[#表紙(表紙.jpg)] 山の屍 森村誠一 目 次  プロローグ  一期一会の情事  魂の切り売り  最後の女  辞退した容疑  誤字の事情  先まわりした死体  瓢箪《ひようたん》から屍  すれちがった現場《げんじよう》  最大の脅威  失業者の魂 [#改ページ]  プロローグ  山奥に分け入るほどに通行車がまばらとなって、やがて完全に絶えてしまった。  東京ナンバーの車はほとんど見かけなくなった。  山気はますます深まり、風景が凄絶《せいぜつ》になってくる。  冬季は閉鎖される深山の間道であり、地図には至るところ、大型車すれちがい困難の表記がある。  もうしばらく対向車とすれちがっていない。  切り立った谷の間に追い込まれた水流は、はるか谷底を泡を砕きながら駆け下り、滝をかけ、瀞《とろ》に澱《よど》んで足踏みをし、ふたたび泡立つ早瀬にもまれながら、まだ人間の汚濁に染まらない旅をつづけている。  路肩ぎりぎりに車輪が通過した後、小さな落石が千仞《せんじん》の谷底へ吸い込まれていく。  車道はそんな険しい山腹を巻きながら、蜿蜒《えんえん》とつづいている。  ひとつ運転をまちがえば、車も落石と同じ運命に遭《あ》う。  車にはカップルが乗っていた。  男は四十代後半から五十前後、露出した皮膚はゴルフ焼けか、いい色に焼けている。年齢にしては、豊かな黒い髪をオールバックに撫《な》でつけている。前髪の一部だけ白髪が混じっているのが、メッシュのように見える。脂ぎった身体と態度に厚みがある。女は二十代後半、都会的なマスクで、全身にまぶされた成熟した色香に年季が入っている。唇の右に黒子《ほくろ》があるのが艶っぽいアクセントになっている。  運転を男に任せて、女は嘆声とも悲鳴ともつかぬ声をあげつづけている。 「こんなところで落っこったらぺっしゃんこだわ。どうしよう」  女は車窓から下方を覗《のぞ》いて、また悲鳴をあげた。 「少しは静かにしていてくれないか。気が散って、本当に谷底へ急降下するかもしれないぞ」  男が苦笑した。 「そんなのいや。せっかく二人だけになれたドライブですもの。まだまだうんと楽しまなければ」  女が流し目を送った。  車窓から吹き込む風が素直な長い髪をなびかせて、悩ましい髪のにおいが男の鼻腔《びこう》を刺激した。  女の髪のにおいが、昨夜の記憶を新たにした。  二人しか客のいない山奥の温泉宿で、彼らは情痴に耽《ふけ》った。  夜具に乱れた髪が成熟した女の裸身にからまり、猥褻《わいせつ》な構図を促した。  男に対して開いた裸身を、山奥の二人だけの宿という環境が、女に羞恥《しゆうち》を忘れさせ、大胆にした。  男にとって予想した通りの素晴らしい女体であり、満足すべき情事であった。  だが、まだ余香は残っている。昨夜の初体験を踏まえて、今夜はもっと濃密な時間を過ごせるはずである。  二人は、昨夜の飽くことなき貪《むさぼ》り合いの疲労から立ち直って、新たな体力が充実している。  このドライブ旅行も、山奥の秘湯で二人だけになりたいという女の希望に添って出かけて来たものである。  昨夜の宿で、間道の奥に取って置きの秘湯があるという情報を仕入れて、車を乗り入れた。  秘湯も魅力であったが、コースが掘り出し物であった。  難路ではあったが悪路ではない。男の運転技術であれば、多少の緊張は伴っても、豪快なドライブ感覚を味わえる。  コースの難しさよりは、展開する雄大な光景に目を奪われる方が危険である。  山は長い冬からようやく解放されて、新緑のコスチュームをまとっている。  春と初夏の狭間にあって、いま山が最も静かな時期であった。  静かでありながら、冬を耐えた植物や生物のエネルギーが弾んでいる。  谷間《たにあい》深く流れ落ちる水は清く、山腹は緑に輝いている。緑の前山の奥に連なる高峰は、まだ雪を戴《いただ》いている。峠は山梨と静岡の県境にまたがっている。峠の手前の展望台から富士山が眉《まゆ》に迫るように一際擢《ひときわぬき》ん出た山容を展開している。  そんな雄大な光景に、昨夜の女の奔放な姿態を重ね合わせて、今夜の悦楽の期待に胸を弾ませるのは、やはりこの豪快なドライブから刺激を受けているせいかもしれない。  不謹慎かな、と男はハンドルを操りながらおもった。  だが、彼にはいま女と共に独占している風景が猥褻に映ったのである。  美しい風景も女も、どこか拒否的である。  だが、拒否の関門をくぐり抜けて許容されたとき、拒否的な構図は猥褻に変わる。  あれほど拒絶的であった女が、このドライブ旅行へ出かけて来てから別人のように気前よく、奔放に許してくれた。  また都会へ帰れば、眼前の風景と同じように、拒否の扉を閉ざしてしまうのかもしれない。 (いまのうちだな)  男は独りうなずいた。 「なにをにやにやしながら考えていらっしゃるの」  女が男の顔を覗《のぞ》き込んだ。 「きみと同じことだよ」 「まあ、いやらしいわ」  おもわず口走った女は、顔を薄く染めた。  計算した仕種《しぐさ》であるとしても初々《ういうい》しい。  コースは最も緊張する場面を通り抜けて、山間のブナの樹林帯の中に走り込んだ。  髪の先まで緑に染まるようなブナの樹林帯の間に、白樺の幹が白く輝いている。  風景が閉鎖的になった。  太陽の光が重なり合う樹葉に遮られて、青い色彩が林間に漂っている。  男は長い緊張から解放されて、ほっとした。  地図によると、コースの最大の難関は踏破して、これから今夜の宿まで森林の中の道がつづく。  気を抜いたのがいけなかった。森の中のとある曲がり角で、突然、対向車が現われた。  男の運転の腕なら充分|躱《かわ》せるはずであった。  男は事実、躱したとおもった。  だが、対向車はなにを血迷ったか、男が避けた方角へ車首を寄せて来た。  出合い頭に二台の車は接触した。  身体に伝わったショックは、大したことはなかった。  男が反射的に切ったハンドルが、接触を最小限に止どめた。  こちらの車線に割り込んで来た対向車が一方的に悪い。 「大丈夫ですか」  男は余裕を持って対向車の運転者に声をかけた。  対向車の運転席ドアを開いて、ドライバーが降りてきた。  二十代後半から三十前後と見える男である。  彼はドアを勢いよく閉めた。不吉な予感がカップルの胸をよぎった。 「大丈夫かだと」  対向車のドライバーが濁った声を出した。女がぴくりとして男の腕にすがりついた。 「これが大丈夫かよ。ボディがめちゃめちゃになっちゃったよ」  ドライバーはいきなり足を上げて、カップルが乗った車のボディを蹴《け》り上げた。こちらの車は輸入台数の少ない外車である。相手の大衆車に比べて、損害も圧倒的に大きい。彼我の車のちがいも相手の反感をそそったようである。悪い相手に関わってしまったようである。 「あなたがこちらの車線へ飛び出して来たんじゃないか」  男は精一杯威厳を保つようにして抗弁した。 「なんだと、この野郎、ふざけやがって。女といちゃいちゃしながら運転しているから、こんなことになるんだよ。やい、出て来い」  相手は足を上げてボディを蹴りつづけた。 「怖い」  女が男の腕にしがみついた。 「乱暴をするな」  男が車外へ出ると、対向車のドライバーがいきなり彼の胸ぐらをつかんだ。 「車をぶつけておいて、他人《ひと》のせいにするとは、太《ふて》え魂胆だ。車体《ボデイ》だけじゃねえぞ。頭が痛くて吐き気がする。むち打ちになっちゃったよ。このおとしまえはどうしてくれるんだ」  相手は凶悪な形相をして迫ってきた。  尖《とが》った顔、細い目、太い眉、右の眉が刃物で切られた痕が中央で分離している。紅を塗ったような薄い唇、下唇にシミのような黒子が浮いている引き締まった長身が鋭い凶器のように険悪な気配を放散している。  ヤクザかもしれない。  男はこういう手合いには弱味を見せるとつけ上がるとおもって、 「おたがいさまじゃないか。私の方の車もバンパーやフェンダーがへこんでいる」  と、抗弁した。美術品的な車を傷つけられて、損害賠償を要求したいのは、こちらである。 「なんだと。てめえ、因縁をつけるつもりか」  ドライバーの目に凶暴な光が走った。 「因縁をつけているのはきみではないか」  男は言い張った。 「上等だ。素直に謝れば許してやろうとおもったが、もう勘弁ならねえ」  ドライバーはいきなり男を殴りつけた。  無防備のところを顔面に強烈なパンチを浴びせられて、男は目から火花が飛び、一瞬、視力を失った。  つづいてパンチの雨を浴びせられた。ドライバーは喧嘩馴《けんかな》れしているらしく、男に抵抗する間もあたえず、殴る、蹴るの暴行を働いた。  男は地面に伸びて動かなくなった。 「やめてください。お願いです。乱暴しないで」  女がドライバーに訴えた。 「ほう、ねえちゃんが野郎のかわりにおとしまえをつけようってえのか」  ドライバーは女の方に視線を転じた。その目に露骨な欲望の色が塗られている。  女は敏感にドライバーの欲望を察知した。身を引こうとしたときは遅かった。 「けっこうなことだね。あんたがかわっておとしまえをつけてくれるなら、示談に応じてもいいよ」  ドライバーは狼《おおかみ》の正体を表わして、牙《きば》を剥《む》き出した。 「いや、やめて」  女が叫んだときは、狼の触手に捉えられていた。 「泣け。わめけ。だれも助けに来ちゃあくれねえよ。あんたの騎士《ナイト》は地面にミミズのように伸びてるぜ」  ドライバーはせせら笑いながら、女の抵抗を蹂躙《じゆうりん》して、貪《むさぼ》りやすい姿勢に組み敷いた。 「助けて」  女は男の名前を呼んで、救いを求めた。 「うるせえ」  ドライバーは女の衣服を引き裂き、馴れた手つきで彼女の下着を剥奪《はくだつ》すると、口の中に押し込んだ。  久し振りにありついた美味《おい》しい獲物に、狼の背後の警戒が甘くなっていた。  地上にミミズのように伸びた男が、戦闘力を残していようとは夢にもおもっていない。  涎《よだれ》を垂らしながら牙を女の肉叢《ししむら》にがっぷりと突き立てた。背中に危険な気配を察知したときは遅かった。  風を切って振り下ろされた凶器を避けも躱《かわ》しもならず、後頭部に受け止めたドライバーは、グエッといやな声を出して、女の身体の上に頽《くずお》れた。  一撃の下に凶暴な意志を失ったドライバーに対して、男は手にもった岩をつづけざまに振り下ろした。  後頭部が砕けて、頭皮がぶよぶよになるまで、男は追撃の手をやめなかった。 「やめて。死んじゃうわよ」  一拍早く我に返った女が、男の手にしがみつき、男は岩を振り下ろす手を止めた。  ドライバーは地上にぐったりと伸びている。男はそれに放散した視線を向けたまま、茫然《ぼうぜん》と立ち尽くしていた。  手から岩が地面に落ちた。岩にはドライバーの血と頭髪がこびりついている。  女が伸びたドライバーのそばに歩み寄った。鼻、口、耳から血が出ている。  ドライバーの顔をしばらく見つめていた女は、鼻先にあてがった指をぎょっとしたように引っ込め、 「死んじゃってるわよ」  と悲鳴をあげるように言った。 「なんだって」  男は愕然《がくぜん》として我に返った。 「死んじゃったわよ。どうするつもり」  女の顔から血の気が引いた。 「まさか」  男が信じられないように首を振った。 「本当よ。死んでるわよ。ねえ、どうするつもり」  女に泣きつかれて、男もようやく深刻な事態を悟った。 「警察に届け出ましょう。これは正当防衛よ。私を救うために殺したんだもの。罪にはならないわ」  女は男に訴えた。 「警察には届けられない」  男は首を振った。ようやく立ち直ってきたようである。 「どうして。この人、死んじゃったのよ。届けないわけにはいかないでしょう」 「落ち着くんだ。届けたら、ぼくたちの関係が露見してしまう。たとえ正当防衛でも、それが成立するまでには裁判で長い時間がかかる。正当防衛が認められても、人を殺したぼくは破滅してしまうよ」 「そんなことを言っても、このままにしてはおけないわよ」 「いいかい。ここでぼくたちがこの男と出会ったことを知っている者はだれもいない。この男の死体を隠してしまいさえすれば、ぼくたちとはなんの関係もなくなる。どうせ生きていても世の中の害虫のような存在にちがいない。害虫が一匹死んだところで、だれも悲しまないさ」 「なにを言っているの」 「今日のことは忘れるんだ。なにもなかったし、ぼくたちはだれも殺していない。この死体さえ隠してしまえば、なにも変わったことはないんだ。きみだって、ぼくがこんな男の命と交換に破滅してほしくないだろう」 「隠し通せるとおもっているの」 「もちろんだよ。ぼくたちとこの男とはなんのつながりもない。この男が消えたところで、ぼくたちと結びつける者はいない。さあ、手伝ってくれ。穴を掘るんだ」  男はドライバーの死体の両手を取って、原生林の奥へ引きずり込んだ。  軟らかそうな地面を選んで、修理用工具で穴を掘る。  ようやく人体一体分を隠せる穴を掘り下げて、死体を放り込んだ。  死体に土を被せ、体積分だけ余った土を周辺に均《なら》す。  震えていた女も、途中から気を取り直して手伝った。 「車があるわよ」  ようやく死体を始末した後、女が愕然とした声を発した。  死体の隠匿に夢中になって、車の存在を忘れていた。死体だけ隠しても車が残されている限り、そこから足がつく。  男も一瞬ぎょっとしたようであるが、 「きみがぼくの車を運転してくれ。ぼくは彼の車を運転して、ここから離れた場所に捨てる。そうすれば、車が発見されても、死体を隠した場所を探し当てられない」 「私たち、これからどこへ行くの」 「とにかくこの場から離れよう。そして、きみはいったん東京へ帰れ。ぼくは車を処分してから帰る」 「気をつけてね」 「大丈夫だよ。きみこそ気をつけて帰ってくれ。ぼくたちはもう一心同体だよ」 「運命共同体でしょう」  女が男を軽く睨《にら》んで、薄く笑った。女の方が早く立ち直っている。  二台の車に分乗したカップルは、現場から走り去った。  二台の車が接触して、一人の人間がこの世から抹消された痕跡《こんせき》は気配も残っていなかった。 [#改ページ]  一期一会の情事      1  川名純子《かわなじゆんこ》は退屈していた。結婚して七年、三十路《みそじ》の声を聞いたが、子供はまだない。  夫とは恋愛結婚であるが、恋愛中はあれほど恋しかった彼が、毎日、鼻を突き合わせて暮らす間に、速やかに新鮮な異性感が磨滅してしまった。  べつに二人の間が冷えたわけではない。他人性が同化して、兄妹のような感じになってしまった。  結婚披露パーティのとき、来賓の一人が、結婚は経済学の原則が当てはまる。相手に会うのを制限される恋愛中は、相手が恋しくて、一分一秒たりとも離れていたくないとおもうが、結婚して生活を共にするようになると、相互の供給が過剰になって、げっぷが出るようになる。  一杯目のビールは美味《おい》しいが、二杯、三杯と重なると味が落ち、もういらないという限界がくる。  結婚後も新鮮な夫婦生活を保つためには、相互に供給を過剰にしないようにする工夫が必要だ、という趣旨の祝辞を述べたが、いまにしておもい当たる。  恋愛中あれほど飢えていた相手を、いつでも無制限に得られるようになると、水か空気のような存在になってしまう。  新婚一、二年は毎夜のように情熱的に愛してくれた夫が、仕事を口実に忙しぶるようになり、帰宅すると疲れた、疲れたを連発する。  時にベッドを共にしても、事をすますと背中を向けていびきを立てる。  結婚二、三年の間に子供を産みたいとおもっていたが、川名がまだ欲しくないと言って引き延ばしている間に、なんとなく産むのが億劫《おつくう》になってしまった。  同年輩の女はすでに一人か二人の子持ちになって、母親業に追われているのを見ると、ああはなりたくないとおもう。  娘時代はいっぱしに自分の可能性の夢を追った女たちが、母親になるととたんにすべてを子供に吸い取られてしまう。吸い取られるのを喜んでいる。  話題も子供が中心である。生活の中心が自分から子供に移ってしまう。  そんなのはご免だとおもった。  だからといって、夫は昔の夫ではない。結婚して、かつての素晴しい恋人から普通の男に変質してしまった。  最近は愛情と睡眠はべつだと言い出して、寝室をべつにするようになった。  そのこと自体は純子も歓迎している。毎夜、夫のいびきを聞かされては寝不足になってしまう。  同じころに結婚した友人夫婦の中には、すでに別れてしまった者もいるし、また子供が二、三人生まれて、けっこうハッピーにやっている者もいる。  幸せ夫婦も別れた二人も、純子のように退屈していないことは確かである。  川名はある大手都市銀行の本店業務部に勤めている。家は先祖代々の素封家である。  本店業務部は全国支店網を統括し、川名が所属する検査課は本店内部と全国主要支店の内部を監督する。  銀行は他人の金を預かり、これをまた融資する金融機関であるので、融資先との癒着も多く、不正の温床となりやすい。  これを監督し、行内の不正行為を防止するのが検査課の主たる仕事である。  検査課は全国支店から大目付《おおめつけ》と呼ばれて恐れられている。  それだけに検査課はエリート中のエリートで構成され、課員は清く正しく身を律しなければならない。  一流大学を卒業した川名は、毛並みのよさを買われて、入行後間もなく本店業務部に抜擢《ばつてき》された。  川名と純子は職場結婚であった。  結婚に際して、川名は一つの条件を出した。  結婚と同時に純子は銀行を退職する。家庭に入って家を守ってもらいたいという条件であった。 「うちは夫婦共働きをしなければならないほどに貧しくはない。きみは家にいて、ぼくの背中を守ってもらいたい」  と川名は申し出た。  川名を愛し、彼との結婚を熱望していた純子は、喜んでその条件を受け入れた。  それが後年になって、彼女の退屈の培地《ばいち》になるとは、その時点では予測しなかった。  だが、新婚期を過ぎて妻を見つめていた夫の目が仕事に転じ、独り家に取り残された純子を退屈という伏兵がさいなみ始めた。  夫婦二人の家庭に、一日を消化するほどの仕事があるはずもない。  朝、出勤する川名を見送り、夜遅く帰宅して来るまで、だれとも話をしないこともある。  買物に出かけても、スーパーの店員から、毎度有り難うございます、と声をかけられるだけである。  自動販売機からはその言葉すらかけられない。  テレビを相手に終日、家に閉じこもっていると、気が狂いそうになった。  ようやく川名が帰宅して来ても、必要最小限の言葉しか交わさない。  川名は妻と口をきくのも億劫そうであった。  退屈の虫を鎮めるために、学生時代の友に電話をかけても、留守が多い。  たまたま在宅していても、話途中で寝ていた幼児が目を覚ましたり、子供が小学校や幼稚園から帰宅して来る。宅配便や集金人がやって来る。  ごめんねと言って席を立たれると、電話を切らざるを得なくなる。  みなそれぞれに忙しそうで、純子の時間つぶしの相手にはなれなかった。  純子は朝が怖くなった。朝、起床して、今日一日、どうして過ごそうかとおもい悩む。  このようななにもすることがない毎日が、死ぬまでつづくかとおもうと、ぞっとした。  だが、夫から働きに出ることは禁じられている。もちろんパートの仕事も許されない。  本店検査課のメンバーの妻たる者が、家計の足しにするためにパートタイマーに出るなど、もってのほかのことであった。  もともと家計に不足はない。川名の収入は世間の水準以上であり、先祖代々、素封家の聞こえ高い生家を相続すれば、家作や土地を含めて莫大《ばくだい》な財産を所有することになる。  夫が出勤した後、純子の仕事は掃除と電話番くらいである。大して散らかってもいない三DKのマンションの掃除などは一時間ですむ。電話はめったにかかってこない。  動物でも飼っていれば多少は気がまぎれるのであるが、川名はペットは金魚も嫌いであった。 「ペットを飼うと、行動を制約される。それに元気な間はいいが、必ず別れるときがくる。なかなか死なずに、ペットの老人介護なんて漫画だよ。たいていペットの方が先に死ぬが、飼い主に先立たれたペットも悲惨だ」  と川名は言った。  昼間、なにもすることがないので、純子は一人でよく出かけるようになった。  見知らぬ街角で見つけた洒落《しやれ》た喫茶店に入り、気に入りのレストランで食事を摂《と》る。  デパートで催されている各種個展やイベントを覗き、ショッピングを楽しむ。  人目にはとてもハッピーなライフスタイルである。  だが、純子の心は少しも満たされなかった。  街へ出てますます孤独になり、虚《むな》しくなった。  こんなことをしながら、繰り返しのきかない人生を浪費してしまってよいのか。  べつに夫を愛していないわけではない。だが、結婚当初、愛とおもっていたものは性愛であった。  夫婦として協力しながら家庭を築き上げている間に、初期の性愛が次第に人生のパートナーとして成長してくるものであるが、性愛から熟練した夫婦に成長する過渡期に、いま純子はいる。  結婚して、純子は性愛だけでは膨大な人生を埋め切れないことに気がついた。  それではなにをもって埋めるか。その回答は早急には得られない。  おおかたの人間はそんな疑問を持たずに、人生をなんとなくやっている。  川名は仕事に夢中である。しかし、仕事、仕事と大義名分にしているけれど、それほど大袈裟《おおげさ》な仕事をしているのであろうか。  純子から見ると、銀行の仕事などはしょせん、他人の金勘定である。  そんな仕事に没頭できるのも、結局、疑いを持たず、なんとなく人生をやっているからであろう。  夫を仕事に取られ、夫婦生活の未熟な間に、自由というなにもすることがない膨大な時間の海の中に放り出された純子は、途方に暮れた。  具体的な目標もなく、なにもすることがないとき、時間は人生の敵となる。  楽しいときや、時間を限られた仕事が犇《ひし》めき合っていたときは、あれほど早く過ぎ、不足していた時間が、遅々たる歩みを完全に止めて凍りつき、無為の中に閉じ込めて、押しつぶそうとした。  せめて街へ出て、時間の檻《おり》から逃れようとするが、結局、虚しくあがきまわっているだけで、時間の囚人の身分から逃れられない。  忙しすぎても時間の鎖につながれるが、時間が凍ることは決してない。  彼女は時間という氷の海に閉ざされて、身動きできなくなった船のような自分を感じた。  街を歩きまわっていても、氷の海に擱座《かくざ》した船から降りて、せいぜい氷原をほっつき歩いているだけである。  それでも船の中にうずくまっているよりはよい。  氷原を歩きまわっていれば、時間の氷海からエスケープルートを発見できるかもしれない。      2  そんなある日、純子は新聞の折り込み広告に、ある大手出版社主催のカルチャースクールの募集広告を見つけた。 「あなたも作家になれる。一流の作家や、第一線の編集者が小説のノウハウを直接伝授」  という惹句《じやつく》で、講師陣や同スクール出身の作家名が並んでいる。  講師陣はいずれも高名な作家や評論家である。出身作家の中にはいまをときめく流行作家や新進作家が名を連ねている。  純子は興味を惹《ひ》かれた。もともと純子には素地があった。  幼少のころから本が好きで、暇さえあれば自分の部屋に閉じこもって本ばかり読んでいた。  かなり早熟な恋愛小説などを読んでいるのを両親に見つかって、怒られたこともしばしばあった。  家では両親に隠れて読み、学校では退屈な教科は、教科書の下に小説を忍ばせて読み耽《ふけ》った。  鞄《かばん》の中にはいつも二、三冊、小説本を入れていた。  将来は漠然と、作家になりたいと考えたこともあった。  しかし、読むのは好きだが、自分にこのような作品を創作する能力はないとあきらめていた。  そして、川名と出会い、愛し合い、結婚して、時間の檻に閉じ込められるに伴い、小説への野心もかさぶたをかけられていた。  カルチャースクールの折り込み広告を見て、無気力のかさぶたの下に休眠していた小説に対する野心が、ざわと蠢《うごめ》いたように感じられた。  行ってみようかな、と純子はおもった。どうせ時間はありあまるほどある。  当てもなく街をうろつきまわるよりも、カルチャーセンターで一流作家の話を聴く方が刺激を受けるかもしれない。  作家にはなれないまでも、一流作家の雰囲気に触れるだけで、蟻《あり》地獄のような退屈がまぎれるかもしれない。  純子はおもい立つと同時に、直ちに入学手つづきを取った。  クラスは約四十人、男女四、六の割合で、平均年齢は四十前後、職業はさまざまらしい。  おおよそのところ、男性は停年退職後の余生の方途探しらしく、女性は趣味という感じである。  なんとしても小説家になりたいという野心を持っている者は、少数派である。  初めての講義に出席するとき、純子は久し振りに心のときめきのようなものをおぼえた。  怠惰な生活に自分を見失っていた彼女には、絶えて久しい現象であった。  いまをときめく流行作家は、ゲスト講師としてたまにしか現われないが、中堅の堅実な作家が常任講師として小説作法をおしえてくれる。  第一線の編集者も随時、臨時講師として講義をした。  常任講師は生徒に習作を書かせ、全員で講評した。  これまで小説を読者として無心に読んでいた純子は、小説というものに対して新たな目を開かされた。  ゲスト講師の流行作家は、作家になった動機や、小説づくりの舞台裏を話してくれた。  また編集者は、作家と手を取り合い、あるいは渡り合いながら作品をむしり取り、世に送り出していくプロセスと、作家の生態や、出版最前線の雰囲気をなまなましく伝えてくれた。  いずれの講師の話も、純子にとってはカルチャーショックの連続であった。  月産千枚を超える、十本以上の連載を抱える超人的な量産をこなしている流行作家が風邪でダウンしたとき、高熱で唸《うな》っている枕許《まくらもと》に担当編集者がやって来て、死んだり、交通事故で瀕死《ひんし》の重傷を負ったりしたら許してやるが、風邪程度ではアナはあけられませんと言って、テープレコーダーをまわしたエピソードや、作品よりも字をよこせと要求したという話は、純子がこれまで抱いていた、想が実るまで筆を取らない、悠揚として迫らざる作家のイメージを完全に塗り変えてしまった。  しかも、そんな修羅場の中で書いた作品が、常に水準のハードルをクリアしていなければならないというプロ作家の過酷な要求レベルは、時間つぶしや、余生の筆のすさびぐらいに小説を書こうとおもっていた受講生たちに、衝撃をあたえたらしい。  職業作家の一人が次のようなことを言った。 「小説は文字と言葉を知っている者なら、だれでも一、二本は書けます。  しかし、職業作家は書きつづけていかなければなりません。とうてい小説を書くような心身の状態ではないときも、読者は決して待ってくれません。どんな環境においても書きつづけられるという自信のない人は、プロの作家になるべきではありません」  この言葉はプロとアマの差を純子にまざまざと見せつけた。  小説を読みつづけることはできても、書きつづけるのは至難の業である。  目標のないライフスタイルの退屈しのぎに小説でも書こうかとおもって入学した純子は、実作者と小説現場の息吹に触れて、発奮した。  この方位にこそ、自分が探し求めた生き方があるのではないのか。  常任講師は、 「小説を書くということは、精神の切り売りに等しい。しかし、志を持って小説を書くならば、どんなに切り売りしても精神は再生される。志なき小説は精神の売春である。志を持って小説を書きなさい」  とおしえた。  そして、小説の志とは、他人からおしえられるものではなく、自ら探し、設定するものだとつけ加えた。  純子にはまだ小説の志がなにかとは、具体的にはわからない。  だが、小説というものがしょせん、人間や人生の真実を追求するものであれば、小説の志も人間と人生の志ではあるまいか。  志なき人間と人生、そんな生きざまであったので、彼女は退屈という時間の檻の囚人になっていたのだ。  まだ輪郭はぼやけているが、純子に志のようなものが見えかけてきていた。  純子も受講生の課題である習作を数本書いた。  自分の無目的な、自堕落なライフスタイルを素直に書いて見た。  講評はおおむね好意的であった。  講師は、 「自作に溺《おぼ》れて陶酔している。作品と作者の間に距離がない。それはそれでよいこともあるが、作者は自己陶酔に陥って、精神の自慰に耽っている。人物造型が浅く、文章が稚拙《ちせつ》である。  だが、この作品にあるにおいがよい。文芸作品には香りがなければ文学とは呼べない。文章や作法はたくさん書くことによって上達するが、香りは天性のものである。作者は自分の持ち味の香りを大切にしなければならない」  と講評してくれた。  純子は嬉《うれ》しかった。悪臭ばかりが立ち込めるような作品が店頭に犇《ひし》めき合っているこのごろ、練達の講師から、天性の香りを持っていると褒《ほ》められたことは、自分が職業作家としての素質を備えていることを保証されたようなものであろう。 「奥さん、あなたの作品、素晴らしいわよ。プロ真っ青だわ。先生は増長しないように抑えて褒めてくださったけれど、人間もよく描けているし、文章も上手だわ。先生、内心びっくりしてらしたわよ」  受講生仲間の本村真美子《もとむらまみこ》が話しかけてきた。  純子よりやや年下の、二十代半ばから後半とおぼしき派手なマスクの女である。  衣装も化粧も純子の目にはけばけばしく、水商売くさい。  唇の右端にある黒子《ほくろ》が淫蕩《いんとう》な感じである。  本人は小さな会社のOLと自己紹介した。 「とんでもないわ。課題なので仕方なく書いたけれど、穴があったら入りたいくらいよ」  純子は謙遜《けんそん》したが、嬉しかった。 「私、入学してから、ずっとあなたの書いたものに目をつけていたのよ。あなたはきっとプロの作家になれる人だわ。それも遠からず流行作家になれるわ。それもにおいよ。あなたにはそんなにおいがするの」 「あんまりおだてないでください。本気にしちゃうじゃないの」 「おだててなんかいないわよ。あなたの作品には香りがあると同時に、あなた自身に作家のにおいがあるの。先生にもそれがわかるから、あんな褒め方をしたのよ。小説にルールなんかないわ。読者に認められることがすべてなのよ。  文壇で袋叩《ふくろだた》きになったどうしようもないような作品が、ベストセラーになるケースはいくらでもあるわ。ベストセラーになった途端に、その作品は一種の権力を持つのよ。権力を持った作品に、だれがなんと言おうと、もはや負け犬の遠吠《とおぼ》えだわ」 「負け犬の遠吠え?」 「そうよ。売れない作家が、売れる作品をけなすのは、滑稽《こつけい》以外のなにものでもないわ。小説も作家も読者があって成り立つのよ。読者のいない小説なんてあり得ないわ。それは日記かメモと同じよ」 「でも、たくさん売れるということと、作品の価値はべつではないかしら」 「売れない日記作家やメモ作家が文学を論ずるときに使う口実ね。マスコミュニケーション時代は、大勢に対してものを言っている人が本当にものを言っているのであって、少数に対してものを言うのは、なにも言っていないのと同じなのよ」 「ずいぶんおもいきった意見なのね」 「それが現実よ。香りのある作品だの、文学的価値だのと言っても、つまるところ売れる作品のことよ。売れない作品なんて、トイレットペーパーにもならないわ。あなたの作品には売れるにおいがあるのよ」 「駄目よ、私なんて。作品ではなくて、せいぜい字を書いているだけだわ」 「ゲストの講師がおっしゃったじゃない。売れるようになれば、編集者が作品ではなく、字を欲しがるようになるって。そして、その字が、水準を超えるようになるのよ」 「私にはとうてい及びもつかない世界だわ」 「あなたは自分のにおいを信じるのよ。そして、もっと強気に書かなくては駄目。私の勘は当たるのよ」  真美子は挑発するように笑った。      3  そんなきっかけから、本村真美子と親しくなった。講義が終わった後も、連れ立って帰るようになった。  本村真美子は裕福な暮らしをしているらしく、衣服も身に付けているアクセサリーも金をかけたものばかりである。  彼女が誘う店はいずれも一流店であった。  そして、真美子は容姿や雰囲気がけばけばしいなりに、そのような環境にいかにも場馴れしていた。 「あなた、いまの生き方に退屈しているでしょう」  真美子は講義が終わった後、誘い込んだ都心のホテルのバーで、純子の顔を覗き込んだ。  午後のホテルのバーは、客の影もまばらで、密談や、男女の人目を憚《はばか》るデートにもってこいの環境である。 「どうしてわかるの」  驚いて、純子は真美子の顔を覗き返した。 「書いたものを見ればわかるわよ。あなたのライフスタイルを素直に模写したものでしょう」  真美子はオーダーしたカクテルのグラスを傾けながら、いたずらっぽい笑みを含んだ。 「やっぱりわかっちゃったか。私はフィクションのつもりで書いたんだけれど、まだまだ未熟ね」 「それでいいのよ。先生がおっしゃってたじゃないの。まず、自分のことから書き始めろって」 「でも、あなたの作品からは、あなたの正体はわからないわ」  実際、真美子の書いたものは濃厚な情事が多く、純子は辟易《へきえき》させられた。  それも真美子の生活の模写なのであろうが、なんだか現実離れした男女のようで、リアリティに欠けているようにおもえた。  だが、本村真美子の存在自体が、なんとなく現実離れしている。  その意味で、作品は彼女の人間をよく現わしているのかもしれなかった。 「それは私の表現が未熟だからよ。私としては自分自身を描こうとしているのだけれど、表現力が追いつかないのね」  真美子は柄にもなく謙遜《けんそん》した。  彼女はこと自分の作品に関することになると謙虚《モデスト》になった。  きっと自分の小説に自信がないのかもしれない。  小説というものはどこかに厚顔無恥なところがないと書けない。  一見派手で、自己主張の強そうな真美子が、小説に関して自信がないというのは面白かった。  自信というよりは野心がないのかもしれない。なにがなんでも小説家になりたいという野心がない。  純子のように退屈の檻から逃れるためでもなく、ただ、なんとなくカルチャースクールに通って来ている。そんな感じであった。 「先生が小説は精神の切り売りと言ったでしょう」  真美子がグラスをテーブルの上に戻すと、意味深長な口調で言った。 「そんなことをおっしゃってたわね」 「どうせ精神を切り売りするなら、肉体も切り売りしてみようかなとはおもわない」 「肉体の切り売り! 売春のこと」 「取材よ、取材。あなたの作品に欠けているものがあるとすれば、色よ。色のない文学はモノクロだわ。文学には香りが必要であると同時に、色彩も重要な要素だとおもうの。奥さん、ご主人との関係がうまくいっていないんじゃないの」 「売春と文学の色彩が、どんな関係があるの」 「売春じゃないわよ。文学が精神の切り売りであるなら、その取材のために肉体を削ってもいいんじゃないの。作品というものは、作品そのものが優れていれば、その成立過程に関わりなく作者から離れた独自の生命をもつものよ。肉体を削って書いた作品が、きっと奥さんの作品に彩りを添えるわ」 「私、べつに夫と不調になっていないわよ」 「だったらけっこうじゃないの。ご主人と円満でも、女が満たされているとは限らないわ。いいえ、どんなにハッピーでも、作家としては満たされないものがあるはずよ。人間の幸福と作家の生き甲斐《がい》はべつの次元にあるのよ」 「それじゃあ、作家は人間じゃないみたい」 「そうよ、ある意味では作家は人間じゃないの。人間が人間ではない部分で書いているから、小説は面白いんじゃないの」  本村真美子は奇怪な文学論を展開した。 「私にはよくわからないわ」 「とにかく、奥さんの作品に色が添えられたら、きっと凄《すご》いものになるわよ。私にはわかるの。私の予感は当たるのよ」  真美子は同性ながら、純子の背筋にぞくっと迫るような婉然《えんぜん》たる目をして睨《にら》んだ。 「もしその気になったら、いつでも連絡してちょうだい。いい人を紹介してあげるわ」  真美子は半分冗談、半分真剣な口調でささやいた。  その日はそれだけの話題に止どまった。  ところがそれから間もなくして、常勤講師が純子の作品を評して、 「最近、磯野《いその》さんの進境が著しいが、惜しむらくは作品が単調《モノトーン》です。登場人物が類型的で、内省《ないせい》ばかりしており、人間と人間の葛藤《かつとう》がありません。もっと多彩な彩りが欲しいですね」  と言ったので、純子はぎょっとした。  磯野は純子がスクールで用いているペンネームである。  まさに本村真美子が言ったことを、的確に指摘された。  その日帰途、また連れ立った本村真美子が、 「どう、先生も私と同じ意見だったでしょう。やっぱり、私の勘は当たっていたんだわ。あなたの作品には色が欠けているのよ。はっきり言って、色気がないのよ」  と、また誘うような流し目を送った。  真美子の誘いと言おうか、あるいは挑発は、純子の心にインパクトをもって迫った。  純子は三十歳に達し、女盛りである。その成熟した肉体を夫に放擲《ほうてき》されたまま、遊休させている。  その遊休に馴れて、それが当たり前になっている。  しかし、考えてみれば、純子は、女の身体が実りに達して溌剌《はつらつ》としている。  花の命は短い。花期、満開の花弁をだれに見られることもなく、虚しく梢を吹き過ぎる風にはらはらと散らされているような気持ちがした。  このまま虚しく、女の盛りを休眠させたまま枯れてしまってよいものか。  本村真美子の挑発が純子の焦燥をかき立ててきた。  真美子はその気になったらいつでも連絡しろ、いい人を紹介してやると言っていた。  いい人とはどんな人物かわからないが、未知であることに好奇心をかき立てられる。  真美子の言葉と共に、焦燥の底から疼《うず》くようなものが起き上がってきた。絶えて久しく忘れていた女の疼きである。  純子は身体の芯《しん》に蠢いた疼きに愕然《がくぜん》とした。  それこそ、彼女が女であることの証拠である。  証拠を久しく忘れていたという事実が、本村真美子と講師から指摘された作品の単色性を裏づけている。  そのとき純子は、退屈しのぎに入学したカルチャースクールが、これまで彼女を閉じ込めていた檻から脱出し、新たな世界のドアを開く鍵《かぎ》となるような確かな手応えを感じた。  この機会を逸すれば、自分は永久に時間の檻の中の終身犯となってしまう。  だが、心は焦っても、ふんぎりがつかなかった。  純子は川名以外の男を知らない。処女のまま川名と結婚し、三十路の今日になるまで夫以外の男を知らない。  理屈では精神の切り売りができれば、肉体の切り売りもできるはずであるが、後者には抵抗がある。  たとえ取材という大義名分があっても、不倫を正当化できない。  純子の心が揺れ動いているとき、事件が発生した。  ある夜、帰宅した川名が脱ぎ捨てた衣服を片づけているとき、純子はそれに付着している白い細い毛を見つけた。  なにかとおもって凝視すると、衣服の至るところに正体不明の白い毛がまつわりついている。  一見しただけではわからないような細い毛が、夥《おびただ》しく付着している。家の中にはそのような毛がつく場所はない。  純子は一群の毛を指先につまみ上げて、しげしげと観察した。  もしかすると猫の毛ではないかしら。純子は以前、猫を飼っている友人の家に遊びに行って、衣服が毛だらけになって閉口した記憶がある。  いずれにしても、毛脚の長い動物の毛のようである。  彼女の家では動物は飼っていない。純子はなにかペットを飼いたいとおもったが、川名が動物を嫌った。  その川名の衣服に動物の毛が付着している。  付着した毛の量や位置から、道路を歩いていて犬や猫にまつわりつかれたという状況ではない。  動物を飼っている家に上がり込まなければ、これほど大量の毛は付着しないはずであった。  純子は、はっとした。いまにしておもい当たることがある。  深夜、帰宅した川名の衣服を片づけているとき、ふと嗅《か》ぎ慣れない香水の香りを嗅いだり、下着を裏返しに着たりしていたことがあった。  香水は通勤電車の中でつけられたものかもしれない。また、川名にはアバウトなところがあって、下着を裏返しや、前後ろ逆に着たりするようなことがあった。  今度もそのでんかとおもって気にも止めなかったが、いま衣服に付着している動物の毛とおもい合わせると、疑惑の影が忌まわしい輪郭を彼女の心に描いた。  川名に女がいる。純子は直感した。  だが、純子は夫を問いつめようとはしなかった。問いつめるのが惨めにおもえた。  川名を問い質《ただ》して不倫の自供を得たところで、なんになるのか。  仕事を大義名分にして放擲した妻の陰で、夫はほかの女と情事を楽しんでいた。  夫婦生活の欠如は、新婚当初の夫婦の性的関心を、人生のパートナーとしての愛情に転化させる過渡期の現象ではなかった。  夫の関心はとうにべつの女に移っていたのである。妻を時間の檻の中に閉じ込めたまま。  さらに純子は動かぬ証拠をつかんだ。  川名のズボンのポケットに、封を切られたコンドームの包装紙が残されていた。  中身が自分に用いられたのでないことは確かである。  一瞬、純子の全身の血が冷えた。純子は自分が夫に騙《だま》されて檻の中に閉じ込められたことを悟った。  私には檻から抜け出す権利がある。そして、抜け出すためのキーを本村真美子から差し出されている。      4  もはや純子はためらわなかった。  スクールの次の講義のとき、一緒になった本村真美子に、 「例の取材の件、お願いしようかしら」  と申し出た。  真美子はにんまりとほくそ笑んだように見えた。 「あなたが近いうちに言い出すような気がしていたのよ。絶対にいい取材ができるような人物を紹介してあげるわ」 「取材は一度だけにしたいの。それが条件だわ」 「ご心配なく。後腐れのあるような人物は紹介しないわ。先方も立場があるから、一度限りのプレイと割り切ってくれる人の方が歓迎なのよ。どこのだれとも知らない異性と、一度だけベッドを共にするなんて、ロマンチックじゃない。ただ一度限りで、二度とその人に会うことはないわ。考えるだけで刺激的でしょ」 「危ない人はいやよ」 「大丈夫。絶対安全な人よ。私が保証するわ。もし相手が気に入らなければ、その場から帰って来てもいいのよ。相手の人もそういう条件を承知の上で待っているから」 「本村さんとはどういうご関係の人?」 「それは聞かない方がいいわよ。私を信じてちょうだい。大人の関係は相手を信頼するところからスタートするのよ」  真美子は純子の心を見透かしたように薄く笑った。  だが、純子は真美子に自分の住所をおしえていない。真美子の素性もよく知らない。要するに、カルチャースクールで知り合っただけの仲である。  カルチャースクールに入学手つづきを取ったとき、小説を勉強するのがなんとなく気恥ずかしかったのでペンネームを用いた。  住所も友人のものを借りた。それが�取材�に役立つとはおもわなかった。  純子がペンネームを使っているように、本村真美子も偽名かもしれない。  真美子に不倫パートナーの紹介を頼んだのも、なにか不都合があったところで、スクールをやめてしまえば縁が切れるという気安さがあったからである。  たがいに素性や住所をおしえ合わなかったのは、それほどの深いつき合いでもなかったからである。  同時に、相手に対する不信の念がどこかにあったからかもしれない。  純子から見れば、大人の関係はむしろ相互不信に基づいている。不信でなければ無責任である。  そういう手軽な関係であればこそ、見知らぬ人間と不倫を犯せるのである。  次にスクールで会ったとき、真美子がそっと耳打ちをした。 「明日の午後三時、新宿のPホテルに、高見友一《たかみゆういち》という名義で部屋を取っているわ。いい取材ができるように祈っているわね」  真美子はウインクをした。その表情はすでに共犯者のものであった。  その日は真美子と一緒に食事やお茶を共にすることもなく、別れた。そんな気持ちになれなかった。  真美子も純子の気持ちを察したらしく、誘わなかった。  純子は迷っていた。取材、取材と自分に言い聞かせても、生まれて初めて夫以外の、それも未知の男にまみえるのである。  相手の素性も、容貌《ようぼう》、年齢、身体の特徴等、一切不明なのも不気味である。そんな男と不倫を働こうとしている自分が信じられない。  真美子が言ったように、相手を見て、気に入らなかったならば、その場から帰って来ればよい。  そう自分に言い聞かせながらも、Pホテルに向かう足がためらわれた。  純子は何度もやめようかとおもった。べつにやめたところで、約束違反を責められるようなことはない。  いやなら、その場から帰って来てもいい相手であるから、気が変わったと言えばすむことである。  翌日、約束の刻限が迫った。  もしかすると、本村真美子がからかっているのかもしれない。 「あなたも馬鹿だわねえ。作家は嘘《うそ》をつくのが商売なのよ。おたがい作家の修業をしているんだから、そのくらいのことがわからなかったの。だからお嬢様奥様なのよ」  と真美子から笑われるかもしれない。  冗談なら冗談で、気分がすっきりする。このまま確かめないでおもい悩んでいるのは、精神衛生上よくない。  純子はおもい切ってPホテルに電話をかけた。  応答したホテルのフロント係は、たしかに高見友一という客が、四一一二号室に泊まっていると答えた。  冗談ではなかった。高見は純子を待っている。  とにかく行くだけ行ってみようとおもった。  この機会を逸すれば、檻から永久に抜け出られなくなる。  純子は呪文《じゆもん》のように唱えながら、重い足を引きずってPホテルへ来た。  エレベーターで四十一階へ駆け上り、フロントからおしえられた四一一二号室のドアの前に立った。  ぴたりと閉ざされたドアの奥は、無人のようにしんと静まり返っている。  だが、チャイムを押せない。このドアの奥にはどんな世界が開くかわからない。  それは真美子が言う、作品に色を添える妖《あや》しい花の群落かもしれないし、心身をずたずたに引き裂く危険な罠《わな》が張られているかもしれない。  何度かチャイムに指を伸ばしかけては引っ込めた。ここまで来ながら決断がつかない。  駄目だわ。自分には檻から抜け出せない。毎日が死んでいるような退屈な生活であるが、檻の中には危険がないことは確かである。  この期に及んで、純子はひどく臆病になっていた。  やはり、私にはできないわ。純子は何度目かに伸ばした手を引っ込めると、廊下を引き返しかけた。  そのとき反対方向から、ルームサービス係がワゴンを押して来た。彼は不審げな視線を、ドアの前で逡巡《しゆんじゆん》している純子に向けた。  ルームサービス係に促された形で、純子はチャイムのボタンを押した。  待ちかねていたようにドアが開かれた。  そこに一人の長身の細身の男が立っていた。逆光を背負って、表情はよく読めない。 「お待ち申し上げておりました。どうぞお入りください」  彼は丁重な口調で純子に声をかけた。  気に入らなければ引き返すつもりであった純子は、男の声に抵抗力を失ったように、室内に足を踏み入れた。  彼がドアを閉じるのと、ワゴンを押したルームサービス係が廊下を通過するのがほぼ同時であった。  二人は室内で初めて向かい合った。 「磯野|栄子《えいこ》さんですね」  高見は確かめた。 「そうです」  純子はうなずいて、相手の顔に視線を向けた。  年齢は五十前後から五十代前半、細面の彫りの深い顔は知的である。背は高く、スリムな体型をしている。  顔に刻まれた陰翳《いんえい》がやや病的な感じで気になったが、脂ぎってぎたぎたした相手でなかったのでほっとした。  まずは純子のタイプの男である。少なくとも気に入らなくて引き返すという相手ではなかった。  すでに引き返すべき機会を逸している。 「やはり想像していた通りの方でした。今日お会いできるのを楽しみにしておりました」  高見は折り目正しい言葉で言った。  純子はなんと答えてよいかわからない。 「おなかはすいていらっしゃいませんか。なにか召し上がりませんか」  高見が優しく問うた。 「いいえ、けっこうです」  いま初めて会ったばかりの男と、ホテルの密室で食事をする気にはなれない。  もとよりオープンな場所へ出て食事を共にする気もない。  緊張していて、空腹か空腹でないのかもわからなかった。 「それでは、なにかお飲物でも」 「ジュースのようなものがあったら、いただきたいわ」  純子はそのとき喉《のど》がからからに乾いていることに気づいた。  高見が備えつけの冷蔵庫を開いて、ジュースを取り出してくれた。  喉を潤すと、いくらか落ち着いてきた。  ゆったりしたスペースにダブルベッドが目にまぶしく映じた。デラックスタイプのダブルルームらしい。  だが、ジュースを飲み干すと、たったいま出会ったばかりの二人の間を埋めるものがなくなった。  二人の目的は一致していたが、どちらも言い出しかねている。 「よろしかったら、シャワーでも使いませんか」  高見がかすれた声で言った。それが露骨な督促の言葉であることに、二人とも気がつかない。  純子は高見から、とりあえずすべきことを指示されて、ほっとした。  シャワーを使っている間に、度胸が据わってきた。もはやここまでくればじたばたできない。  それはやはり三十路に達した女のしたたかさであった。  もはや取材という名分も必要なくなった。  真美子に誘われたとき、身体の芯におぼえた疼きが、熱いシャワーを浴びてよみがえっている。  後腐れのない情事、ただ一度だけのプレイ、生まれて初めての体験に、純子の成熟した身体が興奮している。  シャワーを使ってバスルームから出ると、窓にカーテンが引かれて、ルームライトが最小限に絞られている。  高見はすでにベッドに入っていた。 「よろしかったらいらっしゃいませんか。私はシャワーをもう使いました」  高見が甘い声で誘った。  ベッドへの誘いが巧妙で、自然であった。  シャワーを浴びた女は、すでに鎧《よろい》を脱がされている。無防備になった女性に、羞恥心をおもいださせないためにカーテンを引き、照明を最小限に絞った。  初対面の二人が一緒にベッドに入るのは抵抗があるが、男が先に入っていれば、女は形式的な抵抗すらできなくなる。しかも、強制を少しも感じさせない。  もはや純子は、男が張りめぐらした蜘蛛《くも》の巣にかかった獲物のようなものである。  おずおずと男のかたわらに湯の香をまぶした熱い身体を横たえた純子を、高見はまるで壊れ物を扱うようにそっと抱いた。  昼下がりのホテルは客の気配もなく、深海の底のように森閑と静まり返っている。都心に位置していながら、無人のような静けさである。  その静寂の底で、たったいま出会ったばかりの男と女が交わろうとしている事実に、純子は興奮した。  そのとき純子は、いまこの同じホテルの中で、いや、東京の人間の海の中で、何組の男女が交わっているだろうかとおもった。  もしかすると、夫もいま、この同じ時間に女を抱いているかもしれない。  そうおもったとき、不倫にかけられた最後の箍《たが》が外れた。 「あなたは美しい。素晴らしい」  高見が純子の身体を探りながら言った。  初めはおずおずと接触した二人の身体が、速やかに求め合う雄と雌になった。  どちらも性に充分に習熟しているアダルトである。初対面のぎこちなさが取れれば、阻むものはなにもない。  二人は共食する二匹の獣のように貪り合った。  高見は決して急がなかった。ようやくありついた美味《おい》しい獲物を、ゆっくり時間をかけて味わい、咀嚼《そしやく》するように、手綱を絞りながら進んだ。  抑制に熟練があった。  むしろ耐えきれなくなった純子が急ぎ、高見が引き戻した。  二人は手を取り合い、頂きが近いのを予感しながら、頂上に待ち受ける噴火口で溶接する時間を一寸延ばしに引き延ばしていた。  純子にとってこのような性体験は初めてであった。  いったんスタートすれば、登りつめるだけで引き返すことを知らない夫とのセックスは、瞬発力はあっても持続力がなく、純子はいつも山麓に取り残されたまま、不完全燃焼に終わった身体の火照りをもてあましていた。  高見は、純子と歩調を揃《そろ》え、巧妙な誘導に促されて、彼女が先を急ぐと引き戻し、足並みを揃えながら一歩一歩、着実に登りつめていった。  頂きを射程に入れた後も、登頂を一寸延ばしに引き延ばして、二人同時の達成の予感を楽しんだ。  純子をじらし、じれて喘《あえ》ぐ様を、反芻《はんすう》動物のように反芻している。  登りつめることだけを目的とした一本調子のセックスに馴らされた身体には、高見の複雑な、隠微《いんび》で嗜虐《しぎやく》的なセックスは、純子に新鮮な感動をあたえた。  ついに二人共に耐えられなくなって、ゴーサインを交わした後も、まだ未練げに悦楽の過程を引き延ばすべく、抑制をかけ合っている。貪婪《どんらん》な抑制であった。  純子はこれまで夫婦生活において、抑制するセックスの悦楽を知らなかった。  目的だけを忙しく求める、慌しいセックスであった。  高見の絶妙なリードによって、純子はじらされ、じゃれ合い、ねぶり合い、もつれ合い、淫靡《いんび》な言葉を交わし合い、あるいは早瀬を駆け下る急流のようにもみしだかれ、滝となって一挙に突き落とされ、また突き上げられたかとおもうと澱《よどみ》となってとろとろと澱む。  純子は高見の千変万化の性技に翻弄《ほんろう》された。  これまで川名とのセックスでは、単なる性器の結び合いにすぎなかったのが、男女の交わりがかくも複雑で多彩で、変化に富み、広く深いことに純子は驚かされた。  これまでの夫婦生活が一枚のハンカチのようなものであったとすれば、高見との不倫は豪華|絢爛《けんらん》たるタペストリーのようであった。  高見は純子の体内に眠っていた無尽蔵の官能の油田に、火を点《つ》けてしまったようである。  純子自身がおのれの体内に、そんな油田が埋蔵されていたことを知らなかった。 「あなたは身体の中にすごい鉱脈を持っている」  高見は純子の体質を賛《たた》えた。  高見が発見した純子の内に秘められた未開の性の大陸である。  そして、高見によって速やかに開かれてしまった。  今日初めて出会い、ベッドを共にした二人であったが、純子の習熟には驚異的なものがあった。  彼女は高見の巧緻《こうち》な誘導によって、熟練した女に変身していた。  これまで大金を貯えた蔵に施錠されたまま、小銭入れで生活をしていたような彼女が、蔵の鍵を解かれたのである。  性の貧民から、一挙に富豪になった。  高見自身が彼女の変身ぶりに驚き、その事実に感激している。  長い時間をかけて、二人は同時に達した。  共に体力を使い果たし、完全燃焼した。  全身が脱け殻のようになって、しばらく言葉も発せられない。  完全な充足と同時に、すべてのエネルギーを使い果たしてしまった感じである。 「今日のことは生涯の思い出になるでしょう」  ようやく高見が言った。  彼の大袈裟《おおげさ》な言葉が少しも誇張ではなく、実感を持って聞こえた。 「おそらくあなたが私の最後のラブアフェアになるでしょう。あなたの想い出を私の宝物にいたします」  高見はさらに歯の浮くようなことを言った。  前段の言葉は実感があったが、後段の台詞《せりふ》はにわかには信じ難い。 「最後のラブアフェアなんて、嘘ばっかし。どうせワン・オブ・ゼムなんでしょう」  純子は当意即妙に応じながら、自分が娼婦《しようふ》になったような気がした。  もしかしたら、高見は彼女を本当の娼婦とおもっているかもしれない。本村真美子は純子に身体の切り売りを勧めたのである。 「初めてお会いして、こんなことを申し上げるのも失礼かとおもいますが、実は私の寿命は限られています」  高見が言った。 「寿命が……なにかご病気でも……」 「死病に取り憑《つ》かれていましてね……。余命、半年から一年と医者に宣告されています。ご心配なく。エイズや、うつる病気ではありません。今生の想い出に素晴らしい女性とベッドを共にしたいと願っていましたが、これでもうおもい残すことはありませんよ。  あなたにお会いする前は自信がありませんでした。果たして自分に最後のラブアフェアをするだけの体力があるかどうか不安でした。でもあなたにお会いして、自分にこんなにもパワーと情熱が残っていた事実に驚いています。あなたのおかげで、残っていた生命力のすべてを燃やすことができました。本当に感謝しています」  高見のマスクに刻みつけられた病的な陰翳が、初めて納得できた。  ようやくベッドから身体を起こした高見は、あらかじめ用意しておいたらしい封筒を、純子の前に差し出した。 「これは些少《さしよう》ですが、私の感謝の気持ちです。受け取ってください」  封筒の厚みから、かなりの金額が入っていることが推測できる。 「お金が欲しくて来たわけではありません」  純子は少し色をなして、封筒を高見の手に押し返した。  これは精神の切り売りに対応する身体の切り売りで、金銭を目的にしたものではない。  金には困っていない。あくまでも取材のつもりであった。 「失礼は重々承知しています。せめてもの私の謝意です。受け取っていただけませんか」  高見は懇願するように言った。 「ご好意だけいただいておきます」 「それでは私の気持ちがすみません」  二人の間でしばし押し問答がつづいた。  だが、純子に金銭を受け取る意志がないのを見届けた高見は、ようやくあきらめたらしい。 「それでは、せめてこれを受け取っていただけませんか」  高見は、今度は分厚い書類封筒を差し出した。  中になんの書類が入っているのか、ずしりと手応えがある。 「なんですか」 「小説の原稿です。実は私は一時、作家を目指して小説を書いておりました。  この作品は私の自信作です。私のこれまでの人生のすべてを結集したつもりです。この作品で作家としてデビューしたいという野心を持っていましたが、医者に死刑を宣告された身では、いまさら作家になったところで仕方がありません。一作作家と嘲《あざけ》られるのはごめんです。  紹介者から、あなたが小説を書いておられると聞きました。もしこの原稿があなたのお眼鏡に適《かな》ったら、あなたの名前で世に出していただけませんか。せめてもの謝意に、私の最後の作品をあなたに差し上げたいとおもいます。  私の遺作があなたの出世作となって、あなたの将来を開くきっかけとなれば、こんな嬉しいことはありません」  高見の言葉を聞いて、純子はずいぶんしょってるとおもった。  作家はいずれも、自分の作品を最高だとうぬぼれているが、作家になる前からデビュー作となること疑いなしと確信して、他の作家志望者の将来を開くきっかけとなるだろうと押しつけてくるのは珍しい。  だが、純子は原稿を預かった。べつに拒否する理由はない。  寿命を刻まれた人間の、一生を集約したという原稿を預かってやるのも、功徳かもしれない。  それにしても、妙な成り行きであった。  一度限りの不倫のパートナーから、終生の原稿を預かった。  純子はどんな作品かと、ふと好奇心をそそられた。  男は一度限りと約束をしていても、意地汚く、あとを引くものであるが、高見は次の約束を迫らなかった。  そのことも、彼の言葉が嘘ではないことを裏づけているようである。  二人は一期一会の情事に満足して別れた。たがいに住所や連絡先はおしえ合わなかった。 [#改ページ]  魂の切り売り      1  高見によって身体を開かれた純子は、これまでとはちがった自分を書けるような気がした。  講師や本村真美子が指摘した色の欠落を、高見との情事によって埋められるような気がした。  その情事は、彼女の作品の欠落を補ってあまりあるであろう。むしろ、溢《あふ》れ出た部分の方が多い。 「凄《すご》い取材だったわ」  おもい返すと彼女の身体の芯が潤み、全身が火照《ほて》ってくる。後を引いているのは、むしろ彼女の方であった。  帰宅してから、純子は自室に閉じこもり、高見の原稿を読んだ。  大して期待もせずに読み始めたが、読み進むほどに自然に居ずまいを直し、周囲を忘れた。  彼女は原稿に没頭した。  途中で尿意をおぼえたが、トイレに立つこともできない。  読み終わって、しばらく身動きできなくなった。完全に圧倒され、打ちのめされていた。  カルチャースクールに通ったおかげで、よい作品と悪い作品のおおまかな見境がつくようになっている。  もともと作品の評価力は、素人なりにこれまでの乱読で培われていた。  純子はこれが本当にアマチュアの作品であろうかとおもった。  純子がこれまで読んだ作品の中で、これほど強烈なインパクトをあたえてくれたものは少ない。  無心で純粋な読者であるがゆえに、作品の衝撃が素直に伝わるのである。  高見の原稿には技術や構成を云々する前に、圧倒的な迫力があった。  講師は文学作品には香りが必要だと説いていたが、小賢しい香りなどは吹き飛ばすような人間の体臭と、人生の汗と脂がみなぎっていた。  読了して感じたことは、自分には書けないという絶望感であった。  こういう作品は自分には書けない。作品のレベルよりも次元がちがっている。  このとき純子は、優れた作品というものは読者を感動させると同時に、絶望させることを初めて知った。  作者の才能に対する羨望《せんぼう》や嫉妬《しつと》が湧《わ》いてくるのは、その後からである。  純子はその原稿を高見に返そうとおもった。高見は彼女に原稿をくれると言ったが、こんな凄い作品をもらうことはできない。  作者がくれると言っても、作者と作品は断ち切れるものではない。  高見が言ったように、仮にこの作品をもってデビューしたとしても、後がつづかない。  それよりも作者の素性が不明であるのが不安である。  本当に高見が書いた作品なのか。他人の作品を盗んだものではないのか。  また仮に高見の作品であるとしても、後日、自分の著作権を主張しないという保証はない。  あくまでも、一度限りの情事において交わされた約束にすぎない。  そんな約束とも言えない男女のピロートークを信じて、他人の作品を自分名義で発表したことが露見したら、世間の笑いものにされる。  だが、原稿を返したくとも、高見の住所を知らない。  高見友一の素性について真美子に確かめたいとおもったが、その後、真美子はスクールにふっつりと姿を現わさなくなった。  高見とのデートとほぼ時期を一にして、真美子が姿を消したことも不安な材料の一つであった。  どうしよう。捨てるには惜しい。純子は当惑した。  おもい悩むことはない。どんなに純子が感動しても、高見作品が必ず世に認められるという保証はない。  ペンネームで、しかるべき新人賞に応募してみればよいではないか。駄目でもともと。  もし幸運にも受賞したら、そのときはそのときで考えればよい。辞退をしてもよい。ものは試しである。  せっかく掌中に飛び込んできた掘り出し物を廃棄してしまうのは、もしこれが世紀の傑作であれば、社会の損失である。  辞退しないまでも、高見から預かったことを正直に告げてもよい。  いずれにしても、いまから取らぬ狸《たぬき》の皮算用をしても仕方があるまい。  思案した純子は、この作品を世にぶつけてみようとおもった。当たって砕けろ精神である。  純子は高見の作品に多少手を加え、自分流の文体に直して、ある大手出版社の文芸誌が主催している新人懸賞小説に応募した。  高見純子というペンネームを用い、友人の住所を連絡先として借りた。  作者の名前と応募者の名前を合成すれば、万一、高見が真の作者だと名乗り出てきても、半分|口実《エクスキユーズ》が立つと勝手に解釈した。  もちろん講師にも、スクールの同級生にも内緒にしていた。  おっかなびっくりに応募したところ、間もなく純子が連絡先として借りた友人の許に、最終選考に残ったという通知が出版社からきた。  辞退するならいまのうちだとおもったが、結果を見届けたい気持ちが強かった。  純子は嬉しさと不安が同居した複雑な気分で、最終選考日を待った。  ついに最終選考日がきた。  その日、純子は落ち着かず、連絡先にした友人の家に、選考会の始まる夕方から待機した。  午後七時ごろ、友人の家の電話が鳴った。  まず友人が応答した。友人には応募名義をおしえてある。 「純子、あなたよ」  友人から取り次がれて受話器を耳に当てると、 「高見純子さんですね。おめでとうございます」  と出版社の社員の声が告げた。  全身がかっと熱くなった。 「全選考委員一致して、あなたの作品を当選作と決定しました。つきましては、改めて確認いたしますが、賞をお受けなさいますね」  純子は編集者の言葉を夢うつつで聞いていた。それが果たして現実の声であるかどうかもわからない。  一種のトランス状態の中で、心の一隅に醒めている意識が、辞退するならいまのうちだと語りかけていた。  ここで辞退しなければ、大変なことになる。  だが、純子は、 「喜んでお受けします」  と、半ば無意識に答えていた。  まだ引き返せる。心の一隅から必死に声がかけられていたが、純子はその声を塞《ふさ》ぐようにして、受話器から語りかけてくる声に応答していた。 「二月八日午後六時から、本社の応接室において授賞式を行なう予定ですが、出席していただけますか」  編集者がなおも話しかけている。 「はい、喜んで」  純子は高見から原稿を渡されたとき、この作品があなたの新たな人生を開くきっかけになるかもしれないと言った言葉をおもいだしていた。  それがどんな人生になるか、予想もつかない。だが、時間の檻の終身囚から逃れられることは確かである。 「純子、『現代文芸』の新人賞を受賞したんだって。凄いじゃないの」  電話を取り次いでくれた友人が祝ってくれた。 「現代文芸」は最も権威ある文芸誌の一つであり、同誌に作品が掲載されることが一流作家の指標《メルクマール》になっている。  受賞作が同誌に掲載されれば、各社から原稿依頼が殺到するだろう。いつまでも素性を隠しているわけにはいかない。  受賞を承諾する意志を編集者に伝えて電話を切ってから、純子は改めて空恐ろしくなった。  純子の不安のタネは二つある。  一つは受賞作の作者が名乗り出てこないか。  もう一つは受賞後、作品を書きつづけられるかという不安である。  書きつづけられたとしても、受賞作とまったく異なる作風に、他人の作品を用いて応募したことが露見してしまうだろう。  だが、もはや引き返せなくなっている。また彼女には引き返す意志がなかった。  不安におののきながらも、終身の檻から釈放されて、輝かしいスポットライトの集まる未知の世界に渦のように引き込まれていく。  たとえその先にどんな危険や陥穽《かんせい》が待ち構えているとしても、檻へ戻る気はしない。  よくなるにしても悪くなるにしても、終身囚の身分が変わることは確かである。  そして、純子は身分の変動に逆らい難い誘惑をおぼえていた。  受賞者の発表と同時に、各マスコミ機関の問い合わせが友人の家に集中した。もはや偽造の経歴では押し通せなくなった。  この作品は純子が高見からもらったものである。いや、もらったものではない。当然の報酬である。  高見はあのとき、分厚い封筒を差し出した。純子がそれを受け取らなかったので、かわりに原稿をくれたのである。  本村真美子が身体の切り売りと言ったように、この作品は純子が身体を切り売りした報酬である。  高見自身も、作品を純子の名前で発表するように勧めた。  いまさらそれを自分の作品として受賞しようと、高見から文句を言われる筋合いはない。  と純子は自分に言い聞かせて、これまで秘匿していた本名と経歴を明らかにした。  受賞作品は本名で発表した。  受賞作が発表されると、彼女はたちまち文芸界の寵児《ちようじ》になった。  まだ子供を産んでいない純子は、一見二十代である。  全身に成熟した色香をまぶした女流新人の登場は、それだけでも話題を集めた。  ビジュアルな時代であるから、作家の容姿が作品以上に注目される。いまや容姿は作家の強い武器となっている。  全選考委員一致しての推薦につづいて、文壇の批評も好意的であった。  中でも辛口の評論で知られる、文壇の大久保彦左衛門と呼ばれる久保田安正《くぼたやすまさ》は、十年に一人の大器と激賞してくれた。  各社から執筆依頼が殺到した。  原稿の依頼だけではなく、グラビア撮影、インタビュー、講演などの要請が相次いだ。  集まって来たのは出版社だけではなかった。テレビ局が彼女のタレント性に目をつけて、コメンテーターやレポーターとしての出演を要請してきた。  彼女はいまや文芸界の寵児であるだけではなく、時代の寵児に祭り上げられた。      2  受賞後の純子の最大の不安は、高見の動向であった。彼がなにか言ってくるかもしれない。  出版社やマスコミの応対や、友人たちの開いてくれる祝宴に忙殺されながらも、意識の一隅にしこりとなって、不安がこびりついていた。  だが、高見はなにも言ってこなかった。彼にその意志があれば、すでに純子の名前も住所も報道されているのであるから、なにか言ってくるはずである。  高見が沈黙を守っているということは、作品を純子に託した彼の意志に偽りがなかったことを示すものであろう。  純子は舞い上がった心身を引き止める重しを、ようやく外した。  カルチャースクールの講師以下、同級生たちも彼女の受賞を祝ってくれた。  常任講師は、 「おめでとう。あなたの受賞は我がスクールの誇りです。あなたの作品にはかねて注目していましたが、これまでの作風とはがらりと変わった、こういうものも書けるんですね。まるで別人が書いたようだ。改めて、あなたの才能の幅広さに驚嘆しましたよ。  スクールからあなたのような有望作家が出て、私も鼻が高い。あなたに刺激されて、今後もスクールから新人作家が輩出するでしょう」  と手放しで褒《ほ》めてくれた。  講師の別人が書いたようだと言った言葉にどきりとさせられたが、彼は単なる形容として言ったらしい。  スクールの同級生たちが開いてくれた受賞祝いパーティに、久し振りに本村真美子も出席した。  純子は彼女の顔を見るのがまぶしかった。だが、真美子は、 「おめでとう。あなたはいずれ出て行くとおもっていたわ。私の目に狂いはなかったわね」  と祝ってくれた。  その態度に作為はなさそうである。  真美子と高見の関係が不明なのが不安であったが、真美子は受賞作が高見からもらったものだとは知らないようである。 「有り難う。でも、|まぐれよ《フロツク》。一作作家で終わっちゃうかもしれないわ」  それは純子の本音でもある。  他人の作品で受賞した後は、自分で書く以外にない。読者は作風ががらりと変わったことに、たちまち気づくであろう。  練達の講師は贔屓目《ひいきめ》から、作風の広さを単純に驚いてくれたが、多数の読者の目はごまかしきれないであろう。 「あなたなら大丈夫よ。このチャンスをきっとものにするわ。私の勘が当たることはよくわかったでしょう」 「あなたの勘のおかげで受賞したようなものだわ」 「私の勘だけじゃないわよ。あなたには才能があるのよ。それから取材の成果ね」  と言って、真美子は含み笑いをした。  純子は真美子が追加した一言に、ぐさりと胸を突かれたような気がした。  取材の成果とは意味深長な言葉である。真美子の言う取材には、作品そのものが含まれているかもしれない。  真美子はやはり受賞作が、高見が書いた作品であることを知っているのであろうか。  一瞬どきりとして言葉を失ったとき、ほかの同級生たちがわっと純子を取り囲んだ。  おそるおそる提出した受賞後第一作が、受賞作を上まわる評価を得た。  久保田安正は、 「私は作家はその作品を十年見ないと信用しないことにしているが、この女流新人はたった二作を読んで、完全に信用してしまった。受賞作『山の屍《かばね》』の男にも描けないような凄《すさ》まじい凶気の作品世界を創出したこの新人は、第二作『猫の昼寝』において、まったくべつの世界を読者の前に展開した。  第二作のヒロインは、なんの目的もなく生きている。生きているというよりは、なすことなく時間の海を漂流している。朝起きてサラリーマンの亭主を送り出すと、三DKの部屋を掃除した後は、日向《ひなた》で飼い猫のノミを取りながら、猫と一緒に昼寝をするのが日課である。その怠惰なライフスタイルを、ルーペで観察するようにじっくりと描く。ところが、最後に猫は亭主が嫌いで、ヒロインがつくりだした幻影であったと説き明かされる。不思議な小説である。  実体のない漂流感覚は、受賞作の全編を貫く狂気の世界と同一作者から発したとはとうていおもわれない。今後、どんな作品世界を展開してくれるか、まったく予断を許さない作家である」  と賞賛した。  久保田安正が二作読んで信用したと言ったが、純子はたった二作で文壇に不動の地位を築いてしまった。 『山の屍』は敵対暴力団の親分を狙撃《そげき》して指名手配を受け、警察と暴力団双方から追われているヒットマンが行方不明になってしまう。これを恋人の女性弁護士が救うべく、三《み》つ巴《どもえ》の追跡レースを展開するという筋立てである。  凶暴なだけで、なんの取り柄もないような男を愛するエリート女性の心理の綾《あや》がきめ細かく描かれていて、息づまる追跡レースのサスペンスの奥行きを深くしている。  彼女はいまや押しも押されぬ流行作家となった。  当然のことながら、受賞作のような作品は二本目以下はない。  殺到する原稿の依頼に、『猫の昼寝』につづく自作を量産してあてがったが、幸いにして、すべて好評であった。 『山の屍』に見るようなインパクトの強い小説は多いが、『猫の昼寝』に準ずる作品は稀少《きしよう》価値があった。  そういう実体のないふわふわした小説を書ける作家がいなかったところに、純子が登場したものだから、執筆の依頼が集中した。  彼女は流行作家街道を独走しながら、少し焦りをおぼえていた。  常任講師の師匠が、 「たまには受賞作の系列の作品も発表した方がいい。『山の屍』と『猫の昼寝』はきみの両輪だよ。時には『山の屍』に準ずる作品も発表した方がいいね」  と忠告してくれたのが心に突き刺さった。  師匠は内情を知らずに忠告したのだが、純子の弱味を衝いていた。  敏感な読者は、純子が『山の屍』系列は一作しか書けないことを見破るかもしれない。  せめてあと一作、同系列の作品を発表しなければ、読者の不審を躱《かわ》せなくなる。  そんな時期に、本村真美子から電話がかかってきた。 「このごろ凄いじゃないのよ。すべての雑誌にあなたの小説が載っているわよ」 「とんでもない。まだ駆け出しよ」 「新聞にあなたの名前を見ない日がないくらいよ」 「オーバーねえ。虫眼鏡で探しているんじゃないの」 「謙遜《けんそん》もいいけれど、あまりへりくだると厭味《いやみ》になるわよ」 「べつにへりくだってなんかいないわよ。そうそう、過日、�取材�に紹介していただいた高見さん、元気かしら」  純子はそれとなく探りを入れた。  真美子の前で話題にしたくない名前であるが、背に腹は換えられない。 「高見さんねえ……それが、純子が受賞したころから連絡がないのよ」 「連絡先か住所を知らないの」 「時どきふらりと現われて、世間話を交わすだけの相手よ。住所も聞いていないの。高見という名前も本名かどうかわからないわ」  時どきふらりと現われて、世間話を交わすだけの相手に、純子の�取材�を紹介したとはおもえない。  だが、真美子が純子に対して高見の消息を特に秘匿する必要もなさそうである。 「もう一度、取材が必要になったの?」  問い返した真美子の声が少し粘っこく聞こえた。 「いいえ、そんなことはないけれど、ちょっと気になったのよ」 「もし連絡があったら、純子が会いたがっていたと伝えてあげるわ。本人、喜ぶわよ。きっと、うふふ」  真美子は純子の心を見透かしたかのように含み笑いをした。 「べつに会いたくはないわよ。どうしているかなとおもっただけよ」  純子は少し慌てた口調になって、真美子の言葉を修正した。 「わかっているわよ。いまあなたは私たちとはべつの世界に行ってしまったのよ。こうして電話するのも、なるべく遠慮しているのよ」 「そんなことはないわ。スクールの同級生はみなお仲間よ」 「そう言ってもらえると嬉しいわ。あなたは私たちの誇りなんだから。これからもばりばり書いてちょうだいね。  そうそう、『猫の昼寝』のような作品もいいけれど、『山の屍』のような作品も読ませて欲しいわ」  真美子は師匠と同じようなことを言ったが、彼女の言葉は純子の急所を的確に衝いた。  だが、書きたくとも書けないのだ。『山の屍』の作者高見は、どうやら真美子にも音信不通になっているらしい。  出会ったとき、余命が半年ないし一年と言っていたから、もう死んでしまったかもしれない。  それは純子の作家としての地位の安全を保障するものであると同時に、『山の屍』系列の作品の供給が完全に断たれたことを示すものであった。      3  純子は時間の檻の終身囚から脱出した。  これまで凍りついていた時間が、凄まじい速さで流れ出した。無限にあった時間が、いくらあっても足りなくなった。  作家の仕事は、原稿の執筆だけではなかった。毎日、詰めかけてくる編集者との折衝やテレビ出演、インタビュー、対談、講演、下調べなど、椅子《いす》の暖まる暇がない。  執筆枚数が多くなればなるほど、構想や構成、調査に時間を取られて、執筆時間が圧迫されてくる。  どのように時間を配分しても、時間が絶対的に不足している。  無限の時間の海の中に閉じ込められて、身動きできなくなっていた少し前の自分が信じられなかった。  さらに純子の家庭にも不思議な変化が生じた。  これまで妻をまったく放擲《ほうてき》していた川名が、純子の受賞と同時に、彼女を見直した。  他人にもてはやされて、にわかに自分の家の庭の花を認識したようである。  川名が急に純子に接近してきた。純子にしても夫を拒む理由はない。  受賞を契機にして、夫婦の距離が縮まったのである。不思議な、あるいは当然の現象と言うべきかもしれない。  小説などはあまり読んだことのない川名が、純子の作品は熱心に読むようになった。 「おれはどちらかというと、『山の屍』のような作品が好きだよ。歌にも男歌と女歌があるように、あれは男の小説だね。きみにああいう小説が書けるとはおもわなかった。『猫の昼寝』もいいが、きみならああいう小説を書くかもしれないなと、予想ができる作品だよ。『山の屍』は急にきみが化けたような凄みのある小説だ。あの手の作品をもっと書いてくれよ」  川名は純子の苦しい事情も知らず、無責任に要求した。  師匠、本村真美子、夫の要求が期せずして一致したことは、多数の読者も求めているということである。  純子は追いつめられた気がした。  どんなに読者から要求されても、『山の屍』は書けない。  だが、あれは自分の作品ではないと、いまさら告白できない。  師匠は精神の切り売りと言ったが、他人の作品を自作と偽って発表したとき、純子は悪魔に魂を売り渡したのである。  作家として決してしてはいけないことをして、デビューした。その報いをいま受けつつあった。  仮に高見と再接触して、作品の供給を受けたとしても、根本的な解決にはならない。むしろ切り売りした魂の量を増やすだけである。  そのことがよくわかっていながら、高見を探そうとしている。  純子はいまをときめく文壇の寵児《ちようじ》ともてはやされる一方で、自己嫌悪に陥っていた。 [#改ページ]  最後の女      1  五月下旬から六月上旬にかけては、山の穴場である。  この季節、里の初夏は山の春に当たる。高い峰の岩稜《がんりよう》には豊かな残雪が銀の鞍《くら》のようにかかり、山腹や山麓の樹林帯は瑞々《みずみず》しい新緑の衣装をまとう。  渓谷を下る流れはめっきりと水量を増し、可憐《かれん》な高山の花が林間や川岸をちりばめた宝石のように彩っている。  ゴールデンウィークや夏季には、観光客や登山客の行列ができる林道も森閑と静まり返り、さまざまな野鳥が喉を競っている。  山はゴールデンウィークの喧騒《けんそう》が静まり、雨季前の安定した五月晴れの下で冬将軍の支配からようやく解放されたおおらかな姿態を、観客のいない舞台で揃い踏みするように惜しげもなく展開する。  こんな時期に山へ来た者は、千両役者に囲まれた饗宴《きようえん》に、ただ一人招かれたような豪勢な気分を味わえる。  だが、谷間の奥や森林限界の上部はまだ冬が居残り、厚い残雪に閉ざされている。  地形の悪い谷筋には、底|雪崩《なだれ》の発生する危険があり、雪渓には亀裂《クレバス》の陥穽《かんせい》がしかけられている。  長い陽射しと、一見穏やかな天候に欺かれて、初心者が安易に奥山へ入り込むと、山に隠されたさまざまな危険の獲物にされてしまう。  いったん天候が崩れると、山はたちまち冬に逆戻りする。  千両役者を侍《はべ》らせた豪勢な宴席は、たちまち地獄の一丁目となってしまう。  五月二十九日、北アルプス南部の西穂高岳付近の岩稜で、遭難が発生した。  同日午後一時ごろ、西穂高岳手前の独標(独立標高点)と呼ばれる岩峰で、東京から来た三人グループの一人が足許を誤り転落したと、同行者二人が西穂山荘に連絡してきた。  直ちに西穂山荘から、救助隊が現場に駆けつけたが遭難者は、墜落のショックによる頭部|挫創《ざそう》や全身打撲によって死亡していた。  折から西穂山荘には夏山開きを控えて、北アルプス南部、北部遭難対策協議会の合同訓練のために、大町《おおまち》署、松本署、豊科《とよしな》署などの山岳警備隊員が集まっていた。  訓練はたちまち実地の救助活動に替わった。  とりあえず遺体を西穂山荘に収容して、同行者二人から事情を聴いた。  遭難者は東京都世田谷区|太子堂《たいしどう》の不動産業高見友一、五十三歳で、同行者は友人の金融業|升田修一《ますだしゆういち》、四十八歳、東京都新宿区百人町、および夏川稔《なつかわみのる》、三十四歳、東京都中野区弥生町、会社員と名乗った。  二人の話によると、三人は釣り仲間で、奥飛騨《おくひだ》の渓流釣りに来た帰途、穂高の山容に惹《ひ》かれて、新穂高ロープウェイを伝って西穂高へ登る途中、高見が残雪にスリップして転落したと語った。  彼らは釣り人の軽装のまま、雪が豊富に残る険しいアルプスの岩尾根に取りついたのである。  釣りもこれまでほとんど船釣りや磯《いそ》釣りをしていたのが、たまには目先を変えて渓流釣りをしようと誘い合わせて、出かけて来たそうである。  若いころ山に登ったが、最近は遠ざかっていたということである。  ロープウェイに乗って、観光客が都会の歩道の延長のようなつもりでアルプスに取りつき、遭難するケースは後を絶たない。  それにしても渓流釣りならば、山に準ずる装備をしているはずである。  特に足拵《あしごしら》えは、深山の渓谷で道なき場所を水に濡《ぬ》れながら歩かなければならないので、登山者よりもむしろ厳重にしなければならない。  それが、三人共にハイキングシューズを覆いただけである。  この軽装ではたとえ転落しなくとも、天候が急変するだけで遭難する虞《おそれ》があった。  合同訓練に参加していた大町署の刑事で山岳警備隊員でもある熊耳《くまがみ》が、この点を不審におもって、同行者に問うと、 「渓流釣りの経験もなかったので、こんなところでよいのではないかとおもいました」  と答えた。 「釣りの道具はどうしましたか」  熊耳がさらに問うと、 「釣り道具を持って登山しませんよ。麓《ふもと》に停めた車に残してあります」  と嘲笑《あざわら》うように、年長の升田が答えた。  一見、銀行員のように慇懃《いんぎん》であるが、ぬめっとした表情の底に田舎の警察になにがわかるかという侮りが覗いている。  もう一人の夏川の方は、いかにも女にもてそうな彫りの深いマスクであるが、目つきに卑しさが塗られているようである。 「この軽装備で西穂高へ登るのは、無謀だとはおもいませんでしたか」 「最初はロープウェイの終点の千石平《せんごくだいら》から帰る予定でしたが、整備された遊歩道に誘われて、西穂山荘まで来てしまいました。山荘から先もお花畑がつづいていて、なんの危険もなさそうに見えたので、せっかく来たのだから、行けるところまで行ってみようということになったのです」  升田は遊歩道が悪いのだと言わんばかりの口調で釈明した。 「西穂山荘には立ち寄りましたか」  もし立ち寄っていれば、同山荘に集まっていた警備隊員の目に触れているはずである。 「いいえ、大して疲れてもおらず、時間が惜しかったので山荘の前を素通りしました」 「高見さんが転落したときの様子を、できるだけ詳しく話してください」 「それが私も夏川君も、高見さんが落ちたときを見ていなかったのです。あっという悲鳴が聞こえたので、目を向けると、もう高見さんの身体は岩にバウンドしながら転落していました。五十メートルほど下に落ちたところで、高見さんの身体は岩に引っかかって止まりましたが、いくら私たちが呼びかけても反応はありませんでした。とても二人の手に負えないので、山荘に救助を求めたのです」  夏川にも事情は聴かれたが、おおむね升田の供述と一致していた。  悪意に取れば、あらかじめ口裏を合わせていたようであった。 「あの三人、本当に渓流釣りに来たのでしょうかね」  豊科署の會田《あいだ》という年輩の刑事が熊耳にそっとささやいた。  會田も熊耳同様の不審を抱いたらしい。 「會田さんもそのようにおもわれましたか。どう見ても、彼らは渓流釣りに来た服装ではありません」 「升田と夏川もなんとなくきな臭いにおいが漂っていますね」 「人をむやみに疑うのはよくないが、ただのネズミではなさそうです。叩《たた》けば埃《ほこり》が出るかもしれない」  遭難地点はちょうど長野県と岐阜県の境界上の微妙なところで、どちらの管轄になるかにわかには決定し難い。  収容した遭難者の遺体は、その夜、西穂山荘に安置し、翌朝、検視のためにとりあえず長野県側に下ろすことにした。  熊耳は升田が車に残してきたと主張した釣り道具を確かめたかった。  彼らは本当に渓流釣りに来たのであろうか。もし升田らが嘘《うそ》をついていれば、この転落事故は事件性を帯びてくる。  西穂高と穂高の間は北アルプス有数の険悪なコースで、上級者でないと入り込まない。  西穂高の手前までは大小の岩のピークが連続するが、要所要所には鎖が取りつけられてあって、初心者でも行ける。  遭難地点はよほどぼんやりしていなければ、転落するような険しい場所ではなかった。  そのことも熊耳の不審を誘っている。  遺体の搬送と同時に、熊耳は升田と夏川に、車に積み残してきたという釣り道具を見せてもらいたいと要請した。 「なんでそんなものを見せなければならないのですか」  升田が気色ばんだ。 「参考のためです」  熊耳は有無を言わせぬ口調で言った。  熊耳の強い口調に、升田はしぶしぶトランクを開いた。  一応、釣竿《つりざお》や魚籠《びく》、餌箱《えさばこ》等の釣り道具は持っていたが、雨具、コンロ、懐中電灯、ロープ、鉈《なた》、ウエットタイツ、寝袋《シユラフ》、地図、磁石などの渓流釣り七つ道具は備えていなかった。  この点を問われると、 「渓流釣りは初めてなので、釣り道具しか持って来なかったのです。もともと釣りは口実で、温泉で酒を飲むのが目的でしたから」  と升田は言い逃れた。  検視の結果、死因は墜落に伴う頭部強打による脳挫傷、即死に近い状況で死んだものと推定された。  その他、顔面に擦過傷、両手擦過傷、左上犬歯折損、右|膝蓋《しつがい》部挫創、右手関節挫創、全身打撲を伴っている。  検視後、遺体は解剖に付されたが、検視の第一所見がほぼ裏づけられた。  同時にS状結腸に腫瘤《しゆりゆう》型の癌も発見され、S状結腸切除手術を施行されたが、肝転移が現われており、山へ登れるような状況ではなかったことが判明した。  本人は相当の苦痛に耐えて、同行者に引きずられるようにして登山したのではないかと、執刀医の参考意見が付記されていた。  この点を二人に確かめたところ、そんな病気を持っていたことは知らなかった。本人は元気で、苦痛に耐えて登っているようには見えなかった、と言い張った。  執刀医も遭難者の行動能力を否定していない。  同行者が気がつかなかったと言えば、それまでである。  遭難者は七年前に離婚し、現在独身。妻はすでに再婚していた。  熊耳は遭難者及び、升田と夏川の経歴について、警察庁の前歴者ファイルに照会してみた。  その結果、升田は広域組織暴力団三矢組系一竜会の幹部で、賭博で前科一犯。夏川は同じく一竜会の構成員で、傷害、銃刀不法所持等で前科三犯の前歴のあることがわかった。  遭難者については前歴がない。  見込んだ通り、埃が出てきた。  だが、この遭難の犯罪性を証明する決め手がなく、熊耳や宮坂は釈然としないものをおぼえながらも、升田と夏川を引き止める理由がなかった。      2  川名純子はなにげなく開いた新聞の顔写真に、愕然《がくぜん》として目を膠着《こうちやく》した。  社会面に忘れようもない顔が掲載されている。  見出しが、「西穂高で転落死」と、記事の要旨を伝えている。  記事によると、  ——五月二十九日午後一時ごろ、二人の友人と西穂高岳独標付近を登山中の高見友一、五十三歳、不動産業が足許を誤って、約四十メートル下の谷へ転落して、頭部挫傷と全身打撲で死亡した。高見さんは友人二人と渓流釣りに来た途上、ロープウェイで西穂高に登り、この事故に遭ったという。  事故発生当時、同山域はよく晴れていて、山に不馴《ふな》れな高見さんが雪にスリップしたのが原因と見られている。——  記事の大要は以上であった。  純子はしばらく茫然《ぼうぜん》として、自分を失っていた。  高見友一が死んでしまった。もはや『山の屍』系列の作品は絶対に補給してもらえなくなった。  同時に、『山の屍』は完全に純子の作品となったのである。  失望と安堵《あんど》感が純子の胸に同時にこみ上げてきた。  もはや真の作者に脅かされることはなくなった。だが、これから先、『猫の昼寝』単輪だけで作家活動をつづけていかなければならない。  純子はいい機会だとおもった。  仮に高見が遭難せず、彼から新作の補給を受けたとすれば、純子はいつまでたっても『山の屍』の呪縛《じゆばく》から逃れられない。  一人前の作家として独立するためには、高見友一の幻影を払い落とさなければならない。  彼の死を契機にして、『山の屍』系列の作品は今後、書かないと声明すればよいのである。  彼女はすでに『猫の昼寝』で、作家としての名声を確立している。いまさら『山の屍』に頼る必要はない。  高見の遭難報道のショックから逸速《いちはや》く立ち直った純子は、冷静に計算した。  高見は世に出るためのドアを開くキーをあたえてくれたが、その後の道を切り開いたのは彼女自身の実力である。  高見が純子に『山の屍』をあたえてから遭難までに半年のタイムギャップがあるが、その間、純子の受賞は当然知っていたはずである。  知っていながら、純子になにも言ってこなかったのは、彼の言葉通り、自分の余命を見切り、作品を純子に託したのであろう。  高見は死んだが、彼の作品は純子に受け継がれて、立派に生きた。もって瞑《めい》すべきであろう。  それにしても死病に取り憑《つ》かれて、余命半年ないし一年と医師に宣告された身が、なぜ険しい山へ登ったのか。  同行者の言葉によると、渓流釣りの足を延ばして、ロープウェイで登って来たそうである。  渓流釣りにしても、医師から死を宣告された身がよく出かけて行く気になったものである。  純子の胸にかすかな疑念が湧《わ》いた。  今生の名残りに好きな釣りに出かけたのであろうか。 (もしかすると、自殺ではないか?)  ふと純子はおもい当たった。  高見は純子と会って、これが最後の情事だと感激していた。  いまでもあのときのことをおもいだすと、純子の身体の芯《しん》が火照ってくる。  高見はまさにあまった生命力のすべてを結集したように燃焼した。  最後の女と交わり、好きな趣味の行途で自ら命を断つ。あり得るかもしれない。  だが、純子の憶測にすぎず、なんの裏づけがあるわけでもない。  高見の遭難死が報道された三日後、純子を仰天させる事件が発生した。  純子宛にかかってきた一本の外線電話は、安心生命保険と名乗り、驚くべきことを告げた。 「当社の一億円の生命保険に、ご本人を被保険者として加入されました高見友一様は、生前、あなた様を保険金受取人に指定されました。つきましては被保険者の死亡に伴い、保険金を支払いますので、保険金受取りの手つづきをされますようにお願いいたします」  純子は束の間、相手の言葉が理解できなかった。  何度か聞き直して、ようやく高見友一が自分の生命に対して一億円の生命保険を契約し、その保険金受取人として純子を指定したということが呑み込めた。  つまり、高見が死んで、その保険金一億円が彼女に支払われるというわけである。これはまさに事件であった。  純子は仰天した。  そんなことを言われても、にわかには信じられない。  高見と純子はただ一度、ベッドを共にしただけの関係である。一応、名前だけは名乗り合ったが、純子は偽名を用いた。住所はもちろんおしえていない。  受賞後、報道で彼女の本名と住所を知ったのかもしれない。 「私が保険金受取人に指定されたのはいつですか」  純子は最初の驚きを鎮めて、念のために問うた。 「十一月二十五日となっています」 「十一月二十五日」  それは彼女が高見と会った数日後である。まだ受賞していない。  ということは、高見は彼女の素性と居所を知らなかったはずである。  もしかすると、ホテルの高見の部屋に入って、シャワーを使っている間に、純子のバッグの中身を覗いたのかもしれない。  バッグの中には住所、氏名を記した保険証を入れていた。  さらに保険会社の連絡によると、高見友一は普通死亡一億円、災害死亡三倍保障の生命保険を契約しており、無謀な登山による遭難死亡は災害死亡とは見なされず、したがって普通死亡の保険金一億円が支払われるということである。  突然、他人の生命保険金一億円が支払われると聞いて、純子は茫然とした。 「なにかのまちがいではありませんか。私は高見友一さんとは生前、なんの関係もありません」  なんの関係もないとは言えないが、一億円を受け取るような関わりでないことは確かである。 「まちがいありません。川名純子さんですね。年齢もご住所も一致しております。お手数ですが、ご当人であることを証明する身分証明書、印鑑証明書、実印、住民票をご持参の上、最寄りの当社の支店にお越しくださいませ。なお保険金は銀行口座に振り込まれますので、念のために預金通帳もご持参ください」  保険会社の社員は事務的に告げた。  上の空で電話に応対していた純子は、電話が切れた後、次第に落ち着きを取り戻してきた。  一体どういうことなのか。たった一度、ベッドを共にしただけの女を、一億円の保険金受取人に指定していたとは信じられない。  もしかすると、だれかが保険会社の名前を騙《かた》ってからかっているのかもしれない。  そうだ。それにちがいない。一介の主婦が、ただ一作をもって華々しいデビューを果たし、流行作家街道を独走しているのをだれかが妬《ねた》んで、こんな悪質ないたずらをしかけてきたのであろう。  生命保険会社の社員は名前と所属を告げていた。これも偽りにちがいない。  純子は折り返し電話をかけた。相手が告げた電話番号に該当者は確かに存在していた。  それでもまだ信じられない。電話番号は直通である。相手が直接出るのであるから、果たして安心生命の社員であるかどうかわからない。  彼女はNTTに問い合わせて、安心生命本社の代表電話番号をおしえてもらって、かけ直した。 「経理部保険金支払窓口の山下さんをお願いします」  純子は応答した交換手に告げた。  間もなく相手が出た。まさしく先刻、通話をしたばかりの対話者であった。 「ご心配なく。確かにあなた様が受取人に指定されていらっしゃいます」  相手は純子の胸の内を読んだように、笑いを含んだ声で言った。  まちがいなかった。たしかに純子は高見友一の生命保険金一億円の受取人に指定されている。  高見が彼女を受取人に指定したのは、六ヵ月前、Pホテルで会ったとき以後である。  あの時点で高見は、死病に取り憑かれていると言っていたから、生命保険に加入したのは発病する以前だったはずである。  死病を抱えた人間が一億円の保険には入れない。  すると、保険契約時はべつの人間を受取人に指定していたのであろう。それを純子に会った後、受取人を彼女に変更したのだ。  なぜ、そんなことをしたのか。  純子は再々度、安心保険にこの点を問い合わせてみた。 「高見様が契約されましたのは、五年前でございます」 「そのときは保険金の受取人は私ではなかったはずですが」 「被保険者ご本人が受取人になっていらっしゃいます」 「本人が受取人……」 「生命保険契約の当事者は、私ども保険会社と保険の契約者でございますが、そのほか契約関係者として、その生命に保険をつけられる被保険者と、保険金の満期受取人がございます。  また保険契約者と被保険者を同一人とする契約と、別人とする契約がございまして、後者の場合は他人の生命に保険を掛けるので、被保険者の承諾なしには契約ができません。ただし、被保険者が保険金満期受取人の場合は、その同意を要しません。  高見さんはご本人を被保険者として、ご自分に生命保険を掛け、保険金の満期受取人に指定していらっしゃいました。つまり、保険契約者、被保険者、保険金満期受取人を一人で兼ねていらっしゃいました」 「高見さんには奥さんやお子さんはいらっしゃらないのですか」 「いらっしゃいません。保険契約前に離婚され、お子様もいらっしゃいません」 「その場合は、満期前に中途死亡したときは、だれが保険金を受け取るのですか」 「保険会社としては中途死亡時の保険金受取人を指定するようにお願いしているのですが、中には指定しない方もいらっしゃいます。その場合は、相続順位に従って受取人とされます。奥さんやお子さんがいらっしゃらないときは、尊属、ごきょうだい等が探され、まったく相続人がいないときは国庫に収納ということになります」  高見は七年前に妻と離婚している。妻との間に子供はいない。妻と離婚後に生命保険を契約しているから、保険に関しては妻は無関係である。  すると、純子が受取人に指定されて不利益を被るのは、第二順位以下の相続人であろう。  保険会社は純子が受取人に指定されている以上、そこまで相続人を追跡調査していない。  純子はどうやら事情が呑み込めてきた。  高見がなぜ彼女を受取人に指定したのかわからないが、高見に第二順位以下の相続人がいて、もし彼らが高見の生命保険契約の存在を知っていたとしたら、純子に一億円を横奪《よこど》りされたとおもうであろう。  せっかくの保険金であるが、相続人の恨みを集めたくはない。  純子は現在、いまをときめく流行作家であり、川名の収入をはるかに超えている。  また夫が生家を相続すれば、莫大《ばくだい》な財産の共有者となる。金にはまったく困っていない。  だが、金はいくらあっても邪魔にはならない。せっかく高見が指定してくれた一億円の受け取りを辞退するつもりもなかった。  高見の心情を想像できないこともない。  高見は純子との情事を「最後の情事」として、この世におもい残すことはないと言った。  そして、感謝のしるしとして、遺作となった『山の屍』を贈ってくれた。  妻とは離婚し、相続人がいたとしても他人同様に遠くなった血縁者に保険金を取得されるよりは、「最後の女」に保険金を受け取ってもらいたいとおもったのかもしれない。  もしそうであれば、高見が残してくれた保険金を受け取ることが、彼の遺志に適《かな》うことになる。  純子は高見の保険金を受け取ることにした。 [#改ページ]  辞退した容疑      1  熊耳は釈然としないものをおぼえながらも、疑惑を裏づける決め手がないまま、升田修一と夏川稔が帰京して行くのを見送らざるを得なかった。  だが、この遭難事故に疑惑を持ったのは、熊耳一人ではなかった。  管轄となった豊科署も不審を抱いていた。  豊科署の會田は、 「三人の生前の関係を調べてみる必要がある。不動産屋と暴力団員が仲良く釣行の途上、山へ登って不動産屋が死んだ。きな臭いにおいがぷんぷんしてるよ」  と主張した。  會田は一同の疑惑を代弁していた。  豊科署が主体となって、三人の生前の関係が調べられた。  その結果、高見友一が一億円、災害死亡三倍保障の生命保険を契約している事実が判明した。  だが、保険金受取人は生前、高見となんのつながりもなさそうな川名純子という女性である。  契約時、被保険者本人を満期保険金受取人に指定していたのが、死亡約六ヵ月前に、川名純子を新たな受取人に指定している。 「川名純子は、いまをときめく新進の女流作家じゃないか」 「同姓同名じゃないのか」 「年齢、住所等も一致しているよ。これまでの調べでは、高見友一と川名純子の間にはなんのつながりも発見されていないが、高見が川名純子の愛読者で、受取人に指定したということはないか」 「愛読者が作家を生命保険金の受取人に指定するというのも無理があるが、高見が純子を指定したときは、まだ彼女はデビューしていなかったよ」  意外な事実の浮上に、捜査員は当惑していた。  さらに、高見の身上調査によって、彼は保険契約をした二年前に妻と離婚しており、弟が一人いることがわかった。  高見|次男《つぐお》、四十六歳、現在、新宿区の区議会議員をしている。住所は新宿区百人町。  捜査員たちはこの住所に記憶があった。 「新宿区百人町といえば、升田修一と隣り合わせじゃないか。升田と高見次男との間につながりがあるはずだ」  捜査員は俄然《がぜん》、色めき立った。  高見友一が受取人を新たに指定しなかったならば、一億円の保険金は相続人たる弟の次男が取得したはずである。 「しかし、次男と升田の間につながりがあったとしても、受取人を別人に指定されては、高見友一が死んでも、次男にはなんの利益もない。したがって、次男が升田に委嘱して高見を殺したという想定は無理になるが」  という意見が出た。 「次男が、受取人が変更された事実を知らなかったならばどうか。兄が死ねば、唯一の相続人たる自分が、当然、保険金を受け取れると信じて、升田に高見殺しを頼んだのかもしれない」 「受取人を変更すれば、最初の受取人である相続人に連絡がくるのではないのか」 「保険会社に確かめたところ、契約者が受取人を変更しても、契約者が知らせない限り、保険会社としてはべつに通知はしないということだ。契約者が契約途中で受取人を変更するということは、なんらかの事情があるはずであり、おおかた変更前の受取人には変更したことを知らせたくない場合が多いそうだ。保険会社としてはあくまでも契約者の意志を尊重するので、受取人の変更に関しては介入しないということだ」  もし相続人が被保険者の死亡前に、保険金受取人を変更した事実を知らなければ、被保険者の突然の変死に対して疑わしい位置に立つ。  被保険者の相続人と、被保険者が遭難したとき同行していた暴力団員が同じ地域に居住しているという事実は、疑わしい状況を上塗りするものである。  内偵調査によって、升田修一と高見兄弟は同じゴルフクラブのメンバーであり、升田の娘の結婚式にも次男が招《よ》ばれたような親しい交際をしていたことが明らかになった。  次男が区議会議員選挙に立候補したときも、升田が陰の選挙参謀を務めたという噂《うわさ》である。  さらに、次男は経営しているラブホテルと喫茶店が倒産直前であり、借金で首がまわらなくなっている状況も浮かび上がった。  升田を兄に紹介したのも次男らしい。  ここに豊科署では、高見友一の遭難を殺人の疑いのある遭難事故として、豊科署内に準捜査本部を設けて捜査を始めることにした。  捜査本部では、借金に窮した高見次男が、かねて親交のある升田修一に委嘱して、登山による遭難を偽装し、兄友一を殺害、生命保険金の取り込みを狙《ねら》った犯行と推測したが、それを裏づける物証がなにもない。  捜査は困難が予想された。  豊科署の準捜査本部に特別捜査員として編入された熊耳は、 「升田修一と夏川稔を責めても、容易に口を開くはずがありません。高見友一が生前、なぜ川名純子を保険金受取人として指定したか、この辺の事情を調べてみてはいかがでしょうか。友一の生前の人間関係には川名純子は浮かび上がっておりません。二人の間にはなにか特別のつながりがあったものと考えられますが」  と、捜査会議で発言した。  高見友一の遺品の中には、川名純子のデビュー後のすべての作品が揃えてあった。  だが、高見が彼女を受取人に指定したのは、そのデビュー前であることがすでにわかっている。  準捜査本部としても、高見と純子の関係は見過ごしにはできないところである。  川名純子の事情聴取のために、會田と熊耳が東京へ出張することになった。      2  保険会社から高見友一の保険金受取人に指定されたという通知を受けた二日後、川名純子は二人の見知らぬ男の訪問を受けた。  彼らは純子がこれまで聞いたことのない警察署の名前を告げて、それぞれ會田と熊耳と名乗った。  會田は警察官というよりは、善良な農民のような風貌《ふうぼう》の年配の男である。  熊耳は會田よりは若く、その名の通りいかつい顔に、戦車のようながっしりした体躯《たいく》の持ち主である。目が小さく、優しい。  いずれもよく陽に焼けている。 「お忙しいところを突然お邪魔いたしまして、申し訳ありません。実は先日、私どもの管内で亡くなりました高見友一さんについて、少々おうかがいしたいことがございまして……」  會田が低姿勢で切り出した。  會田の言葉に、純子は胸を衝かれた。地元の刑事が二人連れ立って訪ねて来たところを見ると、高見の死因に不審があるのであろう。  もし彼の死に事件性があれば、保険金受取人としての純子は無色の位置には立てない。  純子は刑事の訪問の意図を察知した。  高見と純子の間には、生前なんのつながりもない。警察としては、なんのつながりもない純子を、なぜ一億円もの保険金受取人に指定したか、その理由に当然疑問を抱くであろう。  だが、高見と純子の関係は、絶対に公にはできない。公にすれば、受賞作の真相までがほじくり出されてしまう。  他人の作品をもってデビューしたと知れ渡れば、純子はたちまち文壇の寵児《ちようじ》から奈落へ蹴落《けお》とされてしまう。  高見の名前を聞いたとき、不覚にも純子は顔色を動かしてしまった。  純子の面に視線を集めていた二人の刑事は、彼女の反応を敏感に読み取ったにちがいない。 「どういうことでございましょうか」  問い返した声が震えている。 「高見さんはご自身に一億円の生命保険を掛けていましたが、あなたを保険金の受取人に指定しています。高見さんには奥さんやお子さんはいませんが、弟さんがいます。弟さんを差し置いて、先生を受取人に指定したについては、なにか理由があるとおもわれますが、それをお聞かせいただけませんか」  會田は朴訥《ぼくとつ》な口調で一直線に問いかけてきた。 「高見さんとは生前、一度お会いしました」  まったく無関係と言い張るわけにはいかない。 「一度? 一度だけですか」  會田と熊耳が驚いたように純子の顔を見つめ直した。 「一度だけです」 「たった一度だけ会った人を、一億円の保険金受取人に指定したのですか」 「私も驚いています。どうして高見さんが私を指定したのかわかりません」  それは事実である。純子の推測を刑事に告げたところで仕方がない。 「一度会ったということですが、どういうご事情で会ったのですか」 「取材です。当時、私は新人賞の応募作を書いていました。その作品の取材のために、高見さんにお会いしたのです」 「突然、未知の高見さんを訪ねて行ったのですか。それとも……」 「友人の紹介です」 「ご友人の紹介……。差し支えなければ、そのご友人の名前と住所をおしえていただけませんか」 「本村真美子さんと言います。私が当時通っていたカルチャースクールで知り合いました。でも、住所や連絡先は聞いておりません」 「本村真美子さんにその後、会いましたか」 「受賞後、二、三回会いましたが、最近は会っていません。スクールに聞けばわかるとおもいますが、その後、スクールへ行っていませんので」 「本村真美子さんに紹介してもらった高見友一さんが、ただ一度だけ会ったあなたを、なぜ一億円の保険金受取人に指定したのでしょうか」  會田は純子の最も痛いところに触れてきた。 「それがわからなくて、私も当惑しています」 「高見さんには、あなたを受取人に指定しただけの理由があったはずです。あなたに心当たりはありませんか」 「最後にお会いしたとき、といってもただ一度ですけど、私たち、とても意気投合しました。そのとき、高見さんは自分は死病に取り憑《つ》かれているとおっしゃっていました。いまにしておもえば、あの言葉がなにか意味していたのかもしれません」 「死病に取り憑かれていた……」  二人の刑事は顔を見合わせて、 「病名についてはなにか言っていましたか」 「いいえ、病名はなにもおっしゃっていませんでした。私も聞きませんでした」 「そのときが最初で最後の出会いということですか。あなたは高見さんに住所をおしえたのですか」 「はい、べつに隠す必要もありませんでしたので」  おしえなかったと言えば、高見はどうして純子の住所を知ったかと問われる。  高見が純子の住所を知るチャンスを詮索《せんさく》されれば、シャワーを使っていたデートの性質を引っ張り出される虞《おそれ》がある。 「先生は升田修一と夏川稔という男をご存じではありませんか」 「いいえ、存じません。だれですか、その人は」 「高見さんが遭難したとき、同行していた人物です」 「いいえ、全然知りません」  なにげなく答えて、純子ははっとした。  純子と升田や夏川とかいう人物となんらかのつながりがあると想定して、純子が二人に委嘱して保険金を取得するために遭難を偽装して、高見を殺害させたと疑っているのかもしれない。 「それでは、先生には高見さんが先生を保険金の受取人に指定した理由がまったくおもい当たらないとおっしゃるのですね」  會田が念を押すように言った。 「まったく心当たりがないので当惑しています」 「念のためにうかがいますが」  これまで沈黙を守っていた熊耳が口を開いた。  純子が熊耳の方に姿勢を転ずると、 「先生は高見氏が指定した通り、保険金を受け取るご意志がありますか」  一瞬、純子は返答に窮した。金には困っていないが、せっかく受取人に指定された一億円を拒む理由もない。  流行作家とは言っても、なんの保証があるわけでもなく、人気が落ちればそれまでである。  夫は莫大な財産の相続人であるとはいっても、まだ相続したわけではない。また相続したとしても、あくまでも夫の財産である。離婚すれば、純子にはなんの権利もない。  これから不安定な作家として自立していくためには、一億円は魅力であった。  だが、まったく心当たりのない一億円を受け取ると言えば、刑事らの疑惑を招く。純子は窮地に追いつめられた。 「私も突然のことで、まだ混乱しております。少し落ち着いてから、どうすべきか考えたいとおもっています」  純子はとりあえず時間を稼ぐことにした。 「そうですね。まったく心当たりのない人物から十万円、いや、一万円もらっても面食らいます。なぜ高見氏が先生を受取人に指定したか、その理由がわかるまでは不気味でしょうからね」  熊耳が言った。      3  刑事の訪問は純子に衝撃をあたえた。  警察は純子を疑っている。無理もない。死亡六ヵ月前に、赤の他人の純子を一億円の生命保険金受取人に指定したのである。  警察としては、当然、そこになんらかの隠れた理由の存在を疑うであろう。  これはへたに一億円は受け取れないと、純子はおもった。  一億円を受け取り、警察の疑惑を招けば、受賞作の秘密を引きずり出される虞が生じてくる。  べつに一億円はぜひとも必要な金ではない。受賞作の秘密には彼女の将来がかかっている。これは慎重にしなければならないと、純子は自分に言い聞かせた。  一億円の受取人指定に一時、舞い上がっていたが、刑事がいみじくも言ったように、指定の理由が不明の間は不気味である。  刑事が来たということは、高見の死因に事件性があることを示している。  高見は当然、自分が死んだとき、保険金が相続人に取得されることを知っていたはずである。  生前、純子を受取人に指定したのは、保険金を相続人に取られたくなかったからであろう。  つまり、高見と相続人の間にはなんらかの確執があったと考えられる。  高見は相続人に保険金を取られるくらいなら、赤の他人にまわした方がましだと考えた。  まず、疑われるべきは相続人ではないのか。  相続人は保険金目的に遭難を偽装して、高見を殺害した。高見も相続人の殺意を予知して、自衛というよりは報復的な措置として、生前、受取人を変更してしまった。  指定変更の事実を知らずに、高見を殺害した相続人の誤算である。  純子は高見の相続人がだれか、興味を持った。  川名純子を訪問した帰途、會田と熊耳はそれぞれの心証を話し合った。 「どうも川名純子と高見友一の関係が曖昧《あいまい》ですな」  會田が言った。 「私もそうおもいます。ただ一度、取材で会ったということですが、たったそれだけの関係で一億円の受取人に指定したのは、常識外れですよ」  熊耳がうなずいた。 「しかし、純子の申し立て以外には、二人の間にはなんの関係も認められません。川名純子を高見に紹介したという本村真美子という友人に、聞いてみる必要がありますね」 「そうですね。いずれにしても高見に会ったのは、ただの取材ではないようです」 「それにしても、川名純子の人気は大したものですね。私も若いころは作家になろうとおもったことがあります。しかし才能が伴わず、刑事に転向しました」 「會田さんが作家を志望した」 「若気の至りです」  會田はテレたように笑って、 「一生書きつづけても日の目を見ない作家志望者がいるかたわらで、ただ一作で人気沸騰の流行作家となってしまった。繁盛している病院の待合室のように、編集者が詰めかけていました」  熊耳は純子にようやく面会した場面をおもいだしていた。  詰めかけた編集者で、まさに門前市をなしていた。  アポイントメントも強引に割り込んで、ようやく取れたことである。  その面会時間も、当初は十分と限られた。 「熊耳さん、彼女の出世作を読みましたか」 「川名純子の予備知識として読みました。『山の屍』という、とても女が書いたとはおもえないような骨太の作品でしたね」 「私も読みましたが、第二作『猫の昼寝』以後の作品と比べると、まったく別人が書いたとしかおもえないように、極端に作風が異なっています」 「そのことも彼女の人気を高めているようですね」 「具眼の選考委員が、十年に一人の大器と賞賛しているように、幅広い作風を示しています」 「しかし、『山の屍』に準ずる作品は、受賞後、まったく書いていませんね。受賞作を除いては、すべて『猫の昼寝』系列の作品ばかりです」 「熊耳さんもそのようにおもわれましたか。今日、川名純子に会ってふとおもったことですが、異なる作風をもつ彼女は、なぜ受賞後、受賞作に準ずる作品を書かないのでしょう」 「私もその点を不思議におもっていました。私は文学には暗いのですが、新人の受賞作というものは、おおむね作者が最も強い分野に材を取った作品が多いのではないでしょうか。受賞以後の作品も、受賞作系列のものが多いようです。だからこそ、受賞作とはまったく異なる作風の作品を発表しつづける彼女に、読者は新鮮なカルチャーショックをおぼえているのでしょうが」 「その点ですがね、受賞後三ヵ月しても、受賞作の系列の作品を一作も発表していないのはおかしいとおもいませんか。  ある文芸評論家が『山の屍』と『猫の昼寝』は川名純子の両輪だと書いていました。すると、彼女は受賞以後、単輪だけで走ってきたことになります。彼女はなぜ両輪で走ろうとしないのか。私はもしかしたら、彼女は両輪で走りたくとも走れないのではないかとおもったのです」 「走りたくとも走れない……。つまり、『山の屍』系列は書けないということですか」 「そんな疑いがしてきたのです。どう考えても、純子が受賞後、『山の屍』系列を書かないのはおかしい。書きたくとも書けないのではないかと……」 「故意に書かずにおいて、読者を欲求不満にさせたところで、作品を供給しようと計算しているのではありませんか」 「それにしても受賞後三ヵ月、彼女の名前が載っていない雑誌はないというくらいに活躍しています。出版社や読者の要求も強い。それにもかかわらず受賞作系列の作品を一作も書かないというのは解せません」 「川名純子は取材のために高見友一に会ったと言っていましたね。高見から取材した作品が受賞作だったのではありませんか。高見が死んでしまったので、同系列の作品を書くための取材ができなくなった……」 「取材源がだれであるにせよ、作風とはあまり関係ないのではありませんか。作者は自分の知らない世界や分野でも取材をして、自家薬籠中《じかやくろうちゆう》のものとしてしまいます。  たとえ高見から取材して『山の屍』を書いたとしても、高見が死んだために同系列の作品が書けなくなったということはないはずです。それに高見が死んだのは、純子の受賞後三ヵ月余してからです。その間、彼から取材しようとおもえばできたはずです。仮に『山の屍』を高見から取材したとすれば、彼女は一度の取材でそれを書いたということになります。『山の屍』が取材に基づいて書かれたのであれば、彼女は凄《すご》い取材能力の持ち主でもあります。これだけの取材力があれば、どんな分野の作品も書けるでしょう。  それに対して、『猫の昼寝』は作者の身の周りをきめ細かく観察して、彫り上げた私小説です。特に取材を必要とするような作品ではありません。『猫の昼寝』系列が彼女の地でいった作品であれば、受賞作の後は彼女の取材能力がまったく影を潜めてしまった形です。  作家がこれまでの作風とはまったく異なった作風を展開したとき、化けると言うそうですが、川名純子の場合、受賞後直ちに化けて、元へ戻らないと申しましょうか、あるいは最初、一度化けて、その後、正体に返ったまま化けられなくなったと言いましょうか。この辺がどうも釈然としません」 「本村真美子に会って事情を聞けば、なにかわかるかもしれませんよ」  二人は川名純子を訪問した足を、カルチャースクールへ延ばした。  同スクールに本村真美子は在籍していたが、最近は欠席をつづけているということであった。  入学時に提出する入学願書に住所が記入されていた。  それによると、杉並区堀ノ内一となっている。職業欄にはOLとだけ記入されていた。 「受講生の住所はいちいち確認するのですか」  熊耳は尋ねた。 「いいえ。申込書は受講生それぞれが入学時、提出する際に記入したもので、スクール側からは確認はいたしません。その必要もありませんので」  学務の担当者は答えた。 「受講料の延滞などがあった場合、連絡する必要が生じませんか」 「開講時に受講料は全額、前納することになっておりますので、滞納ということはありません」 「それでは受講生の名前や住所が偽りということもあり得ますね」 「いちいち確かめるわけではありませんから、その辺のところはわかりませんが、どうして名前や住所を偽る必要があるのですか」  担当者は問い返した。 「小説の書き方を勉強しようという人は、ペンネームなどを用いるのではありませんか」 「まあ、中にはそういう方もいらっしゃるとおもいますが、住所まで偽る必要はないとおもいます」 「小説を書いていることを隠している人はいませんか。小説を書くということは、本人にしてみれば、気恥ずかしいのではありませんか。我々の仲間にも退職後、小説を書き始める人がいますが、現役中はそんな気配も見せません」 「そうですね。中にはそういう方もいらっしゃるかもしれませんね」  担当者はあえて反駁《はんばく》しなかった。 「川名純子さんも当スクールの出身者ですね」  熊耳は話題を転じた。 「川名さんは当スクールの誇りですよ。出身者というよりは、現在、在籍していらっしゃいます。受講中に流行作家となって、スクールには出席しなくなりましたが、現役の受講生であることには変わりありません」 「開講期間はどのくらいなのですか」 「一期一年間ですが、何度更新してもかまいません」 「川名さんは受講中にも『山の屍』のような作品を書いておられましたか」 「それが、まったく別人が書いたような作風でデビューしたものですから、講師の先生はじめ、受講生仲間はみんな驚いたそうです」 「作風と言うと……」 「受賞後第一作の『猫の昼寝』系列の作風です。『猫の昼寝』で受賞したのであれば、だれも驚かなかったのですが、『山の屍』でしょう。受講中、まったくべつの作風を隠していたのですから、やはり凄い才能だとおもいます」 「すると在校中……いや、受講中、『山の屍』のような作品は書いていなかったのですか」 「講師の作家先生がそのようにおっしゃっていました」  カルチャースクールでの純子は、『山の屍』系列の作品は書いていなかったことがわかった。  すると、彼女は受賞作で突然化け、それ以後、ふたたび本来の作風に戻ったまま、二度と化けていないことになる。 「念のためにうかがいますが、高見友一という人物が在籍していませんか。今期だけではなく、以前の開講期にさかのぼって調べていただきたいのですが……」 「今期には高見友一さんという受講生はいませんね。毎期、受講生の定員は五十名ですが、私の記憶する限り、高見友一さんという受講生はいません」  担当者の口調には自信があった。  カルチャースクールから得た本村真美子の住所を当たったところ、該当する人物もアパートも存在しなかった。  本村真美子が架空の人物でないことは確かめられたが、スクールに届け出た住所は偽りであった。  川名純子の調査は、一応そこまでで保留することにした。  純子と高見友一の関係は不明であるが、高見の遭難死に犯罪性を疑ったとしても、純子は犯人像として無理がある。  最大のネックは、純子が保険金受取人に指定された事実を知らなかったことである。  高見がなぜ赤の他人の純子を受取人に指定したかという謎《なぞ》は残るが、むしろ高見の法定相続人が高見の生前、受取人が変更された事実を知らず、保険金目的に高見を殺害した疑いの方が濃い。  高見は放っておいても余命半年ないし一年と宣告された身であったが、相続人が高見の寿命を知らなければ、疑惑は拭《ぬぐ》えない。  二人の調査報告を受けた準捜査本部は、川名純子を保留して、高見の弟次男を第一容疑者としてマークすることにした。  もともと高見次男は第一容疑者の位置を動いていない。  だが、その容疑性を掘り下げるためには、保険金受取人を消去しなければならなかったのである。  高見友一の戸籍簿によると、妻と七年前に離婚しており、子供はない。  離婚後、高見が契約した保険に対して、妻はなんの権利も持っていない。  高見が川名純子を受取人に指定しなければ、唯一の相続人たる高見の弟の次男が、一億円の保険金を受け取るはずであった。  高見次男は四十六歳、世田谷区と杉並区内にラブホテルや喫茶店を経営している。  経営者の名義は妻にしてあり、新宿区の区議会議員に収まっているが、暴力団との交際も噂されている評判はなはだ芳しからざる男である。  現実に升田修一とは同じ町内に住んでいて、親しい間柄である。  だが同時に、政界の中枢部とも結びついていて、新宿区議会に隠然たる勢力を張っている。  最近、妻が経営するラブホテルや喫茶店が赤字つづきで、窮地に追いつめられていた。  ここに兄の保険金が一億円入れば、急場をしのげるところであった。  次男にしてみれば、喉から手が出るほど欲しい保険金であったであろう。  捜査本部は高見次男の区議会議員という身分や、政界との結びつきを考慮して、任意出頭を要請する前に、事情を聴くことにした。  ふたたび會田と熊耳が行くことになった。  その直前、意外な情報が準捜査本部に入った。      4  川名純子は慎重に考えた。  一億円は魅力であるが、いまや|危険な金《ホツト・マネー》となった。  保険金を受け取れば、必ずや警察の疑いを招くであろう。いや、それだけではない。純子はある可能性におもい当たって、背筋が寒くなった。  刑事が訪ねて来たということは、高見友一の遭難に疑いがあることを示すものであろう。  純子が保険金を受け取れば、犯人は横奪りされたとおもうであろう。  犯人の恨みを集めて、その鉾先《ほこさき》が純子に向けられてくるかもしれない。  警察の疑いと犯人の鉾先……くわばらくわばらだわ。純子はぞっとした。  べつに金がなければ困るという状況ではない。いまをときめく流行作家として、収入は夫をはるかに超えている。  最近は夫も純子を腫《は》れ物に触るように扱っている。  川名は純子が高見から受取人に指定された事実を知らない。もし知れば、高見との間になにかあったと疑うであろう。  また疑われても仕方がないことを行なっている。  一億円を受け取れば、夫の疑惑まで呼んでしまう。  高見との関係に注目を集めることは、受賞作の秘密を引っ張り出す危険がある。一億円と、現在の地位や名誉を交換するわけにはいかない。  純子は自分の判断で、保険金の受け取りを辞退することにした。 [#改ページ]  誤字の事情      1  川名純子が保険金の受け取りを辞退したという情報は、捜査本部を少なからず驚かせた。 「川名純子は疑いを躱《かわ》すために辞退したのではないのか」  と穿《うが》った、そして純子の心情に即して的確な分析をする者もいた。 「初めから辞退するくらいならば、高見に対して妙な細工はしないだろう。いらざる疑いを招くのがいやで辞退したと解釈すべきではないか」 「川名純子は金には困っていない。辞退することによって受け取る理由がないというデモンストレーションをしたのだろう」 「彼女が辞退すると、相続人の高見次男が受け取ることになるんだろう」 「次男は川名純子の辞退を予測できなかったはずだが……」 「予測できなくても、次男の容疑は動かない。彼は兄が受取人を純子に指定したことを知らなかったはずだ」  川名純子の受け取り辞退によって、高見次男の容疑はいっそう濃縮された。  七月十日、熊耳と會田はふたたび東京へ出張した。  あらかじめ面会を申し込んでいたが、なかなか約束が取れず、高見次男からこの日が指定された。  會田と熊耳が出向いたのは、荻窪《おぎくぼ》駅前の貸しビルの中にある彼の事務所である。  案内された応接室には、大物政治家や財界の大立者、あるいは人気力士やスポーツ選手、芸能人などと一緒に撮影した写真や、区議会で質問に立っている姿の写真、あるいは各種表彰状、トロフィーなどが飾られていて、訪問者に本人の業績を誇るようになっている。  それが本人の業績よりも、その人間性の卑しさを強調しているのは皮肉である。  待つ間もなく、高見次男が応接室に姿を現わした。  身体の隅々まで栄養が行き渡っているような厚ぼったい身体が、ゴルフ焼けらしくよく陽に焼けている。 「やあ、お待たせしました。高見です」  彼は大物ぶった鷹揚《おうよう》な姿勢で挨拶《あいさつ》した。 「突然お邪魔いたしまして、申し訳ありません」 「いやいや、忙しい警察の方がわざわざお越しになったところを見ると、なにか重大な事件のようですね。私にできることがございましたら、善良な市民としてなんなりとご協力いたしますよ」  高見は一応如才なく言った。 「ご多忙のお体ですから、お手間は取らせません。この度の兄上のご遭難を謹んでお悔やみ申し上げます。つきましては、そのことについて、二、三お尋ねいたしたいことがございます」 「兄の遭難には驚きました。山が好きで、若いころからよく登っていましたが、突然のことなので、まだ信じられないような気持ちです」 「癌が進行していて、山へ登れるような状態ではなかったそうですが、ご存じでしたか」 「全然知りませんでした。もっともこのところ忙しくて、兄に会うこともなかったのですが」 「電話で話をすることはありませんでしたか」 「特に用事もなかったですからね。兄弟なんて、そんなもんじゃないですか」 「最後に会ったのはいつごろですか」 「そうですね、一年半ほど前になりますか。親戚《しんせき》の結婚式で顔を合わせました。こんなことになると知っていれば、もっと会っておけばよかったと後悔しています」  次男は殊勝な表情になった。 「兄上が一億円の生命保険に加入していたことはご存じですか」 「いいえ、知りません」 「高見友一さんは七年前に離婚しており、お子さんもいません。兄上の保険金は相続人たるあなたが受け取ることになりますが、そのことをご存じですか」  第一受取人たる川名純子が辞退すれば、保険会社から次男に通知がきているかもしれない。 「私が受取人ですって。いま初めて聞きました。それは本当ですか」  大物らしく、重々しく見せかけていた次男の擬態が崩れて、顕著な動揺を見せた。演技にしては驚きの色が素直である。 「保険会社から連絡はありませんか」 「いいえ、なにも聞いていません」 「川名純子さんをご存じですか」 「かわな……いいえ。聞いたような名前ですが、ちょっとおもいだせません。だれですか、その人は」 「最近売り出している女流作家です」 「ああ、あの美人作家の川名純子ですか。作品は読んだことはないが、最近あちこちでよく名前を見聞きしますね。川名純子がどうかしたのですか」 「実は、高見友一さんは保険金の受取人を川名さんに指定していたのです」 「兄が川名純子を……兄と彼女がそんな関係があったとは初耳です。しかし、彼女が受取人に指定されていては、私が相続人でも保険金は受け取れないでしょう」  次男の面は驚きと失望の色に二重に塗られた。  せっかく転がり込みかけた保険金を、純子に横奪りされたような気がしたのであろう。 「ところが、川名さんが受け取りを辞退したそうです。すると、相続人たるあなたが次の受取人となるわけです」  次男の表情が現金にぱっと輝いた。 「そうですか。川名純子さんとしても、兄から受取人に指定されて、当惑したのかもしれませんね」 「そのことですが、兄上はなぜ弟のあなたを差し置いて、川名純子さんを受取人に指定されたのでしょうか。川名さんが辞退したということは、川名さん側には受け取る理由がなかったか、あるいは受け取りにくい事情があったと考えられます。その辺について、なにかお心当たりはありませんか」 「兄弟と申しましても、この数年はほとんど没交渉でしたから、兄の生前の交友関係についてはほとんど知りません。  兄は若いころ、作家を志望していましたので、もしかすると、密かに小説を書いていたかもしれません。そんなところから、川名純子とつながりがあったかもしれませんね」 「兄上は作家を志望していたのですか」  それは初耳であった。  高見友一が純子と同じカルチャースクールに在籍していた記録はなかったが、彼が作家を志望していたとしても不思議はない。 「兄上が書いた作品をお読みになったことはありませんか」 「ありません。兄が小説を書いていたかどうかもわかりませんから」 「念のためにうかがいますが、升田修一さんとは親しい間柄だそうですね」  會田は質問の鉾先を転じた。 「隣りの町内に住んでいますので、親しくしております」  高見次男が少し顔色を改めた。 「兄上が遭難したときも、升田さんが同行していましたが、兄上と升田さんも親しかったようですね」 「兄と升田さんは釣り仲間でした」 「あなたがお二人を引き合わせたと聞いておりますが」 「さあ、そうだったかな。きっかけは忘れましたな」 「升田さんは一竜会の幹部ですね」 「それがどうかしましたか。たまたま近所に住んでいるので仲良くしておりますが、相手が暴力団であろうとなんであろうと関係ありません。暴力団だからつき合わないというのは、職業差別ではありませんか。現に政府の大物先生たちも、親分連とゴルフをしたり、パーティで同席したりしていますよ」  高見次男は少し色をなし、政界の大物と親しいことを暗示して、恫喝《どうかつ》した。  彼の面には兄を失った悲嘆よりは、驚きの色の方が濃い。  もともと他人同然となった骨肉の死に悲嘆の気配もなかった。  高見はふとおもいだしたように、 「しかし、兄が癌を患っていたということは、どうしてわかったのですか」  と問い返した。 「解剖によって発見されたのです」 「解剖……すると、兄の死因に疑問があったということですか」  彼は刑事が訪問して来た理由に初めておもい当たったように、はっとした表情をした。 「遭難による死亡は変死として扱われ、解剖の対象になります」 「それで、死因はなんだったのですか」 「墜落して、岩に頭を打ちつけ、頭の骨を折ったのが直接の死因です」 「ロープウェイで登ったと聞きましたが、そんな凄い山だったのですか」 「ロープウェイの終点から北アルプスの西穂高へ登る途中、岩から転落したのです。都会の延長のつもりで山を甘く見たのがいけなかったのですね。しかし、兄上は若いころはよく山へ登られたそうですが」 「それだけに軽く見たのでしょう。解剖によって兄の死因になにか疑惑が生じたのですか」  高見次男の面に薄い不安の色が塗られた。  変死として解剖されても、死因に疑問がなければ、刑事は訪問して来なかったはずである。 「執刀医は山へ登るような状況ではなかったと意見を言っています。兄上は同行者に無理やりに山へ引っ張り上げられたのではないでしょうか」 「同行者が無理やりに……升田さんがなぜそんなことをするのですか」 「それを調べております。そこで升田さんと親しい先生のご意見をうかがいたいとおもいましてね」 「升田さんと親しいと言っても、私にはそんなことはわかりませんよ。升田さんがなぜ兄を無理に山へ引っ張り上げる必要があるのですか」 「だれかに頼まれたということは考えられませんか」  二人の刑事は視線を高見次男の面に集めた。 「だれかに頼まれた……まさか、あなたたちは私を」  高見次男の顔色が変わった。 「兄上の保険金は相続人の先生が受け取ることになります」 「ば、馬鹿な。兄は川名純子を受取人に指定したと言ったじゃないか」 「先生は川名純子さんが受取人に指定されていた事実を知らなかったんでしょう」 「それがどうしたというのかね。私は兄が保険に入っていたことすら知らなかった。私を疑うなんて、見当ちがいもはなはだしい。こう見えても、私は政治家の末席を汚す者だ。政界の要路に立つ先生方とも親しい。馬鹿なことを言うと、きみたちの身分にも関わるかもしれないぞ」  高見次男は言葉遣いを崩して恫喝した。 「お気に触りましたらお許しください。我々としては保険金の受取人となる先生のご意見をうかがいに来ただけです」 「それは意見を聴くなどというものではないぞ。私を疑っているのではないか」 「先生がそのようにお取りになられたのであれば、お詫《わ》び申し上げます。しかし、先生に後ろめたいところがなければ、怒ることではないとおもいますが」  熊耳がやんわりと言い返した。 「後ろめたいところがないから怒っているのだ。失礼ではないか。私と兄の死にはなんの関係もない。私にとって一億円は大した金額ではない。そんな保険金目的に兄の死を謀るなど、とんでもない言いがかりだ。警察といえども許さんぞ」  高見次男は激昂《げつこう》した。  取りつく島のなくなった二人は、一応引き下がった。  こうなることはあらかじめ予測はしていた。 「しかし、あの怒り方は半端じゃありませんでしたな」 「塩をまかれそうでしたよ」  高見次男の事務所から退散した二人は、苦笑し合った。 「しかし、彼が保険金の受取人になると知らされたときの驚き方は、真に迫っていましたよ」 「あれが演技だとすれば、大した役者ですな」 「會田さんはどうおもいます」  熊耳が會田の表情を探った。 「高見次男の状況には疑惑がありますが、暴力団をそそのかして兄を殺させたという想定も、ちょっと無理があるような気がします」 「たしかに。危険が大きすぎますね。それに、高見友一の生前、他人同然になっていた弟に、保険に入ったことを知らせるとはおもえません」 「保険会社が知らせませんかね」 「保険会社としては、特に契約者の要請がない限りは、受取人に知らせないそうです」 「仮になにかのチャンスに、高見友一が保険を掛けていることを知ったとすれば、受取人が川名純子に指定されたのも知っている可能性があることになり、高見次男の犯罪動機が薄れることになりますね」 「となると、高見友一の遭難には事件性はないということになりますか」 「高見次男の話の中でちょっと気になることがありました」 「ちょっと気になるというと」  熊耳が會田の表情を探り返した。 「高見友一が作家を志望していたということです。密かに小説を書いていたかもしれないと言っていましたね」 「そんなことを言っていましたね」 「このことと、川名純子の作風には関係ないでしょうか」  會田に言われて、熊耳がはっとした表情になった。 「そうか、川名純子は高見友一にただ一度取材した後、文壇にデビューしましたね。受賞作とその後の作品がまったく作風が異なるので話題を呼んでいますが、受賞作系列の作品を受賞後、まったく発表していないのは、発表したくともできない事情があると推測しました。その事情が高見友一の作家志望……というよりは、彼の習作に関わっているかもしれませんね」 「もしかすると、純子は高見友一の作品をもって受賞したのではないでしょうか」  會田が熊耳の遠まわしな言い方をずばりと言い直した。 「もしそうだとすれば、なぜ高見友一は純子の受賞に対してなにも言わなかったのでしょう。なにも言わないどころか、彼女を一億円の保険金受取人に指定しました」 「高見友一は自分の余命いくばくもないのを知って、純子に作品を託し、保険金を贈ろうとしたのではないでしょうか」 「純子の言葉によると、二人が会ったのはたった一度だけです。たった一度出会っただけの人間に、作品と一億円を託すものでしょうか」 「身辺に託すべき人間がだれもいなければ、たった一度だけ会った人間でも、可能性はありますよ。一目|惚《ぼ》れということもありますから」 「高見友一が純子に一目惚れしたというのですか」 「男と女です。あっても不思議はないでしょう」 「しかし、仮にそんな事情があったとしても、川名純子は口が裂けても言わないでしょうね」 「言いませんね。せっかくつかんだ名声が泥にまみれてしまいます」 「彼女が保険金を辞退した理由もわかりかけてきましたよ」 「なるほど。生前、なんのつながりもなかった人間の保険金を受け取れば、その理由と一緒に、受賞作の秘密も詮索される危険性がありますからね」 「川名純子にしてみれば、一億円と、せっかくつかんだ社会的地位と名声を引き換えたくないというわけですね」 「となると、川名純子にとっては高見友一の死は痛し痒《かゆ》しということになります。受賞作の秘密が露見する虞《おそれ》はなくなったが、高見友一から受賞作系列の作品を補給してもらえなくなりました」 「補給か……そうだ。もしかすると、友一の遺品の中にまだ作品が残っているかもしれません」 「彼の遺品は警察の管理下に入っていますが、遺作について、もう一度確かめる必要があるようですね」  高見友一の遭難死に事件性が疑われて以来、その居宅は封鎖され、出入禁止の処置が取られている。  遭難の事件性の有無を確認するための処置であるので、川名純子の受賞作との類似性を求めて、高見の遺作に焦点を絞って調べたわけではない。むしろ捜査の焦点は、友一の生前の人間関係に向けられていた。  二人は準捜査本部に高見次男の事情聴取の結果を報告すると、友一宅の捜索押収令状の発付を要請した。      2  川名純子はじりじりと追いつめられている気配を、しきりに感じていた。  保険金の受け取りを辞退して、警察の疑惑を躱《かわ》したとおもったのも束の間、不吉な予感が募っている。  いまにして、保険金を辞退したのはまずかったのではないかと不安が兆した。  せっかく一億円を贈られたのに辞退したのは、受け取る筋合いがないという姿勢をアピールするよりは、受け取っては都合の悪い事情があったのではないかと、べつの疑惑を呼ぶような気がした。  執念深い警察が保険金を辞退したくらいで、いったんかけた疑惑を素直に解くとはおもえない。  辞退すべきではなかったかもしれない。  そんな時期に、常任講師の古谷義彦《ふるやよしひこ》から、 「忙しいとはおもうが、受講生のために特別講義をしてもらえないだろうか。きみはスクールの誇りだ。きみが講義してくれたら、受講生の大きな励みになるとおもう」  と頼まれた。 「私なんか、なにも話すことはありませんわ」 「いやいや、きみの小説観や作家生活のありのままを話してくれればいい。我々ロートルとちがって、現役の生きのいい実作者の小説作法は私も聞きたい」 「先生にそんなにおっしゃられては、穴があったら入りたいですわ」  純子はあまり気が進まなかったが、恩師の要請にやむを得ず特別講師を引き受けた。  受講生はほとんどがかつての同級生である。彼らは純子の出世に大いに刺激を受け、彼女の後へつづこうとしていた。  教壇に立って受講生を見渡した純子は、意外な顔を見いだした。  本村真美子が久し振りに姿を見せていた。いやな予感が胸を走ったが、いまさら降りられない。  純子はなにをしゃべったかよくおぼえていなかったが、とにかく大過なく予定された時間を消化した。  受講生たちはメモを取りながら熱心に聞いていた。真美子の態度も特に他の受講生と変わったところは見られない。  講義の後、質問コーナーに入った。 「受賞作とその後の作品は作風が別人のように異なっていますが、受賞後、受賞作系列の作品を発表していらっしゃらないのは、なにか特別の理由があってのことですか」  受講生の一人が、純子の最も痛い点を質問してきた。  受講生たちの視線が純子の面に集中した。彼らの関心もその点に集まっているのがわかる。 「特に理由はありません。評論家や読者は作風が異なるとおっしゃいますが、作者にとってはべつに作風を変えているつもりはありません。自分の書きたいものを書いた結果が、そのように受け取られているだけです。  しいて言えば、受賞作は作者の突然変異かもしれません。突然変異が受賞したものだから、それ以後の作品が作風が変わったように見えるのでしょう」  純子の答えに、受講生は納得したような表情をした。 「『山の屍』は作者の目が作者の外の世界に向けられ、『猫の昼寝』以後の作品は、その目が内側に向けられているように見えます。『山の屍』の執筆に当たっては取材をされたのですか」  べつの受講生が質問した。 「取材はしました。しかし、取材したものをそのまま書いたわけではありません。作品化するためには取材したものを咀嚼《そしやく》して、完全に作者のものにしなければなりません。作者の外に材を取っても、作品となったときは作者と同化しています」 「同化した突然変異ということですか」  べつの受講生が言ったので、どっと湧いた。  好意的な笑いであったが、純子にはそれが失笑、あるいは嘲笑《ちようしよう》のように聞こえた。 「先生は作風が変わった意識はないとおっしゃいましたが、我々読者にしてみると、やはり『山の屍』のような突然変異作も読みたいとおもいます。ぜひとも今後、あの系列の作品も書かれるようにお願いします」  さらにべつの受講生が言った。  同感のざわめきが会場に揺れた。  純子は『山の屍』系列の作品に対する読者の要求が強いことを感じ取った。  ようやく特別講義を終えると、本村真美子がやって来た。 「とてもいい講義だったわよ。大いに参考になったわ」  と彼女は率直に褒《ほ》めてくれた。  彼女の言葉はまんざらお世辞でもなさそうである。  受講生の顔色を見ても、彼らが満足しているのがうかがわれる。 「久し振りだわね。どうしていらっしゃったの」  純子は刑事が真美子に会いに行ったかどうか尋ねたかったが、抑えた。  もし刑事が彼女の許に行っていなければ、藪蛇《やぶへび》になる虞《おそれ》がある。 「ねえ、警察が高見さんの住居を捜索したらしいわよ」  真美子は純子の胸の内を読んだように、急に声を潜めてささやいた。 「高見さんの家を捜索……どうして」  純子は逆に声の抑制を外して問い返した。 「警察は高見さんの死因に疑いを持っているらしいの。高見さんが山で死んでから、彼の住居を立入禁止にしていたのよ」 「山で遭難したと聞いていたけれど、どんな疑いがあるのかしら」  純子は努めてさりげなく言った。  高見とはただ一度会っただけである。彼に関心を持っていることを真美子に悟られてはならない。 「よく知らないけれど、遭難したときの同行者が暴力団だったみたい。それに高見さんは癌を患っていて、山へ登れるような状態ではなかったということらしいの」  よく知らないどころか、真美子は情報に通じている。純子もそのことは高見自身から聞いていた。  やはり刑事が真美子に会いに行ったのだろうか。 「あなたはどうしてそんなことを知っているの」  おもいきって純子は問うた。 「高見さんのマンションの管理人から聞いたのよ。高見さん、小説を書いていたんですって。警察は高見さんが書き溜めていた原稿を押収したらしいわ」 「どうしてそんなものを押収したの」  純子は自分でも顔色が変わったのがわかった。 「知らないわ。小説に犯人の手がかりが書いてあるんじゃないの」 「それでは、高見さんは山で暴力団に殺されたというの」 「警察はそんな疑いを持っているみたいね。あら、とても顔色が悪いわよ。どうしたの」  真美子が純子の顔を覗いた。 「べつに。なんでもないわ」  真美子はそれ以上、詮索しなかった。  どうやら彼女は刑事が純子を訪問して来た事実を知らないらしい。なにかを知っていて、純子に探りを入れてきたのでもないようである。 「差し支えなかったら、ご住所おしえていただけないかしら」  純子は言った。 「あら、おしえてなかったかしら」 「聞いてないわ。私たち、まだ住所をおしえ合っていないわ」 「そうだったわね。あなたがすっかり有名になって、ご住所が公にされていたものだから、私も住所を交換したとばかりおもっていたわ。実は私、引っ越したばかりなのよ。まだ新しい住所をおぼえていないの。後で連絡するわ」  真美子はさらりと言った。  純子は真美子がなにかの事情で、住所を知られたくないのを悟った。  おそらくスクールの受講申込書にも虚偽の住所を記載しているのであろう。名前も偽名かもしれない。  とすると、刑事はまだ真美子に会っていないかもしれない。  特別講義から帰って来ると、本村真美子から聞いたことが次第に純子を締めつけてきた。  警察が高見友一の原稿を押収したという。  警察が原稿に目をつけたということは、純子の受賞作の秘密を嗅《か》ぎつけたということかもしれない。  高見の遺作を仔細《しさい》に点検されれば、受賞作との類似性を見つけ出されてしまう。  こうなると、純子が保険金を辞退したことが逆効果となって、彼女を締めつけてくる。  警察の疑惑を逸らすための辞退と、だれしもおもう。  受賞作の秘密を引きずり出されれば、純子は破滅する。つまり、純子は高見の疑惑死に対して動機を待つ人間ということになる。  夜、枕に耳をつけて寝ていると、こつこつと刑事の足音が一段と迫って来たように感じられた。      3  高見次男の示唆に基づいて友一の住居を捜索すると、かなりの量の原稿が発見された。  次男の言葉は嘘ではなかったようである。  熊耳は押収した原稿を捜査本部に持ち帰り、會田と手分けして丹念に読んだ。  彼には小説の価値はわからなかったが、遺稿中の『死化山』と題された作品に注目した。  その作品の骨子は、不倫ドライブ旅行に出かけたカップルが、山中で接触事故を起こした対向車のドライバーに因縁をつけられ、ペアの女性がレイプされそうになる。男が反撃してドライバーを殺害、女と協力して山中に埋め、自分が対向車を運転して、現場から遠く離れた山の谷間に遺棄する。  カップルはそのままなに食わぬ顔をして帰り、平常の生活をしている。男には社会的な地位があり、女は銀座の一流クラブのホステスである。  ところが、完全犯罪をなし遂げたと安んじていた二人の前に、意外な伏兵が現われた。彼はたまたま山中の接触事故現場に通りかかった登山者で、事故の一部始終を目撃していた。登山者はカップルの車のナンバーから、男の所在を割り出して、苛烈《かれつ》な恐喝を加えてきた。  男が社会的地位と家庭を守るために恐喝に応じている間に、恐喝者に対する殺意が芽生える。  一方、ペアの女と恐喝者の間に関係が生じて、女は事件のあらましを小説に書いて作家としてデビューするというものである。 『死化山』と『山の屍』を読み比べた熊耳と會田は、この作品が相互に関連しているような気がした。 『死化山』でカップルに殺害された対向車のドライバーを、『山の屍』の暴力団長の狙撃者《ヒツトマン》の位置に置いてみたらどうであろう。 『山の屍』と『死化山』は対をなす作品ではないのか。  熊耳と會田はさらに仔細《しさい》に二つの作品の文体や文章を点検した。そして、二つの作品が同一作者によって書かれたという結論に達した。  川名純子は取材と称して高見友一と会い、彼から託された『山の屍』を自分の作品として応募し、受賞したのである。  だからこそ、川名純子は受賞作の後、『山の屍』系列の作品を書けなかったのだ。  それにしても、自作を純子に託した高見友一は、純子の受賞に対してなぜなにも言わなかったのであろうか。  一億円の保険金受取人に純子を指定したところを見ても、高見の彼女に対するおもい入れがわかる。  純子の申し立てによると、ただ一度会っただけの高見と純子の間になにがあったのかわからないが、高見は自作の中で最も自信のある『山の屍』と、自分の生命で購《あがな》った一億円を純子に贈ったのだ。  高見は純子の受賞を喜んでいたのかもしれない。  二人は準捜査本部に自分たちの発見と結論を披瀝《ひれき》した。 「川名純子が高見友一の作品で受賞したとしても、そのこと自体は高見の遭難疑惑に結びつかないのではないのか。  なぜなら、高見は純子の受賞になんの異議も申し立てていない。異議どころか、一億円の受取人に指定している。つまり、川名純子は高見の遭難疑惑に関わっていないということになるが」  という意見が出された。 「たしかに高見は純子に対して、終始好意的でありましたが、純子にしてみれば、高見は絶えざる脅威だったのではないでしょうか。高見が一言|洩《も》らせば、純子は栄光の頂上から蹴落とされてしまいます。純子の言う取材に果たしてなにがあったのか、純子に確かめることは疑惑の解明に役立つと考えますが」 「川名純子にしてみれば、出世のきっかけと一億円をもらった取材だ。凄い取材だね」  本部長の豊科署長が言った。 「純子は一億円の受け取りは辞退していますが、これも警察の注目を躱すためと考えられます」 「高見次男の容疑は完全に漂白されたのかね」 「次男の容疑は依然として濃厚ではありますが、彼が兄の保険契約を知り得る位置にないことが、容疑のネックとなっています。  また、暴力団員を教唆して、偽装遭難させたという想定も、いささか無理があるようです」 「わかった。川名純子に対して再事情聴取をしてみよう」  本部長の判断によって、川名純子に対する再事情聴取が決定された。      4  豊科署の捜査員から再度面会の要請を受けた川名純子は、くるべきものがきたとおもった。  高見友一の遺作を押収した警察は、純子の受賞の秘密について、なんらかの心証を固めたのであろう。  もうだめだわ。作家として決してしてはならないことを犯した罰を受けなければならない。  絶望に打ちのめされた底から、もう一人の自分が叱咤《しつた》した。 (なにも恐れることはないのよ。警察に受賞作の秘密がわかるはずがない。高見友一から託された作品に、手を加え、自分の文体に丹念に書き改めた。  仮に高見の遺作と受賞作の間に類似性が感じられたとしても、決定的な証拠はないはずだわ。あくまでも知らぬ存ぜぬで押し通せば、刑事も引き下がらざるを得ないわよ)  と励ました。  再度訪ねて来たのは、先日の二人の刑事であった。 「たびたびお邪魔いたしまして申し訳ありませんな」  會田と名乗っていた年配の刑事が、いかにも申し訳なさそうに身体を縮めた。  同僚の熊耳という刑事も面を俯《うつむ》けている。刑事らしい迫力や、押しつけがましさは感じられなかった。  二人の低姿勢に、純子は少し肩の力を抜いた。もしかすると、なんでもないことの再確認かもしれない。 「どういうことでございましょうか。お忙しいのに何度もご足労いただいては恐縮ですわ。電話ですむことなら、電話でお尋ねくださればよろしいのに」 「いえいえ、我々は電話ですむことでも、必ず足を使うことにしています。古いと言われましても、科学捜査や組織捜査の隙間《すきま》を埋め立てるものは人間の足と信じております」  會田が言った。 「先日、お話し申し上げたことに隙間があったのですか」 「先生はご受賞前に、高見友一さんに取材のために一度会ったとおっしゃいましたね」 「申し上げました」 「そのとき、高見さんご自身も小説を書いていると言ってましたか」 「いいえ、全然。高見さんが小説を書いていたのですか」  純子は大袈裟《おおげさ》に驚いたように問い返した。 「実はですね、高見さんの遺品の中から、小説の原稿が発見されたのです」  會田は目配せして、熊耳が携えていた鞄《かばん》の中から分厚い原稿用紙の束を取り出した。 「これは高見さんの遺作のごく一部ですが、この作品のあらすじを我々がまとめてみました。素人の稚拙な文章ですが、ちょっとお目通しいただけませんか」  會田が熊耳から受け取った原稿の束に付けられた数枚の原稿用紙を純子に差し出した。  純子は言われるままに「『死化山』あらすじ」と書かれた三、四枚の原稿を読んだ。  読んでいる間に、顔面が硬直してくるのがわかった。  刑事に反応を見られまいとして努めれば努めるほど、顔が強張ってくる。 「いかがですか。なにかお心当たりがおありですか」  読み終わったころを見計らって、會田が声をかけた。 「いいえ、べつに」  純子は鉄面皮《ポーカーフエイス》を装って首を振った。 「お心当たりがない。そんなはずはないんだが。小説にはまったく素人の我々ですが、先生の御作の『山の屍』と非常に関連性があるような気がするのですがね」  會田と熊耳が純子の面を凝視した。 「関連性……私にはべつに、特に関連性があるとはおもえませんが」 「『山の屍』の失跡したヒットマンと『死化山』の被害者のドライバーが対応しているようにおもいませんか。現場の状況やシチュエーションもよく似ているというよりは、ほとんど同一です」 「そう言われてみると、そのように見えないこともありませんが、べつの作家によるべつの作品の登場人物が対応したり、シチュエーションが類似したりすることはべつに珍しいことではありません。 『山の屍』においては、被害者の素性については作者はまったく触れていません。『死化山』の失踪者と必ずしも対応するとは限らないでしょう」 「『山の屍』ではヒロインの女性弁護士が調査と推理を働かせて、失踪した恋人の行方を追って行きます。そして恋人の車が最後に目撃されたのが、静岡県の山中であることを突き止めます。  彼女は恋人の行方を追って山中を捜索し、ついに恋人の死体を発見します。その現場と、『死化山』の犯行現場の描写が類似しているというよりは、ほとんど同じです。  二作品のその場面を読み比べてみましょう。 『山の屍』では——急傾斜の崖際《がけぎわ》を危うく走っていた自動車道路が、樹林帯の中に水平を取り戻した。ブナの樹林の間に白樺の木の肌が妖精《ようせい》のように光る。  自動車道路から外れて樹林帯の中に歩み入ると、落雷に打たれたらしい、一際太いミズナラの木が立ち枯れている。その周辺に三本のシラカバが屍衛兵のように立っている。  野鳥のさえずりの合間に、流れが近いのか、密度の濃い樹葉が重なり合った奥から潺々《せんせん》たる水音が忍び寄って来る。——  一方、『死化山』では、この場面は次のように描写されています。——険しい崖際を糸のように伝った自動車道路が、ようやく平坦《へいたん》なブナの樹林帯に走り込んで、ドライバーは緊張から解放された。  ブナの樹林の海の中にシラカバの幹が灯台のように点綴《てんてい》する。その場所は自動車道路から少し外れた、立ち枯れたミズナラの大木の根元である。樹齢数百年もありそうな森の巨人は、落雷に引き裂かれたのか、太い幹が真っ二つに断ち割られて、枯死している。その周辺に三本のシラカバが、屍衛兵のように侍っているのが、むしろ森の巨人に訪れた突然死のランドマークのようで痛々しい。——  いかがですか。この場所は同一地点の描写と解釈してよろしいのではありませんか」  會田は純子の面に一直線に視線を射込んだ。  麦畑に立つ農民のように、朴訥な風貌の會田と熊耳が、まぎれもなくいま刑事のマスクを付けていた。 「馬鹿馬鹿しい限りの憶測ですわ」  純子はせせら笑った。 「馬鹿馬鹿しいとおっしゃるのですか」 「そうですわ。ミズナラやシラカバは日本のどこにでも自生していますわ。そんなありふれた場所の描写が似ていたからといって、同一作者が書いたと憶測するのは、とんでもない見当ちがいです。山の中には雷に打たれた木などいくらでもあります。馬鹿馬鹿しくって話にもなりませんわ」 「現場の描写だけから同一作者の作品と推測したわけではありません。『山の屍』の狙撃者《そげきしや》は、——身体そのものが鋭い凶器のように凶悪な気配を放散している。目と唇がデスマスクに切り込みをつけたように細い。眉《まゆ》は太く、右の眉の中央部に刃物でつけたような細い傷痕《きずあと》が走っている。顎が細く尖《とが》り、下唇に黒い黒子《ほくろ》がある。——と描写されています。  一方、『死化山』の被害者は、——能面のような無表情のマスクに、彫り込まれたような細い目と薄い唇がある。濃い眉が三つあるように見えるのは、右眉が中央部の傷痕によって二分されているからである。下唇にシミが浮かび上がっていて、海苔《のり》が付着しているように見える。引き締まった長身から険悪な気配が放射されていて、全身が効率のよい武器のようである。——と書かれています。  多少表現はちがいますが、同じ人物の描写ではありませんか」 「ありふれた表現ですわ。大体凶暴な人物の酷薄な面相の描写は、だれが書いても似てしまいます。細い目、薄い唇、顔の傷痕、凶器のような凶暴な気配、鍛え上げた引き締まった長身、いずれも作家が好んで使う表現ですわ」 「『山の屍』のヒットマンが運転していた車はT社のGS㈼、また『死化山』の被害者が乗っていた車も同じ車種です」 「同じ車種はゴマンと走っています」 「それぞれの作家先生によって、同じ言葉でも漢字にしたりひらいたり、仮名の送り方がちがいますね。『山の屍』とその後の先生の諸作品を見比べてみますと、『山の屍』では〈申込者〉〈取扱〉〈売出〉などは一切送り仮名をふっていないのに対して、その後の作品では申込み者、売り出しなどと送り仮名をふっています。  また〈といった〉〈という〉〈とはいえ〉〈なんといっても〉などは、『山の屍』では〈言〉を用いていますが、それ以外の作品ではすべてひらいています。『死化山』の送り仮名や漢字の用い方は、完全に『山の屍』と一致しています」 「それは文体を変えるために、わざと送り仮名や漢字の用い方を変えたのですわ」 「我々文章の素人はよく誤字を用いますが、作家の先生も時には誤字があるものですね」  これまで沈黙を守っていた熊耳が口を開いて、うっそりと笑った。 「それはだれにでも誤字はありますよ。作家は誤字と承知していながら、その方が感じが出るので、誤字を用いることもあります」  純子はなにか致命的な誤用を犯したような不安に耐えながら言った。 「いいえ、先生の御作品にはほとんど誤字はありません。しかし、『山の屍』には失礼ながらいくつか誤字が散見しています。たとえば〈法定相続人〉を〈法廷相続人〉に、〈電波監理〉を〈電波管理〉、〈政治資金規正法〉を〈政治資金規制法〉、〈違和感〉が〈異和感〉、また、これは我々警察官だからわかるのですが、〈逮捕状の発付〉を〈発布〉、〈勾留〉を〈拘留〉と書いています。  ところが、『死化山』にもまったく同じ誤字が用いられています。これだけの文字がべつの人物の書いた文章で符合するということはほとんどあり得ません。  したがって、我々は『山の屍』と『死化山』が同一人物によって書かれた作品と断定せざるを得ないのです」  熊耳がぴしりと止どめを刺すように言った。  純子は咄嗟《とつさ》に反駁《はんばく》できない。  応募に際して、『山の屍』を丹念に直したつもりであった。だが専門用語が校閲の網を潜り抜けてしまった。  他人の作品を完全に自分のものに変えることはできない。  高見友一の原作に引かれてしまったのだ。どのように直そうとも、しょせん他人の作品は他人の作品である。 「先生、我々は『山の屍』と『死化山』が同工異曲《どうこういきよく》であることを公にする意図はありません。ただ、先生が高見友一から取材したとき、なにがあったのか、知りたいだけです。なぜ高見は先生に『山の屍』の原作を託し、先生を保険金の受取人に指定したのか。その事情を知りたいだけです。先生、高見との間になにがあったのですか」  熊耳と會田がひたひたと肉薄してきた。  純子は追いつめられた。 [#改ページ]  先まわりした死体      1  川名純子の供述は推測された通りであった。その供述は疑惑の解明になんの役にも立たなかった。  純子を高見友一に紹介したという本村真美子が、疑惑を解く鍵《かぎ》を握っていそうであるが、彼女の所在は依然として不明である。  純子が供述した後、熊耳がふとおもいついたように言った。 「高見友一がフィクションではなく、自分が本当に目撃したことを小説に書いたとしたら、どういうことになりますか」 「すると、カップルが接触した対向車のドライバーを殺した現場に高見が偶然来合わせて、事件の一部始終を目撃したということですか」 「そうです。彼は自分が目撃した事実を小説に書いた。そうだとすれば、小説に書かれた現場には死体が埋められていることになります」 「それは面白い想定ですね。小説では、犯人は社会的地位と家庭のある男ということになっています。現場から死体が現われれば、捜査が開始される。そこで目撃者、すなわち作者の口を塞《ふさ》ぐために遭難を偽装して殺したということですか」 「そういう想定も可能ではありませんか」 「しかし、小説はすでに川名純子が発表していますよ」 「純子が発表した『山の屍』には、犯行現場の描写だけで死体を埋める場面は書かれていません。それが書かれているのは『死化山』の方です。犯人が『山の屍』を読んでも、目撃者が書いた作品とは気がつかなかったかもしれません」 「なるほど。そのように考えれば、高見が小説を書いていたことを知らず、高見の口を塞ごうとしたとも考えられますね。しかし、仮に高見が自分の実体験を小説に書いていたとしても、事件の現場を具体的に示す地名が書かれていません。現場を特定できませんよ」 「具体的な地名は書かれていませんが、現場を割り出すいくつかの手がかりはあります。まず山梨県と静岡県の県境にまたがる峠道、ブナの原生林で雷に打たれたミズナラ、その周りに三本のシラカバの木が立っているという手がかりがあります。峠の手前の展望台から見えるのは、たぶん富士山でしょう。また通行車の少ない間道で、その先に一軒家の秘湯があるとも書いてあります。  これだけの手がかりがあれば、かなり場所は特定されませんか」 「ブナは標高六百メートル付近から千五百メートルくらいまでの低山地帯に群生すると言われますが、シラカバは陽当たりのよい亜高山帯に見られます。  しかし、これだけの手がかりで場所が特定できますか」 「山の専門家や地元の人に問い合わせれば、わかるかもしれません。とりあえず地図を見てみましょう」  熊耳が中部地方のロードマップを持ち出してきた。 「静岡、山梨の県境は、東は三国《みくに》峠から始まり、西の端は南アルプスの間《あい》ノ岳《のだけ》近くまでですね。このうち県境にまたがる車の通る道といえば、御殿場《ごてんば》と山中湖を結ぶ一三八号線の籠坂《かごさか》峠、本栖《もとす》湖から富士宮《ふじのみや》に南下する一三九号線、清水—身延《みのぶ》間をつなぐ五二号線がメインルートですね。  このほかに間道がいくつかありますが、両県の奥まったところに秘湯があり、険しい崖を細い道がヘアピンを繰り返しながら糸のように伝い、峠の手前の展望台から富士山が見えるところとなると、絞り込まれてくるのではありませんか」 「富士山を中心とした東半分の県境には秘境はありませんから、除外してよいでしょう。西寄りの県境となると、静岡県最北端間ノ岳付近から南アルプスに沿って南下しますが、梅《うめ》ケ島《がしま》温泉というのがありますよ。ここと身延を結ぶ安倍《あべ》峠が県境にまたがっています」 「車が通れますかね」 「地図にはミミズがのたくったようなヘアピンの車道が記載されていますが、現地に問い合わせてみないとわかりませんね」 「梅ケ島温泉か。いかにも山奥の秘湯らしいですね」  二人は顔を見合わせた。 「現地の特定をひとまず保留しても、もう一つ手がかりがあります」 「もう一つの手がかり……?」 「『死化山』の中で犯人は接触車のドライバーを殺害し、ドライバーが運転して来た車を自分が運転して現場から離れた山の中に遺棄しています。車種もT社のGS㈼と特定されています。もし高見が事実を小説に書いたのであれば、当時、一人の人間が失踪《しつそう》しているはずです。彼の周辺から捜索願が出されているかもしれません。また、遺棄された車が発見されているかもしれませんよ」 「なるほど。当時、捜索願を出された失踪者を照会する必要がありますね」 「もし該当するような捜索願が出されていれば、小説が事実に基づいているという推測に一歩近づきます」  早速、見当をつけた梅ケ島温泉に問い合わせたところ、安倍峠は冬季は閉鎖されており、連休ごろに開通するという。  道は静岡県側が道幅も広く舗装されており、山梨県側は狭く未舗装で、ヘアピンカーブがつづくそうである。  梅ケ島温泉は近年かなり開けてきたが、安倍峠を中心とした周辺には一軒宿の秘湯もかなり残っているという。  山梨側、峠の手前に展望台があって、南アルプスは見えないが、富士山がよく見える。  會田と熊耳は第一候補地を安倍峠においた。  梅ケ島温泉の話では安倍峠は笹《ささ》ノ平《のだいら》とも呼ばれて、峠はクマザサに覆われていて、ブナやカエデ、ヤシオツツジなどが群生している。シラカバも探せばあるかもしれない。ブナやカエデの原生林なので、雷に打たれたミズナラの木もあるかもしれないということである。  だが、地元の人間も小説に書かれた場所を特定することはできなかった。      2  同時に警察庁の家出人手配ファイルに照会した結果、五月十六日、静岡県熱海市のパチンコ店「福助」から、同店従業員|勝又武《かつまたたけし》、二十八歳が無断欠勤をつづけたまま、居所に帰って来ないという捜索願が出されていた。  この勝又の身体特徴が、『死化山』の被害者および『山の屍』の暴力団員にぴたりと符合していた。  勝又武は性格が粗暴で、傷害の前歴が一犯ある。気まぐれで、機嫌のよいときはよく働くが、時どき無断で欠勤して、東京方面に遊びに行ってしまう。  店では、今度もその伝かとおもっていたが、数日しても出勤して来ないので不審におもい、市内の彼のアパートに様子を見に行ったところ、無断欠勤を始めた日から帰宅していないことがわかった。  これまで、これほど長く帰宅しないことはなかった。室内にも荷物が残されたままであり、すぐ帰るつもりで外出したらしい状況である。 「福助」では、消息を絶つ前夜、店長が勝又の客に対する態度を注意したところ、虫の居所が悪かったと見えて口論となった。その翌日から欠勤したので、そのうちに出勤して来るだろうとおもっていたそうである。  だが、勝又は運転免許証は取得しているが、小説に書かれている車は所有していない。  熊耳はレンタカーか、盗んだ車かもしれないとおもった。  彼の推測を裏づけるように、五月十二日、東京から来た観光客が、熱海市内の路上についうっかりキーを付けたまま車を停めて買物をしている間に盗まれたと、届け出ていた。  その車が、小説中の車と一致していた。  勝又武と川名純子、および生前の高見友一との間には、なんのつながりも発見されていない。 「高見友一は若いころ、よく山へ登っていたそうです。  安倍峠は南アルプスへの登山の起点となっています。南アルプスに登った高見が、『死化山』中の設定のような山中の偶発殺人事件を目撃した可能性はあるとおもいます。そして、勝又は犯人のカップルを恐喝して口を閉ざされた……あくまでも推測にすぎませんがね」 「しかし、勝又武の失跡はその推測を裏づける有力な資料ですよ。勝又の特徴と小説の中の被害者の特徴はぴたりと一致しています。想像だけで、これほど具体的に符合しません」  會田が熊耳に言った。 「仮に高見友一が、自分が目撃、もしくは体験した事実を小説に書いたとしても、友一と川名純子が犯人のカップルではないことは確かですね。となると、犯人のカップルはだれでしょうか」 「弟の次男でもなさそうですね。次男はカップルの男にはなれません。兄が弟の犯罪を目撃して、恐喝を加えたという想定は無理があります。それに次男と小説に描かれた登場人物の特徴が一致しません。そのことでちょっと気になる人間がいます」 「気になる人間というと……だれですか」 「本村真美子です。彼女はカルチャースクールに届け出た住所に存在していませんでしたが、川名純子から聞いたところによると、年齢は二十代半ばから後半、化粧と服装が派手な玄人《くろうと》っぽい女性ということでしたね。  一方、小説中のカップルの女は、二十代後半、都会的なマスクで成熟した色香に年季が入っている、と書かれています。なんとなく似ていませんか」 「本村真美子がペアの女……」  熊耳が盲点を視野に入れたような顔をした。 「本村真美子がカップルの一人であれば、高見友一と関わっていても不思議はありません。真美子も友一から恐喝を加えられていたと考えられます」 「本村真美子が高見友一から恐喝されていた片割れであるとすれば、彼女はなぜ川名純子に友一を紹介したんでしょうか」 「友一に女を紹介してくれと頼まれたのかもしれませんよ。真美子としては友一の要請を断れない立場にあった。そこで、スクールの同期生の純子を紹介した。友一と真美子は恐喝者と被恐喝者の間柄ですが、男と女です。二人の間に男女関係が生じて、真美子にほかの女を紹介しろと頼んだのかもしれません」 「つまり、本村真美子が主犯であるパートナーを知っているということになりますね」 「これも憶測ですが、可能性はありますよ」 「それにしても、本村真美子はなぜカルチャースクールに入学するのに、偽りの住所を用いたのでしょうね」 「穿《うが》ちすぎかもしれませんが、高見友一に強制されて女を探しにスクールへ来たのかもしれません」 「女を探しに」  熊耳がはっとしたような表情をした。 「まあ、それほどの意味はなかったとしても、小説を書くのにペンネームを用いるのは珍しいケースではありません。小説を学ぼうとする者が偽名や偽りの住所をスクールに申告したとしても、それほど奇異なことではないのでしょう」 「高見友一が恐喝していたとすれば、彼が死んで、カップルはさぞほっとしたことでしょうね……いや、ちょっと待てよ」  熊耳がなにかにおもい当たったような表情をした。 「熊耳さんもそうおもいましたか。実は私もその可能性を考えてみたのです」  會田が熊耳の表情を読んだように言った。 「高見次男が兄の遭難を工作した犯人像として無理があれば、次男のかわりにカップルを犯人の位置に置けますね」 「そうです。小説の設定では、対向車のドライバーを殺害した男には社会的地位も家庭もあります。もし小説が事実に基づいて書かれているのであれば、犯人にとって、目撃者、すなわち小説の作者は生かしておいては都合の悪い存在でしょう」 「そうか。升田修一と夏川稔は次男とのつながりではなく、カップルとのつながりから動いていたのかもしれませんね」 「そういう推測も可能です。しかし捜査会議は動かせませんね」  會田と熊耳は顔を見合わせた。  事件の目撃者が目撃した事実を小説に書いたという推測は突飛である。その推測に基づいて、高見友一の遭難の犯罪性を証明しようとしている。  勝又武の特徴や、盗難車の車種がたまたま小説の記述と一致しただけでは、捜査会議を傾けるだけの力に足りない。 「『死化山』に記述されている現場から死体が出てくれば、捜査会議を納得させられますね」  熊耳がおもいついたように言った。 「あれだけの手がかりから現場を探し出せるかもしれない」  會田もやる気十分である。 「どうせ勝又武の勤め先と居所は、直接当たらなければなりません。熱海へまわったついでに、小説の現場に足を延ばしてみませんか」  熊耳が提案した。  広大なブナの原生林の中から、雷に打たれた一本のミズナラの大木を探し出すのは藁《わら》の山から針を探し出すようなものであろう。 「けっこう手がかりがありますよ。前に検討したように峠の近くであるのはまちがいないでしょう。車道からもあまり外れていないと考えられます。落雷にあったブナの大木は、そんなに多くはないはずです。三本のシラカバという目印もありますよ」 「しかし、小説の中の記述を信じて、どこにあるとも知れぬ山中の死体捜索に人数を動員するのは難しいでしょう」 「我々だけでやってみませんか」 「我々だけで……」 「そうです。幸いに私は山岳警備隊として山中の遺体捜索に馴《な》れています。出張先ではなにをしようと我々の自由です。二、三日、安倍峠の周辺を探せば、死体が見つからないまでも、土地鑑はつかめます」 「なるほど。雷に打たれたミズナラと、シラカバを見つけ出すだけでも、捜査会議に対して説得力がありますね」  會田も熊耳の提案に乗り気になった。 「現場の捜索の前に、もう一度、升田修一と夏川稔に会ってみませんか。彼らが高見次男の線から来ているのでなければ、べつの線から来ているのかもしれない」  熊耳が示唆したべつの線とは、『死化山』中に登場するカップルである。勝又がカップルに殺されたという想定は、小説が事実に基づいているという推測の中核をなしている。 「私もそうおもっていました。あの二人、特に升田修一は一筋縄ではいきそうもありませんが、なにか感触が得られるかもしれません。もしかすると、本村真美子の居所も知っているかもしれませんね」  會田がうなずいた。      3  升田修一の居所は北新宿のマンションである。  安倍峠の現地を捜索するとなると、出張を二、三日引き延ばさなければならないが、捜査が膠着《こうちやく》しているときは、慌てて帰る必要もない。  熊耳と會田は升田修一のマンションに足を延ばした。  バブル崩壊前の地上げで虫食いだらけにされた地域である。  二人はまず新宿署に立ち寄って、挨拶した。牛尾《うしお》という老練の刑事が二人に応対した。 「升田修一ですか。彼はこの界隈《かいわい》でも悪名高い男ですよ」  牛尾とは過去の捜査で顔馴染である。 「悪名とは、どんな悪名ですか」  暴力団員であるから評判がいいはずはないが、熊耳は悪名の具体的な根拠を問うた。 「升田は大学出のインテリヤクザでして、武闘派軍団に守られて、もっぱら組の資金稼ぎを担当しています。最近のヤクザは頭がよくて、組内で産軍を分けましてね、軍は産を守って抗争などには巻き込みません。一方、産は軍に手厚く保護されて、資金源となっています。合法な隠れ蓑《みの》の下に不良債権の取り立て、派閥抗争で経営陣が揺れている企業の乗っ取り、あるいは手形のパクリなどをして荒稼ぎをしています。経済ヤクザとしては名の売れた男です。  数年前、新宿のラブホテルが暴力団に乗っ取られましたが、その事件にも関わっていたらしい。しかし、とうとうやつの尻尾《しつぽ》を捕まえられませんでした」  牛尾は悔しげな表情をした。  升田の住所に牛尾が案内してくれることになった。  牛尾の相棒の青柳《あおやぎ》刑事も同行した。  新宿にすでに夜が落ち、西口超高層ビル群の窓に灯火が競い、歌舞伎町《かぶきちよう》に多彩なネオンがきらめき立っていた。 「この時間ならば、たぶん家にいるとおもいますよ。あいつは意外に規則正しい生活をしていましてね、夜はたいてい家に帰っています」  升田は四十八歳、娘が一人いるが、すでに結婚している。妻とは数年前に別れて現在、特定の女はいない模様である。  升田の居室はマンション五階の棟末にあった。管理人がいないので、ドアの前まではフリーパスである。  地上げの影響か、空室も多いらしく、マンション全体が無人のように静まり返っている。  目指す五一〇号室の前に立った熊耳らは、升田と書かれた表札の下のチャイムボタンを押した。  だが、応答はない。室内に人の気配も生じない。 「やっぱり留守かな」  熊耳は何度か虚しくチャイムボタンを押しながら、首を傾げた。 「もしかすると、女が来ているかもしれません」  牛尾が言った。  女が来ていれば、居留守を使うかもしれない。  熊耳はチャイムからノックに替えた。  だが、依然としてなんの気配も生じない。ドアに耳を押しつけるようにして中の様子をうかがったが、無人のように静まり返ったままである。  會田が試みにドアを引いてみた。 「なんだ、鍵がかかっていないじゃないか」  會田の手に引かれて、ドアが抵抗なく開いた。  熊耳がドアの隙間から首を入れて、 「升田さん、ご在宅ですか」  と内部に声をかけた。  応答はない。 「鍵をかけずに外出してしまったのかな」 「ずいぶん不用心ですね」 「本人は悪いことをしていても、人間を信じているのですかね」  牛尾が苦笑した。 「おや、椅子が倒れています」  中を覗《のぞ》き込んだ青柳が声を発した。  上がり框《がまち》から狭い廊下につづき、その奥の部屋の床に一脚の椅子が倒れているのが見える。  ちょうど廊下への出入口に当たる箇所で、そんなところに椅子が倒れていては通行の障害になる。  四人は同時に、異常な気配を感じ取った。捜査員の嗅覚《きゆうかく》に訴えるものがあった。 「ちょっと覗いて見ましょう」  牛尾の言葉と同時に、四人は屋内に入った。  廊下の奥が六畳ほどのダイニングキチン、さらにその奥にベランダに面した居室と寝室があるらしい。  ベランダに面した十畳ほどの洋室に入った四人は、一瞬、立ちすくんだ。灯は消えているが、ベランダ沿いのサッシ戸に引かれたカーテンの隙間から繁華街の反映が射し込んで、部屋の中は薄明るい。  絨毯《じゆうたん》を敷きつめた床のほぼ中央に、黒い影が長々と倒れている。  一見して寝ているのではないのがわかる異常な姿勢である。  うつぶせに倒れた頭部の脇《わき》に、黒い粘液状の物質が小さなプールをつくっているのが認められた。  頭髪に隠されて創傷は見分けられないが、プールの液体の源は頭部にあるらしい。  倒れていた影の主は、升田修一であった。 「やられた」  熊耳と會田はうめいた。  彼らは犯人に先まわりされたのを悟った。 「死んでいますね。少なくとも死後二十時間ほど経過している」  さすがに死体を多く見慣れている牛尾が、死体の外観から判断した。  死体は室内用のガウンをまとっている。室内には闘争や物色の痕跡《こんせき》は認められない。  ダイニングキチンの入口に倒れている椅子は、犯人が逃走時に慌てて接触したものであろう。  後頭部の頭髪がべっとりと血糊《ちのり》で固まっている。部屋の主がガウンを着たまま、犯人を室内に迎え入れているところを見ても、顔見知りの者の犯行であることが推測される。  だが、室内に客を接待した痕跡は認められない。これは犯人が犯行後、接待の痕跡を隠したのかもしれない。  死体が横たわっていたのはベランダに面した約十畳の居間であり、テレビ、ステレオ、ソファ、ティーテーブル、また各種洋酒のボトルを並べたサイドボードなどがそれぞれ工夫した位置に配されている。  牛尾が手早く現場の状況を確認すると、本署に連絡を取った。いつの間にか手に手袋をはめている。  所轄の捜査員が犯罪死体の第一発見者になるケースは珍しい。  牛尾の連絡を受けて、目と鼻の先の新宿署から捜査員が続々と臨場して来た。  まず殺人事件と確認した上で、捜査一課に連絡される。  悪名高い暴力団員が殺されたとあれば、動機はまずは暴力団の抗争が疑われる。  だが、被害者は長野県警豊科署に偽装遭難の疑いで準捜査本部が設けられている事件の関係者として、豊科署から熊耳らが事情聴取に赴いて発見されたものである。  捜査は立ち上がりから複雑な様相を呈していた。  間もなく臨場して来た警視庁捜査一課と共に、現場および死体の綿密な観察が始められた。  検視の第一所見によると、死後経過二十時間前後。  死因は頭部挫傷。ハンマー、あるいは玄翁《げんのう》状の鈍器を用いて、被害者の油断を見すまし、背後から後頭部目がけて垂直に振り下ろしたものと推定された。頭蓋《ずがい》が砕けて、頭皮はぶよぶよしている。  丹念な検索にもかかわらず、現場から鈍器は発見されない。  検視後、死体は搬出されて司法解剖に付され、検視の第一所見がおおむね裏づけられた。  犯人は被害者に対して凶器を二度用いている。  第一撃で頭蓋骨が砕け、脳が圧挫されているが、さらに止どめに第二撃が振り下ろされた。  犯人は被害者が絶命したのを確かめてから逃走した模様である。  犯行は七月十七日午前零時から未明にかけて。  被害者の身体に防御損傷や格闘痕跡は認められないというものである。  なお、現場周辺の観察によって、マンション棟末の外壁に取り付けられている非常階段の手すりに、わずかな血痕が認められ、被害者の血液型と一致した。  犯人はエレベーターを用いず、非常階段を伝って逃走したものと推測された。  熊耳や會田にしてみれば、自分たちの推測が裏づけられた意識が強い。  つまり、彼らの推測が正しい方角を指しているので脅威をおぼえた犯人が、先まわりして升田修一の口を閉ざしたという想定である。  事件は殺人事件と認定されて、新宿署に捜査本部が設けられた。  捜査一課から那須《なす》班が捜査本部に参加した。  熊耳と會田は、担当捜査員であると同時に、事件の第一発見者として、担当事件と被害者との関わりを新宿署、および捜査一課から臨場して来た捜査員に解説する破目になった。  那須班のメンバーである棟居《むねすえ》は、過去の捜査で熊耳と顔馴染であった。 「夏川の安否が気遣われますね」  會田がはっとしたように熊耳を見た。  もし彼らの推測の通り、升田が高見の遭難疑惑に関連して殺されたのであれば、同行していた夏川も危ない。 「夏川は事情を知らされていなかったようです。彼はほとんどなにも知らないのでしょう。しかし、犯人がそうはおもわなければ、夏川も危険になる……」  夏川の住所はすでに確認してある。二人は現場の捜査を新宿署と捜査一課に任せて飛び出した。  夏川は中野区のアパートに女と一緒にいた。  突然駆けつけて来た刑事に、女と同衾《どうきん》していたベッドから引きずり出されて、夏川は不貞腐《ふてくさ》れた。 「せっかくのところをすまないが、女といちゃついている場合ではないよ。升田が殺されたよ」  會田に言われて、夏川の顔色が変わった。 「升田の兄貴が殺された……一体、だれが殺《や》ったんです」 「それを調べるために来たんだよ」 「まさかおれを疑っているんじゃないでしょうね」  不貞腐れていた夏川の面が驚きと不安の色で二重に塗られた。 「疑えば疑えないこともないな」 「冗談じゃない。おれは女と一緒にずっと家にいたよ。彼女に聞いてくれ」 「彼女の証言は当てにならないよ。もし疑われたくなかったら、本当のことを言うんだ。あんた、升田が殺された理由について、心当たりはないかね」 「心当たりなんかあるはずがないだろう」 「あんた、高見友一が遭難したとき、升田と同行していたね」 「そのことはもう何度も話しただろう。高見さんが遭難したとき、おれはコースを偵察するために二人より少し先を歩いていたんだ。後ろから升田の兄貴が、高見さんが落ちたと呼びかける声を聞いて引き返したんだよ。だから、高見さんが落ちるところを見ていない。何度言ったらわかるんだ」 「高見友一に生きていられては都合の悪い人間が、升田に頼んで遭難を偽装して突き落とさせたとすれば、今度は事情を知っている升田が黒幕にとって都合の悪い存在になるね」 「すると、黒幕が升田の兄貴を殺したというのか」 「そういう可能性も考えられるよ。黒幕があんたも事情を知っているとおもえば、黒幕にとってあんたも目障りな存在になる」 「冗談じゃねえ。おれはなんにも知らねえ。升田の兄貴から、たまには温泉に浸って、釣りでもしないかと誘われて、供をしただけだよ。そのとき初めて高見さんに引き合わされたんだ」  夏川は顔色を変えた。  升田の死が、會田が指摘したように黒幕の意志であれば、次にその鋒先《ほこさき》が自分に向けられるかもしれない可能性におもい当たったのである。 「もし、あんたが黒幕を知っていたら、正直に話しておいた方が身のためだよ。すでにしゃべってしまったあんたの口を封ずる意味がなくなるからね」 「おれはなんにも知らない。知っていれば正直に話すよ」  夏川は泣くような口調になって訴えた。  會田と熊耳は夏川が本当になにも知らないと判断した。  彼が知っていれば、升田が黒幕に口を封じられた疑いがありながら、黒幕を庇《かば》わなければならない必然性はない。  夏川は本当に怯《おび》えていた。      4  出張先で事件の第一発見者となった會田と熊耳は、出張期間を延長して、第一回の捜査会議に出席した。  捜査会議の焦点は、殺害動機が偽装遭難疑惑事件に関連しているか、あるいはべつの線かという点に絞られた。 「升田修一が豊科署管内で発生した遭難疑惑の関係人物であるとしても、彼の殺害動機を直ちに遭難疑惑に結びつけるのは短絡であるとおもう。  豊科署には準捜査本部が設けられて、目下捜査中であるが、偽装遭難による殺人事件と断定されたわけではない。  會田刑事、熊耳刑事の意見は傾聴に値するが、小説が事実に基づいて書かれたとするのは両君の推測にすぎず、その推測にいささか飛躍があるようにおもう。  川名純子の作品が高見友一の原作に依拠しているとしても、高見が自分自身が目撃した事実を小説に書いたという証明はなされていない。彼の小説がまったくの空想の産物であるなら、作中の人物は架空である。  したがって、升田修一殺しと遭難疑惑を結びつけるのは、想像の産物に殺害動機を求める危険を犯すことになる」  早速、山路《やまじ》が反対意見を述べた。 「山路さんのご意見はもっともであるとおもいますが、高見友一の小説が必ずしも空想の産物とは言えない裏づけがあります。熱海市の勝又武の失踪をめぐる状況は、小説の設定がとうてい想像とは考えられない具体的な一致があります。高見友一は事件を目撃しなければ、勝又の失踪と細かい点でいちいち符合する設定を小説に書けなかったはずです」  牛尾が援護をした。 「勝又の特徴が作中人物に一致していたからといって、勝又が高見の小説のモデルになっているとは限らない。高見と勝又はどこかで知り合っていたかもしれない。  また勝又が失踪した前後に盗まれたという車は、勝又が盗んだと確認されたわけではない。仮に確認されたとしても、同じ車種はゴマンとある。小説に盗難車と同じ車種が書かれていたからといって、作者がモデルにした車が盗難車ということにはならない」  山路はにべもなく否定した。  山路の反論はもっともであり、會田と熊耳にしても、自分らの推測が捜査会議を納得させる説得力に足りないことを重々承知している。  だが、升田から再事情聴取をするために、彼の居宅を訪ね、その死体を発見した會田と熊耳にしてみれば、升田の死も小説が事実に立脚している証拠の一つであった。 「もし升田が豊科署の遭難疑惑事件に関連して殺されたとすれば、高見友一に升田と共に同行した夏川稔も危ないのではないのかね」  那須が言葉を挟んだ。 「升田の死体発見後、間をおかず夏川の所在を探しました。彼は中野区内のアパートで女と同衾《どうきん》していましたが、彼はなにも知らないようです。高見友一の遭難疑惑に関わっているとしても、まったく事情を知らぬまま、高見友一を誘い出す単なる道具として使われていたようです」 「道具としても、夏川も升田と共に高見の遭難疑惑に関与しているのではないのかね」 「その点は我々も夏川を厳しく取り調べましたが、夏川はまったくなにも知らないようです。升田に引き合わされる前は、夏川は高見と面識もなく、遭難が発生したときも、夏川がルートを偵察するために、二人より少し先を登っていました。高見友一が転落したと升田から呼ばれて、転落現場に引き返し、升田と共に西穂山荘へ救援を求めてきたのです」  熊耳が説明した。 「もし高見友一の遭難が、黒幕が計画した偽装遭難であったとすれば、事件の真相を秘匿するために升田修一一人を殺しても意味がないでしょう。遭難の現場には夏川も同行していました。升田が夏川に黒幕の存在を話していないという保証はない……」  那須班の河西《かさい》が発言した。 「黒幕が、夏川が同行していたことを知らなかったのかもしれません。同行者の存在は報道されていません。  仮に黒幕が高見の偽装遭難を仕組んだとしても、升田が夏川を同行することは予測になかったのではないでしょうか。あるいは升田が夏川に話していないという保証があったのかもしれません。升田が夏川に事情を話して協力を求めれば、当然、黒幕からもらうべき報酬を独占できなくなりますから」 「もう一つ疑問があります」  那須班の草場《くさば》刑事が手を挙げた。一同の視線を集めた草場は、 「熊耳さんの説明によると、川名純子が発表した作品は、高見友一が目撃した事件に基づいて書いた小説に手を加えたものだということですが、もしそうなら、事件はすでに公にされており、高見友一の口を閉ざす意味がなくなるとおもいますが」 「友一の遺品の中から大量の未発表の原稿が発見されましたが、高見の遭難疑惑に関わる作品は、遺作の中にあった『死化山』と、川名純子名義で発表された『山の屍』です。しかし、『山の屍』は『死化山』の前編に相当するもので、作者が目撃したと推測される事件そのものは『死化山』に描かれています。  したがって、『山の屍』は作者の推測部分ということになり、『死化山』で描かれた事件の犯人が『山の屍』を読んでも、『死化山』と対をなす作品、つまり自分の犯行の目撃者が書いた作品ということに気がつかなかった可能性があります。あるいは小説に縁のない人間で、『山の屍』をまったく読まなかったことも考えられます」  熊耳の説明に草場がうなずいた。  第一回の捜査会議において、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰升田修一の生前の人間関係、特に暴力団関係の捜査。  ㈪高見友一の遭難疑惑との関連性調査。 [#ここで字下げ終わり]  の二大捜査方針が決定された。  熊耳は川名純子と高見友一を引き合わせた本村真美子の行方を探すべきではないかと提案したかったが、他警察の管轄事件でもあり、升田殺しの動機が小説の設定から発しているかどうか確認されていない段階で、本村真美子を事件に結びつけるのは早計であると山路から一喝食わされそうな気がして、黙していた。  会議が終わった後、棟居が熊耳のところへ来た。 「まだ資料不足なので黙っていましたが、本村真美子という女性の存在が気になります」  とささやいた。  あたかも熊耳の胸の内を見通したような言葉に、熊耳は我が意を得たとばかり、 「本村を小説に書かれているカップルのパートナーに据えてみると、座りがいいのですよ。しかし、小説の登場人物を実在する人間に結びつけるのはなんとしても説得力に欠けます」 「実在の人物とおっしゃいましたが、本村真美子は川名純子が言っているだけで、その存在が確かめられていません。たしかにカルチャースクールには在籍していますが、その住所には該当者はいないのでしょう。素性の不明な本村真美子が川名純子と高見友一を引き合わせていることは重大だとおもいます」 「このところスクールにも姿を現わしませんが、いずれまた現われるでしょう。スクールには彼女が現われたら、直ちに連絡するように頼んでおきました」 「連絡先は私どもの方にしておいていただけませんか。その方が素早く立ち上がれます」  たしかに豊科署に連絡されても、直ちに駆けつけられない。 「そのつもりで牛尾さんにも頼んでおきました」 「さすがは熊耳さんですね」  棟居が感心したようにうなずいた。  熊耳と棟居は山荘管理人強盗殺人事件、およびフリーター殺人事件の捜査(拙作『山』参照)を共同して、たがいの手並みをよく知り尽くしている。 「いえいえ、本庁のお手並みを見習っているだけです」  熊耳は謙遜した。 「私は升田殺しは貴署管内の遭難疑惑に関わっている疑いが濃厚と見ています。小説もさわりの部分だけ急いで目を通してみましたが、想像力では埋め切れない具体的な一致があるとおもいました。小説の中の現場探しと、失踪した勝又武が住んでいた熱海市へこれから調査に行かれるそうですが、私も同行させていただけませんか」  棟居は申し出た。  棟居や牛尾は新宿署の捜査本部における遭難疑惑との関連性を疑っている少数派である。  熊耳らが豊科署における少数派であるだけに、棟居の同行申し出は心強い援軍であった。      5  七月二十一日、熱海に會田、熊耳、棟居の三人が出張した。熱海は夏が全開であった。市内の至る所に海上花火大会のポスターが掲示されている。  市中の目抜き通りにある「福助」は市内でも最も大きなパチンコ店で、店内に託児室や動物預り室があることで話題を呼んだ。  子供やペットを連れている客が、彼らを店の安全な管理に託して、パチンコに専念できるというわけである。  福助はテレビや週刊誌にも紹介されて、全国的に有名になっていた。  刑事らが同店に行ったときは、まだ平日の午前中であったのに、驚いたことに店内は満席であった。  若い女性の客も少なくない。景品交換所の品揃えの豊富さと豪勢さには目を見張った。  オーディオ製品、ブランドものの服、靴やバッグ、化粧品類など、従来のパチンコ景品の概念を覆している。  一見、一流専門店の店頭と見紛うばかりである。  店内には優雅な喫茶室もあって、クラシックのBGMが流れ、軽食やソフトドリンクが摂《と》れる。パチンコ屋の店内とはとうていおもえない。  熊耳は素性を明かして、店の責任者に会いたい旨を告げると、喫茶室へ通された。  ウエイトレスが運んで来たコーヒーを一喫した三人は、また一驚した。専門店顔負けのこくのある香り高いコーヒーであった。  間もなく責任者が現われた。  仕立てのよい上等の背広をまとい、髪を綺麗《きれい》になでつけ、メタルフレームの眼鏡をかけた中年の男が、 「私が店長の富山《とみやま》でございます」  と名刺を差し出しながら小腰をかがめた。  パチンコ店の店長というよりは、銀行の支店長かホテルの支配人といった雰囲気を帯びている。 「突然お邪魔いたしまして申し訳ありません。実は昨年、お宅から捜索願が出された勝又武さんのことで少々おうかがいしたいことがございまして、お邪魔いたしました」  會田が丁重に訪意を述べた。 「勝又君が見つかりましたか」 「いいえ、まだ見つかったわけではありませんが、捜査の資料として広く情報を集めております」 「捜査の資料とおっしゃいますと、勝又君はなにかの事件に巻き込まれたのですか」 「その可能性がないとは申せません。まず、これをお読みいただけませんか」  會田は高見友一の遺作『死化山』の原稿を富山の前に差し出して、 「この箇所ですがね、ここをちょっとお読みください」  と、『死化山』の登場人物の一人であるカップルにからんだ若いヤクザ風の描写部分を指さした。 「濃い眉が三つあるように見えるのは、右眉が中央部の傷痕によって二分されているからである。下唇にシミが浮かび上がっていて、海苔が付着しているように見える」  なにげなく原稿に目を走らせた富山の面に、驚きの色が塗られた。 「いかがですか」 「こ、これは勝又君のことですよ。まさに勝又君そのものだ。この原稿の作者はだれですか。勝又君を知っている人にちがいない」  原稿から目を上げた富山が言った。 「これは小説の原稿ですが、勝又さんそのものの描写である登場人物は、作中で殺されています」 「殺された?」 「あくまでも小説の設定ですが。しかし、小説の登場人物と酷似した実在の人間が行方不明になったということは気になります。勝又さんが他人《ひと》から怨《うら》みを買うようなお心当たりはありませんか」 「彼は仕事はよくするのですが、直情的な性格で、かっとなると前後の見境がなくなることがあります。これまでにも客と何度かトラブルを起こして、今度同じようなトラブルを重ねることがあれば、店に置いておくことはできないと言い渡したばかりでした。彼に前科があるのは知っていましたが、地方都市ではなかなか従業員を確保できないので、使っていたのです」 「勝又さんには特に親しくしていた女性はいましたか」 「特に親しかったという女性はいなかったとおもいます」 「ご家族はいないのですか」 「浜松に生家がありまして、父親と兄がいるそうですが、ほとんど没交渉だったようです」 「入社に際して、身許保証人は取らなかったのですか」 「保証人には一応私がなっています」 「それでは、勝又さんと個人的なご関係がおありですか」 「個人的な関係というわけではありませんが、保証人を厳しく求めますと従業員を確保できませんので、保証人のいない者には私が形式的に保証人になっています」 「トラブルとは、具体的にどんなことですか」 「少し酔ったお客が、玉の出が悪いと因縁をつけたのです。客の方が悪かったのですが、勝又君は客を殴りつけてしまいました。どんな理由があっても、従業員が客に暴力を振るうことは許されません」 「それはいつのことでしたか」 「勝又君が消息を晦《くら》ます前日の五月十一日でした」 「勝又さんが消息を絶ったのは、店長に叱《しか》られたのが原因とは考えられませんか」 「仕事の上で店の者を叱ることはよくあります。それくらいのことで店を辞めたとは考えられません。それに辞めるにしても、給料も残っていますし、失業保険の手続もあります。そういう手続を一切せず、部屋もそのままにして辞めたとは考えられません」 「勝又さんはどちらにお住まいでしたか」 「私どもの社員寮です。と言っても、市内のアパートを店が借りて住まわせております」 「勝又さんは寮に荷物をそのまま残して、消息を絶ってしまったのですか」 「はい。荷物と言っても、入居したときバッグ一つ提げただけの着たきり雀《すずめ》でしたが、身の周りの品をすべて残したまま三日間アパートへ帰って来ないので、捜索願を出しました」  店長から一通り事情を聴いた後、三人は店長に案内されて、勝又が住んでいた社員寮を見に行った。  社員寮は店から歩いて十分の、市内のアパートである。  室内は六畳と四畳半、バス・トイレ付きの、独身社員の住居としては充分な生活環境と言えた。  だが、室内は備え付けのテレビと冷蔵庫があるだけで、家具らしい家具はなにもない。部屋にはすでに他の従業員が入居している。富山が保管していた勝又のバッグを取り出して来た。  バッグの中には五万円弱の現金が入っていた。 「帰って来るつもりで出かけています」  熊耳が言った。 「やはり出先で帰るに帰れない事情が発生したらしいですね」  棟居がうなずいた。 「帰るに帰れない事情とは、『死化山』で書かれているような山中でカップルと遭遇して発生したトラブルによるものと考えたくなりますね」  會田が言った。 「安倍峠の山中から勝又の死体が発見されれば、『死化山』と『山の屍』が事実に基づいて書かれた有無を言わせぬ証拠になりますが、死体が現われないことには説得力に足りませんね」 「市内の盗難車はどこへ行ってしまったのでしょう。せめてあの盗難車が発見されれば、小説に書かれた現場の捜索ができるのですが」 「小説では、カップルの男が運転して、接触現場から遠く離れた山中に遺棄したことになっています」 「一に死体、二にペアの女、三に車が発見されれば、高見友一の遭難疑惑、および升田修一殺しは勝又の失踪と関連性が生じてきますね」  三人のおもわくは共通の輪郭を描いていた。  勝又武の勤め先、および居所を当たって、刑事たちの心証は濃くなったものの、事件の解明に貢献する具体的な資料は得られなかった。 [#改ページ]  瓢箪《ひようたん》から屍      1  七月二十五日午後三時ごろ、長野県上田市内の市道を走行中の一台の乗用車が、前方の路上をよろよろと漕《こ》いでいる自転車の老人にけたたましい警笛を浴びせた。  危なっかしげに自転車に乗っている老人は、突然、警笛を浴びせられて仰天し、倒れそうになった。  そのかたわらをことさら加速した乗用車がすれすれにすり抜けて行った。  乗用車が追い越した後、老人の自転車は車の風圧に煽《あお》られたかのように路面に倒れ、老人は路上に投げ出された。  ちょうどそこへ地元のタクシーが通り合わせた。  タクシー運転手は傍若無人な乗用車に怒り、クラクションを鳴らして停止させようとした。  だが乗用車は、自転車老人が倒れたのを尻目《しりめ》に、逃走しようとした。タクシーは追跡をつづけながら、無線でオペレーターを呼び、轢《ひ》き逃げを目撃したので一一〇番するように頼み、読み取った乗用車のナンバーを伝えた。  タクシー会社の無線オペレーターから轢き逃げ現行犯の通報を受けた管轄署では、直ちに犯行車両を手配した。  間もなく管轄署のパトカーが小諸《こもろ》市方面に向かって走行中の手配車両を発見した。  パトカーが停車を求めると、逃げ出したので、地域のパトカーに応援を求めて追跡した。  映画並みのカーチェイス十分ほど後、手配車両は運転を誤って、側道の溝の中に車輪を落とし、停車した。  手配車両の中には若い男女が乗っていた。 「おれたちがなにをやったって言うんだよ。よぼよぼ爺《じじ》いの自転車が勝手に転んだだけだろう。おれたちはなにも悪いことはしていねえぞ」  車の運転をしていた少年が、逆に抗議をしてきた。 「ほう、爺さんの自転車が倒れたことは知っているのか」  警官に問い返されて、しまったというような表情をした少年に、すかさず免許証の呈示を求めたが、少年は家に忘れてきたと言って免許証を所持していなかった。  不審におもった警官が、念のために車両番号を照会すると、昨年五月十二日、熱海市内で盗難に遭った車であることがわかった。  自転車の老人は幸いにも擦り傷程度ですんだが、盗難車両の無免許運転とあって、少年は厳しい取り調べを受けた。  長野県松本市に住む十七歳の店員で、同乗していた少女は、少年のガールフレンドで、同市在住の、十六歳の高校一年生であった。二人は結婚しようとしたが、親が許さず、駆け落ちしようとして家出をし、本年六月下旬、市域の神社の境内で落ち合ったところ、そこに車が乗り捨ててあったので、それに乗ってあちこち盗みをしながらドライブ旅行をつづけていたと供述した。  捜査員は未成年カップルの無軌道さに呆《あき》れたが、当人たちはけろりとしていて、あそこであの爺いの自転車が倒れなかったならば、まだ楽しい旅行をつづけていられたのにと悔しがった。  だが、二人の供述と車の所有者が出した盗難届は食いちがっていた。  所有者は昨年五月十二日、静岡県熱海市内の路上に停車中を盗まれたと届け出ているのに対して、少年少女はそれより一年以上後の本年六月下旬、熱海市から遠く離れた長野県松本市域の神社の杜《もり》の中に乗り捨てられていたと主張した。  タイムギャップも一年間あったが、盗難届が出された熱海市は少年少女の生活圏とまったく関わりない。  それに二人が供述の通り、放置車を発見したという家出日当日まで、二人の姿は家族や周辺の人間によって確認されていた。  すると、二人以外の何者かが静岡県の熱海市から長野県の松本市まで盗難車を運転して来て、乗り捨てたことになる。  少年は車を運転中、老人と接触していない。警笛に驚かされて転倒して、怪我でもしていれば因果関係が認められるが、ほんの擦り傷で責任を問うほどのこともない。  乗り捨てられた盗難車を無免許運転したことは、占有離脱物横領罪や、道路交通法違反を問う程度に止まるであろう。  だが、この事件は意外な波及をした。  暴走カップルを逮捕した長野県警上田署から照会を受けた静岡県警熱海署では、盗難車両について、新宿署、豊科署から問い合わせを受けたことをおぼえていた。  熱海署経由で連絡を受けた棟居は、盗難車両が発見されたという報告に、緊張した。  ついに小説中に登場する車両が現実に姿を現わしたのである。  熱海署からの連絡を、棟居は豊科署の會田と大町署の熊耳に中継した。 「とうとう出てきましたか」  二人の声は弾んだ。 「出てきましたよ。暴走カップルの供述によると、盗難車が放置されていたのは長野県松本市域の神社の境内だったそうです。所有者が車を盗まれた地点からかなり離れています」 「小説の設定によると、山中でカップルと、殺されたヤクザ者の運転していた車が接触したとなっていますが、小説の設定と同じような接触痕が車に残されていれば、小説のモデルの車である裏づけの一つとなりますね」 「暴走少年少女がパトカーに追跡されて、溝に車輪を落として捕まったということですが、その盗難車両を調べてみたいとおもいます。幸いに盗難車両を確保した上田署は私どもから近いので、所有車に返還される前に、私の目で確かめてみます」  棟居から連絡を受けた會田と熊耳は、早速、署へ向かった。  上田署では會田らの要請を受けて、車を保管しておいてくれた。  會田と熊耳が特に注意して調べたのは、小説に書かれている車体前部の接触部位である。  小説ではカーブの出合い頭に躱《かわ》しきれずに、たがいの車体前部が接触したとされている。  車体を綿密に点検したところ、前部バンパー右端が後方へ曲げ変形、右側前フェンダー、斜め前方からの外力による圧壊、およびボンネット先頭部右側面、内側に凹《へこ》みが認められた。 「この部分の変形や歪《ゆが》みは、パトカーに追跡されて溝に突っ込んだとき形成されたものですか」  會田は上田署員に尋ねた。 「いいえ、車は左側前部車輪を溝に落として停止しましたので、前部右側バンパーやフェンダーが損傷することはありませんよ。パトカーに追跡されて、暴走車が捕まる前にすでに形成されていた損傷です」  上田署員は明確に答えた。  二人はさらに車内を綿密に検索した。そして、運転席の床から一個のパチンコ玉を採取した。パチンコ玉には福助の刻印が打ってあった。  勝又武は熱海市のパチンコ店福助の従業員であった。  パチンコ玉は直ちに福助に送られて、同店の玉であることが確認された。  暴走少年少女に問いただして、二人は熱海市の福助には過去、なんの関わりも持っていないことが確かめられた。  また二人は放置自動車を横領して乗りまわす前に、いかなるパチンコ店にも入っていないという。  パチンコ玉は暴走カップルが車内に持ち込んだものではない。  また盗難車の所有者に問い合わせたところ、熱海市の福助には一度も行ったことがないということであった。  所有者が嘘をつく必要はない。  当該車両が熱海市内で盗まれた当日、消息を絶った熱海市のパチンコ店店員の店の玉が車内から発見された。玉は勝又が盗難車両の中に持ち込んだ疑いが極めて濃厚になった。  パチンコ玉は勝又以外にも車内に持ち込める。だが、小説中の設定と悉《ことごと》く符合していた。ただ、小説では犯人が山中に遺棄したことになっている車が実際は松本市内の神社に放置されていたのが異なっている。  小説の設定を現実に当てはめることを危険視していた捜査本部も、  ㈰熱海市において同日に発生したパチンコ店店員の失踪と車両盗難。  ㈪盗難車両と小説中の車の車種の一致。  ㈫盗難車両に認められた車体の損傷。  ㈬盗難車両内から発見された失踪店員の勤め先のパチンコ玉。  ㈭失踪店員の身体的特徴。  以上が小説の設定と符合したことを無視できなくなった。  高見友一は事実に基づいて小説を書いたと主張する會田説が、にわかに見直されてきた。  高見友一は小説に描いた事件を、実際に目撃した。  勝又武を殺害したカップルは、高見から事件の真相が露見することを恐れて、升田修一を使い、遭難を偽装して高見の口を封じた。升田殺しはその延長線上に発生した。  これが會田らが立てた推測であった。  高見を川名純子に引き合わせた本村真美子が、カップルの片割れではないかと疑われているが、その後、彼女はカルチャースクールに姿を現わさない。  警察が本村に目をつけたことをあたかも察知したかのごとく、カルチャースクールから遠ざかってしまった。 「高見が事実に基づいて小説を書いたとしても、彼が目撃者であるとは限らない。高見自身がカップルの片割れであるかもしれない。あるいはカップルは小説の修飾であって、彼一人が山中で勝又と遭遇して、小説の通りに殺害したとすれば、彼は目撃者ではなく事件の体験者となり、だれからもその口を封じられる必要はなくなる。したがって高見の遭難は偽装ではなく、升田の殺害は高見の遭難とは無関係ということになるのではないか」  山路が異議を唱えた。  高見自身が事件の体験者であれば、會田説は崩れてしまう。  高見は勝又殺害の事件の核心に当たる部分を書いた『死化山』の原稿は手許に留めておいた。  川名純子に託して発表された『山の屍』は、『死化山』の前編に相当し、小説が発表されても、勝又殺しの疑惑を作者へ招かないような安全保障策が講じられている。 「たしかに高見が体験者である可能性もありますが、同じ可能性と確率で、彼が目撃者であったとも考えられます。升田殺しのべつの意図が捜査線上に現われない以上、高見との関わりは無視すべきではないとおもいます。  小説に書かれている事件の現場を探し出し、勝又の死体が発見されれば、升田殺しに新たな局面が開くとおもいますが」  棟居が會田説を支持した。 「小説には現場の地名は書かれていない。小説の中の現場を探すのは雲をつかむような話ではないか」 「地名こそ書かれていませんが、小説の中の描写と、地元の人々に聞き合わせて、ほぼ静岡県と山梨県にまたがる安倍峠の近くにちがいないと推定されています。小説には現場の具体的な目印も書かれています。安倍峠を捜索してはいかがでしょうか」 「仮に死体が発見されても、高見が目撃者であったという証拠にはならないよ」  山路はまだ棟居の主張に与《くみ》しなかった。 「小説では、犯人はカップルという設定になっています。山路さんは小説上の創作と言われましたが、高見が体験したことを書いたとすれば、犯人だけカップルを創作したのは不自然です。高見が体験者であったとしても、パートナー、あるいは同行者がいて、なんの不自然もありません。  すると、パートナーにとっては高見は危険な共犯者ということになり、口を割られては都合の悪い存在になります。パートナーが升田に委嘱して高見の口を封じ、そして升田も消したという可能性は十分考えられます」 「升田に委嘱するくらいなら、なぜパートナー本人が手っ取り早く高見を消さなかったのかね」 「パートナーが直接高見を消せば、直ちに疑われてしまいます。まず升田を使って高見を消し、自分を安全圏に置いて升田を殺したという想定も可能です」 「そうなると、本村真美子という女が黒幕ということになるが」 「本村がカップルの片割れであることは推測にすぎず、確かめられていません。しかし、彼女が高見友一となんらかの関わりがあったことは疑いありません。もし升田と本村の間につながりが発見されれば、一連の事件の関係人物として無視できないでしょう」  棟居の意見は、高見の遭難疑惑と升田殺しの関連性を前提としていた。 「本村真美子が小説中のカップルの片割れであることを否定するものはないが、彼女がもし小説に書かれた殺人事件に関わっているとすれば、川名純子を高見に引き合わせたのが解せない。本村が両人を引き合わせたことにより、高見の小説が川名純子名義で発表されてしまった。たまたまそれは事件の核心を逸れた前編であったが、高見が後編も川名純子に託さないという保証はなかった。  このような矛盾点はあるが、小説に書かれたことが事実に符合している点が多いのは無視できない。  棟居君の主張にしたがって、安倍峠を捜索してみたいとおもう」  那須警部が結論を下した。      2  八月一日、捜査本部の主導の下、山梨県警の協力を得て、安倍峠一帯の捜索が行なわれた。  地元から地理に明るい管轄署の南部署員、および大城《おおじろ》の消防団員が捜索に参加した。  総勢四十三名が、前夜のうちに前線本部とした大城の民宿に集合し、午前九時を期して現場一帯の捜索を開始した。  まず捜索範囲を小説中の描写を手がかりにして、峠から約三百メートル山梨県側の県道に沿った山林一キロ平方に限定し、その結果によって、徐々に捜索範囲を拡大することにした。  捜索地帯はブナとカエデの混生林である。  幸いに台風の発生もなく、天気は今日一日の安定が予報されている。  小説では、死体を埋めた場所はシラカバに囲まれたミズナラの巨木の根元という記述になっているが、ブナの間にシラカバが散在していて、場所を特定できない。  捜索隊は県道を挟む形で、四メートル間隔に二列横隊に並び、それぞれ反対方向に進みながら捜索をした。  捜索隊員一人一人が検土杖を持ち、自分の担当範囲に三十センチ間隔で突き立てていく。引き抜くとき、ツンと鼻腔が刺激されれば、そこに異物が埋まっている証拠である。根気と手間のいる作業であった。  林床にはシダやコケ類が這い、去年の落葉が降り積もっていて軟らかい。高木群の下にはサルトリイバラ、ヒサカキ等の中木が藪《やぶ》を形成している。中低木にはツルがからまっている。  死体が埋めてあれば、当然のことながら、掘り返された土は軟らかい。検土杖を受けつけない地面は捜索対象から外してよい。  捜索に協力した山梨県警は、捜索の成果にかなり懐疑的であった。 「推理小説に書かれた通りに死体が出てきたら、日本中、死体だらけになっちまうよ」 「東京の連中はなにを考えているんだい」 「やってらんねえよ、まったく」  捜索のために狩り集められた地元署員は、口々に不平を鳴らした。  これまで小説から犯罪の存在を予想して、死体を捜索したことはない。前代未聞の捜索である。  正午になっても目ぼしい成果はなにもえられなかった。  昼食後、捜索を続行する。午後になって、今日一日の安定が予報された天候が崩れて、雨が降ってきた。雨の中、捜索はつづけられた。  午後三時を過ぎてもなんの成果もない。一同に疲労が蓄積されてきた。  雨脚はますます濃密になっている。捜索隊員は全員、雨に濡れそぼれ、泥まみれになっていた。  午後三時三十分ごろ、県道より静岡県側、捜索網の最南端に配置された地元消防団員は、落雷にあって幹が途中から真っ二つに折れて立ち枯れている一際太いミズナラの木の根元にたどり着いた。  左右に二本のシラカバを衛兵のように侍らせている。  遠方から潺々《せんせん》たる水音が這い寄って来る。  小説では、ミズナラの巨木を囲んで、三本のシラカバが立っている設定になっているが、落雷の痕跡が新しいところから、小説が書かれた後に落雷があったのかもしれない。  消防団員はミズナラとシラカバの相互関係位置に予感をおぼえた。ミズナラの根元に検土杖を突き立てると、これまでの林床よりも手応えが軟らかい。  ずぶりと入って、地中深く挿入されていく。周辺の土も比較的新しく見えるようである。  抜き取って鼻先にかざした。ツンときた。消防団員は最寄りの仲間に声をかけた。 「あったぞ」  近くから数人の同僚が駆けつけて来た。彼らは手にした検土杖を第一発見者の消防隊員が指さした辺りにてんでに突き立てた。  抜き取った先端を鼻先にかざした各隊員が、反応した。 「まちがいないね」 「死体《オロク》はこの下に眠っている」 「驚いたね。瓢箪《ひようたん》から駒と言うが、小説からオロクが飛び出して来たよ」 「まだ人間のオロクと決まったわけじゃない。獣が埋まっているかもしれない」 「だれがこんなところに獣を埋めるんだね」  早速全員がその地点に呼び集められた。検土杖の深度から、異物の位置は地表から約四、五十センチと推測される。  死体を傷つけないように道具は使わず、対象地点を手掘りで掘り始めた。林間に降りこぼれてくる雨が、掘るかたわらから窪みの底に泥水を溜めていく。  底に溜まった泥水をバケツでかい出しているが、かい出しきれない。  全員泥まみれになったが、もはや文句を言う者はいない。  土の手応えから、その地点が一度掘り返された跡であることは明らかであった。 「気をつけろ。そろそろ出てくるぞ」  捜索隊の指揮を取った地元消防隊の隊長が声をかけた。  かなり掘り進んで、泥水の底に手を突き入れた消防隊員が声をあげた。  指先に明らかに土とは異なる不気味な感触をおぼえた。 「いた」  彼はおもわず声を発した。  異物の輪郭を手探りして、本体を傷つけないように、その周囲からそろそろ掘り進める。  幸いに掘り当てたころから、雨は小降りになってきた。  ほとんど海藻のようにぼろぼろになっているが、死体がまとっている衣類、および骨盤などから、死体の主は壮年の男性と推測された。  死者はベージュ色のセーターに茶のブルゾン、ジーンズにスニーカーを履いている。  発見当時の状況は、頭部最上部が地表約三十センチの土中に埋められており、頭部顔面は白骨化し、背中はすでにミイラ化、屍蝋化が筋肉の深部に及んでいるところから、死後経過一年以上と推定された。  死体は狭い穴の中に、膝《ひざ》と膝の間に頭が押し込まれ、上半身と下半身が二つ折りに折り畳まれていた。  最小限の狭い穴を掘って、死体を無理やりに押し込んだといった状況であった。  白骨化した頭頂部および後頭部に、陥没骨折と亀裂《きれつ》骨折が認められた。  これは立位または座位の被害者を、鈍器を用いて上から下に殴りつけた場合に形成されやすい。  詳細な観察は死体搬出後に行なうことにして、現場では着衣表面に微物採証用テープを用いて微物を採取した後、腐乱死体収容用のビニール袋に着衣のまま死体を収納して、甲府市内の国立山梨病院解剖室に搬送した。死体と共に死体が埋まっていた周辺の土が採取保存された。  死体は、推定年齢二十代後半から三十前後、身長百六十七センチから百七十センチ、身体特徴、および着衣も失踪《しつそう》時の勝又武に一致した。  所持品は、犯行後犯人が持ち去ったらしく、なにもない。  解剖によって、  死因は作用面の限局《げんきよく》された金槌、玄翁、岩石状鈍器の作用による頭蓋骨《ずがいこつ》骨折に伴う脳挫傷《のうざしよう》。  また両手の手骨に防御創とみられる損傷が認められる。  死後経過一年ないし一年三ヵ月。  死者の推定年齢二十代後半から三十前後。  血液型O型。  と鑑定された。  また死者の歯には比較的新しい治療痕が認められたので、同国立病院歯科|口腔《こうくう》科によって、死者のデンタルチャートが作成された。  このチャートを勝又武が生前、齲歯《うし》(むし歯)の治療に通っていた熱海市内の歯科医のカルテと照合したところ、同一人物のものであることが確認された。  ここに、小説中の被害者が実在することが確かめられたのである。  それぞれの捜査本部が色めき立った。小説が事実に基づいていることを、勝又の死体が証明した形である。  ここに山梨県警南部警察署に新たに捜査本部が開設された。  勝又の死体発見に伴って、高見友一の遭難、升田修一の殺害と共に、三件の関連性が濃厚となった。  これまで捜査会議の焦点となっていた黒幕の有無は、いまやほぼその存在が確定的になった。  すなわち高見友一が小説に描かれていた勝又殺しを目撃し、遭難を偽装して殺された後、関係人物の升田が口を封じられたという推測がほぼ裏づけられた。  だが、黒幕の存在は裏づけられただけで、その手がかりは皆目不明である。  小説が事実に基づいて書かれたものであれば、作者は犯人ではあるまい。偽装遭難した高見友一が事件を目撃して小説に書き、川名純子に原稿をあたえたというこれまでの仮説が裏づけられて、偽装遭難の関係人物、升田修一殺しとの関連性はほぼ確定的になった。  連絡会議が開かれた。 「高見友一が書いた小説中の被害者に該当する死体が発見されたからといって、小説の筋立て通りに犯罪が行なわれたことの保証にはならない。要するに、小説中の設定のいくつかがたまたま符合したというだけにすぎない」  山路が異議を唱えた。  つまり、点は符合しても線として結びついていないというわけである。 「しかし、被害者、現場、接触車などの特徴や状況がすべて符合しています。これだけの要素が実在するものと符合していれば、各要素の間につながりがあると考えてよいのではないでしょうか」  棟居が反駁《はんばく》した。  該当する各要素の間に小説としての虚構があるとしても、小説の大筋は事実を模写しているのではないかという意見である。  山路の主張は、勝又の死体の発見に、勇み足になりがちな捜査本部を戒めるものであった。棟居の仮説が裏づけられて、色めき立っている捜査本部の大勢に水をさすものであった。 「小説の設定が事実に基づいているとすると、犯人カップルの片割れに相当する女がちらちらしていますね」  連絡会議に出席した熊耳が発言した。 「本村真美子のことかね」  那須が念を押した。  各捜査本部が気にしている人物である。その後、本村の消息は絶えたままであった。 「犯人にとって、犯行時同行していたパートナーは、高見友一、升田修一以上に危険な存在のはずです。彼女は勝又、高見、升田と重ねた犯行の共犯者か、あるいは犯行の一部始終を目撃しているかもしれません。  パートナーが存在する限り、犯人の身の完全な安全は保障されません」  長野県警豊科署から参加した熊耳の示唆に、議場がざわめいた。  熊耳の言葉は、本村真美子の行方について不吉な連想を誘《いざな》う。 「川名純子はどうでしょうか。彼女は高見友一から原稿をもらって、自分の名前で発表したと供述しています。高見が彼女に原稿をあたえた際、自分が目撃した事実を彼女に話している可能性があります。すると、彼女は犯人がだれか知っていることになります。  高見が原稿をあたえただけで、事実を話さなかったとしても、犯人が話したのではないかと危惧《きぐ》すれば、彼女の安全は保障されないのではありませんか」  新宿署から青柳刑事が発言した。 「犯人は高見が小説を書いていたことを知らなかったはずだ。犯人が小説の存在を知ったのは、川名純子が作品を発表した後のことだろう。それも高見を殺した後のはずだ。もし犯人が小説の存在を知っていたなら、高見一人の口を封じても意味がない。  升田修一を殺害したときも、まだ小説の存在を知らなかったかもしれない。  もしかすると、犯人はまだ小説を読んでいないかもしれない。読んでいなければ、川名純子に手を出すこともあるまい。また読んでいたとしても、小説が発表された後では、迂闊《うかつ》に作者に手は出せない」  牛尾は言った。 「犯人が『山の屍』を読んだとしても、犯行場面は描かれていないのだから、気がつかないのではないか。まして、川名名義で発表されている小説を高見と結びつけないだろう」  山路が言った。山路の言葉は、すでに會田と熊耳の間で検討されたことである。彼もいつの間にか、小説が事実に基づいているという想定に立って一連の事件の関連性を肯定した。  小説は発表されなければ、単なるメモか手記にすぎない。作者が手許《てもと》に留めておく限り、そんなものは犯人にとって脅威にはならない。  本村真美子が高見を川名純子に引き合わせたときは、まだ小説は発表されていない。  発表後間もなく、高見は遭難したが、発表された『山の屍』だけでは、犯人と本村真美子は事実に基づいて書かれたとは気がつかなかったかもしれない。体験者にとっては『山の屍』と『死化山』を合わせて一本となる。  連絡会議によってはっきりした結論は出ないまでも、本村真美子と川名純子の安否が問題になった。  川名の所在は明らかであるが、本村の消息は依然として絶えたままである。      3  川名純子は勝又武の死体発見の報道に愕然《がくぜん》とした。 『山の屍』に設定された現場で、文字通り屍が発見された。しかも死者の特徴は、小説中の被害者の特徴と符合する。  読者や編集者は気づいていないが、警察は察知しているにちがいない。  察知していたからこそ、『山の屍』の現場で被害者の遺体を捜索したのだろう。  彼女を訪ねて来た刑事は、当初、高見友一の死因と升田修一殺害の容疑者の列に彼女を加えていたらしい。  その後、純子は流行作家街道を驀進《ばくしん》していた。『山の屍』系列の作品は一作に止まったが、彼女本来の作品が読者を獲得していた。  最近は『山の屍』の作風とのちがいを指摘する読者はほとんどいなくなった。読者が馴《な》らされてしまったのである。  古谷義彦一人が、 「いまの作風もよいが、『山の屍』系列も忘れないように。あのような骨太のリアルな生々しい作品を女性が書いたというところに、読者に対するインパクトがあったのだから、初心を忘れないように」  と勧告した。  古谷の言葉は彼女の弱いところを的確に衝《つ》いていた。  彼はさらに、 「そういえば、安倍峠で男の死体が発見されたが、なんだか『山の屍』を地でいったような事件だね。被害者や現場の状況が『山の屍』の設定とそっくりだ」  と言い出したので、純子はぎくりとした。彼女が最も恐れていたことを言い出されたのである。 「新聞やテレビのおおざっぱな報道なので、詳しいことはわからないが、改めて『山の屍』を読み直して、この目で現場を見たくなったよ。読者をしてそのような気持ちにさせたのだから、大したものだ。小説が現実を先取りしたサンプルだね」  古谷は褒めたつもりで言っているらしいが、純子は腋《わき》の下にじっとりと冷や汗をかいていた。  もし古谷に現場を確かめられたら、炯眼《けいがん》の彼は必ず『山の屍』が事実を模写したことを見抜くであろう。  古谷が作品と報道の類似性に気がついたくらいであるから、ほかにも気づいた読者がいるかもしれない。  純子は少しずつ追いつめられているような気がした。  その後、警察から音沙汰《おとさた》はないが、死体の発見によって、警察は事実と小説の距離を埋め立てようとしているであろう。  警察の意図が『山の屍』創作の秘密を暴くことにないのは明らかであるが、捜査の結果として、その真相が明らかにされてしまうかもしれない。  純子はべつに盗作をしたわけではない。高見友一からもらった『山の屍』に自分なりの発想を加え、手を入れて発表したものである。  その後の作品はすべて、彼女の創作である。 『山の屍』をもってデビューしたが、現在の地位は自分の作品をもって築き上げた。  作家が他人から提供された素材を用いて作品を練り上げることは珍しくない。  いまは押しも押されもせぬ流行作家である。なにも恐れる必要はない。と自分に言い聞かせるのであるが、心の根底の動揺を防ぐことはできない。  デビュー作が他人から提供された作品であることが公となったら、これまで築き上げた彼女の作家的地位などは、あっという間に崩壊してしまうであろう。  崩壊しないまでも、作家経歴の大きな汚点となるのは確実である。  心の動揺と共に、現場を見たいと言った古谷義彦の言葉がゆらりと立ち上がってきた。  自分も現場をこの目で確かめたい。現場を踏んでいれば、後で問いつめられても、実際に自分自身で取材をしたと言い逃れられる。 『山の屍』の中では地名は一切表示されていない。自分が取材した場所から実際に死体が現われようと、知ったことではない。  作品の構想も現地を踏まえて成ったと言える。  現場を踏もうとおもいたったことで、純子の心は少し軽くなった。  作家の取材旅行には編集者が同行するケースが多い。だが、この取材には編集者を伴うわけにはいかない。  作品が発表された後に現地を踏んだことがわかってしまうからである。取材旅行自体を秘匿しなければならない。  純子が作家として華々しい脚光を浴びてから、夫との関係が逆転していた。  作家になる以前は、夫に放擲《ほうてき》された空虚の埋め草としてカルチャースクールに通い、小説の書き方を学んだ。それまでは純子の存在は夫の眼中にはなかった。  彼女が作家になってから、川名は妻を見直した。妻の中にそのような才能が隠されていたことに新鮮な驚きとショックをおぼえたらしい。  彼はそんな妻を誇らしくおもった。だが、そのときはすでに純子は彼の妻でありながら、妻ではなくなっていた。  これまでは川名の平凡な妻として、夫の眼中にも置かれなかった女が、いまや羽衣をまとって天上を舞っている。それはすでに夫の支配が及ばない遥かなる領域であった。  埋め草として学んだ小説が、夫との間に遥かな距離をつくり、今度は純子の眼中に夫がなくなった。  名義上、夫婦をつづけているが、すでに他人同然である。離婚しないのは、とりあえず離婚すべき理由が見当たらないからである。  夫風を吹かせ、彼女の自由を少しでも束縛するようなことがあれば、直ちに別居するつもりであった。  それをしないのは、川名も純子の胸の内をよく読んでいて、決して純子の自由に干渉するようなことはなかったからであった。  彼にとって川名純子の夫という社会的なステータスが、いろいろと好都合であったからである。  夏山の人出が一応静まった九月上旬、純子はマイカーを駆って安倍峠へ向かった。  都内の馴れた道しか走ったことのない純子にとっては初めての遠出であり、いささか心細かったが、エスコートを伴うわけにはいかない。  川名にだけ、二、三日、取材旅行に出かけると言い残した。 「いよいよ『山の屍』の系列作品の取材かい」  なにげなく言ったはずの夫の言葉が、純子の胸を突き刺した。 「あの系列の作品は一作だけにするつもりよ。どうしてそんなことを言うの」  ややきっとなって問い返した純子に、川名はいささかとまどった口調で、 「『山の屍』系列以外ならば、べつに取材は必要ないとおもったものだからね。べつに大した意味はないさ」  と慌てて言い直した。  たしかに純子本来の作品であれば舞台は重要ではなく、現地取材は必要ない。  作品中に現地はなく、あってもほとんど仮名である。主人公の精神は地上の営為から切り離されて、空間を浮遊している。その浮遊感覚が彼女の作品のエッセンスである。  むしろいかなる現地、地上にも束縛されない登場人物たちの精神の自由な浮遊が、地上の生活の鎖に縛りつけられている読者にとってはべつの美しい惑星の住人のように映じて、圧倒的な支持を博したのである。  その作者が現地取材をしたのでは、読者の幻滅を誘う。  だからこそ、川名は『山の屍』系列の取材かと問うたのである。  純子ははっとした。取材という口実そのものが、『山の屍』を連想させることに気づいたのである。  取材は現地を踏むだけではないが、純子の作品には取材そのものが必要ないのである。しかし、いまさら取材以外の口実を咄嗟《とつさ》に考え出せない。  有名無実の夫に対して、そんな口実を考えること自体が腹立たしかった。      4  山は夏山シーズンが過ぎて、本来の静寂を取り戻していた。  山中深く分け入るほどに、山は夏の宴がようやくお開きとなり、登山者が去った後、足早に迫って来る秋に向かって装いを改めつつある。絢爛《けんらん》と咲き誇った雲表《うんぴよう》のお花畑や賑わった山稜の縦走路に雲の去来が慌しく、山腹を埋めた原生林もダーク・グリーンからオレンジイエローに、コスチュームカラーを変えようとしている。山の衣装替えの先触れとして秋の匂いが風に乗って走る。季節の狭間を埋めるものは、まぎれもなく秋の匂いであった。  死体発見現場の位置は報道されている。  身延町《みのぶちよう》から安倍峠へ向かう道路に入ると、通行車はぱったりと絶えた。対向車もめったに来ない。  峠に近づくほどに山気は深まり、高い山は前山の陰に隠れて見えなくなる。道は屈曲が激しくなった。  報道された現場の略図はかなり大まかなので、果たして探し当てられるかどうかわからない。  だが、正確に現場を突き止める必要はない。現地の大まかな印象をつかむだけで充分である。  イメージによって喚起された作家の意識が創作した現場に、代行取材やガイドブックやビデオから得たディテールで肉づけするのはよくある例である。  峠に近づくとヘアピンカーブが終わって、ブナの樹林帯に入った。環境が『山の屍』の描写に酷似してくる。  勾配《こうばい》が緩やかになって、ブナの樹林帯の密度が一層濃くなった。視野が蒼然《そうぜん》となって、車窓が緑に染められる。  車はあたかも緑の大海の中を漕《こ》ぎ分けていく小舟のようであった。  略図で見当をつけた現場はこの近くのはずである。純子は車を徐行させた。 『山の屍』では——急傾斜の崖際《がけぎわ》を危うく走っていた自動車道路が、樹林帯の中に水平を取り戻した。ブナの樹林の間にシラカバの木の肌が妖精《ようせい》のように光る。  自動車道路から外れて樹林帯の中に歩み入ると、雷に打たれたらしい、一際太いミズナラの木が立ち枯れている。その周辺に三本のシラカバが屍衛兵のように立っている。  野鳥のさえずりの合間に、流れが近いのか、密度の濃い樹葉が重なり合った奥から潺々《せんせん》たる水音が忍ぎ寄って来る。—— (中略)地図によると、コースの最大の難関は踏破して、これから今夜の宿まで森林の中の道がつづく。気を抜いたのがいけなかった。森の中のとある曲がり角で、突然、対向車が現われた  ここで主人公の運転する車が対向車と接触して、相手のドライバーにからまれ、女を守るためにドライバーを殺してしまった。  とあるカーブを曲がったとき、まさに小説の設定のように、突然、対向車が現われた。  まったく対向車とすれちがうことなく山道を独走していた純子は、突然、進路に現われた対向車に愕然《がくぜん》としてハンドルを切った。相手も同じように驚いたらしい。  純子は反射的に回避しながらブレーキを踏み、目をつむっていた。だが衝撃はこない。  おそるおそる目を開くと、両者は間一髪で接触を免れ、停止していた。  際どいところで躱《かわ》したものの、しばらくは動けない。対向車のドライバーも同じような状態に陥っていたらしい。  ようやく立ち直って、そろそろ発進を始めた。対向車のドライバーと目が合った。四十代後半から五十前後と見られる厚みのある男である。  相手と目が合ったとき、純子はどこかで見かけたような顔だとおもった。  そのとき、相手は慌てたようにサングラスをかけた。そのまま両者はすれちがった。  小説では彼が絡んでくるという設定になっている。人里離れた山道で危うく接触しかけた対向車の男にからまれても仕方のない場面である。  対向車がすれちがい、視野から消えると、純子は二重の意味でほっとした。  すれちがってから急に怖くなってスピードを緩め、とろとろと走った。だが、もう新たな対向車は来なかった。  そのとき純子は、ふといまの対向車のドライバーが純子同様、現場を見に来たような気がした。  野次馬が好奇心に駆られて殺人死体の発見された現場を見に来たのであろうか。そういう物好きもいるであろう。  だが、純子はあのドライバーも、純子のように事件になんらかの関わりをもっていて、現場を確かめに来たのではないだろうかとおもった。  純子は彼が咄嗟《とつさ》にサングラスをかけたのが気になっていた。薄い記憶のあるような顔であったが、サングラスをかけられて個性が失われ、薄い記憶も朝日を受けた靄《もや》のように消えてしまった。  彼はなぜ突然サングラスをかけたのか。樹葉が光を遮っている樹林帯の中では、サングラスをかける必要はない。だからこそ、サングラスなしで彼は走行していたのだ。  それが、純子に出会ってサングラスをかけたのは、純子に顔を見られたくなかったからではないのか。  つまり、彼は純子同様に現場付近で人目に触れたくなかった。事件に関心を持っていることを人に知られたくなかったからであろう。  関心を持っていたとしても、警察関係者や新聞記者であれば、人目を憚《はばか》る必要はない。  彼は事件に対して、なにか後ろめたいものを抱えているのであろう。純子のおもわくは急激に膨張した。  純子自身が後ろめたさを抱えているので、同類項のにおいがわかるのである。  彼はきっと事件の関係人物にちがいない。その関わり方に、表沙汰にできないものがあるので、咄嗟にサングラスで目を隠した。  純子自身が顔を隠したかったが、彼女はサングラスも面を被《おお》うものも持ち合わせていなかった。  おもわくを脹《ふく》らませながら車を徐行させていると、路傍に大勢の人間が出入りした痕跡《こんせき》のような踏み跡が認められた。  最近、複数の人間が森の中に出入りしたらしく、踏み跡が車道から密度の濃い原生林の奥へつづいている。  原生林の奥は緑に烟《けむ》っている。シラカバがブナの樹林帯の中に混生しているのが認められる。  純子はここだと確信した。  車を路傍に寄せて停めると、彼女は車外に降り立った。  初めて来た場所でありながら、初めてのような気がしない。作品ですでに諳《そら》んじた風景の実景が眼前にある。地形も同じである。  ブナの樹林帯の中に混生するシラカバ、高山は前山に隠され、密生した原生林が前山の山腹を被い、風景は閉鎖的である。  本来なら藪《やぶ》が生い茂り、歩きにくいはずであるが、多数の人間が出入りした跡が踏み跡となって、原生林の奥へと導く。  小説中のコピー体験がいま実体験と重なり、改めて小説の描写の正しいことをおもい知らされた。  ブナ、カエデなどの落葉樹林帯は緑のコスチュームをまとって見通しを悪くしているが、同時にエネルギーを森林の中に内向させ、進入者に息詰まるような圧迫感をあたえる。  純子は、森林はだれでも許容するように見えるが、絶対に異分子を受けつけない生活共同型社会であるという文章を、なにかの本で読んだのをおもいだした。  自分は森林から受け入れられない異分子なのであろう。  森林にとって死体はどうか。本来はそこにあるべきではない異物を人間が持ち込んだものであるから、森林にとっては迷惑な異分子にはちがいない。  だが、森林の土中に棲息《せいそく》する微生物に食物を供給し、森林の地味を肥やしたかもしれない。  その意味では、一概に異分子とも決めつけられないようである。  ようやく林床の地中に馴染《なじ》み、同化しかけたところで、またまた人間によって掘り起こされ、本来の異分子に返ってしまった。  林床には昨年の落葉が降り積もり、軟らかい。ほのぐらい林床には、高木の梢《こずえ》越しに洩《も》れ落ちてくる日光が間接照明となって杳然《ようぜん》と烟り、樹間にだれかが立っているような錯覚をおぼえる。  林床の至るところに死体が埋められているような恐怖に駆られるが、死体発掘現場に渦に引き込まれるように引かれていく。この引力はなにか。  作家魂と規定するのが一番近いようであるが、自分は『山の屍』の作者ではない。  だが、そのままではだれにも知られず、単なる襖《ふすま》の下書きとして埋もれてしまったはずの作品に、新たな生命を吹き込んだのは、まぎれもなく純子である。その意味で彼女も作者と言える。  作者が作品の核《コア》と言える死体の発見現場を自らの目で確かめたいのは当然である。  突然、立ち枯れたミズナラの巨木のかたわらに、二本のシラカバが立っていた。  ミズナラとシラカバは相互の位置関係が三角形を成している。その中央部に最近、掘り返したらしい新しい土が現われている。  純子はここだと悟った。掘り返された土の底に、当然のことながら死体はなかったが、彼女は死体の幻影を見た。 屍《しかばね》を囲んで立つ二本のシラカバは、屍衛兵《かばねえいへい》のように見えた。  突然、森の中が蒼然と翳《かげ》った。太陽の位置が移動して、山陰に入ったらしい。  これまで彼女を支えてきた作家の好奇心を恐怖が押しつぶした。純子は森の出口、車を停めた場所に向かって走り出した。  現場の引力が失われてみれば、残るは恐怖だけである。  必死に走っても出口にたどり着かない。後ろから死体が立ち上がって追いかけて来るような気がする。  だが、振り返れない。作家の好奇心のなせる業とはいいながら、現場まで入り込めたのが不思議であった。  太陽の光を山陰に遮断されて、樹林帯の中は夕闇《ゆうやみ》が降り積もるのが早い。  見る見る蒼然とたそがれて、足許が危なくなった。  ようやく樹林の間から林道が見えてきた。  ほっとした瞬間、純子の足が林床を這《は》う蔓《つる》植物に取られた。たまらず身体のバランスを失って、転倒した。  だが、林床が軟らかいのでダメージはない。  立ち上がろうとして林床に突いた掌に異物感をおぼえた。  目を向けると、まさにそこに異物があった。ライターである。サービスライターらしく、ライターの本体に店名が書かれている。 「ボンソワール」の文字と共に、電話番号が書かれている。純子にはライターが手の中に飛び込んできたように感じられた。  泥にまみれたライターを無意識に拾い取り、車に戻った。  これから先、未知の林道を伝って峠を越える勇気はない。純子は車をUターンさせた。  ようやく最初の人里までたどり着いて、ほっと一息した。  森の中で拾い取ったライターを見る余裕が生じたのは、それからである。  なんの変哲もない、以前百円ライターと呼ばれたサービスライターである。  ライターは泥にまみれているが、それほど古びていない。  死体が発見されて、複数の人間が森の奥へ入り込んだから、ライターが落ちていても不思議はない。  だが、ライターに書き込まれた電話番号は東京のものである。  現場の捜索に当たったのは地元の警察と消防と報道されていた。彼らがこのライターの落とし主であろうか。  だが、警察や消防ともあろう者が現場近くに不注意に所持品を落とすであろうか。  そうおもったとき、純子は現場近くの林道で危うく接触しかけた対向車のドライバーをおもいだした。  もしかするとライターはあのドライバーの遺留品ではないのか。もし彼が落としたものであるなら、彼も現場に踏み込んだことになる。  ライターが現場に関心を持っていることを裏づける証拠となる。  山道を下りきって、ようやくやや大きな集落に着いた純子は、とある社の杜《もり》のかたわらに車を停めて、携帯電話でライターに書かれた番号をプッシュした。  名前からして、バーやクラブのような感じである。その種の店であると、まだ時間が早いかもしれない。 「ボンソワールです」  意外にすんなりと男の声が応答した。 「あのう、お宅の場所を知りたいのですけど」  純子は咄嗟《とつさ》に言った。 「応募の方ですか」  相手が問い返した。 「はい、そうです」  純子は調子を合わせた。 「銀座並木通りの六丁目です。ゴーデンゲートビルの四階にあります。ママは七時には店に出て来ます」  相手は愛想のよい声で言った。  その種の店は女性が戦力である。せっかく応募してきた戦力を逃すまいとしている姿勢がうかがえる。 「あのう、どんなお客が来るのでしょうか」  純子は相手の勘ちがいを利用して、さらに探りを入れた。 「私どもは創立二十年の、銀座でも老舗《しにせ》です。政界、財界、文壇、画壇、芸能界のお偉方や有名人ばかりです。とにかく面接に来てください。お名前と連絡先をおしえていただけませんか」  脈ありと見たらしい相手の声が粘着力を帯びてきた。 「それでは、近いうちにお店にうかがいます」  純子は相手の質問をいなして、電話を切った。  ボンソワールが銀座六丁目の高級クラブであることがわかった。  ライターは泥に汚れているが、油が充分に残されており、使用可能で、まだ落とされて間もないことがわかる。  純子はライターの遺留主が先刻、山道で接触しかけた対向車のドライバーであることを確信した。 『山の屍』の中では、対向車のドライバーはからんできたが、あの男は慌てて面をサングラスで隠し、逃げるように走り去った。  つまり、彼は現場付近で自分の姿を見られたくなかったのであろう。  純子はその見られたくなかった理由を、死体発見現場に結びつけた。ドライバーは好奇心に駆られた単なる野次馬ではあるまい。  事件になんらかの関わりを持っている人物である。そして、関わりを持っていることを、知られたくなかった。  現場に遺留されたサービスライターの出所を確かめた純子は、どうすべきか帰宅してしばし思案した。  このことを自分一人の胸の内に畳んでおいても、なんの意味もない。  だが、警察に告げれば、彼女が安倍峠へ行った事実が露見してしまう。  露見しても一向に差し支えないのではないか。  作者が小説中のモデルとした舞台を何度訪れようと、べつにふしぎはない。  それはわかっていながら、警察に関わることには抵抗をおぼえる。  純子が行なったことは、なんら犯罪を構成しない。が、他人の作品に自分の名前を冠して発表し、読者を欺《あざむ》いた。作家の倫理の基本を侵したのである。  それが警察に対する後ろめたさともなっている。 「作品というものは、作品そのものが優れていれば、その成立過程に関わりなく、作者から離れた独自の生命を持つものよ」  と言った本村真美子の言葉が突然、耳によみがえった。  純子ははっとした。真美子とボンソワールが意識の中で結びついた。もしかすると、真美子はボンソワールに関わりがあるのではないのか。  おもいたった純子は、再度、ボンソワールに連絡した。  幸いにも先日応答した同じ男の声が電話口に出た。 「先日お電話をした応募者ですが、ちょっとおうかがいしたいことがあります」  純子は言った。 「ああ、先日の方ですね。その後、お見えにならないので、どうしたのかなとおもっていたところです」  相手の声が愛想よく答えた。 「はい、あれから毎日、面接に行こう行こうとおもっていたのですけど、昼間の仕事が忙しくて、つい行きはぐれてしまいました」 「ぜひ一度、面接にお越しください。私どもは午前零時ごろまで店を開いておりますので、気軽に様子を見に来てください」  相手は熱心に口説いた。  創立二十周年の銀座の高級クラブが、これほど熱心に女性の電話に応対するのは、よほど戦力不足なのであろう。 「そのことでちょっとおうかがいしたいのですが、お宅のお店を私に紹介してくれたのは、本村真美子という人です。いま真美子さんはお店に在籍していらっしゃいますか」  純子は問うた。 「もとむら……まみこ……そういう女性は当店にはおりませんが……ちょっと待ってくださいよ。もしかしてマミーさんのことかな」  相手がおもいだしたような口調で言った。 「マミー……マミーとはどなたですか」 「店ではマミーという名前で出ています。本名は小村喜美子さんです」 「こむらきみこ……」  本村真美子と同じ表音が二字ある。しかも真美子とマミー……偽名を用いる場合、本人とまったく関わりない名前を作るよりは、友人や有名人の名前を借用したり、本名を少し変えたりした名前にするケースが多いという。 「その小村喜美子さんは二十代後半の色白で髪が長く、派手なマスクをした人ではありませんか。そうそう、唇の右端に黒子《ほくろ》があってアクセントになっています」 「そうです。小村喜美子さんですよ。小村さんのお知り合いですか」 「カルチャースクールで知り合って、お宅を紹介されました」 「マミーさんのご紹介ですか。彼女は二ヵ月ほど前に辞めましたが、お元気ですか」  相手が問い返した。 「小村さんはお辞めになったのですか。全然知りませんでしたわ。道理でこのごろ連絡がないとおもいました。小村さんの住所か連絡先をおしえていただけませんか。一人では面接に行きにくいので、小村さんに連れて行ってもらおうとおもいます」  純子は抜け目なく面接を出した。そう言えば本村真美子こと小村喜美子の居所をおしえてくれるとおもった。 「ちょっと待ってください。従業員のリストを見てみます」  案の定、相手は言って、電話を保留した。  間もなく相手がふたたび電話口に出て、江東《こうとう》区新大橋の居所と電話番号をおしえてくれた。 「これはマミーさんが辞める前の居所ですから、いまでもここにいるかどうかわかりません」 「辞めた理由はなんですか」 「結婚したのです。マミーさんは私どものトップホステスで、残念でしたが、結婚したのでは仕方がありません。ぜひ一度、店へ来るように伝えてください」  相手は純子との面接をきっかけに、また小村喜美子を引き戻したいようである。  本村真美子がボンソワールに在籍していたことが確かめられた。  これで安倍峠ですれちがったサングラスのドライバーがボンソワール、すなわち本村真美子になんらかの関わりを持っていることが確定的となった。  素人の自前の調査としては上出来であろう。相手も純子の問い合わせを面接者と勘ちがいして、情報をあたえてくれた。  純子はボンソワールのマスターから聞き出した小村喜美子の電話番号を呼んでみた。だが、その電話は現在、使用されていないということであった。  すると、電話番号の居所からも移っている確率が高い。  居所へ行けば移転先がわかるかもしれないが、そこまでするのは純子の手にあまる。  純子はこれ以上、自分一人の胸の内に畳み込んでいられなくなった。  彼女は安倍峠でのサングラスの男との出会いや、それをきっかけに手繰り出した本村真美子の素性を警察に伝えることにした。  純子は事情を聴きに訪問して来た熊耳と會田という朴訥《ぼくとつ》な刑事をおもいだした。  二度会っているが、刑事らしくない田舎の好々爺《こうこうや》と山男のような二人に、好感をおぼえていた。  だが、質問は迫力があり、理論的にひたひたと肉薄して、純子は追いつめられた。とりあえず警察関係者として、この二人がおもい浮かんだ。  純子は名刺をもらっていた豊科署の會田にまず連絡を取った。  純子の話を聞いた會田は、興味を持ったようである。 [#改ページ]  すれちがった現場《げんじよう》      1  川名純子から提供された情報に會田は強い関心を持った。  現場近くの山道ですれちがった対向車のドライバーと、ライターの遺留主とを結びつけたことに短絡のきらいがあったが、本村真美子がサービスライターの贈り主である店に在籍していたということは、耳寄りな情報である。  勝又の死体発見後、現場周辺は丹念に捜索されているので、もしライターが落ちていたなら、必ず捜索網に引っかかったはずである。  件《くだん》のライターは捜索後、川名純子が現場へ行くまでの間に新たに落とされたものであろう。  純子の情報に接した會田は、捜査会議に提出する前に大町署の熊耳に諮《はか》った。熊耳も熱心な興味を示した。  二人は早速、川名純子を訪ねた。  會田と熊耳が川名純子を訪問するのは三度目である。 「あなたが現場で拾得したというライターを見せてもらえますか」  彼らは早速、本題に入った。  純子が差し出したライターに視線を集めた會田と熊耳は、うなずき合った。純子の言う通り、まだ真新しいライターである。 「あなたがこれを現場近くで拾得したのは何日ですか」  會田が問うた。 「九月五日です」 「すると、あなたは現場へ行ったことになりますが、なんのために行ったのですか」  それは純子にとって当然、予想していた質問である。  あらかじめ用意しておいた通りに、 「作品の舞台として設定した現場から、本当に死体が現われたので、自分の目で現場を確かめたくなったのです」 「作家にとっては、作品の舞台は何度でも確かめたいものなんでしょうね」  會田が純子が密かに用意しておいた口実を先取りした。 「それもありますけど、もしかして犯人は『山の屍』を読んでから、作品中に設定された舞台に死体を埋めたのかもしれないとおもったのです。現実の犯人が小説を読んで模倣するというケースは珍しくありません」 「それはないとおもいますよ。推定死後経過時間から考えても、明らかに作品が執筆される前に殺害されています」  會田があっさりと否定した。 「でも、犯人が前に殺しておいた死体を、第一現場から作品中の舞台に移動したということも考えられますわ」 「なぜ、そんなことをするのですか」 「そ、それは、愛読者の心理として、作品を模倣したくなるということもあります」  純子は苦しい言い訳をした。 「なるほど、犯人が先生の愛読者だった場合も考えられますね」  會田が素直にうなずいてから、 「それにしても、相当の愛読者ですね。作品中には地名は一言も書いてありません。作品の記述から現場を特定して、死体を埋めたとすれば……」 「警察も作品の描写を手がかりに現場を割り出したのではございません?」 「警察も先生の作品の熱烈な愛読者ということになりますね」  熊耳と會田が苦笑した。 「先生は危うく接触しそうになった対向車のドライバーとライターの落とし主を結びつけていますが、その根拠はなんですか」  これまで沈黙していた熊耳が問うた。 「慌ててサングラスをかけたので、現場の近くにいたことを他人《ひと》に見られたくないんじゃないかとおもったのです」 「そのドライバーにもう一度会えば、わかりますか」 「自信がありません」  純子はドライバーの顔に薄い記憶があるような気がしたが、おもいだせないので、そのことは黙っていた。 「そして、本村真美子こと小村喜美子とドライバーの間になんらかの関わりがあるのではないかと推測したのですね」 「そうです。ドライバーがライターの落とし主であれば、彼はボンソワールになんらかの関わりがあるとおもいました。小村喜美子はボンソワールで働いていたのですから」 「サービスライターは必ずしも店に関わりがなくとも手に入りますよ」 「その可能性もありますけど、サービスライターなんて、店からもらった人が他人《ひと》にあげるものでもないでしょう。やはりその所有者として最も可能性が大きいのは、店からもらった人ではないかしら」  純子は言った。  川名純子から得た情報によると、小村喜美子はすでにボンソワールを辞めている。  念のために管轄区役所に照会したが、住民基本台帳の記載はなかった。また受持ち派出所の巡回連絡には回答していない。  會田と熊耳は喜美子が住んでいた新大橋へ足を延ばした。  おしえられた住所は隅田川を望む高層マンションである。  喜美子の以前の電話番号はすでに使用されていない。  念のために熊耳がその番号を呼んでみると、現在、使用者がいないことを告げるテープの無表情な音声が返ってきた。  案の定、マンションの管理人は、小村喜美子が二ヵ月前に転居したことを告げた。ボンソワール退社と軌を一にして移転したようである。  賃貸マンションである。 「転居先はわかりませんか」 「べつに聞いていませんね」 「郵便物や宅配便が配達されてきたとき、困るんじゃありませんか」 「受取人居所不明で差し戻しますよ」  管理人はしゃらっとした表情で答えた。 「入居時の契約はどうなっていますか」 「契約書が保存してありますが、ご覧になりますか」 「ええ、ぜひ」  間もなく管理人は別室から賃貸借契約書と表紙に記入された分厚いファイルを持ち出してきた。  管理人が開いて差し出した箇所には、小村喜美子の賃貸借契約書がファイルされていた。  入居年月日は二年前の三月一日、職業はOL、勤務先は中央区銀座六‐××、英《はなぶさ》商事株式会社となっている。  身元保証人は渋谷《しぶや》区代々木×‐××、矢沢圭子《やざわけいこ》である。  入居者、小村喜美子の本籍地は群馬県高崎市××町となっている。 「入居に際して、職業や本籍地の確認はしましたか」  會田が問うた。 「そんなことはしません。規定の敷金や前家賃を支払いましたので、入居してもらいました。その後、家賃の滞納もなく、移転するまでなんのトラブルもありませんでした」  つまり、マンションの賃貸借契約は、規定の家賃を納入さえすれば、だれとでも締結するということである。 「小村さんが入居中、男の訪問者はありませんでしたか」 「訪問者はあったかもしれませんが、特に注意していたわけではありませんので」 「夜間も管理人業務は行なっているのですか」 「いいえ。午前九時から午後五時までです」 「すると、それ以外の時間は管理人さんはいらっしゃらないのですか」 「おりません」 「すると、その間、訪問しても、管理人さんに姿を見られませんね」 「そういうことになりますね」  訪問者は玄関入口|脇《わき》にある入居者のルームナンバーボタン、あるいは管理人の勤務時間帯は、管理人室のボタンを押して玄関ドアを開いてもらう。  管理人のいない時間帯に訪問すれば、姿を見られずに出入りできる。  入居者相互の交際のない都会のレンタルマンションであるから、訪問者の印象はほとんど残らないであろう。  入居に際して家主や管理人は、入居者の身許の確認は取らない。したがって偽名を用いて入居することも可能である。  唯一の手がかりは、身許保証人である。彼らは管理人室から契約書に記入されていた矢沢圭子の電話番号を呼んでみた。  女の声が応答した。相手は矢沢圭子本人であった。 「あなたが身許保証人に立っている小村喜美子さんを探しているのですが、居所をご存じでしたらおしえていただきたいのですが」  會田が素性を告げて、用件を伝えた。  矢沢圭子が電話口で姿勢を改めた気配が伝わった。 「あの子にはずいぶんよくしてやったつもりです。突然、結婚するので辞めたいと言い出されたときはびっくりしました。でも、おめでたいことなので反対するわけにもいかず、お祝いをあげて、本人の好きにさせました」 「辞めた……とおっしゃると、あなたと小村さんはどのようなご関係なのですか」 「あの子は私の店に勤めておりました。マンションの入居に際して、適当な保証人がいないので、なってくれないかと頼まれて、私が保証人になったのです」 「あなたのお店というのは……銀座のボンソワールですか」 「そうです。あの子にはずいぶんよくしてやったつもりなのに、突然、結婚すると言って辞めたまま、電話の一本、葉書の一枚もよこしません。最近の子は本当にドライというのか、恩知らずというのか、なんだか裏切られたような気がします」  同じ言葉を繰り返して、矢沢圭子の口調が愚痴っぽくなった。 「店の経営者自身が身許保証人に立つということは、採用に際しての身許保証人がいないことになりますね」 「入店するとき、形式的に身許保証人を求めますが、事情のある子は身許保証人がいません。あまりうるさくすると店の戦力を確保できなくなります」 「小村さんの新しい住所をご存じですか」  會田は質問の鋒先《ほこさき》を変えた。  ボンソワールのマスターは知らないということであるが、経営者の矢沢圭子ならば知っているかもしれない。 「いいえ、知りません。辞めるとき住所を聞いたのですが、まだ定まっていないので、決まり次第、連絡するということでしたが、その後、なんの音沙汰《おとさた》もありません」 「小村さんの結婚の相手については、なにか聞いていますか」 「本人の口から玉の輿《こし》だと聞いていました。でも、具体的なことはなにも話してくれませんでした」 「つまり、住所もわからない、結婚相手も不明ということですか」 「そういうことになりますわね」 「結婚は口実で、なにかほかの事情で辞めたかもしれませんね」 「私もそのように考えています」 「小村さんがお店にいた間、特に贔屓《ひいき》にしてくれた客や、親しくしていた男性に心当たりはありませんか」 「あの子は、いわゆる男好きのするタイプで、お客様にとても人気がありました。でも、わりあい身持ちの堅い子で、特定のお客と親しくなったということはありません」 「特定の男性はいませんでしたか」 「私の目の及ぶ限りでは、特に仲良くしている男はいなかったとおもいます。でも、私の視野の外ではわかりません」 「小村さんの身持ちが堅かったというのは、あなたの近くに特定の男がいたからではありませんか」 「さあ、見えないところでなにをしていたかわかりませんけど」  圭子は語尾を濁した。 「もし、男がいれば、身辺になんとなくそんなにおいがしたのではありませんか」  銀座で鍛えた矢沢圭子の嗅覚《きゆうかく》に、男のにおいが引っかからなかったとはおもえない。 「あれだけの女の子ですから、男が放っておくはずはないとおもいました。でも、お店の外でなにをしようと、彼女のプライバシーですから、そこまでは詮索《せんさく》できません」 「男がいたような気配はあったのですね」 「マミーの住居に一度も呼ばれたことがありません。同僚も行った者がいません。汚いところだからと言って、自分の家を覗《のぞ》かれるのを嫌っていたようでした」 「ということは、男がいて、居所にその痕跡《こんせき》を見られるのがいやだったということでしょうか」 「男と同棲《どうせい》していたり、密かにつき合っている子は住居を覗かれるのをいやがります」 「お店で小村さん以外に、結婚退職した女性はいますか」 「もちろんいます」 「そういう女性は結婚後、連絡してきますか」 「幸せな結婚をした子は連絡してきますわ」 「すると、幸せではない人は連絡してこない……」 「夫との間がうまくいかなかったり、離婚したりした子は、あまり連絡してきませんね。離婚して、またお店に戻ってくる子もいますけど」 「すると、小村さんからなんの音沙汰もないということは、あまり幸福な結婚をしていないということに……」 「本当に玉の輿に乗っていれば、なにか言ってくるはずです。以前の仲間に知られたくないような生活をしている者は、たいてい音信不通になりますわ」 「小村さんがお店で特に親しくしていた同僚はいませんか」 「あの子は一見、人当たりがソフトでしたが、心を垣根で囲っているようなところがありました。だれとでも等距離につき合っていましたが、決して自分の垣根の中に迎え入れようとはしませんでした」 「それも男がいたせいではありませんか」 「男次第で女は変わりますから」  矢沢圭子の言葉は意味深長な含みを持った。  結局、矢沢も小村喜美子の行方を知らなかった。  會田と熊耳は小村喜美子が入居していた部屋を覗きたいとおもったが、すでにべつの人間が入居していた。  彼女がそこに住んでいた痕跡は、新たな入居者によって完全に塗り替えられ、その消息は絶えている。  新大橋からの帰途、二人の刑事の胸の内に不安が膨張していた。 「前に、一に死体、二にペアの女、三に車が発見されれば、高見友一の遭難疑惑、および升田修一殺しは勝又の失踪《しつそう》と関連性を生じると、棟居さんと三人で話し合ったことがありましたね」  熊耳が言い出した。 「おぼえていますよ」  會田がうなずいた。 「そして、勝又の死体と盗難車が発見された。だが、依然としてペアの女、すなわち小村喜美子の消息は不明です。なんだか、いやな感じがしませんか」 「私もそれを考えていたのですよ。小説が事実に基づいて書かれていれば、いまや犯人の弱みを知っている者はペアの女一人だけということになります。  事実に即して推測してみると、犯人は喜美子を同乗させて安倍峠をドライブ中、勝又の対向車と接触して、勝又に因縁をつけられ、彼を殺害しました。  この犯行の一部始終を目撃していた高見友一から恐喝され、升田修一に委嘱して高見を偽装遭難させた後、升田の口を塞《ふさ》ぎました。  それら一連の犯行のすべてを、小村喜美子は知っています。犯人が犯行を重ねるつど、犯人の小村に対する弱みは大きくなり、彼女は知りすぎた女になりました。いまや犯人にとって唯一最大の脅威は小村喜美子です。彼女を抹消すれば、犯人にとって怖いものはなくなります。  こう考えると、小村喜美子の行方が不安ですね」  二人の捜査員は暗い目を合わせた。  犯人はすでに三人の人間を抹殺している。秘密を知りすぎた四人目を抹殺するのに、なんのためらいもあるまい。  小村喜美子はボンソワールを結婚という口実で辞めた。小村にしてみれば口実ではなく、本当に結婚するつもりであったかもしれない。  犯人にとって小村喜美子は一蓮托生《いちれんたくしよう》の共犯者である。犯人は共犯の女性を釣る餌《えさ》として、結婚を用いたかもしれない。  あるいは小村が協力の見返りとして、犯人に結婚を迫ったかもしれない。  だが、犯人には小村と結婚する意志はない。あるいは結婚できない事情があったかもしれない。  追いつめられた犯人が小村を消した。決して無理でない想定である。 「しかし、犯人にしても、四人も殺す羽目になったのは意外だったでしょうね。小村喜美子の行方はまだ確かめられていませんが、少なくともすでに三人は死んでいる。  第一の殺人は偶発的なものでした。もし犯人が勝又と接触しなければ、高見、升田も死なずにすんだはずです。  また目撃者の高見の口を封ずるにしても、升田を使わなければ第三の殺人は必要なかったはずだ。高見の偽装遭難工作のために升田を使うべきではなかった。  升田は偽装遭難工作のために、夏川稔をアシスタントとして使っています。下手をすれば夏川も事情を知り、彼の口までも塞がなければならなくなったかもしれません。犯人はかなり焦ったのではないでしょうか」 「この一連の殺人は、綿密に計画したものではありません。まず、第一の殺人が偶発的なものであったので、うろたえた犯人が目撃者を暴力団員を雇って偽装遭難させたと考えられます。暴力団を使えば、どんなツケがまわされてくるか、逆上した犯人にはおもいも及ばなかったのでしょう。  偶発殺人から発しただけに、犯人の無計画性が露呈しています。小村喜美子もその無計画性の犠牲になっているかもしれません」 「無計画にしては、小村や升田との関係を完全に秘匿していますね。小村や升田とつき合っていたときは、まだ勝又を殺していないのですから、なぜ彼らとの交際を隠したのでしょうか」 「暴力団員とつき合っていることが表沙汰になれば、決してプラスにはならないでしょう。  また犯人がすでに家庭を持っていれば、小村との関係は不倫になります。べつに計画性があろうとなかろうと、暴力団員や愛人との関係を秘匿してもおかしくありませんよ」 「なるほど。そのような立場にいる犯人であれば、おかしくありませんね。  すると犯人は、暴力団との交際がマイナスになるような社会的地位にあり、家庭を持っていることになる……」 「その可能性はありますね。家庭と社会的地位を守るために、何重もの罪を犯した。犯人の心には救いがないでしょう。もし、まだ小村喜美子が無事であれば、なんとしても彼女の生命は救いたいとおもいます」      2  川名純子は會田と熊耳の訪問を受けた後、釈然としないものをおぼえていた。心のフレームに薄い雲が引っかかって、それが意識を圧迫している。  薄い雲を凝視すると、たちまち雲散霧消してなにも見えない。意識に圧力をおぼえながらも、その正体を見届けられないことがいらだたしく、さらにプレッシャーが募る。そんな悪循環である。  純子の文運はますます隆盛で、いまや流行作家として押しも押されもせぬ地位にある。  いまは彼女がなにを書いても、読者は支持してくれる。編集者はニワトリの尻に笊《ざる》を当てて、生み立てのほかほかの卵を取り上げていくように、彼女から原稿をむしり取っていく。 『山の屍』系列の作品を待望する声も聞こえなくなった。  彼女本来の作品、『猫の昼寝』系列の需要が高まり、その供給だけで精一杯という状況が、読者も編集者も彼女のデビュー作が『山の屍』であったことを忘れさせてしまったようである。  それは純子にとって、最も望ましい方角であった。彼女はもはや『山の屍』系列の作品を必要としなくなっていた。  事情を知っているのは刑事だけである。だが、彼らは受賞作の秘密を公にはしないだろう。  仮に刑事が洩《も》らしたとしても、もはや彼女の文壇における地位は微動だにしないだろう。  刑事たちが訪問して間もなく、純子は出版社から送られてきた掲載誌のページを開いた。作家にとって心が躍る瞬間である。  自分の作品に対する社会的評価の最初の最も具体的な形が掲載誌である。  掲載誌の扱い方、目次における位置などによって、出版社の作品に対する評価と意気込みがうかがわれる。  純子は目次の扱いも第一等であり、巻頭に飾られている自作を確かめて満足した。  自作の待遇を確認した後、ぱらぱらとページを繰った。  グラビアにある新人賞授賞パーティの写真が載っていた。晴れがましげな受賞者を囲んで先輩作家や、受賞者の友人たちが祝杯をあげている。純子にもおぼえのある場面であった。  純子の目は、受賞者を囲んだ一人の顔に固定した。その顔に記憶があった。  純子はグラビアの解説を読んだ。  受賞者の高校時代の同窓である衆議院議員の本宮勝寿《もとみやかつとし》氏も駆けつけて来て、受賞会場は時ならぬ同窓会の観を呈した。……  解説を読んだ純子は、凝然となった。安倍峠ですれちがった対向車のサングラスの男が、新受賞者の同窓生としてグラビアにおさまっている。  サングラスの男の素性が意外なところから割れたのである。サングラスの男は政治家であった。  安倍峠ですれちがったとき、純子に薄い記憶があったのは、それ以前に政治家としてマスコミに顔が出ていたからであろう。  小村喜美子の変名、本村真美子の一字は本宮から借用したのかもしれない。  純子は早速、本宮勝寿について調べた。  本宮勝寿は現在四十九歳、S県第一区選出。当選五回。  東京のT大学卒業後、S県の地方新聞社に入社し、新聞記者生活数年後、S県議に当選。S県議を経て中央政界に打って出、政権党民友党に属して、常に主流協力の立場を取りながら、党内若手として力を蓄え、衆院議運委員長、党国際局長、党政策審議会副会長などを歴任した後、民友党を離党して新党を結成、その幹事長におさまった。その後、ふたたび民友党に復党し、内閣官房副長官。変幻自在の変わり身の早さは、政界の忍者と渾名《あだな》されている。  サングラスの男の正体を知った純子は、直ちに會田からもらっていた彼の携帯電話に連絡した。 「それはまちがいありませんか」  會田は確認した。 「まちがいありません。はっきりとおもいだしました。安倍峠ですれちがったサングラスの男は、本宮勝寿です」  純子は自信のある口調で断言した。  川名純子から意外な情報を提供されたとき、會田と熊耳はまだ東京に留まっていた。  小村喜美子の新大橋の前居所を訪ねた後、新宿署に立ち寄ったとき、純子からの連絡を受けた。  サングラスの男の意外な素性に、會田、熊耳ほか、牛尾や青柳など、新宿署の捜査員たちも強い関心を寄せた。  早速、本宮勝寿に関する資料が調べられた。  S県内を本拠とする平安興業を設立、社長に妻を据え、実弟や叔父《おじ》などを取締役に連ねる本宮の完全ファミリー企業の実権を握った。  平安興業の業態は県内、および近隣県にゴルフ場、映画館、飲食店などを経営するかたわら、不動産の賃貸なども取り扱っている。  主力の映画館がビデオに食われて低落した上、ゴルフ場、飲食関係も猛暑で海水浴に奪われ低迷、加えて県内に開業したホテルの開業費用が金融収支を悪化して、赤字を拡大しているという。  消息筋の話によると、本職の政治活動よりも金策に追われているそうである。 「本宮勝寿は新聞記者時代、出入りをしていたS県の素封家であり、県議会議長を務めた本宮|新一郎《しんいちろう》の知遇を得て、その女婿となり、地盤を引き継いで県議に当選したのが開運の始まりです。したがって、本宮勝寿はそのファミリー企業、平安興業の社長をしている妻に頭が上がらない。  もし本宮と小村喜美子が関係を持っていたら、彼女は絶対に秘匿しなければならない存在でしょうね」  青柳が言った。 「小村との関係も人目を憚《はばか》りますが、それ以上に政府の要路にある身が、暴力団員と交際があった事実が明るみに出たら、本宮の政治的生命にも関わるでしょう」  熊耳が言った。 「川名純子の証言では、安倍峠の近くで本宮勝寿とすれちがったというだけにすぎません。それは本宮が小村喜美子や升田修一と関わりを持っていたことにはなりません。彼らの関係の有無を、さらに確認する必要がありますね」  牛尾の口調は慎重であった。 「まず、本宮勝寿、小村喜美子、升田修一の三人の関係を確かめた上で、捜査会議に提出しましょう」  會田が言った。  川名純子が提供した情報は、いわゆる未確認情報である。純子は断言したが、一瞬のすれちがいにおける同一人物認識の確率は極めて低いと言わざるを得ない。  裏づけのとれぬまま捜査会議に提出すれば、まず山路刑事によって叩《たた》きつぶされてしまうであろう。  身辺内偵捜査は本人のプライバシーに及ぶので、捜査本部の許可を取りつけるためには、捜査会議を説得しなければならない。  そのためには川名情報の最小限の|裏づけ《ウラ》を取っておかなければならない。  會田と熊耳は牛尾らの協力を得て、三人の関係の確認のための聞き込みを始めた。  これまで升田の人脈には本宮勝寿は浮かび上がっていない。小村喜美子の人脈についてはほとんど手つかずである。  だが、本宮勝寿の身辺には升田と小村の痕跡《こんせき》が残っているかもしれない。  改めてボンソワールに聞き込みをしたところ、同店のホステスおよび店長が、本宮勝寿が過去、同店に何度か来た事実があることを認めた。  政治家は人目を憚り、銀座ではあまり飲まない。名前と顔の売れている政治家は、もっぱら赤坂、築地、向島などの高級料亭に馴染《なじ》みの妓《こ》を呼び寄せて、差しの座敷遊びをする。  銀座のホステスは蜂の一刺し事件以来、政治家が敬遠するようになった。  だが、本宮がボンソワールに数回来た事実は、小村喜美子との間に接点を生じさせた。  同僚ホステスたちの証言によると、小村は何度か本宮の席に付いたことがあるという。  一方、升田修一の身辺を再度調査した結果、彼と高見友一が平安興業の経営するS県のカントリークラブのメンバーシップであることがわかった。  小村、升田両人とも、本宮勝寿に接点を持っていた。  會田、熊耳、牛尾らは、発見した二つの接点に力を得て、川名純子情報を捜査会議にかけることにした。      3  本宮勝寿の浮上に、捜査会議の雰囲気は緊張した。  現政権の中枢に位置する有力政治家の登場に、上層部も緊迫した表情を集めている。下手をすれば政治家の名誉を傷つけ、捜査そのものを叩きつぶされかねない。 「たしかに接点と言えぬこともないが、小村のクラブに出入りしていたことが、そのまま小村と本宮の関係を裏づけることにはならない。  また升田がたまたま本宮のファミリー企業の経営するゴルフ場のメンバーシップであったというだけで、接点と言うには弱いのではないか」  案の定、山路が反駁《はんばく》してきた。 「たしかにそれだけでは特定の接点とは言い難いですが、川名純子が安倍峠ですれちがった人物を本宮と認識しており、しかも現場近くでボンソワールのライターを拾っています。それぞれの接点は弱くとも、これだけの状況証拠が揃《そろ》えば、彼ら三人の間になんらかのつながりがあったと見ても差し支えないのではないでしょうか」  牛尾が會田や熊耳の意見を代弁した。 「川名純子がすれちがった対向車のドライバーは、彼女一人の証言に頼っているだけで、その信憑性《しんぴようせい》は弱いと言わざるを得ない。もしそのドライバーが本宮でなければ、ボンソワールやゴルフ場の接点は、接点ですらなくなってしまう。  また仮に川名がすれちがったドライバーが本宮本人であるとしても、彼がライターの遺留主であるとは限らず、現場に興味を持って確認に来たということにはならない」  山路は再反駁した。 「川名が安倍峠ですれちがったドライバーが本宮ではなかったとしても、ボンソワールおよびゴルフ場の接点はやはり無視できないとおもいます。ボンソワールとゴルフ場の接点に共通している人物は、いまのところ本宮勝寿一人です」 「とは限らないだろう。それはまだ調査が及んでいないというだけで、それぞれ不特定多数の人間が出入りする銀座のクラブとゴルフ場に、本宮以外に関わっている人物の存在は充分に考えられる」  山路は一歩も引かなかった。  会議は山路と牛尾の討論をめぐって紛糾した。だが、大勢は牛尾の意見に傾きかけている。  管理官の警視が現場捜査のキャップである那須の意見を求めた。 「双方の意見はいちいちもっともだが、牛尾君の主張するように、本宮勝寿の浮上は無視できないとおもう。本宮の政治的、社会的、また個人的な立場上、升田と小村との関係は細心に秘匿していたことが考えられる。  また川名純子の一瞬のすれちがいによる本宮の同一性認識度は不確実であるとはいうものの、本宮の特徴を捉《とら》えた証言も無視はできない。  さらに三名の接点を掘り下げるべく、慎重な身辺内偵捜査を行ないたいとおもう」  と那須は言った。  那須の言葉が会議の結論となった。  ここに本宮勝寿の身辺内偵捜査が決定された。捜査本部長はくれぐれも慎重な姿勢をもって内偵捜査に臨むようにと、注意を添えた。 [#改ページ]  最大の脅威      1  本宮勝寿の捜査線上への浮上は、しばらく沈滞していた捜査本部に活気をあたえた。捜査の触手は本宮の身辺に延びた。  身辺内偵捜査を始めるに当たって、熊耳が面白い点に着目した。 「小説の設定では、犯人と女が乗った車は山梨県側から静岡県に向かって走行していたと推測されます。犯人と女は前夜、山奥の温泉宿に泊まり、そこで間道の奥に取って置きの秘湯があるという情報を聞き込んで、向かう途中、被害者の車と接触して、被害者にからまれ殺害したという設定です。とすると、犯人と女の痕跡が、前夜泊まった山奥の温泉宿に残っているかもしれません。  これまで小説に則《のつと》っての捜査の結果、勝又の死体、小村喜美子、そして勝又が盗んだ車が次々に発見されました。これは小説が事実に基づいていることの裏づけです。犯人カップルの前後の行動はわかりませんが、カップルを脅迫して聞き出すことはできます。二人が過ごした山奥の温泉宿も実在するかもしれません。その温泉宿を探してはどうでしょうか」 「それは素晴らしい着眼ですよ」  會田や牛尾も乗ってきた。  早速、安倍峠一帯の地図が広げられ、山奥の温泉宿が検討された。  安倍峠を中心に、最も近い温泉は山梨県側に身延《みのぶ》温泉、静岡県側に梅《うめ》ケ島《がしま》温泉がある。  身延温泉は地理的に山奥の温泉宿とは言い難い。梅ケ島温泉の方が安倍川最源流の海抜一千メートルに近い峡間に湧いて、いかにも山奥の温泉宿というイメージがある。  だが、実際には静岡市からバスが通じ、旅館も三百人を収容できる大旅館ほか数軒があって、けっこう開けているようである。  彼らは地図を睨《にら》みながら、安倍峠を中心にした山奥の温泉を拾い出した。  山梨県側には船山《ふなやま》温泉、十枚荘《じゆうまいそう》温泉などが安倍峠に近い。いずれも山間の一軒宿である。  また静岡県側になると、梅ケ島から少し離れてしまうが、ずっと南に油山《あぶらやま》温泉、途中から井川《いがわ》湖の方角に逸れて口坂本《くちさかもと》温泉などがある。  取って置きの秘湯を目指したとすると、この辺を狙って峠越えをしようとしたらしい。  山梨県警の協力を得て、犯人と同行女性の足跡が最も残っている可能性の大きい安倍峠に近い一軒宿の温泉に捜査の触手が延びた。  そして、彼らは満足すべき成果を得た。  ここに本宮勝寿に対する任意同行要請の検討が行なわれた。  国会議員は国会会期中は原則として逮捕されないという不逮捕特権を持っている。だが、現在、国会は閉会中である。  本宮の自供を得て逮捕する場合も、議院への許諾請求の必要はない。  捜査会議での検討の結果、 [#ここから改行天付き、折り返して2字下げ]  ㈰小村喜美子との関係が確認された。  ㈪升田修一、および高見友一と交際があった。  ㈫安倍峠で川名純子に姿を見られている。  ㈬勝又武が失踪《しつそう》後間もなく、マイカーの右ヘッドライトひび割れ、前部バンパーゆがみ、右側前フェンダーつぶれ、ボンネット右側面スクラッチ(引っかき傷)の損傷を、浦和市内の自動車修理工場に修理を依頼している。 [#ここで字下げ終わり]  等から、本宮勝寿が一連の事件に関わっている状況があるものとみて、まず任意同行を求め、事情を聴くことに決定した。  九月二十五日午前七時、浦和市の本宮の自宅に赴いて任意同行を求めることになった。  同日朝、七時に本宮家近くの児童公園に集合した捜査一課、新宿署、浦和署、豊科署、大町署の混成部隊は、午前七時少し過ぎ、本宮勝寿の自宅を訪問した。  彼の在宅は前日からすでに確認してある。  本宮はまだベッドの中にいた。  本宮は早朝、捜査員の大挙しての訪問に、衝撃を受けた様子である。だが、大物代議士としての余裕を演技しながら、 「これはまた大袈裟《おおげさ》なことだが、一体、どんな大事件が出来《しゆつたい》したのかな。私は選挙違反などはしたおぼえはないが……」  と苦笑してみせた。 「選挙違反ではございません。我々が担当しております殺人事件について、先生から少々事情をうかがいたいことがございまして、署までご同行いただきたいのですが」  慎重を期して捜査員一行に加わった那須警部が、丁重に要請した。 「ほう、殺人事件とは穏やかではないな。もちろん長官や総監も承知の上のことだろうね」  本宮はそれとなく自分の影響力を示威して、恫喝《どうかつ》した。 「それほど深刻な問題ではございません。少々おうかがいすれば、すむことです」  那須の言葉は意味深長である。事件そのものがさしたることではないと暗示するようにしながら、そんな些細《ささい》な事件に本宮を引き出すことによって、彼の大物としての矜持《きようじ》をさりげなく損なっている。 「身支度するまで、ちょっと待ってもらおう」  本宮は尊大な口調を取り戻していた。 「ご朝食は用意してあります」  すかさず那須が言った。つまり、朝飯前には帰れないぞとほのめかしている。  間もなく身支度をして出て来た本宮勝寿を囲んで、捜査員グループは任意性を考慮して、新宿署の近くのホテルに部屋を取り、そこで事情を聴くことにした。  那須の言葉通り、朝食が用意されていたが、本宮は箸《はし》をつけなかった。  本宮の事情聴取には那須警部が当たり、會田、熊耳、牛尾が補佐についた。 「先生には早朝からご足労いただき、恐縮でございます」  那須はまずは低姿勢に切り出した。 「警察の幹部とはよく会食をするが、殺人事件の捜査本部から朝食を振る舞われたのは、さすがの私も初めての経験だよ」  本宮は余裕を見せたつもりで苦笑した。 「先生のお口には合わないとおもいますが」  百戦錬磨の那須は、本宮の見せかけの余裕を見破っている。 「ご多忙のお身体でしょうから、お手間を取らせたくありません。早速お尋ねしますが、升田修一をご存じですね」 「ますだしゅういち」 「暴力団三矢組系一竜会の幹部です。七月十七日、北新宿のマンションにある自宅で殺害されました」 「さあ、突然言われても、多数の人間と毎日会っているので、おもいだせないが……」  本宮は巧妙に言い逃れようとした。知っているとも知っていないとも言わない。 「いや、先生とはかなり親しい間柄とお見うけしました。先生の奥様が経営されるカントリークラブのメンバーシップでもある上に、先生が民友党を離党して新党を結成し、幹事長になられたとき、その結成パーティに出席されております」  那須はあらかじめ用意しておいた雑誌のグラビアページを開いて、本宮の前に差し出した。  それは「赤絨毯《あかじゆうたん》クラブ」という政界のゴシップ誌で、グラビアページに本宮を囲んで数人の男たちがグラスを手にして談笑している構図である。その中の一人が升田であった。 「ほう、こんな写真をいつ撮られたかな。新党結成のパーティには千人近い人たちが駆けつけてくれたので、いちいちおぼえていないが」 「それでは、これはいかがですか」  那須は「永田ストリート」と刷られたべつの政界雑誌を差し出した。  そのグラビア写真に、忙中閑ありと題して、ゴルフに興ずる本宮の姿が撮影されている。そして、そのかたわらにキャディと共に升田修一がいた。 「いかがですか。おもいだされましたか」  那須が本宮の顔を覗《のぞ》き込んだ。  本宮は少しも動ぜず、悠然と笑って、 「ああ、たしかにおもいだしましたよ。この男ならば、一、二度、ゴルフ場で会ったことがあります」 「ゴルフ場で偶然出会ったのですか。この写真では、同じコースを、同じグループでラウンドしているように見えますが」  ギャラリーに人影はなく、若いキャディと寄り添うように立っている升田を、ギャラリーと言い抜けることはできない。 「たぶん同じ組のだれかが連れて来たのだろう。どうして同じ組になったのか、よくおぼえていないが」  本宮の尊大な口調が歯切れ悪くなった。 「先生は升田が殺されたことについて、なにかお心当たりはありませんか」  那須は核心に触れた。 「私が心当たりがあるはずはないだろう。たまたま同じ写真におさまっているが、政治家は実にたくさんの人たちと一緒に写真を撮る。一緒に写っている人たちをいちいちおぼえてはおらんよ」 「そうでしょうとも、そうでしょうとも」  那須は大きくうなずきながら、 「先生ほどの大政治家とご一緒に写真を撮ることは名誉でもあり、記念にもなります。『永田ストリート』は政界ゴロが出している雑誌と聞いています。おそらく升田がつながりのある雑誌に頼んで、先生とのツーショットを写させたのでしょう」 「キャディも写っているよ」  本宮の表情が苦々しくなった。 「このキャディに撮影当時の様子を聴けば、どんな状況であったか、はっきりするかもしれませんね」  那須の言葉に、本宮は言わずもがなのことを口走ってしまったと後悔するような表情をした。 「ところで先生は、高見友一という人物をご存じですか」  那須が升田から質問の鋒先《ほこさき》を変えた。 「たかみ……ゆういち……さあ、よくおぼえていないが」 「升田の遊び仲間でしてね、五月二十九日、升田と一緒に北アルプスを登山中、足許を誤り、谷へ転落して死亡しました」 「その高見とかいう人物と私が、どんな関係があるのかね」  本宮が問い返した。 「もしかして、先生がご存じではないかとおもってお尋ねしただけです」 「知らない。いま初めて聞く名前だ」 「静岡県熱海市に住んでいた勝又武という人物はいかがですか」 「知らないね」  本宮は一言の下に否定した。 「勝又は昨年五月、失踪して、一年後の今年八月一日、山梨県安倍峠の近くの山中で死体となって発見されました」 「それが私にどんな関係があるというのかね」  本宮は眉《まゆ》一筋動かさない。 「死体発見現場の近くから、銀座のクラブ『ボンソワール』のライターが採取されました。先生はボンソワールによく行かれるそうですね」 「よくというほどは行っていないよ。三、四回かな。最近は行っていない」 「ボンソワールのホステス小村喜美子さんをご存じですね」 「ああ、そんなホステスがいたような気がするな。一、二度付いたかもしれない」 「先生は小村喜美子さんとかなり親しいご関係でしたね」 「女性と親しくなるほどボンソワールに行っていないよ」 「べつに店に行かなくとも、女性と親しくなれるのではありませんか」 「そういう人もいるかもしれんが、私は店の中でも外でも親しくなったおぼえはないな」 「昨年五月十一日、山梨県の船山温泉に先生は小村喜美子さんと一泊なさいましたね」  ポーカーフェイスを保っていた本宮の顔色が少し動いたようである。 「船山温泉に確かめたところ、先生と小村さんがたしかに同夜、宿泊した事実を証言しましたよ。ここに宿帳の写しを領置(任意提出)してまいりました。宮本正一と本村真美子という名前になっていますが、本村真美子は小村さんの変名であることが確かめられています。宮本正一は先生のことでしょう。船山温泉では、この宿帳は先生が記入されたと証言しています。これだけ文字数があれば、筆跡鑑定が可能ですが」  那須に追いつめられた本宮は、一瞬苦しげに顔を歪《ゆが》めたが、にやりと笑って、 「政治家にとって、女性問題はなるべく秘匿しておきたいプライバシーなんだよ。わかってもらえるとおもうが。女の子と温泉旅行に行ったことがあるが、ただそれだけの関係だった。出来心の遊びだよ。それ以後は会っていない」  尊大だった本宮の口調が懐柔的になった。 「私どもも先生のプライバシーを詮索《せんさく》するつもりはありません。実は小村喜美子さんからも事情を聴きたいことがありまして探しております。先生は彼女の居所をご存じではありませんか」 「さあ、住所は聞いていない。一度温泉へ行っただけだからね。二度と会うつもりもないので、住所を聞く必要もない」 「実は小村さんが二ヵ月ほど前から行方がわからなくなっております」 「勤め先に聞けばわかるんじゃないのかね」 「ボンソワールも知りません」 「勤め先の知らない行き先を、私が知るはずがないだろう。一度温泉へ行っただけの関係にすぎないんだから」  本宮は、一度温泉を繰り返した。 「実は先生が小村さんを同伴して温泉旅行に出かけたころ、先に申し上げた熱海市の勝又が殺害された状況が濃いのです」 「なんだって」 「勝又は盗んだ車を運転して、安倍峠を走行中、あるカップルの車と接触して争いになり、殺害されたと推測されています。先生はそのころ、車を修理に出していますね。修理工場の修理台帳には、車体前部の損傷箇所が記入されていました。修理工場の話によると、他の車との接触による損傷のようだということでした」 「そ、それは、当時、運転を誤って、路傍の石垣に接触した損傷だよ」  本宮の口調が少しもつれた。 「なるほど。先生はこの作品をお読みになったことはありませんか」  本宮の前に、那須は川名純子著の『山の屍』と、高見友一の遺稿『死化山』を差し出した。 「なんだね、これは」  本宮の目に不安と不審の色が二重に塗られた。表情に演技は見られない。 「ただいまスポットライトを浴びている文壇の寵児《ちようじ》、川名純子のデビュー作です。またこちらの作品は高見友一さんの遺稿で、川名純子の作品と対をなす作品と考えられています」 「それがどうしたのかね」 「この二作は、勝又武が山中でカップルの車と遭遇して喧嘩《けんか》となり、殺害されたいきさつが、まるで目撃したように書かれています。私どもはこの作品に興味を持ち、作品の舞台となった安倍峠一帯を捜索して、勝又の死体を発見したのです」 「たまたま小説と現実が一致したんだろう」  本宮の顔色が動揺している。 「現場の状況、当事者が遭遇した場面、勝又の死因など、すべて符合しています。とうてい想像だけに頼って書いたとは考えられないのです」 「作家の想像力には凄《すご》いものがある。必ずしも書けないということはないだろう」 「勝又が運転していた車と、カップルが同乗していた車の色、型、形式等もすべて一致しています。すなわち盗まれた車と先生のマイカーに……」 「き、きみは、なにを言うのか。同一車種などはいくらでもあるぞ」  冷静を保っていた本宮の口調が不覚にも激した。 「その通りです。しかし、先生の車は日本では輸入台数の極めて少ない外車ですね。その外車と盗難車が接触する確率は、さらに低くなります。我々は勝又を殺害した犯人のパートナーが、小村喜美子さんではないかと考えています」 「ばかばかしい。小村喜美子がだれと同行しようと、また同行者がだれを殺害しようと、私には一切関係ない」 「しかし、先生は勝又が失踪した前夜、小村喜美子さんと一緒に現場近くの船山温泉に一泊した事実を、自らお認めになっています。小村さんが先生以外の人物に同行していたことはあり得ないのです。つまり、勝又と安倍峠で接触したカップルは、先生と小村喜美子です」 「きみ、気をつけてものを言いたまえよ。きみはなんの証拠もなく、私を殺人犯に擬している。苟《いやしく》も国民の選良としての私の名誉を著しく傷つけているのだ。警察上層部には私の知り合いも多い。後でまちがえましたではすまされないぞ」  本宮は伝家の宝刀を引き抜いて恫喝した。 「そうそう、小説に書かれていることで、事実に符合している最も重要な作品の要素とも言うべきものを忘れていました。それはカップルの特徴が、先生と小村喜美子さんそのままです。次のような記述です。 『男は年齢四十代後半から五十前後、露出した皮膚はゴルフ焼けか、いい色に焼けている。年齢にしては、豊かな黒い髪をオールバックに撫《な》でつけている。前髪の一部だけ白髪が混じっているのが、メッシュのように見える』」 「やめたまえ」  本宮が遮った。  那須は意に介さず、 「女は二十代半ばから後半、都会的なマスクで全身にまぶされた成熟した色香に年季が入っている。唇の右に黒子があるのが艶っぽいアクセントになっている」 「やめろと言っているんだ。名誉棄損で訴えるぞ。私の写真は広くマスコミに紹介されている。小説家が私をモデルにして書いたかもしれないではないか」  本宮は声の抑制を外した。 「これは失礼申し上げました。先生のお気に触りましたらお許しください。私どもは決して先生を犯人扱いしているわけではございません。ただ、小村喜美子さんが安倍峠で、勝又が遭遇したカップルの一方であるとすると、先生以外のだれが彼女のパートナーになり得るのか、その情報を集めるために、先生のご意見をうかがいたいとおもっているだけです。  升田修一、勝又武、高見友一さん、小村喜美子さん、二人の被害者と二人の事件関係者に多少とも関わりを持っている方は、先生だけなのです」 「私は関係など持っておらんぞ」 「関係ないとは言えないのではありませんか。小村喜美子さんとの関係は先生自ら認められました。升田との関わりも否定できません。高見さんは升田の遊び仲間で、平安カントリークラブのメンバーシップです」 「帰る。こんなばかばかしいことにつき合っているほど、私は暇ではない。いずれこの問題は、警察上層部を通して、必ず決着をつける」  本宮は口調を荒らげて立ち上がった。コーナーに追いつめたものの、息の根を止める決め手を欠いていた。      2 「やっこさん、名誉棄損だと息巻いていましたね」  本宮が席を蹴《け》って立った後、那須以下、捜査員たちは苦笑の顔を見合わせた。 「名誉棄損は公然たる場所でなければ成立しないよ。そのために任意性を考慮してホテルに部屋を取ったんだ」  那須が言った。 「圧力をかけてきますかね」  熊耳が言った。 「選挙違反ならばいざ知らず、殺人事件の捜査本部に圧力をかけたら、脛《すね》に傷を持っていることを自供するようなものです」  牛尾が言った。 「それにしても、出来心のつまみ食いだとは、そらぞらしいことを言ったもんだ」  會田が苦々しげに言った。 「もし本当にそうなら、高いつまみ食いについたはずです」  熊耳が言った。 「それにしても、小村喜美子はどこへ行ったんだろうな」  那須の金壺眼《かなつぼまなこ》が宙を探るように見た。 「それについて、気にかかることがあります」  牛尾が言った。 「気にかかることって、なんだね」  一同の視線が牛尾に集まった。 「いまや本宮にとって小村は唯一最大の脅威であるはずです。彼女をすでに抹殺していれば、脅威は取り除かれたわけですが、まだ小村が生きているとすれば、任意同行を求められて、小村の脅威が焦眉《しようび》の急《きゆう》となったのではありませんか」 「きみは小村がまだ生きているとおもうのかね」  那須が牛尾の方に完全に姿勢を向けた。 「本宮にとって小村の存在は脅威ではあっても、まだ本宮自身は警察にマークされていない段階で、小村を始末してしまうというのも性急な気がします。  我々が川名純子の線から本村真美子こと小村喜美子を割り出したことは、本宮は知らないはずですよ。たしかに小村は本宮にとって脅威ではあっても、彼らは共犯関係にあるとすれば、一蓮托生《いちれんたくしよう》です。本宮の破滅は小村の破滅につながる。たがいに共犯者としての分をわきまえている限り、脅威にはなりません。警察からマークされていないのに、果たして危険を冒して共犯者を取り除くでしょうか」 「将来の禍根を絶つということもあるよ」 「五分五分ですね。犯人にとって新たな殺人を重ねるということは、新たな危険を冒すことです。エネルギーもいる。まして本宮のように社会的地位もあり、名誉もあり、家庭もある人間にとって、なるべくならば危険は少ないに越したことはありません。脅威が差し迫っていないのに、将来の禍根を絶つために現在の危険を冒して、脅威を取り除くでしょうか」 「犯人に脅威は差し迫っていなかったと言うのかね」 「昨日までは。しかし、任意同行を求められて、小村喜美子は本宮にとって差し迫った脅威になったはずです」 「すると、これから本宮は小村に対してなにかしかけるかもしれないな」 「私はその公算が大きいとおもいます」 「もし本宮が小村に手をかければ、それが有無を言わせぬ証拠となる」  那須の目がぎらりと光った。 [#改ページ]  失業者の魂      1  本宮勝寿の周囲に張り込みが付いた。政界の要路に立つ大物政治家であるので、公の行事にはSPが付く。だが、現職の閣僚ではないので、四六時中SPが張りついているということはない。  小村喜美子に会いに行くときは、秘書も追い払って、必ず一人で行動するだろう。  代議士の行動拠点は地元と東京である。俗に金帰火来と言われる習慣で、金曜日の夜に選挙区に帰り、支持者の家をまわり、あらゆる会合に出席して顔をつなぎ、選挙区の手当てをして火曜日の朝、東京に戻る。  東京では代議士のランクとキャリアによって、閣議や党の役員会、派閥の会合、各種勉強会に出席し、陳情者に面接し、夜はパーティ、宴席、料亭での密談とまわり、その間隙《かんげき》を縫って女に会う。  夏には海外へ視察旅行に出かけたり、派閥の各種研修会に出席し、支持者の旅行会のお供をして、喉《のど》がかれるまで演説を打つ。  当選回数を重ねて族議員ともなれば、高級官僚との会合も多くなる。  会期中は東京、閉会中は地元選挙区にウエイトが大きくなるが、当落すれすれの一回生、二回生議員や、選挙区が激戦地であれば、会期中、閉会中を問わず、一年中選挙区の手当てに駆けまわっている。  この手の代議士を草取り屋と呼ぶ。手入れを怠ればたちまち自分の庭に雑草が生い茂り、ライバル陣営に侵略されてしまうので、国会そっちのけで自分の庭の草取りばかりしている。  本宮勝寿は当選五回のベテランだが、彼の選挙区埼玉県一区は全国でも有数の激戦地で、ベテランだからと言って決して気を抜けない。  幸いに東京から近いので、車で気軽に往復できる。  捜査員が要人を警護のためではなく、容疑者としてその行動を密かに監視することは、捜査本部の自信を示すものでもある。  だが、自信だけではない。捜査員の熱意に対する上層部の英断があった。批判的な山路も、いまは本宮の張り込みに反対をしない。  本宮の行動拠点は三ヵ所ある。すなわち浦和市の自宅、東京・千駄ケ谷にある東京事務所、そして議員会館である。  このうち議員会館は公的な行動の拠点となる。千駄ケ谷の東京事務所は公私が半々、自宅は選挙区の手当て、および私生活の基地となる。  だが、妻の目が光っているので、女遊びの拠点は東京事務所となる。  張り込みの重点も、本宮の東京事務所に置かれた。  本宮は精力的に動きまわっていたが、常に秘書が張りついていた。秘書をまいて女に会いに行ったり、一人のプライバシーの時間に閉じこもることもなかった。  張り込みはひたすら忍耐の作業である。しかも、その成果はまったく約束されていない。不毛の張り込みに終わることもある。  本宮が出先から秘書を追い払って、小村喜美子と接触すればお手上げである。  本宮の行動中、すべて尾行するのは不可能である。また小村をすでに始末してしまった後であれば、張り込みはまったく無意味となる。  極めて確率の低い張り込みであったが、捜査本部はまだ小村が生きており、本宮が必ず接触することに賭《か》けた。  本宮は小村に会いに行くとすれば、昼間は避けるであろう。また昼間はスケジュールが目白押しになっていて、割り込む余地はない。  警察に目をつけられたことを知った本宮が、小村に切迫した脅威をおぼえるようになれば、中途半端な時間では会えない。  必ずまとまった時間を取って、小村に会いに行くはずだと睨《にら》んだ。  すると、出先から出かける確率は低い。いったん拠点に帰って来て、秘書や運転手を帰した後、一人になって、密かに出かけるであろう。  金帰火来の習慣を利用して、週末まとめた時間を取って小村に会いに行くにちがいない。もし小村がまだ無事であればの話であるが。  小説から端を発して、ついに有力な犯人像を絞り込んだ。小説と現実がことごとく符合して、本宮勝寿は犯人像として申し分ない。だが、止どめの武器がなかった。  容疑者の動きを誘って、そこから攻める以外に、攻め口がない。      2  十月四日深夜、張り込み班から連絡が入った。 「本宮が一人で動き出しました。秘書も連れず、車を運転して事務所を出ました。ただいま明治通りを渋谷《しぶや》方面に向かって走行中。追尾をしています。応援願います」  という第一報が入った。  捜査本部に緊張がみなぎった。任意同行を求めて以来、本宮の初めての単独行動である。  折しも金曜日の深夜であった。捜査本部の狙《ねら》いはぴたりと的中したことになる。 「直ちに応援を派遣します。相手《マルヨウ》に悟られぬよう、追尾をつづけてください」  尾行班に指示を下した捜査本部から、応援の覆面パトカーが出た。  本宮の車は青山通りから玉川通りを経て、三軒茶屋《さんげんぢやや》から世田谷通りへ入った。この間に応援車が追尾に加わり、本宮の車は巧妙な連携を取った追尾班の網の中に入った。  本宮は尾行にまったく気づいていないようである。閣僚であれば、私的な時間にもSPが張りついているが、政権の要路に立つとは言っても、当選五回の部会長クラスでは、SPもそこまでは追いかけて来ない。  車は世田谷区から狛江《こまえ》市に入り、多摩水道橋を渡って川崎市に入った。生田《いくた》駅の前から左手に折れて、春秋苑《しゆんじゆうえん》墓地近くのマンションの前で停まった。  車から降り立った本宮は、マンションの中に入って行った。  マンション内部まで尾行はできない。追尾班は不安と焦燥に駆られながら、しばらく様子を見た。  この間に本宮が小村喜美子に接触して、殺害しないという保証はない。本宮が入った部屋も確かめられていない。  だが、下手に動いて、本宮の単なるプライベートな訪問であれば、政府要人に対する警察の人権侵害となって、ただではすまない。これは明らかにSPの警護とは異なる。  本宮が建物の中に消えてから二十分が経過した。追尾班の不安が増幅した。  十分もあれば、殺人の実行時間には充分である。  捜査陣が見守っている中で殺されたら、これはまた取り返しのつかない警察の大きな失態となる。  追尾班の不安が極まったとき、建物出入口に二個の人影が現われた。一人は本宮であり、もう一人は若い女である。  遠目ではあるが、全身に成熟した色気をまぶしているような女である。  追尾班は、彼女が小村喜美子であるのを悟った。  追尾班はほっとすると同時に、緊張した。小村は無事であった。だが、その小村の許《もと》に深夜、人目を憚《はばか》って訪問して来た本宮の意図が不気味である。  建物から出た二人は、本宮の車に乗った。ハンドルを握ったのは小村である。  車は南へ進んで、丘陵地帯の迷路を通り、二四六号線に出ると、厚木《あつぎ》方面へ向かった。  秦野《はたの》市を抜けた車は松田《まつだ》町から山北《やまきた》町へ入った。JR御殿場線をからみながら谷峨《やが》駅のかたわらを通過した後、右手に折れた。  この道は丹沢湖へ向かう。通行車両が減って、尾行が難しくなってきた。 「やっこさん、どこへ行くつもりだろうな」  追尾班の応援に加わった牛尾が言った。 「この先は丹沢湖で、さらにその先は通行止めになっています」  青柳が答えた。  深夜、山中奥深くへ向かう二人の行き先に、不吉な予感が促される。  山気は深まり、闇《やみ》が煮つまってきた。まばらに明滅していた人家の灯火は完全に見えなくなっている。  間もなく暗い視野に闇を沈めたような湖面が見えてきた。三保《みほ》ダムの完成によって生じた人造湖・丹沢湖である。  車は丹沢湖の中央部に突き出た半島を渡り、湖に架けられた永歳《えいさい》橋を渡った。  このまま北へ進むと中川温泉を経由して、箒沢《ほうきさわ》の奥へ向かう。この先は箒沢の源流となり、行き止まりとなる。丹沢山地で最も山容の峻険な西丹沢地域の中枢部である。  橋を渡った本宮らの車は、大仏の集落の手前で左手に折れ、トンネルに入った。  トンネルを抜けると湖岸に沿って道は進む。右手は権現山の山腹が峙《そばだ》ち、左手には闇の色を一際黒く溶いた湖水が澱《よど》んでいる。  本宮の車は湖の岸辺で停まった。追尾班はライトを消し、はるか後方を困難な尾行をつづけている。  暗い山道を無灯火で運転するのは命懸けであり、一歩運転を誤れば、湖に突っ込んでしまう。  だが、ライトを点《つ》ければ、これまでの尾行が水の泡となってしまう。  湖岸に突然停止した本宮の車に、追尾班もはるか後方に距離をおいて停車し、様子をうかがうことにした。  二人は尾行に気づいていないらしい。ライトを消した本宮の車から、小村が降り立った。だが、本宮は降りて来ない。 「これ以上、車で接近しては悟られます。徒歩で近づいて、様子を見ましょう」  青柳が申し出た。  牛尾がうなずいて、青柳ほか二名の若い追尾班員と共に、本宮らに悟られないように、彼らの車の停止地点に忍び寄った。  追尾班に監視されているとも知らずに、小村喜美子は車外に立って、湖の方角をうかがっている。  追尾班の見守っている中で、小村は車に戻ると、前部右側ドアを開いて、助手席からなにかを引き出した。本宮の身体らしい。 「様子がおかしいですね」  青柳が牛尾にささやいた。暗い中での遠目の観察であるが、本宮は小村になすがままにされているようである。  小村はまったく正体のなさそうな本宮の身体を車外に引き出すと、横に抱きかかえるようにして、湖岸へ引きずって行く。  本宮の両足が地上をずるずると引きずられて行く。 「本宮は眠っているな。いや、眠らされているんだ。眠らせて、湖へ突き落とすつもりらしいぞ」 「どうします」 「阻止するんだ」  牛尾の命令一下、追尾班員は闇の帳《とばり》から飛び出した。  複数の足音の殺到する気配に、小村は本宮を抱きかかえたままぎょっとなって立ち尽くした。 「小村喜美子だね。殺人未遂の現行犯で逮捕する」  牛尾が告げると同時に、手を放した小村から本宮の身体がぐらりと地上に崩れ落ちた。  本宮は大量の睡眠薬を飲まされたらしく、正体のないまま保護された。  追尾班が阻止するのが一拍遅れていれば、眠ったまま湖に突き落とされる際どいところであった。 「運転中、気持ちが悪くなったと言うので、湖岸に車を停めて、外の空気を吸わせようとおもっただけです」  逮捕された後、小村喜美子は抗弁したが、車内から睡眠薬の空き瓶と、睡眠薬を仕掛けたジュースが発見されるに及んで、言い逃れがきかなくなった。  小村喜美子はその場から捜査本部に連行された。  本宮勝寿からも胃洗浄を行なった後、覚醒するのを待って、事情を聴くことになる。      3  小村喜美子は自供した。 「本宮勝寿とはボンソワールで知り合ってから、密かにつき合っていました。本宮は女と交際していることが表沙汰《おもてざた》になると、女性有権者の支持を失うと危惧《きぐ》して、私との関係を秘匿していました。私にとっても、本宮と特別な間柄にあることがわかると客を失うので、彼との関係を隠すことに異存はありませんでした。  昨年五月十一日ごろ、本宮とドライブ旅行に行ったとき、安倍峠で勝又の車と接触して、勝又にからまれました。凶悪な勝又は本宮を殴り倒して、私に暴行を加えようとしました。私をレイプするために背中が無防備になった勝又の背後から本宮が、地上にあった岩を拾い取って、彼の後頭部を力一杯殴りつけました。打ちどころが悪かったらしく、勝又はただの一撃で昏倒《こんとう》してしまいました。  本宮はさらに勝又の頭に岩を落として止どめを刺した後、茫然《ぼうぜん》としている私を励まして、山中に勝又の死体を運んで穴を掘り、埋めたのです。  勝又の車は本宮が運転して現場から離れた山中に乗り捨ててきたそうですが、まただれかが、それを見つけて松本まで乗って行ったのだとおもいます。  ところが、だれ知る者がないとおもっていたのが、この一部始終を高見友一と升田修一に見られていたのです。二人はボンソワールの客で、私を知っていました。二人は登山と釣りの仲間で、そのときたまたま南アルプスへ登って、安倍峠へ下りて来たところでした。高見は趣味として小説を書いており、目撃した場面を小説に書きました。そのとき私は彼が見たことを小説に書いたとは知りませんでした。  彼が目撃した事実に加えて、勝又の素性や、彼が車を盗んだことなど、高見が想像で補った部分が事実と一致したために、作品はいっそう現実に近づきました。  高見はその後、私に、勝又殺しの場面を目撃したことを伝え、私に関係を強要しました。その時点では、高見は私の身体だけが目的だったらしく、金品の要求はしませんでした。私から�取材�して書き足したので、作品はいっそう真実味を増しました。高見は生来の女好きで、私だけに飽き足らず、女を紹介しろと迫りました。高見の関係強要を躱《かわ》すためにも、私はカルチャースクールで知り合った川名純子を紹介したのです。高見が作品を川名純子に渡したことは知りませんでした。自分の小説を他人にあたえるなんて考えてもいませんでした。高見が癌とは知りませんでした。  間もなく川名純子が自分名義で『山の屍』を発表して、作家としてデビューしたとき、もしかしたら高見が純子に自分の目撃したことを話したのではないかとおもいました。純子にそれとなく探りを入れましたが、確かめられませんでした。そして、それを確かめる前に、高見は山で遭難して死んでしまいました。警察は彼の死因に疑いを持ったようですが、あの遭難は高見本人の過失による事故でした。あるいは自殺であったかもしれません。  高見が死んだ後間もなく、升田修一から、高見と一緒にすべてを目撃したことを告げられて、恐喝されました。高見が死ぬまで恐喝しなかったのは、高見から制止されていたからだと言いました。高見が死んだいま、あんたに乗る権利がまわってきたと升田は言って、身体と同時に金品も要求されました。  高見は私だけが目的で、殺人現場に一緒にいた本宮については関心がありませんでしたが、升田は本宮の素性をしつこく私から聞き出そうとしました。二人は本宮の素性を知りませんでしたが、升田は悪の嗅覚《きゆうかく》から、本宮がうまそうな獲物だと嗅《か》ぎ取ったようです。殺したのは本宮で、私はレイプされたむしろ、被害者です。それなのになぜ私一人が恐喝されなければならないかとおもうと、私一人が升田の凄《すさ》まじい恐喝を受けているとき涼しい顔をしている本宮に、無性に腹が立ってきました。  本宮は主犯ではないか。私は自分一人を安全圏に置いて涼しい顔をしている本宮を、激しくなじって、升田から私を救ってくれるように迫りました。もし救ってくれなければ、本宮の素性を升田に告げると脅しました。本宮も事件をヤクザに目撃されていたと知って、さすがに愕然《がくぜん》としたようです。こうして私たちは安全を確保するためには、升田を消す以外にないという結論に達しました。  川名純子の存在が気にならないことはありませんでしたが、『山の屍』には犯行後のことは描かれておらず、その後、後編に相当する部分も書かないので純子は詳しい事情は知らないと考えました。  そうして七月十七日午後十一時ごろ、升田が要求した金品を渡すという口実で升田のマンションを訪れ、彼が金を受け取って油断をした隙を狙って、隠し持って行ったハンマーで後頭部を叩《たた》いたのです。その間、本宮はマンションの外に車を用意して待っていました。彼は卑怯《ひきよう》な男で、最も汚い仕事を私にさせて、自分の身の安全を保障しようとしたのです。ともあれ、こうして升田の脅威は取り除きました。  ところが、その後警察が川名純子の作品から、高見の遭難と升田殺しを結びつけ捜査を始めていたことを知った私は、危険を悟ってボンソワールを辞め、住居も移転しました。警察が私の居所よりも先に本宮を割り出したのは意外でした。私は本宮に対してなんの要求もしませんでした。ただ、共犯者としての連帯を求めただけです。でも、それが本宮に重大な脅威をあたえたようです。  警察がどうやら私を追っているらしいと本宮に告げると、彼は蒼白《そうはく》になって、私に姿を隠すように勧めました。現在の住居を探してくれたのも本宮です。  本宮が突然、私に会いに来たとき、私は彼の殺意を感じ取りました。本宮は急に閑ができたので、丹沢方面の秘湯に連れて行ってやるという口実で、私を誘いました。汚い仕事はすべて私に担当させた本宮は、私を消すことによって、自分一人の身の安全を保障しようとしたのです。  本宮の意図を察知した私は、本宮に殺《や》られる前に先制攻撃をかけようとおもいました。殺らなければ殺られてしまう。食うか食われるかの決意をした私は、彼に誘い出されたとき、密かに飲物と睡眠薬を用意しました。途中で薬を仕掛けたジュースを本宮に勧めると、彼は疑いもせずに飲みました。まさか私が自衛のために先制攻撃をかけてくるとは、まったく予期していなかったようです。  間もなく眠り始めた本宮を乗せて、以前、本宮と一緒に行ったことのある丹沢湖に向かって車を走らせました。あとはご存じの通りです」  小村喜美子の自供によって、事件はすべて解決した。  高見友一の遭難から端を発して、小説の設定から犯罪のにおいを嗅ぎ取った特異な事件であったが、その結末は犯人と被害者が入れ替わった。  だが、小村喜美子が本宮勝寿の危険な意志を察知して先制攻撃をかけなければ、小村が被害者の位置に座るはずであった。  小村と本宮は、勝又および升田の殺人と、勝又の死体遺棄の共同正犯で逮捕され、起訴されたが、本宮は否認を通した。  本宮の犯罪を証明するものは小村の証言だけである。  高見の遺稿『死化山』、および川名純子名義で発表した『山の屍』の二作品に、本宮の共同犯行を裏づける記述があるが、本宮は想像の産物であると主張した。  いずれにしても、小村の自供の信憑性《しんぴようせい》をめぐって、本宮の裁判は長引くであろう。  だが、国会議員たる者が銀座の女性と不倫の関係を結び、殺人容疑をかけられては、本宮の政治的生命は終わりであった。  また小村喜美子との関係が露見するに及んで、妻から離婚を申し立てられた。  本宮は法の裁きを受ける前に、公私共に破滅したのである。      4  事件が落着した後、會田と熊耳が上京したときを選んで、牛尾、青柳、棟居らが集まり、非公式の打ち上げの宴を張った。  宴と言っても、牛尾や青柳ら、新宿署刑事の行きつけの新宿裏通りの赤提灯である。  牛尾の発声で乾杯をした一同は、まずは一連の事件落着を祝し合った後、 「しかし、高見の遭難はお騒がせさまでした」  會田が一同に詫《わ》びるように言った。 「いやいや、高見の遭難に會田さんや熊耳さんが疑いを持ってくれたので、一連の事件が引き出せたのですよ」  牛尾が言った。 「私はいまでも高見の遭難に疑惑を持っています」  熊耳が言った。 「すると、熊耳さんは依然として偽装遭難の疑いを捨てていないのですか」  青柳が問うた。 「偽装遭難ではないとしても、もしかすると小村喜美子の言うように高見は自殺をしたのではないかとおもっています」 「たしかに寿命を限られていた身をはかなんだということも考えられますね」  牛尾がうなずいた。 「それにしても、ただ一度会っただけの川名純子に遺稿を託し、生命保険金の受取人に指定したというのは大変なおもい入れですね」  棟居が言った。 「きっと川名純子が高見にとって最後の女だったのでしょう。最後の女にすべてを託すつもりで、原稿と生命保険金を差し出した……」  牛尾が言った。 「高見はなぜ『山の屍』だけを川名純子に託し、『死化山』を手許に留めておいたのでしょうか」  青柳が疑問を発した。 「その時点では『死化山』が完成していなかったのではありませんか」  會田が言った。 「彼が『山の屍』を書いた時点では、勝又の素性が不明でした。間もなく勝又の捜索願が出されて、彼の素性が判明するとおもったのでしょう。勝又の身許が割れれば、被害者を一層のリアリティをもって描けます」  熊耳が言った。 「そう言われてみれば、『山の屍』の中で被害者の描き方が曖昧《あいまい》でしたね。住所、職業不定の流れ者のように描かれていた。しかし、勝又は実際は一応定職と、定まった住所を持っていました」 「高見から遺稿を託されて、作家デビューを果たした川名純子は、ますます文名高く、いまや押しも押されもせぬ流行作家となっていますが、彼女は他人の作品からスタートした自分の作家活動というものに、なんの疑問もおぼえないのでしょうか」  棟居が索然とした表情で言った。 「スタートは他人の作品でしたが、その後は自作を発表しつづけていますよ」  牛尾が言った。 「原作者が死んでしまったので、やむを得ないのではありませんか。もし高見が死ななければ、彼女はなんのためらいもなく、高見から供給された作品に自分の名前を冠して発表しつづけたでしょう」  憮然《ぶぜん》とした口調で言った。 「作家とは自らの作品をもって読者にアピールする人間ではありませんか。たとえ現在は自作のみ発表していても、そのデビューを他人の作品に拠ったということは、作家の魂を売り渡したことになりませんか」  會田の声が翳《かげ》った。 「魂を売り渡しても、作家になりたかったんでしょう」 「本宮は政治家の魂を悪魔に売り渡したのです」 「せめて我々は刑事の魂を売りたくありませんね」 「刑事の魂か。特に意識をしたこともなかったが、刑事の魂こそ、社会悪を追及する基準となるだけに、いったん売り渡したら悪が悪を追いかけることになりますね」 「悪を追いかける悪か。刑事が魂を売り渡したら、追及すべき悪以上の悪となる。大悪が小悪を追いかけることになりますね」 「魂の有無によって正義ともなれば、大悪ともなるというわけですね」 「作家や政治家が魂を売り渡しても、悪を追いかけることはない。その意味で刑事の魂は、ほかの魂よりも重みがあるということになりますか」 「魂にも重さの差があるのですか」 「危険な重さですよ。魂の有無によって他人に及ぼす危険性の大きさです」 「そう考えると、刑事の魂はゆめ疎《おろそ》かにはできませんな」 「いまふと考えついたことがあります」  熊耳がはっとしたような表情をした。一同の視線が彼の面に集まった。 「高見はやはり偽装遭難ではなかったでしょうか」 「偽装……だれが偽装したと言うのですか」  青柳が問うた。 「高見本人ですよ。彼は遭難を偽装することによって、自殺を隠そうとしたのではないのか」 「どうしてそんなことをするのですか」 「他人の生き血を吸って生きてきたような高見が、世をはかなんで自殺をしたなどということは、彼のプライドが許さなかったのかもしれません。つまり、悪のプライドですよ」 「悪のプライド……」 「悪の魂かもしれません」 「悪に魂があるのですか」 「魂があったから、高見に小説を書かせたのではありませんか」 「すると、悪い小説ということになりますか」 「悪い小説に、川名純子は作家の魂を売ったのです」 「虎は死して皮を残すと言いますが、悪人は死して悪い小説を残しますか」 「刑事が死んだら、なにを残すでしょうね」 「なにも残しません。刑事は残すべきではない。我々が死んで、やがて刑事という存在が必要ないような社会がくることが、刑事の理念ではありませんか」  牛尾が言った。 「刑事はなにも残さないか……潔い言葉ですね。いつの日か後世の人々が、昔は刑事なんていう職業があったんだなあと笑い話になるような社会が本当にくるんでしょうかね」  棟居の表情が懐疑的になった。 「そういう社会をつくるために悪を追いかけているとすれば、刑事は失業するために働いているようなもんだな」  會田がしみじみとした口調になった。 「つまり、刑事の魂とは失業者の魂です」 「失業者の魂か。そいつはいい」  牛尾の言葉に一同がどっと沸き立った。 [#地付き](了)   本書は一九九六年八月、自社ノベルズより刊行されたものです。 角川文庫『山の屍』平成10年11月25日初版発行