[#表紙(表紙.jpg)] 密閉山脈 森村誠一 目 次  美しい遭難者  八ケ岳行  魂の香煙  婚前山行  闇の沈黙  燃えつきた�夫�  不運な遺品  虚無の充填《じゆうてん》  ヘルメットの矛盾  分骨の陥穽《わな》  アルプスのアリバイ  動機なき容疑者  単独登攀者《ローンクライマ》の死  殺人山行  実験|登攀《とうはん》  多重電飾  ヒマラヤの星  明日なき孤独 [#改ページ]    美しい遭難者      1  影山隼人《かげやまはやと》と真柄慎二《まがらしんじ》が赤岳頂上を経由して真教寺《しんきようじ》尾根上部の岩場を通過したころは、山は完全な悪天の中にあった。  朝から頭上をおおっていた高層雲は、次第にその厚味をまして、笠雲《かさぐも》状に変化していた。雲の上に磨《す》りガラス越しに見るようにボヤンと光を失っていた太陽は、笠雲の中に完全に包みこまれて姿を消していた。  風も強まり、稜線《りようせん》を吹きぬける風音は湿気を多く含んでいるせいか、高音の口笛のように澄んでいる。  空は灰色からうす墨色に変り、これから下って行くべき山麓《さんろく》は層積雲に埋まり、漠々《ばくばく》たる雲海をつくっている。その雲海の波頭が時々山腹をせり上がり、ガスとなって稜線上をかすめ去る。  先刻までかすかに雲海の上に浮かんでいた南アルプスが尾流雲の底へ沈んでしまっていた。山は上下両方の雲のはさみ撃ちにあいながら、悪天の中へ転がりこんだ。典型的な低気圧の接近による気象変化である。  気象通報も、冬型の気圧配置の弛《ゆる》みに乗じて東支那海に発生した低気圧の、太平洋岸への接近を報じていた。たとえその勢力が弱くとも東海道沖を通過すると、三千メートル級の山は暴風雪にみまわれ、新雪|雪崩《なだれ》の危険が非常に高くなる。  トランジスターラジオの報じる低気圧は、かなり大型のものであり、その進路も�大雪型�だった。  影山と真柄が、夏沢峠から主峰赤岳を経て権現《ごんげん》岳へ至る本峰群縦走の計画を放棄して、真教寺尾根から清里へ逃げようとしたのは、この異常に速い低気圧の接近によるものであった。  昨日一日の穏やかな晴天が、低気圧が発生して、冬型の気圧配置が弛んだせいであることはよく分っていたが、おたがいに勤めに縛られめったに休暇の取れない多忙な身であったうえに、よもや低気圧がこんなに速く進んでこようとは思っていなかったので、強引に出かけてきたのである。それに二人とも岳界でも先鋭をもってなる社会人登山団体の主力メンバーで、外国山系体験者でもある自信と驕《おご》りから、悪天の迫った八ケ岳に対するみくびりがないでもなかった。 「こりゃ危《やば》いな」  しかしさすがベテランの登山家だけあって、縦走中に雲行きの慌しい変化に、低気圧の異常な速度と危険な進路に気がついた。現在東海道沖を東へ向って進んでいる低気圧が、東経一四〇度線を通過してから進路を北東に転ずると、気圧配置が冬型となって本格的な悪天となる。せっかく春めいた山は、ふたたび冬のよそおいにたちかえる。 「これは下りた方が無難だぞ」  さすがベテランだけに決断は速く正確だった。尾根上部の岩場は冬の凍結につづく、春の低気圧の接近による気温の上昇で岩がゆるみ、その通過に意外に時間をとられた。  夏ならば何でもない一般コースにてこずらされて、ようやく悪場をふり切った時には、稜線は雪と霧のうず巻く乱層雲にとらえられ、視界が極端に悪くなった。 「おい、急ごう」  先を進む影山が後続の真柄に声をかけた。そんな声をかけなくとも、二人の足は最高に速められている。影山の声は天候と競争するための一種の気合である。 「おう」  と答えた真柄が、もっと馬力を上げようとした時、「おや?」と今声をかけたばかりの影山が足を止めた。 「どうした?」  危うく影山に突き当たりそうになった真柄がたたらを踏んだ。 「誰か倒れている」  影山が風雪の密度のむらの間《かん》隙げきを凝視しながら言った。 「誰か倒れてるって?」 「女らしい」 「女!?」 「あそこだ」  影山は前方のハイマツ帯を指さした。しかしその時一団の濃い霧によって二人の視界は閉ざされてしまった。 「とにかく行ってみよう、どうせ通り道だ」  影山は言いながら厄介なことになりそうな予感がした。この悪天の中では一刻も早く安全帯まで降りつきたい。経験豊かな二人であったが、岩の脆《もろ》い痩《や》せた稜線《りようせん》で悪天に叩《たた》かれるのは気持のよいものではない。内陸の山ではあっても、風雪となれば厳冬期と変らぬ様相を呈する三千メートルに近い八ケ岳の稜線である。その峻烈《しゆんれつ》さは、北アルプスにも劣らぬことがある。  今や岳が明らかに剥《む》き出した牙《きば》から、全力をあげて逃れようという矢先に、遭難者、それも女となると穏やかにはすみそうもない。      2  影山が発見した遭難者? は、森林帯が終って、|岳樺や《だけかんば》ハイマツの点在する尾根の斜面の登山路から少しはずれた台地の、小さな岩の突起のかげに倒れていた。 「スカートを穿《は》いてやがる!」  影山がいまいましそうにつぶやいた。荒涼たる灰色の視野の中に、倒れている人間がまとった薄いピンクの布片は、�下界�で眺めれば大して華やかな色彩でもないのに、周囲から切り離されたように浮き上がってみえた。ゼロに近い視界にもかかわらず、影山の目がとらえたのは、この周囲になじまぬ�異色�のせいであろう。  春とはいえ、山はまだ冬姿である。原生林の吹きだまりには残雪が背たけほども積り、今彼らが降りてきたばかりの高所の岩は、雪と氷でかたく武装している。大体都会の舗道を歩くような軽装でくる場所ではない。ここまでこられたのが、不思議なくらいである。  これで彼女が遭難者であることが確定した。  ともあれ二人は、遭難者のそばへ駆け寄った。ピンクのワンピースを着た二十歳前後の若い女だった。唇まで紙のように白くなった女の顔に、ぬれた髪がへばりついて水死体のようだった。そばに持ちものらしい、小型のハンドバッグと、手さげ袋が転がっている。 「まるで自殺だな」  影山が|諦め《あきら》切った顔で女の心臓に耳をあてた。 「おい、まだ生きてるぞ!」  影山は次の瞬間、物音に|愕か《おどろ》された子供のような目をした。 「生きてるって!」  真柄も表情を浮かべた目を女に向けた。  すでに瞳孔《どうこう》は拡大し、呼吸困難な状態にあった。このまま放っておけば確実に死に至るきわどい状態である。しかし瞳孔の対光反射はかすかながらある。何よりもありがたいことに、筋肉が硬直している。これが硬い間はまだ救《たす》かる見こみがあるのである。  この場合、四十度ぐらいの風呂に入れるのが一番効果があるのだが、この場所ではそれは不可能である。幸いそこは、岩のかげで風当たりも少なかったので、二人はその場で応急手当をすることにした。山行には必ず携帯する強心剤を真柄がなれた手つきで注射すると、二人で全身マッサージを加えた。  遭難者はここまでこの軽装で登ってきて、疲労の蓄積したところを悪天に叩かれて動けなくなったものであろう。今朝山麓を発《た》ったにしては、夏道が雪に埋まっているこの季節にこの高所まで辿《たど》り着けるはずがないから、昨日のうちに登りはじめたものと思えるが、今まで保《も》ったのは、遭難者の若さと、倒れた場所が風をさえぎる岩かげであったことや、低気圧の接近による気温の上昇などの幸運な要素が重なったからであろう。  適切な応急手当が功を奏して、女の頬《ほお》にかすかながら赤味がさしてきた。  外界が寒いと体表面から熱をどんどん奪われる。寒気は疲労を増す条件になると同時に、寒気だけでも体温低下の原因となって凍死に導く。体温の維持と体熱の産生が寒気に追いつかなくなれば体温は低下する一方で、遂に凍死に至る。  遭難者の顔にわずかながら生色がよみがえったのは、適切な応急手当と、彼女の若く旺《さか》んな新陳代謝が、熱《エネルギー》の消費量に剋《か》った証拠である。さらに保温の効いた場所に移して、濡《ぬ》れた衣服を剥《は》いで、身体を温めてやれば、回復はもっと速まるだろう。 「これ以上ここでは手当ができない。|麓へ《ふもと》運ぼう」 「そうだな」  さっそく二人の間に相談がまとまった。影山はブドウ酒を口移しに遭難者にのませると、ザイルで彼女をしっかりと背中に結びつけた。彼の装備でとりあえず不用のものはそこへデポしておくことにした。  その時、真柄はどうしたわけか、影山に対して不思議な妬《ねた》ましさを覚えたのである。 「途中で代ってやるからな」 「いやこのくらいの重さなら、装備と大して変りないよ」  真柄の申し出を影山はピシャリと断わった。  最初に発見した影山が、遭難者に対してイニシャティヴを握った形になったが、彼の心を初めによぎった迷惑のおもいはすでにかげもなかった。彼はむしろこの救助作業を嬉々《きき》として行なっているようであった。  それがアルピニストの信義ともいうべき山仲間の純粋な連帯感によるものであるとするには、遭難者が美しすぎた。 [#改ページ]    八ケ岳行      1  湯浅貴久子は死のうと思った。身も心も捧《ささ》げつくしての、一生に一度の恋と信じて、若く熱い、純粋な愛情を注いだ相手から、これ以上の冷酷さはない仕打ちで裏切られた貴久子は、相手に対する怨《うら》みよりも、高い熱が体を通りぬけていった後のような虚脱感の中にあった。  一人の男が去ったからには、別の男を探せばよいといったふうな、現代娘らしいドライで器用なまねは、貴久子にはできなかった。  情熱というものは定量があり、それがすべて消費しつくされると、人はあらゆるものに対して興味を失う。——と彼女は信じていた。  貴久子の情熱は、あの男、中井敏郎に注ぎつくされ、蕩尽《とうじん》されてしまったから、もう胸の中には何も残っていない。ここにあるのは、湯浅貴久子という名前をもった人間の形骸《けいがい》にすぎない。二十二歳という�花の盛り�の外観に、一応美しく装われてはいても、中には何物もない。だからすべてのものに興味をもてない。つまり生きていく興味を失ってしまったのだ。  湯浅貴久子は、東京のある短大を卒《お》えると同時に、大手町にある〈菱井《ひしい》物産〉に入社した。菱井物産は業界随一の規模をもつ財閥系の総合商社で、今期の売上高は一兆八千億円、取扱商品はインスタントラーメンから、ミサイルまでにわたると誇る巨大商社である。  社内でどんなつまらない仕事をさせられていようと、�菱井マン�であるという一事だけで、社会の信用がちがった。従って入社試験も厳しく、社内にはサラブレッドの秀才英才がひしめいていた。  貴久子も入社にあたって厳正な学科試験を課せられた上に、面接やら身体検査やら、家庭調査の関門をくぐりぬけてきた。競争率は、宝くじなみの|凄じ《すさま》さであった。  それだけに貴久子のエリート意識はくすぐられた。  彼女の配属された先は、東京本社、機械第一本部、東京機械第一総務部、総務企画第二課、厚生係、社員総務担当という、まことに資本金三百億、総従業員数一万二千名の巨大組織の毛細管の末端のような部署であったが、鋭角的な近代ビルが林立する日本のビジネスセンターの中でも、ひときわ偉容を誇る菱井物産ビルに出入りする都度、貴久子はエリート意識で胸がふくらむのであった。  女子高校から女子短大と、女の中ばかりで過ごしてきた彼女は、ここで初めて父や兄弟以外の異性に接触した。  中井敏郎は、その最初の異性であった。そして彼が結局、貴久子にとって最後の異性になろうとしている。  中井は私大の名門K大を卒業して、貴久子より三年ほど早く菱井物産に入社した男だった。同じ厚生係であり、貴久子の職場の先輩となった中井から、彼女は仕事の手ほどきを受けることになった。  彫りの深いやや虚無的なかげりをもつマスクと、学生時代卓球部のキャプテンだったという笞《むち》のようにしなやかな肢体《したい》をもつ青年に、学校を卒えたばかりの世間知らずというより、男というものを全く知らなかった貴久子が容易に傾いていったのは、当然のなりゆきである。  ましてや相手は一流大学出のエリートで、貴久子の�社会人�としての初めての手ほどきをしてくれた�教師�でもあった。師や先輩に対するような尊敬の気持は、速やかに女が男へ向ける感情に育った。  中井も、内面の知性のきらめくような貴久子の美貌《びぼう》に惹《ひ》かれていた。たがいに惹き合う男女が、一日の大部分の時間を一緒にすごしている。磁石と鉄片のように二人は近づき、そして結ばれた。  初めてのデートで唇を交し、二度目の時に貴久子は最後のものを許してしまった。 「君こそ、この世の中で、僕にとってただひとりの女性だ。ひとには誰でも生まれながらにただひとりの異性がいる。でもたいていのひとは、そのような相手にめぐり遇《あ》えぬまま二番目か三番目によさそうな相手と妥協してしまうのだ。ただひとりのひとに遇えた僕は幸せ者だよ」  中井は貴久子を狂おしく抱擁しながら、そんな意味のことばを熱にうかされたようにささやきつづけた。  あいにく菱井物産には、結婚した女子社員は自発的に退職しなければならないという内規があった。  二人はかたく将来を誓い合ったが、中井の年齢がまだ結婚には少々若すぎた上に、貴久子もすぐに結婚して家庭に閉じこめられるのは気が進まなかった。  成人式をおえたばかりの若い身には、未来は無限の可能性に充《み》ちているように見え、一流商社のOLとしての身分と、中井というすばらしい恋人を同時に得た青春を、思うさま満喫したかった。  それに旧《ふる》い伝統をもつ会社のご多分にもれず、菱井物産では社員同士の恋愛をあまり歓迎しない。近代的な社屋や組織に反して、そこで働く人間には依然として幕府御用商人時代の旧い血と伝習が残っている。  従って二人ともたがいに激しく愛し合っていながら、その感情の発露を、会社においては隠す形になった。別に悪いことをやっている意識はなかったが、正式に結婚できる状態に達するまでは、二人の仲が社内に知れることは、たがいにとって、特に中井の将来にとって確実に不利となるので、彼らの恋は、二人の間だけの�美しい秘密�になった。そしてそこに貴久子を陥れる大きな罠があったのである。      2  二人が知り合って二年目の春、中井敏郎の身に�異変�が起きた。中井にとっては欣喜雀躍《きんきじやくやく》すべき異変であり、貴久子にとっては呪《のろ》うべき異変であった。  中井が同学の先輩という微《かす》かなコネをたぐって、日頃社内では雲上人として足もとにも近寄れない重役の家へ年賀に行った時、応対に出た令嬢に見そめられてしまったのだ。  次期社長の最有力候補として社内随一の権勢をもつ、その上田という専務は、一介の平社員にすぎない中井を娘が愛していることを知って愕然《がくぜん》とした。娘をおどかしたりすかしたりして思いとどまらせようとしたが、中井と結婚できなければ死ぬとまで言い、事実食事も満足に取らずに日に日にやせ細っていく彼女の姿に、そこは親馬鹿の常で、本気に中井の家庭環境や人物の調査をはじめた。  ほとんどすべての菱井マンの家庭がそうであるように、中井の家柄はいい。貴久子との仲を美しい秘密にしておいたおかげで、この調査には合格した。そして人を介して中井家に正式のプロポーズがなされた。  中井は最初プロポーズを信じられなかった。上田専務といえば現社長以上の権勢をもち、菱井グループの重鎮の一人である。日本財界の一方の|旗頭と《はたがしら》して、数々の役職にも名を連ねている。  一流大学出のエリートといったところで、それは社会全体と比較してのことで、すべてエリートで埋まっている菱井物産の内部においては、一万二千人の従業員の中の一人にすぎない。それも華やかな営業部門に比べれば、陽の当たらない部署である。まして最近のMIC旋風といわれる会社の売上げに直接貢献しない間接部門の縮小傾向の中で、ますます肩身のせまい思いをしていた時であった。  胸につけた社章にせめてものエリートの誇りを留めていたが、社内では日陰の部署に配された冷や飯サラリーマンの悲哀をいやというほど味わわされていた。 「このまま停年までまじめに勤め上げても、精々《せいぜい》課長、いや下手をすると課長にもなれないかもしれない」  貴久子との愛に酔っている時でも、決して酔うことのない心の素顔が冷たくささやきかけることがあった。  入社時の雲を抜くような野心は、巨大組織の中の極微歯車としての回転をつづけている間に、去勢されてしまった。現に目の前に、一流大学出の秀才の二十年三十年後の成れの果ての姿を見ているだけに、自分の将来図が実感できる。その見すぼらしい将来を考える時、ただ一人の女であるはずの貴久子と営むスイートホームすら、何か団地の片すみのスラムめいたものに見えてくるのである。  上田家との縁談が生じたのは、中井の心がそのような傾斜をもちかけた矢先であった。相手の令嬢は、女の魅力において貴久子と比較《バランス》にかけられない。  貴久子の優しさと美しさ、理智に磨かれたような美貌と、中井と体の交渉をもつようになってからめっきり女らしい妖《あや》しさを増してきたプロポーションと曲線は、親の名前と威光のおかげでわがままいっぱいに育った、見識だけが高いぎすぎすした専務の娘が決してもち合わせていないものだった。  しかし彼女が背負った�持参金�の巨《おお》きさは、それらを償ってあまりあるのみならず、女の魅力においても貴久子との比較を逆転するものであった。  何故なら、女の持参金は、女の魅力そのものまでを著しく増すからである。まして野心ある男《サラリーマン》にとって、重役令嬢が背負ってくる持参金は絶対の価値があった。  結婚は、名もコネも資産もない若い男が、自分より上位の者と結ぶ唯一絶好の機会である。ただ一介のヒラ社員が、菱井物産専務の縁につながる機会を、巨大会社の片すみにひっそりと働くOLのために潰《つぶ》してしまってよいものか。  中井は自分の将来と貴久子とを|秤に《はかり》かけた。いや秤にかけるまでもなかった。中井は上田家からプロポーズされた時ためらわずに承諾した。  こうして「ただひとりの女性」であった貴久子は、古草履のように捨てられた。貴久子は最初、思いもかけぬ中井の変心に|愕き《おどろ》、そして怨んだ。 「僕らの間にいったい、何があったというんだ。僕も楽しんだ、そして君も楽しんだ。僕は君が好きだ、今でも好きだ。しかし好きだからといって必ずしも結婚しなければならない理由はない。二人は好き合った。愛し合った。それだけの事実でいいじゃないか」  中井は平然とうそぶいた。このような場合、貴久子が開き直るような女でないことを充分計算した態度である。 「楽しむ……?」  貴久子は、自分たちの愛をそのようなことばで平然と表現できる中井を、信じられないものを見るような目をして見た。ただひとりの異性《ひと》どうしのめぐり逢いを、中井は、行きずりの情事のように自ら涜《けが》して眉《まゆ》一つ動かさない。  貴久子は自分が最も大切にしていたものを汚穢《おわい》のまっただ中へ叩《たた》きこまれたような気がした。同時に自分が宝物としていつくしんでいたものの正体を見きわめたようにも思った。  胸の中を充《み》たしていた実質が、ガラガラと音を立ててくずれ、冷たい風が吹きぬけた。その風に、男の裏切りに対する怨みと怒りが攫《さら》われていった。ただどうしようもない虚《むな》しさだけが残った。  ——そうか、中井という男はそういう男だったのか。自分がただひとりのひとと信じて今日まで命のかぎり愛してきた男は、所詮《しよせん》それだけの人間だった。彼が上田のコネにひたすらにすがっていったとしても、その暁に得る出世なるものにどれほどの値打ちがあるのだろう? 人間の心を踏みにじり、自分自身すら欺《あざむ》いて……そんなにまでしても出世したいのか。妻の躯《からだ》を踏み台にして、気の遠くなるような職制の跳躍をはかったところで、要するに、たかが一社の中だけのことである。そんな一握りの成功を得るために、彼は愛を冒涜《ぼうとく》した。——  貴久子の、中井に対する興味が急速に冷《さ》めた。どうしてこんなつまらない男に、今まで燃えてこられたのか不思議でならなかった。  このような場合に当然生ずる、男への怒りが彼女に湧《わ》かなかったのはそのためである。  その意味で貴久子は一種のいさぎよさをもっていた。  中井に対する未練はなかったが、彼に燃焼し尽くした後の、心の空虚はどう埋めようもない事実として残った。今までそこに燃え盛っていた情熱の火が、中井というまやかし[#「まやかし」に傍点]の燃料を熱源にしていただけに、それをまやかしと悟った時の熱源の枯渇は、何物をもってしても補えなかった。  死のうという気がおきたのはその時である。      3  貴久子はどうせ死ぬなら美しい場所で死にたいと思った。死ぬ身にはどんな場所でもかまわないようだが、自分の死後の身が醜いさらしものにされるのには耐えられなかった。  花の散りぎわの美しさは、花に許された特権である。女の青春の盛りを自分の意志で断つからには、そのくらいの選択は許されてよいと思った。  死に場所として頭に浮かんだのは、まず海である。底知れぬ深海へ深く沈んで屍蝋《しろう》化した体は、いかにも乙女の墓所としてふさわしい場所に置かれたような詩的なムードがあったが、いろいろとむずかしい条件と環境が必要らしい。屍蝋にうまくなってくれるかどうか分らなかったうえに、もし失敗した場合の、海の魚や微生物にさんざん|蝕ま《むしば》れ、腐敗ガスに腫《は》れ上がって漂流する自分の姿に慄然《りつぜん》となって、海はやめた。  次に思い浮かんだのは山である。貴久子は学生時代、仲のよいグループと一緒に夏休みに訪れた上高地の景観を思い出した。セルリアンブルーの あ梓《ずさ》川の|畔に《ほとり》たたずんで見あげた、残雪に象眼された穂高岳の荘厳な姿。——あの万年雪の中に自分の姿を埋めれば、峻険な岩は私の墓石となり、高山植物はその墓を飾る花となって、日の光や雲や風は四季折り折りに私の死体の上に弾んでくれるだろう。たまたま登山者によって死体が発見されても、万年雪に冷凍されて、私の今の若さと美しさは少しも損われないだろう。——  貴久子は、彼女の年ごろらしく、自分の死を多分に美化していた。だが死のうという決心はかたかった。  貴久子の父は教育者であった。区立の中学の校長をつとめ、そろそろ停年が迫っている。ひとり娘だったが、家庭の躾《しつ》けは厳格であった。  だがこのような家庭によくあるように、厳しさの中に間の抜けたところがあった。  教育者としての名声と実績にもとづいた「自分の子に限って」という自信。外部に対して名声を保持するためのたゆまざる努力のかげにいつしか空洞《くうどう》をあけた親子の断絶。検事の家庭に起きた兄弟相殺の悲劇が、それよりずっと程度も形も弱められていたが、湯浅家にも起きていた。  だから娘が会社の同僚と恋愛をし、身も心も相手に委《まか》せた上に捨てられて、今死を思いつめているという事実に気がつかなかった。  まして女は男を愛すると、親も姉妹も赤の他人以上に遠くなるものである。貴久子は両親の目から隠れて、ひっそりと死出の旅路の支度を調えていた。  山ということは決ったが、季節が早いために、上高地にはまだバスが通っていなかった。貴久子の足では、とうてい、島々からの雪の残る山開き前の荒れた渓谷沿いの道を溯《さかのぼ》ることは不可能であった。  上高地を諦めた貴久子は、それに代る場所として八ケ岳を選んだ。やはり学生時代、グループと訪れた早春の飯盛《めしもり》山で、その名の通りご飯を盛り上げた形の山頂から初めて接した八ケ岳の岩の|襖を《ふすま》連ねたような眉に迫る巨《おお》きさと、その裾野《すその》の胸のすくような大らかな広がりが強く記憶に焼きつけられていた。  東京から数時間の距離にあり、鉄道の走る山麓からすぐに山にとりかかれるアプローチのやさしさにもかかわらず、主稜にはアルプスに劣らぬ三千メートルクラスの高峰を連ねている。  貴久子が眺めた八ケ岳は、ちょうど山が冬から春にかけての衣がえの時期であった。残雪をちりばめた岩峰群が、鋭い火口壁を連ねて、緑こいハイマツとの鮮明なコントラストを強調していた。  死体を埋める雪も豊富にありそうだった。それに何よりも高峰の周囲に広がるハイマツ帯、針葉樹林帯、ブナ帯と、林相を明確に示す縞《しま》模様を画《えが》きながら、カラ松や白樺の散在する末も見きわめられぬ裾野の、空と地平線の溶け合ったような荒涼たるひろがりが、貴久子の心をとらえたのである。  ——私の体を、あの空《むな》しいひろがりの中へ溶かしてしまうのだ。——  貴久子はこうして、中央線の列車に身を預けて一人新宿を発った。小淵沢で小海線に乗りかえ、清里へおりたったのは貴久子と、土地の人らしい乗客が数人であった。  週末ならば都会からのハイカーが大勢おりるのであろうが、平日のことでもあり、季節はずれのせいか、一見して都会の人間らしい下車客は彼女一人であった。  都会の人間には馴《な》れているのか、地元の下車客は貴久子には目もくれずさっさと改札口から思い思いの方角へ散ってしまった。岳おろしの冷たい風が吹きぬけるホームの上で、貴久子は道に迷ったような表情で立ちすくんだ。  新宿を朝の列車で発ったのだが、山は午後の斜光の中にうすく沈んで、すでに夕暮れの気配が濃厚だった。逆光の中に微かに光る雪の色はいかにも冷たく、そびえ立つ山は鋭く厳しかった。それはいかにも貴久子を拒絶しているようであった。あの山の奥深くへこれから自分の死に場所を求めて、たったひとりで歩み入らなければならぬのかと思うと、貴久子は急に、心細さに胸をえぐられるような気がした。  かたい決意をして出てきた旅ではあったが、記憶と想像の中でたぶんに美化していた死に場所の、何の容赦もない厳しさと荒涼のまっただ中に立つと怯《おび》えが先にきてしまったのだ。死への怯えではない。死に場所の拒絶的な気配に圧倒されたのである。  高原の寒駅の駅員は、ホームでいつまでもぐずついている貴久子のために、改札口で待っていてはくれなかった。通るならご自由にというような無人の改札を出て、駅前のわずかな家並をぬけて山の方へ向かった。  幅の広い自動車道路はすぐに終って、広々とした草原が目の前にうち展《ひら》ける。径《みち》はその中をゆるい勾配《こうばい》をもって確実に高度を上げている。一歩|毎《ごと》に前に立ちはだかるように近づいてくる八ケ岳本峰群の巨きさと荒ら荒らしさが、彼女の死の決意に最後の諌止《かんし》をかけているようであった。  しかし意志は変らなかった。山が拒絶的であり、心細さに胸をえぐり取られるようであればあるほど、どうしても死ななければならないような義務感が生じてきた。  時間に制限のない身でありながら、貴久子が少しも休まず、それほど脚に自信があるわけでもないのに、しっかりした歩度で次第に勾配を増してくる径を歩みつづけられたのはそのためである。      4  だいぶ前から誰かの視線を感じていた。誰かに見つめられているのは分っているのだが、その誰かの顔は、水面《みのも》に映る投影のようにゆらゆらと揺れてはっきりした輪郭をとらない。  最初その誰かは、中井敏郎かと思った。しかし似ているようでありながら、そうでないことが分った。中井の視線であれば、この痛いような熱さを感じるはずがない。知り合った最初の時期にはそのような目をしてみつめてくれたこともあったが、最近は品物を見るような表情のない目であった。  それでは誰かということになるとさっぱり分らない。水面のさざなみがおさまって、ようやくはっきりした輪郭をとりそうになると、また前以上の波がやってきて、映像は砕け散ってしまう。  そんなもどかしさを何回かくりかえした後、映像はふいに明確な輪郭をとった。 「気がついたね、よかった」  上から覗《のぞ》きこんでいた見知らぬ若い男が、にこにこと笑いかけた。眉と目の間のせまい、頬のそげたいかにも鋭い感じの男である。顔形が中井に似通っているが、肩幅などは彼よりもずっと広くがっしりとしている。  何故その男がここにいて、自分の顔を見おろしているのか?  大体彼がここにいることよりも、自分がこんな場所に寝ている事実がよく分らない。  どこかの山小屋の中らしい。黒くくすんだ原木のままの木組みが、天井や壁に露《あら》わになっている。土間の方に囲炉裏が切ってあり、火があかあかと燃えている。小屋は森の中にあるらしい。窓から入ってくる光は薄く弱いが、どうやら夜ではないようだった。  中井に捨てられて死を決意し、八ケ岳の山ふところ深く死に場所を探しながら、登りつめて来て、遂に疲労のあまり倒れてしまった。その記憶がシャベルでざっくりと削り取られてしまったように断絶していてすぐに |甦ら《よみがえ》なかった湯浅貴久子に、男と自分の関係が分らなかったのは当然である。たとえ記憶がすぐに甦ったとしても、その末端と男とを結びつけて考えられなかったにちがいない。 「あっ、そのまま少し寝《やす》んでいたほうがいい。だいぶ、体が消耗しているから」  別の声が脇《わき》から言った。そこにはもう一人別の男がいた。こちらの方は眉も唇も厚く、角張った顔のみるからにたくましそうな男だった。 「消耗?」  貴久子が不思議そうにつぶやくと、 「すっかり忘れてしまったらしいね。あなたは真教寺尾根の上の方で倒れていたんだ。我々がもう一時間遅くあそこを通りかかったら、救からなかった」  細面の男の説明で、貴久子の記憶の断絶がよみがえった。 (そうだわ、私は死ぬために山へきたのだった。原生林の中を無我夢中に歩きながら、山の上の方へ登りつめて来た私は、とうとう動けなくなって岩にもたれて眠りこんでしまったんだわ。本当はもっと上の方へ行きたかったのだけど、体の全体がだるくなって、何をするのも面倒になって……ふしぎに寒さは感じなかったわ)  そうすると彼らはさしずめ、命の恩人ということになる。いやそうではない。折角死ぬためにあの高所まで弱い足で登りつめて行ったのに、もう少しのところで死ねるという死の瀬戸ぎわまで辿りついたところを、引きずり戻《もど》したよけいなお節介者ではないか。  しかしそういう気は貴久子におこらなかった。自分の命を救ってくれた二人の男に対する素直な感謝の念で胸が熱くなった。そのことはすでに貴久子から死のうという気持が消えた証拠であった。  恩人として改めて見つめると、二人の男はこの頃の街かどではめったに見かけられない頼もしく好ましい若者に見えてきた。二人の顔形に似通ったところはないが、どちらも山の陽に灼《や》け、男らしく鋭く窶《やつ》れていた。それはいかにも男らしい鋭角を感じさせた。  空に突き刺さるような高峰ばかり見つめているせいか、目に世俗のものに汚されていない澄んだ光がある。貴久子はそれを自分を捨てた中井敏郎と比較して考えないわけにはいかなかった。  中井も鋭かった。常に世の中に挑戦している鋭角を自分の中にもちあぐね、組織の大きさの中にみすみす腐らせていくのをふてくされたような、虚無的なかげりを帯びた鋭さがあった。  だがその鋭さは、今にして思えば、自分の儲けばかり計算している商人の鋭さであった。  貴久子を救ってくれた二人の男の鋭い感じは、中井とは本質的に異なっている。アルプスの風雪と高燥な大気に磨かれて、不純なもののいっさいを|捨象し《しやしよう》た男の結晶がそこにあるように見えた。  今まで自分の心の中のすべてのスペースを占めていた中井が、彼らと比べるとひどく見すぼらしい存在に見えてきた。  ——わずかなコネを頼りに、ほんの一握りの出世にあくせくしている男——  そんな男のためにどうして死のうなどという気をおこしたのだろうか?  貴久子の若さは、死の淵《ふち》から引き返して来た喜びに率直に酔った。若さに死はもともと不自然であった。その不自然さを押して死の淵まで行ってきた身には、本来の若さがよみがえって、熱病から癒《なお》ったように、自分がどうして死ぬ気になったのか、まるで別人におきたことのように信じられないのである。  それだけに半分死の手に掴《つか》みかけられていた自分を、この世の中へ連れ戻してくれた二人の若者が素晴しく映り、彼らに対する感謝の念が素直にあふれてくる。 「さ、これを食べるんだ。力がつく」  角顔のほうが熱いぞうすい[#「ぞうすい」に傍点]を入れたアルミボールをもってきてくれた。たまごや野菜の入ったいかにも栄養のありそうなぞうすい[#「ぞうすい」に傍点]である。貴久子は急に自分がひどい空腹であることを悟った。 「あまり急に食べないように」  細面が注意した。胃袋に暖い食物が入ると、体はすっかり元に戻ったような活力を覚えた。  急に羞恥心《しゆうちしん》がよみがえった。自分は一体どんなかっこうで倒れていたのだろう。ぶざまな死体を見られたくないために山の上の方へ登って行ったのに、その準備も場所も充分に得られないうちに疲労で動けなくなってしまったのだから、さぞやみっともない姿を彼らに見せたことだろう。——その時貴久子は別の意味で死にたいような気になった。  気がついてみると、衣服も凄じい着方をしている。これは決して自分が着た時のものではない。誰かが、着ているものを自分の知らぬ間に脱がせてから、ふたたび着せたものだ。その誰かとは、彼らに決っている。濡れた衣服を火で乾かしてから着せてくれたのだろう。  貴久子はそのことに気がつくと、全身の血が顔に集まったような気がした。 「私、ずいぶんひどいかっこうしていたんでしょうね」  貴久子は礼の言葉をのべる前に、蚊《か》のなくような声で言った。だが二人は彼女の羞恥を笑いとばした。  貴久子が元気を回復すると、彼らは自己紹介をした。細面が影山隼人、角顔が真柄慎二。ともに東京雪線クラブという山岳会のメンバーで、休暇を利用して八ケ岳へ登り、悪天候を避けて下山中に貴久子を発見したのだと教えてくれた。 「尾根の上であなたを見つけた時はもうだめかと思った。この季節にこんな軽装でよくあんな所まで行けたな。全く無茶だよ」 「幸いにまだ微かに脈があったので、応急手当をしてから、この避難小屋へかつぎこんだんだ」  と言いながらも、二人は貴久子の回復を率直に喜んでくれて、何故そんな無茶な登山をやったのか追及しようとしなかった。救助者としてそれを訊《き》くことは当然の権利でありながら、貴久子の複雑な事情のありそうな様子に、追及を遠慮してくれたところに彼らの思いやりを感じた。 「すみません」  貴久子は深々と頭をたれた。それが命の恩人としての彼らへ向ける精一杯の感謝と同時に、迷惑をかけた詫びのつもりであった。 [#改ページ]    魂の香煙      1  湯浅貴久子と二人のアルピニストとの交際はこうしてはじめられた。二人ともに�下界�ではサラリーマンである。影山隼人は神田の方にある雑誌社に勤め、真柄慎二は丸の内の銀行マンだった。 「また会えますね」  新宿まで同じ列車で帰って来たというより、エスコートしてきた形の彼らは、別れぎわに未練たっぷりの表情で言った。実は家まで送ろうとしてくれたのを貴久子が強く辞退したのである。  貴久子の家では、彼女が死に場所を探して旅へ出たことを知らないはずである。数日前に家を出た時は、四、五日グループと小さな旅行をしてくると言っておいたから、家人はまだ何の心配もしていないだろう。  そこへ遭難の救助者として二人のアルピニストに付き添われて帰って行ってはいかにもまずい。自殺をしかけたという事実を親に知らせて、よけいな心配をかけるよりも、自殺の原因を追及されて、中井に捨てられたことを知られるのが恥ずかしかった。  思いやりのある影山と真柄だから、そんなことを両親に告げはしないだろうが、いきなり現われた二人の青年に、家人は彼らとの関係をしつこく問い糺《ただ》すであろう。となると中井のことをたぐられてしまう。  偽りの話を造ったり、弁解をするのはいやだった。  かといって折角、家まで送ってきてくれた命の恩人を門前で追い返せない。彼らへの礼は後日改めてすることにして、貴久子は未練げな表情の彼らとたって新宿駅で別れたのだった。 「また会えますね」  山から里へ下り、列車に乗って都会の雑踏へ近づいて来るにつれて、貴久子への言葉づかいが親しみをこめた馴れなれしさから、他人行儀のていねいなものになるのを、彼らが、山巓《さんてん》を漂泊するアルピニストから、都会人に還《かえ》りつつある証拠として聞きながら、 「必ず」  と貴久子は目にあふれるような表情をこめてうなずいた。  不思議な現象が二人の男の間におきた。最初のうちは二人一緒に貴久子と会っていた彼らが、ひとりで逢いたがるようになったのである。  貴久子は、今まで水ももらさぬ山仲間だった影山と真柄の間に自分をはさんで、奇妙な反目が生じていることを知った。それは少しも奇妙ではない、美しい女をめぐる男たちの当然の反目であったが、彼らと初めて遇《あ》った時の、高峰群にとり憑《つ》かれたアルピニストとしての姿が強く印象されているために、自分を原因としての反目が、彼らにそぐわないひどく生ぐさいものに感じられたのである。  貴久子は自分の美しさを充分に意識していた。女の常として、男たちが自分をめぐって争うのを眺めるのは決して不愉快ではない。むしろ自分の美しさと魅力の証拠として大きな満足と優越をおぼえる。  だがそのライバルが影山と真柄の二人となると、優越よりも、当惑が先に貴久子をとらえた。  二人のどちらも貴久子にとっては大切な恩人である。そしていずれも同じくらいに好ましい男性であった。彼らを争わせたくはなかった。少なくとも、自分を原因にして仲たがいをさせたくはない。 「どうして? 一緒に会いましょうよ」  貴久子が言うと、彼らはいかにも歯がゆいといった様子を全身で現わしながら、 「君にはひとりだけで逢いたいんだ」  と強く主張した。  影山と真柄は山という共通項に結ばれていたが、性格はむしろ正反対であった。  雑誌社という勤めがら、影山は都会的である。山にある以上に一流ホテルのダイニングや、あるいは赤坂や青山のプレイスポットにおいてもTPOに着こなす服装や態度に危げがなかったが、真柄はいかにも銀行の人間らしく、どんな場所にあっても、背広の下のボタンまでかけているといったふうなかたいきまじめな雰囲気《ふんいき》があった。  趣味も話題も影山のほうが圧倒的に豊富であり、貴久子を飽かせることがなかった。都会的という面では中井に似通っていたが、影山は、中井よりもはるかにスケールが大きく洗練されているようであった。山という�趣味�(これも都会人の贅沢《ぜいたく》な趣味である)にしても中井にはなかったものである。  人生の伴侶《はんりよ》としては、そのようなものは大して必要ないが、若い女を決定的に惹《ひ》きつけるものは、生活に直接関係のない、男の外面を飾るこれらプラスアルファである。  中井との苦い�経験�によって、このプラスアルファの無意味さをよく理解したはずの貴久子であるが、中井との関係に終止符を打つための自殺を否定する形で、新たに登場した影山に、過去の経験をすっかり忘れてしまった。  実際若い女にとって安心して(誰に見られても)一緒に歩ける男性は、大きな魅力である。彼女らにとって、男の生活力や能力よりも、彼の外観や雰囲気のほうがより重要なのだ。  その意味で、真柄は影山よりも不利であった。貴久子は別に意識したわけではないが、次第に影山に逢う回数が増えてきた。      2 「キクちゃん」  今まで軽い会話を交《かわ》していた影山の表情がふとひきしまった。ホテル専属の歌手が、予定の曲目を一通り歌い終って、甘いバンド演奏に切り変るわずかな空白をとらえてのことである。  貴久子は、男がそのような表情をした時には、次にどんな言葉を用意しているか、中井との経験で大体の見当はついた。  中井もかつてこんな表情をして、�告白《プロポーズ》�をした。貴久子はその時を思いだして、一瞬身がまえるように身体をかたくした。  ホテル専属のバンドが、歌手に代って甘いムード音楽を演奏しはじめた。窓外には黄昏《たそがれ》から夜に移り変るひと時の、遠く暮れ残った光と、人工のイルミネーションの輻輳《ふくそう》した壮大な展望が開いている。  さすが東洋一の規模を誇る高層ホテル呼び物の、回転展望食堂《スカイダイニング》からの眺望ではあった。ここは東京平河町にある東京ロイヤルホテルの屋上にある『ロイヤルスカイサロン』である。地上四十二階、軒高百五十メートルの展望は、最近とみに高層化しはじめた東京の建物のすべてを�地上�に振り切り、都心にいながら遠い地平線まで視野の中におさめてしまう。  影山は、貴久子と知り合ってから、よくこの場所へ彼女を誘った。高い所へ登るのが好きなアルピニストの習性と、彼の都会的なセンスを見事にマッチさせた場所であった。 「キクちゃん」  影山はもう一度言った。ここ数回、短い間隔で重ねたデートのおかげで、彼は貴久子をこのように呼ぶほどの距離に近づいていた。真柄は依然として「貴久子さん」と呼ぶ。 「君は、僕のことをどう思っている?」  影山は後の言葉を押し出すように言った。貴久子は「そらきた」と思った。しかし嬉《うれ》しかった。それはそれだけ彼女が影山に傾いている証拠であった。 「どう思うって……?」  だが彼女は一瞬どう答えてよいものかとまどった。 「僕のこと、好きなのか、嫌《きら》いなのか?」  影山は追及してきた。いったん押し出された言葉によって、心の堰《せき》が破られたらしい。火のような激しさがあった。 「それは好きよ、好きでなければ、こうやって二人だけでお逢いしないわ」  貴久子は、影山の思いつめた口調に少したじたじとなった。 「僕が聞きたいのは、そんなあいまいな言葉じゃない。僕のことを男として好きかということなんだ」  影山は彼女がたじたじとなりながら答えた言葉が不満なようだった。 「困ったわ」 「困ることなんかないだろう。さ、どうなんだ。もう僕の気持はいいかげんに分ってくれていると思う。兄さんのように尊敬しているとか、いつまでも仲の良いお友達でいたいなんて言葉だけは聞かせないでくれよな。そんなことなら、嫌われたほうがましだよ」 「だって……」 「だって、何なんだ!?」  影山は容赦しなかった。目はひたと貴久子の瞳《ひとみ》をとらえ、熱くからみついて、彼女がはずそうとしてもはずさせない粘着力をもっている。それはこれから登るべき雲表の高峰に向けて注いだ彼のアルピニストとしての熱い視線と同じ種類のものであろう。 「だって、私、あなたと知り合ってまだいくらも時間が経《た》っていないんですもの」  貴久子は、影山のひたむきな目に見つめられて息苦しくなった。 「こんなにしばしば逢っていても、君はまだ時間が不足だというのか!? 僕の気持はもう定まっている。君が好きだ。好きで好きでたまらない。もう君なしではひとときでもいられないんだよ。僕と結婚してくれ!」 「ま、待って! いくら何でもあまり急すぎるわ、もう少し時間をちょうだい。お願い」 「僕のこと好きなんだね」 「好きよ」 「男としてか?」  影山のたたみかける言葉に、貴久子はうなずいた。しかしそれは決して自分の意思に反するものではない。 「もし今、周囲に誰もいなくて、僕が君に接吻《せつぷん》しようとしても、君は拒否しないだろうか?」 「そ、そんな」 「言ってくれ、周囲に人目がなかったら拒否しないか」 「そんなこと聞かれても答えられないわよ」  貴久子は頬を染めた。怒りからではなく羞恥《しゆうち》によるものである。それがそのまま彼女の答であった。  だが影山は、はっきりした意思表示をもらわなければ満足しなかった。 「言ってくれ」 「…………」 「拒否しないね」  貴久子はついうなずいてしまった。影山の強引な調子に押し切られた形であった。中井ですらこんな強引なプロポーズはしなかった。  貴久子はうなずくと同時に、その重大な意味を悟って、顔を熱くした。ちょうど回転食堂が一回りした時であった。完全な夜景に変った展望の中に、たった今よみがえったばかりの大都会の五彩の光点が、ある場所には密度濃く、ある場所には比較的|粗《あら》く燦《きらめ》いている。それら光点の燦きに遠い視線を送りながら、貴久子は今夜からまた自分にとって新しい人生がはじまると思った。中井敏郎のことはすでに彼女の記憶の片すみにも留《とど》められていなかった。  その夜影山は、貴久子の自宅の近くまで送って来てくれた。彼女の家は杉並のはずれにある。駅から商店街をぬけて、高台の方へ歩くと、すぐに静かな住宅街となる。  駅から尾《つ》いて来たいくつかの足音は、途中の道や小路に岐《わか》れて、間もなく彼ら二人だけになった。  初夏の郊外の夜は爽《さわ》やかである。新緑の香りを集めた夜風が、二人の体をなぶるように吹いてくる。  貴久子の家は駅から歩いて七、八分の距離である。朝夕の通勤の時には、呪《のろ》わしいほど長く感じられた距離を、あっという間に歩いてしまった。二人は貴久子の家の前に立った。柴垣に囲まれた家の中にはみかん色の灯が貴久子の帰りを待つように灯っている。  貴久子はその灯の下へ影山を招き入れたかった。しかしまだその段階ではなかった。両親には影山の存在は全然話していない。中井とのことで死を決意するまでに傷ついたことは、両親にどうにか隠し通したが、とにかく彼が原因で貴久子が深く悩んでいたことは、母親に何となく悟られている。  あれからいくらも経っていないのに、新しい�友達�として影山を紹介するのは、いかにも自分の移り気を示すようで恥ずかしい。 「今夜はどうもありがとう、とても楽しかったわ」  貴久子は門の前で立ち止まって、影山の方を向いた。二人は湯浅家の門前で向かい合って立った。 「じゃあまたね、さよなら」  貴久子が差し出した手を、影山が握った。軽く握り合って、門の中へ入ろうとした時、彼女は強い力で引き戻された。影山が握った貴久子の手を離さず、そのまま自分の方へ強く引っ張ったからである。  ふいを突かれた形で、貴久子はよろめいた。そのよろめいた先に、影山の腕と胸が待っていた。何の防備もせずに自分の胸の中へ転げこんで来た美しい女の体を、影山は男の力でがっしりと捉《とら》えた。  貴久子がハッとして上げた面の上には、男の餓《う》えた唇がまさに絶好の距離と角度に置かれてあった。避けもかわしもならぬ勢いで、男の唇は、貴久子のそれを襲った。それはまことに「襲う」という形容がふさわしい接吻だった。いきなり捩《ねじ》るように重ねられた唇は、螺旋《らせん》でももみこむようにぐいぐいともみこまれ、貴久子の唇を食いちぎらんばかりに強く吸った。唇の間で二人の歯が触れ合ってカチカチと鳴った。  こんな強烈な接吻は、中井からもされたことがない。貴久子が必死になって相手の顔を突き放したのは、呼吸ができなかったからである。その時はもう存分に唇を貪《むさぼ》られた後だった。 「君は拒否しないと言った」  影山はそれでもまだ不満らしく、もう一度顔を近づけようとした。 「そうじゃないのよ……人がくるわ」  貴久子は弾む呼吸を抑えて言った。たしかに近づいて来る足音がしている。あまり長く抱擁していると、家人にも気づかれる惧《おそ》れがある。  影山は不承不承に諦めたらしい。 「君はまだ僕のプロポーズに答えていないぞ」 「あらっ、こんなに口紅がついてしまって!」  ハンケチで優しく影山の唇を拭《ぬぐ》ってやりながら、貴久子は彼の追求をかわした。      3  その夜を境にして貴久子の、影山と真柄の間でためらっていた心の秤《はかり》は、加速度的に影山の方へ傾いていった。  真柄も敏感に貴久子の秤の傾き具合を悟った。だが真柄は、強いてその事実に目を瞑《つむ》ったようである。  貴久子は決着をつけなければならないと思った。影山も真柄も、彼女にとっては大切な命の恩人である。異性として眺めても、どちらも彼女の好きな部類《タイプ》に属する。  貴久子は、まだ影山に対して決定的な返答を与えていないが、彼が望むなら結婚してもよいと思うようになっている。どんなに好もしいタイプであっても、女は二人の男と同時に結婚できない。となれば、その中の一人は�斬り捨て�なければならない。どうせ斬らなければならないのなら、早いほうがよかった。遅くなれば遅くなるほど、男の心をなぶることになり、二人の山の友情にひびを入れる結果となる。  真柄が自分を好いてくれるのは彼の勝手である。だがそのことによって、信頼のザイルでかたく結ばれているはずの山仲間を、自分を中心とした世俗的な三角関係の渦《うず》の中へ巻きこみたくなかった。  貴久子が彼らに惹《ひ》かれたのは、恩人としての心の傾き以外に、「山」という高雅な趣味に結ばれた若者の清々《すがすが》しい連帯が感じられたからである。  貴久子は真柄から「二人だけのデート」に誘われた時、今日こそはっきりと自分の心のありようを告げようと決心した。 「さて、どこへ行きましょうか?」  日曜日の午後一時、約束の場所で落ち合った二人だったが、真柄は自分から誘っておきながら、貴久子を連れていくべき場所を知らなかった。今まで何回か逢ったが、彼とのデートはいつもこんな調子である。こんなところにも、影山と比べると泥くささが感じられる。 「ロイヤルホテルへ行きましょうよ」  貴久子は、影山のプロポーズを事実上受け容れた同じ場所で、真柄に訣別《けつべつ》の言葉を告げようと思った。二人の男を同じ環境に置いて比較してみるのも面白いだろう。——しかし正確にはそれは同じ環境ではなかった。場馴れした影山と、銀行のいかめしい建物の中と山しか知らない真柄では、真柄に最初から大きなハンディがつけられている。それを「同じ環境」と断じたのは、すでに心を傾けてしまった男に都合のよいように、場所を選ぶ女のエゴと冷酷さがあった。 「えっ、ロイヤルホテルへ!?」  案の定、真柄は困ったような表情をした。山の酷《きび》しい風雪の中ではびくともしない屈強の山男が、ハイソサエティの虚飾の城の前で足踏みしている。人を圧倒するために建てたような建物は、それに馴れさえすれば何のことはないのだが、場馴れしない人間は、その構造の意匠だけで充分威圧されてしまう。  それは山の巨大さの前でアルピニストたちが感じる人間の微小感とは、本質的に異なる�卑小感�である。前者は微小感と同時に闘志をかきたてられるが、後者は、馴れるまでは、自分だけが受け容れられないような疎外感とともに、それを糊塗《こと》するためのやせがまんが、よけいコンプレックスを煽《あお》るのである。  貴久子は渋りがちな真柄を強引に引っ張る形で、ロイヤルホテルのスカイダイニングへ連れていった。席も、影山と坐ったほぼ同じあたりに取った。 「凄《すご》い所をご存知ですね」 「影山さんに連れて来てもらったのよ」  この一言で真柄はかなり痛めつけられた。もともと都会的なスマートさでは、真柄は影山にはかなわないと思っている。自分が、その前で不覚にも足が震えたようなデラックスなホテルの食堂へ、ライバルはすでに貴久子を伴って来ている。しかも彼女の話の様子では一度や二度ではなさそうである。  ライバルの�開拓�した場所へ、女に誘われた自分の劣勢はもう被《おお》いがたい。そんな場所でのデートが一体、女にどんな効果を与えるというのか?  失望が真柄の表情を被った。それでも食前酒とバンドの奏《かな》でるムードミュージックのおかげで、食事のコースに入ったころは、真柄の重い口もいくらか綻《ほころ》んできた。  彼の視野から、彼を今まで威圧しつづけていたホテルのハイソサエティのムードが消えた。彼の目には貴久子の顔しか見えなくなった。真柄は感情をこめて、今まで登った山々の酷《きび》しさを語った。三ツ峠や鷹取山の岩場《ゲレンデ》からはじまって、谷川岳や北アルプスの峻険な岩を求めての�巡礼�を話した。  影山とザイルパーティを組むようになったのは、大学の山岳部時代からだった。高校時代から山をやっていた二人は、同じ年に東京のA大へ入ると同時に同大の伝統ある山岳部に入った。  学校山岳部や一般の山岳団体が、ある特定の山域や山塊をホームグラウンドとして、その開拓につくした例は登山史上に多いが、A大山岳部は北アルプス北穂高岳西面に懸《か》かるT谷の開拓に圧倒的な情熱を注ぎこんだ。  T谷は北穂高岳を中心として、槍ケ岳との間に落ちこむ大|切戸《キレツト》から、涸沢岳に至る長野岐阜両県境界線の西面、岐阜側に展開する悪絶を極めた陰惨な谷である。  奈落の底から稜線《りようせん》に向かって急激に突き上げた放射状の各沢は、落石に埋めつくされたガラ場(岩場)の連続で、険悪なこの谷の様相を如実に示している。沢と沢との間は、蒼黝《あおぐろ》い逆層の、鬼気迫る岩壁《フエイス》や岩稜《リツジ》によって構成されている。  ほとんどのルートはいずれも狭く急峻で、クライマーは絶え間ない落石の危険にさらされなければならない。また霧が発生しやすく、霧のベールの中からいきなり襲ってくる落石は、ほとんど避けようのない場合すらある。  西面に位置しているため、吹きつける風は何物にもさえぎられることなく強烈そのものである。これに雨が加わると、夏でさえ凍死あるいは、全身の自由を失って墜死することがある。  冬ともなれば、岩壁の至るところに蒼氷が張りつめ、冬期季節風をまともに受けながらの登攀《とうはん》は困難をきわめる。これをA大山岳部は、部に負わされた課題として執念のような不屈の意志と、最高の技術ならびに若い体力によって、バリエーションルートの一つ一つを開拓していったのである。  影山と真柄の連帯はこのT谷を舞台にして培われた。影山の天賦《てんぷ》のバランスと、真柄の群を抜いた馬力が結びついて、いくつかの至難のルートに最初のケルンが築かれていった。  彼らの連帯はA大を卒《お》え社会人になってからもつづいた。むしろ、社会へ出てからのほうが、それが強まったといってもよい。職業による時間的制約は、彼らの山に対する情熱を前以上に熾《はげ》しく燃えさせた。学生時代にたっぷり注ぎこめた時間を「会社」に奪われたので、欲求不満が、彼らの山への渇きを強めた。  二人は限られた時間により多くの可能性を試みるために、社会人登山団体として先鋭をもって鳴る『東京雪線クラブ』に揃《そろ》って入ったのだった。  彼らのクライマーとしての名前を高めたのは、二年前にヨーロッパアルプス最悪の壁といわれる、ブライトホルン北壁の冬期初|登攀《とうはん》に成功したことである。  この壁は別名�悪魔の岩壁�と呼ばれ、日の光の一すじも射さぬ北面に、氷の侵食作用で深いひだを彫りきざまれて陰惨な岩相を露出した、最も悪条件のそろった高差千八百メートルの大岩壁である。  これを冬期の最も困難な時期に、影山と真柄は、初めて完登したのであった。  この成功をさらに劇的なものとしたのは、この時彼らが初めてパーティを組んだ野中というクライマーを、頂上直下の『黒いサソリ』と呼ばれる最後の難所で喪《うしな》ってしまったことである。  黒いサソリをトップで挑《いど》んだ野中は、ハーケンが抜けて墜《お》ちた。影山と真柄の確保《ジツヘル》で危うく途中で止まったが、全身|打撲《だぼく》で行動不能になってしまった。  引きずり上げることも、降ろすこともできない困難な状況の中で、野中は二人に自分を残して登りつづけるよう強く求めた。そのままでは三人共倒れてしまうので、やむなく野中をその場へ残して頂上へ抜けた後、救援隊を連れて引きかえして来た時には、すでに野中は死んでいたのである。  友の死体を乗りこえるようにしてかち得た初登攀の栄光が、劇的な効果を高めた。  真柄と影山は、かつての輝やかしい初登攀や、山行の物語りを、熱っぽい口調でよく語った。  しかし、このブライトホルンの山行についてはあまり語りたがらなかった。友の死が、いまだに彼らの心に深い傷を抉《えぐ》っているようであった。だから貴久子も、それについては、強いて聞こうとしなかった。  今日も、真柄の話題は、ブライトホルンを除いた�山�にかぎられていた。  それらの物語りや�武勇伝�の中にはすでに影山や、真柄自身の口から何度も聞いた話があったが、貴久子は興味深く耳を傾けていた。男が情熱のことごとくを注いだ対象について語るのを聴くのは、女にとって常に興味深いものである。 「でもそんな危険を冒してまで、どうして山へ登りたかったの?」  趣味にしてはあまりにも危険なような気がした。同じ質問を影山にもしたことがあったが、彼はこともなげに「好きだからさ」と答にならない答をしただけである。重ねて聞いても、「ただ好きなだけで、別に理由はないよ」と答えられそうだったので、それ以上質問を追わなかったが、真柄には別の答があるような気がした。 「どうしてと聞かれても……困ったな」  真柄は本当に困ったように額《ひたい》に手を当てた。 「別に困ることないでしょ」 「ちょっとキザっぽい言い方なんですが、ピッケルがいつも新しい約束をさせるからなんです」 「ピッケルが? ……約束?」 「下手な詩ですが、聞いてくれますか」  貴久子がうなずくと、 「夢というものが果てしないのは  頂の歓喜を青い風の中で  共に分かち合うべき時に  ピッケルよ  お前は苦闘の後の身をケルンに寄せて  いやさらに高き遠き峰のために  新たな約束を迫ったからか」 「それ真柄さんの詩?」 「はあ、恥ずかしいです」 「好きですわ、その詩」 「ありがとう」 「でもその詩だと、山がすごく美しい場所のように思えるんだけど」 「美しいですよ」 「でも真柄さんは、たった今、山の酷《きび》しさや恐《こわ》さばかりを話したわ、山って恐いんでしょう」  貴久子はつい数か月前、死に場所を求めて八ケ岳の上の方へ登りつめて行った時のことを思いだした。登るほどにだんだん天気が悪くなって、霧と雨の灰色の視野の中に閉じこめられた時は、山が凶悪な意志を剥《む》き出したように見えたものだ。影山と真柄に救われて山麓に担ぎ降ろされた時も、死の淵から引きずり戻された興奮と緊張で山を眺める余裕などなかった。  大体八ケ岳を訪れたのも、もとはといえば、上高地の美しい記憶に作用されたからなのだが、今の彼女にとって、�山�は八ケ岳を契機にして美しい場所から、何となく陰惨で凶悪な場所へと変化していた。 「そりゃ恐しいですよ、一瞬の油断がいつも死に結びついている。道標に忠実に従って、一般登山道を上下する�観光客�とちがって、僕らは常により困難なルートに人間の可能性の限界を追求しているんです。前には限界であった可能性が、新しい登攀でまた一歩おし進められると、僕らは美しいものを見られるのです」  ずいぶん抽象的な表現だったが、貴久子には分るような気がした。 「真柄さんてロマンチストなのね」 「ロマンチストと言われるのは、ちょっと抵抗をおぼえるけど、下界より山にいる時のほうが生きてる気がするんだから、ロマンチストにはちがいないでしょうね」 「山のどんなところが美しいのか話して」  貴久子は訣別の言葉を告げるために来たのが、知らず知らずのうちに真柄の話題の中へひきこまれてしまった。 「ちょっと一口には言えないんですが」  真柄はテレたような笑いをもらして、 「何といっても山が一番美しく見えるのは、長い苦しい登攀を終えて、山頂でザイルを解く時でしょうね。ある詩人が『魂が歓《よろこ》びの香煙を焚《た》く』とうたいましたが、ちょうどそんな気持です。冬は、雪崩《なだれ》の危険に絶えずさらされながら、息も絶えだえになってやっと辿り着いた山頂は、目も開けられぬ風雪の時が多いのですが、夏はたいてい、残照が空も雲も、そして自分たちがたった今登ってきたばかりの岩壁も真赤に染めています。自分自身もその壮《おお》きな夕焼けに染まりながら、ザイルを解く時、本当に自分の心の奥底から、一筋の香煙が、夕焼けに浸された空の上方へまっすぐ上って行くような気がするんです。きれいですよ、そんな時の山は。そしてピッケルが新しい約束をせっつくのもそんな時なんです」  真柄は遠い目をして、窓の外の展望に目を泳がせた。まだ夕暮には少々|間《ま》があった。夏の近い、午後の強い陽ざしの中に、都会の喧噪《けんそう》とほこりが攪拌《かくはん》されて、暑くるしい白濁した風景が展《ひろ》がっている。彼はそのかなたに、自分が�香煙�を焚いた山巓《さんてん》の空を探しているのであろう。 (本当に純粋なんだわ、この人は)  貴久子は心につぶやくと同時に、今ここへ彼を誘い出した目的を思いだして胸が痛くなった。 (影山がいなければ、私は確実に真柄に傾いていっただろう。でも真柄は私の胸の中へ入ってくるのが一歩遅かったわ。お気の毒だけれど、私の中にはもう真柄さん、あなたのためのスペースはないのよ) 「実り多かった一日の収穫をいっぱいに抱いて、落日のくるころの青くかげりやすい谷あいのテントへ帰って行く時の僕らは幸福なんです。何か大きなことを為し終えた後の夕日というものは、凄く華やかに感じられるものなんですね、テントのある谷あいからは、夕暮を包むために霧が柔らかく昇ってくる、そんな時僕はいつも思うんです。きっとベースキャンプには、僕がひそかに胸に抱きつづけた憧《あこが》れの女性が、僕の帰りを優しく待っているにちがいないと。——僕はその幻想を抱きたいがために山に登ったのかもしれません。でもそれは幻想ではなかった。その人はとうとう現われた。ある日、僕の帰りを待っていてくれた」  遠くを見ていた真柄の視線が、貴久子の目にひた[#「ひた」に傍点]と据えられて、熱っぽい光を帯びてきた。 「待って」  貴久子はあわてて真柄の次の言葉をさえぎった。真柄が言いだした後では、別れを告げにくくなる。何といっても大切な恩人の一人であり、決して嫌いな男ではない。後味の悪い別れ方はしたくなかった。  それに彼が貴久子の言葉を受け容れてくれれば、これまで通り「友人」としての交際はつづけられるのである。 「その前にちょっとお話ししておきたいことがあるのよ」 「その前に?」  真柄は出鼻をくじかれた形だった。 「私、影山さんと結婚するかもしれないの」 「影山と——」  真柄の大柄な体がグラッとゆれた。貴久子がかなり影山へ接近している気配は分っていたが、よもや今日、このような決定的な宣告を受けようとは予期していなかったらしい。 「貴久子さん、それ本当か!?」 「本当よ、私、ずいぶん考えたんだけど、とうとう決心したの、真柄さんも喜んでくれるわね」  貴久子はここが勝負だと思って、真柄の見開かれた目をはね返すように視線に力をこめた。二つの視線が火花を散らすように宙にからみ合った。  最初にそれをはずしたのは真柄だった。貴久子はこの勝負に勝ったのである。貴久子の目に真柄の、山できたえぬかれた逞《たくま》しい身体が、空気が抜けていく風船に似て、みるみる凋《しぼ》んでいくように見えた。彼は今きっと心に積み重ねた憧憬《どうけい》のケルンが、ガラガラと崩れ落ちていく音を聞いているのであろう。  可哀想だとは思った。しかし貴久子にはどうしてやることもできない。男には、女以外に仕事がある。「何か」がある。真柄の場合はその何かが山であった。自分を失った後の空虚はすぐに埋めることができる。しかし女には男以外にはない。しかもその男はただ一人しか許されないのである。この際影山を選ぶ自由を許してもらわなければならない。  だがそれにしても——今目の前にしている真柄の落胆の様子はひどかった。貴久子からはずされた視線は焦点を失っている。椅子にかけているのが精一杯といったふうに、その体は今にも椅子から床へずり落ちそうである。完全な虚脱状態だった。 「真柄さん——」  貴久子に何度か呼びかけられて、やっと彼の目に焦点が戻った。 「あ、うん」  真柄は意味のない声をもらしてやっと自分を取り戻したようである。 「そ、それでいつごろ結婚するつもり?」  真柄は、絶望の斜面をまっしぐらに落ちて行く加速度の中で、その底を見極《みきわ》めるようなつもりで言った。 「まだそこまでは決めてないわ。私ももう少しお勤めをつづけたいし」  いずれは影山と結婚することにはなっても、まだ家庭に閉じこもるには若すぎる気がした。たとえ影山と営む家庭《スイートホーム》であっても、夫の帰宅だけを楽しみにして単調な家事労働しかすることのない家の中に閉じこめられるのはいやだった。  会社の給料は社会一般の水準を擢《ぬき》ん出るものである。中井とのことが過去のものとなってみれば、会社の仕事も面白く、社内の雰囲気も悪くなかった。  影山隼人というすばらしい恋人を得た今、貴久子はもう少し自由な立場で青春の可能性を楽しみたかった。それは多分に、就職先が決まった卒業まぢかの学生の心境に似通っている。 「真柄さんも喜んでくださるわね」  貴久子は何となくあいまいだった真柄との仲に一つの区切点を打った安心から、残酷な確認をした。 「そりゃ僕も嬉しいよ」  真柄は押し切られた形でしぶしぶ言った。 「私たち、今まで通りよいお友達でいられるわね」 「もちろんだとも」  真柄は言葉にやや力をこめた。一方的に女に恋する男にとって、「よい友達」の仲に留まるのが、どんなに辛いことかよく分っているつもりであったが、それでも女との関係に決定的な終止符を打たれるよりはましだと思ったからである。 「ああよかった」  貴久子はホッとしたように言った。真柄との�仲�が保たれたのを喜んだのではない。彼を怒らせることなく、今までの二人の間のあいまいな心情に一つの区切点を打てたのが嬉しかったのである。 「それで、真柄さんをキャンプで待っていたという憧《あこが》れの人ってどんな方だったの?」  貴久子は、その質問がどんなに残酷な意味をもっているかよく知りながらあえて尋ねた。 「いやもういいんです」  ふたたび他人行儀に戻った真柄のことばに同調して、彼の目は暗く虚《うつ》ろになった。  一年の中で一番昼の長い季節にかかっていたが、ようやく窓外の遠望にたそがれの気配が濃くなっていた。白濁した都会の空も、青く翳《かげ》りやすい夕景に傾くと、その下にうごめく無数の人間が一日のわずかな時間の間《かん》隙げきに、ふと覗かせた優しい情緒のようなものを感じさせる。  真柄が「魂の香煙を焚《た》いた」のはきっとこんな時間帯なのかもしれないと貴久子は無責任に考えた。  貴久子はその後中井敏郎とはごく普通の職場の同僚としての間柄をつづけている。二人の仲を極秘にしていたおかげで、貴久子の失恋はだれにも知られなかった。彼女さえ傷心から立ち直り、心身の秘密をだれにも話さなければ、すべてはみな以前と同じであった。  もっとも�玉の輿《こし》�に乗りかけた中井の社内的地位が何となく重味を増したことが、変化といえば変化である。専務令嬢との縁談が起きているという理由で、彼の職制を上げるようなことはない。しかし社内随一の権勢家と結びつつある男に対して、社内の空気が微妙に変化していることは、否定のできない事実であった。  実力主義だの、能力主義だのといったところで、所詮《しよせん》企業は人間が営むものである。同じ程度の能力を備えている人間であれば、コネとか、学歴とか、ケナミとかの�レッテル�のよいほうを登用したいのは当然の人情というものだ。  まして中井は人並以上の能力を備えた男である。彼が上田専務の縁《コネ》をたぐって雲の上に上った場合の発言力の大きさは、今からでも充分に予知できる。サラリーマンはこのような予知能力を本能的にもっている。課長クラスの直近上司はもとより、今まで中井を組織の片すみの微小な歯車として、名前さえろくに覚えていなかった高級上司の、彼に対する態度が目に見えて変ってきた。  頭の回転の速い中井のことであるから、彼は自分の、社内の反感を招きやすい位置をよく悟っていた。自分に微笑《ほほえ》んだチャンスに驕《おご》ることなく、努めて下手《したて》に、誰に対しても従前以上にへり下ってみせたから、このような際にほとんど避けることのできない反感や嫉視《しつし》を、最小限に抑えられた。  彼が一番心配したのは、貴久子である。誇り高い彼女の性格から、未練がましい態度をとったり、開き直ったりすることはよもやあるまいと計算して、故意に高飛車に�三下り半�を突きつけたが、やはりその反応を現実に見極めるまでは心配で夜も安心して眠れなかった。  貴久子のような女を捨てるには、彼女が抱いている男の偶像《イメージ》を原形を留めぬまでに粉砕してしまったほうがよい。そうすれば、そんな男に愛を捧げていた自分の愚かさを恥じて男との関係はかたく秘匿《ひとく》し通すにちがいない。——と計算して出世欲に憑《つ》かれた自分の姿をことさらに強調して見せつけてやったのだが、その直後彼女が数日会社を無断欠勤した時は、さすがの中井もそれこそ足が地につかぬほど動転してしまった。  それとなく湯浅家に電話して探ったところ、行先も告げずに旅へ出たという。旅先で自殺でもされて、遺書が出た場合を考えて中井は慄然《りつぜん》となった。  もともと社員同士の恋愛には好感をもたない会社が、同じ部署のOLと秘密の情事に耽《ふけ》っていた事実を知ったなら、折角微笑みかけた千載一遇のチャンスを叩き潰されるのみならず、上田専務からはその信頼を裏切ったものとしてにらまれ、もはや菱井系では一生うだつが上がらないだろう。  今日死体が発見されるか、今連絡があるかと、薄氷を踏むような数日を過ごした後、湯浅貴久子が何事もなかったような表情をして出勤して来た時は、中井は張りつめていた緊張が一時に弛《ゆる》んで、しばらくは椅子に坐りこんだまま動けなかったほどであった。  貴久子はその後、中井とのことが全くなかったような顔をして仕事をした。かといって特に彼によそよそしくするわけでもない。要するにごく普通の職場の同僚として接するのである。  最初のうちはとまどっていた中井も、次第に�貴久子ペース�に馴れてきた。だが馴れるに従って、中井は次第に辛くなってきた。  もともと女としての魅力は、貴久子が上田専務の娘よりもはるかに上である。しかもその相手も、まだ学生の身分という理由から挙式は卒業後まで�お預け�である。  大切な時期ということをよく自覚して、中井はここのところ、かまえていかがわしい場所には近づかない。しかし若く健康な体の疼《うず》きはそんな事情など全く斟酌《しんしやく》しなかった。  ここについ最近まで自分の貪《むさぼ》るに任せた若く美しい女の体が、手をのばせば届く至近距離で一緒に仕事をしているのであるから、中井の疼きはいっそう強まるばかりだった。  こうなってくると、貴久子の行動をすべて自分の都合のいいように解釈する。あれだけ残酷な捨て方をしても、怨みごと一ついわなかった女だから、今ここで自分が手をさしのべれば、何の代償も要求することなく嬉々としてまた抱きついてくるのではないか?—— 「どう、今夜別に予定がなかったら、久しぶりに一緒にめしでも食わないか」  中井はある日の退社時が迫ったころに、貴久子に思いきって声をかけた。貴久子は一瞬|愕《おどろ》いたような目を向けたが、案外素直にうなずいた。 「君には本当にすまないことをしたと思っている」  二時間ほど後、中井の友人が支配人をしている赤坂のディナークラブで向かい合った中井は、貴久子のグラスに食前酒を充たしてやりながら、テレ臭そうに言った。  ここで二人はよく食事をしたものである。食事の後、すぐ傍にあるTホテルの一室で熱い抱擁の時間を過ごすのが、彼らのお定まりのコースであった。Tホテルは赤坂|界隈《かいわい》の新名所になった豪華ホテルである。  このホテルにシングルを二つ予約し、それぞれ別人のような顔をして到着《チエツクイン》した後、どちらかの部屋に合流するというのが、彼らのデートの方法であった。部屋代はかなりの出費になったが、モーテルで忍び逢うようなうす汚れた情事のイメージがないうえに、二人の関係を誰にも気取られる心配がなかった。  このディナークラブに貴久子が従順についてきたことは、食後のコースを暗黙に了解しているとみてよいだろう。——  そう思うと、中井の胸は抑えようもなく弾んできた。今も貴久子のグラスに酒を充たしてやりながら、自分の不実を詫びたつもりのことばが、つい浮き浮きした調子になってしまった。  貴久子は一向に平静である。 「いいのよ、もうそんなこと」  グラスを受けながら、感情をぬいた声でボソリと答える。 「よくはないさ、僕は僕なりに、本心からすまないと思ってるんだ。あの時は言葉が足りなかったものだから」 「どんな言葉でおっしゃっても、もうあなたの心は私にはないんでしょう」  貴久子はフッと笑った。中井のこんたんは見え透いている。それを知りながらあえて従《つ》いて来たのは、最近また妙な素振りを見せはじめた彼に、影山の存在を告げてきっぱりと終止符を打つためだった。  だから彼女にしてみれば嘲笑《わら》ったつもりだったが、中井はそれを、貴久子が自分に対する優しい感情をよみがえらせたものと釈《と》ったらしい。 「君にはぜひ話しておきたいことがあるんだ。君に対する気持は今でも少しも変っていない。それはこの前にも話した通りだ。でも僕は今、サラリーマンとしてめったにないチャンスをつかみかけている。結婚を自分の跳躍の足がかりにするのは、ちょっと卑怯《ひきよう》のように見えるかもしれないが、これほど確実な足がかりはないんだ。それに足がかりなら何でもよかった。何でもよいから足がかりを得て、自分の可能性を試したかったんだよ。男の可能性と、君を好きだという感情は別のものだと思う。君だって僕のことを本当に愛してくれているんだったら、僕にこの可能性を試させてくれるにちがいないと信じたんだ」  中井の口調に熱がこもった。大して興味ももたずに聞いていた貴久子だったが、ふと彼をからかってやりたくなった。 「その可能性で、いったいあなたはどのくらい遠くまで行けるの?」 「無限さ」中井は胸をそらせて、 「男は、きっかけさえ掴めばどこまで登るか分らない。どんな力のある者でも、きっかけを掴めないと、一生、陽のあたらないところでくすぶっていなければならない。僕はようやくきっかけをつかんだんだよ。上田専務は次期社長の呼び声の最も高い人だ。専務が社長になれば、僕は確実に部長ラインまではいけるだろう。実力主義だの能力本位だのと言ったところで、うちの閥《ばつ》と年功序列の壁は厚いよ。これを打ち破るには、大物とのコネ以外にないんだ」 「あなたの無限の可能性って、部長の椅子のことなの」  貴久子は皮肉をこめて言った。 「おいおい、ただの部長じゃないよ。天下の菱井物産の部長だよ、うまくいけば役員入りのチャンスもあるポストなんだ。秀才英才がワンサとひしめいている中で、今度のようなチャンスでもなければ絶対に望めない椅子だぞ」  貴久子は中井の話を聞いているうちに、だんだん馬鹿らしくなってきた。  彼が無限の可能性だの、陽の当たる場所だのとご大層なことを言っていても、要するにたかが一社の部長ではないか。重役陣へ首尾よくもぐりこめたとしても、たかが一社の[#「たかが一社の」に傍点]であることに変りはない。しかもそれになったのではなく、なれるかもしれないはなはだあいまいな可能性にすぎない。  そのことが、強いて「恋愛と本質的に異なる」と開き直って区別するほどのものだろうか?  同じ可能性の追求であっても、より危険で困難な傾斜にルートを求めて、天の上方へ一歩一歩近づいて行く影山や真柄の行為と比べて何と大きな開きがあることか。しかも生命を賭《と》して辿り着いた先には、何の報酬もない。文字通りの虚空と大きな展望の中へ「魂の香煙を焚《た》く」だけなのだ。  だがそれこそ、男たちにふさわしい可能性の追求ではあるまいか。  中井と会ったことは、馬鹿らしくはあったが、影山の価値を再確認させられた。その意味では全くむだなデートということもないだろう。  貴久子は急におかしくなった。目の前の中井が哀れなピエロに見えてきたのである。かつて貴久子の心をあれほど激しくとらえ、恋しさのあまり、昼も夜も何も手につかないほどに思いつめた相手が、みすぼらしい駄獣のように見えてきた。  いったん笑いが堰《せき》を切ると、もう止めようがなかった。 「どうしたんだ?」いきなり笑いだした貴久子に、中井は驚いた。 「ああおかしい」  貴久子は目尻《めじり》に涙をためて笑い転《ころ》げた。周囲の客が目を向けるほどの笑いようであった。 「ごめんなさいね」貴久子は目尻の涙をハンケチで拭うと、化粧室へ行くふりをして立ち上がった。伝票を中井に気づかれないようにつかむ。彼女はもうこのテーブルへは戻ってこないつもりだった。 [#改ページ]    婚前山行      1  影山との仲はある線までは急速に近づいたが、それから先へは進まなかった。貴久子から唇を許された彼は、すべての男がそうであるように最終的なものを求めた。  だが貴久子はそれを許さなかった。別に惜しんだわけではない。中井にさんざん貪《むさぼ》られた後である。今さら惜しんだところで、別にどうということはなかった。  中井によってかなり�耕されて�しまった身体《からだ》を恥じたわけでもなければ、その事実を知らせた時の影山の失望を惧《おそ》れたわけでもない。  ただ中井によってつけられた汚点を、時間をかけて消した後でなければ、影山に対してすまないような気がした。時間をかけたところで、処女に戻るわけではない。意味のない女の感傷といってしまえばそれまでだったが、貴久子は中井のいやらしい�余韻?�が残る身体をどうしても影山に捧げる気になれなかった。  それは影山との愛を冒涜《ぼくとく》する。こうして彼のしつような求婚《プロポーズ》に対してまだはっきりした返答を与えぬまま、「|唇を交すだけの仲《キツシングターム》」が一年余もつづいた。  貴久子の決意がかたかったのと、影山の山男らしいストイックな性格が助長し合って、現代には奇蹟に近い仲が一年以上もつづけられたのである。  影山と真柄が、北アルプス後立山のK岳北壁の登攀《とうはん》を企てたのは、翌年の五月の末だった。  K岳は、黒部渓谷の東側に沿って南北に走る長大な山脈の後立山連峰の盟主とされる三千メートルに近い高峰である。  花崗岩《かこうがん》から成る鋭角的な山体は、頭頂部において南北二つの峰に岐《わか》れて秀麗な双耳峰を形成している。二人がねらう北壁は、北峰の北面に懸《か》かる高差約五百メートルほどの豪壮な岩壁である。  岩壁基部は、『隠れの里』と呼ばれる氷河期以来のはげしい浸食作用の産物と考えられる、急斜面の雪渓につづいている。この隠れの里は、千曲川の支流K沢の源流部にあたり、K岳最奥の集落、奥村田からさらに六キロも奥にあるところから、北壁をめざす一くせも二くせもある登山者以外は入りこまない「アルピニストの聖地」とされていた場所であった。大町市から奥村田までバスが開通してから、K岳と北壁の絶好の展望台として、最近は一般のハイカーが多数入りこむようになった。  今では奥村田にホテルなみの山小屋も建設され、年間を通して営業している。ある大手私鉄資本によるホテル建設の話もある。隠れの里までバスが入るのは時間の問題となっていた。 「北アルプス最後の聖地も、すぐに上高地なみになってしまうだろう」と、本格派の山屋を嘆かせていたが、アプローチが便利になったことは事実である。  影山が貴久子を誘ったのは、そのせいである。もちろん彼女を北壁に引っ張りあげることはできないが、隠れの里までは入れる。  貴久子の、都会の中に育《はぐく》まれた優雅さと繊細《せんさい》さを、アルプスの荒々しい岩壁の前に立たせてみたかったこともあるが、すべての男がそうであるように、影山も、自分の最も所を得た場所で、自分の最も男らしい姿を、恋する女に見せたかったのである。 「ぜひ一緒にこいよ。きっと日本にこんな素晴しい場所があったのかとびっくりするよ」  影山が誘えば、真柄もそばから、 「ちょうどゴールデンウイークの人波《ラツシユ》がひいて、山は僕らだけでしょう。荘厳なまでの山が、僕らだけのものになります」と最大級の形容詞でしきりに勧誘《コマーシヤル》した。  山は八ケ岳以来、何となく凶悪なものに思えていた貴久子だったが、二人の勧誘に行ってみようかという気になった。  二人のベテランアルピニストに付き添われるのだから、安全は保障される。それに何よりも、影山とともに残雪にちりばめられたアルプスを見たかった。 「行くわ」  彼女は長くためらわなかった。  出発は三人の休暇と長期天気予報とをにらみ合わせて、五月二十五日と決められた。影山と真柄は北壁のロッククライミングを行なうので、かなりの装備になったが、貴久子は奥村田の山荘までなので、ハイキング程度の用意でよい。それでもキャラバンシューズやら、サブザックやらを新たに買いととのえて、出発の日がくるのを、小学生が遠足を待ちあぐねるように胸をときめかして待った。  K岳北壁は、大要、三つの要素によって構成されている。一は隠れの里上部の雪の急斜面から岩壁基部につづく部分、二は岩壁中央を横断するよう走る帯状岩帯、そして三は頂上直下の『赤い壁』と呼ばれるオーバーハング(上部の方が張り出している)地帯である。  北壁バリエーションルートの事実上の登攀《とうはん》は、三をキイポイントにしている。帯状岩帯の比高は、岩壁基部から頂上までの高差約五百メートルのうち、三百—四百メートルを有する。  オーバーハング帯はその上部にあって、北峰頂上直下から隠れの里側に向かって一気に切れ落ちる長三角形の赤色の岩壁である。圧倒的なスケールを見せてそそり立つ岩壁は、隠れの里から仰ぎ見る時、登攀の可能性が全く見出せないような険悪な様相を剥《む》きだしている。この赤い壁まで迫りながら追い返されたパーティは多い。悲惨な遭難も、後立山山域の中で赤い壁周辺に最も多く記録されている。その大多数が無惨な転落事故であった。  首尾よく頂上まで抜けた者が、この岩壁に挑戦したパーティの数に比べて、きわめて少ない事実も、赤い壁のむずかしさをよく物語っている。  だが影山らにとっては、今度が三度目の登攀であった。初回は大学時代の夏、二回目は雪線クラブに入ってすぐの冬、いずれも成功していた。春期の登攀としては、今回が初めてであったが、二人には絶大の自信があった。  落ちるべき雪崩《なだれ》は落ちつくしていると思われるが、ただでさえ脆《もろ》い逆層の岩は、気温の上昇でかなり落ち着きを失っているであろう。冬期の氷と雪に登路の解決をはかることができないだけに、積雪期の登攀とは別のハイテクニックが要求される。  彼らが狙《ねら》ったルートは、北壁の中では最も遅く拓《ひら》かれた中央ルンゼである。このルートは、帯状岩帯が直接《ダイレクト》尾根と主稜との間に彎曲《わんきよく》した凹形の中で最も傾斜の強い部分で、ひときわ深く岩壁をえぐって、隠れの里から仰ぎ見ても、四六時|蒼黝《あおぐろ》い陰の中に隠れて内部の全貌《ぜんぼう》を見せることがない。ルンゼの出口は外傾した一枚板《スラブ》をトラバースして赤い壁の下部に達するようになっている。  積雪期に雪の衣装を真白につける北壁の中で、中央ルンゼと赤い壁のオーバーハングの部分だけが黒々と雪を拒んでいる。  藪《やぶ》に悩まされやすい北壁の他のルートに比べて、中央ルンゼだけは岩の感触に終始し、穂高や剣の岩場に劣らない量感のある、ロッククライミングを楽しめる。  彼らの計画は、第一日目に中央ルンゼの出口で露営《ビバーク》し、二日目の夕方に北峰頂上へ到達しようというものであった。頂上からは南峰を経由して一般コースを下山する予定であるが、途中で日没が予想されるために、北峰頂上で第二夜目の露営《ビバーク》をすることにしていた。それに登頂後下山という課題に縛られずに赤い壁のオーバーハング通過にたっぷり時間をとったほうが気分的にも楽であった。  二夜のビバークはかなりしんどいが、厳冬期のように酷烈なことはない。天候に恵まれれば、頂上付近のハイマツ帯にもぐりこんで、下界の町々の灯を見下すのもなかなかオツなものである。 「そうだ! 奥村田の山荘から頂上が見えるから、時間をあらかじめ決めておいて合図の灯を振ろう」  影山は今思いついたように言ったが、彼はどうやらその合図が送りたくて、山頂の寒い露営に耐えようとしているらしい。  実際、けわしい岩壁を首尾よく登りおおせて、頂上から山麓に待っている恋しい女に灯火の合図を送る企ては、女にカッコイイところを見せたい男を最高に興奮させるものであった。 「そいつはすばらしいアイデアだ。ぜひやろう。貴久子さん、必ず見ていてくださいよ」  真柄も大乗気になった。 「最初のビバークの時に合図できないのが残念だな」  影山は心底から残念そうに唇をかんだ。北峰から派生する一支稜が、ちょうど奥村田と北壁との間に壁のように立ちふさがっているために、奥村田からは赤い壁の上部と、K岳北峰しか視野に入らないのである。もっとも隠れの里まで入ってきても、中央ルンゼは岩壁の中に深くえぐられているので、彼らが登る姿を見ることはできない。  二人が立てた計画は次のようなものである。  出発、五月二十五日午前八時特急あずさ1号にて新宿発、同日奥村田山荘に一泊。  五月二十六日、貴久子一人を山荘に残して登攀開始、同日夜、北壁中央ルンゼ出口にて露営。  五月二十七日、赤い壁アタック、午後六時—七時ごろ北峰到達予定、午後九時、貴久子に灯火信号。  五月二十八日、南峰を経由して下山、午後三時ごろ、奥村田山荘へ帰着予定。  いつもの山行ならば、夜行列車で発つのだが、貴久子がいるので朝発ちとしたものである。 「信号は十五秒間隔で四回点灯、三十秒休んで、また同じ要領で送るからね。遭難信号とまちがえないでくれよ」 「遭難信号はどういうふうにするの?」 「一分間十秒間隔で六回、次の一分は休み、また十秒間隔、以下同じ要領で、これは万国共通です」 「他人には、あまり見られたくないね」 「九時だったら、山荘ではもうみんな寝ているだろう。季節はずれだから客も少ないだろうし」 「なるべく君ひとりで山荘の外へ出てくれよ」 「いいわ」  影山は、貴久子との�愛の交信�を二人だけのものにしたかった。真柄はザイルパートナーとしてやむを得ないが、なるべく他人は介入させたくない。  三人は信号の要領を詳しく打ち合わせた。影山の合図に対して、貴久子も同じ要領で応答することにした。      2  順調な計画に支障がおきたのは、出発が十日後に迫った時である。 「弱ったよ、二十五日に仕事の都合でどうしても休暇がとれなくなったんだ」  真柄が意気消沈した表情で言った。もともと月末は銀行関係は休暇がとりにくいところを、梅雨期に入る前にと強引に休もうとしたのであるが、地方の大口客への融資の件で急に出張を命じられて、どうしても抜けられなくなったというものである。 「もっと早く分らなかったのか!?」  影山は少し気色をなした。 「すまない、何分顧客本位だもんだから、このごろは借手の力が強くなって、銀行も前のような殿様商売ができなくなったんだよ」  真柄はうなだれた。もともと二人で立てた計画であるから、一人が抜けては致命的である。 「中央ルンゼはとにかく、赤い壁はひとりでは越えられないぞ」 「すまない。もしかすると一日で片がつくかもしれないから、次の日に追っかけていくよ」 「その保証はねえんだろう」 「なにぶん相手次第だから、はっきり言えない」 「それじゃあ困るよ。こっちだってぎりぎりの休暇の間に動くんだ。長期予報でも二十五日ごろから絶好の好天に恵まれると出ている。一日もむだにするわけにはいかない」 「本当にすまん」  真柄は身のおきどころがないように、大柄の身体をすくめた。 「ねえ、どうしても待てないんだったら、ルートを変えられないの」  見かねて貴久子が提案した。  赤い壁の中でも特に問題となるのは、上部大オーバーハング帯(頂上直下の)下縁中央部にある、外傾したテラスから右上にトラバースする個所である。手にふれる岩はすべて浮いていて、ハーケンは一本としてきかない。下は一気に隠れの里の雪渓まで切れ落ち、妨げる何物もない数百メートルの空間である。  そのあまりにも極悪な岩相から、クライマーたちから『恐怖のトラバース』と呼ばれている。ここの突破はいかに影山の技術と経験をもってしても、単独ではとうてい無理だった。  結局、赤い壁は避けて、帯状岩帯と赤い壁の境界に横たわる『若草テラス』と呼ばれる草ツキの斜面を伝って東南稜へ逃げ、そこから頂上台地の東南面に懸かる岩壁を攀《よ》じて頂上へ抜けることになった。  この壁も落石と浮石の多い脆《もろ》い岩の連続でいやなルートだが、オーバーハングはなく、ひとりで登れぬことはない。現に赤い壁のエスケープルートとして時折り利用されている。  もともと今度の山行には、初登攀に燃やすような執念はない。貴久子に自分のいいところを見せようとする影山の、多分に稚《おさな》いヒロイズムに裏うちされたレクリエーションである。そうとなれば、真柄の不参加はむしろ好都合であった。恋人と水いらずの�婚前山行�ということになるのであるから。—— 「用事がすんだら、すぐに追って行くからな」と言う真柄に、まさか来なくともいいとも言えず、影山は複雑な表情をした。  五月二十五日、影山と貴久子は二人だけで予定通り新宿を発った。 [#改ページ]    闇の沈黙      1  新鮮な美しさの形容として、「アルプスの五月」という言葉がある。紺碧《こんぺき》の空をバックにした残雪と岩肌の織りなすまだら模様の山々。山麓のしたたるような新緑は、山ふところ深く入るにしたがって多少くすんでくるが、シラビソやブナの樹林の上の雪はあらかた融《と》けて落ち、沢の水は融雪を集めて豊かに勢いよく流れている。  遠い谷間の奥から雪崩《なだれ》のものらしいおどろおどろしい音がひびいてくる時、頬をなでて通りすぎるのはまぎれもない光るような春の風である。コマドリやコルリのさえずりに混って、気の早いカッコウのなき声が、その風に乗って届けられる。  春の山には希望とよみがえりの喜びが充ちている。  貴久子は北壁に向かう影山を、隠れの里の手前まで送る途中、アルプスの五月の、想像をこえたすばらしさを満喫した。  奥村田山荘を彼らは星のあるうちに出発した。朝の雪が堅くひきしまっている間にできるだけ距離を稼《かせ》いでおくためである。朝のうちはアイゼンもよくきくが、日が上って気温が上昇すると、融雪が激しく、くさった雪のラッセルに悩まされるからである。  例年ならば、そろそろ隠れの里まで一般のハイカーも入れる時期である。今年は残雪が多く、雪崩やブロック崩壊のおそれがあるため、貴久子は途中で帰すことにした。彼女のために山荘の若者がエスコートしてくれた。  隠れの里から発するK沢左岸の、ブナの林道の中をしばらく溯行《そこう》すると、発電所の取入口があり、そこで道は小さな釣橋を渡って右岸へ移る。ここからK沢を離れて尾根の中腹の高巻きになる。ところどころにハシゴやクサリがある。幸い暗いので足の下はよく見えないが、かなり下方でK沢の水音が聞こえるから、明るかったら足がすくんでしまったかもしれない。  このあたりには、雪がほとんどない。やがて樹林が切れて台地状の河岸段丘へ出る。周囲に黒々とした山が迫っているが、東の方の山稜の空が薔薇《ばら》色に輝き、刻一刻光度を強めている。まだ日の光の当たらない山々は、何ものかの作用を精一杯耐えて、今まさに躍動しようとする寸前の、無気味なエネルギーをはらんでいるように感じられた。 「ピーカンだな」影山が満足そうに言った。  ふたたびブナの林の中へ入り、しばらく進むと道はゆるやかな下りとなって、二つの沢の合流点へ出た。やや開けた河原で視野がいっぺんに展《ひら》ける。 「両俣《りようまた》出合だ」  ここでK沢は右俣本谷と左俣に岐《わか》れる。影山はここから左俣を見送って、隠れの里へ至る右俣本谷をツメて行くわけである。ちょうど太陽が上った。  貴久子には山々が一瞬群舞をはじめたように見えた。山腹に刻まれた残雪は、朝陽の薔薇色を思うさま吸って、身ぶるいするような鮮烈な彩りに染まる。朝の硬い光のはんらんする空を鋸歯《きよし》状の線《カスイライン》で限る鋭い尖峰《せんぽう》群から、高度を下げて針葉樹より濶葉《かつよう》樹へとつづく波打つようなみどりのうねりは、よみがえったばかりの生命感にあふれていた。  貴久子はここで引きかえすことになった。 「きをつけてね」 「あさっての夕方には帰る。明日の夜の九時に灯火信号を送るからね、忘れずに待っていてくれよ」  峰を染めた朝陽が徐々に高度を下げてくる、銀のように明るい光が漂う谷間で二人は手を握り合った。 「それじゃあ」  一瞬重なり合った視線を辛そうに外した影山は、癒着《ゆちやく》した肉を宛《も》ぐように手を振りはなして山の方へ向いた。そのままふりかえることなく奥まった路地へ入る子供のように隠れの里の方へ歩いて行った。  ピッケルを肩へ斜めに背負い、岩登り用具一式を入れたザックをゆすりながら、樹林の中へ消えて行く影山の後姿に貴久子はほとんど祈るような視線を投げた。  ——彼が山からおりたら、結婚しよう——  という思いが衝動のように衝《つ》き上げてきたのはその時である。 「そろそろ行きましょ」  小屋の若者に声をかけられるまで、貴久子は熱いまなざしを影山を吸いこんだ樹林と、その先をピタリと塞《ふさ》いだ非情な岩壁の黝《くろ》い影に注いでいた。陽の光を拒絶している北面の谷には、まだ厚い霧がたむろしているようだった。  その日と翌日いっぱい貴久子は落ち着かない時間をすごした。山荘からは支稜ごしに白い雪を戴《いただ》いた北峰の頂上がかすかに望める。二十七日の夜九時になればそこから影山の音信が送られてくると思うと、気もそぞろになってじっとしていられなくなる。  こうしている間も、影山は北壁の垂直の空間と苦闘している。  落石が彼を襲わないだろうか、雪崩にやられないだろうか。ロープ《ザイル》は切れないだろうか、あのハーケンとかいう岩に打ちつける釘のようなものは、抜けないだろうか? ——そんな思いが錯綜《さくそう》して彼女は居ても立ってもいられなかった。  影山を送り出した夜は、彼が岩壁から墜落して骨までぐしゃぐしゃに砕けてしまった夢を見て、恐ろしさに目が覚めてしまったほどである。アルプスの夜は冷えるのに、全身びっしょりと汗をかいていた。 「そんなに心配することはねえだよ。影山さんのことだからうまいことやってくるずら」  両俣の出合まで連れて行ってくれた小屋の若者が、見かねたように慰めてくれた。小屋の管理人の息子でみなから「正《しよう》ちゃん」と呼ばれていた。いずれ正一とか正太とかいう名であろう。 「心配してたってはじまらねえ、ひとつこのへんを案内してやっか」  正ちゃんが親切に申し出てくれた。たしかに彼の言う通りひとりでやきもきしていてもいっこうに時間が経たないので、気を紛らせるために、その好意を受けることにした。小屋もちょうどゴールデンウイークと山開きの間の、ひまの時だった。  他に泊り客はない。正ちゃんは山荘の裏手の見晴しのよい台地へ連れていってくれた。発達したブナの林が切れて、高度が少し上がったせいか、K岳と山荘の間に立ちふさがっていた形の支稜が低くなって、頂上と赤い壁の上部がよく見えるようになった。  五月の午《ひる》近い強い陽ざしを真上から浴びて、赤い壁は、ここから見上げると今にもその全体が崩れ落ちてきそうに見えた。白い頂上とその直下の赤黒い岩肌《いわはだ》は、いかにも無気味なコントラストをなして、頂上に何ぴとたりとも近づけようとしない、凶暴な番人のように見えた。影になっている部分がオーバーハングしたところであろう。 「今どの辺を登っているのでしょうか?」  貴久子は赤い壁に目を据《す》えたまま正ちゃんに聞いた。 「オーバーハングを避けて登るから、ここからじゃちょっと見えねえな」  正ちゃんは陽灼《ひや》けした顔を眩《まぶ》しそうに赤い壁へ向けて、 「順調に登ってれば、今日の六時ごろにゃあ頂上へ出られるずら」と言った。  周囲にヤマバトのさえずりがにぎやかである。正ちゃんは、貴久子の心配を紛らせるためか、あれがヒガラ、今のがエナガだなどとなき声の主の名をおしえてくれた。  稜線の上に雲が盛んにわき、風が少し出た。 「そろそろ下《お》りましょ」  正ちゃんがうながした。 「あら、あれ何かしら?」  山荘の方へ向けかけた足を貴久子がふと止めたのは、視野に周囲の風物になじまない�異物�を認めたからである。 「あ、あれは!」  正ちゃんが少し困ったような声を出した。——何でもねえ——ととぼけるひまもなく、貴久子はすでにその方向へ足を向けていた。 「お墓のようね」  彼女が足を向けた台地のはずれの、まばらな白樺の間である。墓石を象《かたど》ったようなケルンや、原木をけずってつくった墓標のようなものが乱立している。そこには何か文字が書かれてあった。だいぶ長い間風雨にさらされたとみえて、墨がにじんで判読できないものが多かったが、中には真新しいものも混っている。 「こよなく山を愛せし者ここにねむ……」  貴久子はその文字を読みかけて、途中でことばをつまらせた。それはまさに墓標そのものであったからだ。 「……このK岳周辺で遭難した人の墓だじ、いつの間にかこんなに多くなってしまった」  正ちゃんが見つかった以上はしかたがないというように説明した。それでも彼は重要な説明を省いたのである。すなわち、その墓の大部分は、北壁での遭難者のものだということを。——  影山隼人が北壁に挑戦している時に、縁起でもないと思ったからではない。ただ貴久子によけいな心配をかけたくなかったからである。影山ほどの技術と経験があれば、心配はない。正ちゃんは、アルピニストとして聞こえた影山を信頼していた。  壮大な残照を燃やして山は暮れた。非常に優勢な高気圧の圏内に入っているのでまだ当分好天はつづくだろう。長期予報は当ったのだ。雲や霧が出て、山が見えなくなるのを最もおそれていたのだが、この分なら心配はない。  日が落ちてから貴久子は完全に落ち着きを失ってしまった。夕食がすんでから、まだだいぶ時間があるのに何度もテラスへ出たり入ったりした。 「どうかしたかね?」  と正ちゃんが聞いたが、合図のことは黙っていた。このことは、影山との二人だけの秘密にしておかなければならない。むしろ星の方に近いようなアルプスの峰頭から、自分だけに向けて送られてくるあえかな光の合図は、誰にも見せたくなかった。  自分だけが認め、そしてそれに応《こた》えてこそ、この天と地上を結ぶ信号の意味がある。貴久子は何度も、用意してきた懐中電灯を点検した。いざという時になって故障だったら泣いても泣ききれない。  十五秒ずつ四回、三十秒休んでまた同じ要領でつづける。影山からおしえられた発信方法は、くりかえしくりかえして練習したので、今では時計を見なくとも正確に送れるほどになった。  アルプスの夜空を背負って交される山頂と山麓の灯火の会話、それは何とすばらしいたよりであり、交信であろうか。  ——あなたを愛している——  ——私はあなたを愛している——  その時こそ私は、光にたくしてはっきりと答えてあげよう。今までは態度で自分の気持を伝えてきたつもりだったが、言葉にあらわして告げたことはない。何となく気恥ずかしかったからでもあるが、真柄への遠慮もあった。  だが、影山は今、たったひとりで険《けわ》しい岩壁を攀《よ》じ、遂にきわめた高みから私に語りかけてこようとしている。もしかしたら彼はその語りかけをするためだけに、生命を賭けて岩壁を攀じたのかもしれない。そうだわ、それにきっとちがいない。  孤独で危険な数十時間を彼はそのためだけに耐えたのだ。あなたの孤独はあと少しで終るのよ。それを知らせてやるために私は今こそはっきり答えてあげよう。  ——あなたを愛している——と。      2  待ちに待った午後九時が近づいた。貴久子はライトをかかえて、三十分ぐらい前から山荘のテラスに待機した。五月の昼は長いが、七時半ごろには完全な闇が落ちる。予定によれば影山は遅くとも六時ごろには山頂に達しているはずである。もしかしたら、闇が落ちると同時に信号を送ってくるかもしれなかった。  重く厚ぼったいビロードのような夜空の下に、山は黒々とわだかまっていた。凄絶《せいぜつ》なまでの星くずが空いちめんに散っていたが、山かげにでも隠れているのか、月がないので、星の光は夜の暗さをかえって強めている。その闇の下に、昼ならば幾重にも尾根のたたなわる山脈は一塊の巨大な隆起となって、視野を閉ざしていた。  約束の時間には多少早かったが、貴久子はK岳の方へ向かって何度か点灯した。山は黒い沈黙をつづけていた。 (まだ約束の時間にならないのだから)  と自分に言い聞かせながらも、もし山頂に着いているのであれば、応《こた》えてもよいはずだと思った。墨《すみ》のような不安が急速に広がった。  貴久子は打ち合わせた合図を何度もくりかえした。時計を見る。九時五分前だった。 「何かあったんだわ!」  体の芯《しん》の方から慄《ふる》えがわいてきた。これだけ送った合図が、向うから見えないはずはない。テラスのこの場所は、山荘から山頂が最もよく見える場所として、昼の間に何度もたしかめた位置である。影山が山頂に達していれば、必ず見える。そして彼がそれを見れば必ず応えてくるはずだ。  約束では、影山が先に発信し、貴久子がそれに応えるというものであったが、要するに無事頂上へ着いた合図なのだから、どちらが先にそれを送ってもさしつかえない。約束の時間に少し間があるといっても、列車ダイヤとはちがうのである。  それにもかかわらず、影山が応えてこないということは、彼がこちらの合図を見ることができないからではないだろうか? つまり彼は山頂に着いていないのだ。途中で何かが彼の身に発生した! 貴久子は全身がガクガク震えて立っていられなくなった。テラスの手すりにつかまって、よろめく身体を支える。  一点のみかん色の灯がK岳山頂付近に灯ったのはその瞬間であった。暖かくふるえるようなその光は、背後をちりばめた星群のどの光よりも美しく、そして明るかった。貴久子の視野の中でその光はきらめき、そしてにじんだ。彼女の目に泪《なみだ》があふれたからである。泪の水滴に砕けた光は、目の中でいっぱいに乱反射して、遠い山頂から男の想いを伝えてきた。 「私、ここにいるわよ、見えるわ、はっきりと。あなたも見て、私の光を!」  貴久子は泪が頬を伝うにまかせながら、夢中で自分のライトを点滅した。  十五秒ずつ四回、三十秒休んでまた十五秒ずつ四回。  〇〇〇〇——〇〇〇〇——〇〇〇〇——  貴久子は必死になって応答しつづけた。何度も点滅して指の先が痛くなりかけた時、ふと妙なことに気がついた。山頂からの合図が六回単位に送られてくるような気がしたのである。最初は目の錯覚かと思った。  だが注意をこらして、改めて数えてみると、六回ずつにまちがいない。  〇〇〇〇〇〇——〇〇〇〇〇〇—— (どうして約束通りの合図を送らないのかしら?)  次の瞬間、電流に触れたような衝撃をおぼえた。 「遭難信号とまちがえないでくれよ」 「それはどういうふうにするの?」 「一分間十秒間隔で六回、次の一分は休み、万国共通です」  出発前に影山と真柄と交した会話がはっきりとよみがえった。 「ま、まさか!」  岩壁の途中ならばとにかく、影山は頂上に着いているではないか。しかしそれにしてもあの信号は? 貴久子はふるえる手をライトにかざして時間をはかった。十秒間隔、六回点灯、一分休み、また十秒間隔六回。——信号は忠実にくりかえされた。  もうまちがいなかった。それは影山の貴久子への想いを伝えるためではなく、万国共通の遭難信号だった。  あの孤独な山頂で何かが影山の身に発生した。何とかしなければ、何とか! でもあの光源と、自分のいる場所との間には、無限に近いような距離と高度差がある。  遭難信号の応答をどのように発するものかおしえられていなかった貴久子は、めちゃめちゃに自分のライトを振り回しながら、 「死んじゃいや! 今すぐ救《たす》けに行くから死んじゃいやよ!!」と泣き叫んでいた。      3  血相かえて屋内にとびこんで来た貴久子の、K岳の上から影山が遭難信号を出しているという訴えに、半信半疑で正ちゃんや、その父親の上村茂助がテラスへ出て来た時は、山はふたたび夜の闇の中へ沈みこみ、一点の光も見えなかった。 「本当に遭難信号だったのかなあ」  茂助は疑わしそうな顔で貴久子の方を見た。 「本当です、まちがいありません。十秒ずつ六回、一分休んでまた六回、私はたしかに見たんです」  彼女の具体的な言葉と、何よりもその真剣な表情に、茂助も異常事態の発生を悟った。 「合図はどのへんからあったかね?」 「あのあたりです」  貴久子は闇の奥を指さした。茂助はその指の延長を追って、 「うん、北峰にまちがいねえな」  とつぶやいてから、息子の方へ向かって、 「正彦《まさひこ》! お前、一番大きなライトをもってきてくれ」とどなった。貴久子は正ちゃんが正彦という名前であることを初めて知った。茂助も今まで正ちゃんとばかり呼んでいたのである。  父親に命じられて、いったん中へ入った正彦は、レンズの口径が十センチもありそうなライトをもってきた。茂助はそれを息子の手からひったくるように受け取ると、山の方へ向かって、二十秒ぐらいの間隔で三回ずつ点滅した。それが応答なのであろう。  茂助は十数回それをくりかえしたが、山から返事はなかった。 「ふうむ」茂助はライトを置くと腕を組んだ。貴久子の訴えを聞いてから、すぐに山頂へ信号を送った。その間何分も経っていない。それにもかかわらず、何の応答もないというのは、その短い時間の内にそれができないような状態になってしまったのか? しかし厳冬の風雪にさらされているわけではない。あの高所ではかなり気温が下っているにちがいないが、天候も安定している。わずか数分の間に遭難信号の応答を確認できなくなるというのは、一体どういう状態に置かれているのだろうか?  茂助は思案にあまった。 「おじさんおねがい! 早く救《たす》けに行ってください。こうしている間にも影山さんは」  と言いかけて貴久子は絶句した。  こうしている間も——死にかけている、と言おうとして、もしかしたらもう死んでしまったかもしれないという恐しい想像に突きあたったからである。  あわてて——そんなはずはない——と打ち消したが、すぐそのそばから、茂助の合図に応えなかった事実が不吉な予感となって、胸の中に黒雲のように発達した。 「とにかくお客さんがそういう信号を見たんなら、影山さんの身に何かが起きたかもしんねえな。そいだが夜中じゃあどうにもならねえ。とにかくすぐ山岳|救助隊《パトロール》に連絡して明日の朝早く現場へ行くだ」  茂助は結論づけるように言うと、正彦の方へ、 「早く寝ろ、あしたは早発ちだ」  ちょうどその時西北の空からK岳北峰へ向かって斜めに流星が飛んだ。  貴久子の不吉な連想は、今日のひるま、正彦と偶然踏みこんだ遭難者の墓所へとつながったのである。      4  真柄慎二が山荘へ着いたのは、その夜十時少しすぎだった。 「真柄さん!」 「ああ、やっと仕事が片づきましてね、午後の列車で駈《か》けつけたんですよ。何とか九時の信号に間に合わせようと、急いでやって来たんだが、車がなくて、遅くなってしまいました。それで影山から合図はありましたか?」  真柄はいやにのんびりした口調で言った。 「それが大変なのよ」  貴久子は知った顔に出会って今までの緊張がいっぺんに弛《ゆる》んだらしく、真柄の胸にすがりついた。 「いったいどうしたんです?」  真柄のヌーボーとした表情は動かない。 「影、影山さんが遭難したのよ、真柄さん、どうしましょう」  貴久子は真柄の胸に顔をすりよせてむせび泣きはじめた。男の汗のにおいがした。 「遭難だって!?」  さすがに真柄の顔がひきしまった。 「まあ、真柄さん、とにかく上がんなすって」  奥で救援の準備をしていた茂助が声をかけた。真柄も過去何回かこの山荘の厄介になっているので、二人は顔なじみだった。 「いったいどういうことなんですか?」  泣きじゃくる貴久子をそっと胸から離した真柄は、山荘のロビーで茂助と向かい合うと事情を聞いた。彼も影山の後を追うつもりで来たらしく、岩登りの装備に身をかためている。 「どうもこうもねえ、影山さんが遭難信号を送ってきただ」 「遭難信号を! いったいどこから」 「北峰だ。お嬢さんが見ただじ」 「まちがいなく遭難信号だったんですか」 「まちがいないわ。十秒ずつ六回、一分間隔で何回も。この間真柄さんからおしえられたばかりだから、絶対まちがいないわ」  貴久子は泣きじゃくりながら答えた。彼女はその時、遭難信号の要領をおしえてくれたのが、真柄だったことを思い出した。  真柄もようやく事態の異常なことを悟ったらしい。 「それでどうします?」  真柄は茂助の方へ向き直った。 「とにかく朝にならなきゃ動きがつかねえだ」  茂助は口をへの字に曲げた。  貴久子はその夜、明るくなるまで、ほとんどテラスに頑張《がんば》り通した。いつまた影山が合図してくるかも分らないと思ったからである。  テラスから離れたのは、真柄が着いた時のほんの五、六分ぐらいであった。  しかし東の空が白みかかるころまで、K岳は遂に闇の沈黙を守りつづけた。 [#改ページ]    燃えつきた�夫�      1  翌早朝、上村茂助から連絡をうけた北アルプス北部遭難救助隊一行十名は行動を開始した。午前六時奥村田山荘に集結した救助隊は、茂助や貴久子から遭難信号の発せられた場所を確認すると、直ちに現場へ向かった。  救助隊は茂助と真柄を加えて十二名となった。真柄が来たので、正彦は留守番として残ることになった。茂助に差し出した影山の登山計画書と、貴久子が認めたという遭難信号から、遭難者のいる位置をK岳北峰頂上付近と推定、一行は一般登路で最も短い赤杭《あかぐい》尾根を経由して現場へ向かうことにした。この尾根の他に、北峰から直接派生する東南尾根があるが、これは上部に悪い岩場があり起伏が多いので取れない。  貴久子も同行を願い出たが、まだ途中の登路が危険であるという理由で許されなかった。しかし本当のところは足手まといになるからであろう。  一行の指揮は大町署の熊耳《くまがみ》敬助警部補がとった。もともと捜査畑だったのだが、異常なまでの山好きのため、いつの間にか「山岳パトロール」と呼ばれる遭難救助隊に入れられてしまったのだ。  彼にしても凶悪犯人を追いまわすよりも、好きで好きでたまらない山をパトロールするほうが性に合っていたらしい。救助隊に入ってから、彼が救った登山者の数は、数えきれないくらいである。  つい最近も彼に救われた関西地区の登山者が集まって万国博に招待した。これを受けることは、警察官として「不当な供応」にあずかることにならないかとずいぶん長い間考えた末、結局、厚意だけ受けて、丁重に辞退したものである。  八十キロに近い巨体にはむだな肉は一つもなく、いかにもタフで精悍《せいかん》に見えるが、面積の大きな顔の中の小さな目は柔和である。顔に大きなあばたがあるので、仲間は『あばけい』と呼んでいる。だがむっつり右門のライバルのあばけい旦那のように頓馬《とんま》ではない。  この熊耳警部補が所属する「北アルプス北部遭難対策協議会」は、大町署長を会長として、その指揮下に警部クラスの救助大隊長、警部補クラスの救助隊長、以下、副隊長、班長と置かれ、白馬岳、五竜岳、K岳、針木|蓮華《れんげ》岳の各方面ごとにパトロール隊員がいて、遭難者の要請や発見によって出動する。  熊耳はこの中の、K岳山域を担当する救助隊長である。  大がかりな遭難や、岩場や冬山で地元の救助隊だけでは手に負えないような場合は、県警機動隊に応援を求める。  ゴールデンウイークの神風登山者のあいつぐ遭難さわぎがようやくおさまった後だったが、隊員の中にうんざりした表情の者が一人もいなかったのはさすがである。 「あの娘さんは何者だね?」  遭難信号のいきさつを一通り貴久子から聴いた後で、熊耳は茂助にそっときいた。  洗練された都会的な容姿と雰囲気が、殺気立った男たちの中でひどく華やかに見えたからである。 「遭難者の婚約者らしいで」 「あっちの男は?」  今度は真柄を指す。 「あれが真柄慎二さ、遭難した影山と一緒にブライトホルンをやった男だよ。一緒にK岳をやるはずだったのが、遅れてしまったんだそうだ」  熊耳もその名前は聞いていた。貴久子を見る目が少し熱っぽいのが気になったが、ここに居合せた男たちが、みな同じような目をして彼女を見ているのに気がついて、熊耳は苦笑した。もしかしたら自分も同じような目をしているかもしれない。 「婚約者ねえ……男が山から帰ってくるのを、麓で待っていたってわけか、何だか……」  と言いさして熊耳はふっと口をつぐんだ。話題になった山岳小説のすじだてに似ていると言おうとして、その小説のヒーローが山で悲劇的な遭難死をしたことを思いだしたからである。あの小説が出て以来、そのヒロイックな死に憧《あこが》れて、まねをする愚かで単純な登山者が出たものだが、まさかこの娘の婚約者がそんな馬鹿げたまねをしたわけではあるまい。  熊耳は恋人の安否の心配で打ちのめされながらも、事情をはっきりした口調で説明した娘の聡明そうな目を信じることにした。      2 「しゅっぱあつ!」  熊耳はピッケルを構えてどなった。ものものしい姿で発って行く一行を、貴久子が祈りをこめた目をして見送っていた。 「あんないい娘が待ってるのに、遭難なんか起こしやがって、ばちあたりめが!」  熊耳は誰にも聞こえないように毒づいた。救援に行くのが億劫《おつくう》だったからではない。ただひたすら恋人の安否を気づかって山の方に視線を釘づけにしている彼女の姿があわれであったからだ。 「何としても救け出してやらなければ」  ——あの美しい娘を悲しませぬために——  熊耳は職務以外の義務感をおぼえた。  山岳遭難の救助には、救出と救急処置と傷者輸送の三つがある。現場で救急処置ができる時はよいが、多くの場合は、近づきがたい危険な場所で動けなくなっているために、救急処置もできず、一刻も早く手当てのできる山小屋や低地へ運び降ろすことが最も重要な課題となる。  遭難者がどういう状態になっているか、かいもく見当がつかないが、十二人という人数は救助隊として最小限である。尾根の上はまだびっしりと残雪で埋まっている。特に春の残雪は腐っているので、アイゼンがきかず始末が悪い。  もし影山が傷ついているならば、シュラーフザック(寝袋)に入れて、スノーボートで降ろさなければならない。自分一人の身体でももてあます始末の悪い雪の上を、震動をできるだけ少なくしてやらなければならない傷者を、かつぎおろす作業の困難さは想像を絶する。  冬期救助を例にとれば一個のスノーボートには八名一組となって、引き手が二名、後尾でブレーキをかけたり調子を取る者が二名、左右に一名ずつ、一人が道案内で、もう一人が一行の|荷物かつぎ《ポーター》である。さらに除雪《ラツセル》に四、五人は要る。  急傾斜の横断《トラバース》は救助隊のほうも命賭けである。スノーボートが谷へ落ちないように、二名は胸まで雪に埋まってボートを側面《サイド》から支える。先頭、後尾はもちろん、道案内やポーターまでも加わって、そろそろと通過する。下手をすれば遭難者もろとも、救助隊が谷底へ転落してしまう。  氷点下十数度の酷寒の中でも全員汗びっしょりになってしまう。  しかもこれは天候の落ち着いている場合のことである。風雪の中となると困難は倍加する。時には風速に立ち向かうことができずに、吹雪の下手《しもて》で立ちすくんでしまうほどである。スノーボートの上には払っても払ってもすぐ雪が積もり、傷者が雪に埋まってしまう。 「生きていればいいがな」  熊耳は焦り気味に言った。天候が安定しているのは助かるが、腐った残雪に阻《はば》まれて、救助隊の歩程は一向にはかどらない。  尾根の取りつき点まで、沢すじ通しに溯《さかのぼ》り、そこから樹林帯の中を夏道に従って一気に登る。日光をさえぎられているので、残雪はさらに多くなる。ただ雪はしまっているので、アイゼンがよくきく。ワカンの上にアイゼンをつけてただひたすらに登る。前を行く人間のワカンが、自分の目の高さにあるような急登である。  稜線に立った時は、ラッセルにことのほか時間を取られて、熊耳の予定より一時間半ほど遅れていた。 「こりゃ下手すると、樽《たる》ケ岩の小屋まで今日中に降ろせんぞ」眼前に展開したK岳双耳峰の全容に目もくれず、熊耳は腕時計をにらんだ。樽ケ岩の小屋は、赤杭尾根と主脈縦走路の分岐点にたつ山小屋で、主峰まで約三時間の、K岳登山のかっこうの基地《ベース》であると同時に、後立山縦走路中の重要な宿駅であった。  熊耳の予定では、遭難者を生死いずれの場合でもともかく樽ケ岩小屋にいったん収容した後、善後処置を取るつもりでいた。医者に山頂まで行ってもらうわけにいかない。遭難者の状態がどのようになっているか、かいもく見当がつかないので、とにもかくにも、現場へ到着するのが当面の急務であった。 「四時間かかってます」  真柄が腕時計を覗いて、熊耳の焦燥をよけい煽《あお》るようなことを言った。 「樽ケ岩の小屋まであと二時間、北峰までどんなに急いでも、あと五時間はかかるだろう。途中で露営《おかん》となるとめんどうだな」  熊耳は額にしわを寄せた。 「どうします?」 「どうしますって、あんた」  熊耳は呆《あき》れたような声を出した。 「行かなきゃならないだろう。相手は助けを求めてるんだ」  あとの言葉は自分自身に言い聞かせるように言った。  風が出たらしく、谷をはさんで眼前に聳立《しようりつ》する東南尾根に雪煙が舞い上がった。真冬とちがってスケールは小さかったが、蒼《あお》すぎて暗くすら見える蒼空の中へ吸いこまれるように消える白い煙は、高山の貫禄を感じさせた。      3  一行が北峰へ着いたのは午後三時ごろであった。夏でも、奥村田から十時間ほどかかるところを九時間ほどで来たのだから、やはり山岳パトロールとしてのプロの速さである。  遭難者は探すほどもなくすぐに発見された。頂上から少し下ったハイマツ帯のはずれの小さな円形雪田のはしに半身雪に埋もれたようになって倒れていた。 「死んでる——」  いち早く駆け寄った隊員が叫んだ。 「やっぱりだめだったか」  失望が全員を被った。�物体�に還元した死体の搬出のほうが、傷者の救出よりも仕事は格段にらくだったが、人命を救うという�張り�がない。遭難者の家族のもとへ死体を送り届ける時の辛さは、救助隊員になってみなければ分らない。  もしやと一縷《いちる》の希望を救助隊に託して待っている家族に、彼らの希望を死体という残酷な終止符で打つ時は、遭難者を死なせたのが自分らの罪でもあるかのような苦痛を感じるものである。  どんなに救出作業が危険で、困難をきわめようと、彼らは生きている人間を運びたかった。 「動かすなよ」  熊耳は隊員に注意した。遭難死は変死の一種である。変死にはその態様から、㈰�犯罪死�であることが明らかに認められるもの、㈪犯罪に基因しないことが明らかなもの、㈫その死が犯罪によるものかどうかについて疑いがあるものの三つの場合があるが、山岳遭難はほとんどが㈪であり、死体取扱規則にもとづいて、死体の見分を行なわなければならない。㈰および㈫ということになれば、救助隊はさっそく検証や検視の代行もつとめなければならなくなる。  場所がら�犯罪死�ということは考えられないが、いずれにしても変死体の取扱いは慎重に行なわなければならなかった。  救助隊は警察官と地元の山岳会員との混成部隊である。一般の隊員には変死体に対する警察官のような職業意識がうすい。  熊耳はまず死者の体に触れる前に、様々の角度から写真を撮《と》らせた。救助者が警察官ならではの処置である。  死者は小さな雪田のはしに下半身埋もれるようにして、頂上の方へ向かってうつむけに倒れていた。頂上まであと三十メートルほどの距離のところで、困難な登攀をようやく終えホッと気を抜いたところをうっかり腐った雪にはまりこみ、そのまま息絶えたといったかっこうだった。  ——ここまで来てどうして死んだのか?——  危険な個所は登りきって、もはや頂上まで小学生でも行ける砂礫《されき》のゆるやかな斜面である。昨夜はよく晴れており、疲労凍死をする条件はなかったはずだ。  北壁の登攀に力を出しつくしてという推測も考えられなくはないが、死者は最も困難な赤い壁の直登《ルート》は避けたはずである。それにどんなに疲労したとしても、死者の経験と昨夜の気象条件から考えると、凍死すべき要素はなかった。  外見したところ、この季節の登攀としては装備は完璧であり、食糧も充分にもっていた。ハイマツの中へもぐりこめば、凍死したくともできないはずだ。現にそのハイマツは死者の目の前にある。  写真を撮《と》り終ると、熊耳は死者の外景をざっと観察した。草色のナイロンヤッケ、胸元から下に着こんだカッターシャツの胸から腰にかけて、ゼルプストザイルを着けているのがかすかに見える。ヤッケは登攀が終ってから着たものらしい。肩には赤と白糸の細目の撚《よ》りザイル、長さは見ただけでは分らない。ウールのニッカーズボン、裏出皮の登山靴に十二爪の打抜式アイゼンを着けている。頭にヘルメットをかぶり、背には岩登り用具や食糧を入れたらしいオレンジ色のアタックザック、腰にハンマーを吊《つ》っている。死体のすぐ右側に柄《シヤフト》の短いピッケルが放り出されていた。  一通り外側を観《み》おわると、初めて死体をあおむけにして詳細な観察に移った。雪の中に冷凍づけの形になっていたので、死後変化ははっきり現われていない。しかし皮膚はロウのように蒼《あお》ざめて、凍死体に顕著な湯上りの肌のような色は見られなかった。  目をうすく開き、口角のあたりに血の混った泡《あわ》のようなものが少量付着しているのが、異常といえば異常であるが、岩に叩きつけられて目玉が飛び出したり、はみ出した黄色い脳漿《のうしよう》にウジが一面にわき出た凄惨《せいさん》な遭難死体を見つけている救助隊には、むしろきれいな死体だった。 「ヘルメットが割れてますね」  警察官の隊員が言った。 「うん」熊耳はむずかしい顔をしてうなずいた。  それは先刻の観察ですでに気がついていることである。帽体の頭頂部に放射状のひび割れが認められるが、ヘルメットの役目が頭部に加えられた衝撃エネルギーの吸収と緩和にあるのだから、それだけで、それが死因に影響をあたえたと断定できない。それに周囲に衝撃のもととなったような岩石、岩角が見あたらない。  隊員が死体を抱えおこすと、胸の下に隠れていた防水性のライトが現われた。ひもで首から吊っている。 「これでSOSを送ったんだな」  隊員がスイッチを入れると、電池がまだ残っていたらしく、灯が点《つ》いた。 「よし、ヘルメットをはずしてみてくれ」  熊耳が命ずると、全員の緊張した視線が死者の頭へ集まった。 「ちょっと待ってくれ、あごひもはよく結ばれているか見てみよう」  隊員がヘルメットに手をかけようとしたとき、熊耳は言葉をつけ加えた。 「ちゃんとしめてありますね」  ひもの結び方はややゆるい。下あごとひもの間に指が一本入る程度のすき間があったが、これは衝撃でゆるんだのかもしれない。  熊耳があごをしゃくると、隊員はひもを解いた。ヘルメットをゆっくりと脱がす。最近はやりのつばつきのグラスファイバー製である。 「やっぱり」  見守っていた隊員の口からため息がもれた。ヘルメットに隠されていた死者の頭髪にドロリと血のついているのが認められたからである。  熊耳が頭髪を分けて注意深く創口《きずぐち》を検《しら》べる。頭頂部やや後よりに皮膚がさけ、表皮が押しつぶされている打撲創が認められた。創口はヘルメットの破損状態と大体一致している。 「これが死因だな」  熊耳がうめくように言った。打撲創そのものは大したものに見えないが、内部で脳内出血をおこしているのだろう。ヘルメット越しに脳内出血をおこすほどの衝撃をあたえたとなると、よほど強大な外力が作用したとみなければならない。  しかし周囲にそのような外力の原因となるようなものは見あたらなかった。 「いったい、何がぶつかったんでしょうね?」  隊員の一人がきつねにつままれたような声を出した。それは全員の疑問を代弁したものだった。 「う、うん」  熊耳はうなってしばらく創口を凝視していたが、 「登る途中で落石にあったかもしれんな。その時は何でもなかったのが、ここまで辿り着いてから急におかしくなった」 「おかしくなったのに気がついて、慌ててSOSを出したってわけずら?」  今まで黙って熊耳たちの観察を見まもっていた茂助が初めて口を開いた。 「そうとしか考えようがないね」  実際、頭に受けた怪我は微妙である。怪我をした時は、脳血管の出血が少なく、何の症状も出ずに、普通の人間と変りなく動きまわっている。ところが、そのうちに出血がだんだん多くなって血腫《けつしゆ》をつくり、脳圧迫をおこして死んでしまう。この時間は短い時は、三十分、時には数時間から一日後ということもある。  熊耳自身今までに落石や転倒事故などによって頭を強打した登山者が、�中間無症状期間�をおいてから急におかしくなったケースを何回か目撃している。  隊員もそれで納得したようである。たしかにそれ以外に考えようがないのだ。  現場は北峰頂上から、三十メートルほど下った赤い壁上部左寄り(頂上へ向かって)の小雪田と砂礫《されき》の台地の境目あたりである。赤い壁のオーバーハングを避けた遭難者は、その左寄り東南側の岩壁を登って来たものであろう。  そのことは遭難者の位置および、真柄や、山麓に待っている婚約者の話から推測できた。北峰頂上を取り巻くようにして三つの雪田と南峰とをつなぐ吊り尾根の上に雪稜があるが、現場をひきあげる前に一応ぐるりと探してみたが、救助隊員以外の足跡はみられなかった。季節はずれでもあり、主脈縦走路からそれているので、北峰には一般登山者はめったに立ち寄らないが、遭難者がもし独力で赤い壁を越えたのであれば、その上部にうなぎの寝床のように横たわる細長い雪田に彼の足跡が当然残っているはずだった。  遭難者は北壁登攀の途中で、たぶん落石によって頭部に受傷し、症状が現われぬまま、傷を軽視して登攀を続行して、頂上直下の円形雪田に至った時に、急に悪化して死亡した。身体の異状を悟った遭難者は死の直前に灯火信号でSOSを送った。——と判断した熊耳は、ともかく死体を樽ケ岩の小屋まで降ろすことにした。 (画像省略)  南峰を越えれば樽ケ岩まではたんたんとした尾根道である。日が暮れたあとでも行動できないことはなかった。樽ケ岩までは雪稜がつづいているのでスノーボートを使える。  死体の検分《けんぶん》と現場およびその周囲の観察を終えた一行は、用意してきた塩とアルコールを遺体にたっぷりとふりかけてビニール布で包んでシュラーフに入れた。雪は解けると遺体の損傷を早めるのでシュラーフの中に詰めない。シュラーフの上をザイルでぐるぐる巻きにしてスノーボートに乗せる。さらにその上からボートに備えつけてあるカッパで被《おお》ってしっかりと結びつける。  これで準備完了である。  一行は追い立てられるように、下山をはじめた。  赧《あか》みを増した太陽が、立山の稜線に近づきつつあった。まだ一時間ほどは明るいだろう。黒部渓谷の深淵をはさんでスケールの大きな背比べをするように眼前に聳立《しようりつ》する剣立山の、逆光の中に黒ずんだ巨大な山体を眺めた時、熊耳はふと何の連絡もなく、山麓でひたすら遭難者の生還を待っている美しい娘のことを思いだした。  ——因果な商売だ——  壮大な展望を目の前において、熊耳はつくづく思った。      4  熊耳はその後しばらくの間、遺体を娘のもとへ届けた時の光景が忘れられなくて困った。熊耳から遺体発見時の状況と説明を、じっと唇をかみしめるようにして聞いた湯浅貴久子——熊耳はその時初めて娘の名前を知ったのだが——は、死者との対面時に死体に取りすがりもしなければ、派手に泣きわめきもしなかった。  ただ遭難者の死顔にひたと目を据えたまま、あふれ出る涙が両頬をしたたり落ちるにまかせていた。震える唇をかみしめて、見開いた大きな黒目がちの目から、涙の落ちるのにまかせている貴久子の姿は、静かであるだけに、内側の悲しみと慟哭《どうこく》の大きさがよく分った。 「ちくしょう! こんないい娘を泣かせやがって!!」  かなりの無謀登山者に対しても、めったに憤りを表わしたことのない熊耳だったが、この時だけは心底から腹立たしさがこみあげてきたのである。  この美しい娘をただ悲嘆のどん底に叩きこむためだけに、腐った雪稜をスノーボートと格闘し、雪が切れた沢すじに来れば遺体を交代で肩に背負ってかつぎおろしたことが、ひどくむだ骨を折ったような気がした。  遺体は樽ケ岩の小屋で一夜をすごしてから、奥村田山荘へ搬《はこ》びおろされた。  前夜のうちに樽ケ岩の小屋から電話連絡しておいたので、奥村田山荘に待機していた医師によって、その日のうちに正式の検屍が行なわれた。その結果、死因はやはり頭部挫傷による脳内出血とされた。死体が雪中に埋まって冷凍状態にあったために正確な死亡時間は、割り出せなかったが、貴久子が遭難信号を認めた後、すなわち、二十七日午後九時すぎから一時間ぐらいの間と推定された。  検屍のすんだ遺体は、遺族の到着を待って現地で荼毘《だび》に付されることになった。  最近では、国立公園内において発見された死体は、ほとんどもよりの火葬場へ運んで焼くことになっているが、K岳山域の場合、大町に適当な火葬場がないために現地荼毘が特別に許されていた。  影山の両親はその日の午後着いた。埼玉県の大宮市で小さな旅館を営んでいる彼らは、大町署からの連絡を受けて、今朝とるものもとりあえずとんで来たのである。雪線クラブの会員も駆けつけて来た。  影山はひとり息子であった。 「まあ隼人、こんな姿になってしもうて、この親不孝者が!」  年老いた母親は影山のもの言わぬ体にすがりついておいおいと泣いた。そのそばで父親が呆然《ぼうぜん》と立っている。母親の派手な嘆きように比べて、回復しがたい痛手を自分の胸の中にひしとたたみこんで立ちつくしている父親の姿には、男の深い悲しみが感じられた。  貴久子はもう涙を流していなかった。影山の両親の前では哭《な》く権利がないとでも思っているかのように、唇をかみしめて山の方を見ていた。  ——山で死ぬやつは、どういうわけか、ひとり息子や長男が多い——  熊耳は遺族たちの愁嘆場から逃れて、荼毘の場所の方へ歩きながら思った。  山荘うら手の白樺の疎林の間に荼毘の用意ができていた。例の�山男の墓地�のすぐそばである。この山域、特に北壁で死んだ男たちは、たいていこの場所で焼かれ、骨はそばの墓地に埋められた。  熊耳は今までにも何十回か、彼らの荼毘に立ち会った。遭難者の山仲間や遺族たちは、死者がこよなく愛した高峰の麓の美しい白樺の林の中で灰に還《かえ》されることにたぶんの感傷と悲愴美《ひそうび》をもって集まってくるのだが、初めて目のあたりにする人体焼却の凄惨さに、骨になって焼け落ちるまで見届けられる者はほとんどいなかった。  疎林の中のやや広い空地に五寸|太《ぶと》ぐらいの生木が井桁《いげた》に積み重ねられてある。これが荼毘の燃料であると同時に、遺体をのせる�祭壇�でもある。今日は特に壇が高く幅が広いようだ。  外側から見ただけでは分らないが、ヤグラには上下左右に風穴があけられてあって、四方から平均に火力がまわるように工夫されてある。  この工夫をまちがえると、どんなに時間と燃料をかけても、燃え残ってしまう。荼毘の季節、薪《まき》の種類や太さ、生《なま》か枯れているかなどによっても、焼ける時間が異なってくる。  さらに荼毘の最中にもまき割りや鉄の火かき棒で�残酷な加工�を遺体に施さなければならない。これを怠ると、遺体の肉の多い部分が焼け残ってしまうのだ。  太陽が稜線に没するころから荼毘がはじめられた。影山の遺体は、遺族がもって来た新しい衣服に着せかえられ、戸板の上に両手を組んで仰向けに寝かされた。その上に、貴久子や真柄や雪線クラブ員がパトロールの許可を得て集めてきた山の花がふり撒かれた。遺体は花の中に埋まった。  残照の照りかえしが人々の面を赧《あか》く染めた。みな何かに酔っているように見えた。花の中から顔だけ出した死者も赤く酔っていた。  ひと通り焼香がすむと、遺体はうつ伏せにかえられた。花の上からたっぷりと石油がふりかけられる。いよいよ点火の時間が迫った。  その時、母親がいきなり戸板のそばへ走り寄った。 「お母さんが悪かった。お前がどんなに言っても、私が山へやらせなければよかったんだ、隼人! 許しておくれ」  と死者の頬に頬すり寄せて哭《な》き出した。何人かが洟《はな》をすすった。 「さ、お母さん、お気持は分りますが、ご子息さんもいつまでもこのままではいやでしょう」  熊耳が老母を支えて、遺体から引き離した。遺体はヤグラの上に乗せられた。 「誰か火を点《つ》けたい方がありますか?」  熊耳が遺族や貴久子の方へ視線を向けた。一瞬しいんと静まりかえった中で、誰も申し出る者がないのを確かめていたような貴久子が、一歩前へ出た。 「私がつけます」  貴久子の手もとに灯されたろうそくの小さな炎は、ヤグラに移され、またたく間に火勢を増した。  空をおおっていた残照がすうっと水の退くように色あせて、代ってヤグラをかけのぼるオレンジ色の炎がみなの顔を染めた。火勢が強く、遺族の頬を流れ落ちる涙をたちまち乾かしてしまう。  人間の体を焼く炎は、その先端で無数の火の粉に砕けて、ようやく暮れまさった空に勢いよく吹き上る。  かつていく度も、多くの山頂で「魂の香煙を焚いた」男の体は、今人々の悲しみの慟哭《どうこく》を一すじに集めて、おびただしい火の粉とともに天の上方へ舞い上がらせている。 「隼人はしあわせだ、しあわせなやつだ。好きな山で死ねて」  父親が読経でも口ずさむように言った。炎が完全に遺体を包んだ。凄じい臭気が一同の鼻腔を衝《つ》いたのはその時である。 (はじまったな)  熊耳は心の中にひとりつぶやいた。いよいよ本当の荼毘がはじまるのである。  その臭気は、爪や髪の毛が燃える時のようななまやさしいものではない。火葬場の近くで、風の吹き具合によってふっと嗅《か》ぐことのある、動物性蛋白質の焼ける、嘔吐《おうと》感をもよおすような何ともいえないいやな臭《にお》い。——  熊耳はいつか海辺に旅行した時に嗅いだ腐ったニシンがこの臭いに最も近いように思った。その凄じい悪臭がわずか数メートルの鼻先から、何の遮蔽物《しやへいぶつ》もおかずにもろに吹きつけてきたのである。 「うっ」母親が胸をおさえた。 「たまらねえ」初めて荼毘に列した雪線クラブの連中の中には、林の中に逃れた者もいる。  貴久子も胃の奥からすっぱい水が突き上げてきそうになった。  遺体がブスッブスッと弾《は》ぜた。内臓や血管に閉じこめられて行き場を失ったガスが、破裂する音であった。破裂音と共に死体が動く。それは死体が一つの意志をもって、火勢に抗《さから》っているように見えた。それは無気味さを通りこして凄惨であった。 「恐がることはありません。ガスが膨張し、血液や体液が瞬間的に凝固するために、体がひとりでに動くんです」  恐怖のあまりよろめきそうになった貴久子を背後からがっしりと支えて、耳のそばにささやいた者がある。真柄慎二だった。いやに落ち着いた声であった。 (そうだわ、私はこの光景から目をそらせてはいけないんだわ。今、あの炎の中で、私の夫になろうとした男が燃え尽きようとしている。あの人が死のまぎわに語りかけてきたのは、私だった。あの人が自分の燃え尽きる姿を誰にもまして見届けてもらいたいのは、この私にちがいないわ)  貴久子は精一杯の意志を奮いたてて、炎の中に瞳をこらした。ガスが破裂すると、その周囲に脂肪が散るのか、ジュッと音がして、黒煙が吹き上る。ヤグラの上から脂がたれ落ち、落ちながら引火するので、上方へ噴き上る火の粉と対照的に、ジュージューと音をたてながら火の玉がしたたり落ちる。それは貴久子がいつか都内のホテルで見たバーベキューの炎とよく似ていたが、焼かれている�動物�がまだ明らかに人の形をとっており、炎のスケールが格段に大きいので、正視するに耐えない残虐な構図になっていた。  真柄は貴久子を支えた手を離そうとしなかったが、彼女はそれすら気がつかなかった。  空から残照が完全に消えた。降りこぼれるような星が、おもいおもいの密度で、頭上を鏤《ちりば》めた。吹き上る炎の粉が、はるか上方に散って、束の間の星図を形づくる。  遺体から脂の吹き出る音がいちだんと激しくなった。炎の近くに黒煙の混じるのが分った。臭気はあいかわらず強いが、みなの嗅覚はだいぶ麻痺《まひ》してきていた。  突然、ポンと竹の節がはねるような音がした。 「わっ」誰かが顔をおおった。貴久子はたしかに見た。井桁《いげた》が炎に侵蝕されてグラリと崩れかけたはずみに、影山の頭部がガクと揺れて、その時どちらかの目玉が爆《は》ぜたのである。  思わず閉じた目を、ふたたび開いた時は、ふたつの眼窩《がんか》のあたりからひときわ白熱した炎が勢いよく吹き出していた。炎の向う側で熊耳警部補のものらしいシルエットが、ヤグラが崩れないように新しいまきを加えている。  火を入れてから二時間ほどたった。さすがにガスの爆ぜる音や、脂のしたたりは少なくなった。その代り、遺体そのものが一個の効率のよい燃料となって、体全体から白熱した炎を吹き出していた。 「まだだいぶかかりますから、ご遺族や友人の方は山荘で休んでください」  熊耳警部補の言葉に救われたような吐息をもらす者がいた。  息子が骨になるまで残ると言い張る両親を無理に帰した熊耳は、貴久子のところへもやって来た。彼らに居残られてはまずい事情があった。 「あなたもどうぞお引き取り下さい」 「もしおじゃまでなかったら、最後までいさせてください」  ひたすらな貴久子の目にあって、熊耳はちょっとためらったようだが、 「これからは、ご遺族や、女の方には見せられないのです」  と強い語調で言った。 「私、平気です。最後まで見届けてあげたいのです。きっと影山さんもそれを望んでいると思いますわ」 「どんなことが起きても耐えられますか?」  熊耳の胸裡《きようり》にふと加虐的《サデイステイツク》な衝動が湧いた。この美しい娘の心をまだ支配しているらしい恋人の、むごたらしい焼却をあますところなく見せつけて、死者への未練を追いはらってやろうか。  美しい女を死してもなお捉えている者に対する、男の共通の嫉妬《しつと》から、熊耳は今まで女には決して見せなかった荼毘の最後の�工程�を貴久子に見せてやる気になったのである。  ヤグラの周囲には、熊耳、茂助、救助隊員二名、真柄、それに貴久子の六名が残った。  九時に正彦が甘酒ともちをもって来た。さすがに貴久子は手をつける気がしなかった。熊耳たちは平気な顔でむしゃむしゃと頬張っている。 「無理に食べなくてもいいですよ」  真柄がそっと言った。彼も自分の分にはほとんど手をつけていないらしい。ベテランのアルピニストとしてこのような場面の経験は初めてではないはずだが、かけがえのないザイルパートナーの荼毘の前では、食欲がわかないのだろう。  ——この人も悲しいのだ——  この時貴久子は真柄に強い連帯感をおぼえたのである。  十時ごろから遺体は急速に人間の形を失いはじめた。頭も胴体も脚も、ほとんど同じ太さの一本の黒い丸太のようになった。炎はヤグラ全体をなめて、もうどんなに新しいまきを補強しても、井桁を支えるのは無理になった。  十時半ごろ、ヤグラの下部が燃え尽きてガサリと崩れた。わずかのバランスで立っていたヤグラが均衡を失った。盛大な火の粉を散らして、ヤグラが焼け落ちた。それはさながら燃え崩れる楼閣であった。 �祭壇�にのっていた影山の体は折れ崩れ、燃えるまきの間に畳みこまれて、完全に人間の形を失ってしまった。井桁に組まれた高さの中に分散されていた炎と燃焼力は、今その空間を取り除かれ、一つの集約された熱エネルギーとなってゴーッと燃え盛った。  それは残り少なくなったまきが余力を結集して、最後の火花を散らしているようであった。  異臭は全くなくなっている。それはそれだけ影山の生きていたことの�残映�が消えた事実を意味していた。かつて、それもつい数日前、貴久子を狂おしく抱きしめ、ちぎれるほどに唇を吸った男は、まきか骨か分らぬ無機質に還元してしまっている。 「どれ、いっちょうはじめるずらか」  その時、茂助がまき割りをもって立ち上がった。同時に二人の救助隊員が火かき棒を手に取った。新たな何かがはじまろうとしている緊迫した気配が感じられた。  貴久子は緊張のために心身をしめつけられるように感じた。茂助ら三人がこれからはじめようとしている「何か」のために、熊耳が遺族たちを帰し、自分を追いはらおうとしたことはわかった。  茂助を真ん中にはさむようにして、三人は火床の方へ近づいた。まず二人の救助隊員が火床を分けて、すでに人間の形を失っている遺体を探り、その一部分の大きな漏斗《じようご》のような形をした黒いかたまりを引っ張り出した。  遺体の他の部分が、完全燃焼の炎を噴き上げている中で、その漏斗のようなかたまりだけが油が燃えるような黒い煙を執念深く出していた。  救助隊員は�漏斗�を両側から火かき棒で突き刺して、茂助の前へ据えた。  その上へ、大上段に振りかざされた茂助のまき割りが、はっしとばかりに叩きつけられた。肉と骨の断ち割られるいやな音がした。  あまりにも残酷な行為に、貴久子はなじるのも忘れて目を被《おお》った。  卒倒しなかったのは、真柄がそばにいて支えてくれたからである。彼女の身体を支えるもう一つの分厚い手があった。  いつの間にか熊耳が貴久子のそばにいた。 「残酷なようですが、あれをやらないと、遺体の肉と脂の多い部分が燃え残ってしまうのです。我々だって好きでやってるわけじゃない」  熊耳の言葉におそるおそる目を開けた貴久子の視野の中で、三人の男はさらに数回、まき割りと鉄の棒で、遺体を砕いていた。まき割りがふり下される度に、火の粉が舞う。  火の粉と共にふたたび例の異臭が漂ってきた。強烈な火熱に抗って身体の芯に残っていた肉が、今残酷な加工を施されて、今度こそ本当に燃えつきるために、火面に晒《さら》されて生の名残りの異臭を噴き上げたのだ。 「死にたくない! 死にたくない!!」  異臭はしきりに訴えているようだった。遺体は骨盤の部分を細かく砕かれて、火の中へふたたび戻されていた。  もう涙は出なかった。悲しみを通りすぎたのではない。死んだ後まで凄じい異臭を噴き出し、脂をしたたらせなければ燃え尽きぬ、人間の身体のなまぐささと、生と死の間に横たわる断絶の凄じさに圧倒されたのである。  ——どのような死に様をしても、美しい死に方なんてないのだ。——  あらゆる死に方の中で、深山の星空の下、白樺の疎林の中で焼かれるのは最も美しいものであろう。それですらあれほどに凄じい、というより、あさましい。自分もいずれは死ななければならないのだが、もし焼かれれば、あのような悪臭を発し、あれほどに大量の脂を噴き出すのだろうか?  いやあれは影山ではなかったのだ。あのおぞましい物体[#「物体」に傍点]が影山のはずがない。貴久子は、今は遺体かまきか区別がつかなくなった火床の方を見た。火勢は次第に弱くなっている。  長かった荼毘がようやく終りに近づいていた。炎が弱まると、遠のいていた星空がぐんとその暗黒の濃度を強めて、頭上に近づいてきた。 [#改ページ]    不運な遺品      1  熊耳敬助は何か大きなまちがいをしでかしたような気がしてならなかった。それが何かはっきり分らないだけに、心の深層に欲求不満がわだかまっているようで、吹っ切れない思いがした。  遭難者を焼いた翌日の早朝、あけがたの白ちゃけた光の中で骨を拾った時、あの娘は「あっ」と悲鳴をあげて、連れの真柄の腕の中に倒れこんだ。もう少しで気絶するところだった。  一体どうしたのかと駆け寄った自分は、娘がぶるぶる震える指の先を追って、思わず息をつめたものだった。  熊耳はその時のことを思い出すと、今でも肌が粟《あわ》だってくる。彼が遭難救助隊に入ってからもう十数年にもなるが、こんな経験ははじめてであった。荼毘に付した遺体も何十体になるか分らない。  荼毘はたいてい夕方から行なわれる。みな朝までにはきれいに骨になってくれた。  ところが、——貴久子が指さしたまきの燃えかすの中にそれ[#「それ」に傍点]があった。一目見ただけでは、黒い焼けぼっくいのようである。だが焼けぼっくいとちがって何となく全体に丸味をおびている。  そう、黒焦げのフランスパンのようだった。  その�フランスパン�の真ん中辺に割れ目が走り、そこから赤い中身がのぞいていたのだ。  死体が�焼け残った�のである。一体、死者のどの部分なのか、ちりちりに焦げた表皮の割れ目から真っ赤な内部が露《あら》われて、樹枝状の血管網のようなものすらはっきりと見える。それはさながら、|よく焼けていない《レア・ダン》ステーキのように見る目にも鮮やかな、鮮紅色を呈していた。  熊耳はだいぶ前に見た焼死体を思いだしたものである。焼死した人間は、炭酸ガスが大量に吸いこまれて、血中のヘモグロビンと結びつくので、焼死体の血や内臓の色が鮮赤色になる。全身炭化したような黒焦げ死体でも、荼毘とちがって、平均した火力で焼かれないから、焼けるのは表皮とせいぜい筋肉組織までで、内臓は�なま�のことが多い。  しかし荼毘で焼け残るというようなことはめったにない。六尺ほどの高さに積み重ねたまきの井桁の上にのせて夜を徹して万遍なく焼くのである。途中で燃料を補給するし、燃え残らないように、まき割りと鉄の棒で遺体に�加工�もする。  それにもかかわらず、焼け残った。まるで生身を焼かれたように鮮紅色の肉片を残して。これは一体どういうわけか? 燃料の火力が弱かったのか、それとも死者の�脂�が人並はずれて多かったのか、燃焼を妨《さまた》げる微妙な要素がいく重にも重なり合ったからであろうが、それにしても夜空を焦がすばかりに燃えた激しい炎に抗《さから》って、焼死体のように焼け残った死者の体の一部分には、何か別の要素が働いたように思えてならない。 (もしかしたら遭難者には、この世に死んでも死にきれないような未練があったのではないだろうか?)  それは湯浅貴久子への想いか? それもあったかもしれない。しかしまだ何か他にあったのではないか?  熊耳は、化学的な要素が様々に重なって燃え残った死体の一部を、死者がこの世に残した未練のしるしと釈《と》った。ずいぶん非科学的な解釈だったが、彼はそう信じた。あの火熱に耐えて死者が残した赤い生肉。そうしなければならなかった執念の対象は何か?  熊耳が、大きなまちがいをしでかしたのではないかという疑いを抱きはじめたのはその時からである。  しかし、自分のとった処置のどこにまちがいがあったのか? K岳北峰の頂上でSOSが発せられ、救助におもむいた時はすでに死んでいた。死因は頭部挫傷による脳圧迫、登攀《とうはん》中落石にあって、登頂後、症状が悪化したものと断定された。直ちに死体を収容して検屍《けんし》、遺族との対面の後に荼毘に付した。この手順のどこにまちがいがあったというのか? これまで数えきれないくらいに収容した遭難死体の取り扱いと少しも変っていない。  それにもかかわらず、彼の内面の声はまちがいを叫びつづけるのである。  死因におかしな点はなかったか?  ヘルメット頭頂部に放射状のひびが入り、それに符合する遭難者の頭の部分に打撲創が認められた。死体の周囲にその衝撃を与えたような物体はいっさい発見されなかった。それ故に行動中に受傷したと推定され、それは検屍の医師によって裏づけられたのである。  この点にまちがいはなかっただろうか?  あの怪我は行動中にしたのではないと考えたらどうか? とすると、どこで? つまり彼が倒れていた場所でだ。普通は怪我(重傷の場合)をした場所と、倒れた場所は同じところと考えたがる。あの時そう考えなかったのは、怪我の原因となるようなもの[#「もの」に傍点]が周囲になかったからである。  しかしそのもの[#「もの」に傍点]を、「誰か」がもち去ったならばどうであろうか? そしてそのもの[#「もの」に傍点]を使ったのも、その誰か[#「誰か」に傍点]とは考えられないか?  いやいや、そうは考えられない環境になっていた。遭難者は頂上より東南へ三十メートルほど下った雪田のはずれに倒れていた。もちろんその雪田は頂上台地の一部分である。そこへ到着するためのルートは三つきりない。一は救助隊が辿った南峰経由の一般登山路、二は遭難者がやってきたと思われる東南面の岩壁、三は北東面を鎧《よろ》う赤い壁である。二、三のルートは岩場経験が少なくとも二百時間以上のベテランクライマーでなければ無理である。特に三の単独突破は不可能である。  一のルートには全く足跡が見られなかったから、誰かが来たとすれば、二、三のルート以外には考えられない。その誰か[#「誰か」に傍点]がベテランのクライマー、あるいはそれの複数であれば、二、三のルートからこられないことはない。  だがここにこの可能性を否定する決定的な状況があった。遭難者はSOSを発した午後九時まで生きていたことが分っている。いくら昼の長い季節であっても、午後九時は完全に暗くなっている。  二と三のルートは夜間には絶対に下降できないのである。赤い壁を降りられないことは改めていうまでもないが、東南面の岩壁も、平均斜度六十—七十度くらいの逆層の岩で、赤い壁のエスケープルートとして利用されるものの、岩が極度に脆《もろ》く、いったん岩なだれをおこしたらどう逃げようもない岩場である。  この岩壁は、まっすぐ降りると、東南尾根につづいて奥村田へ抜ける最短コースとなるが、途中の起伏が激しく、上下いずれの場合にもあまり利用されていない。近代登山の新兵器のような懸垂下降器を使ったとしても、山頂から一時間ぐらいは相当強い|光を《ライト》 使わなければ無理である。あの夜山麓から湯浅貴久子がほとんど夜を徹して山頂を見つめていたにもかかわらず、午後九時の灯火信号以後、頂上およびその周辺に光とよべるものは一点も見えなかったことが分っている。  残る一つの可能性は、明るくなってから、救助隊がくる前に降りた場合である。しかしそうだとすれば、山麓のどこかで必ず人目に触れたはずだ。東南壁からそのまま東南尾根伝いに降りても、あるいは若草テラスをトラバースして北壁帯状岩帯から隠れの里へ抜けたとしても、必ず奥村田へ出る。それ以外に出口はない。  だが、二十八日の朝、そのような人間のいなかったことはすでに確かめられている。ましてその朝は遭難発生の通知を受けて、救助隊が早朝から奥村田へ集結していた。とうていそれら多くの人目をくぐり抜けることは不可能であった。  明るくなってからは、やや大げさに言えば「アリの這い出る隙間《すきま》もなかった」のである。  誰かが山頂に到達する可能性は、きわめてうすいながらも全くないわけではない。ところが、そこから絶対に降りられないのだ。  そうだ! こういう考え方はどうだろう。昼間のうちに誰かが、遭難者(被害者?)に衝撃をあたえて東南面の岩壁から降りてしまう。山麓に着いた時はちょうど夜になっているから、闇にまぎれて逃げてしまった。遭難者は夜になってから体がおかしくなったのに気がついて慌ててSOSを発した後で死んでしまった。  しかしヘルメットがひび割れるほど誰か[#「誰か」に傍点]から衝撃をあたえられて、夜九時までおとなしく待っているだろうか? 当然その場で争うか、あるいは不意をうたれたのであれば、その誰か[#「誰か」に傍点]の名前を書き残すか何かしたであろう。ヘルメットを脱いで、傷の手当もしたはずだ。昼間襲われたのであれば(誰か[#「誰か」に傍点]は二十七日の明るいうちに岩壁を下ったという仮定においては)SOSを送った夜の九時までたっぷりと時間はあったのである。  あれはどう見ても登攀中、怪我をして、そのまま登りつづけ、安全圏に着いたところで力尽きて倒れた状況である。いつ次の落石に見舞われるか分らない危険地帯においては、傷の手当よりはまずそこの通過に全力を注いだことは充分に考えられる。だからヘルメットを着けたまま死んでいたのだ。  受傷によって体力が衰え、山頂へ達するのが遅れたのである。それがたまたま、湯浅貴久子と打ち合わせておいた合図の時間と重なった。  傷ついた身に山麓からの恋人の交信はどんなに嬉しかったことか。しかし彼はそれに対してSOSで応えなければならなかった。彼が自分の死を予知していたかどうかは分らない。だが自分の体の異常を悟って、三千メートルの高峰と地上の恋人との間に交すはずであった、ロマンチックで壮大な愛の囁《ささや》きを、遭難信号に変えなければならなかった男の心は、悲しく切羽《せつぱ》つまったものであったにちがいない。  もし彼の怪我の原因が、誰か[#「誰か」に傍点]から加えられたものであれば、必ずやその誰かの名前を知らせるてだてを講じたはずである。  山頂に誰か[#「誰か」に傍点]はいなかったのだ。いたと強引に仮定するならば、物理的に脱出不可能な密室から脱けたのと同じことになる。  彼、——影山隼人は登攀中に落石事故に遭《あ》い、中間無症状期の間に頂上へ着いて死んだ。それ以外にない。山が推理小説にあるような密室だなどと考えるほうがどうかしている。  おれのとった処置にミスはなかった。それにもかかわらず、この吹っ切れない気持は何故か?      2 「貴久子さん、見ないほうがいい」  真柄が脇の下を支えて荼毘の場所からつれ出した。影山からSOSが発せられてからの心労と、徹夜が重なって、彼女の体力と精神力は限界にきていた。 「少し眠りなさい」  山荘まで送って来た真柄は、初めて命令するような口調で言った。心底から貴久子の体調を心配しているようであった。  とうてい眠れないと思っていたが、床の中へ横たわると、いつの間にか眠ってしまったらしい。目が覚めると、眩しいばかりの朝日が窓いっぱいに射しこんでいた。小鳥のさえずりがさわやかである。二、三時間は眠っただろうか。  かんたんに顔をなおしてロビーのほうへ出て行くと、骨上《こつあ》げを終えて帰って来ていたらしい真柄が、 「よく眠れましたか、朝食ができてますよ」と声をかけた。香ばしいみそ汁のにおいが漂っているが、貴久子の食欲は少しも刺激されなかった。 「ありがとう、でも欲しくないのです」 「食べなきゃだめだ。昨夜からほとんど何も食べてないでしょう」  真柄がやや強い声を出した。 「でも……」 「待ってなさい」  うじうじしている貴久子にそう言うと、真柄は厨房《キチン》の方へ入って行った。間もなく長方形の盆にみそ汁を入れた椀《わん》をのせて帰って来た。 「とにかくこれだけでも、おなかに入れなさい。力がつく」  みそ汁ぐらいなら飲めそうだと思った貴久子は、真柄から盆を受け取った。椀《わん》のふたをとると、大きな卵の黄身が二つ浮いていた。 「まあ——」 「そいつをぐっと飲んでください。ずっと元気になりますよ」  真柄がうながした。熱いみそ汁の中で半熟になった卵はうまかった。貴久子は白身は嫌いなのだが、その好みをいつ知ったのか、黄身だけをすくい取ってみそ汁に入れてくれた配慮が嬉しかった。  山菜をたっぷり入れた芳香と、濃厚な卵の味がうまく溶け合って、みそ汁は身体の芯に沁《し》みるように美味《うま》く感じられた。貴久子はそれを真柄の親身の厚意であると思った。  全員の朝食がすんだ後で、改めて影山が遭難時に身につけていた遺品が綿密にあらためられた。  まずアタックザックの中には、ビニール袋に入れた行動食の残りが十二・五食分、使い残しらしいロックハーケン六本、アイスハーケン一本、D型軽合金カラビナ五個、アブミ一、眼鏡《ゴツグル》その他、救急薬品、水筒、磁石、地図、予備電池、固形|燃料《メタ》、ロッククライミングに必要とされる用具物品である。またヤッケのポケットには、煙草、マッチ、メモ帳、ペンなどが入っている。メモ帳には、——二十六日AM4・50山荘出発、AM8・15取付点、12・35側壁上ブッシュにて昼食、13・10出発、17・18若草テラス到着、ビバーク——。二十七日AM4・30テラス出発。それだけしか記入されていない。  したがって、影山の身に�異変�が起きたのは、二十七日若草テラスを出発した後であることがわかる。もしその異変がだれかの作為したものであったら、メモに書き残す余裕はなかったのか? 「ハーケンはあまり使っていませんね、影山はあまり使わない主義でしたから」  真柄が目で数えながら言うと、 「どうして分るのかね?」  と問いかけた熊耳は、 「あ、そうか、あんたは影山さんと一緒に登るはずだったんだな、たしか急用が起きて遅れてしまったとか」救援に出発する時に、茂助からそんな話を聞いたのを思いだした。 「はい、私が最初の予定通り同行すれば今度の事故は避けられたかもしれません。本当に申しわけないことをしてしまいました」  真柄は影山の死が自分の責任であるかのようにがっくりと肩を落とした。死体の収容、検屍、営林署への手続き、荼毘と忙しくたち働いている間は気がつかなかったのだが、自分だけ予定変更したために生き残った形になった真柄の、死者や遺族に対するうしろめたさが、いま遺品を前にして、自責の念となって彼を責めたてているようであった。  貴久子は思った。きっと真柄の悲しみは自分よりもはるかに深く大きいのかもしれない。こよないザイルパートナーとして、信頼のザイルで身体を結び合って幾多の困難な岩壁や未踏のルートを拓《ひら》いてきた仲間を喪《うしな》って、どうすることもできない悲しみと寂寥《せきりよう》の中に放りこまれているのだろう。考えてみれば、影山と真柄の関係は、自分と影山のものよりずっと長く切実なのだ。その友を喪った悲しみにじっと耐えて、友の死後の処置を事務的に片づけなければならなかった彼には、自分のように悲しみに浸りきることすら許されなかった。そのほうがどんなに辛かったことだろう。  貴久子は、自分の悲しみを追うのに忙しく、真柄の悲しみを考えるゆとりのなかったことが恥ずかしかった。  それが真柄はかえって貴久子を慰めてくれたのである。 「別にあんたのせいじゃないよ。落石は誰が一緒に行っても、起きる時には起きる。それより……」  熊耳は慰め顔に言ってから、 「ハーケンは何本ぐらい用意したのかね」 「最初二人で計画した時は、ロックハーケン二十、アイスハーケン二だったんですが、赤壁を避けることになったので、ロックハーケンは半分ぐらいに減らしたはずです」 「北壁を四本のハーケンしか打たなかったとしたら、いい腕だな」  熊耳警部補は感心した。ポイントである赤い壁の直登は避けたとしても、北壁の帯状岩帯を四本のハーケンで通過したということは、影山の技術とバランスが並々ならぬものであったことを物語る。 「食料は何食分用意したか分るかね?」 「二十食です。二十六日の早朝出発してその夜は若草テラスでビバークして、翌日の夕方頂上へ抜ける予定でした。無理すれば、その日のうちに樽ケ岩の小屋まで行けぬことはなかったのですが、赤い壁の通過にどのくらい時間をとられるか分らなかったので、二日分よけいに用意したのです」 「赤い壁は通らなかったんだろう」  熊耳は遭難者の倒れていた位置を思いだした。あれは東南面の岩壁に寄った円形雪田の上だった。それに赤い壁は単独では越えられない。 「東南面ルートへエスケープしても、かなりきびしいルートですし、それに山麓へ合図する約束になっていましたから」 「頂上でもう一回ビバークしたかったわけだね」  熊耳はその気持が分るような気がした。時間と競争しながら危険な斜面を降りるのよりも、天気さえよければ山頂にゆっくりビバークして、はるか下界の恋人と交信するほうがずっと楽しいだろう。  それにそんな�約束�がしてなくとも、ロッククライミングにおいて、一、二日分予備の食糧を携行するのは常識である。  山の、特に岩壁におけるような特殊な登攀においては、一日三食方式に縛られない。腹が空《す》けばいつでも食い、休憩ごとに小きざみに食うことが多い。  行動食はそれを考慮して、各食事ごとに必要とされる栄養やカロリーや好みを塩梅《あんばい》して、一食ごとにビニール袋に詰めたものである。夜間の行動やビバークに備えて、一日分四、五袋用意する。  影山が二十袋用意したということは、二夜のビバークと三日間の行動に一、二日の予備を加えたものであろう。残余分から計算して、影山は七・五食消費している。これは二十六日朝の出発から、翌二十七日夜九時(SOS発信時)以前にわたる時間帯の食事量としてまずは妥当である。  落石で怪我をした後にも、症状が現われなければ食事をしたかもしれない。  ザックの中を検《み》おわると、その他の遺品へ移った。まず死者が肩がらみにしていたザイルはスイス製の九ミリ×四十メートル、ピッケルは〈ハスラー〉の銘入りで特殊鋼、腰に吊ったハンマーはオール金属、柄は黒で穴なし、靴は裏出皮岩登り用、アイゼンは十二爪打抜式、以上ピッケルを除いていずれも外国製品である。 「さすがにいいものばかり使ってる」と熊耳は思った。  死者が首から吊っていたライトは、ナショナルの防水性で単一乾電池二個使用のもの、電池はまだ衰えていない。破損したヘルメットはやはり国産で、グラスファイバー製つばつき、帽体とハンモックの間に発泡スチロールの防護パットが挿入されており、側頭部にもスポンジクッションが一周してあって防御効果を高めている。ただハンモックを保持するひもが細く粗《あら》い織りの綿製で、やや心もとない感じがした。  ハンモックについた黒いしみ[#「しみ」に傍点]は、影山の血がついたものであろう。  ひと通りの検査が終ると、遺品はすべて遺族にかえされた。 「こんなものもらっても思いだすばかりで」  と母親は言って、 「真柄さん、あなたよろしかったら、もらってくれませんか。隼人も山で一番親しかったあなたに使ってもろたらきっと喜ぶだろ」 「もしさしつかえなかったら、このヘルメットを、私にいただけませんか?」  黙って遺品のチェックを見ていた貴久子が、おそるおそる申し出た。 「こんなもの、どうなさる?」  母親がおどろいたように影山によく似た目で貴久子の顔を見た。 「こわれたヘルメットなんて、何の使い道もありませんよ」  真柄も言った。貴久子の気が知れないといった顔だった。 「だからいただきたいのです」  貴久子は思いつめたように言った。 「これだけは捨てようと思っとったのに」  母親は少しいまいましそうな口調で言った。彼女にはきっとこの脆《もろ》いヘルメットが、息子を殺した張本人のように見えたのかもしれない。  彼らが口をきいたのはこの時が初めてである。交際がまだ影山と貴久子の間だけのもので、たがいの親には紹介されていなかったので、影山の両親が到着した時も、貴久子は強いて自分から名乗り出なかった。  貴久子のことは、影山が生前折りにふれては話していたかもしれなかったが、息子の痛ましい死体を前に悲歎のどん底に沈んでいた彼らには、貴久子の存在に気がつく余裕などなかった。名乗って拶挨しなければと思いながらも、そんな彼らの前へしゃしゃり出て自己紹介をする勇気はとてもなかった。  それに貴久子自身も、影山を喪った悲しみに打ちひしがれていたのである。 「何だかこのヘルメットが一番可哀想な気がするんです」 「可哀想?」 「ヘルメットがもう少し丈夫だったら、影山さんを落石から守れたのです。きっとそれほど大きな落石だったと思うんですけど、たくさんの遺品の中でヘルメットだけが、責任を追及されて体をすくめているように見えて」  それはヘルメットの防護範囲を越えた落石であったかもしれない。いやヘルメットは、それなりの効果と義務を果たしたのだ。もしそれがなかったならば、頭蓋骨《ずがいこつ》を粉砕されて即死したにちがいない。ヘルメットがあったからこそ、頂上へ辿り着くまでの延命と体力を保障したのではないか。ヘルメットは立派に役目を果たしたのだ。  それにもかかわらず貴久子には、頭頂部から放射状にひび割れて、もはやその機能を完全に失ったヘルメットが、ピッケルやアイゼンやザイルなどの、いかにも猛々《たけだけ》しい遺品たちから、�主人�の生命を守りきれなかった責任を追及され、つるし上げられているように見えてならなかった。現に老母はそういう目をしてヘルメットを見ている。  だが貴久子にしてみれば、影山の血がしみついているということも、遺品の中で最も近しい気がする。貴久子は�主人�の死の責任を一身に背負った形の�不運な遺品�を自分が引きとってやって「あなたのせいではないのよ」と優しくいたわってやりたかった。 「もしかしたら、お嬢さんは湯浅さんじゃありませんか?」  母親が言葉づかいを改めた。貴久子がうなずくと、 「ああやっぱり、息子がよく話しておりました。もしかするとそうじゃないかと思っていたんですが、まさかこんな山の中までいらしてくださろうとは思わなかったので、……どうもえらい失礼なことをしてしまって、あなた、このお嬢さんが、隼人がよくうわさしていた湯浅さんよ」 「これはこれは、ご挨拶が遅くなりまして。私が隼人の父です。息子が生前は大変おせわになったそうで。またこのたびは、わざわざこんな遠くまで来ていただいて、何とお礼申し上げてよいか」  実直そうな父親が丁寧に頭を下げた。影山が貴久子についてどの程度の話をしていたか知る由もなかったが、山へ一緒に行くとは話してなかったらしい。両親は、貴久子が影山遭難の報にわざわざ東京から駆けつけたと思いこんでいる様子だった。 「いえ、私のほうこそご挨拶が遅れまして」  貴久子はかえって恐縮した。影山と一緒に来たのだとはあえて言わなかった。彼が話さなかったものを、自分から告げる必要はないと思った。  結局ヘルメットは貴久子がもらい受け、その他の山用具の遺品は、真柄が受けた。 [#改ページ]    虚無の充填《じゆうてん》      1  そうこうしている間に山開きとなって、本格的な夏山シーズンに入った。四百万とも五百万ともいわれる登山人口が「猫も杓子も」式に北アルプスへやってくるから、山は大変なラッシュとなる。  登山路や縦走路には登山者の列がアリのようにつづき、岩場《ゲレンデ》には順番待ちをするくらいにクライマーが殺到する。  オフシーズンの間に三つ峠や鷹取山のゲレンデを登った連中が、すっかり自信? をつけていきなり北アルプスの岩壁に取りつくから、遭難事故はあい次ぎ、救助隊はキリキリ舞いをさせられる。  縦走路では悪天に叩かれての疲労凍死、北壁周辺の岩場や雪渓では滑転落や落石事故が圧倒的に多い。  K岳北壁という北アルプス有数の岩壁を擁《よう》しているK岳山域では、滑転落や落石による事故が多く、死者の二十パーセントくらいが即死である。      ×  七月二十七日、赤い壁で悲惨な転落事故が発生した。二十六日夜、若草テラスでビバークした北九州市の会社員二人は、二十七日午前十時ごろ『恐怖のトラバース』に取りついた。  テラスからオーバーハングの下縁にそって右上へあがりこむ最も悪いピッチをどうにか抜けて、ようやく一本の固定ハーケンを打ったところで、トップが落石に見舞われた。その打撃でトップが転落、確保《ジツヘル》していたセカンドがショックを支えきれず一緒に転落した。約十メートルでトップが打った固定ハーケンで数珠《じゆず》つなぎになっていったんは止まったが、セカンドとの間でザイルが切れて、セカンドのみ岩壁基部まで約四百メートルを一気に転落即死した。トップは固定ハーケンによって宙づりになり、間もなく死亡した。  付近を登高中のクライマーの報《し》らせによって直ちに現場へ出動した熊耳らは、まず隠れの里の雪渓と北壁とのコンタクトライン付近の岩にひっかかったセカンドの死体を収容した。 「こいつはひでえや!」  悲惨な墜死体を見なれている隊員も、さすがにその死体の酸鼻《さんび》さには思わず目をそむけた。頭蓋骨は完全に粉砕され、脳漿《のうしよう》と、左の眼球はどこかへ飛び出してしまったらしく消失している。したがって頭は空気の抜けた空気枕のように偏平となり、顔面は大根おろしにかけたように一面真紅の擦過傷である。上あごは真っ二つに割れ、下あごは吹っ飛んでしまっている。鼻は潰れて人間のおもかげは全くない。四肢は衣服を突き破って骨が突出し、右腕は肘《ひじ》の関節でうすい皮膚によって辛うじてぶら下っている。胴体はつぶれて、腸がはみ出し、雪渓に五メートルほどのびていた。  猛烈な屍臭に導かれてその場所はすぐに分った。一行が近づくと、真っ黒に死体に群れていたハエがわあんと飛びたった。そのあと鼻腔、口腔、耳腔、体のあなというあなからウジがぞろぞろ這《は》いでてくる。  トップの収容はさらに困難をきわめた。現場が近づきがたい悪場であるうえに、宙づり状態になっているのでほとんど手がつけられない。一時は自衛隊に出動を要請して、銃撃によってザイルを切断しようかという案まで出たが、ともかく行けるところまで行ってみようということになった。隊員の中からえりすぐりのクライマーを選び、決死の搬出作業の結果、遭難発生後四日目の夕方、ようやく岩壁基部へ降ろすことができたのである。 「死体の下へ近づくと、ウジがパラパラ落ちてくるんだ」 「とうぶん、この臭いはからだから抜けねえな」  死体を搬出して来た隊員は、事件のなまなましさに圧倒されたような口調で語った。隊員には、遭難を通して山へ入って行った人間が多い。スポーツやレクリエーションとして山登りをはじめたのではないから、山の恐《こわ》さを充分に知っている。  いくらアクロバチックな救助作業に馴れても恐いのである。  ザイルで体の上から直接ぐるぐる巻きにされ、カラビナでメーンザイルに結ばれて吊り降ろされた遺体は、途中あちこちの岩角にぶつけられたらしく、ことさらに損傷《いたみ》が激しくなっていた。夏の烈日の中に数日間放置されたために腐敗がかなり進み、顔面は巨人様にふくれあがり、全身いたるところに粉をふりかけたようにウジがわいている。  検屍の結果、直接の死因は死者が着けていたヘルメットの破損状態から、落石による頭蓋骨骨折と鑑定された。その際特に熊耳の注意を惹《ひ》いたことは、たまたまそのヘルメットが影山隼人が着用していたものと同じ製品であったうえに、頭頂部より放射状のひび割れという破損の状態までが似通っていたことである。  熊耳は、遺族の了解を得て、そのヘルメットを領置した。      2  虚脱した日々が貴久子につづいた。何をするのも面倒くさかった。影山が死んで、いつの間にか彼が、自分の心の主要な部分を占めていたことに気がついた。  その部分が今、ポッカリと大きな口をあけて、身体中の気力を吸い取ってしまうようである。 「元気を出してください」  真柄が時折りやって来て慰めてくれた。慰めるといっても、いちいち言葉に出して言うわけではない。それとなく貴久子の好みそうな音楽会や映画へ誘ったり、郊外へ連れ出したりしてくれた。  そんな場所へ出かけたところで、心にあけられたうつろが充たされるはずもなかったが、真柄と一緒に時間をすごすことは、決して不愉快ではなかった。  彼も恩人の一人である。そしてかつて、貴久子の心の秤《はかり》を影山と並んでひとときの間バランスを保たせた男である。  折りから開かれていた、西欧の大国「A国フェア」のクラシック企画に出演のため来日した、世界的な指揮者レオンハルトとA国フィルハーモニイの夕べの入場券を二枚手に入れたから一緒に行かないかと誘われたのは、七月の末であった。  何ごとに対しても興味を喪失した、一種の虚脱状態におちいっていた貴久子も、久しぶりになまのオーケストラの怒濤《どとう》のような演奏にもみしだかれてみたくなった。もともと貴久子は大のクラシックファンである。しばらく音楽会には行っていないが、影山が生きているころ、ポピュラーファンの彼に強引にせがんで、レオンハルトとA国フィルハーモニイが来たらぜひ一緒に聴きに行こうと約束させていた。  その約束を真柄は知らないはずであったから、貴久子の趣味を知っての彼の好意であろう。  今の自分の虚《むな》しい心のありようを察して、音楽、それも超一流のものをプレゼントしてくれた真柄の好意が嬉しかった。レオンハルトとA国フィルといえば、A国|展の白眉《フエアはくび》である。その切符を二枚も手に入れるのはさぞ大変だったにちがいない。  貴久子はありがたく彼の好意を受けた。  彼女は久しぶりに陶酔した。A国フィルの、他の追随を許さぬ豊かに幅のある音響と、精神的な規律をもっているような演奏は、影山を失った後にえぐられた貴久子の心の空洞を、ずっしりと充たしてくれるようであった。  演奏曲目は普遍的だが、『未完成』と『新世界』だった。 「すばらしかったわ、本当にありがとう」  会場を出る時、貴久子は心から礼を言った。 「いやあ、実はそんなに喜んでもらえるとは思わなかったんです。僕も嬉しいですよ」  真柄はテレくさそうに頭をかいた。 「あの……もし、まだ時間がよろしかったら、つまり食事でもどうですか?」  真柄はどもりながら言った。いつも思うのだが、彼の誘いは何となくぎこちない。以前は影山と比べて、それが何ともヤボったく見えたものだが、こうやって何度も誘われているうちに気にならなくなっただけではなく、むしろ好ましく見えてきたから不思議である。  ちょうど土曜日の夜だった。今の感動の余韻を、自分ひとりになった時の寂寥《せきりよう》の中に消したくはなかった。 「今度、私に出させてくれるなら」  貴久子は答えた。 「いけません。僕が誘ったんだから、最後まで僕にもたせてくれなければ」 「だめ! 私が」 「いえ、僕が」  二人の間で小さないさかいがつづいた。銀行員らしく仕立ておろしの背広をキチッと着ているが、何となくむくつけき真柄と、見る者をして思わず目を見張らせるような都会的な美貌の貴久子が、楽しそうな言いあらそいをしているのが、人目をひいたらしい。通りすがりの者がふりかえって行った。 「いいわ、負けました」  貴久子は頬をうすく染めて譲った。 「さ、行きましょう」  大きな勝負に勝ったように胸をそらせた真柄の子供っぽい態度に、貴久子は思わずクスッと笑ってしまった。 「どこへ連れて行ってくださるの?」 「東都ホテルのグランビューはいかがですか?」 「あら、凄い場所をご存知なのね」  貴久子は正直おどろいた。『グランビュー』は東都ホテルが新築した新本館の最高層四十三階にある、東洋一高い(高度も値段も)デラックス食堂である。  大展望《グランビユー》という名前をつけただけあって、そこからの眺めは、貴久子がかつて真柄を連れて行った東京ロイヤルホテルのスカイダイニングより一段と大きい。  そこへ、あの時、いかにも「借りて来た猫」のようにおどおどしていた真柄が連れて行くというのである。 「私も顧客回りをするようになりましてね、ああいう場所へも時々足を踏み入れるようになったんですよ」  てれくさそうに言いわけをする真柄は、こういう場合�通�を気取りたがる若い男に似合わず、慎《つつま》しさが感じられて、いっそう好ましかった。  車を停めるために歩道のはずれに立った真柄の腕に、いつの間にか自分の腕をからめていることに貴久子は気がつかなかった。  グランビューの夜景は、ロイヤルホテルのスカイダイニングよりひとまわり壮《おお》きかった。ほの暗い間接照明の食堂の内部に、キャンドルライトが点々と映え、窓外に様々な密度でちりばめられた五彩の光点をめぐらして、ひとつの小宇宙をつくっているようだった。  この上なく豪華で居心地のよい小宇宙、時折りワゴンサービスの炎がパッと燃えあがって、この小宇宙に滞在することを許された、金と余裕のたっぷりある客たちの面を赧々《あかあか》と染めた。  食堂の中央ではウィーンから呼んだヴァイオリニストが、レガートな旋律を奏でている。  フルコースでは重すぎるからという貴久子のために、真柄は、略式のディナーを注文《オーダー》してくれた。 「ここのステーキは天下一品だそうです。友人に勧められましてね、僕も前から一度来たいと思っていたのです」  といいながらも、ウェイターへのオーダーの仕方など堂に入っていて、先日のスカイダイニングでのおどおどした態度と比べるとまるで別人のようだった。別に貴久子のために無理をしている様子は見えない。やはりこの間の真柄の�成長�であろう。  カクテルで乾杯して、二人は何となく微笑み合った。この時、貴久子の影山を失った悲しみは、柔らかく救われていた。  スープがきた。スプーンを二、三度口へ運んでから、真柄がふと思いついたように言った。 「話題がちょっとそぐわないけど、影山の墓を山へつくってやりませんか?」 「お墓を?」  貴久子はスプーンを口の前で止めて聞いた。 「奥村田山荘の裏をちょっと登ったところに遭難碑を集めたところがあるんですがね、荼毘の場所近くです。あそこへ影山の骨や遺品を埋めてやったらと今ちょっと思いついたんです」  貴久子は真柄のことばを聞きながら、ああ、あそこだなと思った。  ブナの樹林を抜けて、白樺の疎林に入ったゆるやかな傾斜の中腹、K岳の眺めのよいアルピニストの墓、影山の合図を待つ間の時間つぶしに正彦に案内されて山荘の周囲をさまよい歩いた時、偶然見つけた場所である。  影山を荼毘に付し、�形見分け�をした時に、貴久子は何故、遺骨や遺品をあの場所に葬らないのかと思ったものだが、遺族でもない自分がさしでがましいと遠慮したのである。 「貴久子さん、どう思います?」  真柄はスプーンを置いて、貴久子の顔をじっと見た。熱っぽい目だった。男がそんな目をする時の心の内のありようはだいたい決っている。彼女はさりげなく視線をはずして、 「でも、ご遺族の方が何とおっしゃるか?」 「大丈夫ですよ。何も墓を全部移そうというわけじゃない。遺骨と遺品のほんの一部だけもって行くのですから」 「それだったらいいアイデアね」 「影山はこんな詩が好きでした。富田砕花《とみたさいか》という人がつくった詩ですがね」 「どんな詩?」 「私はいつも  幻の墓を描く  氷河をその裾に巻く尖峰《せんぽう》の絶巓《ぜつてん》に  おおかたの日の明け暮れは  氷霧によって  その墓は……閉ざされてあろう  まれに恵まれた日の朝なれば  それは薔薇色に粧《よそお》われてあろう  寂しく荒れた形を    空間に懸《か》けて——」 「いい詩ね」  貴久子は聞いている間にうっとりとなった。荒涼とした山頂に築かれたアルピニストの墓、風雪と日の光にさらされて、やがて山そのものになるために風化していく墓は、いかにも山を愛し、山で死んだ若者を葬るにふさわしい場所に思えた。 「その詩のように、K岳の頂上へお墓をつくってあげられないの?」  山麓の墓地もよかったが、頂上はさらに彼の墓所にふさわしい。 「実はそうしたいんですが、国立公園の中ですから、指定された区域以外はみだりに埋葬できないんですよ。それに山のてっぺんだと、簡単に墓参りに行けなくなります」 「そうねえ」 「頂上は無理としても山麓には分骨できるでしょう。さっそく影山の両親に言ってみましょう。きっと喜んでくれますよ。一緒にピッケルやザイルも埋めてやろう。実は僕も彼の山道具を形見分けしてもらったのですが、やはり彼のものは彼とともに山へ返すべきだと思うんです。そういえばあなたもヘルメットをもらいましたね」 「ええ、大切にもっていますわ」 「どうです、あれも一緒に埋めてやっては」 「ええ、でも……」  貴久子はふとためらった。影山の唯一の形見を手放すのが少し寂しかった。しかしすぐに、彼の遺品は自分の手もとに置くより、山へ埋めたほうが在《あ》るべき場所に在《あ》るように思った。  その意味で、 「影山のものは影山とともに山へ返すべきだ」という真柄の言葉は、説得力があった。 「いいわ、影山さんもきっと喜ぶでしょう」 「僕ももらったザイルやピッケルを埋めてやります。実際いつまでも持っていると、やつの思い出を振り切れなくてやりきれないのです」  真柄はしみじみとした口調で言った。そこには仲間を喪《うしな》った山男の悲しみが素朴に現われていた。 「あ、いけない、話に夢中になってしまって、スープがさめます」  真柄は束の間の感傷を振り切るように言った。スープが終わると、肉料理《アントレ》がつづく。 「ここのビフテキは、アメリカの有名なビフテキ通が、世界最高の�完全なビフテキ�だと折り紙をつけたものだそうです。彼の言う完全なテキとは、肉はサーロインで霜降り、バターナイフで切れる柔らかさ、屠殺《とさつ》後四週間、焼き具合は生焼《レア・ダン》きということだそうです。それがいま来ますよ」  真柄が説明を終った時にオーダーが運ばれて来た。焼きたてのビーフの芳香が、鼻腔に迫る。さすが世界の通から、�完全�と折り紙をつけられただけあって、色具合といい、焼け具合といい、美事な仕上がりである。  貴久子の食欲が過去の凄惨な記憶とすり替ったのはその瞬間であった。  星の光を消して燃え上がる赤い炎、それ自身一個の燃料となって青白い炎を噴きだしていた遺体、炎の中で遺体が動く。内臓や血管の中でガスが爆《は》ぜている。死体からしたたり落ちる脂が引火してジュージューと音をたてる。突如ポンと竹の節が裂けたような音がして…… 「ああ!」  すっぱい液体が胃の奥からこみ上げてきた。 「どうしました?」  真柄がおどろいてたずねる。それに答えるひまもなく、貴久子は口を手でおおいながら周囲を絶望的な表情で見た。内にあふれたものは、もう少しで口から迸《ほとばし》り出そうである。とうてい化粧室へ駆けつける余裕はなかった。  真柄は何思ったか、いきなり上着を脱いだ。 「さ、ここへ思い切って! 楽になりますよ」 「でも……」  と言おうとしたはずみに今まで抑えに抑えていた制止が外れた。貴久子の胃の中にあったものが、真柄の上着の中に何ものも止めることのできない勢いですっかり吐き出された。仕立ておろし間もない上着は、救いようのない状態になった。  幸い、席が他の客から離れた窓ぎわにあったことと、ウェイターが去った後だったので、だれも気がついた者はいない。  胃がすっかり空《から》になると、貴久子は今のことが信じられないように、気分がよくなっていた。 「少し横になって休んだほうがいいでしょう。どこか場所をとりますから」  真柄は、ウェイターを呼ぶと、急に伴《つ》れが気分が悪くなったから、どこか部屋を用意してくれと命じた。  やがて案内された部屋は広々とスペースをとったツインだったが、貴久子は別に抵抗をおぼえなかった。  真柄の今の行為に、へんな下心などあろうはずがないと思った。  実際彼が、自分の汚物を受け止めるために仕立ておろしの背広を、さしだしてくれたのは、並々ならぬ好意である。  いや好意というより誠意である。彼の今の行動は予期していたものではない。口では好きだの、愛するだのと言えても、仕立ておろしの背広で相手の汚物をくるみこむという行為は、とっさにできるものではない。そこには男の純粋な気持がこめられているとみてよい。  彼の機敏な行動のおかげで、貴久子は醜態をさらさずにすんだ。  誇り高い貴久子にとって、そんな醜態をさらすくらいなら死んだほうがましだった。それを真柄が救ってくれた。その時彼女は、八ケ岳で救われた時よりも嬉しかった。 「気分はどうですか?」  ベッドの上から心配そうに覗きこんだ真柄に、貴久子は涙ぐみかけた目を向けて、思わず両腕をさしのべてしまった。  真柄はふと当惑したような表情を浮かべたが、次の瞬間男の喜色を満面に浮かべて彼女の腕の中へ入ってきた。  そこまできてしまえば、後は男の、獰猛《どうもう》な力がものをいう。異常な事態に動転して何気なく入ってしまったが、常ならば真柄と一緒に絶対に入るはずのない完全なプライバシーを保障されたホテルの密室である。そういう行為のために設計された環境だった。だが貴久子はそれまで許すつもりはなかった。 「あ! やめて!!」  感謝のつもりでさしのべた手の許容を越えて、荒々しい行為に出てきた男を制《と》めようとした時はすでに遅かった。  ベッドの上で全く無防備に、男女の最終的体位に移るための絶好の姿勢に折り敷かれていた。感謝の余韻が貴久子の抵抗を少なくさせたことも、男の力を増長させた。  それは今の貴久子にとって、一種の虚《むな》しさの充填《じゆうてん》でもあった。 [#改ページ]    ヘルメットの矛盾      1  その夜真柄に送られて貴久子が自宅へ帰って来たのは、十一時近かった。車の窓を開けて涼しい風を受けてきたので、気分はだいぶよくなっていた。しかし久しぶりに受けた身体の中心の恥ずかしい感覚の余韻はまだ消えない。 「クマガミとかいう人から何度も電話があったのよ」  玄関に入ると同時に、鍵《かぎ》を開けてくれた母が言った。 「クマガミ?」貴久子はなるべく母に顔を見られないようにして聞いた。 「あら知らない人なの? 何かとても急いでいるようだったわ。ヘルメットがどうしたとか言ってたけど、夜遅くなって悪いけど十一時ごろもう一度電話すると言ってたわよ」 「ヘルメットですって」 「私も変なことを言う人だなと思って聞きなおすと、詳《くわ》しいことはお前に直接話すって。長野のクマガミといえば分るだろうと言ってたわ、お前、本当におぼえはないの?」 「ああ熊耳さん!」  貴久子はあばた面の救助隊長を思いだした。身体の大きないかにも人の善さそうな顔をしたあの隊長が、警察官だと後で聞かされて意外に思ったものである。警官の身分を家人に告げて、不要な心配をかけてもいけないと思って、わざとそれは告げなかったのであろう。  熊耳と書いてくまがみと読ませる奇妙な名前を、貴久子は「熊みみ」と呼びそうになって困ったものである。その熊耳が、あれから二か月も経った今ごろいったい何の用で? 「それ、都内から?」 「さあ、分らないわよ、今みんな自動になってるからね」ともかく相手の電話番号が分らないので、彼から入る予定の電話を待つ以外になかった。だが電話は待つほどもなくすぐにかかってきた。 「やあ湯浅貴久子さんですか。どうもごぶさたしまして、大町署の熊耳です。あの節はどうも大変失礼しましたな。また今日は何度もお電話してすみません」  聞きおぼえのあるサビのある声が受話器から流れてきた。 「いえとんでもない。こちらこそ留守いたしまして失礼しました。あの節は大変おせわになりましたのにごぶさたしてしまって。今、都内からですか?」  もし長野からかけているのであれば、のんびり話しては悪いと思って貴久子はたずねた。 「いや、署の直通からかけています」  土曜日のこんな遅くまで職場へつめているのだから、熊耳はよほど職務に熱心な男にちがいない。それとも大事件が勃発《ぼつぱつ》したのであろうか? 「それで今夜はまた何か?」 「いや夜分遅くすみません。実は影山さんの遺品を分けた時、あなたはたしかヘルメットをもらいましたね」 「そうですが……それが何か?」 「まだお手もとにありますか?」  熊耳の鷹揚《おうよう》な声が急にあわただしくなった。 「もちろんでございますわ」 「よかった! 二、三日中にうかがいますからそれをちょっとお貸し願えませんか?」 「え!? わざわざヘルメットを取りにお見えになるんですか?」 「たぶん、私がうかがうことになると思います。それまで誰にも渡さずに保管しておいていただけませんか」  熊耳警部補はへんなことを言いだした。あのこわれたヘルメットを借り出しにわざわざ長野から上京してくるという。警察官の階級はあまりよく知らないが、警部補というからにはかなり責任のある地位なのだろう。しかも今は夏山シーズンの真ん中で救助隊の最も忙しい時期にちがいない。  いったいヘルメットに何があるというのだろう? 自分が行くまで大切に保管しておいてくれと言ったが、あんなこわれたヘルメットを誰が欲しがるものか。——  貴久子が頭を傾《かし》げた時、 「それでは、私が行くまで確実に保管しといてくださいね。非常に重要な問題がからんでおりますのでくれぐれもよろしく願います。詳しいことは、お会いした時にお話しします」  熊耳は何度も念を押してから電話を切った。      2  熊耳はそれから二日後の午後、会社へ訪ねて来た。受付からの取次ぎに応接室へ降りると、例のあばた面をほころばせて、 「やあお仕事中すみませんな、少し前に新宿へ着いたところです。お宅の方にお電話したら、まだ会社だということでしたのでお邪魔しましたよ」 「でもヘルメットはこちらにはもってきてありませんのよ」貴久子は一別以来の挨拶の前に気の毒そうにことわった。せっかく自宅とは反対方向の都心の勤め先まで来てもらったのをむだ足にさせたのがすまなかった。 「いやいやご心配なく。こちらの方にも用事がありましてな、それより、お仕事のおじゃまになりませんか」  連日山へ入っているらしく、真っ黒に日灼けしているおかげで、前に会った時ほどあばたがめだたなくなっている。 「もうすぐ退社時間ですの」 「それはよかった。私はこちらでお待ちしてますから、一緒にお宅までうかがわせてくれませんか」  三十分ほど後、二人は国電の吊皮《つりかわ》に並んでつかまっていた。熊耳は腹がいやにふくらんでたて長のボストンバッグを下げている。 「しばらくこないうちに東京は変りましたな、まるで外国の街みたいだ。もっとも外国へ行ったことはありませんがね」  熊耳は車窓に流れる風景にむしろ驚嘆したような視線を投げていた。まだ本格的なラッシュにかかっていないので、車内の混雑はさほどではない。 「前にはいつごろいらっしゃったのですか?」 「お恥ずかしいのですが、十年ほど前ですよ、山にこもりきりでしてね」  熊耳はいかにも丈夫そうな白い歯を出して笑った。東京の変貌は、そこに住んでいる者にとっても目を見張らせるほどに凄じいものがある。そこへ十年の空白を置いた後に訪れたのであるから、まさに〈浦島太郎〉のような�断絶�を感じているにちがいない。しかし熊耳はその断絶におどろかされながらもそれを楽しんでいる様子である。高速道路や超高層ビルに素朴なおどろきと好奇心を子供のように現わしている。 「やっぱりテレビで観《み》るのとちがって、実物は迫力がありますなあ。ここまでくると、�造り物�も山に負けないスケールだ」 「お仕事はお忙しいのでしょう?」 「登山人口が増えた分だけ、遭難も増えてます。まあ交通事故と同じです。車が増えれば、下手なドライバーも増える」  と言いさしてから、少し慌てたように、 「ま、影山さんの場合は不可抗力によるものでしたがね」とつけ加えた。  四十分ほどで貴久子の自宅に着いた。都内では割に近い通勤距離だったが、熊耳は、こんな遠い所から毎日通っているのかと目を剥《む》いた。  熊耳はワサビを土産にもってきた。空気の清澄で冷涼な気候を好むこの植物は、いかにも信州の土地柄をこめた特産物であった。  貴久子がヘルメットをもってくると、まるで恋人にめぐり逢ったように目を輝かせ、しばらくためつすがめつしていた。  ややあって大きな吐息をつきながら、それを膝《ひざ》の上に置くと、 「これをしばらくお借りできませんか」 「けっこうですけど、そのヘルメットがどうかしたのですか?」  貴久子は今までがまんしていた疑問を口にした。わざわざ上京して来たことといい、今の熊耳の様子といい、ただごとではないものがあった。 「湯浅さん、まだはっきりしたことは申し上げられませんが、もしかしたら私は大きなまちがいをしでかしたかもしれません」 「大きなまちがい?」 「湯浅さん!」  熊耳の柔和な目に強い光が宿った。その一瞬、素朴な山男は警察官以外の何ものでもなかった。 「このヘルメットに何か気がついたことはありませんか?」 「?……いえ別に」 「私もつい最近気がついたばかりなのですが、もし私の推測があたっていれば、私はこれになりかねないミスをしたことになります」  熊耳は自分の首を手刀で打つまねをした。 「まあ!」  貴久子が目を見はった時、母親が茶と菓子を運んで来た。 「まあまあ遠いところをお越しいただきまして、ただ今はけっこうなお品をちょうだいいたしましてありがとうございました。どうぞごゆっくりして下さいまし。お話がすみましたら、お食事の用意ができておりますから。もしよろしかったらお泊りいただいても」  実直な母は、旅行先で大変せわになった方だという貴久子の話をすっかり信じて、恐縮しきっている。かえって熊耳のほうが面喰ったくらいである。  いろいろとまだ話したそうにしている母をようやく追い出すと、 「すみません、ふだんあまりお客様が見えないものですから、子供のように喜んでしまうんです」 「いやあ、とてもいいお母さんですね」  熊耳は初めて訪問した家で、食事をしていけ、泊っていけと言われて、恐縮しきっていた。 「そのミスっていったい何ですの?」  貴久子は話の先をうながした。彼女には、ヘルメットに熊耳の職にかかわるような重大事があると言われても、かいもく見当がつかない。そこにあるのは、何のへんてつもないヘルメットなのだ。 「実はつい先日K岳北壁で、落石事故がありましてね、その時の遭難者がたまたまこれと同じヘルメットをかぶっていたのです。これがそれなんです」  熊耳は、たて長ボストンの中から、ビニール布に包んだヘルメットを取り出した。真ん中辺がいやにふくらんで見えたのは、こんなものを入れていたからであった。 「ごらんください。メーカーも、製品タイプも同じです。頭頂部のひび割れも、よく似ているでしょう。我々はその遭難者が、影山さんと同じ規模の落石に襲われたものと考えました。ところがなんです」  熊耳は、さっき母が運んできたばかりの、まだかなり熱い茶を、たいして熱そうな顔もせずにガブリと飲んだ。のどにひとしめしくれると、 「防護効果を強めるために、内装部分にハンモックとパットが入っていますが、まず二つのヘルメットを比べてみましょう」  熊耳は膝の上に二つのヘルメットを並べてうらがえしにした。 「右が影山さんのヘルメット、左が遭難者のものです。こうやって比べて見るとすぐに分りますが、左のものは内装部分がかなりいたんでおります。パットが凹《くぼ》み、ハンモックの端が少し切れてますね、それだけじゃない、ハンモックのつりひもが二個所も切断されている。ところが、右のヘルメットの内装は全然いたんでおりません」  この意味が分るかと問うように、熊耳が貴久子の目を覗きこんだ。彼女は完全に熊耳の話の中にひきずりこまれていた。 「同じタイプのヘルメットが、帽体に同じ程度の損傷を受け、それをかぶっていた二人ともに死んだにもかかわらず、内装部分のいたみ方がそれぞれちがう。何故か? 落石の打撃力や、ヘルメット着用者の体位や状態で、同じタイプのヘルメットでも損傷は千差万別であるとは思います。しかし帽体の損傷がほぼ同じで、内装部だけちがうというのは、どうしても解《げ》せません。着用者が頭部に受けた損傷も、ほぼ同じ程度でした。つまり同じ程度の打撃が働いたことを意味します。あごひもを締めないと、帽体だけいたむことがありますが、二人ともあごひもは結んでいました。影山さんのヘルメットの内装は、当然いたんでよい環境と条件にあったはずです。そうでないとすれば、左のヘルメットのほうが特殊な条件に置かれていたことになります。メーカーに電話で問い合わせたところ、帽体が破損するほどの外力を受けた時は、内装も相応に痛むのがふつうであると答えました。となるとやはり左のヘルメットがふつうの条件に置かれてあり、右のほうが特殊であったと考えざるを得ないのです」  貴久子の口中はいつの間にかカラカラになっていた。熊耳の話の異状な内容と方向に、緊張のあまり唾液の分泌が止まってしまったようであった。 「その特殊な条件とは何か? これを説明できる場合が一つだけあります。つまりヘルメットが衝撃を受けた時、人間の頭に着けられていない場合です。内装のいたみは、帽体に加えられた衝撃エネルギーを頭皮表面の手前で吸収しつくせなかった時に生じます。頭と帽体の間にはさまれて、外力を支え切れなかった時です。もし内装の下に頭がなければ、内装はいたみません。外力が頭部の抵抗を受けないからです。帽体に加えられた衝撃をそのまま伝えられて、パットが凹《へこ》むようなことはあるかもしれませんが、ハンモックや、つりひもが切れることは絶対に考えられません」 「でも、でも影山さんは頭に怪我をしておりましたわ」  貴久子は、自分の心に萌《きざ》しはじめた恐しい想像を打ち消すために、必死に反論した。その怪我のために彼は命を失ったのだ。 「影山さんはヘルメットを着けていない時に怪我をしたとは考えられませんか?」 「でもヘルメットをかぶっていましたわ」 「誰か[#「誰か」に傍点]が、影山さんとヘルメットに別々に打撃を加えた後で、一緒にした[#「一緒にした」に傍点]としたらどうですか」  熊耳は、貴久子が強いて目をそらそうとしていた疑惑を、何のためらいもなく、ズバリと口に出した。  それは恐しい推理だった。事実、影山以外の誰か[#「誰か」に傍点]が頂上にいて、影山とヘルメットに別々に打撃を加えたとすれば、いったい何のためにそんなことをしたのか? いうまでもなく彼を殺すか、傷つけるためである。そしてその誰か[#「誰か」に傍点]は目的を果たしたことになる。  もし影山の頭を傷つけた衝撃が、人間の力によるものであれば、ヘルメット越しに致命傷をあたえるだけの力を出すのは、よほどの大力の持主でもむずかしいだろう。ヘルメットを脱いだところを撲《なぐ》りつけ、落石事故を偽装させるためにヘルメットを傷つけて、頭へかぶせておいた。あごひもも結んだ。 「影山さんがヘルメットを自分でかぶったのではない状況がまだあるんです」  熊耳は貴久子の目をじっと見すえながら一枚の写真をポケットから取り出した。 「これは何ですか?」 「影山さんの遺体を発見したとき撮った写真の一枚で、ヘルメットのあごひもの部分を拡大したものです」  一部を拡大したので、死体のむごたらしさはわからない。これが何を意味するのかと不審顔の貴久子に、 「ご両親から聞いたのですが、影山さんのひもの結び方は、順結びだったそうですね、人はひもの結び方にそれぞれくせがあります。この写真にある結び方は、二本のひもを結ぶときの最も基本的な結び方で、こま結びとかほん結びと呼ばれる方法です。この結びの手順は、右手のひもを左手の下にもってきて結びはじめるのが『順』、その反対が『逆』になります。影山さんは『順』だから、右手が下にこなければならない。ところがこの写真の結び方をよく観察してみますと、結びはじめの左手のひもが下にきていることがわかるのです」  貴久子は、ようやく熊耳の言おうとしていることの意味がわかりかけてきた。 「それでは!」  ハッとして面をあげた彼女に、 「そうなんです。ひもの結び方の手順なんてめったに狂うものではない。影山さんが自分で結んだあごひもなら『逆』になるはずがない。これはだれかが影山さんに帽子をかぶせてから、影山さんと向かい合う形でひもを結んだから『逆』になってしまったのですよ」  鋭い観察だと思った。だがひもの結び方などは、ひもの長さや、位置、材質、形状、またそのときの気分や結ぶときの姿勢等で変るものではないだろうか。それにしても、誰か[#「誰か」に傍点]が、自分の攻撃を有効にするために、影山がヘルメットを脱いだ時を狙ったと考えれば、ヘルメットと頭部の損傷が、それぞれ二つの別の衝撃によって形成《つく》られたという推論が、充分な妥当性を帯びてくるのである。 「でも——」貴久子は言いかけて、さっきからでも[#「でも」に傍点]ばかり言っていると思った。 「K岳の頂上には、救助隊が行き着く前に影山さん以外の誰か[#「誰か」に傍点]がいた跡は全然なかったんでしょう?」貴久子は救助隊が死体を収容して来た時の熊耳の説明を思いだした。 「それで私もひどく困ってるんですよ。もう一度おうかがいしますが、あの夜あなたは朝までほとんど夜通し山頂の方を見ていたが、灯火らしいものは、九時のSOS以外は全く見えなかったということでしたが、このことに関してはまちがいありませんか?」 「まちがいありません」 「お手洗いや食事に立ったことはあるでしょう」熊耳は率直に訊いた。 「食事はしませんでした。食欲が全然なかったのです。手洗いには……それは立ちましたけど、でも精々五分とあけませんでしたわ。あとは真柄さんが着いた十時ちょっとすぎに五分ほど」  貴久子はその点には自信がもてた。少しでも、山頂の見える場所から離れると、その間に影山が信号を送ってくるような気がして居ても立ってもいられなかった。いわゆる強迫観念のようなものにおそわれて、五分も�中座�するのが精一杯だった。  その間ライトの電池を交換しなければならなかったほどに山頂に合図を送りつづけたのだが、貴久子の祈るような呼びかけに対して山頂周辺は、黒い闇の沈黙を守りつづけたのである。 「K岳北峰からは、夜間、灯火なしで下降することは絶対にできません。とするとあなたが目を離したわずかのすきに灯をつけて降りたのではないかとも考えられますが、灯火が必要な危険帯の通過にはどんなベテランがやっても最低一時間はかかります。それもサーチライトのような強力なライトを使ってです。明るくなれば人目に必ず触れる。我々が登って行った一般登路は雪稜になっていて、いかなる足跡もついていなかった。つまり誰か[#「誰か」に傍点]がいたとすれば、彼は絶対にそこから脱出できない状況になっているのです。北方頂上を一通り探しましたが、だれも隠れていませんでした。それに狭い場所なので隠れる所もありません。だがヘルメットは、誰か[#「誰か」に傍点]の存在を明白に語っている。実は誰か[#「誰か」に傍点]がいなければ説明できない決定的な資料が、もう一つこのヘルメットに残されているのですよ」 「もう一つ?」 「よく見比べてごらんなさい。右のヘルメットに少し変っているところがあるでしょう」  熊耳は二つのヘルメットをうらがえしたまま、貴久子の前へさし出した。  しばらく瞳を集めて観察していた貴久子は、ある事実に気がついてハッと目を上げた。 「気がつきましたね」 「影山さんのヘルメットは、下の縁がつぶれていますわ」 「そうです。人間の頭に乗っていたヘルメットが、頭頂部に衝撃を受けて、その下縁がつぶれるはずがないのですよ。これは明らかに、岩か何かのかたいものの上に置いて、上から衝撃を加えたためにできた損傷《つぶれ》です。ヘルメットの帽体に加えられた打撃が、その下のかたいものの反作用にあって、つぶれてしまったのです。おそらく地面にヘルメットを置いて、上から岩でも叩きつけたのでしょう。たまたまかたい岩盤の上にでも置いたために帽体の下縁がこんなにつぶれてしまった。湯浅さん、誰か[#「誰か」に傍点]は確かにいたのです。そいつは影山さんを殺そうとした。いや殺したんです。自分で殺しておいて合図をするはずがないから、あなたが見たSOSは影山さんが発信したものでしょう。影山さんはその直後に殺された可能性が強い。だが犯人はどうやってそこから脱出できたのか全然分らない。犯行が九時以前に演じられて、影山さんが九時に息を吹き返して信号を送ったと仮定しても、それを証明することはできません。またかりにそうだとすれば、影山さんは犯人をしめすなにかの手がかりを残したはずです。現場にそんなものはなかった。メモにもなにも書かれてありません。これは推理小説によく出てくる密室と全く同じ状況です。山そのものが密室になっている。まさか神聖な山頂で下界なみの殺人事件が発生するはずがないという先入観と、現場の密室的状況から、普通の遭難として取り扱ってしまったのですが、警察官にもあるまじきとんでもないまちがいをしてしまいました。荼毘の前に解剖しておけば、ヘルメットの破損と、頭部の傷が一致しないことや、もっと正確な死亡推定時刻などが分ったと思うのですが、今となっては取りかえしがつきません」  熊耳は深々とうなだれた。貴久子はかけるべき言葉がなかった。  影山は殺されたのだ。だがいったい誰に? どんな怨みを受けて? 雲を突き抜ける尖峰に青春の夢と可能性を託したアルピニストがひとから殺されるなんて!  ヘルメットから熊耳が導き出した推測は、充分に理論的であり、説得力があったので、貴久子はそれを認めざるをえなかった。  やはりヘルメットのせいではなかった。それは誰か[#「誰か」に傍点]——熊耳はすでに犯人[#「犯人」に傍点]という言葉を使った——にぬれぎぬを着せられていたのだった。だが犯人の姿はない。ヘルメットからその存在を推定されただけで、影も形も、足跡もにおいすらも残されていない。空に突き刺さるような尖峰の頂きから、空の中へ吸いこまれるように消えてしまったのである。いや消えたというのではなく、最初から姿が見えないのだ。ただ彼あるいは彼女? が加えた打撃だけが、消すことのできない結果となって残っているだけである。  高校時代、本格ものの推理小説を愛読した貴久子だったが、別にミステリーファンでなくとも、現場の不可解な状況は充分に理解できた。  だがそれよりも、自分の担当でもないのに一個のヘルメットから、その不可解な状況と犯罪のにおいを嗅《か》ぎつけて、わざわざ上京して来た熊耳の熱心さに貴久子は打たれた。  もしかしたら畑ちがいの仕事なので、私費でやって来たのかもしれない。そうだわ、そうにちがいない。警察官が公務の出張に土産物をもってくるはずがない。あのワサビは、熊耳がポケットマネーで買ってきてくれたのだ。  ようやく我にかえった貴久子が、それでこれからどうするつもりなのかと、問うと、 「これからメーカーにヘルメットをもっていって、実験をしてもらうつもりです。いったいどの程度の衝撃を加えれば、こわれるのか、頭にキチンと装着して帽体が割れるほどの衝撃を加えた場合、内装部分は確実に、そしてどの程度に損傷を受けるものか、実験をしてもらうつもりです。その上で正式な捜査ということになりますね。これからもいろいろとご協力を願うことになるかもしれませんが、ひとつよろしくたのみます」  熊耳は、せめて食事をしていってくれという強い勧《すす》めを、丁重にしかしはっきりと断わって帰っていった。  その夜、新宿辺の安宿に泊った熊耳は、翌日ヘルメットのメーカーを訪ねて行った。メーカーは、墨田区のはずれにあった。町工場がごみごみと立ち並ぶ中を大分探し歩いた末に、荒川べりに目指す工場を見つけた彼は、さっそく工場長に取次ぎを頼んだ。  はなしは大町署から熊耳が電話をかけて事前に通してあった。ヘルメットメーカーとしては老舗《しにせ》の相手は、殺人事件に関連するかもしれないと聞かされて、社名と製品の名誉のためにもこの際徹底的に試験してみると、大いに熱意のあるところを見せてくれた。  依頼した実験の内容が、耐衝撃度ではなく、「着用者を脳内損傷によって死亡させる程度の衝撃を帽体に加えた場合の、内装部分および、あごひも等の繊維材料にあたえる影響」というのも、相手方の心証をよくしたらしい。  この依頼内容は、熊耳の作戦だった。初めから耐衝撃テストを頼んでも、おいそれとは諾《き》いてくれないと踏んで、こういう内容に絞ったのであった。  内装部が|被る《こうむ》影響を測るには、必然的に耐衝撃度をテストせざるを得ない。これは熊耳の作戦勝ちであった。実験の結果は、一週間たたなければ出ないということなので、熊耳はもう一度改めて訪問することにして、いったん大町へ帰った。  一週間たった。メーカーから実験の結果が出そろったという連絡がきた。夏の遭難最多発期間だったが、署長は熊耳の話に大いに興味をそそられたらしく積極的に許可してくれた。前回は私費だったが、今度は公務の出張になった。 「もしこれが君の見込通り、殺人事件《ころし》ということになれば、えらいことになる。しっかり確かめてきてくれよ」  署長は大乗気だった。  メーカーの工場へ着くと、工場長が資料をそろえて待ちかねていた。 「お待ちしておりました。結果が出ましたよ」 「いろいろとお手数をかけました」 「いえいえ、メーカーとして当然しなければならないことですから。いい機会だと思いましてね、うちの全製品にわたってテストしましたよ。何しろ登山者の生命の安全に対して責任を負わされておりますからなあ。おかげで、改良しなければならない個所もいくつか見つかりました。かえってこちらからお礼を申し上げなければならないところです」  工場長のことばは決して社交辞令ではなかった。ふつうメーカーは、この種の実験を嫌うものである。試験の結果、不良品が出れば、むざむざ市場に出まわっている製品を回収しなければならないうえに信用も落ちる。  それを快くひき受けてくれただけでなく、問題となっていない他の製品まで試験したというのだから、熊耳の作戦がうまかったこともあるが、老舗には珍しい前向きの姿勢というべきである。もっともそのような姿勢があればこそ、老舗としての信用を確立、保持できたのかもしれない。 「実験は、防護範囲、帽体材質、帽体形状、スチロールパット、ハンモック、側頭クッション、あごひも、首あて、着用安定性の九項目にわたって行ないました。ご依頼を受けた製品は、クライマーヘルメットC‐742型、愛称『ダイナモ』というやつです」  工場長は実験データを記載した書類を丁寧に説明してくれた。  それによると——ヘルメットに加えられた衝撃エネルギーは、まず帽体、つづいてハンモック、パットなどの緩衝装置を経て、頭皮表面から頭骨に伝わり、きわめて短い時間に脳髄へ達するが、帽体、および内装がそのエネルギーをいかに吸収、減衰して、頭部が被るべき打撃を小さく抑えるかによってヘルメットの防禦力《ぼうぎよりよく》が測られることになる。  そして衝撃の吸収、減衰は、帽体の凹み、ひずみ、破砕、内装緩衝体の破砕、あごひもその他の繊維材料のたるみ、切断等によって行なわれる。  衝撃を吸収減衰するための重要な要素は、エネルギーの分散と、それの到達する時間である。特に頭部に突然加えられた加速度は、脳髄の内奥を損傷するから、加速度の持続時間は決定的な要素になる。  以上の点を考えて、実験装置は人頭模型に被検ヘルメットをかぶせて、脳髄部分の衝撃加速度を測定できるようにして行なわれた。 「ダイナモは、帽体材質はグラスファイバーを使用しており、特にうちの材料はガラス繊維で補強されておりますので、耐衝撃性は非常に優秀です。また耐候性についても、熱可塑性《プラステイツク》の単一プラスティック材に比べて安定しているのが特徴です。その点からいっても理想的な帽体材質ですね。それから内装にはハンモックとスチロールパットを装備して、側頭部にスポンジクッションを全周してかなり大きな衝撃に耐えられるように工夫されております。ま、他社の製品にこれだけ防禦効果の大きいものはありませんな」  工場長は自慢そうに胸をそらした。  耐衝撃度テストは、衝撃をあたえる五キロの質量のストライカーを、人頭模型に着装したダイナモの上に落下高度を様々に変えながら落とす方式で行なわれた。  物体が人間の頭に落下する場合、三百ジュールで骨折し、七百ジュールで血腫ができる。したがって人体頭部の衝撃に耐えられる力は、三百ジュール以下と考えられる。その耐衝撃度とにらみ合わせてテストした結果、ダイナモの防禦力は、五キロのストライカーを十五・三〇メートルの高さから落とした時までと測定された。この時に、熊耳がもって行った�見本《サンプル》�よりやや小さな、放射状のひび割れが生じ、そして内装部分は損傷、ハンモックのつりひもは二個所切断したのである。さらに衝撃力を高めて実験をつづけた結果、同じストライカーを十六・三二メートルの高度から落とした時に、ほとんど同じ損傷を帽体部および内装部[#「内装部」に傍点]に生じたのだった。つまり二つのサンプルは防禦力プラス頭部耐衝撃性をやや超過する打撃を受けたわけである。  ダイナモは、帽体や緩衝体は優秀で約五百ジュール吸収するが、あごひもやハンモックのつりひもが弱く、それが切れた時に非常に高い加速度が働くことがあるという欠点も分った。工場長はさっそく改良すると低姿勢だった。  サンプルの衝撃は約四十・八〇メートル上から、二キロの落石の直撃を頭の真ん中に受けたものと等しい。これだけの衝撃を素朴な人力で加えることはむずかしい。またそれは当然、内装部分にも影響をあたえる衝撃であった。  それにもかかわらず、影山のヘルメットでは何の影響もない。誰かが影山とヘルメットに別々に打撃を加えた後、一緒に合わせた(ヘルメットを影山の頭にかぶせた)ことが科学的に証明されたのである。  ここに初めて、�犯人�の存在が認められ、K岳北峰頂上に�密室�が構成されたのであった。 [#改ページ]    分骨の陥穽《わな》      1  熊耳から実験結果の報告を受けた大町署は興奮した。しかし興奮しただけでどうにもならなかった。実験によって犯人の存在が科学的に証明されただけで、犯人そのものについては何も分っていない。科学的というといかにもごたいそうに聞こえるが、要するに推測にすぎない。この犯人は�実体�がないのである。  殺人ということが分っても、捜査本部の設けようがなかった。しかも被害者の遺体は、とうに骨と灰になってしまっている。現場の密室的状況も不可解であった。  だが熊耳は、犯罪の重要な資料としての遺体をむざむざ�焼却�してしまった責任をひしひしと感じていた。自分ももとは捜査畑のめしを食ったことのある人間である。  もしあれがアルプスの山の頂という特殊な現場でなかったなら、犯人が死体に加えたトリックにああも簡単にひっかからなかったであろう。  犯人は山の頂という特殊な環境を充分に計算にいれている。山といったところで、たかだか二、三千メートル�下界�より標高が高い(日本の場合)だけで、もって生まれた人間の性格や悪念がそれによって影響を受けるわけではない。受けると思うのは、山の美しさ、壮大さなどに感動した人間のロマンチックな錯覚である。そこに人間がいるかぎり、山も下界も同じである。  だいたい下界という呼び方がおかしいので、人間がいるところはみな下界なのだ。それにもかかわらず自分もいつの間にか「山は気高い。山男に悪人はいない」というひとりよがりの�迷信�を信奉する一人となり、そのために気高い山の頂にあった死体を、何の疑いももたずに�遭難死�として処置してしまった。  それだけにこの犯人の、山男の「甘さ」を計算した頭脳が憎かった。 「なんとしてもとっつかまえてやる!」  それは一つの執念となって熊耳の中に凝固していった。  犯人の計算に何か弱点はなかったであろうか? ——熊耳はまずそのことの発見に思いを集めた。密室的な現場から犯行後どのようにして脱出したか、かいもく見当がつかないが、ヘリコプターのような機械力を利用しないかぎり、犯人自身も相当に山をやる人間とみてよいだろう。そうでなければ、現場へ登ってくることができない。  被害者——熊耳は遭難者を自信をもって被害者と呼んでいた——が殺された前後にヘリやそれに類するものがK岳山域上空に飛んでいなかったことは分っている。第一そんなものを使えば、共犯者が必要になるうえに、目撃者が大勢出る。それに被害者に警戒心を起こさせて殺しにくくなる。  犯人は自分の足で�密閉された山頂�へ登り、そこから逃れ出たのだ。その方法については今のところ、全く分らない。犯人の�密室�の構築は完璧であった。それについての手ぬかりはない。  それでは何か他に手ぬかり、弱点となるようなものはないか?  自分が一見、単純な遭難死体から、犯人の存在を探り出したのは、いったい何によってであったか? そうだ! ヘルメットだ。あのヘルメットさえなければ、影山隼人は北壁で落石事故に遭って死んだ山男として、K岳遭難史にほんの数行を書き加えられるだけで終ってしまったところである。ヘルメットさえなければ、犯人はその存在を知られずにすんだ。それならば何故、それを残したのか? 言うまでもなく、落石の多い北壁をヘルメットなしで登るはずがないし、奥村田山荘の管理人などが、影山の装備の中にヘルメットがあったのをおぼえていて、死体の周囲にそれがなかったならば、当然誰が運び去ったのかということが問題にされるからである。  むき出しの頭に致命傷があって、周囲にその傷をあたえたような物体と、あるべきはずのヘルメットがなかったなら、どんな�神聖な場所�で死体が見つけられようと、もはや�山男善人説�で欺き通すことはできないだろう。  ヘルメットを残したのは止むを得なかったのだ。残したこと自体は手ぬかりではなかった。  唯一の危険は、ヘルメットと被害者(その時は遭難者)の頭部の損傷を比較されることだけである。だがそれも、肉眼によるかんたんな検屍だけで、山男善人説を信じる頓馬《とんま》な�山荘�の警察官によって死体は焼却された。  もうヘルメットをどんなに検《しら》べられても少しも恐くはない。だがさすがの犯人もヘルメットの内装部分と下縁の損傷には気がつかなかった。この場合、ヘルメットを手に入れた湯浅貴久子は犯人になれないだろうか?  いや、それはむりだ。彼女のアリバイははっきりしている。しかも彼女が犯人ならば、とうに処分してしまっているはずのヘルメットを後生大事にとっておいただけでなく、熊耳にいとも気前よく貸してくれたことが説明できない。犯人ならば、自分の首を絞めるようなまねをするはずがない。それに彼女は山へ登れないのだ。湯浅貴久子は犯人になれない。すると誰が犯人か? 「待てよ」  ここまで思考を追ってきた熊耳は、ふと目を宙にすえた。  被害者の死体が荼毘にふされて、犯人の最大の危険は消えた。だがそれは果たして本当に消えたであろうか? もし犯人が後になってからヘルメットの内装部分の矛盾や、下縁の損傷という点に気がついたならばどうであろうか。  完全犯罪の自信の上に大アグラをかいていた犯人は、その致命傷ともいえるミスに慄《ふる》え上がったことであろう。  そうだ! もし犯人がヘルメットのミスに気がついたならば、どんなことをしても、その奪取を図ったにちがいない。もしかしたら犯人はヘルメットを取り返すべく湯浅貴久子に接触しているかもしれない。  ヘルメットをくれと貴久子にリクエストした人物こそ犯人である。  熊耳は自分の導き出した推論に興奮した。彼はさっそく貴久子の勤め先へ電話を入れた。  交換手を経由して貴久子の声が市内電話のような近さで応えた。熊耳は先日の礼を丁寧にのべてからさっそく本論に入った。 「ヘルメットを欲しがった人、さあ……?」  受話器の向うで貴久子の考えこむ気配がした。 「別にそんな人いなかったようですけど」  ややあって貴久子は応えた。もともと影山の形見としてもらってきたもので、ヘルメットとしての効用はないのだから、そんなものを欲しがる人物がいるはずはない。 「本当に誰もいなかったですか? もう一度よく思いだしてください」  熊耳は必死だった。貴久子の記憶だけに犯人追及のかすかな糸《トレース》が残されている。 「そうおっしゃられても……」  貴久子は困ったような声を出した。 「そうですか」  熊耳は失望のあまり、受話器が支えきれないほど重く感じられてきた。 「あ、そういえば」  その時貴久子がふと何か思いだしたような声をだした。 「えっ、何かありましたか!」 「ヘルメットを欲しがったわけじゃないんですけど」 「ヘルメットに関することなら何でもけっこうです」  熊耳は貴久子のことばに一縷《いちる》の希望を託した。 「真柄さんが、あの真柄慎二さんご存知ですわね。影山さんの一番仲のよい山仲間だった方で、救援に山へも登りましたが、あの方が、影山さんの遺骨を少し、奥村田のK岳の見える墓地へ埋葬したらどうかと言いだされて、一緒に影山さんの山道具を埋めようということになったのです」 「その際、ヘルメットも埋めようというわけですか?」 「はい」 「ヘルメットを埋めようと言いだしたのは、真柄さんですか?」 「はい、そうです」 「それはいつごろのことですか?」 「刑事さんが、あ、ごめんなさい。つい熊耳さんが刑事さんのように思えてしまって」 「いやかまいません。捜査一係ではありませんが、警察官は、みな犯罪をとりしまるのが職務なんですから」  熊耳は言いながら、今の自分は、山岳遭難救助隊長としての本務よりも、よほど捜査一係の刑事に近い仕事をしていると、内心苦笑した。 「それはいつのことだったんですか?」  熊耳は本題へ戻った。 「熊耳さんが私の家へ何度も電話をかけてくださった夜ですわ。あの夜、私、帰宅が遅くなったのは、真柄さんとお会いして、その話をしていたからなんです。でもそれが何か?」  あの夜の記憶が炎のように鮮烈によみがえった。彼女は先日のヘルメット実験の結果とともに、影山の死が、犯罪によるものらしいことを知っている。しかしその犯罪が、影山の無二のザイルパートナーであり、自分自身にとってももはや他人ではない真柄に関係するものとは夢にも思っていない。あれ以来彼からかまえて遠ざかっているが、彼の名を聞くだけで羞恥に頬が紅潮してくるのだ。 「ヘルメットを私に貸したことと、実験をしたことなど、真柄さんに話してしまいましたか?」  熊耳は貴久子の疑問には答えず急《せ》きこんだ。 「いえ、まだ話していませんわ。あれから会ってもいないし、電話もかかってきませんから」  真柄もあの夜をさかいに、かえって他人行儀になったようである。純情な男女の最終的関係は、一度や二度では、その直後反動的に二人の距離を開く作用がある。  熊耳にひとつのアイデアが|閃い《ひらめ》たのはその時である。 「湯浅さん、ひとつぜひ聞いてもらいたいお願いがあります」 「何でしょう?」 「まずヘルメットを私に貸したことや、実験をしたことと、その結果を真柄さんはもちろん、当分誰にも絶対に話さないでおいてください。それから真柄さんの提案通り、ヘルメットを他の遺品とともに墓地へ埋めてくれませんか」 「あの何か真柄さんに疑わしいことでもあるのでしょうか?」  貴久子の声は憂わしげにかげった。 「湯浅さん」  熊耳は口調を改めた。知人どうしの何げない日常会話から、急に警察官の訊問に切り替ったような変化だった。 「失礼な質問かもしれませんが、この際はっきりさせておきたいのです。あなたと真柄さんとはどういうご関係ですか?」 「ただのお友達ですわ」  貴久子は少しうしろめたさをおぼえながら答えた。 「本当にそれだけですね」 「それどういう意味ですの?」  貴久子の口調がややきっとなった。怒ったのではなく、熊耳にあの夜のことを知られているような気がしたのである。 「どうぞ怒らないでください、大切なことなんです。ヘルメットに関しては、今までのことは誰に対してもぜひ秘密にしておいてください。影山さんを殺した犯人を見つけるために絶対に必要なのです。くれぐれもお願いします。お借りしたヘルメットは早急にお返しいたします。まだすぐに�分骨�するわけじゃないでしょう。私がお返しする前に真柄さんにヘルメットの所在を訊かれたら、大切に保管してあるとだけ答えておいてください。できるだけ早く上京して直接いろいろとご説明申しあげますが、それまで時間を稼いでください。とにかく、くれぐれもよろしく頼みますよ」  まだいろいろと訊きたそうな貴久子の気配を振りきるようにして、熊耳は電話を切った。  ヘルメットに接近《アプローチ》していた男が一人だけいた。真柄慎二! いったいどういう男だ? 彼は。  今の段階で真柄を疑うのは、非常に危険である。死者のこよなき山仲間として、死者が愛した山の見える場所へ、彼の骨とともに遺品を埋める。  いかにもロマンチックな山仲間の考えつきそうなことだし、山の友情の現われとみてよい。そしてその遺品の中に、ヘルメットが加えられても、少しも不思議ではない。死者の死に直接の影響をもっている(実験前は)だけにかえって加えないほうが不自然かもしれない。  だがそれだけに、これほど巧妙な証拠資料の隠し場所はない。犯人が後日、ヘルメットに残した致命的な手ぬかりに気がついたとすれば、何としてもその処分をはかると同時に、それへ近づくことの危険性も認識したにちがいない。 �密閉山頂�と、山男善人説の上に行なったこの完全犯罪を追及する糸《トレース》はどこにもない。ヘルメットさえなければ、他殺ということすら気がつかれない。たとえヘルメットの線から殺人という疑いをもたれても、それに近《アプローチ》づきさえしなければ、犯人は安泰である。  ここに捜査上の微妙な問題がある。もし犯人が、警察側がすでにヘルメットから他殺の疑いを導き出したことを察知したならば、彼(犯人の性別はまだはっきりしないが、現場の特殊性から熊耳は男のにおいを強く嗅いでいた)は決してヘルメットに近づかないだろう。また犯人が、警察の動きを知らなければ、危険な賭けにはちがいないが、何としてもヘルメットを処分したいと思うにちがいないのだ。それさえなくなれば、影山の死は遭難死として不動のものとなってしまうのである。  一言に完全犯罪といってもいくつかの種類がある。  一は、心神喪失を利用した犯罪のように、社会常識的に犯罪と見える行為があり、犯人も証拠もそろっていながら法律的に犯罪の責任の追及を免れるもの。  二は、犯行のあとが歴然とあり、犯人も割れていながら、有罪を認定するだけの証拠のないもの。  三は、迷宮《おみや》入り事件のように犯行の痕はありながら、犯人が分らないもの。  四は、犯罪があったにもかかわらず、その痕跡、資料が全くないために、犯罪があったのかどうかすら分らぬもの。  ——などである。以上の中で、文字通りの完全犯罪は、「四型」である。もし犯人が警察側の動きをまだ察知していなければ、必ずや「四型」の完全犯罪を狙うはずだと熊耳は思った。ヘルメットが残されているかぎり、彼が行なった犯罪は「三型」である。しかし下手にヘルメットに近づけば、一挙に「二型」へ転落するおそれがある。  熊耳が貴久子にかたく�口止め�したのはそのためだった。  だが果たして彼女が熊耳の言うとおり、口をつぐみつづけられるか? 貴久子は熊耳よりもはるかに真柄に近い距離にいる。昨日や今日知り合ったような熊耳よりも、フィアンセの親友につくということは充分に考えられる。 「フィアンセの親友!」  熊耳は自分の導きだした考えに、自分でびっくりした。もしかしたら、二人の山男の間で、一人の女の奪い合いはなかったろうか? 表面、信頼のザイルでかたく結ばれた唯一無二の山仲間を装いながら、実は女をめぐって憎しみ合い争い合っていた。  そしてその女が湯浅貴久子ならば、争いの激しさは充分に理解できる。独身の男だったら、あれほどの女をどんなことをしても手に入れようと思うにちがいない。  あらゆる意味で、もう資格のない熊耳でさえ、あんな美《い》い女を泣かせやがってと、影山が死んだ時、腹立たしく思ったほどである。  もし真柄慎二が湯浅貴久子に想いをかけているようであれば、彼は充分に影山を殺す動機をもつことになる。そしてそのことは後日の熊耳の個人探査でうらづけられた。その他、この異常な殺人事件の犯人になるための条件も備えている。  とにかく彼は日本山岳界でも影山と並んで聞こえた登山家である。ヨーロッパアルプスの「悪魔の壁」といわれるブライトホルン北壁の冬期直登という、前人未踏の記録を影山とともに打ちたてたクライマーである。 �密閉山頂�へ登る技術と力量は充分にもっている。さらに何かといえば影山と比べられることに、アルピニストとしてのライバル意識があったかもしれない。彼の動機をさらに助長する一つの因子ではある。  だが貴久子に�分骨�の話をもちかけてからすでに半月近くになるのに、その後、積極的な働きかけをしないのは、自分の完全犯罪に安心しきっているのか、それとも、下手に動くと、「二型」へ転落する危険性を充分に悟って慎重にかまえているのか。あるいは全くのシロなのか。  いずれの場合にしても、彼だけが影山の死後、ヘルメットへ近づいてきた人間だった。  それを果たして「接近《アプローチ》」と呼べるかどうかはっきり決められないほどの微妙な接近ではあったが、少なくともその結果としてヘルメットは人の目の前から消えることは事実である。それだけに巧妙であった。  熊耳は一つの賭けを打つことにした。貴久子が真柄に話すか、話さないかという賭けである。もし話してしまえば、永久に三型の完全犯罪として、犯人を見つけられないだろう。  熊耳は貴久子が話さないほうに賭けた。その上で一つの陥穽《わな》を張ることにした。      2  熊耳の張った罠とはつまりこういうことである。真柄の提案どおり、�分骨�をさせる。ヘルメットも埋めさせる。息子の好きな場所へ骨を分けるのだから、両親にも異存はあるまい。  だが真柄が犯人ならば、彼の真の目的はいうまでもなく、骨ではなくて、ヘルメットだ。それを土中に埋めてしまえば、人の目の前からは消える。貴久子に�預けておく�よりは安全である。  しかしまだ完全に安心できない。土中に埋めたものは、いくらでも掘り出せるからだ。真柄が本当にクロであれば、いったん埋めたものを掘り出して処分するか、あるいは埋めるふりをして埋めないかのどちらかである。  熊耳は真柄に分骨のいっさいを任せたうえで、埋葬がすんだあと、死者には気の毒だが、墓を掘りかえして検《しら》べてみようとはかったのである。  ヘルメットが埋められていれば真柄はシロ、なければクロだ。果たして真柄がこの罠にかかるか?  ——必ずかかる——と熊耳は信じた。  熊耳は署長に、当分この事件に専従させてくれと頼んだ。署長も事件になみなみならぬ興味を示してくれて、異例のことだが、熊耳のわがままともいえる願いを許してくれた。  死傷事件はすべて事故として片づけてしまえば検挙率は上がる。いったん遭難事故死として�処理�したものを、わざわざほじくり出す必要もなければ、そんな人手や予算もない。しかも捜査に入る前から最もオミヤ入りしそうな色合いの濃い事件である。  署長も山好きで、山を犯罪の場所に選んだ犯人に対する憎しみがあったのと、点取主義でなかったことが、熊耳に幸いした。      3  湯浅貴久子は熊耳の賭けに応えてくれた。八月の下旬にかかったころ、影山隼人の分骨が行なわれた。立ち会ったのは、影山の母と、真柄だけだった。分骨が行なわれた事実は、貴久子が熊耳の依頼というより指示通りに口をつぐみつづけてくれた証拠である。  分骨には貴久子も来たそうだったが、ヘルメットを返しにわざわざ上京した熊耳に説得されて思い止まった。貴久子がついて行ったのでは、真柄がヘルメットを処分しにくくなる。彼を罠にはめるためには、できるだけ動き[#「動き」に傍点]やすくしてやらなければならない。母親一人ならばどのようにでもごまかせるだろう。いったん埋めてから掘り出す手間はとらず、老母の目を欺き、最初から埋めないはずだ。  熊耳はまだ貴久子に罠のことをはっきり話してはいなかったが、彼が真柄に対して何らかの疑いを抱いていることは、彼女も悟っている。それは彼女にとってかなりのショックであったらしい。熊耳はまだ真柄が貴久子の命を救った一人であることを知らなかった。だから、(この女、フィアンセが死んでいくらもたたないうちに、もう別の男へ心を傾けているのか?)と思ったほどである。その点に彼の賭けの不安もあったわけだ。  ともあれ、貴久子は熊耳の指示に応えてくれた。熊耳は分骨がすむのを固唾《かたず》をのむ思いでじっと待っていた。  貴久子は今までは、熊耳の指示を守ってくれたが、死んだフィアンセと、生きていて猛烈にモーションをかけている(にちがいないと熊耳は思った)男との間に立って、微妙に揺れ動く女心は、いつ裏切るか分らない。  死んだ男はいくら恋しくとも、要するに過去のものであり、実体がない。現実の真柄の分がいいことは、明らかである。時間がたてばたつほど、罠を見破られる危険性が高くなる。  もちろん熊耳は分骨に立ち会わない。表面は、影山家の遺族や真柄とは無関係の人間になっていた。  厚生省から�墓地�の管理を委任されている奥村田の村役場から、耳も目もかすんだ老吏が一人、土地割りにちょっと立ち会ったきりだった。ふだんならば、上村茂助がいろいろと世話をやくのだが、あらかじめ熊耳が言いふくめておいたので、埋葬の時にはかまえて墓地の方へは近づかなかった。  K岳の見える白樺の疎林の中に、骨片を容れたつぼは、ピッケル、ザイル、アイゼン、そしてヘルメットなどとともに埋められ《たはずである》て、分骨は終った。  母親はまた悲しみを新たにして、目を真っ赤に泣き腫《は》らした。夏が逝《ゆ》きかかっていた。積雲が盛んに吊り尾根に湧き、遠い山稜の上に積乱雲の峰が白く光っていた。  熊耳はそれを見たわけではない。茂助が後で話してくれたのである。彼はその時本署にいた。警察のにおいのする者が少しでも動いたために、真柄に警戒させてはならないと思ったからであった。 [#改ページ]    アルプスのアリバイ      1 「影山は殺された!?」  熊耳がヘルメットを借りにきた時、貴久子は彼の推理を飛躍だと思った。しかしヘルメットを目の前に置かれて、その矛盾をひとつひとつ説明されると、たしかに彼の死はだれかの悪意によるものと信ぜざるを得なくなるのだ。  実験の結果はさらに決定的であった。ヘルメットの矛盾を説明するためには犯人が存在しなければならなかった。  しかしいったい誰が影山を殺したというのか? 貴久子は熊耳の説明を受けなくとも、険しいK岳の山容を自分の目で見ているだけに、現場の密室的状況がよく分った。  殺されたらしい事実が推定されただけで、犯人の影も形も見えないのだ。  だがここに熊耳からふたたびヘルメットについての問い合わせがあって、初めて「真柄」の名前が出された。真柄がどうしたのかと問う貴久子に、熊耳は何も詳しく答えてくれなかったが、彼の口ぶりから、真柄に強い疑いを抱いていることは容易に察せられた。  それにしても熊耳は何故ああも執拗に、ヘルメットに関して貴久子に口止めをしたのだろうか? そして「失礼」とは断わったものの、全く失礼きわまる彼女と真柄との間柄についてのプライバシーを侵すような質問、さらにむしろ強制的ともいえる�分骨�のすすめ。——これら一連の熊耳の言動は果たして何を意味しているのだろうか?  貴久子は自分の思考を追った結果、熊耳が容疑者を割り出した経過《プロセス》と、容疑者を陥れるために仕組んだ罠を見破った。 「熊耳は真柄を疑っている!」  それはもう確定的だった。そうであって初めて熊耳の一連の言動がすべて納得できる。また真柄は疑われても仕方のない位置と情況にあった。 (何だって、今ごろ分骨なんかを言いだしたのだろう? それをするならば、荼毘《たび》の翌朝が最も自然であり、手間もかからない。それにもかかわらず今ごろになって、全く唐突に言いだしたのは、彼がヘルメットに残したミスに気がついたからではないか? 分骨に藉口《しやこう》した殺人の資料の処分)  ——ああ何ということを!——  ここまで推理を追ってきた貴久子は、あまりの衝撃のために目の前が暗くなったほどである。自分で導いた推理ながら、それはあまりにも恐ろしいことであった。  自分を死の淵から救いだしてくれた二人の男のうち、一人は殺され、もう一人はその犯人かもしれないという疑い。それが充分に理論的根拠があるだけに救いようがない。  しかも被害者は、自分の夫になるべき男であり、容疑者は一度だけすべてを許した男である。もともと二人の男の間で微妙に迷っていた自分の心をようやく定めた矢先に当の男が忽然《こつぜん》と死んでしまったので、哀《かな》しみは哀しみとしても、残ったもう一人の男に急速に心が傾きかかるのをどうすることもできなかった。  死んだ影山に対してすまないとは思いながらも、死者の思い出よりは、生きている人間の求愛《プロポーズ》のほうが強烈である。このままいけば自然のなりゆきとして、あの夜の事実をさらに重ねてしまうだろうと、自分自身、認めかけていた時、いきなり熊耳が現われて、真柄を疑わざるを得なくなるような黒いデータをいくつも示したのである。  だがあの真柄がまさか! 魂の香煙を焚《た》くために山へ登ると、目をキラキラ輝かせて語った真柄が、いくら自分を愛してくれたとはいえ、その愛を得るためにライバルを殺すなんてとても信じられない。  そのライバルは彼にとって無二の山仲間なのだ。山の仲間は、下界の友よりも厚い友情で結ばれるという。  ザイルでたがいの身体を結び合って、険しい岩壁を攀《よ》じる時、相手が墜《お》ちれば自分も墜ちる切羽《せつぱ》つまった文字どおり一蓮托生の友人は、単なる|遊び仲間《プレイメート》とは本質的に異なった相互信頼があるはずである。  真柄が影山を殺すはずがない。彼は山仲間のために、純粋に分骨をしてやりたかっただけなのだ。あの熊耳という警察の救助隊長はよほどどうかしている。一風変った警察官だと思ったけれど、やはり何でも疑ってかかる職業的習性が身にしみついていたのだ。  貴久子は熊耳の口止めをもう少しではずそうとした。 「しかし」と思いなおしたのは、荼毘の夜の凄惨な光景を思いだしたからである。皮膚から脂をしたたらせ、血管や内臓が爆《は》ぜ、全身から青い炎を噴き出して燃えつきた影山の無念の形相が、それこそ記憶全体が燐光を迸《ほとばし》らせたように浮き上がってきた。  あれは、死体のすべてが死にたくないと訴えた、執念の姿だった。  熊耳の推測どおり、犯人が完璧な犯罪を狙うならば、必ずヘルメットの処分をはかるだろう。そして真柄はそれに近づいて来た唯一の人間だった。  たとえそれがどのような人間であれ、またどのような形のアプローチであろうと、容疑からはずすわけにはいかない。まして真柄には、自分という女をめぐっての動機がある。それは強力な動機である。  現実に影山の死後急速に自分に近づき、一年半の交際においても影山にあたえなかったものを、ただ一度かぎりではあっても、奪ってしまったではないか。  もしかしたら?—— (あの夜、『グランビュー』へ誘ったのも、仕立ておろしの背広を着ていたのも、ステーキディナーを注文したのも、すべてあらかじめ仕組んでいたものではないだろうか?)  疑惑はおそろしい速さで発達した。影山を殺した犯人を捕えるためには、現実を直視しなければならない。もし今自分が熊耳のリクエストに従わず、警察の動きを真柄にしゃべれば、ようやく浮き上がった唯一の有力な容疑者を失うことになるであろう。  真柄が無実であれば、実に失礼なことをすることになるが、それも黙っていさえすれば本人には分らない。殺された影山の無念を少しでも晴らしてやることのほうが、生き残った人間の務めではあるまいか。そして何よりも今、殺人者かもしれない男に急速に傾きかかっている自分の心に対する強い制動となる。  恋人は死に、新しい恋人になりつつある男を疑うのは辛かった。しかし長い懊悩《おうのう》の末、貴久子はようやくこの結論に達したのである。  貴久子は熊耳がしかけた罠を見破っていた。彼は自分の疑いをはっきりさせるために分骨が行なわれた後、必ず、影山の墓を暴《あば》いて、ヘルメットの有無をたしかめるであろう。  貴久子は、その現場を自分の目で確かめたいと思った。それをいつ行なうつもりか熊耳に聞くわけにはいかないが、分骨して真柄が帰京した後が最も可能性が強い。まだ真柄や遺族があちらにいる間に、墓を暴くようなまねはすまい。  貴久子は真柄に帰京予定日を聞いたうえで、それとすれちがいに山へ行く計画をたてて、休暇を取った。それは何ともやりきれない休暇であり、みじめな旅行だった。  だがこの後で、真柄の無実が確定すれば、自分に新しい人生が展《ひら》けるかもしれない。貴久子は自分自身を励ました。      2  上村茂助から、真柄たちが分骨を終えて帰ったという連絡を受けた熊耳は、いよいよと手ぐすねをひいた。  彼らは帰途、署へ挨拶に寄った。遭難者やその遺族たちは、事件のあとはかまえて事件の時に世話になった人間を敬遠するものである。遭難者が生き残った場合は、救援者を命の恩人のようにありがたがるが、あとになると、救援者が自分の恥部を知っているように思えてきて、近づきたがらない。遭難救助隊は、命懸けで赤の他人の救援をしながら、あとになって救けてやった当人からけむたがられる損な役割りなのだ。しかもこの命懸けの報酬は、日雇なみの日当である。装備や食べ物はみな自分もちだ。民間の協力者などは、自分の本業を投げうってやってきてくれるのである。  よほど使命感に燃えた人間でないと、できないことだった。  さすがに真柄は聞こえた登山家だけあって、山の礼儀をわきまえていた。 「あの節は大変おせわになりまして」  母親とともに礼をのべる彼の態度には、うしろぐらそうな影は少しも見えない。友の死を悼《いた》むために、わざわざ休暇をとって遺族につき添ってきた、友情厚い山仲間であった。 「分骨はぶじにすみましたか」 「はあ、おかげでK岳の見晴しのいい区画をもらいましてね、あいつも喜んでいるでしょう」 「本当に何とお礼を申しあげてよいか」  真柄と母親はこもごも言った。 「今度は山へ登らないんですか?」  熊耳は改めて真柄の背広姿に目をやった。  登山には絶好の季節である。熊耳には真柄のような登山家が、この季節にただ分骨のためだけに山へ来たのが不思議だった。 「はあ、休暇がぎりぎりしかとれなかったもんですから。それに影山がいなくては、当分山へ登る気がしません。おれたちいつも一緒に登っていましたからね」  真柄は肩を落とした。そこには無二のザイルパートナーを失った山男の悲しみが素朴に現われていた。そこに演技はないか? 熊耳はそれを警察官の冷酷な目で観察していた。  だがそれもすぐに分る。  もし彼が無実だと分ったら、自分はこの友情厚き山男にどんなにしても詫びなければならない。だがもし、無実でなかったら……?  辞退する熊耳に、感謝のしるしだからと手土産を押しつけるようにして彼らは帰っていった。この程度のものならば、不当の�供応�を受けたことにはなるまいとして受け取ったが、実は彼らを早く帰したかったのだ。  帰したからといって、すぐに行動に移れるわけではないが、とにかく熊耳の心ははやっていた。  ヘルメットの実験には科学的な価値があったが、そのあと真柄を�容疑者�として割りだした推理は、たぶんに熊耳の主観が強い。他人の墳墓を発掘するための許可令状を請求するに必要な「被疑者が罪を犯したと思料すべき事情の存すること」と、「被疑者以外の身体、物または住居、その他の場所についての捜索は、押収すべき物の存在を認めるに足りる状況のある場合にかぎってできる」という要件を、充たせるかどうか、はなはだ疑問であった。  前の要件は通常、逮捕の要件である「罪を犯したことを疑うに足りる相当の理由」よりも嫌疑《けんぎ》性のうすいものでもよいとされているから、可能性がないでもなかったが、後者の要件である「物の存在を認めるに足りる状況」というのがむずかしかった。本件の場合、「物の不存在[#「不存在」に傍点]を認めるに足りる状況」なのである。そして警察官はこれについての資料を提供しなければならないことになっている。  そんなもののあろうはずがなかった。すべてはヘルメットから導き出した熊耳の推論であって、肝心のヘルメットを埋めさせたうえで、それのないことをたしかめるというのが令状請求の理由なのだからややこしい。  唯一の資料らしきものは、メーカーが作製したヘルメットの実験報告書だけであるが、これを裁判官が本件の犯罪事実に関連あるものと認定するかどうかはなはだ疑問である。  署長を経由して地裁にさしだした捜索差押許可令状発付の請求に、熊耳はあまり期待していなかった。請求要件が裁判官を納得させるには、どうにも薄弱であるように思ったからである。  もし請求が却下された場合は、熊耳は令状なしでも捜索を強行するつもりであった。  しかし幸いにも許可令状はおりた。熊耳は勇躍した。許可令状の有効期間はその発付された日から一週間である。  ちょうど登山シーズンでもあり、捜索とはいえ、他人の墓を暴くのであるから、なるべく人目にふれぬように許可令状は夜間に執行することにしている。発付請求書にもあらかじめその旨を記載しておいた。  執行日は天気予報とにらみ合わせて、真柄らが帰ってから五日後と定められた。  その前日、熊耳のもとへ思いがけない訪問者があった。ここのところ本務の遭難の救援から離れた形になっていた熊耳は、本署で救助隊のサブリーダーからいろいろと報告を受けている時、受付から訪問者を取り次がれた。その名前を聞いて、彼は思わず目を剥《む》きだした。 「湯浅貴久子? ここに来てるんだって!?」  ともかく通してくれと、受付に命じてから、彼はいったいどこへ貴久子を迎えたらよいものかちょっと困った。この田舎署のなかには応接間などという気のきいた場所はない。あるものは殺風景な事務室と、被疑者の取調べ室だけである。  待つほどもなく署員に案内されて貴久子が入って来た。白いレースのツーピースを涼しそうにまとった彼女の姿は、うす暗い署内に浮き立つように鮮やかに映えた。 「これはまた突然ですな、汚いところですが、ま、どうぞこちらへ」  熊耳は恐縮しながら、空いている椅子で一番ましなのを貴久子にすすめた。  とりあえずの挨拶がすむと、熊耳は 「今日はまた何かこちらへ急用でも?」  と聞いた。彼は貴久子が別の用事で来たついでに立ち寄ったものと思った。 「突然おじゃましてすみません。こちらへうかがう前にお電話しようかと思ったのですが、断わられるような気がしたものですから」  貴久子はうつむきがちに言った。もともとうれいがちな面立ちが、そんな角度になると、翳《かげ》が強調されて、むしろ病的な美しさを訴える。 「それでは私に用事があってわざわざ東京から?」  熊耳はようやく彼女が自分に会うのを目的にやって来たことを悟った。いったい何のために? 彼がそれを聞く前に、貴久子は、 「あのう影山さんのお墓は、もうお検《しら》べになりまして?」 「あ、あなたはどうしてそれを!?」  熊耳はのどに魚の骨をひっかけたような声をだして、言葉をつまらせた。 「でもヘルメットのことで私に口止めをなさったのは、お墓を検べるためではございませんの?」  貴久子はその時、目にいたずらっぽい笑みを含ませた。熊耳は自分の心の中を見すかされたように思った。 (貴久子はおれが真柄に張った罠を知っている。おれはそのことについては何も話さなかったはずだ。罠の一件は署長とおれ以外には誰も知らない。署長が話すはずはない。ではどうやって知ったのだ?)  普通の頭脳の持主であれば、ヘルメットの線から簡単に推理できる罠であったが、熊耳には、貴久子の訪問が突然であったために、部内に裏切り者がいるように思った。 「あなたはどうしてそれを知ったのですか?」 「だってよく考えれば、それ以外にないんですもの。それでいつお検べになります?」  たしかにそのとおりであったが、今度は彼女が天才的な頭脳の持主に見えてきた。 「捜索は明日の夜の予定ですが、それであなたは?」  彼は貴久子のペースに巻きこまれていた。そのために墓の捜索と、彼女の出現との関係がすぐにつかめなかったのである。 「私もぜひ、立ち会わせていただきたいんですの」 「どうしてそんなことを?」 「別に理由なんてありません。ただ立ち会ってみたいだけです」  その理由をはっきり告げるためには、影山と真柄の間に揺れる自分の心の屈折を語らなければならない。それは熊耳には関係のないことである。 「困りますな」  熊耳はさっきから貴久子のペースで進められてきた問答を、ようやく警察官のものへもどった口調でぴしゃりと遮《さえぎ》った。 「捜索令状の執行は、犯罪捜査のために必要なので止むを得ず行なうのです。人権にも影響することです。みだりに私人の立ち会いはできませんよ」 「でもヘルメットは私のものです。それがあるかどうか検べるのが目的なんでしょう。だったら、所有主の私が立ち会ってもいけないことないんじゃないかしら」  やんわりと反駁《はんばく》した貴久子に、熊耳はグッとつまった。それを断われる法的根拠はあるのだろうが、貴久子の好意で提供された�物件�が、しかけた罠の餌であり、キイポイントになっていることが、彼の警察官としての態度のなかに、かすかな弱味を感じさせた。  貴久子はその弱味にがっちりと取りついた。 「よろしいでしょう? 決しておじゃまにはなりませんから」  まつげの長い目をひたと据えられて、 「しようがありませんなあ、まあ墓は立ち入り禁止になってるわけじゃないから、勝手にそこへ入ってこられるのを止めだてはできませんがね」  熊耳は不承不承に認めた形となった。 「すみません。それで本当に厚かましいんですけど、明日の夜おでかけになる時、おしえていただけませんかしら?」 「今夜はどちらへお泊りなさる?」 「奥村田山荘へ行くつもりです」 「それじゃあ問題ない。私も明夜、捜索の前に山荘へ寄りますから。山荘の人間に手伝ってもらわんとね、それに墓は山荘の管理している土地になってますからな。たぶん夜の十時ごろあちらへ着くでしょう」      3  大町署のジープに乗って熊耳が奥村田山荘へ着いたのは、十時ちょっと前である。熊耳のほかに運転してきた制服警官と�捜一�の刑事が一名一緒に来た。 「ごくろうさま」  茂助が迎えた。ややシーズンの最盛期は過ぎていたが、山荘はほぼ満員である。都会ではまだ宵《よい》のくちだが、「早発ち早着」が原則の山小屋では、もうほとんど寝静まっている。  管理人室で彼らの着くのを待っていた貴久子が、茂助とともに出迎えると、熊耳はしかたがないというようにニヤッと笑った。 「それではそろそろとりかかりましょうか」  正彦が出してくれた茶でのどをうるおした熊耳は、腕時計を見て立ち上がった。  正彦と山荘の若者が一人、スコップを手にしてつづく。後に茂助と、�捜一�の刑事と制服警官、一番後から貴久子。総勢七名の奇妙な�捜索隊�は、山荘の裏手の山男の墓へ向かった。空には、雲があるらしく、星は見えない。  長野測候所に問い合わせたところ、北アルプス方面の今夜の天気は晴れたり曇ったりということである。雨さえ降らなければ、捜索にはさしつかえない。  ブナ林を抜けて、白樺の疎林の中の墓へ辿り着くのに約二十分、別に貴久子の歩度《ペース》を考慮して歩いたわけではないので、墓へ着いた時は、彼女は息切れして倒れそうになった。わずかな距離だが、かなりの傾斜である。 「ここだな」  ひときわ大きなケルンのそばに熊耳は立ち止まった。少しも息切れしていないのはさすがだった。  いくつかのライトがケルンに集められた。別に影山の名前や戒名を示す碑文は見当たらない。  正彦と小屋の若者が、スコップでケルンをガラガラ崩しはじめた。 「待て、何だそれは?」  熊耳が手で二人を制して、岩《ケルン》の間から細長い金属の破片のようなものを拾いとった。ライトの中でよくみると、それはピッケルの刃体《ブレード》の部分だった。柄《シヤフト》はどうしたわけか、取りはずされてある。  まだ埋められて日数は浅いはずなのに、もう赤く錆《さび》をふいていた。熊耳が注意しなければ岩の一部分と見誤られるところだった。  真柄が分骨と同時に埋めた遺品の一つであろう。他の遺品は土中に埋めるが、ピッケルだけは墓標代わりにケルンの間にさしておく遺族が多い。 「どうしてシャフトをとっちゃったんだろうな?」  熊耳がいぶかしそうに言うと、 「最近このあたりにもガラの悪いのが大分入りこむようになったもんだで、盗《と》られない用心かもしんねえな」と茂助が答えた。 「そんなやつがいるのかね?」  さすがに熊耳も驚いたようだ。 「いるね、墓参りにきた遺族からピッケルがなくなっているちゅう訴えを何度か聞いたことがあるだじ」  熊耳は憮然《ぶぜん》とした顔になって、ピッケルを岩の中へ戻した。山男の遺品にまで盗難予防をしなければならない世相の険しさが、彼の心を暗くした。悲しいことではあるけれども、�聖なる山頂�で殺人が行なわれても少しもふしぎではない世の中になったのだ。  ケルンが崩されると、あとの作業ははやかった。まだ埋められて間《ま》がないため、土が柔らかく、スコップが気持よく突きささる。 「そろそろ出るずら、中のものを傷つけないように注意しましょ」  茂助が言った。ライトがスコップの先端へグンと近づけられる。そこに死体がないことは分っていながら、みなのからだは緊張のために硬くなった。スコップが土の中にさしこまれる都度、その鋭い先端が今にもザクリと腐りくずれた死体に突き刺さるような錯覚をおぼえる。  誰かが生つばをごくりとのみこむ音がはっきり聞こえた。風が出たらしくブナの梢《こずえ》がざわざわと揺れた。  カチッとスコップの先端が何かに触れた。 「あったぞ!」  何人かの口から同時に同じ言葉がもれた。正彦と若い衆はスコップを置いて、手で土をかいた。 「骨つぼだ」  正彦が手でかき分けた土の中から小さなつぼが現われた。正式の墓ではないのでカロートはない。土中に直接埋められているのだ。 「他に何かないか?」  熊耳が上ずった声をだした。落ち着いていたつもりだったが、やはり緊張が強かったらしく、それがのどに現われたようである。 「何かあるらしい」  つづいて若い衆が、何かつかみだした。ザイルだった。 「ヘルメットはないか」  熊耳の抑えたつもりの声に興奮があった。もしそれがなければ、真柄の容疑は確定的になるのだ。影も形も見せなかった犯人が、とにかく容疑者として姿を現わすことになる。熊耳のしかけた罠に大きな獲物がかかったのだ。 「ヘルメットなんかねえぞ」  事情を知らされていない正彦がのんびりした声をだした。 「もう少し掘ってみてくれ」  熊耳は命じた。二人の若者はスコップをふたたび手にした。二掘り三掘りすると、また手ごたえがあった。 「また何かあったぞ」 「ヘルメットだ!」 「アイゼンもある」  正彦と若い衆は泥にまみれた二つの物体をライトの中心に置いた。 「あったか!」  ライトのとらえた物体がまちがいなくヘルメットであることを認めた熊耳は、全身の力が抜けるように感じた。ヘルメットがここにある事実は、真柄のシロを示すものだった。彼は真実、山仲間の友情から、分骨を提案したのである。  獲物が罠にかからなかったというより、熊耳は全く無意味なひとり相撲をとっていたのだ。緊張がいっぺんに抜けて、代わりに失望が吹きつけるように体の芯から湧いた。彼はほとんど立っていられないくらいに打ちのめされていた。 「捜索は終った。埋めてくれ」  熊耳は正彦たちに命令しかけて、ふとヘルメットを手に取った。別に何の疑念があったわけではない。強いていえば、念には念を入れる警察官の習性かもしれない。  泥にまみれて大分汚ならしくなってはいたが、まさしくそれはクライマーヘルメット、C‐742型、『ダイナモ』である。正彦へ渡そうとした熊耳の手がふと硬直した。 「おや?」 「どうかしなすったか?」  茂助が彼の手もとを覗きこんだ。 「みんなもっとライトを寄せてくれ」  熊耳の声に興奮がよみがえっていた。 「こ、このヘルメット、下の縁が潰れてないぞ」  次の彼の声は震えていた。男たちの後につつましくひかえて、捜索をじっと見まもっていた貴久子だけにその意味が分った。熊耳の声の震えは、貴久子の身体に伝染した。震えは全身にひろがった。幸い男たちの背後の闇の中にひとりたたずんでいたので、気がつかれなかったが、貴久子は両脚の膝がカチカチ触れ合うほどに震えた。  そんなことがあろうはずはないと、最後の望みをこの捜索に託して強引に尾《つ》いてきたのだったが、今その希望を無惨に粉砕されてしまったのである。  ヘルメットの下縁が潰れてないということは、それが影山のものではないということである。製品もメーカーも同じではあっても、それは確実に影山のものではない。  しかし貴久子はたしかに、下縁の潰れた[#「下縁の潰れた」に傍点]影山のヘルメットを真柄に渡した。ところがここに別のヘルメットが埋められていた事実は、彼がどこか途中ですり替えたとしか考えられない。影山の母親がそんなことをするはずがないし、その必要もない。息子の遺骨とともに彼の遺品ではないものを埋めてどんな意味があるのか?  真柄がやはり途中ですり替えたのだ。だがどうしてそんなことを? それから先を考えるのはいやだった。自分の命の恩人であり、純粋なアルピニストの彼が、女の愛を争って、無二の山仲間《ザイルパートナー》を……ああ! 「これは別のヘルメットだ。影山さんの遺品じゃない」  熊耳が貴久子の思考に残酷な終止符を打つようにはっきりと断定した。  立ち上がれないほどに打ちのめされた貴久子と逆に、彼は、遂に容疑者を見つけた喜びを全身で感じていた。  罠はやはり大きな獲物をしっかりととらえていた。真柄慎二はクロだったのだ。彼の容疑はもはや動かしがたい。彼は影山を殺した犯人か、少なくともその死に何らかの関連をもつ者である。  ちょうど雲が破れて、青い月光が射しこんできた。日付けからいってかなり痩《や》せているはずの月であるが、闇に馴らされた目に月光とは信じられないほどの明るさに映った。  深山の夜の墓に、月光に濡れて立ちつくす六人の男と一人の女の姿は、事情を知らぬ第三者の目には墓からよみがえったばかりの死者の群のように映ったことであろう。  ブナの樹林がさわさわと揺れて、束《つか》の間《ま》の月光は消え、前よりも濃い闇が戻った。      4  一人の容疑者が初めて捜査線上に浮いた。もっとも捜査線などといえるご大層な体制はなく、熊耳ひとりの単独捜査である。  署長だけが彼の報告を聞いて、絶大の協力者となってくれた。 「やつはたしかにクロいな、現場の密室的な状況も説明をつけなければならないが、まず当夜のアリバイをあたってみることだ。もしアリバイがなければ、捜一の誰かを専従させよう。それまで大変だろうが、君ひとりでやってくれ」  署長は言った。  だがこのアリバイ捜査は、真柄本人に当たるまでもなく、簡単に結論がでた。すなわち五月二十七日夜十時少しすぎに真柄は奥村田山荘へ姿を現わしているのである。これを湯浅貴久子はじめ、上村茂助や正彦ほか山荘に働く若い衆数名が確認している。  K岳山頂の影山からSOSの灯火信号が発信されたのは午後九時から数分間、そこから夜間灯火なしで下降できないという事情を考慮しなくとも、それから約一時間後に、奥村田山荘へ辿り着くことは絶対にできない。  昼間、ロッククライミングのベテランが最短路の東南壁から東南尾根を降りたとしても四時間、南峰と樽ケ岩、赤杭尾根の一般コースを経由すれば九、十時間はかかる。  同じ夜の十時少しすぎに奥村田山荘にいた人間が、それよりわずか一時間ほど前にK岳山頂に立って殺人を犯せたはずがなかった。  真柄のアリバイは不動だった。 「しかし——」と熊耳は考える。  貴久子から聞いたところによると、真柄は最初の計画では、影山と一緒に北壁をやる予定だった。ところが仕事の都合とかで急に抜けて、二十七日夜、仕事が終ってあとを追った来たのだそうだ。  だがこれは山をやる人間にしてはいかにも不自然であった。二人で立てた登攀計画から、一人が抜けたら致命的だ。まして計画は、北アルプスでも有数の悪場、K岳北壁の直登計画である。その上部を構成する赤い壁の単独突破は不可能である。ために影山は、頂上直下で赤い壁を避け、東南壁にエスケープルートを求めたのだ。  登攀の対象がむずかしくなればなるほど、計画は精密になる。初登攀ではなかったにしても、北壁に挑んだのであるから、計画は細心に詳細に検討しつくされたことであろう。そこにおいてパートナーに突然抜けられた影山の当惑と失望の大きさがよく分ると同時に、抜けたほうの不自然さが目立ってくる。  急な仕事が起きたということだったが、本当に急だったのか、そして計画を立てている時に全く予測はつかなかったのだろうか?  プロのクライマーは、山行計画を何ものにもかえて優先するものである。その熱心さは、「親が死んでも山登り」と言われるくらいだ。それを真柄は、出発が数日後に迫った時にいとも簡単に抜けてしまった。そして抜けた後からのこのことやってきた。それも影山がSOSを発した一時間後に。このあたりが何とも不自然であった。  アリバイは完璧なのだが、臭《くさ》いのである。真柄はヘルメットによって、その容疑を確定し、影山と組んだ山行計画における不自然な行動によってさらにそれを強めた形となった。  しかし熊耳の前には二重三重の困難が横たわっていた。まず真柄のアリバイ崩し、次に現場の�密室�の打破。これを正規の捜査体制もなしに、熊耳ひとりでこつこつ攻めていかなければならない。その困難さは、まるで赤い壁を隠れの里から見上げた時のような絶望的様相に映った。 [#改ページ]    動機なき容疑者      1  全日本山岳協会、通称『全山協』が、世界第二の高峰『K2』の登山計画を発表したのは、九月の初めである。  K2はカラコラム山脈の最高峰で、インド北部にあるカシミール地方と中国|新疆《シンチヤン》ウイグル自治区との国境にそびえている。その標高は八六一一メートルと測量され、エベレストに次ぐ世界第二の高峰とされているが、測量が古く、その後好事家により非公式の測量が行なわれた時、エベレストをしのぐ数字が出たために、一部から世界最高峰ではないかと言われている。この測量は公認されず、その後新たな測量も行なわれないままに、現在はカンチェンジュンガと世界第二位の標高を争っている(カンチェンジュンガがインド測量局によって新たに八六一六メートルと測量されたため)が、その絶望的な山相と、度かさなる各国登山隊の失敗で、ヒマラヤ(カラコラムを含む)で最も困難なピークという印象をあたえていた。  さらにこの山への挑戦をむずかしくしている要素に政治的な問題がある。中国、アフガニスタン、パキスタンに囲まれたカシミール地方は、今なお、インドとパキスタンの係争地になっていて、正式な帰属は未決定になっている。  このため登山許可申請をするにしても、どちらの政府に出すべきかはっきりしない。ただアプローチにパキスタン領内を多く通過するために、今までの申請はパキスタン政府に出されている。  ネパール・ヒマラヤとほぼ同じ時期に、登山が禁止になったカラコラムは、ネパール・ヒマラヤが解禁になった現在も、全面禁止ではないが、なかなか許可にならない。  全山協では長年K2計画をあたためており、パキスタン政府に再三再四登山申請を出していたのだが、いつも却下されていた。しかし最近に至り、ネパール・ヒマラヤの巨峰《ジヤイアンツ》(八千メートル以上の高山)があいついで陥《お》ち、�ヒマラヤオリンピック時代�の様相を呈してきたので、パキスタン政府もバスに乗り遅れまいとして、カラコラムへの狭き門を緩和してきたのである。  そして、来年のK2登山許可が、日本登山隊におりた。  K2はすでに未踏峰ではない。しかしヒマラヤも初登頂時代をすぎて、より困難なルートを求める�バリエーションルート時代�に入っている。  全山協が発表した計画も、各国登山隊から登攀絶対不可能とみなされた東北稜を経由して頂上へ達しようという野心的なものである。これは山稜というよりは、巨大な岩の降起で、さらに上部にはスケールの大きなオーバーハングが連続している。  この悪絶なルートからK2を狙った全山協は、国の補助のもとに会の総力を結集して、登山史上に画期的な編成と装備をもった登山隊を送りこむことになった。  総勢三十六名、隊員も全山協所属の十八団体からよりすぐりの精鋭を集めた。ほとんどの隊員がヒマラヤはもとより、ヨーロッパアルプス、南米、グリーンランドなどの外国山系の経験者である。どの一人を見ても、世界の登山界に一流として通用する人材ばかりだ。いわば日本アルピニスト陣の�オールスター�と言えた。  本隊に先立ち、本年中に偵察隊をつづけざまに送り、来年二月中旬、本隊が出発することになった。  隊員数三十六名はヒマラヤ登山史上最大の規模である。装備食糧にしても総重量三十トン、総費用約一億五百万円という桁はずれのスケールである。  この隊員のなかに雪線クラブを代表する形で、真柄慎二が選ばれた。  全山協は大学山岳部出身者で主流がかためられているが、国家的行事になったK2登頂に、日本山岳界の精鋭を結集した編成にせざるを得ない政治的理由のほかに、雪の少ない東北稜の連続的な岩登りとなるため、氷雪技術よりは高度のロッククライミングの技術が要求されるところから、雪線クラブのような社会人団体から、真柄のような岩のエキスパートが選ばれたのである。  貴久子はこのニュースを新聞で読んだ時、最初は真柄のために単純に喜び、次には、そのうらにひそむかもしれないある重大な意味に思いあたって愕然とした。  真柄はこの計画について、今まで貴久子に何も話さなかったが、K2登山隊員に選ばれる可能性はかなり前から分っていたにちがいない。貴久子はK2がどんな山かよく知らないが、ヒマラヤの高峰であることぐらいは知っている。  アルピニストとしてヒマラヤに憧《あこが》れぬ者はいない。影山も真柄も、いつの日か必ずヒマラヤをやるとよく目を熱くして語っていた。そのヒマラヤでも、世界一かもしれない高峰の、未踏のルートを狙う、K2登山隊の人選に入ることは、山男として最高の名誉であろう。  たしかに真柄は、日本の登山界では名うての登山家であり、雪線クラブで影山と並び立つ先鋭なクライマーである。しかし華やかな影山に比べて、真柄はどちらかと言えばいつも彼の女房役に回されていた。  全山協が二人のどちらかを選ぶとすれば、まちがいなく影山をとったであろう。そのくらいのことは、影山や真柄を通して知った登山界の空気で分る。  今まで真柄が影山を殺したかもしれない動機を、自分をめぐっての葛藤《かつとう》と思っていたが、それは自分のうぬぼれにすぎず、真の動機はアルピニストの名誉欲であったのだろうか?  ライバルを殺してまでも、山へ登りたいという気持は、山を登ったことのない貴久子にはとうてい理解できないが、登る山がヒマラヤの巨峰《ジヤイアンツ》であり、国家的な行事の隊員に選ばれることが、アルピニストとして最高の栄誉となると、殺人の充分な動機になるかもしれない。  ヘルメットを餌にしかけた罠で、真柄の容疑は確定し、さらに今強力な動機でそれが補強された。もうそれはどうにも弁護の余地がないものだった。  あの純粋な魂の持主の真柄が、仕立ておろしの背広を、女として死ぬほど恥ずかしい醜態を救うためにとっさに脱ぎすててくれた彼が! 貴久子は救いようのない絶望の底へ叩きこまれた。      2  真柄が連絡してきたのは、K2のニュースが発表された二日後である。  ——もし今夜ひまだったら会いたい——という彼の申し出を貴久子は断われなかった。一度でもすべてを許してしまった女の弱さであろうか? いやいやそれだけでは決してない。  彼女は自分自身の心がよく分らなかった。真柄をめぐる情況が黒くなればなるほどに、彼に対して心が傾いていくのである。真柄の容疑は、自分の夫になるはずだった男を殺したかもしれないというものだ。影山がK岳から無事に下りて来ていれば、今ごろはまちがいなく彼の妻になっていたことだろう。  その彼を殺した疑いの強い真柄に日ましに吸引されていく自分の心は、いったい何と説明したらよいだろうか?  しかも真柄の容疑を確定させるための罠をしかける片棒を自分はかついだ。  今、真柄を容疑者の域にとどめているものは、影山が殺された現場の状況と、アリバイである。  だがこれは警察官である熊耳にとって手も足も出ない鉄の抑止となるのであって、貴久子にはピンとこない。聞こえた登山家の真柄だから、何かうまい脱出方法と、近道を見つけたのにちがいない。  彼のあまりにも黒い情況に、その無実を証明する鉄の抑止が吸収されてしまったのである。だから、彼にアリバイがあるという事実などは、今の貴久子にとって何の救いにもならなかった。  その日の夕方、退社後、貴久子は社の近くの喫茶店で真柄と向かい合った。 「おめでとうございます」 「いやあ」  真柄はテレたように頭をかいた。 「食事でもどうですか?」  彼はテレくささを紛らせるように誘った。  それは�あの夜�の記憶のせいもある。それは貴久子も同じだった。あの夜以後、分骨のために二人は一、二度会ったが、既成事実のくりかえしはなかった。  貴久子が、真柄の容疑が晴れるまではと、身がまえていたせいもあったが、真柄があの夜以後も決して狎《な》れることなく、前以上の節度をもって接してくれたからである。  貴久子はそんな彼によけい惹かれていく自分を感じた。ふつう男は、ひとたび女をものにすると、とたんに態度が大きくなるものである。中井敏郎も、影山も(接吻だけだったが)例外ではなかった。  だが真柄が好ましくなればなるほど、今は隙を見せてはならない。  真柄との食事は決して楽しくないことはなかったが、こんな心のありようでは腹の探り合いになりそうな気がしたので断わった。  真柄はまだ自分が疑われていることに気がついた気配はない。もしそれに気がついたならどうするだろうか? (その時はもう私は彼に会えないし、真柄も決して会ってくれないだろう)  真柄に会えなくなることの辛さを、貴久子は予知できた。それを予知できるということは……私は真柄を愛しはじめているのではないだろうか?  ハッとしてあげた貴久子の目に、真柄の微笑を含んだ目が重なった。どこか寂しそうな微笑であった。 「今日は実は、当分の間、お会いできなくなるのでお別れにきたのですよ。食事が一緒にできないのは残念だなあ」 「どこかへご旅行?」 「例のK2ですよ」 「でもあれは来年のことでしょ?」 「第一次の偵察隊に選ばれたのです。今度のルートは岩場が多いので、岩登り専門の僕に白羽の矢が立ったってわけです。八千メートルあたりまで試登して上部岩稜のルートを発見してこなければなりません」 「大変なお役目ね」 「ええ、しかし山男|冥利《みようり》につきる役目ですよ。八千メートルの岩登り、そんな豪勢なクライミングをやった者はめったにいませんからね」  真柄は目を輝かした。それは紛れもなく山男の熱っぽい目だった。かつて影山も貴久子の前で何度となくそんな目をした。そしてその目は、自分の憧れを実現させるために、手段を選ばない暗い情熱に通じるかもしれないのである。  ふと貴久子は背すじが寒くなった。 「しかし影山がいなくて残念です」  貴久子のおもわくに関《かかわ》りなく、彼は言葉をつづけた。 「彼が生きていれば、今度も絶好のザイルパーティが組めたのになあ」 「それどういうことですの?」 「あれ?」  真柄は意外そうな表情になって、 「影山は何にも話してなかったんですか?」 「ええ、何にも」 「あいつも案外他人行儀のところがあるんだな、てっきり影山のほうから話していると思ったので、僕からは何にも言わなかったんですがね。実は、K2には影山と僕が一緒に参加することになっていたんですよ。全山協から今年の初めに隊員の人選に入ったと聞かされた時、手を取り合って、山男の本懐だと喜んだものです。K2は岩登りがエースになります。あいつがいれば、一プラス一の力が三にも四にもなったのにと残念でたまりません。実はK岳へ行ったのも、トレーニングの意味があったんですよ。あいつ、何だってK岳なんかで死んだんだろうなあ。あの時、計画どおりにおれが一緒に行っていたら、死なずにすんだかもしれなかったのに」  真柄は突然ウッと言って言葉につまった。感情が一気にこみ上げてきたらしい。彼はいつの間にか泣いていた。周囲に気がついた者はいなかったが、今にもあふれ出そうになった涙を、せわしなくまばたきをして吸収したのを貴久子は見逃さなかった。  それを演技ではないかと疑うほどに彼女は冷酷ではなかった。そしてたった今真柄がおしえてくれた情報は、彼に有利に働くものである。まだしかるべき第三者に確かめたわけではないが、まさかすぐに分るような虚偽情報をおしえるはずはないだろう。  真柄が最初からK2登山隊員に加えられていたのであれば、少なくとも「山男の名誉心」という動機は打ち消される。ヘルメットの罠にかかった説明がつかないかぎり、真柄の容疑は依然として消えないが、動機が少なくなったことは事実である。  残る動機は、やはり自分への愛か? いったい男がライバルを殺してまで遂げようとする女への愛とはどういうものなのか? それほどの愛を男から捧げられた自分は、女として最高の幸せ者かもしれない。  真柄の情況が少し明るくなったはずみに、貴久子の心の傾斜度はさらに強まったようであったが、彼女はその事実に気がつかない。  それがつい彼女に次のような言葉をはかせてしまった。 「でも真柄さんのせいじゃないわ」 「ありがとう、あなたにそう言っていただくのが、僕にとって何よりの救いになります。何しろ僕はあなたの婚約者を」 「その話はもうやめにしましょうよ。話したところでどうにもならないことですもの」 「しかし……」 「本当にやめて。そのほうが影山さんも喜んでくれるわ。私たちまだ若いんですもの」 「あなたがそのように割り切って下されば僕も気が楽になります。実は今日は、もう一つお話しすることがあってうかがったのです」  真柄はふと改まった口調で言った。 「何ですの?」 「実は——」  真柄はいったん言葉を切ってから、 「今度すすめてくれる人がありましてね、結婚することにしました」  貴久子はいきなり棒でしたたかに撲られたように感じた。 「銀行内部の方のお嬢さんなんですがね、両親も賛成してくれたし、先方の家庭もいいので、オーケーしました。来年、K2から帰ったら挙式する予定です。あなたにはあんなことをしてしまって本当に申しわけなく……」  貴久子は真柄の後の方の言葉をよく聞いていなかった。真柄が結婚する! それでは今までの彼女の心の屈折は全くひとり相撲ではなかったか。真柄が自分に好意を寄せていると見たのはうぬぼれであった。影山の背後から自分に注いだ熱っぽい視線も、自分の醜態を衆目から隠すために新調の服を犠牲にしてくれたのも、そしてあの夜のことのすべてが�友人�としての�好意�にすぎなかったのか!?  そして何よりも、真柄には影山を殺す動機がなくなる。K2登山隊員には、影山とともに選ばれたのであるし、今、貴久子以外の女性と婚約した事実を表明したとなると、二人の間に利害の対立するものは何もない。少なくとも貴久子の知るかぎりにおいては。—— 「すみません、本当に。つい自制心を失ってしまったものですから」  急に黙りこんでしまった貴久子に、真柄は勘ちがいしたらしい。�あの夜�があるにもかかわらず、他の女との婚約を表明することは、裏切りにちがいない。真柄はそれを貴久子に切りだすのにずいぶん迷ったであろう。  だが彼女は真柄を無言のうちに責めたり、怨んだりしたのではない。それを説明できない立場が辛かった。 「いえ、何でもありません、ただ急に言われたものだから愕《おどろ》いてしまって。私のことなんか、気にしてくれなくてもいいのよ」 「僕が悪かったんです、つい一時の衝動に駆られてしまって」 「もうよしましょう。そんなことよりもまず、おめでとうを言わせていただくわ。今度のK2のことも含めて」  今さら一時の衝動などと言われてもよけいみじめになるばかりである。 「どうか結婚した後もよい友達でいてください」  真柄はむしのいいことを言った。しかしそれを言う彼の目は真剣だった。  貴久子は真柄のために素直に喜んでやるべきだと思った。彼の新しい将来に対して、そして彼の動機が失われたことに対して。  彼女はこれ以上、真柄と向かい合って坐っていることに耐えられなくなった。 「真柄さん、ご出発の時にはお見送りさせていただくわ。今日は家に何にも言ってきてないのでこれで失礼します」  貴久子は唐突だとは思ったが、立ち上がった。      3  真柄の動機は失われたが、彼の容疑が晴れたわけではない。無実であれば、ヘルメットの罠にかかるはずがないのだ。彼が影山を殺したか、あるいはその死に何らかの関係をもっていたという疑いは消えない。二人の間には貴久子の知らない「何か」があるのだ。それは何だろう? それから…… (あの夜のことは、本当に一時の衝動だったのだろうか? いつも私に向けていた熱っぽい目つきを、ごくふつうの�友人�の目と解釈してよいのか?)  真柄と別れてから、帰りの電車のなかで貴久子は一心に考えた。考えることによって、心を傾けかけていた相手から、突然言いわたされた訣別の悲しみを忘れようとした。思考を集めるということは、それ以外の一切を一時的に忘れさせる効果がある。 (そんなはずはないわ)  集中の過程で彼女は思った。 (あの熱っぽい目つきは絶対にごくあたりまえの友人のものではない。私、うぬぼれではなく、あの人が私を心の底から好いていてくれたことが分る。あの夜の抱擁のかたさ、狂おしさは決して一時の衝動ではない。女の直感で分るわ。真柄の私を見る目は、影山のそれと少しも変らなかった。いえそれ以上だったわ。今日会った時、真柄はひどく寂しそうな目をしていた。それは自分の心を偽って、私に別れを告げる悲しみではなかったろうか)  ——でも何故そんなことをする必要があるのだろう?—— (もし真柄が罠におちた後で、その事実を知ったらどうするか? 熊耳は上村茂助や小屋の若い者に捜索の深い事情は話していないはずだから、彼らの口からもれる可能性はある。口止めをしたとしても絶対的なものではないだろう。第一、誰に聞かずとも、後で不安になって墓を検《しら》べれば、分骨の後、掘り返されたことはすぐに分ってしまう。ヘルメット(すり替えられた別のもの)は証拠物件として押収したから、それが墓から消失しているのを知れば、罠にはめられたことは容易に分る)  ——その時、真柄はどうする?—— (当然自衛をはかる。しかし警察の手に落ちたヘルメットは、回収のしようがない。また回収したところで何の意味もないから、他の方法を講ずるだろう。それは動機の否定だ。動機のない人間が殺人を犯すはずはない。アリバイと密室によって二重に護られた真柄は、今度は動機を打ち消すことによって、護りをいやがうえにもかため、罠に陥《お》ちて受けた傷を最小限度に食い止めようとはかった)  ——と考えられないだろうか?—— (とすると、彼の縁談には作為がある。しかしそれがあったとしても、今の私にどうすることができよう)  ——そうだ、熊耳に相談してみよう。——  貴久子は自問自答の末に、熊耳のあばた面を思いだした。いかにもスタミナの塊りのような巨体、あばたの浮いた大きな面積の顔の中央に申しわけのようについている小さな目、それらが郷愁のように懐しく思いだされた。  ちょうどその時、電車が停り、貴久子が降りるべき駅名をアナウンスした。何度目かのアナウンスにようやく我に帰った彼女は、扉が閉る寸前にホームへ降り立った。      4  熊耳は、真柄がK2登山隊員に選ばれたニュースを大町署で読んだ。ここのところ、山は夏山のラッシュが退いたところで、比較的遭難の少ない時期である。ここ数日、本務の遭難救助の仕事も�開店休業�のような状態がつづいていた。  喜ぶべきことだった。  新聞を読んだ熊耳は、貴久子が抱いたのと同じ疑問をもった。新聞は、死んだ影山も選抜されていたことなどは報じていない。 「真柄のやつ、ますます黒くなったな」  しかしどんなに黒くとも、あの密室とアリバイを打破しないかぎり、どうすることもできなかった。  それから三日後、第一次偵察隊のメンバーが発表された。真柄慎二の名前は、サブリーダーとして入っていた。岩場の多いK2東北稜の登攀において、影山とともにブライトホルン北壁の冬期初登攀の記録をもつ彼は、その計画遂行の主軸として、華々しくとりあげられていた。  今度の偵察行の成果が、『K2計画』の成否に大きく影響する。それをみても、真柄の登山隊に占めるウエイトの大きさが分る。  影山が生きていれば、それは当然彼のものになったはずである。  熊耳はくやしかった。これだけ容疑がはっきりしていながら、二つの防壁《バリケード》に阻《はば》まれて手も足も出ない。容疑だけで、真柄が犯人になることは物理的に不可能なのである。熊耳は近く上京して真柄の周辺に徹底的な聞き込みをかけるつもりでいた。  署長からこの捜査に専従してもよいと言われていたが、それはあくまでも彼の個人的好意によるものであって、正式に配転されたわけではない。  この程度の状況では、捜一を正式に動かすわけにはいかない。最初からのひっかかりと、熊耳本人の熱心な希望で好意的に認めてもらったのである。したがって組織の上からはあくまでも本務の遭難救助と兼任であって、他殺かどうかも確定しない事件のために、そうそう勝手に飛びまわるわけにはいかなかった。  真柄を罠にはめた後、敏速な捜査活動ができなかったのは、そのためである。  だが、かんじんの真柄が近く海外へ行ってしまう。熊耳は彼にいいようにあしらわれているように感じた。  東京の貴久子から電話が入ったのはそんな矢先であった。  署の交換手に取り次がれた後に聞きおぼえのある歯切れのよい声が、熊耳の耳に快くひびいてきた。 「ああ、あなたは」 「湯浅です。先日は突然おじゃまして失礼しました」  一通りの挨拶の後、貴久子は思いがけないニュースをもたらした。 「そ、それは本当ですか?」  いきなり知らされた情報に熊耳は一瞬、当惑した。もしそれが事実であるならば、情況は著しく悪く(熊耳にとって)なる。 「まだ第三者に確かめたわけではありませんが、多分本当だと思います。こんなこと嘘いってもすぐ分ることですから」  熊耳は電話口でうなってしまった。どうしてよいか分らなかったのである。 「でも私、どうしても割り切れないものがあるんです。私たしかに真柄さんに影山さんのヘルメットを渡したのに、別のヘルメットとすり替っていたことが不思議でなりませんの。二人の間に必ず何かがあったと思います」  貴久子は、自分をめぐる二人の男の葛藤については何も言わなかったが、その口吻《こうふん》から、真柄の唐突の縁談が解《げ》せないらしい。  それは熊耳にしても同じであった。真柄の貴久子に傾けた感情を彼の重要な動機に考えていたのである。 「私どうしたらいいのでしょうか?」  受話器を耳にあてたまま黙りこんでしまった熊耳に、貴久子はたずねた。それは二人の男の間(正確には、死んだ男の記憶と、現実に生きている、もしかしたら殺人犯かもしれない男との間)にはさまって微妙にゆれ動く女心への指針を求めたようであった。  しかし熊耳にはそれに対する回答はなかった。�人生相談�の相手を、警察官に求められても、お門ちがいだと思った。 「二、三日うちに上京します。それまで、あなたの力で聞きだせる程度でけっこうですから、真柄、いや真柄さんの縁談の相手がどんな人間か探っておいてください」  部下に捜査方針を示すような答しかできなかったが、それが結局、貴久子の心の動揺を、鎮《しず》める一番よい答になったようだった。      5  熊耳との通話を終えると、不思議に貴久子の心は落ち着いていた。彼の地方|訛《なまり》の強い訥弁《とつべん》には何の感傷もこめられていなかったが、何か人間の心を柔らかく解きほぐすような善意が感じられた。  ——とにかく縁談の相手を探れ——  という熊耳の指示は、いかにも警察官らしいものであったが、また貴久子の今の心に最も適応する答でもあった。  彼女は熊耳に自分の推理を何も話しはしなかったが、彼がこちらの心のありようを忖度《そんたく》して、そんな指示をくれたように思えた。しかしそうだとすれば、熊耳に、自分の真柄への傾斜を悟られたことになる。婚約者を喪《うしな》ってまだ間もないのに、何とまあ移り気の女かと思われたかもしれない。  貴久子は受話器を置いてからひとり赧《あか》くなった。  真柄の婚約者はすぐに分った。相手は大変な大物だった。真柄の勤める銀行の副頭取、平岡英一郎の娘、英子である。  彼の銀行では年一回、家族同伴の社員旅行をするのが恒例となっている。その折り、父の英一郎と一緒にやって来た平岡英子を、旅行先の低山へ案内してやったのが縁となって親しくなったのだそうである。  英子が真柄以外の男は相手として考えられないというほどのぼせ上がってしまったので、止むなく先方で彼の私行や家庭調査をやったところ、うまく合格したので、先方から正式に申し入れがなされた。  真柄は就職してからずっと遠い親戚の経営するアパートに住んでいるが、生家は和歌山の方の大きな網元である。地元では聞こえた素封家《そほうか》であったことと、山を唯一の趣味として、K2登山隊員に選ばれたことなどが、有利に働いた模様である。  銀行内はこの前代未聞ともいえる「逆の玉の輿《こし》」に沸《わ》いていた。 (影山を殺した後に、この縁談が発生したのであれば、動機は消えていない。私という女を影山から奪い取るために彼を殺したが、その後になって、前代未聞と言われるほどの有利な縁談が起きたので乗りかえた[#「乗りかえた」に傍点]? かつての中井敏郎のように)  しかしそれは何ともいやな想像だった。より高き峰と、より困難なルートに可能性の限界を追求しているアルピニストの彼が、そのようなどすぐろい心をもてるものであろうか? それに、ライバルを殺してまでも手に入れようとした女を、単に�持参金�の額だけで簡単に乗りかえられるものだろうか?  この想像を支える一つの柱が、真柄が自分を愛していたかもしれないという、いかにもうぬぼれじみた仮定にあることも、貴久子の本能的な嫌悪感《けんおかん》をそそった。  そんな想像をするのは自分が賤《いや》しいからだ。  やはり真柄に動機はない。少なくとも、自分という存在は、動機になっていない。貴久子は自分自身に言い聞かせた。  一日おいて熊耳が上京して来た。今度はリンゴの砂糖づけをもってきてくれた。貴久子の話を聞いた彼は、 「彼に縁談の起きた時期が問題だな」  と言った。熊耳も同じようなことを考えたのである。  午後の遅い時間に着いたので、その夜は貴久子の家の近くの旅館に泊まった。彼女がどんなに自宅《いえ》に泊まれと勧めても熊耳は遠慮した。  翌日早くから熊耳は行動を開始した。一日いっぱい聞き込みに歩き回って、真柄と、影山の生前の周辺を洗った。二人の勤め先はもとより、真柄の本店、所属山岳会、立ち回り先などをかたはしから当たっていった。  特に真柄に関する聞き込みは、縁談が進行中の大切な時期に、警官がうろうろしていることが分ってはまずいので慎重を期した。  一日をフルに使って、聞き込みに三日を要した。その結果縁談は影山が死ぬ前から起きていたこと、真柄と影山の間には貴久子以外には対立するような問題が何もないことが分った。  貴重な時間と多大の労力を費やして、真柄の情況をシロくしてやったようなものだった。熊耳は三日目の夜行で信州へ帰ることにした。  署長の好意にそういつまでも甘えているわけにはいかない。  さすがの彼も徒労に憔悴《しようすい》していた。列車が出るまでの時間を利用して熊耳は、新宿の喫茶店で貴久子と会った。 「彼の動機は完全に消えましたよ」  がっくりした表情で熊耳はまずそうにコーヒーをすすった。 「ごくろうさまでした」  と言ったものの、貴久子はこれを喜んでよいのか、あるいは悲しむべきなのか分らなかった。 「しかしですな」  コーヒーを一息にすすった熊耳は、目を上げた。小さな目だが、ギラギラ光っている。表情に憔悴の色が濃いので、よけいそんな光り方が目立つのかもしれない。 「私はどうしても彼への疑惑を捨てきれんのですよ」  自分の不注意からみすみす他殺の疑いのある死体を荼毘にしてしまった熊耳は、職業的な責任感と義務感によってその疑惑を助長されているだけに、今や真相を発見することが、強迫観念のようになっていた。 「影山さんと真柄はいつも二人で行動していました。所属山岳会の合宿とか、団体集中登山などの場合を除いては、二人はいつもザイルパーティを組んでいました。登山史上に残るいくつかの記録も、ほとんどすべて二人で打ち立てたものです。まあ僕らが見ても、彼らが無二のパートナーだったことがよく分ります」  熊耳はすでに真柄を呼びすてにしている。ここ数日の探査結果にもかかわらず、それだけ彼に対して疑惑がかたまった証拠であろう。だが熊耳の言っていることは、むしろ真柄をシロくするものである。無二のザイルパートナーというものは、そう簡単に得られるものではない。たがいに相手に命を預けるのである。伯仲する技倆《ぎりよう》と体力と、そして何よりも絶妙な呼吸《いき》の調和《ハーモニイ》がなければならない。相手のちょっとした表情の変化や、動作の断片から、相手の考えていることが分るぐらいの仲になって、初めて彼の確保《ジツヘル》に全体重を任せられるのだ。  そういう人間を何の理由もなしに殺すはずがない。 「しかし二人の間には何かがあったはずです。それには彼らの重ねた山歴を忠実にさかのぼらなければなりません。残念ながら私にはもうその時間がない。そこで湯浅さんに頼まれて欲しいんだが」  そこまで言った熊耳は、思いだしたようにポケットからくしゃくしゃになった〈いこい〉の箱を取りだした。  吸っていいかと貴久子に断わった上で、ゆっくりと火をつける。ごつい見かけに似合わず、案外繊細な神経の持主であった。 「私にできることでしたら」 「大してむずかしいことじゃありません」  彼は貴久子の顔にあたらないように煙を吐きだして、 「二人が在籍した雪線クラブと大学の山岳部へ行って、彼らの山行記録を徹底的に調べて欲しいのです。本当は私がやれば一番いいんですが、記録の貸出しを許さないんですよ。強制捜査でないもんだから、押収するわけにはいきません。それに大学へ警官が下手に踏みこむとえらいことになりますからね。湯浅さん、あなただったら、簡単に入れる。記録も好意的に貸してもらえるかもしれない。それから彼ら共通の山仲間から記録に載ってないようなことを聞き出せる可能性もある。実はこっちのほうが大事なんです」 「分りました。やってみますわ」 「おねがいします。もうこれ以外に動機を探る方法がありません。現在にない動機は、過去にあったかもしれない。警察のやるべきことをあなたにやらせて申しわけないが、我々は表立って動けないのです。肝心の死体がないうえに、他殺が物理的に不可能な状況にあるのですから」 「よく分ります」  列車の時間が迫った。二人は立ち上がる前にじっとたがいの目を見合った。この世の中で、真柄を疑っているのは彼ら二人だけである。そこに二人は一種の連帯感をおぼえた。  しかし一方は警官としての職業的な情熱からであり、他の一方は、男に裏切られたように感ずる女心の微妙な屈折からである。そこに大きなちがいがあった。  貴久子は駅のホームまで熊耳を見送りながら、そのことを考えてみた。真柄の縁談が、影山の死の前にすでに起きていた事実が分って、真柄の動機は打ち消された。また自分から副頭取令嬢へ乗りかえたのでないことも確かめられた。しかしそうなると、真柄の自分に対するすべての言動は演技だったのか?  影山を殺した犯人を追及するためにはじめたこの調査が、いつの間にか、真柄の言動の真の意味を見きわめることにすり替っている。それはそのまま貴久子の彼への傾斜度を示すものであった。  いつの間にか彼を好いている、いや愛していると言ってよかった——だからどうしても見きわめたい。そうすることによって真柄の首を絞めるようなことになっても。——  貴久子はその矛盾を知っていた。その結果、真柄が真犯人と確定した場合、自ら彼の存在を否定してしまうことになる。おそらく自分はその時の悲しみに耐えられないだろう。 (でも私は、どうしても見きわめたい)  見きわめなければならないと思った。二人はホームへ出た。熊耳の乗る列車はすでに入線していた。季節はずれなので登山客の姿は少ない。それでもそろそろ新雪の訪れる高山を志すらしい重装備のパーティが何組か見られた。  彼らはみな一様に熱っぽい目をしていた。影山と真柄の目と同じだった。 (ああいう目をもった人間が、人殺しをできるということを、私はこれから証明しようとしている。それが、自分の愛しはじめた男を破滅させるかもしれないと分っていながら)  発車ベルが鳴りはじめた。熊耳が車窓から顔を出した。 「あなたも大変でしょうが、がんばってください」  しみじみとした口調で言った。その時貴久子は、熊耳が、自分の心と行動の矛盾に気がついていると思った。  ベルが鳴り終って、列車が静かに滑りだした。愛する真柄をひたすら追求している熊耳はさしずめ貴久子の敵である。だがその時彼女は、その敵にすがりつきたいような心細さと親近感を同時におぼえていた。列車の非情な加速度は、心細さだけを拡大して貴久子へ預けたまま、視野から消えて行った。  それから三日おいて、真柄は羽田からK2登攀ルート偵察のために翔《と》びたって行った。まず、パキスタン航空でカラチへ翔ぶ。そこから飛行機を乗りかえて、パキスタン北部のラワルピンジへ行き、さらに車でバルトロ氷河の入口アスコーレへ。K2はこの氷河を さ溯《かのぼ》った奥にある。日数が少ないので、機械力をフルに使っての強行偵察である。  羽田まで見送った貴久子に、真柄は、軽く手を振って、まるで大阪か福岡へでも行くような軽い足どりでタラップを登って行った。 [#改ページ]    単独登攀者《ローンクライマ》の死  貴久子の、影山と真柄の足跡の溯行《そこう》がはじまった。貴久子はこの調査によって初|登攀《とうはん》とか、未踏のルート開拓とかいうことが、アルピニストにとってどんなに大きな栄光であるかを知った。  まず最もりやすい夏の季節に、最もやさしいルートからの初登頂がなされると、より困難な冬期の登頂が行なわれる。次には冬期単独登攀、夫婦の登攀、女だけの登攀、より|むずかしい《バリエーシヨン》ルートからの直登など、手をかえ、品をかえて、むずかしさを追い求めていく。  このアポロ時代に、標高が�地上�より多少高いという理由だけで、生命を賭け、巨大な費用をかけて登りつめていく情熱は、山を知らない人間には、�狂熱�と映るかもしれない。  しかし、万能と信じられている組織工学やコンピュータによって、人間はボタンの番人にすぎないようなアポロに比べて、登攀用新兵器の開発で、科学の力を大分借りるようになったにせよ、とどのつまりは、人間の足と、意志の力が主役を演ずる山には、卑小な人間が機械力に頼らずに大自然を征服する壮大な叙事詩が感じられる。  雪線クラブも、A大山岳部も、貴久子の調査に協力的であった。勤め先の社内報の編集係だと自己紹介したうえで、今度のK2登山計画を社員厚生記事として特集するために、岩登りのエース、真柄慎二を詳しく紹介したいと言ったのが、相手の心証をよくしたらしい。  持出禁止の資料なども気前よく貸してくれたうえに、記録にはないいろいろのエピソードも話してくれた。  さすがにK2登山隊員に選ばれただけあって、真柄の山歴は輝かしいものだった。初登攀だけにしても、  昭和三十八年二月 前穂高東壁Fフェース  同 三十九年一月 前穂高屏風岩正面岩壁  同 年   五月 北穂T谷第二ルンゼ  同 四十一年十二月 谷川岳一の倉中央ルンゼ  同 四十三年六月 明神岳六峰V状バットレス  等である。この他、二登、三登となると、数えきれないくらいある。  このようにただ名前をあげられても、そのルートがどんなところか知らない貴久子であったが、山岳会員の説明により、これらのいずれもが、最後まで人間の足跡を拒んだ極悪のルートで、腕におぼえのあるクライマーたちが、「いつ、誰が」と、開拓者《パイオニア》の栄光を得んものと、激しい先陣争いをくり広げた場所であったことが分った。  かたっぱしから難攻不落のルートを陥《おと》していく彼ら[#「彼ら」に傍点]に�岩場荒らし�のニックネームがあたえられたほどだそうだ。その中でも真柄の名前を高めたものは、ブライトホルン北壁の冬期初めての直登記録である。  貴久子はこれらの記録を溯って行く間に、真柄という男の山へ傾けた無量の情熱がひしひしと身に迫ってくるように感じた。  こうして自分が彼の過去を溯行《そこう》している間に、彼は、K2へのルートを求めて氷河を登っている。いつ崩れ落ちてくるか分らぬ氷塔《セラツク》やアイスフォールの間を縫ってひたすらに登る。それは「未来への旅」と言ってよいだろう。  貴久子は真柄を見送った羽田空港を分岐点《ポイント》にして、二人が直線上の正反対の方向へまっしぐらに遠ざかって行くように思った。  心を傾けた相手の過去を溯ることは多分に感傷的であり、貴久子はもう少しでこの溯行の目的を忘れそうになった。  彼女がふと一つのことに気がついたのは、雪線クラブの好意で借りだしてきた、ブライトホルンの登攀記録に目を通していた時である。それは何もわざわざ記録を読まなくとも分る些細《ささい》なことであった。 「この時だけ三人で登っているわ」  真柄の山行は、部としての団体行動以外は、いつも影山とパーティを組んでいるのだが、この時にかぎって三人で登っていた。  そのこと自体は何も新しい情報ではない。日本人としてブライトホルン初登攀と登頂後、メンバーの中の一人を失った悲劇的な勝利は、マスコミに大きく報道され、貴久子も、真柄たちと知り合う前から知っていたことである。  だが今こうして、彼の過去の記録を調べてみると、ブライトホルン以外の山行はすべて影山と二人だけで行っている。彼らにとって初めての外国山系で、『|恐怖の峰《ホラーピーク》』と呼ばれるほどのむずかしい山登りだったので、メンバーを一人増したとも考えられるが、こうやって過去の記録の中に置いてみると、ただ一度だけ三人で登ったブライトホルンが目立ってくるのである。  しかもメンバーの一人、野中弘は頂上直下でスリップして、それが原因で死んでいる。何十度となく真柄と影山が一緒に重ねた山行は無事で、ただ一度だけ三人で行った山で、新たに参加したメンバーが死んだ。しかも真柄も影山もこの山行についてあまり語りたがらなかった。  ここに何かないだろうか?  山の遭難というものは、いつどこでも発生する要素をもっている。二人の時は無事で、三人の時に事故が起きても少しも不思議はない。山の事故は、常識的な確率や統計の数字では論じられないのである。  ベテランならば見すごしてしまうところを、貴久子は山に素人なるがゆえに素朴な疑問を抱いた。彼女は特にブライトホルンに関する記録を丹念に蒐《あつ》めはじめた。当時の記事が載っている新聞や、二人が帰国後、諸雑誌に発表した手記など、手に入るかぎりを集めた。  貴久子がこれらの登攀記録で得た、野中弘の遭難の大要は次のようなものである。  一行が無数の障害を突破して、頂上直下の最後の岩壁にはめこまれた、その凶悪な形から『黒いサソリ』とよばれているオーバーハングに取りついた時、トップをつとめた野中が、ハーケンを一本打って身を乗り出したとたんに、ハーケンが抜けた。十メートルほど転落して、氷にアイゼンが刺さって骨折した。氷の斜面に落ちた野中の体は、真柄と影山の確保《ジツヘル》によってからくも止められたが、野中の脚は折れてブラブラになり、一歩も動けなくなった。彼を引っぱり上げることは不可能である。もちろん降ろすこともできない。折りから天候が悪化していた。  頂上を直前にしての事故で、野中は自分を残して登攀をつづけるように強く要請した。  野中の要請とこのままでは三人共倒れしてしまうので、結局二人は、彼をそこへ残して登攀をつづけたのである。首尾よく頂上へ抜けた後、救援隊を連れて一般ルートから現場へ引き返した時は死亡していた——というものである。  真柄は、その時の模様を次のような手記にしてある山岳雑誌に発表していた。  ——一月二十二日(曇)昨夜の風雪おさまり、上部岩壁は白雪に被われて、胸にこたえる迫力である。午前五時三十分行動開始、ビバークサイトのテラスより、約十五メートル、八十度のフェースとチムニー。岩に付着した氷や硬雪をアイスバイルでかき落としながら進む。ハーケン二本、アブミ一個使用してチムニーを抜けると、約五十五度の雪田、アイゼンがよくきいて割合楽な登攀である。二ピッチ目からザイルをつないで八十メートルいっぱいに雪田上端まで登り、右凹角に出る。傾斜もゆるみ、難度四級程度の登攀。バンド状テラスにいったん集結してから、石英の白いバンドへ至る。ここより容易な雪田を三十メートル前進して、いよいよ頂上直下のオーバーハング、『黒いサソリ』に取りつく。  急傾斜と被《かぶ》った岩肌が冬期でも雪を寄せつけず、山麓から眺めた時に真っ白の壁にへばりついたサソリのような形に見えるところから、この呼び名がある。北壁登攀の最後のポイントである。  ハング基部の露岩で食事の後、十三時三十分、野中右上へルートをとり、最も緊張を強いられるピッチに取りつく。ようやく一本ハーケンを打って、身体を乗り出したとたんに、ハーケンが抜けた。アッと悲鳴を上げて墜《お》ちた野中を、すさまじいショックに耐えて確保《ジツヘル》。壁の中途で辛うじて止まるも、左足首を骨折、顔面と右膝|挫創《ざそう》、胸部圧迫をうけ、右上犬歯も切損した。このうち左足首の骨折が最もひどく、完全に砕けて、辛うじて皮膚によってつながっている。  とりあえず、アイスバイルをギブスに代用、ビバーク袋を裂いて固定。いったんもち直すかに見えた天候はふたたびくずれて雪が舞いはじめている。  野中は行動続行を強く要望。三人で協議した結果、我々二人の力では彼をここから引っ張りあげることも、降ろすことも不可能なので、止むなく野中一人を残して最後のピッチを登ることにする。  傷の応急手当をして、シュラーフに入れ、その上をツェルトで被《おお》って風あたりの最も少なそうな岩かげに、ハーケン数本打ってビレーする。手持ちの食糧を残せるだけ残して出発する時、影山とともに泣く。野中笑って「頂上終って今度ここへくる時は、熱いコーヒーをもってきてくれ」と言う。  心の中で「救援を連れて戻るまで生きていろよ」と祈るように言って登攀再開。  十八時四十六分、頂上へ抜ける。——  このあと二人は初登攀の感激にひたる間もなく下降を開始し、三日後の午後、一般ルートを経由して現場へ着いた時には、すでに野中は死亡していた。  その他の記録や記事もみなこれと大同小異であった。  貴久子は真柄と影山の手記と、彼らが持ち帰った野中のメモをよく注意して読み比べた。  まず野中のメモは、  一月十一日(晴)BCにて  午後の赧味《あかみ》をました光を浴びて、北壁全体は見るからに獰猛《どうもう》な形相でそびえ立っていた。「登れるものなら登ってみろ」とあたかも我々に挑戦しているように、「逃げ出すなら今のうちだぞ」と恫喝《どうかつ》せんばかりに、ブルーアイスで被われた石灰岩のどすぐろい岩を、高差千八百メートルの垂直の標高に積みあげている。しかし彼は知らない。彼[#「彼」に傍点]が挑戦的であればあるほど、恫喝をすればするほど、我々は強い抵抗をおぼえ、闘志をかきたてられるということを。みてろ! あと十日もたたぬうちに、お前を、組み敷き、お前の傲岸《ごうがん》な頂をこの足で踏みしめてやる。  一月十四日(曇→雪→風雪)  雪田と壁のコンタクトラインを三ピッチトラバースして岩尾根の取付きに出る。夏期のリッジに沿ったルートによって洞穴へ出る。雪質悪く、ハーケン二本消費。洞穴よりトラバースバンドへは約二メートルの積雪あり。岩との境界は大きなシュルンドとなっている。バンドの末端から上部の壁へ抜けるところは五十五度ぐらいで、スラブにベルグラがついて極度に悪い。まず真柄が取りつき、夏期登攀者の残置ハーケンと並べて新たに一本ハーケンを打って回りこむも、足が震えて踏み切れず、影山と交代。影山、スラブ上部の岩にさらに三本ハーケンを連打して強引なフットワークで突破しようとするも、今度はホールドの手が震えて「落ちる、落ちる」と悲鳴を連発。止むなく自分が交代。午後から舞いはじめた雪はたちまち密度を増して、滝のように降りかかる中を遮二無二登り続ける。——  次に真柄の手記を読むと、  ——一月十一日(晴)BCにて  見れば見るほど凶悪な岩壁である。山麓から傾斜というものが全く見出せないかのように垂直にそびえ立った蒼《あお》く暗い岩肌は、上部に行くほどに情容赦もなくせり出して、みつめればみつめるほど、困難であり、絶望的に見えてくる。  それはどんなに灼《や》けつくような闘志も、一瞬にして冷やすような鬼気迫る岩壁に見えた。  この壁を冬期に直登するなどということは、人間として、大それた望みなのではないだろうか?——  さらに影山の手記には、  一月十八日(晴)  逆層の氷の管、最も悪く、わずか十メートル稼ぐのに三時間を食う。真柄、振子《ふりこ》気味のトラバースを試み、約三メートル転落、幸いに無事。トップ野中に代り、バランスを保つため、途中から素手で登る。雪質極度に悪くなり、雪を落とすと、逆層の急峻《きゆうしゆん》なスラブが露《あら》われて登攀不可能になる。岩をだましだまし登って、ハングの基部へ達する。野中はハング岩壁にそって岩を抱くようにして慎重なトラバース約二十五メートル、上昇角三十度、ハーケン三本使用、打ったハーケンは精々抜くようにしているが、心細くなる一方である。『黒いサソリ』を抜けるまで果たしてもつであろうか? 野中を確保中、小落石体の近くを通りぬけて思わずひやりとさせられる。——  読み了《おわ》った貴久子は、しばらくの間その内容を反芻《はんすう》した。登山の専門用語が多くて意味のよく分らないところもあったが、ある事実が彼女の注意を惹《ひ》いた。  貴久子は、遭難した野中が、この登攀にファイト満々、終始積極的であったのに対して、真柄と影山の二人が、消極的であるのに気がついた。ハーケンをなるべく使わない主義の影山が、気前よく連打しているのも彼の消極性を示すものであろう。  実際に本人たちがどうであったかは、その場に居合わせない貴久子の知る由もないが、少なくとも、手記や記録に残された文言からは、野中一人がえらく威勢がよいのである。  貴久子は野中弘について調べてみた。そして彼が真柄や影山を上回る先鋭なクライマーであったことを知った。  年齢は二人よりも四、五歳上であったが、独身だった。いつ遭難にみまわれるかもしれないからということで、独身をつづけていたそうである。家が貧しかったために、中学を卒業すると同時に、自動車の組立工となり、その後、ホテルのボーイ、新聞拡張員、ミシンのセールスマン、スキー指導員などと十数種の職業を転々とした。山は自動車の組立工時代、工場の仲間と奥多摩へハイキングに行ったのが病みつきで、その後、山へ登るためだけのような生活を送ってきた。金がたまると、山へ登り、無一文になるとまた働く。  その間、本格的な登山技術を学ぶために、雪線クラブへ入会したが、山はひとりで登るべきだという信念をもち、恵まれた体力と、天才的なクライマーの素質にものをいわせて、北アルプスや谷川岳の幾多の困難なバリエーションルートに単独初登攀の最多記録をつくってしまったのである。その中には数人のパーティでアタックしても陥《お》ちない極悪なルートもあった。  彼の足跡は、いつも二人で行動した真柄たちに比べて、単独であるだけに、いっそうの輝かしさと迫力があった。もし、野中が生きていれば、今日の日本のクライマーで彼に匹敵する者はあるまいと言われるほどの実力と山歴をもっていたのである。  その彼が、ブライトホルン北壁だけ真柄たちとパーティを組んだのは、単独で行くだけの資金がなかったからであった。一人で行くよりも、三人で行くほうが、諸事安くなるうえに、不足分は真柄と影山が負担してやったらしい。  真柄たちにしても、|恐怖の峰《ホラーピーク》の北壁の積雪期での直登計画には、ぜひとも野中の卓越した技術が必要だったのである。  以上の知識を得た貴久子の心の中で、次第に一つの疑惑が凝固してきた。それは思うだに恐しい疑惑である。しかし彼女はもはやそれから目をそらすことはできなかった。  真柄と影山が、瀕死《ひんし》の野中を放置しても、頂上へ抜けざるを得なかったように、貴久子はもはや引き返すことができなかった。 [#改ページ]    殺人山行      1  熊耳は帰署すると、直ちに捜査結果を署長へ報告した。 「すると真柄には影山を殺す動機は全くなくなってしまったわけだな」  さすがに署長も落胆の表情を隠さなかった。 「いろいろとご迷惑をかけましたが、これで私も本務へ戻らせていただきます」  熊耳は一応そう言わざるを得なかった。 「しかし、例のヘルメットの件は説明されていないんだろう」 「はい」 「それだったら遠慮しなくてもいい、もう少し追ってみたまえ。山は、今ちょっとひまな時期だろう」 「それはそうですが」 「山の頂上で殺人《ころし》をするなんて、アルピニストの風上にもおけないやつだ。追えるだけ追ってみてくれ。何か別の動機が必ずあるはずだよ。おれにはやつが、影山がK岳からSOSを発してから一時間ほど後、奥村田へ姿を現したのがどうしてもすんなりと受けいれられないんだ」  署長は目をギロリと光らせた。やはり熊耳と同じことを考えている。 「私もそう思います。K岳山頂から一時間では絶対に降りてこられないところから、今まで彼の足どりを洗いませんでしたが、彼がK岳から来たのでなければ、どこから来たのか、洗ってみるつもりです」 「うん、ぜひそれをやってみてくれ。やつはたしか、仕事がかたづいたので、おくればせながら後から追っかけて来たと言ってたんだな」 「そうです」 「十時ちょっとすぎに奥村田へ着くにはどの汽車で来たのかな?」 「アルプス4号が大町着十九時、同じくアルプス5号が二十時三十三分、東京からくるにはこのどちらかに乗ったのにちがいありません。バスにはもう間に合いませんから、タクシーか、あるいは徒歩で来たかもしれません。彼はあの夜、『車がなかなかつかまらなかった』と言っていたそうです。車だと大町から奥村田まで二十分で来ます。どちらの列車で着いたにしても、車を使えばもう少し早くこられたはずです。彼がああ言ったのは、もしかすると、車を調べさせまいとする伏線だったかもしれません。車がなかなかつかまらないという言葉は、つかまえるのに時間がかかったとも、つかまらないから歩いて来たとも両様に解釈できます。もし歩いたとすれば、二時間半から三時間、アルプス4号でやって来た時間にちょうど連絡します。しかし歩いたとなると、足どりの調べようがない。そろそろ暗くなるころですから、途中で誰にも会わなかったと言われればそれまでです」 「やつがそこまで考えて予防線を張ったとしたら、相当な悪だよ。しかし大町から奥村田まで十五、六キロ登らなければならない。これを歩くというのはどう考えても不自然だよ。銀座のバーのかんばん時じゃあるまいし、いくら車がないったって十分も待てば戻ってくるだろう」 「私もそう思います。とにかく、駅員と構内タクシーの運転手や、近郊のタクシー会社を全部あたってみます。もし大町→奥村田間に彼の足跡がなかったら、絶対にクロですよ」 「たのむよ」  署長は励ましてくれた。  動機のない人間の足どりを先に追うのは、本末転倒のようでもあったが、熊耳は真柄に動機があることを信じていた。  湯浅貴久子は、自分自身に関することなので、その点に関してはっきり語らなかったが、真柄が彼女に対して熱い感情をもっていたことは明らかである。  影山の救援におもむく時、まさか他殺《ころし》とは思わなかったので、あまり深く気にもとめなかったが、真柄の貴久子を見る目は本物だった。あれは紛れもなく、惚《ほ》れた女を見る男の目だった。あれが演技であってなるものか、それに、あの時そんな演技をする必要は毫《ごう》もなかったのである。  むしろ、それをするのは危険であった。後で他殺ということになれば、被害者の婚約者である女に熱い目を注いでいた男の存在は、いっぺんに警察の疑惑を誘う。現に今、そうなっている。  真柄はたしかに湯浅貴久子に惚れていた。  それはその後のひそかな探査によっても裏づけられている。現在発生している縁談のほうが我々の目をそらすための演技なのだ。  影山の死ぬ前に縁談が発生していたという事実が、真柄の動機を打ち消した形になっていたが、よく考えてみると、前代未聞と言われる逆の玉の輿《こし》であっても、その時真柄は少しも傾かなかったのかもしれない。  そんな輿《こし》に乗るよりも、貴久子のほうが欲しかった。だがライバルを消した後、自分の不注意から罠にひっかかり、疑いを招いてしまった。ライバルを排除してまでも手に入れようとした貴久子だったが、こういう雲行きになってくると、真柄としても自衛を考えないわけにはいかない。  第一、殺人容疑者にされてしまっては、肝心の貴久子に逃げられてしまう。その前に職を失わなければならない。信用を重んずる銀行においては、そんな容疑をかけられただけで決定的な破滅である。  そうなっては貴久子にプロポーズどころではない。そこで、涙をのんで�玉の輿�へ乗りかえた。——と考えてもおかしくはない。  あるいは、本人にその気がないのに、副頭取から圧力をかけられたとも考えられる。一介の平行員に、副頭取の言葉は、至上命令であろう。  いずれにしても、影山の死ぬ前に真柄に縁談が起きていても、彼の動機が完全に消えたことにはならないのだ。  しかし、これは真柄の、貴久子を見る目の色を知っている熊耳だけが組み立てられる理論であって、第三者を納得させるには弱すぎる。  前代未聞の�玉の輿�を蹴《け》ってまで、貧しいOL(副頭取の娘と比べれば)を得るために、サラリーマンが果たして殺人をするか? またそれほどまでにしてライバルを消した人間が、自分の身が危なくなると、いったんは捨てた輿にさっさと乗り移るものかどうか? 目的の女は得られず、危険だけを招いて。それくらいならば、最初から殺さなければよいのである。それこそ全く無意味の犯罪である。  このあたりの説明が納得のいくようにできないかぎり、やはり第三者に対しては、真柄の動機は打ち消されたことになる。  大した期待はかけていないが、そのうち湯浅貴久子が、何か別の動機を見つけだすかもしれない。 (あの娘も真柄の目を信じているのだ。その目を向けられた本人だけに、あれが演技ではないという確信は、おれよりも強いかもしれない)  あの娘、いつの間にか、真柄を好いている。だから、彼の心の底にあるものを見届けて、その愛を確かめたいのだ。確かめることによって男を破滅させることがよく分っていながら、それをせずにはいられない。 (愛なんてしろものは、確認しないほうがいいのだ。女ってやつは哀《かな》しいな)  その哀しさを利用して捜査を進めている自分に、彼はふと自己嫌悪をおぼえた。貴久子ほどの女を哀しませている男に嫉妬を感じていることが、熊耳の自己嫌悪を助長した。  駅やタクシー業者を洗った結果、五月二十七日の夜真柄らしい男が降りたつのを見た者もなければ、奥村田まで車で送った人間もなかった。もっとも駅は、かなり大勢の客が降りたために、特定の乗客の記憶を求めるのは無理であった。  ともあれ、真柄の足跡は大町→奥村田の間に見つけられなかった。その夜彼はまるで天から舞いおりでもしたかのように、突如として奥村田へ姿を現わしたのである。 「やつは山から下りてきたのにちがいない」  熊耳は確信したが、その方法を証明することができなかった。山頂は�密室�となっていて脱出できない。また何らかの方法で脱出したとしても、一時間少しでK岳北峰から奥村田山荘へ達することは絶対に不可能である。  九時以前に犯行が行なわれたという仮説も、今となっては証明方法がない。また真柄の犯行とすれば、山頂と奥村田の最短所要時間が四時間であるから、犯行時刻は六時以前でなければならない。もし影山がその間生きていたなら、犯人の正体を告げるべく何かの手だてを講じたはずだ。現場にはそんなメッセージはなにも残されていなかった。  登攀不能なオーバーハングに阻まれたように、熊耳はそこから一歩も進めなかった。明らかな殺意をもって振われた頭部への打撃のあと影山が数時間も生きていた可能性はきわめてうすい。      2 「しかし……」  熊耳は失望の中でふと思いついたことがあった。真柄に山麓の足跡がないのだから、山から下りて来たという推定は強くなった。しかしもし山から下りて来たのであれば、そこへ登ったはずだ。登るためには、当然それだけの時間を要求される。  もし真柄を犯人とすれば、影山がK岳山頂へ辿《たど》り着く前にそこに着いて待ち伏せしていなければならない。  影山が死んだのが、五月二十七日午後九時すぎ、この時間に犯行するためには、同日の昼の間に登っていなければならない。とすると、どんなに遅くとも二十六日の夕方には東京を出ているはずだ。北壁経由では山頂まで二日を要するが、一般コースをとれば、一日で達せられるからである。  真柄が山荘に姿を現わしたのは、二十七日の午後十時少しすぎである。東京から直行して来たのであれば、その日の午後に東京を出ればよい。  彼が山から下りて来たのであれば、ここに一日のずれができるはずだ。  熊耳の記憶に、影山と真柄がパーティを組んで登る予定だった今度の山行を、真柄だけが急な仕事の都合で、出発が迫ってから抜けたことがよみがえった。  困難な岩壁登攀で、最初から予定していた、ザイルパートナーに急に抜けられたら、計画は根本から齟齬《そご》をきたす。  影山は、そのために赤い壁を迂回せざるを得なくなったのである。  ベテランの山仲間は、その事情をよく承知しているから、自分の都合と充分ににらみ合わせて、いったん参加した計画をキャンセルするようなことはめったにない。  それを、真柄はあえてキャンセルした。その止むを得ない仕事の都合とは、いったいどんな都合だったのか?  真柄の山行を阻《はば》んだ都合と、一日のずれにおけるアリバイを徹底的に調べる必要がある。  熊耳は再度東京への出張を署長に申請した。  まず真柄の勤め先をあたった熊耳は、彼が五月二十四日から三日間、札幌支店へ業務連絡で出張した事実を知った。ところが札幌へ長距離電話をかけて問い合わせたところ、真柄が札幌支店へ姿を現わしたのは、二十四日午後二時ごろの一回だけで、出張期間の二十五、六の両日は、まったく店へ来なかったことがわかった。  もっとも、出張目的の業務連絡は、二十四日に来た時にすんだから、用事は果たしていた。——と相手はつけ加えた。  つまり真柄は、三日間の出張期間中、最初の一日しか出張先に姿を現わしていない。残りの二日間はどこでどのようにすごしたのかかいもく見当がつかない。  銀行側では、距離と見合わせて、三日という期間を与えただけで、出張業務の質量を厳しく勘案してのことではないと、はなはだ鷹揚《おうよう》だった。  しかも真柄は、三日間の出張に接続して、二日間の休暇を取っていた。その間休日が一日はさまるから、都合三日休める。結果的には影山の死で、彼の欠勤が数日延長されたが、彼は札幌へ出かける前に連続六日間職場を離れることが分っていたのだ。 「出張から帰ったあと、真柄さんは報告に来ましたか?」  との熊耳の問いに、銀行の幹部は、 「いえ、山から帰ってからは来ましたがね、出張と休暇とつづいていたので、出張最後の二十六日には特に報告には来ませんでしたよ。特に緊急の出張でもありませんでしたから、こっちも、報告は休暇が終ったあとでもよいと言っておきましたから」 「特に緊急の出張ではなかったのですか?」  熊耳の声に思わず力が入った。真柄は、「止むに止まれない都合」で、影山との山行をキャンセルしたのだ。 「いずれは行かなければならない用事でしたがね、特に一日を争うという性質のものではありませんでした」 「その出張はあらかじめわかっていたのですか?」 「いいえ、真柄君が申請したのです。そのころすでに全山協から内意があったK2遠征が具体化する前に片づけておきたいという理由でした。銀行としても、特に許さない理由はありませんでしたので、出張させました」 「期間は、札幌の場合大体三日ですか?」 「出張用務によって変りますが、札幌でしたら距離的に最少三日は与えます」 「飛行機で往復した場合でも?」 「特に緊急出張でない時は、普通行員の出張に当行は航空運賃を支給しておりません。汽車で往復するために失う時間や、出張員の人件費などを考えると、飛行機を使わせたほうが得《とく》なのですがね、出張規定を早急に改《か》えなければいけないと思っております」  熊耳にとって銀行内規の欠陥などどうでもよかった。  出張期間は、二十四日より三日間、二十四日午後二時ごろ札幌支店へ姿を現わすために列車、航空機いずれを利用したにしても、帰路は必ず航空機を利用したにちがいない。札幌から東京まで一時間二十分、市内から両空港への所要時間を加味しても、二十四日の新宿発松本方面への遅い夜行列車には充分間に合う。  真柄は、二十七日午後影山が北壁を経由してK岳山頂へ到着するまでにそこへ着いていればよかったのだから、何も飛行機を使ってあわてて舞い戻らなくとも充分よゆうはあったはずである。  しかし、これから登山をして、殺人を行なう�大仕事�をかかえた人間として、疲労をなるべく少なくするために、飛行機を利用したことが考えられる。  熊耳は今の段階では、この札幌—東京間の真柄の足跡をさがす必要はないと判断した。  単独登攀は不可能な山行計画から急に抜けた真柄の、止むを得ない仕事の都合が、実は彼が自分の意思でつくり出した�作為の都合�だと分ったのである。しかも二十四日午後札幌へ立ち寄ってから、二十七日午後十時、奥村田山荘に姿を現わすまでの約三日間の彼の足どりは、まったく不明になっている。  さらに、いくら緊急の出張ではないとはいえ、出張から帰ってまったく何の報告も連絡もせずに、休暇旅行に旅発ってしまうというのはうなずけない。わざわざ出行するのが面倒だったら、電話で今帰ったぐらいの連絡をとってもよいではないか。  すでに銀行が閉《しま》ったあとならば、上司の自宅へ連絡してもよい。出張から帰って、まったくのだんまりでレクリエーションに出かけてしまうというのは、それだけで現代ビジネスマンの資格を疑われる。  それも昨日や今日の新入社員ではない。真柄が何の連絡もしなかったのは、それができないような環境にいたからであろう。  銀行へ連絡する最も妥当な時間は、出張最後の日にあたる二十六日の夕刻である。だが彼はその時山にいたのだ。連絡できないはずである。  かといって二十四日か五日(札幌から帰京した日)に連絡すれば、出張の早くすんだことが銀行側に分ってしまう。予定より早く帰っていながら、何故出行しないかと問われる。  真柄の無報告は止むを得なかったのだ。  幹部に礼を述べて銀行を辞去した熊耳は、今までは「密室とアリバイ」のため中途半端なところがあった真柄への疑惑を確定させていた。  しかし本人が海外にいては、手も足も出なかった。また帰国して来たところで、厳しく追及できない。あくまでも熊耳の推測だけによる任意捜査なのである。ちょっと出張して来るにしても、本務をおいて気がねしいしい出て来る。  捜査本部が開設されて、納得できるまで被疑者を追及できる捜査係の刑事たちがつくづくうらやましかった。熊耳は貴久子に会わずに帰った。      3  その後何の進展もないままに時間が流れて、十二月の中旬に、真柄は帰国して来た。彼は東北稜を八千メートル付近まで試登して、首尾よく三つのルートを発見してきたのである。  大任を果たした彼は、登山家としてひとまわり大きくなったように見えた。  帰国はしたものの、試登報告や、二月に迫った本隊の出発に備えて、彼には目のまわるような忙しい日がつづいた。勤めのほうは、銀行のPRにもなることだからということで大幅に免除されていた。おそらくは副頭取の口ぞえがあったものであろう。  貴久子は真柄の帰国の日、羽田まで出迎えた。しかし登山関係者や報道陣に幾重にも囲まれた彼に近づけなかった。いやかまえて一定の距離をおいて、遠くの方から眺めていたといったほうが正確かもしれない。  彼女の真柄への接近を本当に阻んだ者は、新聞記者や関係者ではなく、彼がタラップから降りたつと同時に、当然のことのようにぴったりと寄り添っていた一人の若い女であった。  いかにも高価な生地と仕立らしいスーツを身につけた、やせぎすの権の高そうな女、それが彼の婚約者であることを、貴久子は本能的に悟った。  英子は人前もはばからず、真柄の腕に、自分の腕をからませたりした。カメラマンの中には、わざわざそんなポーズを注文する者もいた。  そんな時、真柄は、世にも情けなさそうな顔をした。何かに救《たす》けを求めるように周囲に投げた彼の目が、人混みの後の貴久子の姿をふととらえた。彼の目はよみがえったように輝いた。  貴久子はそれに応えず、背を向けて歩きだしたのである。たとえ目で交す会話であっても、そのような場合には残酷であった。貴久子にとっても、そして真柄と婚約者に対しても。——      4  熊耳が真柄を訪ねて行ったのは、十二月の末である。正月休暇に入ると、登山者が多くなって本務のほうが忙しくなるからであった。  熊耳はこのために自分の休暇をあてて出て来た。署長に申し出れば、こころよく出張扱いしてくれたであろうが、そうそういつも彼の好意に甘えるわけにはいかなかった。  全山協の事務所で、来年二月の本隊の出発に備えて忙しく立ち働いていた真柄をようやくつかまえた熊耳は、わずかの時間ながら彼と二人だけで話し合う時間をもった。 「このたびはごくろうさまでしたな」  真柄が案内してくれた事務所近くの喫茶店で彼と向かい合った熊耳は、まず彼が果たした大役の労をねぎらった。 「いやあ今度の偵察は、物量のおかげですよ。何分国家的な援助のもとの山行ですから、かねも充分使えました。私の力じゃあありません」  真柄は謙虚に言って日灼けした顔に白い歯をほころばせた。そこには熊耳がかけている疑いとはまったくなじまない、明るく健康な山男の顔があった。  しかしこの顔にだまされてはならないと、熊耳は心をひきしめた。 「ところでちょっとおたずねしたいのですが」  一通りさしさわりのない偵察行のみやげ話がすんだところで、熊耳はさりげなく切り出した。 「何でしょう?」  真柄が少し表情をひきしめた。彼とても、そろそろ冬山シーズンに入る時期に、北アルプス遭難救助隊長が偵察行のみやげ話を聴くためにわざわざ上京して来たのでないことを悟っている。 「いや大したことじゃないんですが、本庁に用事があって上京したものですから、この機会にと思いましてね」  わざわざこの質問をするために来たのだと言うと相手を刺戟《しげき》しすぎる。別の用事のついでにと言ったほうが、相手の緊張を誘わないだろうと熊耳は思った。 「真柄さんはたしか五月二十七日の夜十時ごろ奥村田山荘へ着いたのでしたね」 「そうですが」真柄の表情を、やや不安げな翳《かげ》がチラリとかすめた。 「影山さんとごいっしょに登られる予定だったのが、急に都合が悪くなって真柄さんだけ出発が遅くなったんでしたね?」 「そうです」 「どんな都合だったのか、さしつかえなかったらお聞かせ願えませんか?」  真柄が札幌へ行ったことはすでにわかっている。だが熊耳はまったく何も知らないふりをして、彼がどの程度事実を述べるか見るつもりだった。 「それが何か?」  真柄はますます不安げな表情をした。しかしこのことは必ずしも彼の怪しいデータにはならない。だれでも警察官から事件前後の行動をたずねられたら不安に思うだろう。むしろ平然としているほうがおかしい。 「遭難事件の調書に必要なのですよ。もっと早くお聞きすべきだったのですが、影山さんの遭難は、受傷場所と死んだ場所が別という、ちょっと特異な事件だったものですから、上司から前後の情況をできるだけ明らかにするために、多少とも関係のある方のことばをなるべく詳しくもらうようにと後から指示されましたのでね」  熊耳は、ストレートな追求を避けた。あくまでもまだ任意捜査の段階である。あまり上手な質問の口実とは思えなかったが、真柄は納得したようであった。 「そうですか」  真柄は冷えたコーヒーを一口すすって、 「あの時は、急に札幌に出張になりましてね、影山には悪かったのですが、どうしてもいっしょに行けなくなったのです」  札幌出張というかぎりにおいては、熊耳の既得知識と符合している。しかしそれは最初の一日だけで、影山との同行を決して妨げなかった。 「実は、その出張は一日ですみましてね、いっしょに行けないことはなかったのです。出張は五月二十四日から三日間でしたが、最初の一日で用事が片づいてしまったものですから、その日のうちに飛行機で東京へ引っ返したんですよ」  熊耳はおや? と思った。彼が今、真柄に最大の容疑をかけているポイントは、出張期間中二日間の空白である。ところが真柄は今、それをすすんで明らかにしそうな気配だった。 「東京には二十四日の夜に帰りました。ところが帰りの飛行機の中で食べた弁当に当たったらしく、急に腹が渋りだしましてね、アパートへ帰り着くなり、寝こんでしまったのです。二日ほど寝ていると、どうやら具合がよくなったので、遅ればせながら、二十七日影山たちの後を追ったんですよ」 「アパートで寝ている間、だれかに会いましたか? たとえば隣の人とか、管理人とか」  そこにいたことを証明する第三者がいるかとはまだ訊けなかった。 「ずうっと寝たきりでしたから、だれにも会いませんでした。それに私の部屋は母屋から離れている一戸建ちですから、呼ばなければだれも来ません」 「医者は呼ばなかったのですか?」 「医者に診《み》せるほどのことはないと思ったのです。たいてい二、三日寝ていれば癒《なお》ってしまいますから。その時もそうでした」  熊耳はうまいことはぐらかされたような気がした。最大の疑問点である二日間の空白を、病気、それも二、三日で癒る軽いもので埋めれば、証人がいなくとも不自然ではなくなる。腹痛とはうまい手を考えたものである。それも、真柄はひどい食あたりとは言っていない。「腹が渋った」という微妙な表現を使っている。  しかしどんなに軽い症状でも、積極的な健康を要求される激しい山登りを中止するには立派な口実となる。  だが真柄には、もう一つ説明してもらわなければならないことがあった。  山行計画から抜けざるを得なくなった出張は、真柄自身が作為したものであったのだ。  止むを得ず抜けたと言いながら、実は彼自身の意志でキャンセルしている。この説明が得られないかぎり、熊耳は今日の訪問の目的を達したことにはならない。  しかし熊耳は、その事実をどのように追及したらよいのか、ちょっと当惑した。真柄のことばに嘘がないかを探るために彼の札幌出張をあくまでも知らないこととして、質問をはじめたのであるから、今さら「あの出張はあなたが申請したものですね」とは開《ひら》き直れない。  被疑者や参考人相手ならばそれでもよいが、任意捜査でこういう聞きかたをすると、スパイのようなやりかただと相手方の心証をいちじるしく害してしまう。  熊耳が質問の切り出しかたに迷っていると、真柄がやや声をひそめるようにして、 「もう一つ実を言いますとね、あの山行は遠慮したんですよ」  と意外なことを言い出した。 「遠慮した?」  新しいことばに、熊耳は目を上げた。 「影山と湯浅さんですがね、二人があの時婚約していたことはご存知ですね。最初は影山と私の二人で立てた計画でしたが、湯浅さんが参加することになってから、彼ら二人だけで山へ行きたがっているようなムードができてきたのです。恋人同士の山行に割りこむヤボな邪魔者に私はなりたくありませんからね。だから自発的にオリたんですよ。そのための口実として、それほど急ぎでもない用事でしたが、札幌へ出張したんです。影山は、最初は赤い壁をやれなくなると怒りましたが、心の中では湯浅さんと水いらずで山へ行けることを喜んでいる様子がよく分りました。  私はオリてよかったと思いました。もともと口実の出張ですから、一日で用事は終ってしまいました。なじみのない札幌でブラブラしていてもつまらないので、どうしようかと迷っている時、ふと影山たち二人の出発を新宿で見送ってやろうと思い立ったのです。二人の出発は二十五日の朝八時のあずさ一号だから、飛行機で帰れば充分に間に合うと思いまして二十四日の夜帰って来たのです。ところが途中で腹痛《はらいた》をおこして、結局見送りに行けませんでした。二十七日に出かけたのは腹痛がなおったのと、彼らが充分�二人だけの山�を楽しんだ後だと思ったからです。  影山のやつ最初の計画どおり、湯浅さんひとりを麓に残して登るとは思いませんでした。ひとがせっかく気をきかしてやったのに鈍いやつですよ」  熊耳は、真柄の話を聴いている間に、こちらの追及を完全に躱《かわ》されたことを認めないわけにはいかなかった。  気をきかして遠慮したとは、うまい口実を考え出したものである。婚約者同士の旅行から、第三者たる真柄が急に脱落しても少しも不自然ではない。二人のうちのどちらが欠けても成り立たない困難な登攀計画を、相棒の一人が抜けることによって、甘い�婚前山行�に切りかえてやる。しかしそれを言ったのでは影山が承知すまいから、そのための口実として、突然出張した。何と思いやりある友情ではないか。  三日間の出張期間を一日で切り上げられたことも、もともと口実のための出張だからうなずけるというものである。  気をきかしてわざわざ札幌くんだりへ出かけたのが、飛行機であわてて帰って来たのでは、不自然になる。その不自然を�見送り�ということで糊塗《こと》した。ところが二十五日の朝、見送ってしまっては、何か都合の悪いことがあったのだろう。だからせっかく見送るために飛行機で札幌からとんぼがえりして来ながら、�病気�になって、下宿で寝ることにした。  帰りの機中で発病したのだから、見送りを中止してもおかしくはない。だが何故、見送らなかったのか? 真柄にしてみれば、見送っても少しもさしさわりはないはずである。むしろ見送ったほうが、あとで出張期間の空白を追及された時に、言い逃れやすくなるのではないか。  それを見送らなかったということは、見送れなかったからではあるまいか。つまり彼は二十五日朝、八時ごろ東京にいなかったのだ。するとどこにいたのか?  真柄は二十四日夜、帰京したのである。 (もしかしたら、その時すでに山へ向かっていたのではないだろうか?)  K岳へは一般コースだったら、一日で登れる。しかし一般コースでは、ひとに出遇う危険性が大きい。これから殺人におもむこうとする者が、なるべく人目を避けたがるのは当然である。  真柄がどのコースを通ったのか、わからないが、バリエーションルートとなるとやはり二日以上はみなければならない。人目の多い山麓の通過も夜間とか早朝を選ばなければなるまい。  とにかく堂々と歩ける影山らに比べて、二十七日午後十時までは、絶対にひとに見られたくなかった真柄が、影山よりも先行したことは充分考えられる。  真柄は、二十四日に札幌から帰京するなり、二十四日の夜行か、あるいは二十五日の早朝の列車(影山たちが乗った列車より早い)で山へ向かったのだ。——  熊耳は確信した。だがそれを裏づけるものは何もなかった。  これ以上、真柄を引きとめる理由はなくなった。熊耳は、敗北感に打ちのめされながらコーヒーの伝票をつかんで立ち上がった。 [#改ページ]    実験|登攀《とうはん》      1  その後貴久子には、真柄と会う機会はなかった。忙しい中を割《さ》いて彼のほうから何回か連絡してきたが、貴久子は口実をかまえて避けた。心の底に疑惑を凝固させたまま、彼に会うのには耐えられなかった。  彼を愛していることがはっきり分る今は、特に耐えられない。  年が変って、一月の半ばに真柄と平岡英子の婚約披露宴が、東都ホテルで盛大に開かれた。英子が日本財界の実力者の令嬢であり、真柄が今の「時の人」になっているK2登山隊のエースであるところから、パーティには政財界の有力者や、有名登山家、マスコミ関係者などが多数集まり、盛会をきわめた。  二月十一日、真柄は、K2登山隊主力二十四名の中の一人として羽田から出発した。貴久子は見送らなかった。  婚約披露をすまして、もうすっかり新妻気取りの英子が、これみよがしにべったり寄り添っている真柄を見るのに耐えられなかった。  ちょうど祝日で、見送りに行く気ならば行けた身を、家に閉じこもって、出発時間が刻々と迫るのを意識しながら貴久子は、きっと今ごろ、あの救いを求めるような目をして、人混《ひとご》みの奥に自分の姿を必死に探しているにちがいない真柄を思った。      2  年末年始の登山ラッシュがいちおうおさまった。  四百万とも五百万とも推定される我が国登山人口を反映して、最近は冬の北アルプスも限られたアルピニストの聖域ではない。夏山の延長のつもりで、冬山の美しさだけに憧れて、その冷酷な正体を知らない物見遊山気取りの即席アルピニストが押しかけるから、遭難事故も比例して多くなる。  特に年末年始のように一週間近い連休がつづくと、日ごろは日帰りか、一泊ぐらいの山行で�山への飢え�をごまかしていた連中が、本格的な冬山を狙って北アルプスに殺到するから、救助隊は連日出動の要請をうけて、席のあたたまるひまがない。  最近、K岳へのアプローチが容易になったために、明らかに技術や経験不足の登山者(救助隊に言わせれば�遊山者�)が、北壁の豪壮な岩相に惹かれてやってくるので、幼稚な遭難事故が多くなった。  夏山とちがって、岩場からの転落死は減るが、代りに雪崩や、疲労による凍死や行動不能が増える。  救助隊では、遭難の原因によって、大きく二つの類型に分けている。  一つは彼らが「純粋遭難」と呼ぶパターンで、山行計画や技術、装備等については遺漏はなかったが、行動中に何かの不運や不可抗力的な要素(予測できなかった雪崩や落石など)が働いて遭難したもの。  二は、「不純正遭難」と呼ぶもので、山行計画自体がすでに無謀で、遭難すべくして遭難したものである。  熊耳が救助隊に入った当初は、遭難といえば、ほとんど「一型」であり、「二型」は皆無といってよかった。隊でも二型を遭難とはみなさず、資格のないものが、山へ入ったために起こした「事故」であって、無免許運転による交通事故に準ずるものとみていた。  しかし登山ブームがおきてからは、二型の事故が圧倒的に増えたためにそんなことを言っていられなくなった。しかもこのタイプの事故は、技術経験はもとより、冬山用の装備さえしていないから、救助隊が現場へ駈けつけた時は、たいてい死んでいる。  救助隊が、「遺体搬出隊」になるのが、冬山遭難の特徴である。  元来、救助隊の任務の重点は、遭難の未然防止にある。これに合わせて急を要する負傷者の救助があり、遺体の搬出は任務外なのである。  しかし登山人口の増加による神風登山者の横行が、任務外の遺体搬出作業を、隊の本務のようにしてしまったのは皮肉であった。  救助隊の費用は県税で賄《まかな》われている。しかしシーズンごとにふくれあがる遭難件数のために、いつも予算は不足する。どうしても地元有志の手弁当による協力が必要であった。  彼らは協力要請があれば、赤の他人の生命を救けるために、自分の仕事を休み、命を張って救助作業に加わる。  二重遭難の危険を冒して現地へようやく着いた時に、遭難者が生きていると、彼らは本当にうれしい。その喜びのために一円の利益にもならない危険な激労作業に加わるのだ。  ところが助かった者のほとんどは、ただ「有難う」の一言だけでさっさと帰ってしまう。救助隊は助けるのが仕事であり、あたりまえであると思っているらしい。  帰宅が遅れて心配した家族などから捜索依頼をうけて出動しても、本人らが無事であったりすると、何か自分たちの技術や山歴に恥辱をうけたようにでも思うらしく、「おれたちが遭難するはずがない。よけいな世話をやくな」とばかり、挨拶もせずに帰ってしまう。  かえって死んだ場合のほうが、遺族が相応の謝礼をおいていく。別に利益や謝礼を目的にしているわけではないが、本務の救助作業が赤字となり、任務外の遺体搬出がかねになるのはまことに皮肉としか言いようがなかった。  一応本務の救助隊へ帰った熊耳は、正月の登山ラッシュがひくと、また例の事件に思考を戻していった。救助作業に専念している時でも、あの事件を忘れきったわけではない。いつも心の深層に沈澱《ちんでん》していて、少しでも余裕ができると、すぐに頭を擡《もた》げてくる。 「これこそかねにならぬ最たるものだな」  熊耳は内心苦笑した。すでに単純な遭難として処理してしまった事件である。警察の「勤務評定」ともいうべき検挙率からみても、全く意味のない捜査であった。  しかし彼はもはや、警官としてよりは、個人的な義務感をおぼえていた。「アルピニストの一人として許せない」などという大上段に振りかぶったものでもなくなっている。  殺されたのかもしれない人間の遺体を、自分の不注意から焼いてしまったことに対して大きな責任を感じて、それが日を経るにしたがって負担の容積を大きくしてくるのである。  熊耳は、春になるのを待ちかねていた。雪が溶け、山が、影山の死んだころとほぼ同じような状態になったら、K岳北峰へ自分自身で登って、脱出口を徹底的に探してみるつもりであった。  南峰への縦走路は足跡のない雪の斜面、残る三方は、夜間下降不可能な岩壁によって囲まれている。だが真柄はこの密閉された山頂のどこかに脱出口《あな》を見つけたのだ。  あな[#「あな」に傍点]がどこかにあるはずである。次にあなを見つけたとして、奥村田まで一時間少しでこられるルートを発見しなければならない。  岩壁にザイルを使って、懸垂下降《アツプザイレン》の技術をふるえば、時間は驚くほどに短縮できる。岩壁が終った後は、雪の斜面をスキーか、グリセードで下る。しかしそれにしても一時間では絶対に無理だ。それにそんな都合のよい雪渓はないのである。  どこか他に、別のルートがあるにちがいない。岩壁でも、雪の斜面でもないルート。  そうだ! 草ツキの斜面はないだろうか? グリーンベルトのように山頂から山麓まで草の斜面がつづいていれば、ピッケルで加速度をかげんしながら、グリセードの要領で滑り降りることができる。  これだと小型車なみのスピードがでるからかなり時間を短縮できる。しかし残念ながらK岳周辺にはそんな便利な草ツキはどこにもなかった。 「とにかく現場へもう一度登らないことには手も足も出ないな」  熊耳は、救助隊本部の窓から、吹雪模様の山の方角を歯ぎしりする思いで見上げた。      3 [#ここから1字下げ]  二月二十二日 ラワルピンジに主力集結。  同 二十四日 キャラバン開始。  三月十八日 アスコーレ着、高度順応のためしばらく滞在。  同 十九日 後発隊羽田出発。  同二十九日 アスコーレ発、先発隊員三十一名、シェルパ二十五名、ローカルポーター十八名、アイスフォールポーター三十名、総勢百四名の大部隊、バルトロ氷河を溯行《そこう》。  四月五日 ゴドウィン・オースティン氷河との分岐点の平地、コンコルディアに達する。K2初めて視界に入る。  同 七日 ゴドウィン・オースティン氷河に入る。  同二十一日 標高五一〇〇メートルの地点にBC《ベースキャンプ》建設、ルート工作開始。 [#ここで字下げ終わり]  貴久子は刻々入ってくるK2登山隊のニュースを目を熱くして読んだ。今このニュースを読んでいる瞬間にも、雪崩が真柄に襲いかかっているかもしれない、氷塔《セラツク》や氷のブロックが崩れ落ちているかもしれない。そんなにしてまで彼はどうして進まなければならないのだろうか? より困難を求めての可能性の限界への挑戦ならば、何もわざわざ山へ出かけなくとも、いくらでも�下界�でできるような気がする。  ただ単に山の頂上に到達するために、そこが一番高いからとか、まだ誰も行ったことがないからとかの理由で、巨額の費用と命をかけてひたすら登りつめて行く。みんな登られてしまうと、目的は最も高い頂ではなく、最もむずかしい地点へ、最もむずかしいルートを通って行くことになる。  これを「純粋なプレイ」と呼ぶならば、それはまた何と危険な、そして蕩尽《とうじん》のプレイであろう。  貴久子はアルピニストの心理をよく理解できぬながらも、ひたすらに真柄の無事を祈りつづけた。  その後、熊耳からは何度か葉書がきた。それに対して貴久子も短い返事をだしておいた。  しかし、真柄たちの山行記録からの発見と疑惑については書かなかった。彼がK2で命をかけている時にそれを第三者に話してしまうと、何か彼の身によくないことが起きるような気がした。  熊耳は近いうちに雪崩が落ちつくしたころを見計らってK岳へ登ると書いてきた。何のために登るとは言ってなかったが、あの時[#「あの時」に傍点]と同じ時期の山を実地踏査して�密室�と、真柄のアリバイを破るつもりであることはよく分った。熊耳ならば、何も雪崩が落ちつくさなくとも、登りたければすぐにも登れるからである。      4  四月の末から日本全土を東西に長くのびた優勢な帯状高気圧がおおったために、雪どけが早く、五月の中旬には、落ちるべき雪崩は落ちつくしてしまった。  連休登山者がちょうどこの融雪の最もいちじるしい時期に殺到したから、底なだれや雪庇《せつぴ》の崩落、あるいは|雪の裂け目《クレヴアス》に落ちこむなどの事故が続発して、連休は文字通りの�連救�となった。  だが現金なもので連休が終ると、ばったりと遭難がなくなった。救助隊にとって本当の連休がはじまったのである。  山は昨年よりも早く夏へ向かっていた。  待ちかねていた五月二十六日がきた。新たな遭難の発生もなく、ゴールデンウイークの残務も終った。  今年は融雪が早く、中旬にはすでに昨年の月末と同じ状態になっていたが、凝《こ》り性の熊耳はなるべく同じ時期に�実験�をしたかった。  二十六日、彼は山へ登ることにした。もちろん、隠れの里から北壁を経由するつもりである。  赤い壁の直下から、若草テラスを左へ、東南稜へ逃れて、東南壁を登る。すなわち影山が辿《たど》ったとみられるルートを彼のコースタイムに従って忠実に辿ってみるつもりであった。  急に�山�へ行くと言いだして、岩登り支度をはじめた熊耳に、隊員たちは呆《あき》れた表情をした。  もともと、みな山好きの人間であるが、日ごろ仕事として入っているから、わざわざ個人的に山登りをするようなことはめったにない。まして危険な岩登りにひとりで行くと言いだしたのだから、呆れた顔をするのも無理はなかった。 「釈迦に説法かもしれませんけれど、ここのところ高温つづきで岩がゆるんでますから、充分気をつけてください」  それでも隊員たちはひかえめに注意した。 「うん、充分気をつけるよ、遭難救助隊の隊長が救助されちゃあサマにならんからな」  熊耳は隊員たちの気づかいを謙虚に聴きながら、二十六日早朝、救助隊本部を出た。途中ジープが入りこめるところまで、送ってくれた。  おかげで大分時間を稼げて、陽が昇った時には隠れの里の雪渓に立っていた。非常に優勢な本州上高気圧がまた張りだしてきたので、まだ当分は安定した天気に恵まれそうである。  取付点、七時二十分。影山のコースタイムよりも約一時間早いのもジープのおかげである。  熊耳は取りつく前に、首が痛くなるほど上を見た。一見やさしそうな岩も、ホールドやバンド状の個所に雪がついて、陥《おと》し穽《あな》をいっぱい隠している。  七時三十分、登攀開始。久しぶりの岩登りで、最初の間は身体が岩になじまず、呼吸ばかり弾んでいっこうにピッチがあがらなかったが、しばらく強引に登るうちに、ようやく以前のリズムとバランスが戻ってきた。  夜明けの寒気で岩には氷が張りつめている。  登るほどに岩が|落ち着かなく《アンサウンド》なったが、ところどころにある小さな藪《ブツシユ》が、アンサウンドロックの登攀を助けてくれる。  最初の関門は、取付三ピッチ目のチムニー左側の亀甲《きつこう》状の壁である。それから二ピッチ右上に登り、いったん赤褐色のルンゼのテラスに下りる。このあたりに落石が多い。ここで受傷すれば頂上へ抜けるのは無理であろう。ここからハング状に消える逆層の側壁の登攀がはじまる。このあたりが帯状岩帯のキイポイントで、どのパーティも苦労するところだ。  岩登りが目的でないうえに、ジープのおかげで大分時間を節約できたので、熊耳は時間をかけて慎重に登った。  十二時二十分、ようやく側壁を抜けて、小さなブッシュにとびこむ。ジープで稼いだにもかかわらず、影山のコースタイムが接近してきたのは、やはり影山の力倆の並々ならないことをしめす証拠であろう。ここで影山と同様に昼食を取ることにした。いちおう念のために手近な岩にハーケンを打ちセルフビレーして、ザックを開ける。にぎりめしと牛肉のみそづけ、テルモスから熱いお茶を飲む。  わたの塊りのような断雲が、稜線から片々と吐きだされているが、よい天気である。熊耳は奇妙に安穏な気持で、食後の煙草をつけた。  ふとしばらく会っていない家族を思った。彼の家は松本にあり、本署勤務のころは、そこから通勤していた。救助隊に入ってからは、子供たちの教育問題もあるので、彼だけこちらへ単身赴任している形になっている。  こんな自分の勝手で山へ登るひまがあるなら、久しぶりに妻子に顔をみせてやればよいのに、つくづく悪い父であり、夫であると思った。  ふと家事と子供の世話で大分くたびれた妻の顔に、湯浅貴久子の顔が重なった。  ——家で待っている人間が貴久子であったら——  熊耳はあわてて首を振った。 (おれが湯浅貴久子を? 馬鹿な! おれにはもうそんなことを考えることすら許されていないのだ)  熊耳は強いて別のことに思考を向け変えた。 [#ここから1字下げ]  四月五日 コンコルディアに達する。K2初めて視野に入る。  同 七日 ゴドウィン・オースティン氷河に入る。  同二十一日 BC設営、ルート工作開始。  同二十七日 五五〇〇メートルの地点に第一キャンプ設営。  同二十八日 東北稜取付き。  五月五日 第二キャンプ(五九一〇メートル)設営。ルート工作、困難をきわめ、三百メートル以上の固定ザイルを取りつける。  同 十一日 第三キャンプ設営(六三二〇メートル)。  同 十二日 ポーター、パサン・ダワ・リン、第二キャンプへ下降中、雪崩に巻きこまれて圧死、他のポーター恐怖心から、第三キャンプより上への前進を拒否。止むなく隊員とシェルパだけで荷上げにあたる。  同 十三日 急峻な岩稜、落石多く、危険。  同 十五日 隊員に故障続出、シェルパ、キクリヒラキニ、右|下腿《かたい》部に落石をうけて骨折、BCへおろす。悪天に入る。  同 十八日 先発工作隊員真柄慎二、第四キャンプ設営(六五五〇メートル)。 [#ここで字下げ終わり]  こうして休んでいる間も、真柄は世界最高の高所へ向かって、歩一歩苦闘の足を進めている。貴久子の面影から考えをそらそうとして思いだしたK2登山隊の情報が猛然たる闘志を熊耳にかきたてさせた。  ——負けてはいられない——  彼は吸いかけの煙草を消すと、勢いよく立ち上がった。  十七時二十五分、若草テラスに到着。影山とほぼ同タイムになった。今度は昼食時間で調節して、影山と同じ時間に行動開始したのだから、熊耳の腕も影山に匹敵すると言えるだろう。まだ充分行動可能な明るさであったが、これ以上登ると、途中適当な露営地《ビバークサイト》がないため、そこでビバーク。夜はかなり冷える。  翌朝四時三十分、日の出とともに行動開始。いったんテラスより直上して、赤い壁の『恐怖のトラバース』を試みてみるが、単独では手のつけようがなく、さっさと退却。予定通り、若草テラスより左の東南稜へ逃れて岩尾根を登る、雪かなりあり、夜明けの寒さでしまっている。いったんはずしたアイゼンを装着。  下を見ると、びっくりするほどはるか下方に、先日降った雨のために茶色い雪崩で埋められた隠れの里の雪渓が横たわっている。そこもかなりの傾斜であるはずなのに、ここから見下すと、懐しいほど平坦に見える。  岩稜をつめて、いよいよ頂上直下の岩壁にとりかかる。岩は硬いが、落ちついていない。誤って不安定な岩を蹴り落としてしまう。すっと音もなく足下の空間に吸いこまれて、忘れたころになって、はるか下方からカラカラと骨の鳴るような反響がかえってくる。ここで墜《お》ちたら、隠れの里の雪渓まで何ものも遮《さえぎ》ることのない数百メートルの空間を一気に落下して、人間の形を留めないまでに叩き潰されるだろう。  熊耳は今まで何十体となく見た無残な墜死体をまぶたによみがえらせて、ゾッとなった。  ヒュッと空を切るものがあった。落石! かと体を硬《こわ》ばらせたが、岩ツバメだった。  この時ほど翼をもっている彼らが、うらやましく見えたことはない。  途中何度か小落石に見まわれたが、十八時五十分、無事北峰頂上へ抜けた。今日の影山のコースタイムは、メモにないので不明である。途中、恐怖のトラバースで少し道草をくったが、もし影山が途中で受傷したのであれば、そのハンディと相殺《そうさい》されるし、そうでなくとも二時間程度のちがいである。  頂上へ着いた時はさすがに嬉しかった。頂上は昨年救助に登った時とほとんど同じ状態であった。熊耳は休みもやらず、頂上台地をくまなく点検して、絶対に抜け道がないことを確かめた。  彼はこれから夜の九時まで山頂で待ち、登って来たばかりの東南の岩場に夜間無灯火の下降を試みるつもりであった。  空はよく晴れていたが、風が強い。壮大な夕焼けを残して、太陽が日本海へ没した。夜になると、まるで冬山のように冷えこむ。  ハイマツにもぐりこみ、ツェルトをかぶって時間がたつのを待つのは辛かった。体が急速に冷えてくる。東南尾根の突起ごしに、奥村田の灯が見える。あの中に山荘の灯もあり、暖かい寝床や、飲物もあるのであろう。山頂が極端に暗く寒いので、下界の灯がことさら明るく暖かそうに見える。月はまだ出ない。出たところで大した助けにならないだろう。  熊耳はその時、自分が何か途方もなく無意味なことをやっているように思えた。一体、こんなことをして何になるというのか?  もうとうに消滅してしまった人間のために、一人の有能な青年を執念深く追いかけている。  彼を捕え、有罪にすることに、どんな意義があるのか? ここで自分があっさり追及を止めてしまえば、警察の検挙率は上がり(事故死として確定するので)、日本山岳界と彼の勤める銀行は、有能な人材を一人失わずにすむことになる。本人と、彼の婚約者も幸福になれる。湯浅貴久子すら真柄の無事を望んでいる。  虚《むな》しさが胸の深部から吹きつけてきた。  九時になった。熊耳は立ち上がった。凄絶な星空の下に、周囲の高峰群は凍っていた。風は止んでいる。痛いばかりの静寂の底に水音がはるかにかすかだった。  ——やはりやらなければならない——  殺された疑いのある人間があり、疑わしい人物がいるかぎり、自分は真相を突き止めなければならないと思った。  そんなおおげさなことを言わなくとも、今さら引きさがれない。  足もとに注意しながら、そろそろと岩壁のふちへ近づく。光が全くないので、暗黒の奈落へ向かって手さぐり、足さぐりでおもむろに体重をおろしていく。しかしすぐに彼は行きづまってしまった。岩が脆《もろ》い上に割れ目の雪や水分が凍結しているために、いちいちホールドやステップを刻まなければならない。  懸垂下降《アツプザイレン》の技法を用いたくても、下の様子が全くつかめないので、動きがつかない。多少のライトがあったところでどうにもならなかった。  それでも何とか降り口を見つけようと悪戦苦闘している間に、東の尾根に月が出た。半分ほど欠けていて、その光量では何の役にもたたない。影山が死んだ夜もほぼ同じような月だったから、その光に頼ろうとするのは問題にならなかった。  熊耳はあきらめて山頂へ引きかえした。これ以上無理を重ねていると、命を失いかねない。山頂から夜間絶対に下降できないことは確定した。探照灯でも照らさないかぎり、不可能である。奥村田から夜を徹して見張っていた貴久子の目に、一点の光も入らなかったのだから、下降した人間が光を使わなかったことはたしかである。  ライトによるSOSの発光信号すら認められたのであるから、下降に必要な強力な光を使えば、山麓から必ず見える。  犯人はどこから脱出したのか? そして一時間強でどうやって山麓まで下りたのか? 熊耳は失望と疲労に打ちのめされた目で、はるかな闇の底にひとかたまりに簇《むら》がって見える奥村田の灯を見た。彼の徒労を嘲笑《わら》うようにそれらの灯は、明るく暖かそうに輝いている。遠い尾根を風の渡る音がした。  焦点を失っていたような熊耳の視線がふと固定した。 「おい! あれは何だ!?」  彼は誰かに話しかけるようにつぶやいた。低い声だったが、誰もいない三千メートルの高峰の頂で、それはおどろくほど大きくひびいた。彼の視線にみるみる熱い輝きが戻った。 「そうだったのか!」  今度は大きな声で叫んだ。声は大きな空間に割れて、吸いこまれるように消えた。 「分ったぞ」  彼には分ったのだ。犯人がどうやってこの密閉された山頂から脱出し、どんな方法で一時間少々の時間に奥村田へ下り立てたかということが。    多重電飾  ほぼ同じ時刻、湯浅貴久子は母と一緒に久しぶりに銀座に出ていた。知己の家に婚礼があって何か祝いの品を贈るので、一緒にみたてて欲しいと頼まれたのである。  ここのところ、会社と家の往復だけで、毎日勤めで都心へ通いながら、銀座へ出たのは久しぶりであった。 「まあ、随分、変ったわね」  家に閉じこもりきりの母には、もっと愕《おどろ》きが強かったらしい。まるで汽車で初めて上野駅へついた地方の人間のように、きょろきょろしている。 「お母さんったら、いやあねえ、まるで田舎者みたいに」  貴久子が閉口すると、 「ええ私はどうせ東京の田舎者ですよ。とにかく�杉並村�に閉じこもりっきりなんだから。銀座へ出たのも何年ぶりかしら」 「オーバーねえ」  それでも久しぶりに母娘《おやこ》肩を並べて歩くのが嬉しく、ゆっくり時間をかけた買物がすんでからも、銀ブラとしゃれこんだ。 「お母さん、久しぶりにどこかで食事をしていきましょうよ」  貴久子は単純に喜んでいる母にデラックスな夕食をおごってやろうと思いたった。 「そうねえ……でも」  大喜びするかと思ったが、母の口調は案外歯切れが悪い。 「でも、どうしたの?」 「でも、お父さんが」 「何言ってんのよ、たまに銀座へ出た日ぐらい外食したって大丈夫よ、ご自分は店屋物《てんやもの》でも取るわよ、子供じゃないんだもの」 「そうかもしれないけれど、でもやっぱり電話だけしとくわ」  母は公衆電話を見つけると、家でひとり留守番をしている夫を呼んだ。何年ぶりの外出というのに、夫の夕食の心配をしている妻。 (とてもかなわないわ)と貴久子は思った。  やがて母はいそいそと帰って来た。 「さあ旦那様のお許しがでたんでしょう。今夜は大いに羽根をのばしましょうよ」  貴久子は言った。  彼女は母を東都ホテルの『グランビュー』へ連れて行った。銀座から近かったからではない。そこは真柄が誘ってくれたところだったからである。むしろ貴久子にとっては恥ずかしい記憶の強い場所のはずであったが、真柄に醜態をさらすところを危く救われたことが柔らかな想い出となって、あの夜の高層食堂の夜景とともに美しくけむっていた。  案の定、母は愕き、次に喜んだ。  最初はこんなデラックスな場所では、体がすくんでしまうと言っていたのが、静かな落ちついた雰囲気と、貴久子がついていたおかげで、すっかり自分のペースを取り戻して充分に料理を楽しんでくれた。  長い五月の一日は食事の間に暮れかかり、食事を終って二人がホテルの外へ出てきた時は、すっかり夜になっていた。 「寿命が延びたようだわ」  すっかりご満悦の母に、 「少し歩いてみましょうか」  貴久子は誘った。このまま帰るのが少し惜しいような気がした。  母には悪いが、その時貴久子は真柄の追憶にひたっていたのである。彼女は今もし自分と並んで歩いている人間が真柄だったらどうだろうかとふと考え、全身で喜んでいる母の姿に気づいて、ひどく悪いことをしたように胸をつかれた。  何となく歩いているうちに、人通りの多い通りへ出た。ネオンが華やかに点滅して、歩く人の面を様々な色彩に染めている。 「あら、へんなネオンねえ」  ふと母が前方を指さした。 「どこ?」  貴久子は母の指の先を追った。 「ほら、あそこよ、『純喫茶書店』とあるでしょ。喫茶店なのか、本屋なのか分らないねえ」 「あら本当に!」  貴久子も不思議がった。このあたりは以前影山とよく来たところだったが、そんなにへんな喫茶店はなかったようである。それとも新しい喫茶店が最近できたのだろうか? 「きっと喫茶店で本を読ませるのよ。東京にはいろいろな喫茶店があるから」  貴久子はきっと、インテリ層をねらった新しい趣向の喫茶店だと思った。  なにしろ東京には喫茶店と名のつくものだけで一万三千軒もあって、みな酷《きび》しい生存競争を生き残るために懸命の工夫をこらしている。英会話喫茶やマンガ喫茶もあるくらいだから、本を読ませる喫茶店があっても不思議はない。あそこへ入ってみようか。母と一緒に喫茶店へ入るのもシャレている。(いったいどんな本を読ませるのかしら?) (画像省略)  やがて二人は『純喫茶書店』の前へ来た。ネオンの前へ来て、二人は「なあんだ」という顔をした。  そばへ来て分ったことだが、それは喫茶店と書店が隣り合っていて、二店の縦長のネオンが一部分重なり合って取りつけられていたのである。たまたま同色のネオン管が使われていたので、多少の距離をおいて眺めると、二つのネオンが重なり合って一つの連続したネオンサインに見えたのだ。  通りすぎて、今度は反対側から見ると、『内田屋書店』とはっきり読める。喫茶店の名前は、『ふるさと』だった。それが見えなかったのは、さらに手前に別の店の別色のネオンがあってその背後に隠れていたからである。  つまり喫茶店ふるさとのネオンは、二つのネオンにはさまれていた。上端の『ふるさと』の文字は、別の色のネオンに隠され、その下端には、内田屋書店の同色のネオン広告がのびており、それらが重なって、『純喫茶書店』という「へんなネオン」が形成されたのである。ふるさとの文字を被う別色のネオンは、色がちがうために、重なって(連続して)見えなかったのだ。  通りすぎてから、振りかえると、今度は、『ふるさと内田屋書店』と読める。 「なあんだ!」 「すっかり欺《だま》されちゃったわ」  二人は声をだして笑い合った。あんまり笑ったので涙がでるほどであった。通行人が怪訝《けげん》な顔をして振りかえっていく。 「ああ、おかしかった」  二人はようやく笑い止んだ。 「あんまり笑ったので何だか、疲れちゃったわ。お母さん、車で帰りましょうよ」 「もったいないよ、お前」 「いいのよ、私がおごるわよ」  貴久子は車を止めるために歩道のはしへ立った。  徐々に蓄えられていた熱が一気に爆発したように、一つの考えが貴久子の頭を貫いたのはその時である。 「まさか!」  彼女は硬直したように立ちつくした。それはあまりにも恐しい連想だった。だがそのように考える時、すべてが合理的に説明される。  硬直が溶けると、膝がしらがガクガク震えてきた。 「お前、どうかしたのかい?」  何台も空車の表示をだした車が通りすぎて行くのに、一向に止めようともせず、目を宙に据えている貴久子の異常な様子に、母が心配そうにたずねたが、その声すら耳に入らなかった。 [#改ページ]    ヒマラヤの星      1  五月十九日 第四キャンプ、落石の直撃をうけて穴をあけられる。幸いにも下に誰もいなかったために、事故をまぬかれる。  五月二十一日 一時もちなおしたかにみえた天候がふたたび荒れだして、危険な第四キャンプに停滞を余儀なくされる。  五月二十六日 天候回復、このチャンスに一気に前進をはかる。この間百二十メートルの大岩壁に阻《はば》まれ、真柄慎二が隊員と七時間かかって乗り切り、ザイルを固定。  五月三十一日 岩壁の上に第五キャンプ設営(六八〇〇メートル)、四日間にわたって手動リフトで荷上げ。  六月五日 七〇五〇メートルに第六キャンプ設営、ここで吉城正雄隊員血栓性静脈炎をおこす。一時前進を断念、全力をあげてBCへ降ろすことにする。折りから悪天に突入し、シュラーフに入れて、風雪の中をザイルで確保しながらずり降ろす。  六月十六日 攻撃再開。  六月二十日 七三三六メートルに第七キャンプ設営、真柄慎二、剣持和男、第一次頂上アタックの隊員に決定。  六月二十四日 頂上ピラミッドの基部に第八キャンプを設営。七七二〇メートル。  六月二十七日 八二八二メートルに最終攻撃キャンプを設営。真柄、剣持両攻撃隊員、キャンプ入り、サポート隊、第八キャンプに下る。  六月二十八日 頂上攻撃にかかる。  真柄慎二は闇の中で目を覚ましていた。時間の流れがまるで凍結してしまったように遅い。強風が高所テントを今にも吹きちぎらんばかりに吹きつのる。  この神々の領域に侵《はい》りこんだ身のほど知らぬ人間どもに激怒し、八千メートルの雪の急斜面に必死にへばりついた�異物�を数千メートル下方の氷河に叩き落とそうとしているかのようであった。  明日の晴天はまちがいあるまい。BCからは南の高気圧が移動してK2をおおうため、明日は絶好の攻撃チャンス、頂上付近の風速は十メートル前後との連絡を受けている。  今夜一晩、この高所に�居る�ことを許されれば、明日は頂上へ立てる。本当に今夜一晩の辛抱だ。地上最高点へ到達できる喜びよりも、この言語に絶した極寒地獄から逃れられる喜びのほうが大きい。  神々に追い落とされなくとも、頂上へ辿《たど》りつけたら、さっさと下りて行く。懐しい地上へ、文化的な生活と、美味《うま》い食物のあるところへ、人間が生活するところへ、そして何よりもあの恋しい女が住んでいる下界へ。  だが自分には本当にあそこへ下りて行く資格があるのだろうか? 今、自分の隣に寝ている剣持も、そして明日の絶頂へ我々二人を立たせるために必死にサポートしてくれた隊員やシェルパやポーターたちも、明日の登頂が成功すれば、当然のことのように、下界へ人間の住む場所へ下りて行く。  しかし自分にはもうあそこへ下りる資格が失われてしまったのではないだろうか?  空気はうすく、気温は氷点下数十度、烈風と雪煙の渦巻く、この�非人間的空間�のほうがむしろ自分にふさわしい場所ではあるまいか?  登頂を明日にひかえた今夜、何故こうも弱気になるのか? 真柄はその原因を知っていた。彼は心に萌《きざ》した不吉な思いを振り落とすように首を振った。 「僕たちが今、おそらく地上最高の場所で寝ている人間でしょうね」  隣の寝袋から、眠っていると思っていた剣持が話しかけてきた。彼も眠れないらしい。こんな時に眠ろうとするほうが無理かもしれない。午前三時、二人は起きだした。サポート隊が残していってくれた酸素を吸いつづけたおかげで、八千メートルの高所にいるにしては、割合好調である。  日が昇る。壮大な雲海を突き破って氷山のように屹立《きつりつ》するカラコラムの巨峰群が息をのむような薔薇《ばら》色に彩られる。  しかしその壮観を眺めるのよりは、アイスボックスのようなテントから出られるのが嬉しい。出たところで、これはまた巨大な冷蔵庫のような八千メートルの雪と氷の急斜面が待っているだけなのだが。  午前五時五十分、出発。骨まで突き刺さるような寒気。高差約百メートルの岩棚《テラス》の下をトラバース、つづいて六十度くらいのクーロワール、雪と氷が一面に張っている。剣持トップをつとめて右上に抜ける。ここでトップ真柄と交代して、脆い岩棚を強引に突破。つづいて深雪のトラバース、それが終るとふたたび岩場である。アイゼンをはずす。ここから酸素を毎分四リットルに増量。岩はややかぶり気味で、どこにも逃げようがない。ホールド、スタンスともになく、ハーケンを連打して、アブミ、吊り上げの連続使用で這い上る。  穂高にいくらでもある程度の岩場だが、八千メートルのクライムとなると比較にならない緊張を強いられる。  ようやく岩場を抜けて、雪稜の上へ出る。十一時二十分、無線で前進基地を呼ぶ。 「行けそうか」 「大丈夫、行けます、ほとんど無風状態、絶好のアタック日和、二人ともコンディション快調です」 「頼むぞ、気をつけて行ってくれ」 「了解」  登攀隊長や、仲間たちの激励をうけて出発。眼前には巨大な白馬のたてがみのような雪の稜線が、天空へ突き抜けるばかりに連なっている。堅雪、アイゼンが小気味よくきく。  遮光《しやこう》めがねをかけていても、天と地の境にみなぎる無限の光量を受けきれないほどだ。  巨人の斧《おの》で断ち割ったような白き神々の座、凍結して澄んだ凝縮、燦爛《さんらん》たる白い荒涼、あまりに蒼すぎて、昼なのか、夜なのかふと見まちがえるような空。  何度か頂上かと思われるような、ピークが現われ、ようやくそこまで辿りつくと、さらに絶望的な距離の先に同じようなピークが現われる。  今度こそはの期待を何度も空しく裏切られて、そして遂に終りがきた。 「こちら真柄、感度ありましたら応答してください」 「ただ今、頂上直下三十メートル、今度の交信は頂上から行ないます」  二人の眼前に頂上は、ことば通りの地の終りとして、彼らに踏まれるのを待っている。 K2——記録の上では、世界第二位の高峰の頂との間に、もはや何ものも障害はない。世界のえりすぐりのアルピニストを頑強に拒みつづけた悪名高き山の頂きも、ここからなら小学生でも達せられる。  二人は急にその距離を歩くのが惜しくなった。 「剣持さん、先に行ってくれ」 「真柄さんこそ先に」  二人はそこで美しい譲り合いをした。  午後一時二十分、二人は絶頂へ達した。まず真柄が、つづいて剣持が、八六一一メートルの頂上をしっかりと踏みしめた。 「ただ今一時二十分、頂上です」  ベースキャンプにバンザイの渦が巻く。 「おめでとう、おめでとう! 真柄君、剣持君、よくやった。あとはどうか安全に下ってください」  沈着な登攀隊長の声が興奮している。  とうとう来たのだ。この天と地の境へ。世界のアルピニストの憧れを一身にになって。真柄の心に湧いたのは、突き抜けるような感激でもなければ、猛烈な興奮でもなかった。  彼はその時、炎とその上にまっすぐに立ちのぼる黒煙を見ていた。それはかつて影山を焼いた炎であり、遺体を包んで噴き上った黒煙であった。  魂の香煙を焚《た》くかわりに、友の遺体を焼く炎と黒煙が彼の瞼《まぶた》の中に、途方もない展望を背景に、蒼穹《そうきゆう》の中心へ向かって限りもなく吹き上がっていくのだった。そしてその先に、もう一つの恐しい記憶。——  頂上に日の丸とパキスタン国旗を打ち立て、写真を撮った二人は、一時間後、頂上を後にした。日没前に危険な岩場を下りきらなければならなかった。最終キャンプにはサポート隊が上がってきてくれている。  下りの足どりは軽かった。岩場までは大してむずかしくない雪稜なので、アンザイレン(ザイルで体を結びあう)しなかった。  岩場が近づき、やや傾斜がゆるくなった。その時、真柄が足をもつれさせてスリップした。するすると緩斜面から急斜面へ落ちかかる。  真柄はあわてずに、ピッケルで滑落止めの姿勢をとった。腹這《はらば》いになり、体重を右手にかけて、ピッケルの刃先《ピツク》を着実に雪面に突き刺す。さすがに見事な確保姿勢であった。  真柄も剣持も当然、難なく止まるものと思った。ところが予期しないアクシデントがおきた。ピッケルのピックが、柄《シヤフト》の近くからポキリと折れたのである。手からピッケルがはね飛んだ。  いったん止まりかけた真柄の体は、ピッケルの支えを失ったために、反動的な加速度をつけて、雪の斜面を転がり落ち、アッという間に剣持の視野から消えてしまった。  剣持はしばらくの間、声をだすこともできなかった。突然降って湧いた事件が信じられなかった。本当に何でもないような雪の尾根である。体の重心をくずす突風もなかった。ピッケルさえ折れなければ確実に止まったはずである。 「まがらさん!」  ようやく我に帰った剣持は、愕然として叫んだ。しかし平凡な雪稜ではあっても、その下方には八千メートルの標高がある。巨大な山体は今こそその巨大さを遺憾《いかん》なく発揮して、ミクロの虫を呑みこんだ大洋のように、白い雪の海の底に、真柄の墜《お》ちた痕《あと》すらとどめなかった。風が出た。今あとにして来たばかりの頂上が、青い空の奥へ白い炎のような雪煙を吹き流していた。      2  日本人、地球の屋根に立つ、日本登山隊K2登頂に成功。——  六月二十八日午後、日本中はこのニュースに沸き立った。「米国のカンボジア侵攻」「八百長プロ野球」「海と空のハイジャック」などと、ここのところつづいた暗いニュースを吹きとばす明るいニュースだった。  だがそれから数時間して、明るいニュースを打ち消すようにして伝えられた真柄隊員遭難の報は、久しぶりの快報の後だっただけに、人々に大きな衝撃をあたえた。  朗報と悲報、快挙と悲劇、歓喜と涙のあまりにも劇的なコントラストは、マッターホルン初登頂直後のウィンパーの悲劇のような様相をK2登頂に帯びさせたのである。  マスコミは挙《こぞ》って、真柄を�悲劇の英雄�としてとりあげた。 「ブライトホルン北壁の積雪期初登攀の記録を打ちたてた日本の誇るクライマーは、K2山頂へ東北稜を経由して初の足跡を残したあと�ヒマラヤの星�となった」  ある新聞が、ヒマラヤの星と呼ぶと、各紙がたちまち追従して、K2東北稜初登攀の記事はいつの間にかこの�星《スター》�の特集のようになってしまった。  間もなく、同行した剣持隊員はその場の様子を次のように伝えてきた。 「何のへんてつもない緩《ゆる》い傾斜の雪の尾根だった。何かがスリップした気配に後を振りむくと、真柄隊員が、雪の斜面を腹這いになってゆっくりと滑落していた。足を踏みすべらしたのである。アンザイレンしていなかったが、私は少しも心配しなかった。すでにピッケルを雪面に打ちつけ、体は止まりつつあったからだ。ところがピッケルの刃先《ピツク》が折れた。いったん止まるかに見えた真柄隊員の体は、数千メートル下方の氷河から、目に見えない凶悪な意志に引っ張られるように、アッという間に視野から消えてしまった。しばらくの間、私はこの突発事故が信じられず、真柄隊員が、自分の意志で墜ちていったような気がしてならなかった」  ——ピッケルさえ折れなければ、星は落ちずにすんだ——  ——アルピニストの魂に裏切られる——  ——怨み尽きなし、愛用のピッケル、山男の万斛《ばんこく》の涙——  剣持隊員の�目撃談�をたねにマスコミは書きたて、悲劇の英雄の最期を、さらにいっそうの悲劇仕立てにした。      3  貴久子は、マスコミのお祭り騒ぎをじっと歯を食いしばるようにして見守っていた。 (誰もあの人が死んだ本当の原因を知らない。あの人は死んだのではない。殺されたのだ。いったい誰に? みんなあの人が死んだのは、ピッケルのせいだと思いこんでいる。ピッケルさえ折れなければ、あの人は死ななかったと。  剣持という隊員が言っていたではないか。『何のへんてつもない緩い傾斜の雪の尾根だった』と。何故そんな平凡な尾根で、ブライトホルンの北壁を攀《よ》じた有数のクライマーが足を踏み滑らしたのか、誰も疑問に思わない。剣持隊員はさらに、『自分の意志で墜ちていったような気がしてならなかった』と語っている。  だれもこの�突発事故�を自殺だとは思わないのだろうか? そして一見自殺[#「一見自殺」に傍点]のような死に、人生のすべての歓喜を圧縮したようなひと時の後に、何故追いこまれなければならなかったのか? 不審に思った者は一人もいないようである。  でも私は知っている。彼の死は決してピッケルのせいではない。彼は自ら足を踏み滑らしたのだ。そのかぎりにおいては、自殺である。しかしそうせざるを得ないような心理に追いこんだ人間はほかにいる)  貴久子は、真柄がK2登頂の前に書いたと思われる長い手紙を、マスコミが彼の死を�ヒマラヤの星�と騒ぎたてている最中に受け取った。  それは極寒と乏しい灯と、酸素不足の悪コンディションの中で書かれたらしく、文字がかなり乱れているが、おおむね次のように読める。  ——湯浅貴久子様、お手紙ありがとうございました。全く予期していなかっただけに、それを手にした時、私は踊り上がって喜びました。たとえその内容に、どのようなことが書かれていようと、あなたからのお手紙は、私にとって常に大きな喜びなのです。  生命の存在が全く感じられない氷河と、その周囲にそびえ立つ巨大な氷の尖塔《セラツク》のような七、八千メートル級の高峰群《ジヤイアンツ》を毎日眺めていると、いかにもこの地が、アルピニストの憧れの聖地であり、それらの峰々へ自分の足で着実に近づいて行く時、心はまさにアルピニストの喜び以外の何ものでもない感情で熱く充たされるのですが、同時にこれは、安らぎや、心の和みの全くない挑戦の日々であり、緊張の連続であります。  そういう中にあってあなたのお手紙は、久しぶりに人肌の温《ぬく》みに触れたような安らぎを私にあたえてくれました。  頂上の最終アタックは、この二、三日中に行なわれるでしょう。今この手紙を第八キャンプで書いております。  毎夜少しずつ書きためてきたこの手紙も、ようやく今夜で書きあがるでしょう。いやどうしても書きあげねばなりません。明日の夜になると、手紙を山麓へ運んでくれる者がいなくなるのです。  昼の行動が終ったテントの中で、極寒にかじかんだ手と、乏しい灯の下で書いたものですから、乱筆はお許しください。文章も思いつくまま少しずつ書きためたものを、意味の釈《と》りやすいように継きはぎをしました。  現にこの文章も、最後に書いたものを、一番前にもってきたのです。  ここの高度は七七二〇メートル、今年は例年になく天候が悪く、ここまで辿り着くのに悪戦苦闘して犠牲者も何人か出しました。それが今夜は久しぶりに静かな夜です。この好天があと二日つづけば、頂上は確実に我々のものとなるでしょう。明日は、いよいよ最終キャンプに入ります。この手紙があなたのお手もとに届くころは、登頂の成否いずれかの報が、あなたに伝わっているでしょう。  私はとうとうここまでやって来ました。世界中のアルピニストの憧れをになって。山男だったらだれでも八千メートルの巨峰《ジヤイアンツ》の登頂を生涯の夢にします。まして誰も通ったことのないルートを通っての初登攀は、見果てぬ夢なのです。フランスの登山家、モーリス・エルゾーグが言ったように「そこに生きることが人生の宝」でした。私はその宝を得るために人間にとって必要な他のあらゆる宝を捨ててしまいました。人間の誇りも、友も、そしてこの世の中で私にとって「ただひとりの女性《ひと》」であるあなたすらも。  私は今この八千メートルの高所に達して、私が得た�宝�よりも、それを得るために捨てた多くの宝のほうがどんなに貴重で大切なものであったかを痛いほどに悟りました。でもそれに気がついた時は遅すぎました。私にはもう前へ進む以外に道はありません。この汚辱にまみれた身体を、誰も踏んだことのない清らかな雪稜を伝わせて八六一一メートルの絶頂に立たせるために。そこへ達した後どうするか? それはその時に決めようと思います。  あなたの推測した通り、私の汚辱と罪業はブライトホルンの北壁ではじまりました。影山と私は、アルピニストの功名心にとり憑《つ》かれて、悪名高いあの北壁の積雪期初登攀を狙いました。それまで、穂高や谷川の岩場でかなり鍛えてはおりましたが、初めての外国山系の、しかもヨーロッパアルプスで最も悪い壁と言われた、ブライトホルンの北壁をやり通せる自信は我々にありませんでした。  しかしそれだけにやりたかった。夏は日本人を含め何組かのパーティが登っておりますが、冬の完登記録はありません。これを首尾よく登り通せば、我々の名前は世界にひびきわたるでしょう。影山と私は、北壁そのものよりも、その栄光と名誉に火のようにこがれました。  そしてそれを確実に我がものにするために、当時の岩登りの第一人者と言われた野中を、費用を全額負担するという餌で誘ったのです。  全額出したというのでは、いかにも我々の力不足を金で補ったように見えるので、半額の�友情出資�という形にしました。単独行を頑《かたく》なに固執する野中も、ブライトホルンの北壁と全額負担の誘惑に負けて我々とパーティを組んだのです。  ところが北壁は想像を絶する悪絶さでした。それでも野中に引きずられるようにして、頂上直下の大オーバーハング『黒いサソリ』の基部まで達しました。しかし我々はとうとうそこで恐怖のあまり動けなくなってしまったのです。  山というものはふしぎなもので、たとえ同じ場所、同じ季節であっても、登攀の都度まったく別の様相を呈します。それは山そのものだけでなく、登る人間の心理においてもそうなのです。前に登った時は、自分でも呆《あき》れるほどに強気だったのが、二回目の時は、まったく別の人間のように弱気になったり、前には何でもなく通過できた悪場で、足がすくんでしまったりすることがあります。  その意味で、山は�一期一会《いちごいちえ》�でした。ブライトホルンは我々にとって初めての山でしたが、その時の影山と私の心理がまさにそれでした。  黒いサソリはたしかに想像を絶した悪さでしたが、我々は山へ取りつく前から、いつになく弱気になっていました。  それに反して野中は、ものすごく積極的でした。強気にしても弱気にしても、チームの気が合っていればよかったのですが、その時の我々三人は、登りはじめる前から、破綻《はたん》を内包していたのです。  壁に取りつき、登るほどに野中は強気に、それに反比例して我々二人は弱気になってきました。その矛盾がとうとう黒いサソリで表面化してしまったのです。  野中は怒り、どなり、あげくの果ては我々を殴りつけました。しかしどんなにされても、もう我々の身体は竦《すく》んでしまって一歩も動けません。ああいう場所では一度恐怖に駆られると、自分でもどうにもならなくなるのです。  このまま黒いサソリに挑めば、私は必ず墜ちると思いました。私は恥をしのんで提案しました。もっともその時は恥ずかしいとも思いませんでした。自分を防衛するために夢中だったのです。 「ここまでくれば、もう完登したのと同じだ。誰も見ているわけじゃないし、ここから下りたって分りゃしない。我々が口を合わせて北壁を登ったことにしようではないか」と。影山も賛成しました。  しかし野中は真っ赤になって怒りました。山男の風上にもおけぬやつ、恥を知れと罵倒《ばとう》しました。そして、 「貴様たちに登る気がなければ、下りるなと残るなと勝手にしろ、しかしおれは登る」  野中の意志は強固でした。動けなくなった我々を尻目《しりめ》に彼はひたすら黒いサソリにアタックをはじめました。もし彼一人がそれを越えてしまったらどんなことになるか、彼がザイルで引っ張ってくれても、もう私には登れないことが分っていました。  我々におそろしい殺意が湧いたのは、その時です。殺意は一瞬の間に影山との間に交流して共通のものとなりました。  彼が登頂後、このことを話せば、天下に恥をさらすだけでなく、我々は�山�から完全に追放されるでしょう。今までいくつかの困難なバリエーションルートを開拓して、アルピニストとしては一方の旗頭を自負していた我々にとってそれはがまんならないことでした。今まで本当につくった記録すら疑われてしまう。  そんなことは絶対にさせられない。我々は目と目で一瞬の間に共謀の意志をかためると、黒いサソリの基部にハーケンを一本打ちはじめた野中を、確保《ジツヘル》していたザイルで引きずり落としたのです。もともと不安定な体位のところに、信頼しきっていたザイルを下から力いっぱい引っ張られたのだからたまりません。  野中は岩壁の諸所に牙《きば》のように突きだしている岩角にぶつかりながら、十数メートル下の雪渓に、雑巾のように叩きつけられました。もちろんザイルで確保はしませんでした。彼の身体が岩から引き剥《は》がされると同時にザイルを離してしまいました。打ちかけのハーケン一本などどれほどの支えにもなりません。墜ちた直後野中はかすかに生きていました。全身めちゃめちゃになっていたうえに目、鼻、口から出血して一目見てもうとうてい救からないことが分りました。  確保すれば、ザイルが切断でもしないかぎり、そんなにひどく損傷するはずがないので、クラブへの届けは、実際より軽く偽わったのです。地元で疑った者は一人もいませんでした。いわゆる�純粋遭難�として処理されました。現地での検屍は形式だけで、すぐに荼毘にしてしまいましたから、届けはいくらでも作為できたのです。  影山と私は、こうしてブライトホルン北壁冬期初登攀者の栄光に包まれて帰国しました。  影山と私は、殺人の共犯になりました。あの時野中が、黒いサソリのオーバーハングへ向かって身を乗り出した瞬間、下方から激しく引いたザイルには、二人の力がこめられていたことを私たちは、罪の意識とともに痛いほど知っておりました。自分が影山の引いた力の強さを知っているように、彼もまた私の引力を知っているにちがいない。  それが、たがいのこれまでのザイルパートナーとしての結束をさらに強めることになりました。これを腐れ縁と申しましょうか、それまでは純粋な友情で結ばれていた我々が、たがいへの不信と、いつ裏切られるかもしれない不安で離れられなくなったのです。  八ケ岳であなたに出会った時は、ちょうどこんな時でした。私は一目であなたに激しく惹《ひ》かれました。異性を意識するようになってから、自分の将来の相手とひそかに思いえがいていた面影が、そっくりあなたの中にありました。誰でもそういう面影の人をもっている。ただその人にめぐり逢えないだけだ、だが、自分はその人に逢った。私は喜びに打ち震えました。しかしあなたは私の気持を知ってくれようとはせず、どんどん影山の方へ傾いていきました。あなたはまちがっている。あなたにとってもただ一人の男は私なのだ。私は必死にそれを訴えようとしました。しかしいったん一方へ傾きかけた心は、それが誤った角度へ向かってであっても、正しい方向へ傾け直すことはできませんでした。  ちょうどその時期と並行して、影山と私に全山協からK2登山隊員に選抜するという内意があったのです。アルピニストとして、ヒマラヤのジャイアンツへ挑むことは最高の夢です。しかも全山協主催の国家的行事として。K2東北稜はまだ誰も登っておりません。最高の夢である八千メートルの巨峰へ初登攀の足跡を残す。私たちは驚喜しました。  しかし最初の喜びから醒《さ》めると、「誰が頂上攻撃隊員に選ばれるか?」という問題が頭をもたげてきました。岩場の連続の東北稜ですから、ブライトホルン北壁で一家をなした形の我々の一人が選ばれることはまちがいないと思いましたが、各有力山岳団体のえりすぐりが集まる登山隊の中で、一つのクラブに所属する人間が二人選ばれる可能性はまずありません。となると華やかなクライムで、私よりも知名度の高い影山に圧倒的な分があります。  もちろん天候さえよければ、何次でも頂上をアタックできますから、チャンスは増えてきます。しかし気象変化の極端に激しいヒマラヤでは、二回目以後はないものと思わなければなりません。最初のアタックすら、成否のチャンスは、様々な要素の微妙な重なり合いの上にかけられているのです。  私には欲が起きました。どうせ登山隊に選ばれたのなら、頂上攻撃隊員になりたい。ジャイアンツの頂上をこの足で踏み、地球の屋根の景観をこの目で確かめたい。決勝戦で敗れても、緒戦で負けても、負けは負けであるように、頂上へ立たなかった者は、どんなにその近くまで迫ったとしても、登らなかったのと同じです。  八千メートルを越えるジャイアンツが、一人の力で登れないことは分ります。多くの隊員やシェルパたちがそれぞれの個性を発揮しての絶妙のチームワークが、登頂隊員を頂上に押し上げるのです。頂上に立った者は、正確には立たせてもらったのです。しかしそれでもなお、立った者だけが立ったのであり、立たなかった者はどんな完璧なサポートをしようと、命を賭けて登頂隊員のために道を拓《ひら》こうと、要するに立たなかった者です。  登頂の栄光は、登頂隊員の上に輝き、彼の名前はマスコミによって大きく顕彰されます。「その他大勢の隊員」は、縁の下の力もちとして忘れさられるどころか、最初から問題にもされません。  ヒマラヤまで行って、縁の下の力もちなど絶対にしたくありませんでした。しかも命を賭けてまで。  世の中に山男ほど、自己主張の強い人種はおりません。「無償の行為」とか、「純粋なスポーツ」などといったところで、強烈な自己表現の一形式にすぎません。  私は自分の存在を主張するために、どうしても、K2頂上に立ちたかった。  影山さえいなければ、周囲の状況からして私が選ばれることはまずまちがいない。そればかりでなく、あの破廉恥きわまるブライトホルンの虚偽登攀と、殺人を知る者がこの世の中から消滅してくれるのです。  そして何よりも彼さえいなければあなたを私のもとへ取り戻すことができる。ちょうどその前後に起きた平岡英子との縁談などは少しも意識しておりませんでした。  私はこうして影山への殺意をかため、昨年五月のK岳登山の折りに、彼を殺そうと決意したのです。口実をかまえて計画からおりると、あなた方とは別行動をとって一足先にK岳北峰頂上へ行って、北壁を登ってくる影山を待ち伏せました。彼は午後五時ごろ頂上へ抜けて来ました。さすがに単独の登攀はきつかったらしく、かなり消耗しておりました。思いがけず私の姿を頂上に見出して驚いたようでしたが、仕事が思いのほか早くかたづいたので、一般ルートから追いかけて来たのだと説明すると、かえって喜んでくれました。  彼がヘルメットを脱いで休んでいるところを、隙《すき》をうかがって、ピッケルのシャフトで力いっぱい撲《なぐ》りつけました。一撃で昏倒したところをさらに赤ん坊の頭ぐらいの岩石で撲りつけて、完全に絶命したのを確かめました。落石事故を偽装させるために、ヘルメットの上に岩を叩きつけて破損させてから、影山の頭にかぶせました。  万一解剖された時に備えて、死亡時刻を判定させにくくするために、足跡をつけないように注意しながら、円形雪田のはしに、死体の半身を埋めたのです。血や頭髪のついた岩が発見されてはまずいので、凶器に使った岩は、岩壁から投げ落としました。もしそれが壁の中途で発見されれば、ひとは、そこで落石に遭ったと思ってくれるでしょう。もっともヘルメット越しの落石ということになっていますから、岩から血や髪はできるだけ除《と》りました。巨大な岩壁の中で、そんな岩が見つかるはずはないのですが、念には念を入れたのです。  影山を殺した後に、私の足跡や遺留品がないか充分|検《しら》べた後で山を下りました。頂上台地は、雪田以外は固い岩盤砂礫になっていますので、雪田にさえ踏み入らないように注意すれば、足跡のつく心配はありません。  頂上への到達、およびそこからの脱出方法は全くあなたがおっしゃった通りです。誰が、影山以外の足跡のない出入不可能な密閉された山頂で、殺人が行なわれたと疑うでしょうか。頭部損傷に伴う「中間無症状期」というのが、私の犯行の唯一の弱点(頭部のどの程度の損傷が中間無症状期をおこすものか私は医学的に知らなかったので、医者が検屍の結果、その症状をおこすはずがないと判定すれば、他殺になってしまいます)でしたが、山の頂上という特殊な環境が、その弱点を吸収してくれるだろうと考えました。そしてその後の経過は、まさに私の狙った通りになったのです。私は完全犯罪に成功しました。犯罪があったのかどうかすら分らない文字通りの完全犯罪です。  しかし日が経つうちに、「ヘルメット」に気がつきました。その時はかなり慎重に行動したつもりだったのですが、やはり動転していたのでしょう。岩盤の上に置いて岩を叩きつけたヘルメットは、当然、岩の抵抗を受けて下縁に何らかの損傷を被《こうむ》ったはずだ。正しく装着したヘルメットに落石があたっても、下縁が潰れるはずがありません。  もしだれかがこの矛盾に気がつけば、私の完全犯罪に微かではありますが、ひびが入ります。影山の死体は荼毘に付されましたが、ヘルメットはあなたの手もとに残っております。何とかそれを回収しなければならない。私は焦り、遂に、例の�分骨�を思いつきました。この方法ならば、あなたにも、だれにも疑われることなくヘルメットを処分できる。  あなたが一緒にこられると、ちょっとやりにくくなるとは思いましたが、あなたの目の前ではいったん埋めてから、後で掘りだしてもよいと考えました。幸か不幸かあなたはいらっしゃらなかった。私はヘルメットを処分した後、ある山岳雑誌で『ダイナモ』のメーカーが、ヘルメットの耐衝撃試験を行なったことを知り、ふと不安に思い、山の墓を検べたところ、明らかに最近掘り返された痕があり、私が念のために埋めておいた代わりのヘルメットが失《な》くなっておりました。  私ははっきりと罠に陥《お》ちたことを知りました。これが、あなた一人がしかけたものか、それとも、あなたの背後に私の知らないだれかがいるのか、分りませんでした。  しかし後からあなたの行動をひそかに探ったところ、分骨直後、あなたが数日休暇を取って奥村田へ行ったことが分りました。何のために? もちろん、罠の効果を見届けるためでした。そうでなければ、私と一緒に�分骨�へ行ったはずだからです。  罠にはめられたこと自体よりも、その罠をしかけるのにあなたが少なくとも一役かっている事実が、私を打ちのめしました。やはりあなたが本当に愛していたのは、私ではなく、影山だった。だから私を罠に お陥《としい》れてまでも、彼の仇を討とうとしている。  再起不能に近い打撃を受けながらも、私は必死に防衛策を考えました。私が容疑者とされるのはもう避けられない。�密室�とアリバイによって二重に護られてはおりましたが、それでも不安でした。  その時にふと思いついたのが、断わるつもりだった縁談です。幸いにあの縁談は、あなたと知り合う以前から生じている。サラリーマンとして非常に有利な縁談が、あなたを知る前にあった事実は、「あなたをめぐって」という、動機を打ち消してくれます。  ブライトホルンの事件はだれも知らないし、K2登山隊には影山も選ばれております。まさか登頂隊員の座を争ってと考える者はおるまい。つまり、影山を殺す動機は、私から完全に消えてしまいます。  こうして私は、あなたのおっしゃった通り、罠に陥ちた傷を、あなたをあきらめることによって最小限に食い止めようとしたのです。  でもそれがどんなに大きなまちがいであったか、K2頂上に近づくにつれてよく分ってまいりました。あなたはやはり、私にとって「ただ一人の女性」でした。  影山を殺したのは、あなただけが欲しかったからです。あなたを失ってK2の頂上へ立っても、虚偽の登攀記録を消しても、全く意味がありませんでした。  私はあなたを得るために人を殺し、殺してしまった後で、殺人という堕地獄の行為を犯してまで求めた真の目的を見失ってしまったのです。だが今、私にははっきり分ります。私はあなたが欲しい。それを得るために同じ障害があるならば、今でも何のためらいもなく同じ行為を累《かさ》ねるだろうということが。  しかしあなたは、私の殺人者としての正体を見破ってしまった。私があなたへ近づく速さよりも、いっそうに速い速度で、あなたは私から遠ざかって行く。  少し前までは、あなたのところへ一日も早く帰って行くためにK2へ登りたかった。しかし今は、K2の向こうにあなたのいないことが分っています。私は今や登るためだけに登らなければなりません。  いつか、あなたはホテルの食堂で、「何故山へ登るのか?」と私に聞いたことがありました。  それに対して私は、「ピッケルが約束を迫るからだ」と答えました。あの時の私の下手な詩をおぼえておられますか?  でも、K2の頂に立っても、ピッケルは次に登るべき山の約束を決して迫らないでしょう。もう私には次に登るべき山がありません。登りつくしてしまったからではなく、登る資格を喪ってしまったのです。  K2登頂の後、どこへ行こうか? それを私はそこへ行ってからゆっくり考えようと思います。もし行きつけたらの話ですが。せめてあの夜の記憶をいつまでも私のものとすることをお許しください。風が出たらしく、テントが激しくはためいています。さようなら。       第八キャンプにて [#地付き]真柄慎二      湯浅貴久子様 [#改ページ]    明日なき孤独      1  八月の初め、K2登山隊は帰国して来た。その中に真柄慎二の遺骨も混っているはずである。だが貴久子は迎えにいかなかった。  彼はすでに通り過ぎた人間であった。中井や影山同様に、貴久子の中を通り抜けて行ったのだ。後に残されたものは埋めようもない虚しさだけだった。  登山隊が帰国する日、中井敏郎が珍しく貴久子に近づいて来た。ちょうど昼休みで、屋上の日かげのベンチに腰かけて、そろそろ登山隊を乗せた飛行機が着いたころかと、ぼんやり羽田の方角の空を眺めていた貴久子に、いつの間に近づいたのか、中井が遠慮がちに声をかけた。 「ここへかけてもいいかい?」 「どうぞ」  貴久子がそれしか言わないので、話の接穂《つぎほ》が切れた。以前は、逢えば、あふれるほどに話題が次から次に湧いてきて、時間が足らなくて困ったものである。 「僕は会社をやめるかもしれない」  しばらくして中井はチューヴを押し出すように言った。 「そう」  やめようと、やめまいと貴久子には関係ないことだった。 「それで、本当に君にこんなこと言えた筋合じゃないんだけど、もう一度君と交際させてもらえないだろうか?」  貴久子は呆れたような目をして中井を見た。だが中井の表情は真剣だった。かつて彼女を激しく愛していたころと寸分変りのない目の色だった。 「僕は……君と離れてから、君がどんなに僕にとって大切な人間であるかよく分ったんだ。もう一度初めから僕とやりなおしてみてくれないか」  中井のことばにだんだん熱が入ってきた。 「な、頼む! 僕は君がいないとだめな人間なんだよ」  人目がないのを幸いに中井は貴久子の膝に手をかけた。女は初めての男を忘れられないという�公式�を信じている男の態度である。最初のうちはどんなに男の不実を怒ってみせても、肌の記憶は忘れられるものではない。  男が下手《したで》にでて頼みこめば、必ず縒《より》を戻してくれるという絶対の自信が、一見しおらしい中井の態度の底にちらちらしていた。膝にかけられた手を、貴久子がはらいのけようとしなかったことも、彼をますます増長させたようである。  中井の手は、貴久子のスカートの下へ滑りこもうとした。その直前に彼女はすっと立ち上がった。対象を失った男の手は、急につくられた空間の中をぶざまに泳いだ。 「上田専務が失脚してあなたもお気の毒ね、今、あの方にぴったりくっついているのが危険だからといって、そのカモフラージュの役にされるのは、ごめんだわ」 「そ、そんなんじゃない、僕は心底君のことを」 「愛してくださらなくてもけっこうです」  その時、午後の始業オルゴールがタイミングよく鳴った。貴久子は惨澹《さんたん》たる表情をして立ちつくしている中井を屋上に残したまま、階段の方へ向かった。  上田が労組から社金不正使用の事実を追及されて、引責辞職したのは、つい最近のことである。  エリートの権勢などというものは、一見どんなに強大に見えても、精密機械のようにデリケートな力のバランスの上に成立しているものである。  どこかでその�力学�に破綻《はたん》が生ずれば、またたく間に崩れ落ちてしまう。つい最近まで社内随一の実力者として絶大の勢力をふるっていた上田専務はじめその一派は、見るも無残なばかりに凋落《ちようらく》してしまった。  凋落の酷風は、秋の挙式をひかえて上田の女婿《じよせい》としての身分を今まさに取得しようとしていた中井にまともに吹きつのった。彼がいたたまれなくなったのも無理はなかった。  彼が、ここで貴久子との仲をリバイバルさせようとする魂胆《こんたん》は見えすいている。もっとも以前は貴久子との仲は秘密にしていたのだが、今度はその仲を社内に公然と見せつけることによって、�政権�を握ったアンチ上田派の目を一時的にも糊塗《こと》しようとしているのだ。そんな遮蔽物《シエルター》にされるのはごめんだった。  もちろん中井の心には貴久子への未練もあったかもしれない。上田専務の娘に�持参金�がなくなれば、貴久子のほうがはるかにすばらしい。こうして一石二鳥を狙ってふたたびアプローチして来たのであろう。  貴久子にあっさりその意図を見破られて、屋上に一人とり残された中井は、しばらく動く気力もないかのように虚脱した表情で立ちつくしていた。  彼の頭上には、白濁した盛夏白昼の空がある。その空の下の暗い絶望の表情は、出世欲にとり憑《つ》かれたサラリーマンの末路を見せつけているようであった。      2  それから三週間ほど後、貴久子は旅に出た。急にアルプスの山々が見たくなったのである。心の深部を抉《えぐ》り取られたような虚《むな》しさをかかえて、K岳山麓のブナや白樺の樹林帯の中に立ってみたくなった。  熊耳のあばた面にも会ってみたい。彼には女の悲しみとか寂しさとかいったものをすべて優しく包容してくれるような、男の大きさがあった。  夏山の最盛期はすぎたとはいうものの、まだまだ夜行列車は登山客で満員なので、朝の遅い列車に乗った。  少ない休日を利用して、精一杯山を楽しもうとする登山客が圧倒的に多い中央線は、この時間ではがら空きである。  車窓の山岳風景は、韮崎、長坂付近できわまる。左手に甲斐駒から鳳凰《ほうおう》三山へつづくピラミダルな岩稜が胸を圧するような近さで聳《そび》え立ち、やがて右手に八ケ岳の岩襖《いわぶすま》がせり上がってくる。  貴久子はいやでも影山と真柄に救われた時のことを思いださないわけにはいかない。まだあれから何年も経っていないのに、何だか何十年も過ぎてしまったような気がする。それらの一日一日は、何ものも入りこむ余地がないほど、密度が濃く、充実していたが、今こうして、過ぎ去ったものとして振りかえってみると、青い遠望のように茫洋《ぼうよう》として虚しい。  貴久子の焦点を失った瞳に、八ケ岳の主峰赤岳の鋭峰が映った。その前にいくつかの前山があるはずだが、ここから見るかぎり、主峰の巨《おお》きさに吸収されて、鋭いスカイラインと、|霞に《かすみ》青くけむる山影が流れるだけである。 (真柄はどうやって密閉された山頂を出入したのか?)  貴久子は母と散歩した時に見た都心の『純喫茶書店』という「へんなネオン」を記憶によみがえらせた。  影山を殺すために、一足先に奥村田へ入った真柄は、東南尾根を登った。人目を避けるために松本あたりから車を使った。夜のうちに奥村田を通過し、東南尾根を夜間でも登れるところまで登っておく。明るくなってから、岩壁のむずかしい部分を攀《よ》じて、山頂で影山のやってくるのを待つ。東南尾根の上部は、赤い壁基部を走る若草テラスからの逃げ道となっているから、ここで影山と遭遇するおそれがある。さらに奥村田周辺の人目を避ける意味で、真柄がここを通ったのは、影山が登った一日前の二十五日の夜から、二十六日昼にかけてであろう。このことは熊耳が調べた真柄の札幌出張後の空白とも符合している。  こうして頂上で影山を待ち伏せた。待ち伏せているあいだに他の登山者がやって来るとまずいが、季節はずれの時期でもあり、一般登山者の立ち寄らないK岳北峰だったから、まずその心配はなかった。  万一、やって来ても、ハイマツの中に身を潜めてやりすごしてもよいし、最悪の場合は中止すればよい。  幸いだれもやって来ず、目指す影山を首尾よく殺すことができた。これが二十七日の午後六時前後、真柄は犯行後、往路のルートを通って直ちに下山をはじめる。五月末は七時半ごろまで明るいから、|手がかり《ホールド》や|足もと《ステツプ》の見える間に、岩壁の最も危険な部分を通過して、東南尾根へ下り立つことができる。尾根までくれば、あとは起伏は激しい[#「起伏は激しい」に傍点]が、灯がなくとも、奥村田まで迷うおそれのない一本道である。このルートは起伏が激しく、登り降りいずれにしても大変な労力《アルバイト》を要求されるので、登山者に遇う心配はない。まして季節外れの夜である。  下山を開始してから約三時間後、真柄はあらかじめ予定していた小突起の上に立った。ここへは九時までに辿り着かなければならない事情がある。ここから奥村田山荘まで一時間半、急げば一時間で行き着ける。  小突起に立った真柄は、時間を確かめてから、ライトを取り出して、奥村田山荘の方角へ向かって発光信号を送った。  最初に十五秒ずつ四回、三十秒休んでまた同じ要領。影山と貴久子が打ち合わせておいた通りにである。  下方の山荘では、この合図を今か今かと貴久子が目を熱くして待ちかねているはずだった。案の定応答はすぐにあった。貴久子の喜びをそのまま伝えるように、光はうち震え、見る目に鮮かに点滅した。貴久子は、九時以前にも信号を送っていたのだが、上からの応答がそれまでなかったのは、真柄が九時ぎりぎりに小突起へ着いたからであろう。貴久子の周囲にだれかいると困るとは思ったが、彼女がこの山頂と山麓を結ぶ愛の交信をひとり占《じ》めにするため、影山とあらかじめ打ち合わせておいた通り、一人で山荘のテラスに立つことは充分に予想できた。またたとえだれかに見られたとしても、闇に隠されたトリックを見破る者はまずあるまい。彼らは最初から「山頂」と山麓の交信という暗示をかけられているのだ。  真柄の立った小突起は、ちょうどK岳北峰と、奥村田の間にあり、山荘から見るかぎり、視角の具合で、北峰直下の高さに見える。  夜の闇の中に山の尾根の幾重ものたたなわりは、すべて黒一色に統一されて、遠近感を失う。真柄はそれを利用して小突起から発した信号を、頂上から発したように見せかけたのだ。  午後九時に山頂近くから(奥村田山荘から見た場合)発せられた信号は、あらかじめ打ち合わせをしておいたことでもあり、当然山頂から発せられたものと見られる。ましてそれを見る者は、K岳周辺を初めて訪れた貴久子である。  もしその時貴久子の近くに茂助や正彦のような、付近の地勢に通暁している者がいるとちょっとまずいが、あらかじめの打ち合わせもあるうえに、�愛の交信�のプライバシー性といい、夜九時という時間から考えても、貴久子はひとりでいると確信した。  ころ合いをはかって、合図をSOSに切りかえる。山麓の応答は、貴久子の驚愕と狼狽《ろうばい》を伝えて乱れる。やがてそれが見えなくなる。彼女が山荘の中の茂助たちに急を報《し》らせに行ったのである。  今度山麓から応答があった時は、山の専門家たちが、こちらの方角を凝視している時だ。きっと茂助たちは貴久子にどの方角からかと訊《き》くだろう。「あそこよ」と彼女は闇の奥を指さして「今夜九時に影山が山頂から、灯火信号を送ることになっていた」とつけ加える。  これで茂助たちは完全にひっかかる。だいたい隠れの里から北壁を攀《よ》じた男が、夜間そんな半端な時間に奥村田から一時間ほどの東南尾根上の小突起にいようなどとは、夢にも思わない。 「北峰にまちがいない」とSOSの発信場所は�専門家�の保証を受ける。  真柄は山麓からの二度目の応答を確認したうえで、全速力で奥村田へ駈け下りる。かくて十時少しすぎ、真柄は山荘へ姿を現わした。貴久子が真柄の胸の中へ倒れかかった時、汗のにおいを嗅《か》いだのはそのためである。車で来たのであれば汗をかくはずはない。  真柄のアリバイと、山頂の密室は相互にぴたりと組み合わされて構築されていた。どちらを破られても崩れてしまう脆《もろ》いものだったが、組み合わせのからくりが解けないかぎり、難攻不落の二重の防壁に見えた。  真柄はこのトリックの構築を、奥村田山荘からのK岳方面の眺めと、東南尾根の地勢から考えついたものであろう。五月二十七日の天候はあらかじめ、長期予報で調べておいた。もし当日悪天候で、山頂付近が雲か霧で隠されると、このトリックは成り立たなくなるからである。  もっとも、実際にはかなりの悪天候でもさしつかえない。山頂付近が雲霧で隠されていても、小突起—奥村田山荘間の視界さえきけばよいからである。小突起の標高と、山荘からの距離は大したことはないから、かなりの悪天でも信号は見える。  夜間、山頂が雲霧に隠されているかどうか月のない夜には見分けがつくまい。真柄は当日の月の出入時間や、月齢までもあらかじめ計算していたのである。  幸いに天気予報はあたったが、もしはずれて悪天となり、山頂—奥村田間の視野がきかない場合は、犯行を延期するつもりだった。  貴久子はこの防壁攻略のヒントをネオン広告からつかんだ。同色と位置の偶然の一致が、遠近感を失わせて、二個の独立したネオンを一つのもののように見せたのである。  ——ネオンが重なって一つに見えるのだから、山も夜の闇の中で重なれば一つに見えるはずだ。奥山の山頂の近くに前山の頂が重なることだってあるだろう。——  貴久子は記憶をよみがえらせた。そういえば、奥村田山荘のテラスからK岳方面を見上げた時、北峰頂上は前山ごしにチラリと見えたように思える。あの前山の頂から山荘までどのくらいの距離があり、どのくらいの時間がかかるのか? とにかくそれは真柄の脚力で一時間ぐらいでこられる距離でなければならなかった。  貴久子は山荘に電話をかけて、自分の推理が正しいことを確認した。  貴久子がネオンから真柄の二重のバリケードを破るヒントを得たほぼ同じ時刻に、熊耳は北峰の頂上から、奥村田山荘を結ぶ直線上すれすれに、それも大分奥村田寄りに小突起があることを発見したのである。  彼はこの発見によって真柄の防壁を破った。しかし破ったところで真柄はヒマラヤにいるのである。帰国を待つ以外になかった。  貴久子は長い間迷った末に、真柄に手紙を書いた。その中で自分の発見と推理をすべて語った(後日、真柄からの返事は、このすべてを肯定した)。この手紙が真柄の手もとへ渡るころは、東北稜に前進キャンプが次々に設営されているころであろう。  彼が登頂隊員に選ばれる公算は、非常に強いらしい。一瞬の弛緩《しかん》も死につながる、危険の充満する空間へ挑もうとしている人間に、大きな不安と絶望をあたえる手紙を送ることは残酷ではあるまいか。 (でも、私には殺人者と確定した——もちろん私の推理によるものだが——真柄を平静な気持で迎えることはできない。私は真柄を愛している。今それがはっきりと分る。でも愛しているが故に、自分の記憶の中にいつまでも美しいままに留めておきたい。通りすぎて行った[#「通りすぎて行った」に傍点]人間の美しい記憶として。  もし彼にまだ恥を知る心が残されていれば、彼はきっとK2で責任をとるための何かをするはず[#「何かをするはず」に傍点]だ。私の手紙を読んだ後、よもや涼しい顔をして帰ってこられないだろう)  だから貴久子はあえて手紙を出した。やがて真柄が登頂隊員にえらばれたことを知った。彼が何かをするだろうという貴久子の予感はこれで確定した。  貴久子はそれを予知しながら[#「それを予知しながら」に傍点]、あえて手紙を出したのである。そして予知通りに�結果�が発生した。真柄は殺されたのだ。 (そして殺したのは、私だわ)  真柄は、たとえ自分の犯した罪悪の報いとは言え、暖かい下界へ、人間のすみかへ背を向けて、そこへ決して下らないために、高所へ一歩一歩登って行った。その心は虚しく荒廃していたことであろう。  やがて達した絶頂で、彼はもう決して次に登るべき山頂を探し求めなかった。何ひとつ視界をさえぎるもののない壮大な展望の中で、あらゆる山々を、氷河を、氷壁を、尾根を見わたしながら、彼の目は何も見ていなかった。 「ピッケルが約束を迫らない」  真柄の手紙の中の一章句がよみがえった。それが貴久子を愕然とさせた。ふと気がついたことがあったのである。  車窓から山岳風景が消えて、代りに満々たる湖水が展《ひら》けてきた。列車はいつの間にか諏訪湖《すわこ》のほとりを走っていた。      3  その夜六時ごろ貴久子は奥村田山荘の裏手の�アルピニストの墓�の前にいた。もう二度目の訪れなので少しも迷わなかった。大町から車で奥村田まで入り、直接、墓へ来たので、山荘にはまだ寄っていない。  影山の墓はすぐに分った。周囲に真新しいケルンや墓碑が増えているところをみると、この夏また大量の遭難があったらしい。  貴久子は影山の墓へ歩み寄った。墓碑の形に積み重ねたケルンの間に何かをしきりに探した。 「あったわ!」  彼女は遂に目ざすものを見つけた。それは岩の一部分のようになったピッケルだった。昨年の分骨の時、岩の間にさしこんだ影山のピッケルだった。ちょうど一年分の風化にあって、ブレードもピックも真っ赤に錆《さ》びている。  そういえば、真柄が分骨したのは、去年のちょうど今ごろだったはずだ。貴久子はピッケルをしげしげと観《み》た。 「これは真柄さんのピッケルだわ!」  やはり貴久子の考えた通りだった。影山のはスイス製の『ハスラー』のはずである。貴久子の手にあるのは、『門田《かどた》』である。真っ赤に錆びてはいたが、名工の鍛えた業物《わざもの》は、その格調高い形を少しも失っていない。さすがの熊耳も、墓を捜索した時、ヘルメットに夢中になっていてピッケルのちがいを見過したらしい。  折りから稜線の空を染めた、夏の最後の残照が、無数の火の粉のように降りこぼれて、ピッケルの赤錆を血のような色で彩った。  それはそのまま真柄が影山を撲った時の血がついているように見えた。  真柄は自分のピッケルで影山を撲った後、彼の血がついたピッケルを使う気がしなくなった。  しかし使う気がなくなっても、殺人の�凶器�を現場へ残していくわけにはいかない。また長年使い馴れた愛用のピッケルを、事件直後に新しいものと買いかえれば、すぐに疑われてしまう。  ところがちょうどうまいことに遺族が影山のピッケルを�形見分け�してくれた。晴れて自分のピッケルを処分できるようになった。  やがて分骨の話をもち出して、自分のピッケルを影山の遺品とともに墓に埋める。凶器を隠すのに被害者の墓ほど格好の場所はないだろう。それに凶器として使った部分は柄《シヤフト》である。シャフトだけ取りはずして刃体部分だけ埋めれば、後で検《しら》べられても何の証拠にもならない。  山仲間の友情と信頼を深めるために、山男の魂であるピッケルを交換することは、いかにもありそうな話である。真柄がヒマラヤへもっていったのは、『門田』ではなく『ハスラー』だったのだ。それをもって行ったのは、あるいは、�罪ほろぼし�のつもりであったかもしれない。  そして登頂後、そのピッケルに�復讐�されたのである。  ピッケルは旧主の恩を覚えていた。旧主を殺した男を、最も劇的な舞台で葬ったのである。真柄はやはり自分の意志で贖罪《しよくざい》をしたのではなかった。それなら何もピッケルで確保する必要はないからだ。手紙で告白したのは、自分への甘えがあったからである。  貴久子は�赤いピッケル�を抱いたままその場にたたずみつづけた。  彼女は男たちに裏切られつづけた。まず中井敏郎に愛を裏切られ、影山隼人と真柄慎二に、男というものの純粋さと情熱の美しさを裏切られた。  今さら死のうという気持はなかったが、かつての八ケ岳のように、もしまた自分が死ぬ気になって、それを救うために、どんな男らしい男が現われても、自分はもう決して信じないだろうと思った。  彼らが欲しがるものは名前と、自己主張だけであり、自分の一身を賭けて女を愛する男などこの世にいないのだ。  残照が急にうすれて、樹林帯が蒼ざめた。山はすでに秋の気配だった。  貴久子はそろそろ山荘へ行こうと思った。熊耳には会わずに帰るつもりだった。      4  ちょうどその時刻、熊耳は暮れなずんだ隠れの里への山道を急いでいた。一時間ほど前に何やら思いつめた表情の若い女が、隠れの里の方へ向かって歩いて行ったという情報を同方面から下って来た登山者から得たからである。  詳しく聞いてみると、熊耳の記憶に残る一人の女に似ていた。  はからずも今日が、真柄に罠を張った分骨の日であることを思いだした。 「湯浅貴久子だ。もしかしたら、恋人に殉じて自殺を考えているのかもしれない」  あいにく救助隊本部では、主力が縦走路のパトロールに出向していて、動ける人間は熊耳だけだった。そろそろ夜にかかるが、自分の家の庭のように知りつくしている道でもあり、少しでも遅くなれば、みすみす救える者を救えなくなる。  熊耳は身支度もそこそこに、飛び出した。 (湯浅さん、死ぬなよ! 恋人を失ったことは辛いかもしれんが、あんたのような美しい娘さんは生きなくちゃいかん)  彼はひたすら念じつづけながら道を急いだ。そして熊耳はその夜帰ってこなかった。いや生きては永久に隠れの里から帰ってこなかったのである。  彼の死体は翌日、隠れの里の雪渓の下部で発見された。夏の末の、細いぎりぎりに痩《や》せ細った、本当に何でもない雪渓だった。  ピッケルをもたずに雪渓に入りこみ、途中で転倒して滑落の途中、頭を雪渓の中に突き出ていた岩角へ打ちつけたのである。  彼ほどのベテランがまことに不注意な、あっけない死であった。自殺をはかろうとしている女を救うために、全注意を女の姿の発見に注いでいたことはだれも知らない。  隠れの里の方角へさまよって行ったという若い女は、貴久子ではなく、アルプスの夕焼けの美しさに惹かれて、そのへんを散歩していた山荘の客だった。熊耳が隠れの里へ急いでいたころは、もうとっくに山荘へ帰っていたのである。  翌日、熊耳の死体が発見されたころ、貴久子はすでに大町から上り列車に乗っていた。列車がホームを出ると、小さな町なみはすぐに切れて、北アルプスの山なみが見えてくる。重々と連なる岩の屏風《びようぶ》のようである。K岳がどの辺にあるのか分らない。探せば、その特異な山容から、貴久子にも見分けがつくかもしれなかったが、それだけの興味もなかった。  もうこの場所へくることは二度とあるまい。これから一千万を越える人間がひしめく、大都会の中の孤独の一人となるために帰って行く。  また明日からは、明日という日がどんな日か、確実に読みとれるような、死ぬほど退屈で単調な毎日を積み重ねていくのだ。でもそのような、品物が置かれているような生活にも、ただ一つだけ|よいこと《メリツト》がある。それは、期待を裏切られることが、決してないということだ。  最初から何も期待しなければ、裏切られることは何もない。現代人は期待をしてはいけないのだ。 「孤独の人間が大勢寄り集まって、そしてもっと激しく孤独になるんだわ」  列車は高瀬川の鉄橋を渡った。 角川文庫『密閉山脈』昭和51年5月10日初版発行           平成10年5月30日改版5版発行