[#表紙(表紙.jpg)] 恐怖の骨格 森村誠一 目 次  プロローグ  無届けの「不確実」  殺意の確認  性奴の契約  死の谷行  天王星《ウラノス》計画  延命の性具  生存の条件  後継者の思惑《おもわく》  風雪の配置  苦悩の搾《し》め木《ぎ》  猜疑《さいぎ》の避難所《シエルター》  閉塞《へいそく》された谷  落石の下敷き  絶望への登攀《とうはん》  容疑の俯瞰《ふかん》  目的の感触  残渣《ざんさ》の屈辱  器具の裏切り  危険な橋  欠格の動機  エピローグ [#改ページ]    プロローグ  五月下旬の暗い夜の午前零時ごろ、福井県|坂井《さかい》郡|三里浜《さんりはま》の海岸に二十トンぐらいの漁船が着いた。梅雨前線のもたらした冷たい霧雨の中を、船はいっさいの灯《ひ》を消して陸に近づいて来た。  暗い海の中に、黒い小さな船体は、そのまま闇《やみ》の一部分のように溶けこんで、たとえ海岸に立って沖に目を凝らしていた人がいたとしても、見分けられなかったであろう。  沖合い一キロほどのところまで近づいた船から、一個のゴムボートが下ろされて、闇の中で分離した。ゴムボートには二人の人間が乗っていた。一人がオールを漕《こ》ぎ、もう一人は黙ってうずくまっていた。  ボートは間もなく海岸へ着いた。二人は二言三言なにかささやき交わすと、うずくまっていたほうがボートから下りた。細長いズックの袋を背負っている。  漕ぎ手だけになったボートはふたたび闇の沖合いへ戻って行った。海岸に残された男は、去って行くボートにちょっと感傷的な視線を向けたようであるが、すぐにそれを振り切るように、背中のズックの袋をゆすり上げると、灯火の届かない闇のたまりの方へ向かって歩きだした。  沖合いで漁船とゴムボートがふたたび合体したころ、上陸した男の姿は、最初から存在しなかったかのように、霖雨《りんう》しきりな裏日本の寂しい海岸のどこかへ消えてしまっていた。  沖の漁船も、ゴムボートを拾い上げると、やって来た暗い夜の海の、最も闇の濃い方角へ向かって去って行った。  この雨の夜の上陸者を見ていた者は、だれもいない。彼がどこから来て、どこへ行ったか、それを知る人は、いなかった。 [#改ページ]    無届けの「不確実」      一  翌年三月二十一日午前十時、富山県|高岡《たかおか》市郊外の、紀尾井《きおい》商事私設飛行場から、一機のエアロスバル機が、飛び立とうとしていた。 「止《ガス》め板《トロツク》、取りはずし」  パイロットの手塚益夫《てづかますお》がチェック・ポイントを一つ一つ呼称する。 「オーケー」  整備員の尾沢清二《おざわせいじ》が親指と人さし指で円《まる》をつくった。 「燃料計」 「オーケー」 「フラップ・ダウン」 「オーケー」  点検手順表《チエツク・リスト》にしたがって、飛行前のチェックが行なわれている。  外部点検が終ると、手塚は機内点検に移る。パイロットといっしょに双生児のようによく似た、美しい若い女性二人と三十前後の男が乗り込んでいる。  すべての点検が終ると、パーキングブレーキのかかっていることを確かめたうえでエンジンをかけた。暖機運転に入って、ラジオスイッチをオンにし、各計器のチェック。  暖機も終り、エンジン全開、出発準備は完了した。東京まで約三時間の飛行である。この季節には珍しい帯状の高気圧が日本列島を被《おお》い、全国的な好天気になっている。  飛行経路にあたる航空気象台からも、有視界飛行に絶好の気象状況と予報を告げてきている。  手塚が窓から左手を出し、親指を握り拳《こぶし》の上に立てた。 「準備よし」の合図である。尾沢が車輪止めを外して、「オーケー」の合図を返す。 「気をつけて」  地上に立っていた見送りらしい数人が、機内の人間に手を振った。プロペラの音でたがいの声は聞こえないが、機内からも盛んに手を振っている。  機は滑走路の端に向かって地上滑走《タクシング》に入った。ここでブレーキをはずし、スロットルをいっぱいに入れる。機体はみるみるスピードを上げて、大地から車輪が離れた。  目的地は埼玉県|川越《かわごえ》市にある、同社所有の飛行場である。同機に乗った人間は、パイロットの手塚と、紀尾井本社筆頭理事兼会長である椎名禎介《しいなていすけ》の娘の城久子《きくこ》と真知子《まちこ》と、姉妹の付き添いとして便乗した北越克也《きたこしかつや》の四人であった。      二  同日午後一時四十分、埼玉県川越市郊外にある紀尾井商事の私設飛行場では、数人の人間が緊張した面持ちで空を見上げていた。今朝十時に高岡飛行場を飛び立ったエアロスバルが、予定時刻を過ぎても姿を現わさないのである。予定では、遅くも一時三十分には、着いていなければならない。 「遅いな」  紀尾井重工業企画部長の佐多恒彦《さたつねひこ》が腕時計を覗《のぞ》いて、いらだたしそうな視線を空へ向けた。佐多は椎名城久子の許婚者であると同時に、椎名禎介の甥《おい》でもある。 「予定の飛行経路は、北アルプスを越えて、直線《ダイレクト》に飛んで来るはずなんだろう」 「風の状態によって、二、三十分の遅れは出ますよ」  佐多に答えたのは、城久子の妹の真知子の許婚者である島岡正昭《しまおかまさあき》である。島岡は紀尾井重工と同系列の紀尾井原子力工業の技師である。 「地上にいるきみに、よく空の上の風の状態がわかるね」  佐多が皮肉っぽく言った。 「推測しただけですよ。気流や気象の状況によってコースを変更したかもしれません」 「勝手に経路を変更するだろうかね?」  佐多が、まったく好意のない白目がちの目を、島岡に向けた。 「そりゃパイロットの判断によりますよ。とにかく大切なお客様を乗せているんですからね」  島岡は小馬鹿にしたように言った。この二人は、共に社長令嬢の許婚者ということで、ことごとに張り合っている。  資本金数百億の中核会社十一社、傘下会社六十五社を数える紀尾井|企業集団《グループ》のワンマンである筆頭理事、椎名禎介の二人の娘のそれぞれの婚約者として、彼らが猛烈なライバル意識を燃やすようになったのは、むしろ当然の成行きと言ってもよい。  日本の六大財閥の一つに数えられた紀尾井商事の金属部長だった椎名禎介は、戦後の財閥解体によって、数十社に分割された紀尾井グループを、集中排除法の網目をくぐって、不死鳥のようによみがえらせた人物である。  単によみがえらせただけではなく、戦前は、六大財閥の中では最下位にランクしていた紀尾井を、財界の主導権を握るまでに成長させた。いまの紀尾井は財界のリーダーとして、政権を更迭《こうてつ》できるくらいの力をもっている。  椎名のやり口は、まさに目的のためには手段を選ばない徹底したマキャベリズムである。  グループ再合同のために、役に立たない子会社はどんどん斬《き》り捨て、メリットのある企業だけを吸収、テコ入れした。儲《もう》かると見ればどんな分野にも資本を展開していく。稀に抵抗する者があれば、大資本の圧力にかけて容赦なく蹂躙《じゆうりん》してしまう。  椎名の冷酷な�帝国主義�の前に、一家心中をした中小企業の経営者もいた。  とにかく彼は、�紀尾井帝国�の再編成と拡大のために手段を選ばなかった。  椎名のかかげた「拡大四政策」は、二重投資の排除、集中生産、研究部門の集中化、純血《サラブレツド》の保持である。  特に�サラブレッド政策�は、外部から「鉄筋の檻《おり》に飼われた豚同士の近親結婚」などと悪口を言われながらも、グループの結束をかためるのに、大いに役立った。  血のつながりが濃くなるほどに、グループ内の人間関係は、何代も連結する。閨閥《けいばつ》の融合が、グループの同族意識を強める。こうして、系列内の幹部だけでなく、オール紀尾井の社員に、社内結婚が奨励された。  新入社員は、入社と同時に�結婚台帳�に登録される。会社主催の集団見合いや、社内結婚斡旋所の紹介で結婚した者が、既婚者の七十パーセントを占めるほどである。  椎名城久子と佐多恒彦、椎名真知子と島岡正昭の婚約も、椎名禎介の決めたものである。禎介の意志は絶対であり、当人たちの意志など問題ではなかった。  また城久子と真知子姉妹がどう考えていたかわからないが、佐多と島岡にとってはこの上もない婚約であった。グループのワンマンであり、紀尾井帝国の帝王たる椎名禎介の女婿になれば、その将来は約束されたようなものであった。  たとえ彼らの立場が、種馬にすぎなくとも、種馬としての待遇だけでも、まぶしすぎるくらいに日当りのよい場所なのである。椎名禎介には男の子供がいない。したがって、彼の後継者として、巨大な椎名帝国の次期リーダーになれる可能性もあるのだ。  佐多と島岡の対立意識の背景には、大きな思惑がからまっていた。  佐多にはもともと椎名禎介の甥として、椎名一族の一人という意識がある。禎介にはすでに死んでいるが、弟が一人いた。それが佐多の父親に当たるわけで、その一人息子たる佐多は、禎介のたった一人の甥ということになる。  それだけに、彼の同族意識は強い。  一方、島岡は、T大理学部在学中に、すでに異色の研究論文を発表して、学界の注目を浴び、紀尾井原子力工業に引っ張られてきた人間である。  係累を増やしたがらない禎介の目にとまり、例外的に娘の婿の候補者に据《す》えられたのは、その優秀さに加えて、抜群の政治力に恵まれていたからである。  現在、同社の極秘研究を行なっている特別技術研究所、通称『特研』の主任技師である。秀才にはちがいないが、椎名一族にはなんの血のつながりももっていない。  だから佐多の島岡を見る目には、主筋の者が家来を見下す傾きがある。  それに対して島岡には、とりたててなんの能もない佐多が、血のつながりのおかげで、紀尾井のエリートコースに乗せられたにすぎないという蔑視《べつし》があった。  二つの反感と憎しみをこめた視線が、二人の女性を間にはさんで、宙にからみ合い、火花を発するようであった。  彼らの周囲の人間も、二人の反目を知っている。しかしどちらの味方をするわけにもいかない。いずれも椎名禎介の女婿になる身分であるから、どちらかに味方をして、一方からにらまれるのは危険であった。 「きみ、高岡のほうには問い合わせたのか?」  佐多は、苦々しそうに島岡から目を背けると、そばにいる秘書室長の南川《みなみかわ》に言った。 「はっ、先刻から何度も電話をかけているのですが、先方も、午前十時に予定どおり飛び立ったと言い張るだけで、それ以上のことはわかりません」 「飛行経路の途中でわからないのか?」 「それがなにぶん有視界飛行なものですから」  計器の助けを借りず、人間の目だけに頼って飛行する有視界飛行方式では、途中でどのようなコースを取ってもよいし、また変更してもかまわない。高岡から電話で受けた連絡によれば、北アルプスを横断してダイレクトに飛んで来るということであったが、山脈の上で気流の状態が悪ければ、コース変更をした可能性も十分考えられる。  それだと当然、山脈を避けて、迂回路《うかいろ》を取ることになるから、時間も余計にかかる。しかし、機から何の連絡も入らないのが気にかかる。 「途中から連絡してこないのか?」 「今度の飛行は、一般の飛行場を使いません。そのために飛行計画書《フライトプラン》も出していない。途中で連絡するはずがありませんよ」  島岡がまた小馬鹿にしたような口をきいた。 「きみに聞いているんじゃない」  佐多はいまいましそうに言ったが、島岡に言われて、なにごとか気がついたようであった。  出発飛行場と目的飛行場が別である場合には、パイロットは必ず飛行場を経由して運輸省に飛行計画書を提出することを義務づけられているが、姉妹の乗った飛行機は、出発地も目的地も私設飛行場なので、フライトプランを出していない。見つかれば当然法律違反となるが、小型機がうようよ飛んでいる日本の空では、事故でも起こさないかぎり見つからない。  所定の位置通報点における通報にしても、有視界飛行の場合は、ほとんど行なわない。したがって途中でコース変更をすれば、機上から目的地の飛行場か、どこかの航空路管制所に連絡をしてこないかぎり、目的地に着くまで、所在がわからなくなるのである。 「こっちから呼んでいるのか?」 「はい、先刻から呼びつづけているのですが、応答がありません」  この私設飛行場にあたえられている専用周波数で、到着予定十分前より同機に対して呼び出し通信を行なっているが、応答がなかった。飛行機の高度に比例して、無線の有効範囲はひろがる。エアロスバルが谷の間を低空で飛んででもいなければ、当然こちらからの呼びかけは届くはずであった。  時間から考えても、この近くに来ていなければならない。それにもかかわらず通信設定ができないということは、不測の事故を予想させるものである。 「まだ燃料はあります。もう少し呼び出しをつづけながら待ってみましょう」  南川が打つ手がないといった表情で言った。実際いまの階段では、待つ以外に方法がない。天候はあいかわらず危なげがなく、事故に結びつく要素はなに一つない。  しかし一同の期待もむなしく、エアロスバル機はいっこうに姿を現わさなかった。  航空機の捜索救難を必要とする状態を、位置通報、または運航状態通報が予定時刻より三十分すぎてもない場合と、到着予定時間から三十分すぎても目的地に到着しない場合を「不確実の段階」として、RCC(救難調整本部)に通報することになっている。  不安と焦燥のうちに午後二時をすぎた。通信の設定は依然としてできない。  いっさいの公的機関に届けを出さない�無届け飛行�であるうえに、専用周波数を使っての通信捜索であるから、同じ周波数を使っている者がいなければ、現在のエアロスバル機の不確実の段階は、関係者以外には気づかれないはずであった。  時間が経過するほどに、「不確実」は、「遭難」の段階に移行してくる。同機は燃料を満載したから六時間半から七時間は飛べる。比較的足の長い機である。時間から言えば、まだ燃料は切れていない。したがって通信機の故障ということも考えられる。  いずれにしても予定時間を遅れて、連絡が取れないということは、不安をかきたてた。 「飛行コースはわかっているんだろ。こちらからも捜索機を飛ばして探させろ」  二時を過ぎても姿を見せないエアロスバルに、佐多はもう待ち切れないといったように南川に命じた。  佐多に言われるまでもなく、南川はすでに不測の事態を予想して、秘かに捜索の手配を行なっていた。とにかく乗っているのは、ただの人間ではない。  だが無届け飛行なので、公けに捜索できない。それをするのは遭難が確定してからのことだ。午後二時十分、紀尾井本社所有のビーチ機が飛び立っていった。それより少し前に高岡の飛行場から同じく紀尾井の社用ヘリコプターが、エアロスバル機の去った北アルプス方面に向かって飛び立った。  二つの飛行場の関係者には、エアロスバル機の不明とその捜索について、かたく箝口令《かんこうれい》がしかれた。とにかく隠し通せるだけ、隠そうという意志が働いた。そのときの関係者の中に、佐多と島岡に逆らえる者はいなかったために、箝口令は忠実に守られた。 [#改ページ]    殺意の確認      一  高階謙一《たかしなけんいち》は鬱屈《うつくつ》した生活をしていた。まるで死んでいるような毎日であった。彼は神奈川県S市の市役所に勤めていた。配属は市民課である。  毎日、市民の依頼を受けて戸籍謄抄本やら印鑑証明などの諸証明書をつくったり、婚姻届や離婚届などの市民生活関係の届け出を受けつけるのが、彼の仕事であった。  仕事は楽で、緊張もない。民間企業とちがって、利益を上げる必要もなければ、ノルマもない。決められた時間だけ役所に居ればよいのだ。  東京に近い土地柄から、土地成金が多い。先祖伝来の土地を売って巨額の金をつかんだ農夫上がりの市会議員が、市庁舎内をわがもの顔に闊歩《かつぽ》しているのに目をつむれば、特に気を使わなければならない人間もいない。  まずは気楽な勤めであった。  だがここには、自分のすべての情熱を燃やして取り組むべき対象がなかった。届け出の受付けと、証明書の発行、ただそれだけである。  自分の可能性の限界に向かって挑戦していく、おのれのもてる能力のすべてを要求されるといった完全燃焼がない。  それがちょうど自分にはふさわしいと高階は思っていた。 「この世に自分を完全燃焼できる対象などなにもない。高性能の車が、交通渋滞に阻まれて、のろのろと走っているうちに、坦々《たんたん》たるハイウエーに出ても、その本来の性能を発揮できなくなってしまうように、人は、自分を不完全燃焼させている間に、なしくずしに燃焼力を失ってしまうのだ」  高階はむしろ自虐的な気持から、単調な生活にどっぷりと全身を浸していた。  たるんでいれば、少なくとも古い傷痕は痛まない。新しい生活に挑戦して、新たな傷を受けるのを恐れているのではなく、ただ古傷だけを庇《かば》うような生活が、ここ五年ほど続いている。  しかしこの職場さえ、過去の履歴を隠して、ようやく得ることができたのである。大学を出たのが五年前、どこにも就職先がなかったのを、伝《つて》をたぐってようやくこの役所にもぐりこんだ。  役所には女子職員もいた。しかし高階は、彼女らのいずれとも恋愛をしなかった。彼女らの大半が、地元の農家の娘でその泥臭《どろくさ》さを嫌《きら》ったからではない。高階にそのような情熱が湧かなかったのである。  役所の中で、彼は�変人�で通っていた。だれとも交際せず、吏員《りいん》たちでつくっているいかなるクラブ、同好会にも入らなかった。  年に一度の役所の慰安旅行にもいかない。役所と、市内に借りたアパートの部屋を忠実に往復しているだけで、ただひたすら自分の殻《から》の中に閉じこもっている。  彫りの深いニヒルなマスクに、アプローチして来た女も何人かあったが、彼の氷のような拒絶というより、まったくの無反応によって、あきらめてしまった。  最初のうちは、そんな彼にかえって興味をそそられた女性もいた様子である。だが、このごろでは、彼の無反応ぶりは、役所の中に知れわたり、だれも近づく者がない。  女性だけに反応しないのではなく、すべての人間に興味をもっていないようなのである。そのために、世話好きの人間も敬遠し、入所後五年たったいま、高階の自閉の姿勢は、救い難いまでに強くなっていた。      二  その彼に珍しく客が来た。  祝日の金曜と、日曜にはさまれた半日の勤務に、すっかり弛緩《しかん》した土曜の朝である。  カウンターにいた女子職員から取り次がれて、面を上げた彼は、ホールに立ってニヤニヤしている見覚えのある顔を見つけた。 「佐多!」  無表情だった高階の面が、激しい愕《おどろ》きの色を浮かべてこわばった。どうやら会いたくない人間らしい。 「久しぶりだな。あいかわらずつまらなそうな顔をしてるな」  佐多はカウンター越しに笑った。 「それでおれに何か用なのか?」  最初の愕きを鎮《しず》めた高階は訊《き》いた。 「なん年ぶりかで会った昔の仲間に、何か用かとはご挨拶《あいさつ》だな」  佐多の笑いは皮肉っぽくなった。底になにか含んでいる笑いかたである。 「それじゃあ、この町に用事があって、ついでに寄ってくれたのか」  と言いかけて、彼は相手が自分の居所を知らないはずであることに気がついた。 「どうしてここがわかったと言いたいんだろう」  佐多は敏感に、高階の胸の中を読んだ。 「角田《つのだ》さんに訊いたんだよ。このへんであんたの唯一の親戚だからな」  角田というのが、この職場を紹介してくれた知人であった。そう言われてみれば学生時代、何度か角田の名前を佐多にもらしたことがある。 「とにかく久しぶりに古い友達が訪ねて来たんだ。こんなところで立ち話もないだろう」  佐多がカウンターの外からうながした。 「おれのほうにはべつになにも話はないよ」 「おれのほうにはあるんだ」  笑っていた佐多の目が、ギラリと光った。いやだとは言わせないという強圧的な姿勢が感じられる。 「いま仕事中なんだ」 「三十分くらい抜けられないことはないだろう」  これで佐多が高階に特別の用事をもってやって来たことがわかった。昔のおもいで話を語るために来るような人間ではない。もっとも高階にとっては、忘れたいおもいでばかりであったが。 「ここだったら、いいわよ」  見かねたらしい古手の女子職員が、そっと耳打ちしてくれた。その好意がかえって有難迷惑である。  高階は佐多につき合わざるを得なくなった。 「どこか二人だけで話せる静かな場所はないか?」  佐多は自分で誘い出しておきながら、勝手なことを言った。 「喫茶店では、まずいのか?」 「うん、周囲に人間のいないところで話したい」 「人に聞かれてはまずい話なのか」 「まあな」  佐多は、また底になにか含んでいる笑いかたをした。 「そういう話は、あまり聞きたくない」 「いや、ぜひとも聞いてもらうよ。そのためにあんたの行方を探してやって来たんだ」 「わかった。とにかく聞こう」  高階は逃れられないと観念した。 「どこかいい場所があるか?」 「この先をちょっと行ったところにモーテルがある。そこはどうだ?」 「モーテル?」  佐多はちょっと驚いた表情をしたが、すぐニヤリとして、 「うん、モーテルとはアイデアだな。そこなら確かに二人だけになれる。さては、あんたよく利用しているとみえるな」  高階の通勤路の途中にあるので覚えていただけだが、あえて弁解はしなかった。 『ニューシャトウ』というそのモーテルでは、男二人の客をさして怪しみもせずに、部屋へ通してくれた。その種の客も案外あるのであろう。 「おれたちどうやら、ホモとおもわれたらしいぞ」  セックスのための設備しかないような室内を見まわして、佐多は苦笑した。 「それで話というのは、どういうことなんだ?」  高階は、いやな話は早く聞いて、役所へ戻りたいという態度を露骨に見せた。 「実は、きみに頼みがあって来たんだ」  高階と対《むか》い合うようにして、ベッドの端に腰かけた佐多は、高階の目の奥をじっと覗きこんだ。 「おれにできることか?」 「きみにしかできない」 「言ってみろ」 「話した以上は、絶対に引き受けてもらわなければならないぞ」 「それでは話を聞かないと言ったら?」 「必ず聞いてもらうさ、そのためにここへ来たんだ」 「おれに選択の余地はないわけだな」 「まあ、そういうことだ」 「とにかく聞こう」  高階はあきらめたように顎《あご》をしゃくった。彼は、いつものように相手を拒《は》ね返せない弱味を、佐多に握られている様子であった。 「飛行機が墜《お》ちた」 「飛行機?」 「会長の娘の乗った会社の飛行機が、墜ちたんだ。北アルプスの山中にな。捜索機が、機体の残骸《ざんがい》を発見した。生存者がいるかどうかわからない。それを確認するために、そしてもし生存者がいれば、それを救出するために、至急救助隊を送らなければならない」  かりに生存者がいたとしても、無傷でいるとは考えられない。三月の北アルプスは、まだ完全に冬山の条件を備えている。そんな身体で苛酷《かこく》な環境に晒《さら》されたら、延命は時間の問題である。救援隊を送るにしても急がなければならない。 「いつ墜ちたんだ?」  高階は興味のない表情で聞いた。 「昨日の午《ひる》ごろだ」 「どうせ生存者はいないだろう。まあいたとしても、もう死んでいるよ」 「そんな薄情なことを言うなよ。その飛行機には、おれの婚約者が乗ってるんだ」 「婚約者だって?」 「飛行機には会長の娘が二人乗っていた。その中の姉のほうと、近く結婚することになっていたんだ」 「それじゃあ、こんなところでのんびりしている閑《ひま》はないだろう」 「だからきみに頼みに来たんだよ」 「頼む? 何を」 「飛行機が墜ちたところは北アルプスの奥だ。山に強いきみに救助に行ってもらいたいんだ」 「ちょっと待てよ。どうしておれなんかに頼むんだ。こんなことをしている間に警察か地元の山岳救助隊に救助を依頼すればいいじゃないか。だいいちその連中がすでに救助活動をはじめているんだろう」 「それがまだなんだ。飛行機が墜ちたことは、関係者以外まだだれも知らない。実は事情があって、飛行機が墜ちたということは極力伏せなければならないんだ。そのために公けの機関に救助を依頼するわけにいかない」 「飛行機が墜ちたんだぞ。いつまでも隠し通せるはずがないだろう」 「墜ちた場所は、人があまり近づかない所だし、民間航空路からも外れている。届け出なければ、すぐにはわからない。警察や地元の山岳パトロールが駆けつける前に、おれたちが現場へ行きたいのだ。せめてそれだけの時間を稼《かせ》ぎたい」 「どうして、先に行かなければならないんだ?」 「それを話すからには必ず行ってもらうぞ」  佐多の目が凶暴な光を浮かべた。 「とにかく言ってみろ」 「さっき娘が二人乗っていたと言ったろ。姉はおれの婚約者だが、妹のほうにも婚約者がいる。娘の父親の椎名禎介は、紀尾井グループ絶対のワンマンだ。個人の財産も数十億もっていると言われている。子供はこの二人の娘しかいない。ところがこの椎名が膵臓癌《すいぞうがん》になって余命いくばくもない。椎名はいま東京の邸に新橋《しんばし》から落籍《ひか》した富子《とみこ》という元芸者の二号と住んでいるが、この二号夫人がなかなかのヤリ手で、椎名の死ぬ前に、なんとか籍を入れてもらおうと躍起になっている。籍さえ入れば、数十億の三分の一は相続できるからな」 「椎名には本妻がいるんだろう」 「いたよ。二人の娘の母親だ。それが五、六年前に病死したんだ。そのために富子を引っ張り込んだんだが、さすがに娘といっしょに住むのは気がひけたとみえて、富山にある別宅のほうに住まわせていた。もともと椎名も、死んだ本妻も、その土地の出身なんだ。  死期を悟った椎名は、娘を秘かに呼んだ。結婚のことやら、財産の相続についてはっきりさせるためらしい。秘かに呼んだのは、もしこのことを富子が知れば、どんな妨害をするかもわからないからだ。椎名は死ぬ前のごたごたをできるだけ避けたがっている」 「しかし飛行機が墜ちた後まで隠す必要はないだろう」 「これから先は、おれたちの事情になるのさ」 「おれたちの事情?」 「もしおれが姉娘と結婚したらどうなるとおもう?」 「…………」 「椎名禎介の女婿として、その財産の半分を相続した娘の夫になれる」 「そればかりじゃないだろう。紀尾井グループの中でもかなり羽振りがよくなるはずだ」 「よくわかってるじゃないか。だが同じ事情が妹娘の婚約者の島岡という男にも起きる」 「それは仕方があるまい。子供の相続分は、等しいんだから」 「飛行機が墜ちて死んでしまったかもしれないんだぜ。もしどちらか一人生き残っていたとすれば、椎名の遺産はすべてその一人が相続することになる」  高階は佐多の狙《ねら》っていることの輪郭が、おぼろげにわかるような気がしてきた。 「もし姉が生き残れば、椎名の財産は全部、おれのものになる。しかし妹だけ生きていて、無事救出されれば、島岡が全部つかむことになる。島岡ずれにそんなことをさせてたまるものか」  佐多は見えないライバルに向かって憎悪を剥《む》き出しにした。 「私設救助隊を組織して行っても、妹のほうだけが生きていたら、どうにもなるまい」 「だからこそ、きみに頼んでいるんだ」 「…………?」 「島岡も同じことを考えている。やつもいまごろ必死になって救助隊を編成しているにちがいない」 「…………」 「勝負は、どちらが早く現場へ行き着けるかによって決る」 「何の勝負だ?」 「もちろん、おれと島岡の勝負さ。あんなどこの馬の骨ともわからないよそ者には絶対に負けられない。向うも、おれに負けられないとおもっている。だから、もし姉のほうが生き残っていて、島岡が先に現場に着いたら、どうなるとおもう?」 「ま、まさか」  高階はふと走った連想を打ち消した。そんなことの起こり得るはずがないとおもった。 「そのまさかだよ。島岡が先に着いて、姉だけ生き残っているのを見つけたら、殺すかもしれない。飛行機が墜ちたんだ。いくらでも事故死を偽装できる」 「生存者は一人とは限らないぞ。パイロットもいるだろうし、非常に少ない確率だが全員生存している場合だって考えられる。何人乗っていたんだ?」 「姉妹と付き添いとパイロットの四人だ。生きていられて、都合の悪いやつは、みんな殺してしまうさ。島岡とはそういう人間だ」 「かんじんの妹が死んでしまったら、姉を殺したところで、島岡には一円の得にもならないだろう」 「いちばん危険なのは、姉妹両方とも生存した場合だ。姉を殺せば、姉の相続分は、そっくり自分の妻になるべき妹にまわってくるからな。だからそんなことのないように、こちらが一足先に現場へ着かなければならない」 「島岡が恐れているのは、妹一人が生き残った場合だろう。そこへあんたに先着されるのが恐くて、救助に行くんじゃないのか? 妹が死んでいれば、姉を殺す意味がない」 「だったら、公的の救難機関に救助を求めるはずだ。それをしないのは、後ろ暗い意図がある証拠だよ」 「同じことがきみにも言えるだろう。後ろ暗いところがなかったら、なぜ公けに救助を依頼しない?」 「余計なことは聞くなよ。きみはおれを現場へ案内してくれさえすればいいんだ」 「そうはいかない。そんなわけのわからない救助になんか行けるもんか。北アルプスだったら、ガイドはいくらでもいる。他の人間に頼むんだな」 「それがどうしてもきみでなければ、だめなんだ」 「どうして?」 「きみはまだいちばんかんじんなことを聞いていない。飛行機が北アルプスのどこに墜ちたかということをだ。北アルプスと一口に言っても広いぞ」 「どこなんだ?」 「立山《たてやま》の裏の�幻の谷�だよ。生半可な登山家では冬の間は踏みこめない。立山のガイドでも冬期に入りこんだ者は何人もいないそうだ」  高階には、ようやく佐多の訪ねて来た意図が読み取れた。幻の谷は立山の東面にあり、黒部《くろべ》新山との間にはさまれた深い谷で、いまだその真相が公開されていない、北アルプスで取り残された唯一の秘境である。特に冬期は谷全体がなだれの巣のようになって、なんぴとも寄せつけない。  高階は学生時代の一時期、若さにまかせて、冬期この谷間へ踏み入ったことがある。気ちがいのように山へ登ったのも、ある一つの記憶を抑圧するためであったが、結局、山も役に立たなかった。  幻の谷へ入ったのは、自分を最も苛酷な条件の中へ運びこんで痛めつけるためであった。  並はずれた体力のおかげで、なんとか生きて還《かえ》ることができたが、いまにしておもえば、まさに自殺的な山行であった。彼がその谷へ入ったのは、三番めか四番めである。  その後の公式記録によっても、幻の谷へ積雪期に入った人の数はきわめて少ない。  そのことを佐多は知っていて、高階のところへやって来たのだ。 「それにあの谷を知っている人間でも、だれでもいいというわけにはいかない。きみはいくつもの難しい条件をそろえているんだよ。頼む! ぜひ連れていってくれ」 「もうだいぶ前のことだし、谷の様子も変っている。それに山には素人《しろうと》のあんたを連れていけないよ」 「おれの運動神経のいいのは知ってるだろ。学生時代はボート部に籍を置いて、足腰は十分鍛えてある。体力には自信があるんだ。いいガイドさえいれば、行ける」 「幻の谷にいま入るには、山登りの技術よりも体力が要る。おれはもう何年も山から離れた生活をしていて、身体がすっかりなまっている。案内するどころか、死にに行くようなもんだ」 「体力は、こちらで強いのを付けるから、いくらでもカバーしてやれるよ。きみには現場へ案内だけしてもらえばいいんだ」 「なんと言われようとだめだ。他を探すんだな。友達としていま聞いたことは、だれにもしゃべらずにおく。そろそろ戻らなければならん。失敬する」  高階は腕時計を覗いて立ち上がった。 「待て! 高階」  立ち上がりかけた彼の腕を、佐多がつかんだ。体力に自信があるというだけあって、強い力である。 「おまえ、いつからそんな大きな口をおれにたたけるようになったんだ?」 「脅迫する気か?」 「身分をちょっとおもいださせてやっただけさ。あんたが今日こうやって太平無事に暮らしていられるのは、おれのおかげだということを、いついかなるときでも忘れては困るね」 「べつに忘れてはいない」  高階の語調は弱々しくなった。 「だったら、もう一度そこへ腰を下ろしてゆっくりと話し合おうぜ。なに、市役所の仕事は、あんた一人が欠けても、どうということはない」 「なぜヘリコプターを使わない?」  高階の質問は、すでに相手に屈服しかけていることをしめしていた。 「あの谷には、悪い気流があって、ヘリの入れないことは知ってるだろう。もちろん行けるところまではヘリで行くさ」 「いつ行くつもりなんだ?」 「きみさえよければ、これからすぐに行ってもらいたい。車が待たせてある。救助隊の準備はできている。ヘリですぐに現場へ飛べるようになっているんだ」 「馬鹿なことを言うなよ。ハイキングに行くんじゃないぞ。役所も黙って出て来たままだ」 「役所なんかどうだっていい。どうせ大した給料もらっているわけじゃねえだろう。今日はどうせ半ドンだし、明日は日曜だ。とにかく役所はおれのほうで手を打つ。いまは一刻を争う」  佐多はうむを言わせぬ口調で押しかぶせて、 「いまから発《た》てば、今日中には現場の近くへ行けるだろう。まだ島岡も動きだしていないはずだ。こっちにはきみという秘密兵器があるから、一歩先手を取れる」 「そんな簡単に言うが、この季節に幻の谷へ入るには、相当の準備と装備が必要だ。人間も、医者を入れて最低四人は要《い》る。いずれも山に強いやつがな。これからすぐに出発だなんて、無茶だ。自殺行為だよ」  高階は捉《とら》えられた獲物があがくように最後の抵抗をした。 「無茶でも自殺行為でもやってもらわなければならない。遅れたら意味がないんだ。必要なものはなんでも言ってくれ。装備や人間はこっちでそろえる」 「生存者の確認は取れてるのか?」 「わからない。悪気流に妨げられてヘリが低く降りられないんだ。ただ高空から、機体の残骸だけは発見した。胴体の部分がすっぽり残っているので、もしかしたら、生存の可能性がある」 「まだ三月だぞ。さいわいに天気がつづいているが、夜はかなり冷える。たとえ息があったとしても、とても生き延びられないよ」 「きみはあの谷の開拓者のくせに、忘れていることがある」 「忘れていること?」 「谷には温泉が湧《わ》いている」 「温泉の近くに墜《お》ちたのか」 「そうだ。だからもし生存者がいれば、二、三日は生きのびられる可能性がある。少なくとも寒さにやられるおそれはない」 「それじゃあべつの危険がある」 「べつの危険?」 「亜硫酸ガスだ。あの温泉は、有毒ガスを間欠的に噴き出す。風下にでもいたら、もろにやられる」 「風上にいたら、たすかるチャンスがあるだろ」 「それはわからない。ガスから逃れても、なだれにやられるかもしれない」 「とにかく生きているチャンスがまったくないわけじゃないだろう?」 「…………」 「だったらなおのこと急がなければならない。さあ、話は決った。これからすぐに行ってもらおうか」  佐多は立ち上がった。いやもおうもなかった。まるで符節を合わせたように室内電話が鳴った。素早く送受器を取った佐多は、 「うん、いま出る。この場所はわかってるな。なにフロントから、よし、車をすぐ出せるようにしておいてくれ」と答えた。  彼は手まわしよく運転手に後を尾《つ》けさせていたらしい。 [#改ページ]    性奴の契約      一 「木屋《きや》さん、久しぶりに山登りをしませんか」 「山? いったいどこの山へ?」 「北アルプスですよ。費用装備いっさいこちらもちで、案内料も十分はずみますがね」 「というと、だれかを案内するのですか?」 「そうです。しかも急ぐのです」  木屋幸平《きやこうへい》は、同じアパートに住む村田三郎から、いきなり山へ行かないかと誘われて、ちょっと相手の意図をはかりかねて面喰った。  村田は、丸くふっくらした満月のような面立ちで、鼻が丸く、目が細く小さい。下唇がやや突き出ていて厚ぼったい。首すじと肩ががっちりしていて、重厚な体躯《たいく》をもっている。手足が太く骨格が大きいので、一見肥満しているように見えるが、肉質はひきしまっている。  年齢は四十前後で、いったいどんな職業の人間なのかわからないが、数か月前にこの高級アパートの中でも、最高の部類の部屋に移って来て、いつも悠々と暮らしている。  家族はなく、時折り家政婦らしい老女が、部屋の掃除やこまごました家事をしにやって来る。女も時々やって来る様子なのだが、木屋はその姿を確認したことがない。  木屋が、村田と口をきき合うようになったのは、近くにできたサウナ風呂でいっしょになったのがきっかけである。  それまでも、同じアパートの住人として廊下などで出会えば、目礼ぐらいは交していた。 「やあ、あなたもサウナ党ですか。贅肉《ぜいにく》を取るにはこれにかぎりますな。それにソープランドとちがって猥褻《わいせつ》なところがない」  と屈託のない笑いを投げかけてきた。健全ムードをコマーシャルにしているが、個室のつくりになっていて、裸の男女が二人きりになれる仕組みになっているので、ソープランドとのちがいは、蒸《む》し方だけにあるようなものだ。  木屋がここへ来たのは、女を連れこむためでも、贅肉を取るためでもない。むしろ女の躰にザブ浸《づ》けになって、ふやけてしまった身体をひきしめるためであった。  したがって、個室に入る必要がなく、大部屋で汗を流しているときに、村田とばったり顔をあわせたのである。  最初から裸で出会ったために、たがいに独特の親近感が湧いたらしい。村田も閑《ひま》な身体なのか、それからよくパチンコ屋やマージャンボール場などで出会うようになった。  そのうちにどちらからともなく誘い合って、競馬場へ行ったり、酒を飲むようになった。金はたいてい村田のほうが出してくれた。  こういう関係は、どうしても対等のバランスを崩す。木屋は、何度か村田に金を出してもらっているうちに、そのことに慣れてしまい、そしてなんとなく彼に頭が上がらなくなってしまった。  女に養ってもらっている身分が、そういうことに対する抵抗感を喪失させていた。村田は何度めかに会ったとき、相場《そうば》のほうの仕事をしていると言った。  いずれ、株とか商品取引の相場師なのであろうが、彼もあまり話したくない様子である。木屋も深く聞かなかった。相手がどんな商売をしていようと、おたがいに関係ないことである。  村田の得体の知れないところは、相場という人間の欲望のおもわくの坩堝《るつぼ》に生きていることから発するのであろう。  その村田から、いきなり山へ登らないかと言われたものだから、木屋は面喰《めんくら》った。およそ山登りには縁のないような村田であった。 「よくぼくが山登りをやることがわかりましたね?」  次に木屋に湧いたのは、その不審である。彼はたしかに、学生時代、かなり激しい登山をやった。しかしそれを知っている人間は、ごく限られた数である。  ましてこの数年は登山とは正反対の怠惰《たいだ》な生活をしている。それなのに村田はどうして、彼の登山歴を知っているのか? 「はは、尾沢《おざわ》さんから聞いたんですよ」  村田は象のような目をさらに細めて笑った。 「えっ、尾沢から!?」  木屋は愕然とした。尾沢というのが、彼の隠れた�スポンサー�だった。その関係はだれにも知られていないはずである。 「尾沢さんから聞いてはおかしいですか? 彼女は、このアパートの大家さんですよ」  そう言われて、木屋は初めてその事実をおもいだした。大家が�店子�に話しても、べつに不思議はない。だがそのとき木屋は、村田が自分と尾沢との関係をすべて知っているような気がした。  面積の広いまん丸い顔の中に埋めこまれた小さな目の光は弱々しくて、なにも見ていないようであるが、すべてを見通しているような油断ならないすばしこい動きを見せることがある。      二  木屋幸平は登山を止めてから、まったくたるんだ生活をしていた。学生時代に夢中になって、学業を疎《おろそ》かにしたために、卒業を一年延ばされたものの、成績が最低で、どこにも就職できない。  自棄《やけ》になって、新宿《しんじゆく》のマンモスバーで酒を飲んでいたところに声をかけたのが、尾沢|都美子《とみこ》であった。それもはたして本名かどうかわからない。そのときどんな会話をしたのか、いまはよく覚えていない。妖《あや》しい悪女めいた美貌をもつ彼女が、おごってくれると言うので、のこのこ尾《つ》いて行って、その夜の中にホテルで体を結び合わせた。  尾沢都美子はホテルのベッドの上で、その豊満な裸身を、餓えた木屋にたっぷり貪《むさぼ》らせた後、奇妙な契約をもちだした。  それによると、——彼女は、ある大財閥の二号だそうで、旦那は七十を越えた老人である。そのために、いつも身体をいじくりまわされるだけで、不完全燃焼のまま放り出されてしまう。 「おじいちゃんはそれで満足かもしれないけど、火をつけられたままで置き去りにされる私は、たまらないわ。私、まだ若いんですもの。かと言って、お世話になっている手前、おおっぴらに浮気はできないの。また私は好みがうるさいから、相手がだれでもいいというわけにはいかないのよ。私の好みの人《タイプ》で秘密を守ってくれる人でないと」  それで、格好の相手を物色中に、木屋に出会ったというものであった。 「あなたは私のタイプにぴったりだわ。そこでどう? 私の火消し役になってくれないかしら? もちろん二人の関係は、絶対に秘密。私のほうの一方的意志で、いつでも解消するという約束で、あなたの体を貸してくださらない?」  その代償として、月五万の手当と、財閥が都美子名義に建ててくれたアパートの一室を無償で提供するというのである。都美子は山で鍛え上げた木屋の裸身を眩《まぶ》しそうに見た。そのすばらしさはいま、実地に味わったばかりである。  就職にはアブれ、世間のすべてから背を向けられたように感じていた木屋は、この屈辱的な契約の申込みを承諾した。都美子は木屋のそんな事情と屈託を見通して接近して来たのかもしれない。  若く健康なだけが取柄で、金も、取りたてての能もない男が、家付き、手当付きで熟《う》れた女体を�火消し役�として、おもうさま貪れるのであるから、屈辱どころかむしろ、こんないい話はないとおもったくらいである。  こうして、奇妙な契約は成立し、木屋の女の火消し役としての生活がはじまった。都美子は、旦那の目を盗んでは、木屋のところへ躰の火を消しに来た。木屋は都美子の�男妾�であった。 「おれは二号の二号だから、どういうことになるのかな?」 「さしずめ、�性奴《せいど》�というところかな。いや金をもらっているのだから、�男オンリー�か�性的派出夫�と言ったところか」  と彼は自嘲《じちよう》した。  最初の間はけっこうずくめにおもえた契約も、都美子から負わされた性的債務を履行しているうちに、いかにそれが男として屈辱的であるかを思い知るようになった。  男としてのプライドも、人格もまったく認められない。ただ女のあぶらぎった欲望の炎に、男の身体の一部分をホースとして向けているだけである。  火消し役どころか、都美子が「体を貸せ」と言ったように消火のための道具を貸しているにすぎなかった。彼に求められることは、老人の執拗で巧妙な放火によって燃え盛った炎を鎮《しず》めるだけの、たくましい水圧である。  したがって都美子は、あくまでも自分の欲望本位に行動した。木屋が自分の旺盛な欲望に負けて、それを果たそうとすると、 「あなたを雇ったのは、あなたの欲望を満足させてやるためじゃないのよ。勝手な真似をするなら、いつでも契約解除するわ」と言った。  木屋としても、�性奴�と自嘲しながらも、当面の生活と欲望のすべてを賄ってくれるこのけっこうな契約を、ご破算にしたくなかった。  女主人の性の奴隷として仕えているうちに、いつしか男の牙《きば》と野性を失ってしまったのだ。いきなり放り出されたら、途方に暮れてしまうだろう。  都美子もそのことをよく知っていて、自分の性の玩具を徹底的に苛《さいな》んだ。  欲望を十分堪能させると、彼女はすっきりした顔をして帰って行った。  木屋はいまだに都美子がどこから来て、どこへ帰るのか知らない。彼女は自分の住んでいるところを教えないのである。 「いいこと、私の後を一度でも尾《つ》けようとしたら、解約するわよ。あなたとの契約は、ここだけに限られているんですからね。人間にはいろいろなプライバシーがあるものよ。私ってあれこれ詮索《せんさく》されるの嫌《きら》いなの」  都美子は帰りしなに、いつもこう言って念を押した。木屋は何度か彼女の後を尾けたい誘惑に駆られたが、危ういところで抑えた。  彼女のことだから、当然、対尾行工作も施しているだろう。自分の好奇心から、彼女を怒らせて、このけっこうな身分を失うようなことがあってはならない。  どうせ名乗っている名前も偽名だろうとおもったが、木屋はふとおもいついて、登記所へ行った。登記簿を閲覧《えつらん》すると、アパートの所有名義人は尾沢富子になっていた。住所もアパート内になっている。表記はちがうが、都美子にまちがいなかった。都美子というのが、ふだん使っている名前なのであろう。  ところが数日すると、都美子が血相変えてやって来た。 「あなた、登記謄本を取ったでしょ」  と彼女は問い詰めた。木屋は最初とぼけたが、登記所に申請書が残っているとかで、とぼけきれなくなった。 「どうしてそんなスパイじみたことをするのよ」  都美子は顔から青白い炎を噴き出さんばかりにして怒っていた。木屋は平謝りに謝って、どうにかその場は許してもらったが、そのときは本当に首になるかもしれないと観念しかけたものである。  それ以後、都美子の正体について詮索しようという気持は、完全に失ってしまった。それは彼の中にかすかに生き残っていた男らしさが、止めを刺されたことを意味していた。  そんな矢先に、例の自称相場師の村田が、移転して来たのである。性的派出夫の木屋は、都美子の来ないときは、完全にフリーである。  だがいつ来るかわからないから、そんなに長い間、留守にすることはできない。外出するときは、必ず連絡先を書き残しておくことになっている。  都美子も旦那の目を盗んで来るのである。あまりゆっくりはしていられなかった。  彼女が来たときは、木屋の出先がわからなかったら、大目玉を食う。  だが村田から「山へ登らないか」と誘われて、忘れていた激しい青春の一時期を思いだした。  烈風のおたけび、青い空に吹き上る雪煙の白い炎、岩と氷、悪意を剥《む》きだしにして聳《そび》え立つ拒否的な岩壁、ザイルの感触、激流のようなチリなだれ、高燥の太陽……かつての彼を取り巻いていた、遠い山のさまざまな事象が一斉によみがえった。  まれに恵まれた日を除いては、おそろしく非情で、拒否的で、油断が少しでもあれば生命を奪ってやろうと、虎視眈々《こしたんたん》として狙っている悪意と危険に充ちた高所であったが、あすこにはまさしく自己というものの強烈な主張があった。  登ったからといって、なんの報われることもない垂直の空間を、生命の危険を克服して、一歩一歩稼ぎ取って行く過程には、若い可能性を究《きわ》めようとするひたむきな姿勢があった。 「あのときのおれは生きていた」と木屋はためらうことなく言えるのである。  女のうす汚ない欲望の消火夫をやっているいまの自分と、生命を完全燃焼させて、青春の限界を求めながら、蒼《あお》くほの暗い高みに向かって登って行ったあのころの自分が、どうしても同一人とはおもえなかった。  いったい何につまずいてこんなことになってしまったのか? 「どうします? 行ってくれますか」  ものおもいに眈《ふけ》ってしまった木屋を、呼び醒《さ》ますように村田が言った。 「村田さんがお登りになるのですか?」  夢から覚めたように我に返った木屋は訊《き》いた。 「私も行きます。でも、もう一人連れて行ってもらいたい人がいるのです」 「いったいどこへ案内しろというのですか?」  行けるかどうかはべつにして、もう少し詳しく聞いてみようとおもった。 「有難い! やっぱり行ってくれるのですね」 「まだ行くとは言ってませんよ。こっちにもいろいろ都合があるし、それに身体がすっかりなまってしまった」 「大丈夫ですよ、木屋さんなら。凄《すご》い立派な体をしている。あなたなら必ず行けます」  村田は自信のある口調で言った。彼はサウナでいっしょになった都度、木屋の体を横目で見ながら、いい体格をしているとほめたものだ。まさかそのころから登山の案内をさせようという下心を抱いていたわけではあるまい。 「もし、あなたが行ってくださるなら」  村田は、周囲にだれもいないのに、声をひそめて、 「そうですね、五十万円、案内料として出しましょう」 「五十万円!?」  木屋はその法外な報酬にびっくりした。ガイドの日当が値上がりしたとは言え、冬山の案内が精々五千円から七千円である。日本の山で五十万円とは、桁《けた》はずれであった。 「もっと出してもいいのですが、かえってまゆつばとおもわれてもいけないとおもいましてね。どうです、行ってくれますか? あなたは必ず行ってくれる。大丈夫です。あなたの体力と技術は、少しも衰えていませんよ」  村田は断言調に言って、覗きこむような目をした。木屋はそのとき、彼が言った「体力と技術」が、都美子とのセックスを当てこすったような気がした。 〈まるで、おれが都美子のためにとった屈辱的な姿勢を知っているような目つきをしてやがる〉  いまいましくおもいながらも、木屋は相手の話の中に、渦《うず》のように引きずりこまれていく自分を感じた。体力は衰えていたが、山への関心を失ってしまったわけではなかった。 「ただの山登りじゃありませんね」 「…………」  村田の天下太平の表情に少し困惑のかげがかかったようである。 「そうでなければ、案内料を五十万も出すはずがない」 「…………」 「いったい、どこへ何の目的で登るのですか?」 「それを言わなければなりませんかな?」 「当然です。五十万円もはずまれるからには、わけを教えてもらわなければ、気味が悪いですよ」 「こりゃ、ガイド料をもっと安く切りだしたほうがよかったかな」  村田はおどけたしぐさで額を叩《たた》いて、 「お話しした以上は、ぜひとも引き受けてもらわなければなりませんよ」 「それは勝手すぎます。案内してくれと言われるから、こっちは聞いているんですからね。もしお話しになるのがいやなら、お引き受けしません」 「なるほど、おっしゃるとおりです。よろしい。あなたを信用して、お話ししましょう。そのうえで引き受けてくださるかどうかは、木屋さんのご自由です。ただし、引き受けられない場合には、いまお話しすることは、ここだけのことにしていただきたいのです」  村田は木屋の目の奥を覗きこんだ。いつも柔和に笑っている象のような村田の目から、まるで錐《きり》のように鋭い視線が突き刺すように送られてきた。それでいて表情全体にはあいもかわらぬゆったりした笑みが、たゆたっているのである。 「わかりました。お引き受けするかどうかに関係なく、あなたから聞くことは、絶対他言しないと誓います」 「有難う。実は飛行機が墜《お》ちたんですよ」 「飛行機が?」 「その飛行機には時価五十億ほどの貴金属類が積んであります」 「まさかそれを奪いに行くんじゃないでしょうね」 「ちがいます。その宝石は、私のものです」 「だったら、どうして警察に捜索を頼まないのです」 「それがちょっとまずい事情がありましてね」  村田は言葉をにごらせた。 「すると、盗んだとか……」 「まさか」  村田は破顔して、 「つまり、そのなんですな、正規の税関を通していない品なんですな」 「密輸品ですか」 「まあ、そんなもんです」  村田は密輸業者だったのか。彼の得体の知れないところは、その後ろ暗い商売から発していたのだ。彼が言った「相場関係の仕事」とは、密輸品の相場だったのである。 「飛行機が墜落したのですから、もう捜索がはじまっているでしょう」 「それがね、どこにも飛行計画書《フライトプラン》を出さない内密の飛行だったものですから、まだ警察や救難機関は気がついていないのです。公けの捜索活動がはじまる前に、現場へ着けば、五十億の宝石を回収できるのですよ」 「五十億の宝石を、五十万の案内料でですか」  げんきんなもので桁ちがいのガイド料だと、仰天した金額が、急に小さくおもわれてきた。 「ですから、もっと差し上げてもよろしいと申し上げたでしょう。どうです? 案内してくれませんか? あなたに断わられると、私は破産してしまいます」  村田は悠揚《ゆうよう》迫らざる面に、初めて切迫した表情を浮かべた。木屋の大いに傾いた心を敏感に読み取ったらしい。手を握り、土下座せんばかりにして訴えた。      三  木屋は乗り気になった。五十億円の宝石とは豪勢である。村田はガイド料の他に宝石をくれるようなこともほのめかした。ただし宝石が墜落のショックで破壊されていた場合は、約束の案内料でかんべんしてくれと言った。しかし五十億の宝石が、全部だめになってしまったとは考えられない。村田もそれだからこそ、現場へ行きたがっているのだ。  現場へ行ったうえで、宝石の残存状況と見合わせて、ガイド料を大幅に値上げしてもいい。 �一山�の案内でしこたま儲《もう》ければ、こんな情けない�性奴�の生活からもおさらばできる。  今度は、自分の金で女を買うのだ。もうこんな屈辱の生活にはあきあきした。  だが問題は自分の体力である。墜落場所は、北アルプスでも特に険しい地域であった。日本でもそこへ踏み入った人間は、まだ数えるほどである。木屋はその数少ない一人である。村田はそのことを、都美子から聞いていたものだから、彼に案内を頼んできたのだ。  だが木屋がそこへ行ったのは、かなり以前のことである。当時とはだいぶ様子が変っているだろう。季節も、そこがなだれの坩堝《るつぼ》になる最もいやな時期であった。そんな危険な場所へ、女の体にザブ浸《づ》けになって、すっかりふやけてしまったような身体では、とても行けそうもない。  しかし五十億の宝石だ。これは命を賭《か》ける価値がある。行けるか、行けないか、まず行ってみることだ。山には全然経験のなさそうな村田までが行こうとしているのだ。すでにヘリコプターまで用意してあるという。 「そういう事情ですから、これからすぐに発《た》ってもらいたいのです。警察や地元の救助隊が動きだしてからでは遅い」  村田は、乗り気になった木屋の気が変るのを恐れるように急《せ》かした。とにかく着の身着のままなので、とりあえず身支度をするために部屋に帰った。村田は、登山用具は一式|揃《そろ》えてあると言ったが、行くとなれば、使い馴れた自分の道具を使いたかった。  もはや、都美子のことなど、まったく念頭になかった。 [#改ページ]    死の谷行      一  高階謙一は、佐多恒彦にまるで拉致《らち》されるように強引にS市のモーテルから車に乗せられて、川越市にある紀尾井本社の私設飛行場へ連れて来られた。  そこで待機していた紀尾井の社用機らしいビーチ機に移乗させられて、高岡へ飛んだ。  佐多の話によると、すでに私設救助隊は、高岡のほうで編成されていて、高階の到着を待っているということである。  ヘリコプターの航続距離が短いために、高岡を基地にして、救助活動にあたるそうだ。しかし川越の飛行場の人間や、ビーチ機のパイロットなどは、高階と佐多を何の目的のために、高岡へ運んで行くのか知らないらしい。  この私設救助隊は、紀尾井の内部でもごく秘密裡に動いている様子であった。それだけに、単なる救助ではない、後ろ暗い目的が感じられるのだ。  佐多は最も敏速に行動したが、救助隊の編成や準備と、高階を探し出すのに、エアロスバル機の遭難確定後、ほぼまる一日費したために、かなり焦っていた。島岡正昭に遅れをとると、姉が生存していた場合、その生命が危険である。  しかし佐多がどんなに焦ってみたところで、ビーチ機が高岡へ着くのは、午後四時前後である。今日のうちに現場近くへヘリで入ることは不可能であった。  さいわい、遭難以来好天が持続しているが、もしそれが明日あたりから崩れれば、現場へ入るのは、さらに遅れることになる。 「島岡が救助に行くとすれば、どこから入るつもりなんだ?」  高階が質問をすると、佐多は前の座席のパイロットの耳を意識しながら、 「長野県のO町に紀尾井原子力工業の工場がある。あすこにはヘリポートがあるから、おそらくそこを基地にするだろう」 「距離的にはO町のほうが、現場に近いな」 「秘密に動かなければならない事情は、向うも同じだから、まだ遅れたとはおもわないが……」  佐多が歯切れ悪く語尾をにごらせた。 「何かあるのか?」 「いや、O町はなんといっても地元だから、幻の谷のいいガイドを確保できたかもしれない。そうだとすれば……」  O町は、後立山《うしろたてやま》連峰の登山基地として、市域の三分の二が北アルプスにかかる山岳都市である。最近は連峰の下をトンネルが開通し、黒部立山ルートが完成したために、一般観光客も殺到するようになった。 「その心配はないだろう。幻の谷は富山の領域に入る。山案内人にも、縄張《なわば》り意識があって、幻の谷は、立山のガイドの領分だ。それにきみも言ったように、谷の地理を知っている者なら、だれでもいいというわけにはいかない事情は向うも同じだろう。おれのように、都合のいいガイドは、そんなにいないよ」  高階は自嘲めいて言った。  現在、山から遠ざかっているが、彼はかつてこんなに無謀な登山に連れ出されたことはない。初めて幻の谷に踏みこんだのは、自分を痛めつけるためであったが、あのときですら、相応の準備を整えた。  なによりも抜群の体力があった。氷点下十五度から二十度の氷の岩壁で夜をすごしたことも、一度や二度ではない。自ら意識的に雪の稜線《りようせん》で一夜を明かしたこともある。  校舎の階段を五十キロ以上の石を背負って何十回も上下したり、早朝二時間ほどのマラソンも欠かしたことがなかった。  人間の生存というより、存在を拒否する高所に挑むためには、並はずれて強靱《きようじん》な体力と精神力が必要であった。  高階の天賦の体力が、鍛練によって、さらに鋼鉄のようにきたえあげられた。だが精神力という点になると、高階は疑問におもった。  青春の一時期、彼を激しい登山に駆り立てたものは、どうしても登りたいという執念ではなかった。  ただ自分に幾重にも苛酷な条件を積み重ねて、おのれを痛めつけたかっただけである。激しいトレーニングを課したのも、より酷《きび》しい世界に自分を運んで行くための手段であった。  だからべつに山でなくともよかった。とりあえず山登りが、自分の求める危険とマゾヒスティックな困難を最も孕《はら》んでいるようにみえたのである。  高階の山は、むしろ自暴自棄《じぼうじき》から発していたと言ってもよい。  遭難もせずに、どうにか登りつづけられたのは、その捨《す》て鉢《ばち》な行動が、若い体力に助けられて、プラスに作用したからであろう。  だが今度の救助隊の案内には、基礎となるべき体力がない。以前にはマゾヒスティックな気持が、行動のモチーフになっていたが、いまはそれすらない。  この数年の怠惰な生活で、自分を痛めつけることも、面倒になってしまった。こんな状態で死の陥穽《かんせい》に充満した幻の谷へ入って行ったら、どんなことになるか。  それを承知で、彼が引き受けたのは、佐多に抵抗できない弱味を握られているせいもあったが、彼自身、山を離れてから数年の死んだような生活に飽き飽きしていたからでもある。  山へいまさら行ってみたところで、自分が充実されないことは、よくわかっている。だが佐多のもちかけた話には、なにか高階の暗い興味を惹《ひ》くものがあった。  この救助隊には、どうも一枚底がありそうだ。もし妹娘だけが生き残っていたら、佐多はどうするつもりか? 彼は姉を助けるために行くと言ったが、妹一人の生存の場合については、口を濁して語らなかった。  妹を救うことは、椎名禎介の巨額の財産を、放棄することである。  利己主義の権化のような佐多が、生命の危険を賭して、幻の谷に踏み入り、そんな莫大《ばくだい》な損失につながる救助をするはずがなかった。  彼は、島岡の意図をはっきりと言った。それをそのまま返せば、佐多の意図になるのではないか。  だからこそ、公けの救助も依頼できず、とうに山をやめて堕落した元登山家を物置の隅から引っ張り出すように、引きずり出したのだ。 「おもしろくなりそうだ」  と高階はおもった。断わればどうせ古傷を暴くと脅かすだろう。いや現にそれをタネに脅迫した。彼のことだから、決して脅かしだけで言っているのではない。  一生、彼に死命を制されて怯《おび》えて暮らすのよりも、この際この後ろ暗いところのある救助に加わってみるのもいいだろう。 「もし山で死ねば、佐多もいっしょだ。そうすれば、自分を苦しめつづけている古傷も、それを知る者も消滅することになる。どうせ、いまの生活は、死んでいるのも同様なのだからな」  そんな自棄的な気持もあって、高階は佐多に従《つ》いて来たのである。      二  機はコンピューターの計算どおり、四時少し過ぎに高岡へ着いた。そこで高階は一人の人物を紹介された。  紀尾井重工の診療所長とかで、年齢は五十前後、若いころかなり鍛えたような筋骨型の体躯をしている。厚味のある風貌は穏やかだが、 「内川順平です。よろしく」と言葉少なに初対面の挨拶をしたとき、キラリと突き刺すような目つきをした。  一瞬、鋭い刃物で身体の一部を刺されたような気がして、ハッと相手を見つめなおしたときは、感情の振幅を厚い皮膚の底に閉じこめた穏やかな無表情がそこにあった。  佐多も「医者で、山のベテラン」と紹介しただけで、それ以上のことはなにも語らなかったが、この救助隊に参加するのだから、いずれ曰《いわ》くのある人物であろう。 「あとの隊員は、どこにいるんだ?」  高階は、内川以外の人間の姿が見えないので、聞くと、佐多はこともなげに、 「これだけだよ」 「これだけ? つまり、三人だけということか」 「そうだ。あとヘリのパイロットがいるが、こちらはあくまでも、サポートで、救助作業には従事しない」 「おい、冗談じゃないぞ。生存者がいた場合、三人じゃどうにもならない。最低六人は要《い》る」  高階は、むしろ唖然《あぜん》として言った。 「べつにヒマラヤへ行こうとしてるわけじゃない。たかが日本の山じゃないか。しかも行ける所までヘリで行くんだ。最初から弱音を吐《は》くな」 「おまえは幻の谷を知らないから、そんなことを言うんだ。内川さん、あなたは山のベテランだから、この少人数で救助に行くのがどんなに無謀かわかるでしょう」  高階はいま紹介されたばかりの内川の方を向いた。 「ぼくはそれほど無謀とはおもいませんがね」  内川は無表情のまま、うっそりと言った。 「あなたまでがそんなことを」 「もう最も条件の悪い時期はすぎました。二月のように、何日も荒天がつづくということはありません。谷の出入りのルートさえわかれば、三人で十分可能だとぼくはおもいますがね」  内川の口調は穏やかだが、どうも底に刺《とげ》がある。この医者はどうも自分に好意をもっていないようだとおもいながら高階は、 「生存者が何人かいた場合は、どうするんです? こちらが三人じゃ手も足も出ないぞ」 「きみは、城久子の……姉の名だが、彼女一人の生存を心配すればいい。他の人間が生きている場合のことは考えなくてもいいのだ」  佐多がピシャリと遮《さえぎ》るように言った。もはや問答無用である。ここで争ったところで仕方がなかった。高階はすでに舟に乗りかかっていた。いまから下りることはできない。彼は佐多から命じられたとおりに、古い記憶を探りながら、幻の谷へ二人を案内すればよかった。  夕景に傾いた裏日本の小さな私設飛行場から望む、山の方角は、薄雲が広がり煙霧帯の底に沈んでいた。高気圧が本土の南側を通っている気圧配置になっているのであろう。  内川の言葉のように、最も悪い条件の季節はすぎたと言ってもいいような穏やかな日和である。  だがこの季節には四、五日の周期で好天、悪天の気象変化がまわって来る。風がなく、薄雲が広がっているということは、高気圧の中心が本土の東へ移動しつつあることをしめすものだ。  こんなとき次の低気圧が日本海北部へ来ると、気温はますます上がり、底なだれを誘発する。 「最大の敵はなだれになる」  高階は、すっかり靄《もや》めいた山の方角を見ながらつぶやいた。      三  翌朝午前四時三十分、救助隊を乗せたアメリカ製ホーバーC107型ヘリコプターは、高岡を飛び立った。地上風速四・八、風向六十二度、気温摂氏二・七度、気象台は西の方から弱い低気圧の発生を告げていた。  航空気象のデータによれば、高気圧の中心は東方海上に移ったものの、天気変化が比較的ゆっくりしているために、今日一日はどうにか保《も》ちそうである。  低気圧の接近によって、気圧配置が冬型と逆になって、風が絶えた。しかし、地上付近の風速がゼロに近くとも、上層に行くにしたがって、西風が強くなる。また気温も高度が百メートル増すごとに摂氏〇・五-〇・六度降下する。  低気圧とともに気温の上昇が考えられるので、それの低い午前中に行動するために、ヘリは未明のうちに基地を飛び立ったのである。  目標もさだかに見えぬ暁闇の空に、ヘリはだれにも見送られることなく、飛び立った。山岳帯にかかるころに夜が明けるはずである。降着場所は、昨日のうちの偵察飛行と、高階を加えての協議によって黒部新山の中腹にある、通称�天狗《てんぐ》の腰掛け�と呼ばれる台地に決められていた。  これは幻の谷と黒部渓谷を屏風《びようぶ》のように隔てる黒部新山の西側の絶壁の中腹に刻まれた台地というよりは岩棚《テラス》である。  天狗の腰掛けとは、まことに名づけて妙な、垂直に近い傾斜の中に刻まれた猫の額のような平坦地である。  ここならば、地盤がしっかりしているので、ヘリの機体を地上から支える、地面と回転翼との間の圧縮空気による圧力が得られるだろうと、ヘリの操縦士の小杉は言った。  だが彼も、実験をしたわけではない。またローターによる強い風圧によってなだれが誘発されないという保証はだれにもできない。  しかし小杉が最も心配していることは、降着よりも、離陸であった。彼の話によると、高度が高くなるほどに、空気密度が小さくなって、馬力も推力も低下するために、空中停止飛行《ホバリング》ができなくなる。  このホバリングのできる限界高度を、地面効果のない停止飛行上昇限度というが、降着点が限界高度を超える高地にあると、離陸ができなくなるということであった。  問題の天狗の腰掛けは、限界高度ぎりぎりのところにある。小杉は、 「積載量を減らせば、馬力の余裕ができるから、離陸できるでしょう。このヘリは小型ながら機関出力は抜群です」と言った。 「帰りは乗る人間が、何人か増えるかもしれない。行くときよりも重量は増える可能性がある」  と高階が言うと、 「このヘリには六人まで乗れますから、装備、食糧等を捨てれば二人は増えても大丈夫です。それ以上いた場合は、いったん台地まで生存者を引き上げておいて、二回にわけて運ぶしかありませんね」  小杉が答えたところから判断すると、彼は救助隊が隠しもっているような後ろ暗い意図には気づいていないらしい。詳しいことは知らされていないのであろう。  パイロットは、いったん基地に帰ることになっていて、現場まで行かないから、詳しい事情を知らせる必要がないのか。エアロスバルの機体残骸を発見したのも、小杉である。捜索を公けにしないところに不審を抱いてもよさそうだが、その様子も見えないのは、紀尾井の社員として、社秘にかかることとしての箝口令《かんこうれい》に納得したせいかもしれない。 「谷底にはどうしても下りられませんか? このヘリの性能はなかなか優秀そうじゃありませんか」  幻の谷の気流状態が悪いことは知っている。またそうであるからこそ、高階をガイドとして、引っ張って来たのである。だがいかにも力強く飛ぶヘリコプターに現に乗っていて、パイロットの口からその性能についての自慢を聞くと、下りられそうな気がしてくる。 「非常に危険ですね。あの谷は、まず深く狭いうえに、谷底に湧く温泉のために、地表の温度が上がり、空気の下層が不安定になっています。地表付近の過熱された空気の塊が、バランスを保ちきれなくなって、谷の上に暖気が急上昇して来ます。それと入れ代りに冷たい空気が流れこむので、二つの空気の塊が渦を巻いて、いつも、谷の上で強いつむじ風をおこしているのです。しかもそのつむじ風は、左巻きとも右巻きとも一定していない本当のつむじ曲がりなのです。エアロスバルもこのつむじ風に巻きこまれたんでしょう。実は、台地に下りるのさえ、命懸けなんですよ」  東の空の方からうす明るくなってきた。空の上方はうすい上層雲で被われている。ヘリは平野を振りきって、そろそろ山岳帯にさしかかっていた。  平和な灯火がともり残る、暁の最も深い眠りを貪っているほの暗い平野から、闇の中にも白々と雪をいただいた恐竜の骨格のような険悪な山岳帯の上へ向かうのは、かなりの緊張を強いられる。  地表の隆起はますます険しく拒絶的な様相を呈してくる。徐々に光量を増す東方から誕生した新しい輝きが、雪を刻んだ岩襖《いわぶすま》の連峰に酷《きび》しい立体感をあたえた。  気温が急降下するのがわかる。見えない鋼索かなにかによって、しっかりと空中に支えられていたように安定した飛行をしていたヘリが、にわかに頼りない感じになった。  高空に至って、空気密度が小さくなり、馬力と推力が低下したせいであろうか。風もだいぶ強くなったようである。小杉はさらに高度を上げた。  剣立山《つるぎたてやま》の連峰を乗り越すと、まだ暗渠《あんきよ》のような影の中に沈んでいる黒部渓谷の深淵《しんえん》が見えてきた。 「そろそろですよ」  小杉がうながした。ヘリは前進飛行から横進飛行に移りつつ、徐々に高度を下げはじめた。  黒部渓谷との間を岩襖のように仕切る黒部新山と、立山東面の垂壁《すいへき》の間を、穿《うが》ち掘った狭く深い岩溝のような谷が、問題の幻の谷である。  黒部ほど規模は大きくないが、傾斜が強く、谷の入口を�コイオトシの滝�と呼ばれる約二百メートルの大|瀑布《ばくふ》によって阻《はば》まれているために、それを突破するのが容易ではない。  そそり立つ両岸の圧迫感が強く、ひどく深刻で陰惨な峡谷になっている。  無雪期には幾重にも瀑布を懸《か》ける急峻な奔流となり、積雪期にはなだれの坩堝《るつぼ》となって人を寄せつけない。両岸の地質は脆《もろ》くて最悪である。  しかもこの谷は毛細管のように多くの支流を派生し、これがちょっとした雨を集めて、峡谷に殺到し、圧縮されて大木や岩をも吹き飛ばす鉄砲水を出す。黒四ダムができて、黒部の川筋のほうには、だいぶ人が入りこむようになったが、この谷は、いまだに人跡未踏のまま残されていた。  上方から眺めると、一筋の凄惨《せいさん》な大地の割れ目となって、闇をたたえた暗渠の底から吹き上《のぼ》る噴煙が、近づく者に向けた殺気のように迫って来る。 「あの煙りの少し下流のほうの東側の山腹に、ちょっと白く見えるところがあるでしょう。あすこが天狗の腰掛けです」  小杉が操縦席のピッチレバーを下げながら言った。ヘリは降着装置としてあらかじめスキッドをつけていた。 「さあ行きますよ」  小杉が念を押した。足下に牙を剥きだした鋭い峰頭がぐんぐんとせり上がってくる。小杉にしてみれば慎重に下りているのだろうが、身を預けている三人には、まるで地表に激突するような勢いの急降下に感じられる。  視野が急に狭くなり、いままで鳥瞰《ちようかん》していた構図の中のすでに一点となって、まったく好意をしめされていない死の谷の一角に下り立とうとしていた。 [#改ページ]    天王星《ウラノス》計画      一  この事件から約一年前に溯《さかのぼ》る昭和四十×年三月、紀尾井原子力工業特別技術研究所の技師が、�爆発物�に関する画期的な考案をした。この技術研究所は、通称『特研』と呼ばれ、社の極秘技術の研究にたずさわっている同社のブラックボックスに当たる所である。  濃縮ウランの製造基礎実験が、わが国でも成功して以来、近い将来、大量に需要される原子力発電所の濃縮ウラン燃料を自給自足する道が開かれた。  が同時に、濃縮ウランは、核兵器の材料にもなり、軍事利用に直結しやすいので、学界筋から強い警戒をもたれた。  濃縮ウランを兵器化するには、さらに加工と組立ての技術がいるが、この技術は、日本の核燃料処置技術で十分に可能である。  紀尾井原子力工業は、一大企業グループとして復活した紀尾井財閥系企業集団の中核会社たる紀尾井重機が、激しく進む技術革新と、産業構造の重化学工業化に対応するために、紀尾井重工業と岐《わか》れて設立されたものである。  以来、両社は共に紀尾井グループの両横綱として、グループの強固な基盤となって発展してきた。  どちらが兄でも弟でもない一つの会社が二つに岐れた、対等の双子会社であるが、両社の対立意識は、同系列の、しかも同じ母体から発したものとはおもえないほどに激烈である。  どちらにも自分の社がオール紀尾井の中核であるという意識があったから、ことごとにライバル意識を剥きだしてせり合ってきた。  紀尾井重工業は、国防庁に食いこみ、戦闘機の生産以来、防衛装備受注のシェアを着々と拡げて、軍需産業の指導的位置に坐った。現在、同社では地対空や、空対地、空対空ミサイルの国産化を狙《ねら》って、秘かに研究開発を進めている。  一方、紀尾井原子力工業では、英米で実用化された原子炉技術を導入して、これの国産化を狙ってきたが、さらに社内に特別研究所を設けて、極秘のうちに、核弾頭の開発を進めていた。  これは、日本の自衛隊が核ミサイルに対する防衛という名目で、七〇年代後半には核武装するという見込みの下にはじめられたものであるが、ミサイルの開発を着々と進めている紀尾井重工業に対抗する意味もたぶんにあった。  紀尾井原子力工業の特研内ではこの超爆弾製造計画を、『天王星《ウラノス》計画』と呼び、容易なプルトニウム方式を捨て、技術的な困難があるにもかかわらず、最初からウラン235の核爆発研究に取り組んだ。  ウラノス計画に従事する技師の一人が、超爆弾製造上の物理学的ネックであった核連鎖反応を持続させるための燃料結合の突破口を発見したのである。  紀尾井原子力工業では、これを公表せず、関係者内にもかたく箝口令《かんこうれい》をしいた。現在の世論から、その発表が時期尚早であると判断したためである。  そのために、考案者の技師の名前も、考案の具体的内容もわからない。だが手から水が漏れるように、その情報は、政府関係者や、業界筋に流れた。  競争関係者はなんとかその具体的内容をつかもうとしてしきりに暗躍したが、紀尾井原子力工業側の機密保持の壁は厚く、ただその考案がありきたりの人智ではとても考えつかない、天才的なインスピレーションによるものとしかわからなかった。      二  ヘリコプターは無事に着地した。地表の雪面に近づくほどに濛々《もうもう》たる雪煙が舞い上がったが、機体は墜落も、なだれの誘発もせずに、雪の上にしっかりと脚をつけた。  ローターの回転が止まると、まず高階が、つづいて、内川、佐多の順で下りた。ローターによって宙に舞い上げられた雪粉が、まるで雪が降りはじめたように霏々《ひひ》と落ちて来た。  午前五時三十三分、基地から約一時間でやって来たわけである。高空から見下ろすと、かなり明るくなっていた東方の輝きも、峡谷の中腹には届かない。  中腹に届かないのだから、谷の底は、まだ闇に閉じこめられている。  降りて見てから、よくこんな場所に降りられたものだと感心させられると同時に、ゾッとするような断崖の中腹である。橋を架けて渡れそうなすぐ前面に、立山の東面の岩壁が、岩の幕を張ったように暁闇の奈落へその裾《すそ》を落としている。  寒気はさすがに酷しい。だがこの寒気がなによりの味方になるのである。これが幻の谷に棲《す》む凶悪ななだれをしばしなだめてくれるだろう。谷の空は狭く、どんよりと曇っているようであるが、ここからでは全体の天候をつかむことはできない。  いずれにしても、日本海低気圧の影響をもろに受ける北アルプス北部の山域にいるのである。いったん天候が悪変したら、一瞬にして非情な冬に逆戻りする。  人間が下りると、露営用装備、食糧、燃料、医薬品、救助用具、通信機、それから岩壁登降に備えて岩登り用具などが次々に下ろされる。必要最小限のものだけ身につけて、大部分はその場へ残《デポ》していくことになる。  三人の人間と、装備品の重量をいっぺんに取り除かれて、ヘリコプターはだいぶ軽くなった。 「この分なら、今回の離陸は大丈夫でしょう」  小杉は屈託のない笑顔を見せて、機内に戻った。 「それじゃあ、気をつけて。明日また迎えに来ます」  内密の捜索なので、二重遭難のおそれがある場合以外は、トランシーバーは使えない。ローターの回転がはじまると、強い風圧に煽《あお》られて、地吹雪に巻きこまれたような濛々たる雪煙の中に三人は閉じこめられた。  白い煙りが少し薄れたときは、すでにヘリは宙に浮かび、いったん谷底へ降下するようにしてから、速度をつけて、山脈の空へ急上昇して行った。  あたりは、すっかり明るくなっている。頭上の上層雲は、心なし厚くなっているような感じである。風はほとんどない。なんとなくどんよりとした日であった。  三人は黙々として装備の品を身につけた。天候悪変に備えて厳寒時と同じ装備である。網シャツの上に、ウールの肌着、羽毛下着上下、毛のカッターシャツ、ズボン、オーバーズボン、外装としてウインドヤッケとウインドホーゼン、ピッケル、アイゼン、輪カンジキ、さらに岩壁|登攀《とうはん》用具、食料、露営用装備、遭難生存者用衣類、救急医薬品等を加えると、どんなに切りつめても、一人五十キロ程度の大荷物となった。  高階は、過去何十回と重ねた山行の中で、こんなに心のおもむかない、メンバーの気持がバラバラのことはなかったとおもった。  この中で、明らかに自分の意志でやって来たのは、佐多だけである。内川という男は、まったく何を考えているのかわからない。社命によって止むを得ず参加した様子も見えないが、佐多とはおよそよそよそしい。必要なこと以外、終始沈黙して、身の周囲を垣根で鎧《よろ》っている。  だが�山のベテラン�という佐多の紹介にまちがいないらしく、山に関する意見を求められると、適切で、無駄のないことを言った。もっとも最初からこの無謀な救助行を認めたうえでのことであるが。  ヘリから下り立った後も、敏速にきびきびと動き、装備の使いかたも堂に入っていた。それに反して、佐多は山にはまったくの素人であるが、見様見真似で、なんとかいっしょにやっている。  墜落現場は、谷の最も奥まった所で、噴泉の近くである。二-三時間の周期で亜硫酸ガスを噴きだしており、山の動物も近づかない。時折り上空を不用意によぎった鳥が、哀れな残骸を晒《さら》している、文字通りの死の谷である。  そこへ行くには三つのルートが考えられた。一は、谷のどんづまりになっている衝立《ついたて》の乗越しと呼ばれる山稜から直下するもの、二は、黒部渓谷と幻の谷の合流点から溯行《そこう》するもの、そして三が、黒部新山の山腹を下って、谷の真ん中辺に出るものである。  彼らが選んだのが三のルートで、それをヘリによって、一気に中腹の天狗の腰掛けまで下りてしまったわけであった。  一のルートは衝立の名のとおり、高度差約三百メートルの垂直の大岩壁である。岩質が非常に脆弱《ぜいじやく》で、高度の岩登り技術を要求されることと、もう一つこのルートには危険な陥穽が潜められている。  それは温泉から噴き出す亜硫酸ガスが、気流の状態によって、この岩壁を通路にすることである。幻の谷を一のルートから狙う者は、なだれや落石に対する警戒を常に施している一方、亜硫酸ガスの脅威におびえなければならない。  二のルートは、ガスの危険は少ないが、最も長大なもので、入口にコイオトシの大滝が立ちはだかっている。夏期には鉄砲水や増水、冬期はなだれの危険に脅《おびや》かされる。特に冬期のこのルートは、立山東壁と黒部新山の大岩壁による廊下のような隘路《あいろ》を通るために、なだれの直撃に間断なく晒される。  三人が取った第三のルートは、その中で最も危険の少ないものである。だがこれも、天狗の腰掛けという天然のヘリポートがなければ、得られなかったルートである。  島岡派も来るとすれば、当然このルートを取るであろう。だがいまのところ、佐多らが一歩先んじているようであった。 「さあ出発しよう」  素人の佐多が、リーダーのような顔をして言った。彼らのルートは、天狗の腰掛けからいったん谷底まで下降して、谷を溯行し、現場へ行こうというものである。  天狗の腰掛けが、幻の谷のかなり奥の方にあるので、谷底の下降予定地点から、現場までの水平距離は、約二キロである。現場へは、遅くも午前十時までに着かなければならない。それより遅くなると、気温が上昇し、なだれの洗礼を受ける危険が出てくる。  しかし下降を開始したときは、すでに午前七時に近かった。急がなければならなかった。最も難しい個所をヘリコプターで通過したために、ここから下降点までは傾斜のややゆるまった岩尾根になっている。  やや悪い個所も、ボディビレイ(身体にザイルを巻きつけて確保する)が可能な程度である。この程度のルートがつづけば、わざわざ高階を案内役に引っ張り出す必要はなかったはずだ。だが問題は、谷筋に下りてからの溯行にある。  高階が以前来たときは、衝立岩を下り、なだれの攻撃を躱《かわ》しながら、谷を下って、コイオトシの滝を下降したのである。  季節はいまより一か月ほど早い二月中旬の厳冬期で、谷がなだれの坩堝と化すころであった。なだれの間隙《かんげき》を縫うためには、どうしてもそのコースを知っている者でなければならなかった。  何年も前に、たった一度通ったくらいでは、大して役に立たないだろうが、それでもまったくのストレンジャーよりもましである。  まして、生存者がいた場合は、衝立岩に逃げることはできない。天狗の腰掛けの往復となる。当然なだれの通路にあたる谷筋を通らなければならない。  コイオトシの滝から、衝立岩まで幻の谷の全ルートを踏破している高階の扶《たす》けは、絶対に必要だったのである。  佐多は、初めてにしては、なかなかよくやった。最初はおっかなびっくりだったのが、すぐに馴《な》れて大胆な足取りで下った。やや難しい個所に遭遇して、高階の確保を受けたり、急な雪渓に足場を刻まなければならないことがあっても、ものおじせず、速やかに要領をのみこんだ。  確かに本人の自慢するとおり、運動神経はよさそうである。一方内川は、さすがに相当の年期を感じさせる動きを見せた。バランスが見事で、動作に一定のリズムがあって無駄がない。  メンバーの調子がうまく調和したので、能率的に動くことができた。一時間ほどで、谷筋へ下り立つことができた。  いままで屈曲した岩尾根に妨《さまた》げられて見えなかった谷の上部の全容が、ほぼ視野に入った。 「こりゃ凄い!」  いままで言葉を失ったようにかたくなに沈黙を守っていた内川が、初めて嘆声をもらした。谷筋はまさにるいるいたるデブリ(なだれによって崩落した雪の塊り)によって埋めつくされていた。  幅二十メートルそこそこの谷の底辺に達しているために、両岸が迫り、少し前まで全容を望めた立山東面の豪快な岩肌は、いまは上方の視野を限定する岩のでっぱりになってしまった。  なだれの痕跡は谷を囲む山腹のいたるところに見られる。上部には谷全体を横断するような数本の亀裂が走って、直射日光に晒されたら、すぐにも崩れて来そうである。  当面の急務は、その亀裂を越えることであった。こんな狭い谷でなだれに襲われたら、絶対に逃れられない。  まだ新しいデブリの上に、落石の痕跡《トレイル》が刻まれている。なだれの後に、激しい自然落石が見舞ったのだ。  いったん明るくなりかけた谷筋に、霧が湧《わ》いてきた。凄惨な形相を見せた谷は、その名のとおり幻のように消えて、なにかの凶悪な企みを含んだような陰惨な霧の中に、三人を閉じこめた。  霧を分けて、手探りで溯行をつづけている彼らの頭上に、急に異様な音が近づいて来た。近づくといっても、まだはるか上方である。 〈なんだ? あの音は〉 〈なだれか?〉  神経質になっていた三人は、一瞬足を止めて、顔を見合わせた。 「ヘリだ!」  佐多が言った。確かにそれはなだれとは異質の人為の機械音である。 「まだ戻って来る時間じゃないぞ」 「やつらだ。島岡たちが来たんだ。しかしこのガスじゃ下りられまい。ざまあ見ろ」  佐多は、数歩先んじた優越を誇示するように、霧に閉ざされた上方に得意げな面を向けた。 「この霧は局地的なものかもしれない」  内川が感情のない声で言った。それによって、優越に水をかけられた形の佐多は、醒《さ》めた表情で、 「いまどきこのあたりを飛んでいるのは、島岡以外にはない。やつが追って来たのは確かだ。急ごう」  とにわかに追い立てられたように言った。いったん近づくかにおもえたヘリの音は、霧の上方へ遠ざかり、間もなく消えると同時に、霧がふたたび晴れてきた。谷の上部の狭い空には、ヘリの姿はなかった。  霧が去った後には、一層厚味を増した空が、ぐんと頭上を圧迫するように近づいていた。寒気がだいぶゆるんでいる。 「どうもいやな雲行きだな」  気象台は、低気圧の接近を告げている。ただスピードが遅いので、今日いっぱいは天気は保《も》つだろうという予報だが、もし低気圧が日本海に入って、スピードアップすれば、北アルプス北部のこの山域は、最悪の状態に叩きこまれる。  すでに�春一番�と呼ばれる低気圧は来ていたが、二番か三番にあたるものが、日本海で急激に発達するおそれは十分あるのである。  これの直撃を受けたら、南部山域のようになんのスクリーンもないから、暖気流による暴風雪から、みぞれ、雨となり、幻の谷へ底なだれとなって一斉に殺到するのは、目に見えている。  なんとかその前に、生存者がいれば救出し、安全地帯に脱出したい。この天気が今日いっぱい保てば、救出活動には理想的である。気温は比較的高いが、太陽が雲に隠されているので、融雪は最小限に抑えられる。  生存者を収容して、今日のうちに天狗の腰掛けまで引き返せれば、明日から悪天に入ったとしても、装備、食糧は十分にデポしてあるから、救援を待てる。  天狗の腰掛けも、なだれからまったく安全とは言えないが、地形からみて、直撃にあうことはまずないだろう。  進むほどに、異臭が鼻を突き刺すようになった。 「近いな」内川が表情をひきしめると、 「大丈夫かな?」  と佐多が不安を面に現わした。それは遭難者が有毒ガスにやられないかという不安ではなく、それが自分を襲わないかという自己中心の危惧《きぐ》である。 「大丈夫だよ。この谷間では、風が常に下流から上流へと向かっている。下から行くぶんには、まず安全だ」  地の底から何かが沸騰するような音が迫ってきた。 「今度の音は、何だ?」 「湯の湧く音だよ」 「凄い音だな。まるで地獄の釜音のようだ」  佐多の足取りはやや鈍っている。高階の言葉にもかかわらず、有毒ガスの不安を振りきれないらしい。先刻、ヘリの音を聞いた直後の気負い立ったペースに反して、浮き足立っているようである。  局部的に風向が変って、ガスが吹きつけて来たら、一目散に逃げようという構えなのであろう。  確かに佐多をたじろがせるほどの刺戟臭がますます強まり、谷は地熱によって雪が剥落して、いっそう荒涼たる様相を呈してきた。  雪の剥《は》げたところは、灰白色の地肌を露出している。両側から岩が迫って、右へ大きく谷を曲がると、一気に視野が展《ひら》けた。衝立岩に行く手を閉ざされた、幻の谷の最奥部の全容が望まれた。 「あった!」  三人の口から同時に声がもれた。 [#改ページ]    延命の性具      一 「城久子と真知子は、まだ来ないのか」  椎名禎介は、富子に聞いた。ここ数日、何十度となく重ねられた質問である。 「もうそろそろいらっしゃるところですよ。久しぶりに上京なされるので、途中、高山《たかやま》を回って来るとおっしゃってましたから」 「どうしてまっすぐ来ないのだ。親不孝者めが」  椎名は力なく言って、疲れきったように目を閉じる。そうすると、すでに死骸《しがい》のように見えた。紀尾井グループの筆頭理事で、日本財界の大御所として、ときの政権すら左右するほどの勢力をもつ椎名禎介も、病魔に見るかげもなく蝕《むしば》まれて、残り少ない寿命が燃えつきるのを待っている。  膵臓《すいぞう》の頭部に原発した癌《がん》は、異常を感じたときはすでに、鶏卵大の腫瘤《しゆりゆう》に発達して、身体の諸所に転移していた。  異常は最初|黄疸《おうだん》となって現われた。部位的に胆道に近いため、そこを圧迫して黄疸の症状を現わしたのである。  黄疸手術によって、膵臓《すいぞう》癌の疑いをもたれたときは、すでにリンパ腺への転移が認められて、手遅れであった。開腹手術を施しても、患部の摘出は、不可能な状態に進展していた。  膵臓癌の痛みは、患部が神経組織に近いため、悶絶的である。大量の吐血と下血を繰り返しながらも、輸血によって、一時しのぎの延命効果を図っていた。  もはや治療の方法はまったくない。残された余命を、一日一日と食っているようなものである。  しかし医者から精々数か月と宣告された生存期間を越えても、依然として生きていた。生きているのが不思議なくらいに、衰弱していながら、生への執着が、余命を結集して、夏の日の残照のように燃えていた。  ようやく紀尾井グループの再結集をなしとげたとはいうものの、まだまだ他のグループに比べて、鉄鋼、機械、原子力といった高度な部門との取組みに立ち遅れている。  ましてや日本の産業構造が重化学工業を中心に急旋回して、流通革命が急テンポで進められている現在、昔ながらの財閥的な、自閉的なグループ内の系列投資に留まっていると、必ずや取り残されてしまう。 「まだまだ死ぬわけにはいかない」  椎名がやるべきことは山ほどあった。世間では彼のことを、紀尾井グループの偉大なるワンマンといっているようだが、彼にしてみれば、なにもかもみなやりかけのことばかりであった。 「ワンマンとは、その領域の中でなにかを完結した人間のことだ。いま死んだら、死んでも死にきれない」  その執念が、すでに人間の体としての機能を失ってしまったような椎名を生かしていたのだ。 「せめてあと半年、いや一か月、いや一週間、一日、一時間でも……生きていたい」  烈々たる生への執念が、医学上の奇蹟《きせき》を呼び、医者がどう考えても生きられるはずのない体を、まだ生かしている。  それも単に植物的にそこにあるのではなく、立派に、人間として生きていた。  彼は、自分が不治の病いに取り憑《つ》かれたことを知ってから、二年ほど前に落籍《ひか》した富子を離さなくなった。男としての機能どころか、人間としての機能を失ってしまったような身体で、毎日彼女を寝床の中に引きずりこんだ。  病いが篤《あつ》くなるにしたがい、昼も夜も、富子をかたわらに引き寄せた。  見るも無惨に削痩《さくそう》した身体で、肉と脂の乗りきった、女盛りの富子の躰《からだ》にしがみついている図は、まさに�色餓鬼�そのものであった。  単に抱いているだけでなく、現実に挑んだことも、一度や二度ではない。 「富子、ここへ来い」  と人目もなにもあらばこそ、愛妾の手を捉《とら》えると、死期の定まった病人とはおもえない強い力で、布団の中へずるずると引っ張りこむ。 「体に障るわよ」  とさすがに最初は辟易《へきえき》を見せていた富子が、椎名の巧妙な責めにあって、相手が死骸同様の老人であることを忘れてしまうのだ。  金だけでつながっている仲であるが、富子は、椎名に責められると、いつも彼の死病が仮病であるような気がしてならない。つい相手の身体のことも忘れて(愛情のないせいでもあるが)自分のほうから積極的に燃えてしまう。富子を嬲《なぶ》りながら、椎名は部下にさまざまな経営上の指示を下した。 〈この人、まるで化け物だわ〉  相手の放出があったのかどうか確かめられないうちに、巧妙な責めにあって悶《もだ》えのたうつと、 「おまえ、おれのことを化け物だとおもっとるんだろう」  と言い当てられた。ギョッとしてなにか抗弁しようとすると、椎名は、 「いいんだ、いいんだ。おまえの躰を味わえるのも、あとわずかだ。おれは、いつもこれが�最終便�だとおもって、おまえを抱く。抱いた後でも死んでいない自分を見つけて、ああまだ生きてるなとおもう。すると、これは最終便ではなかったとおもう。こうしてまた次の最終便まで生きられるのさ。だからおまえを抱くことでおれは生きているようなもんだ。フェッ、フェッ、フェッ」  と歯のないほこらのような口で笑った。一度付き添いの看護婦が、椎名が全裸にした富子の股間《こかん》に顔を埋めているときに、なにげなく病室へ入って来た。  男女の間で、そういう行為のあることを知らなかった若い純情な看護婦は、「旦那様が、奥様の肉を食べている」と医師に真顔で訴えた。看護婦の目には、まさに餓鬼が人肉を貪《むさぼ》っているように見えたのであろう。いや、だれの目にも、そのように映ったはずであった。  そのことがあって以来、富子以外の付き添いの人間は、みだりに椎名の病室へ近づかないようになった。  富子もさすがに気が咎《とが》めたらしく、そっと担当の医師に相談した。それに対して彼は、病人の好きなようにしてやれと答えた。      二  もはやどんな養生や摂生をしても、治癒《ちゆ》の可能性がないのである。それなれば、愛妾の身体に埋没させて死なせてやるのも、椎名にとって男子の本懐ではないか、と医者は考えて、瀕死《ひんし》の病人の色餓鬼の振舞いを放任した。  一代の傑物も、死に臨んで、色餓鬼に堕するのかと、周囲の人間は当初|眉《まゆ》をひそめたが、椎名が、富子の躰を使って自分の命の残り火をかきたてていることに次第に気がつくようになった。  椎名にとって、富子はふいごであったのだ。それを知った人々は、彼の異常なセックスに凄愴《せいそう》なものを覚えた。  富子も医者から公認されたので、容赦しなかった。彼女にとっては、椎名は快感の媒体でしかなかった。  棺桶《かんおけ》に片足どころか、両足を突っこみかけたような人間でも、彼女を十分に狂わせる。男女を結ぶ本格的チャンネルが、セックスであることを、これほど如実にしめしている二人はなかった。  女を悦ばせるという点では、椎名は立派に男の役目を果たしている。さすがに頻度は減ったが、その質は抜群である。女の急所を心得ているうえに、富子独自のツボを知りつくしている椎名の愛撫《あいぶ》は、ソフトで執拗で、そして無駄がなかった。  椎名はすでに放出が不可能な身体になっていたが、残りのエネルギーを結集しての硬直の持続は、熟《う》れきって感度の抜群な彼女を、確実に完全燃焼に導いた。そして女の体は、唯物的にはそれで十分満足させられるのである。ただその回数の少なくなったことが、最近の彼女の不満である。  富子は、椎名に玩《もてあそ》ばれる都度、芸者の現役時代、客たちが酒席でよく歌った「風呂敷かぶせて」という卑猥《ひわい》な俗謡をおもいだす。 「本当に風呂敷かぶせたら、この人が癌だなんて、とても信じられないわ」  したがって彼女は、骸骨そのものの椎名に抱かれるとき、彼女の水揚げをした男をおもい浮かべることにしている。当時ある大手商社の部長をしていたその男は、主婦の間に絶対の人気のある渋いテレビ俳優に似ていて、花街でも騒がれていた。  彼は苦痛を訴える富子の生硬な身体に、容赦せず踏み侵《い》り、いったん通路をつけると、絶妙の技巧で、生硬な彼女の身体を急速に開発してしまった。  憎い男であったが、忘れられない。その男と感覚的には少しも変りないはずであった。むしろ椎名のほうが上手かもしれない。 「男と女の関係なんて、所詮、からだの感覚だけなのよ」  と富子は、まともに見たらゾッとするような椎名に抱かれながら、風呂敷で遮蔽《しやへい》する代りに、目をつむり、妖しい極彩色の花園を、好きな二枚目俳優とさまようのである。  これも男女の愛の一つの形と言えるだろう。彼らは体のつながりだけで、愛し合っていた。  看護婦を驚かせてから、二か月ほど後、椎名の病室で、凄《すさま》じい事件が起きた。  いつもとは異なる余裕のないコールベルに、控えの間にいた付き添い看護婦が飛んで行くと、部屋の中の気配がただならない。 「どうかなさいましたか?」  前のことがあるので、看護婦は襖《ふすま》ごしに聞くと、 「旦那様が大変なの……早く……たすけて!」  と、室内から富子の切羽つまった声がした。襖を開けた看護婦は、おもわずアッとうめいて、その場に棒立ちになった。  彼女の目にまず飛びこんできたのは、真紅の色彩である。椎名がベッドを好まないので、八畳の和室に寝床がのべられてある。その掛け布団をはいで、白いシーツの中央に、骨と肉塊がからみ合っていた。  肉が落ち切って、これ以上|痩《や》せるところのない椎名の鬼気迫る骨格が、これまた実りきった富子の絖《ぬめ》を帯びた肉体を組み敷いている。骨が肉に突き刺さったような構図である。  だが看護婦を驚かせたのは、そんなことではない。からみ合った男女の下半身が、おびただしい血潮にまみれていた。血によって骨と肉が接合されているようにみえた。  白いシーツの上に叩《たた》きつけられた血の色は、鮮烈であり、美と醜の極致のような二つの異質の体を血糊《ちのり》でつなぎ、なお余剰を畳の上や、枕元のあたりまで飛ばしていた。 「早く、なんとかしてちょうだい」  椎名の体の下で、富子がうめいた。椎名は彼女の上で意識を失ってしまったらしい。看護婦の殺されるような悲鳴で、さらに何人かの人が飛んで来た。  椎名は行為の最中に、下血したのである。おびただしい出血のために、血圧が急速に低下して、ショックをおこしていた。  直ちに輸血が行なわれた。椎名のずばぬけた生命力が、むごたらしい血の海の中からふたたび起き上がった。医師は、自分の取った延命処置の効果を信じられなかった。 「この人は、我々の世界の次元を超えた怪物だ。通常の医学をもってしては測り知れない生命力をもっている」  医師は、自分の処置によって、椎名を蘇生《そせい》させておりながら、肌に粟立《あわだ》つものを覚えたのである。  さすがの椎名も、このことがあってから、富子を需《もと》めなくなった。だが布団の中へ引っ張りこむのは、あいも変らずである。体の連絡をしないというだけのことで、指や手で、彼女の急所をいいようにいじくりまわした。時には、足の指すら使った。  そのために富子は完全燃焼の放散がなくなって、いつも躰の芯《しん》にくすぶりの余熱がこもった。もどかしく、いらだたしかった。  彼女の悶えを、椎名はいよいよ死期の迫った癌面でじっと観ていた。まるで女の悶えを愉しんでいるようであった。  だが悶えていたのは、むしろ椎名であった。この美味な肉体を目の前にして、もはや自分の身体がまったく反応しないことに焦燥していた。  せっかく手に入れた女を味わいつくさぬまま死んでいくことが、事業半ばにして倒れる以上に、口惜しかった。その口惜しさと悶えが、忘れていた肉親への懐しさを呼び醒《さ》ました。  富子を引き入れる前から、亡妻の産んだ二人の娘たちとは、別居していた。  離婚こそしていなかったが、本妻と性格が合わなかったために、富山と東京とに長い間、別居している。妻が娘たちを引き取っていってくれたのは、椎名にとってはもっけの幸いであった。  椎名は東京にあって、したい放題のことをした。  男の可能性を蝕むものは妻子だと、彼は口ぐせのように言っていたので晩婚であった。その妻子を捨扶持《すてぶち》をあたえて富山へ追いはらい、彼は、自分の可能性を心ゆくばかりに追求した。  グループの大合同を為しとげたのも、そのおかげであり、富子を得たのも、彼の可能性追求の一つであった。  富子は椎名が晩年において最も耽溺《たんでき》した女である。まるで子供が探し求めていた玩具をついに得たように、自分だけの垣根の中に囲いこみ、慈んだ。  本妻が死んだ後、娘たちを呼び寄せなかったのも、富子に気兼ねしたからであった。  だがいま、愛する女の体に機能しなくなった自分を悟って、長い間忘れていた肉親への情をおもいだした。  性愛が衰えて(体力的に)、肉親への愛情がよみがえったのだ。つまり椎名にとっては、親子の情よりも、性愛のほうが強かったわけである。  ともあれ、性愛の代用品であるにしても、椎名は娘たちに会いたくなった。それはいよいよ彼の死期が迫った証拠でもあった。  会いたいとなると、矢も楯《たて》もたまらなくなるのが、彼の性分である。  側近の者にすぐ娘たちを連れて来るように命じてから、「まだかまだか」の連発であった。  だが椎名の待ち侘《わ》びる二人の娘の乗った飛行機が行方不明になった。関係者はこの情報を椎名に伏せることにした。すでに彼の命は、時間の問題になっている。出血の頻度が多く、間隔がせばまった。  この病み衰えた身体のどこからこんなに大量の血が出るのかと不思議におもわれるほどに出血した。癌細胞が増殖して、臓器や血管をめちゃめちゃに食い荒らしているのだ。  いま彼を支えているものは、自分の許に向かいつつあると信じている二人の娘の面影である。その二人の生存を絶望と知ったら、そのときこそ彼の生命を吊《つ》り支えるあえかな細い糸はプツリと断ち切られるだろう。 「絶対に教えてはならない。隠し通せ」  椎名の身のまわりの者は、かたく口を緘《とざ》して、しきりに待ち遠しがる椎名を、分刻みで先へ先へと引き延ばしていた。 [#改ページ]    生存の条件      一  いたるところに白煙を上げている硫黄の噴気の間に、むごたらしく破壊されたエアロスバルの残骸《ざんがい》が、横たわっていた。  激突のショックにより、ひきちぎられ、むしり取られ、砕け散った機体の破片が、湧《わ》きたちかえる泥流や熱気の間に散乱している。  機体は谷の下方から、谷底をこするようにして、墜ちて来たらしい。雪面を裂き、地肌を剥《は》ぎ取り、もともと地獄の釜《かま》のように救いのない谷底を、無惨に焼け爛《ただ》れさせていた。墜落のショックによって惹《ひ》き起こされたらしいなだれの痕《あと》も見えるが、機体残骸までには届いていない。  機体の破片は三十平方メートルにわたって散布していたが、主要部分は、胴体の近くに集まっている。主翼は右翼を後方へ、左翼を前方へ捩《ねじ》られ、破断分離寸前のところで、辛うじて胴体につながっていた。  プロペラおよび発動機架は噴泉の泥の中に埋まって、変形破損している。しかし谷底の雪面の上を胴体着陸するような形で墜ちて来たためか、胴体部分は、あまり破損していない。  問題は搭乗席《キヤビン》の中である。内川がまっ先に駆けつけた。つづいて佐多と高階が競争するように駆け寄る。 「生きてるか!?」  駆けながら、キャビンを覗《のぞ》きこんでいる内川にたずねかける。  妹の真知子が生きている場合が、最も危険であった。佐多ははっきりと言わなかったが、真知子を排除しようとする暗い意図を、胸にかかえていることは明らかである。 「死んでる」  キャビンを覗きこんでいた内川が、失望を露《あら》わにしてつぶやいた。前部座席に男女が二人、破損した計器板に体を突っこむようにして死んでいる。身体の損傷は、あまりいちじるしくないが、着地時のショックで、胸部を圧《お》し潰《つぶ》された様子である。 「真知子さんだ」  内川が抱きおこした死体の顔を見て、佐多が言った。その声にホッとしたものがある。真知子が死ねば、相続ライバルは消えたことになる。高階も内心ホッとした。これで佐多の、暗い意図は、未然に防いだ。若い女性の死体が比較的傷んでいなかったことも、救いになった。  他の一人はパイロットの手塚である。こちらは真知子よりも損傷が激しい。内川は痛ましそうに目を背けると、後部座席の方を向いた。 「あとの二人はどうしたんだ?」  内川を押しのけるようにして、キャビンを覗きこんだ佐多が言った。事故機は四座席あるが、後部座席の二つが空いているのである。当然そこにいるべき城久子と、付き添いの北越の姿が見えない。  しかしそこに人がいた証拠に、シートの上に血痕が残っていた。それは明らかに、パイロットや真知子の血が、前部座席から飛んだものではない。 「二人は生きてる。墜《お》ちた後、機の外へ脱出したんだ」  内川はボソッと言った。 「探せ! この近くにいるはずだ」  佐多が急に周囲をキョロキョロしはじめた。死んだ者には用がないと言わんばかりの、げんきんで冷酷な態度である。  目の色を変えて駆け寄った機体残骸には、もはや一顧もくれず、噴煙の湧き立ちかえる谷の奥へ踏みこもうとした。 「危ないぞ。うっかり入ると、有毒ガスにやられる」  高階が腕を引いて留めなかったら、噴気の真ん中へ、まったく無防備に踏み入るところであった。  いま数十億の巨富の唯一の相続人となった婚約者の生存は、この計算高い我利我利亡者にも危険を忘れさせたらしい。 「まず声をかけて捜すんだ」  高階に言われて、三人は、谷の奥へ向かって、城久子と北越の名前を呼んだ。  反応はすぐにあった。噴煙のかなたに人影がよろよろと立ち上がって、彼らの方へ近づいて来た。 「あすこだ!」  三人は人影に向かって駆けだした。その人影がだれかわからないが、いままで生きていたのであるから、その方角には有毒ガスの心配はない。 「北越君!」  人影は姉妹の付き添いとしていっしょに飛行機に乗った北越克也であった。額や頬が切れて血がこびりついている。 「城久子さんは、どこだ?」  内川に抱き支えられた北越に、佐多が聞いた。彼にとっては、城久子の安否だけが問題なのである。北越のことなどどうでもよかった。  北越の指さした方角へ、佐多は飛んで行った。高階は一瞬どうしようかとためらったが、北越は内川一人に任せておいて大丈夫そうなので、佐多の後を追った。とにかく北越は自力で歩けるのである。  城久子は、噴気の比較的穏やかな、噴泉のそばに倒れていた。雪は地熱で消えて、寒さは感じない。一足先に駆け寄った佐多が、彼女を抱きおこした。 「どうだ? 生きているか」  すぐ後ろから来た高階が、佐多の背中ごしに声をかけると、 「おれがやる」  と噛《か》みつくように答えた。つまり城久子の介抱は、婚約者の自分がやるから手を出すなという意味なのだろうと、高階は解釈した。佐多がそう言うからには、城久子は生きているのだ。  佐多に抱え起こされた城久子は、身体のあちこちから血を流していたが、特にひどい傷を受けている様子は見えなかった。しかし内傷があるかもしれない。 「城久子さん、大変なめにあいましたね。でもぼくが来たからには、もう大丈夫ですよ」  佐多は、たったいま高階に噛みついた声とは別人のような猫撫《ねこな》で声で、 「どうですか、少し動けますか?」 「脚が……脚が」  城久子は、形のよい眉をしかめた。高階はこのとき初めて彼女の顔をはっきりと見た。死んだ真知子と年齢もいくつもちがわないらしく、顔形がよく似ている。しかし真知子は死体だったが、こちらは生きている。知的な陰影の濃いおもだち、はっきりした輪郭、澄んだ遠くを見るようなまなざし、ひきしまった中にも、女の優しい謎《なぞ》を呈示するような表情が立ち昇る噴煙の切れめに、高階の方をじっと見つめていた。  一瞬、彼の体に震えが走った。  ——知っている——とおもった。  以前どこかで見たことのある顔である。それがいつどこであるか、おもいだせない。映画女優やタレントとの相似でもない。  確かにどこかで、個人的に見ている。 「脚がどうかしましたか?」 「脚のどこかが折れたようなの。歩けないわ、痛くて」 「そりゃあいけない。骨折しているのかもしれない」  佐多はえらそうな口をきいたが、相手が複雑な怪我をしていると知って、途方に暮れたような顔をした。 「おい、内川を呼んでくれ」  佐多は高階の方を向いて、顎をしゃくった。内川が来て、診察をした結果、右脚の膝関節《しつかんせつ》に軽い脱臼《だつきゆう》をおこしていることがわかった。その他、全身の諸所に打撲傷と右腕にかきむしられたような傷が見られたが、いずれも大したことはない。  とりあえず副木《ふくぼく》固定をして応急処置をとる。北越のほうは軽い打撲傷を負っただけで、ほとんど無傷といってよかった。後部座席の位置と、墜落時のもろもろの条件がまことに好運に働いて、奇蹟的にたすかったのであろう。  さらにビタミンと栄養剤の注射が加えられる。応急手当と、飲食物のおかげで、二人はようやく生色を取り戻した。  生存者の手当が終ったところで、真知子と手塚の遺体をなんとかしなければならない。しかしとても搬出はできないので、本格的な救助隊を送るまで、雪の下に埋めておくことにした。  機体残骸の中に放置しておくのは、むごたらしくもあり、遺体が地熱や亜硫酸ガスを浴びて腐敗するおそれもあるので、なだれの触手の届かなそうな雪面の下にかりに埋めて、目印を立てた。  この作業を終えると、すでに午後二時に近かった。いったん静まったかにみえた地鳴りが、ふたたび高まってきた。間欠泉の噴騰の周期が迫ってきたようである。  一刻も早く、脱出を図らねばならなかった。  いままでは無事に過ごしてこられたが、風向が変れば、いつ有毒ガスに襲われるかわからない。  その前になだれに見舞われるかもしれない。谷の奥にそそり立つ衝立岩は、傾斜が強くて、雪を積るそばから落としてしまうが、両岸の山腹は三十度以上あり、積雪の状態が不安定なうえに、温泉の影響を受けるので、警戒しなければならなかった。  城久子と北越がたすかったのは、二重の僥倖《ぎようこう》によるものである。霧がまた湧いてきた。  霧の中に亜硫酸ガスが閉じこめられたようで、一同の不安をかきたてた。  突然少し下手の岩壁の方角にあたって、ドドーンとティンパニーのとどろくような音がした。いよいよなだれの襲撃がはじまったのである。太陽の直射がないために、なだれの発生時間が少し遅れたのだ。  霧に視野を閉ざされているので、発生した場所を確かめることができない。凶器を振りかざした凶暴な敵の忍び寄る気配を確実に感じ取りながら、その姿を見ることのできない不安は、言いようがない。見えない敵に対しては、備えを立てることも反撃することもできないのだ。  ——どうする?——  と問うように、佐多が高階の顔を見た。 「ここにいても、なだれの危険はまったくないわけじゃないが、少なくとも、谷筋のようなことはないだろう。地熱で、雪が少ないし、衝立岩の雪は、このあたりまでは届かない。今夜はここに露営して明日の朝、早い時間に谷を通過してしまう」 「有毒ガスにやられないか」  霧の中に閉じこめられて、異臭はますます強まったようである。 「少し、谷の下手へ移動するんだ。なだれと亜硫酸ガスの領分の境い目あたりにな」  南北に穿《うが》たれた形のこの谷では、谷の東側にあたる黒部新山側になだれが発生しやすい。谷のせまったところでは、一方の斜面に発生したなだれが、谷を横切り向かいの斜面へ押し上げるほどに凄じい。  谷の下手へ下るほどに、なだれの触手に捉《とら》えられる危険が増大する。かといって上手へ溯《のぼ》りすぎると、亜硫酸ガスの領域である。この二つの微妙な境界のあたりに、辛うじて人間の生存できる間隙があるかもしれない。  高階にしても、自信があったわけではなかった。来たときに見たなだれの痕跡と、風向による亜硫酸ガスの進路を推測して言ったまでである。  この谷に、安全な場所などは、まったくないのだ。  内川が岩に背後をカバーされた屈曲した岩盤の凹地を見つけてきた。ここならば、なだれの通路から最も遠いし、風も防ぐ。  露営地《ビバークサイト》としては、もってこいの場所であった。  わずか三人の救助隊なので、運んで来た装備は少ない。テントなどは、天狗の腰掛けに残してきた。  しかしたとえテントをもっていたとしても、地面が岩盤なので、テントは張れない。最も坐り心地のよさそうな平らな岩の上にうずくまって、ツェルトと呼ばれるナイロン製の袋布地で全身をすっぽり包む。  傷者のためにもってきた二個の羽毛の寝袋は、城久子と北越にあたえられたので、三人は着の身着のままで、ツェルトの中で震えていなければならない。  忙しく動いている間はあまり感じなかった寒気が、じっと腰を下ろして静かにしていると、鋭い針で突き刺すように、全身に迫った。しかし寒気との戦いは、まだはじまったばかりであった。これから耐えなければならない長く苦しい時間が、四人の男と一人の女の前に横たわっている。 「どうして墜落したんだ?」  当然の質問を、内川は、むしろ寒気を紛らせる手段のようにして訊《き》いた。口のききかたから判断すると、彼のほうが北越より上位の職制にあるようだ。 「それが私にもよくわからないんです。山の上にさしかかったとき、手塚君が、舵《かじ》のぐあいがおかしいとか言っていたようですが、谷の上空にさしかかったとき、いきなりくるりと機体がひっくりかえって、そのまま、くるくる視野がまわりはじめて、いったん私は失神してしまいました。その失神からはすぐに醒《さ》めたのですが、そのときは、機体がものすごい勢いでガクガク揺れていて、なにがなんだかわかりませんでした。次に大きな衝撃がきて、今度は本当に意識を失ってしまいました。ふたたび気がついたときは、もう谷に墜落した後で、真知子さんと手塚君は死んでいました。自分の生きているのが、しばらく信じられませんでした。そのうちに城久子さんも意識を取り戻したので、少しでも暖かい場所を求めて、そんな危険な噴泉とも知らず、城久子さんを背負って、移ったのです」 「お嬢さん、あなたは墜落当時の様子を覚えてますか」  内川に声をかけられて、彼女はいいえと首を振ってから、 「私は飛行機が墜落をはじめると同時に気を失ってしまったので、なにも覚えていません。ごめんなさい」  と頭を下げた。その態度がひどく初々しい。まるで自分が飛行機を落とした張本人のように恐縮している様子に、さすが表情の乏しい内川もふっと頬をゆるめて、 「なにもお嬢さんが謝る必要はありませんよ。それにしても二人ともよくたすかったものです。特に北越君はほとんど無傷だ。奇蹟としか言いようがない」  聞きようによっては、ずいぶん皮肉に聞こえる言葉であったが、内川は二人の無事を本当に喜んでいるらしい。 「はい、場所がよかったんだとおもいます。真知子さんと、手塚君には、本当に気の毒でした。特に真知子さんは、私の代りに亡くなられたようなものです」  北越は面をくもらせた。 「それはどういうわけなんだ?」  佐多が訊いた。社長の血縁を意識してか、北越に対するものいいも横柄である。 「真知子さんは元々乗られるご予定ではなかったのですが、席が一つ空いていたので便乗を希望されたのです。最初は、私が手塚君の隣りの席の予定でした。それが、搭乗直前になって、真知子さんが前の席に乗りたいと言いだされたものですから、私が代ってあげたのです。それがまさか……」  と言いさして、北越は口ごもった。座席の交代が、生死の交代になるとはおもわなかったと言うつもりであったのだろう。  佐多は憮然《ぶぜん》とした表情になった。もし真知子の代りに、城久子が前部シートに乗っていたとすれば、立場はたちまち逆転する。椎名禎介の巨富は、まったく彼とは縁のないものになってしまう。  城久子が生き残ってくれて本当によかったという感慨が、佐多の胸にあふれたようである。 「おれは飛行機のことはよくわからないが、いまの飛行機では、エンジンの故障は、めったにおきないと聞いている」 「悪気流に叩き落とされたのかもしれない」  高階が言った。 「当日は、いい天気だった。事故に結びつくような要素は、なにもなかった」 「山の上の気流は安定していない。富士山でジェット旅客機が墜ちたのも、乱気流に巻きこまれたせいだと言われている。まして、エンジン出力の小さな軽飛行機だから、悪気流にのみこまれたら、ひとたまりもないだろう」  幻の谷の上空には、常につむじ風が巻いている。ためにヘリコプターが降着できないのである。事故当日は、帯状高気圧に被われて全国的に晴れていたが、それでも、中部山岳には、かなりの季節風が吹きつけていたと推測される。  山を越えた気流による地形性の乱気流が、局部的なつむじ風とからみ合って、いっそう複雑な気流の乱れをつくりだすことは、十分考えられる。ここへ荷重限界の小さな軽飛行機が突っこんだら、たまったものではない。 「それにしては、機体の破損が少ないような気がする。真知子さんと手塚君はお気の毒なことをしたが、城久子さんと北越君はたすかった。軽飛行機が墜ちて、五十パーセントの生存率は奇蹟的だよ。まして、北越君はほとんど無傷だ。乱気流に巻きこまれたのなら、こうはいかないとおもう。胴体部分がほとんど原形を留めている点からみても、手塚君は必死に不時着を試みたような気がするんだ」  もし内川の推測が当たっているとすれば、手塚の職業的責任感と技術は、見事である。彼は、人体の荷重限界を越えたショックに耐え、失神の一歩手前で、不具になった機を必死に操って、三人の乗客の中の二人の生命を救ったのである。      二  灰色の霧の幕の向うで、しきりになだれの音がした。遠雷のようなとどろきのこともあれば、すぐ近くで鳴ることもある。この岩の隠れ場《シエルター》も絶対に安全という保証はない。  ただじっと待つということは、不安と焦燥を増す。寒気はもはや耐え難いまでになった。 「こんな所で時間を潰していたら、帰るチャンスを失ってしまうぞ」  ついにこらえられなくなった佐多が言った。 「いまいたずらに動けば、なだれの餌食《えじき》になるだけだ」 「ここにいたって安全とはかぎらない」 「安全率はここのほうが高い」 「危険は最初から覚悟のうえだ。こんな所で凍えているよりも、少しも早く天狗の腰掛けへ戻ったほうがいいだろう」 「いま、何時だとおもってるんだ? いまから動いたら、途中で夜になる」 「夜のほうが、なだれが出ないから安全だろ」 「無茶を言うな、城久子さんや北越君のことも考えろ。天狗の腰掛けの登り口を見失ったら、えらいことになるぞ。今夜はここでじっと待って、体力を蓄えるんだ」  まるで駄々っ子のような佐多を、高階は根気よく説得した。夜になって雪が落ちてきた。雪とともに風が出た。風は霧を追いはらったが、たちまち目も開けていられない風雪となった。  気温が急降下した。だが温泉が近くにあることと、風を避ける岩の屈曲点にいるために、最悪の状態からは、辛うじてまぬかれている。  しかし負傷しているうえに、山は初めての城久子や北越には、耐え難い夜になった。  内川が全員にブドウ糖とビタカンを打った。負傷者のほうがよく耐えた。佐多がまた泣き言を言いだした。 「ここにいたら凍死してしまう。温泉のそばへ行こう」 「馬鹿! 亜硫酸ガスにやられるぞ」 「城久子さんや北越君はなんでもなかった」 「非常にラッキーだったんだ。それに温泉のそばへ行っても、こんなに吹雪《ふぶ》いていては、暖は取れない。こういうときは、風を避けるのがいちばんなんだ」 「北越君!」  佐多は、敵意を明からさまにした目を北越に向けた。 「何ですか?」 「きみは、昨夜、城久子さんといっしょにいて、なにもしなかっただろうな」 「それ、どういう意味ですか?」 「高階はラッキーだったと言ったが、二人抱き合って、体温を取ったんだろう。いやそれ以上のことをしたのかもしれないぞ」 「なにを言うんです」  さすがに冷静な北越が、気色ばんだ。 「佐多さん、変な想像は止めて」  たまりかねて、城久子も言った。 「だったらいいが、この寒さの中で、よく生き残れたもんだ」  佐多は疑惑を解いていない。たとえそのような疑いをもったとしても、口にだすべきときではなかった。だが彼には、たとえ生命を維持するためであっても、城久子が他の男と抱き合って体温を保ったということが、がまんならないのだ。  気まずい沈黙が落ちた。しばらくすると、また佐多が、 「もうがまんならない」  と言って立ち上がった。 「どうするつもりだ?」  高階が驚いて聞く。 「温泉に浸《つ》かってくる」 「狂ったのか。沸騰してるんだぞ」  寒気に自制を失った佐多を、高階は慌《あわ》てて抱き止めた。佐多と高階の言い争いを、シュラフの中から城久子が痛ましそうに見つめていた。 「静かに!」  ふいに北越が言った。  ——なに?——  と問うように一同の視線を集めた彼は、 「いま、人の声がしたような気がしたんです」 「人の声? どこに」 「あちらの方です」  北越は谷の下手を指さした。一同は耳をすましたが、風雪のおたけびが怒り狂っているだけである。 「耳のせいだろう。吹雪の音を聞きまちがえたんだよ」  佐多が言うと、 「そうかもしれません」  と北越は素直にうなずいた。 「いや」  黙然と、自分の中に閉じこもっていた内川が面を上げた。 「確かに人の声だ。もしかするとあいつらかもしれない」  佐多の顔におびえが走った。 [#改ページ]    後継者の思惑《おもわく》      一  紀尾井重工業社長|永旗彰二《ながはたしようじ》と紀尾井原子力工業社長|浅井弘文《あさいひろぶみ》は、三月二十四日月曜日の朝、椎名禎介の娘たちを乗せたエアロスバル機が行方不明になったことをほとんど同時に知った。  知らせたものかどうか、ためらいがちに、秘書が報告してきた重大な内容に、二人は仰天し、次に激怒した。 「こんな重大事をなぜもっと早く報《し》らせなかったか!?」と永旗と浅井はそれぞれの社長室で疎《すく》み上がっているそれぞれの秘書を頭ごなしにどなりつけた。 「なにぶん、佐多部長から社長のお耳に入れて、せっかくのご休養を乱さないようにと申しつけられましたので」 「島岡さんより、社長の貴重なご休日のご安静を乱してはいけないと言われまして」 「ば、馬鹿者! そんな重大事に休日もへちまもあるか。おまえたちには、そのくらいの判断もできないのか」  激昂のあまり、言葉がつづかなかった。事故の起きた二十一日が、春分の日の金曜日、翌二十二日が第四土曜日で紀尾井系各社が隔週採用している週休二日制の土曜休日に当たり、翌日の日曜日と合わせて三日間の連休になっていた。  飛行機が墜落したのが金曜日であったから、この連休三日の間、完全にツンボ桟敷《さじき》に置かれたわけである。  聞けば、すでに佐多と島岡らは、昨日のうちに私設救助隊を編成して現地へ入っているということである。  そんなこととは露知らぬから、二人とも金曜の夜から湯河原《ゆがわら》と熱海《あたみ》のホテルへ女連れで泊まりこんで、ゴルフと温泉を楽しんでいた。  忙しい社長業ではめったに取れない連休である。この三日間は、彼らにとって貴重な命の洗濯《せんたく》日であった。  しかし遠出をしなかったのは、筆頭理事の椎名禎介の命が旦夕《たんせき》に迫っていたからである。  ゴルフのクラブと女をかかえながらも、椎名の周辺に配した手先の者から連絡がありしだい、押っ取り刀で駆けつけられるように、および腰で遊んでいる。  二人はいずれもオール紀尾井グループの中で資本金数百億を擁する重化学、機械、鉄鋼、造船、原子力、建設などの主要会社十一社の首脳によって結成されている『紀尾井会』の常任理事でもある。  紀尾井グループの直系企業だけでも六十数社ある。グループの強い影響下にある関連企業や、下請けマゴ下請けまで加えると、優に数百社になる。  直系会社の重役だけでも、千人を越える。この中で、紀尾井会のメンバーは一社平均三名で、三十三名である。これが紀尾井グループのオールスターであった。  この紀尾井会を主宰する者が、ワンマン椎名禎介である。毎月「八」の日に開く朝食会を、�紀尾井人�(グループの人間は自らをそのように呼んでいた)たちは、�神話会�とか�御前会議�といって畏《おそ》れていた。  だが椎名禎介が紀尾井会の朝食会に出席しなくなってから、理事《メンバー》たちの間に、次期会長(筆頭理事)の椅子を狙って、陰湿な暗闘がはじめられた。  いや暗闘は以前からあった。それが椎名の発病によって表面化したのである。紀尾井会を牛耳る者が、オール紀尾井を統轄する。  とにかく首相にすら退陣勧告を突きつけて、おもうがままにしたほどの、財界の主導権力を握った紀尾井である。紀尾井の意向を無視して政治ができないほどに、政界の最高権力者階層に食い込んで、「政財界のマフィア」とまで言われた権力集団の首長の座をめぐっての争いであるから、陰惨で激烈であった。  この中で、椎名禎介の後継者として、最も有力なのが、永旗彰二と、浅井弘文であった。  もともとこの二人は、椎名が紀尾井商事の金属部長時代、永旗が機械第一部長、浅井が機械第二部長で、紀尾井商事の�三羽烏�と呼ばれた仲である。  特に永旗が国内向け機械を担当する第一部、浅井が輸出を扱う第二部という職掌から、二人の間にはことごとに対立意識が働いた。  性格的にも二人は、相反していた。永旗が慎重な学究|肌《はだ》で、鋭い分析力と、事務的な管理能力に恵まれていたのに対し、浅井のほうは、野性味丸出しの攻撃型で、考える前に行動によって蹂躙《じゆうりん》してしまうという積極的な人間であった。  この二人が肌の合うはずがなかった。周囲の評価も、社員の人気は、圧倒的に永旗に傾き、下請けや取引き関係は、浅井支持である。また財界へのコネは、永旗が強く、浅井は政界に顔がきいた。つまりどちらも五分と五分で勢力が均衡《きんこう》していた。 「二人足して、二で割れば、まさに理想的なおれの後継者になるんだが」  と椎名はよくもらしたが、その言葉の裏には、「足して一本」という不満があった。しかし、椎名の後継者としては、彼ら二人が最も有力である。人物といい、能力といい、実績といい、オール紀尾井の中で、椎名に代る人間としては、二人をしのぐ者は見当たらない。  紀尾井の再合同が成ったのも、彼らが椎名の手足となって働いたおかげである。椎名もその功績を高く評価しており、自分の後継者として、二人の中のどちらかを立てる肚《はら》づもりらしかった。  筆頭理事の後継者はいちおう理事会の選挙ということになっていたが、実際は、現筆頭理事の指名によることが多い。たとえある人物が選挙で最多得票をしても、筆頭理事の有している�拒否権�を行使されたら、それまでである。  永旗も浅井も、自分らのどちらかが次期筆頭理事として、勢力が伯仲していることを知っているから、年来のライバル意識に、おもわくが加わって、確執はますます激化した。  筆頭理事を送り出した会社が、オール紀尾井のGHQになる。永旗と浅井をそれぞれ擁する紀尾井重工業と、紀尾井原子力工業では、応援団を繰り出して、有力理事者連に総選挙顔負けの激しさで、働きかけていた。  たとえ、椎名に指名権や拒否権があっても、各理事の支持は、強力な援護射撃になる。まして、椎名の寿命が、時間刻みになっているいま、彼が後継者を指名せずに死んでしまうことも十分考えられる。  もしそうなった場合、理事会の選挙における得票数によって、ことは決する。  椎名禎介も、そのような事情は、十分承知していた。いま彼に課せられている最も重要な責務は、後継者を選ぶことである。  選ぶとすれば、永旗と浅井のどちらか以外にはない。椎名には、どちらも不満のないことはないが、この紀尾井の大屋台を、自分の後を引き継いで背負って行ける人間は、彼ら以外にはない。  どちらにバトンタッチしても、十分、自分の信頼に応え、その重責を果たしてくれるだろう。  だが、それだから困るのである。どちらもまったく甲乙つけがたい。いずれも自分の手足となって、紀尾井を今日の大屋台になるまで引っ張って来てくれた。その功績の顕彰においても差別はつけられない。  いずれを指名しても、他の一人に不満が残る。彼らの周囲には、オール紀尾井のみならず、政財界の思惑が、渦を巻いている。指名にもれた側からの一波乱は必至である。  とにかく、これだけの巨体の長を選ぶのであるから、椎名にしても、迂闊《うかつ》な真似はできなかった。しかしどんなに考えても、二者択一ができない。彼らは自分の手足でありながら、すでにその持ち主の動きまで左右するほどに成長している。選挙にもちこんでも、両派の思惑がからみ合って、かえってグループ内に亀裂を生ずる結果となるだろう。  彼らをめぐって、せっかく合同した紀尾井が、真っ二つに割れるおそれも十分あった。それは絶対に避けなければならない。自分の死後、自分が心魂を傾けて結集した�紀尾井帝国�が分裂するようなことがあれば、死んでも死にきれない。  さすがの椎名も決断がつかない。彼の生涯において迫られた、最高の判断であり、死期が刻々と近づいて来るのを、背後に迫る足音のように感じ取りながらも、いまだに決められないのである。  択一の岐路に立たされて、ついにおもいあまった椎名は、どちらにも怨《うら》みのないように、クジ引きにしようとすらおもったほどである。  エアロスバル機が墜ちたのは、後継者をめぐっての思惑が、椎名の胸の中で最も微妙に揺れ動いているときであった。  三日の連休も、永旗と浅井が椎名に侍《はべ》ると申し出たのを、椎名がそんなことをされたらかえってうっとうしいと言って、二人に休養を取るように命じ、無理矢理に追いはらったものである。  湯河原と熱海に来たのも、たがいに対する牽制がある。ここなら、万一の場合、すぐ東京へ駆けつけられるし、隣接の土地なので、それぞれの動静もよくわかる。たがいに相手をスパイに監視させながらの休養であった。  椎名の臨終の床へ駆けつけるのが一歩遅れたために、指名から外れるようなことがあってはならない。  実際、いまの状況では、ほんのわずかなことからどちらかへ指名の天秤《てんびん》が傾く、微妙なバランスの上に二人は立っていた。日本の政財界を左右するような企業集団の新首長の指名が、前首長の臨終の床への�先陣争い�によって決するかもしれないのだ。  そんな馬鹿なことがと、事情を知らない者はおもうかもしれない。だがどんな巨大な集団や組織でも、頂上《トツプ》に行くほど人間の数は少なくなってくる。無数の個人が集まってつくられる巨大組織《ピラミツド》は、全体が個人を疎外するが、それは下層のことであって、ピラミッドの上部においては、ふたたび人間臭を取り戻す。  全世界を巻きこんだ大戦も、最初は狂った指導者のエゴイズムからはじまった。けんかになれば、大会社の首脳も、八っつぁん熊さんと変りない。  けんかの勝敗に莫大な利権がかかっているから、勝つためには、恥も外聞もなくつかみ合う。一般の庶民が「まさかお偉方がそんなことを」とおもうような愚かで単純なつかみ合いを演ずることは、すでに国会で実証ずみである。  雲の上のけんかのほうが、長屋のけんかよりも愚かで単純なことが多い。  ともあれ三日の連休の間には、�先陣争い�をせずにすんだ。久しぶりの休養に堪能《たんのう》して、月曜日に出社した彼らを待っていたものは、飛行機墜落の報であった。しかもその機には、椎名の娘姉妹が乗っているという。 「馬鹿! 馬鹿!!」  彼らは怒りのあまり、秘書をどなりつづけた。 「きさま、いまどんな重要な時期か、わかっているのか?」 「ですから、社長に少しでもご休養いただくために、余計なことはお耳に入れないようにと」 「これが余計なことだというのか!」  救い難い馬鹿だとおもった。いまここで、椎名の娘を救えば、指名のバランスは、大きくこちらに傾くであろう。客観的な条件がすべて平衡しているいま、バランスを崩すのは、椎名の心証をよくする以外にない。  たとえどんな些細《ささい》なことでも、椎名を喜ばせるために全力をつくしてきた。もはや医者から見放された彼であったが、巷間《こうかん》に伝えられる民間療法があれば、それをたずね、エスキモーやラップ族や、さらにはアフガニスタンの高地民族の�秘薬�とやらも、秘かに人を送って購《あがな》って来させたのである。  その涙ぐましい努力を、秘書は知っているはずだ。いやその秘書自身、そのための�海外出張�をしたのである。  それが、椎名の娘が乗った飛行機が墜ちたという。些細なことではなかった。もし彼女らの一人でも生存していて、救出すれば、点数を一挙に稼げる。これが後継者争いの決定打になるかもしれない。  かりに生存者がいなかったとしても、救助活動のイニシヤティブを取れば、椎名の印象の悪かろうはずがない。 「それで浅井のほうはもう知ってるのか?」 「永旗は知ってるのか?」  激昂を意志の力で鎮《しず》めた彼らが、まず気にしたのが、ライバルの動向である。 「たぶんまだだとおもいますが」  秘書は歯切れ悪く答えた。はっきりしたことは、たがいにわかっていない。ただ明らかなのは、どちらもこの三日間、湯河原と熱海から動いていないという事実である。  動かなかったということは、彼らが二人ともツンボ桟敷に置かれたことをしめすものである。 「いやいや油断ならないぞ。自分だけゴルフに興じ、女と温泉に浸っているふりを装いながら、秘かに大規模の救助隊を送りこんでいるかもしれない」  彼らはたがいに疑心暗鬼に陥っていた。とにかく極秘の中にも、佐多と島岡が救助に行ったのはよかった。関係者だけに、事故を伏せたのも妥当な処置である。無届けの飛行だったところに、遭難後全国的な悪天候が日本列島を支配したために、事件はいまだに公けにならない。  もし外部にもれたら、救助の主導権を握れなくなる。  佐多と島岡もそれをおもんぱかったから、極秘に自分で行ったのであろう。この時点では、永旗も浅井も、佐多らの椎名の相続権に関する思惑までは見抜けなかった。  だから彼らがなぜ、社長に伏せて、単独で捜索に行ったのかがわからない。関係者以外には伏せても、社長にまで伏せる必要はない。社長も関係者である。  永旗と浅井が報告を受けていれば、もっと大規模な救助隊を出したはずであった。  佐多や島岡は、秘書よりも上位である。佐多は椎名の甥として、永旗さえ一目置くほどの隠然たる勢力をもっている。片や島岡も特研主任技師であり、椎名の娘の一人の許婚者として、原子力工業内で抜群に羽振りがいい。  その二人が秘書に口止めをしたのだから、永旗と浅井の耳に入らなかったのは、無理のないことかもしれない。  たて型組織の中では大将よりも、現場の軍曹のほうが、にらみがきくものなのである。 「いまからすぐに救助隊を送るんだ。おれは東京を動けないから、きみが現地へ行って采配《さいはい》を振れ。費用を惜しまずにやれ。どうせ、テキも救助隊を出すだろうから、絶対に遅れを取るな。いやもうすでに出しているかもしれない。すぐに行ってくれ」  二人の社長は、足元から火がついたように秘書を急《せ》きたてた。  ここに、エアロスバル機の救助は、紀尾井重工業と、原子力工業という紀尾井グループの二つの中核会社の主導権争いのもとに行なわれることになった。  たかが遭難救助の主導権ではなかった。この争いに、オール紀尾井の盟主権《ヘゲモニー》がかかっていた。  しかしそのときは、春三番か四番にあたる低気圧が、中心気圧を深めながら日本海へ近づいていたのである。 [#改ページ]    風雪の配置      一  北越と内川が人の声がすると言った方角には、風雪の荒れ狂う、白い渦《うず》が巻いているだけであった。すでに暗くなっているので、黒い渦といってもよい。岩の凹《へこ》みの奥に吊《つる》したカンテラの心細い光が、周囲の闇をいっそう強めた。  風は雪を巻き、岩角や山稜に当たって猛獣のうなり声のような音をたてた。それは木枯しのもがり笛より、もっと荒涼として、凶暴な声であった。  それが時折り、息をつぐ。そのつぎ目に信じられないような静寂が落ちる。瞬間の静寂の中に、風雪の音の余韻が錯覚となって鳴りつづける。  人の声のようなものは、そんなときに聞こえるのだ。冬山の経験ある者は、そのことを知っている。  しかし高階は、それを単なる錯覚として片づけられないことを知っていた。かなりの山歴を偲《しの》ばせる内川すら「もしかすると、あいつらかもしれない」と言った。  この谷にいまいる人間として考えられるのは、島岡正昭以外にはない。内川がほのめかした「あいつら」も、彼のことを指したのであろう。  だがもし島岡がここに近づいているとすれば、その意図は明白である。彼は真知子を救うために来たのだ。そして城久子だけ生存しているのを認めたならば、どうおもうか?  真知子が飛行機と運命を共にしたことをどんなに内川や自分が証言しても、信じないだろう。  もしかすると城久子に害意をしめすかもしれない。そのときはどうするか?  また風が息をした。その一瞬、高階は、あっとうめいて息をのんだ。 「おーい」と呼びかける声を、聞いたのである。錯覚ではなかった。人間の声が、確かに呼んでいた。 「だれか来る!」 「やつらはおれたちがこの辺にいるのを知っている」  佐多と内川が言った。確かにだれもいるはずのない谷間で、しきりに呼びかけているのは、他の人間の存在を知っているからであった。 「やっぱり昼間のヘリコプターは、彼らが乗って来たんだ」  高階は、谷を溯行しているとき、霧の上空で聞いたヘリの爆音をおもいだした。島岡が後を追って、天狗の腰掛けに降着して、高階らのトレイルを忠実に尾いて来たのであろう。 「彼ら、もしかしたら、救助を求めているんじゃないか?」  高階はふとおもった。佐多と島岡の目的は相反している。だからこそたがいに別動したのだ。島岡隊は一歩遅れを取ったものの、あくまでも、その行動は佐多隊から隠れて行ないたいはずである。  彼らはまだ現場を確認しておらず、生存者の状況もつかんでいない。彼らが隠密行動のベールを脱ぐのは、真知子の死を確認した後である。声は下手の方から来たから、彼らはまだ現場に達していない。  それにもかかわらず、声をあげたのは、彼ら自身が、悪天候に追い詰められて窮地に陥ったからかもしれない。  とにかく幻の谷へ入り込んだくらいだから、相当のガイドを付けているにちがいないが、パーティの力量が揃《そろ》わないと、途中で動けなくなる。佐多隊につけられた差を挽回しようとして、悪天を冒し、体力も考えずに飛ばして来た無理が、谷の途中で一気に発したのか? 「様子を見に行ってみよう。もし救助を求めているとすれば、捨ててはおけない」  高階がツェルトから脱け出ようとすると、 「待て」と内川が手を上げた。城久子と北越に聞こえないように声をひそめて、 「敵は何人いるかもわからないんだぞ」と言った。  彼が言った敵という言葉を、高階はすぐに理解した。  相手は救われたあとで、真知子の死を知って、どんな凶暴な牙《きば》を剥《む》きだすかもしれない。いまこの谷間で通用するものは、法律や常識ではなく、体力だけであった。  救うにしては、相手はあまりにも危険な意図をかかえている。 「真知子さんが亡くなったいま、島岡はべつに城久子さんに危害を加えないでしょう」  城久子にとって最も危険なのは、真知子も共に生存している場合である。真知子がすでに死んでいるのだから、城久子をどうこうしても、島岡のメリットはない。 「真知子さんだけが亡くなったことを素直に納得しないよ。ましてここは人の近づかない死の谷間だ。逆上してなにをするかわかったものではない」  内川は、高階が危惧したとおりのことを言った。 「しかし——」  救助を求めている者を、みすみす見過ごしにはできないおもいだった。山男の仁義などというシャレたものではなく、同じ谷間で死に瀕《ひん》している者を見捨てることがひどい罪悪に感じられたのである。 「足音がするわ」  おびえたように、闇のかなたへ瞳をこらしていた城久子が言った。確かに、闇が溶けた霧のかなたから、人の足音のようなものが近づいて来る。  佐多が、そっとピッケルを引き寄せて、シャフトを握りしめた。 「灯を消せ!」  内川が言った。岩の凹みの奥にかけていたカンテラを、佐多が吹き消した。闇の中に、緊張が火花を発しそうに張りつめた。      二 「どうだ、爺さん、まだ死にそうもないか」  男は、久しぶりに堪能したはずの昔の女の体を、まだ未練そうに玩びながら言った。この女に近づくのは危険だと自戒しながらも、女からの呼び出しにあうと、抵抗できなくなってしまう。  自分が拓《ひら》いた女の熟れきった味の、引きずりこむような誘引に、つい、負けてしまうのである。  しかし、まったく女の躰に惹《ひ》かれて、危険な橋を渡っているわけでもない。女を通しての情報蒐集と、工作もちゃんと計算していた。  それに、彼とのデートは、女にとっても同様の危険な賭《か》けである。それほどまでにしても彼に会いに来る女に、男の優越もかきたてられた。  それにしても、自分が開拓の鋤《すき》を振った女でありながら、よくも、こうも見事に熟《う》れたものである。男は彼女に接すると、女というものの、底知れない妖《あや》しさを見せつけられるおもいであった。これが、初めての夜、硬い身体をよじって、泣きながら苦痛を訴えた同じ女であろうか?  結合は、純情な涙と初めての印の赤いものによって、購《あがな》われた。  それが、いまは、男なしでは一夜たりとも過ごせないのではないかとおもわれるほどに貪婪《どんらん》でタフな肉襞《にくひだ》が、食虫花のようにひたすら男の体を需《もと》めて止《や》まない。  男に逢う危険を十分承知しながらも、おそらく彼女の生臭い躰が、辛抱できないのであろう。 「まったく、あの爺いったら、化け物だわ。もういまにも死にそうでいて、まだがんばってるのよ」  女は、男の手に豊満な乳房を快さそうに預けながら言った。 「こんなところで、こんなことをしていていいのかい?」 「大丈夫よ。もういつ死んでもいいように、ちゃんと保証は取ってあるんだから」 「保証、なんのことだい、それは?」 「ううん、こっちのこと。それよりあなたは大丈夫なの? 私とデートしている間にお爺ちゃんがおかしくなったら、臨終に間に合わなくなるわよ」 「そこにぬかりはないよ。腹心の者にちゃんと手は打ってあるから、すぐに連絡がつくようになっている」 「私も、そうおもったから、あなたと安心して逢《あ》っていられるのよ」  女はいたずらっぽくほくそ笑んだ。そんなところは熟れた躰に比して、意外に稚《おさな》い。 「こいつめ!」  男は苦笑いしながら、成長したのは躰だけではないとおもった。 「化け物爺さん、あいかわらずきみに需めるのか?」 「さすがに最近はだめになったわ。でも私の躰だけはあいかわらずオモチャにしてるのよ」 「それはさぞやるせないことだろうな」 「だからこうやって、あなたに逢ってるんじゃない。せっかく危ない橋を渡っているんだから、火は十分に消してもらうわよ」  つい先刻、男の体にもみしだかれて、悶絶したはずの女が、ふたたび目に誘いの色を浮かべている。 「おいおい、おれの齢《とし》を考えてくれよ。もう機関銃は無理なんだ」  男は敏感に女の目の色を悟って、予防線を張った。 「そんな言い訳してもだめよ。あなたの体のことは、奥さんよりよく知っているんだから」  女は揉《も》まれていた裸の乳房を男にこすり寄せた。 「きみにはまいったよ。ところで爺さん、例の話、きみににおわさないか?」 「例の話って何よ?」 「とぼけないでくれ。後継者問題だよ」 「さあ、そんなことはなにも言わないわよ」 「寝物語りというやつで、何か話すだろ」 「それがお爺ちゃんたら、仕事のことは私になんにも話さないのよ。人と仕事の話をするときは、私だって、部屋から遠ざけてしまうんだもの。あなただって、そのことよく知ってるでしょう」 「う、うん」 「ねえ、そんなことより、ねえ、私、あんまりゆっくりしてられないのよ」 「ねえ、きみ」 「何よ?」 「きみの口から、それとなく、援護射撃をしてくれないか」 「援護射撃?」 「あまり露骨に言うと、きみとぼくとの仲を悟られてしまうから、さりげなく、ぼくのことを爺さんにもちあげてもらいたいのだ。下の者におもいやりがあるとか、社員の評判がいいとかね、きみの言うことだったら、爺さんにきっと効果がある。頼むよ」  男は、女にそのことを頼む前に慎重に考えた。女が下手なことを言えば、かえって逆効果になる。現在自分が得ているものすら失うおそれがある。  だが彼は、女がそれほど愚かではないことを知っていた。そして彼は女が、自分のために喜んで援護射撃をしてくれることを確信した。  女自身が「妻よりもよく知っている」と言ったほどに、彼らの間には、歴史がある。女の躰を初めて拓《ひら》いたのも自分であるし、彼女に女の悦びを教えてやったのも、自分だ。二人の間にあるものは、単なる性愛ではない。馴染み合った男女のイキの合った調和がある。  恋するとか愛するといったものよりも、もっと生臭い感情であったが、そこには愛の領域の一つにちがいない男女の情があった。  彼は、その情を信じた。女は必ず彼のために有利な口添えをする。彼が老人の後継者になることは、女にとっても決して損なことではない。これを取引きと考えても、彼女にとってはメリットが多いはずである。  死に瀕した老人には、愛する女の言葉が、強い影響をあたえるだろう。 「それを、私に頼むために、今日来たのね?」  女は目をキラッと光らせた。妖《あや》しくうるんだ目が、急に現実に醒《さ》めたような光り方である。 「それだけじゃないよ」  男は、女の躰を抱き寄せた。女はすぐに機嫌《きげん》をなおしたように、 「そうねえ、考えてあげてもいいわよ」 「頼むよ、ぜひ」 「その代り、あなたが指名されたら、お礼はたっぷりもらうわよ」 「わかってる。きみはぼくにとって、妻以上の存在だよ」 「いいわ、あなたのためになるように、うまく口添えするわ。私に任しといて」 「恩に着る」 「そのお礼を早速いただくわ。抱いて」  女は、男に嬲《なぶ》られつづけた乳房から、全身に欲望を再点火されて、たくましく男に挑んでいった。男も十分それに応え得る状態になっていた。      三  風雪のカーテンの向うから、確かに人の足音が近づいて来た。それほど大勢のものではない。精々、三、四人であろう。それも息も絶えだえの人間の蹌踉《そうろう》たる足音である。  突然、闇の中に、いくつかの光点《ライト》が灯った。その光点は支えもつ人間の疲労をしめすように、いかにも頼りなげに、ゆらゆらと揺れていた。 「もうだめだ。一歩も歩けない」  と言った声が驚くほど近くで聞こえ、光点の一つが地上に落ちた。 「がんばれ! もう少しだ。もう少し行けば温泉が湧《わ》いている。避難場所を見つけられる」  空間に残ったライトが、しきりに励ましている。 「だめだ、とても歩けない」 「弱音をはくな! こんな所で寝込んだら、死ぬぞ」  バシッバシッと頬を叩《たた》くような気配がした。 「ねえ、どうして助けてあげないの?」  城久子が言った。その言葉と同時に、高階が立ち上がった。たとえ相手がどんなに危険な意図をかかえているにせよ、もはや見過ごしにはできない。 「おい、どうしたんだ?」  高階はライトの方角に向かって声をかけた。相手はいきなり闇の中から声をかけられて、びっくりしたらしい。一瞬、凍りついたような静寂が落ちた。宙に揺れていたライトもピタリと固定した。 「あんたはだれだ?」  ややあって、先方から探るような声が返ってきた。遭難ぎりぎりのところへ追いつめられていながら、先方の声には警戒がある。彼らも人のいるはずのないこの谷にいるこちらのパーティの正体をおおよそ予測している。  ザクッザクッと、歩み寄る気配がして、雪だるまのように、全身雪にまみれた三つの人影が現われた。その中の一つは、もう一つの人影の肩にもたれている。こちらが黙っていると、 「手を貸してくれ。ずっと歩きづめなので、この人がすっかりへばってしまった」  肩を貸した人影が言った。高階はその声に遠い記憶があった。しかし彼に関しては、山仲間から悪い噂《うわさ》を聞いている。その彼が、まさか幻の谷に……? 「どこから来たんだ?」  高階は問いかけた。彼はあくまでも、佐多に雇われたガイドである。強制的に引っ張って来られたのではあっても、自分の雇い主を守る義務があった。もし彼らが島岡隊であれば、警戒しなければならない。  佐多と島岡の争いに巻きこまれるつもりはないが、雇い主の安全を考慮しながら、相手の要請に応えてやるつもりである。 「その声は、聞いたことがあるな」  先方の声が言って、ライトが高階に浴びせられた。 「高階じゃないか!」 「やっぱり、木屋、おまえだったか」  旧《ふる》い山仲間はおもわぬ所でめぐり逢《あ》って、おもわずおたがいの手を握り合った。 「おまえもダイヤモンドか?」 「ダイヤモンド? なんのことだ、それは?」 「とぼけるなよ。まあ詳しい話は後だ。強行軍でこの人がすっかりへばってしまった。たすけてくれ」  木屋は、肩にすがりついてぐったりとなっている男を指さした。体温低下がいちじるしく、意識はすでに朦朧《もうろう》となりかけている。このまま放置しておけば、疲労凍死するという際《きわ》どいところである。 「島岡!」  避難場所から、様子を見に出て来た佐多が、木屋の肩にもたれている人間を認めて、うめいた。 「この人が島岡さんか」  やはり推測したとおり島岡が追いかけて来た。すると木屋は、島岡にガイドとして雇われたのか? それにしても彼はさっきダイヤモンドがどうとか言ったが、あれは何の意味だろうか? 「話は後だ。まず手当を先にする」  高階は、自分自身に言い聞かせるように言って、岩のかげへ、木屋に手を貸して、すでに自力で動けなくなっている島岡を運んだ。  まず暖かいミルクを飲ませる。氷漬けになったような衣服を脱がして交代で全身マッサージを加えてやると、数時間のうちに蒼白くなっていた皮膚に赤みがさしてきて、体温が上がってきた。  体温低下と疲労が、まだそれほどではなかったために、際どいところでたすかった。もともと体力のある男だったから、島岡は比較的短い時間のうちに回復した。  元気になった彼は、自分がそんな危険な淵まで行ったことが信じられないようであった。 「ちょっとうとうとしただけだ」  と、大したことでもないのに大げさに騒がれて、かえって迷惑をしているような口ぶりである。島岡は正気づくと、すぐに北越と城久子の姿を認めた。 「真知子さんは?」  佐多隊がおそれていた質問を、彼はした。 「残念ながら、生存者は、城久子さんと北越君だけだった」  内川が答えた。佐多が答えるよりも、信憑《しんぴよう》性をあたえるとおもったからである。 「城久子さんだけが生き残って、真知子さんが死んだというのですか?」  案の定、島岡の面が険悪になった。 「信じられないなら、遺体を見ろよ」  高階と木屋が手当するのを、手を拱《こまね》いてじっと観ていた佐多が、憎々しげに言った。 「ああ、見せてもらいましょう。遺体はどこにあるのですか?」  島岡は佐多の方へグイと面を上げた。つい少し前に、凍死寸前まで行った人間とはおもえない勢いである。 「遺体は、雪の下に仮埋葬してある。これだけの人数ではとても、遺体の収容まではできない。本格的な捜索隊が来るまでは、そっとしておいたほうがいい」  内川にたしなめられて、島岡はふしょうぶしょうに沈黙した。狭い岩の凹地は、新たな三人を加えて、身動きできないほどになった。島岡といっしょに来たもう一人の男は「村田」とだけ名乗った。丸い顔と戦車のような体をもった男である。  凹地は、奥行きが狭く、横にやや長い、長屋の庇《ひさし》のような形をしていた。最も奥まった場所に城久子が壁に平行して横たわり、そのすぐ脇に、佐多が婚約者の特権を振りかざすように寄り添った。あまったスペースに六人の男が頭を奥に向けて寝た。左側の壁に接して高階が位置し、次いで北越、内川、村田、木屋の順に陣取り、右側の壁ぎわに島岡が来た。  これは高階が、保存体力の程度や、人間関係を考慮しての配置である。  彼らの関係を深く知っているわけではなかったが、だれも異議を唱えなかったところを見ると、適切な場所割りであったらしい。  八人の男女は、それぞれの思惑をかかえて、風雪の中に閉じこめられていた。  高階は最も辛い場所に陣取って、このなんともやりきれない露営《ビバーク》を考えた。 〈いやな雰囲気《ふんいき》だ〉と彼はおもった。  できるだけたがいの身体を寄せ合い、体温を保ち合い、寒気と風雪に抗して一致協力して戦わなければならないとき、錯綜《さくそう》した糸のようにもつれた感情が、冷たい内圧となって彼らの中に封じこめられている。  寄せ合った体から、たがいの体温は伝わっても、少しも心の交流がない。  古い山仲間の木屋も手を伸ばせば届く距離にいながら、妙に押し黙っている。  木屋とは何度となくザイルを結び合った仲だ。この幻の谷に初めて入ったときも、木屋がいっしょだった。  その同じ場所で数年ぶりに再会したというのに、妙に隔意をおいた態度は何か? たがいに�敵方�に雇われた身だから、よそよそしくしているのか。  彼が先刻、口にしかけたダイヤモンドという言葉にもなにやら曰《いわ》くがありそうだ。村田と名乗った男も、無気味なところがある。柔和な笑みをたたえていながら、どうかしたはずみに、凄い目をすることがある。  内川も佐多も、村田を知らない様子だった。木屋に聞きたくとも、彼は会話を避けている気配だし、こんなにたがいの体がピッタリくっついているような場所では、うっかりしたことは言えない。 〈いったい、何のためにおれはこんな死の谷へ来たのか?〉  佐多に脅迫されて来たのだが、最初から後ろ暗いところのある救助隊だった。内川も自分に対して底に敵意を含んでいるようである。そこへ、島岡たちのあい反目する新たなパーティが加わって、ますます険悪な空気となった。  後ろ暗いパーティが二隊合流して、一触即発の空気となったのだ。 〈山で遭難する前に、人間同士のトラブルで遭難しなければよいが〉  高階は闇の中に身体を折り曲げて、祈るようにおもった。 [#改ページ]    苦悩の搾《し》め木《ぎ》      一  風雪のうなりが、高階の意識の中で、いつの間にか、デモ隊や群衆の怒号、飛び交う火炎ビンや催涙弾、さては乱舞する角材や鉄パイプのうなりにすり替った。  数年前の十月二十一日、国際反戦デーは、首都制圧と機動隊|殲滅《せんめつ》を合い言葉にした過激派学生が都内各所を暴れまわった。  手当たり次第に車を横倒しにして火を放《つ》ける。舗石を剥がして投げる。交番を無差別に襲撃する。火炎ビンを放る。機動隊と角材で渡り合う。  暴れまわっているうちに、血の興奮に酔って、いったい何のために暴れているのか、わからなくなってしまう。暴れることだけが、目的になるのだ。  自分の�活躍�を数千、あるいは数万の群衆が見守っている。報道陣のカメラが砲列を敷く。炎上する警備車、炸裂《さくれつ》する火炎ビン、ふだんはいてもいなくても同然の死んでいたような学生が、このときばかりは世間の注視を浴びる。無知な[#「無知な」に傍点]群衆の先頭に立って、現体制の転覆をはかる革命の戦士である。虚偽社会の仮面をむしり取り、惰眠を貪っている大衆を見覚めさせるために戦っている第一線の尖兵《せんぺい》である。  既成の権威のすべてを否定し、新たな自分たちの社会をつくるのだ。彼らはそこでは英雄であり、大向うの喝采を一身に浴びるスターであった。  しかし、彼らが群衆を目覚めさせ、革命をおこしてつくりだそうとしている新しい社会とは、いったい何だろう? そんなことはどうでもよくなっていた。  金も力も、取りたてての才能もない学生が、世の中から必要とされていないという強烈な疎外感を癒《いや》すには、これがいちばんよかった。  一種の�青春の祭り�であった。このときこそ、世の中から一顧《いつこ》だにされていなかった彼らが、強い自己主張をできる。欲求不満が内攻したスラムの暴動と、原理は同じである。  その夜、——都内各所に蜂起《ほうき》した学生ゲリラは、首都の道路を寸断し、国電や私鉄を麻痺《まひ》させて、銀座《ぎんざ》、新宿《しんじゆく》など、ブロックぐるみ都市機能を停止させた。  圧倒的に優勢な警備陣の間隙をついて、手薄な所に奇襲攻撃をかける。わずかな学生によって、機動隊がキリキリ舞いを演じる。反戦本来の目的は、とっくにどこかへ行ってしまって、生命の危険のない(たとえ学生は決死のつもりでも、警官隊は学生を殺せない)戦争ごっこを楽しんでいる。  午後五時ごろ、過激派学生ゲリラの一派約三百人は、電車を次々に停めながら国電|新大久保《しんおおくぼ》駅付近から、線路伝いに国鉄新宿駅構内に侵入して来た。  待ち構えていた機動隊と、たちまち市街戦さながらの激戦がくりひろげられた。ガス弾と投石の飛び交《か》う中で、頭をかかえてうずくまる学生、鉄パイプで頭を割られて、顔面を真っ赤に染めた機動隊員、騒ぎに巻きこまれて、悲鳴をあげながら逃げまどう群衆の姿が攪拌《かくはん》される。  学生が次々に逮捕されても、「新宿が燃えている」という情報に、新手のゲリラや、反戦労働者が駆けつけて、混乱の渦はますます大きくなる。  彼らとともに、なにかが起きるのを期待した群衆が集まって来た。群衆も、学生同様、鬱積《うつせき》した危険な内圧を孕《はら》んでいる。  無責任な火事場の高みにとどまってくれている間は、邪魔にはなっても、危険はないが、学生の凶暴な興奮が、彼らの内圧に引火したときが恐い。  火事見物のつもりが、炎の色に照らされ、炎の熱に直接|焙《あぶ》られているうちに、やがて自分もその火中に入って暴れたくなる。アクション映画を見ている間に、自分も主人公になったような気分で、現実と架空世界を混同する心理と似ているが、群衆の恐いのは、彼らが架空世界ではなく、常に現実に密着していることである。  一歩足を踏みだせば、自分もそのアクションの登場人物になれるのだ。  その夜、高階も群衆の一人として、なにかを期待して新宿へ来た。学生でありながら、運動には加わらない。あくまでも高みの見物をするつもりであった。  新宿駅東口に立って、デモ隊と機動隊の一触即発のにらみ合いを見ていた。 「やれ、早くやれやれえ」  群衆の中からそんな無責任な弥次が上がった。すでに駅構内で一合戦すんで、東口前に坐りこんだデモ隊を機動隊が取り囲んでいた。その声を合図にしたように、機動隊の一部が、群衆を追い散らしはじめた。このためいままで中立? の立場を取っていた群衆が、機動隊にものいいをつけはじめた。だが殺気立った機動隊は、群衆に耳もかさない。  夕闇が濃くなるとともに、群衆の不満は脹《ふく》れ上がってきた。やがてこれらの群衆が弥次馬ゲリラとなって、機動隊に石を投げはじめた。機動隊が規制に入ると、たちまちおとなしい群衆の間にもぐりこんでしまう。  高階も彼らといっしょに、波にさらわれるように揺れ動いているうちに、次第に群衆心理の危険な興奮の中に引きずりこまれていった。  こんなこぜり合いをくりかえしているうちに、群衆の中に潜んだ学生から火炎ビンが投げられた。それが警官の一人に当たって、火だるまになった。一触即発のバランスが破られた。機動隊は喚声をあげて、デモ隊に襲いかかった。高みの見物の群衆によってきっかけをつくられた形であった。  デモ隊も負けじとばかり、角材で渡り合う。石がビュンビュンと飛んだ。ガス弾が水平に射ちこまれる。すでに学生も群衆も見境がつかない。ものすごいガスの刺戟臭のたちこめる中に、群衆は逃げ場を失って右往左往し、学生ゲリラはチョロチョロ走りまわる。  機動隊に、デモ隊もろとも規制を受けている間に、群衆は機動隊に反感を覚え、反発した。そのうちに自らもデモ隊の仲間入りをして、機動隊と戦うことに酔ってしまった。  学生といっしょになって石を投げ、不発のガス弾を投げ返す。  高階もいつの間にか、その戦いの渦の中に巻きこまれていた。 「これを投げろ」夢中で投石していた彼に、デモ隊の一人がなにかを渡した。火炎ビンだった。彼の�活躍�ぶりに仲間とおもったらしい。  言われたとおりに彼はそれを警官隊に投げた。だが警官だとおもった相手は、群衆の一人だった。黒っぽい警官と似た服装をしていたために、咄嗟《とつさ》の見分けがつかなかったのである。  火炎ビンが手元を放れた瞬間に、しまったとおもったが、すでに遅かった。誤投された火炎ビンは無惨なほど見事に、相手に命中した。全身を炎が包んだ。悲鳴は当の本人ではなく、周囲にいた群衆からあがった。火炎ビンを浴びせられた人間は、火だるまになって地面に転がった。だが転がるほどに火勢が強まった。  群衆は悲鳴をあげるだけで、なにもしなかった。むしろ火を移されるのを恐れるように、火だるまのまわりから逃げ散った。 「水だ! 水」動転した高階は叫んだが、その水がどこにあるのかわからない。髪や爪の焦げる異臭が漂い、皮膚と肉がじりじり焼けていた。火だるまは地面をのた打ちまわって、救いを求めた。  道路の中央まで転がっていったところで、いきなり立ち上がり、うおーっと獣のように吠えた。一瞬、炎が全身を包んで、垂直に闇を断ち割った。そのまま崩れるように地に倒れた犠牲者は、燃えるボロ屑《くず》のようにうずくまって動かなくなった。  そのときの光景が、網膜に焼き付いて離れない。時間が経過するほどに、その残像は輪郭を濃くする。  高階はあの夜の騒乱にまぎれて、群衆の一人を焼き殺してしまったのである。  山陰の小都市の小商人の子に生まれた高階は、なまじ中学、高校の成績がよかったために、担任教師に煽《あお》られた両親が血のにじむような学費を工面して、東京の大学へ送られた。  一家の期待を一身にになって、入学した東京の大学は、強烈な幻滅でしかなかった。そこでは、三、四百人もつめこまれたマスプロ教室で、教授がマイクを使って、十年も前から使っている黄色くなったノートをタネ本に、なんの学問的感動や驚きもない講義を機械的にしゃべっていた。それは十年前にした講義と、シャレや冗談を言って笑わせる個所までが、そっくり同じである。  そこはすでに大学という真理探究の場ではなく、歯車的サラリーマンを量産するための流れ作業工場であった。  教授と学生の間の対話などは、かけらもない。教授は黄色いノートを物に語りかけるように平然と読み上げ、学生はこのような教授をマイクの一部のようにおもっている。メモを忠実に取っている者も、試験のためだけである。期末の試験によい成績を取り、単位を積み重ねれば、一流企業に就職できる。  入学したときから、学生の将来はベルトコンベアに乗せられたように読み取れるのである。学生が�製品�であるなら、教授はベルトの前に配された職工である。次々にベルトに乗せられて送られて来る学生という製品を、自己の職分にしたがって、十年一日の�加工�をするだけだった。英語屋もいれば、歴史屋もいる。経済屋、文学屋、法律屋、理工屋、医学屋もいる。学生が製品であるように、学者は、�学問職工�であった。  製品と職工の間に愛情はなく、むしろ憎み合っていた。製品は、早くベルトの工程を通過して、一流企業へ�納品�されたがっており、職工は�手間賃�さえもらえればよかった。  製品のコストと手間賃が上がった。当然大学は授業料の値上げをした。いっきょに六割もの値上げを公示されて、学生の胸の中に鬱屈していたものが、爆発した。  学費値上げ反対闘争に火を発した学生運動は、たちまちエスカレートして、政治闘争へと発展した。プラカードを立てて、「学費値上げ反対、マスプロ教育打破」とおとなしく[#「おとなしく」に傍点]シュプレヒコールをかけていた学生たちは、角材、鉄パイプ、火炎ビン、さらに爆弾などで武装し、日本帝国主義とすべての既成権力に挑戦した。  彼らはその運動の中に初めて、鬱屈したものの吐け口を見つけたのである。  だが高階は、自分の受けた幻滅と、夢を失った衝撃が、そんなまやかしの運動では救われないことを本能的に悟っていた。  いくら体制に反逆してもがいたところで、体制はビクともしない。革命だの、体制打破だのと、いかに彼らが叫んだところで、所詮《しよせん》、青臭い青春のエネルギーを、国家という掌《てのひら》の上でキセルの火ダネのように燃やしているにすぎない。  学生の狂乱の暴走は、機動隊の楯の前であっけなくはね返され、彼らの革命が、民衆から離れた蜃気楼《しんきろう》にすぎないことをおもい知らされる。  高階は、それを最初から知っていた。一時的に燃えることはあっても、それは所詮まやかしの燃焼であった。祭りが終れば、すぐに醒《さ》める。醒めた後は、もっと虚《むな》しくなるだろう。  そのことがわかっていながら、彼がついフラフラとあの夜新宿へさまよい出たのは、当面の荒涼たる虚無感に耐えかねて、まやかしの燃焼でもよいからそれに近づいて、冷えきった心を暖ためたかったからである。  忘れたい記憶であったが、いつも頭の芯に貼《は》りついて離れることがなかった。それは自分一人になったときとか、打ちのめされたときに、よりいっそう自分を苦悩の搾《し》め木《ぎ》にかけるために容赦なくよみがえってくる。それに圧迫されたまま、いつの間にかうとうととしたらしい。 [#改ページ]    猜疑《さいぎ》の避難所《シエルター》      一  高階は、頭の近くに異様な気配を悟って、ハッと目を覚ました。風雪はあいかわらず荒れ狂っている。だが風雪の音とは異質の音を、彼は確かに聞いたのだ。しかもすぐ近くに。 「だれか灯をつけてください」  隣りに寝ている北越の声であった。 「どうしたんです?」 「わかりません。なにかが頭の上に落ちて来たのです」 「落ちて来た? 落石ですか?」 「いや落石じゃありません。ぼくの頭をめがけて、なにかが振り下ろされたようなのです。夢うつつに危険を悟って、本能的に避けた後へ、もう一度振り下ろされて、岩に当たって火花を散らしました」  北越の声は切迫していた。高階がうとうとしながら感じた異様な気配は、それにちがいない。しかし落石以外で岩に当たって火花を散らすものは何か?  ともかく高階は、手元を探った。探り当てたライトのスイッチを押して光の円を北越の方に向ける。  わずかに確保された光円の視野の中に、高階は、ある物を見つけて、愕然《がくぜん》とした。それはピッケルであった。鋭い先端《ピツク》を下に向けて、北越の頭の左側すれすれに地面に打ち下ろされている。  だれかが柄《シヤフト》を握って振り下ろしたといった状況である。北越の顔がもう少し左に寄っていたら、その鋭いピックで頭部を打ち砕かれたところであった。  明らかに故意に行なわれたものである。 「だれだ! こんなことをしたのは!?」 「なんだ、騒々しい」 「眠らせてくれよ」  高階がどなったので、みながぶつぶつ言いながら目を覚ました。 「だれかが、北越さんを狙《ねら》って、ピッケルを振り下ろした。このピッケルはだれのだ?」  高階は、凶器に使われたピッケルを、寝不足と疲労でドロンとしている六人の前に突きつけた。しかしその六人の中に、北越を殺そうとした者が、確実にいるのである。  その人間がなぜそんなことをしたのかわからない。だがピッケルが、北越の頭部を狙って振り下ろされたことは事実なのだ。闇の中で行なわれたために、犯人の狙いが少し狂って北越はたすかったのである。  騒《ざわ》めきが水を打ったように静まり、風雪の音がつのった。 「そ、それはぼくのピッケルだ」  ややあって狼狽《ろうばい》したように、島岡が言った。一同の視線が集まったので、彼はますます慌てて、 「ぼくじゃない。ぼくじゃないぞ! ぼ、ぼくには北越君を狙う理由なんかない。みんなそんな目をしないでくれ」  だが彼が抗弁するほどに、集まった視線に猜疑《さいぎ》がこもる。 「おれを狙う理由ならあるだろう」 「なんだって!?」 「おれは城久子さんのすぐ脇にいた。城久子さんを狙ったのが、手元が狂って、北越君のほうに近づいたので、彼が狙われたように見えたんじゃないのか」  位置に関するかぎり佐多の指摘のとおりであった。島岡の見るも無惨な狼狽ぶりが、その指摘の示唆するところを裏書きしているようである。 「ち、ちがう! 変な言いがかりはよせ! ぼくがなぜあなたを狙わなければならないんだ?」 「理由はちゃんとあるさ。あんたは、真知子さんと婚約していた。その真知子さんが死んでしまったので、生き残った城久子さんと結婚するおれが憎いんだ。おれが城久子さんと結婚すれば、当てにしていた相続分がふいになる」 「卑しい想像は止めてくれ。ぼくは相続のことなんか最初から考えていない。まして、真知子さんが亡くなったいま、相続に関しては無色だ」 「それじゃあどうして、あんたのピッケルが振り下ろされたんだ? ピッケルはみんな外の雪面に刺してある。ピッケルに羽が生えて飛んで来たのか?」 「だれかがぼくのピッケルを使ったんだ。こんな狭い場所にすしづめに寝てるんだから、動けば、隣りの人間にわかる。ぼくがこの場所にいたことは、村田さんと木屋君が証明してくれるはずだ」 「あんたのパーティの人間の言葉なんか信用できない。だいいちそこから腕を伸ばせば、体を動かさずに北越君を狙えるぞ」 「止めなさい、二人とも」  高階が止めなければ、二人の言い合いはいつまでもつづきそうであった。 「島岡さんのピッケルが使われたからといって、必ずしも、島岡さんが犯人とはかぎらない。それに北越さんと佐多のどちらが狙われたのかもはっきりしない。島岡さんを犯人扱いするのは早計です。この中でだれか、隣りの人間の動く気配を感じ取った人はいますか?」  だれも答える者がなかった。みなたがいの顔色をうかがいながら、押し黙っている。  夢うつつだったので、断言できないが、だれも、動かなかったようである。  全員がたがいの体をほとんど密着させんばかりにして、寝ていたので、だれかが身じろぎをすればわかるはずである。だがそれだけたがいの距離が迫っているので、腕の操作だけの襲撃も必ずしも不可能ではない。  またかりに多少体を動かしても、みなが泥《どろ》のように眠りこけていたので、気がつかなかったということも考えられる。  位置からみれば、すべての人間が犯人になり得るのだ。だが、犯人を指摘する証拠がなにもなかった。北越を除く七人(客観的には城久子も高階も除外できない)の中に犯人がいることは、確かだった。  ついに忌《い》まわしい事件は起きた。さいわい未遂に食い止められたが、犯人に殺意があったことは、確実である。二隊が合流したときに感じた無気味な内圧が、こんな形に爆発しようとは。  とにかくこの場で犯人を探しだすことはできなかった。 「今夜は、ぼくと木屋君が交代でねずの番をします。ぼくらは二人とも雇われガイドだ。スポンサーはべつだが、ここにいる人たちのだれにも悪意をもっていない。夜が明けるまであと二時間ほどあります。この模様では、明日も悪天候がつづくかもしれない。いまのうちにできるだけ眠って、体力を蓄えておいてください」  高階の言葉にみな従うことにした。いくら詮索しても、犯人が�自首�でもしないかぎり、結論の出るはずがない。だが、自然の猛威の中で身を寄せ合って辛うじて生きている七人の中に、人を殺そうとした人間がいるとおもうと、眠れるものではなかった。その犯人は、自分と肌《はだ》を密着しているすぐ隣りの人間かもしれないのだ。理由も目的も、そして、実際にはだれを狙ったのかもはっきりわからないだけに無気味であった。  強いボルテージをもった不安を塗りこめるようにして、風雪はますます増悪していった。      二  長く苦しい夜が明けた。みな一夜のうちに別人のように憔悴《しようすい》していた。気象と場所的な悪条件に苛《さいな》まれたうえに、昨夜というより、今朝の忌まわしい事件が、全員を疑心暗鬼に陥らせ、不安と恐怖の重石でしめつけたからである。  天候は回復するどころか、ますます悪化していた。黄海《こうかい》方面から東進して来た低気圧は、日本海に入るや急激に発達して、大きな暴風雨雪域を広げながらスピードを増していた。  発生した時点では、天気図上で一見弱そうであった低気圧が、スピードに伴って大発達したのである。しかもこの低気圧は、発達の途上で、太平洋側にも副低気圧をつくり、悪天の大元凶の二つ玉低気圧となって本土をはさみ撃《う》ちにした。  そのために全国的な悪天となり、特に裏日本の山岳帯は、暴風雨雪、底なだれ、新雪なだれ、雷などの悪天の見本のオンパレードのようになってしまった。  地形的に電波が届かないので、トランジスターラジオは役に立たない。そのために、不安だけがかきたてられた。自分たちがスケールの大きな悪天候のど真ん中に捉《とら》えられたことはわかった。  彼らのいる地域は、悪天の影響を最も強く受ける場所である。風雪は牙を剥きだして、人間のいるべきでない領域に侵《はい》りこんだ不遜《ふそん》な人間たちを、これでもかこれでもかとばかりに叩いた。  まるで自然が一致協力して、彼らに集中攻撃をかけているような凄《すさま》じさである。山全体が咆哮《ほうこう》した。谷は、まるで白い激流の渦であった。  瞬間最大風速は、尾根筋で六十メートルは越えたとおもわれた。飛雪のために視野はゼロである。彼らは避難場所から、一歩も外へ出られなかった。  岩の間のわずかな凹みにしがみついて、ひたすら自然の怒りのおさまるのを待つばかりである。  だがこの悪天は、低気圧が通過してから、最も凶暴な牙をだすことを、高階や木屋は知っていた。低気圧の中心が東に去って、寒冷前線が南へ押し出されて来ると、日本海の水分をたっぷり含んだ季節風が襲いかかって来る。こうなると、一時的に冬型気圧配置となって、裏日本の山岳帯は厳冬期に逆戻りしてしまう。  もし本土を挟撃《きようげき》した二つ玉低気圧が、東方海上に出てから合体しようものなら、季節風の吹きだしは、さらに凄じいものとなろう。 「これじゃあとても、ヘリは飛べないぞ」  眼前に荒れ狂う悪天に、高階は絶望的につぶやいた。  救出用具を主体にもってきたので、食糧は最小限度しか携行していない。万一の場合も、ヘリに投下してもらうつもりでいた。これではヘリの空輸も望めない。  島岡隊も同様であった。両隊を合わせても、精々食いつないで二日分の食糧しかない。その中、すでに一日分は消費しているのである。  高階は、天候が回復するまで、両隊が合流して行動することを提案した。犯人不明の殺人未遂事件が起きた後なので、できれば別れたい。  しかしこの状況下で別動することは、非常に危険であった。佐多も島岡も不服げであったが、そうせざるを得ないことを認めた。  午後になって雪が少し小降りになり、風がおさまった。島岡が、現場を見に行くと言いだした。 「止めろ! 風がおさまったのは、局地的なものだ。すぐにぶり返すぞ」  高階は諌《と》めた。低気圧の中心が通過したことによる一時的な疑似好天であれば、さらに危険である。その後ろから凶暴な寒冷前線と季節風の伏兵がやって来る。 「現場はここから近いんだろう。真知子さんの遺体を確認する。そのためにやって来たんだ。この目で確かめるんだ」 「気温も上がってる。なだれにやられるぞ」  午後にまわって、気温が上がり、昨夜のうちに降り積った新雪が荷重バランスを崩す、絶好の条件となっている。 「あんたの指図は受けない。もともとおれたちを追い出したいんだろう。引き止めるなよ」 「高階、行かしてやれよ。おれたちも枕を高くして眠れるよ」  佐多が脇《わき》から口をだした。 「木屋、止《や》めろ。危険だ」  高階の言葉を聞こえないふりをして、木屋も出かける支度をしている。島岡隊でひとり気の向かない様子を見せているのが、村田だけだった。 「木屋、おまえらしくないぞ、いったいどうしたんだ?」  高階は、昔の山仲間を詰《なじ》った。昔の木屋を知る高階には、友の無謀が信じられない。彼はもっと慎重な人間だったはずである。いかに金で雇われたガイドであるにせよ、みすみす死のあぎとへ飛び込むようなスポンサーの無謀を諌《いさ》めるべきであろう。  むしろそうすることが、ガイドのつとめだ。それがむしろ、彼のほうが積極的に準備している。 「高階、どうしてそんなに熱心に引き止めるんだ?」  ふいに木屋が高階の方へ向きなおって聞いた。なんとなく隔意のある改まった言いかたである。もっとも隔意は昨夜から感じられた。  久しぶりに旧い仲間が再会したというのに、なにかを隠しているようである。高階はそれを、両隊の相反する意図のためだとおもっていた。  しかしそれはあくまでも、佐多と島岡の関係であって、個人としての高階と木屋の間に移入されるべきものではない。 「わかりきったことを聞くなよ」 「わかりきったことじゃない。高階、ちょっとこっちへ来てくれ。話があるんだ」  木屋は高階の腕をとって、少し離れた場所へ引っ張って行った。 「話って何だ?」 「おまえ、何の目的で、この谷へ入った?」 「それはおまえがよく知ってるだろう」 「やっぱりそうか。それで、あったのか? 宝石は」 「宝石? 何のことだ、それは、そう言えば昨夜もおまえはダイヤモンドがどうとか言ってたな」 「いまさらとぼけるなよ。飛行機に積んであったんだろう。おれはどうせ案内料もらってるからかまわないけど。おまえの連れて来た連中が、ひとりじめしたとなると、おれといっしょに来たやつらが黙っちゃいないぜ」 「おれにはなんのことだかわからない」 「まだとぼける。五十億円の宝石だ。おまえらに先取りされたとなったら、大変なことになる。こんな所で血なまぐさいことはおこしたくない。その前に、おれたちが中に立ってなんとか穏便に話をつけよう」 「待ってくれ。そのう……なにか、墜ちた飛行機に五十億の宝石が積んであったというのか?」 「だからおまえも来たんだろ」 「ちがう!」 「ちがう? 何がどうちがうんだ」 「おれが聞いた話は、そうじゃない。相続争いだ」 「相続争い? いったい何のことだ、それは」  二人はようやくたがいのパーティの意図に食いちがいがあるらしいことを悟った。ともかく高階の話を聞いた木屋は、 「村田のやつ、欺《だま》しやがったな」とうめいた。 「いや欺されたのは、おれのほうかもしれない。相続争いから派生した救助だとみせかけたのが嘘《うそ》で、案外、宝石が本命かもしれないぞ」 「宝石を発見した様子はあったか?」 「そんな様子は見えなかった。とにかく小さな飛行機で、搭乗席《キヤビン》の部分はあまり壊れていなかったから、そんな莫大な宝石があれば、すぐにわかるはずだ」  パイロットと真知子の遺体を仮に埋め、城久子と北越を収容しただけで、佐多たちは、宝石を捜した様子はなかった。  それに五十億の宝石といえばかなりの荷物になるだろう。二人の生存者に加えて、そんな荷物を高階に知られぬように回収することは不可能だった。 「やっぱりおれのほうが欺されていたんだよ。相続争いじゃ、おれが動かないとおもったんだろう。村田のやつ、おれを宝石で釣《つ》りやがった。それにしても、高階、おまえはよく案内を引き受けたもんだな。よっぽどもらったのか」  木屋は隔意を解いた代りに、卑しそうに笑った。それは、他人の懐ろ勘定をする商人の笑いに通じていた。高階は、この数年離れている間に、友がすっかり腐敗してしまったのを悟った。  しかし腐敗したのは、高階も同じである。自分はもともと救いようもなく腐っていたのだと、高階はおもった。 「おーい、何してるんだ? 出発するぞ」  島岡がうながした。その後ろから村田がニヤニヤしながら顔をだした。木屋が近づくと、 「木屋さん、すまない。事情は高階さんから聞いたとおもう。嘘ついてすまなかった。島岡さんに頼まれてね、どうしてもあなたのガイドが必要だったんだ。その代りガイド料はもっと弾むよ、もし無事に帰れたらの話だがね」  と大して悪びれもせずに言った。 「もうこの場へ来ちゃった以上は、しようがないですよ。しかしぼくの役目はあくまで案内だけで、相続争いの片棒かつぎはごめんですからね」 「それは島岡さんに任せておけばよろしい。あなたは、島岡さんを現場へ案内してやってください。それからこの際はっきりさせておきますが、スポンサーは島岡さんです」 「あなたは行かないのですか?」 「私はごめんですね。もう死んでいるとわかっているのに、こちらの命を賭《か》けるのは、無意味です。私はここに残りますよ」  村田はしゃあしゃあとした顔で言った。 「高階、聞いたとおりだ。行って来る。スポンサーをひとりで行かせるわけには、いかないからな」 「なだれと亜硫酸ガスに気をつけろ」  高階は、止めても無駄なことを悟った。島岡は一人ででも行こうとするだろう。  悪天の一休止した、無気味な静寂の張りつめる渓谷の奥に向かって、二人は去った。残った人間は、高階を除いて、それをしごく無表情な視線で見送っていた。      三  島岡と木屋が去ってから、三十分ほどのち、谷の奥手にあたって、無気味な轟音《ごうおん》がとどろいた。なだれである。ついに昨夜降り積った新雪の重みが、支持力を越えて崩れ落ちたのであろう。  避難場所から墜落現場までの間は距離にすれば短いが、昨夜から今朝にかけての降雪で様子がだいぶ変っている。なだれをおこしやすい四十度前後の岩壁が一か所ある。  いまの崩落音は、二人の去った方角より多少異なる場所から来たようであるが、その安否が気づかわれる。同じ方角にあたって、また轟音がした。一つのなだれが、新たななだれを誘発したらしい。  いったんおさまったかに見えた風雪が、また吹き荒れてきた。 「まずいな」  谷の真ん中で風雪に捉《とら》えられると方向感覚を失う。雪が飛び、視野がまたたく間に吹き消されていく。 「途中まで様子を見に行って来る」  高階はついにじっとしていられなくなった。 「放っておけ。やつは勝手に出て行ったんだ」  佐多が制止した。 「放ってはおけない。木屋はおれの友達だ」 「ふん、山仲間の友情ってやつか。大いにけっこうだが、あんたはおれに雇われているということを忘れないでもらいたいな」 「わかってる。途中まで行ってみるだけだ。危険だとおもったらすぐに引き返す」  高階は飛雪の中に飛びだした。風に飛ばされる粉雪のために、自分の腰から下が見えなくなるくらいである。温度が急降下している。  十分ほど雪面を這《は》うようにして歩くと、前方から二人が雪まみれになって帰って来た。高階と出会っても、寒気と風雪のために顔面がこわばっていて、声も出せない。 「気がすんだか?」  高階は木屋の耳に口をつけるようにしてどなった。木屋は苦笑してうなずいた。  島岡のほうは笑う元気もない。しかし避難所に帰り着くと、 「今日は失敗したが、明日は必ず真知子さんの遺体をこの目で見届けてやる」  と猜疑の視線で、佐多の方をにらんだ。彼女の死について、佐多が何か作為をしたという疑惑を捨てきれないのだ。 [#改ページ]    閉塞《へいそく》された谷      一  吹雪の中に、入山第二日目が暮れようとしていた。救援の来る見込みはまったくない。ヘリによる食糧空輸も望めない。  通信機としては、トランシーバーがあったが、山岳地帯での有効距離は三、四キロであり、この谷間にいては、ヘリが真上にでも翔《と》んで来てくれなければ、ほとんど役に立たない。  高階は、残り少ない食糧を管理することを提案した。無計画に食っていれば、たちまち食いつくしてしまう。  両隊のすべての食糧を一括して、厳重な配給制にすることにした。佐多と島岡は不満げであったが、従わざるを得なかった。  ふたたび、夜が落ちた。場所割りは、いろいろと議論があったが、結局、昨夜と同じになった。  不寝番は、高階と木屋と北越が三時間ずつ交代でつとめることになった。北越が「自分が狙《ねら》われているとおもうと、とても寝られないから」と自ら買って出たのである。  その夜は、不寝番のおかげか、何事もおきなかった。三日目の朝がきたが、山はあいかわらず濃密な風雪に閉じこめられている。 「今日もだめか」  朝食用に配られた数枚のクラッカーとチーズの小片をかじりながら、一同は絶望的な視線を灰色の空間に向けた。実際、雪があきれるほどに降った。 「これじゃあ天気が回復しても、すぐには動けない」  高階はいよいよ深刻な事態に追いこまれたことを悟った。降り積った新雪が固定せず、ちょっとした刺戟でなだれをおこす、最も危険な状態になる。内川の手当のおかげで城久子の足はだいぶよくなっていたが、まだ独力で歩くのは、無理のようだ。  午前十時ごろ、激しく飛び交っていた雪が急に止んだ。雪がうすれて、薄日さえ射してきた。 「晴れたぞ」  避難地点に閉じこめられていた佐多と島岡が躍り上がった。 「さあ、いまのうちに脱出しよう」 「この呪《のろ》われた谷ともおさらばだ」  彼らは急に元気を回復して、いそいそと身支度をはじめた。 「これは、本物の回復じゃない。すぐこの後からもの凄い風が来る」  高階が止めても、 「なに言ってんだ。現実に晴れてきてるじゃないか。食い物がなくなってからじゃあ動きがつかなくなるぞ」 「ヘリが来るまで、食いつないで待つんだ。いま、谷はなだれの落とし穴だらけだぞ」 「冗談じゃない、みろよあすこを、天狗の腰掛けがあんな近くに見えるじゃないか。あすこまでなら、一時間くらいで行ける」 「そうだ。あすこへ行けば多少の食糧も置いてある」 「どうしてもいやだというんなら、おれたちだけで行く。すぐ目の前に見えてるのに、ガイドなんかいるものか」  佐多と島岡の意見が珍しく合った。確かに彼らの言うとおり、まるで果物の皮でも剥《む》くように晴れてきた青空をバックに、新雪の稜線《りようせん》がまぶしく輝いていた。  その稜線の一角に、天狗の腰掛けの特徴ある地形が、驚くほど近くに迫って見える。あんな近い所から来るのに、どうしてあれほど骨を折ったのかわからない。それこそ手を伸ばせば届くような距離に、それは誘惑的にあった。  だが高階は、それが好天のあたえた錯覚であることを知っていた。だいたいこの好天が、曲者なのだ。 「さあ、内川さん、出発だ。臆病ガイドには頼らない」  佐多は目の錯覚に欺かれて強気になった。 「ぼくたちは出かける前にすることがある」  島岡がなにかを含んだ口調で言った。 「すること?」佐多が目を光らせた。 「真知子さんの遺体の確認だ。それをしないうちは帰れない」 「収容するつもりか?」 「確認するだけだ」 「遺体はおれたちが確認して、仮に埋めた」 「ぼくらが確認してたわけではない」 「信じられないというのか」 「ぼくは真知子さんの許婚者です。確認するのは、当然でしょう」  束の間の意見の一致はあとかたもなく消えて、二人は憎悪を露わにしてにらみ合った。 「そんなに見たいというなら、見せたらいいだろう。ぼくが案内する」  内川が見かねたように間に入った。ハタハタと空気を裂く音が伝わってきたのは、そのときである。一同はハッとして音の来る空の方を見上げた。 「ヘリだ!」 「二機来るぞ」  歓声が上がった。青空から湧《わ》きだしたようなヘリは、みるみる機影を拡大して、谷の真上に達した。 「もしもし尾沢です、感度ありましたら、応答してください」  トランシーバーに整備員の尾沢の声が入った。尾沢は自分の整備した機が墜ちたので、責任を感じて救援に駆けつけたものとみえる。  エンジンによる雑音が入ったが、明瞭《めいりよう》に聞き取れる。 「これから天狗の腰掛けに強行着陸します。爆音と風圧でなだれを誘発するおそれがありますので、最初にダイナマイトを投げて、雪を落とします」 「待ってくれ。着陸しても、おれたちがそこまで行けないぞ」  高階は呼びかけた。彼はパイロットが気が狂ったのかとおもった。ダイナマイトでなだれを落として降りるというのも、乱暴である。そんな危険を冒して降りても、救助されるべき人間は、そこからはるか離れた場所にいるのだ。 「降着場を確保しておかないと、降りられなくなります。天狗の腰掛けには、一機しか降りられません」  パイロットの小杉が答えたとき、トランシーバーが混信した。後から追って来たべつの一機が、真上に達して、同時に島岡と交信をはじめたのである。他のヘリは、島岡を救援に来たものであった。二隊の競争関係をそのまま反映して、二機は救援《サポート》の競争をしているのだ。  まことに馬鹿げた競争だが、小杉機は、後から来た機に追い立てられるように、天狗の腰掛けの方角へ向かって機首をめぐらせた。 「もしもし、食糧の投下を……」  高階が慌てて呼びかけたので、小杉機からろくに下方を狙いもせずに一塊の包みが投げ下ろされた。その落ちる先を確かめずに、まことに慌てふためいた飛びかたで、谷の向うへ飛んで行った。  ヘリから落とされた包みは、風に乗って衝立岩の方へ流された。 「いかん!」 「岩壁に落ちるぞ」  固唾《かたず》をのんで見守る一同の視線を集めて、食糧の包みは、みるみる衝立岩の方へ近づき、その上部に吸いこまれるように落ちた。 「あんな所にひっかかった」  包みは岩壁の上部の小さな灌木帯《かんぼくたい》にひっかかっていた。登攀《とうはん》の可能性をまったく見出せないような険悪な形相で突き上げる岩壁の高みに、チラリと見える食糧包みは、飢えた一同を「欲しければ、ここまで来い」と嘲笑《ちようしよう》しているようであった。  失望の視野を転ずると、二機のヘリは、谷を一足飛びにして、天狗の腰掛けの上空へ達していた。どちらもあいゆずらず天狗の腰掛けの上をホバリングしながら、争って高度を下げようとしている。  どちらが天狗の腰掛けへ先着しようと、残《アブ》れた機が、食糧はなんとかしてくれるだろう。そのときには、まだ一同に多少の楽観が残されていた。  爆音に煽《あお》られたのか、尾根筋にちりなだれが発生して、白い煙りを上げる。機影は重なったり、離れたりしながら高度を下げていた。ここからでは、どちらがどちらの機かわからない。  はらはらしながら見守っている一同の目の前で、いったん離れた機影が、たがいにもつれこむように重なった。事故はその瞬間におきた。  硬い金属の触れ合う音が、爆音の中に聞こえた。どちらかの機の積載物らしい金属片が宙に飛んだ。そのままローターをからみ合わせるようにして、二機は天狗の腰掛けに突っこんだ。次の瞬間、山腹に雪煙が舞い上がり、たちまち炎と黒煙にとって代られた。やや遅れて、どーんと鈍い音が、空気を揺るがせて伝わってきた。  墜落の衝撃によって、積りに積っていた新雪のバランスが崩された。山腹が鳴動して、巨大な雪の量が落下をはじめた。一つのなだれは、傾斜のいたるところに孕《はら》まれていた雪のストレスを次々に誘爆させて、谷全体をなだれの坩堝《るつぼ》にしてしまった。舞い上がった雪煙の中に、ヘリの残骸から発した炎と黒煙は、呑みこまれた。  彼らは呆然《ぼうぜん》として、この突発事故を見守っていた。なにか言おうにも、口が痺《しび》れたようになっていた。口だけでなく、全身が化石になったように硬直している。 「危ない! 逃げるんだ」  木屋が一瞬早く我に返った。谷の上方に発生したなだれが、彼らの頭上にも迫っていた。全山を揺るがすような谷の下手のなだれに注意を吸われていたために、彼らの頭上に忍び寄ったなだれに気がつかなかったのである。  危険を意識したときは、すでになだれの触手は、彼らの一部分を捉えていた。 「逃げろ!」  動転して、避難場所へ駆けて行く頭上に、雪煙が渦を巻いて迫った。  だれかの身体が、雪の上に投げだされて、雪煙の中に巻きこまれた。 「助けて!」  城久子の悲鳴が聞こえた。たまたま彼女のかたわらにいた高階は、その身体を横抱きにかかえるようにして走った。視野が白くなったとおもった瞬間、巨大な力に突き飛ばされて、身体が宙に浮いた。そのまま城久子と抱き合った形で、雪の中をめちゃめちゃに転がされた。凶暴な力が、高階の手から城久子を|※[#「てへん+宛」、unicode6365]《も》ぎ取ろうとしたが、彼はかたくなに彼女の体を抱きしめていた。  ここで彼女を放すと、二人とも死ぬような気がした。巨大なミキサーの中でもみくちゃにされたように翻弄《ほんろう》されていた身体が、ようやく止まりかけた。止まるときが勝負である。  いったん停止したあとは、セメントで固められたように、動けなくなる。高階は城久子の手をつかんで暴れるだけ暴れた。身体が止まった。なだれが止まったのである。もがきつづけていると、片手の先が雪の上に出た。  夢中で雪をかくと、胸から上が出た。すぐそばに城久子の手の先が見える。必死に掘りおこしていると、 「おい、大丈夫か」  声がして木屋が駆け寄って来た。 「こっちは大丈夫だ。他の生存者を探してくれ」  すでに城久子の上半身は雪の上に出ていた。ショックを受けただけで、特に怪我をした様子はない。  木屋につづいて、村田と佐多が駆けて来た。危ういところでたすかったらしい。  結局、三十分ほどのちに、七人が顔を揃《そろ》えた。みな惨憺《さんたん》たる格好をしているが、重大な負傷をした者はいない。きわどいところでなだれの直撃を躱《かわ》したのだ。 「内川さんがいないぞ」  北越が言った。 「まだ雪の中に埋まっているんだ。探せ!」  城久子だけとりあえず岩の凹みへ避難させて、残った男六人が、押し流されてきたデブリの山の中に散った。声を合わせて連呼しても、内川の応答はない。 「気をつけろ。二次なだれが来るかもしれない」  太陽の照射を受けて、気温はますます上昇している。谷全体におびただしい光量が氾濫《はんらん》して、閃光《せんこう》のように強烈な光を裸眼に叩きつけて来る。 「いかん、雪盲になるぞ」  高階は、このまま捜索を続行すると、全員目をやられる危険を悟った。ヘリの爆音に誘われて、着の身着のままで飛びだしたために、遮光《しやこう》めがねもピッケルももっていない。  島岡だけが真知子の遺体確認に行くために完全武装していたのが仇となって、ピッケルははね飛ばされ、遮光めがねもはぎ取られていた。  ピッケルはデブリの端から発見されたが、めがねは雪の中に埋まってしまったらしい。  いったん避難所に引き返して、身支度を整えてから、再捜索をしたが、内川の姿を発見することはできなかった。  午後にまわって、ふたたび天候が崩れた。西から忍び寄った無気味な暗雲が、太陽の姿を隠したかとおもうと、暖かい南風が、西寄りの強風に変った。暗雲の上で雷鳴がとどろいた。気温は急降下し、雪面はピッケルをはね返すほどに凍りついた。  いよいよ寒冷前線が接近して、季節風の本格的な吹出しがはじまったのである。内川の捜索は打ち切らざるを得なかった。打ちひしがれて、一行は避難所に戻った。  彼らの絶望感は、内川を失ったことから発しているのではなかった。彼らは死の谷間に完全に閉じこめられたことを悟った。もはや新たな救援のヘリが来ても、天狗の腰掛けに降りることはできない。  そこは二機のヘリの残骸によって閉塞されてしまった。  専門の登山家の出入すら拒んでいる幻の谷から、自分の足だけを頼りに脱出せざるを得なくなった。しかも食糧はほとんど底を突き、装備も十分ではない。  谷を囲んでそばだつ岩壁の険しさは、彼らの絶望に止《とど》めを刺すものであった。 [#改ページ]    落石の下敷き      一  三日めの夜がきた。城久子や北越にしてみれば、遭難以来、五日めの夜である。負傷はよくなったが、二人の疲労と憔悴は日数に相応して激しい。昨夜まで、すしづめの状態だった避難所は、内川一人分のスペースがあいて、余裕ができた。その余裕が一同に改めて、内川の死を確認させたのである。  江戸時代の囚人が、入牢者が増えて、牢内が狭くなると、同囚の人間を間引くことによって、スペースをつくったのに似て、一人の欠落によって生じたスペースが、一同をなんとも救いのない陰惨な気分にのめりこませた。  その日の夕食は、明日の行動に備えて、チーズとクラッカーを一かけらずつ配給した。二人分を七人で分配したのである。たった一口でなくなってしまう量であった。 「まるで金魚の餌《えさ》だな」  佐多が不服を言った。 「がまんしてくれ。あとどう節約しても三食分くらいしかないんだ」  食糧を管理する高階が辛そうに言った。 「ああ、サーロインで霜降りの、バターナイフで切れるような生焼きのビフテキが食いてえ」 「食い物のことは言わないでください」  佐多に島岡が突っかかった。 「なんだと!」  佐多は険悪な形相で島岡をにらんだが、自分の空腹に負けたように、肩を落とした。  確かにいま、食物の話をされるのは、拷問《ごうもん》以上に残酷であった。たった一口の�夕食�を終えると、長く苦しい夜が待っていた。空腹と寒気が、絶望を煽る。  黙っていると、絶望感はますます深くなった。しかも依然として、北越を襲ったとみられる犯人はわかっていない。絶望の大きさが、当面、不明の犯人に向けた不安を吸収している。 「天狗の腰掛けへの脱出が、不可能になったので、みんなで、他の脱出ルートを検討したいとおもいます」高階が提案した。  どうせ眠れない時間を潰すには、格好の議題であるが、それは絶望を再確認する効果しかないかもしれない。  しかし黙っていると、やりきれなくなるばかりである。 「他の脱出ルートなんてあるのか?」  佐多が言った。 「ありません」  高階は皆に答えるつもりで言った。 「だったら検討も討議もないだろう」 「ないとおもわれている中から、どんなわずかな可能性でもないか探してみるのです」 「ヘリは絶対にここへ降りられないのか?」 「谷は狭すぎるうえに、気流状態が悪くて、とても降りられません」 「すると、他にどんな可能性があるんだ?」 「谷間は南北にのびており、南端がコイオトシの大滝、北端の衝立岩、西側が立山の東壁、東側が天狗の腰掛けのあった[#「あった」に傍点]黒部新山の山腹によって囲まれています。この中、大滝を下りるのが、技術的にはいちばん容易だとおもわれますが、そこへ行き着くまで、なだれの巣のような谷を四キロほど下らなければなりません。これは危険が大きすぎます。立山の東壁は距離が長い上に、傾斜が四十度前後のために、やはりなだれの落し穴がいたるところに張りめぐらされております。黒部新山側の天狗の腰掛け付近の山腹が、三十度ぐらいで比較的安全ですが、これを越えても、黒部渓谷側に垂直に近い絶壁が落ちているため、ルートとして取れません」 「まさか衝立岩を登るつもりじゃないだろうな」  それはその名のとおり衝立のような岩壁をもって、幻の谷の奥を塞《ふさ》いでいる。高度差約三百メートルの一見登攀不可能に見える凶悪な面構えをした岩壁である。しかもその凶相の上を亜硫酸ガスが噴き上げている。ガスによる影響を受けて、岩質は脆《もろ》くなっている。 「ぼくが初めてこの谷へ入ったときは、ここにいる木屋と、衝立岩を下りて来たのです」 「上りと下りではちがうし、それにあんたたちは山のベテランだ」 「確かにそうです。しかし岩は場所によっては下りより上りのほうが易しい場合もあります。衝立岩は、一見したところ登攀不可能のように見えますが、傾斜が岩の状態から判断して、それほど難しい岩壁ではありません。しかも雪は降るそばから流れ落ちて、岩に付着しない。特に注意しなければならないのは、下部五十メートルほどの亜硫酸ガスによって腐蝕している部分ですが、さいわい傾斜は緩《ゆる》くなっています。その上部へ行くと岩がしっかりしていて、手がかりや足場があります。だから最も危険な部分をまず、ぼくと木屋で登り、ぼくたちがみなさんを確保して引っ張り上げれば、登れないことはありません」 「有毒ガスはどうする?」  島岡が口をはさんだ。 「気がつきませんか? この温泉は間欠泉ですよ。われわれの前回の記録によると、噴騰の周期は約三時間です。昨日から改めて測り直していますが、大してずれていません。ガスの直撃を浴びるのは、岩壁下部の百メートルほどの部分ですから、三時間のあいだにその百メートルを登ってしまえば、安全圏に到達できるわけです。上部へ行けば、空輸された食物もあります」 「そこまで行けなかったら?」 「餓えとガスのために動けなくなるわけですね」  高階は無情に言った。岩壁の途中で行動能力を失えば、死あるのみである。 「食糧はどうする? もうほとんどないぞ。こんな空きっ腹で、とても、あんな岩壁を登れそうにない」  佐多が情けない声をだした。 「天気が回復次第、また捜索機が必ず飛んで来るはずです。そのとき食糧を投下してもらうのです」 「ヘリが来なかったら?」 「このままここで来るまで待ちます」 「本当に来るだろうか?」 「必ず来ますよ」  そう信ずる以外になかった。  このまま悪天が何日もつづけば、脱出どころか、谷間に餓えて死ななければならない。ただ一つの頼みは、この季節の悪天が、厳冬期とちがって長続きしないことである。一時的に西高東低の冬型気圧配置に戻ったために、季節風が吹き荒れているが、まず、一、二日で風は弱まり、天気は回復する。  そうすれば、ヘリが飛べるようになる。食糧の空輸だけでも受けられる。衝立岩さえ登りきれば、ヘリの降着点は見つけられる。  しかし現実に凄《すさま》じい悪天の渦中に身を置いていると、回復の兆などまったく感じられない。過去の気象統計の数字に頼ることが、いかにも甘い楽観のように、風雪はこれでもかこれでもかとばかりに、吹き荒《すさ》んだ。  温泉からかすかに伝わって来る地熱と、岩の屈曲《シエルター》の庇護《ひご》のおかげでなんとか凍死をまぬかれているだけで、これはもう遭難とほとんど同じ状態だった。  その夜、みなが寝静まった後に一騒ぎが起きた。木屋が不寝番であったが、疲労でうとうととしかけたとき、いきなり「泥棒!」という激しい罵声が生じた。闇の中で激しい格闘の気配がおきた。  何事! とばかりみながはね起きて、ライトをつけると、佐多と島岡がめちゃめちゃに撲《なぐ》り合っている。 「こいつが食糧を盗もうとした」  切れた唇の血で顔を染めた島岡が言った。 「ちがう。用足しに行きたくなって、ライトを深していたら、こいつがいきなり飛びかかってきたんだ」  応酬した佐多も、鼻血を噴きだして、面が真っ赤である。 「手に握っているものは、何だ?」  島岡に追及されて、佐多はハッとなって自分の拳を見た。数条のライトが、拳に握りしめたチョコレートの断片を無残に照らしだした。格闘の最中もかたく握っていたとみえて、包み紙ごと、チョコレートは、無惨に潰れていた。不寝番がうたたねをしている隙《すき》を狙って、彼の管理している食糧を盗もうとしたのである。  申し開きのできない�物証�を見つけられて、佐多は蒼ざめた。 「チョコレートをもって小便に行くのか?」 「お、おれは……」  顔がみにくくゆがんだ。追いつめられた者のように、周囲をきょろきょろ見まわすと、 「さっき配給されたときに、食わずに残しておいたんだ」  だがその弁解が、彼の状態をますます救いのないものにした。だれも�配給�を残すどころではなかった。みながたった一口で嚥《の》み下してしまったことをたがいに知っていたのである。 「恥を知れ!」  島岡が居丈高にどなった。紀尾井グループの生活関係においては、佐多のほうがいちおう上位職制にあり、島岡もいちおうそれを認めた態度をとっていた。  しかしここは孤絶した雪山の中である。いまの状態では生還の保証はない。ここでは�裟婆《しやば》�での身分関係は通用しないのだ。  まして島岡と佐多は、もはや絶対に親和することのできないライバル関係である。それは、真知子が死んだことによって、ますます激化している。島岡は真知子の死因すら確認していないのだ。そこにも疑惑があった。  限界状況に追いつめられて、二人はたがいに蓄え合っていたもろもろの悪感情を一斉に剥きだした。  島岡が佐多の�現行犯�を捉《とら》えて、鬼の首でも取ったようにいきり立ったのも、爆発寸前まできていた憎悪の内圧が、火となって導火線に点じられたからである。 「盗《ぬす》っ人《と》たけだけしいとは、きさまのことだ」 「なんだと! もう一度言ってみろ」  いったん蒼ざめた佐多の顔が、怒色によって紅潮した。 「何度でも言ってやる。恥知らずの盗っ人め」 「野郎言ったな! 打《ぶ》ち殺してやる」  佐多はうめいて、また猛然と島岡に撲りかかった。 「止めろ!」 「二人とも止しなさい」  高階が間に入り、木屋が島岡を、村田が佐多を背後から抱き止めた。放っておけば、どちらかが死ぬまで撲り合ったことであろう。その前に二人の体力が尽きて倒れるか。  この婚約者の醜い争いを、城久子は目をみひらいて、呆然とみつめていた。  気まずいおもいだけを攪拌して、残ったものは、たった一片のチョコレートである。それも粘土のかたまりのように潰されて、食用にできないほどになっている。  しかしそれすら食わなければならないほどに、切羽つまっていた。  佐多と島岡はいまの争いですっかり消耗したらしい。制止された後は戦意を失って、雪明かりの中でただにらみ合っていた。そのうちにどちらも疲れて、眠ってしまった。      二  疲労と憔悴は神経の興奮を圧倒した。明け方ちかく、全員が眠りに落ちた。  なにか重い物体が崩れ落ちる気配がして、つづいて陶器の割れるような音と、悲鳴のような声がした。  それを夢うつつに聞きながら、だれも起きようとしない。一同の目がはっきりと覚めたのは、今度こそまがうかたなき、高音の切り裂かれるような女の悲鳴を聞いてからである。 「大変よ! 島岡さんが」  城久子の動転した声がつづいた。疲労と寝不足で腫《は》れ上がった一同の目の前に、変り果てた島岡の姿があった。いや見えたのは胴体と脚だけで、頭部が見えなかった。顔の上に漬《つ》け物石ぐらいの岩が乗っていたからである。  寝ている上にいきなり岩が落ちてきたのだ。さっきの陶器の割れるような音は、島岡の頭蓋骨が砕けたときに発したものかもしれない。 「城久子さん、見ないほうがいい」  高階は暁の淡い光が漂いはじめた中で、島岡の頭部から岩を取り除けようとして、城久子に注意した。  島岡の頭部は、無惨に砕けていた。重さは三、四キロの岩の塊りであったが、ちょうど島岡の頭があった二メートルほど上の岩棚《いわだな》から、頭の上にもろに落下してきたために、ひとたまりもなかった。  岩を取り除けたときは、まだ虫の息があったが、間もなく死んだ。おそらく死因は頭の骨を折ったためか、頭蓋内の出血によるものであろう。  あまりにも突発の事故にしばらく呆然としていた高階は、ふと視線を、島岡の命を奪った岩に向けた。 〈どうしてこんな大きな岩が、急に落ちてきたのだろうか?〉  驚きが鎮《しず》まってくると、疑問が代って湧いた。彼はふたたび岩棚を見つめた。岩の凹みの奥に、棚のように岩が出っ張っていて、落ちた岩塊はその上に乗っていたのである。 「おや?」 「どうかしたのか?」  高階のつぶやきを木屋が聞き咎めた。 「この岩棚に雪がある」 「それがどうした?」  確かに落石を発生させた岩棚の奥の方にほんの一つまみの雪があった。しかし周囲は雪だらけである。そこに雪があっても少しもおかしくないはずだ。 「この場所には、雪は積らないよ。岩の凹みの奥まったところに刻まれたような岩の棚だ。それにもかかわらず、ここに雪があるというのは……」 「外から吹きこんできたんだろう」 「だったら、こんな棚の奥に残るはずがない。落ちてきた岩は棚の上に乗っていた。ちょうど岩が棚を塞《ふさ》ぐような形でな」  高階は、島岡の上に落ちた岩を抱きかかえて、棚の上に乗せた。 「見ろ。もしここへ雪が吹きこんだのなら、棚の前の方に積るはずだ。ところが、雪は岩に塞がれた棚の奥の方に残っていた。これはどういうことだとおもう?」 「ということは……」  高階の話に引きずりこまれた木屋をはじめ一同は、事の容易ならないのを察して、表情をひきしめた。叩くと反響するばかりに硬い空気になった。 「だれかが、ここへ外からこの岩を運びこんだんだ。だから岩に付着していた雪が、棚の奥に残った。寒気のために、溶けきれなかったんだ。そのだれかは、棚の下が島岡さんの寝場所だったことを知っていた者だ」  一同の視線が佐多に集まった。 「ば、馬鹿な! おれじゃないぞ、おれがやったんじゃない」  佐多が、その視線をはねかえすようにどなった。しかし声がぶざまに震えている。 「島岡がそこへ寝ることを知っていたのは、おれだけじゃない。ここにいるみんなが知っていたじゃないか」  震える声を奮いたてて、彼は必死に反駁《はんばく》をつづけた。 「それに、そんな所へ岩を置いても、どうやって、自分の都合のいいときに落とすんだ?」  彼の反駁は一理あったが、それをすればするほど、一同の疑惑は深まっていくようである。実際、数時間前の殺し合いそのもののような島岡との争いを見た後では、だれも彼を無色で眺《なが》められない。 「だれもあなたがやったとは言ってないよ。ただ……」  高階がなだめるように手を上げて、 「岩を落とすことは、さほど難しいことじゃないとおもう。岩を棚の上の不安定な位置に据えて、微妙なバランスを小さな石でも楔《くさび》にして支えておけばいい。島岡さんが眠ってからその楔を取りはずせば、岩は落ちる」 「楔はどうやってはずします?」  北越が訊《き》いた。 「それは簡単です。楔に糸でも巻きつけておいて、引っ張るんです。岩が落ちた後、騒ぎに紛れて、糸から楔をはずし、そのへんへ捨ててしまえば、他の岩石と混じってわかりっこない」 「するとこれは殺人ですか?」  北越の面が血の気を失った。彼がいったん狙われた形跡があるだけに、恐怖が人一倍身に迫るらしい。 「とは断言できないけど、その疑いは濃厚だとおもいますね」 「どうしてもおれを犯人にする気か」  佐多が半狂乱になって、ピッケルを構えた。 「佐多さん、落ち着け! だれもあんたを犯人だなんて決めちゃいない。そんなことをすればするほど不利になるんだ」  木屋が、ピッケルをがっしりと押えた。 「おれは、おれは……」  木屋にピッケルを取り上げられて、佐多はおいおいと泣きだした。限界状況の中で、続発する異常な事件に、完全に動転してしまったのである。 [#改ページ]    絶望への登攀《とうはん》      一  夜が明けた。風雪はいっこうにおさまる気配を見せない。まるで山全体が発狂したかのように荒れ狂い続けた。恐ろしいことは、悪天そのものよりも、その凄じい狂気が、人間に伝染してきたことである。  朝食として、二人分の食糧を六人に分配すると、二人の一日分を残すのみとなった。すでに一同の飢餓感は、限界に来ている。 「天気の回復を待っていたら、おれたちは餓死してしまうぞ」  と言いだしたのは、いままでかたくなに沈黙を守っていた村田である。それだけに彼の発言は説得力をもって、他の者に迫った。 「そうだ。ヘリが来るのは、天気が回復した後だろう。たとえ回復しても、気流の状態が悪ければ、ヘリは飛べない。そんなものを待ってこんな所にぐずぐずしていたら、救い出される前に死んでしまう」  すぐに佐多が同調した。 「体力が完全に尽きる前に、衝立岩の食糧がひっかかっている所まで登っておくべきだ」 「そうだ! おれはこんな場所での餓え死にはごめんだ。高階、あんたは昨夜、衝立岩だけが可能なルートだと言ったろ。だったら天気が回復してからなんて悠長なこと言ってないで、すぐに行動をおこしたらどうなんだ」  つい先刻殺人容疑者に擬せられて、見苦しい動転を見せたばかりの佐多が、急に居丈高になった。 「待て。待ってくれ」  高階は、一座の雰囲気が、村田や佐多の危険な煽動《アジ》に傾くのを恐れた。 「天候がもち直せば必ず救援が来る。エアロスバルの他に、ヘリが二機も墜ちたんだ。大騒ぎをしているはずだ。警察も動きだしているにちがいない。この悪天候の中で動くのは危険だ」 「いつ天候は回復するんだ?」 「それは……」  高階は詰った。この場合、あらゆる情報から遮断されていることが、彼らの不安を煽《あお》った。地形的にトランジスターラジオが役に立たないので、高階らの経験による観天望気に頼るしかない。  しかし回復を忘れたかのような悪天の持続は、高階の言葉から信憑《しんぴよう》性を奪い、一同を絶望による自棄の状態に突き落とした。 「それみろ。ここにいたって、まったく見込みはないんだ。衝立岩を登れば、食糧はある。こんな所でみすみす餓え死にするのを待っていないで、とにかく一か八か衝立岩を登ろう。食糧を確保して、救援を待つべきだ」 「こんな衰弱した体で、あの岩壁を登れるとおもってんのか」 「昨日、登れると言ったばかりだろ」 「それは食糧の補給を受けてのうえのことだ」 「まだ二人分ある。全然ないのよりは、ましだ。そいつを食って、食糧のひっかかってる所まで登りつけば、後はなんとかなる」 「危険すぎる。途中で動けなくなったら、どうする」 「ここにいても、危険は同じだ。いやもっと絶望的だ」 「おれは賛成できない」 「高階さん、あなたはべつにリーダーじゃない」  火つけ役の村田が、また重々しく口を開いた。 「私はもともと木屋君と島岡さんといっしょに、あなたのパーティとはべつに来た。だからあなたの意見に拘束されない。それから城久子さんと北越さんは、高階さんのパーティに救われた形になっているが、私らも一歩遅れたとは言え、あなた方を救助に来た者です。あなた方を連れて行きたい。木屋君がいるから、衝立岩も登れます」  村田が、城久子と北越に誘いをかけた。島岡らは真知子の救出を目的にして山へ入った。だが真知子が死に、隊のスポンサーである島岡も殺されてしまったいま、遭難機に同乗していた城久子と北越を救っても、どこからも文句は出ない。先に駆けつけた救助隊が、遭難者を拘束することはできない。  それに島岡がいなくなったので、彼が内包していたかもしれない城久子に向けた危険な意図もなくなったわけである。 「高階のパーティじゃない。おれのパーティだ。リーダーはおれだ。おれが命令を出す。高階、直ちに出発だ」  村田が言った「高階のパーティ」という言葉に、佐多が異議をだした。 「べつにリーダーとしてものを言ってるんじゃない。ガイドとして、いま動くのは危険だと言ってるんだ。木屋、おまえからもよく説明してやってくれ」  この場合、木屋だけが高階の意見の正しいことをわかってくれるはずである。 「おれは、村田さんの意志に従うよ。どうせ、雇われガイドだものな」  木屋が自棄的な口調で言った。彼は実際どうでもよくなっていた。もともとこの登山の目的が金と欲に釣られたものである。宝石の話が村田の嘘とわかっても、たいしてがっかりもしなかった。  どうせこの世に情熱を燃やす対象なんかないのだ。岩の凹みに餓えて死んでも、衝立岩を命を賭《か》けて登っても、大したちがいがあるわけではない。  もし運が強くて、生還できたとしても、また尾沢都美子の�性奴�としての家畜のような生活があるだけである。それならば、青春の開拓の思い出のあるこの谷間で死んだほうがよいかもしれない。  しかしどうせ死ぬなら、その前に腹いっぱい食いたい。この空腹感にはまいった。完全な絶食を施していれば、飢餓感は、もうなくなっていたかもしれない。  それをなまじ体力を保持するために、ごく少量ながら胃袋に入れつづけているために、食物への思いは、耐え難いまでに拡大されている。岩壁の中腹にひっかかった空輸の食物も、飢餓の谷間の深度を深め、そこからの脱出をうながす抵抗することのできない誘惑的な餌となった。——あの食い物が得られるなら——灼《や》けつく喉に見せられた泉の蜃気楼《しんきろう》のように、それは木屋の冷静な判断力を奪っていた。 「木屋、きさま……」  高階は最も信頼していた味方から背中を刺されたような気がした。 「おれは行くよ」  木屋はだめ押しをした。 「城久子さんは、まだ動くのは無理だ」  高階は最後の拠《よ》り所を城久子に求めた。 「私だったら、大丈夫よ。もう一人で歩けるわ」 「私も、大丈夫です。もうほとんどどこも痛みません」  城久子につづいて、北越が言った。高階は完全に孤立したのを知った。みな飢餓の頭上に吊された餌の誘惑に屈服したのである。 「これで決った。この際高階さんの意見は専門家の参考意見として尊重しよう。しかし多数決の原理に従ってもらいましょう」  村田が結論を下すように言った。高階は、遂に餓えて衰弱した一隊を率いて、吹雪の岩壁を登る羽目に追いつめられた。      二  みなの意見が統一されると、すぐに出発しようということになった。ちょうど噴泉が休止期に入ったからである。いまから三時間のあいだに下部岩壁を登りきってしまわないと有毒ガスに捉《とら》えられる。出発は午前九時近くだった。  島岡の死体を埋めている暇はなかった。雪面の上に置いて、周囲から雪をかけておくのが、精一杯であった。 〈この中に殺人者がいる。その人間は、自分が殺した犠牲者のそばにいるのがいやで、逃げ出そうとしているのかもしれない〉  島岡の�仮埋葬�をしながら高階はおもったが、それを口にすることはできなかった。彼自身も容疑者の一人として除外されないのである。  高階も、木屋も万一の場合を考えて、岩登り用の道具を用意してきた。遭難者の中に女性が二人いたので、女性用の最小限の装備ももってきてある。残酷なもので、男性用の装備はもってきていない。北越には、島岡の死体から剥ぎ取ったものを着けさせた。  出発に先立って、食糧を分けた。あと食物は、二人分しか残っていない。重量負担を少なくするためにぎりぎりの装備を残して、他はすべて捨てた。  エネルギーが完全に失われる前に、食糧のある場所までたどり着けなければ、全員岩壁にぶら下がって死ななければならない。  高階には、まったく成算がなかった。多数決の横暴に押し切られて、集団自殺をしに行くのである。彼自身、もうどうでもいいような気分になっていた。  実際、この絶望的な状態の中に閉じこめられていると、救援を当てにしているのが、途方もない楽観のようにおもえる。他の人間が絶望からのエスケープルートを求めて、生死を賭《か》けようとしているのを、ガイドの身が、そんな楽観を頼りに留まれない。  無気味な鳴動をつづける噴泉地を、熱泥に足を取られないように注意しながら、衝立岩の基部へ向かう。散乱した機体残骸が、すでに赤く錆《さ》びついていた。  吹雪の中にも、この一帯は雪が積らない。地獄の釜の底のような場所を通り抜けて、岩壁の基部へ辿《たど》り着くまでに、三十分が消費された。あと持時間は二時間半しかない。それも不正碓な記録に頼ってのことである。  風が急に止んだ。ただ雪だけが上方の灰色の空間から垂直に舞い落ちて来る。谷のはるか上方に風のうなりが聞こえているのに、その基部が真空のような静寂にあるのは、無気味であった。  なにか自然が、大きな陥穽を張りめぐらして、獲物がかかるのを息をこらして待ち構えているような気配だった。 「ここから五十メートルほど、非常に脆《もろ》い岩がつづきます。私が最初に登ってザイルを確保しますから、合図をしたら、一人一人登って来てください。足元に注意して、石を落とさないように。木屋、おまえはラストをつとめてくれ」  基部に着くと、高階は休みもとらず、岩に取り付いた。絶望的な岩登りが開始された。斜度は大したことはないが、ボロボロに崩れた茶褐色の岩屑《いわくず》の堆積《たいせき》である。岩を欺《だま》し欺し登るという形容がまさにふさわしい。少しでも引っ張ったり、捻《ねじ》ることは、禁物である。  ザイルさばきによっても、岩なだれをおこしそうな脆い場所であった。基部は雪が溶けて、岩が赤黒く濡《ぬ》れている。溶けた雪が、小さな滝となって上方から落ち、それが登攀《とうはん》をいっそう妨げる。もちろんハーケンを打つ場所など見当たらない。  二十メートルのザイルの延びきったところで、ようやくボディビレイ(身体で確保する)のできる場所を見つけて、合図を送る。固唾をのんで上方を見守っていた一同からホッとため息がもれた。  順序《オーダー》は、二番が村田、次に北越、佐多とつづき、城久子が五番、木屋がラストということになった。弱い者や傷ついた者を強い者が挟《はさ》むオーダーにしたのである。  城久子だけ、まだ膝の負傷が心もとないので、木屋がピタリと後方に付き添って登る。  取り付きワンピッチから上は、やや傾斜が強くなり、ガレた斜面を斜め右上へトラバース気味に登って行く。  ルート選定は、高階に任せられている。前回下降したときの記憶はまったく残っていない。登攀中に彼の判断で、ルートを探して行く以外にない。  上方は屈曲しているうえに乳白の霧に包まれてまったく見えない。行き詰ったときは、そのときのことだと、高階は度胸を据えていた。ただ前回の経験から、下部の有毒ガス地帯から脱出できれば、なんとか逃路を見つけられるような気がした。  岩壁の難度はさほどではない。ただ有毒ガスの噴騰周期が正確に把《つか》めないために、このルートを取る者がないだけなのである。  さらに二ピッチして傾斜の落ちた草ツキに着いた。ここまで来るのに、すでに一時間消費している。高階と木屋の二人だけならコンティニュアス(ザイルで確保しない)で登れるところであった。 「少し休ませてくれ。もう腹がへって動けない」  佐多が弱音を吐いた。しかしそれは全員の気持を代弁したものである。みな極度に疲労していた。登りたくも、手足にいっこうに力が入らない。  だが疲労は、トップをずっとつとめた高階のほうがいちじるしい。もうなにもかも投げだして、眠ってしまいたい。ここで眠ったら、確実に死ぬ。まだ有毒ガスの影響範囲から離脱していないのだ。 「もう一息、がんばるんだ。時間がない。ここで休んだら、助からないぞ」  彼は他の人間を叱咤《しつた》することで、自分を奮い立たせていた。 「佐多、立て。立つんだ。行こうと言いだしたのは、きさまじゃないか」  高階は、佐多の頬を拳で撲りつけた。こうして、ふたたび登攀が再開される。あいかわらず高階がトップである。みなすでに自分の体のような気がしていなかった。傾斜が強くなった。  高度感がだいぶでてきて、霧が岩壁下部からも這《は》い上りはじめた。  高階が必死にルートを見つけている間、かたつむりの歩みのようなザイルの動きを呆然と見つめているだけで、合図があってもだれもなかなか腰を上げない。ようやくまず木屋が気がつき、一人一人をザイルにつかまらせて、押し上げるのである。オーダーも、もうめちゃめちゃであった。 「ようし、城久子さん、あなたの番です。木屋、付き添ってやってくれ」 最後は城久子になった。彼女はすでに自力で登れなくなっていた。 「気をつけて、足元に注意して」  高階が声をかけた瞬間のことである。ヒュッとなにかが宙を切る音がして、下方で悲鳴が上がった。同時にザイルの抵抗がなくなった。相当の重量の物体がなだれ落ちる音がした。 「おい! どうした」  愕然として、高階が呼びかけたが、返事がない。      三 「おい、どうしたんだ? 返事をしろ、木屋、城久子さん、返事をしてくれ」  何度かコールすると、やっと城久子の動転した声が下から上がってきた。 「大変よ。木屋さんが体に落石を受けて、堕《お》ちたのよ」 「木屋が堕ちたって!?」 「城久子さん、あなたは大丈夫か?」  佐多のおろおろする声が問いかけた。 「私は大丈夫よ。ちょうど岩の間にはさまっていたの。でも木屋さんが、木屋さんが」  城久子は涙声になった。 「そこを動かずに待ってなさい。いいか。動かないで」  高階は、ザイルの確保を村田に頼むと、余っていた三十メートルのザイルを一本もって下降した。事故はザイルの下端で起きていたが、途中、岩が出張っているために、よく見えない。  城久子がチムニー状になった狭い岩の間にはさまって、呆然となっていた。 「木屋は?」 「あすこよ。私をこの岩の上に押し上げようとしたとき、上から落ちてきたボールくらいの石が頭に当たったの」  城久子の指さす下方の岩の間に、木屋が倒れている姿が、チラリと見える。全身が血にまみれ、かなりの怪我を負っている様子であった。何度呼んでも、反応をしめさない。 「城久子さん、あなたはここに待っていてください」  城久子の身体を岩の間にしっかり固定すると、近くの岩にハーケンを打ち、カラビナをかけ、ザイルを通す。それを伝って木屋のところまで一気に下りた。 「木屋!」  高階は、友の痛ましく傷ついた姿を確認して、声を失った。唇は切れ、歯も折れているようだ。顔面は一面に擦過傷で、赤いペンキを塗りたくったようになっている。右前頭部に十円コイン大の穿孔状《せんこうじよう》の創があり、そこからも血を噴き出している。その他、膝や肘《ひじ》の部分の衣類が破れて、血と肉がはみ出して見える。  必死に転落を食い止めようとしたらしく、両手は大根卸しにかけられたようになっていた。  抱きおこそうとして、高階は踏み留まった。もしまだ息があるなら、下手に動かすのは、禁物である。損傷を受けた頭蓋の中は、燃え殻《がら》のように、ちょっとした動揺にも、崩れるデリケートな状態になっている。  しかし自分一人の力でかつぎ上げることは、とうてい不可能であった。だがだれに助けを求めるというのか。みな自分一人すら動かすことが難しくなった、餓え消耗した人間ばかりである。  高階は深刻な事態に追いつめられたことを悟った。下方から伝わって来る地鳴りが少し高くなってきたようである。時間的にも、間欠泉が噴騰の周期に入るころである。  ここにいれば確実に有毒ガスの直撃を受ける。  しかし木屋を残して行くわけにはいかなかった。 〈いっしょに死んでやるか〉  絶望の底で、死の誘惑が高階の頭をチラリとかすめた。このまま登りつづけたところで、助かるという保証はない。むしろここで友に殉じたほうが……。  そのとき、死んでいたような木屋がかすかに目を開いた。その目からも血があふれている。 「高階」  木屋が虫の鳴くような声で呼んだ。 「木屋、しっかりしろ」 「おれはもうだめだ……おれを置いて行ってくれ」 「なにを言うんだ。これしきの傷で、がんばれ」 「いや……もうどうしようもなく……ぶっこわれてしまった……おまえにも、ずいぶん世話になったが……年貢の納めどきがきたんだ」  木屋は弱々しく笑った。 「木屋、そんな弱音をはくな。おれが引っ張り上げてやる」  高階はいつの間にか泣いていた。彼自身、泣いている事実に気がつかなかった。この灰色の垂直の空間で友を失いかけている事実が、この上もなく不合理なことのように彼に迫っている。  わかっていることは、この友を失うことはできないという思いだけである。友を失いかけて、自分にも友のいたことを知ったのだ。 「無駄なことは止めろ」  木屋は力なく首を振ると、 「城久子さんを守ってやってくれ」  と謎めいたことを言った。 「それはどういうことだ?」 「あの落石は、自然……に発生したものじゃない……だ、だれかが故意に落としたんだ」木屋は言いかけて、目を閉じた。 「木屋、おい、木屋、しっかりしろ。いったいだれがなぜそんなことをしたんだ?」 「お、おれにはわからない……あの石はおれを狙《ねら》った……もんじゃない……城久子さんを狙って……落とした」 「な、なんだと!?」  突然、途方もないことを言いだした木屋に、高階は動転した。 「さ、早く行け……ガスが噴きだすぞ……城久子さんを放っておくと……危ない。あの人は美しい人だ……守ってやれ」  地鳴りはますます高まってきた。噴騰期の迫ってきた証拠である。 「高階……さよならだ」  その一言を最後に、木屋は一個の物体に還《かえ》った。 「木屋、許してくれ」  迫って来る地鳴りに追い立てられるように、高階は、ザイルにすがった。たった一人の友を捨てて、どこへ行くというのか?   友の遺《のこ》した最後の言葉が、彼を上方へ駆り立てていた。  ——城久子さんを守ってやってくれ。だれかが城久子さんを狙っている——  木屋のいまわの言葉が、高階に新しい闘志をかきたたせた。有毒ガスから逃れるためではなく、城久子を守るために、彼は上へ登った。  木屋は自分の命と引きかえに、城久子を狙う者の存在を知った。あるいは、上方から落ちてくる岩をいち早く認めて、木屋が自らの体で庇ったのではあるまいか。そうだ。木屋が庇ったのだ。本来のオーダーなら、彼がラストだから、落石は城久子に当たったはずである。  木屋は何かに絶望していた。はっきりとはわからないながらも、生きることに、人生に絶望していたようである。  それが城久子を救うために、束の間の生命の燃焼をしたのであろうか? 城久子には確かに人生に絶望した男に、命を賭《か》けさせるような謎めいた美しさがある。  それは魔性の美しさであるかもしれない。魔性ではあっても、男の絶望の中に、生《い》き甲斐《がい》をあたえる美しさであった。木屋は黙っていたが、その魔性美にいつの間にか取り憑《つ》かれていたのだ。いまにしてわかる。彼が執拗にラストの位置を守り、城久子をエスコートしていたわけが。  木屋の生き甲斐が、彼の死によって、高階に相続されていた。  ——城久子を守らなければならない—— 〈だれかが彼女を狙っている。それにもかかわらず彼女をたった一人で放置してきてしまった。その上方には、確実に犯人がいる。彼は第一撃が対象を誤ったことを知り、第二、第三の狙いを、城久子の頭上に据えているかもしれない〉 「城久子さん」  高階はザイルをたぐりながら、夢中で叫んだ。上方から返答があった。まだ無事の様子である。 「落石に注意してください。まだ落ちて来るかもしれない」  いまの落石が人為的なものだと告げるのは、まだ早い。城久子をおびえさせるし、上にいる犯人をどんな凶暴な振舞いに駆り立てるかもわからないからである。  ともかく安全圏に到達するまで、犯人を刺戟するような真似はいっさい避けて、その正体を秘かに探るのだ。 「急いで!」  岩の間に心細そうに挟まっていた城久子を、高階は一歩先に立って、引っ張り上げた。下方から地鳴りがごうごうと近づいて来る。視野がよくきかないが、遂に、噴騰の周期にかかったようである。  あたりの空気が、きな臭くなった。それはまさに殺気そのものであった。殺気は下方からだけでなく、上からもいつ落石という凶暴な形に凝結して襲いかかって来るかわからない。  城久子も高階の異常な様子を悟って、なにも聞かずに素直に動いた。 「おーい、どうした?」  上方からだれかの声が落ちてきた。しばらく気配が絶えたので、心配して呼びかけてきたのだ。  高階は、城久子に目顔で、答えるなと合図した。彼は村田の確保しているザイルにもつかまらせなかった。だれが犯人かわからない間は、ザイルに反応を伝えて、こちらの所在を教えるのは、危険である。  小さなオーバーハングの下を右へ捲《ま》いて、確保地点のテラスへ出た。 「どうして返事をしなかったんだ?」   佐多が咎《とが》めるように言った。 「ザイルの抵抗がないので、どうしたのかと思った」  村田が無事な二人の顔を見て、ホッと気が弛《ゆる》んだように言う。 「木屋さんは?」  北越が聞いた。説明している暇はなかった。 「みんないっしょに登るんだ。少しでも上の方へ。ザイルで確保している暇はない。ぼくが城久子さんを引っ張り上げるから、すぐつづいて来てください」  さいわいに崩壊性の岩質が終って、硬い岩場へ出ている。手がかりや足場も、しっかりしている。足下が霧に埋められて、高度感がないことも、一同の高所恐怖感を薄めた。  刻一刻、有毒ガスの迫って来る気配が、疲労と消耗を一時的に忘れさせて、上へ上へと進ませた。  それはまことに体力を越えた登攀《とうはん》であった。気力や精神力によるものでもない。保身本能が、常ならば考えられないような超人的な行動を可能にしていた。  いつの間にか雪は止んでいた。霧も少し薄れてきた。地熱の影響を受けなくなったかわりに、岩壁に雪がまといついて、べつの困難が生じてきた。  時折り上方から傾斜に流されて、チリなだれがシャワーのように落ちて来る。その中にまともに首を突っこむと、しばし呼吸ができなくなるほどである。  雪の壁の間に岳樺《だけかんば》や松が見えてきた。高階は、ほぼ見当をつけたとおりのルートを進んでいると思った。問題の食糧包みは、灌木《かんぼく》のはじまる小さな岩のフェースの上にあったはずである。  谷から仰ぎ見たときの印象では、灌木は、岩壁上部のごく限られた範囲にしか生えていなかった。食糧包みを探し当てることができなければ、生還の可能性はまったく絶たれる。この消耗した身体では、さらに一夜を凍えた岩壁の中途で耐えるエネルギーはない。  他の人間も、盲目的に高階に従っているだけであった。ここまで来た以上、もはや引き返すことはできない。下方は有毒ガスに埋められた死の谷である。  そして上方では、動けなくなった時点で、死がはじまる。動けなくなるまでの死への橋《プロセス》を渡っているようなものだ。せめてその橋を渡りきる前に、食糧を見つけることができれば、生へ向かって引き返せる可能性がある。  しかしその可能性もごくわずかにすぎない。  体力と気力を悉《ことごと》く費《つか》い果たした後に、食糧を見つけても、それを受けつけられなくなるだろう。疲労が極端に進むと、食欲がなくなり、なにをしようという意欲も失われてしまう。  食糧、装備が完全であっても、進行した疲労の前にはなんの役にも立たない。  山の遭難は、まさに力尽きるという言葉そのままに、外見、普通に歩いている状態から蓄えられた疲労が一気に発して、バッタリと倒れて一歩も歩けなくなる。  そうなってからでは遅いのだ。現にその状態の一歩手前まできている。その証拠に、だれも飢餓を訴えなくなった。ただ高階の引っ張り上げるままに、呆然と従っているだけである。視点が拡散している。動作がなげやりになっている。脳の働きが衰え、注意力や判断力が散漫になったのだ。  高階自身が、耐えがたいほどの倦怠《けんたい》感を覚えていた。ただ彼が他の人間とちがっているのは、自分が動くのを止めたときに、全員がストップすることを自覚していたことである。  彼らは、高階に引きずられて、人形のように尾《つ》いて来るだけだった。それ自身はすでに動力を喪失していた。その中に城久子を狙った犯人もいるはずであるが、この状態では殺意を失っているであろう。  高階も、すでに体力を費い果たし、精神力だけで動いている。山でそんな非科学的なものを燃料にすることの危険を十分に知りながら、もはやそれ以外に燃料がない。  高階の消耗は、他の人間よりもいちじるしかった。常にトップをつとめて、ルートを拓き、ザイルを確保して、後続する者を一人一人引っ張り上げる。城久子を狙う犯人に対する警戒も忘れない。  木屋を失い、村田や佐多も、手伝うどころではなくなっていた。  ザイルを引く腕、岩角にふん張った足が、しびれていうことをきかなくなる。這《は》い松の中に全身を入れ、枝に腕をかけて、奄々《えんえん》たる気息を整えなければ、次の行動に移れない。  休止の時間が次第に長く、間隔が頻繁《ひんぱん》になる。彼が動かなければ、だれも動こうとしない。その自覚が、瀕死のような彼を、また立ち上がらせた。  すでに何時間ぐらい登ったであろうか? 時計を見るのさえ億劫《おつくう》であった。吹雪の止んだのが、せめてもの幸運である。この状態で、風雪やみぞれに叩かれたら、ひとたまりもない。気温も上昇していた。下方でなだれの轟音がとどろいた。 「みんな注意してくれ。この近くに食糧があるはずだ」  自分一人の注意力よりも、人数分の注意を集めたほうが、発見する可能性が強い。だが高階は、すぐにそれが、ほんの気休めにもならないことを悟った。  彼らに注意力などは、まったく残されていなかった。目を開いていたが、もはや何も見ていない。たとえ目の前に食糧の包みを見ても、反応をしめさないだろう。  それは、まったく錯覚のように、高階の前に現われた。岬《みさき》状に出っ張った尾根の側面を斜めに登ると、岳樺の木があった。その枝に、それはひっかかっていた。  高階は、探し求めていたにもかかわらず、最初はそれを、視野の端に認めていながら、見すごしていた。  本の頁をなにげなく繰っているときなど、通過した頁の中に、ふと視野にひっかかる残像があるように、彼はいったん岳樺の木から視線をそらせてから、そこになにか�異物�があったように感じた。  振り向いた目の前に、探していたものがあった。岳樺の枝の間に危なっかしくひっかかっている。 「食糧があったぞ!」  彼は後ろを振り向いてどなった。村田がかすかに顔を上げただけで、他の者は反応をしめさない。 「みんな来るんだ。食い物がある。さあ、どうした。あと一歩だぞ」  高階に叱咤されて、まず村田がのろのろと立ち上がった。雪面の緩傾斜でさして危険はないが、高階の確保するザイルを伝ってゆっくりと歩いてくる。  つづいて城久子と、北越が立ち上がった。北越が、城久子をエスコートした。ここでは落石の危険はないし、高階が見張っているので、だれが犯人であっても、変な真似はできないだろう。最後に、佐多が立った。城久子をエスコートする北越に、刺戟されたらしい。  だがもう北越と張り合おうとする気力は失せているようだ。霧があいかわらず視野を埋めている。自分たちの位置が、まったくつかめないが、かなり上部へ来ていることは、確かだった。  霧が墨のようににじんでいた。いつの間にか夕暮になっていたのだ。  一同は、高階が岳樺の木からはずしてきた食糧包みを囲むようにして、その場にへたへたと坐りこんだ。そこがリミットであった。口をきく元気もなかった。動きを止めると、寒気が急に迫ってくる。風雪は止んでいたが、岩壁は夜へ向かう傾斜の中で、静かな凍結をはじめている。  目標にしていた食糧を見つけて、一同の張りつめていた気持がいっぺんに弛《ゆる》んでいる。最も危険な状態であった。エネルギーはほとんど底をついている。このまま放置すれば、体温は急速に低下の一途をたどり、疲労凍死してしまう。  さすがに高階が虚脱状態から最初に立ち直った。これ以上は一歩も動けない。食糧よりも、まず、露営地を見つけることが、急務である。高階は、周囲を這うようにして歩きまわり、尾根の突端に五、六人は入れそうな雪の穴を見つけた。  選択は許されなかった。みなの倒れているところへ引き返すと、まず城久子を運び、男たちの一人一人をピッケルのシャフトで撲りつけて、雪の穴へ引きずりこんだ。  中に入ると、前面に張りだした藪《ブツシユ》が、防風林の役目を果たして、風を遮《さえぎ》ってくれる。  なにはともあれ、捨てずにもってきた|携帯用石油こんろ《ラジウス》で、湯をつくった。  食糧包みの中には、ハム、チーズ、餅《もち》、パン、コンデンスミルク、煎餅《せんべい》、果物のかんづめなどから酒、煙草までが入っていた。  まず、温かいミルクをつくって、一人ずつに飲ませる。さいわいに胃袋がまだ受けつけるようである。次に餅やパンをいっしょに煮て、得体の知れない雑炊《ぞうすい》をつくった。  際どいところで、一同は元気を回復した。雪穴の中は、温度もよく保たれて、理想的なビバークサイトになった。食糧と雪穴の発見が同時に行なわれたので、危ない命を拾ったのである。  腹がふくらむと、耐え難い睡魔が襲ってきた。食べるだけ食べて寝てしまったみなの身体の上にツェルトを広げ、石油コンロの火を消すと、高階にも限界がきた。いやすでに越えていた限界の無理が、一気に発したのだ。  寝るというより、疲労に圧倒されて、失神したといったほうが正確であった。  まるで死んだような眠りである。体内に辛うじて体温を保つだけのエネルギー源を摂《と》っていなければ、そのまま死につながる。死と紙一重の眠りである。  消えていく意識の底で、城久子のために不寝番をしなければ危険だという警戒のブレーキがかすかに働いたが、圧倒的な加速度をつけた睡魔に蹂躙されてしまった。 [#改ページ]    容疑の俯瞰《ふかん》      一  高階は、闇の底で目を覚ました。身に迫る寒気が、彼を死んだような眠りから引きずり戻したのだ。  目が覚めたということは、体温の維持が寒気に追いついた証拠である。他の連中はまだ眠っている。一人一人寝息を確かめて、みな生きていることを知る。  ——いま何時ごろだろう?——  腕時計をすかして、夜光塗料によって、すでに三時間以上眠ったことを知った。疲労が体の底にどんよりと沈んで、まるで何かの病気になったような気分であるが、少なくとも、最悪の危機は通り抜けたことがわかった。  いまいる場所は、衝立岩のかなり上部にちがいない。これから上には、さして技術的に困難な場所はないはずである。  たとえまだ悪天がつづいたとしても、食糧はたっぷりと確保した。露営地もしっかりしている。ここに籠城しているかぎり、生命の危険はない。  高階はふとそのとき、雪穴の中がうす明るいのに気がついた。そういえば、先刻腕時計を覗《のぞ》いたとき、夜光塗料が光っていなかったようだ。  彼はおそるおそる雪穴の入口を塞ぐブッシュをかきわけて、外へ出た。  彼はそこに信じられないような光景を見た。  それは青く氷結した雪の大|伽藍《がらん》であった。風雪によって研磨され、不必要なものいっさいを捨象《しやしよう》した、赤裸な山脈の骨格が、月光に定着されて、蒼然と聳立《しようりつ》していた。  それを映した人間の網膜は、神々から罰せられるのではないかという不安とおののきなくしては、まともに見つめられないような、あまりにも澄んで、拒絶的な透徹の極致が、月光の中に凍結している。その拒絶の意志をしめすように、寒気が身体を突き刺した。  柔らかさというもののまったくない硬い結晶と凝縮は、山が夜のしじまの中に束の間に見せた硬い裸身であり、人間の視野に親しまない、悪意的な美しさがあった。  高階はあわてて目を閉じた。強烈な光に目を灼《や》かれたように、網膜に月光が氾濫《はんらん》していた。  彼は月に目を灼かれたとおもった。  ——遂に晴れたのだ——  高階は胸の動悸が高まるのを覚えた。ようやく西高東低の気圧配置が崩れたのだ。明日からは、待ちに待った好天の周期に入るだろう。救援活動は、一斉にはじめられるにちがいない。 「たすけて!」  という城久子の悲鳴を雪穴の方に聞いたのは、そのときである。高階はハッとして我に返った。雪穴の中に飛びこむと、おびえたように胸をかかえて竦んでいる城久子を三人の男が囲んでいる。 「どうしたんです?」 「だれかが、だれかが……」  声が震えて、言葉にならない。 「落ち着いて! だれかがどうしたんです」 「だれかが、眠っているところを、いきなり首を絞《し》めたんです」 「首を絞められたって!?」  高階は、声を[#「声を」に傍点]のんだ。 「いったい、だれが?」 「わからない……眠っていると、息苦しくなって目を覚ましたのよ、そうしたら」  城久子は恐怖の覚めやらぬ表情で、口ごもった。恐怖のあまり、満足に口もきけない様子である。 「落ち着いて。そうしたら、どうしたんですか?」 「だれかが私の上にのしかかって、首を絞めていたのよ。息が詰って……意識がうすくなりかけたとき……必死にもがいたおかげで、犯人の手が緩《ゆる》んで、声をだせたの」 「だったら、犯人の顔を見たでしょう」 「それが、しばらくの間、無我夢中で、気がついたときは、この三人の人たちに囲まれていたのよ」  城久子は、改めて三人におびえた目を向けた。高階が外へ出ている間におきた事件であるから、犯人は中にいた三人の一人にちがいない。 「あんたたち、ここにいて気がつかなかったのか?」  高階は、三人の男に険しい視線を向けた。 「城久子さんの悲鳴を聞いて、目を覚ましたときは、そんな犯人の気配はなかったよ」  佐多が抗弁調で言った。 「私も悲鳴を聞いてから目を覚ましたが、気がつかなかった」  村田がつづいて答えた。 「ぼくは夢うつつの中に悲鳴を聞いたようにおもって、目を開けると、すでに佐多さんと村田さんが、城久子さんの顔を覗きこんでいた」  北越の言葉を信じるとすれば、彼がいちばん最後に目を覚ましたことになる。高階が城久子の悲鳴を聞いて、外から駆けこんで来るまで、ほんの一分ぐらいのことであったから、三人がどんな順序で目を覚ましたところで、ほとんどあい前後していたことは、まちがいない。  それに目を覚ました順序は、さほど重要ではない。城久子に悲鳴をあげられて、咄嗟《とつさ》にたぬきねいりを演ずることもできるからである。  ともあれ雪穴の中には、三人しかいなかった。犯人は彼らの一人である。 「すると三人とも、目を覚ましたときは、犯人の姿を見なかったというわけなのか」  高階の声は、当然詰問調になった。どんなによく寝入っていたにせよ、こんな狭い雪穴の中で、人が絞め殺されそうになったのを、いっしょにいた人間が、だれも気がつかなかったというのは、おかしい。  高階には、彼ら三人が共謀しているようにさえおもえた。理由がわからないだけに、恐ろしい。だが、木屋の�遺言�とおもい合わせて、彼らの中に、城久子を狙っている者がいることは、確定した。 「おれたちを犯人扱いするようなものの言いかたはよせ」  佐多が反駁した。 「城久子さんが絞められたとき、ここにいたのは、あんたら三人だ。犯人は三人の中のだれかだ」 「どうしてそんなことが言えるんだ? 高階、おまえだって、決して除外されないぞ」 「おれが? おれがどうして犯人になれる。おれは、そのとき外にいたんだ」 「なぜ外へ出た? おまえが絞めかけて、城久子さんに声をだされたために、いったん外へ逃げだしておいて、いかにも悲鳴を聞いて駆けつけたように、芝居をすることもできるんだからな」  佐多のおもいがけない反駁に、高階はおもわず口の中でうめいた。中にいた三人が、高階の外へ出る姿を見ていない以上、城久子の悲鳴の前に出たことを証明できない。  高階も、容疑者から外されないのだ。  村田と北越が佐多に同調するようにうなずいた。考えようによっては、外から駆けつけて来た彼が、最も怪しいとも言える。 「私、高階さんじゃないとおもうわ」  ところが城久子がおもわぬたすけ船をだした。 「どうして、そんなことが言えるんです?」  佐多は、先刻高階に言ったと同じ言葉を、城久子に向けた。声に不満があるのは、容疑者が、少なくなればなるほど、自分に割りふられる容疑が、濃縮されるからである。 「私、悲鳴をあげてから正気づくまでに、そんなに時間はかからなかったとおもうの。そのわずかな間に、いったん外へ逃げてから、入って来ることは、無理だとおもうわ」 「でもそれはあなたの感じで、実際は、もっと時間がかかったかもしれませんよ」  佐多は固執した。 「ほら穴[#「ほら穴」に傍点]の中から逃げ出せば、たいてい気配でわかるとおもうわ。ほら穴の前には、藪もあるし、私、そんな気配聞かなかったもの」  言われてみれば、彼女の言葉のとおりであった。高階の足跡は、入口を塞ぐ藪《ブツシユ》の外にまでつづいている。彼が犯人であれば、藪を分ける気配を、だれかに聞かれたはずである。  青天白日というわけにはいかなかったが、被害者自身の言葉によって、高階の容疑は他の三人に比べて、グンと薄くなった。 「高階さん。わたし恐いわ」  城久子は庇護《ひご》を求めるように、高階を見上げた。そのおびえきった目にみつめられたとき、木屋から相続した意志がはっきりと定まった。  自分の身を張っても、この娘を凶悪な意志から護ってやろうとおもった。  だが、犯人を特定する資料がなにもなかった。三人は、それぞれに牽制《けんせい》し合いながら、たがいを胡散《うさん》臭い目で見ている。高階も容疑をまぬかれないとは言ったものの、それは自衛のためであって、彼らも三人の中に犯人がいると見ているようであった。  にらみ合っているだけで、結論はでない。城久子は高階のそばに寄り添うようにして、身を竦めている。彼女がいま頼れるのは、高階だけであった。  城久子が我に返ったとき、三人の男たちが、取り囲むようにして彼女の顔を覗《のぞ》きこんでいた。その一瞬、彼女は三人が共謀して自分を殺そうとしているかのような、恐怖を覚えたのである。  その三人の中に高階はいなかった。それだけでも、彼女の救いになった。城久子は、彼が、常にみなの先頭に立って、生きるためのルートを切り拓《ひら》いてきたのを知っている。一行をなんとか安全圏へ導くために犠牲的な苦闘をしている高階に、彼女は感動していた。  その感動が加算されて、彼女の高階へ頼《よ》りかかる傾斜がますます強まったのである。  気まずい沈黙が、五人の間に落ちた。この中に確実に殺意をかかえた犯人がいるが、それを探しだすすべがない。  みな(犯人を除いて)、眠ったら、自分が殺されるような恐怖を覚えた。凍《い》てつく寒気が、恐怖をうながした。 「まだ夜明けまで間があります。少しお寝みなさい。ぼくがずっと起きていますから」  高階は、城久子に言った。彼女はうなずいて目を閉じたが、眠れそうにない。 〈いったいだれが彼女を狙ったのか?〉  木屋の言葉を信ずると、城久子が狙われたのは、これで二度めである。再度の襲撃に失敗して、警戒が厳重になったので、犯人はすぐには三度めの襲撃をかけてこないだろう。  高階は、その前に彼の凶暴な意志を封じたいとおもった。そのためには、犯人を探しださなければならない。  高階は入山の初めに溯《さかのぼ》って、三人の容疑者の挙動を子細にみつめなおした。 〈まず三月二十一日金曜日、エアロスバル機が北アルプス山中に墜落し、四人の乗員の中、城久子と北越だけが生き残った〉  それを救出するために、佐多、内川、高階と、島岡、村田、木屋の六人が、先を争って入山した。 〈まず内川がなだれに捉《とら》えられて死に、次に島岡が落石に潰され、そして木屋も、城久子の代りに落石に打たれて死んだ〉  ここにおいて、高階は重大な事実をおもいだした。北越も殺されかけたのだ。さらに島岡は落石を凶器に使って殺されている。忘れていたわけではなかったが、眼前に城久子に向けた襲撃が、二回連続した事実の重みについ視線を塞がれてしまったのである。  北越も城久子殺人未遂の容疑者の一人に入っている。すると北越を狙った人間は、いったいだれか? 島岡殺しと、城久子の絞殺未遂は、同一人物の仕業か?  もしそれぞれが、別件となると、さらに事件は錯綜してくる。三件とも別件とすれば、三人の犯人がいることになる。 〈この谷間に入って来た八人の男女の中、すでに三人の男が死に、二人の男女が命を狙われた。その中の一人の内川は、なだれに巻きこまれたのだが、それにしても、多すぎる〉  飛行機と運命を共にしたパイロットと真知子を加えれば、五人死んだことになる。事件に直接の関係はなくとも、空中接触して墜落した二機のヘリの乗員を足せば、さらに死者の数は昇る。 〈だれがいったい、何のために?〉  考えれば考えるほどに、思考は輻輳《ふくそう》し、この谷間をなにか途方もなくまがまがしい悪意が被っているような気がしてきた。 〈死んだ者と襲われた人間を一人一人ピックアップして、その理由と、動機をもちそうな人物を考えてみよう〉  事物の全体を最初から俯瞰《ふかん》すると、構成分子が錯綜して、かえって構造の骨格を見失ってしまうので、個々の事実に分解したものを見つめなおして帰納していこうと考えたのである。  まず最初に、北越襲撃の未遂事件、——彼を狙う可能性のある人間はだれか? 木屋と、高階は、単なる雇われガイドだから除外してよいだろう。  城久子には、——北越と同じ飛行機に乗り合わせて、二人だけ生き残ったというだけではない、接近があるようにみえる。それだけに彼女は犯人になりにくい。  それにあのときのピッケルの位置は、北越の体軸に直角に、柄《シヤフト》を右へ、先端《ピツク》を左にして頭すれすれに振り下ろされてあった。  これは北越の右側に位置していただれかが、シャフトを握って振り下ろしたという状況である。ピックが傷つけた地面の跡から判断しても、振り下ろした後、ピッケルの位置を変えたのではない。城久子は除外してよいだろう。  すると最も怪しいのは、凶器の持主たる島岡になる。北越と同じ会社の人間だから、いろいろと複雑な内部関係がからみ合っていたかもしれない。  佐多の主張したように、彼を狙った手元が狂ったものだとしても、島岡は犯人になり得る。佐多と彼との反目は、だれの目にも明らかである。  もっともそれを主張した佐多自身も怪しい。彼は城久子の許婚者として、彼女と親しそうにしている北越がおもしろくなさそうであった。二人だけで過ごした山の一夜に、彼らの間になにかあったのではないかと、勘ぐっている様子すら見える。  相続問題に関してのライバルは、島岡だったが、真知子が死んだ後、恋のライバルとして、新たに北越が登場した可能性がある。  位置的にみても、北越を狙った手元が狂って佐多を狙ったのかもしれないとおもわれるほどに、北越に近い所にいた。佐多がやっておきながら、いかにも島岡の所為のように見せかけることも、あながち不可能ではなかった。  内川も無視できない。紀尾井重工業の診療所長の彼が、どうして捜索隊に加わったのかも曖昧《あいまい》である。医者が必要ならば、わざわざ診療所長の彼が来ずとも、もっと若い適任者がいたはずである。彼もなにかを含んでいた様子が強い。  村田にいたっては、まったくわけがわからない。ほとんど口をきかないし、何を考えているのかもわからない。いっしょに来た島岡との関係も曖昧である。むしろ木屋のほうと親しそうであった。とにかく得体が知れないのだ。  したがって村田は、北越の未遂に関してだけでなく、後続するすべての事件について無色の位置に置くわけにはいかない。  第二の事件は内川の死である。  だがこれには、人為の介入する余地はなかった。  第三の事件は、島岡殺しである。これの最大の容疑者は、佐多である。彼は島岡に食糧を盗む現場を捉えられて、赤恥をかかされた。周囲にいた者が止めなければ、殺し合いに発展しかねない格闘をした。  次に怪しいのは、北越である。彼は島岡に前夜狙われたと信じて、その報復か、あるいは島岡から再度の襲撃を受ける前に、自衛のために、落石を装って殺したのかもしれない。とにかく北越と島岡の関係には、胡散臭《うさんくさ》いものがある。  城久子もこの事件に関しては北越と同じくらい怪しい。島岡は妹の婚約者として、相続問題に関して強い利害関係を有する。もし彼女と妹の二人が生存している場合に、島岡が墜落現場に先着していたら、城久子にどんな振舞いにでたかわからないのだ。  あの程度の岩であれば、彼女の力でも、岩棚の上に仕掛けることができる。  村田の立場はあいかわらず曖昧模糊としている。木屋と高階は、前件と同じ理由でいちおう除外する。  第四の事件は、木屋の死である。木屋の死にぎわの訴えによれば、城久子を狙った犯人の打撃が、誤って木屋に当たり、彼を死に至らしめたものである。  法律的には、過失致死か、殺人が争われる難しいケースだが、これを殺しと仮定すれば、彼と最も深い人間関係をもっていた高階が、最有力容疑者の位置に立つ。  しかし高階は、岩を落としなどしなかった。彼はトップに立っており、落石は、木屋と彼の間にいた、佐多、北越、村田のいたあたりから発生したのだ。  落石が城久子を狙ったものとなれば、第四の事件は、第五の彼女の絞殺未遂事件と完全に重なり合う。  この場合、最も怪しい人間は、佐多である。次第に北越に傾斜していく気配を見せる城久子に、内攻した怒りを爆発させたと考えられなくはない。ライバルの北越ではなく、城久子を狙ったところに、その屈折した怒りがうかがわれる。  次に北越はどうか? ライバルとしてむしろ佐多と争うべきであるが、城久子に対しても、決して無色には立てない。  村田はまったく漠然としている。  高階は、個々の事件ごとに、以上の人間関係を分析してみたが、結局、容疑者を理論的に(それも具体的なデータもなく)推定しただけに留まった。もちろん犯人を特定することはできない。      二  長い一夜が明けた。久しぶりに太陽がよみがえった。月光の下に青白く冷凍されていた雪の山脈が、一斉に白熱の炎を噴きだして、透明な厳しい燃焼をしていた。  氾濫する光は、むしろ凄惨であり、目も向けられない鋭いスペクトルを、雪面と青空の間に乱反射している。  昨夜は青すぎて、むしろ昼のように錯覚した月光の山が、いまは陽光の中に一斉にきらめきたち、明るすぎて人間の裸眼を拒絶している。  光は、あたかも殺意をもっているかのように烈しく大空から降りこぼれて、雪原に弾み、空間に飽和した。あふれ出た光は、どんなかすかな影までも駆逐《くちく》し、閉じたまぶたをまでこじ開けて、侵《はい》ろうとする。  すべてが鋭角をもって構成された高処の空間は、荒涼の極致にありながら、燦爛《さんらん》としていた。  一行には、風景を鑑賞している余裕はなかった。今日のうちに衝立岩を登りきり、安全圏に達しなければならない。  この青天も、おそらく今日の午前中だけであろう。西の方に低気圧が生まれたために、冬型気圧配置が崩れたのであるが、低気圧が接近すれば、天候はまた悪化する。  救援のヘリも、この束の間の好天を狙ってやって来るだろう。ヘリが来るまでに、それが降着できる地点へ、着いていなければならなかった。  彼らがビバークした場所は、衝立岩の上部、�八合目�のあたりである。残りの二合の登攀《とうはん》にさしたる技術的困難はなさそうであるが、とにかく体力がいちじるしく消耗していた。  昨日の、遭難寸前の状態からは、辛うじて脱出していたが、疲労が身体の底に堆積してどんよりした気分であった。体に鉛が貼《は》りついたように重い。城久子が絞めかけられた騒ぎ以後、みなほとんど眠っていない。  睡眠不足が加わって、憔悴《しようすい》をいっそう深めていた。  結局、出発したのは、午前八時になった。ここから上は、雪に被われた小さな岩場と、その上方に見える三、四十度の雪の斜面である。岩場の突破さえ順調にいけば、あとは、頂上まで、中学生でも歩いて行けそうに見える。しかし雪の下に藪《ブツシユ》が隠されているかもしれないので油断ならない。 「みな、サングラスを着けろ」  出発前に、高階が命じた。これだけの光量を裸眼で受け止めたら、雪盲になる。だがここでトラブルが生じた。  城久子のサングラスが割れていたのである。昨日の登攀の途中、岩に打ちつけたらしい。予備はなかった。  高階と木屋は、吹雪用のゴッグルをもっていたが、木屋のゴッグルは、落石に当たったときに破砕されて、使いものにならなくなっている。だが、だれも城久子に自分の眼鏡を提供しようとしない。 「私のゴッグルを使ってください。頂上まで距離があまりないから、なんとかもつでしょう」  高階は、自分のゴッグルを外した。雪山に馴れていない城久子を裸眼で歩かせたら、ひとたまりもない。 「でもあなたが……」  さすがに城久子もためらいを見せた。 「ぼくは大丈夫ですよ。鍛えてあります」 「そのためのガイドだからな」  佐多が小馬鹿にしたような口調で言った。 「さあ、出発! ここから上は、雪が多くなる。ワンステップ毎に注意するように」  高階は、取り合わずに、先頭に立った。一行は、昨日の苦しい登攀で、かなり馴れていたはずであるが、今日は霧の遮蔽がすっかり取り除けられたために、高度感が強調されて、昨日よりはるかに易しい岩場で足を竦《すく》ませている。 「下を見るな。上を、上だけを見ろ」  オーダーは、高階、城久子、佐多、北越、村田である。城久子を二番めに配したのは、もちろん、他の三人を信用できないからであった。  高階は、ルートを探すために絶えず上方をにらむと同時に、城久子の身辺にも、警戒の視線を配らなければならなかった。  連続登攀できる個所は、彼がピッタリ付き添っていたが、少し難しい場所へ来ると、城久子を後ろへ残して、彼が先に登り、ザイルを確保しなければならない。もしそのときに犯人が襲いかかったら、ほとんど防ぎようがない。  だが高階の目の届く範囲に、城久子を置くかぎり、いかに凶暴な犯人でも手をださないだろう。  最も危険なのは、彼女が高階から死角の位置に来たときである。高階は、彼女をできるだけ、彼以外の男と一対一に置かないようにした。  三人共謀の可能性もまったくないわけではないが、やはり複数の男といっしょに置けば、たがいに牽制し合う。ルートハンティングの他に、このように余計な神経も使わなければならないので、なかなかピッチがはかどらない。  目がチカチカしてきた。どんなに目を細めたつもりでも、洪水のような光の侵略を防ぎきれない。急がなければならなかった。 [#改ページ]    目的の感触      一  浅い岩の溝《みぞ》を伝って、雪壁にでた。すぐ真上に白いピークが見える。ないとおもっていた風が、その上にうなっている。そこが稜線らしい。遂に衝立岩を登りきって、頂上直下に達したのである。  白いピークに近づいてみると、それは稜線の真下に張りだした巨大な雪庇《せつぴ》であった。そこに達したころ、高階の目は、耐え難いまでに痛みを訴えるようになった。  恐れていたとおり、強烈な紫外線に晒《さら》された眼球結膜が、充血し、炎症をおこしはじめたのである。 「がんばれ。あと一歩だ」  後へつづく者にかけた励ましの声は、彼自身にかけたものでもあった。  雪庇を左へ迂回《うかい》して、薄そうな場所を選んで掘削《くつさく》する。足場が不安定なうえに、一歩踏みはずせば、奈落までつづいている。最後の詰めだけに、高階は慎重に進んだ。  ピッケルで掘り進んでいると、突然シャフトの手応えが失われた。雪の塊りが頭上に落ちてきて、その上に空の真芯が、暗い穴のように、ポカリと覗《のぞ》いた。稜線の風が吹き抜けてきて、雪まみれの全身をたちまちのうちに凍らせていく。  遂に稜線へたどり着いたのだ。 「おい、着いたぞ」  高階は下へ向かってどなった。  彼は稜線へ這《は》い上がると、安定した雪面にピッケルを突き刺した。それに確保《ビレイ》したザイルを伝って、いったん城久子の所まで引き返す。そこには、三人の男たちも集まっていた。 「頂上か?」  佐多が少し声をうわずらせて聞いた。 「そうだ。やっと来た」  高階は肩で息をしながら答えた。まだ確実に安全圏に到達したわけではないが、最悪の危険帯は、ともかく通過したのである。 「ヘリの音じゃないか?」  北越が言った。確かに遠方から急速に近づいて来る空気のはためく音は、ヘリのローターの回転音に似ていた。 「救援が来たんだ」  佐多の顔が輝いた。 「トランシーバーをだせ」  佐多の声があったときには高階は背中のザックの中から、トランシーバーの子機《こき》を取りだしていた。電源スイッチを入れると、いきなり奇妙な言葉が飛びこんできた。一瞬、トランシーバーの故障か、ヘリの雑音かとおもったが、そうではなかった。相手は外国語で呼びかけていたのである。  どこの国の言葉か、よくわからなかったが、とにかく日本語ではなかった。すぐ近くから、同種の言葉で答えた者があった。驚いたことに、いつの間にか村田もトランシーバーをもっていて、なにかしきりに応答していたのである。 「き、きみは!」  あんぐりと口を開けた佐多の前で、村田はひとしきり交信をすますと、例の含んだような笑いをもらして、 「みなさんにはたいへんおせわになりましたが、私はここで失礼します」 「きみは何者なんだ?」 「そんなことは知らないほうが、あなた方のためですよ」 「いったい何のために、こんな場所へ来たんだ?」  高階が問うと、 「この人に用事があったんですよ」  と村田は、北越を指さした。 「ぼくを?」  北越はキョトンとした。村田に指名される心当たりはまったくなかった。なにやら得体の知れなかった村田が、いきなり正体の一端を剥《む》きだしかけたとおもったら、自分に用事があると言う。 「そうです。北越さん、あなたに用事がある」 「いったい何の用事だ?」 「それはここでは言えない。私といっしょに来てください」 「理由も聞かずに行けるとおもってるのか」 「とにかく来てもらいますよ。たとえあなたがいやがってもね」  まぎれもないヘリのローター音が、近づいて来た。 「馬鹿なことを言うな。きみにそんなことを強制されるいわれはない」 「来るんだ」  いままで穏やかだった村田の声が、凶暴になった。 「怪我をしたくなかったら、来るんだ。あなたの意志なんかどうでもいい。とにかく私はあなたを連れて行く。これが目に入ったら、おとなしくしろ」  村田は右手を前方へ突きだした。その手の中には、凶悪な形をした、鈍く光る小型の金属が握られていた。その種の凶器としては、それ以外のいかなる形も考えられない凶悪な筒先が、凶暴な殺傷力を秘めて、じっと北越の身体に据えられていた。  筒先といっしょに北越の面に当てられた村田の無機的な視線が、決して脅かしではないことを物語っている。北越があくまでも従わなければ、村田はためらわずに引き金を引くであろう。城久子を数度狙ったのも、島岡を殺したのも、木屋を落石で誤殺したのも、すべて村田の仕業だったのか? 「きさまは」  北越はうめいた。城久子が高階の体にしがみついた。村田のもう一方の手に握られたトランシーバーが、暗号めいた言葉で呼びかけたのは、そのときである。  村田の注意が、一瞬、トランシーバーの方へそれた。そこを狙って、いきなり佐多の身体が跳躍した。激しい格闘がおこった。高階と北越が佐多に加勢しようとして動きかけたとき、鋭い銃声がおきた。  うめき声がおきて、北越が右の脇腹をおさえて雪の上に頽れた。彼の身体が敷いた雪面がみるみる赤く染まっていく。村田と佐多がもみ合うはずみに、ピストルが暴発し、流れた弾が、北越に当たったのである。 「大変だ!」  愕然とした高階は、倒れた北越のそばへ駆け寄った。みるみる白い雪面を侵略する赤い領域は、北越の負傷が、重大なものであることを告げていた。 「村田、きさまが射ったんだぞ」  いつの間にか格闘は終り、佐多の手に移動した拳銃の前で、村田が立ち竦《すく》んでいた。不意をつかれた村田が、佐多に凶器を奪い取られたのだ。  北越に当たった弾丸は、村田が発射したものかもしれないし、佐多によって射たれたものかもしれない。あるいは格闘のはずみによる暴発であったか。  そんなことはこの際どうでもよかった。重大なことは、医療設備のまったくないこの人外の山中で、北越が瀕死の重傷を負ったという事実である。 「まあ、ひどい血」  北越を抱きおこした高階の背後から覗きこんだ城久子が、北越の脇腹から泉のように噴きでる血に、自分自身が失血したように蒼白になった。 「城久子さん、ザックの中にタオルがある。とにかく止血するんだ」  高階が言ったとき、さらに一つの予期しない事件がおきた。頭上でなにかが崩落する気配がすると同時に、佐多の前で硬直していた村田が悲鳴をあげた。      二  佐多と村田の周辺に雪煙がたちこめた。激しい勢いで通過する何物かに、その悲鳴が巻きこまれて、下方へ遠ざかっていった。雪煙がおさまると、佐多が岩壁のへりに危ういところでしがみついていた。  いまの銃声によって、頭上の雪庇が刺戟を受け、一瞬遅れて、アイスブロックを落としたのである。それが、村田を直撃して、その身体を奈落の底へひっさらっていったのだ。  一歩の位置の差で直撃をまぬかれた佐多は、岩壁の縁《へり》にしがみついて、たすかった。どこも怪我をした様子もない。  佐多の無事な様子に、まずはホッとした高階が、北越の応急手当に専念しようとすると、 「その必要はない」  と背後から佐多が言った。  ——なにを言うんだ——  振りかえろうとした高階の背中に、ピタリと銃口が当てられた。 「佐多、きさま……」  ——気が狂ったか? と詰《なじ》ろうとした言葉を最後まで言わせず、 「どうせたすからない命だ。手当をしても無駄だよ。たすからないと言ったのは、北越の命だけのことを言ったんじゃない。高階、おまえもだ。城久子さんもいっしょに死ぬんだ」 「佐多」 「動くな。振り向くんじゃない。村田と命懸けの取っ組み合いをしたのは、おまえたちをたすけるためじゃない。この拳銃が欲しかったんだ。うまい具合に暴発した弾が、北越に当たってくれた。まだ弾は残っている。おまえや城久子さんに一発ずつ分けてやっても、警察は、村田が射ったとおもってくれるよ。これが本当の怪我の功名ってやつだ」  佐多は、自分で自分の洒落《しやれ》に感心したように乾いた声で笑った。 「きさまが、城久子さんを狙ったのか?」 「そうだ」 「島岡を殺したのも、きさまだな」 「島岡はおれが殺《や》ったんじゃない。村田の仕業だろう。おれには関係ないことだ」 「村田がなぜ島岡を殺したんだ?」 「そんなことおれが知るもんか」 「どうしてこんなことをするんだ?」 「どうせ死んでいくあんたたちだから、本当のことを教えてやろう。金さ、金だよ」 「金?」 「おまえ、おれと椎名禎介の関係を知ってるだろう」 「きさまのようなやつを婚約者にしたことを城久子さんは後悔しているよ」 「おれも後悔してるよ。城久子はおれのことを虫ケラほどにもおもっていなかった。好きでも嫌《きら》いでもない。まるで品物のようにずーっとおれを見てきた。な、そうだろう。城久子」  城久子は無言のまま、じっと唇をかみしめた。 「おれの親父は禎介の弟だ。だが兄弟とは名ばかりで、下僕と同じだった。親父は、禎介の前に出ると、顔も満足に上げられなかった。あまりに偉大な兄の存在の蔭で、時たま兄が気まぐれに投げてくれる餌を食って、親父は生きてきた。禎介と姓がちがうのは、彼の命令に従って養子に行ったからだ。親父は気乗りしなかったようだが、禎介の命令は絶対だった。この父親の関係は、忠実に子供たちに遺伝された。おれは物心つくころから、城久子と真知子姉妹の家来だった。いや奴隷だった」 「きさまは城久子さんの婚約者だ」 「ふん、名ばかりのな。禎介はケチだから、係累をあまり増やしたがらなかった。娘を他人と結婚させると、自分の財産が拡散するような気がしたんだろう。だから城久子をおれと結婚させようとしたんだ。伯父と甥の愛情なんかこれっぽっちもなかったが、血がつながっていることは、事実だったからな」 「城久子さんと結婚すれば、おまえ自身、大財閥になれるじゃないか」  高階は、上空の旋回をはじめた様子のヘリの気配に注意をしながら、なんとか時間を稼《かせ》ごうとしていた。村田を救出に来た正体不明のヘリは、いつまでも姿を現わさない彼に不審を抱いて、捜索をはじめたらしい。  彼らがどんな意図をもっているのかわからないが、彼らの介入によって、新たな局面の開く可能性があった。 「ふん、城久子にはおれと結婚する気持なんか最初からひとかけらもなかった。城久子にはべつの男がいたんだ」 「北越さんか?」  高階は、その問いをむしろ城久子本人に聞いたつもりであった。彼らの間には、扶《たす》け合って生き延びた遭難者同士として以上の甘いムードが、最初から感じられた。  遭難第一夜で、彼らが二人だけで噴泉のそばでどのようにすごしたのか、高階にとっても非常に興味のある問題であった。 「北越は二番めだ。城久子には女学生時代、隠れた恋人がいたんだ。そいつがおれの大学の同級生だった。おれが城久子に紹介した。彼は城久子をおれから奪った。もっとも、当時はおれが勝手に城久子に憧《あこが》れていただけだったから、彼には奪ったという意識はなかった。彼は城久子に逢ったときの様子を、微に入り、細をうがって、おれに話した。おれの反応をひそかにうかがいみながら愉しんでいたんだ」 「嘘です、そんなこと」城久子が必死に抗議した。 「だったら、そんなにむきになるなよ。実際、あんたは大したものだよ。当時女学生の分際で、おれが紹介した大学生と、おれの目の前でおとな顔負けの恋愛をやっていたんだからな。しかしうまい具合にその大学生が事故で死んでしまって、ようやくおれの番がまわってきたとおもったら、今度は北越に色目を使いはじめやがった」 「そんな下品な言い方をしないで」 「おれは事実を言ってるだけだ。父親の手前、婚約に逆らわなかったが、禎介が死ぬと同時に、おれとの婚約を解消するのは、目に見えていたよ。どうだ、いちいちおもい当たることばかりだろう」 「北越さんの手当をさせて」 「その必要はないと言ったろ。いっしょにあんたも死ぬんだ。愛する男といっしょに雪山で死ねて、本望だろう。どうせ、飛行機が墜ちたときに死んでも、文句は言えない命だったんだ」 「だったら、どうしてわざわざ救助に来たんだ?」  佐多は、城久子を救助するために、高階を脅迫して、自分自身、生命を賭して、この幻の谷へ入ったのである。 「おれが救助に来たとおもってるのか? おまえは救いようのないお人好しだよ」 「何のために山へ来た?」 「もちろん殺すためだよ。いま、おれは椎名禎介の何にあたるとおもう。甥だよ。それもたった一人の。城久子と真知子が死ねば、おれは文字どおり、禎介のたった一人の肉親になる。おれの親父は死んでいるから、その子のおれが代襲して、禎介の唯一の相続人になるんだ。ただの相続人じゃないぞ。椎名禎介の相続人だ。ざっと見積っただけでも、五十億ほどの財産がある。こいつは、命を賭けるだけの価値があるだろう」 「幻の谷へ飛行機が墜落したんだ。たとえ生存者があったところで、放っておけば死ぬ」  それをわざわざ危険を冒して踏み入って来たのが解《げ》せなかった。 「確認したかったんだ。椎名禎介の全財産をつかむためには、城久子と真知子のどちらに生き残られても都合が悪い。島岡が真知子を救いに行くのはわかっていた。やつだって、禎介の女婿になれるかなれないかの境い目だから、必死だった。内密に捜索に来たのは、やつにも相続分を一人占めにしたい野心があったからだろう。ただやつの場合が、おれとちがっていたところは、真知子が生存しないかぎり、相続に関してはあきらめなければならないということだった。姉妹二人が生きていれば、妹を媒体にして得られる権利は半分になるが、妹が死ねば、ゼロになる。だから彼の後ろ暗い意図は、姉妹同時に生きていた場合に露わされるはずだった。妹だけ生きていれば、百パーセントの相続人の旦那になれるんだからな。この違いは大きい。ところがおれが百パーセント得るには、姉妹二人ともに消えてもらわなければならない。そのためには、だれよりも早く現場に着かなければならなかった」 「最初から二人とも殺すのが、目的だったんだな」 「そうだよ。現場へ着くと同時に、殺すつもりだった。そこがいちばん無難に事故死を装えるからな。救助用具をもってきたのは、カモフラージュだ。しかしなかなかチャンスをつかめなかった。時間が経てば経つほどやり難くなった。下手な殺し方をすると、相続の資格を失ってしまうからな。石を落として、木屋に誤って当てたのは、まずかった。昨夜も、もう少しのところで絞《し》めそこなった。もっと早いところ殺っていれば、おまえを道連れにしなくともすんだ。ここまで来てしまっては、おまえに死んでもらわないかぎり、おれが殺ったことがバレてしまうからなあ」 「なぜ北越さんをピッケルで刺そうとした?」 「あれはおれがやったんじゃない。村田か、内川がやったことだろう」 「内川は何のために来たんだ?」 「わからないか。彼はあんたに復讐するために来たんだ」 「復讐? おれに? いったい何のために」 「内川という名前は、あんたに悟られないための偽名だよ」 「だれの偽名なんだ?」 「まあ焦るな。おいおいと話してやる。内川は、おまえに復讐したい一念で尾《つ》いて来たのさ。  だれもいない雪の山、格好の復讐の舞台じゃないか。殺しても遭難死を装える。最初の夜、北越を狙ったピッケルは、内川があんたを狙ったものかもしれないぜ。内川は、北越のすぐ右隣りに寝ていた。北越の体越しに、彼の左隣りに寝ていたあんたを狙って、ピッケルを振ったところ、手元が狂ったか、届かなかったのか、北越の頭の近くにピッケルが落ちたもんだから、北越が狙われたような形になった。まあどっちをだれが狙ったところで、おれには関係ないことだがね、あの騒ぎで、城久子を狙っていたおれは、チャンスを逃してしまった。あのときあんな騒ぎがなければ、城久子は死んでいた。木屋も、あんたも、ここで死ぬ必要はなかったのにねえ、おれにとっても残念でならないよ」  佐多がとくとくとここまで語ったとき、ヘリの爆音が急に近づいた。蚊トンボのような機体が視野に入って、みるみるその容積を広げた。      三  凄じい銃声がおきたのはその瞬間である。銃声は連続して、身体の近くの岩角が金属のような音をたててはね飛ばされた。きな臭いにおいが宙に漂った。  本能的に城久子の身体をかかえこんで、地面に伏せた身体の、たったいま占めていた空間を切り裂いて、凶暴な殺傷力を剥きだしにした弾丸が、さらに数発送りこまれた。  だがそれの来る方向は、背後からではなかった。 「ヘリから射っている」  高階は、ようやく殺意の源を知った。すると、佐多はどうしたのか? それをいま確かめている余裕はなかった。眼前に迫った危難から逃れることで精一杯である。  ヘリがいったいなぜ射ってきたのかもわからない。村田が自分で射った拳銃音の刺戟によって惹《ひ》き起したアイスブロックの崩落に巻きこまれたのを、高階らに突き落とされたとでも誤解したのであろうか?  ともあれヘリに釈明することはできない。問答無用の銃撃に対して、こちらは岩角に身を竦めている以外になかった。さいわいに身を隠すべき岩の凹みと溝に恵まれていた。  地形上、完全な隠れ場《シエルター》は得られなかったが、気流の関係からか、ヘリがあまり岩壁に接近しないので、狙いが不正確であった。  ヘリは執拗にホバリングしながら、銃撃をつづけた。だんだんと着弾が正確になってくるようである。 「高階さん、恐い!」  城久子が、高階にひしとしがみついた。全身が小刻みに震えている。恐怖の震えを凍てつく寒気が助長している。 「ここにいれば、大丈夫です。敵はそういつまでも燃料がつづかない」  逃げ場のない岩壁の途中の岩かげに虫のように貼《は》りついている身には、相手の燃料か、弾丸の尽きるのを待つ以外に方法がない。  その間に、北越は出血をつづけて衰弱の一途をたどっている。  急に銃撃が止んだ。ヘリの爆音がいつの間にか遠ざかっていた。 〈もう燃料がなくなったのか?〉  ホッとする間もなく、爆音がふたたび戻って来た。だがその爆音は、さっきとはちがう方向から来るようである。  恐る恐る岩角から首をだして様子をうかがうと、襲撃してきた機影は、谷の向うに点のように遠ざかっている。それにもかかわらず爆音はますます近づいているのだ。 〈べつのヘリが来たのだ〉  そのために前のヘリが逃げだしたのである。 〈もしかしたら救援機かもしれない〉  高階は、いきなり銃撃を受けたとき、岩の上に放りだしたトランシーバーを拾い上げてプッシュトークボタンを押した。 「こちら墜落飛行機の捜索隊、感度ありましたら、応答してください」 「佐多さん、いますか? 生存者はいますか」  多少の雑音が入ったが、明瞭にヘリからの応答が聞こえてきた。救援のヘリに言われて、高階は初めて、先刻から佐多の気配の絶えていることに気がついた。あの正体不明のヘリが、物騒な�介入�をしてこなかったら、いまごろは佐多の扼《やく》した拳銃に射たれていたかもしれない。 〈そうだ。佐多はどうしたのだ?〉 「たいへん! 佐多さんが」  高階が、ようやく探す目をしたとき、城久子が悲鳴をあげた。佐多が岩のかげに倒れてうめいていた。胸のあたりが真赤に染まっている。先刻のヘリからの銃撃に当たったのだ。北越同様、一見しても、相当の重傷である。肺をやられたのか、口からも血の泡《あわ》を噴きだしていた。かたわらの岩の上に、サングラスが粉々に砕けている。これでなにやら曰《いわ》くありげだった内川の背後事情を、聞きだすことができなくなった。 「生存者は四名、怪我人が二名いる。重傷だ。至急救助を頼む」  高階は動転して、トランシーバーにどなった。 「きみはどこにいるんだ? 現在地を教えてくれ」ヘリの爆音がいちだんと近づいてきた。 「衝立岩頂上南側直下の岩溝にいる」 「衝立岩北面の傾斜地に降着点がある。そこまで来られないか」 「なんとかやってみる。しかし怪我人まではとても運べない」 「生存者と怪我人はだれなんだ?」 「生存者は椎名城久子さん、怪我をしたのは、佐多と北越さんだ」  高階が答えたとき、新たなヘリが上空に姿を現わした。先刻のヘリよりも大型である。 「きみらの姿を確認した。降着点まで、稜線へ抜けて北へ約三百メートル。降着次第、こちらからも救援を送る」  ヘリは谷の上空を一旋回すると、ふたたび頭上の稜線の上に消えていった。  負傷の模様は、佐多のほうが重大のようであった。佐多の意識はすでに混濁している。北越は、比較的はっきりしている。 「北越さん、救援が来た。間もなく救助される。おれは城久子さんを連れて、頂上まで行ってくる。すぐに救援隊を連れて引き返してくるから、ここで待っていてくれ。そうだ、きみのサングラスを貸してくれ」  氾濫する陽光に灼《や》かれて、高階の目はすでに耐え難い激痛を訴えていた。 「置いていかないでくれ」  北越が苦痛に面をゆがめて言った。 「きみを背負い上げる体力は、もうおれにはないんだ。ここで待っていてくれ」 「いやだ。死にたくない」  北越は駄々っ子のように首を振った。 「もう救援隊は、すぐそこまで来てるんだ。必ず救助される」 「おれを連れてってくれ」 「さあ、わからんことを言わずに、サングラスを貸してくれ」 「いっしょに連れてってくれなければいやだ」 「わからんやつだな。すぐに引き返してくると言ってるだろ」  高階は次第にいらいらしてきた。 「引き返してくるだけの体力があるんなら、いま連れてってくれ」 「城久子さんをエスコートしながら、きみを背負えないんだ。頂上直下は足場が悪い。もっと人手がいる」 「おれは負傷している。おれを先に連れて行くべきだ。二人いっしょに連れて行けなければ、城久子さんを残して、おれを最初に運んでいけ」 「無茶を言うなよ。おれにはもうとてもきみを背負う体力は残っていないんだ。さあ、サングラスを貸せ」 「だれが! 結局おれたちを放りだして、自分だけたすかりたいんだろう。サングラスが欲しければ、自分で取りに行け」  北越はいきなりヒステリックにわめくと、サングラスを谷の方へ投げた。それは紙きれのようにゆらめきながら、下方へ吸いこまれていった。  北越は、負傷に動転して、もはや正常の心理状態ではなかった。城久子姉妹の付き添いとして終始ひかえめにしていた彼が、土壇場に来て、馬脚を露わした感じである。  いくらか北越に傾いていた様子の城久子も、幻滅の視線を、彼の上に据えていた。失われたサングラスは、回収のしようがなかった。高階は激しく痛む目を無理にみひらいて、稜線へ出るまでの数十メートルの不安定な傾斜と、ヘリまでの距離をかち取らなければならなくなった。高階は北越に取り合わないことにした。とにかく救援は目と鼻の先に迫っているのだ。後は北越の体力次第である。 「高階さん、私のサングラスを使って」  城久子が自分の目に掛けていたものを差しだした。 「いや、もうすでに手遅れのようですよ」  高階は力なく首を振った。彼の目は、サングラスによる姑息《こそく》な遮光ではほとんど役に立たないほどに、すでに夥《おびただ》しい光量に晒されて、その機能を失っている。 「いまさらサングラスを着けても、よく見えない。まだ少し歩かなければならない。あなたまでが、雪盲になったらたいへんだ。あなたが誘導してください」  高階は、城久子を�盲導女�にして、この場を脱出しようとおもった。救援隊に遭遇するまでの辛抱である。 「このルンゼを少し登ると、固定したザイルの下端に触れます。それにすがって上へ上へたどれば、稜線に抜けます。足場が安定していないから、一歩一歩、慎重に上がってください」  二人が行動をおこしかけたとき、 「おれも連れてってくれ!」  と北越が叫んで、いきなり高階の脚にしがみついた。 「おい! よせ、止めろ」 「北越さん、見苦しいわよ」  見かねて城久子がたしなめても、 「おれは死にたくないんだ。おれは死んではならない人間なんだ。城久子を置いても、おれを連れていけ」  と溺《おぼ》れた者がしがみつくように、つかんだ脚をかかえこんだ。重傷を負った体のどこにそんな余力が残されていたのか、不思議なほどの力である。 「北越さん、気が狂ったのか」  ふいをつかれて体勢が崩れた高階を、北越は文字どおり死力をつくして引っ張った。高階がよろめいたはずみに、岩角につまずいた。  失われた体のバランスを回復できないままに、高階は倒れた。彼に体重を預けていた北越の身体が、支《ピ》持|点《ン》を失って共倒れになった。倒れたはずみに手を放した。北越のほうが、やや岩壁のへりにいたために、体勢の崩れが、崖を越えかけた。危険を悟って、高階が差しのべた手の先を、北越の手がかすって、次の瞬間、彼の重心は、崖の先から切れ落ちた垂直の空間の方へ傾いた。  生と死を分ける微妙な重心が、彼に背を向けたのである。悲鳴とともに、ゴムがはずむようなスポンスポンという音が下方に遠ざかり、それを、誘発された岩なだれの音が吸収した。  やがてそれもおさまったとき、次に来た静寂は、むしろ蒼然として、殺気立っていた。  稜線へ抜ける通路を拓《ひら》いてから、精々三十分ぐらいしか経っていない。その間に、村田がアイスブロックの崩落に巻きこまれ、佐多が正体不明のヘリに射たれた。そしていま北越が、自分のミスによるものとは言え、岩壁から転落した。  城久子も、高階も信じられないおもいであった。  短い間隔で頻発した事故よりも、次々に露出された人間の醜さが信じられなかった。 「高階さん、行きましょう」  呆然とした視線を、北越の落ちた下方へさまよわせていた高階に、城久子が声をかけた。 「あなたが悪いんじゃないわ。北越さんの自業自得よ」 「ぼくが突き落としたようなもんだ」  高階には、自分の手の先をかすめた北越の手の感触が忘れられない。もう寸秒早く、あの手をさしのべていれば、北越はたすかったのだ。いや脚にすがりついてきた彼の手をじゃけんに蹴《け》りはらおうとしなかったら、こんなことはおきなかったはずだ。  高階は、その思いに打ちのめされていた。 「そんなことないわ。私、ちゃんとみていたのよ。北越さんは、自分で勝手に落ちたのよ。高階さんのせいじゃないわ」  城久子が慰めてくれた。それが高階にとってこの上ない救いとなった。とにかく、死の谷へ入りこんで、彼女と高階の二人だけが無事に生き残ったのである。遭難機の生存者は城久子一人になり、六人いた救助隊は、高階だけになってしまった。  結果としては城久子一人を救うために、五人が死んだことになる。彼女にすら疎外されたら、高階が生命を賭して救出した意味がなくなる。  佐多はほとんど意識を失っていた。打つ手としてはタオルや、ありあわせの布片で応急の止血処置を講じて、精々風の当たらなそうな岩かげに運ぶ以外にない。  救援を連れて引き返して来るまで、佐多の体力が保《も》つかどうかによって、その運命が定まるだろう。 「佐多、がんばれよ」  その言葉が、彼の意識に達しないことを知りながらも、高階は声をかけた。自業自得とは言いながら、重傷の友を一時的にも置き去りにすることに、胸が痛んだ。むしろ城久子のほうがサッパリした顔をしている。  相続権を侵奪し、独占するために、婚約者の仮面を被って、城久子を殺しに来た佐多に対して、もはや一片の愛情の残映もないのであろう。  もともと彼女には佐多に向ける愛情はなかった。父の定めた婚約を、死期の定まったわずかな父の寿命における孝行として黙容していたにすぎない。  それが佐多の本心を知って、憎悪に転化したのかもしれない。城久子は、高階が佐多の応急処置をするのを、呆然|佇立《ちよりつ》して見守っているだけで、まったく手を貸さない。  高階も、彼女の内心の屈折がわかるような気がしたので、それを冷酷とはおもわなかった。 「さあ、最後の登りです。下を見ないで、ザイルに頼って一歩、一歩、慎重に登るんです」  佐多の処置をすませた高階は、城久子にピタリと寄り添うようにして、稜線へ突き抜ける最後の斜面を登りはじめた。  目が痛み、涙がしきりに流れた。ザイルがすでに固定してあるので、登攀《とうはん》にはさして困難はないが、痛みが激しく、目を長く開いていられない。  三十分ほどして、ようやく稜線に立った。強い風が吹きつけて来る。岩に遮られていた寒風が直接身体に牙を剥きだして襲いかかって来る。強風と同時に、太陽の光が雪面に氾濫《はんらん》して、弱りきった高階の視力に止めを刺すように一気に殺到してきた。  彼は手拭《てぬぐ》いで目を被った。ここからヘリの降りた地点まで、さして困難な場所はないだろう。城久子に誘導してもらえば、なんとかたどり着けるはずであった。  寒風をいったん雪の凹みに避けて高階は、トランシーバーに呼びかけた。 「城久子さん、もう大丈夫ですよ。連絡が取れました。救援がこちらへ向かっています。間もなくここへ来るでしょう」  トランシーバーの力強い応答に、高階はようやく入山以来の責任の重圧からの解放感を味わった。  ——おれはとうとうこの娘を救った——  それは満足感と同時に虚《むな》しさをもあたえた。達成感につきまとう虚無ではなく、もっとべつの深刻な真実である。  彼女を救ったということは、彼女をべつの世界へ引き渡すことである。もともとべつの世界の住人であった二人は、予期せぬアクシデントのおかげで、人生の数日をともにこの幻の谷ですごした。  その数日をいま消化して、それぞれの属する世界に別れ帰って行くのだ。風雪の底に人の思惑が渦を巻き、殺し合った、まことに地獄の釜のような幻の谷であったが、城久子をエスコートしてのこの数日、まさしく自分は生きていた。  城久子を救おうという目的に向かって、久しぶりに自分のすべてを燃やした。�下界�で死んでいた自分は、地獄の谷でよみがえったのだ。  いまその目的を達成して、自分はふたたび死人のような生活に還《かえ》って行く。あそこ以外に還る場所がない。目的を達したということは、目的を失ったということなのである。 「高階さん」  城久子が呼んだ。なにげなく上げた彼の面を両手ではさみこむようにして、彼女は唇を高階のそれに強く捺《お》しつけた。寒風の中で、柔らかく熱い感触が、彼の唇を包んだ。血が溶けた代りに、時間が凍った。 [#改ページ]    残渣《ざんさ》の屈辱      一 「娘たちは、まだか?」  髑髏《どくろ》のような眼窩《がんか》が開いて、椎名禎介が訊いた。 「もう向うは発ったのですけど」  富子が枕元で歯切れ悪く答えた。 「向うを発ったのに、なぜ着かんのだ? ずいぶん遅いじゃないか」  禎介はギロリと富子をにらんだ。体のすべての機能が死んでしまったのに、目だけが生き残っているような光りかたである。 「それが途中で、事故がありましてね」  はっと側近の者の緊張した気配がわかった。飛行機が墜ちたことは、伏せておくことにしてあるのだ。それとも、どうせ時間の問題とみて、富子はその取りきめを反古《ほご》にするつもりなのだろうか。 「どんな事故だ?」  案の定、禎介の目の光が強まった。 「列車の事故でダイヤが大幅に乱れているらしいんです」  ホッとだれかがため息を吐いた。すでに臨終が近いとあって、一族の主な者が集められている。もっとも、一族と言っても、椎名の係累は少ない。娘の他に、救助のために現地に行っている佐多恒彦が最も近い肉親である。ここにいる者は、親族とは言えないほどの遠い者がなにかのおこぼれにあずかろうとして、わずかな血のつながりをたぐって集まって来たのだ。  椎名にとっては、むしろ赤の他人よりも遠い人間たちかもしれない。そのためか、最も枕元に近く呼ばれているのは、なんの血のつながりもない富子であった。 〈どうせ椎名が死ぬまでの間だ。精々いまのうちに大きな顔をしてるがよい〉 �遠い親族�は、内面の反感を白い目にこめて、富子に向けていた。だが彼女はそんな視線をいっこう意に介さぬように、椎名の最側近の位置を独占している。 「車は迎えにやってあるのだろうな」 「もちろんですわ。もう間もなく、ご到着になりますよ」 「もう待ちくたびれたよ」 「まああなた、何をおっしゃるの?」  富子は聞き分けのない病夫をたしなめる妻のような口調で言った。親族の中に、富子の馴れ馴れしい口調に眉をひそめた者もあった。  ——妾の分際で、�あなた�とは何か——  富子はつい最近まで、椎名のことを「旦那様」とか「ご前様」と呼んでいたはずである。  しかし椎名は富子の無礼な呼びかたをべつに咎《とが》めるでもない。  すでに咎める気力も失ってしまったのか。椎名本人がなにも言わないことを、遠い親族がとやこう口出しをすることはできなかった。  それにずっと椎名の枕頭を独占しつづけている富子には、最初から本妻そのもののような貫禄があった。彼女ににらまれたら、椎名の死後、不利益な扱いを受けるような不安と恐怖を覚えた彼らは、むしろ阿《おもね》るように、病床から遠くへり下っている。 「とにかく早く連れて来い。年寄りをあまり待たせるものではない」  椎名は依然として自分を瀕死の病人とは認めていないような言いかたをした。「年寄り」と言ったところに、病いに疲れた彼のせめてもの妥協があるようであった。      二  ヘリから来た救援によって、城久子と高階は、救出された。佐多も間もなく息のあるうちに収容された。救援のヘリが続々と集まって来た。その中には新聞社のヘリも混っているようである。  軽飛行機が墜落し、その救助隊が悪天候に数日閉じこめられて大量の二重遭難をおこしたうえに、救援のヘリが接触して墜落するという前代未聞の事件は、すでに隠しようもなく、世間に知られるところとなってマスコミ各社は競って取材班を送りこんで来た。  まだ彼らは、二つに分れた救助隊の後ろ暗い意図や、紀尾井原子力と、同重工両社の間にくりひろげられた救援競争については知っていない。  だが、救助隊の決死の活躍によって現地での遺体の収容が進むにつれて、この遭難が尋常のものではないことを悟ってきた。  まず最初に、衝立岩直下で収容された佐多の負傷にしてから、明らかに山岳遭難によるものではない。紀尾井側では佐多の銃創についてひた隠しに隠していたが、彼を収容した岩壁の近くから、三十八口径のコルト拳銃が発見されるにおよんで、隠しきれなくなった。  佐多は現地の病院に収容されたが、胸部に盲管銃創を負い、昏睡《こんすい》をつづけていた。弾丸は、右胸肺尖部から入り、重要臓器や大血管は避けたものの、体内で複雑な動きをしたために、かなりの内出血をおこしている。  射入口から進入して、錯綜した射創管をトレースした医師が、ようやく乳頭直下から摘出した弾丸は、不思議なことに、佐多が倒れていた近くから発見された拳銃によって発射されたものではなかった。  彼の体内に停《とど》まっていた弾丸は、原形をほとんど保っていなかったが、口径が明らかに異なっていた。  だが拳銃からは、弾丸が一発射たれた痕跡があった。その弾丸はいったいどこへ射たれたのか? また佐多を射った弾丸は、どこから発射されたのか?  警察の捜査が介入してきた。当然、生存者である城久子と高階に事情が聴かれた。二人の供述は警察を驚かせた。  救助隊のメンバーとして島岡が伴って来た村田という正体不明の男が、頂上直下に来て、いきなり拳銃を扼して北越を拉致《らち》しようとしたところ、佐多と格闘になった。そのはずみに暴発した弾丸が北越に当たり、さらにこの爆発に誘発されたアイスブロックの崩落に村田が巻きこまれた後、謎のヘリコプターが飛来して銃撃を加え、佐多を傷つけたという、まことにめまぐるしい話を、警察側は最初信じなかった。  彼らは、高階がでたらめを言って、警察を馬鹿にしていると考えた。しかしこれでも高階は、佐多の負傷と北越の死んだ真相を隠したのである。自衛のためではなく、彼らの名誉を守ってやるためであった。  高階は、城久子の証言が得られるから、あえて自衛を講ずる必要はない。だから佐多の相続権を狙った意図や北越が醜いエゴイズムを剥きだしたために、誤って崖から墜ちた事実は、できるだけ伏せてやりたかった。この程度の事実の歪曲《わいきよく》は、守られた死者の名誉が償ってくれるだろう。  最初は、高階の供述を頭から疑っていた警察も、間もなく、衝立岩の中腹から北越の死体が発見されるにおよんで、態度を改めた。  高階を信じたのではなく、べつの疑惑を深めたのである。  北越の遺体から、確かに問題の拳銃に符合する弾丸が摘出されたからである。暴発かどうかはとにかくとして、拳銃から出た弾丸の送りこまれた先はわかった。なお北越の身分は、城久子姉妹の付け人ではなく、紀尾井原子力工業の技師で、東京出張のためにエアロスバルに便乗したということがわかった。  つづいて村田の遺体が収容された。こちらは明らかな墜死体である。ふたたび天候が悪化したために、捜索隊はそれ以上の捜索を中止せざるを得なくなった。  幻の谷の底には、さらに島岡、内川、真知子、パイロットの手塚の四名の遺体が眠っている。これらの捜索は雪が消えるまでは無理であった。  天狗の腰掛けのヘリコプター乗員の捜索も遅々として進まなかった。後でわかったことだが、ヘリの一機には椎名禎介の二号夫人尾沢富子の実弟、尾沢清二が乗っていたことがわかった。  警察は、これだけの事故をおこしながら、極秘のうちに救助活動を進めた紀尾井側の態度にも疑惑をもった。まずエアロスバル機が墜落した時点で、公けの救難機関に救助を依頼すべきである。同機の事故原因調査も併行してはじめられた。  しかし両社の社長に事情を聴くと、連休中のできごとで知らなかったと言う。事故発生後四日めの三月二十四日の月曜日に出社して、初めて事故を知り、救援のヘリを飛ばしたそうだ。彼らが公けに事故を届け出たのは、それぞれに繰り出した救援のヘリが接触して墜落した後である。  なぜ、エアロスバル機の事故を知った時点で届けなかったかと詰問すると、ただ申訳ないとひたすらに恐縮するばかりであった。両社が事故を公けにする前に、内輪の救助競争をくりひろげた様子は、警察もおおかた察しがついた。  だが、いかに連休中のできごととは言いながら、自社の所有にかかる飛行機であり、しかも紀尾井グループの帝王、椎名禎介の娘の乗り合わせた飛行機の事故を、知らなかったということに警察は曖昧なものを覚えた。  だが両社の社長は本当に知らなかった様子である。せっかくの連休を寛《くつろ》いでいる社長をこんなことで煩《わずら》わしてはならないと、佐多と島岡からかたく口止めされたと関係者は答えたが、その口止めをした本人たちが、真っ先に救助に行っている。 「社長の休日を煩わすほどのことはない」事故に、なぜ身体を張って救助に行ったのか?  ここで警察は彼らが、飛行機に乗っていた城久子、真知子姉妹のそれぞれの許婚者であることを知った。  ここにおいて、警察的な発想が生まれた。姉妹のどちらか一人が生存した場合、椎名禎介の巨大な資産の相続権を独占する。  島岡はすでに死に、佐多は依然として生死の境をさまよっているので、彼らから事情を聴くことはできないが、巨大な相続権者の許婚者として救助に暗い意図はなかったか?  さらに関係者の調査によって、佐多と島岡がそれぞれべつに救助隊を編成したことがわかった。警察側の疑惑はいっそう助長された。  佐多と島岡にとっては、それぞれ姉妹の中で、自分の許婚者だけ生存すればよい。他の一方は、相続分の五十パーセントの侵奪者である。別動した二隊が風雪の中に閉じこめられ、欲望の思惑が限界状況の中で爆発して、あいつぐ惨劇の連鎖反応をおこしたのではないだろうか?  警察の疑惑は際限もなく発達した。島岡の死はもとより、なだれに巻きこまれた内川や、さらには飛行機と運命を共にしたという真知子の死因にまで疑いをもった。  最初に遺体を収容された北越は、紀尾井原子力工業の特研の技師であった。仕事の上では島岡のライバルであったそうである。さらに最近は城久子にしきりに接近しており、彼女も北越にまんざらでもない傾きをしめしていた情況が浮かんだ。だからこそ、東京出張にかこつけて、城久子たちといっしょに紀尾井重工の飛行機に便乗したのである。  これは登場人物の人間関係をますます輻輳《ふくそう》させるデータである。  また高階の供述によれば、村田がいきなり拳銃を振りまわして、事件のきっかけをつくったということだが、この村田の身元がまったく不明であることも、事件に無気味な彩りを添える。高階の供述をいちおう信ずるとすれば、彼がなぜ北越を連れ去ろうとしたのか? 彼が呼び寄せたというヘリコプターは、いったいどこから来たのか、かいもく見当がつかないのである。  ともかくこのおどろおどろしい人間たちが雪山の中に封じこめられて、前代未聞の殺し合いをやった疑惑が、濃厚になってきた。  当然、高階と城久子に対する取調べは、厳しくなった。もっとも、高階たちが罪を犯した証拠をつかんでいないので、あくまでも任意の取調べである。高階自身は、佐多に金で雇われたガイドだということで、深い事情は知らないと言う。  また城久子は高階の話したことをただなぞるだけであった。彼女は遭難機に乗り合わせた人間の一人にすぎないから、救助に来た人間たちの思惑がわからなくても、不思議はない。  警察としては彼女に、実際に見たことを語ってもらえばよかった。だが彼女の供述は、高階のそれとほとんど符節を合わせたように一致した。まるで余計なことはいっさい言うなと高階から言い含められでもしたようであったが、警察としては、それ以上の追及ができなかった。  ともあれ、疑惑は非常に濃かったが、新たな資料が現われないことには、どうにもならない。島岡らの遺体が収容されるまでは、警察の疑惑は、あくまでも疑惑にとどまらざるを得なかった。警察は当面、紀尾井両社の無届け飛行と、救助活動についての刑事責任を考えた。  このような情況の中に、佐多の容態が徐々に快方に向かってきた。一時は生命が危ぶまれたが、きわどいところで手当が間に合ったのと、弾丸が急所をわずかに外れていたので、危機を脱したのである。  いったん峠を越すと、若い体力が回復に加速度をかけた。  島岡たちの遺体の収容は、雪が消えるまで待たなければならない。その前に佐多から事情を聴けそうであった。警察は、彼の回復に新たな期待をかけていた。  この間に城久子は、東京へ行き、瀕死の父に会うことができた。待ちこがれていた椎名禎介は城久子の手を握りしめて、涙を流して喜んだ。  もはや彼の肉体は完全に死に、精神だけが生きているようであった。人間の機能を失った体の一点に、残りの意識の火花を結集して燃やしているように、目ばかりギラギラ光らせて、椎名禎介は城久子を見た。  彼に真知子の死は、依然として伏せてあった。病気で来られなくなったと、側近の者が言い訳した。それを不審に思うよりも、一人でも、娘が来た喜びのほうが大きかった。  ただ言葉もなく、じっと城久子をみつめている。彼には城久子と真知子の見分けもつかないらしい。どちらでもいいのだ。重要なことは、死期の迫った身の近くにまぎれもなく自分の血を分けた娘がいるということなのである。      三  救出されて約二週間めに、佐多が取調べに応じられる程度に回復してきた。待ちかねていた警察は、医師の立会いの下に、彼の取調べをはじめた。  しかし警察の期待したような収穫はなにも得られなかった。佐多の供述は、おおむね高階や城久子のそれと一致した。彼は自分に都合の悪いことは、答えなかったので、佐多の名誉を思っての高階の言葉と符合することになったのである。佐多の供述によって、正体不明のヘリコプターの存在が、いっそうはっきりと浮かび上がった。  ヘリコプターでも存在しないことには、彼の体内から摘出された銃弾の出所が説明つかないのである。岩壁や谷間の捜索を完全に行なったわけではないが、佐多を射った凶器は発見されていない。  彼といっしょにいた高階や城久子が、佐多を射った後、凶器を谷間へ捨てた可能性も考えられるが、佐多が特に彼らを庇《かば》っている様子は見えない。むしろ言葉のはしばしから二人を憎んでいるようであった。  佐多と北越が何かの理由で射ち合った可能性もあったが、北越の遺体には、佐多に射ちこまれた銃丸に照応する火薬粒が付いていない。つまり北越には射撃した痕跡がないのである。  となると、佐多を射った銃弾は、空中から飛来したとしか考えられなかった。警察ではその供述の信憑性に疑惑を抱きながらも、ヘリの行方について本格的な捜査をはじめた。  佐多がいちおう小康状態を取り戻したので、東京へ移すことにした。東京の病院へ移された彼は、城久子に話したいことがあると付き添いの者に訴えた。  付き添いはその旨を城久子に伝えたが、彼女は会う必要はないと拒絶した。佐多はあきらめず、さらに「高階のことで話したいことがある」と言ってきた。  高階と聞いて、城久子はしぶしぶ重い腰を上げた。彼女は高階に対して悪い感じをもっていなかった。  もともと愛のなかった佐多であるが、いちおう婚約者であった彼から、手痛い裏切りを受けたうえに、愛し合っていた(と信じていた)北越から醜い姿を土壇場になって見せつけられた。  その中で高階は終始、自分の体を張って彼女をエスコートしてくれた。みな自分一人が生き残ることだけを考えていた極限の状況の中で、彼だけは、城久子を生かすことに、いや、ガイドとしてメンバーを救うことに全力を傾けていた。  彼女はそこに最も男らしい姿を見たと思った。衝立岩の頂上に立ったとき、思わず彼に接吻《せつぷん》したのは、その感動の無意識の表現であった。  この種の感動が、男女の間においては、速やかに傾斜を深めるものである。救出されてから高階とは別れてしまったが、相続問題やなにかの繁雑な手続きが一段落したら、彼に連絡するつもりでいる。  その先がどうなるか、まだはっきりとわからないが、彼女にはある種の花やいだ予感があった。高階とともに、新たな地平が展《ひら》くかもしれない。  ともあれ、高階は彼女に忘れ難い印象を刻みつけていた。  城久子が佐多に会う気になったのも、高階のことを言われたからである。 「佐多が、高階について何を話すというのかしら?」  城久子は不審に思いながらも、それを解くべく、佐多が移送された病院へ訪ねて行った。まさか病院の中では、山で露わしたような凶悪な振舞いに出ることもあるまい。それに城久子の相続はすでに開始しているのである。 「お元気そうですね、ぼくはこのていたらくだ」  二人が顔を合わすのは救出以来初めてである。佐多は大して悪びれもせずに、城久子を迎えた。快方に向かっているとは言え、まだ傷口は塞《ふさ》がっていない。全身を包帯で昆布《こんぶ》のように巻かれている。 「話したいことって、何ですの?」  城久子は鎧《よろい》を着たように構えたまま言った。 「まあそんなに離れていては、話が聞えない。もっと近くにいらっしゃいよ。取って食おうとは言いません。もっともこの体では、何もできませんがね」 「私、いそがしいんです」 「これはご挨拶だな。莫大な相続をしたので、こんな所にいる閑はないというわけだな、はは、痛っ」  皮肉な笑いをもらしたつもりが、傷に響いたとみえて、佐多は顔をしかめた。 「お話をうかがいますわ。高階さんについて、何をお話になりたいのですか?」 「よほどご執心とみえますね。彼のことをどう思ってるんですか」 「べつに」 「しかしここへ来られたところを見ると、かなりの関心がありますね」 「いったい何を言いたいのですか」 「実はあなたのその熱を醒《さ》ましてやろうと思いましてね」 「熱を醒ます?」 「高階の正体をあなたに教えてやりたいのですよ」 「高階さんにどんな正体があるというの?」 「純真な山男、あなたのために命を賭《か》けたナイトか……とんでもないことです。やつは一皮剥けば、人殺しなんですよ」 「人殺し!」 「いったいだれを殺したと思います?」  佐多は、城久子の反応を愉しむように、目を細めてじっと観《み》た。 「やつが内村を殺したんですよ」 「内村さんを、まさか!」  城久子の面から血の気がすっと退《ひ》いた。 「本当ですよ。ぼくは現場を見ていたんだ。あの日、ぼくは新宿に一騒動ありそうな噂を聞いたので見物に行ったんです。予測したとおりゲバ学生のゲリラと機動隊の間で騒動がはじまった。角材と警棒が渡り合い、火炎ビンと催涙ガスが飛び交う中に火事場見物の群衆が巻きこまれて、市街戦さながらでしたよ。そんな中で学生の一人が投げた火炎ビンが群衆の一人に当たって炸裂《さくれつ》した。たちまち全身火だるまになって、手をつけられなかった。その被害者が、あなたの当時の恋人、内村敏樹《うちむらとしき》、そして火炎ビンを投げたのが、高階だった」 「嘘だわ」  城久子はあえいだ。いきなり途方もないことを知らされた衝撃に打ちのめされて、息が詰まったようである。 「嘘じゃありませんよ。内村を見物に誘ったのは、ぼくなんです。そんな場所へ誘いだしたことを後悔していますが、そのときぼくははっきりと火炎ビンを投げた人間の顔を見たんだ」 「だったらどうしていままで黙っていたの?」 「わかりきったことを聞かないでくださいよ。内村が死んでいちばん嬉しかったのは、ぼくだ。あなたを盗んだ内村を殺してくれた人間に、感謝こそすれ、告発などできるものか。おれは小さいころからあなたが好きだった。あなたはおれの夢だった。自分の一生を支配する美しい女主人だと思っていた。それを横から引っさらっていったのが、内村敏樹だった。当時は、まだあなたと婚約もしていなかった。たとえ婚約していたとしても、あなたの父親の一方的意志にすぎず、いつ破棄されても、文句は言えない脆いものだ。あなたも親が勝手に決めたことを平気で踏み蹂《にじ》るだろう。  椎名禎介の甥とは言いながら、おれは下僕以下の存在だった。あなたはおれに対していつも女王のように振舞った。その女王を内村は支配した。つまり内村はおれの女王の主君になったんだ。  そいつが火炎ビンを頭から浴びてバーベキューになった。ざまあ見ろと思った。学生運動を、欲求不満の貧乏学生の集団ヒステリーと軽蔑していた内村が、好奇心に駆られてのこのこ火事場見物にやって来て、自分が火だるまにされてのたうっている。おれは胸の溜飲が下がる思いだった。  内村敏樹は、あなたの隠れた恋人として死んでしまった。その後で、おれはあなたと名目だけの婚約をした。名目でも、嬉しかった。  だが椎名が癌になって、死期の定まったことを知ると、おれの考えが変った。内村にさんざん蝕《むしば》まれたあなたを許せなくなったんだ。やつはおれの夢を盗み、貪り、いちいちそのさまをおれに話して聞かせた。あなたにその屈辱がわかりますか。  内村のおこぼれなんか、まっぴらごめんだ。しかしあなたのもっている巨大な相続権は魅力だった。あなたと結婚した後、その相続財産を横領してやろうと思った。だがその思惑も、あなたが北越に傾いていくようになって危なくなった。そんなとき飛行機が墜ちた。おれは躍り上がって喜んだよ。これであなたたち姉妹が死んでしまえば、あなたの親父の遺産は独占できるかもしれないとね。しかしもし運よく生き残っていたら、せっかくのチャンスがふいになる。そこで内村を焼き殺した高階を脅かして山へ案内させたんだ。彼が内村に火炎ビンを投げつけたとき、おれははっきりと彼の顔を見た。彼はべつに活動家ではなかったが、新宿に来て騒ぎに巻きこまれ、いつしか自分自身も群衆心理に酔って暴徒の一人になって暴れまわっていたそうだ。たまたま学生の一人が、彼を同志の一人と勘ちがいして渡した火炎ビンを、機動隊に投げつけたところ、手元が狂って、内村に当たったんだ。高階は同じ学校の学生だった。その後偶然学内で彼の姿を見つけたので、追及すると、自分の行為を認めた。それ以来、彼はおれに弱味を握られたロボットになった。良心の呵責《かしやく》をまぎらすためか、内村を焼殺してからの彼は、山に気ちがいみたいに登りはじめた。おれは、いずれなにかの役に立つかと思って、時々、彼に小遣銭をやっていた。幻の谷へ初めて入ったときも、おれが費用をだしてやった。だから、あなたを救助に、いや、殺しに行くときも、高階は断れなかった。  内村とは、人目を忍んだ仲だったので、あなたは会ったことはなかっただろうが、なだれで死んだ内川が、内村の父親だ。内川というのは、高階に名前から身分を悟られないための偽名だった。内川を連れて行ったのは、彼がおれのことを、息子を殺した犯人じゃないかと疑っていたからだ。内村敏樹を新宿にデモ見物に誘いだしたのは、おれだったからね。おれたちのあなたをめぐっての�三角関係�にもうすうす感づいていたらしい。  おれも内川に疑われているのが、うっとうしくなったので、この際いいチャンスだと思って、高階が犯人であることをバラシたら、半信半疑ながら、真相を確かめるために、山へ尾《つ》いて来た。  内川には、高階が息子を殺した犯人であることがわかっても、すぐにどうこうする気持はなかったらしい。すぐに彼を殺しては、案内人がいなくなるからな。山へ行って逃げも隠れもできない場所に追い詰めて、本当のことを、高階から聞きだすつもりだったのだろう」 「嘘よ、そんなことでたらめに決ってるわ」  城久子は蒼白になった面をひき攣《つ》らせながら、踏み潰された虫が、瀕死の力を振りしぼってあがくように反駁した。 「嘘だと思ったら、高階に聞いてごらんなさいよ。ぼくがいまさらあなたに嘘をつく必要はありませんからね。ぼくはすでにあらゆる意味で資格を失った人間だ。あなたから殺人未遂で訴えられても、文句は言えない身分です」  言いたいことをすべて言い終ったとみえて、佐多は急に疲労の色を濃くした。一時死の瀬戸際まで行った重傷を負った身には、これだけ話すのも、かなり無理を押したものであろう。  いったん黙すと、被い難い疲労が、鉛のように彼を包み、快復に向かっているのが嘘のように憔悴の陰影が面に貼《は》りついた。看護婦が入って来て、面会の時間切れを宣した。 [#改ページ]    器具の裏切り      一 「みんな集まったか」  椎名禎介は枕頭にぎっしりと集まった三十三個の顔をジロリと見まわした。 「これで全部|揃《そろ》いましてございます」  中核会社の紀尾井重工業の社長、永旗彰二が、みなを代表する形で、鞠躬如《きつきゆうじよ》として答えた。 「うん、みんないるようだの」  椎名は、枕に頭をつけたまま、満足そうにうなずいた。ここに顔を揃えたのは、紀尾井会の面々である。紀尾井グループの主要会社十一社の首脳連であり、いずれを取っても日本産業界の一方の旗頭である。  これら一クセも二クセもある男たちが、すでに死骸同様の椎名の前で、顔もろくに上げられないほどに、汲々《きゆうきゆう》としている。  彼らは、いずれも紀尾井王国の神々であり、椎名は彼らの上にあってすべてを司る、大神であった。世界に冠たる紀尾井の中核会社をあずかる彼らも、ひとたび椎名ににらまれたら、その坐り心地のよい権力の椅子を失う。  紀尾井グループ数十万の社員の中から、酷しい競争の淘汰《とうた》をうけて収斂《しゆうれん》された、この神々たちも、椎名の一顰一笑《いつぴんいつしよう》の中におのれのポストの維持を図る権力の走狗《そうく》にすぎない。  たとえ死骸同様であっても、椎名に最後の一息があるかぎり、彼は大神であった。  椎名の枕頭に侍した彼らは、なぜ呼び集められたかを知っていた。病床に伏してから片時たりともそばから離さなかった愛妾の富子も、いまは、遠ざけられている。  いよいよこれから、椎名が自分の後を継ぐべき者を指名しようとしているのである。今日ここにおいて、新たな大神が決定される。大神の交代は、それぞれの神の座にも大きく影響する。紀尾井会のメンバーは、これによってガラリと変えられるかもしれない。面々は、いずれも息をひそめるようにして、椎名の許へ集まった。もちろん彼の病状を案じてのことではない。今日決定される自分の運命が、息も満足にできないほど、彼らの心を搾《し》めつけているのだ。 「みんな元気そうだな」  椎名は、改めて一同の顔を見渡し、最後に永旗の面に視線をとどめて、うすく笑った。今日初めて見せる笑いである。  それが永旗にはなにかの暗示のように思えた。彼は今日の指名には、八分の自信をもっていた。自分には富子の援護射撃がある。あの怪物も、富子の言うことだけは、素直に聞くそうだ。死期を悟ってからますます甘くなったという。  その女の援護は、必ずや有効に働くだろう。だが残りの二分の不安は、椎名に、富子との仲を知られているような懸念に由来している。もし知られれば、これは決定的に不利になる。椎名は、自分の美餌をこっそり引いたねずみを絶対に許さないだろう。そうなれば大神の後継どころか、現在の位置すらひとひねりに潰されてしまう。  権力の制裁は容赦なく残酷だ。紀尾井グループから放逐された自分は、もはや日本の経済界では生きられまい。椎名の怒りは世界にまで回状《フレ》をまわし、徹底的にホシ上げるかもしれない。  いや、そんなことは、絶対にあり得ないはずだ。富子にしても、いま永旗との関係が露われたら、この数年、瀕死の老人の嬲物《なぶりもの》になった意味がなくなる。あと一歩で、莫大な報酬にありつけるというときに、あの計算高い女がそんなヘマをやるはずがなかった。 「今日みなに集まってもらったのはだ……」  椎名が、紀尾井のこれからを決定する言葉を、いとも無造作に吐きだしはじめた。 「わしも、もう年だ。そろそろ後図をたくす人間を決めておかなければならんとおもってな」  彼は依然として自分が死病に取り憑《つ》かれている事実を認めようとしなかった。強がりからではなく、断固として拒否している口調である。肉体は死にかけていても、精神はまだ旺盛に生きていた。年齢だけ認めて、病気を認めようとしないところに、怪物の気概が感じられた。  紀尾井本社の筆頭理事は、表むきは、紀尾井会の理事会の選挙によって決められることになっている。しかしそれはあくまで表むきのことであって、椎名禎介がノーと言えば、それまでであった。  結局、筆頭理事は、椎名の鶴の一声によって決められる。理事会の承認は、事後の形式的手続きにすぎなかった。 「わしもいろいろ考えてな、わしの後は浅井君にやってもらおうと思う。ずいぶん考えたあげく、浅井君がいちばん適材だという結論に達した」  一瞬、真空のような静寂が落ちた。次にホーッとため息が全員の口からもれる気配が、室内の張りつめた緊張を弛《ゆる》めた。  指名された浅井派にしても、疎外された永旗派にしても、とにかく決定が下されたことに対して、長い緊張を崩されたのである。 「これからは、浅井君を、わし同様に、みなで盛り立てていってもらいたい。異存のある者は、いまのうちに言ってくれ」  椎名は、先刻チラリと見せた笑顔を、本来の厳しい表情に戻して、さまざまな思惑に揺れる顔を見わたした。  異存ある者は言えといっても、椎名の下した決断に異議を唱えられるものではなかった。椎名に反対する者は、紀尾井王国における自分のポストを否定するものである。そしてただいまこの瞬間に誕生した新たな大神ににらまれることを意味する。  さまざまの思惑が波動した空気は、たちまち椎名の意志に追随する単一の色彩に統一された。いままで永旗についていた者も、保身のために急速に浅井派に自らを染め変えている。拮抗《きつこう》していた二大勢力は、サラリーマンの保身本能によって、亡びる者のような速さで統合された。 「だれも異存はないようだな。よし、これで決まった。浅井君、今後はわしに代ってよろしくたのむぞ」 「誓って、ご期待に添いますでございましょう」  指名された浅井弘文は、少年のように頬を紅潮させて、うわずったオーバーな言葉で答えた。彼自身、椎名の指名をすぐには信じられない思いであった。下馬評では、六、四の割りで、永旗のほうが優勢だったのである。  ——残念ながら、まだおれの番はまわってこないようだ——とあきらめかけていた矢先に、いきなり指名された。  最初は、意外な成行きに、永旗とともに呆気《あつけ》に取られていた。だが椎名禎介はまぎれもなく浅井を指名していた。次に衝《つ》き上げるような喜びがきた。  彼の喜悦は、永旗の失望によって裏打ちされていた。  永旗は、椎名の決定を聞いて、顔色が蒼ざめた。椎名が自分をからかっているのではないかとさえ思った。浅井が自分をさしおいて指名されることは、まずあるまいと楽観していた。永旗の自信が紀尾井会や、社内の空気に微妙な影響をあたえて、次期筆頭理事は、永旗に決ったかのような暗黙の雰囲気があった。  だが考えてみれば、そんな雰囲気はなんの根拠もなかったのだ。思惑が株価を上下させるように、富子という�秘密兵器�を握っている永旗の自信が、無責任な下馬評の色づけをしたにすぎない。  しかも永旗は、自分がその色づけをした張本人でありながら、いつの間にか下馬評を信じるという奇妙な混同に陥っていた。 「それから、永旗君」  椎名は、ついでに思いだしたという口調で、永旗に視線を向けた。  ——自分に気の毒だと思い、なにかの補償をくれるのか?——  失望に打ちのめされていた永旗が、餌にアブレた家畜が、追加の餌をもってきた飼い主に尾を振るように、かすかに希望の色を浮かべかけたのへ、 「きみには、今度紀尾井ボールへ行ってもらいたい。なにぶんうちのグループが初めて手がける分野だけに、きみのようなベテランを当てたいのだ」 「紀尾井ボール!」  永旗は愕然として声をのんだ。先刻の指名が行なわれたときよりも大きなざわめきが、一座におきた。それは、永旗だけでなく、そこにいる者全員にとって寝耳に水のような人事であったからである。 『紀尾井ボール』は今度、グループの紀尾井商事が初めて経営することになったボーリング場である。ボーリング場だけでなく、いずれはホテル、レストラン、スケート場、プールなどをも併せもつ総合レジャーセンターにする構想であるが、いまのところは、紀尾井商事の子会社である。紀尾井会の中にも入っていない、紀尾井グループでは、�末っ子�どころか、�末孫�のような取るに足らない存在である。  従業員も、もっぱらグループ内諸会社の定年退職者や、職場不適応者が当てられる。  そのため紀尾井マンの間では、紀尾井ボール行を命ぜられた者のことを、�島送り�と呼んでいるほどだ。  そこへ、グループの中核会社の社長で、次期筆頭理事の最有力候補者を、送りこもうというのだから、すぐには信じられなかったのも無理はない。それは左遷というよりは馘首《かくしゆ》に等しい処遇であった。 「引き受けてくれるだろうな」  椎名は止めを刺すように言った。 「し、しかし」  反駁はできないことを知りながら、永旗は口ごもった。 「まさかいやとは言えまい……富子からも頼まれたことだしな」  椎名は後半の言葉を永旗だけに聞こえるように言った。 「富子が、まさかそんなことを」  思わず語るに落ちたことにすら気がつかないほどに永旗は動転していた。 〈やはり、椎名は知っていたのだ。おれが富子と通じていたことを〉  彼は、多年営々として堆《つ》み上げてきた自分の地位が、奈落へ転落する音だけを聞いていた。そのとき、椎名の部屋から遠く離れた小部屋で、富子はニンマリと笑っていた。広大な屋敷の中に遠く隔てられていたが、彼女は椎名の部屋の様子を手に取るように感じることができた。 「いまごろ永旗のやつ、絶望で目の前が真っ暗になっているだろう。いい気味だわ」  富子は、そろそろ十年も前のことになる一夜の、地獄のような光景を思いだしていた。彼女の青い硬い躰を初めて買った永旗は、彼女が下半身を血で染め、泣いて苦痛を訴えるのに耳をかさず、買ったものは、おれのものだとばかりに、未熟な裸身を断ち割って、おのれの欲望を満足させた。  出血と苦痛は間もなく癒ったものの、男は女の心にあたえた傷が年月のカサブタの下に執念深く残っていたことを知らない。彼女の躰に一番乗りをし、開発の鋤を加えたのは自分だといい気になっていた。  数年して富子と永旗は再びあいまみえた。  永旗は成長して、一流会社の社長におさまっていた。だが富子は永旗の死命を握る権力の主神の囲われ者となっていた。二人の間に接触が再開した。椎名は権力を手中におさめていたが、すでに女を悦ばせる力を喪失していた。権力では充たせないものを、永旗が補填《ほてん》してくれた。そのかぎりにおいては、永旗は富子にとって便利な器具であった。  そして彼が器具に止どまっていれば、富子もカサブタの下の傷を思いださなかったであろう。だが永旗は器具の分際を越えた。  昔、初めて拓《ひら》き、開発した女に対する男のうぬぼれから、女心の底に眠る旧怨の執念深さと、現在の女がもっている危険な力を忘れた。  こうして富子は、援護射撃どころか、逆の誣告《ぶこく》を椎名に為《な》したのである。 「永旗は、旦那様の目の届かない所で、私にいやらしいことをしかけるのです」 「私、今日、永旗に危ういところで犯されそうになりました」  たったこれだけの言葉が、永旗の運命を決した。冷徹な経営者、椎名禎介は、被告のいっさいの弁論や抗弁を聞かずに、多年の忠勤を捧げた部下に死刑を宣告したのである。 「ああ、いい気味」富子はまたほくそ笑《え》んだ。      二  それから二日後、椎名禎介の容態は急激に悪化した。細々と燃え続けていた生命のローソクの炎がようやく燃えつきようとしていた。彼は自分の最後のときがきたのを悟ったとみえて、付き添いの看護婦に、 「城久子を呼べ」と言った。城久子が病室へ行ったときは、彼の意識はすでにどんよりと曇っていた。 「お嬢様ですよ」  看護婦が耳に口を押しつけるようにして言うと、布団の中から、枯れた手をのばしてきた。 「お父様」  城久子がその手を握りしめると、朦朧《もうろう》としていた彼の目に、かすかな光が戻った。枕頭には、城久子のほかに富子や一族の者や紀尾井グループの主だった者が、続々と駆けつけて来た。  だが椎名禎介はすでに彼らの一人一人を識別することができなかった。  そのとき彼のかすんだ視野には、城久子のおもかげしかなかった。無数の人間の顔が、その背後にしきりに揺れていたが、濃い霧がかかったようで、だれのものかわからない。  やがて目の前にいた城久子の顔にも霧がかかりはじめた。  ——城久子——と呼んだつもりが、声にならない。  城久子の手を握った禎介の握力がうすれた。目の光が急速に消えていった。  医者が慌てて注射をした。それをしてももはや分秒の延命効果しか期待できない。意味のない延命であり、医学が圧倒的な病勢に無条件降服する時点がきた。  医者が首を振った。一代の財界の巨星、椎名禎介は、その生涯を終った。彼も死ぬときは、一個の凡人に還《かえ》り、企業の後図を後継者に依嘱することよりも、ただひたすらにおのれの骨肉に会いたがった。  嗚咽《おえつ》が病床の周囲におきた。城久子は不思議に醒《さ》めた意識でたぶんに儀礼がかった悲しみの沸騰の気配を聞いた。嗚咽はむしろ椎名禎介の死を悼《いた》むためではなく、遺産の分配にあずかり損なった人々の痛憤の声のように聞こえてきた。  城久子は哭《な》かなかった。そんなことをしなくとも、自分のつかみ取った権利は不動であった。 [#改ページ]    危険な橋      一  例年より季節が早く進んだために、四月の中旬から下旬にかけて、幻の谷の捜索が再開された。地元の救助隊や、県警の山岳警備隊に加えて、陸上自衛隊までが動員された。なだれの去りやらぬ幻の谷へ選抜の決死隊が送りこまれ、遂に、残りの遺体がすべて四月の末までに収容された。  検死とそれにつづいた解剖の結果、内川はなだれによる圧死、島岡は落石による頭部挫傷、手塚は全身打撲と内臓破裂と鑑定されて、特に犯罪に基因する疑いは認められなかったが、真知子の遺体に重大な異常が発見された。  すなわち遺体には全身打撲がいちじるしく、肋骨《ろつこつ》の骨折や、顔面および両手両膝などに擦過傷を負っていたが、即死とは認められず、墜落後、多少の時間、生きていた情況が浮かび上がってきたのである。  遺体の内外部所見は、むしろ窒息死の状況を呈していた。飛行機が山地に墜落して、窒息死をすることは、稀である。墜落後窒息をもたらすような火災も、発生していない。現に同乗していたパイロットの死因も強烈な衝撃の作用による全身打撲と、臓器の損傷であった。  さらに窒息の手段方法を求めて詳細に観察した結果、鼻口部に墜落時に受けた擦過傷にまぎれていたが、それとは別に形成された表皮剥脱や皮内の出血が認められた。さらに右上の犬歯に、ハンカチの切れ端らしい繊維の断片がわずかにひっかかっているのが発見された。  これはハンカチのようなもので鼻口を閉塞されて窒息させられた状況である。真知子の死因は、飛行機事故によるものではなかった。  すでに墜落のショックによって瀕死の重傷を負って気息奄々《きそくえんえん》としていたところへ、止めを刺すのであるから、小鳥の首を絞《し》めるのよりも簡単であったにちがいない。  警察は当然犯人として、佐多を疑った。だが、真知子が断末魔の苦悶の底で必死にもがいたためか、あるいは絶望的な抵抗をしたためか、指の爪の間から、犯人の皮膚の一部と目される組織片が採取されるにおよんで、事態は一変した。  遺体が、雪の中に冷凍状態になっていたために、爪の間の組織片も、ほぼ原形を保っていた。それの血液型が、佐多のものと一致しなかった。警察は念のために救助隊全員と、城久子や北越の血液型も調べた。その結果、城久子のものが符合したのである。  城久子には、真知子を殺してもおかしくない利害関係上の動機がある。現に姉妹の中、彼女一人が生き残ったために、椎名禎介の巨額の遺産をひとり占めにしつつある。  しかしまさか、ちょっとした風にも耐えられそうにないあのなよやかな城久子がというためらいが、警察側にもあった。女の謎を沈めた陰翳の強い楚々《そそ》とした容姿の持主が、父の遺産を独占するためにたった一人の妹を殺すだろうか?  だが、高階のエスコートがあったとは言え、死の谷の底から亜硫酸ガスと風雪を衝《つ》いて衝立岩を攀《よ》じ登ったのだ。手弱女《たおやめ》の衣装の芯《しん》にしたたかなものをもっているかもしれない。  警察は、いちおう城久子を任意の形で呼んだ。形は任意でも、警察は逮捕状を取れる自信をもっていた。捜査官の中には城久子が救出されたときに、右腕に爪でかきむしられたような傷があったのを覚えている者がいた。その傷痕はまだ十分に消えていなかった。明らかに墜落時に受けた負傷とは異種のものであった。  取調べは厳しかった。警察は城久子の美貌に欺かれなかった。むしろ彼女の美しさが逆効果になったようである。  城久子は最初のうちは必死に否認していたが、次第に追いつめられてきた。まだかすかに残っている腕のかきむしりの痕が、彼女の立場をいっそう不利にしていた。  もし城久子の犯行が確定すれば、「相続について同順位にある者を死亡するに至らせた」者ということで、相続人の資格を欠《か》いてしまう。城久子の表情は次第に絶望的になってきた。      二  城久子に逮捕状が発布される直前の段階にきているときに、おもわぬ局面の展開があった。  城久子と高階および佐多が申し立てた、ヘリコプターの行方を追っていた別動の捜査班は、地元はもとより、隣接県、および近県の警察の協力の下に、徐々に捜査の網を絞った結果、遂に、新潟県|上越《じようえつ》市(元、高田市)にある北方設備工事会社所有地にそれらしきヘリが降着した事実を突き止めた。  該当のヘリコプターが、同社が工事用に使用しているベル206型五人乗りのヘリコプターで、一年前に購入した事実も判明した。  同社は、建築を主体にした工事会社であるが、大して受注らしい受注もないのに十数人の社員を擁し、ヘリコプターなども買入れる不思議な会社である。  地元署でも、暴力団の隠れ蓑《みの》かと警戒をしたが、どこの組ともつながりはもっていない様子であった。  もし同社のヘリが銃撃を加えたものであれば、単に殺人未遂が成立するだけでなく、なにか複雑な背後関係の存在がうかがわれる。  警察は直ちに踏みこむことをせずに、厳重な監視陣を敷いて、内偵をすすめた。  その結果、驚くべき事実が露れた。北方設備工事は、東側のスパイ会社であったのである。  彼らは、企業の仮面の下に、日本の軍事情報の蒐集、日本人にパイプをつけて東側のスパイ工作員の養成、さらに副次的な任務として日本の政治、国防、経済等に関する文献資料の蒐集を目的にしていた。  捜査のイニシヤティブは公安警察の手に移された。公安ではスパイ活動の確証を得たので、五月二日未明、同社の一斉手入れを行ない、無線機他多数の証拠資料を押収した。  同時に同社の代表取締役小林鉄男こと黄伝扶、および取締役今村正こと游紹陳を密入国および外国人登録法、電波管理法違反の容疑で逮捕した。  彼らの供述したところによると——  彼らは東K国から送られて来た秘密工作員であった。K国の動乱によって東西二国家に分裂された彼らが、日本に潜入して狙うものは、日本の外交方針や�戦力�などの常識的な機密だけではない。  彼らが現在最も知りたいのは、分断させられた片割れの西K国の状況であり、最終的には西K国の併合吸収を狙っている。  そのために日本を西K国に潜入するためのクッションにしているのである。  彼らは日本に送りこまれて来る前に、東K国首都郊外にあるスパイ養成学校にかん詰めになって、日本語、政治経済状況、文芸、芸能、風俗、習慣などにわたって徹底的に叩《たた》きこまれる。  スパイ学校を卒業し、いよいよ日本潜入にあたって、日本における情報活動の当座の足がかりとするべき日本人の住所、氏名、写真を渡される。この日本人は、�地台人�と呼ばれ、東K国のシンパか、あるいは東K国内に肉親などの人質を扼《やく》されているために仕方なく協力している者である。  地台人がもし協力を断われば、東K国にいる人質の安全は保障されないことになる。地台人として狙われる者は、東K国内に肉親がいる者で、日本国内においてある程度社会的に成功している者が多い。  社会的にある程度周囲から認められた者でないと、地台人としての効用が少ないからである。  日本への密入国の方法は、たいてい漁船を操って、深夜、裏日本のさびれた海岸へ上陸する。まず教えられた地台人の家に住み込み従業員のような形で落ち着いてから、徐々に工作活動を開始するわけである。  北方設備工事は、日本の�地台人センター�に当たる所で、すでに二百人近い東K国工作員を扱ってきた。黄も游も十数年も前に日本へ潜入しており、すでに日本人女性と結婚し、子供もそれぞれ二人あって、完全な日本人になりきっていた。  村田三郎こと簡金江は、昨年の五月に送られて来た工作員の大物で、他の工作員とはちがった特別任務を帯びていた。  彼の特別任務というのは、日本の核武装の阻止およびその情報蒐集であった。  東K国の場合、西K国とは分断されて、常に潜在的な敵対関係にある。この西K国に距離的にも政治的にも接近している日本の防衛力という糖衣の下の戦力増強に、神経を尖《とが》らせている。もし日本が核武装すれば、IRBM(中距離弾道弾)の段階で東K国は軽く射程内に入ってしまう。  日本の核武装によって東K国は重大な脅威を受けることになるので、東K国の日本をめぐる情報蒐集活動は、その戦力を中心に飽くことなく執拗につづけられてきたのである。  これらの情報蒐集活動は、戦争を予防するための第一の措置であると、彼らは固く信じていた。  そこへ日本の紀尾井原子力工業の技師が、『超爆』と呼ばれる、たぶん水爆とおもわれる爆弾に関する、画期的な考案をしたらしいという情報が入ってきた。  当然、東K国ではこの情報を重視した。しかし同社の機密管理が厳しくて、それ以上の情報が入らない。そこで東K国では、選り抜きの工作員、簡金江を送りこんで、この情報蒐集を担当させることにした。  東K国が彼にあたえた命令は、もし日本が事実、超爆を考案したのであれば、全力を挙げて、これの生産実用化の阻止をはかり、必要とあれば、考案者の技師を東K国へ拉致せよというものであった。  この命令には、止むを得ない場合は、技師を殺してもかまわないという暗示が内包されていた。  村田は命令の推進者として、潜入して来たのである。さすが東K国選り抜きの敏腕工作員だけあって、彼は半年の中に考案者が紀尾井原子力工業特別研究所付きの北越克也という技師であることを突き止めた。  村田は、この情報蒐集にあたって、まず紀尾井原子力工業内部へのパイプづくりを推進した。彼は、北越と同じ特研内部の技師、島岡正昭が北越と社内でことごとにせり合っていることを知った。島岡は最初のうちは、一歩リードしていた感がある。椎名禎介の目にとまり、係累を増やしたがらない彼の娘の真知子との婚約を取り付けてから、完全な優位を確立したかに見えた。  ところが北越が超爆に関する画期的な考案をしてから、その優位が怪しくなった。婚約した娘が、次第に北越の方へ傾くようになってから、立場が逆転してしまった。  このままでは、真知子まで北越に奪《と》られ、椎名禎介の女婿の位置はふいになってしまう。狙う獲物にアプローチするためには、まずその獲物と同じ環境に生息する獲物の反対分子を手なずけるのが、工作活動の常道である。  村田はこの常道を正確に踏んだ。島岡の身辺、家族関係、経歴などが徹底的に調べ上げられた。そしてなんと彼が日本人の父と東K国人の母の間に生まれたことがわかった。その後両親は離婚し、彼の母は東K国内に居住している。島岡は自分が日Kの混血児であることがわかると、真知子との婚約を取り消されたり、いろいろと不利益な扱いを受けるとでも思ったのか、戸籍上は父とその後妻の間に生まれたようにとりつくろい、実母の存在をかたく秘匿していた。  この事実を探りだした村田は躍り上がった。これらの資料を武器にして島岡に近づいた彼は、脅迫と甘言を連ねて、ついに島岡を地台人化することに成功したのである。  島岡にとっては、東K国に居住している母の安否よりも、自分の出生の秘密を明らかにされるほうが恐しかったのである。それ以後の情報のほとんどすべては、島岡を経由して入って来た。情報パイプとしては、まことに理想的なものを貫入したわけである。  核兵器としては、ただ核弾頭を保有しているだけでは、威力がない。これを攻撃目的地に運ぶ運搬手段と結びついて、初めて戦慄的な、人間が発明した最大の兵器になる。  同じ紀尾井グループの紀尾井重工業では、戦略ミサイルの国産化を狙って、秘かにロケットの開発を進めてきた。これがすでにICBM(大陸間弾道弾)級のロケットをつくることが可能な程度になっているのだ。  当然、両社の技術の結合が考えられる。問題はどちらの社が核兵器生産のイニシヤティブを握るかの人事関係であり、技術的にはさしたる困難はない。  東K国は、日本の核武装は時間の問題と考えた。いやすでに核武装したも同然である。あとは命中精度の工夫や、弾頭の耐熱度の促進であろう。  東K国は震え上がった。村田がさらに探ったところによると、北越は、まだ基礎実験に成功した段階で、実用化には入っていないらしい。もしいまのうちに北越の拉致か抹殺に成功すれば、日本の核武装を多少引き延ばすことができるかもしれない。  こうして、北越の身辺の監視がつづけられ、彼が紀尾井重工業の要人と内密に会うために、北陸にある特別研究所から上京することを探りだした。  上京後の北越拐取計画が綿密に立てられた。彼の上京を手ぐすね引いて待ちかまえていたところへ予期せざる事件がおきた。彼の乗った飛行機が北アルプス山中に墜落してしまったのである。  北越が機と運命をともにしていれば、労せずして目的を達したことになる。ところが本国では村田の報告に満足しなかった。北越の生死を現地へ入って確認し、もし生存していれば、最初の計画を実行せよと追命してきた。  北越と真知子の安否確認は島岡にとっても非常な関心のある問題である。もし北越と城久子が死に、真知子一人が生き残ってくれたらまことに都合がいい。三人全部が生存していたら、自分にとって生きていられては都合の悪い二人を抹殺してもよい。  飛行機が墜ちたのだ。多少の�工作�を施しても、事故の中に吸収されてしまうだろうという考えが、島岡の中に働いたかどうかは本人が死んでしまったので、定かではない。  だが佐多に暗い意図があったように、島岡にも同様の意図が作用しなかったとは言いきれない。村田は、島岡が椎名禎介の女婿になった場合のことを考えた。  そうなれば、日本の産業界の一大勢力たる紀尾井グループの中核に、確固たる地台人を据えたことになる。  これは東K国が日本に工作活動をはじめてより、最大の収穫になるにちがいない。こうしてかねてより同じく地台人化するべく身辺を探っていた木屋幸平をガイドに雇って幻の谷へ入ったのである。  島岡といっしょに行ったのは、警察や公けの救難機関が介入して来た場合の隠れ蓑《みの》にするつもりであった。  ところが予期しない悪天候に閉じこめられたうえに、紀尾井重工業と原子力工業が救助活動をせり合って、ヘリが空中接触をおこした。まことに派手な二重、三重、遭難をおこしてしまったので、極秘の中に行動することが難しくなった。  北方設備工事では、天候の回復と同時にヘリを飛ばしたが、途中まで行ったところ、エンジンが不調になって引き返さざるを得なくなった。  再整備して飛び立とうとしたときは、また天候が悪化した。北アルプス山域は濃密な風雪の中に閉じこめられてしまった。西高東低の気圧配置が崩れたわずかな間隙を狙って、ふたたび村田の救出におもむき、村田が射たれたと勘ちがいして、高階や北越らに銃撃を加えたというものである。  村田は、かねてより、万一北越の拐取に失敗した場合は、銃殺すると言っていたので、村田が殺《や》られた後の始末を、黄らが引き継いでやったつもりであった。  北アルプス幻の谷にくりひろげられた大量遭難と、その救出活動のかげから、おもわぬスパイ団の正体が暴かれた。そのスパイ団は、日本の防衛産業が渡りはじめている�危険な橋�を明らかにした。国民は防衛力という美名の下で、いつの間にか巨大化していた兵器の開発に愕然とした。  核兵器は、日本の自衛隊がいつかは渡らなければならない橋だと取り沙汰されながらも、まだそれを当分先のことと楽観していた国民は、平和産業の仮面をかむった防衛産業が、すぐにも実用化できる直前まで、すでに橋を渡っていたことを知らされたのである。  世論は沸騰した。是とする者、非とする者、カンカンガクガクとしてどちらも譲らない。だが核兵器が、防衛力の限界を越えるものであり、これの保持が憲法に対する挑戦であることは、だれの目にも明らかであった。  軽飛行機が墜落して、途方もない副産物を、闇に閉ざされたブラックボックスの中から引っ張り出したことになった。  このことによって、日本における東K国の情報蒐集活動組織は壊滅状態に近い打撃を受けた。 [#改ページ]    欠格の動機      一  スパイ団が一網打尽にされたとほぼ同じころ、椎名城久子は犯行を自供した。  それによると——、飛行機が墜ちた後、少し失神していたらしいが、だれかのうめき声ではっとわれに返ると、真知子が瀕死の傷を負って、うめいていた。  パイロットは死に、北越は意識を失っていた。自分もどうしてそのときそんな気になったのかよくわからないが、衝動的に持ち合わせていたハンカチで真知子の鼻と口を被った。  瀕死の体のどこにそんな力が残っていたのかと思われるほどの強い力で、真知子はもがいた。そのとき腕をかきむしられた傷が、城久子の致命傷になった。�凶器�に使ったハンカチは、後で噴泉の中に捨てた。真知子の口中に、その断片を噛《か》み取られたことは知っていた。かたく噛みしめていた歯をこじあけて取り出そうとしているうちに、北越が意識を取り戻したためにチャンスを失ってしまった。  真知子を殺した動機は、ただ憎らしかったからである。年齢も接近し、容貌もよく似ていた姉妹は、幼いころから、せり合ってきた。  ことに真知子はなんでも姉と同じにしてもらわなければ気がすまなかった。姉が買ってもらった人形と同じ人形を買ってもらい、姉がつくった衣装と同じ衣装をつくった。化粧品やアクセサリーの小物に至るまで、同じ物を揃えた。姉を完全に模倣することによって、姉に打ち勝ったような優越を覚えたらしい。  それが品物のうちは、まだがまんできた。  やがて真知子は、城久子の愛情問題にまで介入してきたのである。城久子と内村敏樹の間に婚約のさらに内約のようなものが決って、二人が交際するようになると、早速真知子は内村に興味をしめしはじめた。  内村を愛したからではなく、城久子が愛していたから、自分も張り合ったのである。そのうちに内村が学生運動の騒乱に巻きこまれて急死すると同時に、真知子の関心がスイッチでもひねるように醒めたのが、なによりの証拠であった。  その後ほとんど同時に、城久子は佐多と、真知子は島岡とそれぞれに婚約したので、真知子の介入と模倣はなくなった。城久子が佐多を嫌《きら》い、北越に傾斜しはじめると、またとたんに例の模倣癖が現われた。  父の禎介の病いが篤《あつ》くなって、東京へ呼び寄せられたとき、城久子は真知子といっしょに行くのが嫌で、たまたま同じときに東京へ出張することになった北越の社用機に乗せてもらった。  ところがそこにまで真知子は図々しく割りこんできた。城久子の飛行機でもないし、座席が一つ空いていたので、いやだとも言えなかった。  その飛行機が墜ちて、真知子が執念深く生き返ろうとしている。もうこれ以上自分のプライバシーの模倣と介入はまっぴらだ。そうおもったとき、発作的に彼女の鼻と口を塞いでいたのである。  北越は意識を取り戻しても、異常な事故に動転していて、真知子の死因に疑いを抱くどころではなかった。  亜硫酸ガスが噴出することなど、知らぬが仏で、噴泉の暖気にたすけられて、辛うじて一夜を明かすと、佐多や高階らが最初に救助に駆けつけて来た。彼らも、真知子の死体にまったく疑いをもたなかった。  生存者の救出に精一杯で、とても死体の収容にまで手がまわらないので、とりあえず雪の下に埋めた。  城久子には相続権を独占しようなどという気持はなかった。死ぬときになってから、ようやく骨肉の情を思いだしたらしいが、妻子を北陸に遠く隔て、妻(城久子姉妹の母)が死ぬときにすら姿を見せず、東京で若い二号と好き勝手なことをやっていた父には、愛情の一片もいだいてない。  最初から父という気がしなかった。だからその父親が自分たちのために莫大な財産を遺すといっても、ピンとこないのである。城久子にとっては五十億でも、その半分の二十五億でも、また一億でも、一千万でも、大してちがいはなかった。  いちおう父からの仕送りを受けていたので、生活の苦労というものは、したことがない。だから妹を殺して、相続分までも独占しようという発想はなかった。  警察が、第三者の世俗的な利害計算から、勝手に彼女の動機をはじきだしただけである。だが結果としては、警察の計算と同じことになった。罪が露われたために、城久子は欠格者として遺産を自分のものにできないだけのことであった。皮肉なことに、そのときになって彼女は、自分が独占したものの巨大な重みを実感したのである。  城久子の自供は、真知子を殺したことを認めただけでなく、さらに意外な方向へと発展した。係官はその意外性におもわず録取のペンを握る手に力をこめた。 「この際、いっさいを申し上げます。実は島岡を殺したのも私なのです。島岡さんは最初から妹の死因に疑いをもっていました。私が殺したというのではなく、佐多さんを疑っていました。島岡さんは真知子の遺体を検《しら》べにいったん出かけて行きましたが、そのときは吹雪に追い返されました。しかし天候が回復次第、雪の下に埋めた死体を掘りだすと言うのです。  私はいま掘りだされてはまずいとおもいました。まだ食いちぎられたハンカチの切れ端を取り戻していないし、殺したばかりの死体からは、疑惑の目で見られたら、いろいろ怪しい点を発見されるかもしれないと思いました。いずれ警察が検死することはあっても、まさか殺されたとは考えないだろうし、それにだいぶ後のことになるだろう。とにかくいま検《しらべ》られたらまずい、とおもいつめた私は、島岡さんをそんなことのできない状態にすればよいと考えつきました。  殺すつもりはありませんでした。怪我をさせて動けなくさせればよいとおもいました。それにはどうしたらよいか、一心に考えた末に、島岡さんの寝る位置のちょうど上に岩の棚が出張っているのに気がつき、そこに岩を乗せて、小さな石をその下に支《か》って、その石を取り外せば岩が落ちるように工夫しました。歯止めにした石は、持っていた糸で引きました。  糸が切れても、私の計画は失敗するし、それに岩がそんなにうまく落ちてくれるとはおもいませんでした。それでもなにもしないで、自分の殺人行為が暴露されるのを見守っているのよりはましだと思って、島岡さんが寝たのを確かめてから、糸を引いたところ、自分でも驚いたくらいに、岩は島岡さんの頭に命中したのです。  まさかあんな風になろうとは、思っていませんでした。そんなにうまくいくはずはないと、最初から半ばあきらめながら組み立てたいくつかの脆い条件が、それぞれにもっていたうすい可能性を能率的に連係させて、自分でも予期しなかった殺人という結果を惹《ひ》きおこしてしまったのです。とんでもない結果に、自分でもどうしてよいかわかりませんでした。  でも咄嗟《とつさ》に、自分の本能が働いて、楔《くさび》に使った小石から糸を外し、捨てました。島岡さんが私を殺そうとしていたとは思いませんが、もしそうだとすれば皮肉な防衛になったわけです。いまにして思えば、島岡さんを殺したことは、なんにもならなかったのですが、そのときは、無我夢中だったのです。でも私が島岡さんにいろいろと仕掛けを施しているかたわらで、佐多が相続権を狙って、私を殺そうとしていたとは知りませんでした。佐多は私を救うためではなく、殺すために墜落現場へ駆けつけて来たのです。私を狙って落とした石が、木屋さんに当たって、本当に気の毒なことをしました。  私が真知子を殺したために相続の資格を失ったように、佐多も私を殺そうとしたために欠格するのではないでしょうか。もしそうなれば自業自得です。私は佐多を少しも愛していませんでしたが、そのために彼を殺そうなどとは思ったことはありません。飛行機が墜ちたとき、危険を冒して、私の許へ駆けつけて来てくれたときは、本当に嬉しく、私はもう少しで彼を愛しかけるところでした。でもそれが私を殺すためだったとは。私は決して彼のことを許しません。刑事さん、どうか佐多をつかまえて処罰してください。佐多は、私を三回も殺しかけたのです。彼自身の口から、それを認めました。三回めは、私にピストルを突きつけたのです。いままで黙っていたのは、私にも島岡さんを殺した弱味があったからです。でももう佐多を許しておく理由がなくなりました」  城久子の供述はさらにつづいた。次から次に引きだされる事実の意外さに、捜査官は、食物をよく咀嚼《そしやく》しないうちに食道へ送りこまれたような違和感を覚えた。      二  高階謙一は以前の死んだような生活に戻った。諸証明書の作成と、市民生活関係のさまざまな届け出の受付け。それはそれなりに意義のある仕事であったが、男の可能性のすべてを燃焼させる熾《はげ》しさは、求むべくもなかった。  たった数日のことであっても、幻の谷での経験には、まさしく完全燃焼があった。最初は、佐多に脅迫されて、いやいや行ったのであるが、途中から城久子の救出に自分の生命を賭《か》けた。なにかに賭けるということは、なんと生き生きとした生命の脈動を感じさせることなのだろう。  生きているということは、賭ける何かをもっていることではないか。幻の谷においては高階はまさに賭けるものをもっていた。そして�下界�に立ち戻って来ると同時に、それを失ってしまった。  そして元の木阿弥《もくあみ》の生活がふたたびはじまったのである。いや木阿弥よりも、もっと悪い。燃焼が熾しかっただけに、ここにあるものは、燃え殻《かす》だけになってしまった。燃焼の余熱《ほとぼり》すら残っていない。 「もしかしたら、城久子から連絡してくるかもしれない」という淡い期待はあった。しかし連絡してきたからといって、どうなるものでもない。もともと彼女と高階とはべつの世界に住む人間なのだ。  おそらく二人の間を隔てる距離は、二つの星よりも遠いだろう。高階は、衝立岩の頂稜に立ったとき、城久子が捺《お》しつけてくれた唇の感触を忘れることができない。全身を凍らせる寒風の中で、強い発熱体に触れたような熱い感触が、唇に刻印された。忘我の時間は短く、記憶は長く鮮明である。  彼女はなんのつもりで、あんなことをしたのだろう。自分の命を救ってくれた高階に対する礼のつもりだったか。もしそれが礼だとしたら、なんと甘美で残酷な礼であることか。  いやいやあれは礼などではなかった。高階の彼女に向ける傾斜を敏感に悟って、優しいピリオドを打つつもりで、唇をあたえてくれたのである。 「あれは終ったんだ」  高階は自分に言い聞かせて、乾燥した仕事に被虐的に自己を没頭させようとした。  彼が死んだような生活に、ふたたび馴れたとき、二人の男が訪ねて来た。彼らは最初から険しい視線をして、高階を見た。 「高階謙一だな。こういう者だが、ちょっともより署まで来てもらいたい」  刑事は警察手帳をしめして言った。まるで被疑者を逮捕に来たような態度である。 「ぼくにいったい何の用です?」  さすがにムッとして高階が問うと、 「おとなしく尾《つ》いて来たほうが身のためだと思うよ」  と刑事がうすく笑った。 「待ってください。理由もないのに警察へ引っ張られるいわれはない」 「理由はちゃんとある。いちおう任意の形になっているが、きみが同行を拒否すれば、それが逮捕理由に切り換えられる直前まできているんだ」 「逮捕? いったいぼくが何の容疑で逮捕されるというんだ」  無表情の高階も顔色を変えた。 「殺人の容疑だよ」  無造作に答えた刑事に、高階はむしろ呆然とした。 「殺人? ぼくがだれを殺したというんだ」 「北越克也だよ。きみは重傷を負ってたすけを求めている北越を、谷底へ蹴落《けお》とした。ネタは上がってるんだ。おとなしく同行したほうがいい」 「ば、ばかな!」  いきなり途方もない事実の歪曲を突きつけられて、高階は反駁する言葉も失った。 「目撃者がいる。椎名城久子が証言したんだよ。彼女はきさまとずっといっしょにいて、きさまの犯行の終始をじっと見ていたんだ。確かな証人だろ。さ、いっしょに来るんだ」  刑事の言葉は、すでに被疑者に向けるものになっていた。 「城久子さんが……あの人が」  高階は驚愕のあまり、自失した。北越は自業自得で谷へ落ちたのである。そのことを城久子はよく知っているはずだ。城久子自身の口から、「北越は自分で勝手に落ちた。高階のせいではない」と言ってくれたのである。  その同じ城久子がいまごろになって、そんなでたらめを言うはずがない。 「椎名城久子にも殺人容疑で逮捕状が出た。いっしょに仲よく取調べを受けるんだな」  呆然と立ち竦んでいる高階に、刑事は追い打ちをかけるように言った。 「城久子さんがだれを殺したんだ?」 「島岡正昭だよ。本人自身の口から自供した。それから佐多恒彦も怪我の回復を待って逮捕される。やつは城久子ときさまの殺人未遂の容疑だ。実際、あの谷間へ入ったやつらは、みんながだれかを殺したか、殺そうと狙っていやがった」  刑事は憮然《ぶぜん》として言った。高階はすでに刑事の最後のほうの言葉を聞いていなかった。彼には、自分の生命を賭けた報酬として、城久子がなぜこんなひどい仕打ちをするのかわからなかった。それが以前誤殺した城久子の恋人、内村敏樹のための復讐であるということに思い至らなかったのである。  高階を誣告《ぶこく》した後、城久子が、 〈私にも、賭けるものが、もう何もなくなってしまったわ。高階は私にとって生まれかけた新しい夢だった。内村という古い夢のために、新しい夢を消すことはない。でも真知子を殺したことが露われて、新しい夢を追いかけることが許されなくなった。私っていつもそうだわ。新たな夢が生まれかけると、必ずそれが吹き消される。私、もう自分の夢を人に取られたくない。どうせ消される夢なら、自分で消すわ。私、きっと自分自身に復讐したのかもしれない。いまにして思えば、高階にあたえた唇は、自分の夢に打ったピリオドだったんだわ〉  とつぶやいた言葉は、高階の耳に届くよしもなかった。ほぼ同じころ、エアロスバル機の墜落原因について調査を進めていた航空局事故調査課は、「悪気流に巻きこまれて、機のコントロールを失ったもの」との結論を出した。 [#改ページ]    エピローグ 「邪魔者はみんないなくなってくれたわね」  椎名禎介が彼女のために遺してくれた豪壮な邸宅の庭園を見下ろすテラスに、ゆったりと寛《くつろ》いだ尾沢富子は、都内とは思えないほどに繁茂した庭の木々の新緑の香を集めた風に全身をなぶらせながら、目を細めてつぶやいた。 「お金があるって、すばらしいことなのね」  椎名禎介が、一代の富を注いでつくったこの大邸宅も、天下の名石を蒐《あつ》めた庭園も、泉水の中に多彩な色彩を撒《ま》き散らしながら群れ泳ぐ高価な鯉も、すべていまは彼女のためにある。  屋敷や、石や、魚だけではない。高級な外車や宝石もある。純血の犬や珍種の猫もいる。屋敷の広さに拡散されてどこにいるのかわからないが、彼女の用に備えてスタンバイしている人間も、何人かいる。  それらがみんな彼女のものなのだ。そしてこの財産すら、ほんの一部にすぎない。椎名禎介が遺したすべての財産が、自分のものなのだ。  自分はその巨額な財産を独占する女王である。これがこの数年、自分の肌を老醜の病人のいやらしい玩弄に委ねた報酬であった。  それはなんとすばらしい報酬であろう。たった数年の辛抱で、自分はこれを得たのだ。こんなすばらしいものがもらえるのならば、椎名禎介が老残の醜さをとどめたまま、いやそれをさらに拡大して何度生き返ってきたとしても、自分はこの若々しい肌を進んで、彼の鑑賞と嬲物《なぶりもの》に供するだろう。  しかも自分の身体は少しも消耗していない。むしろ椎名の巧妙で中途半端な責めによって内攻された不完全燃焼のエネルギーが、身体を以前に増して艶やかに輝かせているようだ。  椎名の老いさらばえた身体に抱擁されてつけられたシミは、熱いシャワーを浴びただけできれいに落ちる。  これだけの金があれば、これからどんな欲望でも充たすことができる。金があることのすばらしさは、それを費うことによって欲望を購えることではなく、それがあるだけで人々がひれ伏し、生活に余裕と自信のつくことである。  金は人生の最強の味方であり、どんな強敵に対してもがっちりと主人を守ってくれる頼もしい家来であった。  尾沢富子は、椎名禎介からその比類なく頼もしい家来を相続した。  風が光る。空気が薫っている。ここには都心の排気ガスやスモッグも届かない。都心に近く位置しておりながら、広大な庭園と密度の濃い緑が、それらの有害物質から、美しい女主人を護っているからである。  うす目を開けると、蜜のような五月の日の光が瞼《まぶた》に弾み、芽吹いたばかりの瑞々《みずみず》しい緑がさわさわと揺れている。 「すばらしいわ」  彼女はもう一度つぶやいて、下腹をそっとさすった。 「みんなおまえのおかげよ。可愛いおまえ」  まだあまり目立たないが、すでに五か月に入っているはずである。  彼女は、そこにうずくまり、刻々と成長している幼い生命が、椎名禎介の血液から岐《わか》れたものだとは思っていない。永旗の子かもしれないし、性奴として使っていた木屋の種かもしれない。あるいは二、三回面白半分に関係した村田の�遺留品�かもしれない。  幼い者の父親なんか、だれだってかまわないのである。重要なのは、椎名が胎児をわが子として認知してくれたことである。そのための、瀕死の禎介に仕えながらの必死の努力。  どんな屈辱的な体位や行為の強制も、決して屈辱とは思わず、ただひたすら胎《はら》の中に芽吹いたものを、椎名に認めさせようとしてきた。椎名がおのれの事業の拡張に生涯を賭けたとすれば、それは富子が自分の体を張った女の戦いであった。  そしてその戦いに勝ったのだ。胎児を認知させても、同順位の相続人が二人いる。しかも、特に椎名の指定がないので、こちらの相続分は、嫡出子たる先方の二分の一になる。  しかし嫡出子がいなくなれば、全部胎の中の子供のものになる。  椎名に認知させたことによって、巨大な富の階段を一歩上った彼女は、さらに上へステップを上るために、いろいろと工夫をめぐらせた。  だが胎児を認知したものの、椎名は富子との正式の婚姻を拒んだ。それは、むしろ富子の将来のための配慮であった。死ぬとわかっている者と、結婚させて、まだ十分に若い女の将来を拘束するよりも、十分な物質的補償をあたえて、自由にさせてやろうと考えたのである。  富子にとっては、まことに有難迷惑な配慮であったが、まさか椎名が死ねば結婚してようがしてまいが、自由を束縛されることはないとも言えなかった。  椎名の妻におさまることに失敗した彼女は、胎児の相続分だけで満足することにした。それだけでも、自分の一生の快適な生活を保障してあまりある。  だがそんなときに椎名の臨終がいよいよ迫って、娘姉妹が駆けつけて来ることになった。しかも会社の飛行機に便乗して来るという。  もともと弟の清二はメカが大好きで、三等航空整備士の資格を取ったばかりのところを、富子が禎介に話をして、紀尾井原子力の航空部に入れてもらったのである。  富子は清二に、城久子姉妹が乗る飛行機になにか仕掛けを施すように命じた。清二は最初渋ったが、自分が「天下を取ったとき」その四分の一を彼にやるという姉の言葉に屈服した。  こんなところで飛行機をいじくっていても、もう先は見えた。最初情熱をもったメカにも飽きた。飛行機の主役はパイロットであり、整備士はいつもワキである。いやワキですらない。いつも自分の存在を消している黒子である。  姉の命令に従ってちょいと手先を動かすだけで、これからの一生が保障されるのだ。彼は誘惑に負けた。早い時期に両親を失い、富子に養われてきた彼は、もともとこの姉に頭が上がらない。  清二は、昇降舵の操縦索をラジオペンチで傷つけて、ほんの一、二本のワイアでつながっているように工作した。トリムタブを代用すれば、機首の上下はできるが、舵の効きぐあいは遅くなる。山の上は気流の状態が悪い。舵が十分に作動しないと、飛んでいられなくなる。悪気流にもまれて、飛行が不可能になり、不時着するつもりで高度を下げていったところ失速したのであろう。その極微の細工は、事故原因の調査がはじまっても、まず発見されまい。彼が担当の整備士だから、出発前の点検を適当にごまかせる。  清二はもっと簡単で安全(清二にとって)確実に墜とす方法を知っていた。だがあえてその手段に訴えなかったところに、彼の良心の残渣《ざんさ》があった。  これで墜ちなかったら、城久子たちに運があったのだ。彼は飛行機にもわずかなチャンスをあたえるつもりで、二次的な細工を施した。しかし飛行機は墜ちたのである。墜ちた後で清二は自己の犯した罪の重大さを知って震えた。せめてもの償いのために、第二次の救援に加わって、小杉のヘリに同乗し、接触事故をおこしてあっけなく死んでしまった。  なんの贖罪《しよくざい》にもならぬ死に方であったが、少なくとも清二は良心の痛みからは逃れられたのである。  富子は弟を失ったことを少しも悲しまなかった。むしろサバサバした。これで四分の一の分け前をやる必要もないし、自分の秘密を知っている者は、一人もいなくなった。  良心の呵責とやらで、じめじめやられたら、せっかく得た�戦利品�の味が悪くなる。 「本当によかったわ」  彼女は目を開けて、テラスにしつらえた籐椅子から立ち上がった。 「まあ、東京には珍しいきれいな空」  午後にまわってますますその密度と明度を強めた五月の陽光は、彼女の全身を小波がたわむれるように嬲《なぶ》った。それは椎名禎介の玩弄とちがって、なんと快く懶《ものう》い蕩揺《ゆりかえし》であろう。  愉しいことがありすぎて、なにをやってよいかわからない無為の懶さとでも言おうか? 「何かご用でございましょうか?」  彼女のつぶやきを聞きつけて、これも椎名から相続した忠実な老女が、いつの間にか視野の片隅につつましくひかえていた。 角川文庫『恐怖の骨格』昭和55年8月30日初版発行            平成7年3月20日改版初版発行