[#表紙(表紙.jpg)] 棟居刑事の悪夢の塔 森村誠一 目 次  窮鳥のエトランジェ  廃屋の死  |熱い街《ホツト・エリア》  不明の原点  リースされた自由恋愛  善意の距離  法の下の残酷  ワニの涙  死角にいる飼い主  アリバイの盲点  不条理な慰霊 [#改ページ]   窮鳥のエトランジェ      1 「おはようございます」  爽《さわ》やかな五月の朝の風を切って、若い溌剌《はつらつ》とした女性が、長い髪を吹きなびかせながら自転車をこいで来た。  家の前を掃除していた市橋洋司《いちはしようじ》は、 「やあ、おはよう。今日もなにかいいことがありそうな顔をしているね」  と声をかけた。 「生きているのが楽しいような朝だもの」  自転車をこぎながら若い女性は答えた。 「おじさん、またね」 「気をつけて行って来な」  数言交わして走り去った後に、爽やかな髪の香りが漂った。  彼女は近所に住んでいる、今年成人になった新村優子《にいむらゆうこ》である。近くの街の大学に通学している女子大生である。  今日の五月の朝のように、青春に弾む爽やかな女性である。  市橋は彼女の残り香を吸い集めるように、新緑に染まった五月の朝の空気を深呼吸した。      2  閉店時間が近づくと、店内には妖《あや》しい雰囲気が煮つまってくる。一種の腥気《せいき》と言ってもよい。  フロアで踊っているカップルは抱き合ったままほとんど身動きしない。  スローな曲に合わせて下半身を密着させている間に、欲情をかき立てられ、衆目の中でほとんど交わっている。  光量を最小限に絞ったボックス席では、もっと妖しい気配が濃くなっている。  ピンサロのように露骨なサービスは行なわれないが、男と女が溶接する直前の一触即発の気配がみなぎっている。  一見するところ、普通のクラブと変わりない。だが、どこかがちがう。  店で出会った男と女が看板後、二人だけの私的交際へともつれ込もうとする野心が、男女の間に攪拌《かくはん》され、どろどろと煮つめられている。  銀座|界隈《かいわい》のクラブにはない妖気《ようき》と言ってもよい気配である。  男はいずれも若く、ハンサム揃いで恰好《かつこう》がよい。女性は化粧が濃く、派手な服装で玄人っぽい。 「これ、取っておいて」  あるボックスにぴたりと寄り添っていたカップルの女が、男の手に白い封筒を押しつけた。 「なんですか、これは」  男は封筒の中身を予想しながら、故意に無表情に聞いた。 「取っておいて。私の気持ち」  女が言った。  男は指先で封筒の厚みを測りながら、 「こんなにいただけませんよ」  と封筒を押し返そうとした。 「いいのよ。大した額じゃないわ。私の気持ちなんだから、取っておいて」  女は押しかぶせるように言った。  二十代後半から三十前後、派手な造作で、着ている服も一流ブランドのオートクチュールである。  指輪、時計、その他アクセサリー類もすべて金をまぶしたような高級品ばかりであった。  男は封筒の中身を少なくとも百万と見積もった。  それは当然のことながら、看板後の女性との私的交際費を含んでいる。 「いつもすみません」  男は恐縮して、封筒をポケットにしまった。男と女の立場が逆転している。  この店では男が女に侍《はべ》り、仕えている。男は女の顔色を常にうかがい、女が喜ぶように持ち上げている。  ここでは男が女に媚《こび》を売っている。気のある男の顔色をうかがう女の位置関係は、一見、男が優位に立っているようであるが、その優位性も金によって購《あがな》われた見せかけである。  女から白い封筒を渡された男は、この店のナンバーワンホスト有光重夫《ありみつしげお》である。  二十七歳、大学を出て二年ほどある大手都市銀行に就職したが、この道に転職、新宿|歌舞伎町《かぶきちよう》のホストクラブ「ジュリエット」に入店、たちまちトップホストになった。  二年前、現在の赤坂三丁目のホストクラブ「アドニス」にスカウトされて、ナンバーワンを張りつづけている。  学生時代、テニスと水泳で鍛えた身体は効率よく引き締まり、貪欲《どんよく》な女を何人相手にしても耐えられるスタミナを蓄えている。  彫りの深いマスクはニヒルな陰翳《いんえい》を刻み、女の目には冷たく見える。濃い眉《まゆ》の下の切れ長の深いまなざしに見つめられるとたいていの女は、魅込《みこ》まれたようになってしまう。  アドニスに蝟集《いしゆう》して来る女客たちは、有光の歓心を買おうとして、高価なプレゼントを洪水のように贈った。  有光は女たちからの貢ぎ物を当然のように受け取った。そして、ごく気まぐれに彼の蓄えたスタミナの一かけらを返礼として女たちに分けあたえる。  ホスト仲間内では、有光の月収は二千万を下らないだろうとささやかれている。  事実、彼にポンと外車を一台贈ったり、ダイヤをプレゼントしたりした客もいる。  だが、そういう気前のいい客は長つづきしなかった。  高価なプレゼントをポンと贈り、高級洋酒を注文し、一回の来店で五十万を超える散財をする客を、ホストは、「瞬間最大風速」と呼んで警戒した。  彼女らは間もなく経済的に破綻《はたん》して破滅し、店へ来なくなってしまう。  ただ、来なくなるだけならいいが、多額のツケを焦げつかせたまま蒸発してしまう。それらのツケは指名されたホストが負担しなければならない。  しょせん最大風速は瞬間的には出せても、長つづきしない。  それほどではなくとも、ホストに熱を上げて無理をする客は通い切れなくなる。  だが、ここ数か月、有光に通いつめているその客の経済力は抜群であった。  彼女は平沢《ひらさわ》しのぶと名乗り、宝石商という触れ込みであった。  その触れ込みを裏づけるように、全身に鏤《ちりば》めたアクセサリーはすべて高価な貴金属である。 「私の身体にはン千万単位の宝石が鏤めてあるのよ。いつ強盗に襲われて殺されるかわからないの。夜道はもちろん、昼間も怖くて一人で歩けないわ。だから、重夫さんにいつもエスコートしてもらいたいのよ」  としのぶは有光を流し目に睨《にら》んだ。  いくら気前のよい客でも、来るつど五十万から百万の散財をして、少なくとも十万単位のチップは弾めない。  当初は彼女も店から瞬間最大風速ではないかとおもわれていた。  だが週三、四回現われて、トップホストの有光を指名し、豪遊をつづけた。  アドニスは東京で最も古いホストクラブであるが、これまで彼女のような豪遊をつづけた客はなかった。  彼女の正体について、ホストたちはあれこれ詮索《せんさく》した。 「大暴力団の組長の情婦だと言うぞ」 「先日、歌舞伎町の裏通りを大勢の子分を引き連れて歩いている姿を見かけた者があるそうだ」 「関西の銀行のコンピューターのオペレーターで、コンピューターを操作して自分の口座に数億円振り込ませて逃げて来たということだよ」 「いやいや、いま流行《はや》りの地上げ屋の二号だと聞いたよ」  などと、まことしやかに噂がささやかれた。  いずれにしても、若い女が自由にできる金ではない。  ホストクラブと一口に言っても、営業時間を基準に三種類に分類される。  まず、午後二時から六時ごろまでの昼型ホストクラブでは、援助交際でアブク銭をつかんだコギャル、家庭の主婦、金のある有閑夫人が対象である。  コギャルが好奇心から覗《のぞ》きに来る、あるいは主婦が旦那《だんな》が帰宅する夕食前にふらりと買物に出た途上、息抜きにホストクラブに立ち寄る。この種の店は料金も安く、客とホストが深い関係に発展することは少ない。  第二は午後六時ごろから十一時ごろまで営業する宵型で、客は美容師、理容師、デザイナー、モデル、イラストレーター、その他の自由業が多い。  第三は午後八時から朝まで終夜営業する深夜型で、客はクラブホステスやソープランド嬢などのプロの女性が主体となる。  アドニスは第三種の深夜型で、客はいずれもプロであるだけに金遣いも派手で、ホストとどろどろした男女関係に発展しやすい。  自分たちが風俗営業で男に仕えているだけに、ホストクラブで男に仕えられる身分に逆転して、鬱屈《うつくつ》の解消を図る。  だが、売れっ子のホステスやソープランド嬢でも、週一回か月一回通って来るのが精一杯である。それが週三、四回の頻度で通いつめ、そのつど数十万単位の豪遊をしてプレゼント攻めにするしのぶの正体が、有光には不気味であった。  もちろんこれだけの散財をさせて、店の中だけのつき合いというわけにはいかない。  看板後、ホテルへ行って二人だけの濃密な時間を過ごした。  二人は身体の相性もよく、情を交わせば交わすほどに身体が馴染《なじ》んできた。  しのぶの身体はいくら注いでも満ち足りることがない貪婪《どんらん》な蜜壺《みつつぼ》のように、有光のたくましい身体をくわえ込んで、男の性を貪《むさぼ》りつづけた。  さすが強靭《きようじん》な有光のスタミナも息切れしかけるほど、しのぶは貪婪に求めた。 「奥さんの素顔を知りたい」  寝物語に有光が探りを入れても、 「これが私の素顔よ」  としのぶはとぼけて、いま満足したばかりの身体に新たな欲望をよみがえらせて、有光に触手を伸ばして来る。 「奥さんの背後に怖い人が控えているんじゃないのかな」 「私の後ろにはだれもいないわよ。そんな心配をする必要はないわ。私の素性についていろんな噂が飛んでいるようだけど、要するに親がお金持ちだったというだけのこと。金持ちの親が死んで、私一人では使い切れないような遺産を相続したのよ。べつに欲しくもなかったけれど、せっかく親が残してくれたものを捨てることもないでしょう。どう、安心した」  と言って、しのぶは有光の顔を覗き込んだ。 「いい気になって使ってしまうと、相続税がきますよ」 「土地を売って、とっくに払っちゃったわよ。そうそう、親の残した家作があるので、今度は重夫さんにマンションを一つあげようか」  しのぶは半ば本気、半ば冗談ともつかぬ表情で言った。 「とんでもない。これまでしてくださったことだけで、もう充分です。どうかあまり無理をしないでください」 「あら、私、無理なんてしてないわよ。私一人では使い切れないので、重夫さんに分けてあげているだけよ」  しのぶの表情がちょっと気色ばんだ。 「ごめんなさい。そういうつもりで言ったんじゃないのです」  有光は慌てて謝った。  たとえその正体が不気味であっても、しのぶのような客はこれまでになく、これからもないだろう。ホスト冥利《みようり》に尽きる最上客であり、絶対に逃してはならない。  しのぶの遊興資金の出所が曖昧《あいまい》であっても、金に変わりはない。吸えるだけ吸い取ってしまえという気持ちが有光に働いていた。  風俗営業はセックスと切り離せないもので、合法と非合法の接点にある。  売春をしないまでも、性を商品化し、媚《こび》を売っていることには変わりない。  この種の産業に働く者は、金銭感覚が一般とはずれている。  風俗営業には定価はあってないようなものである。特にクラブやバー、キャバレーなどは売り手のさじ加減でどうにでもなる。  金は商品の定価ではなく、客からむしり取るものである。  合法と非合法の境界を|きな臭い金《ホツトマネー》が大量に流れる。  金が合法へ近づけば大企業に吸い取られてしまうし、非合法に近づけば危険な金となって、それをつかんだ者を地獄へ引きずり込む。  合法と非合法の境を流れる金こそ、風俗営業の最大の栄養源である。  二十七歳はホストとしては薹《とう》が立っている。若さと美貌《びぼう》を武器にして、客から金を吸い上げられるのもあとわずかである。  有光にも、いつまでもホスト稼業をつづけるつもりはない。女が寄って来る間にしっかりと稼いで、自分の店を持ちたいとおもっていた。  大学を出て就職した銀行で、二年間、預金獲得競争の先兵としてしのぎを削ったが、しょせん銀行のために金を集める虚《むな》しさをおぼえて、この稼業へ転じた。  銀行とちがって、稼いだだけ確実に自分の上がりになる。  ホストが女客から吸い上げる金は、もともと男たちが女に貢いだ金である。それをふたたび男が吸い戻すのも痛快である。 「私も遊んでばかりいても仕方がないので、なにか事業をやろうとおもっているの。重夫さん、あなたになにか計画があれば、私が資金を出すから考えてみない」  しのぶが言い出した。 「そうね、私、猫を飼っているんだけれど、とても可愛いわよ。もう私の家族よ。猫は自分のことを猫とおもっていないみたい。人間だとおもっているのよ。ペットショップなんかやってみたらどうかしら。いまペットを飼っている人は多いから、きっと繁盛するとおもうわ」  しのぶは言葉を補足した。  自分の店を持つのは有光の夢であった。  大銀行に就職して、有光は夢と現実のギャップをおもい知らされた。  大きな組織というものはごく一部少数のエリートと、その他大勢の働き蜂によって構成されている。  働き蜂がトップ集団の少数エリートによって支配されている構図は永久に変わらない。  働き蜂がトップに這《は》い上ることは天文学的確率である。  だが、会社に忠誠を誓う限り、働き蜂にも終生の生活の安定が約束される。  会社に飼われた家畜、あるいは奴隷として、会社から程よく調味された栄養価満点の餌をあたえられている間に、速やかに野性を失い、完全な社畜、社奴となってしまう。  有光は大企業の社畜として鉄筋の畜舎に飼い殺される前に、自由の荒野に脱出した。  だが、荒野には簡単に餌は転がっていない。自由は自由でも、野垂れ死にする自由だけがふんだんにあった。  会社の美味《おい》しい餌に馴らされた身には、辛《つら》い自由であった。  こうして合法と非合法の境界にある風俗営業へ流れて来た。  ここの餌も会社の餌以上に美味しかった。だが、会社の餌以上に危険な毒がまぶされている。  この中毒になると、境界にいたつもりが非合法の地獄へと引きずり込まれてしまう。  境界で稼げるだけ稼いで、合法の世界で小なりとはいえ一個の店を持つ。それは一種の勝ち逃げである。  勝ち逃げをする見切りどきが難しい。  アドニスの平均年齢は二十二歳、最年少は二十歳、有光は二十七歳、店で最年長の部類である。ナンバーワンと言っても先がない。  大学を出て二年間、脇道をしたために、ホスト稼業に入るのが遅すぎた。  勝ち逃げをするにはまだ時期が早い。店を構えるだけの資金を勝ち取っていない。  そんなときに、しのぶから甘い言葉をささやきかけられた。  しのぶから資金を出させて自分の店を経営する。生涯の夢が一気に近づいた。  すぐにも飛びつきたい話であるが、問題は彼女が提供する資金の出所である。  親の遺産を相続したと言うが、彼女の言葉だけである。危険な金ではないという保証はない。  危険な資金の上に店を築いても、勝ち逃げしたことにならない。  有光の心が揺れた。  そんな時期、ホスト仲間の松江《まつえ》が、 「平沢しのぶには筋者《ヤクザ》が付いているらしい。あの女には注意した方がいいよ」  と忠告した。  松江とはホスト仲間で最も親しくしている。  これまでにもしのぶがヤクザの情婦だという噂は流れていたが、松江の情報には信憑性《しんぴようせい》があった。 「親しくしている組織暴力団の幹部から聞いたことなんだが、彼女は三矢《みつや》組系暴力団の幹部の情婦だそうだよ。あまり深入りしない方がいいよ」  松江の忠告には、これまでの噂とちがって具体性があった。  だが、有光はすでに深入りしていた。たとえしのぶが暴力団幹部の情婦と確定しても、いまさら逃げられない。  しのぶは単に金遣いが派手なだけではなく、女としても充分に魅力的であった。  男なら身銭を切っても遊びたいとおもうような成熟した肉体に、篝情《せんじよう》的な色気をまぶしている。松江はホスト仲間で最も親しいが、同時に有光と売り上げ首位を競っているライバルでもある。有光を妬《ねた》んで水をさしたのかもしれないと、せっかくの忠告に耳を閉ざした。      3  いくら有光がタフでも、連日客の相手は勤まらない。  ホストクラブの客は看板後、デートで必ずホテルへ行く。  彼女らはただ男の身体を貸すだけでは決して納得してくれない。男が放精したのを見届けて、初めて満足してくれるのである。  常連の指名客を多数確保していない限り、トップを維持することはできない。  彼女らをつなぎ止めるためには、身体を用いなければならない。また、それが目的で指名してくれるのである。  一日に三人も四人も相手を務めることもある。  さすがに四人を超えると息切れがしてくる。  酒精を断つ休肝日ならぬ性を断つ休性日を設けないと、身体が保《も》たない。  休性日には滋養の高い食物を摂《と》り、一人で映画を見たり、音楽を聴いたりして過ごす。休性日が次の戦力(精力)を蓄えてくれる。  五月下旬の日曜日の夜、有光は代官山《だいかんやま》にある小さなレストランで夕食を摂った。  行きつけの店で、こぢんまりしたインテリアと静かな雰囲気が気に入っている。  パリの五つ星のレストランで修業したという店主は、客の好みにきめ細かく合わせてくれて、オーダーメイドの料理を作ってくれる。  いつも客に同伴して、客の好みに合わせた料理を食べ慣れている身には、一人で摂るオーダーメイドの料理が楽しい。  時間をかけてゆっくりと夕食を摂り、店を出た有光は、店の専用駐車場へ戻った。  有光は二台の外車と、一台の国産車を持っているが、いずれも客からもらったものである。  今日は国産車に乗って来た。国産ながら性能がよく、乗り心地満点のサルーンで、有光は最も気に入っている。  車のそばへ戻ったとき、その背後に黒い影がうずくまっているのを認めた。  ぎょっとして視線を凝らすと、影はますます身を縮めるようにした。 「そこにいるのは、だれだ」  有光は声をかけた。だが、答えない。 「そこでなにをしているんだ」  有光はさらに問いかけた。  すると、影はささやくような声で、 「助けてください」  と言った。  ようやく目が闇に馴《な》れてきた。車の陰にうずくまっていたのは二十歳前後の女であった。 「きみはだれだ」  有光はさらに問いかけた。 「悪い人間に追われています。捕まったら殺されます。どうぞ助けてください」  女はたどたどしい日本語で訴えた。  どうやら外国人らしい。遠方から来る薄明かりの中に浮かび上がった顔が、泥に汚れて痛々しい。有光はドアを開くと、 「乗りなさい」  と促した。  事情はわからないが、女に危険が迫っている気配は感じ取れた。  女を拾った有光は、車を発進させた。追跡して来る者の気配はない。  尾行に注意しながら、有光は世田谷《せたがや》の迷路を経て代沢《だいざわ》にある自分のマンションへ帰って来た。  懐へ飛び込んで来た形の窮鳥を追い出すこともできず、有光は娘を自分の部屋に連れ込んだ。  泥まみれなので、とにかくバスを使わせ、ガウンをまとわせ、温かい飲物をやると、ようやく人心地ついたようである。  泥を洗い落とした彼女は、肌は浅黒いが、黒い髪にノーブルなマスクを持ったなかなかの美人である。 「一体どうしたんだ」  有光が問うと、たどたどしい日本語で、名前はトウイ・ソンクラームという二十歳のタイ人で、郷里の町で店員をしていたが、日本に行けばいい仕事があると誘われて、手付金と航空券を渡された。日本へ到着すると同時にパスポートを取り上げられ、都内のバーに送り込まれて売春を強要された。  話がちがうと拒否すると、経営者に殴られ、食事もあたえられなかった。  やむを得ず客を取ったが、新宿区内の八畳一間に同じ人身売買ルートを通して送り込まれて来た四人の女性と一緒に押し込まれ、売春による稼ぎは経営者に渡航費用とブローカーに払い込んだ代金立替分としてほとんど取り上げられてしまった。  食事も粗食で、病気になっても医者に診《み》せてもらえない。このままでは殺されてしまうと、隙を見て逃げ出して来たということであった。 「捕まれば殺されてしまう。帰国する金もないし、親戚《しんせき》や知人からたくさんの餞別《せんべつ》をもらって金持ちになって帰って来ると約束した手前、いまさら帰るに帰れない」  とトウイは泣いた。  有光は当惑したが、パスポートもなく、たとえ持っていたところで、観光ビザの入国ではとうに滞在期限が切れている。  警察へ突き出せば不法在留として強制送還されてしまうだろう。  有光は当惑したが、いまさら突き放すこともできない。  トウイは有光に頼り切っている。 「仕方がないな。当分ここにいなさい」  有光は言った。 「ホント。ありがと、ありがと。旦那《だんな》様、大好き」  トウイはほっとしたように何度も言った。  ひょんなきっかけから、有光はトウイを同居させることになった。  トウイは気立ての優しい働き者であった。彼女が同居するようになってから、有光の住居は磨き上げられたように綺麗《きれい》になり、トウイは痒《かゆ》いところに手が届くように有光の身のまわりの世話をしてくれた。  有光の顔色を見ただけで、彼がなにを欲しているかを察知して、先まわりした。  短い期間に有光の食物の好みなども知って、帰宅して来たとき、彼の好みの料理を作って待っていたのには驚いた。  有光が当座の小遣いだと言ってあたえた多少の金を、いちいち小まめに家計簿につけ、有光に報告した。 「これはきみの小遣いとしてやったのだから、きみの自由に使っていいんだよ」  と有光が言っても、一円の誤差も出さずに几帳面《きちようめん》に収支を合わせた。 「私、旦那様のためならなんでもします。私の持っているものはこの身体だけですから、旦那様の欲しいとき、いつでもあげます」  とトウイは真剣な表情をして言った。 「そんな気を遣わなくていいんだよ」  有光は苦笑しながら、トウイの好意を謝絶した。  有光に謝絶されて、トウイが悲しげな表情をした。  トウイは有光の正体を知らない。有光にとって男の身体は商売道具である。  休性日までつくって精力を蓄えていることをトウイが知ったら、どんな顔をするだろうかとおもった。 「きみはヤクザに追われている身だから、あまりひょこひょこ外出してはいけないよ。彼らは鵜《う》の目|鷹《たか》の目できみの行方を探しているはずだ」  有光は彼の食事の材料を仕込むため気軽に外出して行くトウイを戒めた。 「大丈夫です。東京は大きい。私が旦那様にかまくられて[#「かまくられて」に傍点]いることはだれも知りません」 「かくまわれているだろう。その旦那様というのはやめてくれないかな」 「それでは、ご主人様」 「もっと悪いよ。ぼくはきみの主人ではないからね」 「旦那様は私のご主人様です」  トウイは頑《かたくな》に言い張った。  マンションの入居者は有光とトウイが結婚したとおもっているらしい。  休日にトウイと連れ立って外出すると、楽しかった。  ブティックでトウイに似合いそうな服を買ってやり、連れ立って歩いていると、すれちがう男や女が振り返った。  だれも二人を主従と見る者はいない。  有光はトウイが自分の似合いのパートナーの位置にぴたりとおさまっていることに、意外なおもいがした。  これまでどんな美しい女性客をエスコートしていても、トウイと連れ立っているときのような安定感をおぼえたことがない。  もちろん客の場合は気の遣い方がちがう。トウイにはまったく気を遣わない。  トウイは最初からなんの違和感もなく、無理のないペアになっていた。  まだ他人であるのに、どんな深間の女よりも有光の心にぴたりとおさまっている。  たがいの肉体を確かめ合う必要もないくらいに、絶妙な相性がプラトニックに確定している。  トウイは有光が見立てた服を着、彼が指示する通りに髪形を整え、化粧を施し、みるみる美しく変身した。 「驚いたな。きみがこんなに美人だったとは」  有光は目を見張った。 「私って、綺麗ですか」  トウイは自分の美しい変身が信じられないようである。 「別人のようだよ。どこへ出しても恥ずかしくない」 「旦那様から褒められて、私、とても嬉《うれ》しい」  トウイは頬を薄く染めた。  有光は女の性奴としてすり減らしている心身を、トウイによって柔らかく癒《いや》されていた。  トウイは天が彼にあたえてくれた贈り物かもしれない。トウイのような娘は、いまの日本女性の中にはいない。  有光はいつの間にかトウイとの結婚を考えていた。  ホスト稼業から足を洗ってトウイと結婚し、なにか堅い仕事を始める。トウイの出現によって、ホストの足を洗う時期が早まったような気がする。  勝ち逃げしようとして欲張っている間に、チャンスを逸してしまうかもしれない。おもい切りよく切り上げなければ、勝ち逃げはできない。  トウイと出会ったのが潮時かもしれない。  トウイは、結婚すれば、最低三年間の在留が認められ、その後、在留期限を更新して、事実上永住できる。  有光がトウイとの結婚を考え始めたころ、平沢しのぶから、店の経営話をもちかけられた。  トウイと結婚し、平沢から資金を出してもらって二人でその店を経営する。  こんな虫のいい夢を描いた。  トウイが有光と同居するようになってから二か月余りたった。  ある日、帰宅するとトウイが青い顔をして震えていた。 「どうしたんだ」  有光が問いかけると、 「あいつに見つかったの」 「あいつとは」 「私を売った男よ」 「人身売買のブローカーか。そいつにどこで出会ったんだ」 「今日、渋谷《しぶや》へ出たの。ハチ公の前ですれちがったの。あいつは私に気がつかないようだった。私、心臓が止まりそうなほどびっくりしたけど、駅前の交番に道を聞く振りをして飛び込んだの。しばらく様子を見ていても追いかけて来る気配がなかったので、タクシーに乗って逃げ帰って来たのよ」 「跡《あと》をつけられなかったかい」 「途中で二回、車を乗り換えたから大丈夫だとおもう」 「だから一人で街へ出るなと言っただろう」 「ごめんなさい」 「当分外へ出ない方がいい。必要なものはぼくが買って来るから」  有光は注意した。 「とても怖かったけれど、もう大丈夫、あいつにここがわかるはずはないわ」  トウイは自分に言い聞かせるように言った。 「油断してはいけない。あいつらは女の血を吸う寄生虫なんだ。あいつらはきみらを日本に連れて来るために投資をしている。投資した以上の金は絶対に回収する。きみの身体には金がかかっているんだよ」 「それだけの金は返したよ」 「元を取り返しただけでは満足しない。何倍、何十倍にもして取り返すまでは、あいつらはあきらめない」  トウイは女性売買シンジケートのルートに乗って日本へ送られて来たのである。彼らの網にかかって連れ戻されれば、なにをされるかわからない。  まだ結婚していないが、夫婦気取りでいい気になっていた有光は、冷水をかけられたような気がした。      4  ほぼ同じ時期、有光を愕然《がくぜん》とさせるような事態が発生した。 「このところ、平沢さんの姿を見かけないね」  松江が言い出した。  そう言われてみれば、週少なくとも二、三回は姿を見せたしのぶが、ここ十日間ほどぷっつりと現われなくなっていた。 「外国へでも行っているのかな」  松江が推測した。 「いや、そんなはずはない。彼女、猫を飼っていて、長くとも一週間以上は家を空けられないと言っていた」 「ペットホテルがあるだろう」 「ペットホテルも一週間が限度だそうだ。それ以上預けておくと、動物がノイローゼになってしまうそうだよ」 「すると、病気かな」  週三、四回通って来た常連が、突然姿を見せなくなると気になった。  それほど通いつめたくせに、住所や連絡先はおしえてくれなかった。  案じていると、有光宛てに店へ一本の電話がかかって来た。  フロントから取り次がれた電話になにげなく出ると、聞きおぼえのない男の声が、 「有光さんかね」  と確かめてきた。 「有光ですが」  彼が答えると、 「あんた、うちの姐《ねえ》さんをだいぶ吸ったそうじゃねえか」  と電話の声が凄《すご》んだ。 「あなたはどなたですか」  有光が問うと、 「組の者だよ。姐さんがあんたに貢いだ金は組の資金だ。全部返せとは言わない。姐さんはあんたにのぼせ上がっていた。半分返しな」  電話の声は言った。 「なにを言っているのですか。姐さん、姐さんって、だれのことですか」  有光は見当はついていたが、とぼけて訊《き》いた。 「平沢しのぶという客に心当たりがあるはずだ。彼女はうちの組の姐さんだよ。姐さんがあんたに貢いだ金の半分を返してくれたら、穏便にすませてやる。組としても面倒はなるべく避けたいんだ。半分でもいい儲《もう》けだろう。素直に言われた通りにした方が身のためだよ」 「返さなければならない性質の金ではありませんよ」  有光は突っぱねた。 「あんた、姐さんからベンツももらったんだってね。チップも相当もらったそうじゃねえか。姐さんがあんたにつぎ込んだ金はざっと二千万円だ。一千万で勘弁してやる。一千万返してくれれば事を荒立てない」 「それは平沢さんが店で遊んだ金です。返せと言われても困ります」 「あんた、おれたちをなめちゃいけねえよ。尋常《ただ》の女がホストに二千万も貢げると本気でおもっていたのかい」 「あなたは組の人だとおっしゃいましたね。組の人なら博奕《ばくち》で取られた金を返せと言いますか。お客が店で遊んだ金も同じですよ。返す筋合いはありません」 「上等な口をきくじゃねえか。わかった。もうこれ以上返してくれとは言わねえよ。これから夜道の一人歩きは気をつけることだね。明るい道ばかりじゃねえからな」  電話の相手は恫喝《どうかつ》した。  平沢しのぶの正体がようやく割れた。  松江が警告した通り、やはりヤクザの情婦であった。  どうやら彼女は暴力団の資金を横領して遊興費に充てていたらしい。面倒なことになりそうな雲行きであった。  彼女がぷっつりと姿を現わさなくなったことも、不吉な符合である。  暴力団に監禁されているのであろうか。あるいはもっと悪い状態に陥れられているのか。  有光の不安は膨張した。  電話で恫喝されたとき、素直に要求通り一千万円返してしまえばよかったと後悔したが、一度相手に屈伏すれば足許《あしもと》を見られてしまう。相手は暴力団である。弱味を見せればつけ込まれる。      5  ヤクザから脅迫を受けた数日後、有光が帰宅してみると、トウイの姿が見えなかった。夜になっても帰って来ない。  その日は休日で、トウイと一緒に外で食事をする約束をしていた。  トウイがその約束を忘れるはずがない。現に昨夜、出勤するとき、トウイは明日が楽しみだと言っていたのである。  ブローカーに街で出会って以後、一人での外出は禁止している。  部屋の中を物色したが、書き置きのようなものは見当たらない。  トウイに買いあたえてやった衣類の一着が見えなくなっているほかは、部屋の中のものも失われていない。  トウイは有光があたえた金以外は持っていないはずである。それも克明に家計簿につけている。大した金も持たずに、夜になるまで一人でどこへ行ってしまったのか。有光の胸に不安が脹《ふく》れ上がった。  ブローカーが追いかけて来て、拉致《らち》して行ったのではないのか。  有光は不安な一夜を過ごした。  だが、朝になってもトウイは帰って来なかった。  テレビのニュースに気をつけていたが、該当するような事件や交通事故は報道されない。  警察に捜索願を出そうかとおもったが、おもい止まった。  トウイは不法在留者である。入国と同時にパスポートを取り上げられたと言っていたが、そのパスポートも偽・変造したものかもしれない。  それに、トウイは家出をしたわけではない。トウイは一時的に有光の家に同居をしていただけである。  有光の家はトウイの生活の拠点ではない。  へたに届け出れば藪蛇《やぶへび》になるような気がした。      6  朝になってから管理人に訊いたが、トウイの出て行く姿は見ていないということであった。  有光はあきらめきれず、同じマンションの入居者に訊いてまわった。  すると、同じフロアの入居者が、 「そう言えば、昨日の午後三時過ぎ、奥さんが中年男と派手な女に挟まれて車に乗り込む姿を見かけましたよ」  と言った。 「男と女に挟まれるようにして。その二人はどんな男女でしたか」  有光は愕然《がくぜん》として問い返した。 「どんな男女と言われても、特に観察していたわけではありませんので」 「服装とか、身体の特徴をおぼえていませんか」 「男はごく普通の背広、女は少し染めたような長い髪に派手な化粧で、ホステスっぽいスーツを着ていました。私が見ているのを知ると、慌てたように車を出して行きました」 「車のナンバーはおぼえていますか」 「ちょうど夕立が来て土砂降りで、ナンバーは見えませんでした。黒いボディカラーの国産乗用車でした」  隣人から得られた証言はそれだけであった。  だが、重大な証言である。彼女は二人の男女に黒い車に乗せられて拉致された。  やはり懸念していたようなブローカーに捕まってしまったのである。  だが、まだ追手に捕まったと確定したわけではない。もしかすると、べつの用件で出かけて行ったのかもしれない。  トウイが姿を消して、有光は彼女の素性についてほとんどなにも知っていないことに気づいた。彼女の郷里はタイ東部のラオスとの国境に近いナコンパノムという町で、七人きょうだいの末子に生まれたということしか聞いていない。  子だくさんの貧しい農家に生まれて、日本への出稼ぎは金持ちになる唯一の機会であったであろう。  それが恐ろしい人身売買シンジケートの手先とも知らず、甘言に乗せられて日本へ夢を抱いてやって来た。  それから有光の懐に飛び込むまで、どんな生活があったのか。  有光の許《もと》でようやく人間らしい生活を取り戻していたトウイが、自らの意志で出て行ったとはどうしてもおもえない。  有光にはトウイの救いを求める声が聞こえるような気がした。  トウイのいない部屋で独り枕に耳をつけると、その声が遠方から這《は》い寄って来る。 「トウイ、どこへ行ってしまったのだ」  と有光が問いかけても、トウイはただ、助けてと繰り返すだけで、その居所《いどころ》を告げない。  有光は逡巡《しゆんじゆん》した末、最寄りの警察に届け出た。  警察官は彼の訴えを聞いて、 「それはいちがいに家出とは言えませんね」  と言った。 「しかし、私が彼女を庇護《ひご》し、彼女も私の家にいるつもりでいました。それが私になんの挨拶《あいさつ》もなく、突然、姿を消したのですから、家出、失踪《しつそう》と考えていいのではありませんか」  有光は主張した。 「一応お受けしておきます。しかし、このタイ人女性の居所が判明したとしても、不法在留者として摘発の対象になり、あなたの許へは帰れませんよ」  と係官は釘《くぎ》を刺した。  有光は捜索願を出したことを後悔した。だが、いまさら撤回できない。 「捜索願は受け付けて三日間はコンピューターに登録しません。その間、帰って来る可能性があるからです。帰って来たら連絡してください」  帰り際に係官が言った。  係官の言葉にまだ一縷《いちる》の希望が残されている。  もし帰って来たら、連絡などはするものかと、有光はつぶやいた。  だが、捜索願を出して三日経過しても、トウイは帰って来なかった。なんの連絡もなかった。  捜索願は登録されたはずである。  わずか二か月余りのプラトニックな同居であったが、その間にトウイは有光の心の内に埋め難いスペースを占めていた。  トウイがいなくなって初めて、有光はそのスペースの大きさに驚愕した。  赤坂のトップホストとして女の扱い方には熟練しているつもりである。  女は彼にとって金をくわえて来てくれるカモにすぎず、職業として女漬けになっていた彼は、時には女のいない国へ行ってみたいとおもうこともあった。  それがトウイを失って、彼女を恋しがっている。トウイの喪失は有光に癒《いや》し難いダメージをあたえた。  有光は女を失うことによって、これほど打ちのめされている自分に驚いていた。  ホスト稼業の間に、有光は女を金額でしか測れなくなっていた。  だが、金額では測れない女がこの世に存在していた。  プロの男をもって自任している彼が、ほんの束の間、彼の屋根の下に羽を休めた小鳥のような女に心を奪われるようなことがあろうなどとは予想もしていなかった。  一方では、平沢しのぶも姿を消したまま、なんの消息も聞こえなかった。  金を半額返せと迫ってきたヤクザからも、その後なんの音沙汰《おとさた》もない。不気味ではあったが、去る者日々に疎しで、有光の意識から次第に遠のいて行った。  結局、平沢しのぶも瞬間最大風速の客であった。他の客よりも最大風速がやや持続しただけであった。  しのぶが去って、これまで彼女の資金力にはとうてい太刀打ちできないとレースからおりていた客たちが、有光に殺到して、競《せ》り合うようになった。 「覇者がリングから降りて、戦国時代になったような感じだね」  その様を松江がいみじくも言い当てた。  しのぶから、なにかやってみないかと持ちかけられたとき、これを勝ち逃げのきっかけとしようとおもっていたのが、しのぶが立ち去ったために気合を削《そ》がれた。  覇者が降りて、松江の言う戦国時代に入ったために、有光はますます逃げるきっかけを失った。  有光はもともとこの仕事が嫌いではない。女に媚《こび》を売るという男の風上にも置けないような仕事であるが、女にぶら下がっているヒモではない。男の魅力に女たちが金を払ってくれるのである。  男|冥利《みようり》に尽きるような仕事ではないか。  客の中にはホストとゲイを混同している者もいるが、ホストは男そのものであり、性倒錯ではない。  ゲイやオカマは年を取っても客が付くが、ホストは若いうちだけの仕事である。いわば男の旬だけが売り物になる。  およそ男子たる者、女性にもてる職業に就きたいと願うのは当然の心の傾きであろう。  女性にもてる職業ほど若い男には人気がある。  それならばホストになってなにが悪いか。ただもてるだけではなく、複数の女性が自分を目当てに競り合い、火花を散らす。  まさに男子の本懐これに尽きるような仕事ではないかと、有光は開き直っている。  それが合法と非合法の境界にあるだけである。 [#改ページ]   廃屋の死      1  八月八日午前十時ごろ、埼玉県警所沢署に、五十代と見える憔悴《しようすい》した表情の男女が、三十代後半から四十前後の男に付き添われて出頭して来た。  男女は市内に住む新村保夫《にいむらやすお》、君子《きみこ》夫婦で、付き添って来た男は二人の近所の住人市橋洋司と名乗った。  応対した係官に新村保夫は、 「娘の優子が昨日、学校に出かけたまま、まだ帰宅しません。大学に問い合わせたところ、午後三時に終る授業を取っているということでした。その日のクラブ活動には参加しておりません。娘が立ちまわりそうな友人や親戚《しんせき》の家に聞いてまわったのですが、いずれにも立ち寄っていません。  これまで娘が黙って外泊したようなことはありませんでした。友人の話では、昨日は元気に登校しており、下校時もまた明日と言って別れたそうです。昨夜から今朝のニュースに注意していましたが、該当するような交通事故や事件も発生しておらず、家出をするような心当たりもなく、誘拐されたのではないかと心配になって届けにまいりました」  と訴えた。  つづいて付き添って来た市橋が、 「優子さんは毎朝、駅まで自転車に乗って行き、駅前に自転車を置いて電車で通学しています。  ご両親から相談を受けて、直ちに駅前の自転車置場を見たところ、優子さんの自転車が放置してありました。ですから昨日、登校して、駅前の自転車を置いた定位置に帰って来るまでの間に、優子さんの身になにかが起きたのだとおもいます」  と言った。 「失礼なことをお尋ねしますが、お嬢さんには特に親しくしていた男性はいませんでしたか」 「いれば、必ず私どもに紹介したはずです。優子は親に隠れて男と交際するような娘ではありません」 「最近、恋人ができたような気配はありませんでしたか」 「恋人ができれば、必ず私どもに話すはずです」  新村保夫は強い口調で言った。  娘に限ってそんなことはないと、彼は絶対的な信頼を彼女に置いているようである。  だが、係官は客観的に事態を観察していた。  娘に限ってという親の自信は当てにならない。  係官はなに一つ不自由ない家庭の真面目な仮面を被《かぶ》った子女が、親の目の届かないところで売春や不純異性交遊をしている例を知っている。  二十歳の女子大生となれば立派な大人である。恋人の一人や二人いてもなんら不思議はない。男に誘われて羽目を外したのかもしれない。  係官は、その時点ではまださほど深刻には考えていなかった。  とりあえず届け出を受け付け、上司に報告した。  さらに一日待ったが、本人からなんの連絡もなかった。身代金の要求もこない。  ようやく事態を重視した警察は改めて新村夫婦から詳しく事情聴取をし、数名の私服捜査員を新村家に派遣して、犯人からの連絡を待つことにした。  もし犯人が新村優子を身代金目的で誘拐したとすれば、新村家に身代金を要求する告知電話をするはずである。  所轄署は電話の録音、NTTの協力を仰いで逆探知の準備をして、犯人からの告知電話を待った。  同時に所轄署では県警本部に報告すると同時に、全署員を動員して新村家と学校を結ぶ通学路、新村優子の友人、学校関係者、近所の住人、親戚等の聞き込みを行なった。  だがその日、警察に届け出てから夜を徹して待機したが、翌朝になっても犯人からの連絡はなく、聞き込みの網にも有力な情報は引っかからなかった。  ここに所轄署は、新村優子をなんらかの犯罪の被害者となっている虞《おそれ》ある特異家出人と判断して、県警本部捜査第一課に秘匿応援を要請した。  八月十一日、所沢署に女子大生行方不明事件捜査本部が開設された。  新村優子は八月七日午後、所沢市内にある明淑《めいしゆく》女子大学を下校したまま消息を絶った。  新村家は西狭山《にしさやま》ヶ丘《おか》にあり、西武池袋線狭山ヶ丘まで自転車で行き、電車で所沢市内の大学まで通学していた。  プロポーションの美しい色白の美人で、学業成績は才媛《さいえん》の集まる大学の中でもトップクラスであった。  性格は素直で明るく、人の面倒みがよく、友人の信頼を集めていた。  特に親しくしていたボーイフレンドはいない。  所沢署では県警本部の応援を得て、学校と自宅の間に大捜索網を張った。  だが、新村優子は神隠しにあったように忽然《こつぜん》と消えたまま、その行方を示すなんの手がかりも得られなかった。      2  悪ガキグループが集まって度胸試しをしようという話が持ち上がった。 「どこで、どんな度胸試しをするんだ」 「大学の新入生が度胸試しに荒海に飛び込んで死んじゃったぜ」 「そんなんじゃねえよ」 「じゃあ、どんな度胸試しだ」 「お化け屋敷の探検だ」 「お化け屋敷だって。いまどきお化けなんかいるもんか」 「それがいるんだな、真夜中に青い火が揺れているのを見た人が何人もいる」 「ホームレスが住み着いているんじゃないのか」 「この辺にホームレスはいねえよ。そんなのが歩いていたら、すぐにわかる」 「おれ、一度、本物のお化けに会ってみたいとおもっているんだ」 「そうだなあ、もしお化けがいたら会ってもいいな」 「みんなで会えば怖くねえだろ」 「それじゃあ度胸試しにならないよ」 「そんなお化け屋敷があるのかい」 「トトロの森を知ってるだろう」 「湖のそばのだろう」 「あの森の中に古い空き家があるんだ。十年ほど前、作業員の宿舎になっていたのが、いまはだれも住んでいない。近所ではお化け屋敷と呼んでいる。そこの探検に行かないか」  リーダーに顔を見まわされて、悪ガキたちは束の間ためらった。  森の奥の空き家と聞いただけで、おどろおどろしい雰囲気である。だが、怖いもの見たさもある。 「私、行く」  グループの中に勇敢な少女がいた。  女が志願して、男たる者、尻込《しりご》みするわけにはいかない。 「おれも行く」 「おれも行くよ」  即座に衆議一決した。 「よし、今夜十時、センター前に集まれ。塾で遅くなったなんて言うなよ」  リーダーが言い渡した。  悪ガキグループはその夜、約束の時間に町内の給食センター前に集合した。 「みんな来ているな」  リーダーは満足そうにグループの顔を見まわした。  約束しておいて降りれば、グループから仲間として認めてもらえなくなる。  いずれも家族には塾の特訓と偽って家を出て来ている。  全員ライトを携行して、中には手にバットや木刀を握っている者もいる。  空は厚い雲に覆われて、一抹の星の光も見えない。度胸試しにはもってこいの夜である。 「出発」  リーダーが号令した。  少年五人、少女一人、総員六人の探検隊はトトロの森を目がけて出発した。  勉強と塾にがんじがらめにされている子供たちにとっては、久し振りの冒険である。  一人ではとうていできない冒険も、みんなでやれば怖くない。  グループは間もなく目的地へ着いた。  トトロの森は町外れにあって、中央の盟主の椎《しい》の木を中心に桜や松、と雑木が混生している。  問題のお化け屋敷は森の縁にある木造二階建てである。  無住になってから十年以上で、屋根には穴が開き、柱は傾き、壁は落ちかけている。  所有者は不動産会社ということであるが、家の解体に金がかかるので放置しているらしい。  グループはお化け屋敷の前に着いて、ちょっと足踏みした。意気込んで来たものの、闇の中にそれ自体が大きな物《もの》の怪《け》のようにうずくまっているおどろおどろしげな形に、覚悟はできているはずの悪ガキたちが二の足を踏んでいた。 「行くぞ」  リーダーがかけ声を発した。噂の青い火は揺れていない。ちょうど森の梢《こずえ》がさわさわと揺れて、生臭い風が吹きつけてきた。  リーダーは勇を鼓して先頭に立った。  彼の当初の計画では、お化け屋敷に一人一人入る予定であった。  だが、現実にお化け屋敷の前に来てみると、そんな気持ちは吹っ飛んでしまった。  一同はライトを点じてリーダーを先頭に一塊となって屋内に踏み込んだ。屋内の光景は外から想像した以上に凄《すさ》まじかった。  部屋はすべて和室であるが、窓ガラスは割れ、襖《ふすま》や障子は破れ放題に破れ、焼けた畳の上には埃《ほこり》が降り積もっている。  作業員が住み荒らしたまま立ち去ったらしく、畳の上には古雑誌や空き缶や包装紙が散乱している。魔物が集まって宴会をした後のようであった。  突然、少女が悲鳴をあげた。  ぎょっとなってすくむと、蜘蛛《くも》の巣が少女の顔に引っかかったのである。  屋内は数室に区分されている。いずれの部屋も凄まじく荒れ果てている。  だが、どうやらお化けはいないようである。 「くさいな」  そのときグループの一人が言い出した。 「本当だ、変なにおいがするぞ」  室内に入ったときからにおっていたのであろうが、緊張で嗅覚《きゆうかく》が麻痺《まひ》していたのである。 「いやなにおいだな」 「床下に迷い込んだ野良犬か野良猫が死んでいるんじゃないの」  少女が憶測した。 「本当に犬か猫かな」  べつの少年が言った。  一同ははっとして、ライトの中で顔を見合わせた。テレビでそんな場面を見たような気がする。テレビで鍛えられているだけに想像力がたくましい。  彼らは床下に葬られているもののおぞましい正体を推理した。 「まさか」 「でも、このにおいは、犬や猫の死体じゃないよ」 「おまえ、死んだ犬や猫のにおいを嗅《か》いだことがあるのか」 「ないけど、人間の死体のにおいって、こんなんじゃないのか」 「やめろ」  だれかが言ったのが限界であった。  グループはわっと悲鳴をあげて、我先に逃げ出した。  死体が床下から立ち上がって追いかけて来るような気がした。      3  都下|武蔵村山《むさしむらやま》市域|中藤《なかとう》地区北端の埼玉県境に近い森の中の廃屋に異臭が立ち込めているので調べてもらいたいという訴えが、東《ひがし》大和《やまと》署に寄せられたのは十月七日の朝であった。  通報によると、地元でトトロの森と呼ばれる森の中の廃屋に、昨夜、子供たちが探検に行って異臭を嗅ぎ、親に訴えたので、親が子供に代わって警察に届け出てきたものである。  警察ではホームレスが入り込んで行路病死(野垂れ死に)した場合を考えて、係官が臨場した。  問題の廃屋は中藤地区北端の狭山丘陵にあり、森の周囲は茶畑と畑である。県境を越えると所沢市勝楽寺で、全域が東京都水道局の山口貯水池の敷地となり、民家はすべて移転している。  臨場した東大和署員は屋内に入るなり、鼻孔を手で覆った。  秋雨前線が停滞していて湿度の高い中で、異臭は黒い瘴気《しようき》となって廃屋の中にこもっているようであった。  係官は緊張した。この臭源は犬や猫の死体ではないことを直感的に悟った。  異臭に堪えて、その源を探した係官は、六畳の和室の床下辺りから一際濃く異臭が立ち上って来るのを感じた。  畳を剥《は》いでみると、床板は一度外された痕跡《こんせき》があった。  床板を外した係官は、床下に毛布に包《くる》まれた若い女性の死体を発見した。  直ちに本署に連絡されて、捜査員が駆けつけて来た。  第一所見では、推定死後経過約二か月、推定年齢は二十歳前後、東南アジア系の女性で、頸部《けいぶ》に索溝(紐《ひも》で締めた痕《あと》)が認められるところから、死因は索条(紐)で頸部を締められ、気道閉鎖による窒息と判定された。  殺人事件と断定され、警視庁捜査一課に応援が求められた。  東大和署の要請によって、現場には所轄鑑識係員以下捜査第一課長、那須《なす》班、機動鑑識班を含む鑑識課員、科学捜査研究所所員が、続々と臨場した。  所轄署が逸速《いちはや》く保存した現場を、破壊防止のためにポラロイド写真撮影をし、現場の綿密な検索と採証が始められた。  現場および付近の観察の後、死体の検視が実施された。  被害者は薄いピンクのワンピースに、おとなしい色の夏用カーディガンを羽織っている。衣類には動物のもののような短毛が付着していた。  黒い髪は長く、両足に五センチほどのハイヒールを履いている。  アクセサリー類は身に着けていない。所持品もない。  着衣は特に乱れていない。  静かな湖畔の森は殺人事件の現場として、警察のものものしい管理下に置かれた。  一通りの観察が終わった死体は、腐乱死体専用のビニール製収納袋に収納して、現場から搬出することにした。  死体はその日のうちに杏林《きようりん》大学へ運ばれ、司法解剖に付された。  解剖の結果、死因は首のまわりに索条を水平に一周して強く締めた、気道閉鎖による窒息、すなわち絞殺。  推定死後経過、約二か月。  胃内容は空虚。  薬毒物の服用は認められない。  生前、死後の情交、姦淫《かんいん》痕跡は認められない。  と鑑定された。  なお、被害者の衣服に付着していた動物のものらしい毛は、上野動物園動物病院に鑑定を委嘱し、犬、猫、猿等の毛と認められ、両端がハサミ、バリカン等の器具によって切断された短毛であることが確認された。  被害者は生前、それらの動物に接触したか、あるいはそれらの動物の毛のある場所にいたことを示すものである。  同日午後、東大和署に廃屋外国人女性殺人事件捜査本部が開設された。  十月八日午前九時から解剖結果を踏まえて、第一回の捜査会議が開かれた。  中心議題は被害者の身許《みもと》である。  死体および現場周辺の綿密な検索にもかかわらず、被害者の身許を特定するような資料は発見されなかった。  犯人は被害者が携帯しているはずのパスポート、身分証明書、あるいは外国人登録証明書などを持ち去った模様である。  現場が地元の人間もお化け屋敷と気味悪がって近づかない廃屋の中であることから、被害者をべつの場所で殺害して、死体を運んで来たと推測された。  地元の人間や、ごく限られた関係者しか知らないはずの廃屋に死体を遺棄したのは、犯人に土地鑑があると考えられる。 「被害者が外国人女性であるところから、被害者の生前の人間関係は、まず外国人が考えられるが、外国人に現場の土地鑑は無理ではないのか」  という意見が出た。 「すると、犯人として、まず日本人の公算が大きいということになるのか」 「被害者の人間関係に日本人がからんでいても不思議はないだろう」 「犯人を日本人と限定するのは早計である。外国人が現場に土地鑑を持っていても不思議はない」 「被害者は東南アジア系の女性と推定されているが、ジャパゆきさんということは考えられないか」  東南アジア諸国から日本の風俗営業に出稼ぎに来る女性のことを、唐行《からゆき》にちなんで、ジャパゆきと呼んでいる。  彼女らはおおむね滞在期間六十日の観光ビザで来日し、期限切れ後も不法在留して稼ぐ。  彼女らに売春戦力として目をつけた女性売買シンジケートが、日本へ行けばいい仕事があると誘って、航空券とニセ旅券をあたえて、日本へ連れて来て、たこ部屋に押し込み売春を強要する。騙《だま》された女性たちが隙を見て逃亡し、警察や母国の大使館へ駆け込んで来るケースは跡を絶たない。  逃げ出したものの、追手に捕まり連れ戻された女性は凄《すさ》まじいリンチを受ける。  殺されて、死体を隠されてしまった者もいるという。  殺されないまでも、病気になって満足な医療も受けられず、死んだ女性も少なくない。  捜査員が東南アジア系の被害者の素性に、まずジャパゆきを疑った。 「しかし、ジャパゆきさんとなると国籍も氏名も不明では、身許の割り出しようがないな」  捜査員は当惑した表情を見合わせた。  日本には夥《おびただ》しいジャパゆきが入り込んでいる。大都会だけではなく、地方都市の隅々にまでジャパゆきの足跡は及んでいる。  日本人男性と結婚すれば三年間の在留が許され、更新をつづければ事実上、永住できる。  これに目をつけて偽装結婚のブローカーも暗躍する。  五十万から三百万円の手数料を支払って、日本人男性と結婚した後、離婚する。  離婚後、摘発されても、まず不法在留にはならない。  その日の捜査会議では、当初の捜査方針として次の諸項目が決定された。  ㈰被害者の身許割り出し捜査。  ㈪現場周辺の聞き込み捜査。  ㈫特に外国人不審者、季節労働者、不定期通行人の発見、割り出し捜査。  ㈬不審車両の発見捜査。  ㈭都内、都下、近隣諸都市の東南アジア系女性の聞き込み捜査。  当初、難航を予想された被害者の身許割り出しは、意外に早く最初の反応があった。  被害者の容貌《ようぼう》、推定年齢、身体特徴等を警察庁の家出人ファイルに照会したところ、八月十四日、世田谷区代沢に居住している有光重夫という人物から捜索願を出されているトウイ・ソンクラームという二十歳のタイ人女性に該当《ニアヒツト》した。 [#改ページ]   |熱い街《ホツト・エリア》      1  有光重夫は不吉な予感が的中したのを悟った。  こんなことになりそうな予感がしきりにしていた。不安が最悪の形で的中してしまったのである。  警察から連絡を受けたときは、信じられないおもいであった。信じたくなかった。  捜索願を出したトウイ・ソンクラームの特徴に該当する死体が、多摩湖・狭山湖近くの森の中にある廃屋で発見されたので確認をしてもらいたいという要請であった。  死後経過約二か月という。もしその死体の主がトウイであるならば、彼女は有光の家から失踪後《しつそうご》、ほとんど間をおかず殺されたことになる。  彼女はやはり追手に捕まってリンチに遭い、殺されてしまったのだ。  東大和署という馴染《なじ》みのない警察署からの連絡に応《こた》えて、有光はトウイの死体が安置されている杏林大学へ出かけて行った。  出迎えた刑事は捜査一課の棟居《むねすえ》と名乗り、 「死後約二か月を経過していますので、死体はかなり傷んでおります」  と告げた。  むごたらしく変わり果てたトウイに会うのは辛《つら》かったが、素性も確かめられないまま異国に骸《むくろ》を横たえては、浮かばれないであろう。  有光は勇を奮って被害者の遺体に対面した。  解剖された遺体は縫合され、防腐処置を施され、病院の死体冷凍室《モルグ》に保存されている。  トウイは無惨に変わり果てていたが、生前の面影をわずかに留《とど》めていた。 「まちがいありません。トウイです」  有光は絶望を確認するように言った。 「まちがいありませんね」  棟居は念を押した。 「まちがいありません」 「トウイさんが失踪した前後の状況を詳しく説明してください」  有光はトウイをかくまい、同居中、渋谷でブローカーに出会ってから間もなく、二人の男女に車に連れ込まれて消息を絶つまでの経緯を話した。 「それでは、あなたはトウイさんがどういうルートで入国し、あなたが庇護《ひご》するまでどこで働いていたか知らないのですか」 「知りません。トウイはあまり話したくなさそうだったし、私も詮索《せんさく》しませんでしたから。こんなことになると知っていれば、もっと詳しく訊いておくべきでした」 「トウイさんはジャパゆきさんだったのですね」 「と言っていました。人身売買シンジケートのブローカーに引っかかり、航空券を渡されて来日すると、都内の店で売春を強要されたと言っていました」 「都内のどこの店と言っていましたか」 「店の名も場所も訊いていません。いくつかの店を転々とさせられたようです」 「あなたに名乗ったトウイ・ソンクラームという名前は本名ですか」 「それはわかりません。彼女がそのように名乗っていただけですから。しかし、私にまで偽名を使う必要はなかったとおもいます」 「あなたがトウイさんを保護したとき、だれかに追われていたようだと言いましたね」 「はい、悪いやつに追われているので助けてくれと、私に救いを求めて来ました」 「そのとき、あなたは追手を見ましたか」 「いいえ。彼女の様子が切羽つまっていたので、すぐに車に乗せて、その場から離れました」 「そこはどこですか」 「代官山のレスランの私設駐車場です」 「そのとき所持していたものはありますか」 「なにも持っていませんでした。文字通り着の身着のままで、泥だらけになっていました」 「トウイさんは薄いピンクのワンピースとカーディガンを着ていましたが」 「それはぼくが買ってやったものです。他にも彼女のために買ってやった衣類が家に残っています」 「あなたが見ず知らずのトウイさんを危険を冒してかくまってあげたのは、なにか理由があったのですか」 「べつに理由はありません。異国の空の下で知り合いもなく、追手に追われて途方に暮れていたので、可哀想だとおもってかくまってやったのです」 「あなたのお話によると、トウイさんが男女に拉致《らち》されてから捜索願を出すまで約一週間のタイムラグがありますが、どうしてすぐに捜索願を出さなかったのですか」 「迷っていたのです。トウイが拉致されたかどうかも確かではなく、トウイの滞在期限は切れていましたから、警察へ届け出れば藪蛇《やぶへび》になるような気がしたのです」 「あなたはトウイさんが発見された武蔵村山市域の現場に心当たりがありますか。トウイさんは生前、あの辺に知り合いがいるようなことを言ってはいませんでしたか」 「いいえ。彼女は西も東もわかりませんでした。私も武蔵村山などという土地にはまったく縁がありません」 「あなたは犬や猫を飼っていますか」 「いいえ。ペットはなにも飼っていません」 「トウイさんがあなたに保護される前に動物を飼っていたようなことは言っていませんでしたか」 「いいえ、そんなことは言ってませんでした。動物など飼う余裕はなかったはずです」 「あなたがトウイさんを保護した代官山|界隈《かいわい》で、トウイさんが働いていたようなことは言いませんでしたか」 「最初は立川《たちかわ》の方にいたらしいのですが、新宿や池袋の外国人クラブを転々としていたようです。新大久保のアパートに押し込められていたのを、隙を見て逃げ出して来たと言いました」 「新大久保に住んでいたのですね」 「なんでも新大久保の八畳のアパートに四、五人押し込められていたそうです」  新大久保界隈には外国人のアパートが密集している。  トウイのように人身売買ルートに乗せられて日本へ連れて来られた東南アジアの女性や、出稼ぎに来た主として中南米の女性が新宿、池袋界隈の外国人バーや、路上で売春する。  いまや彼女らが日本の売春戦力の主力となっている。 「不法在留者をいつまでも保護し切れるものではないのに、あなたがトウイさんを保護したのにはなにか理由があったのですか」 「最初は特に理由はありません。悪いやつに追われているようで可哀想だとおもったので、最初はちょっとかくまってやるつもりで家へ連れて来たのです。ところが、置いているうちに情が移って、結婚してもよいとおもうようになりました」 「まだ結婚はしていなかったのですね」 「まだでした。いまにして、結婚しておけばよかったとおもいます」 「それはなぜですか」 「結婚していれば、トウイは不法在留者ではなく、失踪と同時にためらいなく捜索願を出せたからです」  有光は自分がトウイの遺体を引き取って、葬ってやりたいとおもった。  だが、棟居は遺体は犯罪捜査の資料として、解剖後も当分、警察の管理下に保存すると告げた。 「トウイさんの身許《みもと》はまだ判明したわけではありません。あなたの証言を参考にして、身許割り出しのための捜査をつづけます。本国に遺族がいれば連絡しなければなりません。まずはトウイ・ソンクラームの名前で入国管理局とタイ国大使館に照会してみます」  事情聴取後帰された有光は、全身が脱力したように感じた。  トウイはもうこの世にいないとおもうと、生きる張り合いがなくなった。  男の身体を武器にして女から吸い取るような仕事をしている有光にとって、女は自分の生活を支える素材であって、人間ではなかった。  それがトウイを知って、初めて女に人間を意識した。  自分に金をもたらすカモであり、生活の補給源であった女体が、トウイを知って初めて人格を持ち、異性として意識されたのである。  毎日|夥《おびただ》しい女体に浸りながら、トウイは有光の初めての異性であった。  トウイが死んで、彼女が有光の生活の中に占めていたスペースの大きさをおもい知らされた。他のなにものをもっても埋められないスペースである。  トウイが去った空虚の中で、茫然《ぼうぜん》自失していた有光に、犯人に対する怒りが目覚めてきた。  なにも殺さなくてもよいではないか。犯人にとってもトウイは資本をかけた商品である。トウイを殺してしまっては元も子も失われてしまう。  逃げたトウイを捕らえて、二度と逃げ出さないように恐怖の鎖で縛るためにリンチを加えることはあっても、殺す必要はない。  それにもかかわらず、犯人はなぜトウイを殺したのか。  犯人に対するふつふつたる怒りの中で、ある疑問が頭をもたげてきた。  有光の意識に平沢しのぶの件で、金を返せと電話をかけてきたヤクザがちらりと浮かんだ。  有光が突っぱねると、彼は有光の身に危害を加えるかもしれないと恫喝《どうかつ》した。  もしかすると、しのぶの背後にいるヤクザが見せしめにトウイを殺したのであろうか。  もし彼らの犯行であるなら、その旨を有光に告げなければなんの意味もない。  それに暴力団が犯人であるなら、そんなまわりくどいことはせず、有光を直接狙うであろう。  自分の憶測だけで暴力団を誣告《ぶこく》すれば、不必要な危険を引き出してしまうかもしれない。  有光は暴力団員による脅迫の件を喉元《のどもと》に押さえた。  深夜営業の「アドニス」の客にはプロの女性が多い。それだけに有光は彼女らの稼ぎを知っている。  高級クラブのホステスの中には大企業と契約してVIPに侍《はべ》り、一夜に百万近く稼ぐ女もいる。彼女らは金の卵を生む鶏である。卵を一挙に取り出すために、鶏をつぶすような飼い主はいない。すると、トウイが殺されたのは、逃げたことに対するリンチではないかもしれない。  リンチでなければ、なぜ殺されたのか。  トウイはシンジケートにとってなにか都合の悪いことを知っていて、口を閉ざされたのか。  だが、トウイがシンジケートの重大な秘密を知るような位置にいたとは考えられない。  トウイの口を閉ざすくらいならば、すべてのジャパゆきの口を封じなければなるまい。  有光はトウイが逃亡以外のなにかべつの理由で殺されたような気がしてきた。  彼女の死体が発見された武蔵村山という土地も方角ちがいである。  なぜ彼女はそんな見当ちがいの方角へ運ばれて行ったのか。  立川や八王子《はちおうじ》にもジャパゆきは働いているだろう。都内のたこ部屋から逃走したトウイを、都下へ移そうとしたのか。  それにしても、武蔵村山はジャパゆきの生活圏からは離れているような気がする。  なぜ彼女はそんなところで殺されていたのか。あるいは警察が見立てているように、べつの場所で殺害されて、死体を現場へ移動させられたとしても、なぜそんな場所へ運ばれて行ったのか。  有光は現場を自分の目で確かめたくなった。  いまさら自前の現場検証をしたところで、警察が調べた後になにが残っているものでもない。  だが、トウイの終焉《しゆうえん》の地を自分の目で見たい。  犯人捜しは警察に任せるとしても、トウイはきっと今際《いまわ》の際《きわ》に、必死に有光に救いを求めたにちがいない。  その場所に立てば、トウイの声が聞こえてくるかもしれない。  有光はおもい立つと、居ても立ってもいられなくなった。トウイが自分を呼んでいる。  かくまってやるなら、なぜもっとしっかりと保護してやらなかったか。中途半端な保護をしたばかりに、トウイに危機を呼び寄せてしまった。  いまさら臍《ほぞ》を噬《か》んでも遅い。有光はトウイを死なせた責任の一端は自分にあるような気がした。      2  有光重夫によって、被害者の身許がわかりかけていた。だが、まだ身許が割れたわけではない。  有光が告げた名前は、被害者が有光に対して名乗っただけにすぎない。  入国管理局に問い合わせたところ、トウイ・ソンクラーム名義の入国記録はないということであった。  となると、トウイ・ソンクラームは偽名か、あるいはべつの名義の旅券を使用して入国したことになる。 「捜索願を出した有光という男は信じられるのかね」  山路《やまじ》の目が猜疑《さいぎ》の色を塗っている。  犯行をカモフラージュするために犯人自ら死体の発見者となったり、捜索願を出したりする例は珍しくない。 「もちろんウラは取ってあります。有光は赤坂のホストクラブ『アドニス』のトップホストで、被害者を保護する前は彼女との間になんのつながりもありません」 「被害者を保護してから関係が生じただろう。その間に殺人動機が形成されたとしても不思議はないよ」  山路が白目がちの目で睨《にら》んだ。 「自分で殺し、死体を隠し、捜索願を出すという例もないことはありませんが、かなりの危険を伴います。有光は売れっ子のホストとして身辺に女が群れており、被害者を殺さなければならない理由は見当たりません」 「有光は被害者と結婚を考えていたそうじゃないか。プロのホストが結婚しようとおもっていたんなら、たとえば女が浮気などしたら、殺す動機は生じるよ」 「有光と同じマンションの入居者が、被害者が一組の男女によって車に連れ込まれている場面を目撃していますが」 「だからといって、その二人を犯人と断定することはできない。有光も一応疑ってかかる必要があるな」  だが、カモフラージュするのであればもっとうまくやるのではないのか。  同棲《どうせい》していた外国人女性を殺害して、死体を遺棄した犯人が有光であれば、いずれは発見される可能性のある都下の廃屋に遺棄したというのも不可解である。  捜索願を出すからには、死体が絶対に発見されないという自信がなければならない。  だが、山路の意見も無視できない。  刑事に先入観は禁物である。すべての事件関係人物に灰色のフィルターをかけ、一人ずつ漂白していく。  捜査本部としては有光を無視するわけにはいかない。  捜査線上の人物として彼をマークするかたわら、新宿歌舞伎町、新大久保、池袋、その他都内の外国人女性クラブや、その居住地域に捜査の網を拡げた。  事件はマスコミ機関を通じて広く報道された。  報道に接した市民から、 「都下武蔵村山市域で死体となって発見された東南アジア系女性は、歌舞伎町のタイ国人バー『アユチャ』で働いていたアイラというホステスに似ている」  という情報が寄せられた。  勇躍した棟居と東大和署の鈴木刑事のコンビは、新宿歌舞伎町の区役所通りにあるアユチャへ赴いた。  ここは日本最大の歓楽街・歌舞伎町のメインストリートであり、風俗多国籍化の進んでいる地域である。  中国人を筆頭に韓国、フィリピン、タイ、イラン、パキスタンなどのアジア系、ブラジル、ペルー、コロンビアなどの中南米系が進出著しく、午前零時を境に終夜営業を前夜と後夜に分け、資金力の乏しい外国人や不法在留で店を自分名義で借りられない中国人たちが交替で借りて、入居料を折半する。  この種の店で働く従業員も、おおむねアパートを昼番と夜番が共同で借り分け、ベッドは常に温かい。ホットショップとホットベッドの街である。  日本の街の一隅でありながら、さまざまな民族が非合法に近い合法との境界でしぶとく共生している。  これらの店は叩《たた》けばいずれも埃《ほこり》が出る。  歌舞伎町のごみごみした飲食店街の一隅にアユチャはあった。  狭く、薄暗い店内には、東南アジア系の女性と客が身体を密着するようにして、なにごとかささやき合っている。  ホステスたちは片言の日本語しか解せず、客との間に充分な意志の疎通が行なわれているとはおもえない。  言葉はあまり必要ではなかった。  どろどろした妖《あや》しげな雰囲気の中で、男が女を気に入れば、即座に契約が成立する。  棟居と鈴木の訪問に、店長はたちまち身構えた。店長は沢井《さわい》と名乗った。  棟居が用件を告げると、沢井は青くなって、 「アイラはいま店にいません。私どもにいたのはほんの短い期間で、辞めてしまいました」  と答えた。 「辞めて、どこへ行ったのですか」 「知りません。突然、店に来なくなったのです」 「こちらの店に勤めていたとき、アイラさんはどこに住んでいましたか」 「さあ、よく知りません」 「あんたねえ、そんな言い訳が通ると思っているのか」  棟居の口調ががらりと変わった。沢井の体がぴくりと震えた。 「この写真の主はアイラだろう」  すかさず棟居がトウイのデスマスクの写真を沢井の前に突きつけた。 「アイラです」  沢井はしぶしぶうなずいた。 「彼女の名前はトウイ・ソンクラーム、都下武蔵村山市域で死体となって発見された。テレビや新聞で報道されていたから知っているだろう」 「いいえ、いま初めて聞きます。うちにほんの一時いただけのホステスが殺されても、うちには関係ありません」 「とは言えないとおもうよ。いまお宅の店で働いている女性たちになにをしているか聞いてみれば、アイラがこの店にいた事情もおおかたわかるというものだ。彼女たちにどんなルートで入国したか、一人一人聞いてみようかね。給料をいくらもらって、店でなにをして、どこに住んでいるか。叩けば埃が出そうじゃないか」  棟居に凄《すご》まれて、沢井は屈伏した。 「トウイはタイ人女性の斡旋者《あつせんしや》、山川《やまかわ》という男が連れて来た。山川には謝礼として百万円を支払った。店の女の子はほとんど山川経由で来ている。彼女らがどんなルートで来日したか、私は知らない」  と沢井はすべてを山川に押しつけた。 「女の子が密入国や不法在留、あるいは売春を強要されていたら、あんたも責任を免れないよ」 「旦那《だんな》、勘弁してくださいよ。私らの店でうるさいことを言っていたら、女の子が集まりません」  沢井の顔が泣きそうになった。  店内にいた客たちが、棟居らが発する気配に危険を感じたとみえて、こそこそと消えて行った。 「その山川という男はどこにいるんだね」  棟居は沢井をさらに問いつめた。 「さあ、私もよく知らないんです。忘れたころに姿を見せて、女の子を斡旋してくれます」 「知らないですむとおもっているのか」  鈴木に一喝されて、沢井は、 「本当なんです。私の店ばかりじゃありませんよ、山川から女の子を斡旋してもらっているのは。ビザだってちゃんと興行ビザを取っているんだから」  口調がしどろもどろになった。 「ほう、興行ビザが出ているのか。興行ビザでなにをやっているんだね。もし在留資格外の活動をしていることがわかれば、強制退去を命じられるよ」 「旦那、うちでは売春なんかさせていませんよ。個人ベースの自由恋愛はべつですが」 「あんたらが自由恋愛などと言ったら、自由恋愛が泣くよ」  棟居が鼻先でせせら笑った。  日本へ出稼ぎに来るジャパゆきは、ほとんどが女性人身売買ルートに乗って送られて来る。  彼女らの入国目的は、おおむね在留期間六十日の観光か興行である。  日本国内に招聘《しようへい》元がいれば、まれに一年の留学か文化活動、三年の技術指導で来られる。  人身売買シンジケートと結託して、文化や技術など在留期間の長い招聘元になる会社もある。  彼女らが入国目的に該当しない活動をすれば、強制退去の対象となる。その中に売淫《ばいいん》関係が含まれている。  売春をした者だけではなく、彼女らに売春を強制したとわかれば、日本の招聘元も処罰され、営業免許を取り消されてしまう。  だが、自由恋愛という抜け道がある。  アユチャの店長から、アイラことトウイ・ソンクラームは、山川と呼ばれるブローカーから店に斡旋されてきたことがわかった。  だが、山川の居所と素姓は不明である。  沢井もよく知らないようである。山川などという名前はありふれているし、なんとなく偽名くさい。  棟居は質問を変えた。 「あんたは犬や猫を飼っているかね」 「店で動物なんか飼いませんよ。動物の嫌いな客がいますからね」 「あんたの家はどうだね」 「動物は嫌いじゃありませんが、帰宅が不規則ですから、飼っていません」 「トウイは動物を飼っていなかったか」 「そんな話は聞いたことがありません」 「有光重夫という人間を知っているかね」 「ありみつしげお……いいえ」  沢井の表情にはなんの反応も現われない。 「赤坂三丁目のアドニスというホストクラブは」 「知りません。ホストクラブなんか関係ありませんよ」  沢井の表情には特に隠している様子も、作為の色も見られない。  棟居と鈴木は、さらにアユチャで働いている女性たちに聞き込みを進めた。  沢井から彼女らの住居を聞いて、翌日、新大久保にある彼女らのアパートを訪ねた。  新宿歌舞伎町の多国籍化と共に、この界隈《かいわい》は外国人の塒《ねぐら》となった。  大久保通りから一歩横路地へ入れば、錯綜《さくそう》した路地に沿ってアパートが密集している。  それらのアパートの八畳一間に四人のホステスが共同生活をしていた。  昼間でも室内には蒲団《ふとん》が敷きつめられ、女たちがごろごろしている。  万年床ではなく、蒲団を絨毯《じゆうたん》がわりに敷きっぱなしにしている。  若い女の体臭が、狭い室内にこもっている。  棟居と鈴木が入って行ったとき、彼女らは蒲団をまくってつくったスペースに炬燵《こたつ》の台を置いて食事中であった。  大鍋《おおなべ》に鶏肉《とりにく》と野菜をごった煮にした、日本の水炊きのような料理を飯の上にかけて食べている。八畳一間に二畳ぐらいの台所が付き、室内には室内アンテナの付いた十四インチテレビがあるだけ、部屋の隅には各人のバッグが置かれ、壁に沿ってビニール紐《ひも》が張りめぐらされて、衣服や下着が吊《つ》り下げられている。  住居というよりは難民キャンプの趣きである。  一見したところ、犬、猫、その他のペット類は飼っている模様がない。  二人が入って行くと、彼女らの面は不安の色に濃く塗られた。  昨日アユチャへ行ったとき、二人の素性をすでに察知していたらしい。  いずれも調べられれば、在留資格や在留期間を超えた強制退去の対象になりそうな、脛《すね》に傷を抱えているのであろう。  棟居は彼女らの不安を解くように、トウイについて聞きたいだけだと穏やかな口調で切り出した。それでも彼女らの警戒の構えは取れない。 「私たち、なにも知らない。私たち、日本語わからない」  彼女らの中でわずかに日本語を解するらしいリーダー格が、重い口で黙秘の姿勢を見せた。 「トウイは日本へ来て殺された。あなたたちはトウイの仲間だろう。仲間が殺されて悔しくないのか。我々はトウイを殺した犯人を捕まえたいとおもっている。トウイの仲間なら、協力してくれないか」  棟居は熱心に口説いた。  トウイが殺されたと聞いて、彼女たちの表情が揺れた。 「犯人はきみたちの敵だよ。一刻も早く犯人を捕まえないと、またきみたちの仲間が殺されるかもしれないよ。あるいは今度はきみたちが殺《や》られる番かもしれない」  鈴木がかたわらから言葉を添えたので、彼女らの不安の色が恐怖に変わった。 「私たちが言ったということ、黙っていてくれるか」  リーダーが言った。 「もちろんだ。きみたちの生命の安全は保障するよ」  棟居に言われて、ようやく彼女たちは身構えを解いた。  彼女たちの話によると、いずれもタイ国の郷里で、日本に稼ぎのいい働き口があると誘われて、旅券と航空券を渡され来日したというものである。  タイ国から日本まではロイという男がエスコートして来たが、日本へ到着すると、何グループかに分けられた。  トウイは山川に連れられてアユチャへ来たそうである。 「トウイは日本へ来ると、話がちがう、国へ帰りたいと言って、時どき泣いていた。でも国へ帰っても、女の仕事は同じようなもので、日本ではお客が気前よくチップをくれる。給料は安いけれど、チップ貯めて国へ帰るつもりだ。  トウイは四、五か月前に急に姿が見えなくなった。店長から私たちが逃がしたんだろうと厳しく訊かれたけれど、トウイがどこへ行ったか知らない。きっと仕事がいやで逃げ出したんだとおもう」 「トウイの姿が見えなくなったのはいつごろのことか、おぼえているかね」 「五月の末ごろだったとおもう」  それはトウイが有光重夫に保護された時期と一致している。 「トウイが逃げた先に心当たりはないか」  彼女を保護した有光の話では、トウイは何者かに追われていた様子だったという。その追手が有光にかくまわれたトウイを発見して、殺した疑いが大きい。 「トウイはいつも自分の殻の中に閉じこもっていて、仲間にも心を開かなかった。逃げた先の心当たりはないけれど」  ニップと名乗った彼女らのリーダー格がちょっと言葉を滞らせた。 「心当たりはないが、どうしたんだね」  棟居が促した。 「トウイをとても贔屓《ひいき》にしていたお客がいた。トウイもそのお客だけは嫌がらなかったよ」 「その客の名前とアドレスを知っているかい」 「アドレスなんか知らないよ。田沼という名前だよ」 「田沼」 「マスターに聞けば知っているかもしれないよ」 「きみたちは山川がどういう男か知らないかね」 「お店で山川さんと一緒に撮った写真があるよ」  ニップが言い出した。 「山川の写真があるって。ぜひ見せてもらいたい」  ニップがバッグを探って取り出した一枚の写真に、トウイやニップやアユチャの女の子を左右に侍《はべ》らせた二人の男が写っている。ニップがその中の一人、四十前後の厚ぼったい顔の男を指で示した。 「この男が山川かね」 「そうだよ」  ニップらがうなずいた。 「この写真、しばらく貸してくれないかな」 「いいよ」  ニップはうなずいた。 「トウイさんがあなた方と一緒に生活していたころ、犬や猫、その他の動物を飼っていなかったかな」 「動物なんか飼えない。このアパート、動物禁止ね。動物を飼う余裕もないね」  ニップが答えた。  ようやくトウイの仲間から、田沼という贔屓客の名を得た棟居と鈴木は、直ちに沢井に問い合わせた。 「田沼さんなら時どき見えますが、客の住所なんか聞きませんよ。トウイと客の関係はあくまで自由恋愛ですからね。私たちは立ち入りません」  沢井の返事はにべもなかった。 「自由恋愛の隙間でトウイは殺されたのかもしれない。あんた、無関係とは言えないよ」  棟居に迫られて、沢井は、 「私は田沼さんについてはなにも知りませんが、トウイと田沼さんがよく利用していたホテルがあります。そのホテルに問い合わせれば、田沼さんの連絡先がわかるかもしれません」  沢井は歌舞伎町二丁目のラブホテル「ピロートーク」の名を洩《も》らした。  ホテル「ピロートーク」は歌舞伎町二丁目風林会館の裏手にある。  この界隈のラブホテルに比較して、シティ感覚を持つホテルである。  当初はシティホテルとして営業を始めたが、客種が他のラブホテルとほとんど変わらないので、営業方針をラブホテルに切り替えた。  ピロートークには棟居が手がけたジャピーノ(日本人とフィリピン人との混血)女性殺害事件(拙作『棟居刑事の悲嘆』)のとき知り合ったフロント係がいる。  ホテル一階にあるフロントカウンターは、客とフロント係の目の高さをブラインドが仕切っている。つまり、客とフロント係が顔を合わせずにチェックインできる仕組みになっている。  このブラインドは以前にはなかった。ピロートークが営業方針の転換によって新たに加えた設備である。  人間同士の接触を阻む一枚の|仕切り板《ブラインド》に象徴される営業方針の転換は、経営者の意識の変革も表わしている。  ブラインドを取り付ける前はシティホテルとして温かい歓待《ホスピタリテイ》を売り物としていたのが、ブラインド設置以後は単なるセックスの場を提供する自動販売機になり下がってしまった。  それが客のニーズでもある。セックスの場所だけを求める客には、ホスピタリティなどは必要ない。プライバシーの保証された密室とベッドがあればよい。人間不在のベッド自動販売機である。 「刑事さん、珍しいですね。なにか事件ですか」  ブラインドの裏から本杉《もとすぎ》が声をかけた。前回の捜査で知り合ったフロント係である。  ブラインドで仕切られてはいても、モニターカメラが玄関を出入りする客を映し出しているのである。 「ちっと聞きたいことがあってね」 「どうぞ、こちらへ」  本杉がブラインドの内側から出て来て、棟居を同じフロアにあるホテルのラウンジに案内した。 「仕事だからかまわないでくれたまえ」 「おかまいするというほどのことではありませんよ」  本杉は苦笑しながら、ウエイトレスにコーヒーを注文した。 「このレストランにはいつ来ても客の姿を見たことがないな」  棟居はがらんとしたレストランの内部を見まわした。 「歌舞伎町七不思議の一つですよ。ところで、今日はまたなにか……」  本杉が棟居の顔色を探った。 「この近くのタイ国人バー、アユチャのトウイというホステスが殺された事件の捜査をしているんだが、源氏名はアイラで、田沼という客と連れ立ってお宅のホテルを利用していたらしい。心当たりはないかね」 「アユチャのホステスが殺されたという話は聞いています。その娘ならうちへよく来ていました。田沼という客かどうか知りませんが、同じ客と一緒に来ていました」 「それなら話は早い。その客の素性や住所を知りたいんだが、ホテルになにか手がかりは残っていないかね」 「ラブホテルに切り替えてからレジスターを取りませんのでね」 「切り替える前に二人は来なかったかね」 「それが、切り替えた後から来るようになったのです。我々はモニターテレビで顔を知っていますが、おそらく先方は私の顔を知らないはずです」  せっかくつながりかけた手がかりの糸がまた切れかけている。 「トウイの身辺に山川というブローカーも浮かび上がっているんだが、心当たりはないかね」 「さあ、聞いたことがありませんね」  本杉は首をかしげたが、ふとおもいだしたように、 「アイラのパートナーは部屋からよく電話をかけていましたよ。チェックアウトの精算のとき、電話料がよく付いていました」 「なに、電話をかけていた。かけた先の電話番号はわかるかね」 「記録を調べれば残っているはずです」 「ぜひ記録を調べてくれないか」  棟居は上体を乗り出すようにして言った。  フロントオフィスにいったん退いた本杉は、間もなく数枚の伝票を手にして帰って来た。 「ありました。けっこう電話をかけています」  本杉が差し出した伝票には架電(電話をかける)した電話番号とその日時、および料金が記入されている。 「同じ番号に何度もかけているね」  伝票を睨《にら》んだ棟居の目が光った。  伝票には都内のある番号が圧倒的に多い。 「そうですね。私もそれに気がついていました」  本杉がうなずいた。 「この伝票、借りて行っていいかな」 「どうぞ。プライバシーの侵害にならないようにお願いします」  本杉がにやりと笑った。 「大丈夫だよ。プライバシーを詮索《せんさく》するのが目的ではない」  彼らは前回の捜査で同じ台詞《せりふ》を交わしたことをおもいだしていた。  ホテルには弁護士や医者のような職業上の守秘義務はないが、客のプライバシーを守らなければならない。  棟居が本杉から得た電話番号にかけたところ、 「お客さまのおかけになった電話番号は現在使われておりません」というテープの声が流れてきた。  棟居はNTTに電話して、殺人事件の捜査である旨を告げて、件《くだん》の電話番号の元所有者名を調べてもらった。  その結果、その電話番号は渋谷区|円山《まるやま》町十八—××、藤村ハイツ八〇二号室の平沢しのぶであることが判明した。      3  棟居は鈴木と連れ立って、平沢しのぶが入居しているマンションに捜査の触手を伸ばした。  藤村ハイツは井《い》の頭《かしら》線、神泉《しんせん》駅の近くの低地に建つ八階建のマンションであった。  谷間の低所に駅があり、緩い傾斜の中腹に飲食店や小さな商店、ラブホテルなどが犇《ひし》めいている。渋谷の歓楽街から外れた、一杯飲み屋が肩を寄せ合っているような人肌の温かさを持った山手《やまのて》にある下町のような雰囲気である。  管理人に聞いてみると、平沢しのぶは八〇二号室に入居していたが、二か月ほど前に転居して行ったそうである。  管理人は転居先を聞いていない。 「でもね、引っ越し先はすぐにわかるとおもいます」  管理人はなにかを含んだような口調で言った。 「すぐわかるというと」  区役所に移動届を出していれば、そこから追うという手はある。 「私が言ったと言わないでくださいね」  と言いながらも、管理人は話したくてたまらないような表情である。  目顔で促した棟居に、 「平沢さんは一龍会の幹部のこれなんですよ。ほら、三矢組系の」  管理人は周囲にだれもいないのに声を潜《ひそ》めるようにして言った。 「なに、一龍会の幹部の……」 「はい、ですから一龍会に問い合わせれば、平沢さんの転居先はすぐにわかるでしょう」 「それは確かですか」 「確かですよ。一龍会の組員が出入りするところを何度も見ています。大幹部らしくベンツで乗り着けて来て、親分が平沢さんの部屋から降りて来るまで、ボディガードがベンツの中で待っていましたよ。平沢さんも親分を送って駐車場まで降りて来ました」 「平沢しのぶさんの旦那《だんな》だというその一龍会の幹部の名前はわかりませんか」  棟居は管理人に問うた。 「子分たちが総務、総務と呼んでいました」  総務とは総務部長のことであろう。  最近は暴力団も一般企業並みに幹部を呼称している。  一龍会と言えばまんざら知らない仲ではない。  赤坂ナイトクラブ三矢組組長襲撃事件、および大学生殺人事件など一連の事件(拙作『棟居刑事の推理』)で三矢組を捜査した。  一龍会の総務と言えば会長代理の花岡組組長花岡|義人《よしと》である。  花岡義人は一龍会の殺し屋として悪名高く、三矢組帝国の全国制覇の先兵として、三矢組の今日の大なるを築く原動力となった。  一龍会を三矢組のトップ集団に押し上げたのも、ひとえに花岡義人の奮闘の賜物《たまもの》であると言われている。  平沢しのぶは花岡の情婦であった。  田沼は花岡義人の情婦となんらかのつながりを持っている。棟居は緊張した。  トウイ殺しが日本最大の暴力団に関わって行く気配を示している。  棟居はマル暴担当の本田に相談した。 「花岡義人に会いたいんだが、連絡《ツナギ》をつけてもらえないか」 「花義に会いたいだって」  本田が少し驚いた表情をした。  三矢組組長三矢|尚範《なおのり》が死んだ後、三矢組に内紛が生じて、三矢組は事実上解体したが、一龍会会長北島|竜也《りゆうや》が二代目組長代行として組織の立て直しを図っている。  これも花岡義人が北島を支えているからである。 「いまかかっている事件《ヤマ》のつながりで、花義を任意に調べたい。あんたにツナギをつけてもらえれば、先方もあまり構えずに会ってくれるだろう」 「花義は危険なやつだからね。怒らせると手がつけられなくなる」 「だから、あんたにツナギをつけてもらいたいのさ」 「わかった。二、三日うちになんとかしよう」  二日後、本田のツナギによって、棟居は目黒区自由が丘にある花岡組の事務所で花岡義人に会った。      4  駅前ロータリーに近い商店街の一角にある五階建雑居ビルの三階フロアが花岡組の事務所になっている。  通された組長室で花岡は待っていた。  電話機以外何も置かれていない広いスチールのデスクと、部屋の一隅に設けられた革張りの応接セットがある、一見なんの変哲もないオフィスである。 「本庁の旦那《だんな》にわざわざお出ましいただいて、恐縮ですな」  花岡は三矢組の殺し屋と恐れられている悪名に似合わぬ愛想のよい笑顔で迎えた。だが、目は少しも笑っていない。  仕立てのよいシャープなスーツをまとった細身の身体は、べつになんの凶器を隠し持っているわけでもないであろうが、全身そのものが効率のよい凶器のように見える。  さすがは三矢組全国制覇の斬《き》り込み隊長としての存在感がある。 「お忙しいところを突然割り込みまして、申し訳ありません」  棟居はまずは低姿勢に挨拶《あいさつ》した。暴力団でも一応合法企業の表看板をかけている。 「本田の旦那にはかねがねお世話になっております。善良な一市民としてできることはなんでもご協力いたしますよ」  花岡は愛想笑いを浮かべながら、棟居らの訪意を詮索《せんさく》している。  そのときドア口に「入ります」と声がして、若い組員がコーヒーを運んで来た。  室内に芳醇《ほうじゆん》なコーヒーの香りが漂った。 「どうぞ、おかまいなく」 「お望みならばアルコール類もありますが」  花岡が棟居と鈴木の顔色を探った。 「いえいえ、とんでもない。仕事中ですから」  香りを嗅《か》いだだけで、上等の豆を焙煎《ばいせん》した尋常ではないコーヒーであることがわかる。  カップもヨーロッパのブランド物である。 「ご多忙中、お手間を取らせては申し訳ありません。早速ですが、平沢しのぶさんをご存じですね。本名は別かもしれませんが」  棟居は早速用件に入った。 「平沢しのぶは本名です。しのぶとの関係を承知の上でお越しになったのでしょう」  花岡が皮肉っぽい笑みを浮かべた。 「実は平沢さんに少々お尋ねしたいことがありまして、行方を探しております。円山町のご住居にうかがったところ、転居された後で、花岡さんにお尋ねすればわかるかとおもいまして」 「そんなことですか」  花岡は内心ほっとしたように、構えを解いた。 「電話でもすむ用件ですが、花岡さんご自身にも少々うかがいたいことがございましてね。まず平沢さんの居所をご存じでしたら、おおしえいただけませんか」 「まあ、冷めないうちにどうぞ」  花岡は自らカップに手を伸ばし、うまそうにコーヒーを一口|啜《すす》って、 「しのぶは柿の木坂へ転居させました。渋谷はご存じかとおもいますが、同じ三矢組系|吉祥《きつしよう》組のシマ(縄張り)でしてね。最近、うちと吉祥組の仲が緊張してまいりましたので、私の事務所の近くの柿の木坂に移したのです」  吉祥組を率いる吉岡祥文《よしおかしようぶん》は一龍会会長北島竜也らと共に、三矢組を支える最高幹部である。  これが三矢組長襲撃事件を契機に、一龍会と吉祥組の対立が表面化してきた(『棟居刑事の推理』)。 「そういうご事情でしたか。実は現在、私どもが手がけている事件関係者に田沼という人物が浮上しまして、彼が平沢さんに何度も電話をかけている事実が判明しました。田沼という名前にお心当たりはありませんか」 「田沼なら、いまここにいますよ」  意外な返事が返ってきた。 「ここにいる」 「うちの組員です。しのぶの弟です」 「平沢さんの弟が田沼……」 「しのぶに頼まれましてね、私が面倒をみています。田沼に用事なら呼びましょう」  花岡はデスクの上のインターホンを押して、 「田沼がいたら、こっちへ来るように言え」  と命じた。  待つ間もなくドアにノックがあって、「田沼です」と声がした。  緊張した表情で入って来た田沼は、二十代半ば、暴力団の構成員としては気の弱そうな顔をした、色白の優男であった。 「田沼、本庁の旦那がおまえにご用があるそうだ」  花岡に言われて、田沼の顔がますます緊張した。 「私は警察《サツ》の旦那に追われるようなことはなにもしていませんが」  田沼がおどおどした声で言った。 「ご心配するようなことではありません。あなたはトウイ・ソンクラームというタイ人の女性をご存じですね」 「トウイ……」 「新宿歌舞伎町のアユチャというタイ国人バーに、アイラという名で出ていたホステスです」 「ああ、アイラか、贔屓《ひいき》にしていたけど、おれにはなんの関係もねえよ」  田沼が身構えた。トウイが殺害されたことは知っているらしい。 「あなたはアイラが殺されたことは知っていますね」 「テレビで見たよ。だけど、おれにはなんの関係もない。ニュースを見て、びっくりしたんだ」  彼らのやりとりをかたわらから花岡義人が凝《じ》っと見ている。  そのことも田沼を緊張させているらしい。 「あなたはアイラが殺されたことについて、なにか心当たりがありますか」 「心当たりなんかなにもないよ。ただ、気に入ったので、時どきホテルに一緒に行っただけだ」 「おまえ、新宿なんかで遊んでいたのか」  花岡が言葉を挟んで、じろりと田沼を睨《にら》んだ。  新宿は吉祥組のテリトリーである。 「べつにトラブルは起こしていません。女と遊んでいただけです」  田沼は額に脂汗を浮かべて、花岡に陳弁した。 「当分、新宿には近寄るなと言っておいたはずだぞ」  花岡の顔が、もう充分トラブルに巻き込まれていると言っている。 「すいません。相性のいい女がいたものですから」  田沼は平身低頭した。 「田沼さん、あなたは犬か猫、その他の動物を飼っていますか」  棟居は質問をつづけた。  そのとき花岡が少し身じろぎをした。だが、表情はまったく動かない。 「そんな動物は飼っていねえよ」 「田沼、旦那方に言葉遣いを気をつけろ」  かたわらから花岡に注意されて、 「飼っていません」  と田沼は言い直した。 「事務所では飼っていませんか」  これは田沼と花岡双方に対する質問である。 「動物は一切飼っていません」  花岡が代わって答えた。  ビルの中の雰囲気からしても、動物を飼えるような環境ではない。 「報道されたように、アイラは武蔵村山市域で死体となって発見されましたが、彼女が生前、同地域になにか関わりがあるようなことは言いませんでしたか」 「そういうことは一切聞いていません」 「あなた自身が武蔵村山、またはその近くに住んでいたとか、あなたの親戚《しんせき》や知り合いが住んでいるということはありませんか」 「武蔵村山なんて、まったく関係ありません。そんな土地があったことを、東京に住んでいながら、アイラが殺されて初めて知ったくらいです」 「山川という人間を知りませんか。あるいはアイラからその名前を聞いたことはありませんか」  棟居は質問の鉾先《ほこさき》を転じた。 「山川なら知っています」  田沼が刑事の欲する答えを素直に言った。 「アユチャで何度か顔を合わせたことがあります。店長の知り合いのようで、アイラも山川が連れて来たんだと言っていました。アユチャのような店に女を斡旋《あつせん》するのが仕事だと言っていました」 「山川の居所か連絡先は知りませんか」 「名刺を交換したので、探せば名刺があるかもしれません」 「ぜひその名刺を見たいのですが」 「ちょっと待ってください。事務所に置いてありますので」  田沼がいったん別室へ行って、引き返して来た。 「ありました」  田沼が差し出した名刺には、東洋企画代表取締役山川|喜久男《きくお》の名前と共に、連絡先が刷られている。 「アイラが殺されてから、山川に会いましたか」 「いいえ、アイラは殺される前の五月末ごろからアユチャから見えなくなりました。店長は帰国したと言っていました。アイラがいなくなってからアユチャに行っていませんので、山川にも会っていません」 「山川はどういう男ですか」 「どういう男と言われてもねえ、三十代後半から四十前後の押し出しのよい男でした。山川は私が花岡組の社員であることを知ると、組長(花岡)や会長(北島)に紹介してくれと言っていました」 「紹介したのですか」 「いいえ、しません」 「どうしてしなかったのですか」 「ちょっと得体の知れないところがあったからです。でも、一緒に遊ぶには楽しい男でした。人当たりがソフトで、話が面白い。女にもてましたね。パチンコが好きで、時どき一緒にパチンコをしましたよ。女に飽きたときや暇なときには、歌舞伎町|界隈《かいわい》のパチンコ屋でパチンコをしていると言っていました」 「山川とアイラはどんな関係だったのですか」 「商品には手をつけないと言っていました」 「あなたは平沢しのぶさんの弟さんだそうですね」 「そうです」 「平沢さんと姓がちがいますが」 「姉は一度結婚して、離婚後、夫の姓を名乗っています」 「あなたはアイラとホテル・ピロートークを利用したとき、平沢さんによく電話をされていますが、どんな用件でしたか」 「それは私のプライベートな問題です」 「あなたのプライバシーを詮索《せんさく》するつもりはありません。しかし、女と会っているとき、姉さんに電話をしようという気にはならないものですがね」 「実は、姉に金の無心をしていたのです。アイラに会うと、なにかプレゼントをしたくなって、その金を姉にねだっていたのです」  田沼は花岡の方を気にしながら言った。      5  田沼の素性は判明したものの、彼から得られたものは山川の名刺一枚であった。  山川の行方追及と並行して、アイラの客が追われていた。  アユチャの店長沢井は、自由恋愛という口実でホステスと客の交際には一切関知していないと言い張ったが、アユチャがホステスに売春させていた状況は明白である。  ニップ以下、アイラの同僚の証言によって、田沼のほかにアイラを指名していた固定客が浮かび上がった。  彼らの中にはホステスに名刺を渡していた者もいた。  客を一人一人辛抱強く説得して、アユチャの売春事実を立証した捜査本部は、アユチャの店長沢井以下、タイ人を含むホステス計七名を売春・出入国管理令違反、および難民認定法違反等の罪で逮捕した。  一方、田沼から山川喜久男の名刺を領置した棟居は、名刺に印刷された住所、三鷹市井の頭四丁目のアパートを当たったが、該当者は存在しなかった。  捜査本部では、山路が山川や沢井の容疑性について懐疑的であった。 「彼らにとってホステスは金の卵を産む鶏だ。逃げ出したホステスをリンチに処するとしても、大切な鶏を潰《つぶ》すようなことはしないはずだ。鶏を潰してしまっては元も子もなくなるではないか」  と主張した。  山路の疑問はすでに有光が疑っていたことである。 「トウイが単に逃亡しただけではなく、シンジケートの秘密を知っていて、口を閉ざされたという可能性もあります。その可能性がある限り、山川や沢井は無視できないとおもいます」  棟居は反駁《はんばく》した。 「シンジケートの秘密はトウイ一人の口を封じても守れるものではないだろう。ジャパゆきの大部分はシンジケートの手を通して送られて来る」 「これまでにも逃げ出して、死ぬほどひどいリンチに遭った者や、行方知れずになった女性もいます。彼女らは人知れず殺害されて、死体を隠匿されてしまったと考えられています。  トウイがシンジケートの手にかかって殺害された疑いは捨て切れないとおもいますが」  と主張しながらも、棟居もいまひとつ胸の内にふっ切れないものがあった。  それは死体発見現場である。なぜトウイが沢井やアユチャの関係者の生活圏から切り離された武蔵村山で発見されたのか。  犯人、あるいは死体を遺棄した者には土地鑑が感じられる。  残るは山川の生活圏である。 [#改ページ]   不明の原点      1  有光重夫はトウイの死体が発見された現場を自分の目で確かめることにした。  彼は十一月中旬の日曜日の午後、マイカーを駆って地図を頼りに武蔵村山へ赴いた。  武蔵村山などという土地は、これまでの彼の半生にまったく関わりがなかった。  青梅《おうめ》街道を西へ走り、武蔵村山市役所を過ぎた辺りで北へ折れた。  都内からうんざりするほど走っても家並みはつづき、まだ都下である。改めて東京の凄《すさ》まじい膨張をおもい知らされる。  青梅街道を外れると丘陵地帯となり、ようやく家並みがまばらになって、畑地が目立ってきた。丘陵地帯にも団地の建物が食い込んでいる。  トウイが発見された現場は埼玉県境に近い森の中の廃屋という。  有光は途中で何度か道を聞きながら、車を進めた。 「あんた、マスコミの人かね」  現場の近くで尋ねたいまどき珍しいよろず屋の主人が、不審げな目をして有光を見た。 「まあ、そんなもんです」  有光は先方の勘ちがいを利用した。 「この少し先に給食センターがあるよ。それを過ぎると森が見える。その森の中だ。まだ立入禁止になっているはずだよ。しかし、マスコミにしてはずいぶんのんびりしているなあ。犯人も現場を見に来ると言うからね」  とおやじは言って、疑惑の色を塗った目で有光を睨《にら》んだ。  おやじにおしえられた方角へ車を走らせて行くと、土地に緩やかな起伏が生じて、左右に丘陵性の山が見えてくる。  左手に二階建ての平べったい建物がある。  武蔵村山市立学校給食センターの表札がある。  四トン車以上進入禁止の掲示が見える。  給食センターを過ぎると丘陵の間の谷《やつ》に入り、左右から樹林が迫る。  白いガードレールとフェンスの左手が埼玉県である。  交通量がぐんと減った。  給食センターを通り越して間もなく、一台の白い乗用車とすれちがった。  なにげなく相手の車の運転席に目を向けた有光は、ふと記憶に刺激を受けた。  以前、どこかで出会ったような顔である。だが、おもいだせない。  相手は有光になんの反応も示さない。  両者は一瞬の間にすれちがった。  対向車の主の素性をおもいださないまま、有光は現場へ着いた。  遠方から見ると小型の森であったが、近づくほどに盟主の椎《しい》の木を中心として、鬱蒼《うつそう》とした森林を形成している。  森の縁《へり》に廃屋があった。  警察が外構に張りめぐらしたロープに、立入禁止の札がかけられている。  森の縁に車を停めた有光は、廃屋の前に立った。すぐ前方に狭山湖の端が伸びてきている。  そこは埼玉県である。貯水の管理地になっているために民家はない。  白昼であるが人影はなく、寂しい風景であった。  廃屋の周辺には警察関係者のものらしい夥《おびただ》しい人の気配が残されているようであった。  周囲に人影がないのを幸い、有光は廃屋の中を覗《のぞ》いてみたくなった。  立入禁止のロープがあっても侵入は妨げられない。  有光はロープをまたぎ越して、廃屋の中に踏み込んだ。  多年の無住の間に加えられた荒涼とした気配と、黴《かび》くさいにおいがこもっている。  死体はすでに運び去られているが、まだ死臭が残っているようである。  奥まった六畳の畳は上げられ、床板が剥《は》ぎ取られていた。  雨戸の破れから光が露出した床下の土に射し込んでいる。 「ここだな」  有光は呻《うめ》いた。  こんな廃屋の床下にトウイはむごたらしい姿となって横たわっていた。  日本に夢を託して来た身が、裏切られて、こんな無惨な形で短い人生の幕を閉じようとは予想もしていなかったにちがいない。  トウイは日本に裏切られたのである。  せめて犯人を捕らえないことには、トウイに償えない。  償えるものではないが、犯人を捕らえることが日本の最低限の責務だとおもった。 「そこでなにをしているのですか」  物想いに耽《ふけ》っていた有光は、突然背後から声をかけられて我に返った。  はっとして振り返ると、そこに見おぼえのある顔が睨んでいた。      2 「刑事さん」 「そこでなにをしていたのですか」  彼はふたたび問うた。  トウイの死体を確認に行ったとき、大学病院で対応してくれた刑事である。たしか棟居と名乗った。 「トウイが殺された現場を自分の目で確かめたくてまいりました」 「ここで殺されたとは限りませんよ。べつの場所で殺害されて、ここへ死体を遺棄されたのかもしれません。立入禁止の札が目に入りませんでしたか」  棟居は口調鋭く咎《とが》めた。 「すみません。どうしても現場を見たかったものですから」 「犯人は現場へ戻ると言いますよ」  棟居はよろず屋のおやじと同じ言葉を吐いて、有光に詮索《せんさく》の視線を向けた。 「私を疑っているのですか」 「疑われても仕方のない行動だとおもいますが」 「許してください。そんなつもりはありませんでした」 「ちょうどいい。あなたに会いたいとおもっていたところです」 「私に? どんなご用事ですか」 「トウイさんから山川、または田沼という名前を聞きませんでしたか」 「山川と田沼……いいえ、山川と田沼がどうかしたのですか」 「知らなければいいのです。今後、勝手な真似は慎んでください」  棟居は釘《くぎ》を刺した。  そのとき有光の意識に、往路すれちがった白い車の運転者の顔がちらりとかすめた。だが、山川と田沼という名前には記憶がない。 「田沼と山川はなにか犯人につながりがあるのですか。あるいは容疑者ですか」  有光は問い返した。 「捜査については話せません」 「話せないということは、まだ目ぼしい成果が得られないということですか」 「トウイさんがあなたに保護される前に働いていた店がわかりました。歌舞伎町区役所通りにあるアユチャというタイ国人バーですが、聞いたことがありますか」  棟居は質問の鉾先《ほこさき》を転じた。 「アユチャですか。いいえ、ありません」  すでにアユチャの沢井から有光が同店に立ち寄ったことはないという証言を得ている。 「刑事さん、まだ犯人の手がかりは見つからないのですか」  有光が問い返した。  事件発生後二か月も経過しているのに、刑事がまだ現場をうろつきまわっているようでは、捜査ははかばかしく進展していないのであろう。 「そういう質問については、なにも答えられません」 「刑事さん、私は被害者の関係者です。被害者の生前、私が保護していたのです。保護者として捜査の状況を知る権利があるとおもいますが」 「被害者の関係者ということは、あなたも無色ではないということです。現にあなたは禁を破って現場に侵入した。それだけでも怪しい状況なのですよ」 「そのことについては謝ります。しかし、私はトウイを殺した犯人が憎いのです。一日も早く犯人を検挙してもらいたいとおもっています」 「犯人は我々に任せてください。素人探偵の真似事は捜査の邪魔になります」  棟居の言葉は厳しかったが、有光を容疑者の列から外していることを暗示していた。 「私にできることがあったらなんでも申しつけてください」 「こんなところをうろうろしないことです。私以外の刑事に見られたら、ただではすみませんよ」  棟居は釘を刺した。      3  その日帰宅した有光を待ち構えていたように、一本の電話がかかってきた。 「有光だな」  取り上げた受話器からささやきかける押し殺したような声に、有光はおぼえがあった。 「てめえ、姐《ねえ》さんをどこへ隠した」  電話の相手は有光であることを確かめると、いきなり言った。  平沢しのぶの背後にいる暴力団員の声である。 「平沢さんのことか。平沢さんなら七月末ごろから店に姿を見せていないよ」 「野郎、ふざけやがって。すぐに姐さんを返さねえと、痛い目に遭うぜ」  相手は凄《すご》んだ。あながち脅かしではなさそうである。 「なんのことか意味がわからない」 「とぼけても無駄だよ。あんたが姐さんを連れ出したことはわかっているんだ」 「平沢さんがいなくなったのか」 「とぼけるなと言っているんだよ。姐さんから金を巻き上げただけではなく、姐さんまでも盗み出しやがったな」 「平沢さんがいなくなったと言うのか。私はなにも知らない。言いがかりをつけないでくれ」 「あんたが連れ出さなければ、だれが連れ出したと言うんだ」 「そんなことは知らない。平沢さんがどこへ行こうと、私の知ったことではない」 「なめるなよ。でけえ口を叩《たた》けるのもいまのうちだ。すぐに後悔するぜ」 「おれはホストだ。女には不自由していない。どうして他人の持ち物を連れ出す必要があるんだね」 「オカマが偉そうな口をきくな」 「オカマじゃない、ホストだよ」 「同じようなもんだろう。とにかく姐さんを返せ」 「見当ちがいだね。女に飢えているやつが、怖いヒモ付きであることを知らずに連れ出したんだろう」  押し問答になって電話は切れた。  どうやら平沢しのぶが行方を晦《くら》ましたらしい。  一時、彼女は有光に熱を上げて通いつめて来た。  彼女からプレゼント攻めにあって、いまの電話の男から金を返せと迫られた。  取り合わずにいたが、その後、平沢は店に姿を現わさなくなり、ヤクザの脅迫も中断していた。それがいまになって、今度は金ではなく、平沢しのぶ本人を返せと迫ってきた。  いまの電話の切羽つまった口調から、嘘ではなさそうである。  しのぶを奪われた親分の怒りが目に見えるようである。  前回はしのぶのプレゼント分の半額を返せと理不尽な要求をしてきたが、親分が奪われたしのぶを返せという要求はあながち理不尽ではない。  洪水のようなプレゼントのせめてもの返礼として、しのぶとは数回ベッドを共にしているが、相当に男を食った身体であった。  生来の男好きの体質を熟練した男によって開発され、夥《おびただ》しい男を渡り歩いて鍛え上げた身体であった。  一時、有光にのぼせ上がったものの、親分の知るところとなって、有光との接触を断たれたのであろう。  だからといって、しのぶが親分一人に貞節を守ったとはおもえない。  また新たな男をくわえ込んで、親分の許《もと》から逃げ出したのかもしれない。  困ったことに、有光がしのぶを奪ったと誤解されている。面倒なことになりそうな気配がしきりにした。      4  数日後、午前五時、看板になってアドニスの専用駐車場へ出て来た有光は、マイカーに近づいたとき、背後に凶悪な気配を感じた。  はっとして振り返ろうとしたとき、背中に尖《とが》った金属の先端を突きつけられ、両側を黒い人影に挟まれた。 「声を出すんじゃない。乗れ」  押し殺した声が耳許にささやいて、有光のマイカーの隣りに停めてあった車のドアを開いた。電話の主の声と同じである。  有光は一瞬硬直したが、言われるままに乗り込んだ。  電話の声の主が運転席に座ってエンジンをかけた。  人影は三人いた。有光を挟んで、二人が後部座席に入ると、車は発進した。 「どうするつもりだ」  有光は全身の震えを押さえて聞いた。 「こうなることは予想していただろうよ」  ハンドルを握った男が含み笑いをした。 「あんたに言っただろう。しのぶさんと私は関係ない。誤解だよ」 「ゴカイもロッカイもあるか。あんたは組長の女を盗んだだけではなく、組を虚仮《こけ》にしたんだ。このおとしまえはしっかりとつけてもらうぜ」 「私はなにもしていない。私の家を調べてくれれば、平沢さんがいないことがわかる」 「女はもういい。組長があんたを許せないと言っているんだよ」  有光の全身の血が凍りついた。彼らの目的がしのぶを取り戻すことにはなく、報復にあるとすれば、しのぶの行方は問題ではなくなる。  そうなれば、誤解は誤解ではなくなる。組の資金を有光へのプレゼントに流用した怒りと怨《うら》みが、有光の一身に向けられて来るのである。  車は次第に寂しい方角へ向かっているようである。家並みが疎《まば》らになってきている。  有光は山奥か海辺に運ばれて、人知れず殺され、死体を山中あるいは海の底へ埋め、沈められる自分を想像して慄然《りつぜん》とした。  夜は明けかけていたが、有光の視野は絶望で暗かった。 「助けてくれ。なんでもする」  有光は三人に訴えた。  助かるためになりふりかまっていられなかった。こんな死にざまはしたくない。  有光を挟む二人の男がせせら笑ったように見えた。 「遅《おせ》えんだよ。あんたのような野郎を後の祭りと言うんだ」  ハンドルを握った男が背中越しにせせら笑った。 「私はなにもしていない。平沢さんを連れ出していない。誤解だよ」 「同じことを言うな。最初に警告したとき、素直に金を返していれば、こんな手荒な真似はせずにすんだんだよ」 「どうするつもりだ」 「さあ、どうしようかね」  彼は喉《のど》の奥でくくと笑った。 「金は払う。助けてくれ」 「後の祭りと言っただろう。稼ぐに追いつく貧乏なしだ」 「兄貴、それを言うなら泥棒に追い銭じゃねえのかい」  有光の左脇の男が口を挟んだ。 「どっちもちがうような気がするなあ」  右脇の男が言った。 「馬鹿野郎、どうだっていいんだ、そんなことは」  運転席の男が言ったとき、車体に柔らかなショックを感じた。  急ブレーキがかけられて車が停止した。 「兄貴、どうしたんで」 「なにか飛び出してきた。轢《ひ》いたようだ」 「野良犬じゃねえんですか」 「ちっと見て来い」  停止した車から左脇の男が降りて、接触した物体を確かめている。  車内に残った二人の男も、接触した物体に意識が向いている。  有光はその瞬間を衝《つ》いた。  右脇の男に強烈な肘打《ひじう》ちを食わせると、有光は左手のドアから車外へ脱出した。 「あっ、野郎」  油断を衝かれた二人は愕然《がくぜん》としたが、咄嗟《とつさ》に追跡体勢に入れない。  その間に有光は距離を稼いだ。  車外にいた男は轢いた野良犬の上にかがみ込んでいたが、事態を咄嗟に把握できない。 「馬鹿、なにをしている。追え、追うんだ」  車内から血相変えて有光を追跡して来た二人の仲間に、ようやく事態を悟った。 「人殺し、泥棒、強盗、助けてくれ」  有光はおもいつくままの言葉を叫びながら走った。 「あっ、あの野郎、とんでもねえことを言いやがる」  追手の三人はぎょっとしたが、人家が散在する夜の明けかけた野面《のづら》でたじろがざるを得ない。 「殺人鬼、強姦魔《ごうかんま》、吸血鬼、悪魔」  有光は全力疾走しながら、おもいつくままありとあらゆる悪罵《あくば》を連ねた。  毒ガスを使用しての大量無差別テロとリンチ事件で全国を震撼《しんかん》させた新興宗教の名前を叫んだために、追手は追跡を断念した。  有光は九死に一生を得た。有光を拉致《らち》した車が野良犬と接触しなければ、彼はトウイと同じ運命をたどったにちがいない。 [#改ページ]   リースされた自由恋愛      1  有光重夫から、一龍会組員によって拉致《らち》され危うく殺されかけたという訴えを受けつけたのとほとんど同時に、一龍会から有光が平沢しのぶを誘拐、身柄をどこかに隠したという被害届が所轄署に出された。  双方いずれも被害者であることを主張して譲らない。 「冗談じゃない。途中で脱出に成功したからよかったものの、もし脱出できなかったら、いまごろは殺されて、山か海に死体を隠されていたはずです。  嘘《うそ》だとおもったら、一龍会の車を調べてください。脱出のきっかけとなった野良犬と接触した際、損傷した痕《あと》が車に残っているはずです。野良犬の死体も探せばあるでしょう」  有光は訴えた。  だが、一龍会は野良犬と接触して車体を損傷した事実は認めたが、有光を拉致したことはないと言い張った。 「有光はかねてより平沢しのぶを誑《たぶら》かし、多額の金品を騙《だま》し取っていた。平沢が十一月末の夕方、自宅を出たまま消息を絶ってしまったので、有光が誘拐した疑いが大きい。  有光に事情を聞こうとして車の中で話し合っていたところ、突然逃げ出してしまった。身に疚《やま》しいところがあるから、逃げ出したにちがいない。有光の身辺を厳しく捜索してもらいたい」  一龍会は言い張った。  両者は水かけ論になった。  一龍会の主張に基づいて柿の木坂の平沢しのぶの自宅を調べたところ、生活をつづけていた痕跡《こんせき》が留《とど》められていた。  当座の現金、かなりの貴金属類、衣装、預金通帳等はそのまま放置されており、長期の旅行、あるいは家出をした模様は認められない。  それに彼女が旅行や家出をしたのではない有力な証拠が残されていた。  平沢しのぶは二匹のチンチラ猫を飼っており、家族同然に可愛がっていた。  その猫を放置したまま、彼女は姿を消してしまったのである。 「平沢が長期の旅行をするなら、必ず猫をどこかに預けて行ったはずだ。猫をそのままにして旅行するはずがない」  平沢のスポンサーである一龍会総務部長の花岡義人は言った。花岡の言葉には信憑性《しんぴようせい》があった。  猫を家族のように愛していた平沢が、猫を放置して家を出たということは、本人の意志に基づかない行為であることを暗示するものである。  警察は一龍会がなんらかの事情があって彼女を処分し、家出を偽装しているのではないかと疑った。  だが、その疑惑のネックとなるのが有光の証言であった。  平沢の行方不明が一龍会の自作自演であるなら、有光を拉致するはずがない。  一龍会は有光を拉致して、アリバイづくり《カムフラージュ》をしようとしたのではないかといううがった見方もできるが、そんな迂遠《うえん》な行動は暴力団らしくない。  一龍会自身の手で平沢を処分して、口を拭《ぬぐ》っていればすむことである。  一龍会の主張に沿って有光の身辺も探ってみたが、平沢の気配はない。  有光にとって、暴力団の怨《うら》みを一身に集めて平沢を誘拐する利益はなにもない。  事実、有光は一龍会に死ぬほど怯《おび》えていた。 「自分を保護してくれ。今度は一龍会に必ず殺されてしまうにちがいない」  と有光に保護を求められても、警察は困った。  一龍会は有光に対してべつに危害を加えたわけではない。有光が一龍会に拉致されたという証拠はない。有光が一方的に言い張っているだけである。  有光が逃げ出して、一龍会の拉致は未遂に終わったということであるが、一龍会に拉致の意志はなく、話し合いのため合意の上で車に連れ込み、交渉が決裂して、途中から車を降りたと言われればそれまでである。  仮に一龍会に拉致の意志があったとしても、目撃者もなく、それを立証することは難しい。  一龍会としても双方が被害者として訴え合った後では、有光に対して新たに危害を加えることはあるまい。  有光の訴えに対して、棟居はふと首をかしげた。  有光と一龍会がそれぞれ被害者であることを主張して訴え合っているが、トウイ殺害事件とこの両者のトラブルには関係はないのか。  有光は被害者をしばらくかくまっていた。一龍会の訴えによると、花岡組組長花岡義人の愛人を有光が誘拐して隠してしまったということである。有光はまったく身におぼえのないことだと言い張っている。  トウイと一龍会、あるいは愛人の間につながりがあれば、トウイ殺しと愛人の行方不明はにわかに関連性を帯びてくる。  平沢しのぶの弟は一龍会系花岡組組員で、トウイと交渉があった。  つまり、トウイと平沢は無関係とは言えない。  一龍会に拉致された途上、脱出して九死に一生を得た有光重夫は、しばらくは一龍会の再襲撃を恐れて警戒していたが、その後、一龍会からはなんの気配も伝わってこなかった。  有光が訴え、一龍会も平沢しのぶが有光によって誘拐されたと反訴したが、それが結局、一龍会の動きを封ずることとなった。  双方が訴え合って警察の目を惹《ひ》きつけてしまった後、一龍会がふたたび有光を襲う虞《おそれ》はないであろう。  ようやく有光も、落ち着いてきた。警戒は解かないものの、当初の生きた心地もしなかった恐怖は薄らいできた。  当初、有光は一龍会が平沢と彼との関係を怨《うら》んで、その報復のために拉致したと考えたが、落ち着いてくるにしたがって、一龍会組員の言った言葉がおもいだされてきた。  彼らは平沢をどこへ隠したと有光を問いつめた。  有光は一龍会が言いがかりをつけてきたとおもったが、いまにして考えると、一龍会の組員がそんな言いがかりを創作する必要はない。  彼らは有光が平沢を誘拐して隠したとおもい込んでいたようであった。  有光にはまったくおぼえのないことである。すると、有光以外のだれかが平沢を誘拐したことになる。  平沢に有光以外に男がいたとしても少しも不思議ではないが、彼女の意に反して誘拐するような線が何本もあるとは考えられない。  平沢自身の意志によって家出をしたのか、あるいは不本意に誘拐されたのか、それくらいの見分けは一龍会でもつくであろう。  見分けがついたからこそ、有光を疑って報復の挙に出て来たのだ。  一龍会が反訴したのは、あながち有光に対抗するためではなかったのであろう。  警察は当初、両者の訴えを半信半疑に受け止めていたようである。  有光の身辺に平沢の消息を探していたようであったが、有光は身にまったくおぼえのないことだと主張して、べつの線を探せと言い張った。  警察も最近、ようやく有光の言葉に耳を傾けてきたようである。  そのころ、棟居が、有光をふたたび訪ねて来た。 「トウイさんを贔屓《ひいき》にしていた田沼という客は平沢さんの弟ですが、このことを知っていましたか」  棟居は開口一番問うた。 「いいえ、初耳です」 「田沼は一龍会の構成員ですよ」 「なんですって、一龍会の構成員がトウイを贔屓にしていたのですか」  有光は驚いた。 「ここに田沼の写真があります」  棟居は店内で撮影したらしい一枚の写真を有光に指し示した。  トウイを含む数人のホステスと、二人の男が撮影されている。 「この男が田沼です」  棟居は有光には見おぼえのない男を指さした。 「知りません」 「それでは、こちらの男は」  棟居はトウイの向かって左側に座っている男を指さした。  三十代後半から四十前後の厚みのある脂ぎった感じの男である。 「おや、この男は」  有光は記憶に刺激を受けたが、咄嗟《とつさ》におもいだせない。 「この男を知っていますか」  棟居は敏感に有光の反応を捉《とら》えた。 「どこかで会ったような気がしますが、おもいだせません」 「ぜひともおもいだしてください。この男が事件の鍵《かぎ》を握っているかもしれないのです」  棟居は有光の反応に飛びついた。  有光は棟居が示した写真を凝視した。  事件の鍵を握るという人物の顔に、たしかにおぼえがある。  それもそれほど遠い以前のことではない。最近、どこかで出会っている顔であった。 「この人物の素性はわかっているのですか」  有光は問うた。 「通称山川、トウイさんの死体が発見された現場であなたと出会ったとき、訊《き》いたでしょう。人身売買ルートのブローカーで、トウイさんを『アユチャ』に斡旋《あつせん》したのも、この男ですよ」  棟居の言葉に、有光の記憶がスパークした。 「トウイを斡旋した……そうだ、現場を見に行く途中ですれちがった男だ」  有光は叫んだ。 「現場を見に行く途中とは、なんのことですか」  棟居がすかさず問うた。 「刑事さんに、素人探偵の真似をしてはいけないと怒られたでしょう。現場を見に行ったとき、あの近くの路上ですれちがった車があります。その車を運転していたのがこの男でした」 「現場へ行く途中ですれちがった……その車は現場の方から来たのですか」 「そうです。もしかすると、山川も現場を見に行ったのかもしれません」 「なるほど。あり得ますね」  棟居がうなずいた。  有光が現場に興味を持ったように、事件の関係人物であれば、山川も同じ興味をもったかもしれない。 「車ですれちがったとき、なにか特に気がついたことはありませんでしたか」 「一瞬の間でしたからね。特に記憶に残っていることと言われましても」  有光は記憶を探った。 「車の種類やナンバーはおぼえていませんか」 「白いボディの国産車でした。N車だったとおもいますが、確かではありません」 「すれちがったとき、山川は一人でしたか。それともだれかを同乗させていましたか」 「一人だったとおもいます。車内にべつの人影は見えませんでした」  棟居の質問に答えている間に、有光は山川の車と路上ですれちがったとき、彼に以前どこかで出会ったような気がしたことをおもいだした。  つまり、あのとき以前にすでに山川の顔に記憶があったことになる。  棟居が示した山川の顔写真には二重の記憶があったのだ。 「なにかおもいだしましたか」  棟居が有光の顔色を敏感に読んだ。  棟居の言葉がきっかけとなって、有光は山川に最初に会った場面をおもいだした。 『アドニス』の客は圧倒的に女性であるが、中には女に同行して来る男もいる。  ほとんどが行き付けの店のホステスや、彼女にせがまれてやむを得ず従《つ》いて来るのである。  女がホストクラブで遊ぶ金を負担してやって、女がホストの顔色ばかりをうかがっているのをかたわらで見ている男ほど、つまらない役目はない。  有光は時どき女客に同行して来る男たちに対して、同情の念を禁じ得なかった。  山川はそんな男客の中の一人であった。  有光の客ではなく、松江の女客の一人に同行して来たのが山川であった。 「山川は私の店に来たことがあります」  有光はおもいだしたことを棟居に伝えた。 「すると、松江さんに聞けば、山川の居所がわかるかもしれませんね」 「山川が同行して来た女性は、松江を何回か指名していましたので、彼女の連絡先ならばわかるかもしれません」 「それだけおもいだしてくれれば、大変けっこうですよ」  棟居の表情が弾んでいた。      2  有光から聞き込んだ情報に基づいて、彼の同僚松江に会った。  棟居から写真を示された松江は、直ちに反応した。 「ああ、この方ならば倉上《くらかみ》さんと一度お見えになったことがございます」 「倉上さんと言うと……」 「私をよく指名してくださるお客様です」 「倉上さんの連絡先はわかりませんか」 「倉上さんにご迷惑のかかることでしょうか」  松江の口調にためらいが見られた。 「捜査に必要な情報を集めています。殺人事件の捜査なのです。ご協力願えませんか」  棟居の有無を言わせぬ口調に、松江は、 「銀座六丁目のクラブ『花壇』に勤めていらっしゃいます。最近ちょっとお見えになりませんが、花壇に問い合わせればわかるとおもいます」  棟居は松江から銀座の花壇に捜査の手を伸ばした。  花壇の店長によると、倉上|静枝《しずえ》ははるみという名で一年ほど同店に勤めていたが、今年の八月ごろ辞めたということである。  棟居が山川の写真を提示すると、 「この方ならはるみさんのご主人という触れ込みで、二、三度店に見えたことがあります。そのとき外国人の女性を連れて来て、店で働かせてくれないかと持ちかけられましたが、私どもには雰囲気が合わないのでお断りしました。どうも勘ちがいされていたようです」 「勘ちがいと言いますと」 「つまり、私どもの店の女性がお客のリクエストに応じて夜のおつき合いまですると、勘ちがいされていたようです」 「倉上さんの住所か連絡先はわかりますか」 「控えてあります。しかし、現在もそこにいるかどうかはわかりません。店を辞めた後、連絡を取っていませんので」 「それでけっこうです」  少なくとも一時の生活の拠点がわかれば、そこから追跡できる。  花壇の店長から聞き出した倉上静枝の連絡先は、杉並区|方南《ほうなん》のアパートとなっていた。  早速そのアパートへ赴いてみると、すでに転居した後であった。  管理人に尋ねると、山川と倉上は同アパートに一年ほど同居していて、本年八月初め、転居したという。  花壇を辞めたのと転居がほぼ同時期であった。  さらにトウイの失踪《しつそう》と推定死亡時期に符合している。  管理人は最初、二人を夫婦とおもっていたようである。 「どうして夫婦でないとわかったのですか」 「入居者にない宛て名の手紙が私のポストに誤って配達されまして、入居者に訊《き》いてまわったところ、倉上さんのところだとわかりました」 「その宛て名はなんと書いてありましたか」 「山川喜久男と書いてありました」 「手紙の差出人の住所や氏名はおぼえていますか」 「誤配された郵便物はすべて記録してあります」 「それは有り難い。記録を調べていただけませんか」  棟居は喜んだ。  これは厳密に言えば信書のプライバシーに対する干渉の虞もあるが、管理人はそんなにシリアスには考えていない。  信書の内容までに立ち入るわけでもない。  管理人は一冊の帳簿を持ち出して来て、ページを繰った。 「ああ、ありました。六月十二日、立川《たちかわ》市の木原登美子《きはらとみこ》となっています」  棟居は管理人が記録していた誤配された手紙の差出人住所、氏名をメモした。  棟居は緊張した。立川ならば武蔵村山市に近い。  山川にたどりつくかもしれない細い糸が辛うじてつながっている。  棟居は念のために、同地域担当交番に立ち寄って、受持ち区域の住民案内簿を見せてもらった。山川と倉上が巡回連絡に協力していれば、本籍地や緊急連絡先がわかる。  だが、両人は巡回連絡に回答していなかった。  区役所の住民基本台帳にも記載されていない。いわゆる幽霊区民であった。  残る手がかりは立川市の木原登美子である。  トウイを拉致して行ったのは二人の男女であったという。その二人は山川と倉上ではあるまいか。彼らがトウイを拉致《らち》して、二か月後、トウイは死体となって武蔵村山市域で発見された。  トウイの推定死期とほぼ時期を一にして、倉上は銀座の店を辞め、山川と彼女は転居した。  そしてそれ以後、アユチャにも現われていない。  早速、木原登美子の居所が当たられた。  木原登美子は山川宛ての郵便物差出人住所に実在していた。  木原登美子は曙《あけぼの》町三丁目で「まどか」というクラブを経営している。  棟居と鈴木は木原の店に抜き打ち訪問することにした。  木原本人と共に、彼女の経営する店も覗《のぞ》いて見たい。  そこはトウイがアユチャへ来る前に働いていた店かもしれない。  まどかはデパートや銀行が密集している表通りの繁華街から離れた、裏路地のごみごみした一角にあった。  午後八時ごろ、店の開いている時間帯を狙って、棟居と鈴木はまどかを訪れた。  店内は十数坪、数脚の椅子を並べたカウンターと、壁に沿ってコの字型に椅子が固定され、移動自由のテーブルと椅子を組み合わせてボックス席が五、六|枡《ます》設けられている。  店内には一見して東南アジア系とわかる女性が五、六人と四、五名の客が身体を接するようにして座っている。照明は暗い。  アユチャと同じ雰囲気であった。 「いらっしゃいませ」  二人が入って行くと同時に、カウンターの中から声がかかった。  もみ上げの長いバーテンダーが、品定めをする目で二人の方を見た。 「木原さんに会いたいのですが」  棟居の言葉に、バーテンダーの顔色が改まった。  咄嗟《とつさ》に二人が客ではないことを悟ったらしい。  ボックス席の方に客と共に座っていた女性グループの中に、身じろぎをした一人のホステスがいた。  厚ぼったい身体をラメの入ったドレスに包んだ、グループの中で最も歳《とし》のいった女性である。  外国人女性グループの中で、彼女だけが日本人である。 「木原さんですね」  気配を察知した棟居は、すかさず声をかけた。 「はい。そうですけれど、なにかご用ですか」  彼女は仕方なさそうにうなずいた。  アユチャと同じような東南アジア系の女性を使っているということは、山川の関わっている人身売買ルートにつながっている可能性がある。  木原、バーテンダー、ホステスたちが身構えた。  棟居らが名乗る前に、彼らの素性を察知したらしい。 「山川喜久男さんをご存じですね」  棟居の質問に、木原の顔色の変わったのがわかった。 「どうぞこちらへ」  木原は棟居と鈴木を隅の空席の方へ案内した。  店の者の警戒が伝染して、客がこそこそと立ち去りかけた。 「あら、まだおよろしいではありませんか」  棟居の方に姿勢を向けながらも、客に声をかけたのはさすがである。  隅の席に座った二人に、バーテンダーがソフトドリンクを運んで来た。 「仕事ですからかまわないでください」  棟居が牽制《けんせい》した。  経営者、従業員、客の態度が、まさにアユチャのコピーのように似ている。 「山川喜久男さんを探しています。お宅に出入りしていることはわかっています。居所をご存じでしたら、おしえていただきたい」 「山川さんがどうかしたのですか」 「お宅にアイラという女性がいましたね」 「アイラは、とっくに店を辞めました」  彼女の顔色から、トウイの事件を知っていることが推測できた。 「アイラさん、本名トウイさんが殺されたことはご存じですね。その事件について情報を集めています。お宅にアイラさんを紹介したのも山川さんでしょう。山川さんから聞きたいことがあります」 「以前は時どき見えましたが、最近、姿を見かけません」  アユチャとまったく同じ気配になってきた。  そのとき棟居の意識に閃光《せんこう》が迸《ほとばし》った。 「木原さん、あなたを見たという人がいるのですよ」 「私を見た?」 「アイラさんはしばらく有光重夫という人物の家に寄留していました。保護されていたと言った方が正確かもしれない。八月七日ごろ、彼女は山川と女性の二人連れに拉致された場面を目撃されています。そのとき山川と一緒にいた女性はあなたでしょう」 「な、なにを証拠に、そんな言いがかりをつけるのですか。私はアイラを拉致したおぼえなんかありません」  木原登美子は必死に抗弁したが、態度が裏切っている。 「あなたでなければ、だれが山川と一緒にアイラさんを拉致したと言うのですか」  棟居は木原登美子を追いつめた。  彼女はトウイの拉致に一役買っているにちがいないと睨《にら》んだ棟居の目は、まちがっていなかったようである。 「私じゃありません。静枝です」  登美子は苦しまぎれのように言った。 「静枝、倉上静枝さんのことですか」 「そうよ。静枝もうちに少しいたことがあるのよ。山川とできて、同棲《どうせい》していたけれど、私に訊くより静枝に聞いた方が手っ取り早いわよ」 「その倉上静枝さんも山川と一緒に姿を晦《くら》ましているので、あなたにお尋ねしているのです。見たところジャパゆきが多いようだが、あんたの店もアユチャと同じように叩けば埃《ほこり》が出そうじゃないか。それも半端な埃じゃない。アイラさんの殺しにも一枚|噛《か》んでいるんじゃないのかね」  棟居に凄《すご》まれて、登美子はますます土俵際へ追いつめられた。 「私は関係ない。アイラを殺せなんて頼んだおぼえはないよ。山川と静枝が勝手にやったことだ」 「殺せと頼まなかったのなら、なにを頼んだんだね」  すかさず棟居が追いすがった。 「私は知らない、なんにも知らない」 「そうかい。あんたはたしかにアイラを殺せとは頼まなかったといま言った。おれもここにいる鈴木刑事も確かに聞いた。ということは、あんたは山川と倉上静枝さんにアイラさんに関してなにかを頼んだ。その後、アイラさんは殺された。あんたはアイラさん殺しに無関係とは言えないよ。本署でじっくりとなにを頼んだか聞こうじゃないか」 「私はアイラを連れ戻してくれと山川に頼んだだけだよ。それを山川がどう勘ちがいしたのか、アイラを殺しちゃったんだよ。アイラには金がかかってる。殺しては元も子もない。私が殺すはずがないじゃないか」 「アイラを連れ戻せと山川に頼んだということは、アイラさんがあんたの店から逃げ出したのか」 「アユチャから逃げたんだよ。アユチャにはアイラをリースしていたんだ。アイラが逃げ出したので、アユチャに損害を賠償した。アイラはうちの稼ぎ頭だった。アイラに逃げられては大損害だ。そこでアイラを連れて来た山川に、あの子を探し出して連れ戻すように頼んだだけだよ。殺せなんて、そんなことを頼むはずがない」 「リース? アイラをリースとはどういうことだね」  棟居は聞き馴《な》れない言葉に面食らった。 「うちの女の子を時どき頼まれてリースに出してるんだよ」 「人間のリースか」 「べつに珍しいことじゃないだろう。派出婦やコンパニオンと同じだよ」 「派出婦やコンパニオンと同じことをするだけなら、逃げたところでわざわざ他人に頼んで連れ戻すことはないだろう。ホテルまでお供する派出婦がいるかね」 「そこまでは干渉しないよ。自由恋愛だからね」 「つまり、自由恋愛のリースというわけか」 「自由恋愛をリースしてはいけないの」  木原登美子は開き直った。 「自由恋愛なら、どこへ行こうと本人の自由だとおもうがね。わざわざ山川に頼んで連れ戻してもらうこともないだろう」  棟居に言いこめられて、登美子は返す言葉につまった。 「それで、アイラさんは山川が殺したのか」 「殺したかどうか知らないけれど、私は山川に連れ戻せと頼んだだけで、殺せとは頼んでいないよ」  登美子は先刻の言葉を繰り返した。 「山川はなんと言っているんだ」 「それが、アイラが殺されてから山川が寄りつかなくなってしまったんだよ。私も山川に頼んだら、アイラが殺されてしまったので、気になって山川にどうなっているのか確かめたいんだけれど、まったく姿を見せなくなってしまったんだよ。電話も取りはずされていて、そのうちに暇を見て山川の家へ行ってみようとおもっていたところだよ」 「山川はアイラさんを拉致《らち》する場面を目撃されているが、あんたにアイラさんを見つけたことは報告しなかったのか」 「アイラの居所がわかったので、近いうちに連れ戻すと言っていた。そうしたら、間もなくアイラが殺された。山川が勝手にやったことで、私は関係ない」 「山川の現在の居所は知らないのか」 「請求書を送った倉上の住所が、私が聞いている山川の住所だよ」 「何の請求書だね」 「山川が店で遊んだ請求書だよ」  管理人に誤配されたのは、その請求書らしい。 「ここにいる女性たちは、みんな山川が紹介したのか」  登美子はしぶしぶとうなずいた。  どうやら東南アジア方面からの人身売買ルートの日本での第一受入先は木原登美子らしい。 「あんたにはまだ訊《き》かなければならないことがたくさんありそうだ。山川の居所を知らないではすまされないぞ」 「刑事さん、勘弁してくださいよ。私はなにも悪いことはしていません。東南アジアから日本へ出稼ぎにやって来るこの子たちの、日本の身許引受人になっているだけです。  日本にいる間は、私がすべて彼女たちの面倒をみています。だから、逃げ出したアイラが変な人間に引っかからないように連れ戻して保護してやろうとしたんじゃないのよ」  登美子は急に哀れっぽい声を出した。 「高い金がかかっていると言ったんじゃなかったのか」 「それは、渡航費や日本滞在費を私が立て替えていますからね。実費はいただかないと、私もやっていけなくなります」 「便利な実費だな。実費を取り立てるためにも、山川の所在はつかんでいなければなるまい。山川の居所を知らないでは通らないよ」  棟居は木原登美子が山川と連絡があるにちがいないと睨《にら》んだ。 「そんなに疑うなら、私の店に張り込んでいてください。そのうちに顔を出すとおもいます」 「あんたから山川に、警察が張っていると密《ひそ》かに連絡されたら、何年待っても寄りつかないよ。もっとも何年も張り込みをかけたら、あんたの商売、あがったりだろうね」 「刑事さん、許してください。本当に知らないんです。山川はパチンコが好きで、よく通っていた店があります」  山川のパチンコ好きは、平沢しのぶの弟田沼からも聞いているところである。 「山川の行き付けのパチンコ店があるんだって」  棟居と鈴木は上体を乗り出した。 「新宿歌舞伎町の『ノア』という店です」 「新宿歌舞伎町のノア」 「そのほか吉祥寺《きちじようじ》、町田《まちだ》などにも行き付けの店があります。それらの店を張っていれば、そのうちにきっと姿を見せるわよ」  木原登美子はさらに任意同行を求められて、詳しく事情を調べられた。  登美子の供述によると、山川は登美子が八王子市内のキャバレーで働いているとき、客の一人であったという。  当時は貿易商という触れ込みであったが、気前がよくて派手に散財していた。  山川から、東南アジア方面にコネクションがあって、女性の斡旋《あつせん》を仕事としている、その気があるなら、いい女性《タマ》を紹介してやるから、店を開いたらどうだと持ちかけられて、その気になり、山川の斡旋ルートの日本引受所となった。  山川ルートで来日した女性たちは、まず木原登美子の経営するまどかへ来て、ルートに連なる日本の各店へリースという形で配分されて行く仕組みであった。  売春戦力のリースとは、新しい手口である。  木原登美子もアユチャの店長同様、タイ人、フィリピン人を含むホステス九名と共に、売春・出入国管理令違反、および難民認定法違反等の罪で逮捕された。  木原登美子の自供によって、トウイがどうやら山川に拉致された状況はわかったが、山川の行方は依然として不明であった。  ここに捜査本部は木原から聞き出した山川の立ちまわる可能性の大きい新宿歌舞伎町の「ノア」、吉祥寺の「チキチキバンバン」、町田の「ラッキーセブン」三店に、それぞれ管轄署の応援を得て張り込みをかけることにした。 [#改ページ]   善意の距離      1  女子大生行方不明事件の捜査は膠着《こうちやく》していた。  その後、犯人からの身代金要求の連絡はなく、八方に広げた捜索網にも新村優子の消息は引っかからなかった。  所沢署の捜査本部に投入された黒田《くろだ》刑事は、新村優子の通学経路を丹念に聞き込みに歩いていた。その結果、八月七日午後、大学を下校後、西武池袋線狭山ヶ丘に下車したところまでは、同じ大学の学友や同駅員が目撃していて確かめられた。  だが、駅を中心にして広げた聞き込みの網にも、優子の行方につながる情報は入らなかった。  黒田は同駅の改札口付近に陣取って、乗降客に執拗《しつよう》に聞き込みをつづけていたが、成果はなかった。  下車して来た者は、駅の近くに住んでいる者は徒歩で帰路を急ぎ、やや遠方に住んでいる者は駐輪場や路上駐輪している自転車やバイクに乗って帰る。自転車やバイクのない者は駅構内の公衆電話からマイカーを呼んでいる。  黒田が聞き込みをつづけている間、にわか雨が降ってきたことがあった。  駅構内には町内会から寄付された善意の傘が二十本ほど置いてある。いずれも古いぼろ傘ばかりであるが、にわか雨を防ぐ程度の役には立つ。  その数が増えも減りもしないのは、傘に助けられた利用者が、戻しておくからであろう。  にわか雨で善意の傘はたちまち出払った。傘にあぶれた者は雨に濡《ぬ》れながら帰って行く。  そんな駅前の光景を横目にしながら、黒田は聞き込みをつづけた。  駅から駅前駐輪場までわずか数十メートル、その間になにがあったのか。  そう言えば、当日彼女が下車した時間帯も、夕立になっていた。  黒田はこの夕立が、彼女の行方不明に関わりがありそうな気がした。  新村優子が契約した駅前駐輪場には、帰り来ぬ主のために、彼女の自転車がいまでも置かれている。  自転車が待っていれば彼女が帰って来るかもしれないという親心から、駐輪契約を解除していないのである。  帰らぬ主を待つ自転車を再点検した黒田は、奇妙なことに気がついた。  相棒の丸山《まるやま》刑事に、 「後輪の空気が抜けているが、いつから抜けていたかおぼえているかい」  と問いかけた。 「行方不明になってから三か月もたっているから、自然に抜けたんじゃないのかい」  丸山は言った。  スタンドを立てているので後輪の空気が抜けているのに気がつかなかった。 「自然に抜けたのであれば、前輪も抜けているはずだが」 「さあて、そう言われてみると、いつから抜けていたのか気がつかなかったな」  丸山が記憶を探っている。 「目がご本人の方を向いていて、自転車は視野の中にありながら眼中になかった。彼女、自転車の空気が抜けていたことを知っていたんだろうか」  黒田が丸山の顔色を測った。 「消息を絶ってから自然に抜けたのであれば、知るはずがないだろう」 「消息を絶つ前に抜けていたとしたらどうだ」 「消息を絶つ前に?」 「つまりだ、彼女が八月七日、自転車を駐輪場に預けた時点で、すでに空気が抜けていたとしたら、彼女はそのことを知っていたかもしれないな」 「空気の抜けた自転車に乗って来たと言うのかい」 「いや、家を出て駅まで来る途中でパンクでもしたとすれば、駐輪場に預けたときは空気は抜けていただろう」 「パンクした自転車を駐輪場に預けたのか」 「登校の途中だよ。パンクを修理している暇はない。下校時に修理するつもりで、とりあえず駐輪場に預けて登校したとは考えられないかね」 「なるほど。それがどんな意味があるんだい」 「彼女は自転車を預けた時点で空気が抜けていたことを知っていたとすれば、下校時、空気の抜けた自転車に乗って帰ろうとしただろうか」 「しかし、預けっぱなしにしておいては、次の日に乗れないよ」 「そうだな。登校時、時間がなかったのでパンクしたまま駐輪場に預けたが、下校時、自転車を引き出して修理をしておかなければ、翌日乗れなくなる。しかし、彼女が姿を晦《くら》ました日は夕立がかなり激しく降っていた。土砂降りの中を自転車の修理屋まで、パンクした自転車を押して行く気にはならなかったのかもしれない」 「まだパンクしたかどうかわからないよ」 「そいつを確かめてみよう」  黒田は新村優子の自転車を、自転車修理店に調べてもらった。  その結果、後輪のチューブがパンクしていることがわかった。 「駐輪中にパンクはしないだろう。やはり登校途中パンクして、後で修理をするつもりで駐輪場に預けたんだ」 「すると、どういうことになるんだね」  丸山の表情が次第に興味を持ってきている。 「当日午後、下校して来た彼女は、狭山ヶ丘の駅に降りて、夕立の中、自転車を押して修理屋へ行く気がしなくなった。そこで、駐輪場に自転車を預けっぱなしにしたまま歩いて帰ったとは考えられないかね」 「なるほど。あり得るね」 「車に乗って帰ったかもしれないよ」 「いまどきの学生は贅沢《ぜいたく》だからね、タクシーに乗って帰ったかもしれないな」 「タクシーとは限らないだろう。たまたま知った顔が車を転がして通りかかった。雨の中を歩いている彼女に声をかける。見知らぬ人間だったら警戒したかもしれないが、知った顔に、夕立の中を救われたおもいで乗り込む」 「そういう手があったか」  黒田の着眼は捜査本部を動かして、駅周辺に聞き込みの網が広げられた。  だが当日、新村優子を乗せたタクシーもなければ、車に乗り込んだ場面を目撃した者も現われなかった。  せっかくの黒田の着眼であったが、狭山ヶ丘で新村優子の足跡はぷっつりと絶えていた。      2  捜査は八方|塞《ふさ》がりの状況を呈していた。  犯人からの身代金要求の連絡はなく、新村優子の消息はまったく絶えている。  彼女が立ちまわりそうな先はすべて調べたが、気配もない。  優子は身持ちの固い娘で、特に親しくつき合っていたボーイフレンドもいない。  彼女には姿を晦ますような要素はなにもなかった。まさに神隠しに遭ったように、八月七日を境に、彼女の二十年の人生の軌跡は完全に消去されていた。  新村優子の消息に結びつく手がかりはなに一つ得られないまま、日数が経過していた。  時間の経過と共に、絶望への傾斜が強まっていく。  だが、優子の両親は、娘がどこかで無事に生きていることを信じていた。信じることによって絶望を拒否している。  両親の苦悩の深さは、そのまま捜査本部の無能につながる。  黒田は面目ないおもいを噛《か》みしめながら、必死に聞き込みに歩いていた。  この時期、黒田の意識の中に少しずつ容積を増してきたものがある。  最初はなにげなく見過ごしていたものが、存在感を持ってくるように、彼の意識の中でアピールするようになった。  そのアピールがなにを意味するのかわからない。だが、意識の中で確実に軋《きし》るようになっていた。  それは十月七日、都下武蔵村山市域で発生した東南アジア系外国人女性殺害事件である。  同市域の廃屋で殺人死体となって発見された被害者は、死後経過約二か月と推定された。  十月七日から二か月と言えば、新村優子が消息を絶った時期と一致する。  しかも死体発見現場は、埼玉県との境に接した武蔵村山市域である。  所沢署の管轄地域とは境を接している。  女子大生|失踪《しつそう》事件と場所が極めて接近して発生した外国人女性殺害事件が、黒田の意識の中で次第に容積を増してきた。  いまのところ、この両事件にはなんの関連もなさそうである。  外国人女性殺しの捜査本部の方からも、べつになにも言ってきていない。  おそらく偶然の符合であろうが、黒田は気にし始めると、ますます気になってきた。  これまでの捜査では、新村優子の人間関係には外国人は皆無である。  報道によると、被害者の身許《みもと》はタイからの出稼ぎ女性ということであるが、新村優子の人間関係にはタイ人はおろか、外国人はまったく浮かび上がっていない。  優子が籍を置いていた大学にも、外国人留学生はいなかった。  たまたま時間と場所を接して発生した二つの事件であっても、関連性があるとは言えない。  さしたる根拠もなく、安易に外国人女性殺しの捜査本部に連絡すると、捜査を混乱させる虞《おそれ》がある。  黒田の個人のおもわくだけで、東大和署に照会することは控えなければならない。  捜査本部を動かすには、まだ彼の資料が不足していた。  十二月初め、黒田は自分の意識の軋りを納得させるために、ジャパゆきの死体発見現場を自分の目で確かめに行った。  多摩湖の北岸に沿った道を西へ車を走らせると、西武山口線が右手北方にあるユネスコ村の方に分かれて、道路は北岸をなおも西へ向かう。  多摩湖と狭山湖に挟まれた埼玉県と東京都の県境に沿ってしばらく進むと、間もなく都下武蔵村山市域に入る。  小さな森の中の廃屋はすぐにわかった。  廃屋はまだ取り壊されずに放置されていた。  所有者の不動産会社も殺人死体を遺棄されて、金をかけて撤去するのがますますいやになってしまったのであろう。  管轄警察による立入禁止はすでに解除されていた。  黒田は屋内に入って一通り見てまわったが、すでに警視庁と所轄署の捜査員が丹念に検索した後に、新たな発見があるわけでもない。  黒田は、ただ現場を見たかっただけである。  黒田は立ち腐れた廃屋の床下に埋められていた外国人女性を哀れにおもった。  どんな事情があったかわからないが、日本へ出稼ぎに来たのはこんな廃屋に骸《むくろ》を横たえるためではないだろう。  国際化と共に、日本にも世界各国から外国人が入り込んで来る。相対的に外国人による犯罪も多くなっている。  黒田はせめてこの被害者を殺した犯人が日本人ではないことを祈った。  廃屋から出て車へ戻った黒田は、来た道を引き返しかけた。  この地域は埼玉県側の勝楽寺と、東京都側の多摩湖が共に東京都水道局の管理地となっていて、民家はない。  湖畔は狭山丘陵を含む緩やかな起伏の丘陵地となっていて、桜が多い。  また周辺はアカマツを混じえた雑木林が広がり、武蔵野の面影が豊かに残る。  県境は、多摩湖と狭山湖を隔てるリアス式の陸の橋のような丘陵を東西に走っている。  廃屋から少し行くと、間もなく県境を越えて埼玉県に入る。  季節外れの平日なので、通行車もまばらである。  走り出して間もなく、黒田は妙なものをくわえている犬に出合った。  よく見ると、野良犬が古い傘をくわえている。なぜそんなものをくわえているのかわからない。野良犬を横目に走り去ろうとした黒田は、犬が傘をくわえたまま追いかけて来るのをバックミラーに認めた。  犬は走るものを追いかける習性があるが、最近は車に麻痺《まひ》して、その習性をほとんど失ってしまった。  黒田はしばらく犬に追われるように走っていたが、ブレーキペダルを足にかけた。  車を停めて車外に降り立つと、犬はくわえていた傘を地上に放り出したまま逃げ去った。  黒田には、犬がその傘を黒田の許《もと》へ運んで来たように感じられた。  黒田は地上から犬がくわえていた傘を拾い上げた。  古い婦人用の傘で、骨が折れている。もとはかなり上等な品物だったようである。  ひらいてみると、犬に噛まれた歯形が布地を傷つけている。ゴミのようなぼろ傘であった。  手を伸ばして拾い上げた傘に目を凝らしていた黒田は、その傘が狭山ヶ丘駅の善意の傘と|重なった《オーバーラツプ》。 「まさか、狭山ヶ丘駅の善意の傘がこんなところに落ちているはずがない」  黒田はふと走った自分の連想を打ち消した。  だが、黒田は善意の傘の中に、いま手に取っている傘があったような気がしてならない。  もしそうだとすれば、狭山ヶ丘駅の利用者が同駅から善意の傘を借用して、この近くに放置したことになる。  雨に遭って借りるだけ借り、雨が上がって不要になったので捨てたのかもしれない。  ゴミ同然のぼろ傘であるが、借用者はにわか雨から助けられた恩を仇《あだ》で返した。利用者は善意を裏切ったのである。  それにしても傘を発見した地点は狭山ヶ丘から直線距離で六、七キロであるが、見当ちがいの方角でもあり、歩いて来る者はいない。  傘を手にした黒田の胸の中で、おもわくが脹《ふく》らみ始めた。  仮にこの傘が狭山ヶ丘駅の善意の傘だとする。この傘と新村優子を結びつけられないか。  彼女が失踪した日の午後、激しい夕立になった。  自転車がパンクしていた彼女は、善意の傘を借りて夕立の中、帰路を急いでいた。  その傘がなぜ、武蔵村山市域の外国人女性殺害死体遺棄現場の近くに放置されていたのか。  まだこの傘が善意の傘と確かめられたわけでもない。ましてそれを新村優子と結びつけるのは飛躍である。  黒田は自分を戒めたが、犬が優子の手がかりをくわえて来たような気がしてならない。  善意の傘と仮定して、現場近くに放置されていたとしても、ゴミ同然のぼろ傘が検索の網からこぼれ落ちたところで不思議はない。  ゴミ同然の傘が落ちていても、だれも拾う者はない。犬にくわえられなければ、同じ場所にずっと放置されていたはずである。  それに黒田が傘をくわえた犬に出合ったのは、埼玉県側である。もし傘が埼玉県側に放置されていたとすれば、東京都側の捜査の触手は及ばなかったであろう。  現場近くであっても、県境を越えれば管轄ちがいである。  黒田は傘を保存した。      3  黒田は保存した傘を狭山ヶ丘駅に持参した。  傘を示された駅員は、首をかしげた。 「さあ、町内会の善意で傘立てと傘を駅構内に置いていますが、駅が管理しているわけではありませんので、善意の傘かどうかと聞かれても、ちょっとね」  と困惑したように言った。  傘立てに置かれていれば、急場の用には役立つかもしれないが、その辺に落ちていればゴミである。  だが、黒田はあきらめなかった。彼は雨の日や、雨|催《もよ》いのときを狙って、狭山ヶ丘駅の乗降客に件《くだん》の傘を示しては、利用したことがないか問うた。  それらの聞き込みがつづいた。  聞き込みを始めて十日ほど後、主婦|体《てい》の一人の女性が、黒田が示した傘に目を見開くようにして、 「あら、この傘は私が寄付した傘ですわ。見えなくなってしまったので、だれかが持って行ったまま返さないのだろうとおもっていたのですけれど、まあ、こんなにぼろぼろになってしまって。買ったときは上等な傘だったんですよ」  と痛ましげな表情をした。 「奥さんが寄付した傘にまちがいありませんか」  黒田は自分の予感が的中したのを悟った。 「まちがいありませんわ。私が寄付した傘がみなさんのお役に立っているとおもうと、気持ちのいいものですわ。駅を乗り降りするとき、いつも傘立てに目が行きます。しばらく戻ってこないので、べつの傘を寄付しましたわ。ほら、いまそこにあるでしょう。それが私が新たに寄付した傘ですわ」  彼女は傘立てに残っていた数本の傘のうちの一本を指さした。  主婦の証言によって、犬がくわえていた傘は、狭山ヶ丘駅の善意の傘であることが確かめられた。  黒田は念のために鑑識に指紋の顕出を依頼したが、放置後、長期間風雨にさらされ、対照可能な指紋を顕出することはできなかった。  狭山ヶ丘駅にあった善意の傘が、ジャパゆき女性殺人死体遺棄の現場の近くに放置されていた。まさか野良犬が狭山ヶ丘駅からくわえて来たわけではあるまい。  黒田の推測は凝縮してきた。  八月七日午後、下校して来た新村優子は、狭山ヶ丘駅に降り立ったとき、予期しなかった雨に遭遇した。  自転車はどうせパンクしている。彼女は駅構内にあった善意の傘を借りて、雨の中を歩き出した。そして、その傘がほぼ同じ時期に殺害されたと推定されるジャパゆき女性の死体遺棄現場の近くに放置されたのである。  この関連をどう考えるか。黒田は自分の発見を捜査会議に提出した。 「善意の傘はだれでも借りられる。新村優子がそれを利用したとは限らないだろう」 「仮に彼女がそれを利用したとしても、ジャパゆきの犯行日は確認されていない。たまたまジャパゆきの死体発見現場の近くに傘が転がっていたというだけではないのか」 「いや、傘は野良犬がくわえて来たもので、放置場所が確認されたわけではない。犬の行動半径はかなり広いから、とんでもないところからくわえて来たのかもしれないよ」  予想された反論が相次いだ。  黒田はめげなかった。 「新村優子が傘を利用したかどうか確かめられていませんが、可能性はあります。可能性がある以上、傘をジャパゆき殺人死体遺棄現場の近くで野良犬がくわえていたという事実は、見過ごせないと思います。一応担当捜査本部に連絡すべきであると考えますが」  黒田の意見は入れられて、ジャパゆき殺人死体遺棄事件の捜査本部に連絡されることになった。 [#改ページ]   法の下の残酷      1  新宿、吉祥寺、町田のパチンコ店に執拗《しつよう》な張り込みがつづけられていた。  山川の拡大写真を持った各捜査員は、パチンコ店の全面的協力の下に、客や従業員を装って、いつ現われるかわからない山川を待った。  観光地と異なって、パチンコ店の客は固定客が多い。  パチプロはいずれも顔馴染《かおなじ》みで、開店前からつめかけ、開放台を狙っている。  師走《しわす》に入り、街の気配が慌ただしくなっている。店にも一見《いちげん》や流しの客が多くなった。  張り込みを始めて七日目、歌舞伎町の「ノア」に張り込んでいた棟居は、若い女と一緒に店に入って来た山川を認めた。  写真の顔とは少し様子が変わっているが、棟居は山川の特徴を見て取った。  彼は店内を物色して、空いているパチンコ台の前に無造作に座った。  女がパチンコ玉を買って来て、山川の隣りに座った。  棟居は張り込んでいる同僚や、応援の新宿署の私服に合図を送って、山川を中心に包囲の網を絞った。  山川は熱心にパチンコ玉を弾《はじ》いている。  棟居は山川の背後に立った。鈴木がその脇を固める。  気配を悟ったらしく、山川が振り返った。棟居と山川の目が合った。  山川がはっとした表情をした。 「山川喜久男さんだね」  棟居が確かめた。 「ちがうよ。人ちがいだ」  山川が言って、立ち上がりかけた。 「ちょっと訊きたいことがあるので、同行してください」  棟居は有無を言わさぬ口調で言った。 「おれは警察から呼ばれるようなことはなにもしていないぞ」  山川は精一杯虚勢を張った。 「参考に訊きたいことがあります。用がすめば、すぐに帰れますよ」  棟居が促したとき、かたわらから連れの女が、 「ヤマちゃん、どうしたの」  と問いかけた。  山川は一緒にいた女と共にその場から新宿署に連行された。連れの女は歌舞伎町のエスコートクラブのホステスで、事件には無関係とわかった。  新宿署でも最初は山川であることを認めなかったが、棟居から写真を突きつけられ、「アユチャ」の沢井や、「まどか」の木原登美子と面通しさせようかと言われて、ついに山川本人であることを認めた。 「それでは、アイラことトウイ・ソンクラームさんを知っているね」  棟居にたたみかけられた山川は、 「知っているけれど、アユチャから逃げ出した後、会っていない。どこへ行ったか知らない」  と答えた。 「とぼけるな。トウイさんが殺されたことはとうに知っているんだろう。我々はあんたが殺したと睨《にら》んでいるんだがね」 「とんでもない。おれはトウイを殺していない。トウイには金がかかっている。トウイを殺しては元も子もなくなる」  山川は捜査本部でも不審におもっていたことを答えた。 「人身売買ルートの秘密を知られたので、トウイさんの口を封じたのではないのか」 「そんな秘密はなにもない。おれは日本へ出稼ぎに来たいという女たちの世話をしていただけだ。手数料はもらったが、人身売買などしたおぼえはない」  山川は必死に否認した。 「あんたと倉上静枝によく似た女が、トウイさんを車に無理やり押し込む場面を見ていた人がいるんだよ。あんた、トウイさんを拉致《らち》して、武蔵村山で殺したんだ」 「おれは殺してなんかいない。木原登美子から、逃げたトウイを探して連れ戻してくれと頼まれて、トウイの行方を探していた。たまたま渋谷でトウイの姿を見かけて後をつけ、居所を突き止めた。トウイは男と一緒に住んでいたが、男のいない隙に車に乗せて木原のところに連れ戻そうとしただけで、殺したりなんかはしない」 「あんたが殺さないのに、どうしてトウイさんは殺されて、武蔵村山で発見されたんだね」 「そんなことは知らない。いったんトウイを捕まえたが、途中で逃げ出したんだ」 「逃げ出した? トウイさんが逃げたと言うのか」 「後になって武蔵村山の市域とわかったが、途中、用を足したくなって裏通りで車を停めた隙に、トウイが逃げ出した。追いかけようとしたとき、折悪しくパトカーが通りかかった。その間に、トウイは姿を晦《くら》ましてしまったんだ」 「そんな言い訳が通るとおもっているのかね」 「本当なんだよ。おれは女の斡旋《あつせん》をするが、女を殺すようなもったいないことは絶対にしない。女は金の卵を生む鶏だよ。その鶏を潰《つぶ》すようなことはしない」  山川は必死に訴えた。 「倉上静枝がなんと言うか、聴いてみたいね。静枝はどこにいる」  山川の供述によって、中野区のアパートに彼と同棲《どうせい》していた倉上静枝にも任意同行が求められた。  静枝も厳しく取り調べられたが、おおむね山川と同じことを申し立てた。  二人の供述は木原登美子の供述とも符合するものである。  木原は山川にトウイを探し出して連れ戻すように依頼したという。  山川が依頼の範囲を超えて、トウイを殺してしまったと木原登美子は考えている。  だが、山川と倉上の供述によれば、山川は木原の依頼の範囲を超えていない。倉上がその証人の形となっていた。  倉上は山川の愛人であるから、その言葉には全幅の信はおけないが、二人の供述はディテールにおいて一致している。  口を合わせたのでは、なかなかそうはいかない。  山川を本命と睨《にら》んでいた棟居は困惑した。  網を引き絞ってようやく捕らえた本命容疑者の影が、次第に薄くなりつつある。  だが、山川が犯人でなければ、だれがトウイを殺したのか。  これまでトウイの身辺に浮かんだ人間関係の中で、有光と田沼が最も有力であった。  有光はトウイの保護者であった。田沼はトウイの贔屓《ひいき》客の一人であって、彼女を殺すべき理由がない。 「やはり有光が怪しいのではないか」  という声が捜査本部によみがえった。  有光は自分にかけられるべき容疑を予想して、そのカムフラージュのために自ら捜索願を出したという疑惑が、捜査本部の大勢意見としてよみがえりつつある。  その意見を、有光が死体発見現場を見分に来た事実が促している。 「有光が犯人だからこそ、現場に戻って来たんだよ。野郎、現場になにか手がかりを残していないか不安になったんだ」 「犯人は現場へ戻るという基本原則に忠実に則《のつと》ったってわけだ」 「花岡義人の愛人が消息を絶って、子分が有光を拉致《らち》したということだが、やはり花義が訴える通り、有光が愛人をどこかに隠しているんだろう。有光という野郎は、女を殺したり隠したりするのが得意技らしい」  捜査本部の中には、すでに有光を犯人視する者もいた。  棟居は有光犯人説は懐疑的であったが、山川の容疑が次第に薄くなってくると、有光に傾斜する意見を立て直すための当面の材料がない。      2  棟居は久し振りに本宮桐子《もとみやきりこ》に会った。 「私、その有光という人、犯人ではないような気がする」  桐子は言った。  久し振りのデートというのに、話題は棟居の担当する事件になっていく。  おれはよほど話題に乏しい男なのだろう、と棟居は自戒しながらも、いつの間にか事件の経緯を彼女に語っている。  桐子が端倪《たんげい》すべからざる推理力の持ち主であることを知った棟居は、事件が膠着《こうちやく》したときや、捜査が壁に打ち当たったとき、桐子の意見を問うようになってしまった。  桐子の言葉に、棟居は内心、我が意を得たりとうなずきながら、 「どうしてそのような気がするんだい」  と問うた。 「はっきりした理由があるわけではないけれど、やはり自分で殺しておいて捜索願を出すというのは不自然だわ」 「それはアリバイ、つまり容疑をカムフラージュするためだという意見もあるよ。実際に事件の第一発見者や届けを出してきた者が犯人であった例は少なくない」 「有光さんは彼女が失踪してから捜索願を出すまで約一週間ほどためらったということだけれど、もし彼が犯人であれば、もっと早く捜索願を出すんじゃないかしら」 「その間、迷っていたのかもしれないよ」 「カムフラージュのための捜索願でしょう。届け出る前に死体が発見されてしまったら、カムフラージュにならないじゃないの」 「なかなか死体が発見されないので、捜索願を出したんじゃないのかな」 「その間に発見されないという保証はないわ」 「発見されないので、カムフラージュとして捜索願を出すことをおもいついたんじゃないのかい」 「自分で殺しておいて、死体がなかなか発見されないので捜索願を出したというのは、やはりおかしいわ。カムフラージュのための捜索願なら、死体が発見された場合の万一の保証で、もっと発見されにくいような場所に死体を隠したとおもうのよ。都下の立ち腐れの廃屋の中では、いずれは発見されてしまうわ。それに、有光という人は死体が発見された時期には、発見場所にまったく関係なかったんでしょう。警察で言う土地鑑のある人間でなければ、そんな廃屋の所在は知らないはずだわ」 「実は、ぼくもきみと同じ意見だったんだ。犯人が出す捜索願は、死体が万一発見されたときの保険のようなものだよ。死体の隠し方がどうも気に入らなかったんだ」 「犯人が床下に埋めていたというから、一応死体を隠すという意識はあったみたいね」 「床板の下に毛布に包《くる》んで遺棄していたので、床下の土中に埋めていたわけではない」 「とりあえず隠したという感じね。女性の扱いには馴《な》れているはずのホストが、わざわざ保護した女性を殺してしまったというのも、無理があるようね。  それに私、もう一つ気になることがあるんだけれど」 「気になることって、なんだい」 「有光という人、ヤクザに拉致されて殺されかかったと訴えているそうね」 「ヤクザはそんなつもりはなかったと言っているがね」 「ホストがヤクザの親分の情婦をどこかに隠したということだけれど、その後、彼女の行方はわかったの」 「いや、依然として消息不明のままらしい」 「私、その情婦の行方が気になっているのよ」 「情婦の行方が?」 「もしホストが情婦をどこかに隠したのであれば、ヤクザに殺されかかったんだから、解放してもいいはずだわ」 「へたに解放したら、有光の仕業とわかってしまうだろう」 「ホストが客を誘拐して、監禁しておくというのも現実性がない話よ。もしホストが彼女をどこかに隠したのであれば、二人の合意の上で、彼女がヤクザの親分から逃げ出したのかもしれないわね。  ホストにしてみれば、危険を冒してまでヤクザの親分の女に手を出すかしら。仮に手を出したとしても、殺されそうな目に遭った後も、情婦と関係をつづけているかしら」 「つまり、平沢しのぶの消息不明は、有光とは関係ないというわけだね」  棟居も同意見であった。 「私はそうおもうわ。すると、情婦はどこへ行ってしまったのかしら」 「平沢本人の意志で姿を晦《くら》ましたのかもしれない」 「もしそうでなかったら、だれが彼女を隠しつづけているのかしら」 「もしかしたら……きみは」  棟居は本宮桐子の顔色を読んだ。 「そうなの。ヤクザの情婦と、ジャパゆきさん殺しは関係があるような気がしてならないのよ」 「しかし、トウイと平沢しのぶの間にはつながりがない」 「でも、ホストを間に挟んで、間接的につながりがあるわ」 「まあ、間接的につながりがないとは言えないがね」 「ジャパゆきさんの死体には犬か猫の毛が付着していたそうね」 「ああ」 「ヤクザの情婦は犬か猫を飼っていなかったの」 「なんだって」  棟居は愕然《がくぜん》とした。  平沢しのぶの消息不明は初めから本件に無関係として、視野の外にあった。彼女が姿を晦ましても、犯罪性を疑っていなかった。  ヤクザの旦那《だんな》に嫌気がさして行方を晦ましたとしても、なんら不思議はない。  だが、桐子に指摘されて、トウイと平沢しのぶは有光だけではなく、田沼を介してもつながっている。  いまにして棟居は、田沼を取り調べたとき、犬か猫を飼っていないかと問うたのに対して、花岡が身じろぎをしたような気配を示したのをおもいだした。  もしかすると田沼は、姉が犬か猫を飼っていることを連想したのかもしれない。  だが、自分に対する直接の質問ではないので答えなかったのであろうか。 「ジャパゆきさん、可哀想だわ」  桐子の口調がふと翳《かげ》った。 「うん」  棟居はうなずいた。 「日本へ来さえしなければ、殺されないですんだのに。きっと国では家族が彼女の帰国を待っているでしょうに。彼女は日本に殺されたようなものだわ」 「せめて犯人が日本人ではないことを祈っているが」 「犯人が日本人でなくても、家族にすれば日本に殺されたような気がするわよ、きっと」  ジャパゆきたちは日本へ夢を託してやって来る。だが、たどり着いた東方の黄金の島は、彼女らに富と成功の機会をあたえる代わりに、売買された商品として売春を強制し、心身をぼろぼろに引きちぎり、ついにはトウイの生命までも奪った。  このまま犯人が挙がらなかったならば、トウイの霊は浮かばれず、彼女の遺族の怨《うら》みは永久に晴れることがないだろう。  ジャパゆきは招かれざる客かもしれない。だが、彼女らは日本に甘い幻想をかけて来た。  勝手に幻想をかけた方が悪いと言えばそれまでであるが、彼女らにとって日本は富める国の幻想であった。  日本へ行きさえすれば豊かになれる。幸せになれる。事実、日本で稼いだジャパゆきが、山のような土産物と現金を持って帰国して行く。  彼女らは美味《おい》しいことばかりを国の女たちに吹き込む。  彼女らが持ち帰った現金と土産物を得るために、彼女らが支払った代償については決して言わない。  黄金の国ジパングは、ジャパゆきたちによって語り伝えられ、彼女らが持ち帰る金と土産物によって、伝説の国から富と幸福を約束する経済大国日本となって彼女らをさし招く。  幻想の中に人身売買ルートは敷かれ、夥《おびただ》しいジャパゆきたちが嬉々《きき》として、そのルートに乗って運ばれて来る。 (犯人を捕らえて人身売買ルートを閉鎖したら、彼女らは幸せになれるだろうか)  棟居は自分に問うた。  故国にいても、貧しい彼女らは自分の身体以外に売るものを持っていない。  どうせ売るのであれば、高く売れる日本の方が彼女らにとっては利益が大きい。  棟居が追跡しているものは、彼女らの利益を奪い、生計の道を閉ざすことになるのではないのか。  法の名の下の正義は符丁《ふちよう》であり、無法よりも残酷であることが少なくない。 「ジャパゆきという名前は昔の唐行《からゆき》にちなんでつけられたんでしょう」  桐子が棟居の顔を覗《のぞ》き込むようにして言った。 「そのように聞いているね。昔は逆に日本からアジアへ出稼ぎに行ったからね」  桐子の言葉はなにかを含んでいるようである。 「もし私が唐行になって出稼ぎに行った外国で殺されたとしたら、棟居さん、どうする」 「なにを言うんだ、突然」  棟居は驚いた。 「仮定の話よ。仮に外国へ出稼ぎに行って殺されたとしたら……」 「そんな仮定をしてはいけないよ」 「棟居さん、きっと外国まで私を殺した犯人を追いかけて行くでしょうね」  おれは必ず行くだろうと、棟居はおもった。 「殺されたジャパゆきさんにもし恋人がいたら、犯人を捕まえに日本へ来たいでしょうね」  棟居はうなずいた。 「彼女の恋人や遺族のために、必ず犯人を捕まえて」  桐子の目が切実に訴えていた。      3  この時期、埼玉県警所沢署からの照会は、東大和署の捜査本部に衝撃をあたえた。  被害者の死亡推定時期とほぼ同じ時期に、現場からいくらも離れていない所沢市域で女子大生が失踪《しつそう》したという。  県境のかなたの管轄ちがいの事件であったので、至近距離の事件でありながら、捜査圏外にあった。意識になかったと言ってもよい。  捜査本部は女子大生と被害者の失踪日が同日であることに注目した。  所沢署の黒田刑事が発見した狭山ヶ丘駅の善意の傘が、死体発見現場の近くに放置されていたという事実は重大である。  捜査本部内にも所沢署で出された疑問があった。  善意の傘は新村優子によって運ばれて来たものかどうか確認されていないことが、二つの事件の関連性を阻む最大の障害《ネツク》となっている。  第二のネックは、仮に優子によって傘が運ばれて来たとしても、それが直接トウイ殺しに結びつかないことである。  だが、所沢署からの照会は、捜査本部に確実に刺激をあたえた。  両署ではとりあえず連絡会議を開いて、それぞれの事件の捜査経緯について情報交換を行なった。 「山川喜久男と倉上静枝はトウイ殺しを否認しているのですね」  所沢署から連絡会議に出席した黒田が問うた。 「トウイを依頼主の木原登美子の店へ連れ戻そうとして車で連行途中、逃げられたと主張しています。我々は彼らの言葉を全面的に信用しているわけではありませんが、犯人像としては希薄になっていることは否めません」  棟居が答えた。  捜査本部長、署長、管理官などのお偉方も、第一線捜査員の彼らの発言に耳を傾けている。 「ホストの有光重夫に対する容疑はいかがなのですか」 「山川の浮上によって有光の容疑はいったん薄らぎましたが、最近、山川の犯人像が薄れると同時に、ふたたび濃くなってまいりました。しかし、私個人としては、有光は犯人としては無理があるような気がします」  棟居は本宮桐子と検討したことを復唱した。 「すると、第一容疑者山川、第二容疑者有光が犯人像として無理があるとすると、第三の容疑者として浮かんでいる者がいるのですか」 「有光の容疑は晴れたわけではありません。むしろ彼の容疑はふたたび濃くなっております」  山路が抗議するように言った。 「第三の容疑者を貴管内で失踪した女子大生の身辺に探してみたらどうかと、私は考えています」  山路の言葉に押しかぶせるように言った棟居の発言に、一座の者がざわめいた。  それはこれまでまったく意識になかった発想である。 「すると、女子大生をどこかに隠した犯人がジャパゆきを殺したと言うのかね」  那須が一同の質問を代表した。 「女子大生はトウイ殺しの現場を目撃したために、どこかに隠されてしまったのかもしれません。あるいはその逆ということも考えられます」 「その逆と言うと……?」 「女子大生を拉致《らち》する場面を目撃したために、トウイは殺されたのかもしれません」 「拉致する場面を目撃しただけであれば、殺す必要はないだろう。ということは……」  那須の言葉は新村優子の絶望を示唆している。 「仮に女子大生が殺害され、死体を隠匿されたとすれば、犯人はなぜトウイの死体と一緒に隠匿しなかったのだろうか」  那須の示唆に基づいて、那須班の河西《かさい》刑事が疑問を口にした。  それは棟居説をさらに一歩推し進めるものである。 「一緒に死体を遺棄、あるいは隠匿すれば、二つの事件が同一犯人による連続殺人と容易に知れてしまいます。犯人は二つの事件が発覚した場合に備えて、別件に見せかける工作をしたのではないのでしょうか」 「先入観を持つのは禁物だよ。まだ二つの事件の関連性はまったく確かめられていない」  山路が戒めた。  正論であるが、棟居の発想は膠着《こうちやく》した捜査に新しい局面を示唆するものであった。      4  棟居は連絡会議の席上では、本宮桐子から示唆された平沢しのぶの消息不明については言及しなかった。  まだこの時点では、平沢とトウイの関係は確かめられておらず、議題を混乱させるだけと判断したからである。  平沢が猫を飼っていたことは、すでに明らかにされていたが、トウイと結びつける発想がなかった。  有光が花岡の子分に拉致されるまでは、有光と平沢の関係は浮かび上がっていない。  トウイの贔屓《ひいき》客として平沢の弟田沼が浮上した時点で、田沼に彼らの身辺に犬か猫はいないかと問うたが、田沼の答えは否定的であった。  あながち田沼は嘘をついたわけではない。彼も花岡もペットは飼っていない。問われたことだけを答え、聞かれなかったことまでは答えなかっただけである。  田沼の浮上によって、トウイと平沢の間は有光を含めて二重につながったわけであるが、その時点で平沢がペットを飼っていたかどうかマークすべきであった。  また、田沼が平沢の弟で、姉に金を無心するために電話をかけたことが判明した時点で、平沢までの追及を打ち切ったのは迂闊《うかつ》であった。  彼女は大の猫好きで、チンチラ猫二匹を飼っていた。  彼女はその二匹を家族同然に愛していて、旅行へ出かけるときも必ず連れて行ったそうである。 「留守中、ペットホテルに預けておくと、猫がノイローゼになってしまうとかで、猫を連れて行くため、まず猫を泊めてくれるホテル次第で旅行先を決定します。海外旅行にはほとんど出かけられませんでした。猫のために外泊もしなかったので、組長は浮気ができなくていいと喜んでいましたよ。  それが有光とつき合うようになってから、時どき外泊するようになり、そんなに可愛がっていた猫を残したまま姿を消してしまったので、組長はてっきり有光の野郎が連れ出したとおもったのです」  と田沼が証言した。 「その猫は、いまはどうしているんだ」 「飼い主がいなくなってしまったので、ペットホテルに預けてあります」  平沢しのぶの失踪には犯罪性が感じられる。  だが、警察は平沢が暴力団組長の愛人をしていることに疲れて逃げ出したと見て、捜査を始めていない。  家族同様の猫を放置したまま蒸発したとなると、本人の意志による失踪とは考えられなくなる。  棟居は田沼から聞いたペットホテルに足を向けた。  棟居はホテルというので人間のホテルから類推していたが、行ってみると、犬猫病院がその施設の一隅で動物を扱っている。  犬、猫を中心に、猿やリスなども預かっているらしい。  人間のホテル同様、部屋にもランクがあって、特等室は六畳ほどの個室で、なんとテレビが備え付けてある。動物がテレビを見るのだという。  動物だけではなく、ペットに付き添って飼い主も泊まれる施設もある。  もっともエコノミータイプは、ガレージのような部屋に各種動物がそれぞれの檻《おり》に入れられて同居している。  おとなしい猫は犬の吠《ほ》える声に萎縮《いしゆく》して、それだけでノイローゼになってしまうそうである。  ほとんどの動物はペットホテルから痩《や》せて帰って来る。  長期の旅行でホテルに預けざるを得ないときは、飼い主としてせめてできることは、動物の好きな餌をホテルに託すことぐらいである。  ランクによって犬は散歩に連れ出してもらえるが、猫には散歩時間はない。  狭い檻に閉じ込められて、何日も他種の動物と薄暗い部屋に同居しているのが、動物にとって居心地のよいはずがない。  それでもペットホテルに預け入れられる動物は幸せである。  飼い主にペットホテルに預け入れる経済力がない場合は、飼い主が不在の間、餌だけあたえられて放り出される。  だが、その餌もたくましい野良に横奪《よこど》りされてしまう。  平沢しのぶが飼っていた二匹の猫は、ペットホテルにしょんぼりとしていた。  他の動物たちは飼い主が帰って来れば引き出されるが、二匹にはいつホテルから出られるか当てがない。  このまま飼い主が帰らなければ、ペットホテルに飼い殺しにされる。  せめてもの幸せは、二匹が同じ檻に一緒に入れられていることである。  棟居が行ったとき、二匹は寄り添う孤児のように身体を寄せ合い、丸くなって眠っていた。  棟居が行くと、しきりに鳴きながら身体をこすりつけてくる。帰らぬ飼い主を待って人恋しくなっているのであろう。  あるいは棟居を飼い主の使者と勘ちがいしたのかもしれない。 「この二匹は自分たちの運命を悟っているみたいですよ」  ホテルの係員が言った。 「どうしてですか」 「他の動物たちは、敏感に自分が引き取られる日を察知しています。引き取られる前日になると、とてもはしゃぎますが、この二匹はいつも身を寄せ合って沈み込んでいます。猫とはいえ、人間と同じように感情を持っているのです」  係員が痛ましげに二匹に目を向けた。  この檻の家も、花岡がホテル代の支払いを中止すれば、追い出されてしまう。  飼い主の厚い保護の傘の下に野性を失った二匹には、自由の広野に放されても、自ら餌を探す能力はあるまい。  棟居は不憫《ふびん》におもった。不憫さと同時に、彼らを放置したまま姿を消した飼い主の行方が案じられた。  棟居はホテルの係員の了解を得て、二匹の毛を少量、領置した。  棟居は持ち帰った毛を科学捜査研究所に委嘱して、トウイの死体から保存された動物の毛と比較対照してもらった。  対照検査の結果、トウイの死体に付着していた動物の毛の一部が、平沢しのぶの飼い猫の毛と符合した。  捜査本部は色めき立った。  ジャパゆき殺しと、平沢しのぶの行方不明はにわかに関連性を帯びてきた。  トウイと平沢しのぶの間には、有光と田沼が介在している。  トウイの死体に平沢の飼い猫の体毛を運べる者は、とりあえずこの二人である。  だが、田沼はトウイの客というだけで、彼女を殺す動機がない。  捜査本部も有光にかけた嫌疑を濃縮している。  たしかに有光ならば、平沢とつき合っていたから、彼女の飼い猫の毛をトウイの身体に運ぶことはできるだろう。  平沢の行方不明に有光が関わっているとすれば、彼女の飼い猫の毛はますます有光に密着してくる。  だが、本宮桐子が指摘したように、有光はトウイ殺しの犯人像としてはピンとこない。  また女に不自由していない身が、危険を冒してまでヤクザの情婦を長期間隠すとは考えられない。トウイの死体に付着していた猫の毛が有光に関係ないとすれば、一体だれが運んで来たのか。  棟居はその点に思案を集中した。  埼玉県警所沢署からの連絡によって、同署管内における女子大生行方不明事件とトウイ殺しの関連性の有無が検討されたが、山路の正論によって、捜査本部の姿勢は慎重であった。 「第三の容疑者を女子大生の身辺に探してみたらどうか」と、棟居は所沢署との連絡会議で主張した。  棟居ははっとした。自分自身の発言を想起して脳裡《のうり》がスパークした。  第三の容疑者が平沢しのぶの飼い猫の毛を運んで来たのではないのか。  女子大生とトウイの間になんらかの関連性があれば、トウイと平沢の関係の有無を検討するよりも、女子大生と平沢のつながりをマークした方が手っ取り早い。  もしこの二人の間につながりがあれば、平沢の飼い猫の毛は女子大生の身辺から運ばれて来た可能性が生ずる。  棟居は新たな目標を見いだしたおもいがした。  だが、山路の正論に大勢が傾いている捜査本部を説得するのは、容易な業ではなさそうである。 [#改ページ]   ワニの涙      1  十二月下旬、今年も残り少なくなったとき、事件は新しい展開を示した。  十二月二十五日午後二時ごろ、山梨県南|都留《つる》郡|鳴沢村《なるさわむら》村域内の、通称青木ヶ原の樹海中に女性の死体を発見したという通報が、一一〇番経由で山梨県警富士吉田署に寄せられた。  発見者は東京から来た自然観察グループである。  現場は鳴沢村と西八代《にしやつしろ》郡|上九一色《かみくいしき》村の境界に近い樹海の中で、近くに富士の風穴がある。  臨場した富士吉田署員が検視したところ、推定死後経過約一か月、身長百五十五ないし百五十八、推定年齢二十代後半から三十前後。ベージュ色のセミフォーマルなスーツにハイヒールを履いている。  所持品はまったくない。腕時計、ネックレス等を身に着けておらず、身許《みもと》を示すものはなにも所持していない。  発見当時の死体の状況は、樹海の中に仰向《あおむ》けに横たわっており、足はほぼ並行して垂直に伸ばし、手も身体の両側に自然に伸ばしている。  衣類、下着等にも乱れはなく、乱暴された痕跡《こんせき》は認められない。  死体現象は進んでいたが、樹海内に棲息《せいそく》する動物による損傷はなさそうである。  一見したところ、死因と認められるような創傷も見当たらない。 「車道から近いな」  臨場した富士吉田署の村上警部補が相棒の江川という若い刑事に言った。  樹海の内部は厚生林が鬱蒼《うつそう》と茂り合っているが、国道一三九号線が近くを走っていて、車の音が届く。 「一九九号(殺人)でしょうか」  江川が目を光らせた。 「まだ断定はできないがね」  村上は若い江川を戒めるように言った。  樹海の中の死体は、おおむね、道路から奥深く入り込んだ者は自殺や遭難が多く、道路の近くや、人が容易に入り込める地域にある者は犯罪性が濃厚である。  樹海内の死体は動物や昆虫による食害を免れない。  樹海にはタヌキ、キツネ、イタチ、クマ、野犬等、肉食獣が数多く棲息しており、死体の原形を損ない、最初の位置から移動してしまうことがある。  この死体が動物の食害を最小限に留《とど》めたのは、自動車道路に近いせいでもあったかもしれない。覚悟の自殺者は、こんな道路に近いところでは死なないものである。 「時計も財布も身に着けていないのは変ですね」  江川が言った。 「近くにバッグもないな」  死体および周辺を検索しても、バッグその他の所持品と認められるようなものは発見されなかった。  死亡推定時期は十一月中旬から下旬として、かなり冷え込む。同地域へ来るにしては軽装にすぎる。  樹海の近くまで車で来て、死体が遺棄されたという状況が濃厚になった。  検視の後、司法解剖のために死体は腐乱死体収容専用ビニールカバーに包まれて搬出された。  死体は着衣のままビニールカバーの中に収納され、解剖に伴って微生物資料の完全採取を図った。死体は即日、甲府《こうふ》市の国立山梨病院において解剖された。  解剖所見は、  死因は鼻孔を閉塞《へいそく》しての窒息。  死後経過約一か月。  生前、死後の情交、姦淫《かんいん》痕跡は認められず。  内臓器の死体現象が著しく、薬物検査が不可能のため、薬毒物の服用の有無は不明というものである。  また衣類に動物の体毛と推測される毛が微量付着していた。  剖検(解剖所見)は、自・他殺の判定は避けていたが、自ら鼻孔を塞《ふさ》いでの自殺は困難である。睡眠中あるいは睡眠薬等を服用して意識|朦朧《もうろう》としたときを狙って、ビニール、あるいは蒲団《ふとん》等で鼻孔を覆えば窒息して死に至る。  その状況を裏づけるものとして、死者の手の爪の内側にわずかな繊維くずが認められた。これは苦悶《くもん》のあまりもがいた際に、爪で掻《か》きむしり取ったと推定される。  ここに、富士吉田署では他殺の線濃厚として、山梨県警捜査一課に応援を要請し、十二月二十七日、同署内に青木ヶ原樹海内身許不明女性死体遺棄事件の捜査本部が開設された。  ほぼ前後して身許不明死体の特徴が県警の照会センターに照会された。  その結果、警察庁の情報管理センターの捜索願を受理した家出人ファイルの一件に、身長や身体特徴が一致した。  それによると、氏名は平沢しのぶ、住所、東京都目黒区柿の木坂、失踪時《しつそうじ》三十歳。家出年月日、本年十一月二十七日、捜索願受理警察署、目黒署となっている。  参考記事によると、平沢は十一月二十七日午後、外出したまま帰宅しない。  居宅内には飼い猫二匹、現金、預金通帳、その他貴金属等を放置してあり、短時間の外出の状況であり、外出先でなんらかの事故、あるいは犯罪の被害者となったと推定されるというものである。  捜索願の届出人は目黒区自由が丘、花岡興業社長花岡義人となっている。 「花岡義人といえば一龍会の花岡じゃないか」  村上が言った。 「そうですね。花岡興業、住所も合っています」  江川がうなずいた。 「花岡が捜索願を出したところを見ると、この女とわけありだね」 「情婦でしょうか」 「まあ、そんなところだろう。とにかく花岡に連絡してみよう」  富士吉田署から連絡を受けた花岡義人は、早速甲府の病院に死体確認に駆けつけて来た。  死体の主は花岡によって、平沢しのぶと確認された。 「あの野郎、とうとう殺《や》りやがったな」  花岡は変わり果てた平沢しのぶに対面して呻《うめ》いた。  その言葉を村上が聞きとがめた。 「あの野郎とは、だれのことですか。心当たりがありそうだが」  村上に問いただされて、花岡が、平沢と有光重夫とのいきさつを話した。 「あなたはその有光とやらいう人物が平沢さんを殺したとおもっているのですか」 「あいつの仕業にちがいありません。野郎はしのぶといい仲になって、しのぶからしこたま絞り取ったのです。私が気づいて、甘い汁が吸えなくなったもんだから、誘拐して殺しやがったんだ」 「誘拐して殺したとは穏やかではないが、有光が殺したという証拠でもあるのですか」 「証拠は警察に聞いてください。警察も有光を疑って、調べているはずです」 「警察が……どこの警察が有光を調べているのですか」 「東大和署ですよ。有光の野郎、同棲していたジャパゆきも殺した疑いで警察にマークされているのです」  捜索願を届け出たのは、平沢の居所があった目黒署であるが、花岡の意識ではトウイ殺しの一件で刑事が訪ねて来た東大和署である。 「そういえば、東大和署で東南アジア女性が殺されたという事件があったな」  村上は記憶を探った。 「まだ容疑者《ホシ》が挙がったとは聞いておりません」  江川が口をはさんだ。 「早速、東大和署に連絡してみよう」  被害者の身許の判明は意外な方面に波及しようとしていた。      2  富士吉田署から連絡を受けた棟居は、愕然《がくぜん》とした。  案じられていた平沢しのぶの行方がついに最悪の形で終止符を打たれた。  捜査本部ではトウイ殺しと平沢の行方不明を当初、無関係と見ていた。  だが、田沼や山川の容疑性が薄れるにつれて有光が再浮上するに伴い、ようやく平沢の行方不明を注目するようになっていた。  有光はトウイと平沢二人に関わっている。田沼は姉でもあり、親分の愛人である平沢を殺害したとは考えられない。  山川と平沢の間にはなんの関係もない。  やはり花岡の訴えのように、有光が平沢を誘拐して殺害した疑いが濃厚と見えた。 「平沢の死と有光を結びつけるのは早計だとおもう。有光は平沢の行方不明の犯人として、花岡の子分に拉致《らち》された。平沢をどうかすれば、花岡から最も先に疑われる立場にいることを有光は知っていたはずだ。有光にとって平沢を拉致したり、殺害したりするメリットはなにもない」  山路が捜査本部の興奮に水をかけた。  山路の発言は部分的に棟居の考えを支持するものである。  しかし、有光のトウイ殺しの容疑を否定するものではない。  トウイ殺しについては有光を容疑者の最前列に置きながら、トウイ事件と平沢の死を切り離そうとしている。  そして、それが大勢意見でもあった。 「トウイ殺しの有力容疑者と見られる山川が、容疑線上から遠のいて、有光がふたたびクローズアップされてきましたが、有光は依然として犯人像に無理があります。自分で殺害しておいて、死体を容易に発見される状況に放置したまま、捜索願を出したというのは解せません。犯人のカムフラージュとしても無理があります。  山川、田沼の容疑性が薄らいだ反動から、有光を容疑線上にふたたび押し上げたのではありませんか。そんな反動から逮捕しても、起訴は難しいとおもいます。  有光がトウイを殺したという証拠はなにも見つかっておりません。  ここで新たに平沢しのぶの死体が発見されましたが、所沢署から女子大生行方不明事件との関連性の有無を照会された折でもあり、女子大生と平沢しのぶとのつながりを調べてみてはどうでしょうか」  棟居の新しい提議に、捜査会議の席上はざわめいた。 「女子大生と平沢とのつながりを示すようななにかの状況があったのかね」  那須が棟居の方に視線を向けた。 「所沢署との連絡会議において、トウイ殺しの第三の容疑者を失踪女子大生の身辺に探すことを提案いたしましたが、第三の容疑者が平沢しのぶにも関わっているかもしれません」 「異議あり」  山路が手を挙げて遮った。  一同の視線が山路に集中した。 「女子大生失踪事件とこちらの事件《ヤマ》との関連性はまったく確かめられていない。ここに花岡義人の愛人の死体が現われて、さらに三件を結びつけようとするのは、飛躍を越えて乱暴である」  と山路が言った。 「山路刑事自身がおっしゃったように、有光がトウイ殺し容疑者の最前列に立っているとすれば、有光は平沢とも関わりを持っています。有光を容疑者と見る限り、少なくともトウイ殺しと平沢の死は関連性がないとは言えません。  所沢署では女子大生失踪事件とトウイ殺しの関連性を疑っております。女子大生と平沢しのぶのつながりを調べるのは、あながち乱暴でも無駄でもないと考えますが」  棟居は主張した。  棟居が女子大生と平沢を結びつけたきっかけは、本宮桐子の示唆である。  猫の毛によってトウイ殺しと平沢の間に関連性が認められた。  二人の関連を女子大生に類推したのである。 「棟居君の意見はおかしい。きみは有光の容疑性を否定しながら、有光灰色の前提を踏まえて三つの事件を結びつけようとしている。矛盾しているんじゃないのか」  山路が反駁《はんばく》した。 「矛盾は認めますが、有光灰色とすれば、三件を結びつけるのはあながち無理ではないと考えますが」  議論は堂々巡りをした。  この時期、山梨県警から棟居の意見に強い援護射撃が寄せられた。  平沢しのぶの衣類に付着していた動物の体毛は、平沢の飼い猫の毛と鑑定されたが、飼い猫以外の動物の毛が微量混じっていた。  平沢に飼い猫の毛が付着しているのは当然であるが、飼い猫以外の動物の毛はどこから来たのか。富士吉田署からの連絡に、棟居の意識に閃《ひらめ》いたことがあった。  トウイの死体に付着していた平沢の飼い猫の毛に混じって、他の動物(犬と推定される)の毛が微量、発見されていた。  棟居は早速、富士吉田署に依頼して、平沢の死体から採取された動物の毛を借り出し、これを科学捜査研究所に委嘱して、トウイの死体から保存されていた動物の毛と比較対照してもらった。  動物の毛は犬、猫と推定される数個体の毛が混合していて、検査に手間取ったが、検査の結果、両者から保存された平沢の飼い猫以外の毛が種属(人毛か獣毛か)、種類(毛の部位、形状)、構造(毛先部、毛幹部、毛根部)等においておおかた一致した。  ここに、棟居の主張が裏づけられた形となった。  平沢しのぶとトウイの死体に同じ動物(複数)の毛が付着していたということは、両事件の関連性を明確に示すものであった。 「トウイと平沢から保存された動物の毛が符合したからといって、所沢と関連性があることにはならない。女子大生は依然として消息不明であり、彼女の身辺から同じ物質が保存されたわけではない。要するに、トウイと平沢の間はすでに関連性が認められており、なんら新しい発見ではない」  山路がまたしても水をかけた。 「これまでトウイから保存された毛は、平沢の飼い猫のものと鑑定されていましたが、同時に保存された他の動物の毛は、平沢の身辺から発見されておりませんでした。これがこの度、平沢の死体から採取されたことによって、トウイの毛は平沢の許《もと》からではなく、トウイと平沢両人に関わりを持つ人間によって運ばれて来た可能性が大きくなりました。  有光は犬、猫、その他いかなる動物も飼っていないことが確かめられています。有光は平沢との関係から、彼女の飼い猫の毛を運ぶことはできますが、トウイと平沢から採取されたその他の動物の毛を二人の死体に運ぶことはできません。  所沢署ではトウイ殺しと女子大生の失踪《しつそう》とのつながりを強く疑っています。  動物の毛の完全な一致によって、有光の容疑は薄らいだと考えます。第三の容疑者を女子大生の身辺に探すことを重ねて提言します」  棟居は強く主張した。  今度は山路も反駁しなかった。 「所沢署と協力して、女子大生、トウイ、平沢の三名のつながりを改めて捜査してみよう」  捜査キャップの那須が結論を下した。  ここに棟居の意見は捜査本部の方針として採用された。 「さすがの山路氏も、今度は反駁しませんでしたね」  鈴木が溜飲《りゆういん》を下げたように言った。  鈴木も棟居の意見にずっと同調してきている。 「山路さんはべつに反対のために反対しているわけじゃありませんよ。先入観を戒めているだけだ」  棟居は山路を弁護した。 「それはわかっているつもりですがね。せっかく盛り上がってきたのに、いつも冷水をかけられると頭へきますよ」  たしかに山路は常に冷静、慎重であったが、彼の正論は捜査本部のみなぎりかけた気合を萎《しぼ》ませてしまうこともある。  棟居の発言によって、所沢署管内の女子大生失踪事件との関係がにわかにクローズアップされてきた。  一方、富士吉田署で開かれた第一回捜査会議において、被害者の身許が暴力団組長の愛人と判明するに及んで、殺人動機を暴力団関係のもつれと見る向きが大勢になった。  だが村上は、花岡義人が死体を確認した際口走った、東大和署の東南アジア女性殺人事件との関連を注目していた。  東大和署に連絡して、両者の死体に付着していた動物の毛が符合したことは、両事件の関連性を明確に示すものである。  だが、捜査本部では依然として暴力団関係の線を強くマークしている。 「花岡が容疑を躱《かわ》すためにラッパを吹いている(いいかげんなことを言っている)にちがいない。猫や犬の毛なんか、そこらでいくらでも付けられる」  捜査本部は鑑定結果すら信用していなかった。こちらの管内で起きた事件《ヤマ》はこちらの事件という意識が強い。  ましてやヤクザの情婦の死とあっては、背後に暴力団の葛藤《かつとう》があるにちがいないという先入観で濃く染められていた。 「東大和署に照会したところ、花岡が平沢を誘拐した犯人として、平沢が生前通いつめていたホストを強く疑っていたようです。東大和署でも、そのホストを最有力容疑者としてマークしているようです。暴力団の線と並行して、東大和署と連絡を密にして、ジャパゆき殺しの線もマークすべきではないでしょうか」  村上は主張した。  村上の強い主張に、捜査本部も暴力団関係の線とジャパゆき殺しの線を並行して追うことになった。  村上と江川がジャパゆき殺しとの関連発見捜査を担当することになり、一月五日、東京に出張した。  目黒区柿の木坂の平沢の住居は花岡義人が、失踪当時のまま保存しておいた。  彼がもし犯人であれば、自分にとって都合の悪い資料はすべて始末しているはずである。  最有力容疑者が保存している被害者の居所はあまり当てにならなかったが、見過ごしにはできない。  平沢の死因に犯罪性が疑われてから、目黒署の協力を得て、彼女の居宅は封鎖されている。  平沢しのぶの生前の居宅は、昨年十一月二十七日、失踪したときのままになっていた。  二匹の飼い猫もそのまま放置してあったので、管理人が花岡の指示を仰いで、ペットホテルに預けたということである。  管理人は入居者の失踪後、警察が調べに来ただけで、花岡は出入りしていないと証言した。  しかし、花岡は合鍵《あいかぎ》を持っており、管理人の知らぬ間に出入りすることはできる。  封鎖以前は特に出入禁止の処置はなされていない。  村上と江川は捜索令状に基づいて、室内を隈《くま》なく検索したが、犯罪性の手がかりになるようなものはなにも発見されなかった。  生前の生活の痕跡《こんせき》を留《とど》めたままの居宅は、その部屋の主が帰って来るつもりで外出したことを示していた。  平沢の居宅を検索して、村上と江川は彼女の死が他から強制されたものであることを確信した。 「花岡犯人説はどうも無理だな」  村上は言った。 「やつが犯人だとすれば、大した役者ですよ」  江川が言った。 「恐持《こわもて》のヤクザが平沢の死体の前で涙をこぼしていたな。感動的な光景だったよ」 「鬼の目に涙と言いますが、英語で空涙のことをワニの涙と言うそうですよ」 「ワニの涙か。そう言われてみれば、花岡はワニに似ていなくもないな」  結局、平沢の家の捜索は徒労に終わった。      3  二人は柿の木坂から東大和署の捜査本部へまわった。  那須警部以下那須班のメンバーとは、河口湖殺人事件(拙作『駅』)の捜査ですでに顔馴染《かおなじみ》である。  一別以来の挨拶を交わした後、彼らは情報交換を行なった。 「そうですか、村上さんと江川さんはうちの事件《ヤマ》につながっていると考えておられるのですな」  那須が金壺眼《かなつぼまなこ》を光らせた。 「捜査本部の大勢意見はマル暴(暴力団)の筋と睨《にら》んでいますが、我々は少数意見です」  村上が言った。 「少数意見ながら有力な線なのでしょう」  那須の目が探っている。 「いまうかがって初めて知ったことですが、埼玉県所沢の女子大生|失踪《しつそう》事件とも関わっているようですね」 「まだ関連性が確かめられたわけではありませんが、女子大生の身辺を探ってみるつもりです」 「平沢と失踪した女子大生の間につながりがあれば、面白いことになりますね」 「うちの事件《ヤマ》の被害者と女子大生の間には、これまでのところなんのつながりも浮かび上がっておりません。ジャパゆきを越えて女子大生と平沢を直接結びつけるのは新たな発想です」  棟居の新視点は山路の反論に遭いながらも、膠着《こうちやく》した捜査に新たな方向を提示したことは確かであった。  同時に富士吉田署の捜査本部にも、新たな捜査の方向を示唆するかもしれない。  棟居の案内で、村上と江川は東大和署から有光の店へ足を延ばした。すでに彼が出勤している時間帯になっていた。 [#改ページ]   死角にいる飼い主      1  有光重夫は身辺に険悪な気配が煮つまっているのを感じていた。  特に平沢しのぶが富士の樹海で死体となって発見されてから、険悪な気配が一段と濃くなった。すでに顔馴染《かおなじみ》になっている棟居に案内されて、二人の男が有光の勤め先に訪ねて来た。  彼らは富士吉田署の刑事と名乗り、平沢しのぶとの関係を根掘り葉掘り問いただした。  二人の後、棟居が奇妙なことを聞いた。 「新村優子という埼玉県所沢市の明淑女子大学の女子大生を知りませんか」  有光の初めて聞く名前であった。 「昨年八月七日から消息を絶っているのです」 「それが私になんの関係があるのですか」  有光は問い返した。 「八月七日という日にちに記憶がありませんか」 「八月七日……まさか」  有光ははっとした。 「そうです。あなたが保護していたトウイさんが山川らに拉致《らち》された日ですよ」 「同じ日に、その女子大生が蒸発したというのですか」 「そうです。しかもトウイさんの死体が発見された武蔵村山市に隣接している所沢市域で、下校途上、失踪《しつそう》してしまいました」 「すると、警察はトウイが殺された事件と、その女子大生の蒸発が関係があると見ているのですか」 「質問しているのは我々ですよ。あなたは新村優子さんを知らないのですか」 「私はトウイの保護者です。もしトウイが殺された事件に新村さんの蒸発が関わりがあるのであれば、聞く権利はあるとおもいます」 「あなたは容疑者の列に並んでいることを忘れてはならない。しかも最前列に立っている。トウイさん、平沢さん両人にも関係がある」  棟居が諭すように言った。 「私を疑うなんて、見当ちがいもはなはだしい。トウイを殺した犯人を私はだれよりも憎んでいる。また平沢さんの一件ではあらぬ疑いをかけられて、花岡組の子分に危うく殺されそうになったんだ。私は被害者ですよ」  有光は少し語気を強めた。 「犯人を一日も早く捕まえたいとおもうなら、本当のことを話してください。新村優子さんは知らないのですね」 「知りません。初めて聞く名前です」 「あなたはいま、いつ逮捕されてもおかしくない状況にあります。くれぐれも慎重に行動してください」  棟居は注意を残して、富士吉田署の刑事と一緒に帰って行った。  棟居の口調から、有光に据えられた嫌疑が容易ならざることが感じ取れた。  まだ逮捕されないのは、おそらく棟居が庇護《ひご》してくれているからであろう。  棟居の口調は深刻であるが、有光をクロとは見ていないようである。      2  刑事らが帰った後、棟居の言葉が有光の意識に引っかかり、容積を増してきた。  彼は新村優子との関係をしきりに問うていた。  昨年八月七日、トウイが失踪した同じ日に蒸発したという所沢市内の女子大学の学生と言っていたが、同じ日に失踪したことがトウイが殺された事件にどんな関わりを持っているのか。  これまで新村優子という名前を、彼を調べた刑事たちから聞いたことがない。最近になって、彼女との関連が浮かび上がってきたのであろう。  有光は図書館に行って、昨年八月七日前後の新聞縮刷版を検索し、八月十五日付にその記事を発見した。  それによると、埼玉県所沢市に居住する新村優子、二十歳、明淑女子大学二年生は、同日午後下校し、西武池袋線狭山ヶ丘駅に下車した後、失踪した。  失踪後、犯人からの身代金要求の連絡もなく、優子はまるで神隠しにでも遭ったかのように、ぷっつりと消息を絶ってしまったということである。  失踪後、報道されるまでにタイムギャップがあるのは、その間、秘匿捜査をつづけて成果がなく、公開捜査に踏み切ったものであろう。  棟居はトウイの死体発見現場と、新村優子の住所が近いと言っていた。  地図を見ると、東京と埼玉県の境をはさんで隣接している。 (所沢へ行ってみよう)  有光はおもい立った。  トウイが発見された現場を見に行き、棟居に見つかって、軽率な行動は慎むようにと戒められている。  あのときよりも立場が悪くなっている現在、勝手な行動をするとますます容疑を集めるような不安があったが、じっとしていられなくなった。  棟居にたしなめられたが、現場の近くで山川に出会ったことが、捜査に多少役立ったのではないのか。  いまさら所沢へ出かけて行ったところで、なにがわかるものでもないだろうが、こぼれ落ちているものが傍目八目《おかめはちもく》に引っかかるかもしれない。  棟居たちが訪問して来た二日後、有光はマイカーを駆って所沢へ出かけた。  地図を見ながら、トウイの死体発見現場から多摩湖と狭山湖の間の県境に沿った道を伝って、埼玉県に向かうことにした。  トウイが発見された廃屋は、まだ取り壊されずに残っていた。  立入禁止にせずとも、死体が現われた廃屋にだれも立ち入る者はあるまい。  有光は廃屋を横目に眺めると車を進めた。  都民の憩いの場として、行楽の季節にはかなりの賑《にぎ》わいが予想される湖畔も、いまは季節外れで、人影も見えない。水の色が冷たい。  彼はふと、その湖底に沈んでいる女子大生の死体を連想した。季節外れの湖水の色は、死の色に通じる不吉な色を溶いている。  明淑女子大学は在校生七百人前後の小振りの大学である。学科も国文学科、家政学科、社会福祉学科、教育学科の四科だけである。  校門の外から校内を覗《のぞ》き見られるだけで、中へ入ることはできない。  成人式を迎える青春の盛りの女子大生には、蒸発するような理由はなにもなかった。学校でも人気があり、家庭も恵まれていた。  それがなんの前兆も書き置きもなく、ある日|忽然《こつぜん》と姿を消してしまった。  八月七日、彼女の身に一体なにが起きたのか。トウイとどんな関わりがあるのか、ないのか。  大学を外からうかがった有光は、車を新村優子の住居の方角へと走らせた。  緩やかな起伏のうねる丘陵地帯に、開発の触手が隈なく行き渡り、もはや武蔵野の面影は偲《しの》ぶべくもない。  新村優子の住居へ行ったところで、捜査員でもない彼が、彼女の両親に会うわけにはいかない。  狭山ヶ丘駅の近くへ来たとき、怪しげだった雲間から、とうとう冷たい雨がこぼれ落ちてきた。雪になるかもしれない。  ちょうど家並みの切れた一画を、若い女性が駅の方角に向かって濡《ぬ》れそぼりながら歩いていた。有光は無意識に女性のかたわらに車を停めて窓を開き、 「よろしかったら駅までお送りしますよ」  と声をかけた。  声をかけてから、しまったとおもった。見知らぬ男が車に乗れといきなり勧めたら、警戒されることに気づいたのである。  日ごろ女漬けになり、女にサービスすることに慣れた身が、困っている女性を見過ごせなかったのであるが、これは女性から警戒されるだけのいらざるお節介であった。  突然、声をかけられて、彼女は一瞬、びっくりしたような表情を見せたが、ほっとしたように、 「有り難《がと》うございます。狭山ヶ丘の駅へ行く途中です」  と言いながら、素直に車に乗り込んで来た。二十歳前後のおとなしげな面立ちの女性である。  彼女が車に乗り込む際、コートの裾《すそ》が割れて、ミニスカートからはち切れそうな内腿《うちもも》が覗いた。  視角のかげんで内腿のほの暗い空間の奥が、有光の目を射た。  女には食傷しているはずの有光に、ぞくりとするような色気が吹きつけてきた。  有光は慌てて目を逸《そ》らした。  なにごともなく狭山ヶ丘駅前に降ろすと、彼女は丁寧に礼を言って、そそくさと駅の構内へ入って行った。  彼女が降りた後に爽《さわ》やかな髪のにおいが残っていた。  有光はふと、いまの女性に会ったことのない新村優子の面影を重ねた。  そのとき不吉な連想が走った。  新村優子もいまと同じような状況で、通りかかった車に便乗したのではあるまいか。  いまの女性は未知の有光を信じて乗り込んで来たが、知った顔に声をかけられれば、警戒を解いて誘いに乗るかもしれない。  新村優子の方にその気がなくとも、彼女のなにげない動作に男が劣情を刺激されて、突然、狼に変身したのではあるまいか。  女漬けになっている有光ですら、いまの行きずりの女性の無意識の色気に、挑まれたような衝動をおぼえた。  女性に不自由したり屈折した感情を持っている男なら、その衝動がどんな形に爆発したかわからない。  有光は帰宅すると、早速、関東地方の測候所に、昨年八月七日の天候を問い合わせた。  測候所の記録によると、八月七日は埼玉県南部から東京都ほぼ全域にわたって激しい雷雨があったことが確認された。  有光の不吉な連想は一歩、現実に近づいた観があった。      3  所沢署、東大和署、富士吉田署の三捜査本部の鉾先《ほこさき》が、新村優子の身辺に集まってきた観があった。  もともとそれは所沢署の黒田の着眼から発したものであり、東大和署と富士吉田署は、所沢署に引っ張られた形である。  三捜査本部の大勢意見でもない。それぞれの少数意見が一致して、新村優子の身辺に収束してきたのである。  棟居は所沢署の黒田と連れ立って、優子の両親を訪ねた。  だが、優子の身辺には、犬、猫、その他の動物はいなかった。  彼女の失踪《しつそう》前の人脈の中に、ペットを飼っている者は何人かいたが、彼らは新村家の親戚《しんせき》、彼女の友人、隣人たちであって、いずれも彼女の失踪に関わりを持つような人物とは考えられない。  優子の両親に改めて問いただしたが、平沢しのぶという名前は優子の失踪前の人間関係の中にはなかった。 「東南アジアの外国人とか、ヤクザさんの愛人とか、うちの娘はそういう人たちとは一切関わりがありませんでした」  優子の父親、新村保夫が言った。 「表面に現われていなくとも、隠れているかもしれません。たとえばお嬢さんが旅行先やアルバイト先で知り合った人間というような……」 「アルバイトは知人に頼まれて家庭教師を何度かしたことがありますが、風俗営業のアルバイトはしたことがありません。旅行は時どき出かけますが、いつも仲良しグループで、一人で行ったことはありません。旅先でヤクザの愛人やジャパゆきさんと知り合うようなチャンスがあったとは考えられません」 「お嬢さんのアルバムを差し支えなかったら拝見できませんか」  棟居は申し出た。  アルバムはすでに黒田が見ているが、棟居や村上は見ていない。  特に重要なのは、失踪時に接近して撮影されたアルバムである。  棟居は最近のアルバムから遡《さかのぼ》った。  大学の入学式、学園祭、キャンパスや旅行先でのスナップ、家族の団欒《だんらん》、アルバムには幸福の陽射しを全身に集めた溌剌《はつらつ》たる青春が定着されていた。  ある日から突然、写真が途切れた。アルバムの余白は、両親の悲しみをそそるにちがいない。  アルバムからは、彼女が幸せいっぱいの青春を自ら突然断ち切る手がかりはなに一つ得られなかった。 「このアルバムの中に、ご両親の知らない人物が写っていますか」 「お友達の中には知らない人もいますが、大体皆さん、よく知っている方ばかりです」 「お嬢さんはカメラをお持ちですね」 「持っています。たいていは娘のカメラで撮った写真ですが、他人《ひと》からもらった写真もあります」  アルバムの中には動物と一緒に撮影したスナップもあった。  親戚の家の犬を散歩させたり、近所の野良猫が画面に入り込んで来たり、あるいは動物園でのスナップもあった。  アルバムはすでに黒田がチェックしているが、その時点では動物はマークしていなかった。 「おや、この犬は……」  棟居は一枚のスナップに目を固定した。  その写真は登校か下校途上の場面を撮影したらしい。自転車に乗った優子と、その自転車のかたわらに首輪からロープでつながれた一匹の犬が写っている。日本犬の雑種である。  ロープの先には飼い主がいるはずであるが、写《フレ》真|《ーム》の外に出ている。 「近所の犬が偶然入ったらしいのですが、どこの家の犬かわかりません」  新村保夫が答えた。 「シャッターを押したとき、偶然、散歩中の犬が入り込んで来たようですね。撮影者はだれですか」 「それが、いつ、だれに撮られたのかもわからないのです。私もそんな写真がアルバムに貼られていたことに、あの娘《こ》が失踪してから気がつきました」 「この写真の撮影者、またはこの犬の飼い主を探し出したいですね」  棟居が言った。  新村優子とトウイ・平沢事件に関わりがあるとすれば、優子のアルバムに、彼女と共に定着された犬を見過ごしにするわけにはいかない。  その写真の前後から判断して、それほど以前に撮影されたスナップではなさそうである。 「近所の犬なら、また出会うかもしれませんね」  黒田が口を出した。 「ありふれた日本犬ですが、あまり見かけない犬ですね」  新村保夫が言った。 「見かけない犬と言うと、近所の犬ではないのですか」  黒田が問うた。 「ご近所の犬はたいてい顔見知りですが、この犬は見かけたことがありません。おまえはどうだい」  新村保夫は妻に写真を指さして問うた。 「さあ、私も見たことないわ」 「すると、近所の犬ではないということになりますが」 「しかし、首輪を着けていますよ」  黒田と棟居が顔を見合わせた。  首輪を着けていながら近所の犬ではないとすると、地域外の犬がまぎれ込んで来たことになる。地域外の飼い主が遠方まで、犬を散歩に連れて来たのであろうか。 「この写真の撮影|地点《ポジシヨン》はわかりませんか」  棟居が問うた。  新村優子の通学途上での写真であるから、撮影地は住居の近くのはずである。新村家と狭山ヶ丘駅の間であろう。  ちょうど家並みが切れた辺りで撮影したらしく、この地域の緩やかな丘陵地と、遠方に野立ち看板のような建造物が見えるだけで、撮影地の目印になるようなものは写し込まれていない。 「これは看板のようですが、これを拡大してみれば、なんの看板かわかるかもしれない」  黒田が遠方の建造物を指さした。 「この写真を拝借できますか」 「どうぞ。お役に立つようでしたら、アルバムごとお持ちください」  新村家から領置したアルバムの写真が拡大された。  その結果、不鮮明ながらも、野立ち看板はある造園工事会社の看板であることがわかった。  その看板の所在地が割り出された。  看板の位置から撮影地点が推定された。 「大体、この辺りですね」  写真を手にして、黒田と棟居は実景と見比べた。  写真の背景に写し込まれた丘陵と野立ち看板が遠景に見える。  写真の死角になっているが、周辺には開発ラッシュで造成された新興住宅地が押し出してきている。武蔵野の面影も虫食いだらけにされている地域である。  それは手がかりとは言えないような心細い|糸|《トレース》であった。  新村優子とトウイと平沢の関わりは、まだなにも発見されていない。  トウイと平沢に付着していた動物の体毛から、優子の身辺に動物を探しているのであるが、たまたまアルバムに発見した一匹の犬が事件に関わっているかどうかわからない。  むしろ関わっていない確率の方が高い。たまたまアルバムにまぎれ込んで来ただけの犬かもしれない。しかも、彼女の両親は近所では見かけない犬だと言っている。  写真を撮影したとき、偶然、彼女のかたわらを通過しただけであれば、事件にはなんの関わりもなくなってしまう。  そんな心細い一本の糸であったが、棟居と黒田はそれにすがりつき、執拗《しつよう》に追った。  彼らは拡大した犬の写真を持って、撮影地域を懸命に聞き込みに歩いた。  撮影地点の近くの住人や通行人が、その犬を見かけているかもしれない。  写真を見せられた住人たちは、いずれも首をかしげて、見かけたことのない犬だと答えた。  特に犬を飼っている家は、近所の同類をよく知っている。  朝夕の散歩に連れ出すとき、飼い主同士が顔馴染《かおなじみ》になる。動物を通して、飼い主たちが挨拶を交わすようになる。  地域の犬の飼い主が知らないと言うからには、その犬は地域外から来たのであろう。  徒労の色が濃くなってきたとき、一件の耳寄りな情報が引っかかった。 「この犬は、一度だけですが、市橋さんが七月ごろ連れて散歩していたような気がします」  地域の飼い主の一人がおもいだしたように言った。 「市橋さんとは、だれですか」  棟居と黒田はその情報に飛びついた。 「この近くに住んでいる方ですが、市橋さん自身は犬を飼っていません」 「犬を飼っていない人が、犬を散歩させていたのですか」 「お客から預かっていた犬だとおもいます」 「お客からと言うと」 「市橋さんは動物の床屋さんなのです。なんて言ったかな、動物の毛が長くなると、人間と同じように理髪をする仕事なんです」 「ああ、そんな仕事がありましたな、たしかトリミングとかいう」  黒田は記憶を探った。 「トリマーじゃありませんか」  棟居が補足した。 「そうそう、トリマーと言ったっけ、市橋さんはトリマーなのですか」  黒田と棟居は顔色を改めた。  新村優子の生活圏にトリマーがいた。これは見過ごせない新事実である。 「市橋さんは飼い主の許《もと》へ出張して、ペットの床屋をするのがお仕事ですが、時には飼い主から動物を預かるそうです。床屋をしている間に動物に情が移って、飼い主が旅行やなにかの用事で留守になるとき、ペットホテルの代りに預かっているんだそうです」 「そうか、預かった犬だったから、近所の人は知らなかったんだな」  棟居はつぶやいた。  トリマーであれば、数種、あるいは数個体の動物の毛が付着していても不思議はない。  もし市橋がトリマーとして平沢の家に出入りしていれば、彼女の飼い猫の毛も当然、身体に付けているだろう。  棟居と黒田は糸の先に初めてしっかりした手応《てごた》えをおぼえた。  残るは市橋と平沢の関係の確認である。  すぐにでも市橋に当たりたいところであったが、二人は慎重に構えた。  まだ新村家の近所にトリマーが住んでいたというだけのことである。  市橋の預かった(とおもわれる)犬が、優子とたまたま一緒に撮影されていたというだけのことであって、市橋と優子との関係も確認されていない。  ましてやトウイや平沢との関係は不明である。  棟居と黒田の発見を聞いた両捜査本部は、富士吉田署にも連絡を取って、まず市橋と平沢しのぶとのつながりの有無の発見に、全力を挙げることにした。  市橋の写真はラッキーにも、町内会の懇親旅行での記念写真が新村家に保存されていた。  クローズアップした市橋の写真を手にした捜査員は、平沢しのぶの生前の人脈に見せてまわった。成果は上がった。  平沢が以前住んでいた渋谷区円山町のマンションの管理人が、市橋の写真によく似た人物が、何度か平沢の家に出入りしているところを見たと証言した。  ついに平沢と市橋がつながった。  両者が結びついたということは、トウイとの間にも関連が生じたことになる。  三署の捜査本部は緊張した。  ここに、市橋の住居がある所沢署に三署の捜査員が集まって、連絡会議が開かれた。  それぞれの捜査資料を持ち寄って、事件の関連性を検討し、合同捜査のための根まわしをする会議である。  市橋洋司、三十六歳、埼玉県所沢市西狭山ヶ丘、独身、ドッググルーミングスクールを卒業後、専門店で修業して三年前にトリマーとして独立した。  新村家とは約三百メートルしか離れていない。  新村優子とは特に親しい関係でもないが、両親とは親しくしている。  なお、彼はカメラを趣味としていて、動物をよく撮影している。  自分の作品を集めて、市内の百貨店で個展を開いたこともある。  トリマーの腕はよいらしい。所沢市内はもちろんのこと、都下、都内にも得意先が多く、出張作業をしている。  特定の女性はいない模様である。  連絡会議を主宰した所沢署長から挨拶があり、次いでトウイ殺害事件の現場指揮を執った那須警部が立って、一連の事件の捜査経過を報告した。 「事件の発端は昨年八月七日、タイ人女性トウイ・ソンクラームが同棲《どうせい》していたホスト有光重夫の家から失踪《しつそう》したことである。  同日、所沢市内の女子大生新村優子が下校途上、消息を絶った。  トウイの失踪は木原登美子の委嘱を受けた山川喜久男と倉上静枝の両名による拉致《らち》と判明したが、両名はトウイの殺害を否認した。  山川、倉上の容疑性が薄らぐと同時に、有光の容疑が濃くなった。  一方、有光の客の平沢しのぶが昨年十一月下旬より失踪して、有光を疑った花岡義人が、子分に命じて有光を拉致した。  拉致途上、逃げ出した有光は、花岡に殺されかかったと訴えた。  失踪をつづけた平沢は、十二月二十五日、山梨県鳴沢村村域内の青木ヶ原樹海で死体となって発見された。  推定死後経過約一か月、十一月下旬の失踪時と符合する。  平沢とトウイの死体に付着していた動物の体毛の一部が、平沢の飼い猫の毛と符合して、二人の死因にはにわかに関連性が生じてきた。  両人と共通の関わりを持っている者は有光と、平沢の弟、田沼である。だが、田沼には犯行動機は見当たらず、有光が最後の容疑者として残された。  一方、トウイの失踪日と同日に消息を絶った新村優子については、所沢署の黒田刑事が、トウイの死体発見現場の近くから回収した狭山ヶ丘駅の善意の傘によって、彼女が遺棄した可能性が疑われた。  トウイと平沢から保存されたその他の動物の体毛が一致するに及んで、同一犯人による犯行の疑いはますます濃くなった。  ここに棟居刑事と黒田刑事の着眼によって、新村優子の身辺に動物を捜索したところ、トリマーの市橋洋司が浮上した。  彼は新村優子とも顔馴染《かおなじみ》であり、平沢しのぶの家にも出入りしていた事実が判明した。  ここに市橋洋司を三件に関連する人物として、各事件捜査本部の担当捜査員にお集まり願い、その容疑性を検討したい」  那須の簡潔にして要を得た経過説明によって、会議が始まった。  真っ先に発言したのは山路である。 「新村優子の近所に住んでいたトリマーが、たまたま平沢の家に出入りしていたというだけで、優子と市橋の関係が確かめられたわけではない。両人になんの接点もなければ、少なくとも優子の失踪は他の二件から切り離されてしまうのではないのか」  これは山路がこれまでにも主張していたことである。 「両人が顔馴染であったことは重大な接点です。犬とカメラという接点があります。また平沢とトウイには、平沢の飼い猫以外の動物の体毛も付着しておりました。それ以外の体毛も、市橋の身辺に探すことは必要であると考えますが」  棟居が主張した。 「それ以外の体毛と言うが、市橋自身は動物を飼っていない。事件発生当時、市橋が顧客から一時的に預かった動物の体毛を保存することは不可能ではないのか」  山路が切り返した。 「たとえ犬の毛が一致しなくとも、他の毛が一致すれば、市橋の容疑は動きません」 「市橋が平沢の家に出入りしていたことが確かめられたいま、少なくとも平沢とのつながりにおいて、彼に任同(任意同行)を求めることはできるとおもいます」  富士吉田署から村上が発言した。 「仮に市橋の容疑性を認めたとして、彼の新村優子に対する動機が見当たりません」  山路はなおも慎重である。 「一見、動機なき犯罪も、動機が潜在していることが多くあります。市橋は三十六歳まで独身を通しており、若い女性に対して屈折した感情を持っているかもしれません」  黒田が言った。  三件に関連性を疑う意見は、三署の捜査本部においては少数派であったが、連絡会議においては大勢になりつつあった。  連絡会議において、  ㈰トリマーとして平沢しのぶの家に出入りしていた。  ㈪平沢の飼い猫の体毛を、平沢の身体に運べる位置にいる。  ㈫トウイの死体発見現場に土地鑑がある。  ㈬新村優子と隣人として顔馴染である。  ㈭三十六歳まで独身をつづけ、特定の女性関係は見当たらない。  以上によって、容疑者像として無理のない状況であることが認められ、任意同行を求めて事情を聴くことに捜査方針の合意を見た。 [#改ページ]   アリバイの盲点      1  二月七日午前七時少し前、所沢市の市橋洋司の自宅近くにある児童公園に集合した所沢署、東大和署、富士吉田署の捜査本部員よりなる混成捜査員グループ十二名は、午前七時を期して市橋の家を訪問した。  市橋はちょうど起床したばかりであった。  朝の時ならぬ時間に大挙しての捜査員の訪問を受けて、市橋は衝撃を受けた模様である。 「新村優子さんの失踪《しつそう》について、少々おうかがいしたいことがありますので、本署までご同行願います」  地元の黒田が来意を告げると、市橋はみるみる顔色を変えて、 「ぼくは警察から呼ばれるようなことをしたおぼえはない」  と答えた。 「そのことについても、本署でお聴きしたいとおもいます」  黒田は有無を言わせぬ口調で言った。  任意同行の要請であるから、本人がいやだと言い張ればそれまでである。  だが、十二人に及ぶ捜査員の混成大部隊の訪問は、同行を拒めば、それがそのまま逮捕の理由になるような圧力を市橋にあたえた。  市橋は自宅から所沢署に連行された。  朝食を出されたが、市橋はまったく箸《はし》をつけなかった。  市橋の事情聴取には那須警部が当たり、黒田、棟居、村上の三人が補佐した。 「早朝からお呼び立てして申し訳ありませんな」  那須が低姿勢に切り出した。 「本当に驚いています。いきなり大勢の刑事さんに押しかけられて、警察へ来いと言われて、驚かない人間はいませんよ。近所では一体、私がなにをしたのかとおもうでしょう。いい迷惑です」  市橋は低姿勢な那須に、いじめられた子供が親に訴えるように言った。 「大袈裟《おおげさ》なことになってしまって、申し訳ありません。事情をお聴かせ願えれば、すぐにお帰りいただいてけっこうです」  那須の言葉は、素直に話さなければ長引くかもしれないぞという反対表現でもある。 「新村優子さんのことで聴きたいと刑事さんが言ってましたが、私はなにも知りませんよ」 「いや、それだけではないのです」 「それだけではない……」  市橋の面に不安の色が濃く塗られた。 「まあ、追いおいおうかがいしますが、この写真にご記憶がありますか」  那須は新村優子と例の犬が一緒に撮影されているスナップを差し出した。 「なんですか、この写真は」  市橋の面には特に反応は表われない。 「新村さんと一緒に写っている犬は、あなたが昨年七月ごろ、一時預かっていたのではありませんか」  那須に言われて、市橋はおもいだしたような表情をした。 「どうやらお心当たりがありそうですね。あなたが預かった犬が、新村さんと一緒に写っているということは、犬のロープの先にはあなたがいたのではありませんか」 「たぶんそうだったとおもいます」  市橋は仕方なさそうにうなずいた。 「この写真はだれが撮影したのですか」 「よくおぼえていませんが、たぶん私が撮ったのだとおもいます」 「犬のロープはだれが持っていたのですか」 「ロープは近くにあった立木につないだのだとおもいます」 「それでわかりました。ところで、新村優子さんが八月七日午後、学校から下校途上、失踪したことはご存じですね」 「もちろん知っています。捜索願をご両親が届けるとき同行しました。その後、誘拐《ゆうかい》犯人から身代金の要求もこなかったそうですが、彼女はどこへ行ってしまったのですか」  市橋は問い返した。次第に落ち着きを取り戻しているらしい。 「誘拐と決まったわけではありませんよ。ところで、あなたは八月七日午後、新村さんに会いませんでしたか」 「いいえ。会うはずがないでしょう」 「ご近所ですから、その辺でひょっこり出会ってもおかしくないんじゃありませんか」  那須が市橋の顔を覗《のぞ》き込むようにした。 「会っていません」  市橋は断言するように言った。 「それならけっこうです」 「どうしてそんなことを聴くのですか」 「新村さんに多少とも関わりのあった方には、すべてお尋ねしています。どうぞお気を悪くしないでください」 「私は新村さんとはなんの関わりもありませんよ。ただ、近所に住んでいた顔馴染《かおなじみ》というだけです」 「でも、こうして写真を撮っているではありませんか」  那須に切り返されて、市橋は一瞬たじろいだが、 「それは、たまたま通りかかったので、一枚撮らせてもらっただけです。べつに他意はありません」 「それはよくわかっています。我々はできるだけ広く情報を集めております。あなたもご近所のお一人として、新村さんの行方が早くわかるようにご協力願えませんか」 「ですから、このように協力しているじゃありませんか」 「有り難《がと》うございます。市民の皆さんからの情報提供が事件の解明に役立ちます。ところで、トウイ・ソンクラームさんというタイ国の女性をご存じですか」  那須は質問の鉾先《ほこさき》を変えた。 「トウイ……」 「ソンクラームです。タイ国から日本へ出稼ぎに来た女性ですが、昨年八月七日、人身売買ブローカーに拉致《らち》された途上、武蔵村山市域で逃げ出し、行方を絶っていましたが、十月七日、同市域の廃屋の中で死体となって発見されました」 「全然知りません。それが私にどんな関わりがあるのですか」 「実はですね、トウイさんの死体に犬と猫の毛が付着していたのです」 「それが、どうしたのですか」  市橋は訝《いぶか》しげな表情をした。 「新村優子さんと一緒に撮影されている犬ですが、この犬の飼い主をおしえていただけませんか」 「それはどういう意味ですか」  市橋の不審の色はますます濃くなった。 「その犬の毛と、トウイさんから採取された犬の毛を比較検査したいのです」 「ば、ばかな。それじゃあ、まるで私を疑っているようじゃありませんか。この犬は私が昨年七月下旬、飼い主から数日間、預かっただけです」  市橋が憤然として抗議するように言った。 「あなたを疑っているなどとは申しませんよ。あなたが預かった犬の毛と比較対照したいだけです。別にその犬でなくともけっこうです。あなたが預かった動物の毛と対照したいのです」 「それが私を疑っていることじゃありませんか。私が預かった犬の毛が、どうしてそのタイ人女性の身体に付くのですか」 「それはですね、トウイさんが死体となって発見される前、姿を晦《くら》ましたのが、新村さんが失踪《しつそう》したのと同じ日だからなのです。しかも新村さんの住居と、トウイさんが行方を晦ました場所が接近しているのです」 「だからといって、ぼくには関係ありませんよ」 「私はあなたが一時預かった犬を探しているだけです。おしえていただけませんかな」 那須はじわりと肉薄した。 「川越の山田さんです」 「川越の山田……ご住所をおしえてください」  市橋がしぶしぶ告げた山田の住所を、黒田が素早くメモした。 「武蔵村山市の中藤という地区に、立ち腐れになっている廃屋がありますが、ご存じですか」  那須は質問をつづけた。 「いいえ、知りません」 「埼玉県との県境に近いところで、おたくから車で行ってもわずかなところですが」 「知りませんよ。たとえ距離的には近くとも、東京都となると距離感があります。土地鑑もありません」 「ほう、我々の使う言葉をご存じですな」  那須がすかさず言った。 「そ、それはテレビでよく使いますので」 「そうですね。テレビを見ていると、我々の使っている言葉がほとんど出てきます。土地鑑などはまあいいとして、焼死体《ヤキイモ》、水死体《マグロ》、縊死《ブランコ》、強姦《ツツコミ》、戒名《カイミヨウ》などが一般用語になっては、ちょっと困りますな」  那須が本題から逸《そ》れて苦笑した。 「戒名って、なんですか」 「事件名です。ちなみに新村優子さんの事件は、所沢市域における女子大生失踪事件となっています。  失踪事件と言えば、平沢しのぶさんをご存じですね」 「平沢……」  市橋がぎくりとしたような表情を見せた。 「昨年十一月下旬、家を出たまま消息を絶っていましたが、十二月二十五日、山梨県富士|山麓《さんろく》の青木ヶ原樹海の中で死体となって発見されました。平沢さんのお宅にはよくいらっしゃったようですね」 「平沢さんの猫の手入れのために、月に一度ぐらい出張していました」 「平沢さんが亡くなったことはご存じでしたか」 「新聞で知りました。びっくりしました」 「平沢さんの遺体にも、飼い猫の毛が付着していましたよ」 「それは飼っていたのですから、飼い主に付くのは当然だとおもいます」 「平沢さんの身体に付いていたのは、飼い猫の毛だけではありませんでした」 「と言うと……?」 「その他の動物の毛、犬の毛が付いていたのです」  市橋は答えず、那須の言葉の意味を測っているようである。 「平沢さんとトウイさんから採取された動物、犬と猫の毛がおおかた一致したのです」  那須が第二矢を放った。  市橋にはそのことの意味が咄嗟《とつさ》にわからないらしい。 「平沢さんとトウイさんの身体に、市橋さん、あなたもその毛を運ぶことができるんじゃありませんか」 「な、な、なにを馬鹿なことを」  言葉につまった市橋は、咄嗟に切り返せない。 「平沢さんの家に出張していたあなたは、もちろん彼女の飼い猫の毛を運べます。またトリマーとしてほかの動物の毛も運べますね」 「言いがかりだ。そんなことを言えば、動物を飼っている人間はみんな犯人になってしまうぞ」  市橋の言葉遣いが崩れた。 「数種の動物の毛が一致すれば、その動物の毛を入手できる人間が最も容疑濃厚ということになります」 「言いがかりをつけて、でっち上げようとしても駄目だ」 「平沢さんとトウイさんから採取した毛の中に、あなたが新村さんと一緒に撮影した犬の毛が混じっていたら、あるいはあなたが手入れしたことのある動物の毛が発見されたら、あなたの立場は深刻になりますよ」  那須はじわりじわりと市橋を追いつめていった。 「関係ない。これは人権|蹂躙《じゆうりん》だ。弁護士を呼べ」  市橋が怒鳴った。 「お望みとあらば呼びますが、あなたご自身、トウイさんから平沢さんの飼い猫の毛が採取されたことと、トウイさんの行方を晦ました日と、新村さんが失踪した日が同じ日であることをどうおもいますか」 「おれには関係ないと言ってるだろう」 「参考までにおうかがいしますが、昨年八月七日午後三時以降、どちらにおられましたか」 「どうしてそんなことを訊くんだ」 「捜査に必要な情報を集めています」 「そんな無礼な質問に答える義務はない」 「新村優子さんの行方を確かめたいとおおもいでしたら、ご協力いただけませんか」 「それはアリバイだろう。おれは犯人じゃないぞ」 「あなただけに訊いていることではありませんよ。彼女と多少とも関わりのあった方にはすべて訊いております。皆さん、快く協力してくださいました。あなただけが協力を拒んだとなると、拒まなければならない理由がなにかあるのですか」 「そんな理由はなにもない。不愉快なだけだ」 「ご不快にさせたことはお詫《わ》びします。差し支えなかったら昨年八月七日午後、どちらにおられたか、お訊かせ願えませんか」 「そんなことを突然訊かれても、すぐにはおもいだせない」 「ゆっくりおもいだしてください。メモが必要ならご覧になってください。ここにお持ち合わせでなければ、お宅まで同行いたします」 「昨年八月七日は鳴子《なるこ》にいたとおもう」 「鳴子……」 「宮城県の鳴子です」 「八月七日、鳴子におられたことを証明できますか」 「写真を撮りました」  市橋は動揺から少し立ち直ってきたらしい。 「写真には撮影日付が写し込まれています」 「撮影日付は自分でセットできるのではありませんか」 「地元の時計台をバックに写真を撮りました。時計台には日付もついていました」  もし市橋の言う通りであれば、アリバイが成立する。  八月七日、新村優子が拉致《らち》された時間帯に、宮城県の鳴子にいた者には犯行が不可能である。 「その記憶は確かですか」 「八月七日、鳴子町の夏祭りに行きましたから、まちがいありません。お祭りの写真も何枚か撮影してあります」  市橋の口調には自信があった。 「そのときだれか同行した人はいましたか」 「いいえ、同行者はいません。私は時どき、一人で気ままな撮影旅行に出かけます。鳴子町の祭りには興味をもっていて、見物したのです」  市橋は答えた。 「その写真を拝見できますか」 「探せばあるとおもいます」  新村優子が失踪《しつそう》したのは八月七日、午後三時前後である。山川が武蔵村山市域でトウイに逃げられたのが同日午後四時ごろ。  この時間帯に市橋は宮城県にいたと言う。もし彼が新村優子の失踪、およびトウイ殺しに関係がなければ、平沢事件に対しても容疑性が薄くなってしまう。  三人に共通に関わっている人物として、市橋の容疑が濃縮されたのであるから、平沢一人との関係となれば、要するにトリマーとして彼女の家に月一度の頻度で出張していたトリマーと客との関係になってしまう。  市橋の供述によって、事件は意外な展開を見せかけていた。      2  市橋から写真を提供された捜査本部は、困惑した。写真は四枚あり、いずれのスナップにも厳然たるアリバイを背景にして、市橋が捜査本部を嘲笑《あざわら》うように撮影されている。その中の一枚は時計台をバックにしていて、八月七日午後四時五分の日付と時間がはっきりと写されている。  鑑識の写真係に見せたが、合成その他のトリックは用いられていないということである。  写真にトリックがなければ、市橋のアリバイは成立する。  ほぼ同時に川越市の山田家から、飼い犬の毛が採取されて、トウイ、および平沢から保存されたその他の動物の体毛と比較対照された。  その結果、一部において同じ個体の毛が証明された。  市橋のアリバイ成立と同時に、その容疑が一段と濃縮されたのである。  三署が協力して引き絞った網にようやく追い込んだ獲物が、網の目から逃げかけている。 「この時計台をバックにした写真ですが、いかにもわざとらしい。まさにアリバイのために撮ったような写真です。しかも市橋は祭り見物に一人で出かけたという。祭りなんか一人で見物しても面白いことはないでしょう。どうもこの辺がくさいですね」  棟居が言った。 「彼は鳴子町の祭りには興味をもっていると言っているが」  那須が言った。 「祭りの撮影はともかく、この時計台をバックにしたスナップは、他の三枚の祭り風景からいかにも遊離しています。こんなものを背景に撮っても、面白くもなんともない写真です。  しかも、フィルムは紛失したと言って、提出しません。写真は一連《ワンロール》のフィルムごとに撮影されます。フィルムを提出しなかったのは、写真そのものに仕掛けはなくとも、フィルムを見られては都合の悪いものがあったからでしょう。  つまり、市橋は背後の時計台をポイントにして撮影したのです。市橋は八月七日の日付と四時五分という時間を見せるために、時計台をバックに撮影した。これはアリバイ工作ですよ」 「アリバイ工作をしたということは、市橋が犯行時間帯に現場にいたということだな」  那須の目が光った。 「アリバイ工作をしたということは、時計台に表示された時間に、なんらかの仕掛けが施されているということになります」  棟居が主張した。 「しかし、時計台の時刻表示にはなんのごまかしもないよ。合成写真でもないことが鑑識で確認されている」  山路が市橋を弁護する形になった。 「写真にも時計台にもトリックはない。つまり、鉄壁のアリバイというわけだな」  那須が呻《うめ》くように言った。 「鳴子に出張させてもらえませんか」  棟居が申し出た。 「ご苦労だが、行ってもらおうか」  那須がうなずいた。  現地へ行って被写体を直接に確かめれば、なにかわかるかもしれない。  市橋が鉄壁のアリバイを提供したことによって、彼の容疑をますます煮つめた結果になった。  鳴子町には棟居と鈴木が出張した。      3  二月九日、棟居と鈴木は鳴子へ向かった。新幹線で古川まで行き、陸羽東線に乗り換えて鳴子へ向かう。  古川までは東京の延長であったが、二両編成の鳴子行き電車に乗り換えると、とたんに陸奥《みちのく》のにおいが濃厚となった。  鳴子温泉駅まで約一時間、季節外れの平日とあって、駅前は閑散として人影はない。  駅前は狭く緩やかな上りの傾斜に面していて、向かい合うように土産物屋、左手に本屋、右手に駐車場が見える。  車内の暖房で暖まった身体に、寒気が突き刺す。  今年は雪が少ないらしく、周囲の山肌の雪もまだらで、町中の道路は雪が切れている。  荒尾《あらお》川に沿った山間《やまあい》の台地の温泉町は湯治客も見えず、いまはひっそりと冬眠しているようである。  駅前でのんびりと客待ちをしていたタクシーに、時計台の写真をさし示すと、運転手はうなずいて車を発進させた。  車は交通のまばらな道路を快適に走って、間もなく写真の実景の場所へ着いた。 「なるほど、ここで撮ったんだな」  棟居はうなずいて、写真と見比べながら[#「見比べながら」に傍点]撮影ポジションを探した。  季節は異なっていても、たしかに同じ塔と時計台が撮影されている。  塔の高さは十メートル前後、その頂上が時計台になっている。上るための手がかり、足がかりはない。 「運転手さん、あの時計が止まることはありますか」  棟居は運転手に問うた。 「さあ、いつも注意して見ているわけじゃねえすが、止まったことはねがったようだな」  と運転手は答えた。 「この時計台はだれが管理しているのですか」 「町役場でやんすよ」 「それでは、今度は町役場に連れて行ってもらおうか」 「ここから鳴子峡やこけし館は近《ちけ》えがど、寄らねのかね」 「後にしよう」 「お客さんたちは東京からわざわざ、この時計台だけを見におごしやんしたのかね」  運転手が驚いたような顔をした。そういう客はこれまでいなかったのであろう。 「まあ、冬はせっかく行っても遊歩道さ凍っているし、寒いばかりでなはん」  運転手は自分に言い訳するように言った。 「鳴子峡というのはいいところかね」 「まあ、わしら地元の人間は見慣れてっからね。特に感激もねっすが、鳴子さ来て、鳴子峡を見ないお客さんはあんまりいねっすな」 「季節はいつがいいのかな」 「それは秋でやんすよ。渓谷全体が紅葉に照り映えて、見物した人はみんな感激するでやんす」 「それじゃあ、紅葉シーズンに来ようか」  鈴木が言った。 「こけし館とはなんだね」  今度は棟居が問うた。 「この少し先にあるこけしのお宿でやんすよ。鳴子のこけしだけでねぐ、全国のこけしが集められてありんす」 「こけしのお宿とは面白そうだが、町役場の帰りに時間があったら寄ってみようかな」  しかし、一日で埒《らち》が明けば日帰りしたい。 「棟居さん、せっかく近くまで来たのです。ちょっとそのこけし館とやらへ寄ってみませんか」  鈴木が声をかけた。 「そうですね」  棟居も実は興味をそそられていた。  鳴子峡となると手強《てごわ》そうであるが、こけし館ならばちょっと覗《のぞ》くだけでよい。 「それじゃあ運転手さん、こけし館にちょっと寄ってもらおうか」  棟居が言うと、運転手は我が意を得たりと言うようにうなずいて、 「せっかく鳴子さおごしやんして、こけし館も見ずに帰ってしまったんじゃ、なんのために来たかわがんねからね」  と言った。  山を背負った台地のゆったりした敷地に、切妻《きりつま》、あるいは寄《よ》せ棟《むね》屋根に白壁の素朴な建物が何棟か寄り添うような形の館がこけし館であった。  館の中に入ると、展示場に種類別に全国のこけしがディスプレイされている。  二人はこけしと一口に言っても、さまざまな種類があることを知った。 「市橋は時計台と目と鼻の先に鳴子観光の目玉があるのに、こけし館や鳴子峡については一言も言いませんでしたね」  鈴木が言った。 「立ち寄っていれば、写真も撮ったであろうし、なにか言ったはずです。なんの面白味もない時計台を撮影して、こけし館や鳴子峡を撮影しないはずはない。つまり、市橋はアリバイ工作のために時計台を撮影したということになります」  こけし館に立ち寄って、市橋のアリバイ工作の心証はますます強くなった。  こけし館の夥《おびただ》しいこけしの群が、市橋のアリバイ工作を暗黙のうちに語りかけているようである。こけし館を後にした棟居と鈴木は、町役場へ向かった。車は往路を引き返した。  役場は町中の新屋敷というところにある。  まずは観光商工課で事情を訊くことにした。  観光課員は棟居が差し出した写真に目を向けた。 「これは記念塔の時計台ですね」  観光課員は写真を見るなり言った。 「記念塔と言いますと」 「町外れにあります。戦前、天皇陛下の行幸《ぎようこう》を記念して建てられた塔です。当時としては日付入りの珍しい時計台として話題を集めました」 「すると、この写真は昨年八月七日に撮影されたことはまちがいありませんね」 「まちがいありません。日付がそのようになっておりますから」 「たとえば撮影者が勝手に日付を調節するということは可能ですか」 「それはできません。写真を見てもおわかりのように、記念塔の時計台は塔の上部にあって、雨風に耐えられるように厚い防水ガラスが張られています。ガラスを叩き壊しでもしない限り、針や日付を変更することはできません」 「こちらの写真ですが、これは当時の夏祭りの写真ですか」  棟居は市橋から同時に提出された鳴子町の祭りのスナップを差し出した。 「ああ、当町のこけし祭りですね」  観光課員はうなずいた。 「ご当地のこけし祭りは八月七日ですか」 「そうです」 「それは毎年同じ日に催されるのですか」 「毎年八月七日です。  こけし祭りは町の観光振興のために、昭和二十三年に始められたものです。当時は神輿《みこし》やパレードや町の婦人会が鳴子踊りを踊ります。まだ比較的新しい祭りですが、九月七、八、九の三日間行なわれる温泉神社祭りは、八百年前ごろ、村人が神社に草相撲を奉納したのが始まりで、歴史と伝統があります」  観光課員はこの際とばかりに、町のPRをした。  ここに市橋の写真が、昨年八月七日午後四時ごろ、宮城県の鳴子町において撮影されたことが確定した。  市橋はほぼ同じ時刻、埼玉県所沢市域において、消息不明になった新村優子に接触することはできない。  市橋のアリバイは成立した。  徒労感が身体に重く澱《よど》む中から、棟居はふとおもいついて尋ねた。 「この時計台は電池で動いているのですか。それとも電気仕掛けですか」 「電気仕掛けです」 「それでは、この写真が撮影された当時、ご当地に停電はなかったでしょうか」 「さあ、それは調べてみないとすぐにはお答えできませんが」  もし停電していれば、時計台の時刻と日付は当てにならなくなる。  しかし、同時に撮影されていたこけし祭りのスナップが、時計台の時刻と日付を裏付けている。  観光課員は、まず地方気象台に問い合わせてくれた。 「昨年八月七日午後四時ごろ、当地方に雷雨が発生しております。私の記憶では、地域によって停電したところがあったような気がします。電力会社に問い合わせてみましょう」 「停電した」  棟居と鈴木は色めき立った。もし停電していれば、時計台の示している時刻と日付は当てにならなくなる。  観光課員がつづいて電力会社に問い合わせてくれた。 「やっぱり停電していましたよ。時計台のある地域も当日、四時ごろから約一時間、停電しております」 「すると、この時計台の時刻と日付は、停電発生時間を示しているかもしれませんね」  停電発生時間が午後四時前後ということであれば、写真の映像が示す時間は、撮影時間とは限らない。 「停電によって時計が止まり、復元されたのはいつごろかわかりませんか」  棟居はさらに問うた。 「そういう記録は取ってありませんので、さて、だれがいつごろ復元したのかちょっとわかりませんね」 「記念塔の管理はどこがしているのですか」 「たぶん環境整備課だろうとおもいます」 「環境整備課に問い合わせたいのですが」 「すぐ隣りの部屋ですから、ご案内しましょう」  観光課員は面倒くさがりもせず環境整備課に案内してくれた。  棟居らの訪意を観光課員から取り次がれた環境整備課では、すぐに反応があった。 「ああ、あの時計台でしたら、昨年八月七日、落雷によって時計が止まってしまいました。ただ止まっただけではなく、日付の装置が故障してしまって、修理に二日ほどかかりましたよ」  整備課員の答えに、二人は心の内に盛り上がるような興奮をおぼえた。 「すると、二日後、すなわち八月九日までは七日の日付と停電時の時間が表示されていたわけですね」 「そうです」  整備課員はうなずいた。  ここに市橋の拠《よ》って立つアリバイの一方が崩れた。  市橋は八月七日午後三時ごろ、新村優子に接触して、その二日後、記念塔の時計が復元されるまでに宮城県鳴子町まで優に到達することができる。  しかし、市橋のアリバイは記念塔の時計によってのみ支えられているのではない。  鳴子町のこけし祭りは八月七日である。市橋が昨年、停電前に鳴子町に行って写真を撮影したと主張すれば、彼のアリバイは依然として健在である。 「こけし祭りは毎年必ず行なわれるものですか」  鈴木が問うた。 「毎年必ず行なわれます。昭和二十三年から町おこしのために」  環境整備課まで付いて来た観光課員が言った。 「たとえばこの写真は一昨年に撮影した可能性は考えられませんか」  鈴木が問うた。よい着眼であった。  一昨年に撮影したこけし祭り風景と、時計台の写真を組み合わせてアリバイを偽造することができる。  観光課員は改めて写真に目を向けた。 「この写真を見ただけでは、去年か一昨年か、あるいはそれ以前の撮影か見分けられませんね。町おこしの行事ですから、神輿も祭事係も氏子《うじこ》も同一メンバーです。観光客も撮影されていますが、よそから見物に来た観光客となると、追及のしようがありません」  観光課員は言った。  こうなると、市橋が写真は昨年撮影したと主張する限り、アリバイを崩せない。  こけし祭りが一昨年以前に撮影されたものであることを証明しない限り、市橋のアリバイは不動である。  だが、棟居と鈴木はあきらめなかった。 「この写真に撮影されている祭事係や氏子は、すべてご存じですか」  棟居は問うた。 「何人か顔が小さすぎたり、陰に隠れたりしていてわからない人もいますが、大体見当はつきます。人口一万三千の狭い町ですから」  観光課員は言った。 「この写真に写っている人たちを全部一人一人拡大してみますので、わかるだけ姓名や住所をおしえていただけませんか」  棟居はねばった。  早速、素性不明の被写体の一人一人が地元の協力を得て拡大された。撮影されていた祭事係、お囃子《はやし》会、若連、小若連、氏子、町民二十八名中二十三名が特定された。  その他|身許《みもと》不明の観光客らしい見物人が五人、撮影されている。  棟居と鈴木は、観光課員の協力を得て、氏名、住所の判明した被写体一人一人に写真を見せて確認した。  判明している二十三名をしらみ潰《つぶ》しに当たった結果、観光客を除いて、地元の被写体のすべての身許が確認された。  その中の一人から、重大な証言が得られた。 「私の隣りに写っている吉井《よしい》さんは、一昨年のこけし祭りの後、交通事故で死にやんしたよ。でやんすからこの写真は一昨年夏、撮影されたものだとおもっやんす」  その瞬間、市橋のアリバイは崩れた。  彼は一昨年のこけし祭りに撮影したスナップを、昨年のものとして提出したのだ。      4  捜査本部は市橋のアリバイを突き崩すと同時に、捜索令状を取って彼の身辺を捜索した。  その結果、市橋の犯罪を裏づける決定的な資料を手に入れた。  市橋洋司は改めて峻烈《しゆんれつ》な取調べを受けた。  だが、市橋はまだ屈伏しなかった。 「私の勘ちがいです。地元の人間ですら昨年か一昨年の祭りか見分けがつかなかったそうじゃありませんか。私は鳴子町の祭りが好きで、ほとんど毎年、見物に行っています。ですから去年と一昨年の写真をまちがえたのですよ」 「それでは昨年夏、撮影した祭りの写真を見せていただきたい」  那須が要求した。 「それが、昨年の写真は私の不注意で撮影中カメラを開けてしまい、フィルムが露光してしまったのです。そのことをすっかり忘れていました」  市橋はぬけぬけと言い放った。 「それでは、あなたはあくまでも昨年八月七日四時ごろ、宮城県の鳴子町にいたと言い張るのですね」 「言い張るもなにも、私は事実を申し上げているだけです。アリバイ工作などしたおぼえはありません。大体アリバイというものは、現場にいなかったという証明だけで、アリバイがないからと言ってその人物がたしかに罪を犯したという証拠にはならないのでしょう。私がなにをしたと言うのですか。いい迷惑です」  市橋は完全に開き直っている。 「あなたは車を持っていますね」  那須は鉾先《ほこさき》を転じた。 「持っています」  那須の悠然たる態度が、市橋に不安をあたえたようである。  那須の自信のある態度に、捜査本部が市橋を仕留める切り札を用意しているような不気味な圧力を受けたのであろう。そのことがどんな関係があるのかと不安の中から問うている。 「最近、平沢しのぶさんをあなたの車に乗せたことがありますか」 「いいえ、ありません」  市橋は那須の質問の真意を測りながら答えた。 「乗せていても一向に差し支えありませんよ。平沢さんはあなたのお得意先でしたからね、ちょっとそこまでというような形で便乗したことはありませんか」 「ありません。それがどうかしたのですか」 「すると、ちょっと困ったことになります」  那須が本当に当惑したような表情をした。 「困ったことと言うと……」 「平沢さんの死体から、手の爪の間に生前、なにかをかきむしったような繊維のくずが発見されたのです」  那須はこの意味がわかるかと問うように一拍言葉を切って、市橋の顔を覗《のぞ》き込んだ。  市橋は那須の言葉が含む重大な意味が咄嗟《とつさ》にわからないようであるが、不安の色を濃くしている。 「平沢さんの指の爪から採取された繊維を、念のためにあなたのマイカーのシートの繊維と比較対照したのです。ぴたりと一致しましたよ」  市橋が顔色を変えた。 「そ、そ、それがどうしたと言うのだ。同じシートの車は他にもある。繊維が一致したからと言って、私の車のシートとは限らないだろう」  言葉遣いが崩れた。 「それが、正確にはあなたの車のリアシートに敷かれていた上がけの繊維でした。これは車に付属していたものではなく、あなたが独自に買って、リアシートにかけていたものでしょう。同じ上がけがあなた以外の車に用いられている確率は極めて低い。  私どもとしては、平沢さんの指の爪の繊維があなたの車からきたと断定せざるを得ません」  那須がぴしりと止《とど》めを刺すように言った。 [#改ページ]   不条理な慰霊      1  市橋洋司はついに犯行を自供した。 「私は新村優子さんを殺しました。私は以前から彼女に焦《こ》がれていました。  彼女も私のことを嫌いではないとおもっていました。  八月七日午後三時ごろ、車で狭山ヶ丘駅付近を通りかかると、折からの夕立の中を、新村優子さんが傘をさして歩いていました。ひどい土砂降りで傘はほとんど役に立ちませんでした。私が送って行ってあげようと声をかけると、優子さんは喜んで車に乗り込んで来ました。そのとき、私は優子さんが私に気があるとおもいました。  私が夕立があがると虹《にじ》が出るかもしれない、こんな機会はめったにないので、湖畔から虹を見ないかと誘うと、優子さんは同意しました。そのまま狭山湖の方へ車を走らせて、以前から目をつけていた県境に近い武蔵村山市の廃屋まで車を乗りつけて、ちょっと雨があがりそうにないので、この家の中で雨宿りをしながら待とうと誘いました。優子さんは不安になったらしく、もう虹は見なくてもいいから帰りたいと言い出しました。  私はこのチャンスを逃したら、二度と優子さんが私の誘いに乗ってこないことを悟って、激しい夕立の中、人目のないのを幸いに、無理やりに廃屋の中に引きずり込みました。そして、そこで彼女を犯しました。  犯した後、優子さんは泣きながら、絶対に許さない、訴えてやると言ったので、彼女を生かしてはおけないと判断して、持ち合わせていた犬のロープで首を絞めて殺しました。  優子さんの死体の前でその始末を考えているとき、突然、外国人の女が廃屋の中に飛び込んで来たのです。彼女は優子さんの死体と私を見て、そこでなにが起きたのか咄嗟《とつさ》に悟ったようでした。  私は彼女を生かしておいては、優子さんを殺したことが露見するとおもって、逃げようとした彼女に飛びかかって、優子さんを絞めた同じロープで首を絞めて殺害しました。  偶然の成り行きとはいえ、二人を殺してしまった私は、事の重大さに震え上がりました。でも、このまま死体を放置しては、二人を殺したのが同一犯人の仕業であることがわかり、万一捕まったときに死刑になるとおもい、外国人女性の死体を車に積んでいた毛布で包《くる》んで廃屋の床下に埋め、優子さんの死体は車に積み込んで、宮城県の山地に運んで埋葬しました」 「平沢しのぶさんを殺したのはなぜか」 「優子さんと外国人女性を殺した廃屋では、平沢さんと以前、情交したことがありました。彼女を乗せて狭山湖方面にドライブに行って、あの廃屋の近くを通りかかったとき、平沢さんが小用を足したいと言い出して、廃屋に入り込みました。  平沢さんが廃屋の環境に刺激をおぼえたらしく、私に情交を求めたのです。  外国人女性の死体が発見されたとき、平沢さんはもしかしたら私の仕業ではないかと冗談めかして言いました。そのとき、私が平然としていればよかったのですが、ついうろたえてしまったために、そのときから平沢さんは私に疑いをかけたようです。  優子さんを廃屋に連れ込むとき、もみ合ったはずみに、優子さんの通学定期券が車の中に落ちたことに気がつきませんでした。その後、平沢さんを私の車に乗せたとき、優子さんの定期券を拾われてしまったのです。  平沢さんは私に突然、新村優子とはだれかと聞きました。私は不意打ちを食ってうろたえました。平沢さんはヤクザの親分の愛人であることに疲れていて、親分と別れて私と結婚したいと言いだしました。私は平沢さんと関係は持っていたものの、彼女と結婚する意志はありませんでした。  私が断ると、女子大生の行方不明と東南アジア女性殺しは私の仕業だろう、警察に届けてやると、私を脅しました。  彼女の口を封じるために結婚しても、一生、彼女の顔色をうかがいながら脅《おび》えつづけなければならないでしょう。私は平沢さんの奴隷になって過ごす一生を考え、彼女を殺さなければならないと決意しました。  昨年十一月二十七日夕刻、平沢さんを結婚について最後の話し合いをしようと誘い出し、途中睡眠薬入りの飲み物を飲ませて意識が朦朧《もうろう》としたところを、山中湖付近の山中で、車内で平沢さんを殺害しました。  死体を青木ヶ原の樹海に捨てて、家に帰って来ました。  いまは三人を殺したことを深く後悔しております。  新村優子さんを殺すつもりはありませんでした。優子さんを犯した後、彼女が私を訴えると言わなければ、そしてそのとき、外国人女性が廃屋に飛び込んで来なければ、二人を殺す必要はありませんでした。  また二人を殺したことを平沢さんに悟られなければ、彼女も殺さなかったはずです。優子さんの死を無駄にしないために外国人女性を殺し、また二人の死を無駄にしないために平沢さんを殺してしまったのです。  私が捕まっては、三人も殺した意味がありません。私が無事に逃げおおせて、初めて三人の死も無駄ではないことになります。  優子さんの死体の捨て場所を探して、以前何度か行ったことのある宮城県の、山中に埋めた後、鳴子町に出ました。そして、市の一隅に建っている記念塔の前へ来たとき、偶然、時計塔の日付が前日のまま時計が止まっているのに気がつきました。なにか事故があって、時計が前日の日付のまま止まってしまったようです。  いずれ間もなく日付と時刻は復元されるはずです。私は咄嗟に、それがアリバイ工作に利用できるとおもいたちました。しかし、時計塔だけでは心もとないので、一昨年、鳴子町のこけし祭りを見物した際撮影した写真を、アリバイを裏づける証拠として提出したのです。被写体の一人である町の住人が死んでいるとはおもいませんでした」      2  市橋の自供によって、事件は解決した。  雪解けを待ち、市橋に案内させて、宮城県側の栗駒山山域の山林から新村優子の遺体が発見された。  四月十八日、新村優子は変わり果てた姿となって、八か月ぶりに自宅へ帰って来た。  新村優子のしめやかな葬儀に、所沢署の黒田や東大和署の捜査本部員が会葬した。 「犯人は検挙されましたが、被害者の生命は返りません。捜査員にとっては悲しい焼香ですね」  黒田が憮然《ぶぜん》とした表情で言った。 「市橋は自分が捕まっては、三人の死が無意味になるとうそぶいていました」 「犯人にとって意味あると主張する殺人を、彼はどのようにして償うつもりだったのでしょうか」  棟居が言った。 「犯人が逃げ切ることが、彼が犯した罪を意義あるものにするとすれば、我々は被害者の死を無意味にするために犯人を追跡し、捕らえたようなものですね」  鈴木が言った。 「犯人の恐るべき理屈です。盗人にも三分の理と言いますが、こういう理を考えている犯人は恐ろしい。前に殺した被害者の生命を無にしないためには、次々に無限に殺していかなければならないことになります」  黒田が言った。 「盗人の理ではなく、犯罪者の不条理ですね。彼はその不条理をいまでも確信しているのでしょうか」  鈴木が問うた。 「市橋は恐らく死刑は免れないでしょうが、私はべつの意味から死刑は反対です。無法に生命を奪われた被害者の最大の慰霊は、犯人に報復することではなく、犯人が罪を悔いることであり、真人間に立ち返ることだとおもいます。犯行に対するなんの後悔もせず、悪人のまま死刑に処せられては、被害者の霊は浮かばれないでしょう。  我々は犯人を捕まえることはできても、犯人の内心に立ち入ることはできません。ねがわくば市橋に刑が執行されるまでに、真人間に立ち返ってもらいたいものですね」  棟居の声が湿った。  彼らの焼香の番がまわってきたとき、黒田が被害者の遺影の前になにかを供えた。それは被害者の通学定期券であった。  黒田は焼香が終わると、霊前にいったん供えた定期券をふたたび取り上げた。  焼香後、棟居は黒田に問うた。 「あの定期券はどこにあったのですか」  平沢しのぶの居宅は厳重に調べられて、新村優子の遺品があれば、必ず発見されたはずである。 「それが奇妙なところにありました」 「奇妙なところ?」 「平沢しのぶが消息を絶った後、彼女の二匹の飼い猫がペットホテルに預けられましたね」 「ペットホテルに預けたのは、平沢のマンションの管理人でしょう」 「管理人は、飼い猫と共に、飼い主が猫にあたえていた好物のキャットフードの箱をペットホテルに持参して行ったそうです。そのキャットフードの箱の中に新村優子の定期券が入っていたのです」 「平沢はそんなところに新村優子の定期券を隠していたのですか」 「平沢にしてみれば、市橋を脅迫する重要な切り札として、隠し場所を工夫したのでしょう。定期券の中には、市橋が撮影した新村優子の写真が入っていました。自分を殺す犯人が撮影した写真を、被害者が気に入っていたとは皮肉ですね」  黒田が言った。 「ところで、平沢しのぶの飼い猫はどうなるのでしょう」  鈴木がおもいだしたように言った。 「そうそう、水島《みずしま》刑事から聞いたことですが、あの猫の嫁入り先が決まったそうです」  棟居が言った。 「ほう、どちらに決まりましたか」  黒田と鈴木が棟居に視線を集めた。 「一匹は新村家に、もう一匹は木原登美子が引き取りましたよ」 「木原登美子と言えばトウイの雇い主の……」 「そうです」 「それはまた妙な因縁ですね」 「これも事件の因縁でしょう。木原登美子はトウイの死体に付着していた猫の毛から、平沢の飼い猫のことを知って、そのうちの一匹を引き取ると言い出したそうです」 「不幸で悲しい事件でしたが、わずかな救いではありますね」 「まあ、これで猫も野良にならずにすみましたよ」  捜査員たちはなんとなくほっとしたような表情を見合わせた。 本書は一九九九年七月、実業之日本社より刊行されたものを文庫化したものです。 角川文庫『棟居刑事の悪夢の塔』平成14年5月25日初版発行