに秘匿していたわけではありませんが、あからさまにすることもないでしょう。世間的には不倫の関係というわけですから」  有吉は苦笑したようである。 「なるほど、不倫の関係ね。有吉さんが同行したのは柳川の旅だけではなかったのではありませんか」 「それはどういうことですか」  有吉の面に不審の色が浮かんだ。 「あなたは狩猟の趣味をお持ちですね。あなたは乙種狩猟免許、つまり装薬銃で猟をする免許、および口径十二番の散弾銃、および三十口径のライフル銃の所持許可を受けています」 「ああ、狩猟免許も銃の許可証も取っていますが、それがなにか」 「昨年十一月二十七日、厚木市域の山林に貝塚さんを伴ってハンティングに出かけませんでしたか」 「いいえ。そのころハンティングには行っていません。また彼女をハンティングに伴ったこともありません」  有吉は強く否認した。 「それでは昨年十一月二十七日、どこでなにをしておられましたか」 「さあ、そんなことを突然聞かれてもおぼえていませんが、十一月二十七日がどうかしたのですか」 「相模中央電鉄経理課長補佐本宮恒夫さんという人をご存じですか」 「本宮恒夫、さあ、初めて聞く名前ですね」  有吉の表情にはなんの反応も表われない。意志的に感情の反応を封じ込めているのかもしれない。 「昨年十一月二十七日、本宮恒夫氏は厚木市域の山林中で何者かにライフルで射殺されました」 「それが私になんの関係があるのですか」 「本宮氏はあなたが所有しているライフルと同じ口径のライフルで射殺された疑いがあります」  これは那須のハッタリである。  本宮を射殺した凶弾は回収されていない。したがって有吉所有のライフルと同口径の凶器が使用されたかどうか確認されていない。 「失礼な。標準ライフルの許可を受けている者はゴマンといます。その本宮とかいう人物を私のライフルで撃ったという証拠がどこにあるのですか。同種類のライフルを所有しているからといって、そんな疑いをかけて警察に呼び出し、アリバイを聞いたり容疑者扱いをしたりするのは人権|蹂躙《じゆうりん》ではありませんか」  鷹揚だった有吉の口調が激しくなっている。 「現場近くの山林から、生前、本宮さんが持っていた鞄が発見されましてね、鞄の中身は失われていましたが、その中に貝塚瑞枝さんの名刺が残されていたのです」 「それが私にどんな関係があるのですか」  有吉が反問した。 「あなたが交際していた貝塚さんの名刺が、厚木市域の山中で射殺された本宮さんが所持していた鞄の中にあったのです」 「ですから、先程申し上げましたように、彼女と私はホステスと客との関係にすぎず、たがいにプレイとして割り切っていました。彼女が交際していた男は私一人ではありません。職業柄、多数の男とつき合っていた気配がありました。彼女の名刺が本宮氏の鞄の中にあったからといって、どうして私と結びつけるのですか」 「あなたは昨年十一月二十七日、本宮氏が射殺された現場の近くへ行っています」 「どうしてそのように言い切れるのですか」 「当日午後四時ごろ、あなたが運転していたマイカーが現場の近くで野犬をはねています。あなたはそのときチューインガムを吐き捨てた。それを近所の住人に目撃されています。目撃者はあなたが車を運転していたことを見届けています。そしてあなたの車に貝塚さんが同乗していたことを認めていますよ。なんなら目撃者に対面させましょうか」  那須の言葉はかなりのダメージを有吉にあたえたようである。 「だからといって、私が本宮氏を射殺したことにはならないでしょう。私と本宮氏とはなんの関係もありません」  有吉は土俵際で踏み止《とど》まった。  だが同行者が瑞枝であったことを言外《げんがい》に認めた形になった。 「それではどうしてあなたは貝塚さんと一緒に十一月二十七日、厚木市域の本宮さんが殺された現場の近くを車で通行した事実を隠していたのですか」  那須はじりじりとつめ寄った。 「不審な死に方をしたホステスとつき合っていたことを立場上、表沙汰《おもてざた》にしたくなかっただけです。たまたま彼女とドライブをして通りかかった近くで本宮氏という人が射殺されても、それは偶然というもので、私にはなんの関係もありません」 「現場の近くを偶然通りかかったあなたの同伴者の名刺が被害者の生前の所持品の中から発見されても、偶然だというのですか」 「名刺なんて大勢に配るものです。同伴者の名刺が被害者の所持品から出てきたからといって、私と関係があるということにはならないでしょう」 「被害者の鞄の底にはもう一つ、べつの物質が付着していました」 「べつの物質が……」  土俵際で開き直った有吉の面に不審と不安の色が二重に塗られた。 「吐き捨てたチューインガムですよ。本宮さんは生前、チューインガムを噛まないことが確認されています。貝塚さんもチューインガムには縁がない。すると、鞄に付着していたチューインガムは犯人が吐き捨てた疑いが濃くなります。有吉さんはチューインガムを愛用しているそうですね」  有吉の顔色が激しく動いたが、 「それがどうしたというのですか。世の中にチューインガムを愛用している者は多いでしょう」 「亀山陽一という人物をご存じですか」  那須はチューインガムにこだわらずに、質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「亀山陽一」  有吉は胸の内の動揺を必死に抑えているようである。 「あなたは知っているはずだ。あなたがよく使っている赤坂の料亭『田毎』の玄関番です」 「田毎の玄関番なら顔は知っていますが、名前までは知りません」 「その亀山陽一が奥多摩の山中に殺されて埋められていたのが発見されましたよ。新聞を読みませんでしたか」 「気がつきませんでした。そんな事件があったのですか」 「亀山陽一の死体にチューインガムが付着していましてね、それが本宮氏の鞄に付着していたチューインガムと同じ種類であったことがわかりました」 「それが私にどんな関係があるのですか。先刻から私に関係ないことばかり訊《たず》ねておられますが、そんなことを聞くために私を呼び出したのであれば、協力のしようもありませんし、大変迷惑です。ましてまったく心当たりのないことについて容疑者扱いの質問は人権蹂躙です。後になってすまなかったではすまされませんよ。私は政界にも警察の上層部にも親しい人間がいます」  有吉は恫喝《どうかつ》をかけてきた。暗におまえたちの首を並べて吹っ飛ばすのはわけのないことだと威圧している。 「それはけっこうですな。人は一生の間に多数の人間と出会う。名刺も多く配られる。狩猟免許取得者、猟銃の所持許可を受けている者も多い。チューインガムの愛用者も無数にいます。しかし、本宮氏の鞄と亀山陽一と犬の死骸に同一種類のチューインガムを付着できる者となると限られてくるのではありませんか」 「馬鹿馬鹿しい。同じメーカーの同一種類のチューインガムなど市販されていて、いくらでも手に入ります。こんなことでチューインガムの使用者が特定できるはずがないでしょう」  有吉はそれこそチューインガムを吐き捨てるように言った。 「ところが特定できるのですよ」  那須の仏像のような表情がにやりと笑ったように見えた。 「それはぜひおうかがいしたいものですな」 「そのことについては、私よりも科学に強い若い者に説明させた方がよろしいでしょう」  那須が棟居に軽く顎《あご》をしゃくった。  棟居が同席している碑文谷署、八王子署、厚木署の捜査員に軽く会釈をしてから口を開いた。 「遺棄されたチューインガムの中には唾液が含まれています。したがってチューインガムから使用者の血液型の判定が可能です」 「そんなことですか。そのくらいの知識なら私にもありますよ。人間には分泌型と非分泌型とあり、唾液や汗や精液、尿、膣液《ちつえき》、胆汁などから血液型を判定できるのは分泌型の人間だけと書いてあったのをおぼえています。仮に使用者が分泌型の人間で、血液型が判定できたとしても、同じ血液型の所有者はいくらでもいるでしょう」  有吉は鼻先でせせら笑った。  捜査陣の切り札を知って立ち直ったらしい。 「よく専門知識をご存じですね」 「推理小説に書いてあったのです」 「しかし、その推理小説は少し古いようです」 「古い?」 「チューインガムに含まれている物質は血液型を示す物質だけではありません。チューインガムは長い間噛みますので、ゴム質の中にかなり多数の口腔《こうこう》粘膜の細胞が含まれます」 「口腔粘膜」  有吉の顔色がはっきりと変わった。 「そうです。粘膜の細胞や歯槽膿漏《しそうのうろう》でもあれば、組織の断片が夥《おびただ》しくゴム物質に含まれています。これはゴム質に保護された形で土中や水中においても長期間変質せずに保存されます。またDNA鑑定にかければ、ミイラや荼毘《だび》に付された焼骨《しようこつ》などからも特定が可能です。  DNA鑑定までいかなくても、組織検査にかけて個人識別が充分に可能です。もしあなたに疚《やま》しいところがなければ、あなたが愛用されているチューインガムを使用後、提供していただけませんか。  たとえ客とホステスの関係にすぎず、プレイと割り切っていたとしても、あなたは殺人事件の被害者となった貝塚瑞枝さんの関係人の一人には相違ありません。被害者と多少とも関わりのあった方にはすべて協力をいただいております」  棟居の言葉を聞いている間に、有吉の顔色は紙のように白くなった。 「まさかとはおもいますが、念のためです。本宮恒夫さんの鞄と、亀山陽一および轢き逃げされた犬の死体に付着していたゴム質に含まれていた口腔粘膜の細胞と、あなたの使用後のチューインガムに含まれている口腔粘膜の細胞がよもや一致しようとはおもっていません」  那須が止めを刺すように言った。      3  有吉達志は犯行を自供した。  自供の内容はおおむね棟居が推測した通りであった。  異なっていたのは、昨年十一月二十七日、厚木市域の山林に貝塚瑞枝を伴ってハンティングに出かけた際、瑞枝にせがまれて銃を貸し、彼女が本宮を獣とまちがえて誤射したということであった。 「驚愕した私は、呆然《ぼうぜん》としていた瑞枝を引き立てるようにして現場から逃げ出した。逃げ出した時点では警察に届け出るつもりでいた。ところが現場の近くに停めておいた車に乗って逃走中、瑞枝が警察に届けるのはいやだと言い出した。彼女と言い争っている間に運転が疎《おろそ》かになって野犬を轢いてしまった。  瑞枝は無免許の私に銃を貸したあなたも同罪だと言って、絶対に警察に行くのはいやだと言い張った。結局、私は瑞枝の言いなりになった。  ところが、だれにも見られていないとおもっていたのに、たまたま現場近くにハイキングに来合わせていた亀山に一部始終を見届けられていた。亀山は私を知らなかったが、瑞枝とは以前から面識があったらしく、彼女を恐喝してきた。瑞枝からそのことを聞かされた私は、瑞枝の口を封じなければいずれ亀山の恐喝の鉾先は私に向けられるとおもった。  そこで六月二十五日、瑞枝に亀山の件で話し合いたいと言って彼女の自宅へ出かけて行き、彼女を殺害した。これで瑞枝の口を封じて安心していたところが、田毎で亀山と再会してしまった。  私は亀山を知らなかったが、亀山は本宮誤射の現場で見た私の顔をおぼえていた。亀山は瑞枝を殺したのが私の仕業と察知して恐喝してきた。亀山を殺さない限り瑞枝を殺した意味もなくなる。  そこで亀山の恐喝に応ずる振りをして誘い出し、車の中で隙《すき》をうかがって殺害した。死体はゴルフに行って土地鑑のある奥多摩の山中に埋めた。そのとき埋め方が浅かったために、野犬に死体を引っ張り出されてしまったらしい。轢いた犬の祟《たた》りかもしれない。  本宮さんや瑞枝には気の毒なことをしたとおもっている」  有吉の自供によって一連の事件はすべて解決した。  事件解決後、棟居は本宮桐子を訪問した。  仏前に焼香後、犯人逮捕に至るまでの経緯を報告した。 「おかげで父を殺した犯人も逮捕されて、父も成仏するでしょう」  桐子は言った。 「犯人は逮捕されても、父上は戻ってきません。我々にできることは、せめてこのような悲しい事件の再発を防ぐことです」  棟居の声が湿った。  遺族の悲しみが同じように最愛の家族を失った棟居には痛いようにわかる。 「でも私の父は棟居さんのご家族のように殺されたわけではありません。獣と誤って撃たれたのですわ。父の死が他の二人の死を引き出したことを考えると、胸が痛みます」  桐子が面を伏せた。 「死人に口なしで、父上を誤射した真犯人の証明のしようはありません。あるいは有吉が誤射した事実を貝塚瑞枝に転嫁しているのかもしれません。この期に及んで自分の罪を最小限に縮小しようとしているのかもしれないのです。有吉が誤射した犯人でなければ、彼の責任は無免許の瑞枝に銃を貸したことと、誤射後、届け出なかったことです。瑞枝と亀山を殺す必要はありません。我々は有吉を誤射した犯人と睨《にら》んでいます」 「有吉が捕まったきっかけは、田毎の前の玄関番が貝塚瑞枝を殺した容疑者として客の名前を洩らして解雇され、亀山陽一が新たな玄関番として田毎へ来たことでしょう。亀山が田毎に就職したのはまったくの偶然だったそうですね。因縁を感じますわ」 「そうです。亀山が田毎へ来なければ、有吉の完全犯罪は成立したでしょう。まさに天網に引っかかったと言えますね」 「亀山は貝塚瑞枝と面識があったそうですが、彼女の住所まで知っていたのですか」 「亀山は父上の誤射現場に来合わせて事件を目撃した際、現場に落ちていた瑞枝の名刺を拾ったのです。瑞枝が名刺を落としたのは不注意によるものでしょう。瑞枝もかなり動転していたのだとおもいます。あるいはお父上はアフロディーティをよく利用しておられて、お父上自身が瑞枝の名刺を持っていたのかもしれません。  亀山は父上が所持していた鞄の中を覗いて大金に気がつき、鞄を持ち逃げしたのです。そして現場から少し離れたところで自分の鞄、おそらくはリュックサックのようなものに金をつめ替え、鞄を捨てたのでしょう。その際、瑞枝の名刺も鞄の中に置き忘れてしまった。あるいは金を横取りした罪を瑞枝になすりつけるために故意に名刺を残したのかもしれません。名刺のルートはおおかた推測がつきましたが、テレホンカードがわかりません」 「御花の想い出帳に書き残した人の中に東京の吉井という人がいたでしょう」 「いました。二十四時間勤務から解放されて人生の洗濯とかいう文章を書いていましたね」 「あの人は、父が最後に乗ったハイヤーの運転手さんです。もしやとおもって問い合わせたら、吉井さんが柳川土産にテレホンカードを父にくれたといっていました」 「吉井運転手が柳川に! 気がつきませんでしたね」 「私も想い出帳を読んだときは気がつきませんでした」 「今回の一連の事件で最も悪質なのは父上に裏金を運ばせ、父上が射殺されると金の存在を否定した相模中央電鉄であり、佐々木義久代議士や国宗政重です。彼らは父上の奇禍に一片の哀悼も示さず、闇金の存在を隠すことだけに汲《きゆう》 々《きゆう》としていた。死体の前で平然とチューインガムを噛んでいた有吉以上に、彼らは悪質です」  棟居の口調には静かな怒りがこもっている。 「父は汚いお金と知りながら黙って運んでいました。私たちには仕事のことはなにも話しませんでしたが、定年になったら禊ぎをするんだとよく言っていました。父はその禊ぎをしないで死んだのが、さぞ無念だったでしょう」 「あなたが代わって穂高へ登り、禊ぎをしてあげたのですよ」 「禊ぎになりましたでしょうか」 「なったはずです。お父上はきっと喜んでいます」 「棟居さんともう一度、山へ登りたいわ」  桐子は遠い目をして、雲の湧き立っている北アルプスの方角を見た。  その雲の峰は秋の色に濃く染められている。      4  秋の吉日、都心のホテルで水原智彦《みずはらともひこ》と相川真美《あいかわまみ》の結婚披露宴が賑々《にぎにぎ》しく催された。  さすがは財界の梟雄《きようゆう》相川|章一郎《しよういちろう》の孫娘の結婚だけに、来賓は二千名を超え、経費数億円と噂された。  主賓は相川と刎頸《ふんけい》の友である現総理国宗政重以下、政財界の大物や有名文化人、人気芸能人、力士、スポーツ選手などが綺羅《きら》星のごとく列《つら》なった。  要人が多数出席するので、警視庁からも機動隊がホテル周辺に出動して警護に当たったほどである。 本書は一九九四年一一月、カドカワノベルズとして刊行されました。 角川文庫『棟居刑事の情熱』平成9年5月25日初版発行              平成10年5月10日3版発行